=ミラビリス・リベル= 『ミラビリス・リベル』 (Mirabilis Liber) は、1520年代にフランスで刊行された編者不明の予言集である。フランスで最初に出版された予言アンソロジーで、古今の著名な聖人たちの予言を集めたという体裁になっており、実質的に中世のキリスト教的終末論を独自の視点で総括したものになっている。何度も再版され、同時代の占星術師や神秘思想家たちに対し、直接・間接的に少なからぬ影響を及ぼした。 なお、「ミラビリス・リベル」とは「驚異の書」を意味するラテン語であるが、今日の英語圏、仏語圏の関連文献などでも訳出されることはほとんどなく、半ば固有名詞化しているため、ここでもそのように扱う。 ==概要== 『ミラビリス・リベル』は古今の予言を集めたアンソロジーである。本来フランソワ1世の神聖ローマ皇帝選挙立候補を支援する目的で作成されたと考えられており、初版の序文にはそれへの直接的な言及がある。編纂者はフランソワ1世を中世以来の世界最終皇帝のモチーフに重ね合わせており、天使教皇にも関心を寄せていることがうかがえる。 本編は2部構成になっており、第1部にあたる第1章から第23章まではラテン語で、第2部にあたる第24章から第33章はフランス語でそれぞれ書かれている。多くの章で出典となる写本や刊本に関する情報が明記されており、編纂者の学究的な自負の表れと見なされている。 その内容は、どの章も「異教徒の脅威」「反キリスト」「世界最終皇帝」「天使教皇」などのうち1つないし複数に関わる文献を集めたものだが、「世界最終皇帝」をフランス王とし、それを補佐する「天使教皇」もリモージュから現われるとする認識が投影されている点で、従来の予言書とは異なっている。 この予言書は初版から10年と経たないうちに何度も再版され、同じ時代のギヨーム・ポステル、ノストラダムスらに影響を及ぼした。その後、長い間参照されることはなくなったが、フランス革命が起きるとそれを的中させたとして話題になり、18世紀末に再び注目されるようになった。 また、20世紀末以降にノストラダムスの文学的分析が蓄積されるようになると、その起源に関する情報源として評価されるようになった。 ==前提== この予言書では、中世に生まれた2つの伝説、すなわち「世界最終皇帝」と「天使教皇」が重要な役割を果たしている。そこで、内容の概説に先立ってそれらについて概観しておく。 「世界最終皇帝」(Last World Emperor) とは、ローマ皇帝がキリスト教に改宗したよりも後の時代になって、そこに終末論的意義が後付けされた未来の伝説的名君のイメージであり、その具体像は、後述する『ティブルのシビュラ』や『メトディウスの予言書』などによって形成されていった。彼は一度死んだ後、終末に先立って復活し、ゴグとマゴグや異教徒たちを駆逐した後、役割を終えるとエルサレムに赴いて自らその地位を神に返すとされた。カール大帝(シャルルマーニュ)やフリードリヒ2世はこの「世界最終皇帝」と重ねあわされ、死後も再来が期待された。こうした伝説は特に十字軍遠征のときに好まれ、中には自ら「世界最終皇帝」を僭称する者たちも現れた。 「天使教皇」(Papa Angelicus) は終末に先立って天から遣わされる教皇で、「天使牧者」 (Pastor Angelicus) とも呼ばれる。その伝説は「世界皇帝」と別系統で発生したもので、正確な起源は不明だが、フィオーレのヨアキムの著書にその萌芽が見られ、ヨアキム主義の展開の中で生まれたとされる。ことにフランシスコ会の心霊派に属するヨアキム主義者たちがボニファティウス8世に弾圧されると、前任の清貧で知られたケレスティヌス5世を死後天使教皇に祭り上げようとする言説が活発になった。こうしたイメージは、後述するジャン・ド・ロックタイヤードの予言や『全ての教皇に関する預言』などによって敷衍、宣布されていった。 ==ミラビリス・リベルの構成== ===タイトルページ=== ラテン語による正式な書名『予言、啓示、驚くべき物事、過去・現在・未来の物事を収録した驚異の書』 (Mirabilis liber qui prophetias revelationesque, necnon res mirandas, preteritas, presentes et futuras, aperte demonstrat) が書かれたタイトルページには、聖書からの引用句が出典とともに列挙されている。初版では順に「テサロニケの信徒への手紙一」第5章(20節と21節)、「ルカによる福音書」第21章(9節)、「ルカによる福音書」第2章(10節)が挙げられており、これらの引用句は世界の終末と関わりがある点でほぼ共通している。第2版では、さらに「詩篇」第96章(7節)、「マタイによる福音書」第24章(6節から14節)が追加された。 ===第1部=== 第1部はラテン語で書かれた第1章から第23章までである。分量的には全88葉のうち、最初の68葉の表面までを占める。 ===第1章=== 第1章は第2葉の表面から第4葉の表面途中までである。「パタラの司教ベメコブスの書」(Liber Bemechobi Episcopi ecclesie Patarenis) と題されているが、「ベメコブス」は底本の写し間違いで、実際には4世紀のパタラのメトディウスに帰せられている偽書『メトディウスの予言書』(擬メトディウスの予言書)の抄録である。 『メトディウスの予言書』は7世紀末のシリアで成立したと考えられており、原本はシリア語版とギリシア語版があったと想定されている。その内容は天地創造から6千年紀の内容を概説した後、同時代から未来の予言に踏み込むものである。その未来図は以下のように展開する。イシュマエルの末裔がイスラーム教徒たちとともにキリスト教徒を脅かし、様々な破壊行為や悪事を働く。それに対し、とうに死んでいた強大な皇帝が復活して彼らを打ち滅ぼすが、ゴグとマゴグの出現によって世界がさらに荒らされる。ゴグとマゴグが神の援軍によって滅ぼされた後、皇帝はゴルゴダの丘に赴いて帝冠を返上し、役割を終える。その後反キリストが現われてなおも世界を荒らすが、キリストの再臨によってこれも滅ぼされ、最後の審判に至る。 こうした内容には、ビザンティン帝国とイスラーム諸勢力の間で帰属が揺れていたシリアにおいて、キリスト教徒たちが不安定な状況に置かれていたことが投影されている。イスラーム勢力はそのすぐ後に西欧諸国も脅かしたため、同じような問題関心によって『メトディウスの予言書』は8世紀初頭に西欧に持ち込まれ、ラテン語訳もされて受け入れられた。これはトゥール・ポワチエ間の戦い(732年)とほぼ同じ時期のことであり、そうした時代背景の中、「世界最終皇帝」のモチーフが広められた。『メトディウスの予言書』は流布した範囲と影響力の点で、『ヨハネの黙示録』に次ぐ黙示文書とする評価さえ存在する。 『ミラビリス・リベル』に抄録されたバージョンは、パリのサン・ヴィクトル大修道院附属図書館に所蔵されていた写本(以下、便宜上「サン・ヴィクトル写本」と表記)のうち、現在はパリのアルスナル図書館(現在フランス国立図書館の一部門)に所蔵されているものが底本になっている。 ===第2章=== 第2章は第4葉の表面途中から第7葉の表面途中までで、「シビュラの予言」(Prophetia Sibylle) と題されている。これは『シビュラの書』や『シビュラの託宣』ではなく『ティブルのシビュラ』(ティブルティナ・シビュラ)の抄録である。題名はティブルにいたとされるシビュラを示すが、予言書としての正式名を持たない。その名の通り、ティブルのシビュラに仮託された予言書だが、作品中ではシビュラの名がティブルティナないしアルブネアとされている。1898年のエルンスト・ザックル (Ernst Sackur) の研究以来、4世紀後半にオリジナルのギリシア語版が成立し、11世紀に現在の形のラテン語版が成立したと考えられている。ただし、4世紀後半の原本は発見されていない。ラテン語版と別系統に発達したギリシア語写本については、6世紀初頭のバールベックで成立したと見なして「バールベックの予言」という呼び方をする者もいる。いずれの推定でも真の著者は特定されていない。 その内容は第三者がシビュラとその予言について語ったものとなっており、プリアモス王の息女であり傑出した美女ティブルティナないしアルブネアがトラヤヌス帝時代のローマに招かれ、アヴェンティーノの丘で行なった夢解釈の内容を記したことになっている。解釈の対象となった夢は100人のローマ元老院議員たちがある晩一斉に見たというもので、異なる特色を備えた9つの太陽が出てくる夢だった。シビュラはその夢を9つの時代を象徴したものと解釈した。この書では、第8の時代までがキリストの降誕も含む過去の予言とされて簡潔にしか語られていないのに対し、第9の世代は歴代の君主たちのアルファベットを織り込みつつ、詳細に語られている。その歴代君主は11世紀初頭のコンラート2世とされる人物までは特定されているが、その後は現実から離れ、終末へ至る様相が語られている。その中では、ギリシアとローマを112年間に渡って支配し、豊穣の時代を実現する最後の名君コンスタンスが異教徒を蹴散らし、ゴグとマゴグをも撃破したあとにエルサレムで帝国を神の手に委ねて退位することが描かれる。さらに、反キリストが誕生して世界を荒廃させ、エノクとエリヤを殺害するが、大天使ミカエルによって打倒される話につながっている。 『ティブルのシビュラ』が予言的言説の伝統において持つ意義は、「終末の皇帝」のイメージを初めて打ち出したことにある。本来、「名君コンスタンス」の描写はニカイア信条を支持していたコンスタンス1世の時代に生み出されたものだというが、前出の『メトディウスの予言書』などでさらに大きく脚色されて、中世の予言的言説に大きな影響を及ぼすことになるのである。 『ミラビリス・リベル』に収録された際の底本はフランス国立図書館に現存する複数のサン・ヴィクトル写本のようだが、異文からの推測によって、散逸した写本を参照した可能性も指摘されている。 ===第3章=== 第3章は第7葉の表面途中から裏面途中までの簡潔なもので、ヒッポの聖アウグスティヌスに帰せられている反キリスト論である。これは1506年にアメルバッハ (Amerbach) が刊行したアウグスティヌスの論集にも収録されていたもので、それが『ミラビリス・リベル』でも底本とされている。 しかし、実際にはモンチエ=アン=デルのアドソ (Adso of Montier‐en‐Der, アゾ、アドソンとも) が、954年頃に西フランク王ルイ4世の妃ゲルベルガの下問に答える形でまとめたものである。 アドソは920年頃にジュラ地方に生まれた聖職者で、修道院改革にも熱心な人物だった。968年にはモンチエ=アン=デルの大修道院長となったが、後にエルサレムへの巡礼の途上で客死した。ゲルベルガによる反キリストや黙示録に関する下問は、西フランク王国や神聖ローマ帝国の政治問題とも結びついており、神聖ローマ帝国寄りの経歴を持つアドソは微妙な立場におかれていた。そのため、答申は同時代的状況を織り込まない曖昧なものになっており、終末の時期についてもまだ先のこととされた。その論拠となったのがテサロニケの信徒への手紙二で、当時、その文中の終末における「離教」がラテン語で discessio と訳されていたために「(政治権力の)分離」と混同されていた。アドソはそれをローマ帝国の政治権力が残らず手放される時と解釈し、西フランク王国が滅亡してローマ帝国の権力が全て離散しない限り、それが成就しないと認識していたのである。 そこで展開された反キリスト論は、反キリストの代理者としてキリスト教の迫害を行なった人物としてネロやドミティアヌスなどを挙げたあと、終末に現われる反キリストを描写するものとなっている。中世にしばしば見られた言説に従ってダン族から反キリストが登場するとしていた点は同じだったが、さらにキリストの降誕のパロディ色が強まり、売春婦とその夫の間に生まれるのは、彼女の胎内に悪魔が宿るからなどとした。さらに反キリストがエルサレムで偽の奇跡を起こして支持を集め、その一方で恐怖によっても人々を従えることなども紹介される。彼の反キリスト論は概括的なものではあったが、他方で物語的でもあったために、中世を通じてそこに多くの誇張が加えられ、反キリスト像の形成に大きな影響力を持った。 中世を通じては内容の誇張だけでなく、その著者をより権威ある人物に仮託することも行われた。『ミラビリス・リベル』の底本がこれをアウグスティヌスの著作として扱っていたのも、その延長線上のことである。 ===第4章=== 第4章は第7葉裏面の残りだけを占めており、聖セウェルスに帰せられた短い予言が収録されている。セウェルス (Severus) は4世紀初頭に殉教したラヴェンナの聖人で、彼に仮託された予言がいくつも残されている。 『ミラビリス・リベル』に収録されたバージョンは、1516年にヴェネツィアで出版されたものが元になっていると推測され、ライオンやゾウといった象徴を用いて、反キリスト到来まで、キリスト教世界を分裂させずに平和を保つ名君などが描かれている。なお、聖セウェルスに帰せられている予言には、ロマーニャへの強い関心が投影されているという特色があり、『ミラビリス・リベル』でも、ロマーニャがイタリアの首都になるという予言が含まれている。 ===第5章=== 第5章はヨハン・リヒテンベルガーの『占筮』(Prognosticatio, 1488年)の全文再録であり、第8葉表面から第30葉裏面途中までを占める。リヒテンベルガーは、神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世に仕えていた占星術師で、当初はフリードリヒ3世こそが「世界最終皇帝」になると予言していた。しかし、途中で見切りをつけ、その子マクシミリアンと孫フィリップへと期待を移すことになる。その転換を最初に打ち出した著書が『占筮』である。 彼の『占筮』は預言的要素と占星術的要素を混ぜ合わせたものだが、その合わせ方のちぐはぐさも指摘されている。また、それらの要素自体がオリジナルではなく、預言的要素はフィオーレのヨアキムの真正著書やヨアキムに帰せられていた擬ヨアキム文書群、および聖ビルギッタ、コゼンツァのテレスフォロ(第8章参照)などからの寄せ集めであり、占星術的要素はミッデルブルクのパウルスの所説を転用しただけに過ぎなかった。後者についてはパウルス自身から批判されることになる。 この予言では、ドイツの果たすべき役割に混乱が見られるものの、ドイツから現われる世界最終皇帝は教会の改革を引き起こすと同時に、不信心者たちを屈服させる存在として描かれる。天使教皇への言及はあるものの、皇帝の役割に力点が置かれている分、明示的に重要な位置付けにはなっていない。 また、この予言書では1484年の合が重視され、反キリストや世界の終末の到来を告げるものとされていた。この予言はジロラモ・サヴォナローラの登場と結び付けられるなどして流布した。リヒテンベルガーの書は特に1490年代の北イタリアで評判となり、1532年までにラテン語版、イタリア語版を合わせて13版以上を重ねた。 『ミラビリス・リベル』は様々な予言を集めている割に、占星術的要素があまり含まれていない。その中にあってこの第5章は、突出して占星術的要素を含む箇所となっている。再録に当たっての底本は1488年の初版ではなく、後にリヨンで再版されたものが用いられている。 ===第6章と第7章=== 第6章(第30葉裏面途中から第32葉表面途中まで)と第7章(第32葉表面途中から第33葉裏面まで)は連続性があり、『全ての教皇に関する預言』が収められている。もともと『全ての教皇に関する預言』は、『諸悪の端緒』と『禿頭よ登れ』と呼ばれる2つの予言書を合本したものだったが、『ミラビリス・リベル』の第6章は『禿頭よ登れ』に、第7章は『諸悪の端緒』にそれぞれ対応している。これは推測されている成立順とは逆だが、『全ての教皇に関する預言』で合本された順序とは一致している。 この予言書は挿絵とテクストの組み合わせによって歴代ローマ教皇を予言するというもので、ニコラウス3世 (在位1277年 ‐ 1280年) を暗示した絵から始まっている。『諸悪の端緒』も『禿頭よ登れ』も各15枚の挿絵が含まれていたので、両方で30人のローマ教皇を予言していることになる。ただし、『全ての教皇に関する予言』が成立したと推測されている1415年頃の時点で過去のものになっていた予言は20人分だけで、残りは未来に属するとされていた。特に、そのうち最後の数枚は「天使教皇」と解釈されていたが、ほかの予言に比べて特殊なのは、天使教皇が世界最終皇帝の役割を兼ねるかのように描かれていたことである。 『ミラビリス・リベル』への収録に当たって挿絵が全て省かれ、エンブレム・ブックのような体裁だった本来の予言書の特色が失われている。『ミラビリス・リベル』では第6章と第7章で別々の写本が用られており、編纂者は第6章の写本は1000年頃の作成、第7章は1100年頃の作成としていた。これらの推定は、14世紀から15世紀にかけて成立した『全ての教皇に関する預言』の本来の起源からすれば、実証的な正当性を持たない。 ===第8章=== 第8章は第34葉表面から第35葉表面途中までで、コゼンツァのテレスフォロの『小著』 (Libellus, 14世紀末) から採られた天使教皇論となっている。 コゼンツァのテレスフォロ (Telesphorus of Cosenza) は14世紀の聖職者で、カラブリア出身の隠修士とも言われるが、経歴がはっきりしておらず、偽名の可能性も指摘されている。彼は親フランスの態度をとり、教会大分裂 (1378年 ‐ 1417年) に際してはアヴィニョン教皇を支持した。思想上は広い意味でのヨアキム主義者で、ジャン・ド・ロックタイヤード(後述)の影響を強く受けた。 彼の主著『小著』は、テレスフォロが1386年に天使から受け取った託宣に従って、コゼンツァで発見した古い預言書の数々に従ったものと主張している。現在では1356年から1365年に彼自身が行なった予言をもとに、教会大分裂後の1378年から1390年ごろにまとめたものと考えられている。 その予言では教会大分裂はフリードリヒ3世(フリードリヒ2世の再来と位置付けられる神聖ローマ皇帝)と偽教皇が引き起こすことになっており、それに対抗する天使教皇を助けるのがフランス王シャルルとされている。シャルルは偽教皇らを打ち滅ぼすことに成功して皇帝となり、最後の十字軍によってエルサレムを奪還し、千年王国へと導くという。 現存最古の写本は1396年のもので、印刷版の初版は1516年のことである。大いに人気を博して版を重ね、フランス語訳版なども出版された。 『ミラビリス・リベル』に収録されたのは、彼の予言のうちの天使教皇と3人の後継者に関する部分の抜粋である。底本となったのはサン=ヴィクトル写本で、中世預言の専門家であるマージョリ・リーヴスが発見した。 ===第9章=== 第9章は『西暦1104年の教皇』 (Pape anno Christi M.c.iiii.) という中世の年代記のような様式の短い文書で、第35葉表面の残りに収録されている。 冒頭には、マルティヌス2世(在位882年 ‐ 884年)から順に、ベネディクトゥス4世(在位900年 ‐ 903年)まで10人の教皇の名が挙げられている。この歴代教皇は882年から903年に在位した者たちで、教皇庁の最初の混乱期に該当している。それらの教皇の名前の列挙に続いて、西暦1000年頃にキリスト教国の退嬰が始まり、様々な場所でキリスト教的儀式が守られなくなり、異教的要素が入り込んだと説く。 最後は12世紀から13世紀の幻視者について列挙され、聖エリザベト (Elizabeth of Sch*80*nau)、聖ヒルデガルト、聖アルピアディス (Alpiadis)、フィオーレのヨアキム、クレメンス4世が挙げられている。 『ミラビリス・リベル』では出典として『歴史の海』(Mer des histoires) という文献が挙げられているが、実際にはその文献から引用されたものではなく、真の出典は特定されていない。 ===第10章=== 第10章は第35葉裏面の一部を占めるユダヤ人改宗に関する予言で、明示されていないが、アルフォンスス・ア・スピナ (Alphonsus a Spina) の『フォルタリティウム・フィデイ』(Fortalitium Fidei) から採られている。この著書は1460年代前半に作成されたもので、ユダヤ人やムスリムがキリスト教徒によって屈服させられることを告げる書として、15世紀後半以降、何度も出版された。フランスで出版されることはあまりなかったが、『ミラビリス・リベル』で用いられた底本は、1511年にリヨンで出版された版と推測されている。 ===第11章=== 第11章は第35葉裏面途中から第37葉裏面途中までで、グイレルムス・バウゲ (Guillermus Bauge) というトゥール司教区ノアン教区 (Nohan) の司祭が書き記した手稿と主張している。しかし、実際には14世紀半ば以降のフランス情勢を題材に採って、ヨハンネス・デ・バッシグニアコ (Johannes de Bassigniaco) という人物が作成した事後予言をまとめたものである。『ミラビリス・リベル』に収録されたものには、1490年から1525年までを対象とする予言が加筆されている。 本来、事後予言を集めただけのこの章は、初版刊行よりも100年以上前に起こった出来事を曖昧に書き記したものが主体になっていたが、後述するように、1525年のパヴィアの戦いや1789年からのフランス革命を的中させたと解釈されたために、『ミラビリス・リベル』の評価を高めることに大きく関わった。 ===第12章=== 第12章は第37葉裏面途中から第38葉表面までを占め、フィレンツェ大司教アントニーノ (Antoninus of Florence) の『年代記』 (Chronica) から抜粋する形で、フィオーレのヨアキムについて述べている。 フィオーレのヨアキム (Joachim of Fiore, ジョアッキーノ・ダ・フィオーレとも) はシトー会の大修道院長だったこともある12世紀イタリアの聖職者だが、シトー会とは袂を分かち、独自の歴史観を磨いた。ヨハネの黙示録の解釈などに基礎を置く歴史観は、父の時代、子の時代、聖霊の時代に区分して未来の予言にも踏み込むもので、13世紀のうちに聖霊の時代が完成する、つまり終末を迎えると予言していた。 ヨアキムの思想は中世の予言観に大きな影響を与えた。のみならず、三段階に分割して歴史の発展法則を読み取ろうとした彼の思想は、後の歴史哲学、ことにドイツ観念論やマルクス主義にも影響の痕跡を見出しうるという説もある。 『ミラビリス・リベル』で抜粋されたアントニーノの短い紹介は、ヨアキムの説教と生涯に関するものである。 ===第13章=== 第13章は第38葉裏面から第39葉表面途中までである。14世紀の女子ドミニコ会修道士であるシエナの聖女カタリナに関するものだが、前章と同じくアントニーノからの抜粋である。聖カタリナは教皇グレゴリウス12世がアヴィニョンからローマに帰還する上で大きな役割を果たした女性であるとともに、当時スウェーデンのビルギッタと並ぶ有名な幻視者でもあった。彼女はエルサレムを永遠にキリスト教徒のものとするための新しい十字軍を提言し、そこにローマ教皇を賛同させるべく働きかけようとした。 『ミラビリス・リベル』では、彼女が教会大分裂を予言したとされることについて、アントニーノが解説をしている箇所が抜粋されている。 ===第14章=== 第14章は第39葉表面の一部を占めるだけの短い章である。フィレンツェのサンタ・マリア・ノヴェッラ教会に残るトマス・アクィナスの手稿に基づいたと主張しているが、実際には1503年頃に成立したものと推測されている。この手稿はヴィテルボで発見されたという「ウィンケンティウス」(Vincentius) の予言について書かれている。『ミラビリス・リベル』の編者はビセンテ・フェレール(後出)の予言と判断して収録したらしいが、アクィラのヴィンチェンゾ(Vincent of Aquila) など、他の候補も指摘されている。 その内容は、牛が教会で鳴くのを聞くときに教会が跛行するようになり、さらに鷲と蛇が結びついたり、2頭目の牛が教会で鳴くようになると、苦難が訪れると説き起こしている。その後の苦難としては、教会の分裂や、その分裂を引き起こした側の教皇が真の教皇の地位を簒奪することや、イタリアが南以外の3方向から強大な軍隊によって攻め込まれることなどが語られている。 ===第15章=== 第15章は第12章、第13章と同じくアントニーノからの短い抜粋で、第39葉表面途中からその裏面途中までを割いて、ビセンテ・フェレール (Vicente Ferrer, 1350年 ‐ 1419年) の伝記と反キリスト論を扱っている。 ビセンテ・フェレールはバレンシア出身のドミニコ会修道士で、同じドミニコ会のシエナのカタリナとは逆に、教会大分裂期にアヴィニョンの対立教皇を支持した。その一方で彼は切迫した終末観を宣布して回ったことでも知られ、15世紀初頭には反キリストがすでに誕生しているという説教まで行い、その反キリストが成長した時に訪れる凄惨な近未来図を語っていた。 ===第16章=== 第16章も第39葉裏面途中から第40葉表面途中までの短いもので、前章と同じくアントニーノからの抜粋である。アントニーノからの抜粋は4章分あったが、そのうちの最後に当たっている。抜粋箇所はタタール人たちに予言がどのように受け止められているかに関して述べられたものである。 | ===第17章=== 第17章は第40葉表面の残りのみを占めており、聖カタルドゥス (Cataldus) に帰せられた予言となっている。聖カタルドゥスに仮託された予言は15世紀末のイタリアで持て囃されていたが、第17章に収められている予言はそれらの内容とは一致しておらず、出典が特定できていない。この章は異なる起源の2つの文書が組み合わされており、前半はフランソワ1世の治世初期に、彼を題材にして描かれた予言と推測されている。後半はシャルルマーニュ再来の予言だが、「シャルル」(カール)はフランソワの政敵カール5世に都合が良いため、その名前を削除した上でフランソワに引きつけられている。 ===第18章=== 第18章はジロラモ・サヴォナローラの『天啓大要』(Compendium revelationum, 天啓大綱とも)を全文再録したもので、第40葉裏面から第65葉裏面までと、かなりの分量を占める。 サヴォナローラはフィレンツェのドミニコ会士で、1484年以降啓示を受けたと称して支持を広げ、近く下されるであろう神罰と教会の改革を結び付ける説教を繰り返した。1494年にフランス王シャルル8世がイタリアに侵攻すると「神罰」が成就したと解釈され、その影響力が強まった。そしてフィレンツェからメディチ家が追放された後に神権政治を行なったが、次第に求心力を失い、1498年に火刑に処せられた。 彼の著書『天啓大要』はメディチ家追放の翌年(1495年)の春から夏にかけて執筆されたもので、その題名から明らかなように、彼が今まで受けたとする数々の啓示の要諦を概説したものである。同年8月に初版が出版されるや、1ヵ月半ほどの間に第5版までが出されるという売れ行きを示した。なお、第4版まではイタリア語、第5版はラテン語で書かれている。第5版も他者による翻訳ではなく、サヴォナローラ自身による。2言語で出版したのは、一般人と知識人双方に自分の思想をありのままに伝えるためだった。 その内容は、まずロレンツォ・デ・メディチの死やフランス軍のイタリア侵攻などは、自身の過去の説教の中で語られていたものであるとして、預言の成就を強調し、預言者としての正統性を示している。その正統性の上に立って、天に現れたという剣を持つ腕の幻像などについて述べ、イタリアへの神罰という意味に加え、解放者という新しい意味を付与したシャルル8世像やフィレンツェが共和政を維持すべきことなど、未来について語っている。 『ミラビリス・リベル』に収録された底本は、フランス国立図書館に現存しているものと同じラテン語版と推測されている。 ===第19章=== 第19章は第66葉表面から第67葉表面までを占める書簡の形式がとられているが、その出典は不明である。前半はボナヴェントゥーラ (Fra Bonaventura) の書簡に関する内容となっている。ボナヴェントゥーラは元フランシスコ会の修道士で、自ら天使教皇を名乗り、1516年にヴェネツィアのドージェに書簡を送った。その内容はフランス王こそがトルコ人を改宗させる神の使いであり、ヴェネツィアは彼らと同盟を結ぶべきとするものであった。第19章の前半はその内容を肯定的に扱っている。 後半はそれとは別の主題で、予言の才を持つと噂されていた2人の少女について述べられている。 ===第20章=== 第20章はジャン・ド・ロックタイヤード (Jean de Roquetaillade) の予言のごく短い抜粋で、第67葉表面の一部を占める。ロックタイヤードは14世紀のフランシスコ会修道士で、その幻視がもとで長らく投獄された。彼は幽閉中にいくつもの著書をものし、反キリストとそれに対抗する救済者に関する預言を開陳した。彼は教会を改革することになる偉大な教皇と、ローマ皇帝となるフランス王が協力して、ムスリムをはじめとする異教徒たち全ての改宗や東方教会と西方教会の合一などをことごとく実現させて、世界を支配することになると述べた。前出のテレスフォルスは、ロックタイヤードの影響を受けた。 『ミラビリス・リベル』に収録されているのは、15世紀後半に公刊されていたゲルウァシウス・リコバルドゥス (Gervasius Ricobaldus) の年代記から採録されたものと推測されている。 ===第21章=== 第21章は第67葉表面の残りから第68葉表面までを占め、第10章でも用いられていた『フォルタリティウム・フィデイ』からの抜粋となっている。その主題はユダヤ人を改宗させた奇跡に関する逸話である。それによると、13世紀にユダヤ人の中から預言者を自称する者が現われ、奇跡が起きることを予言した。予言された日にシナゴーグに集まったユダヤ人たちの服には十字架のしるしが現れ、それを見たユダヤ人たちがキリスト教に改宗したというものである。 ===第22章=== 第22章はラヨシュ2世の手紙の抜粋で、第68葉表面の一部のみが割かれている。ラヨシュ2世はハンガリー王で、その治世にオスマン帝国の侵攻に悩まされ、1526年のモハーチの戦いで敗死した。 手紙は1521年7月2日付になっており、オスマン帝国の脅威を受けてローマ教皇に援助を求める内容である。その中でラヨシュはトルコの脅威と首都ブダの危機を訴えている。 ラヨシュ2世は実際にそうした内容の手紙を神聖ローマ皇帝にも送っていたらしいが、『ミラビリス・リベル』に収録されているものの底本は、『いとも力強きハンガリー王からローマ教皇レオ10世に送られた書簡集』(Les lettres du trespuissant roy de hongrie envoyees a Leon Pape dixiesme de ce nom) というパンフレットと推測されている。そのパンフレットに収録されている書簡の日付も1521年7月になっているというが、この日付はフランソワ1世が立候補したローマ皇帝選挙(1519年)よりも後のものであり、『ミラビリス・リベル』に収録された諸文献の中では他に例がない。 ===第23章=== 第23章はリムーザン出身の教皇に触れたもので、『歴史の海』(Mer des Histoire) という文献から抜粋されている。14世紀のインノケンティウス6世、ウルバヌス5世、グレゴリウス11世らに関する短いくだりであり、これが第68葉の残りを占めるとともに、第1部の締めくくりとなっている。『ミラビリス・リベル』では、それらの記述が聖ビルギッタの予言として彼女と結び付けられているが、その理由は明らかになっていない。 ===第2部=== 第2部は第24章から第33章までだが、分量は著しく偏っている。第24章が第2部全体の約3分の2(第69葉表面から「第80葉」表面まで)を占めるのに対し、残りの章はいずれも1ないし数ページ程度の短いものである。 ===第24章=== 第24章はローマ教皇大グレゴリウス(在位 590年 ‐ 604年)と同時代の匿名の人物による予言とされている。終末が近いと確信していた大グレゴリウスは、その説教を通じて反キリスト伝説の形成にも大きく関わったが、この章の題材は大グレゴリウスとは何の関係もない。 実際の出典は『マーリンの予言書』 (Proph*81*ties de Merlin) で、この章はその抜粋によって成り立っている。マーリンは伝説的な魔術師で、ウェールズの伝説的詩人メルズィンをモデルとしてモンマスのジェフリーらによって、その伝説が練り上げられていった。ジェフリーが1130年代にまとめた『ブリテン諸王の歴史』の第7章は「マーリンの予言」となっているが、『ミラビリス・リベル』に収録されたものはそれとは別物で、13世紀後半のヴェネツィアの人物による創作と推測されている。 その内容は K を頭文字とする偉大なガリアの王の出現を予言するもので、カール大帝再来のモチーフを踏襲したものである。 『ミラビリス・リベル』の底本になったのは、1498年にヴェラール (V*82*rard) という人物によってまとめられたマーリンに関する3巻本で、1503年から1517年頃までにフランスで何度か再版されていた刊本のひとつを利用したと推測されている。 ===第25章=== 第25章は「第80葉」裏面の一部で、『スティムルス・ディウィネ・コンテンプラティオニス』(Stimulus Divine Contemplationis) と題する文献から再録された文章ということになっているが、このような文献は確認されておらず、実際の出典も特定されていない。 あたかも16世紀についての予言のようにして、「6の年」から「72の年」までにフランス(特にその修道院)を襲う艱難が語られているが、実際には14世紀に作成された未発見の予言の焼き直しであろうと推測されている。その根拠としては、冒頭に出てくる「葉や花をつけることはあっても実が生らない3本の木」が、いずれも世継ぎの生まれぬまま歿したカペー朝最後の3王ジャン1世(在位1316年)、フィリップ5世(在位1316年 ‐ 1322年)、シャルル4世(在位1322年 ‐ 1328年)をモデルにしていると推測できること、『ミラビリス・リベル』には珍しい占星術的記述である「星位の混乱」が1345年の三重合を指していると推測できることなどが挙げられている。 ===第26章=== 第26章は「第80葉」裏面途中から第82葉表面途中までで、『ペルシア王スーフィーの洗礼』(Le Baptesme de Sophie roy de Perse) というパンフレットからの抜粋と称している。確かに1508年5月4日付の書簡の体裁を取って、対トルコを念頭に置いてキリスト教勢力と同盟を組むために、イスマーイール1世がキリスト教徒になったという虚偽の経緯を記した偽書は実在する。ただし、『ミラビリス・リベル』に再録された文章は、そのパンフレットから引用されたものではなく、名を借りただけに過ぎない。 その内容は、退位して山篭りしたペルシア王が予言を行い、1527年に現れる名君と教皇が、ローマ教皇の聖座をエルサレムに移すことになると告げたというものである。 この章の底本は不明だが、逆に『あるペルシア王に予言された偉大な予言と占筮』 (La grande Prophetie et pronostication prophetiz*83* par ung roy de Perse, 1527年頃) というパンフレットの底本になったことが知られている。 ===第27章=== 第27章は1497年12月7日にフランスで目撃された空の驚異に関する簡略な記録で、第82葉表面の一部のみを占める。しかし、この記録は題名も出典も示されておらず、研究者たちも出典を特定できていない。この章では、その驚異は翌年4月に崩御したシャルル8世の未来を暗示する凶兆だったとされている。 ===第28章=== 第28章は第27章と同じように「驚異」の簡潔な記録で、第82葉表面の残りを占める。題名・出典とも記載がなく、特定できない点も第27章と同じである。1514年1月、ある学識者がフランスで空の驚異を目撃し、そこに未曾有の艱難がカトリック教会に迫っていることを読み取ったという内容になっており、それは1525年までに起こるとされていた。驚異を目撃した月が旧式の場合、ルイ12世が崩御した時と一致するという指摘もあるが、具体的な関連性は解明されていない。 ===第29章=== 第29章は第82葉裏面から第83葉表面途中までで、リモージュ司教管区内のチュレンヌ城 (Le chasteau de Turenne) で1500年に発見された写本に基づくと主張している。しかし、対応する文献は特定されていない。 すでに14世紀に2人の教皇を輩出していたチュレンヌ子爵の一族から、さらに2人の教皇が出現することを予言するもので、1530年頃に出現するチュレンヌ子爵家出身の第3の教皇が、天使教皇の役割、つまりエルサレムに赴いて不信心者たちを改宗させることになると告げている。天使教皇のモチーフを下敷きにしているのに世界最終皇帝が登場しない点と、従来の予言文書では特段強調されてこなかったリモージュ出身者に重大な役割が与えられている点に特徴がある。後述するように、この点を編纂者の素性と結びつける見解が存在する。 ===第30章=== 第30章は第83葉表面途中から裏面途中までで、『問題解決の書』 (Le livre du lucidaire) という文献に基づくとされている。「問題解決」(lucidaire)という語は、本来はオータンのホノリウス (Honorius of Autun) の『エルキダリウム』(Elucidarium) のフランス語名だが、具体的な出典の特定にはつながっていない。 この章は、師弟の対話形式で、反キリストと、それに先行して現われるフランス王についての概要が語られている。反キリスト論はアドソの影響を受けているが、フランス王を終末の皇帝と結び付けている点で、フランスにおける独自の変化を示している。 ===第31章=== 第31章は第83葉裏面途中から第84葉裏面途中までで、「故人となったロシュの司祭、小マルタン・ゲランに1500年に啓示され、天の女王によって得られた平和の方法」(La maniere de la paix impetr*84*e de la Royne du ciel et revel*85*e au feu petit Martin Guerin prestre de Loches l’an de grace mil cinq cens) という題名がついている。 トゥールのサン=ガティアン大聖堂 (Cath*86*drale Saint‐Gatien de Tours) の手稿に基づいたと主張しているが、正確な出典は特定されていない。その内容は、神を冒涜する者たちを罰する勅令を発するようにと国王に促すもので、マルタン・ゲランがその啓示の内容をルイ12世に伝えようとするが果たせずに、サン・ガティアンに手稿を残した経緯とするものが記されている。 ===第32章と第33章=== 最後を締めくくる第32章「エルサレムの聖地と聖都の荒廃に関する惨めな祈りと溢れる涙」(Oraison piteuse et plaine de pleurs sus la desolation de la terre saincte et saincte cit*87* de Jerusalem) と第33章「教会と東方の地の縮約された嘆き」 (Deploration compendieuse de l’eglise et terre orientale) は出典が明記されていないが、特定されている。それはともにベルナルド・フォン・ブライデンバッハ (Bernard von Breydenbach) の聖地巡礼記であり、1498年にリヨンで出されたフランス語版『聖都エルサレムの神聖な旅と巡礼』(Le Saint voiage et pelerinage de la cit*88* saincte de Hierusalem) に基づいている。第32章は第84葉裏面途中から第85葉裏面途中まで、第33章はそこから第87葉裏面まで、通底するのは十字軍に関連するモチーフである。 ==成立年代== 後述するように、最初の印刷版は1522年だが、実際には1519年以前に作成されていたと考えられている。これはすでに述べたように、フランソワ1世とカール5世が争った1519年の神聖ローマ皇帝選挙でフランソワ1世が選出されることを期待する記述が、初版の序文に見られるためである。そこでは、神聖ローマ皇帝となるフランソワがさらに世界最終皇帝となることが予言されており、選挙前に彼を支援する目的で作成されたのではないかと判断できるのである。ただし、すでに見たように1521年に刊行された素材を用いたと推測されている章も存在している(第22章)。 ちなみに、実際に選ばれたのはカール5世であり、ゆえに選挙で選ばれるフランス王のくだりは初版以外では削られている。初版の時点ですでに外れた予言となっていたにもかかわらず削られることがなかった理由は、初版を刊行したマルネフにとっては、過去にフランスで例がなかった予言アンソロジーを出版することが重要で、内容を精査していなかったが、再版時にその迂闊さに気付いて削除したのではないかと推測されている。 ==編者== 編者は不明だが、いくつかの状況証拠から断片的な人物像が推測されている。まず、サン=ヴィクトル写本群をはじめ、修道院附属図書館の蔵書を利用している形跡があることから、聖職者、とくに修道士の可能性がある。 また、特に第29章あたりに顕著なリモージュの偏重から、リモージュ出身の聖職者の可能性が指摘されている。 他方で、ジョーム・ド・ノートルダム(ノストラダムスの父)がしばしば編者として挙げられることがある。ただし、根拠は不明である。また、郷土史家エドガール・ルロワによる実証的な伝記研究でも、ジョームが『ミラビリス・リベル』に関わった痕跡どころか、予言的なエピソード自体見出されていない。ルロワによれば、ジョームの兄弟で予言的エピソードを持つのは弟のピエールのみだというが、それ自体、賭けに関する些細なものでしかなく、大したものでないと評価されている。 ==出版== 1514年にヴェネツィアで最初に出版されたと想定する見解もあるが、1522年にパリで出された版が初版と考えられている。1520年代のうちに、他に8つの版が刊行された。 『ミラビリス・リベル』を主題とする研究を最初に発表したブリトネルらの分類では、9つの版がA, B, C, Dの4グループに分類されている。A, B, D は各1種類ずつしかないが、C のみは住所や旗印についての表記の異なる版が6種ある。 以下、簡略な表にまとめた。丸括弧は研究者による推定である。鍵括弧は著書に記載されているデータで、研究者からは虚偽と疑われている情報を指す。 A版が初版である。B版はそれに基づいており、前述のようにタイトルページでの聖書の引用句が増やされた一方、神聖ローマ皇帝選挙との関連が削除されている。ほかにも、いくつかの細かな変更点が含まれている。 C版はB版を基にしたもので、A版、B版が四つ折版だったのに対し、八つ折版になっている。C版は刊行年の記載がないなどの点で共通するが、販売業者名が記載された行の住所表示などに細かな差異があり、上記のようにC1からC6までに細分されている。 D版もB版に基づく八つ折版で、巻末には1524年のローマで印刷されたと明記されている。しかし、その記載は虚偽ではないかとつとに疑われており、19世紀の書誌学者ジャック・シャルル・ブリュネ (Jacques Charles Brunet) の指摘以降、リヨンの出版業者ジャン・ベソンによる非正規版の可能性が疑われている。ブリュネが偽版と判断した根拠は、扉に使われている花飾りとそこに添えられた標語「スペス・メア・デウス」 (Spes mea Deus) が、ベソンの印刷物に特有のものだったことによる。 ==影響== 1522年に初版が出された『ミラビリス・リベル』は、1525年に早速その名声が高まった。その年、パヴィアの戦いで大敗したフランソワ1世が囚われの身となったことを的中させたと言われたのである。第11章にフランス王が異邦人によって囚われる予言があったためだが、前述の通り、それは14世紀に作成された事後予言にすぎず、イングランド軍によってジャン2世が囚われたことを下敷きにしていたにすぎない。 『ミラビリス・リベル』は16世紀フランスの予言的言説に影響を及ぼし、東洋学者ギヨーム・ポステルが1551年頃にまとめた『世界予言宝殿』 (Thr*89*sor des proph*90*ties de l’univers) にも再録された。ポステルは独自の世界帝国と教会の改革に関する見通しを確立するにあたって、『ミラビリス・リベル』にも収録されていたテレスフォロとロックタイヤードから特に強い影響を受けたことが指摘されている。 現代にもつながる影響としては、日本でもかつて大きな話題になった占星術師ノストラダムスの予言が挙げられる。ピエール・ブランダムールらの実証的な研究により、ノストラダムスが『ミラビリス・リベル』を主要参考文献のひとつとしていたことがほぼ確実視されている。それは特に『ミラビリス・リベル』からほとんどそのまま転用した箇所が『ノストラダムス予言集』に含まれていることによって裏付けられている。 例えば、『ノストラダムス予言集』の第一序文にはこうある。 現在の出来事の大部分だけでなく、未来の出来事の大部分についても、何者をも傷つけることがないようにと、私は沈黙し放置したかった。なぜなら体制も党派も宗教も、現在の視点で見れば正反対のものに変化するだろうから。そしてまた、王国、党派、宗教、信仰に属する人々が、彼らの聞き及んでいた幻想に到底一致しえないと考えるであろう未来を私が語ったならば、今後数世紀にわたって人々が目撃することになる未来(が語られたこの書物)を打ち棄ててしまうのだろう。 ノストラダムス予言の信奉者たちは、従来これを未来の政治体制の激変を見通していた証拠として引用してきた。しかし、この部分はサヴォナローラの『天啓大要』の一節をそのままフランス語訳したものであり、『ミラビリス・リベル』第18章をもとに孫引きしたものと推測されている。そして、第一序文はこれに限らず『天啓大要』からの多くの引用を含んでいる。 他にもノストラダムスの百詩篇第1巻47番に登場する「日々は週によって置き直され、そして月々、さらに年々となって」という表現は、『ティブルのシビュラ』の反キリストを述べたくだりに登場するほぼ同じ表現を踏襲したと推測されている。それにとどまらず、ノストラダムス予言に散見されるイスラーム勢力のヨーロッパ侵攻、キリスト教会の受難、偉大な君主の出現といったモチーフは、『ミラビリス・リベル』のいくつかの章に顕著に見られるものであり、百詩篇を構成する942篇の四行詩のうち、『ミラビリス・リベル』からの借用は137篇に上るとする説すらある。 ノストラダムスの秘書だったことがあるジャン=エメ・ド・シャヴィニーも『ミラビリス・リベル』を積極的に援用し、特にその第2章や第17章とノストラダムスの予言を混ぜ合わせ、主著『七星集』 (Les Pl*91*iades, 1603年) において、古今の偉大な予言者たちはこぞってアンリ4世が世界皇帝になることを予言していると主張した。 同じ頃に出現した偽書『聖マラキの予言書』(1590年頃)の作成に影響を及ぼしたという説もある。その予言書は未来の111人ないし112人の教皇について予言したものだが、その予言の106番「天使牧者」(Pastor Angelicus) 以降には、コゼンツァのテレスフォロやヨハン・リヒテンベルガーの予言から借用された要素が指摘されている。 その後こうした利用は下火になったが、フランス革命によって再び大きな脚光を浴びた。かつてパヴィアの戦いで成就したとされていた「囚われのフランス王」のモチーフが、今度はルイ16世にひきつけて解釈されるようになったためである。さらに、同じ第11章には「立ち上がる大群衆」と「追放される大領主」の予言も含まれており、フランス革命を予言しているという受容のされ方に拍車をかけた。実際には、「立ち上がる大群衆」も「追放される大領主」もジャックリーの乱をモデルにしており、「囚われの国王」ともども百年戦争中に作成された事後予言に過ぎなかった。しかし、『ミラビリス・リベル』を閲覧するためにフランス国立図書館に繰り出す人々も少なくはなかったし、そうした予言をまとめたパンフレットとして、『ミラビリス・リベルから引用された18世紀末の予言集』 (Pr*92*diction pour la fin du dix‐huiti*93*me si*94*cle tir*95*e du Mirabilis Liber) という文献まで出された。 19世紀に入っても、『ミラビリス・リベル』への関心は残った。第一帝政期の警察大臣ジョゼフ・フーシェは予言者や占い師に厳しく対応したが、その一環で、1808年には『ミラビリス・リベル』をもとにした予言書を売り歩いていたマルタンという人物を逮捕した。 1831年にはフランス語訳版『驚異の書』 (Le Livre Merveilleux)がパリで出版された。編訳者はエドゥアール・ブリコン (Edouard Bricon) である。これは、『ミラビリス・リベル』が特定の言語で全訳された唯一の事例である。 ==研究史== 『ミラビリス・リベル』を主題とする研究は極めて少ない。その中にあって、ジェニファー・ブリトネルとデレク・スタッブスは、1986年に記念碑的な論文「『ミラビリス・リベル』、その編纂と影響」を発表した。この論文は、その後『ミラビリス・リベル』に言及した各種の文献において主要な参照元とされている。 ブリトネルらはその論文の冒頭で先行研究の稀少さを指摘し、例外的な存在としてマージョリ・リーヴスの著書とフランソワ・スクレの論文を挙げた。リーヴスの著書『中世の預言とその影響』は、ヨアキム自身の思想を概観した後に、その歴史的影響と変容をたどるもので、全4部構成の第3部が「世界最終皇帝」に、第4部が「天使教皇」にそれぞれ割かれている。『ミラビリス・リベル』(およびそこに収録された各種予言)は、後代の影響について扱った部分で紹介や分析が行われている。スクレの論文「16世紀初頭の予言的潮流に関する忘れられた視角」は、その題名が示すように20世紀には実質的に忘れられていたアヴランシュ司教ジャン・ボカール (Jean Bocard) やボナヴェントゥーラの予言を取り扱ったもので、その時代の影響力ある予言アンソロジーとして『ミラビリス・リベル』についても触れられている(前述のとおり、ボナヴェントゥーラの予言は『ミラビリス・リベル』第19章の内容とも密接に関わっている)。 ブリトネルとスタッブスの論文以降では、ジャック・アルブロンの博士論文『フランスにおける予言的テクスト』(パリ第10大学、1999年)のいくつかの章で、『ミラビリス・リベル』が主題となっている。アルブロンは、のちに聖マラキの予言の批判的検討を主題とする著書を出した際に、同時代の素材と思しき諸予言に触れた中で、『ミラビリス・リベル』やそこに収録されたいくつかの予言との関連も指摘した(前述)。 =津軽丸 (2代)= 津軽丸(つがるまる、Tsugaru Maru)は、国鉄青函航路の車載客船で、津軽丸型の第1船。戦中から戦後の混乱期に建造された船質の良くない連絡船の代替と、青函航路の輸送力増強を目的に建造された同航路初の自動化船で、従来4時間30分前後を要していた青森 ‐ 函館間を3時間50分に短縮した。ここでは、津軽丸および津軽丸型車載客船について記述する。なお青函連絡船の津軽丸としては2代目であった。 ==津軽丸型建造までの経緯== 1960年(昭和35年)頃の青函連絡船は、全14隻のうち、洞爺丸事故後に建造された3隻以外は、全て戦中から戦後の混乱期に建造された戦時標準船またはそれに準じる船で、元来船質は不良で、種々の船質改善工事を重ねながら十数年間使用されて来た。しかし、老朽化とともに維持費も増大し、1959年(昭和34年)9月に出された国鉄内の「連絡船船質調査委員会」の2年間にわたる調査報告でも、“これ以上の長期使用は得策ではない”、とされた。折しも高度経済成長時代、急増する旅客、貨物に対応するためにも、国鉄はこれら老朽船を取り替える方向にふみ切り、その方法を検討するため1961年(昭和36年)1月、「青函連絡船取替等計画委員会」を設置し、同年5月には第1回の中間報告が出された。 それによれば、第1順位として、300〜400名の旅客とワム換算43両の貨車を積載できた客載車両渡船(デッキハウス船)第六青函丸、第七青函丸、第八青函丸の3隻を、800〜1,000名の旅客と、1,000トン列車1本に相当するワム換算48両の貨車を積載でき、1日2.5往復可能な高速車載客船3隻で置き換える。 第2順位として、当時1,400名前後の旅客と、ワム換算19両の貨車を積載できた車載客船大雪丸(初代)、摩周丸(初代)、羊蹄丸(初代)の3隻を、1,500〜1,700名の旅客と、ワム換算27両の貨車を積載でき、1日2.5往復可能な高速車載客船2隻で置き換える。 第3順位として、当時ワム換算46両の貨車のみ積載の車両渡船第十二青函丸と、ワム換算44両の貨車のみ積載の車両渡船石狩丸(初代)、渡島丸(初代)の3隻を、ワム換算48両の貨車のみ積載でき、1日2.5往復可能な高速車両渡船2隻で置き換える、というもので、これら計7隻を1967年(昭和42年)度までに建造するという計画であった。 この計画に基づいて、第1順位の第1船が1962年(昭和37年)11月8日に浦賀重工へ、第2船が1963年(昭和38年)6月13日に新三菱重工神戸造船所へ、それぞれ発注され、第1船は 1963年(昭和38年)5月24日起工され建造中のところ、それまでも旅客定員はたびたび増やされてはいたが、同年6月12日には更に1,100名から1,200名に増員された。そして同年8月13日には、上記置き換え対象の老朽船9隻を、当初予定より2年前倒しの1965年(昭和40年)度中までに引退させ、この時建造中の旅客定員1,200名に増員された ワム換算48両積載の高速車載客船のみ6隻で置き換えることに変更され、旅客定員1,500〜1,700名の車載客船案は消滅した。 これは、1961年(昭和36年)当時の予測に比べ、その後の貨物輸送量の伸びが著しく、より早急な貨車航送能力の向上が求められたことと、旅客が集中する深夜便については、定期客貨便増発により、その増加率の低下が見込め、定員1,200名なら、続行便2隻で運べると判断されたためであった。 この第1船が津軽丸と命名され、1964年(昭和39年)3月31日竣工、4月11日函館港回着、4月14日7108便より貨車航送のみの試運航開始し、5月10日変14便より旅客扱い開始し本就航した。引き続き 八甲田丸、松前丸(2代)、大雪丸(2代)、摩周丸(2代)、羊蹄丸(2代)の6隻が1965年(昭和40年)8月5日までに就航し、老朽船9隻は、同年9月30日終航の石狩丸(初代)を最後に引退した。しかしその後の輸送需要は、客貨とも1963年(昭和38年)8月の予測を大きく上回る伸びで、国鉄は1965年(昭和40年)10月22日、更にもう1隻の同型船の追加建造を決定し、11月15日に浦賀重工へその建造を発注、1966年(昭和41年)2月15日起工し、1966年(昭和41年)11月1日、2代目十和田丸として就航した。これら7隻を「津軽丸型」と呼んだが、1982年(昭和57年)3月の津軽丸引退後は、国鉄内では残った船を「八甲田丸型」と呼んだ。 ===船種の呼称=== 国鉄では、翔鳳丸型以来、鉄道車両を航送する船を「貨車渡船」・「車両渡船」・「客載車両渡船」・「車載客船」等と呼称していた。しかし1961年(昭和36年)の「青函連絡船取替等計画委員会」の頃から、車載客船洞爺丸型(当時の国鉄内では羊蹄型)を「客船」、客載車両渡船(デッキハウス船)第六青函丸等を「客貨船」、車両渡船日高丸等を「貨物船」と呼称するようになったが、この記事では従来の呼称を継続使用する。なお津軽丸型が当初、客載車両渡船(デッキハウス船)・「客貨船」の代替として建造されたという事情もあり、船種は「客貨船」とされていたが、津軽丸型の使用実態に合わせ、ここでは「客載車両渡船」ではなく「車載客船」を使用する。 ==概要== 津軽丸は1954年(昭和29年)の洞爺丸事件や、1955年(昭和30年)の宇高連絡船 紫雲丸事件を教訓として設計された安全な船であるとともに、津軽丸建造当時の日本の造船・海運界は、世界に先駆けて船舶の自動化や遠隔操縦化を導入し始めた時期で、とりわけ、津軽丸は青函連絡船初の自動化船だけに留まらず、当時の造船・海運界の最先端技術を先取りした船として、後続の国鉄連絡船のみならず、その数年後から登場する長距離フェリーにも多大な影響を与えた。 津軽丸は車載客船・車両渡船特有の天井高さの低い機関室に、中速ディーゼルエンジンを8台搭載するマルチプルエンジン方式を採用することで、12,800馬力という従来船の2倍以上の高出力化を実現し、航海速力を18.2ノットに上げながら、当時日本最大の可変ピッチプロペラ (Controllable Pitch Propeller CPP)を2基装備して、ブレーキ距離を半分以下に短縮するとともに、船首水線下には日本初となる出力850馬力の本格的なバウスラスター (Bow Thruster BT)を装備して、舵の効かない低速時に容易に船首を回頭できるようにし、港内での操船能力も格段に向上させた。これらにより、従来4時間30分前後を要していた青森 ‐ 函館間を3時間50分に短縮し、「海の新幹線」と呼ばれた。また、従来の1日2往復から、1日2.5往復の運航が可能となり、稼働率向上も図られた。 建造した浦賀重工でも初めて造るものが多く、津軽丸には製造番号1番という機器が大量に使用されていた。中には、船位自動測定装置(SPレーダー)のように実用化には至らず、後に撤去された機器も少なくなかった。 なお津軽丸型の画期的な自動化・遠隔操縦化により、従来の車載客船では約120名、車両渡船でも72〜78名要していた運航要員が53名になり、この9隻廃船、7隻新造で、青函航路全体で471名の船員が陸上勤務に配置転換された。 ==外観== 1957年(昭和32年)建造の車載客船 初代 十和田丸とは異なり、津軽丸型では車両甲板のほぼ全てを車両格納所に充てたため、1,200名の旅客は全て船楼甲板より上の甲板室に収容されることになった。このため、十和田丸(初代)では遊歩甲板(十和田丸(初代)では端艇甲板と呼ばれた)の甲板室は煙突前方のみを占める高級船員室と1等寝台室の入った小さなものであったが、これを後部煙突兼マスト直下まで伸ばし、1層下の船楼甲板(十和田丸(初代)では遊歩甲板と呼ばれた)の甲板室も、周囲の遊歩廊を廃しただけでなく、船体中央部より船尾側と、一部船首側でも、甲板室を両側面へオーバーハング状態で張り出させた結果、船楼甲板上に2層の甲板室を持つ堂々たる姿となった。甲板室前面は1層ずつ後退する十和田丸(初代)の優美なデザインを継承し、甲板室後部も、順次その層数を減らすことで、客船らしいシルエットを描き出し、更に操舵室前面を7度前傾させ、その下の2層の甲板室前面は7度後傾させてスピード感を持たせ、アンカーリセスを設けた船首部船体と相まって、均整のとれたスタイルとなった。 ところが津軽丸では、本来つける予定でなかった操舵室床にシアー(舷弧:船体中央部が低く船首船尾が高い反り)を付けてしまい、更に操舵室前面窓の高さを、キャンバー(梁矢:甲板面の船体中心線が高く両舷が低い反り)20cmと大きい床に合わせてしまったことと、前面7度前傾も相まって、各窓の高さが舷側へ行くほど段違い状に低くなるという、やや不格好な配置となってしまったが、第2船の八甲田丸以降はシアーもなくなり、窓はキャンバー5cmの天井に合わせ、段違いは解消された。 また、津軽丸では当初、操舵室前の航海甲板前端に、十和田丸(初代)に見られた、丸みの付いたブルワークが設置される予定で、進水後の一時期、設置されていたが、操舵室前面中央部からの両側面下方の視野が遮られる、との理由で竣工前には撤去された。このため航海甲板前端が角ばってしまった。第2船の八甲田丸も同様であったが、第3船の松前丸(2代)からはこの部分は丸く整形された。 また遊歩甲板の甲板室前面窓の数が、津軽丸と松前丸(2代)の2隻では12個と、他の5隻より1個多かったほか、津軽丸のみ、船楼甲板室舷側外板に、溝付きの鋼板を使用し、窓の上下に、前後に続く長い2本の線状の隆起が見られた。 青函連絡船が通常使用する青森・函館の専用岸壁では、全て左舷着けのため、舷側に遊歩廊を持たない船楼甲板の乗船口は左舷にしかなく、2等船室の配置を、左舷に椅子席、右舷に雑居席としたため、船楼甲板左舷の2等椅子席のピッチに合わせた多数の小さな窓と、右舷の2等雑居席や旅客食堂のための比較的数少ない連窓、という左右非対称な外観となり、津軽丸型のひとつの特徴となった。 ===ファンネルマーク=== 津軽丸の初期計画当時の図面では、前部煙突は消音器室全長にわたる前後に長い巨大な煙突として描かれており、従来からの国鉄船舶のファンネルマークである「工」よりも、当時の国鉄特急の横長の「JNR」マークの方が収まりが良く、この「JNR」マークをファンネルマークとした。しかし、その後、立体的にはこの巨大煙突は不適当とされ、結局、十和田丸(初代)の煙突頂部を角ばらせた程度の煙突となったが、「JNR」マークはファンネルマークとして残り、オリジナルの縦横比1:8では横長過ぎのため、津軽丸では煙突に白い鉢巻塗装を加え、そこに縦横比1.5:8に修正した「JNR」マークを貼り付けてバランスをとった。これ以後建造の国鉄船舶は「JNR」マークをファンネルマークとした。 ===船体塗色=== 津軽丸の新造時の塗色は、外舷下部が にぶい青色(2.0PB5/6)、外舷上部が白(N‐9.5)、煙突がアイ色(2.5PB3/6)で、後部煙突兼マストが全て銀色であった。1967年(昭和42年)に外舷下部が灰青色(2.5PB5/2)に改められ、1970年(昭和45年)4月には煙突も外舷下部と同色とされ、後部煙突兼マストの上部は1973年(昭和48年)頃に 黒(N‐1.5)になり、1979年(昭和54年)4月には煙突が新造時のアイ色(2.5PB3/6)に戻された。 ==船体構造== ===一般配置=== ====コンパス甲板==== 操舵室屋上に相当する最上層の甲板がコンパス甲板で、中央部に磁気コンパス本体が置かれ、その後方には前部マストがそびえていた。マスト頂部には円筒形のラドームが載り、中には船位自動測定装置(SPレーダー)の空中線が設置されており、本体撤去後も終航まで格納されていた。ラドームの左右側面には遠方からの船名識別のため、イニシャル文字「T」が取り付けられていた。マスト中段の前方への張出しには第1レーダーのスキャナーとハーモニック形のエアホーンのラッパが左右に2本、その直下の張出しにはモーターサイレンのラッパが1本、最下段の張出しには第2レーダーのスキャナーが設置されていた。 このほか、操舵室屋上には、右舷に探照灯、左舷に灯火前面のスリットを開閉させてモールス信号を送る信号灯があり、また最前部中心線上には約3mの高さのポールが設置され、上端に碇泊灯、中段には赤色の危険物積載表示灯が設けられ、後年この2灯の間に、汽笛を鳴らした時だけ点灯するライトエミッターが追加された。 ===航海甲板=== 操舵室床面高さが航海甲板で、その最前部には全幅にわたり、更に両翼を舷外へ約1mずつ張り出した操舵室が設置されていた。その中央部の後ろ右舷側に隣接して無線通信室が設置されたのは十和田丸(初代)と同様であったが、その間に直接行き来できる扉を設けたのは、津軽丸が初めてであった。しかし、津軽丸では、無線通信室内の機器配置が、十和田丸(初代)同様前向きのままであったが、第2船の八甲田丸からは、操舵室との連携がとりやすい後ろ向きに変更された。無線通信室の左舷にはジャイロコンパス本体やレーダーの送受信部、可変ピッチプロペラやバウスラスターの翼角遠隔操縦装置の操作部以外の部分等、航海関係の重要電気機器を収納した電気機器室が置かれ、また無線通信室後ろ隣には空気調整室(第1系統)が配置された。 航海甲板の中央部には前部消音器室の入った甲板室があり、この位置は水面から高く、事故等で車両甲板下の主発電機や主機械が浸水で停止するような事態が発生しても、ここまですぐに浸水する可能性は低いため、この甲板室前側には電池室が、右舷後側に補助発電機室が、両者の間、右舷前側には補助配電盤室が配置された。補助発電機は、船内電圧が10秒以上にわたって85%以下を継続すると自動起動し、電圧が90%以上に回復すれば自動停止する100馬力ディーゼルエンジン駆動の出力70kVAで、主発電機故障時に、主軸駆動発電機ではバックアップされない航海用機器や無線装置、船内通信装置、水密辷戸動力、消防用ポンプ等の非常用設備関連の電源や、非常用照明をバックアップするもので、国際航海に従事する旅客船に義務づけられた非常用設備規程を準用し、国鉄では既に十和田丸(初代)、1961年(昭和36年)建造の宇高連絡船 讃岐丸(初代) でこの発電機を装備していた。しかし、津軽丸型では羊蹄丸(2代)までの6隻で、沖錨泊等の電力需要の少ない時、主発電機を全て停止できるよう、船員居住区や機関室補機類の電力等、非常用でない電力もこの発電機の受け持ちとしたため、あえて補助発電機と呼称した。しかし70kVAでは容量不足気味のため、第7船の十和田丸(2代)では、これら非常用ではない電力系統を外し、名称も非常用発電機とした。電池室収納の蓄電池は青函連絡船では初めてニッケル・カドミウム・アルカリ蓄電池を採用し、通常はシリコン整流器で整流した直流で常時充電状態とし、補助発電機故障時や完全起動までのつなぎとして、航海用機器や無線装置、船内通信装置、火災警報装置、水密辷戸装置制御電源等の電源をバックアップした。なお、一部の交流負荷への対応のため非常用電動発電機(3kVAと700VA)も装備されていた。 甲板室左舷には空気調整室(前から後ろへ第4、2、3系統が収納)が配置され、屋上には主発電機と第1主機室搭載の4台の主機械からの排気を担当するJNRのファンネルマーク付きの前部煙突が載っていたが、船楼甲板より上の甲板室が大きくなったことによる重心上昇を抑えるため煙突はアルミニウム製であった。 航海甲板後端には後部消音器室と、その上に載る後部煙突兼マストがあったが、こちらは第2主機室搭載の4台の主機械と第2補機室の2台の補助ボイラーからの排気を担当し、同様の理由でアルミニウム製であった。後部煙突兼マストは小さく消音器の一部を煙突内に収容できないため、後部消音器室は1層下の遊歩甲板室まで占めていた。後部煙突兼マストには、機関部品積卸し用デリックが設置され、これを使用して、後部消音器室船首側の航海甲板中心線上にある機関部品積込口から、車両甲板下の第2主機室まで繋がる竪穴を通して、機械部品の積卸しができるようになっていた。 航海甲板露天部の両舷側にはボートダビットに懸架された救助艇2隻、救命いかだの入ったカプセル形のコンテナを載せた多数の架台が設置されていた。 航海甲板は就航当初は一般旅客全面立入禁止であったが、乗用車航送による一般旅客の遊歩甲板後部遊歩スペースへの立入制限に対応して、乗用車航送開始2年後の1969年(昭和44年)6月から、前部消音器室後ろ側ならびに両舷側の救命いかだ収納コンテナ架台内側に柵を新設するなど安全対策施行のうえ、前部消音器室より後方のみ一般開放された。 ===遊歩甲板=== 両舷には甲板室全長にわたる遊歩廊が設けられ、甲板室最前部には船長室、事務長室、甲板部・通信部の高級船員室と船員用トイレ、空気調整室(第6系統)が配置され、それに続いて1等寝台室5室と寝台室用トイレ・洗面所(左舷寄りが婦人用、右舷寄りが男子用)、その後ろに1等指定椅子席、1等トイレ・洗面所(左舷が婦人用、右舷が男子用)、1等出入口広間と続き、その後ろには左舷に雑居席の1等座席、右舷に1等自由椅子席が配置されていた。最後部の後部煙突兼マスト直下は消音器室、その後ろ左舷側に手荷物室、右舷側に空気調整室(第5系統)が配置され、これより後ろには甲板室はなく、新造時は広い遊歩スペースで色とりどりのベンチが設置されていたが、1967年(昭和42年)6月から乗用車積載スペースに改装され、乗用車航送が開始された。 ===船楼甲板=== 船首の露天部は揚錨機や係船ウインチが設置された船首係船作業場になっており、甲板室最前部には機関部・事務部の高級船員室と事務室、左舷にトイレ、右舷に高級船員用洗面所、同浴室、前部水密辷戸動力室が配置されていた。それに続いて2等トイレ・洗面所(左舷寄りが男子用、右舷寄りが婦人用)、その後ろに左舷側は前部2等椅子席、2等出入口広間、2等婦人席、後部2等椅子席と続き、右舷側は前部2等座席、調理室、旅客食堂、食堂前の中央部2等座席、後部水密辷戸動力室、後部2等座席と続いて配置されていた。なお国鉄船舶では雑居席を“座席”と呼び、椅子席は“椅子席”と呼んだ。甲板室最後部の左舷には病室と警乗員室があり、その右側に男子用、右舷側に婦人用の2等トイレ・洗面所が配置されていた。船尾側の露天部は係船ウインチの設置された船尾係船作業場で、船尾端には車両積卸し作業を目視しながらヒーリングポンプ操作のできる箱型のポンプ操縦室が、一段高くなって後方へ突き出して設置されていた。離着岸時、船尾扉開放状態でも船尾が監視できるよう、このポンプ操縦室屋上から両翼舷外まで張り出した入渠甲板も設置されていた。なお、旅客定員を増やすため、船楼甲板の甲板室幅が、船首寄りの一部と船体中央部より船尾側では、車両甲板より広く、若干両舷へ張り出していた。 ===中甲板=== 車両甲板中2階の中甲板は、船内軌道各線の終端部から船首端までの隙間部分の狭い甲板であった。最前部に甲板長倉庫、左舷には船首係船作業場が狭くて設置できなかったスプリングウインチの本体および、揚錨機とスプリングウインチの動力となる油圧を造る動力機械が、右舷には主ウインチと補助ウインチの動力機械が設置されていたほか、両舷にそれぞれ船員浴室と上下につながる階段室が配置されていた。 ===車両甲板=== 車両甲板は、従来の車両渡船同様、可動橋の架かる船尾端は3線、そのうち中線はすぐに分岐し、車両甲板の大部分で4線となるよう敷設され、左舷から順に船1番線〜4番線と付番され、ワム換算48両積載できた。津軽丸型では、檜山丸型に比べ、幅が更に50cm広くなったこともあり、車両甲板船首側には船体中心線上の船2番線と船3番線の間に、レール面からの高さ約92cm、幅1.4mのプラットホーム状の通路が設けられ、付近から車両甲板下へ降りる階段は、このプラットホーム上から約3cmの低い敷居越しに降りる構造とし、それ以外の場所から車両甲板下へ降りる階段は、在来船通り高さ61cmの敷居が設けられ、いずれにも防火扉が設置され、万一車両甲板上に海水が滞留しても、容易に車両甲板下へ流れ込まない構造とした。しかしこのプラットホーム状通路は、前部煙突に続く幅1.4mの前部機関室囲壁の前で行き止まりであった。第5船以降の摩周丸(2代)、羊蹄丸(2代)、十和田丸(2代)の3隻では、将来の寝台車航送の準備工事として、前部機関室囲壁の船尾側に短いプラットホームと、ここから船楼甲板の2等出入口広間につながる階段を設置したが、旅客を寝かせたままで寝台車航送をしたい、という国鉄と、安全上旅客は船室へ移動させるべし、という運輸省の間の折り合いは付かず、結局寝台車航送は実現できなかった。 車両甲板の船内軌道各線の終端部から船首端までの隙間部分、中甲板の真下の部分は最前部が甲板部作業室、両舷はともに、船員用トイレと上下につながる階段室になっていた。また船尾右舷には“その他の乗船者”用のトイレが設置されていた。 車両甲板より下の船体は、12 枚の水密隔壁により13区画に分けられ、隣接する2区画に浸水しても沈まない構造であった。更に船体中央部、第1補機室、発電機室、第1主機械、第2主機室、第2補機室の5区画では、船底だけでなく側面にも、2対のヒーリングタンクと、5対のボイドスペース(空タンク)またはバラストタンクが設けられ、二重構造とし、これらボイドスペースは、片側が損傷して浸水しても、この浸水を対側のボイドスペースへも導き、非対称性浸水による船体傾斜を軽減するクロスフラッディング設備も設けられていた。 ===第二甲板=== 車両甲板の下が第二甲板で、車両甲板プラットホーム上から降りる最も船首側の階段は、バウスラスター室に通じており、ここにバウスラスターを駆動する出力625kWの三相交流巻線型誘導電動機が回転軸を垂直にして設置されていたほか、この電動機の起動時に使う電動カム式抵抗器、バウスラスターの可変ピッチプロペラ変節油ポンプも設置されていた。バウスラスターはこの三相交流巻線型誘導電動機の直下に設置されていた。 船首から2番目の階段を降りると、普通船員居室のほか、左舷前方に空気調整室(第7系統)、前後方向に通じる中央の通路を隔てて、左舷に高級船員食堂、右舷に普通船員食堂が設置された第1船室と呼ばれる区画であった。この通路の先は水密隔壁であるが、ここにはこの隔壁を通り抜ける通路があり、通常は開放されているが、浸水時には閉鎖して隣接区画への浸水をくい止める水密辷戸(すべりど)(第1水密辷戸)が設置されていた。この辷戸を潜り抜けると、車両甲板へ上ることなく一つ船尾側の、第2船室と呼ばれる水密区画へ通行できた。第2船室も普通船員居室があり、左前に空気調整室(第8系統)があった。 なお第2船室下の船艙倉庫には1974年(昭和49年)汚物処理装置が設置された。 第2船室から階段で車両甲板プラットホームへ上り、もう一つ船尾側の階段を降りると、第1補機室の中段で、第二甲板高さに相当した。右舷中段は一部倉庫となっており、船艙には冷房用冷水を造る2台のターボ冷凍機と、第1ヒーリングポンプの配管を見下ろすことができたほか、船艙前側には消防用スプリンクラー圧力タンクが設置されていた。この第1補機室からは船尾に向かって第二甲板の高さで、水密辷戸(第2〜8水密辷戸)付きの通路が連続して7枚の水密隔壁に設置されており、最後尾の操舵機室まで、車両甲板に上がることなく通行できた。 1971年(昭和46年)からは、右舷中段に固定式炭酸ガス消火装置の炭酸ガスボンベが設置され、ここを起点に赤く塗装された炭酸ガス放出管が発電機室・第1主機室・第2主機室・第2補機室の4区画まで配管された。 1972年(昭和47年)には、その船尾側に、機関室船底に溜まる油分と海水の混じった汚水を浄化するビルジ処理装置が設置された。更に1974年(昭和49年)には左舷にも中段が新設され、汚物処理装置が設置された。 第2水密辷戸を通り抜けると、発電機室の中段で、船艙には左舷から中央部にかけて、出力840制動馬力ディーゼルエンジン(大雪丸(2代)、摩周丸(2代)、羊蹄丸(2代)では800制動馬力)で駆動される三相交流60Hz 445V 700kVAの主発電機が3台設置され、右舷にはバウスラスター駆動電源で、かつ主発電機故障時には、主要推進補機のバックアップ電源となる、右舷主軸につながる出力900kVAの主軸駆動発電機が設置されていた。 また、ディーゼルエンジン起動用の圧縮空気などを作る空気圧縮機とその空気ダメも発電機室に設置されていた。 更に船尾側へ第3水密辷戸を通り抜けると、そこは防音冷暖房完備の総括制御室で、第1主機室船首側中段に設置されていた。計器盤は船尾方向向きに設置され、ここで各種機械類の状態が監視され、通常の機関運転操作はここから遠隔操作で行われた。防音扉を開けて船尾側へ通りぬけると第1主機室で、ここには8台の主機械のうち前側の4台が横並びで設置され、その頂部がほぼ中段の高さであった。各主機械番号は右舷から左舷へ、右舷第1主機械、右舷第2主機械、左舷第1主機械、左舷第2主機械と付けられ、流体継手付き減速装置も、この第1主機室に設置されていた。更に第4水密辷戸を船尾側へ通り抜けると、第2主機室で、後ろ側4台の主機械が設置されて、同様に各舷の第3第4主機械と付番されていた。 更に第5水密辷戸を船尾側へ通り抜けると、第2補機室の中段で、眼下には第2ヒーリングポンプの配管、更に毎分217.5回転する2本の主軸が望め、ほかに暖房給湯から係船機械類の凍結防止その他雑用の、補助ボイラー2台(クレイトンRO‐175形)が設置されていた。 更に第6水密辷戸を船尾側へ通り抜けると、第3補機室の中段で、機関部作業事務室や倉庫があり、船艙の両舷を走る主軸には可変ピッチプロペラ管制装置が仕組まれ、操舵室からの翼角指令を電気信号で受けた交流サーボモーターが、この管制装置の制御レバーを機械的に指令翼角まで動かした。これにより、中空のプロペラ軸内を通る、前後端が滑り弁となった送油管を前後に巧妙に動かし、可変ピッチプロペラ変節油圧系の圧力油をプロペラボス部(プロペラ翼の根元)のピストンの前または後ろに供給することで、ピストンを前後させ、滑り金を介してプロペラ翼角を制御したほか、変節油圧低下時には、プロペラボス部の後端に付いたバネにより、ピストンが前方に押され前進翼角をとる安全策もとられていた(松前丸(2代)の川崎 エッシャーウイス式では、中空のプロペラ軸内を通る変節軸内の送油管に可変ピッチプロペラ変節油圧系の圧力油を通し、この送油管が通じるプロペラボス内のピストン後ろ側を加圧して変節軸を前進させるか、またはプロペラ軸中空部分の変節軸外側に圧力油を通し、ピストン前側を加圧して変節軸を後退させるかし、この前後動をリンク機構を介して回転運動に変換し翼角を制御した。バネによる翼角前進装置はなかった。)。可変ピッチプロペラ変節油ポンプは航海に重要なもので、各軸1台と予備1台の計3台を装備し、吐出油圧の低下を検出すると予備機が自動的に起動し、故障した舷に圧力油を送るシステムであった。また主発電機停電時には瞬時に主軸駆動発電機からの電源に切り替わって運転継続された。 更に第7水密辷戸を船尾側へ通り抜けると、“その他の乗船者”室があり、食堂従業員や機関整備員等の居室となっており、左前方に空気調整室(第9系統)も設置されていた。更に第8水密辷戸を船尾側へ通り抜けると操舵機室で、2枚の舵を動かす2台の大きな油圧シリンダーや、その油圧を造る2台の交流電動機駆動油圧ポンプがあり、操舵室のジャイロパイロットからの舵角指令は、電気信号、油圧を介して一旦機械力に変換され、この電動油圧ポンプを制御して舵を動かしていた。操舵機は重要機器のため、その油圧を造る電動油圧ポンプは常時2台並列運転され、こちらも主発電機停電時には瞬時に主軸駆動発電機からの電源に切り替わって運転継続できた。右舷主軸回転中は必ず発電している主軸駆動発電機の登場で、蓄電池を電源とする非常用の直流電動機を装備する必要はなくなった。このほか、船尾扉の開閉装置や船尾係船機械の油圧動力機械もここに設置されていた。 “その他の乗船者”室からは車両甲板右舷に上がる階段があり、更に舷側を船楼甲板の2等船室最後部まで上がれる構造であった。 ===旅客設備=== 新造時の旅客定員は、1等寝台20名、1等席310名、2等席870名の1,200名であった、なお津軽丸就航時の国鉄は2等級制で、就航5年後の 1969年(昭和44年)5月10日からモノクラス制に改められ、以後1等寝台は寝台に、1等はグリーンに、2等は普通になった。なお津軽丸型では、客室および船員居住区はすべてセントラル冷暖房完備であった。 ===1等船室=== 1等船室は全て遊歩甲板にあり、遊歩甲板左舷遊歩廊の1等乗船口につながる左舷中央部の前部煙突下付近に1等出入口広間があり、入ってすぐ左が売店で、その角を左折して、右舷側男子用トイレ・洗面所と左舷側婦人用トイレ・洗面所の間を通る船体中心線上の廊下を前方へ進むと、両舷にわたる大部屋があり、ここが1等指定椅子席であった。ここには津軽丸建造以前の1961年(昭和36年)6月に、在来の車載客船4隻の1等出入口広間に60席程度のリクライニングシートを設置し、好評であったため、これを更に拡充する形で、背ずりが垂直に対して65度までリクライニングし、レッグレストや読書灯も付いて、寝台代用となる1人掛けシートを、各列前後に8席、シートピッチ140cmで配置し、これを横に12列、計96席、全て前向きのゆったりとした配置であった。各列の通路と反対側は手荷物棚で仕切られ、更に船体中心線上には手荷物棚で仕切られた通路が確保され、船首側の1等寝台室区画出入口に通じていた。船体中心線上の1等寝台室区画出入口から左舷婦人用、右舷男子用の1等寝台室用トイレ・洗面所の間の廊下を進むと、左右両舷を結ぶ廊下の中ほどに丁字に交わるが、この両舷を結ぶ廊下の船首側に3室、船尾側に2室の計5室の1等寝台室が設置されていた。いずれも2段寝台4人部屋で、寝台幅は上下段とも当時の列車の1等B寝台下段に準じた91.5cmで、寝台上の空間も90cm確保されていた。室内の2段寝台手前のスペースにはソファーと小テーブルが作り付けられていたが、すべて窓なしの部屋であった。 1等出入口広間の売店前を直進すると右舷遊歩廊への出入口に達するが、この通路の船尾側、前部機関室囲壁を右舷側にかわした位置には1等自由椅子席への出入口があった。ここには、当時の国鉄特急1等車用2人掛けシートに準じながも、幅を若干広げ、シート中央部に起倒式の肘掛けを設け、読書灯付きとし、背ずりが垂直に対して49度までリクライニングする、フットレスト付きリクライニングシートを、シートピッチ125cm(列車の1等は116cm)で、全て前向きに配置した1等椅子席120席があったが、横方向最大8席で、1等車が2両横並びした状態であった。1978年(昭和53年)に、前側の44席が撤去され、普通船客も利用できる喫茶室「サロン海峡」が設置され、同時にグリーン出入口広間(旧1等出入口広間)の売店も撤去され、ソファーが置かれ、出入口広間はロビー化された。また、1等出入口広間の後方には、カーペット敷きの定員94名の雑居席の1等座席が配置され、内部で右舷の1等自由椅子席とも交通していた。なお1等出入口広間へ入室したとき、正面に見える壁(前部機関室囲壁の左舷側)には、各船の名称にちなんだ壁面装飾が施されており、津軽丸では、リンゴの断面を図案化して描いたポリエステル樹脂化粧板に、FRP製の「リンゴ園に遊ぶ子供たち」と題するレリーフを貼ったものであった。 ===2等船室=== 2等船室は全て船楼甲板にあった。1等乗船口よりやや船尾側で、1層下の船楼甲板左舷にある2ヵ所の舷門が2等乗船口で、この乗船口につながる、前後方向に長い2等出入口広間が左舷に配置されていた。この2ヵ所の乗船口の間に舷側を背にする形で、電報や切符類の取り扱いが行われる案内所が設置され、この向かい側やや後方の壁には、デザインは各船共通ながら色づかいの異なる、秋田、盛岡以北の東北と北海道の地図を図案化したレリーフが掲げられていた。 案内所向かい側やや前方には売店が、その奥の右舷側には旅客食堂が設けられ、右舷側の窓から外を眺めながらの食事が楽しめた。なお第4船大雪丸(2代)から、食堂の窓が若干拡大された。食堂の船首側に隣接して調理室が配置され、そのほぼ中央から右舷に向け遊歩甲板へ上る階段があり右舷遊歩廊の調理室入口に通じていた。この階段の船首側に隣接して、上下に動く食料積込リフトも設置されていた。調理室船首側左端には車両甲板下第二甲板の船員食堂まで達する食料運搬装置の積込み口があり、ここで調理された食事が、この無人の食料運搬装置に載せられ、まず車両甲板天井まで垂直移動の後、車両甲板プラットホームの天井部分を前方へ約28m水平移動し、更に6m垂直移動して船員食堂まで運ばれた。 2等出入口広間前方左舷側には階段があり、ここを上ると、左舷遊歩廊への出口、ならびに1等出入口広間につながっていた。この階段を上らず右側を前方へ進むと、リクライニング機能のない当時の国鉄特急2等車用2人掛けシートに準じながらも、座席下に救命胴衣を収納し、シート中央部に起倒式の肘掛けを設けた2人掛けシートを、シートピッチ96cm(列車では91cm)で、全て前向きに配置した定員206名の前部2等椅子席があった。出入口広間のすぐ後ろ隣には、定員37名のカーペット敷き雑居室の「婦人席」があったが、1978年(昭和53年)のグリーン自由椅子席(旧1等自由椅子席)への喫茶室「サロン海峡」設置時に、囲碁や将棋などを楽しめる「娯楽室」に模様替えされた。この後ろ、両舷に後部遊歩甲板へ上る階段が設置されていた。更に後方の左舷側には、前部2等椅子席と同様の椅子が並ぶ、定員118名の後部2等椅子席が配置されていた。また、前部2等椅子席の右舷側には、定員236名のカーペット敷き雑居席の前部2等座席があり、その最後部の1区画も壁で仕切られて「婦人席」とされていた。後部2等椅子席の右舷側には、定員126名のカーペット敷き雑居席の後部2等座席が配置され、更に旅客食堂と通路をはさんだ後方にも、定員147名のカーペット敷き雑居席の中央部2等座席が配置されていた。 1980年(昭和55年)には、後部左舷椅子席と右舷座席の間の壁が撤去され、椅子席も撤去され、両舷にわたる普通雑居席の大広間となり、映写スクリーンが設置された。この改装では、右舷座席も含め、各区画を仕切る手荷物棚は従来より低くなり、仕切りも不完全で開放的な造りとなった。1969年(昭和44年)には、普通船室前部男子用洗面所内にシャワー室が設置され、その後好評につき、1970年(昭和45年)には普通船室前部婦人用洗面所内に1ヵ所(通路から直接入れるようにしたため男子も使用可)、1973年(昭和48年)にはグリーン船室中央右舷にも1ヵ所設置された。 ===船内冷暖房=== 1937年(昭和12年)建造の関釜連絡船 金剛丸(7081.74総トン)で、当時鉄道省と呼ばれていた国鉄は世界初となる船内全室冷房を実現していたが、その後戦争もあり、青函連絡船の船内冷房は実現していなかった。しかし、1960年(昭和35年)12月には上野‐青森間の特急「はつかり」が全車冷房完備のキハ81系気動車に置き換えられ、1961年(昭和36年)10月には大阪‐青森間特急「白鳥」と、函館‐旭川間特急「おおぞら」が同じく全車冷房完備のキハ82系気動車で運転開始され、青函連絡船と接続する両岸の特急は窓の開かない空調完備の車両に近代化されていた。 これら特急を接続する青函連絡船の客室冷房は当然の流れで、津軽丸型にはセントラル方式の冷暖房装置が搭載された。車両甲板下の第1補機室船艙に75kW交流電動機駆動の26万kcal/hの海水による水冷式ターボ冷凍機が2台搭載され、ここで造られた冷水が船内9ヵ所の空気調整室の冷却コイルへ送られ、室内から戻った空気や船外から取り入れた空気をこのコイルで冷却し、冷風をダクトで各室へ送るセントラル冷房方式であった。暖房は第2補機室の補助ボイラーからの蒸気を各空気調整室の加熱コイルへ送り、温風を同じダクトで送風したほか、各室設置のラジエーターによる暖房も併用された。 セントラル冷房の施行範囲は、全客室と全船員居住区、その他の乗船者室、無線通信室で、電子機器等の発熱の多い総括制御室と電気機器室、調理のため発熱の多い調理室に隣接する旅客食堂には、セントラル冷房休止中でも冷房可能なパッケージ型エアコンが装備された。操舵室はラジエーター暖房のみで冷房はなかった。 当初2台のターボ冷凍機はそれぞれ受け持ちの系統が分担され、冷水回路も独立していた。1号機が第1系統(1等寝台室)、第2系統(1等指定椅子席、1等出入口広間)、第4系統(前部2等椅子席・座席、2等出入口広間)、第6系統(無線通信室、高級船員室)、第7系統(第1船員室)、第8系統(第2船員室)、第9系統(その他の乗船者室)の7系統を受け持ち、2号機が第3系統(1等自由椅子席・座席、1等出入口広間)、第5系統(後部2等椅子席・座席、中央部2等座席、婦人席、2等出入口広間)の2系統を受け持った。ところが、これでは片方のターボ冷凍機が故障すると、その受け持ち系統の冷房が全く効かなくなる問題が生じ、就航後ターボ冷凍機の前後で両冷水回路の冷水管をつなぐ改造を行った。しかし、それでも両回路の冷水が十分混じり合わないため、冷房の不均衡は十分改善されず、第4船の大雪丸(2代)からはターボ冷凍機の前後にそれぞれ小さなタンクを設け、両冷凍機で造られた冷水が完全に混じり合い、また各系統から戻って来た温まった水も完全に混じり合わせて両冷凍機の負荷が均衡するよう設計変更された。 ===車両積載設備=== 船体の大型化で軌道有効長も伸び、左舷側から船1番線95.8m、船2番線111.6m、船3番線85.4m、船4番線95.8mとなり、車両積載数は船1番線から ワム換算で、順次12両、14両、10両、12両の合計48両と、当時の国鉄連絡船最多となり、1,000トン列車1本をほぼそのまま積載できた。 船内軌道船首端には、翔鳳丸型以来自動連結器の装備された車止めが設置されていたが、入換機関車に押されて来た列車の、たび重なる衝撃で、車止め自体が損傷されるため、宇高連絡船  讃岐丸(初代)では、この連結器と車止め本体との間に油圧緩衝器が装備された。津軽丸型では、これの細部を改良した同一性能の、重量50トンの列車が時速6kmで衝突したエネルギーを、約9cmのストロークで吸収できる油圧緩衝器が、同様に装備された。また積載列車のブレーキ管と繋いで、ブレーキの締め直しができるよう、機関車用自動ブレーキ弁も設置された。なお油圧緩衝器付き車止めの場合は、列車先頭車両の最前部車輪に、レール上に載る小型車輪止めのヘムシューをかます必要があった。 油圧緩衝器の装備を受け、津軽丸では従来の機関車用坐付連結器に代わり、通常の上作用式の並型自動連結器が設置された。更に車両甲板船尾から、車止めの自動連結器の遠隔解錠ができるよう、車止めに設置したエアシリンダーで、連結器解錠レバーに繋いだワイヤーを、滑車とテコを介して引っ張って解錠する仕組みとした。しかし構造が複雑なため、第2船の八甲田丸以降では、連結器内部が改造された特殊な自動連結器が設置され、連結器直下に置かれたエアシリンダーで、連結器の解錠レバーを直接押すという単純な構造になった。 油圧緩衝器が装備されたとはいえ、車止めはあくまでも積載車両を固定することが目的で、入換機関車の“暴走”を止めるものではない。このため、陸上の入換機関車の機関士が目視できない列車先頭と車止めまでの距離を、機関士からも分かるよう、電光表示器が、青森第1岸壁、第2岸壁、函館第1岸壁、第2岸壁の各可動橋の門構え上に、1965年(昭和40年)9月30日に設置され、車止め付近の表示操作器ダイヤルから、有線で車止めまで「あと何両」という電光表示と音声放送もできるようになり、そのため船内軌道各線の中ほどから終端部にかけて、ワム換算で「あと5両〜1両」の標記看板が車両甲板天井に設置され、軌道内には「あと5m〜1m」の目印の白線がペイント標示された。その後、可動橋の電光表示器は、青森第3岸壁には1969年(昭和44年)11月20日に、函館第3岸壁、第4岸壁には1970年(昭和45年)3月にそれぞれ設置された。 国鉄連絡船では、翔鳳丸以来、積載車両転倒防止のため、車両台枠を横から斜め下の甲板につなぎ止める甲種緊締具と呼ばれる緊締具が使用されてきた。この緊締具の車両側はハサミ状で、このハサミで車両台枠の鉄骨をはさみ込み、甲板側はフック付きで、甲板上の緊締用レールの穴に引っ掛け、ターンバックルで締め上げる方式であった。しかし、ハサミ部分が重く、常に張力がかかっていないと緩んでしまう、などの欠点があった。 津軽丸型は1日2.5往復するため、折り返し時間が55分に短縮され、車両積載数も増加し、更に人員削減のため、この甲種緊締具の操作性改善が強く求められた。このため、両側をフック付きにして、重量を20kgから13kgに軽量化した緊締具が考案され、これに対応するため、国鉄では1962年(昭和37年)4月から1966年(昭和41年)3月までに、11万両に及ぶ車両にフック掛けを設置した。更なる軽量化を目指した鎖を用いたレバー・ブロック方式も開発され、第6船の摩周丸(2代)以降、羊蹄丸(2代)、十和田丸(2代)で、船首から25mの範囲で採用された。しかし、車両のフック掛け位置を気にせず使用できた従来型のハサミ式甲種緊締具も、青函連絡船終航まで一部で使用され続けた。 列車最後尾を固定する乙種緊締具は、従来は二股の鎖を用いて一端を連結器に巻きつけ、二端を軌道外の甲板上の鉄環にフックで掛け、ターンバックルで締めて積載列車の前後動を防いだが、津軽丸からは、最後尾車両の一端を連結器に巻きつけ、他端は後方下の軌道内に設置された鉄環にフックをかけ、レバー・ブロックで締める形の小型の乙種緊締具となった。また檜山丸型同様、軌道の間に梁柱を密に立てることで、積載車両がたとえ傾いても、横転して左右へ大きく移動することなく、船体横転につながらないよう配慮された。 陸上の鉄道では、車両がはみ出してはならない限界の車両限界と、トンネルやプラットホーム、跨線橋等の建築物が線路に近付き過ぎてはならない限界の建築限界が定められており、高速走行等を考慮して、車両限界は幅3.0m、高さ4.1mなのに対し、建築限界は幅3.8m、高さ4.3mとかなり余裕を付けていた。しかし、船内軌道では制限速度4km/hと低速で、船内の限られた容積内に、できるだけ多くの車両を積載するため、特別に幅3.4m、高さ4.265mの縮小建築限界が採用されていたが、幅3.6m、高さ4.25mの第1種かつ大貨物にも対応できるよう、船2番線の船尾側約40mには一般の建築限界が採用された。 ===ヒーリング装置=== 車両の積卸し時、船体中心線から離れた船内軌道に、列車を載せたり卸したりすると、その重みで船体が横傾斜するため、両舷側のタンク間で海水を移動させて、その横傾斜を抑制するのがヒーリング装置で、青函連絡船では1924年(大正13年)建造の翔鳳丸以来、全船に装備されて来たが、全てヒーリングタンク1対、ポンプも1台の装備であった。 津軽丸型のように、車両甲板に4線の船内軌道を持ち、かつ船楼甲板上の大部分に2層の客室を有する船は、国鉄連絡船としては初めてであった。このため、大容量のヒーリングタンクと、強力なヒーリングポンプを備えることが必要となったが、大き過ぎるヒーリングタンクは、損傷時の非対称浸水による横転を招きかねず、また強力過ぎるヒーリングポンプは、タンク底内部に突出した肋骨による段差で水の流れが滞り、ポンプ吸入口への残水の流れ込み量が、ポンプ吸引量に追いつけなくなり、ポンプが空気を吸ってしまって残水量が増え、結局タンク有効容量の減少を招くため、前後2組の独立したヒーリング装置を装備することとした。 このため、第1ヒーリングタンク(片舷163.9トン 有効容量約130トン)は、発電機室とタンク後端は第1主機室水密区画の一部の両舷に達する形で設置され、両舷タンク間は、発電機室の一つ前に隣接する第1補機室を迂回する太いパイプで繋がれ、第1ヒーリングポンプは第1補機室に設置された。第2ヒーリングタンク(片舷238.8トン 有効容量約200トン)は、第2主機室両舷を中心に、その前後端は前後の隣接水密区画舷側まで達したやや大きなタンクで、両舷タンク間は第2補機室を通る太いパイプで繋がれ、第2ヒーリングポンプは第2補機室に設置された。更にこの太いパイプは船尾方向へも分岐し、第3補機室を経由して、“その他の乗船者”室船底のトリミングタンクに繋がり、船尾喫水の調節も迅速にできるようになった。このトリミングタンクまで繋がる配管は讃岐丸(初代)に始まるものであった。 このような経緯で、ヒーリング装置を2組装備することになったが、1組故障した場合、タンク容量の少ない第1ヒーリング装置単独でも、貨車が80%載貨状態以下であれば、積卸し速度を規程の半分の2km/h程度に落とすことで、どうにか48両の積卸しは可能であった。 なお津軽丸ではヒーリングポンプに、十和田丸(初代) や讃岐丸(初代) で採用された交流誘導電動機駆動の可変ピッチプロペラ式軸流ポンプは採用されず、110馬力三相交流誘導電動機駆動の可変吐出量型油圧ポンプで駆動される定容量型油圧モーター駆動の可逆転固定ピッチプロペラ式軸流ポンプが2組採用され、第3船の松前丸(2代) でも、この方式が採用された。なお、第2船の八甲田丸では、85kW三相交流誘導電動機駆動の可変ピッチプロペラ式軸流ポンプが2組採用され、上記2隻以外の津軽丸型5隻でも、この可変ピッチプロペラ式軸流ポンプが採用された。 このように、津軽丸型では2種類のヒーリングポンプが採用されたが、いずれのタイプも、ポンプ容量は1台当たり2,200m/h×7.5m(水頭)と、檜山丸(初代)のものと同程度で、車両積卸し時に、“自動ヒーリング操作”を選択すれば、横傾斜1度になると、自動的に傾斜を補正するようにポンプが動き始め、±0.5度以内になると、ポンプは自動停止した。また讃岐丸(初代)同様、ボタン操作での、個別の手動操作も可能であったほか、車両積卸し開始時に、船体傾斜が1度に達して自動ヒーリング運転が始まる前に、数秒間手動操作を介入させて、船体傾斜を更に軽減することもできた。このポンプ容量は、車両長1m当たり3トンの満載貨物列車を、船1番線または船4番線に平均時速4kmで積卸ししても、片舷への最大傾斜が3度以内に収まる、という容量であった。 しかし、この自動ヒーリング装置を実際に使用してみると、船2番線、船3番線では問題なかったが、船1番線、船4番線では船体傾斜の進行にヒーリング操作が追い付けないことがあり、手動操作であらかじめ船体を反対側へ若干傾斜させ、そのまま手動操作で車両積卸しを行うことが常態となった。なお可動橋を架けての車両積卸し時の船体横傾斜の許容角度は、可動橋のねじれによる2軸貨車の3点支持脱線の危険性からは4度以内であったが、安全のため余裕を持って3度以内とされた。 ===乗用車航送=== 1967年(昭和42年)6月1日から、遊歩甲板後部の遊歩スペース上に、乗用車6台を積載航送するサービスを開始した。これに先立ち、一般旅客領域と車載領域の仕切り柵を設置し、この部分にあったベンチを撤去し、乗用車が甲板上でUターンしなくて済むよう、左右両舷の柵の一部を開閉可能な構造とし、ここを乗用車乗降口とした。青森では第1岸壁の船尾右舷が接岸する副岸方向から、斜路で右舷乗降口へ至り、函館側では、第2岸壁の待合所と岸壁の間にエレベーターを設置して、左舷乗降口に至ることとし、乗用車は全車船の進行方向に横向きの、2台縦列が3列の6台積載であった。当初2往復(夏期多客時3往復)で開始し、翌1968年(昭和43年)6月からは6往復(夏期多客時8往復)、1970年(昭和45年)5月からは8往復(夏期多客時10往復、閑散期6往復)とし、1971年(昭和46年)4月からは車両間隔をつめ、2台縦列4列の8台積載とした。更に1972年(昭和47年)7月までに、船尾係船作業場の上、遊歩甲板からポンプ操縦室屋上の入渠甲板に至るまでの空間に、係船作業に支障が出ないよう、左舷側1/4程度を残して屋根掛けする形で車載領域を拡張し、右舷の横向き積載車を船尾側へ1台増やして5台としたうえ、船尾側拡張部分に船の進行方向向きに3台積載して合計12台積載に改造したが、依然露天積みであった。なおこの改造に伴い、遊歩甲板室後端から係船機械のある船尾船楼甲板へ降りる階段が撤去された。 航送自動車台数は順調に増加し、1973年(昭和48年)度には40,427台に達したが、これをピークに、同年秋の第1次オイルショックや1976年(昭和51年)の国鉄運賃の大幅値上げ等の影響で、減少に転じ、1976年(昭和51年)度は29,492台まで減少してしまった。このため、国鉄では、荒天時の無料洗車券の発行や往復割引回数券を発売し、以後微増に転じた。1982年(昭和57年)には津軽丸と松前丸(2代)が引退し、その代船として、乗用車20台積載可能な改造客載車両渡船石狩丸(3代)と檜山丸(2代)が就航し、1983年(昭和58年)度には35,172台まで増加した。 1984年(昭和59年)2月1日の有川桟橋廃止後は夏期多客時9往復となったが、東北自動車道の延伸もあり、1987年(昭和62年)度には37,462台を航送してその幕を閉じた。また1985年(昭和60年)4月1日からは、横向き積載の乗用車積載位置を若干船尾側へ寄せ、車載領域前側にわずかなスペースを捻出し、そこへ数台のオートバイ・自転車の積載を開始し、同時期には船尾の進行方向向き積載の乗用車数を4台に増やし、乗用車13台まで積載していた。 ===係船機械=== ====係船ウインチ==== 十和田丸(初代)以前の青函連絡船では、船首係船作業場には揚錨機が1台あり、これで両舷の錨の投揚錨を行うほか、揚錨機本体の両側面には、ワーピングドラムという水平軸で回転する糸巻き形のドラムが突出していた。入港時、岸壁前で速力を落とし、近寄ってきた綱取り艇という小舟に、甲板縁に設置された係船索の向きを変える滑車(フェアリーダー)を通して降ろした係船索(フォアライン)の一端を持たせ、これを岸壁まで運ばせ、岸壁のビットに掛けた後、フォアラインをこのワーピングドラムに数回巻き付け、甲板員が3名がかりで引いたり緩めたりして、フォアラインとワーピングドラムのスリップを調節することで、その張力を調節しながら、フォアラインを巻き込んで船体を岸壁に引き寄せて行った。着岸作業では通常、補助汽船は船尾しか押さないため、このフォアライン巻き込み力は船首を岸壁方向へ引き寄せる唯一の力で、重要なものであった。 また船尾にも、車両甲板の曝露部、あるいは船楼甲板の両舷に、ワーピングドラムを垂直にした形のキャプスタンが1台ずつあり、甲板員2名で船尾を可動橋に合わせる作業を行っていた。 この危険で、人手のかかる係船作業の自動化・遠隔化の試みが、青函航路よりは条件の緩い宇高航路の1961年(昭和36年)建造の讃岐丸(初代) で行われ、国鉄連絡船初の電動油圧式の揚錨機や、係船ウインチが開発された。特に後者では、係船索を自在に巻き込んだり繰り出したりができたほかに、係留中も係船索を一定の張力で引張り続ける“自動係船運転”と呼ばれるオートテンション機能をも持たせることができた等、一定の成果を上げることができたため、津軽丸型でも電動油圧式係船機械が導入された。 この国鉄連絡船で使用された電動油圧式係船機械とは、三相交流誘導電動機駆動で、回転数一定のまま、その吐出量を無段階に変えることのできる可変吐出量型油圧ポンプで油圧を発生させ、配管を通して油圧を揚錨機やウインチへ導き、それらの機械の定容量型油圧モーターを任意の方向・速度で回転させる仕組みであった。この油圧回路では、係船機械の油圧モーターへの負荷が増大し、回路の油圧が規定値を越えても、安全弁あるいはリリーフ弁を通して油圧を低圧側に逃がせるため、停止状態でも過負荷にならないで一定のトルクを発生し続けることができ、更に、予め回路油圧と連動させつつ油圧ポンプの吐出量を制御するシステムを導入することで、係船ウインチとして望ましい荷重速度特性を得ることができた。 津軽丸型では、船楼甲板船首係船作業場には、揚錨機のほか、着岸前、最初に岸壁のビットに繋いで船首を岸壁へ引き寄せるフォアラインを巻き込む左舷の主ウインチ、左舷が岸壁から離れないよう固定するブレストラインを巻き込む右舷の補助ウインチ、そして船体を後方へ引き寄せて船尾を岸壁ポケットへ押し込むスプリングラインを巻き込むスプリングウインチが、それぞれ別個に設置されたが、船首係船作業場が狭いため、スプリングウインチだけは1層下の左舷中甲板に設置され、船楼甲板上にはスプリングラインを出す穴が設けられた。いずれのウインチ・揚錨機も、船首の一段高くなった船首指揮台の操縦スタンドから遠隔操作されたが、揚錨機だけは、操舵室内前面左舷側の操縦スタンドからも遠隔操作できた。しかし錨鎖をロックしている制鎖器のカンヌキの解除は現場でしかできず、そこまで行くなら船首スタンドを使う、ということで、結局操舵室のスタンドは使われず、第7船十和田丸(2代)では設置されなかった。なお、船首係船機械の油圧を造る油圧ポンプを含む動力機械は、揚錨機とスプリングウインチ用が左舷中甲板に、主ウインチと補助ウインチ用が右舷中甲板に設置された。 船楼甲板船尾係船作業場でも、左舷後方の岸壁ビットに左舷アフターラインをかけ、これを巻き込んで船尾を後進させ、可動橋に押しつける船尾左舷ウインチの1ドラム、ならびに、左舷船尾から前方のビットにかけ、左舷アフターラインの張力に対抗してブレーキをかける船尾スプリングラインを巻き込む船尾左舷ウインチの1ドラム、の2つのドラムを持つ船尾左舷ウインチと、右舷アフターラインを巻き込む船尾右舷ウインチが設置された。この2台のウインチは船尾船楼甲板左舷の台の上に設置された操縦スタンドから遠隔操作された。なお、船尾係船機械の動力機械は、車両甲板下の操舵機室に設置された。 このように各係船索をそれぞれ個別の電動油圧式ウインチで、自在に巻き込んだり繰り出したりが遠隔操作で可能となり、少ない人員で安全に係船作業が行えるようになった。なお船尾左舷ウインチのみ2ドラムで兼用となったのは、船楼甲板の甲板室が大きく船尾係船作業場が狭くて、ウインチを3台設置できなかったためであった。 停泊中の車両積卸し作業による船体の傾斜や喫水の変化、潮位の変化などに対し、係船索が緩んだり張りすぎたりしないよう、係船索を一定の張力で引っ張り続ける“自動係船運転”と称するオートテンション機能は、津軽丸の係船機械を製作したメーカーが讃岐丸(初代)の係船機械を製作した東洋電機製造でなかったこともあり、結局所定の性能が出せず、この機能は使われなかったが、第2船の八甲田丸以降は予定通り、船首では補助ウインチとスプリングウインチ、船尾では左舷ウインチの左舷アフターライン用ドラム、右舷ウインチの4台で“自動係船運転”可能となった。また、第3船の松前丸(2代)には川崎重工製の係船機械が採用されたが、八甲田丸を含め、以後の青函連絡船は全て東洋電機製造 の係船機械が使用された。 なお、津軽丸型6隻の使用実績から、船尾左舷ウインチは2ドラムで、左舷アフターラインとそのブレーキとなる船尾スプリングラインが同時作業となるため、両ドラムを同時に油圧モーターで動かせない、という問題が浮上した。そこで、第7船十和田丸(2代)では、左舷ウインチを左舷アフターライン専用の1ドラム型にし、右舷アフターライン作業は船尾スプリングライン作業とは重ならないため、船尾右舷ウインチを2ドラム型として、スプリングラインを左舷から船尾船楼甲板上をローラーを介して右舷ウインチまで導き、船尾右舷ウインチの1ドラムを船尾スプリングライン用とした。これにより、船尾スプリングラインは従来の摩擦ブレーキから、きめ細かな運転のできる油圧回生ブレーキをかけながらの、左舷アフターライン巻き込み作業が可能となり、この形が以後の標準となった。 自動係船運転機能についても、1955年(昭和30年)建造の檜山丸(初代)以降の青函連絡船では、船体幅を拡大したため、岸壁係留位置では、船体中心線が可動橋中心線に対し14.8‰の角度で岸壁とは反対方向に振れており、左舷側は岸壁に接舷しているのは全長132mのうち、船尾側から約40%の52m付近までで、それより船首側では岸壁と隙間をあけて係留していた。このため、船首部をブレストラインで岸壁に引き寄せ過ぎると、船尾の可動橋との接続部分に無理がかかることが判明し、十和田丸(2代)からはブレストラインを巻き込む補助ウインチの自動係船運転機能は省略された。 ===国鉄型錨=== 洞爺丸台風では、JIS型錨を装備した当時の青函連絡船の多くが走錨に悩まされ、その後も函館港では、風速毎秒20m程度で錨が動き出し、船が流され始めていた。潜水調査の結果、JIS型錨では比較的条件の良い砂地でも、50%以上で爪が海底を掻いていないことが判明したため、国鉄では海底表面が泥の函館港でも有効な、爪の付け根幅の広いバルト型錨(Baldt Anchor)を連絡船用に改良した“国鉄型錨”を開発し、津軽丸型には重量3,910kgの国鉄型錨が装備された。 ===球状船首の不採用=== 球状船首自体は決して新しい物ではなかったが、第二次世界大戦後、日本でも理論的研究が進み、本船基本計画中の1961年(昭和36年)3月には、その前年に建造された関西汽船 阪神―別府航路の高速客船 くれない丸(2,928総トン)に巨大な球状船首を仮設しての実船試験が行われ、従来からの小型球状船首では5,400馬力で18.45ノットのところを、巨大球状船首では19.0ノットを記録し、また同じ18.45ノットなら4,690馬力で達成できたと報告された。また、1963年(昭和38年)建造の日本郵船の高速貨物船山城丸(10,466総トン)以降は、球状船首が各社建造の高速貨物船に本格的に採用されるようになった。 このような状況下、国鉄も球状船首に関心を持ち、1961年(昭和36年)11月以降、東大水槽で球状船首付き、球状船首なしの各種船型の模型実験を行い、球状船首付きで約14%の全抵抗減少が見込まれたが、車両甲板前部が狭くなって積載車両数が減る、頻繁に出入港するため着岸時に水面下の球状船首を岸壁に接触して損傷する可能性がある、などの理由のほか、十和田丸(初代)では、スムーズな投錨のためアンカーリセスを設けて、あえて錨の出口であるベルマウスを船体中心線から1.2mと近い位置に寄せており、この位置のまま投錨すると、船首喫水線下で、側方へ船体中心線から1.75m膨隆した球状船首付け根側面に錨が衝突してしまい、これを避けるには、ベルマウスを船体中心線から最低2.9mは離さなければならなくなり、錨の位置を抜本的に変更する等の対策を迫られた。 以上を総合的に判断した結果、球状船首なしの船型が採用された。なお、くれない丸も巨大球状船首は別府港内での操船上の理由から、上記試験終了後撤去され、従来からの小型球状船首に戻された。 ==機関部== ===マルチプルエンジン=== 青函連絡船 で初めてのディーゼル船となった檜山丸(初代)から 十和田丸(初代)までの3隻では、主軸に直結でき、燃料に安価なB重油が使える、毎分230〜250回転の2サイクル低速ディーゼルエンジンが主機械に採用されていた。しかしこれら3隻は、車両渡船・車載客船で、車両甲板上に敷設する軌道の有効長を可能な限り伸ばして積載車両数を確保しなければならず、車両甲板中央部に一般商船のように大きな吹き抜けを設けることはできなかった。このため、機関室の天井高さは二重底の上から車両甲板下までに制限され、そこへ背の高い2サイクル低速ディーゼルエンジンを搭載したため、主機械頂部と機関室天井との間の余裕は少なく、主機械のピストン抜き作業は、車両甲板に設けたボルト締めの水密ハッチの蓋を開けて行う必要が生じ、車両積載時にはできなかった。 津軽丸型では、1日2.5往復させるため、航海速力を18.2ノットに上げなければならず、従来の約2倍の出力を必要とし、これを在来型のディーゼル船3隻のように、主軸直結2サイクル低速ディーゼルエンジン搭載で実現することは、同じ理由で機関室の天井高さが制限される津軽丸型では不可能であった。 このため津軽丸型では、背の低い毎分750回転で、定格出力1,600制動馬力の4サイクル中速ディーゼルエンジンである川崎 MAN V8V 22/30mAL(大雪丸(2代)、摩周丸(2代)、羊蹄丸(2代)の3隻では、毎分560回転で定格出力1,600制動馬力4サイクル中速ディーゼルエンジンの三井 B&W 1226  MTBF‐40V)を片舷4台、合計8台搭載することで、所要出力を確保しつつ、天井の低い車両渡船の機関室内で、主機械頂部と機関室天井の間に余裕を持たせ、ピストン抜き作業も機関室内でできるようにした。なおこれらエンジンには軽油が燃料として使われた。 しかしこの回転数ではプロペラ効率が悪く、減速機を介して主軸に繋ぐ必要があり、また片舷1軸あたり4台のエンジンが繋がるため、故障機や休止機を軸系から容易に切り離せるようにしておくことも必要で、各主機械と主軸の間にはクラッチも必要となった。当時はこの程度の大出力のディーゼルエンジンからの出力を減速歯車に伝達する場合、歯車に対するディーゼルエンジンの変動トルクの影響を吸収する目的で流体継手が用いられており、津軽丸型ではこの流体継手に、作動油の出し入れでクラッチとしての機能も持つタイプを採用し、各主機械を個別に主軸から切り離したり繋いだりすることができた。このように8台のエンジンの出力は、それぞれ流体継手と1段減速歯車を介して両舷の主軸に伝達され、主軸はプロペラ効率のよい毎分217.5回転で互いに外転した。 通常は主機械6台程度の稼働で定時運航可能なため、運航しながらの機関整備が可能となり、当時檜山丸型で行われていた20日間運航後3日間休航、という機関整備のための休航は不要となった。 津軽丸は就航から4年後の、1968年(昭和43年)5月26日から1969年(昭和44年)4月4日までの314日間のロングラン試験を行い、途中台風や、配船計画、陸上都合による欠航または休航はあったものの、船の都合による欠航はなく、期間中同時に2台の主機械が運転不能となることもなかったため、以後津軽丸型では中間入渠を廃し、1年に1回の入渠となった。その後、主機械の小改造を経て、1973年(昭和48年)からは主機械2年間無開放運転を開始し、年1回の入渠時には全8台のうち4台の主機械のみ開放整備することとなった。 右舷主軸のみ減速機のある第1主機室から遊星増速歯車で毎分1,200回転に増速のうえ、ひとつ前方の発電機室までのび、バウスラスター駆動電動機の電源でもある主軸駆動発電機(900kVA)を常時直結で駆動した。このため主軸駆動発電機は右舷主軸が正常に回転している運航中であれば、常に三相交流60Hz 445Vの電圧を発生しており(バウスラスター運転時以外は無負荷のため電流はゼロアンペア)、主発電機(700kVA)故障時には、瞬時に主要推進補機への給電を肩代わりできるバックアップ電源でもあった。 ===可変ピッチプロペラ=== 国鉄では、1961年(昭和36年)6月建造の大島連絡船 大島丸(後の安芸丸)(257.99総トン)に、350馬力と小型ながら川崎重工がスイスのエッシャーウイス社から技術導入して製作した3翼の可変ピッチプロペラを、国鉄連絡船として初めて装備し、同時期建造の宇高連絡船 讃岐丸(初代)のフォイト・シュナイダープロペラと比較したが、高速航行時間の方が出入港時間よりも長い青函、宇高の両航路では可変ピッチプロペラの方が適していると結論づけた。 このため、津軽丸型では、当時の三菱日本重工横浜造船所がスウェーデンのカメワ社から技術導入して製作した、直径3.25m 4翼の、当時日本最大の可変ピッチプロペラ 三菱横浜KAMEWA 102S/4型(松前丸(2代)のみエッシャーウイス式で、直径3.3m 4翼、同じく当時日本最大の 川崎Escher Wyss B‐1000/SV‐370型)を2基装備した。 可変ピッチプロペラの利点は、全速前進から急ブレーキをかけた場合、固定ピッチプロペラでは、全速後進発令後エンジンを一旦停止し、逆回転で再起動しなければならず、その間の無駄な空走を許してしまうが、可変ピッチプロペラでは、エンジンはそのまま運転継続で、プロペラの翼角を逆向きにするだけのため、発令直後からブレーキがかかり、ブレーキ距離の大幅な短縮が可能なことであった。津軽丸での試運転からの試算では、可変ピッチプロペラでは19ノットから475mで停止できたが、固定ピッチプロペラでは1,129mも要したとのとであった。このような可変ピッチプロペラの圧倒的な操縦性の良さは、相当長い高速航行区間と頻繁な出入港を併せ持つ青函連絡船には最適であった。 可変ピッチプロペラ採用により、主軸回転数は毎分217.5回転で、回転方向は互いに外転のまま、あとは操舵室のプロペラ翼角操縦レバーからの翼角制御だけで、船の前後進から速力の調節まで行われた。これは、主機械は一定方向への一定回転数さえ維持していればよいことを意味し、天井高さの低い機関室での出力増強の目的で、マルチプルエンジンが採用されたが、多数の ディーゼルエンジンの発停、逆転を、同時に行うことが容易ではないことを考えると、もし可変ピッチプロペラがなければ、建造コストの高いディーゼル・エレクトリック方式を選択せざるを得なかったことにもなる。 操舵室からのプロペラ翼角制御による翼角の変化は、主軸に負荷変動をもたらし、主軸ならびに各主機械の回転数の変動となって表れ、これらを素早くガバナーで検知し、各主機械への燃料噴射量を調節して、回転数を一定に保つよう自動制御された。 このガバナーによる主機械の制御は、フォイトシュナイダープロペラ採用により、既に主機械の定速回転制御を行っていた宇高連絡船 讃岐丸(初代) で使われていたが、津軽丸型ではマルチプルエンジンのため、ガバナーは主軸のほか、各主機械にも装備され、各主機械の負荷の均等化を図りつつ、主軸回転数を一定に制御できるよう、これらのガバナーを統合する自動負荷分担装置が設けられた。これらのシステム構築は当時試行錯誤で、津軽丸型各船でも種々の異なった方式が導入された。 また、操舵室において不用意にプロペラ翼角操縦レバーを進め過ぎても、主機械に過負荷がかからないよう、翼角の進みを調節する、過負荷防止装置については、津軽丸のものは動作が不安定過ぎて実用に耐えられず、結局使われなかったが、第2船の八甲田丸以降では実用化された。 操舵室から総括制御室への推進機器の発停関連の指令は、操舵室のプロペラ制御盤にある押しボタン式のエンジンテレグラフが用いられた。STAND BY(主機械始動準備→主機械始動、入港前発停操作配置、警戒航行配置)、DRIVE PROPELLER(プロペラ回転させよ→流体継手嵌)、RING UP(出港配置解除、警戒配置解除)、FINISH(プロペラ使用終了)の4項目で、うちDRIVE PROPELLERの発令がない限り、総括制御室から流体継手に作動油を注入して、主機械を主軸に繋ぐ(現場では「フルカン嵌」と表現、逆は「フルカン脱」)ことができないよう、インターロックがかけられていたが、通常は操舵室から主機械や流体継手を直接制御することはできず(主軸“非常”停止用押しボタンはあった)、全て総括制御室を介して各機械類が遠隔操作され、操舵室からは可変ピッチプロペラの翼角制御だけが行われ、これによる負荷変動に対し、自動負荷分担装置が働いて、各主機械への燃料噴射量が自動制御された。 総括制御室では、表示される各主機械の負荷状況、船の運航状況、操舵室からの運航方針の伝達等を受け、主機械の稼働台数を検討し、円滑な運航ができるよう、主機械の発停と、それに伴う流体継手の嵌脱操作を、手動の遠隔操作で行った。なおこれらの手動遠隔操作は、一連の手順を順次自動的に行うシーケンス制御により、簡単なスイッチ操作で行われた。 このような、機関部の自動化は、頻繁に出入港を繰り返す国鉄連絡船ならではの方式で、運航状況が正反対の、同時代の外航貨物船の自動化が、操舵室からの主機械発停を伴う主機械遠隔操縦から始まったのとは対照的であった。 ===バウスラスター=== 従来の青函連絡船では、出港時は、予め入港時に投錨しておいた右舷錨を揚錨して船首を右に回頭するだけでは事足らず、船首のロープを補助汽船に牽引させていた。また入港時は青森、函館とも、船首から岸壁まで係船索を綱取り艇に運ばせて、岸壁のビットに繋ぎ、それを引き寄せて接岸していた。 津軽丸型では、これらの作業を解消し、より迅速に離着岸できるよう、既にヨーロッパの鉄道連絡船では装備されつつあったバウスラスターを装備した。これも三菱日本重工横浜造船所がカメワ社から技術導入して製作した三菱横浜KAMEWA SP800/6S型バウスラスターで、操舵室直下の船首喫水線下の船体に、両舷間をつなぐ内径2.2mのトンネルを設け、その中に直径2mの4翼可変ピッチプロペラを装着し、毎分264回転で定速回転させ、あとは翼角制御するだけで、左右いずれの方向へも任意の推力が得られる装置であった。その最大推力は当時の青函航路の補助汽船1隻分相当の9.3トンで、このような本格的なバウスラスターの装備は日本の船として初めてであった。なお、1966年(昭和41年)建造の第7船、十和田丸(2代)では、バウスラスタートンネル内で、プロペラ軸を両側から3本ずつのステーで支持する6‐STAY型から、片側3本のステーだけで支持する、3‐STAY型のSP800/3S(毎分262回転)に変更された。 これを駆動するのは、バウスラスタートンネル直上のバウスラスター室に設置された625kW(850馬力)の三相交流巻線型誘導電動機で、これを運転するには900kVA(力率80%)の発電機を必要とした。バウスラスターの使用は通常出入港時だけであったが、特に入港時は係船機械の電力需要とも重なるため、1台の出力が700kVA、力率80%の主発電機3台のうち、2台を並列運転し、残り1台は循環整備にあてるため、常時使用できるのは2台までで、バウスラスター駆動にまで電力を供給する余裕はなかった。もし、これを主発電機2台並列で賄うなら、主発電機出力は1台1,150kVAにもなり、バウスラスターを運転していない多くの時間帯で非効率な低負荷運転を強いられ、得策ではなかった。一方、バウスラスターの使用は低速の出入港時に限られ、その時も主軸は毎分217.5回転で定速回転しており、主機械出力には余裕があるはず、ということで、右舷減速機から、主軸を毎分1,200回転に増速のうえ、前方の発電機室まで伸ばし、900kVAという大容量の主軸駆動発電機を駆動し、この電力をバウスラスター駆動に充てた。 バウスラスター使用開始前には予め、主軸駆動発電機が運転されていることを確認し、操舵室プロペラ制御盤のスイッチから、翼角ゼロの無負荷状態で、バウスラスター翼角変節油ポンプ駆動電動機を駆動させた後、バウスラスター駆動電動機を駆動させておけば、必要に応じてバウスラスターの翼角を、操舵室プロペラ制御盤のバウスラスター翼角操縦レバー、または操舵室左舷の補助スタンドのバウスラスター翼角操縦レバーのいずれかを、左右に倒すことで翼角操縦ができ、船首に横推力を発生させて、舵の効かない低速時でも容易に回頭できた。就航当初こそ綱取り艇も使用されたが、やがて、補助汽船の助けを借りるのは、入港着岸時の右舷船尾押しだけとなり、出港時を考慮した入港時の右舷投錨の頻度も少なくなった。 バウスラスター駆動電動機は625kWと大出力の三相交流巻線型誘導電動機で、起動時には当時の電車のように、電動カム制御器で抵抗を順次短絡して行く方法がとられた。このため、操舵室プロペラ制御盤には、就航後の後付けではあったが、バウスラスター駆動電動機電流計と、起動抵抗がすべて短絡され、電動機が完全運転状態になったことを示す表示灯が装備された。 なお、バウスラスター使用時は、その電源となる主軸駆動発電機を駆動する右舷主軸に負荷がかかり、右舷の自動負荷分担装置が働いて、自動的に稼働中の右舷主機械への燃料噴射量が増やされるが、バウスラスター出力の850馬力は、主機械0.5台分相当以上に大きく、右舷稼働機が2台では負荷的に苦しいこともあった。津軽丸が就航して程なく、バウスラスターを使用する港内での操船時、とりわけ入港時の減速しながらの右回頭時には、右舷の可変ピッチプロペラに後進をかけるため、右舷の負荷の方が左舷より大きいことが明確になったが、続々と建造された津軽丸型では、結局第7船の十和田丸(2代)まで、主軸駆動発電機は負荷の大きい右舷のままで変更されることはなかった。 ===2枚舵=== 青函連絡船では、洞爺丸事件直後の1955年(昭和30年)建造の檜山丸(初代)以来、2基のプロペラの直後にそれぞれ舵を置く2枚舵を採用することで、強い横風を受けた時、風下に回頭できなくなる、“風に切れ上がる”という現象を解消できたが、津軽丸型もこれを踏襲し、更に低速時に限り舵角を在来船より10度多い45度までとれるようにしたうえ、操舵機出力も倍増し舵角0度から35度まで転舵所要時間も約9秒と、在来船の15.5秒の半分程度に短縮して、低速時、迅速にその旋回性能が発揮できるようにした。また、左右の主軸間隔よりも左右の舵の間隔を狭くしたことで、入渠時、舵の有無にかかわらず推進軸抜去が可能となった。なお、国鉄連絡船の2枚舵は、互いに機械的に結合されていたため、左右別々に動かすことはできなかった。 ==操舵室== 操舵室の平面形状は十和田丸(初代)に準じたが、前面を7度前傾させるなどの改良もなされた。 ===操舵スタンド=== 船体中心線上には、大型自動車のハンドルを舵輪として装着したジャイロパイロット内蔵の操舵スタンドがあり、このハンドルによる手動操舵のほか、船首方向を決めて自動操舵にすれば、ジャイロコンパスと連動して、横方向からの外力が働いても、常に船首を指定方向を向け続けることができた。このような装置は外航船では古くから使われており、目新しいものではなく、この操舵スタンドのジャイロパイロットもスペリー式の既製品であったが、国鉄では津軽丸への装備が初めてであった。舵角指令はジャイロパイロットからの電気信号が船尾車両甲板下の操舵機室へ伝達され、油圧変換後、機械力で操舵機のアキシャルプランジャ式可変吐出量型油圧ポンプの傾転角を調節し、2枚の舵を動かす左右の油圧シリンダーへの作動油の出し入れを制御して操舵する仕組みであった。操舵システムの冗長性維持のため、このジャイロパイロットは常用2系統、非常用2系統を備え、操舵スタンド舵輪右側には第1 系統・OFF・第2系統を選択する装置切換スイッチと、ジャイロパイロット・手動操舵・ノンホローアップを選択する操舵切換スイッチがあり、左側には汽笛押しボタン、ノンホローアップコントローラー(コントロールレバーを倒した方向へ舵角が進み続け、目的の舵角でスイッチを中立に戻すと進みが止まる)を備えていた。 ===プロペラ制御盤=== 操舵スタンドの左には、プロペラ制御盤があり、両舷の推進用可変ピッチプロペラ(Controllable Pitch Propeller CPP)の翼角を、前後に動かして遠隔操縦する2本の推進用プロペラ翼角操縦レバーと、その間の向う側に バウスラスター(Bow Thruster BT)の可変ピッチプロペラの翼角を、左右に動かして遠隔操縦するバウスラスター翼角操縦レバーがあり、レバー先端のボタンを拇指で押してロックを解除しながら操作する作りであった。それぞれのレバーの根元には、レバーの行程に沿った横から見ればカマボコ型、上から見れば直線型のゲージが設置され、レバー直結の指令翼角指針と、やや遅れて追従する実際翼角指針が、同一ゲージ両側から相対し、翼角の変化を直観的に読み取れる優れたものであった。 このプロペラ制御盤の推進用プロペラ(CPP)翼角操縦レバーからの翼角指令は、操縦レバーに接続されたシンクロ制御変圧器からの電気信号となって最終的に第3補機室の交流サーボモーター を駆動し、この回転運動がボールスクリューで往復運動に変換され、これが可変ピッチプロペラ翼角管制装置の制御レバーを機械的に動かし、可変ピッチプロペラの変節油回路を制御して翼角操縦を行った。この推進用可変ピッチプロペラ翼角遠隔操縦回路も常用2系統とノンホローアップ式(スイッチを倒した方向へ翼角が進み続け、目的の翼角でスイッチを中立に戻すと進みが停止する)の非常用2系統を備えていた。 バウスラスター(BT) 翼角操縦レバーからの翼角指令も同レバー接続のシンクロ制御変圧器からの電気信号となり、最終的にバウスラスター室の電磁弁を作動させ、直接バウスラスター翼角変節油回路を制御して翼角操縦する仕組みで、こちらは常用1系統、ノンホローアップ式の非常用1系統であった。 これら、非常用ノンホローアップ式翼角操縦スイッチや、常用・非常用の切換スイッチ群は左右を両側の推進用プロペラ翼角操縦レバー根元のカマボコ型行程にはさまれ、前方をバウスラスター翼角操縦レバー根元のカマボコ型行程に囲まれた四角い領域に配置されていた。左右の推進用プロペラ翼角操縦レバーのちょうどその奥の斜面部分には、左右の主軸回転数計が、その下にはデジタル表示の各舷の主機稼働台数表示器や主軸非常停止用押しボタンが、それらの間には時計が配置されていた。なおバウスラスター駆動電動機電流計は、津軽丸、八甲田丸、松前丸(2代)では新造時には装備されておらず、就航後に右舷主軸回転数計の右側(八甲田丸では左舷主軸回転数計の左側)に後付けで装備された。 更に操舵室左舷端には、離着岸時、船長が岸壁を目視しながら、直接バウスラスターと両舷推進用プロペラの翼角操縦ができるよう、これらの補助操縦レバーを装備した補助操縦スタンドが設置されていた。プロペラ制御盤の主操縦レバーと左舷の補助操縦レバーはそれぞれ機械的に連結されており、いずれかを操作すると他方も同じように動いたが、このように機械的に連結したことが、操縦レバーの動きを非常に重くて使いづらいものにしてしまった。高速域では、わずかな翼角の違いで速度が大きく変化してしまうため、津軽丸では就航早々、推進用プロペラ翼角操縦レバーが重すぎて、翼角を細かく調整できないと不評をきたしてしまった。 このため、第4船の大雪丸(2代)からは、プロペラ制御盤上に四角い箱を載せた不格好な形となり、その箱の両側面に、前後に動かすというよりは倒すという感じの2本の推進用プロペラ翼角操縦レバーが、手前の面には左右に倒すバウスラスター翼角操縦レバーが装備され、両側面の左右の推進用プロペラ翼角操縦レバーの付け根のレバーの回転軸には微動調整用グリップが付けられた。箱の上面には三つの丸型メーターが並び、両側が両舷の推進用プロペラ翼角計、中央がバウスラスター翼角計で、いずれも外周が指令翼角、内周が実際翼角であった。しかしこの微動調整グリップも、動かすのにかなりの力が必要ということで不評であった。また新造時よりバウスラスター駆動電動機電流計を、プロペラ制御盤の奥の斜面部分の左右の主軸回転数計の間に装備し、時計は右舷主軸回転数計の右側へ移った。なおこの四角い箱が邪魔して、奥の斜面部分の低い位置が見えづらくなったため、主機稼働台数表示器は両舷主軸回転数計の内側の高い位置へ移した。しかしこの箱のおかげで、プロペラ制御盤上での推進用プロペラ翼角操縦レバーの前後行程がなくなり、盤面手前に余裕ができ、非常用翼角操縦スイッチや、常用・非常用の切換スイッチ等は、盤面手前側に横1列に並べて配置され、以後この配置が標準となった。 第7船十和田丸(2代)では、バウスラスター翼角操縦レバー、推進用プロペラ翼角操縦レバーとも、レバー操作を重くしている元凶の、主レバーと補助レバーの機械的連結を全て解消し、従来は主レバーにしか接続されていなかったシンクロ制御変圧器を補助レバーにも増設接続し、ようやく軽く扱いやすい翼角操縦レバーとなった。そして、主操縦レバー、補助操縦レバーを問わず、後から操作した操縦レバーの指令が優先されるシステムとしたため、機械的連結の従来型と大差ない取り扱いができた。プロペラ制御盤上の不格好な箱はなくなり、津軽丸の形に似たものに戻ったが、軽くなった分レバーも短くなり、前後の行程も短縮された。レバーの先端に拇指をかけ、グリップ部分を引き上げるとロックが解除され、このグリップ部分を回すと微動調整できる形となった。プロペラ制御盤の翼角計は大雪丸(2代)以来の丸型で、外周が指令翼角、内周が実際翼角であったが、これとは別に、推進用プロペラ翼角操縦レバー根元の制御盤上のカマボコ型の前後行程部分に、指令翼角が直観的にわかるよう、直線型の目盛板が貼り付けられた。バウスラスター翼角操縦レバーに関しては、プロペラ制御盤上の主操縦レバーは手のひらで押すとロックが解除されるレバー付きのグリップハンドルに変わったが、補助スタンド側は操縦レバーのままで、この形が以後のプロペラ制御盤の標準型となった。 不評だった津軽丸タイプ(津軽丸・八甲田丸・松前丸(2代)の3隻)では、1969年(昭和44年)頃から、プロペラ制御盤の推進用プロペラ翼角操縦レバーの動きを軽くするため、補助スタンドの補助推進用プロペラ翼角操縦レバーとの間の機械的連結を解消して、補助推進用プロペラ翼角操縦レバーを無効化したり、補助スタンドから補助推進用プロペラ翼角操縦レバーを撤去したりし、最終的には3隻とも補助スタンドにはバウスラスター翼角操縦レバーだけが残された形となった。またプロペラ制御盤も、視覚的には優れるが、指針が長大で重く、これを精密に駆動するためのサーボモーターを要する等、制御盤内部で場所をとる直線ゲージ式の実際翼角計は撤去され、外周が指令翼角、内周が実際翼角の丸型の翼角計に変更され、推進用プロペラ翼角操縦レバーも先端グリップを持ちあげるとロックが解除され、その部分を回すと微動調整できる十和田丸(2代)タイプの小型のレバーに交換され、その分レバー根元のカマボコ型の前後行程も短縮され、この部分に十和田丸(2代)同様、指令翼角が直観的にわかるよう、直線型の目盛板が貼り付けられた。カマボコ型前後行程短縮により、盤面手前が空いたため、非常用翼角操縦スイッチや、常用・非常用の切換スイッチ等は、盤面手前側に横1列に並べて配置された。しかしバウスラスター翼角操縦レバーと、これに付随した直線ゲージ式の実際翼角計は終航まで使われた。これらの写真は八甲田丸参照のこと。 1978年(昭和53年)には、大雪丸(2代)タイプ(大雪丸(2代)・摩周丸(2代)・羊蹄丸(2代)の3隻)でも、補助スタンドから推進用プロペラ翼角操縦レバーが撤去され、バウスラスター翼角操縦レバーだけが残された。プロペラ制御盤も全面的に十和田丸(2代)に準じた形に改修され、推進用プロペラ翼角操縦レバーが十和田丸(2代)タイプの小型のレバーに交換されただけでなく、バウスラスター翼角操縦レバーも小さなグリップハンドルに変更された。 なお、十和田丸(2代)以外の6隻の補助スタンドには、推進用プロペラの実際翼角計もバウスラスターの実際翼角計も装備されておらず、これら改造と並行して、操舵室左舷前面窓上に両舷の推進用可変ピッチプロペラの実際翼角計が設置された。 また、これら6隻の、バウスラスター翼角操縦用の主操縦レバーあるいは主操縦ハンドルと、補助操縦レバーとの間の機械的連結はその後も維持されたままであったが、関係者の努力もあり、その操作性は実用に耐えるレベルに維持された。 ===国鉄型船舶主軸推力計=== 津軽丸では、プロペラ制御盤の頂部左端に四角い箱形の「国鉄型船舶主軸推力計」の指示器が外付け状態で設置されていた。これは第2主機室後壁近くの左舷主軸に挿入された弾性軸のひずみを抵抗線ひずみ計で検出し、左舷推進用可変ピッチプロペラの前後進時の推力をリアルタイムでトン表示するものであった。これは当時日本最大の可変ピッチプロペラの試運転時の各種データ―収集のほか、失速状態とならず有効に推力を発生できる操縦方法の研究にも供されたが、あくまでも試作機で、左舷のみのため、各種解析には限界があった。それでも可変ピッチプロペラメーカー発表の速力ゼロ時の推定最大推力53トンに対し、後進全速(翼角‐22度)から前進全速(翼角+26.4度)にした時、激しい失速の後、最大推力48トンを記録する等、貴重なデータ―を残した。しかし、この推力計は津軽丸以外に装備されることはなかった。また、上の1973年(昭和48年)7月撮影の操舵室内写真では推力計指示器は写っているが、当時使用されていたかどうかは不明で、終航後の写真ではその指示器は撤去されていた。 ===船位自動測定装置(SPレーダー Ship’s Position System)=== 青函連絡船では、航路がほぼ南北方向のため、、航路途中の7ヵ所の沿岸の通過目標を東西に見る地点を通過地点とし、その通過時刻を見ながら速度調節をし、また通過目標との距離をレーダーで測ることで、予定航路からの左右のずれも知ることができた。 これを自動化するため、沿岸の更木岬、大魚島(おおよしま)、平館灯台、蓬田に反射板を設けて電波定点とし、まず第1レーダーで電波定点の方位と距離を入力すると、前部マスト頂部の円筒形のラドーム内のSPレーダー空中線から、その電波定点の反射板に向けて電波が出され、その反射波を受けると、SPレーダーは、以後その電波定点を捕捉し続け、その方位と距離を連続的に測定し、予め入力してあった予定時刻、予定航路からのずれを、操舵室右側の第2レーダー指示器の左側(八甲田丸のみ右側)に並んで設置された制御表示器の上面中央部の正方形の表示盤に表示した。表示盤には田の字に十字線が描かれており、更に、時間的早遅れを表示する横指針と、左右のずれを表示する縦指針があり、この交差する2本の指針を動かして、現在位置を2本の指針の交点で表示し、時刻、左右のずれ、いずれもなければ、この2本の指針による十字と田の字の十字はぴったり合致するが、ずれがあれば、早い遅いは上下のずれとして分単位で、左右のずれは海里単位で表される、視覚的にも分かりやすい表示ではあった。また、他船を電波追尾すれば、衝突予防レーダーとしても使用できた。 しかし電波定点の捕捉に難があり、またこれだけの性能では、従来のレーダーで事足りたこともあり、結局十分使われず、1978年(昭和53年)の、同時に20隻まで監視可能なレーダー情報処理装置(CAS)導入時には撤去されてしまった。 この装置の最終目標は、ジャイロパイロットやプロペラ翼角操縦装置まで繋いでの自動操縦であった。 ==安全対策== ===船尾水密扉=== 津軽丸型のように車両甲板船尾に車両積卸し用の開口があり、車両甲板全幅が車両格納所となっている車載客船では、船の水線長よりわずかに長い波長の大波を、船首方向から受け続けて、大きくピッチングしている状態で、大波によって船首が持ち上げられた時、船尾はその前に通り過ぎた波の斜面に勢いよく突っ込み、海水が車両甲板上にまくれ込む形で流入する。船尾が上がると、この海水は車両甲板上を船首方向へ流れ下り、再び船首が上がっても、この海水は前回と同じメカニズムで船尾から新たに流入してきた海水と衝突して、流れ出ることができず、やがて車両甲板上に大量の海水が滞留し、これが自由水のため、左右どちらか低い方へ素早く流れ、これだけで転覆してしまうことが、洞爺丸事件後の模型実験で明らかになっていた。 1955年(昭和30年)建造の檜山丸等、船楼甲板上に旅客用甲板室を持たない車両渡船では車両甲板船尾両舷への放水口設置で、この滞留水を迅速に船外へ排出でき復原性を確保し得たが、船楼甲板上に旅客用甲板室を持つ津軽丸型では、これでは不十分で、船尾水密扉設置が必須であった。既に1959年(昭和34年)までに、3隻の客載車両渡船(デッキハウス船)第六青函丸、第七青函丸、第八青函丸で、車両甲板船尾3線分をカバーして、船体外殻と同等の強度を持つ大型の船尾水密扉が設置されていた。 これら3隻では、鋼製の上下2枚折戸式船尾扉で、扉閉鎖状態での耐波性等を考慮し、船尾開口部位置で船内軌道の3線間に2本の梁柱を設置して、船尾扉を内側からも支える構造であった。この梁柱は当然船内軌道の建築限界外または縮小建築限界外に設置されていたが、船内軌道の間隔は船尾近くでは船尾へ行くほど接近し、車両は隣接する軌道の縮小建築限界と車両限界が交わる接触限界までは積載可能なため、車両積載数確保のためには、船尾扉は接触限界よりも更に船尾側への設置が望まれた。実際、デッキハウス船では船尾扉設置前の車両積載数がワム換算46両であったのに対し、設置後は43両と、各線1両ずつ減少していた。 このため、津軽丸では同じ上下2枚折戸ながら、鋼製箱型として強度を増し、梁柱による支持を不要とした。またデッキハウス船では、その開閉に、左右1対のワイヤーを船楼甲板に設置した電動ウインチで巻き込んで行われたが、この左右のワイヤーの長さ調節に相当の労力を要したため、1961年(昭和36年)11月に、在来船としては最後に船尾水密扉が設置された洞爺丸型車載客船羊蹄丸(初代)では、1線幅ながら電動油圧式が採用された。しかしこの方式での3線幅の船尾扉では、船尾開口部両側のガイドレール幅を広くとる必要があり、ワイヤー式に比べ、60cm程度船首側へ寄せなければならないという問題があった。更に、開閉用の油圧シリンダー類を船尾開口部直上の船楼甲板船尾部に設置しなければならなかったが、度重なる旅客定員増しによる船楼甲板室の拡大で、船楼甲板船尾部には最小限の係船機械が設置できるだけの広さしか残されておらず、更なる機器設置の余裕はなかった。 折りしも、油圧シリンダー内を動くピストンの直線往復運動を、大ピッチの螺旋を用いてピストン軸を中心とした回転運動に変換し、この油圧シリンダーをそのまま自ら動くヒンジとして使う“トルクヒンジ”がスウェーデンのゲタベルケン社で開発され、貨物船のハッチカバーの開閉等に使用され始めていた。これを羊蹄丸(初代)の船尾扉の油圧機器を製作した萱場工業 が技術導入し、国産化しようとしていたが、同社より津軽丸の船尾扉に、この“トルクヒンジ”を使用してみては、との提案があった。“トルクヒンジ”は歯車類を介さず、船尾扉のヒンジとして直接装備できたため、船尾扉の構造が単純化され、その油圧動力機械は直下の操舵機室内に収納できたため、既に係船機械で満杯の船楼甲板船尾部を何ら占有しない等、津軽丸にとっては好都合で、採用されることになった。なお、日本で最初の“トルクヒンジ”装備船となった津軽丸では、ゲタベルケン社製の輸入品が使用された。 このトルクヒンジは、船尾開口部上縁と船尾水密扉の上部扉の間に20ton‐mのヒンジを、上部下部扉間には6ton‐mのヒンジを装備し、共に外開きとした。船尾開口部は垂直に対し約8度前傾しており、閉鎖状態からの開放では、まず第1段階として、上下扉間のトルクヒンジを180度回転させて、下部扉を上部扉外側に折り重ねる。続いて、船尾開口部上縁と上部扉の間のヒンジを約82度回転させて、この2枚重ね状態の扉を水平まで持ち上げ、船楼甲板船尾端から突出したポンプ操縦室の下面にロックする構造であった。 また閉鎖時はその最終段階で、船尾扉のすぐ内側の車両甲板面の、3線ある船内軌道間の2ヵ所と、両舷の軌道外側の2ヵ所の計4ヵ所に設置した油圧シリンダー駆動のフックを、船尾扉の下部扉下辺内側のアイに引っ掛けて引き寄せ、水密性を確保する締付け装置が設けられ、更に船尾扉折戸の折れ目の高さ近くの下部扉上部両端位置に、下部扉開閉時のヒンジを中心とした回転運動の円周方向にその先端が沿ったフックを設け、閉鎖時にこのフックが船尾開口部両側の船体に取り付けられたアイに納まって、折戸の折れ目が外側に脱転しないよう固定された。 この船尾扉は従来のようなシャクトリムシ運動をしないため、ガイドレールも不要となり、更に従来の車両渡船では、船尾アフターラインを船尾開口部両舷中段の滑車(デッキエンドローラー)で中継してから岸壁ビットに繋いでいたのを、船楼甲板の縁の滑車(フェアリーダー)から直接岸壁のビットに繋ぐ方式に変更して船尾開口部中段のデッキエンドローラーを廃止し、船尾扉を十分に船尾側に設置することができ、ワム換算48両積載可能となった。また下部扉のみ開放の“半開状態”でも安定して停止でき、全開では入渠甲板上からも、船尾全体を見通せなかったこともあり、出入港時や港内錨泊時などに、半開状態がよく使われた。なおゴムパッキンは今回からは扉側に付けられ、船内軌道が船尾扉の敷居をまたぐ部分での跳ね上げレールは、従来通り船内側へ跳ね上げる構造で、羊蹄丸(初代)同様、開閉操作にはシーケンス制御が採用され、車両甲板船尾右舷と、ポンプ操縦室の開閉制御盤から操作できた。 津軽丸は日本初のトルクヒンジ装備船であったため、当初は装備方法や操作の不慣れ、想定設計以上の使用頻度もあり、ゲタベルケン社製の輸入品の6ton‐mトルクヒンジは、早くも試運航中の1964年(昭和39年)4月28日には閉鎖状態で動かなくなり、急遽萱場工業製の国産品と交換、同年秋には工事中の不手際から20ton‐mも破損し、国産品と交換された。しかしこのトルクヒンジ式船尾扉は、以後新造あるいは改造の青函連絡船全船に装備され、その都度改良を重ね、8隻目の1967年(昭和42年)5月改造就航の石狩丸(2代目)でほぼ完全なものとなった。 ===油圧蓄圧式水密辷戸=== 車両甲板下の船体は、12 枚の水密隔壁により13区画に分けられ、隣接する2区画に浸水しても沈まない構造であった。このうち3区画が乗組員居住区、8区画が航海・機関関連機械搭載区画として使われ、日常業務としての出入りも多かった。このため、これら12枚の水密隔壁のうち8枚で第二甲板レベルに通路を設けたが、通路が開けっぱなしでは水密隔壁の用をなさないため、各通路には水密辷戸が設置された。通常は開放されていたが、緊急時には操舵室後壁の操作盤より一斉開閉ができたほか、直上の車両甲板からの単独閉鎖、現場でも単独開閉操作ができた。 国鉄では、戦後建造の洞爺丸型や宇高航路 紫雲丸型では交流電動機直接駆動方式の水密辷戸を採用してきたが、紫雲丸事件の経験から、交流電源喪失後も駆動可能な、蓄電池を電源とする直流電動機直接駆動方式の水密辷戸に方針転換し、十和田丸(初代)以降の新造船ではこれを採用し、在来船も一部直流式への改造が行われた。しかし、蓄電池は重く、直流電動機や、電動機から辷戸まで延々と続く動力伝達用のロッドは自在継手や傘歯車で連結されており、これらの保守整備も容易ではなかった。そこで電気エネルギー蓄積の蓄電池を、油圧エネルギー蓄積のアキュムレータ(蓄圧器)に置き換え、動力伝達ロッドを油圧配管に置き換えた油圧蓄圧式水密辷戸を採用した。通常は交流電動機で油圧を造る電動油圧式で、水密辷戸は油圧シリンダーで直接駆動された。アキュムレーター(蓄圧器)は動力室に備えられ、通常時に十分な蓄圧が行われていた。動力室は辷戸とは遠く離れた船楼甲板右舷の前部と後部に設置され、津軽丸と八甲田丸では前4ヵ所の辷戸を後部の動力室から、後ろ4ヵ所の辷戸を前部の動力室から、第3船の松前丸(2代)以降の5隻では前3ヵ所の辷戸を後部の動力室から、後ろ5ヵ所の辷戸を前部の動力室からそれぞれ油圧で動かすことで、損傷現場近くの辷戸と、そこへ油圧を供給する動力室の共倒れを防いで信頼性を高め、更に交流停電時の対応として、各動力室のアキュムレータ(蓄圧器)からの油圧で、停電後も全ての辷戸を10回程度開閉できた。それでも油圧が低下した場合は、現場での手動開閉も可能であった。しかし動力室の船楼甲板右舷への設置は、他船との衝突事故などには脆弱なため、第7船の十和田丸(2代)では、航海甲板の船体中心線付近となる無線通信室の後ろの空気調整室の更に後方と、後部消音器室内後方へ動力室を設置して安全性向上を図った。なお、水密辷戸の制御回路は常時直流100Vで、通常は交流電源から整流装置を介して供給され、交流電源喪失時は同じくこの電源で充電されている104V 600AHの非常予備灯用ニッケル・カドミウム・アルカリ蓄電池から供給された。 ===消防設備=== 内装はできる限り不燃性、難燃性の材料を採用したうえ、消防ホース付きの消火栓や消火器が各所に設置された。車両甲板下では各水密区画が防火区画となり、船楼甲板では、「前部の船員室」、「前部2等客室」、「食堂と厨房」、「2等出入口広間と右舷2等雑居室」、「後部2等船室」に、遊歩甲板では「前部の船員室」、「1等指定椅子席と1等出入口広間」、「後部1等船室」、等の防火区画に分けられ、その境界線上の扉には防火扉が設置され、火災時は手動で閉鎖することとした。 これら各区画には各種火災感知器が設置され、火災時は、操舵室後壁の火災警報盤のグラフィックパネルに火災発生場所が表示された。客室は案内所、機関室は総括制御室でも警報ベルが鳴り、操舵室と総括制御室ではボイスアラームが「火災発生」等と音声で警報を発した。 車両甲板車両格納所は船首から船尾まで全通で区切りようがなく、火災発生時延焼しやすい場所で、津軽丸では79℃で作動するスプリンクラーを、2系統で百数十個設置したが、この方式は熱を受けないと放水しないため、出火しても出火場所しか放水しない恐れがあった。津軽丸型では車両格納所には煙感知に優れたイオン式火災感知器が設置されていたため、この警報を受けてから手動で放水した方が延焼を防げる、ということで、第4船の大雪丸(2代)からは遠隔手動式の9系統に変更された。 機関室では、軽油を燃料に使用するため、機関室船底に溜まる油分を含んだ汚水である油ビルジへの引火を考慮して、第1補機室、発電機室、第1主機室、第2主機室、第2補機室の5区画に固定式泡消火装置が設置された。これは二酸化炭素を多く含む泡を噴射して窒息消火するもので、操舵室から遠隔操作できた。 ===固定式炭酸ガス消火装置の導入=== 1970年(昭和45年)10月26日、機関室の造りが津軽丸型とほぼ同構造の車両渡船十勝丸(2代目) 第2主機室で、主機械燃料弁冷却油入口管折損により、霧状に噴出した軽油が高温の排気管に接触炎上し、3時間漂流するという火災事故が発生した。火元が主機械頂部付近と高位だったため、機関室船底から10数センチを覆うだけの泡消火器では無力であった。当時、軽微な類似事故は他にも起きており、これを重く見た国鉄は、その対策として、密閉された機関室内の空気中の酸素を急速に排除して窒息消火し、かつ液化炭酸ガス気化時の断熱冷却による消火効果もあり、消火時間の短い固定式炭酸ガス消火装置を1971年(昭和46年)から新造時より本装置を装備していた檜山丸(初代)型2隻を除く青函、宇高の全連絡船に装備した。この装置は第1補機室右舷中段に炭酸ガスボンベを設置し、ここからエンジンまたはボイラーの設置されている発電機室・第1主機室・第2主機室・第2補機室の4区画へ赤く塗装された炭酸ガス放出管が配管され、遠隔操作で選択した区画への炭酸ガス放出ができるものであった。 ===可燃性ガス警報装置の開発と設置=== この十勝丸での火災事故では、イオン式火災感知器の警報で直ちに現場に駆け付けたが、初期消火不可能な状態であった。機関室内へはエンジン運転のため新鮮空気が大量に送り込まれているため気流状態は複雑で、煙がうまくイオン式火災感知器の方へ流れて行かないこともある。このため国鉄は、主機械および主発電機周辺の異常事態を早期に的確に検知するための、半導体素子を用いた発火する前の可燃性ガスを検知する“可燃性ガス警報装置”を開発し、その検知部を機関室内の気流の影響を受けにくいよう、主機械、主発電機原動機の上部に取り付けた架台上に設置し、シリンダー頂部に十分近接させた。本装置は1978年(昭和53年)9月から1979年(昭和54年)9月にかけ、津軽丸ほか青函、宇高の全連絡船に取り付けられた。 ===ボイスアラーム=== 津軽丸では、自動化・遠隔操縦化の多用で、設備が複雑となり、警報だけでは区別がつかず、その都度表示灯を確認しなければならない煩雑さを避けるため、音声による警告を導入した。 ボイスアラーム本体は無線通信室左舷の電気機器室に設置され、録音再生には写真用35ミリフィルムをベースに磁性鉄粉を塗布したエンドレステープを用い、これに6トラックで録音、この 35ミリテープ8本を並べて合計48トラックとし、これらを1組の駆動装置で動かしたため、警報発声時は全テープ48トラック全てを録音再生ヘッドと摺動させ、該当トラックのみ再生する仕組みで、津軽丸では、うち32トラック32種類の警報発声が設定されていた。しかし、これでは警報と無関係なトラックも毎回警報ごとに録音再生ヘッドと摺動させられ、音質劣化著しいため、第4船の大雪丸(2代)からは、1警報が1台の機械部分だけのエンドレステープ内蔵のテープレコーダーにユニット化され、これが48台ボイスアラーム本体に差し込まれていた。増幅はボイスアラーム本体で行われ、警報発声時は該当ユニットだけが動いて再生された。 ===貨車海中投棄装置=== 液体塩素や石油類を輸送するタンク車など、危険物積載車両搭載は貨物便の船1番線、船4番線の各船尾3両以内とされていたが、当時これら危険物積載車両の輸送が増加してきており、これらは車両甲板のスプリンクラー程度で対処できるものではないため、1964年(昭和39年)12月3日に、11月30日終航になったばかりの第八青函丸を用いて貨車海中投棄試験が行われた。この時は速力3.9ノットで航行しながら、石炭がらを満載した2軸貨車を、キャプスタンのほか、人力でも海中投棄を行い、トリムをつけて船尾を下げれば転動テコでも始動できることも確認されたが、いずれも貨車の速度は秒速1.5m程度で、車体の長い車両では車両甲板後端にひっかることも懸念された。 このため、貨車引き出しに、航行する船から見て、後方へ流れる海水の水中抵抗を利用することとし、落下傘のような直径60cmの金属製の半球形の水中傘が試作され、翌1965年(昭和40年)9月4日、やはり8月31日に終航になったばかりの 渡島丸(初代)を用い、2回目の貨車海中投棄試験が行われた。速力14.2ノットで航行しながら、石炭がら満載のボギー無蓋車トキ15000形1両(台車中心間9.7m全重量41.1トン)の連結器に、50mのワイヤーの更に先に、この金属製水中傘を5m間隔で4個繋ぎ、更にその先30mに円錐形浮標をつけたワイヤーを繋ぎ、先端の円錐形浮標と水中傘を海中に投げ込んで、水中傘が海水の抵抗で後方へ引っ張られ、貨車を引き出し、そのまま海中投棄まで可能かが試みられた。引き続きチキ300形2両連結(台車中心間8.0m全重量24.5トン×2)を、水中傘を8個としたもので、同様に海中投棄を試みた。それぞれ秒速3.8mと3.4mで、問題なく海中投棄できた。この実験の成功により、津軽丸型6隻を含む当時就航中の全船は、1966年(昭和41年)までに車両甲板後端のエプロン甲板との段差部分に収納場所を設け、この水中傘貨車投棄装置が収納された。また、その後建造された十和田丸(2代) を含む青函連絡船全船でも、同様の対応がとられた。 ===救命設備=== 1957年(昭和32年)建造の十和田丸(初代)では、端艇甲板には軽合金製の大きな救命艇が10隻も並んでいたが、津軽丸では、合板製で定員6名の小さな発動機付き救助艇が航海甲板に2隻装備されているだけで、あとはカプセル型のコンテナが航海甲板両舷の多数の架台上に2〜3個ずつ載っていたが、遠目には目立たないものであった。 このコンテナには、25名乗りのゴムボートである膨張式救命いかだ(ライフラフト)が折りたたまれて収納されており、乗員乗客全員収容できるだけの数を備えていた(新造時52個)。緊急時には操舵室後壁の非常操作盤内のハンドル操作で、架台のストッパーを油圧(津軽丸と松前丸(2代)以外は空気圧)で外し、片舷ごとの一斉投下ができたほか、各架台においても手動で個別に投下できた。海面に投下されれば、一端を船体に結び付けた紐が、コンテナ内の炭酸ガスボンベの口金を破り、折りたたまれたゴムボート内へ炭酸ガスが自動注入されて膨張し、海面に浮くようになっていた。 この救命いかだ一斉投下と前後して、航海甲板の片舷3ヵ所ずつから、幅1.5mの網梯子も放出されるが、名前どおりのアミバシゴで、使えるのは元気な人だけ。救命艇のように、高い端艇甲板から乗客を乗せたまま海面に降ろせないため、客室から 救命いかだの浮かぶ海面まで、乗客を降ろす手段が必要になった。 このため津軽丸には、三菱電機で開発された世界初の、甲板から海面まで滑り降りることのできる膨張式滑り台が搭載された。これは、通常は小さくたたんで収納され、非常時放出されると、高圧窒素と随伴して吸い込まれる空気で膨張し、最終的には内圧が約2気圧のとなり、相当剛性の強い気柱のトラス構造の滑り台が形成される仕組みで、トラス内部には人が滑り降りる救助袋が展開され、先端には滑り降りた人を一旦収容するゴムボートも付属した形の滑り台となった。 遊歩甲板用は1等出入口の直後の1層上の航海甲板両舷側に設けられた箱に収納され、乗客はその直下の遊歩甲板舷側から滑り込める形の、長さ14mの膨張式滑り台で、左右1組ずつ、船楼甲板用は、左舷は左舷前部2等椅子席前端と、左舷後部2等椅子席前端、右舷は右舷前部2等雑居室前端と、旅客食堂後ろの通路先の行き止まりの4カ所に収納場所を設け、乗客はそこから滑り込む形の、長さ10m(第2船の八甲田丸以降は11m)の膨張式滑り台が、左右2組ずつ設置された。船体とは直角方向に、舷側から海面へ斜めに突き出した滑り台となるため、多少の船体横傾斜には対応できる構造であった。この放出操作も操舵室後壁の非常操作盤内のハンドルからの遠隔操作のほか、現場での手動操作も可能であった。 ==就航後の環境対策== 津軽丸型就航後の時代は、高度経済成長による環境汚染が問題化してきた時代でもあり、津軽丸型もその対応に迫られた。 ===ダストシュートの使用停止=== 新造時より船内で発生するゴミを船外へ廃棄するダストシュートが設置されていた。投入口は遊歩甲板右舷出入口、遊歩甲板左舷遊歩廊後端付近、船楼甲板2等出入口広間船首側舷側、船楼甲板右舷前部2等座席船首側の非常脱出口前方、調理室内、右舷後部2等座席船首側舷側の6ヵ所に設けられ、投入されたゴミは船体外板内側に沿って縦に設置されたダクトに一時貯留され、海峡航行中に車両甲板レベルの舷側開口部から水とともに船外へ排出される、という装置であったが、さすがに陸奥湾内でのゴミ汚染が問題になり、1971年(昭和46年)12月には使用停止、以後ゴミは函館での陸揚げ処理に変更された。船体外舷の車両甲板レベルの左舷に2個、右舷に4個ある四角い開口部がその排出口で、投入口はほぼその真上に位置していた。 ===ビルジ処理装置の新設=== 従来は船底にたまるビルジ(油混じりの汚水)はそのまま港外で排出していた。しかし、1967年(昭和42年)、「船舶の油による海水汚濁の防止に関する法律」が公布され、まずB重油使用の檜山丸(初代)型と十和田丸(初代)改造の石狩丸(2代目)の3隻がビルジ処理装置設置対象となり、1969年(昭和44年)、手動の簡易なビルジ処理装置が設置された。その後、1972年(昭和47年)7月発効の海洋汚染防止法により、軽油使用船も、油分100ppm以上の汚水の海上投棄が禁止され、ビルジ処理装置設置対象となった。このため、津軽丸型7隻と、その後建造された渡島丸(2代)型3隻でも、1971年(昭和46年)から1972年(昭和47年)にかけ自動運転可能なビルジ処理装置が設置された。 津軽丸型では、第1補機室右舷中段の固定式炭酸ガス消火装置の炭酸ガスボンベ室船尾側に隣接してビルジ処理装置が設置された。この装置は第1補機室から第3補機室までの6区画の船底にたまるビルジを、1次こし器を経由してビルジ集合タンクに吸い上げ、ここでの静置で油と水とゴミに分け、2次こし器を通した後、回転する“こし網”の連続濾過機、特殊ビニールスポンジの円筒を通す油水分離器を経て、水面に油膜が現れない程度の油分5〜20ppmに浄化し、海峡航行中に船外へ排出する仕組みであった。なお、分離した廃油は船内に留め、年1回の入渠時に搬出した。しかし、本装置設置直後は、各こし器、連続濾過機共に目詰まり掃除に追われる結果となった。松前丸(2代)では、3等機関士のグループが、かご型の1次こし器、2次こし器内へ小石を入れて油分を吸着させる方法を考案し、これにより連続濾過機の目詰まりは著減、その作業量を30分の1に減らすことに成功、以後全船でこの小石を用いる方法が採用された。 ===汚物処理装置の新設=== 新造時より、トイレからの排出物等は、航海中も停泊中もすべてそのまま船外へ垂れ流していたが、海洋汚染防止法により1974年(昭和49年)6月25日からは、積載人員100名以上の船では、海岸または港の境界線から10km以内の海域では、粉砕のうえ、3ノット以上で航行しながら海面下に投棄しなければならなくなった。津軽丸型7隻はこれに該当したため、1973年(昭和48年)9月から1974年(昭和49年)6月にかけ順次、汚物処理装置が設置された。この装置は、船内トイレからの汚物を車両甲板レベルの異物分離タンクで混入した金属異物等を分離し、いったん船底の汚物貯蔵タンクに貯蔵し、港外運航中、カッター付汚水排出ポンプが全自動で適宜運転され、貯蔵された汚物は粉砕され、海中に排出される仕組みであった。装置は3組あり、第1系統は遊歩甲板前部の高級船員居住区と寝台室のトイレ、船楼甲板前部の高級船員居住区と普通船室前部のトイレ、車両甲板前部の船員用トイレからの汚物を担当し、第2船室下の船艙に容量5.6mの貯蔵タンクと120リットル/分のカッター付汚水排出ポンプ2台が設置された。第2系統は遊歩甲板グリーン船室中央部のトイレ担当で、第1補機室左舷中段に2.2mの貯蔵タンクと第1系統と同能力のカッター付汚水排出ポンプが2台設置され、第3系統は船楼甲板普通船室後部トイレと車両甲板船尾右舷の“その他の乗船者”用トイレ担当で、第3補機室右舷中段に3.2mの貯蔵タンクとやはり第1系統と同能力のカッター付汚水排出ポンプが2台設置された。 ==オイルショック後の燃料消費量節減への努力== 1973年(昭和48年)秋の第1次オイルショックに続く急激な燃料費高騰は、経年による船底外板の平滑度低下による10〜15%の燃料消費量増加に関心を向けさせる結果となった。このため、1978年(昭和53年)度より船底掃除のための6ヵ月毎の中間入渠を復活させるとともに、同年度から1980年(昭和55年)度にかけ、サンドブラストによる船底平滑化工事も実施され、約10%の燃料消費量節減を達成した。 また、これより前の1975年(昭和50年)度から1978年(昭和53年)度にかけ、津軽丸型全船で可変ピッチプロペラのプロペラ翼の交換も行われた。 これらハード面の改良に引き続き、当初は出港15分前から行っていた主機械の始動を1979年(昭和54年)10月からは、5〜10分前に遅らせ、更に1982年(昭和57年)頃から、それまで出港5分前から行っていた主機械を主軸に繋いで主軸を回転させる操作“DRIVE PROPELLER”を、出港ぎりぎりの約2分前まで遅らせて燃料の無駄遣いを減らす一方、入港着岸時の操船方法を工夫してその所要時間を短縮し、そのぶん途中の航海速力を抑えて燃料消費量を節減し、更に旅客扱いしない貨物便では、貨車積み完了後、定時より数分の早発を行い、一層の省エネ運航に努めた。これにより、客貨便でも主機械5台での運航が広く行われ、条件によっては4台で運航されることもあった。 これらの施策により、津軽丸型の一航海当たりの平均燃料消費量は、1973年(昭和48年)度には6,411リットルであったものが、1980年(昭和55年)度には5,617リットルに、更に1985年(昭和60年)度には5,115リットルまで減らすことができた。 ==津軽丸型就航前後からの青函航路== ===基準航路=== 津軽丸型が就航する前年の1963年(昭和38年)までは、青函航路には明確な基準航路の設定はなく、上り便は、穴澗から磁方位で南10度西の針路で函館港口から27海里進むと、矢越と福浦の間で平館灯台まで10海里の地点に達し、ここで平館灯台を右12度に見る針路をとれば、平館灯台2海里沖を航過でき、以後磁方位南1度西の針路で青森に向かう。下り便は、青森港口から磁方位北1度西の針路で45海里進むと、大間を越え葛登支灯台まで10海里地点に達し、左12度に葛登支岬灯台を見る針路をとれば、葛登支灯台2海里沖に達し、以後函館に向かう、という比羅夫丸時代からの航法を基本としていた。それでも翔鳳丸時代には各船への無線方位測定機装備と陸上の無線標識局設置が進み、不完全ながら視界不良時の船位測定も可能となり、上下便の接近する平館海峡では、上り便を平館灯台から2.5〜3海里に離し、同1〜1.5海里の下り便との接近を避けるようになった。戦後1946年(昭和21年)11月15日には、これらの実績経験をもとに、青函航路初の成文化された「青函間航法申合事項」が施行された。その後、青函連絡船全船にレーダーが装備され、航路全域での船位測定精度が向上したのを受け、1951年(昭和26年)10月1日からは、青森から函館に至る、南北に細長い帯状の非占位帯を設け、上り便はその東側を、下り便は西側を航行する左側航行を徹底し、上下便同士の衝突を予防していた。 津軽丸型就航前年の1963年(昭和38年)には、車載客船4隻には既に2台目のレーダーが装備され、安定して精度の高い船位測定が可能な時代となっていた。そこで国鉄では、従来からの航行実績を基本としたうえ、津軽丸型の就航に伴う、高速便も混じった多数便運航に対応するため、全連絡船が一定の航路上を航海する基準航路試案を作成し、同年10月10日から試行に入った。翌1964年(昭和39年)1月1日には修正を加え、4月からは順次就航する津軽丸型も交えて試行継続し、1965年(昭和40年)4月1日、この基準航路を「青函船舶鉄道管理局連絡船運航基準規程」に掲載し、正式に採用した。 このとき設定された青函航路通過物標間所要時分表では、途中の通過物標間の所要時間と速力が提示され、津軽丸型が運航する3時間50分便は、上り便では、函館出航から穴澗(穴澗岬真方位300度1海里)までが25分、穴澗から湯の島(湯の島山頂から真方位270度4.3海里)までの52.28海里は18.16ノットで2時間53分、湯の島から青森到着までは32分と決められ、下り便では、青森出航から湯の島(湯の島山頂から真方位270度5.1海里)まで21分、湯の島から葛登支(葛登支岬灯台から真方位90度2海里)までの51.35海里は17.78ノットで2時間53分、葛登支から函館到着までが36分と決められた。しかし、出港時の所要時間は在来船より2分、入港時は青森側で4分、函館側では3分しか短く設定されておらず、その後の津軽丸型での港内操船の慣熟により、実際の出入港所要時間はそれぞれ、更に数分から10分程度短縮されたため、これら余裕時間は荒天時や到着列車遅れ時の回復運転、平穏時の省エネ運航に活用された。 なお、基準航路設定前後から青函航路に参入した民間フェリー 各社も、この左側航行の基準航路に従っていたが、青函連絡船復活運航終了後の1988年(昭和63年)10月1日より、船舶航行の原則である右側航行に改めた。 ===運航=== デッキハウス船の第六青函丸が1964年(昭和39年)5月3日終航、入れ替わるように、津軽丸が5月10日に就航、第2船の八甲田丸が8月12日に就航し、車載客船大雪丸(初代)が8月31日終航。1964年(昭和39年)9月30日までは、従来通り深夜の特急接続便の1便が4時間25分、2便が4時間30分運航していた以外は、下り4時間30分、上り4時間40分運航の最大22往復(通常19往復)、うち旅客扱い便は最大6往復(通常5往復)で、両船も他の在来船と共通運用であった。しかし当時は、津軽丸型も1船1日2往復運航のため、1隻だけの就航時から、津軽丸型での運航便は数週間程度固定されることになり、これらの便では、深夜便以外の一部の便で、変○○便として、毎日4時間台前半で運航されていた。 1964年(昭和39年)10月1日ダイヤ改正で、初めて津軽丸型専用の4往復が設定され、東北本線初の寝台特急「はくつる」と、北海道内では2番目の設定となる特急「おおとり」とを接続する3便・4便に限り3時間50分運航を開始し、深夜の特急接続便1便・2便を含む6本の便では4時間20分運航を開始した。在来船でも運航できる2往復も含め、旅客扱い便は6往復となったが、最大22往復に変化はなかった。 1965年(昭和40年)8月5日の第6船羊蹄丸(2代)就航で、当初予定の6隻が出揃い、引退予定の老朽船も9月30日終航の石狩丸(初代)を最後に全て引退した。 1965年(昭和40年)10月1日ダイヤ改正で、青森第2岸壁と函館第2岸壁で55分折り返し運航が可能となり、部分的に2.5往復運航が開始された。津軽丸型5隻12往復で、うち9往復が旅客扱い便、津軽丸型1隻と在来船4隻で10往復(いずれも4時間30分運航の貨物便)、十和田丸(初代)1隻1往復の4時間30分運航の旅客扱い便の、最大23往復(通常20往復)となり、うち旅客扱い便は10往復と一気に増えた。津軽丸型5隻で運航する12往復は全て3時間50分運航となった。 1966年(昭和41年)10月1日ダイヤ改正では、十和田丸(初代)が車両渡船への改造工事のため休航し、代わりに追加建造の津軽丸型第7船 十和田丸(2代) が11月1日に就航したため、津軽丸型5隻12往復、1隻2往復、津軽丸型1隻と在来船4隻で10往復(いずれも4時間30分運航の貨物便)で、最大24往復(通常22往復)となったが、旅客扱い便は10往復のままであった。このダイヤ改正から、旅客扱い便は全て津軽丸型になり、原則3時間50分運航になったが、深夜の特急接続便の後発の101便は4時間10分運航であった。1967年(昭和42年)5月には車両渡船として十和田丸(初代)改造の石狩丸(2代)の再就航があったが、最大運航本数に変化はなかった。 1968年(昭和43年)10月1日ダイヤ改正時には、青森、函館両駅の構内配線が改良され、青森第1岸壁、函館第1岸壁で、それぞれの第2岸壁との同時作業での55分折り返し運航が可能となり、全面的2.5往復運航が始まった。津軽丸型2隻5往復の運用を3組とし、それぞれ、甲、乙、丙系統として計15往復。津軽丸型1隻と在来船4隻(または在来船のみ5隻)で10往復(いずれも4時間30分運航の貨物便)、最大25往復(通常23往復)、うち旅客扱い便は11往復となった。 1969年(昭和44年)10月1日ダイヤ改正では最大28往復(通常26往復)が設定され、その当日に1日2.5往復可能な高速車両渡船渡島丸(2代)が就航した。津軽丸型6隻15往復で、1隻余った津軽丸型と、この渡島丸(2代)の2隻で5往復し、在来船の檜山丸型2隻、石狩丸(2代)、更に引退間際の蒸気タービン船十勝丸(初代)の4隻もフル稼働8往復して青函航路初の28往復運航を、11月12日から24日まで行った。 1970年(昭和45年)6月30日までに高速車両渡船渡島丸(2代)型3隻が就航し、蒸気タービン船は引退し、ディーゼル船13隻体制となった。1972年(昭和47年)3月15日ダイヤ改正からは最大30往復(通常28往復)が設定され、同年秋冬繁忙期の10月6日から31日まで津軽丸型6隻で15往復、1隻で2往復、渡島丸(2代)型2隻で5往復、1隻で2往復、檜山丸型2隻と石狩丸(2代)の在来船3隻で6往復して、青函航路初の30往復運航が行われた。青森、函館両桟橋の折り返し容量から30往復が限度であった。 このように、1968年(昭和43年)10月以降は、津軽丸型は持てる能力をフルに発揮する稼働を続け、就航前の1963年(昭和38年)の旅客輸送人員が366万人、貨物輸送量593万トンであったのに対し、1970年(昭和45年)にはそれぞれ470万人、847万トンに達していた。しかし貨物輸送は、これでも輸送能力が輸送需要に追い付けず、1966年(昭和41年)以来輸送制限を行っていた。しかし、このような中、航空運賃の相対的低下や長距離フェリーの就航、1973年(昭和48年)秋には第1次オイルショックによる景気低迷、更には国鉄自体の度重なる労働争議による国鉄離れ、もあり、旅客は1973年(昭和48年)の499万人、貨物は1971年(昭和46年)の855万トンをピークに以後急激に減少していった。 国鉄では、歯止めのかからない貨物輸送量の減少に対し、1978年(昭和53年)10月2日ダイヤ改正では、1972年(昭和47年)3月以来の、最大30往復の運航ダイヤを見直し、最大27往復(通常25往復)に減便し、車両渡船渡島丸(2代)を係船した。更に1980年(昭和55年)10月1日ダイヤ改正では、車両渡船日高丸(2代)を係船し、最大24往復(通常23往復)へと減便し、1981年(昭和56年)の旅客輸送人員は248万人、貨物輸送量は465万トンと、ピーク時から半減していた。 その頃掘削中の青函トンネルは、1980年(昭和55年)における開業予定時期は1984年(昭和59年)であったが、未だ流動的で、初期の津軽丸型は、耐用年数の18年を1982年(昭和57年)に迎えることになった。これは国鉄の財産管理上の基準年数で、必ずしも物理的なものではなく、実際過去にも20年以上稼働した船はあるが、老朽化とともに維持費も増大するため、係船機械やヒーリングポンプ、可変ピッチプロペラ等が他船と異なった津軽丸と松前丸(2代)を引退させ、他の5隻は1981年 (昭和56年)から順次延命工事を施行して、継続使用することとした。 旅客数が減少したとはいえ、利用客の集中する深夜便は、多客時には津軽丸型1隻では運びきれず、従来通り続行便が必要で、このため、1982年(昭和57年)には、1976年(昭和51年)と 1977年(昭和52年)建造の、船齢の若い車両渡船 檜山丸(2代) と石狩丸(3代)に、650名の旅客と20台の乗用車を積載できる甲板室を造設して、客載車両渡船とした。 津軽丸は1982年(昭和57年)3月4日、松前丸(2代) は同年11月12日で終航となり。残った5隻のうち、大雪丸(2代)は検査切れのため、青函航路終航2ヵ月前の1988年(昭和63年)1月6日で終航、その他4隻は同年3月13日の航路終航まで運航された。 更に、羊蹄丸(2代)と十和田丸(2代)は、青函トンネル開通記念博覧会の協賛事業として、同年6月3日から9月18日まで復活運航を行った。羊蹄丸(2代)が函館側から毎日1往復、十和田丸(2代)が青森側から毎日1往復の計2往復で、車両航送は行われなかった。 ==沿革== ===青函連絡船時代(一部同型他船も含む)=== 1964年(昭和39年) 3月31日 ‐ 竣工 4月11日 ‐ 函館港に到着 4月14日 ‐ 7108便より試運航 5月10日 ‐ 変14便で就航、旅客扱い開始 7月12日 ‐ 8時04分 変106便 函館第2岸壁で旅客乗船中、テープ交換中の女子短大生が、1等タラップ近くから岸壁へ転落し死亡。以後送迎テープ使用禁止となった 9月2日 ‐ 変502便で産気づいた乗客が船内で男児を出産 9月17日 ‐ 変106便(函館8時10分発 青森12時50分着の4時間40分運航の106便を、当日に限り函館発を50分遅れの9時とし、3時間50分運航した)で東京オリンピックの聖火を輸送。11時陸奥湾 平館海峡入口で北海道、青森県の聖火ランナーが洋上で聖火を引き継いだ 10月1日 ‐ ダイヤ改正で新設の「はくつる」と「おおとり」を接続する3便・4便のみ3時間50分運航3月31日 ‐ 竣工4月11日 ‐ 函館港に到着4月14日 ‐ 7108便より試運航5月10日 ‐ 変14便で就航、旅客扱い開始7月12日 ‐ 8時04分 変106便 函館第2岸壁で旅客乗船中、テープ交換中の女子短大生が、1等タラップ近くから岸壁へ転落し死亡。以後送迎テープ使用禁止となった9月2日 ‐ 変502便で産気づいた乗客が船内で男児を出産9月17日 ‐ 変106便(函館8時10分発 青森12時50分着の4時間40分運航の106便を、当日に限り函館発を50分遅れの9時とし、3時間50分運航した)で東京オリンピックの聖火を輸送。11時陸奥湾 平館海峡入口で北海道、青森県の聖火ランナーが洋上で聖火を引き継いだ10月1日 ‐ ダイヤ改正で新設の「はくつる」と「おおとり」を接続する3便・4便のみ3時間50分運航1965年(昭和40年) 3月30日 ‐ 運航定員49名+夜間増派4名と決定 10月1日 ‐ 101便・310便以外の旅客便の3時間50分運航開始3月30日 ‐ 運航定員49名+夜間増派4名と決定10月1日 ‐ 101便・310便以外の旅客便の3時間50分運航開始1966年(昭和41年)10月2日 ‐ 旅客便の3時間50分運航開始1967年(昭和42年)6月1日 ‐ 乗用車航送開始 乗用車6台1968年(昭和43年)5月26日 ‐ 256便からロングラン試験開始1969年(昭和44年)4月4日 ‐ 303便までロングラン試験終了1970年(昭和45年)5月25日 ‐ 船舶積量測度法改正(1967年8月1日)により、車両格納所容積が総トン数から除外され、5,319.71トンに減トン登録1971年(昭和46年)4月1日‐乗用車航送 乗用車8台1972年(昭和47年)7月 ‐ 乗用車航送 乗用車12台1973年(昭和48年) 8月5日 ‐ 深夜の続行便の後発便の2便の残客707名をバス12台で有川桟橋の函館第4岸壁へ移送し、松前丸(2代)で運航の6054便(函館第4岸壁1時30分発 青森第2岸壁6時10分着 4時間40分運航)で輸送 8月12日 ‐ 同上802名、バス16台、松前丸 8月13日 ‐ 同上770名、バス16台、松前丸 12月28日 ‐ 旅客定員 通年1,330名認可(グリーン席30名増、普通席100名増)8月5日 ‐ 深夜の続行便の後発便の2便の残客707名をバス12台で有川桟橋の函館第4岸壁へ移送し、松前丸(2代)で運航の6054便(函館第4岸壁1時30分発 青森第2岸壁6時10分着 4時間40分運航)で輸送8月12日 ‐ 同上802名、バス16台、松前丸8月13日 ‐ 同上770名、バス16台、松前丸12月28日 ‐ 旅客定員 通年1,330名認可(グリーン席30名増、普通席100名増)1974年(昭和49年)10月29日 ― 第2主機室、主機械シリンダー動弁装置注油管の動弁箱入口接手溶接部亀裂からの潤滑油噴出によって、主機械シリンダーカバーおよび排気管付近から発煙あり。1975年(昭和50年) 3月26日 ― 第2主機室、燃料油管エア抜きプラグのパッキン劣化破損部より燃料油噴出 8月27日 ‐ 台風6号による8月24日からの 函館本線 桂川 ‐ 野田生間不通のため、函館 ‐ 室蘭間に摩周丸(2代)、十和田丸(2代)の2隻を用いて8月31日までの5日間、旅客代行輸送を毎日2往復運航した3月26日 ― 第2主機室、燃料油管エア抜きプラグのパッキン劣化破損部より燃料油噴出 8月27日 ‐ 台風6号による8月24日からの 函館本線 桂川 ‐ 野田生間不通のため、函館 ‐ 室蘭間に摩周丸(2代)、十和田丸(2代)の2隻を用いて8月31日までの5日間、旅客代行輸送を毎日2往復運航した1977年(昭和52年)3月7日 ‐ 国営の青函連絡船として初めて比羅夫丸が就航した1908年(明治41年)3月7日から70年目ということで、当時就航中の13隻の連絡船のシンボルマークが作成され、すべての津軽丸型に、順次各船の入渠の際に船体に取り付けられた。右舷が4,700×3,655mm、左舷が2,830×2,200mmと、右舷のマークのほうが大きかった。このシンボルマークのデザインは公募だったが、採用されたものは現役乗組員の作品であった。( )内は各船への取り付け時期 津軽丸:津軽のりんご         (7月 ‐ 遊歩甲板室後壁、12月 ‐ 船楼甲板室両舷) 八甲田丸:八甲田山系と水蓮沼   (7月 ‐ 遊歩甲板室後壁、9月 ‐ 船楼甲板室両舷) 松前丸(2代):桜の松前丸      (7月 ‐ 遊歩甲板室後壁、1978年(昭和53年)2月 ‐ 船楼甲板室両舷) 大雪丸(2代):大雪の熊       (7月 ‐ 遊歩甲板室後壁、1978年(昭和53年)3月 ‐ 船楼甲板室両舷) 摩周丸(2代):神秘の湖・摩周湖  (7月 ‐ 遊歩甲板室後壁、6月 ‐ 船楼甲板室両舷ペイント描き、1978年(昭和53年)2月 ‐ 船楼甲板室両舷) 羊蹄丸(2代):蝦夷富士・羊蹄山  (7月 ‐ 遊歩甲板室後壁、6月 ‐ 船楼甲板室両舷) 十和田丸(2代):湖面輝く十和田湖(7月 ‐ 遊歩甲板室後壁、1978年(昭和53年)1月 ‐ 船楼甲板室両舷) 全船の統一マーク:救命ブイとイルカ津軽丸:津軽のりんご         (7月 ‐ 遊歩甲板室後壁、12月 ‐ 船楼甲板室両舷)八甲田丸:八甲田山系と水蓮沼   (7月 ‐ 遊歩甲板室後壁、9月 ‐ 船楼甲板室両舷)松前丸(2代):桜の松前丸      (7月 ‐ 遊歩甲板室後壁、1978年(昭和53年)2月 ‐ 船楼甲板室両舷)大雪丸(2代):大雪の熊       (7月 ‐ 遊歩甲板室後壁、1978年(昭和53年)3月 ‐ 船楼甲板室両舷)摩周丸(2代):神秘の湖・摩周湖  (7月 ‐ 遊歩甲板室後壁、6月 ‐ 船楼甲板室両舷ペイント描き、1978年(昭和53年)2月 ‐ 船楼甲板室両舷)羊蹄丸(2代):蝦夷富士・羊蹄山  (7月 ‐ 遊歩甲板室後壁、6月 ‐ 船楼甲板室両舷)十和田丸(2代):湖面輝く十和田湖(7月 ‐ 遊歩甲板室後壁、1978年(昭和53年)1月 ‐ 船楼甲板室両舷)全船の統一マーク:救命ブイとイルカ1978年(昭和53年)5月 ‐ レーダー情報処理装置(CAS)装備、喫茶室「サロン海峡」開設(グリーン自由椅子席44席撤去)旅客定員1,286名1982年(昭和57年)3月4日 ‐ 耐用年数切れにより青森発7時30分函館着11時20分の5便をもって終航 ===終航後=== 1982年(昭和57年) 12月24日 ‐ 東京の大久保商店(大久保尚志)に83,585,000円で売却されたが、函館ドックで係留継続1983年(昭和58年)3月25日 ‐ 北朝鮮に転売され、日本人回航員の手によって自航で元山へ向け函館を出港。回航に先立ち函館ドックで白と紺色に化粧直しされた。北朝鮮では、「HAE YON」などに改称し、主に元山港を母港に貨物船として運航されていたという。 なお、この北朝鮮への転売の際には、兵員輸送など軍事転用への懸念から、国会で転売を問題視する声が挙がっている。回航の際、CASなどは基板が何枚か抜かれ、使用できないようにされていた。なお、この北朝鮮への転売の際には、兵員輸送など軍事転用への懸念から、国会で転売を問題視する声が挙がっている。回航の際、CASなどは基板が何枚か抜かれ、使用できないようにされていた。1987年(昭和62年)3月 ‐ サウジアラビアの船舶会社に売却され、「AL JAWAHER」に船名を改称。スエズ(エジプト) ‐ ジェッダ(サウジアラビア) ‐ ポートスーダン(スーダン)の定期航路のカーフェリーとして運航されていた。この間、ジェッダ港で社外船に転職していた元青函連絡船乗組員に目撃され、報道されるなどした。イスラム教の巡礼期はメッカ巡礼船としてトリポリ(リビア) ‐ ジェッダ(サウジアラビア)で運航されたという。1996年(平成8年) ‐ エジプト政府に納付金滞納により差し押さえられる。1998年(平成10年)5月21日 ‐ 係留中に火災が発生。1998年(平成10年)12月14日 ‐ スエズで解体される。 ==その他== 津軽丸の錨とされるものは、1つは青森市のみちのく北方漁船博物館(以前は中三デパート前)、もう1つは函館市青函連絡船記念館摩周丸に程近い旧函館桟橋の一角に展示されている(以前は函館駅の駅舎正面に保存されていた)が、北朝鮮への売却前にとりはずされた本物であるという説と、各船の予備の錨を津軽丸の錨として展示したとの説があり、本物であるかどうかは定かではない。 =アウクスブルク= アウクスブルク(ドイツ語: Augsburg [*8423**8424*a*8425**8426*ksb*8427**8428*k] ( 音声ファイル), アレマン語:Augschburg(アウクシュブルク))は、ドイツ連邦共和国バイエルン州南西部に位置する郡独立市である。 ==概要== シュヴァーベン郡市連合、シュヴァーベン行政管区およびアウクスブルク郡の本部所在地であり、大学都市としても知られる。 アウクスブルクは1909年に大都市となり、26万人強の人口を有するこの街はミュンヘン、ニュルンベルクに次ぐバイエルン州第3の都市である。アウクスブルク都市圏はその人口、経済力ともに、やはりバイエルン州で3番目の規模であり、約83万人が住むアウクスブルク開発地域の一部である。 都市名はローマ属州時代のアウグスタ・ヴィンデリコルム (Augusta Vindelicorum) に由来し、紀元前15年にローマ皇帝アウグストゥスによって築かれた城にその起源を持つ。このため、アウクスブルクはドイツで最も古い都市の一つに数えられる。また、15世紀から16世紀に、フッガー家やヴェルザー家によって金融都市として繁栄を極めたことから、「フッガーシュタット」(フッガー都市)としばしば称される。 なお、標準ドイツ語では「アウクスブルク」と発音されるが、日本語では「g」を濁音で読み「アウグスブルク」「アウグスブルグ」などと表記される場合もある。 ==地理== アウクスブルクはレヒ川とヴェルタハ川に面している。都市の最も古い部分および市街地南部は、東のフリートベルクの急峻な丘陵地と西の丘陵地の縁にあたる尾根とに挟まれた北向きのテラス状の支脈に位置している。 市の南部には、氷河期に形成された礫原であるレヒフェルトがレヒ川とヴェルタハ川に挟まれて、珍しい太古の風景を留めて広がる。アウクスブルガー・シュタットヴァルト(アウクスブルクの市の森)とレヒタールハイデンは中部ヨーロッパで最も多様な生物種の棲息地域の一つに数えられている。 大きな森林地域であるアウクスブルク=ヴェストリヒェ・ヴェルダー自然公園はアウクスブルクに隣接する。この他にも市域内は緑豊かであり、これにより1997年に「最も緑豊かで最も居住価値の高い街」としてヨーロッパ賞を受賞している。この町はバイエルンの市町村の中で最大の森林所有者であり、ドイツ全土でも3番目にあたる。 ===隣接する市町村=== アウクスブルクは、東のアイヒャッハ=フリートベルク郡、西のアウクスブルク郡に挟まれている。南北に細長い形のこの都市は、多くの市町村と境を接している。 東から時計回りに、フリートベルク(アイヒャッハ=フリートベルク郡)、ケーニヒスブルン、シュタットベルゲン、ノイゼス、ゲルストホーフェン(以上、アウクスブルク郡)は立て込んだ市街中心地が直接アウクスブルクの市境に接している。 この他の境を接する市町村は、北から時計回りに、レーリング、アフィング、キッシング、メーリング、メルヒング(以上、アイヒャッハ=フリートベルク郡)およびボービンゲン、ゲッサーツハウゼン、ディードルフ(以上アウクスブルク郡)である。 ===市の構成=== アウクスブルク市の構成は行政上、42の市区 (Stadtbezirk) と、その上位組織である17の計画地域 (Planungsraum) で構成されている。こうした構成は1938年に制定された。市域の面積は147kmで、ドイツの大都市中39番目の広さである。 17の計画地域は以下の通り。 市区は、かつて独立した市町村であった地区がアウクスブルクに合併して市区となったものや、新しい住宅地が整備され市区となったものがある。このため、市区と同じ名の住宅地をもつ市区もいくつかある。 フィールテル (Viertel、街区) は英語のクォーター (Quarter) にあたり、市区とは独立した地理上の概念である。たとえば、テクスティル街は一部がシュピッケル=ヘルンバッハ区、一部がインネンシュタットに属し、市区名でこの街区を規定することはできない。一方アウクスブルガー・アルトシュタット(旧市街)のようにインネンシュタット(中核市区)に内包される街区もある。 以前はアメリカ軍の兵舎・居住区であったレーゼ=カゼルネ(リース兵舎)は、1998年に最後のアメリカ軍部隊が撤収した後も、この名称を継承している。この中にはセンターヴィル、クレイマートン、リース(レーゼ)、シェリダン、サリヴァン・ハイツ、サプライ・センターがある。 ===水域=== アウクスブルクは3つの川が流れる街である。レヒ川が最も大きな川である。その支流のヴェルタハ川は市内を流れ、ヴォルフツァーナウ風致保護地区北部でレヒ川に合流する。アウクスブルクを流れる3つめの川であるジンゴルト川は、オストアルゴイで湧出し、市内に広く分岐した人工の小川・運河網に注いでいる。その多くが旧市街のレヒ街に張り巡らされている無数の運河網はアウクスブルクを、計500本の橋が架かる橋の街にしている。 ジンゴルト川が注ぎ込むファブリーク運河は、ゲッギンゲンでヴェルタハ川から分岐してヴェルタハ運河、ホルツバッハ、ゼンケルバッハと名前を変えながら北に向かって流れ、アウクスブルク風船会社の裏でヴェルタハ川に再び合流する。 ホッホアプラス堰の地点でハウプトシュタットバッハとノイバッハがレヒ川から分岐するが、数百m後には再び合流する。その少し下流で北に向かうヘレンバッハ(下流ではハンライバッハやフィヒテルバッハを分岐しプロフィアントバッハとなる)や西に向かうカウフバッハを分岐する。カウフバッハはシェフラーバッハを分岐し市の堀と中核市区運河として流れる。北に向かいUPM Kummeneで再び合流してシュタットバッハとなり、ヴォルフツァーナウでプロフィアントバッハと合流後、ヴェルタハ川河口の数m上流側でレヒ川に注ぐ。ミュールバッハ川はプファーゼー(ドイツ語版)市区を流れている。ここから無数の小川が分岐し、中核市区の手前で合流する。 レヒ川が流れる森林地域には、余暇施設が人気のクー湖やこれよりも小さなシュテムプフレ湖がある。アウクスブルク北部には、アウトバーン湖、カイザー湖、アウクスブルガー・ミュールベルクのヨーロッパ池がある。アウクスブルク南部には、ヴェルタハ川の堰止め湖、ラウター湖、イルゼ湖(近郊型保養地)がある。 アウクスブルク南部の自然保護地区にはアウクスブルクの飲料水の水源がある。アウクスブルクの市の森やウンターベルゲン近郊のレヒアウヴァルトにも水源はある。硬度 13.5°dH(中硬水)のこの水はアウクスブルク、ノイゼス、フリートベルク、シュタットベルゲンに供給されている。 ===自然と環境=== アウクスブルクは、1970年代の大規模な市町村合併後、ドイツの大都市中3番目の緑地・森林面積を有する都市となった。 アウクスブルガー・シュタットヴァルトは、アウクスブルク南東部に位置する21.5 kmの広さのドイツ最大の湿地森林地域である。この森は自然保護区としての役割と、近郊型保養行楽地としての役割の両方がある。 市の南西部はアウクスブルク=ヴェストリヒェ・ヴェルダー自然公園の一部である。総面積1,175 kmの広さを持つこの自然公園は、バイエルン=シュヴァーベン地方で唯一のものである。北はドナウ川、東はヴェルタハ川やシュムッター川への斜面、西はミンデル川がその境界である。南はウンターアルゴイ地方にまで広がっている。 アウクスブルクは環境に優しい照明の連邦モデル都市である。公共照明の光害抑制措置により、電力消費とそれに伴うCO2排出量を約20%軽減し、年間25万ユーロの節約になった。 ===気候=== アウクスブルク市は、湿潤な大西洋気候と乾燥した大陸性気候の変わり目付近にあたるレヒフェルトの小さな谷に位置している。この他の気候に影響を及ぼす因子には中部ヨーロッパ規模の因子であるアルプスや、それよりは狭い地域の気候境界であるドナウ川がある。これらの因子が干渉しあうことでこの地域の気候は変わりやすい性質を持つ。 季節は穏和でそれほど寒くならない冬と、温暖でひどく暑くはならない夏の間で変わる。気温が氷点下から大きく下がるのを防ぐ大量の降雪は、大体1月から3月半ばまで続く。この街はミュンヘンに次いで、ドイツで2番目に雪の多い大都市である。初夏には湿潤な西風に乗って多くの降水がある。長い乾燥期は盛夏から初秋にかけて訪れる。 アルプス前山地方からアウクスブルクにかけて、南からのとても暑く乾燥した大気をもたらすフェーン現象は一年を通して起こりうる。この現象は有名なバイエルン・ブルーの青空やバイエリシェ・アルペンやアルゴイアー・アルペンのすばらしい眺望と関係している。 年間平均気温は約8.4℃、平均年間降水量は約850mmである。観測史上の最高気温は、1983年7月27日の37.1℃である。また、史上最低気温は、1929年2月12日に観測された ‐28.8℃である。 アウクスブルクは、バイエルン州でも激しい雷雨が最も頻発する地域に位置しており、猛烈な降水によりレヒ川やヴェルタハ川の洪水にしばしば襲われている。最悪の被害としては、1999年にヴェルタハ川の堰が決壊し、全市が水に浸かった事例がある。 アウクスブルクは秋になるとしばしば霧に覆われる。これは、この街がレヒ川の渓谷に位置していることに起因しているのは明らかである。 ==住民== ===人口推移=== アウクスブルクにはローマ時代にはすでに12,000人が住んでいた。その後数世紀間、人口増加はほとんどなかった。1500年頃の人口は約30,000人で、ケルンやプラハに次ぐ神聖ローマ帝国最大規模の都市の一つであった。 19世紀の工業化の開始とともにアウクスブルクの人口は急増した。1806年の人口が26,000人であったのに対し、1895年の人口は80,000人に達した。1939年には、さらにこの倍以上の185,000人がアウクスブルクに住んでいたのである。 第二次世界大戦でこの街は人口の20%(38,958人)を失い、その結果1945年のアウクスブルクの人口は146,000人であった。人口が戦前のレベルを回復したのは5年後であった。旧ドイツ領からの大量の難民がこの街に流れ込んだこともこの急速な人口増加の一因である。 1992年にこの街の人口は過去最大の264,852人を記録した。バイエルン州統計・データ管理局の記録に基づく2005年6月30日付けの「公式な人口」は、262,140人(他の自治体との調整後のアウクスブルクを主たる生活場所とする人口)で、ドイツの大都市中25位の人口である。 ===人口統計=== アウクスブルクの2008年1月1日時点の人口(アウクスブルクを主たる生活場所あるいは副次的な生活場所とする人口で二重計数を排除した数値)は264,265人である。2008年11月現在、就業可能者138,300人中9,181人が職に就いておらず、失業率は6.5%である。隣接する衛星都市・町村を含めたアウクスブルク都市圏には約50万人が住んでいる。 外国人比率は16.7%(44,895人)で、ドイツの大都市平均よりもやや高い。ドイツ外の出身者の多くはオーバーハウゼン、シュピッケル=ヘルンバッハ、ホッホフェルト、レヒハウゼン計画地区に住んでおり、トルコ、イタリア、旧ユーゴスラビア、クロアチア出身者が多い。アルメニア系住民もかなりの割合でいるが、彼らはトルコ、シリア、イラン、イラク、レバノンの出身で、多くがシリア正教会に属している。この他に、約5万人の東欧からの引き揚げ者たちもアウクスブルクで暮らしている。彼らはドイツ市民権を有しているが、多くが旧ソヴィエトで生まれた者である。アウクスブルクには、移民を背景にした住民が合計9万人住んでいる。こうした国際的な都市計画は、「In Augsburg ist die Welt zu Hause」(アウクスブルクでは世界中が家にいる)というスローガンに表れている。 アウクスブルクの年齢構成はドイツ平均とほぼ同じで、18歳以下が16.0%(43,213人)である。全住民の52.2%(140,592人)が女性、47.8%(128,857人)が男性である。 ===宗教=== アウクスブルクでは、2001年から定期的にユダヤ教、キリスト教、イスラム教、仏教の信者が会する「宗教円卓会議」が開催されている。異なる宗教を信仰する者たちが互いに宗教、霊性、儀典、宗教実践について語り合いを始めている。アウクスブルクには、宗教活動の大きな部分を占めるキリスト教、ユダヤ教、イスラム教の他にも、様々な宗教の小規模な信仰組織が数多く存在する。また、無宗教社会論組織の Bund f*8429*r Geistesfreiheit も1911年から存在している。 ===キリスト教=== アウクスブルクはローマ・カトリックの司教座都市であり、同時にプロテスタントのアウクスブルク教会クライスの本部所在地である。住民の多くはカトリック信者であり、8月15日は祝日となっている。さらに8月8日のアウクスブルガー・ホーエ・フリーデンスフェストの日が、ドイツではこの街でだけ、法的な祝日とされている。このため、アウクスブルクではドイツの他の都市や地域よりも祝祭日が1日多い。 アウクスブルクは4世紀から5世紀頃にはすでに司教座となっていた。738年頃にアウクスブルク司教区は更新された。1518年からマルティン・ルターの教義を信奉するものが現れ始めた。この教義は普及するばかりで、ついに1534年から1537年に宗教改革は正式に市参事会に受け容れられた。その後、市はシュマルカルデン戦争に参加し、1548年には移行期の宗教行為を制御する帝国会議がアウクスブルクで開催された(アウクスブルク仮信条協定)。7年後(1555年)のアウクスブルクの宗教和議で、両宗派は同等と認められるに至った。こうした事実やルターが滞在したことから、アウクスブルクはドイツ・ルター都市の一つとなっている。比較的強固な組織である再洗礼派は1524年にこの街での活動を始めた。1927年にアウクスブルクでアウクスブルガー殉教者教会会議とよばれる宗派を超えた会議が開催された。 カトリックの住民は、かつてはマインツ大司教区の管轄下にあったアウクスブルク司教区に属していた。この都市がバイエルン支配下に移された後もしばらくはこの関係は維持された。1821年になってアウクスブルク司教区とその下部にある司祭区は、新たに創設されたミュンヘンおよびフライジング大司教区の管轄下に移された。 プロテスタント信者らは、遅くともヴェストファーレン条約までには、聖アンナ教会、聖ウルリヒ教会、跣足教会、聖ヤーコプ教会を有していた。これらは市参事会の管轄下に置かれていた。アウクスブルクがバイエルンの支配下に置かれた後、これらの教会組織は最初ルター派と改革派の宗教組織を取り込んだバイエルン王国プロテスタント教会の一部となった。この都市は、1827年にまずバイロイト教会役員会に属す教区監督官本部所在地となり、その後上位組織は1876年からアンスバッハ教会役員会、1923年からミュンヘン教会クライスと変遷し、1971年からはアウクスブルク教会クライスの一部となっている。アウクスブルク教区監督官は、市内の教会組織だけでなく、市外、特にアウクスブルク郡やアイヒャッハ=フリートベルク郡の市町村の教会組織をもその管轄下に置く。 1648年のヴェストファーレン条約は、アウクスブルクにとって、1548年に制定された両宗派対等の行政運営システム(最終的には役職の配分に至るまで両宗派対等とした)を確認するものであった。この対等に関する制度は1805年の陪臣化まで存続した。 自由教会組織は、再洗礼派運動終結後、アウクスブルクでは19世紀から20世紀に再興した。最初はメノー派が1870年からアウクスブルクでの宗教儀式を執行した。1963年にメソジスト教会は「私的教会団体」の権利を得た。1925年頃にはミュンヘンの組織を母体団体とするバプテスト教会が活動を開始した。さらに1968年からアウクスブルクには自由福音派教会がある。 宗派別の人口構成は19世紀の初めまではカトリックが60%、プロテスタントが40%であった。この比率はカトリック信者が多い周辺市町村を合併することでカトリック優位に変化し、1950年頃にはプロテスタント住民の比率は約23%まで低下した。 南欧や東欧の正教会もアウクスブルクに組織がある。シリア正教会はアウクスブルクで宗教儀式を何度か行っている。アウクスブルクの約3,000人のシリア正教徒は主にトルコ南東部(トゥル・アブディン地方)やシリア出身者でイエスの言葉(アラム語、アッシリア語、シリア語)を話し、メソポタミアに先祖を持つ。これらのキリスト教徒は、その多くがトルコで差別を受け迫害された避難民たちで、1980年頃からガストアルバイター(外国人労働者)としてヨーロッパにやってきた。6,000人以上の信者を持つギリシア正教会は米軍撤退後に旧高射砲隊兵舎のゴスペル教会を購入し、守護聖人 Agios Panteleimon にちなんだ名を冠した。 この他、アウクスブルクにはロシア正教ベルリンおよびドイツ主教区に属すロシア正教会もある。この組織は1930年代から存在し、現在は100人ほどの信者がいる。 この他に多くのキリスト教系宗教組織が存在している。たとえば、古カトリック教会、新使徒派教会、エホバの証人などである。 ===イスラム教=== イスラム教徒はアウクスブルクで2番目に大きな宗教組織を形成している。市内にはそれぞれの目的や重点によって様々に異なった組織があり、これに応じた祈りの場や集会施設が多く存在している。 イスラム系住民の多くはトルコからの移民の1世から3世で構成される。その他にアラビア系、ボスニア系、イラク系、それぞれの組織や宗教施設があり、アレヴィー派の文化センターもある。 ===ユダヤ教=== 最初のユダヤ人がアウクスブルクにやってきたのは、1世紀のユダヤ人蜂起の際にローマにイェルサレム神殿が破壊された後のことであった。9世紀にはアウクスブルクのユダヤ人に関する史料上の記述が認められている。1438年7月7日に市参事会はユダヤ人が市内に住むことを禁止したため、ユダヤ人らは市内から追い出され、市門の前の現在のクリークスハーバー地区に住み着いた。 アウクスブルクのユダヤ人組織の歴史は1803年に再開された。この年、市内の商人たちの強い抵抗にもかかわらず、3人のユダヤ人(銀行家のアーロン・エーリアス・ゼーリクマン、後にアイヒタール男爵となるヤーコプ・オーバーマイヤー、ヘンレ・エフライム・ウルマン)に対して、毎年納付金を納め莫大な借金を引き受けることと引き替えに、市民権が与えられた。 その後のユダヤ人家族の増加は緩やかで(1840年 79人、1852年 128人)、定住に際しては相変わらず厳しい審査がなされていた。明らかな方針転換がなされたのは、保守的なカトリック勢力が1857年の選挙で敗北したことによってもたらされた。1861年にはアウクスブルクにイスラエル文化協会が設立された。それまで、クリークスハーバーのラビ管区に置かれていた間の宗教教育は、当時は独立した町であったプファーゼーの教師によって行われていた。 行政当局の認可が得られる3年前の1858年にはすでにヴィンターガッセA13番の屋敷を13,000グルデンで購入しており、最初は純粋なシナゴーグに改造し、後にラビや教師の居住空間を増築した。この建物は1685年に完成した。 19世紀後半、この街のユダヤ人人口は急速に増加し、1895年には1,156人が住んでいた。やがてユダヤ人墓地が造られ(1867年)、慈善活動が活発に行われるようになった。ユダヤ人の工場主、銀行家、貿易商、小売商らが市の経済生活で重要な役割を担い、街の中・上流階級をほぼ独占するようになっていった。 この頃までにはすでに信者らから新しいシナゴーグ建設の要求が再三行われ、加えて市側からの要求もあった。古い建物は、みすぼらしい状態になっていたのである。そこで1903年にハルダー通り沿いの庭園の地所を獲得し、シナゴーグ建設のための建築コンペが1912年に行われた。1914年から1917年までをかけて最終的にはフリッツ・ランダウアーとハインリヒ・レムペルの設計案が採用された。 1933年のナチスの権力掌握により、アウクスブルクのユダヤ人は迫害の圧力に繰り返し苦しめられるようになった。5年以内にすべてのユダヤ人企業が閉鎖もしくは「アーリア化」された。 ユダヤ人迫害のピークとなる事件が、1938年11月10日早朝の、いわゆる「水晶の夜」である。約30人のNSDAP党員がシナゴーグ内を破壊し、火をつけた。これは周辺の民家や商店、ガソリンスタンドを護るために消火された。こうして焼失を免れたこの建物は、第二次世界大戦中は市立劇場の舞台装置倉庫に転用された。シナゴーグの丸天井には高射砲隊の監視所が設けられた。 1933年以降、多くのユダヤ人が流出したにもかかわらず、周辺の田舎から流入する者があり、市内のユダヤ人人口は大幅には減少しなかった。356人から450人のユダヤ人たちは7回に分け、アウシュヴィッツ、ピアスキ、リガ、テレージエンシュタットに移送された。強制収容所の恐怖を逃れた者はほんのわずかであった。 第二次世界大戦後この街に帰ってきた数少ないユダヤ人の中に、アメリカ軍司令部によって戦後の初代市長に指名されたルートヴィヒ・ドライフスがいた。1946年にはイスラエル文化協会アウクスブルク=シュヴァーベンが設立されたが、その後長らく大きな成長はなかった。1987年時点での会員数は247人であった。1991年のソヴィエト崩壊に伴う旧ソ連からの移住者によって事態は急速に変わり、シュヴァーベンに属す市町村全体のユダヤ人総数は約1,800人にまで増加した。 ===仏教=== ワット・ブッダ・アウクスブルク(会員約130人)の創設に伴い、2002年にゲッギンゲン地区に寺院が造られた。この寺院の親寺はタイ王国にある。毎月第一日曜日にはバンコク近郊の寺院 Maha Dhamma Kaya Cetiya からインターネット経由で法要が中継される。この日には参詣する信者が増加する。やがて、この宗教団体はケーニヒスブルンに移転した。 仏教徒グループ「禅 イン・アウクスブルク」は2000年から水曜日と日曜日ごとに定期的に瞑想を行っている。教義や作法は伝統的な日本の臨済宗の伝統に則っている。 ==歴史== ===古代=== アウクスブルクの創設は、現在のオーバーハウゼン地区にローマの軍団基地が設けられた紀元前15年とされている。この基地は後に補給物資倉庫としても利用された。皇帝アウグストゥスの2人の養子ドルーススとティベリウスが運営を任された。この年号は、アウクスブルクがトリーアに次ぐドイツで2番目に古い都市であることを意味している。また、「アウグスタ・トレヴェロールム」(ラテン語: Augusta Treverorum、トリーアの古名)に次ぐ、アルプスの北側で最大のローマ人入植地の一つでもあった。紀元の替わり目直前に建設された基地は、1世紀には入植地「アウグスタ・ヴィンデリコルム」(ラテン語: Augusta Vindelicorum)となり、121年に皇帝ハドリアヌスはこの街にローマの都市権を授けた。アウクスブルクは95年頃にはイタリア北部にまで広がるラエティア属州の首都になっていた。アウクスブルクがいつ首都になったのか、正確なことはわかっていない。ただ、考古学的出土品から1世紀の遅くまでは、アルゴイのケンプテンにその機能が置かれていたことがわかっている。最新の研究では、ネッカー=オーデンヴァルト=リーメスはトラヤヌス帝治世下の西暦98年に初めて建設されたとしている。この同じ年にマインツからバート・カンシュタット(現在はシュトゥットガルトの一部)を経由してアウクスブルクに至るローマ街道も建設されている。こうした2つの戦略的プロジェクトの開始は、属州の首都がケンプテンからアウクスブルクに移転したことと関係しているのかもしれないが、これを積極的に支持する証拠は今までのところ発見されていない。 260年、ユートゥンゲン族がイタリアとラエティアに突如来襲し、数千人のローマ人を捕虜にした。しかし、その帰路2日間にわたる戦闘の末、ローマの総督により全滅させられた。1992年にこの時の勝利の祭壇が発掘された。271年にユートゥンゲン族は他の部族を伴いこの都市を包囲する軍事行動を再度行っている。294年のラエティア分割後、アウクスブルクは Raetia Secunda の首都となった。古代後期にはすでにアウクスブルクは司教座都市となっていた。300年頃から司教ナルキスス・フォン・ギローナに関する伝承が遺っている。市の守護聖人となったアウクスブルクのアフラの殉教もこの頃の事である。 450年頃にフン族の襲撃を受けてローマ支配が終焉した後、5世紀からアレマン人がこの地に進出した。しかし入植地は破壊されることなく、その後も存続した。 565年に発表されたヴェナンティウス・フォルトゥナトゥス(ドイツ語版、英語版)(600年以後にポワチエで殺害された)の詩 Vita sancti Martini の642節には 聖アフラの墓への巡礼について言及されている。 ===中世=== 8世紀にはフランク王国のカール大帝に占領された。その後、フランク王国は分裂し、東フランク王国を経て、アウクスブルクは中世の何世紀もの間、特筆すべき事件なく過ごした後、神聖ローマ帝国の治世に移った。 955年に神聖ローマ帝国の初代皇帝オットー1世がアウクスブルク司教ウルリヒ(ドイツ語版、英語版)の援助を得てハンガリー大公国(スペイン語版、英語版)と戦ったレヒフェルトの戦いが市の南部で行われた。11世紀にバイエルン大公ヴェルフ1世 (バイエルン公)の支配下に移った。 1156年6月21日に皇帝フリードリヒ・バルバロッサはアウクスブルクに再び都市権を授けた。バルバロッサのアウクスブルクの分割は1158年(アウクスブルクが市に昇格した2年後)にミュンヘンの公式な都市創設会議に記録されている。 それから約100年後の1251年には印章の使用と市民への課税の権利が与えられた。発展のピークは、1276年3月9日にローマ王(ドイツ君主)ルドルフ・フォン・ハプスブルクにより保護特権を与えられ、自由帝国都市の肩書きとともに帝国直轄の地位を得たことである。この都市権は1276年の帝国台帳にも記録されている。この拡大された自治権は、司教領主の世俗領主機関である司教本部との間に激しい論争を引き起こし、最も甚だしい時期には司教の主所在地をディリンゲン・アン・デア・ドナウに移したこともあった。 1331年11月20日、アウクスブルクはシュヴァーベン都市同盟(ドイツ語版、英語版)に加盟した。徐々に都市貴族一門が都市の支配権を獲得していったが、問題がないわけではなかった。1368年にツンフト制度を導入しようとした手工業者らが決起した。ツンフト制度導入以後、手工業者らは連帯して業務の調整を行うことでツンフトの権力は急速に拡大した。1388年にシュヴァーベン都市同盟は解消された。 ===近世=== 近世はじめからルネサンス末にかけてアウクスブルクは世界で最も重要な貿易・経済センターに成長していった。これは特にフッガー家やヴェルザー家といった商家の影響に由来するものであった。 ウルリヒ・シュヴァルツ(ドイツ語版)の独裁制がこの時代のピークであった。彼は1469年に大きな政治的ビジョンを持って市長となった。彼は下級のツンフト成員を市行政に登用し、アウクスブルク市の負債を完済した。しかし貴族が彼の妨害をした際に暴力的手段を執り、貴族家の兄弟を死刑にしたことを契機に、1478年に失脚して処刑された。 ギュンター・ツァイナー(ドイツ語版、英語版)がこの街に移住したことが、アウクスブルクの印刷業隆盛の端緒であった。1468年に S. Bonaventurae meditationes vite domini が出版された。宗教書の他に、ドイツ語の通俗本、精神修養書、医学書、暦が出版された。1471年にツァイナーはドイツ初のアンティーク書体(ドイツ語版、英語版)の一つである Type3を制作した(1470年のNicolas Jensonによる「Jenson‐Antiqua体」がドイツ初と見直されている)。エルハルト・ラートドルト(ドイツ語版、英語版)はヴェネツィアから移入したアンティーク体を洗練させた。この他に、15世紀から16世紀への変わり目頃に印刷工場も造られ、アウクスブルクはヨーロッパで最も名高い出版都市に数えられるようになった。この帝国都市には大学がなく、科学や宗教以外の世俗の大衆に市場を求めたことから、1480年から1500年までの間にアウクスブルクで出版された書物の75%がこの地方の方言で書かれていた。ドイツ語版イソップ寓話集は22版と版を重ねた。ヨハン・シェーンスペルガー(ドイツ語版)もこれに貢献した。シェーンスペルガーの Theuerdank はルネッサンスに出版された書物で最大の成功を収めた作品である。 ===宗教改革=== この都市は、1529年のシュパイアー帝国会議では新教支持の少数派であったが、プロテスタント運動には加わらなかった。1530年のアウクスブルク帝国議会におけるフィリップ・メランヒトンのアウクスブルク信仰告白で述べられた福音派信仰の布教が妨げられないことを市民階級は要求した。「アウクスブルク信仰告白」はルター派教会の教義と設立意義を述べたものである。 アウクスブルク市には1524年から1573年までの間、重要な再洗礼派の組織があった。特に1527年8月に行われたアウクスブルク殉教者会議は、異なった再洗礼派グループの使節が集まる国際会議で教義の確認を行っている。アウクスブルクの再洗礼派の重要人物はヤーコプ・ダハザーとハンス・ロイポルトである。この教会会議の参加者は、そのほとんどが後に殉教している。 1534年7月22日に市参事会は、指名された説教師だけが市内での説教を許されることを決議した。カトリックの礼拝は8つの教会に制限され、小さな教会や修道院教会は廃止された。参事会はこの宗教令によって形式上、教会の高権 (Kirchenhoheit) を市に委譲するよう要求したことになる。 1540年にはすでにアウクスブルク証券取引所が創設されていた。ツンフトは、その7年後の1547年までには市政に関与するようになっていった。1547年に最終的にツンフト支配が力を失った後、1548年に皇帝カール5世は市政構造の刷新を促し、アウクスブルク仮信条協定を公布した。新しい市政構造では、カトリックとプロテスタントが対等となる統治管理システムが採用された。1555年のアウクスブルクの宗教和議と帝国執行令はこの都市でも市民の共存に関する議論を沈静化させた。その28年後、1583年2月24日にアウクスブルクでグレゴリオ暦が採用された。 三十年戦争の間、1632年4月20日にアウクスブルクはスウェーデン軍に占領された。この時代に、ともにアウクスブルクの防衛施設の一部であるスウェーデン塔やスウェーデン階段が造られた。 ===18世紀=== スペイン継承戦争では、1703年12月13日にバイエルン選帝侯マクシミリアン2世エマヌエル率いるバイエルン軍によってアウクスブルクは占領された。この軍は1704年にこの都市を明け渡した。 18世紀にアウクスブルクで精密器具製造が新たな隆盛を迎えた。これはゲオルク・フリードリヒ・ブランダー(1713年 ― 1783年)の名前と密接に結びついている。 1784年から1785年に織工の暴動が起き始めた。これは最終的には1794年1月29日の織工の反乱にまで発展した。この争乱の背景には、織工が携わる手工業的繊維業を脅かすコットン織機(プリント模様の平織り綿布の織機)による繊維産業の工業化の兆しがあった。1771年にヨハン・ハインリヒ・シューレはヨーロッパ大陸初の工場である Sch*8430*leschen Kattunfabrik をアウクスブルクに設立していたのである。 ===近代=== 1805年12月21日にはすでにバイエルン軍に占領されたアウクスブルクは、同年12月28日のプレスブルクの和約により帝国自由都市の地位を失い、バイエルン領となった。それまでこの都市は7つの都市貴族家によって支配されていた。1809年に市警察本部が設けられ、市はクライス行政部の直下に置かれた。 1862年にベツィルクスアムト・アウクスブルク(後のアウクスブルク郡)が成立した。この郡は、1972年の郡域再編で旧シュヴァープミュンヘン郡、旧ヴェルティンゲン郡の一部、ドナウヴェルト郡およびノイブルク・アン・デア・ドナウ郡のいくつかの町村を合併した。その後1994年にバールをアイヒャッハ=フリートベルク郡に移管し、現在の郡域となった。アウクスブルク市自身は郡独立市を保持している。 19世紀にアウクスブルクは繊維工業と機械生産のセンターとして重きをなした。現在MANの略号で知られるMaschinenfabrik Augsburg N*8431*rnbergで、ルドルフ・ディーゼルは1892年にディーゼルエンジンを発明した。この他にも、たとえばメッサーシュミットは1927年からこの街に本社を置いている。また1798年にヨハン・フリートリヒ・コッタ(ドイツ語版、英語版)によって創刊された最も重要な日刊紙の一つであるアルゲマイネ・ツァイトゥング(ドイツ語版、英語版)が、1807年からアウクスブルクに移転してきていた(1882年にミュンヘンに転出)。 19世紀末から20世紀初めにかけて、フッガーシュタットにも技術革新が起こった。1881年に鉄道馬車が敷かれ、1898年に路面電車が営業を始めた。第一次世界大戦後の1917年にこの街に電灯が灯った。それまですべての灯りはガス灯であった。 ===国家社会主義と第二次世界大戦=== 1933年の帝国議会選挙で、国家社会主義ドイツ労働党 (NSDAP) は32.3%の票を獲得した。3月9日の「バイエルン国家革命」の開始により、アウクスブルクでは政敵に対するテロが始まった。1929年に選出された市議会は1933年3月末に解散され、3月5日の帝国議会選挙の結果に基づいて(ただしドイツ共産党 (KPD)を除いた形で)市議会の議席が割り当てられた。市政のすべての委員会から締め出されたドイツ社会民主党 (SPD) はNSDAPの市議らによる圧力を受けて5月に市議会を去り、7月5日にはバイエルン人民党 (BVP) の議員もこれに続いた。ドイツ国家人民党 (DNVP) の議員はNSDAPに協力を誓った。 4月28日の市議会で第2市長でSPD所属のフリードリヒ・アッカーマンは名目上辞任をし、それ以前に委任を取り付けていたヨーゼフ・マイアー (NSDAP) が新たに第2市長に就任した。7月31日には上級市長のオットー・ボール (BVP) が解任され、8月3日に開催された市議会はエドムント・シュテックレ (NSDAP) を後任とした。こうしてこの街におけるナチスの権力掌握は完了した。 これ以前の3月9日にはすでに共産主義活動家が「保護検束」(すなわち拘禁)された。逮捕は初め共産主義者や社会民主主義者に対して行われていたが、やがてユダヤ人やBVP議員などのNSDAPの政敵らにも及ぶようになった。1934年4月30日のゼンガーハレ(現在のヴィッテルスバッハ公園内)の火災はその逮捕の波を助長させた。 1933年新たに成立したドイツ帝国はバイエルンを6つの大管区に分割した。アウクスブルクはシュヴァーベン大管区の首都となった。 1938年11月のユダヤ人排斥運動では11月10日にハルダー通りのシナゴーグが放火され、ユダヤ人の商店や私邸が襲撃された。1985年にシナゴーグは長い修復作業を終えて再開され、一部はユダヤ博物館に利用されている。ハウンシュテッター通りのユダヤ人墓地にはユダヤ人犠牲者のための追悼碑が建てられている。ビーボ・ヴァーガーをはじめとするレジスタンス運動の闘士や、SPDの州議会議員クレメンス・ヘックらがナチス時代に殺害されている。 第二次世界大戦中は、軍需産業の分散化政策に基づき、飛行機製造のメッサーシュミットAG がアウクスブルクに造られ、周辺地域にはダッハウ強制収容所の外部収容所が多く設けられた。クリークスハーバー地区では、現在のウルマー通り沿いの産業公園の場所に女子収容所が造られ、500人のハンガリー系ユダヤ人が収容されていた。ハウンシュテッテン地区では、インニンガー通りの旧砂利採取場付近に2,700人を収容する男子収容所が建設された。この収容所が空爆により破壊された後、プファーゼーの空軍兵舎の場所に新しい収容所が設けられた。ガプリンゲン地区にも1,000人を収容する施設があり、ホールガウにも収容所が設けられていた。235人の収容者が親衛隊に殺害されたか、あるいは劣悪な生活環境に耐えられず亡くなり、西墓地に埋葬された。ここには3つの記念板が掲げられている。2,000人の収容者は1945年の春にプファーゼー兵舎からクリンマハ(現在はシュヴァープミュンヘンの一部)へ死の行進が行われ、多くが命を落とした。 アウクスブルクは第二次世界大戦中、空爆により甚大な被害を受けた。メッサーシュミットやMANといった重要な軍需企業があったため、連合軍の空爆目標になったのである。アウクスブルクは10回以上の空爆を受け、このうち2回は大きな被害をもたらした。1942年4月17日の攻撃ではMANのU‐ボートのエンジン生産が、1944年2月25日から26日の攻撃ではメッサーシュミットの工場と南ドイツの鉄道の分岐点となっていた中央駅が破壊された。 1945年4月28日にアメリカ軍の第7軍の部隊が抵抗を受けることなくアウクスブルクに入り、多くの兵舎や基地をこの街に築いた。これらは最後の部隊が撤退した1998年になって初めて完全に返還された。 ===ドイツ連邦共和国=== 重要な建築物があった旧市街は戦後に大部分が復興されたが、一部の作業は現在も続いている。アウクスブルクはドイツおよびバイエルン州の政治システムにおいてはシュヴァーベン行政管区の本部所在地となった。 ローゼナウシュターディオンを建設した(1951年完成)ことにより、この街は戦後無数に開催された大規模なスポーツイベントの多くの開催地となった。大規模スポーツイベントの最大のものは、「アイスカナル」でのカヌーおよびカヤックの競技会と1972年ミュンヘンオリンピック大会で、バスケットボール、サッカー、ハンドボールの予選がアウクスブルクで開催されている。 多くの単科大学を統合した後継者として、経済学、社会学を専門分野とするアウクスブルク大学が1970年に創設された。その後、他の学部が新設され、1974年から新しいキャンパスが設けられ、現在では確固たる地位を築いている。2008年から2009年の学期で約14,000人の学生がこの大学に籍を置いている。 市の健康医療システムは何世紀もの間分散化し、組織化されない状態にあったが、「クリニクム・アウクスブルク」と呼ばれる中央病院が建設された1982年に大きな転換点を迎えた。これ以降は、すべての救急患者と手術患者は中央病院で集中的に扱うこととなった。小規模なクリニックは、やがて専門化していった。 建都2000年にあたる1985年から黄金の広間の修復が始まり、1996年に完成した。 1999年には大きな自然災害も経験した。レヒ川とヴェルタハ川の渓谷に降雨があったと同時にアルプスの雪解けが始まり、増水した川の水が堤を越えたのである。最終的には堰が決壊して全市内が水浸しとなり、多大な被害となった。 さらにその後、深刻な不況から大企業の倒産が相次ぎアウクスブルクの経済を揺さぶった。この街の失業率はバイエルン州の平均を超えた。さらに飛行場を大規模な地方空港に拡大する計画の頓挫やBMWの工場誘致失敗といった20世紀の終盤に起こった積極的経済政策失敗の反動が市を直撃したのである。近年のアウクスブルクはモーツァルト・イヤーやブレヒト・イヤーといった様々な大規模文化イベントで注目を集めるようになっている。 アウクスブルクは2011年の女子サッカーワールドカップ開催地の一つになっている。 ===町の伝承=== ====女神 Cisa==== Cisa(dea Ciza) がアウクスブルクの女神である。シュヴァーベン族によってレヒ川とヴェルタハ川の間に築かれた都市 Cisaris(後のアウクスブルク)に対するローマ人の包囲戦失敗について、1135年頃にウルスベルク修道院で制作された『Excerptum ex Gallica Historia』の傍注に記述されている。それによれば、この街は女神 Cisaの聖域にちなんで名付けられたとされている。この文書にはさらに、地区名のクリークスハーバーはグリーヒェン・アファー(ギリシアのAvar)に、ハーフェンベルクはローマの軍事長官ハベーノ(またはヘバイノ)にプファーゼーは軍事司令官フェレスにそれぞれ由来すると記述している。この12世紀のテキストは明白な重点をもった散漫な寄せ集めであり、伝承研究にとっては、アレマン時代以前の地域名にありきたりでファンタジックな解釈を施したものに過ぎない。ただし、女神 Cisa についてはヤーコプ・グリムがその著書『ドイツ神話学』で「注目すべき伝承」とはっきりと重視しており、議論の対象となっている。 現在の聖ウルリヒおよび聖アフラ教会に近いキッツェンベルク付近でアレマン人によるテュール神崇拝の儀式が行われていたかどうかは、未だに学問上確定していない。アウクスブルクでは、遅くとも中世後期以降にはローマ属州時代のメドゥーサの首が、現在のウルリヒ教会に塗り込められていた。これは現在、市内のローマ博物館で見ることができる。Cisaの姿はペルラハ塔の風見に見ることができる。また、アウクスブルク聖堂の聖堂の扉の彫刻にこの女神を示唆するものがある。 ===シュトイネルネ・マ=== 「シュトイネルネ・マ」(=「石の人」)は東の市壁、いわゆる「スウェーデン階段」脇のガルス教会に隣接して建つ等身大以上の石像である。これは、パンの塊と盾を持った片腕のパン焼き職人の像である。足下には螺旋状にひねった台座がある。 パン焼き職人「コンラート・ハッカー」の伝説は以下のような話である。アウクスブルクが長い包囲戦に見舞われたとき、彼はおがくずでパンを焼き、包囲軍に見せつけるようにしてこれを堀に投げ込んだ。アウクスブルクには壁から投げ捨てるほど大量のパンがあると思った包囲軍は士気を失い、苛立って弩を発射した。その一発がパン焼き職人の腕に当たった。包囲軍はやがて撤収した。歴史上、この事件は三十年戦争時代、精確には1634年から1635年のできごとで、カトリック軍がプロテスタントのスウェーデン軍に占領されていたこの街を包囲した際のものである。パン屋の働きについては、信頼できる証拠はもちろん遺されていない。 こうした伝承の背景については、1941年に刊行された「シュヴァーベン歴史協会雑誌」第54号に詳細な研究論文が掲載されている。この論文でエドゥアルト・ラムパートは、以下のように述べている。かつてプルファー通りとウンテラー・グラーベンに面した家の角に素人細工の元々対にならない像があった。これは街の土木工事の際に見つかり、何世代かのうちに前述の家の角に運ばれたものである。この家は1810年まで「市の建築監督官」の公舎となっていた。この像をここに建てたのは、おそらく18世紀の初めから中頃のある建築監督官であろう。歴史的に裏付けのないパン屋のハッカーの話は後に考えられたものである。 この像は市壁沿いに散歩する市民に愛されている像である。鼻に触れると幸運になると言われており、恋人たちの好む習慣となっている。 ===7人の子供=== バイ・デン・ジーベンキンデルン3番地の家の壁にローマ時代のレリーフ石板が掲げられている。このレリーフには棺の周りに集まって遊ぶ6人の子供が彫られている。 伝説では、ローマ時代の司令官が溺死した子供の思い出に制作を依頼した記念板であるという。(「7人の」子供という名であるのに6人しか子供が描かれていない。7人目の子供は棺の中にいるのである。)現在の研究によれば、この石板に描かれているのはキューピッドであり、この石板はかつて石棺の側板であった。 ===市町村合併=== 市域は古くから周辺地域を併合して拡大しているが、20世紀になされた合併が大きな割合を占めている。合併には2つの波があった。1つは第一次世界大戦前あるいは大戦中で、2つめはバイエルン州の市町村再編がなされた1972年である。アウクスブルクの当時の上級市長ハンス・ブロイアーはさらに多くの市町村合併を目論んだのだが、相手先自治体住民の抵抗に遭い失敗した。1999年7月1日に郵便配送センター建設のため、隣接するゲルストホーフェンとの間で市域の交換がなされた。 ===名前の由来=== アウクスブルクの名前は、ローマ時代の都市名 Augusta Vindelicorum を起源とする。現在の市名に引き継がれた前半部分の Augusta は、紀元前15年にこの街(最初は軍事施設であったが)の建設を2人の養子ドルーススとティベリウスに命じた皇帝アウグストゥスを示す。後半の Vindelicorum は当時ヴェルタハ川(ラテン名 Vinda)とレヒ川(ラテン名 Licus)の間に住んでいた部族であるヴィンデリカー族 (Vindeliker) を示している。 ==行政== アウクスブルクのトップとしては、1266年に市参事会の議長を務めた Stadtpfleger(市の保護者)という職名が遺されている。この職は、時々は B*8432*rgermeister(後の市長にあたる言葉)と称することもあり、さらに2つの肩書きが同時に使われることもあった。1548年になって初めて肩書きが Stadtpfleger に固定された。この職の在職期間は長期におよび、やがて終身職となり、何人もの Stadtpfleger が同時に存在した。 バイエルン州への移管後、アウクスブルクには2人の B*8433*rgermeister職が設けられた。1919年に「市議会」が開設されることとなり、これ以後 Erste B*8434*rgermeister(第一市長)が市の代表者となった。第一市長はもっぱら Oberb*8435*rgermeister(上級市長)の肩書きで呼ばれる。 第二次世界大戦後の上級市長を列記する。 2008年3月16日にクルト・グリープルは決選投票の末に当時現職のパウル・ヴェンゲルトを破り、2008年5月2日に上級市長職に就任した。 ===市議会=== ===連邦議会選挙=== アウクスブルクは第253アウクスブルク市選挙区に属す。この選挙区にはアウクスブルク郡のケーニヒスブルンも含まれる。 ===紋章=== アウクスブルクの市章の公式な紋章学上の記述は、赤字と銀地に左右二分割。中央に緑のツィルベルヌス(直訳するとツィベルキーファーという植物の種子であるが、ここでは図案化されたマツカサ状の意匠を指す)。1985年以降、ツィルベルヌスは緑の柱頭の上に描かれている。市の旗はこれに対応して赤 ‐ 緑 ‐ 白である。 確認されている最も古いアウクスブルクの市章は1237年のもので、2つの塔がある胸壁の門とその上に星というデザインのものである。門の中には生命の樹が描かれていた。1260年からは、その下にブドウが加えられた。これはブドウの種名である「アウクステル」が市の名前を暗示するものである。 15世紀に紅白に左右分割された地の上に緑のブドウが描かれたものが現れ、マツカサ(ローマ時代の墓石の上に飾られていた)が発掘されたことで、1467年にこれに変更された。これ以後、ブドウの代わりにマツカサが描かれるようになった。柱頭は1521年に初めて見られ、1811年から城壁冠となった。このシンボルの意味は明らかでない。市の色は1372年以降、知られている。建都2000年を機会に1985年に紋章は時代趣味に従って新しく改変された。 ツィベルヌスは様式化されたマツカサでありローマ軍の軍団識別標識であり、後にラエティア属州の首都のシンボルとなった。現在もツィベルヌスは市内の至る所で見ることができる。 ===姉妹都市=== インヴァネス(イギリス、スコットランド)1956年 長浜市(日本、滋賀県)1959年 尼崎市(日本、兵庫県)1959年 デイトン(アメリカ合衆国、オハイオ州)1964年 ブールジュ(フランス、シェール県)1967年 リベレツ(チェコ、リベレツ州)2001年 済南市(中華人民共和国、山東省)2004年他のドイツの都市と同様に、アウクスブルクの姉妹都市の歴史は第二次世界大戦後に始まった。1956年、ミュンヘンにあるイギリス総領事館からスコットランドの都市とアウクスブルクとの間で姉妹都市の提携を結びたいとの希望が示され、その候補として第3の都市であるインヴァネスが提案された。同じ年に公式な代表団の相互訪問がなされた後、継続的な文化交流がなされ、姉妹都市となった。興味深いことに、この姉妹都市協定は文書での契約が記録として残されていない。 最初のドイツ=日本間の姉妹都市協定は、第二次世界大戦前にミュンヘンで学び、その研究に関連してルドルフ・ディーゼルに興味を持ってアウクスブルクをたびたび訪れていた一人の日本人、山岡孫吉の功績による。山岡は戦後、ヤンマーディーゼルの社長となり、ヴィッテルスバッハ公園に記念林を贈った。その後、彼は政治上、あるいは個人的な影響力を行使して、1959年に自らの会社の工場がある長浜市および尼崎市とアウクスブルク市の間で二重の姉妹都市協定を締結した。 そのわずか5年後に、今度はアメリカ合衆国の都市デイトンと姉妹都市協定を締結した。これは元々、1956年にアイゼンハワー大統領が発表した「ピープル・トゥー・ピープル」プロジェクトの一環であった。これに、デイトンを本拠とするアメリカのNCRコンツェルンのドイツ本部がアウクスブルクにあったことが、友好関係を助長した。最終的に姉妹都市関係は「シスター・シティー・コミッティー」(姉妹都市委員会)の創設により牽引された。 1963年の独仏友好条約を承けて、その1年後にアウクスブルク市議会はフランスの都市との姉妹都市協定を結びたい意向を示した。国際市長同盟での協議を経てフランス中央に位置するブールジュがその相手となった。姉妹都市協定は1967年4月に締結された。その以前から、良好な相互訪問や交流が行われている。 次の姉妹都市協定は、この31年後に締結されたのだが、これはそもそも第二次世界大戦直後にまで遡る。1955年にアウクスブルクはチェコの都市リベレツ(ドイツ名: ライヒェンベルク)からの避難民すべてに対する保護協力を申し出ていた。これに基づき、アウクスブルクの至る所で新しい家屋が見られるようになった。冷戦終結後に旧避難民たちはかつての故郷と定期的な相互訪問プログラムなどの、とりわけ文化レベルでの接触を再開し始めた。こうした交流が発展し、2001年5月1日に公式な姉妹都市協定が締結されるに至った。 1987年7月9日にバイエルン州と中国の山東省との間で姉妹州協定が締結された。これを承けて、省都である済南市がバイエルン州の都市との姉妹都市協定に関心を寄せた。相互訪問や公的接触の後、2004年9月3日に両市の市長は姉妹都市協定締結に関する公式文書を発効した。 このようにアウクスブルクは3つの大陸の7つの都市と姉妹都市協定を結んでおり、住民の相互理解を深めるような親密な交流を行っている。それは様々な分野でなされており、とくに交換留学、スポーツ・音楽・芸術交流、あるいは様々な郷土グループの相互訪問などの活動として表れている。 ===保護協力関係=== 1954年、ドイツ都市会議の提案を承けて、ゲッギンゲン市はズデーテン地方のノイデック市(チェコ名: Nejdek)およびノイデック郡からのドイツ人避難民に対する保護協力を引き受けた。アウクスブルクはゲッギンゲンを合併して以降、この保護協力関係を引き継いでいる。同じ年にアウクスブルク自身は、新たに市に昇格したシュヴァーベンのイレルティッセンの後見役となっている。 その1年後にアウクスブルクは、現在はチェコに属すライヒェンベルク(チェコ名: リベレツ)からのドイツ人難民すべてに対する保護協力を引き受けた。この関係から、鉄のカーテンが外された後、両者の間で公式な姉妹都市協定が結ばれた(姉妹都市の項参照)。 このフッガー都市はこの他に、いくつかの乗り物の後見役にもなっている。帝国時代の1909年からSMSアウクスブルク号という小型巡洋艦があり、連邦海軍は1958年からF222とF213の2隻のフリゲート艦に「アウクスブルク」の名をつけている。2008年からはアンマーゼー船団の客船アウクスブルク号が就航しており、ドイツ鉄道のICE 3型車両にも2002年からアウクスブルク号が登場している。 ==文化と見所== アウクスブルクは、歴史上常に文化的中心であり続け、現在もなお様々な文化・芸術分野で地域を越えて重要な都市である。 Augusta Vindelicorum としてローマ人が定住していた時代からは、わずかな出土品が保存されているが、その大部分が博物館で展示されている。現在も大部分が保存されているローマ時代のクラウディア・アウグスタ街道沿いに立つのが、最もよく当時の生活を感じ取る方法である。 中世には、街の姿を特徴付けるような建築物、特に宗教建築が建造された。なかでも重要なのは、「我らが聖母大聖堂」と「聖ウルリヒおよび聖アフラ教会」である。大聖堂の南のクリアストリーにある1140年頃に創られたステンドグラスは、ロマネスク様式のステンドグラスとして世界で唯一のものである。この時代のもう一つの重要な教会芸術作品が1065年に製作されたアウクスブルク聖堂のブロンズの扉である。この扉は2000年に修復された。 中世のアウクスブルクは大規模な防衛施設とそれを結ぶ市壁に取り囲まれていた。フュンフグラート塔やヴェルタハブルッカー門をはじめ、これらの施設の一部は現在も保存されている。市壁内には当時、金銀細工師が住んでおり、何世紀にもわたり高い名声を享受していた。その作品は現在も様々な博物館や展示会で見ることができる。この都市は現在も、この分野の手工芸品製造者人口が他の都市に比べて突出して高い。 ルネサンス期にアウクスブルクは圧倒的な隆盛を経験した。ハンス・ホルバインやハンス・ブルクマイアーといった傑出した芸術家がこの街で活動し、中央ヨーロッパで最も重要な文化的中心都市となったのである。この時代には、特にフッガー家やヴェルザー家といった裕福な商人の経済的援助を得て、重要で有名な建造物が建設された。エリアス・ホルは市庁舎を建設した。この建物は、アルプスの北側で最も重要な世俗ルネサンス建築と賞賛され、プラハトブルンネン(直訳すると「豪華な泉」、アウグストゥスの泉、ヘラクレスの泉、メルクリウスの泉の総称である)の上にそびえている。この他、フッゲライは最古の社会福祉住宅であり、現在も同じ用途に用いられている。 その後の時代様式もアウクスブルクにその痕跡を残している。特にロココは、「アウクスブルク風」とも呼ばれ、この街に印を刻んでいる。この時代の建造物には、司教宮殿やシェツラー宮殿などがある。 産業革命の時代には、たとえばシュレーシェ・カッツンファブリーク、グラスパラスト、あるいはファブリークシュロスといった工場施設が建設され、現在はその大部分が別の目的(博物館や芸術ギャラリー)に用いられている。またGignoux家、ハーク邸、ジルバーマン邸といった工場経営者の邸宅も建てられた。ユーゲントシュティールはアウクスブルクにシナゴーグ、プファーゼー地区のヘルツ・イェズ教会やアルテス・シュタットバート、その他の風変わりな建物を遺した。 第二次世界大戦勃発前の1937年にアウクスブルク動物園が開園した。戦後この動物園はエキゾチックな動物を展示し、年間50万人を超える来園者がある、バイエルン=シュヴァーベン地方で最も来訪者の多い文化施設である。 第二次世界大戦後には、特に大規模な催事場が造られた。なかでもローゼナウシュターディオンは当時最も近代的なスタジアムとして建設された。また、シュポルトハレ(体育館)、ホテル塔を併設した会議センター、クルト・フレンツェル・シュターディオンといった打放しコンクリートの建造物が多く建てられた。 バイエルン州文化財保護局が作成・発表している文化財リストには2009年の時点で1226件のアウクスブルクの個別文化財が登録されている。これは、この都市の全建造物の約1.6%にあたる。さらにアウクスブルクは20件の建造物群および65の広場ならびに通りの景観で構成される広域旧市街建造物群が登録されている。 ===博物館とギャラリー=== マクシミリアン博物館は1855年に建設された建物で、2000年前後に大規模な改修がなされたが、その歴史モダンな雰囲気は保たれている。展示スペースは何階にもわたっており、彫刻、金細工作品、建築図面、市の歴史コレクションといった展示品目ごとに分けられている。また、一部入れ替え展示がなされている。 シュヴァーベン手工業博物館はシュヴァーベン手工業会議所が運営する博物館で、たとえば理髪師兼外科医、馬具職人、靴作り職人、時計作り職人、パン焼き職人、製本職人、服飾雑貨製造職人といった古く、多くは後継者のいない手工芸について紹介している。ここでは、その設備、道具、材料を見ることができる。この他ツンフトに関する展示もある。 旧ドミニコ会聖マグダレーナ修道院の一角にあるローマ博物館にはアウクスブルクおよびその周辺地域で発見された石器時代から青銅器時代を経て古代後期・中世初期に至る考古学的出土品が展示されている。とはいえ、重点はやはりローマ属州の首都時代のものにおかれている。 2006年に徹底的な改修が行われたシェツラー宮殿は見応えのあるロココ建築であるが、その一方では多くの重要な芸術ギャラリーを内包している。ドイツ・バロックギャラリー、グラフィックス・コレクション、カールおよびマグダレーナ・ハーバーシュトック財団、カタリーナ教会の州立ギャラリー 「古いドイツのマイスター」がそれである。ここでは特にアルブレヒト・デューラーの作品を見ることができる。 近代芸術愛好家にはヴァルター美術館やギャラリー・ノアがあるグラスパラストがよい。ここは5,500mのスペースに収集家イグナツ・ヴァルターの私的コレクションが展示されている。コレクションの中心は現代美術である。ハイライトは、ピカソ、ミロ、ブラックといった優れた芸術家と多くの作品を共同で制作したエギディオ・コンスタンティーニのガラス芸術作品である。この他に、ピナコテーク・デア・モデルネ(ミュンヘン近代絵画館)の分館である州立近代芸術ギャラリーや、H2 現代芸術センターもある。 アイスホッケー博物館は、プレラーの近くにあり、たとえばグスタフ・イェネッケの遺品をはじめ、国内外の有名なホッケー選手に関する様々な展示を行っている。また、ドイツ名声の殿堂は選手、審判、トレーナー、事務方、ジャーナリストらを顕彰している。 ベルトルト・ブレヒトやレオポルト・モーツァルトの生家は、それぞれにちなんでブレヒトハウスおよびモーツァルトハウスと呼ばれ、この街の最も有名な出身者である2人のそれぞれの生涯や作品に関して展示を行っている。 アウクスブルガー・プッペンキステ(操り人形劇団)の操り人形博物館ディー・キステは旧聖霊病院内にあり、ウルメル、ジム・クノプフ(ジム・ボタン)、あるいはカレ・ヴィルシュといった「糸のスター」を展示されている。 16世紀にフッガー家によって建設されたことで有名な庶民住宅地フッガーライは、現在も住宅として活用されているが、その一部にフッガー博物館が設置されており、当時の生活を偲ぶことができる。 この他にも、このフッガーシュタットには様々なテーマの博物館やギャラリーが数多く存在している。さらに、アウクスブルク鉄道パーク、バイエルン紡績・工業博物館、ガス製造博物館は、2009年現在準備中もしくは開館直後であり、近い将来この街の重要な博物館にこの3館が加わる。 ===演劇と劇場=== この街の文化的重要性にふさわしく、アウクスブルクには多くの劇団・劇場がある。 アウクスブルク劇場(ドイツ語版)はこの街の最も重要な劇団であり、音楽劇、演劇、バレエのアンサンブルがあり、多くの舞台(“大劇場”と呼ばれるアウクスブルク市立劇場(ドイツ語版)、ブレヒト劇場(ドイツ語版)、ホフマン=ケラー(ドイツ語版)、コングレスハレの赤の門の野外劇場(ドイツ語版))に出演する。 アウクスブルガー・プッペンキステ(ドイツ語版)はドイツ全土で有名で大人にも子供にも人気の人形劇場である。プッペンキステは、『氷から生まれた小さな恐竜ウルメル』(Urmel aus dem Eis) や『ジム・ボタンの機関車大旅行』(Jim Knopf und Lukas der Lokomotivf*8436*hrer) といった伝説的なプロダクトをこれまでに制作し、それにもかかわらず、モダンなテイストの新しい作品を成功させ続けている。 S’アンサンブル・テアター(ドイツ語版)は地域を越えて注目を集める実験演劇グループで、はじめは野外劇場で上演していたが、やがてアウクスブルク文化工房で上演するようになった。S’アンサンブル・テアターの作品は、芝居、音楽劇、即興劇、象徴劇からパフォーマンスアートやインスタレーションまでと幅広い。 この街には、様々な種類の演劇に用いられる劇場や文化センターが数多くある。この他に、多くの学校にはそれぞれ演劇グループがある。アウクスブルク大学のロマニステンテアターもその一つである。 ===映画=== アウクスブルクの映画館は長い歴史を持つ。記録に残る最初の映画上映は、1869年10月19日にユーデンベルクのコーヒー・ハウス「メルキュール」で行われた。この時には、たとえば列車が駅に到着する場面などのショートフィルムがシネマトグラフによって上映された。その後数年間は、移動式シネマトグラフによって様々な祭りの機会などに定期的に上映が行われていた。 最初の映画館は、日用雑貨商のフリドリン・ヴィトマンが経営するミュージック・ホールの施設を転用して1906年11月に開業した。このアウクスブルク最古の映画館Thalia‐Theaterは、1909年の初めにこの名前がつけられたことがわかっている。 かつてあった映画館の多くが、現在ではなくなっているか、名前が替えられている。2000年に造られた2つのシネマコンプレックス(1つはCinestar系列、もう1つがCinemaxx系列である)が、Capitol や Filmpalast といった伝統的な映画館閉館の決定的な要因の一つであった。これらのシネマコンプレックスはハリウッドのブロックバスター映画を集中的に上映している。 小さな映画館もいくつか存続しているが、その多くは商業ベースに乗らないいわゆる「プログラム映画」を上映し、映画上映以外のイベントにもスペースを貸し出している。Liliom、Mephisto、Savoy、Thaliaといった映画館がこれにあたる。 毎年夏にアウクスブルガー・レヒ映画祭が開催される。この映画祭では、様々な地区 なかでも屋外プールや湖畔の野外劇場 で毎日異なったジャンルの映画が大きなスクリーンで上映される。来訪者らはプラスチック椅子を持ち込んで座ったり、芝生に寝ころんだりして鑑賞する。 ドイツ全土で注目され、ドイツ映画奨励賞を受賞した2006年夏のバイエルン映画「Wer fr*8437*her stirbt ist l*8438*nger tot」(直訳すると「先に死んだ奴は長く死んでいる」)は、Mephistoで封切られた。 ===音楽=== ====バンド・演奏家==== アウクスブルクはドイツ全土で知られたバンドや演奏家のふるさとである。最も有名なのは、1990年に結成された The Seer で、讃美歌風のロックとフォークの要素をミックスした作品を演奏する。 それよりも10年前に脚光を浴びたバンドが Impotenz で、はじめはその挑発的な歌詞が注目された。彼らの楽曲 ”Nutten an die Macht” はバイエルン放送の放送禁止リストに挙げられた。彼らは1984年にロイ・ブラックとシングルを発表する予定であったが、その曲が健康的であるという理由で成立しなかった。 アウクスブルクでは、1960年代にはすでにバンド活動が行われていた。The Roughroads や The Shotgunsといった名前のこうしたバンドは、しかし地方レベルのバンドであった。これに対してもっと若い世代では Nova International や Anajo といったポップバンドが知られている。後者は、ブンデスビジョン・ソング・コンテストの2007年バイエルン代表で出場した。 Dear John Letter はポストロックのバンドで、地域を越えた成功を収めた。 The Cannonsでビート歌手としてのキャリアを踏み出し、その後ポピュラーミュージック(たとえば ”Du bist nicht allein”)で成功したロイ・ブラックはアウクスブルク生まれではなく、数km南のシュトラースベルク(ボービンゲンの一部)出身である。ただし、その幼少期はこのフッガーシュタットと縁が深く、この街のホルバイン・ギムナジウムでアビトゥーアを取得した。 建都2000年の機会に制作されたアルバム「2000 T*8439*ne」で多くの有名なアウクスブルクのバンドの音楽を聴くことができる。 ===合唱団=== アウクスブルクの最も重要な合唱団にドームジングクナーベン(聖堂児童合唱団)がある。この合唱団は我らが聖母大聖堂(聖マリア聖堂)の援助の下で運営されている純粋な少年少女合唱団であり、このため「マリアナー」とも呼ばれている。長い歴史を持つ合唱団で、1439年に最初の記録が遺されている。聖堂での宗教儀式の際に定期的に演奏を行う他、団員はコンサートに出演し、国外ツアーにも出かけている。いくつかのレコードやCDでも知られている。 テアター・アウクスブルクは、専属の混声合唱アンサンブルを有しており、定期的にオペラやミュージカルの他、コンサートにも出演している。 2006年のモーツァルトイヤーをきっかけにアウクスブルク・モーツァルト合唱団はドイツ全土で知られるようになった。この合唱団は1976年に結成された経験豊かなアマチュアの合唱団である。主なレパートリーは独奏者やオーケストラとともに演奏するオラトリオが中心である。 この他に多くの合唱団があるが、その大部分はキリスト教団体、音楽学校や一般の学校に属している。なかでも混声合唱団アルベルト・グライナー・ジング・ウント・ムジークシューレや聖シュテファン・ギムナジウム合唱部は市外でもよく知られている。 ===オーケストラ=== バイエルン室内フィルハーモニーは、1990年の創設ながら、アウクスブルクで最もよく知られたオーケストラである。この室内オーケストラは、特に古典派音楽と現代音楽の演奏を行っており、独自の音楽世界を築いている。この功績により1996年にヨーロッパ経済奨励賞とヨーロッパ地域文化賞の2つの重要な賞を受賞した。 アウクスブルク・フィルハーモニー管弦楽団(ドイツ語版)はアウクスブルク劇場に所属するオーケストラで、年間120に及ぶ音楽劇公演に出演しているほか、独自のシンフォニー・コンサートのシリーズを持っている。70人の音楽家は、並行して独自の演奏活動や合唱団との共演も行っている。 アウクスブルク南地区にある東欧の学生のためのブコヴィナ財団は1991年から、約30人のアマチュア音楽家や音楽大学の学生で構成される独自のサロン・オーケストラを有している。この若いオーケストラは国外ツアー(主に東欧諸国)を行い、大きな成功を収めた。 これらの他にも、多くの学生、組織、音楽愛好者らが作っているオーケストラがあり、この街は音楽イベントに恵まれた環境にある。 ===文化イベント=== アウクスブルクは、その長い歴史の中で重要な人物を何人か輩出しており、その記念の年を機会に大規模なイベントがなされている。ベルトルト・ブレヒトに関しては、文学プロジェクトや舞台上演など、定期的に大きなイベントが開催されている。 アマデウス・モーツァルトの父親レオポルトや家族がこの街および周辺地域の出身で、アマデウス自身もこの街の少女に幼い恋を経験したことから、2006年のいわゆるモーツァルトイヤーにあたり、アウクスブルクは重要なモーツァルトシュタット(モーツァルトゆかりの街)として名乗りを上げた。その一環として無数のコンサートやイベントが開催された。 1985年から毎年3月にアウクスブルク国際映画の日が開催されている。このイベントは4つのサブイベントに分けられる。アウクスブルク子供映画祭、独立系映画の日、アウクスブルク短編映画の週末および若手映画監督や映画を学ぶ学生による国際シンポジウム「明日の映画」である。この映画祭は2006年に財政難に陥ったが、同じ年の秋には再開され、今後も開催されていく予定である。 ===その他のイベント=== アウクスブルガー・プレラーはバイエルン=シュヴァーベン地方最大、バイエルン州で3番目の規模の民衆祭で、早春(復活祭の日曜日から始まる)と晩夏(8月末から9月の初め)の年2回開催される。プレラーは市立野外プール近くのいわゆる「小練兵場」を会場に、約2週間の日程で開催される。興行師は主に南ドイツから集まってくる。この民衆祭は千年の歴史を有し、毎回1日あたり数千人の来訪者がある。ベルトルト・ブレヒトは1917年に詩『プレラーの歌』でこの祭りを詠っている。 2番目に大きな民衆祭は、かつては教会祭であったアウクスブルガー・ドゥルトである。この祭りではヤーコバー紋とフォーゲル門の間、約1kmの連邦道を使って年の市が開催される。ドゥルトは年2回で、数千人が訪れる。開催は、復活祭頃(早春のドゥルトまたはオスタードゥルト)と聖ミヒャエルの日である9月29日頃(秋のドゥルトまたはミヒャエリドゥルト)である。 聖ミヒャエルの日は、トゥーラミヒェーレと呼ばれる 大天使ミカエルのからくり人形を見物できる年に1度の機会である。この人形は毎正時にペルラハ塔の一番下の西窓に現れ、鐘の音に合わせて槍で悪魔を突く。この日、ラートハウス広場(市庁舎前広場、ペルラハ塔もこの広場に面している)では大規模な子供祭りが開催されている。 毎年、アドヴェントの時期にはラートハウス広場でアウクスブルクのクリスマス市が開催される。この市場は1498年の記録が遺っており、このためドイツで最も古いクリスマス市の一つとされている。1977年からはアドヴェントの週末と市場の開閉幕時に「エンゲーレスシュピール」(天使の芝居)が行われる。これは24人の天使に扮した人物が市庁舎のバルコニーに登場するというものである。 1555年、カトリックとプロテスタントの間の初の平和協定であるアウクスブルクの宗教和議と帝国執行令の舞台となったアウクスブルクは自らを「平和都市」と称し、3年に1度アウクスブルク平和賞を授与している。これまでの受賞者の中には、ミハイル・ゴルバチョフやリヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカーらがいる。 ===ナイトライフ=== アウクスブルクのナイトライフの中心はマクシミリアン通り周辺で、特に近年多くのバー、クラブ、カフェができ、幅広いスタイルの遊びを提供している。毎年夏には「マックス」と呼ばれるオープン・エアー・ストリートフェスティバルが開催され、週末には1万人もの客がこの街を訪れる。 ===名物料理=== 最もよく知られた郷土料理は、アウクスブルク市民のあだ名にもなっている「ツヴェチュゲンダッチ」(Zwetschgendatschi) という焼き菓子である。これはスポンジ生地あるいはビスケット生地を焼き、その上に半分に切ったプラム (Zwetschge) を敷き詰めたもので、この街で創案された。このためアウクスブルク市民を「ダッチブルガー」(Datschiburger) と呼ぶ。 もう一つのポピュラーな料理がヴァイスヴルスト(白ソーセージ)で、バイエルン食肉販売連盟はこの街をミュンヘンに次ぐ第2の本場としている。「本場ミュンヘンの白ソーセージ」 (Original M*8440*nchner Wei*8441*wurst)という肩書きは、アウクスブルクの食肉業者もこの肩書きを使う権利を有する形で商標・特許局に出願されている。 アウクスブルク料理の典型的な付け合わせは、小麦粉、卵、塩から作った麺をゆでたシュペッツレ(de:Sp*8442*tzle)である。これを別の料理として供される変則的な場合もある。こうしたアウクスブルク風の食し方は元々アルゴイ地方(de)でなされていたものである。この料理は焼タマネギやサラダとともに供される。 この他に、シュプフヌーデル(de)やシュヴァインスブラーテン(ローストポーク)はバイエルン全土で大事にされている郷土料理である。 ==スポーツと余暇== アウクスブルクにはプロサッカークラブのFCアウクスブルク (FCA) がある。1907年に創設されたこのクラブは23年ぶりにレギオナルリーガ・ジュートで優勝し、ブンデスリーガ2部に復帰した。ヘルムート・ヘラー、クリスティアン・ホッホシュテッター、ベルント・シュスター、アーミン・フェーら多くのタレント選手を輩出したFCAは、1970年代半ばの最盛期に記録した、ホームゲームの1試合平均入場者数23,000人というバイエルンリーガ記録を持っている。 TSVシュヴァーベン=アウクスブルクはFCAに次ぐ伝統を持つサッカー部門を有するクラブである。しかし、このクラブを有名にしているのは別の種目、特にカヌーおよびカヤックの部門で、オリンピックのゴールドメダリストを3回(1992年、1996年、2008年)輩出している。また、TSVシュヴァーベンの女子サッカー部門は、TSVプファーゼー・アウクスブルクとともにレギオナルリーガ・ジュートでプレイしている。 この街で最も人気のプロ・スポーツは、ドイツ・アイスホッケー・リーガ (DEL) 1部でプレイするアウクスブルガー・パンサーである。このチームは1878年にドイツ初のスケートクラブとして設立されたアウクスブルガーEVを母体とする。クラブは後継の会社が運営しており、このクラブ自身にもアマチュアのアイスホッケーチームがある。EG Woodstocksがアウクスブルクの3つめのアイスホッケーチームである。 トゥルンフェライン・アウクスブルク1847(体操クラブ・アウクスブルク1847)は様々な種目で大きな成果を上げているこの街第2のスポーツクラブである。ファウストボール、リズミック・スポーツ体操、体操ジュニア団体でドイツチャンピオンになっている。 1999年にそれまで多くのクラブが合併する形で設立された DJK アウクスブルク=ホッホツォルは、特にハンドボールやバレーボールで高い評価を得ている。男子チームは一時期、ブンデスリーガ1部に昇格したこともある。 1970年代にクロアチア人によって設立された FC エニコン・アウクスブルクは、1995年に廃止されるまで、ドイツで最も成功した移民のクラブであった。最終シーズンは、当時のドイツのサッカーシステムでは4番目のリーグであったバイエルンリーガでプレイした。 ポストSVアウクスブルクは、1966年の卓球ブンデスリーガ発足時の参加クラブの一つで、6年間このリーグでプレイした。降格された後、復帰は果たせていない。このクラブでプレイした有名選手には、ペーター・シュテーレ、トニ・ブロイマイアー、マルティン・ネスらがいる。 ===スポーツイベント=== アウクスブルク最大のスポーツイベントは毎年夏に開催されるアウクスブルガー・シュタットラウフ(アウクスブルク都市レース)である。2008年のこのイベントには約5,000人のプロ選手やアマチュア・アスリートが参加した。参加者は4つのコースで競い合う。この都市レースはバイエルン=シュヴァーベン地方最大の大衆スポーツイベントである。 2番目に大きなイベントは、RT.1 スケート・ナイト・アウクスブルクで、やはり毎年夏に何日もの会期をかけて開催される。名前のRT.1は、メインスポンサーであるラジオ局の名前である。数時間の間通行止めにされた大都市の道路や広場を平均4,000人のインラインスケート愛好者らが滑って楽しむのである。 カヌー競技のワールドカップは毎年アウクスブルクにやってくる。アウクスブルクには世界最高の人工急流アイスカナルがあり、カヌー競技の連邦トレーニングセンターが置かれている。ワールドカップ期間中、数日間にわたって毎日数千人のスポーツファンが見物に訪れる。2003年にはここでカヌー競技の世界選手権も行われた。 この他に、市内の様々な地区で無数の、特に若者向けの、スポーツイベントが開催されている。ショッピングセンター「シティー・ギャラリー」前のヴィリー・ブラント広場では、毎年クリスマスの少し前に大規模なスノーボード・レイルバトルが開催される。このイベントには15,000人以上の観客が集まり、アメリカからプロ選手が参加するほど有名なイベントとなった。 変わった競技では、2000年から毎年謝肉祭の火曜日に開催されていたアウクスブルク背走レースがあった。このレースは2007年に中止された。 アウクスブルクは2009年までに完成予定のインパルス・アリーナを使って、2011年女子サッカーワールドカップの競技を行うことになっている。 ===余暇・スポーツ施設=== 1949年から1951年に、当時アウクスブルク最大で最も有名なスポーツ施設として建設されたローゼナウシュターディオンは、ヨーロッパで最も近代的なスタジアムの一つであった。ミュンヘンのオリンピアシュターディオンが完成するまではドイツのスポーツ施設の中で重要な地位を占め、1972年ミュンヘンオリンピックでも多くのサッカー予選試合や陸上競技の一部種目がここで行われた。2009年の時点ではFCアウクスブルクのホームスタジアムとなっている。 1963年11月2日にオープンしたクルト・フレンツェル・シュターディオンは、アウクスブルク・パンサーのホームスタジアムとして使われているが、アイスホッケーのブンデスリーガ1部および2部のホームスタジアム中、天井が完全に閉鎖されていない唯一の施設である。このスタジアムは2010年から2011年に改装され、天井も完全に封鎖される。 スポーツハレ・アウクスブルク(アウクスブルク体育館)は1965年に、アウクスブルクでは第二次世界大戦後初の大規模なホール建築としてオープンした。プレストレスト・コンクリート製の吊り天井構造は建築上の優れた業績であると評価され、2003年に文化財リストに登録された。ミュンヘンオリンピックの際にはハンドボールとバスケットボールの試合が行われた。現在ではコンサートや文化行事の開催に利用されている。 ミュンヘンオリンピックの競技に利用された第3の施設は、このオリンピックのために造られたアウクスブルガー・アイスカナルで、ここではオリンピックのすべてのカヌー競技が開催された。世界初の人工急流は24,000の観客が観戦でき、その後はカヌー・スラロームのワールドカップが開催されている。 エルンスト・レーナー・シュターディオンは、ローゼナウシュターディオンに次ぐフッガーシュタットで2番目に大きなスタジアムで、TSVシュヴァーベン・アウクスブルクがホームスタジアムとしている。このスタジアムは南部スポーツ公園の敷地内にある。南部スポーツ公園はジーベンティシュヴァルトの西端にあり、運動競技場とランニングコース(たとえば、マックス・グートマン・ランニングコース)がある。 この他にもいくつか競技場がある。たとえば、ハウンシュテッテン競技場(芝生のグラウンド、陸上競技用の400mトラックと、その外側に1970年代以降国際大会が開催されているダート競技用の500mの砂地競技場)、パウル・レンツ競技場(FCアウクスブルクのトレーニンググラウンド)、ゲッギンゲン地区のカール・メーゲル競技場とアントン・ベツラー体育館などである。1988年以降レヒハウゼン地区には、アウクスブルク自転車スポーツ協会の200mの室内自転車競技場がある。 ローゼナウシュターディオンの後継となるアウクスブルク最大の競技場としてWWKアリーナが2009年に完成した。この新しいスタジアムはサッカー専用スタジアムであるが、コンサートなどの大規模イベントに使用できる。第2期拡張工事後には48,860人収容となる。 アウクスブルクには4つの室内プールがある。アルテ・シュタットバート、シュピッケルバート、ハウシュテッテン室内プール、ゲッギンゲン室内プールである。さらに屋外プールは5つある。ファミリープール、ベーレンケラー・プール、レヒハウゼン・プール、フリッベ、ハウシュテッテン自然屋外プールである。 ===緑地と公園=== アウクスブルクは、1997年に「ヨーロッパで最も緑に恵まれた居住価値の高い都市」の肩書きを獲得する以前からすでに、緑地、公園、庭園が極めて多い。こうした施設は建て込んだ都会の空間にゆとりを与え、住民に憩いと安らぎの機会を提供している。 最もよく知られた公園は市の心臓部にあたるケーニヒスプラッツに面した公園である。中央に泉を配した樹木の多い緑地は、市電やバスといった近郊公共交通機関の同名の停留所に隣接している。この公園は1911年の駅前地区再開発により設けられたが、現在では評判は芳しくなく、特に夜にはアルコール中毒者や薬物依存者が集まり取引する場所になっている。 ジーベンティシュヴァルトの北端にある植物園では、少額の入場料と引き替えに、約10haの敷地内にある日本庭園、樹木および薬草園など様々な種類の庭園を楽しむことができる。敷地内全体であわせて100万株の球根植物、1200種以上のシダや野草、280種のバラ、450種の樹木があり、温室内では1,200種の植物が栽培されている。 面積20.8haのヴィッテルスバッハ公園は、建て込んだ市街地内では最大の緑地であり、その北東に位置するシュタットガルテンやヴェルタハ渓谷の斜面とともに1980年に風致地区に指定されている。貴族のヴィッテルスバッハ家の名前を冠したこの施設は1906年が初出であるが、その前身となる緑地はそれよりもずいぶん前からすでにあった。見本市会場が建設されるまではアウクスブルクの春の見本市はこの空き地で開催されていた。1944年にヴィッテルスバッハ公園の地下に長さ1kmにおよぶ防空壕が掘られ、その一部は現在も遺っている。 ホーフガルテン(宮廷庭園)は1739年から1744年に造営されたが、司教宮殿の敷地内であったため1965年まで一般の人は近づくことができなかった。第二次世界大戦後には長らく果樹園として利用されていた。1960年代に改造され、様々な樹木、灌木、花壇、生け垣、ピラミッド型花壇などが設けられた。現在ではスイレンの池や大きな噴水が賞賛されている。 ==経済と社会資本== アウクスブルクはバイエルン州に23ある上級中心都市の一つであり、ドイツ南部で最も重要な工業都市の一つである。 ===交通=== ====道路交通==== 市内を通る最も重要な広域自動車道は、ミュンヘン方面とシュトゥットガルト方面を結ぶ連邦アウトバーンA8号線で、アウクスブルク市には2つのクローバー型インターチェンジ(アウクスブルク東インターチェンジとアウクスブルク西インターチェンジ)がある。さらに衛星都市のダージング、ノイゼス、デルヒングにもインターチェンジがある。 また、アウクスブルクは4つの連邦道の交差点である、B2号線、B10号線、B17号線、B300号線が南北方向、および東西方向に市を貫いている。 「黄色いアウトバーン」と呼ばれる連邦道B2号線(連邦道の路線名表示が黄色地であることから、連邦道でありながらアウトバーン並みの規格(アウトバーンの路線名表示は青地)であることを意味する)は北からアウクスブルクに入り、やはりアウトバーン風の連邦道B17号線(西バイパス)に接続する。B17号線は市内では多車線に拡張されており、一部は地下を通ってシュタットベルゲン/プファーゼー方面の交差点に至る。その後B17号線は南に向かい、数kmでアウトバーンA96号線に接続する。B17号線のシュタットベルゲンからオーバーハウゼンまでの区間は、姉妹都市デイトンにちなんで「デイトン・リング」と名付けられている。連邦道B300号線は市内と衛星都市を結ぶ区間だけは多車線に拡張されているが、最終的には片側1車線に狭くなる。 1993年から2004年まで10年以上の工期を要したシュライフェン街道はレヒハウゼンのブリュッヒャー通りからB300号線に接続するまで(ホッホフェルトのハウンシュテッター通り)、市街地の東と南を結んでいる。この路線は終始4車線に拡張されており、レヒハウゼンから市街地、新しく建設されたレヒ川の橋、テクスティール街を通り、プロヴィーノ通り付近から長さ480mのトンネルに入りB300号線の下をくぐり抜けたところで地上に再び現れ、赤の門を遠巻きに迂回してホッホフェルトでB300号線に合流する。シュライフェン街道 (Schleifenstra*8443*e) という名前はこの道路によってアウトバーンの東西のインターチェンジが市街中心部を環状に (schleifenf*8444*rmig) 取り囲む形で結ばれたことによる。この道路により、市内を通り抜けようとする車両による赤の門付近の渋滞が緩和された。B17号線同様、この道路も区画ごとにアウクスブルクの姉妹都市の名がつけられている。東から南の順にアマガサキ・アレー、ナガハマ・アレー、インヴァネス・アレーである(アレーは並木道の意)。 市内中心部を含む環境ゾーンは2009年7月1日に運用が始まった。2010年10月1日以降は黄色と緑のステッカー、2012年10月1日からは緑のステッカーの車両だけがこのゾーン内への進入が許されるようになる(ドイツの原動機付き車両は排気ガスレベルに応じて色の異なるステッカーをつけている)。 ===公共交通機関=== 市域全域は、シュヴァーベン中部をカバーするアウクスブルク交通連盟 (AVV) のサービス提供エリアに属し、アウクスブルク交通会社およびゲルストホーフ交通会社により4系統の路面電車、27系統の市バス、6系統の夜行バスおよび様々なタクシー・サービスが提供されている。 路面電車網の総延長は、大学への路線(1996年)、北の市境への路線(2001年)、病院への路線(2002年)といった新線開通により 35.5 km に及んだ。さらに2本の路線が計画されており、2011年までに完成予定である。 このほかにドイツ鉄道の6つの AVV‐レギオナルバーン路線の7つの駅には定期的に列車が発着し、将来的にはSバーン風のシステムに拡大される予定である。さらに8つめの駅としてヒルプリンガー・シュトラーセ駅が計画されたが、この計画は放棄された。 地域交通はアウクスブルク地域バスGmbHや数多くの乗り合いバス会社が運営している。多くのバス路線がアウクスブルク中央駅に乗り入れており、市内の近郊交通に利用できる。 路面電車やバス路線の主要な乗換駅は、1933年から1945年までアドルフ・ヒトラー・プラッツと呼ばれたケーニヒスプラッツ (K*8445*) である。1914年にコンラート・アデナウアー・アレーの東に停車場が造られ、住民はこれを「ピルツ」と呼んだ。やがて交通本数が停留所の処理能力を超えたため、2年間の工事期間をかけ、1977年に通りの反対側に大規模な停留所ゾーンが設けられた。しかしこれも飽和に近づいたため、2009年までにプラットホームや路面電車の軌道の増設が必要となった。2007年11月25日に K*8446* 拡張計画反対の住民投票が行われ、53.2 % が拡張反対に票を投じた。 ===鉄道=== アウクスブルクには現在7つの駅があるが、中でも中央駅は飛び抜けて重要である。この駅はドイツで最も運行量の多い高速鉄道アウクスブルク ‐ ミュンヘン線の終点であり、ミュンヘンからベルリン、ドルトムント、ハンブルク、シュトゥットガルトへのICEおよびインターシティの停車駅である。この他、ユーロシティや夜行列車でアムステルダム、パリあるいはウィーンといったヨーロッパの大都市へ乗り換え無しで行ける。 この他にマンメンドルフ行き、アイヒャハ/ラダースドルフ行き、ドナウヴェルト行き、ディンケルシェルベン行き、シュヴァープミュンヘン行き、クロスターレヒフェルト行き、シュミーヒェン行きの7つのレギオナルバーン路線が放射状に伸びている。このレギオナルバーンは2008年からSバーン風の間隔で運行されており、アウクスブルクSバーンが構築中である。このローカル列車の路線はDBレギオAGによって運営されており、2008年末からはバイエルン・レギオバーンも運営に関与している。 中央駅は1843年から1846年に建設された駅舎であり、大都市の駅舎中、オリジナルの建築が用いられている最も古い駅である。「Mobilit*8447*tsdrehscheibe Hauptbahnhof」(活動的な転車台、中央駅)というプロジェクト名の下、建物の完全な近代化が現在計画されている。この計画には、路面電車の地下停留所建設が含まれている。 この他の市内の重要な駅は、アウクスブルク=ホッホツォル駅とアウクスブルク=オーバーハウゼン駅で、ニュルンベルクあるいはウルムといった南ドイツの大都市への直通列車が30分ごとに発着している。これ以外の駅は近郊交通に特化された駅であり、レギオナルバーンと、希にレギオナルエクスプレスが発着する。 貨物鉄道部門では、2005年4月1日にドイツ鉄道によって操車場が廃止され、アウクスブルクは積み替え駅としての機能を失った。しかし2007年から、アウクスブルク/ゲルストホーフェン/ノイゼスの3都市では貨物道路輸送を鉄道輸送に転換するための貨物交通センターを設立している。 シュヴァーベン大都市圏の特殊性は1898年に設立されたアウクスブルガー・ローカルバーンである。これは都市を横切って走る鉄道で、沿線の大企業が運営している。2004年の輸送量は95万tで、路線は市外へ延長されている。 プロジェクト「Mobilit*8448*tsdrehscheibe」(活発な転車台) 「活発な転車台」の概念の下、アウクスブルク市は市内の近郊交通を近代化し、魅力的なものにするプロジェクトを遂行している。このプロジェクトには、路面電車の新線敷設、重要な乗換駅であるケーニヒスプラッツと中央駅の増築、Sバーンの構築が見られる。 この大規模プロジェクトは、2007年6月28日、中央駅とフリートベルク=ヴェストの間の市電新線、6号線の鍬入れによってスタートした。 ===航空路=== 市の北東部にアウクスブルク空港がある。この飛行場は第二次世界大戦後に新しく造られた空港である。1980年から Regionalflughafen(地方空港)として2, 3の国内路線が就航していたが、2005年から路線便は廃止され、Verkehrslandeplatz(交通用飛行場)に格下げされた。 定期便が就航していた時代の乗客数増加計画に基づく空港拡張は、周辺住民の抵抗により失敗した。このため、この空港には100人乗り以下の飛行機しか着陸できず、ラーガーレヒフェルトNATO空軍基地(アウクスブルク郡)の民間共用が検討された。この案は、連邦軍が弾薬庫移転費用として請求した額が高額であったため放棄された。 2005年の定期航路廃止により、この不採算空港の将来は長らく不確実名状態にあった。アウクスブルク市は共同出資者として年間100万ユーロの補助金を支出しなければならなかった。 2006年4月、この交通用飛行場を主にビジネス機が利用する近代的なシティー・エアポートに改築する事が決定された。この他に空港を利用する企業を誘致するための8万mの大規模な産業地帯が設けられた。 ===経済=== ====大企業==== アウクスブルクはその立地の良さから歴史的に重要な工業都市であり、特に紡績業では古くから世界の中心都市であった。しかしこの職種の企業はやがて街からほぼ完全になくなった。 この街は特に工業企業の大規模な工場があることが特徴である。旧市街の周縁部にはMAN、印刷機製造のmanroland、トランスミッション製造のRenk、照明器具メーカーのOsram、製紙業者のUPM‐キュンメネがある。ドイツ第3位のゼネコン Walter Bau AGはテクスティール街に本社があったが、2005年に倒産を申告した。 アウクスブルク南部のハウシュテッテンには2番目に大きな産業地区がある。ここにはEADSの子会社である Premium AEROTECやMT Aerospace AGといった航空宇宙産業、コンピュータの開発・製造を行うフジツー・シーメンス・コンピューターズ、テクノパークを有するシーメンスといった企業がある。 アウクスブルク東部のレヒハウゼンには産業用ロボットやSchwei*8449*anlagen製造のKUKA、世界最大のカトリック書籍出版・販売のWeltbildグループがある。金融部門の自動機器、レジスターシステムやデータバンクシステムのNCRはアウクスブルク西部のクリークスハーバーにドイツ本社を置いている。 この他の大企業としては、自動封書システムやメールルーム・ソリューション開発のB*8450*we Systec、ソフトウェア・ハードウェア開発のBeta Systems Software AG、自動車・オートバイ・有用車両(トラックなど)の排気ガス処理装置製造のEMCON Technologies、自動車洗浄機製造のWashTecなどがある。 ===伝統産業=== この街の大変な古さや、かつての極めて重要な地位にふさわしく、アウクスブルクには無数の企業があり、その中には百年を超える伝統を持つ企業もある。 アウグスタ・ブラウエライ(Augusta Brauerei、1488年)、ブラウエライ・ツア・ゴルデーネン・ガンス(Brauerei zur Goldenen Gans、1346年)、ハーゼンブロイ(Hasenbr*8451*u、1464年)、トールブロイ(Thorbr*8452*u、1582年)、ブラウハウス・リーゲレ(Brauhaus Riegele、1884年)が古くから地元にある5つのビール醸造所で、多くは現在も地方の市場向けに製造を行っている。この他にハウス・リーゲレで生産されているコーラとオレンジレモネードのカクテル飲料シュペーツィも有名である。 特にフッガー家やヴェルザー家によってもたらされた金融部門での重要な地位は、現在活動中の銀行にも引き継がれている。フュルスト・フッガー・プリヴァートバンク (F*8453*rst Fugger Privatbank) は商家であったフッガー家が創設した銀行で、1468年に初めて「バンク」と名乗った。市貯蓄銀行 (Stadtsparkasse) は1822年、郡貯蓄銀行 (Kreissparkasse) は1855年に設立された。この他、1914年にアントン・ハフナーがマクシミリアン通りに設立したバンクハウス・ハフナー (Bankhaus Hafner) はアウクスブルガー・アクティーエンバンク (Augsburger Aktienbank) とともに20世紀後半の重要な銀行である。 書籍・出版分野では、Schlosser’schen J. A. Buch‐ und Kunsthandlung(1719年)、Rieger & Kranzfelder(1731年)、Anton B*8454*hm & Sohn(1803年)が伝統的な企業である。 この他の伝統的な企業としては、水産業者のSch*8455*ppler(1650年)、Dierig(1805年)、化粧品店のNaegele(1835年)、J. N. Eberle & Cie. GmbH(1836年)、鉄販売のSiller und Laar(1836年)、家具輸送のH. Weissenhorn & Cie.(1839年)、Lembert製帽店(1861年)、伝動装置製造のPfister Waagen(1894年)、家具輸送業と旅行業のDomberger(1897年)風船製造のAugust Riedinger(1897年、現在はAugsburger Ballonfabrikと改名)、Hosokawa Alpine AG(1898年)などがある。 ===その他の重要な企業=== 上記以外の重要な企業には以下のものがある。 Amann N*8456*hgarne: アウクスブルクに現存する数少ない繊維企業の一つ。旧Ackermann‐G*8457*ggingen AGの吸収合併後、現在の場所にある。Augusta‐Bank eG: 決算が最も良好なドイツの協同組合銀行100行の一つで、地域市場に存在感を示している。Betapharm: 重要なジェネリック医薬品製造者Freudenberg企業グループ: アウクスブルクの工場でVileda‐Haushaltsprodukteを生産している。Patrizia Immobilien AG: 不動産業者Dr.Grandel: アウクスブルクで設立され、本社を置く重要な化粧品会社PCI (Poly‐Chemie‐Ingenieurtechnik) 建築材料の主導的なメーカーで、BASFグループの一員である。 ===メッセと会議=== アウクスブルクは、見本市の開催都市として長い歴史を有しているにもかかわらず、現在のメッセ・アウクスブルクの建物は1988年に開館したものである。それまでこの種の催しはヴィッテルスバッハ公園の敷地内にあったツェントハレで開催されていた。 メッセは、バイエルン州で3番目に大きなもので合わせて57,000mの広さの12のホール、18,000 mのフリースペース、3,500 mの会議センターがある。最も大きなシュヴァーベンハレは1万人以上が収容でき、定期的にコンサートや催し物に用いられている。 アウクスブルクの見本市で最も重要なものは、「アウクスブルクの春の展示会」、「アメリカーナ」(乗馬とウェスタンカルチャーの国際展示会)、「グリントテック」(研磨技術の国際専門見本市)、「インターリフト」(エレベーター技術の国際専門見本市)、インターザナ(国際健康見本市)である。また重要な会議としては「モバイル・コマースの技術と応用に関するカンファレンス」 (MCTA) が開かれた。 メッセ会場は、重要な設備が欠如していることから、個人投資家からの支援を受けて2007年から改造工事が行われている。また、4つ星ホテルの建設も計画されている。 アウクスブルク・コングレスハレ(会議ホール)はアントン街のホテル塔の下にあり、コンサート、文化イベント、会議、各種の即売会などに利用されている。1972年にオープンした打放しコンクリートの建築は、ホテル塔とともにアウクスブルク・コングレスセンターを形成し、4つのホールと3つのロビーが使用できる。会議ホールは1,400人までを収容できる大きなスペースである。これよりも来客数の多いイベントには会議センターからも遠くないヴィッテルスバッハ公園の端にあるアウクスブルク体育館が使われる。このホールに完全に座席を配置した場合には4,000人まで観客を収容できる。このためコンサートや著名な芸術家が参加するイベントなどに用いられている。 ===メディア=== ====新聞・雑誌==== アウクスブルク唯一で多数を占める日刊紙が、Presse Druck‐ und Verlags‐GmbHにより出版されるアウクスブルガー・アルゲマイネ (Augsburger Allgemeine) である。地方版(政治・経済・スポーツ・文化面が共通で地方面だけが異なっている版)を会わせた総発行部数は、1日356,000部で、ドイツで最も発行部数の多い地方紙である。この新聞は主にアウクスブルク市内のみならずバイエルン=シュヴァーベン地方全土およびオーバーバイエルンの一部でも読まれている。 この他に日曜日ごとにアウクスブルガー・ゾンタークスプレッセ (Augsburger Sonntagspresse) が発刊される。この新聞にはローカルニュースの他にドイツ全国のニュースが掲載されており、バス停、路面電車の停留所、駅、ガソリンスタンドで入手できる。限られたテーマに関して画像と短い文章で説明する体裁で、大衆向けメディアに数えられる。 地域ニュースを掲載した最もよく読まれている週刊のフリーペーパーが1979年に創刊されたシュタットツァイトゥング (StadtZeitung) で、アウクスブルク大都市圏(市内とアウクスブルク郡およびアイヒャッハ=フリートベルク郡)内で15の地方版(市内では5つの版)がある。Mediengruppe Mayer & S*8458*hneが発行している。同じ出版社から、月刊タウン誌のアウクスブルク・ジャーナル (Augsburg Journal) も刊行されている。典型的な大衆紙の誌面で、シュタットツァイトゥングとは違い、有料である。 若者向け月刊誌にはノイエ・スツェーネ・アウクスブルク (Neue Szene Augsburg) がある。ライフスタイル、音楽、ナイトライフやイベント情報に重点が置かれている。市内と隣接する郡で発行され毎号約25,500部が購読されている。これはバイエルン州最大のタウン誌である。 2ヶ月に1度、無料のカルチャーマガジン a‐ガイド (a‐guide) が発行される。発行部数12万部で、アウクスブルク最大の雑誌の一つである。 1977年からカラー刷りの月刊誌アウクスブルガー・ジュート=アンツァイガー (Augsburger S*8459*d‐Anzeiger) が発行されているが、これは1972年に合併したゲッギンゲン、ベルクハイム、インニンゲン、ハウンシュテッテンのニュースに紙面を充てている。 大学向けの出版物もある。アウクスブルク大学当局は学内向けのウニプレス (UniPress)を出版し、学生組合はウニヴァーズム (Universum) を発行している。また、カトリックの学生グループはプレスティーゲ (prestige) を刊行している。 ===ラジオ放送=== アウクスブルクの二大地方局の一つがヒットラジオ.rt1 (hitradio.rt1) である。この局は主に40台以上のシニア層向けにここ数年リスナーを増やしている。ヒットラジオ.rt1はアウクスブルガー・アルゲマイネと連携している。この局は、スケート・ナイト(スポーツイベントの項参照)や毎年開催されるミュージックフェスティバルといったスポーツ・社会イベントで、多くのアウクスブルク市民にその名を知られている。 2番目に大きなラジオ局がラジオ・ファンタジー (Radio Fantasy) である。この局は音楽とコメディーに特化しており、様々な活動で注目されている。その中にはスキーツアーや大規模なスポーツイベントなどがある。ラジオ・ファンタジーは40歳以下の若いリスナーをターゲットにしている。月曜日の22時から1時まではアウクスブルク大学の学生たちが同じ学生向けの番組「カナルC」(Kanal C) が放送されている。 ロック音楽に特化したロック・アンテネ (Rock Antenne) は、以前ラジオ・ケー (Radio K*8460*)が使っていた周波数で放送されている。ロック・アンテネはアンテネ・バイエルンの子会社である。 2008年末からアウクスブルクでエゴFM (egoFM) が放送を開始した。この放送局は、14歳から20歳の若年層を対象にバイエルン州内の大都市でのみ放送を行っている。 ジャズ・ヴォーカルを中心とした放送局スマート・ラジオ (Smart Radio) のプログラムは、司会がなく、純粋に音楽だけが流れている。この他にフローツェン=ラジオ (Frozen‐Radio) とラジオ・アウクスブルク (Radio Augsburg) の2つの地方ラジオ局がある。 以前アウクスブルクにはAFNの放送局があり、中波の1485 kHzで放送を行っていた。1998年の最後の米軍部隊撤退に伴い放送局も廃止された。当時の施設はそのまま遺されているが放送は行われていない。 アウクスブルクの企業家ウルリヒR.J. クバクはクラシック・ラジオ (Klassik Radio) の株の多くを取得し、2004年にこれを株式市場に放出した。この放送局のプログラムはその後もハンブルクから放送されている。 ===テレビ放送=== この街唯一のテレビ放送局アウクスブルク.tv (augsburg.tv、略してa.tv)は毎日ケーブルテレビでいくつかのチャンネルの放送(ブロームベルク・テレヴィジョン (Bloomberg Television) やRTLショップ)を送信している。 アウクスブルク.tvはTVアルゴイ・ナハリヒテン(TV Allg*8461*u Nachrichten、ケンプテン)、intv(インゴルシュタット)と人工衛星アストラ1Fの放送区画 Lokal Sat を共有している。プログラムはもっぱら地元あるいは地方をテーマとするものである。2007年1月1日以前、この放送局はTVアウクスブルクという名称であった。 アウクスブルクは、ZDFの連続ドラマシリーズ『Samt und Seide』(直訳すると「ビロードと絹」)の舞台であり、ロケ地となった。このドラマは紡績業界の家族を扱った典型的なソープオペラで、2005年2月10日に最終回が放送された。アクセル・シュタインの映画『Harte Jungs』(邦題: アンツ・イン・ザ・パンツ)もアウクスブルクを舞台とし、この街で撮影された。 ===公共機関=== アウクスブルクは、歴史上重要な都市である一方、バイエルン=シュヴァーベンの政治上の中心地であるため、いくつかの官庁、連合団体、その他の公的権利を有する法人の所在地でもある。この街にはアウクスブルク市の他に2つの郡の郡庁があるという、特殊な状況が出来している。 バイエルン州環境省が、唯一の州レベルの官庁としてアウクスブルク南部にある。この役所は数年前にミュンヘンから移転したものである。この役所は州北部のホーフにある役所と職務を分割している。バイエルンのシュヴァーベン行政管区はアウクスブルク市会計局およびアウクスブルク地方会計局を、アウクスブルク市およびアウクスブルク郡庁舎内においている。 金融や保険制度の面では、連邦理財局、ドイツ連邦銀行、ドイツ年金保険シュヴァーベン(案内所、相談所を有する)、農業保険ニーダーバイエルン/オーバープファルツおよびシュヴァーベン(同業者保険組合、老人年金組合、健康保険組合、介護保険組合)などがある。アウクスブルク市は、ドイツで最も古い公共の質屋である市立質屋を運営している。1603年からこの施設は、価値のあるものを一時的に質入れして現金を得ることで、財政難に陥った市民を救っている。 シュヴァーベン行政管区の施設としては、手工業会議所 (HWK) やドイツ商工会議所 (IHK) がある。また、アウクスブルク市、アウクスブルク郡、アイヒャッハ=フリートベルク郡、ディリンゲン郡、ドナウ=リース郡を管轄するシュヴァーベン北警察署がある。さらに中央税務署、刑務所、市内青少年団連合がある。 バイエルン赤十字、バイエルン・サッカー連盟をはじめとする様々な団体や法人のシュヴァーベン本部事務所あるいは南ドイツ中央事務所がアウクスブルクにある。 2005年半ばまで、シュヴァーベン行政管区の兵役義務のある市民はビスマルク街の郡兵員補充局に招集されていたが、その後合理化のために閉鎖された。それ以後はインゴルシュタットの部局の担当となった。 ===保健医療機関=== 2006年の大規模な構造改革後、アウクスブルクには診療レベルIV(最高の診療レベル)の病院が2つと、いくつかの、一部は特定の領域に特化した小規模な病院がある。この他に健康保険医師団体の救急病院や精神病医療のベツィルクス病院(行政管区立病院)がある。最大の病院でアウクスブルク大都市圏の救命救急医療の中心となっているのがクリーニクム・アウクスブルク (Klinikum Augsburg) である。構造改革までは中央病院と呼ばれていた病院で、ルートヴィヒ・マクシミリアン大学ミュンヘンの研修病院としても利用されている。この病院は市内西部のクリークスハーバー地区にあり、連邦道B17号線およびB300号線経由で迅速に患者を搬送できる。 そのすぐ隣にキンダークリーニク(Kinderklinik、子供病院)がある。この病院はクリーニクムと密接な関係にあるアウクスブルク病院目的連合に属している。密接な関係とは、たとえば、クリーニクムに搬送された小児の救急患者のほぼ全員が、一次処置の後、より適切な看護が可能なキンダークリーニクに転院する。 最高の診療レベルにある2番目に大きな病院は、かつて「ハウンシュテッテン病院」と呼ばれていたアウクスブルク南クリーニクム (Klinikum Augsburg S*8462*d) である。大規模な構造改革と、全診療科を旧中央病院からハウンシュテッテンに一部分割移転したことにより病院需要計画で要求されていた診療レベルIVを達成した。診療の専門領域は、以前から重点が置かれていた外科、内科、皮膚科、耳鼻咽喉科である。 アウクスブルク・ベツィルクス病院 (Bezirkskrankenhaus Augsburg、行政管区立病院) はシュヴァーベン行政管区が運営する、精神科、精神療法、精神身体医学の病院で、市内およびアウクスブルク郡全域住民の精神病診療を目的とする。この病院はクリークスハーバー地区にあり、クリーニクムからも遠くない。 この他では、ディアコニッセン病院 (Diakonissenkrankenhaus)、ヘッシング=クリーニク (Hessing‐Klinik)、ヨーゼフィヌム (Josefinum)、ヴィンセンティヌム (Vincentinum) の4つが大きな病院である。これらはいずれも特定の診療科目(たとえば麻酔科とか産婦人科など)に特化している。またバイエルン健康保険医師団体の救急病院が、ヴィンセンティヌムの隣にある。 ===墓地=== アウクスブルクには全部で14の墓地があり、このうち9つを市が運営している。北墓地、新・旧の東墓地、新・旧のハウシュテッター墓地、西墓地、ゲッギンガー墓地、インニンガー墓地、ベルクハイマー墓地である。キリスト教墓地は3つあり、カトリック・クリークスハーバー墓地、カトリック・ヘルマン墓地、プロテスタント墓地である。残る2つはユダヤ人墓地のイスラエル・ホーファーシュトラーセ墓地、イスラエル・ハウンシュテッター・シュトラーセ墓地である。 ==教育・研究== この都市は大変に古い歴史を有し、かつては重要な地位を占めていたにもかかわらず、アウクスブルクに総合大学ができたのは1970年になってからであった。この他に専門単科大学や音楽大学があり、アウクスブルクでは大変に幅広い選択が可能である。3つの単科大学では、合わせて15,000人が学んでいる。 ===アウクスブルク大学=== アウクスブルク大学 (Universit*8463*t Augsburg) は、既述の通り1970年に創設された。1971年に廃止されてアウクスブルク大学のカトリック神学部として編入されたディリンゲン哲学・神学単科大学は1549年または1551年に創設され1802年に総合大学に昇格していた。また、1958年に教員養成研究所から設立されたアウクスブルク教育大学は、1972年にアウクスブルク大学の教育学専攻として併合された。2008年には廃止されたニュルンベルク=アウクスブルク音楽学校のいくつかの専攻を「レオポルト・モーツァルト・センター」として取り込んでいる。この大学は、バイエルン=シュヴァーベン地方で唯一の総合大学である。 現在この大学には、哲学・歴史学部、哲学・社会学部、経済学部、法学部、数学・自然科学部、カトリック神学部および新設の応用情報学部がある。14,500人を擁するアウクスブルク大学は伝統的なフルセットの総合大学ではなく、文化学、社会学、経済学の主な分野を統合した大学である。 1974年以降、市の南部の旧飛行場跡に広大なキャンパスが建造され、単独の市区(ウニヴァルジテートフィーアテル、「大学街」の意)が設けられている。やがて大学のごく一部が専門単科大学の経営学領域と共同でレヒハウゼンおよびアルテ・ウニヴァルジテートの旧教育大学の建物を使用するようになった。 ===アウクスブルク単科大学=== アウクスブルク単科大学(Hochschule Augsburg、2008年2月まではアウクスブルク専門単科大学 (Fachhochschule Augsburg) と称した)は、1971年に創設された大学であるが、その前身は長い歴史を持っている。それは1660年頃に設立された私立の学芸アカデミーで、初めはプロテスタント系の学校であったが、1710年に公立化され帝国都市立学芸アカデミー (Reichsst*8464*dtischen Kunstakademie) に発展した。その後いくつもの段階を経て最終的にはヴェルククンストシューレ・アウクスブルク (Werkkunstschule Augsburg) が設立された。一方、技術部門は19世紀に設立されたルドルフ・ディーゼル工業専門学校 (Rudolf‐Diesel‐Polytechnikum) に由来する。1971年に両者が合併してアウクスブルク専門単科大学が創設された。これはドイツで最も古い専門単科大学であったが、2008年にアウクスブルク単科大学と改名された。 大勢の学生が技術、造形、経済分野の学科で学んでいる。アウクスブルク単科大学には約4,100人の学生が籍を置いている。 ===ニュルンベルク=アウクスブルク音楽学校=== ニュルンベルク=アウクスブルク音楽学校 (Hochschule f*8465*r Musik N*8466*rnberg‐Augsburg)は、ニュルンベルクのマイスタージンガー・コンセルヴァトリウム (Meistersinger‐Konservatoriums) とアウクスブルクのレオポルト・モーツァルト・コンセルヴァトリウム (Leopold‐Mozart‐Konservatorium) とが1998年に合併して設立された。学生や教員の激しい抵抗にもかかわらず、バイエルン州教育・文化省は、2006年に財政難を理由にこの大学のアウクスブルク部分の閉鎖を決定した。 この大学には、音楽教育学、芸術学(声楽、管弦楽の楽器、鍵盤楽器)の学生がいる。カトリックの教会音楽、ギター、音楽療法を学ぶこともできる。また、ドイツで唯一のブラスオーケストラ指導者養成コースもある。 ===一般教養学校=== アウクスブルクの児童・生徒に対する基本的な一般教教養の教育機関は、ギムナジウム10校、実科学校9校、基礎課程学校および本課程学校42校、養護学校13校、それに自由ヴァルドルフ学校が1校ある。 ===職業訓練学校、アカデミー=== バイエルンのシュヴァーベン行政管区の中心都市であるアウクスブルクには、ほぼあらゆる種類の職業訓練学校がある。市立職業学校が7校、州公認の私立職業学校が1校、職業訓練学校が18校、専門アカデミーおよび専門学校が4校ずつ、経済学校が3校である。 ===その他の学校=== 既述の学校やアカデミーの他にもアウクスブルクには学習の機会がある。市民大学やコルピング教育作業会、様々な歌唱音楽学校から話し方学校まである。その多くは予め専攻するコースを完了している必要はなく、繰り返し市民の一般教養形成に資している。 ===研究=== 大学や単科大学はいくつかの研究所を有している。そのほとんどが特定の学部が運営するもので、その研究領域の研究に従事している。しかし多領域にまたがるテーマの研究に関して大規模な、あるいは学際的な共同研究プロジェクトの提携がなされる場合もある。 アウクスブルクは、環境および環境保護の研究分野で重要な業績を上げている。このためバイエルン州が設立したアウクスブルク=シュヴァーベン環境専門知識センター (KUMAS)は、この分野で活動しているほぼすべての研究機関や企業のコミュニケーションや共同研究をコーディネイトするネットワークを構築している。 バイエルン州環境省は、近い将来、環境研究センターの学生や教官と緊密に協調して実施する共同プロジェクトをアウクスブルク大学に発足させる計画がある。 東ヨーロッパに関しては、ブコヴィナ研究所が主導的な施設である。この研究所は、国際的・学際的共同研究で、東欧の文化、歴史、地誌の資料整理や研究を行っている。ブコヴィナの名前は、この研究所が特に注力している地域にちなんだものである。 ===図書館=== アウクスブルクは帝国都市時代から図書館制度に関して重要な伝統を有しており、それは現在も施設の多さに反映されている。 州立・市立図書館 (Staats‐ und Stadtbibliothek) はシェツラー通りにある。この施設は一般に利用することができるが、書籍の貸し出しは通常禁止されている。貸し出しを行っているのは、市立図書館 (Stadtb*8467*cherei) とその分館のゲッギンゲン図書館、ハウンシュテッテン図書館、レヒハウゼン図書館である。アウクスブルク市民は誰でも書籍、雑誌、その他のメディアにふれることができる。中央図書館は老朽化し、小さな建物はいっぱいになってしまったため、エルンスト・ロイター広場に新しい建物が建設中である。新しい建物が完成した後には、近代的で包括的な図書館に求められる機能を満たすことができるはずである。州立・市立図書館は図書館であると同時に、1834年に設立されたシュヴァーベン歴史協会の事務局にもなっている。毎年発刊されるシュヴァーベン歴史協会雑誌 (ZHVS) はアウクスブルク周辺の文化生活において知識面でのアクセントとなっている。 他の総合大学などと同様に、アウクスブルク大学も大規模な図書館を備えており、特に大学の学生や研究者はもちろん、一般にも利用が可能で、様々な種類(書籍、資料、芸術作品、その他のメディア)の収蔵品にふれることができる。この図書館は大学のキャンパス内にあり、中央図書館の他、多くの分館に分かれている。大学図書館は1970年に建設されたにもかかわらず、1980年に寄贈されたエッティンゲン=ヴァラーシュタイン図書館の旧蔵書をはじめ、古い書籍を所蔵している。 ブコヴィナ研究所は東ドイツや東ヨーロッパの文学、歴史、文化に重点を置いた大規模な専門図書館を有している。 E‐Textの時代にふさわしいのはビブリオテカ・アウグスターナである。これはドイツ全土で名声を得ている世界文学の電子図書館を創ろうという専門単科大学の教授のプロジェクトである。 この他に多くの小さな私立図書館があるが、これらは利用者が限定されている(たとえば修道院の図書館や学校図書館など)。 ===文書館=== アウクスブルクには公立あるいは私立の研究所の文書館がある。最も有名な公立文書館は、バイエルン州のアウクスブルク州立文書館、アウクスブルク市の市立文書館、アウクスブルク大学文書館がある。神学領域の文書はドーム地区にあるアウクスブルク司教区文書館が所有しており、中には書籍や資料の他に司教区の歴史や発展に関する膨大な絵画も含まれる。 ===その他の資料館=== ツォイクガッセのバイエルン歴史館 (Haus der Bayerischen Geschichte) は1983年にバイエルン州の官庁として設立され、1993年9月にアウクスブルクに所在地を定めた。この資料館は、あらゆる層の住民、特に若年層が、バイエルン州各地域の歴史的・文化的多様性に触れることができる。この資料館には27万点の写真資料がある。 ==人物== ===出身者=== 聖ウルリヒ(890年 ‐ 973年)司教、聖人アグネス・ベルナウアー(1410年頃 ‐ 1435年)コンラート・ポイティンガー(1465年 ‐ 1547年)市参議会員、大商人、アウクスブルク市長、皇帝マクシミリアン1世の顧問ヤーコプ・フッガー(1459年 ‐ 1525年)商人、銀行家マテウス・ラング・フォン・ヴェレンブルク(1468年 ‐ 1540年)ザルツブルク大司教、枢機卿ハンス・ホルバイン(父)(1470年 ‐ 1524年)画家ハンス・ブルクマイアー(1473年 ‐ 1531年)画家ハンス・ホルバイン(子)(1497年頃 ‐ 1543年)画家ジクストゥス・ビルク(1501年 ‐ 1554年)劇作家レオンハルト・ラウヴォルフ(1535年(1540年の説もある) ‐ 1596年)自然研究家、植物学者、医師、冒険旅行家フーベルト・ゲルハルト(1550年頃 ‐ 1620年)彫刻家エリアス・ホル(1573年 ‐ 1646年)建築家ヨハン・マティアス・ハーゼ(1684年 ‐ 1742年)数学者、天文学者、地図学者、歴史地理学者レオポルト・モーツァルト(1719年 ‐ 1787年)作曲家、音楽教師、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの父マリア・アンナ・テークラ・モーツァルト(1758年 ‐ 1841年)モーツァルトの「ベーズレ書簡」として音楽史上最も有名な手紙の受取人。ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの従姉妹ゲオルク・フォン・クラウス(1826年 ‐ 1906年)工場主ヨハン・モスト(1846年 ‐ 1906年)ジャーナリスト、社会民主主義の帝国議会議員、無政府主義者で「死のプロパガンダ」の創始者エルンスト・トレルチ(1865年 ‐ 1923年)神学者、政治家 (DDP)ハンス・フォン・オイラー=ケルピン(1873年 ‐ 1964年)化学者(1929年 ノーベル化学賞受賞者)ルートヴィヒ・ミヒャエル・クルティウス(1874年 ‐ 1954年)考古学者、芸術史家ベルトルト・ブレヒト(1898年 ‐ 1956年)劇作家(『三文オペラ』、『肝っ玉お母とその子供たち』など)マクダ・シュナイダー(1907年 ‐ 1996年)女優、ロミー・シュナイダーの母エルンスト・レーナー(1912年 ‐ 1986年)サッカー選手ヴォルフガング・レットル(1919年 ‐ 2008年)シュールレアリズムの画家ウルリヒ・ビージンガー(1933年 ‐ )サッカー選手ペーター・アイゲン(1938年 ‐ )弁護士、トランスペアレンシー・インターナショナルの創始者ヘルムート・ハーラー(1939年 ‐ )サッカー選手ハンス・W. ガイセンデルファー(1941年 ‐ )演出家ユルゲン・メレマン(1945年 ‐ 2003年)政治家 (FDP)、連邦教育科学大臣、連邦経済大臣、副首相(1992年 ‐ 1993年)ハリー・グレーナー(1951年 ‐ )映画俳優エルハルト・ヴンダーリヒ(1956年 ‐ )ハンドボール選手ベルント・シュスター(1959年 ‐ )サッカー選手アーミン・フェー(1961年 ‐ )サッカー選手ライモント・アウマン(1963年 ‐ )サッカー選手(ゴールキーパー)クリスティアン・ホッホシュテッター(1963年 ‐ )サッカー選手アレクサンダー・グリム(1986年 ‐ )カヌー選手、2008年北京オリンピックのスラローム優勝者 ===ゆかりの人物=== 聖アフラ(生年不詳 ‐ 304年)最初期の聖人、殉教者マルティン・ルター(1483年 ‐ 1546年)宗教改革家、1518年にアウクスブルク帝国会議に出席、この間聖アンナ修道院で暮らしたアントン・フッガー(1493年 ‐ 1556年)商人、銀行家ピリグラム・マールベック(1495年 ‐ 1556年)初期の再洗礼派の人物、1544年から亡くなるまでアウクスブルク市の官吏を務めた。新しい水供給方法を創造し、筏流しを始めた。アドリアーン・デ・フリース(1556年 ‐ 1626年)彫刻家、アウクスブルクのプラハトブルンネン(豪華な泉)を制作したハンス・レーオ・ハスラー(1564年 ‐ 1612年)作曲家、時計職人、オルゴール職人、オルガニストヨハン・バイエル(1572年 ‐ 1625年)天文学者、初めて全天の星座図を作成したマテウス・ギュンター(1705年 ‐ 1788年)バロックの画家、アウクスブルク・カトリック芸術アカデミーの総長フリードリヒ・リスト(1789年 ‐ 1846年)経済理論家。1841年に著された主著の『政治経済学の国民的体系』は、ほとんどがアウクスブルクで著述された。また、1843年の『関税同盟新聞』もこの地で発刊された。ナポレオン3世(1808年 ‐ 1873年)本名: シャルル・ルイ=ナポレオン・ボナパルト。フランスの大統領、最後のフランス皇帝。幼少期に母オルタンス・ド・ボアルネとともに一時期アウクスブルクに住んだ。後に学生期もこの街で暮らし、初めは家庭教師、1821年から1823年には聖アンナ・ギムナジウムで学んだ。ルドルフ・ディーゼル(1858年 ‐ 1913年)アウクスブルクで、ディーゼルエンジンを開発した。マティアス・クナイスル(1875年 ‐ 1902年)伝説の強盗(クナイスル・ヒアス)で、アウクスブルクでギロチンに掛けられた。ロイ・ブラック(1943年 ‐ 1991年)ポップ・シンガー、俳優 ==引用== ==参考文献== Martin Kluger: Augsburg. Der offizielle Stadtf*8468*hrer der Regio Augsburg. 4. Auflage. context, Augsburg 2006, ISBN 3‐939645‐02‐8.Bernd Roeck: Geschichte Augsburgs. Beck, M*8469*nchen 2005, ISBN 3‐406‐53197‐0.Wolfgang W*8470*st, Georg Kreuzer, Nicola Sch*8471*mann (Hrsg.): Der Augsburger Religionsfriede 1555: Ein Epochenereignis und seine regionale Verankerung. Ergebnisse einer Tagung des Historischen Verein f*8472*r Schwaben und der Schwaben‐Akademie Irsee vom 3. bis 5. M*8473*rz 2005 (= Zeitschrift des HV f*8474*r Schwaben, Band 98) Augsburg 2005, ISBN 3‐89639‐507‐6.Christian Jacob Wagenseil: Versuch einer Geschichte der Stadt Augsburg. Ein Lesebuch fuer alle Staende. 4 B*8475*nde. B*8476*umer, Augsburg 1819―1822 (Digitalisat).Erich Keyser, Heinz Stoob (Hrsg.): Bayerisches St*8477*dtebuch. 2. Teilband Ober‐, Niederbayern, Oberpfalz und Schwaben. 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Wi*8499*ner, Augsburg 2006, ISBN 3‐89639‐538‐6. =松輸送= 松輸送(まつゆそう)は、太平洋戦争中の1944年前半に日本軍が行った中部太平洋方面への増援部隊輸送作戦である。絶対国防圏と位置付けられたマリアナ諸島などの守備隊を強化するため、満州などから転用された地上部隊や軍需物資が松船団と総称される11回の護送船団で運ばれた。アメリカ海軍は潜水艦で妨害を試みたが、日本側の損害は少なく一応の成功を収めた。松輸送で運ばれた部隊が、サイパンの戦いやペリリューの戦いで日本軍守備隊の主力となった。 ==背景== 太平洋戦争の戦局が次第に不利になった日本は、1943年(昭和18年)9月に絶対国防圏と称する防衛線を設定し、戦線の縮小を図る方針を決めた。絶対国防圏を守備する地上部隊を運ぶため、商船25万総トンが新たに軍用輸送船として徴用された。 ところが、日本海軍は絶対国防圏外であるマーシャル諸島海域での艦隊決戦構想にこだわり、ラバウルなど絶対国防圏外の拠点の守備強化を優先した。その結果、25万トンの新規徴用輸送船も、本来の目的以外に多くを消耗してしまった。絶対国防圏の防備の手薄さは、邀撃戦ではなく遭遇戦と自嘲されるほどであった。1944年(昭和19年)2月17‐18日、ようやく絶対国防圏外縁の海軍根拠地トラック島(チューク諸島)への第52師団輸送が始まったところで、トラック島空襲を受け同島は壊滅的な打撃を被った。トラック島空襲では輸送船20万総トンが一挙に失われ、輸送中の第52師団第2陣も海没した。 トラック島空襲に続く2月23日のマリアナ諸島空襲、エニウェトク陥落と中部太平洋方面でのアメリカ軍の急速な侵攻を迎えた日本の大本営は、絶対国防圏をマリアナ諸島=中西部カロリン諸島の線まで後退させる新戦略を決めた。日本海軍も、トラック島根拠地の壊滅を見て、ようやくマリアナ諸島での決戦に方針を変えた。日本陸軍は中部太平洋を担当する第31軍を新設し、すでに派遣内定していた第14師団・第29師団に加え、関東軍などからさらに多数の部隊を抽出して増援に送ることを決めた。増援用の輸送船確保のため、2月から4月まで毎月10万総トンの商船追加徴用も決定された。 増援部隊派遣が決まったと言っても、実際の海上輸送は容易な情勢ではなかった。マリアナ諸島を次の攻略目標と決めたアメリカ軍は、日本近海からマリアナ諸島周辺に潜水艦を展開させ、日本の増援輸送を妨害しようとしていた。アメリカ潜水艦は、1943年末頃から魚雷の性能が改善され、ウルフパックを組んだ集団戦術を用いるなど攻撃力が高まりつつあった。マリアナ諸島に向けて出航した第29師団乗船の船団(軍隊輸送船3隻・駆逐艦3隻)は、2月29日から3月1日にかけて潜水艦攻撃を受け、テニアン島行きの崎戸丸(日本郵船:9245総トン)が沈没、歩兵第18連隊長以下2317人戦死・570人重傷の大損害を受けていた。なお、この崎戸丸船団を松輸送の一部と解説する文献もあるが、『戦史叢書』や大井篤の回顧録では松輸送に含んでおらず、松船団としての番号が無く、時期的にも後述する3月3日の松輸送実施命令(大海指第346号)より早い。 ==作戦計画== 1944年3月3日、軍令部総長の嶋田繁太郎大将は、及川古志郎海上護衛総司令部司令長官および古賀峯一連合艦隊司令長官に対し、松1号から松4号までの船団護衛を発令した(大海指第346号)。3月22日付の大海指第357号と5月6日付の大海指第376号により、松5号から松8号船団が追加されている。「松輸送」という作戦名は松竹梅にちなんで命名されたもので、同時期の西部ニューギニア方面への増援部隊輸送作戦については「竹輸送」の作戦名が充てられている。加えて、同盟国ドイツからの封鎖突破船(秘匿名称「柳船」)の成功にあやかった命名にもなっていた。 この種の純然たる作戦輸送は従来は連合艦隊の管轄であったが、松輸送については通商保護を専門とする新設の海上護衛総司令部が管轄することになった。3月7日、海上護衛総司令部は大海指第346号を踏まえて、松輸送を2種の航路で運航する命令を発した。マリアナ諸島およびカロリン諸島東部への増援については東京湾からトラック島に至る太平洋航路、カロリン諸島西部への増援については門司から台湾経由でパラオに至る航路を利用するものとし、前者を東松船団、後者を西松船団と呼ぶことになった。そして、東松船団の護衛は横須賀鎮守府、西松船団の護衛は第一海上護衛隊の担当とされた。 海上護衛総司令部は第901航空隊の一部を横須賀鎮守府の指揮下に入れるなど護衛戦力の再配置を実施したほか、連合艦隊からも多数の戦力が応援として加わることになった。連合艦隊は、海上護衛総司令部への護衛協力には消極的であったが、松輸送は決戦準備の作戦輸送ということで積極的に取り組んだ。3月中に連合艦隊から海上護衛総司令部の指揮下に移された艦艇は、軽巡洋艦1隻・駆逐艦10隻・海防艦3隻・その他3隻にのぼった。 東松船団の運航に関しては、日本では異例の大規模な護送船団の編成が行われることになった。運航効率より護衛兵力の集中を重視した大船団主義の採用は海上護衛総司令部で以前から検討されていたが、連合艦隊の護衛戦力融通や同年2月のヒ40船団壊滅の戦訓により、実現に至ったのである。大規模船団を運用するには海上護衛総司令部手持ちの高級指揮官人材が不足したため、4月1日に少将級の人材をストックする特設護衛船団司令部制度が創設されたほか、連合艦隊も第11水雷戦隊司令部を旗艦の軽巡龍田ごと提供した。 主要な輸送対象部隊は、陸軍の第14師団(パラオ守備)と第43師団(サイパン守備)の各主力、第35師団の第一次輸送部隊(パラオ守備)、ロ号演習の秘匿名で関東軍・朝鮮軍の諸部隊から抽出された第1派遣隊‐第8派遣隊、戦車第9連隊などであった。第29師団の輸送船沈没時に師団長が同行しておらず混乱を生じた教訓から、非常時に備えて各部隊指揮官も空路は使わず、海路で同行するものと定められた。多量の弾薬や食糧、セメントなどの築城資材も同時に運ばれた。海軍も、沿岸砲や高射砲を装備した陸戦隊や飛行場・陣地建設用の海軍設営隊、基地航空隊の地上要員などを輸送した。なお、帰路では日本本土へ避難する民間人も多く便乗している。 上記の陸軍部隊の派遣に関し、東條英機陸軍大臣兼参謀総長は情勢を見て輸送船一隻ごとに慎重な判断をし、不可能と見れば直ちに中止すると言明していた。これは、参謀本部主導の陸軍部隊追加派遣に対し陸軍省側は手遅れで危険だと反対していたため、双方に配慮した方針だった。 ==作戦経過== ===東松輸送=== ====東松1号船団==== 東松輸送の第一陣となる東松1号船団は、大海指第346号による松輸送の発令前に編成された船団で、当初は第3301船団の名で呼ばれた。甲船団と乙船団の2個梯団に分かれており、前者は基準速力10ノットの輸送船3隻と護衛艦3隻、後者はより低速の8ノット級輸送船3隻と護衛艦3隻の編制であった。輸送船はほとんどが海軍徴用船である。 第3301船団は3月4日に父島に寄ったところで松船団の指定を受けた。先発の甲船団は3月5日に父島を出港し、12日にサイパンに到着した。後発の乙船団は3月7日に父島を出港し、14日にトラック島へ到着した。いずれも損害はなかった。 ===東松2号船団=== 2回目の東松輸送である東松2号船団は、第31軍司令部や派遣隊多数を含む重要船団で、当初から松船団として運航された。加入輸送船は12隻、直衛は乙直接護衛部隊の9隻で、軽巡龍田を旗艦とし駆逐艦4隻を含む強力な陣容だった。さらに、前路哨戒のために水雷艇1隻・掃海艇2隻・漁船7隻も協力した。船団速力は8.5ノットである。船団の重要性にかんがみ、航空支援を担当する松2号特別哨戒飛行隊(陸上攻撃機5機・大型飛行艇3機・艦上攻撃機6機)が第901航空隊と第903航空隊から集成された。同飛行隊は、海上護衛総司令部参謀副長の島本久五郎少将の指導の下、船団の行動に合わせて硫黄島やサイパン島などの陸上基地に進出し、対潜哨戒にあたることになった。 3月9日に東京湾に集結した船団は横須賀で船団会議を開き、翌10日は湾内での訓練に充てた後、出航を一日延期して12日未明に木更津沖錨地を出撃した。ところが出航翌日の13日午前3時頃、八丈島西南西74km付近で船団はアメリカの潜水艦サンドランスから発見された。当時、風速10m前後の強風と波浪のため海上は視界不良で、日本側は奇襲攻撃を許してしまった。サンドランスの放った魚雷は旗艦龍田と船団運航指揮官乗船の国陽丸(大阪商船:4607総トン)に相次いで命中し、いずれも沈没した。サンドランスはさらに1隻の輸送船撃沈を報じているが、日本側に該当記録はない。龍田の第11水雷戦隊司令部は駆逐艦野分に移乗して指揮を継続したが、国陽丸の運航指揮官近野信雄大佐は退艦せずに戦死した。その後は敵潜水艦らしきものを爆雷で制圧しつつ安全に航行し、18日にパガン島行きの高岡丸(第1派遣隊乗船)を分離、19日にサイパンへと入港した。カロリン諸島のエンダービー島(現在のプルワト環礁)やトラック島へ向かう船は、船団を離れて第二海上護衛隊の指揮下で航海を続け、無事に目的地へ部隊を揚陸した。 復航船団は、3月20日の命令で輸送船14隻と護衛艦7隻により編成された。24日にサイパンを出港し、運送艦宗谷が故障で離脱したほか、4月1日に無事に東京湾に到着した。 ===東松3号特船団=== 東松3号特船団は、海軍徴用の優秀輸送船3隻と護衛の第31駆逐隊(駆逐艦3隻)で構成された。本船団は、海上護衛総司令部の命令で他の船団から独立して運航されることになったものであった。3月20日に第31駆逐隊司令の指揮で館山湾を出撃し、25日にサイパン行きの貨物船山陽丸を分離、29日にトラック島へ到着した。 トラック在泊中はB‐24爆撃機により連日の爆撃を受けたが、特に被害はなかった。復路はトラック=サイパン間は第4401船団(駆逐艦・駆潜艇各1隻護衛)、サイパン=横浜間では第4407船団(海防艦1隻・駆潜艇2隻護衛)と呼称され、4月12日に横浜に帰着した。 ===東松3号船団=== 東松3号船団は8ノットの低速船団で、海軍徴用船を中心とした輸送船12隻と護衛艦10隻で編成された。護衛部隊は、軽巡「夕張」を旗艦とする第1特設船団司令部(司令官:伊集院松治少将、後に第1護衛船団司令部に改称)が指揮し、今回も駆逐艦3隻・海防艦2隻など強力であった。 3月22日に船団は東京湾から出航、28日にパラオ行き船団6隻(駆逐艦1隻・海防艦2隻護衛)を分離し、船団本隊は30日にサイパンへ到着した。この間、25日に護衛の第54号駆潜艇がアメリカの潜水艦ポラックの雷撃によって撃沈されたが、輸送船に被害はなかった。パラオ行き船団は、アメリカ海軍第58任務部隊によるパラオ大空襲の情報を受けて引き返し4月2日にサイパンへ碇泊したが、再出航して4月14日にパラオへと無事に到着した。 復航船団は輸送船4隻と護衛艦6隻で4月3日にサイパンを出港、4月10日に横須賀へ無事に帰還した。 駆逐艦「雷」はサイパンからメレヨン島への輸送作戦の帰路の4月13日にアメリカの潜水艦ハーダーの雷撃により沈没した。また軽巡「夕張」はパラオからソンソル島への輸送作戦の帰路の4月27日にアメリカの潜水艦ブルーギルの雷撃により沈没した。 ===東松4号船団=== 次の東松4号船団は輸送船26隻(途中でさらに2隻加入)と丁直接護衛部隊の護衛艦10隻から成る松輸送で最大の船団であった。船団は、第2護衛船団司令部(司令官:清田孝彦少将)の指揮の下、4月1日に東京湾を出発、8ノットの低速で小笠原群島・火山列島の列島線西側沿いに南下した。船団は早くからアメリカ潜水艦の接触を受け、護衛艦や直援機が爆雷投下を頻繁に行った。3日午後3時頃、貨物船の東征丸(岡田商船:2814総トン)がアメリカの潜水艦ポラックの発射した魚雷2発を受け、1時間ほどで沈没、搭載物資の弾薬と食糧が失われた。同日には、貨物船はあぶる丸(大阪商船:5652総トン)もアメリカの潜水艦から雷撃され、魚雷1発が命中したが不発弾であった。 8日未明、サイパン北西洋上に差し掛かった船団は新手のアメリカの潜水艦トリガーから発見され、トリガーの魚雷4発を打ち込まれたが命中弾は無かった。駆逐艦朝凪と海防艦隠岐が逆に爆雷攻撃により敵潜水艦撃沈確実を報じたが、トリガーは各部に損傷したもののなんとか逃げのびていた。同日夕刻、パラオ行き船団が分離した。なお、トリガーは翌9日にも対潜攻撃を受けて損傷するが作戦行動を続け、後述のように東松5号復航船団を襲撃することになった。 サイパン到着目前となった船団本隊であったが、9日16時過ぎにサイパン西方75km付近でアメリカの潜水艦シーホースの攻撃を受け、美作丸(日本郵船:4667総トン)が被雷し10日に沈没。海軍軍人・軍属1069人中と船員のうち18人が戦死し、物資1440トンが海没した。なお、シーホースは前日にグアム沖で松江丸(西松2号船団でパラオ着)などの船団を襲って輸送船2隻を沈めていた。結局、2隻の沈没船はあったもののそれ以外の東松4号船団の各船は無事に目的地に到着した。 東松4号復航船団は4月14日に編成され、輸送船8隻と護衛艦4隻でサイパンを出港、輸送船1隻が故障脱落した以外は23日に東京湾へと帰還できた。 ===東松5号船団=== 東松5号船団は、輸送船5隻と戊直接護衛部隊の護衛艦4隻(駆逐艦皐月、海防艦笠戸、海防艦満珠、第4号駆潜艇)で編成され第3護衛船団司令部(司令官:鶴岡信道少将、皐月座乗)が指揮した。第14師団と第35師団第一次輸送部隊という精鋭地上部隊をパラオまで送る重要任務のため、輸送船は全て優秀船で揃えられており、船団速力14ノットという高速船団であった。 輸送船3隻(能登丸、阿蘇山丸、東山丸)は3月26日に大連で集結、第十四師団の将兵が乗船する。3月28日、大連を出発。歩兵第2連隊長中川州男大佐は能登丸に乗船した。3月30日には鎮海(朝鮮半島)で、青島から来た三池丸が合流する。 4月7日未明、東松5号船団は館山湾を出撃。敵機動部隊を警戒して10日から18日まで父島で待機した後、南下を再開して24日にパラオへ到着した(全航海日程27日)。 急速揚陸を終えた東松5号復航船団は、引き揚げの民間人や軍人等を乗せ、4月26日にパラオを出航した。だが、翌27日未明にアメリカの潜水艦トリガーの攻撃を受けた。東松4号船団を襲った時には撃退されてしまったトリガーだったが、今度は貨客船三池丸(日本郵船:11738総トン)、貨物船阿蘇山丸(三井船舶:8811総トン)、三池丸救援中の海防艦笠戸に次々と魚雷を命中させた。東山丸にも命中していたが、不発だったという。三池丸は便乗者752人などが総員退去となり、放棄された船体は29日に沈没した。船団はパラオに引き返し、4月28‐29日に健在な輸送船2隻(能登丸、東山丸)と護衛艦で再編成されて出航。5月4日、日本に到着した。5月5日、横浜港到着。損傷した阿蘇山丸は30日に再出航してダバオに向かったが、5月1日にアメリカの潜水艦ブルーギルの魚雷攻撃を受けて被雷沈没した。 ===東松6号船団=== 東松6号船団は、輸送船18隻と乙直接護衛部隊の護衛艦12隻で編成され、第7護衛船団司令部(司令官:松山光治少将)が指揮した。第7護衛船団司令部では、往路を松6号船団、復路を東松06船団と呼んでいる。乗船部隊は、トラック島空襲時に海没した第52師団歩兵第150連隊の補充要員などであった。東松6号船団は船団速力8.5ノットで、4月15日に東京湾を出発した。17日に駆逐艦卯月が通りがかった機帆船と衝突事故を起こし、機帆船を沈没させるハプニングがあった。18日に父島行きの輸送船2隻を、敷設艇由利島と巨済の護衛で分離した。船団本隊は23日朝に無事にサイパンへ到着し、その他の行き先の船もすべて無事に目的地へ到着した。 復路は輸送船14隻と護衛艦7隻で、4月27日にサイパン出港、5月4日に東京湾に無事に到着した。 なお本船団の航行中、アメリカの潜水艦ガジョンが付近で行方不明となっている。4月18日に本船団援護の第901航空隊の九六式陸上攻撃機が爆撃により撃沈した可能性が指摘されるほか、4月20日朝にも本船団直衛の第20号掃海艇と第6号海防艦が航空機と協同で対潜攻撃を行い効果甚大と報告している。 ===東松7号船団=== 東松7号船団は主にサイパン向けの輸送船15隻と護衛艦6隻で構成され、第5護衛船団司令部(司令官:吉富説三少将)が指揮した。船団速力8.5ノットで4月28日朝に東京湾を出た船団は、父島行きの船を途中分離しつつ進み、5月6日にサイパンへ無事到着した。カロリン諸島行きの船は、サイパンで輸送船仁山丸と動力艇を追加した新たな船団を編成し、第12号海防艦など3隻の護衛でそれぞれの目的地へ到着している。第128号特設輸送艦と第150号特設輸送艦は、同月13日にパラオ付近で機雷に接触損傷した。 本船団の復路は松輸送外の第3503船団の復航と合同で第4517船団を編成し、輸送船5隻・護衛艦3隻で5月17日にサイパンを出港。護衛部隊旗艦である駆逐艦「朝凪」を失ったものの、輸送船に被害はなく帰還した。 ===東松8号船団=== 松輸送を通じて最終便となった東松8号船団は、絶対国防圏の要と位置付けられたサイパンに守備隊の中核となる第43師団主力を輸送する最重要船団であった。そのため、本船団の運航には松輸送の中でも特別の配慮が向けられることになった。加入する輸送船3隻(能登丸、東山丸、さんとす丸)は船団速力12ノットを出せる高速船で揃えられ、護衛部隊も輸送船より多い4隻が付き、東松5号船団で経験を積んだ第3護衛船団司令官の鶴岡少将(旗艦皐月)が指揮官に任命された。横須賀鎮守府は低速輸送船1隻を追加しようとしたが、鶴岡少将らによって拒絶された。 5月13日、輸送船3隻は横浜を出発し、館山湾で仮泊。護衛艦4隻(駆逐艦皐月、海防艦天草、第四号海防艦、第六号海防艦)を加え、5月14日早朝、東松8号船団は館山湾を出撃した。船団は鶴岡少将らの判断で従来の松輸送とは異なり小笠原諸島を離れた洋心航路を採って、高速で南下した。洋心航路を選んだ理由は、小笠原の陸上航空部隊はレーダーを欠き夜間捜索能力に劣るうえ連日の作戦で疲労していることから、航空援護を期待するより、通常航路を外れることで敵潜水艦を回避する方が効果的であると考えたためであった。折しも悪天候に見舞われ、能登丸(陸兵4000名乗船)では将兵が船酔いに悩まされることになった。目論見通り敵潜水艦に遭遇することはなく、船団は5月19日に無傷でサイパンに到着した。アメリカ潜水艦の攻撃を心配していた大本営陸軍部作戦課は、本船団の無事な到着を聞くと万歳して喜んだという。 復航船団は、同じ輸送船3隻(能登丸、東山丸、さんとす丸)を護衛艦艇3隻(海防艦能美、海防艦隠岐、第32号駆潜艇)で護衛して5月20日に出航、被害を受けることなく5月26日に横浜港に帰着した。 ===西松輸送=== 西松船団は既存の一般船団に組み込む形で2便だけが運航された。門司から高雄まではモタ船団、高雄からパラオまではタパ船団としての運航になった。西松1号船団(モタ06船団・タパ04船団)と、西松2号船団(モタ09船団・タパ06船団)のいずれも、後者で1隻が故障脱落して後日到着となったほか特に損害を受けずに無事にパラオまで到着した。うち、西松2号船団は、パラオ入港直前の3月26日にアメリカの潜水艦タリビーの魚雷攻撃を受けたが、発射魚雷の自爆により逆にタリビーが沈没している。 なお、西松2号船団到着から間もない3月30日と31日に、パラオ基地はアメリカ海軍第58任務部隊によるパラオ大空襲で手痛い打撃を受けた。西松2号船団で到着した艦船のうち、貨物船の忠洋丸と駆逐艦若竹、第31号哨戒艇も撃沈されている。貨物船の松江丸は最終目的地のメレヨン島へ別船団で向かい、無事に到着したが帰路で撃沈された。 ==作戦結果== 5月19日サイパン着の東松8号船団をもって松輸送は予定の運航を終えた。松輸送への加入輸送船の損害は少数で、作戦は日本側の期待を越える成功を収めた。往航松船団に加入した輸送船のべ100隻以上のうち、損失は3隻にとどまり、特に陸軍の軍隊輸送船の沈没は1隻も無かった。護衛艦の損失も2隻だけだった。この点、アメリカ海軍の準公式戦史の執筆者であるサミュエル・モリソンは、松輸送外の第3530船団の例を引き、アメリカ太平洋艦隊が制海権を奪取したため、日本軍は4月以降サイパンの防備を増強できなかったと主張している。しかし、前述の数値からすれば、アメリカ軍が日本の輸送作戦を有効に妨害することができなかったのは確かと見られる。ただし、松輸送としての運行区間より先の最終目的地に至る区間での損失や、復航松船団など帰路での船舶被害による輸送力の消耗も考慮すると、完璧な成功とまでは言えないとの評価もある。 松輸送の成功、なかでも東松8号船団での第43師団主力の無傷でのサイパン到着は、当時の日本陸軍上層部により絶対国防圏の守備を盤石にするものと考えられた。東條参謀総長は、大本営での打ち合わせ席上、「海軍の努力によりわずかな損失だけでマリアナ諸島へ予定の兵力展開が終わり、サイパンは難攻不落になったので安心してほしい」旨の謝辞を中澤佑軍令部第一部長らに述べるほどだった。しかし、後述のように別船団で運ばれた後続部隊が海没してしまったうえ、築城資材も不足気味であった。完全な戦力発揮には、もう2‐3カ月間の準備期間が必要だった。本来は1944年春に配置が終わっているべき部隊で時期的に手遅れだったのであり、本作戦の成功が6月15日からのサイパン地上戦における日本軍の勝利に結びつくことはなかった。一方、東松5号船団によって無事にパラオへ到着した第14師団は、アメリカ軍上陸まで約4カ月の準備期間があったため、ペリリューの戦いで善戦することができた。 なお、松輸送の終了後も中部太平洋方面への増援部隊輸送は続けられたが、こちらは大きな損害を出す結果に終わった。5月中に第3503船団や第43師団の後続部隊を積んだ第3530船団などの重要船団がサイパンに向けて出航し、多数の輸送船をアメリカ潜水艦の攻撃で失っている。6月に入って出航した第3606船団は旗艦の駆逐艦松風が撃沈され、中止となった。アメリカ軍上陸4日前の6月11日にサイパン所在の残存船舶は脱出を試みたが、第4611船団など多数が第58任務部隊の事前空襲に捕まり撃沈されている。 ==他の海上護衛への影響== 松輸送の実施は、日本の海上輸送護衛全般に対しても良い影響を与えた。 重要作戦輸送ということで軍令部が多大な便宜を図り、連合艦隊もこれまでになく積極的な協力を行ったため、海上護衛総司令部は兵器や人材を充実することができた。海上護衛総司令部参謀だった大井篤によれば、その波及効果があってこそ、ヒ船団などの南方資源航路での大船団主義も軌道に乗せることができたという。松輸送用に創設された特設護衛船団司令部の制度は、常設の参謀や直属兵力を持たず部隊としての連帯が醸成しにくい欠点はあったものの、その後のヒ船団などでの大船団指揮へも流用されることになった。 松輸送では連合艦隊からの応援要員も含め多数の幕僚が護衛の現場を体験した。そこで、作戦終了からすぐの6月12日に、軍令部第12課(防備・通商保護担当)主催により、東松船団を中心に重要護送船団の運航に携わった幕僚を集めた報告会が実施された。日本海軍が護衛船団幕僚を集めたこの種の研究会を実施するのは史上初めてで、報告された貴重な体験資料は『護衛船団幕僚体験談摘録』として編集され、関係各方面に配布された。 ==松船団一覧== 以下はすべて往路の編制である。復路では輸送船・護衛艦とも変動がある。沈没した艦船の船名は、往航松船団での損失を太字表記、復航松船団での損失を斜体字表記とした。 ===東松船団=== ====東松1号船団(第3301船団) ==== 3月1日横浜発、甲船団は3月12日トラック着、乙船団は3月14日トラック着。甲船団 輸送船 ‐ 辰春丸、備後丸、慶洋丸 護衛艦 ‐ 海防艦隠岐、同満珠、特設駆潜艇第8拓南丸輸送船 ‐ 辰春丸、備後丸、慶洋丸護衛艦 ‐ 海防艦隠岐、同満珠、特設駆潜艇第8拓南丸乙船団 輸送船 ‐ 射水丸、豊光丸、「神福丸」 護衛艦 ‐ 敷設艇由利島、特設砲艦那智丸、特設掃海艇鳥島丸輸送船 ‐ 射水丸、豊光丸、「神福丸」護衛艦 ‐ 敷設艇由利島、特設砲艦那智丸、特設掃海艇鳥島丸 ===東松2号船団 === 3月12日東京湾発、3月19日サイパン着。20日にカロリン諸島行きの船は船団から除外された。輸送船 マリアナ諸島行き ‐ 高岡丸、日美丸、但馬丸、美保丸、安房丸、大天丸、柳河丸、玉鉾丸、国陽丸 カロリン諸島行き ‐ 対馬丸、あとらんちっく丸、「第一眞盛丸」マリアナ諸島行き ‐ 高岡丸、日美丸、但馬丸、美保丸、安房丸、大天丸、柳河丸、玉鉾丸、国陽丸カロリン諸島行き ‐ 対馬丸、あとらんちっく丸、「第一眞盛丸」護衛艦 軽巡洋艦龍田(旗艦:第11水雷戦隊司令官 高間完少将座乗) 駆逐艦 ‐ 野分、朝風、夕凪、卯月 その他 ‐ 海防艦平戸、第20号掃海艇、敷設艇測天、同巨済、特設掃海艇鳥島丸軽巡洋艦龍田(旗艦:第11水雷戦隊司令官 高間完少将座乗)駆逐艦 ‐ 野分、朝風、夕凪、卯月その他 ‐ 海防艦平戸、第20号掃海艇、敷設艇測天、同巨済、特設掃海艇鳥島丸乗船部隊 ‐ 第31軍司令部、第1派遣隊、第3派遣隊、第5派遣隊、第6派遣隊、第8派遣隊、高射砲第25連隊主力、野戦高射砲第52大隊、歩兵第18連隊後続部隊 ===東松3号特船団 === 3月20日館山発、3月28日トラック着。輸送船 ‐ 浅香丸、山陽丸、さんとす丸護衛艦 ‐ 駆逐艦岸波、沖波、朝霜 ===東松3号船団 === 3月22日東京湾発、3月30日サイパン着。パラオ行きは4月14日パラオ着。輸送船 サイパン行き ‐ 広順丸、明隆丸、第11星丸、第1日正丸 パラオ行き ‐ 辰浦丸、乾安丸、富津丸、長白山丸、南洋丸、給糧艦早埼サイパン行き ‐ 広順丸、明隆丸、第11星丸、第1日正丸パラオ行き ‐ 辰浦丸、乾安丸、富津丸、長白山丸、南洋丸、給糧艦早埼護衛艦 軽巡夕張(旗艦:第1護衛船団司令官 伊集院松治少将座乗) 駆逐艦 ‐ 旗風、玉波、雷 その他 ‐ 水雷艇鴻、海防艦平戸、同能美、第48号駆潜艇、第51号駆潜艇、第54号駆潜艇軽巡夕張(旗艦:第1護衛船団司令官 伊集院松治少将座乗)駆逐艦 ‐ 旗風、玉波、雷その他 ‐ 水雷艇鴻、海防艦平戸、同能美、第48号駆潜艇、第51号駆潜艇、第54号駆潜艇 ===東松4号船団 === 4月1日東京湾発、4月10日サイパン着。輸送船 サイパン行き ‐ 松運丸、東岡丸、第8雲洋丸、多佳山丸、秋川丸、幸光丸、白峰丸、台海丸、加古川丸、まかっさ丸、第149号特設輸送艦(5日に合流。護衛艦兼) グアム行き ‐ 美作丸、東安丸、安土山丸、日秀丸 トラック行き ‐ 昭瑞丸、建部丸、志摩丸、神洋丸、はあぶる丸、給糧艦杵埼、共栄丸(サイパンで加入) パラオ行き ‐ 天龍川丸、大安丸、第五眞盛丸、東征丸、給糧艦間宮 ヤップ島行き ‐ 神靖丸サイパン行き ‐ 松運丸、東岡丸、第8雲洋丸、多佳山丸、秋川丸、幸光丸、白峰丸、台海丸、加古川丸、まかっさ丸、第149号特設輸送艦(5日に合流。護衛艦兼)グアム行き ‐ 美作丸、東安丸、安土山丸、日秀丸トラック行き ‐ 昭瑞丸、建部丸、志摩丸、神洋丸、はあぶる丸、給糧艦杵埼、共栄丸(サイパンで加入)パラオ行き ‐ 天龍川丸、大安丸、第五眞盛丸、東征丸、給糧艦間宮ヤップ島行き ‐ 神靖丸護衛艦 駆逐艦 ‐ 五月雨(旗艦:第2護衛船団司令官 清田孝彦少将座乗)、朝凪(4月2日以降) 海防艦 ‐ 隠岐、天草、御蔵、福江、第2号海防艦、第3号海防艦 その他 ‐ 水雷艇鵯、第50号駆潜艇駆逐艦 ‐ 五月雨(旗艦:第2護衛船団司令官 清田孝彦少将座乗)、朝凪(4月2日以降)海防艦 ‐ 隠岐、天草、御蔵、福江、第2号海防艦、第3号海防艦その他 ‐ 水雷艇鵯、第50号駆潜艇乗船部隊 ‐ 第2派遣隊、戦車第9連隊、独立工兵第7連隊、船舶工兵第16連隊 ===東松5号船団 === 4月7日館山発、4月24日パラオ着。輸送船 ‐ 阿蘇山丸 、能登丸、東山丸、三池丸 、特設給油船清洋丸護衛艦 駆逐艦皐月(旗艦:第3護衛船団司令官 鶴岡信道少将座乗) 海防艦 ‐ 満珠、笠戸、第4号海防艦駆逐艦皐月(旗艦:第3護衛船団司令官 鶴岡信道少将座乗)海防艦 ‐ 満珠、笠戸、第4号海防艦乗船部隊 ‐ 第14師団、第35師団第一次輸送隊 ===東松6号船団 === 4月15日東京湾発、4月23日サイパン着。カロリン諸島行きの各船も無事に到着。輸送船 マリアナ諸島行き ‐ 淡路丸、日鳥丸、勝川丸、高岡丸、ばたびや丸、安房丸、北辰丸、稲荷丸、利根川丸、第2動力艇(4月19日より同行) カロリン諸島行き ‐ 第2号長安丸、第18御影丸、じょくじゃ丸、美山丸、仁山丸、神島丸、祥山丸 父島行き ‐ 辰昭丸、玉鉾丸マリアナ諸島行き ‐ 淡路丸、日鳥丸、勝川丸、高岡丸、ばたびや丸、安房丸、北辰丸、稲荷丸、利根川丸、第2動力艇(4月19日より同行)カロリン諸島行き ‐ 第2号長安丸、第18御影丸、じょくじゃ丸、美山丸、仁山丸、神島丸、祥山丸父島行き ‐ 辰昭丸、玉鉾丸護衛艦 駆逐艦 ‐ 帆風(旗艦:第7護衛船団司令官 松山光治少将座乗)、夕凪、卯月 海防艦 ‐ 三宅、第6号海防艦、第10号海防艦 敷設艇 ‐ 猿島、巨済、由利島 その他 ‐ 第20号掃海艇、第28号掃海艇、第10号駆潜艇、第12号駆潜艇駆逐艦 ‐ 帆風(旗艦:第7護衛船団司令官 松山光治少将座乗)、夕凪、卯月海防艦 ‐ 三宅、第6号海防艦、第10号海防艦敷設艇 ‐ 猿島、巨済、由利島その他 ‐ 第20号掃海艇、第28号掃海艇、第10号駆潜艇、第12号駆潜艇乗船部隊 ‐ 歩兵第150連隊補充員(700人)、独立自動車中隊2個、独立高射砲中隊3個(計18門) ===東松7号船団 === 4月28日東京湾発、5月6日サイパン着。復航は第4517船団として運航。輸送船 サイパン行き ‐ 辰春丸、御嶽山丸、朝日山丸、沖縄丸、山球丸、備後丸、明隆丸、門司丸、美保丸 カロリン諸島行き ‐ 浅香丸、興新丸、睦洋丸、第128号特設輸送艦、第150号特設輸送艦 父島行き ‐ 台東丸サイパン行き ‐ 辰春丸、御嶽山丸、朝日山丸、沖縄丸、山球丸、備後丸、明隆丸、門司丸、美保丸カロリン諸島行き ‐ 浅香丸、興新丸、睦洋丸、第128号特設輸送艦、第150号特設輸送艦父島行き ‐ 台東丸護衛艦 海防艦 ‐ 能美(旗艦:第5護衛船団司令官 吉富説三少将座乗)、第12号海防艦、第18号海防艦、第22号海防艦 駆潜艇 ‐ 第16号駆潜艇、第18号駆潜艇海防艦 ‐ 能美(旗艦:第5護衛船団司令官 吉富説三少将座乗)、第12号海防艦、第18号海防艦、第22号海防艦駆潜艇 ‐ 第16号駆潜艇、第18号駆潜艇 ===東松8号船団 === 5月14日館山発、5月19日サイパン着。輸送船 ‐ 能登丸、東山丸、さんとす丸護衛艦 駆逐艦 ‐ 皐月(旗艦:第3護衛船団司令官 鶴岡信道少将座乗) 海防艦 ‐ 天草、第4号海防艦、第6号海防艦駆逐艦 ‐ 皐月(旗艦:第3護衛船団司令官 鶴岡信道少将座乗)海防艦 ‐ 天草、第4号海防艦、第6号海防艦乗船部隊 ‐ 第43師団主力 ===西松船団=== ====西松1号船団(モタ06船団、タパ04船団) ==== モタ06船団(第8運航指揮官:山本雅一中佐指揮)として2月26日門司発、3月4日高雄着。タパ04船団として3月7日高尾発、3月14日パラオ着。輸送船 ‐ 呉山丸、大誠丸、白濱丸、ほか高雄まで7隻同行、高雄から別の3隻が同行護衛艦 門司・高雄間 ‐ 海防艦淡路 高雄・パラオ間 ‐ 駆逐艦朝顔、同浜波、水雷艇鷺門司・高雄間 ‐ 海防艦淡路高雄・パラオ間 ‐ 駆逐艦朝顔、同浜波、水雷艇鷺 ===西松2号船団(モタ09船団、タパ06船団) === モタ09船団(第1運航指揮官:竹下志計理大佐指揮)として3月8日門司発、3月15日高雄着。タパ06船団として3月20日高尾発、3月27日パラオ着。輸送船 ‐ 松江丸、はんぶるぐ丸(高雄で故障除外)、忠洋丸、ほか高雄まで松輸送以外の12隻同行護衛艦 ‐ 駆逐艦若竹、第38号哨戒艇(高雄まで)、第31号哨戒艇(高雄から)、敷設艇前島(高雄から)乗船部隊 ‐ 第4派遣隊、第7派遣隊 =エル・タヒン= エル・タヒン (El Taj*7004*n)は、古典期後期 (A.D.600‐900) から後古典期前期 (A.D.900‐1200) まで繁栄した祭祀センターであり、世界遺産に登録されている考古遺跡の一つである。ベラクルス州、パパンテカ山塊 (Sierra Papanteca) の脇、パパントラの町の南西8kmにある、二つの渓谷の間の北緯20°38′35″、西経97°22′39″の地点に位置する。エル・タヒンという名称は、タヒンと呼ばれる12人の老人がこの遺跡に住んでおり、彼らは雷雨の神であるという地元のトトナク族の神話伝承に由来している。前述のように現在トトナク人が近隣に住んでいるため、トトナク人の建てた都市とされてきたが、最近の研究の成果に伴いマヤ系のワステカ人によって建設されたものではないかという説が有力になりつつある。 ==研究史== エル・タヒンの存在は、1785年にスペイン人技術者のディエゴ・ルイスによって初めて報告された。その後、1811年にドイツ人の地理学者で自然科学者であるアレクサンダー・フォン・フンボルトが訪れたのをはじめ、博物学に関心を持つ旅行家のファーザー・マルケス (Father Marques) 、写真家のテオベルト・マーラー (Teobert Maler) 、画家のCharles Nebelなどが訪れている。Nebelは、版画を1839年に公表している。エル・タヒンの石彫の図像研究を最初におこなったのは、エレン・スピンデンでその成果は1930年代のはじめごろに発表されている。アウグスティン・デ・ラ・ベガ (Agust*7005*n de la Vega) が壁龕のピラミッドの補強をはじめとして、エル・タヒンの建築物と石彫についての集成を作成している。1939年からJos*7006* Garicia Payonがエル・タヒンの北半分にあたるタヒン・チコのうち、南側の低い部分にある建造物A,B,C,D,Kとその南側に見下ろす位置にある壁龕のピラミッドをはじめ、3,4,5,15,23号の11ヶ所の建物の補強と復元を行なった際に、建物の層位的な前後関係と、テオティワカンの建造物との比較研究を行っている。 土器の研究は、ウィルフリッド・デュ・ソリエ (Wilfrido Du Solier) によって1939年からはじめられ、その成果は、1945年にINAHの年報で報告されている。その後Krotserによって1970年代にまで受け継がれ、土器の出土量から人口の推定も行われた。 さらに1984年にINAHとベラクルス大学によってProjecto Tajinとして測量、発掘調査を含めた全般的な調査と壁龕のピラミッドの修復が行われている。 ==編年== エル・タヒンの居住は、先古典期後期から原古典期ごろに始まり、全盛期にはその中核部59haに及ぶ都市に発展した。エル・タヒンを支える後背地には、数千haにわたって集落が散在していた。 先古典期後期から原古典期並行の時期には、壁龕のピラミッドと建造物4号の下層神殿が造られた。エル・タヒンの建築活動がさかんになるのは古典期前期からで、この時期に南半分の建設活動が行われた。その段階では、主軸方位は北から東へ20°ずれた方向に建造物が造られた。青いピラミッドと称される建造物3号が壁龕のピラミッドの前に造られた。 古典期前期のエル・タヒンの中央部には、「大広場」(Great Plaza) が設けられ、広場の東西南北は、アロヨ・グループ (Arroyo Group)と呼ばれる18,20,19,16号の四つのピラミッド神殿に囲まれている。そのまわりには、二つの球戯場をはじめとして北から東へ20°ずれた方向どおりか垂直方向に建物が築かれている。この時期の建物は表面に石を張った内部に瓦礫のような充填物を詰めていて、先古典期終末ころの遺物を含んでいる。 古典期中期になるとタヒン・チコを中心とした北半分が建築活動の中心になり、建物の主軸方位は主として東へ45°傾いた方向に変わっていく。北の球戯場、Great Xicalcoliuhquiがタヒン・チコから東へ見下ろす位置に造られるが主軸方位は同じである。タヒン・チコ自体は、王や貴族、神官などの支配階層の居住区として、南半分からは意識的に切り離す形で建設された。南側では壁龕のピラミッドがこの時期に完成している。 エル・タヒンは、古典期後期から終末期にかけて全盛を迎えた。その当時は人口2万人に達したと推定され、エル・タヒンが建設された谷の低い部分やタヒン・チコの低い部分が埋め立てられる大規模な整地工事が行われた。そのような整地工事が行われた際には、古い建造物が埋められたり、その材料が使われた。例えば、タヒン・チコの中段にあたる基壇を調査すると、充填物の中から古典期前期の土器が出土するのはその好例である。この全盛期の年代については、整地工事の行われた年代は考慮されていないものの、ブリュッゲマン (Br*7007*ggemann) による復元調査プロジェクトで、ベラクルス州各地の古典ベラクルス文化の諸遺跡の年代から検証された、紀元800年から1150年という年代が与えられている。この年代は1930年代後半に行われた発掘調査によって層位が検証されてつくられたエル・タヒンの編年とも一致している。タヒン・チコは継続的に造成されたと思われ、分厚いコンクリートの覆いのなかから古典期後期から終末期を中心とする多量の土器が検出される。 しかし、この全盛期の直後、支配階層の宮殿などの建物やそういった建物に施された漆喰の浮き彫り、宗教的に聖とされる空間、記念碑、支配階層の権威を表す基壇の上に建てられた石碑、石彫などが意識的に破壊されたり、ひっこぬかれて別の場所に移動もしくは廃棄されていることがわかっている。 エル・タヒンの遺跡の表面では、古典期終末期から後古典期の土器が拾えるが、エル・タヒンの周辺部の居住区にともなうものと考えられる。後古典期の終わりごろになると、エル・タヒンの南半分の周辺部分にある建物が使われたことがわかっている。エル・タヒンの南半分に対し比高差30m(標高170m)で西側に位置する「西尾根地区」は、支配階層の倉庫と考えられ、そこから検出される遺物や炭化物のC14年代を測定すると古典期中期に相当する年代測定結果が得られている。 ==エル・タヒンの建築、美術、出土品など== エル・タヒンの大きな特徴は、ティカルのようにいくつかの通りで建造物のグループが結ばれたり、テオティワカンにみられるような大通りのようなものが存在しないことである。そこから考えられるエル・タヒンの都市計画思想は、エル・タヒン自体と外部を結びつけることは考えておらず、さまざまな大きさの空間をむすびつけて循環させるシステムであったと考える研究者もいる。一方で、発掘調査などの成果によって、熱帯気候の激しい雨から排水するシステムなど建物を保護するための構造があったことが明らかになっている。 ===建造物の全般的な特徴=== エル・タヒンの建築物は、斜面状の基壇の上に長方形の基壇を載せたいわゆるタルー・タブレロ基壇の上にタルー部分をそっくり逆さにしたような“ひさし”状の部分を付けることにひとつの特徴がある。もうひとつ目立った特徴として、タブレロ部分に装飾的なニッチ(壁龕)を用いていることが挙げられる。かってそのような神殿の外壁には漆喰が被せられていた。エル・タヒンの階段状ピラミッドは、表面を切り石で覆って、内部に土と荒石を用いて、長方形の「広場」を囲むように建てられていることが多い。エル・タヒンのピラミッド基壇は、石灰岩で造られ、石材を繋ぐ目地部分には一種のセメントが用いられ、建物全体は、たいてい赤色に塗られたが、黄色や青が使われることもあった。建物の継ぎ目などからはみ出そうとしているセメント(凝固材)をバスケット(編みかご)や木の葉を使って押し付けている痕跡を見ることができる。建造物を造る際の土やセメントを運ぶのにバスケットを使っていたことを窺わせるものである。 両脇に欄干状の施設をもつ階段が正反対の方向に対になってつくられ、欄干の部分には、階段状の文様や格子状の文様が施された。階段の真ん中部分には建物のタブレロ部分をまねたような壁龕をもつ施設が何段にもわたって造りつけられている。この造り出しは構造的には神々のいる異界、天界など聖なる場所へ向かっていく儀式に使われた施設と考える研究者もいる。このような建造物の特徴は、エル・タヒンの衛星都市と思われる遺跡やベラクルス州の古典期の遺跡にみられる。 また、王、貴族、神官などの支配階層の居住区ないし行政的な機能をもつと推定される施設の建物の近くには球戯場が設けられている。球戯場は壁面が直立しているもの、壁面が斜面になっている部分のうえに垂直な部分設けられているもの、二つの基壇が向かい合っているものなどがみられる。しかし、ボールを入れるための「輪」がみられないため、マイケル・コウなどの研究者は、「アチャ(斧)」がその代用として球戯場の得点をつけるためにおかれた標的だったのではないかと考えている(コウ1975,p.137)。 タヒン・チコは、小高くなった自然地形を利用し、標高150mから170mの部分に建造物AからVまでのピラミッドや神殿が築かれている。テラス状に小高くなった自然地形を利用し1mごとに幾層にも積み重ねられて、この都市全体で最も壮大な支配階層の居住区及び行政的な建築物が集中している。タヒン・チコの建物の表面はアスファルトで塗り固められている。 エル・タヒンの建築物には、もともとは塗色されており、ほかには装飾として壁画、レリーフが施されている。たいていは赤く建物を塗っていたが、建造物3号にみられるように青を全体に塗ったり、部分的に青や黄色が使われることもあった。そのほかには幾何学的な文様や壁龕を強調する場合に、色を対照的に使い分けていることがある。 「壁龕のピラミッド」は、六段の基壇を持ち、現在高さ20mが残存している。建造時の古典期中期から後期の段階ではもっと高く、全体的に赤く塗られていて欄干部分は青く塗られていたと考えられている。現在は失われている基壇の上にはもともと神殿がありその壁龕の数と基壇のタブレロ部分の壁龕の数、さらに入り口部分の壁龕の数を加えると365になり、それぞれの壁龕は、太陽暦の特定の日を表していたと考えられ、それぞれの日に宗教的な意味合いがあるために象徴的に赤や青などの色で塗り分けられていたと考えられている。内面、外面及び階段全体は漆喰画法や乾いた石膏に色を塗る技術によって多彩色な壁画で彩られていた。 「壁龕のピラミッド」の周囲からは、マヤの王に酷似したような正面を向いた王の姿を丸彫りにした石彫が検出されたり、エル・タヒンの先祖の王が神々に扮している姿や神聖な儀式に関するレリーフが刻まれた石板が集中していることから、研究者たちは、一種の「聖域」であったのではないかと考えている。 ===壁画=== 壁画の題材は、階段状の雷文や渦巻き文様のような幾何学文だけでなく、数は多くないが神々が人間の姿を模して描かれたるような神話のようなひとつの物語を表現したもの、歴史上のできごとを表現しているとおもわれるものもみられる。壁画の優品は主としてタヒン・チコにある貴族階層が使用した建物の内壁に見られる。 壁画が詳細に描きこまれた建物は重要なものであったと考えられる。一番保存状態が良好なのは、タヒン・チコの建造物Jの中央部にある支配階層が会合につかったと思われるU字状の部屋にある壁画である。描かれているものは超自然的な存在であると思われ、羽毛つきの頭飾りをした「神」とマスクをつけた「神」が交互に組になって描かれている。また、本来どこの場所にあったのかはわからないが軍勢がのぼりや槍をもち行列をつくって威儀をただしているような場面や儀礼の際の重要な持ち物をもっている人物が並んでいる様子を描いた壁画の破片も存在する。 ===エル・タヒンの石彫及び遺物=== エル・タヒンの建造物、石彫、土器、土偶などの土製品は、塗色したり、二重の輪郭線を用いたり浅い浮き彫りを施している。渦巻きや曲線を用いた意匠や羽毛などが彫刻や壁画に描かれた人物がまとう頭飾りや衣裳につけられる装身具として描かれるほか、建物や動物、植物を表現したものもみられるが、いずれも儀式や神々を表現する文脈で描かれている。 エル・タヒンでは、破壊や後述するような建物の「更新」が行われたので、石材の中には、再利用されたり、もともとの場所から遠くまで動かされたと思われるものが見られる。たとえば、神殿の階段の基部に投捨てられたような状態で発見された玄武岩を用いた石柱などがみられ、もともと原位置にあったのではないことが明らかである。マヤ遺跡で見られるように独立して建てられた石彫も球戯場を含め遺跡のなか散見される。後述する「円柱の館」や球戯場には、壁面に埋め込まれたみごとな彫刻が見られ、特に南球戯場のものは圧巻である。 ===エル・タヒンの土器と土偶=== 先古典期末段階で、古典期のエル・タヒンの特徴的なカオリンを含むネガティブ技法の祖形になる土器がトレス・サポーテスやセロ・デ・ラス・メーサスで現れる。 古典期前期から中期の整地層にテオティワカン独特の円筒型三足土器やカンデレロなどといっしょに黒色土器が共伴している。カオリンを含む白い下地をネガティブ技法によって黒く塗られた表面から浮き立たせる。この土器は、この時期普通に使われ、後古典期まで続く。土偶については土が充填されている、ないし内部が空洞ではない土偶である。 黒色、橙色、赤色に器面が磨かれ 口縁部が花を開くように外反する平底の鉢やolla(なべ)と呼ばれる巨大な甕がエル・タヒンを含めたベラクルス地方の広い地域にわたって普遍的かつ多量に出土する。 粗い外面を持ち赤みを帯びた橙色で平底のたらい状の土器は、トルティージャを食べるために用いた器と考えられ、時期が降るにつれて内面を塗色しなくなる。支配階層の居住区から球形をしていて焼成の良好な胎土で造られた三足土器がみられる。そういった土器の外面には数字や名前と一緒に儀礼の方法を表現したと考えられるレリーフが刻まれていることもある。破片としてよく発見されるのは底部の砕片、底部から胴部にかけての部分、塗色され磨かれた肩の部分などである。 古典期の終末から後古典期にかけては、胎土の良質で、器面をまず白く塗ってから橙色に塗り、表面を掻き落して下塗りの白い色を刻線状にみせる土器(イスラ・デ・サクリフィシオスI式)が造られる。土偶は、鋳型を使うようになって、中空になっているものが目立つようになる。またSonrientes(にこやかな表情)と呼ばれる微笑を浮かべたタイプのものが、エル・タヒンとパパロアパン流域を中心に分布している。後古典期独自の土器としては、後述する「円柱の館」からエル・タヒンの壁面彫刻にみられるように猿やコヨーテなどを描いた多彩色土器(トレス・ピコス*7008*式)や薄手で口縁部の開いた赤地黒彩(全体を赤く塗って黒い文様が付けられる)鉢などが多く見られる。後古典期の終わりごろにはベラクルス州北部からタマウリーパス州など、いわゆるワステカ人が住んでいた地方で見られる口縁部のひらいた赤地でクリーム色の文様の施された鉢が目立つようになる。 ==エル・タヒンにおける球戯の意味== ===王の代替わりに伴う建設活動と球戯場=== エル・タヒンの宗教、世界観を最もよく示すものは、球戯に関する儀礼の表現である。エル・タヒンに見られる球戯関連の表現はメソアメリカ全体から考えても非常に特徴的である。他地域の大規模な遺跡でも通常数か所しかない球戯場がエル・タヒンでは17ヶ所あることからもうかがわれる。その理由のひとつとして後述するように球戯自体が重要であるということのほかに、エル・タヒンの王が代替わりごとに既にある建物やプラザを「更新」した際に新たな建物以外にも球戯場を造っている様子がうかがわれる。 古典期中期には、北球戯場の一連の儀礼について刻まれた名の知られない王によって建造物4号や壁龕のピラミッドなどが造られたと考えられる。南球戯場の壁面レリーフに刻まれた王(支配者)は、南球戯場、神殿5号、球戯を観覧する建物である建造物15号といった一連の建物と建造物13号と14号で構成される球戯場を建設した。13ウサギと呼ばれる王の時代に、タヒン・チコの東側のふもとに位置する大球戯場と「円柱の館」が築かれた。建造物19号やアロヨ・グループと建造物34号と35号で構成される球戯場は、一体のものであって、古典期の終末つまり、エル・タヒンの全盛期の終わりごろに「更新」、つまり建て直されている。 エル・タヒンは、おびただしい量の石彫や建築物の浮き彫りなどに古典期ベラクルス文化における当時の宗教、イデオロギー、生活の様子など通常は形として残らない情報がみられるために非常に貴重な遺跡となっている。 ===球戯関連遺構と遺物のひろがり=== エル・タヒンでみられる球戯の儀礼は、球戯場がエル・タヒンの後背地にあたる遺跡でも数十ヶ所確認されているのみならず、地理的にも広い範囲に普及していたことが、「くびき(ヨーク)」「パルマ」「アチャ(斧)」といった石彫が、メキシコ湾岸の北部や中部全体にわたって確認することができることからうかがわれる。 例えば、エル・タヒンに先行する主な湾岸の都市の一つであるエル・ピタルでも数多くの球戯場や球戯に対する信仰を示すレリーフを伴う建造物や遺物がみられる。エル・タヒン及びその近隣地や湾岸低地には、支配階級の墓の副葬品を中心におびただしい量の球戯に関連する石彫が発見されている。さらに、アメリカ南西部地方の文化圏に属するチワワ州のカサス・グランデス(パキメ)やホホカムの都市遺跡スネークタウンなどをはじめとしていくつかの遺跡に球戯場や球戯に使われた道具もみられることから、それらの遺跡の支配階層に対してエル・タヒンをはじめとしたメソアメリカの球戯のシンボリズムやイデオロギーの影響力がいかに大きかったかうかがうことができる。 このような球戯に関連する石彫は、即位儀礼をはじめとして王の権威を示す儀礼や王の死後の世界での地位を示すもので、三種の神器のような王の権威を示している。一方、エル・タヒンでは、球戯を行う際に腰につける防具をあらわす「ヨーク(Yoke,くびき)」の石彫の確認数がすくなく、建物の瓦礫の中から発見されるものなどが主になっているが、このような球戯関連の持ち運び可能なタイプの石彫が少ないのは、エル・ピタルや他のベラクルス文化の遺跡のようには、支配階層の墓についての発掘調査がすすんでいないためであろうと考えられている。 ===南球戯場のレリーフ=== エル・タヒンの球戯の特色と理念については、南球戯場の南北に向かい合った壁に南東隅、南西隅、北西隅、北東隅、北壁中央、南壁中央の順に6つの連続する場面を表現した壁面彫刻に表されている。 ===第一の場面=== 最初の場面は、座って向かい合っている人物と左側を向いて立っている人物の3人が刻まれている。左側の人物は3本の矢か槍のようなものを持って座り、中央に立っている人物にその武器を渡すか、受け取ったかのようなしぐさをしている。右側の人物は、座って半分手を挙げるようなしぐさをしている。手のひらは中央の人物へ向けられている。ウィルカーソンは「戦争と捕虜の捕獲の準備」をしているのではと考えている。 ===二番目の場面=== 次の場面は、楽器を持って向かい合った人物と鳥類に扮装した人物、中央の台に横たわった人物、骸骨か死神のような空を飛んでいる人物が刻まれている。 左側の人物は2つのマラカスのような楽器、おそらく粘土でできたsonajaと呼ばれるものを持ち、右側の人物は、棒で打ちならすタイプの打楽器、おそらく亀の甲羅を加工した木魚のようなtepenaztliとおもわれる楽器を持っている。鳥に扮装した人物は、横たわった人物の台の後ろ側に立っていると思われる。ウィルカーソンは、球戯の前に幻覚誘発剤によって幻覚状態が起こっている様子を描いているのではと考えている。 ===三番目の場面=== 三番目の場面は、4人の人物と壺から姿をあらわした骸骨のような人物が刻まれている。 向かって左から2番目の人物と3番目の人物が向かい合っていて腰にヨークとパルマをつけた球戯者の姿をしている。3番目の人物は、いけにえに用いるフリントか黒曜石のナイフとおもわれるものを左手(つまり2番目の人物とは反対側の手)に振りかざすように持っている。2番目の人物は腕組みをし、2番目と3番目の人物の間には交差した腕と円形の文様があり、円形の文様は向かい合った2人の足元に刻まれている。3番目の人物の背後には、大きな耳があることから犬かジャガーと思われる頭をつけた人物が球戯場の基壇の上に片膝をついている。犬ないしジャガーの頭をした人物の背後には仕切りがあり、球形の壺から骸骨のような人物が姿をあらわしている。これは、一番目から四番目の場面に共通して現れ、死神や死の世界を表していると考えられる。ウィルカーソンは、この場面については、1986年の段階では球戯場で競技者同士が話しあう場面としている。 ===四番目の場面=== 四番目の場面は、4人の人物が刻まれている。右から2人目の人物は、3番目の人物をいけにえにしようとナイフを首につきたてている。右から4番目の人物は、いけにえにされようとしている人物の腕を掴んで押えている。犠牲にされようとしている人物の上には死神、ウィルカーソンのいう金星神とおもわれる骸骨のような人物が待ち構えている。ウィルカーソンは右から一番目の人物は、雨の神ではないかと考える。 ===五番目の場面=== 五番目の場面には、4人の人物が刻まれ、一番左端の人物は、右腕に丸い壺をかかえ、蛇のように曲がった杖とまっすぐな棒を持ち肩飾りをつけた雨神と思われる人物を見上げると同時に、チャクモールのように仰向けで膝を曲げた人物を指差している。チャクモール様の人物はプルケ酒のはいった巨大なプール、おそらくometecomatlと呼ばれるプルケ酒の醸造槽に蓋がされた上に横たわっている。雨神の後ろには、「風の宝石」(ehecatlocaxcatl) の飾りを付けた風の神がいて、両者は、醸造槽のある神殿の屋根の上に座っている。この醸造槽のわきには地下世界の名称を表すリュウゼツランと山を表現する絵文字ないし判じ絵がある。これについて、ウィルカーソンは、年代記作者サアグンがいう伝説上の「あわの山」であると考える。 この場面全体は、月を表す絵文字、というより判じ絵をふくんだ縦の文様帯で左右を区切られ、その外には大腿骨をあらわす判じ絵を含んだ文様帯があり、さらにその外側には金星を表す絵文字ないし判じ絵を含んだ文様帯が両脇にある。上のほうにはプルケ酒の神の顔が中央に刻まれ、胴体が二体分顔を対象に寝そべって片足を上に挙げた姿勢で刻まれている。プルケ酒の神の顔は二人の人物が横顔を突き合わせたようにも見える。プルケ酒の神が刻まれた文様帯はその次の場面にもみられる。その代わり、これまでの4つの場面で左右どちらかに刻まれていた地下世界と死神を表現した部分が最後の二つの場面にはみられない。 ===六番目の場面=== 六番目の場面でもプルケ酒の醸造槽のある神殿が中央に刻まれている。屋根の上にはウィルカーソンが風の神と考える丸い盾をもった人物が座っている。醸造槽の中には、魚のようなヘルメット若しくはかぶり物をした人物がすわっている。醸造槽の脇には雨の神が股をひらいてしゃがんでいる。雨の神の上にはウサギの頭をもった人物が空を飛んでおり、ウィルカーソンは月であると考える。雨の神は、自らのペニスに棒のようなものを突き刺し、あたかも魚のかぶり物をした人物の顔に向かって、血か精液を振りかけているように見える。 この血か精液と考えられる液体がプルケ酒に変わると考えられ、言い換えれば雨神の自己犠牲によってプルケ酒が生み出されると考えられていた。球戯はメソアメリカに古くから伝わるものであったが、エル・タヒンでは、金星がよいの明星のあとに9日間現れないことがあり、それは、神々が天界で行っている球戯で、金星が負けるために現れなくなると考えられていた。その後、金星が明けの明星として再び現れるためには地下世界にいる金星の神を元気づけるために生贄を捧げる必要があると考えられ、そのためにはプルケ酒の神に嘆願するのがよいと考えられていた。 そのため、五番目のように雨と風の神のいる地下世界にいけにえをおくると同時にプルケ酒を求める場面が刻まれたと考えられる。 実際に球戯がおこなわれたことをあらわす1番目から4番目の場面は、戦争、捕虜の獲得、生贄という行為と同様に金星が天球上同じ位置にくる584日の会合周期に従って行われたと思われる。エル・タヒンの支配者は、戦争、捕虜の獲得、生贄という行為をマヤの諸都市国家が金星の動きをみて戦争を行ったように、他の支配階層に属する人物を球戯者として捕らえて犠牲に捧げることによって自分の地位を誇示するとともに軍事的な威信を高めたと考えられる。 ===球戯が表現するもの及びそのほかのエル・タヒンにみられる球戯関連の遺構=== エル・タヒンの人々は、球戯場で神々の役を演じながら球戯をおこなうことによって神々と接触し、交流することができると考えていたようである。たとえば、腰の上部につけるための木製の見事な彫刻の刻まれた防具である「ヨーク(くびき)」は、しばしば地下世界に住む怪物を描いている場合があり地下世界の入り口、すなわち死の世界の入り口を象徴していると考えられ、「アチャ(斧)」は斬首された頭を表現し、「パルマ」は儀式における犠牲を表していると考えられていて、球戯には、神々の神聖さと自分たちの世界、世俗性、死という犠牲の代わりにもたらされる恵みといった二元的な観念が連続するものという思想があった。エル・タヒンをはじめとするメソアメリカの球戯は、基本的には球戯をおこなって片方のチームの球戯者をいけにえにささげることによって、神々のすむ世界と宇宙の秩序が維持され、それによってトウモロコシをはじめとする作物の収穫が保障され、そのことは同時に自分たちの繁栄に直結するものと受け止められていた。 興味深いのはタヒン・チコの宮殿Aは、中央部に建物を囲む二階建ての建物に囲まれているが、その正面には急であるために上ることが不可能な飾りの階段がある。その階段の真ん中はくりぬかれ、持ち送り式アーチになっており、ゆるやかな階段が設けられて一階部分に入れるようになっている。二階部分は四隅に『 』状に造られ、『 がそれぞれの向かい合う部分先端部分はゆるやかなスロープが設けられあたかもちいさな球戯場のようになっている。前述したゆるやかな階段は、その小さな「球戯場」の真下にくる仕組みになっている。その階段は、球戯を行った場合と同じように地下世界への通路の象徴になっていて、それを通ることが神々との交流を行う神聖な行為になるように造られているとかんがえられる。建造物4号で発見された銘板はもともと壁龕のピラミッドに伴うものであると推定され、王統の継承などの儀礼を行う際に、絡み合った蛇によって表されるゴールマーカーであるtlaxmalacatlなどさまざまな球戯のシンボルを用いたり、プルケ酒の甕を用いることが必要だったことを示している可能性がある。 即位儀礼の様子と考えられるものは、断片的ではあるが北の球戯場の壁面パネルに刻まれ、球戯マーカーの前で王が即位する様子と推定されるものが描かれていると考えられる。時期的には古典期中期の様式と思われる。「円柱の館」 (Building of the Columms) には古典期終末期の王が球戯場の床近くで身分の高い人物だったと思われる捕虜を犠牲に捧げている様子が描かれている。一つか二つくらいしか球戯場がない他のメソアメリカの都市とは異なり、エル・タヒンの球戯は、王権や宇宙観や宗教的なイデオロギーの中心的な役割をもっていたために、球戯場はエル・タヒンという都市自体の宗教や設計思想の中心的な位置をしめていた。 ==世界遺産== ===登録基準=== この世界遺産は世界遺産登録基準における以下の基準を満たしたと見なされ、登録がなされた(以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準からの翻訳、引用である)。 (3) 現存するまたは消滅した文化的伝統または文明の、唯一のまたは少なくとも稀な証拠。(4) 人類の歴史上重要な時代を例証する建築様式、建築物群、技術の集積または景観の優れた例。 =幸手宿= 幸手宿(さってじゅく)は、江戸時代に整備された宿駅であり日光街道・奥州街道の江戸・日本橋から6番目、そして日光御成道の6番目の宿場町である。下総国葛飾郡または猿島郡(万治年間以降所属替えにより武蔵国葛飾郡)に所属する。現埼玉県幸手市に相当する。 ==概要== 幸手宿は江戸・日本橋から数えて6番目の日光街道および奥州街道の宿駅(宿場町)で、日光街道と日光御成道が合流していることから、日光御成道の6番目の宿駅であった。幸手宿は、古利根川右岸の平地に位置し下総国葛飾郡にあったが、利根川筋の改修に伴い武蔵国葛飾郡に属していた。利根川筋の改修に伴い国境変更が行われ、万治年間より武蔵国桜井郷田宮の庄に属し、元禄年間より幸手宿と称された。 近世前期より江戸幕府直轄の天領で、宿内は右馬之助(うまのすけ)町 ・久喜町・中町・荒宿の4町および枝郷の牛村であった。元和2年(1616年)に人馬の継立が始まり、夫25人、馬25匹を定数とし、地子免許の地を1万坪、助郷を1万1845石であった、民家845軒あった。天保14年(1843年)「宿村大概帳」によると本陣1軒、脇本陣なし、旅籠27軒、人馬継問屋場は1ヵ所、高札場一ヵ所あった。問屋場への勤めは「問屋場勤向書上帳」によると久喜町・仲町・荒宿・右馬之助町で一日交替であったという。高2095石6升、当時の人口は3,937人、家数962軒であった。 助郷は、享保11年に、二十七ヶ村(葛飾郡20村、埼玉郡7村)、助郷総高11,845石となった。しかし、水害などの影響から、助郷村から休役を願出が出ていた。幕末には、交通量が増加に伴い、日光道中八ヶ宿から定助郷から加助郷を願出され、幸手宿は葛飾郡11ヶ村・埼玉郡27ヶ村が加助郷に指定された。 幸手宿には、日光社参による休憩所・宿泊地となる御殿が、聖福寺境内に設置された。また、文久元年(1861年)に、和宮下向時には助合が命じられ、人足のほか膳椀・夜着などを差し出している。 また、幸手宿周辺では、物資流通・商業施設である船着場の権現堂河岸、日光街道と日光御成道が合流する重要な宿場周辺に六斎市があった。 ==歴史== 幸手は、奥州に通じる奥州道の渡し(房川渡)があった場所であった。かつて、日本武尊が東征に際して「薩手が島」(当時この近辺は海だったという伝説がある)に上陸し、中4丁目にある雷電神社に農業神を祀ったという記述が古文書に残っている。 鎌倉時代にはこの地に鎌倉街道が通じ(後世の日光御成道)、旧利根川の途河(高野)から旧渡良瀬川の途河(房川渡)までの間に延びる自然堤防・河畔砂丘の上を通った。その間に位置する幸手は軍事・交易上の要衝だった。室町時代以降は一色氏の領地となり、天神神社付近に陣屋が築かれていた。 ==沿革== ===幸手宿の設置=== 幸手宿は現在の埼玉県幸手市中部から北部にかけての旧街道筋付近に位置し、南北900メートル程度の範囲で広がっていた。江戸・日本橋から数えて6番目の日光街道および奥州街道の宿駅(宿場町)で、江戸(日本橋)から幸手宿の距離は12里であった。また、幸手宿前(旧上高野村)にて日光街道と日光御成道が合流していることから、日光御成道の6番目の宿駅であった。江戸時代になると、幸手一帯は江戸幕府直轄の天領となった。幸手宿は日光道中・奥州道中と日光御成道との合流点、さらに筑波道が分岐する宿場町となった。 ===所属替えと地名=== 利根川筋の改修に伴い国境変更が行われた。この地域に残される区域の国郡名によると、寛永11年10月までは下総国猿島郡または葛飾郡と記され、幸手は「日本六十余州国々切絵図」によると栗橋、杉戸、吉川と同じく、下総国の国絵図に描かれている。その後、庄内古川左岸域を除く大部分が下総国から、寛永14年7月には武蔵国葛飾郡に所属替えとなった。 万治年間(1658年‐1660年)には、武蔵国桜井郷田宮の庄(武蔵国葛飾郡)に属するようになり、田宮町または薩手・幸手町と称されるようになった。その後、元禄年間(1688年‐1704年)より幸手宿と称されるようになった。 ===日光社参と御殿=== 幸手宿には、日光社参による休憩所・宿泊地となる御殿が、聖福寺境内に設置された。御殿は火事による焼失後再建されることはなく、聖福寺の本堂の一室が代わって利用された。日光社参での主要なルートには、日光御成道を北上し幸手で日光街道に入り、日光へ至るとするものであった。『徳川実紀』によると、日光社参での幸手(御殿、御殿焼失後は聖福寺本堂)の休泊利用は、徳川家光の寛永17年、19年、慶安元年、徳川家綱の慶安2年、寛文3年、徳川吉宗の享保13年、徳川家治の安永5年、徳川家慶の天保14年にあった。 ===幸手宿のうちこわし=== 天保期前半(1830年代)、「幸手宿打毀一件 天保四年巳十月」によると、天保4年・同7年を中心に東日本を襲った凶作(天保の大飢饉)とそれに伴う物価高騰により、幸手宿では打ちこわしがあったという。 ===和宮下向=== 文久元年(1861年)に、和宮(和宮親子内親王)下向時には助合が命じられ、幸手宿を含む日光道中の3ヶ宿、中山道の桶川宿は人足のほか膳椀・夜着などを差し出している。 ==宿駅== 幸手宿は、近世前期より江戸幕府直轄の天領で、宿内は右馬之助(うまのすけ)町 ・久喜町・中町・荒宿の4町および枝郷の牛村であった。天保14年(1843年)「宿村大概帳」によると本陣1軒、脇本陣なし、旅籠27軒、人馬継問屋場は1ヵ所、高札場一ヵ所あった。問屋場への勤めは「問屋場勤向書上帳」によると久喜町・仲町・荒宿・右馬之助町で一日交替であったという。高2095石6升、当時の人口は3,937人、家数962軒であった。 ==伝馬制== 『新編武蔵風土記稿』によると、日光街道では元和2年(1616年)に人馬の継立が始まり、夫25人、馬25匹を定数とした。幸手宿は、地子免許の地を1万坪、助郷を1万1845石あり、民家845軒あったという。近世前期より江戸幕府直轄の天領で、宿内は右馬之助町・久喜町・中町・荒宿の4町および枝郷の牛村であった。天保14年(1843年)『宿村大概帳』によると本陣は1軒(久喜町にあり)、脇本陣はなかった。旅籠は27軒。人馬継問屋場は1ヵ所(久喜町)であった。問屋場への勤めは「問屋場勤向書上帳」によると久喜町・仲町・荒宿・右馬之助町で一日交替であったという。高2095石6升、当時の人口は3,937人、家数962軒であった。高札場は一ヵ所あった。 元和二年(1616年)、人馬の継立が始まった。幸手宿は、日光道中・奥州道中と日光御成道との合流点、さらに筑波道が分岐する宿場町となった。日光道中杉戸宿、栗橋宿、日光御成道岩槻宿の他、鷲ノ宮町・久喜町、下総国関宿藩などの継送りがあった。 慶安4年(1651年)に幸手宿(幸手駅)で火事があり、駅舎の3分の2が焼けたため、延宝2年(1674年)伝馬宿拝借金を道中奉行から受けている。 正徳元年(1711年)に幸手宿からの駄賃、一足賃金が定められ、天保9年には10年を限り1割5分増となった。 ==助郷== 享保11年に、幸手宿は大助郷二十七ヶ村(葛飾郡20村、埼玉郡7村)、助郷総高11,845石となった。しかし、助郷村は水難による困窮のため休役を願出ており、寛保2年(1742年)には、利根川水防のため下吉羽村、長間村等5村が免除を出願、半高勤となり、残りの半高分は上高野村の負担となり、天明元年には、上吉羽村・権現堂村など5村も困窮、安永9年(1780年)の大雨により助郷役が不可能となり, 7年間の休役となった。 幕末には、加助郷の指定が行われており、文久2年、参勤交代の緩和 大名・妻子の交通量が増加に伴い、日光道中八ヶ宿から定助郷から加助郷を願出され、幸手宿は葛飾郡11ヶ村・埼玉郡27ヶ村が加助郷に指定された。慶応2年には、参勤交代制が戻り、大名の通行の増加に伴い加助郷に指定された。 ==物資流通・商業施設== ===権現堂河岸=== 権現堂河岸は、幸手宿の東北14町30間の権現堂村の権現堂川沿いに設置された河岸場で、「幸手宿に集散する物資や年貢米の移出入港の機能を果していた」。江戸時代前期、伊奈氏を中心とした利根川東遷事業が行われ、権現堂川、江戸川が整備された。新田開発による米作の増大と相まって、これらの川を利用した江戸との間を結ぶ舟運が発展した。 ===六斎市=== 幸手は、『新編武蔵風土記稿』によると、毎月27日に六斎市が行われた。「日光街道と日光御成道が合流する重要な宿場であるとともに六斎市のたつ武州東部の重要な商品流通の拠点である」といわれている。 ==災害および事件== ===天明の浅間山の大噴火=== 天明3年(1783年)、浅間山の大噴火による火山灰降灰に伴い七十日間の施粥を名主知久文左衛門が行っている。幸手宿の名主・問屋を世襲する旧家は、「右馬之助町の開発者右馬之助の子孫中村平左衛門家と,久喜町の開発者帯刀の子孫知久文左衛門家」があげられている。「知久文左衛門は天明期の浅間山焼と凶作、および完成期の農民移住(野州都賀郡へ)と洪水等に際して、多額の金穀を拠出して困窮者の救済に尽力した」ことから「寛政6年(1794)に代官より苗字帯刀を許された」と言われている。 ===幸手宿のうちこわし(天保の大飢饉)=== 天保期前半(1830年代)、天保4年・同7年を中心に東日本を襲った凶作(天保の大飢饉)とそれに伴う物価高騰により、幸手宿では打ちこわしがあった。古文書『幸手宿打毀一件 天保四年巳十月』により示されている。 「幸手宿打殿一件」によると、天保4年6月の天候不順、8月の大風雨により、米麦の高騰から宿内店借住民の生活が逼迫し、9月に穀屋の襲撃が予告され正福寺門前に張札がたてられた。穀屋は集まり対策を協議し、仲町の釜屋が各自米を安売りにし踏み切ることを提案したが、賛同が得られず、結論もなく散会した。穀屋の代表は知久文左衛門に相談したが、米価の高騰から対策に消極的であった。役人、穀屋からの対策がでず打ちこわしが勃発した。正福寺境内に5〜600人が集まり、幸手宿(19軒)・隣接する上高野村(4軒)の呉服店・鉄物塗物類商・砂糖問屋・材木屋等の富商と穀屋が打ちこわしにあった。 幕府の打ちこわし参加者への裁決は、「勘定奉行所宛御請証文」によると「27日に廻状の作成・廻達を行ない打ちこわしにも参加した清吉・惣吉は所払い」となり、「小前集会を主導し、打ちこわしにも参加した勘右衛門・平七・浅五郎 ・藤七は過料銭3〜5貫文」、「反物を拾得しようとした平吉は入墨上敲きの刑」 、「打ちこわしに参加した幸手宿内の小前41名と上高野村の小前3名は「急度御叱り」に」となった。 また、幸手宿と上高野村の役人は、「打ちこわしの取鎮めに失敗した責任により名主は「急度御叱り」年寄以下は「御叱り」を受けた」という。 幸手宿での打ちこわしの結果、「幸手宿や隣接の宿場では、米の安売りや施しが行われ、困窮者は助かったという」。 ===安政江戸地震=== 安政大地震は、安政2年10月2日(1855年11月11日)に、東京湾北部を震源とした直下地震があり、古文書から幸手領では震度6程度とされる。 幸手宿では、安政2年10月2日安政江戸地震による被害があった。震度は、「*3790*と*3791*の 中間,それもVIに近い方とみられー(中略)ーこの地震では、荒川沿いに震度*3792*以上の所が北にのび熊谷に達している」。『安政二卯年十月、大地震ニ付潰家其外取調書上帳幸手宿村々』 によると、幸手宿周辺の村々の安政江戸地震の被害の記録があり、幸手宿は家数1,089軒に対し、潰数2軒、人家土屋物置等潰同様1027軒との被害があり、「大地震ニ付潰家其外取調帳」によると、怪我人が189人、牛村は潰家108軒、潰家相当53軒、怪我人108人であった。 ==名所・旧跡・接続道路等== 道路 奥州街道日光街道日光御成道筑波道日光御廻道隣の宿 日光街道、奥州街道杉戸宿 ‐ 幸手宿 ‐ 栗橋宿岩槻宿 ‐ 幸手宿地名(小字など) 関場(せきば)新田裏(しんでんうら)仲(なか)前(まへ)下谷(しもや)吉羽前安面(あんめん)東町(ひがしまち)浪寄(なみよせ)長倉(ながくら)田宮(たみや)裏町(うらまち)堀合(ひりあひ)高西(たかにし)高東三ツ家(みつや)天神(てんじん)中郷東(なかがうひがし) 馬之助町 久喜町 牛村 浪寄 中町 荒宿 中新田 裏町馬之助町久喜町牛村浪寄中町荒宿中新田裏町 =ニュルンベルク= ニュルンベルク(標準ドイツ語:N*8510*rnberg [*8511*n*8512*rnb*8513*rk] ( 音声ファイル)、バイエルン語:Niamberg、上部フランケン語(東フランケン語):N*8514*mberch)は、ドイツ連邦共和国バイエルン州のミッテルフランケン行政管区に属する郡独立市。 人口50万人を超えるバイエルン州第2の都市(ドイツ全体では14番目)である。隣接するフュルト、エアランゲン、シュヴァーバッハとともにフランケン地方の経済的・文化的中心をなしている。中世からの伝統ある都市であり、ドイツ統一を主導したホーエンツォレルン家がニュルンベルク城伯を世襲した都市である。また、ナチス政権が最初の大会を開催した都市であり、それゆえナチス政権要人を裁く「ニュルンベルク裁判」が行われたことでも知られる。リヒャルト・ワーグナーの楽劇『ニュルンベルクのマイスタージンガー』の舞台としても知られる。現在も旧市街は中世の城壁で囲まれている。 ==地理== ===位置=== ニュルンベルクはペグニッツ川の両岸に広がる。ペグニッツ川はこの都市の北東約80kmに湧出し、市内を東西に約14kmにわたって貫いている。旧市街地区のこの川はすっかり運河化されている。隣のフュルトでペグニッツ川とレドニッツ川が合流してレグニッツ川となる。ニュルンベルクの西部および北西部は主にペグニッツ川の堆積物によって形成された。ニュルンベルク北部は重要な野菜の耕作地であるクノープラウフスラント(Knoblauchsland、ニンニク地方)である。 ニュルンベルクの土地はコイパー期に形成された柔らかい砂岩からなっている。この町の北側は、一部は海抜600mを超える中低山地のフレンキシェ・シュヴァイツにつながっている。 ===市域の広がり=== 市域は186.38kmである。南部から西部にかけては建物が密集しており、西部は隣のフュルトと、南西はシュタインとほとんど一体化している。北部は比較的平坦で肥沃なクノープラウフスラントが広がるが、この地域は同時に、ニュルンベルク空港の西側緩衝地域にもなっている。北西部には高度400m今日の小さな森林地域のゼバルダー・ライヒスヴァルトが位置している。 旧市街の北の境界はニュルンベルク城が建つ城山であり、市壁の大部分が遺されている。東部からペグニッツ川北岸は公園化されたレーヒェンベルクである。 ===隣接する市町村=== ニュルンベルク市は北から時計回りに以下の市町村、あるいは市町村に所属しない地域と境を接している。エアランゲン(郡独立市)、ノインホーフの森、クラフツホーフの森(以上、エアランゲン=ヘーヒシュタット郡)、シュヴァイク・バイ・ニュルンベルク、ラウフアムホルツの森、ツェルツァーベルスホーフの森、フォルストホーフ地区、フィッシュバッハ地区、フォイヒト(以上、ニュルンベルガー・ラント郡)、ヴェンデルシュタイン、クラインシュヴァルツェンローエの森(以上、ロート郡)、シュヴァーバッハ(郡独立市)、ロール(ロート郡)、シュタイン、オーバーアスバッハ(以上フュルト郡)、フュルト(郡独立市)。 ニュルンベルクの飛び地ブルンには、いずれも市町村に属さない地域であるブルン、ヴィンケルハイト、フィッシュバッハ(すべてニュルンベルガー・ラント郡)が隣接する。 ===気候=== ニュルンベルクは、完全な大陸性気候ではなく、完全な海洋性気候でもない、ドイツ南部に典型的な温和な中間的気候である。月平均気温は、1月の‐1.4℃から8月の18℃の間を推移するが、夏の最高気温は35℃に達することもある。降水量は地理的環境の割にはやや少ない。ニュルンベルクはフランケン盆地に位置しており、この緩やかな鍋底状の地形が湿った空気をこの町から遠ざけているのである。しかし、時にはニュルンベルクも激しい嵐に見舞われることがある。近くは2006年8月28日に竜巻があり、ガルテンシュタット区の多くの建物が甚大な損傷を負った。 ==歴史== ===略史=== ====都市の成立初期==== ニュルンベルクの成立は明らかでない。ザクセン、バイエルン、東フランケン、ベーメンの境界で、1000年から1400年頃に保護された重要な街道が交わる地点から徐々に成立していったと考えられている。いずれにせよ、この入植地は成立初期にすでに市場の開催権を得ていた。この街は1050年に神聖ローマ皇帝ハインリヒ3世のSigena‐Urkundeに「nuorenberc」として記録されている。現在の地名の元となったこの名前は「岩山」を意味している。その後ニュルンベルク城は皇帝の拠点として神聖ローマ帝国で重きをなした。1065年にハインリヒ4世は帝国領ニュルンベルク及びその周辺地域に高等裁判所管区及び行政管区を設けた。コンラート3世は裁判権と統治権を持つニュルンベルク城伯の位を新設し、ラープス家にこれを与えた。1190年あるいは1191年以後、この地位はツォレルン家(後のホーエンツォレルン家)に移された。 1219年、皇帝フリードリヒ2世の大特権授与によりニュルンベルクは帝国自由都市となった。城伯の影響力は城とその直近に制限され、フランケン地方におけるホーエンツォレルン家の拠点はバイロイトやアンスバッハなどに移っていった。1427年、最後の城伯フリードリヒ6世(ブランデンブルク選帝侯フリードリヒ1世でもあった)はニュルンベルク城の権利をニュルンベルク市参事会に売却し、城伯の地位は完全に消滅した。これ以後、バイエルン王国に併合されるまで、この都市の行政権は市参事会の手に委ねられた。 中世以来、ニュルンベルクはアウクスブルクと共にイタリアとヨーロッパ北部を結ぶ2大貿易都市であった。商業都市の例に漏れずユダヤ人も多く居住していたが、1298年、「リントフライシュ王」と名乗る騎士に煽動された群衆が暴徒と化して各地のユダヤ人街を襲撃し、ニュルンベルクでは698人のユダヤ人が犠牲となった。(血の中傷#ホスチアの中傷参照) ===最盛期=== 多くの皇帝がニュルンベルクを好んで居館に選んだ。なかでもカール4世は、1356年にニュルンベルクで金印勅書を公布した。勅書では即位後第1回目の帝国議会をニュルンベルクで開催することと定められ、この慣例は1543年まで続けられた。また、1423年にジギスムントは帝権の表象をこの街に与え、19世紀の初めまでこの街に保存されていた。 1470年から1530年までの期間にはゲッツ・フォン・ベルリヒンゲンやコンラート・ショット・フォン・ショッテンシュタインといった騎士達がフェーデや戦いを繰り広げたにもかかわらず、ニュルンベルクはその最盛期を迎えていた。優れた手工芸やヨーロッパの中央に位置する交易上の好条件により、この街に富がもたらされた。マイスタージンガーのハンス・ザックスや、画家アルブレヒト・デューラーはこの時代にニュルンベルクで活躍した人物である。デューラーの『四人の聖人』(いわゆる『使徒たち』:アルテ・ピナコテーク所蔵)はこの街の教会のためにこの街で描かれた。この時代のニュルンベルクはケルンやプラハとならぶ神聖ローマ帝国最大の都市の1つであった。しかし1525年、市当局が宗教改革を受け入れたことで、皇帝との関係は次第に疎遠となり、「皇帝の街」としての権威は失われていった。 一方でフランケン公領の創設を目論むホーエンツォレルン家と度々衝突、アンスバッハ辺境伯アルブレヒト・アヒレス、クルムバッハ辺境伯アルブレヒト・アルキビアデスとの戦争はそれぞれ第一次辺境伯戦争、第二次辺境伯戦争と呼ばれたが、いずれもホーエンツォレルン家の敗北に終わった。 ===三十年戦争とその後=== 三十年戦争の時代、ニュルンベルク周辺の地域は長年続いた陣地戦の戦場となった。ニュルンベルク自体が征服されることはなかったものの、周辺地域の荒廃により交易が廃れ、経済的に次第に衰弱していった。戦後は1649年にニュルンベルクで「平和の宴」が催され、敵対していた両陣営がともに何日も祝宴を行い、平和の祝賀ムードを確かめ合った。帝国議会の開催地は1663年以降レーゲンスブルクに常置することが定められた。 1700年前後に活躍したバロック期の音楽家ヨハン・パッヘルベルはこの街の出身で、晩年にこの街のゼーバルドゥス教会にオルガン奏者として戻り、そこで没している。 ===19世紀から20世紀初め=== 1796年から1806年まで深刻な事態が出来した。近隣のアンスバッハを拠点としたプロイセン政府の圧力により、遂にニュルンベルクはプロイセン支配下に屈することとなった。しかし、この条約は履行されなかった。ニュルンベルクの借金にプロイセンが手を引いたのである。同時に名門家の堕落した支配体制に対する不満がニュルンベルク住民の間で蓄積していった。こうした事態が帝国都市体制を根本から揺さぶり、この街に革命の機運をもたらしたのであった。 1803年2月25日の帝国代表者会議主要決議では、最初はそれでも独立体制を堅持したのだが、ライン同盟が結ばれ、帝国が崩壊した後、フランス軍がニュルンベルクを占領した。1806年9月15日、フランス軍はこの都市をバイエルン王国に引き渡し、ただちに民政の体制を整え、バイエルンの管理下に編入させた。こうして1806年にバイエルン王国は王国全体の借金の一部としてニュルンベルクの莫大な借金を被ることとなった。バイエルンはこれを整理統合して弁済に努めた。バイエルンの法律に基づき、それまでニュルンベルクでは冷遇されていたカトリック信者もプロテスタント信者と法的に同等の立場となった。 19世紀になるとニュルンベルクはバイエルンの工業中心都市の一つとして発展した。1835年にはドイツ初の旅客鉄道アドラー号がニュルンベルクからフュルトまで運行を開始した。19世紀後半にニュルンベルクで黄銅箔が発明された。 1920年代にはすでにニュルンベルクで国家社会主義ドイツ労働党(ナチス)の党大会が開催された。ただしニュルンベルク自体は選挙でナチス党を勝たせなかった。この都市では自由主義のDDPが有力な政党であった。同時に、工業都市として、バイエルンの社会民主主義の中心地でもあった。 ===ナチス政権下時代=== ナチス党政権下時代、ナチス党大会が1933年から1938年にかけてニュルンベルクで行われ、その模様はレニ・リーフェンシュタールにより映画化された。この街はナチスにとって「帝国党大会の街」としてプロパガンダの上で重要な都市であった。1935年の党大会においてユダヤ人から市民権を剥奪する法(「ドイツ人の血と尊厳の保護のための法律」)が定められ、一般的にはニュルンベルク法と呼ばれている。ナチスはこの法律により反ユダヤ主義思想の法的根拠を得たのである。このようにニュルンベルクは、ナチス党政権下のドイツを象徴する都市となった。 第二次世界大戦中、ニュルンベルクは連合国軍による空爆の優先目標であった。イギリス空軍とアメリカ空軍の航空機による爆撃で1945年1月2日にニュルンベルク旧市街は破壊され、全市域が甚大な被害を負った。同年4月の4日間に渡る地上決戦で、さらにいくつかの歴史的建造物が破壊された。一時はこの破壊された街を放棄して、他の場所に新しい街を創ることが真剣に検討されたほどの被害状況であった。 同大戦期、ナチスにとってその精神性を保持する街として、『神聖ローマ帝國宝物展』が開催された。今日コンサート会場として使われる「聖カテリーナ教会」が会場となった。そうした宝物の保管庫がObere Schmiedgasse 52の地下にあった。Kunstbunker(保管庫)は今でも保存、公開され訪れる歴史ファンは多い。 ===第二次世界大戦後=== 第二次世界大戦後、1945年から戦勝国はナチス独裁政権下の指導的戦争犯罪人に対する裁判、いわゆる「ニュルンベルク裁判」を実施した。市の再建は、建設責任者ハインツ・シュマイスナーの指揮の下、かつての都市構造に従って街の再建を行うという方向付けがなされた。このため、オリジナルの建物が広範囲に失われたにもかかわらず、たとえ実際には大部分の建物が戦後に再建されたものであるにせよ、城壁に囲まれた旧市街は中世の面影を残す美しい町並が復元され、多くの場所で中世や近世とのつながりを感じ取ることができるのである。 ===市町村合併=== 1825年まで市域の面積は160.84haであった。その後、産業革命に伴い人口は急速な上昇を続け、市域は多くの独立した自治体や地域を合併して拡大した。現在の市域は186.6kmである。 ===人口推移=== 19世紀の工業化の始まりによって人口は急速に増加した。1812年のこの街の人口は2万6千人であったが、1880年には10万人を超えて大都市の仲間入りをした。1900年には25万人、1972年にはその2倍で史上最大の人口51万5千人を記録した。1985年に46万5千人にまで減少したが、その後再び増加に転じた。バイエルンの統計データ局の記録によると2005年12月31日付の公式な人口は499,237人である。また、2006年11月18日に50万人目の市民が誕生した。50万人前後での増減があったため、これはニュルンベルクにとって3回目のできごとである。 ==行政== ===市議会=== ニュルンベルク市議会は70人の市議会議員で構成される。2014年3月16日の選挙結果に基づく政党別議員配分は以下の通り。 SPD、CSU、Gr*8515*neはそれぞれ単独で会派を作るが、FDP、Freie W*8516*hler、*8517*DPは共同で会派を作っている。 ===市長=== 上級市長は2002年からウルリヒ・マリー (SPD) が務めている。彼は2008年3月2日の上級市長選挙で再選された。第2市長はホルシュト・フェルター (SPD) でスポーツ、動物園、消防の専門部局を担当している。第3市長はクレメンス・グゼル (CSU) で教育専門部局の担当である。 ===紋章=== ニュルンベルク市の大紋章は青地に、金の冠を被った王の顔を持つ金の鷲を描いたものである。この紋章はすでに1220年の印章に描かれており、帝国(すなわち帝国都市)を象徴化したものである。頭部は一時的に女性の顔にデザインされたことがある。現在の形の大紋章は1936年に制作され、1963年に市議会の承認を得た。 小紋章は左右二分割。向かって左側は金地に、赤い爪と赤い嘴をもつ黒鷲の半身。向かって右は5回入れ替わる赤と銀の斜めストライプである。この斜めストライプのデザインは1260年からすでに用いられていた。帝国の象徴の鷲は1350年から登場する。1513年以降、役所などの印章デザインとして用いられており、その場合斜めストライプの数にバリエーションが見られる。現在一般的に用いられる上述の形は1936年に大紋章とともに制作されたものである。小紋章を基に市の旗も制作された。旗は赤と白の斜めストライプである。 ===姉妹都市=== ニュルンベルクは以下の14の姉妹都市を持つ。これらの都市のニュルンベルク事務所は、毎年クリスマス市にその地の特産品(手工芸品、料理、服飾品など)を出店している。私的な交流サークルや若者の相互訪問等を通じて互いの接触は緊密になり、実際的な助けにもなっている。クラクフやアンタリアには旧式の、しかし可動整備済みの市電が贈られ、実用に供されている。 ニース(フランス共和国)‐ 1954年 クラクフ(ポーランド共和国)‐ 1979年 スコピエ(マケドニア共和国)‐ 1982年 グラスゴー(イギリス連邦)‐ 1985年 サン・カルロス(ニカラグア共和国)‐ 1985年 テューリンゲン州ゲーラ (旧ドイツ民主共和国)‐ 1988年、改名 1997年 プラハ(チェコ共和国)‐ 1990年 ハルキウ(ウクライナ)‐ 1990年 ハデラ(イスラエル国)‐ 1995年 深*8518*(中華人民共和国)‐ 1997年 アンタリア(トルコ共和国)‐ 1997年 カヴァラ(ギリシャ共和国)‐ 1998年 アトランタ(アメリカ合衆国)‐ 1998年 ヴェネツィア(イタリア共和国)‐ 1999年 コルドバ(スペイン) ‐ 2010年最初の姉妹都市協定は1954年にニースと締結され、これは2004年により強固なものに改訂された。1979年に締結されたクラクフとの協定をニュルンベルク市はそのインターネットサイトで「2つの都市の共同作業の大成功例で、両市の市民交流が常態化するのに貢献した。」と記述している。最も親密な姉妹都市関係の一つが1982年に締結されたスコピエとのそれである。若者の相互訪問や双方の芸術家交流の他、マケドニア考古学研究の一つとして古代スコピエ発掘においてニュルンベルク自然史協会との共同プロジェクトが進行している。このプロジェクトは1998年春に始まり、その後50年間に及ぶ長いプロジェクトである。ニカラグアのサン・カルロとの姉妹都市協定は1984年にニュルンベルク市民主導で提唱され、コントラ戦争中の1985年に締結された。相互訪問を体験した若者達の働きかけで、サン・カルロ市は水供給の拡充、病院の新設、上級学校や文化会館といった施設を得るに至った。ニュルンベルクとグラスゴーは同じ年に協定を結び以後30年以上にわたって若者の相互訪問など親密な友好関係を築いている。 1990年の初めに結ばれたハルキウとニュルンベルクの間の姉妹都市協定の焦点は援助であった。チェルノブイリ原子力発電所事故後、その処理に多くの人が派遣された。ハルキウ食品技術管理アカデミーはニュルンベルク科学調査局の協力で全ウクライナの食品調査を行うための研究室をパイロットプロジェクト内に立ち上げた。ニュルンベルクとプラハの通商交易関係は13世紀から続くもので、1990年に姉妹都市協定が締結された。一方、ハデラとの姉妹都市協定には長い時間がかかった。1974年からドイツとイスラエルとの間で相互訪問が行われていた。市議でニュルンベルク・イスラエル文化協会会長のアルノ・ハンブルガーは1986年の相互訪問の際に署名済みの友好協定を携えて行き、1995年になってやっと公式な姉妹都市協定が発効した。1988年には、当時DDRに属したテューリンゲン東部のゲーラと姉妹都市協定を締結した。この協定は1990年に友好協定に変更されたが、1997年に再度姉妹都市協定に改められた。1997年にはアンタリアとの姉妹都市協定も成立した。ミッテルフランケン工業地域の市町村と深*8519*経済特区の地域パートナーシップから深*8520*市とニュルンベルク市の姉妹都市協定が締結された。両市の動物園間での動物交換や、ニュルンベルク・ゲオルク=シモン=オーム専門大学と深*8521*ポリテクニックとの交換留学などが行われている。1988年にはギリシアのカヴァラおよびアメリカ合衆国のアトランタと姉妹都市協定を結んだ。14世紀の初めにはすでにヴェネツィアとの交易が行われていた。ニュルンベルクの商人達は中欧の香辛料、絹、綿の市場に強い影響力を持っていた。また、彼らはヴェネツィア経由でニュルンベルクの雑貨、毛織物、皮革製品、蜜、琥珀などを輸出した。両市の姉妹都市協定は1999年に締結された。 2004年のスマトラ島沖地震後、2005年にニュルンベルクはスリランカのカルクダに対する支援都市協定を締結した。 2007年にニュルンベルクは、そのヨーロッパ融和構想に対して欧州連合のヨーロッパ賞を授与された。 ===平和人権都市=== ニュルンベルクは、国家社会主義独裁体制下で果たしたその役割から、人権に対して歴史的責任を負っている。この都市は、自らに平和と人権保護への積極的貢献が義務づけられていることを強く自覚している。その達成のために、人間の尊厳の記念碑「人権の道」や、時代を超えてニュルンベルクの国家社会主義時代の情報を提供する党大会会場の資料センターを設立した。1995年からは人権擁護に功績があった人物に対して与えられるニュルンベルク人権賞も設けられた。また、人間の尊厳についての機関、ニュルンベルク人権センターが組織され「ニュルンベルク人権ビューロ」が開設された。2年に1度ドイツ人権映画賞が授与される。ニュルンベルク人権映画祭はこの街の文化行事の確固たる構成要素の一つと認められている。ニュルンベルク市は2000年12月10日に人権教育に対してUNESCO賞を授与された。ユネスコはニュルンベルク市の平和と人権尊重に対する模範的な取り組みを、この賞で評価を与えたのである。 ==経済と社会資本== これに加え、ニュルンベルクは人口350万人を擁するヨーロッパ大都市圏ニュルンベルクの中心都市でもある。2000年7月に深*8522*のヨーロッパ事務所がニュルンベルクに開設された。 ===ニュルンベルクの経済状況=== 古くからの工業都市としてニュルンベルクは産業構造変化に強く関わっている。2007年6月現在のニュルンベルク市の失業率は9.8%でバイエルン州で2番目に高く、州平均 (5.0%) のほぼ2倍に相当する。近年サービス業を主体とする都市への改革が試みられているが、工業分野での失業を一部緩和しているに過ぎない。ニュルンベルクには、エアランゲン=ニュルンベルク大学の専門課程のキャンパスがあるものの、固有の総合大学を持たないことが不利に働いている。 ===農業、鉱業=== ニュルンベルク北部のクノプラウフスラントは広い野菜耕作地域で、特にアスパラガスの産地として知られる重要な農耕地である。ヴォルツェルドルフ周辺には、ヴォルツェルドルフ砂岩が産出する。ニュルンベルクの多くの建造物がこの砂岩で造られており、芸術史上大変に重要である。さらにニュルンベルクでは特筆すべき地下資源が見つかっている。 ===工業=== ニュルンベルクの工業都市としての重要性は、その品質の高さからヨーロッパ全土でその製品が評価された中世の伝統に根ざしている。このことから、「N*8523*rnberger Tand geht in alle Land」(「ニュルンベルクのガラクタは世間で通用する」)という成句が生まれた。現在でも、ある種の分野では最先端の能力を有している。ニュルンベルクは、特に情報・コミュニケーション、エネルギー・電力供給、交通・流通といった分野ではヨーロッパで最先端にある。また、印刷の分野においてはハンブルクを凌ぐドイツ最大の印刷の街である。市の北部にあるアルカテル・ルーセントの「オプティカル・センター・オブ・エクセレンス」は、同社のアメリカ合衆国外最大の研究センターである。 それでもニュルンベルクは、過去25年間絶えず工場閉鎖や職場移転を甘受してきた。特に打撃を受けたのは、特殊機械製造と家電産業であった。ニュルンベルク南部のMANの敷地は、時代とともに縮小を続けた。2006年前半に発表されたニュルンベルクAEGの工場閉鎖は、黒字であるにもかかわらずイタリアやポーランドに移転したという点で注目される。 ===サービス業=== 市場調査の分野では、第5位の市場調査会社・GfKがニュルンベルクにあり、ドイツをリードする立場にある。この町最大の雇用主であるN*8524*rnberger Versicherung・ニュルンベルク保険グループは、サービス業におけるニュルンベルクの大企業である。さらにニュルンベルクはコール・センターの分野でも重要な都市である。 ===見本市=== ニュルンベルク・メッセはドイツで最も重要な会議・見本市会場の一つであり、世界の見本市会場トップ20のリストにも挙げられる。この会場では、毎年ニュルンベルク玩具見本市が開催されている。 ===印刷=== ニュルンベルクはドイツで重要な印刷の街である。2002年には6,000人以上が43の印刷会社で勤務し、その売り上げは12億ユーロ以上であった。ニュルンベルク最大の印刷会社はマウル=ベルザーと、「u.s. ゼーバルト・ティーフドルック」および「ヘッケル・ロレンオフセット」を傘下に持つシュロット・グループAGである。ニュルンベルクで最もよく知られた出版物は、発行部数1500万部のクヴェレ・カタログ、c’t(約50万部)、キッカー・シュポルトマガツィーン、ニュルンベルガー・ナハリヒテンなどである。ニュルンベルガー・ナハリヒテンは、発行部数約30万部のドイツ最大の地方新聞である。 ===職業構造=== 2005年6月現在出典: ニュルンベルク市都市研究・統計局 ===産業地区、産業パーク=== 過去15年間にニュルンベルクには多くの産業地区や産業パークが形成された。 オイロコム: ランクヴァッサー地区。フランケン・キャンパス: ジュートシュタットのフランケン通り沿い、旧MAN跡地。アルテンフルト産業地区モーレンブルン産業地区: ジーメンス AGの大きな管理センターがある。ニュルンベルク=フォイヒト産業パーク: Munaの北側の旧米軍飛行場跡。ヘルクレス=パルク: ノーピッチュ通り沿いにあり、初めHercules‐Werke(二輪車メーカー)が、後にザックス (SACHS‐Motorrad‐Werke) が立地している。ハイテクセンター・ノルトマックストーアホーフ: ピルクハイマー通り、かつて筆記具メーカーのスワンスタビロ社があった。ノルトオストパルクニュルバヌム: アラースベルガー通り。かつてTeKaDe社が、現在はフィリップスがある。ジュート=ヴェスト=パルク: ゲーバースドルフ区。TA‐ゲレンデ: フュルター通り。かつてはオートバイ・メーカーのトライアンフ (Triumph‐Werke‐N*8525*rnberg‐Motorradwerk) やタイプライター・メーカーのTriumph‐Adler社があった。ティリー=パルク: グスタフ=アドルフ通り。旧ドイツ連邦軍歩兵隊兵舎跡地。VDM‐アレアル: シュヴァイナウ区。 ===交通=== ====歴史==== ニュルンベルクは交通の要衝に位置し、中世にはすでに重要な交易路がいくつも交差していた。このためかつてニュルンベルクはヨーロッパで最も裕福な都市の一つであった。1835年12月8日にドイツ初の鉄道アドラー号がニュルンベルクとフュルトの間で運行を始めた。その後、19世紀に鉄道網が整備されるにつれ国際交通の結節点としての地位はより重要性を増していった。 20世紀に入り、多くの遠距離道路、空港、港が新設、拡充され、この街は重要な交通ポイントとして発展した。 ===広域交通=== ドイツの地方間を結ぶ広域交通はドイツ鉄道が担っている。ニュルンベルク中央駅は、その広域交通における北バイエルンのハブ駅の役割を果たしている。ニュルンベルクは多くのICE、ICおよびいくつかの急行列車の乗り継ぎ駅となっている。 主要路線は以下の通り。 ICE ブレーメン/ハンブルク ‐ ハノーファー ‐ フルダ ‐ ヴュルツブルク ‐ ニュルンベルク ‐ ミュンヘンICE ハンブルク ‐ ベルリン ‐ ライプツィヒ ‐ ニュルンベルク ‐ ミュンヘンICE ルール地方 ‐ フランクフルト・アム・マイン ‐ ヴュルツブルク ‐ ニュルンベルク ‐ ミュンヘン/レーゲンスブルク ‐ パッサウIC カールスルーエ ‐ シュトゥットガルト ‐ ニュルンベルクIRE ニュルンベルク ‐ ホーフ ‐ ケムニッツ ‐ ドレスデン(準広域交通「フランケン=ザクセン特急」)RE ニュルンベルク ‐ シュヴァンドルフ ‐ プラハ(準広域交通「バイエルン=ベーメン特急」)2008年4月からニュルンベルク中央駅には、ヘルスブルックに本社を置く私鉄 IGEの列車が時折停車するようになった。 主に東ヨーロッパ方面へのたくさんのバス路線があり、長距離交通を円滑なものにしている。主要な発着所はニュルンベルク・バスステーションで、中央駅から徒歩約2分の距離にある。 ===地域交通=== 数多くの地域交通が広域交通網を補完している。レギオナルエクスプレスやレギオナルバーンの列車が、アムベルク、アンスバッハ、フォルヒハイム、キッツィンゲン、パールスベルク、ペグニッツ、トロイヒトリンゲン方面を結んでいる。 2006年12月10日に広域鉄道網に完全に組み込まれた快速路線ニュルンベルク ‐ インゴルシュタット ‐ ミュンヘン線は、通常のICEの列車の他にドイツ最速のレギオナルエクスプレス列車「ミュンヘン=ニュルンベルク特急」でも運行されている。 統一料金システムであるため、地域交通や市内交通は広域交通を一緒に利用することができる。ニュルンベルク広域交通連盟 (VGN) の料金は、全ミッテルフランケンとオーバーフランケン、ウンターフランケン、オーバープファルツの一部でも有効である。 ===市内交通=== 近郊公共交通の市内路線はニュルンベルク交通活動会社 (VAG) が運営している。交通の基本骨格は3つの市電路線と3つのUバーン路線からなる鉄道路線により形成される。ドイツ鉄道の3つのSバーンも都市交通に分類され、ニュルンベルク市内交通の重要な一部を担っている。51路線ある市バスは、Uバーン、Sバーン、市電が運行していない地域を結び、その開発に寄与している。 2005年の統計では、VGNが統合管理している公共交通機関は、延べ1億4767万人の乗客を運んだ。 ニュルンベルク市内交通の特徴として以下の点が挙げられる。 すべての市電およびバス車両が低床車である。天然ガスで走るバスがドイツで最初に路線バスに採用された。2008年6月14日に開業したU3路線は、世界で初めて自動運転車両と従来通りの有人運転車両が混在する路線区間を有する。 ===アウトバーン=== ニュルンベルクは主要な連邦アウトバーンの交差点となっており、市の東部と南部にジャンクションが設けられている。 A3号線 エンメリヒ・アム・ライン ‐ デュッセルドルフ ‐ ケルン ‐ フランクフルト・アム・マイン ‐ ヴュルツブルク ‐ ニュルンベルク ‐ レーゲンスブルク ‐ パッサウA6号線 ザールブリュッケン ‐ カイザースラウテルン ‐ マンハイム ‐ ハイルブロン ‐ ニュルンベルク ‐ アムベルク ‐ ヴァイトハウスA9号線 ベルリン ‐ ライプツィヒ ‐ バイロイト ‐ ニュルンベルク ‐ インゴルシュタット ‐ ミュンヘンA73号線 フォイヒト ‐ ニュルンベルク ‐ フュルト ‐ エアランゲン ‐ バンベルク ‐ コーブルク ‐ ズール ===連邦道=== 市域内を貫いている環状連邦道B4R号線に以下の連邦道が接続する。 B2号線 ローソウ ‐ ベルリン ‐ ルターシュタット・ヴィッテンベルク ‐ ライプツィヒ ‐ ゲーラ ‐ ホーフ ‐ バイロイト ‐ ニュルンベルク ‐ ドナウヴェルト ‐ アウクスブルク ‐ ミュンヘン ‐ ミッテンヴァルトB4号線 バート・ブラムシュテット ‐ ハンブルク ‐ ブラウンシュヴァイク ‐ エアフルト ‐ イルメナウ ‐ コーブルク ‐ エアランゲン ‐ ニュルンベルク ‐ フィッシュバッハ・バイ・ニュルンベルク区B8号線 エンメリヒ・アム・ライン ‐ デュッセルドルフ ‐ ケルン ‐ フランクフルト・アム・マイン ‐ ヴュルツブルク ‐ ノイシュタット・アン・デア・アイシュ ‐ フュルト ‐ ニュルンベルク ‐ ノイマルクト・イン・デア・オーバープファルツB14号線 シュトッカハ ‐ ツットリンゲン ‐ ホルプ・アム・ネッカー ‐ シュトゥットガルト ‐ シュヴェービッシュ・ハル ‐ アンスバッハ ‐ ニュルンベルク ‐ ズルツバッハ=ローゼンベルク ‐ ヴァイトハウス ===市内道路=== 市内の全道路の総距離は1,138.8kmである(2006年1月1日現在)。500以上の交差点に信号機が設けられている。信号機は時刻や交通状況に応じて自動と手動を切り替えるようプログラムされている。消防車両、市電、路線バスは100以上の交差点で常に優先となる。 住民1000人に付き582台の原動機付き車両がある。ニュルンベルクの交通量の大きな部分を日々の通勤者が占めている。2005年に行われた平日の無作為調査では572,543台の車両が市境を越えて往来していた。 2004年の交通事故統計によれば、市内の交通事故で2,703人が負傷し、11人が亡くなった。 催し物や工事、事故といった特殊な場合の交通規制のために、ニュルンベルクには動的交通制御システムが導入されている。これは道路上の交通量、車両種別、おおよその速度を把握するもので、こうした情報は自動的、あるいは人により解析され、交通状況を適正に保つようアウトバーン周辺はじめ市内140カ所に設けられた可変式標示板の表示を切り替える。ニュルンベルクの動的交通制御システムは、この種のものとしてはヨーロッパ最大規模のものである。 ===自転車道=== ADACは2003年にニュルンベルクの自転車道路網の状況を平均並みと評価した。短所としては、たとえばブーヒャー通りやターフェルフェルト通りのような主要道路沿いの自転車レーンが不足している点を批判している。長所としては、比較的少ない事故数と、信号の切り替えが自転車に配慮されている点が挙げられている。 2005年の全ドイツ自転車クラブ (ADFC) が行った行ったアンケート調査では、人口20万人以上の都市部門で28都市中13位と中程度の評価であった。ここでは市内中心部へのアクセスの良さが評価され、工場周辺地域の交通が批判されている。 ===歩行車道=== ニュルンベルクは、約1.6kmの旧市街内にいくつもの歩行者専用道があり、その総延長は約5,700mである。市議会は1966年に地下鉄が建設され地上の交通が格納された跡地を歩行者専用区域にすることを決めた。1973年に都市建設のコンペが行われ、ベルンハルト・ヴィンクラーの提案が勝利し、採用された。この計画に基づいて1975年に歩行者専用区域が設けられた。 ペグニッツ川や、ヴェールダー・ヴィーゼ、ヴェールダー湖沿いの歩行者専用道は人気があり、多くの散策車やジョガーに利用されている。 ===航空=== 市の北部にあるニュルンベルク空港は、ニュルンベルクを国内・国外航空路に結びつけている。 離着陸数は1998年の84,041回から2006年には78,043回に減少しているものの、この間の利用者数は2,529,307人から3,965,357人と増加している。 ===水運=== ニュルンベルクは市の西端を通るマイン=ドナウ運河によって国内・国際航路と結ばれている。ニュルンベルク・バイエルン港(ドイツ語版)の近くに南ドイツ最大の貨物流通センター(ドイツ語版、デンマーク語版、イタリア語版、ポーランド語版) (GVZ) がある。 ===メディア=== ====新聞、定期刊行物==== ニュルンベルクの主要な新聞には、ニュルンベルガー・ナハリヒテン (NN)、ニュルンベルガー・ツァイトゥンク (NZ)、アーベントツァイトゥンクおよびビルトツァイトゥンク・ニュルンベルクがある。市自身も定期刊行紙ニュルンベルク・ホイテを発行している。この情報紙は市のできごとや今後の展望について解説するものである。ニュルンベルクのオリンピア出版のスポーツ紙「キッカー」は連邦全土で発刊されている。 ===テレビ=== バイエルン放送はニュルンベルクにスタジオ・フランケンを有し、フランケン地方全域のラジオおよびテレビの報道を担当させている。民放のフランケンTVはニュルンベルク=フュルト=エアランゲン地区、ならびに全ミッテルフランケンおよびオーバープファルツ西部向けに放送を行っている。 2005年5月30日から24のテレビ局はDVB‐T方式のデジタル放送をニュルンベルク送信所から送信し始め、2005年8月31日にアナログ放送をデジタル放送に切り替えることを決定した。ニュルンベルクはドイツで9番目にデジタル化された地域である。 2006年3月以降、IT‐サービス会社アトス・オリジンは、ハンブルクにあったプレミア・テレビGmbHの計算機センター管理部門をニュルンベルクに移した。 ===ラジオ=== ニュルンベルク地方では、バイエルン放送のスタジオ・フランケンの他、様々な商用ローカル放送がある。ゴング 97.1、ヒット・ラジオ N1、シャリヴァーリ 98.9、ピラト・ラジオ、ラジオFなどである。これらは共用のラジオ放送局をニュルンベルクに置いている。ヴィルラジオ 91.0は市内中心部にスタジオをもち、NRJラジオ・グループのエナジー・ニュルンベルクはニュルンベルク保険のビジネスタワー内にスタジオを所有している。 この他にラジオZや教育チャンネル AFK maxも放送を行っている。 ===公的機関=== ニュルンベルクは以下の政府官庁、施設もしくは公益法人の所在地である。 連邦労働局連邦移民・難民局(旧連邦未確認外国人難民局)ニュルンベルク中央税務署連邦労働局の、労働市場と職業に関する研究所連邦上級金融監督局連邦労働局バイエルン地方監督局ニュルンベルク水利・水運局連邦警察ニュルンベルク監査局さらに ミッテルフランケン手工業組合ニュルンベルク商工会議所歯科医師会もある。 ===裁判所=== ニュルンベルク区裁判所ニュルンベルク=フュルト地方裁判所ニュルンベルク上級地方裁判所ニュルンベルク金融裁判所ニュルンベルク社会裁判所 ===教育、研究=== ====教育機関==== ニュルンベルクにはフリードリヒ=アレクサンダー大学エアランゲン=ニュルンベルクの法律・経済学部経済学専攻部門(かつては独立したニュルンベルク経済学・社会学専門大学であった)と旧教育学部の研究所(旧教育専門大学)がある。この他にゲオルク=ジモン=オーム専門大学ニュルンベルク、造形芸術アカデミー、ニュルンベルク・プロテスタント専門大学、ニュルンベルク音楽大学がある。 この他の市内の教育機関としては、ギムナジウムが13校、実科学校が5校、総合学校が3校、専門上級職業学校が2校あり、多くの職業学校、職業専門学校、専門学校、本課程学校、基礎課程学校がある。 ===研究機関=== 市の北東部にAlcatel‐Lucentの「オプティカル・センター・オブ・エクセレンス」がある。ここにはフラウンホーファー協会の集積回路研究所 (IIS) もある。 ニュルンベルクは労働市場と職業研究の中心地でもある。労働市場と職業に関する研究所 (IAB) と企業教育研究所 (f‐bb) がある。 ===図書館、資料館=== 市立図書館は、エギディーンプラッツ図書館(ピラーハウス内)、中央図書館、多くの特別図書館、指導図書館を運営している。市立図書館の管理部門はエギディーンプラッツ図書館に置かれている。市立図書館の分館はフランケン・センター近くのランクヴァッサー区にある。エアランゲン=ニュルンベルク大学の図書館は、他の大学施設に近いトゥッヒャーゲレンデにある。 ニュルンベルク市立文書館は、ノリスハレ(マリエントーアグラーベン 8)にある。 ==文化と見所== ===劇場と映画館=== ニュルンベルクの一番大きな劇場はニュルンベルク州立劇場(オペラハウス(歌劇場)とシャウシュピールハウス(演劇場)からなる)である。この他に、これよりは小さな劇場がいくつかある。 ゴストナー・ホーフ劇場ニュルンベルク・ブルク劇場タッシロ劇場タリアス・コムパグノンス ― 人形劇場ニュルンベルクには良質な子供劇場もある ムムピッツ劇場ロールレッフェル劇場プフュッツェ劇場ニュルンベルク旧市街劇場 e.V.ニュルンベルクの商用映画館は、フィルムハウス・ニュルンベルク、外国語映画館ロキシーのほか、チネチッタ・ニュルンベルク(ドイツ最大のシネマコンプレックス)、キノパラスト・アドミラル、その他小さな映画館がある。 ===博物館=== ニュルンベルクは芸術史、文化史の博物館が豊富な街である。多くの芸術作品を街のあちらこちらにある博物館で見ることができる。主要な博物館は以下の通り。 アルブレヒト・デューラー・ハウス: ニュルンベルクの画家アルブレヒト・デューラーの住居で、デューラーの生涯に関する資料を展示している。帝国党大会会場文書センター: ナチス時代のニュルンベルクの歴史資料館ゲルマン民族博物館: ドイツ最大の文化史博物館皇帝の城博物館: ニュルンベルク城内ニュルンベルク芸術ホール旧監獄(旧市庁舎内)旧市電車庫ザンクト・ペーター: 歴史的な市電博物館工業文化博物館ニュルンベルク新博物館(芸術とデザインのニュルンベルク州立博物館)玩具博物館市立博物館 フェムボハウストゥルムダージネ: 体験と錯覚のインタラクティヴ博物館: 西門近くの城壁内にあるニュルンベルク交通博物館: 鉄道とコミュニケーション(郵便・通信)の博物館。ヨーロッパ工業文化街道のアンカーポイントである。 ===音楽=== ====主要なコンサートホールおよび催事場==== ニュルンベルク保険アレーナフランケンハレヒルシュレーヴェンザール・ニュルンベルクゼレナーデンホーフマイスタージンガーハレニュルンベルク州立劇場オペラハウスK4ターフェルハレカタリーナ修道院跡 ===大オーケストラ=== ニュルンベルク・フィルハーモニカ ― このオーケストラは1965年に設立された。前身は1890年に創設されたニュルンベルク・フィルハーモニー管弦楽団と市立オーケストラである。ニュルンベルク交響楽団 ― 1946年に設立されたこのコンサート・オーケストラは広いレパートリーを持ち、様々な仕事を行っている。シンフォニー・コンサートや合唱のコンサートあるいはゼレナーデンホーフでの野外コンサートの他、映画音楽の分野でも長い伝統を持つ。『ベン・ハー』や『クォ・ヴァディス』のサウンドトラックを担当し、TVシリーズ『美女と野獣』の伴奏音楽で1992年のグラミー賞を受賞している。コンサートは主にマイスタージンガーハレで開催されている。ニュルンベルク・ユーゲントオーケストラ (NJO) ― 約50人のメンバーからなるNJOは1985年に設立された。ニュルンベルク・アコーディオン・オーケストラ (NAO) ― 1946年に設立されたこの楽団は、ヨーロッパ最高のアコーディオン・アンサンブルの一つに数えられている。 ===主要な合唱団=== ニュルンベルク・ゴスペルクワィア ― 約50人のメンバーからなるこのゴスペルコーラスグループは1970年に設立された、この分野ではニュルンベルクで最も古い団体である。聖ローレンツ・バッハ合唱団 ― 約140人の団員を数えるこの合唱団は、1923年にローレンツ教会のカントルであったヴァルター・ケルナーによって設立された。ゼバルダー・カントライニュルンベルク・エギディーン合唱団ニュルンベルク・フィルハーモニック合唱団 ===サークル、協会=== ニュルンベルクには数多くのサークルや協会がある。その中には長い伝統を持つものもある。著名な団体として以下のものが挙げられる。 ニュルンベルク旧市街友好協会 e.V.ドイツ・サッカー文化アカデミーフリーダーリヒ e.V. ― 同性愛者のサークルゲシヒテ・フュア・アレ e.V. ― 地方史研究グループユンゲ・プレッセ・バイエルン ― バイエルンの若者向けメディア協会(ニュルンベルク事務所がある)ニュルンベルク芸術協会 ― ドイツで最も古い芸術協会ニュルンベルク自然史協会ニュルンベルク天文学協会ニュルンベルクの観光客誘致協会『ディー・シュタットフューラー e.V.』 ===建築=== 第二次世界大戦後に再建された市壁内の街並みの所々に、芸術史および文化史的価値の高い中世や近世の建築物の遺構や断片が点在する。 中心街の見所として、特に以下のものが挙げられる。 ニュルンベルク城(カイザーブルク) ― この街の象徴的建造物である。城山の麓の防衛施設ハウプトマルクト周辺 シェーナー・ブルンネン(美しの泉) ― 泉の格子に継ぎ目のない「金の指輪」と呼ばれる真鍮製のリングが掛かっており、これを回すと幸運に恵まれるという言い伝えで有名である。ただし金のリングは観光用で、本物とされているものは反対側にある。 市庁舎 フラウエン教会(聖母教会) ― ハウプトマルクト(中央広場)の東側に建つゴシック建築。カール4世の金印勅書公布を記念して建設された。ファサードには、その時の様子をモチーフにした仕掛け時計がある。シェーナー・ブルンネン(美しの泉) ― 泉の格子に継ぎ目のない「金の指輪」と呼ばれる真鍮製のリングが掛かっており、これを回すと幸運に恵まれるという言い伝えで有名である。ただし金のリングは観光用で、本物とされているものは反対側にある。市庁舎フラウエン教会(聖母教会) ― ハウプトマルクト(中央広場)の東側に建つゴシック建築。カール4世の金印勅書公布を記念して建設された。ファサードには、その時の様子をモチーフにした仕掛け時計がある。聖ローレンツ教会 ― 旧市街のペグニッツ川を隔てて南側「ローレンツ地区」の教区教会。ゴシック建築の大規模な教会。ファイト・シュトース作のレリーフ「受胎告知』で有名。聖ゼーバルドゥス教会(ゼーバルト教会) ― 旧市街北側「ゼーバルドゥス地区」の教区教会であり、ニュルンベルクで最も古い13世紀の建築。音楽家ヨハン・パッヘルベルゆかりの教会。聖エギディーン教会ハイリヒガイスト・シュピタール(聖霊施療院)フライシュ橋(肉屋の橋)ヘンカー・シュテーク(死刑執行役人の橋)ケッテン橋(鎖橋)ヴァイセ・トゥルム(白い塔)エーエカルッセルの泉 ― ヴァイセ・トゥルムの前にある噴水。ハンス・ザックスの詩をもとにした結婚に関する寓意が表現されている。アルブレヒト・デューラー・ハウスゲンゼメンヒェンブルンネン(ガチョウ小人の泉) ― 聖母教会裏の小さな泉これらの見所の多くは歴史的文化財を示す標識で示されている。 この他にも、ニコラウス・コペルニクスに因んで名付けられたプラネタリウム、動物園、文書センターがある帝国党大会会場やレギオモンタヌス天文台なども見所である。著名な人物の墓があることで知られるヨハネス墓地やローフス墓地はフォアオルト(郊外)にある。旧市街南側の市壁と濠に面して中央駅と歌劇場(ニュルンベルク州立劇場)がある。これらはどちらもニュルンベルク城から肉眼で見ることができる。 2004年8月7日から『デューラーの小径』が設けられた。これはアルブレヒト・デューラーの足跡をたどる観光周遊路である。この周遊路沿いに屋外でのAV施設によるガイドが設けられ、観光客はマイクロコンピュータを使って音と映像による旧市街のガイドが楽しめる。 1975年から1977年にかけて、シュヴァイナウ区にニュルンベルク送信塔が建設された。2005年に送信アンテナを交換した後の高さは292.8mで、ドイツで3番目に高い送信塔である。185mの高さに「ニュルンベルガー・アイ」というニックネームが付けられた展望台がある。1988年以降、Sat.1とRTLplusのテレビプログラムの送信を開始したことからテレビ塔と呼ばれるようになっている。 ===公園=== 市の南部に位置するルイトポルトハインは、ヨーロッパ最大の野外クラシックコンサートであるクラシック・オープン・エアの会場である。この公園の南東はドゥッツェンタイヒ公園につながっている。この近くには1930年代にナチスが築いた帝国党大会会場(ツェッペリントリビューンもしくはツェッペリンフェルト広場)跡がある。 市の北側には、市立公園と、ツィーゲルシュタイン区に属す大規模なマリエンベルク公園がある。 旧市街の東側、ペグニッツ川沿いに15haの広さを持つ公園ヴェールダー・ヴィーゼンがある。夏には、ビアガーデンや、「感覚育成体験広場」などで訪れる人々を惹きつけている。公園の東側は、ペグニッツ川の貯水池であるヴェールダー湖とその緑地帯につながっている。ヴェールダー・ヴィーゼンの北には、広さ4haの小さなクラマー=クレット公園がある。 プレラー広場の近くには、小さいながら頻繁に利用されているローゼナウ公園がある。 ペグニッツ川沿いを西に向かったフュルトの近くにあるハラーヴィーゼとコントゥマーツガルテン(それぞれ2ha)の裏手に長く延びたペグニッツァウエン (52.5ha) がある。レーダーラー橋の近くには水遊び広場や水汲み水車のレプリカがある。ペグニッツ川は1999年から再び自然の流れに改修され直された。 環状道路の西側から広さ11haのヴェストパルクが始まり、西側の農地に向かって延びている。ヴェストパルクは1999年に、2009年の連邦庭園博をニュルンベルクで開催するというコンセプトの一部に組み込まれていた。しかし、ニュルンベルクと他の7つの市は候補から落選し、シュヴェリーンでの開催が決まった。 西のシュタインとの境界にあたるレーテンバッハ・バイ・シュヴァイナウ区には27haの広さのファーバーパルクがある。 小さな公園としては、 北部: ニュルンベルク城のブルクガルテン、ザンク・ヨハニス区のヘスペリデンゲルテン、アルヒーフパルク、イルハイン東部: ノインホーフ城のバロック庭園、ツルナウ、レーヒェンベルク、プラトナースベルク南部: ジュートシュタットパルク(中央駅に隣接する)、フンメルシュタイナー公園、アンナパルク(ジュートシュタット区の中心)、ハーゼンブルックまた、ニュルンベルク旧市街を囲む残存する濠の跡も公園風に整備され保存されている。 ニュルンベルク周辺部の自然地区も講演集に整備されている。レグニッツ渓谷、ハインベルク自然保護区、ペグニッツ川で区切られた森、すなわち北部のゼバルダー・ライヒスヴァルトとハイキングの目的地として人気のシュマウゼンブックがある南東部のローレンツァー・ライヒスヴァルトである。この近くには、1939年から自然景観動物園と称される、広さ70haの動物園がある。さらに南にはファルツナー池やゴルトバッハ川の堤がある。 ===祭り=== 9月にはアルトシュタットフェスト(Altstadtfest:旧市街祭り)が開催されパレードやコンサートあるいは運河でのDas Fischerstechen(漁師の船上綱引き)などの伝統行事が行われ街が賑わう。12月のクリスマスマーケット(クリストキンドルマルクト)はドイツの中でも特に有名で、世界中から観光客が集まり賑わう。 ===スポーツ=== ニュルンベルク市街地南東部のドゥッツェンタイヒ公園周辺にはグルンディッヒ本社とともにスポーツ施設が集中している。 ブンデスリーガ所属のプロサッカークラブである1.FCニュルンベルクの本拠地。イージークレディット・スタディオン(e@syCredit‐Stadion)を本拠地とする。2006年ドイツ FIFAワールドカップの日本対クロアチア戦も同年6月18日にここで行われた。バスケットボール・ブンデスリーガ(ドイツプロバスケットボールリーグ)に所属するセルバイテル・バスケッツ・ニュルンベルクはニュルンベルク・アレナがホームアリーナ。ドイツツーリングカー選手権(DTM)で知られるノリスリンクはイージークレディット・スタディオン近くの公道を利用したコース。 ===その他=== ルター派プロテスタント地域に属する。 ニュルンベルク市にあるドイツ福音主義教会 (EKD) 加盟教会の大部分はバイエルン福音ルター派教会ニュルンベルク教区に属している。レーア(ニーダーザクセン州)に本部を置く福音改革派教会に属している改革派教会も一つある。 中世以来職人の街として知られ、鉛筆を発明したシュテートラー(St*8526*dtler)〔ステッドラー社の元祖〕や、クラリネットの発明で知られる18世紀の木管楽器の名匠デンナー親子などが活躍した。 名物料理に、独特の短いソーセージ「ニュルンベルガーブラートブルスト」があり、市内に老舗の専門店が数店ある。また、ナツメグなどのスパイスが加えられた焼き菓子「レープクーヘン」も有名。 ==人物== ===出身者=== ゼバルドゥス・フォン・ニュルンベルク(1020年頃 ‐ 1070年頃)聖人。市の守護聖人。クリスティーネ・エブナー(1277年 ‐ 1356年)修道女。神秘主義者。ヴェンツェル(1361年 ‐ 1419年)ベーメン王、ルクセンブルク公、神聖ローマ皇帝、ブランデンブルク選帝侯。ジギスムント(1368年 ‐ 1437年)ハンガリー王、クロアチア王、ベーメン王、神聖ローマ皇帝、ブランデンブルク選帝侯。フリードリヒ1世(1371年 ‐ 1440年)ニュルンベルク城伯、ブランデンブルク選帝侯。コンラート・パウマン(1409年 ‐ 1473年)音楽家。ハルトマン・シェーデル(1440年 ‐ 1514年)医師、歴史家。アントン・コーベルガー(1440年 ‐ 1513年)印刷家、出版者。アダム・クラフト(1455年 ‐ 1508年)彫刻家。マルティン・ベハイム(1459年 ‐ 1507年)地球儀の発明者。ペーター・フィッシャー(1460年 ‐ 1529年)彫金師。ヨハネス・ヴェルナー(1468年 ‐ 1522年)数学者、天文学者、占星学者、地理学者、地図学者。アルブレヒト・デューラー(1471年 ‐ 1528年)画家。ペーター・ヘンライン(1479年 ‐1542年)懐中時計の発明者。アントン・フッガー(1493年 ‐ 1560年)商人、銀行家。ハンス・ザックス(1494年 ‐ 1576年)作家、詩人、マイスタージンガー。ハンス・ゼーバルト・ベーハム(1500年 ‐ 1550年)挿絵家、銅版彫刻家。ゲオルク・ペンツ(1500年 ‐ 1550年)マニエリスムの画家、挿絵家、銅版彫刻家。バルテル・ベーハム(1502年 ‐ 1540年)画家、銅版彫刻家。アウグスティン・ヒルシュフォーゲル(1503年 ‐ 1553年)ルネサンスの画家、測量技師、地図学者。フィルギリウス・ゾリス(1514年 ‐ 1562年)版画家、画家。ヤーコプ・アイラー(1544年 ‐ 1605年)作家。ヴォルフ・ヤーコプ・シュトローマー(1561年 ‐ 1614年)市参事会員、ニュルンベルク市の建設責任者。バジリウス・ベスラー(1561年 ‐ 1614年)薬剤師、植物学者、出版者。ハンス・レーオ・ハスラー(1564年 ‐ 1612年)マイスタージンガー、詩人、作曲家。ゲオルク・フィリップ・ハースデルファー(1607年 ‐ 1658年)詩人、ペグネジッシャー・ブルーメンオーデン(ニュルンベルクの詩人協会)の創始者。ヨハン・クリストフ・ヴァーゲンザイル(1633年 ‐ 1705年)歴史家。ヨハン・フィリップ・クリーガー(1649年 ‐ 1725年)作曲家、オルガニスト、楽長。ヨハン・パッヘルベル(1653年 ‐ 1706年)作曲家。ヤコープ・シュトゥルム(1771年 ‐ 1848年)銅版彫刻家、自然研究者。ゲオルク・フリードリヒ・ダウマー(1800年 ‐ 1875年)詩人、哲学者、カスパー・ハウザーの教育者。ベルンハルト・モリーク(1802年 ‐ 1869年)作曲家、ヴァイオリニスト。エルンスト・シュトローマー・フォン・ライヒェンバッハ(1871年 ‐ 1952年)古生物学者、恐竜研究者。ヴィルヘルム・ヌセルト(1882年 ‐ 1957年)物理学者。ゲオルク・ゲルシュタッカー(1889年 ‐ 1949年)レスリング選手。アルベルト・ビットナー(1900年 ‐ 1980年)指揮者。ヨハネス・ブランク(1904年 ‐ 1983年)水球選手。マックス・グルンディヒ(1908年 ‐ 1989年)企業家。フーゴ・ディストラー(1908年 ‐ 1942年)作曲家、教会音楽家。マルタ・メードル(1912年 ‐ 2001年)オペラ歌手。マックス・モーロック(1925年 ‐ 1994年)サッカー・ドイツ代表選手、1954年ワールドカップ優勝チーム参加選手。グスタフ・メッツガー(1926年 ‐ )芸術家。ヘルムート・ヤーン(1940年 ‐ )建築家。ルドルフ・グライスナー(1942年 ‐ )チェリスト。ロベルト・クルツ(1943年 ‐ )ジャーナリスト。ノルベルト・シュラム(1960年 ‐ )フィギュアスケート選手。ウルリヒ・マリー(1960年 ‐ )ニュルンベルク市の上級市長。マルシャ(1966年 ‐ )DJ。アレックス・ライト(1975年 ‐ )レスラー。ハンナー・シュトックバウアー(1982年 ‐ )女子水泳選手。フフンリー・パーゲンブルク(1986年 ‐ )サッカー選手。ニコル・バイディソバ(1989年 ‐ )女子テニス選手。 ===ゆかりの人物=== ファイト・シュトース(1447年 ‐ 1533年)木彫家。ヴィルバルト・ピルクハイマー(1470年 ‐ 1530年)人文主義者。ハンス・フォン・クルムバッハ(1480年 ‐ 1528年)芸術家。ヨスト・アンマー(1539年 ‐ 1591年)挿絵家、銅版彫刻家。ジグムント・フォン・ビルケン(1626年 ‐ 1681年)詩人、作家。エラスムス・フィンクス(1627年 ‐ 1694年)博識家、作家。マリア・ジビーラ・メーリアン(1647年 ‐ 1717年)挿絵家、自然学者。ヨハン・フィリップ・パルム(1766年 ‐ 1806年)書籍商。ルートヴィヒ・アンドレアス・フォイエルバッハ(1804年 ‐ 1872年)哲学者、人類学者、宗教評論家。カスパー・ハウザー(1812年 ‐ 1833年)捨て子。ユリウス・シュトライヒャー(1885年 ‐ 1946年)政治家。リヒャルト・リンドナー(1901年 ‐ 1978年)画家。クルト・ロイヒト(1903年 ‐ 1974年)レスリング選手。1928年オリンピック優勝者。ヤーコプ・ブレンデル(1907年 ‐ 1964年)レスリング選手。1932年オリンピック優勝者、1937年世界選手権優勝者。マルティン・シェルバー(1907年 ‐ 1974年)音楽教師、作曲家。ハンス・メイヤー(1942年 ‐ )サッカー監督。サンドラ・ブロック(1964年 ‐ )ドイツ系アメリカ人の女優。 ===ニュルンベルクの歴史に影響した人物=== エッペライン・フォン・ガイリンゲン(1320年 ‐ 1381年)盗賊騎士。アルブレヒト・アルキビアデス(1522年 ‐ 1557年)ブランデンブルク=クルムバッハ辺境伯 ==参考文献== ===ドイツ語版文献=== Eckart Dietzfelbinger, Gerhard Liedtke: N*8527*rnberg ― Ort der Massen. Das Reichsparteitagsgel*8528*nde. Vorgeschichte und schwieriges Erbe., Christoph Links Verlag, ISBN 3‐86153‐322‐7Eugen Kusch: N*8529*rnberg ― Lebensbild einer Stadt. Verlag N*8530*rnberger Presse, N*8531*rnberg 1989, ISBN 3‐920701‐79‐8Franz Schiermeier: Stadtatlas N*8532*rnberg. Karten und Modelle von 1492 bis heute. Franz Schiermeier Verlag, M*8533*nchen 2006, ISBN 978‐3‐9809147‐7‐2Herbert Maas: N*8534*rnberg ― Geschichte und Geschichten. Edelmann, N*8535*rnberg 2001, ISBN 3‐87191‐032‐5Martin Schieber: N*8536*rnberg. Eine illustrierte Geschichte der Stadt. Beck‐Verlag, M*8537*nchen 2000, ISBN 3‐406‐46126‐3Michael Diefenbacher, Rudolf Endres (Hrsg.): Stadtlexikon N*8538*rnberg. Verlag W. T*8539*mmels, N*8540*rnberg, 2. verb. Aufl. 2000; auch onlineWolfgang Baumann et.al.: Der N*8541*rnberg‐Atlas, K*8542*ln 2007, ISBN 978‐3‐89705‐533‐9Ralf Nestmeyer: N*8543*rnberg, F*8544*rth, Erlangen. Ein Reisehandbuch. Michael‐M*8545*ller‐Verlag, 6. Auflage, Erlangen 2008, ISBN 978‐3‐89953‐377‐4これらの文献は、翻訳元であるドイツ語版の参考文献として挙げられていたものであり、日本語版作成に際して直線参照してはおりません。 ===日本語版文献=== 若月伸一『写真紀行 ドイツ古城街道物語』(グラフィック社、1997年) ISBN 4766110072芝 健介『ヒトラーのニュルンベルク 第三帝国の光と闇』(吉川弘文館歴史文化ライブラリー、2000年) ISBN 4642054901 ==引用== =鉄道車両= 鉄道車両(てつどうしゃりょう)は線路またはそれに準じる軌道の上を走行する車両である。 ==定義== 鉄道車両は、線路またはそれに準じる軌道の上を走行し、鉄道の列車を運行するために用いられる車両である。国によって鉄道に関連する法規は異なっているため、鉄道車両の厳密な定義は不可能である。また、法規による規定と一般的、技術的な概念とが異なる場合もある。日本における例では、本線上を列車として走行することのないモーターカーや貨車移動機といった作業用の車両などは、法規上の正式な鉄道車両に分類されていないことも多い。日本の法規上は、線路閉鎖の手続きをしてからでなければ本線を走行できない保線車両は、鉄道車両と認められていない。 本項目では、一般に公開されて旅客や貨物の輸送を行う鉄道で用いられている鉄道車両について説明する。 ==特徴== 鉄道車両は、線路に沿ってのみ運行することができるという点が、自動車など他の交通機関と異なっている点である。航空機や自動車などと異なり、多くの車両を連結して同時に走らせて大量輸送をすることができる。これは線路の上を走ることから各車両での舵取りが不要であるという特性からきている。 さらに他の交通機関と異なる大きな特徴として、蒸気機関車や単端式気動車の後退時やプッシュプル方式以外の機関車牽引列車の推進運転など一部の例外を除いて、双方向に同じように走ることができるという点が挙げられる。通常の航空機は飛行中に後退することができない。また多くの船や自動車では後退時の性能は前進時に比べて制限されており、基本的には向きを変えて常に前進で使用されることが前提である。これに対して鉄道車両は、どちらの向きにも同様に走ることができ、最高速度を出すことができる。双方向に同様に性能を発揮しなければならないという条件は設計上の強い制約となっており、鉄道車両の前後対称に近い形にも影響している。 ==車種による分類== 鉄道車両は、動力の有無、搭載するのが旅客か貨物か、動力の配置の仕方などで様々に分類される。まず大きく分けると旅客車、機関車、貨車の3つに分類することができる。日本標準商品分類でも車両(軌条上を走行するもの)は機関車(分類番号461)、旅客車(分類番号462)、貨物車(分類番号463)に分類される(このほか分類番号468以下に車両部品がある)。また、これ以外に事業用車を分類することもある。 なお、車種以外に用途や設備により分類することができるが、これについてはそれぞれ旅客車・機関車・貨車・事業用車を参照。 ===旅客車=== 旅客車は、鉄道車両のうち主に乗客を乗せるための車両である。動力を有している車両と有していない車両がある。どちらの車両でも、接客のための設備はおおむね共通した構造を有している。動力集中方式に分類される旅客車として客車が、動力分散方式に分類される旅客車として電車と気動車が存在する。 郵便物を輸送する郵便車や、乗客の手荷物を輸送する鉄道手荷物輸送(チッキ)において荷物を搭載するための荷物車も、一般に旅客車として分類されている。 ===電車=== 電車は、動力分散方式の旅客車のうち、電力によってモーターを回して走行する車両である。モーターによって走行する動力車(電動車)と、自力では走行できずに電動車に牽引・推進されることで走行する付随車が存在する。搭載している電池の電力によって走行する方式も電車であるが、架線や第三軌条など線路に設置された給電設備から電力の供給を受けて走行することが一般的である。一方、搭載している熱機関によって発電してその電力でモーターを駆動する方式は、気動車に分類されている。 効率の良い発電所において電気エネルギーを発生させて、それを外部から受け取って走行することのできる電車は、走行エネルギーのもととなる燃料や重く効率の低い原動機を搭載しなければならないその他の方式の車両に比べて重量当たりの性能が高く効率が良い。一方で、線路に沿って電力を送るための変電所や架線・送電線を整備しなければならず、これに費用がかかる。こうしたことから、輸送量が多く列車本数が多い線において電気運転方式が有利となる。また電車列車は動力のある車輪(動輪)の割合が高いため加速度を大きくでき、機関車のように特に重量の集中する車両がないことから線路への負担が軽く、折り返しや列車の分割・併合の利便性が高いなどの利点がある。一方で、各車両に動力があることから騒音や振動など乗り心地面で不利で、動力装置の数が増えることから費用的にも不利といった欠点がある。 もともと電車は乗り心地の難点から長距離運転には向かないとされてきたが、技術革新の結果長距離列車においても用いられるようになってきている。都市交通では世界的に電車の普及が著しく、特に路面電車や地下鉄で用いられる車両はほとんどが電車である。一方、長距離でも広く電車が普及しているのが日本の鉄道の特徴であるとされている。また、モノレール、案内軌条式鉄道(新交通システム)、トロリーバス、索道(ロープウェイ)、鋼索鉄道(ケーブルカー)、磁気浮上式鉄道なども多くは電車の範疇に含まれる。 日本語では、列車のことすべてを「電車」と呼ぶことがある。 ===気動車=== 気動車とは、旅客車・貨車・事業用車に熱機関を搭載してその動力により走行する車両である。外燃機関である蒸気機関を動力とする車両は蒸気動車と呼ばれ、それ以外の内燃機関で走行する気動車を区別する時は内燃動車と称する。内燃動車において用いられる機関としてはディーゼルエンジン、ガソリンエンジン、ガスタービンエンジンなどがある。現代では一般的には、大出力を容易に得られ燃費のよいディーゼルエンジンが気動車の原動機として用いられている。ディーゼルエンジンを用いた気動車のことをしばしばディーゼル動車あるいはディーゼルカーと呼ぶ。 内燃機関を動力とする場合は通常、エンジンで直接車輪を駆動することはできず、何らかの方法で変速する必要がある。機械的な変速機を使う場合を機械式、トルクコンバータを使う場合を液体式、一旦発電して電力でモーターを駆動する場合を電気式という。ただしガスタービン動車の場合、低速でも充分なトルクがあることから変速機を介しない場合がある。 気動車においても動力車と付随車が存在する。高出力の機関を少数の車両に配置して残りの車両を付随車にする方式(「集中式」および「分散集中式」)と、低出力の機関をすべての車両に分散配置する方式(「完全分散式」)とがある。一般に、高出力機関を少数車両に配置する方式が、車両の重量や新製・保守費用などの点で優れている。しかし、短い編成で運転する場合や列車の分割・併合を行う場合の都合や、機関を搭載していない車両における冷暖房の問題などから、世界的に各車両に分散する方式が主流となっている。 気動車は、電車と比較した場合、変速機やエンジンの機構が複雑で経費が嵩む。また、電車が動力の変換装置を持っているだけなのに対して、燃料自体を搭載してその動力への変換を行うことから、重量が大きくなり重量あたりの性能で劣っている。一方で地上側に電力を供給する膨大な設備を設置する必要がないというメリットがあるため、地方の閑散路線などでの運行には、電車より気動車の方がコスト面で適している。 ===客車=== 客車という言葉は、広い意味では旅客車という意味を表すこともあるが、狭い意味では動力集中方式における旅客車を指す。この意味では、客車は自身に動力装置を持たず、他の車両(機関車)に牽引・推進してもらって走行する、主に旅客を乗せるための車両である。動力装置は搭載していないが、ブレーキについては鉄道の草創期の旧式な車両を除けば装備している。機関車により推進して運転する時に用いるための運転台を備えている車両もある。また、車内の照明や空調に用いるための電力を供給する発電機を搭載していることもあり、安全に走行して旅客に快適な旅を提供するために、必要な様々な機械類が搭載されている。 客車は、動力装置を搭載していないため製造・保守の経費が安く、また車内に対する騒音・振動などの面で電車や気動車に比べて有利である。一方で、動力集中方式となるため加減速度や機動性の点では不利となる。このため長距離を走行し停車駅が少なく、車内環境を重視するような、長距離優等列車や特に夜行列車などにおいて用いられる。 ===機関車=== 機関車は、動力集中方式の客車や貨車を推進・牽引して走行するための動力車である。機関車自体には動力装置とそれを運転するための運転台のみがあるのが普通で、旅客や貨物を搭載するための設備は備えていない。また動力装置以外に、客車に対する暖房用の蒸気発生装置を搭載していたり、客車の照明・空調用の電源装置を搭載していたりする。 機関車は、その動力方式でさらに蒸気機関車、電気機関車、内燃機関車の3つに大別できる。それ以外にも1970年代にはアメリカと旧ソ連で、M‐497のようなジェットエンジンによる推力を利用するジェットエンジン機関車も試作されたことがあった。ガスタービンで鉄輪を駆動するガスタービン機関車とは違い、排気推力を使うため、車輪は直接駆動しない。 ===蒸気機関車=== 蒸気機関車は、蒸気機関を原動力として走行する機関車である。近代的な交通機関として鉄道が実用化された当初から用いられてきた機関車である。燃料を燃やし、その熱によって蒸気を発生させて、蒸気機関を駆動する。現実に存在したほとんどの蒸気機関車はレシプロ式で、ピストンの往復運動をクランクで車輪の回転運動に変換して走行していた。このほかに蒸気タービン式や、発電してモーターで走行するものなどがあった。 一般には燃料として石炭を用いるが、外燃機関であるため燃えるものであればほとんど何でも燃料として使用でき、コークス、木材、重油、泥炭などが用いられることもある。またサトウキビの生産が盛んな地方では、その絞りかすのバガスを燃料にしたり、変わったものとしてスイスにはかつて、架線から電気を集電し、その電力で電熱器により蒸気を作って走る電気式蒸気機関車が存在していた。原子炉で蒸気を発生させて走行する機関車も設計されたが、実用化された例はない。 無火機関車は、鉱山や火薬工場などの火気を嫌う場所で用いられる特殊な蒸気機関車で、外部に設置したボイラーからの蒸気の供給を受けて搭載している蒸気タンクに蓄積し、タンクに蒸気が残っている間だけ自走できるものである。 蒸気機関車は、製作費が安く線路側の設備もあまり必要としないという長所がある。しかし、操作や保守が難しく、熱効率が低く乗務員の労働環境が悪い、煤煙が環境汚染を引き起こすといった様々な短所があり、第二次世界大戦後各国で次第に他の機関車に置き換えられていった。主に発展途上国を中心に運行を続けている蒸気機関車があるが、先進国においては保存鉄道で運行されている程度である。 ===電気機関車=== 電気機関車は、電気でモーターを回して走行する機関車である。電力は架線や第三軌条から集電して取り入れるのが一般的であるが、蓄電池を搭載してその電力で走行する機関車も電気機関車に含まれる。電車と同様の理由で、蓄電池式の電気機関車は少数である。搭載している内燃機関により発電してその電力でモーターを回して走行する機関車は、一般に内燃機関車に分類されている。また電化区間では集電して電気機関車として走行し、非電化区間では搭載している内燃機関を起動してその発電した電力によって走行するという機関車も存在しており、電気・内燃ハイブリッド機関車といえる。 電気機関車は、蒸気機関車に比べて効率がよく運転もしやすい。また高速化・大出力化が容易である。一方で電車と同じように膨大な地上設備を必要としている。このため運転頻度が高い路線を中心に用いられている。日本やヨーロッパ、ロシア、中華人民共和国では幹線網の電化が進んでいるので、電気機関車が広く用いられている。一方、北アメリカやオーストラリアなどでは鉄道網があまり電化されておらず、ディーゼル機関車が主力となっている。 ===内燃機関車=== 内燃機関車は、内燃機関を動力源とする機関車の総称である。実際には搭載されているエンジンの種類により、ディーゼル機関車、ガソリン機関車、ガスタービン機関車などがあり、低燃費で大出力を発揮しやすいディーゼル機関車が、現代の鉄道において内燃機関車の主流となっている。気動車と同様に、機械式、液体式、電気式などの各種の変速方式がある。 ディーゼル機関車は電気機関車と同様、蒸気機関車と比較して効率がよく運転しやすい。また地上の電化設備を必要としていないが、電気機関車に比べて製作と保守に費用と手間が掛かる。こうしたことから、あまり運行頻度が高くない路線を中心に用いられている。電化されていない路線では、必然的に内燃機関車が用いられることになる。 ===貨車=== 貨車は、貨物を搭載して輸送するための鉄道車両である。大半の貨車は機関車によって牽引・推進されて移動する動力集中方式の車両であるが、JR貨物M250系電車のように動力分散方式の貨車も開発されてきている。 搭載される貨物に応じて、様々な形態の貨車が開発されてきた。かつては、貨車に直接貨物を積み込み・積み卸ろす輸送が行われていた。しかし、鉄道以外の交通手段との間で手作業による積み替えが発生することや、貨車の列車間での繋ぎ替え、入換作業に手間が掛かるといった問題があった。 これに対して、フォークリフトのような荷役機械が開発され、第二次世界大戦後から各国でコンテナ化の動きが始まった。このためにコンテナを搭載する貨車としてコンテナ車が運用されるようになり、その上に載せるコンテナを搭載する貨物に応じて開発するようになっている。 鉱山において鉱石を輸送する列車や、石油のように大量に消費される物資を輸送する列車については、その目的に専用の石炭車・ホッパ車・タンク車などの貨車が開発されて使用されている。 ===事業用車=== 事業用車は、鉄道事業者が所有する車両のうち、直接営業目的に用いられない鉄道車両である。保線作業や工事に用いたり、事業者内部の業務に必要とされる物品を輸送したり、試験や試作の目的で造られたりといった車両がある。 ==動力集中方式と動力分散方式== 鉄道車両を推進する動力の配置の仕方としては、動力集中方式と動力分散方式がある。動力集中方式は、編成中の動力はすべて機関車に集中しており、それ以外の客車・貨車は機関車に牽かれて走るのみの方式である。これに対して動力分散方式では、特定の車両に動力を集中させるのではなく、編成中の各車両に分散して動力を搭載する。 図に概念を示す。図中赤く塗られてMと書かれているのが車両が動力車で、白抜きにTと書かれているのが動力のない付随車である。動力分散方式において、動力車と付随車の割合は形式によって様々である。この割合のことをMT比といい、図の例では4M2Tと表現される。 動力集中方式と動力分散方式の得失は以下のとおりである。 ===車両製造費用=== 動力集中方式の動力車である機関車は、すべての動力機能を集中して備えているため高価である。これに対して動力分散方式の車両は、動力車と付随車で異なるが、機関車よりは安価である。動力集中方式の付随車はこれよりも安い。したがって、製造費用は動力集中方式の動力車 > 動力分散方式の車両 > 動力集中方式の付随車という式が成り立つ。同じ程度の輸送力を発揮できる編成で比較すると、12両編成の場合、動力分散方式の車両がすべて動力車 (12M) ならば動力分散方式の方が高く、6M6Tの場合で同等、4M8Tの場合は動力分散方式の方が安いという試算がなされている。ただしこの例では、動力集中方式の列車について折り返し駅での機回しを省略するために両端に機関車を繋いだ構成を考えているため、機回しを行うことを前提にすれば機関車を1両削減できて、動力集中方式により有利となる。 ===車両保守費用=== 動力を搭載している車両は搭載していない車両に比べて保守に手間がかかるため、動力集中方式の方が動力分散方式より有利であると以前は考えられてきた。しかし、動力集中方式の列車では多くの車両で回生ブレーキを使用できず機械ブレーキを使用することになるため、摩耗する部品の保守量が増加するという問題がある。その後、保守作業量の多い直流電動機から保守作業量を少なくできる交流電動機に移行するにつれて、機械ブレーキの保守量の問題の方が大きくなってきた。ドイツ鉄道のICE1(2M12T、623席)と東日本旅客鉄道(JR東日本)の200系(12M、885席、この電車はまだ直流電動機である)の比較では、どちらも1年間ののべ保守時間が17500時間であるとする比較がある。 ===エネルギー消費=== エネルギー消費については、編成全体の合計質量が小さくなる動力集中方式の方が少なく有利であるとされる。ただし、減速時にモーターで発電して架線に電力を返す回生ブレーキが普及しており、これは動力集中方式の列車では動力車以外で使用できず、機械式ブレーキの負担率が大きくなるという問題がある。 ===乗り心地=== 動力分散方式の車両では床下に動力機器を搭載しているため、騒音や振動が車内に伝わりやすく、乗り心地の面では動力集中方式に比べて不利である。ただし動力分散方式でも技術の進歩により乗り心地の改善が進んでいる。 ===線路への影響=== 動力集中方式の列車は、動力の集中した機関車が特に重くなり、走行することによる線路への悪影響が大きくなる。線路の許容できる軸重が限られている区間では、重量の大きな機関車の入線が制限されるが、動力分散方式ではそのような制限が影響することはあまりない。また、線路の建設費および保守費に関しても、軸重が小さい方が有利である。これに加えて、動力集中方式では旅客が乗車できない機関車の分まで待避線の長さを余分に用意しなければならないという問題がある。 ===機動性=== 動力分散方式の列車は、各車両に動力が分散しているため加速度・減速度がともに高く、停車駅が多くても運転時間を短縮できる。また両端に運転台があり、運転士が移動するだけで折り返すことができるので機動性に富んでいる。ただしこれについては動力集中方式でも、プッシュプル方式を用いることで解決できる。また動力分散方式は列車の分割・併合を容易に行える。 ===信頼性=== 動力分散方式の列車では、一部の動力装置が故障したとしても残りの動力装置で走行が可能なので、故障時の処置が容易で、信頼性が高い。 ===周辺環境への影響=== 動力集中方式の高速列車では、粘着性能を維持するために踏面ブレーキを使用しており、このために車輪の踏面が傷みやすく、車輪の転動音が大きくなって騒音が問題になっている。動力分散方式では粘着性能にこだわる必要性が薄いのでディスクブレーキを使用しており、こうした問題はない。また振動の面でも、重量の大きな動力集中方式の方が大きな影響が出る。 ===列車の直通運転=== 動力集中方式の列車は、電源方式・信号方式が異なる区間に入る駅(国境の駅など)で機関車を付け替えるだけで列車を直通させることができるが、動力分散方式の列車はすべての電源方式・信号方式に対応した設備を搭載していなければ直通運転をすることができない。1970年代の日本国有鉄道(国鉄)において、こうした点の検討が詳しくなされ、1本の列車編成が長くなるほど動力集中方式が有利で、短くなると動力分散方式が有利であるとされた。具体的には直流電化区間では列車長11両から12両、交流電化区間では列車長9両から10両、非電化区間では列車長4両から5両のところに費用の分岐点があり、それより長い列車では動力集中方式が有利であるとした。つまり短い編成を頻繁に運行するような路線では動力分散方式が、長い編成を時々運行するような路線では動力集中方式が有利となる。 その後技術の発展で、可変電圧可変周波数制御(インバータ制御)が実用化されて保守の手間が少ない交流電動機が電車に用いられるようになり、また回生ブレーキが一般的になったため、より動力分散方式が有利になる傾向にある。 日本では第二次世界大戦後から、幹線の長距離列車においても動力分散方式を推進してきた。これは地盤が弱く軸重を強化しづらい上、地形が急峻かつ複雑なため勾配・曲線が必然的に多くなるという国土において高速化を図るために選択されたものである。これに対してヨーロッパなどでは長らく動力集中方式が使われてきた。しかし近年になって動力分散方式が有利になりつつあることから、ヨーロッパにおいても動力分散方式の車両が普及する傾向にある。 動力集中方式の車両においても、編成の両端に機関車を連結して、通常時は固定された編成で運用されるものがあり、この場合は運用形態の面ではかなり動力分散方式に近くなっている。 ==寸法と重量== 鉄道車両では、基本的な寸法と重量に規制が設けられている。 ===幅・高さ=== 鉄道車両の幅と高さは、車両限界によって規定されている。車両限界は、車両の最大幅と最大高さを含めて、プラットホームとの関係などで複雑な形が定められている。これに対して、周辺の電柱や建物などの構造物を設置できる限界として、走行時の車両の動揺などを考慮した余裕を車両限界に加えた建築限界が定められている。国や鉄道会社により車両限界・建築限界は異なっている。車両が曲線を走行する際には、車体の中央部または端部(オーバーハング)が曲線の内側・外側にはみ出す(偏倚 へんい)ため、これを考慮して建築限界を広げるようになっている。 ===長さ=== 鉄道車両の長さは、主に曲線を走行するときに、隣の車両や建築限界に抵触しないかという観点で決定される。車両を長くすればするほど曲線での偏倚が大きくなって、あらかじめ車両限界と建築限界の間に加えてある余裕を超えて障害物に抵触してしまうため、鉄道車両を長くするのには限度がある。車体幅を細くしたり裾を絞ったりすることで、通常よりさらに車両を長くすることができ、新幹線の先頭車両が中間車両より長いのはこのためである。車両の長さとしては車体そのものの長さである車体長と、隣の車両の連結器と接触する面の間の距離である連結面間距離がある。 また、車両を支えている輪軸の間隔である軸距(ホイールベース)にも制約がある。隣接する輪軸の間があまりに狭いと走行安定性に問題があることから、軸距の下限が定められている。一方輪軸を備えて車体に対して回転する台車に関しても、その中心間の距離である台車中心間距離があまり長すぎると、曲線での車体の偏倚が大きくなるため問題がある。また信号回路の動作にも影響があるため、軸距または台車中心間距離の上限も定められている。 ===重量=== 鉄道車両の重量は、その車両が走行する路線の設計荷重と関係する。鉄道車両の重量をその車軸の数で割った値を軸重と呼び、この値が走行することのできる路線を決定する。線路を設計する時点で、そこを通行する鉄道車両の軸重を活荷重という形で想定して建設される。線路には線路等級が定められており、重要な路線ほど重い車両を通行させることができるように建設されている。このため、通行することを想定している路線が許容する軸重に収まるように車両を設計する必要がある。 機関車では、牽引性能を発揮するためにある程度の軸重を必要としている。幹線用に造られた軸重の大きな機関車を支線用に転用する際に、重量を負担する車軸を追加して軸重を下げる改造を行うことがある。また、国鉄DD51形ディーゼル機関車は動力のない中間台車に空気バネを装備しており、この圧力を変化させることで負担する重量を変え、動軸の軸重を上げたり下げたりすることができるようになっている。 ==構造== 鉄道車両の構造を上回り(車体)と下回り(走り装置)、動力機構に分けて説明する。 ===車体=== たいていの鉄道車両では、車体はほぼ箱状の構造をしている。なおそのうち構体は、台枠・骨組・外板などで構成され車体の強度を担う部分であり、座席などの室内設備、照明、制御機器などは含まない。床面は台枠、進行方向前後は妻構、左右は側構、上面は屋根構という。 車体は古くはすべて木造であったが、腐蝕の問題などから順次鋼製部品への移行が進められた。この時代は、車体の荷重のすべてを台枠で負担するため、トラス棒を設けたり魚腹形の側梁を用いたりした頑丈な構造の台枠を採用していた。事故発生時の木造車体の粉砕が犠牲者を多くすることが問題とされ、やがて車体全体が鋼製のものへと発展していった。鋼製車体の中でも、半鋼製ともいうべき側構や妻構のみが鋼製で屋根は木造のものから、全鋼製のものへと移り変わっている。この際に車体の基本構造は変えなかったので、台枠は相変わらず非常に頑丈な構造で設計され、車体の他の部分が金属になったことに伴う重量増加は大きな問題となった。また、溶接技術が未発達な頃の鋼製車はリベット接合であった。やがて車体全体で強度を分担して受け持つモノコック構造(張殻構造)が用いられるようになり、車体は大幅に軽量化された。 鋼製の車体は腐食の問題があり、錆が発生しないステンレス鋼を材料として使用することが検討された。まず、車体の骨組みは鋼製として外板をステンレスにしたセミステンレス車両が開発された。続いて車体すべてをステンレスで製造したオールステンレス車両が開発された。ステンレスの溶接には当初はスポット溶接、後にはレーザー溶接が用いられている。また腰板や幕板部の歪みを目立たなくするためにコルゲートのついた外板を使用するのが一般的であったが、技術の進歩によりビード加工で済ませるようになり、さらに新しいものは平滑な外板を使用するようになっている。ステンレスの外板を使用した車体は、錆を防ぐための塗装を省略することができるようになり、今日見られるような銀色の車両となった。ステンレス鋼は、鋼製車体に用いられる炭素鋼と比較して約1.5倍の引っ張り強さがあり、これに加えて鋼製車体のように腐食の進行を想定して「腐蝕しろ」(さびしろ)と呼ばれる余分の強度を持たせる必要がなくなったことから軽量化が図られた。さらに高張力ステンレス鋼の採用や構造解析による設計技術の進歩があって軽量化が進行している。 錆が発生しない材料としてはアルミニウム合金もあり、アルミニウム合金製の鉄道車両も開発された。当初は骨組に外板を貼り付ける工法であったが、やがて大形押出成形材を利用したシングルスキン構造やダブルスキン構造が開発され、ミグ溶接、摩擦攪拌接合、レーザーミグハイブリッド溶接などにより接合されている。500系新幹線ではハニカム構造により軽量化が図られている。アルミニウム製の車両はステンレス車両と同様に塗装を省略できるほか、アルミニウム自体が軽量な素材であるため、必要な強度を保つために外板を厚くしたとしても車体の軽量化を実現できる。また、アルミニウム車体はリサイクルしやすく、車体を解体して出たアルミニウムを再び鉄道車両に使用する試みが行われている。 車体の素材としては他に繊維強化プラスチック (FRP) を一部の複雑な形状の部分に用いている例がある。 ===台枠=== 台枠は、車体の一番基本となる構造である。車体全体の強度を受け持ち、台車や車軸に重量を伝える役割をしている。また連結運転の際には、隣の車両との間での力の伝達も行う。 車両の前後の端に横方向に設けられている梁のことを端梁という。連結器はこの端梁に取り付けられるため、大きな荷重に耐える強度が必要とされる。車両の左右に車体全長に渡って設けられている梁は側梁と呼ばれる。両側の側梁の間に横方向に渡されている梁は横梁で、これがいくつも並んで台枠全体としては上から見るとはしご状の構造になっている。台車や車軸の真上に当たる部分には、枕梁が置かれている。また端梁中央から車体中央方向へ枕梁の位置まで中梁が延びている。この端梁から枕梁までの範囲を端台枠と呼び、この部分だけはステンレス車両であっても鋼製の連続溶接で組み立てるのが普通である。 かつては台枠と側構でほとんどの強度を受け持ち、車体の他の部分はその部分で必要とされるだけの強度で作る方式であった。しかし軽量化のために、車体全体で必要とされる強度を分担して受け持つモノコック構造(応力外皮構造)が後に主流となった。 蒸気機関車では、台枠は板台枠と棒台枠の2種類に大きく分けられ、これが車輪により支えられまたボイラーなどの上部構造を載せる仕組みとなっている。 貨車でも有蓋車や無蓋車などたいていの車両では台枠があり、重量を受け持っている。コンテナ車の場合、コンテナの重量のほとんどは側梁にかかるため、側梁が強度を主に負担しており、このために魚腹形の側梁となっている。タンク車では台枠のないフレームレス構造のものがあり、この場合タンク体全体で強度を受け持っている。 台枠の上面は床を構成し、座席やその他の車内設備を設置するとともに、旅客や貨物の荷重を負担する。床面は、単に鋼材に敷物を貼っただけの鋼板床のほか、優等車などでは遮音性に優れた、波形鋼板(キーストンプレート)の上にポリウレタンフォームやユニテックスを充填して敷物を貼りつけた構造などが使われる。また下面には、横梁に床下機器が吊り下げられる。軸受あるいは台車の心皿などの重量を支える構造は枕梁に力を伝達するようになっている。 ===側構=== 側構は、鉄道車両の左右部分である。近代的なモノコック構造の車両では、台枠と一体となって強度を負担している。窓より下の外板を腰板、窓より上の外板を幕板という。かつては側構の窓部分の開口による強度不足を補うために、ウィンドウ・シル/ヘッダーという帯状の補強構造物が窓の上と下に取り付けられていた。ビードやコルゲートといった表面加工が見られる車両もある。 ===妻構=== 妻構は、鉄道車両の前後部分である。車体の端を垂直に切り落としたような構造の場合を切妻といい、そのうち両側を削った構造の場合を折妻といい、それ以外の場合曲面妻という。構体両端部を閉じる構造を形成して強度上重要な部分を受け持っている。 隣接車両と連結して旅客や乗務員の通り抜けが必要とされる場合には、中央部に貫通路が設けられる。また先頭車や機関車の場合は、窓を構成してフロントガラスをはめ込み運転台とする。貫通路と運転台を両立した貫通運転台構造もある。 特急用の車両の場合などは、先頭部分の形状は特に外観を重要視して設計することがあり、複雑な形状となる。高い位置に運転台を設置する高運転台構造は、視認性をよくし、踏切事故などでの運転士への危険を防ぐなどの目的がある。高速車両などでは流線形が採用されることもある。 運転台がある場合には、前灯、尾灯、ワイパーなどが設置される。貫通路がある場合は貫通幌などが設置される。また貫通路のある中間車の場合は貫通路の両側に妻窓が設けられることがある。 ===屋根構=== 屋根構は、車両の天井・屋根部分を構成している。前後方向に長桁が、左右方向には垂木が骨組みとして組み込まれている。冷房付きの車両では、室外機を屋根の上に搭載することが一般的で、これは重量が大きいため設置位置をあらかじめ検討してその重量に耐えるだけの強度構造とする。また、冷房は車内と車外を貫通して取り付けることが多いため、その場合は大きな開口部を設置することになり、この点でも強度上の配慮が必要となる。この他、車内側の天井や冷房風道、照明の灯具、車両補修の作業者が屋根の上を歩くときに使うランボード、雨水が垂れることを防ぐ雨どいなどが設置される。 ===運転台=== 機関車や電車・気動車の先頭車両などには、機関士・運転士が運転を行うための運転台(運転室)が設けられる。一般に妻面に設置されるが、機関車の中には機器の配置の都合でセンターキャブと呼ばれる車体中央付近に運転台を配置した構成も見られる。 運転台は、車両の全幅に渡って設置される場合と、半分ほどの幅になっている場合がある。運転室は運転士が乗務するだけでなく、車掌やその他の客室乗務員などが乗務するスペースともなる。貫通式の運転台と呼ばれるものは、運転台の位置が列車の先頭や末端ではなく他の車両と連結されて中間になった時に、旅客や乗務員が車両間を移動できるように中央部に貫通路を設けることができる構成になっているものである。貫通路を設置できない運転台は非貫通運転台という。 実際に運転士が座る席は、車体中央に設置される場合と、左右どちらかに偏って設置されている場合がある。自動車ではそれぞれの国の道路の進行方向に応じて、左側通行の国では右側に運転手席を配置するのが一般的であるが、鉄道の場合は進行区分との関係は必ずしもなく、左側通行が原則の日本では信号機が左側に立てられていることが多いことから、信号機を見やすい左側に席を配置することが多い。タブレット閉塞の区間ではタブレットの取り扱いに便利な側に設置したり、ワンマン運転を前提にプラットホームのある側に配置したりする例がある。 自動車のアクセルに相当するのは主幹制御器(マスター・コントローラー、マスコン、路面電車など直接制御の車両の場合は直接制御器(ダイレクトコントローラー))である。自動車と違い手で操作する。縦方向の軸を中心に水平に回転させて操作するものと、横方向の軸を中心に垂直に回転させて操作するものがある。また、ブレーキハンドルと一体化したワンハンドルマスコンもある。ワンハンドルマスコンにおいては、押して走らせるものと引いて走らせるものとの両方がある。マスコンを左手で操作するか右手で操作するかは同じ鉄道事業者の中でも統一されておらず、車種によって様々である。 ブレーキを操作するのはブレーキハンドルであり、これも手で操作する。機関車では、機関車のみに作用する単弁(単独ブレーキ弁)と列車全体に作用する自弁(自動ブレーキ弁)が別々に存在する。 このほかに、警笛を鳴らすペダル、ATSに代表される自動列車保安装置の取り扱い装置、前灯やワイパーのスイッチ、速度計、圧力計、電圧計、各種の状態表示ランプ、列車無線の送受話器、時刻表差し、車内放送のマイク、車掌スイッチなどが設置されている。最近の車両では、モニタを運転台に設置して車両の状態を表示し、またタッチパネル式の入力装置により簡単な点検作業や車内の空調温度設定など様々な作業が運転台からできるようにされている。 運転台は前面衝突の際に最初に巻き込まれる場所であるので、運転士の保護に配慮した設計がなされる。主に想定される衝突事故は踏切における障害物との衝突であり、前頭部はその衝突に耐えられるように強化されている。また運転士の座る位置を高くすることで、車体下部に障害物を巻き込んだ際の影響を抑えている。クラッシャブルゾーンを設けて衝撃を吸収する構造になっているものもある。 運転台はすべての車両に設置されているわけではない。機関車のほとんどには両端に運転台が設置されているが、センターキャブの機関車では両側へ進行するときに兼用される運転台が中央に1つ設置されている。また、主に北アメリカではBユニット(あるいはブースター)と呼ばれる運転台を持たない機関車が用いられており、これは運転台を備えているAユニットと連結してそこから制御されることを前提にしている。 電車は、その形式が長編成を組むことを前提にしている場合には、中間車として設計された車両には運転台が設けられない。これは気動車も同様であるが、長編成を組むような路線では電車が用いられることが多く、気動車が投入される路線では編成が短いこともあり、中間車として運転台を持たずに設計・製造される気動車の数は電車に比べて少ない。運転台を設けた車両を制御車、設けていない車両を中間車という。 客車は動力がないため運転台も設置されないのが普通であるが、機関車を末端に連結して列車全体を後押しする形で運転する時に、先頭部の客車に設けた運転台から運転する形態があり、その場合には運転台が設置される。そうした客車を制御客車という。 1両の車両の両端に運転台が設けられている場合を両運転台、片方にだけ設けられている場合を片運転台という。 ===扉=== 鉄道車両の扉は、側構に設けられた外部に直接出る扉のほかに、車内を区切るために設けられた扉や、連結されている隣の車両に移るところに設けられた貫通扉などがある。 引戸は扉が横にスライドして開閉する構造であり、広く用いられている。側構の内部に戸袋を設けて、そこに引き込む形で開閉される。2枚の扉が両側に開く両開き扉と、1枚の扉が片側にだけ開く片開き扉があり、通勤列車のように短時間に多人数の乗降を必要としている車両では両開きが広く用いられる。 吊戸は側構の外部で扉を吊って、横にスライドして開閉する構造である。引戸と異なり、側構内部に戸袋を設ける必要がなく側構を薄くでき、強度上有利などの利点があるが、プラットホーム混雑時に乗客に危険があるとの懸念がある。日本では使用例が少ないが、それ以外ではかなり見られる方式である。 開戸は蝶番によって壁に取り付けられ、蝶番を支点として回転することにより開く構造である。内側に開くものと外側に開くものがあるが、外側に開くものはホームにいる旅客に扉が衝突する危険があり、あまり用いられなくなった。初期の客車ではコンパートメント式で、車外側に開く開戸が一般的であった。内側に開くものは、乗務員用の扉に広く見られる。 折戸は、2枚の扉が蝶番でつながっており、折り畳まれる形で開く扉である。2枚で構成される片開きのもののほか、これを2組設置して両側に開く4枚折戸もある。車体強度上不利な戸袋を設ける必要がなく、広い開口面積を確保できるため、一部の車両で用いられている。ただし開戸同様に扉の動作域があって乗客を巻き込む恐れがあるという問題のほか、気密性を確保しづらく寒冷地での使用が難しい。 プラグドアは、扉がいったん外側または内側に動いた後、車体と平行にスライドして開く構造で、複雑な機構のため高価であるが、外板と扉部分が平坦になり見た目がよくなるとともに、高速鉄道では空気抵抗の削減を期待できる。ヨーロッパではLRTでも広く用いられている。外側スライド式では戸袋を必要としないという長所もある。ただしプラグドアは上述したように、動作機構が複雑であるため高価であるという問題がある。 この他に、荷物車にシャッター式の上下に動かして開閉する扉が用いられた例がある。 1両の車両の片側の側面にある扉の数は、0個から6個程度である。食堂車など、外部から直接乗車することを想定していない車両では扉を設置しないことがある。一方で通勤用の車両では迅速な乗降のために扉の数を増やす傾向にある。 古い時代の鉄道車両では、そもそも扉がなくオープンデッキのスタイルのものがあった。そうしたものでも、高速化するにつれて柵を付けるようになり、やがて扉が付けられるようになった。この扉の開閉は古くは手動であったが、乗降時間の短縮や駅員・乗務員の労力軽減、安全性の向上といった目的で自動化が行われるようになった。車掌または運転士の取り扱う車掌スイッチにより一斉に開閉される。扉を開閉するのはドアエンジンにより、空気圧式のものと電気式のものがある。 車内の温度維持等の目的で、すべての車両の扉を同時に開閉させるのではなく、旅客が乗降する時に必要とされる扉のみを旅客の意思で開けられるようになっているものがある。乗客が手で開けるが、機械で一斉に閉めることができる方式を半自動式という。また乗客が手作業で扉を開閉するのではなく、扉脇に設けられた押しボタンを操作することで開閉させられるものもある。扉の数が多い通勤車両などで長時間停車時の車内温度維持の目的で、大半の扉を閉めて一部のみ開けて残す機構を備えたものもある。 自動ドアでも、事故等の非常時に旅客が避難脱出できるように手動で開けられるようにするドアコックが付いているものがある。 ===窓=== 窓は、鉄道車両では運転台の前面、客室の両側、妻面、扉など様々な場所に付けられている。固定された構造のものと、開閉可能なものがある。 運転台の前面の窓にはフロントガラスがはめ込まれており、一般に固定された構造である。ただし側面の窓を開けられるようになっているものもある。また、乗務員用扉に取り付けられている窓は一般に開閉可能である。運転台と客室またはデッキを区切る壁にも窓が設置されていることがある。 客室では側面に窓が設置されている。固定式のもの、一段上昇式のもの、一段下降式のもの、二段に分かれていてそれぞれが上昇、あるいは下降するもの、内側に傾いて開くもの、引き違いで横にスライドして開くものなどがある。戸袋にも固定式の窓が設置されていることがある。妻面にも窓を設置することがある。また、扉自体に設置されていることもある。 窓ガラスとしては強化ガラスや合わせガラスが用いられる。2枚のガラスの間に空気層を設けた複層ガラスも用いられることがある。 また、多くの客室の側面窓にはカーテンなどの遮光装置が設置されている。上部から引き降ろして所定の位置で止められる巻上カーテン式、一般家庭のカーテンのように横から引っ張って閉める横引カーテン式、2枚のガラスの間にブラインドが設置されているベネシャンブラインド式、金属または木製のよろい戸を使うよろい戸式などがある。巻上カーテン式の場合、カーテンレールにある窪みに金具を引っ掛けて止めるものと、任意の位置で止められるフリーストップ式のものがある。 ===座席=== 座席の配置形態としてはロングシート、クロスシート、セミクロスシートなどがある。その鉄道車両が投入を予定されている用途に応じて車内の座席の配置の仕方は異なっている。 座席の表面には難燃性モケット、ビニールレザー、平織物、皮革などが用いられている。内部にはばねを入れて、その周りにポリウレタンフォームやビニールフォーム、フェルトなどを詰め物としている。 ===照明=== 車両の照明は、古くはオイルランプが用いられていたが、ピンチガスによる照明を経て白熱灯に変わり、現代では蛍光灯が主流となっている。また、読書灯などでLED照明が用いられることもある。一般に天井に照明器具が取り付けられ、そこに蛍光灯が取り付けられている。直接蛍光灯が露出しているタイプは通勤用車両など低コストな車両に多く、より高級な車両になると蛍光灯の周囲をカバーで覆っている。関西民鉄などでグレード感にこだわって、一般車両でもカバーを装着している例がある。一等車など特別な車両では間接照明も用いられる。 客室の直接の照明のほかに、トイレの照明や行き先表示装置の照明などもある。 ===空調装置=== 客室内では多人数の旅客と乗務員が過ごすため、換気に配慮して設計が行われる。強制通風式と自然通風式がある。強制通風式では送風機を設置し、吸気と排気の両方を強制的に、あるいは吸気のみ、排気のみを強制的に行う。自然通風式ではベンチレーターを屋根の上などに設置して通風を行う。 暖房はかなり古くから多くの旅客車に装備されている。石炭や薪を車内のダルマストーブなどで焚く暖房は古くから使われていた。コンパートメント車両では温水や酢酸ナトリウムを利用した湯たんぽによる足元暖房や、車内に設置された小型ボイラーによる温水循環暖房が用いられていた。蒸気暖房は、蒸気機関車または機関車や暖房車に搭載された蒸気発生装置からの蒸気を客室内の蒸気管に通して暖めるものであるが、蒸気機関車がなくなるにつれて次第になくなっていった。電気暖房は電気式のヒーターにより車内を暖める。気動車ではエンジンの排気熱で温める温水暖房もある。また冷房が搭載されている車両ではヒートポンプ式もある。 冷房は、第二次世界大戦前から装備されている車両もあったが、普及するようになったのは第二次世界大戦後のことで、通勤車両などでは1970年代からである。電力消費が大きく、電源の確保に注意を払う必要がある。機関直結式冷房装置のようにエンジンから直接圧縮機を駆動して冷房を稼動させる形式もある。車内への冷気送り出しは天井部分に設置したダクトから行われるのが一般的である。室外機の配置の仕方により、集中式、集約分散式、分散式などがある。 ===トイレ=== 長距離列車に用いられる車両などには、トイレが設置される。扉を持った個室に便器と手洗いが設置されている。洗浄用の水はタンクに貯留されていて、必要に応じて車両基地などで補給されている。かつては便器から流された汚物は線路に垂れ流されており、これによる衛生上の問題があった。汚物を粉砕し消毒してから排出する粉砕式も試みられたが、異物を巻き込んで故障する問題が絶えず、しかも汚物を車外に排出するという方式には変わらなかったこともあり、抜本的な解決策とはならなかった。汚物をタンクに貯蔵する方式は、タンクがすぐに溢れてしまう問題があり、汚物に含まれる水分を濾過・処理して便器の水洗に再利用する仕組みが考案されてから広く普及するようになった。JRグループでは2002年3月に垂れ流し式の完全廃止を達成したが、世界的に見ればまだ垂れ流し式は多い。 ===連結器=== 連結器は隣の車両と連結して編成を構成する装置である。密着連結器、自動連結器、ねじ式連結器などの各種の連結器がある。その他に、ブレーキ用の空気圧を供給するブレーキ管や、電気配線などを連結するジャンパ連結器などが車両の間で繋がれる。 ===貫通路=== 貫通路は車両同士を連結して旅客や乗務員が行き来できるようにした通路である。踏み板と貫通幌、貫通扉などで構成されている。貫通幌は、蛇腹状の構造のものが一般的に使われているが、太い管状のゴムを組み合わせた例もある。貫通路に扉を設けるかは車両により、設けないことで見通しをよくし開放感を演出できるが、風が吹き抜けて冬に寒くなることや、騒音の問題、そして火災時の延焼防止などの観点から貫通扉を設置することがある。 また、高速鉄道などで騒音と空気抵抗の低減を狙って連結部車体全周に幌を取り付けたものもある。 ===走り装置=== 走り装置あるいは走行装置は、鉄道車両がレール上を走行するために必要な車輪、車軸、軸受といった構造の総称である。車体と荷重を支え、レールに沿って車体を案内し、駆動装置や制動装置が発生させる駆動力・制動力を車輪と車体の間で伝達する役割を果たす。 鉄道車両では、軸受が車体に固定されていてカーブに沿って向きを変えることができないものと、台車に軸受が取り付けられていて車体に対して台車が回転することでカーブに沿って向きを変えられるようになっているものがある。前者を、1両あたりの車軸が2軸の場合を二軸車、3軸の場合を三軸車といい、後者をボギー車という。ボギー車の台車にも、2軸台車、3軸台車などがある。 ボギー車と二軸車の概念を図で示す。図の上がボギー車で、下が二軸車である。ボギー車では、台車に車軸が取り付けられているので、台車が車体に対して回転することでカーブで車輪がカーブの方向を向くことができる。一方、二軸車は車軸が車体に直接取り付けられているので回転することはない。 ボギー車では、多少の軌道の不整があっても滑らかに走行することができるという長所がある。走行性能の差から、二軸車では最高速度が低く留められており、日本では75 km/hに制限されているが、ボギー車はこれよりずっと速く走ることができる。また脱線への安全性という面で見てもボギー車の方が有利である。一方、2軸ボギー台車2つを備えた4軸の車両と二軸車では、同じ軸重での搭載量はボギー車が二軸車の2倍にできるが、車体が長くなる分車体強度を向上する必要があること、台車そのものの構造が複雑で重量がかさむことなどから、総合的な積載効率には大きな差はない。かつては、商取引の単位が小さくボギー車では輸送力が過剰であることを理由に、日本やヨーロッパの貨車は二軸車が主流であったが、輸送単位の問題はコンテナの採用で解決し、走行性能を重視して貨車でもボギー車を採用するようになってきている。 蒸気機関車では、シリンダーからコネクティングロッドで動輪を駆動する関係で、動軸は車体に固定されていて曲線に沿って回転させることができないものが普通である。曲線での走行性能を改善するために、若干の横方向の移動を許容したり、一部の車輪のフランジを削ったりしている。一方蒸気機関車でも先輪や従輪などの動力のない車輪については台車構造が標準である。 二軸車では、車軸同士の間隔のことを固定軸距(ホイールベース)という。これに対してボギー車では、台車における車軸の間隔を固定軸距といい、台車同士の距離は台車中心間距離(ボギーセンター間距離)という。固定軸距が長くし台車の回転抵抗を大きくすると直線での直進性能がよくなるが、曲線での操向性能が悪化する。このため、両者の特性の調和を図る必要がある。 二軸車のほかに三軸車というものも存在する。三軸車は曲線通過時の問題が大きく走行性能が悪いが、車両の費用や工数、消費する資材に比べて荷重を大きくできることから採用された例がある。その際には中央の軸に横動を許容するなどの対策が必要となる。またボギー車においても、ボギー台車に3つの車軸を備えた三軸台車というものが存在し、さらに四軸のものも見られる。逆に一軸台車というものもある。 通常の構造では1つの車体の下にボギー台車を2つずつ備えているが、2つの車体を連結する部分の下に台車を取り付けて車体同士の連結構造と一体化した台車もあり、連接台車と呼ばれる。曲線通過が容易になり車体の重心を下げられる、台車から車体がオーバーハングした部分がなく乗り心地がよいなどの利点があるが、車端部の構造が複雑になり1台車で支持する荷重が増大する、車両を切り離すことが容易ではないなどの問題もある。また連接車は、台車中心間隔に制約が設けられている関係で、車体長が短いものが多い。 路面電車などでは、その車体に全く車輪・車軸構造を持たずに、両側の車体によって支えられているだけの構造のものもある。これも連接車の一種とみなされる。低床式路面電車などでは、車体を下げつつ客室空間を確保する目的で、左右の車輪を車軸でつながずに独立した車輪としているものもある。 日本独自の珍しい方式としては、車体の片方にはボギー台車を装備している一方で、もう片方は固定車軸を備えている車両があり、片ボギー車(半ボギー車)と呼ばれる。 ===輪軸=== 車輪と車軸を合わせて輪軸と称する。車輪と車軸は別に作られて、車軸にプレス機で400 ‐ 500 kN程度の強い圧力を掛けて車軸より小さな取り付け穴の設けられた車輪に圧入することで車輪が車軸に固定される。車輪1枚で300 kg前後の重量があり、両側の車輪に車軸、歯車装置などを含めると1 tを超える。 ほとんどの鉄道車両の車軸には、一番外側に軸受にはめ込む軸受座があり、その内側に車輪を取り付ける輪心座がある。ただし車輪より内側部分に軸受を設置する特殊な例もある。車輪より内側には、ディスクブレーキを使用する車両ではブレーキディスクや、動力車においては駆動装置用の歯車などが設置されている。ブレーキディスクについては、車輪より外側に設置したものもある。 車輪は、一番外側のレールと接する面をリム部、車軸を差し込む部分をボス部、その間を結ぶ円盤状の部分をディスク部という。またディスク部とボス部をまとめて輪心、リム部をタイヤとも呼ぶ。輪心とタイヤを別に作り、タイヤを輪心に焼嵌めしたタイヤ付車輪と、タイヤと輪心を一体に作った一体圧延車輪がある。タイヤ付車輪は、タイヤが摩耗した時にタイヤだけ取り換えられるという利点があるが、タイヤが弛緩したり割損したりするという欠点があり、そうした心配がなく焼嵌めの熟練作業が不要で、軽量で車輪の寿命が長く、品質が安定するといった利点のある一体圧延車輪が現代の鉄道車両に広く用いられるようになっている。路面電車などでは輪心とタイヤの間にゴムなどを挟みこんで騒音低減効果を狙った弾性車輪も使用されているが、ドイツではこれを高速鉄道に使用してエシェデ事故を引き起こす大きな原因となった。車輪には一般に高炭素鋼が用いられる。 車輪の輪心にはもともとスポーク状のものが多かったが、強度を向上したディスク構造のものが増えている。ディスク状のものはそれに働く応力を考慮して、リム部が外側に、ボス部が内側になるような湾曲した形状をしていることが一般的である。これに対して電動車などでは、電動機や歯車を装荷する場所を稼ぐために逆にボス部を外側にするように湾曲した形状をしていることがあり、この場合は必要な強度を出すためにディスク部が厚くなる。両面にブレーキディスクを取り付けられるようにほぼ直線的なディスク部形状になっていることもある。また軽量化のためにディスク部を波打たせた波打車輪もある。 車輪がレールと接する面を踏面(とうめん)あるいはタイヤコンタという。踏面の形状は走行特性を決定する重要な要因である。外側に行くにつれて半径が小さくなる円錐状をしているが、実際の踏面形状はさらに複雑に定められている。車両が曲線に入ると、曲線外側の車輪はより車輪内側の半径の大きな部分がレールに接触するようになり、一方曲線内側の車輪はより車輪外側の半径の小さな部分がレールに接触するようになる。すると、曲線外側の車輪の方が曲線内側の車輪よりも1回転で進む距離が長くなり、自然に曲線内側へ曲がっていくような運動をすることになる。これにより車輪には、直線路ではレールの中央に沿って、また曲線では曲線に沿って走ろうとする力が働く。タイヤが摩耗してくると円滑な走行が阻害されるため、削正を行って正しい踏面形状に戻す保守作業が行われている。踏面形状は、脱線への耐性が高く、走行安定性に優れ、摩耗が少なく検査の手間がかからないことが求められるが、しばしば条件が相反する難しいものとなる。踏面の円錐形の傾きを踏面勾配と呼び、大きいほど曲線を通過しやすくなるが、直線において蛇行動が発生しやすくなるという問題がある。 車輪の一番内側にはフランジが設けられており、脱線を防ぐ働きをする。国際鉄道連合 (UIC) が定める標準踏面形状では、フランジの高さは27 mm、角度は59度とされている。フランジ角度を大きくするほど脱線を防ぐ効果が大きいが、摩耗時の削正量が増大し、車輪の交換間隔が短くなって不経済であるという問題がある。新幹線では脱線防止を重視して角度を70度としている。 ===軸受=== 軸受は車軸を収めて車体の荷重を車軸に伝える装置である。一般に軸箱と呼ばれる箱に組み込まれている。かつては平軸受が多く使われていたが、軸受側にも回転するコロ状の装置を取り付けたコロ軸受が一般的となった。円錐コロ軸受では、車軸が軸受に対して軸方向に移動することが全くできないが、円筒コロ軸受ではわずかに軸方向の移動を許容している。軸方向の移動は末端のスラスト受によって受け止められる。 ===軸箱支持装置=== 軸箱の前後左右上下への多少の動きを許容するようにしながら、台車枠(二軸車の場合は車体)に対して支える構造のことを軸箱支持装置と呼ぶ。右図に示したのは、二軸車で多く使われている二段リンク式の懸架装置である。中央の青い箱状の構造が軸箱である。軸箱は前後左右に移動することができないように軸箱守(じくばこもり)で固定されており、図では軸箱の両側のグレーの構造が軸箱守である。これに対して上下方向へは、動揺を吸収して安定して走行し乗り心地を改善するために、ばねを設けて軸箱が動くことを許容する仕組みになっている。軸箱の上下方向の動きを許容し荷重を伝えるばねを軸ばねといい、図では黄色い板ばねになっている。 例として示したのは軸箱守式の軸箱支持装置であるが、このほかに円筒案内式、軸梁式、板ばね式、リンクアーム式、ゴム式など各種の方式がある。 ===台車枠=== 台車枠は、台車全体の構造を形成している枠組みで、車体支持装置を通じて上部に車体を載せ、軸箱支持装置を通じて下部に軸受・輪軸を備えて、車体の重量を輪軸へ伝達する役割をしている。基礎ブレーキ装置を搭載してブレーキ機構を形成している。また動力台車の場合、動力に関する機構も台車枠に装荷される。 ===車体支持装置=== 車体支持装置は、台車の回転を許容しながら車体の荷重を支えるための機構である。ボルスタつき台車の場合は、揺れ枕の機構を用いて左右方向の動揺を吸収緩和しながら、枕バネの機構により上下動を吸収している。車体と台車の間の回転は、枕ばりと台車の間で行われる機構になっている。一方、揺れ枕の機構を廃して空気バネにより荷重を支えながらバネの変位により回転に対処するボルスタレス台車が増加しつつある。 ===駆動装置=== 動力機構で発生させた動力を車輪に伝達する機構は様々なものがある。 電気車では電車でも電気機関車でも一般的にはモーターが台車に装荷されている。ただしTGVのように車体側に装荷されているものもある。吊り掛け駆動方式の場合は、台車枠と車軸の間にモーターが掛け渡されている構造になっており、一方カルダン駆動方式の場合はモーターは台車枠側に固定して装荷され、そこからカルダンジョイントを通じて車軸を駆動している。他にクイル式駆動方式、モーターの回転軸が直接車軸になっているダイレクトドライブ方式などの例もあり、また初期にはクランクを使って車輪を駆動する方式も見られた。 内燃車では動車でも機関車でも、車体側にエンジンと変速機が搭載されており、そこからドライブシャフトで台車枠に装荷された減速機を駆動して、減速機が車軸を駆動している。ただし電気式の場合は発電してその電力で電気車と同様の機構を駆動する。 蒸気機関車では、クランクで車輪を駆動する方式が大半である。しかしギアードロコのように歯車を介して車輪を駆動する方式もある。 ===制動装置=== 鉄道車両のブレーキは大別して車輪とレールの間の摩擦力(粘着力)で作用する粘着ブレーキと、それ以外の非粘着ブレーキがある。 粘着ブレーキの中でも機械式のものは、人力あるいは機械力によるものがある。機械力は、蒸気ブレーキ、真空ブレーキ、空気ブレーキ、油圧ブレーキなどの各種がある。いずれもブレーキシリンダーを動力源として制輪子を動かして車輪の回転を止める仕組みになっている。制輪子を当てる先が車輪の踏面のものが踏面ブレーキ、ブレーキディスクのものがディスクブレーキである。ブレーキシリンダーから制輪子を動かすまでの機構は基礎ブレーキ装置と呼ばれ、台車(固定車軸の車両は車体)に装荷されている。制輪子としては昔から鋳鉄制輪子が用いられてきたが、近年ではレジンなど合成材料を用いることもある。 これ以外の粘着ブレーキとしては、電気車では発電ブレーキや回生ブレーキなどのモーターを発電機として使用して制動力を得るものがあり、また内燃車ではエンジンブレーキのように原動機の回転力を利用したもの、変速機で発熱損失を利用して制動力を得るリターダなどがある。 非粘着ブレーキには、電磁吸着ブレーキ、渦電流式レールブレーキなどの種類がある。 ===特殊な台車=== 車体傾斜台車は、曲線において車体を台車に対して傾ける機構を備えていて、遠心力による乗客の乗り心地への影響を低減することで、曲線の高速走行を可能にする台車である。日本の在来線ではコロ機構により車体を支えて、必要な時に回転させる振り子方式が主流で、カーブ走行時の遠心力で受動的に車体を傾ける自然振り子式と、油圧や空気圧などのアクチュエータなどを用いて強制的に車体を傾ける強制車体傾斜式がある。 自己操舵台車は、安定性を保ちながら曲線に沿って舵を取って曲がる台車で、複数の方式が研究されている。軸箱支持装置の工夫で、曲線に沿って車輪の向きを変えられるようにする技術があり、リンクで結合してステアリングを実現するシェッフェル台車や油圧により同様の動作を実現する機構などがある。 ===動力機構=== ====電気車==== 電気車では、集電装置から電力を取り入れて、制御器により所望の電圧・周波数などに変換して電動機を駆動している。 集電装置は、現代では多くがパンタグラフであり、屋根の上に装備されている。避雷器と断路器を通って車内の回路に電流が流れる。第三軌条方式では集電靴から電力を取り込む。 直流車の場合は、この電力を運転台からの指令に応じて抵抗制御、電機子チョッパ制御、界磁チョッパ制御、界磁添加励磁制御、VVVFインバータ制御などの各種の制御方式により必要とされる電圧・電流・周波数に変換する。交直車は直流区間では直流車と同じで、交流区間では主変圧器で電圧を落としてから整流器を通して直流に変換し、直流時と同じ回路につなぐ。交流車ではタップ切替制御やサイリスタ位相制御などにより電圧・電流・周波数の変換を行っている。 制御器で変換された電力は電動機に供給され、電動機が車軸を駆動している。 ===内燃車=== 内燃車では、搭載された内燃機関により回転力を得る。電気式ではこの回転で発電機を駆動し、得た電力により電気車と同様の制御を行っている。機械式では歯車式の変速機により、液体式ではトルクコンバータにより変速して、推進軸により台車に装荷された減速機を駆動し、減速機が車軸を駆動している。 ==歴史== 鉄道車両は、鉱山の輸送などに用いるために考えられたトロッコが出発点となっている。その後、蒸気機関車が発明されるとともに近代的な輸送機関として発展するようになった。初期の客車は馬車の延長線であったが、やがて大型化と高速化のために台車を用いたボギー車が発達した。19世紀の終わりから20世紀の始めにかけて、電気を動力とする鉄道車両と、内燃機関を動力とする鉄道車両が開発されて、次第に普及していった。第二次世界大戦後には各国で蒸気機関車は電気・ディーゼル動力へ置き換えられていった。また動力分散方式が広く普及するようになり、高速鉄道も開発されるに至った。 ==鉄道車両の形式・車両称号== 鉄道車両には、その種類や使用目的を示すために形式が与えられる。一般的に形式は、アルファベット、カナ、数字などを組み合わせた文字列で構成されている。形式の与え方は鉄道事業者によって様々であり、統一されたものはない。さらに個別の車両には製造番号が与えられ、形式と製造番号を合わせて車両称号と呼ぶ。車両称号は、各車両に必ず表記されることになっている。 車両に与えられる称号は記号や番号に限らず、固有の名前として与えられることがある。特に初期のイギリスの鉄道などでは固有の名前だけで車両が区別されていた頃があった。やがて車両の数が増えるにつれて番号による管理が一般的となっていったが、番号とは別に固有名詞を与える例も多かった。蒸気機関車で、形式全体を表す愛称と、個別の機関車の愛称が付けられていた例もあった。 設計が多少変更されたが別形式にするほどではない場合には、番台分けが行われることがある。これは車両個別を区別するための番号について、途中を飛ばして100番からなどきりのよいところから次の番号を与えることで区別するものである。 国鉄・JRについては国鉄の車両形式・JRの車両形式で形式の与え方が説明されている。日本の私鉄についてはそれぞれの会社記事の中で説明されている。 また、編成単位に編成番号を表示している事業者もある。これは編成を構成している個別の車両の番号とは別個に、編成全体を識別するために与えられている番号である。ドイツのICEのように編成に固有名を与えている例もある。 ==編成== 鉄道車両は、列車として使用する際に単独ないしは2両以上組み合わせて使用される。その際の使用車両の組み合わせを編成という。1両のみで運行される場合、「1両編成」または「単行」、「単機」(機関車の場合、単行機関車の略)という。 編成を構成する際には、必要な輸送力を想定して両数を決定し、動力車の配置や電源の容量などの技術的な必要性を考慮する。サービス面では、グリーン車のような優等車の必要性、食堂車やラウンジカーなどのサービス設備の配置、トイレの数などを考慮する。 編成のうち、輸送力が最小時の必要両数で組成された部分を基本編成、輸送力増強のための増結編成を付属編成と言う。また、列車全体を単位として電源やサービス設備を設計する手法を固定編成と言う。固定編成の場合、走行に必要な機器を編成中の各車両に分散配置することが普通で、その場合単独で走行することができない車両が生じることになる。 これらを運転中に編成落とし(列車の増結、解結)をしたり、分離運転(多層建て列車)したりする。 ==塗装== 鉄道車両の塗装は、基本的には車体の腐食防止を目的として実施される。このため本来は1色塗りで十分であり、古い時代の車両では汚れが目立たない塗装として黒や茶の1色塗りが広く用いられていた。ステンレス鋼やアルミニウム合金などの錆びることのない材料が車体に使用されるようになると、腐食防止を目的とした塗装の必要はなくなった。塗装にはそのための設備が必要とされ、年月とともに塗幕が劣化していき再塗装が必要となって経費がかかることや、塗料に有機溶剤が含まれていて作業者の健康管理上の問題があることなどから、無塗装化は鉄道会社の経営的には歓迎されるものである。 一方で、複数の色で塗り分けたり、明るく鮮烈な色を用いた塗装を施したりするのは、外観のデザイン性を意識したものである。特に優等車両では、錆びることのない材料を車体に使用していても意匠上の理由で塗装を実施することがある。また路線や列車の識別を狙って、路線ごとに異なる色を採用する(ラインカラー)例もある。ステンレス車体の車両などでは、ラインカラーのような識別を目的とした塗装の代わりに帯状のステッカーやフィルムの貼付で代えることがある。これにより、それまでの塗装では困難であった多色の使用などが可能となった。またこうした技術を利用して車体全体に広告などを実施したラッピング車両が実現された。 ==製造から廃車解体まで== ===企画=== 鉄道車両の新規の製造のための企画は、新規の路線開業・列車の増発・電化や高速化などの輸送改善に伴う置き換え、老朽化した車両の置き換えなどの理由で行われる。鉄道車両は自動車に比べて耐用年数が長く30年から40年程度使用することも珍しくないため(帳簿上の耐用年数は電車が13年、気動車が11年であるが、製造から廃車までの間に大規模な更新工事を1 ‐ 2回行うことで耐用年数を延長して使用することが通常である)、長期的な計画に基づいて新造計画が立てられる。 必要となる車両数は、投入を予定している路線の列車ダイヤや既存の車両の廃車の進行予定を検討しながら決定される。鉄道車両メーカーの生産能力は限られているため一度に大量生産することはできず、複数年にわたって継続的に発注が行われることが一般的である。短期間に大量に生産すると製造単価を引き下げることができるが、その車両の更新時期が一度にやってくるという問題もある。 どのような車両を製造するかは、その車両の用途、輸送改善の必要性、鉄道会社のイメージアップ、経営の合理化など様々な要素を考慮して決定される。特急列車用のような看板車両では性能とともにイメージアップの要素に注意が払われ、通勤列車用の車両ではコストダウンに重点が置かれる。特殊な設計の車両を少数導入することは新製・保守の費用の点から好ましくなく、同じ設計の車両をある程度まとまった数導入できるように考慮する必要がある。費用の削減をより推し進めるために、鉄道会社やメーカーを越えてできるだけ共通化した設計を導入する、標準化・規格化の動きもある。 ===設計=== どのような車両を新製するかの方針が決まると、具体的な設計が行われる。誰が設計を行うかは国や鉄道事業者に応じて、また時代によっても異なっている。 鉄道の始まった初期には車両メーカーと鉄道事業者は未分化で、鉄道事業者自体が新製車両の設計を行い部内の工場で製作していた。とくにイギリスの鉄道は、部内の工場で設計から製造まで一貫して行うことが主流であった。鉄道事業者内部で設計・製造を担当する最高責任者は多くの事業者で技師長 (Chief Mechanical Engineer)、あるいは機関車(汽車)監察方(総監督) (Locomotive Superintendant) と呼ばれ、技師長が責任を負って機関車の設計・製造を監督していた。 一方、鉄道会社とは独立した鉄道車両メーカーも存在する。この場合設計を行うのは鉄道車両メーカーである場合と、鉄道事業者である場合がある。日本やドイツなどでは、鉄道事業者が車両メーカーと共同で設計を行い発注することで、少数の形式を量産する形態を採用していた。アメリカでは、蒸気機関車の時代には鉄道会社が設計したものを車両メーカーに発注して製造させていたが、ディーゼル機関車の時代になるとメーカーが設計したラインナップから選択する形となった。イギリスやフランスなどではディーゼル機関車の時代になると、メーカーが設計したものを購入していたため、多くの形式が見られるようになった。 既に製造されている車両のマイナーチェンジ程度であれば、比較的速く設計から製造に移ることができる。全くの新形式を1から設計する場合には1年半程度の設計・試作期間を費やし、その後1年程度試作車両の試運転で問題点の洗い出しをし、さらに1年程度費やして修正設計と量産化というスケジュールが一般的である。機関車の場合で、1形式につき2,000枚を超える図面が作られる。 ===製造=== 鉄道車両は複雑な構成をしているため、車両のすべてをメーカーで直接製造することはなく多くの部品を部品メーカーから購入して取り付ける。時には廃車・解体された車両から取り外された部品を転用することもあり、そうした車両から回収された部品のことを「廃車発生品」と呼ぶ。車両価格のおよそ半分が部品購入費である。 鉄道車両の製作に要する時間は車種によって異なり、設計が完了した後、機関車で8か月程度、電車・気動車で6か月程度、客貨車で3か月程度とされている。鉄道車両の製造は自動車のように同じ車両を量産するわけではなく、様々に仕様の異なる車両を造り分ける多品種少量生産を特徴としている。またアメリカにおけるディーゼル機関車のような例を除けば、基本的に受注生産である。こうしたこともあり製造に関する作業の自動化は容易ではなく、組み立て工程の多くは現代においても労働集約的な作業となっている。 多くの国で鉄道事業者と車両メーカー・部品メーカーは強い関係があり、技術開発や使用実績のフィードバックなどで協力関係にある。国内産業保護のために国外の車両メーカーに発注する際にも国内での最終組み立てを義務付けたり、部品の購入を義務付けたりする。 ===輸送=== 完成した鉄道車両は、メーカーの工場から実際に使用される場所(ベースとなる車両基地)まで車両輸送が行われる。車両には車輪が付いていることもあり、線路がつながっていれば機関車で牽引して輸送することがある。他に、線路を自力で走行していく事例もあれば、トレーラーや船などによる輸送も行われる。空輸された事例もある。 ===試運転と訓練=== 投入される路線に到着した新しい車両は、入念な検査と試運転が行われる。近年の車両ではインバータなどの機器から出る電磁波によって他の装置が誘導障害を起こすことがあるため、車載機器と線路側の機器の相互運用性が慎重に確認される。 並行して、その路線を担当している運転士や車掌をはじめとする乗務員の新型車両に対する訓練も行われる。 ===運用=== 試運転や訓練が完了して使用可能になった鉄道車両は運用に投入されることで実際の営業運転での使用が開始される。 鉄道運行計画では、車両運用という形で車両の使用計画が立てられている。「A駅からC駅まで運行した後折り返しB駅まで走る」というような計画が立てられており、そうした計画に対して実際のどの編成を充当するかが決められている。車両が1日に走行する距離は、電気機関車で約400 km、電車や気動車で約500 km、新幹線のような高速鉄道で約1,200 kmとされている。 運用に就いている間、鉄道車両は定期的に検査を受けることになる。初期には劣化の進行を監視して、修理が必要になった時に取り換える方式であったが、結果的に故障してから取り換えることも多く、事後保守方式となっていた。そうした経験を積み重ねるにつれ、劣化を予測して定期的に検査を行う方式が採用されるようになり、予防保守方式となっていった。部品ごとに劣化の進行の程度と、故障した場合の重要性などを評価して検査周期を定めて実施している。保守費用は鉄道の経費に占める割合が高いために、部品の信頼性が向上するにつれて検査周期を長くする(検査回帰延伸)が実施され、経費削減に効果を上げている。 ある車両が検査に入っている間、代わりに運用に就く車両として予備車が用意されている。検査の代走だけではなく事故・故障が起きて急遽修理に回された車両の代走や、臨時列車の運行にも使用される。 ===転属=== 大きな鉄道事業者で複数の路線・車両基地を保有している時には、路線・車両基地間で車両の転属が行われることがある。また事業者を越えて中古車両として譲渡されることもある。こうした場合には合わせて改造が行われることもある。 ===改造=== 鉄道車両が使用されている間に、様々な改造が行われることがある。腐蝕した部品の交換や内外装のリフォーム・装備する機器類の交換、中間車を先頭車に、あるいはその逆にする改造などがある。内装の更新については、アコモデーション(accommodation 接客設備という意味)改善、略してアコモ改善と呼ばれる。台車や台枠を流用して新たな車体を作り直すということもあり、車体更新と呼ばれる。なお、この際改造の元となる車両のことを「種車」(たねしゃ たねぐるま)と呼ぶ。 ===廃車・解体=== 鉄道車両の耐用年数は車種によってまちまちであるが、事故や災害などで使用不能になるケースを除くと、おおむね在来線車両で20 ‐ 30年程度、高速運転を行う新幹線車両は十数年程度である。 鉄道車両としての登録から削除する(車籍を抜く)ことを廃車という。 車両の耐用年数を決定する要素としては、物理的命数・経済的命数・陳腐的命数の3つがある。物理的命数は、車両を構成する重要部品が物理的に使用に耐えなくなる限界を指し、主に台枠や構体の耐用年数によって決定される。経済的命数は、老朽化に伴って故障が増え、修繕費が増加して新型車両に置き換えた方が安くなる年数を指す。陳腐的命数は、時代の変化やより新型の車両の投入などにより古い車両が時代遅れになることによる耐用年数を指す。近年では陳腐的命数による耐用年数の決定が主である。 廃車になった車両は多くの場合解体処分される。解体処分には主要機器を取り外して構体を溶断・切断していく方法と、重機などにより叩き壊して解体する方法がある。1990年代以降では車体などの金属をリサイクルして新型車両に使う例もあり、また車両廃車後のリサイクル率を高められるように設計する車両もあるなど、解体後の活用法まで踏まえた指針も多くなっている。 一部の価値が認められた車両は保存鉄道で動態保存が行われたり、公園や博物館・車両基地などで静態保存が行われることもある。 ==鉄道車両のデザインとデザイナー== [1] (PDF) 日本の鉄道車両はこれまで、榮久庵憲司、岡部憲明、奥山清行、川西康之、黒岩保美、島秀雄、妹島和世、星晃、水戸岡鋭治、山本寛斎、若林広幸といったデザイナー諸氏にデザインされてきた。 ==鉄道工業== 世界でもっとも鉄道車両生産額が大きい企業は、中国の中国中車である。21世紀初頭時点では、カナダのボンバルディア・トランスポーテーション、フランスのアルストム、ドイツのシーメンスが三大鉄道車両メーカーと称され、この3社で全体の約半分のシェアを持っていた。しかしその後の変動により、中国の中国北車と中国南車が1位と2位を占めるようになり、両社が合併して中国中車となった。一方でシーメンスは世界7位に転落した。 2012年時点での鉄道車両新車生産額は、1位中国北車(中国)、2位中国南車(中国)、3位ボンバルディア・トランスポーテーション(カナダ・ドイツ)、4位アルストム(フランス)、5位ウラルワゴンマーシュ(ロシア)、6位シュタッドラー・レール(スイス)、7位シーメンス(ドイツ)の順であった。ボンバルディアはカナダの会社であるが、鉄道車両製造部門のボンバルディア・トランスポーテーションはドイツのベルリンに本社を置いており、ヨーロッパでの従業員や売り上げの比率が高く、実質的にヨーロッパの企業である。 2000年から2004年時点での統計では、世界市場におけるシェアは首位のボンバルディアが21%、2位のアルストムが17%、3位のシーメンスが15%で、このほかにアメリカのGEトランスポーテーション・システムが7%、同じくアメリカのゼネラルモーターズ(鉄道車両製造部門は2005年にエレクトロ・モーティブ・ディーゼル (EMD) として独立)が4%、イタリアのアンサルドブレーダが4%などであった。ただしこの数値は鉄道車両以外の鉄道システム部門の数値を含んでいる。 1999年から2000年に掛けての統計では、全世界での鉄道車両生産額は約25億ユーロであった。このうち、ヨーロッパが約60%、アジア太平洋が20%、北アメリカが18%、南アメリカが2%と、鉄道車両を購入している市場の面でもヨーロッパが過半を占めている。2001年時点で、全世界に電気機関車は約2万7000両、ディーゼル機関車は約8万6000両、旅客車は約18万両、貨車は約380万両存在している。 合併や倒産で現存していないものを含む鉄道車両メーカーの一覧については、鉄道車両の製造メーカー一覧を参照。 =ブダペストのドナウ河岸とブダ城地区およびアンドラーシ通り= ブダペストのドナウ河岸とブダ城地区およびアンドラーシ通り(ブダペストのドナウかがんとブダじょうちくおよびアンドラーシどおり)は、ハンガリーの世界遺産の一つである。ハンガリーの首都ブダペストはその美しさに定評があり、「ドナウの真珠」、「ドナウのバラ」、「ドナウの女王」、「東欧のパリ」など、それを称える異名をいくつも持っている。この世界遺産はその街並みが登録されたもので、登録名が示すようにドナウ川両岸の歴史地区、そして大陸ヨーロッパ初の地下鉄が通るアンドラーシ通りが対象となっている。 登録名の日本語訳には、細かいものも含めるとかなりの揺れがある。それについては、後述を参照のこと。 ==歴史的背景== 世界遺産構成資産については後述するが、その前提となる歴史的背景についてあらかじめ概説しておく。 ブダペストの歴史は、2世紀に築かれたローマ帝国の植民都市アクインクム (Aquincum) から始まった。アクインクムは現在のオーブダ地区周辺を中心としており、オーブダには神殿、水道橋、モザイク画の床など、アクインクム時代の都市遺跡が残っている。 マジャール人の移住は9世紀のことで、一帯はむしろ、かつてコントラ・アクインクム(アクインクムの対岸)と呼ばれていた地区(現ペシュト)を中心に発達した。 ハンガリーは1241年から1242年にかけてモンゴル帝国の侵攻を受け、その防衛の必要性からペシュトの対岸の丘に城塞が築かれ、エステルゴムから都が移された。これがブダ地区の発展の始まりである。その王宮の丘は、特に先進的なルネサンス文化をイタリアから取り入れた15世紀後半に発展したが、16世紀にはオスマン帝国に占領された。オスマン帝国時代にはキリスト教聖堂はモスクに転用され、ブダ城も事故によって大きく損壊した。 17世紀末に神聖ローマ帝国領となった後、特にマリア・テレジアの治世下などで建造物群の修復や増築が大規模に行われたが、諸国民の春における民衆蜂起によって、ブダ城などが被害を受けた。 1872年にはブダ、オーブダ、ペシュトの3地区の統合が決まり、現在のブダペストが成立した。同じ頃のハンガリーはオーストリア=ハンガリー帝国の成立で自治が認められたことから民族意識が高まっており、1896年の建国一千年祭に向け、様々な建築物の改築や新築が進められ、街並みが整えられていった。この中心を担ったのが市の公共事業委員会(1870年設立)で、アンドラーシ通りの建設なども含め、都市計画に基づく街づくりが行われていった。 その建物や橋の多くも第二次世界大戦やハンガリー動乱などで被害を受けたが、20世紀半ば以降に復元され、現在の歴史地区には19世紀後半に整備された町並みがおおむね保存されている。第二次世界大戦後のブダペスト市民の再建姿勢は、できるかぎり忠実に復元させることを重視する一方で、杓子定規に復旧させるのではなく、再現可能性や機能的な必要性(戦後の軍用施設の縮減など)も考慮に入れたものとなっている。実際、後述するエルジェーベト橋のように、一から再建する際に、意図的に新しいデザインで建て直されたケースも存在している。 こうした古い町並みの保存には、自分の住む町に誇りを持ち、大事にしようとする傾向が強いハンガリーの民族性が関わっているという指摘もある。 ==登録経緯== ===登録=== ハンガリーが世界遺産条約を批准したのは1985年である。この物件はそれから間もなく推薦され、1987年の第11回世界遺産委員会(パリ)で、「ホッローケー」(現「ホッローケーの古い村落とその周辺」)とともに、ハンガリーで最初の世界遺産となった。このときの登録名は「ブダペスト、ドナウ河岸とブダ城地区」であった(日本語名に関する細かい議論は後述の#登録名参照)。 ===拡大と改称=== ハンガリー政府はその後、アンドラーシ通りとその地下を通るブダペスト地下鉄(1号線)の拡大登録を申請した。この拡大申請は、2002年6月に地元ブダペストで開催された第26回世界遺産委員会で審議され、申請どおりの拡大が認められた。拡大部分の登録直後の名称は「アンドラーシ通りと一千年記念地下鉄」(Andr*11143*ssy Avenue and the Millennium Underground Railway / l’avenue Andrassy (1872‐85) et le m*11144*tropolitain du Mill*11145*naire (1893‐96)) であった。なお、あわせて緩衝地域の拡張を勧めることが決議された。 その時点では旧来の登録名と拡大要素の登録名を合わせた新名称は確定していなかったが、翌年の第27回世界遺産委員会(パリ)で登録名の変更が認められ、「ブダペストのドナウ河岸とブダ城地区およびアンドラーシ通り」となった(日本語名に関する細かい議論は後述の#登録名参照)。 ==登録基準== この世界遺産は世界遺産登録基準における以下の基準を満たしたと見なされ、登録がなされた(以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準からの翻訳、引用である)。 (2) ある期間を通じてまたはある文化圏において、建築、技術、記念碑的芸術、都市計画、景観デザインの発展に関し、人類の価値の重要な交流を示すもの。(4) 人類の歴史上重要な時代を例証する建築様式、建築物群、技術の集積または景観の優れた例。「ブダペストのドナウ河岸とブダ城地区」の推薦に当たって、ハンガリー当局は基準 (1), (3), (4), (5) の適用を主張していた。しかし、ICOMOSの事前勧告では (2) と (4) での登録を勧告され、世界遺産委員会の審議でもそれが踏襲された。 基準 (2) は、ブダ地区が古代ローマ時代にはローマ建築の様式を一帯に広める上で重要であり、中世にはブダ城がゴシック様式を広める上でやはり重要だったこと、あるいはマーチャーシュ1世の時代にはイタリアルネサンスの導入によって、当時の先進的文化の中心地となっていたことなどが評価されたものである。基準 (4) は、オスマン帝国領時代の荒廃とその後の再建によって、異なる建築上の特色が混在しているブダ城と、19世紀の建築物の中で傑出した価値を持つ国会議事堂が特に評価されたものである。 2002年に拡大されたアンドラーシ通りの推薦時には、ハンガリー政府は基準 (2), (4), (6)を適用できると申請していた。基準 (6) はこういうものである。 (6) 顕著で普遍的な意義を有する出来事、現存する伝統、思想、信仰または芸術的、文学的作品と直接にまたは明白に関連するもの(この基準は他の基準と組み合わせて用いるのが望ましいと世界遺産委員会は考えている)。ハンガリー当局は、アンドラーシ通り沿いに存在する国立歌劇場やリスト音楽院が、バルトーク・ベーラ、コダーイ・ゾルターンといったハンガリー音楽史を代表する人物達を輩出してきたことをもって、その顕著な普遍的価値に基準 (6) を適用できると主張した。ICOMOSはそれらの音楽家たちが西洋音楽史において果たした貢献は認めたものの、基準 (6) を適用するには不十分として退けた。 その一方で、ICOMOSはアンドラーシ通りが19世紀後半の優れた都市計画の例証として基準 (2) と (4) に合致することは認め、登録を勧告した。世界遺産委員会でもそれが踏襲されたため、拡大登録に当たって適用された基準に変更はなかった。 ==構成資産== この世界遺産は1987年に登録された「ブダペストのドナウ河岸とブダ城地区」(Budapest, the Banks of the Danube and the Buda Castle Quarter, 400‐001) と、2002年に拡大登録された「アンドラーシ通りとその地下鉄」(Andr*11146*ssy Avenue and the Underground, 400‐002) で構成されている。2つの地域はいくつかの街路で隔てられており、接していない。 前者の範囲はブダペスト市内を流れるドナウ川の河岸のうち、マルギット橋からエルジェーベト橋までの範囲である。そのドナウ右岸がブダ地区で、王宮の丘とその周辺、およびゲッレールトの丘などが対象になっている。対岸のペシュト地区河岸では、国会議事堂、ハンガリー科学アカデミー、旧市街聖堂などが対象となっている。 後者の「アンドラーシ通りとその地下鉄」は、その名の通りアンドラーシ通りとそれに面する記念建造物群、およびその地下を走るブダペスト地下鉄1号線が対象となっている。 以下では、登録対象に含まれる主要な記念建造物群などについて、ブダ地区、橋、ペシュト地区河岸、アンドラーシ通りの順に概説する。なお、アンドラーシ通り近く、バイチ・ジリンスキ大通りにあるネオ・ルネサンス様式の聖イシュトバーン大聖堂は、ブダペストの教会建築物としては最大で、ハンガリー全体でも2番目という特筆すべき建物であるが、世界遺産構成資産に含まれると明記している文献はまれなので、以下の概説からは外している。 また、前述の通り、世界遺産登録基準の適用に当たっては、古代のアクインクムの時代まで視野に入れられているが、その主要な遺跡が残るオーブダは登録対象に含まれていない。 ===ブダ城=== 世界遺産登録名の「ブダ城地区」は、ドナウ川右岸の「王宮の丘」と呼ばれる地域のことである。 ブダ城の王宮地区の基底には古代ローマ時代の遺跡も残るが、ブダ城の起源は13世紀のハンガリー王ベーラ4世(在位 1235年 ‐ 1270年)の治世に遡る。1241年から1242年にかけて相次いでモンゴル軍の侵攻を受けたことを踏まえ、ベーラ4世は防衛しやすさを考慮してブダの丘に砦を築いたのである。1242年に築かれたこの砦は、居住用の塔を備えていたものの、つくりとしては簡素なものであった。これが城壁を備えたゴシック様式の王宮に改築されたのは、14世紀に神聖ローマ帝国からハンガリー王に迎えられたジギスムントの時代のことである。 さらに15世紀後半にはマーチャーシュ1世のもと、イタリアから招いた彫刻家らによって、ルネサンス様式に改築された。宮廷付きの彫刻師に任命されていたジョヴァンニ・ダルマータが手がけた内装や彫像の一部は現存している。しかし、オスマン帝国による征服(1541年)の後にブダ城は火薬庫に転用され、1578年頃に爆発事故が起きたため、当時の建造物そのものはほとんどが失われた。 現在の王宮の元はオスマン帝国撤退後、17世紀になって建て直されたものである。その後、18世紀にはマリア・テレジアの命で大改築が行なわれ、建築家ジャン・ニコラ・ジャドウのもとで1770年に完成した。このときの部屋数は203室である。 この建物は1848年革命の際に破壊され、19世紀後半から1904年にかけてネオ・バロック様式で再建された。しかし、その建物も第二次世界大戦やハンガリー動乱で大きく損なわれ、1980年代以降にネオ・バロック様式で復元されて現在の姿になった。 城内にはハンガリー国立美術館、国立セーチェーニ図書館(ハンガリーの国立図書館)、ブダペスト歴史博物館などが入っている。 ブダ城の地下には自然の洞窟が元になった長大な迷宮が広がり、カタコンベなども残っており、第二次世界大戦中にはドイツ兵の隠れ場所にも使われた。王宮の丘の地下には環境保護区になっている洞窟もある。 ===マーチャーシュ聖堂と三位一体広場=== マーチャーシュ聖堂は王宮の丘に残るカトリックの聖堂である。正式名は「聖母マリア聖堂」で、1255年から1269年にベーラ4世が建造した聖堂が元になっている。現在「マーチャーシュ聖堂」の名で呼ばれるのは、マーチャーシュ1世が大改築を行い、高さ80 m の尖塔を増築するなどしたことに由来する。 本来はゴシック様式の聖堂だが、オスマン帝国領時代にはモスクとして使われていた。その後、バロック様式での改築を経て、19世紀にネオ・ゴシック様式になって現在に至る。 ハンガリー王の戴冠式にも用いられ、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世が1867年にハンガリー王フェレンツ・ヨージェフとして即位したのもこの場所であった。オーストリア=ハンガリー帝国の成立を意味したその戴冠式の後、ブダペストでは国会議事堂(後述)に代表される様々な建造物が建てられ、現在にも残る町並みが整えられていくことになる。 聖堂の前の広場が「三位一体広場」 (Szenth*11147*roms*11148*g T*11149*r) で、1712年から1713年にフィリップ・ウンゲリッヒによって建てられた三位一体像が残っている。これはもともとペストが終息したことの記念碑として建造されたものだった。 聖堂に隣接するのが高級ホテルのヒルトンホテルである。このホテルは地元の意向を尊重し、修道院の廃墟なども取り込みつつ、周囲との景観に配慮する形で建てられた。そのため、歴史地区にある外資系ホテルであるにもかかわらず、ブダペスト市民からもあまり批判的な声は聞かれないという。 ===漁夫の砦=== 漁夫の砦はマーチャーシュ聖堂の北東に位置する砦で、1895年から1902年にかけて、建築家シュレク・フリジェシュによって建てられた。シュレクはマーチャーシュ聖堂の改築にも携わった建築家である。 名前の由来は中世に漁業組合が王宮を守る任務に当たっていたことに因むとか、中世に魚市が立っていたことに因むとされるが、「砦」という名称とは裏腹に、防衛機能よりも眺望の良さに重きが置かれた建物である。 ===ゲッレールトの丘=== ゲッレールトの丘 (Gell*11150*rt‐hegy) は、ブダ城地区とともにブダ側の世界遺産構成資産となっている緑豊かな丘で、自然保護区となっている。丘の名前は、この地でキリスト教を伝道した11世紀イタリア出身の殉教者ジェラルド(ゲッレールト)に由来し、彼がドナウ川に突き落とされたとされる南斜面には聖ジェラルド像 (Szent Gell*11151*rt‐szobor) が建てられている。この像は1904年の制作で、手がけたのはヤンコヴィッチ・ジュラである。 丘の上には、ツィタデッラ (Citadella) と呼ばれる城塞が残っている。この城塞はフランスの二月革命の影響がハンガリーにも波及して蜂起が起こったことを踏まえ、統治者であるハプスブルク家が1854年に建造したものだが、現在は博物館となっている。 同じく丘の上には椰子の葉を掲げた女性を象った高さ14 mの「自由の像」 (Szabads*11152*g ‐szobor) がある。これはソ連軍によってハンガリーがファシズムから「解放」されたことを記念して1947年に建てられたものだが、「解放」直後のソ連兵の狼藉やハンガリー動乱を経験しているブダペスト市民たちは、共産主義政権下ですら否定的に捉えていたという。台座にはソ連兵の銅像が飾られ、慰霊碑としてかつては戦没者遺族団がソ連から訪問したりもしていたが、共産主義体制崩壊後に銅像は撤去された。 ===ゲッレールト温泉・ルダッシュ温泉・ラーツ温泉=== 丘の南側の麓には1911年から1918年にかけてヘゲデューシュ・アルミン (Heged*11153*s *11154*rmin) らによって建てられたホテル、ゲッレールト温泉 (Gell*11155*rt sz*11156*ll*11157* *11158*s gy*11159*gyf*11160*rd*11161*) がある。ブダペストには100以上の温泉施設があり、アール・ヌーヴォー様式のこの温泉ホテルもそのひとつである。1926年にウィーンで刊行された『温泉・鉱泉・保養地および保養所の挿絵入り事典』でも、当時完成して間もなかったゲッレールト温泉ホテルの近代性や豪華さが、温泉の薬効とともに紹介されていた。2011年時点の男湯は青緑色のタイルを敷き詰めた美しいもので、混浴日には女性も入ることができる。ゲッレールトの温泉そのものは13世紀にまで遡れるとされ、伝説上は殉教者ジェラルドが杖で叩いて湧き出させたという。 ゲッレールトの丘の近く(世界遺産登録範囲内)には、1566年にオスマン帝国のパシャ・ムスタファによって作られたトルコ式のルダッシュ温泉 (Rudas gy*11162*gyf*11163*rd*11164*) と、マーチャーシュ1世の時代に遡るラーツ温泉 (R*11165*c gy*11166*gyf*11167*rd*11168*) もある。 なお、ブダ側の世界遺産登録範囲はゲッレールト温泉の少し南にあるブダペスト工科大学までだが、ゲッレールト温泉のすぐ前にある自由橋 (Szabads*11169*g h*11170*d) は登録対象になっていない。 ===セーチェーニ鎖橋=== セーチェーニ鎖橋は世界遺産登録地域に含まれる3つの橋のうち、真ん中の橋である。現在ブダペスト市内でドナウ川に架かる9つの橋の中で最も古く、最も美しいと言われている。全長は375 m。 従来は浮橋や仮設の橋が使われており、これがブダペストに架かった最初の固定的な橋となった。建造は1839年から1849年のことで、イギリス人の設計士ウィリアム・クラーク (William Tierney Clark) と技師アダム・クラーク (Adam Clark) が手がけた。その建設費用はセーチェーニ・イシュトヴァーン伯爵が自らの私財から捻出した。ブダペスト市の成立が決まったのは1872年のことで、橋が建設された段階ではブダとペシュトは別々の町だったが、この橋の建設はブダペストの公式な統一に先んじて、2つの町を一体化させるものだった。なお、セーチェーニ伯爵は「ブダペスト」(ブダペシュト)という名称を最初に提示した人物とされている。 現在広く見られる吊橋は、メインケーブルとして鋼線をよりあわせたケーブルを使う「ケーブル吊橋」の構造であるのに対し、セーチェーニ鎖橋は、「チェーン(式)吊橋」と呼ばれる構造で、 アイバー (eyebar) と呼ばれる両端に丸穴の開いた鉄板を重ね合わせてボルトで固定したアイバー・チェーンを使用している。そのため、このチェーンは環状の金属を連ねた「くさり」ではなく、自転車のチェーンに近いと言われることもある。この構造は吊橋としては古いもので、橋桁そのものだけでなく、かなりになるアイバーチェーンの重み自体も支えられるようにしなければならないことから、採用されることは少なくなっていった。しかし、セーチェーニ鎖橋では1914年に改修されたときにも、第二次世界大戦中にソ連軍と交戦していたドイツ軍によって破壊され、建設百周年に当たる1949年に再建されたときにも、チェーン吊橋の構造が堅持されて今に至り、「鎖橋」の名前はこの構造に由来するとも言われている。 ===マルギット橋=== マルギット橋は世界遺産登録対象の3つの橋の中では、最も上流に位置している。1876年に建設されたアーチ橋で、ほかの橋と同じように第二次世界大戦中にドイツ軍に破壊され、のちに忠実に復元された。 マルギット橋はすぐ北のマルギット島につながっている。その島はバラ園、日本庭園、小さな動物園なども備えた公園になっており、ハンガリー政府観光局も「市内でもっとも価値のある公園」と言われていることを紹介しているが、世界遺産に含まれているのはその南端だけである。マルギットの名はベーラ4世の息女マルギットからとられている。彼女は父王が島に建てた修道院に入れられ、二度とモンゴルの襲来がないようにという祈りのために生涯を捧げた。 ===エルジェーベト橋=== エルジェーベト橋は、世界遺産登録対象の橋の内、一番下流に位置している。1903年の完成当初はセーチェーニ鎖橋と同じくチェーン吊橋の工法が採用され、チェーン吊橋としては世界最大で最も美しいとも言われていた。しかし、これもドイツ軍に破壊され、再建されることになったが、それらの橋の中では例外的に新しいデザイン(ケーブル吊橋)が採用された。これは再建時の資金不足と新しい工法を試そうとしたことによるという。再建は1964年のことだった。 橋の名前は、美貌で知られたオーストリア皇后エリーザベト(ハンガリー王妃エルジェーベト)にちなんでいる。もともとこの名前は、そのすぐ南の橋がエリーザベトの夫であるオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世(ハンガリー王フェレンツ・ヨージェフ)にちなんでフェレンツ・ヨージェフ橋と呼ばれていたこととセットだったが、後者は共産主義政権下で「自由橋」と改称されて現在に至る。自由橋は1899年に建造され、第二次世界大戦後には市内で一番早く復元された橋だったが、前述の通り、こちらは世界遺産登録対象ではない。 ===旧市街聖堂=== エルジェーベト橋のペシュト側の袂にあるのが、旧市街聖堂 (Belv*11171*rosi Pl*11172*b*11173*nia templom)である。このカトリックの教区聖堂は、12世紀に殉教者ジェラルドの墓所の上に建てられたと伝えられているが、当初の建造物は残っていない。現在の建物は15世紀に建てられたもので、ブダペストの教会建築物では最も古い。本来はゴシック様式で内陣に当時の様式を見ることができ、同じ時期のフレスコ画も残されている。オスマン帝国領時代にはモスクとして転用されており、一部にその痕跡も残る。外観は1723年の火災後にたびたび改修を受け、バロック様式や新古典様式が混じっている。 ===ヴィガドーと科学アカデミー=== 旧市街聖堂から河岸沿いに北上すると見られるのがヴィガドー (Vigad*11174*) である。これは1859年から1864年にフェスル・フリジェシュ (Feszl Frygyes) によって建てられた折衷様式のコンサートホールで、19世紀には社交場として機能した。本来の建物は第二次世界大戦中に破壊され、現在残るのは1980年に再建されたものである。 さらに北上してセーチェーニ鎖橋前も通り過ぎると、ネオ・ゴシック様式のハンガリー科学アカデミーの建物に至る。設計を担当したのはベルリン出身のシュトゥーラーで、1862年から1864年にかけて建造された。 ===国会議事堂=== 科学アカデミーからさらに河岸沿いに北上すると、ペシュト地区河岸の建造物群の中でもひときわ目を惹くハンガリーの国会議事堂が建っている。これは、ネオ・ゴシック様式を土台に、ドームなどにルネサンス様式を取り入れた折衷様式の壮麗な建物である。建設が始まった1884年にはハンガリーはオーストリア=ハンガリー帝国の一部であり、自治の象徴として建設されたこの建物は、完成に20年を要した。ハンガリーの民族意識の高まりの中、当時のヨーロッパ諸国の中でも傑出したものにしようという意図のもとで建てられたこの建物は、ハンガリー語では「国の家」を意味するオルサーグハース (Orsz*11175*gh*11176*z) と呼ばれている。 シュテインドル・イムレの設計で、ドームの高さは96 m、長さ268 m、幅118 m で、691室の部屋がある。館内には画家ムンカーチ・ミハーイの作品『征服』などが飾られ、王権の象徴であった聖イシュトバーンの王冠や王笏などが展示されている。 ===アンドラーシ通り=== アンドラーシ通りは1872年から1885年にかけて建設された長さ約 2km の直線道路で、ペシュトの河岸地区と市民公園を結んでいる。最終的な完成までには10年以上を要したが、道路そのものは1876年に使い始められていた。通りの名前は当時の首相アンドラーシ・ジュラからとられたもので、街路のモデルとなったのはパリのシャンゼリゼ通りである。通りの名前はハンガリーの歴史とも結びついて、順に「シュガール(放射状)通り」、「アンドラーシ通り」、「スターリン通り」(1947年 ‐)、「ハンガリー青年通り」(1956年)、「人民共和国通り」(1957年 ‐ 1990年)、「アンドラーシ通り」(1990年 ‐ 現在)とたびたび変わってきた。 この通り沿いには、前述の通り、西洋音楽史にとっても重要な意義を持つ国立オペラ座が建っている。国立オペラ座はイブル・ミクローシュ (Ybl Mikl*11177*s)が1875年から1884年にかけて建造したネオ・ルネサンス様式の建物で、彼の代表作とも言われている。また、リスト・フェレンツやコダーイ・ゾルターンが住んでいた場所は、それぞれ記念博物館となっている。 また、恐怖の館 (Terror H*11178*za M*11179*zeum) も建っている。これはファシズム政党の矢十字党本部や、ハンガリー国家保安局本部になっていた時期がある建物で、独裁政権などに関する展示を行なっている。 ===ブダペスト地下鉄1号線=== ブダペスト地下鉄はヨーロッパ大陸では初となった地下鉄である。ちょうどアンドラーシ通りの真下を直線的に走る地下鉄で、ハンガリーの建国一千年祭(1896年)に合わせて1893年から1896年にジーメンス・ウント・ハルスケ社によって建設された。地下鉄の建設理由は、都市計画上、街路の美観を損ねないためであった。 最初の地下鉄であったロンドン地下鉄が蒸気機関車であったのに対し、ブダペスト地下鉄は初めての電化された地下鉄になった。 世界遺産に登録された鉄道はゼメリング鉄道、レーティッシュ鉄道アルブラ線・ベルニナ線と周辺の景観、インドの山岳鉄道群など他にもあるが、世界遺産としての「顕著な普遍的価値」を認められている地下鉄はここだけである(2013年の第37回世界遺産委員会終了時点)。このブダペスト地下鉄の存在によって、「ブダペストのドナウ河岸とブダ城地区およびアンドラーシ通り」が産業遺産に分類されることもある。 ===英雄広場=== 英雄広場はアンドラーシ通りの端に当たる広場で市民公園の一部をなしている。世界遺産の登録範囲はこの英雄広場と両脇の美術館までで、市民公園そのものは含まない。 英雄広場にはハンガリー建国一千年を記念して記念碑が建てられた。設計者はザラ・ジュルジュで、完成は1929年のことだった。高さ36m の巨大な記念碑の基部には、それを取巻くようにして騎馬像が配置されている。それらはハンガリー建国の英雄アールパードをはじめとする7部族の首長をかたどったもので、記念碑の頂上のガブリエル像とともに、天使のお告げによってアールパードが戴冠できたとされる建国伝説を象徴している。 アンドラーシ通りから見て英雄広場の左隣にあるのがブダペスト国立西洋美術館 (Sz*11180*pm*11181*v*11182*szeti M*11183*zeum) で、1896年から1906年にかけて建造された新古典主義の建物に、イタリア、スペイン、フランス、オランダなどの多くの絵画が収蔵されている。特にエル・グレコ、ベラスケス、ムリーリョの作品など、スペイン絵画の充実ぶりに特色があり、スペイン国外では最大規模とも言われている。英雄広場の向かって右隣はミューチャルノク(M*11184*csarnok, 現代美術館)で、こちらは現代美術の非常設の展覧会を中心としたアート・ギャラリーである。 ==登録名== ===拡大前=== 当初の登録名は 英語: Budapest, the Banks of the Danube and the Buda Castle Quarterフランス語: Budapest : le panorama des deux bords du Danube et le quartier du ch*11185*teau de Budaだった。これに対する日本語訳には若干の揺れが見られた。 ブダペスト、ドナウ河岸とブダ城地区(日本ユネスコ協会連盟 、国土庁計画・調整局、世界遺産を旅する会、水村光男)ブダペスト、ドナウ河岸とブダ城地域(太田邦夫)ブダペストのドナウ河岸とブダ城(ユネスコ世界遺産センター) ===現在=== 現在の正式名は 英語: Budapest, including the Banks of the Danube, the Buda Castle Quarter and Andr*11186*ssy Avenueフランス語: Budapest, avec les rives du Danube, le quartier du ch*11187*teau de Buda et l’avenue Andr*11188*ssyである。その日本語訳は以下のように文献によって揺れがある。 ドナウ河岸、ブダ城地区及びアンドラーシ通りを含むブダペスト(日本ユネスコ協会連盟)ドナウ河岸、ブダ城地区とアンドラーシ通りを含むブダペスト(水村光男)ドナウ川の河岸、ブダ王宮の丘とアンドラーシ通りを含むブダペスト(古田陽久)ドナウ河岸、ブダの王宮地区及びアンドラーシ通りを含むブダペスト(『なるほど知図帳 世界2010』)ブダペストのドナウ河岸、ブダ城地区とアンドラーシ通り(青柳正規)ブダペストのドナウ河岸とブダ城地区およびアンドラーシ通り(世界遺産アカデミー )ブダペスト、ドナウ河岸とブダ城地域及びアンドラーシ通り(ハンガリー政府観光局)ブダペスト、ドナウ河岸、ブダ城地区、アンドラーシ通り(小林克己) ==その他== 拡大登録が認められた2ヵ月後に当たる2002年8月に、エルベ川とドナウ川の大氾濫によって、オーストリア、チェコ、ドイツなどの複数の世界遺産が被害を受けた。世界遺産センターは被害を受けた世界遺産として「古典主義の都ヴァイマル」「ヴァッハウ渓谷の文化的景観」「チェスキー・クルムロフ歴史地区」など10件を公表したが、そこにはドナウ河岸に展開するブダペストの登録地域も含まれていた。 =三木武夫= 三木 武夫(みき たけお、1907年(明治40年)3月17日 ‐ 1988年(昭和63年)11月14日)は、日本の政治家である。 徳島県出身。内閣総理大臣(第66代)などを歴任。衆議院議員当選19回、在職51年。称号及び栄典は、正二位大勲位、衆議院名誉議員など。 ==来歴・人物== 1907年(明治40年)3月17日、徳島県阿波市に農商人の家の長男として誕生。明治大学法学部在学中に遊学し、英米自由主義社会を肌で体感、また独伊ソなどの全体主義国家への反感も身を以って実感する。 明治大学卒業直後の第20回衆議院議員総選挙に無所属で出馬して当選、以降死去まで51年間連続在任する。帝国議会では日米対立の緩和に奔走し、翼賛選挙も翼賛政治体制協議会の非推薦候補として戦う。戦後は保守系政党を渡り歩き、党幹部或は大臣を数多く歴任、保守合同後の自由民主党でも自前の派閥を持ち、有力政治家の一人として認知される。 一貫して派閥の寄せ集め状態の自民党の体質からの脱却、党の近代化を訴え、時の政権、党執行部とも衝突を繰り返した。1974年、田中角栄の金権政治が暴露され田中が失脚すると、三木の「クリーンさ」が田中と対照的で有権者受けするとみなされて、首相に擁立される。周囲は田中の「金権」イメージ一掃のための中継ぎの予定であったが、三木は政治改革を行おうとして田中やその後継の大平正芳らと対立、自民党は分裂・下野寸前に陥る。結局第34回衆議院議員総選挙で自民党は過半数割れの惨敗を喫す。三木は保革伯仲を招いた責任をとって在任2年で退陣、自民党は70年代後半の混迷期に入る。 以降も一貫して政治改革を訴えるとともに、晩年は中曽根康弘の軍拡路線に反旗を翻すなど、世界平和に向けた活動も行った。最晩年の2年ほどは、病で政治活動もままならなかった。1988年(昭和63年)11月14日、81歳で死去。 大政翼賛会や田中角栄などの大勢力と対立し、一貫して小規模の政党・派閥を渡り歩きながら首相にまで上り詰めたため、バルカン政治家の代表格とされる。 ==生涯== ===出生と出自=== 三木が生まれた徳島県板野郡御所村は、北側の香川県との県境をなす讃岐山脈から、南を流れる吉野川へ降る扇状地が形成された場所にあり、水が伏流して得にくいために水田よりも畑が多い土地柄であった。土地はどちらかというとやせており、生産性は決して高くはなかったが、江戸時代からサトウキビ、小麦、藍などが栽培され、養蚕なども行われていた。三木の生まれた当時、御所村から最も近くの町は吉野川を渡った鴨島町(現・吉野川市)であり、徳島市へは鴨島から徳島線などを利用した。つまり三木の故郷は大都市や町ではなく、当時日本各地にあった農村地帯であった。 三木武夫は徳島県板野郡御所村吉田字芝生(後の土成町、現・阿波市土成町吉田)に1907年(明治40年)3月17日、三木久吉、タカノの長男として生まれた。久吉は、御所村の近くにあった柿原村(現・阿波市)に農家を営んでいた猪尾六三郎の次男として生まれ、一時期大阪で就労した後、御所村の地主芝田家のもとで働いていた。そこで御所村宮川内の農家、三木時太郎の娘として生まれ、幼い頃から芝田家に奉公に出ていた三木タカノと知り合い、婚姻した。久吉とタカノは婚姻後、妻タカノの三木姓を名乗り、主である芝田家から家などを与えられて分家した形となった。芝田家は当時御所村一の地主として知られており、芝田家から家と土地を与えられた分家は他に何軒かあって、芝生の集落は芝田家とそれぞれの分家を中心として構成されていた。 そのような御所村で、久吉は農業と肥料商を営んでいた。肥料は硫安、大豆粕、ニシンなどを扱っており、肥料以外にも酒、米、雑貨なども扱っていた。つまり三木の実家は農村のありふれた農商人であり、旧家や豪農などではなかった。武夫は久吉33歳、タカノ38歳の時に生まれた一人っ子であり、両親の愛を一身に受けながら成長した。特にタカノは武夫の健康管理について常に注意を怠らなかった。 ===少年期から青年期=== ====小学校から商業学校時代==== 1913年(大正2年)4月、御所村尋常高等小学校入学。当時の三木は同級生から「小柄で病気がちでおとなしい」、「一本気で融通が利かない」、「一人っ子、外面が悪く独善的で協調性に欠ける」などと回想されており、おとなしいものの我が強い子どもであったようだ。三年時には27日間欠席したと記録されていて、病気がちであったという回想は確かなようで、また恩師であった教師の談によれば、算数が得意であったが成績はクラスで三番から四番程度で、級長になったことは無いといい、飛びぬけて優れた小学生ではなかった。しかし三木は小学校時代から「お話の時間や学芸会では目立つ」、「弁論が上手い」、「近所の子どもたちに演説を聞かせていた」など、後に国会などで雄弁で鳴らすことになる片鱗を見せていた。 1920年(大正9年)4月、徳島県立商業学校(以下、徳商)入学。これは実家が肥料商であったため、家業である商業を学ぶ商業学校への進学をしたためであった。順当にいけば前年の大正8年4月に進学しているはずであり、一年遅れの徳商入学となった。入学が遅れた理由としては小学校や徳商の同級生らから、入学試験に落ちて浪人した、補欠合格はしたものの自信が持てず留年した、あるいは眼の病気のためとの証言があってはっきりしない。当時、徳島中学校と並ぶ難関中等学校であった徳商の入学試験に際し、タカノは小学校教師に毎晩の特別の補習を依頼し、補習終了まで別室で待っていた。 徳商に入学した三木は、徳島市前川町にあった第二宿舎に入寮し寄宿生活を始めた。三木は時々宿舎を抜け出し、カフェで飲酒したり無声映画を見たりする硬派グループのリーダーとなったと伝えられている。久吉にねだってコダックの小型カメラを購入してもらい、カメラ悪用の疑いで久吉が学校に呼び出されたこともあった。 三木の徳商での成績について詳細は不明であるが、中位であったと言われている。徳商時代、三木は弁論で存在感を見せるようになる。中学一年時に弁論部に入部するとたちまち頭角を現して弁論部キャプテンとなった。徳島県下青年学生雄論大会などで得意の雄弁を見せ、第一席となったこともあると伝えられている。また徳島で成長した賀川豊彦の講演を聞いてその弁論術に感動し、永井柳太郎の雄弁術に感激したというエピソードも残っている。 徳商では野球部強化のための資金集めと商業実習を兼ねて、ワイシャツや毛布などを販売する校内バザーを行うことが慣例となっていたが、1925年(大正14年)7月、バザーの会計に不正があるとの疑いが生じ、四年生を中心として校長の追放運動が発生した。三木は一年留年しており、当時最高学年の五年生であったが、運動の主要メンバーとなった。三木は得意の弁論を駆使して校内を説いて回り、校長にも直接談判した。そして四年生全員が連判状に署名した上で、学校を休んで眉山の茂助ヶ原に集結し、気勢を上げるという事態に発展した。その結果、生徒と保護者の代表がバザーの会計監査を行うことになったが、不正は明らかにならなかった。最終的に三木と他の一名の生徒が一連の騒動の首謀者とされ、退学処分となった。この事件では三木の雄弁が悪い結果をもたらしたことになる。 久吉は退学処分を受けた三木を厳しく叱りつけ、タカノは近親者に対して子の行く末を案じると漏らしていた。三木本人も徳島に居たたまれなくなり、叔父らを頼って大阪の布施市(現・東大阪市)へ向かい、1925年(大正14年)9月、私立中外商業学校(現・兵庫県立尼崎北高等学校)に編入することになった。中外商は1922年(大正11年)3月に認可され、同年5月から授業が開始されたという三木の編入当時はまだ歴史の浅い学校であった。当初大阪市北区玉江町にあった仮校舎まで歩いて通学していたが、同年12月には尼崎市塚口に新校舎が完成したのを機に、塚口まで通学するようになった。徳島の名門校から無名に近い学校への転学を余儀なくされた挫折感や、故郷徳島を離れた孤独感に苛まれた三木を支えたのはやはり得意の弁論であった。大正14年の近畿中等学校弁論大会で三木は第一席となっている。1926年(大正15年)3月、中外商を卒業。 ===明治大学専門部商科時代=== 中外商卒業後、三木は進学を希望する。家業を継いでもらいたいと考えていた両親は当初進学に反対した。三木はまず旧制高等学校を受験するが不合格であった。郷里で失意に沈んでいた三木に中学の同級生が「まだ明治大学の受験が残っているので一緒に受けてみないか?」と誘った。一年浪人して勉強するよりも良いのではと考えた三木は、さっそく友人とともに上京して明大の試験を受け合格し、1926年(大正15年)4月、旧制明治大学専門部商科に入学した。当時の東京は2年半前の関東大震災による壊滅的な被害からの復興途上であり、明大も、学生、教職員、校友らが協同で復興に取り組んでいた。また入学前年に記念館が竣工し、入学した年には専門部に女子部が開設されるなど、学内は活気に満ちていた。また明治大学の建学の精神は「権利自由、独立自治」であり、活気に溢れ自由な校風の中、これまでの挫折続きの学生生活から一変し、三木は学生生活を満喫することになる。 三木は本郷、巣鴨、下高輪などで下宿生活を送ったことが確認されている。そのうち下高輪の竹内君江家の下宿では、家主の子息竹内潔が、後に三木の秘書、そして参議院議員となる。三木の生活費などは久吉が送金していたが、久吉に金の無心をする葉書が残されているところから、十分な経済的余裕がある学生生活でなかったと思われる。また郷里の父母の健康を気遣う手紙が残されており、これは三木は故郷を離れる中で、幼少時より両親から受けた愛情を深く感じるようになっていったことを示している。 明大入学直後、三木はクラス委員に立候補する。立候補して演説する三木の姿が長尾新九郎の目につき、雄弁部に勧誘される。徳島市生まれの郷里の先輩にあたる長尾の勧誘もあり、雄弁部に入部する。長尾はその後も三木の親友として後の欧米への遊説、見学時、そして衆議院議員選挙立候補時など重要な場面で三木を支え続けた。 三木が在学していた当時、明大は立憲民政党系の影響力が強く、木村武雄などは学生院外団に所属して民政党の応援活動に従事していた。しかし三木は既成政党への応援を行うことはなく、また左翼運動に興味を示すこともなく、雄弁部の活動に専念していた。明大雄弁部の活動としては、まず全国各地で演説会を開催したことが挙げられる。三木は入学直後の1926年(大正15年)7月には、名古屋市、奈良市、和歌山市、大阪市そして郷里の徳島県など四国各地での演説会に参加したのを皮切りに、北は樺太から南は台湾、そして朝鮮など外地で行われた演説会にも参加した。この全国各地での演説会開催は評判を呼び、明大学長の横田秀雄のもとには多くの礼状が届けられたという。もちろん雄弁部は学内でも演説会を開催しており、三木が学内での演説会に参加した際の記録が残されている。更に三木は1928年(昭和3年)、関東39大学の弁論部によって結成された東部各大学学生雄弁連盟の呼びかけ人の一人になった。同年12月には、時の田中義一内閣の思想取り締まりが各大学の弁論部にまで及ぶようになったことを抗議して、東京本郷の仏教青年館で各大学弁論部により開催された「第一回暴圧反対学生演説大会」において、三木は明大雄弁部キャプテンとして弾圧反対の演説を行っている。このような雄弁部の活動を通じて三木は他大学の弁論部員との交流が生まれた。その中には後に政官界、経済界で活躍する人材も多く、後に政界で活躍する三木の人脈形成の一つとなった。 ===明治大学法学部入学と外遊、留学=== 1929年(昭和4年)3月、明大専門部商科卒業。4月に三木は両親宛に『しばらくの時間の猶予、そしてしばらくのわがまま』を許して欲しいとの内容の書簡を送っており、明治大学法学部に入学し、更に欧米への外遊に出発することになる。 三木は長尾から国際性を身につける必要性を説かれ、米国への遊説旅行に勧誘されていた。長尾は、まだ若い頃、兄の田所多喜二とともに米国に渡り、苦学をした経験があった。法学部入学直後の6月、『明治大学駿台新報』には長尾と三木がハワイ、米国本土へ遊説旅行へと出発することが紹介されている。遊説旅行の費用は自己負担であり、三木は企業などからの援助、新聞社の特派員として記事執筆、そしてやはり両親からの援助などで多額の費用を賄うことになった。出発前には長尾、三木両人の故郷である徳島で『欧米遊説記念大演説会』を開催し、明大学長からの許可書、指導協力の依頼状を携え、9月27日、米国へ旅立った。 米国在住経験がある長尾とともに、三木はハワイ到着後、現地在住の明大の校友会や日系人の支援を受けながら、精力的な講演活動を開始する。ハワイでの活動後、長尾と三木は米国本土に上陸、やはり現地の校友会、日系人たちの援助を受けつつ、サンフランシスコ、ロサンゼルスなどカリフォルニア州内、その後デトロイト、シカゴ、ニューヨークなどで公演を行った。デトロイトではフォード・モーターを一日かけて見学したり、また発明家のトーマス・エジソンと面会するなど、講演活動以外にも見聞を広めていった。 約一年間に及ぶ米国遊説旅行終了後、三木は欧洲へ渡った。米国の講演旅行と異なり、欧洲はほぼ三木の単独行であった。欧洲は講演活動ではなく見学旅行であり、三木は英国、ドイツ、フランス、イタリア、ソ連などを回った。折しも外遊と世界恐慌の時期が重なっており、米国では大勢の失業者が発生している状況を目の当たりにし、続いて英国でも深刻な影響を実感した。 三木は欧洲歴訪中、ベニート・ムッソリーニのファシスト党統治下のイタリア、ヨシフ・スターリン支配下のソ連、そしてアドルフ・ヒトラーによるナチス台頭前夜のドイツを見て、ファシズム、スターリニズムなど全体主義の強権に強い違和感を抱いた。一方スイスのジュネーブで行われた国際連盟の軍縮会議で、フランスの外務大臣アリスティード・ブリアンが行った平和を訴える演説に感銘を受けた。三木は一年あまりの欧米旅行で、米国の自由、民主政治、そして平和の重要性、そしてファシズムと共産主義による強権支配の問題性を認識し、三木の人生そして政治活動に大きな影響を与えることになる。 1930年(昭和5年)11月、シベリア鉄道経由で満州里へ向かい、北京を通って日本に帰国した。帰国した後、さっそく明大法学部に復学するものの、三木はすぐに米国留学を計画することになる。留学の意図は語学を身につけ、交際感覚を磨くためとも言われているがはっきりとはしない。1931年(昭和6年)6月に、明大を卒業して故郷徳島に戻った長尾宛の書簡によれば、当初三木は明大野球部の米国遠征時にマネージャーとして同行し、米国で弁論活動なども行うことを計画していた。しかしこの計画は実現せず、結局翌7月に明大から『大学など学校調査研究のため、二年間の欧米出張を命ず』との内容の契約書、辞令が交付された。 1932年(昭和7年)5月、米国へと向かった。米国行きに際し、当初三木は片道分の旅費しか持っていかなかったと伝えられている。講演活動を行えばお金は何とかなると考えたためのようであるが、三木の意図とは相違して、講演活動での収入では生活もままならなかった。現地日系の新聞社の記者、ロサンゼルスの日本語学校での小学校教師などを行ったが、学業を行いながらの生活は経済的にかなり苦しく、米国留学時代、親友長尾に宛てた手紙の多くは生活費に関するものであった。そのような中で三木は著書の出版を計画し、更にはロサンゼルスオリンピックに際して日本製の日傘を輸入し、また米国製中古機械を日本へ輸出する計画などをもくろんだりもした。 経済的に苦しみながらも、三木は南カリフォルニア大学、アメリカン大学に通学した。1936年(昭和11年)4月にはアメリカン大学からマスター・オブ・アーツ(文学修士)の学位を受けたと伝えられている。明大からの学校調査研究のためという渡米契約についても、1932年(昭和7年)11月の時点で中西部の大学は視察し、続いて東部の大学視察を行う予定である旨が報告されており、大学側に明大に留学生部ないし日本語専修科の設置、そしてアメリカ在住の日系二世を明治中学校に編入させるアイデアを提案している。 留学は1936年(昭和11年)4月までの四年間に及んだ。留学時代、三木は本業の学業、大学などの教育制度調査以外に、資金を稼ぐために米国で就労を経験し、出版や貿易を企画するなど様々な体験を積んだ。また在米期間中には三木の人脈も形成され、後に三木の政策ブレーンとなった人物もいる。専門部商科時代の遊説旅行、1929年(昭和4年)から1930年(昭和5年)にかけての欧米旅行、そして四年に及ぶ留学は、当時の日本が一層の世界進出を果たしていくという機運の中で行われたものであるが、若い三木にとって様々な見聞、そして体験を積み重ねることとなり、更には人脈形成の一環ともなった。 留学から帰国後、三木は明大法学部に復学する。そして1937年(昭和12年)3月、卒業する。卒業後の三木の進路は全く決まっていなかった。希望としては明大の教員になることを考えていて、他に外交官、記者、そして政治の世界に身を投じようとも考えていた。当時は、弁論活動をしていた人物が政界入りすることは、珍しいことではなかった。そのような中、当時の林内閣は3月31日、突如として衆議院を解散する。三木はこの突然降ってわいたような衆議院議員総選挙に立候補する決意をした。 ===戦前の代議士時代=== ====神風候補==== 三木は林内閣の衆議院解散、いわゆる食い逃げ解散の報を御茶ノ水の床屋で聞き、総選挙立候補を決意したと伝えられている。三木は解散直前の17日に満30歳となり、当時の衆議院議員被選挙権を得たばかりであった。また、三木の衆議院議員立候補の経緯としては、衆議院解散のニュースを聞いた時点では立候補をするつもりは無かったが、解散直後に三木のところに徳島県出身の若者が訪ねてきて立候補を要請され、どうして自分が立候補できるだろうかと難色を示した三木に対して、手弁当で応援すると重ねて立候補をすすめる青年の熱意を前に、とりあえず徳島の選挙区事情を実見して決めることにしたのがきっかけであるとの話も伝わっている。 解散の翌日、三木は郷里徳島へと向かった。徳島ではまず長尾に立候補について相談した。長尾は『一生涯政治をやるか、やるなら政治家は金をためることを考えるな…大義名分に従い、闘争心が失せたらその時点で政治家を辞めよ、その覚悟はあるか?やれ』と、政治家となるための覚悟を三木に問うた上で立候補を勧めた。三木はこの時の長尾の忠告を『私自身の自問自答のようなものであった』と述べており、初回立候補時に政治倫理の確立に尽力し続けることになる三木の原点が見いだせる。そして長尾以外の友人からも出馬を勧められ、三木は出馬の決意を固めた。長尾との相談後、三木は実家の父母を訪ねて立候補の決意を伝え、立候補に必要な供託金の納入など手続きを依頼した上で、いったん東京に戻った。4月9日、父久吉は当時の徳島2区(板野郡、阿波郡、麻植郡、美馬郡、三好郡)への立候補を届け出た。同日三木は東京から当時徳島県にあった五つの新聞社に立候補声明を航空便で送り、翌10日には明治神宮、靖国神社に参拝して、『郷里の徳島二区から生涯代議士に打って出ること、これまでの多くの政治家が行ったような不浄、不純を行わないこと』を誓った後、徳島へと向かった。 三木が立候補した徳島2区は3人区であり、前職3人がいずれも立候補した。前職は57歳で当選4回の民政党所属の真鍋勝、72歳で当選5回、民政党の徳島県支部長を務める高島兵吉、そして57歳で当選8回、衆議院議長も務めた無所属の秋田清という有力候補揃いであり、立候補直前まで大学生であり衆議院議員の被選挙権を得たばかりで地方議員経験も無く、しかも徳商退学後永く徳島から離れて生活してきた三木は、当初圧倒的に不利であると予想された。 三木は無所属で立候補した。三木は隣の選挙区である徳島1区から当時5回当選していた政友会の生田和平を政治の師と仰いでいでおり、徳島2区には民政党の現職代議士が2名いたものの政友会の代議士が不在であったこともあって、まず政友会からの出馬が考えられた。また三木が長年在学していた明大は民政党の影響が強かったが、当時、既成政党に対する批判が強く、三木自身も既成政党に対する厳しい批判を持っていたため、無所属での立候補を決めたと考えられている。 圧倒的不利を予想された選挙戦で、三木はまずイメージ戦略を実行した。選挙活動開始時の4月初旬、日本全土は神風号の欧亜飛行新記録樹立の快挙に沸いていた。選挙戦のために徳島へ向かった三木は、大阪からは飛行機を用いて徳島入りした。当時まだ珍しかった飛行機を利用してのお国入りは、三木と神風号を結びつけることに繋がり、地元新聞は三木のことを神風号にちなんで神風候補と呼び、三木陣営もまた神風候補と名乗った。 選挙区情勢を詳細に分析した三木は、選挙事務所を板野郡板西町(現・板野町)に置くことにした。板西町は東西に長い徳島2区の東に寄っているが、板野郡は三木の故郷であり、また板野郡の南にある麻植郡、西側の阿波郡からは立候補者がいないため、各候補の競争地になると判断し、選挙事務所を置くのに最適と判断したためである。なお、開票結果は麻植郡、阿波郡は三木が1位、板野郡はもう一人の地元候補である高島に次いで2位となり、三木の読みは的中する。 実際の選挙戦ではまず長尾の実兄で、前県議の田所多喜二が遊説部長として陣頭指揮を取った。選挙区事情に精通した田所は『徳島県は若い政治家を育てよ!』と、三木を伴って選挙区中を回った。また在京、在米生活の中で知り合った知己を積極的に応援弁士として招請した。三木の応援に参加した人物には、在米中に知り合った早稲田大学教授の吉村正や、その教え子であった石田博英がいた。東京の大学教授や外国生活経験者の応援は、三木に他の候補には見られない若さと都会性、そして国際性を身につけた人物であることを有権者に認識させる手段であった。 三木は当時の政治情勢について、これまで政党は藩閥政治を打破した大きな功績を挙げてきたが、既成政党が腐敗して国民の信頼を裏切ったため、立憲世論の政治が衰退して官僚超然内閣が続くようになったと判断していた。そのため三木は無自覚議員をなくして議員の質を上げ、政党を浄化して立憲世論の政治を取り戻すべきであると主張し、選挙遊説の中でもまず既成政党の腐敗批判と政治浄化を強調した。同様の主張は当時しばしばなされていたもので、特段真新しい主張であったわけではないが、閉塞感に覆われていた当時、まだ30歳になったばかりの新人代議士候補が既成政党の腐敗を激しく批判し、政治浄化を唱える姿は選挙民に変化への期待をもたらした。また政党の浄化と議員の資質向上という主張は、最初の国政選挙時から唱えられていたものであるが、立候補した当時の情勢と、政党が結局軍部の暴走を押し止められなかったことへの反省から、三木終生のライフワークとなった。そして三木の議員一人ひとりの資質向上を目指す考え方は、真の言論の府として議会が機能していくことを目指しており、「政党政治を量の政治とし、所属議員の数が多ければそれでよし」とするような、政党は議会の多数派を占めさえすれば良いといったやり方を批判した。この点も後に三木が田中角栄の「数は力」という考え方に鋭い批判を向けたことに繋がっていく。 初回立候補に際して三木が唱えた具体的な政策としては、選挙広報に15項目に及ぶ政策が列挙されている。政策の冒頭にはまず「国体明徴」、「日本道徳の鼓吹と共産主義絶滅」、「祭政一致」という、当時の時代背景を如実に示すようなスローガンが並んでいる。続いて議会浄化と政党の革新による真の世論政治の実現、日本の必要による自由な世界進出、科学技術の振興、産業組合の充実改善強化、中小商工業者の組織化など、後に三木が取り組み続けることになる政治課題の多くが列挙されていた。うち産業組合の充実改善強化、中小商工業者の組織化という政治課題の重視は、終戦後国民協同党の書記長、次いで委員長など、協同主義を標榜する政党で要職を歴任することに繋がっていく。また三木の訴えた政策の特徴としては、選挙区である徳島2区に直接関わる政策よりも、全国的、そして国際関係に関する政策が目立つ点が挙げられる。 三木は、選挙戦は「主義政策よりも候補者の質の争い」になると考えた。そのため三木武夫という候補者の本質を有権者に徹底的に理解してもらう必要があるとして、広報のやり方、無料郵便の発送、演説会の日程や時間配分などを分析検討しながら選挙戦を進めた。4月13日に選挙戦が始まると、三木は徳島2区の各地で開催した演説会で既成政党への批判と政治浄化を中心とした選挙演説を行った。三木の最大の武器は言うまでもなく弁論であった。選挙戦が進むにつれて三木の選挙演説は評判を集め、大きな反響が現れるようになった。各演説会会場は大勢の人々が詰めかけ、三木陣営に多くの激励の手紙や電報、そして選挙費用の寄付が届けられた。選挙戦を通じて三木は他の候補者には無い若さと都会性を全面に打ち出し、既成政党と政治腐敗への強い批判を行い、改革者であるとのイメージを植えつけることに成功した。 また三木は選挙戦終盤に徳島2区の有権者に送付した無料郵便で、自らが一人っ子であることを紹介しつつ、皇国に忠誠の使徒である上に、衆議院議員に当選して老父母に孝行の実を挙げ、忠孝両全の規範を立志の歴史に留めたいとの内容の、当時の倫理規範で最高の徳目とされた忠孝を兼ね備えた人物であることを示すとともに、泣き落としとも受け取れる訴えを行った。そして無料郵便には「元大審院長正三位勲一等 前明治大学学長法学博士」との肩書きの横田秀雄の推薦状が添付されており、大学教授などを応援弁士として招請した三木武夫の広い人脈を、有権者に改めてアピールした。 選挙戦終盤になって、新聞各紙は三木は同じ板野郡を地盤とする高島と当落を争うと予想するようになった。最終盤の4月28、29日になると選挙運動は激しさを増し、三木は一日十六、十七ヶ所の演説会をこなし、結局、板野郡、阿波郡、麻植郡の三郡は選挙戦中にほぼ二巡した。30日に行われた投票の結果、三木は真鍋、秋田に次いで三位の票を集め、前職の高島を押さえ当選した。なお三木の衆議院議員当選は当時の最年少記録であった。5月3日の朝日新聞朝刊は、飛行機に跨る三木の挿絵付きで、『神風の闘志に学ぶ、全国一の年少選良、三木君』と題する記事を掲載し、「神風候補」と銘打って言論戦に所力を尽くし、堂々栄冠を獲得したと三木の選挙戦を紹介した。 ===帝国議会デビュー=== 総選挙の結果、政友会はほぼ解散前の議席を維持し、民政党はやや議席を減らしたものの、これまで続いてきた既成政党の人気低落には歯止めがかった形となった。林内閣は居座りを決め込もうとするが、政友会と民政党の連携の前に総辞職した。元老西園寺公望や重臣らは、陸軍にも議会各派にも受け入れ可能な近衛文麿を総理とすることとし、1937年(昭和12年)6月4日、挙国一致内閣を標榜する第1次近衛内閣が成立する。 帝国議会開会の日程が決まり、三木ら無所属議員と小会派の議員らは有効な議会活動を行うために院内会派の結成を検討する。三木を含む無所属議員と国民同盟、旧昭和会などの小会派の議員が協議を重ね、第71帝国議会開会直前の7月21日には49名の衆議院議員で院内会派、第一議員倶楽部が結成されることになった。しかし三木は第一議員倶楽部には参加せずに、無所属議員の一部が参加する院内会派「第二控室」に所属することになった。第二控室は13名の議員で構成されており、第1回衆議院議員総選挙以降、連続当選を続けていた尾崎行雄ら、個性豊かなメンバーが揃っていた。当時三木は尾崎を議会の大先輩として仰いだという。 第71帝国議会開会前の6月17日夜、三木は東京を発って地元徳島県の選挙区に向かい、地元が抱える数々の課題について実態調査を行った。更に6月末から7月初旬にかけても地元の各町村役場をきめ細かく巡り、各町村の実情について調査した。その後も三木は議会報告を開催するなどかなり頻繁に地元入りして、選挙区との関係強化を図っていった。 三木の国会デビューとなった第71帝国議会では、7月31日に人造石油製造事業法外一件委員会の委員として初質問を行った。開会直前には盧溝橋事件が発生し、日中が全面衝突する事態へと発展していった。そのような中、閉会前に超党派の戦場慰問団の派遣が決定され、三木は小泉又次郎を団長とする中国方面の慰問団員となり、8月15日から9月3日にかけて、国会議員としての初外遊を行った。 三木の衆議院本会議での初質問は1938年(昭和13年)2月22日、第73帝国議会のことであった。本会議で三木は大蔵大臣賀屋興宣に対し、政府が提出した支那事変特別増税案に関して、増税が産業振興に悪影響を与える点、すでに多くの負担を担っている国民にとって更なる負担の増大となる点を批判し、増税を行う前提条件として富の偏在を正す必要があると指摘した。その上で真の挙国一致のためには、政府は国民に情報を伝え、政府の施策に納得してもらうことが必要であると主張した。1939年(昭和14年)2月14日、第74帝国議会の予算委員会報告に対する賛成演説でも、三木は政府が国民に対して情報をオープンにするよう主張、時局に乗じて利益を貪る者がいる反面、多くの国民が困窮している状況を指摘し、更には当時強まりつつあった統制経済の動きの行き過ぎを批判した。三木は議会政治家として民意の重視を訴え続けたが、一方その民意重視の姿勢は「戦争遂行に対する国民的熱意」に従うことに繋がり、三木の議会での活動は基本的に戦時体制に肯定的なものとなった。 ===日米友好への尽力=== 三木が国会議員になった1937年(昭和12年)の12月12日には、日本軍が南京攻撃の際、南京から脱出する外国人を乗せたパナイ号が撃沈され、日本側が陳謝と賠償を行ったパナイ号事件が発生するなど、日米の関係悪化が目立つようになっていた。米国留学の経験がある三木にとって、日米関係の悪化は憂慮すべき事態であった。三木によれば当時、駐日大使を勤めていたジョセフ・グルーから日米関係を憂慮する手紙を受け取ったという。 日米関係が緊迫していく情勢下、三木は日米友好を図り様々な活動を行った。まず政友会の植原悦二郎、岩瀬亮らとともに対米同志会を結成した。会の趣旨は、「日華事変でアメリカ国民が中立を守っていることに、日本国民から感謝の意を示す」とし、対米同志会は1938年(昭和13年)2月19日、日比谷公会堂で貴族院議員の今井五介を座長として日米親善国民大会を開催した。大会では賀川豊彦、菊池寛、対米非戦論者の陸軍中将原口初太郎らが日米友好親善に関する演説を行った。三木は大会の席で「日米が戦って両国とも何を得ようというのか、まず石油が無い日本がどうして長期戦を戦えるのか、アメリカも一死報国の念に燃える日本軍を相手にすれば多大な犠牲を出すことになる、日米両国が戦争に訴えず、平和的に対立を和らげていくよう努力することこそ、両国の政治家の責務ではないか」という趣旨の演説を行ったと主張しているが、実際どのような演説が行われたのかについては、戦災などで記録が失われている。研究者の中には1938年時点では、日米関係が緊迫していたとは言いがたく、三木が主張しているような内容の演説を実際行ったかについては疑問があるとの意見がある。1939年(昭和14年)には、枢密顧問官の金子堅太郎を会長とした日米同志会が結成され、三木は専務理事となった。三木は日米同志会で日米戦争回避の活動を続け、特に衆議院議員の安倍寛と共に、各地で日米非戦を訴えて回った。 1939年2月26日、日米関係の改善に力を尽くし、米国側にも信頼されていた駐米大使、齊藤博が死去した。米国側は斎藤の死を悼み、海軍巡洋艦アストリア号で遺骨を日本に送り届けることになった。日本側は、緊張する日米関係改善のきっかけとすべく、三木や今井五介、植原悦二郎、松田竹千代、岩永裕吉など貴族院議員、衆議院議員らが協議して、金子を会長とする米艦アストリア号国民歓迎委員会が結成され、4月24日に早大の大隈講堂で歓迎会が行われた。また三木は、遺骨帰還の模様から歓迎会の様子をニュース映画にするため尽力した。南旺映画に委嘱制作されたニュース映画は、日本語版ばかりでなく英語版も作成され、6月12日には日本在住の米国人を招き帝国ホテルにて試写会と晩餐会を行い、更にアストリア号のターナー艦長と、米国大統領フランクリン・ルーズベルトに英語版のニュース映画を贈呈することになった。 ===時局同志会、翼賛議員同盟と三木=== 1939年(昭和14年)11月27日、三木を含む第二控室に所属する国会議員8名は、国民同盟の清瀬一郎、東方会の杉浦武雄、日本革新党の江藤源九郎ら、更には院内団体の第一議員倶楽部の一部所属議員とともに、新たな院内団体である時局同志会を結成した。時局同志会には他に安達謙蔵、赤松克麿、朴春琴、木村武雄らが参加した。時局同志会は「聖戦貫徹の熱情を均しくする」ことを標榜する親軍的な会派であり、結成直後には陸軍の動きを背景に当時の阿部内閣の倒閣運動を進めた。 阿部内閣総辞職後、米内内閣が成立するが、時局同志会は政友会、民政党という既成政党の国会議員を入閣させた米内内閣に批判的であった。1940年(昭和15年)2月2日、民政党の斎藤隆夫が衆議院本会議で反軍演説を行った。時局同志会は斎藤の演説を聖戦の目的を冒涜するものと強く反発し、斎藤の衆議院除名に積極的であった。3月7日、衆議院本会議で斎藤は衆議院を除名された。採決の際、反対7、登院棄権121、欠席23が出ており、除名に積極的であった時局同志会の中でも安達ら5名は棄権したが、三木は賛成票を投じたと見られている。 第75帝国議会で、三木は衆議院予算委員会の席で西日本の旱魃対策についての質問、建議委員会では徳島県内の鉄道建設についての建議、そして請願委員会では徳島県板野郡内の郵便局設置についての請願を行うなど、地元の陳情を積極的に処理していた。3月26日、近衛文麿による新党結成の動きに対する意見対立により時局同志会は解散し、三木は同僚議員7名と共に七日会を結成した。この年の春頃からは新体制運動の動きが活発化し、6月24日には近衛は枢密院議長を辞職し、新体制運動に乗り出すことを声明した。7月22日の第2次近衛内閣組閣と前後して各政党とも解散となり、8月には七日会も解散した。三木は七日会までは小規模な院内団体に所属し続け、特定の政党に所属することはなかったが、これは戦後、政党の集散離合に関与し、自由民主党所属後も小派閥を率いることになる三木の姿と重なるものがある。 三木は新体制運動にどのように関わっていたのか、十分な資料は残されていないが、9月12日には、三木の他小泉純也、羽田武嗣郎、西川貞一の計4名が発起人となり、10名あまりの若手国会議員とともに新体制運動についての意見交換会を開くなど、新体制運動に向けて他の若手議員と連携した活動を行っていた記録が残っている。 10月12日には大政翼賛会が結成されたが、政事結社ではなく公事結社とされ、議員たちは大政翼賛会の議会局に所属することになった。政事結社ではない大政翼賛会内では政治活動が禁止され、議会局の扱いの軽さに議員たちは不満を募らせ、解散した政党に替わる形として衆議院議員の大多数の435名が参加して院内団体の衆議院倶楽部が12月20日に結成、三木もこれに参加した。結局1941年(昭和16年)4月には大政翼賛会議会局は廃止、9月2日には衆議院倶楽部も解散となる。同日、衆議院議員324名が参加する翼賛議員同盟が結成され、三木も参加した。一方翼賛体制に批判的な鳩山一郎、尾崎行雄らは1941年(昭和16年)11月10日には同交会を結成し、その他西尾末広、松本治一郎らが参加した興亜議員連盟などが結成されたが、三木はそれらに加わることはなかった。この頃には議会での審議も形骸化が進み、三木は議会での発言機会にも恵まれないようになった。 ===結婚と森コンツェルン=== 三木は1939年(昭和14年)3月、第74帝国議会で行われた映画国策化についての法制化審議の場で、政友会の岩瀬亮に次いで多くの質問を行った。岩瀬はかねてから映画に興味を示していて、1933年(昭和8年)には衆議院に映画国策樹立に関する建議案を提出するなどの活動を行っており、1939年(昭和14年)には、先述のアストリア号による齊藤駐米大使の遺骨帰還の模様から歓迎会の様子についてのニュース映画制作を委嘱された、南旺映画を立ち上げることになる。三木は岩瀬と親しく、映画政策についても岩瀬から情報を入手していたと考えられている。三木は映画国策化についての法制化審議の席で、映画国策化を推し進めるのならば、都会ばかりではなく農村でも映画を楽しめるようにすべきであるとし、更に映画の質的向上、そして費用の支弁を図るようにすべきとの質問を行った。 三木を岩瀬と引き合わせたのは結城豊太郎であったとされる。結城は森矗昶を総帥とする新興の森コンツェルンと関係があり、岩瀬は森矗昶の実弟であった。三木は結城、そして岩瀬との繋がりでしばしば森家に出入りしていたが、そのような中で1940年(昭和15年)6月初め頃に森矗昶の次女である睦子との結婚話が持ち上がり、6月26日には正式に結婚する。新進代議士三木と森コンツェルン総帥令嬢との結婚は政財界の注目を集め、結婚式は当時日本銀行総裁を務めていた結城が仲人となり、東京會舘で政財界の要人らを招いて盛大に行われた。なお800名参加したという結婚式参列者のほとんどが新婦側の客で、新郎である武夫側の客はわずか3名に過ぎず、三木の両親も出席しなかった。 森コンツェルンは新興財閥の一つであり、満州事変以後の軍需産業発展に伴い急成長を見せていた。新興財閥のため、資本金が必ずしも十分ではなく、人材も乏しいという欠点も見られたが、1937年(昭和12年)6月には電力、ガス、アルミニウムなどの金属工業、アンモニウム合成などの化学工業など重化学工業中心の直系27社を擁していた。 しかし三木の結婚前の1939年(昭和14年)には、森コンツェルンの主力企業である日本電工と昭和肥料が合併して昭和電工が設立され、森家の主導権からは離れることになった。その上、傘下企業の昭和鉱業も帝国鉱業開発に譲られ、東信電気も電力統制の結果なくなってしまい、更に総帥の森矗昶も1941年(昭和16年)3月1日に死去するなど、三木の結婚前後から森コンツェルンは下り坂を迎えていた。 1940年頃から森コンツェルンは大江山ニッケル、日本火工の二社を主力企業とするようになり、矗昶没後は大江山ニッケル、日本火工の後身企業に当たる日本冶金工業が中核となり、鉱山業と製錬を中心とした小財閥となっていった。三木は結婚した1940年6月、大江山ニッケルの取締役に就任し、1943年11月には日本冶金工業の取締役となっている。また三木は1942年(昭和17年)6月から1943年(昭和18年)11月まで、衆議院調査会の商工省部の委員となり、1943年11月から1944年6月まではこれまでの商工省から電力、重化学工業、鉱業が移管された軍需省の委員、更に翌1945年(昭和20年)には軍需省参与官となっている。三木が戦時中、衆議院の商工、軍需省の委員を務めていたことは、森コンツェルンとの関係が深いことによるものと推察され、更に森コンツェルンにとっても三木が重要な存在であったものと想定される。 ===翼賛選挙非推薦での当選=== 第2次近衛内閣は1941年(昭和16年)1月の閣議で衆議院議員定数を400に削減し、原則一府県一区の大選挙区制、選挙権を男子戸主のみとし、自由立候補制に替わり推薦立候補制とする内容の選挙法改正案を決定した。しかしこの選挙法改正を実現するには、これまでの男子普通選挙に替わる戸主のみの選挙人名簿を新たに作成する事務が生じるが、これを選挙予定期日までに間に合わせることが困難であり、また第76帝国議会で政府の施政方針演説への質問を取りやめるなど、議会側が政府に協力する姿勢を見せたため、結局選挙法改正案の議会提出は見送られ、国際情勢などから任期満了総選挙を一年延長する、議員任期延長法案が可決された。 1941年(昭和16年)12月8日、日米戦争勃発。直後の12月9日には、衆議院議員の任期切れとなる1942年(昭和17年)4月に、内務省が行政措置として候補者推薦を行った上で予定通り総選挙を断行するとの報道がなされた。1942年2月18日、「大東亜戦争完遂翼賛選挙貫徹運動基本要綱」が閣議決定される。来る総選挙は大東亜戦争の完遂のため、翼賛議会を確立して政治体制を強化させ、国民の政治的意欲を昂揚を図り、更に対外的には日本国内の政治的な一体性を示すものとされた。要綱では建前上候補者推薦については政府の行政措置に拠ることなく国民が自主的に行うものとし、政府、翼賛会などの役割はその支援を行うものとされたが、実際は政府が音頭を取って2月23日、元首相の阿部信行を会長として候補者推薦母体となる政事結社の翼賛政治体制協議会(翼協)が結成され、翼協が候補者推薦を行うという事実上の官製選挙となった。 総選挙での候補者推薦についてはまず道府県ごとの各支部で推薦候補者を決定し、各支部の申請について本部の選考委員会で審査の上で最終決定することになった。候補者推薦については、旧既成政党に所属していた政治家などを一掃し、現職を排除して新人中心とする動きが見られたが、翼賛議員同盟側が激しい巻き返し運動を行った結果、最終的には基本的に現職優位の推薦となった。徳島県では脇町町長、県会議員の大久保義夫が翼協の支部長に就任し、支部長以下16名の翼協支部委員が総選挙での徳島県の翼協推薦者選考を行った。3月30日、支部は徳島2区については現職の秋田清の他、藍商として著名な三木与吉郎、ベテラン県議の三木熊二の二名の新人を推薦候補として翼協本部に内申した。本部の選考委員会でも徳島県支部の内申通り、秋田清、三木与吉郎、三木熊二の三名を推薦候補とすることが決定され、翼賛政治体制協議会推薦候補として立候補することとなった。三木武夫本人は翼協から推薦を受けることを望んでいたが推薦を受けられなかったため、もう一人の徳島2区の現職議員の真鍋勝とともに翼協非推薦での立候補となった。 三木がなぜ翼協の推薦を得られなかったのかについては、三木の当選後、翼協徳島県支部長から三木に対し「徳島2区は定員3であるため、推薦は3人が限度であった。翼協徳島県支部委員の賛否によって推薦者を決定したが、不幸にして貴殿は選に漏れた」。との内容の書状を受け取っている。しかし三木は翼賛選挙前の2月に警視庁が現職衆議院議員全員について作成した衆議院議員調査票で当選確実とされ、更に国策にとって望ましい人物であるかどうかについての区分では、「積極的な活動は無いものの、時局に順応し、国策を支持し反政府的な言動が見られない」乙種とされていた。ちなみに徳島二区で翼協推薦となった秋田清は当選確実である上に「時局に即応し率先垂範し国策遂行のため他を指導しており代議士にふさわしい」甲種とされ、三木と同じく非推薦となった真鍋勝は当落不明とされ、更に「時局認識が薄く、旧態を墨守し、常に反国家、反政府的な言動を行うか、思想的に代議士にふさわしくない」丙種とされた。甲種の秋田清の推薦と、丙種である上に所属議員の多くが非推薦となった興亜議員同盟に所属していた真鍋勝の非推薦については了解しやすいが、6割以上が翼協推薦された乙種であり、当選確実とも見なされており、更に所属議員の多くが推薦された翼賛議員同盟に所属していた三木は推薦されても不思議ではなく、なぜ非推薦となったのかははっきりとしない。 しかも三木の場合、推薦候補に同姓の三木与吉郎、三木熊二が推薦候補とされた。これは当選確実とされた三木武夫の票の分散を狙ったものとも考えられ、このことから翼協支部では三木武夫の当選を望まない動きがあったと推察する説もある。また翼協推薦について、当初の新人優先から現職の巻き返しという動きの中で、最終的に翼賛議員同盟に所属していた100名の現職議員が推薦を得られなかった事実から、巻き返しが三木まで及ばなかった可能性もある。また三木の非推薦は、初当選時に政友会、民政党という既成政党を厳しく批判していたことが影響したとの説もある。翼協には旧政党関係者が多数参加しており、既成政党を厳しく批判して当選した三木のことを快く思っていなかった人たちは少なくなかった。そして衆議院議長、閣僚を経験し、徳島の政界で強い実力を持つ秋田清の働きかけも想定できる。秋田は若く実力を蓄えつつあった三木を非推薦とし、落選させることによって、自らのライバルを潰そうともくろんだのである。 三木本人は自らの翼協非推薦について、徳島二区有権者に向けた選挙パンフレットの中でまず欧米遊学、米国留学という経歴から、三木は米欧の思想かぶれであると邪推され、思想的に不純な者であると貶めようとする動きがあったため、更にまだ政治家経験の浅い三木は、翼協支部の16名の委員のうち4、5名以外のことはよく知らず、中には一回も会ったことが無い方もいたためではないかと推測した。つまり親英米派と見られたことと、政治家としてまだ経験が浅い点が非推薦の原因と見ていた。 当選1回と政治キャリアがまだ浅い三木が非推薦になったことは、強い逆風下で選挙戦を戦わねばならなくなったことを意味した。三木は先述の選挙パンフレットの中で、第21回衆議院議員総選挙は真に国家のことを思い、翼賛議会の建設に熱意を持つか否かを候補者選択の基準とすべき選挙であると主張し、翼協の非推薦だからといってその熱意を持たないと思われるのは心外であるとし、「子が母の愛にすがり訴えるがごとき心情の下」自らの証を立て、疑念を晴らしたいと訴えた。更に第一期の任期中は議会活動に邁進し、愛国の熱情と赤誠を捧げてきたとした。初回選挙時に見られた既成政党と政治腐敗批判は影を潜め、自らの立場の弁明を主としたパンフレットの内容からも三木が翼賛選挙で苦境に追い込まれたことが伺える。また同パンフレットの中で、同僚政治家からの推薦人として清瀬一郎、桜内幸雄、中島知久平、町田忠治、松野鶴平らが名を連ねるとともに、頭山満も三木を人格識見卓越し、とりわけ思想精神上立派な人物であると称え、政治家として得がたい人物であるとして三木への投票を依頼していた。 選挙戦に突入すると、非推薦候補である三木に対して選挙事務所に警官の出入りや特高の監視が行われ、運動員には尾行がつき、三木の演説会に参加した有権者は警察から出頭を命じられ、東京から三木の応援に駆けつけた石田博英に対しては道中私服の警官に付き纏われるなどの選挙干渉に見舞われた。また三木の選挙戦について地元紙の徳島毎日新聞はほとんど報じることがなかった。そして対立候補からは三木は米国で勉強してきた国賊であると指弾されもした。このような厳しい情勢下、三木は徳島2区の全域で議会報告演説会を開いて有権者と膝づめの対話を繰り返し、山間部では支援者の家に泊り、戦死者家族の弔問を行うなど、約一ヶ月間の期間中、地域に密着した選挙戦を徹底的に行った。また前回と同じく吉村正、石田博英、玉川学園創始者の小原国芳らを東京から応援弁士として招き、妻睦子の実家である森家と繋がりがある海軍少将、陸軍大佐なども三木の応援に駆けつけた。 また、三木が頼りとしたのはやはり得意の弁論であった。戦時下の翼賛選挙では、各候補が訴える政策は聖戦完遂、大東亜共栄圏の確立、翼賛議会の確立など、どうしても同じような内容となってしまっていた。そのような中で三木は聖戦完遂など他候補と同様の訴えとともに、選挙区内の問題に対してこれまでいかに熱心に取り組んできたのかを説明し、他の候補との差別化を図った。 4月30日の総選挙で、三木は厳しい逆風下の選挙であったにもかかわらず、地盤である板野郡、隣接する阿波郡を手堅くまとめ、更には秋田清の地盤である三好郡でも票を伸ばし、秋田清、三木与吉郎に次いで三位に滑り込み当選を果たした。これまで徳島2区では秋田清のみが地盤である郡以外でも一定の支持を集めていたが、若年層を中心とする支持を伸ばした三木もまた、地元板野郡以外の支持層を広げることに成功した。翼賛選挙において翼協非推薦候補の当選率はわずか13.8パーセントに過ぎず、三木は苦しい選挙戦を、地域に密着した選挙活動を中心とすることによって勝ち抜き、政治生命の危機を乗り越えた。そしてこの翼賛選挙非推薦での当選は戦後、三木の勲章となっていく。 ===翼賛選挙後の三木=== 翼賛選挙が終了すると、東條内閣は同交会、興亜議員同盟、そして翼賛議員同盟も解散させ、1942年5月20日に三木ら翼協非推薦議員も参加した唯一の政治結社、翼賛政治会が結成される。翼賛政治会は翼協会長の阿部信行が総裁となり、刑事訴追中の8名以外、全ての衆議院議員が加入した。三木は翼賛政治会政務調査会の大蔵委員会幹事となり、また翼賛政治会所属の2、3回当選議員で構成された、翼賛政治会の機構改革や政治力強化運動を活発に行っていた三十日会、そして経済問題について勉強し、翼賛政治会を通じて政府に政策提言することを目的に結成された経済議員連盟に所属し、活動を行った。 また、6月に官民一体の総力戦体制を構築するために、貴族院議員80名、衆議院議員244名、民間人50名が内閣と各省の委員となったが、三木は赤城宗徳、安倍寛らとともに商工省委員となった。1943年(昭和18年)11月からは商工省から改組された軍需省委員を引き続き務め、1944年(昭和19年)6月には各省の委員制は廃止となるが、1945年(昭和20年)5月15日、鈴木貫太郎内閣において軍需参与官に任命された。 三木は1943年2月、第81帝国議会において、大東亜共栄圏で計画交易を管轄する団体である交易営団に関する「交易営団法案」について、衆議院本会議、石油専売法案外二件委員会で質疑を行った。質疑の中で三木は官僚のセクショナリズムを批判した上で、大戦遂行のために日本主導の大東亜共栄圏内の計画交易促進を支持した。そして日本の利益ばかりではなく、大東亜共栄圏では日本以外の国の発展にも配慮した総合的な施策が必要であると主張した。同じ第81帝国議会では請願委員会において地元徳島県の阿波用水灌漑事業に対する助成の請願を行い、更に建設委員会において徳島1区選出の衆議院議員であった紅露昭ら3名の議員とともに明石海峡、鳴門海峡にトンネルを設け、本州から淡路島を通り、四国に繋がる鉄道を敷くプロジェクトを提案し、審議の結果調査費が認められることになった。 三木は議会活動において官僚のセクショナリズムを批判したが、翼賛政治会内で官僚主義を厳しく批判し、議会中心主義を内包していると見られていた鳩山一郎を中心とする思斉会に入ることはなかった。1944年(昭和19年)7月には東條内閣が総辞職し、同時に翼賛政治会総裁も小林躋造に交代した。このようなな動きの中で翼賛政治会の結束に乱れが生じていき、脱会して無所属となる議員が続出した。1945年(昭和20年)3月には宇田耕一らを中心として翼壮議員同志会、岸信介を中心とした護国同志会が結成され、このままでは難局を乗り切れないと、翼賛政治会は3月20日に解散となった。結局3月30日に南次郎を総裁として大日本政治会が結成されるが、翼壮議員同志会、護国同志会を中心として数十名の議員が参加しなかった。三木は岸信介が主導する護国同志会に加入するという話も出たが、結局は多数派の大日本政治会に所属することとなり、そのまま終戦を迎える。三木は戦時中は多数派の会派に所属し続け、独自の方向性を選択することはなかった。議会での発言もおおむね時局に追随したものであり、やはり翼賛選挙で非推薦となった三木にとって、体制にあからさまに反する態度は取り得なかったものと考えられる。一方、先述した議会活動における民意重視の姿勢、そして官僚のセクショナリズムに対する批判、大東亜共栄圏において日本以外の国家発展に対しての目配りなど、三木の戦後の政治活動に繋がるものが戦時中の議会活動からも見受けられる。 1945年の終戦前、帝国議会での三木の質問機会は一回のみであった。1月24日、予算委員会の席で三木は、「決戦兵器」開発見通しに関して八木秀次科学技術院総裁に質問した。科学技術の総動員によって、厳しさを増す戦局を打開し得る決戦兵器の完成を期待する三木の質問に対し、八木は必死ではなく必中の兵器を生み出さねばならないことが使命であることは十分承知しているが、十分な成果が挙げられないまま、必死必中の神風特攻隊出撃を行わねばならなくなったことは、技術当局として遺憾に堪えない、慙愧に耐えない、まことに申し訳ないとの内容の答弁を行った。この三木と八木とのやりとりは、特攻に対しての政府当局者の率直な意見として当時大きな反響を呼んだ。戦況が日本にとって絶望的な状況となる中で、三木は特攻という戦時体制のひずみに対し、議会答弁を通して政府当局からある程度の回答を引き出していたことは注目される。 ===戦前の三木の生活について=== 妻の睦子の回想によれば、結婚して驚いたこととして三木の金銭感覚の欠如があった。結婚前、三木は代々木に住んでいたが、結婚後は、政治家なので来客も多いだろうということで、舅の森矗昶の手によって建て増しを行った目白の家に住むことになった。新婚の三木の家の玄関先に毎朝9時になると高級自動車が横付けされた。三木は朝寝坊であり起きるのは昼頃、そしてなんだかんだで高級自動車に乗車して家を出るのは午後3時から4時頃になってしまい、高級自動車はその間玄関先でずっと三木の乗車を待っていた。睦子は「どうして車が待っているの?」と三木に尋ねると「いつ僕が出発するかわからないので待たせてある」という返事が返ってきた。費用面の心配をぶつけてみたら「ちゃんと払っている」との返事であったが、実際には三木は小切手で支払いを行っており、睦子はほどなく銀行からもう支払いが出来ない旨の連絡を受ける羽目になった。森コンツェルン総帥の娘である睦子は小切手が不渡りになる怖さを知っていたため、即座に夫の小切手帳を破り捨てた。 三木の家には結婚前から故郷徳島からの学生を中心に、多くの学生が居候をしていた。また第二次世界大戦が始まると、アメリカに帰れなくなり言葉も不自由で行く場所が無くなった日系二世の学生も二、三人、三木の家に居候することになった。なお三木家に居候していた日系二世アメリカ人で、明治大学在学中に日米開戦によりアメリカに帰れなくなった人物が、戦後川北対合衆国事件の被告となって国家反逆罪で死刑を求刑されるという事態が発生した。三木を始めとする日本側は助命嘆願、そして死刑から減刑後も更なる減刑嘆願を行うことになる。三木家に学生が居候する状況は戦後も続き、居候をした学生のうち何人かは徳島県議となり、また三木が首相となった当時、秘書を務め、鳴門市の市長を務めた吉田忠志も三木宅で居候をした経験があった。 1945年(昭和20年)5月、目白の自宅は空襲により焼失する。三木の一家は秩父の影森村に疎開することとなった。三木の妻子は疎開先の影森村で暮らしたが、当時軍需省の参与官を務めていた三木も、軍需省に出勤するために早朝影森村を出発し、深夜に戻る生活となった。そして戦況がますます悪化する中、長女の紀世子だけでも生き永らえさせたいと考えた三木夫婦は、紀世子を徳島の三木の実家に預けることを決め、7月になって家族で徳島へ向かった。また三木の所有する重要書類も徳島在住の支援者のもとへと送った。紀世子を三木の母タカノに預けて東京へと戻る前夜、父武夫は娘との別れを惜しんで涙を流しながらお風呂に入れたという。結局三木の家族は全員無事に終戦を迎えることが出来たが、徳島に送った重要書類は徳島空襲に遭い、全て焼失してしまった。 ===終戦から保守合同まで=== ====引退の撤回と第22回衆議院議員総選挙==== 8月15日の終戦後、三木は政治家として戦争の責任を負うべきと考え、議員辞職して食料品店でもやろうかと睦子に持ちかけた。しかし睦子はこれから米国がやって来るので、米国のことを良く知る三木が必要とされると言い、議員辞職に反対した。結局三木は議員を続けるかどうかを次の選挙で決めることとし、もし落選したら今後選挙には出ないこと、そして選挙終了後まで政党に入らないことを決意した。三木のところには、森家の縁で千石興太郎から日本協同党に、鳩山一郎から日本自由党にそれぞれ誘われたが、三木は断った。 9月には三木の家族は疎開先の秩父から東京へと戻った。東京に戻った三木の一家は、まず雑司が谷にあった元共産党の研修所のような建物に落ち着いた。研修所として用いられていた建物らしく、狭い部屋がいくつもある集合住宅のような家であったが、ほどなく三木の家族以外にも居候が住みつくようになり、20人前後の人々が出入りする大所帯になり、睦子は戦後の食糧難の中、食糧確保に走り回ることになる。 1946年(昭和21年)の第22回衆議院議員総選挙に立候補するためには、GHQから立候補資格確認書の交付が必要とされた。三木は翼賛選挙では翼協非推薦であり、この点では立候補資格に問題は無かったが、翼賛政治会の幹事、理事や、軍需省参与官を務めた経歴から資格が認められない可能性もあった。三木はGHQに戦前に日米友好に尽くしたことをアピールするなど確認書の交付に向けて尽力した。しかし三木の確認書交付は遅れてしまい、陣営にあきらめムードも漂うようになった選挙戦開始後、ようやく交付された。 第22回衆議院議員総選挙は婦人参政権が認められ、男女普通選挙となった。選挙区も基本的に全県一区の大選挙区制で行われ、徳島県も全県一区、定数5に対して30名が立候補した。前述の立候補資確認書の交付が遅れてしまったために選挙戦に出遅れ、更にこれまで選挙区外であった県南部も回らなければならなかった。しかし三木は婦人参政権が認められた初の選挙らしく、明大女子専門部の学生4名を応援演説に駆り出すといった作戦を実行し、東京から徳島へ自動車を持ち込み、自動車で行けない場所は自転車に幟を立てて選挙区中を回った。この選挙で三木は民主政治の確立、教育の刷新、食糧問題の解決などを訴えるとともに、足かけ10年の国会議員経験に加えて、欧米訪問、米国留学体験がある国際派であり、それらの体験を国政に生かせる人物であるとアピールした。4月10日に行われた投票の結果、三木はトップ当選を果たした。 ===協同民主党への参画=== 1945年(昭和20年)3月に結成された護国同志会の運営を主に担っていたのは船田中であった。護国同志会には産業組合関係者も多く、戦後になって1945年10月から11月にかけて、護国同志会の系列の船田中らと産業組合の千石興太郎、黒沢酉蔵らによる新党結成の動きが本格化した。その結果、12月18日には26名の衆議院議員が参加する日本協同党が結成される 。日本協同党は協同民主主義を標榜し、協同組合主義を経済原則に掲げ、戦争で大きな打撃を蒙った産業、経済、文化を、勤労、自主、相愛を基調とする協同組合主義により再建し、協同組合が産業の復興の中核となることを主張した。日本協同党は黒沢、船田を代表世話人とし、井川忠雄ら5名が世話人、千石ら23名が委員となった。党を指導する船田、千石らは、かつて近衛新体制運動に積極的に係わったものの、戦時体制下では非主流派となったため、終戦後の新たな体制の担い手となり得ると考えていた。しかし1946年(昭和21年)1月4日、GHQは黒沢、船田、千石らを公職追放とすることを決定し、日本協同党の代表世話人、世話人、委員計30名のうち、追放を免れたのは世話人の井川忠雄、委員の北勝太郎の2名のみであった。党存続の危機に見舞われた日本協同党は2月23日に緊急幹部会を開催し、井川を中心として党再建に乗り出すこととした。井川はまず日本協同党が自由党の左、社会党の右の存在とし、協同主義は統一的な協同組合行政を確立する理念であると主張した。2月28日には第一回の党全国代表者会議の席で、常任世話人として井川の他、船田中の実弟である船田享二、山本実彦らを選出した。 日本協同党は衆議院議員選挙を前に、まず社会党との連携を模索した。社会党としても戦後の結党時、協同組合関係者を取り込む動きもあり、日本協同党と社会党との提携は不自然ではなかった。しかしGHQ内には日本協同党は日本を穏健化し、安定化させるのに寄与すると評価する声とともに、日本協同党のメンバーには中道やや右よりの政党であるとの合意があると見る向きもあった。4月の第22回衆議院議員総選挙において、日本協同党は94名の候補者を擁立するが、14名の当選にとどまった。思わしくない選挙結果を受けて、日本協同党は社会党との連携以外に諸派、無所属議員のとの連携を図るようになった。 総選挙を無所属で当選した三木は、選挙後、田中伊三次らとともに諸派、無所属議員を結集する会合の呼びかけ人となった。三木、田中らは新人、諸派の国会議員を糾合して新党を結成しようともくろんだのである。三木らは当初、幣原内閣居座り工作を図っていた楢橋渡内閣書記官長らとの連携を進めようとしたが、楢橋の連携相手に目されていた社会党、日本協同党は構想に乗らず、結局自由党、社会党、日本協同党、共産党による倒閣共同委員会が組織されたことにより、4月22日、幣原内閣は総辞職に追い込まれた。政局の動きを見た三木らは楢橋の動きから距離を置くようになり、幣原内閣が総辞職した22日に、44人の衆議院議員からなる院内団体の大同倶楽部を結成した。4月27日には総選挙を受け、中央委員長に山本、副委員長に北、書記長に井川という日本協同党の新執行部が選出された。新委員長に選出された山本は改造社社長であり、戦前に2期、民政党の衆議院議員を務めており、経歴からも協同主義のイデオロギーに必ずしもこだわらない人物であった。そして結成間もない大同倶楽部内に新党結成の動きが起こり、更に日本協同党と大同倶楽部との合同を目指す動きが起こった。この動きは北勝太郎を中心とした日本協同党内の農村派の反対によりいったん立ち消えになったかに見えたが、結局日本協同党や日本農本党などの諸派、大同倶楽部は、5月8日に協同組合主義を党是とする新党、協同民主党の結成に合意するに至った。 ところが協同組合主義の党是に多くの大同倶楽部所属議員からクレームが出され、大同倶楽部所属議員の多くは日本協同党との合同に加わらずに新党結成を目指すこととなって、院内会派日本民主党準備会を結成された。話が進んでいた協同民主党結成の話が突然上手くいかなくなった背景には、他の大政党からの工作があったものと推測されている。結局日本協同党と日本農本党などいくつかの小会派によって5月24日に協同民主党が成立する。三木は当初日本民主党結成準備会に参加したものの、日本民主党準備会は新人代議士27名のみで民主党を結成する方針となり、新党の主導権を握ることが困難な情勢となったため、参加を要請されていた協同民主党に加入することになった 。なお日本民主党準備会は院内会派新政会を経て、9月25日、国民党となる。三木が当初もくろんだ新党結成が流産した背景のひとつには、新党構想を主導した三木や田中伊三次が、代議士個人個人の事情を十分考慮することなく、無理やり新党を結成しようとしたことが反発を買ったことが挙げられる。 ===協同民主党の実権掌握=== 三木を協同民主党に誘ったのは日本協同党委員長の山本であった。山本は党勢拡大のために政治家経験がある人物の入党を望んでおり、衆議院議員当選3回の三木を協同民主党結党に誘うことになった。三木はこれまで協同主義と深い関わりがなく、北ら農村派は三木の入党に反発したが、山本は反対を押し切った。結党した協同民主党は日本協同党に引き続き、中央委員長は山本、書記長には井川という体制でスタートした。6月18日、入党したばかりの三木は協同民主党の総務委員の一人に選ばれ、8月25日には協同民主党第一回全国大会で筆頭常任中央委員となる。この頃の協同民主党は、GHQ民政局の政党係から、戦前の官界にその源流を持つ中道主義の組織で、党の公約は小作農よりも不在地主の利益を代表する農業政党であって、党の公約は官僚や資本家を悪者扱いした軍国主義者、全体主義者のスローガンの復活であり、天皇制について最も保守的な政党であり、日本の政治思想の右翼を代表しているとの見方をしていた。 山本執行部は、日本民主党準備会にいくつかの院内団体が合同し、名称変更された新政会との合同をもくろむが、1946年(昭和21年)9月9日に失敗に終わる。この過程で北ら農村派と執行部との対立が激化し、北らは除名処分を受けることになる。新政会との合同が挫折した後、浮上したのが日本進歩党との合同であった。協同民主党内で進歩党との合同に積極的であったのは委員長の山本と有力議員であった林平馬であった。しかし保守色が強い進歩党との合同に三木らは反対し、進歩党内でも協同民主党との合同に反対する声が上がった。結局進歩党との合同は9月末には白紙となり、協同民主党内では山本や林らの権威が低下し、三木の力が増していくことになった。 協同民主党成立直後の1946年(昭和21年)6月、山本の公職追放が取り沙汰される。山本が社長を務めていた雑誌改造の戦時中の論調などの問題により、公職資格審査委員会から議員不適格との表明がなされた。山本は委員会に再審査を要求するとともに、民政局に対して政府の弾圧を受けた自由主義者であることを訴え、民間諜報局(CIS)にも働きかけるなど追放回避の運動を行った。しかし民政局は山本の画策に不快感を抱き、12月16日には林譲治書記官長から改めて追放令に該当する旨通告され、年内に議員を辞職するよう求められた。結局山本は追放となり、1947年(昭和22年)2月14日には議員辞職が認められた。 党首である山本の公職追放により、協同民主党は書記長の井川忠雄と三木、三木のアメリカ留学時代からの友人で、盟友であった松本瀧蔵によって主導されることになるものと見込まれていた。しかし山本追放からわずか4日後の2月18日、井川が狭心症により急死してしまい、三木が協同民主党の実権を掌握することになる。当時まだ39歳の若さで、しかも山本の勧めにより入党したいわば外様の三木が党の実権を握ることができた理由としては、まず党内実力者であった山本の追放、井川の死去、北の除名、進歩党との合同白紙化による林の権威の失墜といった事情に加えて、協同民主党内で当選3回の三木を上回るキャリアを持つ政治家は無かった点がまず挙げられる。また三木は翼賛選挙を非推薦で当選したという実績を持ち、松本瀧蔵とともにGHQに頻繁に出入りしていて、GHQとの関係は良好であると見られており、党内からは戦後民主主義社会の政党指導者にふさわしい人物とも見られていた。そして三木は当時の協同民主党内で最も資金調達能力が高い政治家で、1947年には協同民主党の後進となる国民協同党への総寄付額の約35パーセントを寄付している。党内に三木に匹敵し得る資金調達を行っていたのは岡田勢一のみであった。三木の妻、睦子の実家である森家は森コンツェルンを形成していたが、前述のように三木の結婚前あたりから下り坂となっており、戦後は財閥解体の影響も受けた。そのため三木の資金源が森コンツェルンによるものかどうかはっきりとはしないが、党内随一の政治資金調達能力が実権掌握に大きく寄与したことは間違いない。 当時の三木は、政界の中では前述の岡田勢一の他に、宇田耕一、そして河本敏夫を資金源としていたと言われている。後にクリーン三木と呼ばれるなど、清廉さを代名詞として語られるようになる三木であるが、戦後、小政党を渡り歩いていた頃の三木は「金集めのベテラン」との評価を受けるなど、優れた政治資金調達力が高く評価されていた。 ===国民協同党結党=== 協同民主党の実権を握った三木は、GHQとの交渉については松本に委ね、主に党務に専念した。三木はこれまで何度か合同話が出ていた国民党、そして無所属倶楽部の合同を進めた。そして三木は三党が合同した暁には、党首に当時自由党で冷遇されていた芦田均を据えることを画策し、1947年(昭和22年)2月には芦田に対して決断を促した。芦田は三木の要請を断り、逆に進歩党と協同民主党、国民党、無所属倶楽部とが合同して新党を結成することを提案した。三木は自由党、進歩党を分裂させた上で、協同民主党、国民党、無所属倶楽部と合同するという小会派を軸とした政界再編を狙っていたため、進歩党に三党が合同しては狙いが全く達成できない形となるため、芦田の提案を拒否した。 結局三木は国民党との合同を先行させることにした。3月8日、協同民主党、国民党、無所属倶楽部の一部が合同して国民協同党が結党される。党首の中央委員長は決まらず、書記長は三木が就任し、副書記長は早川崇、中央常任委員長は岡田勢一、政調会長は船田享二、代議士会長は笹森順造という執行部であった。なお、国民党にいた井出一太郎はこのときの合同で三木と同一会派所属となり、井出は最後まで三木と政治活動を共にすることとなる。国民協同党は暴力革命を否定し民意を反映する国民的な議会政治の確立、新憲法の忠実な履行を掲げ、戦後民主主義体制への同化をアピールし、階級闘争、自由経済論によらない国民共助の協同主義による経済の社会化を主張し、左右いずれにも属さず中道を歩むとした。 三木は1947年4月25日に行われた第23回衆議院議員総選挙において国民協同党の選挙対策委員長となる。この総選挙以降、三木は党の要職や閣僚を歴任するようになったため、選挙中に地元にあまり戻らなくなる。選挙戦の中で、三木は階級闘争でもなく現状維持でもない、相互の人格と立場とを尊重し協同する中道路線を唱えた。しかし国民協同党は選挙わずか一ヶ月あまり前に結成されたことによる準備不足と、右でも左でもない中道路線が「片足を社会党に、もう片方の足を自由党、民主党に突っ込むように」受け取られたこともあり、国民協同党の獲得議席は伸び悩んだ。しかし選挙後、国民協同党は社会党、民主党とともに連立を組むことになり、三木は片山内閣の逓信大臣として初入閣を果たすことになる。 ===公職追放危機の回避=== GHQは早くも1945年12月24日にはこれまでの三木の経歴を調べており、更に戦時中に大東亜戦争の遂行、八紘一宇、大東亜共栄圏の実現を望み、翼賛議会の確立を訴えていたことを確認していた。1946年1月には徳島市から、三木は軍需省の参与官であったのみならず軍需生産の拡大を訴えていて、A級戦犯の荒木貞夫から資金や支援を受けながら選挙戦を戦っており、更に米国留学中にはスパイ活動を行っていた旨の投書があった。そして5月には民政局宛に、三木は要職である軍需省の参与官を務めており、翼賛選挙中は軍人らが「三木こそ軍国的な人物なのになぜ非推薦なのか」と言って応援しており、その上米英撃滅運動を行っていた等の投書が届いた。これらの内容は三木にとって不利なものばかりであり、三木も公職追放されかねない情勢となった。 三木については公職追放を管轄した民政局内で二種類の調書が作成されたことが明らかになっている。最初の調書では、三木が米国でスパイ活動を行っていたとの申し立てがあること、更に戦時中には八紘一宇を説いていたとされ、また三木の欧米旅行を講演のためとし、戦前の日米関係への関与も日米親善国民大会に資金を出し、日米同志会創設に係わったとされている。この調書により、三木は追放には値しないものの議員資格には疑問があるとされた。しかし1947年(昭和22年)6月に作られた後の調書では、まず三木のスパイ疑惑については、三木の米国留学中の恩師がGHQの要員として来日したことによって疑いが晴らされた。そして八紘一宇を説いていたとの節は最終的に全削除され、三木の戦時中の経歴のみ残された。そして欧米旅行も国際平和と協調を講演したとされ、日米関係への尽力に関しても記述が増えた上に、日独伊による枢軸に反対であったと書き加えられた。 結局三木の後の調書では、最初の調書で触れられていた戦時中の言動を不問とし、更に戦前における日米友好等の活動を強調し、三木を親米的な人物としたものになった。後の調書によって三木は最終的に追放除外の決定が下されたものと考えられる。これはまず、三木は盟友である松本瀧蔵とともにGHQに出入りしており、その中で自らの主張を民政局に伝え、追放回避を図っていたものと見られている。民政局としても農民政党であった国民協同党内に、三木や松本によって協同民主主義が広められた結果、知識人らに支持を得るようになったと評価しており、中道、革新勢力の育成のためにも追放は政治的に好ましくないと判断したものと考えられる。三木と同様の理由で芦田均、西尾末広も追放の不適用が決定されたと見られ、民政局に望ましくない人物と見なされた鳩山一郎、石橋湛山が追放されたこととともに、公職追放が政治的理由により決定された面があることを示している。 その後1948年(昭和23年)3月3日の第53回対日理事会の席で、ソ連代表のキスレンコ(ロシア語版)少将は芦田均、西尾末広らとともに三木を追放すべきと主張した。しかし米国代表のシーボルトはキスレンコの発言に激しく反駁し、中国代表、英国代表がシーボルトの意見に同調したため、ソ連代表の追放主張がこれ以上問題とはなることは無かった。 ===初入閣、そして連立与党の党首として=== 第23回衆議院議員総選挙の後、三木が家族とともに大阪から列車に乗ったところ、たまたま社会党書記長の西尾末広が同じ列車に乗り合わせた。三木と西尾は東京へ向かう列車の中、そして東京到着後は新橋にあった三木の事務所で、総選挙後の政権構想について意見を取り交わした。5月7日には国民協同党の両院議員総会が行われ、民族の危機を克服し、政局の収拾を図るために社会、自由、民主、国民協同の四党連立挙国一致政権の樹立が望ましく、首班は第一党の社会党から出るべきであるとの三木と西尾の会談報告を了承した。四党は連立協議に入ったが、自由党は生産の復興のために統制経済を行うとの他の三党が掲げた経済対策を容認できず連立協議から離脱したため、5月30日に社会党、民主党、国民協同の三党連立により片山内閣が成立することになった。この頃GHQは、自由党は自由経済を標榜しており漸進的な改革に囚われているとした反面、社会党は平和的、民主的な方法で革命を起こそうとしていると見なしており、民主党は厳格な経済管理を打ち出した中道政党であるとし、そして国民協同党は農民政党から合併によって基盤を広げてきているが、保守的な思想で日本を安定化させようとしていると見なされ、また社会党と哲学が異なるものの、社会党と衝突を繰り返していた民主党と異なり、社会党と協力して結果を出そうとしていると評価された。 国民協同党はGHQから社会党首班の片山連立政権を支える重要な役割を担っていると評価された。中でも農民党から脱皮して党の魅力を増しているのは三木の指導によるところが大きいとして、三木を評価した。三木の公職追放非該当が確定したのも、以上のようなGHQの三木に対する評価によるものと考えられる。 三木の入閣は当初から有力視されていたが、党務をこなしながら閣僚の業務を遂行していくことに不安を感じていたため、無任所相を希望していたというが、結局のところ逓信大臣に落ち着いた。国民協同党の閣僚ポストは当初議席数から見て1プラス法制局長官の1.5枠と考えられていたが、三木の粘り強い交渉の結果、2ポストを獲得した(代議士会長笹森順造が国務大臣として入閣)。これにより党内における三木の威信は高まり、6月30日の第2回党大会において中央委員長(党首)に選出された。党大会の席で三木は協同主義による政策を明らかにして、理解を求めていくと抱負を述べた。更に三木は国民協同党委員長として協同主義協会の事務所を自らの事務所内に置き、7月5日に行われた協同主義協会の第一回会合に参加した。 逓信大臣となった三木は、戦争で大きな被害を蒙った通信網の復興のため全国を視察し、また当時逓信省の管轄であった航空行政にも係わった。また当時強力であった労働組合の全逓との交渉にも腐心した。 社会、民主、国民協同の三党連立内閣は成立後約半年を経た1947年(昭和22年)秋になると与党三党間、そして社会党、民主党の内部対立が目立ってきた。特に社会党内は左右の対立が激化し、右派の中でも西尾と平野力三農相との対決が深まっていた。民主党は臨時石炭鉱業管理法をめぐり幣原喜重郎らが離党する。 そのような中、民主党党首の芦田は1947年(昭和22年)9月から10月にかけて国民協同党へ合同を呼びかけていた。このときの三木は国民協同党が民主党に吸収合併される形の合同に反対した。しかし社会党内の対立激化、民主党からの幣原派が離脱するという連立与党内の混乱に加え、国民協同党の一部と日本農民党、社会党の平野力三らのグループが新党運動を開始したのを見て、このまま手を拱いていれば国民協同党を維持できないと判断した三木は反転攻勢に出た。かねてから協同民主主義を唱え、秋田大助や赤沢正道らが師事していた矢部貞治をブレーンとして迎え入れ、新党結成を目的に協同党、農民党などの有志を糾合して新政治協議会を立ち上げたうえで、1948年(昭和23年)1月3日、逆に芦田に対して合同を持ち掛けたのである。 三木や矢部は社会党との関係を重視していた。当時の芦田は社会連帯主義と修正資本主義を提唱していて、社会党との連携にも積極的であり、協同民主主義を唱えていた三木との接近は自然な成り行きであった。しかし中道勢力の結集は容易なことではなかった。2月10日に片山内閣が総辞職すると、後継政権のあり方をめぐって民主党内で斎藤隆夫らが社会党と手を切り自由党と連立すべきとの主張するという内紛が勃発した。一方国民協同党、新政治協議会も同じようなトラブルに見舞われていた。平野ら全国農民組合派が新政治協議会に加入して、三木が主導していた新党結成の動きをいわば乗っ取る動きを見せ、国民協同党内でも早川崇らが離党の上それに同調しようとしていた。三木は新政治協議会の活動を休止させ、最終的には自由党の吉田茂を首班に推す全農派と芦田を推する国民協同党側が袂を分かつことで決着がついた。 三木は片山内閣崩壊直後、社会、民主連合を選択するか自由、民主連合に組するか迷っていた。これは早川らの離党の動きがある中で、まずは国民協同党の組織防衛を最優先とせざるを得ず、社会、民主、国民協同の連立の枠組維持まで手が回らなかったためである。結局党内は2月14日の代議士会で「民主党支持」でまとまり、社会党も左派が芦田首班に合意した。窮地に陥った社会、民主、国民協同の三党連立が維持できた背景には、自由党を右翼保守と見なしていたGHQの支援があった。斎藤らが民主党から離党したため、衆議院では芦田が首班指名されたものの、参議院は吉田が指名された(衆議院の優越により芦田が首相就任)。自由党は民主党からの離党者などを迎え入れて民主自由党が結成され、衆議院第一党に躍り出た。 3月10日、芦田内閣が成立。組閣に際して、国民協同党は党の支持基盤の維持のために農林水産大臣のポストを強硬に要求したが、社会党も同ポストを強く要求した。そのため、あらかじめ大臣にはならない旨を表明していた三木が前言を翻し、自らが農相となってもポストを獲得したい、と粘り腰を見せた。結局、連立の維持が何よりも重要であるという判断に基づき、国民協同党側が譲歩して農相のポストは社会党が握ることとなり、三木は芦田内閣に入閣せず、党首として国民協同党の党務に専念することになった。 芦田内閣は社会党書記長の西尾末広を副総理としたが、西尾に届出がない政治献金が発覚し、また予算修正問題では社会党に下野論が噴出した。内閣発足間もなく民主自由党という強力な野党出現と閣内のトラブルという内憂外患に見舞われた芦田は、西尾の助言を受けつつ三木に中央政治同盟を提唱した。危機を前に再び中道勢力の結集を図ることとしたのである。芦田の提案を受け、三木は7月5日に中央政治連盟の構想を発表した。三木の発表した構想は、極右、極左を排した中道政治の実現を目指し、民主、国民協同の両党を中心として社会党の右派、民自党の一部を巻き込んだ政治勢力の結集を図ることであった。しかし国民協同党内も一枚岩でない情勢下では三木の構想の実現は困難であった。8月半ばに三木は芦田に民主党と合同できない旨を伝えており、その後昭和電工事件によって芦田内閣は苦境に立たされ、10月7日には総辞職に追い込まれる。 ===幻の三木内閣=== 芦田内閣総辞職後の10月9日、連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーと会見する。マッカーサーは三木に対し、芦田の後継首班になる意思がないか尋ねた。社会党首班の片山内閣、民主党首班の芦田内閣に続いて、残る国民協同党の党首である三木が首相となることは不自然ではなかった。民政局のケーディスはマッカーサーに対し、三木の首班を推薦しており、マッカーサーの要請はケーディスの意見によるものであったと考えられる。ただし民政局は民自党党首の吉田茂が首相となることを嫌い、山崎猛民自党幹事長を首班に擁立する、いわゆる山崎首班工作を進めており、三木は芦田の後任首相候補の一人としての位置づけであったと考えられる。 この時三木は「野党第一党の吉田を首班とすべき」とし、マッカーサーの要請を断ったとされる。三木の判断の背景には、まず自らが党首を務める国民協同党は少数党であり、少数党から首相が出たところで政権維持が困難であることは自明であった。次に芦田内閣倒壊後の情勢判断があった。社会党は左右がまとまらない状況に陥っており、民主党は民自党との連携を主張する勢力もあったが、結局10月12日に下野を決定した。民主党は首班指名において誰に投票するかを協議した結果、当初山崎猛に投票する方針となったが、山崎が議員辞職してしまったため、三木に投票しようとの声が上がった。結局、代議士会で白票、三木、吉田の三案の中から決することとし、まず三木と吉田で無記名投票を行った結果、三木が吉田を上回った。そこで三木か白票かを挙手してみたところ、白票が上回ったために民主党は首班指名で白票を投ずることに決した。つまり社会党、民主党も当時三木首班でまとまる情勢ではなく、ブレーンの矢部も三木に対して、首相にはならず中道勢力の結集を進めるよう助言した。このような情勢ではマッカーサーの要請を受け入れたところで三木政権が成立できた可能性は高くなかったとする見方がある。一方、マッカーサーが三木に政権担当を要請したことを錦の御旗とすれば、政権獲得の可能性は十分にあったとする説もある。 三木は当時まだ41歳の若さであり、中道政治を進めていけば遠からずチャンスが訪れると考えたと思われる。しかも片山、芦田の両政権は政権内部の対立もあって短命に終わっており、もし三木政権が樹立されたとしても短命に終わる可能性が高かった。当時は政権運営が困難であり、芦田政権の後を継ぐことになる吉田政権も短命になるともと考えられていて、いったん吉田に政権を渡してみるのも良いのではとの判断があった可能性もある。様々な紆余曲折の後、実際に三木が政権の座に就くのは四半世紀余りを経た26年後のことになる。 ===国民民主党結成と外交・防衛問題=== 1948年(昭和23年)末、三木は昭和電工事件で逮捕後保釈されたばかりの芦田を尋ね、「早く帰ってきて一緒に闘おう」と激励した。しかし翌1949年(昭和24年)1月23日に行われた第24回衆議院議員総選挙で民主、社会、国民協同の三党は惨敗を喫し、一方与党の民自党は過半数を確保する。選挙後、民主党内では民自党との連携を進める連立派と、芦田ら野党派の対立が激化した。このような中、苫米地義三は三木に対して民主党が分裂した場合に援助を要請し、三木は了承していた。続いて2月18日芦田は三木に対し、連立派と野党派の色分けがはっきりしたら国民協同党と合併したいが、社会党との提携は時期尚早であると伝えた。一方三木は芦田に対し、社会党の右派くらいまで政策を持っていくべきと主張した。その後芦田は6月に西村榮一から中道政治の復活の見込みはないと言われ、国民協同党との合併話にも消極的となった。またちょうどこの頃から芦田は対日講和では日本の中立維持は困難で、反共運動の必要性を強く感じるようになっていた。 国民協同党と民主党との合併が進まないうちに、1950年2月10日に民主党連立派の保利茂らが民自党に入党し、更に勢力を拡大した。民自党の拡大は民主党野党派と国民協同党との合併話を促進させた。同年3月、三木は芦田のもとを訪れて、新党は社会主義者の一部も参加できるような幅の広いものにせねばならないが、現状では社会党右派との合同は現実的ではないと主張した。しかし芦田は三木の意見に表向き異を唱えなかったものの、新党の人材難、政治資金の不足が喫緊の問題であると見ていた。芦田の見方は的確であり、4月28日、民主党野党派と国民協同党が合併して国民民主党が結成されるが、総裁は置かれず苫米地義三が最高委員長となり、幹事長には千葉三郎、三木は七名の最高委員の一人となった。そして6月4日に行われた第2回参議院議員通常選挙で、魅力的な党の顔を欠く国民民主党は惨敗する。 国民民主党結成前後、三木と芦田との関係は良好であった。芦田は自らが影響力を保持できる苫米地総裁、三木幹事長という人事案に賛成し、一万田尚登日銀総裁ら外部から総裁を招請する案には反対した。このような中、三木は1950年(昭和25年)9月6日から翌1951年(昭和26年)1月5日まで、長期訪米を行う。 当時日本では単独講和か全面講和かの論争が起こっていた。三木や国民民主党若手革新派は全面講和を唱えていたが、芦田は永世中立論に反対し、党の外交方針の転換を図った。このような情勢下、三木が米国から帰国する。三木は帰国後再軍備に慎重な意見を唱えたが、同じ頃芦田は自衛論を唱え、その後三木と芦田の間に外交、防衛問題を中心に亀裂が広がっていくことになる。しかしこの頃はまた双方の間の対立は小さく、国民民主党若手革新派と旧国民協同党系の支持を受けた三木の幹事長就任を芦田も支持し、1951年1月20日の党大会で三木は国民民主党の幹事長に選出された。 三木は再軍備には慎重な意見を表明したが、日本がある程度の自衛力を保持することは避けられないと判断していて、非武装を主張したわけではない。結局、講和条約と日米安全保障条約に対する国民民主党の対応は、三木が講和全権には参加するものの安全保障の方には参加しない方針で党内をまとめた。10月には国民民主党は講和条約、安全保障条約ともに賛成する方針を固めたが、三木は講和に賛成するものの、ソ連や中国との友好関係の模索と、アジア諸国との関係強化を主張した。また安保条約についても米軍の日本駐留を認めながら、その内容が極めて不十分なものであることを批判した。 ===改進党結成と芦田との対立激化=== 1951年(昭和26年)5月頃から、国民民主党内で自由党の連携派と反対派の対立が始まる。芦田も三木も反対派であったものの、連携派の離党やむなしとする三木に対し、芦田は連携派との妥協を図った。続いて松村謙三、大麻唯男ら公職追放解除者の入党問題が発生した。松村、大麻らは新政クラブを組織しており、国民民主党と新政クラブの合同問題が浮上したのである。三木は追放者の入党に消極的であり中でも大麻の入党に反発した。一方国民民主党は諸派を糾合した新党の結成も目指していて、三木は農民協同党を引き入れようと画策していた。農民協同党取り込みを図るために、新党の宣言に「穏健な社会主義政策をも取り入れ」という文言を認めるかどうかで国民民主党内は紛糾した。結局松村、大麻ら新政クラブと農民協同党はともに新党に参加することになったが、国民民主党の参議院議員の一部は新党に不参加となった。1952年(昭和27年)2月8日、改進党が結成され、総裁は空席とし、三木は幹事長となった。 総裁不在の状態では、幹事長である三木が党運営の主導権を握ることになった。改進党結成直後、芦田は新軍備促進連盟の講演会で演説し、再軍備を目指す国民運動を進めるようになる。一方三木は早川崇、千葉三郎らと福祉国家協会の立ち上げを構想する。このように改進党結成後、三木と芦田の路線の違いが目立つようになって両者はこれまでの協調関係から一変し、厳しい対立を繰り返すようになる。三木と芦田が対立するようになる中で、改進党の総裁に重光葵を擁立する声が急速に高まってきた。重光の総裁擁立に積極的だったのは大麻唯男ら追放解除組であった。革新派は重光の総裁擁立に反発し、三木か北村徳太郎を総裁候補として擁立することになったが、三木が辞退したために北村が総裁候補となった。一方芦田にとっても外務省同期の重光が総裁となれば自らが党総裁となる可能性を無くすことに繋がったが、三木ら左派を抑えるために重光擁立に加わった。三木は芦田の重光擁立を翻意させようと、芦田の昭和電工事件判決確定まで総裁を保留するという案まで提示したが、芦田の重光擁立決意は変わらなかった。また北村も総裁選出馬を断念し、三木も最終的に重光総裁を認めたうえでこれまで通り革新派の主導権維持を図る方が得策であると判断したため、6月13日の党大会で重光が総裁となり、三木は幹事長に留任し、北村は政調会長となった。 新総裁となった重光にとって、最初の課題は総選挙であった。抜き打ち解散による第25回衆議院議員総選挙が1952年(昭和27年)10月1日に行われたが、重光、三木、芦田、大麻といった党内実力者間の足並みが乱れた改進党の選挙結果は望ましいものではなかった。選挙結果を受けて重光総裁は党人事の刷新を決意する。三木幹事長、北村政調会長という陣容では革新派に党運営の実権を握られてしまうため、重光はこうした状態の改善を目指したのである。重光の決意に党の資金調達を担っていた大麻、そして昭和電工事件の一審で無罪判決を受けた芦田らが賛成し、三木幹事長の交代を進めた。大麻は党内革新派の分断を図り、北村政調会長の系列であった川崎秀二を幹事長に推薦した。しかし芦田は川崎幹事長案に反対し、三木も幹事長交代の動きに粘り強く反撃を続けた。結局苫米地義三が三木と協議して翌年2月の党大会まで現執行部留任という妥協案を提示した。芦田はこれに反発するが、総裁の重光は党大会後三木ら役員は再任しないことを条件に妥協案を受け入れる。三木は1953年(昭和28年)に入ると重光に対し、幹事長に清瀬一郎を据える案を提示し、重光は了承した。2月9日の党大会で清瀬幹事長は了承されたが、革新派の川崎を政策委員長にするという人事案に対し、芦田は離党を口にしながら反発した。結局川崎政策委員長案は引っ込められたが、芦田に対して重光も悪感情を抱くようになって孤立化し、大麻の分断工作に遭った三木ら革新派も弱体化したため、大麻の力が増すようになった。 1953年(昭和28年)4月19日、第26回衆議院議員総選挙が行われ、改進党は議席を減らした上に幹事長の清瀬が落選するなど敗北を喫した。しかし吉田茂率いる自由党も大幅に議席を減らし、芦田は改進党、分党派自由党、右派社会党、左派社会党の四派で吉田を首相の座から追い落とし、衆議院議長も四派連合から選出されるよう画策し、三木もその策に乗り気であった。しかし改進党内には社会党、とりわけ左派社会党との連携に反対する意見が強まり、結果として改進党内は右派、左派、中間派の対立が激化する。結局四派連合で衆議院議長、副議長のポストは得たものの、首相については第5次吉田内閣が成立した。改進党内では6月15日に役員改選が行われることになったが、執行部の松村謙三幹事長案に対し三木は竹山祐太郎を幹事長候補に擁立した。結局重光総裁の決定により松村幹事長、竹山副幹事長という人事となり、三木ら革新派は抵抗をするものの次第に党の反主流派に追いやられるようになった。しかし三木は改進党幹事長となった松村との関係が深まることとなり、三木と松村は改進党内、そして保守合同後の自由民主党でも政治的行動を共にするようになる。 三木は1953年(昭和28年)、妻の睦子と平沢和重を伴い、約三ヶ月間、世界各国を歴訪した。三木は海外歴訪の感想を朝日新聞に投稿し、その中で日本の政界が再軍備問題と保守連携問題ばかりがクローズアップされている状況に疑問を呈し、ヨーロッパ諸国では道路、住宅や社会保障といった生活基盤の整備が進んでおり、社会基盤の整備や社会保障を充実させ、国民の生活水準を引き上げることこそが共産主義に対抗する武器となると主張した。三木は自衛軍の創設は認めるものの、再軍備の推進よりも社会基盤の整備や社会保障の充実が国を守る力となるという福祉国家的な考えを持っており、戦争に負け、経済に深手を負った日本の国力からしても再軍備は国土防衛に限定された小規模なものに止まらざるを得ず、その程度の自衛軍のために憲法改正を行う必要があるのか疑問であるとした。 一方改進党は憲法改正の必要性に踏み出すようになり、中曽根康弘は芦田に対し、1954年(昭和29年)1月の第六回党大会の席で憲法改正推進を打ち出したいと訴え、芦田も了承した。また社会党が進めていた憲法擁護運動に対抗し、川崎は憲法改正の国民運動を起こすとの内容の改進党運動方針案を作成するなど、改進党の革新派の多くも憲法改正に賛成となった。しかし改進党の幹部会の席で、三木と鶴見祐輔は憲法改正は大規模な軍拡につながり、脆弱な日本経済の破綻を招きかねないので時期尚早であるとの反対意見を唱えた。 三木は、社会党が唱える非武装路線は非現実的であると批判したが、所属する改進党の改憲路線に対しても護憲と社会保障の重視を訴えた。更に外交では日米関係を機軸とする点については異論はないものの、アジアの水準を高めることが日本を高めることにつながり、アジアを離れて日本は無いと主張してアジア重視の姿勢を打ち出し、東南アジアなどアジア諸国との関係強化を主張した。 ===日本民主党参加と保守合同=== 1953年(昭和28年)暮れ、芦田は保守勢力の結集を図り、自由党の緒方竹虎、石橋湛山と接触した。芦田は重光に対して緒方らとの保守勢力結集に乗るよう働きかけたものの、重光と緒方は小磯内閣、東久邇内閣の二度に亘って厳しく対立した経過もあり、重光は乗ってこなかった。三木ら革新派も芦田の動きに反発したが、結局5月には自由、改進、鳩山派によって合同が協議される運びになった。6月に入ると国会で与野党の対立が激化し、自由党の強硬姿勢に改進党内の反発は強まった。そのような中で三木は吉田棚上げ論をぶち上げ、新党交渉の決裂を図った。芦田は三木に対する反発を強めたが、結局は長期政権を維持してきた吉田首相を退陣に追い込む方策の一つとして、9月には鳩山を中心として反吉田新党を立ち上げる構想が具体化する。吉田、緒方らと保守合同を進めようとしていた芦田は、重光ら党幹部と三木ら革新派を除外した改進党有志を結集して自らの構想を押し進めようとしたが、芦田の動きは封じられた。結局11月24日に鳩山一郎を総裁、重光葵を副総裁とする日本民主党が結成される。三木は日本民主党結党に積極的な役割を果たしえず、協同主義は新党の方針から完全に消え、三木も党の役職には就かなかった。 第5次吉田内閣は造船疑獄などにより支持を失いつつあり、日本民主党結成により内閣不信任案可決が必至となり、衆議院解散を断念した吉田は総辞職した。12月10日には第一次鳩山内閣が成立した。組閣に当たって鳩山首相は旧改進党の意志の尊重を掲げ、党では無役となった三木は運輸大臣として入閣を果たした。三木は運輸大臣として洞爺丸事故の後始末と紫雲丸事故への対応などに当たることになる。 鳩山内閣成立後、日本民主党と自由党の合同、いわゆる保守合同が政治日程に登ってきた。民主党は三木武吉総務会長を中心として岸信介幹事長らが保守合同を牽引した。しかし三木ら旧改進党の革新派や松村謙三らは合同に反対した。三木が保守合同に反対した理由としては、保守政党と急進政党の二大政党制が実現すると、保守政党はより保守化し、急進政党はより急進化する力学が働くため、健全な議会政治が育たないことを挙げていた。また自由党内も緒方自由党総裁は合同に積極的であったものの、吉田前首相を中心に強硬な反対派が存在した。民主、自由両党ともに反対派を抱え、保守合同はたやすく実現しなかったが、革新側の社会党再統一と財界からの要望もあり、1955年(昭和30年)11月15日、保守合同が実現し自由民主党が結成される。三木は保守合同に反対を続けたが、最終的に自民党への参加を決めた。自民党参加後の三木は、旧改進党革新派を中心としたいわゆる保守革新派の少数派閥、三木派を率いることになる。 終戦直後、疎開先の秩父から戻った三木一家がとりあえず居住を始めた雑司が谷の家から、1946年(昭和21年)春には中野へ引っ越した。しかし中野の新居は接収に遭ってしまい、初台へと移った。初台の中で2、3回引っ越しをした後、1951年(昭和26年)から吉祥寺に住むようになる。また三木は戦後いち早く新橋に事務所を構えるようになった。しかし新橋の事務所も接収に遭って虎ノ門に事務所を構えることになり、虎ノ門の次に赤坂に事務所を構える。 ===自民党の有力議員として=== ====1956年総裁選での活躍==== 保守合同による自由民主党結党後、閣僚の入れ替えが行われ、第3次鳩山内閣が成立した。保守合同時、実力者の河野一郎は旧改進党枠として、副総理兼外務大臣の重光葵留任含みで閣僚ポスト3を約束していた。組閣にあたり旧改進党枠のうち、2枠は留任、1枠が新入閣とされた。第2次鳩山内閣の旧改進党閣僚は重光以外に運輸大臣の三木、文部大臣の松村謙三、国家公安委員長の大麻唯男の3名であった。調整の結果、まず新入閣として清瀬一郎が確定した。重光以外の留任閣僚については、三木は大麻、松村は三木を推薦したが、大麻は自らの留任を希望し、ポストについても国家公安委員長留任を譲ろうとしなかった。結局大麻が国家公安委員長に留任し、三木と松村は閣外に去った。松村と大麻の関係は民政党以来のものであったが、第3次鳩山内閣での留任閣僚に関する経緯により、長年の交友関係が続いてきた大麻に対する感情を悪化させ、逆に松村が改進党幹事長に就任した頃から接近していた三木との関係がより強化されることに繋がった。 鳩山総裁は11月2日、日ソ共同宣言締結を花道に退陣表明する。後継総裁の候補は旧改進党系から松村を擁立する声が上がったものの、松村では党内で支持を広められないこともあり、結局石橋湛山、石井光次郎、岸信介の3名に絞られることになった。結党間もない自民党にとって激しい総裁選は党分裂に繋がると危惧され、話し合い選出が試みられたが不調に終わり、激しい選挙戦に突入した。三木は石田博英とともに石橋陣営の中心的役割を担った。 三木は最初から石橋と親しい間柄にあったわけではない。石橋が第1次吉田内閣で大蔵大臣であった時点では、三木は野党の協同民主党党首であり、国会の論戦では積極財政を進めた石橋の経済政策について追及していた。三木と石橋との関係が深まるのは石橋が公職追放解除された後と考えられている。三木は石橋の自由主義、民主主義、国際主義、そして平和主義者としての姿勢に感銘を受け、石橋のことを高く評価するようになっていく。また、三木よりも23歳年上であった石橋は、三木に言わせると父、久吉によく似ていたという。一方、対立候補の岸についてはA級戦犯容疑がかけられた過去もあって、三木は厳しい目を向けていた。実父によく似ているという親近感に加えて、石橋の政治姿勢、思想に深く共鳴した三木は、岸への反発心も手伝って、石橋擁立の中核として奔走することになった。 三木は早くも1956年3月には石橋側近の石田博英に石橋擁立を持ちかけ、その後松村擁立に固執する三木、松村系の議員に対する説得活動を進め、8月には三木、松村系の議員を石橋支持で固めた。鳩山引退表明後の11月13日、旧改進党の有力議員である三木、松村、大麻、北村、苫米地、芦田が会談を行い、後継総裁について協議した。6名の参加者のうち大麻のみ岸を支持し、あとの5名は石橋支持で固まった。旧改進党系議員の多くは岸に強く反対しており、12月1日の旧改進党系の会合では、岸総裁となれば脱党する方針まで確認された。三木は旧自由党系にも触手を伸ばし、吉田系を中心に石橋支持を広めた。総裁選開始当初、石橋は岸、石井に及ばず3位に甘んじるとの見方が大勢であったが、三木、石田らの活躍によって鳩山政権下での反主流派の糾合に成功し、急速に支持を拡大した。また三木は当時、資金調達面でも優れた能力を発揮しており、石橋陣営の活動資金調達にも大きな役割を担ったと見られている。そして石橋支持の三木と石田、石井支持の池田勇人が総裁選前日夜に協議し、もし総裁選が決選投票となった場合は三位候補は二位候補に投票する、いわゆる二、三位連合が成立した。旧自由党系のつながりで池田は表向きは石井支持派であったが、前述の第一次吉田内閣の大蔵大臣時、石橋は池田を大蔵事務次官に抜擢しており、池田は石橋に対して恩義を感じていた。また石橋と池田はともに積極財政論者であって政策面からも近く、実際には石橋支持で動いており、三木に対しても、「改進党系の君と、自由党系の僕が仲良く手を結ぶことが、保守合同の完成を意味する」と公言していた。この池田の事実上の石橋支持は、総裁選で最も劣勢と目されていた石橋が、総裁選第1回目の投票で石井をかわして2位となる要因となった。 1956年(昭和31年)12月14日、第3回自民党大会で行われた総裁選は、第一回投票では予想通り岸が第一位となったが過半数の票獲得には至らなかったため、岸と石橋間で決選投票となり、二、三位連合により石井支持者が石橋に投票したため、わずか7票差で石橋が総裁に当選した。決選投票でわずか7票差で涙を呑んだ岸は、石橋に対して外務大臣のポストを要求し、自らの支持者に対してもポスト配分を行うよう求めた上で党内融和に協力する旨表明した。総裁選に辛勝した石橋は党内の諸勢力に配慮せざるを得ず、党人事、組閣は難航したが、年末には自民党新執行部、石橋内閣が発足し、三木は石橋総裁から幹事長に指名された。なおポスト配分である程度の成果を挙げたと判断した岸は総裁選の結果を受け入れ、自民党から脱党することはなかった。 自民党結成直後、党内には11のグループが存在すると言われ、三木は旧改進党系の5グループのうちの1グループを率いていた。しかし1956年(昭和31年)の激しい総裁選の結果、党内に派閥が形成されるようになった。自民党内には岸派、佐藤派、池田派、大野派、石井派、河野派、石橋派、そして旧改進党系を中心とした三木・松村派の8つの派閥が形成され、三木は自民党の派閥の領袖の一人となった。 ===石橋政権における三木と岸の後継選出=== 総裁選での石橋の勝利に大きく貢献した三木は、党の要である幹事長に就任した。首相となった石橋は対米自主、軽武装を唱え、更に福祉国家建設を目指して1000億円減税、1000億円施策という積極経済政策をぶち上げた。しかしわずかな差で総裁選に勝利した石橋は党内基盤が脆弱であった。自らの政策実行のため、石橋は三木とともに早期の解散総選挙を通じた政権基盤の強化を目指す。 三木は自民党幹事長として野党社会党と対峙することになった。三木は当時の自民党と社会党との政策の差があまりにも大きいことを憂慮していた。万一、政権交代という事態が訪れたときに、大混乱が発生することを憂慮したのである。三木の持論は社会党と自民党はともに歩み寄る必要があるというものであった。社会党はまず階級政党を放棄して国民政党となるべきであると主張した。例えば三木は社会主義が唱える富の再分配を主張する政策について、「統制主義となって、官僚主義を呼び込み、権力主義に陥る」ことになると厳しく批判した。三木が唱える主要政策は、福祉国家建設が新しい保守党の道であると主張し、基本的自由を保障しながら福祉国家建設を進めていくべきであり、自由主義国家との連携を主軸として世界平和に貢献していくといったものであった。そのためには自民党は派閥を解消し、政治資金の透明化など運営形態の合理化を進め、国民から信頼される近代政党に脱皮する必要性があるとした。こうして石橋政権で自民党の幹事長に就任したことによって、三木は終生のライフワークとなっていく自民党の党近代化の第一人者となり、また、野党、社会党と対峙していく中で、保守政治家としてのアイデンティティーを確立させることになった。 1957年(昭和32年)の正月早々、早期解散を狙う石橋は真冬の寒さの中、全国遊説に出発した。しかし真冬の遊説は72歳の石橋の体を蝕み、一月末には肺炎となり、岸外相が首相臨時代理に任命された。石橋は療養につとめたが、病状は好転を見せなかった。石橋の職務復帰が困難という情勢になり、2月23日、石田博英官房長官を通じて「政治的良心に従い辞任する」旨のメッセージ(『石橋書簡』と呼ばれる)を発表し、石橋内閣は総辞職した。三木はこの書簡の原案を作成し、石橋、石田のチェックを受けた。 三木は石橋の病状から退陣が不可避であると判断した時点で、石井、池田らの党内実力者を回り、岸を後継者とする方向での調整を開始していた。石橋の側近議員が抵抗を見せたものの党内の大勢は岸の後継で固まり、岸が後継総裁に選出され、1957年(昭和32年)2月25日には第1次岸内閣が発足した。三木は石橋総裁時に引き続き幹事長に留任し、同年7月10日には幹事長から政調会長に横滑りした。 石橋政権が短命に終わったことは、三木にとって大きな痛手であった。石橋政権下で長く幹事長を務め続けていけば、三木は政治力を更に高めて石橋の後継候補となる可能性もあったためである。しかし石橋政権で党の要である幹事長に就任したことは、三木が首相の地位を目指す有力政治家として認知されることに繋がり、その後も派閥の長として自民党内で無視できない勢力を保持し続けることになる。また石橋政権以降、三木は派閥の廃止、政治資金の透明化など、自民党の近代化を終生のライフワークとして訴え続けていくことになる。そして三木と石橋の親密な関係は石橋の首相退陣後も続いていた。1968年(昭和43年)の三木の自民党総裁選立候補時、石橋は三木のことを自らの後継者に指名し、自らが果しえなかった政治課題を三木の手で解決して欲しいとして、三木の支援を呼び掛けた。最後に、石橋退陣時、三木が岸副総理を後継として調整を図り、自民党内を取りまとめていったことは後に思いもかけぬ副産物を呼ぶことになる。椎名裁定時、岸は三木指名に反対しなかったのである。これは石橋退陣時、三木が岸後継で自民党をまとめたことに対しての岸の配慮があったものと考えられている。 ===岸政権、安保改定=== 1958年(昭和33年)5月22日の第28回衆議院議員総選挙を経て、6月12日発足の第2次岸内閣において、三木は経済企画庁長官、科学技術庁長官として入閣する。しかしこの頃から岸の強引な政治姿勢に対して三木は反発を強めていた。第2次岸内閣は同年秋の臨時国会で警察官職務執行法の改正案を提出した。この法案は野党の激しい反発を招き、自民党内の反主流派も岸の強権的な手法に対する批判を強め、三木も岸に対して改正案の廃案を申し入れた。結局、警察官職務執行法の改正案の成立は断念されたが、12月27日、岸の政治姿勢を批判した三木、池田、灘尾弘吉の三閣僚が揃って辞表を提出した。 三閣僚辞任という事態を受け、岸は1959年(昭和34年)3月に予定されていた総裁選の日程を前倒しして、1月に行うことを決定した。1月に総裁選を行えば三木や池田は準備不足で立候補できないだろうと判断したのである。岸の読み通り三木も池田も総裁選に出馬しなかったが、反主流派の統一候補として三木と派閥を共同運営していた松村が総裁選に出馬することになった。1月24日に行われた総裁選の結果、岸は過半数の票を集めて総裁に再選したが、松村も三分の一を上回る票を獲得し、自民党内においても岸に対する批判が根強いことを示した。 岸は日米安保条約の改定を、自らの内閣が取り組むべき最重要課題と位置づけた。サンフランシスコ平和条約と共に締結された日米安全保障条約は、米国の対日防衛義務が明記されていない、日本国内での内乱時には米軍の治安出動が認められている、米軍基地の使用について日本側に全く発言権が無い等、日本側から見てあまりに不平等で問題が大きいという意見が強く、是正の必要性があることについては日本国内ではほぼコンセンサスを得られていた。 しかし是正の方向性については、不平等性を解消した上で日米安保体制を堅持しすべきと主張する自民党を中心とした保守勢力と、日米安保条約を廃棄して中立路線に転換すべきとする社会党、共産党など革新勢力が鋭く対立していた。 三木は日米安保条約に賛成しており、破棄を主張したことは一度も無く、これまでの条約の不平等性の解消に繋がる改正を主張していた。1959年2月、三木は池田、河野一郎とともに、条約と密接な関係にある行政協定の大幅見直しを主張し、当初米国側の反発を受けたものの6月末に見直し交渉がまとまった。 条約改正案で特に問題となったのが極東の範囲と事前同意の有効性の確保であった。三木は在日米軍の極東への出動に日本側の事前同意を義務化するよう主張し、極東の範囲についても金門島、馬祖島の除外を主張するなど、改定交渉に注文をつけた。1960年(昭和35年)5月12日に国会の質疑に立った三木・松村派の古井喜実が、 新安全保障条約は防衛的なものであり仮想敵国は想定しない事前協議での日本側の拒否が米国側の行動を制約する旨明記すべきそして極東についての統一解釈は地域を指定しないものとするという3点について岸に要求した。岸はいずれの点についても了解ないし理解すると答弁したため、三木らは日米安全保障条約改正への批判をいったん抑えることとした。 5月20日、日米安全保障条約は衆議院で会期50日間の延長が可決した直後に強行採決された。三木は強行採決について事前に知らされておらず、河野、石橋らとともに強行採決への抗議のため議場から退席し棄権した。三木は退席後の記者会見の席で、自分は条約改正に際し、極東の範囲、事前協議について審議を尽くすよう要求してきたことと、安保条約にあくまで反対する人々は説得できないが、賛成しながらも内容に不安を持つ人も多いのに、そのような人々への説明、説得を十分に行わずして強行採決を行うことは議会制民主主義の冒涜であり許せないことを主張した。日米安全保障条約のような重要な案件は、民主主義の根底である国民の理解、納得を得る努力を惜しむべきではないとしたのである。 なお、岸は三木が採決時に退席したことについて激しく怒り、後継候補として池田を推薦する条件として、三木と河野を党から除名することを挙げた。その後も三木と岸との間の確執は続くことになった。 ===党近代化、三木答申=== 三木は1958年(昭和33年)末に第2次岸内閣の経済企画庁長官、科学技術庁長官を辞任後、しばらく無役であった。安保改定後の岸内閣の退陣に伴う総裁選で、三木は松村、石橋、河野らとともに石井光次郎を後継総裁候補に推したが、池田の前に敗北。池田政権開始時、三木は反主流派となった。しかし首相になったばかりの池田は、東京電力の木川田一隆、昭和電工の安西正夫、三井不動産の江戸英雄、野村證券の奥村綱雄ら、自らを囲む財界人のグループに三木を紹介し、勉強会などを開くようになった。 1961年(昭和36年)7月18日、第2次池田内閣に、三木は科学技術庁長官、原子力委員長として入閣した。当時新人代議士であった海部俊樹が2度目となる科学技術庁長官就任を断るように進言したところ、これからの時代、科学技術は大切になるのだ、とたしなめたという。しかし三木は原子力など科学技術は得意分野ではなく、科学技術関連の専門家を日曜日の夜、自宅に招き、小学生向けの基礎の基礎から勉強した。 三木は池田内閣時代に進められた自民党近代化に向けての取り組みを主導する役割を担った。自由民主党は自由党と民主党が合同することにより形成された経緯から、結党時は旧民主党系、旧自由党系などの対立が目立ち、近代的な政党組織を確立した上で機能的な党運営を行うこと、いわゆる党近代化が結党当初から課題とされていた。そして石橋、岸、石井による三つ巴の激しい総裁選挙後、自民党では派閥問題、そして総裁公選問題が党近代化に向けての大きな課題として浮上してきた。1956年(昭和31年)3月の自民党第4回党大会では、当時幹事長を務めていた三木は、派閥解消を党情報告に盛り込んだ。 1959年(昭和34年)1月の第6回自民党党大会では党基本問題調査会が設置され、調査会の中で派閥解消が論議されることになった。しかし池田は総裁就任当初、党近代化に対する関心をあまり持たなかった。しかし60年安保闘争で実力を付けつつあった革新勢力の動向を見て、自民党としても党組織の改革を行うべきとの声が高まり、1961年(昭和36年)1月の第9回党大会で益谷秀次幹事長が党組織改革を論議する組織調査会の立ち上げを表明し、党大会で益谷の報告が承認されたことにより、組織調査会が設置され、益谷が、ついで8月には倉石忠雄が会長となっていた。 それでも池田の党近代化に対する動きは鈍かった。しかし1962年(昭和37年)になると、岸に近い反主流派の福田赳夫らが派閥解消などを唱えた活動を見せるようになり、池田のライバルであった佐藤栄作も池田の政策に対する批判を強めていた。福田や佐藤らの動きに対抗するため、池田は同年7月の総裁再選後、派閥の弊害除去などの党近代化を改めて課題として掲げることになった。池田は党近代化を進める党組織調査会長候補として三木に白羽の矢を立てた。三木は池田からの会長就任依頼をいったん断り、前尾繁三郎幹事長が調査会長を兼任するものと見られていたが、池田は三木に対して「近代化の方法は全面的に任せる…二人だけでも自民党の体質改善、近代化をやろう」と、改めて説得した結果、会長を引き受けることとなった。1961年(昭和36年)10月、三木は倉石に代わり組織調査会長に就任する。三木は14名の副会長、100名近くの委員を任命した。多くの議員、派閥幹部を議論に巻き込むことによって、議員の利害に直接係わる問題としての当事者意識を高めようともくろんだと考えられる。 三木会長の下、組織調査会は1963年(昭和38年)7月に中間答申を出した。三木は当時の社会党は政権担当能力に欠けると見ており、中間答申では政権担当能力を備えた唯一の政党として、自民党が派閥を解消し、総裁を中心とした党組織を確立することを提言していた。そして10月には最終答申、いわゆる三木答申が出された。 答申ではまず派閥の無条件解消が謳われた。また派閥均衡人事の打破、政治資金をこれまでの派閥単位中心から党に一本化することと個人後援会の政治資金受け入れ上限額の設定、金がかからない政党本位の選挙制度への改革、総裁任期を3年とし、総裁、議長経験者、永年勤続議員などからなる顧問会が総裁候補を推薦した上での総裁選の実施などが挙げられた。三木は自民党総裁選が党内の派閥を強化させている要因と判断していた。従って総裁選改革が答申内でも重視されたが、自民党の地方組織が脆弱な現状では、総裁選時に地方代議員票の比率を高めることよりも顧問会での推薦制を導入したほうが効果的と判断したなど、三木なりの情勢判断を踏まえた上での三木答申であった。 三木答申に対し、河野は派閥有用論を唱え答申の実施に反対した。佐藤派は河野の反対を捉え、佐藤派解散を約束した上で河野への攻撃材料とした。結局池田の説得もあって河野も派閥解消に合意し、1964年(昭和39年)初めには党内の全派閥はいったん解散を宣言するものの、各派とも政治的なかけ引きの材料として派閥解消を利用するばかりで、まもなく派閥は揃って復活を遂げた。そして7月の池田三選時の総裁選挙では派閥単位で激しい政争が繰り広げられ、三木答申が最重要課題と位置づけた派閥解消は全く実現しなかった。ただ三木答申をきっかけとして派閥の再編が進み、これまで八個師団と呼ばれていた派閥が主要派閥5つとなっていく。 ===幹事長として佐藤後継指名への関与=== 三木は組織調査会長としての活動中であった1963年(昭和38年)7月17日、政調会長となる。翌1964年(昭和39年)7月の総裁選で、三木は池田の三選を支持した。池田の他、佐藤栄作、藤山愛一郎が出馬した総裁選は激しい票の奪い合いとなり、池田は第一回投票で辛うじて過半数を占めて佐藤を振り切り、総裁三選を果たす。総裁三選を果たした池田は三木を幹事長に指名した。 池田三選に貢献して幹事長となった三木であるが、総裁選時に早川崇ら派内の親佐藤グループが連判状を作成し、三木の意向に反して佐藤支持を訴えていた。派閥の分裂は回避したものの、この意見対立以降三木は派閥運営に苦心するようになる。幹事長就任直後、胃壁に穴が空くほどの重い胃潰瘍を患い、入院することになった。三木はかねてから胆石があることが分かっていたため、1964年(昭和39年)8月初めに胃と胆嚢の手術を行った。 三木は手術の結果、次第に体調が回復に向かったが、8月末、今度は三選を果たしたばかりの池田が喉に異常を訴えた。喉頭ガンであった。9月には入院し、1964年東京オリンピック閉会式翌日の10月25日に退陣を表明した。幹事長の三木は話し合いでの後継総裁選出を提案し、話し合いプラス総裁指名という方式で池田の後継総裁が選ばれることになった。 この時の後継総裁候補は佐藤栄作、河野一郎、藤山愛一郎の3名であった。話し合い調整は三木と副総裁の川島正次郎が当たった。三木と川島は候補3名、各派閥の領袖を始め、多くの自民党国会議員との会談、意見交換を重ね、意見を集約していった。 3名の総裁候補の中では、7月の総裁選で池田に迫る得票を集めた佐藤が極めて有利であった。河野は強引さが自民党内で反発を買っているのが難点であったが、池田政権後半は政権に大きく貢献しており、池田の指名に期待していた。また藤山は佐藤、河野の対立が激化した場合に指名されることを期待していた。三木は官僚出身の佐藤とは政治理念や政治行動が一致しない面も多かったが、党内の多数が支持している佐藤以外の推薦は困難であった。結局、臨時国会で首班指名が行われる11月9日の朝、三木と川島は佐藤を推薦し、それを受けて池田は佐藤を後継総裁に指名した。 しかし三木の佐藤推薦に、三木と長年行動を共にして三木・松村派の共同代表を務めていた松村謙三は強く反発した。松村は佐藤総裁を阻止するために水面下で藤山を反佐藤の統一候補とする調整を続けていたが、松村の調整を無視する形で三木が佐藤を総裁候補に推薦したことに怒ったのである。結局松村は古井喜実、川崎秀二ら議員5名とともに三木・松村派を脱退して松村派を結成し、三木・松村派は三木派となった。 ===通産大臣、外務大臣時代=== 佐藤政権の成立当初、三木は幹事長に留任する。1965年(昭和40年)6月3日の内閣改造で、三木は通産大臣となる。また、大阪万博の実行委員会委員長となり、実行委員会の会長に経団連会長を務めていた石坂泰三を招請した。 この時期、三木は通産大臣および外務大臣として、対東南アジア外交の整備やベトナム戦争終結への調整を行うなどし、政権内において独自の立場を構築してゆく。 三木は1966年(昭和41年)4月に東京で開催された、日本政府が戦後初めて主導した国際会議である、東南アジア開発閣僚会議の実現を強力に押し進めた。 三木はかねてからアジア外交重視の姿勢を見せていた。アジアの貧困を、共産勢力のアジアへの浸透を促す、アジア情勢最大の不安定要因であると見なしており、日本の安全保障の観点からもアジアの貧困問題に対する対処が必要であると考えていた。そして通産相となった三木は、日本国内の不況克服のためにも東南アジア諸国への輸出拡大が効果的であると判断した。更には首相の座を目指していた三木にとって、これまでの日本外交の過度な対米偏重を正し、アジア重視の姿勢を訴えることが政治的に見てプラスになるとの判断もあったと推測される。 当時、ベトナム戦争の最中であり、対東南アジア政策に苦心していた米国も、日本が東南アジアの経済建設に大きな役割を果たすことを期待するようになっていた。高度経済成長を遂げた日本が東南アジアの経済建設に協力するようになれば、東南アジア諸国での共産化の進展に歯止めがかかることが期待できるとともに、何よりも米国の負担軽減に繋がる。しかし日本国内では財政上の負担の大きさなどを懸念する声が強く、当初なかなか話が進まなかった。 三木は通産相として東南アジア諸国の農業、軽工業への支援に積極的に乗り出すべきであると考えた。三木は先述したように、まず東南アジアの農業、軽工業を支援して貧困からの脱却を図ることが大切であるという点と、農産物などの一次産品の供給先、そして工業製品の輸出先として東南アジアが有望であるという点を主張した。米国側の更なる要請もあり、三木通産相、椎名悦三郎外相は東南アジア諸国への経済開発に積極的に取り組むべきとし、東南アジア諸国との貿易拡大を期待する財界も三木らの意見に賛同した。そして財政負担の拡大を不安視して消極的であった福田赳夫蔵相も、東南アジア諸国への経済開発に取り組むことを了承した。 しかし東南アジア開発閣僚会議の開催計画については、財政負担を不安視していた大蔵省の反対が続いた。閣内では三木、椎名が閣僚会議の開催に積極的であったが、佐藤、福田は積極的ではなかった。結局東南アジア諸国との貿易拡大を望む財界からの説得もあり、東南アジア開発閣僚会議の開催が決定された。 1966年(昭和41年)12月3日、内閣改造により三木は通産大臣から外務大臣に横滑りする。外相就任直後、アジア太平洋圏構想を発表する。日本はアジアの一員であるとともに先進国であり、日本がアジア唯一の先進国としてアジア諸国の開発にイニシアチブを取るべきであるが、日本一国ではアジアの開発問題に対応しきれないことも明白であるため、米国、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドといった太平洋諸国が協力してアジアの開発問題に取り組む必要がある、という趣旨である。三木の構想の背景には、アジア諸国への経済協力を推進することが当時の日本の国力から見て困難であった点とともに、日本のイニシアチブを強調することが、アジア諸国の中に戦前の大東亜共栄圏の記憶を呼び起こしかねないという懸念があった。 三木は構想具体化に向けて、まずオーストラリアに対する働きかけを図った。しかし第二次世界大戦で日本と敵対したオーストラリア間には、まだ十分な信頼関係が構築できる情勢ではなく、そしてオーストラリア自身まだ旧宗主国である英国との繋がりが強かったため、三木のもくろみは上手く運ばなかった。また三木が通産相時代に進めた東南アジア開発閣僚会議も、日本と東南アジア諸国との思惑の違いが表面化し、定着するには至らなかった。 三木のアジア太平洋圏構想自体は、「日本がアジアの一員でもあり、西側先進国でもあるという一種の境界国家ともいえる不安定なアイデンティティ」という弱点を逆手にとって、「アジア諸国と西側先進国との架け橋となることにより日本の境界性を生かす」という長所へと変えるしたたかな構想ではあったが、具体性や現実性に欠ける面も多く、三木の在任中には思うような成果は挙げられなかった。しかし三木の構想は日本外交にアジア太平洋という新たな枠組みを与え、1989年に発足したアジア太平洋経済協力会議(APEC)へと繋がっていくことになる。 また、三木はベトナム戦争の和平外交にも積極的であった。佐藤は首相就任直後の1965年(昭和40年)1月、幹事長であった三木と椎名悦三郎外相を伴い訪米、ジョンソン米大統領と会見した。会見では日米関係の重要性について再確認するとともに、経済成長を背景に国際的な地位を高めつつあった日本が、米国への依存を減らした自主的な外交を進めていくことを米国側も認めた。 佐藤政権は日米関係について順調な滑り出しをしたが、ベトナム戦争で米軍が行った北爆は日本国内の対米感情を悪化させ、自民党内でも米国の対ベトナム政策に疑問を持つ勢力が現れた。例えば福田派、石井派はおおむねの北爆を支持していたが、佐藤派、川島派、三木・松村派には北爆に疑問を持つ議員が少なからず存在した。その中で三木はかねてからアジア重視の外交を主張してきており、佐藤内閣内では通産相、外相としてベトナム和平外交推進の中心的存在となる。また川島正次郎もアジア・アフリカ諸国との連携を進める中で和平のきっかけを掴もうとしていた。川島副総裁、三木幹事長のコンビが池田の後継として佐藤を決める調整を図った経緯もあり、佐藤としても三木や川島の意向を無視することは出来なかった。 北爆が続く中、政府・自民党内では北爆を支持せず、アジア人の手によって和平を達成しようと主張する意見も出されたが、親米派からの強い反対を受けた。このような中、通産相であった三木は訪米、訪仏、訪ソの際に行われた各国首脳との会談の席で、米国と北ベトナムを仲介する和平構想を話し合った。三木は各国首脳との会談を経て、日本は和平に積極的な貢献を行っていくべきで、まず休戦、次に国際会議を開催するプランを提示した。またこのプランは日本独力で行うのは困難であり、中立国、共産国も含めた協力が必要であるとした。 三木は1966年(昭和41年)12月の外務大臣就任後、ベトナム和平工作に更に力を入れるようになる。三木は北ベトナム側との話し合いの継続と、各国駐在の大使、公使に対して北ベトナムの出先機関などとの接触を試みるよう指示した。先にも触れたようにベトナム和平への積極的な関与などの活発な対アジア外交は、総理総裁の座を目指す三木にとって、佐藤との違いを明確化するといった狙いもあったと考えられる。 1967年(昭和42年)7月から8月にかけて三木はソ連、ポーランド、チェコスロバキア、ハンガリーを訪問する。三木は各国でベトナム和平問題について提案を行い、更に9月の国連総会の席でもベトナム和平について訴えた。三木のベトナム和平への努力についてアメリカは、日本がアメリカと北ベトナム間の中立的な立場に立とうとする面があるのではと警戒するようになった。 三木がアメリカから自立的な形で行うベトナム和平工作に奔走する反面、佐藤首相は対米協調路線を強めていた。1967年(昭和42年)11月の訪米時、佐藤はジョンソンと会談し、ベトナム戦争で米国と南ベトナムを支持する姿勢を明確にした。その結果、北ベトナム側は日本が明確に米国、南ベトナム側に立ったと認識し、仲介的な立場は全く失われたと判断した。そのような中、1968年(昭和43年)1月末のテト攻勢は米国に衝撃を与え、3月末にはジョンソンが北爆停止、そして自身の大統領再選不出馬を表明するに至る。テト攻勢後、佐藤はベトナム戦争であまりにも米国寄りの姿勢を取りすぎたのではと不安を感じていたというが、北爆停止について日本に何の相談も無かったため、日本政府は大きな衝撃を受けた。 北爆停止を受け、三木外相は再びベトナム和平に向け動き出す。三木は長年にわたる戦争で疲弊した南北ベトナムに対して、経済復興を支援するベトナム復興国際基金の創設を提唱した。三木の構想ではこれまで支援の対象ではなかった北ベトナムも対象としていた。ベトナム復興国際基金構想は多くの国の賛同を得たが、東南アジア開発閣僚会議やアジア開発銀行など、既存の多国間協議や組織を利用して行う援助の枠組みが上手く機能せず、また北ベトナムを巻き込むもくろみも、北ベトナム側の反発によりなかなか進まなかった。結果として三木が主導した日本のベトナム和平工作は上手く進まなかったが、戦後、経済問題を除けば米国と一部アジア諸国に限られていた実質的な外交討議の範囲を広め、日本外交の範囲を大きく広げることに繋がり、また米国など先進国と東南アジア諸国との橋渡しを行うという日本の対東南アジア外交の基礎になったと評価できる。 ===自民党総裁候補として=== 1960年代半ば、新聞社は佐藤派、池田派などは一派閥を複数の記者で担当することもあったが、三木派担当は他派との掛け持ちであるのが通例であった。三木はこのような新聞社の対応は三木派に対する軽視であると機嫌が悪かったという。実際この当時、新聞記者たちの中では、各派閥領袖の中で三木だけは首相になれないだろうと予想しあっていた。三木は新聞記者たちの予想を覆して首相に登り詰めることになるが、それまでに総裁選に3回挑戦し、いずれも敗北していた。 ===男は一度勝負する=== 1964年(昭和39年)に成立した佐藤政権下で、三木は通産大臣、外務大臣という主要閣僚を務め、政権を支えていた。1966年(昭和41年)には、赤城宗徳ら佐藤に批判的な議員たちによって粛党推進協議会が結成され、翌年には粛党推進協議会が発展して新政策懇話会が結成された。そのような中、1967年(昭和42年)からは佐藤が三選に出馬するかどうかが話題となり始め、佐藤以外に三木、前尾繁三郎、藤山愛一郎らが総裁候補として取り沙汰されるようになった。反佐藤派の新政策懇話会の活動に佐藤も神経を尖らせ、三木に対して新政策懇話会に参加せぬよう注意を与えていた。 当時の三木派内には三木直系グループと親佐藤、福田グループという二つのグループがあった。1964年(昭和39年)の総裁選挙で三木は池田三選を支持していたが、早川崇ら三木派内の親佐藤、福田グループは連判状を作成し、佐藤支持を訴えていた。1964年の総裁選で三木派の分裂は免れたものの、以後三木は難しい派閥運営を強いられるようになっていた。 1968年(昭和43年)の総裁選が迫る中、三木派内には総裁選出馬を巡り二つの考え方が表明されるようになった。まずは佐藤と対決してでも出馬すべきとの考え方である。新政策懇話会に参加していた議員や若手議員、親佐藤、福田グループの中心メンバーであった早川らも、三木は佐藤に対抗して総裁選に出馬すべきと主張した。一方、佐藤との協調関係を重視し、佐藤退陣後の政権禅譲を狙うべきとの意見もあった。実際問題三木派の実力から見て佐藤派など佐藤政権の主流派の協力無くして政権獲得は困難であり、佐藤との協調が政権獲得に不可欠と主張したのである。 1968年(昭和43年)7月に実施された第8回参議院議員通常選挙の結果、自民党はほぼ改選前の議席を維持した。佐藤や佐藤を支える主流派は3選に自信を深めていた。このような中、三木は9月初めの派閥研修会で、海部俊樹、丹羽兵助ら若手議員からの総裁選出馬を求める声に対しても、外務大臣としてのスケジュールが全て終わった段階で考えるとの慎重な態度を貫いた。 三木は佐藤からの禅譲を期待していた。かねてから三木は佐藤より政権の禅譲を匂わされており、佐藤派を始めとする主流派の協力無くして政権の獲得が困難であった三木は、まずは佐藤からの政権禅譲を期待していた。当時佐藤派からは木村俊夫官房長官や橋本登美三郎総務会長が三木の出馬取り止めを働きかけていたが、一方田中角栄は世代交代への期待から三木の出馬を陰で歓迎していた。いずれにしても三木は佐藤からの政権禅譲確約を得ることは出来ず、結局総裁選出馬に踏み切ることになった。 1968年(昭和43年)10月29日、三木は総裁選出馬のため外務大臣の辞表を提出し、翌30日には「男は一度勝負する」と、正式に立候補を表明する。総裁選立候補を決意した三木に石橋湛山が後見人役となった。三木は立候補表明に当たって所信を表明した。三木の所信は日米安保条約の堅持と自動更新を支持するなど、これまでの佐藤政権の政策と大きくは異ならなかったが、住宅問題に対応する住宅省設置を唱えるなど、後の三木内閣で打ち出されることになるライフサイクル計画に繋がる施策も見受けられた。三木に続いて11月1日には前尾、11月8日には現職の佐藤が出馬を表明し、総裁選が始まることになった。 三木が総裁選出馬を決断した背景としては、まず三木直系グループと親佐藤、福田グループの2グループが存在した三木派内の事情から、佐藤からの禅譲が無い中では、総裁選出馬の見送りは派閥の分裂など派の結束力低下に直結しかねないと判断したものと考えられる。また1964年(昭和39年)、幹事長として池田から佐藤への政権移譲に係わった三木は、佐藤に対して後継者の育成、政権に執着しないことを要求し、佐藤も三木の意見に応じていたが、三木から見て佐藤は政権に執着し続けており、三木は最初の約束と違うと人心一新を訴え総裁選出馬を決意した。 総裁選は三木、前尾、佐藤以外に佐藤批判派の急先鋒であった藤山愛一郎も出馬を模索していた。藤山は自らも出馬することによって佐藤批判票を増やし、第一回投票で佐藤の過半数獲得を阻止し、決選投票での逆転をもくろんだのである。しかし藤山派内も出馬でまとめあげることに失敗したため、藤山は出馬断念に追い込まれた。総裁選出馬を断念した藤山は、反佐藤勢力を結集した人心一新推進本部の本部長に就任し、佐藤の三選阻止と三木、前尾に対する支持を訴えた。人心一新推進本部の結成後、三木と前尾の決選投票での二、三位連合が成立した。 11月18日、三木は大阪で総理総裁となった際の具体的な政策について講演した。その中で三木は沖縄返還に際して、核抜き本土並みの返還を目指すべきとした。この三木の発言は佐藤をいたく刺激し、沖縄返還を最初から本土並みとすることは困難であり、沖縄住民が本土並み返還を望んでいるというのは認識不足であり、このような認識の異なる人物を外務大臣としたのは自らの不明であったと発言した。この佐藤の発言は大きな反響を呼び、争点が必ずしもはっきりしなかった総裁選でようやく争点らしい争点が現れることになったが、総裁選投票日が迫っている中、選挙の動向を左右するまでには至らなかった。 11月27日に行われた総裁選で、佐藤は過半数を上回る249票を集め、第一回投票で総裁三選を果たした。三木は107票、前尾は95票であった。三木は事前の予想では最下位となるものと見られていたが、前尾を押さえ2位に滑りこんだ。敗れたとはいえ善戦を見せた三木は総裁候補の一角としての地位を保った。一方、3位に終わった前尾は派内での求心力が低下し、大平正芳が新たな総裁候補として浮上するきっかけとなった。また佐藤体制を固めていた福田赳夫、田中角栄も力をつけつつあり、佐藤時代の後に続くいわゆる三角大福時代が近づいていた。 ===私は何ものをも恐れない、ただ大衆のみを恐れる=== 1969年(昭和44年)12月27日に投票が行われた第32回衆議院議員総選挙で、自民党は保守系無所属を加えると300議席を獲得する勝利を得た。総選挙勝利の余勢を駆って、自民党内は佐藤四選への流れが出来ていった。既に6年間政権を維持してきた佐藤に対し、岸は佐藤、岸ともに後継者と目する福田に政権を譲るよう勧めたが、佐藤は兄である岸の忠告に耳を貸そうとはしなかった。福田のライバルである田中は次の2年間に力を蓄えて政権獲得を目指すため、積極的に佐藤四選を支持した。1970年(昭和45年)秋になると中間派が相次いで佐藤支持を表明し、前回の総裁選に立候補した前尾繁三郎も佐藤支持を明らかにし、佐藤四選は自民党内で既定路線となっていった。 佐藤四選が既定路線となる中で、三木は苦しい立場に立たされた。三木派内でも総裁選に出馬して惨敗を喫したら三木の政治生命の危機となる点や、そもそも党内の大勢が佐藤四選へと流れていく中で三木が総裁選に立てば、三木派が冷遇されることになると危惧する声が上がった。三木は派内にあった消極論を一蹴し、9月24日、「私は何ものをも恐れない、ただ大衆のみを恐れる」と、総裁選に立候補を表明した。 三木は自らを支持する国会議員に対し、郷里に戻って政党政治の原点に立ち返って所信を訴える、帰郷運動を提唱した。三木自身も故郷の徳島から始まり、東京、大阪、名古屋、札幌で演説会を開き、国民に向かって自らの所信を訴えた。三木は全国各地で「今日は敗れても明日の勝利を信じる」と訴え、二年前の佐藤三選時には党内で三選の是非について論議がなされたのに、四選時にはいったん党内で流れが出来てしまったら、長いものに巻かれろといった感じで誰も文句を言おうとしないことについて、自身の翼賛選挙での体験を踏まえつつ、厳しく批判した。そして自らの役割を党内の若手への繋ぎ役とし、早く若手に自民党を託していかねば、組織が硬直化していくばかりであると総裁選立候補の意義を説明した。 三木以外、現職の佐藤に対抗する立候補者が現れなかった総裁選において、三木は国民に直接所信を訴えかけ、マスコミを積極的に活用することによって、圧倒的な力を誇る佐藤に対抗しようと試みた。三木の総裁選立候補と帰郷運動をマスコミは好意的に報道しており、硬直化した自民党の中にあって、クリーンな三木が立ち向かうイメージを国民、マスコミに植え付けることに成功した。この国民に直接話しかけ、マスコミを積極的に利用するスタイルはその後のロッキード事件の際などにも行われ、クリーン三木というイメージの定着に寄与した。 10月29日の総裁選で、三木は予想を上回る111票を獲得した。敗れたとはいえ三木は今回も総裁候補の一角としての地位を保った。一方総裁選出馬を見送った前尾は、佐藤陣営から出馬見送りの代わりに入閣を匂わされていたが、佐藤四選後の内閣改造は見送られ入閣はなされなかった。前尾派内では佐藤に利用されるだけ利用されたあげくに捨てられたのに黙っていると、前尾に対する厳しい批判が噴出し、派内若手を中心に大平正芳に派閥を譲るべきという意見が強まった。結局鈴木善幸の仲裁により、前尾から大平に派閥の領袖が交代することになった。 ===重宗参議院議長追い落とし=== 三木は1968年(昭和43年)、1970年(昭和45年)と総裁選で佐藤栄作に挑戦し、善戦するも敗れていた。1971年(昭和46年)、佐藤は1964年(昭和39年)の池田勇人退陣後、7年間の長期政権を維持していた。佐藤長期政権を支えていた柱の一つが参議院の重宗雄三議長であった。重宗は岸信介、佐藤栄作と同じ山口県出身であり、1962年(昭和37年)以降、9年間に亘って参議院議長を務め、更に参議院自民党内の佐藤派を中心とした清風クラブを率いていた。1971年(昭和46年)当時、自民党参議院議員約140名のうち、90ないし100名が清風クラブに所属していたとされ、重宗は参議院の常任委員会、理事の人事権のみならず、閣僚、政務次官の参議院議員枠の推薦権も握り、岸、佐藤と近い重宗は文字通り参議院自民党のドンとして君臨していた。 このような中、重宗の専横を苦々しく思っていた新谷寅三郎、迫水久常、河野謙三らは、1969年(昭和44年)に反重宗を標榜する桜会を旗揚げするが、当初文字通り多勢に無勢であった。しかし1971年(昭和46年)6月27日に行われた第9回参議院議員通常選挙で自民党は敗北し、議席を減らしていた。参議院選挙後、重宗は議長四選出馬を表明したが、桜会の河野謙三は参議院改革案を引っさげ重宗に挑戦した。 三木は重宗に対決する河野に加担することを決意し、三木派の参議院議員は議長選挙の際、河野に投票することを約束した。当初、自民党参議院議員の大半を抑えていた重宗は事態を楽観視しており、自らの議長四選を前提に副議長は上原正吉を選ぶ予定であることを公言していた。しかし河野は全野党からの支持取り付けに成功し、ついに重宗に対抗して正式に参議院議長選への出馬を表明した。先の参議院選挙敗北により与党自民党と野党との議席差は20あまりに縮まっており、自民党から十数名が造反すれば河野議長が誕生してしまう。この事態に保利茂幹事長はあわてた。佐藤政権を支える柱の一つである重宗の敗北は佐藤政権に対する打撃となり、ひいては佐藤の後継者として佐藤、保利らが考えていた福田赳夫にも打撃が広がるためである。 保利はまず河野謙三に近い議員を動かし、河野に翻意を促した。続いて重宗自身が三木に電話をかけ、参議院副議長候補に当初予定していた上原正吉の替わりに参議院三木派の重鎮であった鍋島直紹を当てる人事を提案し、自らの議長四選への賛成を依頼した。しかし三木は重宗の提案を拒絶し、河野議長擁立の姿勢を崩さなかった。結局重宗は参議院議長四選が不可能であると判断し、出馬断念に追い込まれた。 重宗の立候補断念を受け、自民党内では喧嘩両成敗の形を取って河野にも立候補を断念させることにより、事態の収拾を図ることを目指す動きが強まった。保利はまず議長候補として参議院自民党の長老議員であった木内四郎を擁立することにした。無難な人選と見られた木内の擁立により、河野擁立派の結束にひびを入れることを狙ったのである。保利のもくろみは当たり、重宗の専横に対する批判で結束していた桜会には動揺が走り、河野立候補断念の声も上がった。三木は桜会と河野議長擁立行動を共にしていた、当時参議院議員であった石原慎太郎に対し、あくまで河野擁立で突き進むよう説得した。そして参議院三木派にも動揺が広まったが、三木は三木派の参議院議員を集めた上で、木内は所詮佐藤、重宗の操り人形であり、参議院改革のためにあくまで河野擁立を押し進めるべきで、負けたら三木自らが打ち首となると鼓舞した。一方保利も河野派と考えられる議員に対する電話攻勢を緩めず、病気入院中の議員に対しても「担架で運ばれてでも議長選挙に投票せよ」と指示した。 1971年(昭和46年)7月17日未明、河野と木内との激突となった参議院議長選挙が行われた。三木は議長選挙の際、相手に聞こえる声での合図ではなく、足や手を用いて河野投票の合図を送るようアドバイスした。投票の結果、河野は木内を10票上回り、参議院議長に選出された。この結果は佐藤長期政権に明らかに陰りが見え始めた最初の事件となり、翌年の総裁選挙で佐藤の後継者と目されていた福田が敗北し、田中角栄が政権を握るきっかけの一つとなった。 ===日中関係と1972年総裁選=== 河野謙三が木内四郎を破って参議院議長となる直前の1971年(昭和46年)7月15日、アメリカのニクソン大統領は中華人民共和国との国交正常化交渉の開始を発表した。更にニクソンは8月15日に金とドルとの兌換停止などを骨子とするドル防衛策を発表する。政権が発足して7年目となる佐藤政権には、このような世界の新しい流れに対応出来る活力が失われており、強力であった佐藤政権もその限界が明らかになってきた。佐藤、そして佐藤が後継者候補と考えていた福田にとって、日本の頭ごなしで進められた米中の歩みよりは特に打撃が大きかった。日中国交正常化は佐藤政権や佐藤の息がかかることになる福田政権では困難であるとの声が高まりつつあった。 三木は松村謙三、高碕達之助らとともにかねてから中華人民共和国との国交正常化に積極的であった。1971年(昭和46年)8月21日、中華人民共和国との国交正常化に尽くした松村謙三が死去し、松村の葬儀に中日友好協会副会長の王国権が参列した。中曽根康弘総務会長は佐藤首相と王国権との会談が行われるように調整したが、会談は行われなかった。一方、8月29日に三木は王と会食を行い、訪中を約束した。当時三木は超党派議員によって構成されていた日中議連が提出した、日中正常化決議への署名を差し控えていた。これは佐藤の後継者候補として野党との無原則な共同歩調を避け、日中関係の実効ある進展を目指したものとされている。 1972年(昭和47年)4月13日、三木はブレーンの大来佐武郎、平沢和重、娘婿の高橋亘、秘書の竹内潔らとともに香港経由で北京に向かい、周恩来首相と会談を行った。三木はマスコミの同行要請を拒絶し、周恩来との会談内容も極秘とされた。会談の内容は政治家ではないとのことで三木と周との会談同席を許された高橋亘のメモを、三木自らが清書したと考えられるものが残されており、会談の中で三木はまず日中国交回復に全力を尽くす決意を述べた上で、国交回復のために解決すべき問題について、現実的かつ条件を慎重に切り出す政治的な発言を行い、周との間で意見調整を図った。 帰国後、三木は自民党の実力者などを精力的に回り、日中国交正常化の機が熟しつつあると訴えた。このような中、佐藤は沖縄復帰を花道に引退を表明し、佐藤の後継総裁選びの動きが活発化していた。佐藤派内では急速に田中角栄の影響力が拡大しており、佐藤が後継者として考えていた福田に迫りつつあった。そして三木は6月21日に総裁選出馬を表明する。 当時、三木派内には早川崇を中心とした親福田グループがあり、中曽根派も野田武夫らが親福田であった。しかし総裁選を前にして野田武夫が急死したこともあり、中曽根は総裁選への出馬を見送り田中支持を表明する。総裁選を前にして三木は田中との会談に臨んだ。会談に同席した金丸信の回想によれば、三木は部屋に入るなり座ろうともせず、立ったままで「日中問題をやるか」と、田中に詰め寄った。田中は三木の日中国交正常化に取り組むとの条件を飲み、三木は決選投票では田中を支持することとなった。7月2日には総裁候補の田中、大平、三木が記者会見を行い、日中国交回復を目指すなどの政策合意事項が公表され、第一回投票で三候補のうちでトップとなった候補に、決選投票で投票することが決められた。この結果、田中は後継総裁レースで極めて優勢となった。 1972年(昭和47年)7月5日、三木の他に田中、福田、大平の四名が立候補した自民党総裁選の第一回投票で、三木は69票と最下位の四位となり惨敗する。この時の総裁選では多額の金銭が動いたとされているが、海部俊樹の回想によれば三木の陣営も金を配った。そして田中と福田の間で行われた決選投票の結果、田中、大平、三木、中曽根の四派の支持を固めた田中が圧勝し、田中が佐藤の後継総裁となることが決定する。 ===副総理兼環境庁長官として=== 総裁選で福田を圧倒した田中は第1次田中内閣を組閣した。三木は副総理含みの無任所相として入閣し、8月29日には副総理となる。三木は田中内閣の副総理、三木派の領袖という立場ではあったが、三度目の挑戦であった総裁選に惨敗した上、10歳以上若い田中が総理となったため、総理就任への道が遠ざかってしまったように感じられた。 1972年(昭和47年)12月の第33回衆議院議員総選挙後に成立した第2次田中内閣で、三木は副総理兼環境庁長官となった。当時、高度経済成長のひずみもあって公害問題が大きな社会問題になっていた。三木は環境庁長官として環境問題に取り組むことになった。まず四大公害病のひとつである水俣病問題の解決のため、1973年(昭和48年)7月、三木は水俣を訪れ、チッソと水俣病患者との補償協定に立ち会った。三木は水俣病被害者に対して研究センターの設立を約束し、この時の三木の約束に基づいて国立水俣病研究センターが設立された。 また当時大気汚染の大きな要因の一つであった自動車の排ガス規制に、三木は積極的に取り組んだ。三木はアメリカのマスキー法と同じような排ガス規制法を日本でも施行させようとした。三木のもくろみは自動車大手のトヨタ、日産から強い反発を受けた。トヨタや日産は当時の技術力では排ガス規制の達成は困難であり、アメリカと比べて自動車産業後進国である日本が、アメリカの排ガス規制法であるマスキー法のような規制を実施するのは非現実的であると訴えたのである。また三木の排ガス規制法施行の取り組みはアメリカ追随であるなどという批判も浴びた。三木の側近である海部俊樹も、地元がトヨタの本拠地である愛知県であることもあって多くの批判を浴び、三木に考え直すように働きかけたが、三木は日本の自動車産業にとって厳しい要求であることは認めながらも、この排ガス規制をクリアする車を作る努力を進めれば、将来的に日本の自動車産業は世界に通用するものになるとして批判を受けず、結局排ガス規制法が制定されることになった。 1973年(昭和48年)、第四次中東戦争勃発をきっかけとして発生したオイルショックが日本を直撃した。OPEC加盟国のうちペルシャ湾岸諸国の6カ国が石油戦略の発動を決断し、続いてOAPECが石油供給国を友好国、中立国、敵対国に三分類し、友好国以外には供給削減が通告された。当初日本は中立国扱いとされ、石油の供給削減が迫っていた。日本にとって石油の供給削減は死活問題であり、政策を急遽アラブ寄りに転換することとして、日本の対アラブ政策の転換を説明して友好国扱いとしてもらい、石油供給削減を回避するための特使が派遣されることになった。 特使の白羽の矢は副総理の三木に立った。これは難航が予想されたアラブ諸国との交渉を三木に押し付けたとの見方もある。ただ三木は外務大臣時代、1967年(昭和42年)の第三次中東戦争後に行われた国連総会の席で、イスラエルの占領地からの撤退、中東和平の確立、そしてパレスチナ難民への支援を骨子とした国連安保理決議第242号の賛成演説を行っていた。かつて国連総会でアラブ側の主張支持の演説を行った経験がある三木は、アラブとの交渉は自らが最も適役であるとの自負も持っていた。 特使として中東に派遣されることが決まった三木は、アラブについての猛勉強を始めた。そして1973年(昭和48年)12月10日、三木特使はサウジアラビア、エジプト、クウェートなどアラブ諸国8カ国歴訪に出発した。サウジアラビアで三木はファハド殿下、続いてファイサル国王と会談し、日本の新アラブ政策について説明した。続いて訪問したエジプトではサダト大統領と会談を行った。三木の日本の新アラブ政策説明は、アラブ諸国首脳におおむね好意的に受け入れられた。結局OAPEC諸国は日本を友好国扱いとし、石油の供給制限は解除されることになった。 ===田中角栄からの離反=== 佐藤長期政権の跡を継いだ田中政権は、多くの国民の期待を集め、当初高い支持率を誇っていた。しかし凋落もまた急であった。田中政権の足元を揺るがしたのはまず激しいインフレであった。田中の目玉政策であった日本列島改造論が財政支出を増大させ、そのことがインフレを更に煽った。田中の更なる失点となったのが小選挙区導入問題であった。1972年(昭和47年)12月に行われた第33回衆議院議員総選挙が自民党の敗北に終わったのを見た田中は、選挙制度の変更を策した。田中は1973年(昭和48年)の通常国会を大幅に延長して小選挙区への選挙制度変更法案成立を図ったが、野党の猛反発に加えて、副総理の三木や椎名副総裁らが田中に苦言を呈するに至り、小選挙区への変更は撤回に追い込まれた。 落ち目の田中に追い討ちをかけたのがオイルショックであった。先述のように田中は副総理の三木を中東諸国に特使として派遣して石油の輸出制限を免れたが、オイルショックによる更なる物価高騰が日本を直撃した。1973年(昭和48年)11月23日、このような混乱の中、愛知揆一蔵相が死去した。田中は総裁選で激しく争った福田を後任の蔵相に任命する決断をした。福田は日本列島改造論の撤回を条件に蔵相入閣を了承し、11月25日には三木副総理兼環境庁長官、大平外相、福田蔵相、中曽根通産相と、三角大福中が勢揃いとなる内閣改造を行った。 蔵相となった福田が行った総需要抑制策が功を奏し、次第にインフレは収まってきた。田中は1974年(昭和49年)7月に行われた第10回参議院議員通常選挙に勝利して退勢を挽回させようと、猛烈な選挙活動に打って出た。その中で阿波戦争とも呼ばれるようになる激しい選挙戦が徳島で繰り広げられることになった(後述)。 第10回参議院議員通常選挙は、田中の企業ぐるみ選挙、いわゆる金権選挙の展開が国民から強い批判を浴び、自民党は改選議席を下回り敗北を喫した。選挙後の7月12日、三木は田中への直接的な批判は避けながら、党近代化に一兵卒として取り組むためと称して副総理兼環境庁長官を辞任した。16日には田中の政治姿勢を批判して福田蔵相が辞任し、更に保利茂行政管理庁長官も辞任した。 閣僚を辞任した後の三木は、自民党の党近代化と選挙制度改革など、政治改革に係わる活動を活発に行った。三木の行動の背景には田中の金権体質に対する厳しい批判があったことは否めないが、三木は田中政治批判という次元ではなく、党の近代化、政治改革という方向性で主張をしていた。これは派閥次元での抗争であるとの印象を持たれないようにするための三木の戦術でもあったが、結果として田中の後継者として三木が選ばれる際にプラスとなった。 ===自民党時代、首相就任までの三木の生活など=== 三木は赤坂にあった事務所を1963年(昭和38年)に番町に移転する。また三木派では他派に先駆けて夏に軽井沢で二泊三日程度の勉強会を開催するようになった。戦前、アメリカに留学した経験がある三木は、アメリカでの経験を踏まえ、早い時期から勉強会を開催をしたり、終戦後まもなく個人事務所、そして専門家を招請して政策を勉強する総合政策調査会を設けた。総合政策調査会は1963年(昭和38年)にシンクタンクの中央政策研究所となった。 三木の家族は、1951年(昭和26年)に初台から吉祥寺に移っていた。吉祥寺は国会からはかなり離れた場所であり、妻の睦子は1960年(昭和35年)頃、渋谷の南平台に土地を探し、三木に転居を勧めたものの、吉祥寺から渋谷への引っ越しをかたくなに拒んだ。しかしある日突然、三木は妻の睦子に渋谷の南平台への転居を言い出した。睦子は知人を介して建築家の佐藤秀三と知り合い、佐藤に新居となる三木邸の設計を依頼した。 三木が吉祥寺から渋谷の南平台へ引っ越したのは1970年(昭和45年)頃のことであった。引っ越し当日、三木は引っ越しを嫌がり、庭で寝転がりながらふてくされていたという。三木の家の特徴として暖炉が備え付けられていることが挙げられる。機密を要すると判断される書類は、三木が一読した上で暖炉で焼却された。渋谷の南平台の三木邸も、三木の故郷徳島県産の石で作られた暖炉があった。 吉祥寺や渋谷の自宅以外に三木は軽井沢と真鶴に別荘を持っていて、週末はよく真鶴で過ごしていた。軽井沢と真鶴の別荘、そして徳島の実家にもやはり暖炉が備え付けられていて、三木は暖炉で機密書類を燃やしていた。 ===首相時代=== ====三木政権発足の経緯==== 三木、福田、保利の三閣僚が辞任したが、田中政権は持ちこたえた。田中政権の金権体質に対する世論からの厳しい批判を受け、自民党は椎名悦三郎副総裁を会長とする党基本問題、運営調査会が発足させた。この頃、若きジャーナリストであった立花隆は田中の金権政治のあり方を見て、あれだけの金が使われているのだから、大金を入手するからくりがあるはずだと調査を進めていた。 1974年(昭和49年)10月9日、田中の金銭問題を暴く立花の「田中角栄研究 その金脈と人脈」と、女性問題に切り込んだ児玉隆也の「淋しき越山会の女王」が掲載された『文藝春秋』11月号が発売された。特に立花の記事は田中の資産や資金を分析し、資産形成の過程で違法な手段を駆使していたことをあぶりだしていた。立花らの記事について、当初はマスコミからの反応は鈍かった、しかし10月22日、外国人記者クラブの記者会見の席で田中は疑惑を徹底的に追及されたが、満足な返事が出来なかった。以降、日本のマスコミも田中の金脈問題追及の火の手を上げた。金脈問題が明らかとなった田中内閣の支持率は20パーセントを下回るようになり、政権は末期的な様相を呈してきた。 窮地に追い込まれた田中には重要な外交日程が二件あった。10月28日からのニュージーランド、オーストラリア、ビルマへの外遊と、11月18日からのアメリカのフォード大統領来日予定であった。田中は外遊出発前、参議院議長の河野謙三を尋ね、外遊と米大統領来日を済ませたら総辞職することを示唆した。河野は記者団に田中が退陣を考えていることを匂わせたため、10月末には田中退陣が大きく報道されることになった。 外遊から帰国後、11月11日に田中は内閣改造を行った。田中は現職のアメリカ大統領として初の日本訪問となるフォード大統領訪日を控えていた。フォード訪日前の首相辞任は日米関係に悪影響を及ぼすと考えられ、それまでの間の政権の浮揚を図ったものであった。しかし政権の末期症状が顕著であった田中の退陣はもはや既定路線であり、後継総裁をめぐる動きが始まっていた。 7月に田中政権の閣僚を辞職していた三木と福田はともに機を伺っていた。1972年(昭和47年)の総裁選で田中と激しく争った福田は後継総裁の本命視されていた。一方三木は少数派閥の領袖であり、1972年(昭和47年)の総裁選で4名の候補者の中で最下位と惨敗したこともあって、当初田中の後継総裁となる可能性は低いと見られていた。しかし三木は閣僚辞任後全国各地で講演を行い、各地で多くの国民からの応援を受けていた。そして10月末の田中退陣が避けられない情勢下で、三木は次期総裁は灘尾弘吉か自分しかいないとの自負を見せていた。 退陣を決意した田中は、10月26日に椎名副総裁に対して一時的に内閣を預かってもらえないかと打診していた。金脈問題で傷ついた田中は椎名に政権を預け、一時的な退却を行い、その上で再登板を行う腹積もりであった。椎名としても政権獲得への意欲がないわけではなかったが、健康問題もあって田中の要請を断り、調整役に回ることになった。それでも田中は11月11日の内閣改造で椎名を後継含みで副総理にしようと考えたが、総裁公選での総理・総裁就任を目指す大平外相の反対で潰されていた。田中は自らの後継について全く布石を打つことが出来ないまま、フォード大統領がアジア歴訪を終えて帰国した11月26日に退陣を表明した。 田中の後継総裁候補としては、三木、福田、大平が名乗りを上げていた。三人のうち田中派、大平派の数で有利となる大平は総裁公選での選出を主張し、数的に劣勢であった三木、福田は話し合い選出を主張した。特に三木は公選で選ばれる可能性はほぼ皆無であり、話し合い選出に賭けるしかなかった。三木、福田、大平の間では後継総裁について直接交渉も行われた。福田と大平は二度に亘って会談を行い。後の会談では永野重雄日本商工会議所会頭宅で、福田と大平の連携を願う永野を交えて行われた。また大平は三木宅と同じ敷地内に同居していた娘の紀世子宅の方からひそかに三木を訪ね、会談を行った。しかしいずれの会談も物別れに終わり、三木、福田、大平の立候補者間での解決は出来なかった。 ところで調整役となった椎名は派閥を烏合の衆であると考えており、烏合の衆の頂点に立つ派閥領袖は、総裁選という草競馬を行っていると見なしていた。そこで椎名は灘尾弘吉、保利茂、前尾繁三郎といった長老議員による暫定政権を樹立して自民党を立て直し、その後に本格政権を樹立するという構想を描いていた。そして後継総裁をめぐる自民党内の動きが活発化する中で、椎名による暫定政権案が浮上した。しかし11月29日、椎名が三木、福田、大平、中曽根の実力者と個別会談を行う中で、椎名が大平に対して椎名暫定政権の可能性を示唆したところ、大平は椎名の発言に不快感を示し、「行司がまわしを締めた」と、椎名が政権獲得に色気を見せだしたことをリークした。 このような中で、三木は話し合いによる総裁選びで自らが選ばれるべく動いていた。7月に副総理兼環境庁長官を辞任した後、党近代化を訴え続け田中個人への批判は控えていた。また田中の辞意表明後、民社党の佐々木良作がひそかに三木邸を尋ね、中道新党結成を提案していたなど、民社党との連携工作も具体化しつつあった。 椎名による暫定政権案は大平のリークにより潰された。この段階で椎名は保利茂による暫定政権を決意するが、保利を指名した場合、暫定政権案が潰されることを分かった上で保利を指名し、結局は椎名にお鉢が回ってくることを狙ったと見られるため、保利暫定政権案も断念することになった。結局椎名は長老による暫定政権ではなく、三木、福田、大平、中曽根という実力者の中から後継を指名することになった。11月30日、椎名は三木、福田、大平、中曽根との5者会談の席で、まず後継総裁候補は実力者4名しかいないことを告げた上で中曽根を進行役に指名した、5者会談では幹事長、財務委員長、経理局長を総裁派閥から出さないことなどを確認した。そして椎名は翌12月1日に後継総裁について結論を出したいと話した。 最終的に椎名は三木の指名を決断する。理由としては、まず三木は池田内閣時代に党組織調査会長として三木答申をまとめており、田中内閣の閣僚を辞任して党近代化を訴えていて、クリーン三木こそ金権問題で退陣に追い込まれた田中の後始末を行うにふさわしい人物と考えられたことが挙げられる。続いて三木は当時船田中に次ぐ37年余りの議員経験を有しており、椎名が暫定政権の首班として考えていた灘尾弘吉、保利茂、前尾繁三郎らよりも議員経験が長かった。長老による暫定政権案が潰された椎名にとって、三木は長老議員に準じる存在となり得た。 また実際問題として三木以外指名できる人物が自民党内に存在しなかったことも理由として挙げられる。まず中曽根はこの時点では総裁就任を狙わずに調停役となっていた。世論の激しい批判を浴びて退陣に追い込まれた田中と親しい大平を指名することは、田中亜流政権を指名したと見なされて自民党にとって大きなマイナスとなるのは明らかであった。また大平が椎名暫定政権案をリークしたことは椎名の心象を害していた。一方福田は田中と激しく対立しており、三木とは異なり公然と田中を批判していた。そのような福田を指名すれば田中派、大平派の強い反発は避けられなかった。また椎名と福田との間には1962年(昭和37年)の岸派分裂時からの確執があり、まだ尾を引いていた。そして党内で激しいつばぜり合いが続く情勢下で総裁公選を強行すれば、福田、大平らの泥仕合となることが明らかであり、自民党の更なるイメージダウン、そして分裂の危機をも呼び寄せかねなかった。暫定政権案がことごとく流れてしまった上、4人の実力者の中で残された人物は三木であり、総裁公選を行い得ない状況では三木を指名するしかなかった。 三木は少数派閥の領袖であり、その党内基盤の脆弱さが逆に幸いした面もある。椎名も田中も三木ならば組しやすいと判断したのである。最後に先述のように三木は野党、とりわけ民社党との連携の話が具体化しつつあった。党分裂の芽を摘むためにも三木の指名は効果的であるといえた。 11月30日の夜、椎名は産経新聞記者の藤田義郎に対し、三木指名の裁定文の起草を要請した。藤田は三木邸を訪れ、明日の椎名による裁定は三木指名となることと裁定文の起草を依頼されたことを伝えた。三木は「藤田君、その裁定文は後世に残る天下の名文にしなければならん。ボクが書く。徹夜してでもボクが書く。」といい、12月1日の朝に三木と藤田の案文を突き合わせた上で草案としてまとめ、最後に椎名の添削を受けて裁定文とすることになった。この時の椎名が添削したのは、三木が藤田に「政界最長老の三木武夫」という語句をつけてくれという要望を入れた原稿を、椎名が気づき、「最長老」の「最」の字を削った箇所だという。藤田の回想によれば三木の原稿はミミズが這ったような文字であったという。そして日付けが変わる頃、三木は妻睦子や子どもたちを寝室に呼び寄せ、「大変なことになるかもしれない」と告げた。 12月1日、前日に引き続き開催された5者会談の冒頭、椎名は三木を後継に推薦する裁定文を読み上げるとすぐに席を立った。裁定を受けて三木は「青天の霹靂」と語り、意外な結論であるとしたが、実際は事前に自らが指名されることを知っていた。裁定直後、三木は福田と会談して「三木内閣は君との共同内閣のつもりであり、経済問題は一任したい」と切り出し、福田から裁定受け入れを確認した。話し合い決着を主張していた福田に椎名裁定を拒絶する大義名分はなかった。中曽根派も12月1日に裁定受け入れを表明し、佐藤栄作ら党顧問や水田派、石井派などの中間派も裁定受け入れを明らかにした。一方田中派と大平派は椎名裁定をすんなりと受け入れようとはしなかった。しかし田中派は領袖である田中の金脈問題が混乱のきっかけとなったこともあり、裁定に強く反発することは出来なかった。また先述のように党内基盤の弱い三木は田中にとって組しやすい相手と思われた。一方大平はあくまで公選での総裁選出にこだわり、役員会、総務会という党の正式な機関で承認された上で自らの結論を出すとした。しかし三木派、福田派、中曽根派が早々に裁定受け入れを明らかにし、中間派や党顧問、そして田中も裁定受け入れの意向を示す中では大平も抵抗を続けることは出来ず、椎名裁定を受け入れざるを得なかった。 なお、椎名裁定に対して二階堂進幹事長ら党三役は、裁定について事前に全く相談を受けておらず党機関の軽視であると猛反発し、12月2日には辞任するとした。しかし党三役は各方面から慰留され、結局辞任はしなかった。こうして椎名裁定に対する自民党内の反発は沈静化し、三木が田中の後継総裁となることが確定した。三木は12月4日に開催された自民党両院議員総会において、全会一致で第七代自由民主党総裁に選出され、党役員人事と組閣に着手することになった。 正式に自民党総裁となった三木は、まず党役員を選出した。まず決定したのは中曽根の幹事長就任であった。中曽根は新総裁の下での幹事長就任を狙っており、早い段階で後継総裁候補から降りていた。5者会談で交わされた総裁派閥から幹事長を出さない約束もあり、中曽根幹事長がまず固まった。続いて三木は椎名副総裁の留任を要請した。これは椎名裁定で三木が指名された経過からしても続投は自然な成り行きであり、あっさりと決定した。難航したのが総務会長と政調会長であった。三木は田中派の西村英一を総務会長にしたいと考えたが、西村本人から固辞された。そこで福田派から推薦された松野頼三を総務会長、大平派から推薦された宮沢喜一を政調会長とすることで決まりかけた。しかし椎名が灘尾弘吉を党三役とすることを提案したため、灘尾が総務会長、松野が政調会長となり、宮沢は外相となった。 組閣ではまず福田の副総理兼経済企画庁長官が決定した。これは椎名裁定直後、三木は福田に対して「君との共同内閣のつもりであり、経済問題については一任したい」と語っていて、福田も三木の意向を受けていたことからすんなりと決まった。党内基盤が弱い三木にとって福田の協力は不可欠であり、まず福田の協力取り付けを図ったのである。 三木は中曽根派の河野洋平を環境庁長官に、大蔵官僚出身の鳩山威一郎の入閣を希望していた。また宇都宮徳馬の入閣も検討していた。しかし河野の入閣には反対が強いため見送られ、参議院議員の鳩山の入閣は、参議院からの入閣予定者は参議院議員会長が推薦するという慣例に反し、やはり強い反発を受けたために見送られた。そして北朝鮮の金日成政権に近く韓国の朴正煕政権に対する批判を続けていた宇都宮徳馬の入閣は、親韓国派の椎名の強い反対で頓挫した。また椎名は椎名派の閣僚候補として三木が希望した元衆議院副議長の長谷川四郎ではなく松沢雄蔵の起用を求め、松沢は行政管理庁長官として入閣した。このように三木の組閣構想は多くの修正を余儀なくされた。 三木派からの閣僚でも三木の人事構想は変更を余儀なくされた。三木は三木派からの閣僚として、当初官房長官に海部俊樹、労働大臣に石田博英を入閣させる予定であった。また官房副長官には西岡武夫の起用を予定していた。しかし三木派古参議員である井出一太郎と河本敏夫が三木に入閣を直訴したため、結局井出が官房長官、河本が通産相、海部が官房副長官となり、西岡は組閣構想からはじき出されることになった。なお入閣予定が流れた河野洋平と西岡武夫は、2年後に新自由クラブを結成して自民党から離党し、初入閣するまで河野は11年、西岡は14年待つことになる。 三木は当初描いていた人事構想が後退を余儀なくされる中で、組閣で独自色を出すために民間人からの閣僚登用を検討した。三木は都留重人を文部大臣とすることを検討したが、都留が固辞したためやはり三木のブレーンの一人であった民間人の永井道雄が文部大臣となった。また入閣が決まった人物同士でもポストの入れ替えが起きた。当初の予定では坂田道太法務大臣、稲葉修防衛庁長官であったものが、稲葉の防衛庁長官就任に難色を示す声が上がったため、坂田と稲葉のポストが入れ替えとなった。これは後のロッキード事件の際、稲葉法相が事件糾明に積極的に動いたことを考えると大きな意味を持つ人事となった。 結局1974年(昭和49年)12月9日に発足した三木内閣は、中間派を含む派閥均衡、当選回数重視、参議院からの複数閣僚採用という、これまでの自民党内閣と基本的に変わらない人事となった。なお石井派、椎名派、水田派、船田派といった規模の小さな中間派も閣僚ポストを得て、当時の自民党全ての派閥から閣僚を取ることになったが、これは椎名副総裁による裁定で政権の座に就くことになった三木にとって、中間派を含めた各派の協力を仰がねばならず、また田中金脈問題で自民党に対する国民からの信任が大きく揺らぐ中で、挙党一致して総裁である三木を支える体制を作る必要があったためである。また岸内閣で藤山愛一郎が外相となって以来、永井道雄が文相となって17年ぶりに民間人が閣僚となったことも特徴の一つであった。 小派閥を率いながら自らの存在感を高めていくという三木の政治手法は、椎名裁定を自らの指名へと導き、政権獲得には繋がったものの、政権基盤の弱さは組閣の難航にも現れており、今後三木が政権運営に苦心していくことを示していた。 ===三木政権の施策=== 田中の著しい金権体質が国民の激しい批判を浴びた後を受け、三木はいわば緊急避難的に首相となった。椎名が三木を指名した最大の理由は、田中の金権問題で深く傷ついた自民党を再建できる人物と判断したからであった。1937年(昭和12年)の衆議院議員初当選時から政治の浄化を強く訴えていた三木は、自民党の有力政治家となった後も、池田内閣時の三木答申、これまで3回の総裁選立候補時、そして田中内閣の閣僚辞任後と、自民党の近代化、そして政界の浄化を訴え続けていた。三木政権開始時の内閣支持率は、歴代自民党内閣のスタート時と比べて特に高い支持率ではなかったが、人心が完全に離れてしまっていた田中政権末期に比べると大きく盛り返していて、ある程度の世論からの支持を受けることに成功していた。三木は世論の支持を背景に、政治浄化と公正な社会ルール作りという、自らが考える政策実現に向けて動き始める。 三木は自民党総裁に選出された1974年(昭和49年)12月4日の自民党両院議員総会の席で5つの政治課題を挙げた。当時日本はオイルショックの影響でインフレと不況の真っ只中であった。そのような厳しい経済状況下での総裁就任であったが、三木は5つの課題の筆頭に党近代化、政界浄化を挙げた。 1974年(昭和49年)12月9日に成立した三木内閣発足直後、閣議の席で三木は自らが温めてきた政治改革試案を配布した。当時の閣議は事前の事務次官会議で承認を受けた案件のみが議題に乗る慣行になっていたが、政治改革の実現に執念を燃やす三木は、事務次官会議を経ることなく政治改革試案を閣議に諮った。2001年(平成13年)の内閣法改正により、内閣総理大臣は内閣の重要政策に関する基本的方針などの案件を発議できると定められることになったが、当時慣例であった事務次官会議を通さずに閣議に案件を諮った三木の手法は、内閣法改正を先取りしたものとも言える。 三木の政治改革試案は閣議で了承され、法案提出の手続きが始まった。続いて三木は12月26日には自らの資産を公開し、更に翌27日に党基本問題、選挙調査会長の椎名に、国会議員の推薦による立候補と全党員による予備選挙実施を骨子とする自民党総裁選の改正、企業献金を廃止して個人献金のみとする政治資金規正法改正、そして選挙公営の拡大、連座制を強化して選挙違反の取り締まりを厳しくするなどの公職選挙法改正についての三木試案を提言した。三木試案は7月に田中内閣の閣僚を辞任した後、自らのブレーンである専門家の意見を参考にしながらまとめたもので、ただちに実行できる法案形式にまで整えられたものであった。 1975年(昭和50年)4月、公職選挙法改正案、政治資金規正法改正案は相次いで衆議院に提出された。公職選挙法改正案は、まずかねてから是正が求められていた選挙区ごとの議員定数不均衡の問題について、定数を20増やして衆議院議員の総数を511とし、5つの選挙区の分区を行った。続いて選挙公営を拡大し、更には立候補者が自らの選挙区への寄付を禁じた。そして政党の機関紙など文書配布への規制を強化した、最後の部分の改正は共産党、公明党が強く反対したため、規制を当初の政府案よりやや緩くした社会党、民社党の修正案が成立した。公職選挙法改正案では、三木が当初考えていた小切手による選挙費用支弁の義務化による選挙費用の透明化と選挙違反の裁判の迅速化は反対が強く、当初の政府案に乗せることも出来なかった。 一方政治資金規正法改正案は、自民党内から政治基盤となる資金源にメスを入れるもので、自民党の弱体化に繋がるとして強い反対の声が上がり、審議は難航した。三木は当初3年以内の企業献金全廃を目指したが、これは自民党内からの激しい抵抗に遭って早々に引っ込められた。結局、これまで制限が無かった政治献金について、企業や労働組合など団体からの献金、そして個人献金に上限額を設け、各政治団体は選挙管理委員会ないし自治省に収支報告を義務付け、更に一定額以上の献金があった場合、献金した個人名、企業、団体の名を公表することとした。この政治資金規正法改正案は、政治家が持つことができる政治団体の数に制限が無いなどの抜け道も多かったが、1975年(昭和50年)7月4日の参議院本会議の採決の結果、可否同数となり、河野謙三議長が議長決裁で賛成としたため辛うじて成立した。 政治資金規正法改正によって、これまでのように政治献金が集めにくくなるなどの効果もあったが、政治資金パーティが発達するなど、より巧妙な政治資金集めが盛んになる事態も発生した。三木の政治資金規正法改正案は金権政治からの脱却を目指したものであったが、政治腐敗をもたらす根本的な制度面などの検討が不十分であり、金権政治からの脱却という目的からみて最も適切なやり方であったのか疑問との意見がある。一方、三木としては政治改革は継続して取り組むべき課題であり、首相退任後も連座制強化など政治改革についての活発な提言を行っていた。三木以降にもリクルート事件、佐川急便事件など、政界を揺るがす汚職事件が続発し、政治改革が大きな政治課題として取り上げられることになる経過からも、三木の政治改革への取り組みの先駆性を評価する意見もある。 公職選挙法改正案と政治資金規正法改正案はまがりなりにも成立したが、三木が目指した自民党総裁選の制度改正は暗礁に乗り上げた。三木の総裁選改革は全党員による総裁予備選挙の実施を行い、その後に国会議員による本選挙を行うことを目指したが、田中派や大平派を中心に強い反発が起きた。とりわけ大平は党近代化を訴える三木が、密室政治の極みともいえる椎名裁定で総理総裁の座を手に入れたことに抜き難い不信感を持っていた。総裁選の制度改正は三木政権下で論議が続けられたが、1976年(昭和51年)に入るとロッキード事件のあおりを受けて事実上の棚上げ状態となり、続く福田政権への継続課題となった。全党員による総裁予備選挙の導入は1977年(昭和52年)4月になった。しかし全党員による総裁予備選挙は、党員の末端まで派閥が浸透するという弊害も招いた。 公職選挙法改正案と政治資金規正法改正案、そして自民党総裁選の制度改正とともに、三木が熱意を見せたのは独占禁止法改正であった。背景としてはオイルショック時に起きた便乗値上げや売り惜しみ、価格カルテルといった反社会的とも言える企業行動に、世論の非難が集中したことが挙げられる。公正取引委員会は1974年(昭和49年)9月に独占禁止法改正案の骨子を発表しており、三木は自由主義経済における公正なルール確立を目指し、公正取引委員会案をもとにした独占禁止法改正を提案することになった。 三木が当初考えていた独禁法改正案は、独占的状態にある企業の分割など独占的状態の排除措置を行うことや、違法カルテルによって得た利益に対する課徴金、そして会社、金融機関の株式取得制限などが盛り込まれていた。これらの改正は日本経済の根幹に係わるものであり、三木が独禁法改正に取り組むことが明らかになると、消費者団体などからの賛成意見、そして財界、自民党などからは反対意見が出され、賛否の論議が高まった。 財界の反対意見は、オイルショックによる深刻な不況の影響を受けて日本経済が危機に陥っている中で、企業活動の活力を奪い、国際競争力を失わせる独禁法改正を行うことは認められないという意見であった。三木を指名した椎名も三木の独禁法改正を厳しく批判し、これ以降三木と椎名の関係は悪化していくことになる。財界そして自民党内の反対を受け、独禁法改正案は大幅に修正され、財界にとっても実害は無いとの意見が出されるほど微温的なものにまで後退した。 ところが大幅に修正された独禁法改正案に対し、野党側は理念の後退を批判し、また財界も三木の政治姿勢への警戒感を緩めなかった。椎名の意向を受けた中曽根幹事長は独禁法改正案の成立断念を示唆した。しかし三木は猛然と巻き返し策に打って出た。三木は山中貞則自民党独禁法問題調査会長らに協力を要請し、更に自ら野党幹部にも連絡を取って独禁法改正案の成立を図った。その結果、野党の修正案により与野党合意が成立し、独禁法改正案は衆議院を通過し、法案は参議院に送られた。 独禁法改正案は参議院に審議の場が移ったが、参議院自民党では野党の力を借りて独禁法改正案の成立を図る三木の政治手法に対する批判が沸騰した。新日鉄元副社長の藤井丙午らが中心となった強硬な反対派が結成されるに至り、結局独禁法改正案は参議院で審議未了、廃案に追い込まれた。 三木を支えることを期待された副総理の福田は、三木の理念を重視する政治運営に距離を置き、経済問題に専念していた。そして幹事長の中曽根は椎名副総理の意向を受けて独禁法改正案成立断念を示唆するなど、三木を支えるよりも党内情勢を見ながらの政治運営を行っていた。田中派、大平派との連携が望み薄の情勢下で三木が協力を期待していた福田、中曽根とも、三木を積極的に支えようとはしなかった。 また自民党内で三木が苦境に追い込まれた理由の一つとして、三木を支える三木派は中小派閥で力不足であった上、人材不足も深刻であったことが挙げられる。1975年(昭和50年)の憲法記念日に、改憲派であった稲葉修法相が自主憲法制定の集会に出席したことを国会で野党から追及された際、稲葉は自らは改憲論者で現行憲法は欠陥憲法であると答弁し、野党からの集中砲火、そして自民党内からも辞任論が出て国会が紛糾した。国会の混乱は法案審議に影響したが、結局野党からの追及をかわして三木は稲葉を守った。しかし主に事態収拾に当たったのは福田派の松野政調会長であり、三木派議員の動きは鈍かった。稲葉法相問題解決の経緯は、三木を補佐する有能な調整役がいないという問題を露呈した。 公職選挙法、政治資金規正法改正、独禁法改正問題が大きくなっていた1975年(昭和50年)6月16日、佐藤栄作元首相の国民葬の席で三木は大日本愛国党の党員に顔を殴られる事件が発生した。三木は倒れこんだものの大きな怪我は無く、国民葬は予定通り進められた。なお三木夫人の睦子は大日本愛国党の赤尾敏とかねてからの知り合いで、事件後睦子は赤尾敏に対して直接抗議をしたという。三木には警視庁の警察官が護衛として配置されていたが、やや離れた場所にいた上に三木の進行方向ばかりに気を取られ、暴漢への対応が遅れた。このため警視庁は新たな要人警護の組織を作ることになり、3ヵ月後にセキュリティポリスが創設された。 公職選挙法改正、政治資金規正法改正、独禁法改正と並んで三木政権の重要課題とされたのが経済再建と財政危機への対応であった。三木は経済政策については福田副総理兼経済企画庁長官に委ねたが、福田と田中内閣から留任した大平蔵相との間に経済運営を巡って対立が表面化した。福田はインフレ抑制を優先して総需要抑制策を継続させた。厳しい経済情勢下では当然財政支出の切り詰めも図ったが、物価が高騰する中で歳出削減は困難を極めた。歳入欠陥を恐れた大平は公共料金の引き上げを考えるが、物価への影響を恐れる福田は引き上げに否定的であった。結局、電信、電話料金の据え置き、酒、タバコ、郵便料金の引き上げという妥協が成立した。 しかし酒、タバコ値上げ法案は公職選挙法改正、政治資金規正法改正、独禁法改正についての審議のあおりを受け、廃案になってしまった。結局あてにしていた酒、タバコ値上げによる収入が得られなくなったこともあって大幅な歳入不足が発生し、大平は三木に対する不信感を深める結果となった。 公職選挙法改正、政治資金規正法改正、独禁法改正問題や、タバコ値上げ法案の廃案という事態の中、自民党内では反三木の動きが顕在化するようになった。三木としても体制の建て直しに乗り出さざるを得なくなり、自民党内の三木を批判する勢力に対する融和策を矢継ぎ早に実行していく。 まず酒、タバコ値上げ法案の早期成立を図るため、臨時国会の早期召集を決定した。これは大平蔵相に対する融和策であった。そして独禁法改正案の臨時国会提出を行わないこととして、椎名副総裁に対しても融和策を取った。そして党内の保守派に対しての融和策として、8月15日の終戦記念日に首相としては戦後初めて靖国神社に私的参拝した。なお、同年11月21日を最後に昭和天皇の靖国神社参拝は途絶えることになるが、天皇の靖国神社参拝が途絶えた理由として、三木が靖国問題を政治問題化したためという説と、元宮内庁長官であった富田朝彦のメモを根拠とするA級戦犯の靖国神社合祀問題の影響であるとの説がある。 また、椎名裁定の当日に三木が親台湾派の椎名に持ちかけた話ではあったが、7月上旬に台北で日華民間航空に関する協定が調印され、1974年(昭和49年)4月の日中航空協定調印後、一時中断していた日本と台湾間との航空路が復活した。そして9月には金大中事件により中断していた日韓定期閣僚会議が再開されて日韓関係の改善を進めた。このように三木は党内保守派が重視する台湾、韓国との関係改善を進めたが、これは党内批判勢力への融和策の一環でもあった。 1945年(昭和20年)に制定された労働組合法では、公務員、公共企業体(1949年に発足)職員のスト権は認められていたが、1948年(昭和48年)、二・一ゼネストの影響でGHQによってスト権が認められなくなった。1970年代に入り公務員や公共企業体職員による公共企業体等労働組合協議会(公労協)は、スト権の奪還を闘争目標として掲げ、1971年(昭和46年)に国鉄労働組合(国労)、国鉄動力車労働組合(動労)がスト権の奪還を訴えるストライキを行い、その後毎年スト権奪還を闘争目標とするストが行われるようになった。 田中内閣時代の1974年(昭和49年)になると、労働運動のナショナルセンターである日本労働組合総評議会(総評)もスト権奪還を主要目標と定め、3月から4月にかけてスト権奪還を目指すストが行われた。結局政府と組合側との協議の結果、組合側の意見を聞きながらスト権問題の解決を図り、1975年(昭和50年)秋を目途に結論を出すとした了解事項がまとまった。田中政権は公共企業体等関係閣僚協議会と専門委員懇談会を発足させ、スト権問題についての協議を進めた。結局田中政権ではスト権問題の解決はなされず、三木政権への継続課題となった。 三木はスト権問題について、条件付きでスト権を付与する考え方を持っていた。三木の考え方の基本は、まず労働者に労働三権の一つである争議権を認めないのはまずいという原則論とともに、この問題の主管官庁である労働省の、条件付きスト権付与という意見を尊重するという二点であった。首相の三木以外でも、長谷川峻労働大臣、そして福田副総理兼経済企画庁長官も条件付きスト権付与を認める考え方であった。一方中曽根幹事長らはスト権付与に反対していた。 田中内閣時代の、スト権問題について1975年(昭和50年)秋を目途に結論を出すとの期限が迫る中、専門委員懇談会での話し合いが進められていった。そのような中、公労協は11月1日に政府側にスト権奪還を改めて強く要求し、10日には要求が受け入れられない場合には11月26日から10日間のストを決行することを決めた。田中内閣時代に選任されていた専門委員懇談会はもともとスト権付与に反対の委員が多かったが、政府と公労協との対立が激化する中、スト権付与に反対する意見が強まっていた。 三木は公労協の10日間のスト計画に対し、スト権付与問題が解決しないままで行うストは違法であり容認できず、ストを行った場合には厳正な処罰を行うとした。この点については強硬派の中曽根らとの意見の隔たりはなかった。政府側と公労協との話し合いは平行線を辿り、結局11月26日、スト権ストに突入する。スト突入当日、専門委員懇談会は条件付きスト権ストを認めない意見書を公表した。また三木内閣の閣内でもスト権付与に否定的な意見が高まってきた。更に田中派、大平派がスト権付与に反対を明確にし、当初は必ずしもスト権付与に否定的ではなかった椎名副総裁も、スト権スト突入前後にはスト権付与に対し強固な反対派となった。三木は専門委員懇談会での結論、閣内及び党内の大勢となったスト権付与反対意見、更に大規模なスト権ストが行われている最中にスト権付与を認めることは、ストに政府が屈したとの印象を持たれることも考慮し、この段階でスト権付与を認めることを断念した。 三木はこの段階での公務員、公共企業体職員へのスト権付与は断念したが、将来の付与には含みを残したいと考えた。しかし三木の意向は椎名らの反対で形にすることは出来なかった。三木は党内基盤の弱さもあって、自らの条件付きスト権付与の意向を実際の政策に反映させられなかった。結局政府から全く譲歩を得られないまま12月3日にスト権ストは中止された。不況下で公労協が行った長期ストは世論から強い批判を浴び、総評内においても民間企業の労働組合からの支持も弱かった。結局官公労は親方日の丸といったマスコミなどからの批判を浴び、更に政府当局からの大量処分、損害賠償請求を受け、大型ストを行う体力が失われることになった。 三木は高度経済成長後の日本では、安定成長、福祉向上を目指す必要があるとして、経済は量の拡大から生活中心、福祉充実といった質の向上への転換、新たな労使関係、労働慣行の確立、教育の重視などが重要であると考えていた。このような三木の政治理念、政治方針を踏まえ、三木内閣では池田内閣での所得倍増計画、田中内閣での日本列島改造論に当たる、目玉の経済政策としてライフサイクル計画(生涯設計計画)が立案された。 1975年(昭和50年)1月頃、首相になったばかりの三木は、自らのブレーン集団である新経済政策研究会から、国民が求めている福祉社会のビジョンを打ち出すべきとの提言を受けた。三木はこの提言に賛成し、これがライフサイクル計画立案のきっかけとなったとされる。三木は衆議院本会議の答弁で、1975年度(昭和50年度)中にライフサイクル構想を作成して、1976年度(昭和51年度)からは社会保障の長期計画を立てたいとの意欲を示した。この頃から新聞紙上でも三木がライフサイクル計画に意欲を示していることが報道されるようになった。ライフサイクル計画は60歳までの定年延長、65歳までの再雇用、65歳以降は年金で生活できるようにして、生涯を通じて安定し、生きがいのある生活を営めるようにするなどという内容も明らかになってきた。一方、年金制度の抜本的な改革の必要性や膨大な財源確保など、ライフサイクル計画が正式に発表される前から課題が指摘されていた。 ライフサイクル計画は、三木のシンクタンクである中央政策研究所が、総勢9名の経済学者、社会学者に依頼し、三木への個人的な提言として取りまとめられた。計画はこれからの日本が目指すべき福祉社会の展望を示したもので、人の生涯を通して経済的、社会的不安が無いよう十分な保障を与え、皆が安心してその人らしい一生を送れることを目的とする今後の福祉政策の基本構想を提唱していた。 三木に提出された提言では、まず自助、相互扶助を原則としながら、政府が国民の一生の各段階で必要となるナショナル・ミニマムを提供すること。そしてナショナル・ミニマムを越える部分は自助の努力で切り開くことを進め、自己責任に基づく創意工夫が必ず報われるシステムを社会制度に組み込むことを目指した。具体的には教育、住宅制度、雇用、年金、医療など、人の一生に係わる様々な社会的な仕組みの中には、不十分かつ中途半端なものや問題が多く改善を要すものが多いとして、全体をシステム化し、現行の様々な制度の再編成と充実を図り、更に新たな制度の導入も進めるとした。それにより誰でも努力をすれば家を持てる制度、新しい労働慣行と誰でもいつでもどこでも学べる教育制度、誰でもナショナル・ミニマムを保障される社会保障制度、そして誰でも安心して老後を過ごせる社会の4点の確立を大目標とした。 ライフサイクル計画の基本的な考え方としては、まず日本社会と経済には、高度経済成長がもたらした社会的変化に対する対処、欧米追従という大目標の喪失後にどう対応するか、脱産業化にどう対処するかという3つの課題があるとした。このような課題の克服には、新しい日本的システムとして個人と社会の調和を進めるべきであるとした。三木もライフサイクル構想に基づき1976年(昭和51年)1月の施政方針演説で「英国型、北欧型でもない日本型の福祉政策を目指す」とした。 1975年(昭和50年)8月、三木は軽井沢の別荘でライフサイクル計画の最終的な詰めを行っていた。計画がまとまり次第自民党内に調査会を設けることになっており、調査会長は船田中が内定していた。しかし福田副総理兼経済企画庁長官が、下手をすると日本列島改造論の二の舞になると指摘するなど、自民党、関係省庁のライフサイクル計画に対する目は冷ややかであった。ライフサイクル計画でまず問題とされたのが財源であり、財政難の中で財源の裏づけなくしてこのような計画を遂行するの困難であるという意見が出された。また選挙目当ての人気取り政策であるなどと野党などから批判を受けることを懸念する声も挙がった。そしてライフサイクル計画が、三木が自らのブレーンである学者グループに起草させたものであることは官僚機構からの反発を招いた。三木は8月12日の記者会見でこれらの批判に対し、選挙目当ての人気取り政策ではなく、長期的に検討を重ねた上で将来的には一大政策として実行していこうと構想をしているもので、まずは財政負担の無い定年延長あたりから取り組んで行きたいと説明した。 1975年(昭和50年)9月9日、中央政策研究所は三木にライフサイクル計画を提出した。9月18日には官房副長官を長とした生涯設計計画検討連絡会議が発足し、翌19日に第一回会合が開かれた。しかしその後の動きは鈍く、第二回会合は翌1976年(昭和51年)4月8日まで開かれなかった。それでも第二回の会合で社会保障、生涯教育、住宅、労働の4分科会が設置され、各テーマについて検討が進められた。ライフサイクル計画は1977年度(昭和52年度)からの計画具体化を目指したが、既存制度との整合性をどう取るのか、年金などの社会保障制度に対する国民負担について国民的合意は取り付けられるのかなど、提言の実行に向けて多くの問題が浮上した。そしてライフサイクル計画の発表は政局の重大局面と重なったこともあって、自民党内でも計画そのものに対する意思統一を行うことも困難であり、また三木のブレーンである学者グループの作成したライフサイクル計画に対する官僚の反発も根強く、結局ライフサイクル計画は目立った成果を挙げることなく、三木の退陣とともに忘れ去られることになった。 ライフサイクル計画は高齢化社会が始まり、高度経済成長からの転換期を迎えていた当時の日本において、欧米追随型ではない新しい日本の産業社会の成立を理想とし、日本の福祉政策の将来像を提示していた。その中には定年の延長、労働慣行の見直し、公的年金制度、保健医療などといった、その後も日本社会で大きな問題となる課題に対する貴重な提言も含まれていた。しかし積極的な福祉拡大派からは自助を重視しすぎた結果、公的な支援の枠組みが貧弱であり、また身体障害者など正常なライフサイクルに乗れない人たちへの配慮に欠けるとの批判を受け、福祉拡大に対して消極派からは逆に、ライフサイクル計画は社会主義に通じ、勤労、自助の意欲を奪い、また財政負担を増大させるとの批判がなされた。結局ライフサイクル計画は具体的な成果を挙げることはできなかったが、計画の中で唱えられていた日本型福祉の考え方は、1980年代以降の行政改革に受け継がれていったとする意見もある。 防衛庁長官の坂田道太を信頼していた三木は、三木政権下での防衛政策の遂行を全面的に坂田の手に委ねた。坂田は1975年(昭和50年)3月の参議院予算委員会の席で、社会党の上田哲議員から、有事の際に日米間でシーレーン防衛に関する秘密の取り決めがあると追及された際、秘密協定の存在を否定した上で、文民統制下で日米の防衛協力についての話し合いを進める必要性を逆提起した。8月にアメリカのシュレシンジャー国防長官が来日して坂田長官と会談し、日米防衛協力について協議する日米防衛協力小委員会の設置が決まった。 坂田は防衛事務次官として久保卓也を起用した。久保は防衛庁防衛局長時代、基盤的防衛力構想を唱えていた。これは正面装備、補給体制などに加えて国民の国防意識、防衛関係の法令整備など、防衛体制の全体的なバランスを重視した平和時の防衛力構想であった。坂田長官のもとで久保は、防衛白書の刊行を再開し世論への働きかけを行うとともに、民間有識者による防衛庁長官の私的諮問機関である防衛を考える会を発足させた。防衛を考える会では防衛力整備に関する坂田長官宛ての提言を行い、この提言をもとに防衛計画の大綱が作成されることになった。 防衛計画の大綱では、これまでの年次防衛計画が脅威に対応する形で作られていたのに対し、日米安保条約によって日本の安全は基本的に米軍によって守られていることを踏まえ、自衛隊の任務は米軍の手がなかなか回らない小規模な侵攻への対応であるとし、日本の防衛力はこのような小規模な侵攻を抑止できる水準でよいとした。このような防衛計画の大綱が策定された背景には、当時、デタントが進み、東西の緊張が緩んでいたことと、オイルショック以来続いていた厳しい不況下で国の財政状況も厳しく、防衛予算の拡充が困難であったという事情があった。 1976年(昭和51年)10月、防衛計画の大綱が閣議決定され、11月には防衛費増額の歯止めとして防衛費対GNP1パーセント枠が閣議決定された。しかしこの防衛計画の大綱にはまもなく大きな問題が浮上する。まず防衛力整備の基準を日本に対する脅威に対応する形としないことについて自衛隊の制服組からの反発を招いた。そして大綱の前提となったデタントも、次第に米ソ間の緊張が再び高まるなど流動的になってきた。そして一番の問題は、予算や世論への配慮もあって、米国に依存した中で限定した防衛力整備を目指すという方針は、日米安全保障関係の重要性を更に増す結果となり、アメリカが日本に対して防衛力強化を求める格好の足がかりを提供することに繋がった。 防衛計画の大綱と防衛費対GNP1パーセント枠の閣議決定、とりわけ防衛費対GNP1パーセント枠の決定は反戦、平和の観点から三木政権の業績と評価する意見がある一方、日本が自分自身の手を縛る決定を行ったとして批判する意見がある。一方、防衛計画の大綱の決定は軍事大国を否定した防衛力整備構想の完成であるとともに、世論に自衛隊の存在の認知を進め、日米防衛協力体制の強化をもたらしたとして、中曽根内閣で行われた防衛費対GNP1パーセント枠撤廃などの軍拡への足がかりを築いたとの評価もある。 首相となった三木は、1975年(昭和50年)1月24日に行った施政方針演説の中で、日米関係の安定が日本外交の基軸であるとした上で、オイルショック後ということもあって中東問題への対処、そして日ソ、日中関係の課題について触れていた。 三木は田中前政権が成し遂げた日中国交回復を受けて、日中平和友好条約の早期締結を目指したが、日中間の交渉は中国側が反覇権について条約に盛り込むよう強く求め、ソ連を刺激することを恐れた日本側が難色を示したことから難航した。その上に三木政権が日台間の航空路復活など、日台関係の修復に動いたことに対しても不信感を強めた。三木は中国の求める反覇権条項はソ連など特定の国家を指すものとしないことを条件に、反覇権を日中平和友好条約に盛り込む妥協案を提示するが、中国側は納得しなかった。三木は粘り強く交渉を続けたが、1976年(昭和51年)に入ると、中国では周恩来の死去、*7093*小平の失脚、毛沢東の死去と政治的に極めて不安定な状況に陥り、一方日本でもロッキード事件の処理に追われるようになって日中とも平和条約交渉どころではなくなり、三木内閣での平和条約締結は達成できなかった。 また三木は日ソ平和条約の締結にも意欲を見せたが、こちらも交渉は全く進まず、1976年(昭和51年)にはソ連のミグ25戦闘機が領空侵犯した上、函館空港に強行着陸するベレンコ中尉亡命事件が発生し、ベレンコ中尉はアメリカに亡命した上に、アメリカの技術協力のもと、ミグ25を解体調査の上でソ連に引き渡したことにより、三木政権下での日ソ関係は悪化した。 自民党内では左派とされていた三木であったが、三木政権下では日中、日ソ関係に大きな進展は見られず、逆に日米、日韓、日台の関係強化が図られた。三木は3月に外相の宮沢喜一を訪米させた。まず宮沢はアメリカ側と日米の安全保障に関して、日米安保条約の堅持、日本が核攻撃を受ける事態に陥った場合、アメリカの核が抑止力となること、日本が攻撃を受けた際にはアメリカが日米安保条約の取り決めを重視することと、日本側も日米安保条約における約束を果たすことを確認した。なお日本が核攻撃を受けた場合、アメリカの核が抑止力となることの確認は、核拡散防止条約の批准問題が係わっていた。三木は核拡散防止条約への早期批准の意向を示していたが、核保有国をアメリカ、ソ連、イギリス、フランス、中国の5カ国に限定し、それ以外の国の核保有を禁じるという既存核保有国に一種の特権を認める不平等性を問題視し、批准に反対する意見もあった。核攻撃時のアメリカの支援を確認することで、核拡散防止条約を批准して核の保有を放棄しても日本の安全保障が確保できることを確認し、核拡散防止条約は三木政権下で批准に漕ぎつけた。 宮沢は日米の安全保障問題の他に、崩壊状態となっていた南ベトナムなどのベトナム情勢、そして中東情勢について意見を交換した。そして8月上旬に三木首相がアメリカを訪問することを決定するとともに、秋に予定されていた天皇皇后の訪米に関して、天皇皇后からフォード大統領にお会いするのを楽しみにしている旨のメッセージを伝えた。 宮沢外相の訪問時、崩壊寸前であった南ベトナムはその後まもなく崩壊した。インドシナ情勢の変化を受けて、アメリカは金大中事件の影響もあって冷え込んでいた日韓関係の修復を望み、そのような中で日韓関係の修復が図られるようになった。5月には韓国の金鍾泌首相が来日し、宮沢外相、そして三木首相と会見した。そして7月には宮沢外相が訪韓して朴正煕大統領らと会談した。そして日韓関係の懸案事項であった金大中事件の政治決着が図られ、先述のように9月には日韓定期閣僚会議が再開された。 1975年(昭和50年)6月、フランスのジスカールデスタン大統領は、先進国の首脳が一堂に会して懸案事項を話し合う、先進国首脳会議の開催を呼びかけた。この呼びかけに当時の駐仏大使の北原秀雄は、先進国首脳会議への日本の参加を強く訴え、情報収集とフランス側との折衝に尽力した。北原は三木に対しても日本が先進国の首脳会議に出席する意義を強く訴え、北原の説得に三木も日本にとって画期的なことであるとして積極的な参加の意志を示した。しかし当初アメリカはヨーロッパ諸国から糾弾を受ける場となるとして参加に消極的であった。三木は先進国首脳会議にアメリカが参加すべきであると考え、8月に予定された日米首脳会談の席でアメリカに参加呼びかけを行うことにした。 三木は1975年(昭和50年)8月2日、アメリカに向かった。三木は8月5日にフォードとの第一回日米首脳会談に臨むことになるが、会談冒頭、訪米最中に日本赤軍がマレーシアのクアラルンプールにあるアメリカ大使館とスウェーデン大使館を襲撃し、大使館員を人質に取るクアラルンプール事件が発生した。三木は人質の人命と安全を最優先とし、大使館襲撃犯の要求である服役、または拘置中であった日本赤軍活動家の釈放を、超法規的措置として認めたことを説明した。 第一回会談では、ヨーロッパの安全保障、中ソ対立、東南アジア問題が話し合われた。三木はヨーロッパ関連の話題は基本的にアメリカ側の見解を伺う姿勢を見せたが、アジア関連の話題ではアジア諸国を日米が協調して支援していくことを提案し、良好な日米関係が日本外交の基礎であることを三木は日米首脳会談の席で明確にした。 第一回会談が行われた日の夕方、三木の要望によると思われる第二回日米首脳会談が急遽行われた。この会談は三木とフォードが通訳を同行しただけの事実上差しの会談となり、日本の外務省も事前に知らされず、日本側の通訳も外務省職員ではなく、三木の側近であった國弘正雄が務めた。この会談の協議内容はこれまでのところ國弘が明らかにしていないため、アメリカ側の資料によれば、まず日本の政治情勢について意見交換が行われた。三木はまず現状の日本の政治情勢では自民党のみが政権担当能力があることを指摘した上で、このところの国政選挙での得票率が下がってきているため、自民党の政策をリベラルなものに転換していく必要性を強調した。日本の政治情勢についての意見交換が終わった段階で、三木はフォードにフランスのジスカールデスタン大統領が提唱した先進国首脳会談へのアメリカの参加を働きかけた。フォードは会談開催前に参加各国間での意見のすり合わせの場が必要であるとの認識を示したが、明言は避けたものの参加の意向を示した。 翌6日に行われた第三回会談では、まず前日夕方に話し合われたサミットへの参加問題の確認がなされた。フォードは改めて参加する方針を伝え、三木にとってアメリカがサミット参加の方針であることを確認できたことは収穫であった。3回目の会談で主な議題となったのは朝鮮半島情勢と中東情勢であった。朝鮮半島情勢では韓国の安全保障が日本の安全保障に大きな影響を持っていると認識していた三木は、政権発足当初から韓国との関係改善に動いており、アメリカ側としても日韓の関係改善を歓迎する意向を示した。また中東情勢では三木が中東和平に関してアメリカに協力する旨表明し、一方フォードからは日本がエジプトに対して援助を行うよう要請した。財政難を理由に援助の大幅増額に難色を示す日本側に対し、アメリカ側は前年の田中首相との日米首脳会談の席で、日本が南ベトナムへの援助を行うよう要請していたが、その南ベトナムに行う予定であった援助をエジプトに振り向けるように強く要望した。これはアメリカの都合で日本の援助先を変更させようとしたものであったが、三木はこの件に関してアメリカ側に反発を見せることはなかった。 1975年(昭和50年)8月の日米首脳会談では、三木が日本外交の基軸とする日米友好関係が再確認された。一方日米協力とはいってもエジプトへの援助問題から見えるように、アメリカ側の要求を日本が受け入れるという意味合いも強かった。しかし三木が日米首脳会談の主要目的の一つとしたアメリカのサミット参加問題については、アメリカの参加意向を確認することができた。また三木と同じく議会での政治経歴が長いフォードとの個人的な繋がりを深められた点も収穫であった。特に三木とフォードとの親密な関係は、翌年のロッキード事件の際に三木がフォードに対し、事件に関する資料の提供を要請する親書を送ることにつながったと考えられる。 1975年(昭和50年)11月、フランスのパリ郊外にあるランブイエで初の先進国首脳会議が開かれた。会議の主たる議題はオイルショック後の世界経済の立て直しと、当時緊張が高まりつつあったソ連・東欧などの東西問題であった。サミットに参加した三木が強く訴えたのは南北問題であったが、他の首脳の関心は必ずしも高くはなかった。三木は各国首脳に粘り強く働きかけ、共同声明の中に南北問題について入れることに成功した。 ===ロッキード事件と三木おろし=== 田中金脈で深く傷ついた自民党の危機に、いわば緊急避難的な事情で成立した三木政権であったが、公職選挙法改正、政治資金規正法改正、そして独占禁止法改正と、自民党の支持基盤にメスを入れるような政策を次々と実施しようとする三木に対し、自民党内の反発は強まっていた。これは自民党の支持基盤を揺るがす政策を進めようとしているとの反発もさることながら、椎名裁定といういわばイレギュラーな形で総理総裁になった三木が、本格的な改革を進めようとしたことに対する反発も強かった。 金脈問題で世論の指弾を浴び、自民党に深手を負わせた前首相の田中であったが、三木のもたつきを見て動き始めた。田中は1975年(昭和50年)8月に、三木の退陣を前提として椎名暫定政権、または保利暫定政権案を自民党内に流していた。自民党内からその政治姿勢に対する批判を浴びた三木は、靖国神社参拝、独占禁止法改正案の国会再提出の断念など、批判派との妥協を図った。三木の妥協に対して世論の反応は厳しく、内閣支持率は低下して三木政権は危機に立たされた。1976年(昭和51年)に入ると田中は復権を目指し、ますますその動きを強めつつあった。このような政権の危機状態に陥っていた三木の前に、アメリカから大きな知らせが飛び込んできた。 1974年(昭和49年)2月4日、アメリカ上院外交委員会多国籍企業小委員会の席で、ロッキード社が自社の航空機売り込みを図り、工作資金を日本、オランダ、イタリア、トルコなどに投入したことが明るみにされた。いわゆるロッキード事件の発端である。 小委員会はロッキード社のコーチャン副会長らを参考人として召致するなど、調査を進めた。数日間の間に、ロッキード社からの日本向けの工作資金は当時の為替レートで30億円を越えた額であること、そして工作資金はロッキード社の航空機売り込みを図ることをもくろみ、表の代理人役として商社の丸紅、そして児玉誉士夫を裏の代理人役として日本の政府高官に渡された、いわゆる贈賄が行われたこと。そして児玉以外に、国際興業社主の小佐野賢治もロッキード社の売り込み工作に関与していたことなどが明らかとなり、日本の政界は蜂の巣をつついたような騒ぎとなった。 航空機売り込みの便宜を図ることを目的とし、日本政府の高官に賄賂を贈ったというロッキード事件の発覚を受けて、野党はさっそく衆議院予算委員会で疑惑の追及を開始した。三木は日本の政治の名誉にかけても真相を明らかにし、法に触れることが明らかとなれば厳重に処置しなければならないとし、事件の徹底究明への意欲を見せた。党内からの政治姿勢への反発、支持率の低下という危機に直面していた三木にとって、大規模な疑獄事件であるロッキード事件の発覚は起死回生のきっかけとなった。 三木がロッキード事件の徹底究明に努力した動機については、まず自らの政権危機に見舞われている最中に、復権に向けて活動を活発化させていた前首相の田中を追い落とす絶好のチャンスであると判断したためとする説がある。ロッキード事件への関与が明らかとなった小佐野賢治は、田中との親密な関係で知られており、事件に田中の関与があることを想定するのは容易である。三木は金脈問題で首相辞任に追い込まれたとはいえ、強大な力を持ち続けている田中を倒し得る千載一遇の機会を捉えたとするのである。 一方、初当選以来政治浄化を唱え続けてきた三木にとって、ロッキード事件の真相を解明することによって日本の民主主義を守ることが三木の真の目標であり、事件を危機に陥っていた政権の浮揚に利用したり、政争を勝ち抜くために田中の追い落としを図るということではなかったとする見方もある。三木は首相退任後、政権浮揚などの必要性が無くなった後も終生政治とカネの問題、とりわけ利益誘導型の田中政治に対する厳しい批判を続けており、政争目的のロッキード事件徹底解明ではこの点の説明が困難であるとする。 事件発覚から数日以降、アメリカ発の事件に関するニュースが途絶えだした。これはアメリカ政府内のキッシンジャー国務長官らが、各国政府が事件対応で苦境に追い込まれるのを防ぐため、情報開示を制限するようになったためであった。これ以降、事件の究明は日本の国会、政府、そして司法の手にかかるようになった。まず国会は2月9日、事件関係者とされた児玉、小佐野らの証人喚問を決定した。2月16、17日に行われた証人喚問では、小佐野らは肝心な場面では記憶に無いなどと質問をはぐらかしながら疑惑を否定した。なお児玉は病気を理由に喚問を欠席した。2月19日、政府はロッキード問題閣僚協議会を設置し、三木は記者会見の席で改めて事件の真相解明への意欲を強調した上で、政府高官を含めた事件の全資料公開を原則とすること、そして政府高官逮捕に際し指揮権発動を行わない方針であることを明らかにした。 2月23日、衆参両院はアメリカ政府、アメリカ上院に対し、ロッキード事件の解明のため、事件に関する資料の提供を要請する決議を全会一致で可決した。決議可決を受けて三木はフォード大統領宛に、日本の民主政治は事件の真相解明という試練に耐え得る力を持っており、日本の民主政治の発展のために全ての資料の提供を求めるとの内容の、いわゆる三木親書を送ることを明らかとした。なお、親書発送については自民党執行部も外務省も事前の相談を全く受けていなかった。 2月24日、東京地検、警視庁、国税局は児玉誉士夫の自宅、丸紅本社などの一斉捜査に入り、ロッキード事件の本格捜査が開始された。捜査の過程で児玉は東京地検の臨床尋問でロッキード社からの資金提供の事実と脱税の容疑を認め、起訴された。 ロッキード事件発覚当初、自民党内では事件の政界への影響については楽観視する意見が多かった。戦後、多くの疑獄事件が明るみに出たものの、皆、真相解明は不十分なものに終わっていた。ロッキード事件もこれまで通り、政界の上層部に捜査の手が伸びる前にうやむやになるものと判断したのである。しかし今回は首相である三木が真相解明に積極的であった。三木の姿勢を見て自民党内では、ロッキード社からの工作資金を受け取ったいわゆる政府高官本人以外にも急速に不安が高まっていった。政府高官名が明らかとなり、もし逮捕されて起訴されたら自民党が受ける打撃は計り知れない。しかも前回総選挙は1972年(昭和47年)12月に行われていたため、任期満了は1976年(昭和51年)12月となり、間違いなく1年以内には総選挙が行われる。自民党内で三木のロッキード事件真相解明を妨害する動きが始まった。 三木のロッキード事件解明への姿勢に対し、最も深刻な懸念を抱いていた一人は椎名副総裁であった。これはもともと椎名の裁定によって三木が総理総裁の座に就いたことによる。椎名は三木がフォード大統領にロッキード事件解明に関する親書を送ったことを批判し、三木に対して絶縁を宣言する。この頃から自民党内で三木を退陣させる、いわゆる三木おろしの動きが始まることになる。 椎名の周辺では三木おろし、そして三木後の政権構想がうごめき始める。また三木に対する批判を強めていた田中前首相、そして大平大蔵大臣らが三木退陣への動きを強めつつあった。このような中、まず3月11日にフォード大統領から三木親書の返書が届いた。返書は資料の提供は行うが、あくまで司法による捜査に役立てるための提供であって政治的な利用は認めず、事件が解明されるまでは秘密扱いとするという内容であった。3月24日には三木親書を受けたアメリカ側の提案を受け、日米政府間で司法共助協定が結ばれた。協定では日本の検察に事件資料が提供されるとともに、アメリカ側の事件関係者に嘱託尋問を行うことが定められていた。こうして4月に入って日本の最高検察庁にアメリカ側からのロッキード事件関連資料が届けられた。 田中は4月2日の田中派総会の席で、ロッキード事件に関する自らの関与を否定する「私の所感」を読み上げた。翌日の4月3日、三木は記者会見の席で、刑事訴訟法第47条の但し書きについて述べた。刑事訴訟法47条では訴追に関する書類は公判開廷前の開示を禁じているが、但し書きに「公益上の必要その他の事由があって相当と認められる場合は、この限りではない」との例外規定を設けており、もし不起訴になった場合でも疑いがある政府高官名を公表することがあり得るとしたのである。なお三木に対して政府内の法律関係者は、刑事訴訟法第47条の但し書きについて触れないように助言していたというが、三木は自らの判断で記者会見で刑事訴訟法第47条の但し書き適用の可能性について明らかにした。 ロッキード事件の影響で国会の法案審議は停滞した。低迷していた景気回復を目指した財政特例法案は成立が困難となり、財界の三木離れも進んだ。このような情勢下で、これまで三木派、福田派、中曽根派で支えてきた三木政権から、福田派が離反の動きを見せるようになる。椎名は5月の連休明けに本格的に三木おろしに動き出した。椎名は田中、大平、福田と相次いで会談し、遅くとも通常国会が終了するまでに三木を退陣に追い込むことの合意を取り付けた。田中派、大平派、それに福田派までが三木退陣で合意すれば、党内の大多数の支持を失った三木の政権維持は不可能になり、椎名の三木おろし工作は成功するかに見えた。 しかし三木は猛然と反撃に打って出た。椎名が田中、大平、福田と三木退陣について会談した事実が明るみとなった5月13日、日経連の総会の席で「この難局処理は、四十年ひたすら議会制民主主義に捧げてきた私の政治生活の総決算だと覚悟している、中途半端に、私の使命と責任を放棄することは絶対にない」と宣言し、ロッキード事件究明と政権維持に断固たる決意を明らかにした。三木のロッキード事件徹底解明の姿勢は国民からの支持を集め、一時期低下した内閣支持率も持ち直してきていた。そのような中での椎名の三木退陣工作が明らかになると、世論から「ロッキード隠し」であるとの猛反発を浴びた。激しい世論からの反発に直面した椎名らは狼狽した。またロッキード事件の疑惑の渦中にあった田中と三木おろしについて合意し、三木内閣の有力閣僚である福田、大平が三木政権の退陣工作に乗るというのはいかにも筋が悪い話でもあり、結局椎名主導の三木おろしは失敗に終わった。 ロッキード事件の最中、三木を支えていた松野頼三政調会長らの説得を振り切り、自民党から河野洋平、西岡武夫ら6名が離党して新自由クラブが結党された。6月21日には三木と椎名が会談を持ち、三木体制下でロッキード事件の真相解明を進めることで合意した。この頃からロッキード事件による関係者の逮捕が始まった。椎名主導の三木おろしを乗り切った三木は、7月半ばには自らの手で総選挙を行う意欲を見せていた。 7月26日、選挙区である新潟県内の川で鮎釣りを楽しんでいた稲葉法相のもとに、法務省刑事局長から電話がかかってきた。電話の内容は田中前首相の逮捕状請求許可を求めるものであった、稲葉は起訴できるのか、公判維持は可能なのかを確認した上で許可を出した。稲葉は中曽根派であったが、派閥の長である中曽根にも知らせることなく、首相の三木にのみ田中逮捕の予定を知らせた。福田は三木から田中逮捕についての相談を受けなかったことに不快感を見せたが、大平、中曽根は連絡を事前に受けても困っていたと話していたという。 1976年(昭和51年)7月27日朝、田中前首相は逮捕された。田中の逮捕はいったん沈静化していた三木おろしを激化させた。福田は三木に対し、党幹部仲間の田中の首を切った血刀をぶらさげたまま政治はできないので、総辞職するように三木に勧めた。そしてとりわけ田中逮捕に憤りを見せたのが主を逮捕された田中派であった。田中派は田中前首相の逮捕により、もはや三木おろしがロッキード隠しと言われる筋合いが無くなったとして三木おろしへと走った。三木に対する憎悪や怨念に突き動かされた田中派は椎名に代わって三木おろしの中核を担うことになり、それにポスト三木を狙う福田派、大平派が同調し、更に中間派も争うように反三木の流れに加担した。三木はまず8月11日、12日と福田、大平と個別に会談を行い、反三木の流れを食い止めようとした。結局この会談の中で福田、大平とも三木を追い詰めることができなかった。 田中は8月17日に保釈されたが、目白の自宅に戻った田中の口から語られる三木に対する憎しみを、田中派議員たちは聞かされることになった。結局8月19日には田中、福田、大平の三派に中間派の自民党国会議員らが参加する、三木おろしを進める挙党体制確立協議会(挙党協)が結成された。挙党協は船田中を代表世話人とし、自民党全国会議員の三分の二以上が参加し、福田、大平を含む三木内閣の閣僚15名が参加した。 挙党協はまず両院議員総会の開催を要求した。三木執行部が要求を拒否すると挙党協側は8月24日に独自に両院議員総会を開催し、臨時国会召集前に党の刷新を行うことを決議した。しかし三木はあくまで退陣を拒否し、8月21日、23日の福田、大平との個別会談、そして24日、25日と行われた三木、福田、大平との三者会談の席でも、福田、大平の臨時国会前の退陣要求を拒否し、あくまで三木政権での臨時国会召集を主張した。なお、三者会談の席で三木は福田、大平の両名に「私が辞めた後、君たちのどちらが首相をやるのか?」と尋ね、福田、大平は「まだ決まっていない」と答え、三木から「後釜も決めずに私に辞めろというのか」と反撃された経過もあった。激しさを増すばかりの党内対立の中、中曽根幹事長らは妥協を模索するが、交渉は決裂した。もはや三木と挙党協との対決はのっぴきならない段階にまで陥っていた。 9月10日、三木はこれ以上臨時国会召集を遅らせることはできないとして、午前の閣議で10月に臨時党大会を開催することを盛り込んだ所信を表明した上で、夕方に改めて臨時の閣議を開催して臨時国会召集を閣議決定すると宣言した。三木は臨時国会を開催した上で衆議院解散を断行するつもりであった。しかし挙党協側の15名の閣僚は三木に激しく反発し、結局この日夕方からの閣議は5時間に及んだ。三木は15名の反対派閣僚を罷免して、三木を支持する5閣僚に3閣僚ずつ兼務させた上で臨時国会を召集し、解散に持ち込むことを検討した。実際に井出一太郎官房長官の指示で、閣僚罷免についての法律上、手続き上の問題を調べており、反対派閣僚を罷免した上での解散断行の手続きも進んでいた。しかし結局三木はその方法を選択することは無く、緊迫した閣議は井出官房長官の「まあ、お茶でも入れましょうや」のひとことで散会となった。 三木は15名の閣僚を罷免して臨時国会召集、解散というのはファッショと呼ばれる。民主主義のルールは守らなければならないとの考え方に基づき強硬策の採用を断念した。反対派閣僚を罷免した上で臨時国会を召集し、衆議院を解散して己の所信を国民に問うという方法を選択しなかったことについては、三木の政治家としてのバランス感覚を示すものとする見方と、強力な政治力が求められる強引かつ重い決断が必須な情勢であったのにもかかわらず、決断力不足という三木の政治家としての限界を示したものとの見方がある。 ところで自民党内の三分の二を越える反三木勢力に対峙せねばならなかった三木と同じくらい、反三木勢力側も重いジレンマに悩まされていた。もし三木が閣僚を罷免した上で臨時国会を召集して衆議院解散を断行した場合、総選挙では自民党の分裂が決定的となり、挙党協はロッキード隠し勢力と見なされて惨敗を喫しかねなかったからである。政権を失う可能性の高さを考えると、すでに首相を務め上げた上、ロッキード事件で逮捕されたことによる三木に対する怨念に取り付かれた田中や、領袖を逮捕されて三木に対する憎悪が強い田中派以外、このようなリスクを抱えながら三木退陣要求で突っ走り続けることには無理があった。特に福田、大平にとっては自らの首相への道を閉ざされかねず、強行一本槍の対応は取り得なかった。これは他の挙党協幹部にとっても事情としては同じであり、8月24日の両院議員総会の席では三木総裁解任を要求する田中派を抑えていた。結局三木と挙党協はぎりぎりのところで妥協が図られることになった。 9月11日の朝、中曽根幹事長と大平蔵相が会談し、中曽根幹事長から両院議員総会を開催し、首相から臨時国会では解散を行わない旨表明するとの提案がなされた。前日三木が反対派閣僚罷免という強硬策に出なかったこともあって挙党協側も妥協に転じており、大平は中曽根の提案を受け入れ、続く中曽根と福田の会談でも福田は中曽根案を受け入れた。福田、大平への根回しの後、三木、中曽根、保利、船田の会談が開かれ、三木と挙党協との激突による自民党の分裂は回避された。 9月14日に開催された両院議員総会の席で三木は、臨時国会で挙党的な協力体制のもと審議が進めば解散はないこと、10月に総選挙への体制固めを行うために臨時党大会を開催すること、そしてロッキード事件を党再生の契機とし、党の体質を一新することの三点を所信として述べた。結局三木は事実上解散権を封じられることになったものの、挙党協側から進退を強要されることは免れることができた。 田中前首相逮捕から約一週間後という、ロッキード事件の捜査が佳境に入った時期の8月4日の深夜、鬼頭史郎判事補が布施検事総長を名乗り、三木にニセ電話を掛けるニセ電話事件が発生した。検事総長を騙った鬼頭は、田中前首相の公判維持は困難であり、それよりも中曽根幹事長の疑惑が強まっていて、首相が指揮権を発動して捜査を止めるしかない状況であるとして、三木に指揮権発動の言質を取ろうとした。三木は鬼頭の策略に乗せられなかったが、結局秋になって事件が発覚し、鬼頭は判事補を罷免されることになる。また三木と挙党協側が激しい党内抗争の火花を散らしていた9月6日には、ソ連のミグ25戦闘機が領空侵犯した上、函館空港に強行着陸するベレンコ中尉亡命事件が発生した。ミグ25に乗っていたベレンコ中尉はアメリカへの亡命を求め、日本政府は亡命を認めた。またソ連が即時返還を要求したミグ25の機体は、米軍と共同で解体調査の上、ソ連側に返還した。 1976年(昭和51年)9月15日、三木は党役員人事と内閣改造を行った。党役員人事では、まず挙党協側から強い批判を浴びていた中曽根幹事長の交代が図られた。中曽根自身も三木政権はもう先が長くないと読んでおり、幹事長退任を了承した。そして椎名副総裁は辞任を拒否し留任となった。党三役について三木は当初、福田派であるがこれまで政調会長として三木を支えていて、政治力もある松野頼三を幹事長とし、中曽根派の桜内義雄を総務会長、大平派の内田常雄を政調会長とする人事案を考えていた。しかし三木への接近が目立つ松野の幹事長就任に福田、大平を始めとする反三木勢力が強く反発したため、結局内田幹事長、松野総務会長、桜内政調会長という陣容となった。 続く内閣改造では、挙党協に参加しなかった稲葉法相、永井文相、河本通産相、井出官房長官、坂田防衛庁長官は留任となったが、福田副総理兼経済企画庁長官、大平蔵相以外の挙党協参加の13閣僚はいずれも再任されず、しかも三木おろし最大の推進勢力であった田中派からの閣僚は、衆議院議員ではこれまでの3名から1名(科学技術庁長官の前田正男)へと減らされるなど、三木と挙党協との激しい権力闘争の中で、三木寄りの人物への論功行賞という色彩が濃い人事となった。 党役員人事と内閣改造後も三木と挙党協側との暗闘は続いた。三木はロッキード社から現金を受け取りながら、刑事訴追を免れた政治家たち、いわゆる灰色高官の氏名公表問題に頭を悩まされることになる。先述のように三木は4月3日の記者会見で明らかにしたように、刑事訴訟法47条の但し書きを援用して灰色高官の氏名公表を行うことを考えていた。しかし「公益上の必要その他の事由があって相当と認められる場合は、この限りではない」との例外規定の適用を判断するのは基本的に司法の領分であり、政府がこの但し書きに基づいて灰色高官の氏名公表に踏み切るのは法に対する政治の介入であるとして、三木の灰色高官名公表の方針には法務、検察当局からの強い反対もあった。 10月15日、稲葉法相は衆議院ロッキード問題特別委員会の席で、ロッキード事件で逮捕された田中角栄、橋本登美三郎、佐藤孝行以外に灰色高官は14名いると報告した。しかし野党側は稲葉の報告に納得せず、あくまで氏名を公表するよう迫った。結局三木は収賄の容疑が濃厚であるものの、時効ないし職務権限の関連で起訴が見送られた政治家の氏名公表に踏み切る決断をした。11月2日にはロッキード問題特別委員会の田中伊三次委員長から委員長提案として、時効で不起訴になった政治家、職務権限はないもののトライスター売り込みに関して金銭を授受した政治家について、政治的道義的責任があるとして氏名公表を行いたいとの提案を行った。これは政府が自らの判断で灰色高官名を公表せず、国会の要請に基づいて灰色高官の氏名を公表する形として、法務、検察当局からも受け入れ可能なものとする狙いがあった。 11月4日、ロッキード問題特別委員会は秘密会を開催し、稲葉法相は時効により不起訴となった政治家として福永一臣、加藤六月の二名、職務権限がないため不起訴とした政治家として二階堂進、佐々木秀世の二名の名を挙げた。この灰色高官名公表は挙党協側から強い反発を受けた。 挙党協側も体制固めを進めた。三木退陣後、福田と大平の間でどちらが次の首相となるのか決まっていなかったことが挙党協の弱点であった。結局ポスト三木は福田に一本化され、挙党協は10月21日に総会を開き、福田後継を正式に決めた。三木改造内閣は戦後初めて昭和51年度当初予算から赤字国債の発行を組み入れることを決め、また防衛費をGNP1パーセント以内とする方針とすることを閣議決定する。この二つの政策課題の決着を見届けた上、11月4日の臨時国会閉幕後、挙党協から次期首班とされた福田副総理兼経済企画庁長官は辞任した。このような動きの中、三木は12月には衆議院議員の任期満了が迫っている状況から、もう総選挙を前に党総裁を交代させる余裕はなく、全ては総選挙が決めると判断しており、挙党協の動きを気にしないようになっていった。 一方党三役は9月の両院議員総会で決まった10月開催予定の臨時党大会の扱いに頭を悩ませていた。しかし総選挙が迫る10月に臨時党大会を開催するのが非現実的であるとの認識は挙党協側も共有しており、10月29日、党三役と挙党協側の幹部が話し合った結果、臨時党大会は総選挙後、特別国会の開催前に行うことで意見がまとまり、総選挙は三木政権下で行い、総選挙後の体制は特別国会前に開催される臨時党大会で決める方針となった。11月6日の持ち回り閣議で、第34回衆議院議員総選挙を12月5日に行うことを決定し、戦後初の任期満了による衆議院議員総選挙となった。 ===総選挙敗北による退陣=== 激しい三木おろしを何とかしのぎ切り、自らの政権で衆議院選挙を行うことができた三木であったが、三木と挙党協との激しい対立によって自民党は事実上分裂選挙となった。挙党協は次期首相候補の福田を押し立て、派閥解消実行委員会という事実上の選挙対策本部を立ち上げ、三木執行部の党本部とは別個に候補者の地盤調整、資金援助を行った。選挙戦開始直後、三木は東京で第一声を挙げたが。福田は大阪で、ロッキード事件解明にかこつけて国民が期待する景気回復という仕事をなおざりにするのは許されないという趣旨の、三木の政治姿勢を痛烈に批判した第一声を挙げた。党本部は12日に日比谷野外音楽堂で演説会を企画したが、福田は現れなかった。また地方からは党総裁である三木の遊説を拒否するところも出た。このようにはっきりとした分裂選挙になってしまった自民党では、もちろん選挙の盛り上がりも欠けた。 第34回衆議院議員総選挙では、三木政権で改正された公職選挙法、政治資金規正法が適用された初の全国的な選挙となった。法改正の結果、選挙運動はこれまでのやり方から変更を余儀なくされたが、とりわけ政治資金規正法の改正と財界の三木離れの影響で、自民党の選挙資金調達は困難となり、結局前回総選挙の半分以下の金額しか集められなかった。 選挙戦終盤になって各種世論調査で自民党の苦戦が伝えられるようになると、自民党内にようやく深刻な危機感が生まれた。もし自民党が地すべり的な大敗を喫すれば、政権の座そのものから滑り落ちることになり、選挙後の政権が三木とか福田とかなど言っていられなくなるからである。投票を2日後に控えた12月3日、ようやく三木と福田は同じ自民党の選挙カーに乗って握手を交わすことになった。 12月5日の選挙結果は自民党の大敗となり、公認候補では過半数割れとなる249議席、保守系無所属の追加公認を加えてようやく過半数に達した。12月の総選挙時には、ロッキード問題を徹底追及する三木と、ロッキード隠しの挙党協という構図は色褪せたものになってしまっており、国民は三木と挙党協との争いは自民党内の醜い権力闘争と見るようになっていた。 総選挙直後、三木は選挙結果について責任を痛感していて、責任を回避するつもりはないとの内容のコメントを出し、退陣を示唆していた。その後真鶴の別荘に篭り、「私の所感」という文書を作成した。なお、私の所感執筆に三木は一週間かけたと伝えられている。12月17日、三木は私の所感を党三役に提出し、正式に退陣を表明した。所感の中で三木は退陣を表明した上で、長老政治の体質打破、ロッキード事件の徹底解明と金権体質、派閥抗争の一掃、全党員参加による総裁公選制度の採用という3点の自民党改革に向けての提言をした。 12月23日、自民党衆参両院議員総会で三木の総裁辞任が認められ、ただちに党大会に代わる位置づけの両院議員総会で満場一致で福田が新総裁に選任された。翌24日、三木内閣は総辞職し、首班指名選挙で福田が首相に指名され、福田内閣が成立した。 ===首相時の三木の生活と政治スタイル=== 三木は前首相の田中が利用しなかった総理大臣公邸での生活を選んだ。当初は首相就任直後の1975年(昭和50年)1月に入居予定であったが、公邸にはゴキブリとネズミが大量発生していて、とりあえず駆除をある程度行った上で、総理に就任して約4ヶ月後の3月になって三木は公邸に入居した。しかし相変わらずゴキブリは多く、食器もほとんど無くて来客対応にも事欠くありさまだったので、妻の睦子がとりあえず食器を揃えたという。また公邸は広いものの、書斎兼食堂兼居間のような日常私用する部屋が一つあって、あとは日本間、立派な応接間、客用の食堂などがあるという構造で、当時の首相公邸はあまり使い勝手が良くなかった。三木夫婦は三木の首相時代、通常月曜の朝から金曜の夕方まで公邸で生活し、金曜の夜には渋谷の南平台の私邸に戻り週末を私邸で過ごし、また月曜の朝に公邸へ戻るという生活をしていた。 また首相時代の三木の主席秘書官は、三木が大学時代に下宿をしていた下高輪の竹内君江家の子息、竹内潔であった。また他の秘書官には娘婿の高橋亘、報道担当には中村慶一郎らがいた。 前任者の田中が官僚を上手く利用していたのに対し、三木は官僚を積極的に活用せず、官僚外のブレーンを主に活用した。首相就任直後の三木の政治改革の方針を示した三木私案は、田中内閣の副総理を辞任した後に三木のブレーンである有識者らの意見を参考に取りまとめたものであり、独禁法改正案も小宮隆太郎らのブレーンの経済学者らの協力があったとされている。そして日米首脳会談でも平沢和重や国弘正雄らを活用し、ライフサイクル計画の立案には村上泰亮や小宮隆太郎らが係わっていた。これら三木のブレーンとなった学者の何名かは、大平政権、中曽根政権でも政権のブレーンとして活躍することになる。 三木政権では党の執行部は他派閥が握っており、三木派の人材不足もあって、政策の立案、調整や根回しは三木本人が行うことが多かった。三木は電話魔であり、自民党や財界ばかりではなく野党の幹部に至るまで、首相在任中の三木は、多い日には一日二、三十件の電話をかけていた。また三木は説得の手段として親書を送ることも多かった。演説に定評があった三木は、施政方針演説の原稿は各省庁の要望、専門家等の意見などを参考にしながらも、推敲を重ねて自らの政治姿勢を示すものにする努力を惜しまず、またテレビ出演や地方遊説に向かう最中も演説の推敲を続け、三木の鉛筆なめなめ病と揶揄されるほどであった。そして三木は一対一での説得を得意としており、三木おろしの際の福田、大平との会談でも三木の説得術の高さは遺憾なく発揮された。当時の政界には三木とさしで会うと危ないという言葉があったほどであった。 ===三木政権の位置づけ=== 三木は金脈問題で世論からの厳しい批判を浴び、退陣に追い込まれた田中政権の後に、金権批判をかわすことを目的とした緊急避難的な事情で首相に選ばれた。三木は自民党内では党内最左派とされ、少数派閥を率い、傍流とされていた人物であり、いわゆる保守本流が傍流の三木に政権を委ね、期待したことは、金脈問題という金銭スキャンダルで傷ついた自民党政権の、いわば管財人として政権を運営することであった。 しかしいったん政権を獲得した三木は、自民党内で期待された管財人的な役割を越え、自らの政治的な理想を追求しようと試みた。吉田茂によって基礎が固められた日本の保守政治は、1970年代に入って国際政治情勢の変化、高度経済成長のひずみなどの国内情勢の変化を受けて、変革が求められていた。三木は当時政権を担った三角大福というライバルたちとともに、己の得意な分野で変革が必要とされた保守政治の修正を試み、保守政治に新たな方向性を見いだそうとしたものと評価できる。特に政治学者の田中浩は、三木政権以降の保守政権の目玉政策が、1990年代以降の政権においても繰り返し取り組まれることになったことに着目し、三木政権の成立が吉田政権以降の保守政権からの一大転換期となったと評価している。 三木が保守政治の修正の中で特に力を入れたのが、政治改革と公正な社会の実現という分野であった。公職選挙法改正、政治資金規正法改正といった三木の政治改革への試みは不十分なものに終わったものの、後年の海部政権、宮沢政権、細川政権で見られた政治改革への流れを先取りしたものであると評価できる。また公正な社会の実現としては独禁法改正があったが、この試みは自民党内からの強い反発を受け、挫折した。三木政権は政治改革の面では一定の成果を挙げたが、戦後政治の枠組みまでに切り込む改革には失敗した。これは三木が保守政党である自民党内の革新派、いわばあくまで体制内の革新派であったという限界によるものと考えられる。また石川真澄は、三木以降誰も政治とカネの問題に本腰を入れて取り組もうとしないことを指摘しつつ、三木がその所属した自民党という保守体制内に与えた影響は極めて小さかったと断じている。 ===首相退任後の三木=== ====権力闘争が続く自民党と三木==== 三木の後を継いだ福田政権は、与野党伯仲の中での厳しい政権運営を強いられたが、福田、田中、大平三派に支えられ、党内での立場は比較的安定していた。三木派からは幹部の河本敏夫(三木内閣で通産相)が政調会長、続いて通産相を務め、要職を歴任する中で自民党内の実力者となっていった。福田は三木が政権退陣時に発表した「私の所信」を引き継ぎ、1977年(昭和52年)4月の自民党党大会で総裁選に全党員による予備選挙を導入することが決定された。 比較的安定していた福田政権であったが、内部では福田と幹事長となった大平との綱引きが進行していた。福田は衆議院解散、総選挙に打って出て、与野党伯仲状態を解消した上での総裁再選を狙った。しかし大平らの反対もあって結局解散総選挙は叶わず、1978年(昭和53年)11月に総裁選を迎えることになった。三木も総裁選に出馬する気持ちがなかったわけではないが、立候補したところで福田、大平の後塵を拝することは明らかであり、三木派内からも出馬の声は高まらなかった。しかし三木派から誰も総裁選に出馬しないとなると他派閥の草刈場となりかねず、三木派からは三木の打診で河本が出馬。福田、大平、中曽根康弘とあわせて、4人での対決となった。 ロッキード事件の裁判を抱えていた田中にとって、福田よりも盟友である大平の方が政権担当者として安心感があった。田中は大平への全面支援を決断し、田中派が中核となって全国の党員に対して大平への投票を働きかけた。三木は決選投票時には田中が支援する大平ではなく、福田の支持に回る予定であったと言われている。しかし11月27日の予備選挙開票の結果は大平が1位となり、福田は本選への出馬を辞退した。三木の「所信」から実現した全党員による総裁予備選は、結果として党員の末端まで派閥の系列化が進むという皮肉な結果をもたらした。 大平執行部において、三木派からは河本が政調会長になる。これを契機に三木から河本への派閥の継承が進むかと思われたが、三木は派の実権を握り続けた。大平は1979年(昭和54年)9月に衆議院を解散し、総選挙に打って出た。大平は財政難克服のため、一般消費税の導入を訴えた。しかし解散直後に日本鉄道建設公団の不正経理が明るみに出て、税金の無駄遣いに対する国民の批判が高まる中でも増税を唱える大平の姿勢に、世論や野党のみならず自民党内からも批判が殺到した。結局選挙戦の最中に大平は一般消費税を引っ込めざるを得なかった。10月7日の投票日は全国的に荒れ模様の天気となり、投票率は伸び悩んだ。自民党は前回のロッキード選挙を更に下回る248議席と惨敗を喫した。一般消費税問題と、低投票率が敗因と考えられた。 10月8日、三木は大平の選挙敗北責任追及の口火を切った。前回選挙の自身と同様、選挙敗北の責任をとって辞任するよう求めたのである。福田、三木、中曽根三派の議員たちが相次いで大平の辞任を要求し、大平の辞任をあくまで拒否する大平、田中両派との間にいわゆる四十日抗争が勃発する。大平は事態打開を図って三木、福田、中曽根と個別に会談するなどしたが結局両者の間の溝は埋まらず、大平、田中両派の主流派は大平を首相候補とし、反主流三派は、「自民党をよくする会」を結成して福田を首相候補とするという、同一政党から二名の首相候補が出るという異常事態となった。 11月6日、首班指名選挙の本会議を前に行われた「自民党をよくする会」の総会の席で、三木は「主流派との戦いは、力と道義との戦いであるとし、道義が数やカネの力に敗れてはならない」と主張し、総選挙敗北という国民の審判を受けても辞めようとしない大平と、数、そしてカネの力で大平を支える田中を痛烈に批判した。 首班指名選挙の結果、大平が福田を抑えて首相に選ばれた。首班指名選挙では分裂した自民党であったが、組閣、党役員人事では分裂は避けられ、これまで通りの各派閥均衡の人事が行われ、表面上いったん自民党内の混乱は収まった。ただし第2次大平内閣では三木派からの閣僚は、三木派内で主流派寄りの動きをした人物が選ばれ、更に阿波戦争のしこりがあって三木と関係が悪い後藤田正晴を入閣させるなど、三木や三木派にとって厳しい人事であった。三木や福田は引き続き、大平政権を継続させて自身の政治生命の継続、さらなる拡大を目指す田中に対して反発し続けることになる。 1980年(昭和55年)4月には、反主流三派が自民党刷新連盟(赤城宗徳代表世話人)を結成し、大平政権との対決姿勢を強めた。野党提出の内閣不信任案提出への対応を巡って、強硬論を唱える三木に対し、福田は自重するよう働きかけていた。しかし5月16日の不信任案採決当日になって、三木は衆議院第一議員会館の会議室に立てこもり、人を呼び集める事態となった。福田や中曽根、そして自民党刷新連盟の幹部も集結する中、本会議開会の時間を迎え、桜内義雄幹事長が二度に亘り説得を試みるものの、三木や福田は動こうとはしなかった。中曽根は不信任案採決寸前に本会議場に入ったものの、三木や福田らは動かなかった。結局69名もの自民党議員が採決を欠席したため、不信任案は可決されてしまった。 内閣不信任を受けて大平は衆議院を解散する。5月20日に反主流派は河本、安倍晋太郎を代表世話人として党再生協議会を結成し、大平執行部との対決姿勢を強めた。しかし衆議院解散は参議院議員通常選挙と時期が重なり、衆参同日選挙が行われることになり、参院選候補は派閥を横断した形での支援を要していた。そして党再生協議会の議員も落選を恐れるようになるなど、分裂の危機感に直面した自民党内には求心力が働くようになった。更には自民党分裂を嫌う財界の働きかけもあり、5月22日には執行部と党再生協議会の間に妥協が成立し、またしても自民党は分裂を免れた。 大平は選挙戦の最中に倒れ入院となり、6月12日に死去する。大平の急死はこれまでの激しい抗争とうって変わって自民党の団結をもたらし、弔い合戦の掛け声の中、6月22日の衆参同日選挙は衆参両院とも自民党が圧勝する。選挙後、大平派の幹部で総務会長を8期務め、党内調整役として定評があった鈴木善幸が政権の座に就く。 大平政権下での激しい党内抗争において、三木は福田とともに反主流派の先頭に立ち、田中、大平らの主流派と激しく対立した。三木には同一政党から二人の首相候補が出て、与党自民党議員の大量欠席によって内閣不信任案が可決するという事態を生み出した責任があるとの意見もある。 ===三木派の解散と河本派の結成=== 三木派内部では、三木の首相在任前後から幹部の河本敏夫が有力な総裁候補とみなされるようになっていたが、会長は三木が引き続き務めていた。河本は三木派を解散した後に河本派を旗揚げすることで代替わりをすることをもくろみ、衆参同日選挙の選挙中から派閥解消を訴えていた。また総裁予備選での党員票上積みを狙い、母校の日大の人脈を生かして系列党員の大量入党を進めていた。 1980年(昭和55年)6月22日の衆参同日選挙で自民党は圧勝した。選挙後の6月27日に三木派の総会が開かれた。三木はかねてから派閥の弊害を唱えており、三木派は他派と異なり政策集団であるとの自負もあったが、石田博英が派閥解消を強く主張したこともあり、三木は派閥解消の先陣を切るとして三木派の解散を表明した。しかし三木派の解散直後、河本は狙い通りに河本派を旗揚げし、結局三木派は河本派に代替わりした形となった。 ===政治浄化への執念と軍縮議連会長就任=== 三木は首相退任後も、初当選以来一貫して唱え続けてきた政治浄化に向けての活動を続けた。1979年(昭和54年)7月、三木は首相の大平に、カネのかからない選挙を目指した「選挙浄化特別措置法要綱」を提案した。そして1980年(昭和55年)1月号の政策研究誌上で、「政治再建元年」と題し、ロッキード事件後もカネにまつわるスキャンダルが続発している状況を踏まえ、道義的な感覚を持ち、カネによる政治を排することを訴えた。2月には、三木は自民党最高顧問となる。 1982年(昭和57年)8月、文藝春秋誌上で三木は「田中角栄君驕るなかれ」を発表した。これは三木の政治浄化に関する考えの集大成と言えるもので、政治が利権の手段と堕し、金権的な政治体質が蔓延している現状を憂い、政治とカネの問題を解決していくように訴えた。三木は田中にロッキード事件の論告求刑が行われた1983年(昭和58年)1月26日、再び政治浄化の必要性を訴えた。そして一審で有罪判決が下された10月12日、田中に対して議員辞職を促した。 中曽根政権下の12月18日に行われた第37回衆議院議員総選挙の結果、自民党は250議席と敗北した。三木は最高顧問として中曽根の敗北責任を追及したが、中曽根より「いわゆる田中氏の政治的影響力を一切排除する」との総裁声明が出された結果、中曽根に対する批判は鎮静化、続投となった。 1984年(昭和59年)の総裁選時、中曽根に不満を持つ鈴木前首相が中心となって二階堂進を擁立する工作が行われた。鈴木は二階堂を擁立することによって中曽根と田中の間を離間させることを狙ったのである。鈴木はまず福田に擁立工作を持ちかけ、中曽根の政治姿勢に不満を持つ公明党、民社党も工作に巻き込んでいった。三木もまたこの工作に同調したが、肝心の田中が反対したために頓挫し、中曽根が総裁に再選された。 三木は体力の衰えが明らかになってきた1985年(昭和60年)12月に、石川真澄を私邸に呼び、カネのかからない選挙のための法案を考えていると言って意見を求めた。これは脳出血で倒れる半年前のことであり、三木は政治生活の終盤に至るまで政治浄化に執念を燃やし続けていた。 また、平和運動にも積極的に取り組み、1983年9月、国際軍縮促進議員連盟の会長に就任する。三木は平和研究所を設立する構想を持っており、研究所開設時には、スウェーデンのパルメ首相と西ドイツのブラント元首相を日本に招くことを考えていた。そして三木政権で閣議決定した防衛費GNP1パーセント枠制限を1985年、中曽根政権が解禁しようとした際、福田、鈴木の首相経験者とともに反対を表明した。 ===議員在職50年と死去=== 三木は1984年(昭和59年)頃から体力の衰えが見られるようになった。しかしこの年の春から夏にかけて東南アジア三カ国歴訪と、スウェーデンの訪問予定があった。東南アジア歴訪ではタイのプレーム首相、インドネシアのスハルト大統領らとの会談を行った。東南アジア歴訪中も体調不良を見せていた三木は、帰国後も体調がすぐれなかったものの、軍縮議連会長として三木はスウェーデンを訪問、平和問題のエキスパートであったパルメ首相との会談を行った。スウェーデンから帰国した三木の打撃となったのが、明治大学の学生時代に下宿していた家の息子であり、三木の秘書を務め、そして参議院議員となっていた竹内潔の急死であった。竹内の葬儀の際に三木は立てなくなり、またこの頃から不眠に悩まされるようにもなり、軽井沢の別荘で静養に努めたものの、体力の衰えは明らかになってきた。 1985年(昭和60年)、三木は夏季、軽井沢の別荘でゆっくりと過ごし、大きな出来事もなかった。しかし1986年(昭和61年)2月5日、肺炎で緊急入院する。入院中にパルメが暗殺され、首相の中曽根から弔問に行って欲しいと打診があったが、体力に自信が持てなかった三木は断った。この頃には衆議院の解散総選挙への動きが出てきており、三木も3月15日にはいったん退院、出馬へ向けての準備を進めていたが、体力の衰えから、選挙活動に三木本人が出るのは難しいと考えられた。 6月2日に衆議院が解散するが、6月4日に三木は脳内出血で倒れ、国立医療センターに入院となる。三木は出馬するかどうか迷ったというが、選挙区での事情もあってすぐに辞めることも難しく、結局出馬した。選挙戦は娘の高橋紀世子が中心となって乗り切り、7月6日の第38回衆議院議員総選挙で三木は19回目の当選を果たす。 三木の入院は続いていたが、病状は夏を過ぎると幾分回復し、院外外出もできるようになった。1987年(昭和62年)4月に議員在職50年を迎える。三木は国会に登院して国会表彰の謝辞の演説を行いたいと、原稿を用意して演説の練習もしていたが、風邪を引き発熱したため出席は叶わなかった。三木は病気で国会に登院できないことを気に病んでいて辞職も考えていたというが、同僚の国会議員たちの意見もあって結局辞職しなかった。三木の体力は再び低下していった。 1987年(昭和62年)10月1日、国立医療センターから三井記念病院に転院する。この年の暮れ、すい臓に影があることが発見された。影はすい臓ガンであり、年齢や三木の全身状態から手術は不可能であった。ガンの進行は早くなかったものの、1988年(昭和63年)9月には肝臓に影響が出るようになった。11月13日には親族に目が離せない状態となったとの連絡があり、翌14日、三木は死去した。81歳だった。解剖の結果、すい臓からの出血が心不全を起こしたことが死因とされた。 ===葬儀と栄典=== 三木の死去後、三木の遺体は病院から国会前を通って自宅へと戻り、11月17日に芝の増上寺で三木家の葬儀が営まれた。続いて12月5日には日本武道館で内閣・衆議院の合同葬が行われ、更に12月25日には故郷の徳島市立体育館で県民葬が行われた。三木の墓は故郷である徳島県阿波市内の神宮寺にあり、分骨はされていない。 11月15日、三木に正二位大勲位菊花大綬章が贈られた。12月20日には土井たか子社会党委員長により、衆議院本会議の席で三木に対する追悼演説が行われた。そして1990年(平成2年)11月18日に衆議院名誉議員の称号が与えられ、11月28日には衆議院正面玄関に胸像が設置された。 ==人物と評価== 三木は極めて毀誉褒貶が激しい政治家であり、評価が定まっていない、ないしは評価の難しい政治家とされる。自由民主党総裁、首相まで務めた保守政治家でありながら、いわゆる進歩的な政治家、学者、ジャーナリストからの評価が高く、その一方で保守陣営からの評価が低いとする分析もあるが、そのような二分論では上手く整理できないとする意見もある。 ===政治理念、政治姿勢について=== 三木の政治姿勢の特徴として、初当選以来晩年に至るまで一貫して金権政治の打破、政治浄化を訴え続け、金儲けではなく理想の追求こそが政治家の仕事であると唱え続けていたことが挙げられる。三木のこのような姿勢は、利権や汚職まみれであると見なされていた多くの自民党議員とは異なり、国民から清潔な政治家とされることに繋がり、自民党に批判的な人々からも支持を集めることに成功した。三木の政治姿勢を示す言葉として、「議会の子」、「クリーン三木」があるが、議会の子は1970年代前半、クリーン三木は1974年(昭和49年)以降に用いられるようになったことが確認されており、田中金脈問題やロッキード事件によって政治とカネの問題がクローズアップされる中、金権政治に対抗する三木にふさわしいフレーズとして用いられるようになったと考えられる。 その一方で、三木は戦後小会派、そして保守合同後は自民党の小派閥に属しながら、多数派間にある対立を巧みに突き、したたかに政治的影響力を保持し続ける権謀術数に長けた面も指摘できる。社会党の水谷長三郎、または吉田茂が三木を評した言葉とされる「バルカン政治家」という言葉は、こうした三木の一面を表現したフレーズである。しかし三木はこの自らの政治姿勢を揶揄した「バルカン政治家」という言葉をも、「私はこれを汚名とは思っていない、むしろ理想を持ったバルカン政治家でありたい」と言い、少数派を率いながら理想に向かって邁進するという自己イメージに取り込んでしまう。 政治学者の北岡伸一は、このような三木の政治姿勢を、何か積極的な目標に向かって進むものではなく、行き過ぎにブレーキをかける政策を取る政治家であり、アンチテーゼはあってもテーゼや方法論に欠け、また強力な政治力を振るったり強引な政治手法を取ることもなかったと評し、更に政治資金規正法改正、独禁法改正などの三木の目玉政策について批判している。一方、やはり政治学者の若月秀和は、三木にとって政治は自らの理想を語り、追求していくことが全てであり、政治浄化に全力を傾注した結果、経済や外交といった国政の最重要課題がなおざりにされ、自民党の団結も阻害され、国政の停滞を招いたと批判している。なお三木の政治的治績が十分なものであるとはいえないとの評価は、三木の政治姿勢を評価する人たちにも見られ、内田健三は、政治腐敗が起きるたびに三木の政治理念は想起され、政治の原点として警鐘を鳴らし続けていると、三木の政治姿勢を高く評価した上で、党内基盤が脆弱であった三木にとって一政権一功業は望むべくも無かったとした。 小西徳應は、三木自身は現在の課題に対処しつつ、明日のことをしっかりと見据えた対策を取るのが政治であると考えていたとする。このような三木にとって、実現すべき理想を掲げ続ける強靭さとともに、理想とはかけ離れた社会の中でも政治家を続け、そして少しでも理想に近づけるために仲間や賛同者を募るための柔軟性を併せ持つ必要が生じ、理想と現実とが乖離している社会の中では、結果として矛盾だらけかついい加減でつかみどころが無い人物とも、信念を持った優れた政治家とも見られるようになったと分析する。そして三木にとって、妥協とはあくまで自らの理想に少しでも近づけるために行うものであり、いわゆる駆け引きとは根本的に異なるとする。このような三木の政治家像は、日本で一般的な調整型や妥協を行う政治家とは根本的に異なり、これが三木の評価を更に難しくしていると指摘している。新川敏光もまた、三木は政治家として理想主義者であり、理想を実現するための力、すなわち権力を求めるのはあくまで理想追求のためであって、そのための妥協、策略であったとした。このような三木は調整、管理タイプの指導者ではなく、理想に燃える目的追求型の政治家であったとする。三木が政治において理想の追求を第一としたという評価は、三木に批判的な政治学者にも見られ、先述の若月は、三木にとって政治は自らの理想を語り、追求していくことが全てであるとし、三木のことを「何をしたわけでもない」と評した御厨貴もまた、頑固で自分流を貫き、いつまでも理想を追うと評している。 小西以外にも、岡野加穂留、苅部直が、三木の日本の一般的な政治家と異なる面について注目している。岡野は三木を政治の決定過程において一種の緊張感、動のきわめてダイナミックな緊張状態を創り出し、その上で日本政界の近代化、政治そのものの近代化を目指し、状況の転換を図る政治家とした。三木のこのような特徴はアメリカ留学の中で培われたものとも考えられ、日本のなれあい社会、持ちつ持たれつ社会を色濃く反映した日本政界とは異質の、西欧型の論理に基づく政治家であるとも言え、戦後日本の政治過程では極めて異質な政治的体質の持ち主であったと評価した。そのため三木は現状打破の前向きの緊張状態を生み出す政治家として、拒絶反応を受けることになったと分析した。苅部は三木が福沢諭吉を尊敬し、付和雷同を廃して独立自尊の精神を人間の理想としていたことに着目し、三木の独立の姿勢が日本の政治風土の中では、崇高な孤独とならざるを得なかったと評している。 そして三木の政治理念として、1960年(昭和35年)の安保改定闘争後の保守政治の改革方法を巡って現れた、岸信介の系統である福田赳夫に代表される権威派、池田勇人やそのブレーンであった大平正芳や宮沢喜一に代表される経済成長優先派と並んで、石橋湛山の系列を引き継ぐ福祉国家派であったとする見方もある。三木らの主張は軍備を縮小し、その分を経済成長や途上国援助に回すべきとした。更に経済成長によって得られた財は福祉や教育に振り向け、中国、ソ連などとの友好関係の確立を通じて日本の安全保障を図るべきとも主張した。三木ら福祉国家派は、労働運動に組織されている労働者たちをこのような政策を実行に移すことによって自陣に引き込めると考えたのである。この見方によれば、三木は自らの政権で福祉国家的な政策転換を試みたが自民党内の主流派からの拒絶反応を受け、挫折したとする。 ===政治手法について=== 三木の政治手法の特徴としては、徹底的に時間をかけて相手を説得する方法を取ったことが挙げられる。三木はしばしば相手の腕や膝、太腿をつかみ、肩をゆすって熱心に説得を繰り返した。成田知巳社会党委員長は三木に説得されている間、ずっと太腿をつかまれていたため、足が痺れてしまったとの逸話も残っている。また学生時代を通じて弁論で鳴らした三木は、演説にも力を入れた。三木と長年政治活動を共にした井出一太郎は、三木の文章はセンテンスが短く簡潔であり、演説では繰り返しを多用し、国会を「こっくわい」、議会を「ぎくわい」と発音する徳島訛りも時々入るが、これも演説内のアクセントとなっていると見ていた。また自分自身の言葉で語りかけており、これがいわゆる「三木節」と呼ばれるゆえんであるとした。そして三木は演説など政治的発話を行うために、常にメモを作成していた。 三木は極めて言論を重んじており、一般聴衆などに向けての政治的発話では高邁さを、そして政治的会合や一対一での対話の席などでは相手を説得すべく粘っこさを見せた。もともと学生時代から弁論に長けていた三木であったが、言論が封じられる中で戦前の政党、議会政治が自壊していく姿を目の当たりにした三木は、戦前の反省からよりいっそう言論を重んじ、言葉を武器にした活動を見せるようになったと考えられている。また新川敏光は、言論で政治家となった三木にとって言論の力に対する信頼感が根底にあり、三木が理想主義者と呼ばれる真の理由は、三木の語った理想の中にではなく、理想を語る言論そのものへの信頼にあるとした。 三木政権時代、政調会長、総務会長を歴任した松野頼三は、三木の政治手法は独裁からほど遠く、総裁として意見を押し付けることは全くなかったと回想している。三木が強引な政治手法を取らなかったことについては、北岡伸一が政治の大きな刷新のためには強力な政治力、強引な決断が時には必要であるが、、三木はそのような決断をしたことがないとし、新川敏光もまた、目的追求型指導者としての見通しの欠如と決断力不足を批判している。一方、三木の側近から後に首相になった海部俊樹は、強引なことを行わない三木の政治手法を、民主主義のルールを守るものとして評価している。 ===協同主義、中道主義と三木=== 戦前から50年以上に及ぶ三木の政治生活の中で、三木の政治信条の一つとして協同主義が挙げられることが多い。三木の協同主義との出会いははっきりとしない点が多いが、三木の舅である森矗昶と繋がりがあった千石興太郎が大きく係わっていると考えられる。戦前、森コンツェルンは合成肥料製造に乗り出していたが、肥料の販路として千石率いる産業組合が名乗りを上げた。硫安などを製造する窒素工業は、当時としては高度の技術と設備を必要としたため、大資本でなければ手が出せず、製品も三井物産や三菱商事などといった大商社系が独占的に扱っており、新興の森コンツェルンが進出するのは容易ではなかった。しかし森矗昶は、産業組合との連携によって大資本独占に風穴を開けることに成功した。また三木は、徳島県の農村地帯選出の代議士であり、衆議院選挙初出馬時から産業組合の振興を政見に掲げていた。 三木は戦後まもなく発足した日本協同党への参加を、千石興太郎から勧められるが参加しなかった。これは近衛新体制に加担し、東條内閣時には率先して戦争遂行に加担したメンバーが多く含まれる日本協同党への参加を見送ったものと考えられる。三木は1946年(昭和21年)の第22回衆議院議員総選挙後に、協同民主党、国民協同党と、協同主義を標榜した政党に所属し、国民協同党では書記長、そして党首である中央委員長を務めた。国民協同党は民主党の野党派と合同して国民民主党に、そして改進党、日本民主党を経て自由民主党となるが、日本民主党に至ると綱領から協同主義は全く消え去った。政治学者の竹中佳彦は、三木にとって協同主義は中道主義とほぼ同義であり、自己の政治影響力の拡大や政権獲得のための手段として協同主義を利用した側面が強いとする。また小西徳應によれば、三木の協同主義は便宜上のもので、ほとんど評価しない人が多いと指摘している。 その一方で、中曾根康弘、そして三木の妻である睦子らは、三木の信条に協同主義があったとしている。睦子は三木の協同主義は農村部ばかりではなく、都市部の商工業者にも必要であると考えており、例えば戦後の露天商が集まって組合を結成し、それが発展した秋葉原電気街が三木の考えていた協同主義の成果であるとする。 協同主義は政党の結党哲学としての力を失い、戦後まもなく生まれた協同主義政党は消滅した。しかし協同主義から後の市民運動へ繋がっていく流れがあったとの指摘もあり、三木にとっても戦後の混乱期の協同主義活動を通じ、全国各地に地方自治体の首長、地方議員などを中心とした多くの人脈を形成することに繋がった。また戦前、アメリカ、ヨーロッパ各国への遊学、そしてアメリカ留学の中で三木が会得したアメリカやイギリスなどの自由主義諸国への共感と左右の全体主義に対する警戒心に加えて、資本主義的な搾取と左翼的な階級主義の双方を否定し、資本主義の枠内で社会的公正を求めるという、協同主義の中から見いだした中道主義を三木は生涯変わらず唱え続けることになる。 ===官僚との関わりについて=== 三木は決して日本の官僚のことを否定していたわけではなく、日本の官僚機構が国際的に見ても優れたものであることを認めていた。しかし三木が日本の官僚機構を評価していたのは、あくまで行政機関としての役割や機能に関する点であって、自民党など政党が官僚的に運営されることに反発した。三木がなぜ政党が官僚的に動かされることに反発したのかというと、三木が政治家としての道を歩み始めた戦前期、政党政治が没落して官僚超然主義の内閣が続く中で、泥沼の戦争に突入して国民に多大な犠牲をもたらしたことに対する深い反省があった。 政党政治と官僚政治との差について三木は、国民を代表して政治に当たる政党は、国民との血のつながりが絶たれれば生命力を失う反面、官僚は必ずしも国民との直接的な結びつきを必要としないとし、組織の性格が全く異なることを指摘した上で、国民とのつながりが政党の生命であり、国民から政治が遊離すれば政党政治は形ばかりのものになるとした。そして政治が官僚主義的に運用されるようになれば形式主義、権力主義がはびこるようになり、更に官僚政治は目前の問題に対処するいわば受身の政治であるのに対し、政党政治は目先を廃し、問題を本質的に捉え、対処していくものであると主張した。このような考え方を持つ三木は、政党が官僚的に運営されることに反対し、官僚的な政治を進めているとした佐藤栄作の三選、四選に反対し、更に派閥抗争や金権体質は党の官僚化が原因であるとして、三木が党の近代化を訴え続ける理由の一つとなった。 このような三木は、主に官僚外のブレーンとの対話を通して政策を立案していった。また三木本人と官僚との関係性も希薄であった。三木政権下、自民党の三木派内に所属する衆参両院議員のうち、高級官僚出身者はわずか3名であった。そして三木が首相時代の1976年(昭和51年)正月、目白の田中邸には多くの高級官僚が年始の挨拶に駆けつけたのに対し、渋谷南平台の三木邸には官僚の姿がほとんど見られなかった。また生粋の政党政治家である三木が自民党内で傍流政治家とされ、官僚出身者が保守本流扱いされていることに対し、政党政治の歴史の中では大隈重信や板垣退助の流れを汲む自らこそが保守本流であり、官僚政治は亜流にすぎないと自負していた。 ===政治改革について=== 1937年(昭和12年)に政界浄化を訴えて衆議院議員に初当選した三木は、その3年後に全ての政党が解散し、大政翼賛会が成立した経緯を目の当たりにした。三木は戦前の政党政治破綻の要因は、巷間言われるような軍部の圧力ではなく、政党が腐敗して国民の信頼を失ったことにあると見なしていた。従って三木は政党政治を守るため、清潔な政治の実現が必要であるという固い信念を持つようになった。 小西徳應は、三木の政治家としての目標は、目覚めた国民が正統な手続きに則って優れた代表を選び、その国民の代表が政党を組織して安寧な国民生活を送れるような政治を行うことにあり、いわば三木は民主主義の実現という極めてあたりまえのことを主張しており、その目標に向かって終生政治活動を行い続けたとしている。真の政党政治の確立のため、三木にとって政治浄化は不可欠の条件であり、このため終生政治改革を訴え続け、ロッキード事件時には事件の徹底究明を目指し、カネと情による政治、日本的な共同体意識、仲間内意識のようなものに支えられた田中擁護の声との全面対立に陥った。 三木のこのような姿勢については、たとえ首相経験者であれ「悪は悪として処断すべき」との断固たる姿勢を貫き、重圧をはねのけて田中を逮捕したことを三木最大の政治上の功績であるとする意見、自民党内多数の反発を押し切ってロッキード事件をうやむやに終わらせなかったことを三木内閣第一の業績に挙げるといった評価する意見がある反面。田中を逮捕にまで追い込んだことが最良のやり方であったのか疑問とする意見、そして政治浄化に傾注した結果、他の国政の重要課題への対処がおろそかになり、国政の停滞を招いたことを批判する意見がある。 ===交友関係など=== 三木は戦後まもなく、お互いの家が近かったこともあって南原繁との交流があった。その後南原の弟子にあたる丸山真男とも交流を深め、三木が吉祥寺に住んでいた頃はお互い近所同士となったこともあって、安保改定問題などについてしばしば熱心に語り合った。三木と南原、丸山との関係は、政治家とブレーンといった関係ではなく、純粋に親しく思うところを語り合っていたという。 三木の妻、睦子によれば、三木の学生時代からの親友は国民協同党以降、政治活動を共にした松本瀧蔵、外交官出身のジャーナリストであった平沢和重、そして福島慎太郎であったという。三木の片腕としてGHQとの交渉を一手に引き受けた松本瀧蔵は1958年(昭和33年)、三木の外遊にはほとんど同行した平沢和重は1977年(昭和52年)に死去するが、三木のアメリカ留学時にロサンゼルス領事館補として赴任していた福島との交流は、アメリカ留学時から三木の晩年まで続き、福島が1987年(昭和62年)に死去した際、すでに病床にあった三木はひどく落胆した。 三木を支えた政治家の同志として代表的な人物は、国民協同党以来、終生三木と政治活動を共にした井出一太郎が挙げられる。また、福田派から三木政権の政調会長、総務会長となった松野頼三は三木の政治姿勢に共鳴し、自民党内から様々な反発を受けた三木政権を最初から最後まで支え続けた。また三木との関係が深かった異色の政治家として石田一松がいる。石田は昼は国会議員として活躍しながら、夜は芸能活動を続けていた。あるときアメリカの友人から贈られた似合わない洋服を三木が無理して着ていたところ、石田が羨ましそうに見ていることに気づき、プレゼントしたというエピソードが残っている。 そして昭和20年代から30年代にかけて三木と政治活動を共にしていた河野金昇の秘書となり、1958年(昭和33年)の河野金昇の急死を経て、1960年(昭和35年)に昭和生まれ初の国会議員となった海部俊樹は、三木を政治の師と仰ぎ、1989年(平成元年)に自民党総裁、首相となった。 ===徳島県政への影響力=== ====影響力の確立と変遷==== 三木は1947年(昭和22年)の第23回衆議院議員総選挙以降、党の要職や閣僚を歴任するようになり、選挙中にあまり徳島へ戻れなくなってしまった。同選挙の約一ヶ月前には三木の母、タカノが死去し、母の葬儀もそこそこに選挙戦に突入したが、妻の睦子が中心となって選挙区を回り当選する。 三木本人が徳島入りが出来なくなると、徳島県政に三木の影響力を強める必要性が増した。しかし1947年(昭和22年)の徳島県知事選(民選第1回)では、国民協同党の同僚同士であった三木と岡田勢一が別の候補を推薦して票が分裂、社会党の阿部五郎が知事に当選した。当時三木も岡田も国民協同党の幹部であり、三木はまだ岡田を抑えるだけの実力は無かったのである。続いて1951年(昭和26年)の選挙では、三木は社会党の蔭山茂人を社会党離党を条件に推薦した、しかし岡田は徳島市長原菊太郎を推薦、再び対立した。原は岡田や秋田大助という三木以外の衆議院議員との関係が深く、更に徳島県内の三木の有力支持者である長尾新九郎との関係も悪く、三木としても知事に推すことはできなかったのである。このときの知事選も票が分裂、自由党推薦の阿部邦一が当選した。結局昭和二十年代、三木は擁立した候補を知事にすることができず、徳島県政への影響力は十分なものとはならなかった。 1955年(昭和30年)の第3回選挙に向けての対応で、2期連続分裂選挙の不手際を犯した三木と岡田はともに自重していた。改進党徳島県支部の候補者選定では1953年(昭和28年)の第26回衆議院議員総選挙で落選した秋田などが候補として挙がっていたが、1954年(昭和29年)4月、前回落選した原が再出馬を表明、改進党徳島県議団は原擁立に流れた。原と遠い三木与吉郎と三木武夫は秋田擁立に動いたが、秋田は自身と近い原との衝突に消極的で、更に県政への転出よりも国政復帰を目指していた。結局原が改進党の知事候補となって、現職の阿部を破った。三木にとっては秋田や岡田と親しい原の知事就任は不本意さの残るものであった。 4年後の1959年(昭和34年)の知事選は、現職の原が無投票で再選された。原は新産業都市の指定などで自民党の有力議員である三木の協力を必要とするようになり、三木にとっても徳島県政に対しての影響力強化のため原との関係強化を図っていた。そのため、1963年(昭和38年)の知事選を迎える頃には原と三木との関係は以前よりも密接なものになっていた。 同年4月の知事選では原が3選を果たしたものの、同年12月に脳出血で倒れ、後継者問題が浮上した。後継候補にまず挙げられたのは三木与吉郎参議院議員と武市一夫副知事であった。1964年(昭和39年)6月に原が公務に復帰したためいったん知事後継問題は沈静化したが、1965年(昭和40年)8月、知事辞職に至る。この間、三木与吉郎は第7回参議院議員通常選挙(1965年7月)で当選しており、知事候補から外れていた。そこで武市が知事後継者として有力となったが、武市は秋田の系列であったため、三木は知事に擁立するつもりはなかった。 三木の意中の人物は衆議院議員の武市恭信であった。武市恭信は貞光町の町長を務めた後、1953年(昭和28年)の第26回衆議院議員総選挙と1960年(昭和35年)の第29回衆議院議員総選挙に出馬するもいずれも落選、1961年(昭和36年)に三木が科学技術庁長官に任命された際に秘書官となった後、1963年(昭和38年)の第30回衆議院議員総選挙に、三木から資金面と地盤の援助を受け、ようやく衆議院議員初当選を果たしていた。三木は徳島県議の約三分の一を自らの系列議員とし、続いて直系の知事を誕生させることによって県政支配を完成させようともくろみ、出馬に乗り気ではなかった武市恭信を強く説得、知事選出馬にこぎつける。一方の武市一夫は、武市恭信が自民党公認候補と決定した後も原が出馬を勧めたこともあり、出馬の検討を進めていたが、結局当選の見込みが立たないため出馬を断念した。 三木の強引ともいえる武市恭信の知事選擁立に対し、徳島県選出の他の国会議員は反対できなかった。かつて三木と対立した岡田は、1955年(昭和30年)の第27回衆議院議員総選挙に落選して政界から引退していた。三木与吉郎はある程度の力を有していたものの三木の実力に及ばず、紅露みつは三木の直系であった。そして秋田大助、小笠公韶は当落を繰り返していて三木のライバルとはなり得ず、森下元晴は1963年(昭和38年)の第30回衆議院議員総選挙で当選したばかりであった。また衆議院議員にとって武市恭信の知事転向は選挙区のライバル減少に繋がり、とりわけ秋田は武市恭信と選挙区の地盤が重なるため、武市恭信の知事転出の利益は大きかったのである。選挙戦では三木武夫自らが選挙対策本部長に就任、現職の通産大臣でありながら徳島入りして武市恭信の応援を行う。10月5日の投票は武市恭信が当選を果たし三木直系の知事が誕生、三木の県政への影響力は全盛期を迎えた。 ===阿波戦争=== 以降、徳島県政は三木武夫の天下が続き、県知事となった武市恭信は1969年(昭和44年)、1973年(昭和48年)の知事選でいずれも再選を果たす。しかしやがて、三木の徳島県政支配に対する不満がくすぶりだす。1971年(昭和46年)の第9回参議院議員通常選挙において三期務めた三木与吉郎が引退を表明し、後継として直近の総選挙で落選した小笠公韶を推薦したが、三木武夫直系の久次米健太郎参議院議員が県連会長を務めていた自民党徳島県連は、三木武夫派の県議であった伊東董を公認候補とした。選挙戦は公認を得た伊東と無所属で出馬した小笠がともに出馬、三木武夫は伊東を支援したが、結局小笠が大差で当選を果たした。この時の選挙戦でのしこりが反三木武夫・久次米派を生むことになり、阿波戦争の遠因となった。 1974年(昭和49年)の第10回参議院議員通常選挙では久次米が再選を目指し出馬したが、元警察庁長官で、田中内閣の官房副長官を務めていた後藤田正晴も出馬することになった。三木は後藤田に対して全国区からの出馬を勧めたが、後藤田の徳島県選挙区からの出馬の意志は固かった。自民党徳島県連には久次米と後藤田から公認申請が出されたが、結局後藤田が公認され、久次米は無所属で出馬することになり、2期連続で分裂選挙となった。阿波戦争と呼ばれる激しい選挙戦では後藤田陣営に地元警察の動員がなされたとも言われ、三木が警察庁長官に直接警告する事態にまで発展した。田中は3回も徳島入りして後藤田陣営のテコ入れを図ったが、久次米陣営を支援する三木派も国会議員が徳島入りして応援に走り回った。激しい選挙戦の結果、久次米が後藤田を振り切り当選を果たした。 敗北した後藤田は三木政権下での1976年(昭和51年)12月の第35回衆議院議員総選挙で当選、以後、反三木の動きの中核となる。 ===徳島県政への影響力低下=== 同総選挙の敗北の責任を取り三木政権は退陣、それからまもなく、徳島における三木の影響力の低下が見られるようになった。1977年(昭和52年)の知事選で、武市が4選出馬を表明するが、前年に始まった自民党県議団の分裂騒ぎもあって、保守系県議は賛成派と反対派に割れた。県選出国会議員も、三木と久次米は武市支持、後藤田と小笠は不支持、森下元晴は当初中立、後に武市支持となった。また社会党衆議院議員の井上普方は後藤田の甥であり、やはり反武市派となり、公明党の広沢直樹も反武市派であった。このような中、保守系の反武市派県議と革新陣営は共同で県議会に武市知事4選出馬断念勧告決議案を提出、可決され、県政刷新議員連盟を組織する。武市県政批判を強めていた徳島新聞の森田社長も後押しした。同連盟は、三木申三(無所属)を知事候補に共同擁立した。三木申三は、かつて翼賛選挙時に翼協推薦候補となったものの三木武夫に破れ落選した三木熊二の三男であった。 一方、武市は自民党に公認を申請したが、当時の県連会長は反武市派の小笠であり、県連は武市が1974年の参院選で無所属の久次米を応援したことを理由に、公認に難色を示した。武市支持派は県連総務会開催を強行し、公認を決定するに至った。この決定の有効性をめぐってもごたごたが続いたあげく、自民党本部からは武市は公認ではなく自民党の党籍証明を出す妥協案が提示され、最終的に福田赳夫総裁名で徳島県選挙管理員会に政治団体確認書を提出することによって、武市は公認候補とはならなかったものの、知事選で自民党を名乗れることになった。三木武夫は武市を応援したが、知事選は激戦となり、結局わずか約1500票差で武市が4選を果たした。直系の武市がここまで苦しい戦いを強いられたことは、三木の徳島県政への影響力の衰退を象徴していた。そして1979年(昭和54年)の第36回衆議院議員総選挙で、三木は戦後ずっと守ってきていたトップ当選の座を明け渡す。 1981年(昭和56年)の知事選で、武市は5選出馬を表明、三木申三もリベンジで出馬する。自民党県連は森下元晴会長の一任で武市に後任を出し、党本部もそれを認めたが、自民党内の反武市派は公然と反発して三木申三への支持を表明し、自民党はまたしても分裂選挙となった。三木申三は前回と同じく、自民党以外の政党にも支持を広めるべく無所属での立候補を選択し、社会党を始めとする各党はなだれを打って三木申三支持を表明した。 三木武夫は武市への支持を続けたが、三木派の県議の中にも、前回の知事選に辛勝した段階で5選出馬はないと考えていた者がいたくらいで、武市に対する多選批判は厳しかった。結局知事選では三木申三が約3万2000票差で武市を破り、三木武夫は直系の知事を失った。直系の知事を失った三木の徳島県政への影響力は衰退の一途を辿った。三木申三知事就任後、徳島県議会では後藤田派の県議が増加し、三木派の県議の中にも三木申三知事に表立って反対しない県議が現れるようになった。1985年(昭和60年)の知事選では、再選を目指す三木申三に対し、三木武夫は自派の人物を対抗して擁立することはなく、三木派の県議の多くは、秋田大助系の山本潤造(徳島市長を辞職)の支援に回ったが、山本を支援しない三木派の県議もおり、三木申三は山本を破って再選を果たす。三木武夫はその3年後の1988年(昭和63年)に死去する。 ===趣味=== 三木は政治以外、熱中して何かに取り組むことはほとんど無かったというが、1955年(昭和30年)、三木が運輸大臣を務めていた際に、海上保安庁長官の島居辰次郎から絵を描くことを勧められたことがきっかけで、三木は絵を描くようになった。そして三木が首相を辞めた後は、三木派の国会議員でもともと絵の先生であった野呂恭一、そして野呂の同級生であった画家の松木重雄らと絵を描くようになり、また平山郁夫からも絵の手ほどきを受けた。もっとも不器用な三木は絵を描く時にそこいらじゅうを汚してしまうので、妻の睦子が側にいて手助けをするのが常であったという。 また三木は結婚直後から、妻睦子の母である森いぬの所に毎週火曜日通わされ、習字の稽古をさせられた。これは結婚当初、三木のあまりの悪筆を見たいぬが、字があまりにきたないので習いに来るように言いつけたことがきっかけであった。義母のいいつけに対し、三木は最初はタイプライターで字を書くから良いと言っていたものの、タイプライターの字なんか貰っても誰も喜ばないと説得され、結局いぬが存命中は毎週火曜日、習字の稽古を行うことになった。稽古の結果、三木はそれなりの字を書けるようになり、揮毫なども行えるようになった。 ==家族・親族== 三木武夫の妻である三木睦子は、森コンツェルン総帥森矗昶の二女として生まれた。睦子は新聞記者たちから賢夫人と呼ばれ、記者たちは夫以上に宰相の器であると言い合っていた。また三木は自宅では身なりに構うことなくよく食べこぼしをするので、子どもに対するように睦子がよだれかけをかけさせていたという。三木の自宅には結婚前から書生、そして国会議員らが常に出入りしており、いわゆる夫婦水入らずの生活を送ったことはない。このような中で睦子は料理上手にもなり、海部俊樹の回想では朝は三木の好物であるパンケーキを焼き、蜂蜜をたっぷりとかけた上に、カリカリに焼いたベーコンを添えたものが食卓に出たといい、睦子によればアメリカへの留学経験からか、三木は朝食は亡くなるまでパンケーキで通し、終戦直後の物不足の時でもうどん粉を田舎から取り寄せ、うどん粉に粉ミルクを混ぜた粉でパンケーキを焼いた。なお、睦子は「九条の会」活動の呼びかけ人としても知られている。 三木の長女である高橋紀世子は、1966年(昭和41年)に医者の高橋亘と結婚した。三木は一人娘の父親らしく娘を嫁に出すのを逡巡したという。なお娘の結婚について三木が寄せた手記の中で、「嫁ぐ娘に対する祝辞の中で、紀世子が父親の三木の顔を利かせようとしたことは一度も無かったと言われたのが最も嬉しかった」と書いており、この逸話は三木が権威的なもの、特権的なものを嫌うことを示している。その後、三木の娘婿の高橋亘は三木の秘書となり、紀世子は選挙のたびに徳島へ行き、父親の選挙の手伝いをよく行うようになり、三木の死後、徳島県選挙区の参議院議員を一期務めた。そして長男啓史は三木と親しい高碕達之助の孫と結婚する。三木と交際があった作家の井上靖を仲人として結婚式が行われることになったが、折悪しく激しかった三木おろしが一段落し、三木が党三役の改選と内閣改造を行う日にぶつかってしまい、結婚式には参加できず披露宴もいよいよ終わる頃になり、三木がいないのでやむなく井上靖が新郎父親のお礼の挨拶を代わりにやろうかというところに、ようやく三木が駆けつけた。なお、高橋亘の兄弟と三木派重鎮・河本敏夫の娘が結婚しており、三木と河本は縁戚関係でもある。 睦子の兄に森曉、森清がおり、森美秀は弟、森英介は甥にあたる。また、睦子の姉の安西満江は、昭和電工会長などを歴任した安西正夫の妻である。高橋の実子で、武夫の孫に当たる三木立は、睦子の養子となり、1996年(平成8年)の衆院選に出馬したが落選している。立は、のちに紀世子の秘書を勤めた。なお、同じ四国の香川出身で自由民主党に所属した衆議院議員・三木武吉とは名前まで似ているが、縁戚関係は一切ない。 岳父:森矗昶(実業家・政治家。森コンツェルン総帥、衆議院議員などを歴任)妻:三木睦子(市民運動家。中央政策研究所理事、国際教育交流協会理事長などを歴任)義兄:森曉(実業家・政治家。昭和電工社長、衆議院議員などを歴任)義弟:森清(実業家・政治家。昭和火薬社長、衆議院議員、総理府総務長官などを歴任)義弟:森美秀(実業家・政治家。東亜精機社長、衆議院議員、環境庁長官などを歴任)長女:高橋紀世子(政治家。参議院議員などを歴任)長男:三木啓史(実業家。東洋製罐社長などを歴任)二男:三木格義甥:森英介(政治家。衆議院議員、法務大臣などを歴任)義甥:松崎哲久(作家、政治家。衆議院議員などを歴任)孫:三木立(政治家秘書、藍染作家)彼自身は一人っ子のため兄弟はいない。(歴代内閣総理大臣の中で唯一の一人っ子である。) ==年表== 1907年(明治40年)3月17日:徳島県板野郡御所村吉田字芝生にて、三木久吉、タカノの一人っ子として生まれる。1913年(大正2年)4月:御所村立尋常小学校に入学。1920年(大正9年)4月:徳島県立徳島商業学校に入学。1925年(大正14年) 7月:徳島商業学校で発生した全校ストを先導したとして退学処分を受ける。 9月:中外商業学校に編入。7月:徳島商業学校で発生した全校ストを先導したとして退学処分を受ける。9月:中外商業学校に編入。1926年(大正15年)4月:明治大学専門部商科に入学。1929年(昭和4年)4月:明治大学法学部に入学。1930年(昭和5年)9月:約一年半の欧米への遊説旅行に出発。1932年(昭和7年)5月:アメリカ留学に出発。1936年(昭和11年)4月:アメリカ留学から帰国、明大法学部に復学。1937年(昭和12年) 3月:明治大学法学部卒。 4月:第20回衆議院議員総選挙に徳島二区から立候補し、初当選する。3月:明治大学法学部卒。4月:第20回衆議院議員総選挙に徳島二区から立候補し、初当選する。1938年(昭和13年)2月:衆議院の同僚議員たちと対米同志会を結成し、日比谷公会堂で行われた日米親善国民大会の席で日米非戦を訴える。1940年(昭和15年)6月:森コンツェルンの総帥、森矗昶次女の森睦子と結婚。1942年(昭和17年)4月:翼賛選挙に翼賛政治体制協議会非推薦で当選。1945年(昭和20年)5月:軍需省参与官就任。1946年(昭和21年) 3月:第22回衆議院議員総選挙で3回目の当選。 6月:総選挙後に加入したばかりの協同民主党で、総務委員の一人となる。 8月:協同民主党全国大会で筆頭常任中央委員となる。3月:第22回衆議院議員総選挙で3回目の当選。6月:総選挙後に加入したばかりの協同民主党で、総務委員の一人となる。8月:協同民主党全国大会で筆頭常任中央委員となる。1947年(昭和22年) 3月:国民協同党が結成され、書記長となる。 6月:片山内閣に逓信大臣として入閣。同月、国民協同党の党首である党中央委員長に就任。3月:国民協同党が結成され、書記長となる。6月:片山内閣に逓信大臣として入閣。同月、国民協同党の党首である党中央委員長に就任。1948年(昭和22年)10月:芦田内閣総辞職後、首相候補の一人となり、ダグラス・マッカーサーから首相就任を打診されるが断る。1950年(昭和25年)4月:国民民主党結成、最高委員に就任。1951年(昭和26年)1月:国民民主党幹事長に就任。1952年(昭和27年)2月:改進党結成。幹事長となる。1953年(昭和28年)2月:改進党幹事長退任。1954年(昭和29年) 11月:日本民主党結党に参加。 12月:第1次鳩山一郎内閣で運輸大臣に就任。11月:日本民主党結党に参加。12月:第1次鳩山一郎内閣で運輸大臣に就任。1955年(昭和30年)11月:自由民主党結成に参加。1956年(昭和31年)12月:石橋湛山の自民党総裁選勝利に貢献し、自由民主党幹事長就任。1957年(昭和32年)7月:自由民主党政務調査会長就任。1958年(昭和33年) 6月:科学技術庁長官兼経済企画庁長官就任。 12月:岸首相の強権的な政治手法に反発し、閣僚を辞任する。6月:科学技術庁長官兼経済企画庁長官就任。12月:岸首相の強権的な政治手法に反発し、閣僚を辞任する。1961年(昭和36年) 7月:第2次池田内閣に、科学技術庁長官、原子力委員長として入閣。 10月:自民党組織調査会長就任。7月:第2次池田内閣に、科学技術庁長官、原子力委員長として入閣。10月:自民党組織調査会長就任。1963年(昭和38年) 7月:自民党政務調査会長就任。 10月:自民党組織調査会長として、自民党の近代化についての提言をまとめた「三木答申」を提出。7月:自民党政務調査会長就任。10月:自民党組織調査会長として、自民党の近代化についての提言をまとめた「三木答申」を提出。1964年(昭和39年)7月:池田勇人総裁三選に協力し、自民党幹事長就任。1965年(昭和40年)6月:通商産業大臣就任。1966年(昭和41年)12月:外務大臣就任。1968年(昭和43年) 10月:自民党総裁選出馬のため外務大臣を辞任。 11月:総裁選で107票を得て、前尾繁三郎を上回る二位となる。10月:自民党総裁選出馬のため外務大臣を辞任。11月:総裁選で107票を得て、前尾繁三郎を上回る二位となる。1970年(昭和45年)10月:2度目の自民党総裁選で、予想を上回る111票を獲得。1971年(昭和46年)7月:参議院議長選で河野謙三議長選出に尽力。1972年(昭和47年)7月:3回目の総裁選立候補で、四名の候補中最下位の69票と惨敗を喫するが、総裁選後に成立した第1次田中内閣に無任所相として入閣。 8月:副総理就任。 12月:環境庁長官兼任。8月:副総理就任。12月:環境庁長官兼任。1973年(昭和48年)12月:政府特使として中東8カ国を歴訪し、日本に対する石油輸出制限措置撤回に尽力する。1974年(昭和49年) 7月:副総理兼環境庁長官を辞任する。 12月1日:椎名裁定で田中角栄の後継総理総裁に推挙される。 12月4日:自由民主党両院議員総会にて第七代自由民主党総裁に就任する。 12月9日:衆参両院にて第66代内閣総理大臣に指名され、三木内閣成立。7月:副総理兼環境庁長官を辞任する。12月1日:椎名裁定で田中角栄の後継総理総裁に推挙される。12月4日:自由民主党両院議員総会にて第七代自由民主党総裁に就任する。12月9日:衆参両院にて第66代内閣総理大臣に指名され、三木内閣成立。1975年(昭和50年) 8月:終戦記念日に靖国神社を参拝。 11月:パリ郊外のランブイエで行われた第一回先進国首脳会議に参加。8月:終戦記念日に靖国神社を参拝。11月:パリ郊外のランブイエで行われた第一回先進国首脳会議に参加。1976年(昭和51年) 2月:ロッキード事件発覚。 5月:椎名悦三郎副総裁らによる三木おろしが表面化するが、世論の支持を受けた三木が押し返す。 7月27日:田中角栄前首相が逮捕され、以後、三木おろしが激化する。 9月10日:5時間に及ぶ臨時閣議で三木支持派、反三木派が激しいつばぜり合いを演じる。 9月15日:三木改造内閣成立、自民党党役員改選が行われる。 12月5日:第34回衆議院議員総選挙で自民党は大敗する。 12月24日:三木内閣総辞職。2月:ロッキード事件発覚。5月:椎名悦三郎副総裁らによる三木おろしが表面化するが、世論の支持を受けた三木が押し返す。7月27日:田中角栄前首相が逮捕され、以後、三木おろしが激化する。9月10日:5時間に及ぶ臨時閣議で三木支持派、反三木派が激しいつばぜり合いを演じる。9月15日:三木改造内閣成立、自民党党役員改選が行われる。12月5日:第34回衆議院議員総選挙で自民党は大敗する。12月24日:三木内閣総辞職。1980年(昭和55年) 2月:自民党最高顧問に就任。 6月:三木派が解散となり、河本派が結成される。2月:自民党最高顧問に就任。6月:三木派が解散となり、河本派が結成される。1983年(昭和58年)9月:国際軍縮促進議員連盟会長就任。1986年(昭和61年)6月:脳内出血で倒れ入院する。1987年(昭和62年)4月:衆議院から衆議院議員在職50年を表彰される。1988年(昭和63年)11月14日:死去。81歳没。1990年(平成2年)11月:衆議院名誉議員の称号が与えられ、衆議院正面玄関に胸像が設置される。 ==演じた俳優== 小林恭治(『日本の戦後』、1977年)峰岸徹(『小説吉田学校』、1983年)梶哲也(『カックンカフェ』、1984年)※テレビアニメ。(劇場用アニメ)。有福正志(NHKスペシャル『未解決事件 File.05 ロッキード事件』、2016年) =死の勝利 (ブリューゲル)= 『死の勝利』(しのしょうり、蘭: De triomf van de dood, 英: The Triumph of Death)は、ルネサンス期フランドル地方の画家ピーテル・ブリューゲル(1525年? ‐ 1569年)による油彩画である。制作年は1562年頃と推定されている。マドリード・プラド美術館所蔵。 ==「死の舞踏」と「死の勝利」== 14世紀中頃にヨーロッパ全土を席巻したペストの大流行は、人々の死生観に大きな影響を与えた。有効な治療法もなく、現世のいかなる地位・武力・富も意味を成さず、あらゆる階級の人々が為す術もなく死んでいく社会情勢の中で、「メメント・モリ」(羅語:memento mori、「死を記憶せよ」)の警句が言い習わされるようになった。そして、キリスト教美術における教訓画として「死の舞踏」および「死の勝利」の様式が普及していった。 死の舞踏は、骸骨の姿で擬人化された「死」が生者に語りかけ、やがて老若男女や身分職業を問わずあらゆる人々の手を取り、踊りながら墓地すなわち死の世界へと導いていくという様式である。特にドイツの画家ハンス・ホルバインによる死の舞踏の木版画(1538年出版)は著名で、ブリューゲルにも知られていたと思われる。 一方、死の勝利は、骸骨姿の死があらゆる階級の生者へと襲いかかり、容赦なく蹂躙するという様式で、より恐怖や凄絶さにあふれたものである。このテーマは特にイタリアでフレスコ画として発達し、ピサのドゥオモ広場のカンポサントや、パレルモのスクラファーニ宮殿(英語版)、クルゾーネの教会などに作例が見られる。ブリューゲルは1552年にフランスのリヨンとスイスを経てイタリア旅行へ出発し、1554年ないし55年にアントウェルペンに帰るまでイタリア各地に滞在したが、このイタリア旅行の間に前述の壁画を始めとしたいずれかの「死の勝利」の作例を目にしていた可能性が高い。 この「死の舞踏」と「死の勝利」という2つの伝統的様式を融合して描かれたのがブリューゲルの作品である。本作には年記がないが、その世界観は初期フランドル派の先人ヒエロニムス・ボスの影響を受けつつもブリューゲル独自の解釈がなされていることから、近似の作例である『悪女フリート』や『叛逆天使の墜落』に近い1562年頃の制作と推定されている。現在の所蔵館であるプラド美術館には1827年に渡った。 ==作品各部== ===遠景=== 遠景では火山が噴火し塔が燃え上がり、また海上では複数の船が火災を起こしあるいは沈没している。空は暗く、それらの地域が既に死に制圧されたことが暗示されている。その遠方から、無数の死の軍勢が前方に進軍している。中央では人々が武器を取り死の軍勢に立ち向かっているが、全く歯が立たない。左右の丘では、斬首刑・絞首刑・車輪刑・火刑・猛獣刑など、様々な処刑方法で人々が命を奪われている。左側の丘では2体の骸骨が斧を振るって次々に木を伐採し、別の骸骨2体は木に吊るされた鐘を撞いている。 ===画面左前景=== 左下では見事な王冠や甲冑に身を固めた王が、砂時計を持った骸骨によって突然死を遂げ、彼が樽に溜め込んだ金貨・銀貨は別の骸骨にかすめ取られている。その右ではローブを着た枢機卿が、赤い帽子を被って彼のまねをした骸骨によって死の世界に連れ去られようとしている。母親は我が子を抱いたまま事切れ、赤子は犬の餌食にされようとしている。その背後では、髑髏を満載した荷車を牽く馬車が進んでいる。その車輪の下では幾人もの人が轢き殺され、荷車に腰掛けた骸骨はのんびりとハーディ・ガーディを奏でている。馬の蹄に踏みつけられようとする婦人の手には杼と糸切り鋏が握られているが、細い糸が鋏の刃に掛かって今にも切れそうであり、彼女の命運が尽きようとしていることを暗示している。 水辺では、人々が水に突き落とされ溺死させられている。首に重りを付けられた者、足を引っ張られ水へ引きずり込まれる者、抵抗するも複数の骸骨に突き落とされようとしている者らが見え、また数名の人々が網に捕らわれている。トーガをまとった骸骨達は、高らかに勝利のラッパを吹き鳴らしている。 ===画面右前景=== 大鎌を構えた騎馬の骸骨が人々に襲いかかり、慄く人々は将棋倒しになっていく。逃げ出す人々も、骸骨が落とし戸を上げて待ち構える巨大な箱罠に誘い込まれているに過ぎない。前景中央では、横たわった巡礼者が骸骨に喉を切り裂かれている。右手前では、遊興のテーブルに死がなだれ込んでいる。トランプやバックギャモンのボードはひっくり返され、道化師はテーブルの下に逃げ込もうとしている。剣を抜き抵抗を試みる男の前では、道化師のマスクをかぶった骸骨がワインを地に流し捨てている。テーブルの奥では、2人の夫人が食後の情事の戯画化で骸骨に抱きつかれたり、皿に盛った髑髏をすすめられたりして恐怖に慄いている。最も右下では、周囲の惨状とはかけ離れたかのようにカップルが音楽を楽しんでいるが、その背後にはヴァイオリンを弾く骸骨が迫っており、逃れられない終末からなお目を背けて享楽にふける人間への皮肉が込められている。 ==評価== 画家ブリューゲル及び本作の作風にはヒエロニムス・ボスの強い影響が指摘されるが、本作の荒涼とした焦土の幻想風景はボスとは異なるものであり、あの世の地獄を描いた画家がボスであるのに対し、この世の地獄を描いた画家がブリューゲルであると評されている。ブリューゲルの画業及びボスとの関連について、16世紀の画家・人文主義者ドミニクス・ランプソニウス(英語版)は『ネーデルラントの著名画家の肖像画集』(1572年)の中で、「このボスは誰なのだ。新たにこの世に生まれたヒエロニムスとは。師の才気に満ちた空想を模倣し……みるみる間に師を凌いでしまうほどの男とは。」と評している。 ブリューゲルの20数年後に生まれたフランドルの画家・詩人・伝記作家であるカレル・ヴァン・マンデル(1548年 ‐ 1606年)が250人以上の画家の生涯と業績を記した書『画家列伝(画家の書)』(1604年)には、ブリューゲルの評伝も記されている。マンデルはその中で、作品名を明記しないまま「ブリューゲルはまた……死に抗うあらゆる手段が描かれている作品……を制作した」と記しているが、その記述は間違いなく本作を指しているとも分析される一方、本作の描写はとても「死に抗う」ものとは言えず、確定はできないとの意見もある。 ブリューゲル研究を専門とする美術史家の森洋子は本作について、作中に描かれた拷問や処刑の方法は恐らく当時の実例でドキュメンタリーの迫力が生み出されているとともに、「死を記憶せよ(メメント・モリ)」という中世以来の教訓をイメージ化した最高の傑作であると評価した上で、天災・事故・民族対立・テロリズム・エイズ等の新たな疫病など、今なおいたる所で大量死が生み出される世界の中で、現代人にとっても示唆に富んだ痛烈な教訓画であると評している。 ==子による複製== 本作は、ブリューゲル(大ピーテル、ピーテル・ブリューゲル1世)の2人の息子、長男ピーテル・ブリューゲル2世(小ピーテル)と次男ヤン・ブリューゲルのそれぞれによって、複製画が制作されている。 小ピーテルの作品は1987年にアメリカ合衆国で偶然発見された。ルイジアナ州でピーター・パットナムという男性が交通事故で死亡した際、彼の遺品の中に含まれていたものである。ピーター・パットナムの母親ミルドレッドは、石油王ジョン・ロックフェラーの共同経営者サミュエル・アンドリューズ(英語版)の娘で、ミルドレッドは父の遺産を相続して基金を設立し、美術品の収集や寄贈を行っていた。洗浄・修復作業の結果、この複製画が小ピーテルの作であることと、1626年の制作であることが明らかになった。この制作年代については、前年の1625年に弟ヤンとその子ども達をコレラによって失った小ピーテルが、追悼のために制作したものとする説がある。また、作中に描かれた旗の中に「1526年」と描かれていることも注目された。父の作品では髑髏の入ったボウルが置かれていた画面右下のテーブルの上に、飾りつきのケーキが置かれる改変が加えられていることもあり、この絵は父大ピーテルの生誕100年を記念して描かれたもので、小ピーテルの作品はこれまで不確定であった大ピーテルの生年を1526年と確定させる手掛かりになるのでは、とする説も唱えられている。このアメリカで発見された小ピーテルの作品は発見後ミルドレッド・アンドリューズ基金が所蔵していたが、2000年に売却されたと言われ、現在は所在不明となってしまっている。 ヤンの作品は1597年の制作で、現在はグラーツのヨアネウム州立博物館(英語版)に所蔵されている。構図などはほぼ忠実な父の作品のコピーであるが、左下の王が父の作品では黒髪の壮年の人物なのに対し、息子たちの作品では白髪・白髭の老王となり、突然の死という意味合いが薄れているなど、細部や色彩には違いが見られる。 =ザクロ= ザクロ(石榴、柘榴、若榴、英名: pomegranate、学名: Punica granatum)は、ミソハギ科ザクロ属の1種の落葉小高木、また、その果実のこと。庭木などの観賞用に栽培されるほか、食用になる。 ==分類== ===属=== ザクロは、ザクロ属2種のうち1種である。 ザクロ属の種は、ザクロと、東アフリカのソコトラ島産のソコトラザクロ(Punica protopunica)の2種のみである。 ===科=== ザクロ属は、ミソハギ科に属す。 Koehne (1881, 1903) は、下位に卵形の果実をつける3属、ザクロ属・ハマザクロ属 Sonneratia ・ドゥアバンガ属 Duabanga をミソハギ科と区別し、それぞれ単型科とした。すなわち、ザクロ属は単型のザクロ科 Punicaceae とした。しかし Johnson and Briggs (1984) などにより、それらが系統的にミソハギ科に含まれることが明らかになった。 ===亜種=== ザクロは果実の色などから、2つの亜種に分けられる。 ===P. g. subsp. chlorocarpa=== トランスコーカサス産 ===P. g. subsp. porphyrocarpa=== 中央アジア産 ===栽培品種=== 非常に多くの栽培品種がある。 この一覧は未完成です。加筆、訂正して下さる協力者を求めています。ヒメザクロ P. g. ’Nana’ ==形態・生態== 葉は対生で楕円形、なめらかで光沢がある。初夏に鮮紅色の花をつける。花は子房下位で、蕚と花弁は6枚、雄蕊は多数ある。[果実]]は花托の発達したもので、球状を呈し、秋に熟すと赤く硬い外皮が不規則に裂け、赤く透明な多汁性の果肉(仮種皮)の粒が無数に現れる。果肉1粒ずつの中心に種子が存在する。 ザクロには多くの品種や変種があり、一般的な赤身ザクロのほか、白い水晶ザクロや果肉が黒いザクロなどがあり、アメリカ合衆国ではワンダフル、ルビーレッドなど、中国では水晶石榴、剛石榴、大紅石榴などの品種が多く栽培されている。日本に輸入されて店頭にしばしば並ぶのは、イラン産やカリフォルニア州産が多く、輸入品は日本産の果実より大きい。 ==分布・生育地== 原産地については、トルコあるいはイランから北インドのヒマラヤ山地にいたる西南アジアとする説、南ヨーロッパ原産とする説およびカルタゴなど北アフリカ原産とする説などがある。 ===栽培=== 世界各地で栽培されておりトルコから中東にかけては特にポピュラーである。日本における植栽範囲は東北地方南部から沖縄までである。日当たりが良い場所を好む。若木は、果実がつくまでに10年程度要する場合もある。病虫害には強いがカイガラムシがつくとスス病を併発する場合がある。 ===伝播=== 新王国時代にエジプトに伝わり、ギリシア時代にはヨーロッパに広く伝わったとされる。東方への伝来は、前漢の武帝の命を受けた張騫が西域から帰国した際に、パルティアからザクロ(安石榴あるいは塗林)を持ち帰ったとする記述が『証類本草』(1091年‐1093年)以降の書物に見られるため、紀元前2世紀の伝来であるとの説があるが、今日では3世紀頃の伝来であると考えられている。日本には923年(延長元年)に中国から渡来した(9世紀の伝来説、朝鮮半島経由の伝来説もある)。 ==保全状況評価== LEAST CONCERN (IUCN Red List Ver. 3.1 (2001)) ==人間との関わり== ===語源=== 属名の Punica は「フェニキアの」を意味する Poeni に由来する。これは古代ローマの博物学者プリニウスが『博物誌』を著した当時、ザクロは「カルタゴのマルス」(m*9714*lus p*9715*nica)としてカルタゴ周辺が原産地と考えていたためである。種小名の granatum は「種の」や「粒の」を意味し、英名の pomegranate(粒の多いリンゴ)は中世ラテン語の p*9716*mum gr*9717*n*9718*tum、p*9719*ma gr*9720*n*9721*ta(種の多いリンゴ)に由来する。 中国語名の「石榴」および「安石榴」は、パルティアの王朝アルサケス(アルシャク:Arshak)を張騫が「安石」や「安息」と音訳したものであり、パルティアを意味する「安息国」に由来する。また、塗林と呼称した時代もあるが、これはサンスクリットでザクロを意味する darim、darima の音訳である。「榴」は実が瘤に似ていることに由来するという。 日本語の「ザクロ」は、石榴、柘榴の字音からと考えられており、呉音では「ジャク・ル」、漢音では「セキ・リュウ」となる。『本草和名』では「安石榴、別名 塗林・若榴、和名 佐久呂」とされている。また、古代イランと中国の文化交流を研究したベルトルト・ラウファーは、若榴の中国語読みの「zak‐lau」に由来するとの説を唱えている。また、有力な原産地のひとつと考えられるティグリス川およびペルシア湾の東方にそれに平行してザグロス山脈がある。ザクロの呼称は、ザクロス山脈を現地音に近い「石榴」の字で音訳したともいわれている。 ===観賞用=== 日本では庭木、盆栽など観賞用に栽培されることが多く、矮性のヒメザクロ(鉢植えにできる)や八重咲きなど多くの栽培]]品種がある。江戸時代の園芸書である『花壇地錦抄』などに記載の見られる古典園芸植物のひとつでもある。 ===食用=== 可食部は皮と種子を除いた種衣の部分で、生食される。果汁をジュースとしたり清涼飲料水のグレナディンの原料とするほか、以下のような料理などに用いられる。 グレナデン・シロップ(ザクロのシロップ)シリアとレバノンでは、ザクロの果汁を濃縮して料理の味付けやサラダドレッシングとして用いる。中東、北インド、メキシコなどでは、果肉の粒を煮込み料理やデザート、料理の飾り付けに用いる。ケーキザクロの可食部に含まれる栄養素は右表のとおり。 また、煮詰めた果汁はイランなどで調味料として使用される。 ===薬用=== 古くから以下のような部位が薬用に供されてきた。なお、以下の利用方法・治療方法は特記しない場合、過去の歴史的な治療法であり、科学的に効果が証明されたものであることを示すものではない。 ===樹皮・根皮=== 乾燥させた樹皮または根皮は、生薬名として「石榴皮」(ザクロヒまたはセキリュウヒ:Granati Cortex)または「石榴根皮」(セキリュウコンピ)といい、古くから条虫(特に有鉤条虫)の駆虫薬として用いられてきた。ディオスコリデスの『薬物誌』でも樹皮が駆虫薬として用いられている記述が見られる。近代になり、1884年Schr*9722*der によって駆虫薬としての有効性が科学的に証明され、過去にはイギリスやアメリカ合衆国の薬局方にも収載されていた。日本薬局方には初版より「石榴根皮」として収載され(後にザクロヒ)、第7改正まで収載されていた。石榴皮の主な成分は、0.3 ‐ 1 % 程度の揮発性アルカロイド(ペレチエリン (pelletierine)、イソペレチエリン (isopelletierine)、プソイドペレチエリン (pseudopelletierine) など)と 23 ‐ 28 % 程度のタンニン(プニカラギン(英語版) など)である。通常、駆虫には乾燥させた樹皮または根皮 30 ‐ 60g を 300 mL の水に 5 ‐ 6 時間に浸したものあるいは煎じたものを服用する。多量に服用すると中毒を起こす場合がある。 また、『和漢三才図会』では下痢、下血、脱肛、崩漏、帯下を止めるのに用いるとの記述がある。更に、口内炎や扁桃炎のうがい薬にも用いられたという。 漢方薬としては、石榴根皮、苦楝皮(クレンピ)、檳榔子からなる「石榴根湯」(せきりゅうこんとう)があり、駆虫に用いられる。 ===果皮=== 果皮を乾燥させたもの(石榴果皮:せきりゅうかひ)も樹皮や根皮と同様の目的で用いられることが多く、中国やヨーロッパでは駆虫薬として用いた。ただし、根皮に比べ揮発性アルカロイドの含有量は低く効果も劣る。また、回虫の駆除に用いられたこともあった、犬回虫を用いた実験では強い活性はみられなかった。日本や中国では、下痢、下血に対して果皮の煎剤を内服し、口内炎や扁桃炎のうがい薬にも用いられた。プリニウスは、果皮を利尿に用いるとしている。 ===花=== 粉末にした花(石榴花)は、出血性の傷に用いられた。 ===種子=== 1964年Sharaf らが種子油(酸石榴)にエストロゲン活性があることをマウスを用いた実験で見出し、1966年Hefumann らによってこの活性がエストロンによることが示され、乾燥種子100g 中に1mg のエストロンが含まれることが1988年Moneam らによって報告され、更年期障害や乳癌などに対する効果が期待されたが、エストロンの含有量が微量であること、経口摂取ではエストロンは肝臓で速やかに代謝されること、また、エストロンの生理活性はエストラジオールの/10程度であることなどから実質的な効果は疑問視されている。 ===果汁=== 果汁にエストロゲンが含まれるとして1999年から2000年頃にブームとなったが、流通しているザクロジュースやエキス錠剤等10 銘柄を用いた国民生活センターの分析では、いずれもエストロゲンは検出されなかった。 ===その他の利用=== ザクロの実は、銅鏡の曇りを防止するために磨く材料として用いられた。江戸時代の銭湯には湯船の手前に「石榴口」という背の低い出入り口があったが、これは「屈み入る」と「鏡鋳る」(鏡を磨くこと)とを掛けたものともいう。 古代ローマでは、ザクロの果皮は皮革をなめすのに用いられた。 木質は硬く、床柱や装飾用の柱に用いられる。 ===文化=== 初夏に鮮紅色の花を咲かせ、他の樹木が緑の中で目立つため中国の詩人王安石は、『万緑叢中紅一点』(咏石榴詩)と詩に詠んだ。花言葉は優美、円熟した優美、優雅な美しさ。日本の一部の地域では、凶事を招くとして忌み嫌われる場合もあるが、種子が多いことから豊穣や子宝に恵まれる吉木とされる国や地域が多い。トルコでは、新婚のとき新郎がザクロを地面に投げて割り、飛散した種子の数で、その夫婦のあいだに生まれる子どもの数を占った。古代ローマでは、婚姻と財富を象徴する女神ジュノーの好物とされていた。色が似ているガーネットを柘榴石と呼び、中世ラテン語の gr*9723*n*9724*tum(種の多い)に由来する。スペインのグラナダ (Granada) の地名は、ザクロの木が多く植えられていたことに由来する。ユダヤ教では、虫がつかない唯一の果物として神殿の至聖所に持ち込むことを許された。釈迦が、子供を食う鬼神「可梨帝母」に柘榴の実を与え、人肉を食べないように約束させた。以後、可梨帝母は 鬼子母神として子育ての神になったといわれるが、日本で作られた俗説に過ぎない。柘榴が人肉の味に似ているという俗説も、この伝説より生まれた。エジプト神話では、戦場で敵を皆殺しにするセクメトに対し、太陽神ラーは7,000 の水差しにザクロの果汁で魔法の薬を作った。セクメトはこれを血と思い込んで飲み、酩酊して殺戮を止めたという。ギリシャ神話の女神ペルセポネーは、冥王ハーデースにつれ攫われ、6つのザクロを口にしたことで、6か月間を冥界で過すこととなり、母・デーメーテールはその期間嘆き悲しむことで冬となり、穀物が全く育たなかったが、ペルセポネーが戻ると花が咲き、木々には実がついたという。このため、多産と豊穣の象徴とされている。ローマ神話ではプロセルピナといい、ザクロは復活の象徴となっている。キリスト教では『聖母子像』でイエスがザクロを持っている図像もあり、後のキリストの受難を表す。火薬と金属破片を内蔵し、爆発とともに破片を散らして敵を殺傷する爆弾の事をGrenade(英)/榴弾と呼び、この語はザクロに由来する(和訳も同じ)。球形の弾体が裂けて破片をこぼす様をザクロに見立てている。 =小樽あんかけ焼そば= 小樽あんかけ焼そば(おたるあんかけやきそば)は、北海道小樽市の多くの料理店で提供されているあんかけ焼そば。昭和30年代より小樽市内に広まり、平成期まで小樽市民に愛好されている。2010年代以降には過疎の進む小樽市のPRのため、市民団体により精力的な普及活動が行われており、ご当地グルメとして話題になっている。 ==歴史== 小樽あんかけ焼そばの発祥については諸説ある。当初は1957年(昭和32年)に小樽市稲穂に移転オープンした中華料理店「梅月(ばいげつ)」の「五目あんかけ焼そば」を元祖とする説が有力であった。当時の同店は比較的敷居が低く観光客にも親しまれ、当時急増していたカニ族にも好評を博し、小樽市民も市内中心部での買物後に同店であんかけ焼そばを食べることが流行するほどの人気ぶりであった。「梅月」は2代目店主・近藤祐司の代に最盛期を極めており、ほかの料理人たちにレシピを伝えることに積極的だった近藤の姿勢が、小樽市内にあんかけ焼そばを普及させることに一役買ったと見られている。 ただし後の研究によれば、小樽市内のほかの中華料理店「レストラン・ロール」や「来来軒」では1950年(昭和25年)頃にすでにあんかけ焼そばを提供していたとの報告もあり、日本全国の中華料理店であんかけ焼そばが賄い料理として出されていたことを考慮すると、小樽あんかけ焼そばの起源は「梅月」よりもさらに遡ることができるとの見方もある。また戦前には、小樽市内の多くのホテルや料亭が東京都や京都府から調理師を雇い入れていたため、こうした人々があんかけ焼そばを小樽に伝え、港湾での労働者に愛好されて普及したとの説もある。 いずれにせよ、あんかけ焼そばが小樽市内に広く普及したのは昭和30年代と考えられており、腹持ちが良い上、冬は体が暖まることから多くの店にも普及したものと見られており、昭和30年代当時は「ハイカラなランチ」とブームになっていたという ==特徴== 後述の市民団体「小樽あんかけ焼そばPR委員会」によれば、「小樽あんかけ焼そば」とは原則として小樽市内および近隣の飲食店で提供されている海鮮物の多い五目あんかけ焼そばの総称とされており、同じく市民団体「小樽あんかけ焼きそば親衛隊」も同様に、小樽市内および近隣の飲食店の五目あんかけ焼そばの呼称としている。 小樽市内全店に共通する特徴があるわけではないが、強いて言えば焼き固められた麺、麺にかける餡の量の多さが特徴に挙げられる。ただしこれも小樽あんかけ焼そばのルールというわけではなく、各店ごとに製法や盛り付けなどに工夫を凝らし、さまざまな味を提供しているのが実情である。小樽あんかけ焼そばは60年以上の歴史を持ち、この歴史の中で各店ごとに発達してきたため、店の数だけ味があるとの声もある。前述の市民団体もまた、「小樽あんかけ焼そば」としての明確な定義や製法などの一定のルールを設けず、各店のオリジナリティを尊重している。 また、市内の中華料理店で常識的にあんかけ焼そばが提供されていることに加え、ラーメン店、定食屋、食堂、洋食店、喫茶店、酒場、ホテル、温浴施設、雀荘、スキー場、ゴルフ場など多彩な場所であんかけ焼そばが提供されており、各店舗で人気メニューとして好評を博していることも特徴の一つに挙げられ、その店舗の総数は百近くに昇るともいわれる。小樽で「焼そば」と言えば、ソース焼そばではなくあんかけ焼そばのほうを指すとの声もある。 港町である小樽市は新鮮な魚介類に恵まれていることから、餡かけの具材の魚介類も美味、海産物豊富な小樽市にふさわしいメニューとのとの評判もある。ただし地産地消の要素は比較的少ないため、「小樽らしくない」との批判もあるが、市民に根ざした歴史があることから、60年以上かけて小樽市民が作って守り続けてきた食文化として、過疎の進む小樽の再生の切り札にもなり得るとも意見されている。2017年(平成29年)には、寿司に並ぶ名物との声も上がっている。 ==市民運動== 2010年代に、小樽市内の製麺会社「新日本海物産」の高田裕章社長が、市内のラーメン店の半数以上であんかけ焼そばが提供されており、来客の2割から7割が注文する看板メニューであることに着目。これを小樽独自の食文化としてアピールすべく、2011年(平成23年)1月7日に「小樽あんかけ焼そばPR委員会」を発足させ、料理教室の開催、市内の店舗を巡るスタンプラリーの実施などの活動を2013年(平成25年)までに行なった。 翌2012年(平成24年)には小樽商科大学教授の江頭進を会長として「小樽あんかけ焼そば親衛隊」が発足。小樽市内にはあんかけ焼そばの提供店が100軒近くあって小樽市民に定着しているにもかかわらず、観光客からの人気は寿司に集中していたことから、有志によるまちおこし活動を精力的に開始した。同団体の目的はあんかけ焼そばの販売や普及ではなく、この料理を通じて小樽をPRすることにあり、小樽市および近隣の観光名所、祭、特産品などといった知られざる魅力を、あんかけ焼そばを通じてPRする活動を行なっている。前述の「小樽あんかけ焼そばPR委員会」は2013年に発展的解散となり、「小樽あんかけ焼そば親衛隊」と合併一本化されており、その後の親衛隊は市内各店の焼そばとは無関係の市民団体として活動を続けている。また、小樽商科大学の学校祭「緑丘祭」では、江頭ゼミが「江頭亭」の名であんかけ焼そばを出店している。市内の中華食堂「龍鳳」に調理の指導を得ており、時には龍鳳の店長自らが江頭亭で鍋を振るい、来客たちにも好評を得ている。 2011年の東北地方太平洋沖地震の発生後は両団体により、市内各店舗での募金、福島県などから小樽市内への避難家族への見舞金や物資の提供、あんかけ焼そば注文時の料金の割引、福島第一原子力発電所事故の風評被害防止のため福島産野菜を用いたあんかけ焼そばの販売など、東日本大震災被災者への支援活動も行なわれている。 また個人レベルの市民運動としては両団体に先駆けて2010年(平成22年)9月、小樽在住の会社員が個人ブログであんかけ焼そばの店舗情報の発信を開始。女性アイドルグループのAKB48ならぬ「AKY48」と題し、市内48店の紹介を目指す活動を行なっている。翌2011年6月にはそれら店舗の人気投票として、AKB総選挙ならぬ「AKY総選挙」が開催され、小樽市内で話題となった。個人活動ではあるが、「小樽あんかけ焼そば親衛隊」の公式ウェブサイト上でも「草分け的ポータルサイト」として紹介されている。 ===B‐1グランプリ=== 2013年には、「小樽あんかけ焼そば親衛隊」のまちおこしに主眼を置く活動、および飲食店ではなく市民有志である点が評価され、ご当地グルメの祭典である「B‐1グランプリ」を運営する一般社団法人「B級ご当地グルメでまちおこし団体連絡協議会」の準会員となった。同年のB‐1グランプリ北海道・東北地区大会では150分待ちの行列ができるほどの大盛況を博し、あんかけ焼そばの知名度を一気に引き上げた。 翌2014年(平成26年)にはB‐1グランプリの正会員に昇格して、同年10月に福島県郡山市で開催された第9回B‐1グランプリ全国大会に初出場を果たし、9位に選ばれた。このB‐1グランプリ出場などにより、小樽あんかけ焼そばの認知度が全国的に高まることになった。 2015年(平成27年)には、JR秋葉原駅高架下の商業施設「B‐1グランプリ食堂AKI‐OKA CARAVANE」に、他の7種類のご当地メニューと共に新メニューとして追加された(翌2016年〈平成28年〉に閉店)。 ==書籍== 2013年、前述の「小樽あんかけ焼そば親衛隊」会長・江頭進の発案のもと、小樽商科大学の学生有志により、あんかけ焼そばを提供する市内64店の情報を満載した『小樽あんかけ焼そば事典』が作成され、同年9月から小樽や札幌市の書店で販売された。この刊行には、小樽のご当地グルメであるあんかけ焼きそばの調査により、小樽の経済変化などを読み解くとの、江頭の狙いもあった。 販売開始後から2週間で初版2千部が底を突き、急遽4千部が増刷された。江頭によれば、学生製作による地域紹介の書籍は日本全国にあるが、売れ行きが千部を超える例は稀で、画期的な売れ行きだという。小樽市内の書店からは、事典の売れ行きは2か月で286冊、村上春樹の新作が半年で344冊なので、本書の売れ行きは大変なペースだとの声も上がっている。 本書に掲載された店舗の一つである小樽市稲穂の中華料理店「東香楼(とうこうろう)」では、発売から2か月間で本書を手にした客が5組来店しており、あんかけ焼そばの注文が約1割増えるなど、本書の売上があんかけ焼そばを提供する各店の売上増加にも結び付いている。 2017年には、小樽市内の新規創業および廃業の店舗の状態を反映させ、新たに『小樽あんかけ焼きそば事典』が刊行された。 ==市販品== サークルKサンクスでは2011年11月から12月までの期間限定で、「小樽あんかけ焼そばPR委員会」公認のあんかけ焼そばを全道190店で発売した。「B‐1グランプリ」初出場を果たした2014年には「小樽あんかけ焼そば親衛隊」監修のもとに同年6月から発売され、好評に応えて2014年10月から再発売された。 ローソンでは『小樽あんかけ焼そば事典』の人気が契機となり、北海道内全600店舗で2014年2月から「小樽あんかけ焼そば」が発売された。ローソンの焼そば類の新商品売上は、発売当月は1万個以上の売上を見せ、翌月には激減してほとんどの商品が姿を消すといわれるものの、「小樽あんかけ焼そば」は発売当月に5万2千個、翌月も2万6千個を販売する爆発的な売上であり、焼そば類では道内ローソン史上で最多の売上を記録した。焼そば類のこの2か月間の売上は、道内のローソン全体で前年同期比約80パーセント増、麺類全体でも同2パーセント増で、全国のローソンで北海道地区だけが唯一のプラスとなった。このためローソンでは、当初同年3月末までであった販売期間が無期限延長に変更されている。 前述「B‐1グランプリ」出場後は、西日本を中心に日本全国から土産品や生麺商品を望む声が寄せられたことで、同2014年から生麺入り商品「小樽あんかけ焼そば」が発売され、小樽市内やJR北海道札幌駅の土産物店で販売が開始されている。 2016年には、「小樽あんかけ焼そば親衛隊」の監修のもと、小樽市内の製麺会社・阿部製麺より、あんかけ焼きそばの味を再現できるオリジナルソースの販売が開始された。 =翔鳳丸= 翔鳳丸(しょうほうまる)は、鉄道省青函航路で運航された車載客船で、同型船に飛鸞丸(ひらんまる)・津軽丸(つがるまる)(初代)・松前丸(まつまえまる)(初代)があり、これらを含めた4隻を翔鳳丸型と呼び、本船はその第1船であった。日本で最初の車載客船で、後に建造される車載客船・車両渡船の原型となった。 翔鳳丸と飛鸞丸は浦賀船渠で、津軽丸と松前丸は三菱造船長崎造船所で建造され、これら両造船所製の間には船体構造等に相違が見られた。全て太平洋戦争末期の空襲で失われた。 ここでは、これら翔鳳丸型と、青函航路における車両航送システムについて記述する。 国有化以降、客貨輸送量の増加著しい青函航路では、1914年(大正3年)の第一次世界大戦勃発後は、海運貨物の鉄道への転移も加わり、その増加はさらに加速、1917年(大正6年)頃から、貨物の積替えを必要とする一般型船舶の、それもハシケを用いた沖荷役では、円滑な貨物輸送が困難な状態に陥った。これに対する抜本的な対策として、貨物を積載した貨車を、陸上軌道からそのまま船内軌道へ機関車で押し込んで積載し、相手港では、逆に船内軌道から陸上軌道へ機関車で引き出して陸揚げする「車両航送」が導入された。この車両航送を行う客船として建造されたのが、これら4隻の車載客船であった。 ==車載客船建造までの経緯== 1908年(明治41年)3月の帝国鉄道庁による国営青函航路開設当初は、先発の日本郵船と2社競合であったが、1910年(明治43年)3月の日本郵船撤退以降、帝国鉄道庁改め鉄道院青函航路の貨物輸送量増加は著しく、1910年(明治43年)度の7万2625トンから、4年後の1914年(大正3年)度には15万4716トンへと倍増していた。1910年(明治43年)1月には義勇艦うめが香丸(3,022総トン)を傭船し、同船解傭の1911年(明治44年)1月には、その後継として会下山丸(えげさんまる)(1,462総トン)を傭船し、比羅夫丸型2隻と合わせ、3隻体制を維持した。さらに、阪鶴鉄道が発注し、同鉄道国有化後の1908年(明治41年)6月竣工後は山陰沿岸を行く舞鶴 ‐ 境 間航路で運航された第二阪鶴丸(864.9総トン)を、1912年(明治45年)3月の同航路廃止後、関釜航路での使用を経て、同年6月青函航路へ転入させ4隻目とし、同船転出の1914年(大正3年)7月からは、万成源丸(886.94総トン)を傭船して4隻体制維持し、増加する貨物輸送に対応した。 しかし、1914年(大正3年)7月の第一次世界大戦 勃発は、その後の大戦景気と、世界的な船腹不足による海運貨物の鉄道への転移をもたらし、鉄道連絡船航路である青函航路の貨物輸送量も、1916年(大正5年)度からの増加はそれ以前にも増して著しく、翌1917年(大正6年)度には36万1259トンと、3年間で2.3倍にも達し、同年以降滞貨の山を造る混乱状態に陥ってしまった。一方旅客輸送人員も、1910年(明治43年)度の22万3524名、1914年(大正3年)度の28万8964名から、1917年(大正6年)度には49万4827名へと急増し、 客貨双方の抜本的な増強策が求められた。 これより前、同様に貨物輸送量の増加著しい関門航路では、同航路の荷物輸送を一手に請負っていた宮本組の宮本高次の発案により、木造の貨車ハシケを用いた日本初の貨車航送が、1911年(明治44年)10月1日、下関 ― 小森江間で開始された。この航路は関森航路と通称され、鉄道院からの請負で宮本組により運航されたが、その有用性と確実性を目の当たりにした鉄道院は、1913年(大正2年)6月1日、これを買収、直営化した。さらに1919年(大正8年)8月1日からは自航式貨車渡船第一関門丸・第二関門丸も就航させ、貨車ハシケと併用していた。 この貨車航送の実績が良好であったことから、鉄道院運輸局船舶課は、1918年(大正7年)これら貨車ハシケを自航式とし、15トン積みワム型有蓋貨車16両積載と大型化したうえ、比羅夫丸型を上回る685名の旅客も乗船できる車載客船とし、これを青函航路へ投入して、一挙に客貨輸送力不足を解消しよう、という画期的な改革案を立案した。 貨車航送、あるいは貨車以外の車両も含む車両航送では、岸壁停泊中、陸上軌道と接続した船内軌道へ、あるいは船内軌道から、貨物や荷物を積載した車両を、そのまま機関車で押し込んだり引き出したりして積卸しするため、荷役時間の大幅短縮による貨物・荷物の速達性向上、連絡船折り返し時間短縮による船と岸壁の稼働率向上、積替え不要による貨物・荷物の損傷や紛失の激減などの利点があった。しかし、車両積載場所が船艙ではなく車両甲板上に限られるため、重心が高くなり、同じ重量の貨物を積載するにはより大型の船を必要とし、その構造も複雑で建造費も増大し、さらに岸壁には車両を安全に積卸しするための専用の設備を要し、他航路への転用も制限される、などの問題点もあった。 当初は鉄道院内でも反対論が多かったが、国鉄全車両の自動連結器化が1925年(大正14年)に実施されることになり、青森港第1期修築工事も1924年(大正13年)には竣工することとなったため、この機会に全国規模の貨車直通運用を開始すべき、として1919年(大正8年)、この車載客船による車両航送案は採用された。さらに1920年(大正9年)9月決定の最終要求条件では、郵便手小荷物車積載可能な中線を含む船内軌道3線となり、旅客定員も940名とされ、当初案よりかなり大型化していた。当時、日本にはこのような大型の車載客船建造運航の経験がなかったため、鉄道院改め鉄道省 は、1909年(明治42年)開設のバルト海を行く ドイツ ザスニッツとスウェーデン トレレボリ間航路(58海里)の3,000総トン級車載客船ドロットニング・ヴィクトリア号などを手本として設計し、1921年(大正10年)12月に浦賀船渠へ2隻、翌1922年(大正11年)12月には三菱造船長崎造船所へさらに2隻の建造を発注した。 ==船体構造== 鉄道車両積載のため、喫水線上約7フィート(2.1336m)の位置に、前後に全通する車両甲板を持ち、その大部分を2層分吹き抜け構造の天井の高い車両格納所とし、車両格納所船尾端は車両積卸しのため、線路3線幅、甲板2層分の大開口となっていた。車両甲板下には主甲板と船底の船艙、車両甲板両舷側中2階には下部遊歩甲板、車両甲板天井部には上部遊歩甲板を持ち、その上に3層の甲板室を設けた7層構造であった。 ===一般配置=== ====コンパス甲板==== 最上層は操舵室の屋根に相当するコンパス甲板で、磁気コンパスが設置されており、甲板室の直前の船体中心線上に、上部遊歩甲板から立つ前部マストがコンパス甲板よりはるか高くそびえていた。浦賀船渠製の2隻では、このマストのコンパス甲板より1.8m程高い位置に探照灯を備えた見張り台を設け、コンパス甲板から階段で直接上れるようになっていたが、三菱造船製では、この見張り台は省略され、探照灯はコンパス甲板に設置された。 ===航海船橋=== コンパス甲板の下が航海船橋で、その最前部には、周囲をガラス窓で囲い、船体全幅からさらに両舷外に張り出した操舵室が設置され、その室内の船体中心線上には、前後に船尾舵用と船首舵用の2台の水圧式テレモーターが装備され、左舷側に海図台やエンジンテレグラフ、ドッキングテレグラフが配置されていた。 ===端艇甲板=== 航海船橋の下が端艇甲板で、前方の操舵室直下には甲板部高級船員居室と無線通信室の入った甲板室があり、ここからは上の操舵室へも下の1等船室区画へも屋内階段経由で行き来できたが、操舵室への屋内階段設置は国鉄船舶としては初めてであった。端艇甲板の両舷には8隻の救命ボートと、右舷前方に1隻の伝馬船がそれぞれボートダビットに懸架されており、中央には煙突が1本、その煙突の前方、1、2等食堂の屋根の部分のみ食堂の天井高さを高くするため914mm高くなっており、その中央部には更に屋根型の天窓が設置されていた。後方には後部マストが立ち、後端には操舵室同様両舷側まで張り出した後部船橋が設置されていた。 翔鳳丸型はバルト海航路の連絡船を手本としたため、かの地で行われているように、港外で回頭し、後進で入港できるよう船首舵が装備され、その操舵はこの後部船橋のテレモーターからも可能で、ここには磁気コンパスも装備されていた。船首舵はある程度の長い距離を相当の速力で後進する場合には有効であったが、青函航路では、翔鳳丸型就航に合わせ、出力400馬力クラスの補助汽船4隻を配属のうえ、翔鳳丸型は前進のまま入港し、岸壁直前で補助汽船の助けを借りて右回頭する着岸操船法がとられたため、この船首舵を有効に使う機会に恵まれず、その後の青函連絡船でも、船首舵は第二青函丸に装備された以外は装備されなかった。しかし、後部船橋は岸壁停泊中、車両積卸しを目視できるため、車両積卸し時の船体横傾斜を抑えるヒーリング装置の遠隔操縦ハンドルがここに設置され、こちらはその後も継承され、“ポンプ操縦室”と名を変えて、1977年(昭和52年)、青函連絡船として最後に建造された石狩丸(3代目)まで受け継がれた。 ===上部遊歩甲板=== 端艇甲板の下が車両甲板車両格納所の天井にあたる上部遊歩甲板で、船首部は揚錨機やキャプスタンを備えた露天の係船作業場になっており、揚錨機の後方には1層下の甲板部員居室区画と交通する階段室のコンパニオンが設置されていた。この船首部以外は全て甲板室になっており、その最前部は1等区画で、1等船室が8室あり、それらは上段寝台折りたたみ式の2段寝台を備え、1等の定員は39名であった。1等区画右舷後部には1等喫煙室が、同左舷後部には配膳室があり、これらの後方に隣接して、その幅が両舷の遊歩廊間にわたり、さらにその両側は遊歩廊に出窓状に張り出し、天井高さも全面3.35mと高く、その中央部には、さらに屋根状に突出したステンドグラス入りの天窓を持つ豪華な1、2等食堂が配置された。 その後方中央部は煙突直下、煙路の通るボイラー室囲壁があり、この左舷に2等喫煙室、右舷に前後をつなぐ廊下と、その右舷側には事務長室と客室係員詰所が配置され、これらの後方には両舷をつなぐ廊下が設けられた。これを隔てた後方中央部には機械室囲壁があり、その左舷と後ろ側には開放2段寝台で定員28名の2等寝台室が、右舷には上記の前後をつなぐ廊下の続きと、その右舷側には、2等トイレ・洗面所が設けられた。これらの後ろ側には、両舷遊歩廊をつなぐ屋根付き室外通路があり、これを隔てた後方には定員170名の畳敷きの2等雑居室が配置された。上部遊歩甲板の名称通り、甲板室全周は側面が開放の遊歩廊で、また配膳室、1等喫煙室、2等喫煙室、前後をつなぐ廊下、2等寝台室、2等雑居室には、食堂ほど立派ではないが、天窓を設け自然光採光が図られていた。 ===下部遊歩甲板=== 上部遊歩甲板の下には、車両甲板両舷側中2階に相当する幅2.4mの狭い下部遊歩甲板があり、中央部から船尾側にかけ3分の2は舷側に開放されていた。左舷側前方の、1層上の1、2等食堂配膳室下にこの食堂用の厨房があり、内部階段で配膳室につながっていた。ここより後方は3等旅客用乗下船通路および遊歩甲板として使われた。右舷の一部は機関部高級船員居室や船員食堂に、船首部は甲板部員居室として使われ、客室はなかった。なお車両甲板車両格納所は、両側面と前方の三方面が甲板2層分の高さの鋼製囲壁で囲まれ、下部遊歩甲板側面開放部の内側はこの囲壁で閉鎖されていたが、この部分には多数の丸窓が取り付けられていた。 ===車両甲板=== 上部遊歩甲板の2層分下が車両甲板で、下部遊歩甲板に占有されない中央部分は甲板2層分吹き抜けとして、鉄道車両を収容できる天井高さを確保し、軌道を3線敷設して車両格納所としたが、ボイラーからの煙路や端艇甲板からボイラー室・機械室へ通じる通風筒等の通る機関室囲壁を船体中心線上に置いたため、船内軌道の中線は船体中央部止まりで短かかった。車両甲板船尾露天部両舷には係船用のキャプスタンを備え、その舷側には高さ1.22mのブルワークが設けられた。就航当初は車両甲板最後部の、一段低くなった“エプロン甲板”への段差直前の位置に、ブルワークと同じ高さの木製さし板式防波板を航海中セットしていたが、ほどなく使用されなくなった。なお車両甲板両舷の下部遊歩甲板の直下の部分は、左舷は3等トイレ・洗面所、右舷は船員用通路、船首部は機関部員居室として使われ、客室はなかった。 車両甲板船尾左舷舷側には、前から順に、ともに高さ1.22m 幅1.22mの内開き手小荷物用載貨門と郵便用載貨門が設けられ、載貨門内側の車両甲板上には、直下の手小荷物室、郵便室へのハッチがそれぞれ設けられた。岸壁側でも、載貨門に対応した位置に切り欠きが設けられた。車両甲板船尾右舷舷側にも、同じ大きさの石炭積込用載貨門が設けられ、岸壁停泊中、沖側からハシケで石炭を積込み、人力で車両甲板の石炭庫積込口まで運んでいたが、ほどなく車両甲板への石炭車乗り入れによる、じか積みに変更された。これら船尾両舷の載貨門付近から船尾側は船体幅が徐々に狭くなるため、車両格納所両舷囲壁も、左舷では車両甲板船尾端から19.2m、右舷では18.7mより船尾側では下側半分が省略され、これら載貨門の内側はいきなり車両格納所となっていた。これらのほか、右舷やや前寄りにも、高さ1.2m 幅1.8mの載貨門が設けられ、就航当初は、青森・函館相互発着貨物に限り、ハシケ荷役により、この載貨門から2層下の貨物艙へ積み込んでいた。 ===主甲板=== 車両甲板下の船体は6枚の水密隔壁で、船首側から、船首タンク、錨鎖庫+倉庫、貨物艙、ボイラー室、機械室、車軸室、船尾タンクの7水密区画に分けられていた。本船では車両甲板の下の甲板を主甲板と称し、上記水密区画の主甲板の高さでは、船首タンクの上には船首舵を駆動する汽動式操舵機が設置された船首操舵機室が、倉庫の上には客室係員と調理員の居室が、貨物艙の上には畳敷きの前部3等雑居室が設けられ、その後ろに隣接するボイラー室上部まで水密を保ったまま2m程度突き出していた。下の貨物艙は当初、青森・函館相互発着貨物に限り使用されたが、これもほどなく全て貨車航送となり、使用されなくなった。この貨物艙へ荷役のため、前部3等雑居室右舷後ろ隅にはハッチが設けられていた。ボイラー室とタービンのある機械室は、ともに2層分吹き抜けで、その後ろ、車軸室の上の主甲板には、同じく畳敷きの後部3等雑居室が設けられ、ここも水密を保ったまま5m程度、機械室後端上部にはみ出していた。その後ろには、急行列車以外の郵便・手小荷物は船艙積みの方針であったため、手小荷物室、郵便室が設けられた。郵便室の後ろ、水密隔壁を隔てた最後部が汽動式操舵機の設置された操舵機室で、郵便室と操舵機室の下が船尾タンクとなっていた。なお3等船室は、比羅夫丸型のような、いわゆる“蚕棚式”2段雑居室は採用されなかった。 ===機関部=== 浦賀船渠建造の翔鳳丸・飛鸞丸では、ボイラーに舶用スコッチ缶 6缶を採用し、各舷に3缶ずつ搭載したのに対し、三菱造船長崎造船所建造の津軽丸・松前丸では、イギリス製の軽量小型のバブコック・アンド・ウィルコックス式水管缶を輸入し、同じ6缶を、左舷、中央、右舷に2缶ずつ搭載し、ボイラー室の長さを約2.5m縮小し、船首側の石炭庫の高さを主甲板までとし、その上に前部3等雑居室を広げることで、浦賀船渠製よりこの雑居室を4m程度長くでき、浦賀船渠製の3等定員658名に対し三菱造船製は753名と100名近く増員できた。しかし、三菱造船製ではボイラー室に密閉缶室強制通風方式を採用したため、隣接する機械室との間の通路に、前後に常時閉の密閉扉2枚を備えたエアーロッカーを設置し、ボイラー室の陽圧維持を図る必要があった。このため、乗組員のこの間の行き来に手間がかかったうえ、ボイラー室天井高さの関係で燃焼効率が十分上がらなかったため、舶用スコッチ缶より燃料消費量が多くなり、また後年は水管の破損事故も相次ぎ不評であった。なお、この密閉缶室強制通風方式のため、三菱造船製の煙突は浦賀船渠製より若干小さかった。 一方、タービンは、当時浦賀船渠では製造していなかったため、イギリスからメトロポリタン・ヴィッカース社製のラトー式衝動タービンを輸入搭載したが、三菱造船長崎造船所では自社開発製造の衝動タービンを搭載した。いずれの形式も、ボイラーから供給される蒸気を使用する高圧タービンを両舷の主軸の内側に、その使用済み蒸気を再利用する低圧タービンを外側に、それぞれ主軸と平行に配置し、両タービン出力軸の各小歯車が主軸の大歯車を両側から直接回転させる1段減速歯車方式であった。さらに、前進の50%程度の出力の後進タービンが高圧低圧の両タービンの前部に付設されており、これが1段減速歯車付タービンの1セットで、このセットが左右2基搭載されていた。この減速歯車により、タービンの高速回転はプロペラ効率のよい回転数に下げられ、浦賀船渠製では最大毎分190回転程度、三菱造船製では160回転程度で、船尾水線下の2基のプロペラを回転させた。しかし船尾舵は1枚で、このタービン2基2軸と1枚舵はその後の青函航路の蒸気タービン船に継承された。 この減速歯車付タービン採用は翔鳳丸型4隻が青函連絡船としては初めてであったが、主軸直結式タービンの比羅夫丸・田村丸建造から15年経過しており、鉄道省では既に1922年(大正11年)建造の関釜連絡船 景福丸(3,619.66総トン)から、1段減速歯車付タービンを採用していた。 ===車両積載設備=== 翔鳳丸型では車両甲板船尾端の約75cm低くなった“エプロン甲板”上の定位置に、陸上軌道から続く軌道を敷設した可動橋補助桁の先端を載せると、可動橋の軌道端と車両甲板の船尾側船内軌道端が合致し、さらに後述の特殊レールを介して両軌道の連続性が確保されたため、陸上側から機関車で、車両を船内へ押し込んだり、船内から引き出したりと、軌道走行の形で車両の積卸しが行えた。 車両甲板には、車両甲板船尾端を起点とした船内軌道が3線敷設され、通常運航時接岸する左舷側から船1番線、船2番線、船3番線と呼称された。中央の船2番線は機関室囲壁で行き止まりのため軌道有効長39mと短く、荷物車2両またはワム型貨車5両、左舷の船1番線は同77m、右舷の船3番線は同81mで、それぞれワム型貨車を10両ずつ積載でき、ワム換算で合計25両の貨車積載が可能であった。 各線に積み込まれた列車の最前部の連結器は、軌道終端の車止めの連結器に連結された。各線の列車の最後部では、“乙種緊締具”と称するターンバックル付きの二股の鎖を用い、鎖の一端を最後部連結器に巻きつけ、他の二端のフックを列車後方の甲板面に設置した緊締用鉄環に掛け、ターンバックルで締め上げ、列車を引き伸ばして固定し、縦揺れによる車両の前後移動防止を図った。さらに最後部車両の車輪の後ろ側のレール上に、車輪が後方へ転動しないよう、左右両輪が当たる部分のみ断面が直角三角形になるよう枕木に切り欠きを入れた車輪止めをかまして、万一の車両の後方への逸走を防いだ。 また、横揺れによる車両横転防止には、“甲種緊締具”と称する一端がハサミ状、他端がフック付きのターンバックルを用い、ハサミで車両台枠の鉄骨をはさみ、フックを斜め下側方の甲板面に設置された緊締用鉄環に掛け、ターンバックルで締め上げて車両を固定した。しかし船が大きく横傾斜すると、それに伴って横傾斜した車両の、傾斜した側のバネが車体の重みで圧縮され、その側に掛けた甲種緊締具が緩んで、場合によっては外れることもあるため、荒天時には、二軸車は板バネと台枠の間に木製の楔を打ち込み、ボギー車は車両甲板上に置いた盤木や支柱で車体を直接支持して“バネ殺し”し、甲種緊締具が緩まないようにした。甲種緊締は通常、二軸車では片側4本、ボギー車では片側6本を掛け、荒天時にはさらに増し掛けを要した古川 1966, p. 110、111。これらの緊締具は、その後も改良されながら1988年(昭和63年)3月の青函連絡船の終航まで使用された。 なお、船内軌道のレール敷設方法は、浦賀船渠製では車両甲板面に軌道方向に固定した高さ約20cm幅約25cmの縦枕木上へレールを犬釘で固定したのに対し、三菱造船製では車両甲板面にリベット固定した高さ約9cm幅約25cmの溝形鋼の溝の中に設置したレールチェアーにレールをネジ込ボルトで固定して重心低下を図った。 ===ヒーリング装置=== 翔鳳丸型では、船1番線と船3番線は船体中心線から離れており、車両積卸しの際には船体が横傾斜するため、ボイラー室両舷に、浦賀船渠製では各143.5トン、三菱造船製では各127トンのヒーリングタンクを設置し、1台の大容量(1,530m/h)ヒーリングポンプでこの両タンク間の海水移動、または各タンクと船外との海水の出し入れを行って、船体横傾斜を抑制した。このヒーリングポンプは吐出方向一定の汽動式遠心ポンプで、機械室に設置され、ヒーリング操作中は常時運転とし、このポンプの吸入側と吐出側に1個ずつ設置した2個の4方コックの栓操作の組み合わせで、各種ヒーリング操作が可能となるようヒーリングパイプの配管がなされていた。この操作は、車両積卸し作業を目視できる後部船橋から、4方コックの栓を駆動する直流電動機を遠隔操作することで行われたが、ヒーリング装置の電気的遠隔操作装置は世界初であった。しかし、この電気的遠隔操作装置付きヒーリング装置は、操作面では4方コックの定位置での停止にコツを要したうえ、保守管理面でも、4方コック駆動電動機とその関連機器、ならびに4方コック本体、ヒーリングパイプの複雑な配管にも問題があった。それでも、比較的簡易なシステムで遠隔制御ができたため、その後も4方コックを駆動する電動機の交流化や、ヒーリングポンプ自体の動力を交流電動機化した船もあり、改良されつつ1955年(昭和30年)建造の檜山丸型までの青函・宇高両航路の車載客船・車両渡船で採用され続けた。 なお、この「ヒーリング装置」は翔鳳丸型建造当時は「トリミング装置」と呼ばれ、それ以降も、青函では1948年(昭和23年)建造の大雪丸(初代)、 日高丸(初代)まで、宇高では1953年(昭和28年)建造の第三宇高丸までそのように呼称されたが、本来「トリミング装置」は船首尾の喫水差調節装置を意味するため、1955年(昭和30年)建造の檜山丸型から「ヒーリング装置」に改められた。 ===外観=== 国鉄の蒸気機関を動力とする車載客船・車両渡船の中で、翔鳳丸型4隻だけが、ボイラー煙路を船体中央部中心線上に通して、大きな1本煙突姿となり、太平洋戦争後、これらの後継として建造された洞爺丸型車載客船とは受ける印象はかなり違った。また、当時最先端の船でありながら、その煙突も2本のマストも、船首も全て直立で、煙突やマストを後傾させたデザインの景福丸型や、はたまた比羅夫丸型に比べても、鈍重な外観であった。 塗装は4隻とも大部分の時期、下記の「翔鳳丸型一覧表」の飛鸞丸の写真のように、甲板室部分が白、それ以下の船体部分が黒であったが、下部遊歩甲板側面は中央部から船尾側にかけ船体長の約3分の2が側面開放の遊歩甲板となっており、この部分も甲板室扱いで、ブルワーク以外は白く塗装されていた。しかし、「翔鳳丸型一覧表」の翔鳳丸の写真のように、船首部船体に至るまで、下部遊歩甲板レベルを塗り分け線とし、船体上部も白く塗装した軽快な姿の写真が4隻全てで確認できる。しかし、その塗装時期についての詳細は不明であるが、1932年(昭和7年)以前の時期とされる。太平洋戦争開戦後、青函連絡船全船を含む、全ての日本の船舶は灰緑色の戦時警戒色に塗りつぶされた。 ==陸上設備== 青森、函館両港の車載客船、車両渡船用岸壁は、船体左舷の大部分を接岸する直線部分と、それに続く、船尾部がすっぽりと入るポケット状の湾入部分からなる逆J字形をしており、船は後進してこのポケットに船尾を入れ、左舷と船尾両舷で接岸係留された。それでも船は、波や潮位や車両の積卸しなどで上下左右、前後にも動くため、陸上の軌道と船内の軌道とをつなぐ可動橋が必要であった。このポケットの船尾中央部が接触する部分には岸壁はなく、海がさらに入江状に入り込んでいた。可動橋はその中心線が係留された船の船体中心線と一致する形で、この入江の最奥部から船尾に向け、入江を縦断して架けられた。当時、青森、函館に建設された可動橋は、入江最奥の陸上から門構えの基本桁昇降装置までの長さ24.4mの基本桁と、その先6.1mの補助桁からなっており、補助桁の先端を車両甲板船尾端の約75cm低くなった“エプロン甲板”上に置いて固定するもので、基本構造は既に関森航路で実用化していたものと同様であった。 しかし、この可動橋は、補助桁だけを単独で動かすことができず、また補助桁が剛節構造で船の横傾斜に十分追随できなかったこともあり、太平洋戦争後、柔構造の補助桁への交換と補助桁昇降装置の付加、陸上の橋台と主桁の間に端桁を挿入するなどの改修工事が行われた。可動橋自体の設計荷重はE33相当で、入換機関車の重量には十分耐えられるものであったが、陸上と可動橋の勾配の折れ角が、潮位によっては64〜80‰と過大になることがあり、可動橋上に急S字曲線も介在したため、可動橋上への入換機関車の乗り入れは無理とされた。また、補助桁はその先端を“エプロン甲板”に載せるため、補助桁上に重い機関車が載ると船尾と共に沈下して、ここでも勾配の折れ角が過大になるため、積卸しする車両と入換機関車の間には数両の控車を連結し、入換機関車が可動橋、とりわけ補助桁に乗り入れなくても済むよう工夫された。 可動橋には、車両甲板船尾端の3線の船内軌道と合致するよう、3線の軌道が敷設されていた。都合6本のレールは可動橋先端で折畳みナイフ状に折れるヒンジを持ち、ヒンジより先は幅の狭いナイフ状の“先端特殊レール”で、各軌道のレール頂部内側の延長として可動橋先端から約90cm突出し、使用時はこの先端特殊レールを、その幅だけ軌間を広げた船内軌道車両甲板後端の特殊レールの内側に接するよう落とし込むことで、可動橋と車両甲板の軌道の連続性が確保され、船の前後運動による最大30cmまでの両軌道間の離開にも対応できた。なお先端特殊レールの中央部には可動橋の勾配と車両甲板の勾配差で生じる角度にも追従できるよう±20度程度動く第2のヒンジも設けられていた。また両特殊レール内側には脱線防止ガードレールも設置されていた。 ==就航後== 翔鳳丸型は1924年(大正13年)5月から12月にかけて順次就航したが、車両積卸し可能な専用岸壁は未完成であった。そのうえ、車両の連結器も、北海道の 自動連結器と、本州以南のねじ式連結器では、相互に連結ができず、これらの問題が解決されるまで、比羅夫丸・田村丸に代わって、通常型の客船として使用され、この間、車両甲板上には臨時の手小荷物・郵便室が設置されていた。 ===専用岸壁建設=== 翔鳳丸就航直前の函館港には、1910年(明治43年)12月15日完成の木造桟橋があり、桟橋上には、 1915年(大正4年)6月15日開設の函館桟橋乗降場があって、連絡船接続列車が発着していた。この木造桟橋には当時、西面と北面の2バースがあった。車両航送を開始するため、この桟橋のすぐ南側に、1922年(大正11年)8月10日から、鉄筋コンクリート造の専用岸壁2バースを有する若松埠頭が築造中で、木造桟橋は撤去される予定であった。 1924年(大正13年)4月25日から、この木造桟橋の西面バースを使用停止とし、一部の客貨便は沖繋りに戻し、5月1日には函館桟橋乗降場も閉鎖された。同年10月1日からは、築造中の若松埠頭先端寄りの函館第2岸壁(当時は函館第1岸壁と呼称)が一部完成したため、使用開始し、木造桟橋は使用廃止された。10月4日には、若松埠頭上に建設された鉄筋コンクリート3階建ての連絡船待合室1階に完成した1面2線の新しい函館桟橋駅も使用開始された。翌1925年(大正14年)5月20日には、同岸壁の可動橋が竣工したため、5月21日より翔鳳丸型による試験車両航送が開始され、8月1日より正式に車両航送が開始された。また6月1日からは手前側の函館第1岸壁(当時は函館第2岸壁と呼称)の使用も開始されたが、可動橋使用は9月5日からで、10月14日を以って若松埠頭築造工事は完了した。 しかし、車両航送開始後より急増した函館駅構内の貨車入換作業は、1928年(昭和3年)9月10日の長輪線全通や、1930年(昭和5年)10月25日の上磯線の木古内への延伸開業でさらに拍車がかかり、これに対応する函館駅構内配線の全面改良工事が、1928年(昭和3年)10月より開始された。その一環として、1930年(昭和5年)11月11日には、函館桟橋駅ホームが函館駅本屋の跨線橋まで延長され、函館駅第2乗降場と呼称される長いホームとなった。これに先立つ同年10月1日から函館桟橋駅発着列車は廃止され、全て函館駅発着となった。 一方青森側は、既に青森県が国庫補助を受け、1915年(大正4年)6月以来工事を進めていた大規模築港工事である青森港第1期修築工事の付帯工事として、青森第2岸壁(当時は青森第1岸壁と呼称)の築造工事が、青森県への委託工事として1920年(大正9年)4月1日に起工、1923年(大正12年)12月15日からは一部で先行使用が開始され、ここに青森側での旅客便、客貨便の直接着岸が実現した。1924年(大正13年)3月31日には通常岸壁として竣工し、青森県から引き渡しを受けた後、車載客船の船尾を係留するポケット部分と可動橋を追加建設し、1925年(大正14年)4月25日竣工し、同年5月21日からの試験車両航送に使われた。なお青森第1岸壁(当時は青森第2岸壁と呼称)は、1923年(大正12年)12月まで青函連絡船の旅客用ハシケ岸壁として使われた第2船入澗を、さらに南西に掘り込む形で築造され、1928年(昭和3年)8月11日に岸壁完成し、可動橋は同年9月20日竣工、10月から使用された。 ===自動連結器への統一=== 本州では、1925年(大正14年)7月1日から逐次、客車の編成中間から自動連結器への交換が開始され、7月17日には貨車の全国一斉自動連結器への交換がわずか1日で行われた。北海道では既に、その前年の1924年(大正13年)8月5日〜7日に客車の、8月13日〜16日には残りの客車、機関車、貨車の自動連結器中心高さを、従来の660mmから全国標準予定の878mmへの引き上げ工事を済ませていた。 ここに、専用岸壁の完成と連結器の統一を見て、1925年(大正14年)8月1日より待望の車両航送が開始された。 ===無線方位測定装置の導入=== 稚泊連絡船 壱岐丸は、1926年(大正15年)12月、陸上の標識局から発信される電波の方向を測定する無線方位測定装置を、日本の船舶として最初に装備していたが、青函航路でも、1930年(昭和5年)5月、函館湾奥の久根別に地上標識局が開設され、同時に当時就航中の全連絡船に無線方位測定装置が装備された。その後、1936年(昭和11年)1月には葛登支岬と青森港西側の沖館、東側の浦町に、1942年(昭和17年)12月には平館の北、石崎にも標識局が開設され、視界不良時にも不完全ながら自船の位置を知ることができるようになった。 ==車両航送の効果== 車両航送開始以前は、北海道の主要産物である鮮塩魚、タマネギ、馬鈴薯等の本州向け輸送、本州から北海道向けに輸送される味噌、醤油、野菜、果物、陶器等の輸送は、積替えが多くなる青函航路経由を嫌い、一般船舶で輸送されたが、大量低頻度輸送で不便であった。しかし、1925年(大正14年)8月1日の車両航送開始後は、天候に左右されるハシケ荷役による積替えがなくなり、青函間の貨物継送時間が40時間から10時間に短縮されたことで、急送を要する鮮魚輸送にも広く使われるところとなり、東京市場での鮮魚価格低下に貢献するなど、道内産鮮魚の市場規模を急拡大させた。また内陸駅から内陸駅まででも、積替えは発着駅だけとなり、簡易な荷造りでほとんど品傷みなく、船舶に比べれば少量かつ高頻度で利用できるようになったことで、上記の農産物や食品雑貨等も鉄道輸送に取り込み、また新規獲得し、まさに流通革命であった。その後も、道内発貨物の平均輸送距離は年を追うごとに伸び、商品販路はさらに拡大して行った。 かつて青函航路が混乱状態に陥った1917年(大正6年)度の貨物輸送量は36万1259トンで、 大戦景気末期の貨物輸送量ピーク時の1920年(大正9年)度には45万5597トンを記録し、その後は景気後退で一時減少したものの1924年(大正13年)度には46万5860トン、年度途中から車両航送を開始した1925年(大正14年)度には49万7006トンと増加に転じていた。車両航送開始翌年度で、年度途中から第一青函丸も就航した1926年(大正15年‐昭和元年)度には、依然景気後退時期であったにもかかわらず、上記のような新規貨物需要の掘り起こしもあり、貨物輸送量は前年比32%増の65万4952トンを記録し、車両航送の効果を見せ付ける結果となった。 一方旅客輸送は、同じく混乱状態に陥った1917年(大正6年)度の旅客輸送人員は49万4827名で、大戦景気中の旅客輸送人員ピーク時の1919年(大正8年)度は70万5055名で、以後同様に減少していたが、翔鳳丸型が前年度途中から通常の客船として就航し、年度途中から車両航送を開始した1925年(大正14年)度には前年比7%増の75万2864名を数え、上記記録を更新し“大型客船”効果を示したが、1926年(大正15年‐昭和元年)度の旅客輸送人員は76万6606名と微増に留まった。 ==運航== 翔鳳丸型は試運転最大速力こそ16.957ノットと、比羅夫丸型には及ばなかったが、当時の比羅夫丸型と同じく、青森 ‐ 函館間を4時間30分で運航できたうえ、荷役時間が短縮されたため、1隻1日2往復の運航が可能であった。就航早期には、一部の客貨便で4時間15分、4時間20分運航も行われたが、戦時中には酷使され、4時間40分運航になってしまった。 1925年(大正14年)5月21日から試験車両航送の客貨便1往復運航開始。 8月1日から車両航送開始、客貨便3往復、貨物便1往復、不定期貨物便1往復の計5往復で、下りの客貨便の1本だけが4時間20分運航であったほかは、全て4時間30分運航。貨物便は下りの1本に5時間40分運航があったほかは5時間運航であった。8月1日から車両航送開始、客貨便3往復、貨物便1往復、不定期貨物便1往復の計5往復で、下りの客貨便の1本だけが4時間20分運航であったほかは、全て4時間30分運航。貨物便は下りの1本に5時間40分運航があったほかは5時間運航であった。1926年(大正15年)8月15日からは客貨便3往復、貨物便1往復、臨時貨物便2往復の計6往復に増便し、客貨便は全て4時間30分運航となった。貨物便は5時間30分〜6時間運航とし、第一青函丸でも運航できる便が1往復設定された。 12月12日 第一青函丸 就航。12月12日 第一青函丸 就航。1928年(昭和3年)9月10日には、翔鳳丸型4船6往復(客貨便3往復、臨時貨物便3往復)、第一青函丸1船1往復(貨物便)の計7往復運航となった。客貨便では上りに4時間20分運航便、下りに4時間15分運航便が各1本ずつ設定された。。 10月より青森第1岸壁(当時第2岸壁)使用開始10月より青森第1岸壁(当時第2岸壁)使用開始1930年(昭和5年)9月1日第二青函丸就航。貨物便を1往復増便して8往復とした。 10月には第一第二青函丸2船3往復運航として、9往復設定としたが、不況で貨物輸送量減少し、実質7往復。客貨便3往復は全て4時間30分運航に戻った。10月には第一第二青函丸2船3往復運航として、9往復設定としたが、不況で貨物輸送量減少し、実質7往復。客貨便3往復は全て4時間30分運航に戻った。1933年(昭和8年)8月5日から8往復復活。1934年(昭和9年)12月1日からは、翔鳳丸型客貨便3往復、翔鳳丸型貨物便3往復、第一第二青函丸2船3往復の計9往復運航。1937年(昭和12年)10月1日から12月31日に限り、翔鳳丸型客貨便3往復、同貨物便3往復、臨時貨物便2往復、不定期貨物便2往復の10往復運航。1938年(昭和13年)8月9日から、翔鳳丸型客貨便3往復、同貨物便3往復、臨時貨物便2往復、不定期貨物便2往復の10往復運航。1939年(昭和14年)11月25日第三青函丸就航。貨物便2往復増便し12往復運航。1940年(昭和15年)10月10日から、翔鳳丸型で運航していた貨物便のうち1往復で旅客扱をし、客貨便を1往復増の4往復とした。 第一第二青函丸2船3往復、その他4時間30分〜5時間30分運航の貨物便5往復の、計12往復が基本となった。翔鳳丸型4隻と第三青函丸の計5隻で9往復していた。1943年(昭和18年)3月6日第四青函丸就航。貨物便2往復増便し14往復運航。翔鳳丸型4隻と第三第四青函丸の計6隻で11往復していた。1944年(昭和19年)1月14日第五青函丸就航。 3月19日第六青函丸就航。 4月1日からは、上記2隻の就航を受け、貨物便4往復増便し18往復とした。客貨便は4往復のままであったが、これらのうち、4時間30分運航は下りの1本だけで、他は全て4時間40分運航となった。貨物便は第一第二青函丸の低速便以外は、1日2往復運航するため、下り4時間30分〜40分、上り4時間40分〜50分で運航された。低速便3往復以外の15往復は、翔鳳丸型と第三〜六青函丸の8隻で運航された。 5月1日からは、青森第3岸壁開設を受け、貨物便1往復増便し19往復とした。これより、低速便3往復以外の16往復は、翔鳳丸型と第三〜六青函丸の8隻で、1日2往復休航なしの運航体制となり、第一第二青函丸も1日1往復半の休航なしであった。 7月20日第七青函丸就航。貨物便2往復増便し21往復としたが、これが戦時中の最多運航となった。 11月22日第八青函丸就航。23往復の計画はあったが、既にこの頃には、全船フル稼働の過酷な運航体制は破綻しており、この計画は達成されなかった。3月19日第六青函丸就航。4月1日からは、上記2隻の就航を受け、貨物便4往復増便し18往復とした。客貨便は4往復のままであったが、これらのうち、4時間30分運航は下りの1本だけで、他は全て4時間40分運航となった。貨物便は第一第二青函丸の低速便以外は、1日2往復運航するため、下り4時間30分〜40分、上り4時間40分〜50分で運航された。低速便3往復以外の15往復は、翔鳳丸型と第三〜六青函丸の8隻で運航された。5月1日からは、青森第3岸壁開設を受け、貨物便1往復増便し19往復とした。これより、低速便3往復以外の16往復は、翔鳳丸型と第三〜六青函丸の8隻で、1日2往復休航なしの運航体制となり、第一第二青函丸も1日1往復半の休航なしであった。7月20日第七青函丸就航。貨物便2往復増便し21往復としたが、これが戦時中の最多運航となった。11月22日第八青函丸就航。23往復の計画はあったが、既にこの頃には、全船フル稼働の過酷な運航体制は破綻しており、この計画は達成されなかった。1945年(昭和20年)3月6日第五青函丸沈没、この頃には実際は13往復を目標とする運航に留まった。 6月1日第十青函丸就航。6月1日第十青函丸就航。 ==沿革== ===翔鳳丸=== 1922年(大正11年)8月10日 ‐ 起工(浦賀船渠)1924年(大正13年)4月19日 ‐ 前年の関東大震災により予定より半年以上遅れて竣工。1945年(昭和20年)7月14日 ― 遅れ2便として青森5時着、間もなく空襲警報発令されたため、旅客のみ下船させ5時20分離岸し、青森港外へ退避した。攻撃を受けることなく9時53分警報解除となり、10時頃投錨。14時05分再度の空襲警報あり。14時40分頃アメリカ軍機来襲を発見し、抜錨、縫航(ジグザグ航法)による回避行動開始した。アメリカ軍機はまず本船西方で縫航中の飛鸞丸を集中攻撃した後、15時頃より本船も機銃掃射と爆撃を受けた。当初は縫航運動で爆撃を巧みに回避できていたが、煙突後部の端艇甲板への爆弾命中後は各所に被弾し、無線室後部の端艇甲板に命中した爆弾により火災が発生した。15時35分頃には左舷中央部水線付近にも被弾し左舷傾斜、浸水量増大して船速低下し、揚錨機被弾による右舷錨制動機能喪失で投錨状態となり、船は停止。15時40分退船命令発せられ、15時55分直立して沈没。この直前に沈没した飛鸞丸沈没位置の西約100mの地点であった。乗組員95名中47名が戦死。なお日本側史料では、アメリカ軍機1機撃墜1機撃破とされるが、アメリカ側史料にはその記録はない。 ===飛鸞丸=== 1922年(大正11年)10月12日 ‐ 起工(浦賀船渠)1923年(大正12年)8月16日 ‐ 進水 9月1日 ‐ 関東大震災でイギリスより輸入した主機用の減速歯車が横浜港で、ハシケに積載されたままハシケ焼失で水没、浦賀船渠の施設の被災もあり、竣工が大幅に遅れた。9月1日 ‐ 関東大震災でイギリスより輸入した主機用の減速歯車が横浜港で、ハシケに積載されたままハシケ焼失で水没、浦賀船渠の施設の被災もあり、竣工が大幅に遅れた。1924年(大正13年)12月15日 ‐ 竣工 第2船の飛鸞丸の竣工が翔鳳丸型4隻の最後になった。1934年(昭和9年)3月21日 ‐ 夕刻から翌22日未明にかけ、強風を伴った低気圧が日本海からオホーツク海へと通過して行った。飛鸞丸は17時30分南々東の風15m 小雨の函館桟橋離岸、港外に出たあたりから風向は南々西となり急激に風速増大し、18時25分葛登支灯台沖にて前途航行困難と判断し、引き返そうと右舷回頭を3回試みたが、船首方向が風向と90度に達すると風上に切り上がってそれ以上回頭できず回頭を断念。このとき積載貨車の脱線あり、また追波を受けて車両甲板上に海水が浸入し、車両甲板下最後部の操舵機室へは換気口とロープホールから浸水してグレーチングが浮動破損し、その破片が操舵機に引っ掛かって一時操舵不能となった。また中央部のボイラー室へは、車両甲板石炭積込口から海水が浸入し、石炭もろとも泥水状態となって流入、焚火困難となってボイラー圧の低下はあったが、かろうじて22日1時に三厩錨地に到着、投錨し遭難を免れた。この強風で無線送信用空中線が一時切断され、船から陸への通信が途絶したため、飛鸞丸遭難かと騒がれた一幕もあった。なお同夜、函館大火が起きている。1941年(昭和16年) ‐ 音響測深儀装備1945年(昭和20年)7月14日 ― 函館発定刻2時40分のところ2時55分頃12便として出航し、青森へ向け航行中、5時に青森地区空襲警報あり、警戒しつつ7時10分青森港堤川沖に到着錨泊、この時は攻撃を受けることはなかった。14時05分再度の空襲警報あり、抜錨し縫航による回避行動をとったが、14時50分頃よりアメリカ軍機の機銃掃射と爆撃を受け、15時16分より船体は右舷に傾斜し15時40分沈没した。乗組員97名中17名が戦死したほか、船員養成所教官生徒56名中14名死亡。なお日本側史料では爆撃直前にアメリカ軍機2機を撃墜したとされるが、アメリカ側史料にはその記録はない。 ===津軽丸=== 1923年(大正12年)6月13日 ‐ 起工(三菱造船長崎造船所) 1924年(大正13年)9月24日 ‐ 竣工1945年(昭和20年)7月14日 ‐ 1便として1時間21分遅れの2時41分、青森を出航、平館灯台航過後の5時10分空襲警報を受け三厩泊地に錨泊、12時50分抜錨し函館に向かったが、14時47分からアメリカ軍の激しい空襲を受け、14時52分頃火災発生し、15時10分狐越岬東方約4海里で沈没。乗組員99名中75名戦死、乗客70名中52名が死亡。アメリカ軍側の被害は1機の左翼に小さな機銃痕を認めただけであった。 ===松前丸=== 1923年(大正12年)6月13日 ‐ 起工(三菱造船長崎造船所)1924年(大正13年)10月24日 ‐ 竣工1941年(昭和16年)2月11日 ‐ 穴澗沖に座礁 ボイラー室浸水 2月14日離礁1942年(昭和17年)春 ‐ 6号缶の水管破裂、火手3名死亡1945年(昭和20年)7月14日 ― 函館5時50分発の14便として出航準備中の4時45分、空襲警報発令されたため、旅客のみ下船させ、貨車26両積載のまま5時24分離岸し港外退避。5時42分、防波堤灯台航過したところで、松前丸に先行し、函館を5時08分、194便として出航し、葛登支岬沖を航行中の第四青函丸周辺に水柱数本立つのを視認した。松前丸は当時、操舵室屋上左右に25ミリ機関銃各1基、後部左右に13ミリ機関銃各1基を装備し、連絡船の中では最強の武装であった。5時53分よりアメリカ軍機の来襲あり、函館湾内で縫航運動を行い空襲から逃れようとしたが、攻撃は執拗で、沈没回避のため七重浜への座洲を決断し、七重浜へ向け全速運転した。その後、6時18分には端艇甲板を貫通し機関室内右舷に達する命中弾を受け火災発生し、以後減速していったが、6時30分、第3防砂底堤西約1,000mの七重浜に座洲した。しかし火災激しく、6時45分総員退船発令。乗組員95名中22名が戦死。アメリカ軍機1機を撃墜、1機撃破している。 ===その後=== 津軽丸を除く3隻は、戦後引き揚げられるなどしてスクラップとなったが、松前丸で使用されていた号鐘は現在函館市青函連絡船記念館摩周丸で保存・展示されている。 ==翔鳳丸型一覧表== =テサロニケの信徒への手紙二= テサロニケの信徒への手紙二(テサロニケのしんとへのてがみに)は新約聖書正典中のいわゆるパウロ書簡に含まれる一書で、使徒であるパウロがテサロニケの信徒たちに宛てた書簡の一つである。ただし、先行する『テサロニケの信徒への手紙一』(以下、第一テサロニケ書)がほぼ異論なく真正パウロ書簡と認められているのに対し、この『テサロニケの信徒への手紙二』(以下、第二テサロニケ書)は真正書簡か擬似パウロ書簡(第二パウロ書簡)かで、なおも議論が続いている。また、本来の主題は誤った終末論に惑わされることなく、落ち着いて日常の労働に励むことの大切さを説くことにあったのだが、後にはそこから離れ、中世の終末論や反キリスト像の発展に大きく影響した文書であるとともに、共産主義と親和的なスローガン「働かざる者食うべからず」に結びつくこととなった文書でもある。 この記事名に用いた「テサロニケの信徒への手紙二」は新共同訳聖書に基づくもので、ほかに「テサロニケ人への後の書」(大正改訳)、「テサロニケ人への第二の手紙」(口語訳・バルバロ訳・岩波委員会訳)、「テサロニケの人々への第二の手紙」(フランシスコ会聖書研究所訳)、「テサロニケ人への手紙 第二」(新改訳)、「フェサロニカ人に達する後書」(日本正教会訳)などとも訳されることがある。なお、ネストレ・アーラント第28版での書名は、ギリシア語: ΠΡΟΣ ΘΕΣΣΑΛΟΝΙΚΕΙΣ Β’となっている。 ==概要== 伝統的にはパウロの書簡と看做されていたが、近代以降、パウロの真正書簡に属するかどうかについては議論がある。文献学的アプローチを採る学者からは否定的見解が提示されており、このためしばしば擬似パウロ書簡に分類される。 そのテーマは、終末が訪れていると信じて浮き足立つテサロニケの信徒たちに対して、キリストの再臨に至る筋道を示すことで、それがまだ来ていないことを確認するとともに、(いつ来てもよいように備えつつも)落ち着いて日々の労働に励むことの大切さを諭すことにある。 第一テサロニケ書との重複箇所も少なくないが、独自性を発揮している「不法の者」に関する描写は、ヨハネの黙示録などとともに後代の反キリストのイメージの発展に影響を及ぼした。 また、日々の労働の大切さを説いた言葉「働こうとしない者は、食べることもしてはならない」(口語訳)はキリスト教の労働観に影響を及ぼしただけでなく、20世紀にはレーニンによる改変を経て、「働かざる者食うべからず」という不労所得による搾取を否定するスローガンとしてソ連などの共産主義諸国の憲法にも盛り込まれた。これが日本国憲法の勤労の義務に繋がったという説もある。 ==著者== 第二テサロニケ書の第1章1節には、著者としてパウロ、および同行者のシルワノ、テモテの名があるが、著者問題については、パウロが生前に執筆した真正書簡とする説、パウロの死後に別人が執筆した擬似書簡とする説のほか、パウロの生前にその意を受けて近しい人物が第一テサロニケ書の真意を敷衍したと見る「代筆説」などもある。 正典中のパウロ書簡をすべて真正書簡と見なすカトリックのバルバロ訳聖書や福音派の『新聖書辞典』(いのちのことば社)は、当然これも真正書簡と見ている。エフェソ書や牧会書簡について真正書簡・擬似書簡の両論が併記されているフランシスコ会訳聖書の解説でも、この第二テサロニケ書については、「現代のほとんどすべての聖書学者」が真正パウロ書簡と認めていると述べられている。同じく、エフェソ書や牧会書簡がほぼ真正書簡とは見なせないことを明記している『新約聖書略解』(日本基督教団出版局)でも、第二テサロニケ書について「今日大多数の人々」が真正書簡の立場を採用していると述べられていた。 また、擬似書簡の立場をとる辻学も、真正書簡とする説が根強いことは認め、ことに20世紀末から21世紀初頭の「北米で出版されている注解書はほとんどがそうである」と指摘している。保坂高殿も擬似書簡の立場をとるが、牧会書簡などと比べた時には、擬似書簡と見なすことの確実性が落ちることは認めている。 他方で、擬似パウロ書簡とする立場をとるギュンター・ボルンカムは「今日多くの研究者によって」擬似パウロ書簡と位置づけられていることを指摘し、認識の正当性を主張していた。ドイツ語圏の動向については松永晋一も、ヴェルナー・キュンメル(ドイツ語版)、アルブレヒト・エプケ(ドイツ語版)などを除けば「多くの研究者」が擬似書簡の立場としている。『旧約新約聖書大事典』(教文館)のテサロニケ書の記述はヴィリー・マルクスセン(ドイツ語版)の記述が土台になっているが、そこでも真正書簡説を擁護するのは「今日ほんのわずか」とされている。真正書簡説に立っていた山谷省吾も1972年の註解書でマルクスセンの見解などを踏まえつつ、有力になりつつあるのは擬似パウロ書簡説であるとしていた。 また、新アメリカ聖書のカトリック・スタディ・バイブル(オックスフォード大学出版局)では、擬似書簡と見る説が「近年ますます推進されている」と述べられている。上智大学の編纂した辞典(事典)では、1950年代の『カトリック大辞典』で真正書簡説が採られていたのに対し、21世紀の『新カトリック大事典』では擬似書簡説に差し替わっている。カトリック教会の聖職者では、ベネディクト会のミュンスターシュヴァルツァッハ修道院長のアンゼルム・グリューン(ドイツ語版)も、第二テサロニケ書がパウロ以外の著作であると明言している。 擬似パウロ書簡を支持する論者の中には、田川建三のように論拠の幾つかを挙げた際に「まっとうな学者はほぼ皆さん」がこれと同じ立場であるとする者もいる。他方で、自身が擬似書簡の立場に立つバート・D・アーマン(英語版)は、「大勢の優秀な学者が、真っ二つに分かれて議論している」この書簡は、擬似書簡の中でも「その作者を巡って最も熾烈な論争が繰り広げられている」とした。文庫クセジュのレジス・ビュルネ(フランス語版)の概説書のように、どちらが優勢かを記さずに純粋に両論を併記するにとどまる文献もある。 なお、擬似パウロ書簡の立場に立つ論者の中でも、実際の著者については、パウロの思想をよく理解し、尊重していた人物と見る説が多い一方、そうした思想の継承に懐疑の目を向ける論者もいる。 ===執筆年代=== この書簡も新約正典の他の文書と同じく、内容から執筆年代を推測するほかはないが、以上に見てきたように、この書簡が真正書簡であるか擬似書簡であるかが定まっているとは言い難いため、どちらの立場をとるかによって推定される年代は大きく異なってくる。 伝統的アプローチを採る学者は、本書簡は第一テサロニケ書から時をおかずに(おそらくコリントで)書かれたと考えている。というのも第一の手紙に書いたキリストの再臨について誤解している人々がいることを知ったパウロがその誤りを正すために書いたと推測できるからである。パウロは自分が述べたキリストの再臨がいまにも訪れるというわけではなく、それに先だって「滅びの子」が現れると述べている。こうした「矯正」を目的とする執筆だったという見解は『ムラトリ正典目録』(2世紀末ないし3世紀初頭)でつとに示されていた。 パウロが第2回伝道旅行でテサロニケに着いたのは西暦49年もしくは50年とされ、そのあとにベレヤ、アテネ、コリントと移ったパウロが、派遣していた弟子テモテからテサロニケの様子を聞いて執筆したとされるのが第一テサロニケ書で、50年ないし51年ごろとされる。第二テサロニケ書はそれから間もなく、数ヶ月以内の時期に書かれたと推測されている。使徒言行録第18章から第20章の叙述に従えば、パウロはコリントに1年6か月滞在した後にテサロニケのあるマケドニア属州に赴いているので、直接口頭で指導せずに手紙を書いたのは、マケドニアに赴く前だったからと見なされるのである。 なお、真正書簡と見る立場には、第一テサロニケ書よりも第二テサロニケ書の方が先に書かれたという説も、1640年のグロティウス以来、一定程度見られる。それらの立場では、パウロがベレヤやアテネに滞在していた時に執筆されたと見なされている。また、「代筆」説の場合、実際の執筆者としては(この手紙冒頭にも名の挙がっている)テモテやシルワノの名を挙げる論者もいるが、そこまで特定できるかどうかには疑問も投げかけられている。 擬似書簡と見る側の年代推定には幅があり、その論拠も様々である。まず、第2章1節から12節の中で「不法の者」が「神の宮」(神殿)に座する事態が未来の出来事とされていることを踏まえ、エルサレム神殿崩壊(西暦70年)よりも前の成立を想定する者がいる。他方で、その表現はあくまでもダニエル書などにも見られた伝統的な黙示文学のモチーフに倣ったもので、現実世界の動きと直結させるべきではないとする見解もあり、年代決定の参考情報にしている者にも同様の慎重さを示す者はいる。 ほかの手がかりとして、作成の動機を挙げる者もいる。前述のように擬似書簡説に基づけば、作成の動機はパウロが第一テサロニケ書で強調していたすぐにも(パウロが生きているうちにも)来るという終末を先送りにすることにあったとされるので、パウロの没後間もない頃に浮き足立っていた信者たちを鎮めるために、その時期に執筆されたと考えられるのである。これらの立場では、擬似書簡の中で最も初期の部類に属する可能性が取り沙汰されている。 もう一つの論点が、「終末の遅延」に関する意識である。第二テサロニケ書が「終末の遅延」の認識、すなわち本来ならば来ているはずの終末がまだ来ていないという認識のもとで書かれたかどうかについても議論があり、これに否定的な場合、擬似書簡の立場を取る論者にも意図的に「終末の遅延」という表現を避ける者がいる。他方で、第二テサロニケ書に「終末の遅延」を見出す論者は、1世紀末ごろの作成をしばしば想定しているが、福音書に見られる意識との比較などから、西暦80年代の成立と想定する者もいる。 下限となる指標については、90年頃に編纂されたパウロ書簡集 (Corpus paulinum) に含まれていたことを挙げる者や、マルキオン聖書(140年頃)に含まれていたことを挙げる者などがいる。 ==執筆地と宛先== 執筆地について、古い写本には末尾に「アテネから」「ローマから」などと書き加えたものもあるが、前出の通り、真正書簡の場合に有力視されているのはコリントである。他方、擬似書簡の場合には不明だが、テサロニケの教会に宛てられていることから、少なくとも主たる活動場所がテサロニケであった可能性はあるとされる。 また、主要な古い写本では、宛先がテサロニケであることは一致している。ただし、擬似書簡の可能性も取り沙汰されるいくつかの論点に対応して、第一と第二のテサロニケ書は、テサロニケ教会内の異なるグループに宛てられているとするアドルフ・フォン・ハルナックのような説もある。また、ベレヤやフィリピが実際の宛先だったと仮定する論者たちもいる。もっとも、これらの説については、その根拠の薄弱さを指摘する意見もある。 ==構成== 現代の聖書の区切り方では、12節で構成される1章、17節で構成される2章、18節で構成される3章という全3章で成り立っている。新約正典27文書の中では短い方であり、章を目安とすれば、これと同じかこれより短いのはペトロの手紙二とテトスへの手紙(各3章)および章区切りがないフィレモンへの手紙(25節)、ヨハネの手紙二(13節)、ヨハネの手紙三(15節)、ユダの手紙(25節)のみである。 その内容は、冒頭の挨拶、終末に至る予定の提示、怠惰な生活への戒め、結語といったものだが、節単位で見た場合には、論者によってまとめ方に細かな違いがある。ここではいくらかの例ということで、新共同訳、フランシスコ会訳、新改訳、岩波委員会訳の4つの小見出しを掲げておく。 ===主題=== 後述するように、第二テサロニケ書には第一テサロニケ書と類似するくだりが多く含まれ、内容的には3分の1ほどが重なるとも、3分の2ほどが第一書を敷衍しているとも言われる。まず、第1章5節から10節に独自の思想が含まれているとする者がおり、そこに含まれた応報の思想にはユダヤ教色が強いとも指摘されている。 次に、キリストの再臨に至るスケジュールを記した第2章1節から12節は第一テサロニケ書には直接重なり合う箇所を持たず、第二テサロニケ書の随所に散りばめられている第一書からの借用表現も、この箇所には見られない。この部分がこの書簡の核心とされることがしばしばである。後段とのかかわりから、その箇所を口語訳聖書から引用しておく。 さて兄弟たちよ。わたしたちの主イエス・キリストの来臨と、わたしたちがみもとに集められることとについて、あなたがたにお願いすることがある。霊により、あるいは言葉により、あるいはわたしたちから出たという手紙によって、主の日はすでにきたとふれまわる者があっても、すぐさま心を動かされたり、あわてたりしてはいけない。だれがどんな事をしても、それにだまされてはならない。まず背教のことが起り、不法の者、すなわち、滅びの子が現れるにちがいない。彼は、すべて神と呼ばれたり拝まれたりするものに反抗して立ち上がり、自ら神の宮に座して、自分は神だと宣言する。わたしがまだあなたがたの所にいた時、これらの事をくり返して言ったのを思い出さないのか。そして、あなたがたが知っているとおり、彼が自分に定められた時になってから現れるように、いま彼を阻止しているものがある。不法の秘密の力が、すでに働いているのである。ただそれは、いま阻止している者が取り除かれる時までのことである。その時になると、不法の者が現れる。この者を、主イエスは口の息をもって殺し、来臨の輝きによって滅ぼすであろう。不法の者が来るのは、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力と、しるしと、不思議と、また、あらゆる不義の惑わしとを、滅ぶべき者どもに対して行うためである。彼らが滅びるのは、自分らの救となるべき真理に対する愛を受けいれなかった報いである。そこで神は、彼らが偽りを信じるように、迷わす力を送り、こうして、真理を信じないで不義を喜んでいたすべての人を、さばくのである。 ― 第二テサロニケ書2:1‐12、口語訳聖書 (Wikisource) これが第一テサロニケ書と矛盾する見解といえるのか、第一テサロニケ書とも共通する見解の異なる側面にすぎないのか、言い換えればパウロ的なのか非パウロ的なのかは、後述するように立場によって受け止め方が異なっている。 第3章6節から13節も第一テサロニケに重なり合う部分をほぼ見出せない箇所であり、第2章1節から12節とあわせて、これら2箇所が内容上の特色と位置づけられることもある。こちらも引用しておく。 兄弟たちよ。主イエス・キリストの名によってあなたがたに命じる。怠惰な生活をして、わたしたちから受けた言伝えに従わないすべての兄弟たちから、遠ざかりなさい。わたしたちに、どうならうべきであるかは、あなたがた自身が知っているはずである。あなたがたの所にいた時には、わたしたちは怠惰な生活をしなかったし、人からパンをもらって食べることもしなかった。それどころか、あなたがたのだれにも負担をかけまいと、日夜、労苦し努力して働き続けた。それは、わたしたちにその権利がないからではなく、ただわたしたちにあなたがたが見習うように、身をもって模範を示したのである。また、あなたがたの所にいた時に、「働こうとしない者は、食べることもしてはならない」と命じておいた。ところが、聞くところによると、あなたがたのうちのある者は怠惰な生活を送り、働かないで、ただいたずらに動きまわっているとのことである。こうした人々に対しては、静かに働いて自分で得たパンを食べるように、主イエス・キリストによって命じまた勧める。兄弟たちよ。あなたがたは、たゆまずに良い働きをしなさい。 ― 第二テサロニケ書3:6‐13、口語訳聖書 有名な「働かざる者食うべからず」の典拠になっている箇所だが、それに関しては後述する。なお、第二テサロニケ書独自とはいっても、部分的に第一テサロニケ書簡とぴったり一致する箇所も含まれる。後掲するように、「人からパンをもらって」云々の一文には第一書簡とまったく同じ文章が挿入されている。 ==真正性をめぐる論点== 第二テサロニケ書は、第一テサロニケ書とともにいわゆる『マルキオン聖書』(2世紀半ば)に収録されていたし、『ムラトリ正典目録』(2世紀末頃)でも実質的に正典として扱われていた。そのように、かなり早い段階からパウロの真正書簡に含まれ、近代になるまで疑われることはなかったが、現在では様々な点から擬似書簡の疑いが提起されている。 この種の議論の嚆矢とされるのは、J・E・C・シュミットの指摘(1801年)である。しかし、彼の議論は真正書簡と見なしつつ、第一テサロニケ書の終末観と一致しない第2章1節から12節を後代の挿入と見なすものであった。その後、F・H・ケルン(1839年)、ウィリアム・ヴレーデ(1903年)が疑問を投げかけ、いくつもの観点から擬似書簡説を唱えた。 他方で、それらの疑問点は真正書簡であることを覆すには至らないものばかりであるとして、真正書簡と見る論者も少なくない。以下、主要な論点について、双方の主要な立場の概要を示す。 ===表現の並行関係=== 第二テサロニケ書には、第一テサロニケ書とほぼ一致する表現や文章がいくつも登場している。第1章1節が一言を除いて同じことがしばしば指摘されているが、La TOB(フランスの共同訳聖書)の解説で例示されているのは、以下のものである。 なお、原文が全く同じでも口語訳聖書が訳し分けているせいで、日本語訳だと一致が分かりづらい例が含まれている。たとえば、第二テサロニケ書3:8の後半は第一テサロニケ2:9にほぼ一致する文を見出せる。 こうしたことをどう評価するかは、立場によって異なる。擬似書簡と見る論者は、本物であることを装おうとして、あえて真正書簡から表現や文章を流用して散りばめたと見なしている。他方、真正書簡と見る論者からは、似せるための偽装にしては不徹底さが見られるという指摘があるほか、同じ主題を別の角度から説明すれば重複も不自然ではないと指摘されている。 ===文体の違い=== 第二テサロニケ書は、第一テサロニケ書に比べると、パウロが受け手に対して示す親密な度合いが弱まっているということがしばしば指摘されている。この点については、パウロが感情の抑制を苦手にしていたことから説明できるかどうかが争点になるが、いずれであっても、真正・擬似の判定の決め手とするには弱いとも指摘されている。 本書簡に2回登場する「父なる神と主イエス・キリスト」という言い回しは、写本によっては他のパウロ書簡と異なる言い回しとなり、父なる神とイエスをまったく同一視する意味を持ち、非パウロ的な論拠とされることもあるが、擬似書簡の立場を採る論者たちにも、そうした読みに否定的見解を示す者たちはいる。「主」や「イエス」の表現については、真正パウロ書簡では前置詞enの直後で必ず「キリスト・イエス」の順になるべきところが、この書簡では「イエス・キリスト」の順になっていることや、イエスの語に必ず「主」を冠するという他の書簡に見られない特色を持っていることなどに、疑問を呈する者もいる。 また、擬似パウロ書簡と見なしている田川建三は、擬似パウロ書簡に共通する傾向として、長文癖、類語反復、同義語好みを挙げており、実際、第1章3節から10節は(和訳では複数の文に区切られるのが普通だが)それで一文をなしている。ただし、田川も、そうした特色は他の擬似パウロ書簡に比べて、第二テサロニケ書ではかなり少ないことを認めている。 その一方、真正パウロ書簡と見なすアルブレヒト・エプケの注解書では、第二テサロニケ書の用語も文体もパウロ的であると明言されている。 ===終末観=== 第二テサロニケ書第2章1節から12節に示されているのは、そこに描かれた出来事が起こるまでは終末が訪れることはないとする考え方である。その中の「背教」のくだりにはダニエル書、外典・偽典の第一エノク書、第四エズラ書などの関連を指摘されるなど、各種黙示文学からの影響が指摘されている。「不法の者、すなわち、滅びの子」は本文にあるようにサタンの働きによって現れる神に反逆する者と理解されるが、それを「いま阻止している者」が何者なのかについては諸説あり、象徴的に捉える説から現実的な国家や君主などと結び付ける説まで様々に提示されてきた。 「あなたがたが知っているとおり」という表現から、少なくともこの手紙が現れた西暦1世紀には説明なしに通じただろうとする見方もあるが、単に黙示文学にありがちな表現形式を踏襲しただけで、実際には当時の人々にも分からなかった可能性も指摘されている。 こうしたタイムテーブルの提示は以下のような第一テサロニケ書の終末観と矛盾するという見解があり、それが擬似書簡説のひとつの論拠となっている。 わたしたちは主の言葉によって言うが、生きながらえて主の来臨の時まで残るわたしたちが、眠った人々より先になることは、決してないであろう。すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう。 ― 第一テサロニケ書4:15‐17、口語訳聖書 すなわち、パウロは自らが生きているうちにキリストの再臨が起こるかのように書いていたために、パウロが没すると、もう終末に突入したと認識して浮き足立つ人々が出るなどの混乱が見られたため、そのようなものはまだ来ないので落ち着くように奨めた、というのである。 ただし、真正書簡説を支持する論者たちは、矛盾というほどの齟齬はなく、あくまでもどのような人々に語りかけたかといった対象の違いによって生じた、異なる側面からの説明にすぎないという立場をとる。終末期待は高められる必要がある一方で、不安や緊張から狂信に走らないように導く必要もまた存在するからである。なお、擬似書簡と見る論者にも、終末観自体に矛盾はないとし、その点の齟齬を擬似書簡説の中心的根拠とすることに慎重な見解を示す者がいる。 ===偽書への注意喚起=== 第二テサロニケ書では、パウロが自身の手紙に偽書が混じっていることに注意喚起する一方で、この手紙こそが本物であるとばかりに真正性をアピールしているような記述が複数ある。 霊により、あるいは言葉により、あるいはわたしたちから出たという手紙によって、主の日はすでにきたとふれまわる者があっても、すぐさま心を動かされたり、あわてたりしてはいけない。 ― 第二テサロニケ書2:2、口語訳聖書 そこで、兄弟たちよ。堅く立って、わたしたちの言葉や手紙で教えられた言伝えを、しっかりと守り続けなさい。 ― 第二テサロニケ書2:15、口語訳聖書 もしこの手紙にしるしたわたしたちの言葉に聞き従わない人があれば、そのような人には注意をして、交際しないがよい。彼が自ら恥じるようになるためである。 ― 第二テサロニケ書3:14、口語訳聖書 ここでパウロ自身が、手ずからあいさつを書く。これは、わたしのどの手紙にも書く印である。わたしは、このように書く。 ― 第二テサロニケ書3:17、口語訳聖書 これについて、擬似書簡の立場をとる論者たちは、状況設定が不自然であると指摘している。第二テサロニケ書が真正書簡である場合、上述のように、その執筆年代は一連のパウロ書簡の中でも最も初期に属する。また、パウロの権威は生前にはまだ十分には確立しておらず、生前の、それも最も初期の手紙が書かれた時点で偽書が出回るという事態は想定しがたいというのである。また、最初期の手紙であるというのに、「どの手紙にも書く」真正性の印に言及するのも不自然であると、ケルン以来つとに指摘されている。その真正性の印としている書式について当てはまるのは第一コリント書と(擬似パウロ書簡の疑いがある)コロサイ書のみであり、真正書簡の全体にあてはまる印でないことも、偽装の疑いを強化するものとされる。 擬似書簡と見なす論者の中でも最も極端な見解を採る者たちは、第2章2節に登場している「わたしたちから出たという手紙」を第一テサロニケ書と見なしつつ、そちらに「手ずからあいさつを書く」という「どの手紙にも書く印」がないこととあわせ、第一テサロニケ書の方を偽書扱いしていると見る。つまり、第二テサロニケ書こそが真正書簡であると主張し第一テサロニケ書の真正性を否定することによって、その終末観の上書きを狙ったというのである。この説はドイツのリンデマンが1977年に最初に本格的に提示した。 ただし、擬似書簡の立場を取る論者たちにも、ここまでの見解には賛同しない者たちも少なくない。その場合、第二テサロニケ書は第一書を偽書とまでは位置づけておらず、その修正や補完を企図して付け足されたものであるとする立場が採られる。そこでは、「わたしたちから出たという手紙」が第一テサロニケ書を指していても、あくまでもそれを受け止めた人々が解釈を誤ったことなどが問題視されているのではないかとされる。あるいは、真正書簡とした上で執筆時点(西暦50年前後)にすでに偽名の書簡が存在していた可能性を示唆する者もいるが、それは考えがたいと指摘する者は真正書簡の立場を採る者の中にもいる。真正書簡の立場からは別の可能性として、パウロは想定されるリスクを予防的に提示したのではないかといった考え方も提示されている。 ==後代への影響== ===反キリスト論・終末論=== 第二テサロニケ書第2章1 ‐ 12節に登場する「不法の者」は、反キリストと同一視されることがしばしばである。本来、反キリストという言葉は、『新約聖書』の中ではヨハネの手紙一・同二のみに見られる言葉であり、そこではキリスト教の教えに背く者(たち)という以上の意味を持っていない。また、第二テサロニケ書では一貫して「反キリスト」の語は用いられておらず、それをここでの終末論の特色と見なす論者もいる。 しかしながら、古代から中世にかけて、キリスト教終末論や反キリストのイメージが発展する中で、第二テサロニケ書の描く「不法の者」をはじめとする一連のタイムテーブルは、中心的な影響力を持ったことも事実である。 「反キリスト」は「不法の者」やマタイによる福音書などに登場する「偽キリスト」(偽メシア)などとも混ぜ合わされ、神に敵対する具体的な一個の存在として認識されていくようになる。4世紀のキュリロスやヒエロニムスもそうした視点から第二テサロニケ書の解釈を展開した。 そうした観点は、正典に含まれるダニエル書、ヨハネの黙示録に次いで中世の終末論で影響力を持ったといわれる偽書『メトディウスの予言書』(7世紀)にも含まれており、未来予言にあたる第10章以下の土台に第二テサロニケ書の第2章1節から12節の叙述が置かれている。 また、モンチエ=アン=デルのアドソ(英語版) が10世紀半ばに西フランク王ルイ4世の妃ゲルベルガ(英語版)の下問に答える形でまとめた書簡は、中世の反キリスト論の画期をなした。その叙述に際してアドソが基礎においたのが第二テサロニケ書の第2章であった。その反キリスト描写は、それ以前に流布していたものよりもキリストの降誕のパロディ色が強いものだが、その中で反キリストがエルサレムで偽の奇跡を起こして支持を集め、その一方で恐怖によっても人々を従えることなども紹介されている。彼の反キリスト論は概括的なものではあったが、他方で物語的でもあったために、中世を通じてそこに多くの誇張が加えられ、反キリスト像の形成に大きな影響力を持った。 ルネサンス期になるとマルティン・ルターが現れて宗教改革を行うが、このルターがローマ教皇を反キリスト呼ばわりしていたことはよく知られている。彼がその際に引き合いに出したものの一つが第二テサロニケ書であった。また、同時代のイングランドのジョン・ジューエル(英語版)も『「聖パウロがテサロニケ人へ送った二通の手紙」注解』において、教皇が反キリストであると主張した。しかし、神の宮に座する不法の者を教皇庁に君臨する教皇と見なす発想は、すでに中世から見られたモチーフでもあった。 ===働かざる者食うべからず=== 3章10節には「働こうとしない者は、食べることもしてはならない」(口語訳)という一節があり、これは後のキリスト教徒の職業観・労働観に広く影響したものであるとともに、「働かざる者食うべからず」という表現が広く知られる元となった。 ここで書かれている「働こうとしない者」つまり「怠惰な」者とは、あくまでも「正当で有用な仕事に携わって働く意志をもたず、働くことを拒み、それを日常の態度としている」者と解される。つまり、病気や障害によって働きたくても働けない人や非自発的失業者を切り捨てるような文言ではない。 この格言のような句は、実際にはパウロの他の書簡に出てこないのは勿論のこと、旧約・新約の他の箇所にも見られない。また、ギリシア・ローマの古典にも見出されない。そこで、その起源は推測するしかないが、大きく分けるとヘレニズム起源説とヘブライズム起源説に分かれる。これについては、ヘレニズム文化において肉体労働は重視されることがなく、また主人に対して奴隷の使い方を勧告した言葉が元になっていると見ようとしても、この句には使役の意味合いが含まれていない(つまり働かせる側でなく働きうる当人に述べられている)ことなどから、創世記や箴言で示されている労働観とも結びつくヘブライズム起源説の方に分があると見られている。 この句はあくまでも1世紀当時の浮ついたテサロニケ教会の人々に即した勧告であって、全時代的・普遍的な労働の黄金律を示したものと解釈されるべきではない。しかし、古代から中世にかけての聖職者の生活には、この句が強く影響した。古代の教父たちも労働の重要性を説く際にこの句を引いており、アレクサンドリアのアタナシオス、カイサリアのバシレイオス、ヒッポのアウグスティヌスらの著書にそうしたくだりを見出すことが出来る。さらにはベネディクト会の標語「祈りかつ働け」もまた、この句にもとづくものであるが、当時積極的に評価されたのは修道院での労働である。 もっとも、宗教改革が起こると、ジャン・カルヴァンは逆に、修道士や司祭が他人の汗によって養われているとして、この句の注解で聖職者に対する批判を展開した。また、宗教改革期に、世俗的な職業労働も積極的な評価の対象に入るようになった。その中でピューリタンのリチャード・バクスター(英語版)は、全キリスト者に与えられた神からの義務として職業労働を位置づける際に「働こうとしない者は」云々を神からの命令として引き合いに出し、市民的労働観の形成に寄与した。 この句を労働価値説に基づいて「働かざる者食うべからず」と改変したのが、ソ連およびソ連共産党(前身はボリシェヴィキ)の初代指導者ウラジーミル・レーニンである。彼は、同党の機関紙「プラウダ」第17号(1929年1月20日発行)の論文「競争をどう組織するか?」で、「働かざるものは食うべからず」は社会主義の実践的戒律であると述べた。この論文はユリウス暦1917年12月25日から28日(1918年1月7日から10日)に執筆されていたものであり、この概念はロシア・ソビエト連邦社会主義共和国の1918年憲法で初めて定式化された。その第18条の条文には「はたらかないものは、くうことができない」と明記されている。さらには、ソ連の1936年憲法(スターリン憲法)第12条にもこの表現があり、同様の規定は第二次世界大戦後の東ヨーロッパの共産主義諸国の憲法にも見出すことが出来た。ことに、ルーマニア人民共和国憲法(1952年)の第15条には、「はたらかないものは、くうことができない」の文言がある。 日本国憲法の勤労の義務は、マッカーサー草案や内閣の草案で勤労の権利しか盛り込まれていなかった条項に、衆議院での審議の際に日本社会党の提案によって加筆されたものである。この社会党の提案にスターリン憲法の「働かざる者食うべからず」からの影響があったとも言われている。また、かつては憲法学者の宮澤俊義のように、日本国憲法の勤労の義務を、不労所得の排除まではいかずともその制約を認めうる規定として、共産主義諸国の「働かざる者食うべからず」の原則と繋がるものと解釈する者もいた。 ベーシックインカムの議論なども持ち上がっている21世紀の日本では、「働かざる者食うべからず」という言葉は労働を神聖視するものとして槍玉に上がることもしばしばであるが、むしろ本来の「働こうとしない者は、食べることもしてはならない」の句に立ち返った上で、その本来の意味を正確に受け止め直し、社会に生かしていく方途を模索すべきことも提案されている。 =猪谷千春= 猪谷 千春(いがや ちはる、1931年5月20日 ‐ )は、日本のアルペンスキー選手、実業家。日本人初の冬季オリンピックメダリスト(2018年3月現在、日本人唯一の冬季オリンピックアルペンスキーメダリスト)。引退後はAIU保険会社で実業家として活躍しつつ、国際オリンピック委員会(IOC)副会長など、オリンピック・スポーツ関連団体での要職を歴任した。 ==略歴== ===少年時代=== 猪谷は、1931年5月20日、日本スキー界の草分けといわれる猪谷六合雄と、日本初の女性ジャンパーといわれる猪谷定子の長男として、北海道・国後島で生まれた。1934年、猪谷が2歳の頃から、両親は猪谷にスキーを教え始めた。 猪谷一家はより良い雪質の練習場所を求め、国後島を後にし、群馬県勢多郡富士見村、長野県乗鞍山麓、青森県浅虫、長野県志賀高原と住まいを転々とした。 この間、父・六合雄は猪谷に対し、厳しく礼儀作法を躾け、学業にも力を入れさせるとともに、スキーの英才教育を施した。そのトレーニングは厳しく、休日は朝から夕方まで練習をさせ、平衡感覚を鍛えるために丸木の一本橋を渡り続ける、原木に乗って山の斜面を滑り降りるなどのトレーニングも行い、また雪のないシーズンでも、「柴刈り、割りなど何でもさせ」「直径1尺(約30センチ)もある立木を切り倒したり、6里(約24キロ)の山道を10貫(約38キロ)の薪をしょって登る」ことなどもさせて体を鍛えた。加えて、「(小学校に入ると)スキーヤーは目が大せつだと本と目の距り(距離)、頭の位置など毎日採点表につけ」「両腕の力を平均させるため、お箸を交互に使ったりした」など日常生活の中にもスキーのトレーニングが取り込まれていた。猪谷はこの当時の厳しいトレーニングについて、オスロオリンピック初出場時のインタビューで「生まれ変わったら、スキーをやろうとは思わない」と述懐し、著書でも少年時代は練習が厳しすぎ良い思い出がないと振り返っている。 しかし、このような厳しいトレーニングが功を奏し、1943年、11歳の時に前走者として出場した神宮大会(現在の全日本スキー選手権)では優勝者より6秒早いタイムでゴール、「神童」と呼ばれるようになる。1948年に長野県で開催された国民体育大会でも優勝し、オスロオリンピック代表に決定した。 ===オスロオリンピック出場=== オスロオリンピックを約2ヶ月後に控えた1951年12月当時、猪谷は銀座ミズノスポーツ支配人の田島一男の元に下宿し、都立大泉高校に通学していた。参考書を買いに行った帰りに銀座ミズノスポーツに立ち寄った猪谷を、田島はたまたまその時来店していた顧客コーネリアス・バンダー・スター(英語版)に引き合わせた。スターは猪谷がオスロオリンピック日本代表でありながら、練習環境を得られず東京にとどまっていることに驚き、猪谷と、同じくアルペンスキー競技での日本代表となっていた水上久とを、オーストリアのサンクト・アントンのスキー場にポケットマネーで派遣し、練習を行わせた。また、猪谷らが欧州の選手らのものに比べて性能の劣る単材のスキー板を使っていたため、スターは欧州の選手らが使用している合板のスキー板を、これもポケットマネーで買い与えた。 1952年2月のオスロオリンピックでは、猪谷は滑降・回転・大回転に出場。黒いユニフォームを好んで着用していた猪谷は、マスメディアに「ブラック・キャット」と呼ばれていた。回転競技では、旗門にスキーを引っ掛け、コースをはみ出してしまうミスがあり、結果は11位に終わった。滑降では24位、大回転では20位であった。しかし猪谷は、自分と父・六合雄が独自に研究していた体重移動のやり方が、欧州の強豪選手らのやり方と同じであったことに気づき、技術面では日本も欧州も大差がないはずと自信を持ち、4年後のコルチナ・ダンペッツォオリンピックでのメダル獲得を次なる目標に定めた。 ===コルチナ・ダンペッツォオリンピック出場=== オスロオリンピック後、猪谷はスターから全米アルペン競技選手権に招待され、2位に入賞する。猪谷はその後日本に戻り立教大学に入学していたが、1953年、スターの支援により、アメリカのダートマス大学に留学し、勉学に励む傍ら、より良い環境でスキーの練習を続けることとなった。 ダートマス大学では、期末試験で全教科の平均点が60点を超えていなければ課外活動に参加できないというペナルティがあった。そのため猪谷は、筋力トレーニングをしながら教科書を読んだり、スキーのコースを覚える記憶力を高めるため、ノートを取らずに授業を受け夜に講義内容を書き出すトレーニングを行ったりと、勉学とトレーニングを両立する様々な方法を考え出した。その結果、猪谷は、スイスのアーデルボーデンで開催されたワールドカップにおいて、回転競技で金メダルを獲得するなど、欧州の大会でも実力を発揮し、注目を集める選手となった。 猪谷はダートマス大学留学中、日本での競技大会などに参加できなかったため、全日本スキー連盟からは日本代表入りを疑問視する声もあったものの、関係者の尽力によりコルチナ・ダンペッツォオリンピック日本代表に選ばれることができた。猪谷は滑降、回転、大回転に出場、滑降では失格となったが、大回転では12位、そして回転では銀メダルを獲得した。このメダルは冬季オリンピックで日本代表選手が獲得した初めてのメダルであるとともに、欧州以外からの出場選手がアルペンスキー競技で獲得した初めてのメダルともなった。 ===スコーバレーオリンピック出場=== 1957年、猪谷はダートマス大学を卒業する。その後も猪谷は競技を続け、1958年にオーストリアのバート・ガスタインで開催されたアルペンスキー世界選手権では、回転で銅メダル獲得、大回転で6位入賞、複合で4位入賞という成績を残した。 猪谷はその後の1959年、American International Underwriters(AIU)に入社し、スキー競技からは引退することを決意した。しかし周囲の強い勧めもあり、また金メダルを獲得していないという心残りから、猪谷は競技人生の最後に1960年のスコーバレーオリンピックに出場することとした。金メダルを獲得すべく普段よりも大胆なレース運びをしたことが裏目に出た形となり、自分のペースを崩してしまったが、滑降で34位、回転で12位、大回転で23位という成績を残した。 ===実業家への転身=== 猪谷はAIUのニューヨーク本社で2年間の研修を受けた後、1961年、AIU日本支社の傷害保険部初代部長に就任した。猪谷はビジネスの世界に進むにあたり、45歳までにどこかの社長になることを目標としており、AIUに入社したのは、学閥や天下りなどの影響のない外資系企業であれば、その目標を叶えやすいと考えたためであった。 当時、日本の消費者の間では傷害保険という概念自体が浸透しておらず、また戦前に加入していた保険が第二次世界大戦の終戦とともに無価値になったという記憶もまだ新しかったため、AIUの商品は消費者に簡単には受け入れられなかった。猪谷は、消費者の間にあるアメリカ文化への憧れを利用し、AIUがアメリカの会社であることを強調してみたり、逆にAIUのマニュアルの修正や日本固有の商品開発といった、日本の消費者に合わせるためのローカライズに力を入れてみたりと、様々な営業活動を行い、AIUの商品の普及に努めた。こうした活動が評価され、1978年、猪谷は47歳で、AIUグループの会社であるアメリカンホーム保険会社の社長に就任する。 ===スポーツ振興の世界へ=== ====IOCでの活動==== 1980年、猪谷は、当時国際オリンピック委員会(IOC)委員を務めていた竹田恆徳より、自らの後任としてIOC委員を務めてほしいという打診を受ける。アメリカンホーム保険会社社長として多忙を極めていた猪谷はこの打診を辞退するが、竹田からの熱心な説得に折れ、委員就任を承諾、1982年にIOC委員に就任した。IOC委員業務の負荷を理由に、猪谷がアメリカンホーム保険会社を退職したいと申し出たところ、AIUグループは猪谷の事情に配慮し、猪谷を退職させるのではなく、グループの別会社に異動させた。 委員としては1994年の冬季オリンピック準備のための研究・評価委員会、第12回オリンピックコングレス準備委員会など多数の委員会の委員を歴任した。開催地候補都市の評価を行う評価委員会は、猪谷の尽力により設立されたものである。1987年から1991年までと1996年から2000年までは理事を務め、ドーピング問題への対応などに力を入れる。2005年から2009年まではIOC副会長を務めた。2011年12月、80歳定年制によりIOC委員を退任し、2012年から名誉委員に就任、同年、それまでの功績を讃えオリンピック・オーダー銀章を受章する。 この間、1998年の長野オリンピックの招致のため、30カ国以上のIOC委員を訪問するなど奔走し、招致を成功させる。2020年の東京オリンピック招致についても、規則の変更によりIOC委員訪問は認められなくなっていたものの、100カ国以上のIOC委員に架電するなどの協力を行い、招致成功の一助となった。 ===JOCでの活動=== JOCでは2005年から2013年まで理事を務め、2014年から名誉委員。 ===その他スポーツ団体での活動=== 1993年から日本オリンピック・アカデミーの会長を18年間務めた。 1994年に発足した日本トライアスロン連合の初代会長に就任し、15年に渡り同職を務めた後、名誉会長に就任。 1996年より、国際トライアスロン連合副会長に就任し、2008年に名誉委員に就任。2015年に、世界トライアスロン殿堂ライフ部門入りを果たす。 2003年の日本オリンピアンズ協会発足時より副会長を務める。 2012年8月より東京都スキー連盟会長を務め、その後名誉会長に就任。2014年9月、日本障害者スキー連盟会長に就任。 2014年より東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会顧問就任。 ==競技スタイル== 第二次世界大戦直後の日本には、外国のスキー技術の情報が伝わってきていなかったため、猪谷は父・六合雄と共に、独自にスピードの出る滑り方を研究していた。例えば、ターンの際の体重移動について、当時日本では曲がる側の足に体重をかけ、上体も曲がる側に捻るようにするのが定石とされていたが、猪谷はその体重移動ではスキー板の後部にずれが生じることを発見した。猪谷はそのようなずれによる遅れを防止するため、敢えて、曲がる側と逆側の足に体重をかけ、上体も曲がる側には捻らず逆側に残したままにしておく方法を開発した。オスロオリンピックに出場した猪谷は、欧州の強豪選手らも同じ体重移動を行っていることを発見し、自分たちの研究に誤りはなかったと自信を持つに至っている。 その後もターン技術を磨き、コルチナダンペッツォオリンピック出場の頃には、世界トップクラスのターン技術を有していると称されるに至る。このようなターン技術の高さから、回転競技を得意としており、アーデルボーデンでのワールドカップ金メダル、コルチナダンペッツォオリンピック銀メダル、バート・ガスタインでの世界選手権銅メダルの他にも、1954年にコロラド州アスペンでの全米大会で優勝、1955年から1957年までNCAA Skiing Championshipsの回転競技部門を三連覇するなどの功績を残している。 ==年表== 1931年 北海道・国後島で生まれる1948年 第26回長野国体で圧勝、第6回オスロ冬季五輪代表に決定1952年 オスロオリンピックに出場、回転で11位1953年 コーネリアス・バンダー・スターの支援でアメリカ・ダートマス大学に留学1956年 アメリカ在住でコルチナ・ダンペッツォオリンピックに出場。回転で銀メダルを獲得1957年 ダートマス大学卒業1958年 バート・ガスタインでの世界選手権に出場、回転で銅メダル獲得、大回転でも6位入賞1959年 AIU入社1960年 スコーバレーオリンピック出場、回転で12位1978年 アメリカンホーム保険会社社長就任1982年 IOC委員就任1988年 紫綬褒章受章2005年 IOC副会長2011年 日本体育大学名誉博士号授与2012年 IOC委員退任、オリンピック・オーダー銀章受章2017年 名誉都民顕彰、山ノ内町名誉町民顕彰、志賀高原歴史記念館に猪谷千春コーナーが開設される ==著作など== ===著作=== ====書籍==== 『近代スキー 初歩からアルペンまで』(1959年、日本経済新聞社)『近代スキー 基礎と応用』(1959年、日本経済新聞社)『パラレルへの近道』猪谷六合雄共著(1959年、日刊スポーツ新聞社)『わが人生のシュプール』(1994年、ベースボール・マガジン社)『IOC―オリンピックを動かす巨大組織―』(2013年、新潮社) ===論文=== 「体育・スポーツに期待する(今後の社会と体育・スポーツの振興<特集>)」『文部時報』(通号 1306) pp.4‐7, 文部省.「過去にこだわらず,きょうを生きる(心を語る)」『通産ジャーナル』28(5) pp.82‐88, 通商産業大臣官房報道室.他多数 ===猪谷を取り上げた作品=== 和田登、こさかしげる(1992)『スキーに生きる―猪谷六合雄と千春の長い旅』(ほるぷ出版)和田登(1997)『栄光へのシュプール 猪谷千春物語』(岩崎書店) ===アニメーション=== 虫プロダクション(1997)『栄光へのシュプール 猪谷千春物語』 ==関連項目== 1952年オスロオリンピックの日本選手団1956年コルチナ・ダンペッツォオリンピックの日本選手団1960年スコーバレーオリンピックの日本選手団日本の冬季オリンピック銀メダル国際オリンピック委員会、国際オリンピック委員会委員一覧 =ロバート・ガスコイン=セシル (第3代ソールズベリー侯)= 第3代ソールズベリー侯爵ロバート・アーサー・タルボット・ガスコイン=セシル(英: Robert Arthur Talbot Gascoyne‐Cecil, 3rd Marquess of Salisbury, KG, GCVO, PC、1830年2月3日 ‐ 1903年8月22日)は、イギリスの政治家、貴族。 1865年まではソールズベリー侯爵家のヤンガーサンとして卿(Lord)の儀礼称号で呼ばれ、侯爵家の嫡男となった1865年から爵位を継承する1868年まではクランボーン子爵(Viscount Cranborne)の儀礼称号で呼ばれた。本項でもそれに従うものとする。 ソールズベリー侯爵セシル家の生まれ。1853年に庶民院議員として政界入りし、1868年に爵位継承で貴族院議員に転じる。保守党政権下で閣僚職を歴任し、ベンジャミン・ディズレーリ亡き後には保守党の党首となり、ヴィクトリア朝後期からエドワード朝初期にかけて3度にわたって首相を務めた(第1次:1885年 ‐ 1886年、第2次:1886年 ‐ 1892年、第3次:1895年 ‐ 1902年)。民主主義を嫌う貴族主義的な人物ながら漸進的な内政改革を行い、外交面では帝国主義政策を遂行して大英帝国の更なる拡張を果たした。彼の政策は多くがジョゼフ・チェンバレンとの連携の影響を受けていた。1902年に退任し、甥にあたるアーサー・バルフォアが首相・保守党党首の地位を継承した。 ==概要== ハットフィールド(英語版)を領する名門貴族ソールズベリー侯爵家の三男として誕生した(→出生)。イートン校、オックスフォード大学で学んだ後、1853年に保守党候補としてスタンフォード選挙区(英語版)から出馬して庶民院議員に初当選した(→庶民院議員に当選)。1865年に兄の死でソールズベリー侯爵家の後継ぎの儀礼称号クランボーン子爵を継承した。 1866年に成立した保守党党首ダービー伯爵の第三次内閣にインド担当大臣として入閣したが、首相ダービー伯爵や保守党庶民院院内総務ベンジャミン・ディズレーリが推し進めようとした第二次選挙法改正に反対して、すぐに辞任した(→第三次ダービー伯爵内閣インド担当相)。1868年にダービー伯爵が病気で引退し、ディズレーリが首相・保守党党首職を継ぐが、彼は1874年まで保守党内で反ディズレーリ派の立場を取り続けた(→反ディズレーリ派として)。 1868年に父の死でソールズベリー侯爵位を継承し、庶民院から貴族院へ移った。 1874年に成立した第二次ディズレーリ内閣にインド担当相として入閣することでディズレーリと和解。ランカシャー綿産業の利害を代表してインドの関税を廃止させ、またロシア帝国の南下政策をにらんでアフガニスタンに強硬姿勢をとるようインド総督に訓令した。ベンガル大飢饉に際してはベンガルからの穀物輸出制限の要請を拒否して批判を集めた(→インド担当大臣として)。バルカン半島をめぐって露土戦争が勃発した後、外相ダービー伯爵(元首相の息子)が対露開戦に反対して辞職するとその後任として外相に就任。各国との調整の実務にあたり、首相ディズレーリとともに参加したベルリン会議の成功に貢献した(→外務大臣として)。 ディズレーリ内閣は1880年の総選挙でウィリアム・グラッドストン率いる自由党に敗れて退陣し、ディズレーリはその翌年の1881年に死去した。以降保守党は1885年の政権奪還まで、貴族院保守党をソールズベリー侯爵、庶民院保守党をサー・スタッフォード・ノースコート准男爵が指導するという二党首体制をとったが、ノースコートの庶民院における権威が失墜したため、やがてソールズベリー侯爵が党全体の党首たる地位を固めていった(→貴族院保守党の指導者として)。 1885年にアイルランド国民党(英語版)党首チャールズ・スチュワート・パーネルと連携して第二次グラッドストン内閣を倒閣することに成功し、代わって保守党政権第一次ソールズベリー侯爵内閣を発足させた。パーネルに配慮してアイルランド小作人に自作農への道を開くアシュバーン法(英語版)を制定したが、総選挙の敗北を経て、アイルランド国民党がグラッドストンとの連携に動いた結果、1886年1月には退陣に追い込まれた(→第一次ソールズベリー侯爵内閣)。 政権についたグラッドストンがアイルランド自治法案を議会に提出すると、アイルランド自治に反対して自由党を離党したジョゼフ・チェンバレンら自由統一党と連携してこれを否決に追い込み、その後行われた解散総選挙(英語版)にも勝利し、1886年8月に第二次ソールズベリー侯爵内閣を発足させた(→第二次ソールズベリー侯爵内閣)。自由統一党の閣外協力を受けた内閣であり、チェンバレンの強い影響を受けて、地方自治法、労働者配分地法、小農地保有法などを制定する内政改革を行った(→地方自治法、土地制度改革)。外交ではドイツ帝国の勃興によるイギリスの相対的地位の低下を受けてドイツ帝国宰相オットー・フォン・ビスマルク侯爵との連携を重視する外交を行った。イタリア王国やオーストリア帝国と地中海協定(英語版)を締結してビスマルク体制の中に入っていった(→ビスマルクとの連携と地中海協定)。また列強諸国によるアフリカ分割が激しくなる中、海軍力増強と南アフリカ会社をはじめとする勅許会社の創設に力を注いだ(→アフリカ分割)。 1892年の解散総選挙(英語版)に保守党が敗れた結果、第四次グラッドストン内閣に跡を譲ったが、海軍増強問題をめぐってグラッドストンは退陣し、その跡を受けて首相となったローズベリー伯爵もすぐに政権運営に行き詰ったため、1895年には保守党が政権奪回して第三次ソールズベリー侯爵内閣(英語版)を発足させることに成功した。ただちに解散総選挙(英語版)を行って勝利し、保守党と自由統一党を合同させて統一党政権を誕生させた(→政権奪還、第三次ソールズベリー侯爵内閣)。 「社会帝国主義者」チェンバレンを植民地大臣に任じ、積極的な帝国主義政策を推進した。1898年にはマフディーの反乱以来、イギリス支配から離れていたスーダンに侵攻して同地をイギリス支配下に戻した。この際にフランスとの間にファショダ事件が発生するもフランスを恫喝して引き下がらせた(→スーダン奪還とファショダ事件)。1899年にはトランスヴァール共和国再併合を狙って第二次ボーア戦争を開始。ボーア軍のゲリラ戦に苦戦させられるも1902年に勝利をおさめた(→第二次ボーア戦争)。 アメリカ大陸においては急速に大国化・対外進出を進める新興国アメリカ合衆国との摩擦が増えたが、様々な問題で譲歩を行うことで対米開戦を回避した(→アメリカとの対立と譲歩)。 極東では日清戦争後の列強諸国による中国分割でイギリスの清半植民地体制(非公式帝国)が崩壊していくことへの対応に追われた。とりわけロシアが満洲・北中国一帯を支配下においたことを警戒し、重要港の租借地取得や門戸開放論で抑止を図った(→中国分割)。義和団の乱に乗じてロシアが満洲を軍事占領すると、新興国日本に注目し、1902年に日英同盟を締結してロシア帝国主義への対抗を図った(→義和団の乱とロシアの満洲占領、日英同盟)。 同年7月、病により退任。後任の首相・保守党党首には甥にあたるアーサー・バルフォアを就任させた。翌1903年に死去した(→引退と死去)。 その人物像は典型的な貴族主義的保守主義者だった。選挙権の拡大や民主主義に強く反対した。しかしノブレス・オブリージュはしっかり持っていたので漸進的政治改革を妨げることはなかった(→人物)。アーサー・コナン・ドイルの推理小説シャーロック・ホームズシリーズの『第二の汚点』に登場する「英国首相ベリンジャー卿」や『海軍条約文書事件』に登場する「外務大臣ホールドハースト卿」はソールズベリー侯爵の変名だと言われている(→シャーロック・ホームズとソールズベリー侯爵)。 【↑目次へ移動する】 ==生涯== ===出生=== 1830年にイングランド・ハートフォードシャー・ハットフィールド(英語版)にあるソールズベリー侯爵家の邸宅ハットフィールド・ハウスで生まれる。 父は王璽尚書・枢密院議長を歴任した貴族院議員第2代ソールズベリー侯爵ジェイムズ・ガスコイン=セシル、母は庶民院議員バンバー・ガスコイン(英語版)の娘フランセス・ガスコイン。 ロバート・セシル卿は夫妻の三男であり、長兄にクランボーン子爵ジェイムズ・ウィリアム・エヴェリン(1821年‐1865年)、すでに亡き次兄にアーサー卿(1823年‐1825年)がいた。また次姉にマリー(1825年‐1872年)がいる。この次姉は後に大富豪ジェイムズ・メイトランド・バルフォア(英語版)に嫁ぎ、その間に後の首相アーサー・バルフォアを儲けることになる。 ハットフィールド・ハウスは16世紀のイングランド女王エリザベス1世が即位前に住んでいた邸宅であり、次代の国王ジェームズ1世が1607年に宰相ロバート・セシルにソールズベリー伯爵位とともに与えた邸宅だった。以降ソールズベリー伯爵(祖父ジェイムズの代にソールズベリー侯爵位を与えられる)家は代々ハットフィールドの領主として君臨してきた。 【↑目次へ移動する】 ===イートン校でいじめに遭う=== ハットフィールド近くのプレパラトリー・スクールに通った後、10歳の時に名門パブリック・スクールのイートン校に入学した。 しかし子供の頃のロバート卿は病気がちな上、気難しい性格で友達を作れないタイプだったため、イートン校でいじめに遭った。 14歳の頃に父ソールズベリー侯爵に宛てた手紙の中で「朝から晩まで絶え間なくいじめられます。私が食堂に行くと、彼らは私を足蹴にしますので、私は何も食べずに食堂を出なくてはなりません」とその苦境を訴えている。結局15歳の時に父の許可を得てイートン校を退学している。 このイジメの思い出は、彼のシニカルな現実主義者の性格を形成したという。 イートン校退学後、2年ほどハットフィールドの屋敷に戻って家庭教師から教育を受けた。 ===オックスフォード大学=== 1848年1月にオックスフォード大学クライスト・チャーチに入学し、数学を専攻した。 相変わらずの病弱に加えて、精神的にもうつ病状態だったロバート卿は、2年だけ通って第4級学位を取得して退学している。 とはいえオックスフォード大学に在学したことは決して無駄ではなかった。在学中ロバート卿はオックスフォード大学各カレッジの代表学生による討論会オックスフォード連合(英語版)に書記・幹事を務めるなど積極的に参加し、後年の辛辣で皮肉な表現を好む演説手法を確立したのである。 また後年の厳格なトーリー主義もこの時期に確立し、選挙権拡大反対、ユダヤ人市民権付与反対、自由貿易反対、国教会改革反対など保守的な演説を盛んに行っている。 ===英国植民地旅行=== 大学を退学した後、うつ病から立ち直ったロバート卿は、海外植民地を旅行するようになった。 1851年7月にケープ植民地(南アフリカ)に向かい、同地で数か月過ごした。ついで1852年1月にオーストラリア・アデレードを訪問した。この頃オーストラリアではゴールド・ラッシュが発生しており、ロバート卿は日記の中で中流階級の金銭欲の激しさや植民地には不合理なルールが多いという印象を書いている。 その後、ニュージーランドに短期間滞在してイギリスに帰国した。 ===庶民院議員に当選=== 1853年8月、保守党候補としてスタンフォード選挙区(英語版)から庶民院議員選挙に出馬した。対立候補が立たなかったため、無投票当選を決め、23歳にして庶民院議員となった(以降15年にわたりこの選挙区で無投票再選し続ける)。 ロバート卿は、1854年4月7日の庶民院で処女演説(英語版)を行い、与党ホイッグ党の領袖ジョン・ラッセル卿のオックスフォード大学改革案を批判した。演説を聞いたウィリアム・グラッドストン蔵相はロバート卿を敵ながら将来有望な議員と注目したという。 ===結婚と執筆業=== 1857年7月にノーフォーク裁判官の娘ジョージナ・アルダーソン(英語版)と結婚した。父ソールズベリー侯爵はこの結婚に強く反対し、ロバート卿への仕送りを打ち切った。そのためロバート卿は執筆業で食い扶持を稼がねばならなくなった。 『イブニング・スタンダード(英語版)』紙や『サタデー・レビュー(英語版)』紙、『クォータリー・レビュー』などに寄稿し、その中で民主主義に対する強い疑念を表明した。 ロバート卿は選挙権拡大に反対する論文の中で「有産者階級の特権は数の圧力に対する唯一の防波堤として維持されなければならない。それこそが保守党の任務である」「選挙権拡大は単なる数に、それが本来持つべきではない権力を与えるものである」「頭を考えるということに使ったこともない学の無い人々に冷静な政策を求めることなど不可能である」「選挙権を貧しい者に広げ、有産者に課税する道の行きつく先は、権力と責任の完全なる分離である。富裕層が全ての税金を払い、貧者が法律を作ることになってしまう」という考えを表明してる。 1865年1月に兄クランボーン子爵が子供なく死去したため、代わってソールズベリー侯爵家の嫡男となり、クランボーン子爵の儀礼称号を使用することになった。 ===第三次ダービー伯爵内閣インド担当相=== 1866年6月に自由党政権のラッセル伯爵内閣が提出した選挙法改正法案は否決され、内閣は総辞職に追い込まれた。代わって保守党政権の第三次ダービー伯爵内閣が成立。クランボーン子爵はこの内閣にインド担当大臣として初入閣を果たした。 選挙法挫折に対する国民の怒りは激しく、各地で抗議のデモや暴動が発生した。首相ダービー伯爵や大蔵大臣・庶民院内総務ベンジャミン・ディズレーリはこれを沈静化すべく、第二次選挙法改正へ向けて動き出した。しかしクランボーン子爵は選挙権拡大に反対し、植民相カーナーヴォン伯爵や陸相ジョナサン・ピール(英語版)将軍と連携してこれを阻止しようと図った。 1867年2月6日に閣議にかけられたディズレーリ作成の改正案は都市選挙区の選挙権について男子戸主選挙権をベースとしながらも、条件や特例(直接納税者に限定したり、有産者の複数投票権を認めるなど)を設けることで選挙権拡大を抑える内容だった。選挙権拡大を求める国民世論と選挙権拡大に反対するクランボーン子爵ら保守派を同時に懐柔することを企図したものだったが、クランボーン子爵は「この改正は自由党の強い大都市に有利な選挙法改正になる」と結論し、2月24日にもカーナーヴォン伯爵とともに辞表に等しい抗議文書をダービー伯爵に提出した。最終的に3月2日の閣議で選挙法改正法案を議会に提出することが決定されたため、クランボーン子爵、カーナーヴォン伯爵、ピール将軍の三名は辞職した。 ===反ディズレーリ派として=== 辞職後も選挙法改正を阻止するために奔走し、ディズレーリとの対立を深めていった。 ただディズレーリにとっては幸いなことにクランボーン子爵は反執行部勢力をまとめられるような人物ではなかった。1867年4月に自由党党首ウィリアム・グラッドストンが地方税納税額5ポンド以上という有権者資格条件を加えた修正案を提出すると、クランボーン子爵は党に造反してこれに賛成票を投じたが、この時彼に追従して造反した保守党議員はわずかに7人だった事実にもそれが表れている。 結局ディズレーリの選挙法改正法案は庶民院を通過、ダービー伯爵の尽力で貴族院も通過し、8月に女王の裁可を経て成立した。この成功でディズレーリの党内における立場は急上昇し、ダービー伯爵の後継者たる地位を固めた。クランボーン子爵はその状況を「党全体がディズレーリの愚かな議会操縦術に惑わされている」と批判した。 1868年2月にダービー伯爵が病気のために退任し、ディズレーリが首相職・保守党党首職を引き継いだ。クランボーン子爵はディズレーリが後継者になることに反対したが、保守党議員の大半はディズレーリ以外の者が党首を務めるのは不可能という見解を有していた。 首相就任後のディズレーリは議会で敗北してもヴィクトリア女王の寵愛を盾に総辞職せず、解散総選挙も引き延ばしにした。クランボーン子爵は友人あての手紙の中で「女王陛下は『例のユダヤ人』の手先になってしまわれた。彼は女王陛下の要請によって政権に留まれる準備をした後に見せかけの辞表を提出して事態を収拾するつもりでいる。玉座に君臨しているのは女性であり、ユダヤ人の野心家は彼女を幻惑する術を心得ている」と危機感を露わにしている。 同年4月に父である第2代ソールズベリー侯爵が死去し、第3代ソールズベリー侯爵位を継承。庶民院から貴族院へ移籍した。 11月に総選挙が行われたが、保守党の敗北に終わり、ディズレーリ内閣は退陣してウィリアム・グラッドストンの自由党政権が誕生した。この総選挙直後にマームズベリー伯爵が保守党貴族院院内総務(英語版)を辞職し、その後任にソールズベリー侯爵を推す声が一部で上がったが、ディズレーリはこれを無視してケアンズ伯爵を後任にした。 1869年にはオックスフォード大学総長(Chancellors of the University of Oxford)に選出されている。 ===第二次ディズレーリ内閣=== ====インド担当大臣として==== 1874年2月の解散総選挙(英語版)に保守党が大勝し、ディズレーリに再び組閣の大命があった。両院の過半数を制する大議席、大敗を喫した野党自由党の混乱状態、ヴィクトリア女王のディズレーリへの寵愛、不安要素が皆無の第二次ディズレーリ内閣は長期政権になると予想された。 そうした状況の中、これまで反ディズレーリ派で通してきたソールズベリー侯爵も、ディズレーリからインド担当相としての入閣を打診されると、逡巡した末に承諾した。ソールズベリー侯爵の入閣は党内右派のディズレーリへの反発を薄め、内閣に一層の安定をもたらす効果があった。ただしはじめのうちソールズベリー侯爵は植民地相として入閣したカーナーヴォン伯爵とともに首相ディズレーリと距離を置く閣僚だった。 1850年代からインド綿産業が成長し、イギリス・ランカシャー綿産業が脅かされるようになった。ランカシャー綿業者は自分たちの綿製品の競争力強化のため、インドの5%輸入関税の撤廃をインド省に求めるようになった。ランカシャーは保守党の地盤の一つであったため、ソールズベリー侯爵としてもこの意見をないがしろにはできず、関税全廃をインド総督ノースブルック伯爵(自由党所属)に要求した。しかし総督はインド財政が不安定になるとして関税撤廃に反対してソールズベリー侯爵と対立を深めた。地元インド人の世論も総督を支持する声が強かった。 また同じころ、ロシア帝国の南下政策をめぐってアフガニスタン情勢が緊迫化しており、それについてソールズベリー侯爵はイギリス人外交官のカーブル駐屯をアフガン王シール・アリー・ハーンに認めさせるようノースブルック伯爵に指示したが、ノースブルックはアフガンとの関係を損なうとしてこれを拒否した。ソールズベリー侯爵とノースブルック伯爵の溝は深まる一方で、1876年4月にノースブルック伯爵は辞職に追いやられた。 後任にはディズレーリとソールズベリー侯爵に忠実なリットン伯爵が就任した。彼は本国からの要請通りインドの関税撤廃を断行し、またアフガンに対して首都にイギリス外交官を置くよう要求した。しかしシール王はその要求を拒否し、さらに1878年7月にはロシア使節団の圧力に屈する形でロシア軍のアフガニスタン国内への駐屯を認める条約を締結した。これを警戒したリットンは11月に第二次アフガン戦争を開始した。1880年までに勝利をおさめ、アフガンはイギリス保護国となった またリットンの総督就任直後からベンガル地方で飢饉(500万人が餓死したという)が発生したが、この際にソールズベリー侯爵はベンガルからの穀物輸出の制限の要請を拒否している。彼のこの冷たい態度は世論の批判を集めた。 ===露土戦争をめぐって=== 1875年夏からイスラム教国オスマン=トルコ帝国領バルカン半島でキリスト教徒スラブ人の蜂起が発生した。汎スラブ主義を高揚させたロシア帝国は、バルカン半島への領土的野心もあってトルコへの敵対姿勢を強めていった。イギリスにとってトルコはロシアのバルカン半島・地中海への南下政策の防波堤であったため、ディズレーリは親トルコ政策をとったが、イギリス世論はトルコによるキリスト教徒虐殺に強く憤慨しており、ディズレーリは国内で苦しい立場に立たされた。 ソールズベリー侯爵もディズレーリの親トルコ・反ロシア政策に疑問を感じていた。彼は、バルカン半島のスラブ民族は完全なるロシアの手先ではないと考えていた。つまり今バルカン半島諸国はトルコから解放されることを最優先にしているので親ロシア的な態度をとっているが、一度解放されてしまえば、その後はバルカン半島を支配しようとするロシアと対立を深めていくだろうから、彼らをトルコに代わる新たな対ロシア防波堤にすることができると考えていたのである。 1878年12月にバルカン半島問題解決のためトルコの内政改革について話し合うコンスタンティノープル会議(トルコ語版)が開催された。ディズレーリはインド担当相ソールズベリー侯爵をその会議のイギリス代表とした。親トルコ派でなく、かつインド担当相として親ロシア派でもないと見られているソールズベリー侯爵を派遣することが最も反発が少ないだろうという判断だったと思われる。ソールズベリー侯爵自身は会議の決裂が濃厚であったことからこの任命に乗り気でなかったが、ディズレーリや皇太子バーティからヨーロッパの主要政治家と顔見知りになっておいた方がいいと勧められたので引き受けることにした。会議においてソールズベリー侯爵は何とかトルコに内政改革を約束させてロシアのバルカン半島侵攻の口実を消し去りたかったが、逆にトルコはディズレーリの親トルコ的な態度を見てイギリスが自分たちを見捨てることはないという確信を強めてしまい、対ロシア強硬姿勢を崩さなかった。その結果、会議は1877年1月に決裂した。 会議の決裂を受けてロシアは4月にトルコに宣戦布告し、露土戦争が勃発した。ヴィクトリア女王やディズレーリ首相が対ロシア開戦へと傾いていく中、ソールズベリー侯爵は外相ダービー伯爵(元首相ダービー伯爵の息子)や植民地相カーナーヴォン伯爵とともに対ロシア参戦に反対した。とりわけ敬虔な高教会派で大のトルコ(イスラム)嫌いだったカーナーヴォン伯爵が反ディズレーリ姿勢を強めた。ソールズベリー侯爵も高教会派だが、彼はもう少し柔軟で対ロシア開戦は次善の策だと考えていた。 11月にプレヴェンが陥落し、戦況がロシア有利になってくるとヴィクトリア女王の参戦熱がますます高まり、ディズレーリもダービー伯爵とカーナーヴォン伯爵の反対を退けてイギリス海軍にコンスタンティノープルへの出撃命令を下した。カーナーヴォン伯爵はこれに抗議して植民地相を辞職したが、ソールズベリー侯爵は内閣に残留し、ここで盟友カーナーヴォン伯爵と袂を分かつこととなった。 ===外務大臣として=== 1878年1月にロシアとトルコの間にサン・ステファノ条約が締結され、露土戦争は終結した。これによりロシア衛星国大ブルガリア公国がエーゲ海に届く範囲の領土をもって建国されることとなり、イギリスの地中海の覇権がロシアの脅威に晒された。またロシアはアルメニア地方のバトゥミとカルスの割譲を受け、ここがロシアの中近東への侵略の足場となる可能性も高まった。 ディズレーリはこの条約の承認を拒否し、3月にインド駐留軍の地中海結集と予備役召集、キプロスとアレクサンドリア占領を決定した。1877年末までは開戦に慎重な態度とってきたソールズベリー侯爵もこのディズレーリの方針に支持を表明している。この方針に反対して辞職したダービー伯爵に代わってソールズベリー侯爵が外務大臣に任命された。これ以降ソールズベリー侯爵はディズレーリが最も信頼する右腕となっていった。 情勢が緊迫する中、ドイツ帝国首相オットー・フォン・ビスマルクが「公正な仲介人」として仲裁に乗り出し、ベルリンで国際会議が開催されることになった。ソールズベリー侯爵は会議前に英露間で合意を得ておこうと4月から5月にかけて駐英ロシア大使ピョートル・シュヴァロフ(ロシア語版)伯爵と折衝にあたり、5月末に英露協定を締結した。これにより大ブルガリア公国を南北に分割し、エーゲ海に面する南部は様々な条件付きでトルコに返還するが、バトゥミとカルスはロシアが領有することが確認された。トルコとも事前交渉にあたり、キプロスのイギリスへの割譲を約定させた。会議の土台となるこれらの合意はビスマルクにも伝えられ、ビスマルクは会議の日程を6月13日と決めた。 会議にはディズレーリとソールズベリー侯爵がイギリス代表として出席し、会議前の合意に基づく最終調整が行われた。バトゥミの港の軍事利用問題などをめぐって英露の争いが起こったものの、なんとか合意に達し、7月13日にベルリン条約が調印されて会議は無事終了した。全体としてはイギリス外交の勝利と言える内容であり、帰国したディズレーリとソールズベリー侯爵は歓声をもって迎え入れられた。ヴィクトリア女王はディズレーリとソールズベリー侯爵にガーター勲章を下賜した。 しかしやがて不況と不作で現政権に不利な世論が形成され、1880年3月から4月にかけての解散総選挙で保守党は351議席から238議席に落とす惨敗をした(自由党は250議席から352議席への大勝利)。これによりディズレーリ内閣は総辞職することになった。自由党政権の第二次ウィリアム・グラッドストン内閣が発足した。 ===貴族院保守党の指導者として=== 1881年4月、長らく保守党党首を務めてきたビーコンズフィールド伯爵ベンジャミン・ディズレーリが死去した。突然のことだったので保守党は後任を決めていなかった。ソールズベリー侯爵はディズレーリに代わって保守党貴族院院内総務となったものの、保守党全体の党首とはならなかった。庶民院保守党は保守党庶民院院内総務サー・スタッフォード・ノースコート准男爵が指導するという両院別個の二党首体制が取られることになった。 当時はまだ庶民院の優越を定めた法律はなかったものの、庶民院が優先されるべきという考え自体はすでに議会内に根強くあり、またソールズベリー侯爵は大命を下すヴィクトリア女王と関係が疎遠だったので、ディズレーリの死後しばらくの間はノースコートの方が有利な立場にあった。 しかしノースコートは性格的に温和な人物だった上、若い頃グラッドストンの秘書だった関係からグラッドストン政権に対して常に弱腰だった。そのため庶民院保守党内には彼の党指導に反発する声が強く、とりわけランドルフ・チャーチル卿やアーサー・バルフォアら「第4党(英語版)」はノースコートを差し置いて強力なグラッドストン政権批判を展開した。これによりノースコートの影は薄くなっていき、必然的に保守党を指導すべき者はソールズベリー侯爵ということになっていった。 ===第三次選挙法改正をめぐって=== グラッドストン首相が提出した第三次選挙法改正法案(男子戸主選挙権制度を都市選挙区だけではなく、地方の州選挙区にも広げようという内容)が1884年6月に庶民院を通過し、後は貴族院次第となった。 1880年代になると選挙権拡大で国民の投票傾向にも変化が生じるようになっており、一般に保守党は大都市、自由党は中小都市や農村、スコットランドやウェールズを支持基盤とするようになっていた。そのため選挙区割りを見直さずに選挙法を改正するのは自由党有利の選挙法改正と考えられた。 ソールズベリー侯爵以下貴族院保守党はこの法案を否決させる構えを見せたが、それに対して自由党急進派のジョゼフ・チェンバレンが貴族院改革をちかつかせる脅迫を行ったため、保守党と自由党の緊張が高まった。ソールズベリー侯爵は大都市に議席を重くする議席配分法案も一緒に提出しない限り選挙法改正には応じられないと頑なな態度をとり続けたが、やがてヴィクトリア女王が仲裁に乗り出し、自由党政府に貴族院改革を主張するのをやめさせるとともにリッチモンド公爵を通じてソールズベリー侯爵にも保守党内の反政府強硬派を抑えるよう通告した。 女王の仲裁のおかげで両党は歩み寄りをはじめ、11月には保守党代表者(ソールズベリー侯爵やノースコートら)と自由党代表者(グラッドストンとハーティントン侯爵ら)による会談の場がもたれた。会談はグラッドストンが譲歩した結果、保守党に有利な条件で合意に達した。これにより原則として1選挙区1議員を選出(小選挙区制)することになり、また中小都市選挙区の議席が減らされ、ロンドンなど大都市選挙区の議席が増やされた。 この合意により貴族院保守党も賛成して第三次選挙法改正が達成され、男子普通選挙に近い状態が達成された(この段階でもまだ選挙権のない成人男性は下僕、家族と一緒に住む独身者、一定住居の無い者など)。 ===第一次ソールズベリー侯爵内閣=== アイルランド強圧法の期限が1885年8月に迫る中、グラッドストン政権は強圧法延長論に傾いていた。これに対して保守党はランドルフ・チャーチル卿の主導で強圧法の延長に反対した。これによりソールズベリー侯爵とアイルランド国民党(英語版)党首チャールズ・スチュワート・パーネルの連携が可能となり、1885年6月8日には自由党政府提出予算案の修正動議を保守党とアイルランド国民党の賛成多数で可決させ、グラッドストン内閣を総辞職に追い込んだ。 ヴィクトリア女王は、保守党党首に組閣の大命を与えることを決意したが、当時庶民院保守党のノースコートの権威は失墜していたため、ノースコートではなくソールズベリー侯爵に組閣の大命が与えられた。ソールズベリー侯爵は「保守党は依然として少数党であり、しかもアイルランド国民党の出方も不透明であるから、グラッドストンの協力が得られれば拝受する」と奉答し、グラッドストンとの交渉にあたったが、グラッドストンからは協力を得られなかったので、大命を拝辞しつつ、グラッドストンに再度大命を与えるべきことを上奏した。ところがグラッドストンはそれも拒否したので、結局総選挙まで女王が両者の関係を斡旋するという条件でソールズベリー侯爵が大命を拝受することになった。 こうして1885年6月に第一次ソールズベリー侯爵内閣が組閣された。 ===アシュバーン法=== 1880年代半ば以降の農業不況でアイルランドでは反地主運動が再び活発化した。 政権の基盤がアイルランド国民党との連携にあるソールズベリー侯爵内閣としてはアイルランド問題への取り組みが必要であったため、1885年にもアシュバーン法(英語版)を制定した(アイルランド大法官(英語版)アシュバーン男爵によって作成されたため、この名が付いた)。これは国家による地主の土地買収は避けつつも、アイルランド小作人が自作農になれるよう、低利・長期で土地購入費を融資することを目的とする法案だった。同法の制定により1902年までに2万5000人の小作人が土地を購入できた。 この頃にはアイルランド自治を決意していたグラッドストンは、ソールズベリー侯爵が続けてアイルランド自治法案を提出するとの期待をもつようになった。そうなったら保守党内から造反者が出るだろうが、自分がそれ以上の数の自由党議員を率いて賛成に回ればアイルランド自治が達成できると考えていた。 アイルランド総督カーナーヴォン伯爵も自治に前向きだったが、ソールズベリー侯爵は保守党の分裂を恐れて自治法案を提出する意思はなかった。しかしアイルランド国民党の支持を失わぬため、そのことは公言しなかった。 ===総選挙と総辞職=== 1885年11月の総選挙(英語版)で自由党が322議席、保守党が251議席、アイルランド国民党が86議席をそれぞれ獲得した。 保守党は少数党のままだったが、ソールズベリー侯爵は自由党の過半数割れを口実にして政権に留まった。また自由党が過半数割れしたことで保守党は選挙前よりアイルランド国民党との連携に固執しなくなった。 1886年1月21日に議会が招集され、ソールズベリー侯爵は施政方針演説でアイルランドに対して強圧法案と土地改革法案の二点セット、つまり「飴と鞭」で臨むことを表明した。 強圧法案に反発したアイルランド国民党はアイルランド自治を主張するグラッドストンの自由党と結び、1月26日に施政方針演説の修正動議を可決させ、ソールズベリー侯爵内閣を総辞職に追い込んだ。 ===アイルランド自治法を阻止=== 第三次グラッドストン内閣は1886年4月8日にアイルランド自治法案を議会に提出した。ソールズベリー侯爵は「アイルランド人には二種類あり、一つは自治を解する者たちだが、もう一つはアフリカのホッテントット族やインドのヒンドゥー教徒と同類の自治能力のない連中である」と演説してこれに反対した。 アイルランド自治法案は自由党内でも反対論が根強く、ジョゼフ・チェンバレンら新急進派とハーティントン侯爵らホイッグ派が自由党を離党して自由統一党を結成するに至った。ヴィクトリア女王もアイルランド自治に反発して、ソールズベリー侯爵に自由党内反アイルランド自治派と連携して組閣の道を探れと内密に指示を出している。 6月8日の庶民院は、保守党、自由統一党、93名の自由党造反議員の反対により343票対313票で自治法案を否決した。これに対してグラッドストンは解散総選挙(英語版)に打って出た。この総選挙で保守党はランドルフ・チャーチル卿が中心となってイギリスとアイルランドを切り離そうという企みを批判するキャンペーンを展開した。その結果、保守党が316議席、自由党が196議席、自由統一党が74議席、アイルランド国民党85議席をそれぞれ獲得した。敗北したグラッドストン内閣は総辞職した。 ===第二次ソールズベリー侯爵内閣=== ソールズベリー侯爵は自由統一党の党首ハーティントン侯爵に保守党と自由統一党の連立内閣の首相になってほしいと打診したが、ハーティントン侯爵はチェンバレン派の自由党返りを警戒して自由統一党は閣外協力に留めたいと返答した。その結果、自由統一党の閣外協力を得て第二次ソールズベリー侯爵内閣が成立した。 自由統一党のジョゼフ・チェンバレンはソールズベリー侯爵内閣の一般政策を支持する見返りとして、地方自治の農村への拡張、土地改革制度推進を要求した。これがソールズベリー侯爵が保守的でありながら一定の内政改革を行う背景となった。 ===地方自治法=== 急速な都市化の進行により、スラム化・不衛生化などの都市問題が深刻化していた。これへの対応はチェンバレンがバーミンガム市長時代に行った都市改革に代表される都市自治体による施策が主だった。だがそのために都市自治体の財政が圧迫されていき、また都市問題が発生するたびに作られていく新行政機関が錯綜して行政権が混乱するようになった。とりわけロンドンの行政機関の乱立状態はひどかった。 その解決のため、ソールズベリー侯爵は1888年に地方自治法(英語版)を制定した。この法律はイングランドとウェールズを60以上の行政州(Administrative County)と同じく60以上の特別市(英語版)に分け、それぞれに代議制の州議会(英語版)を設置させ、そこに行政権のほとんどを集中させることで行政機構乱立状態を解消するものだった。これによって地方行政における治安判事の強力な権限は大きく制限された。警察権のみは治安判事と州議会の共同管轄とされたものの、それ以外の行政権はほぼ州議会に委託された。また税金の一部を地方税とすることで州議会が活動しやすくした。 この法律によりイギリス地方自治の第一歩が踏み出された。 ===土地制度改革=== グラッドストン政権が1882年に制定した配分地拡張法を再編・拡張した労働者配分地法を1887年に制定した。この法律によりこれまで小教区が行っていた配分地拡張と農業労働者への低利での配分地付与を衛生区局(sanitary district authorities)に行わせることとした。衛生区局には土地の強制収用権限が与えられており、小教区よりも配分地を拡張しやすかった。また農業労働者一家族あたりの配分地を1エーカーと定めた。 チェンバレンは農業労働者一家族当たりの配分地を3エーカーの草地と1エーカーの耕地とすることを求めていたが、ソールズベリー侯爵はこれを拒否し、上記の内容でチェンバレンを妥協させた。 1892年にもチェンバレンの要求を容れて小農地保有法を制定し、州議会に地主の土地を有償で収容する権限を認めた。チェンバレンが主張していた地主からの強制収容ではなく、地主と州議会の協力の上での収容を目指す物だった。上記法律と同じくチェンバレンの顔を立てつつ、彼の主張をそのままには採用せず、保守的な修正を加えたものだった。 ===バルフォアの飴と鞭のアイルランド統治=== 1887年3月にヒックス・ビーチがアイルランド担当大臣(英語版)を辞職すると、甥のアーサー・バルフォアをその後任に据えた。 バルフォアは騒がしくなるアイルランド民族運動を弾圧すべく、1887年8月にもアイルランド強圧法を制定し、アイルランド国民党の政治家を含めたアイルランド民族運動家を次々と逮捕していった。その弾圧の激しさからバルフォアは「血塗られたバルフォア(“Bloody Balfour”)」の異名を取るようになった。 一方で融和政策もとり、1890年にはバルフォアの主導で「バルフォア法」と呼ばれるアシュバーン法を拡張させたアイルランド小作人の土地購入を支援する法律が制定された。この法律によってアイルランド小作農に土地購入費の貸し付けを行う「土地委員会」の貸付限度額はそれまでの500万ポンドから3300万ポンドに大幅増額し、さらに現に小作人である者だけでなく、かつて小作人だった者も保護対象に拡大された。 ただ地主への代金支払いが現金ではなく土地債権に変更されるなど制度の複雑化により、申請数はアシュバーン法の時よりかえって減少した。結局バルフォア法は1896年の第3次ソールズベリー侯爵内閣期の時のアイルランド担当大臣ジェラルド・バルフォア(英語版)の主導で制度の簡潔化が図られ、それによって同法での申請数も増加していった。 ===ビスマルクとの連携と地中海協定=== ソールズベリー侯爵はグラッドストン政権下で孤立したイギリス外交の修正を目指した。とりわけ植民地問題をめぐって関係が悪化していたドイツ首相ビスマルクとの関係修復に力を入れた。今やビスマルクと敵対するとイギリスと言えども孤立してしまうという外交的教訓からだった。 ビスマルクとしてもイギリスの協力が欲しい時期だった。バッテンベルク家のブルガリア公アレクサンダルの跡目をめぐるブルガリア問題でオーストリアとロシアの対立が深まっており、ビスマルクが維持しようとしてきた三帝同盟は空中分解していた。そこでビスマルクとしては新たなフランス(普仏戦争以降ドイツへの復讐が国是と化していた)封じ込めのヨーロッパ国際秩序の構築をする必要があった。 ソールズベリー侯爵はビスマルクの要請に応じて、1887年2月12日にイタリアと地中海協定(英語版)を締結した。この協定についてソールズベリー侯爵はヴィクトリア女王への報告書の中で「立憲君主国家のイタリアはイギリスと相いれる存在」とし、また「ビスマルク侯によれば大陸諸国のグループ分けが進んでいるといい、イギリスがそこから完全に孤立した状態でいると、大英帝国植民地が分割可能な獲物と見られてしまい、それを共通項にした大陸諸国の連携が考えられる」ことを指摘している。 3月24日にはビスマルクの仲介でオーストリアも地中海協定に加わることになった。これによって地中海協定は独墺伊三国で結ばれている三国同盟を補完する条約となった。 1887年夏に親墺・反露のフェルディナンド1世がブルガリア公に即位したことで露墺関係が緊迫した。ビスマルクはロシアがブルガリア宗主国のトルコと接近する可能性を危惧するようになり、地中海協定の防衛対象にトルコを加えたがるようになった。「ヨーロッパの利益(海峡自由運航など)の擁護者たるトルコの領土保全」、「トルコはブルガリアの宗主権を他国に譲ってはならない」、「そうした原則が犯された場合、締結国はトルコを支援して回復を図る」、「トルコ自身が犯そうとした場合あるいは犯されたのに回復しようとしない場合は締結国はトルコ占領を協議できる」という内容の新協定案を地中海協定三国に送った。 ソールズベリー侯爵はロシア牽制の意味からこの新協定に乗り気だったが、同時にドイツが地中海協定に参加していないことから、イギリスがドイツの火中の栗を拾わされることになるのを懸念していた。またビスマルクに行政を委ねているドイツ皇帝ヴィルヘルム1世や親英自由主義者の皇太子フリードリヒならばまだ信頼できるが、ヴィルヘルム1世は90歳、フリードリヒ皇太子は喉頭癌を患っていたため、遠くない未来、反自由主義的に育っている皇太子の長男ヴィルヘルム皇子が皇位継承する可能性が高く、ドイツの親英政策が変更されることも考えられた。そのためソールズベリー侯爵はドイツで皇位継承があってもドイツが地中海協定と矛盾する行動をとらないという保証を求めた。 これに対してビスマルクは1887年11月にソールズベリー侯爵宛ての書簡を送り、「ドイツでは誰が君主になろうと露仏二正面作戦を常に想定しなければならない。ドイツはそのための同盟国が欲しいが、確保できないならオーストリアの独立が脅かされない限り、ロシアと協調するしかない」と説いた。最終的にソールズベリー侯爵はビスマルクのこの言を信じて、1887年12月12日にトルコ防衛を加えた第二次地中海協定を締結した。 なおこの2度の地中海協定はともに秘密協定であり、一般国民や英国議会には秘匿されていた。イギリスには依然として孤立主義が根強かったため、公式の同盟を議会で通すことは不可能に近かったためである。 ===アフリカ分割=== 1885年にベルギー王レオポルド2世のコンゴ領有権をめぐってドイツ首相ビスマルクの主催で行われたベルリン会議後、ヨーロッパ列強によるアフリカ分割が盛んになった。その背景はドイツ帝国の勃興によるイギリスの相対的な地位の低下、フランスがジュール・フェリー首相以降、対独復讐(ヨーロッパ情勢)より植民地獲得を優先するようになったこと、そしてドイツで植民地獲得に消極的なビスマルクが失脚して植民地獲得を最優先する皇帝ヴィルヘルム2世の親政が開始されたことである。 もちろんソールズベリー侯爵としてもこれを座視できるわけはなく、積極的に植民地争奪戦に参加した。貿易や植民に独占権をもつ勅許会社を次々と創設して、彼らに領土拡大を行わせた。第二次ソールズベリー侯爵内閣の時に創設された勅許会社に王立ニジェール会社(英語版)や南アフリカ会社などがある。 南ナイジェリアではグラッドストン政権時代から引き続いて同地最大の都市国家オポボ(英語版)を統治するジャジャ王(英語版)とナイジェリア内陸部への進出をめぐって対立を深めた。ソールズベリー侯爵自身は慎重だったものの、現地イギリス領事たちの主導で強硬路線が取られ、1887年9月にはジャジャ王を誘き出して通商の自由を定めた保護条約に違反として彼を逮捕した。これをきっかけに1890年代にはラゴス内陸部遠征、ニジェールデルタ・ベニン地域のナナ王の排除、ブラス反乱鎮圧、ベニン王国侵攻、オベラミ排除とイギリスの内陸部侵入の遠征が本格化する。 植民地の獲得には強大な海軍力が必要であるため、1889年には「二国基準」を導入した海軍防衛法を制定した。この海軍力増強路線は後任の自由党政権にも受け継がれた(グラッドストンはこれに反発して政界引退する)。 ===総選挙に敗れて退任=== 1892年6月末の解散総選挙(英語版)で自由党が274議席、保守党が269議席、アイルランド国民党が81議席、自由統一党が46議席を獲得した。 これを受けて第二次ソールズベリー侯爵内閣は退陣し、8月18日に自由党政権第四次グラッドストン内閣(英語版)が成立した。 ===政権奪還=== 政権についたグラッドストンは再びアイルランド自治法案を提出し庶民院を通過させるも、ソールズベリー侯爵とデヴォンシャー公爵(ハーティントン侯爵)が激しい反対運動を行った結果、貴族院は9月8日に419票対41票という圧倒的多数で法案を否決した。ヴィクトリア女王はこれについて「素晴らしいことだ。みなソールズベリー侯爵に拍手を送っている」と日記に書いている。 グラッドストンは海軍増強に反対して閣内で孤立を深め、1894年3月に辞職した。後任となった外務大臣ローズベリー伯爵も1895年6月には議会での表決に敗れて総辞職した。この後ヴィクトリア女王よりソールズベリー侯爵に再び組閣の大命があった。 【↑目次へ移動する】 ===第三次ソールズベリー侯爵内閣=== 第三次内閣(英語版)を発足させたソールズベリー侯爵はただちに解散総選挙(英語版)に打って出て勝利し、保守党と自由統一党を合同させた統一党を形成した。この合同は両党がアイルランド自治反対と大英帝国維持が目下の最重要課題という点において合意したためである。 一番の注目の人事はジョゼフ・チェンバレンが植民地大臣として入閣したことだった。チェンバレンは帝国主義と社会主義を結合させた「社会帝国主義」の政治家だった。すなわち社会保障の財源を侵略によって賄うべきことを主張したのである。彼の主導により、第三次ソールズベリー侯爵内閣は強力な帝国主義政策を遂行することになる。 内閣は事実上ソールズベリー侯爵とチェンバレンの二人首相体制であったため、「両頭政治(Two‐headed administration)」とも呼ばれる。 ===労働者保護立法=== 1896年に労使調停法を制定し、労働争議の調停権を商務省に付与し、労使協調の定着を目指した。1897年には労災補償法を制定し、使用者責任を原則化した。 ドイツで導入されていた老齢年金制度の採用も検討されたが、後述するボーア戦争が予想以上に長引いて戦費が巨額になったため、その計画は延期せざるをえなかった ===ジェームソン侵入事件=== 南アフリカのボーア人国家トランスヴァール共和国は、第二次ディズレーリ内閣の時の1877年4月にイギリスに併合されたが、第二次グラッドストン内閣の時の1880年に第一次ボーア戦争に勝利して再独立していた。 1886年にトランスヴァールのウィットウォーターズランドで金鉱が発掘され、ヨハネスブルグの町が建設されてトランスヴァール共和国は潤い始めた。イギリスやイギリス・ケープ植民地などからも続々と金やダイヤモンド採掘のための移民が集まってきた。しかしこの移民たちはトランスヴァール政府が自分たちに重税を課し、選挙権も認めず、ケープ植民地からの輸入も禁止していることに不満を高めていった。イギリス・ケープ植民地の首相でイギリス南アフリカ会社の社長であるセシル・ローズとその首席補佐官レアンダー・スター・ジェームソン(英語版)は、この移民たちの不満を煽って、トランスヴァールを再併合する機会を狙っていた。 1895年12月から翌1896年1月にかけてヨハネスブルクの在留イギリス人の内乱準備と連携してジェームソン率いる500名ほどの南アフリカ会社所属の騎馬警察隊が突然トランスヴァール共和国へ侵入を開始したが、計画があまりに杜撰すぎて早々にボーア人民兵隊に包囲されて降伏した。ヨハネスブルクの在留イギリス人たちの反乱もまもなく鎮圧された(ジェームソン侵入事件(英語版))。 植民相ジョゼフ・チェンバレンも首相ソールズベリー侯爵も計画は知っていたが、静観を決め込んでいた。事件が失敗に終わるとイギリス本国政府は公式にはこのジェームソンの行動を批判することで関与を否定し、トランスヴァール軍から釈放されたジェームソンを反逆罪で裁判にかけ、また査問委員会を設置してローズを弾劾し、彼を公職から追放した。 チェンバレンの関与も疑われたが、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世がトランスヴァール共和国大統領ポール・クリューガーに宛てて祝電を送ったことが判明し、世論や自由党の批判もそちらへ流れていった結果、チェンバレンは失脚を免れた。 ===スーダン奪還とファショダ事件=== スーダンは1881年に発生したマフディーの反乱により第二次グラッドストン内閣が放棄を決定して以来、マフディー軍の支配下に置かれており、英国支配から離れていた(マフディー国家(英語版))。 ソールズベリー侯爵は、1898年にスーダン再征服を計画するようになった。そのために西部スーダンをめぐるフランスとの対立、トルコ利権をめぐるドイツとの対立、中国分割をめぐるロシアとの対立を慎重に回避するほどだった。その背景にはマフディー国家が隣国エチオピアと反ヨーロッパ的連携を図ろうとしていたこと、またフランス、ロシア、イタリアがエチオピアに野心を見せていたことがある。 1898年4月からホレイショ・キッチナー将軍率いるイギリス・エジプト連合軍2万5000人がカイロから南進してスーダン攻撃を開始し、9月までにマフディー軍主力を壊滅させてハルトゥームを奪還した。マフディー軍にハルトゥームを落とされてチャールズ・ゴードン将軍を殺害された時から13年の時を経ての奪還となった。反乱の首謀者である「マフディー」ことムハンマド・アフマドはすでに死去していたが、イギリス軍はその墓を掘り起こして遺骸の首をカイロへ移送し、胴体は川に投棄したという。 この戦いの間の7月12日にジャン=バティスト・マルシャン(フランス語版)率いる200名超程度のフランス軍小部隊がフランス領コンゴから出動してマフディー国領土のファショダ(英語版)へ侵入し、同地をフランス領土に併合すると宣言していた。さらに9月には現地の王(メク)であるアブドゥラヒがこれまで忠誠を誓っていたマフディー国を裏切り、フランスに忠誠を誓った。これを危険視したソールズベリー侯爵はイギリス海軍を臨戦態勢に入らせつつ、フランス政府に対してスーダンはイギリス(とその傀儡国家エジプト)の主権下に戻ったので、ただちにマルシャンの部隊を撤収させねば領土侵犯と看做して戦争を開始する旨を通達した。フランスはこの脅迫により譲歩し、11月にはマルシャンの部隊を撤退させた。 この交渉前の8月にソールズベリー侯爵はドイツ政府と秘密協定を結んでおり、財政破綻が噂されていたポルトガル王国が債務不履行に陥ったら、ポルトガルの植民地を英独で分割することを約定している。とりわけイギリスはポルトガル領モザンビークのロレンソ・マルケスを欲していた。ここを手にいればトランスヴァール共和国を包囲することができたためである。しかし結局ポルトガルはパリで公債発行に成功したため、この協定は空振りに終わった。 ===第二次ボーア戦争=== ジェームソン侵入事件以降、イギリスとトランスヴァール共和国の関係は悪化の一途をたどった。比較的親英的だったオレンジ自由国もジェームソン侵入事件以降、同じアフリカーナー(ボーア人)としてトランスヴァール共和国の反英的姿勢に共感を示すようになっていった。 1898年2月のトランスヴァール共和国大統領選挙でクリューガーが四選するとケープ植民地高等弁務官アルフレッド・ミルナーはトランスヴァールとの交渉による和解の見込みはないと判断してトランスヴァールとの戦争を希望するようになった。イギリス本国もスーダン再征服後にはチェンバレンの主導でトランスヴァールとの開戦論に傾いていった。ソールズベリー侯爵は派兵に議会の承認がいらないインド人兵士1万人ほどを現地に送りこんで英軍増強に努めた。 1899年10月9日トランスヴァール共和国から共和国国境付近の英軍の撤収を求める最後通牒を突きつけられた。これを見たソールズベリー侯爵は同国との交渉打ち切りを最終的に決意し、開戦やむなしとの結論を下した。ヴィクトリア女王もそれを支持した。 イギリスは最後通牒の返事は出さず、10月11日からボーア戦争を開始した。ボーア人も勇戦しながらもイギリス軍が優位に戦いを進め、1900年3月にオレンジ自由国首都ブルームフォンテーン、6月にはトランスヴァール共和国首都プレトリアを占領し、9月にトランスヴァール併合宣言を出した。 この勝利のムードに乗じてソールズベリー侯爵は解散総選挙(英語版)に打って出た。10月に行われた総選挙の結果、保守党は野党に134議席以上の大差をつけて勝利した。 しかし戦争は終結しなかった。ボーア人側はこの後18か月にわたって英領ケープ植民地、イギリス軍が占領したトランスヴァール共和国とオレンジ自由国において鉄道破壊を中心としたゲリラ戦を展開したのだった。これに悩まされたイギリス軍は1900年9月にゲリラが攻撃してきた地点から16キロ四方の村は焼き払ってかまわないという焦土作戦を決定。さらにゲリラへの支援を防ぐため各地にボーア人婦女子を収容するための強制収容所を創設した。この強制収容所で2万人以上の人々が命を落としたという。 いつまでたっても終わりの見えない戦争にイギリス国内では厭戦気分が高まっていき、あちこちで反戦集会が開かれるようになった。この反戦運動の中から後に二大政党の一つとなる労働党が結成されている。こうした厭戦気分を背景にイギリス軍は1902年3月からボーア人に和平交渉を求めるようになった。ボーア人側にも厭戦気分が広まっていたため、5月に開催されたボーア人国民会議は和平交渉を受け入れることを決議した。これによりトランスヴァール・オレンジ両国民は1901年に即位したばかりの英国王エドワード7世の主権を受け入れてイギリスの統治に帰順することになった。その代わりにイギリスは帰順したボーア人の財産権を保障し、彼らの戦闘行為についての責任を問わず、両国のオランダ語使用を認め、特別な課税もせず、両国民の故郷への帰還や日常生活に戻るために必要な財政支援を行うこととなった。2年6カ月にもわたったボーア戦争がここに終結した。 ===アメリカとの対立と譲歩=== 19世紀後半、新興国アメリカ合衆国は工業力を飛躍的に伸ばし、世界最大の工業大国・軍事大国に変貌しつつあった。それを反映して外交面でも強気になり、カナダ(大英帝国自治領)や中米の英領との間の摩擦が増えていった。 ベネズエラと英領ガイアナ(英語版)の国境争いにもアメリカ政府は積極的に反英的介入を行うようになった。1895年8月にはアメリカ国務長官リチャード・オルニー(英語版)が、ソールズベリー侯に宛てて手紙を書き、「イギリスの行動はモンロー主義に反している」と批判した。これに対してソールズベリー侯爵は「女王陛下の政府もモンロー主義の精神は受け入れているが、それはカナダ、英領西インド諸島、西半球におけるあらゆる英領とともにガイアナにも適用できない。ガイアナとベネズエラの国境紛争は1796年に端を発しており、女王陛下の政府はその臣民の生命や財産を守る権利をベネズエラ独立よりはるか以前からスペイン政府より認められている」と反論した。アメリカ大統領グロバー・クリーブランドはこのソールズベリー侯の返信に強く反発し、連邦下院へのメッセージの中で「イギリスがアメリカ大陸で武力を行使するつもりなら、これに抵抗するのがアメリカの責務である。イギリスはアメリカの調停を受け入れるべきである」と宣言した。この宣言は連邦下院の称賛を得、下院はガイアナ・ベネズエラ国境紛争調査委員会を立ち上げることを決議した。こうしたアメリカの強硬姿勢を見て慎重になったソールズベリー侯はアメリカによる調停を受け入れ、最終的には1899年にベネズエラ・ガイアナ問題はアメリカの仲介で解決を見た。 1896年に民主党のウィリアム・マッキンレーがアメリカ大統領に当選したが、マッキンレーも対外強硬派であり、1898年には米西戦争を起こしてスペインからフィリピンとグアムの割譲を受け、またハワイも併合し、太平洋植民地化を推し進めていった。そうした中でアメリカ政府の関心は大西洋と太平洋を結ぶ運河をパナマに建設することへ向かった。マッキンレー政権の国務長官ジョン・ヘイはイギリスの駐米大使ポンスフォート男爵(英語版)とその交渉にあたった。英米交渉の結果、1900年2月にはアメリカが単独で運河を建設して経営することをイギリス政府が了承することになった(1901年11月にヘイ・ポンスフォート条約(英語版)として条約化)。この時点では運河を要塞化することは禁止されていたものの、これもやがてイギリス政府は黙認することになった。「拡張しすぎた大英帝国」としては、南アフリカのボーア戦争や中国分割をめぐるロシアとの対立だけで手一杯でアメリカと本格的に事を構えるわけにはいかなかったのである。 しかしソールズベリー侯自身は常にアメリカとの開戦の可能性を視野に入れていたらしく、植民地大臣ジョゼフ・チェンバレンに「対米開戦は今年も無かった。しかしそう遠くない将来、開戦する可能性が高い」と述べていた。 ===中国分割=== 1895年の日清戦争で清が日本に敗れて以降、中国大陸をめぐる情勢は一変した。日本への巨額の賠償金を支払うために清政府はロシアとフランスから借款し、その見返りとして露仏両国に清国内における様々な権益を付与する羽目となったのである。これがきっかけとなり、急速に列強諸国による中国分割が進み、阿片戦争以来の清のイギリス一国の半植民地(非公式帝国)状態は崩壊した。 とりわけ、シベリア鉄道の満洲北部敷設権獲得に代表されるロシアの満洲や北中国への進出は激しかった。フランスもフランス領ベトナムから進出して雲南省・広西省・広東省・四川省など南中国を勢力圏に収めていき、北中国を勢力圏とするロシアと連携してイギリスを挟撃してくる恐れが生じた(ロシアとフランスは1893年に露仏同盟を締結しており、三国干渉に代表されるように中国分割においても密接に連携していた)。 これに対抗してソールズベリー侯爵は清国の領土保全を訴えることで露仏が中国大陸におけるイギリスの権益を食い荒らすのを防ごうとした。さらに1896年3月にはドイツ帝国と連携して露仏に先んじて清政府に対日賠償金支払いのための新たな借款を与えることで英独両国の清国内における権益を認めさせた。また1896年1月にはフランスと協定を締結し、英仏両国ともメコン川上流に軍隊を駐屯させず、四川省と雲南省を門戸開放することを約定した。これによってフランスの北上に一定の歯止めをかけることに成功した。 1897年に山東省でドイツ人カトリック宣教師が殺害された事件を口実にドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が清に出兵し、膠州湾を占領し、そのまま同地を租借地として獲得した。これについてソールズベリー侯爵ははじめドイツがロシアの南下政策に対する防波堤になるだろうと考えて歓迎していたが、ヴィルヘルム2世が山東半島全体をドイツ勢力圏と主張しはじめるに及んで警戒感を強めた。 さらに1898年に入るとロシアが遼東半島の旅順を占領し、さらに大連にも軍艦を派遣し、清政府を威圧してそのまま旅順と大連をロシア租借地とした。これに対抗してソールズベリー侯爵はこれまでの「清国の領土保全」の建前を覆して、清政府に砲艦外交をしかけて、山東半島の威海衛を「ロシアが旅順占領をやめるまで」という期限でイギリス租借地とした。だが同時にドイツが露仏と一緒になってこの租借に反対することを阻止するために山東半島をドイツ勢力圏と認める羽目にもなった。これはイギリス帝国主義にとって最も重要な揚子江流域(清国の総人口の三分の二が揚子江流域で暮らしている)にドイツ帝国主義が進出していくことを容認するものとなり、イギリスにとって大きな痛手だった。 1899年に入った頃にはロシア帝国主義の満洲と北中国全域の支配体制はより盤石なものとなっていた。ロシアがこの地域に関税をかけるのも時間の問題だった。ソールズベリー侯爵はロシア勢力圏に門戸開放させることを決意したが、威海衛や九竜半島を租借しているイギリスが門戸開放を主張しても説得力がなかった。そこで中国分割に出遅れたアメリカに門戸開放を主張させようとし、アメリカの世論や政府を門戸開放論に誘導した。その結果、1899年6月にアメリカ国務長官ジョン・ヘイがイギリス・ドイツ・ロシア・フランス・日本・イタリアといった中国内に勢力圏を築いている列強諸国に対して門戸開放を求める宣言を発した(門戸開放宣言)。だが各国とも留保条件を付ける返答をし、ロシアに至ってはほとんど拒否に近い返答を出した。門戸開放によるロシア帝国主義の抑止というソールズベリー侯爵の目論見は失敗に終わった。 ===義和団の乱とロシアの満洲占領=== 列強の中国分割に反発した山東省の農民たちは、1900年6月に「扶清滅洋」をスローガンに掲げる秘密結社義和団を結成し、20万人もの数で北京に押し寄せてきて、ドイツ公使クレメンス・フォン・ケッテラー(ドイツ語版)男爵を殺害した。義和団を味方につけて強気になった西太后は清朝皇帝光緒帝の名前で列強諸国に宣戦布告した。 真っ先に危険にさらされたのは北京・外国公使館街に駐在している外国人たちだった。彼らはキリスト教に改宗した中国人とともに公使館街にバリケードを築いて清軍や義和団の攻撃を防いだ。公使を殺害されたドイツ帝国の皇帝ヴィルヘルム2世が真っ先に援軍を清に送り込むことを決定。ソールズベリー侯爵としても援軍を送らないわけにはいかなかったが、イギリス軍は目下ボーア戦争中であり、極東に割く余分は兵力はなかった。そのため日本に協力を要請し、日本政府はこれを快諾し、2万の兵を清に送り込んだ。日本軍とロシア軍を主力とする8か国連合軍は、8月に義和団や清軍を倒して、西太后や光緒帝を追って北京を占領し、外国公使街で立てこもっている人々を解放した。 しかしロシアはこの騒乱のドサクサに紛れて満洲を軍事占領した。これを警戒したソールズベリー侯爵は、1900年11月にドイツ帝国宰相ベルンハルト・フォン・ビューロー侯爵と揚子江協定(Yangtze Agreement)を締結した。清国の領土保全と英独の勢力下にある清国領土の門戸開放を約定したものだったが、ドイツは満洲についてこの協定を適用することを拒否し、ロシアとの対立を回避した。 ===日英同盟=== ロシアがいつまでたっても満洲から軍を撤兵させず、さらに韓国にも触手を伸ばすようになったことに警戒を強めていた日本は、対ロシア同盟国を求めるようになった。 ソールズベリー侯爵は日清戦争以降、日本の実力を評価するようになっており、1895年11月の段階で「ロシアの軍事力は日本より劣っているであろう。」「日露戦争が勃発しても日本がロシアに負けることはないと思う。なぜなら、日本は日本本土の基地を使って戦闘できるが、ロシアはウラジオストクからしか戦闘できないからである」と語っている。1900年の義和団の乱での日本軍の活躍ぶりはその信頼感を更に強めた。 この頃イギリスは本国周辺海域の海洋覇権をめぐってドイツと建艦競争になっていたため、「中国艦隊」を増強する余裕がなかったが、ロシアは「太平洋艦隊」の海軍力を大幅増強中であり、戦艦数も装甲巡洋艦数もイギリス艦隊を凌ぐに至っていた。ただし総トン数では極東にあるイギリス艦隊が17万トンなのに対して、極東にあるロシア艦隊は12万トンだったので、まだイギリスの方が上だった。この当時、日本海軍は20万トンの艦隊を有していたから、これを味方につければロシアに対する圧倒的優位を回復することができた。 そうした状況の中、駐英日本公使林董とイギリス外相ランズダウン侯爵の間で日英同盟交渉が進められ、日英どちらかが二か国以上と戦争になった場合はもう片方は同盟国のために参戦、一か国との戦争の場合はもう片方は中立を保つことが約定された。イギリス閣僚の中には日本に一方的に有利な同盟案であるとして、インドも同盟適用範囲に加えるべきという意見もでたが、ソールズベリー侯爵はランズダウン侯爵が取り決めてきた内容だけで十分と判断した。1901年に即位したばかりの新国王エドワード7世も日本との同盟に乗り気だった。 1902年1月3日に親ロシア派の日本の元首相伊藤博文侯爵が訪英し、ソールズベリー侯爵やランズダウン侯爵と最後の交渉にあたった。ソールズベリー侯爵は1月7日に反対派閣僚を抑えて日本との同盟を閣議決定した。こうして1月30日にロンドン外務省で日英同盟が締結されるに至った。 ===引退と死去=== 1902年7月11日に病気により退任した。甥であるアーサー・バルフォアに首相・保守党党首を譲った。内閣のナンバーツーであるチェンバレンはこの頃交通事故に遭って療養中だった。甥に跡を継がせるためにわざとこの時期を選んで辞職したとする説もあるが、定かではない。 首相退任から約1年後の1903年8月22日にハットフィールド・ハウスにおいて死去した。 ==人物== 熱心なイングランド国教会信徒であり、ベンジャミン・ディズレーリのような民主主義的保守主義者とは違い、ダービー伯爵と同様の伝統的・貴族的な保守主義者だったといえる。 名門貴族出身者として生まれながらの統治者であるという意識が強く、平民のことは見下していた。15年ほど庶民院議員だった時期もあるが、他のイギリス貴族の子弟と同様に一族の影響下にある選挙区から出て無投票で当選し続けたため、選挙民に媚を売って票を集めるなどという体験をしたことはない。貴族院議員となった後には庶民院に入る事は一度もなく、貴族院での演説で庶民院について触れる時には必ず軽蔑的なニュアンスを含めたという。 国民の中には統治するために生まれた選ばれし者と支配されるべき一般大衆の別があり、それを越えた政治的平等は認めるべきではないという保守的信念を持っていたため、選挙権拡大や民主主義思想に強く反対した。「健全な共同社会は、生まれ、富、知性、教養などの面から選び出された男に統治されたいと願うものだ。そうした男は富と時間的余裕のために、おぞましい貪欲に堕ちることがない。彼らこそが本来的・最良の意味での貴族なのだ。一国の指導者たる者はその中から選ばれるべきなのである。すぐれた適格性を持つ人間として彼らが当然持つべき政治的特権は何としても保持されなければならない」「民主主義とは国民を憎しみ合わせ、バラバラな集団に分裂させようという制度である」と論じている。同じく国民をバラバラにする思想として社会主義や階級闘争、唯物論、無宗教も嫌悪した。 このように保守的な人物であったが、君主の政治介入には否定的であり、自由主義者のパーマストン子爵の「王は過ちを犯さない」論と同じ考えをもっていた。これは王の決定は大臣の助言に従って行われ、その責任は大臣が負い、王に責任を及ばせないことで王位の安定を図る考え方である。アイルランド自治問題に介入しようとするヴィクトリア女王を諌止しつつ、君主権力を奪おうとしているという悪印象を女王にもたれないよう、「権力を温存」すべきと穏やかな説得にあたったこともあった。この説得のうまさとソールズベリー侯爵内閣がもともと保守的だったことから、女王がソールズベリー侯爵内閣に口出しすることはほとんどなかった。 またディズレーリのような大きな内政改革こそ行いたがらなかったものの、貴族としてノブレス・オブリージュの考えはしっかり持っていたので、既存の政党の相互作用による漸進的な改革を妨げることはなかった。 若き日にイートン校でイジメに遭ったことでソールズベリー侯爵は、真面目だが、シニカルな現実主義者になったという。そのため机上の空論になりやすい「原理」を嫌い、「細目」を重視した。その細目重視ゆえに各省の大臣たちに大きな裁量を与え、彼自身はそれにほとんど口出ししなかった。そんな彼が、原理が無視され、細目が重視される外交に最も強い関心を持ったのは必然だった。首相在任期のほとんどを外相と兼任していたのは外交の細目は自分の手でやりたかったからである。 外交面ではダービー伯爵と異なり、不干渉主義・孤立主義をとらなかった。他の列強諸国の台頭でイギリスの地位が相対的に低下していた時期の首相であるため、そのような立場は取りえなかったのである。とりわけドイツのビスマルクとの関係を重視した。 国民人気は低く、ディズレーリが「ディッジー」、グラッドストンが「GOM」といった愛称を持っていたのに対して、ソールズベリー侯爵にはこれといった愛称が付けられず、ただ単に「ソールズベリー卿」と呼ばれていた。また社交的な性格ではなく、物の言い方を考えるということができなかったため、不謹慎な発言ばかり行う傲慢な人物という印象を与えがちだった。 身長は6フィート4インチ(193cm)の長身だが、猫背だった。若い頃は痩せすぎで貧弱な印象だったが、年を取ると逆に太ってきて巨体と化した。しかし肩に肉が付いたせいで猫背はますますひどくなったという。近眼であり、それが彼の他人に無関心な超然性に影響を与えていたという。スポーツには全般的に無関心だったが、テニスだけは嗜んだという。後年には三輪車で運動をしていたようである。 彼のもじゃもじゃ髭は手入れがされていないようにも見えるが、当人はかなり髭にこだわりがあったという。 科学研究に関心があり、自邸に研究室を置いていた他、領地のハットフィールドに水力発電所を設置するのを主導したという。 【↑目次へ移動する】 ==シャーロック・ホームズとソールズベリー侯爵== 小説家アーサー・コナン・ドイルが生み出した名探偵シャーロック・ホームズの手がけた事件の多くはソールズベリー侯爵が首相をしていた時期に発生したという設定になっている。 短編ホームズ小説『第二の汚点』(『シャーロック・ホームズの帰還』に収録)に依頼人として登場する英国首相ベリンジャー卿はソールズベリー侯爵の変名だと言われている。ホームズ小説はワトスンの著作という形式をとっているため、ワトスンが当人に配慮して変名にしていると考える余地があるのである。この人物をソールズベリー侯とする根拠として「大英帝国首相を二度務めた」という紹介がある(ただしシドニー・パジェットの挿絵ではウィリアム・グラッドストンのように見えると指摘されている)。 短編ホームズ小説『海軍条約文書事件』(『シャーロック・ホームズの思い出』に収録)に登場する英国外務大臣ホールドハースト卿もソールズベリー侯爵の変名であるといわれる。この物語は1889年の事件とするのがホームズ年代学の通説であるが、その1889年時の英国外務大臣は首相職と兼務しているソールズベリー侯爵だったためである。作中のホールドハースト卿の外見的特徴の紹介もソールズベリー侯爵に当てはまる。ただし「将来の英国首相」というソールズベリー侯爵とは矛盾した紹介もされている。 短編ホームズ小説『最後の事件』(『シャーロック・ホームズの思い出』に収録)を下敷きにした2012年公開の英米合作映画『シャーロック・ホームズ シャドウ ゲーム』に「ジェームズ・モリアーティ教授は首相の友人」という設定が出てくるが、その首相とはこのソールズベリー侯爵のことだと思われる。 【↑目次へ移動する】 ==栄典== ===爵位=== 1868年4月12日の父ジェイムズ・ガスコイン=セシルの死去により以下の爵位を継承した 第3代ソールズベリー侯爵 (3rd Marquess of Salisbury) (1789年8月18日の勅許状によるグレートブリテン貴族爵位)(1789年8月18日の勅許状によるグレートブリテン貴族爵位)第9代ソールズベリー伯爵 (9th Earl of Salisbury) (1605年5月4日の勅許状によるイングランド貴族爵位)(1605年5月4日の勅許状によるイングランド貴族爵位)第9代クランボーン子爵 (9th Viscount Cranborne) (1604年8月20日の勅許状によるイングランド貴族爵位)(1604年8月20日の勅許状によるイングランド貴族爵位)エッセンドンの第9代セシル男爵 (9th Baron Cecil of Essendon) (1603年5月13日の勅許状によるイングランド貴族爵位)(1603年5月13日の勅許状によるイングランド貴族爵位) ===勲章=== 1878年、ガーター騎士団(勲章)ナイト(KG)ロイヤル・ヴィクトリア騎士団(勲章)ナイト・グランド・クロス(GCVO) ===その他=== 王立協会フェロー(FRS)1866年、枢密顧問官(PC)民政法学博士号(オックスフォード大学クライスト・チャーチ学位)法学博士号(ケンブリッジ大学名誉学位)【↑目次へ移動する】 ==家族== 1857年に裁判官サー・エドワード・ホール・アルダーソン(Sir Edward Hall Alderson)の娘であるジョージナ・アルダーソン(英語版)と結婚し、彼女との間に以下の8子を儲けた。 第1子(長女)ベアトリクス嬢(1858‐1950):第2代セルボーン伯爵ウィリアム・パーマー(英語版)夫人第2子(次女)グウェンドリン嬢(1860‐1945):作家。父の伝記を書く。結婚せず。第3子(長男)第4代ソールズベリー侯爵ジェイムズ・ガスコイン=セシル(1861‐1947):保守党の政治家。第4子(次男)ウィリアム・セシル卿(英語版)(1863‐1936):エクセター主教(英語版)第5子(三男)初代チェルウッドのセシル子爵ロバート・セシル (1864‐1958):保守党の政治家。ノーベル平和賞受賞者。第6子(三女)フラワー嬢(1865‐1867)第7子(四男)エドワード・セシル卿(英語版) (1867‐1918):軍人、エジプト行政管理官第8子(五男)初代クイックスウッド男爵ヒュー・セシル(英語版) (1869‐1956):保守党の政治家。【↑目次へ移動する】 ==ソールズベリー侯爵を演じた人物== デヴィッド・ライオール :映画『80デイズ』(2004年)ジョン・ギールグッド:映画『名探偵ホームズ 黒馬車の影(英語版)』(1979年)ローレンス・ネイスミス(英語版):映画『戦争と冒険』(1972年)【↑目次へ移動する】 =ナンマトル= ナンマトル(Nan Madol)は、ミクロネシア連邦のポンペイ州に残る人工島群の総称であり、後述するように、その考古遺跡の規模はオセアニア最大とさえ言われる。人工島が築かれ始めたのは西暦500年頃からだが、ポンペイ島全土を支配する王朝(シャウテレウル王朝)が成立した1000年頃から建設が本格化し、盛期を迎えた1200年頃から1500年(または1600年)頃までに多数の巨石記念物が作り上げられていった。人工島は玄武岩の枠の内側をサンゴや砂で埋めて造ったもので、100以上とされる人工島は互いに水路で隔てられており、その景観は「太平洋のヴェニス」、「南海(南洋)のヴェニス」、「ミクロネシアのアンコールワット」などとも呼ばれる。 調査・保存などについて日本を含む国際的な協力も受けて、2016年には、UNESCOの世界遺産リストに登録されたが、マングローブの繁茂などといった遺跡保存への脅威から、危機遺産リストにも登録された。 日本ではナン・マドール、ナン・マタール、ナン・マトール等、複数の表記がなされる(後述)。なお、ナンマトル及び関連する固有名詞のカナ表記は揺れが非常に大きいので、この記事では便宜的に、現地音に近いカナ表記を採用したとする片岡, 長岡 & 石村 2017の表記で統一する(ポンペイ島など、ウィキペディア日本語版上で記事が立っている一部の名詞を除く)。いくつかの固有名詞は、日本語文献における表記の揺れを注記したが、網羅的なものではない。 人工島の上に築かれた巨石記念物群は王や祭司者の住居のほか、墓所、儀式の場、工房など様々な役割をもっており、その大きさも様々である。巨石記念物群は数トンから数十トンにもなる玄武岩柱を積み上げたもので、どのような技術を使ったのかは解明されていない。レラ遺跡などのミクロネシア連邦の他の遺跡、さらには広くポリネシア等の遺跡との関連性についても研究が進められているが、明らかになっている点は限られる。なお、超古代文明論ではムー帝国の首都の遺跡などとされることもあるが、考古学的な検証からは否定されている。 ==名称== ナンマトル (Nan Madol) は「間隔の間」(between intervals)という意味で、人工島に築かれた建造物群の間に、水路で隔てられた隙間があることに由来するという。他方で、「家がたくさん集まっている」などと語源説明をしている文献もある。古い伝承に詳しかった地元の名士マサオ・ハドレイもこの立場で、Nan‐Moadol‐En‐Ihmvに由来し、「家がたくさんあるところ」の意味としていた。『小学館ランダムハウス英和大辞典』でも、語源をNan‐Moadol‐En‐Ihmvとし、同様の説明を与えている。 「ナン(・)マトル」は現地のポンペイ語の発音に基づくカナ表記である。日本人として初期に発掘調査をした八幡一郎は「ナンマタル」としていた。かつては「ナン(・)マタール」とする文献も複数あり、それを現地音に近い表記とする文献もあった。 「ナン(・)マドール」は英語読みに基づくとされる表記で、これも広く用いられてきた。実際の英語での発音は IPA: [n*7039**7040**7041*n m*7042*d*7043*ul] である。 ほかに、「ナン(・)マトール」という表記を採用している資料もいくらか存在する。 ==位置== ミクロネシア連邦のポンペイ島はかつてポナペ島と呼ばれており、周辺に付随する数多くの小島も含めてポナペ諸島とも呼ばれた。ポンペイは「石の祭壇の上に」という意味である。石積みと結び付けられるのは、伝承ではポンペイ島そのものが呪術による石積みでできたとされることによるという。 ポンペイ島の周辺にはラグーンがある。ポンペイ島の東側に付随しているチェムェン島 (Temwen) は、そのラグーンにある小島の中で最大であり、ナンマトルはその沿岸部に築かれた。 ポンペイ島は伝統的に5つの地区に分けられ、それぞれにナーンマルキと呼ばれる首長が今も存在するが、ナンマトルはその一つ、マトレニーム地区 (Madolenihmw) にある。マトレニームのナーンマルキは、5人のナーンマルキの中で最も格が高いとされる。 ==歴史== ===伝説=== ナンマトルの伝説的な起源は、神あるいは魔術師などと位置づけられる2人の兄弟、オロシーパとオロショーパ (Olosihpa & Olosohpa) に帰せられている。彼ら以前にも東から来た人々によるささやかな祭壇があったと伝えられるが、オロシーパ兄弟は西方の伝説の地「風下のカチャウ」(Katau Peidi / Downwind Katau)からポンペイ島にやってきて、祭壇を築くために島のあちらこちらをまわった。当初は現代でいうショケース地区 (Sokehs) の沿岸に祭壇を作ったものの、波が強くて失敗し、そこに落ち着くことはなかった。次いでネッチ地区 (Nett)、ウー地区 (U) とめぐったがうまくいかず、最後にマトレニーム地区に落ち着くことになった(各地区の位置関係は上掲の地図を参照)。マトレニームが選ばれたのは、近くの海中に、精霊(祖霊を含む)の領域カーニムェイショ (Kahnimweiso) があるとされたことによる。オロシーパとオロショーパは石を宙に浮かせてナンマトルを組み上げていき、その作業規模が大きくなるに従い、島民たちも協力するようになったという。 ナンマトルの完成を待たずしてオロシーパが没すると、オロショーパは残りの工事を完成に導いた。このオロショーパが初代のシャウテレウルと位置づけられる。「シャウテレウル」とは、ナンマトルを含む一帯の地名「テレウル」(Deleur) の主という意味である。このオロショーパから始まる王朝はシャウテレウル朝 (Saudeleur Dynasty) と呼ばれる。 初期のシャウテレウル朝は善政を敷いていたというが、次第に苛政へと転じ、最後のシャウテレウル、シャウテムォイ (Saudemwohi) の治世をもって終焉を迎えた。シャウテムォイは、島の最高神に当たる雷神ナーンシャペ (Nahn Sapwe) を迫害し、ナーンシャペが東方の伝説の地「風上のカチャウ」(Katau Peidak / Upwind Katau) に逃れざるをえなくした。ナーンシャペはその地の女性と結婚し、女性の双眼にライム果汁を差して妊娠させたという。そこで生まれた英雄がイショケレケル (Isokelekel) で、彼は333人の仲間を引き連れてナンマトルに攻め上り、数年の戦いを経てシャウテレウル朝を終わらせたとされる。敗れたシャウテムォイは魚に変身して逃げたとも、捕らわれて殺害されたとも言われている。 イショケレケルはポンペイ島のマトレニーム地区を治めるナーンマルキとなったが、ポンペイの残りの4地区は18世紀までに別のナーンマルキが治め、現代に至っている。イショケレケルは、ポンペイ全土を治めていたシャウテレウル朝を滅ぼしたにもかかわらず、島全体を統一する政権を作れなかった。その理由については、知られている範囲の伝説からは不明である。ナーンマルキらは、自身の死を前に後継者に口伝する以外には、伝説の全貌を語らない慣わしがある。そのため、学者らによる伝説の収集も、伝説の全体像を解明するには至っていない。 ===学術的検証=== 過去の発掘調査などの結果から、ナンマトル一帯に人が住むようになったのは紀元前後のことで、メラネシアから移ってきたと推測されており、ラピタ人の流れを汲むとも言われている。 人工島の建設開始は西暦500年頃のことだが、そのときの背景などは未解明である。急拡大は西暦1000年頃からだったと考えられており、それが同時にシャウテレウル朝の成立期と考えられている。その頃から1200年頃が首長制の確立期で、その首長制のもとでの儀式は、1200年から1300年頃に始められたと考えられている。 オロシーパとオロショーパの出自が、本当にチェムェン島の外だったかどうかにも議論があり、伝説的な地カチャウと結びつけることで権威を正当化する意図があった可能性も指摘されている。海上に人工島を築いた理由も、地縁などから切り離された権力の確立や、神聖性の強化を志向したのではないかと考えられている。こうした神聖性の強調は、ナンマトルの例外性と結びつく可能性がある。オセアニアの島嶼における政治権力は、農業の集約化と結びついて発展してゆくのが一般的とされ、シャウテレウル朝も確かにパンノキの品種改良による生産力増大や人口増加を背景としていた可能性は指摘されるものの、人工島群に築かれたナンマトルそのものは農業生産力に乏しく、その権威の拠り所は農業ではなく、儀式を通じて示される非物質的な力だったと考えられるからである。 ナンマトルの遺跡群を構成する石材は、サイズによって差があるが5トン(メトリックトン)から25トンほどとも言われ、最も重いものでは推計90トンにもなる。その石切り場は、遺跡から2 kmに位置するマトレニーム湾、十数 km 離れたチェムェン島の反対側などが挙がっており、21世紀に入ってからは、蛍光X線元素分析法を利用して産地やその変遷を特定する試みなども行われ始めている。しかしながら、それらの場所から巨石をどう運んだのかについては、カヌーに吊り下げて運んだという説などがあるものの、詳しい方法は確定しておらず、運んだ巨石を人工島で積み上げていった手法も不明である。少なくとも、彼らは金属器を持たず、水準器、滑車、車輪のいずれも利用していなかったらしい。 シャウテレウル朝が最盛時に支配していた人口は、25,000人ほどであったと見積もられている。そのうちのエリート層や司祭者がナンマトルに居住し、それがナンマトルの主要な機能であったが、前述のように人工島は農業生産力に乏しいため、食料はポンペイ島からの貢納に依存していた。その貢納や、労役が過大になっていったことが、シャウテレウル朝の終焉に結びついたと推測されている。シャウテレウル朝の終焉、すなわちイショケレケルの到来がいつなのかは、細かく絞り込まれてはいないが、1500年から1600年ごろのことであったと考えられており、巨石記念物群の建設もその頃に終息している。 イショケレケルが生まれ育った「風上のカチャウ」について、実在のコスラエ島とする説がある。それに対し、「風上のカチャウ」はポンペイ島より東のあらゆる島を指す語だったとする反論もあり、イショケレケルの軍勢が本当にポンペイの外から来た勢力だったかどうかすら、学術的には確定していない。つまりは、オロショーパ兄弟同様、神聖化の一環で外来勢力を標榜した可能性もある。 シャウテレウル朝の滅亡後も、マトレニームの初期のナーンマルキはナンマトルに居住していたらしい。しかし、19世紀にヨーロッパ人が本格的に到来した頃には、居住地としては使われなくなっていた。口承では、7代目のナーンマルキの時に、台風に被災したことがきっかけで居住地を移したとされ、それは18世紀初頭の頃と考えられている。もっとも、より現実的な理由として、ナンマトルでの居住が外部からの貢納を前提とするのに対し、シャウテレウル朝と違ってポンペイ全土を支配できなかったマトレニームのナーンマルキは、生活に十分な貢納を維持できなかったとする推測もある。 ==遺跡の構成== 遺跡の範囲はおよそ1.5 km × 0.7 km で、人工島の数は100以上である。 島の面積は160 mから12,700 mまで、かなりの差がある。遺跡に使われた石材の総体積は30万m、総重量は50万トン(メトリックトン)に上ると見積もられている。その石造遺跡群の規模はミクロネシアで最大級とされるだけでなく、オセアニアで最大とも言われる。また、太平洋島嶼の巨石記念物群で都市化していたといえるのは、ナンマトル以外ではトンガ大首長国の都市遺跡のみである。 人工島は、外枠を柱状の玄武岩で仕切り、その内側を砕けたサンゴや砂で埋め立てる方式によって作られている。島によっては、その上に柱状の玄武岩を組み合わせた建造物が建っていることもある。人工島そのものの高さは1、2メートルで、満潮時にはそのかなりの部分が海面下にあるため、あたかも玄武岩の構造物群がそのまま海上に建てられているかのような景観を呈する。文化人類学者・考古学者の植木武は、その光景を「規模壮大にして風光明媚」と評している。 人工島の構造物は、柱状の黒褐色玄武岩を縦横交互に積み重ねた囲壁が築かれている。この長手(長い側面)と小口(断面)が交互に層を成す壁面は、後述するように、世界遺産登録に際しても顕著な普遍的価値を認められた。なお、小口積みと長手積みの組合せはレンガのイギリス積みのようだが、ナンマトルの石組みは端の部分を反り上がらせる組み方をしているものがある(画像参照)。 玄武岩の小口はたいてい五角形ないし六角形をしているが、これは柱状節理を利用したものである。すなわち、玄武岩は以前ポンペイ島が火山活動をしていたころ、マグマが地下深いところでゆっくり固まって形成されたものとされ、自然に五角形または六角形に割れるため、加工しやすいが非常に硬い。 伝承によると行政、儀礼、埋葬などそれぞれの島で機能分担していたとされる。その一方、人工島の間の海は張り巡らされた水路のようになっており、それを塞ぐことで、敵の侵入を防ぎやすい構造になっていることから、その全体は一種の水城であったとも考えられている。なお、現存する水路は、シルトの堆積やマングローブの繁茂などによって塞がれてしまった区画もあり、後述するように、その対応が世界遺産登録に当たっても論点となった。 ナンマトルには全体を北東部と南西部に二分する伝統があり、現代でもそれが踏襲されている。前者は主に司祭者が居住した上マトル(マトル・ポーウェ ; Madol Powe / Upper Nan Madol)で、後者は歴代シャウテレウルが居住し、執政や儀式の場となった下マトル(マトル・パー ; Madol Pah / Lower Nan Madol)である。上マトルと下マトルでは島の数が2倍ほど違うが、前者は小さめの島が多くひしめいているのに対し、後者は大きめの島が点在し、島の密度は低い。推測される労働投下量が最大なのは上マトルの葬送儀礼に関する施設群で、上マトルの司祭者たちの居住地はおろか、下マトルの王族の居住地をも上回る。このことは、その儀式が重視されていたことを示すと考えられている。 以下、上マトルと下マトルのいくつかの人工島について概説する。太字は人工島の名前である。 ===上マトル=== 上マトル(上ナンマトル)で特筆される遺跡は、ナントワス (Nandowas)である。二重の周壁を備え、多機能を持っていた遺跡であり、その名は「口の中に」を意味する。これは、人々は首長の口の中に何があるのか知りえないことと、ナントワスの周壁の内側で何が行われているのか分からないことが重ねられている。この場所はシャウレテウル朝歴代の王が葬られた墓所であり、最後の王シャウテムォイもここに葬られたとされる。 ナントワスの二重の周壁は、外周壁が縦64 m、横54 m、高さ 9 m、厚さ 3mで、内周壁が縦30 m、横24 m、高さ4.5 m、厚さ 1.8 mとなっている。中心部の石室にシャウテムォイが葬られたと伝えられるが、外周壁と内周壁の間にも他に2つの墓がある。ナントワスからは、過去の発掘調査で、シャコガイ、イモガイ、チョウガイ、アカザラガイなどを加工した貝製の斧、釣り針、腕輪・耳輪などが発見されている。ナントワスの築造年代は、放射性炭素年代測定によると、西暦1150年頃と見積もられている。 ナントワスの正面と両脇に位置するのが、タウ (Dau)、パーントワス (Pahndowas)、ポーントワス (Pohndowas) で、建設、防衛など、ナントワスでの作業に従事する人々が暮らしたとされている(Pahnは「下」、Pohn は「上」)。 ウシェンタウ (Usendau) は司祭者の居住地であり、シャウテレウル朝滅亡後はナーンマルキの居住地となった。この遺跡にはU字型のプラン(平面図)のナース(nahs, 集会場)や石積み祭壇の跡が残り、放射性炭素年代測定の結果では、島そのものは760年ごろに作られたとされる。これは、最下層の炭化物から導かれた年代である。なお、ウシェンタウ、ペインキチェル、タパーウ(後二つは以下を参照)などに囲まれた地域には小さな人工島が多く残るが、これらのうち30以上が司祭者の住居に使われていた島とされている。 上マトルには他に、人工島の中で唯一、チェムェン島本土と直接接するペインキチェル (Peinkitel) もある。この遺跡はナントワス、パーンケティラ(後述)と並んで特に重要な場所とされ、伝承上、オロシーパとオロショーパが葬られたことになっている。日本の委任統治領時代の発掘で2体の人骨が出土しており、マサオ・ハドレイによると、嵌めていた腕輪などから、地元ではオロシーパとオロショーパの2人の骨と信じられたという。それとは別に、イショケレケルの墓とされるロロン様式(ポンペイ島本土にも見られる石積墳墓の様式)の墓もあり、シャウテレウルやナーンマルキのうちの何人かもこの島に葬られたとされる。 高位の司祭者のものと考えられるロロン様式の墓があるのが、外縁にあたるカリアン (Karian) である。後出のパーンウィもそうであるが、防波堤の役割を果たす人工島には、多くの墓が築かれている。これは、カーニムェイショに死者の霊がゆくと考えられていたことと結びついているという。 葬礼との結びつきということでは、上マトルにはコーンテレック (Kohnderek) もある。この人工島は葬礼の最後にたどり着く場所で、埋葬に先立ち、「死の踊り」が披露された。踊りは、遺族を慰撫する目的もあったという。 他の人工島としては、食用・燃料用・儀式用などに使われたヤシ油の生産地であったペインエリン (Peinering)、カヌー工房のタパーウ (Dapahu)などを挙げることができる。 ===下マトル=== 下マトル(下ナンマトル)には、シャウテレウル朝の歴代の王が居住したと伝えられるパーンケティラ (Pahnkedira) がある。パーンケティラは「宣言を下す場所」を意味し、シャウテレウルの住居や水浴び場、10棟の食糧貯蔵庫などがあった場所であり、寺院 (Temple) の遺構も含まれる。寺院は雷神ナーンシャペもしくは精霊ナンキエイルムァーウ (Nankieilmwahu) を祀ったと考えられている。年代測定の結果、島そのものは10世紀後半の建設で、その計測結果がシャウレテウル朝の成立期の根拠となっている。その後、13世紀後半、15世紀後半に段階的に拡張期を迎えたと認識されている。 パーンケティラ建設にあたり、マトレニーム、ショケース、キチ、コスラエ(または風上のカチャウ)から来た代表がそれぞれ四隅を担当し、それぞれの国の運命と結び付けられた。ここからは、王都にしばしば見られる、世界の中心であるとともに世界の構造を表すという発想が読み取れるという。なお、この思想は四隅のいずれか崩れた時には、担当した代表の属する地域の人々も滅ぶという伝承に繋がったらしい。そして、その四隅のうち、ショケース代表が建てたとされる部分が、何らかの理由で1910年9月に砕けた。ショケースの人々がドイツ知事らを殺し、ショケースの反乱 (Sokehs rebellion) を起こしたのはその翌月のことであった。一般にショケースの反乱は、ドイツの支配強化に反対し、ポンペイ島の独立を取り戻そうとした動きとされるが、この反乱の結果、ショケースのナーンマルキは殺され、住民たちも400人以上が流罪になった。遺跡の損壊と反乱の因果関係はともかく、ミクロネシア連邦当局による世界遺産推薦書でも、これらの出来事は並べて書かれている。 パーンケティラに隣接していたのがワシャーウ (Wasahu) で、「あの場所」を意味する。それは捕虜や重罪人を木槍で突き殺した刑場であり、それゆえに本来の名ではなく「あの場所」という婉曲な名前で呼ばれるようになったという。 イテート (Idehd) は毎年祭祀が行われていた島である。その祭祀では、海に通じた穴へと殺したカメの臓物を捧げ、現れたウナギの動きをもとに、懺悔の適否や吉凶を判断したという(ウナギは神の使いとされた)。なお、殺したカメはイヌの肉とともに焼かれて食べられたが、その際に出た灰は小山状に積み重ねられており、これが年代特定に役立った。それをもとにスミソニアン研究所は1258年(± 50年)という年代を1963年に公表したが、それがナンマトルに関する最初の放射性炭素年代測定の公表となった。現在までの更なる測定で、13世紀初頭から15世紀半ばに至る様々な年代が析出されている。このイテートでは1000年から1200年に祭祀が開始されたと考えられており、それが首長制成立期を推測する根拠となっている。また、シャウテレウル朝で行われていたナーンイショーンシャップ信仰の祭祀は、1200年以降にイテートで行われていたと考えられており、この時期が王朝の発展期と重なるとされている(ナーンイショーンシャップはウツボの化身とされる神)。 トロン (Dorong) には海水を引き込んだ池があり、ハゴロモガイ(フネガイ科)をはじめとする魚介類をとり、シャウテレウルに献上するための場であった。伝承では、池の中央の奥底は外海に繋がっているとされたが、現在では塞がってしまっている。 パーンウィ (Pahnwi) は防波堤状の人工島だが、現在ではパーンウィA、Bと二つに分けて捉えられている。前出の推計90トンの石は、この南西端に存在する。パーンウィは「ウィの木の下」を意味し、地元で「ウィの木」と呼ばれる植物にちなんで付けられた名前だが、これはゴバンノアシ (Barringtonia asiatica) のことである。司祭者たちの埋葬地とされていた島であるとともに、イショケレケルの最初の上陸地と伝えられている。 上陸当初のイショケレケルは友好的に装ったので客人として遇されたというが、その時に客人として通された場所がケレプェル (Kelepwel) で、333人の仲間とともに逗留したという。 ==他の遺跡との関係== ===ポンペイ州の遺跡=== チェムェン島には、ペインポーンロン (Peinpohnlong)、ペインポーンアパープ (Peinpohnapahp)、ペインチャム (Peintamw)、ペインローロ (Peinlohlo) など、玄武岩の周壁に囲まれた方形墓を備えた遺跡があり、ペインポーンアパープの放射性炭素年代測定によって、1219年から1385年という年代が得られている。他のものも含めて、チェムェン島では52の遺構の存在が報告されている。 また、チェムェン島と湾を挟んで北側にあるポンペイ島のメチップ (Metipw)、トラパイル (Dollapwail) 両地域には、放射性炭素年代測定で11世紀から13世紀までの年代を示している遺跡がいくつもあり、伝承上もメチップは人工島建設に使われたサンゴの供給元として言及されている。それらの地域にあるソウクロウ (Soukrou) No.1, 2遺跡およびペインキパール遺跡 (Peinkipahr) はいずれも丸石・板状・柱状の玄武岩を駆使した周壁を備えており、その形状はチェムェン島に見られる祭祀遺跡と類似する。チェムェン、メチップ、トラパイルの遺跡は、シャウテレウル朝の支配下にあった時期の村落のものとされる。また、ポンペイ島にはロロンと呼ばれる様式の、高位者向けの石積墳墓もあり、ナンマトルの発展期とも重なる1200年頃に出現したとされる。 こうした遺跡群は、ナンマトルの理解を深めるために重要とされるが、まだ十分に研究されているとは言えず、専門家からも今後の研究の深化に対する期待感が示されている。 ===レラ遺跡=== コスラエ島に付随するレラ島にも、柱状玄武岩の巨石記念物であるレラ遺跡がある(表記揺れは当該記事参照)。東ミクロネシアにおいては、ナンマトルと双璧をなす中心地とされ、ミクロネシア連邦は将来的な世界遺産登録を視野に入れている。 レラ島の低地に築かれたレラ遺跡は柱状玄武岩を利用した巨石構造物群で、構造物群の間に水路を引いていた「半水城」という点などでナンマトルに類似する。規模はナンマトルの3分の1ほどだが、最大の遺跡キンジェル・フェラトの規模だけならば、ナンマトルの中心遺跡ナントワスに匹敵する。墓の様式などに違いはあるものの、伝承上はナンマトルよりも先に築かれたとされる。 考古学的知見からも確かに両者の交流は認められているが、逆にナンマトルがレラ遺跡に影響を与えたと考えられている。というのは、レラ遺跡の建設開始は1250年頃、巨石記念物群の建設開始に至っては1400年以降のことと考えられているからである。 なお、ナンマトル、レラの影響は、サプゥアフィク環礁(ポンペイ州)、ナムー環礁(マーシャル諸島)などにも拡散していったことが、それらの環礁に共通して見られる玄武岩製の神像から推測されている。 ===ポリネシアの各遺跡=== ポリネシアにはタプタプアテアのマラエ(ライアテア島)、アフ・トンガリキ(英語版)(イースター島)など、儀式が執り行われた石造遺跡が残る。こうしたポリネシアの祭祀遺跡の伝統とナンマトルに直接的な交流があったかどうかは、考古学的には解明されていない。しかし、ポリネシアに見られるカヴァ(ポンペイ語でシャカウ)を飲む伝統は、ミクロネシアではポンペイ島とコスラエ島にしか見られなかった。ナンマトルには、パーンケティラの5台のシャカウ台(カヴァの加工のための石台)など、シャカウ台がいくつも見つかっており、ナンマトルでもカヴァを飲む風習が存在したことが窺える。 カヴァはバヌアツ周辺が起源とされる植物で、ミクロネシア原産ではないことから、ポンペイのナンマトルなどとポリネシア文化の間にも、何らかの繋がりが存在した可能性は指摘されている。言語学的にも、カヴァを飲む風習はポリネシアからもたらされた可能性があるという。また、前出のロロンは、西ポリネシアの階段状墳墓との関連性が議論されている。 また、伝承上はナンマトルがポンペイ島だけでなく、島外からも献上品を贈られていたことになっている。実際、ナンマトルでは、西ポリネシア様式の石斧、アドミラルティ諸島(パプアニューギニア、メラネシア)産と推測される黒曜石の加工品なども見つかっており、ナンマトルが外部に影響を及ぼしていた可能性が指摘されている。 ==研究史== ヨーロッパ人によるポンペイ島の発見は、一般に1595年のペドロ・フェルナンデス・デ・キロスが最初とされている。しかしながら、これは、それらしき島を目撃したという記録にとどまり、具体的な調査は行われていない。 その後は散発的な記録を除くとポンペイ島への言及は途絶えるが、1830年代以降、捕鯨の活発化にともない、記録が増えるようになった。本格的調査といえるものではないが、ナンマトルへの最初の言及は、1830年代のオコーネル (J. O’Connell) のものとされ、すでに住居としては放棄され、人が住まなくなっていた様子が報告されている。同じ頃、1835年の『ニューサウスウェールズ文学・政治・商業アドヴァタイザー』の記事および他の新聞記事1本にも、ナンマトルへの言及が見られる。その後も複数の紹介記事などが現れるが、19世紀半ばの論調は、ナンマトルが現地人の技術によることを否定し、放棄されたスペイン人の要塞と見なすものだった。 しかし、徐々に現地人によるものとする見解が支持されるようになり、19世紀後半から20世紀前半にかけては、ヨハン・クバリー(英語版)、パウル・ハンブルッフ(英語版)(ポール・ハンブルク)らが調査を行い、とりわけハンブルッフの遺跡の全体図は、最初の全体図というだけでなく、2010年代の研究水準から見ても比較的正確なものと評されている。ドイツ帝国太平洋保護領の終焉後、日本の委任統治領時代には、松村瞭、長谷部言人、八幡一郎らが相次いで現地調査を行い、土器片や貝製の装飾品などを発見した。ことに八幡の発見は、その後も長らくミクロネシアの土器の東限を示すものとなった点で重要ではあったが、八幡に限らず第二次世界大戦以前の調査は、報告内容があまり詳細でないという点に難があった。なお、八幡の土器片は日本の大学に運ばれたが、八幡の研究室の移転時に行方不明になってしまったという。 1963年にはアメリカのスミソニアン研究所がイテート島を調査し、その放射性炭素年代測定を最初に公表したのは前述の通りである。 1979年にはアセンズ (J. Stephen Athens) が再び土器を発見し、これに続いてエアーズ (William S. Ayres) が初めて遺跡表面からの採取ではなく、発掘調査によって土器を発見した(その発見された土器の年代は、1180年から1430年の間と見積もられた)。アセンズやエアーズは更に調査を重ね、かつての首長制などを解明するための本格的研究を展開した。 その後、1990年代にはナンマトルそのものの調査で見るべき進展は無かったが、2000年代に入ると片岡修らが本格的な調査を行なった。日本人が主体となる発掘調査は、南洋庁が消滅した第二次世界大戦後では、これが初めてであった。 後述するように、これ以降の研究は、世界遺産に推薦するための価値の証明という観点が含まれることになった。 ==世界遺産== ナンマトルは1974年にアメリカ合衆国国家歴史登録財に、1985年にはアメリカ合衆国国定歴史建造物になった。歴史登録財となった前後の調査では、保全や修築に関した提言も行われるようになった。 ミクロネシアがひとまずの独立を果たした1986年に、ナンマトルはミクロネシア連邦の国定歴史建造物になり、連邦政府公文書・歴史・文化保存局の管理下に置かれた。しかしながら、実際の管理に当たっては同保存局およびポンペイ州政府歴史保存局だけでなく、所有権を主張するナーンマルキおよび私的な地権者の利害が交錯し、ナーンマルキ、地権者、その他の住民が観光客から別個に入場料を徴収し、しかもその入場料が遺跡の保存などに適切に活用されないという実態があった。 ミクロネシア連邦政府はナンマトルの世界遺産登録を希望していたが、独力での登録推進は困難であった。その要請を受け、2010年に日本の文化遺産国際協力コンソーシアムが支援することが決まり、翌年から現地での本格的な支援活動が開始された。 地元では世界遺産化を歓迎する意見だけでなく、否定的な意見も根強くあった。というのは、地元の人々にとって、ナンマトルは特別なものであり続けていたからである。ナンマトルは、ヨーロッパ人が接した19世紀初頭の時点で既に人の住まない遺跡となっていたが、地元の人々にとって宗教的な意義が失われることはなく、遺跡内でのマナーに配慮することはもとより、立ち入り自体みだりにすべきでない聖地と認識され続けてきた。地元では、1907年にペインキチェル遺跡を発掘したドイツ知事ヴィクトル・ベルク (Viktor Berg) が、その直後に熱中症ないし熱射病で急死したのは遺跡を掘り返したせいであるなど、掘り返した者への祟りの話が多くあるほか、取材時に遺跡への敬意を欠いた外国テレビ番組のクルーが発狂した、などといった真偽不明の話も流布されている。 派遣された日本の専門家は、以上のような地元民も含む各利害関係者の調整、および遺跡の調査や保存計画の策定に協力した。 こうして、ミクロネシア当局は、ナンマトル遺跡を2012年1月3日に世界遺産の暫定リストへ記載した。ミクロネシア当局は暫定リスト記載後も日本ユネスコ信託基金の援助などを受け、2015年1月29日に正式な推薦書を世界遺産センターに提出した。この推薦は、将来的にナンマトルとコスラエのレラ遺跡を一体として推薦することを企図しつつも、諸準備の整ったナンマトルのみを先行して推薦するものであった。 世界遺産委員会の諮問機関である国際記念物遺跡会議 (ICOMOS) は、アメリカの専門家の現地調査も踏まえ、推薦に当たっての比較研究も妥当なものとして、登録を勧告した。 2016年の第40回世界遺産委員会でも勧告通りに登録され、委員国からはミクロネシア初の世界遺産登録を祝う声や、今回の推薦では見送られたレラ遺跡への拡大を期待する意見が出された。 ただし、後述するように、登録と同時に危機にさらされている世界遺産(危機遺産)リストにも加えられた。 ===登録名=== この世界遺産の正式名は英語: Nan Madol: Ceremonial Centre of Eastern Micronesia および フランス語: Nan Madol : centre c*7044*r*7045*moniel de la Micron*7046*sie orientale である。その日本語名には、以下のように若干の揺れがある。 ナンマトル:東ミクロネシアの祭祀センター ‐ 片岡修・長岡拓也・石村智ナン・マドール:東ミクロネシアの儀式の中心地 ‐ 日本ユネスコ協会連盟ナン・マドール、東ミクロネシアの祭祀場 ‐ プレック研究所ほかナン・マドール:東ミクロネシアの祭祀センター ‐ 古田陽久・古田真美東ミクロネシアの祭祀遺跡ナンマドール ‐ なるほど知図帳ナン・マトール:ミクロネシア東部の儀礼的中心地 ‐ 世界遺産検定事務局ナン・マトール:東ミクロネシアの祭祀遺跡 ‐ 今がわかる時代がわかる世界地図 ===危機遺産登録=== ナンマトルは世界遺産に登録されたものの、水路に堆積したシルト、そこから繁茂したマングローブの脅威、遺跡の損壊といった理由で、登録と同時に危機遺産リストにも加えられた。保全や修復の必要性は、アメリカの登録文化財になって以降、研究者たちが様々な提案を行なってきた案件であり、危機遺産リストに加えるべきという提案は、ICOOMOSの勧告内容にも含まれていた。 一般に、危機遺産リスト登録に対しては、(否定的なイメージを嫌うなど理由は様々であるが)保有国が消極的になることもしばしばである。実際、カトマンズの渓谷(ネパールの世界遺産)は2015年の地震を理由に危機遺産リスト入りが議論されたが、第39回・第40回と2回連続で、保有国の意向を尊重して危機遺産リスト入りが見送られた。 ミクロネシア当局の場合、危機遺産リストへの登録に前向きで、国際的支援を受けて状況を改善する意向を示したことから、本来の危機遺産登録のあるべき姿などとして、委員国から好意的な声が聞かれた。 2017年3月21日には、遺跡の保存の脅威となる植物の除去作業の費用として、世界遺産委員会から3万ドルが拠出された。 ===登録基準=== この世界遺産は世界遺産登録基準における以下の基準を満たしたと見なされ、登録がなされた(以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準からの翻訳、引用である)。 (1) 人類の創造的才能を表現する傑作。 世界遺産委員会ではこの基準について、「ナンマトルが顕著な巨石記念建造物であることは、柱状の玄武岩を駆使した壁の建築に示されている。それは島内の別の場所にあった石切り場から運ばれてきたものであり、特徴的な『小口積みと長手積みを組み合わせた技法』で積まれている」とした。この基準の適用は、ミクロネシア当局の申請には含まれていなかったが、ICOMOSが追加で適用すべきと勧告したことから加えられた。世界遺産委員会ではこの基準について、「ナンマトルが顕著な巨石記念建造物であることは、柱状の玄武岩を駆使した壁の建築に示されている。それは島内の別の場所にあった石切り場から運ばれてきたものであり、特徴的な『小口積みと長手積みを組み合わせた技法』で積まれている」とした。この基準の適用は、ミクロネシア当局の申請には含まれていなかったが、ICOMOSが追加で適用すべきと勧告したことから加えられた。(3) 現存するまたは消滅した文化的伝統または文明の、唯一のまたは少なくとも稀な証拠。 世界遺産委員会は、この基準について「ナンマトルは、太平洋島嶼の首長制社会の発展について、傑出した証拠を示している。ナンマトルが大規模であること、技術的に洗練されていること、精緻な巨石建造物を集中させていることは、島嶼社会の複雑な社会的・宗教的実践の証明となっている」とした。世界遺産委員会は、この基準について「ナンマトルは、太平洋島嶼の首長制社会の発展について、傑出した証拠を示している。ナンマトルが大規模であること、技術的に洗練されていること、精緻な巨石建造物を集中させていることは、島嶼社会の複雑な社会的・宗教的実践の証明となっている」とした。(4) 人類の歴史上重要な時代を例証する建築様式、建築物群、技術の集積または景観の優れた例。 世界遺産委員会は、この基準について「首長住居の遺構、儀式の遺跡、埋葬に関する構造物、関連する居住地の遺跡は、傑出した儀式の中心地の例を形成している。それは、およそ1,000年前から始まった、島の人口増大や農業力強化と結びつく首長制社会の発展を説明するものである」とした。世界遺産委員会は、この基準について「首長住居の遺構、儀式の遺跡、埋葬に関する構造物、関連する居住地の遺跡は、傑出した儀式の中心地の例を形成している。それは、およそ1,000年前から始まった、島の人口増大や農業力強化と結びつく首長制社会の発展を説明するものである」とした。(6) 顕著で普遍的な意義を有する出来事、現存する伝統、思想、信仰または芸術的、文学的作品と直接にまたは明白に関連するもの(この基準は他の基準と組み合わせて用いるのが望ましいと世界遺産委員会は考えている)。 世界遺産委員会はこの基準について、「ナンマトルは、太平洋島嶼における伝統的首長制および統治機構の元来の発展を表すものであり、今なおナンマトルを伝統的に保有・管理するナーンマルキの制度形態の中に息づいている」とした。世界遺産委員会はこの基準について、「ナンマトルは、太平洋島嶼における伝統的首長制および統治機構の元来の発展を表すものであり、今なおナンマトルを伝統的に保有・管理するナーンマルキの制度形態の中に息づいている」とした。 ==他の伝説との関連== ===ムー大陸=== ジェームズ・チャーチワードは、太平洋にはかつてムー大陸があり、高度な文明を誇るムー帝国があったが、12,000年前に沈んでしまったと主張していた。そのチャーチワードの説では、ナンマトルこそが、ムー帝国の首都ヒラニプラの痕跡であるとされていた。チャーチワードよりも先に、太平洋には陸橋島を結んだ有史以前の古代文明があったと主張したジョン・マクミラン・ブラウン(英語版)も、ナンマトルをその文明の首都の廃墟と位置づけていた。 しかしながら、ナンマトルは前述のように西暦500年から1500年頃の遺跡であり、ムー大陸の首都とするには新しすぎる。考古学的には、ムー帝国の残滓とする説は否定されている。 ===竜宮城=== ナンマトルは、日本の御伽噺『浦島太郎』に出てくる竜宮城のモデルとされることもある。地元の名士マサオ・ハドレイをはじめとする古老たちは、海底に沈んだ聖なる都市カーニムェイショの伝説と、竜宮城伝説の類似性を指摘した。ほかにも、近くの海底深くに巨大な石柱が眠っているという伝説や、ナンマトル近くの島の古称が「ウラノシマ」だという伝説、北方から東洋人らしき漁師が漂着して長期滞在した伝説などもあるという。 その一方、そうした類似性については、20世紀前半の日本の委任統治領だった時代に、日本からもたらされた浦島太郎伝説がポンペイ島の伝説に混入したとも言われている。また、20世紀末以降には日本のテレビ番組でも複数回取り上げられたが、そうした番組の取材も、地元民の伝承に影響を与えた可能性が指摘されている。 なお、地元民がカーニムェイショと呼ぶ近海には、水深15 m ほどの海底に規則的に並んだ五本の柱らしき構造物が確認できる。ただし、泥土の流入や造礁サンゴ等の付着により、人工物とは断定できない状態である。仮に人工物だとしても、海の穏やかさなどから、潜水に長けた水夫とカヌーによって、シャウテレウル朝が構築することは十分に可能だったと想定されており、海の精を祭るための構造物の可能性も指摘されている。 ===為朝伝説=== 保元の乱で伊豆大島に流され、その地で自害した源為朝には、実際には死なずに別の地へ渡ったとする伝説が多くある。琉球に渡って、現地の女性を娶って初代琉球国王舜天をもうけたとされる話なども、その一つである。その為朝が、ポンペイ島に渡ってナンマトルを築いたという伝説もある。ただし、それはもちろん学術的に裏付けられた説ではない。 =バタフライ効果= バタフライ効果(バタフライこうか、英: butterfly effect)とは、力学系の状態にわずかな変化を与えると、そのわずかな変化が無かった場合とは、その後の系の状態が大きく異なってしまうという現象。カオス理論で扱うカオス運動の予測困難性、初期値鋭敏性を意味する標語的、寓意的な表現である。 気象学者のエドワード・ローレンツによる、蝶がはばたく程度の非常に小さな撹乱でも遠くの場所の気象に影響を与えるか?という問い掛けと、もしそれが正しければ、観測誤差を無くすことができない限り、正確な長期予測は根本的に困難になる、という数値予報の研究から出てきた提言に由来する。 ==意味== 自然現象は、時間の経過に従ってその状態を変える。ニュートン力学では、そのような自然現象の変化の法則、すなわち物体の運動の法則を発見し、将来の状態を予測する方法を確立させていった。このニュートン力学に代表されるように、ある状態の次の状態が確定した法則に従って一意に決まるという考え方は、決定論という呼び方で知られている。量子力学の登場によりミクロのスケールでは運動の状態は確率的に決定されることが明らかとなったが、日常的に目にするようなマクロのスケールでは、多くの現象がニュートン力学に従っている。このような決定論的・ニュートン力学的法則に基づく物理法則から将来の状態を予測するには、その系の初期状態(初期値)が先ず必要となる。思考実験の1つであるラプラスの悪魔は、完全無欠な初期状態を得て、そこから過去と未来の全ての正確な状態を予測するが、現実には完全に正確な初期状態を知ることはできない。そのような場合においても、自然科学の研究では、真の初期状態との違いがわずかであれば最終状態においてもわずかな違いしか生まれないだろうと、しばし仮定されてきた。しかしカオス理論の発見により、決定論的・ニュートン力学的法則に従うような系でも確率論的にランダムかのような振る舞いを起こし、なおかつ、初期値のわずかな差が将来の状態に無視できない大きな差を発生させる現象があることが明らかになった。 ニュートン力学のように、時間経過とともにその状態が変化し、その変化の法則が決定論のような一定法則で与えられ、初期状態が決まればその後の状態も一意に決定されるようなシステム、あるいは、そのようなシステムを扱う数学分野を力学系と呼ぶ。カオス理論は数学的には力学系の一分野である。カオス理論では、ある非線形性を持つ力学系において、初期状態に存在する差が時間経過に従って平均的な指数関数的増加を起こし、無視できないほど大きな差を生むとき、その系は初期値鋭敏性を有するという。バタフライ効果とは、このカオス理論における初期値鋭敏性の寓意的な言い換えである。初期値鋭敏性は、カオス理論でカオスと呼ばれる現象の特徴、あるいは定義の一部である。大気運動などは非線形な力学系方程式に従い、なおかつ初期値鋭敏性を有すると考えられている。初期値鋭敏性すなわちバタフライ効果を有するかは、リアプノフ指数が正の値を取るかなどで定量評価される。 実在する自然現象に対して力学系の計算モデルを構築して将来の状態を予測するには初期値をモデルに与える必要がある。しかし、実際の予測では予測対象物の観測によって初期値を得るが、この際の観測誤差を無くすことはできない。一方、予測のための計算モデルが初期値鋭敏性を有する場合、初期値のどんなに小さな差も指数関数的に増大し得る。したがって、計算モデルから将来の状態を予測しようとしても、短期間の内ならばある程度の精度で予測可能でも長期間後の状態の予測は近似的にも不可能となる。このような性質は長期予測不能性 や予測不可能性 などとも呼ばれる。このような初期値鋭敏性の帰結である長期予測不能性の存在も、バタフライ効果が意味するものである。 ==表現の由来== バタフライ効果(butterfly effect)という表現は、気象学者のエドワード・ローレンツが1972年にアメリカ科学振興協会で行った講演のタイトル”Predictability: Does the Flap of a Butterfly’s Wings in Brazil Set Off a Tornado in Texas?”(予測可能性:ブラジルの1匹の蝶の羽ばたきはテキサスで竜巻を引き起こすか?) に由来すると考えられている。ローレンツによると、ローレンツ自身は初期値鋭敏性の象徴として元々はカモメを使っていたが、この学会の主催者で気象学者のフィリップ・メリリースが蝶に変更したことで、この講演タイトルとなった。蝶の方が儚げで弱そうなものに見えるので、大きなものを生み出し得る小さなものの象徴に最適と判断したのだろうと、ローレンツはこの変更理由を推測している。 バタフライ効果という言葉が一般的に引用されるとき、ローレンツの講演タイトルのような形で説明を付けることが多いが、説明に出てくる地名と発生する現象には様々な違いが見られる。ベストセラーとなった1987年のジェイムズ・グリック(James Gleick)の著書”Chaos: Making a New Science”(邦題:カオス―新しい科学をつくる)では、「今日の北京で1匹の蝶が空気をかき混ぜれば、翌月のニューヨークの嵐が一変する」という形で説明されており、元の講演タイトルと比較すると「ブラジル」が「北京」に、「テキサス」が「ニューヨーク」に変わっている。ポピュラーカルチャーでの例としては、1990年の映画『ハバナ』でロバート・レッドフォード演じる主人公が「1匹の蝶が中国ではばたけば、カリブでハリケーンを起こす」というセリフをレナ・オリン演じるヒロインに話すシーンがあり、「ブラジル」が「中国」に、「テキサス」が「カリブ」に、「嵐」が「ハリケーン」に変わっている。 一方、上記の講演からではなく、ローレンツがこの講演以前に研究・発表した、ローレンツ方程式と呼ばれる次の3元連立非線形常微分方程式が生み出すストレンジアトラクターの形状に由来するという考えもある。 式中の x、y、z が変数で、p、r、b が定数である。ここで、ローレンツ方程式のパラメータを、p = 10、r = 28、b = 8/3 として与えて数値計算で軌道を計算すると、ストレンジアトラクタと呼ばれる3次元の解軌道が描かれる。これらのパラメータにより生み出されるストレンジアトラクタは、ローレンツの名を冠してローレンツ・アトラクタと呼ばれ、その軌道はちょうど蝶が羽を開いたような形をしている。このため、バタフライ効果の語源となったかは不明だが、このストレンジアトラクタのことはローレンツ・バタフライとも呼ばれる。 ローレンツ自身もどちらが語源であったかは確証していないが、ストレンジアトラクタの形状に由来する可能性について「私が話を交わした大勢の人たちは、バタフライ効果という名がこのアトラクタにちなんでつけられたものと思っていた。あるいはそういうことだったかもしれない」と述べている。 ==歴史== 今日の「バタフライ効果」が意味する初期値鋭敏性や予測不可能性の存在についての学術的な議論は、ローレンツ以前にも、アンリ・ポアンカレなどにより行われてきた。また、デュラン・キセイン(Dylan Kissane)は、ブレーズ・パスカルが『パンセ』に記述した「クレオパトラの鼻が低かったら、大地の全表面は変わっていただろう」という格言も同じような発想に基づいたものと評している。カオス理論の全体的な発展の歴史については、カオス理論#研究史を参照のこと。以下では、ローレンツの研究を中心に「バタフライ効果」という用語が広まるまでの経緯を説明する。 1961年にエドワード・ローレンツが計算機上で数値予報プログラムを実行していた時のこと、最初ローレンツはある入力値を「0.506127」とした上で天気予測プログラムを実行し、予想される天気のパターンを得た。このときのコンピュータのアウトプットは、スペースの節約から、入力値が四捨五入された「0.506」までしか打ち出されないものであった。ローレンツは、もう一度同じ計算をさせるため、特に気に留めずに、打ち出された方の値「0.506」を入力して計算を開始させた。計算が終えるまでコーヒーを飲みに行き、しばらく後に戻って2度目の計算結果を見てみると、予測される天気のパターンは一回目の計算とまったく異なったものになっていた。ローレンツはコンピュータが壊れたと最初は考えたが、データを調べていく内に入力値のわずかな差によるものだと気づいた。この結果から、もし本物の大気もこの計算モデルのような振る舞いを起こすものならば、大気の状態値の観測誤差などが存在する限り気象の長期予想は不可能になることを思い付き、初期値鋭敏性と長期予測不能性のアイデアを持つようになる。 上記の計算結果は12変数の方程式の数値予報モデルにより得られたものだったが、さらに変数を減らした単純なモデルでも、初期値鋭敏性とそれを強く関連すると考えられる非周期性の解が有するものがあるかについて、ローレンツは研究を続けた。ある日、気象学者のバリー・ザルツマンに、非周期性の解を示す7変数方程式からなる大気循環モデルによる研究を紹介され、ローレンツは、このモデルを3変数まで減らしても同様な非周期性を示す可能性に気づく。ザルツマンに自身の考えを伝えた上で3変数でのモデルの研究を進め、このモデルから単純な方程式の系でも初期値鋭敏性、非周期性を例証できることを確信すると、成果をまとめ、1963年に論文”Deterministic Nonperiodic Flow”(決定論的な非周期な流れ)をアメリカ気象学会へ投稿した。この論文中で示された3変数モデルは、前述で説明した、今日ではローレンツ方程式と呼ばれるものである。この研究成果は初めはほとんど注目もなかったが、その後の1970年代後半に起きるカオス理論の隆盛とともに再評価され、現在は最初期におけるカオス発見の1つに数えられている。同じ1963年に出された予測可能性に関する別の論文では、論文の結びで「理論が正しければ、1羽のカモメの1回のはばたきは気象現象の将来を永遠に変えるに十分となることを、一人の気象学者は述べた。論議はまだ決着していないが、近年の多くの証拠はカモメの方を支持しているように思われる」と述べており、後の講演タイトルに類似した表現も既に存在する。 アイデアをもっと広めるべきだという同僚の説得もあり、ローレンツは1972年にアメリカ科学振興協会で、名称の由来となったとされる前述の講演を行う。カモメから蝶へ変わった理由は#表現の由来で説明した通りである。さらに、カオス理論を一般大衆向けにも広めた、前述の1987年のグリックのベストセラーの中でも「バタフライ効果」という名前の1つの章が割り当てられ、ローレンツの業績と「バタフライ効果」という用語が世に広まっていった。 ==気象予報における例== バタフライ効果の語源となったとされる講演で、「ブラジルの1匹の蝶の羽ばたきがテキサスで竜巻を引き起こす」という現象が本当に起こるかどうかについての直接の答えは、ローレンツ自身も示していない。講演の最後に「大気の不安定性について我々は確信を深めつつあるが、最初の問い掛けには、あともう数年は答えないままにしておくしかないだろう。」と述べた上で、「一方、今日の天気予報の誤りを、気象パターンの微小な構造のせいにするようなことはできない。もっと大まかな構造ですら不完全にしか観測できないこと、関連する物理的原理について未だに不完全な知識しか持ち合わせていないこと、それらの原理を人間やコンピュータが予報に使うために定式化の際にどうしても近似が必要になること、これらが予報の誤りの主原因である。これらの欠陥を完全に取り除くことはできないが、観測システムの拡張や研究の強化によって大幅な改善はできるだろう。」と、バタフライ効果の有る無しの結論以前に予報精度向上のためにすべき点に触れて、ローレンツは講演を締めくくっている。 問い掛け自体への否定的な回答の例としては、科学ジャーナリストのブライアン・クレッグ(Brian Clegg)は、著書”Dice World: Science and Life in a Random Universe”(邦題:世界はデタラメ―ランダム宇宙の科学と生活)で、蝶のはばたきの影響は小さ過ぎて実際のところ減衰してしまうだろうと考えられる点、竜巻は局所的な気象配置が支配的である点などを根拠にして、バタフライ効果の基本的考え方は正当としつつも、「ローレンツの質問への答えはノーである。」と述べている。ローレンツも講演中で、否定的な材料として、ブラジルとテキサスでは地球の半球位置が違うため大気の性質が相当異なっているので影響は赤道を越えられない可能性や、乱流状態の大気中では影響は広がるが穏やかな大気中では影響は広がらない可能性などを挙げている。 一方、「ブラジルの1匹の蝶の羽ばたきがテキサスで竜巻を引き起こす」かどうかの正否は別にして、バタフライ効果が原因となり長期予測の精度が低下することは現代の気象予報上の問題点として認識されている。バタフライ効果による長期予測精度の低下のため、詳細な予報を行える期間は2週間程度が限界と言われている。この点を少しでも克服するため、初期値を意図的にわずかに変えた計算を複数行い、それらの計算結果の平均を採用することで精度を高めるアンサンブル予報という手法も開発された。日本の気象庁では、2015年現在、5日先までの台風予報、1週間先までの天気予報、それより長期の天候予測でアンサンブル予報を採用している。 ==ポピュラーカルチャーの中でのバタフライ効果== ローレンツの研究、バタフライ効果という用語が与えられる以前からも、バタフライ効果が意味する初期鋭敏性、すなわち非常に小さな事象が因果関係の末に大きな結果につながるという考え方は、フィクション作品の中で多く見られる。グリックは著作の中で、そのような古い例として、童謡マザー・グースの『釘がないので』を挙げている。ローレンツ自身も、講演以前の作品として、ジョージ・リッピー・スチュアート(George R. Stewart)による1941年の小説『嵐』などで、バタフライ効果を意味するようなセリフやストーリーがあることを例として挙げている。ジャーナリストのピーター・ディザイクス(Peter Dizikes)はボストン・グローブのコラムで、ポピュラーカルチャーの中ではバタフライ効果という用語が「歴史や運命を決定する一見些細な出来事や、因果関係の繰り返しの果てに人生の行き先や世界経済にまで影響を与える最初のきっかけが存在することの意味するメタファー」として愛されていると述べている。グリックも、バタフライ効果という言葉はポピュラーカルチャーでのクリシェになっていったと、2008年の後書きで振り返っている。 一方、ディザイクスは、前述のコラムとマサチューセッツ工科大学のニュースマガジンの中で、ポピュラーカルチャーでのバタフライ効果の引用のされ方を見ると、この言葉が示すところの一側面しか理解されていないおそれを指摘している。ボストン・グローブのコラムでは、仮に蝶のはばたきが連鎖の果てに嵐を起こすとしても、そのような小さな撹乱でも嵐が起きるような場合に何が嵐を起こしたのかをそもそも特定することができるのか?という、ローレンツの仕事が示した「原因と結果」というものを考えるときの新たな視点が伝わらない可能性について懸念を示している。 上記のようにバタフライ効果を作品名としたり、1つの要素として取り入れている作品は多い。バタフライ効果を重要なプロットや設定として掲げている作品、そのように評される作品などに限って以下に示す。 『雷のような音』‐ 1952年のレイ・ブラッドベリによるSF短編小説。2005年には『サウンド・オブ・サンダー』として映画化された。タイムトラベルで過去に戻った主人公が1匹の蝶を殺してしまったことによって歴史が大きく変化するというプロットとなっており、バタフライ効果とよく結び付けられる。バタフライ効果という言葉が生まれる以前の作品だが、ローレンツが聞いたところによると、講演主催者のメリリースはこの小説は知らずに講演タイトルを設定したという。『ジュラシック・パーク』 ‐ 1990年のマイケル・クライトンによるSF小説。登場人物の数学者がバタフライ効果について説明し、物語の行く末を予見する。1993年の映画版でも同様なシーンがあり、当時のカオス理論の流行的広がりを象徴する作品としてよく採り上げられる。『バタフライ・エフェクト』 ‐ 2004年のエリック・ブレスとJ・マッキー・グルーバー監督のSF映画。過去に戻り、現在・未来を変えようとする主人公を描いた物語で。バタフライ効果がタイトルの由来であり、さらには映画の全体的なモチーフとなっている。『ミスター・ノーバディ』 ‐ 2009年のジャコ・ヴァン・ドルマル監督のSFファンタジー映画。超弦理論、ビッグクランチ、エントロピーといった科学理論を映画の構成に取り込んでおり、バタフライ効果も作品の基調の1つで、ストーリー展開の基盤となっている。『あのとき始まったことのすべて』‐ 2010年の中村航による恋愛小説。物語の最初のきっかけ、物語の広がり方をバタフライ効果に例えて評されている。 =エドワード・ハイド (初代クラレンドン伯爵)= 初代クラレンドン伯爵エドワード・ハイド(英語: Edward Hyde, 1st Earl of Clarendon, 1609年2月18日 ‐ 1674年12月9日)は、清教徒革命(イングランド内戦)から王政復古期のイングランドの政治家・歴史家・貴族。 1660年の王政復古後にはチャールズ2世の重臣として国政を主導、長期議会初期の立法を基礎とした立憲王政の確立を目指した。1661年から1665年に制定された一連の非国教徒弾圧法は彼の名をとって「クラレンドン法典」と呼ばれているが、彼自身はこれに否定的だった。英蘭戦争の敗北などで批判が高まり、1667年に失脚。フランスへ亡命し、歴史書『イングランドの反乱と内戦の歴史(英語版)』を著した。 娘アン・ハイドはイングランド国王ジェームズ2世の最初の妻であり、したがってイングランド女王メアリー2世・アンは外孫に当たる。 1660年にハイド男爵、1661年にクラレンドン伯爵に叙された。 1640年に庶民院議員となり、穏健進歩派としてチャールズ1世の専制政治を批判した。しかし国王大権の剥奪など急進的改革には反対し、王と議会の和解に努めた。清教徒革命が勃発すると立憲王政派として行動して国王の信任を得た。1645年には皇太子チャールズ(後のチャールズ2世)とともに亡命し、彼の亡命宮廷に仕えた。 ==概要== 1609年、庶民院議員を務めた地主ヘンリー・ハイド(英語版)の子として生まれる。オックスフォード大学マグダリン・ホールやミドル・テンプル法学院で学び、法廷弁護士となる(→生い立ち)。 第2代フォークランド子爵ルーシャス・ケアリーらと交流を深めて穏健進歩派の論客となり。1629年以来議会を招集せずに専制政治を行っていたチャールズ1世やその側近の初代ストラフォード伯爵トマス・ウェントワースを批判した(→反専制の進歩派となる)。 1640年に11年ぶりに召集された議会(短期議会と長期議会)で庶民院議員に当選して政界入りし、親政期に行われた圧政を追及した(→庶民院議員として政界入り)。1641年のストラフォード伯弾劾にも賛成したが、この頃から急進派議員と議会外大衆の急進活動を懸念するようになり、議会と国王の均衡を求める穏健派として、同年に可決された『議会の大諫奏』については国王大権の干犯として反対した(→急進的進歩派を懸念)。 以降国王に近しい立場になって「立憲王党派」と呼ばれるようになり、ジョン・ピムら急進派議員と対立を深めた。1642年1月に国王が急進派議員をクーデタ的に逮捕しようとして失敗してヨークへ逃れる事件が発生すると、議会は急進派が掌握するところとなった。彼も5月に逮捕の危機に晒されてヨークの国王のもとに逃れた(→立憲的国王派として)。国王の信任を受け、1643年には財務大臣に任じられた。内乱勃発後も穏健な王党派として議会と国王の和解を目指したが、和平交渉は実を結ばなかった(→清教徒革命をめぐって)。 国王軍の旗色が悪くなった1645年に国王の命令で皇太子チャールズ(後のチャールズ2世)とともに亡命した。当初ジャージー島やオランダで暮らし、パリに作られたチャールズの亡命宮廷には積極的に参加しなかったが、1651年頃からチャールズの側近として亡命宮廷の中心人物となり、王政復古の下地作りに励んだ(→皇太子の亡命宮廷で)。 1658年のオリバー・クロムウェルの死でイングランド共和国が動揺すると、王政復古へ向けた政治工作を本格化させ、ジョージ・マンク将軍の取り込みや革命期の行動を大逆罪に問わないことを保証したブレダ宣言(英語版)などによって1660年に議会に王政復古を決議させることに成功した。国王とともにロンドンへ帰還し、以降国王最大の側近として7年にわたってイングランドの国政を主導した(→王政復古)。 国王親政ではなく、長期議会初期に制定された諸法によって制限された立憲王政を目指した。共和政期の遺産も受け継ぎ、国王大権を基礎とする封建的財政を復活させず、共和政期に確立された国民への恒常的課税を基礎とする近代的財政をそのまま採用した(→立憲王政体制を目指して)。革命派への復讐を求める議会の騎士派(王党派)を抑え、復讐は弑逆者など一部の者に限定し、原則として革命期の行動については不問とした。また共和国政府に所領を没収された者には所領を返還したが、罰金を科されて自発的に所領を売り払ったケースは返還なしとした。この処置は王党派の不満を招いた(→復讐の抑止)。 宗教政策では寛容に失敗し、議会の清教徒革命追及の機運に押されて、清教徒を国教会から排除して非国教徒にし、彼らを弾圧する法律を次々に法定した。これらは「クラレンドン法典」と呼ばれるが、彼自身はこうした非寛容政策には批判的だった(→宗教政策)。 外交政策では1662年にはダンケルク売却を実施して批判を集めた。1665年にはオランダとの間に英蘭戦争が勃発したが、敗北した上に財政が疲労する結果に終わったのでさらなる批判を受けた(→外交政策)。 1665年のペスト流行や1666年のロンドン大火で批判はさらに高まった。1667年8月、議会で政府批判が高まることを恐れたチャールズ2世が議会開会前に彼を政府から追放しようとし、その圧力で大法官辞職に追い込まれた(→失脚)。10月に召集された議会から大逆罪で告発されたため、フランスへ亡命。そこで名著と名高い歴史書『イングランドの反乱と内戦の歴史(英語版)』を著した。1674年にルーアンで死去した(→亡命と死去)。 歴史家G.M.トレヴェリアン(英語版)は長期議会初期の「国王と議会の均衡」にこだわって議院内閣制に踏み出せなかった人物としながらも、復讐政策をとらず、王政復古を成功させたことを評価している(→人物・評価)。 1660年にハイド男爵、1661年にクラレンドン伯とコーンベリー子爵に叙せられた(→爵位)。 爵位は長男のヘンリー・ハイド(英語版)が継承した。次男ローレンス・ハイドも後にロチェスター伯爵に叙される。また娘アン・ハイドはチャールズ2世の弟のヨーク公ジェームズ(後のイングランド国王ジェームズ2世)と結婚し、後のイングランド女王メアリー2世とアンを儲けている(→家族)。 ==経歴== ===生い立ち=== 1609年2月18日、ウィルトシャー・ディントン(英語版)の地主で庶民院議員を務めたヘンリー・ハイド(英語版)とその妻メアリー(トローブリッジ(英語版)の衣服商人エドワード・ラングフォードの娘)の子としてディントンに生まれた 父や家庭教師から古典の教育を受けた後、1623年に13歳でオックスフォード大学マグダリン・ホールに入学し、1626年に卒業した。裁判官の伯父ニコラス・ハイド(英語版)の後援で1625年にミドル・テンプル法学院に入学し、1633年には法廷弁護士資格を取得した。 1634年7月に少額債権裁判所主事・造幣局長官トマス・エイルズベリーの娘フランセスと結婚。同年に父ヘンリーが死去し、ハイド家の跡を継いだ。父は遺言で「国の法律や自由を自らの利益や君主の意思のために犠牲にしてはならない」と述べたという。 ===反専制の進歩派となる=== 岳父(妻の父)トマス・エイルズベリーの縁故で国王チャールズ1世の側近のカンタベリー大主教ウィリアム・ロードの知遇を得、彼から法律家としての活動を評価されたのがきっかけで裁判官や著名な法律家からの依頼が続々とくるようになった。民事訴訟裁判所文書保管係にも任命された。 当時、第2代フォークランド子爵ルーシャス・ケアリーの屋敷ではジョン・セルデンなど当代一流の進歩派の知識人が集まるクラブが定期的に開かれており、ハイドもそこに出入りするようになった。ここでの法律・哲学・宗教などの討議を通じて、進歩派の論客としての研鑽を積んだ。 1629年以来11年にもわたって国王チャールズ1世は議会を招集しようとせず、議会立法ではなく、枢密院令に頼った政治を展開し、国民の民意を無視し続けていた。その結果、初代ストラフォード伯爵トマス・ウェントワースやロードなど国王近臣による強権的統治が行われていた。ハイドら進歩派は王権神授説を批判して法の支配を唱え、国王の権限が法の範囲を超えて拡大されることに反対していたので、このような状況を批判していた。 ===庶民院議員として政界入り=== 第一次主教戦争後、スコットランドとの戦費を渇望するチャールズ1世は、ストラフォード伯の助言を容れて1640年4月13日に議会を招集し(短期議会)、臨時課税を求めた。この議会の選挙でハイドはウットン・バセット選挙区(英語版)から選出されて庶民院議員となっている。 議会は国王の課税要請に応える前に1629年から続く議会軽視の親政に苦情を申し立て、親政以前の政治慣行の復活を要求した。ハイドもフォークランド子爵やセルデンの理論に従って法の支配、国王と議会の権力の均衡、プロテスタント信仰に基づく強力な国教会の確立を要求した。国王は貴族院取り込みを図って乗り切ろうとしたが、庶民院の反発が静まらなかったため、招集からわずか3週間後の5月5日に議会は解散された。この直前にハイドは、ロードのもとを訪れて議会の続行を国王に助言するよう求めたが、ロードは聞き入れなかった。 1640年8月末にはスコットランド軍がイングランドへ侵攻し、ニューカッスルを占領した(第2次主教戦争)。軍隊を組織するお金がないチャールズ1世は、スコットランド軍撤兵の条件として5万ポンドの賠償金をスコットランドに支払うリポン条約の締結を余儀なくされた。チャールズ1世はその賠償金も用意できないため、更に弱い立場で議会を再招集する羽目になった(長期議会)。新議会は9月に選挙の告示があり、10月に総選挙が実施された。ハイドはこの議会でサルタッシュ選挙区(英語版)から選出されて庶民院議員となっている。 半年の間に世論の空気は変わっており、国王とその側近に対する信頼は完全に消えていた。そのため前議会が穏便に親政前に戻ろうとしていたのに対し、新議会は親政の責任追及の機運が高かった。親政下で逮捕された政治犯が次々と釈放されるとともに国王側近に厳しい責任追及が行われることになった。 ハイドも専制政治を厳しく追及し、「紋章院裁判所の活動を調査する委員会」「船舶税を支持した裁判官を調査する委員会」「国政をゆがめた裁判所の活動を調査する委員会」「大権裁判所を検討する委員会」「今後の議会のあり方を検討する委員会」「教会の改革を検討する委員会」など記録に残るだけでも7つの委員会に委員として所属して親政下の圧政の調査を行っている。 ===急進的進歩派を懸念=== 1641年2月には国王側近ストラフォード伯に対する弾劾裁判が開始された。ハイドも「ストラフォードを告発する文書作成委員会」の委員となった。ハイドにとってストラフォード伯は北部評議会(英語版)の権限を拡大してその地域を「専制的権力の海に沈めた」張本人であるため、容赦なく追及した。 だが、同時にこの頃からハイドは急進的進歩派に不安を抱くようになった。ストラフォード伯弾劾の最中、何千人ものロンドン市民がウェストミンスターに押しかけてきてストラフォード伯処刑を求める示威行動を起こし、処刑への同意をためらう国王や貴族院議員を罵倒していたが、ハイドはそれを見て嫌悪した。後世ハイドはこの時の市民の示威行動を「前代未聞の不敬」「反逆的な暴動」と批判している。 議会は5月12日にストラフォード伯を処刑するとともに、1640年から1641年にかけて議会権限を回復・強化する法案を次々と可決させた。議会の許可なき課税として批判されていた船舶税(英語版)は不法と決議され、議会の同意なく国王が関税をかけることを禁じるトン税・ポンド税法(英語版)も可決された。3年議会法(英語版)により国王の解散詔書がなくても議会が3年以上休会したら解散総選挙が行われる旨も定められた。星室庁裁判所、北部評議会、高等宗教裁判所など国王専制政治の象徴となっていた大権裁判所も廃止された。国王もこれらの改革に同意している。 親政前に機能していた政治の慣行(国王と議会の均衡)の復活を目指すハイドやフォークランド子爵にとっては改革はこれで終了であって、国王と議会の相互信頼の回復が今後の課題だった。ところがジョン・ピムら急進的進歩派の議員にとっては改革はまだ終わっておらず、国王大権の制限が次なる課題だった。そして11月には国王が持つ枢密顧問官をはじめとする官吏任免権を議会の統制下に置く内容の『議会の大諫奏』を提案した。ハイドたち穏健派は国王大権の侵害としてこれに強く反対した。また急進派は大諫奏を議会外の大衆に公表するつもりであったが、ハイド達は既存の社会秩序が崩れるとして議会外大衆への働きかけに反対した。この大諫奏については2週間ほど議会内で議論が行われたが、結局11月23日に僅差で可決されている。これにより議会内の穏健派と急進派の分裂が決定的となった。 ===立憲的国王派として=== これ以降ハイドら穏健進歩派は国王と近しくなり、「立憲的国王派」と呼ばれるようになる。 ハイドは急進的な議会外大衆の圧力から議会を守ると同時に、国王に対してもこれまで議会が制定した法律を遵守する姿勢を示すことで、専制を復活しようとしているのではないかという国民の不信を払拭するよう努めるべきであると助言した。 だが国王はこの助言を聞き入れなかった。1642年1月3日には強硬王党派の初代ブリストル伯爵(英語版)ジョン・ディグビー(英語版)にそそのかされた国王がピムら急進派議員をクーデタ的に逮捕しようとして失敗する事件が発生した。 この事件に対する憤慨により議会は完全に急進派(特にピム)が牛耳るところとなった。これまで国王寄りだった貴族院ももはや庶民院の急進派に逆らわなくなった。立憲国王派の肩身は狭くなったが、ハイドは国王と議会の和解を諦めず、穏健派の再結集を狙うとともに国王にロンドンから離れないよう助言した。しかし身に危険を感じた国王はイングランド北部のヨークへ逃亡し、そこを王党派の拠点にし始めた。5月半ばにはハイド追及の機運も高まり、逮捕を恐れたハイドはヨークの国王のもとへ逃れた。 1642年6月に議会はヨークにいる国王に対して19か条提案を送り、国王の高官・裁判官任免権、軍の統帥権、教会改革権を議会に譲渡することを要求した。国王はこれを拒否し、ハイドとフォークランド子爵に反論文を作成することを命じた。2人はその反論文の中で次のように論じて議会主権を拒否して立憲王政の必要性を訴えた。「我々の先人たちの経験と知恵は、イングランドの政体を君主制、貴族制(貴族院)、民主制(庶民院)の3つを混合することで、それぞれの利点を王国に与えることができるように、また均衡が3つの身分間に存在する限り、それぞれの制度に内在する不都合が生じないようにと築き上げてきた。君主制の長所は一人の君主のもとに国民を統合し、その結果外敵の侵略や国内の暴動を阻止することである。貴族制の長所は人々の利益のために、国の最も有能な人物を会議体へと結びつけることである。民主制の長所は自由と自由がもたらす勇気と勤勉である」。 この反論文を宣戦布告と見た議会は7月初めにも第3代エセックス伯ロバート・デヴァルーを指揮官とする議会軍を組織し、対する国王も8月にノッティンガムに国王軍の集結を命じた。こうして内乱は不可避の情勢となり第一次イングランド内戦(英語版)が始まった。 ===清教徒革命をめぐって=== 国王から強く信任されるようになり、1643年2月には財務大臣と枢密顧問官(PC)に任じられた。 ハイドら立憲国王派は内乱勃発後も「議会に規制された王政」の存続を旗印に議会との和平の道を探っていた。王党派の本拠地オックスフォードに議会派の和平派を迎え、彼らと交渉を行った。その中で議会派は国王が軍の統帥権を放棄すれば和平は成立しうるとの見解を示した。ハイドはさっそく国王にその旨を伝え、「陛下の置かれている苦境は、戦争の継続によって改善される見込みはありません。一方議会の和平案は陛下を少しも傷つけないばかりか、著しい利益を与えるものです」と助言してこの和平案を呑むべきと進言したが、国王は王妃ヘンリエッタや強硬派の側近にそそのかされてこの和平案を蹴ってしまった。後世ハイドはこの時の国王の態度を「取り返しのつかない決定」と評した。ハイドの盟友フォークランド子爵はこの国王の態度に失望して1643年9月20日の第一次ニューベリーの戦い(英語版)において自殺同然の戦死をしている。 12月にハイドの助言を容れて国王はオックスフォードに議会を招集すること、ウェストミンスターの議会を離れてこの議会に参加した議員には例外なく恩赦を与えることを宣言した。ハイドの狙いはオックスフォードとウェストミンスター双方の穏健派(立憲国王派と議会和平派)の合流だった。1644年1月に召集されたオックスフォード議会は40名の貴族院議員と100名の庶民院議員が出席し、ウェストミンスター議会との和平を追求したものの、成果のないまま終わった。ハイドの努力はまたも徒労に終わった。 ハイドが最後に和平交渉に加わったのは1645年1月から2月にかけてのアックスブリッジでの会談だったが、この時には議会派は完全に抗戦派に牛耳られており、和平派はもはや議会内で力を持っていなかったため、実を結ばなかった。 ===皇太子の亡命宮廷で=== 国王軍の戦局が悪化の一途をたどり、交渉による和解の道も期待しえなくなる中の1645年3月、最悪の事態を覚悟したチャールズ1世は、ハイドに皇太子チャールズ(後のチャールズ2世)を託し、オックスフォードから離れて大陸へ亡命するよう命じた。 以降ハイドは15年にわたる亡命生活を送ることになった。皇太子はパリに亡命宮廷を立てたが、ハイドはしばらくの間、それに積極的には参加しなかった。3年にわたってジャージー島で過ごして国王から依頼された歴史書(『イングランドの反乱と内戦の歴史(英語版)』)の執筆活動に励んだ。1648年6月にチャールズ皇太子がイングランド侵攻を企てた際には、それを補佐するべくジャージー島を離れたが、航海中に海賊に襲撃されたため皇太子のもとに参じることができなかった。また皇太子の蜂起は結局失敗に終わった。 その後、ハイドは亡命宮廷から離れたオランダで数年を過ごした。当時のハイドは亡命宮廷内に大した力を持っていなかった。そこを支配するのは王母ヘンリエッタをはじめとする王族たちであった。ハイドが亡命宮廷内で力を持つようになったのは、1651年11月にチャールズがスコットランドでの旗揚げに失敗してパリに逃げ帰ってきた後のことである。この直後にチャールズはハイドを召喚し、以降彼を側近として使うことにした。1654年には「国王秘書長官」、1658年には「大法官」に任じられた。 国王側近となったハイドは亡命宮廷がイングランド国民の心情から離反した独りよがりな存在にならないよう努めた。例えばチャールズが後見裁判所(英語版)を復活させようと企むとそれを思いとどまらせたり、王母ヘンリエッタがカトリックに対する罰則を排することを約し、さらにチャールズをカトリックに改宗させることでカトリックの支持を得ようと主張するとそれを阻止することにも努めた。オリバー・クロムウェル打倒のためにイングランド・スコットランド内の不満分子と取引するという陰謀も積極的には行わなかった。長期議会冒頭で制定された一連の法律で規制された王政とイギリス国教制を復活させることがハイドの目的であり、これらの政策はそれに有害と考えたからである。 そして「我々がじっと待つことができなければ、神はやってこられないだろう」という心境のもと、イングランド共和国の自壊の日を辛抱強く待った。 ===王政復古=== 1658年9月のクロムウェルの死去で共和国体制が動揺するとハイドは積極的に共和国内の分裂を促す工作を開始した。共和国の混乱が深まるにつれてハイドのもとには共和国政府の実務家からも国王に忠誠を誓う旨の書簡が送られてくるようになった。 とりわけカギを握るのはスコットランドに統制された軍隊をもつジョージ・マンク(後の初代アルベマール公)であった。マンクは「自由な議会(長期議会)」を求める世論に支えられて1660年2月3日にロンドンに入城していた。この時にはマンク将軍はまだ王政復古を明言しなかったが、選挙が王党派の優位で進むのを見て、ハイドとの交渉に応じ、その中でマンクは「広範囲な恩赦を出すこと、国王と教会の土地について議会の決定を受け入れること、良心の自由を保障すること」を王政復古の条件にあげた。これはハイドの目指すところと全く同じであり、ハイドはただちに受け入れを表明した。 ハイドは4月にブレダ宣言(英語版)を起草し、国王にこれを発布させた。これは、議会で例外とされた者を除き、良き臣民としての服従に立ち返る人々全員に無償の恩赦を与え、革命中に大逆罪を犯していたとしても不問とすること、また革命の間に生じた土地所有権の変更については全て議会の決定に委ねることを約束していた。処罰への恐れが王政復古への抵抗を生まないようにするため、また過去の行為の追及によって不和や分裂が生じないようにするためだった。この文書は王党派のジョン・グレヴィルを通じて庶民院、貴族院、陸軍、海軍、ロンドン市に配られた。 1660年4月25日に召集された仮議会(英語版)は王党派が多数を占めており、ブレダ宣言の受け入れを決議した。そして仮議会の要請に基づいて5月29日にチャールズ2世はハイドを伴ってロンドンへ帰還した。これ以降ハイドは国王最大の側近としてイングランド国政を主導する人物となった。枢密院メンバーは、ハイドはじめ国王とともに亡命していた王党派9名、第4代サウサンプトン伯爵トマス・リズリー(英語版)ら共和政期も国内とどまっていた王党派7名、第2代マンチェスター伯爵エドワード・モンタギューら長老派7名、マンクやアンソニー・アシュリー=クーパー(後の初代シャフツベリ伯爵)ら共和政政府の高官4名という派閥横断的な構成となった。しかしハイドは、国王秘書長官ニコラス、大蔵卿サウサンプトン伯、王室家政長官初代オーモンド公爵ジェームズ・バトラーなど枢密院の中心人物から支持を得ていたので、枢密院を強力に掌握していた。 国王より王政復古の労をねぎらわれ、1660年11月にはハイド男爵、1661年4月にはクラレンドン伯爵に叙せられている。1662年には改めて大法官に任じられ、ロンドン中心部のピカデリーに広大な土地を与えられた。 ===立憲王政体制を目指して=== クラレンドン伯が目指す政治体制はもちろん国王親政ではなく、長期議会初期にクラレンドン伯含むほぼ全議員の賛成により制定された一連の法律によって制限された立憲王政である。これらの法律を王政復古政府はほとんど受け継いでいる。各種の大権裁判所を復古させることもなかった。 1640年11月に長期議会が招集されてから1642年2月までに制定された法律は国王の同意を得て成立しているからすべて有効であり、それ以降の法律は国王の同意を得ずに議会が単独で決めた物なので「条例(ordinance)」にすぎず、無効というのが王政復古政府の基本的な立場であった。 ただし王政復古政府が長期議会初期の法定で受け継がなかったものが2つある。1つは3年議会法である。これは議会が3年以上休会した場合には議会は解散されたものとみなして「国王の解散詔書なしに」総選挙が実施されると定めた法律である。チャールズ2世は自分の詔書をないがしろにしているこの法律を嫌悪し、1664年3月に騎士議会の王党派に働きかけてこれを改正させ、「国王の解散の詔書なしに」の一文は削除されることになった。現実的には王政復古政府が3年以上も議会を開かないで統治を行うことはまず不可能だったであろうが、国王としてはいざという時の議会招集・解散権を自分の手に残しておきたかったものと思われる。 もう一つは聖職者議席剥奪法である。これにより主教たちが貴族院に参加できなくなっていたが、1661年5月に召集された騎士議会の王党派国教徒たちによって真っ先に廃止され、主教たちは再び貴族院に議席を持つことになった(以降現代まで主教たちは貴族院に議席を保有している)。 逆に1642年以降の国王の承認のない法律による制度でも王政復古政府が引き継いだものもある。クラレンドン伯が長期議会初期の立法を原点としながらも、共和政の良き遺産は受け継ぐことをためらわない人物だったことによる。 たとえば国の財政について国王大権に基づく課税を復活させず、共和政期に確立された課税制度を引き継いだ。これによりイギリスは国王の私財から統治の費用を賄うという封建的財政を脱皮し、恒常的な租税収入により国民が国家財政を支えるという近代的な租税国家となった。国王にはその中から経費を王室費として与えることになった。 また大権裁判所のうち後見裁判所は1646年に廃止されたが、この廃止は引き継いだ(ただし国王にその代償の金銭を支払った)。「クロムウェルの航海条例」と呼ばれる航海奨励法も引き継いだ。これはイギリスが世界中に植民地を獲得して大英帝国を建設する布石となる。 ===復讐の抑止=== 王政復古を安定させるためにクラレンドン伯が重視したのが革命派に対する復讐を抑止することだった。ブレダ宣言に基づき、1660年8月には仮議会で大赦法が決議され、チャールズ1世弑逆者(チャールズ1世処刑執行令状署名者)や共和国指導者などを例外として革命期の行動について原則免責となった。 これにより弑逆者は既に死亡した者を除き、全員が裁判にかけられ、そのうち29名に死刑判決が下った(実際の死刑は10名で残り19名は終身刑に減刑された)。また弑逆者以外ではヘンリー・ベインが「危険な共和主義者」として処刑された。クラレンドン伯と国王は復讐をこれにとどめようとした。1661年に騎士派(王党派)が多く選出された騎士議会(英語版)で共和国指導者13名が新たに厳罰リストに加えられた際にもクラレンドン伯は国王とともにこの法案の通過を阻止している。王政復古を失敗させないためには「過去を忘れる」ことが肝要なのであった。 また共和政期の土地変動については、共和政府が没収した教会領・王領・王党派所領は、その購入者への正当な補償もなしに無条件回復としたが、共和政府に「悪意を抱く者」として課せられた罰金を支払うために自発的に土地を売ったケースは、返還なしとした。共和派・王党派双方から一定の支持を得られるようにした妥協策であった。しかし共和政期に土地売却に追い込まれた王党派は、王への忠誠の見返りがないとしてこれに不満を抱いた。彼らは大々的な復讐政策を実行して、革命派の土地を奪いとり、自分たちの物としたがっていた。これがクラレンドン伯に対する最初の不満となった。 ===宗教政策=== 復古王政政府のアキレス腱となったのは宗教政策だった。ブレダ宣言で宗教についても寛容の精神がうたわれていたのに、議会の国教徒の王党派に押されて宗教には非寛容な姿勢で臨むことになったからである。 1660年10月に国王は「ウスタ・ハウス宣言」を出して長老派も含めた緩やかな国教会体制を作りたいという希望を表明したが、仮議会内の王党派は、厳格な国教会体制を求めてこれに反発した。以降宗教政策を国王大権として宗教的寛容を唱える国王と、国教会を国家統一のきずなとして守り抜こうとする議会の対立は、チャールズ2世、つづくジェームズ2世の治世でも続き、名誉革命の伏線となる。 1661年に召集された騎士議会は仮議会以上に強硬な国教会派にして郷士支配的な者たちの党派(後のトーリー党)が多数派だった。そのため革命への報復感情もあってピューリタン弾圧の機運が強かった。国教会と長老派の会談も不調に終わり、復活した聖職会議において長老派をはじめとするピューリタンは「非国教徒」として国教会の外に排除された。これに呼応した騎士議会がクラレンドン伯や国王の意に反してピューリタン弾圧の法律を次々と制定したのである。 1661年には非国教徒が都市自治体の役職に就くことを禁じる自治体法が制定された。1662年には礼拝統一法が制定されて9000人の国教会聖職者のうち2000人が聖職禄をはく奪された。さらに1665年までに「秘密礼拝集会禁止法」と「5マイル法」が制定された。これら非国教徒弾圧法規は彼の名をとって「クラレンドン法典」と呼ばれている。ただしクラレンドン伯自身はブレダ宣言に象徴されるように不寛容政策に反対する人物であり、この一連の弾圧法規にも批判的であった。 ===外交政策=== 1662年には大蔵卿サウサンプトン伯の進言を受け入れて、膨大な維持費がかかるダンケルクの売却を行った(ダンケルク売却)。有利な条件で売却したにもかかわらず、フランスから賄賂をもらってフランスにダンケルクを売り飛ばしたと噂され、商人を中心としたロンドン市民から強い反発を受けた。 1665年には貿易上のライバルであるオランダとの間に英蘭戦争が勃発した。クラレンドン伯はこの戦争に反対していたが、王弟ヨーク公ジェイムズ(後のジェイムズ2世)をはじめとする主戦派に押し切られた。この戦争はフランスやデンマークも敵に回す大戦となり、財政を大きく疲労させた。戦局もフランスの支援を受けたオランダが優位に進め、1667年にはオランダ軍がチャタム海軍基地を襲撃するまでになった。議会はこの原因を政府の財政運営不備に求め、クラレンドン伯批判を強めた。 ===失脚=== 1665年にはペストの流行、1666年にはロンドン大火があり、その不満と批判もクラレンドン伯に向けられた。 クラレンドン伯は、議会からも民衆からも嫌われ、次第に枢密院内でも孤立するようになった。すでにニコラスは老齢で引退しており、オーモンド公は総督としてアイルランドに赴任していた。サウサンプトン伯も財政上の失敗と老齢で影響力を落としていた。代わりに枢密院内で台頭していたのが反クラレンドン伯派の初代アーリントン伯爵(英語版)ヘンリー・ベネットだったためである。また国王の態度も冷たくなっていた。チャールズ2世にとってクラレンドン伯は少年時代からの厳父・教師のような存在であったが、成人してからも叱責や諫言をやめないので次第に煩わしく思われるようになっていた。 そして1667年8月、議会で政府批判が高まるのを抑えるため、チャールズ2世は議会招集前にクラレンドン伯を辞職させようと決意。国王の圧力を受けて8月30日に大法官を辞職した。 ===亡命と死去=== 1667年10月に招集された議会は第2代バッキンガム公ジョージ・ヴィリアーズの主導でクラレンドン伯を大逆罪で告訴した。国王もそれを公式に支持したことを知ったクラレンドン伯は身の危険を感じて1667年11月29日にイングランドを離れて再びフランスに亡命した。クラレンドン伯失脚後の国政は国王チャールズ2世とその寵臣集団「Cabal(カバル)」によって主導されていくことになる。 フランス亡命後、クラレンドン伯は執筆活動に戻り、『イングランドの反乱と内戦の歴史』を完成させた。この書は内乱期の人々の思想や行動を王党派・議会派の区別なく公正に描き、今日歴史書としても文学書としても高い評価を受ける古典となっている。 1674年12月19日にルーアンで死去。爵位は長男ヘンリー・ハイド(英語版)に継承された。また次男のローレンス・ハイドも後にロチェスター伯爵に叙せられている。 ==人物・評価== 19世紀的ホイッグ史観においてはピューリタン革命が進歩の重要な契機と評価されているので、王政復古期を代表する政治家クラレンドン伯は反動分子として扱われ、評価は芳しくない。 20世紀の歴史家G.M.トレヴェリアン(英語版)もクラレンドン伯について、長期議会初期の1640年に法定された「国王と議会の均衡」の概念を「政治的英知の頂点、国政の最終的英知」と信じ込み、それに捕らわれ続けていた後ろ向きの政治家とし、すでに立法府と行政府の均衡だけでは足りず、議会が国王とその政府を支配下に置く議院内閣制に移行せねばならない時期が来ていたことを理解できなかったのが彼の限界としている。 同時にトレヴェリアンはクラレンドン伯が革命派への復讐を許さなかったことを高く評価し、そのおかげでイギリス王座は全ての党派から受け入れられる国民的制度として再び定着したとしている。 ==栄典== ===爵位=== 1660年11月3日に以下の爵位を新規に叙された ウィルトシャー州におけるヒンドンの初代ハイド男爵 (1st Baron Hyde, of Hindon in the County of Wiltshire) (勅許状によるイングランド貴族爵位)(勅許状によるイングランド貴族爵位)1661年4月20日に以下の爵位を新規に叙された。 初代クラレンドン伯爵 (1st Earl of Clarendon) (勅許状によるイングランド貴族爵位)オックスフォード州における初代コーンベリー子爵 (1st Viscount Cornbury in the County of Oxford) (勅許状によるイングランド貴族爵位) ==家族== 1632年にウィルトシャーの有力者ジョージ・アイリッフェの娘アンと結婚したが、彼女は結婚から5か月後に病死した。1634年には少額債権裁判所主事・造幣局長官の初代準男爵トマス・エイルズバリー(英語版)の娘フランセスと再婚し、彼女との間に以下の6子を儲ける。 長男ヘンリー・ハイド(英語版)(1638‐1709) ‐ 第2代クラレンドン伯爵位を継承。政治家。次男ローレンス・ハイド(1642‐1711) ‐ 初代ロチェスター伯爵(英語版)に叙される。政治家。三男エドワード・ハイド(1645‐?)四男ジェイムズ・ハイド(1650‐1682)長女アン・ハイド(1638‐1671) ‐ ヨーク公(後のジェームズ2世)と結婚。メアリー2世・アン女王の母次女フランセス・ハイド(1658‐?) ‐ トマス・ケイリー(英語版)と結婚 =岩窟の聖母= 『岩窟の聖母』(がんくつのせいぼ、伊: Vergine delle Rocce)は、盛期ルネサンスを代表するイタリア人芸術家レオナルド・ダ・ヴィンチが描いた絵画。ほぼ同じ構図、構成で描かれた2点の作品があり、最初に描かれたといわれるヴァージョンはパリのルーヴル美術館(以下「ルーヴル・ヴァージョン」)が、後に描かれたといわれるヴァージョンはロンドンのナショナル・ギャラリー(以下「ロンドン・ヴァージョン」)が、それぞれ所蔵している。両ヴァージョンともに高さが約 2 m という大きな作品であり、油彩で描かれている。もともとはどちらも板に描かれていた板絵だったが、ルーヴル・ヴァージョンは後にキャンバスへ移植された。 祭壇画たる『岩窟の聖母』の両横に飾るための絵画も同時に発注されており、楽器を奏でる天使を描いた2点の作品をレオナルドの協業者が制作した。現在この2点の作品はナショナル・ギャラリーに所蔵されている。 どちらの『岩窟の聖母』にも、聖母マリアと幼児キリスト、そして幼い洗礼者ヨハネと天使が岩窟を背景として描かれている。二つのヴァージョンの構成における重要な相違点として、画面右の天使の視線の向きと右手の位置が挙げられる。その他の細かな相違点には、色使い、明るさ、植物、スフマートと呼ばれるぼかし技法の使い方などがある。関係する制作依頼年度は記録に残ってはいるものの、その他の来歴はほとんど伝わっておらず、どちらのヴァージョンが先に描かれたのかについても未だに議論となっている。 ==各作品== ===ルーヴル・ヴァージョン=== ルーヴル美術館が所蔵する『岩窟の聖母』は、多くの美術史家からロンドン・ヴァージョンよりも先に描かれた初期ヴァージョンだと考えられており、レオナルドが一人で1483年から1486年ごろにかけて描き上げたといわれている。ルーヴル・ヴァージョンの大きさはロンドン・ヴァージョンよりも 8 cm ほど縦に長い。ルーヴル・ヴァージョンに関する最初期の確実な記録は1625年で、フランスの王室コレクションに収められているというものである。ルーヴル・ヴァージョンは1483年にミラノで制作依頼を受けて描かれた。しかしながら、何らかの理由でレオナルドはこのルーヴル・ヴァージョンを密かに別人に売却し、後にロンドン・ヴァージョンを描きなおしてミラノへと引き渡したと考えられている。内容が酷似した作品が、なぜ2点制作されたのについてはさまざまな説が存在している。また、このルーヴル・ヴァージョンは、レオナルドが創始した、あるいは完成したといわれるスフマートという技法を完璧に例示している作品であるといわれている。 ===ロンドン・ヴァージョン=== ロンドンのナショナル・ギャラリーにも1508年以前に描かれたレオナルドの作品だといわれる、ルーヴル・ヴァージョンに酷似した『岩窟の聖母』がある。以前はレオナルドの弟子が描いた箇所がある程度存在すると考えられていたが、ナショナル・ギャラリーが実施した修復作業の過程で、ほとんどの箇所がレオナルドの手によるものであると発表した。ロンドン・ヴァージョンは、ミラノのサン・フランチェスコ・グランデ教会にある聖母無原罪の御宿り信心会の礼拝堂の祭壇画として描かれた。1781年ごろに教会がこの作品を売りに出し、遅くとも1785年にはスコットランド人画家ギャヴィン・ハミルトン (en:Gavin Hamilton (artist)) が購入して、イングランドへ持ち込んでいる。その後複数の収集家の手を経て、1880年にナショナル・ギャラリーが購入した。 ===天使のサイドパネル=== ロンドン・ヴァージョンの『岩窟の聖母』は、楽器を奏でる天使が描かれた2枚の作品と共に祭壇画として飾られていたと考えられている。現在ナショナル・ギャラリーが所蔵するこの2枚の天使の絵画は、1490年から1495年の間に完成したとされている。赤い服の天使が描かれた絵画はレオナルドの共同作業者アンブロージオ・デ・プレディス (en:Giovanni Ambrogio de Predis) の作品で、緑の服の天使が描かれた作品はレオナルドの弟子、おそらくフランチェスコ・ナポレターノの作品だといわれている。 ==来歴== ===無原罪の御宿り礼拝堂=== ミラノのサン・フランチェスコ・グランデ教会付属の無原罪の御宿り礼拝堂は、ミラノ公ガレアッツォ1世・ヴィスコンティ公妃ベアトリーチェ・デステの寄付によって1335年以前に建てられた礼拝堂である。1479年にこの無原罪の御宿り礼拝堂を管理、使用していた無原罪の御宿り信心会が、フランチェスコ・ザヴァッターリとジョルジョ・デッラ・キエーザとの間に礼拝堂のヴォールト装飾の契約を結んだ。引き続いて無原罪の御宿り信心会は、1480年にジャコモ・デル・マイーノとの間に礼拝堂用の祭壇制作の契約を結んだ。このとき制作されたのは彫刻などで装飾された、祭壇画用のスペースを確保した木製の祭壇で、制作代金の最終支払日は1482年8月7日のことだった。 ===祭壇画の制作依頼=== 1483年4月25日にサン・フランチェスコ・グランデ教会司教バルトロメオ・スコルリオーネと無原罪の御宿り信心会が、レオナルドとアンブロージオ、エヴァンジェリスタのデ・プレディス兄弟に礼拝堂祭壇画の制作を依頼した。このときに結ばれた契約内容には、3名の画家の役割が明確には謳われていなかった。契約書にはレオナルドは「マスター(親方)」、アンブロージオは「画家」として記されている。エヴァンジェリスタは金箔師と顔料の調合、準備を担当していたと考えられている。 無原罪の御宿り信心会とレオナルドらが交わした契約書には、描かれる祭壇画の構成や色使いなどの仕様が指定されていた。中央パネルには、聖母マリアと幼児キリスト、おそらくダヴィデとイザヤと思われる二人の預言者、さらにこの4名の周りに天使たちを描くこととなっていた。また、祭壇画上部の半円形のルネット部分には父なる神と聖母マリアと馬小屋のレリーフが配されることになっていた。レリーフの人物像には鮮やかな彩色がなされ、金箔が貼られる予定だった。中央パネルの両横には4人の歌う天使のパネルと楽器を奏でる天使のパネルが置かれるはずだった。その他、マリアの一生を表現した多くのレリーフの制作が指定されており、主要な箇所の色使いや金箔使用量などが契約書に詳細に記載されていた。 無原罪の御宿り信心会から祭壇画の納品日に指定されたのは1483年12月8日で、この日は無原罪の御宿り信心会の祝日に当たる日だった。レオナルドたちに与えられた祭壇画制作期間は8カ月しかなかったのである。 ===制作代金=== 祭壇画の制作契約が結ばれると、1483年5月1日に手付金として100リラが支払われた。その後、1483年7月から1485年2月まで毎月40リラの合計800リラが支払われている。当初の契約では、最終支払いは1483年12月に予定されていた作品の完成、搬入との引き換えで行われることになっていた。 1490年から1495年にかけて、レオナルドとアンブロージオは無原罪の御宿り信心会に、契約書では祭壇画の中央パネルだけで800リラの代金となっているとして、残りのパネルやレリーフの制作代金としてさらに1,200リラの支払いを求めた。しかしながらこの要求に対する無原罪の御宿り信心会からの返事は、残代金として100リラのみを支払うというものだった。レオナルドとアンブロージオは、レオナルドのパトロンでもあったミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァに、この問題に関して自分たちに有利になるような仲裁をしてくれるように依頼した。これにより祭壇画は改めて専門家による評価を受け、無原罪の御宿り信心会が支払った価格よりも価値があると判断されたと考えられている。レオナルドとアンブロージオは、支払い問題が合意に達しない場合には、祭壇画から中央パネル以外の装飾を取り除くとしていた。 1503年にアンブロージオは自分自身と、死去した弟エヴァンジェリスタの子供のために、再度支払い要求の訴えを起こした。当時のミラノの支配者だったのは、1499年にミラノ公国へと侵攻しスフォルツァ公家を追放していたフランス王ルイ12世だった。アンブロージオの訴えを耳にしたルイ12世は、1503年3月9日にアンブロージオに有利になるように取り計らうことを求めた書簡をミラノ司令官に送っている。それでも無原罪の御宿り信心会は1503年6月23日に、祭壇画の価値の再評価を求めるアンブロージオからの要請を拒絶すると発表した。しかしながら最終的にはアンブロージオの要請が認められ、1506年4月27日に祭壇画の価値が再評価されることとなった。そしてこの再評価で祭壇画は未完成であると判定され、レオナルドに祭壇画を最後まで描き上げるようにという勧告がなされている。しかしながら当時のレオナルドは、フランス軍がイタリアへ侵攻した1499年以来ミラノを離れていた。 紆余曲折の末、1508年8月18日に『岩窟の聖母』は無原罪の御宿り礼拝堂に納入された。アンブロージオは1507年8月7日と1508年10月23日に、合計200リラの支払いを受けている。このアンブロージオの支払い金額の受取りに同意したレオナルドからの書簡が現存している。 ===1524年から2011年=== ====ナショナル・ギャラリーの『岩窟の聖母』==== 現在のロンドン・ヴァージョンと考えられている無原罪の御宿り礼拝堂の『岩窟の聖母』は、ペストの罹患を防ぐとして1524年と1576年に信仰の対象になったことがある。しかしながら無原罪の御宿り礼拝堂が取り壊されることとなり、1576年に『岩窟の聖母』も礼拝堂から運び出された。その後1785年ごろに、スコットランド人画家で画商でもあったギャヴィン・ハミルトンが、無原罪の御宿り信心会を前身とする宗教的互助会の管財人カウント・チコーナから『岩窟の聖母』を購入した。ハミルトンが1798年に死去すると、ハミルトンの遺産相続人たちが『岩窟の聖母』をランズダウン卿へ売却した。そして1880年に、ロンドンのナショナル・ギャラリーが当時の『岩窟の聖母』の所有者だったサフォーク伯から9,000ギニーで購入した。当時の保存状態は極めて悪く、レオナルドの作品とする研究者もいれば、ベルナルディーノ・ルイーニの作品とする研究者もいた。 2005年6月にナショナル・ギャラリーは『岩窟の聖母』を赤外線リフレクトグラムで調査し、現在の構成とは異なる下絵を発見した。下絵には右手で左胸をおさえている、おそらくひざまずいている姿勢の女性が描かれていた。この下絵から、当初のレオナルドは「幼児キリストへの礼拝」を主題として描こうとしていたと考える研究者もいる。そのほかにもX線や赤外線による解析の結果、現在の『岩窟の聖母』と下絵にはさまざまな相違点、修正箇所が見つかっている。 2009年と2010年にナショナル・ギャラリーは『岩窟の聖母』に洗浄と保存作業を実施した。ナショナル・ギャラリーは、『岩窟の聖母』の大部分、おそらくは全てがレオナルドによって描かれたもので、一部未完となっている作品であることがこの作業で判明したという予備声明を発表している。そして2010年末にナショナル・ギャラリーからレオナルドの真作であるという公式発表が出された。 ===ルーヴル美術館の『岩窟の聖母』=== 現在ルーヴル美術館が所蔵している『岩窟の聖母』を、カッシアーノ・デル・ポッツァが1625年にフランスのフォンテーヌブロー宮殿で目にしたという記録が残っている。1806年に絵画修復家でもあったフランス人神父アクインが、板を支持体として描かれていた『岩窟の聖母』をキャンバスへと移植した。また、2011年と2012年に短期間ではあるが、ルーヴル美術館所蔵の『岩窟の聖母』とナショナル・ギャラリー所蔵の『岩窟の聖母』が同時に展示されたことがある。これはナショナル・ギャラリーが企画した、ミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァの宮廷でのレオナルドの画家としての業績を紹介する展覧会でのことだった。 ===横パネル=== 『岩窟の聖母』が無原罪の御宿り礼拝堂で祭壇画として飾られていたときに付属していた、楽器を演奏する天使が描かれた2枚のパネルを1898年にナショナル・ギャラリーが購入した。 ==モチーフ== ===無原罪の御宿り=== おそらくこの祭壇画の主題として当初望まれていたのは、聖母マリアの処女懐胎の秘蹟である無原罪の御宿りに、より近いものだった。無原罪の御宿りには独特な概念が存在し、教会はキリストは処女たるマリアを母として誕生した神の子であるという教理を常に掲げてきた。15世紀にはフランシスコ修道会を中心として処女マリア崇敬が盛んとなり、マリアの処女懐胎は「純潔」と同義になっていった。このマリア崇敬はマリアが処女のまま神の子を生んだとする秘蹟に対するものではなく、マリアが神の子を宿したことによってアダムとエバの末裔たる人類が逃れることのできない原罪から、マリアが解き放たれたことに対する信仰である。当初の『岩窟の聖母』の納品指定日は12月8日だったが、これは無原罪の御宿りの祝日が12月8日だったためである。『岩窟の聖母』の制作依頼がなされた1483年は、ローマ教皇シクストゥス4世が無原罪の御宿りの教義を受け入れないものはカトリックから破門すると脅した年でもあった。 ===主題=== ルーヴル・ヴァージョンもロンドン・ヴァージョンも、主題となっているのは幼児キリストへの幼い洗礼者ヨハネの礼拝である。このようなエピソードは聖書には記されていないが、『マタイによる福音書』第2章に書かれている聖家族のエジプトへの逃避と関連する主題となっている。『マタイによる福音書』(2:13 ‐ 15) には、ユダヤの王ヘロデが幼いキリストを殺そうとしていると夢で警告を受けたヨセフが、妻マリアと子キリストを連れてエジプトへ逃げ出したというエピソードが記されている。ヨハネとキリストは親族だったとされているが、ヨハネがこのエジプトへの逃避に加わっていたという記述は聖書に存在しない。ただし、大天使ウリエルに連れられたヨハネが、エジプトへと向かっている聖家族と出会ったという伝承は存在する。ルーヴル美術館公式ウェブサイトでは、『岩窟の聖母』に描かれている天使は大天使ガブリエルだとしている。これは洗礼者ヨハネの事跡を記した外典のヨハネがガブリエルに連れられてベツレヘムを後にしたという記述に合致するが、外典にはヨハネがエジプトへ逃避しているキリストと出会ったという記述は存在しない。 聖母マリアと幼児キリストを礼拝する洗礼者ヨハネという主題は、ルネサンス期のフィレンツェ美術ではよく見られた構成だった。ヨハネはフィレンツェの守護聖人であり、フィレンツェで制作された美術作品にはよく取り上げられていた聖人だったのである。聖母マリア、幼児キリスト、洗礼者ヨハネの三者を主題とした作品を制作した芸術家には、フィリッポ・リッピ、ラファエロ、ミケランジェロらがいる。 どちらのヴァージョンの『岩窟の聖母』も背景は岩場となっている。キリスト降誕を描いた絵画作品 (en:Nativity of Jesus in art) では洞窟のような場所を背景として描かれることがある。美術史家ケネス・クラークは岩場を背景に聖母を描いた最初期の絵画として、メディチ家からの依頼で描かれたリッピの作品を挙げている。このような構成で描かれた絵画は前例がなく、このリッピの作品も通称『岩窟の聖母』と呼ばれている。 ==外観== ===構成=== ロンドン・ヴァージョンもルーヴル・ヴァージョンも同一の主題が描かれており、全体の構成も同じである。このことはどちらかの作品が複製画ないし派生画であることを意味する。しかしながら、両作品には、詳細表現、色使い、光の表現、顔料の使用技法などに差異が見られる。 どちらの作品にも、聖母マリア、幼児キリスト、幼い洗礼者ヨハネ、天使の四人の人物像が描かれている。岩場を背景にした人物たちは三角形を構成する配置がなされ、岩場の遠景には山並みと渓谷が描かれている。人物たちが構成する三角形の頂点に位置するマリアは右手をヨハネの肩にまわし、左手をキリストの頭上に掲げている。ひざまずいたヨハネはキリストを見つめながら、両手を合わせてキリストに祈りを捧げているように見える。最前面に描かれたキリストは天使に背中を支えられ、ひざまずくヨハネに向けて右手を掲げて祝福を与えている。 ===両作品の差異=== ルーヴル・ヴァージョンに比べると、ロンドン・ヴァージョンの方が、人物がやや大きく描かれている。両作品における構成上のもっとも大きな相違は画面右側の天使の描写である。ロンドン・ヴァージョンでは天使の右手が自身の膝に置かれているのに対し、ルーヴル・ヴァージョンではヨハネを指差している。さらに天使の視線が、ロンドン・ヴァージョンでは穏やかに伏せられているの対し、ルーヴル・ヴァージョンでは鑑賞者のほうを向いているように見える。 全体的にロンドン・ヴァージョンの方が、衣服を着用している人物の肉体表現なども含めて外形が明確に描かれている。背景の岩場もロンドン・ヴァージョンが極めて詳細に描かれているのに比べると、ルーヴル・ヴァージョンはぼんやりとしている。人物の顔の明暗表現も、ロンドン・ヴァージョンの方がくっきりとしている。ルーヴル・ヴァージョンでの人物の顔や姿形の描写は繊細であり、スフマート技法の多用によって、微妙にぼやけた表現となっている。ルーヴル・ヴァージョンの色使いは穏やかで温かみを感じさせるが、これは画肌表面に塗布されたワニスの色調によるところが大きい。ほかに色使いの差異として天使が着用するローブがある。ロンドン・ヴァージョンの天使のローブには赤色は使用されていないが、ルーヴル・ヴァージョンのローブは鮮やかな赤色と緑色が使用されている。また、ロンドン・ヴァージョンには頭上の円光、ヨハネが持つ細長い十字架といった聖人を象徴するエンブレムが描かれているが、ルーヴル・ヴァージョンにはこれらのエンブレムは描かれていない。ナショナル・ギャラリーの館長マーティン・ディヴィス (en:Martin Davies (museum director)) は「確かなことはいえない」としながらも、これら金色で描かれているエンブレムは、他の画家によって描き足されたのではないかという可能性を示唆した。周囲に描かれている植物もルーヴル・ヴァージョンの方が写実的に描かれているのに対し、ロンドン・ヴァージョンには空想的な植物が描かれている。 ===楽器を演奏する天使=== ナショナル・ギャラリーには、無原罪の御宿り礼拝堂で『岩窟の聖母』とともに飾られていた2枚のパネルが所蔵されている。当初の契約では2枚のパネルに楽器を演奏する天使と歌う天使の4名が描かれることになっていた。しかしながらナショナル・ギャラリーが所蔵するパネルには楽器を演奏する、同じ方向を向いた天使2名しか描かれていない。ヴィオラを演奏する緑色の衣装の天使と、リュートを演奏する赤色の衣装の天使である。脚の位置やゆったりとした衣装のひだの表現がよく似ており、どちらの天使も同じデザインの下絵から描かれた可能性がある。赤い衣装の天使はアンブロージオ・デ・プレディスが描いた作品であると考えられており、緑色の衣装の天使の作者は判明していないが、ナショナル・ギャラリーはフランチェスコ・ナポレターノではないかとしている。 どちらの天使も灰色の壁龕の中に描かれている。赤外線解析の結果、緑色の衣装の天使のパネルには当初風景が描かれていたことが判明している。赤色の衣装の天使のパネルは不透明な灰色の顔料が厚く塗布されているため、背景に何が描かれていたのかはわかっていない。無原罪の御宿り礼拝堂では『岩窟の聖母』の両隣にこの2枚のパネルが飾られていたと考えられており、ナショナル・ギャラリーは祭壇の高い位置に配置されていたのではないかと推測している。 ==解釈== ルーヴル・ヴァージョンとロンドン・ヴァージョンの関係性は「未だに議論の的」となっている。主たる議論となっているのは、それぞれの作品の制作年代や作者、描かれている象徴性などである。2011年と2012年の短期間ではあるが、ナショナル・ギャラリーの一室で、おそらくは史上初めて両作品が同時に展示され、学者たちのさまざまな研究に寄与した。 ===制作年度=== ほとんどの美術史家がルーヴル・ヴァージョンの制作年度の方が古いと考えている。ナショナル・ギャラリーの館長だったマーティン・デーヴィスもルーヴル・ヴァージョンはその作風からレオナルドの初期の作品で、ロンドン・ヴァージョンにはレオナルド後期の作品の円熟味が感じられるとしている。そしてロンドン・ヴァージョンはルーヴル・ヴァージョンからの派生作品だと結論付けた。そして多くの研究者が、ルーブル・ヴァージョンこそ1483年の聖母無原罪の御宿り信心会からの依頼で描かれた作品であると考えている。 マーティン・ディヴィスを初め、ルーヴル・ヴァージョンの制作年度は1483年ではなく聖母無原罪の御宿り信心会からの依頼前、おそらくはレオナルドがフィレンツェ在住だった時期にすでに制作が開始されて完成していたのではないかと推測している研究者もいる。ディヴィスは、レオナルドは聖母無原罪の御宿り信心会からの依頼に応じて、ルーヴル・ヴァージョンを下敷きとしてロンドン・ヴァージョンを1480年代に制作したという説を唱えた。美術史家ケネス・クラークもディヴィスの説に賛同し、ルーヴル・ヴァージョンは1481年以前に完成しており、ロンドン・ヴァージョンは1483年から制作が開始されたのではないかとしている。ディヴィスらの説に対し、ジャック・ワッサーマン、アンジェラ・オッティーノ・デッラ・キエーザなどの研究者は、両作品ともにその大きさが祭壇画そのものであり、制作依頼前に描かれた絵画が祭壇画としての注文どおりの大きさであることは考えられないとした。ワッサーマンはおそらくルーヴル・ヴァージョンは収められるべき祭壇の場所に合わせて描かれており、留金の跡が存在しないのは19世紀にキャンバスへと移植されているためだと推測している。 『岩窟の聖母』が2点存在することの説明としてもっともよく知られているのは、レオナルドは1438年の制作依頼に応じてルーヴル・ヴァージョンを描いたが、のちに何らかの理由で他者にルーヴル・ヴァージョンを売却し、代替品としてロンドン・ヴァージョンを制作したというものである。この説に従って、代金の支払いをめぐる数々の諍いを経た後の1480年代後半に、ルーヴル・ヴァージョンが他者に売却されたとする。その場合、長きに渡る争いや交渉のために1508年まで礼拝堂には納品されなかった、「オリジナルの」代替品であるロンドン・ヴァージョンは、1486年ごろから制作が開始されたということになる。この仮説は非常に広く受け入れられており、ナショナル・ギャラリーのウェブサイトにもルーヴル美術館のウェブサイトにも同様の来歴が紹介されている。美術史家マーティン・ケンプ (en:Martin Kemp (art historian)) は、ルーヴル・ヴァージョンが1483年から1490年にかけて、ロンドン・ヴァージョンが1495年から1508年にかけて描かれたと主張している。 両作品の制作年度や、ルーヴル・ヴァージョンが先に描かれたのちに第三者に売却され、ロンドン・ヴァージョンが代替品として描かれたという説に異論がないわけではない。タムシン・テイラーは、作風から見てロンドン・ヴァージョンの方が古くレオナルドのフィレンツェでの修行時代の作品だとし、ルーヴル・ヴァージョンは『最後の晩餐』(1495年 ‐ 1498年)や『聖アンナと聖母子』(1508年ごろ)とよく似ており、とくに繊細なスフマート技法に共通点が見られると指摘している。図像学の観点からテイラーは、ロンドン・ヴァージョンが1483年の制作依頼での仕様要求を満たしており、ルーヴル・ヴァージョンは1490年代に全く別の依頼主のために描かれた作品だと主張している。 ===作者=== ルーヴル美術館の『岩窟の聖母』は間違いなくレオナルドの真作だとされている。これに対しナショナル・ギャラリーの『岩窟の聖母』は、デザインはレオナルドだが絵画として仕上げたのは工房の弟子だと考えられてきた。ルーヴル美術館のウェブサイトやさまざまな研究者が、ナショナル・ギャラリーの『岩窟の聖母』がレオナルドの監督の下でアンブロージオ・デ・プレディスが1485年から1508年に制作した、あるいは大部分がアンブロージオが描いたもので、レオナルドが手を入れたのはごくわずかな箇所に過ぎないとしている。 2009年と2010年に『岩窟の聖母』の洗浄保存処置が行われた。この結果、ナショナル・ギャラリーの『岩窟の聖母』は大部分がレオナルド自身が描いたものであり、これまで考えられていた説とは違って、工房の弟子の手による箇所はほとんど存在しないことが判明したと、同ギャラリーのキュレーターであるルーク・サイスンが発表した。 地質学者アン・C・ピッツォルッソは、ロンドンヴァージョンにはルーヴル・ヴァージョンには見られない地質学上の誤りがあり、ロンドン・ヴァージョンがレオナルドの真作であるとは考えられないとしていた。しかしながらタムシン・テイラーは、遠景に青く見える渓谷はフィヨルドと氷河でありイタリアには存在しない風景だと指摘したピッツォルッソの説を、北方ヨーロッパにありふれた急峻な崖をもつ湖が描かれているだけだと一蹴し、さらにピッツォルッソが砂岩の塊だとしているものは苔の茂みに過ぎないことがナショナル・ギャラリーが行った洗浄作業によって明らかになったとして、ピッツォルッソの説を否定している。 =ライアン・ゴズリング= ライアン・トーマス・ゴズリング(英: Ryan Thomas Gosling、1980年11月12日 ‐ )は、カナダの俳優・ミュージシャンである。ディズニー・チャンネルで放送された『ミッキーマウス・クラブ』(1993年 ‐ 1995年)で子役としてキャリアを開始させ、『アー・ユー・アフレイド・オブ・ザ・ダーク?』(1995年)や『ミステリー・グースバンプス』(1996年)など子ども向け娯楽番組にいくつか出演した。映画初主演作はユダヤ人のネオナチを演じた『ザ・ビリーヴァー(英語版)』(2001年)で、その後も『完全犯罪クラブ』(2002年)・『スローター・ルール(英語版)』(2002年)・『16歳の合衆国』(2003年)など、自主映画数本に出演した。 ゴズリングのバンドであるデッド・マンズ・ボーンズ(英語版)は、バンド名と同じ名前のデビュー・アルバムを2009年にリリースし、北米ツアーも行った。彼はカリフォルニア州ビバリーヒルズにあるモロッコ料理屋 Tagine の共同オーナーでもある。動物の倫理的扱いを求める人々の会、インビジブル・チルドレン(英語版)、イナフ・プロジェクト(英語版)の支援者でもある。また、この地域の紛争に関する意識を高めようと、チャド・ウガンダ・コンゴ民主共和国東部を旅した経験も持つ。 ゴズリングが注目を集めるようになったきっかけは、商業的に成功したロマンティック・ドラマ『きみに読む物語』(2004年)への出演である。薬物中毒の教師を演じた2006年の映画『ハーフネルソン』ではアカデミー主演男優賞にノミネートされ、社会に上手くなじめない孤独な主人公を演じた『ラースと、その彼女』(2007年)ではゴールデングローブ賞 映画部門 主演男優賞(ドラマ部門)にノミネートされた。また3年後・2010年に公開された『ブルーバレンタイン』では、2度目のゴールデングローブ賞ノミネートを受けた。2011年には、ロマンティック・コメディ映画『ラブ・アゲイン』、政治ドラマ『スーパー・チューズデー 〜正義を売った日〜』、アクション・スリラー『ドライヴ』に出演し、前2作で第69回ゴールデングローブ賞の主演男優賞2部門にノミネートされた。監督デビュー作となる『ロスト・リバー(英語版)』は2014年に公開されたが酷評された。映画『マネー・ショート 華麗なる大逆転』(2015年)、『ラ・ラ・ランド』(2016年)での演技は好評を得て、後者ではゴールデングローブ賞 映画部門 主演男優賞(ミュージカル・コメディ部門)を獲得したほか、2度目のオスカーノミネートを受けた。 ==幼少期== ゴズリングはオンタリオ州ロンドンで、製紙工場(英語版)の巡回セールスマンだった父トーマス・レイ・ゴズリング(英: Thomas Ray Gosling)と(父方の親戚も多くが製紙業に携わっていた)、秘書でその後高校教師も務めた母ドナ(英: Donna)の間に生まれた。父トーマスはイングランド系・スコットランド系・フランス系カナダ人のルーツを持っており、ゴズリングの高祖父に当たるジョージ・エドワード・ゴズリング(英: George Edward Gosling)は、イングランド・ロンドンのパディントン出身だった。ゴズリングの両親は末日聖徒イエス・キリスト教会、いわゆるモルモン教の信徒で、信仰は両親の生涯に多面的な影響を与えていると語っている。一方で、モルモン教徒として育ったことの影響は認めつつも、ゴズリング自身は「自分を[モルモン教徒と]考えることはできない」と発言している。ゴズリングは父親の仕事の関係で引っ越しを繰り返しており、オンタリオ州のコーンウォールやバーリントンで暮らした経験がある。両親は彼が13歳の時に離婚し、ゴズリングは姉マンディ(英: Mandi)と共に母親に引き取られ、他に女性の家族しかいない状況は彼に「女の子のように物事を考えさせた」と回想している。 ゴズリングはグラッドストーン・パブリック・スクール(英: Gladstone Public School)、コーンウォール高等職業学校 (Cornwall Collegiate and Vocational School) 、レスター・B・ピアソン高校(英語版)に通った。子どもの頃、ゴズリングは『ディック・トレイシー(英語版)』を観て俳優になろうと志した。ゴズリングはアクション映画『ランボー』に強く影響され、ステーキナイフを学校に持ち込んで、休み時間に他の子どもたちへ投げ付けたこともある。この頃観ていた映画はいわゆる大作がほとんどで、自主映画や芸術映画の類は無かったという。彼は子どもでいることが「大嫌い」で、小学校ではいじめに遭っており、「14歳か15歳になるまで」友人がひとりもできなかった。彼は失読症で、注意欠陥・多動性障害 (ADHD) との診断を受け、メチルフェニデート(リタリン)を処方され特殊学級に入れられたこともあった。この後、彼は仕事を辞めた母親から、1年間ホームスクーリングを受けた。ゴズリングは、この経験で「絶対に自分を見失ったりしないという自主性のような感覚」(英: ”a sense of autonomy that I’ve never really lost”)を得られたと語っている。彼は、パフォーマーとして活動していた姉に誘われ、幼少期から大勢の前で演技を行っていた。ゴズリング姉弟は結婚式で一緒に歌ったこともあるほか、彼はおじの組んだエルヴィス・プレスリーのトリビュートバンド「エルヴィス・ペリー」(英: Elvis Perry)として演奏したり、地元のバレエ団に在籍したりしていた。演技はゴズリングにとって周りから賞賛される唯一の事柄で、これを通じて彼は自信を付けた。また、子どもの頃、カナダのアクセントを「タフ」(英: ”tough”)と感じられなかったため、ゴズリングは特異なアクセントを使って喋るようになった。この時、彼はマーロン・ブランドの喋り方を参考にした。ゴズリングは17歳で高校を中退し、演技の仕事へ打ち込むようになった。 ==演技キャリア== ===1993年 ‐ 1999年:子役として=== 1993年、12歳のゴズリングはモントリオールに向かい、ディズニー・チャンネルの『ミッキーマウス・クラブ』リバイバルに向けた公開オーディションに参加した。ゴズリングはマウスケティアー(英: Mouseketeer)として2年間の契約を行い、フロリダ州オーランドへ移住した。番組では他の子の方が才能があると考えられ、なかなか出演機会に恵まれなかったが、自身では人生最良の2年間だったと振り返っている。この時の共演者には、ジャスティン・ティンバーレイク、ブリトニー・スピアーズ、クリスティーナ・アギレラ、ケリー・ラッセルなどがいる。ティンバーレイクとは特に親しい友人となり、番組の2年目には、6ヶ月同居生活を送っていた。また、母親がカナダへ季節労働に帰った後は、ティンバーレイクの母がゴズリングの法的後見人となった。1995年にこの番組が打ち切られた後ゴズリングはカナダに戻り、『アー・ユー・アフレイド・オブ・ザ・ダーク?』(1995年)や『ミステリー・グースバンプス』(1996年)などの子ども向け娯楽番組に出演し、1997年から1998年にかけて放送された『ブレイカー・ハイ(英語版)』では主役のショーン・ハンロン(英: Sean Hanlon)を演じた。18歳の時、ゴズリングはニュージーランドへ向かい、Fox Kidsの冒険シリーズ『ヤング・ヘラクレス(英語版)』(1998年 ‐ 1999年)でタイトルロールを演じた。2002年に収録された『ザ・バンクーバー・サン(英語版)』のインタビューでは、当初番組への出演を楽しんでいたものの、シリーズを必要以上に気にするようになり、仕事が全く楽しくなくなってしまったと語っている。彼はキャラクターと「語ったり」造形を探ったりすることにより時間をかけたり、様々な役柄を演じたりしたいと考えるようになり、テレビ番組の仕事はこれ以上引き受けず、映画俳優になることを決めた。 ===2000年 ‐ 2003年:自主映画への出演=== 19歳の時、ゴズリングは「真面目な演技」(英: ”serious acting”)へ軸足を移すことを決意した。エージェントに辞められ、子ども向けテレビ番組のイメージにも苦しんだため、当初は安定した仕事を得られなかった。アメフトを題材にしたドラマ映画『タイタンズを忘れない』で助演した後、ゴズリングは2001年の映画『ザ・ビリーヴァー(英語版)』で、若いユダヤ人のネオナチ役として主演した。監督のヘンリー・ビーン(英語版)はゴズリングを配役したことについて、モルモン教徒として育てられた経験が、ユダヤ教徒の孤立を理解する助けになると考えたためと明かしている。『ロサンゼルス・タイムズ』紙のケヴィン・トーマスは、「興奮させ、恐ろしいほど圧倒的な」演技だと賞賛したが、『バラエティ』誌のトッド・マッカーシーは、ゴズリングの演技は「極めて頑強で、これ以上うまく演じることはほとんどできないだろう」と評した。映画はサンダンス映画祭でグランプリを獲得し、後にゴズリングは「今のキャリアを包装して自分にプレゼントしてくれたような映画」だったと語っている。作品の内容は議論が残るものだったため、全国劇場公開に必要な金銭的支援を受けるのは難しく、映画は代わりにショウタイムでテレビ放送された。映画は商業的に失敗し、150万ドルの製作費に対し、わずか416,925ドルの興行収入しか得られなかった。 2002年には、サイコスリラー映画『完全犯罪クラブ』に出演してサンドラ・ブロックやマイケル・ピットと共演し、ピットと共に完全犯罪を企てる高校生を演じた。『エンターテインメント・ウィークリー』のリサ・シュワーズバウムは、「こんなくず[役]でも並外れた才能」だと評したが、『バラエティ』誌のトッド・マッカーシーは、「たくましくてカリスマ的な」若い俳優たちが「シナリオに裏切られた」ように感じたとした。映画は商業的に小規模な成功を収め、製作費5000万ドルに対し、世界中で5671万ドルの興行収入を得た。同じ年には『スローター・ルール(英語版)』に出演してデヴィッド・モースと共演し、モンタナ州郊外に住むアメフト選手の高校生と、厄介なコーチとの関係を演じた。ゴズリングは、モースとの共演が自身を「より優れた役者」にしたと語っている。『ニューヨーク・タイムズ』紙のスティーヴン・ホールデン(英語版)は、ゴズリングについて「若かりし日のマット・ディロンを彷彿とさせるような未熟さと強烈さ」を持つ「とてつもない逸材」と述べ、『ロサンゼルス・タイムズ』紙のマノーラ・ダージス(英語版)は彼の「未熟な才能」に説き伏せられたと述べた。映画はアメリカ合衆国の映画館3館のみで公開され、13,411ドルの興行収入を得た。 2003年。ゴズリングは『16歳の合衆国』に出演し、障害を持つ男児を殺した罪で服役させられるティーンエイジャーを演じた。彼は、「全編を通して感情的に支離滅裂な」キャラクターを演じる機会はあまりないので、役に引きつけられたと語っている。『シカゴ・サンタイムズ』紙のロジャー・イーバートは、「才能ある役者のライアン・ゴズリングは、リーランド[=ゴズリングの演じた役名]とできることは何でもやっているが、キャラクターは人生からではなく、作家の自尊心から出来上がっているものだ」と評した。また『ニューヨーク・タイムズ』のA・O・スコットは、「彼はリーランドをありきたりの筋だらけのところから救おうと苦労した」と述べた。『バラエティ』のデイヴィッド・ルーニーは、「[彼の]一本調子で完全に動揺した演技には、出世作『ザ・ビリーヴァー』のような魅力的な側面などひとつも無い」と評した。 ===2004年 ‐ 2009年:『きみに読む物語』と『ハーフネルソン』=== ゴズリングが大きく注目されるようになったのは、同じくカナダ出身のレイチェル・マクアダムスと共演したロマンティック・ドラマ映画『きみに読む物語』(2004年)後のことである。作品はニコラス・スパークスの同名作品(英語版)を映像化したもので、ニック・カサヴェテスが監督した。ゴズリングはノア・カルフーン役を演じ、役について「時代を超えて―1940年から1946年まで―役を演じる機会を得たけれど、それはとても難解で物を作るような作業だった」と述べている。ゴズリングは役柄に「静かな強さ」(英: ”quiet strength”)を吹き込もうとしたほか、共演者のサム・シェパードが『天国の日々』(1978年)で見せた演技に刺激を受けた。撮影は2002年後半から2003年初頭にかけてサウスカロライナ州チャールストンで行われた。この映画撮影後の2005年にゴズリングとマクアダムスは恋仲となったが、セットでは互いにいがみ合うような関係で交際に発展するとは思えなかったという。ゴズリングはこの時を振り返り、「互いにひどくけしかけ合うような関係だった。恋物語を撮っているのに、共演者と全く仲良くやれないなんて奇妙な経験だったよ」と述べている。撮影中、マクアダムスがあまり協力的でないと感じたゴズリングは、カサヴェテス監督に「自分がカメラに写らないショットでは別人を使ってほしい」と頼み込んだ。『ニューヨーク・タイムズ』紙では、主演ふたりの「無意識で敏感な」(英: spontaneous and combustible)演技を賞賛したが、「(観る人は)心ならずもこの2人が予想を覆してほしいと応援してしまう」と述べている。『ワシントン・ポスト』紙のデッソン・トムソンはゴズリングの「魅力的な気取らなさ」(英: beguiling unaffectedness)を讃え、「このふたりを好きになれなかったり、ふたりの偉大な愛を妬むようなことは難しい」と述べた。映画は世界中で1億1500万ドルあまりの興行収入を得て、インフレ率を考慮しても、2011年までゴズリングのキャリア史上で商業的に最も成功した作品の座を譲らなかった。ゴズリングはこの映画で、ティーン・チョイス・アワード5部門とMTVムービー・アワード1部門を獲得した。『エンターテインメント・ウィークリー』誌では作中のキスシーンを「映画史上最高のキスシーン」(英: The All‐Time Best Movie Kiss)と評し、『ロサンゼルス・タイムズ』紙も同シーンを「映画での最高のキス50選」(英: The 50 Classic Movie Kisses)にランクインさせた。この作品は数多くの「最高のロマンティック映画」リストにランクインしている。 2005年、ゴズリングはサイコスリラー映画『ステイ』に出演し、精神障害のある若い美術学生を演じてナオミ・ワッツやユアン・マクレガーと共演した。『ニューヨーク・タイムズ』のマノーラ・ダージスは、否定的な映画評の中で、ゴズリングについて「彼のファンのように、もっと厚遇されるべきだ」と述べた。『バラエティ』誌のトッド・マッカーシーは「有能な」マクレガーとゴズリングは、「彼らが以前見せたものと比べ、目新しい物は何も届けなかった」と評した。低評価にもゴズリングは動じず、次のようなコメントを残している。 通りに10歳の男の子がいて、「『ステイ』に出てただろ?あの酷い映画は何なんだ?」って尋ねるんだ。素晴らしいことだね。こっちはただ、誰かが「やあ、あの映画に出てた君はこっちをむかつかせたぜ」って言っても、まるで向こうが自分に泣かされたと言っているように得意げでいるだけさ。 ― ライアン・ゴズリング ゴズリングの次の出演作は2006年の映画『ハーフネルソン』で、若い学生と絆を作る、薬物中毒の中学教師を演じた。役作りのため、ゴズリングは撮影の1ヶ月前にニューヨークへ転居した。彼はブルックリンの小さなアパートに住み、8年生(日本の中学2年生)の教師をシャドウイングする生活を行った。『ロサンゼルス・タイムズ』のケネス・テュランは、「催眠術のような演技で、[中略]人物に関する深い理解のようなものを見せており、物に出来る役者はほとんどいない」と評した。『サンフランシスコ・クロニクル』のルース・ステインはマーロン・ブランドとゴズリングを比較し、更に「偉大な演技に関心がある人で、彼の演技を見落とそうとする人などいない」と述べた。ロジャー・イーバートは、「(ゴズリングの演技は)現代映画で働く最も素晴らしい俳優のひとりだと証明した」と評した。この映画により、ゴズリングは史上7番目の若さ(当時)でアカデミー主演男優賞にノミネートされた。2007年には映画芸術科学アカデミーの会員に招待された。 2007年の映画『ラースと、その彼女』では、ラブドールと恋に落ちる内向的な人物を演じた。彼は『ハーヴェイ』でのジェームズ・ステュアートの演技に刺激を受けた。ロジャー・イーバートは、「言葉に出来ないことを語るライアン・ゴズリングの演技」で、「等身大のラブドールに関する映画」が「生きる勇気を与える希望の言葉」に変わったと述べた。『ワシントン・ポスト』紙のアン・ホーナデイは、「(彼の演技は)小さな奇跡だ―(中略)―彼は私たちの目の前で、いつの間にか変わっていて成長しているのだから」と述べた。一方で、『ニューヨーク・タイムズ』紙のマノーラ・ダージスは、「ほとんど素晴らしいキャリアの中で、この演技は珍しい計算違いだ」と述べた。この映画で、ゴズリングはゴールデングローブ賞 映画部門 主演男優賞(ミュージカル・コメディ部門)にノミネートされた。 同じ年、ゴズリングはアンソニー・ホプキンスの相手役として、法廷スリラー映画『フラクチャー(英語版)』に出演した。当初ゴズリングは役を断ったが、ホプキンスの出演決定を聞いて出演することにした。自身の演じたウィリーについて、欠点をいくつも持つなど実在の人物のように思え、自分に引きつけて考えていたと語っている。役作りのため、ゴズリングは実際の審理を見学したり、弁護士たちに会ってインタビューしたりした。『USAトゥデイ』のクローディア・プイグは、「ホプキンスのようなベテランが、ハリウッドいちの若手俳優としのぎを削る姿は、それだけで映画代の価値がある」と述べた。『ニューヨーク・タイムズ』紙のマノーラ・ダージスは、「巧みな場面泥棒のアンソニー・ホプキンスと、同じくらい狡猾で場面を食い物にしてしまうライアン・ゴズリングとの共演という見物」と評価し、「どちらの俳優も、完全に役作りされた個人というより流動的な性格を演じているが、専門家的・個人的なカリスマ性が錬金術のように混ざり合って、互いに穴を埋めている」と述べた。 2007年、ゴズリングは『ラブリーボーン』(2009年)の撮影に参加する予定だったが、「創作上の不一致」(英: ”creative differences”)から撮影開始の2日前に降板し、役はマーク・ウォールバーグに引き継がれた。ウォールバーグが引き継いだ役はティーンエイジャーの娘が殺害された父親役で、ゴズリングは役には若すぎると考えられたのである。監督のピーター・ジャクソンとプロデューサーのフラン・ウォルシュは、髪や化粧次第で見かけを老けさせられると説得した。撮影が始まる前、ゴズリングは体重を60ポンド(27kg)増やし、老けて見えるよう髭を蓄えたが、この外見はジャクソンの求めるものではなかった。ゴズリングは後に、「撮影前の段階でよく話し合わなかったのが大きな問題だった。(中略)僕はセットに行ったけれど、間違った方法だったんだ。それで僕は太って、解雇されたというわけ」と述べている。この時の経験については、「うぬぼれを外に出すべきじゃないという、自分にとって重要な悟りだった。役より若過ぎたって構わないんだよ」と述べている。 ===2010年 ‐ 2012年:注目の拡大=== 3年間大作から遠ざかった後、ゴズリングは2010年から2011年にかけて5本の映画に出演した。この頃について、「あれ以上の精力を持っていたことなんか無いよ。今まで以上に映画を撮ることに楽しみを見出していた」と述べている。また、働いていない時には気落ちしたような感覚だったとも語っている。 2010年、ゴズリングはミシェル・ウィリアムズと共演し、デレク・シアンフランスの監督デビュー作『ブルーバレンタイン』に出演した。映画は低予算かつ主に即興劇で作られ、ゴズリングは「自分自身で映画を撮ってるんだぞ、と思い出させなくちゃいけないんだ」と語った。『サンフランシスコ・クロニクル』のミック・ラサル(英語版)は、ゴズリングが「観客へ世間への超自然的な理解を届ける」と評した。『ニューヨーク・タイムズ』のA・O・スコットは、ゴズリングが「歳を取って、疲れ切り絶望的なディーンとしてはもっともらしいが、若いディーンとしてはそうでもないかもしれない」と述べた。『エンターテインメント・ウィークリー』のオーウェン・グレイバーマンは、「(彼は)辛辣な労働階級の新しがり屋としてディーン役を演じたが、彼の怒りが爆発した時には、その演技は力強いものとなる」と述べた。一方で『ボストン・グローブ』紙のウェスリー・モリスは、彼の演技を「間違った新しがり屋」の一例と評した。ゴズリングはこの作品でゴールデングローブ賞 映画部門 主演男優賞(ドラマ部門)にノミネートされた。 2010年には、実話を基にしたミステリードラマ映画『幸せの行方...』にも出演し、キルスティン・ダンストと共演した。ゴズリングの役はニューヨークの不動産王ロバート・ダースト(英語版)を基にしたもので、ダンスト演じる妻の失踪に嫌疑を掛けられる。ゴズリングは撮影について「陰鬱な体験」だったと語り、映画の宣伝は一切引き受けなかった。映画を誇りに思えるか尋ねられたゴズリングは、代わりに「キルスティンがあの映画でやったことは誇れる」と返している。『ローリング・ストーン』誌のピーター・トラヴァースは、「ゴズリングはキャラクターの内面に深く踏み込んだので、彼の神経終末に触れた気になれる」と書いた。『サンフランシスコ・クロニクル』のミック・ラサルは、「カメレオンのようなゴズリングは、空虚な殻のような人間として完璧に説得力がある」と評した。『ロサンゼルス・タイムズ』のベッツィ・シャーキーは、映画はダンストのものだとしつつも、「(ゴズリング)もまた良い」と述べた。 2010年には、社会や政治の理想に対する若者の皮肉っぽさを取り上げたドキュメンタリー番組『ReGeneration』の、ナレーションと制作も担当した。 2011年にゴズリングが演じた3つの役は、それぞれ異なって注目を集めるものだった。まず、ロマンティック・コメディ映画『ラブ・アゲイン』で初めて喜劇的な役を演じ、スティーヴ・カレルやエマ・ストーンと共演した。ゴズリングは、女性を丸め込む男性を演じるため、ロサンゼルスのバーで開かれたカクテル教室に通った。『ワシントン・ポスト』紙のアン・ホーナデイは、「(彼の)魅惑的な命令の存在は、ジョージ・クルーニーに次ぐ人材を見つけたのかもしれないと思わせる」と評した。ピーター・トラヴァースは「とびきりいかした喜劇人」と述べ、『USAトゥデイ』のクローディア・プイグは「1番驚きなのはゴズリングで、彼はコメディの才能を露わにした」と述べた。彼はこの作品でゴールデングローブ賞 映画部門 主演男優賞(ミュージカル・コメディ部門)にノミネートされた。 ゴズリング初のアクション演技は、ジェームズ・サリス(英語版)の小説を基にした映画『ドライヴ』(2011年)で、逃がし屋 (getaway driver) をしつつハリウッドのカースタントマンとしても働く主人公を演じた。この映画についてゴズリングは「暴力的なジョン・ヒューズ映画」だと述べ、「いつも『プリティ・イン・ピンク/恋人たちの街角』で頭を殴るシーンがあったら完璧だと思っていたんだ」と語っている。監督を務めたニコラス・ウィンディング・レフンは、ゴズリングとの出会い・関係について次のように述べている。 あれは素晴らしいブラインドデートだった。僕らは車の中で精神的にファックして、創造的結婚をした。僕は母親で彼は父親、そしてこの子ども[=『ドライヴ』]に生を与えたんだ。 ― ニコラス・ウィンディング・レフン ロジャー・イーバートはゴズリングとスティーブ・マックイーンを比較し、ゴズリングは「存在と誠実さを具体化する」「目立って力強いキャラクターを見つける天性の才能がある」と述べた。『ウォール・ストリート・ジャーナル』のジョー・モーゲンスターンは、「目立った奮闘はあんなに少ないのに、どうやってあんなに大きな衝撃を与えられるかが目下の疑問」だとし、「彼の無駄のないスタイルをマーロン・ブランドのそれになぞらえずにはいられない」と述べた。 2011年最後の出演作は、フィリップ・シーモア・ホフマンと共演した政治ドラマ『スーパー・チューズデー 〜正義を売った日〜』で、ジョージ・クルーニーが監督を務め、ゴズリングは野心的な広報スタッフを演じた。ゴズリングは映画撮影にあたり、より政治を意識するようになったが、「自分はカナダ人だし、アメリカの政治は実のところ自分の範疇じゃないんだ」と述べている。『ウォール・ストリート・ジャーナル』のジョー・モーゲンスターンは、ゴズリングとホフマンは「彼らのキャラクターが持つ主題に基づき、メリハリのある演技をする素養が際立っている。ふたりとも脚本から魔術で呼び出されたような逸材ではない」と述べた。『ロサンゼルス・タイムズ』紙のケネス・テュランはより冷静に作品を評し、作品は「確かに、ホフマンやジアマッティといった素晴らしい俳優たちと口論するような、カリスマ的ゴズリングを観るためのものなのだ」と述べた。また『サンフランシスコ・クロニクル』紙のミック・ラサルは、「[作品では]このキャラクターについてゴズリングがしっかり演じきれない側面がひとつある。単にゴズリングの本領外であるというだけなのだが、つまりは理想主義という側面だ」と述べた。ゴズリングはこの作品でゴールデングローブ賞 映画部門 主演男優賞(ドラマ部門)にノミネートされ、この年のゴールデングローブ賞では主演男優賞2部門にノミネートされたことになった。 ===2013年 ‐ 2015年:賛否両論の批評と監督デビュー=== 2013年の犯罪スリラー映画『L.A. ギャング ストーリー』では、1940年代のロサンゼルス市警察に務め、ギャングのボスであるミッキー・コーエン(演:ショーン・ペン)に勝とうとするジェリー・ウーターズ巡査部長を演じた。この映画でゴズリングと恋仲になる人物を演じたのは、『ラブ・アゲイン』でも共演したエマ・ストーンだった。ストーンはこの映画に関するインタビューで、ゴズリングさえ良ければもっと多くの映画で共演したいと語っている。『ニューヨーク・タイムズ』のA・O・スコットは、キャストへの弁解として、「小金を稼ぐために、おかしな声を使い、彼らが持ち合わせているはずのニュアンスを全て抑圧した(映画)」と評価した。『ボストン・グローブ』のクリスティ・レミアは、ゴズリングの「奇妙なささやき声」と「充分に発展させられていない、一本調子な」人物造型を批判した。一方で『ロサンゼルス・タイムズ』のベッツィ・シャーキーは、ゴズリングとストーンの共演シーンには「魅惑的な力」(英: ”a seductive power”)があるとし、「それでもこの映画の酷いところと同じように、この脚本はたったの半分しか演じられていないのだ」と述べた。 『ブルーバレンタイン』のデレク・シアンフランス監督作であるクライムドラマ映画『プレイス・ビヨンド・ザ・パインズ/宿命』では、家族を養うため銀行強盗を行うバイク・スタントマンを演じた。この映画の脚本執筆中、ゴズリングらと会食したシアンフランス監督は、ゴズリングに銀行強盗が長年の夢だったと聞かされ、方法を尋ねたところ執筆中の脚本とほぼ同じ内容だったと回想している。一方のゴズリングは、撮影について「今まで作った映画の中で最高の体験だった」と語っている。『ニューヨーク・タイムズ』のA・O・スコットは演技を絶賛し、「ゴズリング氏の非常にクールな落ち着いた側面―『ドライヴ』ではこの側面だけを見せていたのだが―は、子どものような純真さと脆さを仄めかすことにより興味深く複雑なものになった」と述べた。『ヴィレッジ・ボイス』のスコット・ファンダスは感銘を受けず、「ゴズリングの人物造型はほとんどパロディだ」「ゴズリングは穏やかで傷付いた半かすれ声を使い、これは全て一種のパロディなのだと教えてくれる」「ゴズリングの役はニコラス・ウィンディング・レフンの確かなハリウッド・スリラー『ドライヴ』の影響を強く受けている近縁種で、キャラクターが[『ドライヴ』からの]窃取であることは明白だ」と酷評した。『ザ・ニューヨーカー』のデイヴィッド・デンビーは、「ゴズリングは、『ドライヴ』以来の情けの無い一匹狼という自分のルーティンを繰り返している」と指摘した。 同じ年の後半、ゴズリングはレフンの暴力的復讐劇『オンリー・ゴッド』に出演した。ゴズリングは役作りのためムエタイのトレーニングを受け、脚本については「今まで読んだ中で1番奇妙なものだ」と述べた。『ニューヨーク』のデイヴィッド・エデルスタインは、「ゴズリングは『ザ・ビリーヴァー』のスキンヘッドや『ハーフネルソン』のスターのように大役者に見える。彼の『オンリー・ゴッド』での演技は(神はこの映画を許し給うか?)は、ひとつの長く湿っぽい凝視である」と述べた。『バラエティ』のピーター・デブルージュは、「壁紙の方がライアン・ゴズリングより感情を大きく表現している」と述べた。『ニューヨーク・タイムズ』のスティーヴン・ホールデンは、「自動機械に精神生活を提案してやることもできず、『オンリー・ゴッド』のゴズリング氏はスローモーションの呆然状態であるかのように演技している」と批判した。『ローリング・ストーン』のピーター・トラヴァースは、ゴズリングについて「何かを書き付けられる白紙だと意図されており、しばしばただの虚ろな存在になる」と述べた。『ロサンゼルス・タイムズ』のベッツィ・シャーキーはゴズリングの演技に失望し、「ほぼ無口なスタント・ドライバーとしては印象的で人の心を打つのに、(中略)ジュリアンに全く間に合っていない」「『オンリー・ゴッド』でゴズリングは、命を吹き込まれるのを待つマネキンのようにしか動いていない」と酷評した。『ニューヨーク・ポスト』のサラ・スチュアートも、「『きみに読む物語』の嫌なやつという汚名から逃げたがっているのは分かるが、もう十分だ」「ゴズリングは言葉少ない男性という人格を繰り返している」と述べた。 2013年初頭、ゴズリングは「自分が何をしているのか全く分からなくなっている。一旦休んで、なぜ、どのように[俳優業に取り組んでいる]のか再評価するのは自分にとって良いことだと思う。それに多分、それが[演技]について学ぶ良い方法だと思う」と述べて、俳優業を一時休止すると発表した。 ゴズリングの監督デビュー作『ロスト・リバー(英語版)』は、2014年の第67回カンヌ国際映画祭・ある視点部門に出品された。ゴズリングの執筆した「ファンタジーノワール」(英: ”fantasy noir”)には、クリスティーナ・ヘンドリックス、シアーシャ・ローナン、ベン・メンデルソーン、マット・スミスなどが出演した。映画には主に酷評がついて回った。『ガーディアン』のピーター・ブラッドショウは、映画は「我慢できないほど思い上がって」(英: insufferably conceited)おり、ゴズリングは「調和や謙遜という感覚を全て」失っていると書いた。『バラエティ』のジャスティン・チャンは、「病気持ちの魅惑状態」として退けた。映画は『ドライヴ』『オンリー・ゴッド』を手掛けたニコラス・ウィンディング・レフンのものと酷似していると非難されたが、当のレフンは映画を気に入り、「僕らは双子で、そういう訳で同じ映画を作るんだ。生まれた時に生き別れたけど互いを見つけたんだ」と述べている。 2015年の金融映画『マネー・ショート 華麗なる大逆転』で、ゴズリングはボンドトレーダーを演じ、作品は翌年の第88回アカデミー賞でアカデミー作品賞にノミネートされた。『アトランティック』のデイヴィッド・シムズは、ゴズリングは「人に取り入るように面白く、どういうわけかずっとこちらを引きつけ反感を誘う。数年間2流の芸術映画という落とし穴でさまよった後、再び自由になった彼を観るのは素晴らしいことだ」と述べた。『ローリング・ストーン』のピーター・トラヴァースは、「低俗な物言いの名手であるゴズリングは、カメラに向かって真っ直ぐ話しかけ、火山のように凄まじく面白い」と述べた。『エンターテインメント・ウィークリー』のクリス・ナシャワティは、ゴズリングがうぬぼれ屋の魅力を滲み出させていると述べた。一方で『ボストン・グローブ』のピーター・キーオウは、ゴズリングの演技はブラッドリー・クーパーのまがい物に過ぎないと述べた。 ===2016年 ‐ 現在:話題作への相次ぐ出演=== 2016年には、ラッセル・クロウと共演して探偵を演じたコメディ映画『ナイスガイズ!』、『ムーンライト』と共にこの年の賞レースを席巻した(英語版)映画『ラ・ラ・ランド』の2本に出演した。前者は映画批評サイトRotten Tomatoesで90%以上の評価を得た。『アトランティック』では、「本当の新発見だが、ゴズリングは切れ者の話しぶりと身体を張ったばかなコメディとを交互に見せる」と評された。『ニューヨーク・タイムズ』のA・O・スコットは、「ゴズリング氏の物憂げで鼻声かつ半分酔っ払った話し方は、彼が好むような生真面目な作品よりも、この作品のようにナンセンスな映画の方に合っている」と述べた。 『ラ・ラ・ランド』の相手役は3度目の共演となるエマ・ストーンで、ストーンの出演決定を聞いて役に飛びついたとの話もある。作品を手掛けたデイミアン・チャゼル監督は、ミュージカル映画の撮影には困難も多かったが「(ゴズリングとストーンは)セットの中でも外でも有機化学的反応を起こしていた」と語ったほか、ゴズリングの過去作品を引きつつ「この映画をやるのに必要な要素を全部持っていた」ともしている。ゴズリングはストーンとのダンス練習と併行してピアノ演奏を学び、劇中の演奏シーンでは自分で演奏した。『ガーディアン』紙のピーター・ブラッドショウは、「ストーンのように元々歌手ではないが、それでも画面にはとても現実的な何かがあり、歌に向き合う生身の人間がいる」と評した。『ローリング・ストーン』のピーター・トラヴァースは、「ゴズリングの映画出演作は[中略]多岐に渡り、いつも彼には何でも出来ると思わされてきたが、今回は完全に納得させられてしまった」と述べた。『シカゴ・トリビューン』紙では、”A Lovely Night” のシーンで気後れが見られ、情熱的だったストーンほど多くを伝えられていないと評された。セバスチャンのキャラクターには「白人の救世主」であるという批判もあった。この作品でゴズリングはゴールデングローブ賞 映画部門 主演男優賞(ミュージカル・コメディ部門)を獲得し、2度目となるアカデミー主演男優賞のノミネートも受けた。2016年12月には、チャゼルとゴズリングが、ニール・アームストロングの伝記『ファーストマン: ニール・アームストロングの人生 (en) の映画化作品『ファースト・マン』(2018年)で再タッグを組むと発表された。 ゴズリングはテレンス・マリックの映画『ソング・トゥ・ソング』にも出演している。ゴズリングの出演は2011年に明らかにされ、2012年には撮影の実施が報道されたが、フィルムの量が膨大になったことや金銭的問題から、封切りは2017年までずれ込んだ。この作品にはケイト・ブランシェット、ルーニー・マーラ、ヴァル・キルマー、マイケル・ファスベンダーなどが出演した。ゴズリングは2004年に、チェ・ゲバラを描いたマリックの映画『チェ』への出演にサインしたと報じられたが、マリックは『ニュー・ワールド』(2005年)制作のため降板し、ゴズリングもスケジュール上の問題で降板した。 2017年には『ブレードランナー』の続編『ブレードランナー 2049』に出演し、2016年7月から始まった撮影に参加した。興行的には物足りなかったものの、作品はイギリスの雑誌『エンパイア』が選ぶ2017年のベスト映画10本にて第2位に選ばれるなど評価された(また出演作『ラ・ラ・ランド』も3位にランクインした)。作品は2018年の第90回アカデミー賞でも5部門にノミネートされ、ロジャー・ディーキンスが初の撮影賞を獲得したほか、視覚効果賞も獲得した。レプリカントKを演じたゴズリングにも絶賛が寄せられ、『ニューヨーク・タイムズ』のA・O・スコットは「申し分のないキャスティングだ。ゴズリング氏の、同情を求めすぎたあまり取り乱したようにも見えながら、こちらの同情を誘い出すことのできる能力のおかげで(中略)、彼は温かい心を完璧に兼ね備えたロボットに変身した。また、2017年にあって、35年前のハリソン・フォードとどこか似たものを持っているのも確かだ――彼はハリウッドの傷付きやすい理想である男らしい冷静さの、現代における化身であり、彼自身の強さは、繊細な魂を覆い隠す鎧としても機能している」と述べた。また『バラエティ』のピーター・デブルージュは、「自然なカリスマを放つゴズリングが、『ドライヴ』や『オンリー・ゴッド』同様の感情を殺した不気味なモードで帰ってきて、アラン・ドロンがヒットマンの名作『サムライ』で見せたニヒルな冷酷さを注ぎ込み、どの側面も冷酷で、その倍計り知れないキャラクターを作り上げた」と評した。 ==音楽キャリア== 2007年、ゴズリングはソロ曲 ”Put Me in the Car” をインターネット上でダウンロードできるようにした。同じ年、ゴズリングは友人のザック・シールズ(英: Zach Shields)とインディー・ロックバンド『デッド・マンズ・ボーンズ(英語版)』を結成した。ふたりは2005年に出会ったが、これはシールズが当時交際していたケイリーン・マクアダムス(英: Kayleen McAdams)が、ゴズリングが交際していたレイチェル・マクアダムスの妹だったという縁からである。両者は当初怪物をテーマにしたミュージカルを構想していたが、舞台制作は高額になるとしてバンド結成へ方向転換した。ゴズリングとシールズは、バンドの名前を冠したアルバムをシルバーレイク音楽学校子ども合唱団 (The Silverlake Conservatory’s Children’s Choir) と収録し、楽器の演奏法を学んで全て自分たちで演奏した。ゴズリングはボーカルだけでなく、ピアノ・ギター・ベースギター・チェロを演奏した。アルバムはアンタイ・レコードから2009年10月6日に発売された。『ピッチフォーク・メディア』では「独創的で覚えやすく、魅力的に奇妙なレコード」と評され、Prefix では「駄作ではないし、不適当だなんてあり得ない」と述べられた。一方で、『スピン』では「俳優が宙ぶらりんなポップ・ミュージシャンになるというお決まりを覆していない」と書かれたほか、『エンターテインメント・ウィークリー』はアルバムに「鼻につくゴシック調の気取った感じ」(英: cloying, gothic preciousness)があるとした。 2009年9月、ゴズリングとシールズは、ロサンゼルスのボブ・ベイカー・マリオネット・シアター(英語版)を3夜借り、光る骸骨や幽霊たちが踊る前で演奏するイベントを開催した。その後2009年10月には、全13日の日程で北米ツアーを開催し、どの公演でも地元の子ども合唱団と共演した。公演では、オープニング・アクトの代わりに演芸会が行われた。2010年9月には、ロサンゼルスで開かれたFYFフェスティバルで演奏した。2011年にゴズリングは、バンド2枚目となるアルバムを収録したいと述べたが、「ロックンロールらしくない」として子ども合唱団の参加は見送る方針を明らかにした。 ==チャリティ活動== ゴズリングはいくつかの社会問題へ活動を行っている。動物の倫理的扱いを求める人々の会 (PETA) と共に、ケンタッキーフライドチキンやマクドナルドの農園で改良されたニワトリ畜殺法を用いるよう活動したり、雌牛の角を刈らないよう酪農家に訴えるキャンペーンを展開したりした。2005年には、当時交際していたレイチェル・マクアダムスと共に、ハリケーン・カトリーナが襲来したミシシッピ州ビロクシで清掃活動に携わった。また、アフリカ中部での神の抵抗軍の残虐な活動への認識を高めようとしている団体インビジブル・チルドレン(英語版)の支援者である。2005年には、チャドのダルフール難民キャンプを訪れた。2008年には、キャンパス・プログレス(英語版)全国大会に登壇し、ダルフール問題を話し合った。イナフ・プロジェクト(英語版)の活動の一環として、ゴズリングは2007年にウガンダ、2010年にコンゴ民主共和国東部を訪れている。 ==私生活== ゴズリングは雑種犬のジョージと共に、ニューヨーク市に住んでいたことがある。2017年初め頃までは、妻エヴァ・メンデスら家族と共にロサンゼルス・ロス・フェリス(英語版)に住んでいた。 ゴズリングは、カリフォルニア州ビバリーヒルズにあるモロッコ料理屋 Tagine の共同オーナーでもある。彼はレストランに「持ち金全て」(英: ”all [his] money”)をはたいて衝動買いし、1年間かけて自分でリノベーションして、現在ではレストランのメニューの監督も行っている。 2015年5月、ゴズリングはスコットランドの映画制作者ライアン・マクヘンリーの死を悼み、自らがシリアルを食べる動画を投稿した。マクヘンリーはゴズリングの出演作品のシーンを繋いで、”Ryan Gosling Won’t Eat His Cereal”(意味:ライアン・ゴズリングがシリアルを食べてくれない)と称したシリーズをVineに投稿していたが、闘病生活の末癌で死亡した人物である。 ゴズリングはディズニーランドの熱烈なマニアであり、『ドライヴ』『オンリー・ゴッド』などで共作したニコラス・ウィンディング・レフン監督一家と共に訪れたこともある。 ゴズリングは、観ていて感情移入してしまう映画として『ダンボ』や『エレファント・マン』などを挙げている。お気に入りの俳優にはゲイリー・オールドマンを挙げている。 ===交際関係=== ゴズリングは、『完全犯罪クラブ』で共演していたサンドラ・ブロックと2002年から2003年にかけて交際していた。その後『きみに読む物語』で共演した、同じカナダ出身のレイチェル・マクアダムスと2005年半ばから2007年半ばにかけて交際し、2008年には短期間復縁した。 2011年9月、ゴズリングは『プレイス・ビヨンド・ザ・パインズ/宿命』で共演したエヴァ・メンデスと交際を始めた。ふたりの間には、2014年9月・2016年4月に生まれた2人の娘がいる。メンデスとは事実婚の期間を経て、2016年に挙式している。ゴズリングは私生活を表にしないことを信条としており、娘の誕生以来メンデスと連れ立って登場したことは無い。アカデミー賞の授賞式では、代わりに母や姉と参加している。一方で第74回ゴールデングローブ賞の授賞スピーチではメンデスに言及したり、監督作『ロスト・リバー(英語版)』にメンデスを出演させたりしている。『ブレードランナー 2049』の撮影でハンガリーに向かったゴズリングは、自身の母やメンデス、さらに娘たちもハンガリーに呼び寄せたことを語っている。 ==フィルモグラフィ== ===映画=== ===テレビ番組=== ==ディスコグラフィ== ==発展資料== Nick Johnstone (2013). Ryan Gosling: Hollywood’s Finest. John Blake Publishing. ISBN 978‐1‐78219‐460‐6. ==関連項目== en:List of awards and nominations received by Ryan Gosling内田夕夜 ‐ 多くの作品で吹替を担当している。 =土佐のほっぱん= 土佐のほっぱん(とさのほっぱん)とは、高知県南西部の太平洋沿岸に面した地区(現在の幡多郡黒潮町伊田)にかつて存在した風土病。「ほっぱん」とは当該地域における赤い発疹の方言名。1951年(昭和26年)にトサツツガムシが媒介するツツガムシ病であると判明した。本項では、同じ病因で発症する香川県の馬宿病についても言及するが、双方を合わせて「四国型ツツガムシ病」とも呼ばれる。 ==概要== 夏の限られた期間に発生する不明発熱性発疹性疾患であり、100戸程度の伊田地区という極めて狭いエリア特有の疾患であったため、記録に残る患者総数は少ない。病状経過は、前兆もなく突然原因不明の高熱を発症し、やがて赤色や紫色の発疹が全身に多数現れ、発病からわずか数週間のうちに、その半数以上が死亡するというものであった。死亡率の高さと原因不明の発熱発疹の奇怪な症状から、古くより当地の人々の間では名主の祟りと信じられ恐れられていた。 「土佐のほっぱん」の正体は、寄生虫学者の佐々学(さっさまなぶ)が1951年(昭和26年)に行った現地調査により、新種のツツガムシ(トサツツガムシ Leptotrombidium tosa)によって媒介される新型のツツガムシ病 であると解明された。同じ頃、その他複数の「新型ツツガムシ病」と考えられる事例が日本各地で報告され始めていたが、それまでの日本の医学界では、死者を出すツツガムシ病は秋田・山形・新潟3県特有の風土病と考えられていた。従来の流行地から遠く離れた四国の太平洋沿岸で死者を出すツツガムシ病が確認されたことにより、各地に生息する未確認のツツガムシの生態調査研究が進められ、その結果、それまで日本各地で原因不明の熱病とされていた複数の風土病が、新型のツツガムシ病であることが判明した。 今日、日本国内のツツガムシ病は、アカツツガムシLeptotrombidium akamushi を媒介者とする秋田・山形・新潟各県のものを古典型ツツガムシ病 、それ以外の地域の別種のツツガムシを媒介者とするものを新型ツツガムシ病として分類している。なお、「土佐のほっぱん」と呼ばれたトサツツガムシを媒介者とする「四国型ツツガムシ病」は1980年(昭和55年)頃以降、新たな発生は確認されていない。 ==病態解明の経緯== ===原因不明の熱病=== 1951年(昭和26年)6月、東京大学助教授で伝染病研究所主任(当時)であった寄生虫学者の佐々学(さっさまなぶ)は、高知県から公衆衛生に関する一般向けの講演を依頼され高知県庁を訪れた。以前より佐々は高知県下に原因不明の熱病が存在することを田宮猛雄から聞き及んでおり、その他の様々な情報から、この熱病が未確認のツツガムシ病の可能性があるのではないかと気になっており、今回の高知県への出張のおりに現地を訪れ調査することを思い立った。病気が報告されていたのは高知県南西部の幡多郡白田川村の伊田(現:幡多郡黒潮町伊田)という海沿いに位置する小規模な集落で、現地では「ほっぱん」と呼ばれる発疹を伴う熱病である。「ほっぱん」とは発斑あるいは発疹の方言名だという。 東京から高知ヘの移動は当時、東京駅を夜21時半に出発する夜行列車を乗り継いで、翌日の午前に岡山県の宇野駅に到着。宇高連絡船に乗船し高松駅、そして高知駅には夕方の19時半に到着するという大変な長旅であった。 高知県庁での講演を終えた佐々は翌日の同年6月29日早朝、高知県庁職員および、高知県医師会や高知大学の関係者数名とともに、県が用意した大型のジープへ医療検査器具を携え乗車し、高知市から伊田地区へ向かった。なお、土讃本線全線開通以前の1951年(昭和26年)6月当時、高知県南西部方面への鉄道は仁井田村(現:四万十町)の影野駅までしか通じていなかったため、車による移動であったが、当時の道路事情は悪く、高知市から目的地の伊田まで6時間を要している。 高知県の海岸沿いにある広い平地は高知平野ぐらいで、他の海岸線は山地が海の近くまで迫っており、高知市から伊田地区へ向かう国道(現:国道56号)は当時、いくつもの峠の上り下りを繰り返す難路であった。ようやく到着した目的地の伊田地区も、山地と海に挟まれたわずかな平地に100軒ほどの民家がある小さな集落で、海に注ぐ小規模な河川と民家の周囲は芋畑という場所であった。ここまでの道中と伊田地区の様子を目にした佐々は、「このような場所に死者を出すほどのツツガムシ病が本当にあるのだろうか」と疑念を抱いたという。 これまで日本国内の医学界の認識として、ツツガムシ病は稲作が盛んな秋田県、山形県、新潟県の大きな河川(雄物川・最上川・阿賀野川・信濃川など)の河川敷で罹患するもので、それらの地域特有の風土病と考えられていた。しかし到着した伊田地区は小さな河川はあるものの水田や平坦地は少なく、暖かい黒潮の流れる太平洋に面した半漁半農の地域であり、北日本の流行地とは風土・景観が明らかに異なっていた。 ===名主の祟り=== 伊田地区に到着した佐々たちは、当地の人々が「ほっぱん」と呼ぶ熱病に罹患したことのある経験者に話を聞こうと考え、伊田地区の顔役である沢田文五郎という古老を紹介され沢田家を訪ねた。佐々らが挨拶と訪問の目的を伝えると、沢田は「正確な時代は不詳ながら」と断わったうえで、伊田地区に伝わる「名主の祟り」の伝承を語った。 その昔、この伊田の村に掛川信吉という名主がいた。ある時、お上が所有する材木を、伊田の村人たちがお上のものとは知らずに使ってしまった。それに逆鱗したお上は名主の掛川信吉に自害を命じ、名主掛川信吉は切腹して果てた。「ほっぱん」は、村人の不注意で命を奪われた名主の、お上と村人に対する恨み祟りである。 佐々学『日本の風土病』小林照幸『死の虫』より、一部改変引用 沢田は伊田地区の「ほっぱん」に昔から深い関心を持ち、患者の記録を可能な限り書き残していると言い、次のように語った。明治維新以前のことは分からないが、この病気は明治初年からあって、1882年 (明治15年)、1883年(明治16年)頃には子供から年寄りまで多数の発症者や死者が出たという。伊田の人々は古くから、この名主の祟りによって「ほっぱん」という奇妙な疫病の流行が起き始めたと聞かされている。また病気は突然発病し、その半数以上が助からずに死亡することから、人身御供の白羽の矢が前ぶれもなく立つようなものだと恐れているという。 ここまでの話を聞いた佐々は、不気味な話ではあるが、「ツツガムシ病と考えたのは早計だったかもしれない」と、東京から高知へ、さらに高知市から長い道程を経て調査に来たことを後悔し始めていたという。すると沢田が家の奥からこまごまと多くのメモが書かれた古い手帳を取り出してきた。これが後に「沢田メモ」と呼ばれることになる貴重な記録であった。 ===沢田メモ=== 沢田のメモ書きには、1919年(大正8年)から1948年(昭和23年)までの約30年間に、伊田地区で発生した10例の「ほっぱん」の記録が記されており、それぞれ発症もしくは死亡した年月、発症者の年齢性別、病気の経過などが書かれていた。沢田メモに書かれた事例を年代順に並べると以下の通りである。 1919年(大正8年)8月、11歳、女性。回復1920年(大正9年)8月、26歳、女性。死亡1920年(大正10年)7月から8月、17‐18歳、男性。半年ほど床に伏した後、回復1925年(大正14年)8月、40歳、男性。死亡1927年(昭和2年)8月21日、56歳、女性。死亡1928年(昭和3年)8月、70歳、女性。死亡1942年(昭和17年)7月から8月、年齢不詳、女性。死亡1942年(昭和17年)7月から8月、25歳、女性。回復1948年(昭和23年)7月、10歳、女性。1か月ほど床に伏した後、回復メモに書かれていたのはこの10例であるが、これ以外にも複数の発症事例があったという。また、メモにはいくつかの補足が記載されており、1925年(大正14年)の40歳男性(死亡)の事例では、当時の幡多病院〔ママ〕の橋本久博士がこれを見て「ツツガムシ病」らしいと言ったが、橋本博士はすぐに札幌へ転任したという。さらに1928年(昭和3年)の70歳女性(死亡)事例でも、これを検診した丹治医師は「ツツガムシ病」ではないかと言ったという。1932年(昭和7年)に海岸沿いの藪を伐採してから一時発症者が減った。また、1942年(昭和17年)の同時に発生した3事例では、地区内を流れる伊田川下流の堤防工事に携わった3名の女性が発病し、そのうち2名が死亡、一番若かった25歳の1名だけが助かったという。 発症者総数は少ないとはいえ半数以上が死亡しており、助かった者も高熱が1か月ほど続いて生死の境をさまよい、回復するのに半年かかるケースもある。いずれも7月から8月の夏季に発症している。沢田は発症者が出るとその都度見舞いに訪れ、その症状をつぶさに観察し、「ほっぱん」には共通する症状があるのを何度も見てきたといい、次のような重要な話を佐々たちに語った。 共通するのは、いずれも急に寒気に襲われて高熱がはじまり、1週間ほどすると全身に赤い発疹が現れる。この発疹が赤い色をしているうちはいいが、内出血して紫色になると大抵は助からない。そして体のどこか1ケ所に小豆ほどの大きさのかさぶたができているが、あまり痛みがないらしく、本人は気づかない場合が多い。高熱が出て2、3週間もすると意識が朦朧とし、死への恐怖からうわ言を口走るようになり意識不明となって死亡する。助かった者は、かさぶたが塞がった痕が残る。 かさぶた、塞がった痕と聞いた佐々たちは、ツツガムシ病特有の所見に間違いなさそうだと確信した。 ダニの一種であるツツガムシ(恙虫)の幼虫は、その生涯で一度だけヒトなどの哺乳類の皮膚に吸着して組織液を吸う習性を持つ。この幼虫の0.1〜3%の個体がツツガムシ病リケッチアを保菌しており、これに吸着されることでツツガムシ病に感染する。ツツガムシ病の大きな特徴は、この吸着時に刺された刺し口(esher)と呼ばれる痕跡が残ることである。 医学を学んだ経験が無いのにも関わらず、30年近くにおよぶこれらの記録や、症状の経過や特徴を的確に捉えていた古老の観察眼に、佐々は非常に感心したという。 ===生存者の刺し口=== 佐々たちは沢田古老の案内で、以前に「ほっぱん」に罹ったという伊田地区内の女性を訪ねた。1942年(昭和17年)の堤防工事で罹患した3名の女性のうち、たった1人助かった女性である。刺し口の痕を調べると彼女のへそには明らかな「刺し口」の痕跡が残っていた。 もう1人は「沢田メモ」には記載されていない事例であったが、15歳の少年が3年ほど前に罹患し助かったケースである。調べてみると彼の左腋近くの胸部付近に見事な痕跡が残っていた(右画像参照)。 ここまでの臨床所見があればツツガムシ病にまず間違いないと考えられるが、研究者としては確実なデータを確保する必要があった。 ツツガムシ病の存在を証明するためには、 生存者の血清からツツガムシ病の抗体を確認すること。地区内でツツガムシが生息するのを確認し、かつそのツツガムシの個体がリケッチアを保有していること。この2点の確認が必要であった。 佐々らは生存者たちの血液を採取し、持参した顕微鏡を使ってワイル・フェリックス反応を用いた血清の凝集反応を調べると、予想通りプロテウス属のOX‐K株の反応が見られ、これでツツガムシ病の陽性反応が確認された。 続いてツツガムシの生息調査が行われた。リケッチアを媒介するツツガムシの幼虫は、ノネズミなどの耳の穴に寄生しているケースが多い。佐々たちは伊田地区の民家、河川敷、畑などの各所にねずみ捕りを仕掛けて様子を見ることにした。 ===トサツツガムシの発見=== 翌朝6月30日、仕掛けられた複数の罠のうち集落内と畑のものからドブネズミ3頭、裏山からアカネズミ1頭、および調査の目的を知り賛同した伊田地区の有志によって生け捕りにされた3頭のドブネズミが捕獲された。これらのネズミがリケッチアを保有するツツガムシに寄生されているか否か、この段階では確認できていないが、リケッチアは極めて危険な病原体であり、過去の日本国内におけるツツガムシ病研究では、研究施設内でのリケッチア感染により研究者が殉職する事故が数件発生していた。万一のため、ネズミの取扱には細心の注意が払われた。 捕獲したネズミを慎重に調べると、うすピンク色のツツガムシが数匹、ドブネズミの耳の中に吸い付いているのが肉眼で確認できた。佐々たちは驚きの歓声を上げるが、伊田地区の人たちはネズミの耳についたダニの意味するところが分からず、キツネにつままれたような表情であったという。こうして捕獲されたネズミのうち、合計6頭のドブネズミから合わせて112匹のツツガムシが採取された。 ところが持参した顕微鏡でこのツツガムシを調べると、佐々をはじめ同行した県医師会、高知大学の専門家たちも初めて目にするツツガムシであった。その後の調べにより、これまで日本で報告されたことのない、新種のツツガムシであると判明し、佐々により、トサツツガムシ(学名:Leptotrombidium tosa)と命名された 。 新種のツツガムシを発見したものの、このツツガムシがリケッチアを保有していなければ単なるダニである。ツツガムシ病(ここでは「ほっぱん」)の媒介者であることを証明するには、このツツガムシがリケッチアを持っていることが確認されなければならない。しかしリケッチア保有の有無の確認には研究施設等での詳細な検証検査が必要とされる。したがって現場での検証は困難であり、まして即日に検証結果を出すことは不可能である。 佐々はトサツツガムシに寄生されたドブネズミを現地で解剖し、その脾臓をつぶして東京から持参したマウスに注射した。こうして伊田地区での調査は終了し、佐々は発見したトサツツガムシの幼虫、実験用マウスなどのサンプルを持って東京へ戻った。 ===リケッチアの確認=== 東京へ戻った佐々は、伊田地区で採取したサンプルを伝染病研究所のリケッチア研究者である川村明義に渡して検証を依頼した。川村明義は日本のツツガムシ病研究で知られる川村麟也の三男である。4年前(1947年)に他界した父・麟也と同じ研究を志した明義は、千葉医科大学 (旧制)を卒業後、伝染病研究所に入りリケッチアの研究を行い、自らもリケッチアに感染したが幸いにも治癒することのできた経歴を持つ、当時の日本のリケッチア研究の最前線にいた人物であった。 佐々が持ち帰ったサンプルは川村によって綿密な検証が行われ、トサツツガムシの幼虫からリケッチアの検出に成功し、「土佐のほっぱん」の正体はツツガムシ病であることが特定された。 伊田地区訪問から2ヵ月後の1951年(昭和26年)8月、佐々たちは再び高知県を訪れ、足摺岬から室戸岬までの長い海岸線を何日もかけ、ノネズミを捕獲しツツガムシを探し、その結果トサツツガムシは高知県海岸部の各所に散在して生息していることが分かった。また、新たに2種のツツガムシが発見されたが、ツツガムシ病の発生事例は伊田地区以外にはどうしても見つからなかった。 ==馬宿病== 香川県大川郡相生村馬宿(現:東かがわ市馬宿)の海岸集落とその周辺で、6月から9月の夏季にかけて馬宿病(うまやどびょう)と古くから呼ばれる同様の熱病があることが報告されていた。香川県衛生研究所の調査によりトサツツガムシが発見され、検証の結果リケッチアも検出され、馬宿病は土佐のほっぱんと同様に新型ツツガムシ病であることが確認され、連絡を受けた佐々も現地へ向かった。 ツツガムシ病に間違いないと考えられる馬宿病の患者記録は、1931年(昭和6年)から1952年(昭和27年)までの間に18名おり、そのうち7名が死亡していた。生存者11名のうち8名は1950年(昭和25年)以降の患者で、8名ともテトラサイクリン系抗生物質の投与により治癒していた。治療をしていない10名のうちの生存者はわずか3名であり、「土佐のほっぱん」同様、未治療のケースでは高い死亡率を示していた。 こうして「土佐のほっぱん」と「馬宿病」はトサツツガムシ媒介性の四国型ツツガムシ病と看做されるようになり、それまで北日本特有の風土病とされていたツツガムシ病は、その他の地域でも発症しうる疾患との認識が医療関係者や研究者の間で広がっていった。 ==ダニ媒介性感染症研究の進展== 佐々による「土佐のほっぱん」解明に先立つ1948年(昭和23年)10月から11月にかけ、静岡県側の富士山麓で演習を行っていたアメリカ兵27名に、発疹を伴う原因不明の高熱が発症した。死者こそ出さなかったものの、米軍406医学研究所と千葉医科大学の調査により、タテツツガムシを媒介者とするツツガムシ病と判明した。従来の流行地(秋田・山形・新潟)でなく、また媒介者もアカツツガムシではない別種のツツガムシが原因であったことから、日本の研究者たちは大きな衝撃を受けたが、感染者は全員アメリカ兵で感染場所も一般人が入らない演習場内であり、適切な治療により死者を出すことなく全員が治癒していた。 そこへ「土佐のほっぱん」「馬宿病」という新たなツツガムシ病が発見されたのである。数年前に発見されたテトラサイクリン系の抗生物質の内服による治療が始まった頃で、早期発見、確定診断さえつけば治癒が可能になったとはいえ、近年までこれら四国型ツツガムシ病は複数の死者を出しており、しかも死亡率が高いことが分かったのである。 研究者や医療関係者は、日本各地に生息する様々な種類のツツガムシの研究を積極的に行うようになり、伊豆諸島の七島熱、房総半島南部や静岡県藤枝市周辺の二十日熱など、死亡率こそ低いものの、これまで原因不明の熱病とされてきた複数の風土病がツツガムシ病であることが判明し、日本の広範囲に複数種のツツガムシが生息していることが分かった。感染頻度は少ないものの、もはやツツガムシ病は秋田・山形・新潟3県の特定地域で見られるものではなく、日本のどこででも感染する可能性のある感染症との認識が一般化した。 こうして従来の秋田・山形・新潟のアカツツガムシを媒介とするツツガムシ病と、1950年(昭和25年)前後より日本各地で確認され始めたツツガムシ病はそれぞれ、 古典型ツツガムシ病 アカツツガムシの媒介により、主に夏季に発症する死亡率の高いツツガムシ病(秋田・山形・新潟)新型ツツガムシ病 それ以外のツツガムシの媒介により、主に秋から冬に発症するツツガムシ病(日本全国)このように区別されるようになった。 その後の研究によって、各種ツツガムシにより媒介されるリケッチアの血清型(病原体を摂取して得られる免疫血清の違い)の分類が進められ、死亡率が高い低いの差は血清型に由来していることが判明するなど、1950年代から60年代にかけて日本のツツガムシ、リケッチア研究は大きく進展し、1984年(昭和59年)には徳島県の開業医である馬原文彦により、マダニ類が媒介するRickettsia japonicaというリケッチアによって感染する日本紅斑熱が発見された。またリケッチア以外のダニによる感染症としては、2012年(平成24年)の秋に日本国内で初事例となる重症熱性血小板減少症候群(ダニ媒介性ウイルス疾患の一種)による死者が山口県で発生するなど、ダニによる新たな感染症の報告が続いている。 ==その後のトサツツガムシ== 「土佐のほっぱん」の病態解明後、トサツツガムシが媒介者と考えられる四国型ツツガムシ病の発生は、高知県内では1953年(昭和28年)、1956年(昭和31年)、1959年(昭和34年)に各1名ずつ報告された届出を最後に途絶え、香川県内での事例を含め1980年頃より報告がなくなり、その後はタテツツガムシ、フトゲツツガムシが媒介する比較的症状の軽いツツガムシ病が発生するようになった。 新型ツツガムシ病をはじめ、様々なダニ媒介性感染症の研究進展の、きっかけのひとつとなった「土佐のほっぱん」の病態を解明した佐々学は、その後、東京大学教授、同医大研究所所長、国立公害研究所所長などを歴任し、2006年(平成18年)に90歳で死去した。 佐々は著書『風土病との闘い』の中で「土佐のほっぱん」病態解明について次のように記している。 沢田メモは医学にしろうとの古老が、永年の間の資料を克明にのこした、学界には貴重な記録であった。このメモをヒントにして、われわれのツツガムシ病に関する研究も、それから数年の間にたいへんな進歩をして、外国の学者もびっくりするような医学上、動物学上の新知識もえられたのである。 高知県に限らず日本各地の風土病を現地調査し、生涯にわたり研究し続けた佐々は、風土病の調査で大切なことは、どのような場所であっても実際に現地へ行き、先入観を持たず当地の人々と身近に接し、その人たちを取り巻く自然の姿を究明すること、すなわちフィールドワークを行うことの重要性を強調している。 2000年代以降、四国では夏のツツガムシ病の発生および、トサツツガムシの生息情報もほとんど報告されていないが、2014年(平成26年)6月から9月にかけ、馬原アカリ医学研究所、愛知医科大学、国立感染症研究所の共同チームによって行われた生息確認調査により、馬宿地区に隣接した引田港の藪で1匹のトサツツガムシ個体が採取された。近年の四国型ツツガムシ病の激減にも関わらず、わずか1匹であるが生息が確認できたことにより、今日もトサツツガムシ媒介による感染のリスクが続いているものと推測されている。 =フランツ・ヨーゼフ1世= フランツ・ヨーゼフ1世(ドイツ語: Franz Joseph I.、1830年8月18日 ‐ 1916年11月21日)は、オーストリア皇帝(在位:1848年 ‐ 1916年)。ハンガリー国王などを兼ねた。 68年に及ぶ長い在位と、国民からの絶大な敬愛から、オーストリア帝国(オーストリア=ハンガリー帝国)の「国父」とも称された。晩年は「不死鳥」とも呼ばれ、オーストリアの象徴的存在でもあった。皇后は美貌で知られるエリーザベトである。後継者となった最後の皇帝カール1世は統治期間が2年に満たなかったため、しばしばオーストリア帝国の実質的な「最後の」皇帝と呼ばれる。 全名はフランツ・ヨーゼフ・カール・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン(ドイツ語: Franz Joseph Karl von Habsburg‐Lothringen)。ハンガリー国王としてはフェレンツ・ヨージェフ1世(ハンガリー語: I. Ferenc J*7748*zsef)、オーストリア帝国内のベーメン国王としてはフランティシェク・ヨゼフ1世(チェコ語: Franti*7749*ek Josef I.)である。 ==概要== 3月革命によって伯父のオーストリア皇帝フェルディナント1世が退位したため、18歳の若さで即位する。 治世当初は首相フェリックス・シュヴァルツェンベルク公爵に補佐され、北イタリア(ロンバルド=ヴェネト王国)とハンガリーの独立運動を抑圧、革命を鎮圧した。フランツ・ヨーゼフ1世は、君主は神によって国家の統治権を委ねられたとする王権神授説を固く信じて疑わない人物であり、自由主義、国民主義の動きを抑圧し、「新絶対主義」(ネオアプゾルティスムス)と称する絶対主義的統治の維持を図った。 イタリア統一戦争に敗北し、北イタリアの帝国領ロンバルディアを1859年に、ヴェネトを1866年に相次いで失う。さらに、ドイツ統一に燃えるプロイセン王国首相のビスマルクの罠にかかり、1866年の普墺戦争では、消極的な自軍指揮官に決戦を命じた結果、ケーニヒグレーツの戦いで大敗を喫し、プロイセン軍に首都ウィーンに迫られて不利な講和を結ぶこととなった。このような対外的な動きに押される形で、国内では1861年、二月勅許(憲法)で自由主義的改革を一部導入することを認めざるを得なくなる。 1867年、ハンガリー人とのアウスグライヒ(妥協)を実現させ、オーストリア=ハンガリー二重君主国が成立した。これにより、ハプスブルク帝国をオーストリア帝国領とハンガリー王国領に分割し、二重帝国の中央官庁としては共同外務省と共同財務省を設置する一方、外交・軍事・財政以外の内政権をハンガリーに対して大幅に認めた。しかし、この後も民族問題は先鋭化の一途をたどり、1908年にボスニアとヘルツェゴヴィナを併合したことは、汎スラヴ主義の先頭に立つセルビア王国との関係を悪化させ、さらに民族問題を複雑化させることに繋がった。 普墺戦争後は、普仏戦争で中立を守り、ビスマルクおよびドイツ帝国と接近・協調していった(パン=ゲルマン主義)。1873年にはドイツ、ロシアと三帝同盟を、1882年にはドイツ、イタリアと三国同盟を結ぶ。 帝国内の民族問題や汎スラブ主義の展開への対応に苦慮する中、1914年のサラエボ事件で皇位継承者フランツ・フェルディナント大公が暗殺され、オーストリアはセルビアに宣戦を布告、第一次世界大戦が勃発する。戦争中の1916年、肺炎のためウィーンにて86歳で死去した。 ==生涯== ===皇族時代=== ====幼少期==== 1830年8月18日、オーストリア皇帝フランツ1世の三男フランツ・カール大公とバイエルン王女であるゾフィー大公妃の長男として生まれる。この出産は公開され、宮廷に出入りできる者なら誰でも見ることができた。 ゾフィーはなかなか懐妊しなかったが、宮廷の侍医からの勧めによりバート・イシュルの塩泉で治療したところ、男子が生まれるに至った。そのような経緯から「塩の王子」と呼ばれた。 洗礼の際には祖父フランツ1世が代父を務め、洗礼名は「フランツ・ヨーゼフ・カール」と定められた。今日「フランツ・ヨーゼフ1世」として知られるが、即位するまでは複合名は用いられず、幼少期には「フランツィ」と愛称で呼ばれていた。 当時オーストリア皇太子の地位にあったフェルディナントは生来の病弱であり、子孫を儲けることは不可能だと考えられていた。その弟である父フランツ・カール大公は政治に関心がなく、(強制される可能性はあったが)即位しない意志をすでに表明していた。よって、生まれたばかりの男子が将来的に帝位を継ぐことはほぼ確定しており、皇帝となることを予期して育てられた。 従兄弟のナポレオン2世が「泡立てたクリームの載ったストロベリー・アイスクリーム」と表現しているように、フランツはその愛らしさで宮廷の人々を魅了させた。フランツ1世は初の内孫であるフランツを溺愛し、自身の護衛にこの孫に対しても皇帝と同様の敬礼をさせた。また、フランツ1世はこの幼い孫を自身の膝に乗せ、初歩のイタリア語を自ら教えたという。 母ゾフィーはフランツを厳しくしつける一方で、弟マックス(マクシミリアン、のちのメキシコ皇帝)を甘やかした。兄弟が一緒にいたずらをしても母はフランツだけをきつく叱ったが、これは将来の皇帝として長男に大きな期待をかけ、むしろ次男以下を差別した結果だった。皇族の子女による子供劇場がゾフィーの肝煎りで催された時、主演は性格からしてマックスが相応しいと誰もが思ったが、ゾフィーが指名したのは未来の皇帝たるべきフランツであった。わずか4歳で宮中での祝宴への参列を許されたフランツは、万事折り目正しくという母の言いつけを完璧に守り、大人たちを感嘆させたという。 1835年5月2日、祖父フランツ1世が死去し、伯父フェルディナントが即位した。 ===帝王学=== 将来の皇帝たるフランツは、ハプスブルク家の伝統に則って教育された。フランツは6歳の時に傅母の手から引き離され、宰相クレメンス・フォン・メッテルニヒから傅育官に任命されたハインリッヒ・フランツ・フォン・ボンベル(ドイツ語版)伯爵のもとで、週13時間の授業を、7歳の時には32時間の授業を受けるようになった。この時点でフランツが受けた授業には、ドイツ語、正書法、地理、宗教、図画、ダンス、体操、フェンシング、水泳、軍事訓練、フランス語、ハンガリー語、チェコ語が含まれていた。その後さらに、歴史、馬術、音楽、イタリア語が追加された。母ゾフィーが嘆くほどに、フランツに対する教育は峻烈なものだった。 12歳の時には週に50時間にも及ぶ授業時間が設けられ、13歳の時には勉強しすぎのストレスから病気になったが、しばらく休んだ後、さらに多くの科目が追加された。1844年以降は哲学、法律学や政治学、天文学、工学、ポーランド語も追加された。フランツが1週間に学ばねばならない科目は37に及び、授業は朝6時に始まり、夜の9時まで続いた。苦手な科目は数学と正書法であり、好きな科目は歴史と地理であった。母ゾフィーは宗教と歴史を大切に思っていたことから、この両教科の授業には必ず同席した。 国語であるドイツ語や当時の外交言語であったフランス語のほか、ラテン語、ハンガリー語、チェコ語、ポーランド語、イタリア語といったように多くの言語が含まれているが、これは多民族国家ハプスブルク帝国において重要な言語がカリキュラムに組み込まれた結果である。軍事関係については、陣営での指揮、連隊の配置、歩兵、砲兵、騎兵の任務などの訓練を受けるようになった。 ===1848年革命=== フランス王国で発生した2月革命がヨーロッパ中に飛び火して、オーストリア帝国では3月革命が発生した。ウィーンでは、およそ27年にわたって帝国宰相を務めていたメッテルニヒの罷免を求める声が、学生や労働者を中心に高まった。3月13日に群衆がシェーンブルン宮殿前の下オーストリア領邦議会議事堂に殺到し、検閲の廃止、出版の自由や自主憲法の制定を要求した。翌14日にメッテルニヒが職を辞してウィーンから逃亡すると、メッテルニヒを悪政の象徴とみなしていた民衆は歓喜した。伯父フェルディナント帝がフランツ・カール大公、フランツとともに馬車に乗って市内を駆け巡ると、民衆はこれを歓声をもって迎えた。かくしてウィーンには一時平穏が戻ったが、やがてバイエルン王国でルートヴィヒ1世が退位したとの知らせが届く。ウィーンはふたたび混迷に陥り、皇帝の安全さえ保証できない情勢になった。 このような不穏な情勢の中で、ハプスブルク家の次代を担うフランツは病弱な皇帝よりも大事な存在だった。母ゾフィー大公妃はイタリア戦線のヨーゼフ・ラデツキー将軍のもとにフランツを託し、軍隊での経験を積ませることにした。当時のイタリア戦線(第一次イタリア独立戦争)は決して思わしい状況ではなかったが、それでも革命的な様相を呈するウィーンよりはましだった。 帝国騎兵隊の制服に身を固めたフランツは、4月25日にイタリアへの旅路につき、4月29日にラデツキー将軍のもとに到着した。ラデツキー将軍は若き大公を安全な場所に避難させようとしたが、フランツはこれを拒絶した。5月6日に始まったサンタ・ルチアの会戦(英語版)ではコンスタンティン・ダスプレ(ドイツ語版)中将の部隊に所属した。ラデツキー将軍の報告書には、フランツについて次のように記されている。 「殿下は幾度となく、迫りくる砲火のもとに身をさらされ、しかも平然と落ち着き、冷静そのものであられた。これは私のいたく喜びとするところである。敵の砲弾が殿下のごく間近にまで飛来したにもかかわらず、微動だにされなかったのを、私自身が目にした」 フランツがイタリア戦線に発った4月25日、ウィーンではフェルディナント帝が欽定憲法を発布し、またしばらくは平穏が戻っていた。しかし5月15日、多くの民衆が普通選挙法の制定などの新たな要求を掲げて王宮前広場に集まり、宮殿の中に殺到しかねないありさまになった。フェルディナント帝は皇族や宮廷人をすべて引き連れて、やむなくチロル州都インスブルックに避難した。フランツはそのままイタリア戦線に留まることを望んだが、インスブルックへ来るようにとの指令を受け、やむなく両親らの待つインスブルックに入った。ここでは将来の花嫁となる従妹エリーザベトとの対面もあったが、まだこの時には彼女に対して何の感情も抱かなかった。 やがてプラハの暴動を鎮圧したアルフレート1世・ツー・ヴィンディシュ=グレーツ侯爵がウィーンに帰り、こちらの動乱も収束させていった。こうして8月初頭には宮廷はウィーンに帰還することができたが、ほんの2、3週間も経たないうちに、またしても急進的な学生や労働者が宮殿前に集った。宮殿を守る軍隊によって一時的に彼らは撃退されたものの、両者の溝は深まる一方だった。 10月16日、暴徒と化した民衆が陸軍省を襲い、テオドール・フォン・ラトゥール(ドイツ語版)伯爵を殺害し、路上で吊るし首にした。ウィーンは予断を許さぬ情勢に陥り、宮廷はふたたび都落ちする。今度の行き先はメーレンのオルミュッツであった。フランツは馬に乗り、一族の馬車に付き添うようにしてこれに同行した。 オルミュッツに逃れた宮廷では会議が行われ、伯父フェルディナント1世の退位が決定する。フェルディナント帝では国家の安泰を維持できず、その弟フランツ・カール大公も適任ではないという結論となった。 ===皇帝即位=== ====オルミュッツでの即位==== 青年皇帝が歩み寄り、伯父上の前に跪き、その祝福を受けた。「神のお恵みがあらんことを!」フェルディナント1世陛下はおおせられた、「しっかりおやり、うまくいくさ」と。皇后陛下は若い君主を我が胸にお抱きになられ、長いあいだ御両腕で御抱擁を続けられた。まなこをぬらさぬ人とていなかった。 ― 儀典長アレクサンダー・フォン・ヒュープナー(ドイツ語版)伯爵の回顧録より 1848年12月2日、オルミュッツの大司教館・玉座の間にて、伯父フェルディナント帝から譲位された。傍系のオーストリア大公は20歳が成人年齢とされていたが、フランツは特例として18歳で成人と認められた。儀典長アレクサンダー・フォン・ヒュープナー(ドイツ語版)伯爵の回顧録によると、首相フェリックス・ツー・シュヴァルツェンベルク侯爵によって、まずフランツの成年証書が、次にその父フランツ・カール大公の皇位放棄証書が、最後にフェルディナント帝の退位についての詔勅が読み上げられ、フェルディナント帝とフランツ・カール大公がこれに署名した。フェルディナント1世の祝福を受け、続いてフランツが新皇帝として文書に署名することで、オーストリア帝位は正式にフランツに移った。 フランツが「フランツ2世」ではなく「フランツ・ヨーゼフ1世」という異例の複合名を用いることになったのは、それだけ当時の革命が危機的状況だったことを示している。急進的な改革を行ったことで自由主義者から敬愛される神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世を彷彿とさせるこの名前を採り入れることによって、革命勢力をなだめようとする意図もあったのである。 しかし当のフランツ・ヨーゼフ1世は、君主は神によって国家の統治権を委ねられたとする王権神授説を固く信じて疑わない人物であった。このような思想をもつ新皇帝にとって憲法とは、その内容いかんにかかわらず、神から与えられた「信念が命ずるままに統治する」という統治者の義務に背くものであった。そのためフランツ・ヨーゼフ1世は、自由主義、国民主義の動きを抑圧しようとした。新皇帝としてウィーンの宮殿に入ると、フランツ・ヨーゼフ1世はただちに戒厳令を布いた。 これに多くのウィーン市民は失望したが、その一方でウィーンの平穏を取り戻すためには戒厳令が必要なのだと擁護する声も多く聞かれた。革命運動に身を投じた市民の中でいち早く皇帝派に変節した者の中には、のちの「ワルツ王」ヨハン・シュトラウス2世がいた。フランツ・ヨーゼフ1世の即位以降、彼は矢継ぎ早に『皇帝フランツ・ヨーゼフ行進曲』『戦勝行進曲』『ウィーン守備隊行進曲』などの体制側を賛美する楽曲を作った。もっとも、革命運動に深く関わったシュトラウス2世に対してフランツ・ヨーゼフ1世は何の反応も示さず、なかなか許そうとしなかった。シュトラウス2世を宮廷舞踏会音楽監督に任命する動議が出ても、フランツ・ヨーゼフ1世はこれを2回も却下した。 ===新絶対主義=== 母であるゾフィー大公妃の尽力により皇帝に即位したため、フランツ・ヨーゼフ1世はゾフィー大公妃の意見にほとんど逆らえなかった。そのため治世当初は、保守的なゾフィー大公妃がしばしば政治に介入した。首相フェリックス・シュヴァルツェンベルク侯爵は、貴族でありながら伝統的貴族をハプスブルク家にとっての脅威とみなし、むしろ農民層の大衆を信頼できる同盟者と考えた。彼の補佐を受けながらフランツ・ヨーゼフ1世が行った統治は「新絶対主義(ドイツ語版)」(ネオアプゾルティスムス)と称される。それは古い絶対主義を復活させようとするものではなく、近代的な新しい絶対主義を生み出そうとしたからである。また王権神授説を信じるフランツ・ヨーゼフ1世自身も、即位後ただちに内閣と議会の関係を変えようとはしなかった。「新絶対主義」の理論的拠り所は、万人のための近代的な経済・行政・教育システムを有無を言わさず与えることによって、万人への政治的諸権利の譲渡を不要にするというものである。 1851年12月31日、「大晦日勅書」を発する。これは皇帝の絶対的権威をうたったものであり、政治や立法への国民の関与を認めず、出版の自由や検閲の廃止などを暫定的に認めた1849年3月の欽定憲法を完全に廃止するものであった。これに先立つ8月にフランツ・ヨーゼフ1世は「イギリス的・フランス的憲法をオーストリア帝国に適用することの不可能なることは、見識あるすべての人々によって認められている」と断言しており、明らかに皇帝の意志が反映された結果である。9月には亡命していたメッテルニヒがウィーンに帰還する。かくしてオーストリアはふたたび絶対主義国家に戻った。 1852年にシュヴァルツェンベルク侯爵が世を去ると、フランツ・ヨーゼフ1世は首相を空席とし、真の絶対君主として君臨することになる。シュヴァルツェンベルク侯爵の後継者たりうる人物は、誰も見当たらなかったのである。アレクサンダー・フォン・バッハ内相が政府内で枢要な地位にあったが、それはほとんど内政問題のみに関してであった。この時代は内相の名から「バッハ時代」と呼ばれる。 ===ハンガリー蜂起の弾圧=== オーストリア帝国内の分邦であったハンガリーでは、三月革命以前からハンガリー貴族コシュート・ラヨシュらを中心とした独立闘争が活発に行われていた。これに対しフランツ・ヨーゼフ1世は1848年12月16日にヴィンディシュ=グレーツ侯爵をハンガリーに派遣してブダペストを陥落させた。コシュートは国外に逃亡したが、1849年4月には再びハンガリー人勢力によってブカレストを奪われてしまう。 広大なハンガリーを抑えるのは困難であり、またハンガリー人は支配層であるオーストリア人(ドイツ人)に根強い反感を抱いていたので、オーストリアのみではハンガリー人を完全に屈服させることができなかった。ヴィンディシュ=グレーツ侯爵はロシア帝国に援助を求めるよう皇帝に要請したが、母ゾフィーが反対を唱えたためにフランツ・ヨーゼフ1世は躊躇した。しかし事態を打破するにはやむを得ない状況であったので、ロシア皇帝ニコライ1世に援助を依頼することを決めた。また6月26日には、フランツ・ヨーゼフ1世のハンガリー親征が行われた。 我々の皇帝は素晴らしい限りであります。ラープで遠くに砲声を聞くやいなや、皇帝は手綱捌きもあざやかにみごとな*7750*足で前方にいた舞台の真ん中に踊り込みました。自分たちと危険と苦労をわかちあってくれる皇帝にへいしたちがどれほど喜び、歓声を上げたかお分かりになられると思います。部隊が街に入るか入らないうちに、皇帝はすでに燃えさかる橋の上におりました。しかし、それにしても皇帝が今にも焼け落ちんとする橋の上を疾駆するさま、そしてそれを両陣営の部隊が呆然と見つめている様子はなんとも感動的な瞬間であったことでしょう。 ― 皇弟マクシミリアン大公の手紙より 勇気ある皇帝の行動は、兵士の士気と忠誠心を大いに高める効果があったが、同時にあまりにも危険すぎた。シュヴァルツェンベルク侯爵は諸将との話し合いの上で、マクシミリアン大公の誕生日である7月6日にシェーンブルンへ帰還するよう皇帝兄弟に求め、フランツ・ヨーゼフ1世はこれに応じた。 1849年4月、フランツ・ヨーゼフ1世はワルシャワでロシア皇帝ニコライ1世と会談して、ハンガリー反乱鎮圧への支援を求めていた。オーストリアの申し出に応諾したロシアは、8月13日にハンガリー東部へ出兵した。ほとんどオーストリアの功績であるにもかかわらず、ハンガリーの将軍アルトゥール・ゲルゲイ(ドイツ語版)の降伏を受理したのはロシア軍だった。 1849年10月6日、独立を企てたとされるハンガリー元首相バッチャーニュ・ラヨシュ(ドイツ語版)伯爵を始めとする計114名のマジャル人の要人を粛清させた。バッチャーニュ伯爵は引退してすでに久しく、革命後期の暴動には一切責任がないと当時の世論は考えていた。これによって即位後まもなくのフランツ・ヨーゼフ1世は、「血に染まった若き皇帝(der blut‐junge kaiser)」としてハンガリー人に恐れられた。ハンガリーの反逆者に対して取られた措置はヨーロッパの世論にショックを与え、さらにハンガリー人の心情に大きな影響を及ぼすこととなった。 1852年、ハンガリー各地へ行幸し、ハンガリー人の熱狂的な歓迎を受けた。しかし、ある村を通り過ぎた際、村人たちがドイツ語で万歳を叫んでいたのに疑問を抱き、なぜハンガリー語で叫ばなかったのかを村長に訊ねた。すると村長は、それを命じたのは自分であると言った。村人たちはハンガリー語で「万歳、コシュート」と叫ぶのに慣れており、ハンガリー語で万歳を叫ぶと、つい同じことを叫んでしまうのではないかと恐れたのがその理由であった。かつて宰相メッテルニヒは「ハンガリー人を熱狂させるのは簡単だが、彼らを統治するのは困難である」と言った。まさにこのメッテルニヒの言葉のように、ハンガリー人は心の奥底から忠誠を誓ったわけではなかった。 ===暗殺未遂事件=== 1853年フランツ・ヨーゼフ1世襲撃事件(ドイツ語版)を参照。1853年2月18日の昼、副官マクシミリアン・カール・オドネル(ドイツ語版)伯爵のみを伴っての散歩中に、ブルク稜堡の胸壁に身を乗り出し、下の堀のところで行われていた軍事訓練の様子を眺めていた。そこを2週間前から暗殺の機会をうかがっていたハンガリー人の仕立物師リベーニ・ヤーノシュに襲われた。リベーニが突進しようとした瞬間、たまたま近くにいた女性がそれを見て大声で叫んだ。フランツ・ヨーゼフ1世はその叫び声に驚いて後ろを振り向いたため、致命傷は逃れることができた。しかし首から胸に突き刺されてフランツ・ヨーゼフは血みどろになり、数秒後にその場に崩れ落ちた。近くの古物市場で買い求めた刃物が凶器であった。副官はただちにサーベルを抜いて犯人の第2の突きを牽制し、そこに肉屋のヨーゼフ・エッテンライヒが駆けつけ、犯人を素手で殴り倒して取り押さえた。フランツ・ヨーゼフは刺された後、駆けつけた人々に向かって「彼を殴ってはならない。殺したりしてはならない」と叫んだという。 フランツ・ヨーゼフは傷口にハンカチを当てて近くのアルブレヒト宮殿に運び込まれ、宮廷劇場付きの医師フリードリヒ・シュティルナーの手当てを受けた。これ以降、医師団は12日の間に30の特別広報を出して、皇帝の容体・回復の様子を逐一伝えた。初診によると、後頭部の骨が損傷しており、安物のナイフの刀身が不潔なものだったために、傷が化膿し始めていた。次第に快方に向かったが、しばらくの間は視力が衰え、一時は失明の恐れさえあった。 この暗殺未遂事件をハンガリーの武力蜂起の新たな兆候かと疑った軍部は、2万の兵を動員して警戒にあたった。しかしこの事件に背後関係はなく、コシュートによるハンガリー革命の失敗を無念に思うハンガリー愛国主義者の単独犯行であることが判明する。フランツ・ヨーゼフは刑一等を減じてやりたいと願っていたとも伝えられるが、即時裁判によって死刑が確定し、リベーニは2月26日の朝にウィーン南郊外の刑場で処刑され、その母親には年金が交付された。 ウィーン市民の多くはそれまでフランツ・ヨーゼフ1世に対してあまり良い感情を抱いていなかったが、この事件のあとは一種の同情心からか親しみが生まれた。弟マクシミリアン大公が皇帝の命が救われたことを神に感謝するために新しい教会を建立しようと呼びかけると、30万人の市民がこれに賛同し、寄付金によってヴォティーフ教会が建立された。シュトラウス2世は、皇帝の命が救われたことを祝って『皇帝フランツ・ヨーゼフ1世救命祝賀行進曲』を皇帝に捧げた。フランツ・ヨーゼフ1世の傷の後遺症はしばらく続き、完治するまでに1年近くを要した。 ===結婚=== 若き皇帝のために、宮中では皇后選びの作業が進められていた。母ゾフィー大公妃がまず候補に挙げたのは、プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世の姪にあたるマリア・アンナ王女であった。1852年冬、かつてプロイセン王がウィーンを訪れたことへの答礼としてフランツ・ヨーゼフ1世はベルリンを訪れており、その際に美しいと評判の彼女に会って心を奪われていたことによる。また、好戦的な姿勢を隠さなかったフランス皇帝ナポレオン3世への対処のために、当時ぎすぎすしていたオーストリアとプロイセンの関係を改善したいという意図もあった。 しかし、マリア・アンナ王女はすでにヘッセン選帝侯国のフリードリヒ・ヴィルヘルム公子と非公式に婚約していた。あくまで内密にされていたのでゾフィー大公妃にはその情報が伝わっていなかったのである。プロイセン王妃はゾフィー大公妃の姉エリーザベト・ルドヴィカであった。そこでゾフィー大公妃は姉を通じてプロイセン国王を翻意させようとしたが、最終的にはオットー・フォン・ビスマルクによって拒絶された。 プロテスタントのホーエンツォレルン家とカトリックのハプスブルク家では宗旨が違うというのが破談の理由だったが、改宗の問題はその気になりさえすれば簡単に解決できることであり、実際に時のプロイセン王妃エリーザベト・ルドヴィカの例もあった。結局のところ、プロイセンは自国主導のドイツ統一を目論んでおり、その足枷となるオーストリア帝室との婚姻をこの時期に結ぶことはありえなかったのである。 次善の策として母が目をつけたのは、バイエルン王家であるヴィッテルスバッハ家傍系バイエルン公家の公女で、皇帝にとっては母方の従妹にあたるヘレーネ・イン・バイエルンだった。1853年2月18日の夜、フランツ・ヨーゼフとヘレーネの見合いを兼ねて、外国からの賓客を招いた舞踏会が催される予定だったが、当日の昼にリベーニによる皇帝襲撃事件が起こり、見合いは延期となった。 8月18日に満23歳になる皇帝の誕生日の祝賀をするという名目で、母ゾフィーはミュンヘンから妹ルドヴィカと姪を招待した。こうして8月16日、ウィーンとミュンヘンのほぼ中間に位置する避暑地バート・イシュルの地で両者の見合いが行われたが、この時フランツ・ヨーゼフは、社交界に慣れさせるためにヘレーネと一緒に連れてこられたその妹エリーザベトに一目惚れをした。顔合わせの際にはヘレーネには見向きもせずにエリーザベトに熱い視線を注ぎ、その後の夜会でもヘレーネにはほとんど無関心でエリーザベトとばかり言葉を交わしていた。 翌17日の朝、母ゾフィーの部屋を訪れると、エリーザベトがいかに魅力的であるかを情熱的に語った。ゾフィーがヘレーネについての意見を訊ねても、フランツ・ヨーゼフはすぐにその話をエリーザベトについてのものに変えてしまった。夕べに舞踏会が催されたが、そこでもエリーザベトとしか踊ろうとしなかった。それまで自分の言うことにはすべて従っていた息子が、自分の選んだヘレーネには目もくれないというこの状況を前にして、母ゾフィーは非常に困惑した。結局のところゾフィーはフランツ・ヨーゼフに押し切られる形で結婚を了承することになる。この時ほどフランツ・ヨーゼフが自分の感情を表に出したことはなかったと伝えられる。 1854年4月24日、ウィーンのアウグスティーナー教会(英語版)で枢機卿ラウシャーのもと、午後6時半に結婚式が挙行された。シェーンブルン宮殿の「鏡の間」で祝賀舞踏会が行われ、招待客は3000人に及んだ。この結婚によって皇帝の人気は高まり、夜に皇帝夫妻が馬車で町を巡遊すると、沿道には大勢の人々が詰めかけた。 新婚の皇帝夫妻は、まずラクセンブルク宮殿で新生活を始めた。しかし、新婚早々クリミア戦争が激化したため、フランツ・ヨーゼフは早朝から深夜まで会議や閣議、応接に追われ、あまり新妻を顧みる余裕がなかった。 母ゾフィーはエリーザベトにウィーン流の宮廷教育を施し、ハプスブルク家の皇后としてふさわしい振る舞いを常に求めた。そもそも母ゾフィーはヘレーネ公女を皇后にと考えていたのであって、その妹であるエリーザベトについてはあまり快く思っていなかった。このような状況の中で、フランツ・ヨーゼフは妻と母の間で板挟みになった。両者が何かをめぐって対立した際、「皇帝になれたのは私のおかげ」だと母に常々言い聞かされてきたフランツ・ヨーゼフはいつも母ゾフィーの側につかざるをえなかったが、母のいないときには妻エリーザベトに理解を示した。 ===ウィーン改造=== 1853年の皇帝襲撃事件が起きる前から、ウィーン城壁を撤去しようという意見は多く聞かれた。市街地区に建設用地はまったくなく、19世紀初頭以来、くりかえし建物禁止令が発された。用地の慢性的な不足により建物を建設できないのに対して、ウィーンの人口は19世紀前半の50年でほぼ倍増し、住まいを求める人口が20万人にも達していた。このような状況下で、当時のウィーン市長ヨハン・カスパール・フォン・ザイラー(ドイツ語版)や通産大臣カール・ルートヴィヒ・フォン・ブルック(ドイツ語版)などは熱心にウィーン改造を主張した。皇帝襲撃事件の数日前にフランツ・ヨーゼフは、美術アカデミーの教授ルートヴィヒ・フェルスター(ドイツ語版)からウィーン改造案についての説明を受けて大いに関心を示し、基本的に帝都改造に同意していた。そこに襲撃事件が発生し、ますますウィーン改造への追い風となった。 1857年7月、長年の懸案となっていたウィーン城壁の撤去計画がまとまり、12月20日にフランツ・ヨーゼフは帝都改造の勅書に署名した。皇帝の決断が30年後の世紀末ウィーンの栄華を導くことになる。警察長官ヨハン・フランツ・ケンペン(ドイツ語版)のように、この決定を性急かつ無思慮なものと見なす軍人や保守派市民もいたが、大部分のウィーン市民に受け入れられた。とりわけ労働者は、撤去工事と新たな建設工事によって仕事が増えると歓迎した。 共和主義者は城壁が撤去されることによって宮殿が無防備になると考えたが、そもそもこの古い城壁は武器の飛躍的な発達によって有効性を失いつつあった 。むしろ複雑に入り組んだ街区を整理することによって、1848年革命のようにバリケードが築かれる余地がなくなり、治安はより保たれることになる。それまでは狭い城門を通らねばならなかったが、城壁を撤去すれば大量の部隊を周辺から呼び寄せることもできる。支配者側としてはこのような考えのもとでウィーン改造を計画した。これらは、フランス皇帝ナポレオン3世がジョルジュ・オスマンとともに断行したパリ改造の先例にいくらか影響を受けたものである。 それまでウィーン市内を囲んでいた城壁は長い時間をかけてすべて撤去され、旧市街と34ある郊外地区との間に横たわる、防備のための広々としたグラーシ(Glacis)と呼ばれる空間に、リングシュトラーセと呼ばれる環状線が設けられることとなった。リングシュトラーゼの両側にネオ・ゴシック様式の市庁舎や新古典様式の帝国議会を建設するなど、歴史主義的な建造物による都市計画が行われた。また、巨大な兵舎や国防省、警察の中枢がリングシュトラーセの両端に配置された。 ===イタリア戦線の敗退=== 1815年のウィーン会議の結果、北イタリアに位置するロンバルディアとヴェネトはオーストリア帝国に帰属することとなり、ロンバルド=ヴェネト王国となっていた。しかし、イタリア民族主義の高まりから、現地ではオーストリアからの分離運動が盛んに行われるようになっており、フランス皇帝ナポレオン3世がこれを密かに支援していた。 そこで、政情不安を和らげるためにフランツ・ヨーゼフは、1856年11月17日から4か月間にわたり、皇后エリーザベトを伴って北イタリアへの巡幸を行った。ヴェネツィアでは、ロンバルド=ヴェネト王国の副王を務めていたラデツキー元帥との再会を果たした。北イタリアに睨みを利かせていたラデツキー元帥は90歳の高齢となっており、著しく老衰していた。そこでフランツ・ヨーゼフはラデツキー元帥の任務を解き、自身の弟マクシミリアン大公を後任の副王に就かせた。 マクシミリアン大公はサルデーニャ王国とフランスとの間に頻繁な接触があることを察知し、ウィーンの政府に相手を挑発しないよう警告したが、強硬派のオーストリア外相カール・フォン・ブオル=シャウエンシュタインは状況を正確に判断することなく、サルデーニャ王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世に対してオーストリア領ロンバルディアから撤退するよう最後通牒を突きつけた。皇帝の侍従長はジュライ・フェレンツ・ヨージェフ(ドイツ語版)伯爵を総司令官に抜擢したが、ジュライはマクシミリアン大公が無能と評する人物であった。数ではサルデーニャ・フランス連合軍に勝っていたものの、ジュライ将軍を含めてオーストリア軍の士気は低く、軍備も不足していたことから、1859年6月4日のマジェンタの戦いで退却を余儀なくされ、ロンバルディアの要衝ミラノを奪われてしまう。6月18日にフランツ・ヨーゼフはジュライ将軍を解任し、自ら指揮を執ることを軍隊に公表した。 ソルフェリーノの戦いにおいてフランツ・ヨーゼフは陣営を鼓舞して回ったが、砲弾も食糧も不足する中で敗戦を喫する。7月11日、ヴィッラフランカ・ディ・ヴェローナの地においてナポレオン3世との交渉の場が設けられた。会談の結果、ヴェネトはオーストリア領のまま維持し、ロンバルディアはサルデーニャ王国に割譲することとなった。トスカーナ大公国、モデナ公国、パルマ公国の亡命君主の復位も取り決められたが、その翌年には国民投票によっていずれもサルデーニャ王国に併合される。 ===「新絶対主義」の終焉=== 一連のイタリア統一戦争の敗北、とりわけソルフェリーノの戦いに完敗したことは、オーストリア人にとって屈辱的なことであった。フランツ・ヨーゼフは侍従長グリュンネ伯爵を更迭し、内相バッハを閑職に追いやるなどして体制を一新した。職務にとどまった政府要人は皇帝ただ一人という徹底ぶりだったが、世論はなかなか収まらずに皇帝への不満が高まった。王朝そのものの威信も傷つき、コシュートを中心とするハンガリーの民族主義勢力も再び活動を開始した。 戦争によって財政状態は一層悪化したため、フランツ・ヨーゼフ1世は改革を迫られた。19世紀半ばの銀行家たちは代議制議会を求めており、これがなければ外国債を募ることはできなかったのである。1860年5月31日、帝国議会が拡大され、「新絶対主義」の時代は終焉を迎えた。また1861年には、二月勅許(憲法)で自由主義的改革を一部導入することを認めざるを得なくなる。それはオーストリアを立憲君主国とするものだったが、しかしフランツ・ヨーゼフは依然として外務と軍事に関する多くの権力を保持した。急進的なハンガリー人は皇帝に権力が集中しすぎるとして反対し、その中にはさまざまな形で抵抗運動を続ける勢力もあった。そのためフランツ・ヨーゼフは怒り、軍隊を派遣してハンガリー議会を解散させた。 二月勅許を発した後のオーストリアは、中央集権的な自由主義国家のようであり、ほとんどのドイツ諸国の自由主義・立憲主義的な路線に合致していた。反自由主義的なプロイセンに対抗して、自由主義的なドイツの盟主となる可能性がオーストリアには開かれていた。ドイツの中規模諸国にとってオーストリアの立憲主義的立場は最大の魅力であったにもかかわらず、フランツ・ヨーゼフは強制されない限り立憲主義を受け入れようとしなかった。1864年初頭には、公然と立憲主義を称賛したシュメアリング内相を厳しく叱責している。 ===二重帝国の成立=== ====普墺戦争の敗戦==== イタリアで失敗した後、オーストリアの関心はもう一つの主要な利益圏であるドイツに向けられ、ドイツ連邦の指導的地位を再び主張するようになった。これはプロイセン王国主導の小ドイツ主義的な関税同盟に対する挑戦であり、プロイセンとの伝統的な対抗関係が復活した。イタリア戦線に援軍を送らなかったことを「背信行為」として、フランツ・ヨーゼフはプロイセンを公然と非難した。 プロイセン主導のドイツ統一に燃えるプロイセン首相ビスマルクは、ハプスブルク支配下の諸民族の民族主義者たちを援助して扇動したり、ナポレオン3世にはフランス語圏の支配権移譲をちらつかせるなどして、オーストリアとの決戦に備えて準備を進めていた。それに対してオーストリアはほとんど何も準備せず、開戦を望んでいる者はほとんどいなかった。フランツ・ヨーゼフはあくまで平和的解決を願っており、1866年4月8日の閣議でもオーストリア政府の和平の意志が再確認された。しかしプロイセンはさまざまな形でオーストリアを挑発し、ついには普墺戦争の開戦に至った。1865年にオーストリアは自由主義的憲法を停止していたが、それでも自由主義的なドイツ諸国家のほとんどはオーストリア側に付いた。 消極的な自軍指揮官ルートヴィヒ・フォン・ベネディク(英語版)に決戦を命じた結果、ケーニヒグレーツの戦いで大敗を喫し、プロイセン軍に首都ウィーンに迫られて不利な講和を結ぶこととなった。この際、北イタリアに残されていたオーストリア領ヴェネトは、プロイセンに味方していたイタリア王国(1861年に成立)に割譲された。ハプスブルク家は神聖ローマ皇帝としてドイツの君主の首位を占めてきたし、ドイツ連邦の議長職にあったことでその後も象徴的な指導権を維持していたが、敗戦によってオーストリアはこれらの威信と権力を喪失した。 普墺戦争後も、オーストリアはドイツから完全に締め出されたわけではなかった。その後の数年間、フランツ・ヨーゼフ1世は自国の地位の回復を試み、ドイツ統一問題における発言権を取り戻そうとした。とはいえ、大ドイツ主義ではなく小ドイツ主義が勝利したことによって、オーストリアは従来の西方重視の政策を東方主体に転換せざるをえなくなった。また、イタリアの領土を失ったことで南方からも追い払われ、オーストリアは必然的に中・東欧に活路を見出すほかなくなった。この敗戦後に、ベーメン、メーレン、ハンガリーに目を向けた「ドナウ君主国」という観念が急浮上した。 ===アウスグライヒ=== 帝国内の諸地域では、民族主義が高揚して反政府運動が盛んになっていた。プロイセンに敗戦したことによる諸々の喪失は、自国を支配する能力にも影響を及ぼしたのである。とりわけ警戒を要したのは、皇帝に対する恨みがいまだ残存しているハンガリーだった。ウィーンはこのような状況下において、ベーメンのチェコ人と組んでハンガリーを抑えるか、ハンガリーのマジャル人と組んでスラブ民族を抑えるかという二者択一を迫られることになった。 民族や人口比、宗教が同じカトリックであること、ウィーンとブダペストの近さなどからみて、ハンガリーとの協調が適切だと考えられた。また、皇后エリーザベトがハンガリーを愛してその熱烈な擁護者になっていたことも大きな影響を及ぼした。アウスグライヒについてのハンガリーとの交渉はプロイセンとの戦前から行われており、オーストリアがプロイセンに大敗した後も、ハンガリーは足元を見ることなく戦前と同じ条件のみを求めた。フランツ・ヨーゼフはこれに感謝しつつ、1867年にハンガリー人とのアウスグライヒ(妥協)を実現させ、二重君主国であるオーストリア=ハンガリー帝国を成立させた。これにより、ハプスブルク帝国をオーストリア帝国領とハンガリー王国領に分割し、二重帝国の中央官庁としては共同外務省と共同財務省を設置する一方、外交・軍事・財政以外の内政権をハンガリーに対して大幅に認めた。 1867年6月、フランツ・ヨーゼフはエリーザベトとともにマーチャーシュ聖堂へ赴き、ハンガリー国王としての戴冠式を執り行った。なお、このブダペストでの祝賀行事の最中、メキシコ皇帝となった弟マクシミリアンが処刑されたという知らせを受けた。 フランツ・ヨーゼフはアウスグライヒが成立した後、ハンガリー人以外の民族とも関係を自由に改善する余地があると考えていた。チェコやポーランドにも、ハンガリーにとったのと同様の措置をとろうと考えた。具体的な構想が提出され、帝国を連邦制に改めるドナウ連邦構想が公式に議論された。不満を抱くチェコ人のためにボヘミア王として戴冠することを約束したが、これを二重制を壊すものだとするハンガリー首相アンドラーシ・ジュラの猛烈な反対に遭い、断念せざるをえなかった。 ===ウィーン市長ルエーガーとの対立=== 即位当初のフランツ・ヨーゼフはユダヤ人の解放を拒んでいたが、1867年以降はユダヤ人の臣民としての身分を尊重するようになった。反ユダヤ主義の社会的風潮の中で、大きな資本を握るユダヤ人の権利の庇護者となったのである。1914年にユダヤ人難民をウィーンから放逐するとキリスト教社会党(英語版)が政府を脅したのに対し、フランツ・ヨーゼフは追われたユダヤ人にシェーンブルン宮殿を開放するという脅しでこれに応じたと伝えられる。 1895年、ウィーン市長選挙でキリスト教社会党(英語版)のカール・ルエーガーは、ユダヤ人を激しく攻撃する演説をおこなって人気を獲得し、市議会での投票で過半数を得た。しかしフランツ・ヨーゼフはこれを承認せず、「余の目の黒いうちは、わが帝都の市長として彼を批准することはなかろう」と拒否し続けた。当時、市長は皇帝の任命する州の総督に承認されなければならなかった。そのため皇帝の同意を得られないルエーガーを総督は承認せず、ルエーガーは正式な市長になれなかったが、しかしいくら皇帝が拒否しても彼は繰り返し市長に選出された。この確執は3年にもわたって続き、皇帝による市民無視との印象をウィーン市民に与えた。一般市民の間では「ルエーガー万歳」の声が一段と高まり、ルエーガーは皇帝と人気を競うほどになった。 1897年、5度目の選出を受けたルエーガーに対して、フランツ・ヨーゼフはついに折れて、4月16日にウィーン市長就任に同意した。4月20日にはルエーガーと謁見し、市長就任の宣誓が執り行われた。しかしこの一連の流れからフランツ・ヨーゼフは、帝国内のユダヤ人から「反ユダヤ主義の盾になって下さるわれらの庇護者」としてますます敬愛されるようになった。 ===相次ぐ家族の不幸=== 聡明で将来を嘱望された長男ルドルフ皇太子は、保守的な父帝と対立し、1889年にマリー・ヴェッツェラ男爵令嬢とマイヤーリンクで謎の心中を遂げた(暗殺説もある)。フランツ・ヨーゼフは嘆き悲しみ、しばしば「このような悲しい日々にあっては、皇后がいかに頼りであり、また慰めであろうか」と言葉を漏らしたという。息子ルドルフに代わる皇位継承者は、その後しばらく決定されなかった。 1898年、皇后エリーザベトが旅先のジュネーヴでイタリア人無政府主義者ルイジ・ルキーニに暗殺されたことは、フランツ・ヨーゼフに大きな衝撃を与えた。その突然の訃報に接した際、悲嘆のあまり「この世はどこまで余を苦しめれば気が済むのか」と泣き崩れたと伝えられている。側近のオイゲン・ケッテルルは、「それ以後の陛下は、執務時間中でも亡き皇后陛下の写真を見つめながら、物思いにふけっておられることがしばしばだった」と語っている。 ===フランツ・フェルディナント大公との対立=== 弟カール・ルートヴィヒ大公が1896年に死去すると、その長男で皇帝にとっては甥にあたるフランツ・フェルディナント大公を帝位継承者に指名した。ハンガリーの政治的独立を半ば認めて帝国内の民族融和を図るフランツ・ヨーゼフの政策に対し、フランツ・フェルディナントは、多くの特権を得ているにもかかわらずなお完全な独立を要求するハンガリー人を「厚顔」として批判するなど、両者の間には政治的対立がたびたび見られた。フランツ・ヨーゼフが諸民族の融和を信条とし、「一致団結して」をスローガンに掲げているのに対し、フランツ・フェルディナントはオーストリアの強化を目指し、国粋主義的な思想を展開していた。 また、フランツ・フェルディナント大公は結婚問題をも引き起こしていた。将来の皇后としては身分不相応なゾフィー・ホテク伯爵令嬢との貴賎結婚を欲していたのである。再三にわたって結婚の許可を求められたフランツ・ヨーゼフは「ならば帝位か結婚か、どちらかを選べ」と迫ったが、これに対してフランツ・フェルディナントは帝位と結婚の両方を願った。故カール・ルートヴィヒ大公の後妻、すなわちフランツ・フェルディナントの義母マリア・テレサ大公妃が皇帝を説得した。その結果、ゾフィーを皇后の身分にせず、また彼女との間に生まれる子孫には帝位継承権を与えないという条件のもとで、フランツ・ヨーゼフはこの結婚を承認した。1900年7月1日に結婚式が催されたが、フランツ・ヨーゼフは出席を拒否した。 フランツ・ヨーゼフはシェーンブルン宮殿に好んで住み、またフランツ・フェルディナントは結婚後にベルヴェデーレ宮殿に居を構えるようになったため、この対立はさながらシェーンブルン対ベルヴェデーレの様相を呈していた。1906年から、フランツ・フェルディナントは次第に政府内でいくらかの発言権を認められるようになり、フランツ・コンラート・フォン・ヘッツェンドルフやマックス・ウラディミール・フォン・ベック(英語版)など、ベルヴェデーレ派の人々が政府上層部で影響力を持つようになっていった。政治に参加するようになった彼らは、ベルヴェデーレ側ではなくシェーンブルン側の意に従う人間になった。この後も政府を支配したのは依然としてフランツ・ヨーゼフであったが、やがて彼らに流される形で第一次世界大戦の開戦に至ることになる。 ===第一次世界大戦=== ====ボスニア・ヘルツェゴビナの併合==== 1908年7月、オスマン帝国が青年トルコ革命に伴って立憲政治を再開した。ボスニアの占領状態が国際的に無効化されることを危惧して、フランツ・ヨーゼフは1908年10月にボスニアとヘルツェゴヴィナの併合に踏み切った。この両地域は、1878年のベルリン会議において、「当地域におけるスルタンの主権を侵害することはない」と1879年のボスニア占領協定に明記した上で、オーストリアが統治の委任を受けたものである。オスマン帝国の主権は排除されなかったが、実際にはオスマン帝国の主権を骨抜きにする統治政策が実施されていた。 なお、この併合宣言は同盟国であったドイツ帝国やイタリア王国にも通知せずに行われたものであり、ヨーロッパ中を騒然とさせた。ヨーロッパ戦争を引き起こす恐れがあったが、ひとまずドイツによって戦争は回避された。ドイツがロシアに併合を受諾すべしと強硬な態度に出て、ロシアが外交的に譲歩することによって緊張状態が解決されたのである。 フランツ・ヨーゼフには、世襲した領土をそのまま次代に譲渡したいとの思いがあったので、ボスニア・ヘルツェゴビナが多少なりとも失われたイタリア半島の領土の代わりになるとの考えもあった。しかし、この併合は汎スラヴ主義の先頭に立つセルビア王国との関係を悪化させて帝国内のスラヴ系民族を刺激し、さらなる民族問題の複雑化につながった。土地所有者を含む多くのイスラーム教徒のオスマン帝国への移住が急増したことも、帝国のボスニア統治にとって深刻な問題であった。 ===サラエボ事件と開戦=== 帝国内の民族問題や汎スラブ主義の展開への対応に苦慮する中、1914年にサラエボ事件が起こり、皇位継承者フランツ・フェルディナント大公が暗殺された。この一報を耳にしたフランツ・ヨーゼフが発したとされる最初の言葉は「恐ろしいことだ。全能の神に逆らって報いなしには済まない。余が不幸にも支えられなかった古い秩序を、より高い力が立て直して下さった。」であると伝えられている。王朝の継承者たるフランツ・フェルディナント大公が貴賤結婚を成して王朝の義務に反したことに対して、神が天罰を下したのだとフランツ・ヨーゼフは見なしたのである。 このような反応をみせたフランツ・ヨーゼフであるが、王朝の体面を守るためには、皇位継承者を殺されて黙っているわけにはいかなかった。ハンガリー首相ティサ・イシュトヴァーンは、現状のままセルビアと開戦するのはバルカン半島にまともな軍事基地を持たない帝国側が不利であるとして反対したが、皇帝以下のウィーン政府は、セルビアが十分な謝罪をしなければ軍の動員も辞さない構えを示した。 帝国共通の外務大臣レオポルト・ベルヒトルトから戦争への署名を求められ、フランツ・ヨーゼフはバート・イシュルにある夏の別荘で宣戦布告の文書に署名した。7月28日にオーストリアはセルビアに宣戦を布告し、第一次世界大戦が勃発する。7月末にフランツ・ヨーゼフはフランツ・コンラート・フォン・ヘッツェンドルフに対して「もし帝国が滅亡しなければならないなら、少なくとも品位をもって滅亡すべきである」と語っている。 開戦の結果、フランツ・ヨーゼフは自らの権力を手放すことになった。あらゆる権力がコンラート・フォン・ヘッツェンドルフの束ねる陸軍総司令部に集中し、84歳の誕生日が近づいていたフランツ・ヨーゼフは、シェーンブルン宮殿でただ作戦についての情報を与えられるだけになってしまった。皇帝はもはや帝国の実際上の支配者ではなくなってしまったのである。 フランツ・フェルディナント大公をサラエボ事件で失った後、フランツ・フェルディナントの弟オットー・フランツ大公の長男であるカール大公(後のカール1世)が新たな帝位継承者となった。大戦の緒戦でオーストリア軍が勝利したとの一報が届いた時、カールの妃ツィタから祝いの言葉をかけられたフランツ・ヨーゼフは、「そうだ。勝利だよ。しかし、余の戦いはいつもこんな風に始まり、敗北に終わるのだよ。そして、今度はもっと悪い結果になるかもしれない。みんなは言うだろう。余が老い果てて、もはや戦うことができない、革命でも勃発すれば、一巻の終わりだろう、と。」と述べたという。 ===死去=== 帝国内部では、しだいに大戦疲れの兆候が見えるようになる。ハンガリー当局はライタ川以西への食料の供給を抑えるようになった。そして銃後の経済的困窮によって労働争議とストライキが増加した。1916年7月、フランツ・ヨーゼフは侍従武官のアルベルト・フォン・マルグッティ(ドイツ語版)にこう語ったとされる。 ベルヒトルト外相の後任となったシュテファン・ブリアン伯爵も、10月には和平を結ぶ必要について言及し始めた。 11月に入るとフランツ・ヨーゼフは衰弱し、9日には高熱を発した。11日には熱は38度4分となり、ますます病状が悪化した。皇帝自身が「今度は助からないかもしれない」と呟いたほどだった。しかし12日には熱が下がって食欲も出るなど、病状は少し回復した。再び書類の山に向かい、客人を接待できるほどになったものの、17日には再び高熱を発した。20日の11時半にカール大公夫妻が見舞いに訪れると、2人に向かって「早く回復したい。仕事が多く残っている。とても病気になどなっておられない」と口にした。 11月21日の夜、明朝3時半に起こすように言いおいて、ハプスブルク家の大勢の縁者たちに見守られながら眠りについた。死亡時刻は午後9時5分、死因は肺炎、享年86だった。11月30日にカプツィーナー納骨堂の霊廟に葬られた。フランツ・ヨーゼフ1世が生涯をかけて守ろうとしたハプスブルク帝国は、老帝の死去のわずか2年後に世界地図から姿を消すことになる。 ==評価== 戦争には負け続け、皇太子にも皇后にも先立たれ、民族問題にも悩まされた不幸な皇帝だと一般的に評価される。数多くの過ちを繰り返したものの、その忍耐と不屈の精神、そして温厚にして誠実な人柄から、晩年には帝国内のすべての民族に慕われた。 神聖ローマ皇帝の由緒正しい血統、68年にもわたる最長在位記録。そして皇太子ルドルフの情死、美貌の皇妃エリーザベトの暗殺事件といった帝室の悲劇。これらの要素は、フランツ・ヨーゼフ1世をよりいっそう皇帝らしく見せ、オーストリア国民の理想の君主像に限りなく近づけた。幼年学校や将校クラブはもちろん、安宿や娼家にも皇帝の肖像が飾られていた。オーストリア各地のみやげもの屋には皇帝の似顔絵入りの絵はがきやコーヒーカップが並び、皇帝のプロマイドが人気を呼んでいた。 第一次世界大戦の困窮の最中だったため、死去の時にはさほど国民に動揺を与えなかった。当時の帝国議会議員の日記には、「深い倦怠感と無気力さが帝国中に漂い、老帝の死に対する悲しみも、新皇帝に対する歓声もあまりみられないようだ」と書かれている。しかし戦間期の混乱や第二次世界大戦の悲劇の後、「古き良き帝国時代」の象徴としてフランツ・ヨーゼフ1世の絶大な人気が復活した。今なおウィーンの街ではフランツ・ヨーゼフ1世の銅像やポスターを至るところで見ることができる。これはホーエンツォレルン家の王都だったベルリンでは見られぬ光景である。東欧革命後の現在では、オーストリア以外の旧帝国領土でもフランツ・ヨーゼフ1世の肖像画をあしらったミネラルウォーターなどの商品が出回っている。 69年の治世の中で、政治的には数々の難題に直面したが、オーストリアの文化・経済は大きな発展をみた(世紀末ウィーン)。フランツ・ヨーゼフ1世は公私を問わずさまざまな行事に姿を見せ、あらゆる芸術文化を庇護した。世紀末ウィーンの輝きすら沈みゆく帝国の最後の光芒であったが、この文化発展への貢献、とりわけ19世紀末にウィーンを文化メトロポーレに変貌させたことこそが、フランツ・ヨーゼフ1世の最大の功績だといえる。 ==人物== 王権神授説を信じる絶対主義的な君主であり、かつ貴賤結婚を断固として認めない古いタイプの君主であった。実際にフランツ・ヨーゼフ1世も自らを「旧時代の最後の君主」であると認めており、1910年にアメリカ大統領セオドア・ルーズベルトと会談した際にも「もしマクシミリアン1世が最後の騎士とするなら、フランツ・ヨーゼフは最後の君主である」と自ら語っている。王朝と国家は、彼の心の中では同一の概念であった。そのわりには質素な生活ぶりであったが、代わりに宮廷儀典の厳守を強く主張した。また、晩年にはこのように語っている。「余は久しい以前からよくわかっていた。今日の世界にあって、われわれがいかに変わり者であるかを…」新しいもの、すなわち「文明の利器」である機械にアレルギーを示し、自動車と電話は決して用いようとしなかった。自動車については77歳の時に、イギリス王エドワード7世の求めに応じて1度だけ彼と同乗したことがあるが、電話については1度も使ったことがなかった。ただし、電信機だけはよく利用した。どのようなことも電報で通信し、シェーンブルン宮殿の他の部屋への連絡にも用いた。1835年、5歳のクリスマスの際に「私が一番好きなのは軍隊のものです」と語るなど、幼い頃から非常に軍隊を愛した。幼少期にねだった玩具は、軍隊に関連するものばかりであった。16歳の時に初めて帝国陸軍将校の軍服を身に着けることができ、非常に感激したという逸話も伝わる。皇帝の正装はスペイン風式服であるが、フランツ・ヨーゼフ1世は軍服ばかりを着用し、スペイン風式服に袖を通すことはほとんどなかった。フランツ・ヨーゼフはハプスブルク家の古くからの宮廷儀典を非常に重んじたものの、服装についてはその対象外であった。狩猟が少年期からの趣味であり、ウィーン近郊のいたるところに狩りのための別荘を建てている。休暇日や保養に出かけた際にはよく鹿狩りを楽しんだ。祖父フランツ1世の時代までは、あらかじめ捕獲された野生動物を、白馬に乗った皇帝らが宮廷楽団の音楽を背景に追いかけるという宮廷行事だったが、フランツ・ヨーゼフはみずから猟銃を背負って狩人さながらの恰好で山腹を歩き回った。息子ルドルフへしばしば送る手紙に「今日はどこぞでイノシシを何頭、シカを何頭射た」と得意げに書き添えた。しかしルドルフに先立たれてしばらくの間は、「鹿を見るとルドルフのことを思い出してしまう」と言って狩猟から足を遠のけた。芝居は好んだが音楽にはほとんど関心を示さず、芝居を見に行った際に聴衆が一斉に起立しているのを見るまで、皇帝讃歌『神よ、皇帝フランツを守り給え』を知らなかったという。芸術・音楽・文学などには疎かったにもかかわらずそれらの庇護者であり、当時ウィーンの批評家に酷評されていたジュゼッペ・ヴェルディに対する支持をヨハン・シュトラウス2世とともに表明している。なお、音楽については基本的にほとんど興味がなかったが、例外的にシュランメル音楽を好み、皇后から紹介された女友達の舞台女優カタリーナ・シュラットとともにしばしば聴きに行ったという。 ==子女== 皇后エリーザベトとの間に1男3女を儲けた。 ゾフィー(1855年 ‐ 1857年)ギーゼラ(1856年 ‐ 1932年)ルドルフ(1858年 ‐ 1889年) ‐ オーストリア皇太子マリー・ヴァレリー(1868年 ‐ 1924年)なお、他にも幾人かの落胤がいたとされる。そのうちの1人は愛人のアンナ・ナホフスキーに産ませた娘で、新ウィーン楽派の中心人物アルバン・ベルクの妻になった。あくまで噂の域を出ないが、指揮者クレメンス・クラウスもフランツ・ヨーゼフ1世の落胤だという話がある。 ==関連作品== ===映画=== フランツ・ヨーゼフ1世を演じた主な俳優は以下の通りである。 パウル・ヘルビガー:「春のパレード」(1934年)、「Die Deutschmeister」(1955年)フランチョット・トーン:「陽気な姫君」(1936年)クルト・ユルゲンス:「ワルツの季節」(1935年)ジャン・ドビュクール(フランス語版):「Le secret de Mayerling」(1949年)ルドルフ・フォルスター(ドイツ語版):「Im wei*7751*en R*7752**7753*l」(1952年)カールハインツ・ベーム:「プリンセス・シシー」シリーズ(1955年 ‐ 1957年)ジェームズ・メイソン:「うたかたの恋」(1968年)ジャック・ホーキンス:「素晴らしき戦争」(1969年) ===ミュージカル=== 『エリザベート』 ‐ 日本版キャストについては該当記事を参照。 =レオナルド・ダ・ヴィンチ= レオナルド・ダ・ヴィンチ ((伊: Leonardo da Vinci、イタリア語発音: [leo*8011*nardo da *8012*vint*8013*i]  発音)1452年4月15日 ‐ 1519年5月2日(ユリウス暦))は、イタリアのルネサンス期を代表する芸術家。フルネームはレオナルド・ディ・セル・ピエーロ・ダ・ヴィンチ (Leonardo di ser Piero da Vinci) で、音楽、建築、数学、幾何学、解剖学、生理学、動植物学、天文学、気象学、地質学、地理学、物理学、光学、力学、土木工学など様々な分野に顕著な業績と手稿を残した。容貌にも優れ美男子であったという。 ==人物== ルネサンス期を代表する芸術家であり、「飽くなき探究心」と「尽きることのない独創性」を兼ね備えた人物といい、日本の美術史では「万能の天才」といわれている。史上最高の呼び声高い画家の一人であるとともに、人類史上もっとも多才の呼び声も高い人物である。アメリカ人美術史家ヘレン・ガードナー(英語版)は、レオナルドが関心を持っていた領域分野の広さと深さは空前のもので「レオナルドの知性と性格は超人的、神秘的かつ隔絶的なものである」とした。しかしながらマルコ・ロッシは、レオナルドに関して様々な考察がなされているが、レオナルドのものの見方は神秘的などではなく極めて論理的であり、その実証的手法が時代を遥かに先取りしていたのであるとしている。 1452年4月15日、レオナルド・ダ・ヴィンチは、フィレンツェ共和国から、約20km程、離れたフィレンツ郊外のヴィンチ村において、有能な公証人であったセル・ピエーロ・ダ・ヴィンチと農夫の娘であったカテリーナとの間に非嫡出子として誕生した。 1466年頃、レオナルドは、当時、フィレンツェにおいて、最も優れた工房の1つを主宰していたフィレンツェの画家で、彫刻家でもあったヴェロッキオが、運営する工房に入門した。 画家としてのキャリア初期には、ミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァに仕えている。その後ローマ、ボローニャ、ヴェネツィアなどで活動し、晩年はフランス王フランソワ1世に下賜されたフランスの邸宅で過ごした。 レオナルドは多才な人物だったが、存命中から現在にいたるまで、画家としての名声がもっとも高い。とくに、その絵画作品中もっとも有名でもっとも多くのパロディ画が制作された肖像画『モナ・リザ』と、もっとも多くの複製画や模写が描かれた宗教画『最後の晩餐』に比肩しうる絵画作品は、ミケランジェロ・ブオナローティが描いた『アダムの創造』以外には存在しないといわれている。また、ドローイングの『ウィトルウィウス的人体図』も文化的象徴(英語版)と見なされており、イタリアの1ユーロ硬貨、教科書、Tシャツなど様々な製品に用いられている。現存するレオナルドの絵画作品は15点程度と言われており決して多くはない。これはレオナルドが完全主義者で何度も自身の作品を破棄したこと、新たな技法の実験に時間をかけていたこと、一つの作品を完成させるまでに長年にわたって何度も手を加える習慣があったことなどによる。それでもなお、絵画作品、レオナルドが残したドローイングや科学に関するイラストが描かれた手稿、絵画に対する信念などは後世の芸術家へ多大な影響を与えた。このようなレオナルドに匹敵する才能の持ち主だとされたのは、同時代人でレオナルドよりも20歳余り年少のミケランジェロ・ブオナローティだけであった。 レオナルドは科学的創造力の面でも畏敬されている。ヘリコプターや戦車の概念化、太陽エネルギーや計算機の理論、二重船殻構造の研究、さらには初歩のプレートテクトニクス理論も理解していた。レオナルドが構想、設計したこれらの科学技術のうち、レオナルドの存命中に実行に移されたものは僅かだったが、自動糸巻器、針金の強度検査器といった小規模なアイディアは実用化され、製造業の黎明期をもたらした。また、解剖学、土木工学、光学、流体力学の分野でも重要な発見をしていたが、レオナルドがこれらの発見を公表しなかったために、後世の科学技術の発展に直接の影響を与えることはなかった。 また、発生学の研究も行っていた。更に眼を調べることで光と眼鏡の原理も解明していた。 ==生涯== ===幼少期、1452年から1466年=== レオナルドは1452年4月15日(ユリウス暦)の「日没3時間後」に、トスカーナのヴィンチに生まれた。ヴィンチはアルノ川下流に位置する村で、メディチ家が支配するフィレンツェ共和国に属していた。父はフィレンツェの裕福な公証人セル(メッセル)・ピエロ・フルオジーノ・ディ・アントーニオ・ダ・ヴィンチで、母は(おそらく農夫の娘)カテリーナである 。 レオナルドの「姓」であるダ・ヴィンチは、「ヴィンチ(出身)の」を意味する。出生名の「レオナルド・ディ・セル・ピエロ・ダ・ヴィンチ」は、「ヴィンチ(出身)のセル(父親メッセルの略称)の(息子の)レオナルド」という意味となる。セル(メッセル (Messer)) は敬称であり、レオナルドの父親が公証人についていたことを示している。 レオナルドの幼少期についてはほとんど伝わっていない。生まれてから5年をヴィンチの村落で母親とともに暮らし、1457年からは父親、祖父母、叔父フランチェスコと、ヴィンチの都市部で過ごした。レオナルドの父親セル・ピエロは、レオナルドが生まれて間もなくアルビエラという名前の16歳の娘と結婚しており、レオナルドとこの義母の関係は良好だったが、義母は若くして死去してしまっている。レオナルドが16歳のときに、父親が20歳の娘フランチェスカ・ランフレディーニと再婚したが、セル・ピエロに嫡出子が誕生したのは、3回目と4回目の結婚時のことだった。 レオナルドは、正式にではなかったがラテン語、幾何学、数学の教育を受けた。後にレオナルドは幼少期の記憶として二つの出来事を記している。ひとつはレオナルド自身が何らかの神秘体験と考えていた記憶で、ハゲワシが空から舞い降り、子供用ベッドで寝ていたレオナルドの口元をその尾で何度も打ち据えたというものである。もうひとつの記憶は、山を散策していたレオナルドが洞窟を見つけたときのものである。レオナルドは、洞窟の中に潜んでいるかもしれない化け物に怯えながらも、洞窟の内部はどのようになっているのだろうかという好奇心で一杯になったと記している。 レオナルドの幼少期は様々な推測の的となっている。16世紀の画家で、ルネサンス期の芸術家たちの伝記『画家・彫刻家・建築家列伝』を著したジョルジョ・ヴァザーリは、レオナルドの幼少期について次のように記述している。小作農の家で育ったレオナルドに、あるとき父親セル・ピエロが絵を描いてみるように勧めた。レオナルドが描いたのは口から火を吐く化け物の絵で、気味悪がったセル・ピエロはこの絵をフィレンツェの画商に売り払い、さらに画商からミラノ公の手に渡った。レオナルドの描いた絵で利益を手にしたセル・ピエロは、矢がハートに突き刺さった装飾のある楯飾りを購入し、レオナルドを育てた小作人へ贈った。 ===ヴェロッキオの工房時代、1466年 ‐ 1476年=== 1466年に、14歳だったレオナルドは「フィレンツェでもっとも優れた」工房のひとつを主宰していた芸術家ヴェロッキオに弟子入りした。ヴェロッキオの弟子、あるいは協業関係にあった有名な芸術家として、ドメニコ・ギルランダイオ、ペルジーノ、ボッティチェッリ、ロレンツォ・ディ・クレディらがいる。レオナルドはこの工房で、理論面、技術面ともに目覚しい才能を見せた。レオナルドの才能は、ドローイング、絵画、彫刻といった芸術分野だけでなく、設計分野、化学、冶金学、金属加工、石膏鋳型鋳造、皮細工、機械工学、木工など、様々な分野に及んでいた。 ヴェロッキオの工房で製作される絵画のほとんどは、弟子や工房の雇われ画家による作品だった。ヴァザーリはその著書で『キリストの洗礼』(en:The Baptism of Christ (Verrocchio))はヴェロッキオとレオナルドの合作で、レオナルドが受け持った箇所は、キリストのローブを捧げ持つ幼い天使であるとしている。そして、弟子レオナルドの技量があまりに優れていたために、師ヴェロッキオは二度と絵画を描くことはなかったと記されている。『キリストの洗礼』はテンペラで描かれた絵画の上から、当時の新技法だった油彩で加筆された作品であり、近代の分析によると、風景、岩、キリストの大部分などもレオナルドの手によるものだと言われている。また、レオナルドはヴェロッキオの美術作品2点のモデルになったとも言われている。それらの作品はフィレンツェのバルジェロ美術館が所蔵するブロンズ彫刻『ダヴィデ』(en:David (Verrocchio))と、ロンドンのナショナル・ギャラリーが所蔵する『トビアスと天使』(en:Tobias and the Angel (Verrocchio))に描かれている大天使ラファエルである。 レオナルドは20歳になる1472年までに、聖ルカ組合からマスター(親方)の資格を得ている。レオナルドが所属していた聖ルカ組合は、芸術だけでなく医学も対象としたギルドだった。その後、おそらく父親セル・ピエロがレオナルドに工房を与えてヴェロッキオから独立させ、レオナルドはヴェロッキオとの協業関係を継続していった。制作日付が知られているレオナルドの最初期の作品は、1473年8月5日に、ペンとインクでアルノ渓谷を描いたドローイングである。 ===円熟期、1476年 ‐ 1513年=== 1476年のフィレンツェの裁判記録に、レオナルド他3名の青年が同性愛の容疑をかけられたが放免されたというものがある。この1476年以降、1478年になるまで、レオナルドの作品や居住地に関する記録が残っていない。1478年にレオナルドは、ヴェロッキオとの共同制作を中止し、父親の家からも出て行ったと思われる。アノニモ・ガッディアーノという正体不明の人物が、1480年にレオナルドがメディチ家の庇護を受けており、フィレンツェのサン・マルコ広場庭園で新プラトン主義者の芸術家、詩人、哲学者らが集まった、メディチ家が主宰するプラトン・アカデミーの一員だったという説を唱えている。1478年1月にレオナルドは、最初の独立した絵画制作の依頼を受けた。ヴェッキオ宮殿サン・ベルナルド礼拝堂の祭壇画の制作で、1481年5月にはサン・ドナート・スコペート修道院の修道僧から、『東方三博士の礼拝』(en:Adoration of the Magi (Leonardo))の制作依頼も受けている。しかしながら、礼拝堂祭壇画は未完成のまま放置された。『東方三博士の礼拝』もレオナルドがミラノ公国へと向かったために制作が中断され、未完成に終わっている。 ヴァザーリの著書によると、レオナルドは才能溢れる音楽家でもあり、1482年に馬の頭部を意匠とした銀のリラを制作したとされている。フィレンツェの支配者ロレンツォ・デ・メディチが、この銀のリラを土産にレオナルドをミラノ公国へと向かわせ、当時のミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァとの間で平和条約を結ぼうとした。当時のレオナルドがルドヴィーコに送った書簡の記述で、現在もよく引用される文章がある。レオナルドが自然科学分野で驚嘆すべき様々な業績を挙げていたことを物語る内容で、さらにレオナルドが絵画分野でも非凡な能力を有していることをルドヴィーコに告げる文章である。 レオナルドは1482年から1499年まで、ミラノ公国で活動した。現在ロンドンのナショナル・ギャラリーが所蔵する『岩窟の聖母』は、1483年に聖母無原罪の御宿り信心会からの依頼で、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院の壁画『最後の晩餐』(1495年 ‐ 1498年)も、このミラノ公国滞在時に描かれた作品である。1493年から1495年のレオナルドの納税記録が現存しており、レオナルドの扶養家族の中にカテリーナという女性が記載されている。この女性は1495年に死去しているが、このときの葬儀費用明細から、レオナルドの生母カテリーナだと考えられている。 レオナルドはミラノ公ルドヴィーコから、様々な企画を命じられた。特別な日に使用する山車とパレードの準備、ミラノ大聖堂円屋根の設計、スフォルツァ家の初代ミラノ公フランチェスコ・スフォルツァの巨大な騎馬像の制作などである。ただしこの騎馬像は、レオナルドが手がける作品としては異例なことに、その後数年間にわたって制作が開始されなかった。騎馬像の原型となる粘土製の馬の像が完成したのは1492年である。このフランチェスコの騎馬像を大きさの点で凌ぐルネサンス期の彫刻作品は、ドナテッロの『ガッタメラータ騎馬像』(1453年、サンタントーニオ・ダ・パードヴァ聖堂前サント広場)と、ヴェロッキオの『バルトロメーオ・コッレオーニ騎馬像』(1496年、サン・ジョヴァンニ・エ・パオロ教会前広場)の2作品だけであり、レオナルドが制作した粘土製の馬の像は、「巨大な馬」(Gran Cavallo)として知られるようになっていった。レオナルドはこの『バルトロメーオ・コッレオーニ騎馬像』の鋳造を具体的に進めようとしたが、レオナルドを嫌っていた競争相手のミケランジェロは、レオナルドにこのような大仕事ができるわけがないと侮辱したといわれている。この騎馬像制作のために17tのブロンズが用意されたが、フランス王シャルル8世のミラノ侵攻に対抗するために、1494年11月にこのブロンズが大砲の製作材料に流用されてしまった。 1499年に第二次イタリア戦争が勃発し、イタリアに侵攻したフランス軍が、レオナルドがブロンズ像の原型用に制作した粘土像「巨大な馬」を射撃練習の的にして破壊した。ルドヴィーコ率いるミラノ公国はフランスに敗れ、レオナルドは弟子のサライや友人の数学者ルカ・パチョーリとともにヴェネツィアへと避難した。レオナルドはこのヴェネツィアで、フランス軍の海上攻撃からヴェネツィアを守る役割の軍事技術者として雇われている。レオナルドが故郷フィレンツェに帰還したのは1500年のことで、サンティッシマ・アンヌンツィアータ修道(en:Santissima Annunziata, Florence)の修道僧のもとで、家人ともども賓客として寓された。ヴァザーリの著書には、レオナルドがこの修道院で工房を与えられ、『聖アンナと聖母子』の習作ともいわれる『聖アンナと聖母子と幼児聖ヨハネ』(1499年 ‐ 1500年、ナショナル・ギャラリー)を描いたとされている。さらにこの『聖アンナと聖母子と幼児聖ヨハネ』は「老若男女を問わず」多くの人が見物に訪れ、「祭りの様相を呈していた」と記されている 。 1502年にレオナルドはチェゼーナを訪れ、ローマ教皇アレクサンデル6世の息子チェーザレ・ボルジアの軍事技術者として、チェーザレとともにイタリア中を行脚した。1502年にレオナルドはチェーザレの命令で、要塞を建築するイーモラの開発計画となる地図を制作した。当時の地図は極めて希少であるだけでなく、その制作に当たってはレオナルドのまったく新しい概念が導入されていた。チェーザレはレオナルドを、土木技術に特化した工兵の長たる軍事技術者に任命している。同年にレオナルドは、トスカーナの渓谷地帯ヴァルディキアーナ(en:Valdichiana)の地図も制作している。この地図もチェーザレが軍事戦略上有利な地位を占めるのに役立った。 レオナルドは再びフィレンツェに戻り、1508年10月18日にフィレンツェの芸術家ギルド「聖ルカ組合」に再加入した。そして、フィレンツェ政庁舎(ヴェッキオ宮殿)大会議室の壁画『アンギアーリの戦い』のデザインと制作に2年間携わった。このとき大会議室の反対側の壁では、ミケランジェロが『カッシーナの戦い』(en:Battle of Cascina (Michelangelo)))の制作に取り掛かっていた。またレオナルドは1504年に、ミケランジェロが手がけていた完成間近の『ダヴィデ像』をどこに設置するべきかを決める委員会の一員になっている。 1506年にレオナルドはミラノを訪れた。ベルナルディーノ・ルイーニ、ジョヴァンニ・アントーニオ・ボルトラッフィオ(en:Giovanni Antonio Boltraffio)、マルコ・ドッジョーノ(en:Marco d’Oggione)ら、絵画分野におけるレオナルドの主要な弟子や追随者たちは、このミラノ滞在時に関係があった人々である。ただし、1504年に父親セル・ピエロが死去したこともあって、このときのレオナルドのミラノ滞在は短期間に終わった。1507年にはフィレンツェに戻り、父親の遺産を巡る兄弟たちとの問題解決に腐心している。翌1508年にミラノへ戻り、サンタ・バビーラ教会区のポルタ・オリエンターレに購入した邸宅に落ち着いた。 ===晩年、1513年 ‐ 1519年=== 1513年9月から1516年にかけて、レオナルドはヴァチカンのベルヴェデーレで多くのときを過ごしている。当時のヴァチカンはミケランジェロと若きラファエロが活躍していた場所でもあった。1515年10月にフランス王フランソワ1世がミラノ公国を占領し、レオナルドはボローニャで開催された、フランソワ1世とローマ教皇レオ10世との和平会談に招かれた。このときレオナルドは、歩いていって胸部からユリの花がこぼれる絡繰仕掛けのライオンの制作を依頼された 。 レオナルドは1516年にフランソワ1世に招かれ、フランソワ1世の居城アンボワーズ城近くのクルーの館が邸宅として与えられた。レオナルドは死去するまでの最晩年の3年間を、弟子のミラノ貴族フランチェスコ・メルツィ(英語版)ら、弟子や友人たちとともに過ごした。レオナルドがフランソワ1世から受け取った年金は、死去するまでの合計額で10,000スクードにのぼっている。 レオナルドは1519年5月2日にクルーの館で死去した。フランソワ1世とは緊密な関係を築いたと考えられており、ヴァザーリも自著でレオナルドがフランソワ1世の腕の中で息を引き取ったと記している。このエピソードはフランス人芸術家たちに親しまれ、ドミニク・アングル、フランソワ・ギョーム・メナゴーらが、このエピソードをモチーフにした作品を描き、オーストリア人画家アンゲリカ・カウフマンも同様の絵画を制作しているが、このエピソードはおそらく史実ではなく、伝説の類である。さらにヴァザーリは、レオナルドが最後の数日間を司祭と過ごして告解を行い、臨終の秘蹟を受けたとしている。レオナルドの遺言に従って、60名の貧者がレオナルドの葬列に参加した。フランチェスコ・メルツィがレオナルドの主たる相続人兼遺言執行者で、メルツィはレオナルドの金銭的遺産だけでなく、絵画、道具、蔵書、私物なども相続した。また、長年の弟子で友人でもあったサライと使用人バッティスタ・ディ・ビルッシスに所有していたワイン畑を半分ずつ遺しているほか、自身の兄弟たちには土地を、給仕係の女性には毛皮の縁飾りがついた最高級の黒いマントを遺した。レオナルドの遺体は、アンボワーズ城のサン=ユベール礼拝堂に埋葬された。 レオナルドの死後20年ほど後に、フランソワ1世が「かつてこの世界にレオナルドほど優れた人物がいただろうか。絵画、彫刻、建築のみならず、レオナルドはこの上なく傑出した哲学者でもあった」と語ったことが、彫金師、彫刻家ベンヴェヌート・チェッリーニの記録に記されている。 ==交友関係と影響== ===フィレンツェでレオナルドを取り巻いていた芸術的、社会的背景=== レオナルドが若年だった当時のフィレンツェは、ルネサンス人文主義における思想、文化の中心地だった。レオナルドがヴェロッキオに弟子入りした1466年は、ヴェロッキオの師で偉大な彫刻家だったドナテッロが死去した年でもある。遠近法を絵画作品に最初に取り入れて、風景画の発展に多大な貢献をなした画家パオロ・ウッチェロは、すでに老境に入っていた。画家ピエロ・デッラ・フランチェスカ、フィリッポ・リッピ、彫刻家ルカ・デッラ・ロッビア、建築家・著述家レオン・バッティスタ・アルベルティも60歳代だった。これら初期ルネサンスを代表する芸術家たちの次世代で成功を収めたのが、レオナルドの師ヴェロッキオ、アントニオ・デル・ポッライオーロ、ミーノ・ダ・フィエゾーレ(en:Mino da Fiesole)らである。フィエゾーレは人物彫刻を得意とした彫刻家で、ロレンツォ・デ・メディチの父親ピエロや伯父ジョヴァンニ(en:Giovanni di Cosimo de’ Medici)の胸像は、本人に非常によく似ていると言われている。 また当時のフィレンツェは、写実的で感情豊かな人物像をフレスコで描いた画家マサッチオ、人物と建築物が複雑な構成で表現されたサン・ジョヴァンニ洗礼堂の金箔に彩られた東扉『天国への門』を制作した彫刻家ロレンツォ・ギベルティなど、ドナテッロと同時代の芸術家たちの作品で飾り立てられていた。ピエロ・デッラ・フランチェスカは空気遠近法の研究を推し進め、科学的に正確な光の描写を絵画にもたらした最初の画家となった。これらの研究とレオン・バッティスタ・アルベルティの『絵画論』といった芸術論文が、当時の若年の芸術家たちに大きな影響を与え、レオナルドも先人たちからの影響のなかで独自の観察眼や芸術観を培っていった。 マサッチオの『楽園追放』(1425年ごろ、ブランカッチ礼拝堂壁画、en:The Expulsion from the Garden of Eden)は、裸身で取り乱すアダムとイヴを力強い造形で描いた作品である。光と陰の対比を用いて三次元的に人物を描写した『楽園追放』はレオナルドに大きな影響を与え、自身の作品でこの三次元的描写を発展させていくことになる。また、ドナテッロの彫刻『ダヴィデ』における人文主義的作風が、後のレオナルドの作品群、とくに『洗礼者ヨハネ』(1513年 ‐ 1516年、ルーヴル美術館所蔵、en:St. John the Baptist (Leonardo))に影響を与えている。 フィレンツェで伝統的に好まれていた絵画分野に、聖母子を描いた小規模な祭壇画がある。当時、これらの祭壇画はリッピ、ヴェロッキオ、デッラ・ロッビア一族らの工房で制作された作品が多かった。レオナルドが聖母子を描いた初期の作品に『カーネーションの聖母』(1478年 ‐ 1480年、アルテ・ピナコテーク、en:Madonna of the Carnation)と『ブノアの聖母』(1478年頃、エルミタージュ美術館)がある。これらレオナルドが描いた聖母子は、基本的にはフィレンツェの伝統的な聖母子の作風に則っている。しかしながら『ブノアの聖母子』に顕著な聖母子をピラミッド型に配する構成は、伝統的な作風からは逸脱した表現となっている。後に同様の構成で描かれたレオナルドの作品に『聖アンナと聖母子』(1508年ごろ、ルーヴル美術館)がある。 レオナルドはボッティチェッリ(1445年ごろ ‐ 1510年)、ギルランダイオ(1449年 ‐ 1494年)、ペルジーノ(1450年ごろ ‐ 1523年)と同時代人で、わずかに年少である。レオナルドはこの3人と相弟子としてヴェロッキオの工房で出会い、メディチ家が主宰するプラトン・アカデミーに出入りした。ボッティチェッリはとくにメディチ家に気に入られており、画家としての成功は約束されていたも同然だった。ギルランダイオとペルジーノはどちらも多作な画家で、後に大規模な工房を経営するにいたった。両者共に制作依頼主を満足させるだけの技量を持った芸術家で、ギルランダイオは大規模なフレスコ宗教画に裕福なフィレンツェ市民の肖像を描き入れた作品を、ペルジーノは甘美で無垢な多数の聖者や天使を描いた作品を、それぞれ得意としていた。 ボッティチェッリとギルランダイオは、ローマ教皇シクストゥス4世から、ヴァチカンのシスティーナ礼拝堂壁画制作の依頼を受けた。1479年にペルジーノがローマ教皇庁から、礼拝堂壁画制作の責任者に任じられて間もなくのことである。しかしながらこの栄誉ある壁画制作には、レオナルドは関与していない。レオナルドが依頼を受けた最初の重要な絵画制作は、1481年にサン・ドナート・スコペート修道院の修道僧からの『東方三博士の礼拝』(en:Adoration of the Magi (Leonardo))だが、未完のままに終わっている。 レオナルドがヴェロッキオの工房で働いていた時期の1476年に初期フランドル派の画家フーホ・ファン・デル・フースの油彩画『ポルティナーリの三連祭壇画』(1475年ごろ、ウフィツィ美術館、en:Portinari Altarpiece)がフィレンツェに持ち込まれた。北方ヨーロッパの初期フランドル派が完成させた新たな絵画技法である油彩は、レオナルド、ギルランダイオ、ペルジーノら、フィレンツェで活動していた芸術家たちに多大な影響を与えた。その後、シチリア出身の画家アントネッロ・ダ・メッシーナが油彩技法を身につけ、1479年にヴェネツィアを訪れた。当時のヴェネツィアで第一人者であった画家ジョヴァンニ・ベリーニがメッシーナから油彩技法を伝授され、たちまちのうちにヴェネツィアでも油彩による絵画制作が主流となった。そして、後にレオナルドもヴェネツィアを訪れることになる。 当時の代表的な建築家ドナト・ブラマンテとアントニオ・ダ・サンガッロ・イル・ヴェッキオと同じように、レオナルドも集中形式の教会のデザインを試みた。多くの設計図や外観図がその手稿に残されているが、実現した計画はひとつもなかった。 レオナルドがフィレンツェに在住していたときのフィレンツェの支配者はロレンツォ・デ・メディチだった。ロレンツォはレオナルドよりも3歳年長で、弟のジュリアーノは1478年に起きた、いわゆるパッツィ家の陰謀で暗殺された。後にレオナルドがメディチ家の使者として派遣されるミラノ公国を1479年から1499年まで統治したミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァは、レオナルドと同年の生まれである。 レオン・バッティスタ・アルベルティの紹介を受けてメディチ一族の邸宅を訪れたレオナルドは、哲学者で新プラトン主義の提唱者マルシリオ・フィチーノ、古典文学の注釈書の著者クリストフォロ・ランディーノ、ギリシア語教授でアリストテレスの著作の翻訳者ジョヴァンニ・アルギロプーロ(en:John Argyropoulos)ら、当時第一流のルネサンス人文主義者たちの知遇を得た。また、メディチ家が主催するプラトン・アカデミーには、才能に溢れた若き哲学者ピコ・デラ・ミランドラの姿もあった。後にレオナルドは手稿の余白に「メディチが私を創り、そしてメディチが私を台無しにした」と書き入れている。レオナルドが、ロレンツォの推挙によってミラノ公の宮廷に迎え入れられたのは間違いなく、なぜレオナルドがこのような謎めいた書込みを残したのかは分かっていない。 「盛期ルネサンス三大巨匠」と並び称されるレオナルド、ミケランジェロ、ラファエロだが、この三名は同年代人ではない。ミケランジェロが生まれたときにレオナルドは23歳で、ラファエロが生まれたときにはレオナルドは31歳だった。レオナルドは1519年に67歳で、ラファエロは1520年に37歳でそれぞれ死去しているが、長命を保ったミケランジェロが死去したのは1564年で88歳のことである。 ===私生活=== レオナルドはその生涯を通じて、異常なまでの創意工夫の才を示し続けた。ヴァザーリはレオナルドを「ずば抜けた肉体美」「計り知れない優雅さ」「強靭な精神力と大いなる寛容さ」「威厳ある精神と驚くべき膨大な知性」と評し、レオナルドがあらゆる面で人を惹きつける人物だったと記している。さらにヴァザーリは、レオナルドが菜食主義者であり、籠に入って売られている鳥を購入してはその鳥を放してやるような、命あるものをこよなく愛する人物だったとしている。レオナルドには様々な分野の、歴史的に見ても重要な多くの友人がいた。例えば、近代会計学の父ともいわれる数学者ルカ・パチョーリは、1490年代にレオナルドと共著で数学の論文を著している。フェラーラ公エルコレ1世・デステの娘で、マントヴァ侯妃イザベラとミラノ公妃ベアトリーチェの姉妹を除くと、レオナルドと親しかった女性は伝わっていない。レオナルドはマントヴァ滞在中にイザベラの肖像習作を描いており、この習作をもとに肖像画を描いたと考えられているが、現存していないと思われていた。しかし2013年10月、スイス銀行の貴重品保管庫から彩色された肖像画が発見され、当局に押収された。レオナルド研究家であるペドレッティ教授の鑑定では、レオナルドの真筆であることはほぼ間違いないとみられている。 交友関係以外のレオナルドの私生活は謎に包まれている。とくにレオナルドの性的嗜好は、さまざまな当てこすり、研究、憶測の的になっている。最初にレオナルドの性的嗜好が話題になったのは16世紀半ばのことだった。その後19世紀、20世紀にもこの話題が取り上げられており、中でもジークムント・フロイトが唱えた説が有名である。レオナルドともっとも親密な関係を築いたのは、おそらく弟子のサライとメルツィである。メルツィはレオナルドの死を知らせる書簡をレオナルドの兄弟に送った人物で、その書簡にはレオナルドがいかに自分たちを情熱的に愛したかということが書かれていた。16世紀になって、このようなレオナルドの人間関係は性的なものだったのではないかという説が生まれた。1476年のフィレンツェの裁判記録に、当時24歳だったレオナルド他3名の青年が、有名だった男娼と揉め事を起こしたとして、同性愛の容疑をかけられたという記録がある。この件は証拠不十分で放免されているが、容疑者の一人リオナルデ・デ・トルナブオーニがロレンツォ・デ・メディチの縁者であり、メディチ家が圧力をかけて無罪とさせたのではないかという説もある。この記録はレオナルドに同性愛者の傾向があったことを示唆しており、『洗礼者ヨハネ』や『バッカス』といった絵画作品、その他多くのドローイングに両性具有的な性愛表現が見られるとする研究者もいる 。 ===助手と弟子=== 「小悪魔」を意味する「サライ」という通称で知られるジャン・ジャコモ・カプロッティがレオナルドの邸宅に住み込んだのは1490年である。その後1年足らずで、サライはレオナルドの金銭や貴重品を少なくとも5度にわたって盗んだ。サライはこれらの盗品を高価な衣装の購入に充て、レオナルドはサライの不品行を「盗人、嘘吐き、強情、大食漢」と論っている。しかしながらレオナルドはサライをこの上なく甘やかし、その後30年にわたって自身の邸宅に住まわせている。サライはアンドレア・サライという名前で多くの絵画を描いた。しかしながら、レオナルドがサライに「絵画について非常に多くのことを教えた」が、レオナルドのほかの弟子たち、例えばマルコ・ドッジョーノ(en:Marco d’Oggiono)、ジョヴァンニ・アントーニオ・ボルトラッフィオ(en:Giovanni Antonio Boltraffio)らの作品に比べると、芸術的価値に劣るといわれている。1515年にサライは『モナ・ヴァンナ』として知られる、『モナ・リザ』の裸体ヴァージョンの絵画を描いている。後にレオナルドが死去すると、サライは『モナ・リザ』を譲られた。サライはこの『モナ・リザ』は505リラの価値があると考えていたが、この評価額は当時の小さな肖像画としては異例なまでに高額だった。 レオナルドは1506年にロンバルディアの貴族の子息フランチェスコ・メルツィを弟子にした。メルツィはレオナルドお気に入りの弟子で、レオナルドがフランスへ移住したときにも同行し、レオナルドが死去するまで起居を共にしている。メルツィはレオナルドの遺産として、芸術、科学の諸作品、写本、コレクションを贈られ、遺言執行人にも任命されていた。 ==絵画作品== 近年の研究ではレオナルドの科学者や発明家としての才能が高く評価されているが、400年以上にわたってレオナルドがもっとも賞賛されてきたのは画家としての才能である。現存するレオナルドの真作、あるいはレオナルド作であろうと考えられている絵画作品は僅かではあるが、1490年時点で「神の手を持つ」画家だと言われており、いずれの作品も傑作だと見なされている。 レオナルドの作品は、様々な出来の多くの模写が存在することでも有名で、長年にわたって美術品鑑定家や批評家を悩ませ続けてきた。レオナルドの真作に見られる優れた点は顔料の塗布手法だけでなく、解剖学、光学、植物学、地質学、人相学などの詳細な知識に立脚した、革新的な絵画技法である。人物の表情やポーズで感情を描写する技法、人物の配置構成における創造性、色調の繊細な移り変わりなど、レオナルドの絵画作品には際立った点が多くみられる。これらレオナルドの革新的絵画技法の集大成といえるのが『モナ・リザ』、『最後の晩餐』、『岩窟の聖母』である。 ===初期の絵画作品=== レオナルドの画家としてのキャリアは、師ヴェロッキオとの合作『キリストの洗礼』に始まる。ほかにレオナルドの徒弟時代の作品として、2点の『受胎告知』がある。そのうち1点は縦14cm、横59cmの小さな絵画で、もともとはロレンツォ・ディ・クレディの大きな祭壇画の飾絵だったものが散逸した作品である。もう1点の『受胎告知』は縦98cm、横217cmという大規模な作品となっている。どちらの『受胎告知』も、フラ・アンジェリコの『受胎告知』などとよく似た伝統的な構図で描かれている。座した、あるいは跪いた聖母マリアを画面右に配し、背中の羽を高く掲げ、豪奢な衣装を身につけた横向きの天使が、純潔を意味するユリとともに画面左に配されている。大きな『受胎告知』(1472年 ‐ 1475年、ウフィツィ美術館)は、かつてはギルランダイオの作品と考えられていたが、現在ではレオナルドの真作にほぼ間違いないと考えられている。小さな『受胎告知』では、マリアは天使から眼を背け、両手を握りしめている。このポーズは神の意思への服従を象徴する。しかしながら大きな『受胎告知』のマリアは、このような服従を示すポーズをとっていない。予期せぬ天使の訪れで読書を中断させられたマリアの右手は、今まで読んでいた聖書に置かれ、左手は歓迎あるいは驚きを意味する、立てた状態で描かれている。冷静ともいえるこの若きマリアのポーズは、神の母たる役割に服従するのではなく、自信に満ちて受け入れることを意味している。若きレオナルドはこの『受胎告知』でマリアを神格化せずに、人間の女性として描いた。これは神の顕現において人間が果たす役割を認識していることを表している 。 ===1480年代の絵画作品=== レオナルドは1480年代に、非常に重要な絵画2点の制作を引き受け、ほかに革新的な構成をもつ重要な絵画1点の制作を開始した。これら3点の絵画のうち2点は未完に終わり、残る1点が完成度合いや支払を巡って長い論争となった。未完に終わった絵画のうちの1点が『荒野の聖ヒエロニムス』で、美術史家リアナ・ボルトロンはこの絵画がレオナルドが不遇だった時代の作品ではないかとしており、その根拠としてレオナルドの日記の「生きることを学んできたつもりだったが、単に死ぬことを学んでいたらしい」という記述を挙げている。 『荒野の聖ヒエロニムス』は描き始めの時点で放棄された作品だが、極めて異例な構成をもって描かれている。ヒエロニムスは苦行者として画面中央一杯に描かれ、傾けられた顔はやや上を向いている。左膝は地面に付けられており、右手は画面端まで伸ばされ、視線は右手とは反対の方向に向けられている。J.ワッサーマンは、この作品にレオナルドが持つ解剖学の知識が反映されていると指摘した。前面にはヒエロニムスの象徴である大きなライオンが寝そべり、その胴体と尾が別方向のカーブを描いている。背景に粗く描かれた岩地の風景が、ヒエロニムスの身体を浮かび上がらせている。 『荒野の聖ヒエロニムス』と同様に、大胆な構成、風景描写、さらには人間模様が描かれているのが『東方三博士の礼拝』(1481年、ウフィツィ美術館)で、サン・ドナート・スコペート修道院の修道僧から依頼された作品だった。250cm四方で、非常に複雑な構成が採用されている。レオナルドは『東方三博士の礼拝』を制作するにあたって、線遠近法で描かれた背景の古代ローマ建築物など、数多くのドローイングと習作を描いた。しかしながら、1482年にロレンツォ・デ・メディチから、ミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァへの使者としてミラノ公国へ向かうように命じられたため、『東方三博士の礼拝』の制作も未完のまま放棄されてしまった。 この時期に描かれたもうひとつの重要な絵画が『岩窟の聖母』で、ミラノの聖母無原罪の御宿り信心会からの依頼による作品である。『岩窟の聖母』は、ジョヴァンニ・アンブロージオ・デ・プレディス(en:Giovanni Ambrogio de Predis)と弟エヴァンジェリスタが協力した作品で、既に完成していた祭壇を飾る大きな祭壇画として描かれた。レオナルドはこの作品を、聖アンナ、聖母マリア、幼児キリストの聖家族が、天使に守られてのエジプトへの逃避中に幼い洗礼者ヨハネと出会うという、聖書の正典ではありえない場面に設定した。さらに幼いヨハネはキリストを救世主と認め、祈りを捧げている情景が表現されている。崩れ落ちそうな岩と渦巻く川を背景にして、青白い顔をした美しい人々が、幼児キリストを愛情をこめて崇拝している場面が描かれている。『岩窟の聖母』は200cm × 120という比較的大規模な作品ではあるが、『東方三博士の礼拝』のような複雑な画面構成にはなっていない。『東方三博士の礼拝』にはおよそ15名の人物像と詳細な建築物が描かれているが、『岩窟の聖母』に描かれているのは4名の人物像と岩の洞窟だけである。『岩窟の聖母』は異なるヴァージョンで2点制作され、1点は聖母無原罪の御宿り信心会の礼拝堂に(現在ロンドンのナショナル・ギャラリーが所蔵しているヴァージョン)、もう1点はレオナルドの手元に留め置かれ、後にレオナルドと共にフランスへと持ち込まれている(現在パリのルーヴル美術館が所蔵するヴァージョン)。しかしながら聖母無原罪の御宿り信心会が正式に『岩窟の聖母』を入手、ないし制作代金を支払ったのは16世紀になってからのことだった。 ===1490年代の絵画作品=== レオナルドが1490年代に描いた絵画作品のなかでもっとも有名な作品は、ミラノのサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院の食堂にある壁画『最後の晩餐』である。この作品にはキリストが捕縛、処刑される直前に、12名の弟子たちとともにとった夕餐の情景が描かれており、キリストが「あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ろうとしている」と口にした瞬間が描写されている。レオナルドは、このキリストの言葉によって12名の弟子たちが狼狽したという『ヨハネによる福音書』の一場面をこの壁画に描き出したのである。 レオナルドの同時代人のイタリア人著述家マッテオ・バンデッロ(en:Matteo Bandello、1480年頃 ‐ 1562年)は、レオナルドがこの『最後の晩餐』の製作中には、数日間夜明けから夕暮れまで食事も採らずに絵画制作に没頭し、その後3、4日はまったく絵筆を取らなかったとしている。この制作手法は修道院長には理解し難いものであり、レオナルドがミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァに苦情を申し立てるまで、上級幹部たちはレオナルドに迅速な作業を要求した。ヴァザーリは、レオナルドが『最後の晩餐』に描くキリストと裏切り者ユダの顔の表現に苦労しており、修道院長をモデルにするかもしれないとルドヴィーコに語ったと記している。 完成した『最後の晩餐』は、構成、人物表現ともに非常に優れた作品だと評価されたが、急速に状態が劣化していき、完成の百年後には「完全に崩壊した」といわれるようになった。レオナルドはこの壁画を制作するにあたって信頼の置けるフレスコ技法ではなく、ジェッソを主材料とした下塗りの上からテンペラを用いたため、作品表面にカビが生じ、顔料の剥落を招いてしまったのである。このような非常に大きな損傷を被っているとはいえ、『最後の晩餐』はもっとも模写や複製などが制作された絵画作品のひとつであり、絵画だけではなく絨毯やカメオなど、さまざまな媒体に複製されている。 ===1500年代の絵画作品=== レオナルドが16世紀に描いた小規模な肖像画で、ルーヴル美術館が所蔵する『モナ・リザ』は、世界でもっとも有名な絵画作品といわれている。描かれている女性が浮かべているとらえ所のない微笑が高く評価されている作品で、口元と目に表現された微妙な陰影がこの女性の謎めいた雰囲気をもたらしている。この微妙な陰影技法は「スフマート」あるいは「レオナルドの煙」と呼ばれている。ヴァザーリはこの『モナ・リザ』を直接目にしたことはなく、噂でしか知らなかったといわれているが、「その微笑は魅力的で、人間ではなく神が浮かべているようにみえる。この絵画を目にしたものは、まるでモデルが生きているかのように描かれていることに驚くことだろう」としている 。 その他『モナ・リザ』の特徴として、飾り気のない衣装、うねって流れるような背後の風景、抑制された色調、極めて高度な写実技法などが挙げられる。これらの特徴は顔料に油絵の具を使用することによってもたらされたものだが、絵画技法はテンペラと同様な手法が用いられており、画肌表面で顔料を混ぜ合わせた筆あとはほとんど見られない。ヴァザーリはレオナルドを「他者を絶望、落胆させるような、自信に満ちた芸術家」として、その絵画技術を絶賛している。ルネサンス期に制作された板絵としては、『モナ・リザ』の保存状態は完璧に近く、修復加筆の痕跡もほとんど見られない。 自然の風景の中に人物像を描くという『聖アンナと聖母子』の構成は、ジャック・ワッサーマンが「息をのむような美しさ」としており、『荒野の聖ヒエロニムス』の傾いた人物像を髣髴とさせる。『聖アンナと聖母子』が群を抜いている点は、二人の人物が斜めに重ねあわされている構図にある。母アンナの膝に座る聖母マリアが、自身が将来遭遇する受難の象徴である子羊を手荒に扱うキリストをたしなめようと、身体を傾けて腕を伸ばしている。『聖アンナと聖母子』も多くの模写が制作された絵画で、ミケランジェロ、ラファエロ、アンドレア・デル・サルトらにも影響を与え、さらにはその弟子であるヤコポ・ダ・ポントルモ、コレッジョらにも影響を与えた。また、『聖アンナと聖母子』の画面構成はヴェネツィアの画家ティントレットやパオロ・ヴェロネーゼらが好んで採用した。 ===ドローイング=== レオナルドは多作な画家ではなかったが、多くのデッサンやドローイングを残しており、その手稿にはレオナルドが興味をもったあらゆる事象の小さなスケッチや詳細なドローイングで埋め尽くされている。現存するデッサンは900種とも言われている。絵画作品の習作や下絵も多く現存しており、『東方三博士の礼拝』、『岩窟の聖母』、『最後の晩餐』などの習作であると特定できるものもある。制作日時が判明している最初期のドローイングは1473年の『アルノ川の風景』で、川、山、モンテルーポ城、農地が極めて詳細に描かれている。レオナルドが描いたドローイングの中で有名な作品として、人体の調和を表現した『ウィトルウィウス的人体図』(アカデミア美術館)、『岩窟の聖母』の習作『天使の頭部』(ルーヴル美術館)、植物が描かれた習作『ベツレヘムの星』(ウィンザー城ロイヤル・コレクション)、160cm ×100cmの『聖アンナと聖母子と幼児聖ヨハネ』(ナショナル・ギャラリー)などがある。色つきの紙に黒チョークで描かれた『聖アンナと聖母子と幼児聖ヨハネ』には、陰影表現に『モナ・リザ』に見られるスフマート技法が用いられている。この『聖アンナと聖母子と幼児聖ヨハネ』を直接の習作として描かれた絵画作品は存在しないともいわれているが、ルーヴル美術館が所蔵する『聖アンナと聖母子』は構成がよく似ている。 実在の人物をモデルとしていると思われるものの、大げさに誇張して描かれた「カリカチュア」と呼ばれる多くのドローイングがある。ヴァザーリは、レオナルドは興味を惹かれる容貌の持ち主を見かけると、一日中その後を着いてまわって観察し続けたと記している。美しい少年を描いた習作も数多く存在する。弟子のサライに関連するものも多いが、いわゆる「ギリシア人風の横顔」と称される、希少かつ高く評価されている習作がある。これら端整な「ギリシア人風の横顔」は、レオナルドの戦士を描いた習作と好対照であるといわれることもある。また、サライは仮装のような装束で描かれていることも多い。レオナルドはショーや行列の演出を任されることもあり、これらはそのための習作だった可能性もある。その他に衣服の習作もあり、なかには極めて詳細に描かれたものも存在している。レオナルドは初期の作品から優れた衣服の表現技法を見せている。1479年にレオナルドがフィレンツェで描いた、猟奇的ともいえるスケッチがある。ロレンツォ・デ・メディチの弟ジュリアーノが暗殺されたパッツィ家の陰謀に加担したベルナルド・バロンチェッリが、絞首刑に処せられた場面を描いたスケッチである。このスケッチにはレオナルドが流麗な鏡文字で書いた、バロンチェッリが処刑されたときに身につけていた衣服のことが記されている。 ===ギャラリー=== 以下は、記事本文中で使用している絵画作品以外の、レオナルドの「真作 (Universally accepted)」、あるいは「ほぼ真作 (Generally accepted)]とされている絵画作品である。 ==手稿== ルネサンス人文主義では、科学と芸術をかけ離れた両極端なものとは見なしてはいなかった。レオナルドが残した科学や工学に関する研究も、その芸術作品と同じく印象深い革新的なものだった。これらの研究は13,000ページに及ぶ手稿にドローイングと共に記されており、現代科学の先駆ともいえる、芸術と自然哲学が融合したものである。手稿には日々の暮らしや旅行先でレオナルドが興味を惹かれた事柄が記録されており、レオナルドは自身を取り巻く世界への観察眼を終生持ち続けた。 レオナルドの手跡はほとんどが草書体の鏡文字で記されている。この理由としてレオナルドの秘密主義によるものだとする説もあるが、単にレオナルドが書きやすかっただけだとする説もある。レオナルドは左利きであり、右から左へと文字を書くほうが楽だったと思われる。 レオナルドの手稿とそのドローイングには、レオナルドが興味と関心を持ったあらゆる分野の事象が書かれている。食料品店や自身の召使いの一覧といった日常的なものから、翼や水上歩行用の靴の研究にいたるまで、極めて幅広いジャンルにまたがっている。そのほか、絵画の構成案、詳細表現や衣服の習作を始め、顔、感情表現、動物、乳児、解剖、植物の習作や研究、岩石の組成、川の渦巻き、兵器、ヘリコプター、建築の研究などが手稿に書かれている。さまざまな種類、大きさの紙に記されたこれらの手稿はレオナルドの死後に散逸し、現在ではウィンザー城のロイヤル・コレクション、ルーヴル美術館、スペイン国立図書館(en:Biblioteca Nacional de Espa*8014*a)、ヴィクトリア&アルバート博物館などに所蔵されている。また、アンブロジアーナ図書館には12巻のアトランティコ手稿(en:Codex Atlanticus)が、大英博物館にはアランデル手稿(en:Codex Arundel)がそれぞれ所蔵されている。ビル・ゲイツが所蔵するレスター手稿(en:Codex Leicester (Leonardo da Vinci))は科学に関する研究が多く記された手稿で、毎年1度、1カ国、1カ所のみで展示されている。 レオナルドの手稿は、最終的には出版することを目的として書かれたものだと考えられている。これは多くの手稿で様式や順番が整理されているためである。1枚の手稿にひとつの事柄について記されているものが多い。例えば人間の心臓や胎児について書かれた手稿には、詳細な説明とドローイングが1枚の紙に記されている。しかしながら、レオナルドの存命中にこれらの手稿が出版されなかった理由は分かっていない。 ===科学に関する手稿=== レオナルドの科学への取り組み方も観察によるものだった。ある事象を理解するために詳細な記述と画像化を繰り返し、実験や理論は重視していなかった。レオナルドはラテン語や数学の正式な教育を受けておらず、独力でラテン語を習得したものの、当時の多くの学者からは科学者であるとは見なされていなかった。1490年代にレオナルドはルカ・パチョーリのもとで数学を学び、1509年に出版されることになるパチョーリの『神聖比率』(en:De divina proportione)の挿絵に使用する版画の下絵として、正多面体骨格モデルのドローイングを複数描いている。残された手稿の内容から判断すると、レオナルドはさまざまな主題を扱った科学論文集を出版する予定だったと考えられる。平易な文章で書かれた解剖学を扱った手稿は、枢機卿ルイ・ダラゴンの秘書官がフランスを訪れていた1517年に実施された解剖を、レオナルドが見学した体験から書かれているといわれている。弟子のフランチェスコ・メルツィが編纂した解剖学、光や風景の表現手法に関するレオナルドの手稿が、1651年にフランスとイタリアで『絵画論』(Trattato della pittura、ウルビーノ手稿(en:Codex Urbinas)とも呼ばれる)として出版された。1724年にはドイツでも出版されている。『絵画論』がフランスで出版後50年間で62版まで版を重ねたこともあって、レオナルドは「フランス芸術学教育者の始祖」と見なされるようになっていった。科学分野でレオナルドが行った実験は当時の科学理論に適ったものだったが、物理学者フリッチョフ・カプラのようにレオナルドを徹底的に追求した研究者たちは、後世のガリレオ・ガリレイ、アイザック・ニュートンといった科学者たちと比べると、レオナルドは本質的に全く別種の研究者であるとし、レオナルドの科学的理論と仮説は芸術、とくに絵画と一体化したものだったと主張している。 ===解剖学に関する手稿=== レオナルドが人体解剖学の正式な教育を受け始めたのは、ヴェロッキオの徒弟時代のことで、これは師のヴェロッキオが弟子全員に解剖学の知識の習得を勧めたためである。レオナルドはすぐに画家にとって必要とされる局所解剖学の知識を身につけ、筋肉、腱など、人体の内部構造を描いた多くのドローイングを残している。 著名な芸術家だったレオナルドは、フィレンツェのサンタ・マリーア・ヌオーヴァ病院(en:Hospital of Santa Maria Nuova)での遺体解剖の立会いを許可されており、さらに後にはミラノとローマの病院でも同様の立会いを許されている。レオナルドは1510年から1511年にかけてパドヴァ大学解剖学教授マルカントニオ・デッラ・トッレ(en:Marcantonio della Torre)とともに共同研究を行った。レオナルドは200枚以上の紙にドローイングを描き、それらの多くに解剖学に関する覚書を記している。レオナルドの死後、これらの手稿を受け継いだ弟子のフランチェスコ・メルツィが出版しようとしたが、手稿の言及範囲の広さとレオナルド独特の筆記法のために作業は困難を極めた。結局メルツィの存命中には出版することができず、メルツィの死後50年以上にわたって作業は放置されてしまった。結局、1651年に出版された『絵画論』にも含まれることになる、解剖学に関する僅かな手稿のみが、フランスで1632年に出版されただけとなった。メルツィはレオナルドの手稿を出版するにあたってその編纂を任されていた時期に、多数の解剖学者や芸術家たちがレオナルドの手稿を研究しており、画家のヴァザーリ、チェッリーニ、デューラーらが、この手稿の挿絵をもとにした多くのドローイングを描いている。 レオナルドは筋肉や腱などと同じく、人体骨格を扱った手稿も多数制作している。骨格と筋肉の機能に関するこれらの研究は、現代科学でいうバイオメカニクスの初歩にも適用可能な先駆的研究ともいわれている。レオナルドは心臓や循環器、性器、臓器などの手稿も残しており、胎児を描いた最初期の科学的なドローイングを描いている。芸術家としてのレオナルドは綿密な観察によって、加齢による影響、生理学的観点からみた感情表出を記録し、とくに激しい感情が人間に及ぼす影響について研究した。また、顔部に奇形や罹病跡をもつ人物のドローイングも多数描いている。 レオナルドは人間だけではなく、解剖に付されたウシ、鳥、サル、クマ、カエルといった動物の解剖画も手稿に描いており、人間との内部構造の違いを比較している。また、ウマに関する手稿も多く残している。 ===工学と創案に関する手稿=== 存命時のレオナルドは工学技術者としても評価されていた。ミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァに宛てた書簡で、レオナルドは自らのことを都市防衛、都市攻略に用いるあらゆる兵器を作ることができると書いている。1499年にフランス軍に敗れたミラノ公国からヴェネツィアへと避難したレオナルドは、当地で工学技術者の職を得て、都市防衛のための移動要塞を考案している。また、ニッコロ・マキャヴェッリも参画していたアルノ川流路変更計画にも、土木技術者として加わった 。レオナルドの手稿には、数多くの現実的あるいは非現実的な創案があり、楽器ヴィオラ・オルガニスタ(en:Viola organista)、水圧ポンプ、迫撃砲、蒸気砲などの創案が含まれている。 1502年にレオナルドは、オスマン帝国スルタンのバヤズィト2世が構想した土木工事計画のために長さ200メートルにおよぶ橋の設計図を制作している。この橋はボスポラス海峡入り江の金角湾に架けられる予定だった。しかしながらバヤズィト2世はこのような大規模な土木工事は不可能だとして、この工事計画を承認しなかった。このときレオナルドがデザインした橋は、2001年にノルウェーで実施された「レオナルド・ブリッジ・プロジェクト(en:Vebj*8015*rn Sand Da Vinci Project)で実際に建設された。 レオナルドはその生涯を通じて空を飛ぶことを夢見ていた。1505年ごろの『鳥の飛翔に関する手稿』(en:Codex on the Flight of Birds)などで鳥の飛翔を研究し、ハンググライダーやヘリコプターのような飛行器具の概念図を制作している。イギリスのテレビ局チャンネル4は2003年のドキュメンタリー番組『レオナルドが夢見た機械』(Leonardo’s Dream Machines)で、レオナルドの手稿に残る設計どおりにさまざまな器具を製作した。設計どおりに動作したものもあれば、全く役に立たないものまでさまざまな結果となった。 ==名声と評価== レオナルドの名声は生前から一貫しており、フランス王フランソワ1世がレオナルドをまるで戦利品であるかのようにフランスへと連れて行くほどだった。フランソワ1世は最晩年のレオナルドを支え、レオナルドはフランソワ1世の腕の中で息を引き取ったという伝承が残っている。レオナルドに関する世間からの関心は、その後も衰えることはなかった。現在でもレオナルドの有名な美術作品を観るために大衆が列をなし、Tシャツにはレオナルドの絵画がプリントされ、作家たちはレオナルドの驚くべき博学さとその私生活についての考察を書き続け、史上最高の知性を持った人物であるとみなされている。 ヴァザーリは『画家・彫刻家・建築家列伝』の1568年に出版された第2版の、レオナルドの列伝冒頭で次のように紹介している。 多くの人々がそれぞれに優れた才能を持ってこの世に生を受ける。しかし、ときに一人の人間に対して人知を遥かに超える、余人の遠く及ばない驚くばかりの美しさ、優雅さ、才能を天から与えられることがある。霊感とでもいうべきその言動は、人間の技能ではなく、まさしく神のみ技といえる。レオナルド・ダ・ヴィンチがこのような人物であることは万人が認めるところで、素晴らしい肉体的な美しさを兼ね備えるこの芸術家は、言動のすべてが無限の優雅さに満ち、その洗練された才気はあらゆる問題を難なく解決してしまう輝かしいものだった。 ― ジョルジョ・ヴァザーリ『画家・彫刻家・建築家列伝』 画家、批評家、歴史家たちからの尽きることのない高い評価は、さまざまな賛辞となって表現されている。『宮廷人』の著者バルダッサーレ・カスティリオーネは1528年に「ほかに世界最高の画家がいたとしても、彼(レオナルド)の懸絶した芸術の前では顔色を失うだろう」とし、レオナルドの伝記を書いた、通称アノニモ・ガッディアーノと呼ばれる詳細不明の伝記作家は1540年に「彼(レオナルド)の才能は極めて稀なあらゆる分野に通暁したもので、万物が彼に味方しているかのような奇跡といえるものである」と賞賛している。 19世紀はレオナルドの才能に対する賞賛がとくに高まった時期となった。これはイギリスで活動したスイス人画家ヨハン・ハインリヒ・フュースリーが1801年に書いた「現代美術の夜明けといえる出来事だった。レオナルド・ダ・ヴィンチが、それまでの優れているとはいえなかった芸術を光輝に満ちたものへと一変させた。ただ一人の天才がすべてのことを成し遂げたのである」という文章によるものだった。A. E. リオも1861年に「彼(レオナルド)は、その才能の偉大さ、高貴さにおいて、あらゆる芸術家から屹立した存在だった」とレオナルドを評価した。 19世紀にはレオナルドが残した膨大な手稿が、その絵画作品と同様に広く知られるようになった。イポリット・テーヌは1866年に「これほど多彩な才能を持つ人間はおそらく他に存在しない。飽きるということを知らず、その探究心は無限であり、生まれながらに洗練された、同時代はもちろん、その後何世紀にもわたって群を抜いている人物である」としている。美術史家バーナード・ベレンソンは1896年に「レオナルドは真の天才といえる唯一の芸術家である。彼(レオナルド)が触れたものは、すべてが永遠の美へと姿を変えた。頭蓋骨の断面、雑草の構造、筋肉の習作などあらゆるものが、彼が持つ描線と陰影の感性によって永久の生命を吹き込まれたのである」と記している。 レオナルドの類稀な知性への関心は、衰えるところを知らない。専門家によるレオナルドの文章の研究と解釈、絵画作品への最先端の科学技術を駆使した分析によってその業績が明らかにされ、さらには、記録には残っているものの現存しないとされる作品の探索も試みられている。リアナ・ボルトロンは1967年の著書で「あらゆることに関心を示す彼(レオナルド)の好奇心が、さまざまな分野に対する知識を追い求めさせた。レオナルドは間違いなく比類なき万能の天才である。……レオナルドが没して5世紀が過ぎたが、未だにレオナルドは我々の畏敬の対象となっている」と記している。 =水滸伝の成立史= 水滸伝の成立史(すいこでんのせいりつし)は、中国明代に成立した長編小説で四大奇書の一つである『水滸伝』の成立過程に関わる様々な論点についての概説である。 現存最古の完成された小説テキスト(文献本)は、万暦38年(1610年)に杭州の容与堂という書店が発売した『李卓吾先生批評忠義水滸伝』(容与堂本と称する)であり、小説として完成した年代はそれからややさかのぼった嘉靖年間(1522年 ‐ 1566年)の頃が有力と推定されている。 『水滸伝』は、北宋末期徽宗皇帝(在位1100年 ‐ 1125年)の治世、山東の大沼沢「梁山泊」に集った、宋江ら宿星を背負う108人の盗賊の流転を描いた通俗(白話)小説である。物語の核は、史実で同時期に山東に横行した盗賊「宋江三十六人」の故事に由来するものの、その筋立ての多くは南宋代の都市で語られた講談で培われ、元の雑劇である元曲などの要素を吸収しつつ、明代中期(16世紀半ば)に、小説としての形が確立した。 ==作者の問題== 小説『水滸伝』の作者については、古くからいくつかの説が存在し、大まかに 施耐庵説施耐庵/羅貫中説その他の説に分けられる。その他の説とは施耐庵や羅貫中がペンネームで正体は別の作家だとする説や、グループで執筆が行われたため個人の作者が特定できないとする説、そもそも数多くの講談や雑劇を寄せ集めた作品であるため特定個人の作者はいないとする説などを含む。特定作者を推定する場合も、元になった話の骨格や各回を構成する逸話は、講談や雑劇等で培われていたことが前提の上であり、一から小説を書き上げた作者というよりは、多くの要素をまとめた編者ないし完成者としての役割が想定されている。 ===施耐庵=== 現在、最も一般的に作者と目されているのは施耐庵であるが、これは現存する文献や『水滸伝』の古本に作者として記されている例があるからである。『水滸伝』に関する最も古い記録である『百川書志』に「忠義水滸伝一百巻 銭塘施耐庵的本 羅貫中編次」と記されており、すでに当時から施耐庵が作者であるとの記述がされていたことが分かる。しかし、施耐庵なる人物は水滸伝の作者として名が挙げられるのみで、どのような素性の者かを語る資料は全く存在せず、生没年も出身も不明である(上記『百川書志』に従えば銭塘出身か)。 当時通俗小説は、学のない者が読む程度の低い文章とされ、知識人の間では軽蔑された読み物であった。そのため作者が堂々と本名を名乗って上梓することはなかったと思われ、「施耐庵」は誰か別の作家が本名を隠すためのペンネームであったとする説もある。中国では元末明初の戯作者施恵をあてる説もあり、孫楷第などは『中国通俗小説書目』で耐庵は施恵の号であると主張する。また後述の郭*13049*(武定侯)のペンネームが施耐庵であったとする説もある。 ===羅貫中=== 『三国志演義』の作者として知られる羅貫中もまた、『水滸伝』の作者とする説がある。『続文献通考』(王圻)、『西湖遊覧余志』(田汝成。嘉靖30年(1551年)頃成立)、『也是園書目』(銭曾。清初成立)などでは、『水滸伝』の作者を羅貫中と記している。また上記の『百川書志』や、『七修類稿』(郎瑛著。後述)では、羅貫中・施耐庵2人の名を挙げる。現存する『水滸伝』のテキストでも「施耐庵集撰、羅貫中編修」とするものが多い。羅貫中もまた経歴不明な人物であり、一般的には元末明初(14世紀半ば)の人物とされる。賈仲名の『録鬼簿続編』によれば、親友の羅貫中は太原の人で湖海散人と称していたこと、楽府や戯曲を書いていたこと、至正24年(1364年)に最後に会ったことが記されている。ただしこの羅貫中が『三国志演義』や『水滸伝』等の通俗小説を書いたことは一切記されておらず、同姓同名の別人である可能性が高い。一方、羅貫中は明代中期の人物であるとする説もあり、実際正徳年間(1506年 ‐ 1521年)末期から嘉靖年間(1522年 ‐ 1566年)にかけて『三国志演義』『三遂平妖伝』等の長篇小説数十種が「作者・羅貫中」名義で続々と出版されている。ただし、こちらの羅貫中もすべて同一人物とは限らない。著作権意識の無かった当時、一つの小説が売れると「同じ作者の作品」と称して別の作品を宣伝することがあったためで、ベストセラー作家として羅貫中の名が勝手に使用された可能性も否定できない。また短期間に大量の長篇を続々と著作していることから、一人の作者の手になるものではなく、何人かのグループで執筆された可能性も高く、羅貫中の名はその作家グループの名であったということも考えられる。実際、現行『水滸伝』の冒頭には「詞に曰く、試みに看よ書林の隠処の、幾多の俊逸なる儒流を…」との文があり、複数の作者による合作宣言とも受け取れる。 いずれにしても『水滸伝』の作者を施耐庵もしくは羅貫中個人に比定することには無理があり、現時点では作者不詳と言わざるを得ない。 ===李卓吾=== 『水滸伝』の作者としては上記のごとく施耐庵・羅貫中が挙げられることが多いが、その他にも作者に準ずる存在ともいうべき重要人物がいる。李卓吾と金聖歎(zh)である。 『水滸伝』の良質な古本である容与堂本(百回本)や袁無涯本(百二十回本。楊定見本とも)などは、いずれも「李卓吾先生批評忠義水滸伝」などの名がつけられ、本文中の割注や、ページの上部(眉批)、各回の末尾(総批)などに様々な形式で「李卓吾批評」が挿入されている。 李贄(字は卓吾)は明末の高名な思想家(陽明学者)であり、童心説(偽りや汚れのない真心を尊ぶ)をもって知られていた存在であり、それゆえに『西遊記』や『三国志演義』などの通俗小説を高く評価していた。これは経書や史書・詩文をもって最高の文学としていた従来の儒教的倫理観からははなはだ逸脱した価値観の表明であり、その危険思想ゆえに李卓吾は迫害され、獄中で自殺するという最期を迎えた。しかし通俗文学の世界では、これを評価した李卓吾の名声は高く、小説に李卓吾の批評がつけば、セールスポイントになるという事情があった。このため『水滸伝』においても「李卓吾先生批評」とされながらも、実際に本人が書いたものであるかどうかは不明であり、むしろ李卓吾の名をかたって他の文人(たとえば葉昼など)が書いた可能性が高い。 ===金聖歎=== 『水滸伝』文繁本3種(後述)のうち、七十回本についてのみ、執筆した作者が金聖歎であることが確実に判明している。金人瑞(字は聖歎)は、明末清初の蘇州出身の文芸批評家。生年は1607年説・1610年説などがあり、1661年順治帝の崩御を機に暴動が起きた「哭廟事件」で冤罪ながら捕らわれ、処刑されるに際して「痛快痛快!」と叫んで斬首されたという畸人である。 金聖歎は李卓吾と同様、『水滸伝』や『西廂記』などの小説を高く評価し、文学史上自分自身に匹敵するほどの才人として荘周(『荘子』)、屈原(『離騒』)、司馬遷(『史記』)、杜甫、施耐庵(『水滸伝』)、董解元(『西廂記』)の6人を挙げた。それぞれの作品を「六才子書」と名付けて、自らそのすべての批評を作ろうと試みたが、実際には第六才子書『西廂記』と第五才子書『水滸伝』のみを完成させた後に処刑された。 その第五才子書『水滸伝』で金聖歎は、当時流布していた百二十回本の内容のうち前半の七十一回までは施耐庵の手に成る秀逸な部分だが、後半の約五十回分は羅貫中が増補した退屈な部分であり、すべて削除されるべきであると主張した(金聖歎の独断であり論拠はない)。そして従来の第一回を楔子(プロローグ)として、第二回から七十一回までをそれぞれ一回ずらして第一回から七十回までに再編するという大胆な試みを行った(後述)。この乱暴な改変には賛否両論があったが、清代中期以降は金聖歎本の方が優勢となり、やがて他の版(百回本・百二十回本)の存在が忘れ去られるほどに隆盛した。そのため七十回本に関する限りにおいては、『水滸伝』作者として金聖歎の名を挙げることができよう。 ==テキストの種類== ===文繁本と文簡本=== 現在に残る『水滸伝』のテキストには種類が多くある。明代の長篇小説では、より精細な叙述で情趣豊かに語られる文繁本と、筋立てを重視して煩雑な表現を簡略化し分量を減らした文簡本に大きく分けられることが多く、『水滸伝』にも文繁本系統と文簡本系統の2系統が存在する。便宜上、回数(回は現在の章にあたる)の長さで分類する。現存する主だったテキストは以下の通りである。 ≪文繁本系統≫ 七十回本百回本百二十回本≪文簡本系統≫ 百十回本百十五回本百二十四回本文簡本は手早く話の筋を追いたい読者向けというだけではなく、文章量を減らした分の空きスペースを利用して挿絵を挿入することで(挿図本)、知識レベルの低い読者にイメージを伝え読みやすくする目的もあった(全ページ挿絵入りの本を「全相本」と呼ぶ)。成立史からいえば、文簡本は百回本を簡潔化した上で、百二十回本に先んじて田・王征伐故事(後述)を挿入したものであり、成立自体は文繁本よりも遅れる。そこで、ここでは文繁本の成立のみに注目する。 文繁本3種のうち、中国では清代中期以降、七十回本が隆盛し、他の版本の存在が忘れられるほどとなった。日本では江戸時代前期に輸入されて以降、最も回数の多い百二十回本が完全と見なされたが、百回本も存在した。中国で百回本・百二十回本が「再発見」されたのは、魯迅ら日本への留学生が、日本で発見した版本を逆輸入して以降である。話の上では七十回本でも完結した印象を受ける(七十回以前と以降で筋立ての独立性が高い)上、文章の性質からも前半部は白話(口語)表現が多いのに対し、後半部は文言表現が多いなど、文体の上からも別の作者によって書かれた形跡がある。そのため先に七十回本が存在して、それに後日談を加えたものが百回本・百二十回本であるようにも見えるが、現在では以下のような様々な研究から実際には百回本→百二十回本→七十回本の順に成立したことが判明している。 ===本文の構成=== 文繁本各本の構成は、大きく分けて以下の部分から成る。含まれる要素の違いによる回数の差が文繁各本の主な違いとなる。 上記の各部は本項の説明の便宜上区切ったものである。論者によっては別の区切り方も考えられる。 ===百回本:小説としての確立=== 上記の構成表を一見して分かるのは、百回本と百二十回本の違いが、第V部分の田虎・王慶征伐の有無のみということである。これは百回本の好評を受けて、追随した書店が他店と差をつけるために物語を増補した版を発売したためである(後述)。現存する最古のテキストである容与堂本「李卓吾先生批評忠義水滸伝」や、書目に言及された古い版本が百回本であることから、元々の形が百回本であることは間違いない。 百回本の完全な形で残る現存最古のテキストは、冒頭に述べたごとく、杭州の書肆容与堂が万暦38年(1610年)に刊行した『李卓吾先生批評忠義水滸伝』(容与堂本)である。ただしこれ以前に、明代の官僚で出版業も手がけた郭*13050*(武定侯。? ‐ 1542年)が刊行した書籍の中に、嘉靖(1522年 ‐ 1566年)初年頃の『忠義水滸伝』と呼ばれる20巻100回の本があったことが分かっており、「郭武定本」と呼ばれる。また、沈徳府(1578年 ‐ 1642年)の『万暦野獲編』には「最近新安で刊行された『水滸伝』の良質本は、郭家に伝わる古本(郭武定本)に汪太函(汪道昆)が天都外臣という名で序文をつけたものである」と記されており、郭武定本を復刻したこちらのテキストは「天都外臣序本」と呼ばれる。郭武定本は現存していないが、上記のごとく高儒『百川書志』(1540年)に「忠義水滸伝一百巻」との記述があることからも、郭武定本が成立した嘉靖前期(1520‐30年代)を小説『水滸伝』(百回本)の成立時期とするのが通説となっている。 なお中華人民共和国時代に入った1954年に、北京の人民文学出版社から鄭振鐸が序文をつけた天都外臣本が排印本(活字本)で『水滸全伝』として突如出版された。これは万暦17年(1589年)に郭武定本を忠実に復刻したという『忠義水滸伝』100巻百回本の一部(残巻)を含むとされているが、なぜか百二十回本で刊行されている。この『水滸全伝』の元となった古本が本当に天都外臣本であるのかには疑問が残る。校訂に関わった呉暁鈴が1983年に『光明日報』に発表した「天都外臣序本忠義水滸伝を語る」では、切り取られてほぼ判別不能な最終行を含む天都外臣序文の写真を発表し、この判別不能な最終行に書かれた文を「萬暦己丑孟冬天都外臣撰」とかなり強引に推測したことを明らかにした。高島俊男はこれらの経緯から『水滸全伝』の元になった古本は天都外臣本ではなく容与堂本系統の本であり、「石渠閣補刊本」とでも呼ぶべきであると結論づけている。 以上のような経緯から、もし今後郭武定本もしくは天都外臣序本の完全な版本が発見されれば、『水滸伝』成立研究の上で貴重な史料となることは疑いない。 ===百二十回本:田虎・王慶説話の挿入=== 田虎・王慶征伐とは朝廷に帰順した梁山泊軍が、河北で叛乱を起こした田虎と淮西で叛乱した王慶をそれぞれ討伐する話であり百二十回本の第91回から100回が田虎征伐、101回から110回が王慶征伐でそれぞれ10回というわかりやすい分量となっており、征遼故事(83回から90回)と方臘征伐(111回から120回)の間に挿入されたことが分かる。 元々百回本の第72回で柴進が宮廷の睿思殿に潜入した際、天子(皇帝)を悩ませる四大寇(4つの大盗賊)として「山東宋江、江南方臘、淮西王慶、河北田虎」と記されているのを発見したというエピソードがあるにもかかわらず、百回本では王慶・田虎が全く登場しないことからヒントを得て話が創作され、後から挿入されたものである。初めは百回本の文章を簡略化した文簡本系統の本でこれらのエピソードが挿入され、これを文繁本の形で整理・増補したのが百二十回本にあたる。実際に20回分の増補を行ったのは、袁無涯や楊定見という人物だとされているが、決定的な証拠はないため異説もある。 現行百二十回本の挿増部分では、前半の田虎征伐部分で梁山泊軍に新たに加入した孫安・瓊英・喬道清・馬霊などの登場人物が、王慶征伐部分で戦病死・妊娠・遁世など巧みな手法によって全員が物語から退場し、元の第90回以前の梁山泊軍団に戻っている。このように挿増部分前後で矛盾が生じないように物語が挿入されていることからも、田虎・王慶征伐説話が後から加えられたことが見て取れる。 現存最古の百二十回本のテキストは万暦42年(1614年)の『出像評点忠義水滸全伝』(通称:楊定見本)であり、文繁本百二十回本は、この時期もしくはその直前頃に成立したと思われる。日本へは江戸時代の享保13年(1728年)に輸入されたものを岡島冠山が一部和訳(訓点を施した)したものが発行され、浮世絵師の歌川国芳や葛飾北斎が挿絵を描いて広まった。そのため、日本においては百二十回本が標準的なテキストとして普及することになる。 ===七十回本:金聖歎による腰斬=== 一方の七十回本は、金聖歎が著した比較的新しい文繁本である。明末の崇禎14年(1641年)に出版されている。 李卓吾が『水滸伝』を称揚し宋江を忠義の士と評価したのに対して、金聖歎は『水滸伝』そのものは高く評価するものの、宋江は盗賊であるにもかかわらず善人ぶる偽善者の最たる者と軽蔑した。金聖歎は盗賊が朝廷に帰順して功を上げるという筋立ては無知な人々による安易な模倣を招き、盗賊行為を助長するとして徹底的に批判。そのため、招安以後の梁山泊軍が朝廷に帰順して遼や他の賊を征伐する部分は、羅貫中が後から創造した虚偽であるとし、自ら所持する古本を復刻することで施耐庵の本意を再現すると称して、百二十回本の後半第72回以降(第III部分以降)をすべて削除した。もちろんそんな古本は実在せず、金聖歎自らが書いたものである。金聖歎が施した主な改変は以下の通りである。 百二十回本の第72回以降をすべて削除し、招安以降を無かったことにした。全71回では不自然なため、第1回を楔子(プロローグ)とし、第2回以降を前にずらし、第71回を第70回とした。梁山泊に108人が結集した直後、全員が斬罪になるという盧俊義(梁山泊の副頭領)が見た夢で話が突然終了する。物語の進行上に関係しない、無駄な美文や詩を削除した。施耐庵の原序なるものを創作して付け加えた。自らの価値観に基づく批評を大量に挿入したり、部分的に文章を技巧的なものに書き改めた。金聖歎が本文中に挿入した批評は、自ら改作した部分を褒め称える自画自賛も多く、また宋江が「忠義」と発言するたびに「権詐」「奸詐」と注釈を入れるなど、露骨な依怙贔屓の傾向が強い。金聖歎は登場人物をランク分けし、呉用・関勝・林冲・花栄・魯智深・武松・楊志・李逵・阮小七らを「上上」の人物として評価する一方、戴宗・楊雄らを「中下」、宋江・時遷を「下下」と評した。宋江は百二十回本でも偽善者的傾向が若干鼻につく造形であるが、七十回本ではそれがさらに強調して描かれ、さらに金聖歎の注釈でそれが酷評されるという自作自演的な記述も見られる。こうした増補の結果、文章量はむしろ百二十回本よりも増え、文飾や後半部を丸ごと削除したにもかかわらず、従来の版本よりページ数が多いほどであった。 このような金聖歎の大胆な改変は賛否両論が激しく、特に結末にいたる後半部分を削除した点を否定派は「腰斬」と批判した。ただしそれ以前から『水滸伝』後半部分は前半と比べると甚だ興趣が劣り、文章も精彩を欠くため、退屈と感じていた読者も多く、また金聖歎の批評も過激ながら人々の共感を呼んだこともあり、徐々に受け入れられていくようになっていった。幸田露伴は「金聖歎は百二十回を七十回で打ち切ってけしからぬことをした」「聖歎の批評は自分の言いたい三昧をならべたもの」「聖歎を良い批評家だと思ったり、聖歎本で水滸伝を論じたりなんぞしてゐるのは、おめでたい話」と七十回本とそれを高く評価する者を厳しく批判する一方で、「後半で人気のある人物が死ぬ描写を削ったのは、読者にとって好ましいことだった」とも評価する。また周作人は金聖歎の批評によって、水滸伝がより面白くなったと評価し「白キクラゲとスープを一緒に飲むようにうまい」といい、正岡子規も「これがために本文に勢がついてくる」と高く評価している。次第に七十回本は他の版を凌駕するようになっていった。 ただし、水滸伝の影響を受けて清代前期に著作された『水滸後伝』(陳忱によって康煕3年(1664年)に書かれた『水滸伝』続篇の一つ。後述)『説岳全伝』(銭彩・金豊ら作。康煕23年(1684年)成立。後述)などが、百回本を元にして作られている形跡が認められることから、この時期にはまだ七十回本はそれほど隆盛していなかったことが推定される。いっぽう乾隆57年(1792年)に『続水滸征四寇全伝』と称する、七十回本で削除された後半41回分にあたる部分を文簡本から単独で抜き出した書物が出版されている。これは七十回本の「盧俊義の夢」という唐突な終了に違和感を覚える声が多かったことから、それに応えて本来の後半部を単独で出版したものであり、このことから逆に、この時期すでに七十回本が標準的な地位を得ていたことが分かる。清代中期の乾隆年間(1736年 ‐ 1795年)後期あたりから、次第に七十回本が他の版本を淘汰していったと思われる。この時期の後、兪万春(1794年 ‐ 1849年)によって書かれた『蕩寇志』(『水滸伝』続篇の一つ。後述)が、いきなり第71回から始まる構成で金聖歎本の続きとして書かれていることからもうかがえる。この後七十回本は中華民国時代にかけて地位を独占し、他の版本の存在が忘れ去られるほどになったという。民国18年(1929年)には、鄭振鐸が『水滸伝的演化』の中で「金聖嘆の七十回本は他のあらゆる文繁本・文簡本を葬り去ってしまい、『水滸伝全書』(百二十回本を指す)なるものが存在することを300年もの間、覆い隠してしまった」とまで評した。 ===文簡本各種=== 文簡本は、文繁本の流れや筋立てを重視し、余分な文飾を削って文章量を減らした本である。特に『水滸伝』百回本の文繁本には美文や詩などが至る所に挿入されており、中には作者の衒学的な趣味が露出していたり、あまり意味が無いものなども多く、読む上でストーリーの妨げになるものが少なくない(それゆえ七十回本では金聖歎によって削除されている)。そこで手早く話の筋を追いたい読者向けに文飾を削り、また文章のボリュームが減った分、挿絵を増やすなどの工夫を行って手軽に読めるようにしたものが文簡本である。ページの上半分を『水滸伝』、下半分を『三国志演義』に分け、2つの小説を合わせて読めるタイプのものまで作られた。 文繁百回本の成立後、早くも文簡本として百十回本や百十五回本が登場している。文繁本よりも回数が増えているのは上記のごとく田虎・王慶の段が追加されたからで、『新刊京本全像挿増田虎王慶忠義水滸伝』等の書名が残っている(”京本”は北平(北京)での出版、”全像”は全ページ挿絵つき、”挿増田虎王慶”は田虎・王慶征伐が新たに加えられている、の意)。成立年代は万暦初年と思われる。これを元に文繁百二十回本が作成されたのは前述の通りである。 また百二十回本の成立後にはさらに『水滸後伝』(後述)を付け足した百二十四回本(1879年刊)などの文簡本も作られた。『水滸後伝』は百回本の続篇として書かれていると思われるので、本来は奇妙な組み合わせであるが、文簡本ゆえに問題とはされていない。 ==史実から虚構へ== 水滸伝の物語の大半は、様々な人の手にかかる架空の話であるが、本筋・骨格となる部分の中には史実に取材した要素がいくつかある。史実に見られる事件のうち、『水滸伝』の元になったと思われるものとしては、 北宋末、梁山泊という大沼沢があり、盗賊の拠点となっていたこと。宰相蔡京が朝政を壟断し、徽宗皇帝は書画骨董や造庭の道楽にふけり、各地から奇石を徴収する「花石綱」を課したこと。山東から淮南にかけて(斉・魏)に「宋江三十六人」と称する盗賊が暴れ回っていたこと。亳州知事侯蒙が朝廷に、宋江の罪を赦して将軍に取り立てて方臘討伐に役立てるよう献策したこと(実際には侯蒙の死により実現せず)。宋江が海州に侵入した際、朝廷が知事の張叔夜に命じて、宋江を投降させたこと。北宋と契丹(遼)との間に度重なる紛争があったこと。江南地方で方臘が反乱を起こし、朝廷から鎮圧されたこと。方臘征伐軍の中に宋江という名の将軍がいたこと。などが挙げられる。ただしこれらの事象どうしの間には、本来全く関係はない。山東の盗賊宋江三十六人が梁山泊を拠点にした事実はなく、方臘を討伐した将軍宋江が盗賊宋江と同一人物かどうかも不明である(後述)。宋と契丹(遼)との戦いも、史実ではほぼ契丹側の勝利に終わっており、『水滸伝』のように宋側が鮮やかな勝利を挙げたことはほとんどない。また「宋江三十六人」とは宋江とその他36人なのか、宋江を含めた36人なのか、それとも36という数字自体にはそれほど意味が無く、人数が多いということを表現したかったのかもよく分かっていない。 しかし、これらの断片的な史実のエピソードをつなげていくことで、水滸伝の核となるストーリー、すなわち「朝廷が腐敗した北宋末期に、宋江ら諸事情により盗賊に身を落とした者たちが梁山泊に集い、やがて朝廷に帰順して、その命により遼や方臘を征伐する」という流れが形成されていった。 ===二人の宋江=== 核となるストーリーの中でも「山賊であった宋江が朝廷に帰順し、方臘征伐に活躍する」という部分は、とりわけ重要であり、長年のあいだ史実と信じられていた。しかし1939年陝西省府谷県において、北宋末の范圭なる人物が撰した「宋故武功大夫河東第二将折公墓誌銘」という史料が発見されたことで、異説が現れた。これは北宋末に方臘征伐に参戦した折可存という武人を称えた墓誌であるが、宣和3年(1121年)4月26日に方臘を捕らえた後、都へ凱旋の途中に草寇の宋江を追捕したと記されていたからである。これを文字通り読めば、方臘征伐時点ではまだ宋江は朝廷に投降していなかったことになる。 牟潤孫はこれに対し、宋江は方臘征伐で功を立てたことがかえって仇となり、嫉妬から謀叛の疑いをかけられて征伐されたとの説を唱えたが、論理に飛躍があり、決定打とはならなかった。また厳敦易は、そもそも宋江が張叔夜に投降したという史料は、そうした命令が出たというだけで、実際に投降したとは限らないとし、宋江はこの時点で官軍に身を投じた訳ではなかったとの説を唱えた。 宮崎市定は『東都事略』(南宋の王*13051*による史書)の宣和3年5月3日の記事に「宋江、擒に就く(捕らえられる)」とあること、『皇宋十朝綱要』(南宋の李埴著)、『続資治通鑑長編紀事本末』(楊仲良著)などに方臘征伐軍の将軍宋江が4月24日の包囲戦で方臘の退路を断ち、方臘捕縛後の6月5日にも残党を滅ぼして反乱を平定するなどの活躍が記されていることなどから、「山賊の宋江と方臘征伐に従軍していた将軍宋江は、同姓同名の別人である」との新説を展開した。 年表は高島俊男『宋江實録』より。同様の事件でも、史料により時期が異なるため重複して記載。それに対し高島俊男は、宮崎説をはじめ従来の説を徹底的に批判した。まず各書によって事件の日付に混乱が見られるのは、一人の人物(たとえば宋江)にまつわる複数の事柄をまとめて記載する際に、代表的な事件が起きた日付の箇所にまとめて記載することが多いという史書の慣例のためとし、必ずしもそれらの事件すべてが記載日時に起きた訳ではないと指摘。高島によれば、各史書で官軍の宋江の活躍を記した箇所は後からの補筆の形跡が疑われ、『大宋宣和遺事』(後述)などで広く宋江関連説話が広まって以降に改竄された可能性が高く、事実として「山賊の宋江が官軍に降り、方臘征伐に活躍した」ということはなかったと結論している。また、折可存が方臘征伐の帰路に捕らえたという草寇(こそ泥)の宋江は、山東・淮南広域を荒らしていた宋江の名にあやかって名乗った規模の小さい草賊であったとする。 いずれにしろ、盗賊宋江が朝廷の方臘征伐軍に加わって功績を挙げたという事件は史実としては認めがたく、『水滸伝』物語の核ははじめから虚構の上に成り立っているといえよう。 ==先行する作品群== 『水滸伝』の骨格となる招安(第III部分)・四寇征伐(第V・VI部分)以外の、分量的には最も多い各好漢の銘々伝(第2部分の中心)のエピソード群については主として宋代以来、都市部で流行した講談によって生み出されたと推測されている。中鉢雅量は本文と関連作品の内容の分析から、1)まず太行山系を舞台とする北方系の盗賊説話が多く存在し、2)梁山泊を舞台とする南方系の説話と結びつき、3)最終的に杭州近辺の編者によって物語がまとめられ成立したと推測している。 ===宋代の講談=== 宋代は都市の経済や文化が大いに発展した時代であり、南宋の首都杭州(臨安)の瓦市(盛り場)では、勾欄と呼ばれる寄席・見せ物小屋で、様々なジャンルの講談(説話)が語られた。講談の中には何日にも分けて興行される長篇のストーリーもあり、客の興味を引きつけるため、わざと話が盛り上がる場面で「続きはまたの日に」と終了して、翌日以降に再び聞きに来させる手法が用いられた。この講談形式から生まれたのが『三国志演義』などの章回小説と呼ばれる分野である。現行の『水滸伝』でも、その名残が見出せる。 元代に成立したと思われる講談師のタネ本である羅*13052*の『酔翁談録』には、題目だけで内容が残っていない作品を含め、多くの講談の筋がジャンル別に収められているが、その中で水滸伝故事に関連しそうなものがいくつか散見できる。「公案」(裁判もの)ジャンルにある「石頭孫立」「戴嗣宗」は現行『水滸伝』の好漢孫立・戴宗との関連をにおわせる。「朴刀」(剣劇もの)ジャンルには「青面獣」という作品があり、現行『水滸伝』の楊志のあだ名そのものである。また「桿棒」(決闘もの)ジャンルに収められている「花和尚」「武行者」もそれぞれ魯智深・武松の通称として『水滸伝』でも頻出する表現である。こういった様々な講談の中から史実の盗賊「宋江三十六人」と関連づけられたヒーローもあり、南宋末には宋江三十六人のメンバーも固まりつつあったと見られる。 ===「宋江三十六人」構成員の変遷=== ※『水滸伝』は天*13053*星(上位幹部)。このほかに下位幹部である地*13054*星72人がおり、計108人となる。 ===癸辛雑識:宋江三十六人賛=== 南宋末の画家*13055*聖与(名は開、聖与は字、1222年? ‐ ?)は、宋江を初めとする総勢36人の姿を描いた肖像画と、それに附する賛(四字句の連続で人物を称えた文)を作成した。肖像画は現在散佚して見ることはできないが、同時代の周密(1232年 ‐ 1298年。号は草窗)の著わした『癸辛雑識続集』に賛のみ引用されており、中身を窺い知ることができる。 宋江三十六人賛全文を読むには右の[表示]をクリック。 呼保義 宋江 : 不仮称王。而呼保義。豈若狂卓。専犯忌諱智多星 呉学究 : 古人用智。立国安眠。惜哉所予。酒色*13056*人玉麒麟 盧俊義 : 白玉麒麟。見之可愛。風塵大行。皮毛終環大刀 関勝 : 大刀関勝。豈雲長孫。雲長義勇。汝其後昆活閻羅 阮小七 : 地下閻羅。追魂摂魄。今其活矣。名喝太白尺八腿 劉唐 : 将軍下短。貴称侯王。汝豈非夫。腿尺八長没羽箭 張清 : 箭以羽行。破敵無頗。七紮難穿。如游斜河浪子 燕青 : 平康巷陌。豈知汝名。太行春色。有一丈青病尉遅 孫立 : 尉遅壮士。以病自名。端能去病。国功可成浪裏白跳 張順 : 雪浪如山。汝能白跳。願随忠魂。来駕怒潮船火児 張横 : 大行好漢。三十有六。無此火児。其数不足短命二郎 阮小二 : 灌口少年。短命何益。曷不監之。清源廟食花和尚 魯智深 : 有飛飛児。出家尤好。与爾同袍。仏也被悩行者 武松 : 汝優婆塞。五戒在身。酒色財気。更要殺人鉄鞭 呼延綽 : 尉遅彦章。去来一身。長鞭鉄鋳。汝豈其人混江竜 李俊 : 乖竜混江。射之即済。武皇雄争。自惜神臂九紋竜 史進 : 竜数肖九。汝有九文。盍従東皇。駕五色雲小李広 花栄 : 中心慕漢。奪馬而帰。汝能慕広。何憂数奇霹靂火 秦明 : 霹靂有火。摧山破岳。天心無妄。汝*13057*自作黒旋風 李逵 : 風有大小。不弁雌雄。山中之中。遇爾亦凶小旋風 柴進 : 風有大小。黒悪則懼。一噫之微。香満太虚挿翅虎 雷横 : 飛而食肉。有此雄奇。生入玉関。豈傷令姿神行太保 戴宗 : 不疾而速。故神無方。汝行何之。敢離太行急先鋒 索超 : 行軍出師。其鋒必先。汝勿鋭進。天兵在前立地太歳 阮小五 : 東家之西。即西家東。汝雖特立。何有吾官青面獣 楊志 : 聖人治世。四霊在郊。汝獣何名。走曠労労賽関索 楊雄 : 関索之雄。超之亦賢。能持義勇。自命何全一直撞 董平 : 昔樊将軍。鴻門直撞。斗酒肉肩。其言甚壮両頭蛇 解珍 : 左噛右噬。其毒可畏。逢陰徳人。杖之亦斃美髯公 朱仝 : 長髯郁然。美哉豊姿。忍使尺宅。而見赤眉没遮*13058* 穆横 : 出没大行。茫無畔岸。雖没遮*13059*。難離火伴*13060*命三郎 石秀 : 石秀*13061*命。志在金宝。大似河*13062*。腹果一飽双尾蝎 解宝 : 医師用蝎。其体貴全。反其常性。雷公汝嫌鉄天王 晁蓋 : 毘沙天人。証紫金躯。頑鉄鋳汝。亦出洪炉金槍班 徐寧 : 金不可辱。亦忌在穢。盍鋳長殳。羽林是衛撲天*13063* 李応 : 鷙禽雄長。惟*13064*最狡。毋撲天飛。封狐在草宋江三十六人賛に並ぶ人名を見ると、細かい異同はあるものの、概ね現行の『水滸伝』の天*13065*星36人の顔ぶれと一致しており、メンバー構成とあだ名に関しては、すでに南宋末というかなり早い時期からほぼ完成型に近い形で成立していたことがうかがえる。ただし賛の内容を見る限りは、『水滸伝』とはかなり性格設定が異なる人物も多い。現行『水滸伝』との主な違いは、 『水滸伝』で呉用(字は学究、号は加亮)とされる人物の名が呉学究となっている。劉唐(尺八腿→赤髪鬼)、董平(一直撞→双鎗将)、徐寧(金槍班→金鎗手)、晁蓋(鉄天王→託塔天王)、楊雄(賽関索→病関索)など、あだ名に若干の変化が見られる。阮小二と阮小五のあだ名が『水滸伝』と逆になっている。『水滸伝』では全員集結の前に死去してしまうためメンバーの中には入っていない晁蓋が34位に入っている。『水滸伝』では地*13066*星側の39位である孫立が9位と高位に入っている。逆に『水滸伝』では重要な活躍をする公孫勝(4位)と林冲(6位)が含まれていない。などが挙げられる。特に現行『水滸伝』で梁山泊軍団の最強性を保証する魔法使い公孫勝、序盤のストーリーを主導して様々な人物の橋渡しを行う林冲がこの時点で登場していないことは、これらの人物の造形は物語全体の構想がある程度完成した後の段階で成立した可能性を示唆する。 また宋江三十六人賛には、梁山泊を意味する地名が一切登場しない。むしろ、盧俊義・張横・穆横・燕青・戴宗の5人の賛に「太行(大行)」すなわち太行山が登場しており、この時点では盗賊「宋江三十六人」と梁山泊が無関係であって、彼らの本拠地が太行山と考えられていたことがうかがえる。 ===大宋宣和遺事=== 『大宋宣和遺事』は、北宋末の徽宗皇帝代を中心に取材した説話集で、作者は不明。単に『宣和遺事』ともいう。講談師の種本ともいえる書物で部分的に口語体で書かれており、徽宗皇帝の一代記となっている。その中に内容的に現行『水滸伝』につながると思われる、宋江ら梁山*13067*(*13068*は泊の異体字)の盗賊に関する説話が記載されている部分がある。人物名に関しては、現行『水滸伝』とほとんど一致するが、性格や役柄などはかなり異なっている(詳細は大宋宣和遺事を参照)。 宋江らに関する説話は3つの部分から成り、第1部分は『水滸伝』第12回の楊志が語る身の上話につながる、花石綱運搬失敗の話で、楊志・李進義・林冲ら12人の義兄弟が山賊に身を落とし、太行山にこもる。第2部分は『水滸伝』第14回から18回までの「智取生辰綱」(宰相蔡京への誕生日祝いと称した賄賂を強奪した故事)の元になったエピソードで、大金を得た晁蓋・呉加亮・阮三兄弟らが、宋江の目こぼしを受けた後、第1部分の12人とともに太行山梁山*13069*で山賊となる。第3部分は『水滸伝』第20回・21回の宋江による閻婆借殺しにあたる部分で、宋江は朱同・雷横ら9人を伴って梁山*13070*へ向かうが、すでに晁蓋は死亡していた。勢揃いした36人を率い、元帥張叔夜に帰順して、方臘の乱を鎮め、節度使に任命される、というあらすじとなっている。 記述の途中で宋江が捕り手から逃れるため、九天玄女の廟の中に隠れた際、そこで発見した天書1巻に36人の名前が書いてあるという逸話がある(『水滸伝』第41回にも同様の九天玄女廟の話があり、宋江は星主としての宿命を悟るが、全員の名は書いていない)。しかしこの一覧表の36名と『宣和遺事』本文中に登場している人名では若干食い違いがある。 本文中に「阮通」とある人物が、一覧では「阮小五」になっている。本文中に「関勝」とある人物が、一覧では「関必勝」になっている。本文中には「一丈青・張横」とある人物が、一覧には入っていない。一覧に「入雲龍・公孫勝」「浪裏白条・張順」「行者・武松」とある人物が、本文中には登場しない。これを踏まえ、現行『水滸伝』と『宣和遺事』の相違点を挙げると、 『宣和遺事』では、宋江が36人の中に入っておらず、「宋江と36人」で総勢37人となっている。『宣和遺事』では、すでに死亡した晁蓋が36人の中に入っている(しかも最下位)が、『水滸伝』ではやはり早く死亡した晁蓋は36人の中には入っていない(36人の上に位置する番外扱い)。『宣和遺事』で24位の孫立、35位の杜千(杜遷)は『水滸伝』では下位の地*13071*星(それぞれ39位、83位)に地位を落としている。いっぽう『水滸伝』で天*13072*星の中にいる解珍・解宝らは『宣和遺事』には登場していない。『宣和遺事』で「張青」とある人物は『水滸伝』では「張清」となっている。一方で『水滸伝』には新たに「張青」(第102位、あだ名は菜園子)という人物が全く別に登場している。『宣和遺事』で本文中に登場しながら一覧にいない「一丈青張横(李横とも)」という人物は、『水滸伝』の「船火児張横」の前身と思われる。しかし『宣和』の方には「火*13073*工張岑」という人もおり、あだ名を考えるとこちらの方が近い。いっぽう『水滸』では「一丈青」というあだ名を持つ「扈三娘」(第59位)という人物が別に登場している。『水滸伝』の盧俊義・楊雄・穆弘・呼延灼・杜遷が、『宣和遺事』では発音の似た李進義・王雄・穆横・呼延綽・杜千になっている。また『水滸伝』の李俊は『宣和遺事』では李海である。阮三兄弟の名が『水滸伝』では阮小二・阮小五・阮小七なのに対し、『宣和遺事』本文では阮進・阮通・阮小七で、しんにょう(*13074*)が列系字(兄弟間で名に共通の字や部首を用いること)となっている。また阮小二(阮進)と阮小五のあだ名が『水滸伝』とは逆転している。あだ名の変化を見ると張順が「浪裏白条→浪裏白跳」、董平が「一直撞→双鎗将」、王雄(楊雄)が「賽関索→病関索」、呼延綽(呼延灼)が「鉄鞭→双鞭」に、杜千(杜遷)が「摸著雲→摸着天」に、晁蓋が「銕天王→托塔天王」にそれぞれ変わっている。董平と晁蓋以外は、同音異字や似た意味の字による微妙な変化である。また、彼らの本拠地が第1部分では「太行山」、第2部分では「太行山梁山*13075*」、第3部分では「梁山*13076*」とされ、宋江集団と梁山泊とが関連づけられている。太行山脈は山西省、梁山泊は山東省にあり、かなり離れた全く別の場所であって本来「太行山梁山*13077*」などという地名はあり得ない。宋江三十六人賛でも見られた太行山系の盗賊説話が、梁山泊と結びつけられていく過程で、このように中途半端な地名が作り出されたものであろう。『宣和遺事』第2部分から受け継がれた『水滸伝』の「智取生辰綱」故事でも、舞台となる黄泥岡の記述に太行山系の残滓が見られる。 『宣和遺事』の成立年代は不明であり、諸説にも幅がある。中国では南宋代とする説も強いが、日本をはじめ多くの学者は書物としての完成は元代であるとする説が強く、魯迅なども同様の説を唱えている。明初に成立した雑劇『豹子和尚自還俗』(後述)に書かれた序列が、『宣和遺事』と『水滸伝』の中間過程と推察されることから、『宣和遺事』も同様に明初に成立したのではないかとする佐竹靖彦の説もあるが、概ね元代の成立とするのが通説である。宋江三十六人賛との前後関係も不明で、三十六人賛に含まれていなかった林冲・公孫勝がいる一方で、解珍・解宝が抜けている。 ===元曲(水滸戯)=== 元曲とは元代に隆盛した雑劇・散曲を総称したもので、元雑劇とも言われる。それらの中に梁山泊や宋江にまつわるエピソードを扱った雑劇があり、これらは「水滸戯」と総称される。具体的な曲名としては『梁山泊李逵負荊』『都孔目風雨(大婦小妻)還牢末』『同楽院燕青博魚』『黒旋風双献功』『争報恩三虎下山』などがあり、『水滸伝』の物語が形成されるまでの過程に影響を与えた可能性が高い。特に『梁山泊李逵負荊』の筋は、現行『水滸伝』の第73回に出てくる話のプロットとなっている。内容が不明で題名だけが残る作品の中でも『病楊雄』『折担児武松打虎』『窄袖児武松』『双献頭武松大報仇』『全火児張弘』などは、『水滸伝』の楊雄・武松・張横らとの関連性がうかがえる。 水滸戯にはパターンがあり、まず宋江が登場して自己紹介や落草した(盗賊に身を落とした)理由である閻婆借殺しを述べ、その後部下の紹介に続く(なお、仲間は36人の大幹部と72人の小幹部とされ、従来の36人から108人に増加していることが注目される)。とある理由で部下の何人かの頭領を下山させると告げる。下山する頭領たちの名は『水滸伝』とほぼ同じであるが、性格はかなり異なり、主に活躍するのは、李逵・燕青・魯智深などの面々である。頭領たちは様々な事件を起こした後、梁山泊へ戻るという筋書きとなっている。大きな特徴として、事件の前後で梁山泊の構成員に変化がないという静的な構造となっている。現行『水滸伝』はむしろ梁山泊集団の形成過程(第II部分)を中心に据えているため、集団そのものは動的であるから、物語の構造が大いに異なっている。一方で、宋江らの拠点は完全に梁山泊で定着しており、しかも周囲八百里という『水滸伝』と同様の描写が見られる。 元に代わって明が成立した後も水滸戯は制作され、明初の皇族・文人で自らも雑劇を作ったことで知られる朱有燉(周憲王。洪武帝の孫。1379年 ‐ 1439年)が、『豹子和尚自還俗』『黒旋風仗義疎財』などの水滸戯を残している。『豹子和尚自還俗』は魯智深を主人公とした水滸戯であり、魯智深をのぞく35人の頭領の席次が述べられている意味で貴重な史料である(36人の内訳と席次は上掲の表を参照)。題名の「豹子和尚」は魯智深を指すが、現在の『水滸伝』では魯智深のあだ名は「花和尚」であり、「豹子」のあだ名を持つ者は「宋江三十六人賛」の段階では未登場だった林冲(豹子頭)である。『水滸伝』での魯智深と林冲の活躍する箇所は隣接しており、小説の成立過程で林冲が魯智深の「豹子」という属性を分けられて分割したキャラクターであった可能性も考えられる。 なお、水滸戯の中には小説としての『水滸伝』が完成された後に作られたものもあり、『魯智深喜賞黄花峪』『梁山五虎大劫牢』『梁山七虎鬧銅台』『王矮虎大鬧東平府』『宋公明排九宮八卦陣』などが残っている。これらも静的な物語構造であることには変わりない。 ===七修類稿=== 郎瑛(1487年 ‐ 1566年?)は浙江の読書人で、字は仁宝。読書などで得た知識や、世上の見聞を天地・国事・義理・弁証・詩文・事物・奇謔の7分野に分類してまとめたメモ書きである『七修類稿』を残した。その中に宋江三十六人のメンバー名を記した「宋江原数」という箇所がある。郎瑛は『水滸伝』が成立しつつあった時代に生きた人物であり、彼の主張では羅貫中が元々の宋江三十六人に72人の地*13078*星を勝手に加えたので本来の36人のメンバーを書き留めたということである。リストにあだ名がついておらず、また『七修類稿』自体の史料価値がそれほど高くないこともあり、それほど評価されてはいないが、『宣和遺事』に登場していた林冲・公孫勝が再び消えていること、晁蓋が宋江と呉用の間の第2位にいること、李応が李英という名になっている(応と英はともに発音はy*13079*ng)ことなどが注目される。 ===楊家将演義=== 『楊家将演義』(以下『楊家将』)は、北宋初期の楊業(令公)一族の活躍と悲劇を描いた通俗小説で、成立年代は『水滸伝』などと重なっており、互いに影響を与えている。『水滸伝』重要人物の一人楊志は楊令公の子孫という設定になっている。『楊家将』現存最古の版本は万暦21年(1593年)世徳堂刊の『南北両宋志伝』(20巻百回)で、このうちの前半部『北宋志伝』五十回が現在『楊家将』と呼ばれる物語である。実在の名将楊令公と、その子六郎を中心に楊一族が北宋の辺境地方で遼(契丹)や西夏と戦い、勝利を挙げる話であるが、上記のように史実での宋遼関係は常に宋側の劣勢であり、『楊家将』も『水滸伝』と同様、史実によらない荒唐無稽な話である。その成立の過程もまた『水滸伝』と同じく、南宋以来の講談で培われた話を元にしており、羅*13080*の『酔翁談録』にも「楊令公」などの題目が残っている。このように似たような過程を経て同時期に成立した小説であるため、互いに影響を与えた痕跡が見られる。中でも『水滸伝』第IV部分すなわち遼国征伐は、モチーフが『楊家将』と同じであり、登場する地名や戦法・陣形などは『楊家将』の影響がみられる。また『水滸伝』の登場人物呼延灼は征遼部分で大活躍するが、『楊家将』でも呼延賛が大活躍している。呼延賛は実在の武将で『宋史』巻279に伝が残る人物で、『楊家将』では鉄鞭(日本語で言うムチではなく、節のある打突武器)を振るって活躍する。『水滸伝』の呼延灼は呼延賛の子孫という設定となっており、あだ名は「双鞭」であるが、宋江三十六人賛や『宣和遺事』では呼延綽(灼と綽は同音)のあだ名が「鉄鞭」になっているなど、『楊家将』の影響がうかがえる。 ==水滸伝の続篇== 『水滸伝』は上記のように百回本で小説としての体裁が整い、その後挿増を施した百二十回本が成立。最終的には金聖歎による七十回本の成立で主要各版本の完成をみる。しかしその後も作品の人気の高さから、幾人もの作家が『水滸伝』の続篇を著すなど、水滸伝物語の進化は、小説としての完成以後も止まることは無かった。各続篇がどの版本を元に書かれたのか、および成立年代がいつなのかという問題は、『水滸伝』各版本の成立時期や過程そのものにも密接に関連するため、続篇の研究は『水滸伝』成立史の上からも重要な問題である。『水滸伝』の続篇とされる小説の種類は非常に多く、枚挙にいとまないが、ここではそのうち代表的なもののみを概説する。 ===金瓶梅=== 『水滸伝』第23回から32回の武松を主人公とする話は「武十回」と呼ばれ、人気が高い。中でも第24回から26回の「西門慶・潘金蓮殺し」は構成に推理小説のような緻密さを持ち、また人物描写も生き生きとしており、読者からの評価が高い部分であった。 そこで、水滸伝からこの部分のみを取り出し、さらに主人公を逆に武松に殺される西門慶・潘金蓮として、人間の欲望(性欲・金銭欲)を前面に出した豪華絢爛にして頽廃的な物語として作られたのが『金瓶梅』全100回である。いわば『水滸伝』のスピンオフ作品として作成された。成立は『水滸伝』からそれほど遠くなく、万暦年間と推定されている。著者は「蘭陵笑笑生」と名乗る作家であるが、正体は不明であり、様々な説が出されている。 題名の金瓶梅は西門慶の妻妾である潘金蓮・李瓶児・*13081*春梅の名を取ったものであると同時に、人間の欲望を象徴する金、酒、色事を代表したものでもある。冒頭部分の数回はそのまま『水滸伝』の武十回から採用しているが、西門慶は殺されずに生き残り、西門慶・潘金蓮の乱脈ぶりを描いた後、最終的に潘金蓮が武松によって殺される筋となっており、『水滸伝』との整合性をとっている。なお『金瓶梅』は現在、『水滸伝』と並んで四大奇書の1つに数えられている。 ===水滸後伝=== 『水滸伝』百回本の続篇として、混江龍李俊を主人公に書かれた作品。著者は明末清初の陳忱(1613年 ‐ 1670年?)で、初版刊行年は康熙3年(1664年)。全40回からなる。『水滸伝』第99回で、方臘征伐終了後の凱旋途中、李俊は病気と称して童威・童猛とともに梁山泊軍から離脱し、方臘戦中に知り合った上青らとともに暹羅(現在のタイ王国ではなく、想像上の南海の島)に出航して、そこで王になったと記述されていることにヒントを得て、話を膨らませたものである。梁山泊軍の生き残りの武将や、『水滸伝』本篇中に出てきた人物が多く登場している。作者の陳忱は明の滅亡後も満洲族王朝の清に従うことを潔しとせず、反清勢力を組織してレジスタンス活動を行っていたともいわれ、その精神がストーリーにも反映されている。 第1回に前作を簡単にまとめた箇所があり、その中で「招安を受けて遼を征伐し、方臘を滅ぼし、幾度も功績を立てて」という記述がある。征遼・方臘故事は意識しつつも田虎・王慶について触れられていないことから、百二十回本ではなく、百回本の続篇として作成されたことが分かる。 また、日本から「関白」率いる軍が出陣したり、李応が薩摩に漂流するなど、日本に関する記述が登場する作品でもある。豊臣秀吉が行った2度の朝鮮出兵(1592年 ‐ 1598年)の際に、日本と明が交戦したことの影響によるものであろう。 ===説岳全伝=== 銭彩・金豊らによって康煕23年(1684年)頃書かれた『精忠演義説本岳王全伝』(通称『説岳全伝』)は、時代的に『水滸伝』の直後に活躍した南宋初期の武将岳飛を主人公とした物語である。『説岳全伝』では第3回で岳飛の師の周*13082*(史書では周同)が、かつての梁山泊の豪傑林冲・盧俊義の師でもあったことが語られ、第27回では『水滸伝』の登場人物である張青・董平・阮小二の子が登場して岳飛の配下に加わる。また樊瑞・呼延灼・燕青・韓滔など梁山泊軍の生き残りもしくはその子孫たちが登場するなど、水滸伝を意識した作品となっている。 『説岳全伝』でも『水滸後伝』と同様、田虎・王慶に触れた部分がない一方で、金聖歎の編集による梁山泊悪人観が見られず、林冲や盧俊義の最期も百回本に準じていることなどから、百回本を参照したと思われる。なお、現在残る『説岳全伝』最古の刊本は同治9年(1870年)のものである。 ===蕩寇志=== 『蕩寇志』は紹興の兪万春(1794年 ‐ 1849年)によって書かれた七十回本の続篇である。完成までに22年を費やし、死に至るまで書き続けた作品となった。全70回。大きな特徴は、いきなり第71回から始まることで、明確に『水滸伝』七十回本の続篇として作成されたことを物語っている。作者の兪万春は百回本・百二十回本は羅貫中による改悪であるとの金聖歎の主張を是認していた。盗賊行為を悪として糾弾する金聖歎の主張をさらに推し進め、梁山泊軍が朝廷から討伐される様を描いた異色の続篇となっており、生き残った36人もすべて八つ裂きの刑(凌遅処死)に処せられる。題名の「蕩寇」とは「賊を平らげる」という意味である。西洋人軍師「バイワルハン」も登場する。兪万春が没した翌年、太平天国の乱が勃発すると、清朝政府が『蕩寇志』を大量に印刷・配布するなど体制側の宣伝として使われ、逆に叛乱軍の太平天国側は版木をすべて廃棄させたという。 ===その他=== 上記に挙げた続篇のほかにも清代には青蓮室主人による『後水滸伝』、陸士諤の『新水滸』、西冷冬青の『新水滸』など、様々な作品が書かれた。中華民国代になっても梅寄鶴『古本水滸伝』、姜鴻飛『水滸中伝』、劉盛亜『水滸外伝』、程善之『残水滸』、張恨水『水滸別伝』『水滸新伝』など、多くの模倣作品を生んでいる。これらの作品は七十回本の続篇が多く、中国における七十回本の隆盛を物語る証左ともなっている。 ==その他の論点== その他『水滸伝』各版本や物語の成立過程に関わる、様々な話題を以下で取り上げる。 ===地理の不正確さ=== 『水滸伝』には様々な地名が登場するが、それらの位置関係については、甚だ不正確である。既述のごとく、すでに『大宋宣和遺事』の段階においても、遙かに離れた太行山と梁山泊を同じ地名に押し込むという無理を生じている。 登場人物の一人、黄信(第38位)のあだ名「鎮三山」は、青州(山東省)に巣食う3つの山賊団である清風山・二竜山・桃花山(これらは架空の地名である)を一網打尽にすると普段から豪語していたことからついたものだが、この「青州三山」という表現は黄信が初登場する第33回以降、物語上でしばしば登場する(清風山の山賊が梁山泊入りした後は、代わって白虎山が入る)。しかし第5回で魯智深が五台山(山西省)から東京開封府(河南省)へ向かう途中に、桃花山の李忠と再会する場面がある。開封は五台山から見てほぼ真南にあり、その途上ではるか真東に存在する青州にあるはずの桃花山の近くを通るのは、全く理に合わない。 一方、二竜山はそこに拠る魯智深・楊志などが関西(陝西省)出身であること、元になった花石綱故事(宣和遺事)が太行山脈にまつわる逸話だったこともあり、話題に絡む周辺の地名(魯智深が二竜山の場所を聞いた孟州十字坡、楊志が生辰綱を奪われた黄泥岡など)は多くが太行山(山西省)系と思われる節があり、青州にあるという設定と矛盾する。特に楊志が第13回から第17回にかけて、北京大名府(河北省。現在の北京市ではなく邯鄲市にあたる)から西南方向の東京開封府へ向かう際「黄河を渡らず山道を使って二竜山・桃花山・黄泥岡・赤松林を通過する」という記述があるが、ここではるか東の青州にあるはずの二竜山・桃花山が登場するのは甚だ不自然である。これらの事実から、二竜山・桃花山・黄泥岡などの地名は本来、山東省の青州ではなく山西省の太行山系の地名として作られた可能性が高く、太行山系で育まれた物語群を梁山泊を中心とするストーリー構成に再編する際、華北一帯の地理に疎い編者によって地名が整理されないまま、青州の山としての記述が残されたことを示唆する。 ところが北方の地理の不正確性に比べると、南方の江南地域に関する記述は格段に詳細・正確になっている。特に終盤の対方臘戦(第91回から第99回)では、詳細な地名が正しい位置関係のまま登場している。ただし史実の方臘の乱で戦が行われた場所よりも、広い地域が舞台となっている。とりわけ杭州における攻防戦では、かなり詳細な地理が正確に反映されており、この部分の執筆を担当した編者は、華南の地理に相当詳しかったことが伺える。 また元代の雑劇(たとえば『李逵負荊』など)における冒頭の宋江の自己紹介では「江州牢城営に配流と決まった後、晁蓋兄貴に救われた」とあり、宋江は実際に江州へは行っていないような語りだが、現行『水滸伝』では第36回から第41回までは江州牢城において長く物語が展開し、多数の重要人物がその地で仲間となっている。これら杭州や江南地方の地理が詳細に書かれたのは、水滸伝成立の後半段階に入って、杭州近辺の物語作家が現地商人や離着任時に船便を使用した官僚などを想定読者とし、それら読者へのサービスとして書いたためと思われる。これらの事実から、中鉢雅量は太行山脈で培われた盗賊説話を梁山泊と結びつけ、全体を再構成したのは杭州近辺の編者であったと推測している。 ===征遼故事について=== 百二十回本の第V部分(田虎・王慶征伐)については、当該部分が含まれない百回本が存在する上、それぞれ切りの良い10回分ということや、その前後で梁山泊軍に増減がないことなどから、両者が後からの挿増であることは比較的容易に結論できることは前述した。しかし、田虎・王慶征伐と類似する説話である第IV部分すなわち遼国征伐についても、前半部分とは文体や体裁がかなり異なっており、しかも梁山泊軍の人物の増減がないことから、後から挿入された可能性がある。胡適・魯迅・孫楷第・鄭振鐸・余嘉錫・厳敦易ら中国の学者にはこの立場をとる者が多い。ただし、田虎・王慶征伐と異なり、征遼故事が挿増されていない状態の古本が見つかっていないこと、征遼故事が第83回から第91回という分量的に中途半端なことなどから、これを否定する意見も多い。もし征遼故事が『水滸伝』完成前に挿増されたものだとすれば、それ以前は全92回だったことになる。5回をまとめて1巻とするなどの形式で出版される章回小説で92回という中途半端な回数は考えづらい。鄭振鐸は征遼故事を含まない92回分の『原・水滸伝』の存在を想定し、郭武定侯が8回分の征遼故事を挿入したと主張し、厳敦易は元々100回分であった『原・水滸伝』の全体を改組して8回分を空け、征遼故事を間に挿入したとする。しかし、なぜ8回分と中途半端な分量なのかや、全体を改組して新たな部分を挿増するほどの改変を行ったにしては征遼故事部分の出来が良くないことなどから、首肯しがたい。 また第54回に羅真人が公孫勝に対して告げた予言で征遼故事を示唆していること、征遼故事の後の第94回・100回に征遼を回顧する文言があることなどから、前後から全く独立している田虎・王慶征伐とは違い、前後にも多少影響を及ぼしていることがうかがえる。 そもそも百二十回本の発凡(前書き)に楊定見(もしくは袁無涯)が「郭武定本(百回本)が寇の中から王慶・田虎を削除して遼国を加えたのはまずいやり方だ」と書いてあることから、征遼故事が後から加えたという説が生まれたが、この発凡の文章自体は第72回の柴進が宮廷睿思殿に潜入した際に書かれていた四大寇を三大寇に変えたことを言ったものであり、征遼故事そのものの挿増を意味するものではない。 はっきりしない征遼故事とは対照的に、第VI部分の方臘征伐は初めから水滸伝の物語に組み込まれていた。上に見たごとく『水滸伝』の成立以前の『宣和遺事』の段階で、すでに宋江の梁山泊軍団の物語が方臘征伐がセットとなっていた。そこで宮崎市定は、方臘征伐後に梁山泊軍団を崩壊させるという構想を実現するために、その直前に征遼故事が用意されたとする説を唱えた。具体的には公孫勝の退場の契機として用意されたという説である。梁山泊軍は最強の精鋭軍団であるが、その強さを最終的に担保するのは、入雲龍公孫勝が使う道術(魔法)による攻撃である(特に征遼故事部分でそれは著しい)。公孫勝の魔法がある限り、方臘征伐で梁山泊軍が消耗することはあり得ない。実際、征遼では108人中1人の戦死者も出ていない(方臘征伐では59人が戦死する)。これでは公孫勝がいる限り、方臘戦後に梁山泊軍が崩壊する結末にはならない。ところが公孫勝は本来、至高の道士・羅真人の弟子として修行中の身で、師匠から盟友たちに義理を果たす間だけ俗界に下りることを許されていた立場であった。そのため、公孫勝一人を円満に物語から退場させることを想定して、彼に仲間への義理を果たさせる場として用意されたのが征遼という舞台であり、『水滸伝』成立当初から方臘征伐とセットだったという説である。実際に公孫勝が征遼戦後(百二十回本では田虎・王慶征伐後)に梁山泊軍から去ったことで、その後の戦闘で早くも初めて戦死者(陶宗旺・宋万・焦挺)が出る。高島俊男もこの見方を支持し、やはり梁山泊軍の不滅の象徴であり、死にかけの者をも復活させる腕を持つ神医安道全が、方臘征伐序盤の第94回で徽宗皇帝のささいな疾患を理由に都へ召還されたことが、方臘戦で死者が続々と出るきっかけとなったことを指摘して、これを補強した。 これに対し佐竹靖彦は、史実の方臘軍が朝廷から邪教集団として捉えられていたことからヒントを得て、それを元に物語化した段階で方臘軍に魔法使い(鄭魔君・包道乙など)が設定され、それに対抗する存在として公孫勝(公孫勝は宋江三十六人賛の段階ではメンバーに含まれていない)という人物が作り出されたものの、その存在意味に気づいた別の編者が、活躍場所を対方臘戦から遼国征伐に移したとの説を採る。いっぽう中鉢雅量は、梁山泊軍が敵城を攻略する際に常套手段として用いる「敵の仲間に偽装して城内に入り込んで暴れ回り、城中の混乱に乗じて城外からも攻め込む」という定番パターン(百回本では第59回、第91回、第93回、第95回、第98回などに見られ、特に方臘征伐の段に多い)が、征遼の段においては似たような機会がありながら全く用いられていないことに注目し、征遼故事と前後の非連続性を指摘した。また、小松謙・高野陽子の研究では、各回の終末に現れる「次回の展開は如何に」を意味する「怎地」という語彙が第71回から第80回までの間に7回も使用されているのに比べ、征遼故事にさしかかる第81回から第88回では、「怎生」(怎地とほぼ同義だが、他の箇所では見かけられない語)が3度も現れることから、その前後の部分と成立過程が異なる可能性を指摘している。いずれにしろ、征遼故事が無い中間形態の古本が現存していないため、『水滸伝』成立のどの段階で征遼故事が取り入れられたのかは現時点では確定できない。 ===史進のなじみ娼妓=== 九紋龍史進(第23位)は後に梁山泊に結集することになる108人中、先頭を切って物語に登場する重要人物であり、第2回に史家村の世間知らずの若旦那として登場し、紆余曲折の末、少華山の山賊に身を落とした後、しばらく話から消え、第58回で再登場して梁山泊入りする。すなわち史進は物語上、史家村・少華山・梁山泊にしか滞在したことがない。しかし第69回、梁山泊の最終的な頭領を決めるために東平府を攻めた際、策略を献言した史進は「かつて東平府にいた時、李瑞蘭というなじみの芸妓がいた」と発言しており、前述の経歴と一致していない。いっぽう『水滸伝』成立前に作られた元雑劇の『都孔目風雨還牢末』では、史進という名の人物が登場しており、役柄は東平府の小役人である。史進に関しては二系統の話が存在し、『水滸伝』の成立に際して『還牢末』系統の話も取り入れられた結果、本文中に矛盾を生じたものと思われる。 なお、史実の「宋江三十六人」集団で宋江以外に名前が分かっている人物はいないが、宋江一党であったと称する史斌という人物が建炎元年(1127年)に興州で蜂起しており、史進のモデルと言われることもある。 ===林冲像の形成=== 豹子頭林冲(第6位)は、現行『水滸伝』で序盤に魯智深・柴進・楊志ら重要人物を橋渡しする役割を持ち、人気も高い人物であるが、先述のように『癸辛雑識』に引く宋江三十六人賛の中にその名は見られず、比較的新しいキャラクターである。その容貌は「身長八尺、豹頭環眼、燕頷虎鬚」と形容され、丈八蛇矛を用いるという描写は、『三国志演義』の張飛の描かれ方と全く同じであり、実際に彼は梁山泊内で「小張飛」とも呼ばれている(第48回)。しかしながら、短慮で粗暴な性格ながら楽天的・喜劇的な人物として描かれる張飛とは異なり、林冲は沈着冷静で悲観的・悲劇的な人物であって、張飛的な外見とは大きな隔たりがある。すでに述べたように明初の雑劇『豹子和尚自還俗』では、豪放磊落な(張飛的な性格を持つ)魯智深が同様のあだ名で呼ばれており、「豹子」の語は張飛的なキャラクターを表すあだ名になっていたことが伺える。これは、梁山泊の序列で林冲の1つ上に位置する第5位の関勝が、張飛の義兄であった関羽の子孫で、容貌も関羽そっくりという設定があったことから、『三国志演義』の関羽・張飛のペアと対比する形で、関勝・林冲の組み合わせとして性格設定されたと見られるが、現行『水滸伝』の林冲に関する物語からは、張飛的なエピソードはあまり多くない(また、物語上での関勝と林冲の絡みも少ない)。 ただし、概ね冷静沈着である林冲の性格も、途中で幾たびか変化する場面が見られる。林冲が主役として活躍する物語は第7回から第11回までであるが、後半の第10回には陸謙を殺害した後、雪山を逃亡する途中に焚き火で暖を取っていた農民に酒肉を求めて断られると、力尽くで農民らを追い払い、一人で酒を飲んで酔いつぶれ、逆に捕らわれてしまうという破天荒・自暴自棄的な姿が描かれ、それまでの林冲像とかなり矛盾している。これを無実の罪で陥れられ、やむなく殺人を犯すという破滅的な局面に追われた林冲の性格の変化と捉える高島俊男のような見方もあるが、この場面での林冲の性格は、むしろ『三国志演義』における張飛の描かれ方と同じである。このほかにも林冲を恩人と慕う李小二が「林教頭は短気なお人で、すぐに人殺しや火付けをなさる」と述べるなど(実際の林冲はそのような行動は見られない)、張飛的性格の残滓がいくつか『水滸伝』にも見られる。 一方で、崑曲や京劇など演劇の世界では通常、林冲はひげのない二枚目役者が演じることが慣習となっており、生真面目な性格の悲劇的な人物として描かれていた。このような相反した林冲像は、元々の小説的構想であった「小張飛」的林冲という造形の上に、演劇などで演じられる二枚目で冷静な林冲の物語をかぶせてできあがったためと思われる。 演劇における林冲物語は「夜奔」と呼ばれ、これは明代中期に李開先(zh)(1502年 ‐ 1568年)が作成した『宝剣記』という南曲が元になっている。『宝剣記』における林冲は、愛妻との別離や悲劇のヒーローぶりが『水滸伝』と共通しており、『宝剣記』の林冲夜奔物語が『水滸伝』物語の形成過程で取り込まれた可能性が伺える。しかし『宝剣記』は李開先の自序によれば嘉靖26年(1547年)の成立であり、百回本として確立した郭武定本の成立期(1540年頃)よりも後に書かれたと見られるため、逆に『宝剣記』が『水滸伝』の林冲物語を参考にして書いたものと見なされてきた。ただし近年の小松謙の研究により、李開先はこの物語を一から作ったのではなく、交流のあった劉澄甫や陳溥の父が作成した話を集大成したことが判明し、物語成立自体は数十年さかのぼる可能性が指摘された。また陳与郊が『宝剣記』を改作した南曲『霊宝刀』(1617年)が、『宝剣記』の記述を『水滸伝』の物語と整合性を取る方向で改変していることからも、原『宝剣記』が『水滸伝』の前に成立し、その林冲物語に影響を与えている可能性が高まった。 『宝剣記』では、林冲の官職が『水滸伝』よりも高く設定されていたり、配流される途中に出会った公孫勝が参軍という歴とした官僚として登場するなど、林冲・公孫勝の地位の設定が『水滸伝』と大きく異なる。両者はともに宋江三十六人賛の中に数えられておらず、『大宋宣和遺事』の段階でも名前のみ登場する影の薄い人物である。独自の物語を持たず名前のみが伝えられた2人を用いて作られた新しい物語が原『宝剣記』であり、それが水滸伝形成過程で取り入れられたものと思われる。 ===燕青のモデル=== 浪子燕青(第36位)は、童顔の美男子で鮮やかな入れ墨をしており、多芸多才。女性に対して潔癖であり、力持ちで武芸の腕も立ち、梁山泊一の暴れ者李逵をもおとなしくさせる器の持ち主でもあり、いくつもの側面を持った人気の高いキャラクターである。燕青がこのような複雑な人物造形となった背景には、様々な説話から成立した『水滸伝』の特徴が現れている。 元代の水滸戯に燕青は多く登場するが、この段階における燕青像には現在の『水滸伝』のキャラクターの片鱗も感じられない。水滸戯の一つ「燕青博魚」では約束を守れず梁山泊を追放され失明し、魚の賭け売りにも敗れる情けない大男という設定で、容貌も性格も全く異なっている。 『水滸伝』に描かれるような武芸の達人としての顔、たとえば第74回に燕青が奉納相撲で*13083*天柱任原を倒す段などは、『清平山堂話本』(嘉靖年間に刊行された小説集)に所収の「楊温*13084*路虎」(楊温が東岳廟の生辰祭で山東夜叉李貴を棒術で倒す話)から取り入れたものと思われる。一方で燕青の「浪子」な側面、すなわち多芸多才な遊び人という要素は、北宋代に実在した詞の名手である柳永(字は耆卿)を主人公とする戯曲や小説が元になっている形跡が見られる(『清平山堂話本』の中にも「柳耆卿詩酒玩江樓記」という話がある)。『清平山堂話本』の刊行時期は嘉靖20年代(1541年 ‐ 1551年)が定説となっており、もしこれが『水滸伝』に採用されていたとすれば、『百川書志』に「忠義水滸伝一百巻」と記された1540年の段階ではまだ成立の途中であり、少なくとも第III部分(第72‐82回)に関してはその後も容与堂本までの間に書き直された可能性が高いことになる。 ===名前からの造形=== 『水滸伝』の各人物の物語が成立する以前から、宋江三十六人の名簿やあだ名はほぼ確定していたが、個々の人物の性格や設定などは様々な物語を取り込む中で、徐々に固まっていったものである。その中には、先に決まっていた名前やあだ名に影響されて生じたとおぼしき設定も多い。 楊志(あだ名は青面獣。第17位)は、『水滸伝』では楊業(楊令公)の子孫という設定となっている。楊志は『宣和遺事』の段階から花石綱の失敗をめぐるエピソードの中心人物であり、羅*13085*の『酔翁談録』にも「青面獣」という作品があることなどから、物語上重要なキャラクターではあったが、その段階ではまだ楊令公の子孫という設定は無かった。楊という姓を持つ関係から、『水滸伝』成立後期の段階で、楊家将故事の影響を受け、楊令公の子孫という設定が附加されたものと思われる。 梁山泊の軍師である智多星呉用(第3位)は、宋江三十六人賛や水滸戯では呉加亮という名で登場し、また『宣和遺事』や明代の『豹子和尚自還俗』では呉学究という名になっている。現行『水滸伝』では、姓は呉、名は用、字は学究、号が加亮先生という、すべてを合わせたような名となっている。現行の呉用という名になったのはかなり遅い段階になってからのようである。加亮とは『三国志演義』に登場する名軍師・諸葛亮(孔明)を上回るという意味、学究とは学問を究めた者の意であるが、実際の『水滸伝』の物語上では、彼の策略は肝心の時に失敗することが多いため名前負けしており、「無用(役立たず)」と評価されることも多い。中国語では「呉用」と「無用」は同じ発音(W*13086* Y*13087*ng、ウーヨン)であることから、『水滸伝』成立の最終段階であえて呉用という名がつけられた可能性もある。 柴進(あだ名は小旋風。第10位)は宋江三十六人賛や『宣和遺事』の段階では、李逵(あだ名は黒旋風。第22位)の次に並ぶ人物であり、明らかに李逵の弟分として設定されていた人物であった。同様に「小」をつけて弟分であることを表したあだ名のペアとしては「没遮*13088*」穆弘(第24位)と「小遮*13089*」穆春(第80位)、「病尉遅」孫立(第39位)と「小尉遅」孫新(第100位)などの例がある。しかし柴という姓を持つことから、北宋に禅譲した前代の後周王朝の名君柴栄(世宗)と結びつけられ、その子孫という設定となり、由緒ある名門で温厚篤実な名士という人物となったものであろう。そのため、あだ名の小旋風が温厚な性格と合わずに意味不明となり、また本来兄貴分であった李逵よりも上位に位置づけられることになった。現行『水滸伝』第52回では、逆に黒旋風李逵が小旋風柴進の屋敷に厄介になる話まで存在する。 托塔天王晁蓋は現行『水滸伝』では、梁山泊における宋江の先代の頭領であり、108人が結集する前に戦死してしまう人物である。『宣和遺事』の段階ですでに36人が勢揃いする前に他界するキャラクターとなっている。しかし「鉄天王(銕天王)」晁蓋は、宋江三十六人賛では第34位、『宣和遺事』では36位と低位の人物であった。元代の水滸戯では宋江が先代頭領の晁蓋が三たび祝家荘を攻めて戦死したと述べており(現行『水滸伝』では曾頭市を攻めた際に戦死しており、梁山泊軍が祝家荘を攻めるのは一回である)、『豹子和尚自還俗』では曾頭市で戦死したとしながらも呉加亮に次ぐ2位、『七修類稿』では宋江に次ぐ2位と非常に地位を上げている。鉄天王というあだ名から、武神である毘沙門天王(多聞天。中国においては唐初の名将李靖と結びつけられて「托塔李天王」と呼ばれる)が想起され、梁山泊全体の守護神の役割を与えられた可能性がある。逆に大塚秀高は、『宣和遺事』の晁蓋から宋江への頭領交代劇が、『楊家将』の宋太祖(趙匡胤)と太宗(趙光義)兄弟の関係に類似すること、「晁宋」が「宋朝」もしくは「趙宋」をにおわせることから、晁蓋・宋江の関係は太祖・太宗の関係を暗示したもので、晁蓋は宋江の先代首領の地位を約束されていたものであり、銕天王はこれにちなんでつけられたあだ名の可能性があると主張している。『水滸伝』には梁山泊と敵対する北京大名府の守将にも「李天王」のあだ名を持つ李成という人物も登場する。なお晁蓋は、雑劇の段階では「三打祝家荘」すなわち3度祝家荘と戦った際に戦死したことになっていた。しかし現行『水滸伝』では祝家荘と戦うのは1度のみで晁蓋は出陣しておらず、晁蓋が死んだのは曾頭市との戦闘である(曾頭市と梁山泊軍は2度戦っており、祝家荘と合わせると3度となる)。これは元々「祝家荘で晁蓋が戦死する」という話を異なる箇所に分割して水増しした上で、祝家荘物語と曾頭市物語二つを別々の位置に挿入たものとみられる。 ===あだ名の謎=== 梁山泊108人中に女性は3人のみで、中でも随一の美女である扈三娘は「一丈青」というあだ名を持つが、このあだ名の意味はよく分かっていない。宋江三十六人賛では燕青の賛に「太行春色 有一丈青」と謳われ、『宣和遺事』では一丈青張横という人物が登場している(ただし一覧表には不在)。一丈は長さの単位であり、108人中最高身長の郁保四の背丈が1丈であるが、単に細長いものの形容としても用いる。青については刺青(入れ墨)を指すとするもの、蛇を指すとするものなどの諸説があるが、扈三娘は良家の女性という設定となっており、入れ墨をしているとは思えない。余嘉錫は『水滸伝』と近い南宋初の時代を描いた『三朝北盟会編』巻138に、盗賊馬皋の妻で一丈青という女性の記述があることを指摘し、これが水滸伝に取り入れられたものであると推測した。また岳珂による岳飛の編年譜『鄂王行実編年』にも、軍人・張用の妻で騎馬隊を率いて千人の敵にあたった女傑が一丈青と自称していたという記述がある。「一丈青」というあだ名はこれらの逸話が取り入れられた結果と思われる。 また、宋江はあだ名を2種類持っており、『水滸伝』本文中でほとんどの場合「及時雨」というあだ名で呼ばれる。これは宋江が貧しい人々に施しを与えることを「欲しい時に降る雨」にたとえたあだ名である。しかし、108人勢揃いの際に宋江の正式なあだ名とされたのは及時雨ではなく「呼保義」であった。呼保義とは保義郎(低位の武官の職名)と呼ぶ、という意味であり、本文中にそのような記述がないため、謎となっている。宮崎市定は保義郎の地位が金で買えたことから「旦那さん」という呼び名として用いられたものが宋江のあだ名に転用されたとし、余嘉錫は下男の謙称として保義が使われていたことから、宋江が謙遜した自称であろうとした。これに対し佐竹靖彦は、北宋時代の首都開封の繁栄を描いた『東京夢華録』や南宋時代の首都杭州の繁栄を描いた『武林旧事』などに、保義と名乗る宮廷芸人が多く登場することに注目し、雑劇や講談を語る芸人のことを保義と呼んだことが宋江のあだ名になったと推測している。宋江の弟宋清のあだ名が「鉄扇子」であり、これも講談に欠かせない小道具であることもこの説を補強する。『水滸伝』成立の上で講談・雑劇の果たした役割が、宋江のあだ名という形で残存しているとも言えよう。 ===人称に関わる話=== 『水滸伝』は各地に伝わる逸話を集積したこともあり、また登場人物の出身も様々であるため、人物の一人称表現に関してもバリエーションが見られる。現代中国語普通話で一人称はもっぱら「我」が用いられるが、かつての中国語では一人称は多数用いられた。『水滸伝』でもたとえば呉用は知識人らしく「小生」を用いるなど、性格設定による人称の違いも見られる。 「俺(アン)」は本来は一人称複数(われわれ)を意味していたが、明代に入る頃から尊大な一人称として用いられることが多くなり、複数形としては所有格(我々の、うちの)のみで用いられる傾向が強くなった。『水滸伝』本文では最初に登場する史進が「俺」を尊大な一人称として用いる人物である。しかし、物語が林冲が活躍する第8回以降にうつると、林冲は複数所有格の意味で「俺」を用いている。林冲の活躍が終わる第12回以降では再び一人称としての「俺」が用いられるようになる。このことからも林冲故事が前後の部分から独立しており、後から挿入されたことがうかがえる。同様のことは武松を主人公とする第23回から32回にかけての「武十回」にも言える。武松は「俺」を用いず、さらに尊大な一人称である「老爺(ラオイエ)」を使っており、逆に他の部分ではこの一人称はほとんど用いられない。武十回もまた、後からの挿入部分であると思われる。 また関西(陝西省)方言の一人称である「洒家(サーチャ)」を用いる人物は限られており、楊志や魯智深など少数である。楊志は第12回この一人称を用い身の上話(花石綱の失敗)を語るが、これは『宣和遺事』からの設定を引き継いだものである。しかしこの話を語っている場所は梁山泊(山東)であるにもかかわらず、語り初めで「この関西に流れ落ちております」という台詞がある。これは楊志の逸話が元々関西地方を舞台にした話として語られたことの残滓と思われる。またもう一人「洒家」を用いる人物である魯智深は第5回から6回にかけて赤松林(楊志が生辰綱を運ぶルート上の地点でもある)の近くで盗賊を倒す逸話があるが、馮夢竜(1574年 ‐ 1646年)が当時の白話小説をまとめた三言の一つ『警世通言』の中の「趙太祖千里送京娘」で趙公子(宋太祖趙匡胤のこと)が赤松林で盗賊を倒す逸話との類似が認められる。この趙公子もまた「洒家」を用いており、「趙太祖千里送京娘」と『水滸伝』の魯智深説話は同じ由来を持つ別分岐の話ではないかと推測される。 このように人称や語彙の分析から、『水滸伝』の成立過程を探る研究も近年盛んとなっている。 ===その他の登場人物=== 梁山泊に集う108人の好漢以外の登場人物の中にも、『水滸伝』の元になった講談や雑劇に由来すると思われる人名が散見される。第78回から80回に登場する、梁山泊討伐軍の十節度使などがその例である。 『水滸伝』第78回で、朝廷から梁山泊討伐の命を受けた高*13090*に率いられて出陣した10人の節度使(司令官)の名は、王煥・徐京・王文徳・梅展・張開・楊温・韓存保・李従吉・元鎮・荊忠であるが、彼らの中に南宋代の講談や雑劇が由来と思われる人名が含まれている。羅*13091*『酔翁談録』の朴刀ジャンルの中に「李従吉」「徐京落草」という名の作品が見られ、梅展との関連が想起される「梅大郎」という作品もある。また同じく朴刀の「*13092*路虎」は『清平山堂話本』に「楊温*13093*路虎」として所収され、楊温が主役であることが分かっている。王煥に関しても南宋時代の黄可道の雑劇に「風流王煥賀憐憐」という作品があり、元雑劇の「百花亭」に収録され、多芸多才の色男で武功を挙げて立身する英雄として描かれている。『宝文堂書目』にも「洛京王煥」という話本がある。これらの人物は『水滸伝』物語への合流が遅かったために、梁山泊集団に合流することなく(あるいは楊温のように換骨奪胎して燕青の人物像に採り入れられるなどして)、むしろ梁山泊軍の強さの引き立て役として名前だけ借りたという扱いになったと思われる。 また108人の中に入り損ねた人物もいる。第67回に登場する韓伯竜は、梁山泊入りを志願してきたが、宋江らが北京攻めで留守のため、朱貴の薦めで居酒屋で待機していた。ところが事情を知らない暴れん坊の李逵がその居酒屋で食い逃げしようとしたのをとがめたところ、李逵に殺されてしまうという気の毒な役割の人物である。しかし明代の雑劇『梁山五虎大劫牢』では韓伯竜は文武兼備、鉄棒で天下無双の豪傑であり、宋江は彼をどうにかして仲間にしようと李応や魯智深・阮小五らを派遣するというほどの大物であった。このように、梁山泊以外の人物の中にも『水滸伝』が成立する過程で入り込んで来た人物は少なくない。 =ベラ湾夜戦= ベラ湾夜戦(ベラわんやせん)は、太平洋戦争中の1943年(昭和18年)8月6日、ソロモン諸島ベラ湾で生起した海戦。日本軍のコロンバンガラ島への輸送部隊が、アメリカ軍の水雷戦隊に邀撃され、日本側駆逐艦3隻が沈没した。 アメリカ軍側の呼称はヴェラ湾海戦(Battle of Vella Gulf)。 ==概要== ベラ湾夜戦は、太平洋戦争中盤の1943年(昭和18年)8月6日、ニュージョージア島の戦いにおいてソロモン諸島のコロンバンガラ島とベララベラ島近海のベラ湾で生起した夜間水上戦闘。コロンバンガラ島の日本軍守備隊を増強するため、第4駆逐隊司令杉浦嘉十大佐指揮下の駆逐艦4隻(輸送隊〈萩風、嵐、江風、物資90トンと陸兵合計約940名分乗〉、警戒隊〈時雨〉)はコロンバンガラ島に向かった(鼠輸送/東京急行)。 アメリカ海軍はフレデリック・ムースブラッガー中佐指揮下の駆逐艦6隻で待ち伏せており、レーダーを活用して夜間奇襲攻撃を敢行する。日本側駆逐艦3隻(萩風、嵐、江風)は一方的に撃沈され、時雨のみ生還した。夜間水雷戦闘において完敗したことは、日本海軍に大きな衝撃を与えた。 なお、本記事では海戦前の7月23日夜および8月1日夜に行われたコロンバンガラ島への輸送作戦および、日本海軍の駆逐艦天霧(駆逐艦長花見弘平少佐)とジョン・F・ケネディ中尉(後のアメリカ大統領)が艇長を務めた魚雷艇「PT‐109(英語版)」との衝突についても簡単に述べる。 ==背景== ===7月下旬のソロモン諸島方面輸送作戦=== 6月30日にアメリカ軍はレンドバ島に上陸し、7月5日にはニュージョージア島へ上陸した。その過程の中で、7月5日夜にクラ湾夜戦、7月12日夜にはコロンバンガラ島沖海戦と二つの海戦が生起した。この二つの海戦において、日本海軍は秋月型駆逐艦新月(クラ湾夜戦、第三水雷戦隊司令官秋山輝男少将戦死)と軽巡洋艦神通(コロンバンガラ島沖海戦、第二水雷戦隊司令官伊崎俊二少将戦死)を失い、アメリカ海軍は軽巡洋艦へレナ (USS Helena, CL‐50) を失った他、他の軽巡洋艦が多大なる損害を受けた。 二度の海戦で日本艦隊と戦いを交えた第36.1任務群(ヴォールデン・L・エインスワース少将)は戦力が著しく衰退し、ソロモン方面で活動を続けていたもう一つの有力な水上部隊である第36.9任務群(アーロン・S・メリル少将)は、日本艦隊と会敵する事なくエスピリトゥサント近海で行動していた。 日本海軍はこの好機に乗じて重巡洋艦3隻(熊野、鈴谷、鳥海)と水雷戦隊を繰り出してアメリカ艦隊と対決しようとしたが空振りに終わり、夜間爆撃を受けて重巡熊野(第七戦隊司令官西村祥治少将)大破・駆逐艦2隻(初春型駆逐艦夕暮、夕雲型駆逐艦清波)沈没という損害を受けてしまった。昼夜分かたぬ航空攻撃を避けるため、日本海軍はこれ以降コロンバンガラ島への輸送作戦に使用するルートをベラ湾、ブラケット水道経由に切り替える事を余儀なくされた。 7月21日には、水上機母艦日進と陽炎型駆逐艦3隻(第4駆逐隊〈萩風、嵐〉、第17駆逐隊〈磯風〉)が南海第四守備隊と軍需物資(戦車、重砲、弾薬)を満載してラバウルを出撃したが、ブイン到着直前の7月22日正午頃に大規模空襲を受けて、日進は撃沈された。ラバウル帰投後、第十戦隊所属の第4駆逐隊(駆逐隊司令杉浦嘉十大佐)は外南洋部隊(指揮官鮫島具重第八艦隊司令長官)隷下の外南洋部隊増援部隊(指揮官伊集院松治第三水雷戦隊司令官)に編入され、駆逐艦2隻(萩風、嵐)はソロモン諸島に残った。 この頃、日本軍上級部隊(大本営陸軍部・海軍部、連合艦隊、第八方面軍、南東方面艦隊)は、遅くても九月中旬ころには中部ソロモンから撤退するという方針を固めていた。 一方のアメリカ軍はレンドバ島を占領すると、同島に魚雷艇基地を設営して4個魚雷艇隊計52隻と整備兵などを進出させた。魚雷艇隊は一隊あたり15隻で編成され、コロンバンガラ島の周囲で「東京急行(鼠輸送)」に対する哨戒任務にあたっていた。 ルート変更後の日本海軍のコロンバンガラ島輸送作戦は7月23日から再開され、駆逐艦3隻(陽炎型〈雪風、浜風〉、睦月型〈三日月〉)が第三十八師団(影佐禎昭中将)の陸兵782名と物件56トンなどを搭載してラバウルを出撃する。魚雷艇の襲撃と夜間触接機の照明弾投下に遭いながらも輸送任務を完了してラバウルに帰投した。この時のルートはベララベラ島とその南方のラノンガ島間のウィルソン海峡およびギゾ海峡を通過して、ブラケット水道に面したコロンバンガラ島南西部のアリエルに至るものであった。 続いて、サンタイサベル島レカタの陸軍部隊をブインへ輸送する作戦が駆逐艦3隻(萩風、嵐、時雨)により7月25日から7月27日にかけて行われた。ラバウルからは人員60名と物件77トンを輸送、帰路は陸軍部隊840名をブインに輸送するという内容である。基地航空部隊の掩護もあり、被害なく作戦を終えた。 ===天霧とPT‐109=== 第八方面軍(司令官今村均中将)は、レカタからブインに移した陸軍部隊をコロンバンガラ島に進出させる事に決する。また外南洋部隊(指揮官:第八艦隊司令長官鮫島具重中将)は麾下の外南洋部隊増援部隊(指揮官:第三水雷戦隊司令官伊集院松治大佐)に対し、陸軍部隊と海軍陸戦隊の輸送を命じた。一連の輸送作戦は、以下の艦艇によって行われた。第三水雷戦隊所属の第11駆逐隊は損耗が激しく、作戦可能駆逐艦は天霧1隻という状況であった。 輸送部隊:指揮官杉浦嘉十大佐(第4駆逐隊司令、萩風座乗) 輸送隊:指揮官杉浦嘉十第4駆逐隊司令/第4駆逐隊(萩風、嵐)、第27駆逐隊(時雨) 警戒隊:指揮官山代勝守第11駆逐隊司令/第11駆逐隊(天霧)輸送隊:指揮官杉浦嘉十第4駆逐隊司令/第4駆逐隊(萩風、嵐)、第27駆逐隊(時雨)警戒隊:指揮官山代勝守第11駆逐隊司令/第11駆逐隊(天霧)陸戦隊員763名と物件54トンを載せた輸送隊3隻(萩風〔第4駆逐隊司令杉浦大佐〕、嵐、時雨〔第27駆逐隊司令原為一大佐〕)は、7月31日朝にラバウルを出撃した。ブインに到着後、陸戦隊と物件を降ろし、代わりに陸海軍人員902名と物件73トンを搭載する。8月1日未明にブインを出撃し、同日ラバウルを出撃して追いかけてきた警戒隊の吹雪型駆逐艦天霧(第11駆逐隊司令山代大佐、天霧駆逐艦長花見弘平少佐)と、ブカ島近海で合流してコロンバンガラ島へ向かう。山代(当時、第11駆逐隊司令)の回想によれば、輸送部隊は萩風〔旗艦〕・嵐・時雨・天霧の単縦陣であったという。 杉浦大佐指揮下の輸送隊部隊はベラ湾を通過して魚雷艇の襲撃(山代大佐によれば、岩礁の誤認)と夜間爆撃を退け、ウェブスター入江に入泊して揚陸を開始した。警戒隊の天霧は分離して、周囲を警戒した。輸送隊は、輸送物件全量を揚陸し任務を完了する。任務を終えた輸送隊は、第九三八航空隊の水上偵察機が発見した敵艦隊を避けるため再びベラ湾を経由し、ブーゲンビル島東方を経てラバウルに帰投した。天霧はウェブスター入江沖で警戒の後、輸送隊の後を追って速力を上げた。8月2日未明、天霧は米軍の魚雷艇(PT‐109)と遭遇し、衝突して魚雷艇を真っ二つにしてしまう。花見艦長は「意図的に体当たりを命じた」と回想するが、山代司令は「花見艦長に回避を命じたが手違いがあり、避けきれずに衝突した」と回想する。衝突の際小さな爆発か閃光らしいものが上がったが、天霧は艦首とスクリューを損傷しただけで済んだ。この魚雷艇がジョン・F・ケネディ中尉が艇長を務める「PT‐109」であり、ケネディ中尉は他の乗員とともに海に放り出された。2名が戦死したものの、残り11名とともに近くの小島に漂着の後、一週間後に救助された(コースト・ウォッチャーズ)。第3艦隊(南太平洋部隊)司令官ウィリアム・ハルゼー大将から表彰された。 ===アメリカ軍の新戦術=== PT‐109とともに行動していた魚雷艇は、どこかへ逃げ去ったり天霧の背後から魚雷を発射したものの命中しなかった。この戦闘を含めてコロンバンガラ島方面の魚雷艇隊の行動は芳しくなく、連携して攻撃する事もなかった。魚雷艇隊は大発1隻を撃沈したのみで駆逐艦の「東京急行」には通用せず、効果がある妨害にはなっていなかった。そこで、第三水陸両用部隊司令官セオドア・S・ウィルキンソン少将は新しい交通遮断の手段として駆逐艦群を投入することになった。しかし、前述のように第36.1任務群は戦力が衰微し、第36.9任務群は遠方にいた。そのため、ウィルキンソン少将が交通遮断のために投入できた戦力は、第31.2任務群の駆逐艦6隻だけだった。 第31.2任務群司令アーレイ・バーク大佐は、かねてから駆逐艦だけで効果的に行える戦術を研究し、その参考資料をはるか昔のポエニ戦争に求めていた。 特にシピオウ・アフリケイナスの戦法は、その実施が合理的で、簡単で、しかも海軍の使用に適合するものとして、私の関心をひいた。この計画は、次ぎ次ぎと奇襲によって敵に攻撃を加えるというところに、その基礎をおいている。これは、二つの駆逐隊が、並行する隊形で航進するように配置することによって達成される。一つの駆逐隊は、夜暗に乗じて敵に近迫、魚雷発射後に避退する。魚雷が命中し、敵が避退する前記駆逐隊に砲撃を開始したならば、第二の駆逐隊は、突如として他の方面から攻撃に移る。混乱した敵がこの新たな予期しなかった攻撃に目を向けたとき、最初の駆逐隊は再び攻撃に転ずる。むろん、ソロモン諸島方面は、多くの島が、第二の駆逐隊に対する敵のレーダーの探知を妨げるのに役立つので、この種の戦法は理想的なものであった。 ― アーレイ・バーク、C・W・ニミッツ、E・B・ポッター/実松譲、冨永謙吾(共訳)『ニミッツの太平洋海戦史』172、173ページ しかし、バーク大佐はこの新戦術を引っさげて出撃する前に、上級指揮官として転出して第31.2任務群から離れる事になった。後任のフレデリック・ムースブルッガー中佐はバーク大佐の戦術を忠実に継承して戦場に臨む事となった。 ===ニュージョージア島方面の戦況=== ニュージョージア島の戦況は一進一退の様相を示していたが、アメリカ軍は8月3日にはムンダ飛行場を占領した。これにより、隣接するコロンバンガラ島ヴィラ (ソロモン諸島)(英語版)にある日本軍飛行場は無力化されることになる。日本軍はヴィラを中心に約2,400名の陸兵を駐屯させていたが、ムンダ飛行場が制圧された現況では、その行く末も芳しくない事が予期された。コロンバンガラ島の日本軍第一線兵力は陸軍1400名・海軍600名に減少し、重火器もなく、完全に追い込まれていた。第八方面軍はコロンバンガラ島のさらなる防衛強化のため補充兵約1200名の増援を決定する(剛方作命甲第407号)。第六師団(司令官神田正種中将)から六個中隊からなるコロンバンガラ島向けの増援部隊と、残る二個中隊からなるブイン向けの残留部隊をラバウルから送ることにした。 輸送作戦は8月1日のコロンバンガラ輸送作戦とほぼ同じ顔ぶれで実施される事となったが、修理を必要とする天霧(三水戦、第11駆逐隊)の代艦として時雨(二水戦、第27駆逐隊)が警戒隊にまわり、代わって輸送隊には駆逐艦江風(二水戦、第24駆逐隊)が加入した。 第三水雷戦隊旗艦の軽巡川内が司令官伊集院松治大佐直率の下、ブインへの輸送作戦に任じる事になった。杉浦司令は「コロンバンガラ輸送は敵の予期するところで危険が大きい。ベララベラ島に輸送して、そこからは大発動艇や海上トラックに切り替えるべき」「途中迄でも川内のような大艦が同行するのは、敵の警戒を増やすだけだ」として反対したが、上級部隊(南東方面艦隊、第八艦隊)の意向を受けた第三水雷戦隊司令部は却下している。作戦実施に際し、第三水雷戦隊司令部の先任参謀二反田三郎中佐が、萩風に乗艦した。 ==参加艦艇== ===日本海軍=== ブイン輸送隊:軽巡洋艦川内(第三水雷戦隊司令官伊集院松治大佐) 陸軍兵約300名と物件27トン、海軍兵74名と物件70トンコロンバンガラ輸送隊:指揮官杉浦嘉十大佐/第4駆逐隊司令 輸送隊:第4駆逐隊司令杉浦嘉十大佐(萩風座乗)、第4駆逐隊(萩風、嵐)、第24駆逐隊(白露型駆逐艦江風) 警戒隊:第27駆逐隊司令原為一大佐:白露型駆逐艦時雨輸送隊:第4駆逐隊司令杉浦嘉十大佐(萩風座乗)、第4駆逐隊(萩風、嵐)、第24駆逐隊(白露型駆逐艦江風)警戒隊:第27駆逐隊司令原為一大佐:白露型駆逐艦時雨日本陸軍:指揮官 見上喜三郎大尉 八コ中隊(各中隊、大隊砲1・迫撃砲各1、機関銃2、軽機9、重擲12) 第一〜第四中隊:歩兵第13聯隊配属予定(第四中隊はブーゲンビル島エレベンタ残置予定) 第五〜第八中隊:歩兵第229聯隊配属予定(第八中隊はブーゲンビル島エレベンタ残置予定)第一〜第四中隊:歩兵第13聯隊配属予定(第四中隊はブーゲンビル島エレベンタ残置予定)第五〜第八中隊:歩兵第229聯隊配属予定(第八中隊はブーゲンビル島エレベンタ残置予定) ===アメリカ海軍=== 第31.2任務群第12駆逐群:ダンラップ、クレイヴン、モーリー第15駆逐群:ラング、ステレット、スタック ==戦闘経過== 8月6日0時30分、5隻(川内〔第三水雷戦隊司令官、伊集院大佐〕、萩風〔第4駆逐隊司令、杉浦嘉十大佐〕、嵐、江風、時雨〔第27駆逐隊司令、原為一大佐〕)はラバウルを出撃した。偽装航路を取ったのち、ブーゲンビル島東方を南下した後の午前9時30分、ブカ島近海で川内と駆逐艦は解列した。川内はブインへ、コロンバンガラ輸送隊(輸送隊〈萩風、嵐、江風〉、警戒隊〈時雨〉)はコロンバンガラ島へと向かう。日本側の上空直衛は天候不良のため取止めとなったが、米軍側は大型爆撃機でコロンバンガラ輸送隊を発見している。 夕刻、輸送隊と警戒隊は単縦陣(萩風〔旗艦〕、嵐、江風、時雨)を形成した。30ノットの速力を持ってベラ湾に入る。単縦陣の最後尾(四番艦)を航行していた「時雨」は敵艦隊の出現を予期して、三番艦との距離を1,000メートルに開き、砲の照準を5,000メートルに、魚雷の深度を2メートルに、射角を20度に設定した。時雨(第27駆逐隊)の報告によれば、当日の天候は曇り、視界5000〜8000mで、東方は特に視界不良だったという。 一方、第31.2任務群は偵察機からの「東京急行出発」の報を受け、9時30分にツラギ島を出撃する。コロンバンガラ島の南西方からベラ湾に入り、探知と発見を避けるためにコロンバンガラ島西部の海岸ぎりぎりに航行する。やがて第12駆逐群は北上して速力を15ノットに落とし、第15駆逐群はUターンしてコロンバンガラ島西岸沖で待機した。ムースブルッガー中佐は、ルンガ沖夜戦やクラ湾夜戦、魚雷艇隊の夜間襲撃における味方の失敗の轍を踏まぬよう、わずかな光すら見せる事がないように発砲制限を徹底させた他、魚雷発射管には光除けのカバーを装着させていた。 21時33分、ダンラップのレーダーはコロンバンガラ輸送隊を探知する。3分後、ムースブルッガー中佐は第12駆逐群に魚雷発射を命じる。同時に第15駆逐群に西方への移動を命じ、コロンバンガラ輸送隊に対して丁字戦法の態勢をとらせた。第12駆逐群は63秒間隔で三艦合計24本の魚雷を発射した後、面舵に針路をとって姿を消した。 コロンバンガラ輸送隊は310度19海里の方向に「巡洋艦二隻 駆逐艦三隻」からなる敵を発見したが、その直後、第12駆逐群から発射された魚雷が萩風、嵐、江風にそれぞれ2本以上命中し、江風は轟沈して、萩風と嵐は航行不能に陥った。コロンバンガラ輸送隊が雷撃により立ち往生するのを確認した第15駆逐群は、頭を押さえる形で一斉に砲門を開く。集中砲火を浴びせかけられた萩風と嵐は、まもなく沈没した。日本側3隻(萩風、嵐、江風)が爆発する様子はまるで「仕掛け花火のような壮観さ」であり、また、コロンバンガラ島を隔てたクラ湾で行動していた魚雷艇員の回想では「火山の爆発」を思わせるようなものであったという。 時雨はアメリカ側駆逐艦を発見後、面舵に転舵して魚雷を発射したが、命中した魚雷はなかった。その時雨にも、第12駆逐群が発射した魚雷のうち3本が到達し、2本は艦底を通過していった。また魚雷1本が舵に命中して穴を開けたものの爆発しなかった。魚雷を8本発射した時雨は、煙幕を展開して一旦退却した。約30分後、次発装填後に戦場に戻ってきたものの「状況極めて不利」と判断し、避退した。モースブラッガー中佐指揮下の米駆逐艦3隻は時雨を追跡したが逃げ切られ、ベラ湾に戻ると6隻で45分間にわたり日本軍生存者の救助をおこなった。逃げ切った時雨はブイン輸送を終えた川内(6日21時30分ブイン着、7日00時30分出発)と8月7日午前8時ころ合流した後、14時30分にラバウルに帰投した。 アメリカ側は駆逐艦6隻で魚雷合計34本を発射し、推定6〜8本が命中した。 日本側生存者は、萩風と嵐が各70名・江風約40名(合計約190名)、陸兵約120名であった。 萩風と嵐の乗員はともに178名(嵐水雷長によれば182名戦死)が、江風の乗員は169名が戦死した。輸送隊を指揮した第4駆逐隊司令杉浦嘉十大佐と萩風駆逐艦長の馬越正博少佐はベララベラ島へたどりつけたが、嵐駆逐艦長の杉岡幸七中佐はベララベラ島へ向かう途中に溺死した。江風駆逐艦長の柳瀬善雄少佐も戦死した。また、コロンバンガラ輸送隊が乗せていた増援部隊940名のうち820名が戦死して、輸送は完全な失敗に終わった。 時雨は「駆逐艦3隻、魚雷艇、飛行機の包囲攻撃を受けた」と報告する。また反撃により駆逐艦1隻大破を報じ、日本側の大本営発表では「飛行機、魚雷艇と協同する敵水雷戦隊と交戦し駆逐艦1隻を撃沈、わが方もまた駆逐艦1隻沈没、1隻大破」とする。ただし、第31.2任務群に全く被害はなかった。 増援部隊壊滅の報を受けた陸軍側は、ムンダ防衛を事実上放棄してコロンバンガラ島の防衛強化に重点を置くよう命令した。日本側生存者が大発動艇などでブインに到着したのは、8月25日であったという。第4駆逐隊司令から報告を受けた大本営は、連合軍のレーダー活用、優秀駆逐艦のかわりに輸送作戦に投入する高速輸送艦の開発を認識している。 キスカ島撤退作戦を終えて瀬戸内海に帰投していた島風型駆逐艦島風(第二水雷戦隊所属)も、僚艦と共に電探射撃の研究実施、次期作戦に備えた。 ==海戦の意義== ヴェラ湾海戦は、戦術的な集中というものは、部隊が分離して行動しても相互に支援する場合には、これが達成できることを示した適例である。ついにアメリカは、日本の得意とする夜戦において、彼らにまさる戦法を編み出したのである。 ― C・W・ニミッツ、E・B・ポッター/実松譲、冨永謙吾(共訳)『ニミッツの太平洋海戦史』174ページ ちょうど1年前に起こった1942年8月8日夜から9日未明に生起した第一次ソロモン海戦以降、1943年3月5日から6日のビラ・スタンモーア夜戦を別にすると、日本艦隊に多大な損害を与えながらも、アメリカ艦隊もまた少なからぬ損害を蒙っていた。クラ湾夜戦、コロンバンガラ島沖海戦でのエインスワース少将の戦いぶりは進歩の跡を少しは見せていたとはいえ、日本海軍の夜戦の技術とは未だに隔たりがあるとみられていた。ベラ湾夜戦の意義はまさに、この太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ元帥の後年の回顧に表されている。ニミッツ元帥はまた、ベラ湾の勝者ムースブルッガー中佐とベラ湾夜戦での戦術を立案したバーク大佐、そしてビラ・スタンモーア夜戦と後のブーゲンビル島沖海戦の勝者メリル少将を「こんどの戦争の海戦をもっとも巧みに戦った人たち」と評している。ハルゼー大将もベラ湾での勝利を喜び、戦闘の詳細を手記にする手配すら行っている。 なおバーク大佐は、ソロモン諸島の戦いにおける最後の海戦である1943年11月24日から25日に生起したセント・ジョージ岬沖海戦において、自ら考案した戦術を自ら駆使して再度の完勝劇を収めている。 =ドイツ共産党= ドイツ共産党(ドイツきょうさんとう、ドイツ語: Kommunistische Partei Deutschlands  発音、略称:KPD(カー・ペー・デー))は、かつて存在したドイツの共産主義政党。第一次世界大戦中の非合法反戦組織「スパルタクス団」を起源とする。ドイツ革命直後の頃に結党され、ヴァイマル共和政期に国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP,ナチ党)とドイツ社会民主党(SPD)に次ぐ第三党まで上り詰めたが、1933年にナチ党が政権を獲得すると禁止された。第二次世界大戦後に西ドイツでも東ドイツでも再興したが、西ドイツでは1956年に禁止され、東ドイツでは1946年に社民党を強制合併してドイツ社会主義統一党(SED)となり、東欧革命で倒されるまで独裁体制を敷いた。 ==概要== 第一次世界大戦中、ドイツ社会民主党(SPD)の戦争支持の方針に反発した急進左派カール・リープクネヒトやローザ・ルクセンブルクらが創設した非合法反戦組織「スパルタクス団」を起源とする。ドイツ革命でスパルタクス団指導者たちが釈放されるとスパルタクス団はロシア十月革命に倣った革命扇動を開始したが、反革命化を強めていた社民党政権と対立を深めた(→前史)。1918年12月30日から1919年1月1日にかけての創立大会で「ドイツ共産党・スパルタクス団」を結成し、直後の1919年1月にスパルタクス団蜂起を起こすも社民党政権が出動させた義勇軍に殲滅されて失敗(→ドイツ共産党の創設、→スパルタクス団蜂起(1月蜂起))。 リープクネヒトとルクセンブルクが義勇軍に虐殺されたので、代わってパウル・レヴィが党の指導者となる。1919年にはコミンテルンに加盟し、1920年7月にはコミンテルン参加に賛成するドイツ独立社会民主党(USPD)左派と合同してドイツ統一共産党(ドイツ語版)(VKPD)と改名した(翌1921年に「ドイツ共産党」の党名に戻る)。蜂起失敗の反省からレヴィは一揆主義者の追放を断行し、社民党や労働組合の中の反指導部層との共闘を図るという「統一戦線戦術」を推し進めたが、コミンテルンの方針に異を唱えたことからコミンテルンの不興を買って1921年2月に失脚した(→レヴィ体制、→コミンテルン参加、→独立社民党左派の合流、→「統一戦線戦術」、→レヴィ失脚とブランドラー体制成立)。 代わってハインリヒ・ブランドラー(ドイツ語版)が党の指導者となる。1921年3月、ソ連の国内事情からドイツ革命を欲したコミンテルンの指示を受けてマンスフェルトで武装蜂起(ドイツ語版)を起こしたが、中央政府が派遣してきた軍に鎮圧されて失敗した(→1921年3月闘争の失敗)。 その後コミンテルンの方針変換を受けて、1921年8月の党大会で再び「統一戦線戦術」へ復帰したが、1923年のハイパー・インフレで生活困窮した労働者が急進化する中、その受け皿となるチャンスを逃しかねない「統一戦線戦術」への批判が党内左派から噴出。1923年秋にはコミンテルンが再び暴力革命路線へ転じたため、ブランドラーは1923年10月に「統一戦線戦術」に基づいてザクセン州やテューリンゲン州の社民党左派の政権に共産党員を入閣させつつ、そこを拠点に革命軍事行動を開始しようとしたが、中央政府が送ってきた軍に鎮圧されて失敗(→「統一戦線戦術」の復活、→1923年10月の蜂起計画の失敗)。 この10月敗北の責任はブランドラーの「統一戦線戦術」に帰せられ、ブランドラーは失脚。代わってルート・フィッシャーやアルカディ・マズロー(ドイツ語版)など党内左派を中心とする指導部が発足した。しかしまもなくソ連のヨシフ・スターリンが左派レフ・トロツキーとの闘争を開始した関係で1925年にコミンテルンは再び「統一戦線戦術」に回帰。フィッシャーやマズローはコミンテルン方針に従ったものの、スターリンから忠誠を疑われて1925年秋に失脚した(→ブランドラー失脚と左派指導部の成立、→左派指導部と極左派の対立)。 代わってスターリンに忠実な親コミンテルン左派エルンスト・テールマンが党の指導者となった。テールマンははじめ中間派と指導部を形成して左派反対派を抑え込んだが、1928年になると左派政敵を始末したスターリンがブハーリンら右派政敵との闘争を開始したため、コミンテルンが再び左旋回。スターリンとテールマンは党内右派を粛清していき、1929年6月の党大会までには党のスターリン主義化を完成させ、もはやいかなる反対派も党内に存在する事は許されなくなった。また党の極左化で「社会ファシズム論」に基づく社民党排斥を強化するようになり、その闘争においては国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP, ナチス)とも共闘するようになった。社民党系のドイツ労働組合総同盟(ドイツ語版)(ADGB)への敵意も強め、その分裂を促して共産党系の革命的労働組合反対派(ドイツ語版)(RGO)を結成させた(→フィッシャー失脚とテールマン体制の成立、→党内派閥抗争激化、→テールマン個人独裁のスターリン主義政党へ、→「社会ファシズム論」とナチスとの共闘、→革命的労働組合反対派) 1929年の世界恐慌以降、急速に支持を拡大させ、国会選挙でも勝利を続け、ナチスや社民党に次ぐ第三党の地位を確立したが、1933年1月にヒトラー内閣が成立すると禁止されて地下に潜った(→世界恐慌と共産党の台頭、→ナチス政権下)。 第二次世界大戦後に一時復興したが、西ドイツにおいては1956年に連邦憲法裁判所から禁止命令が出されて解散させられた。東ドイツにおいては、終戦後の1946年に社民党を強制合併して、東ドイツの独裁政党社会主義統一党(SED)となり、1989年の東欧革命で倒されるまで独裁体制を敷いた(→戦後)。 ==党史== ===前史=== ====スパルタクス団==== 1914年8月1日にドイツはロシアに宣戦布告して第一次世界大戦に参戦した。ドイツ社会民主党(SPD)は党派争い停止(「城内平和」)を求める政府の呼びかけに応じて戦争を支持した。 しかしこの戦争を「帝国主義戦争」と捉えていたローザ・ルクセンブルクやカール・リープクネヒト、フランツ・メーリング、クララ・ツェトキンら党内の急進左派は反発し、1914年9月10日にもスイスで発行していた社民党系新聞紙上において党の戦争支持方針への公然たる反対声明を出した。この社民党急進左派勢力がドイツ共産党の源流となる。 戦争が長期化する中、反戦思想は徐々に大衆に浸透しはじめた。その状況をエルンスト・マイヤーは次のように語っている。「食糧危機の増大、住民が兵役と軍需品工場での労働にますます激しく駆り立てられること、ブルジョワ的併合論者が厚かましく立ち現れるようになったことが、反対派のための有利な土壌を作り出した。非合法のビラがますます大量にばらまかれるようになった。ツィンマーヴァルト会議のためにリープクネヒトが作った『城内平和でなく城内戦争を!』というスローガンは扇動的に大衆の中に染み込んでいった」。 反戦運動を行う非合法結社の創設を目指す急進左派勢力は、1916年1月1日にリープクネヒトの事務所に集まって全国協議会を開き、当時投獄されていたルクセンブルクが獄中からひそかに送った指針(戦争を支持したドイツ社民党、フランス社会党およびイギリス労働党は国際社会主義・労働者運動の裏切者であり、新しい労働者インターナショナルの創設が必要とする指針)を運動方針として採択するとともに『スパルタクス』という非合法書簡を発行することを決議した。この書簡ははじめ複写で広められたが、1916年9月からはレオ・ヨギヘスが警察の目を掻い潜りながら印刷で流布するようになった。この書簡の名から、この非合法結社は「スパルタクスロイテ」と呼ばれるようになった。 しかしリープクネヒトは1916年4月のデモで戦争反対を宣言して逮捕され、1年の懲役を終えて出獄していたルクセンブルクも7月に再び逮捕され、8月にはメーリングも逮捕された(ツェトキンはこの前年に逮捕)。主要指導者が軒並み逮捕されたことでスパルタクスの運動は停滞した。 ===独立社会民主党=== 一方、社民党の主流派閥である「中央派」の中にも「城内平和」に否定的な者が徐々に増えていき、社民党の共同党首フーゴー・ハーゼを中心に平和主義的中央派「ハーゼ・グループ」が形成されるようになった。1915年春に戦争目的論争が勃発するとカール・カウツキーやエドゥアルト・ベルンシュタインら党の長老がハーゼを支持するようになり「ハーゼ・グループ」が勢いを増した。 この亀裂は帝国議会本会議における戦時公債の採決での社民党議員団の分裂という形で現れるようになり、1917年4月に潜水艦作戦とロマノフ帝政崩壊後のロシアに関する論争が起きたことで分裂は決定的となり、ハーゼを党首とする独立社会民主党(USPD)が分党した。 スパルタクス団はこの新党についても批判を加えていたが、一応参加することになった。その理由についてリープクネヒトは「我々が独立社民党に参加したのは同党を前進させ、同党を我々の鞭の届く範囲におき、最善の分子を同党から引き抜くためであった」と後に語っている。 ===革命的オプロイテ=== 「スパルタクス団」と並ぶ急進左派勢力として「革命的オプロイテ(Revolution*9056*re Obleute)」がある。これはリヒャルト・ミュラー(ドイツ語版)とエミール・バルト(ドイツ語版)が指導するベルリンの金属労働組合の代表者の集まりであり、組合の公式の指導部に造反して軍需工場内において抵抗運動を拡大させ、1916年以降ドイツ全土にその組織を広げていた勢力である。1916年のリープクネヒトの判決の際にはストライキを組織し、1917年と1918年のストライキも彼らが主導した。 彼らも一応独立社民党に所属していたが、同党幹部会の決定には従わず、むしろ同党に自分たちの意見を押し付けることを目指した。 スパルタクス団がマルクス主義理論家集団でしかなく、労働者大衆と直接結びついていなかったのに対し、革命的オプロイテは多数の労働者大衆を掌握しているという特徴があった。そのためスパルタクス団は宣伝を専らとしてアジテーションで民衆を街頭に駆り立てようとするが、オプロイテは秘密裏に革命計画を推進しようとする違いがあり、スパルタクス団の派手な宣伝活動はオプロイテにとっては迷惑だった(計画が熟しないうちに警察に発見されて摘発される恐れがあるので)。オプロイテはスパルタクス団を「一揆主義者(プッチスト)」と批判し、スパルタクス団の方はオプロイテを「臆病者」と批判し合っていた。 ===ブレーメン左派=== 急進左派勢力としてもう一つ重要な勢力にブレーメン左派(ドイツ語版)があった。彼らは機関紙の名前から『労働者政策(ドイツ語版)』グループとも呼ばれた。ヨハン・クニーフ(ドイツ語版)とパウル・フレーリヒ(ドイツ語版)が『労働者政策』の編集員を務めていたが、その理論的立場はロシアのボルシェヴィキ指導者、ウラジーミル・レーニン、ニコライ・ブハーリン、そしてとりわけカール・ラデックから広範な指示を受けていた。 この派の影響力は専らブレーメンとハンブルクに限られ、独立社民党には当初から参加しなかった。 1918年11月には「ドイツ国際共産主義(ドイツ語版)(IKD)」と改名した。 ===ドイツ革命=== 1918年10月4日に連合国との講和を目的とするバーデン大公子マクシミリアン内閣が発足し、社民党と中央党と進歩人民党が政権に参加した。マクシミリアンはアメリカ大統領ウッドロウ・ウィルソンが主張した「ドイツ軍部や王朝的専制君主は交渉相手とは認めない」という交渉資格の要求をクリアーするために議院内閣制導入など様々な改革を実施した。その一環で政治犯釈放が行われ、リープクネヒトやルクセンブルクなど反戦運動で投獄されていた急進左派人士が続々と釈放された。彼らは釈放後、前年に起きたロシア十月革命を模範とした革命扇動を開始した。 11月3日から4日にかけて、無謀な作戦への動員を命じられたキール軍港の水兵たちが反乱をおこし、労働者がこれに加わって大勢力となり、キールは「レーテ」(労兵評議会)により実効支配された。他の主要都市でも次々と蜂起が起き、レーテが各主要都市を掌握するに至った。この「ドイツ革命」と呼ばれる反乱は兵士と労働者による自然発生的な大衆革命運動であり、スパルタクス団や革命的オプロイテなど急進左派勢力が組織したものではないが、レーテはロシア革命のソヴィエト(評議会)に酷似していたため、急進左派勢力は大いに沸き、これを推進すべくますます激しい革命扇動を行うようになった。 11月9日にマクシミリアンはヴィルヘルム2世の退位を発表して社民党党首フリードリヒ・エーベルトに内閣を譲って退任した。この日の午後2時頃に社民党政権のシャイデマンが共和国宣言を行ったが、これに対抗してリープクネヒトは午後4時頃に「社会主義共和国」宣言を行っている。 また同日スパルタクス団は『ベルリン・ローカル・アンツァイガー(ドイツ語版)』紙の編集局を占拠してスパルタクス団機関紙『ローテ・ファーネ(赤旗)(ドイツ語版)』編集局に変えた。ついで11月11日にスパルタクス団は指導部を創設し、リープクネヒト、ルクセンブルク、メーリング、ヨギヘス、マイヤー、パウル・レヴィ、ヴィルヘルム・ピーク、ヘルマン・ドゥンカー(ドイツ語版)、ケーテ・ドゥンカー(ドイツ語版)、パウル・ランゲ(ドイツ語版)、ベルタ・タールハイマー(ドイツ語版)、フーゴ・エーベルライン(ドイツ語版)がそのメンバーとなった。このうちリープクネヒト、ルクセンブルク、タールハイマー、レヴィ、ランゲは『ローテ・ファーネ』編集局を構成し、ヨギヘスは全国指導部(組織部)、エーベルラインは労働組合部、ドゥンカー夫妻は夫人及び青年工作、ピークはベルリンでの工作、マイヤーは広報をそれぞれ担当した。 ===社民党政権と急進左派の対立=== 1918年11月10日、エーベルト社民党政権は独立社民党に政権参加を呼びかけたが、独立社民党は政権参加の条件としてレーテによる全権掌握を要求、社民党は「一階級の一部の独裁であり、民主主義の原則に反する」としてこれに反対し、国民議会を招集すべきした。結局、独立社民党が譲歩し国民議会招集を急がないことのみを条件として政権参加し、社民党と独立社民党が3名ずつ代表を出し合う仮政府「人民代表評議会(ドイツ語版)」が創設された。 一方レーテ全権掌握(議会排除)を独立社民党以上に強力に要求する立場だったスパルタクス団や革命的オプロイテなど在野の急進左派勢力は、仮政府創設に反発を強めた。革命的オプロイテは別政府を作ろうと労兵評議会の扇動を開始したが、仮政府も対抗して労兵評議会の多数派工作を行い、結果11月10日に「ツィルクス・ブッシュ」で開かれたベルリン労兵評議会は人民代表評議会を承認する決議を出した。仮政府議長エーベルトは国民議会召集を急いでいたが、革命的オプロイテのミュラーはこれに反対し「国民議会への道は我が屍の彼方にある」と演説して「屍(ライヘン)ミュラー」と呼ばれた。 スパルタクス団のルクセンブルクも議会政治に反対してレーテ全権掌握を主張したが、彼女はロシア革命においてレーニンが取った手法には反民主的な物が含まれることを認め、それに批判を加えていた。そのため彼女は12月14日の『ローテ・ファーネ』紙上において発表したスパルタクス団綱領の中で国民議会かレーテかという対比から出発しつつ「プロレタリア革命は少数派の絶望的な試みではなく、何百万という人民の行動であり、その目的のためには何らのテロも必要としない」と宣言した。 しかしこの綱領は急進化するスパルタクス団の団員の革命熱を抑えることはできなかった。スパルタクス団は戦時中にはマルクス主義理論家を中心に構成されていたが、1918年11月の革命後は、革命的情熱こそ強いが政治経験や理論的思索が皆無の若い労働者、帰還兵、失業者などが大量に入団して多数を占めるようになっていたためである。 ===ドイツ共産党の創設=== 1918年12月24日にベルリンで開かれたスパルタクス団の全国協議会には、ドイツ国際共産主義(ブレーメン左派)の指導者カール・ラデックが出席し、スパルタクス団とドイツ国際共産主義の合同が提案されたが、リープクネヒト以下スパルタクス団幹部の多数がそれを支持し、合同が決議された。 そして12月30日から1919年1月1日にわたって開かれた創立大会で「ドイツ共産党・スパルタクス団」が正式に創設された。革命を続行せよというレーニンの要求に無条件に従い、レーテによるプロレタリア独裁を目指すことが決議されるとともに、最初の中央委員にはリープクネヒト、ルクセンブルク、ヨギヘス、レヴィ、ピーク、ドゥンカー夫妻、エーベルライン、ランゲ、タールハイマー、マイヤー、フレーリヒが選出された。 初期の共産党は独裁政党ではなく、内部に意見対立が存在していた。この創立大会でもマルクス主義理論家(ルクセンブルク、リープクネヒトら)とそれより左の急進的活動家の対立が目立った。とりわけそれが顕著だったのが国民議会選挙参加問題の論争だった。リープクネヒトやルクセンブルクは国民議会選挙に参加することに賛成したが、代議員の多数を占める急進派はレーテ体制への信奉を急進的な反議会主義と解していたため、これに反対した。彼らに押される形で選挙参加戦術は圧倒的多数で否決されている。 この創立大会の後、革命的オプロイテにも「ドイツ共産党・スパルタクス団」への参加が要請されたが、彼らはその条件として選挙ボイコット決議の撤回、一揆主義の放棄、同等の立場での綱領作成、スパルタクス団という名称の削除を要求、スパルタクス団がこれを拒否したため決裂した(ただ革命的オプロイテは1920年以降ほとんど影響力を失い、そのメンバーの多くは共産党に参加している)。 ===スパルタクス団蜂起(1月蜂起)=== 1918年12月24日、極左の人民海兵団(ドイツ語版)が起こした反乱の鎮圧をめぐって社民党が発砲を許可したことに反発した独立社民党は社民党政権から離脱した。独立社民党はプロイセン州の社民党政権からも離脱したが、このときに革命的オプロイテに近い独立社民党のベルリン警視総監エミール・アイヒホルン(ドイツ語版)が辞職を拒否したので、1919年1月4日に社民党政権は彼を罷免した。 これに反発した独立社民党、共産党、革命的オプロイテは労働者にデモを呼びかけることを決定した。この呼びかけに応じて1月5日にベルリンの街上に20万人を超える人々が結集し、社民党政権を糾弾する大規模デモが起きた。この日、警視庁にはオプロイテと共産党の指導者(共産党代表はリープクネヒトとピーク)が集まっていたが、予想外のデモの集まりの良さを見て、これを政府転覆の暴力革命へ転化させるべきか否かが論じられた。オプロイテのミュラーは反対したが、共産党のリープクネヒトや独立社民党の長老でオプロイテに近かったゲオルク・レーデブール(ドイツ語版)は革命の時と主張した。結局政府転覆を目指す事が決議され、リープクネヒト、レーデブール、パウル・ショルツェ(ドイツ語版)をメンバーとする革命委員会が設置された。革命委員会はエーベルト政権の終焉と革命政府の樹立を宣言した。 デモ隊は夜には大部分が解散したが、一部は新聞街へ進撃し、社民党機関紙『フォアヴェルツ(ドイツ語版)』編集局などを占拠した。これは革命委員会が予期した事態ではなく、革命委員会は夜通しで次の行動を議論したが、結局デモとゼネストの決定にとどまった。 翌6日には前日を上回る数の人々がデモに参加し、警視庁前に集まって革命委員会の命令を待ったが、革命委員会は終日協議を続けて結論を出せなかった。共産党指導部も分裂しており、リープクネヒトとピークを含む少数派は「武装蜂起による政府打倒」に固執したが、多数派は見込みがないとしてそれに反対した。夜になるとデモ隊は再び解散、革命の機運は雲散霧消した。革命委員会が結論を出せずにこの日を無為に過ごしたことは致命的となった。 その間、社民党政府はグスタフ・ノスケに最高指揮権を与えて反徒掃討のための義勇軍(フライコール)を編成していた。1月8日に義勇軍が出動し、建物を占拠している反徒たちへの攻撃を開始した。反徒たちは孤立無援の中でよく戦ったが、12日までには大勢は決した。その後は掃討戦となり、多くの反乱関与嫌疑者が十分な捜査もなく銃殺されていった。リープクネヒトとルクセンブルクも15日に市内の隠れ家で逮捕され、連行の途中で虐殺された。ちなみにルクセンブルクはリープクネヒトと違ってこの蜂起に反対していたが、リープクネヒトが決起した後には公然と彼を批判することができず、大衆に向けてはこの挙が成功するよう支援を呼び掛けるという曖昧な立場だった。 ===ミュンヘン・レーテ共和国=== バイエルン・ミュンヘンでは1918年11月8日の革命でヴィッテルスバッハ王政が打倒された後、独立社民党に所属するクルト・アイスナーを首相とする社民党と独立社民党の連合政権が作られた。アイスナー政権はレーテを敵視せず、むしろそれを積極的に自己の基盤としたためバイエルンの政情は比較的安定していた。 バイエルンにおける在野の極左勢力としては当初アナーキスト勢力があり、彼らが「ボルシェヴィスト」「スパルタキスト」と呼ばれたが、それはミュンヘンにおける共産主義者の結集が遅かったためだった。ミュンヘンにスパルタクス団グループが生まれたのは、1918年12月11日になってのことであり、当初マックス・レヴィーン(ドイツ語版)によって指導された。レヴィーンは、反組織的な(=プロレタリアの革命的意思を特定の政党の下に置くことに反対する)アナーキストとも共闘行動をとったが、それはスパルタクス団がまだミュンヘンに十分な基盤を持っておらず、また「前衛党による排他的指導」という後年の思想を確立させていなかったためだった。 1919年2月21日にアイスナーが暗殺されると行動委員会が執行権を引き継いだが、レヴィーンもこの委員会の委員の一人に就任している。この事実はすでに共産党がミュンヘンにおいて無視できない勢力になっていたことを意味する。3月初めにベルリンからオイゲン・レヴィーネが送られてきて共産党を指導するようになると共産党は独自路線を取るようになり、原則として独立社民党やアナーキストの共闘を拒否するようになった。 事前のレーテの決議に基づいて3月17日のバイエルン議会で社民党のヨハネス・ホフマンが首相に選出されたが、ホフマンはレーテの決議を無視して独自の閣僚人事を行ったためレーテ勢力(独立社民党、アナーキスト、共産党)と対立を深めた。エルンスト・トラーを中心とした独立社民党やアナーキスト勢力はホフマン政権を倒してレーテ共和国を作る策動を開始したが、共産党は指導権が自分たちに属する計画のみに加わるとして参加を拒否した。4月7日にトラーがレーテ共和国の樹立を宣言するとホフマン政権はバンベルクへ亡命し、4月11日にはレーテ共和国とホフマン政権の間で交戦が始まり、バイエルンは内乱状態に突入した。 一方このレーテ共和国を「似非レーテ」と批判していた共産党は、オプロイテとともに新しいレーテを結成し、4月13日のレーテにおいて、現在のレーテ共和国の罷免と改めて共産主義的なレーテ共和国を樹立することを宣言した。この第二期の共産主義レーテ共和国を主導したのはレヴィーネと赤軍司令官に就任したルドルフ・エーゲルホーファー(ドイツ語版)(キール軍港反乱の際の反乱水兵たちのリーダー)だった。 一方バンベルクのホフマン政権はベルリン政府に援軍を求め、それに応じて政府軍がバイエルンに派遣されてきた。武力介入の危機を前にレーテ共和国内は内部分裂を起こし、4月27日には激論の末に共産党が行動委員会から退き、レヴィーネも退任することになった。代わりにトラーが議長に就任し、ホフマン政権との妥協交渉を開始したが、ホフマン政権から拒絶された。 4月28日には赤軍が行動委員会を解散させ、ミュンヘンへ向けて進軍中の政府軍との決戦に備えた。政権から退いていた共産党も赤軍に依拠してこの絶望的な決戦に参加するしかなかった。4月30日にはミュンヘンが政府軍に包囲され、赤軍は人質として捕らえた者たちを銃殺した。5月1日から5月4日にかけてミュンヘン市内と郊外で政府軍と赤軍の戦闘が開始された。結局赤軍は破れてレーテ共和国は壊滅。その後ミュンヘン市内では政府軍による白色テロが吹き荒れた。レヴィーネも6月3日に軍法会議にかけられて死刑判決を受け、6月5日に銃殺された。レヴィーネは死刑判決を受けた際「我々共産主義者は皆、死によって休息するのだ」と述べたという。 ===レヴィ体制=== 1919年1月蜂起でリープクネヒトとルクセンブルクが殺害された後、パウル・レヴィが党を指導するようになった。彼はルクセンブルクの信奉者であり、党の多数を占める極左分子の一揆主義には反対していた。 1919年3月にベルリンでゼネストと人民海兵団の蜂起があり、社民党政府は一月蜂起の時と同様に義勇軍を動員して武力鎮圧した。この際にレヴィ指導下の共産党は『ローテ・ファーネ』紙上でゼネストを呼びかけつつも武装蜂起には一貫して反対した。しかしその呼びかけもむなしく、多くの一揆主義者の共産党員が蜂起に参加し、義勇軍による反徒掃討を受けて多くの共産党員が虐殺された。その中には共産党指導者の一人ヨギヘスも含まれた。社民党政権は共産党を非合法化し、『ローテ・ファーネ』も発禁処分にした。4月からは戒厳令が布告され、多数の共産党員が党員であるというだけで投獄されるようになった。 このような状況下でレヴィは一揆主義者を党から追放する必要があると痛感した。1919年10月に非合法裡に開いた第2回党大会でレヴィは党の新方針を定め、その中で国会選挙参加方針を打ち出した(党内の反発を抑えるため、選挙参加は議会政治容認ではなく「革命的闘争への準備的手段」にすぎないと定義した)。また党は中央集権的組織でなければならないとし、「方針に賛成しない党員は党から排除される」と定めた。 一揆主義者はこの新方針に反発し、続々と共産党から離党した(彼らは1920年4月にドイツ共産主義労働者党(ドイツ語版)(KAPD)として結集した)。分裂前には10万7000人を数えた党員数は、この分裂によって半分にまで落ち込んだ。特にベルリンの党員は反レヴィ派が多かったので大多数が離党している。 ===コミンテルン参加=== ロシアのボルシェヴィキは1918年から社会民主主義者の第2インターナショナルとは別の新しいインターナショナル(「コミンテルン」)を作ろうと策動していた。スパルタクス団のローザ・ルクセンブルクは新インターナショナル創設には賛成していたものの、それがロシアの道具となることには反対していた。 その立場からレヴィ指導下のドイツ共産党もコミンテルン創設には当初反対の立場を取った。1919年3月にモスクワで開催された「国際会議」にドイツ共産党代表として出席したエーベルラインは「我々はいまだ脆弱であるので第2インターナショナルと張り合ってはならない」と主張したが、それに対してロシア共産党(ボルシェヴィキ)のグリゴリー・ジノヴィエフは「我々は一つの大きな国で勝利したプロレタリア革命を持ち、さらに二つの国々で勝利に向かいつつある革命を持っている。だのに『我々はまだ弱い』とは!」と激高し、レーニンも「全世界におけるプロレタリア革命の勝利は確実である。国際的レーテ共和国は樹立されるであろう」と断じた。結局ドイツ共産党は圧迫されて反対票を投じることができず、コミンテルン創設が決議され、エーベルライン帰国後にはドイツ共産党はロシア以外の共産党として初めてコミンテルンに加盟することになった。 ===反ヴァイマル共和政・反ヴェルサイユ条約=== 1919年1月19日に行われた国民議会選挙に共産党はボイコットしていたため、2月6日からヴァイマルで開かれた国民議会に共産党議員はいなかった。国民議会では6月22日にヴェルサイユ条約が批准され、7月23日には当時世界で最も民主的と言われたヴァイマル憲法が可決されてヴァイマル共和政の基本体制が築かれた。共産党はヴァイマル憲法はブルジョワ共和政の憲法として批判し、ヴェルサイユ条約は西方帝国主義への抵抗とソヴィエト・ロシアとの連携という立場から反対した。 このヴェルサイユ条約反対の立場のために共産党はインターナショナルを標榜しながらナショナリスティックに振舞うことがあった。 ===独立社民党左派の合流=== 独立社民党には右派と左派があったが、左派は共産党と大差がなく、とりわけ一月蜂起以降は共産党がレヴィの指導下に右派的な方針を取るようになったため、意見の違いがほとんど見られなくなっていた。 1920年7月のコミンテルン第2回世界大会には独立社民党も出席したが、この大会で独立社民党はコミンテルンからコミンテルン参加の条件として21か条を突き付けられ、コミンテルンへの絶対服従や「悪名高き日和見主義者」の追放(カウツキーやヒルファーディングなどの幹部の実名を例示していた)などを要求された。 10月の独立社民党大会は、コミンテルンがあらかじめ多数派工作を行っていたため、コミンテルン参加と共産党との合同が決議されたが、右派はこれに反発して独立社民党に留まることになった。コミンテルンの高圧的態度は左派からも反発を招いており、結局共産党へ移った独立社民党員は党員80万人のうち30万人、国会議員では4分の1にとどまった。 1920年12月4日から7日にかけて開かれた共産党と独立社民党左派の合流大会において共産党は「ドイツ統一共産党(ドイツ語版)」(Vereinigte Kommunistische Partei Deutschlands, 略称VKPD)と改名した(1921年8月の党大会で「ドイツ共産党」の党名に戻っている)。新たな中央部には議長としてレヴィとエルンスト・ドイミヒ(ドイツ語版)、書記としてツェトキン、ヴィルヘルム・コェーネン(ドイツ語版)、ハインリヒ・ブランドラー(ドイツ語版)、オットー・ブラース(ドイツ語版)、ヴォルター・シュトェッカー(ドイツ語版)、ピーク、ヘルマン・レンメレ(ドイツ語版)、部員としてアドルフ・ホフマン(ドイツ語版)、タールハイマー、クルト・ガイヤー(ドイツ語版)、フリッツ・ヘッケルト(ドイツ語版)、オットー・ガエベル(ドイツ語版)が就任。独立社民党と共産党それぞれ半数ずつで指導部を構成する形となった。 ===「統一戦線戦術」=== レヴィは1921年1月に労働組合や社民党・独立社民党の組織との「統一戦線戦術」を打ち出し、共同活動のための最低綱領を「公開書簡」としてまとめ、その中に「賃金をインフレに適応させること」「プロレタリアの自衛組織を作ること」「ロシアとの関係を認めること」「経営レーテによる生産管理」などの条件を盛り込んだ。社民党執行部はこれを拒否したが、社民党の地方機関では公開書簡に基づく共同活動に賛成する者が多かったため、レヴィは社民党執行部の拒否の書簡を公表して統一戦線の宣伝をつづけた。 しかしその直後にレヴィが失脚する事件が発生した。 ===レヴィ失脚とブランドラー体制成立=== 1921年初めに開かれたイタリア社会党(同党は大戦中に反戦を貫いたためドイツ社民党のような左右分裂が起きなかった)の党大会においてコミンテルンから派遣されたハンガリー人ラーコシ・マーチャーシュは同党から右派を追放してコミンテルンに加入させようとしたが、このやり口は右派のみならず中央派の怒りも買い、結局左派がイタリア共産党として分党することになった。この党大会にはレヴィも参加していたが、彼もラーコシに反対した。その後ラーコシはドイツにやって来てドイツ共産党に支持を求めたが、そこでレヴィは公然たるラーコシ批判を行った。レヴィはコミンテルンのやり口はセクトの利益のために大衆政党の発展を妨げていると考えていた。 しかし共産党内におけるコミンテルンの権威は絶対であったので、ラーコシを批判したレヴィは「調停派」「日和見主義者」とのレッテルを貼られるようになった。コミンテルンから送られてきたラーコシとクリスト・カバクチェフが中央委員会の過半数を獲得し、1921年2月の中央委員会総会においてレヴィ、ドイミヒ、ツェトキン、ホフマン、ブラースが指導部から解任された。 代わって「左派」(親ラデック派)や「ソヴィエト派」(ブランドラー、タールハイマー、フレーリヒ、シュトェッカー)が主導権を握るようになり、とりわけブランドラーによって党が指導されるようになった。 ===1921年3月闘争の失敗=== 1921年3月にロシアでクロンシュタットの反乱が起こり、ソヴィエト体制は崩壊寸前に陥った。コミンテルンはソヴィエト体制を救うにはドイツ革命を起こすしかないとし、ハンガリー革命指導者クン・ベーラをドイツへ派遣。このクン・ベーラの指揮のもと、ブランドラー指導下のドイツ共産党は統一戦線戦術を破棄して、1921年3月に共産党が優勢な鉱山都市マンスフェルトを中心に3月闘争(ドイツ語版)と呼ばれる武装蜂起を起こした。マンスフェルトを数日間支配することに成功したものの、中央政府が派遣してきた軍に掃討され、壊滅的失敗に終わった。 レヴィは小冊子『我々の道、一揆主義に抗して(Unser Weg. Wider den Putschismus)』を発刊して、3月闘争を一揆主義と批判し、それを扇動したコミンテルンやボルシェヴィキも批判した。しかし4月の中央委員会総会は「3月闘争は1919年闘争のごとき一揆主義ではなかった」とする見解を採択し、レヴィを中央委員会から追放した。5月に入るとツェトキンがレーニンを説得して3月闘争の失敗を認めさせ、クン・ベーラら攻勢主義者に有罪が申し渡されたが、レヴィの復権は認められなかった。その理由についてレーニンは「レヴィの言うことはすべて正しい。しかし彼は小冊子を書くことで党への裏切りを犯した」と述べている。 この騒動で党を追われることになったレヴィ、ドイミヒ、ブラース、ホフマン、ハインリヒ・マルツァーン(ドイツ語版)らは共産主義労働者団(ドイツ語版)(KAG)を結成した(同党は1922年に独立社民党に合流している)。 クン・ベーラも失脚し、コミンテルンの対ドイツ責任者はラデックに戻った。 ===「統一戦線戦術」の復活=== 1921年6月から7月にかけてのコミンテルン第3回世界大会は、3月闘争について誤謬があったとしつつも「自らの力で革命の進展に関与し、革命を促進し、それによって大衆に対する指導権を獲得しようとした最初の試み」と評価し、コミンテルンやロシア共産党への批判は許さず、レヴィの除名を承認した。そのうえで改良主義者との「統一戦線戦術」を進めることをドイツ共産党に指令した。この指令を受けてブランドラー率いるドイツ共産党は1921年8月の党大会で統一戦線戦術に立ち戻ることを決定した。 以降共産党は、統一戦線戦術のもと広範な階級闘争(賃金闘争、税金闘争、八時間労働とストライキ権の防衛など)に参加するようになり、労働組合や経営レーテにおいて勢力を拡大させた。社民党系の労働者陣営にも着実に浸食し、1921年後半から1922年にかけて(とりわけ1922年中)党は著しく強化された。 1921年終わり頃にザクセン州とテューリンゲン州の社民党員の間で共産党との提携を望む声が高まっていたことを受けて、1922年1月22日と23日の共産党中央委員会は社民党との連合政権を念頭にした「労働者政府」というスローガンを決定した。共産党がこれまで散々「裏切り者」扱いしてきた社民党最高幹部層との連合はさすがに不可能だったが、社民党の下部指導者や反幹部層と連合政権を作ることは可能との判断だった。 1922年6月24日にヴァルター・ラーテナウ外相が右翼テロ組織コンスルに暗殺されると反動に対抗してヴァイマル共和政を護ろうという大衆デモが広まった。共産党は「ブルジョワ共和政」を守る立場ではないが、統一戦線戦術に基づきこの運動に対する影響力を獲得しようとした。そのためブランドラーは党内左派の反対を押し切って、労働組合や社会主義諸政党との間に「共和国の民主化」(共和国保護法制定、軍事的秘密組織の解体、行政・司法・軍から反動を追放する等)を目指す「ベルリン協定」を締結した。しかし当時の共産党は貧弱な勢力だったし、社民党もブルジョワ諸政党との連立政策を放棄してまで徹底したいと思っていなかった。結局、この協定の内容で実現したのは1922年7月に成立した共和国保護法だけだったが、この法律も警察や司法は君主制復古主義者に対してではなく、専ら共産党に対して適用した。 ===ルール闘争=== 1923年1月11日、ヴェルサイユ条約不履行を理由にフランス軍がルール地方を占領した。この横暴にドイツ中で怒りが巻き起こり、ヴィルヘルム・クーノを首相とするドイツ政府(中央党、民主党、人民党、バイエルン人民党というブルジョワ諸政党の連立政権)は「消極的抵抗」(占領地内の公務員に占領軍の命令に従うことを禁じ、またドイツ人が石炭の提供と運搬を行うことを禁止)を呼びかけた。この呼びかけは国民から熱烈に支持され、社民党もブルジョワ諸政党も軒並み支持した 一方共産党はルール占領に先立つ1月7日の独仏共産党代表者会議でフランス帝国主義の危険に対抗して独仏の革命勢力を結集させる事に合意していたため、「ポアンカレをルールで、クーノをシュプレー川で打倒せよ」というスローガンのもとに独仏双方のブルジョワに対する闘争を開始したが、まもなくドイツ共産党はドイツ政府に対する闘争を二の次にしてフランスに対する消極的抵抗を徹底的に支援するという方針に切り替えた。これは1922年4月にソ連政府とドイツ政府の間にラッパロ条約が結ばれて以来、ソ連がドイツよりも英仏を危険視してフランスによるルール占領を批判していたためである。今やソ連はドイツ革命を起こすことよりもドイツ全体を反西欧闘争に駆り立てる方が自分たちの利益になると考えていたのである。 ルール闘争中、ドイツにハイパー・インフレが到来した。インフレは労働者の生活を困窮させ、労働者大衆を先鋭化させた。社民党指導部はその救済手段を打ち出せなかったので、共産党がこうした層を取り込むのは容易なはずであった。ところが当時共産党が掲げていた「統一戦線戦術」「労働者政府」方針は、革命行動を抑える物であったので、先鋭化している大衆の受け皿になるチャンスを逃しかねない物だった。これを危惧したルート・フィッシャー、アルカディ・マズロー(ドイツ語版)、エルンスト・テールマンらは、あまりにコミンテルンに忠実なブランドラーの右派的方針を批判して党内左派を形成するようになった。 ===1923年10月の蜂起計画の失敗=== 1923年秋にドイツ政府がルール闘争を中止して英仏と手を結ぼうとしていることが明らかになるに及んで、コミンテルンは再びドイツに暴力革命を起こす方針に転換した。モスクワに召還されてその指令を受けたブランドラー以下ドイツ共産党指導部は同地で武装蜂起計画を練ってから10月初めにドイツへ帰国。その計画とはザクセン州やテューリンゲン州の社民党政権に参加して各部署を引き継いだ後、中部ドイツから軍事的出撃を行うことだった。 ザクセン州ではルール闘争中に社民党左派エーリヒ・ツァイグナーを首相とする内閣が組閣していたので共産党の入閣は容易であり、10月10日にも共産党のブランドラー、ヘッケルト、パウル・ベトヒャー(ドイツ語版)が入閣した。ついで10月16日には、同じく社民党左派のアウグスト・フレーリヒ(ドイツ語版)が首相を務めているテューリンゲン州政府に共産党のカール・コルシュ、テオドール・ノイバウアー(ドイツ語版)、アルビン・テンナー(ドイツ語版)が入閣した。共産党はこの2州で赤色軍事組織の編成を開始し、その指揮を執るためにソ連から数百人の将校が送り込まれた。 事態を危険視したベルリン政府は10月20日にも大統領緊急令によりザクセン政府の解任を宣言し、国防軍をザクセンへ出動させた。共産党はこれに対抗してゼネストと武装闘争を決定したが、社民党左派から武装蜂起の同意を得られなかったため、共産党も退却を決定するしかなくなった。しかしこの武装蜂起中止の決定より早くハンブルクに伝令が送られてしまい、10月24日から26日にかけてハンブルクで数百人の共産党員が武装蜂起を起こした。この蜂起は大衆から孤立しており、数万人のスト中のドック労働者すら蜂起に参加させられないまま警察に鎮圧された。 国防軍はさしたる抵抗にあうこともなく10月29日にザクセン首都ドレスデンへ入城し、10月30日にザクセン州政府を解体した。数日後にはテューリンゲン州政府も同様の末路をたどった。ザクセン州政府解任に抗議する共産党のゼネストアピールも全国で弱弱しい反響しか引き起こさなかった。 蜂起計画はまたも完全な失敗に終わり、11月23日には中央政府によって共産党は再び非合法化された。 ===ブランドラー失脚と左派指導部の成立=== 武装蜂起を命じたコミンテルンやロシア共産党は例によって責任を取らず、責任はブランドラーが取らされることとなった。それに乗じて、もともと「統一戦線戦術」に批判的だった党内左派は、10月敗北の原因を右派ブランドラー指導部が「統一戦線戦術」で社民党との連携を重視して革命を裏切ったためだと批判するようになった。 コミンテルン内ではラデックが依然としてブランドラーを擁護したが、ジノヴィエフは左派と手を結ぶ用意を始めていた。折しもソ連ではレーニンの後継者を巡る権力闘争の最中であり、トロイカ(ジノヴィエフ、カーメネフ、スターリン)とトロツキー及びその友人ラデックの対立が起きていた。そのため両陣営間で10月敗北の責任の押し付け合いが発生し、最終的にはブランドラーとラデックに全責任があるとされた。 たださしあたってブランドラーは解任されず、ブランドラーを中心とする右派、テールマン、フィッシャー、マズローら左派、その間の中間派で派閥抗争が行われるようになった。しかしまもなく左派が圧倒的に有利となっていった。1924年2月19日のハレでの第4回中央委員会ではテールマンがブランドラーを激しく攻撃。中央委員会は全会一致で指導部の入れ替えを行うことを決議した。 1924年3月1日に共産党禁止が解除されたが、依然として共産党指導者には逮捕令が出ている者が多かったので4月7日にフランクフルトで開かれた党大会は非合法理に行われた。党大会の代議士は四分の三を左派が占めたため、左旋回の方針が採択された。これまでの右派の方針、すなわち日常的スローガン(賃上げ要求など)から過渡的諸要求(生産管理、労働者の武装など)を経て最終目標(プロレタリア独裁、武装蜂起)へ向かうことで大衆を改良主義の「低地」から革命的共産主義の「高地」へ導くことができるとする方針は「大衆の改良主義的幻想を強めただけだった」として否定され、「政権奪取、すなわちブルジョワの打倒、ブルジョワ国家機構の破壊、レーテ独裁樹立と社会主義建設は、進化によってではなく革命によってのみ生まれる」「共産主義者は資本家、国粋主義者および改良主義者に反対し、ドイツ労働者階級をブルジョワジーに対する勝利に、またレーテ権力の樹立に導くであろう」と定めた。これにより共産党は再び「統一戦線戦術」を放棄して社民党の完全な解体を目指すことになった。党指導部の選出も左派が圧倒的多数を占め、テールマンもこの際に政治局入りを果たした。党の指導権はフィッシャーとマズローによって握られるようになった。 続く数か月で左派指導部は中間派を解体し、ハレ=メクセブルク(ドイツ語版)やエルツ山地=フォークトラント(ドイツ語版)のような、なおも指導部に反抗していた地区を従わせることに成功した。 コミンテルン第5回大会(1924年6月17日‐1924年7月8日)ではドイツ共産党代表団は、一致団結して右派(特にラデック、ブランドラー、ツェトキン)を批判した。 ===左派指導部と極左派の対立=== しかしドイツはじめ西ヨーロッパはすでに戦後混乱期を抜けて安定期に入っており、もはや左派の持論たる世界革命の芽は無くなりつつあった。1924年10月になるとスターリンがトロツキーの世界革命論と袂を分かち、孤立したロシアにおける社会主義建設とその他の世界における資本主義の一時的安定が並存するという見解を有するようになった。それに伴ってコミンテルンやソ連外共産主義の役割も、世界革命ではなく、ロシアにおけるボルシェヴィキの支配を強化し、また世界におけるソ連の地位の確立に貢献することへと変化していった。 その立場から1925年3月から4月のコミンテルン執行委員会拡大総会は、ブランドラーとタールハイマーの除名を宣言すると同時にフィッシャー、マズローのグループに対して右旋回を受け入れるよう圧力をかけた。すなわち社民党系労働者と連携して社民党指導部と対決し、ソ連を包囲しようとする企図に対抗する統一戦線を構築しなければならないとする方針である。フィッシャーは権力を手放すまいとコミンテルンの再度の「統一戦線戦術」の方針に従ったが、ヴェルナー・ショーレムら「極左派」は反発し、左派指導部が分裂することになった。 このスターリンとコミンテルンの態度変化に直面して左派を支援していたジノヴィエフもついに「ドイツにおける資本主義の一時的安定」の事実を認め、「ドイツにおける第二の革命を準備する基盤にあくまで踏みとどまる」ことを要求するようになり、極左派を批判するようになった。 後ろ盾をなくした極左派は不利になり、1925年7月の党大会ではフィッシャー、マズロー、テールマンら左派指導部が極左派に対して勝利を収めた。そして党大会は「社会民主主義的反革命を打ち破ることは共産党の主要任務」「共産党が唯一の労働者政党としてプロレタリアートの指導権を獲得しなければならない」としながらも、社民党系組織が反ボルシェヴィキ扇動に反対するならば連携する用意があることを決議した。 ===フィッシャー失脚とテールマン体制の成立=== しかしスターリンはドイツ共産党左派に不信感を持っており、フィッシャーやマズローはその日和見主義にもかかわらず、依然として「左翼的」自信を有しており、党の右旋回を拒否するだろうと感じていた。そのため1925年7月の党大会で選出された左派指導部はその直後から「コミンテルンとの一致において欠けるところあり」と批判されるようになった。 コミンテルン執行委員会は1925年8月にもドイツ共産党員に宛てて「公開書簡」を出した。この書簡は、コミンテルン執行委員会に対するマズロー=フィッシャーグループの二心的態度によってドイツ共産党内に反モスクワ的・反レーニン主義的理論が出現していることを指摘したうえで、分派としての左派は解体して全ての見解をコミンテルン路線へ結集することを要求していた。このモスクワからの圧力により、フィッシャーとマズローは党内で孤立を深め、1925年秋には党指導部から追放された。 フィッシャーと手を切ってモスクワに絶対忠誠を誓ったテールマンやフィリップ・デンゲル(ドイツ語版)、オットーマル・ゲシュケ(ドイツ語版)、エルンスト・シュネラー(ドイツ語版)ら親コミンテルン左派が代わって指導部を掌握することになった。とりわけテールマンによって党は指導されていくことになった。テールマン指導部はドイツにおけるスターリン派となっていく一方、フィッシャーやマズローらはジノヴィエフと通じた左翼反対派を形成するようになった。 テールマン体制下での最初の新コースは、ブランドラーとフィッシャーの「左右の行き過ぎ」を避けて中間的な路線を取るものであり、この路線は1928年から1929年頃に極左路線に転換するまで維持されることになった。これはトロツキーとジノヴィエフに対する闘争でニコライ・ブハーリンら右派の協力を得ながらも左派回帰の可能性も閉ざしていなかったスターリンの方針に並行するものだった。 統一戦線戦術に立ち返った共産党は、1925年末に旧王侯財産無償没収(ドイツ語版)を国民請願で立法化することを社民党に呼びかけた。社民党支持層の間でも旧王侯への反感が強まっていた時期だったため、社民党は「それぞれ独自に活動する」という条件で共産党の提案に合意せざるをえなかった。1926年3月の国民請願の結果、1200万票の賛成票を得て国会に提出されることになったが、6月に国会で拒否されたため、国民決定に付されることになり、その投票で1560万票の賛成票を得たが、有権者過半数に達しなかったため失敗に終わった。この運動の最中、共産党は全国農村同盟(ドイツ語版)の財産没収反対運動に対抗しようと街宣活動を地方に拡大させたため、農村地域に反共主義が拡大した。 ===党内派閥抗争激化=== 1926年と1927年に共産党内の派閥抗争が激化した。これらは1928年から1929年のスターリン主義化の時期に諸分派が党から締め出されてスターリン主義による一元支配が確立されるに及んで収束に向かうことになるが、それまで共産党内には以下のような派閥が存在した。 右派 ‐ ブランドラー、タールハイマー、フレーリヒらを中心とする「統一戦線戦術」を重視する派閥で1923年まで党指導部を掌握した。1924年以降党機関から締め出されて弱体化。1928年から1929年にほとんど全部の右派が党から追放された。彼らは追放後共産党反対派(ドイツ語版)(KPD‐O)として結集した。調停派 ‐ 右派と左派のどちらにも与さないエルンスト・マイヤーに率いられた中間派の派閥。エーベルラインやアーサー・エーヴェルト(ドイツ語版)、ゲアハルト・アイスラー(ドイツ語版)らが属した。1924年から1925年までフィッシャー指導部に反対し、1926年から1928年まではテールマンら親コミンテルン左派と連携して党指導部を占めたが、調停派はブハーリンと結んでいたため、1928年から1929年にかけて党から追放され、1930年のマイヤーの死後、指導部に降伏した(一部は共産党内で非公然活動を継続)左派 ‐ 1924年にフィッシャー、マズロー、テールマン、ショーレムらを中心としてブランドラー反対派として生まれた派閥。1924年から1925年にかけて党指導部を掌握したが、1925年春にショーレムら極左派が分離し、さらに同年秋に親コミンテルン左派(テールマン、デンゲル、ゲシュケ、シュネラー)と新しい左翼反対派(フィッシャー、マズロー、パウル・シュレヒト(ドイツ語版)ら)に分裂。左翼反対派をレーニン同盟(ドイツ語版)として結集しようとした企図は失敗し、同派は一分派として存続した。極左派 ‐ ショーレム、イヴァン・カッツ(ドイツ語版)、アルトゥル・ローゼンベルクらを中心として1925年に左派から分裂してできた派閥。さらに様々な意見の派閥に分裂し、党から締め出されていき、1928年までには影響力を喪失した。1929年以降は党自体が極左コースを取るようになったのでその存在意義を無くした。党機関員 ‐ 専従党職員は特定の傾向に同調せず、その時々の支配的分派に従った。特に「スペシャリスト」(国会議員、地方議員、宣伝部員、農業スペシャリストなど)は各種の分派活動に巻き込まれないよう注意を払う者が多かった。重要ポストにありながら、舞台裏でのみ活動した党幹部ヴァルター・ウルブリヒト、フランツ・ダーレム(ドイツ語版)らが該当する。この「スペシャリスト」が親コミンテルン左派と結びつくことによって党のスターリン主義化が促進された。「公開書簡」後の指導部は、テールマン、デンゲル、ゲシュケ、シュネラーら親コミンテルン左派によって支配されたが、1926年末には調停派のマイヤーが加わり、1927年時点では党最高首脳部である政治書記局は、テールマン、デンゲル、マイヤー、エーヴェルトによって構成されていた(翌1928年にはテールマン、デンゲル、シュネラー、エーヴェルトになっている)。 つまり1926年から1928年の共産党の指導部は親コミンテルン左派と調停派による連立体制であり、左派反対派と極左反対派を党から締め出そうとするものだった。それゆえにこの時期の党は反左派的な現実政策を追求することになり、国会選挙や労働運動において党の強化が図れた面もある。 ===テールマン個人独裁のスターリン主義政党へ=== しかし1928年になるとコミンテルンはスターリンの指示で再び左旋回した。これは1926年のイギリスのゼネスト(英語版)が失敗に終わったり、1927年に中華民国で国共合作を結んでいた蒋介石が反共に転じて中国共産党弾圧を開始するなど、国際的に「統一戦線戦術」の破綻が続いていることもあったが、それ以上にソ連の国内事情があった。すなわちトロツキーやジノヴィエフ、カーメネフなど左派の政敵を片付けたスターリンが、ブハーリンら右派の政敵の排撃を開始し、ネップの中止、五カ年計画の開始という左派コースを取り始めたことである。ブハーリンはジノヴィエフ解任後にコミンテルンの第一人者となっていたため、その排撃の影響はすぐにコミンテルンとその支部(各国の共産党)に波及した。 1928年2月のコミンテルン執行委員会拡大総会でドイツ共産党とソ連共産党の間に秘密協定が結ばれ、その中で「右派共産主義者は主敵である」と宣告された。左旋回が公然化したのは1928年7月から8月にかけての第6回コミンテルン世界大会だった。資本主義の安定期は終わり、遠からず資本主義体制は危機に陥り、世界中で革命が起きるとしたうえで、資本主義体制を延命させる社会民主主義こそが最大の主敵と定める方針が採択された。 これ以降右派と調停派は計画的にポストから追放されていった。追いつめられた右派と調停派はテールマンに近いハンブルク地区党書記・中央委員ヨーン・ウィトルフ(ドイツ語版)が党の公金を横領し、テールマンがそれをもみ消した事件を中央委員会で取り上げることで反撃に打って出た。1928年9月25日と26日の中央委員会は調停派エーベルラインや右派エーリヒ・ハウゼン(ドイツ語版)らの主導でテールマンに有罪判決を下し、テールマンの職務の停止を決議した。 しかしここでスターリンが介入し、テールマンを失脚させてはならぬとの指令がレンメレを通じてドイツ共産党に下され、10月6日にはコミンテルン執行委員会幹部会もテールマン復権を決議している。中央委員の大多数は、このモスクワからの圧力に怯え、テールマンの職務停止を解除するとともに「右派と調停派はハンブルク事件を利用した」とする決議を出した。スターリンとテールマンは間髪入れず右派と調停派に対して殲滅的攻撃を開始し、右派と調停派はことごとく中央委員会から叩き出され、テールマン、レンメレ、ハインツ・ノイマン(ドイツ語版)の「三頭政治」が党を引き継いだ。 1928年から1929年にかけて粛清が吹き荒れ右派全員(ブランドラー、タールハイマー、フレーリヒ、ヤコブ・ワルヒャー(ドイツ語版)、ハンス・ティテル(ドイツ語版)、ハウゼンら)が党から除名され、調停派も解任された。これ以降もはやいかなる反対派も党内に存在することは許されなくなり、1929年6月の党大会までには党のスターリン主義化を完成させた。組織された反対派が消されたことにより、党内抗争はなくなり、指導部の方針への逸脱は個々の除名、処分によって阻止されるようになった。ここにドイツ共産党はソ連共産党のスターリン体制をそのまま移植したテールマンの独裁政党となったのだった。 またソ連で盛んになりつつあったスターリン個人崇拝に倣ったテールマン個人崇拝も進んだ。この点において共産党は国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP,ナチス)の総統アドルフ・ヒトラーにライバル意識を燃やしていた。ヒトラーに対してテールマンを「プロレタリアートの総統」として対抗させることができるし、させなければならぬと考えていた。 1932年中にはテールマンと指導部を形成してきたノイマンとレンメレも指導部から遠ざけられ、テールマン独裁はますます強まった。 ===「社会ファシズム論」とナチスとの共闘=== コミンテルンは、1924年のコミンテルン第5回世界大会以来、ファシズムと社会民主主義を同一視する「社会ファシズム論」をとっていたが、1928年のコミンテルン第6回世界大会では、より踏み込んで「(ファシズムより)社会民主主義こそが主要な敵」とする極左戦術を採択した。このコミンテルンの極左戦術以降、共産党の過激化は強まり、とりわけ党の実力組織である赤色戦線戦士同盟(RFB)は、ナチスの突撃隊(SA)や社民党の国旗団との武力衝突を頻繁に起こすようになった。 1929年5月1日から4日にかけてベルリンで、社民党政権(ヘルマン・ミュラー内閣)内相カール・ゼーフェリンクとベルリン警察長官カール・ツェルギーベル(ドイツ語版)が禁止していた共産党のデモが非合法デモとして強行されたが、警察の挑発的発砲などにより暴動に発展し、31名死亡、数百人負傷、1200人逮捕という惨事になった(血のメーデー事件)。この事件を巡る批判合戦や赤色戦線戦士同盟非合法化などで社共対立は絶頂に達し、共産党は「社会ファシズム論」にますます傾斜した。 共産党は、ナチ党と社民党を同類としながらも主敵は権力を握る社民党に定めていた。ナチ党については、共産党がその気になればいつでも腕づくで始末できる小物に過ぎないと見下しており、彼らへの対策は「ファシストは、出会いしだい殴り倒せ!」という街頭闘争スローガンだけで十分と判断されていた。 のみならず、共産党は社民党に対する闘争の範囲内においては、ナチ党との共闘も厭わなかった。1931年夏には所謂「国民反対派」(ナチ党、国家人民党、鉄兜団など)がプロイセン州の社民党政権の打倒を狙ってプロイセン州議会解散を求める国民請願を開始したが、共産党も彼らと統一戦線を張って請願運動に参加している。 さらに1932年1月にはコミンテルンから派遣されたスターリンの側近ドミトリー・マヌイルスキーが「ナチスは社会民主党の組織を破壊するがゆえにプロレタリア独裁の先駆である」と述べ、これを受けてドイツ共産党のレンメレは「ナチスの政権掌握は必至であり、その時共産党は静観するであろう」と述べている。 ===党の民族主義化=== 1930年春以降、共産党はナチ党の分析を本格的に開始し、ナチ党の躍進の背景と見なした中間層の票の獲得を重視する路線を顕著に追求するようになった。 そのためこの頃から共産党の声明にはナチス張りの民族主義的デマゴギーが強まった。1930年8月24日に党中央委員会で採択された「ドイツ人民の民族的・社会的解放のための綱領宣言」では「我々は強盗的なヴェルサイユ『条約』並びにドイツを奴隷化しているヤング案を粉砕し、全ての対外債務ならびに賠償金支払いを拒否する」と嘯いていた。1931年1月からは「国民革命」というスローガンを定められた。「プロレタリア革命」と同義と説明しながらも、労働者階級を超えて中産階級を取り込もうというスローガンであることは明白だった。さらに1931年5月には「国民革命は勤労農民にも解放をもたらすであろう」と謡う農民救済綱領を定め、保守層が多い農民もターゲットにするようになった。 こうした党の民族主義化を熱心に推進したのは、とりわけノイマンだったといわれる。彼は中間層の票をナチ党から奪取するためには、民族主義化が必要だと考えていた。彼はナチ党の宣伝全国指導者ヨーゼフ・ゲッベルスの集会に潜り込んで「青年社会主義者諸君!民族のための勇敢な戦士諸君!共産主義者は国家社会主義者との骨肉相食む闘争を欲しない!」という演説すらしたと言われる。 ===革命的労働組合反対派=== 共産党が社民党に対する闘争と並行して行ったのが、社民党系労組ドイツ労働組合総同盟(ドイツ語版)(ADGB)に対する闘争である。当初共産党がADGBに対してできた闘争は「下だけの統一戦線」、つまり改良主義的な組合指導部を「無視」することだけだったが、社民党と共産党では組合内での力に差がありすぎて、実際には無視することすら満足にできていなかった。 しかし1929年から1930年にかけて共産党の反社民党機運が高まったことでADGBへの反対派を糾合して共産党系の労働組合を作ろうという試みが盛んにおこなわれるようになり、革命的労働組合反対派(ドイツ語版)(RGO)が結成された。そのため1931年8月から9月のADGB第11回大会から共産党の代議員は一人もいなくなった。 しかし結局のところRGOは、ADGBの協力無くしては大規模なストライキは覚束ないレベルでしかなかった。1932年段階でADGB系労働組合が353万人を擁していたのに対して、RGO系労働組合の方は精々25万人程度であり、しかも1932年中には頭打ちになっていた。 RGOは、1930年のマンスフェルトやベルリン金属工ストなど大規模ストライキの際にはスト全体を共産党の意図する方向へ誘導しようとADGB系労働組合に先んじてストに突入するのが常だったが、ADGB系労組がストの指導を開始するとほとんどの労働者がADGB系労組のストライキ事務所に登録した。これはストライキ期間中の生活保障やストライキ終了後の職場復帰のためには、正規の交渉団体であるADGB系労組のストライキ・カードが必要だったからであり、交渉資格を認められていないRGOのストライキカードでは何の効力もなかった。また財政が貧弱なRGOではスト中の生活保障も現金で渡すことができなかった。それゆえにRGOは単独でのストはほとんどできなかった。 共産党はストライキについて「大きなストの波と大衆的ストとをゼネストにまで喚起しかつ組織するとともに最終的に勝利を導くことに成功した時のみ意味を持つ」と繰り返し言明していたが、RGO単独ではせいぜいのところ地方的ストを呼び起こせたにすぎず、それも大半は失敗に終わっている。1932年7月にパーペン内閣が成立した時や1933年1月にヒトラー内閣が成立した時に共産党がゼネストを呼びかけた時もそれは何の反響も呼び起こさなかった。 ===ノイマンとレンメレの失脚=== 1932年初頭には最高指導部(テールマン、ノイマン、レンメレ)の仲が険悪になっていた。そのためテールマンはノイマンの影響力が強い党中央委員会書記局を全く無視するようになり、秘書ヴェルナー・ヒルシュ(ドイツ語版)をはじめとする取り巻きたちの中に第二の書記局のようなものを作り、そこからノイマンやレンメレに対して陰謀を仕掛けるようになったという。 3月13日の大統領選挙第一次投票でテールマンが惨敗した。これについて3月14日の書記局会議でノイマンが間接的にだがテールマンに批判的な総括文を提起したことで、テールマンとノイマンの対立が絶頂に達した。しかし4月10日の段階ではすでにノイマンとレンメレは解任されていたようである。2人によれば書記局の決議も議論もなしにテールマンの一存だけで役職を取り上げられたという。 5月14日にはこの対立についてコミンテルン執行委員会の政治委員会協議がもたれ、17日に「最近の党最高指導部におけるレンメレとノイマン両同志の挙動は、断固として処罰される。というのもその挙動によって最高指導部の破壊の危険性を作り出し、党指導部の行動を麻簿させたからである。ノイマン同志は6ヶ月の期間 KPD以外の国際的活動に従事する。レンメレ同志は、テールマン同志との緊密に共同して積極的に党の最高指導部の中で活動しなければならない」とする決定が下された。この際に人事も決定されたが、ノイマン・グループを中枢部から遠ざけ、テールマンの取り巻きたちを重用する物だった。 この決定にはスターリン自らが関与したといわれる。ノイマンは1927年12月に広東コミューン創設のために派遣されるなどスターリンの信任の厚い人物だったものの、スターリンにとってはテールマンの方が優先だったようである。歴史家クラウス・キンナー(ドイツ語版)によれば「スターリンは、若く勤勉で野心をもったノイマンよりもテールマンの方を、ソ連邦以外で最も重要なセクションにあって容易に自分が影響力を行使できる指導者だと見なしていた」という。 ===世界恐慌と共産党の台頭=== 1929年に勃発した世界恐慌による不況が深刻化する中で、ドイツではヴァイマル共和政への失望が高まり、共産党は、下層階級を支持基盤に急速に勢力を拡大させ、世界でも有数の共産主義政党に成長した。共産党の宣伝手法、特に壁を埋め尽くすポスターなどのインパクトや整然とした行進を行う赤色戦線戦士同盟など視覚的なプロパガンダには優れたものがあり、後の国民啓蒙・宣伝大臣であるナチ党宣伝全国指導者ヨーゼフ・ゲッベルスが賞賛したり、社民党の国旗団と並んでナチス(突撃隊など)が真似したくらいであった。 1930年9月14日の国会選挙では、共産党は社民党支持層の票を吸って得票を133万票増加させて13.1%の得票率を得て77議席(総議席577議席)を獲得し、社民党とナチ党に次ぐ第3党となった。1932年7月31日の国会選挙では得票率14.3%へ増やし、89議席(総議席608議席)を獲得、同年11月6日の国会選挙でも得票率16.8%に増やし、100議席(総議席584議席)を獲得し、ナチ党と社民党に次ぐ第3党の地位を維持し続けた。とりわけナチ党も社民党も得票を減らして共産党だけが得票を伸ばした1932年11月6日の選挙は首都ベルリンで投票総数の31%を獲得して単独第一党となったこともあって共産党を有頂天にさせ、党はこの成功を過大評価した。 一方1932年3月13日と4月10日の大統領選挙は芳しくなかった。この大統領選挙に共産党からはテールマンが出馬し、「ヒンデンブルクを選ぶ者はヒトラーを選ぶ。ヒトラーを選ぶ者は戦争を選ぶ」をスローガンにした選挙戦を展開したものの、惨敗に終わった。またテールマンの得票は一次投票より二次投票の方が少なかったため、一次投票でテールマンに投票した者のうち一定数が二次投票ではヒトラーに投票したと見られている。 ===ナチ党政権下=== ====禁止と地下組織化==== 1933年1月30日にナチ党党首アドルフ・ヒトラーがパウル・フォン・ヒンデンブルク大統領から首相に任命された。2月1日に国会が解散されて選挙戦へ突入したが、2月4日には野党の行動を制限する「ドイツ国民保護のための大統領緊急令(ドイツ語版)」が発令され、2月初めには共産党は機関紙・集会の禁止、党地方局への捜査と押収、党職員の逮捕などで全く防衛的な立場に追いやられた。 さらに選挙期間中の2月27日に国会議事堂放火事件が発生し、オランダ共産党員マリヌス・ファン・デア・ルッベが犯人として逮捕されると、プロイセン内相ヘルマン・ゲーリングは国際共産主義運動全体の陰謀と見做し、2月28日に事実上の戒厳令「国民及び国家保護のための大統領緊急令(ドイツ語版)」が制定された。この大統領緊急令により共産党員は「保護拘禁」(Schutzhaft)されることになり、同日中に共産党員4000人が逮捕、共産党の機能はほぼ完全に停止した。 追いつめられた共産党は「ファシストの攻撃に対抗する行動の統一戦線」を求めたが、共産党は依然としてコミンテルン方針である「社会ファシズム論」の縛りを受けていたので共闘を求めながら罵倒を止めない矛盾した態度を取り、社民党から拒絶された。テールマンは国会議事堂放火事件直後の3月3日にベルリンの自宅で逮捕され、11年間裁判抜きで拘束された後、ブーヘンヴァルト強制収容所で1944年8月17日に処刑された。3月5日の選挙の結果、共産党は81議席を獲得したが、直後の3月9日に共産党の国会議員が議席ごと抹消されたため、総議席が減少してナチ党が単独過半数を獲得した。 3月23日に全権委任法が成立した後、共産党は3月31日に制定された『ラントとライヒの均制化に関する暫定法律』によって結社禁止となり、国会・地方全ての議席を剥奪された。 地下に潜った共産党はテールマンに代わってヨーン・シェール(ドイツ語版)によって指導されるようになったが、シェールは1934年2月1日に警察に発見されて逮捕され、逃亡を図ったところを射殺されている。 共産党は地下組織になっても依然としてコミンテルンの「社会ファシズム論」の縛りを受けていたので、1933年5月には「国家機関から社会ファシストが完全に締め出され、また社民党系の組織や新聞に野蛮な弾圧が加えられているからと言って、それらが資本独裁の社会的支柱であるという事実はなんら変わるものではない」と声明。また「現在のヒトラー時代は社民党が支配したヴァイマル共和国時代、あるいはブリューニング時代(1930年以降の大統領内閣(ドイツ語版)時代)と比べてどれほどの差があるというのか」という議論にふけっていた。 しかし1935年7月のコミンテルン第7回世界大会で「社会ファシズム論」が破棄され、「反ファシズム統一戦線戦術」が採択されたのに伴い、10月にブリュッセルで開かれた党大会ではこれまでの「社会ファシズム論」に基づく党活動を批判的に再検討し、「ヒトラー独裁政権打倒の全勤労者の共同闘争への新しい道」として「人民戦線」戦術を採択した。 1936年には地下組織共産党の最後の指導者ヴィルヘルム・ファール(ドイツ語版)が逮捕され、人民法廷にかけられて死刑判決を受け、1937年に刑死している。 ===強制収容所内の共産党員=== 保護拘禁された共産党員たちはナチス強制収容所へ収監され、収容所内では政治犯を示す「赤」のバッジを着けた。収容所内では共産党員は囚人役職を務めていることが多かった。収容所の管理者たる親衛隊(SS)が共産主義者の「規律、団結、勇気、冷酷さ」による秩序維持能力を高く買っていたためといわれる。事実「緑」(刑事犯)に囚人役職を任せた収容所より「赤」に囚人役職を任せた収容所の方が秩序だった自主管理が行われていたといわれる。ただし「赤」を囚人役職に据えると自分たちの政治的同志ばかり贔屓する不公正な運営を行うことが多かったという。共産党員が囚人役職に登用されやすかったのは、彼らが収容所内のグループの中で最も組織だっていたためでもある。「囚人の中の結束力の強いグループは、収容所内のインフォーマルな組織を掌握することによって、ゲシュタポをひそかに操作することができた」といわれており、囚人職を巡る権力維持闘争においてライバルとなる者を組織的に排除するのが一番容易な立場だった。 共産党員によって囚人職が独占された収容所の代表格がブーヘンヴァルト強制収容所である。フランスでレジスタンス活動をしてゲシュタポに逮捕されたイギリス空軍将校ヨウ・トーマスはブーヘンヴァルトに収容された際に他の囚人から最初に注意されたのは「この収容所内で権力を握っている共産主義者たちは将校や資本家を好まぬから前歴を隠すように」だったことを回想している。囚人役職に就いた共産党員たちの中には他の囚人たちの死に深く関与した者たちが多い。親衛隊から実質的に死を意味する人選を命じられた時も彼らは冷徹に自分たちの同志以外の者を指定人数選別しては親衛隊に引き渡した。またPアルクールは「彼ら(囚人役職に就く共産党員)のヘゲモニーに抵抗する手の負えない犯罪者や政治的敵対者が病棟に近づくと、不思議なことに病気にかかり、そして死んだものだった」と回想している。 ===ソ連亡命者=== 党員の中にはソ連に亡命した者も多いが、彼らの多くは1937年頃から始まったヨシフ・スターリンの大粛清で処刑されている。レンメレ、ノイマン、エーベルライン、ハンス・キッペンベルガー(ドイツ語版)、ヘルマン・シューベルト(ドイツ語版)、ヴィリー・レオヴ(ドイツ語版)等が処刑され、生き残れたのは徹底してスターリンに追従したウルブリヒト、ピークなど極少数だけだった。 1939年8月に独ソ不可侵条約が締結されるとスターリンに追従する形でウルブリヒトが党を代表してヒトラーを高く評価する声明を出すに至った。その翌月の第二次世界大戦開戦の際もソ連政府はヒトラーを支持して英仏帝国主義を批判したため、亡命共産党員も同様の立場を取った。以降1941年6月の独ソ戦開始まで亡命共産党員たちはスターリンの怒りを買って処刑されるのを恐れて反ヒトラー・反ナチス言動を慎んだ。 独ソ戦が開始されるやソ連政府は一転して反ファシズム、反ドイツキャンペーンを開始したため、亡命共産党員たちも反ナチス運動を再開することになった。1935年以来の「反ファシズム統一戦線戦術」に基づき、非共産党系左翼に対する攻撃を和らげて活動を行った。1943年5月には西側連合国や非共産党系反ナチスグループの不信感を取り除くためにコミンテルンが解散された。その翌月にはモスクワ近くで亡命ドイツ共産党員や捕虜になったドイツ軍将校・兵士を中核とする「自由ドイツ国民委員会」が結成された。スターリンはできる限り多くのドイツ軍将兵をこの委員会に統合しようとしていたため委員会から社会主義色を徹底的に排除させた。委員会の旗として帝政時代の黒白赤の国旗を使用させたほどだった。 ===戦後=== ====ソ連占領地域・東ドイツ==== ドイツ降伏前夜の1945年4月30日、スターリンはウルブリヒトを隊長とする10人のドイツ共産党員グループをソ連占領下ベルリンへ送り込み、戦後の共産党独裁政権の地盤を固めるための政治工作を開始させた。ついでザクセンやメクレンブルクにもドイツ共産党員のグループが送り込まれた。彼らは全員ソ連に亡命して大粛清を生き延びたドイツ共産党員であり、スターリンの忠実な僕としてソ連占領当局の政策の遂行にあたった。3つのグループの中でも特にベルリンのウルブリヒト・グループが主要な役割を果たした。ウルブリヒトはベルリン行政機関の再建の方針について「表面は民主的に見せかけなければならないが、実際には共産党が全ての指導権を手に入れねばならない」と述べたという。 ドイツはアメリカ、イギリス、フランスの西側3か国の占領地域とソ連の占領地域に分断されたが、ソ連占領地域では他の占領地域よりも早い1945年6月に「反ファシズム諸政党と労働組合」の結成を認める布告が出された(ドイツ分断を予期したソ連が統一維持を役割を担う政党と労働組合の創設を急いだという事情が働いていた)。 真っ先に再建されたのはドイツ共産党だったが、その結党宣言はソフトでオブラートに包んだものだった。新生ドイツはソ連の体制を導入せず、反ファシズム民主政府の下に国家の再建を行い、幅広い国民戦線を結成すること、私企業の経済活動を奨励することを謳っていた。「社会主義」という用語の使用も一切避け、あたかもヴァイマール共和国の再建を目指しているかのような内容になっていた。この結党宣言は6月初めに帰国したピークがソ連から持参したものと言われる。スターリンはソ連占領地域だけでなく全ドイツに共産党の影響力を拡大させるためには共産党に民主政党を装わせる必要があることを認めていたし、この段階ではまだ西側3か国と完全な決裂・対立には至っていなかったので西側への一定の配慮が必要だったことがその背景にあると思われる。 共産党に遅れてドイツ社民党が創設され、ついでブルジョワ政党としてキリスト教民主同盟(CDU)とドイツ自由民主党(LDPD)の創設も許可されたが、1945年7月にこの4党はソ連の庇護下で「反ファッショ民主主義政党統一戦線」というブロックを結成させられ、西側諸国におけるような意味での野党の結成は許されなかった。またソ連占領当局は共産党を積極的に支援したため、ブロックの中でも共産党の権力ばかりが高まっていった。共産党が権力を増大させるにつれて下からの民衆運動は厳しく弾圧されるようになっていった。 ソ連占領下初期の頃、社共統一に熱心だったのはむしろ社民党の方であり、共産党のウルブリヒトは社共統一を拒否して「下からの社共統一運動」(各地で社共の地方組織が自発的に共同組織を作っていた)を徹底的に弾圧していた。これは共産党の勢力が小さいまま社民党と合同すれば共産党に不利になると考えたスターリンが「下からの統一運動は排除して、まず共産党の組織を固めよ」という指示をウルブリヒトに与えたためである。 1945年11月に四か国管理下のオーストリアにおいて選挙が行われたが、オーストリア国民党が85議席、オーストリア社会党が76議席獲得したのに対し、オーストリア共産党はわずか4議席しか取れなかった。衝撃を受けたソ連共産党はこれ以降ドイツにおける社共統一を急ぐようになった。この頃までには共産党はソ連占領当局の庇護を受けて巨大化しており、1945年末の時点で共産党の党員数は社民党と並ぶ37万人に達していた。いつでも社民党を併呑できるだけの実力を備えていた。 モスクワの指示を受けた共産党は社民党との合同に向けたキャンペーンを開始した。社民党党首オットー・グローテヴォールが「ロシアの銃剣で突っつかれている」と嘆いたように、それは実質的には強制合併の圧力に他ならなかった。数か月にわたるソ連の占領統治を受けて社民党も共産党独裁体制への危機感を強めていた。印刷物でも集会でも社民党は共産党に比べて著しい制限を受けていた。だが結局社民党は自分たちの方が最初に掲げた社共統一の旗を降ろすことはできなかった。 1946年4月に60万人の共産党は68万人の社民党を強制合併し、ドイツ社会主義統一党(SED)と改名した。合同時の党員数は130万人を数えた。しかしこれは西側の反発を招き、東西分裂を促進する結果となった。 社会主義統一党結党の際には社共同権が謡われたが、冷戦が深まってくる中の1948年頃から社会主義統一党はソ連共産党を模範とした「幹部政党」への転換と社会民主主義者の排除を押し進めるようになった。1949年には社共同権原則が正式に破棄され、旧社民党員の粛清が吹き荒れた。やがて粛清の嵐は旧社民党員だけではなく旧共産党員にも広がっていった。この時期の粛清の激しさは1948年から1952年にかけて党員数が80万人減少していることからもうかがえる。党を追放された者の多くは監獄やソ連の強制収容所へ送られていった。 粛清はソ連占領地域だけにとどまらず、西側占領地域の住民にも及んだ。西ドイツ人400人以上がソ連秘密警察や東ドイツ人によって拉致された。その一人は西側共産党の副党首でドイツ連邦議会議員のクルト・ミュラー(ドイツ語版)だった。彼は1950年3月に東ベルリンに拉致され、ソ連の軍法会議にかけられて25年の強制労働刑に処されている。 1949年9月のドイツ連邦共和国(西ドイツ)建国宣言に対抗し、10月7日にドイツ民主共和国(東ドイツ)の建国宣言が行われた。以降社会主義統一党は1989年の東欧革命で打倒されるまで同国において民主集中制とヘゲモニー政党制による独裁体制を敷くことになる。 ===西側占領地域・西ドイツ=== 西側占領地域でも、比較的早い時期に共産党が再建されたが、1946年春にソ連占領地域でドイツ社会主義統一党が結成されると「ロシアの政党」と認識されて急速に支持を失い、孤立していった。西側社民党の指導者クルト・シューマッハーもヴァイマル共和政崩壊の経験から共産党との連帯は断固拒否した。 西ドイツ成立直後の1949年8月の連邦議会選挙で5.7%の得票と15議席を得たが、違憲裁判中の1953年9月の連邦議会選挙では2.2%の得票しか得られず、5%条項に引っかかって議席を獲得できなかった。 1949年5月に制定されたボン基本法の21条2項は「政党の内部秩序は、民主的原則に適合していなければならない」「政党で、その目的または党員の行為が自由な民主的基本秩序を侵害もしくは除去し、またはドイツ連邦共和国の存立を危うくすることを目指す物は違憲である。違憲の問題については、連邦憲法裁判所がこれを決定する」と定めており(戦う民主主義)、1951年11月にコンラート・アデナウアー首相率いる西ドイツ政府は共産党は違憲であるとして連邦憲法裁判所に提訴し、同党の禁止を求めた。裁判は4年10か月の長期に及んだが、1956年8月の判決で西ドイツ政府の主張が認められ、共産党は禁止処分を受けた。判決文の中で連邦憲法裁判所は「自由の敵には無制限の自由は認めない」と述べている。解散年には共産党は7万人の党員を擁していた。 ボン基本法下で禁止された政党は共産党が2例目であり、最初に禁止された政党は共産党と協力関係にあったネオナチのドイツ社会主義帝国党(SRP)だった(1952年10月に禁止)。 ===後継政党=== 前述のとおり、東ドイツにおいては、社会主義統一党(SED)が後継政党である。 西ドイツ及び現在の統一ドイツでは、ドイツ共産党(KPD)が禁止された後の1968年に結党した合法政党ドイツ共産党(Deutsche Kommunistische Partei, 略称:DKP)(党名の「ドイツ」の位置が異なる)が一応後継政党と言える。しかしこの党は連邦選挙でほとんど票を取れず、国政レベルで議席を獲得したことはない。また連邦憲法擁護庁から左翼過激派・反憲法的組織として監視対象になっている。 ドイツ再統一後は、社会主義統一党はスターリン主義を全面的に放棄し民主社会党(PDS)に改組し、多くの西ドイツDKP党員も合流した(DKP自体も残存)。その後、社民党の党内左派が離党して結成した「WASG(労働と社会的公正のための選挙オルタナティブ)」と合併して左翼党 (Die Linke) を構成している。旧東ドイツの選挙区では第二党としての地位を占めることもあり、また旧西ドイツ地域では左翼党となって以降、州議会選挙で議席の獲得に必要な5%以上の得票を得る例も出ている。2005年の連邦議会選挙以降、阻止条項を突破して、連邦議会に議席を得ている。また、欧州議会選挙でも議席を獲得、州議会選挙でも北部を中心に多くの州で議席を獲得し、他党と互角に戦っている。しかし同党も、一部の党内グループが極左として連邦憲法擁護庁の監視対象となっている。 この他、1990年には東ベルリンでかつてのKPDと全く同名のドイツ共産党(ドイツ語版) (Kommunistische Partei Deutschlands) が設立されているが、州議会や連邦議会選挙で議席を獲得したことは一度もない。極めて小さな組織だが、エーリッヒ・ホーネッカーSED書記長・東ドイツ国家評議会議長の夫人マルゴット・ホーネッカー元国民教育相が生前に名誉党員として所属し、極左過激派としてブランデンブルク憲法擁護庁(ドイツ語版)の監視対象になっている。 なお、かつてドイツ共産党の本部だった建物カール・リープクネヒト・ハウス(ドイツ語版)は現在左翼党が使用している。 ==党の思想== オシップ・フレヒトハイム(ドイツ語版)は、ほぼ1925年以来固められた共産党の共産主義的信条の本質的教義を以下のとおりに要約している。 全ての歴史は階級闘争の歴史である。現在は資本家とプロレタリアートが不倶戴天の敵として対立している。独占資本主義と帝国主義の時代においては、階級闘争が革命と内乱とになるのは不可避である。国家は常に階級国家である。民主主義的共和国もまた資本主義独裁の一形態に過ぎない。社会主義の樹立はブルジョワ的国家機構の破壊を前提とする。プロレタリア国家は革命的暴力によってのみ作り出すことが可能である。プロレタリア独裁は共産党に指導された全体的国家において体現され、ブルジョワ民主主義より高次の民主主義の形態である。共産党は唯一の、真にプロレタリア的、社会主義的およびマルクス主義的政党である。人類の最も進歩的な階級の前衛として、共産党はプロレタリア的階級意識の唯一の担い手である。最高の認識は党の最高首脳に集中しており、党の最高首脳もしくは党指導部はそれゆえに誤りを犯すことはない。真に社会主義の最も本質的な標識は、共産党によって統治されている国家における生産手段の国有化である。共産党指導部は、搾取の消滅と階級なき社会への発展を保証する。ソ連は唯一の社会主義者社会である。同国は長期短期にわたって結託している世界資本主義による脅威を常に受けている。世界の労働者階級を「全勤労大衆の社会主義的祖国」の防衛のために動員することは、あらゆる国々の共産主義者の任務である。資本主義と社会主義との間の闘争は、来たるべき数年ないし数十年の間に世界的規模において決定される。歴史の不変の法則にしたがい、一連の流血の内乱、革命、蜂起および国際戦争の中で帝国主義的ブルジョワジーの支配は地球全土において打倒され、共産党の支配により解体される。この過程の終局においてソヴィエト・ロシアが社会主義的世界レーテ(ソヴィエト)共和国へ転化するであろうということは極めて明白である。 ==党の分析・評価== 共産党は「唯一の労働者党」を自称し、労働者階級の多数派を自党の下に置くことを目指した。しかし労働者階級の多数の獲得を目標を掲げていること自体、共産党が労働者の少数派しか獲得できていないことを示している。またヴァイマル共和政末期についていえば共産党の党員の大多数は失業者であって、経営に属する労働者はわずかしかいなかった(詳しくは後述)。 選挙結果で見ると共産党に投票した層は明らかに労働者階級の範囲を超えている。ナチスほどではないにせよ、共産党にも包括政党の面があった事は否定できない。1932年にジグムント・ノイマンは、共産党の性質についてその独裁体質と階級を超えた不満層の包括政党になっている面から、ナチ党とともに「絶対主義的統合政党」に分類する分析を行った。 フレヒトハイムは、ドイツ共産党は他国の共産党と違ってロシア10月革命の直接の影響から生まれたわけではなく、戦争で生じたドイツの国内状況から独自に誕生したため、モスクワから独立した立場を取りうる余地があったことを指摘したうえで「結党直後のカール・リープクネヒト、ローザ・ルクセンブルク、レオ・ヨギヘスの非業の死はその後のドイツ共産党の発展の方向を決定的に変えてしまった。彼ら ―特にローザ・ルクセンブルク― の死が避けられたのならば、その後のドイツ共産党は一方ではコミンテルンに隷従する党にはならなかっただろうし、他方ではルクセンブルク主義の発展の基礎としてプロレタリア大衆の自発性を重んじつつ、ヴァイマル体制内で自主的かつ現実的な政策を打ち出していただろう」としてローザ・ルクセンブルクの死を惜しんでいる。 ==他党との関係== 共産党は自党以外の全ての政治勢力を攻撃した。1930年には「共産党を唯一の例外として、ドイツの全ての政党はドイツ、プロイセン、テューリンゲンその他の諸州において連立政策を追求している。よって共産党以外の全ての党は連立の党、政府の党、閣僚の党である。我々共産主義者のみが、ブルジョワジーとのあらゆる共同に反対し、現在の資本主義的社会秩序の革命による打倒、支配階級の全ての権利と特権の廃止、あらゆる搾取の廃絶に賛成である」という声明を出している。とりわけドイツ社会民主党(SPD)や国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP,ナチス)とは労働者階級の利益をめぐって激しい競合関係にあった。この3党の対立関係はイデオロギーだけではなく、経営や街頭における労働者や失業者の組織のうえでも激しいものだった。 共産党は自らのことをブルジョワと「ブルジョワ的労働者党、労働官僚、労働貴族」(社民党)に対抗する唯一のプロレタリア政党であると自称してきたが、社民党はこの悪宣伝に対抗して共産党のことを「失業者、零落者、破産者、ルンペンプロレタリアートの党、もしくは都市部の暗黒街の住民の党」と批判した。 ブルジョワ政党からも共産党は蛇蝎のごとく嫌われており、大連合(大連立)政権を作るための枠組み交渉において常に対象外という政界の鼻つまみ者のようになっていた。例えばヴァイマル共和政の中心的政党の一つである中央党はその中道的立場から社民党や民主党とも、保守右派政党とも(人民党、国家人民党、最後にはナチスとも)幅広く連携したが、共産党とだけは部分的・一時的連携すら断固として拒否した。 ==党の組織== ===党組織に関する党規約=== ==党の財政== 共産党の金庫には「うなる程のルーブルがある」という噂があったが、リヒャルト・レヴィンゾーン(ドイツ語版)は著書の中で「モスクワの中央部は、大きな特別行動のために時には資金を出すことはある。だがコミンテルンは、幾百万ルーブルという大金を浪費はしない。というのはコミンテルン自身の財政と言えども限られたものであって、モスクワからの比較的大きな援助は、急進的な労働者大衆がまだ組織されていないところへだけ向けられるのが常だからである」としてこの噂を否定している 共産党の財政は党費と寄付が主だったと見られる。党費は1923年には月額1時間分の賃金と規定されたが、1924年には三段階(20ペニヒ、15ペニヒ、5ペニヒの三段階)に分けられた。1925年にはさらに引き上げられる形で最低平均収入の1%と規定された。しかし共産党の党員は収入の少ない労働者や失業者が大半であるため、党費から得られる収入はさほど多くなかった。これに対して議員による党への拠金はかなりの金額に及んだ。共産党の国会議員は月々の750ライヒスマルクの歳費のうち約300ライヒスマルクを党会計に納入することが義務付けられていた。 募金からもかなりの金額を集めていた。特に選挙前になると党の各居住グループと地区が競い合うように党のシンパを使って募金の調達を行った。1928年5月の総選挙直前に党中央機関紙『ローテ・ファーネ』は「ベルリンで1万2547ライヒスマルクが集まった」と報じている。 さらに党は自営の企業群を保有していた。その重要なものは党機関紙にかかるもので、1923年10月時点で党は34の日刊紙と19の印刷所を持っていた。印刷所のうち16は党所有の建物の中に存在した。だが1929年に赤色戦線戦士同盟が非合法化された後、党指導部は国家による党財産の接収を恐れるようになり、党の主要財産、特に党機関紙と党本部カール・リープクネヒト・ハウスを守るために名目上の売却を行って「脱政治化」に着手した。その際に党本部と印刷所の価格は850万ライヒスマルクと評価されている。しかしこのような偽装も1933年に成立したナチ党政権には通用せず、結局党財産は接収されることになった。 ==党員について== ===党員に関する党規約=== ===党員の職業考察=== 1929年の世界恐慌以前の共産党員は工場労働者を主として構成されていた。1927年の党員点検によれば党員の68%は工場労働者であったという。これは社民党の同比率より高い数字を示す。また党員の53%が経営に属していたが、そのうち36%(つまり全党員の約19%)は従業員数50人以下の小経営に属しており、従業員数1000人以上の大経営に属する党員は全党員の15%にとどまる。大経営の中における共産党の足場は極めて脆弱であった。 1929年の世界恐慌を期にこの状況は一変する。失業者党員が急増し、経営における共産党員を狙い撃ちにした解雇も増えた。1931年末には党員のうち工場労働者はわずかに21%であり、失業者は78%に及んだ。更に1932年4月には失業者の割合は85%に達している。世界恐慌後の共産党は「労働者党」というより「失業者党」と化していた。この時期の社共対立も比較的裕福な労働者を支持基盤とする社民党と最貧層の失業者を支持基盤とする共産党の対立という側面があった。ただし世界恐慌以前から共産党には失業者が多い傾向があった(例えば1924年9月のベルリン=ブランデンブルク地方の党員の四分の一は失業者であり、1925年の中部ライン地方の党員の50%が失業者だった)。 共産党は1931年まで経営に属していない党員の調査を行っていなかったが、これは党の重点はあくまで経営の中にあるべきと党が考えていたためである。それがヴァイマル末期になって経営外党員の調査を開始したことは、もはや党の重点は経営の中にないことを党自身が認めたに他ならない。ただ失業者党員は25歳から40歳が中心を占めていたので、就労経験を持つ者が多かった。そのため法的には失業者であっても意識の上では自分を「労働者」と捉えている者が多かったといわれる。 フレヒトハイムはヴァイマル末期の共産党の極左コースは労働者よりも失業者を引き付け、飢えた失業者党員が党をさらに左に追いやっていたのではないかと推測しているが、ハルトマン・ヴンデラー(ドイツ語版)は失業から直ちに特定の政治的な行動形態が生まれるわけではないとしてヴァイマル末期の共産党の急進的行動を失業者党員の増加から説明づけることに反対している。 ===党員の年齢層考察=== 共産党の党員は比較的若く、1927年時の全党員の中に占める30歳以下は31.8%、40歳以下は63.5%だった。これに対して帝政時代から活動している党員が多い社民党は党員高齢化が深刻化しており、社民党員のうち40歳以下の者の割合は44.6%(1930年時)に過ぎなかった。国会議員層を見ても社民党の国会議員の過半数が50代以上だったのに対し、共産党の議員で50代以上は1割にも満たなかった。 この傾向は右派側にもみられ、帝政時代からの伝統を引き継ぐ既存右派政党(国家人民党など)の党員は高齢化していたのに対し、ナチ党員は若者が多かった。 共産党とナチ党を比較すると、ナチ党の方がより若者が多い傾向があった。ナチ党は党員の69.9%が40歳以下(1933年時)であり、この数字は共産党を上回る。ナチ党は25歳以下の青年層からも根強い支持を受けたが、共産党は25歳以下については最もわずかな数しか組織できなかった。恐慌期に党員が急増していた時期でさえ25歳以下の青年層に党が異常に弱いという状況が変化することはなかった。 ===党員の性別的考察=== 共産党の党員中の女性の比率は10%を超えることはほとんどなく、最も高かった1929年末でも17%に留まる。また1933年までの全ての選挙で共産党に投票したのは男性が女性より20%多かった。党員と支持者どちらの構成から見ても共産党は圧倒的に「男性の党」だったということができる。 共産党は「女性解放」を掲げて、男女の経済的・社会的・文化的・政治的な同権、妊産婦と母性の保護、中絶の自由、結婚生活における妻の自己決定権などを要求していたが、共産党が女性に受け入れられたとは言い難い。女性労働者の間では共産党に対する不安や恐怖感がきわめて根強かった。 党指導部は女性党員を積極的に党活動に参加させる必要性を繰り返し強調したものの、党員レベルでは自分の妻が家の外で働いたり、党集会に参加したり、政治に関わりを持つことを好まない人が多かった。ヴァイマル共和政期のドイツ社会は、一次大戦の戦時中の女性就労、1920年代に現れた所謂「新しい女性」の登場などによりジェンダーの混乱が見られた時期で、少なくない人々がその状況に不安を抱いていた。共産党の「女性解放」運動もそうした混乱に拍車をかける物として捉えられて忌避される傾向があった。 さらに共産党の党活動はストライキや街頭闘争(敵対政治勢力や警察との暴力闘争を伴う)を重視するものであるため、どうしても男性中心にならざるをえなかった。特に街頭闘争は完全に男性の暴力頼みの党活動なので女性から忌避されていたと見られる。 ===党員の地域的考察=== 共産党の勢力・党員構成は地区ごとに大きな差異があった。1929年時点で27の地区党のうち8か所(ベルリン=ブランデンブルク(ドイツ語版)、ハレ=メルゼブルク(ドイツ語版)、沿海地域、ライン下流、エルツ山地=フォークトラント(ドイツ語版)、ルール、西ザクセン、テューリンゲン)に党員の三分の二が集中していた。中部ドイツやライン=ルール、ベルリン、ハンブルクといった人口が密集した工業地域に共産党員が多かったのだが、同時にそれらの地域には共産党反対派(KPD‐O)も根を張っていた。 ===党員変動の激しさ=== 共産党は党員の出入りが激しい党であり、党指導部は絶えざる党員変動に悩まされた。 1920年に共産党と独立社民党左派が合同した際の党員36万人のうち、1927年まで党に残っていた者はわずかに11%である。世界恐慌後には党員変動はさらに激しくなる。例えば1930年1月時点での党員数は13万3000人であったが、この年に14万3000人の新規入党があったにもかかわらず、年末の党員数は18万人にとどまっている。すなわち約9万5000人が離党している計算になる。党の公式報告によっても、1931年には38%、1932年には54%の党員に変動があったことを認めている。 したがって共産党員は党歴の短い者が大半であった。1930年時の党員のうち党歴が1年以上ある者は2割にすぎなかった。これは党員が比較的長期にわたって在籍する社民党との大きな違いである。社民党では1930年時に党歴が1年未満の党員はわずかに8%だった。この差は反体制側大衆政党と体制側大衆政党の違いによると言われる。 毎年膨大な離党者が出ることは共産党指導部にとっても深刻な問題だったので党組織の様々なレベルで離党理由の調査が行われた。それらの調査によれば離党理由で最も多いのは「金にならないから」だった。これは共産党入党者のうち少なくない数の者が何らかの経済的事情の好転を期待して入党したことを意味する。共産党への入党で就職が有利になるということはありえないため、党活動への参加に対する物質的な見返りがないこと、あるいは有給の党専従職員になる道が極めて狭き門だったことに対する不満だったと考えられる。 ナチ党の突撃隊は失業中の同志に対してバラックや簡単な給養の提供を行うことで知られていた。そのため共産党員の間にもそうした給付への期待感は強かったと思われる。党自身もあたかもそうした期待に応えられるかのようなプロパガンダを行っていた。しかし実際にはほとんど期待に応えることはできなかったため、直接的利益を期待して入党してきた者たちからはすぐに愛想をつかされてしまったのである。 ===党員数の変遷=== 1920年12月の共産党と独立社民党左派の合同により約30万人の独立社民党員が党員7万人の共産党に参加。これにより共産党ははじめて大衆政党と呼べる規模になった。しかしその後党員数は急速に減少・停滞していく。党員数の推定にはある程度ばらつきがあるものの、1923年以降長らく18万人を超えることがなかったという点では共通している。世界恐慌を経た後に党員の急増が始まり、1931年と1932年になってはじめて20万人ないし30万人に到達している。 ==選挙結果== ===国会(Reichstag)=== ヴァイマル共和政期からナチス政権期の国民議会(Nationalversammlung、1919年時のみの議会名称)および国会(Reichstag)における共産党の党勢。 選挙制度は比例代表制選挙権は20歳以上の男女 ===大統領選挙(Reichspr*9057*sidentenwahl)=== ===連邦議会(Bundestag)=== 西ドイツの連邦議会(Bundestag)における共産党の党勢。 選挙制度は小選挙区比例代表併用制選挙権は21歳以上の男女 =中国の書道史= 中国の書道史(ちゅうごくのしょどうし)では、有史以来、清代までの中国における書の歴史について、その背景・書体の変遷・書風・筆跡・書人・書論など書に関連した事跡を記す。 ==概要== 文字のもつ様式上の美を書という。漢字はその成立した当初から美への意識を刺激するものであった。よって、漢字と書の結合は初めから約束されていたといえよう。漢字の構造的な字形構成は、複雑のうちに変化と求心的な統一の原理がはたらいており、その変化と統一の融合は、様式としての美を追求するにふさわしい形態である。事実、最古の文字資料である殷代の甲骨文は、すでにすぐれた様式美を達成している。また、漢字の点画は幾何学的な線ではなく、すぐれた画家がその描線を以て事物の本質にせまろうとする律動的な線の描出法に似ている。このように漢字はその結体において字の起原的な形態を明確に示しながら、なお文字としての美をも志向しており、その他の古代文字とは本質を異にするものである。 書は漢字圏の文化であり、芸術である。芸術は制作と鑑賞という2つの営みの上に成立する。書の芸術性は、漢字の成立の当初においてすでに予定されており、また、その後の長い書の歴史がそのことを実証してきた。特定の個人がはっきりと芸術家としての評価を得たのは魏の鍾*11550*を嚆矢とし、その後、二王に代表される東晋の貴族たちによって美しく洗練され、芸術としての域にまで高められた。能書の鑑賞は古くからあったが、この東晋時代に至って書の造形に骨・肉・筋を見るようになった。これは書の鑑賞における画期的な認識であり、書が人間表現のものと自覚され、純粋に鑑賞の対象となったことを示唆している。 ===書体の変遷=== 漢字の書体は社会的・実用的な要求や美意識の変化によって変遷していった。代表的な書体は篆書・隷書・楷書・行書・草書の5体で、楷行草という呼称があることから、篆隷楷行草の順で書体が誕生したと思われることも多いが、出土文字資料の分析によれば、殷代の篆書、戦国時代の隷書、前漢時代の草書、後漢時代の行書、後漢末から三国時代にかけての楷書という順序でそれぞれの発生が認められている。このすべての書体が一応完成されたのが六朝時代であり、その変遷をまとめると概ね次のとおりである。 ===篆書・隷書=== 篆書という書体は広義には古文(甲骨文と金文)・籀文(大篆)・小篆のすべてを含むが、狭義では小篆を指す。金文と小篆の中間的書体である籀文の代表的な筆跡は戦国時代の秦の『石鼓文』であり、書道史にとって大変重要な遺物となっている。そして、この大篆を基に秦の始皇帝が李斯に命じてつくらせたのが小篆であり、秦の刻石などに筆跡が現存する。 隷書は狭義では八分隷(単に八分とも)を指すが、まずは篆書の速書きからの古隷に始まる。古隷には波磔がなく、これに波磔などの装飾がついて八分となり、前漢時代すでに常用されていたことが近年の発見によりわかっている。漢代に入ると隷書は造形美を追求する方向と、本来の速書きを具現化する方向とに分かれていく。前者は後漢に建碑が流行したこともあり、『曹全碑』や『張遷碑』など芸術品として完成度の高い八分の刻碑が作られた。後者は章草を経て草書へと変化していく。 ===楷書・行書・草書=== 前漢の時、八分を速書きしてその点画を省略した章草と呼ばれる新書体が生まれた。章草には八分の特徴である波磔が残っており、その典型的な筆跡に皇象の『急就章』がある。これを見ると章草は隷書を基盤とし、かつ草書はこれを発展させたものであることが一目瞭然で、後漢末期には章草がさらに略化されて草書となった。さらにこの頃、速書体として楷書・行書も使用されるようになり、じつに後漢のうちに草書・行書・楷書の発生を認めることができる。 その後、鍾*11551*の『宣示表』に代表される楷書が、わずかに隷意を感じさせながらもその完成の域に達し、六朝時代の北魏においては刻石や碑に相応しい峻険な六朝楷書という傑作が多く残された。日本で昭和時代から小中学校の教科書の手本に取り入れられた楷書の原形は欧陽詢の『九成宮醴泉銘』などの初唐の楷書で、これを見ると我々の用いている文字の基になっていることが分かる。 行書・草書は、東晋の王羲之を中心とする貴族たちによって美しく洗練され、その王羲之の名筆には行書の『蘭亭序』や『集字聖教序』、草書の『十七帖』などが知られる。その他の草書作品としては、智永の『真草千字文』、孫過庭の『書譜』、懐素の『自叙帖』があり、『十七帖』と『真草千字文』は独草体、『書譜』は連綿草、『自叙帖』は狂草体という形容でその特徴が表現される。 ===正体=== 正体(せいたい、正書体・標準体とも)とは、各時代の正式書体のことである。周代は籀文、秦代は小篆、漢代は隷書、そして六朝時代は楷書が正体に昇格する。金石などに文字を刻するのは永久に遺こすことを目的にしているため、使用される書体はその時代の正体である。 行書・草書は正体を速書きするための俗体(補助体とも)として位置づけられ、正体に昇格することはなかったが、隷書の俗体として成立した草書は、逆にそのもとになった隷書に影響を及ぼして行書の発生を促し、行書もまた草書とともに隷書に影響を与えて楷書発生の要因となった。 ===文字数=== 漢字の文字数は、甲骨文・金文にはいずれも約3,000字、重複を除けば合わせて4,000余の字数がある。文化の進展につれて象形文字だけでは思想の記録・伝達に不十分になったことから象形文字を基にして次々と新しい文字が作られた。その造字法を六書または六義という。 字数の増加を各時代の字書の収録数で示すと、秦の『蒼頡篇』に3,300字、後漢の『説文解字』に9,353字、魏の『広雅』に18,151字、梁の『玉篇』に16,917字、唐の『韻海鏡源』に26,911字、北宋の『広韻』に26,194字、明の『字彙』に33,179字・『正字通』に33,671字、清の『康熙字典』では49,030字に至る。 しかし、これらの増加した文字は、形声文字、あるいは異体字で、本来の造字法ではない。つまり、基本字の増加ではなく、基本字は甲骨文・金文にほぼ備わっている。文字の成立する過程は、はじめ極めて少数の最も基本的な文字がまず作られ、その後、長い期間にわたって次第に増加していったと考えられている。また、文字の体系はすでにその創出の時代に存しており、新しい字が加えられるとしても、それはその体系の中で、文字構造の原理に従って作られたもので、その体系を超えることはできないのである。 『玉篇』に収められている16,917字には、その出典や訓詁が示されているが、その後の字書には出典も明らかでないような文字がみだりに増加しているため、全く意味のない字数の増加といえる。主要な古典の使用字数から見当をつけると、必要な文字の実数は大体8,000字程度とみてよい。 ===書人=== 書人の代表は、王羲之(書聖・大王)、魏の鍾*11552*、後漢の張芝(草聖)、東晋の王献之(小王)、初唐の三大家、盛唐の顔真卿、宋の四大家、明末の董其昌・王鐸、清代の*11553*石如・趙之謙などが挙げられる。 初唐の孫過庭は、『書譜』の中で王羲之の言葉を引用して、「多くの名書の中で、鍾*11554*の楷書と張芝の草書は群を抜いてよい。その他は観るに足りない。」と記し、さらに張芝の草書は王羲之より優れていることを羲之自身も認めていると記している。また、王献之は父の王羲之とともに二王と称され、南朝の宋では王羲之よりも王献之が貴ばれた。 歴代帝王中、第一の能書といわれる唐の太宗は王羲之の書を愛好し、有能な書人を重く用いたことにより初唐の三大家(欧陽詢・虞世南・*11555*遂良)が輩出するなど、書の黄金時代を現出するに至る。この三大家によって楷書は最高の完成域に到達された。初唐の三大家に薛稷を加えて初唐の四大家と称すが、初唐の三大家に顔真卿を加えると唐の四大家と称すので注意を要する。また、欧陽詢・顔真卿・晩唐の柳公権・元の趙孟*11556*を楷書の四大家とも称す。 顔真卿は王羲之と共に中国書道界の二大宗師とも謳われ、以後、顔真卿の追従者が多くあらわれる。宋の四大家もその影響を大きく受け、このうち蘇軾・黄庭堅・米*11557*の三大家は唐以来の技術本位の伝統的書道を退け、創作を主とする書芸術を打ち立てた。そして、これは明・清以後の近代書道の方向を示すものとなり、その代表的な継承者は、董其昌・王鐸などで、連綿を多用した行草体を長条幅という新しい書の作品様式として完成させた。現在、日本の書道展などで最も多く使用される紙面形式はこの縦形式の条幅であり、これを一般化させた王鐸らの業績は大きい。 書流の変遷は、1つに張芝、鍾*11558*から二王を頂点としてその伝統を誇る帖学の流れであり、もう1つは篆隷から出て北碑を眼目とし、顔真卿に起因する反王革新の碑学の流れである。この碑学を研究する碑学派は清代の隆盛期に勃興し、後期には主流となった。碑学派の代表は*11559*石如・何紹基・趙之謙の3人である。 ===用筆法の変化=== 漢代に書法の発達がはじまり、筆の芸術としての書道がその第一歩を踏み出すことになる。その重要な点の一つに用筆法の変化がある。 篆書の時代の用筆法は一般的に筆管を垂直に立てており(直筆)、この方法は古隷の前漢ごろまで続くが、隷書が完成される後漢の時代になると、筆管を手前に傾けてきたことが横画の幅の広がりや起筆の形などからわかる(側筆)。これは、前漢時代まではまだ紙がなく、木簡や竹簡が用いられ、片手に筆を、片手に簡を持って書いており、直筆になるように両手で調整が行われた。しかし、後漢に紙の発明があり、机上に紙を広げて書くようになると筆管と紙に45度の角度がつき、無理して直筆になるように人差し指を上げたりする方法も考案されたが、自然と側筆を用いるようになった。そして、三国・西晋時代を経て東晋時代には、さらに半ば右方向に傾いていった。これが王羲之書法で、書は無限の変化を内包する線条芸術となり、中国の伝統的書法として日本にも伝わった(日本の書道史#奈良時代を参照)。しかし、清代に碑学が勃興すると北碑の書法(直筆)が盛んになり、これが中国の正統的書法として現在に至っている。 ===書の時代性=== 近世の書論において書の特質を晋、唐、宋、元・明の4つの時代に区分し、「晋の書は自然の風韻を貴び(晋韻)、唐の書は書の技法を貴び(唐法)、宋の書は意趣の深さを貴び(宋意)、元・明の書は姿態のおもしろさを貴ぶ(元明態)。」と表現している。これは梁*11560*(『評書帖』)と馮班(『鈍吟書要』)の論であり、書の時代性のほぼ一定した見方となっている。しかし、清の書についてはまだ論じたものがなく、中田勇次郎はいつも清学という言葉を続けていた。「清の書は考証的な学問を貴ぶ。」と解釈できる。 ==先史== 今から約5000余年前、漢民族が西北から黄河沿岸に移り住み、ここに農業・牧畜を営んだことにより、黄河流域は文化の中心地となった。そして、この地に漢字が生まれ、中国の書道が始まる。 ===文字の創成=== 人類はまず身振り・手真似による思想感情の伝達から始め、その後、言語を作ったと想像される。次にその言葉を記録する必要が生じ、そのための符号、つまり文字のようなもの(書契)が生まれた。『易経』の繋辞伝(けいじでん)下に、「大昔は縄を結んでうまく調整した。後世の聖人はこれに変えて書契を使った。」とあるように、最初は縄の結び方で記録する結縄といわれるものが使われ、つづいて絵画的な方法を用いた。しかし、これはまだ文字ではない。文字は古代の文化圏のうちでも最も高い文化段階に達したところだけで成立し、それは言葉を視覚化し形象化したもの、すなわち象形文字であった。 それから永い間に幾多の淘汰を経て、世界有史以来、発生した文字の種類は200余種にわたっており、現在でもその50余種が使用されているという。ただし、その多数の文字の根源をなすものは、ナイル河畔に発達したエジプト文字、チグリス川とユーフラテス川の辺りに発生した楔形文字、黄河流域に生まれた漢字の3種である。 しかし、エジプト文字と楔形文字は紀元前後に相次いで姿を消した。漢字以外の古代文字が滅んでいった原因は、その歴史と文化の断絶によるものである。民族の興亡がはげしくなると、文字は他の民族によって借用されることになるが、このとき異なる言葉の体系に適応させるために言葉と文字との直接的な結合を分離することが必要であった。そして文字は形象という本来的な意味を離れて表音化された。これがアルファベット化である。 エジプト文字が容易にアルファベットにその地位を譲りえたのは、その言語表記の上に、表音化による致命的な困難を伴うことがなかったからであろう。そして、文字がアルファベット化したとき、言葉と文字との結合という古代文字のもつ最も本質的なものは失われた。しかし、漢字は中国の言葉の性質からみて、このアルファベット化に非常な困難を伴う。漢字は単音節語を用いる中国人にとって最も適合した表記法であり、今もその特質を持ち続け、言葉とともに生き続けている。 ===漢字の創成=== 紀元前2500年頃の黄帝の時代、史官であった蒼頡が鳥の足跡からヒントを得て初めて文字を創成したという記事が『説文解字』・『淮南子』・『四体書勢』などにある。これが一般的な漢字創成説であり、後世、鳥跡文字(ちょうせきもじ)とか蝌蚪文字(かともじ)とか呼ぶものである。しかし、これは確実な史証がないため伝説にすぎない。このようにいずれも個人の独創とすることは中国文化史の特異な点である(中国の書論#書体の創始者を参照)。 今日、最古の漢字として確実なものは殷代の甲骨文字である。ただし、甲骨文字が中国における漢字の起源ではない。漢字は自然・人事の現象を絵画的に表現した象形文字に端を発しているが、甲骨文字は純粋な象形文字ではなく、すでに少し発展した段階のものである。董作賓は、「甲骨文の原形文字は更に1500年前に遡るであろう。」という。 甲骨文字は殷代後期の遺物であるが、それ以前に漢字が使われていた可能性を示すものとして、陶文(とうぶん)がある。中国の新石器時代に陶製の容器があるが、その側面や底面に漢字の原初形を想像させる符号のようなものがあり、紀元前5000年頃のものといわれる半坡遺跡などから発見されている。これを陶文、または刻画(こくかく)符号と呼ぶ。陶文を現在の漢字とを直接結びつけることは難しいが、年々出土報告があり、今までに約2,500件ほど報告され、その内、殷代前期から中期に相当する遺跡から見つかった陶文には甲骨文字と同形のものが含まれていることがある。 ==三代== 三代(紀元前2100年頃 ‐ 紀元前221年) 夏(紀元前2100年頃 ‐ 紀元前1600年頃) 殷(商)(紀元前1600年頃 ‐ 紀元前1050年頃) 周(紀元前1050年頃 ‐ 紀元前221年)夏(紀元前2100年頃 ‐ 紀元前1600年頃)殷(商)(紀元前1600年頃 ‐ 紀元前1050年頃)周(紀元前1050年頃 ‐ 紀元前221年)三代とは、夏・殷・周の2000年の長きに亘る時代をいう。夏の時代の作に『禹王の碑』があるが、後世の贋作と断定されている。殷代に入って甲骨文や古銅器の銘(金文)が多量に残っている。周代には、多数の金文や『石鼓文』(籀文)などがある。このように、三代の文字は甲骨文・金文・籀文の名称があるが、これらすべてを古文と称する説と、籀文が創始される以前の甲骨文・金文を古文とする説がある。本項では後説に従う。 ===殷=== 殷(商)(紀元前1600年頃 ‐ 紀元前1050年頃、筆跡)殷王朝は紀元前1600年頃、初代の湯王に率いられて河南省の黄河流域に成立し、周辺の小勢力を支配下におさめ、次第に大国化していった。そして、19代・盤庚が都を河南省安陽(殷墟)に遷してから大いに勢力を振るい、30代・帝辛まで続いた。甲骨文はこの時代の後期の遺物である。甲骨文に次いで古いものに殷代の金文がある。金文とは青銅器の銘文で、周代のものが一番多い。 ===甲骨文=== 甲骨文とは、確認できる最も古い文字で、亀の甲羅や馬・牛などの骨に占卜の記録として刻られた文字(卜辞)である。殷代の文字は甲骨に刻されている甲骨文および少数の金文を除いてほとんど出土がない。筆と木簡の文字が甲骨文に確認できるので、それらによる文字記録がすでに行われていたと推測されるが現状では出土がない。 この文字のほとんどは鋭利な刀で獣骨に直接刻したために直線的なものが多く、画数の少ない簡潔な文字である。これらを用いてかなり複雑な文章がつづられている。甲骨文は神意を伺うための神聖な手段であり、人々の日常生活には無縁の存在であったが、この卜辞の解読により、殷人の生活もかなり明らかになった。 ===甲骨文の発見・発掘=== 清の光緒25年(1899年)、当時、国子監祭酒の地位にあった王懿栄はマラリアの発作に苦しみ、その特効薬として北京の薬屋で売られていた竜骨を服用していたが、その骨の上に刻されているものが古代文字であることを劉鶚と2人で発見した。王懿栄は古代金石学にも通じた学者で収蔵家であり、費用を惜しまずその竜骨を買い求めたが、翌年、義和団事件の責めを負って自殺し、彼の竜骨は劉鶚の手に託された。光緒29年(1903年)、劉鶚は王懿栄旧蔵の竜骨と私蔵の竜骨5000片のうち、1058片の拓本を精選し、『鉄雲蔵亀』と題して刊行したため、甲骨文が初めて学界の注目されるところとなった。当時、その竜骨の発掘場所は骨董商以外には知られていなかったが、数年後、殷墟の彰徳の西北にある小屯と呼ばれる村落一帯から出土していた亀甲や獣骨が竜骨の正体であることが確認され、その後、甲骨の発掘が盛んに行われた。 ===甲骨学=== 孫詒譲中国政府は民国15年(1926年)10月から殷墟において中央研究院による本格的な学術調査と発掘を開始し、今までに見つかった甲骨片は約10万点に達した。また、殷王の大墓や墓群の存在が明らかになり、『史記』が伝える殷王朝の系図がほぼ歴史的事実であることを示すなど、殷代研究の貴重な史料となっている。発掘とともに甲骨文字の判読も進められ、優れた著述が刊行された。孫詒譲は光*11561*30年(1904年)に『契文挙例』を著し、 甲骨文字が殷代の占卜を行った文字であることを証明した。これに羅振玉(『殷虚書契考釈』)、王国維(『*11562*寿堂所蔵殷虚文字考釈』)、日本の林泰輔(『亀甲獣骨文字』)らが続いた。甲骨文が発見された時、極めて短期間に解読が進んだのは、金石文の研究の蓄積があったからである。特に金文の文字は甲骨文と時代が重なるものがあり、字体も近似する。甲骨文の字数は3,000近くがそろい、『甲骨文編』に正字として録するものに1,723字ある。指事・象形・会意・仮借に分類される字が多く、形声に分類される字が少ない。董作賓はこれら甲骨文字を5期に区分した(董作賓#甲骨文字の時代区分を参照)。 ===殷の社会=== 殷王朝は祭政一致の国家であり、人々の行動はすべて神の指図を受け、その神意を伺うために盛んに卜占を行った。王朝の運命をほとんどその卜占にかけていると思われるほど王朝の公私の生活全般にわたり占っている。その卜占の方法は、加工した甲骨の裏面に火をあてて灼き、表面にできた亀裂の状態によって吉凶を占うというものであった。そして、その結果から巫祝王としての王が判断を下した。この一連の内容を記した卜辞には農耕的儀礼が数多く記されており(「雨」に関する卜辞が多い)、これを殷王朝の関心が主要生産手段である農耕に向けられていた結果であるとして、殷代農耕社会説の論拠の一つとなっている。現在この説が殷代牧畜社会説を退け定説とされている。 ===卜辞の本質=== 殷の古い時期の遺址から文字が記されていない卜骨が出土しているため、獣骨による占卜は文字と結びつく前の時代からすでに行われていたとされている。つまり、文字がなくても占卜は可能であった。にもかかわらず殷後期に現れた占卜の辞を刻した甲骨文は、吉凶の予占だけでなく、占卜の結果からの王の判断と、それが事実となったので王の占断が正しかったことの証明にまで及んでいる。古代にあっては、言葉は言霊として霊的な力をもち、人々は言葉によって神話を創り出した。神話の時代には神話が現実の根拠であり、現実の秩序を支える原理であった。しかし、古代王朝が成立して王の権威を現実の秩序の根拠に移行させるにはその事実の証明が必要となった。そして、王の行為を時間と事物に定着して事実化することが要求され、これに応えるものとして文字と占卜とが結びついた。文字は言葉の呪能を吸収し、定着し、持続するためのものであった。よって、卜辞の目的は、王の占断の神聖性を保持し、顕示することにあったのである。実際に殷王が絶大な権力をもって王朝に君臨していたことは、地下のピラミッドといわれる壮大な殷代陵墓の遺構により容易に想像できる。そして、王は最も神聖なものとして、すべての祭祀や儀礼は、その神聖性を証明するためにあったといっても過言ではない。 ===金文=== 殷・周時代には各種の青銅器が作られ、この時代を青銅器文化という。この文化は中国の古代文化を特色づける最も重要な遺品であり、千有余年にわたるこの文化の歴史は、中国古代の歴史であるともいえる。そして、その青銅器の表現と製作技術は、他のどの文化民族の青銅器よりも優れ、とりわけ鐘と鼎がその最も代表的な青銅器とされた。よって、これに刻したり、鋳したりした文字を鐘鼎文(しょうていぶん)といい、金文ともいう。甲骨文の書風が直線的で線質は鋭利で単調であったのに対し、金文のそれは曲線的で線質には逞しさがある。 殷代中期には、1字から20字程度の文字を鋳込むようになり、周代に入ると製作の由来や目的を文章にして鋳込むようになった。現存する青銅器の文字は、すべて器の内側、またはその他の表面に鋳込まれており、この方法は周代にまで継承された。青銅器のうち銘文を有するものの大部分は、神および祖先を祭る儀式のための祭器である。この銘文には、鋳型にほって鋳出した鋳銘と、鋳造された青銅器の上に刀でほり込んだ刻銘との2種類がある。殷・周の金文のほとんどは鋳銘であり、戦国時代になって武器などに刻銘が現れる。 ===殷代の図象と文字との接点=== 字数の少ない殷代の金文は、絵画的で文字とはいえないようなもの、つまり図象と呼ばれるものが中心である。この時代はすでに文字が出来上がっているので、図象は文字とは異なる体系をもつ。図象は王朝的秩序に対応する身分(氏族の標識)などの象徴であり、すべての氏族の図象の体系は、そのまま王朝の支配形態を表している。そして、図象標識が固有名詞としてその氏族名と対応するとき、それは氏族名を示す文字となる。図象は文字ではないが、図象標識として用いられるものに書法的意識が加えられると、そのまま文字となるのである。文字は図象のような前段階を幾重にも経験しながら、文字の体系にたどり着く。旧来の説では図象は殷代の遺物と考えられていたが、近世の研究により図象の中にも周代初期のものがあり、両者の間にそれほど明確な区別はないことがわかっている。これらの図象は、前述のように文字の起源や成立に関わると考えられ、古文字研究者の重要なテーマとなっている。その総数は四千数百にのぼり、重複を除外した殷周青銅器全銘文数の半ばを占める。図象以外の殷代の金文は、第5期の甲骨文字に近似している。甲骨文や金文は、現在の漢字の祖形である。しかし、文字としてはすでにかなり発達した段階にあり、更に始原的な文字が発掘される可能性を秘めている。 また、中国の書法は直筆(中鋒)による強い筆線を正統としているが、甲骨文や金文には線に鋭さや力強さを感じることができる。近年、甲骨文や金文が書道や篆刻の作品に取り入れられることも多くなっている。 ===周=== 周(紀元前1050年頃 ‐ 紀元前221年、書人、筆跡) 西周(紀元前1050年頃 ‐ 紀元前770年) 東周(紀元前770年 ‐ 紀元前221年) 春秋(紀元前770年 ‐ 紀元前403年) 戦国(紀元前403年 ‐ 紀元前221年)西周(紀元前1050年頃 ‐ 紀元前770年)東周(紀元前770年 ‐ 紀元前221年) 春秋(紀元前770年 ‐ 紀元前403年) 戦国(紀元前403年 ‐ 紀元前221年)春秋(紀元前770年 ‐ 紀元前403年)戦国(紀元前403年 ‐ 紀元前221年)周王朝を建てた農耕部族が興ったのは、殷の支配地域の西のはずれ、現在の陝西省の渭水盆地であり、ここで諸侯を糾合して急速に勢力を拡大した周は東方の殷を滅ぼした。いわゆる「殷周革命」である。その年代は諸説あるが紀元前1050年頃と考えられている。甲骨史料によると、殷朝第22代・武丁が周侯を伐つことを占っており、すでに殷を脅かすほどの勢力となっていたことがわかっている。 周代になると政治や社会制度の転換に伴って甲骨文の使用は急激に衰え、青銅器の製作が盛行した。そして、豊かな筆意を持ち、装飾的な書体の金文が主流をなし発展した。一方、青銅器が大型化し、これに伴って銘文も長文を記すようになった。『毛公鼎』は31行、496字あり、その最多である。このように、周代の文字資料はほとんどが古銅器の銘文で、この内容を集めることによって周代の歴史が浮かび上がり、『尚書』や『史記』の伝える内容と比較あるいは補完することができる。 ===文字の地域的変化=== *11563*(ゆう)酒を入れる器。 秦の刻石(『石鼓文』)周は殷の文化をそのまま受け継いだため、周代初期の文書は殷末となんら相違が認められないが、やがて周の領域が広がるにしたがい、書風の地域的変化が生じた。さらに、春秋時代、戦国時代になり、各地域の独立性が高まると書風の地域的変化は著しく、字画の構成にも不統一があらわれ(戦国文字)、文字の通用に非常な混乱が生じた。これが後に秦の始皇帝が全国の文字統一政策を行った原因となったのである。 ===銘文の目的と書風の変化=== 殷代は神を信じ、亀卜によって啓示される神の意志により政治を行った。よって、殷代の祭祀に用いられた銅器の金文は素朴で新鮮であったが、周代の祭祀は儀式を重んじて、民族の団結をはかるという政治社会的な目的のために行われるようになった。自然、金文の文字も厳格で形式化する傾向があり、字の大きさや配列も整然となり、伸び伸びとしたところが失われた。 ===書道の成立=== 春秋時代から戦国時代に下ると、璽印文(じいんぶん、印章の文字)や貨布文字(貨幣の標記)なども出現する。そして、この時代に特に注目すべきものとして、前者の璽印文や武器などの中に鳥書という鳥などを組み入れた非常に装飾的な字体が混じっていることが挙げられる。これは漢字が単に人間の意思を伝達する符号であることを脱して、その美しい形態によって人間の目を喜ばせるものにまで成長したことを示している。中国書道はこのころに成立したといってもよいであろう。また、貨幣に文字が鋳込まれたことによって、文字が民衆の目にも日常的に触れるようになった。かつては王や一部の貴族たちが使用するものであったが、いまや庶民のレベルにまで一般化したのである。 ===大篆=== 周代の末期から、文字を石に刻した資料があらわれる。数多の石刻中で中国最古のものが『石鼓文』である。これは書道上の最大の資料で、古来、西周の宣王時代の太史・史籀の書であるとし(中国の書論#大篆の創始者を参照)、世に籀文(ちゅうぶん)、また秦の小篆に対して大篆とも呼ぶ。しかし、最近ではそれよりも年代を下げて秦の献公11年(紀元前374年)とする唐蘭(とうらん、1900年 ‐ 1979年)の説が最も有力である。大篆は、金文と小篆の中間的書体であり、文字の構成が図案的、装飾的で美しく、完成された篆書の代表的なものである。『石鼓文』の刻字が後世、篆書の源流を開き、清の呉昌碩がこの専攻で有名になるなど、書家第一の法則となった。 ==秦== 秦(紀元前221年 ‐ 紀元前206年、書人、筆跡)戦国時代、戦国の七雄と呼ばれる7つの強国(斉・楚・燕・趙・韓・魏・秦)があり、各国が王号を称して独立大国の意志を表明し、天下の覇権を争った。紀元前246年に秦王・政(のちの始皇帝)が即位すると形勢が急速に変動し、秦は紀元前230年に韓を、紀元前228年に趙を滅ぼした。続いて紀元前225年に魏を、紀元前223年には広大な領土の楚を、そして、紀元前222年には燕を滅ぼし、その帰途に斉を滅ぼした。かくして紀元前221年に秦は中国の歴史で初めての統一国家となったのである。 秦王・政はこれまで最高位であった王に代り、皇(おお)いなる天帝という意味で皇帝の称号を採用し、朕と称することを決めた。初代皇帝(始皇帝)は、つぎつぎと統一国家の体制を固める政策を打ち出した。その創出された諸制度の功績は極めて大きく、特に郡県制にもとづく中央集権制を布いて広大な領地を統治した政治形態は、清朝にいたる2000年以上にわたり継承された。 また、権勢と命令の施行を徹底させるために文字を統一する必要があり、始皇帝は李斯に制定させたという小篆を正体として定めた。その一方で、小篆を簡略化して速く簡単に書ける隷書(古隷)が補助体として使用された。 ===小篆=== 始皇帝は丞相の李斯に命じて、長い間、諸地方で使われていた各種の文字を整理統一して使用の利便を図った。王国維によると戦国時代に通行していた文字は、古文と籀文とに大きく分けられ、古文は秦以外の東方の6国で使用され、籀文は西方の秦で使用されていたという。始皇帝はこの籀文を基礎にしてそれを簡略化し、統一を図ったのである。これが小篆(秦篆・玉*11564*篆とも)で、前代には見られぬ均整のとれた端正な書体であり、縦長の美しい姿態は、いかにも新興勢力を象徴し、始皇帝の威厳を示すがごとく荘重で力強い。秦の刻石や権量銘がこれに当たる。 ===秦の刻石=== 始皇帝は統治が軌道に乗ったのを見定めると、文武百官を従えて天下を巡幸し、旧6国の人民に皇帝の威光を知らしめるために各地に自分の頌徳碑を建碑した。その文章は『史記』に詳しく、その刻文まで収録されている。*11565*山・泰山・瑯*11566*台・之罘・之罘東観・碣石・会稽の7刻石がそれであるが、そのうち原石が残存しているのは泰山と瑯*11567*台の2刻石である。泰山の石は原石であるが、字の方は後世の復刻とされているから、原石原刻は瑯*11568*台だけである。この美しく品格の高い刻石の書はすべて李斯の書といわれ、古来、小篆の典型として尊重された。 ===権量銘・詔版=== 始皇帝は文字の統一ばかりでなく、度量衡・貨幣なども統一した。そして、度量衡の重さを示す分銅の「権」、容量を示す「量」、貨幣などの表面に詔書を小篆の文字で刻した。おそらく李斯の自書であろうともいわれ、篆書の範とすべきものである。また、木製のものには長方形の銅板に文字を刻したものをうちつけた。この板だけ残っているものを詔版(しょうばん)という。 ===字書=== 字書として、李斯は『蒼頡篇』を作り、中書令の趙高は『爰歴篇』を作り、太史令の胡毋敬(こむけい)は『博学篇』を作ったと伝えられ、これを三倉という。それ以前の字書として周代に史籀が著したとされる『史籀篇』があったが、これらの新しい字書が通行することにより、字画の統一はさらに確かなものになったと考えられる。 ===隷書=== 漢字の書体を初めて示した『説文解字』の序文に、秦の書体として8体が記され、最後に隷書体を取り上げているが、隷書は漢代のものとする異論があった。しかし、1975年に始皇帝時代の雲夢秦簡という竹簡が発掘されて、この時代に隷書の原形ができ上がっていたことが証明された。隷書は秦の正体でなかったため、永久に残る金石や碑刻には使用されなかったのである。 秦は大帝国であったために公文書も膨大な量に及んだと考えられるが、始皇帝が制定した正体の小篆は、字形は美しいが書写に時間がかかり実用には不便であった。ここに円から方へ、曲線から直線へと省略整理され、書写に便利な新書体が生まれた。これが隷書であるが、最初に現れた隷書を古隷と呼ぶ。古隷の次に出現するのが、今日一般に隷書と呼ばれている八分である。 後漢の王次仲が小篆や古隷を改変して八分を作ったと書論にある(中国の書論#八分の創始者を参照)が、新資料の発掘により前漢時代の八分の筆跡が発見されて王次仲の伝説は完全に否定されている。 ===古隷=== 古隷(これい)は、篆書から八分に移る過渡期のもので、挑法・波磔もなく、点画の俯仰の弊もなく、篆書の円折を省いて直とし横としただけの古拙遒勁な書風で、いわば篆書の速書きから生まれたものである。 古隷は、程*11569*という人が罪によって獄中にある時、小篆を整理し簡略化して作ったもので、始皇帝は大変喜んで直ちにその罪を許し、この文字を徒隷の事務用文字として採用したという伝説がある(中国の書論#古隷の創始者を参照)。しかし、これはあまり信頼できる話ではない。 古隷の代表的な刻石として、『魯孝王刻石』(前漢)、『莱子侯刻石』(新)、『三老諱字忌日記』(後漢)、『開通褒斜道刻石』(後漢)、『大吉買山地記』(後漢)などがあり、また、木簡や陶器や銅器などにも多く見ることができる。素朴で何ともいえぬ親しみを感じる書風である。 ===毛筆の発明=== 古来、毛筆は蒙恬によって発明されたという。蒙恬は万里の長城を築いた功により管城に封ぜられたので、筆のことを管城ともいう。しかし、前述の殷墟から発掘された甲骨文中に筆で墨書されたものが発見されているので、蒙恬は筆の改良をしたのであろう。いずれにしても、この毛筆の発明改良によって文字の美的表現が著しく進展したことは事実であり、八分などの波磔は毛筆でなければ表現するのは難しい。 ==漢== 漢(紀元前206年 ‐ 220年) 前漢(西漢)(紀元前206年 ‐ 9年) 新(9年 ‐ 23年) 後漢(東漢)(25年 ‐ 220年)前漢(西漢)(紀元前206年 ‐ 9年)新(9年 ‐ 23年)後漢(東漢)(25年 ‐ 220年)始皇帝は紀元前211年に5回目の東方巡幸に出発したが、途中で発病し、翌年50歳で死去した。以後、秦の政治は完全に人々の期待を裏切り、紀元前209年に早くも反乱が始まった。陳勝・呉広の乱は中国史上最初の農民反乱であり、つづいて劉邦と項羽によって秦は紀元前206年に、わずか3代15年で滅亡した。そして楚漢戦争の結果、劉邦が項羽を破り帝位についた。漢・高祖の誕生である。漢は紀元前206年から400余年に亘るが、前漢と後漢に分かれる。漢代になると、隷書は篆書に代わって正体となり、碑刻にも使われるようになった。古来より、秦篆、漢隷といい、隷書研究に漢代は必須である。 ===前漢=== 前漢(西漢)(紀元前206年 ‐ 9年、書人、筆跡)前漢の時代は文字資料が非常に少なく、数少ない刻石によると小篆から古隷への変遷が確認できるだけであった。しかし、近年、敦煌地方から発掘された漢簡によって当時の通用文字を知ることができるようになり、それによると前漢から八分が存在し、古隷とともに盛んに使用されていることがわかった。一方、『説文解字』の序文に、「漢興って草書あり。」とあるように、この時代には章草と呼ばれる実用的、能率的で芸術性豊かな新書体も生まれ、常用された。 ===隷書の正体への昇格=== 7代・武帝のとき、当時の通行書体であった隷書が篆書に代わって正体となった。これは武帝が董仲舒の進言を受けて儒教を国教としたことに起因する。儒教の経書は伏生の言を*11570*錯らが隷書で書写したもので、漢代においては古文に対して隷書を今文と呼んでいたことからこれらの経書は今文経と呼ばれ、今文経による学問を今文学と総称した。儒教を国教とした際、今文学が官学となり、これにともなって隷書が正体となったのである。 ===章草=== 章草(しょうそう)は、史游が隷書を略して創始したという(中国の書論#章草の創始者 (書断)を参照)。章草は八分を速書きして、その点画を省略し、八分の方形なのに比べて円形に近いものになっている。波磔は残っているので今日の草書(今草とも)よりも古意があり、主として尺牘などに用いられた。今草は章草を略したもので、後漢の張芝が創始者という(中国の書論#草書の創始者を参照)。しかし、章草も今草も決して一人の力で生まれたものではない。漢簡によると、章草は八分と前後して興っているので、八分の自然の変化と見るべきである。章草の書き手として、史游、張芝の他に、後漢の章帝、魏の鍾*11571*、呉の皇象などが有名である。 ===新資料の発掘=== 20世紀初頭、オーレル・スタインやスヴェン・ヘディンなどによる中央アジアの探検によって、前漢以来の肉筆資料である漢簡(かんかん、漢代の木簡)が発見された。はじめ、スタインによって敦煌漢簡が、その後、ヘディンによって居延漢簡が発見されたが、これらの木簡の中に前漢の紀年がある八分隷が含まれていた。ここにおいて、古来からの「八分は後漢からのもの」とする定説は根底から覆された。 1972年初め、湖南省長沙市東郊の馬王堆漢墓が発掘され、保存状態のよい遺物が出土した。この漢墓は、前漢初期の長沙国の丞相*11572*侯・利蒼とその妻子の墓で、夫人の遺体が腐乱しない軟体のままの姿で発掘され、大きなニュースになった。出土した資料は帛書、竹簡、木簡、印章など多岐にわたり、いずれも副葬品である。墨書による精彩な文字で、篆書から隷書にいたる過程を示す貴重な資料である。湖南省博物館に収蔵されている。 ===長沙漢簡=== 1972年、馬王堆一号漢墓から出土した漢簡であり、馬王堆一号漢簡ともいう。出土した竹簡は312簡、文字は1簡に2字から25字で、総計2000余字あり、そのほとんどが副葬品の品名や数量を記した目録である。従来の漢簡で年記のある最も古いものは、天漢3年(紀元前98年)の簡であるが、この墓の造営がそれ以前であることは間違いない。なお、1973年には610簡の出土があった。 ===馬王堆帛書=== 1973年12月、馬王堆三号漢墓から出土した帛書で、12万余字に及ぶ厖大な量である。帛とは絹のことで、紙が普及するまでは竹簡や木簡などの他に絹が使用されていたことを証明している。絹は保存が困難で伝来するものは稀であり、重大な発見となった。内容は、天文星占に関するもの、医学に関するもの、陰陽五行に関するものなどで、これらは前漢・文帝の12年(紀元前168年)の遺物とみられている。これに書かれた文字は、「篆書から隷書に至る過渡的な段階にあるもの。」といわれているが、「篆隷中間書というはっきりしないものではなく、正しく整形した一書体に定着した新書体である。」との見解もある。 ===新=== 新(9年 ‐ 23年、筆跡)前漢は7代・武帝から9代・宣帝の時代が最盛期で、10代・元帝から王朝の統制力は低下する一方となった。この機に乗じて元帝の皇后の甥にあたる王莽が9歳の13代・平帝を補佐するために大司馬、さらに太傅の地位についた。そして、元始5年(5年)にクーデターをおこして平帝を殺し、ついに漢の天下を奪うことに成功して始建国元年(9年)に国号を新に改め帝位についた。 儒学者である王莽は儒教的な理想国家の建設を目指して各種の改革に取り組もうと考えたが、その政策は迷信的な陰陽五行説の多用と極端な復古主義に基づくもので、社会に不安を与え、各地に農民と豪族の反発を引き起こした。そして、地皇4年(23年)10月3日、王莽は農民の反乱軍によって殺され、新は、わずか1代15年の短命な国家であった。しかし、この時代だけに造られた「貨泉」という篆書体の文字が鋳込まれていた銅貨が日本の弥生時代の古墳から発見されている。また、官印は通常4文字など偶数の字数に刻されるが、新では陰陽五行説の影響か、5文字印が多い。 ===後漢=== 後漢(東漢)(25年 ‐ 220年、書人、筆跡、書論)南陽の豪族で前漢6代・景帝の子孫である劉秀は、王莽に対する反乱軍として功績をあげ、建武元年(25年)6月、推戴されて皇帝となり、洛陽に入って漢を再興した。この王朝は後漢(東漢とも)と通称され、前漢(西漢)と区別される。 後漢の初代皇帝・光武帝は、制度をすべて前漢に復し、儒教を国教とした。前漢の高祖は農民の出身で儒学者たちの説く空疎で実用を伴わない思想や学問を軽んじたが、光武帝は学問を修めた経学者であり、儒教の教養や徳目によって官僚を登用した。よって、学問をする者が増え、社会に新しい気風が生まれた。 後漢の書の特徴は八分が発達したことで、建碑が流行し八分の刻碑として現存するものが多い。隷書の全盛期というべき時代で、その美的価値を存分に発揮した。また、後漢末期には、章草が略化されて草書となった。さらにこの頃、速書体として楷書・行書の新書体も使用されるようになり、かつ装飾的な飛白体までもが生まれた。このように、現在までに使用されているすべての書体は後漢末期までに具わっている。 ===草書=== 前漢に隷書の略から章草が生まれ、章草が隷意を失って草書になった。章草と草書の区別について、北宋の黄伯思は『東観余論』に、「凡て草書で波磔を分つものを章草と称し、そうでないものをただ草書という。」と記している。草書は行書の略のように一般に思われているようであるが、これは誤りである。草書の中で、「我」・「無」などの字は、今の楷書や行書とは連絡がなく、篆書や隷書と連絡していることがその証明になるであろう。 ===行書=== 唐の張懐*11573*の『書断』上巻に、「行書なる者は、後漢の劉徳昇の作る所なり。即ち正書の小偽、務めて簡易に従い相聞流行す。故にこれを行書という。」とある。正書とは楷書のことであるから、楷書から行書が生まれたとしているが、今日の出土文字資料の分析によれば、行書は楷書が行われる以前に草書と隷書の長所をとってこの時代に発生したとされている。ただし、これは後の行書と区別して、行狎書(ぎょうこうしょ、行押書(ぎょうおうしょ)とも)と称され、西域出土の残紙類に見られる。また行書は劉徳昇の作というが、その書は残存しないので不明である。 ===楷書=== 楷書は隷書からの変異であるが、行狎書や草書も隷書に影響を与え、後漢末から三国にかけての時代に楷書発生の要因となっている。新書体は速書きの需要から生まれる自然の変異であるが、当時の楷書・行書は現在の運筆法とはかなり異なり、相当に隷意が多いものである。なお漢の正体は隷書であるため、この補助として新しく生まれた楷書は後世、隷書または今隷と称していることが多々あるので注意を要する。 ===書論=== 書論とは、文字・書体・書史・書評・書法などを論じた著作をいう。後漢時代の書論に、趙壱の『非草書』、曹喜の『筆論』、崔*11574*の『草書勢』、張芝の『筆心論』、蔡*11575*の『筆勢』という著作があったというが、今伝わるのは、『非草書』のみで、これが最古の書論である。『非草書』には、「本来、速書のための書体である草書が懲りすぎて、かえって時間のかかるものになった。(趣意)」と記されている。これは草書の形骸化を非難した内容であり、当時それだけ草書が流行していたと推測できる。 ===紙の発明=== 紙は後漢の蔡倫が元興元年(105年)に創製したという。『後漢書』巻78・宦者列伝第68の蔡倫伝に、「(前略)古来より書契の多くは竹簡に書かれ、*11576*帛を用いたものを紙といったが、*11577*帛は高価で、竹簡は重く、ともに不便であった。蔡倫の造意は、樹膚・麻くず・ぼろきれ・魚網を使って紙にすることで、元興元年にこの製紙法を奏上した。和帝はその成果を褒め、これより広く用いられるようになり、天下の人々は“蔡侯紙”(さいこうし)と称した。」と記している。 この発明は世界における紙の創製で、その後、ヨーロッパに伝わって西洋紙になり、日本に伝わって和紙になった。この発明が文化の進展はもとより、書道界に利便を与え、書写の進歩向上を助長し、後漢に数多くの能書家を輩出した。ただし、蔡倫は本当の紙の発明者ではなく、古くからあった技術の改良者であったことが現在では認められている。 ==三国== 三国(220年 ‐ 280年、書人、筆跡) 魏(220年 ‐ 265年) 蜀(蜀漢)(221年 ‐ 263年) 呉(229年 ‐ 280年)魏(220年 ‐ 265年)蜀(蜀漢)(221年 ‐ 263年)呉(229年 ‐ 280年)後漢末期、黄巾の乱によって後漢の力は非常に弱まり、建安5年(200年)を過ぎて曹操が実権を握って華北の地に覇権を確立したが、南方の地はその覇権をめぐって劉備や孫権と争うようになった。天下統一の準備を整えた曹操は建安13年(208年)に南伐の大軍を荊州まで進出させたが、孫権と劉備の連合軍に赤壁の戦いで敗れ、目的を果たさず華北一帯を支配するに止まった。 建安21年(216年)、曹操が*11578*都で魏王に封じられ、事実上の魏王朝を創始したが、延康元年(220年)に洛陽で病死した。同年10月、その子の曹丕は後漢の献帝から位を譲られて洛陽で即位し、魏の文帝となった。劉備は成都で蜀を建国し、孫権も建業で、呉を建国してそれぞれ帝位についた。天下を3分する三国時代の始まりである。ただし、三国とはいっても後漢の設けた13州の内、魏が9州、呉が3州、蜀が1州という領有で、魏は経済的にも文化的にも最高に発達した地域を有した。よって、三国の文化は主として魏において発展が見られたが、他の国では特に述べる事柄はない。 この時代は戦乱が打ち続いた時代であり、また、建安10年(205年)、後漢の献帝を擁立していた曹操が建碑禁止令を発令したため、刻石で現存するものは少ない。漢代は陵墓が重んじられ、碑の建立が盛んであったが、曹操は陵墓の築造が経済を圧迫しているという理由から建碑を禁止し、魏においてもこの禁令がそのまま実行された。そのわずかな諸碑により書風の変遷をみると、漢の隷意を継承しながら徐々に楷書に移り行く隷楷中間の体といえる。『谷朗碑』・『葛府君碑』などがその例である。 この時代に楷書の名跡(法帖)を数多く残した魏の鍾*11579*は傑出しており、漢に生まれた楷書は鍾*11580*によって完成の域に達したということができる。特定の個人がはっきりと芸術家としての評価を与えられるようになったのは鍾*11581*あたりからで、これは書道の芸術的認識が高まったことをよく示しており、引き続き東晋、さらに唐、北宋へと引き継がれていくのである。 ==六朝== 六朝(265年 ‐ 589年) 西晋(265年 ‐ 316年) 東晋・五胡十六国(301年 ‐ 439年) 南北朝(386年 ‐ 589年)西晋(265年 ‐ 316年)東晋・五胡十六国(301年 ‐ 439年)南北朝(386年 ‐ 589年)司馬炎は魏・呉・蜀の三国を統一し、洛陽を都として国を晋と号した。これが西晋の武帝である。後に晋王朝は一旦滅びて南方で再興するが、都の建康が旧都より東に位置するため、東晋と呼ばれる。その後、戦乱は打ち続き、南北両朝に分かれて多くの国が興亡した。一般の中国史での六朝と違い、書道史での六朝とは、晋から以後、北朝をも入れて隋までを称し、南朝と北朝に大別する。秦篆、漢隷、三国の隷楷を経て、楷行草の書体が一応完成された時代である。 ===西晋=== 西晋(265年 ‐ 316年、書人、筆跡、書論)漢末の曹操による建碑禁止令に続き、武帝が咸寧4年(278年)に禁碑令を出したため、この時代の碑の遺品も極めて少ない。しかし、碑の建立ができなくなると碑を墓室の中に密かに建てるようになり、墓室は天井が低いので横に置く形の墓誌が生まれた。これに銘文を加えたものを墓誌銘という。墓誌銘の芸術は北魏で盛行するが、この時代の『張朗碑』などはその先駆をなした。 紙は後漢にはすでに発明されていたが、品質が悪く高価であった。しかし、晋代になってその生産技術が発達し普及し始めた。よって、20世紀初頭のスタインやヘディンなどによって西域から発見された木簡や残紙、特にその残紙には西晋などの紀年をもつものが多い。これらの木簡や残紙が、隷書から楷書への変化の様子や、草書・行書の書体の変遷を研究する資料となり、それによると、漢代に生まれた章草と草書も晋代においてそのまま用いられ、楷行草書の実用化が進展したことがわかる。 ===東晋・五胡十六国=== 東晋・五胡十六国(301年 ‐ 439年) 東晋(317年 ‐ 420年) 五胡十六国(301年 ‐ 439年)東晋(317年 ‐ 420年)五胡十六国(301年 ‐ 439年)西晋は匈奴に滅ぼされたが、司馬睿が王導の補佐によって皇帝の位につき、南方で晋を再興した。これより以後を東晋という。この時代、中国の北方では漢人や異民族が国を建て、短命な16の国が次々と興亡していった。この5種の異民族(五胡…匈奴・鮮卑・羯・*11582*・羌)による130余年の混乱時代を五胡十六国という。 ===東晋=== 東晋(317年 ‐ 420年、書人、筆跡、書論)三国時代から西晋を通じて行書、草書が行われ、南方に移った東晋の貴族たちによって、さらに美しく洗練されてゆく。碑刻に乏しいが刻帖は豊富であり、この時代の法帖としては王羲之のものが最も多い。当時は特に書道を尊重し、紳士の一資格として書をよくしないと上流に交わることができないという風潮があった。東晋の最初の丞相の王導が南下に際し、鍾*11583*の『宣示表』の真跡を身につけていたことは有名であり、これは能書を鑑賞する風尚を示している。 江南に居住するようになった貴族たちは、政権を掌握するとともに、広大な荘園を所有して経済的にも豊かな生活ができた。佳麗な地である江南の風景は絶佳であり、書の発達にこのような風土の関係も見逃すことができない。 ===書聖・王羲之=== 王羲之の出現によって書道は芸術としての域にまで高められた。羲之は、楷行草いずれも極致の域に達した人で、古来、中国第一、書聖と仰がれている。また、羲之を大王とも称し、羲之の第7子である王献之は小王といわれ、父子を合わせて二王、または羲献と称される。羲之の諸子はみな能書家であり、献之は最年少であるが書の天分に恵まれた。この流麗、温雅、端正な王羲之一派の書は後世の範とされ、日本には奈良時代に移入されて、日本書道の母胎ともなった。 ===五胡十六国=== 五胡十六国(301年 ‐ 439年、筆跡) 前涼(301年 ‐ 376年) 成漢(302年 ‐ 347年) 前趙(304年 ‐ 329年) 後趙(319年 ‐ 351年) 前燕(333年 ‐ 370年) 前秦(351年 ‐ 394年) 後秦(384年 ‐ 417年) 後燕(384年 ‐ 409年) 西秦(385年 ‐ 431年) 後涼(386年 ‐ 403年) 南涼(397年 ‐ 414年) 北涼(397年 ‐ 439年) 南燕(398年 ‐ 410年) 西涼(400年 ‐ 421年) 夏(407年 ‐ 431年) 北燕(409年 ‐ 436年)前涼(301年 ‐ 376年)成漢(302年 ‐ 347年)前趙(304年 ‐ 329年)後趙(319年 ‐ 351年)前燕(333年 ‐ 370年)前秦(351年 ‐ 394年)後秦(384年 ‐ 417年)後燕(384年 ‐ 409年)西秦(385年 ‐ 431年)後涼(386年 ‐ 403年)南涼(397年 ‐ 414年)北涼(397年 ‐ 439年)南燕(398年 ‐ 410年)西涼(400年 ‐ 421年)夏(407年 ‐ 431年)北燕(409年 ‐ 436年)この時代、北部中国地方は戦乱が多く、主として異民族の王朝であった。前涼の張軌と西涼の李*11584*は漢人であるが、あとの王はみな胡族である。この小国家の中には漢文化を摂取しているものもあったが、概して殺伐な遊牧民であって、文化の程度も低く、書においても見るべきものはほとんどない。書家も目立った業績を残した者はいないが、この異民族国家の中で最も勢力のあった前秦において、わずかな碑が残っている。 ===南北朝=== 南北朝(386年 ‐ 589年) 南朝(420年 ‐ 589年) 北朝(386年 ‐ 581年)南朝(420年 ‐ 589年)北朝(386年 ‐ 581年)東晋の武将、劉裕が永初元年(420年)に宋王朝を建ててから、斉、梁、陳と3つの王朝が相次いで興亡した。この4つの王朝を南朝と呼ぶ。 晋の南渡に乗じて華北の地方に多種の異民族が侵入し五胡十六国時代が続いたが、その中でやがて一番大きな勢力をなしたのが鮮卑族の一種族である拓跋氏であった。この種族の出の拓跋珪が諸国を平定して魏王朝を建て、平城(現在の山西省大同市)に都を定めた。この魏王朝は三国時代の魏と区別して、北魏または後魏と呼ばれる。その後、北魏は、3代皇帝の太武帝の時に北涼を滅ぼして華北を統一し、江南の宋と対立した。この北魏が東魏、西魏に分裂し、まもなく東魏は北斉に、西魏は北周にそれぞれ帝位を奪われた。のち北周は北斉を滅ぼして華北を統一したが、隋が北周と陳を滅ぼして天下を統一した。この北魏から北周までを北朝といい、宋から陳までの南朝に対応させている。 南朝の石刻として遺存するものは少ない。南朝で現存する法帖は、唐人の搨模といわれる少数の真跡本があるだけで、その他はすべて集帖に刻された墨拓ばかりで、原形を正しく伝えるものは少ない。北朝のものは豊富に遺存する。そのほとんどは18世紀後半以後に発見されたものである。 ===南朝=== 南朝(420年 ‐ 589年、書人、筆跡、書論) 宋(劉宋)(420年 ‐ 479年) 斉(南斉)(479年 ‐ 502年) 梁(502年 ‐ 557年) 陳(557年 ‐ 589年)宋(劉宋)(420年 ‐ 479年)斉(南斉)(479年 ‐ 502年)梁(502年 ‐ 557年)陳(557年 ‐ 589年)東晋の貴族の間に絶大な崇敬を集めていた二王の書は、引き続き南朝の各王朝でも愛好され、たえず座右に法書を置いて学書された。宋朝では王羲之よりも王献之が貴ばれ、羊欣、薄紹之、孔琳之、蕭思話、謝霊運などは王献之を学んだといわれている。斉、梁では二王ともに流行し、王導の孫の王*11585*の第3子、王曇首とその子、王僧虔などが特に書名が高い(王氏#王導を参照)。陳では王羲之の7世の孫、智永がでて王羲之の書法の復興につとめ、後代に大きな影響を与えた。しかし、のちの唐代は南朝よりもむしろ北朝の伝統を受け継いだと見るべきであり、概して南朝は書のあまり振わなかった時代といえ、有力な書家もほとんどいない。 ===北朝=== 北朝(386年 ‐ 581年、書人、筆跡、書論) 北魏(386年 ‐ 534年) 前期(386年 ‐ 494年) 後期(494年 ‐ 534年) 東魏(534年 ‐ 550年) 西魏(535年 ‐ 557年) 北斉(550年 ‐ 577年) 北周(557年 ‐ 581年)北魏(386年 ‐ 534年) 前期(386年 ‐ 494年) 後期(494年 ‐ 534年)前期(386年 ‐ 494年)後期(494年 ‐ 534年)東魏(534年 ‐ 550年)西魏(535年 ‐ 557年)北斉(550年 ‐ 577年)北周(557年 ‐ 581年) ===北魏=== 北魏の初代帝王、道武帝は、平城に都を定めたが、7代皇帝の孝文帝は都を河南省洛陽に移した。この遷都から南朝の漢民族の文化を取り入れる漢化政策が始まり、漢人の風俗、習慣、言語、そして国家の諸制度にも漢人のものを採用した。それが自然と書にも反映して北魏の書が隆盛を極めた。この時期(遷都以後)を後期と呼ぶ。前期の書の遺物はほとんどないといってよい。道武帝の建国以来、廃仏令が布かれていたが、5代皇帝の文成帝の時代に仏教復興の詔勅が発せられて、雲崗石窟や龍門洞窟などの巨大な仏像が造られるようになった。これら仏像に銘文が盛んに刻されるようになったのは後期以後のことであり、前期の雲崗石窟の仏像に付随した文字資料は極めて少なく、後期の龍門洞窟には『龍門二十品』などがある。漢化されたとはいうものの、北魏では刻石や碑に相応しい書の工夫発展がなされ、その書風は南朝とは気風を異にする新しいもので、峻険でたくましい数多くの傑作が残された。一方、南朝では立碑が禁止されていたため、技巧において洗練された優美な書風を求めたが、概して衰退したといえる。 ===東西魏以降=== 北朝の書は孝文帝の代を頂点として、その後は次第に隆盛時の風格を失っていく。北魏の書が魏晋の古法を伝えているのに対し、東魏の書は南朝の書法に従っていてもその古意を失っており、ときに楷書の中に篆隷の法を交えるなど、奇異を好んでかえって後世、悪評を買っているものもある。 ===北碑南帖=== 清の阮元が六朝時代の書には南北両派があると称してから、南書、北書と二分して見る者が多い。北方には碑・碣・摩崖などの石刻が多く、そのため書体は楷書である。南方には法帖が多く、行書・草書を伝えている。そして、北方の碑・碣(北碑)を主として研究する者を碑学派、南方の法帖(南帖)を研究する者を帖学派と呼んでいる。 ==隋== 隋(581年 ‐ 618年、書人、筆跡)300有余年にわたる異民族による南北両朝の対立も、漢民族である江南の陳王朝を最後に、ついに北方民族の隋の文帝楊堅が南北統一を果たした。しかし、第2代皇帝の煬帝は、苛酷な政治を行って人民を圧迫したため反乱により殺され、隋王朝はわずか37年で滅亡した。隋は南方の文化を取り入れ、王羲之を中心とする南朝の書道を重視した。また、煬帝は運河を開いて南北の交通を盛んにしたため、文化の交流融合がなされ、書においても南北多種多様な書風はいつしか融合統一された。この時代には刻石しか残っていないが、碑や墓誌銘に数多くの傑作を見ることが出来る。その書風は北朝の書よりも温和になり、整斉、洗練されているのが特徴で、初唐の先駆をなした。 ==唐== 唐(618年 ‐ 907年) 初唐(618年 ‐ 712年) 盛唐・中唐・晩唐(713年 ‐ 907年)初唐(618年 ‐ 712年)盛唐・中唐・晩唐(713年 ‐ 907年)わずか37年の短命な隋のあとを受けて、真の統一王朝を完成したのが唐である。唐王朝を創立したのは李淵(高祖)であるが、その子、李世民(太宗)が建国の企画、実行をし、側近に多くの名臣を集めての治世によって、貞観の治と称される太平の時代を築いた。かくして唐王朝は中国4000年の歴史の中、最も有力な王朝となり、日本の文物制度は主としてこの唐朝に範をとったのである。 ===初唐=== 初唐(618年 ‐ 712年、書人、筆跡、書論)太宗は隋以来の傾向に従って南朝の文化を基盤とした。特に太宗が王羲之を好んだために王羲之を中心とした技巧が練磨された傾向にある。太宗自身、歴代帝王中第一の能書の称があり、初唐に多くの能書家、書論家の輩出を見たのは、この帝によるところが大きい。そして、隋以来、温和で整い洗練されてきた書風は唐代になってますます発達し、ついにその黄金時代を現出している。その中で最も傑出したのは楷書であり、初唐の三大家などによる碑碣が多く残る。楷書は漢に始まり、六朝において練磨され、唐代で結実大成して、ついにその頂点に達した。後の時代に唐代の書跡に及ぶものはなく、永く後世の範となっている。 ===初唐の三大家=== 初唐に書道の名人大家が多数輩出されたことは古今にその例を見ない。中でも欧陽詢、虞世南、*11586*遂良の3人の大家を初唐の三大家と称す。この三大家に至って、楷書は最高の完成域に到達する。また、三大家に薛稷を加えて初唐の四大家とも称す。なお、初唐の三大家に盛唐の顔真卿を加えて唐の四大家と称す。 ===盛唐・中唐・晩唐=== 盛唐・中唐・晩唐(713年 ‐ 907年、書人、筆跡、書論) 盛唐(713年 ‐ 765年) 中唐(766年 ‐ 835年) 晩唐(836年 ‐ 907年)盛唐(713年 ‐ 765年)中唐(766年 ‐ 835年)晩唐(836年 ‐ 907年)初唐の末期の書は、謹厳方正を主とし外見は非常に整ったものの表面的技巧に陥り堕落していった。盛唐の玄宗皇帝の治世は開元の治と称され、学問芸術を奨励したので唐朝の文化は最高潮に達した。この時、初唐の書風を革新し新生面を開いたのが顔真卿である。篆筆で楷書を書いて一世を驚かせた真卿は、王羲之と共に中国書道界の二大宗師とも謳われる人である。しかし、逆に書法の破壊者であるという正反対の評もあり、彼の書がいかに前代までとは異質の書であったかということがわかる。その他に、行書に李*11587*、篆書に李陽冰、草書に張旭・懐素の名筆が出た。晩唐の代表作家は、柳公権と裴休である。柳公権は顔真卿から起こり、裴休は欧陽詢から起こったので、共に楷書に優れている。 ===書風の発生と流行=== 書体は社会的・実用的な要求によって変遷し、書風は個人的・芸術的な衝動によって発生、流行するものだといえる。この時代から書法を師弟の間に順次伝承するということが重んじられ、張旭や顔真卿を書法の祖師として祭り上げる風潮が起こった。そして、以後、顔真卿の追従者が多くあらわれ、日本にも大きな影響を与えている。 ===狂草=== 現行の草書(今草)は章草の波磔がなくなったものであるが、今草になって連綿(連綿草)が可能となった。この連綿草を得意としたのが張旭と懐素であり、連綿体の妙を極めた自在で美しいこの草書は狂草体と呼ばれる。この書風は後の黄庭堅や祝允明らに強い影響を与えた。但し、二王の書を尊ぶ同時代の人士には受容されず、当時は、杜甫のような新興の士から支持を受けるにとどまっていた。 ==五代・十国== 五代・十国(902年 ‐ 979年、書人、筆跡) 五代(907年 ‐ 960年) 後梁(907年 ‐ 923年) 後唐(923年 ‐ 936年) 後晋(936年 ‐ 947年) 後漢(947年 ‐ 951年) 後周(951年 ‐ 960年) 十国(902年 ‐ 979年)五代(907年 ‐ 960年) 後梁(907年 ‐ 923年) 後唐(923年 ‐ 936年) 後晋(936年 ‐ 947年) 後漢(947年 ‐ 951年) 後周(951年 ‐ 960年)後梁(907年 ‐ 923年)後唐(923年 ‐ 936年)後晋(936年 ‐ 947年)後漢(947年 ‐ 951年)後周(951年 ‐ 960年)十国(902年 ‐ 979年)唐は黄巣の乱によって急激に衰微し、後梁によって滅ぼされた。その後、宋が興起するまでの50余年は、北方で5国が興亡し、その他に大小10もの国があったので、この時代を五代十国時代という。乱世であったため文芸は衰え、優れた能書家が少なかったが、楊凝式一人が傑出していた。唐の正整な書が流れ伝わっていたが、やや方向を転換し、宋の飛動的な文字に移ろうとする過渡的な時代である。 ==宋・遼・金== 宋・遼・金(960年 ‐ 1279年、書人、筆跡、書論) 北宋(960年 ‐ 1127年) 南宋(1127年 ‐ 1279年) 遼・金(916年 ‐ 1234年)北宋(960年 ‐ 1127年)南宋(1127年 ‐ 1279年)遼・金(916年 ‐ 1234年)宋は、五代の最後の王朝、後周の将軍、趙匡胤が天下を統一して初代皇帝(太祖)となってから約320年間に亘った。しかし、167年間続いた後、いったん滅び、後に南方で再興した。初めの時代を北宋といい、再興してからを南宋というが、この2つの期間は、政治・社会・文化の上から大きい変動があり、書の上からも区別される。 ===北宋=== 宋が天下を統一するに当たって、まず、唐の制度にならって新しい国家の建設が進められた。しかし、晩唐人が法に縛られ、無気力におちた反動として、前代の形式美を破ろうとする動きが盛んになった。宋人は思索と情感により大胆に個性を表現し、自由奔放な新様式の書風を生んだ。そして、行草体に妙を競うようになり、碑刻も行体に移行したことがこの時代の特色である。また、古名跡の保護としてか、『淳化閣帖』が刻されたのもこの時である。平和で豊かな時代であった反面、軍事的には無力で、北方の異民族契丹の建てた遼に侵入されるようになり、第9代皇帝欽宗のときに遼に代わって北方を支配していた金に滅ぼされた。 ===宋の四大家=== ===北宋の書=== 戦乱で荒廃した北宋初期の文化は、五代や十国の人たちによって移入された。第2代皇帝太宗の書道の師の王著と、宋初期第一の書家といわれた李建中は、ともに後蜀からきた人で、『説文解字』を校訂した徐鉉は南唐からきた人である。はじめは唐の模倣による保守的な書風から始まったが、第4代皇帝仁宗の頃から革新的な動きが起こり、顔真卿や楊凝式を基盤とした独創的な書家が生まれた。その代表が宋の三大家といわれる蘇軾・黄庭堅・米*11588*であり、これに蔡襄を加えて、宋の四大家とも称す。 === 『蜀素帖』(部分) 米*11589*書 蔡襄 仁宗の頃、宋朝第一の書家と称せられ、その書は楷行草の各体をよくし、行書が最も優れ、小楷がこれに次いだ。概して伝統派の本格的な書を書いているが、大字は顔真卿の書風であり、宋の顔真卿とも称された。また、その中に宋代の豪放縦逸な書風の先駆をなすものを含んでおり、蔡襄の出現が後の革新的な宋の三大家を生む素地となった。なお、本来の四大家は蔡襄ではなく蔡京との説もある。 蘇軾 中国第一流の文豪であるが、書にも一見識を備えた。書は二王からはじめ、のち顔真卿・李*11590*を学んだ。楷行草をよくし、特に大字に筆力を見る。書の中に人間性を確立し、他人の書を模倣することを排し、技巧よりも独創性を尊んだ。この説は師の欧陽脩から出て、さらにこれを徹底している。蘇軾は黄庭堅や米*11591*より少し先輩であったため指導的な地位にあり、特に思想的に彼らに与えた影響は大きい。蘇軾は顔真卿の革新的な立場を理想とし、黄庭堅と米*11592*はこの考えを発展させた。 黄庭堅 蘇軾の人物を尊敬し、その門で書を学び、晩年には張旭・懐素・高閑の草書を学んだ。黄庭堅は、「書に最も大切なものは、魏・晋の人の逸気、つまり法則にとらわれず自由に心のままに表現することであり、唐の諸大家は法則にとらわれてこれを失ってしまった。張旭・顔真卿に至ってこの逸気を再現した。」と言っている。黄庭堅の代表作の『黄州寒食詩巻跋』は、蘇軾の『黄州寒食詩巻』の跋であるが、跋というよりも蘇軾の書と妙を競っているような感があり、傑作とされている。 米*11593* 書画がうまかった上に鑑識に優れたため、第8代皇帝徽宗の書画の研究およびコレクションの顧問となり、非常に重く用いられた。その鑑識眼は中国史上最高といわれる。また、自らも収蔵し、臨模に巧みで、晋唐の名跡をよく臨模した。彼の作った*11594*本は原本と区別することができなかったという逸話がある。顔真卿・欧陽詢・柳公権・*11595*遂良を学び、後に二王らの晋人を深く研究したが、彼ほど古典を徹底的に研究した者は稀である。書画についての著書も残し、今日でも王羲之や唐人の真跡を研究する上で最も重要な参考資料となる。三大家の中で彼の書は実力の点で最も優れている。=== ===蔡襄=== 仁宗の頃、宋朝第一の書家と称せられ、その書は楷行草の各体をよくし、行書が最も優れ、小楷がこれに次いだ。概して伝統派の本格的な書を書いているが、大字は顔真卿の書風であり、宋の顔真卿とも称された。また、その中に宋代の豪放縦逸な書風の先駆をなすものを含んでおり、蔡襄の出現が後の革新的な宋の三大家を生む素地となった。なお、本来の四大家は蔡襄ではなく蔡京との説もある。 ===蘇軾=== 中国第一流の文豪であるが、書にも一見識を備えた。書は二王からはじめ、のち顔真卿・李*11596*を学んだ。楷行草をよくし、特に大字に筆力を見る。書の中に人間性を確立し、他人の書を模倣することを排し、技巧よりも独創性を尊んだ。この説は師の欧陽脩から出て、さらにこれを徹底している。蘇軾は黄庭堅や米*11597*より少し先輩であったため指導的な地位にあり、特に思想的に彼らに与えた影響は大きい。蘇軾は顔真卿の革新的な立場を理想とし、黄庭堅と米*11598*はこの考えを発展させた。 ===黄庭堅=== 蘇軾の人物を尊敬し、その門で書を学び、晩年には張旭・懐素・高閑の草書を学んだ。黄庭堅は、「書に最も大切なものは、魏・晋の人の逸気、つまり法則にとらわれず自由に心のままに表現することであり、唐の諸大家は法則にとらわれてこれを失ってしまった。張旭・顔真卿に至ってこの逸気を再現した。」と言っている。黄庭堅の代表作の『黄州寒食詩巻跋』は、蘇軾の『黄州寒食詩巻』の跋であるが、跋というよりも蘇軾の書と妙を競っているような感があり、傑作とされている。 ===米*11599*=== 書画がうまかった上に鑑識に優れたため、第8代皇帝徽宗の書画の研究およびコレクションの顧問となり、非常に重く用いられた。その鑑識眼は中国史上最高といわれる。また、自らも収蔵し、臨模に巧みで、晋唐の名跡をよく臨模した。彼の作った*11600*本は原本と区別することができなかったという逸話がある。顔真卿・欧陽詢・柳公権・*11601*遂良を学び、後に二王らの晋人を深く研究したが、彼ほど古典を徹底的に研究した者は稀である。書画についての著書も残し、今日でも王羲之や唐人の真跡を研究する上で最も重要な参考資料となる。三大家の中で彼の書は実力の点で最も優れている。蘇軾・黄庭堅・米*11602*の三家の共通点は、唐以来の技術本位の伝統的書道を退けて、創作を主とする書芸術を打ち立てたことにあり、これは明・清以後の近代書道の方向を示すものとなった。 ===集帖=== 宋の太宗は唐の太宗と同様に、二王の伝統を保持した。そして、淳化3年(993年)、勅命により王著が歴代の書跡によって『淳化閣帖』10巻を編纂したが、その半ばにあたる第6巻以下は、二王の書が集刻されている。この集帖は後世、集帖界の王者として君臨し、書道界を裨益したことは誠に大きな功績である。また、徽宗の美術の愛好と蒐集が美術の隆盛を促し、書においては蔡京らに命じて『淳化閣帖』をもとに『大観帖』10巻を編纂させた。 ===南宋=== 南宋時代はもはや三大家を生んだ北宋後期の生気はなく、概して書道衰微の時代で、優れた書家は生まれなかった。しかし、禅僧の間に蘇軾・黄庭堅・張即之の独特な書風が流行し、これは日本の鎌倉時代の禅林にも流行した(詳細は禅林墨跡を参照)。また、書道に関する研究書が多く刊行され、これらの著録が後世、書道界を益したことは大きいといえる。 ===遼・金=== 遼・金(916年 ‐ 1234年) 遼(916年 ‐ 1125年) 金(1115年 ‐ 1234年)遼(916年 ‐ 1125年)金(1115年 ‐ 1234年)遼は南北朝の頃から中国の北方に住んでいた契丹族の建てた国である。そして、段々と領域を広げていき、ついに宋と対立ほどに強大になった。この国は200年以上続いたが、後に強力となった金に滅ぼされた。金は女真族の建てた国で、遼を滅ぼし、さらに北宋をも滅ぼして中国本土の淮河以北を領有した。両国ではともに独自の文字を作って漢字と併用した。この文字は、遼では契丹文字、金では女真文字という。金には皇帝の一人の章宗など多少見るべき書家がいたが、両国ともに書道史上、特に重視すべきことはない。 ==元== 元(1271年 ‐ 1368年、書人、筆跡、書論)モンゴル族を統一しモンゴル帝国の初代皇帝となったチンギス・ハーンは、東は満州から西はカスピ海北部におよぶ広大な地域を征服し、さらに金を攻めた。しかしその途中の1227年、病に没した。そして、1234年、その第3子の第2代皇帝オゴタイは、南宋と結んで金を滅ぼした。 チンギス・ハーンの孫で第5代皇帝のクビライは、 至元8年(1271年)に元を建て、至元16年(1279年)、南宋を滅ぼしてついに中国全土を支配した。遼や金などの異民族の征服王朝が中国の伝統を尊重したのに対し、モンゴル人は概して漢人を冷遇し漢文化にも冷淡であった。そのモンゴル至上主義では人民の四等級の体制と科挙の廃止などが実施され、漢人、特に南宋の地域の漢人を南人(なんじん)と呼んで極度に圧迫した。この時代は、こうした漢人の文化を黙殺した政策によって書の方面も沈滞した。 また、高い文化と豊かな富をもつ南人を国力に取り込めず、元王朝は人材不足を招いた。そこで南人にも賢才が求められ、ここに宋王朝の宗室であった趙孟*11603*ら24人が選び出された。 ===趙孟*11604*=== 趙孟*11605*は元王朝に仕えて栄達し、元王朝の書壇を代表する存在となった。元の皇帝も彼には敬意をはらったが、宋の宗室の出でありながら元に仕えることに葛藤の日々が続いた。趙孟*11606*は王羲之の書を最高とし、その伝統を守ろうとする復古調の雅健整正な書風を起こした。40代のときには王羲之の7世の孫・智永の真草千字文の臨書に没頭し、44歳のときに、臨書した千字文の跋に、「この20年来、臨書した千字文は100本に及んだ。」と記している。そして、宋の三大家らの個性的な書は、古法を軽んじ粗放に流れ、古法を荒廃に導くものと捉え、王羲之の書を次代に伝えた。趙孟*11607*につづく鮮于枢や*11608*文原などの書人もこの復古主義を受け継ぎ、晋唐の書を目指した。その他に、楊維*11609*や康里*11610**11611*なども書名が高い。中でも色目人の康里*11612**11613*の個性的な書法が異彩を放ち、趙孟*11614*に次ぐとの評価を得て人々はこれを宝としたといわれる。彼の楷書は虞世南、行書は二王と米*11615*を理想とし、晋人の筆意を得てその境地に達するものとされた。また、章草の名手とも知られ、その激しいタッチの章草の筆法は趙孟*11616*などには見られない激しい感情を表現している。 ==明== 明(1368年 ‐ 1644年、書人、筆跡、書論)元王朝の内政は、皇位継承をめぐる紛争と、国土拡大のための度重なる遠征から財政難を招いた。また、元王朝の最後の皇帝は全くの無能で、諸方に起こった反乱を鎮圧することができず、ついに漢人の朱元璋によって滅ぼされた。 異民族のモンゴル族を追放して約250年ぶりに漢人の天下を回復した明は、儒教を根幹とする政策を徹底し、伝統的な漢文化を復帰させた。概して書道が興隆し、多くの能書家が輩出し、最も行草体の盛行した時代である。 明代の約280年は書の上から、初期(約120年、元王朝以来の復古主義を継承し伝統の書法が行われた時期)・中期(約80年、初期の惰性的復古色を一掃する新古典主義が誕生した時期)・末期(約80年、明代の革新的な書道の大成期)の3期に分けることができる。代表的作家は末期の動乱期に現れている。 ===初期=== 明初は王羲之以来の古典が尊重され、趙孟*11617*の書風に感化された状態であった。成祖は書を好み二王の書を学習させるなど古法書の学習を奨励し、それにつづく諸帝もみな書をよく学んだ。この時期に最も書名のあった人としては、王羲之の書法を宗とした三宋二沈(さんそうにしん、三宋は宋克・宋*11618*・宋広、二沈は沈度・沈粲)がいる。三宋の中では宋克が最もすぐれ、草書と楷書をよくし、この楷書が沈度に受け継がれ、干禄体の基礎となった。そして、沈度の書が成祖の好むところとなったことから朝廷の重要文書はすべて沈度に書かせるようになり、その弟の粲も兄の推挙によって重用され、二沈の称が天下に知れ渡った。この時期は概して晋唐の書に終始しているが、その中で宋克の章草や二沈の草書は逸脱した気風を備えたもので趙風ばかりではなかった。 ===中期=== 中期は商業が著しく繁栄し、中国第一の商工業都市となった呉中(現在の蘇州)ではこの繁栄を背景に詩書画結合の芸術形式が普及し、また篆刻も文人芸術として発展した。富を得た新興層が書画を求めたため書画の価値が急騰し、官界に背を向け書画で生計を立てる文人(沈周・文徴明・祝允明・王寵・陳淳など)が多数輩出され、彼らは呉中派と呼ばれた。また、優れた鑑賞眼と見識をそなえ収蔵に熱意を傾ける鑑蔵家が多数現れ、集帖・書画録が刊行された。 ===末期=== 明末は内乱が相次ぎで起こり、国家は疲弊と混乱に陥り、書をよくした人も政治的には極めて不運な人たちが多い。その苦悩と反抗の中にあって、まず董其昌は、王羲之以来の伝統書法の系譜に新鮮な生命の息吹を注入し、革新的な傑作を数多くのこした。董其昌につづく、張瑞図・黄道周・倪元*11619*・傅山・王鐸らも深く書に心を寄せてその気概を示した人たちであり、その人物とともにその書が称賛されている。明代の書は、おおむね宋の四大家を通して継承され、董其昌も蘇軾の語によっており、王鐸は董其昌の理論を実践している。連綿を多用した彼らの行草体は、特に長条幅という明初以来の新しい書の作品様式を完成させた。連綿草は王献之あたりに端を発し、張旭や懐素も立派な作を残しているが、王鐸・傅山・董其昌あたりで最高潮を示し、明末清初は連綿時代を画した。この時代の一番の実力者は王鐸で、長条幅連綿行草作家の中でも特に傑出している。 ==清== 清(1644年 ‐ 1912年、書人、筆跡、書論)明は李自成によって崇禎17年(1644年)に滅ぼされ、大清つまり清は康熙元年(1662年)中国全土を支配した。清朝は第4代皇帝に名天子の康熙帝が出て、満州民族でありながら漢民族の伝統文化を尊重し、その復興につとめた。また第6代皇帝の乾隆帝も『淳化閣帖』を覆刻するなど皇帝が書に興味を示したことから官吏や学者が書道を重んじるようになった。 学問の研究が非常に盛んになったこの康熙・雍正・乾隆3代の約130年の間は清朝文運の最盛期で、「康熙乾隆の盛世」とも称され、この間、『古今図書集成』や『四庫全書』の編纂など、漢人学者主導による数々の大規模な文化振興事業が実施された。この伝統文化を拡充する政策は考証学を盛んにし、金石学が新しく学術の主流に置かれる結果をもたらし、従来の法帖中心から碑石・金文に注目が移った。法帖を中心として書を研究する人たちを帖学派、北魏や隋の碑を研究対象とする人たちを碑学派と称しているが、清朝書道界における最も著名なことはこの碑学派の勃興である。 清朝を書の上から区分すると、清初より雍正年間に至る初期、乾隆・嘉慶の隆盛期、道光以後の後期の3時期からなるが、初期は帖学派が主流をなし、隆盛期は帖学が大成された時代であると同時に碑学が新しく興り、後期は碑学派が主流となった時代である。 ===初期=== 王羲之を主とする法帖が全盛の時期であったが、深く書の伝統を支えていたのは明人であり、清代になってからも活動を続けた王鐸は清代書家の筆頭といえる。傅山の独自のすぐれた作品は清代に入ってからであるが、彼は世に出ず亡命生活を送った。康熙帝は明の末期の代表作家である董其昌の書を好み、この影響によりこの時期は董其昌風の書が一般に流行した。康熙帝の後に即位した雍正帝は康熙時代からの文化事業を継続し、この雍正時代の書道界で最も活躍したのは、王*11620*と張照である。 ===隆盛期=== 乾隆帝は祖父の康熙帝に並ぶ立派な天子で、清朝の経済は最も成長した時期である。書においては乾隆帝が趙孟*11621*の書を好んだため趙風が流行した。また、この時期に古典の文献的研究として実証主義を重んじる考証学が勃興し、その具体的分派というべき金石学が起こり、三代・秦・漢・六朝の古法の研究が考証的に行われた。ただし、考証学勃興の背景には、清王朝が漢民族の統治にあたり、政治に直結する学問にしばしば弾圧を加えたことにより、学者たちの興味が学問のための学問、つまり古典へと向いていった経過がある。阮元の書論『南北書派論』・『北碑南帖論』により南北朝時代から南方の法帖と北方の碑の書の相違が論じられ、北派(碑学派)の書論の根拠となり、また包世臣の『芸舟双楫』が北派の書論に気勢を加えた。元・明時代は行草書や細楷がほとんどであったが、碑学派によって久しく中絶していた隷書や篆書が復興し、これに伴い明末から発達した篆刻が盛んになった。帖学と碑学が重なり合ったこの時期に、清朝を代表する大家が輩出している。帖学派の最高峰である劉*11622*、碑学派の*11623*石如、碑学と帖学両派の翁方綱などであるが、特に*11624*石如の功績は大きく、清末の篆書・隷書の名手(呉熙載・楊沂孫・趙之謙・呉昌碩など)の指標となった。 ===後期=== 道光以後のこの時期は、康有為の碑学を尊重する書論『広芸舟双楫』などもあって碑学の浸透と金石趣味が定着する中、書の表現は多様化に向かった。各体にわたって情緒豊かな作風を打ち立てた何紹基はこの代表であり、*11625*石如、趙之謙とともに碑学派の3代表とされている。 =高尾山古墳= 高尾山古墳(たかおさんこふん)は、静岡県沼津市東熊堂(ひがしくまんどう)にある古墳である。形状は前方後方墳、史跡指定はされていない。沼津市教育委員会は古墳時代最初期の西暦230年頃(邪馬台国の時期)の築造、被葬者の埋葬は250年頃と推定しており、古墳出現期の東日本では最古級かつ最大級の古墳とされている。日本考古学協会は、日本の初期国家形成過程の画期である古墳文化形成を解明する上で極めて重要な遺跡であると評価している。 また高尾山古墳は都市計画道路(沼津南一色線)の建設予定地にあたっており、沼津市は沼津南一色線を都市の骨格を形成する重要な路線であると位置付けている。そのため、これまで道路建設と古墳保存を巡って様々な議論がなされていて、古墳保存と道路建設事業の両立を目指した施策が検討されている。 ==高尾山古墳の発見と名称について== 高尾山古墳の墳丘部には、かつて前方部には熊野神社、後方部には高尾山穂見神社が鎮座していた。中でも後方部の高尾山穂見神社は方形をした高台に立地していたため、古墳の上に建てられているのではないかと推測されるようになった。 加藤学園考古学研究所に勤務していた小野真一は、知人とともに昭和40年代、東名高速道路に伴う遺跡調査中に、高尾山穂見神社は古墳上にあるのではないかと考えるようになった。小野は1978年(昭和53年)、自らの著書「目でみる沼津市の歴史」上で高尾山穂見神社にちなみ高尾山古墳として紹介し、墳形は方墳であるとしていた。ところがその後、沼津市が遺跡として登録する際、小字名にちなみ辻畑古墳として登録した。しかし辻畑は古墳北側の地名であり、高尾山古墳の小字名は正確には北方である。 沼津市が遺跡として登録したにもかかわらず、しばらくの間、調査が行われることもなく、古墳に伴う遺物等が確認されることもなかった。事態が動くきっかけとなったのが都市計画道路沼津南一色線の建設計画の進展であった。平成に入る頃から都市計画道路沼津南一色線の道路建設が進み、道路予定地となった熊野神社、高尾山穂見神社付近も2005年(平成17年)度までに用地取得が進んだ。そして両神社とも東側の隣地に移転することが決定したが、そこで問題となったのが高尾山穂見神社の下に眠っているとの説があった古墳の存在であった。そこでまず2005年度から神社の移転予定地と高尾山穂見神社の北東側で試掘調査が行われる運びになり、その結果、周溝、土師器が検出され、高尾山穂見神社が乗る方形の高台をめぐる溝状の遺構が確認されたため、方墳ではないかと推定された。 2007年(平成19年)度には第2次の試掘調査が、2008年度から2009年度(平成20年度〜平成21年度)にかけて本調査が実施された。発掘調査の結果、長野県松本市の弘法山古墳などと同じく、3世紀代に築造された古墳出現期の前方後方墳である可能性が高くなった。そして2011年(平成23年)、これまで辻畑古墳とされていた古墳の名称を、小野真一が最初に名付けた高尾山古墳を正式名称とすることになった。なお本調査では後述する道路建設と古墳保存との関連で、埋葬施設など主体部の発掘は行われたが、墳丘を掘り下げる調査は中止された。 2014年(平成26年)度には、高尾山古墳の築造年代の確定と、主体部が複数存在するかどうかについて検証するために、追加調査が行われた。 ==古墳の立地と環境== 高尾山古墳は愛鷹山から伸びる尾根の末端部に立地している。古墳の立地場所の標高は約20メートルであり、尾根上の立地ではあるものの高台に築造された古墳であるとはみなし難い。 古墳が立地している愛鷹山は約40万年前に活動を開始したと考えられる火山である。約17万年前以降、愛鷹山は山体の南東部、現在の沼津市から長泉町方面に盛んに安山岩質やデイサイト質の溶岩を流出し、なだらかな丘陵地が形成されていった。高尾山古墳はこの約17万年前から始まった愛鷹山の火山活動によって形成された丘陵地の末端に築造された。 愛鷹山の火山活動は約10万年前には終了し、その後、愛鷹山の北北西にある古富士火山が活発に活動するようになる。古富士火山の活発な活動によって愛鷹山の山麓には大量の火山灰が降り注ぎ、ぶ厚いローム層が形成されていく。古富士火山の活動後半期には上部ローム層と呼ばれる地層が形成された。上部ローム層は激しい噴火活動に伴い噴出したスコリア層と、腐植質の土壌とされる黒色帯の互層となっている。愛鷹山麓に上部ローム層が形成された時代、堆積した火山堆積物は富士山に関わるものばかりではない。約2万5千年前とされる姶良カルデラの巨大噴火による火山灰は愛鷹山麓にも厚く積もり、時期をほぼ同じくして活動した古富士火山の火山堆積物と混合し、ニセローム層と呼ばれる地層を形成した。 古富士火山の活動休止後、約1万1000年前からは新期富士火山の活動が始まる。新期富士火山の活動は当初大規模な溶岩流出がメインであり、愛鷹山が障害となって高尾山古墳周辺には溶岩は到達しなかった。そのためこの時期、愛鷹山麓では黒色帯の地層が発達する。上部ローム層最上部にあたる休場ローム層の上部にみられる黒土層がそれである。約3200年前の縄文時代晩期には、天城山のカワゴ平から伊豆東部火山群の活動の一環として大量のカワゴ平軽石が噴出するが、愛鷹山の山麓では基本的に目立った地層を形成していない。そしてやはり縄文時代晩期には、富士山の東側斜面で大規模な山体崩壊が発生し、大量の土石流が黄瀬川流域に流れ下った。その結果として現在の沼津市街地の東部に岩屑なだれが堆積し、黄瀬川を中心とした扇状地を形成した。これを黄瀬川扇状地と呼び、弥生時代が始まる頃には現在の沼津市街地の東部は陸化していたと考えられる。 一方、高尾山古墳の西側は、縄文海進によって愛鷹山のふもとまで海が広がっていた。その後、海退と富士川より供給された土砂などによって狩野川の河口方面に向かって砂州が形成されていき、やがて愛鷹山麓と砂州との間に水域が形成された。これが浮島沼の原型である。この水域は汽水域から沼地、そして湿地帯へと遷移していくが、高尾山古墳が築造された時期には、古墳の南西から約2〜3キロメートルの地点まで舟による行き来が可能であったと考えられている。 そして弥生時代最末期から古墳時代初頭にかけて、新期スコリアが高尾山古墳周辺の愛鷹山山麓に降下した。高尾山古墳の後方部墳丘は、この新期スコリア層の直上に築造されている。 ==高尾山古墳築造までの沼津== 高尾山古墳周辺では、大方の旧石器時代から縄文時代にかけての遺跡は愛鷹山麓にある。これは高尾山古墳の東側から南側にかけては、縄文末期に発生した富士山の大規模な山体崩壊以前は海域であり、また西側も浮島沼の形成が進む前はやはり海であったためである。しかし砂州の形成が進みだした縄文時代中期後葉以降の遺跡は高尾山古墳西側で見つかっている。 沼津市周辺の縄文時代晩期末から弥生時代にかけての遺跡は少なく規模も小規模である。当時の集落は弥生時代に入っても、農業より前時代の縄文時代を引き継いだ採集・狩猟を主たる生業としていたと考えられている。紀元前2世紀頃の弥生時代中期中葉以降になると、農耕を生業とする集落が発達するようになる。この頃、関東地方では近畿や伊勢湾地方など、西方からもたらされたと考えられる農業技術を基盤とした大規模な集落が見られるようになっており、沼津市周辺の弥生時代中期中葉の遺跡からは関東地方との結びつきを示す土器が発掘されている。そして紀元前1世紀頃の弥生時代中期後葉になると、前時代よりも多くの集落が営まれた様子が確認されている。 弥生時代後期から古墳時代にかけて、静岡県東部域は多様性に富む複雑な地形に制限を受けながらも、富士山麓、浮島沼周辺、愛鷹山周辺、狩野川流域と田方平野に、それぞれ特徴的な集落が発展した。高尾山古墳周辺では弥生時代後期前葉、集落は主として黄瀬川扇状地上、浮島沼を形成する砂州上、愛鷹山の丘陵と浮島沼の低地との境界周辺に発達した。 弥生時代後期後葉の静岡県では大規模な集落の再編があったことが確認されている。弥生時代後期後葉、高尾山古墳周辺の集落にも大きな変化が訪れる。これまでの集落と入れ替わるように、標高約75メートルから約200メートルの愛鷹山丘陵地の約2キロメートル四方に、多くの集落が集中する足高尾上遺跡群が形成されたのである。 静岡県下で弥生時代後期後葉に確認されている集落の再編は、平野部の集落が消滅、縮小し、一方丘陵地帯の集落が増加するという、一見、高尾山古墳周辺と同様の経緯を辿っているが、足高尾上遺跡群のような標高が高い場所に集落があるという事例はまれである。集落の成立については、これまで低地に住んでいた人々が愛鷹山の丘陵地へと移住して足高尾上遺跡群の集落を形成したものと考えられているが、なぜこのように標高が高い丘陵上に集落が集中するようになったのか、はっきりとした理由はわからない。足高尾上遺跡群は住居跡の他、畑作を行っていたと考えられる耕作地跡、そして方形周溝墓が検出されており、住居、生産施設、墓域が備わっていることが明らかとなっている。そして遺跡群の北側には丘陵地の尾根を切る形で大規模なV字溝が掘られていた。また足高尾上遺跡群の特徴として発掘された土器の多くが在地系のもので、南関東系、東海系の土器が見られるもののその数は多くないという傾向が挙げられ、このことから比較的保守的な集落のあり方が想定されている。 足高尾上遺跡群は弥生時代後期後葉に形成され、古墳時代初頭まで継続する。つまり想定される高尾山古墳の築造年代前後まで集落が継続していたと考えられている。集落の存在時期と古墳の築造時期が重なる上に、集落群の北側の大規模なV字溝の建築を行うなど、足高尾上遺跡群の集落群は統制が取れたリーダーシップのもとにあったとして、高尾山古墳の築造に大きくかかわっていたと考える意見があり。また足高尾上遺跡群は高尾山古墳の築造に間接的に関わっていたのではないかとの説もある、また愛鷹山丘陵部の足高尾上遺跡群、浮島沼周辺の集落、そして狩野川や田方平野の集落との繋がりの中で、高尾山古墳を造営する集団としてのまとまりを形成していったのではないかと見られている。 一方、弥生時代後期以降、狩野川流域や現在三島市や伊豆の国市である田方平野でも、多くの集落が発達するようになる。高尾山古墳の周辺と同じく、やはり弥生時代後期後葉にはいったん丘陵地への集落の移動があったと推定される。 ==古墳の諸元と議論== 高尾山古墳は後述するように墳丘や周溝の一部が破壊されているものの主体部は未盗掘であった。古墳の保存状態は比較的良好とされ、そのため墳形、墳丘の形態がほぼ判明し、質量ともに充実した土器類、主体部から発掘された副葬品など、学術的に貴重なデータが数多く提供され、考古学の専門家から大きな注目を集めるようになった。高尾山古墳の発掘データは主に東日本の古墳出現期研究に多大な影響を与え、その解釈をめぐって様々な論議が起こり、発掘調査報告書も多様な見解を併記する様式となった。また報告書の刊行後、高尾山古墳の評価、位置づけについて特集した雑誌が発行されており、これは高尾山古墳について考古学研究者が持っている関心の高さを示している。 ===墳形、墳丘と周溝=== 高尾山古墳の墳丘は、前方部には熊野神社、後方部には高尾山穂見神社があったことなどによって改変を受けている。特に前方部は神社の境内を造成したため、墳丘上部が全面的に削られている。後方部も墳丘の周囲に神社の擁壁が築かれたために規模が小さくなっている。また墳丘上部も数十センチ削られてしまったと推定されている。またかつて墳丘に防空壕が複数掘られており、これも墳丘破壊の一因となった。 そして古墳の西側は道路(市道)によって広く削られている。この道路は1920年(大正9年)に旧金岡村の村道とされており、それ以前も道路であったと見られ、西側の墳丘と周溝はかなり以前から削られていたものと考えられている。高尾山古墳の総面積は推定約3030平方メートルで、そのうち平面上現存している部分は約2200平方メートルであり、平面の残存率は約73パーセントである。ただし周溝の下部については市道の路盤の下に残存していると推定されている。 高尾山古墳の墳丘の主軸は南北方向である。墳丘の平面形状については、前述のように主として墳丘と周溝の西側が道路などによって削平されてしまっているため、想定による部分もある。墳丘の全長は62.178メートル、前方部長は30.768メートル、後方部長は31.768メートルである。墳丘の西側が形状が明らかとなっている東側と対称形をしているとすると、後方部は北辺が29.182メートル、南辺が35.7メートルとなり、北辺が南辺よりもやや短い台形状をしている。また後方部の各隅は丸みを帯びている。前方部の形態は後方部との接続部分から南側に向けてやや広がる形態をしており、撥形をしていると判断されている。 周溝については、おおむね墳丘に沿って8メートルから9メートルの幅となっている。しかし前方部前面(南側)の周溝は、幅2.5メートルから3.2メートルと狭く、また前方部前面の南東部約6.4メートルの間は周溝が途切れ、土橋となっている。そして前方部南側の周溝から更に南側約4メートルのところに、幅約1メートルの東西方向に走る溝が検出されている。この溝から出土した土器は弥生時代終末期から古墳時代のものであり、溝が南側周溝と並行していること、更には東端が高尾山古墳の墳丘南東側で終わっていて、墳丘南東部の土橋の機能を補完するとも考えられることから、高尾山古墳を構成する要素の一つと判断されている。なおこの溝の西側がどこまで続いているかは未確認であるが、溝の先には高尾山古墳被葬者の居館跡の候補地のひとつとされる入方遺跡がある。 墳丘についても、前述のようにやはり西側は道路(市道)によって広く削られている。また後方部は高尾山穂見神社の擁壁、防空壕などによって、前方部も熊野神社の境内造成によって、どちらも改変を受けている。比較的築造当時の状況をとどめていると考えられるのは、かつて高尾山穂見神社の社殿への階段となっていた後方部の南側斜面のみであった。後方部南側斜面の斜度は約30度であり、これは斜面の安全性を考慮した傾斜であると考えられる。 高尾山古墳の大きな特徴の一つとされているのが、古墳築造に際して大規模な丘陵部の削平が行われたことである。これは周溝東側で確認されている住居跡から判明した。高尾山古墳築造後の律令時代に建てられたものと考えられるこの住居跡の、その床面が当時の地表面から3メートル近い深さのニセローム層の下位の黒土層にまでに達しているのである。愛鷹山山麓の律令時代の住居跡は、深く掘り込まれていたとしてもニセローム層の上層である上部ローム層最上部にあたる休場層までがせいぜいである。ところがニセローム層を超えて黒土層まで達するということは、住居建設時点で土地が削られていたこと、すなわち高尾山古墳築造に際して土地の削平が行われたことを示している。この削土は最大2メートルに及んだと推定されており、墳丘を築造する用土の確保、丘陵を削平して平坦面を造成することによって、古墳の大きさや形を誇示するといった目的が考えられている。このような古墳築造に伴う丘陵部の大規模削平という大きな土木工事は、他の古墳出現期の古墳では確認されていない。高尾山古墳の被葬者が多くの建設要員を動員できた上に、大きな経済力も持っていた、と想定される。 丘陵部の大規模削平による造成工事の終了後、周溝の掘削が行われたと考えられている。周溝は削平後に掘削されたため、北側ではニセローム層、南側では休場層から掘り込まれている。なお後方部は弥生時代最末期から古墳時代初頭にかけて降下した新期スコリア層の上に築造されており、少なくとも後方部に関しては現地形を改変せず、盛土を行ったと考えられている。丘陵部の削土や周溝の掘削により発生した土は墳丘の築造に用いられたと考えられているが、愛鷹山麓の上部ローム層のスコリア層は粘り気がなく崩れやすい性質であるため、黒色土や粘性がある土と混交させた上で使用したと見られている。また後方部墳丘は、少しずつ土を盛っては突き固めていく、いわゆる版築工法を用いて築造された。現状では後方部の高さは4メートルあまりとなっているが、埋葬施設や埋葬施設上の土器の出土状況から約50センチメートル削平されたと考えられるため、築造当初、後方部の盛土は高さ5メートル近くに達したものと推定されている。 前方部については熊野神社造成に伴う土砂の直下が休場層であり、休場層でその墳形が確認されている。そのため前方部では古墳築造前の削平は行われたのか、また築造時の盛土がどのように行われたのかについて、直接的な情報は得られていない。しかし全く推定できないわけでもない。比較的原型をとどめていると考えられる後方部南面の斜面は、後方部と前方部の接続地点に向けて新期スコリア層付近まで続いていることが確認されている。更に、後方部周辺の周溝からは墳丘からの崩落土が検出されるのに、前方部周辺の周溝からはほとんど検出されない。これらのことから、前方部の墳丘は低く、盛土はほとんど行わずに周溝を掘削してその形を作りだしたと考えられている。 高尾山古墳の墳丘には葺石は無く、埴輪も無い。また高尾山古墳の築造企画については、寺沢薫が初期前方後円墳と同様とする円形企画、北條芳隆が方形の企画を提唱している。北條は前方後方墳としては滋賀県の富波古墳、前方後円墳では山梨県の甲斐銚子塚古墳の築造企画との相似を指摘している。北條はまた、築造企画の源流はヤマト王権にあったと推定されるものの、高尾山古墳に代表される駿河湾沿岸部の古墳築造企画が、古墳築造開始当時の関東、東北地方に広まっていった可能性が高いとしている。 そして前方後方墳における高尾山古墳の位置づけとしては、前方部が後方部と同程度の長さをしており、前方部が大きいことを注目する意見もある。弥生時代の前方後方系の墳丘墓の多くは前方部が短小であり、前方部が発達した高尾山古墳は墳丘墓の段階を超え、初期的な前方後方墳としての位置づけが妥当であるとしている。その一方、周溝が全周せずに前方部東南に土橋を残しているのは、定型化が完成した前方後方墳ではなく、前段階の古い要素も残しているとする。また前方部、後方部の形態から、千葉県木更津市の高部32号墳との類似を指摘する意見もある。そして両古墳の墳形の源流は東海西部であるとみなし、古墳出現期に沼津と木更津に忽然と現れた高尾山古墳と高部32号墳は、ともに在地の勢力による古墳ではなく、東海西部の勢力による築造の可能性が高いとする説がある。 ===主体部=== 2008年(平成20年)度の発掘調査時において、高尾山穂見神社の基礎の下部にあった境内整地用の砕石等を取り除くと墓坑が確認された。墓坑は後方部の中央に位置し、墓坑内の埋土からは、主体部上部に供献されたと考えられる二重口縁の土器と大廓式の土器が発掘された。墓坑はほぼ長方形をしており、東辺が4.955メートル、南辺が6.135メートル、西辺は4.431メートル、北辺は5.923メートルであり、長辺は南北方向の墳丘軸とは直交する東西方向となる。墓坑の壁面は垂直ではなく、ゆるやかな傾斜で棺床へ向かっている。 副葬品の銅鏡の下から木片が検出され、また棺床から木目の痕跡が確認されたため、高尾山古墳の被葬者は木棺に葬られたことが明らかとなっている。木棺の大きさは長さ5.053メートル、最大幅1.252メートルであると推定されている。木棺は墓坑と同じく南北方向の墳丘軸とは直交する東西方向に主軸がある。つまり高尾山古墳の木棺は東西方向に安置されていたことになる。墓坑や木棺内に崩落した土の中に、降灰時に高温であったため溶結して堆積したことにより愛鷹ローム層の中で最も硬いとされるスコリアが混入している。このスコリア層は硬いために高尾山古墳の周溝はおおむねそのスコリア層の手前で掘削を止めているが、主体部の東側の周溝ではそのスコリア層で土取りをしたと考えられる穴が見つかっている。このことから埋葬時に埋土として硬いスコリアを混入させた土を用いた可能性が指摘されている。また、黒色土やスコリアの混合比率を変えながら墓坑の埋土として使用していたことや、棺床には粘度が高いローム土と黒色土を混交して使用していることが確認されている。 埋葬方式は棺床に木棺を直接安置される木棺直葬であった。棺床の痕跡や副葬品の出土状況から、刳抜式の舟形木棺であると考えられており、舟形木棺の中でもその形態から丸木舟や準構造船の下部を模したタイプであると見られている。静岡県下ではこのタイプの木棺は高尾山古墳が最古の例の一つであり、それまでの埋葬形態が棺に入れての埋葬が何とか可能なレベルの箱型の木棺が中心であったことから考えて、高尾山古墳の舟形木棺が在地のものとは考え難い。高尾山古墳で採用されたような舟形木棺が多用されていたことが確認されているのは、現在の京都府北部、福井など日本海沿岸部が多く、古墳出現期に活発化する各地域との交流を通じて、直接ないし間接的に沼津の地にもたらされたと考えられる。 2014年(平成26年)度に行われた追加調査では、高尾山古墳に他の埋葬施設が存在するかどうかの検証が主要目的の一つとなった。調査の結果、後方部中央の主体部以外の埋葬施設が存在する可能性は少なくなった。 ==副葬品== 棺内と思われる部位から検出された副葬品は、銅鏡1面(破砕鏡)、鉄槍2本、鉄鏃32点、槍鉋1点、勾玉1点であった。なお、検出面が若干上面であった銅鏡の破片のうち3つは、木棺の棺蓋に置かれていた可能性がある。被葬者の頭部、胸部、そして脚部と考えられる部位では朱が面として検出され、点状の分布は棺底全面に及んでいる。また朱は各副葬品よりも下面の墓坑底面から検出されている。このため、棺底全体に朱が塗布ないし散布されていたと考えられる。成分分析の結果、この棺底の朱は硫化水銀、いわゆる水銀朱であることが明らかとなっている。また高尾山古墳から出土した土器の中で、胴の部分を縦に半裁された小型の壺1点から水銀朱が検出されており、これは被葬者の埋葬時に朱の器として使用された壺であると推察されている。 勾玉は棺内のほぼ中央部から、面状に広がった朱の上で検出されており、ここが被葬者の胸部と考えられている。被葬者は頭を東側、足を西側に向けて安置されたと推定されている。副葬品は被葬者の頭部上方、頭部右横、足下の右横と推定される個所に集中して検出されており、被葬者の左側には副葬品は全く見られない。被葬者の頭部上方から検出された副葬品は、小型の鉄槍、槍鉋(やりがんな)、銅鏡の破片であり、頭部の右横からは銅鏡の破片、鉄鏃2点、足下の右横からは大型の鉄槍と鉄鏃29点が検出された。また鉄鏃1点が被葬者の右肩付近から検出されている。 副葬品の検討から導き出される高尾山古墳の築造年代は、研究者によって多少のずれは認められるものの、おおむね250年頃となっている。これは土器の検討によって唱えられている年代よりも明らかに新しい。築造年代については調査内容が公表されるようになって以降、高尾山古墳を巡る論争の中心となっている問題である。また年代観の差異は、古墳の被葬者像についての違いにも結び付いている。 ===鏡=== 被葬者の頭部右側と推定される場所を中心として、鏡の破片が検出されている。鏡は1枚であり、各破片は錆が目立つなど遺存状態は不良であるが、鮮明な文様も確認できる点から、元来は鋳上がり良好な青銅鏡であったものと考えられている。鏡は全部で10の小片となって出土しており、一部は未検出である。各破片の出土状況、そして未盗掘の古墳でありながら未検出の鏡の破片があることから、埋葬時に意図的に鏡を破壊した、いわゆる破砕鏡であると判断されている。なお鏡の破片のうち3つは、棺底から検出された他の副葬品よりもわずかに上位から検出されているため、埋葬時に木棺の棺蓋に置かれていた可能性が指摘されている。 高尾山古墳の主体部から出土した鏡は、直径13.5センチメートルの上方作系浮彫式獣帯鏡である。獣帯鏡とは鏡の外側(外区)に同心円状に文様を施し、内側(内区)に仙人や瑞獣の像を配置するという形式の鏡で、仙人や瑞獣の像を細かい線刻で表現した細線式と、浮彫で表した浮彫式に大別される。高尾山古墳から出土した鏡には、浮彫の鹿、虎、鳥、羽人が確認され、銘文として「上方作竟」、「長*3804*子孫」の文字が刻まれていたと推定されており、上方作系浮彫式獣帯鏡と呼ばれる鏡であると判断されている。また仙人や瑞獣の像については、4つの四像式と6つの六像式に分けられており、高尾山古墳出土の上方作系浮彫式獣帯鏡は六像式となる。 上方作系浮彫式獣帯鏡は主として後漢の時代に作られた鏡であると考えられており、中国鏡であるとの説や、後漢末期以降、238年に魏によって公孫氏が滅亡するまでの間、楽浪郡で製作された鏡ではないかとの説がある。鏡の形態から、日本国内でこれまで50枚近く出土している上方作系浮彫式獣帯鏡の中でも、高尾山古墳の鏡は2世紀後半台に作られた、比較的古いタイプのものではないかと考えられている。 副葬品として埋葬する鏡を意図的に破壊する破砕鏡は、弥生時代末期から古墳時代初頭にかけて見られる風習であり、鏡を大量に副葬する定型化された前方後円墳の時代には廃れた習慣である。破砕鏡は近畿以東では古墳出現期の築造とされる高部32号墳などで確認されており、高尾山古墳もやはり古墳出現期の築造と考えられる根拠のひとつとなっている。 一方、上方作系浮彫式獣帯鏡についての評価には、全く異なる2つの説がある。一つは、上方作系浮彫式獣帯鏡の出土状況や、出土地が弥生時代の拠点集落の分布とよく一致することなどから、弥生時代の伝統的な流通経路に乗って、日本各地の勢力がそれぞれ独自に入手したものであるという、いわば弥生時代的な各地域の独自な動きの中で流通したものであるという説である。もう一つは、出土状況を詳細に分析すると、鏡面が大きく高規格と考えられる六像式の上方作系浮彫式獣帯鏡の副葬が畿内や瀬戸内海地域の東部に集中する傾向などから、発足間もないヤマト王権の意向を受けて配布されたものであるとの説である。この説によれば上方作系浮彫式獣帯鏡とは、中央政権が各地に配布することによって流通する、つまり古墳時代的な流通が想定される。また、前者の弥生時代的な流通を想定する見解の方が後者の古墳時代的な流通説よりも、上方作系浮彫式獣帯鏡が日本に渡来した時期を古く考える傾向がある。いずれにしても高尾山古墳に副葬された六像式の上方作系浮彫式獣帯鏡は、東日本における古墳文化のあり方を考察する重要な資料となる。 ===槍=== 高尾山古墳の主体部からは、2本の鉄製の槍が出土している。なお後述のように、うち1本は槍ではなくて剣であるとの説もある。2本の槍のうち、全長が45.5センチメートルという長身の槍1は、棺内の西側の北辺部、被葬者の足があったと推定される場所に、槍頭を西側、つまり被葬者の足先の方を向けて出土している。一方、小型の槍2は、棺内東部の中央部から、槍頭を東側に向けた状態で出土し、位置的には被葬者の頭部上方であったと考えられる。また槍を装着したと考えられる柄についてもその痕跡が、潰れた管状の漆膜として検出されている。漆膜は赤色を呈しており、高尾山古墳に副葬された槍は赤漆塗の槍であったと考えられる。また漆膜には柄に巻いてあったと考えられる布の痕跡がはっきりと残っていた。出現期古墳から槍身と柄が検出され、槍の全体像が明らかとなるケースは極めて稀である。 槍の柄の痕跡とされる漆膜は合計4つ、検出されている。うち、柄1と柄2と呼ばれる漆膜は長身の槍1の茎部に続くように検出されているため、槍1の柄であったことは間違いないと見られている。柄3と柄4については、柄1と柄2、そして槍1、槍2とやや離れた場所から、柄4が主体部と斜交するように、そして柄3は主体部の向きと並行した形で検出され、また柄3の一部は柄4の上に重なっていた。このことから柄3と柄4とは別々の槍の柄であると考えられ、柄の向きから主体部の向きと並行した柄3が槍1、斜交した柄4が槍2の柄であると考察されている。柄3が槍1の柄である場合、柄の全長は約1.4メートルであったと考えられる。また槍2と柄4が離れた場所にあることから、槍2は木棺腐朽後の崩落時の影響などで、本来の埋葬位置から動いた可能性が指摘されている。 槍1は身部41.1センチメートル、茎部4.4センチメートル、全長45.5センチメートルという、長身の身部と短い茎部からなる。側面から撮影したX線写真により、鍛造によると考えられる構造が確認されたため、鍛造品であると考えられる。また弥生時代から古墳時代にかけての鉄槍、鉄剣では極めて類例が少ない、樋を有する剣身となっている。樋は血抜き溝とも呼ばれる。突き刺した際に血を抜けやすくなるので剣身にかかる圧力が分散する上に、肉が絡みつかないようにして剣身が引き抜き易くする目的がある。そのため高尾山古墳の槍1は、実用性を重視した武器として製作された可能性が指摘されている。またX線写真によれば、槍1の茎部には目釘穴が3つ確認されたが、出土した時の状況ではそのうち2つの目釘穴は機能していない。このため高尾山古墳の槍1は、もともとは鉄剣だったが、後になって槍に転用されたと考えられている。 槍2は全長23.2センチメートル、12.6センチメートルという短い身部と、10.6センチメートルという細長い茎部からなる。槍2は、編年的には古墳時代前期後葉の槍と考えられる。これは出現期古墳であると考えられる高尾山古墳の副葬品としては矛盾が生じる。このことから槍2は槍ではなく鉄剣ではないかとの説も出されている。また槍2が鉄剣であるとすれば、やや離れた場所から検出された柄4と槍2とを関係付ける必要性も無くなる。また他の出現期古墳からの槍と剣の検出状態との比較からも、槍2についてはやはり剣である可能性が高いとする説もある。 一方、槍1についてはもともとは弥生時代に鉄剣として作られ、それが槍に転用されたと考えられる。槍1の柄端部の構造などから、弥生時代終末期から古墳時代初頭にかけての年代が想定され、弘法山古墳での槍の出土例との類似点などからも、やはり高尾山古墳は古墳出現期の築造であることが有力視される。槍についても、誕生間もないヤマト王権の手によって全国に配布されたという説があり、高尾山古墳の被葬者は最も早い時期にヤマト王権から槍を配られたとする見方がある。また、ヤマト王権による槍の一律配布とみなすには論拠が弱いとする説もある。いずれにしても遺存状態が良好である高尾山古墳出土の槍からは多くの貴重なデータがもたらされ、またそれとともに新たな多くの課題を生み出している。 ===鉄鏃=== 鉄鏃は合計32点出土した。うち29点は被葬者の足の右側と推定される主体部の北西側から、先端を西側に向けてほぼ揃えられた形で検出された。2点は被葬者の頭部右側と推定される場所から、1点は被葬者の右肩あたりと考えられる場所から検出されている。 32点の鉄鏃は形態と矢柄への取り付け方の違いから、柳葉式、腸抉三角式、長三角式の3種類に分類される。柳葉式の特徴としては鉄鏃の刃の部分がS字カーブを描く形をしており、高尾山古墳からは合計14点出土し、鉄鏃本体の長さは4.0センチメートルから4.3センチメートル、幅は1.5センチメートルから1.9センチメートルであり、全体的に企画性が見て取れる。 腸抉三角式は高尾山古墳からは合計17点出土した。鉄鏃本体の長さは3.0センチメートルから3.6センチメートル、幅は1.6センチメートルから2.1センチメートルであり、柳葉式と比べて全体の企画性は弱い。腸抉三角式は鉄鏃本体の長さが3.5センチメートル程度の大型のAタイプ、長さが3.0センチメートル程度とAタイプよりも小型のB1タイプ、大きさはB1タイプと同じくらいであるが、鉄鏃本体の中で刃の部分の割合が小さいB2タイプの3タイプに分類できる。内訳はAタイプが6点、B1タイプが8点、B3タイプが3点であり、高尾山古墳出土の腸抉三角式鉄鏃の中心は最も数が多いB1タイプと考えられる。 長三角式の鉄鏃は1点のみの出土である。このタイプは矢柄への取り付け部分に特徴がある。鉄鏃本体に鉄製の根挟みを鍛接し、根挟みが矢柄に取り付けられているという特殊な構造をした鉄鏃である。 発掘調査報告書に掲載された見解では、鏃の形態から古墳時代前期前半であると考えられるとしたうえで、高尾山古墳に副葬された鏃には規格性が見られ、工房で製作された矢を一括で副葬したものと考えられるが、弘法山古墳に副葬された鏃は寄せ集め的な要素が高いとしている。結論としては弥生時代的な鏃を含む弘法山古墳より若干新しい要素が見られるとする。そして鉄鏃の形態も古墳時代のものと考えられる上に、同形態の鉄鏃をまとめて副葬するやり方も、弥生時代の習慣からは離れ、古墳時代的であることを指摘している。その上で他の副葬品の評価を総合すると、おおむね古墳出現期の弘法山古墳と同時期ではないかとした。 他の考古学専門家の見解としては、まず発掘調査報告書の見解と同様に鏃の形態が定型化しているとして、弘法山古墳よりも新しい要素が見られるものの、おおむね同時期ではないかとの判断に賛成する意見がある。一方、弘法山古墳の鏃よりも新しい要素が見られるという見解とは異なる意見の専門家もいる。高尾山古墳に副葬された腸抉三角式の鉄鏃は複数のタイプが確認され、これは規格性が確立する以前のものと考えて、弘法山古墳と同時期の、古墳時代前期前半でも古いものなのではないかとする意見や、また高尾山古墳に副葬された柳葉式鉄鏃の規格性の高さは明確で、腸抉三角式も弘法山古墳の出土例よりも規格性が認められ、これらの点は確かに高尾山古墳の方が新しいとみられる要素であるが、一方、弘法山古墳の鉄鏃には儀礼用の特注品と考えられるものがあり、これは弘法山古墳の方が新しいと考えられる要素となるとしている。そして鏃の形態や構成を総合的に考えると、高尾山古墳、弘法山古墳はともに古墳時代前期前半の中でも最も古い時期になるのでないかとの説もある。 一方、鉄製の根挟みが鍛接された長三角式の鉄鏃からはかなり異なる年代観が提唱されている。鉄鏃の根挟みは元来木製であり、金属が用いられるようになるのは古墳時代前期後半以降なので、前期前半よりも新しい時代のものと考えた方が理解しやすいのではないかとの説がある。一方、古墳出現期の古墳から出土した槍から、根挟みが鉄製である例が報告されており、古墳出現期には武器の根挟みを鉄製とする試みが行われていたのではないかとして、とりたてて新しい時代のものとする必要性はないとの説もある。 ===槍鉋=== 被葬者の頭部上方と推定される場所から、槍鉋(やりがんな)が出土した。全長は12.0センチメートルで、刃を北側に向けていた。木製の柄が良く残っているなど、保存状態は良好である。鉄製の槍鉋の本体は刃と軸で構成され、刃は匙状をしており、長さ2.5センチメートル、幅0.9センチメートル、厚さは0.15センチメートルである。軸は長さ9.5センチメートル、幅0.6センチメートル、厚さ0.25センチメートルである。 木製の柄は、長さ9.4センチメートル、幅1.3センチメートル、厚さ0.8センチメートルである。柄の断面はかまぼこ型をしており、平坦な面には溝が切られている。その溝に本体の軸を嵌めこみ、0.5センチメートル程度の太さの糸を丁寧に巻き付けた上に漆を塗って、本体の軸に木製の柄を固定させている。 ===勾玉=== 玉類は棺内のほぼ中心部から長径1.25センチメートル、短径0.95センチメートルという小型の勾玉が1つ、検出されている。高尾山古墳で埋葬された玉類は他には無く、勾玉1個のみであった。発掘調査報告書では材質はホルンフェルスないし珪質頁岩としているが、勾玉の材料としてホルンフェルスや珪質頁岩を用いた例がほとんど無いことから、滑石ではないかとの説もある。 高尾山古墳の主体部から出土した勾玉には一部に朱が残っており、もともと全体に朱が塗られていたと考えられる。また勾玉は被葬者の首から掛けられて、胸部にあったものと推定されている。勾玉の形態から古墳時代に製作された勾玉とは異なり、弥生時代に製作された勾玉の一種であると考えられる。高尾山古墳の勾玉の特徴と一致する勾玉は知られていないが、形態的に最も類似しているのは東四国の吉野川流域で製作された可能性が高い勾玉で、北陸西部製の勾玉とも類似性が見られる。これが東海地方との関係が強い北陸西部製であるならば、理解がしやすいものの、東海地方では弥生時代、近畿以西からの玉類の移入は極めてまれである。もしも東四国製である場合には、新たな移入経路によってもたらされた勾玉と考えられ、成立直後のいわゆるヤマト王権を通じてもたらされたものかどうかを含め、慎重に検討していかねばならないとされる。 また、高尾山古墳に副葬された玉類がわずか1つであることについては、副葬品として埋めることを避けた、いわゆる埋め惜しみをしたのではないかとの説がある一方、王者としての装いがまだ定型化される前であり、王者が腕輪、手玉などといった装身具を身に着けなかった弥生時代からの習慣が沼津周辺では続いていたためと考えられる。 ==出土土器== 高尾山古墳からは出現期の古墳としては極めて多くの土器が出土している。土器は墳丘の頂部、周溝内そして墳丘の盛土から出土しており、古墳祭祀で使用されたと考えられる小型壺、小型鉢、直口壺が周溝内から大量に発掘されていることが特徴に挙げられる。また後述のように地元静岡県東部の土器が主体であるが、北陸系、近江系、東海西部系、関東系といった外来系の土器も出土している。しかし畿内系の土器が一つも見つかっていないことも特徴の一つとして挙げられる。更に出土した土器の製作年代が比較的長期に及ぶと見られることも特徴に挙げられる。 主体部上部からは二重口縁壺、大型壺、高坏、パレススタイル壺、S字壺が出土した。パレススタイル壺とS字壺は破片状になっており、墓坑の埋土にまで混入している。一方、二重口縁壺、大型壺、高坏は被葬者の埋葬を意識した配置がなされていたと考えられる。うち高坏の位置づけがはっきりしない点が残るものの、二重口縁壺と大型壺は後述の大廓式の年代観では様式3のものと考えられ、この時期に被葬者の埋葬が行われたと考えられる根拠となっている。また墳丘内から出土した土器は大廓式の様式1の時期のものとされ、この時期が古墳築造の時期と判断される材料となった。出土した土器から想定される高尾山古墳の築造年代はおおむね3世紀前葉とされ、これは副葬品から想定される年代よりも明らかに古く、高尾山古墳をめぐる最大の論争点となった。 そして周溝とその周辺からは大量の土器が出土している。出土した土器の年代は比較的長期間に及び、また一定数の外来系土器が含まれ、古墳祭祀に使用されたと考えられる小型壺、小型鉢、直口壺が数多く出土している。 発掘調査報告書の考察によれば、古いタイプの土器(大廓式様式1, 2)についてはこれまで静岡県東部地方では出土例があまり無い器台が出土していること、外来系土器のほとんどが古いタイプと考えられることを特徴として挙げている。年代的に中期から後期に入る頃(大廓式様式3)の土器については、出土した小型壺、小型鉢の多くがその時代のものと考えられること、そして前述の主体部上部から出土し、被葬者の埋葬時期を示唆すると考えられる二重口縁壺、大型壺、高坏の時期に当たるとことが特徴として挙げられる。この時期には土器編成の大きな変化が認められ、古墳祭祀の画期であったことが想定されている。そして後期(大廓式様式4)の時代の土器としては直口壺が挙げられ、古墳祭祀が継続して営まれていたと考えられている。 一方、出土状況から判断して主体部上部や周溝内の土器は、高尾山古墳の築造前にあった住居で使用していた土器が混入した可能性を指摘する意見もある。高尾山古墳から出土した土器が、古墳築造前の住居跡から混入したものであれば、土器を根拠として高尾山古墳の築造時期の古さを主張することは困難となる。この説に対しては、そもそも高尾山古墳の周辺では弥生時代後期前半以後、集落が廃絶しており、古墳築造前の住居からの土器混入があったとしても年代が全く異なると予想され、加えて、土器の出土状況から考えて、高尾山古墳から出土した土器はやはり古墳に伴うものであると考えるのが自然である、との反論がある。2014年(平成26年)度の追加調査では、この問題を解決すべく墳丘の試掘調査を実施した。調査の結果、墳丘内からは多数の土器が出土したが、そのほとんどが大廓式様式1、230年頃の土器であったとして沼津市教育委員会は高尾山古墳の築造年代は230年頃であるとの結論を出した。 ===大廓式土器=== 高尾山古墳で数多く発掘され、中心的な土器であったと評価されている静岡県東部の在地型土器は、大廓式土器と呼ばれている。大廓式土器はこれまで静岡県東部で生産されてきた土器を基本として、各地から静岡県東部地域に搬入された外来土器の影響を受けて成立したと見られており、200年頃から300年頃にかけて生産されていたと考えられている。また主な生産拠点は狩野川下流域にあったと見られている。 大廓式土器は複合口縁壺、折返口縁壺、甕、高坏といった器種から構成され、中でも大型壺が特徴的なものとされる。また土器の胎土には縄文時代晩期に天城山のカワゴ平から伊豆東部火山群の活動の一環として噴出したカワゴ平軽石を含み、当時の他の大型壺よりも軽量という特徴がある。静岡県東部では大廓式土器の使用開始をもって古墳墳時代の幕開けと見なしている。また大廓式土器はその形態から、様式1から4までの4段階の様式変化があったとされている。 大廓式土器はその模倣品と考えられる土器を含めると、北は現在の宮城県、山形県、西は奈良県の纒向遺跡、大阪府という広い地域で発掘されている。しかし大廓式土器の製作が始まってからしばらくの間、様式1から2の時期にかけては、産地である静岡県東部からの搬出は限定的であったとされる。数少ない例外としては埼玉県桶川市、山梨県甲府市、神奈川県伊勢原市と、西三河の矢作川流域、伊勢の雲出川流域が挙げられる。 3世紀半ば、様式3の時期になると大廓式土器は土器の形式に多くの新しい要素が加わるとともに、急速に各地へと拡散していく。特に静岡県よりも東側の分布が目立つが、そのほとんどが太平洋側であり、日本海側ではほとんど発見されていないという特徴がある。また一部の遺跡では大廓式土器を構成する各種の器種が発掘されているが、多くの場合、発掘されるのは大型の壺のみである。これは前述のように当時としては最軽量であった大廓式の大型壺は、移送しやすかったというメリットがあったと考えられるとともに、大型壺のみの移動ということは、あくまで製品としての大型壺の移動であって、壺を作る人間の移動という要素は少なかったことが予想される。一方、数は少ないながら、埼玉県川島町の白井沼遺跡や伊勢の雲出川流域のように複数の器種が発掘されている例もあり、そのような地域では人の移住も想定されている。なお大廓式の大型壺は、東日本ではまだ築造されていた弥生時代式の方形周溝墓で執り行われた祭祀で用いられたとの説がある。 大廓式土器の出土状況から、土器の移動ルートが複数想定されている。一つは富士川を遡って甲斐、信濃方面へ向かうルート。一つは沿岸部を東へ向けて移送した後、三浦半島付近から上総方面を経て印旛沼や手賀沼付近を通って鬼怒川沿いに北上するか、または三浦半島付近から東京湾に入り、荒川や旧利根川を遡るルート。そして西側については、現在の名古屋市周辺、近江からは大廓式土器が全く出土しないことから、駿河から遠江、それから三河付近から知多半島を海路で伊勢湾を渡り、伊勢から鈴鹿山脈を越えて畿内に入るルートが想定されている。 高尾山古墳では、出現期の様式1から最終段階の様式4までの大廓式土器が出土している。前述のように高尾山古墳から出土した土器は古墳とは直接関係が無く、前時代の住居跡からの混入ではないかとの意見もある。それに対して、高尾山古墳出土の大廓式土器は全て古墳に関係しており、古墳の築造こそ様式1の時代に行われたものの、多くの特徴ある様式3の土器が検出されていることや、主体部上部から検出された大廓式の様式3の土器が、埋葬者を意識して配置されていると考えられることから、様式3の時代に古墳祭祀の画期、つまり被葬者の埋葬が行われ、その後、様式4の時代には墓前において祭祀が行われていたとの見解が示された。2014年(平成26年)度に行われた追加調査について沼津市教育委員会が示した解釈も同様の内容であった。つまり墳丘の盛土から検出された土器は大廓様式1の土器で、これが墳丘の築造時期を示し、主体部上部から検出された大廓式の様式3の土器や副葬品が示す時期が埋葬時期であるとし、埋葬後も祭祀が続けられたと見なしたのである。具体的には古墳築造が230年頃、埋葬が250年頃であるとした。 在地の土器をベースとして外来土器の影響を受けて成立した、大廓式土器の成立時に当たる様式1の段階に古墳築造が行われ、大廓式土器の画期と考えられる様式3の時代に被葬者の埋葬が行われたとすると、高尾山古墳は大廓式土器の文化圏の中核となることが想定される。また様式3の時代になって、大廓式土器が各地へと拡散していく動向からは、高尾山古墳の被葬者が各地域との首長との間に交流関係を結んでいたことが想定される。また、高尾山古墳から出土した大廓式土器が古墳と関連性があるものとする考えからは、これまで地域で作られていた土器が外来系土器の影響を受けて成立したという大廓式土器の成立経緯は、古墳時代冒頭の東日本各地における社会の動きと同期したものであり、高尾山古墳から出土した様式1から様式4の大廓式土器群はその実態をもっとも良く表す資料の一つであり、古墳自体も当時の社会の変革を反映しているとの見方もある。 ===外来系土器=== 高尾山古墳から出土した土器の中には静岡県東部以外の外来系土器が確認されている。外来系土器としては北陸系、近江系、東海西部系、関東系があるが、明らかに畿内系であると判断される土器は一つも出土していない。また発掘調査報告書の考察においては外来系土器は大廓式土器の様式1、つまり最も古いタイプの大廓式土器と同時代と見られる土器がその大半であるとする。一方、北陸系土器についてはもう少し新しい時期、つまり副葬品から想定される年代とほぼ変わらない時期を想定する専門家もいる。 畿内からの土器が全く見られないことから、高尾山古墳は邪馬台国と敵対していた狗奴国の有力者を葬ったのではないかとする説がある。 高尾山古墳周辺の、古墳築造と同時期と考えられる集落から出土する土器を分析してみると、浮島沼周辺の遺跡から出土する土器は、高尾山古墳と同様に東海西部系、近江系、東海西部系の土器が確認されるものの、やはり畿内系の土器はほとんど出土しない。その一方で田方平野、狩野川河口周辺、富士山麓からは畿内式の土器が多数出土している。また浮島沼周辺は他の地域よりも北陸系、近江系が集中して出土している。このように高尾山古墳周辺という比較的狭い範囲においても、外来系土器の出土状況に明らかな違いが見えることは、外来系土器が流入する経路が異なっていたのではないかとの仮説が提示されている。つまり現在の田子の浦港付近から浮島沼を経由して高尾山古墳に至るルートと、狩野川を遡って田方平野方面へ向かうルートなどが想定される。高尾山古墳から出土した外来系土器の中では東海西部系の土器が多く、伊勢湾沿岸地域との密接な交流が想定されている。また高尾山古墳から浮島沼方面、更に富士川を遡り甲斐・信濃を通って北陸方面へ向かうルートの存在も推定される。 外来系土器が見られるといっても、高尾山古墳から出土した土器の主力はあくまで在地の土器である。このことから対外勢力がむりやり沼津の地に入り込んだわけではないと想定される。後述のように高尾山古墳を含む東駿河では、様々な地域との交流を示す外来系土器が見られることから、東駿河の地は各地方同士のネットワークの結節点となっていたと考えられる。このように弥生時代後期以降、東駿河が発展していく中で各地とのネットワークを広げていき、その結果として高尾山古墳が築造されたと考えられている。 ==地域と広域のネットワークと高尾山古墳== ===高尾山古墳築造時の東駿河=== 弥生時代後期後葉、愛鷹山丘陵地帯の比較的標高が高い場所に発達した足高尾上遺跡は、大廓式土器が作られるようになった古墳時代に入っても継続するが、大廓式土器の様式2の時代に入ると急速に衰退していく。一方、大廓式土器の製作が始まった古墳時代に入ると、高尾山古墳の周辺のような愛鷹山山麓の丘陵地帯でも標高が低い場所や、浮島沼付近の低地帯に集落が復活し始める。そして副葬品の内容から高尾山古墳で被葬者の埋葬が行われたとの説が強い大廓式土器の様式3の時代になると、本格的に集落が発達していく。中でも高尾山古墳のすぐ西側にある入方遺跡は、大廓式土器の初期段階から集落が形成され、古墳時代初頭の首長館の跡とも考えられる遺構が発掘されている。入方遺跡は高尾山古墳と同様に、東海西部系、近江系、北陸系の外来土器が見つかっている事実からも高尾山古墳との関連性が指摘され、被葬者の居館であったとの説が唱えられている。 足高尾上遺跡の衰退と前後して標高が低い愛鷹山丘陵地帯や浮島沼周辺の低地帯に集落が発達することは、やはり標高が高い足高尾上遺跡から低地への人の移住が起きたものと考えられる。それに加えて、足高尾上遺跡では外来系土器が少なく、古墳時代に入って発達する標高が低い愛鷹山丘陵地帯や浮島沼周辺の低地帯の集落では、外来系土器が多く見つかっている傾向から、単に高いところから低地へ人が移動したばかりではなく、他の地域との相互交流の活発化という刺激もあって新たな集落が形成されていったものと考えられる。このように比較的排他的な高地性集落であった足高尾上遺跡の衰退と、他地域との交流に積極的な低地帯の新しい集落の発達は、東駿河の本格的な古墳時代の幕開けを告げる出来事であった。 一方、狩野川流域の沖積平野でも、古墳時代に入って大廓式土器の製作が始まる頃から集落が再開されるようになる。中でも現在の駿東郡清水町の恵ケ後遺跡が注目されている。恵ケ後遺跡には高尾山古墳近くの入方遺跡とともに古墳時代初頭期の首長館があったと想定されており、また東海西部系、畿内系といった外来系土器が大量に出土しており、交流の拠点として機能していた集落であると考えられている。多量の外来系土器の出土から他地域との交流の拠点として機能していた往時の様子が想定され、首長の居館があったと考えられる恵ケ尾遺跡は、高尾山古墳の被葬者の本拠地候補の一つである。 また田方平野には伊豆の国市の山木遺跡が注目される。山木遺跡では恵ケ後遺跡ほどの量ではないものの、畿内系、東海西部系、北陸系の外来系土器が出土している。前述のように狩野川流域の恵ケ後遺跡、山木遺跡とも高尾山古墳や浮島沼周辺の遺跡とは異なり、畿内系の土器が出土している。これはやはり外部との交流の形態が異なっていたためと考えられ、古墳時代冒頭時、交通の要衝である東駿河の地では他地域との様々なネットワークが機能した、いわばネットワーク同士が結び付く場所になっていたことを示唆している。 そして高尾山古墳の築造前、大廓式土器の製作が始まる頃、富士宮市丸ケ谷戸遺跡に全長26.2メートルの前方後方墳形の周溝墓が築造されたことが注目されている。規模的には弥生時代の方形周溝墓と大差ないものの、周溝内から在来系の土器以外に東海西部系、畿内系、北陸系といった外来系土器が出土しており、このことから外部地域との交流が丸ケ谷戸遺跡の前方後方墳形周溝墓が築造されたきっかけとなったと考えられ、高尾山古墳の築造に結びつくような社会の変化を表していると考えられる。 ===弥生時代終末期と広域ネットワーク=== 3世紀前半の弥生時代末期、土器、青銅器、鉄器、水銀朱などの多種多様な物資が日本各地で盛んに流通していたことが確認されている。物資の流通は旧石器時代以降確認できる現象であるが、弥生時代終末期は遠隔地からのモノの流通を含み、前時代よりも遥かに交流が盛んにおこなわれたという特徴がある。このような中で3世紀前半には奈良盆地南西部の纒向遺跡など、交流の拠点となる場所に大規模な集落が形成され、そのような拠点集落では、地元ばかりではなく遠隔地を含む他地域からの土器が多く見つかっている。 このような各地域同士の交流の活発化の背景には船の技術革新があった。これまで使用されていた船は丸木舟のような木を刳り抜いて製作した刳船であり、大型化が難しいため運搬能力が低く、また安定性も悪いため、外洋での航海が困難であった。それが弥生時代中期以降、丸木舟の側面に舷側板を取り付けたり、船首の部材を取り付ける準構造船の登場が確認されている。弥生時代終末期には準構造船が大型化しており、日本各地の物資交流の活発化に貢献する。このような準構造船の拠点となったのが、河口の近くで砂州に隔てられた潟湖であった。潟湖は波が穏やかであるため弥生時代終末期、各地との物資交流を担う準構造船の拠点となり、潟湖周辺には交流の拠点となる場所として大規模な集落が形成されるようになったと考えられる。このような拠点集落の代表として、伊勢湾西岸の雲出川流域、西三河の矢作川支流の鹿乗川流域の遺跡が挙げられる。 高尾山古墳が造営された東駿河には潟湖である浮島沼があり、集落の形成状況や高尾山古墳など初期古墳の築造状況が伊勢湾西岸の雲出川流域と類似していることが指摘されている。実際、浮島沼周辺の遺跡からは古墳時代前期のものと考えられる準構造船が発掘されている。このように高尾山古墳を造営した勢力の一端は、弥生時代終末期から日本各地で見られる、準構造船の拠点となった潟湖周辺に設けられた拠点集落であると考えられる。 高尾山古墳から出土する土器や狩野川下流域が生産拠点であった大廓式土器などから、当時の広域ネットワークのあり方が垣間見える。前述のように奈良の纒向遺跡からは大廓式の大型壺が出土している。この大廓式土器は、当時、多地域を結ぶネットワークの中心地のひとつとして機能していた伊勢湾西岸の雲出川流域から搬入された土器であると考えられる。当時の物流の拠点であった伊勢湾西岸の雲出川流域、西三河の矢作川支流の鹿乗川流域は、海上交通を通じてお互いに密接な関係にあったと考えられ、大廓式土器など様々な外来系土器が大量に出土している。これら広域ネットワークの拠点集落の近傍には、古墳時代初頭築造の古墳が確認されている。一方、高尾山古墳からは東海西部系、近江系、北陸系などの外来系土器が出土しているこれは高尾山古墳の被葬者と土器の搬出先との関係性を示唆している。中でも東海西部系の土器が多いことから、東海地方西部との密接な関係が想定される。 これまで述べたように古墳出現期の古墳時代冒頭は、遠隔地を結ぶ様々なネットワークが活性化した時期であった。準構造船の拠点となった潟湖である浮島沼の近傍に築造された高尾山古墳は、まさに当時の天然の良港に近接した交流の拠点の一つに築造されている。このことから、中央高地における交通の要衝に築造された弘法山古墳などと同じく、広域ネットワークを掌握した地域首長の姿が見えてくる。前時代までの方形周溝墓から、前方後円墳や前方後方墳が日本各地で広く築造が開始されることも、このような広域ネットワークの形成が密接に関わっていると考えられる。古墳出現期の高尾山古墳や弘法山古墳では他地域からの土器が多く出土している。これは単に地域を代表する首長の墳墓であるばかりではなく、弥生時代とは異なる新たな秩序が広く形成されつつあった当時の時代性をはっきりと示している。 ===地域と広域ネットワークの結合と高尾山古墳=== 高尾山古墳の立地条件を考察すると、単に浮島沼周辺の勢力ばかりに依存しているとは考えにくい、古墳築造から被葬者の埋葬時にかけて、狩野川下流域にも外部との活発な交流を行っていたことが推定される恵ケ後遺跡などがあり、愛鷹山の丘陵の比較的標高の高い場所には足高尾上遺跡群があった。高尾山古墳はこれらの遺跡群をまさに繋ぐような場所に立地している。つまり富士川下流域から浮島沼周辺、愛鷹山丘陵地、そして田方平野付近までの狩野川流域の、性格が異なる集落を背景として高尾山古墳が築造された経緯が想定されている。このように高尾山古墳は東駿河の各地域を繋ぐ位置に立地しており、古墳がある場所そのものに大きな資料的な価値が見いだされ、古墳の現地保存が重要視される根拠となっている。 もちろん高尾山古墳の造営された地は、単に東駿河の地域ネットワークの結節点であるばかりではなく、弥生時代終末期以降活性化する広域ネットワークの中で築造されたという視点も重要である。つまり東駿河各地の性格が異なる集落同士がまとまった地域社会の上に、各地と結びついた広域ネットワークの中で高尾山古墳の造営がなされたと考えられている。そして高尾山古墳や長野県の弘法山古墳といった古墳出現期に、各地でほぼ同時期に築造された古墳は、これまで述べてきたような弥生時代的な社会からの大きな変化を反映した物証であるが、一方ではこれまでの伝統的な社会秩序も維持した上での変革であると見られている。つまり高尾山古墳の被葬者は、前時代である弥生時代を引きずりながらも古墳時代に第一歩を踏み出した存在であったと考えられている。また外部からの一方的な文化の進出や征服といった事態が起きたとも考えにくいとされている。また副葬品の内容からも、弥生時代的なものと古墳時代的なものとの混在が指摘されている。 ==高尾山古墳をめぐる論争の要点== 前項で述べられたように、高尾山古墳の発掘結果をめぐって考古学の専門家間で多くの論議が巻き起こっている。論議の中心は 築造時期被葬者像高尾山古墳が沼津に築造された理由の3点である。 築造時期については、これまでも述べているように土器から想定される古墳の築造時期と副葬品から想定される時期が異なるという問題があり、これは高尾山古墳を巡る論争の中心となっている問題である。古墳の築造がされたと考えられる3世紀前半代から半ばの時期は、ちょうど邪馬台国の卑弥呼の登場時期と重なる。土器から想定される年代が正しいとすると、高尾山古墳は、卑弥呼が被葬者であるとの説があり、代表的な出現期古墳である箸墓古墳の想定されている築造時期よりも前に築造されたことになる。 なお土器による築造時期推定については、3世紀前半期まで遡ることはないのではないかという意見や、また前述のように、発掘調査報告書の考察では外来系の土器のほとんどは3世紀前半代の古いタイプであるとした点について、北陸系の土器に関しては当てはまらないのではないかという意見や、土器の出土状況から判断して、高尾山古墳から出土した土器は古墳築造前の住居跡から混入したものではないかとする意見がある。 一方、副葬品から想定される年代観は、専門家間で多少のずれは認められるものの、おおむね3世紀半ば頃で一致していると言える。この年代観に従えば、やはり古墳出現期の墳丘長60メートルを超える前方後方墳として知られている弘法山古墳と同時期だと考えられる。 土器と副葬品の編年にずれが生じる問題については、被葬者の生前に古墳を築造するいわゆる寿陵説など、古墳の築造時期と埋葬時期が異なるのではないかとの説が唱えられた。2014年(平成26年)度に行われた追加調査について沼津市教育委員会が示した解釈も、古墳の築造は230年頃、被葬者の埋葬は250年頃であるとして、築造と埋葬との間にタイムラグがあるという解釈であった。 高尾山古墳の年代観が土器と副葬品とで生じた少なからぬずれについて、考古学の古墳編年において構造的な問題であると指摘する意見もある。土器による古墳の年代観では、被葬者の埋葬後も祭祀が行われ続けることが想定されるため、基本的に出土した土器で最も古いものが古墳の築造年代と判断される。一方、副葬品の場合、前時代から引き継がれてきたいわゆる伝世品も副葬されるため、副葬された中で最も新しいものが示す時期が古墳の築造年代となる。つまりより古いものを探す土器と、より新しい要素を確認する副葬品とでは年代についての分析方向が逆であるため、土器の方が古い年代を出しやすい傾向がある。これまでも土器による築造時期の推定が副葬品による年代よりも古く出るという、編年のずれを生じた例があった。このように高尾山古墳の編年についての問題は、単に古墳の年代についての問題にとどまらず、古墳の調査論の深化にも貢献している、と指摘されている。 古墳の被葬者像についても様々な議論がなされている。具体的な被葬者像としては物部氏の一員ではないかという説や、卑弥呼率いる邪馬台国と対立した狗奴国の有力者ではないかとの説がある。また副葬品に玉類は勾玉1つであったのに対して、槍や鉄鏃といった武器の副葬が目立つことから、被葬者は武人的傾向が強い人物であったとの想定もある。 高尾山古墳築造の前後、揺籃期にあったと考えられるヤマト王権との関わり合いについては、研究者間で意見の隔たりが見られる。積極的な関与を認める意見としては、東日本に見られる古墳時代初期の大型前方後方墳は、ヤマト王権の東国進出の象徴であり、高尾山古墳が造営された沼津はヤマト王権の東方戦略の拠点であったとする説がある。また、副葬品の槍の項でも触れたように、副葬品の内容からヤマト王権の副葬品の配布を想定する説や、鏡や勾玉のように配布の可能性が指摘されているものもある。 ヤマト王権の東方戦略の拠点とまではいかないが、高尾山古墳の築造は、地域の独自性を保ちながらヤマト王権の東方支配に間接的に連動した結果ではないかとの説がある。この説によれば、高尾山古墳の被葬者はヤマト王権の創始時から参画していたわけではなく、やや遅れて東方進出の開始に際して協力の姿勢を見せた首長であるとしている。ヤマト王権の影響を認めながらも、その影響力はいまだ限定的であったとする説もある。古墳時代の前期前葉に築造されたと考えられる、墳丘長60メートル程度の前方後方墳である高尾山古墳、弘法山古墳や滋賀県の小松古墳からは規格性がある鉄鏃が出土しており、このことから揺籃期のヤマト王権と無関係ではなかったと判断されるものの、箸墓古墳を頂点とする前方後円墳のヒエラルヒーにはまだ本格的に参画していなかったとする。更に高尾山古墳、弘法山古墳、小松古墳などは、古墳時代初頭において箸墓古墳を頂点とする前方後円墳の秩序に属さない古墳の中で、最大の古墳であると指摘している。 一方、東海西部の勢力の関与を指摘する意見もある。前方後方墳系の墳墓は東海西部が分布の中心であり、近畿以東に広まっていたことを主な根拠として、3世紀前半、前方後円墳系の墳墓を採用した邪馬台国連合に対抗する狗奴国連合が、東海西部を本拠地として近畿以東に形成されていたという説がある。このような東海西部系勢力の影響下で、高尾山古墳が造営されたとする意見もある。なお、前方後方墳系の墳墓に代表される近畿以東の東海西部系勢力の結集を想定し、それが狗奴国であるとの説には、そもそも近畿以東の東日本全体で前方後方墳が優勢であったという事実が無く、そのような説には根拠がないとの反論がある。 また、高尾山古墳の多様な要素が混交したあり方自体を重視すべきとの意見もある。高尾山古墳が築造された古墳出現期は、緩やかな秩序が形成されつつあるものの、まだまだ明確な求心性、階層などは見て取れず、日本各地で高尾山古墳に代表されるような個性的かつ多様な要素を包含した古墳が、同時多発的に築造され始めたという共通性、画一性を生み出した背景に注目すべきとする。これは古墳時代初頭の段階ではヤマト王権にしろ東海西部の勢力にせよ、はっきりとした権力の中心としては確立されておらず、高尾山古墳のような古墳の築造も先進的な一地方が牽引したことによってもたらされたのではなく、各地の社会が成熟していき、外部との繋がりを強めていく中で、古墳の築造が各地域の中から始まったものとしている。 そして邪馬台国と狗奴国の関係をめぐる議論では、今後高尾山古墳の存在を考慮に入れないような理論は考えられないとして、「日本の政治的な社会の成り立ちを考える上で重要な古墳」との評価もある。 高尾山古墳がなぜ沼津の地に築造されたのかという疑問については、前述のように古墳時代初頭、互いに性格が異なる東駿河の各集落が結びついて地域社会が形成され、また東駿河は交通の要衝として、弥生時代後期後葉に活性化した広域ネットワークの拠点にもなった。このような東駿河の地域社会と遠隔地を結ぶ広域ネットワークを掌握した首長によって、高尾山古墳が沼津の地に築造されたと考えられる。 ==古墳築造後== ===高尾山古墳以後の古墳築造と珠流河国造=== 高尾山古墳の築造に続いて東駿河の地で造営されたと考えられている古墳は、沼津市松長の神明塚古墳である。神明塚古墳は田子の浦砂丘上に築造された墳丘長52.5メートルの前方後円墳で、古墳時代前期前半の造営と考えられている。神明塚古墳に続く古墳は現状でははっきりとしていないが、高尾山古墳に近い愛鷹山麓にある子ノ神古墳が有力視されている。子ノ神古墳は墳丘長64メートルの前方後円墳と考えられており、沼津の地に高尾山古墳を初代とする3代の首長を葬った可能性が示唆されている。また高尾山古墳に続いて築造されたと考えられる神明塚古墳が前方後円墳である事実は、ヤマト王権との直接的な関係が成立した事実を示していると考えられている。 古墳時代前期前半の高尾山古墳の築造に続いて、沼津で神明塚古墳、子ノ神古墳が築造された後、北伊豆や現在の富士市付近で古墳の築造が行われるようになると考えられている。北伊豆地域では墳丘長約70メートルの前方後円墳である三島市の向山16号墳、そして富士市周辺では墳丘長90メートルを超える前方後方墳の浅間古墳、続いて墳丘長約60メートルの前方後円墳である東坂古墳が築造される。このように東駿河の首長権は、沼津地域から北伊豆、そして富士市周辺と移動していった流れが考えられる。 また東駿河の地には後に珠流河国造の領域となったと考えられるが、東駿河の古墳の築造状況から珠流河国造の萌芽ともいうべき地域統合が見られることは注目される。中でも高尾山古墳が築造された沼津市周辺は古墳時代以降、680年頃に駿河国から伊豆国が分離されるまでは駿河の中心地として機能していた。 ===古墳時代以降の高尾山古墳=== 高尾山古墳では律令時代の住居跡が3つ確認されている。この住居跡はいずれも高尾山古墳築造時に大規模な削土が行われたため、当時の地表面よりかなり深い地層で確認されている。また住居跡は確認されていないが、墳丘の前方部と後方部の境目のくびれ付近からは、律令時代末期のものと考えられる土器がまとまって出土している。そして周溝内に住居跡の可能性が高い落ち込みも確認されており、高尾山古墳の範囲内に少なくとも5軒の律令時代の住居があったと考えられている。律令時代、高尾山古墳の北側には旧根方街道が通っていたと考えられ、根方街道に沿って律令時代の集落があったと推測されている。 高尾山古墳の周溝内や周辺の耕作土からは、江戸時代後半から大正時代末以降の陶磁器、砥石といった遺物が出土している。そして高尾山古墳の墳丘に掘られた4つの防空壕も確認された。なお防空壕は墳丘が削られてしまっている墳丘西側の市道側からも複数掘られたという。 ===熊野神社と高尾山穂見神社=== かつて高尾山古墳の前方部には熊野神社、後方部には高尾山穂見神社があった。前方部にあった熊野神社の創建年度は不詳である。だが、1570年(元亀元年)の熊野神社の由来によれば、勧請の年から何百年経ったかは古い昔の話なのでわからないものの、熊野神社の社名を取って熊野堂という村名が付けられたという。やがて熊野堂は現在のように熊堂と呼ばれるようになった。その後、江戸時代には社領の下賜があり、1875年(明治8年)に村社に列せられた。1923年(大正12年)には社殿が改修され、瓦葺となった。 一方、高尾山穂見神社は、1846年(弘化3年)10月に東熊堂の川村喜兵衛ら7名が、現在の山梨県南アルプス市にある高尾山穂見神社の分祀を願い、願いが聞き届けられて分霊を東熊堂上荒久の地に祭ったことにより創建された。その後、参拝者が多かったため、交通の便が良い熊野神社境内に1888年(明治21年)に移転し、社殿は高尾山古墳の後方部に建てられた。 高尾山穂見神社は商売繁盛の神様を祀っているとして、祭礼時には縁起物のだるまや熊手を商う露店などが多数並び、沼津市内のみならず近隣からも多くの参拝者が集まる。高尾山穂見神社は縁結びのご利益もあるとして、祭礼時には女性の参拝客も多い。昭和30年代頃までは我入道や静浦の漁師たちが、祭礼の日の夜更けになると沼津の花街の芸者衆を率いて祭りに参加していたといい、たいそう華やかであったという。また高尾山古墳の近隣では、祭礼までに麦まきの作業を終える習慣があった。なお高尾山穂見神社の祭典は、かつては11月30日と12月1日に行われていたが、日取りが平日になると近隣住民の手伝いが難しくて人員の確保が困難となってきたため、1977年(昭和52年)からは11月最終の土日に行われるようになった。 ==道路建設と古墳保存== ===いったん断念された古墳保存=== 高尾山古墳は2005年(平成17年)7月12日と13日に行われた、都市計画道路沼津南一色線の建設に伴う第1次試掘調査の結果、古墳である可能性が高いとされ、その後、2007年(平成19年)7月に第2次試掘調査、2008年(平成20年)度、2009年(平成21年)度には本調査が実施された。 都市計画道路沼津南一色線は1934年(昭和9年)に計画された片端西高島線がその原型である。戦後、沼津駅付近から西熊堂を結ぶ道路、沼津金岡線として1946年(昭和21年)10月に都市計画決定された。その後、1961年(昭和36年)7月には終点が沼津市岡宮まで延長された。岡宮まで計画が延長された後の1961年12月末から1964年2月にかけて建設工事が行われた東海道新幹線の沼津工区の路盤工事では、この都市計画道路の計画に基づき、道路と立体交差できるように橋げたの位置を調整し、また橋げたの幅も広くとった。1974年(昭和49年)には終点が長泉町南一色となり、名称も沼津南一色線と変更された。 沼津南一色線は東側は国道246号に繋がり、裾野市や長泉町方面と沼津市中心部を結ぶ都市間交通としての道路、国道246号と国道1号を結ぶ広域道路、そして沼津市の中心部と東名高速道路の沼津インターチェンジを結ぶという役割を担い、幅員25メートル、4車線の幹線道路として計画が進められている。沼津市としては沼津南一色線を都市の骨格を形成する重要な路線と位置付けている。また高尾山古墳周辺の道路は慢性的な交通渋滞に悩まされており、排気ガスによる生活環境の悪化が懸念され、交通事故も多発し、小中学校への通学にも支障をきたしているなど、市民生活に悪影響が起きていた。沼津南一色線の開通によってこのような交通問題の軽減も期待されていた。高尾山古墳はこの沼津南一色線の道路建設予定地にある。 1996年(平成8年)、高尾山古墳が工事区間に含まれる沼津南一色線事業中区間は事業認可され、建設が着手された。2005年(平成17年)度には道路工事が開始され、同年度までに高尾山古墳周辺の土地買収も進行し、6月には沼津市建設部街路課から教育委員会文化振興課宛に、辻畑古墳(高尾山古墳)の扱いについて照会があった。道路予定地には熊野神社、高尾山穂見神社があって、道路建設のためにはどうしても神社の移転が必要となり、それとともに高尾山穂見神社の下にあるとされていた辻畑古墳が問題となったのである。結局、2005年(平成17年)と2007年(平成19年)に試掘調査が行われることになった。 道路建設と古墳保存との問題は、早くも試掘調査後に起きていた。2009年(平成19年)9月、沼津市の道路建設課長宛の文章の中で、辻畑古墳は前方後方墳であり、静岡県下でも最古級の貴重な古墳であるので、取り扱いについて教育委員会(文化振興課)と協議するよう求めた。しかし検討の結果、前述のようにあらかじめ道路の立体交差を見越して新幹線の橋脚の幅を広げてあるため、沼津南一色線はどうしてもそこを通さざるを得ない。新幹線から高尾山古墳までわずか180メートルしか無く、また沼津南一色線が国道1号と合流する計画である江原公園交差点までも古墳から120メートルと短い。そのため道路を古墳を避けるようなカーブにすると急カーブとなり、主要幹線道路として計画されている沼津南一色線の建設条件に反してしまう。同様にトンネル、高架で古墳を避けようとしても道路が急勾配となるため、やはり規定に反してしまうことが明らかとなった。その上、これまでの道路建設や用地買収、住宅移転の経緯も考慮すると高尾山古墳の保存は困難であり、記録保存とする方針となった。 2008年(平成20年)度、2009年(平成21年)度の本調査の結果、更に古墳の重要性が明らかとなった。2009年(平成21年)9月に行われた現地説明会は1000人以上の人が集まる盛況となり、説明会の前後には古墳そのものばかりではなく、保存問題についての報道も相次いだ。そのような中で沼津市は9月半ばに学術的評価が定まるまで現状保存をするという方針を決め、墳丘部の掘り下げ調査は中止された。この時点で沼津市側は高尾山古墳を現状のまま保存するか、古墳本体の保存は断念して記録保存を行うのか、古墳の学術的評価を見て決めるというスタンスを示していた。 2011年(平成23年)度、高尾山古墳の発掘調査報告書が刊行された。同じく2011年(平成23年)度からは沼津市において高尾山古墳についての庁内検討会が設けられ、古墳の保存方法などについての検討が進められた。そのような中で、日本考古学協会では2012年(平成24年)11月に高尾山古墳の保存を求める要望書を提出した。要望書ではまず高尾山古墳の学術的重要性を説明し、古墳が道路工事によって失なわれることは沼津市民のみならず日本国民にとって大きな損出であるとして、国民共有の財産として保存を求めた。また同年、静岡県考古学会も高尾山古墳の保存についての要望書を提出している。一方、地元の岡宮自治会は、早期の道路完成を求める要望書を繰り返し提出していた。 沼津市としてはやはり高尾山古墳の保存は困難であるとの結論となった。前述のように古墳を避けて沼津南一色線を建設すること自体高いハードルがある上に、高尾山古墳の周辺は市街化が進んでいた。これまで重要な遺跡を避けるために道路計画を変更した事例は、高尾山古墳とは対照的な市街化が進んでおらず交通量も比較的少ない地域がほとんどであった。高尾山古墳の場合、周囲の市街化が進んでいるので古墳保存のために新たに立ち退きを迫られる事態を招く可能性が高く、またどうしても道路の交通量も多くなってしまうため、道路の規格も高いものが要求されることになる。結局、まず道路を古墳を迂回させる方法や、トンネル、高架も条件的に道路建設が不可能であるとされた。墳丘の一部を保存するために迂回する方法も、多くの土地の追加買収が必要となってしまい、現実的ではないとされた。また古墳の東側に道路を建設する場合、高尾山古墳の墳丘から移転して、2009年(平成21年)9月には遷座祭も終えていた熊野神社、高尾山穂見神社がもう一回移転を迫られてしまうことも問題となった。そこで高尾山古墳は記録保存とし、沼津南一色線の歩道部分の勾配を調整することによって古墳東側の周溝の一部を残す案を固めた。 2014年(平成26年)12月、沼津市は静岡県教育委員会とともに、文化庁に古墳東側の周溝の一部を残す案について説明した。文化庁側からは沼津市が示した案を了承するとともに、引き続き検討をしていくように指示した。2015年(平成27年)1月には、沼津市は沼津南一色線の建設を進めるために発掘調査を行う旨の通知を静岡県教育委員会に提出した。3月31日、静岡県教育委員会は古墳を可能な限り残すように引き続き検討することと、古墳の価値について市民に周知していくことなどの条件付きで沼津市の通知を許可した。沼津市としては高尾山古墳の実物3分の1程度の復元施設の設置や、出土品や古墳築造当時の様子をデジタル技術で体感できるような展示をすることを検討し、更に墳丘西側の道路建設予定地と重ならない部分について、保存の可能性を検討していくことにした。 2015年(平成27年)5月25日、沼津市議会文教消防委員会の席で市教育委員会は、高尾山古墳の保存を断念して沼津南一色線の建設を進める方針を明らかにし、道路建設に先立って高尾山古墳を2年間の予定で発掘を行うとした。発掘は古墳の墳丘を少しずつ*3805*ぎ取りながら進められる予定とされ、沼津市教育委員会としてはこれまで高尾山古墳のような出現期の古墳の解体調査が実施された例はほとんど無く、また解体調査を通じて古墳築造方法についての検証が可能になるとした。また沼津市側は古墳解体の決定公表に際して、沼津市民の中から古墳保存を求める意見が見られないとの認識を示した。 ===古墳保存の声の高まりと方針の白紙撤回=== 沼津市が高尾山古墳の保存断念を公表した5月25日、日本考古学協会は高尾山古墳の保存を求める会長声明を公表した。声明の中で高尾山古墳は日本の初期国家形成過程の画期である古墳文化形成を解明する上で極めて重要な遺跡であると位置づけられ、日本国民共有の文化遺産として将来にわたって保存、活用すべきとされた。これまで日本考古学協会が遺跡の保存問題に関して会長声明を出したのは高松塚古墳、鞆の浦しかなく、高尾山古墳が3例目となった。また静岡県考古学会も6月23日に、高尾山古墳は日本でも最古段階の大型古墳であり、重要な学術的価値を有し、日本国民にとってかけがえのない貴重な文化遺産であるとして、保存と活用を求めた要望書を提出した。一方、高尾山古墳の地元である金岡地区の5自治会は6月2日、朝夕の渋滞がひどく交通事故が多い等、劣悪な交通事情を訴えて沼津南一色線の早期建設を要望した。 沼津市の古墳解体の方針発表後、古墳保存、そして道路建設の推進を求める様々な声が錯綜する中、沼津市内で高尾山古墳の保存を求める市民グループが相次いで設立された。設立された3つの市民グループは、高尾山古墳の保存を求めるとともに、この間、古墳を解体する手続きが進められていたことを市側が公にせず、市民不在のまま決定がなされたことを問題視し、6月16日、合同で市議会宛に陳情書を提出した。 この高尾山古墳の保存を求める市民団体からの陳情は、6月23日に市議会の文教消防委員会と建設水道委員会の連合審査会で検討が行われた。検討会の中で、古墳保存派の議員からは市民に全く知らされないまま古墳解体が決定され、古墳解体に関する予算案を提出したのはおかしいのではないかとの意見が出され、道路建設派の議員からも市民への周知をきちんと行ってほしいとの要望が多く出された。しかし高尾山古墳の墳丘を剥ぎ取りながら調査を進める発掘調査の予算は、6月24日に予算決算委員会を通過し、6月30日に市議会本会議で可決した。予算が市議会で可決されたため、高尾山古墳の消滅は決定したかに思えた。 しかし6月30日の市議会本会議後、栗原裕康沼津市長は予算の執行を保留する意向を表明した。栗原市長は保留の理由として、市民の中で高尾山古墳に対する関心が高まっている現状と、沼津のイメージ問題となっている現状を指摘した。そして古墳の保存問題に関して文化庁、国土交通省、静岡県などと改めて協議し、中立的な学術経験者らからなる協議会を設け、市民も協議会の傍聴ができるようにするプランを表明した。結局、沼津市は8月6日に臨時記者会見を開き、会見の席上、古墳の解体方針は白紙撤回するとして、古墳の保存と道路建設の両立の道を探る協議会の設立を正式に発表した。この会見の席で栗原市長は方針転換の理由として、保存を求める学会の声明や、高尾山古墳の問題が想定を遥かに上回る世間の関心を集めたことを挙げた。また9月3日に行われた道路の早期着工を求める岡宮自治会の要望に対し市長は、高尾山古墳の保存問題は国土交通省が関心を持っていて、沼津市のみの意向で決められる問題ではなくなった、と説明した。加えて11月10日に金岡中校区で実施された市長と語る会での席上では、高尾山古墳の保存問題が全国規模の問題となってしまい、国土交通省から費用や技術面での援助をするので古墳保存と道路建設の両立の検討を行うよう促されたと説明しており、古墳解体方針の白紙撤回の背景には国土交通省の意向があったとしている。 ===協議会の設置と議論=== 2015年9月3日、高尾山古墳保存と都市計画道路(沼津南一色線)整備の両立に関する協議会の第一回会合が開かれた。協議会は都市計画の専門家ら5名の委員から構成され、国土交通省、文化庁の職員がアドバイザーとして参加した。席上、まず沼津市側から高尾山古墳の学術的価値と、沼津南一色線建設の必要性について説明した。続いてこれまで沼津市が古墳と道路の両立案について検討した内容と、古墳保存と道路建設の両立が極めて困難な事情を説明した。このままではどう頑張ってみても古墳保存と道路建設の両立は不可能である。そこで沼津市側から、今まで検討してきた諸条件を見直せば打開策が得られるのでは、との提案があった。条件変更の要点は これまで制限速度60キロメートルとしていたものを、50キロメートルないし40キロメートルとする。車線を4車線とする計画であったものを、2車線に出来ないか検討する。上下線を分離する、歩道と車道を分離するなど、複断面の道路とすることを検討する。これまで古墳の周溝から5メートル以上の間隔を取って道路建設を行う計画であったものを、古墳の価値を損なわない範囲で間隔を狭める等の検討を行う。の4点であった。結局、次回の協議会では4条件を緩和するとどのような案が考えられるのか沼津市側から提示されることになり、協議会ではそれらの案について検討する運びになった。 第二回の協議会は11月19日に行われた。協議会の席で、まず沼津市側から沼津南一色線の推計交通量から判断して2車線化は困難であると説明があった。続いて高尾山古墳の移築保存について議論された。高尾山古墳は土を突き固める版築工法によって墳丘を築造している。版築で作られた墳丘の移築は日本国内ではこれまで例が無く、技術的にも困難であることが説明された。そして古墳は築造された場所でかつて営まれていた人々の活動を示す物証であり、古墳を移築した場合、その価値が大きく損なわれるとした。更に協議会にアドバイザーとして参加していた文化庁の職員からも移築した古墳は史跡の指定対象外になる、と明言され、古墳の移築は検討対象から外された。 続いて沼津市側から、前回の協議会で提出を約束していた代替案が提示された。代替案は 残存している古墳の墳丘は破壊しない。古墳が道路部分となってしまう場合は必要な保護措置を取る。道路建設計画変更に伴う建物補償はできる限り少なくし、特に住居の再移転は可能な限り避ける。追加の土地買収を少なく抑える。という条件に基づいて立案された。 代替案は全部で9つ提案された。前述のように沼津南一色線の車線は当初計画通り4車線とされ、また古墳を高架で避ける方法は制限速度を40キロメートルまで落としても墳丘の一部にかかってしまい、実現不可能であることが判明した。一方、制限速度を50キロメートルにすると、道路を古墳の東ないし西側を通す方法や墳丘の下にトンネルを通す方法が取れることがわかった。9つの案は道路を古墳の東ないし西側を通す、古墳の下にトンネルを掘る、そして上下4車線にするか、または2車線の上下線を分離して建設するという各方法の組み合わせで考案された。古墳の東側に道路を通す方法はどうしても古墳の一部に道路を通さざるを得なくなるため、道路の路盤下となる古墳部分を鉄板や発泡スチロールなどで保護した上で道路を通す計画となった。各案を比較してみるとトンネルを用いる方法はどうしても費用が高くなり、また案によっては建物補償の件数が多めとなり、また住居の再移転が必要となる案もあった。 各案はそれぞれ一長一短があると評価された。まず4車線のS字カーブで古墳西側を通す案は、建物補償と再移転が多くなることが難点とされた。また上下線ともトンネルとする案は整備費用が50億円を超えると試算され、費用の高さが問題となった。一方、古墳の東側に道路を通す案では、前述のようにどうしても古墳の一部が道路の路盤の下となってしまうことと、道路建設工事開始前は高尾山古墳の墳丘上に鎮座していて、古墳と深い繋がりがある高尾山穂見神社と熊野神社が道路によって高尾山古墳本体と分断されてしまうことが難点とされた。9つの案について協議会の委員が検討した結果、費用的に安価で建物補償と再移転が比較的少ないことから、4車線の道路で古墳の西側にT字の交差点を設ける方法が有力となった。 2016年(平成28年)2月2日、最終となる第3回目の協議会が開かれた。9つの案のうち、建物補償と再移転が多いことから墳丘西側を4車線のS字カーブで古墳を避ける方法と、費用が高額となることから4車線のトンネル案と上下2車線のトンネル案の、計3案が候補から外された。第二回の協議会と同様、4車線の道路で古墳の西側にT字の交差点を設ける方法を推奨する委員が多かったが、朝夕の通勤ラッシュ時などに交差点があることによって渋滞が発生する可能性があることや、道路が屈曲することによって衝突事故が起きる可能性が指摘された。また交差点に信号を設置する関係上、静岡県の公安委員会の了承も必要とされた。 協議会としては4車線のT字路案を候補として推薦することも考慮したが、この案は前述の交通面での懸念とともに、住宅の再移転が1件出てしまうことも問題視された。委員の中から再移転が必要となる案を協議会の推薦案とすることに強い反対があり、結局、6つの案についてそれぞれの評価をまとめた上で、5名の委員のうち3名が4車線のT字案を推薦案とすることでまとまった。 協議会の提案を受けて、栗原市長は3名の委員が推薦した4車線のT字路案を採用する意向を示し、案の実現のために必要となる県の公安委員会との協議に入った。 ===保存と道路工事との狭間で=== 2015年(平成27年)8月6日、沼津市は高尾山古墳の解体方針を白紙撤回し、古墳保存と道路建設の両立を目指す方針に転換した。その後9月3日には古墳保存と道路建設の両立について考える第一回の協議会が開かれた。第一回協議会の開催後、沼津市は地元金岡、門池地区の連合自治会で、市の方針転換について説明会を開いたものの、両地区とも古墳保存と道路建設の両立という考え方自体に拒否感が強く、古墳を解体して道路工事を進めて欲しいという希望が強く出された。 協議会の議論を受けて4車線のT字路案を採用する方向となり、2016年(平成28年)2月12日に沼津市議会本会議で行われた栗原市長の施政方針演説の中で、高尾山古墳を国指定史跡とする取り組みを行い、古墳の活用方法の検討に入るとした。また同日より沼津市は高尾山古墳保存費用の寄付の受付を開始した。3月8日に沼津で行われた狗奴国サミットは会場がほぼ満席となる盛況となり、高尾山古墳の保存運動を展開している市民グループ代表からは、高尾山古墳に対する関心の高さが古墳保存の後押しをすると挨拶し、また古墳東側に道路を通す案は古墳活用にとって望ましくないとの意見が述べられた。 ところが4車線のT字路案の採用についての静岡県公安委員会との協議は難航した。問題となったのは協議会でも4車線のT字路案の課題とされた交通安全面の問題であった。県公安委員会はT字路方式では屈曲部の大型車の並進時などに危険があると判断し、許可を得るのは困難となった。また地元からの要望があった沼津南一色線に接続する東西方向の道路整備も困難であることもネックとなった。沼津市側としては県公安委員会との協議が難航する中でも4車線のT字路案の整備案を中心に進めたいと考えていたが、結局は断念することになり、協議会で話し合われた残りの5つの案を中心に道路整備案を練り直すことになった。 古墳保存と道路建設との両立が難航する中、地元の東熊堂、西熊堂の自治会対象に3回、説明会が開催されたが、やはり古墳と道路の両立を目指す方針に対する地元理解は得られていない状況が続いている。一方、高尾山古墳の保存を求める市民グループは、協議会で古墳と道路建設の両立について話し合われたのにも関わらず、古墳保存の方針が決まらない中、結局、協議した内容が実現されないのではないかと憂慮した。またこれまで1000万円以上寄せられたという高尾山古墳保存の寄付金のことも考えると、古墳保存についての情報公開が必要であるとして、2017年(平成29年)5月11日に沼津市に質問状を提出した。沼津市側は質問状に対して、4車線のT字路案は断念したものの古墳の現地保存という方針に変更は無く、国史跡の指定を申請していきたいとの回答を行った。そして静岡県考古学会は6月11日に改めて高尾山古墳の保存と活用を求める声明を採択し、6月30日に沼津市側に伝達した。沼津市側からは4車線のT字路案は実現困難で他案を検討中であり、高尾山古墳の国の史跡指定を目指すとの回答があった。 2017年(平成29年)12月21日、沼津市は高尾山古墳の保存と道路建設について検討を重ね、また道路と文化財保護の関係者などとの協議を進めてきた結論として、都市計画道路沼津南一色線の西側車線(上り車線)は古墳の下をトンネルで、そして東側車線(下り車線)は古墳と熊野神社、高尾山穂見神社との間の地上を通す案を採用する方針を発表した。この案は高尾山古墳保存と都市計画道路(沼津南一色線)整備の両立に関する協議会で協議された中に含まれており、当初案では古墳の上を東側車線(下り車線)が通過する構造となるため、山砂、発泡スチロール、鉄板で古墳の保護措置を講じた上で道路を通すこととして、総工費は26億円と見積もられていた。 この案は地元からの強い要望があった東西方向への連絡道路の確保、そして走行車両の安全性という点で他案よりも優れていると判断された。また新たな建物移転の必要が無く、土地の追加買収も他案よりも少なく済む点も評価ポイントとされた。ただ、古墳上を道路が通過するという当初案では、地盤が軟弱であるため古墳ごと沈下してしまうおそれが高く、沈下を防ぐために地盤強化を行うと古墳を毀損してしまうため、東側車線(下り車線)については古墳を跨ぐ橋梁を設ける方針となった。その結果、工事費用は当初見込みの26億円から35ないし40億円と増大するが、当初案では課題とされた古墳と隣の熊野神社、高尾山穂見神社が分断され、古墳の一部が道路の路盤下になってしまう問題は、橋が古墳を跨ぐ構造とすることによって軽減されるとした。 しかし東側に設けられる橋梁は、橋脚が古墳の周溝域に立てられることになる可能性が高く、古墳の一部が橋の下となることも景観上の点から問題となり得る。 沼津市としては今後道路建設を進めるとともに、高尾山古墳の史跡指定を目指し、近くに駐車場を整備して古墳のガイダンス施設を充実させるなど、古墳の保存、活用を図っていくとしている。 ==現地情報== ===所在地=== 静岡県沼津市東熊堂北方 ===交通アクセス=== 東海旅客鉄道(JR東海)東海道本線・御殿場線 沼津駅 (徒歩約30分) ===関連施設=== 沼津市文化財センター(沼津市大諏訪) ‐ 高尾山古墳出土品等を保管・展示。 ===周辺=== 長塚古墳 (沼津市) ‐ 静岡県指定史跡。子ノ神古墳 (沼津市) ‐ 沼津市指定史跡。 =ワルシャワ・ゲットー蜂起= ワルシャワ・ゲットー蜂起(ワルシャワ・ゲットーほうき、英: Warsaw Ghetto Uprising, 波: Powstanie w getcie warszawskim, イディッシュ語: *6432**6433**6434**6435**6436**6437**6438**6439**6440**6441* *6442**6443**6444**6445* *6446**6447**6448**6449**6450**6451**6452**6453**6454*, 独: Aufstand im Warschauer Ghetto)は、第二次世界大戦中の1943年4月から5月にかけて、ワルシャワ・ゲットーのユダヤ人レジスタンスたちが起こしたナチス・ドイツに対する武装蜂起である。 ==概要== 第二次世界大戦がはじまり、東ヨーロッパの諸都市がドイツ軍に占領されると、それらの都市で暮らすユダヤ人たちはゲットーに隔離されるようになった。しかし1942年から1943年にかけてナチス親衛隊(SS)は「ラインハルト作戦」を開始し、ゲットーのユダヤ人たちを続々と絶滅収容所に移送するようになった。ワルシャワ・ゲットーでも過酷な移送作戦が行われ、数多くのユダヤ人がトレブリンカ絶滅収容所へ移送されて殺害された。 ユダヤ人の「追放」が始まった当初、ユダヤ人の抵抗組織のメンバーは会合を持ち、ドイツに対して戦わないことを決定していた。これは、ユダヤ人が殺されるのではなく、労働キャンプに送られるだけだと信じていたからであった。しかし、1942年の終わりには、「追放」と言うものが死の収容所へ送られることだとわかり、残ったユダヤ人は戦うことを決定した。 更なる移送作戦を阻止するため、モルデハイ・アニエレヴィッツ指揮下の「ユダヤ人戦闘組織」とダヴィド・アプフェルバウム(pl)指揮下の「ユダヤ人軍事同盟(pl)」が1943年4月19日から5月16日にかけてナチスに対して武装蜂起を起こした。反乱を起こしたユダヤ人たちは貧弱な武装と劣悪な補給にもかかわらず粘り強く戦ったが、最終的にはユルゲン・シュトロープSS少将率いる武装SS・ドイツ秩序警察・ドイツ国防軍などから成る混成部隊によって完全に鎮圧された。 鎮圧後、ワルシャワ・ゲットーの住民ほとんどがSSによって捕えられ、トレブリンカ、マイダネク、あるいは強制労働収容所へと移送され、ワルシャワ・ゲットーは解体された。 なおこの蜂起は基本的にワルシャワ・ゲットーのみの蜂起であり、この翌年の1944年にワルシャワ市内各地で発生したワルシャワ蜂起とは別個の蜂起である。 ==蜂起までの経緯== ===ゲットー創設=== 1939年9月のドイツ軍のポーランド侵攻によってワルシャワはドイツ軍に占領された。ドイツ当局は1940年10月から11月にかけてワルシャワ・ゲットーを創設した。同ゲットーの人口は最も多い時期で45万人であり、これはナチスが創設したゲットーの中でも最大であった。ゲットーの環境は劣悪であり、移送作戦までに約8万3000人のユダヤ人が伝染病や飢餓によってゲットー内で命を落とした。 ===移送作戦=== ポーランド総督府領内のユダヤ人を絶滅させるための「ラインハルト作戦」が1942年3月中旬からオディロ・グロボクニクSS少将の指揮の下に実行された。 ワルシャワ・ゲットーでは1942年7月22日から9月10日にかけて最初の移送作戦が行われ、「労働不能者」を中心に約30万人のゲットー住民がトレブリンカ絶滅収容所へ移送されてガス室で殺害された。この移送作戦によりワルシャワ・ゲットーの住民数はせいぜい7万人になった。 ===抵抗運動のはじまり=== 移送作戦が開始された直後の1942年7月23日にゲットー内の地下組織の指導者の会合があった。この席上シオニスト左派諸政党は武装抵抗を主張したが、他の出席者は移送されるのは恐らく数万人程度にとどまるだろうと考える者が多く、武装抵抗はかえって全ゲットー住民を危険に晒すとして反対論が相次いだ。結局7月28日にシオニスト左派諸政党だけで武装抵抗組織「ユダヤ人戦闘組織」(*6455*OB)を創設したが、各政党は移送作戦から自らの組織を守ることに手いっぱいで他党と会合を持ってる暇は無く、ユダヤ人戦闘組織も実際的にはほとんど機能せず、移送作戦に対して有効な抵抗はできなかった。 移送作戦が終了した後の1942年10月末、「ハショメル・ハツァイル(en)」リーダーモルデハイ・アニエレヴィッツのもとに改めてユダヤ人戦闘組織が創設された。一方右派シオニストの修正主義者たちも独自に武装抵抗組織を立ち上げ、「ユダヤ人軍事同盟(pl)」(*6456*ZW)を創設した。 本格的に武装抵抗の準備が開始され、ゲットー外から武器を購入するようになる。まず国内軍(AK)などゲットー外のポーランド人レジスタンス組織と接触を図り、彼らから武器を仕入れようとしたが、ポーランド人の間にも反ユダヤ主義は根強く、大金を積んだにも関わらず彼らがくれた物は拳銃10丁だけだった。国内軍指揮官たちはユダヤ人に武器を渡してもまともに使えるかどうか極めて怪しいと考えていた。結局ユダヤ人たちはゲットーの外へ抜け出て、ドイツ軍から武器を盗んだり購入したりした仲介人や脱走兵などから巨額の金を払って武器を購入することになった。 1942年終わり頃にユダヤ人戦闘組織は、彼らが「対独協力者」と看做していたユダヤ人評議会やユダヤ人ゲットー警察に対するテロ活動を本格化させた。ゲットー警察長官ヤーコプ・レイキンやユダヤ人評議会経済局長イズラエル・フィルストなどを暗殺した。これによりユダヤ人評議会とゲットー警察のゲットー内における威信は大きく低下した。 ===初の武装蜂起=== 1943年1月9日にSS全国指導者ハインリヒ・ヒムラー自らがワルシャワを訪れた。まだ4万人のユダヤ人がゲットーにいること(実際にはもう少し多くいた)を報告されたヒムラーは、さらに8000人のユダヤ人を移送するよう命じた。ヒムラーの命を受けてSS・警察部隊は1月18日から第二次移送作戦を開始した。これにより6500人のユダヤ人が移送され、1171人のユダヤ人が殺害された。 この移送作戦の際にユダヤ人戦闘組織はゲリラ戦による武装抵抗を起こした。ユダヤ人レジスタンスはドイツ兵に奇襲をかけては屋根伝いに逃げた。ドイツ兵に数人の死者がでたため、ドイツ当局はゲットー内を安易に動き回る事が出来なくなった。やがて移送作戦は中止された。 ===ゲットーに「革命政権」誕生=== ユダヤ人戦闘組織の蜂起はこれまで武装抵抗に懐疑的だったゲットー住民からも高く評価された。彼らは第二次移送作戦が最初と比べて小規模ですんだのはドイツ当局が武装抵抗に恐れをなしたからだと考えたのである(実際にはヒムラーがもともと8000人の移送しか命じていないためだったが)。 アニエレヴィッツとユダヤ人戦闘組織を支持するゲットー住民は急速に増え、それはゲットー内で一種の「革命政権」となった。一方本来のゲットー行政機関であるユダヤ人評議会はすっかり権威を落としていた。ユダヤ人評議会議長マレク・リヒテンバウムはドイツ当局からの命令に対して「私はもはやゲットー内に何の権威も持っていない。権威を持っているのは別の組織だ。それはユダヤ人戦闘組織だ」と答えている。ユダヤ人戦闘組織はユダヤ人評議会を脅迫してその予算を吐き出させ、またゲットー住民の富裕層に高い税金を課すことで資金を集め、それを武器購入費用にあてた。 ===蜂起の準備=== 国内軍からのユダヤ人レジスタンス組織への評価も上がったが、国内軍がユダヤ人戦闘組織に対して新たに支給したのは拳銃50丁、手りゅう弾50個、爆薬その他だけであった。右派シオニストのユダヤ人軍事同盟に対してはもう少し多くの支援をしたが、結局のところ国内軍がユダヤ人レジスタンスに対して行った支援は最低限でしかなかった。 蜂起までにユダヤ人レジスタンスが確保できた武器は多くない。数百丁の拳銃、若干のライフルとカービン、ごくわずかな機関銃、他には爆薬や火炎瓶や手りゅう弾などであった。戦闘員の装備は拳銃と数個の手りゅう弾というのが通常であった。武器があまりに少ないため、志願兵の受け入れを中止した結果、戦闘員の数はユダヤ人戦闘組織とユダヤ人軍事同盟をあわせても1000人に満たなかった。一方地下壕に関してはかなり綿密に準備した。空調設備や電気設備も備え、数カ月は持ちこたえられる量の水・食料・医薬品が備蓄された。 ドイツ当局がいつ最終的な移送作戦を行うのかゲットー住民には分からなかったのでレジスタンス戦闘員たちはいつ移送作戦が開始されても即時に武装蜂起できるよう準備にあたっていた。一般のゲットー住民が隠れ家を作るのに奔走していた1943年1月から4月のあいだ、戦闘員たちは戦闘訓練にあけくれていた。 ==武装蜂起== ===4月19日のユダヤ人の勝利=== 1943年4月18日にドイツ当局が武力でゲットーを制圧して移送作戦を再開するとの情報がユダヤ人戦闘組織に伝わった。ただちにゲットー全住民に警告を発するとともに地下壕にこもって戦闘準備を開始した。 4月19日(過越祭の始まる日だった)午前3時頃、「ワルシャワ」親衛隊及び警察指導者であるフェルディナント・フォン・ザンメルン・フランケネックSS准将率いる2000人ほどのSS・警察部隊によってゲットーが包囲された。このSS・警察部隊は武装SSの2個訓練・補充大隊、秩序警察の第22警察連隊に属する2個大隊、トラヴニキ強制労働収容所(de)の警備にあたっていたウクライナ人民兵による1個大隊、それからわずかな保安警察からの分遣隊によって編成されていた。武装SS部隊は訓練不足の者や負傷から回復したばかりの者で構成されており、また秩序警察部隊の方は退役者や総督府ポーランド警察やポーランド消防隊も動員されていた。動員された戦車はわずかな数のフランス製軽戦車(大砲なし)のみであった。 午前6時頃から武装SS部隊が集荷場に面したゲットー・ザメンホーファー通りに侵入を開始した。ユダヤ人レジスタンスたちは火炎瓶で戦車を足止めしつつ、武装SS兵たちに銃撃を浴びせた。さしたる抵抗はないと思っていたフォン・ザンメルンの部隊は予想外のユダヤ人の激しい抵抗に7時30分には潰走した。 同日午前8時にフォン・ザンメルン・フランケネックは解任されてユルゲン・シュトロープSS少将が新しい鎮圧部隊の指揮官となった。ヒムラーはシュトロープに対して「ワルシャワ・ゲットーでの狩り集めは容赦のない決意と出来る限り冷酷な方法で実行しろ。攻撃は強力であればある程良い。ここ最近の事例はユダヤ人がいかに危険であるかを示している」という命令を下した。しかしシュトロープもこの日に戦況を変えることはできなかった。ユダヤ人レジスタンスの粘り強い抵抗の末、午後5時にはドイツ軍は戦車1台と装甲車1台を失ってゲットーから一時撤収し、この日の戦闘は終了した。 これはドイツ軍占領下のワルシャワにおいて起こった初めての大規模反乱であった。ゲットーから次々と運び出されていくドイツ兵の死傷者たちを目撃したゲットー外のポーランド人たちはユダヤ人にこんな真似ができるはずはないと考え、「ポーランド軍の将校たちが指揮をとっているに違いない」「ポーランド軍が抵抗運動を組織したのだ」などと語っていたという。 女性レジスタンス指導者ツィヴィア・ルベトキン(pl)はこの4月19日の勝利を「最高の喜びだった。明日のことなど気にならなかった。我々ユダヤ人闘士は奇跡だと小躍りしていた。手作りの火炎瓶と手りゅう弾に恐れおののいて、無敵の勇者だったはずのドイツ兵どもが退却したのだ」と回想している。彼女の言葉にもあるとおりレジスタンス側の武器で特に役に立ったのは火炎瓶と手りゅう弾であった。数が非常に少ないが機関銃も非常に役に立った。しかし拳銃はほとんど役に立たなかった。 ===焦土作戦=== しかしユダヤ人たちの勝利は4月19日だけだった。4月20日、ドイツ国防軍ワルシャワ上級野戦司令官フリッツ・ロッスム(Fritz Rossum)少将の派遣した応援部隊がシュトロープの手元に到着した。この国防軍応援部隊は1個軽高射砲中隊と曲射砲小隊を中心としていた。シュトロープはゲットーの建物に火を放って隠れたユダヤ人たちをあぶり出す焦土作戦に切り替えた。シュトロープは「非人間と暴徒を地上にあぶり出すにはそれが唯一の方法であった」と日誌に書き記している。 4月20日、ドイツ軍は火炎放射器をもって再びゲットーへの侵入を開始した。軽高射砲と曲射砲によるゲットーの建物への砲撃も行われた。4月22日までにはゲットーの複数の地域が炎上していた。ドイツ軍はゲットー包囲を強化し、電気や水、ガスを完全に止めた。水がないため火を消すことはできなかった。レジスタンスたちは徐々に持ち場を放棄して地下壕に撤退せざるを得なくなった。蜂起開始から2週目には地下壕が戦闘の中心となっていた。ドイツ軍は一つずつ地下壕を発見していって手りゅう弾や催涙ガスを地下壕に放り投げ、ユダヤ人たちが這い出てきたところを掃討して片づけていった。 大多数のゲットー住民は蜂起に参加しておらず、ただ隠れていただけだったが、多くの者が巻き込まれて建物の下敷きになったり地下壕で窒息死したりして死亡した。下水道からゲットー脱出を図ろうとするユダヤ人が相次いだが、ドイツ軍側はマンホールを爆破することでこれを防いだ。拘束されたゲットー住民は集荷場に停めてある列車に乗せられて続々と移送されていった。 ===ゲットー外からの支援=== ゲットーの外からの支援は限られていた。しかしゲットー外のポーランド人レジスタンス組織である国内軍(AK)と人民軍がまったく協力しなかったわけではない。ゲットーの壁近くで警備部隊を攻撃し、武器や弾薬を内部に送る努力を試みた。この武器・弾薬の支援を受けるためのユダヤ人側の交渉役はイツハク・ツケルマンであった。また国内軍自身も4月19日から4月23日までの間、塀の外のあちこちでゲットーに侵入する試みでドイツ軍と交戦を行った。 ヘンリク・イヴァンスキ(pl)少佐指揮下の国内軍の一部隊、Pa*6457*stwowy Korpus Bezpiecze*6458*stwa(国民保安軍団の意)は、ユダヤ人軍事同盟とともにゲットーの内側で戦い、最終的には塀の外、「アーリア人の領域」へ撤退した。国内軍はポーランド国内と、連合国へ無線通信を介して、ゲットーのユダヤ人に関する情報と、彼らへの援助を求める連絡を行った。*6459*OBの一部のパルチザンと指揮系統の一部はポーランドの支援の元、運河を通り脱出した。イヴァンスキの行動が最も有名であったが、これは、ポーランドの抵抗勢力が行ったユダヤ人を助けるための多数の行動の1つであった。 ===鎮圧=== ユダヤ人軍事同盟はユダヤ人戦闘組織より装備が良かったこともあり、ゲットーの中心であるムラノウスキー広場 (Muranowski Square) 付近の拠点を長い期間持ちこたえて戦った。しかし4月27日の戦闘でユダヤ人軍事同盟指導者ダヴィド・アプフェルバウム(pl)が負傷した。同日、ヘンリク・イヴァンスキ(pl)少佐率いる国内軍の部隊がゲットー外から地下道を通ってユダヤ人軍事同盟の負傷者の運び出しに駆け付けたが、アプフェルバウムはゲットーから離れることを拒否し、翌28日に死亡している。 5月8日にはミワ18番地にあったユダヤ人戦闘組織の地下壕がドイツ軍に包囲された。ガス弾や手りゅう弾や爆薬を投げ込まれ、ユダヤ人レジスタンスは次々と戦死した。生き残った者たちももはやこれまでと判断し、その日のうちにお互いに銃を向けあって集団自決した。モルデハイ・アニエレヴィッツもここで死亡した。 2日後、数十名のユダヤ人レジスタンスたちがポーランド人共産主義者の協力で下水道を通ってゲットーを脱出した。その後も数個の戦闘部隊がゲットーに残り、戦闘を継続していたが、5月15日までには戦闘は散発的となった。 5月16日にシュトロープは「もはやワルシャワにゲットーは存在せず」と報告書を書いている。同日午後8時15分、シュトロープは鎮圧記念にワルシャワ・シナゴーグ (Warsaw Synagogue) を爆破解体させた。 ===死傷者数と移送者数=== ユルゲン・シュトロープSS少将の報告書によると「検挙されたユダヤ人5万6065人のうち、7000人がゲットーでの作戦中に死亡。さらに6929人はトレブリンカへ移送して殺害した。あわせて1万3929人が命を落とした。この5万6065人とは別にさらに5000人から6000人が火災で焼け死んだ」という。しかし5万6065人のうち死亡した1万3929人をのぞく4万2136人の運命についてはシュトロープの報告書はまったく触れていない。しかし別の証言や資料から見て、どうやらマイダネク(ルブリン強制収容所)、もしくはトラヴニキやポニアトーヴァなどの強制労働収容所へ送られたようである。もともと「労働不能者」と看做されたゲットー住民はとっくにトレブリンカへ送られて殺されていたのだから蜂起の時点でゲットーに残っている者たちはほとんどが「労働可能者」である。したがってほとんどが労働力として利用されたのであろうと考えられる。とはいえ結局この後にマイダネクで行われた「収穫祭作戦」によって大多数は殺されてしまったようである。 ドイツ側の損害についてシュトロープの報告書は「16名が殺害され、85名が負傷した」としているが、この数は日々の損害報告とまったく一致していない。実際にはドイツ側ももっと多くの犠牲を出していたはずである。自軍の優位性を示すために損害を控えめに発表したものと思われる。とはいえユダヤ人側の損害の方が圧倒的に多かったことは間違いないと思われる。 ===戦闘の後=== 1943年夏、親衛隊経済管理本部長官オズヴァルト・ポール親衛隊大将はワルシャワ・ゲットーの跡地にワルシャワ強制収容所(de:KZ Warschau)を設置させ、そこの囚人にゲットーの破壊された建物の撤去作業を行わせた。2,500人の強制収容所囚人と1,000人のポーランド労働者が動員され、1年以上働いて建物の残骸や壁の撤去にあたった。 ゲットーから逃げて隠れたユダヤ人の捜索も行われた。ユダヤ人を匿ったり支援したりするポーランド人もいないわけではなかったが、多くの場合ポーランド人はドイツ当局に密告を行い、これによって多くのユダヤ人が捕まってしまった。ポーランド・ギャングもこの状況を利用してユダヤ人の居場所を血眼になって捜し、見つけ出すと「密告されたくなければ金を払え」といってユダヤ人を脅迫した。 後の1944年に発生したワルシャワ蜂起において、ポーランドの国内軍の部隊ゾスカ (”Zo*6460*ka”) は、ワルシャワ強制収容所より380人のユダヤ人の虜囚を解放した。彼らのほとんどは、すぐさま国内軍に参加した。わずかの人間は、ワルシャワゲットー蜂起の際に地下道を通り生き延びて、ワルシャワ蜂起に参加した。 ==評価・知名度・顕彰などについて== ワルシャワ・ゲットー蜂起そのものは失敗におわったが、決して無意義ではなかった。ナチス・ドイツの圧政に対してユダヤ人が初めて武器をとって抵抗したという輝かしい記憶をユダヤ人たちに残したのである。この記憶はユダヤ人民族国家イスラエルの建国に向けて大きな原動力となったのである。イスラエル建国後、ゲットー蜂起についての研究を行うロハメイ・ハゲタオット(he)が同名のキブツに創設されている。またガザ地区北にあるキブツ「ヤド・モルデハイ(he)」はモルデハイ・アニエレヴィッツの名前から名づけられたものである。 しかしながら日本においてはワルシャワ・ゲットー蜂起は知名度が低めの事件であり、しばしば1944年のワルシャワ蜂起と混同されている場合もある。2つの出来事は時間的にも異なり、まったく目的が異なっている。前者のユダヤ人の蜂起は、強制収容所での確実な死亡より、助かるわずかな望みをかけて、命を懸けての戦いを選択したものであり、戦う能力があれば最後の瞬間まで戦闘を行っていた。2つ目の蜂起は、ポーランド人が自分の領土を取り戻すためのテンペスト作戦の一部であった。とはいえ、2つの事件の間に関連がまったく無いと言い切ることもできない。2つの暴動が同じワルシャワで発生したと言う点、また、ワルシャワ・ゲットー蜂起において生き延びた多数の人間(100近い人数)が後のワルシャワ蜂起において、国内軍や人民軍の一員として戦った点より、関連があると言うものもいる。 1970年12月7日に西ドイツ首相であるヴィリー・ブラントは、当時共産党独裁体制下にあったポーランド人民共和国を公式訪問した際に、蜂起の記念碑にひざまずいて哀悼の意を示した。だがこのことは戦後の共産党独裁下のポーランド人民共和国においてはほとんど公表されなかった。共産党独裁体制下のポーランドにおいてはホロコーストやワルシャワ・ゲットー蜂起に関する事実はほとんど語られることがなかった。かろうじてゲットー英雄記念碑が建てられたぐらいであった。しかし東欧革命によってポーランドの共産党独裁体制が崩壊するとポーランドとイスラエルは国交を回復。1991年5月にワレサ大統領がポーランド大統領としてはじめてイスラエルを訪問し、イスラエル国会においてポーランド人の中にも反ユダヤ主義があったことを認めて謝罪を行った。 =富岡製糸場= 富岡製糸場(とみおかせいしじょう、Tomioka Silk Mill)は、群馬県富岡に設立された日本初の本格的な器械製糸の工場である。1872年(明治5年)の開業当時の繰糸所、繭倉庫などが現存している。日本の近代化だけでなく、絹産業の技術革新・交流などにも大きく貢献した工場であり、敷地を含む全体が国の史跡に、初期の建造物群が国宝および重要文化財に指定されている。また、「富岡製糸場と絹産業遺産群」の構成資産として、2014年6月21日の第38回世界遺産委員会(ドーハ)で正式登録された。 時期によって「富岡製糸場」(1872年から)、「富岡製糸所」(1876年から)、「原富岡製糸所」(1902年から)、「株式会社富岡製糸所」(1938年から)、「片倉富岡製糸所」(1939年から)、「片倉工業株式会社富岡工場」(1946年から)とたびたび名称を変更している。史跡、国宝、重要文化財としての名称は「旧富岡製糸場」、世界遺産暫定リスト記載物件構成資産としての名称は「富岡製糸場」である。 ==概要== 日本は江戸時代末期に開国した際、生糸が主要な輸出品となっていたが、粗製濫造の横行によって国際的評価を落としていた。そのため、官営の器械製糸工場建設が計画されるようになる。 富岡製糸場は1872年にフランスの技術を導入して設立された官営模範工場であり、器械製糸工場としては、当時世界最大級の規模を持っていた。そこに導入された日本の気候にも配慮した器械は後続の製糸工場にも取り入れられ、働いていた工女たちは各地で技術を伝えることに貢献した。 1893年に三井家に払い下げられ、1902年に原合名会社、1939年に片倉製糸紡績会社(現片倉工業)と経営母体は変わったが、1987年に操業を停止するまで、第二次世界大戦中も含め、一貫して製糸工場として機能し続けた。 第二次世界大戦時のアメリカ軍空襲の被害を受けずに済んだ上、操業停止後も片倉工業が保存に尽力したことなどもあって、繰糸所を始めとする開業当初の木骨レンガ造の建造物群が良好な状態で現代まで残っている。2005年に敷地全体が国の史跡に、2006年に初期の主要建造物(建築物7棟、貯水槽1基、排水溝1所)が重要文化財の指定を受け、2007年には他の蚕業文化財とともに「富岡製糸場と絹産業遺産群」として世界遺産の暫定リストに記載された。2014年6月に世界遺産登録の可否が審議され、6月21日に日本の近代化遺産で初の世界遺産リスト登録物件となった。 ==歴史== ===建設決定まで=== 開国直後の日本では、生糸、蚕種、茶などの輸出が急速に伸びた。ことに生糸の輸出拡大の背景には、ヨーロッパにおける生糸の生産地であるフランス、イタリアで微粒子病という蚕の病気が大流行し、ヨーロッパの養蚕業が壊滅的な打撃を被っていたことや、太平天国の乱によって清の生糸輸出が振るわなくなっていたことなどが背景にあった。その結果、1862年(文久2年)には日本からの輸出品の86%を生糸と蚕種が占めるまでになったが、急激な需要の増大は粗製濫造を招き、日本の生糸の国際的評価の低落につながった。また、イタリアの製糸業の回復も日本にとっては向かい風になり、日本製生糸の価格は1868年から下落に転じた。 明治政府には、外国商人などから器械製糸場建設の要望が出されており、エシュト・リリアンタール商会からは資金提供の申し出まであった。これが直接的な引き金となって器械製糸工場建設が実現に向かうが、政府内では外国資本を入れず、むしろ国策として器械製糸工場を建設すべきという意見が持ち上がり、1870年(明治3年)2月に器械製糸の官営模範工場建設が決定した。これは粗製濫造問題への対応というよりも、従来の座繰りによる製糸では太さが揃わなかったために、経糸(たていと)よりも安価で取引される緯糸(よこいと)として使われることが多かった実態を踏まえ、その改良を志向した側面があったとも言われている。 同時に政府は器械製糸技術の導入を奨励しており、前橋藩では速水堅曹らが同じ年に藩営前橋製糸所を設立した。これは日本初の器械製糸工場と見なされているが、イタリアで製糸業に従事した経験を持つスイス人ミュラーを雇い入れ、イタリア式の製糸器械を導入したものであり、当初は6人繰り、次いで12人繰りという小規模なものにとどまった。 大隈重信、伊藤博文と渋沢栄一は官営の器械製糸場建設のため、フランス公使館通訳アルベール・シャルル・デュ・ブスケおよびエシュト・リリアンタール商会横浜支店長ガイゼンハイマー (F. Geisenheimer) に、いわゆるお雇い外国人として適任者を紹介するように要請したところ、エシュト・リリアンタール商会横浜支店に生糸検査人として勤務していたポール・ブリューナ (Paul Brunat) の名が挙がった。明治政府はブリューナが提出した詳細な「見込み書」の内容を吟味した上で、1870年(明治3年)6月に仮契約を結んだ。 ブリューナは仮契約後すぐに尾高惇忠らを伴って、長野県、群馬県、埼玉県などを視察し、製糸場建設予定地の選定に入った。そして、明治3年閏10月7日に民部大輔らと正式な雇用契約を取り交わすと、同月17日には富岡を建設地とすることを最終決定している。この決定は、周辺で養蚕業がさかんで繭の調達が容易であることや、建設予定地周辺の土質が悪く、農業には不向きな土地であること、水や石炭などの製糸に必要な資源の調達が可能であること、全町民が建設に同意したこと、元和年間に富岡を拓いた代官中野七蔵が代官屋敷の建設予定地として確保してあった土地が公有地として残されており、それを工場用地の一部に当てられることなど、様々な要件が考慮された結果であった。 ===建設=== ブリューナは製糸場の設計のために、横須賀製鉄所のお雇い外国人だったエドモン・オーギュスト・バスチャンに依頼し、設計図を作成させた。バスチャンは明治3年11月初旬に依頼を受けると、同年12月26日(1871年2月15日)に完成させた。彼が短期間のうちに主要建造物群の設計を完成させられた背景としては、木骨レンガ造の横須賀製鉄所を設計した際の経験を活かせたことが挙げられている。 ブリューナは設計図の完成を踏まえ、翌月22日(1871年3月12日)に器械購入と技術者雇用のためにフランスに帰国した。ブリューナは建設予定地調査の折に、地元工女に在来の手法で糸を繰らせて日本的な特徴を把握しており、それを踏まえて製糸場用の器械は特別注文した。目的を達したブリューナはその年の内、すなわち明治4年11月8日(1871年12月19日)に妻らとともに再来日を果たすことになる。 他方で、ブリューナが日本を発ったのと同じ月には、尾高惇忠が日本側の責任者となって資材の調達に着手し、1871年(明治4年)3月には着工にこぎつけていた。建築資材のうち、石材、木材、レンガ、漆喰などは周辺地域で調達した。なお、レンガはまだ一般的な建材ではなく、明戸村(現埼玉県深谷市)からも瓦職人を呼び寄せ、良質の粘土を産する福島村(現甘楽町福島)に設置した窯で焼き上げた。この時期、民部省庶務司から大蔵省勧業司へと所管が変わった(明治4年7月24日)。 建設を進めることと並行し、明治5年(1872年)2月12日に政府から工女募集の布達が出された。しかし、「工女になると西洋人に生き血を飲まれる」などの根拠のない噂話が広まっていたことなどから、思うように集まらず、政府は生き血を取られるという話を打ち消すとともに、富岡製糸場の意義やそこで技術を習得した工女の重要性などを説く布告をたびたび出した。このような状況の中で尾高は、噂を払拭する狙いで娘の勇(ゆう)を最初の工女として入場させた。富岡製糸場は、1872年7月に主要部分の建設工事が終わるのに合わせて開業される予定だったが、予定よりも遅れた。その理由の一つには、この工女不足の問題があったと推測されている。 ===官営時代=== 富岡製糸場は、明治5年10月4日(1872年11月4日)に官営模範工場の一つとして操業を開始した。ただし、当初は工女不足から210人あまりの工女たちで全体の半分の繰糸器を使って操業するにとどまった。翌年1月の時点で入場していた工女は404人で、主に旧士族などの娘が集められていた。同年4月に就業していた工女は556人となり、4月入場者には『富岡日記』で知られる和田英(横田英)も含まれていた。 製糸場の中心をなす繰糸所は繰糸器300釜を擁した巨大建造物であり、フランスやイタリアの製糸工場ですら繰糸器は150釜程度までが一般的とされていた時代にあって、世界最大級の規模を持っていた。また、特徴的なのは揚返器156窓も備えていたことである。揚返(あげかえし)は再繰ともいい、小枠に一度巻き取った生糸を大枠に巻き直す工程で、湿度の高い日本の気候の場合、一度巻き取っただけではセリシン(生糸を繭として固めていた成分)の作用で再膠着する恐れがあり、それを防ぐために欠かせなかった。これに対し、ヨーロッパの場合はこの工程を省く直繰(ちょくそう)式が一般的で、前出の前橋製糸所が導入した器械も直繰式であった。前出の通り、ブリューナは富岡製糸場のための器械を特注していたが、その一つはこの日本の気候に合わせて再繰式を導入する点にあった。なお、特別注文したほかの点には、日本人女性の体格に合わせて高さの調整をしたことなどが挙げられる。 工女たちの労働環境は充実していた。当時としては先進的な七曜制の導入と日曜休み、年末年始と夏期の10日ずつの休暇、1日8時間程度の労働で、食費・寮費・医療費などは製糸場持ち、制服も貸与された。群馬県では県令楫取素彦が教育に熱心だったこともあり、1877年(明治10年)には変則的な小学校である工女余暇学校の制度が始まり、以前から工女の余暇を利用した教育機会が設けられていた富岡製糸場でも、1878年(明治11年)までには工女余暇学校が設置された。しかし、官営としてさまざまな規律が存在していたことや、作業場内の騒音など、若い工女たちにとってはストレスとなる要因も少なくなかった。そのため、満期(1年から3年)を迎えずに退職する者も多く、その入れ替わりの頻繁さから不熟練工を多く抱え、赤字経営を生む一因となった。また、様々な身分の若い女性が同じ場所で生活していたことから、上流出身の女性の身なりに合わせたがる工女も少なくなく、出入りしていた呉服商・小間物商から月賦払いで服飾品を購入して借金を重ねる事例もしばしば見られた。 工女たちは熟練度によって等級に分けられていた。開業当初は一等から三等および等外からなっていたが、1873年には等外上等および一等から七等の8階級に変わった。工女たちはブリューナがフランスから連れてきたフランス人教婦たちから製糸技術を学び、1873年5月には尾高勇ら一等工女の手になる生糸がウィーン万国博覧会で「二等進歩賞牌」を受賞した。これは品質面の評価よりも、近代化されたことに対する評価だったという指摘もあるが、開業間もない富岡製糸場の評価を高めたことに変わりはなく、リヨンやミラノの絹織物に富岡製の生糸が使われることにつながったとされる。工女たちは、後に日本全国に建設された製糸工場に繰糸の方法を伝授する役割も果たした。和田英や春日蝶が1874年7月に帰郷したのも、そうした工場の一つである民営の西条製糸場(のちの六工社)で指導に当たるためであった。なお、初期には人数は少なかったが、蒸気機関の扱いなどを学ぶための工男たちも受け入れており、西条製糸場の設立にも、そうした工男が貢献している。 初期の富岡製糸場は初代所長(場長)尾高惇忠、首長ポール・ブリューナを中心に運営されたが、前述の不熟練工の問題やブリューナ以下フランス人教婦、検査人などのお雇い外国人たちに支払う高額の俸給、さらに官営ならではの非効率さなどの理由から大幅な赤字が続いていた。 契約満了につきブリューナとフランス人医師が去った1875年(明治8年)12月31日をもって、富岡製糸場のお雇い外国人は一人もいなくなった。日本人のみの経営となった最初の年度、明治9年度には大幅な黒字に転じた。この理由としては、お雇い外国人への支出がなくなったことのほか、所長の尾高の大胆な繭の思惑買いなどが奏功したことが挙げられる。しかし、尾高の思惑買いは、彼が当時政府が認めていなかった秋蚕の導入に積極的だったことなどと併せ、政府との対立を生む原因になり、尾高は富岡製糸場が富岡製糸所と改称された翌月に当たる1876年(明治9年)11月に所長を退いた。 翌年度には、従来、エシュト・リリアンタール社を経てリヨンに輸出されていた生糸が、三井物産によってリヨンへ直輸出されるようにもなり、日本人による直輸出が始まった。 内務省の官吏だった速水堅曹はかねてから民営化も含めた抜本改革を提言していたが、西南戦争(1877年)の勃発によって一時的に棚上げされた。しかし、1878年(明治11年)にパリ万国博覧会に赴いていた松方正義(当時は勧農局長)が富岡の生糸の質の低下を指摘されたことから、速水が富岡製糸所の改革を任されることになる。速水は、尾高の後任だった山田令行が改革を阻害しているとして更迭を進言し、これを実現させた。松方は後任として速水を第3代所長に任命したが、民営化を主張する速水は1880年(明治13年)11月5日の「官営工場払下概則」制定と前後して、富岡製糸所の生糸の直輸出を一手に担う横浜同伸会社設立に関わり所長を辞任、かわって同伸会社の社長に就任した。この時点では、民間人となった速水が富岡製糸所を5年間借り受けるという話が、松方との間で事実上内定していたが、群馬県令の反対などもあって、政府は最終的にこれを認めなかった。他方で、ほかに払い下げを希望する民間人は現れなかった。富岡製糸所の巨大さが、当時の民間資本では手に余る存在だったからと言われている。「官営工場払下概則」が結果的に払い下げを促進することにはならずに1884年に廃止されると、官営工場の払い下げは急速に進んだが、富岡製糸場は払い下げの見通しが立たないまま、官営の時期がなおも続いた。 第4代所長の岡野朝治の時期は、度々の糸価下落などの影響を受け、経営的に厳しい時期にあたっていた。そうした状況を受け、1885年(明治18年)には速水が第5代所長として復帰した。速水は同伸会社社長時代に、一手に輸出を引き受けていた富岡製糸所の生糸を、リヨン以外にニューヨークにも輸出するようになっていた。彼は製糸所所長として改革を進める一方で、アメリカ向けの輸出も増やし、米仏の両国で富岡の生糸の評価を高めた。他方で速水は民営化を引き続いて主張していたが、それは1890年代になってようやく実現することになる。 ===三井家時代=== 1891年(明治24年)6月に払い下げのための入札が初めて行われたが、このときに応札した片倉兼太郎と貴志喜助はいずれも予定価額(55,000円)に大きく及ばず、不成立になった。改めて1893年(明治26年)9月10日に行われた入札では、最高額入札となった三井家が12万1460円をつけ、予定価額10万5000円を上回ったため、払い下げが決定した(引渡しは10月1日)。 三井家の時代の経営はおおむね良好で、繰糸所に加えて木造平屋建ての第二工場を新設したほか、第一工場(旧繰糸所)からは揚返器を撤去し、揚返場を西置繭所1階に新設した。これは蒸気機関のせいで繰糸所内が多湿であったことから、揚返場を兼ねさせることに不都合があったためである。この時期には新型繰糸機などが導入され、開業当初の繰糸器、揚返器はすべて姿を消した。そのような新体制の下で生産された生糸は、すべてアメリカ向けに輸出された。 この時期に寄宿舎も新設したが、工女の約半数は通勤になっている。工女の労働時間は、開業当初に比べると伸ばされる傾向にあり、6月の実働時間は11時間55分、12月には8時間55分となっていた。読み書きや裁縫を教える1時間程度の夜学は継続されていたが、長時間労働で疲れた工女たちは必ずしも就学に熱心でなかったという。 三井は富岡以外にも3つの製糸工場を抱えていたが、4工場全てを併せた収益は好調とはいえなかった。また、三井家の中で製糸工場の維持に積極的だった銀行部理事の中上川彦次郎が病没したことも、製糸業存続には向かい風となった。こうして、三井は1902年(明治35年)9月13日に4工場全てを一括して原富太郎の原合名会社に譲渡した。原が4工場の代価として支払ったのは、即金10万円と年賦払い(10年)13万5000円であった。 ===原合名会社時代=== 原合名会社が富岡製糸所を手に入れると、その翌月に当たる1902年10月に原富岡製糸所と改名した。1900年前後には郡是製糸(現グンゼ)を始め、繭質改良に積極的な事業者が現れ、蚕種を安価で配布するものも現れていた。蚕種を養蚕農家に配布することは、繭の品質向上と均質化に寄与するものであった。原合名会社も、まず原名古屋製糸所で1903年(明治36年)から蚕種の配布を始め、1906年(明治39年)からは原富岡製糸所でも開始した。原富岡での蚕種の配布は無償で行なわれ、その数を増やしていく上では、群馬で発祥し、全国的に影響のあった養蚕教育機関高山社の協力も仰いだ。また、工女たちの教育機会の確保は継続されており、娯楽の提供などの福利厚生面にも配慮されていたが、それらについては「普通糸」よりも質の高い「優等糸」を生産していた富岡製糸所にとっては、熟練工をつなぎとめておくことが必要であったからとも指摘されている。 原時代は第一次世界大戦(1914年勃発)や、世界恐慌(1929年)に見舞われた時期を含んでいる。いずれの時期にも生産量は減少しており、ことに1932年(昭和7年)には大幅な減少を経験した。しかし、それから間もなく8緒のTO式繰糸器・御法川式繰糸器を撤去し、20緒のTO式および御法川式を大増設し、生産性は上昇した。1936年(昭和11年)には14万7000kgの生産量を記録し、過去最高となった。 このように生産性の向上は見られたが、満州事変や日中戦争によって国際情勢は不安定化していき、1938年(昭和13年)には群馬県最大(全国2位)の山十製糸が倒産した。このような情勢の中、原富岡製糸所の大久保佐一工場長が組合製糸会社(大久保が社長を兼務)のトラブルがもとで自殺したことや、原富太郎の後継者原善一郎が早世するなど、原合資会社内部の混乱が重なっていた。さらに、主要輸出先アメリカで絹の代替となるナイロンが台頭し、先行きにも懸念があった。そのため、原合名会社は山十が倒産したのと同じ1938年に製糸事業の縮小に踏み切った。富岡製糸所は切り離されて、同年6月1日に株式会社富岡製糸所として独立した。形式上の代表取締役は西郷健雄(原富太郎の娘婿)であったが、経営は筆頭株主の片倉製糸紡績会社が担当することになった。 ===片倉時代=== 株式会社富岡製糸所は当時、日本最大級の繊維企業であった片倉に合併されることになり、株主総会での合意を経て、1939年(昭和14年)4月29日に公告された。この実質的に原が片倉に委任した一連の経緯に関し、原側は片倉以外には「この由緒ある工場を永遠に存置せしむる」委任先が存在しないという認識を示していた。原富太郎は後継者を失った中で自身の高齢についても懸念を抱いていたとされるが、富岡製糸所が片倉に合併されたこの年に没している。なお、前述のように官営時代末期の最初の入札時に応札した一人が片倉兼太郎であり、三井家が落札したときに競り負けた企業の一つ、開明社でその時に実権を握っていたのも片倉兼太郎であった。こうしたことから、片倉は古くから富岡製糸所の経営に意欲を持っていたとされている。 合併の年に片倉富岡製糸所と改称され、1940年(昭和15年)には18万9000kgの生産量を記録し、過去最高記録を塗りかえたが、太平洋戦争直前の社会情勢は生産に多大な影響を及ぼした。1941年(昭和16年)3月公布の蚕糸事業統制法によって片倉富岡製糸所も統制経済に組み込まれ、同年5月の日本蚕糸統制株式会社の成立によって、富岡製糸所は片倉から同株式会社に形式上賃貸されることとなった。片倉本体は航空機関連の軍需生産に軸足を移し、1943年(昭和18年)に片倉工業株式会社と改称した。太平洋戦争中には片倉が所有していた製糸工場は廃止や用途転換が多く見られたが、富岡製糸所はその主たる用途が軍需用の落下傘向けであったとはいえ、製糸工場として操業され続けた。兵隊として男子を取られていた農村の労働力を埋める必要から、工女の数は著しく減少したが、繰糸機の増設によってカバーした。ただし、輸出中心に発展してきた富岡製糸所の歴史の中で、初めて輸出量が皆無となった。 戦後、GHQは経済の民主化を進め、1946年(昭和21年)3月1日に日本蚕糸統制株式会社も解散させられ、富岡製糸所も名実ともに片倉に戻った。この年から片倉工業株式会社富岡工場となった。 前述の通り、富岡製糸所は戦時中も一貫して製糸工場として機能し続けた少ない例の一つであり、しかも、空襲などの被害も受けることなく、終戦を迎えていた。1952年(昭和27年)からは自動繰糸器を段階的に導入し、電化を進めるために所内に変電所も設けた。その後も、最新型の機械へと刷新を繰り返し、1974年(昭和49年)には生産量37万3401kgという、富岡製糸場(所)史上で最高の生産高をあげた。 この間、工場労働者を取り巻く環境も変化した。戦後、労働者保護法制が整備されたことから、二交替制が導入された。片倉工業は戦前に青年学校令(1935年)に基づく工場内学校を設置しており、富岡製糸所にも合併した年に私立富岡女子青年学校を開校していた。戦後になると、1948年に新しい時代に対応した教育要綱を社内で作成し、各地に知事認可で高校卒業資格を取得できる片倉学園を設置した。富岡工場にも、寄宿舎入寮者は無料で学べた片倉富岡学園が開校された。当時は義務教育終了と同時に就職する女性も多かったため、片倉工業はそういう女性たちに良妻賢母教育を施すことを自社の社会的責任と位置づけていたのである。 しかし、和服を着る機会の減少などの社会情勢の変化に加え、1972年(昭和47年)の日中国交正常化が中国産の廉価な生糸の増加を招いたことから、生産量は減少に向かい、1987年(昭和62年)2月26日に操業を停止、同年3月5日に閉業式が挙行された。 ===世界遺産登録へ向けた動き=== 片倉工業は富岡工場(旧富岡製糸場)を閉業した後も一般向けの公開をせず、「売らない、貸さない、壊さない」の方針を堅持し、維持と管理に専念した。富岡製糸場は巨大さゆえに固定資産税だけで年間2000万円、その他の維持・管理費用も含めると最高で1年間に1億円以上かかったこともあるとされる。また、片倉は修復工事をするにしても、コストを抑えることよりも、当時の工法で復原することにこだわったという。こうした片倉の取り組みがあったればこそ、富岡製糸場が良好な保存状態で保たれてきたとして、片倉の貢献はしばしば非常に高く評価されている。 富岡製糸場の操業停止を受けて、市民レベルでもその価値を伝えていこうとする学習会「富岡製糸場を愛する会」が、当初は細々としたものではあったが、1988年に発足した。この団体は継続的に活動しており、特に活発な市民団体とされている。 富岡市の取り組みでは今井清二郎の市長在任中(1995年 ‐ 2007年)が、ひとつの大きな画期となっている。今井は市長就任前から富岡製糸場に強い関心を抱いており、市長になると片倉工業との交渉を開始した。そんな中、2003年(平成15年)に群馬県知事小寺弘之が富岡製糸場について、「ユネスコ世界遺産登録するためのプロジェクト」を公表した。翌年12月には県知事、市長、片倉工業社長の三者での合意が成立し、富岡製糸場が富岡市に寄贈されることとなった(土地は有償で売却、建物は無償譲渡)。2005年(平成17年)9月30日付けで富岡市に寄贈され、翌日からは市(富岡製糸場課)が管理を行っている。 2005年(平成17年)7月14日付で「旧富岡製糸場」として国の史跡に指定され、2006年(平成18年)7月5日には1875年(明治8年)以前の建造物が重要文化財に、2014年12月10日にはその一部が国宝に指定された。2006年には毎日新聞社の記念事業「ヘリテージング100選」に選出され、2007年11月30日には経済産業省から、近代化産業遺産のひとつ「『上州から信州そして全国へ』近代製糸業発展の歩みを物語る富岡製糸場などの近代化産業遺産群」の構成遺産に認定された。 文化庁が2006年と2007年に、全国の地方自治体から世界文化遺産の追加提案候補を公募した際には、群馬県と富岡市、および他の7市町村が共同で「富岡製糸場と絹産業遺産群 ‐ 日本産業革命の原点」を提案した。これは2007年1月30日に「富岡製糸場と絹産業遺産群」として、日本の世界遺産暫定リストに記載された。いわゆる近代化遺産が暫定リストに加えられたのは、これが初めてである。その後、富岡製糸場以外の構成資産の候補は何度も見直されたが、2012年8月23日に国際連合教育科学文化機関 (UNESCO) の世界遺産センターに正式推薦されることが決定し、2013年1月31日に正式な推薦書が世界遺産センターに受理された。日本の世界遺産として産業遺産が推薦されるのは、石見銀山遺跡とその文化的景観(2006年推薦、2007年登録)以来、2例目のことである。 2013年9月25日から26日にかけて、世界遺産委員会の諮問機関である国際記念物遺跡会議 (ICOMOS) から派遣された中国国立シルク博物館館長の趙豊が、現地調査を行なった。この現地調査を踏まえ、2014年4月26日未明(日本時間)に「登録」の勧告がICOMOSから出された。この勧告に基づいて、同年6月の第38回世界遺産委員会で正式に登録された。 ==作業工程== 関連する主要建造物は後節を参照のこと富岡製糸場では、購入した繭の乾燥・貯蔵から出荷のために束ねることまでの一連の工程を行えるようになっていた。 乾繭(かんけん)は購入した繭を乾燥させる工程で、繭の中の蛹を殺すことと、カビの発生を防ぐことを目的としている。当初は蒸気釜所の横に設置された燥繭所(そうけんじょ)で行われており、火炉の輻射熱を利用する方式で乾燥させていた。乾燥させた繭は置繭所(繭倉庫)に貯蔵された後、選繭(せんけん)にかけられる。この工程は、不備のある繭を除外するとともに、繭の質によって等級に分け、用途を決めていた。 このあと、煮繭(しゃけん)にかけられる。これは繭から糸を引き出すために行う工程だが、当初の繰糸器には煮繭用の釜がついており、繰糸所で行われていた。そして、引き出した糸を複数撚り合わせて繰糸(そうし)をした。日本の場合、そのあとに、前述の通り、小枠に巻き取った生糸を大枠に巻きなおす揚返(あげかえし)という工程が存在する。揚返をした後の生糸は出荷のために束ねられる。この工程を束装(そくそう)という。 この一連の工程は開業当初から操業停止時まで、基本的には変化がない。ただし、当初は繰糸所で煮繭、繰糸、揚返を行なっていたものが、煮繭場や揚返工場の設置によって工程が分離されたり、機械化も進むなどの変化はあった。また、作業で発生したくず繭、くず糸などの副蚕糸(ふくさんし)の処理は、一切行なっていなかったが、昭和時代になって副蚕工場が設置された。 ==主な建造物== 富岡製糸場は史跡に指定されており(指定面積55,391.42 平方メートル)、開業当初の主として木骨レンガ造の建造物群が重要文化財(一部国宝)に指定されている(指定名称はどちらも「旧富岡製糸場」)。木骨レンガ造の耐久性について、当時、横須賀製鉄所のレオンス・ヴェルニーはかなり否定的に評価していたが、実際にはこれらは良好な状態で保たれている。 以下では国宝および重要文化財に指定されているもののほか、各期の主な建造物について述べる。 ===国宝・重要文化財=== 2006年に建築物7棟、貯水槽(鉄水溜)1基、排水溝(下水竇及び外竇)1所が「旧富岡製糸場」の名称で一括して重要文化財に指定された。また、重要文化財「旧富岡製糸場」の一部(繰糸所、東・西置繭所の3棟)が2014年に国宝に指定されている。 重要文化財「旧富岡製糸場」として指定された建造物は以下のとおりである。太字は重要文化財指定時の官報告示に基づく建造物名(読み方は文化庁の国指定文化財等データベースによる)で、一部には現在名を細字で併記した。 繰糸所(そうしじょ、国宝)あるいは繰糸工場は、富岡製糸場の中で中心的な建物である。敷地中央南寄りに位置する、東西棟の細長い建物で、木骨レンガ造、平屋建、桟瓦葺き。平面規模は桁行140.4 m、梁間12.3 mである。東端に玄関を設ける。小屋組は木造のキングポストトラスである。。繰糸は手許を明るくする必要性があったことから、フランスから輸入した大きなガラス窓によって採光がなされている。この巨大な作業場に300釜のフランス式繰糸器が設置された。富岡製糸場に導入された器械製糸は、それ以前の揚げ返しを含まない西洋器械をそのまま導入していた事例と異なっており、1873年から1879年の間に実に全国26の製糸工場に導入された。操業されていた器械(機械)は時代ごとに移り変わったが、巨大な建物自体は増築などの必要性が無く、創建当初の姿が残された。なお、ブリューナが導入した操業当初の器械を含む過去の器械類については、片倉工業が岡谷市の市立岡谷蚕糸博物館に寄贈したことから、そちらに保存されている。 東置繭所(ひがしおきまゆじょ、国宝)と西置繭所(にしおきまゆじょ、国宝)あるいは東繭倉庫と西繭倉庫は、繰糸所の北側に建つ、南北棟の細長い建物であり、東置繭所、繰糸所、西置繭所の3棟が「コ」の字をなすように配置されている。東西置繭所ともに1872年の竣工で、桁行104.4 m、梁間12.3 m、木骨レンガ造2階建てで、屋根は切妻造、桟瓦葺きとする。その名の通り、主に2階部分が繭置き場に使われた。両建物とも規模形式はほぼ等しいが、東置繭所は南面と西面に、西置繭所は南面と東面に、それぞれベランダを設ける。また、東置繭所は正門と向き合う位置に建物内を貫通する通路を設けている。この通路上のアーチの要石には「明治五年」の刻銘がある。開業当初の繭は養蚕が主に春蚕のみを対象としていたため、春蚕の繭を蓄えておく必要から建設され、2棟合わせて約32トンの繭を収容できたとされている。2階部分が倉庫とされたのは、風通しなどへの配慮もあった。東置繭所の1階部分は当初事務所などに、西置繭所の1階部分は燃料となる石炭置き場に、それぞれ活用されていたが、のちにはどちらも物置などに転用され、建造当初に存在していた間仕切りなどはなくなっている。西置繭所は2015年より5年計画の保存修理工事が行われ、工事の間は素屋根(覆屋)で囲われるが、一角に見学施設が設けられ工事の現場を見ることができる。 蒸気釜所(じょうきかましょ。1872年竣工、重要文化財)は、繰糸所のすぐ北に建つ。南北棟、木骨レンガ造、桟瓦葺きの部分と東西棟、木造、鉄板葺きの部分に分かれ、前者は蒸気釜所の一部が残ったもの、後者は汽罐室の2スパン分が残ったものである。製糸場の動力を司り、一部は煮繭に使われた。ブリューナが導入した単気筒式の蒸気エンジンはブリューナ・エンジンと呼ばれ、今は片倉工業の寄贈によって博物館明治村(愛知県犬山市)で展示されている。1920年に動力が電化されるとブリューナ・エンジンは使われなくなり、のちには煮繭所などに転用された。現在名は煮繭場・選繭場である。蒸気釜所の西には、操業当初に立っていたフランス製鉄製煙突の基部が残されており、蒸気釜所の「附」(つけたり)として重要文化財に指定されている(指定名称は「烟筒基部 1基」)。当初の煙突は周囲への衛生上の配慮から高さ36 mを備えていたが、1884年(明治17年)9月26日に暴風で倒れてしまったため、現存しない。なお、現在の富岡製糸場に残る高さ37.5 mの煙突はコンクリート製で、1939年に建造されたものである。 鉄水溜(てっすいりゅう。1875年竣工、重要文化財)あるいは鉄水槽は、蒸気釜所の西側にある鉄製の桶状の工作物。鉄板をリベット接合して形成したもので、径15メートル、深さ2.4メートルであり、石積の基礎を有する。創建当初のレンガにモルタルを塗った貯水槽が水漏れによって使えなくなったことを受け、横浜製造所に作らせた鉄製の貯水槽で、その貯水量は約400トンに達する。鉄製の国産構造物としては現存最古とも言われる。 逆に排水を担ったのが下水竇及び外竇(げすいとうおよびがいとう、重要文化財)あるいは煉瓦積排水溝で、いずれも1872年にレンガを主体として築かれた暗渠である。西洋の建築様式を取り入れた下水道は、当時はまだ開港地以外で見られることは稀であり、これらの遺構もまた建築上の価値を有している。下水竇は繰糸所の北側にあり、建物に並行して東西に通じ、延長は186 m。外竇は下水竇の東端から90度折れ、敷地外の道路に沿って南方向に伸びるもので、延長135 m。排水は鏑川に注がれた。 首長館(しゅちょうかん。1873年竣工、重要文化財)あるいはブリューナ館(ブリュナ館)は、繰糸所の東南に位置する。木骨レンガ造、平屋建、寄棟造、桟瓦葺き。平面はL字形を呈し、東西33 m、南北32.5 mである。内部は後の用途変更のため改変されている。別名が示すようにブリューナ一家が滞在するために建設された建物である。もっとも、この建物は面積916.8 mと広く、一家(夫婦と子ども2人)とメイドだけでなく、フランス人教婦たちも女工館(後述)ではなく、こちらで暮らしたのではないかという推測もある。その広さゆえに、1879年にブリューナが帰国すると、工女向けの教育施設などに転用され、戦後には片倉富岡学園の校舎としても使われた。従来、工女教育のために竣工当初の姿が改変されたことは肯定的に捉えられてこなかったが、むしろ富岡製糸場の女子教育の歴史を伝える産業遺産として、その意義を積極的に捉えようとする見解もある。 女工館(じょこうかん、重要文化財)あるいは2号館は首長館と同じく1873年の竣工で、東置繭所の東側、南寄りに位置する。木骨レンガ造、2階建、東西棟の寄棟造で、桟瓦葺きとする。規模は東西20.1 m、南北17.4 mである。この建物は、ブリューナがフランスから連れてきた教婦(女性技術指導者)たちのために建てられたものであった。しかし、4人の教婦のうち、マリー・シャレー(Marie Charet / Charay, 19歳)は病気のために1873年10月23日に富岡を離れ、同28日に横浜から帰国した。次いでクロランド・ヴィエルフォール(Clorinde Vielfaure, 年齢不詳)とルイーズ・モニエ(Louise Monier / Maunier, 27歳)も病気に罹り、1874年3月11日に富岡を発った。残るアレクサンドリーヌ・ヴァラン(Alexandrine Vallent, 25歳)は健康ではあったが、一人だけ取り残されることを良しとせず、同じ日に富岡を発った。こうして、4年の任期を誰一人まっとうできずに帰国してしまったため、女工館は竣工まもなく空き家となった(前述のように、そもそも短期間さえフランス人が暮らしていなかった可能性もある)。その後、三井時代には役員の宿舎、原時代には工女たちの食堂など、時代ごとに様々な用途に転用された。 検査人館(けんさにんかん、重要文化財)あるいは3号館は1873年竣工で、東置繭所の東側、女工館の北に建つ。木骨レンガ造、2階建、南北棟の寄棟造で、桟瓦葺きとする。規模は東西10.9 m、南北18.8 mである。もともとはブリューナがフランスから連れてきた男性技術指導者たちの宿舎として建てられたものであったが、検査人ジュスタン・ベラン(Justin Bellen, 29歳)とポール・エドガール・プラー(Paul Edgar Prat, 23歳)は、無許可で横浜に出かけ、怠業したという理由で1873年10月30日に解雇されていた。また、ブリューナが教婦や検査人を連れて来たのとは別の時期(詳細日程未詳)に来日し、1872年に雇い入れられた銅工のジュール・シャトロン(Jules Chatron, 27歳)も、1873年11月20日には富岡を離れていた。このため、かわりに外国人医師の宿舎になっていたようである。正門近くにあり、現在は事務所になっている。首長館、女工館、検査人館はいずれもコロニアル様式の洋風住宅と規定されている。なお、1881年の記録には第4号官舎、第5号官舎の名前も見られるが、いずれも現在は失われている。 上記のほか、正門脇で出入りする人々をチェックしていた候門所(こうもんじょ)が、重要文化財「旧富岡製糸場」の「附」(つけたり)として指定されている。この建物は、開業当初の建物の中では珍しい木造平屋建てで、1943年の行啓記念碑(後述)建設にあたって移転した。のちに社宅に転用された。 ===三井時代の建造物=== (旧)第二工場は、1896年(明治29年)に竣工した木造平屋建てである。これに伴い開業当初の繰糸所は第一工場と改名されたが、原時代に再び繰糸所は一元化されたため、1911年に繰糸所としての機能を停止した。第二工場は選繭場、煮繭場などとして転用され、片倉時代には副蚕糸の加工処理施設に転用された。現在残る建物は、竣工当初のものよりも短縮されている。 第二工場と同じ年に、首長館の隣に建てられたのが寄宿舎の一つである榛名寮で、以前の寄宿舎の老朽化に対処するものだった。以前の寄宿舎は解体され、木造二階建ての榛名寮の建材には転用されたものが含まれる。首長館の隣は日当たりが良く、そこへ移転したのは、工女たちの住環境への配慮だったとされる。 ほかに建物ではないが、敷地内で三井時代と結びつく場所としては殿下山がある。原合名会社に譲渡される直前の1902年(明治35年)6月2日、皇太子殿下(のちの大正天皇)が登ったとされる小山である。 ===原時代の建造物=== 揚返工場(あげかえしこうじょう)は、1919年(大正8年)に繰糸所の隣に建てられた梁間9.1 m、桁行136.4 mの木造平屋建ての作業場である。上記の歴史節で述べたように、開業当初は繰糸所に揚返器が併設されていた。しかし、生産量の増大に対応して、揚返専用の建物が建てられることになったものである。 ほか、生繭の蛹を殺し、繭を乾燥させる施設である乾燥場・繭扱場(大正から昭和)、1919年(大正8年)に建てられた糸蔵と旧計算所(ともに木造平屋建て)、女工館と検査人館の間に建てられた男子寄宿舎などが、この時期の建物である。 なお、原時代の蚕種改良を担った蚕種製造所(1907年竣工)は片倉時代にも使われていたが、1980年代半ばに解体されたため、現存していない。 ===片倉時代の建造物=== 太平洋戦争終戦前に建てられたものとしては、1940年(昭和15年)の浅間寮と妙義寮がある。これらは女子寄宿舎で、ともに梁間7.3 m、桁行55.0 mの木造2階建てである。同じ年には首長館の東にあった原時代の診療所・病室が新しく建て替えられた。 また、戦時中の1943年(昭和18年)には、英照皇太后と皇后(昭憲皇太后)の行啓70周年を記念して、高さ4.6 m、幅1.86 mの行啓記念碑が建てられ、盛大に祝われた。 戦後になると新たに複数の揚返工場が建てられたほか、高圧変電所、汽缶場、揚水ポンプ小屋など、各種建造物が増築された。 ==観光== 富岡製糸場の一般公開は2005年から始まった。その年に富岡製糸場を訪れた観光客は3万人あまりであったが、2年後には約25万人に達した。その年の富岡市の観光名所の中では妙義山(約76万4000人)、群馬サファリパーク(約44万8000人)に次ぐ人数であり、富岡市の観光客数を押し上げる効果をもたらしていると考えられている。2007年4月から見学は有料となった(富岡市民は無料)。自由見学とは別に、定時に40分程度の解説ガイドツアーが行われている(予約不要)。20名以上の団体として予約しておくと、専属の解説員についてもらうことができる。世界遺産登録の勧告が公表された翌日にあたる2014年4月27日には、1日あたり来場者数の過去最高記録(3446人)を更新する4972人が訪れたが、同年5月3日にはそれを上回る6456人、その翌日には8142人が訪れ、4月26日から5月6日の累計訪問者数は5万人を超えた。 老朽化などのため、内部が一般公開されている建物は繰糸所と東置繭所のみである。2014年度中に揚返場の公開も予定されているが、製糸場全体を公開するための修復工事には期間30年、費用100億円を費やす必要があると見積もられている。 鉄道での最寄り駅は上信電鉄の上州富岡駅(駅から1km)。上信電鉄の高崎駅では、上州富岡駅への往復切符と、富岡製糸場への入場券がセットになった往復割引乗車券が発売されている。自動車の場合、上信越自動車道富岡インターチェンジから3kmであるが、施設内への車の乗り入れは認められていない。 ==歴代工場長== =小田急ロマンスカー= 小田急ロマンスカー(おだきゅうロマンスカー、ODAKYU ROMANCECAR)は、小田急電鉄が運行する特急列車および特急車両の総称である。列車により箱根登山線や東京地下鉄(東京メトロ)千代田線へ直通、もしくは東海旅客鉄道(JR東海)御殿場線と直通運転する。また、「ロマンスカー」は小田急電鉄の登録商標である(ロマンスカーの記事も参照)。 本項では、「小田急」と表記した場合、小田原急行鉄道および小田急電鉄を指すものとし、箱根登山鉄道箱根湯本駅に乗り入れる特急列車については、特に区別の必要がない場合は「箱根特急」と標記する。 ==「ロマンスカー」の名称== 「ロマンスカー」の呼称は戦前から存在し、1934年頃の江の島海水浴宣伝のパンフレットに「ロマンスカーは走る」「大東京のセンター新宿から」の文言が掲載され、電車内の写真にも「小田急のロマンスカー」と説明がつけられた。 ただし、この際にはロマンスカーとは小田急の専有名称ではなかった。 終戦後の1949年頃に、新宿の映画館「新宿武蔵野館」を復旧改装するにあたり、恋人同士の映画鑑賞を企図して2人掛けの座席を館内2階に設けたところ、「ロマンスシート」としてマスコミに取り上げられた。その頃に運行を開始した小田急の特急車両が2人掛けの対面座席を採用したことから「ロマンスカー」と称され、小田急「ロマンスカー」が命名された。しかし、この時期には国鉄を含め他社も同様の車両を有し、一部は「ロマンスカー」を名乗ったため、小田急の特許とはなっていない。 1991年に東武1720系『デラックスロマンスカー』が引退したのを機に、小田急は「ロマンスカー」を自社で商標登録した。東武1720系の引退は、奇しくもSE車と同年であった。なお小田急以外で「ロマンスカー」として製造された車両が完全に引退することになるのは、2012年の長野電鉄2000系の運用離脱となる。 「ロマンスカー」は固有名詞で、英語圏の人は解せない。60000形MSE車のブルネル賞受賞表彰式に際し、小田急の担当者が「6両と4両の2編成がキスをするからロマンスカーなのか」と現地の人から質問されたエピソードもある。 2010年の時点で、小田急で特急列車はロマンスカーを指し、他社は「つぎ(こんど)の特急」と標記するところを、ホーム上に設置した特急券券売機で「つぎ(こんど)のロマンスカー」と標記している。それ以外の旅客上の案内では、小田急と東京メトロともに「特急ロマンスカー」という表現を用いている。 ==沿革== ===前史 ‐ 週末温泉急行=== 1927年4月1日に開業当初の小田急は、昭和初期の不況の影響で沿線は一向に発展せず、もともと過大な初期投資に加えて乱脈経営が祟ったこともあり、厳しい経営状態を余儀なくされていた。1929年4月1日に江ノ島線が開業してからは夏季の海水浴客輸送の時に運賃を往復で5割引にするなどして増収策を図り、全車両をフル稼働させて対応していた。 一方、あまり積極的ではなかったものの、小田原線も箱根への観光客輸送を目的の1つとしており、増収策の一環として、週末のみ新宿から小田原までをノンストップで運行する列車が立案された。小田急ではこの列車の車内では、沿線案内をレコードで流し、合間に「小田急行進曲」と「小田急音頭」を流すことを発案、当時新宿に存在した娯楽施設のムーランルージュ新宿座に「小田急行進曲」「小田急音頭」の製作を依頼し、沿線案内の吹き込みはムーランルージュ新宿座の看板女優であった明日待子が担当した。78回転盤(SPレコード)6枚組に仕上がったレコードが完成し、実際に走行中の車内でテストしたが針が飛んでしまい、この試みは失敗であった。 ともあれ、1935年6月1日から、新宿 ‐ 小田原間をノンストップで結ぶ「週末温泉急行」の運行を開始した。この急行には車両はクロスシートを装備した便所付の車両であった101形などが使用され、新宿 ‐ 小田原間を90分で結んだ。運行は土曜日の下り列車のみで、帰りとなる日曜日は通常の急行列車が運行された。これが小田急ロマンスカーのルーツとなる列車であるが、陰では「おしのび電車」などと言われていたという。 しかし、1941年12月に太平洋戦争が始まり、1942年1月から週末温泉急行は運休となり、同年4月にはダイヤ上の設定もなくなった。小田急自体も、同年5月には東京横浜電鉄と合併し東京急行電鉄(大東急)となった。 ===終戦後=== ====ノンストップ特急運転開始==== 終戦後の1946年には大東急で「鉄軌道復興3カ年計画」が策定されたが、この中には小田原線の箱根登山鉄道への乗り入れ計画が含まれていた。また、終戦の時点では新宿から小田原までは2時間30分もの所要時間を要していたが、五島慶太は終戦直後にこの所要時間を半分にするように指示していた。 1948年6月1日に大東急から小田急が分離独立したが、小田急は東急と比較すると営業路線長は約2倍あったにもかかわらず、運輸収入は半分に過ぎなかった。そこで、収入増の方策として箱根への直通旅客増加を図ることとなり、その一環として新宿と小田原をノンストップで結ぶ特急列車の運行が計画された。複数車種で試運転などを行った結果、この特急に使用される車両として1600形の中から「復興整備車」として重点的に整備されていた車両が指定され、特急料金の制定や各種ポスターの製作など準備が行われた。 こうして、1948年10月16日から新宿と小田原を結ぶ特急列車の運行が開始された。土曜日は下り1本のみ、日曜日は下り1本・上り2本のみの運行で、所要時間は100分であった。使用車両は、朝ラッシュ時の通勤輸送に使用した1600形が入庫した後に、3つある乗降用扉のうち真ん中の扉を締め切った上で補助座席を置き、ロングシートに白いカバーをかけた上でスタンド式灰皿を並べただけであったが、戦後の復興途上だったこの時期においては精一杯のサービスであった。当初計画では同年10月9日から運行開始の予定であったが、豪雨の影響で箱根登山鉄道線が不通になってしまったために1週間延期されている。 運行開始当初は集客がうまくいかず、運輸部門では縁故を通じて乗客の勧誘に歩き回り、駅の出札窓口でも積極的に特急列車の売り込みを行った。乗客が少ない時には、本社勤務の社員が「サクラ」となって乗車したりしたこともあったというが、次第に利用者が増加し、予想を上回る好成績となった。 なおこのころには、戦争で疲弊した輸送施設の復旧と改善を主目的として設置された輸送改善委員会において、「新宿と小田原を60分で結ぶ」という将来目標が設定されている。 ===特急車両1910形の登場=== 1949年には、小田急が分離独立してから初めて新型電車を製造することになった。当時の新車製造は割当制であり、小田急には15両が割り当てられた。割り当てのうち10両が1900形として発注されることになったが、営業部門からクロスシートを装備した特急車両を要望する意見が強かったため、このうち4両を特急車両の1910形として製造することになった。ただし、朝のラッシュ時には通勤輸送にも使用することになったので、扉付近をロングシートとした2扉セミクロスシートの車両となった。また、編成は3両固定編成とし、中間車には日本国有鉄道(国鉄)の戦災焼失車の台枠を流用した改造車両を連結することとなった。また、前年に近畿日本鉄道が特急の運行を再開した際に、2200系がレモンイエローと青の2色塗りとしていたものにあやかり、この特急車両の外部塗色は濃黄色と紺色の2色塗りとすることになった。 1910形は同年7月に入線し、同年8月から2両編成で営業運行を開始、同年9月から本来の3両固定編成となって運行を開始した。1910形を使用した特急では、「走る喫茶室」と称した、車内に喫茶カウンターを設け、車内で飲み物を販売するサービスが開始された。所要時間は90分であった。 また、同年10月のダイヤ改正から、特急は1往復が毎日運転されることになった。小田急が公式に「ロマンスカー」という愛称を用いたのはこの時からで、ポスターで「ニュールックロマンスカー毎日運転」と宣伝された。 ===箱根登山鉄道への直通運転開始=== このころ、小田急では箱根登山鉄道箱根湯本駅に乗り入れるための計画が進められていた。 しかし、小田急の軌間が1,067mmであるのに対して箱根登山は1,435mm、架線電圧も小田急の1,500Vに対して箱根登山は600Vであった。また、箱根登山では小田原から箱根湯本までの区間を「平坦線」と称していたが、これは箱根登山の80‰という急勾配と比較しての話で、実際には40‰もの勾配が続いており、小田急の最急勾配が25‰であったのと比べればはるかに急な勾配であった。 この対応として、軌道は三線軌条とし、架線電圧については小田原と箱根湯本の間は1,500Vに昇圧することになり、1950年8月1日から小田急から箱根湯本までの直通運転が開始された。この時に新宿と小田原の間についてもスピードアップが図られ、新宿と小田原は80分で結ばれるようになった。 この直通運転開始後に特急の利用者は急増し、同年10月からは特急は毎日3往復に増発された。 ===特急専用車両1700形の登場=== 特急利用者の増加は続き、2000形が2編成だけでは不足するようになり、「特急券がとれない」という苦情も来るほどで、営業部門からは特急車両増備の要望が高まってきた。また、2000形は扉付近の座席がロングシートであり、全ての座席をクロスシートにして欲しいという要望もあった。しかし、収支面からはラッシュ輸送に使用できない特急専用車の新造を危ぶむ意見もあった。社内での検討の結果、将来を考えて特急専用車を導入するが、製造コストをできるだけ安価にするため、台枠は国鉄の戦災復旧車や事故焼失車のものを流用することになった。 こうして1951年2月に登場したのが1700形で、全ての座席が転換クロスシートとなり、さらに座席数を増やすため、乗降用の扉は3両で2箇所という思い切った設計とした。この1700形が、小田急ロマンスカーの地位を不動のものにしたとされている。この1700形の導入後の同年8月20日から、それまでは座席定員制だったものを座席指定制に変更した。また、夕方に新宿に到着した特急車両にビール樽を積み込み、江ノ島まで往復する「納涼ビール電車」の運行も開始された。この時点では、検査時や増発時には引き続き2000形も使用されていた。しかし、設備面の格差が大きいことによる苦情があり、同年8月までに第2編成が製造された。 また1700形投入後に特急利用者の増加傾向が見られ、特急の営業的な成功は明らかとなった。このため、1952年8月に完全な新造車両として第3編成が投入された。特急の利用者数がさらに増加するのに対応し、1953年には特急の増発が行なわれたほか、それまで使用されていた2000形を使用した座席定員制の急行列車が運行された。 また、1954年夏からは江ノ島線にも特急料金が設定され、夏季海水浴客輸送の期間には江ノ島線にも1700形を使用した特急が運行されるようになった。 このころの小田急では、先に述べた「新宿と小田原を60分で結ぶ」という将来目標に向けて、高性能車の開発に向けた試験を進めていた。1954年7月には小田急ではじめてカルダン駆動方式を採用した通勤車両として2200形が登場しており、同年9月11日には「画期的な軽量高性能新特急車」の開発が決定していた。 しかし、予想を上回る特急利用者数の増加があり、新型特急車両の登場を待つ余裕はないと判断されたが、すでに通勤車両がカルダン駆動方式を採用しているのに、今さら特急車両を旧式の吊り掛け駆動方式で増備することは考えられなかった。このため、暫定的に2200形の主要機器を使用し、車体を特急用とした2300形が1955年に登場した。また、この年の10月からは、御殿場線へ直通する特別準急の運行が開始されている。 ===高度成長期=== ====軽量高性能新特急車SE車の登場==== 1954年から国鉄鉄道技術研究所の協力を得て開発が進められていた「画期的な軽量高性能新特急車」は、1957年に3000形として登場した。この3000形は ”Super Express car” 、略して「SE車」と呼ばれる車両で、数多くの新機軸が盛り込まれ、軽量車両で安全に走行するための条件が徹底的に追求された、低重心・超軽量の流線形車両であった。「電車といえば四角い箱」であった時代において、SE車はそれまでの電車の概念を一変させるものとなり、鉄道ファンだけではなく一般利用者からも注目を集めた。同年7月6日よりSE車の営業運行が開始されたが、すぐに夏休みに入ったこともあって、連日満席となる好成績となり、営業的にも成功した。 また、同年9月には国鉄東海道本線でSE車を使用した高速走行試験が行われたが、私鉄の車両が国鉄の路線上で走行試験を行なうこと自体が異例のことであるのみならず、当時の狭軌鉄道における世界最高速度記録である145km/hを樹立した。また、これを契機に鉄道友の会では優秀な車両を表彰する制度としてブルーリボン賞を創設し、SE車は第1回受賞車両となった。 SE車が運用開始された1957年時点では、新宿と小田原は75分で結ばれていたが、SE車は1958年までに4編成が製造され、特急が全てSE車による運行となったため、1959年からは67分で結ばれるようになった。さらに1961年には新宿と小田原の間の所要時間は64分にまでスピードアップした。 1959年からは、特急を補完するための準特急の運行が開始された。使用車両は2扉セミクロスシート車で、特急運用から外れた2300形と、新造した2320形が使用された。 ===前面展望車NSE車の登場=== SE車の登場以後、特急利用者数はさらに増加し、週末には輸送力不足の状態となっていた。また、1960年には箱根ロープウェイが完成し、「箱根ゴールデンコース」と呼ばれる周遊コースが完成したことから、箱根の観光客自体が急増した。更に、1964年東京オリンピックの開催を控えていたこともあり、特急の輸送力増強策が検討された。その結果として、1963年に3100形が登場した。この3100形は ”New Super Express” 、略して「NSE車」と呼ばれ、8両連接車だったSE車に対し、NSE車では11両連接車とし、さらに編成両端を展望席とすることによって定員増を図った車両である。また、SE車と比較すると豪華さが強調される車両となった。1963年にNSE車が4編成製造されたことによって、箱根特急の30分間隔運行が実現し、同時に新宿と小田原の間の所要時間は62分にまでスピードアップした。 この時期まで、箱根特急の列車愛称は列車ごとに異なり、後述するようにNSE登場直前の時点で16種類の愛称が使用されていたが、NSE車の登場後の1963年11月4日からは5種類に整理されたほか、準特急という種別は廃止となった。その後、NSE車はさらに3編成が増備され、1967年からは箱根特急の全列車がNSE車で運用されることになった。 また、1964年3月21日からは、それまで夏季のみ運行されていた江ノ島線の特急が土休日のみであるが通年運行となり、1965年3月1日からは毎日運転となった。1966年6月1日からは特急の愛称がさらに整理され、新宿から小田原までノンストップの列車は「はこね」、途中向ヶ丘遊園と新松田に停車する列車は「さがみ」、江ノ島線特急は「えのしま」に統一された。なお、途中駅に停車する特急はこのときの改正で新設されたもので、元来は沿線在住の箱根観光客を対象としたものであった。1968年7月1日からは、御殿場線直通列車が気動車からSE車に置き換えられ、愛称も「あさぎり」に統一された。列車種別は同年10月から「連絡急行」に変更されている。1968年12月31日からは、初詣客に対応する特急「初詣号」の運行が行なわれるようになったが、この列車は普段は各駅停車しか停車しない参宮橋にも停車するのが特徴であった。 しかし、通勤輸送への対応やそれに伴う新宿駅再改良工事などの影響で、1972年以降、新宿から小田原までの所要時間は最速でも69分にスピードダウンを余儀なくされた。線路容量不足のため、上り「さがみ」の一部が新宿まで運行できず、向ヶ丘遊園終着とする措置まで行なわれた。 ===通勤利用者向け特急の運行開始=== その一方で、通勤輸送に特急を活用する施策も開始された。 1967年4月27日からは江ノ島線特急「えのしま」が新原町田停車となり、同年6月23日からは特急券を購入すれば定期乗車券でも特急に乗車できるようになり、さらに同年8月からは新原町田に停車する特急「あしがら」の新設と増発が行われた。特に、新宿に到着して相模大野の車庫へ回送される列車を新原町田まで客扱いしたところ、通勤帰りの利用者が多くなったため、1968年には経堂の車庫へ回送される車両を相模大野の車庫への入庫に変更するなどして増発が行われた。同年7月10日からは「さがみ」の本厚木停車が開始された。 これは優等列車による通勤・通学対応としては日本では初の事例であり、この後も徐々に通勤対応の特急が増発されてゆく。なお、1971年10月1日からは、連絡急行「あさぎり」の新原町田停車が開始されたが、「あさぎり」についてはこの時点では定期乗車券での利用はできなかった。 ===1980年代 ‐ 1990年代=== ====レジャーの多様化へ向けて==== しばらくは特急ロマンスカーについては大きな動きはなかったが、1970年代に入るとSE車の老朽化が進み、代替を検討する時期となっていた。このため、SE車の代替を目的として、1980年に7000形が登場した。7000形は ”Luxury Super Express” 、略して「LSE車」と呼ばれる車両で、編成長や定員はNSE車と大きく変わらないものの、デザインや主要機器などが一部変更されている。LSE車の導入により、特急の輸送力増強が図られた。1982年12月には、国鉄からの申し入れにより、東海道本線上での走行試験にLSE車が使用された。国鉄の路線上で私鉄の車両が走行試験を行なった事例は、SE車とこのLSE車だけである。 1984年2月1日からは、連絡急行「あさぎり」の停車駅に本厚木・谷峨が追加され、1985年からは「あさぎり」も定期乗車券での利用が可能となった。また、1986年10月4日からは、LSE車の車内に公衆電話が設置された。 この時期になると、レジャーの傾向は多様化が進んでおり、ゆとり以外に「一味違ったもの」が求められていた。また、観光バスや他の鉄道事業者の車両においては高床(ハイデッキ)構造の車両が登場しており、折りしも1987年は小田急の開業60周年となることから、これを記念するために新型特急車両として10000形が登場した。10000形は ”High decker” 、 ”High grade” 、 ”High level” 、 ”High performance” などのキーワードから連想する、上級というイメージを表して「HiSE車」と呼ばれ、客席を高くしたハイデッキ構造とし、「走る喫茶室」にオーダーエントリーシステムが採用されたほか、外装も近代的なイメージを意図したカラーリングに変更した。 一方、1988年7月、小田急が東海旅客鉄道(JR東海)に対し、連絡急行「あさぎり」に使用していたSE車の置き換えを申し入れたことがきっかけとなり、特急に格上げした上で両社がそれぞれ新形車両を導入した上で相互直通運転に変更し、運行区間も新宿と沼津の間に延長することとなり。1991年に20000形が登場した。20000形は ”Resort Super Express” 、略して「RSE車」と呼ばれる車両で、JR東海371系電車と基本仕様を統一したため、それまでの特急ロマンスカーの特徴であった連接構造や前面展望席は採用されず、2階建て車両(ダブルデッカー)や特別席(スーパーシート・グリーン席)を設置するなど、それまでの小田急ロマンスカーの仕様からはかけ離れた車両となった。 ===日常利用への対応 ‐ EXE車の登場=== このころになると、小田急ロマンスカーの利用者層にも変化が生じていた。観光客以外の日常利用が増加していたほか、1967年から開始された夕方新宿発の通勤用特急は増発が続けられ、当初の「回送列車の客扱い」という思惑を超え、わざわざ新宿まで出庫させる運用まで登場していたが、それでも輸送力の増強が求められていた。しかし、当時はまだ通勤輸送に対応した複々線化工事は進展しておらず、これ以上の増発やスピードアップは困難な状況で、単位輸送力の向上、言い換えれば列車の定員を増やすしか方法がなかった。また、1963年から導入されているNSE車が置き換えの時期となっていた。 こうした状況下、箱根特急の利用者数が年率5%程度の減少傾向が続いており、これを日常的な目的での特急利用者を増加させることで補う意図もあった。これにあわせて、1996年にそれまでとは一線を画す車両として30000形が登場した。30000形は ”Excellent Express” 、略して「EXE車」と呼ばれる車両で、それまでの小田急ロマンスカーの特徴であった前面展望席も連接構造も導入されていない。 EXE車の導入後も、日常利用への対応は続けられた。1998年からは相模大野・秦野にも特急が停車することとなり、1999年7月からは「あしがら」「さがみ」を統合して「サポート」としたほか、新宿を18時以降に発車する特急は全て「ホームウェイ」という愛称になった。こうした施策によって、1987年時点では1100万人だった特急の年間利用者数は、2003年には1400万人に増加したのである。 ===2000年代以降=== ====観光特急の原点に回帰 ‐ VSE車の登場==== ところが、日常的な特急の利用者数が増加する一方で、箱根特急の利用者数は大幅に減少していた。1987年の箱根特急の年間利用者数は550万人であったが、2003年の利用者数は300万人程度にまで落ち込んでいたのである。この理由を調べると、バブル崩壊後の景気低迷もあって箱根を訪れる観光客自体も減少傾向にあったほか、EXE車には「小田急ロマンスカーのイメージ」とされた展望席が存在しなかったことが挙げられた。また、2001年から運行を開始したJR東日本の「湘南新宿ライン」も2004年には運行区間が延長され、特急ロマンスカーとあまり変わらない所要時間で新宿と小田原を結ぶようになった。 このような状況下、2002年からは箱根特急へのてこ入れが開始されることになった。宣伝ポスターも、ロマンスカーを大写しにするのではなく、あくまで風景の一部としてロマンスカーを取り入れる施策に変更した。この時考案された「きょう、ロマンスカーで。」のキャッチコピーは、2018年現在に至るまで使用されている。また、ロマンスカーの看板車両として、前面展望席のあるHiSE車を再び起用することになったが、そのHiSE車は登場した1987年当時の時点では全く想定していなかったバリアフリー対応が困難であることから、更新は行なわずに小田急は苦渋の決断で新型特急車両で置き換えることになった。新型特急車両は、「もはやロマンスカーとは名乗らないくらいの覚悟で、新しい発想を取り入れる」か、「ロマンスカーの原点に立ち返り、ロマンスカーの中のロマンスカーとする」という2つの方向性があったが、後者の方向性で進められることになった。 こうして、2005年に「小田急ロマンスカー」ブランドの復権を掲げ、小田急の新たなフラッグシップモデルとして50000形が登場した。50000形は前面展望席と連接構造を採用し、乗り心地向上のために車体傾斜制御や台車操舵制御などを取り入れたほか、「箱根へ向かう乗客にときめきを与え、乗った瞬間に箱根が始まる」ことを目指した車両で、客室内の様式から ”Vault Super Express” 、略して「VSE車」と呼ばれる車両である。VSE車の登場後、箱根を周遊するための乗車券である「箱根フリーパス」の販売枚数は、2006年に49万8000枚だったものが、2009年には74万枚に増加した。 なお、2004年12月には再度ロマンスカーの愛称の整理が行われ、箱根特急は全て「はこね」、箱根湯本に乗り入れない小田原線の特急は停車駅に関わらず「さがみ」という愛称に変更された。その影響により、「サポート」の愛称は登場わずか6年ほどですべて廃止されている。 ===日本初の地下鉄直通有料特急 ‐ MSE車の登場=== 2005年に、小田急と東京メトロでは、ロマンスカーを東京メトロ千代田線(湯島駅 ‐ 代々木上原駅間、のちに北千住駅までに変更)に乗り入れる計画を発表した。これは日本では初めての事例となる「座席指定制特急列車の地下鉄直通」で、このために60000形が登場した。60000形は「多彩な運行が可能な特急列車」という意味で ”Multi Super Express” 、略して「MSE車」と呼ばれる車両で、2008年3月から営業運行を開始した。 2012年3月17日からは、「あさぎり」の運行区間は新宿駅と御殿場駅の間に短縮されることになり、「あさぎり」全列車がMSE車により運行されることになった。 ===複々線化完成と長年の悲願の達成 ‐ GSE車の登場=== 2018年3月17日、10年ぶりとなる新型車両70000形が営業運転を開始した。VSE車以来13年ぶりとなる展望席が設置されたが、「ホームウェイ」などの通勤利用も考慮して連接台車構造は採用されず、20m級車体のボギー台車構造となった。「箱根につづく時間(とき)を優雅に走るロマンスカー」という意味で”Graceful Super Express”、略して「GSE車」と呼ばれている。 また、この年に長年の悲願であった代々木上原駅〜登戸駅間の複々線化が完成し、GSE車のデビューと同日に行われたダイヤ改正で平日朝の上り列車を増発し、新宿駅・千代田線大手町駅に9時30分までに到着する列車を「モーニングウェイ」「メトロモーニングウェイ」に改称した。加えて、土休日の一部の「スーパーはこね」が新宿駅〜小田原駅間を最短59分で結ぶようになり、SE車開発当時の悲願であった「新宿〜小田原間60分以内」の目標が達成された。 ==運行概要== 詳細な停車駅は各列車名を参照。 運賃や料金については、公式サイトを参照 ===箱根特急・小田原線特急=== 戦前の「週末温泉急行」がルーツとなる、箱根への観光客を輸送するための列車である。1950年から箱根登山鉄道箱根湯本駅まで乗り入れるようになった。 1950年10月以降は愛称が設定されたが、列車ごとに異なる愛称が設定されており、毎日運転の列車が「あしがら」「はこね」「乙女」、休前日・休日のみ運行の列車では「明神」という愛称であった。その後増発されるごとに愛称も増加し、1963年にNSE車が登場する直前の時点では、新宿駅発車時刻順に「あしのこ」「明星」「あしがら」「さがみ」「大観」「仙石」「はつはな」「湯坂」「明神」「はこね」「乙女」「神山」「姥子」「金時」「早雲」「夕月」という16種類に上った。NSE車の登場後の1963年11月4日から、愛称は「あしがら」「あしのこ」「はこね」「きんとき」「おとめ」の5種類に整理された。1966年6月1日からは停車駅別に愛称が分けられ、新宿 ‐ 小田原の間をノンストップで運行する列車は「はこね」、途中向ヶ丘遊園・新松田に停車する列車は「さがみ」、1967年8月から運行開始された新原町田に停車する列車は「あしがら」という愛称になった。 1996年3月からは愛称ごとの停車駅が変更され、「はこね」の停車駅に町田が、「あしがら」の停車駅に本厚木が追加され、新宿と小田原の間をノンストップで運行する列車の愛称は「スーパーはこね」に変更された。さらに、1999年7月からは、日中の特急は「あしがら」と「さがみ」を統合して「サポート」という愛称に変更されたほか、18時以降に新宿を発車する下り特急の愛称は全て「ホームウェイ」に変更された。 2004年12月には、箱根特急は「はこね」「スーパーはこね」、小田原線内のみ運行の特急は全て「さがみ」という愛称が設定されることになった。 2018年3月17日のダイヤ改正から、9時30分までに新宿に到着するロマンスカーは「モーニングウェイ」に変更され、ロマンスカー全列車の向ヶ丘遊園・新松田停車が終了した。 ===江ノ島線特急=== 江ノ島線の特急は、1951年7月に新宿に到着した箱根特急の車両を利用して、「納涼ビール電車」と称する特殊急行を運行したものが始まりである。 1952年夏には2000形を使用して料金不要のサービス特急が設定され、1954年からは1700形が投入されるのに伴い特急料金が設定された。進行方向が変わる藤沢は運転停車だった。列車ごとに異なる愛称が設定されており、「かもめ」、「ちどり」、「かたせ」、「なぎさ」、「しおじ」という愛称が存在した。1964年までは夏季のみ運行であったが、1964年から通年運行が開始されて以降、愛称は「えのしま」1種類となった。 1996年3月からは大和が停車駅に追加されたほか、1999年7月から18時以降に新宿を発車する下り特急の愛称が全て「ホームウェイ」に変更され、2018年3月から朝方に新宿方面へ向けて発車する上り特急の愛称が全て「モーニングウェイ」に変更された。 平成になると、さまざまな乗客のニーズに応えるためや、海水浴への利便性向上がさらなる課題となり、えのしま号を補完する目的で「湘南マリンエクスプレス」「サマービーチ」、21世紀に入ると「湘南マリン」(前者の湘南マリンエクスプレスとは別)の各愛称で臨時増発が毎年行われている。前者は主に旧型のNSEを中心に使用されていたが、先述の置換えによる影響、さらにスーパーはこね登場によるダイヤの調整の影響、車内販売「走る喫茶室」廃止の煽りがあり1995年シーズンを持って廃止されている。 現在は箱根運用に重点を置いているため、展望席のある車型での定期運行はない。車内販売も2008年を持って廃止されている。 2018年3月17日のダイヤ改正で、土休日に北千住から片瀬江ノ島の区間に「メトロえのしま号」が新設された。 ===多摩線特急=== 多摩線に特急の運行が行なわれたのは、1990年のゴールデンウィークに多摩線開通15周年を記念して「江ノ島・鎌倉エクスプレス」が運行されたのが始まりである。同年夏には先述の「湘南マリンエクスプレス」が運行され、翌年以降も引き続き運行された。 多摩線における定期列車の特急は、2000年12月2日から設定された、新宿発唐木田行きの「ホームウェイ」からとなる。 2016年のダイヤ改正発表時に多摩線特急の廃止が告知され、ダイヤ改正施行前日の3月25日、ホームウェイ75号を以って廃止された。 ===御殿場線直通=== 御殿場線直通の優等列車は、1950年10月1日から運行が開始された2往復が初で、1959年7月には1日4往復に増発された。当初は気動車による片乗り入れであったが、御殿場線電化に伴い、1968年7月1日からSE車による直通運転が開始された。国鉄線内では準急・急行という扱いであったため、小田急線内では「特別準急」「連絡急行」という種別となっていた。 1991年3月16日からは沼津まで延長されると同時に特急に格上げされ、同時にJR東海との相互直通運転が開始されたが、2012年3月17日改正からはこれと同時に運行区間は新宿駅と御殿場駅の間に短縮され、毎日運行の列車は3往復となり、前述のようにふたたび片乗り入れとなった。 2018年3月17日のダイヤ改正で、列車名が「ふじさん」に変更された。 ===初詣特急=== 初詣客を対象に毎年大晦日深夜から元旦未明にかけて運行される列車で、1968年12月31日から運行が行なわれるようになった。明治神宮の初詣客に対応し、普段は各駅停車しか停車しない参宮橋にも停車するのが特徴。2000年度は「2001初詣号」という愛称となり、2001年度からは「ニューイヤーエクスプレス」という愛称に変更された。 ===地下鉄直通=== 日本では初めての事例となる「座席指定制特急列車の地下鉄直通」で、MSE車が使用される。 停車駅は限られているが、千代田線内に待避設備がないため、地下鉄線内で普通電車の追い越しはない。 2008年3月15日より「メトロさがみ」「メトロはこね」「メトロホームウェイ」が運行開始されたほか、日によっては有楽町線新木場まで乗り入れる「ベイリゾート」も運行された。「ベイリゾート」については、同線各駅へのホームドア設置の関連で2011年10月以降運行を休止、そのまま運転中止となった 2010年元旦からは「メトロニューイヤー」の運行も開始された。 2018年3月17日のダイヤ改正から、朝方の北千住行き「メトロさがみ」は「メトロモーニングウェイ」に変更され、また前述の「メトロえのしま号」も地下鉄に直通運転する。 ==シートサービス== ロマンスカーの車内で「走る喫茶室」と称するシートサービスが開始されたのは、1949年の1910形運行開始の時からである。乗客サービスとして「お茶でも出せないか」という発想から検討されたもので、乗客全員に紅茶とケーキを提供するという案もあったが、特急券を購入した乗客に物品を提供するのは規則上禁止されていたため、飲料の販売を行うことに決定したものである。 編成も乗車時間も短いため、食堂車などを連結するのではなく、車内にカウンターを設けた上でシートサービスを行うようにした。しかし、森永製菓や明治製菓に打診したところ採算面から断られ、三井農林(日東紅茶)も当初は断ったものの、「紅茶の普及宣伝」という方針で受諾したものである。その後の特急車両では車内に喫茶カウンターが設けられた。 その後、NSE車が7編成となった時点で、日東紅茶だけでは対応できなくなったことから、1963年から森永の宣伝を兼ねて森永エンゼルが参入することになった。1987年に運行開始したHiSE車ではオーダーエントリーシステムも導入された。しかし、1991年3月から運行を開始した「あさぎり」では、シートサービスではなくワゴンによる販売サービスを行なうことになった。さらに、1995年までにシートサービスは終了し、以後はワゴンサービスのみとなった。 2005年に登場したVSE車では、「走る喫茶室」と同様のシートサービスの営業が復活、飲料はVSE専用のガラスカップによって提供された。が、2016年3月26日のダイヤ改正においてシートサービスは廃止され、VSE車も含めてワゴンサービスに変更された。 ==予約システム== ===運行開始当初から1979年まで=== 戦前の「週末温泉急行」は座席定員制を導入しており、「列車指定割引乗車券」という名称の往復乗車券を発売し、この乗車券の発売によって人員制限を行っていた。 戦後に1600形を使用したノンストップ特急でも初めて特急料金は設定された。初めて特別急行券(特急券)が発売されたのは1949年の1910形の投入時で、温泉マークの入った硬券特急券が発行された。それまでは座席定員制であったが、1700形導入後の1951年8月20日から座席指定制を採用し、特急券に号車番号と座席番号が記入されるようになった。 1966年には途中駅停車の「さがみ」が運行を開始、1967年4月には「えのしま」の新原町田停車、同年10月からは新原町田停車の「あしがら」が運行を開始したが、この時から愛称ごとに地紋の色を変え、発売時に一目で分かるように区別できるようにした。また、上り列車用の特急券には斜線を入れた。 ===座席予約システムの導入=== 特急の座席については、新宿駅構内に設けられた割当センターで台帳管理されていたが、1970年代後半になると管理する座席数は67万座席となり、発売窓口と割当センターとの電話連絡の中で重複発行などの誤取り扱いの発生、待ち時間などの問題が発生していた。 これを解決するため、座席予約システム( ”Seat Reservation” 、以下「SR」と略す)を導入することになり、1979年2月27日から使用を開始した。SR端末は特急停車駅や案内所、小田急トラベルサービスの主要営業所に設置された。また、新宿駅当日特急券発売所には、他の端末の7倍の発券速度を有する高速プリンターを設置した。予約受付は5ヶ月前から、発売は3週間前から行っていた。 1987年には禁煙席の導入に対応するため、SRシステムの更新が行われた。更新されたシステムでは、払い戻しや取り消しの際に端末機が発券コードを読み取って上で自動処理を行うことで、誤取り消しによる重複発売の防止が図られた。また、これと同時に、新宿駅には当日特急券券売機を導入したほか、予約受付を6ヶ月前から、発売を1ヶ月前からに変更した。 1991年からはプッシュホンによる空席照会と予約が可能となった。 1995年にSRシステムのリニューアルを行い、全駅にSR端末を設置したほか、特急券が磁気エンコード化され、乗車券とともに発券された場合でも自動改札機を通過できるようにした。1996年には大手旅行会社の端末とSRシステムのホストを直結し、迅速な発券を可能とした。 1999年7月からは車掌携帯用座席確認システムを導入し、乗車時の特急券確認作業を廃止した。このシステムはザウルス端末を利用して、携帯電話回線経由でホストコンピュータにアクセスすることにより、その発売状況を号車別・座席別・区間別に車掌が把握し、その情報を車内での改札業務に利用できるシステムである。これにより、発売情報とは異なる座席に着席している乗客に対してのみ車内改札を実施することが可能となった。 2001年からはホームページ上からの特急券予約が可能となった。2003年には座席予約や発売業務を管理するシステムとして、全駅の窓口・自動券売機・旅行会社のシステムに接続されるMFITTシステム( ”Multimedia Future Intelligent Total Traffic service system” の略)を導入した。2004年からは、多機能券売機の導入により、全駅の券売機で特急券の購入が可能となった。2012年時点では、予約・発売とも1ヶ月前から開始となっている。 ===ロマンスカー@クラブ=== 2001年7月から、インターネットに対応した携帯電話で特急券を購入し、そのまま乗車可能となるチケットレス乗車システムとして「ロマンスカー@クラブ」のサービスを開始した。 このサービスは駅窓口に申し込みすることで会員登録され、当日から利用可能となる。携帯電話からの特急券購入に使用される「特急ポイント」の積み立ては、クレジットカードと現金が利用可能である。2009年には携帯電話やパソコンの高機能化に対応し、スマートフォンやパソコンからも特急券を購入することが出来るようにシステムがリニューアルされた。 どこからでも携帯電話を利用して座席を確保することが出来ることによって利便性が向上し、2010年時点では平日夕方の「ホームウェイ」の乗客の4割が「ロマンスカー@クラブ」を利用している。 ==車両== ===車両の特徴=== ====連接構造==== 1台の台車によって2車体を連結する連接構造は、1957年に登場した3000形SE車において初めて採用された。曲線の多い小田急線の軌道条件において曲線通過を容易にできること、車体支持間隔の短縮により車体剛性を確保できること、オーバーハング部分がないため乗り心地を改善できる、台車配置の平均化により軌道への負担が軽減されることが理由として挙げられており、当時小田急の取締役兼考査局長であった山本利三郎の強い主張により採用されたものである。この当時、日本の高速電車における連接車の採用実績は、京阪60型・西鉄500形・名鉄2代目400形の3形式だけであり、一挙に8車体もの連接車を導入したのは当時としては大英断であったといわれている。 その後、連接構造は1963年に登場した3100形NSE車・1980年に登場した7000形LSE車・1987年に登場した10000形HiSE車においても採用されており、小田急の特急車両の大きな特徴となった。日本の高速電車全体での連接車の採用事例の中でも、小田急の特急車両における採用事例が突出して多い。 しかし、1991年に登場した20000形RSE車ではJR東海との協定により371系電車と基本仕様を統一したため通常の鉄道車両と同様のボギー車となったが、車内販売のカウンターが車端部のオーバーハング部分に設置されたため、それまで連接車にしか乗務した経験のなかった車内販売の担当者から「RSE車に乗ると乗り物酔いになる」という声も上がった。さらに、1996年に登場した30000形EXE車においても、定員増のためにはボギー車が有利であると判断され、連接構造は採用されなかった。2008年に登場した地下鉄直通用車両の60000形MSE車、2018年に登場した70000形GSE車も通常のボギー車である。 ただし、小田急側では「連接車をやめたわけではない」「連接車はわが社(小田急)だからできること」ともしており、2005年の50000形VSE車登場にあたっては乗り心地の向上のためには不可欠なものとして連接構造が採用された。また、VSE車では台車が車体間にあるという連接車の構造を利用して、空気ばねの位置を車体重心近くの高い位置にする構造となっている。 ===展望席=== 運転室を2階に上げ、最前部まで客室とした前面展望構造とすること自体は、1700形製造のころには既に存在していた構想で、その後も特急車両の設計が行なわれるたびに検討されたが実現に至らず、1963年に登場した3100形NSE車で初採用となった。この構造は、乗客に眺望を楽しんでもらうという意図の他に、輸送力増強策の一つでもあるとされていた。その後、展望席は「いつか乗ってみたい存在」というステイタスとして定着し、7000形LSE車、10000形HiSE車にも同様の構造は引き継がれた。1991年に登場した20000形RSE車では連接車と同様の理由によりこの構造は採用されなかったが、客席をハイデッキ構造にしたため客席からの展望は確保されていた。 しかし、1996年に登場した30000形EXE車では分割併合を行うこととなり、貫通路を設置する先頭車での展望席設置は困難となった。また、分割して運行する区間が長いため、その際にも違和感のないものとするという理由によって、非貫通タイプの運転台でも展望席は採用されなかった。ところが、この構造が、前述したように箱根特急の利用者減少の一因となった。家族旅行で箱根特急を利用する際に、EXE車を見た子供から「こんなのはロマンスカーじゃない」と言われてしまうことがたびたび発生したのである。このため、2002年からは広告で使用される車両を前面展望席のあるHiSE車に変更したほか、2005年に登場の50000形VSE車では再び展望席が採用された。 2008年に登場した60000形MSE車は、地下鉄直通時の非常用通路として前面貫通路設置が必須であったことから、展望席設置は見送られている。しかし2018年3月登場の70000形GSE車では復活した。 ===補助警報音=== 補助警報音は、1957年に登場した3000形SE車において、遠くからでも高速で走る電車の接近が分かるようにするために考案されたものである。これは西部劇の映画の中で、機関車が鐘を鳴らしながら走行していることをヒントにしたものであるが、音色の決定に際しては、運輸省から「警報装置としての条件を満足させるべき」と、警視庁からは「騒音公害にならないように」という要望があった。この相反するようにみえる要望を満たすため小田急沿線在住の音楽家である黛敏郎にも相談、音響心理学研究所の指導を得て、最終的にはヴィブラフォンの音色で、2km付近まで達する音量となった。SE車ではエンドレステープが使用されたが、営業運行後にテープが伸びたり切れてしまうことが多かったため、3100形NSE車以降はトランジスタ発振器に変更され、20000形RSE車まで搭載された。 常時音楽を鳴らしながら走ることから、ロマンスカーは「オルゴール電車」と呼ばれるようになったほか、「小田急ピポーの電車」というCMソングも作られたなど、小田急ロマンスカーのシンボルの1つとなった。しかし、列車本数の増加などにより騒音とみなされるようになってしまい、10000形HiSE車が製造された1987年ごろにはほとんど鳴らす機会はなくなっていた。 しかし、50000形VSE車では、通常の警笛(電子笛)と回路を共用するミュージックホーンとしてこの音色を復活させ、60000形MSE車、70000形GSE車でも実装、小田急線と東京メトロ千代田線で使用されている(JR東海・御殿場線は、空気笛以外を「警笛」と認めていないJR東海の規定で使用が禁止されている)。 ===シンボルマーク=== ロマンスカーのシンボルマークは、1951年8月に登場した1700形の第2編成で、それまでは社紋が置かれていた側面の中央窓下にアルミ製のヤマユリの紋章を取り付けたものが始まりである。ヤマユリは神奈川県の県花であり、相模の山野を走るロマンスカーにはふさわしい花とみられていた。この紋章は1700形の全編成に設置されたが、1700形が一般車両に格下げとなった際に外された。 この紋章が復活したのは1980年登場の7000形LSE車からで、登場後まもなく車内の自動ドアにぶつかる乗客が目立ったことから、目線の高さに1700形の紋章に準じたシンボルマークをカッティングシートで貼付したものである。この自動ドアのステッカーは10000形HiSE車・20000形RSE車でも継承され、1996年からは車体修理を受けたLSE車・HiSE車・RSE車の車体側面にも同様のマークが貼られるようになった。 これとは別に、30000形EXE車・50000形VSE車・60000形MSE車、70000形GSE車では、車両愛称のロゴをデザインしている。 ===ブルーリボン賞=== 鉄道友の会が優秀な車両を表彰する制度としてブルーリボン賞の制度を創設したのは、3000形SE車が東海道本線上で当時の狭軌鉄道における世界最高速度記録を樹立したことがきっかけである。むしろSE車を表彰するために制度が創設されたという方が実情に近く、事実SE車は理事会の決定により無投票で第1回受賞車両に選出された。 その後も、30000形EXE車を除く7形式が受賞しており、2011年時点での受賞回数7回は大手私鉄では近畿日本鉄道とともに最多であった。 ===歴代運用車両=== ====特急専用車==== ===1910形→2000形=== 1949年に登場した、分離発足後初の新車。6両が特急車両として登場した「初代小田急ロマンスカー」であるが、1952年を最後に特急運用からは外れた。 ===1700形=== 1951年に登場した、初の特急専用車である。1957年に特急運用から外れた。 ===2300形=== 後述するSE車が登場するまでの「つなぎ役」として1955年に登場、1959年に特急運用から外れた。 ===キハ5000形=== 1955年に登場、1968年の御殿場線電化により運用から外れる。 ===3000形(SE車)=== 1957年に登場した軽量高性能新特急車。1968年には編成短縮の上御殿場線直通にも使用されるようになり、1991年に運用から外れた。第1回ブルーリボン賞受賞車両。 ===3100形(NSE車)=== 前面展望席を設けて1963年に登場、1999年まで運用された。第7回ブルーリボン賞受賞車両。 ===7000形(LSE車)=== 1980年に登場。2018年に運用から外れた。第24回ブルーリボン賞受賞車両 ===10000形(HiSE車)=== 展望席以外を高床化して1987年に登場。2012年に運用から外れた。第31回ブルーリボン賞受賞車両。 ===20000形(RSE車)=== 御殿場線直通用として1991年に登場。2012年に運用から外れた。第35回ブルーリボン賞受賞車両。 ===30000形(EXE車)=== 1996年に登場、初めて分割併合に対応した。2017年より「EXEα」に順次リニューアル。 ===50000形(VSE車)=== 前面展望席と連接構造を復活させて2005年に登場。第49回ブルーリボン賞受賞車両。 ===60000形(MSE車)=== 日本初の地下鉄直通有料特急用として2008年に登場。第52回ブルーリボン賞受賞車両。 ===70000形(GSE車)=== 下北沢駅付近の複々線化完成に伴う増発用・LSE車の置き換え用として2018年に登場。前面展望席付き車両では初のボギー車。 ===一般車両=== ===1600形=== 1948年に6両が戦後初の特急として運用された。乗車には特急料金が必要だった。 ===2400形(HE車)=== 1965年前後の数年間、特急需要のピーク時や検査入場時などに特急車両が不足するため、一部の「えのしま」に運用された。特急料金不要ではあるが座席定員制で、「サービス特急」と呼ばれた。 ===8000形=== 1987年1月、NSE車とLSE車が各1編成ずつ工場に入場していた時期に、踏切事故によりSE車が1編成使用不能になったため、本来はSE車が運用される「さがみ」の一部列車に運用された。 ===1000形=== 2016年12月12日、本来運用予定の車両の故障が原因で、1051編成+1251編成の10両が「えのしま74号」に充当された。 ===他社からの乗り入れ=== ===JR東海371系=== 1991年から小田急に乗り入れ開始。2012年に乗り入れ運用から外れた。 ==年表== 各車両編成の就役日などは、各車両形式の歴史の項を参照。 ===SE車導入まで(1957年以前)=== 1935年(昭和10年) 6月1日:土曜・休日に限り新宿駅 ‐ 小田原駅間無停車の「週末温泉列車」の運転開始。ムーランルージュ新宿座の看板女優・明日待子が吹き込んだレコードで、沿線案内を行う準備をした。6月1日:土曜・休日に限り新宿駅 ‐ 小田原駅間無停車の「週末温泉列車」の運転開始。ムーランルージュ新宿座の看板女優・明日待子が吹き込んだレコードで、沿線案内を行う準備をした。1942年(昭和17年) 1月:太平洋戦争の激化に伴い「週末温泉列車」の運行休止。1月:太平洋戦争の激化に伴い「週末温泉列車」の運行休止。1948年(昭和23年) 8月13日・27日:特急の試運転を実施。13日は1805+1853の2両編成が、27日は1601+1607の2両編成が新宿駅 ‐ 小田原駅間を95分20秒で走破。 10月16日:「戦災復興車」と称された1607+1651, 1601+1602, 1610+1315の3編成により新宿駅 ‐ 小田原駅間無停車の特急を土曜・休日に限り運転開始。同日より特別急行料金制度(新宿駅 ‐ 小田原駅50円)を制定。当初同月9日からの運転開始だったが、同月7日に「リビー台風」が箱根地方を直撃したため延期された。8月13日・27日:特急の試運転を実施。13日は1805+1853の2両編成が、27日は1601+1607の2両編成が新宿駅 ‐ 小田原駅間を95分20秒で走破。10月16日:「戦災復興車」と称された1607+1651, 1601+1602, 1610+1315の3編成により新宿駅 ‐ 小田原駅間無停車の特急を土曜・休日に限り運転開始。同日より特別急行料金制度(新宿駅 ‐ 小田原駅50円)を制定。当初同月9日からの運転開始だったが、同月7日に「リビー台風」が箱根地方を直撃したため延期された。1949年(昭和24年) 8月13日:1910形就役。 10月1日:新宿駅 ‐ 小田原駅間の特急が毎日運行となる。8月13日:1910形就役。10月1日:新宿駅 ‐ 小田原駅間の特急が毎日運行となる。1950年(昭和25年) 8月1日:箱根登山線箱根湯本駅まで乗り入れ開始。8月1日:箱根登山線箱根湯本駅まで乗り入れ開始。1951年(昭和26年) 2月1日:ロマンスシート装備の専用車である1700形が就役。 7月:新宿駅 ‐ 片瀬江ノ島駅間で納涼ビール列車「すず風号」「いそ風号」の運転開始。 8月20日:座席指定制度を導入。2月1日:ロマンスシート装備の専用車である1700形が就役。7月:新宿駅 ‐ 片瀬江ノ島駅間で納涼ビール列車「すず風号」「いそ風号」の運転開始。8月20日:座席指定制度を導入。1953年(昭和28年) 7月:小田急ロマンスカーのシンボルマークとして「白百合」のマークが1700形に取り付けられる。7月:小田急ロマンスカーのシンボルマークとして「白百合」のマークが1700形に取り付けられる。1954年(昭和29年) 7月13日:江ノ島線に特急料金を制定。7月13日:江ノ島線に特急料金を制定。1955年(昭和30年) 4月1日:2300形就役。 10月1日:日本国有鉄道御殿場線御殿場駅まで乗り入れ開始。これに充当するためキハ5000形気動車が就役。同時に連絡準急行料金(新宿駅 ‐ 御殿場駅間70円)制定。4月1日:2300形就役。10月1日:日本国有鉄道御殿場線御殿場駅まで乗り入れ開始。これに充当するためキハ5000形気動車が就役。同時に連絡準急行料金(新宿駅 ‐ 御殿場駅間70円)制定。 ===SE・NSE時代(1957年 ‐ 1980年)=== 1957年(昭和32年) 6月27日:3000形SE車展示会を実施。 7月6日:3000形SE車就役。 9月20日 ‐ 28日:3000形SE車が日本国有鉄道(国鉄)へ貸し出されて高速走行実験を実施。中でも27日には東海道本線函南駅 ‐ 沼津駅間で当時の狭軌世界最高速度である145km/hを樹立している。6月27日:3000形SE車展示会を実施。7月6日:3000形SE車就役。9月20日 ‐ 28日:3000形SE車が日本国有鉄道(国鉄)へ貸し出されて高速走行実験を実施。中でも27日には東海道本線函南駅 ‐ 沼津駅間で当時の狭軌世界最高速度である145km/hを樹立している。1958年(昭和33年) 1月29日:3000形SE車が1958年第1回鉄道友の会ブルーリボン賞を受賞。1月29日:3000形SE車が1958年第1回鉄道友の会ブルーリボン賞を受賞。1963年(昭和38年) 3月3日:3000形SE車による臨時スケート特急「白銀号」を運行。 3月16日:小田急ロマンスカー史上初の展望席設置列車として3100形NSE車就役。またこれに先立ち同月13日 ‐ 15日には展示会を実施。 春:小田急百貨店の夏の商戦の一環として3100形NSE車車内にて水着ショーを実施。 11月:3000形・3100形とも小田原線内の営業最高速度を110km/hに引き上げるダイヤ改正を実施。新宿駅 ‐ 小田原駅間は最速62分となる。3月3日:3000形SE車による臨時スケート特急「白銀号」を運行。3月16日:小田急ロマンスカー史上初の展望席設置列車として3100形NSE車就役。またこれに先立ち同月13日 ‐ 15日には展示会を実施。春:小田急百貨店の夏の商戦の一環として3100形NSE車車内にて水着ショーを実施。11月:3000形・3100形とも小田原線内の営業最高速度を110km/hに引き上げるダイヤ改正を実施。新宿駅 ‐ 小田原駅間は最速62分となる。1964年(昭和39年) 1月17日・26日:皇太子明仁親王・同妃美智子が新宿駅 ‐ 箱根湯本駅間を往復乗車。 2月17日 ‐ 21日・24日 ‐ 28日・3月2日 ‐ 6日:3100形NSE車が6両編成にて運行される(通常は11両編成)。 3月20日、新宿駅 ‐ 片瀬江ノ島駅間で「えのしま」が休日に限り定期運行を開始(途中停車駅は藤沢)。 7月10日:3100形NSE車が1964年鉄道友の会ブルーリボン賞受賞。1月17日・26日:皇太子明仁親王・同妃美智子が新宿駅 ‐ 箱根湯本駅間を往復乗車。2月17日 ‐ 21日・24日 ‐ 28日・3月2日 ‐ 6日:3100形NSE車が6両編成にて運行される(通常は11両編成)。3月20日、新宿駅 ‐ 片瀬江ノ島駅間で「えのしま」が休日に限り定期運行を開始(途中停車駅は藤沢)。7月10日:3100形NSE車が1964年鉄道友の会ブルーリボン賞受賞。1965年(昭和40年) 3月1日:「えのしま」の毎日運転開始。 3月1日:「えのしま」の毎日運転開始。1966年(昭和41年) 4月1日:すべての特別急行列車の列車無線使用開始。 6月1日:新宿駅 ‐ 箱根湯本駅間で「さがみ」運転開始(途中停車駅は向ヶ丘遊園・新松田・小田原)。同時に新宿駅 ‐ 小田原駅間無停車の特急に対して「はこね」と名付けられる。4月1日:すべての特別急行列車の列車無線使用開始。6月1日:新宿駅 ‐ 箱根湯本駅間で「さがみ」運転開始(途中停車駅は向ヶ丘遊園・新松田・小田原)。同時に新宿駅 ‐ 小田原駅間無停車の特急に対して「はこね」と名付けられる。1967年(昭和42年) 6月23日:特急列車に定期券による乗車を認める。 7月2日:3000形SE車の御殿場線乗り入れ用の5両編成化工事実施( ‐ 1968年3月29日)。 10月1日:新宿駅 ‐ 箱根湯本駅間で「あしがら」運転開始(途中停車駅は新原町田〈現・町田〉・小田原)。6月23日:特急列車に定期券による乗車を認める。7月2日:3000形SE車の御殿場線乗り入れ用の5両編成化工事実施( ‐ 1968年3月29日)。10月1日:新宿駅 ‐ 箱根湯本駅間で「あしがら」運転開始(途中停車駅は新原町田〈現・町田〉・小田原)。1968年(昭和43年) 6月3日:特急料金に小児制度が制定される。 6月30日:御殿場線の電化に伴いキハ5000形・5100形による連絡準急行廃止。不要となった両形式は関東鉄道へ売却。 7月1日:3000形SE車による御殿場線直通の運転開始。同時に列車種別が「連絡準急行」から「連絡急行」となり、連絡急行料金制度を制定し、連絡準急行料金廃止。6月3日:特急料金に小児制度が制定される。6月30日:御殿場線の電化に伴いキハ5000形・5100形による連絡準急行廃止。不要となった両形式は関東鉄道へ売却。7月1日:3000形SE車による御殿場線直通の運転開始。同時に列車種別が「連絡準急行」から「連絡急行」となり、連絡急行料金制度を制定し、連絡準急行料金廃止。1969年(昭和44年)1月1日:新宿駅 ‐ 新原町田駅で臨時特急「初詣号」が1往復運行される(途中停車駅は参宮橋と向ヶ丘遊園)。以後、毎年初詣客向けの特急が運行されるようになる。1972年(昭和47年)8月24日:沿線に居住していた英国人教師より「補助警報音は騒音公害源である」とする抗議を受け、相模大野駅以東での使用が禁止となる。1979年(昭和54年)2月27日:特急券の座席予約・販売にオンラインシステムを導入。 ===LSE・HiSE時代(1980年 ‐ 1991年)=== 1980年(昭和55年) 12月25日:7000形LSE車完成記念列車が運行される。 12月27日:7000形LSE車 (7001×11) 就役。12月25日:7000形LSE車完成記念列車が運行される。12月27日:7000形LSE車 (7001×11) 就役。1981年(昭和56年) 3月29日:「鉄道友の会 主催新型ロマンスカー試乗会」が7000形LSE車を使って海老名→小田原→新宿間で運行される。 6月15日:FM東京主催・資生堂提供の団体列車「ORANGE EXPRESS」が7000形LSE車 (7001×11) にて運行される。 9月13日:7000形LSE車が1981年鉄道友の会ブルーリボン賞受賞。 9月18日 ‐ 12月25日:TBSで『想い出づくり。』というロマンスカー・スチュワーデスを主人公としたテレビドラマが放映される。3月29日:「鉄道友の会 主催新型ロマンスカー試乗会」が7000形LSE車を使って海老名→小田原→新宿間で運行される。6月15日:FM東京主催・資生堂提供の団体列車「ORANGE EXPRESS」が7000形LSE車 (7001×11) にて運行される。9月13日:7000形LSE車が1981年鉄道友の会ブルーリボン賞受賞。9月18日 ‐ 12月25日:TBSで『想い出づくり。』というロマンスカー・スチュワーデスを主人公としたテレビドラマが放映される。1982年(昭和57年) 7月25日:向ヶ丘遊園でのイベントの関連企画として新宿駅 ‐ 向ヶ丘遊園駅間で伊藤つかさが車掌となって乗車する団体列車「*11092*好(ニーハオ)つかさ号」が3000形SE車にて運行される。 12月8日 ‐ 15日:日本国有鉄道の「新型特急車両開発計画」の一環として7000形LSE車(7002×11)が小田急から国鉄に貸し出され、東海道本線大船駅 ‐ 熱海駅間で試験走行を実施。7月25日:向ヶ丘遊園でのイベントの関連企画として新宿駅 ‐ 向ヶ丘遊園駅間で伊藤つかさが車掌となって乗車する団体列車「*11093*好(ニーハオ)つかさ号」が3000形SE車にて運行される。12月8日 ‐ 15日:日本国有鉄道の「新型特急車両開発計画」の一環として7000形LSE車(7002×11)が小田急から国鉄に貸し出され、東海道本線大船駅 ‐ 熱海駅間で試験走行を実施。1983年(昭和58年) 3月30日:3000形SE車 (3001×5) が大井川鉄道(現・大井川鐵道)へ譲渡(1989年5月廃車)。 7月:新宿駅 ‐ 片瀬江ノ島駅間で団体列車「め組EXPRESS」が3000形SE車にて運行される。3月30日:3000形SE車 (3001×5) が大井川鉄道(現・大井川鐵道)へ譲渡(1989年5月廃車)。7月:新宿駅 ‐ 片瀬江ノ島駅間で団体列車「め組EXPRESS」が3000形SE車にて運行される。1984年(昭和59年) 3月25日:臨時団体列車「小田急箱根クイズラリー号」が運転される。 8月9日:3000形SE車車体修繕工事実施( ‐ 1985年3月27日)。 12月25日:3100形NSE車車体修繕工事実施( ‐ 1988年10月20日)。3月25日:臨時団体列車「小田急箱根クイズラリー号」が運転される。8月9日:3000形SE車車体修繕工事実施( ‐ 1985年3月27日)。12月25日:3100形NSE車車体修繕工事実施( ‐ 1988年10月20日)。1986年(昭和61年)10月4日、7000形LSE車車内に車内電話が設置される。1987年(昭和62年) 2月頃:7000形LSE車が事故に遭遇した影響でロマンスカーの車両数が不足し、急遽、通勤形車両(8000形)が特急として運行される。 7月1日:ロマンスカー全列車の1 ‐ 3号車に禁煙車が設置される(小田急ロマンスカー史上初の禁煙席の登場)。 12月23日:10000形HiSE車就役。2月頃:7000形LSE車が事故に遭遇した影響でロマンスカーの車両数が不足し、急遽、通勤形車両(8000形)が特急として運行される。7月1日:ロマンスカー全列車の1 ‐ 3号車に禁煙車が設置される(小田急ロマンスカー史上初の禁煙席の登場)。12月23日:10000形HiSE車就役。1988年(昭和63年) 1月1日:10000形HiSE車で運行された「初詣号」で「走る喫茶室」のサービスが行われる(「初詣号」での「走る喫茶室」のサービスはこの回限り)。 9月11日:10000形HiSE車が1988年鉄道友の会ブルーリボン賞受賞。同時に新宿→小田急多摩センター間にて受賞記念列車運行。1月1日:10000形HiSE車で運行された「初詣号」で「走る喫茶室」のサービスが行われる(「初詣号」での「走る喫茶室」のサービスはこの回限り)。9月11日:10000形HiSE車が1988年鉄道友の会ブルーリボン賞受賞。同時に新宿→小田急多摩センター間にて受賞記念列車運行。1990年(平成2年) 4月 ‐ 5月:多摩線開業15周年を記念し、臨時列車「江ノ島・鎌倉エクスプレス」が唐木田駅 ‐ 新百合ヶ丘駅 ‐ 片瀬江ノ島駅間で運行される。 7月 ‐ 8月:同区間で臨時列車「湘南マリンエクスプレス」が運行される。4月 ‐ 5月:多摩線開業15周年を記念し、臨時列車「江ノ島・鎌倉エクスプレス」が唐木田駅 ‐ 新百合ヶ丘駅 ‐ 片瀬江ノ島駅間で運行される。7月 ‐ 8月:同区間で臨時列車「湘南マリンエクスプレス」が運行される。1991年(平成3年)3月15日、この日限りで3000形SE車の定期運用から離脱、新宿駅にて記念式典挙行。連絡急行料金廃止。 ===RSE・EXE時代(1991年 ‐ 2005年)=== 1991年(平成3年) 3月16日:20000形RSE車・JR東海371系就役。「あさぎり」が連絡急行から特急に格上げ、運転区間を沼津駅まで延長。特別席”スーパーシート・グリーン車”が設置される。同時に特別席(スーパーシート・グリーン車)料金制定。同日、ORS(小田急レストランシステム)とジェイダイナー東海(現・ジェイアール東海パッセンジャーズ)が車内販売のサービスを開始する。 7月:臨時列車「ビア・エクスプレス納涼号」が運行される。3月16日:20000形RSE車・JR東海371系就役。「あさぎり」が連絡急行から特急に格上げ、運転区間を沼津駅まで延長。特別席”スーパーシート・グリーン車”が設置される。同時に特別席(スーパーシート・グリーン車)料金制定。同日、ORS(小田急レストランシステム)とジェイダイナー東海(現・ジェイアール東海パッセンジャーズ)が車内販売のサービスを開始する。7月:臨時列車「ビア・エクスプレス納涼号」が運行される。1992年(平成4年) 3月8日:新宿駅→唐木田駅間で「さようなら3000形走行会」実施。 3月25日:上記の同区間で臨時列車「サンリオピューロランド号」が運行される。 3月31日:3000形SE車全廃。全廃時には「小田急メモリアル」というイベントが展開される。 6月:臨時列車「あじさい号」が運行される。 8月29日:20000形RSE車が1992年鉄道友の会ブルーリボン賞受賞。同時に新宿→唐木田間にて受賞記念列車運行。 10月3日:第9回全国緑化かながわフェアの開催を記念し、臨時列車「グリーンウェーブ相模原号」が7000形LSE車で運行される。 10月25日:団体列車「カントリーインアサギリ号」が20000形RSE車にて新宿駅 ‐ (御殿場線・東海道本線経由) ‐ 身延線富士宮駅間で運行される。 11月10日:大野工場に3000形SE車の記念モニュメントを設置。3月8日:新宿駅→唐木田駅間で「さようなら3000形走行会」実施。3月25日:上記の同区間で臨時列車「サンリオピューロランド号」が運行される。3月31日:3000形SE車全廃。全廃時には「小田急メモリアル」というイベントが展開される。6月:臨時列車「あじさい号」が運行される。8月29日:20000形RSE車が1992年鉄道友の会ブルーリボン賞受賞。同時に新宿→唐木田間にて受賞記念列車運行。10月3日:第9回全国緑化かながわフェアの開催を記念し、臨時列車「グリーンウェーブ相模原号」が7000形LSE車で運行される。10月25日:団体列車「カントリーインアサギリ号」が20000形RSE車にて新宿駅 ‐ (御殿場線・東海道本線経由) ‐ 身延線富士宮駅間で運行される。11月10日:大野工場に3000形SE車の記念モニュメントを設置。1993年(平成5年) 3月9日 :3000形SE車 (3021×5) を大野工場にて静態保存向けの工事を実施。うち2両を竣工当時の「SE」仕様に復元。 3月16日:静態保存用工事を実施した3000形SE車(3021×5) を海老名車両基地に回送。 3月20日:3000形SE車(3021×5)を海老名車両基地内の保管庫へ搬送、永久保存へ。 3月28日:日東紅茶(三井農林)が小田急ロマンスカーの「走る喫茶室」のサービスから撤退。同日鉄道友の会30周年記念行事として3100形NSE車が小田急多摩センター駅4番ホームに展示される。同時に京王多摩センター駅1番線にNSE車と同時期に製造された京王帝都電鉄(現・京王電鉄)初代5000系が展示され、両社の名車が並んで展示された。3月9日 :3000形SE車 (3021×5) を大野工場にて静態保存向けの工事を実施。うち2両を竣工当時の「SE」仕様に復元。3月16日:静態保存用工事を実施した3000形SE車(3021×5) を海老名車両基地に回送。3月20日:3000形SE車(3021×5)を海老名車両基地内の保管庫へ搬送、永久保存へ。3月28日:日東紅茶(三井農林)が小田急ロマンスカーの「走る喫茶室」のサービスから撤退。同日鉄道友の会30周年記念行事として3100形NSE車が小田急多摩センター駅4番ホームに展示される。同時に京王多摩センター駅1番線にNSE車と同時期に製造された京王帝都電鉄(現・京王電鉄)初代5000系が展示され、両社の名車が並んで展示された。1995年(平成7年)3月4日:一部の「あしがら」が本厚木駅への停車開始。1995年(平成7年) 7000形LSE車にリニューアル工事が施される( ‐ 1997年)。 3月26日:森永が小田急ロマンスカーの「走る喫茶室」のサービスから撤退する。これにより、小田急ロマンスカーの伝統であった「走る喫茶室」のサービスが廃止となる。7000形LSE車にリニューアル工事が施される( ‐ 1997年)。3月26日:森永が小田急ロマンスカーの「走る喫茶室」のサービスから撤退する。これにより、小田急ロマンスカーの伝統であった「走る喫茶室」のサービスが廃止となる。1996年(平成8年) 3月23日:30000形EXE車就役。「はこね」のほとんどの列車が町田駅に停車するようになったため、町田駅に停車しない「はこね」を「スーパーはこね」に改称。30000形EXE車就役により一部の「はこね」「あしがら」と「えのしま」の併結運転が開始。「えのしま」が大和駅への停車を開始。3月23日:30000形EXE車就役。「はこね」のほとんどの列車が町田駅に停車するようになったため、町田駅に停車しない「はこね」を「スーパーはこね」に改称。30000形EXE車就役により一部の「はこね」「あしがら」と「えのしま」の併結運転が開始。「えのしま」が大和駅への停車を開始。1997年(平成9年):小田原線開業70周年を記念し、3100形NSE車 (3161×11) を改造した「ゆめ70」が運転開始。1999年(平成11年) 7月11日:相模大野駅 ‐ 唐木田駅間にて「3100形NSEさよなら走行会」を実施。 7月16日:3100形NSE車が定期列車から撤退するにあたり、新宿駅と箱根湯本駅にて記念式典挙行。 7月17日:「さがみ」「あしがら」の名称を廃止し、「サポート」「ホームウェイ」の列車愛称が登場。同日より特急列車の乗車口による検札を廃止。7月11日:相模大野駅 ‐ 唐木田駅間にて「3100形NSEさよなら走行会」を実施。7月16日:3100形NSE車が定期列車から撤退するにあたり、新宿駅と箱根湯本駅にて記念式典挙行。7月17日:「さがみ」「あしがら」の名称を廃止し、「サポート」「ホームウェイ」の列車愛称が登場。同日より特急列車の乗車口による検札を廃止。2000年(平成12年) 4月23日:「ゆめ70 さよなら運転」実施。 4月26日:3100形NSE (3161×11) 「ゆめ70」廃車。これにより3100形NSE車全廃。 12月2日:多摩線初の定期列車のロマンスカーとして、「ホームウェイ」登場。4月23日:「ゆめ70 さよなら運転」実施。4月26日:3100形NSE (3161×11) 「ゆめ70」廃車。これにより3100形NSE車全廃。12月2日:多摩線初の定期列車のロマンスカーとして、「ホームウェイ」登場。2001年(平成13年) 3100形NSE車3181号車が開成駅前にて静態保存される。 4月24日:10000形HiSE車10041×11が「イタリアンエクスプレス」として運行され、イタリアの国旗をイメージした「赤・白・緑」のストライプを施した記念塗装となる( ‐ 2002年3月)。 7月8日:「ロマンスカー@クラブ」の予約開始。 7月15日:特急券のチケットレスサービスが開始される。 9月3日:3100形NSE車(3221×11)が喜多見電車基地内にて静態保存される。 10月:「ロマンスカー@クラブPC」のサービス開始。 12月31日:従来「初詣号」として運行されていた初詣客向け臨時特急の列車名を「ニューイヤーエクスプレス」に改称。3100形NSE車3181号車が開成駅前にて静態保存される。4月24日:10000形HiSE車10041×11が「イタリアンエクスプレス」として運行され、イタリアの国旗をイメージした「赤・白・緑」のストライプを施した記念塗装となる( ‐ 2002年3月)。7月8日:「ロマンスカー@クラブ」の予約開始。7月15日:特急券のチケットレスサービスが開始される。9月3日:3100形NSE車(3221×11)が喜多見電車基地内にて静態保存される。10月:「ロマンスカー@クラブPC」のサービス開始。12月31日:従来「初詣号」として運行されていた初詣客向け臨時特急の列車名を「ニューイヤーエクスプレス」に改称。2002年(平成14年) 2月1日:30000形EXE車の1号車にて「@TRAIN」と題して小田急ロマンスカー車内でIPv6を用いた無線LANインターネット接続実験が行われる( ‐ 3月31日)。 3月23日:特急料金の値下げ(10円 ‐ 60円)が実施される。36キロ以上の特定料金は廃止。 小田急ロマンスカーの新テレビCM「きょう、ロマンスカーで。」が始まる。2月1日:30000形EXE車の1号車にて「@TRAIN」と題して小田急ロマンスカー車内でIPv6を用いた無線LANインターネット接続実験が行われる( ‐ 3月31日)。3月23日:特急料金の値下げ(10円 ‐ 60円)が実施される。36キロ以上の特定料金は廃止。小田急ロマンスカーの新テレビCM「きょう、ロマンスカーで。」が始まる。2003年(平成15年)4月6日:座席番号の表記方法を変更。従来の連番式(例:101,102・・・)から数字とアルファベットを組み合わせたJR式(例:1A,1B・・・)になる。2004年(平成16年)12月11日:「サポート」を廃止し、「さがみ」の列車愛称が復活。「えのしま」の運転本数を大幅削減。 ===VSE・MSE時代(2005年 ‐ 2017年)=== 2005年(平成17年) 2月19日:50000形VSE車が海老名電車基地内にて車両見学会を実施。 3月5日:50000形VSE車の試乗会を新宿→小田急多摩センター間と唐木田→新宿間で実施。 3月19日:50000形VSE車就役。同日、車内で配布する無料観光情報誌『るるぶFREE ロマンスカー 箱根 小田原』創刊。 4月1日:特急券を購入した際に小田急ポイントカードにポイントが加算されるサービスが開始される。 5月17日:小田急ロマンスカーの東京地下鉄への乗り入れと新型車両60000形MSE車の導入を発表。 7月1日:小田急ポイントカードに貯まったポイントで特急券を購入できるサービスが開始される。 8月12日:10000形HiSE車の2編成(10021×11・10061×11)が長野電鉄に譲渡される。 10月1日:従来禁止されていた小田原駅 ‐ 箱根湯本駅間の乗車に際して列車に空席があった場合に限り座席指定を行わない「座席券」が発売され乗車可能となる。なお、「座席券」は当日ロマンスカーの発車直前にホームにて発売。 10月6日 ‐ 10月11日:「ロマンスカー@クラブ」にて他の利用者の個人情報が閲覧できるという事態が起こる。2月19日:50000形VSE車が海老名電車基地内にて車両見学会を実施。3月5日:50000形VSE車の試乗会を新宿→小田急多摩センター間と唐木田→新宿間で実施。3月19日:50000形VSE車就役。同日、車内で配布する無料観光情報誌『るるぶFREE ロマンスカー 箱根 小田原』創刊。4月1日:特急券を購入した際に小田急ポイントカードにポイントが加算されるサービスが開始される。5月17日:小田急ロマンスカーの東京地下鉄への乗り入れと新型車両60000形MSE車の導入を発表。7月1日:小田急ポイントカードに貯まったポイントで特急券を購入できるサービスが開始される。8月12日:10000形HiSE車の2編成(10021×11・10061×11)が長野電鉄に譲渡される。10月1日:従来禁止されていた小田原駅 ‐ 箱根湯本駅間の乗車に際して列車に空席があった場合に限り座席指定を行わない「座席券」が発売され乗車可能となる。なお、「座席券」は当日ロマンスカーの発車直前にホームにて発売。10月6日 ‐ 10月11日:「ロマンスカー@クラブ」にて他の利用者の個人情報が閲覧できるという事態が起こる。2006年(平成18年) 1月12日:50000形VSE車が2005年度グッドデザイン賞受賞。 1月14日:50000形VSE車のグッドデザイン賞受賞を記念し、受賞記念の「G」マークが車体に貼られる。 2月16日:「はこね43号」として運行していた7000形LSE車7001×11が、小田急相模原駅を通過していた18時16分、ホームから男性が飛び込み自殺した。その際に展望席のフロントガラスが大破し、展望席の乗客9名が怪我を負う。 2月17日:前日の事故を受け、全列車の前展望席の使用を中止とする。 2月24日:展望席のフロントガラスに「飛散防止フィルム」を貼るという安全対策を施したことから、前展望席の使用を再開。 3月19日:50000形VSE車就役1周年を記念して、新宿・町田・小田原・箱根湯本の各駅に到着・発車時に補助警笛(ミュージックフォーン)を鳴らすサービスを開始。同日、50000形VSE車の就役1周年を記念して「1st ANNIVERSARY」という記念のロゴが車体に貼付される。 3月31日:「ロマンスカーカフェ」が新宿駅の西口地上改札内に開設され、営業を開始する。 4月8日:はこね14号として運行していた50000形VSE車が、町田駅発車後、展望席にて雨漏り発生。後日、雨漏り対策工事実施。 5月15日:特急券を所持せずに特急に乗車した者に限り通常の特急料金に300円を加算して販売する制度ができる。なお、この制度で購入した特急券には座席の指定がなされない。 9月10日:50000形VSE車が2006年鉄道友の会ブルーリボン賞受賞。定期列車である「スーパーはこね13号」の一部を鉄道友の会が貸切にして受賞記念列車を運行。また、これを記念して「Blue Ribbon ROMANCECAR VSE 2006」という記念のロゴが車体に貼付される。1月12日:50000形VSE車が2005年度グッドデザイン賞受賞。1月14日:50000形VSE車のグッドデザイン賞受賞を記念し、受賞記念の「G」マークが車体に貼られる。2月16日:「はこね43号」として運行していた7000形LSE車7001×11が、小田急相模原駅を通過していた18時16分、ホームから男性が飛び込み自殺した。その際に展望席のフロントガラスが大破し、展望席の乗客9名が怪我を負う。2月17日:前日の事故を受け、全列車の前展望席の使用を中止とする。2月24日:展望席のフロントガラスに「飛散防止フィルム」を貼るという安全対策を施したことから、前展望席の使用を再開。3月19日:50000形VSE車就役1周年を記念して、新宿・町田・小田原・箱根湯本の各駅に到着・発車時に補助警笛(ミュージックフォーン)を鳴らすサービスを開始。同日、50000形VSE車の就役1周年を記念して「1st ANNIVERSARY」という記念のロゴが車体に貼付される。3月31日:「ロマンスカーカフェ」が新宿駅の西口地上改札内に開設され、営業を開始する。4月8日:はこね14号として運行していた50000形VSE車が、町田駅発車後、展望席にて雨漏り発生。後日、雨漏り対策工事実施。5月15日:特急券を所持せずに特急に乗車した者に限り通常の特急料金に300円を加算して販売する制度ができる。なお、この制度で購入した特急券には座席の指定がなされない。9月10日:50000形VSE車が2006年鉄道友の会ブルーリボン賞受賞。定期列車である「スーパーはこね13号」の一部を鉄道友の会が貸切にして受賞記念列車を運行。また、これを記念して「Blue Ribbon ROMANCECAR VSE 2006」という記念のロゴが車体に貼付される。2007年(平成19年) 3月18日:全席終日禁煙化。同日、「湘南国際マラソン号(臨時31号)」が新宿駅→片瀬江ノ島駅間にて運行。 7月6日:小田急ロマンスカー3000形SE車就役50周年を記念し、7000形LSE車7004×11が旧塗装となる。同時に「旧塗装特別記念号」が新宿→小田原間において運行されるとともに在籍中のロマンスカー全編成に50周年の記念ロゴが貼付される。同日、小田急ロマンスカーCMソング「ロマンスをもう一度」のCDを発売。 8月18日・25日:団体列車「ウルトラマンロマンスカー M78星雲号」、成城学園前駅 ‐ 小田原駅間にて運行。 10月19日:60000形MSE車の関係者向けの公開が行われる。同日、小田急ロマンスカーの東京地下鉄への乗り入れの概要を発表。 10月20日・21日:両日に海老名電車基地で開催された「ファミリー鉄道展2007」において、3000形SE車・3100形NSE車・7000形LSE車による旧塗装車の展示と60000形MSE車の一般向けの初公開が行われる。3月18日:全席終日禁煙化。同日、「湘南国際マラソン号(臨時31号)」が新宿駅→片瀬江ノ島駅間にて運行。7月6日:小田急ロマンスカー3000形SE車就役50周年を記念し、7000形LSE車7004×11が旧塗装となる。同時に「旧塗装特別記念号」が新宿→小田原間において運行されるとともに在籍中のロマンスカー全編成に50周年の記念ロゴが貼付される。同日、小田急ロマンスカーCMソング「ロマンスをもう一度」のCDを発売。8月18日・25日:団体列車「ウルトラマンロマンスカー M78星雲号」、成城学園前駅 ‐ 小田原駅間にて運行。10月19日:60000形MSE車の関係者向けの公開が行われる。同日、小田急ロマンスカーの東京地下鉄への乗り入れの概要を発表。10月20日・21日:両日に海老名電車基地で開催された「ファミリー鉄道展2007」において、3000形SE車・3100形NSE車・7000形LSE車による旧塗装車の展示と60000形MSE車の一般向けの初公開が行われる。2008年(平成20年) 2月9日:団体列車「ハローキティ号」、秦野駅 ‐ 新百合ヶ丘駅 ‐ 小田急多摩センター駅間にて運行。 3月15日:60000形MSE車就役。東京メトロ千代田線直通ロマンスカーの運転開始。 5月3日:60000形MSE車による不定期での東京メトロ千代田線経由有楽町線直通列車「ベイリゾート」の運転開始。 7月15日:60000形MSE車車内専用配布無料観光情報誌『るるぶFREE MELLODA』創刊。 7月22日 ‐ 8月22日:同期間の平日に限り、「湘南マリン号(臨時51号(片瀬江ノ島行き)・臨時52号(唐木田行き))」を唐木田駅 ‐ 片瀬江ノ島駅間で運行。 9月30日:60000形MSE車が第10回ブルネル賞車両部門奨励賞を受賞。 10月8日:60000形MSE車がグッドデザイン賞を受賞。同日より「Gマーク」が車体に掲出される。2月9日:団体列車「ハローキティ号」、秦野駅 ‐ 新百合ヶ丘駅 ‐ 小田急多摩センター駅間にて運行。3月15日:60000形MSE車就役。東京メトロ千代田線直通ロマンスカーの運転開始。5月3日:60000形MSE車による不定期での東京メトロ千代田線経由有楽町線直通列車「ベイリゾート」の運転開始。7月15日:60000形MSE車車内専用配布無料観光情報誌『るるぶFREE MELLODA』創刊。7月22日 ‐ 8月22日:同期間の平日に限り、「湘南マリン号(臨時51号(片瀬江ノ島行き)・臨時52号(唐木田行き))」を唐木田駅 ‐ 片瀬江ノ島駅間で運行。9月30日:60000形MSE車が第10回ブルネル賞車両部門奨励賞を受賞。10月8日:60000形MSE車がグッドデザイン賞を受賞。同日より「Gマーク」が車体に掲出される。2009年(平成21年) 2月14日・15日・21日・22日:「メトロおさんぽ号(臨時メトロ80号)」を町田駅 ‐ 北千住駅間にて運行。 3月22日:団体列車「エコロマンスカー号」を新宿駅 ‐ 小田原駅間にて運行。環境大臣(当時)・斉藤鉄夫、気象予報士・森田正光らが乗車し、車内で「親子で学ぼう!春の温暖化防止スクール」を実施。 7月21日 ‐ 8月21日:同期間の平日に限り、「湘南マリン号」を成城学園前駅 ‐ 片瀬江ノ島駅間で運行。また、8月3日から8月7日までは「クールビズトレイン」として車内設定温度を1 ‐ 2度上げて運行。 9月13日:60000形MSE車の2009年鉄道友の会ブルーリボン賞受賞式典挙行。定期列車である「はこね15号」の一部を鉄道友の会が貸切にして受賞記念列車を運行。また、これを記念して「Blue Ribbon ROMANCECAR MSE 2009」という記念のロゴが車体に貼付される。 11月15日:「メトロもみじ号(臨時81号(小田原行き)・臨時82号(北千住行き))」を北千住駅 ‐ 小田原駅間にて運行。2月14日・15日・21日・22日:「メトロおさんぽ号(臨時メトロ80号)」を町田駅 ‐ 北千住駅間にて運行。3月22日:団体列車「エコロマンスカー号」を新宿駅 ‐ 小田原駅間にて運行。環境大臣(当時)・斉藤鉄夫、気象予報士・森田正光らが乗車し、車内で「親子で学ぼう!春の温暖化防止スクール」を実施。7月21日 ‐ 8月21日:同期間の平日に限り、「湘南マリン号」を成城学園前駅 ‐ 片瀬江ノ島駅間で運行。また、8月3日から8月7日までは「クールビズトレイン」として車内設定温度を1 ‐ 2度上げて運行。9月13日:60000形MSE車の2009年鉄道友の会ブルーリボン賞受賞式典挙行。定期列車である「はこね15号」の一部を鉄道友の会が貸切にして受賞記念列車を運行。また、これを記念して「Blue Ribbon ROMANCECAR MSE 2009」という記念のロゴが車体に貼付される。11月15日:「メトロもみじ号(臨時81号(小田原行き)・臨時82号(北千住行き))」を北千住駅 ‐ 小田原駅間にて運行。2010年(平成22年) 1月6日:7000形LSE車7002×11が廃車となる。 1月:7000形LSE車(3編成)と10000形HiSE車(2編成)計5編成の車両の連結部分の金属に複数の傷が見つかり、当面の間LSE車とHiSE車の運転を休止する(長野電鉄に譲渡された元10000形HiSE車の1000形「ゆけむり」2編成も運転を休止)。1月6日:7000形LSE車7002×11が廃車となる。1月:7000形LSE車(3編成)と10000形HiSE車(2編成)計5編成の車両の連結部分の金属に複数の傷が見つかり、当面の間LSE車とHiSE車の運転を休止する(長野電鉄に譲渡された元10000形HiSE車の1000形「ゆけむり」2編成も運転を休止)。2011年(平成23年) 3月11日:東北地方太平洋沖地震が発生し、ロマンスカー全列車の運転を休止する。 3月14日、福島第一原子力発電所などの停止に伴う電力供給の逼迫のため、東京電力が輪番停電(計画停電)を実施。これに伴い、この日からロマンスカー全列車の運転を休止し、特急券の販売を停止する。 4月16日:この日から臨時ダイヤにより運転再開。一部運行再開となった「あさぎり号」以外は臨時特急(臨時○○号)として運行し、東京メトロ千代田線直通ロマンスカーは引き続き運行休止。ロマンスカー全車両には「がんばろう日本」のステッカーを貼付。また、4月16日に運転するロマンスカーの全列車(あさぎり号を除く)の特急料金相当額を義援金として日本赤十字社に寄付。 4月29日:通常の列車名で運転再開。 10月:東京メトロ有楽町線ホームドア設置工事のため、「ベイリゾート」の運転を休止する。3月11日:東北地方太平洋沖地震が発生し、ロマンスカー全列車の運転を休止する。3月14日、福島第一原子力発電所などの停止に伴う電力供給の逼迫のため、東京電力が輪番停電(計画停電)を実施。これに伴い、この日からロマンスカー全列車の運転を休止し、特急券の販売を停止する。4月16日:この日から臨時ダイヤにより運転再開。一部運行再開となった「あさぎり号」以外は臨時特急(臨時○○号)として運行し、東京メトロ千代田線直通ロマンスカーは引き続き運行休止。ロマンスカー全車両には「がんばろう日本」のステッカーを貼付。また、4月16日に運転するロマンスカーの全列車(あさぎり号を除く)の特急料金相当額を義援金として日本赤十字社に寄付。4月29日:通常の列車名で運転再開。10月:東京メトロ有楽町線ホームドア設置工事のため、「ベイリゾート」の運転を休止する。2012年(平成24年) 2月19日:7000形LSE車7001×11の営業運転終了。 3月16日:10000形HiSE車、20000形RSE車の運行を終了。JR東海371系が「あさぎり」から撤退。スーパーシート・グリーン席・セミコンパートメント席の営業を終了。 3月17日:「あさぎり」に60000形MSE車が就役。運行区間を新宿駅 ‐ 御殿場間に短縮。「メトロはこね」を平日に運行開始。「ベイリゾート」の運転を中止。2月19日:7000形LSE車7001×11の営業運転終了。3月16日:10000形HiSE車、20000形RSE車の運行を終了。JR東海371系が「あさぎり」から撤退。スーパーシート・グリーン席・セミコンパートメント席の営業を終了。3月17日:「あさぎり」に60000形MSE車が就役。運行区間を新宿駅 ‐ 御殿場間に短縮。「メトロはこね」を平日に運行開始。「ベイリゾート」の運転を中止。2016年(平成28年) 3月26日:新たに海老名駅と伊勢原駅に停車開始。唐木田行き列車を廃止。平日の「メトロホームウェイ」を増発。平日藤沢行き「ホームウェイ」1本に50000形VSEを充当(VSE初の定期「ホームウェイ」、定期の江ノ島線運用)。 12月12日、本来運用予定の車両の故障が原因で、1000形1051編成+1251編成の10両が「えのしま74号」に充当された。3月26日:新たに海老名駅と伊勢原駅に停車開始。唐木田行き列車を廃止。平日の「メトロホームウェイ」を増発。平日藤沢行き「ホームウェイ」1本に50000形VSEを充当(VSE初の定期「ホームウェイ」、定期の江ノ島線運用)。12月12日、本来運用予定の車両の故障が原因で、1000形1051編成+1251編成の10両が「えのしま74号」に充当された。2017年(平成29年) 3月1日、30000形EXE車のリニューアル編成、「EXEα」運行開始。3月1日、30000形EXE車のリニューアル編成、「EXEα」運行開始。 ===VSE・MSE・GSEの三つ巴時代(2018年以降)=== 2017年(平成29年) 12月5日:70000形GSE車が報道陣向けに公開される。12月5日:70000形GSE車が報道陣向けに公開される。2018年(平成30年) 2月19日:新型車両「70000形(GSE車)」周知のため新宿駅西口構内に、車体を模した飲食店「GSE Cafe」を期間限定(4月1日まで)開業。 3月17日:「70000形(GSE車)」の営業運転を開始。また同日のダイヤ改正で「メトロえのしま」を新設、「あさぎり」を「ふじさん」に、「メトロさがみ」を「メトロモーニングウェイ」に、朝方の新宿方面への「さがみ」と「えのしま」を「モーニングウェイ」にそれぞれ改称。代々木上原駅〜登戸駅間の複々線化完成で、土曜・休日の一部の「スーパーはこね」が、新宿駅〜小田原駅間を59分で結ぶようになる。 4月27日:海老名駅隣接地にて、歴代のロマンスカー運用車両の展示を主とする博物館「ロマンスカーミュージアム」を2021年春に開業することが発表される。2月19日:新型車両「70000形(GSE車)」周知のため新宿駅西口構内に、車体を模した飲食店「GSE Cafe」を期間限定(4月1日まで)開業。3月17日:「70000形(GSE車)」の営業運転を開始。また同日のダイヤ改正で「メトロえのしま」を新設、「あさぎり」を「ふじさん」に、「メトロさがみ」を「メトロモーニングウェイ」に、朝方の新宿方面への「さがみ」と「えのしま」を「モーニングウェイ」にそれぞれ改称。代々木上原駅〜登戸駅間の複々線化完成で、土曜・休日の一部の「スーパーはこね」が、新宿駅〜小田原駅間を59分で結ぶようになる。4月27日:海老名駅隣接地にて、歴代のロマンスカー運用車両の展示を主とする博物館「ロマンスカーミュージアム」を2021年春に開業することが発表される。 ==イメージソング== ロマンスをもう一度 ‐ 2002年より使用されている小田急ロマンスカーのCMソング。VSE以降の車両では車内チャイムとして使われている。小田急ピポーの電車 ‐ 昭和30年代ごろのCMソング。「ピポー」とは補助警笛音のことであり、イントロに補助警笛音がアレンジされたものが使われている。 =日本のアウトサイダー・アート= この記事では、日本におけるアウトサイダー・アート (英語:outsider art)またはアール・ブリュット (フランス語:art brut)について解説する。 アウトサイダー・アート、アール・ブリュットの定義は様々であって、また、この概念自体(特に、アウトサイダー・アート)が、例えばそう呼ばれる美術作品を主流の美術(つまり、インサイダー)から外すものだと批判されることもある。しかし、本記事では、例えば障害者芸術に留まらない、いままであまり顧みられなかった美術全体について扱うために、代表的な呼称であるアウトサイダー・アートを採用することにする。特に取り上げる論者がアウトサイダー・アートとアール・ブリュットどちらの用語を採用しているかによって両者を使い分けることとするが、ここでは、それぞれの用語の解説はアウトサイダー・アートの記事に譲って、特に意味の使い分けはしない。 ==概要== 日本のアウトサイダー・アートの主流をなすのは、障害者の、なかでも知的障害者の美術である。これは、1930年代後半に日本で初めてアウトサイダー・アートが見出されてからすでにあった傾向であった。1950年代から山下清に世間の関心が高まり、山下が大衆的人気を得た後、美術界は長い間アウトサイダー・アートに対して沈黙していた。その後は、ほぼ福祉分野でのアプローチばかりが目立つようになる。1990年代から、「アウトサイダー・アート」、「アール・ブリュット」の用語が日本に定着し、また、エイブル・アート・ムーブメントが始まってからは、広く人気が出だした。そして美術関係者、福祉関係者双方がアウトサイダー・アートについて調査、発掘、研究と、活発に活動するようになってきている。 ==年表== 1927年(昭和2年) ‐ 東京深川の渡辺金蔵自作の自邸、二笑亭が着工する。1928年(昭和3年) ‐ 千葉県市川市の八幡学園で、図工の時間が導入される。1937年(昭和12年) ‐ 式場隆三郎による「二笑亭綺譚」が、『中央公論』に掲載される。1938年(昭和13年) ‐ 二笑亭、解体される。戸川行男、早稲田大学大隈講堂小講堂で『特異児童作品展』をひらく。1939年(昭和14年) ‐ 東京銀座の青樹社にて、『特異児童作品展』1950年(昭和25年) ‐ 福来四郎、神戸市立盲学校で造形美術教育をはじめる。1954年(昭和29年) ‐ 朝日新聞が山下清を捜索、以降、山下ブームに。1955年(昭和30年) ‐ 東京渋谷の東横百貨店にて、落穂寮作品展1956年(昭和31年) ‐ 東京八重洲の大丸にて、山下清作品展1964年(昭和39年) ‐ 西垣籌一、京都府亀岡市みずのき寮(現みずのき)にて、絵画教室をはじめる。1974年(昭和49年) ‐ 西村陽平、千葉県四街道市の千葉県立千葉盲学校に図工担当教諭として着任する。1985年(昭和60年)頃 ‐ 田島征三、滋賀県甲賀郡信楽町(現・甲賀市)の信楽青年寮と関るようになる。1991年(平成3年) ‐ はたよしこ、兵庫県西宮市のすずかけ作業所にて絵画教室をはじめる。1993年(平成5年) ‐ 東京都世田谷区砧公園の世田谷美術館にて、「パラレル・ヴィジョン」展。1995年(平成7年) ‐ エイブル・アート・ムーブメントが提唱され、運動がはじまる。1997年(平成9年) ‐ ローザンヌ(スイス・ヴォー州)のアール・ブリュット・コレクションにて、『Art incognito 展』1999年(平成11年)‐ 東京都台東区上野公園の東京都美術館にて、『「このアートで元気になる エイブル・アート’99」展』2001年(平成13年)‐ 栃木県那須郡馬頭町(現・那珂川町)にもうひとつの美術館、開館2004年(平成16年) ‐ 滋賀県近江八幡市にボーダレス・アートギャラリー NO‐MA(現ボーダレス・アートミュージアム NO‐MA)、開館2008年(平成20年) ‐ アール・ブリュット・コレクションにて、『「日本」展』 ==歴史== 前述のように、日本にアウトサイダー・アートという概念が定着するのは、1990年代前半からであるが、この節では、日本でアウトサイダー・アートという概念が広まる以前の、アウトサイダー・アートと呼ばれうる美術の歴史から書く。 ===式場隆三郎と山下清の登場=== 日本におけるアウトサイダー・アートの最初期の活動として精神科医の式場隆三郎の活動が挙げられる。式場は、1898年(明治30年)に生れ、さまざまな活躍をした文化人で知られるが、美術方面でもフィンセント・ファン・ゴッホの研究や啓蒙につとめ、また、日本のアウトサイダー・アートを発見したりプロデュースしたりした。その例として、二笑亭や山下清が知られる。 式場は、1937年(昭和12年)から『中央公論』11月号から二号連続で、「二笑亭綺譚」を掲載した。これは、渡辺金蔵という建築の専門知識のないもの(セルフビルダー)による自邸、「二笑亭」の紹介であり、のちに単行本化し、別に「狂人の絵」というやはりアウトサイダー・アートと関係のある一篇をつけて昭森社から発行された。二笑亭は、日本のアウトサイダー・アートの「源流」と見なされている。1938年(昭和13年)に解体されることになるこの奇妙な建物を、「誰も実行できない夢と意欲を、悠々とやりとげた逞しい力に圧倒されさうだ」と感嘆して紹介した式場の功績は、1993年(平成5年)に監修してちくま文庫から『定本二笑亭綺譚』を刊行した藤森照信にも、その先見性を賞賛されている。 1938年(昭和13年)、早稲田大学講師で心理学者の戸川行男が、早稲田大学大隈講堂小講堂で特異児童作品展をひらいた。戸川は1935年(昭和10年)ごろから千葉県市川市の指定知的障害児施設八幡学園に通い、学園生の山下清などの作品に魅了され、これを紹介する美術展の開催を思い立ったのだった。八幡学園は、久保寺保久による設立当初の1928年(昭和3年)ごろから、美術の時間を導入していた。この展覧会は評判を呼び、山下のちぎり絵については特に注目された(他にも、学園生の石川謙二、野田重博、竹山新作、沼祐一、苗字は分らないが義明、務、繁の作品が展示された)。『美之國』や『美術』、『みづゑ』による特集や、展覧会に対する安井曾太郎、北川民次、倉田三郎、寺田政明などの評を見ることもできる。式場は、1936年(昭和11年)から八幡学園の顧問医師となっていて、この時から生徒の作品を知っていたと思われるが、1938年には「異常児の絵」という文で、前述した1939年(昭和14年)発刊の『二笑亭綺譚』でも、山下の作品を図版入りで紹介している。また戸川は作品集を発行するために春鳥会『みづゑ』の大下正男の協力のもと『特異児童作品集』を発行した。安井が選者を担当したのだが、山下の作品が中心に選ばれた。 1939年、やはり戸川を中心に企画され、東京銀座の青樹社において、特異児童作品展が催された。12月8日から11日までの会期の予定が、12日まで延長された。というのは、この展覧会は盛況を博して来場者は二万人にも及んだためで、マスメディアもよくこれを取上げた。展示されたのは1938年と同様、八幡学園の学園生の作品で山下清のものだけではなかったが、美術界を中心に知識階級で巻起こった論争の争点は、「山下が本当に天才であるのかどうか」または、山下の作品の「芸術性」にあった。この展覧会や山下を論評した人物は、梅原龍三郎、小林秀雄、伊原宇三郎、伊藤廉、藤島武二、川端龍子、荒城季夫、谷川徹三、川端康成、戦後になって柳宗悦の名が挙げられる。 一方1939年以降の式場は、アウトサイダー・アートの紹介から離れ、ゴッホの啓蒙にのめり込んで行く。服部正はその理由を、式場が、彼の言葉を借りれば「病的絵画」とこれ以上関与することによって、日本におけるゴッホの普及第一人者が式場であったため、意図しないところで、ゴッホの絵が病的なものであると誤解されるのをおそれたことにあるという。式場は、ゴッホの精神障害がてんかん性のものであると研究しており、それはゴッホの作風には影響していないという立場であった。1953年(昭和28年)、式場は、「ゴッホ生誕百年祭」と題して次々と企画を打ち、ゴッホの存在を世に知らしめていく。この啓蒙活動は大成功するものの、美術専門家からは白眼視された。たとえば岡本謙次郎は、活況のゴッホ生誕百年記念展に出向き、その「ワイザツさ」に、「入口をのぞいただけでひきかえした」といって批判した。その後、式場の活動は、美術関係者から無視されるようになっていく。 ===大衆的になっていく山下人気=== 山下のことはその後、第二次世界大戦を挟んだせいもあり世間から忘れられたが、1954年(昭和29年)1月、突然の様に山下の話題が持ち上がった。朝日新聞社会部の記者、矢田喜美雄から持ちかけられ、式場隆三郎と朝日新聞が、山下清の行方を捜すキャンペーンをはじめたのである。新聞以外に、ラジオでも広報はなされた。山下にはもともと放浪癖があって、ときどき八幡学園からいなくなるのだが、この時は鹿児島にいて、新聞掲載の四日後とすぐに見つかった。山下はキャンペーンで「日本のゴッホ」と名付けられ、有名になっていく。式場は、山下のちぎり絵とゴッホの絵を比べて、「彼(山下)自身のハリ絵が点描的なので(ゴッホの作品)と実に近似感がある」と評したが、服部は、両者の作品は似ていないし、症例も類似しないとする。三頭谷はむしろゴッホより、同じ印象派のクロード・モネとの類似を指摘する。にも拘らず山下がそう称されたのには、前年の「ゴッホ生誕百年祭」をはじめとする式場によるゴッホの啓蒙の成果があったためと服部は見る。もっとも山下自身は、ゴッホにはさほど興味がなかったようではあるが。 式場はさらに、「特異児童」の絵画全体に関わっていくようになった。1955年(昭和30年)3月に、東横百貨店(東京都渋谷区渋谷)で滋賀県の落穂寮の作品の展覧会を、1956年(昭和31年)の3月から4月まで、「山下清作品展」を大丸(東京都中央区八重洲)で開催した。この山下展は、八十万人の観覧者を集めたほどの盛況ぶりだった。両作品展には知的障害者へのカウンセリングのための教育相談室が設置され、多数の相談者が訪れたという。これには、式場の、障害者教育への情熱が背景にあった。服部は、現在までの日本のアウトサイダー・アートの特色として、教育との強烈な結びつきを挙げるが、これは、式場の時代からすでに示されていた傾向だという。そして、以降、山下への、さらにはアウトサイダー・アートに対しての美術界のアプローチも、ほぼ絶えていったのであるが、その理由を服部は、山下人気の立役者である式場が前述のように美術界から無視されていたこと、はたよしこは、あまりにも式場の活動が教育よりだったために、美術界から、美術とは無関係のものであると看過されたこと、小出由紀子や三頭谷鷹史は、山下が大衆的な人気を集めるようになったことが以降の無視の一因であると指摘する。 以上の様に戦後の山下ブームが戦前のブームと違う点は、その作品自体より、山下自身が人気を得たことにある。戦前でも、山下を中心とする八幡学園の生徒の障害という点は関心を持たれたのであるが、戦後においては、山下一人に人気が絞られ、また、その愛すべきキャラクターと芦屋雁之助主演のドラマなどマスメディアでの宣伝により、美術界の沈黙とは裏腹に山下清の名は日本中に大きく知れ渡った。 なお、式場のほかには、精神科医の呉秀三による患者の創作文字についての報告もみられる。 ===福祉施設における美術活動=== 以上の経緯から、美術界が主体となって動くアウトサイダー・アートの本場である欧米諸国と違って日本のアウトサイダー・アートは長い間、福祉施設の医師やワーカ、またはその現場に行って作品を生み出す手助けをする芸術家の活動が主流であった。現場に出向いた芸術家として、福来四郎や西垣籌一、西村陽平、田島征三、はたよしこなどが代表的である。以下、それぞれの活動を活動開始順に解説する。 ===福来四郎による神戸市立盲学校における視覚障害者美術教育=== 1950年(昭和25年)、福来四郎は、神戸市立盲学校で造形芸術教育をはじめた。この視覚障害者に対しての美術教育は、日本に限らず世界のなかでも、さきがけであった。この取り組みは、1969年(昭和44年)に講談社から刊行された福来自身による著書、『見たことないもん作られへん』にまとめられている ===西垣籌一とみずのき寮の教え子=== 1964年(昭和39年)、日本画家の西垣籌一は、京都府亀岡市の知的障害者更生施設みずのき寮(現みずのき)に絵画教室をひらいた。のちに専用のアトリエを建設したが、最初は古い鶏小屋に筵をしいて教室とし、絵画指導を行った。西垣は1978年頃からプロの絵描きを育てる活動に変え、一時期は公募展に応募するなどもした。当初から、「何をどう表現するかの最も重要な部分」には踏み込まないものの、技術技法にはかなり踏み込んだ指導を行ったのが特徴である。そのために服部正や西村陽平は、みずのきの作家たちのことを、本当にアウトサイダー・アート、アール・ブリュットと呼んでよいのか疑問を投げかけている。その後、1987年(昭和62年)には東京霞ヶ関や京都で、1995年(平成7年)には横浜ポートサイドギャラリーにて、『「みずのき寮のアーティストたち」展』など多くの展覧会を催した。 みずのき寮の活動には、キュレーターの小出由紀子も関っている。小出は、膨大な作品の調査や整理をかって出た。1993年(平成5年)の巡回展「パラレル・ヴィジョン」展が世田谷美術館で開催され、同時に世田谷美術館の独自企画「日本のアウトサイダー・アート」展に寮に所属する小笹逸男、福村惣大夫、吉川敏明の作品が展示された。その縁で、アール・ブリュット・コレクションのキュレーター、ジュヌヴィエーヴ・ルーランが来所したときの案内役も、小出は務めている。その後小出は、アール・ブリュット・コレクションと掛け合って、コレクションに32点の寮生の作品を収め、作品を世界に知らしめることに一役買った。1998年(平成10年)に西垣は寮を離れ、2000年(平成12年)に死去したが、その後は西垣のアシスタントを務めていた谷村雅弘が、西垣の意志を継いで教室を主宰している。しかし、2013年には谷村もみずのきを離れている。。 ===西村陽平による千葉県立千葉盲学校における視覚障害者美術教育=== 1974年(昭和54年)、造形作家の西村陽平は、千葉県四街道町(現四街道市)の千葉県立千葉盲学校に図工担当教諭として、1998年まで着任した。西村の、大量の粘土を生徒に使わせる、焼き方に黒陶を採用する、といった特色のある指導法は高く評価され、エイブル・アートを展示する1997年(平成9年)の「魂の対話 Able Art ’97」でも紹介された。これら作品は、西村の方針により、福祉色の強い展示会を嫌って、日本のみならずカナダやイギリスの、美術作品として勝負できる場で展示された。また西村は、エイブル・アート・ジャパンの副会長を務めるなど、エイブル・アート・ムーブメントとの関りも深い。 ===プロデューサーとしての田島征三と信楽青年寮の作家=== 1985年(昭和60年)頃、絵本作家の田島征三は、伊藤喜彦の作品を通して、滋賀県信楽町(現:甲賀市)の知的障害者更生施設兼授産施設信楽青年寮を知った。そして、信楽青年寮の作家と、プロデューサーというかたちで関るようになった。村田清司の絵を元に絵本を出版したり、1998年(平成10年)に東京で「しがらきから吹いてくる風」展を開いたり、1992年(平成4年)には信楽青年寮の芸術家を紹介する著書、『ふしぎのアーティストたち:信楽青年寮の人たちがくれたもの』を労働旬報社から出版したりと、作家と一対一の対等の関係で精力的に活動をしている。 ===はたよしことすずかけ作業所絵画教室の生徒=== 1991年(平成3年)、絵本作家のはたよしこは、兵庫県西宮市の知的障害者授産施設西宮市立武庫川すずかけ作業所にて絵画教室をはじめた。はたは、生徒に多少のアドバイスはするものの、生活面など過度な干渉をしないことを基本に活動を続けている。ローザンヌ(スイス・ヴォー州)のアール・ブリュット・コレクションにも収められた舛次崇や富塚純光など、世界で知られる芸術家も在籍している。はたは教室での作品のプロデュースもし、また、1995年(平成7年)からは全国でアウトサイダー・アート作品の発掘を、2004年に滋賀県近江八幡市に開館したボーダレス・アートミュージアム NO‐MAのアートディレクターに就任するなど、アウトサイダー・アートの普及に努めている。 ===「アウトサイダー・アート」「アール・ブリュット」の日本への移入=== 前述のように、日本では、美術の専門家からのアウトサイダー・アート全般に対する言及は少なかった。そのなかで、1968年(昭和43年)に、『芸術新潮』に寄稿した東野芳明の文は、「アール・ブリュット」の概念を日本に輸入した初期の例として注目される。東野は1965年にパリで、「アール・ブリュット」(Art brut, 生の芸術)の提唱者である画家のジャン・デュビュッフェに会い、彼のコレクション(アール・ブリュット・コレクション)を観覧している。しかし、以降、東野自身のみならず美術分野での論述は絶えてしまった。次には、1989年(平成元年)から1992年(平成4年)にわたって刊行された都築響一編著の『アート・ランダム』が、アウトサイダー・アート、アール・ブリュットの概念が世に広がる前に取り上げた例として知られる。また、1991年(平成3年)から2001年(平成13年)にかけて、資生堂が日本では先駆的に、小出由紀子の企画で、年に一度ほどアウトサイダー・アート展を、所有するザ・ギンザアートスペース(2001年は資生堂ギャラリー)にて催していたことも、特筆される。 日本で「アウトサイダー・アート」、「アール・ブリュット」が話題になりその名が知れ渡ったのは、1993年(平成5年)のことである。1992年(平成4年)にロサンゼルスのロサンゼルス郡立美術館が「パラレル・ヴィジョン」展を企画、開催した。展覧会は年明けて1993年から、ソフィア王妃芸術センター(スペイン・マドリード)、バーゼル・クンストハレ(スイス・バーゼル=シュタット準州・バーゼル)を巡回し、日本では世田谷美術館(東京都世田谷区)にやってきたのだった。世田谷美術館は、同時に「日本のアウトサイダー・アート」展を独自開催し、みずのき寮で生まれた作品を展示した(小笹逸男、福村惣大夫、吉川敏明)。「パラレル・ヴィジョン」展は評判を呼び、以降、ヘンリー・ダーガーを中心にアウトサイダー・アートの名は知れ渡るようになる。 こうして、美術界からの働きかけが出てきたわけだが、1995年(平成7年)には福祉分野の方でも、新たに大きな運動が生まれた。エイブル・アート・ムーブメントである。運動の中心となっている財団法人たんぽぽの家とエイブル・アート・ジャパン(旧称、日本障害者芸術文化協会)は、活発に展覧会を開いたり、企業のメセナ事業と共同でさまざまな障害者美術運動を展開し、ひろがりを見せている。日本の、特に――日本のアウトサイダー・アートの主流を担ってきた――知的障害者による美術制作の援助活動は、それぞれ別々に行われてきたが、エイブル・アート・ムーブメントは、これらの連携を取持つ役割を担っている。 2004年(平成16年)に、滋賀県近江八幡市に、ボーダレス・アートギャラリー NO‐MA(2007年(平成19年)に、ボーダレス・アートミュージアム NO‐MAに改称)が開館した。この美術館は、世界でもほとんどない健常者と障害者の作品を分け隔てなく展示することを目的に開設された。これまで日本では、アウトサイダー・アートを常時展示する施設がほとんどなく、NO‐MA は、その役割を担う存在として期待されている。昭和初期の町屋を改装した、オルタナティヴ・スペースとしても注目を集める。 2006年(平成18年)からは、ボーダレス・アートミュージアム NO‐MAとアール・ブリュット・コレクションとの3年間にわたる連携事業が開始された。2006年(平成18年)11月にはリュシエンヌ・ペリー館長を始めとするアール・ブリュット・コレクションのスタッフが来日し、ボーダレス・アートミュージアム NO‐MAの協力のもと、日本各地でアウトサイダーアートの調査を行った。その結果をふまえて2008年(平成20年)1月から7月にかけて、旭川美術館、ボーダレス・アートミュージアム NO‐MA、そして松下電工汐留ミュージアムでアール・ブリュット・コレクション収蔵作家の作品と日本のアール・ブリュットの作家の作品を同時に展示する展覧会、「アール・ブリュット 交差する魂展」が行われた。 一方、2008年(平成20年)2月から2009年(平成21年)1月にかけて、アール・ブリュット・コレクションで「日本展」が行われた。この展覧会に出品された小幡正雄、澤田真一、舛次崇、宮間英次郎ら、日本の作家の作品は会期終了後、アール・ブリュット・コレクションに作品が収蔵されることになっている。 精神障害者のアール・ブリュット作品については、はたよしこが蒐集した作品で企画された「目覚めぬ夢――日韓のアール・ブリュットたち」展(土屋正彦、山崎健一、高橋重美、木本博俊、周愛英)が催され、大きくクローズアップされた。それまで閉鎖的と言われた精神科の現場の看護師の協力も得られる状況が生まれてきている。 ==評価・特徴== 元来アウトサイダー・アートの定義としては作者が障害者である必然性はなく、例えば受刑者やスラム街の住人など、社会的に孤立した人たちが、美術的な専門教育を受けることなく独自の感性で創り上げた芸術作品もアウトサイダーアートとされている。日本ではこれまでのところアウトサイダー・アートとされた芸術作品の作者が障害者ではない例としては、宮間英次郎や寺下春枝、が挙げられるが、あまり調査、研究は進んでいない。 アール・ブリュット・コレクション館長であるリュシエンヌ・ペリーは、日本のアール・ブリュット作品の特徴として、ところどころに日本文化の影響があること、洗練さと細やかさがあることをあげる。もっとも同時に、自身によるアール・ブリュットの定義、「特定の文化に列していないこと」(「文化的処女性」)に見られるような、ステレオタイプとは無縁の文化にとらわれない創造性を指摘する。そして、日本という競争や能率で抑圧された社会から逸脱したことによって、アール・ブリュットの作家たちは、しがらみにとらわれない独自の表現方法を確立したのだ、として称賛する。 アウトサイダー・アートが専門のキュレーターで、兵庫県立美術館学芸員の服部正は、そんな日本のアウトサイダー・アートには、ある特殊事情があると述べる。それは、西洋のアウトサイダー・アートが学んだ歴史の典型を経験していないために生まれたことだという。ここでいう典型とは、福祉施設や精神病院など、現場の医師、ワーカが発する現場で生まれた作品に関する情報を、美術界が取り上げていく構図である。日本の場合、式場、山下以降の、美術界のアウトサイダー・アート全般に対しての「無視」があったため、長いあいだ現場による活動や運動が主流であった。そのため西洋であれば、作品そのものの賞賛が主流であったはずが、日本では最初期の式場隆三郎による活動から既に作家の立場の向上・福祉改善・美術教育と、作品よりその作家に目が向く傾向が強く、美術運動ではなく福祉改善運動としての一面がより重視されていると分析し、これを問題視する。エイブル・アートに対しても同様に批判している。また、以上の状況を踏まえて、さらに日本のアウトサイダー・アートの特殊性を挙げている。西洋では、美術界によるアウトサイダー・アートの活動が盛んであるため、その市場も成熟しているが、日本の場合、福祉と美術の協力が不足しているため、市場が育ちにくく、商業活動と言えば、福祉施設による、Tシャツやカレンダーといった雑貨類を販売するいわゆる「アート活動」が一般的だという。しかし、その福祉施設による活動も、障害者自立支援法などによる予算の縮小や制作時間の短縮の問題があるといい、今後の制作状況に影響があることを懸念する。 服部以外にも、都築響一は、それまでの「障害者の作品」に対しての見方が、「山下清の世界」であったと述懐し、自ら編集した『アート・ランダム』では、コンテンポラリー・アートと見られ得るアウトサイダー・アートの作品を紹介しようとつとめたことを語っている。また、日本のアウトサイダー・アート作品のコレクションがすすんでいないことを述べ、作品探索の調査不足を訴える。 日本のアウトサイダー・アートは、その福祉関係者による活動の中でも、知的障害者施設からのものが大部分を占める。西洋ではよく目立つ精神障害者による作品は、日本ではほとんど見出されていないのが現状である。これは、八幡学園以降知的障害者施設での活動が連綿と続いてきたこともあるし、また、日本の精神病院の閉鎖性や、これは西洋でも同様のことが言われているけれども、薬物療法の進歩が、患者の創作意欲を減退させているのだ、という指摘もある。一方、はたよしこは、自身の活動をきっかけに、現場の看護師の協力が得られるようになってきた現状を報告し、その成果の一部を、2009年の展覧会、「目覚めぬ夢――日韓のアール・ブリュットたち」展で紹介した。 アール・ブリュットが専門でフリーのキュレーターの小出由紀子は、日本の様な宗教性の弱い国では、ヘンリー・ダーガーに代表されるアール・ブリュットのしがらみのない表現が受け入れられる素地があるとする。特にヘンリー・ダーガーの表現の先鋭さは、2008年公開のドキュメンタリー映画『非現実の王国で ヘンリー・ダーガーの謎』が評判を呼ぶなど、日本で受け入れられている。そして、1990年代前半に、アール・ブリュットが紹介されたことによって、日本の美術とこれまで過激な表現を担ってきたサブ・カルチャーとの境界、棲み分けが崩れてきていることも同時に指摘した。 ==代表的な作家== 伊藤喜彦(信楽青年寮)小幡正雄小笹逸男(みずのき、旧みずのき寮)大江正彦川村紀子(工房絵)喜舎場盛也木伏大助坂上チユキ澤田真一舛次崇(すずかけ作業所)富塚純光辻勇二西川智之藤崎美佐枝福村惣太夫(みずのき寮)戸來貴規村田清司(信楽青年寮)松本国三宮間英次郎本岡秀則吉川敏明(みずのき寮)山下清(八幡学園)渡辺金蔵 ‐ 二笑亭建設者立島夕子 ==代表的な関連施設== 小出由紀子事務所神戸市立盲学校信楽青年寮すずかけ作業所千葉県立千葉盲学校みずのき(旧みずのき寮)ボーダレス・アートミュージアム NO‐MA八幡学園 ==脚註== ==参考文献== 西垣籌一『無心の画家たち:知的障害者寮の30年』日本放送出版協会<NHKブックス>780、1996年10月 ISBN 4‐14‐001780‐5山下里加「今日も、彼らは描いている」『美術手帖』2003年2月号、美術出版社服部正『アウトサイダー・アート:現代美術が忘れた「芸術」』光文社<光文社新書>114、2003年9月 ISBN 978‐4‐334‐03214‐2西村陽平監修『みずのきの絵画:鶏小屋からの出発』東方出版、2003年10月 ISBN 4‐88591‐863‐4小出由紀子、都築響一「<対談>小出由紀子×都築響一」『美術手帖』2007年5月号、美術出版社はたよしこ「浮上する日本のアール・ブリュット」はたよしこ編著『アウトサイダー・アートの世界:東と西のアール・ブリュット』紀伊國屋書店、2008年1月 ISBN 978‐4‐314‐01037‐5 ‐ 『日本のアール・ブリュット』に載っている同名の文章とは別のもの三頭谷鷹史『宿命の画天使:山下清・沼祐一・他』美学出版<アーツ アンド カルチャー ライブラリー>3、2008年6月 ISBN 978‐4‐902078‐12‐1アール・ブリュット・コレクション『日本のアール・ブリュット』infolio、2008年10月 ISBN 978‐2‐88474‐075‐3 リュシエンヌ・ペリー「常軌の国にある逸脱」 服部正「日本のアウトサイダー・アートをめぐる特殊な事情」リュシエンヌ・ペリー「常軌の国にある逸脱」服部正「日本のアウトサイダー・アートをめぐる特殊な事情」小出由紀子「アール・ブリュットの誕生とひろがりをめぐって」小出由紀子編著『アール・ブリュット:パッション・アンド・アクション』求龍堂、2008年10月 ISBN 978‐4‐7630‐0825‐1『アール・ブリュット・コレクションとボーダレス・アートミュージアム NO‐MAとの連携事業報告書』特定非営利活動法人はれたりくもったり、2009年はたよしこ述、樋口ヒロユキ聞き手「今、日本でアウトサイダー・アートに関わる、ということ。」『美術手帖』2009年7月号、美術出版社 =ネフェルティティの胸像= 『ネフェルティティの胸像』(ネフェルティティのきょうぞう)は、エジプト新王国時代の第18王朝のファラオだったアメンホテプ4世の正妃ネフェルティティをモデルとした彩色石灰岩彫刻。古代エジプトの芸術作品のうちで多く模倣された作品の一つで、ネフェルティティは女性美の象徴としてもっとも有名な古代の女性のひとりとなった。この胸像は古代エジプトの彫刻家トトメス (Thutmose) が紀元前1345年に制作したものとされている。 ==歴史== ===背景=== ネフェルティティ(「美しい人の訪れ」を意味する)は、紀元前14世紀の古代エジプトのファラオだったアメンホテプ4世の正妃である。アメンホテプ4世は太陽円盤アテンを唯一神とする新しい一神教 (Atenism) を始めた。ネフェルティティについてはほとんど分かっておらず、異国の王女だったという説と、エジプト王家の一人で後にツタンカーメンの後を襲ってファラオになるアイの娘という説がある。ネフェルティティは紀元前1352年から1336年にファラオとして在位したアメンホテプ4世とともにエジプトを統治し、アメンホテプ4世との間に6人の娘を儲けた。そのうちの一人が後にツタンカーメンと結婚して王妃になるアンケセナーメンである。ネフェルティティの記録はアメンホテプ4世の治世中13年で消えている。これがネフェルティティの死によるものか、あるいは改名しており、その名前が現在に伝わっていないだけなのかは分からない。アメンホテプ4世の死後、ネフェルティティが短期間ではあるが王座を継いてエジプトを統治したという説もある。 ===発見=== ネフェルティティの胸像はユダヤ系ドイツ人考古学者ルートヴィヒ・ボルヒャルト(ドイツ語版)率いるドイツ・オリエント協会 (Deutsche Orient‐Gesellschaft、DOG) によって、1912年12月6日にナイル川河畔のアマルナで発掘された。彫刻家トトメスの工房跡で発見され、そこからは他の未完成のネフェルティティの胸像が数点発見されている。ボルヒャルトの日記には出土品のことが「我々は突然とても生き生きとしたエジプトの美術品を手に入れた。とても言葉に出来ず、実際に見るほかない」と書かれている。 DOGの記録から発見された1924年の文書に、1913年1月20日にボルヒャルトとエジプト政府職員とで、1912年に出土した考古学的遺物のドイツとエジプト間の分配について会合が持たれたことが記述されている。その会合に出席し、この文書の記述者でもあった書記官によるとボルヒャルトは「自分たちが胸像を手に入れたい」と考え、そしてボルヒャルト自身は否定したが、胸像の本当の価値を秘密にしていた疑いがもたれている。 この「見事な腕前」に対して作家フィリップ・ファンデンベルクは「大胆で想像を絶するやり方」と非難し、タイム誌は「略奪された美術品トップ10」にこの胸像をあげた。ボルヒャルトは「ネフェルティティの美しさを写し出していない」胸像の写真をエジプト政府職員に見せた。エジプト側の主席古美術品調査官ギュスターヴ・ルフェーヴルが調査に訪れたときに、この彫像は梱包されて箱に詰められていたのである。さらにこの文書にはボルヒャルトがエジプト政府職員にこの胸像が石膏像であると誤解するように仕向けたことも暴露している。DOGは胸像は交換リストの最初に記載されていたことをあげて、調査官の怠慢であり、取引は公正に行われたと主張している。 ==ドイツでの保管場所== 『ネフェルティティの胸像』はベルリンに運ばれ、ユダヤ系ドイツ人の実業家でアマルナ発掘の後援者でもあったジェームズ・ジーモン(ドイツ語版)に寄贈された1913年以来ドイツにある。1913年にはジーモンの邸宅に飾られており、その後ほかのアマルナからの出土品とともにベルリン美術館に貸し出されている。1914年までほかのアマルナ出土品はベルリン美術館に展示されたが、ボルヒャルトの要望で『ネフェルティティの胸像』の存在は秘密にされていた。1918年にベルリン美術館は秘密にしていたこの胸像を一般公開することを検討したが、またもボルヒャルトからの要望で計画は頓挫してしまう。その後胸像は1920年にベルリン美術館に寄贈され、1923年にボルヒャルトの文書でその存在が公となり、1924年後半になってベルリンのエジプト美術館で一般公開された。その後、胸像は博物館島の新博物館で展示されている。第2次世界大戦勃発によりベルリン美術館が所蔵していた古代遺物がすべて安全な場所に移され、ベルリン美術館が閉鎖される1939年までそのまま新博物館に展示されていた。『ネフェルティティの胸像』は当初帝国銀行の地下金庫に保管され、1941年の秋になってベルリンの高射砲塔防空壕に移された。新博物館は1943年のイギリス空軍によるベルリン爆撃によって被害を受けている。さらに1945年5月6日に胸像はテューリンゲン州の岩塩坑に移された。 1945年5月にアメリカ陸軍が『ネフェルティティの胸像』を発見し、美術品を扱う部局に引き渡された。胸像はフランクフルトに運ばれ、1946年までヴィースバーデンの美術館で公開されている。1956年に胸像が西ベルリンへ返還され、ダーレム美術館に展示された。1946年初頭には東ドイツが『ネフェルティティの胸像』を、第2次世界大戦前に展示されていた博物館島(当時は東ベルリン)へ返還するよう要求している。1967年にシャルロッテンブルクのエジプト美術館に移され、さらに2005年に旧博物館 (Altes Museum) に移された。そして2009年10月に修復再建された新博物館に戻され、収蔵品の目玉として展示されている。 ==エジプトからの返還要求== 1924年にベルリンで『ネフェルティティの胸像』が公開されて以来、エジプト政府は胸像の返還要求を続けている。1925年に胸像を返還しない限りエジプトでのドイツの発掘を禁止すると警告した。1929年にはエジプトから『ネフェルティティの胸像』と他の遺物との交換の申し出があったが、ドイツは応じなかった。1950年代にもエジプトは交渉を試みたが、ドイツからの反応はなかった。ドイツは胸像の返還を強く拒み続けていたが、1933年に当時ナチス・ドイツの航空大臣だったヘルマン・ゲーリングが政治的思惑からエジプト王ファールーク1世への胸像の返還を検討したことがある。しかしアドルフ・ヒトラーはこの考えに反対し、エジプト政府に対して『ネフェルティティの胸像』のために新しくエジプト博物館を建設すると伝え、「この素晴らしい胸像は博物館中央の玉座に置く。女王の頭を放棄することは決してありえない」と語った。 大戦後、胸像がアメリカ軍の保護下にあったとき、エジプトはアメリカに胸像の引渡しを求めている。しかしアメリカは、エジプトは新設されるドイツの関連機関と交渉すべきだとして、引渡しを拒否した。1989年にエジプト大統領ホスニー・ムバーラクはベルリンでこの胸像を見たときに、この胸像は「エジプトにとって最高の駐独大使だ」と語っている。 エジプト考古最高評議会長のザヒ・ハワス博士は、『ネフェルティティの胸像』はエジプトが所有権を持っており、過去に不法に持ち出されたものである以上返還されなければならないとしている。ハワスは、1913年に発見されたときにエジプト当局が不正な方法で胸像を取り上げられたと考えており、ドイツに対して法的に正当な手段で胸像を持ち去ったというのであれば、それを立証するよう要求している。クルト G.ジーアは「考古学的文化財は原産国が「家」であり、その国で保存されるべきだ」と、別の観点からエジプトに返還すべきだと指摘した。2003年にも胸像の返還騒動があり、2005年にはハワスがユネスコに、胸像返還問題に介入するよう求めている。 2007年ハワスは、もし胸像がエジプトに貸与されないのであればドイツではエジプト考古学に関する博覧会を開催させないと通告したが、効果はなかった。また、ドイツの博物館への展示品貸与をやめるよう世界に呼びかけ、「学術的戦争 (scientific war)」の開始を求めた。ハワスは、2012年にギザの三大ピラミッドのそばに2012年に新設される大エジプト博物館開設記念として『ネフェルティティの胸像』を貸与してくれるようドイツ政府に要望している。同時に「ネフェルティティの旅 (Nofretete geht auf Reisen)」と呼ばれる胸像の巡回キャンペーンが、ハンブルクに拠点を置く文化団体 CulturCooperation によってはじめられた。この団体は「本来の所有者へ戻そう」の文字とともに『ネフェルティティの胸像』がデザインされた絵葉書を配布し、胸像をエジプトに貸与すべきではないかという公開質問状をドイツ文化大臣のベルンド・ノイマンに送っている。2009年には新装された、もともと展示されていた新博物館へと戻されたが、ベルリンが『ネフェルティティの胸像』がある場所としてふさわしいのかどうかが議論となった。 ドイツ人の美術専門家たちは、1924年の文書に記載されているルートヴィヒ・ボルヒャルトとエジプト当局の間で交わされた協定を根拠に、ハワスからの抗議や要求に応じない態度を見せている。しかし前述したとおりボルヒャルトの取引は不正なものだったと非難されているのである。 また、ドイツ当局は胸像が壊れやすくて輸送に耐えられないとし、エジプトへの返還は実質的に不可能だとも主張している。タイムズは胸像をエジプトに貸与すると、永久に戻ってこないとドイツ政府が危惧しているのではないかと指摘した。 エジプト考古最高評議会は2011年1月、新博物館に対し、胸像の返還を要請する文書を送ったと発表した。 ==外観と調査== 『ネフェルティティの胸像』は高さ47cm、重さ約20kgほどで、石灰岩を芯として彩色された化粧漆喰 (Stucco) が被せられて作られている。完全に左右対称となっているが、右目にある象嵌は左目には施されていない。右目の瞳は黒く塗られた石英がはめ込まれ、蜜蝋で固定されている。眼窩は彩色されていない石灰岩のままとなっている。ネフェルティティは「ネフェルティティの王冠」として知られる独特の王冠を被っている。リボンのように水平に巻かれた金の帯状の飾りが後ろで交差し、眉の上にはエジプト王権を象徴する聖蛇コブラの飾りがあったが損壊しており、耳にも損壊している箇所がある。衣装は襟ぐりが広く、花模様となっている。美術史の文献『Gardner’s Art Through the Ages』は、「トトメスによるこの優美な胸像の大きな王冠と、まるで蛇のように細長い首の誇張された表現は、細く滑らかな茎に咲く大輪の花をイメージしていたのかも知れない」としている。研究家のデイヴィッド・シルヴァーマンの意見では、胸像は伝統的なエジプト美術の様式で作成されており、アメンホテプ4世治世下の「風変わりな」アマルナ様式の作風にはなっていない。 ===彩色=== ルートヴィヒ・ボルヒャルトは胸像に使用されている顔料の化学分析を依頼し、その結果が『王妃ネフェルティティの肖像 (Portrait of Queen Nofretete)』として1923年に公表された。 青色 ‐ フリット粉末(ガラスを構成する焼結体)肌色 ‐ 酸化鉄で着色された石灰黄色 ‐ 雄黄緑色 ‐ 銅と酸化鉄で着色されたフリット粉末黒色 ‐ ロウを溶剤とした石炭白色 ‐ 白亜(炭酸カルシウム) ===不完全な左目=== ボルヒャルトは胸像を発見した当初、トトメスの工房が廃墟となったときに胸像の左目にはめ込まれていた石英が落剥したと考えており、工房跡を捜索したが左目の石英を発見することはできなかった。欠けた左目は、実際にネフェルティティが眼病に苦しみ失明していたのではないかという憶測を生み出したが、他の彫像では左目が表現されている事実と矛盾している。 エジプト美術館館長ディートリヒ・ヴィルドゥング(Dietrich Wildung)は、ベルリンの『ネフェルティティの胸像』が公式の肖像を作成するためのモデルであり、目の内部の彫刻方法を弟子たちに教えるために左目は作成されなかったのではないかと推測した。『Gardner’s Art Through the Ages』とシルヴァーマンも、この胸像はあえて未完成になっていると考えている。一方ハワスは、もともと胸像に左目が存在したが後に失われたと主張した。 ===CT スキャン=== 『ネフェルティティの胸像』が最初にCTスキャンで調査されたのは1992年のことで、このときは5mmごとに断層撮影が行われた。2006年にはエジプト美術館館長ヴィルドゥングが、以前に胸像が展示されていた旧博物館 (Altes Museum) とは異なった照明のもとで、首すじのしわと目の下のたるみが胸像に表現されているのを発見し、胸像の作成者が老化の兆候を表そうとしたのではないかと考えた。このヴィルドゥングの発見はCTスキャンによって確認され、トトメスが彫像を完成させるために後から頬と目に石膏を追加していたことが判明した。 ベルリンの画像科学研究所 (Imaging Science Instituts) の所長アレクサンダー・フッペルツの指揮で2006年に実施されたCTスキャンでは、ネフェルティティの顔に表現されているしわが胸像内部の石灰岩にも彫りこまれていることが判明しており、このときのCTスキャンの結果が2009年4月の『Radiology journal』で公表されている。トトメスは石灰岩の芯の上に何層もの石膏を重ね、胸像の口元、頬、鼻の部分にはしわ状の折り目がつけられており、これらの折り目や石膏の凹凸は化粧漆喰で胸像表面を覆うことで滑らかにされている。フッペルツは「当時の理想美」を表しているのではないかとしている。2006年のCTスキャンは1992年のそれよりもはるかに多くの情報をもたらし、化粧漆喰の1、2mm下の微妙な細部までが明らかになった ==贋作の議論== フランスで出版されたスイス人美術学者アンリ・スティルランの『ネフェルティティの胸像は偽物か? (Le Buste de Nefertiti ‐ une Imposture de l’Egyptologie?)』などが、『ネフェルティティの胸像』は現代で作られた偽物だと主張しはじめた。スティルランは、ボルヒャルトは古代に使われていた顔料を試す目的で胸像を作成したとして、ザクセン王子ヨハン・ゲオルグがこの胸像を賞賛したために、ボルヒャルトは王子を怒らせないよう胸像が本物であると見せかけたのだという説を唱えた。スティルランは、片目の胸像は古代エジプトではそもそも不敬であり、発見したとされる年から11年もの間に科学的根拠ある記録がまったく残っていないのは不自然だと主張した。さらに、使用されている顔料は確かに古代エジプトのものかも知れないが、芯に使用されている石灰岩は一度も年代測定されたことがないと指摘している。同じく胸像が偽物であると考えているベルリンの作家・歴史研究家 Edrogan Ercivan も、胸像はボルヒャルトの妻をモデルとして作成されたものだとして、1924年まで公開されなかったのは『ネフェルティティの胸像』が偽物だからであると主張した。このほかにも、現在の胸像はヒトラーの命により1930年代に作成されたもので、オリジナルの胸像は第二次世界大戦で失われたとする説などもある。 ディートリヒ・ヴィルドゥングは胸像が偽物であるという主張は売名行為であり、放射線測定、CTスキャン、構成材料の調査などの科学的検証が、この胸像の信憑性を保証していると一蹴した。胸像に使用されている顔料は古代エジプトの芸術家が使用していた顔料と同一であるのは間違いない。『Science News』によれば、2006年のCTスキャンで発見された「隠れた顔」こそが、疑問の余地なく本物であることを証明している。 エジプト側もスティルランの説を相手にしていない。ハワスは「スティルランは歴史家ではない。頭がどうかしている」と語ったことがある。スティルランの主張の根拠の一つでもある、ほかの古代エジプトの像の肩が水平にカットされているのに対して『ネフェルティティの胸像』の肩が垂直にカットされているのはおかしいという点についてハワスは、胸像に見られる新しい様式は夫で王のアメンホテプ4世が導入した変革の一部に過ぎず、また片目の像が不敬であるとの点に関しても、もともとは両目があったが後に失われたものだと反論している。 ==文化的価値と評価== 『ネフェルティティの胸像』は「古代エジプトの文物のなかで最高に賞賛、模倣されてきたイメージの一つ」で、ベルリン美術館の所蔵品でもっとも集客力のある展示品となっている。「世界的な美の象徴」であり「長い首、優美な弓なりの眉、高い頬骨、細い鼻梁、そして謎めいた微笑を浮かべる赤い唇。この胸像はネフェルティティが古代でもっとも美しい女性の一人であるという名声をもたらした」とも言われている。ツタンカーメンの黄金マスク以外に比べるもののない、世界的に有名な古代美術品である。 『ネフェルティティの胸像』はベルリンの文化的象徴にもなっており、毎年50万人以上の見物客がネフェルティティのもとを訪れる。「古代エジプトの芸術品のなかでもっとも有名な作品で、エジプト以外の古代遺物のなかでも群を抜いている」とも表現された。この胸像はベルリンの絵葉書になっており、1989年には彫刻正面の顔がデザインされた切手も発行されている。 1930年にドイツのマスコミが『ネフェルティティの胸像』を擬人化し、新しい女王として取り上げたことがある。「このうえなく高貴で、王冠にちりばめられた宝石とともにプロイセン・ドイツが誇る宝物」であり、ネフェルティティは1918年(第一次世界大戦でドイツが敗北した年)以降ドイツ帝国の世界的地位を回復することだろうとした。 ヒトラーはこの『ネフェルティティの胸像』を「匹敵するものがない名作、装飾品で、真の宝物」と表現し、胸像を収める博物館建設を公言した。1970年代にこの胸像は、第2次世界大戦後に分断された東西ドイツのナショナル・アイデンティティの問題にもなっている。クラウディア・ブレーガーは『ネフェルティティの胸像』がドイツのナショナル・アイデンティティに関連付けられるようになったのは、歴史的ライバル国のイギリスがアメンホテプ4世とネフェルティティの2代後にエジプトを統治したツタンカーメンを発掘したことと関係していると考えている。 『ネフェルティティの胸像』は大衆文化にも影響を与えており、映画『フランケンシュタインの花嫁』でメイクアップを担当したジャック・P・ピアースの手によるエルザ・ランチェスターの印象的な髪型は、この胸像がもとになっていた。 =皇太子裕仁親王の欧州訪問= この項目では、1921年(大正10年)3月3日から9月3日までの6ヶ月間、当時皇太子であった裕仁親王(昭和天皇)によるヨーロッパ各国の歴訪を扱う。日本の皇太子がヨーロッパを訪問したのは初めてのことであり、日本国内でも大きな話題となった。 ==出発まで== ===立案=== 明治期には皇族の外国留学や外遊が行われるようになり、皇族が見聞を広めるため外遊を行うことが好ましいとされた。皇太子嘉仁親王(大正天皇)は皇太子時代に国内の行啓を数多く行い、1907年(明治40年)10月には皇太子の初の海外行啓となる韓国行啓を行った。皇太子嘉仁親王は欧米外遊を希望する詩作を行っており渡欧を希望していたが、韓国からの帰国後も新聞社説で皇太子外遊を歓迎する報道もなされたが、明治天皇の反対により実現されなかった。 裕仁親王をヨーロッパに外遊させるという計画は、1919年(大正8年)の秋頃から検討され始めた。裕仁親王は将来の天皇となる身であり、病身である大正天皇の摂政となる可能性も高いと見られていた。裕仁親王に各国の王室との交友を深めてもらい、見聞を広めてもらうという元老山縣有朋が提案したこの計画に、元老松方正義や西園寺公望、原敬首相も賛意を示した。 ===反対案の伸長=== ところが一部では「父母在せば遠くに遊ばず」という『論語』の文句を引用して外遊に反対する動きがあった。また大正天皇の病中に外遊に出ることは不敬であるとの声や、長期に渡る旅行による裕仁親王の体への負担を懸念する向きや、さらに独立派の朝鮮人の襲撃を懸念する声もあった。 1920年(大正9年)になると、母親である貞明皇后も洋行に懸念を示すようになった。皇后は下田歌子を通じて祈祷師飯野吉三郎に、裕仁親王の洋行に関する「霊旨」への伺いを立てるほどであった。その後宮内大臣中村雄次郎が洋行を行うべきと進言し、8月4日には原首相が皇后に拝謁し、「一度は御洋行ありて各国の情況を御視察ある事尤も然るべし」という意見を伝えるとともに、裕仁親王が天皇の名代を務めることが多くなってきたことが、洋行の際にはどうなるかという懸念を伝えた。元老山縣は十月中の出発を考えていたが、宮中での協議は難航し、皇后の許可もなかなか下りなかった。皇后は下田を通じて原首相に懸念を伝えたが、その内容は天皇の病態が洋行中に急変するのではないかということであった。下田は皇后の不安を解消するためには侍医の「急変の心配がない」という診断が必要であると伝え、原首相もこの旨を元老山縣に伝達した。 ところが東宮大夫濱尾新が洋行反対のための活動を開始した。浜尾は東宮御学問所総裁東郷平八郎元帥の反対意見を皇后に伝達し、盛んに宮中での運動を行った。元老らは皇后を説得したが許可は得られず、伏見宮貞愛親王に説得を依頼したが、元老で許可されないことを自分が申し上げても許可されないと断られた。元老松方は直接天皇を説得することも考えたが、天皇が風邪で病臥中であったため実現できなかった。また、おりしも裕仁親王妃に久邇宮良子女王が内定したが、久邇宮家の色弱遺伝が判明した。元老山縣は皇太子妃内定の取り消しに動いたが、これも洋行問題とともに右派や反山縣派の憤激を買い、洋行反対と皇太子妃内定不変更が彼らの運動の旗印となった。 1921年(大正10年)1月16日、中村宮相と松方元老は葉山御用邸で天皇に拝謁し、裕仁親王洋行の裁可を得た。中村宮相はその後沼津御用邸の裕仁親王を訪ね、親王も許可を喜んだ。原首相は内田康哉外相と加藤友三郎海軍大臣と協議し、2月中旬から下旬まで、軍艦に乗ってイギリスを経由してアメリカに向かうという計画を中村宮相に伝えた。しかしこの頃から皇太子妃問題が表面化し、山縣元老や中村宮相に対する非難の声が高まっていた。2月10日には「皇太子妃は内定通り変更がない」という声明が行われたが(宮中某重大事件)、無所属の衆議院議員押川方義が「東宮御訪欧に就ての建議案」を提出する動きを見せた。原首相はこの動きを止めようとしたが、押川は説得に応じなかった。 この頃には洋行反対運動も表面化しており、黒龍会と浪人会を率いる内田良平や玄洋社の頭山満も反対者であった。2月11日には立憲政友会の田中善立衆議院議員を中心とする皇国青年会その他200人の「国民祈願式挙行団」が婚約の不変更と洋行延期の祈願式を行った。在野や議会内の反対派は活発な行動を行い、議会運営にも支障が出る状況となった。 ===正式決定=== 2月15日、宮内省告示第二号によって皇太子裕仁親王が3月3日から、ヨーロッパに外遊することが正式に公表され、随員も発表された。同日には赤坂氷川神社で「東宮殿下御外遊御延期祈願式」が行われ、代議士や内田らが参列した。2月17日、内田・頭山は元東京帝国大学(現東京大学)教授寺尾亨とともに宮内省を訪れ、洋行延期を奏上しようとしたが係員に受領を拒否された。同日、衆議院では押川や大竹貫一が皇太子洋行問題に関する秘密会を開催するよう各派と交渉を行ったが、各党各会派ともこの要求を拒否した。2月27日には西園寺公望元老の嗣子で、随員の一人と発表されていた西園寺八郎邸が洋行延期を唱える「抹殺社」を名乗る6人に襲撃され、八郎は軽傷を負った。この日には東京大神宮で民労会による「東宮殿下御渡欧平安祈願式」、続いて黒竜会ら三千人による「聖上御平癒・東宮殿下御外遊延期祈願式」が開催された。内田はこれが最後の祈願式であると述べ、事実上延期運動を断念したものと受け止められたが、個人レベルでの洋行反対の動きは継続され、警視庁は各方面の警戒を行っていた。3月1日には浪人会が「御治定動かし難し」と決議し、延期運動から外遊時の平安を祈る動きに切り替えた。 ===旅程等=== ====随員==== 大正10年2月22日の外務大臣から駐英大使への通達による 閑院宮載仁親王(元帥陸軍大将)供奉長 ‐ 珍田捨巳(伯爵、東宮御用掛、元パリ講和会議全権)奈良武次(東宮武官長)三浦謹之助(東宮御用掛、侍医)竹下勇(海軍中将)入江為守(東宮侍従長、子爵)土屋正直(東宮侍従、子爵)西園寺八郎(式部官)山本信次郎(東宮職御用掛)戸田氏秀(東宮主事)亀井茲常(東宮侍従、伯爵)高田寿(侍医)澤田節蔵(外務書記官)及川古志郎(東宮武官)濱田豊城(東宮武官)二荒芳徳(宮内書記官、伯爵)松井修徳(宮内事務官)福田義彌(皇族付武官)※他に随行将兵の慰問係として講談師松平学円や、十数名の随伴員、閑院宮、珍田付きの従者も随行した。 ===艦隊乗員=== 指揮官‐ 小栗孝三郎第三艦隊司令長官香取艦長 ‐ 漢那憲和鹿島艦長 ‐ 小山武第三艦隊司令部付 ‐ 小松輝久大尉(侯爵、香港では上陸にあたって裕仁親王の身代わりを務めた) ===旅費=== 外遊費用の総額は公表されなかったが、香取と鹿島の派遣費用として442万3000円が議会の可決の元支出された。旅費については東京朝日新聞が寄付金やレセプション代込みで総計1000万円以上になるなどと独自の推計を発表しているが、宮内省は「総体にて100万円」を出ないとこれを否定した。しかし東京朝日新聞はかえって「五大国の一たる日本帝国皇太子殿下の破天荒の御外遊」には1000万円の費用は当然だとかえって宮内省を激励する報道を行った。さらに旅行先で叙勲するための勲章500個、贈答用の美術品300点も携行していた。 ===日程に関する協議=== 予定では、警備や国際上の均衡などの配慮から、裕仁親王の公式訪問先はイギリスとフランスの二カ国のみとする予定であった。しかし在外公館や各国王室から訪問の要請が相次ぎ、出発後にも協議が行われていた。4月28日、宮内大臣牧野伸顕は内田外相に予定変更が困難であると回答し、訪問を要請していたベルギーへの通達を行ったが、ベルギー側はなおも訪問の要請を行った。5月9日には供奉長の珍田捨巳伯爵からもベルギー、オランダ、イタリアへの訪問を許可するよう要請があり、バッキンガム宮殿の歓迎会では駐英ベルギー大使が裕仁親王にベルギー訪問を直接要請することもあった。これを受けて宮内省も予定変更に動き、5月17日には珍田伯爵がベルギー訪問決定を大使に伝えている。その後オランダ、イタリアへの訪問の予定が調整された。 ==行程== ===出発=== 2月18日、東宮御学問所は日程を繰り上げて終業式を挙行、この日をもって閉鎖される。22日より25日にかけて、巡遊奉告のため行啓し、伊勢神宮、神武天皇陵、橿原神宮、明治天皇陵、昭憲皇太后陵を参拝。3月1日には、宮中三殿参拝と、葉山御用邸滞在中の天皇・皇后への挨拶を済ませる。 3月3日、横浜港において原首相、閣僚ら参列のもと出発式が行われ、午前11時30分に裕仁親王御召艦香取と供奉艦で旗艦鹿島による遣欧艦隊が出港した。天皇と皇后は小磯浜に出御し、出港を見送った。福井静夫は、この時国産戦艦を使用せずわざわざイギリスで建造した2戦艦によったのは日英同盟とイギリス王室、イギリス海軍に対するこの上ない好誼の現れであった旨を指摘している。浪人会は赤坂氷川神社で外遊平安祈願式を行い、代表が各神社に参拝して平安を祈願した。 ===往路=== 一行の艦隊は6日午前9時15分には最初の寄港地である沖縄県の中城湾に到着した。裕仁親王は与那原から那覇、首里を訪れ、さらに尚典侯爵邸で中学校生徒の唐手の演舞を見学した。ここで裕仁親王は沖縄県特産の「エラブウナギ(エラブウミヘビ)」に興味を示しており、同県出身の漢那憲和香取艦長に食べてみたいと話していた。漢那艦長は沖縄県知事川越壮介に連絡を取り、「エラブウナギ」を取り寄せて食卓に供した。裕仁親王は「たいへんおいしかった」と漢那艦長に告げている。午後6時には中城湾を出港した。沖縄での滞在時間はほんの半日足らずであったが、裕仁親王(昭和天皇)にとってこの時が最初で最後の沖縄訪問となった。 艦内で裕仁親王は規則正しい生活を送り、御用掛山本信次郎海軍大佐にフランス語の教授を受け、空いた時間には甲板でゴルフや相撲に興じた。一方で山本大佐は、裕仁親王が西洋式のテーブルマナーを身につけておらず、音を立ててスープをすすったりナイフやフォークもうまく使えていないことに気がついた。山本大佐はフランス語授業の時間を利用して裕仁親王にテーブルマナーを教授し、裕仁親王もそれに素直に従った。 10日午前8時、裕仁親王の一行はイギリス領の香港に到着した。裕仁親王はレジナルド・スタッブス(英語版)香港総督と香取艦上で会見し、その後イギリスの巡洋艦におもむき答礼を行った。この香港が裕仁親王にとって最初の外国訪問となった。11日には閑院宮、総督とともに平服で香港島を巡遊し、午後には鹿島艦上に在留邦人を招いて余興が行われた。翌12日には青洲(英語版)(英語名グリーン島)を自動車で巡遊した。13日に香取は香港を出発した。 18日午前8時、一行はシンガポールに到着し、ローレンス・ギルマード(英語版)シンガポール総督の歓迎を受けた。19日には市内を見学し、20日にはラッフルズ博物館(現在のシンガポール国立博物館)を訪れた。21日にはヨットでシンガポール島を一周している。22日午前9時にシンガポールを出港した。 28日、一行はセイロン島のコロンボに到着、初めて公式に上陸した。29日には特別列車で旧都キャンディを訪問し、寺院跡や博物館を訪れている。31日には海岸までのドライブやゴルフを楽しんでいる。4月1日午前9時、コロンボを出港した。 3日には鹿島の機関室で汽罐が破裂する事故が発生し、機関兵3名が死亡した。殉難者1人あたり500円を遺族に送ることなり、4日午前9時、裕仁親王は水葬礼を起立して見送った。7日には香取でも汽罐破裂事故が発生し、機関兵2人が死亡し、2人が重傷を負った。8日午後2時半、水葬で送られる。裕仁親王は現場に行くと主張し、漢那艦長や鈴木美三機関長をあわてさせた。12日午前、兵員用の作業服で香取の事故現場を視察する。赤道付近の航海は両艦の配管に負担をかけ、さらに熱による火薬暴発の危険もあったため、漢那艦長は爆薬や砲弾の炸薬を海中投棄させた。また侍医の高田寿は暑熱で体調を崩し、ポートサイド入港とともに船を降り、帰国途中のインド洋上で死亡した。しかし裕仁親王自身は扇風機や氷も使わず至って壮健であった。山本大佐や西園寺八郎は親王と相撲を取って幾度も親王を投げ飛ばしたものの、何度も立ち上がる親王にスタミナ負けするほどであった。 15日、一行はイギリス領エジプトのポートサイドに到着した。16日、スエズ運河航行中に先行の鹿島が座礁し、離脱するまで5時間待機する。18日にはカイロに到着し、イギリスの特別高等弁務官エドモンド・アレンビー(英語版)元帥の歓迎を受けた。裕仁親王はアレンビー元帥の案内により、ピラミッドの見物やムハンマド・アリー朝のスルタン・フアード1世との非公式会談を行っている。21日、カイロを発つ。 24日、一行はマルタ島に到着した。マルタ島では当時海軍士官として勤務していたケント公ジョージとも面会し、夜には総督ハーバート・プルーマー(英語版)の案内でオペラ「オテロ」を観劇している。25日、かつて地中海の闘いで戦没した第二特務艦隊隊員の墓を拝礼する。26日正午、マルタ発。 30日、一行はジブラルタルに到着した。同地では寄港していたアメリカ海軍の司令官アルバート・パーカー・ニブラック(英語版)中将の訪問を受け、海軍工廠の見学を行った。またジブラルタル総督ホレイショ・スミス=ドリエン(英語版)、ニブラック中将とともにノース・フロントの競馬場を訪れた。ニブラック中将は親王らに馬の番号を書いた手製の馬券を渡し、裕仁親王に渡した番号の馬が一着になると、「正式ではないがとにかく賞金」として数枚のペニー銅貨を手渡した。裕仁親王が金銭を手にしたのはこのときが初めてであり、対処に困った親王は第三艦隊司令小栗孝三郎中将に銅貨を渡し、「こまったよ…あとでニブラック中将に返すように」と告げた。5月3日午前10時、ジブラルタル発。 ジブラルタル出航後は正式行事に出席することも増加するため、山本大佐と西園寺のマナー教授はいわば「特訓」ともいえるほどのものとなった。そのかいもあって裕仁親王は両名が安心するほどのマナーを身につけた。 ===イギリス=== 5月7日午前11時10分、一行はイギリス本国のポーツマス近くのワイト島に到着し、駐英大使林権助や大西洋艦隊司令長官チャールズ・マッデン(英語版)大将らの出迎えを受けた。一行はここで正式な上陸式典の行われる5月9日まで待つこととなった。翌5月8日、裕仁親王はマッデン大将の旗艦クイーン・エリザベスでの昼食会に招かれ、第一次世界大戦でドイツ海軍が降伏文書に調印した部屋などを案内された。 9日午前8時50分、香取と鹿島はポーツマス軍港に到着し、午前10時10分にプリンス・オブ・ウェールズエドワード(後のエドワード8世)が香取に乗船した。午前10時27分、裕仁親王とエドワード王子らは連れだって埠頭に上陸し、ロンドンに向かう宮廷列車に乗り込んだ。午後12時40分にロンドンのヴィクトリア駅に降り立った。駅ではヨーク公ジョージ(後のジョージ6世)やコノート公アーサー、首相代理などの政軍高官が出迎えた。儀仗兵閲兵の後、裕仁親王、閑院宮、珍田はヨーク公とともにバッキンガム宮殿に向かった。皇后メアリーとの面会の後、ジョージ5世との昼食会に出席した。歓迎行事は午後11時30分まで続いた。裕仁親王はこの際に国王に対する答辞を日本語で行ったが、「東京朝日新聞」が「殿下には最も大胆なる大声をもって」と評するほど大きな声であったという。 10日にはウィンザー城で歓迎行事が行われ、裕仁親王がヴィクトリア女王やエドワード7世の墓に献花を行った。その後裕仁親王はバッキンガム宮殿に戻ったが、部屋で休息していると突然国王夫妻が訪れ、一時間打ち解けて歓談するという一幕もあった。11日、ロンドン市による歓迎行事に出席する。 裕仁親王はイギリス滞在中、最初の3日間はイギリス王室の賓客、続く5日間はイギリス政府の賓客、その後は非公式滞在という扱いであった。12日、裕仁親王はバッキンガム宮殿からウェストミンスターのチェスターフィールドハウス(英語版)に移り、午後2時半にはナショナル・ギャラリーを観覧し、その後国会を訪れて、下院の議事と上院の儀礼を見学した。5月13日には在英邦人代表と面会し、その後大英博物館やイングランド銀行、ロンドン塔等を訪れた。裕仁親王はロンドン塔では武器類に興味を示したという。その後テムズ川を船でさかのぼってウェストミンスターに戻り、午後8時半からは日本大使館で裕仁親王主催、プリンス・オブ・ウェールズを主賓とする晩餐会が開かれ、500名の貴賓が参列した。 14日、裕仁親王ら一行は特別列車でオックスフォード大学に向かった。オックスフォードでは学内の見学を行った後、留学生から本の献上を受け、ボート競争を見学した後ロンドンに戻った。6時20分からはデイリーズシアター(英語版)で『シビル(英語版)』を観劇した。この予定が告知されていたこともあり、観衆の三分の一が日本人であった。5月15日午前にはクランフォード(英語版)でボーイスカウトの歓迎を受けた。午後にはデビッド・ロイド・ジョージ首相と官用別荘で昼食会を行い、午後のお茶の時間まで歓談を行った。 16日には王立ケンリー基地(英語版)を訪れ、ヨーク公とともに飛行ショーを観覧した。午後にはグリニッジ天文台や王立医学校(英語版)の訪問を行った。17日にはオールダーショットの陸軍基地を訪問し、午後はサンドハースト王立陸軍士官学校や参謀大学(英語版)を訪問し、陸軍参謀総長ヘンリー・ウィルソン元帥の歓待を受けた。裕仁親王は士官学校での中隊対抗試合のために優勝カップを贈呈し、裕仁親王の即位後には「日本天皇杯」と呼ばれた。 ===スコットランド=== 17日で公式日程は終了し、18日、裕仁親王の一行は特別列車でキングストン駅(英語版)からスコットランドに向かった。イギリス政府はスコットランドの風物が裕仁親王にとって安らぎになると考え、またスコットランドの大貴族アソール公爵ジョン・スチュアート=マレーに裕仁親王の接遇を依頼することで、親王にイギリス貴族を知ってもらう機会になると考えていた。当初アソール公爵は日本人をよく知らないとして裕仁親王の接遇に難色を示していたが、ロイド・ジョージ首相の再三の説得もあり、この役目を引き受けた。なお、一部の供奉員は宿泊所の都合上同行せず、ロンドンに待機する。18日、ケンブリッジ大学に立ち寄る(政府国賓としての最後の行事)。ジョセフ・タナー教授の「国王と臣民との関係」という講義を受け、名誉法学博士の学位を贈られる。トリニティ・カレッジで晩餐会の後、午後11時にケンブリッジを出発した。 19日午前9時28分、エディンバラ着。公立慈善病院や王立高等学校(英語版)を訪れた。王立高等学校でも名誉法学博士の称号を受けるなど歓迎された(20日)。裕仁親王は挨拶の最後に「もし校則が許すなら、今日の記念として次の月曜日(23日)を休校にして生徒達を喜ばせてほしい」と付け加え、校長が承諾すると、生徒達は帽子をとばすなどして歓呼の声を上げた。その後、エディンバラ大学においても名誉法学博士号が贈られる。 5月21日、エディンバラ市でボーイスカウトの集会に参加した後、裕仁親王らはパース駅に向かった。パース駅ではアソール公爵が私兵や市民を動員して歓迎式典を行った。裕仁親王はパース駅からアソール公が保有するブレア城(英語版)まで自動車で向かったが、村人の相次ぐ歓迎によって30マイル進むのに3時間もかかった。裕仁親王の寝室にブレア城の「赤の間」が用意され、アソール公爵家の領地でとれた産品が振る舞われた。5月23日に行われた別離の舞踏会は領内の村人達が普段着姿で参加し、公爵夫妻とステップを踏むという牧歌的なものであった。宴の最後には一同でスコットランド民謡「オールド・ラング・サイン」(蛍の光)が歌われた。 裕仁親王はアソール公爵家と領民の関係に強い印象を受け、二荒芳徳伯爵を通じて「時事新報」の後藤武男記者に次のような談話を伝えた。「私は今度の旅で、非常に感銘をうけたものが多かった。アソール公爵夫妻は実に立派な方々で…(中略)私は日本の華族や富豪たちが、アソール公爵のやり方をまねたならば、日本には過激思想などおこらないと思う。私のこの感想は、新聞電報でうってもかまいません。」。 帰途、裕仁親王の一行はマンチェスターで市長主催昼食会に招かれた(25日)。この席で裕仁親王は炭坑ストライキに同情をこめたスピーチをアドリブで行い、周囲を驚かせた。26日午後7時10分、裕仁親王の一行はロンドンに帰着した。そのままホテル・セシル(英語版)で開催されたロンドン日本協会(ジャパン・ソサエティ)の奉祝会に参加した。この会にはプリンス・オブ・ウェールズやヨーク公、閣僚や各国大使も参列した大規模なものだった。27日にはイートンを遊覧した後、バッキンガム宮殿で国王夫妻との別れの午餐会に出席した。その後海軍記念日の行事やリージェンツ・パークでの在留邦人の祝賀会に参加した後、日本大使館で裕仁親王主催で晩餐会を開いた。28日、裕仁親王らは軍事参議院代表の祝辞を受けた後、日本人の祝賀会に出席し、翌日未明まで歓談に及ぶ。29日、オーガスタス・ジョン(王立肖像画家協会(英語版)会頭)のアトリエにて肖像画を作成。サリーでゴルフプレイを観戦する。午後2時半には国王夫妻らに見送られ、ヴィクトリア駅からロンドンを発って再びポーツマスに向かった。30日、香取と鹿島はポーツマスを出港し、フランスに向かった。 ===フランス=== 30日午後3時半、一行はル・アーヴル港に入港した。31日午前10時41分にル・アーヴルに上陸し、儀仗兵の歓迎を受けた。同日夜、裕仁親王ら一行はパリの日本大使館での非公式宴会に参加した。 6月1日午後0時40分、一行はエリゼ宮殿に赴き、アレクサンドル・ミルラン大統領を表敬訪問した。裕仁親王はミルラン大統領に大勲位菊花章頸飾を奉呈した後、大統領夫人主催の午餐会に参加した。午餐会には両院議長や政府閣僚、第一次世界大戦の英雄であるジョゼフ・ジョフル元帥、フェルディナン・フォッシュ元帥、フィリップ・ペタン元帥、エミール・ファイヨル(英語版)元帥が参加している。ミルラン大統領はこの席で、ジョフル元帥を団長とする軍事使節を日本に送ることを発表し、裕仁親王は「名将を頭とする仏国使節をば、日本の朝野は満足をもって歓迎する」と答えた。公式訪問は午後5時30分に終了した。 6月2日午前11時、裕仁親王は無名戦士の墓 (フランス)(フランス語版)に献花し、祭文を朗読した。在仏邦人との面会の後、午後3時には設計者ギュスターヴ・エッフェルの案内でエッフェル塔にのぼった。展望台で裕仁親王は土産物の写真や絵はがきに興味を持ったが、親王はもちろん、随員は誰も余分の金銭を持ち合わせていなかった。そこで西園寺八郎が「時事新報」の後藤記者から2750フランを借りうけ、土産物を買うことができた。この金は裕仁親王の帰国前に返済されたが、西園寺は後藤が「天皇に金を貸している唯一の男」になれる機会を失ったとからかったという。 この日の昼食は大使館でとることになっていたが、裕仁親王はかねてから「エスカルゴ」に興味を示していた。有名料理店から特別に取り寄せたエスカルゴを裕仁親王は立て続けに五、六個食べたが、侍医の三浦謹之助に制止されたためそれ以上は食べなかった。午後8時には石井菊次郎駐仏大使の主催で、各国大公使が参加した晩餐会に参加、その後はフォッシュ元帥主催のチャリティーコンサートを鑑賞した。 6月3日にはパリ市主催の歓迎会が開かれた。6月4日にはフランス側の推薦により、ペタン元帥とともにフォンテーヌブローに向かった。砲兵学校生徒の馬術や体操を見学した後、ペタン元帥、砲兵学校長とともにサヴォア・ホテルで昼食会を行った。午後3時からはナポレオン・ボナパルトの没後百年祭に参加し、午後7時にパリへ帰還した。 6月6日夜には海軍大臣邸で公式晩餐会が開かれた。晩餐会は早めに終了し、一行とミルラン大統領らはオペラ「マクベス」が公演されているオデオン座に向かった。この公演はフランス政府から招待されたジェームズ・ケテルタス・ハケット(英語版)が主宰するものであったが、ミルラン大統領の予定がつかず、大統領の前で上演したいと思っていたハケットは失望していた。この事情を知った裕仁親王が日本大使館を通じ、晩餐会を早めに切り上げて大統領とともに観劇できないかと問い合わせた。大統領とハケット側も了承し、大統領と裕仁親王らによる観劇が実現した。一行は連れだって劇場に到着すると楽団が「君が代」を演奏し、曲が終了すると歓呼と拍手が巻き起こった。 6月8日はヴェルサイユ宮殿の見学を行った。宮殿側は設置した噴水を一斉に放水して歓迎した。大トリアノン宮殿を見学した後、フランス革命時に球戯場の誓いが行われた建物に立ち寄った。裕仁親王は飾られていた胸像を指さし、国民議会議長のジャン=シルヴァン・バイイであると随行者に説明した。また、多数の胸像のうち、オノーレ・ミラボーとマクシミリアン・ロベスピエールの胸像に特に興味を示した。午後3時半にはパリに帰還し、オペラを観劇した。 6月9日は大使館員との午餐会の他は用事もなく、午前中はパリ市内で買い物などを楽しんだ。6月10日、裕仁親王らはパリを離れ、ベルギーに向かった。 ===ベルギー=== 6月10日午後5時、特別列車はブリュッセルに到着した。駅では国王アルベール1世とブラバント公レオポルド(後のレオポルド3世)、宮内大臣らが待っており、裕仁親王らを歓迎した。国王と裕仁親王らはそのまま連れ立って王宮に向かい、歓迎の晩餐会が開かれた。日本とベルギーは公使館を大使館に格上げする合意を行っていたが、裕仁親王の訪問という機会に、在ベルギー日本公使館は大使館へと格上げされた。 6月11日、裕仁親王はレオポルド2世の墓に参拝した。午後には国王夫妻との午餐会があり、その後サンカントネール公園(フランス語版)で第一次世界大戦のイーゼル付近での戦闘を再現したパノラマを見物した。博物館でコンゴの産品を見学した後、午後7時40分からは首相公邸における晩餐会にブラバント公とともに参加した。午後10時から市長主催のレセプションが行われた。6月12日には裁判所を訪問した後、ワーテルローの戦いの古戦場を訪れ、一時間にわたって説明を受けた。夜には大使館で主催の晩餐会を開き、ブラバント公他多数の貴顕が参列した。同日には王宮からホテル・アストリアにうつった。 6月13日には第一次世界大戦の戦跡を訪れた。ベルギー戦死者の墓に献花を行った後、イーペルの戦い(第一次イーペル会戦(英語版)、第二次イーペル会戦(英語版))で有名なイーペルを訪れた。イーペルはかつてイギリス軍が四年にわたって闘った場所でもあり、裕仁親王は同地からイギリス国王への電報を送った。 6月14日にはアントウェルペンを訪れ、貴顕との昼食会やノートルダム大聖堂などの市内の観光を行った。同日中にはブリュッセルに戻り、国王との別れの挨拶を行った。午後8時にはアストリアホテルで日本大使主催の晩餐会が開かれた。6月15日の午後12時20分、ブラバント公他の見送りを受け、裕仁親王の一行はアムステルダムに向かった。 ===オランダ=== 6月15日午後5時15分に裕仁親王の一行は王配ヘンドリックが出迎えるアムステルダム駅に到着した。裕仁親王は王配とともに王宮に向かい、ウィルヘルミナ女王と面会した。その後アムステルダムの街をパレードし、市民の歓声を受けた。同日夜の晩餐会では裕仁親王がオランダ語で挨拶を行った。6月16日には王配の案内でダイヤモンド工房の見学を行い、宮中では王族のみの小規模な昼食会に出席した。午後6時にはデン・ハーグの宮殿に移り、夜にはエンマ王太后の宮殿における晩餐会に出席した。 6月17日には王配の案内でハウステンボス宮殿や平和宮を訪れた。その後ロッテルダムを訪れ、市の歓迎会に出席した後、夕刻にはデン・ハーグに戻り、女王、王配、王太后とともに晩餐会に出席した。18日には女王に別れを告げ、午後にはアムステルダムのアルティス動物園を訪れた。夜には日本大使主催の晩餐会が開かれた。19日には裕仁親王が閑院宮の宿所を訪れ、二人で食事を行っている。夕刻からは首相らが参席した晩餐会が開かれた。 ===ベルギー、フランス再訪=== 6月20日、裕仁親王らを乗せたオランダ王室の特別列車は、オランダ・ベルギー国境のエスケム駅に到着した。その後鉄道でルーヴェンに向かい、大司教他の歓迎を受けた。その後リエージュを訪れ、リエージュの戦いの戦跡を訪れた。午後5時半にはフランス国境に到着した。 6月21日にはパリの地下鉄に乗車し、パレ・ロワイヤル駅(現在のパレ・ロワイヤル=ミュゼ・デュ・ルーヴル駅)からジョルジュ・サンク駅の四区間を地下鉄で移動した。 6月22日午前、裕仁親王らはセーヴル焼の工房を訪れた。夜からはペタン元帥の案内により、ストラスブール、メス、ヴェルダンの戦跡を訪れるためアルザス=ロレーヌへ向かった。6月23日午前にストラスブールに到着し、ペタン元帥とともに同地駐屯兵の閲兵を行った。ストラスブール大学見学や小舟でライン川下りの後、夕刻にストラスブールを出発し、夜9時半にメスに到着した。 6月25日早朝にはメスを出発し、ヴェルダンの戦いの戦跡を訪れた。かつてこの地で戦ったペタン元帥の説明は、極めて詳細にわたるものであった。裕仁親王は銃撃された鉄カブトをながめ「戦争というものは、じつにひどいものだ。可哀想だね」と涙ぐんでつぶやいたという。同日夜にはパリに戻り、大使館で誕生日を迎えた母皇后と弟淳宮(秩父宮)雍仁親王の健康を祈る小宴を開いた。 6月28日午前には国際度量衡局、午後3時からはソルボンヌ大学を訪れた。学内を見学した後、礼拝堂にある学生戦死者の墓に献花し、午後4時には帰還した。また同日には、スペイン国王アルフォンソ13世と面会している。 6月29日にはソンムを訪れ、ソンムの戦いの戦跡と、戦禍にあった市民の姿を目の当たりにした。裕仁親王は案内役のルイ・フランシェ・デスペレー(英語版)大将に「この光景は、いまなお戦争を賛美するものがかならず訪れるべきものである」と告げた。裕仁親王は二荒伯爵に対して、ソンムの戦災住民のために1万フランを下賜するよう命じた。 その後パリでは下水道、サン・シール陸軍士官学校、ソミュール騎兵学校(フランス語版)、シャンパン工場などを訪れた。 7月6日、裕仁親王はエリゼ宮において大統領に別れの挨拶を行った。7月7日午前8時50分、裕仁親王一行を乗せた特別列車は大統領や首相の代行、閣僚、各国大使、ペタン元帥らに見送られ、パリを出発した。 ===イタリア=== 特別列車は7月11日午前8時30分にはナポリに到着した。同日ナポリ港(英語版)にはフランス上陸以来離れていた香取・鹿島の両艦がイタリア艦隊の歓迎を受け入港した。同地には王族スポレート公アイモーネ(後のクロアチア国王トミスラヴ2世)が訪れ、母であるアオスタ公妃エレナの挨拶を伝えた。午後2時半にはイタリア駆逐艦に乗ってカプリ島に渡り、青の洞窟を見学した。夕刻にはアオスタ公妃が訪れ、日本大使などとともに会食した。その後一行は香取に宿泊した。 翌7月12日午前6時に特別列車はナポリを出発した。11時にはローマに到着し、国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世、ピエモンテ公ウンベルト (後のウンベルト2世)、アオスタ公エマヌエーレや閣僚らが出迎えた。裕仁親王は国王とともに王宮クイリナーレ宮殿に向かい、宮殿のバルコニーでローマ市民の歓呼を受け、公式晩餐会に出席した。 7月13日にはボルゲーゼ公園で陸軍兵士の競技会を観覧した。午後8時からは裕仁親王主催で国王を主賓とした晩餐会が開かれた。7月14日にはイタリア側の手配により、ローマ市内の観光を行った。コロッセオ、フォロ・ロマーノ、カラカラ浴場等を巡った後、午前11時に帰還した。正午には国王との午餐会に出席し、午後5時からはローマ市長主催の歓迎レセプションが開かれた。午後8時には王宮で国王、アオスタ公とともに晩餐会に出席した。 7月15日、裕仁親王一行はサン・ピエトロ大聖堂、サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂を拝観した後、午後4時半に教皇ベネディクトゥス15世と面会した。午後6時半には大使館に戻り、教皇からの答礼使を受けた。これ以降は公式の日程にならなかったが、王宮での晩餐会には国王が必ず出席していた。 7月16日、裕仁親王はバチカン美術館を訪れた後、午後3時には日本大使館でチェコスロバキア大統領トマーシュ・マサリクと面会している。3時45分には再びバチカン美術館を訪ね、午後6時まで観覧した。午後8時には王宮での私的な晩餐会に出席し、その後映画を鑑賞した。 7月17日午前に裕仁親王らは王宮を出発し、国王やアオスタ公の見守る中、特別列車に乗って再びナポリに向かった。ナポリではアオスタ公妃やスポレート公との午餐会に出席した後、水族館を観覧した。水棲生物に興味を持つ裕仁親王は、館員の詳細な説明を受けて大きく満足した。その後ポジリポ(英語版)岬まで自動車でドライブし、夜には香取艦上でアオスタ公妃やスポレート公を招いた告別の晩餐会を開いた。 7月18日にはイタリアの駆逐艦に乗船し、ポンペイの遺跡に向かった。ポンペイでは詳細な説明を受け、その場で発掘した遺物が裕仁親王と閑院宮に献上された。午後2時30分、香取と鹿島はイタリア艦隊の礼砲を受けながら出港し、帰国の途に就いた。 ===復路=== 7月22日に香取・鹿島はポートサイドに到着、7月23日にはイスマイリア、7月24日にはスエズに到着した。7月26日にはアデンに向け出港、8月1日午前6時にはアデンから出港した。この日鹿島はグアルダフィに漂着した貨物船「暹羅丸」の乗組員59名の救助作業を行い、彼らを収容した後に香取と合流している。8月3日には鹿島の乗組員1名が高波にあって海中に転落し、行方不明となった。両艦は日没まで近辺で捜索を行ったが、結局見つからなかった。 8月9日に一行はコロンボに到着したが、本国が「皇太子殿下の身辺に身辺危険の報」があると伝えてきたため、上陸は行われなかった。8月19日にはシンガポールには到着、8月21日にはカムラン湾に到着した。鹿島・香取はここでペンキを塗り直すため8月24日まで停泊することになっていた。同地には侍従甘露寺受長が出迎えのために派遣されており、天皇・皇后からの言葉を伝えた。8月25日に一行はカムラン湾を出発し、一路日本を目指した。 ===帰国=== 当初帰国予定は9月2日の夜、千葉県館山湾に到着し、横浜港には9月3日に到着する予定であったが、軍艦は帰港の際に速度が高まることもあり(ホーム・スピード)、館山湾到着予定は9月2日の午前8時と、このまま行けば半日早まることとなった。しかし東京や横浜での帰国祝賀会は9月3日に予定されており、その日程にあわせるため、香取・鹿島は館山湾で一昼夜停泊することになった。9月2日午前8時、警衛艦山城と駆逐艦2隻が迎える中、香取と鹿島は館山港に入港した。浜辺では人々が万歳を叫び、花火が打ち上げられるなど歓迎の動きは夜半まで続いた。 9月3日午前6時に香取・鹿島は出港し、横浜港に向かった。午前9時15分、香取は横浜港に入港し、碇を降ろした。埠頭から淳宮雍仁親王、光宮宣仁親王(高松宮)、閣僚、報道陣が乗る4隻のランチが香取に向かい、裕仁親王を出迎えた。甲板で帰朝の祝賀が行われた後、裕仁親王は内火艇に乗って港に上陸した。午前10時20分に横浜駅に到着し、東京へ向かったが、その経路に奉祝の市民が絶えることはなかった。随行した原首相は「殆ど人なき所なしとも云ふべき盛況にて、至処万歳の声を絶たず、如何にも国民歓喜の色を現わせり」と日記に記している。 午前11時15分、特別列車は東京駅に到着し、伏見宮や各国大使、華族・要人らが出迎えた。午後0時30分からは高輪の東宮御所で祝賀昼食会が行われた。午後2時30分、裕仁親王は外遊感想の令詞を原首相に下賜した。これは事前に作成されていたもので、宮内次官関屋貞三郎が原首相に内示したものだった。内容は外遊に関する朝野の一喜一憂を忘れないとすることや、世界平和の必要、連合国国民の「犠牲の精神」の偉大さと戦後の文明興隆に努力への感銘が強調されていた。また「彼の長を取りて我の短を補い」国運の隆昌を帰するとされている。原首相は若干修正を希望したが、結局は内示された文面のままとなった。 夜になっても東京では奉祝の動きが続き、品川海岸では131発の花火が打ち上げられ、提灯行列や花電車が市内を駆けた。 裕仁親王は外遊前は坊主頭であったが、洋行中に髪を伸ばしており、「長髪」姿となっていた。当時の日本人としては珍しく、報道陣や原首相もこのことに触れている。裕仁親王は天皇・皇后と弟達への土産物は自ら選び、天皇にはステッキ、皇后にはネックレス、淳宮には猟銃を贈った。裕仁親王はフランス滞在時に手に入れたナポレオン像、地下鉄の切符を大切に保管し、現在でも宮内庁の所蔵品となっている。 ==洋行中の国内問題== 6月頃、原首相が総裁である立憲政友会内では、内閣改造や内閣総辞職を求める動きが強まった。原は皇太子裕仁親王が洋行中に政変を起こせば、病中の大正天皇が内閣認証などの式典に臨むことになるが、それは病状から見て耐えられないとして、裕仁親王の帰国・摂政就任後に改造を行うとして運動の沈静化を図った。その後原は元老山縣らと摂政設置について協議を行っていた。 =平泉= 平泉(ひらいずみ)は、日本の東北地方、岩手県南西部(古代の陸奥国磐井郡)にある古くからの地名であり、現在の岩手県西磐井郡平泉町の中心部にあたる。 奥州の入り口は白河関(福島県。北緯37度)、北限は津軽半島の外ヶ浜(青森県。北緯41度)であるが、この2地点のちょうど中間に位置するのが平泉(北緯39度)で、測ったように等距離にある。旅人の経験則で距離感は掴めていたのであろう、北から旅しても南から旅しても平泉あたりで行程上の中日が来る。奥州全体に仏国土の加護を行き渡らせるに相応しい立地でもあった。 この地域一帯には、平安時代末期、奥州藤原氏が栄えた時代の寺院や遺跡群が多く残り、そのうち5件が「平泉―仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群―」の名で、2011年(平成23年)6月26日(現地時間:6月25日)にユネスコの世界遺産リストに登録された。日本の世界遺産の中では12番目に登録された文化遺産であり、東北地方では初の世界文化遺産となった。 ==歴史的背景== 世界遺産と関わりのある範囲で歴史的背景を概説する。 平泉は北を衣川、東を北上川、南を磐井川に囲まれた地域である。この地を11世紀末から12世紀にかけて約90年間拠点としたのが、藤原清衡に始まる奥州藤原氏である。「平泉」という地名を史料的に確認できる最古の例は『吾妻鏡』の文治5年(1189年)の項目で、時期的に重なっている。その語源は、泉が豊富だったという地形的要因に基づく説がある一方で、仏教的な平和希求の理念に基づくという説もある。 清衡は康和年間に平泉に本拠地を移し、政庁となる「平泉館」(ひらいずみのたち、現 柳之御所遺跡)を建造した。さらに中尊寺を構成する大伽藍群を建立していったが、この時点の平泉にはその2つの建造物群しかなく、都市機能は衣川を挟んだ対岸の地区にあった。 中尊寺金色堂建立の頃を境に建造物は南へと伸長していくようになり、2代基衡の時代には、平泉館での新しい中心地となる大型建物の新築、毛越寺の建立やそれに合わせた東西大路の整備などが行われ、都市機能が着実に整備されていった。3代秀衡の時代には、平泉館の大改築、無量光院の建立やそれにともなう周囲での新市街の形成など、平泉全体の都市景観が大きく様変わりした。初代から3代のそうした変化を、順に「山平泉」「里平泉」「都市平泉」と位置付ける者もいる。 奥州藤原氏は4代泰衡の時に源頼朝によって滅ぼされ、平泉に込められた独自の仏教理念が引き継がれることはなかったが、平泉の建造物群については保護された。それに関連し、頼朝は平泉陥落直後(1189年)に中尊寺や毛越寺の僧侶に対し、報告書の作成と提出を命じた。それが『吾妻鏡』文治5年9月17日条に収録された「寺塔已下注文」(じとういかちゅうもん)で、当時の平泉を窺い知る上での一級史料と評価されている。 後の時代の火災などによって失われた建造物群も少なくないが、昭和から平成にかけての発掘調査などによって、寺院跡などが発見・復元されるようになっている。 ===浄土思想=== 浄土思想は、阿弥陀如来を信仰し、西方極楽浄土に往生することを目指す思想である。日本では特に平安末期の末法思想の流行や、それを裏付けるかのように相次いだ戦乱と相俟って、人々の間に浸透していった。ことに平安末期の有力者たちへの浸透は、多数の来迎図の作成や阿弥陀堂の建立、浄土式庭園の作庭などに結びついた。浄土式庭園は、建造物群、池、橋などが織りなす景観を浄土と関連付け、その存在を視覚的・体感的に認識させようとする営為である。 奥州藤原氏の初代清衡も仏教に深く傾倒し、相次ぐ戦乱の犠牲者たちが敵味方の区分なく浄土に往生できるように、中尊寺を建立した。その中で彼が最初に建立したのは多宝堂(最初院)だが、そこで採用した様式は、京都などで一般的だった大日如来に見立てる密教系の様式ではなく、東アジアで主流となっていた様式、すなわち法華経に題材を採った「釈迦多宝二仏並座」の様式であった。この点は平泉の仏教が備えていた自立性と国際性を示すものとされる。また、「釈迦多宝二仏並座」の多宝堂は宇宙の中心を象徴するものであり、彼が幹線道路である「奥大道」沿いに笠卒塔婆や伽藍を整備しようとしたという伝承とともに、清衡が東北日本にある種の「仏教王国」を築こうとした意図の表れとも指摘されている。 この時点での浄土思想は、平泉における仏教思想の中枢を占めてはいなかったが、3代秀衡の無量光院建立に至って、浄土教が中心的地位を占めるようになった。その過程で浄土思想と深く結びつく建造物や庭園群が建立されるとともに、平泉は仏教色の強い大都市として整備されていった。世界遺産の主要部分はそれらの寺院(跡)の数々によって構成されており、かつて平泉に展開された仏教的な平等主義と平和主義の理想を今に伝えている。 ==世界遺産登録の経緯== ===平泉の文化遺産=== 平泉は「石見銀山遺跡とその文化的景観」や「紀伊山地の霊場と参詣道」とともに、2001年に世界遺産の暫定リストに掲載された。当初の登録名は「平泉の文化遺産」で、京都に影響されつつも、それと比肩しうる独自性を持つ優れた地方文化を発展させていったことや、かつての重要な政治拠点でありながら、奥州藤原氏の滅亡とともにその重要性を失い、開発にさらされることなく当時の姿を保存している点が評価された。 ===平泉 ‐ 浄土思想を基調とする文化的景観=== 2006年7月の文化審議会で世界遺産に推薦されることが決定し、登録名が「平泉 ‐ 浄土思想に関連する文化的景観」と変更された。この名称は同年9月の文化庁による再検討の結果、「平泉 ‐ 浄土思想を基調とする文化的景観」と微調整され、2006年12月26日に最初の推薦書がパリの世界遺産センターに提出された。このときの構成資産は中尊寺、毛越寺、無量光院跡、金鶏山、柳之御所遺跡、達谷窟(以上平泉町)、白鳥舘遺跡、長者ヶ原廃寺跡(以上奥州市)、骨寺村荘園遺跡と農村景観(一関市)の9件であり、登録名にもあるように、周辺の自然環境と寺院群によって浄土が再現された文化的景観としての申請であった。 日本政府は以下の世界遺産登録基準に基づいて推薦した。 (3) 現存するまたは消滅した文化的伝統または文明の、唯一のまたは少なくとも稀な証拠。(4) 人類の歴史上重要な時代を例証する建築様式、建築物群、技術の集積または景観の優れた例。(5) ある文化(または複数の文化)を代表する伝統的集落、あるいは陸上ないし海上利用の際立った例。もしくは特に不可逆的な変化の中で存続が危ぶまれている人と環境の関わりあいの際立った例。(6) 顕著で普遍的な意義を有する出来事、現存する伝統、思想、信仰または芸術的、文学的作品と直接にまたは明白に関連するもの(この基準は他の基準と組み合わせて用いるのが望ましいと世界遺産委員会は考えている)。具体的には、基準 (3) は浄土思想に基づく独自の文化的伝統の優れた例証である点に、基準 (4) は浄土思想を体現した仏教建造物群や庭園群に、基準 (5) は骨寺荘園遺跡周辺の農村景観が当時の絵図そのままに残されている稀有な例であることに、基準 (6) は平泉の文化遺産が当時の浄土思想を伝えるものである点に、それぞれ適用できるとしていた。 2007年8月27日から29日には、ICOMOS の専門家ジャガス・ウイーラシンハが現地を視察した。彼はスリランカ人の美術史家・考古学者である。ICOMOS はその視察結果も踏まえて2008年5月に「登録延期」を勧告した。その勧告においては、保全状況などに問題がないとされた一方で、日本側が主張した4つの基準の適用については、全て証明が不十分であるとされ、中国や韓国との比較研究も不十分とされた。同時に、むしろ寺院などの建築様式の独自性とその影響関係を強調し、構成資産を整理したうえで、基準 (2) を適用すべきではないかとの意見も付された。 2008年7月の第32回世界遺産委員会では、日本は前年に「登録延期」勧告を覆して「石見銀山遺跡とその文化的景観」の登録を果たした時と同じように、積極的な働きかけを行なった。そのときに示した補足説明では、平泉の豊かな黄金が「黄金の国ジパング」伝説のきっかけになったとされることや、戦没者の魂を敵味方で区別をせずに浄土に導こうとした中尊寺、およびその延長線上にある平泉の造営意図が、ユネスコ憲章の精神にも通じることなどを示し、逆転での登録を目指した。しかし、 ICOMOS の勧告を覆すには至らず、「登録延期」と決議された。 逆転を果たせなかった理由としては、すでに挙げた ICOMOS の勧告内容のほか、「シリアル・ノミネーション」(連続性のある資産)として9物件を申請したものの、それらが個別に点在し、統一性のある文化的景観として説得的に提示しきれなかったことや、巻き返しを狙った日本政府の強い働きかけが2年連続となって反発を招いた側面もあったことなど、いくつか挙げられている。 日本政府が推薦して登録が認められなかった物件は平泉が初めてであり、暫定リスト記載物件を抱える、あるいは暫定リスト入りを目指していた日本の他の自治体にも衝撃を与え、関係者からは「平泉ショック」などと呼ばれたりもした。2006年と2007年に文化庁が全国の自治体に呼びかけた世界遺産候補の公募を、2008年以降に打ち切ったことと、この「平泉ショック」を結びつける見解もある。 ===平泉―仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群―=== 登録延期が決まった直後、文化庁などの関係者は、2011年の再審議を目指し、他の文化遺産の推薦をそれに優先させることはないと発表した。 推薦資産を浄土思想の建造物群だけに限定することについて、専門家の中には平泉を過小評価するものという意見も見られたが、「登録延期」決議を踏まえて再検討をした結果、日本政府や岩手県は ICOMOS の勧告に従い、基準 (2) に基づく推薦に切り替えることを2009年に決めた。そのため、登録名を「平泉―仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群―」と変更し、ICOMOS から除外すべきと指摘されていた達谷窟、白鳥舘遺跡、長者ヶ原廃寺跡、骨寺村荘園遺跡の4件の除外を決め、残る6件の資産で再構成することになった。 除外された4件は、平泉が世界遺産リストに登録された後に拡大登録を目指すことになった。ただし、骨寺村荘園遺跡などは当初推薦要素に含まれていなかったにもかかわらず、文化的景観として推薦するうえで必要な資産として、国や県が地元に打診して追加したという経緯があるために、地元の受け止め方は複雑なものがあったとも指摘されている。 練り直された推薦書は2010年(平成22年)1月18日に世界遺産センターに提出された。同年9月8日から9日に ICOMOS の委員ワン・リジュン(中国)が現地を視察し、その結果を踏まえて2011年(平成23年)5月7日に ICOMOS による勧告が行われた。それは「登録」を勧告するものではあったが、浄土思想と日本固有の思想の融合を示す遺跡とは認められない柳之御所遺跡を除外し、登録名から「考古学的遺跡群」を外すべきだとの意見が付けられていた。また、日本が主張していた登録基準 (2), (4), (6) の適用に対し、基準 (4) は認められないとした。 日本政府は、浄土を地上で表現しようとした作庭自体が国際的にも稀有なことと主張し、この基準が適用できるとしていた。しかし、ICOMOS の勧告は、同時期の朝鮮半島の庭園を根拠に世界史的意義について否定するものであった。 平泉の文化遺産は2011年(平成23年)6月19日から29日に開催された第35回世界遺産委員会(パリ)で審議され、6月26日(現地時間:6月25日)に世界遺産リストへの登録が決議された。登録名の「考古学的遺跡群」(Archaeological Sites / sites arch*11136*ologiques) は審議の結果残されたものの、構成資産から柳之御所遺跡が除外されることは避けられなかった。 登録を受けて岩手県知事の達増拓也は、世界遺産委員会の場でスピーチを行った。その中では以下のように、2011年(平成23年)3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)から3ヶ月あまりという時期に登録されたことの意義と感謝が表明されている。 平泉は12世紀に、悲惨な戦争の惨禍から立ち上がり、永続的な平和を打ち立てるために建設されました。創設の父たちは、シルクロードを通って外国から導入された種々の思想を役立てました。したがって平泉の登録は、平泉の建設のもともとの理念に立ち返りながら、3月11日の惨禍からの復興という途方もない任務に現在直面している私たちに対し、大きな勇気を与えてくれるものです。 ― 達増拓也、 同年7月3日には中尊寺で「平泉世界文化遺産登録、東北復興祈願金色堂参拝」が行われ、そこで達増拓也により「東北復興平泉宣言」が発表された。これは世界遺産委員会でのスピーチと同じように、平泉創建の理念が東北復興の精神的支柱となることを、復興に向けた決意や支援への感謝とともに示したものである。 ===登録基準=== すでに述べたように、ICOMOS の勧告の時点で基準 (4) の適用は否定されており、世界遺産委員会でもそれが覆されることはなかったため、この世界遺産は世界遺産登録基準における以下の基準を満たしたと見なされ、登録がなされた(以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準からの翻訳、引用である)。 (2) ある期間を通じてまたはある文化圏において、建築、技術、記念碑的芸術、都市計画、景観デザインの発展に関し、人類の価値の重要な交流を示すもの。基準 (2) の適用は、仏教思想や庭園造りといった外来の概念が、神道を含む日本固有の習俗や自然観と結びつき、独自の建築様式の発展へとつながった点などが評価されたものである。基準 (6) はそれとも結びつき、仏教が普及する過程での地域的受容の一形態の例証となっている点が評価された。 ==世界遺産の構成資産== 以下に個別資産の概要を示す。なお、英語名および世界遺産登録IDは世界遺産センターが公式に示しているものである。 ===中尊寺=== 中尊寺(ちゅうそんじ)は、平泉町にある天台宗東北大本山である。国宝の金色堂、重要文化財の経蔵などを含み、境内は国の特別史跡に指定されている。世界遺産登録IDは1277rev‐001 (Ch*11137*son‐ji) である。 寺伝によれば開山は9世紀の円仁で、中尊寺の寺号は清和天皇より下賜されたものという。ただし、中尊寺の寺観が整ったのは、12世紀の藤原清衡による伽藍造営時である。清衡は前九年の役で父と安倍一族、後三年の役で弟など相次いで家族を亡くしたこともあり、敵味方を区別せずに戦没者の魂を浄土へ導くことと、東北に優れた仏教文化を根付かせることを目指し伽藍を建立した。 清衡は12世紀初頭に多宝堂(最初院)を建立したのを皮切りに、多くの建造物群からなる大伽藍を建立した。二階大堂という巨大な堂宇は後に鎌倉の永福寺のモデルにもなったが、それらの建造物群は1337年の火災であらかた焼失した。金色堂は当時の姿のものが残っているが、本堂は1909年に再建されたものである。 ===金色堂=== 金色堂(こんじきどう)は国宝に指定されている阿弥陀堂である。藤原清衡によって建立され、棟木銘から1124年(天治元年)に完成したことが判明する。高さ8m、平面の一辺が約5.5m で、堂内外の全面に金箔を張り、柱や須弥壇には蒔絵、螺鈿、彫金をふんだんに使った華麗な装飾がほどこされている。須弥壇上には阿弥陀如来を中心に多くの仏像を安置し、須弥壇内部には清衡、基衡、秀衡のミイラ化した遺体や泰衡の首級が納められている。このミイラの存在はかつてアイヌの習俗と結び付ける見解も提示されていたが、現在では、当時の京都でも見られた仏教の様式を取り入れたものと理解されている。 当時の建造物群があらかた焼失した中尊寺にあって、創建当初の姿を伝える貴重な建造物であり、2006年に行われた巻柱の年輪年代学による年代鑑定の結果からもそれは裏付けられた ===覆堂=== 国宝の金色堂は現在コンクリート造りの覆堂(さやどう、おおいどう)で守られ、ガラスケースの中に納められている。これは1970年に建造されたものであり、室町時代中期に建造されたそれ以前の旧覆堂は境内の別の場所に移築され、「金色堂覆堂」の名称で重要文化財指定を受けている。 結果的に登録に差し支えることはなかったが、ICOMOS の勧告では、コンクリート製の新覆堂が景観の真正性の観点から若干問題視されていた。 ===経蔵=== 経蔵(きょうぞう)は、清衡によって奉納された『紺紙金銀字交書一切経』(こんしきんぎんじこうしょいっさいきょう、国宝)をはじめとする写経群を納めていた建造物である。1126年(天治3年)の「中尊寺落慶願文」には「二階瓦葺経蔵一宇」とあり、当初は2階建てであった。1337年(康永2年)の「中尊寺梵鐘銘」によれば、この年、中尊寺の伽藍は金色堂を残して焼失した。現存する経蔵は、平安時代の古材を再用して中世に再興されたものと推定される。『紺紙金銀字交書一切経』などは現在寺内の讃衡蔵に移管されているが、経蔵の建物は重要文化財の指定を受けている。 ===毛越寺=== 毛越寺(もうつうじ)は平泉町の寺院である。1226年の火災で多くの伽藍が失われ、1573年に完全に焼失した。そのため、当時の本堂は残っていないが、浄土式庭園は特別名勝に、境内は特別史跡に指定されている。特別史跡と特別名勝の二重指定は、国内には8例しかない。世界遺産登録IDは 1277rev‐002 (M*11138*ts*11139*‐ji) である。 開山は円仁と伝えられるが、再興したのは藤原基衡で、当時としては最大級の規模を誇る寺院であった。『吾妻鏡』の「寺塔已下注文」によれば、中尊寺が「寺塔四十余宇、禅坊三百余宇」に対し、毛越寺は「堂塔四十余宇、禅房五百余宇」とされていた。 現在残る浄土式庭園は平安時代の様式をそのまま残すもので、特に遣水の遺構は平安時代の様式を伝える唯一のものであり、その規模の大きさとともに特筆されている。 常行堂(じょうぎょうどう)は当時のものではなく、1732年に再建された宝形造の堂宇だが、そこで毎年1月20日に行われる「延年の舞」(えんねんのまい)は重要無形民俗文化財となっている。世界遺産推薦に当たっても、当時の浄土思想を伝える無形文化財としての価値に触れられていた。 ===観自在王院跡=== 観自在王院跡(かんじざいおういんあと)は、平泉町に残る遺跡で、名勝に指定されている。世界遺産登録IDは1277rev‐003 (Kanjizai*11140*‐in Ato) である。 観自在王院は藤原基衡の妻によって建立された寺院だが、1573年に焼失した。昭和時代の二度にわたる発掘調査(1954年 ‐ 1956年、1972年 ‐ 1977年)と、修復事業(1973年 ‐ 1978年)によって、当時の姿を偲ばせる庭園が復元された。毛越寺とは南北道路を隔てて隣接しているが、その毛越寺の庭園に比べ、優美ではあるものの簡素な意匠であることが指摘されている。 現在も基衡の妻の命日である5月4日には、その死を悼んで始まったという「哭き祭り」(なきまつり)という祭事が行われている。 ===無量光院跡=== 無量光院跡(むりょうこういんあと)は特別史跡に指定されている巨大な阿弥陀堂跡で、世界遺産登録IDは1277rev‐004 (Mury*11141*k*11142*‐in Ato) である。 『吾妻鏡』は藤原秀衡が宇治の平等院鳳凰堂を模して建立したと伝えており、1952年の発掘調査の結果もそれを支持するものであった。平泉で京都の様式を全面的に模した寺院が建立されたのはこれが初めてで、京都に比肩する北の王都を建造しようという秀衡の意図の表れと指摘されている。 もちろん、浄土思想の色彩が強い平等院の模倣は、浄土を表現する意思の現われとも指摘されている。建立に当たっては、当初から西方極楽浄土が強く意識され、庭園、阿弥陀堂、背後の金鶏山が東西方向に並ぶように配置されている。その空間配置は、世界遺産への推薦に当たっても浄土式庭園の最も発展した形とされた。 ===金鶏山=== 金鶏山(きんけいざん)は、平泉町にある標高 98.6 m の山である。2005年に史跡に指定された。世界遺産登録IDは1277rev‐005 (Mt Kinkeisan) である。 金鶏山は奥州藤原氏の都市計画において基準点をなしたと推測されており、山頂の真南には毛越寺境内や幹線道路と直行する道路の端が存在している。また、彼岸の時期に無量光院の堂宇を庭園の中島から眺めると、堂宇の背景で金鶏山の山頂と日没が重なるように見ることができたとされ、単なる基準点にとどまらず、西方極楽浄土を想起させる空間設計上も重要な位置を占めた。 ==世界遺産への拡大登録を目指す遺跡群== 以下は、構成資産の再検討や世界遺産委員会の審議の過程で除外され、今後の拡大登録を目指すことになった物件である。2011年に除外された柳之御所遺跡を除けば、いずれも2008年の「登録延期」決議後の再検討の中でひとまず除外され、拡大登録を目指すことになった。 海外の専門家らは、2017年8月に柳之御所遺跡のみを拡張対象とするのが適切としているが、構成資産が平泉町内だけとなり、2市1町の連携に亀裂が生じるのを回避するために、一括登録を求める方針を堅持している。 ===柳之御所遺跡=== 柳之御所遺跡(やなぎのごしょいせき)は、平泉町に残る史跡である。1988年以降の調査で、堀に囲まれた敷地に大規模な建造物群跡や膨大な遺物群が発見された。『吾妻鏡』に記録された3代秀衡の居館・政庁の「平泉館」だった可能性が当初指摘されていたが、現在では初代清衡のときから使われていた可能性が高いとされている。なお、「柳之御所」という名称は、後代に源義経にまつわる伝説が元になって付けられたものと推測されており、奥州藤原氏の時代に由来するものではないという。 世界遺産推薦に当たっては、奥州藤原氏の政庁跡という重要性から推薦物件に含まれていた。2008年以降の再検討でも除去されることはなかったが、2011年の世界遺産委員会では浄土思想そのものとの関連性は希薄として、登録物件からの除外が決議された。 ===達谷窟=== 達谷窟(たっこくのいわや)は、平泉の南西に位置する寺院を含む史跡である。現在は達谷西光寺があり、そこには伝承上坂上田村麻呂に遡る窟毘沙門堂が含まれる(ただし窟毘沙門堂自体は1961年に再建されたもの)。また、窟毘沙門堂のある岩壁には磨崖仏が刻まれており、奥州藤原氏の時代には有力な寺院であったことが推測されている。 ===白鳥舘遺跡=== 白鳥舘遺跡(しろとりたていせき)は、奥州市に残る城館跡で、2005年に史跡「柳之御所遺跡・平泉遺跡群」に加えられた。北上川の水運の要衝に位置しており、10世紀から16世紀にかけて、様々な建造物群が建てられていたことが分かっている。安倍氏(清衡の母方の祖先)や奥州藤原氏の時代の利用状況については未解明だが、彼らにつながる伝承をもつ中世城館の遺跡として、最初の世界遺産推薦時には推薦物件に含まれていた。 ===長者ヶ原廃寺跡=== 長者ヶ原廃寺跡(ちょうじゃがはらはいじあと)は、奥州市に残る寺院跡で、2005年に史跡「柳之御所遺跡・平泉遺跡群」に加えられた。 約1000年前の寺院跡と推測されているものの、寺号も建造者も伝わっていない。ただし、発掘調査の結果によって、かなりの権力者が建造させたと推測できることから、安倍氏にゆかりのある寺院と考えられている。空間配置上も十分に配慮して建てられていたことが推測でき、平泉以前の東北の仏教文化を考察する上で重要な史跡である。 最初の世界遺産審議(2008年)の時点では、平泉の歴史的背景との関連から推薦物件に含まれていたが、翌年にかけての再検討の中で除外された。 ===骨寺村荘園遺跡と農村景観=== 骨寺村荘園遺跡(ほねでらむらしょうえんいせき)は、一関市本寺(ほんでら)地区に残る中世の荘園跡で、2005年に一部が史跡に指定された。現在の地区名「本寺」は「骨寺」が変化したという説もある。 藤原清衡の時代、骨寺村の荘園は蓮光(れんこう)という僧侶の私領だったが、蓮光が中尊寺経蔵の別当に任命されると、経蔵の所領として寄進したという。この荘園遺跡の特殊な点は、中尊寺所蔵の重要文化財『陸奥国骨寺村絵図』(むつのくにほんでらむらえず)との関係にある。この絵図は鎌倉時代の成立と推測され、『吾妻鏡』の叙述とも一致する要素を含んでいる。本寺地区は大規模な開発にさらされることがなかったため、いまなおその絵図に描かれた荘園景観と一致する景観を多く保存しているのである。この景観を構成する山王窟、駒形根神社、伝ミタケ堂跡、大師堂、要害館跡など11件が史跡に指定されている。 ===一関本寺の農村景観=== 骨寺村荘園遺跡が残る本寺地区は、冬の北西からの季節風を防ぐためのイグネ(屋敷林)を備えた農家が散在する景観など、昔ながらの農村景観が保存されている地区でもある。この「一関本寺の農村景観」(いちのせきほんでらののうそんけいかん)は、2006年に重要文化的景観として選定された。 最初の世界遺産推薦前には、中世の絵図の姿がそのまま残る地区としての特殊性が日本国内の専門家から評価され、文化的景観としての推薦に欠かせない要素として、国や県が地元に参加を求める形で構成資産に加えられた。しかし、2008年のICOMOSの評価では、荘園遺跡の景観が顕著な普遍的価値を持っているという証明が不十分とされた上、中尊寺経蔵と結びつきがあるだけでは浄土思想と結びついていると言うには足りないとして、否定的見解が示された。この結果、2008年から2009年の構成資産の再検討の中で、推薦物件から一度除外し、拡大登録を目指すことが決定された。 =谷田部 (つくば市)= 谷田部(やたべ)は、茨城県つくば市の大字。旧筑波郡内町村、新町村、台町村。郵便番号は305‐0861。「行政区別人口統計表」による2017年5月1日現在の人口は6,945人、2010年10月1日現在の面積は5.608348km。 江戸時代には陣屋町として栄え、商業の中心地、交通の結節点としてにぎわった。しかし2010年代現在の谷田部は、交通量こそ多いもののシャッターを下ろした店舗が多く、若手の商店主らを中心とした「谷田部タウンネット」が活性化に向けた取り組みを行っている。 ==地理== 谷田川(東谷田川)下流の筑波台地(筑波・稲敷台地)から西谷田川中流の低地にかけて広がる地域である。筑波研究学園都市建設前からの旧谷田部町の中心市街地である。谷田部の中心部は商業地域で、住宅地が取り囲んでいるが、農地も残され、平坦な農村地帯を成す。周囲を田に囲まれていたことから、近代には「タニシ町」と呼ばれていた。内町、新町、西町、不動町、二の丸など複数の集落から構成されている。 北は島名・大白硲(おおじらはざま)・小白硲(こじらはざま)、東は上横場・台町・観音台・羽成(はなれ)、南は東丸山・房内(ぼうち)・緑が丘・境松、西は境田・飯田・中野・下萱丸・上萱丸・陣場と接する。谷田部本体の北西に「みずほ団地」の飛地があり、東と南は陣場、西は真瀬、北は島名と接する他、南端の西にも飛地がある。 谷田部の中心街には陣屋町の名残である間口が狭く奥行きが長い地割、遠見遮断の目的で造られたクランクのある道路がみられる。 ===小・中学校の学区=== 市立小・中学校に通う場合、谷田部の学区は以下の通りとなる。 谷田部小学校・谷田部中学校は谷田部地区にある。 ===地価=== 住宅地の地価は、2017年(平成29年)1月1日の公示地価によれば、谷田部字ダイ町6286番1外の地点で2万8100円/mとなっている。 ==歴史== ===八部から谷田部へ=== 谷田部は古くから開けた地域であり、縄文時代の遺跡や古墳が多く発見されている。福田坪では数多くの縄文時代の集落跡の遺跡が見つかっており、縄文土器や石斧・石鏃などの石器、土師器が出土している。平安時代には『和名抄』に記録のある常陸国河内郡7郷の1つ「八部郷」の一部であり、八部郷は仁徳天皇妃の八田若郎女のために設置された名代だったとされる。現在の谷田部は八部郷の中心地であったと言われている。 戦国時代には田中荘の一部として「やたへ」が登場し、『上杉氏文書』によれば永禄年間(1558年 ‐ 1570年)には小田氏の盟友・岡見氏の拠点であった。そのため、小田氏と敵対した佐竹氏や多賀谷氏によって谷田部侵攻がたびたび行われ、谷田部城をめぐる攻防が繰り返された。元亀元年(1563年)、ついに岡見氏の谷田部城は多賀谷政経によって落城、多賀谷氏が慶長6年(1601年)に改易となるまで下妻城主の多賀谷氏配下となった。文禄3年(1594年)、太閤検地が実施されたのをきっかけに、筑波郡へ組み込まれた。 ===谷田部藩の城下町=== 江戸時代には常陸国筑波郡に属し、肥後国熊本の細川氏の分家が谷田部藩を立てて、谷田部陣屋を構え、城下町(陣屋町)を成し、繁栄した。城下町は台町村、新町村、内町村の3村に分かれ、内町村が城下の中心であった。台町が北・東方向からの道路の集約点、西町が南・西方向からの道路の集約点として機能し、両者を結ぶ街路沿いに内町があった。谷田部陣屋は中世の谷田部城とは異なる位置、具体的には谷田部城跡の北の集落に続く低地の明超寺のあったところに築かれた。 細川氏は道路整備や不動松並木の植樹、寺院の建立など城下町としての体裁を整えようとしたが、城下町は家臣が75人しかいないため流通・消費の拠点としての発達はなく、藩命で嘉永4年(1851年)から始めた定期市も大して繁盛しなかった。近在の宿場町・真瀬村の賑わいには及ばなかったことから、「真瀬のようなる在所があるに、谷田部城下とは気が強い」、「谷田部も城下か、タニシも魚か」と揶揄(やゆ)された。小さな城下町ではあったが、民間からは蘭学や絵画で才を発揮した谷田部藩医の広瀬周度(ひろせしゅうたく)や、からくり人形などを発明した名主の飯塚伊賀七という偉大な人物が現れ、不動松並木と合わせて「谷田部に過ぎたるもの三つあり」と言われた。飯塚伊賀七の代表作の1つである五角形の建築物「五角堂」が現代に残されている。 陣屋は中世に存在した谷田部城とは異なり、東西を谷田川・西谷田川に挟まれた地に置かれ、寛文11年(1671年)には陣屋拡張のために明超寺を移転させた。寛政6年(1794年)には文館・武館の2つからなる藩校「弘道館」を設けた谷田部陣屋は、幕末には約120坪(約397m)の大きさであったとされる。藩政は5回もの江戸藩邸の焼失などにより火の車となっており、土地生産性の低い藩領から厳しい年貢を取り立てて農村を荒廃させていた。その後、改革に成功した細川氏本家の熊本藩より奥方を迎え、二宮尊徳より指導を受けるなどして、幕末には財政を好転させた。 ===筑波郡の中心地=== 明治時代になると、内町村・新町村・台町村が合併し、谷田部町となる。陣屋は明治2年(1869年)に谷田部から下野国茂木(現在の栃木県芳賀郡茂木町)に移され、明治4年(1871年)には藩名が茂木藩に改められた。近代化も進み、1874年(明治7年)に谷田部郵便局、1875年(明治8年)に谷田部小学校、1876年(明治9年)に谷田部警察出張所(現在のつくば中央警察署の前身)、1878年(明治11年)に筑波郡役所、1887年(明治20年)に土浦区裁判所谷田部出張所、1896年(明治29年)に谷田部税務署が相次いで開設された。明治の大合併では周辺13村と合併して新しい谷田部町が発足、谷田部は同町の大字となり、町役場が設置されるなど中心地となった。 1890年(明治23年)には新治郡土浦町(現在の土浦市中心部)と水海道町(現在の常総市中心部)を結ぶ「谷田部街道」が開通、1891年(明治24年)には五十銀行が谷田部支店を設置、1923年(大正12年)には現在の茨城県立つくば工科高等学校の前身である谷田部女子農業補習学校が開校するなど、筑波郡の中心としての機能を強めた。常南電気鉄道が土浦と水海道を結ぶ鉄道の建設を計画し、谷田部でも一部線路を建設するための土手が完成していたが、開通には至らなかった。1938年(昭和13年)には集中豪雨による谷田川の氾濫で大きな被害が発生するが、翌1939年(昭和14年)には谷田部町内に谷田部海軍航空隊が開隊したことで、休日には軍人が谷田部に来るようになり、商店街は賑わった。谷田部には舞妓や芸者のいる旅館、映画館、料亭、雑貨店、薬局などがあり、賑いは戦後しばらくまで続いた。このうち、映画館「玉川館」を運営していた和菓子店の玉川堂は2014年現在も大福などの販売を続けている。 ===戦後の変容=== 第二次世界大戦後は新制中学校である谷田部町立谷田部中学校が1951年に開校、1964年に現在地へ移転した。 佐藤栄作政権が進めた筑波研究学園都市の建設によって、1970年以降は商工業が活性化し、道路整備や住宅・団地・工場の建設も進み、1975年に新しい谷田部町役場が完成した。同年の商店数は92軒を数えた。1973年には一部が稲敷郡茎崎村に編入され(現:池の台の一部)、1974年・1977年・1980年には一部が観音台へ、1974年・1977年に高野台へ、1978年に緑が丘へ分割された。 安定成長期の1984年には、郊外に常磐自動車道谷田部インターチェンジが開設され、谷田部陣屋跡を中心とする谷田部地区への道路アクセスも好転した。 ===つくば市成立後=== 1987年のつくば市発足後に、町役場は対外的につくば市役所本庁舎(谷田部庁舎)となったが、市役所の機能は合併前の旧町村役場に振り分けられた。 つくば市成立以後は、つくば市の中心市街地はつくば駅やつくばセンターのある吾妻・竹園へ移り、葛城地区(研究学園など)で副都心の開発も始まり、谷田部の中心地としての機能は低下した。 2010年5月6日にはつくば市役所が研究学園(旧谷田部町)へ移り、つくば市役所谷田部庁舎は廃止され、新たにつくば市役所谷田部窓口センターが設置された。同年8月2日にはつくば市商工会がつくば市の大穂庁舎(つくば市筑穂)へ移転、翌2011年3月31日には同会谷田部支所が他の支所ともに廃止された。 2011年3月11日に発生した東日本大震災では、市民ホールやたべが地盤沈下し、入居していた谷田部窓口センターが機能しなくなるなど、谷田部でも大きな被害が出た。その後、窓口センターは同年7月1日に谷田部交流センター3階に移転、仮復旧した。市民ホールやたべ及び谷田部総合体育館の被災による使用不能は、市役所や商工会の移転、大型店の台頭によって減少傾向にあった、谷田部の商店街の来客数を更に減少させることとなった。2014年時点の商店数は33軒で、シャッターを下ろした店舗が目立ち、空き地や空き家も多くなっている。これに対してクリスマスイルミネーションの実施(2004年 ‐ )、商店主らによる「谷田部タウンネット」の設立(2009年)、谷田部伊賀七音楽祭」の開催(2012年・2013年)などの活性化に向けた活動が展開されている。 2012年6月1日、谷田部の一部と隣接する上横場の一部より、台町一丁目から三丁目を新設した。 ===地名の由来=== 「谷田部」は、低地に開かれた田を意味する「谷津田」(やつだ)に由来する。 ===人口の変遷=== 総数 [戸数または世帯数: 、人口: ] ==交通== ===路線バス=== 谷田部はバス路線網の結節点であり、土浦・常総・牛久・取手の各市と結ばれている。1970年頃まで谷田部は土浦や水海道(現:常総市)へ向かうバスの乗り換え地点としての役割を担っており、乗り換え客が時間待ちに谷田部の飲食店やパチンコ店などを利用していたという。 ===谷田部中央バス停=== ■ 関東鉄道バス 80系統 農林団地循環■ 関東鉄道バス 谷田部車庫■ 関東鉄道バス 取手駅西口■ 関東鉄道バス 土浦駅■ 関東鉄道バス 水海道駅■ 関東鉄道バス 水海道車庫■ 関東鉄道バス 藤代駅■ 関東鉄道バス みどりの駅■ 関東鉄道バス 牛久駅■ 関東鉄道バス 桜ケ丘団地 ===谷田部保健センターバス停=== ■関鉄パープルバス 急行わかば号 運転免許センター ===谷田部窓口センターバス停=== ■ つくバス谷田部シャトル YaA系統 研究学園駅■ つくバス自由ヶ丘シャトル JA系統 みどりの駅■ つくバス自由ヶ丘シャトル JB系統 富士見台■ つくタク ===道路=== 「谷田部四ツ角」交差点は谷田部町の道路元標のある重要交差点である。中心部は陣屋町時代から続くクランクのある道路が東西を貫き、交通量の多さに対して歩道が狭く、歩行者数は少ない。 常磐自動車道谷田部インターチェンジ国道354号:谷田部の北方を通る。茨城県道・千葉県道3号つくば野田線:谷田部の西方を通る。茨城県道19号取手つくば線茨城県道・栃木県道45号つくば真岡線茨城県道143号谷田部牛久線:谷田部の東方を通る。茨城県道210号谷田部藤代線布施街道 ‐ 土浦からつくばみらい市小張、取手市戸頭を経て千葉県柏市布施へ至る街道で、谷田部中心街を通る。 ==施設== 茨城県県南農林事務所つくば地域農業改良普及センターつくば市立谷田部小学校つくば市立谷田部中学校茨城県立つくば工科高等学校社会福祉法人わかば保育園つくば中央警察署谷田部地区交番つくば市谷田部農業協同組合本所筑波谷田部郵便局谷田部多目的広場つくば市谷田部総合体育館つくば市谷田部野球場つくば市谷田部テニスコートつくば市立市民ホールやたべ谷田部児童館つくば市谷田部交流センター つくば市谷田部保健センター つくば市役所谷田部窓口センター つくば市立谷田部郷土資料館つくば市谷田部保健センターつくば市役所谷田部窓口センターつくば市立谷田部郷土資料館 ===本社を置く企業=== つくば国際貨物ターミナル株式会社日通つくば運輸株式会社本社谷田部印刷株式会社本社つくば書店本社 ==史跡== 谷田部陣屋五角堂鐘声山寿光院道林寺 ‐ 西町にある浄土宗の寺院。現今のつくば市房内に元はあったが、細川氏の菩提寺となったため、谷田部へ移転した。藩医の広瀬周伯や発明家の飯塚伊賀七の墓もある。仁王門は、享保12年(1727年)に細川氏の寄進によって完成。帰命山無量院長徳寺 ‐ 建治年間(1275年 ‐ 1278年)創建と伝わる時宗寺院。高光山明超寺 ‐ 徳治2年(1307年)創建とされる浄土真宗大谷派の寺院。寛文11年(1671年)に陣屋拡張のため、新町に移された。八坂神社 ‐ 素戔嗚尊を祭神とする江戸時代創建の神社。旧社格は村社で、例祭は5月8日。戦後、谷田部海軍航空隊基地内にあった「航空神社」の焼却を恐れた住民によって一時的に境内に「谷田部神社」が遷座していた。谷田部神社は農林研究団地建設が一段落したところで、つくば市上横場の農場集落に移された。八幡神社 ‐ 応神天皇を祭神とする江戸時代創建の神社。 =オオカミの再導入= オオカミの再導入(オオカミのさいどうにゅう)とは、オオカミが絶滅した地域に、人間がオオカミの群れを再び作り上げることである。オオカミにとって適した自然環境が広い範囲で残っており、同時に獲物となる生物が十分にいる地域である場合に限って検討される。以下、この記事中では単に「再導入」と表記する。 ==概要== アメリカ合衆国のロッキー山脈の北部に位置するイエローストーン国立公園(ワイオミング州)とアイダホ州では、約30年間の計画の見直しと関係者の話し合いを行った後、オオカミの再導入を行い、オオカミの群れを回復することに成功した。アメリカ合衆国の別の2‐3の地域やヨーロッパの国々でも、再導入は検討され続けている。過去の例でも現在検討中のものでも、対象地域の人々は、家畜の敵である肉食動物(捕食者)の再導入に、反対することが多い。しかしながら、欧米では、オオカミや他の捕食者への見方は、過去のもの(狼に関する文化を参照)から変わってきている。つまり、捕食者が生態系に存在することで環境が維持されることに対して、理解を示すようになってきている。再導入を成功させた2つの地域では、この理解の広がったことが、再導入を開始するために最も重要であった。 アリゾナ州とニューメキシコ州でも、北部とは別の亜種・メキシコオオカミの再導入が1998年から始まっている。 日本においても再導入を提唱する人々がいる。生息域の確保の問題、人間と接触する可能性などが指摘されており、2017年時点では多数意見ではない。 ==イエローストーンとアイダホ州== イエローストーン国立公園とアイダホ州で再導入が開始されたのは1995年である。 ===オオカミの絶滅から再導入の提案まで=== イエローストーン国立公園で野生のオオカミが殺された最後の公式記録は1926年であった。その後、オオカミの獲物となっていたワピチ(アメリカアカシカ Cervus canadensis)や他の動物が増加し、その結果、植生に被害が出た。オオカミが果たしていた捕食者としての役割の一部はコヨーテが果たすことになったが、成獣のワピチはコヨーテの捕食対象にはならない。またオオカミと並びイエローストーンの生態系の頂点を成していたハイイログマは雑食性であり、ワピチを捕食する割合は低く、いずれもワピチの増加を制御できなかった。さらには、コヨーテの個体数が増加したことによって、コヨーテより小さな動物、特にアカギツネが減少してしまった。1978年に生物学者ジョン・ウィーバーはイエローストーンのオオカミは絶滅したと結論した。 地元牧場主たちと環境保護団体は、再導入について何年も討論を続けてきた。生物学者によって再導入のアイデアが議会に最初に提出されたのは1966年である。それらの生物学者は、イエローストーンのワピチが危機的状況まで増加していると心配していた。しかしながら、牧場主たちは、家畜が襲われることの問題をオオカミを疫病に喩えて、再導入に強く反対した。 ===準備期間=== 合衆国政府は、妥協案の作成・条件整備・実行について責任を負い、妥協点を探し出すのに約20年間をかけて努力を続けた。1974年にオオカミ回復チームが任命され、1982年には意見を集めるために最初の公式の回復計画(Recovery Plan)を公表した。オオカミ再導入に対する一般的な不安があったため、州政府および地方政府の判断を加えやすくするように、魚類野生生物局は計画を変更した。そのようにして、意見を集めるための2番目の回復計画が1985年に公表された。同じ年に行われたイエローストーン国立公園の訪問者へのアンケートでは、74%の人がオオカミが公園の改善に必要かもしれないと回答し、60%の人が再導入に賛成した。再導入に承認を与える前の最終段階として、実施した場合の影響の事前評価(環境アセスメント)があった。連邦議会は、環境アセスメントへの支出をする前に更に研究が必要であるとして、計画を差し止めた。 1987年に牧場主たちは、再導入提案者に経済的負担に対する補償を要求した。それに対してDefenders of Wildlife(アメリカ合衆国の自然保護団体)は、オオカミによる被害で失われる家畜の市場価格を牧場主たちに補償するために、「オオカミ補償基金」を準備した。その同じ年、最終的な回復計画が発表された。その後、研究・公的な教育・意見募集を行い、公開検討を加えるために1993年に環境影響評価書(環境アセスメントの結果報告書:Environmental Impact Statement)の草稿が発表された。この環境影響評価書には15万以上の意見が寄せられ、1994年5月に成立した。 元の計画には3つの回復地域(イエローストーン国立公園含むワイオミング州・アイダホ州・モンタナ州)が含まれていたが、モンタナ州は北西部に小さいながら繁殖している群れが確認されたので回復地域から外された。現在は再導入されたオオカミ群はモンタナ州とも往来しているため、モンタナを含む3州が回復地域として設定され、モニタリングされている。回復地域に再導入されるオオカミは、絶滅危惧種法に規定する「実験的な個体群」分類に区分されている。 ===再導入直前の民事訴訟=== 1994年の後半の2つの民事訴訟によって、回復計画は危機にさらされた。1つはワイオミング州農業局連盟(Farm Bureau)による提訴であったが、1995年1月3日に棄却。もう片方は環境保護団体の連合体による提訴であった。内容は未確認の目撃情報を元に、北側からイエローストーンにオオカミが既に移住している証拠があり、同じ地域に実験的な群れを再導入するのは既存のオオカミにとって脅威となると主張していたが、訴えは退けられた。これらの訴訟があったものの再導入の障害とはなっておらず、1995年1月から再導入が開始された。 ===再導入とその後の経過=== 1995年1月連邦政府は、カナダアルバータ州から野生のオオカミの輸送を始めた。しかしながら、1月9日にFarm Bureauから差し止め請求があったため、それが同年3月19日に棄却されるまでオオカミを放すことができなかった。そして3月21日、オオカミの檻の扉は開けられた。また1996年1月にも追加のオオカミが放された。再導入されたオオカミは順調に増え、2009年末にはアイダホ州、ワイオミング州、モンタナ州の3州の個体数は約1700頭になり、そのうちイエローストーン国立公園には約100頭が生息している。この頭数は、当初の計画が予定していたものを上回って推移している。現在、「十分に個体数が回復したので絶滅危惧種法の対象から外すべきだ」という議論が起きている。2009年に一度外されて狩猟が解禁されたものの、「同法の対象からまだ外すべきではない」という訴訟が起こり、2010年8月の判決によって再び絶滅危惧種法の保護対象となり狩猟禁止に戻った。 イエローストーン国立公園では、再導入によって生物多様性が増えたことが報告されている。それはワピチの個体数の減少によって植生が増えたためであると考えられ、アカギツネや公園内では絶滅状態であったビーバーの個体数の増加が観察された。この動物相の変化は、オオカミがコヨーテの個体数を制御しているためであろうと考えられる。なお再導入後に、オオカミが家畜を襲う事件と、人がオオカミを殺傷する事件が起きるようになった。家畜被害のうちオオカミによることが確認されたものについては、政府および前述の「オオカミ補償基金」によって補償されている。 ==アリゾナ州とニューメキシコ州== メキシコオオカミ(メキシコハイイロオオカミ)は、アリゾナ州・ニューメキシコ州・テキサス州およびメキシコに分布していた。かつては懸賞金が掛けられるなど駆除の対象となっており、1970年代初めにはほぼ野生絶滅の状態であった。しかしながら、1976年にアメリカ合衆国で絶滅危惧種に指定され、メキシコオオカミに対する評価が変わった。このような背景の下、メキシコとアメリカ合衆国の間で保護繁殖に関する2国間協定が結ばれた。1977年から1980年にかけて、野生に残っていた全ての個体が捕獲され、既に動物園で飼育されていた個体とともに繁殖プログラムが開始された。一方、1982年には野生回復計画が作成され、少なくとも100個体のメキシコオオカミの自立した野生個体群を作り上げることが目標になった。 1980年代を通して再導入の準備が続けられ、最終的な環境影響評価書が完成したのは1996年である。この時、東アリゾナのアパッチ国有林と西ニューメキシコのヒラ国有林が再導入に適切な地域として選定された(二つの国有林を総称して’Blue Range Wolf Recovery Area’という)。また、北ロッキー山脈地域と同様に、再導入されるオオカミは「実験的個体群」と規定された。 1998年3月29日、11頭のメキシコオオカミが Blue Range Wolf Recovery Areaに放された。その後も再導入が続けられており、2010年にはこの地域で50頭のメキシコオオカミの生息が確認されている。さまざまな要因で計画通りに回復が進んでおらず(当初計画では2006年に100頭を達成する目標だった)、2010年から手続きの見直しが行われた。 現在、繁殖プログラムによって動物園や保護施設で飼育されているメキシコオオカミは300頭以上である。 ==中央ヨーロッパと西ヨーロッパ== オオカミが絶滅したと考えられるいくつかの地域で、再導入が検討されている。デンマーク、ドイツ、イタリア、およびスコットランドなどのヨーロッパ各国の非政府組織は、田舎の森林地帯に再導入することを提唱している。提案者達は「再導入は観光や生物多様性に利益がある」と主張するが、一方で再導入による家畜の損失を恐れる意見がある。いくつかの国では非政府組織から、アメリカ合衆国で実施されているのと同様の補償が提案されている。 ==日本== 日本ではエゾオオカミやニホンオオカミが生息していたが、両種とも明治時代に絶滅した。他方で、昭和時代末期より山間部においてはニホンジカやイノシシなどによる農作物や樹皮の食害などの獣害が恒常的な問題となっている。 大分県豊後大野市が害獣駆除を目的として、オオカミの再導入を提案しており、遺伝的にニホンオオカミに近いとされるハイイロオオカミが候補に挙がっている。猟友会会員の高齢化・会員数減少が進む中での有害鳥獣の駆除効果が期待される反面、マングースのように生態系に悪影響を及ぼしたり、オオカミが家畜や人間などを襲ったりする危険性も指摘されている。 日本へのオオカミ再導入を目指す日本オオカミ協会は、元来日本に生息していたニホンオオカミはハイイロオオカミの一亜種にすぎないため、ハイイロオオカミの導入はマングースなど外来種の例とは異なり、生態系への悪影響は全く考えられないと主張している。むしろニホンオオカミ絶滅によって頂点が空位となった現在の日本の生態系こそが極めて異常な状態なのだとしている。 日本においてオオカミは特定動物指定を受けており、現行法ではオオカミを許可なく扱うことはできない。 =ビルマの戦い= ビルマの戦い(ビルマのたたかい、Burma Campaign)は、太平洋戦争の局面の1つ。イギリス領ビルマとその周辺地域をめぐって、日本軍・ビルマ国民軍・インド国民軍と、イギリス軍・アメリカ軍・中華民国国民党軍とが戦った。戦いは1941年の開戦直後から始まり、1945年の終戦直前まで続いた。 地名の表記については「地名の表記について」を参照。 ==概要== ビルマは19世紀以来イギリスが植民地支配していた。1941年の太平洋戦争開戦後間もなく、日本軍は援蒋ルートの遮断などを目的としてビルマへ進攻し、勢いに乗じて全土を制圧した。連合国軍は一旦退却したが、1943年末以降、イギリスはアジアにおける植民地の確保を、アメリカと中国は援蒋ルートの回復を主な目的として本格的反攻に転じた。日本軍はインパール作戦を実施してその機先を制しようと試みたが、作戦は惨憺たる失敗に終わった。連合軍は1945年の終戦までにビルマのほぼ全土を奪回した。 日本人の戦没者は18万名に達した。勝利したイギリスとアメリカはそれぞれの目的を達成したが、最終的にはイギリスはアジアから撤退し、アメリカも中国における足場を失った。ビルマは1948年に独立を達成した。 ==地理== ビルマ(現在のミャンマー、漢字表記では「緬甸」)は、インド、バングラデシュ、中国、タイ、ラオスと国境を接している。南北の最長距離は約2,000キロ、東西の最長距離は約1,000キロ、国土面積は68万平方キロである。南側はベンガル湾に面し、東部、北部および西部国境はいずれも峻険な山脈によって囲まれている。中央部は平原地帯であり、大河イラワジ川(現在のエーヤワディー川)が流れている。支流チンドウィン川を含むイラワジ川、シッタウン川(現在のシッタン川)、タンルウィン川(現在のサルウィン川)がビルマの三大河川をなしている。 気候は熱帯モンスーン気候である。5月中旬から10月までは雨季である。雨が一日中降り続くことはあまりないが、断続的な激しい降雨にみまわれる。特にアッサム州からアラカン山脈に至る地方は年間降雨量5,000ミリに達する世界一の多雨地帯である。雨季には河川は増水し、山道は膝まで屈する泥濘となる。10月末から5月までは乾季である。ほとんど降雨はなく、乾燥して草木は枯れる。シャン高原(英語版)では最低気温が氷点下になることもある。雨季入り直前の4月下旬から5月上旬には酷暑となり、平地では摂氏40度を越す日も少なくない。乾季には地面が固まって車両の通行は容易となり、機械化の進んだ連合軍にとっては有利な戦場となるが、歩兵にとっては塹壕を掘ることもままならなくなる。 1941年当時の人口は1600万人、内訳はビルマ族が1100万人、カレン族が150万人、シャン族が130万人、移住したインド人が200万人だった。首都ラングーン(現在のヤンゴン)は人口50万の近代都市だった。国民の多くは敬虔な仏教徒だった。僧侶は町の指導者を兼ね、多くの町ではパゴダ(仏塔)がランドマークとなっていた。寺院付属の学校は当時は全土で2万と言われ、識字率も高かった。 ビルマの気候は稲作に適している。当時は農業の機械化は遅れていたが、コメの年産は700万トンに達し、当時からコメの輸出国だった。日本軍は、フーコン河谷などの人口希薄な山間部を除けば、食糧調達を円滑に行うことができ、この点では日本兵が飢餓に苦しめられたニューギニアやガダルカナルとは異なっていた。ただし戦争末期には、日本兵による食糧調達が半ば略奪の形となったことが、数多くの従軍記・回想録に書かれている。地下資源は、イナンジョン(英語版)に当時イギリス領最大の油田があり、石油輸出も行われていた。モチ(英語版)(タングステン)、ボードウィン(英語版)(鉛)、バロック(雲母)、タヴォイ(タングステン)などの鉱山もあった。 ビルマに接する中国雲南省西部地方は、南北に縦走する標高3,000メートル以上の山脈が連なり、その間を深さ1,000メートルもの峡谷を形成する怒江(サルウィン川上流部の別名)、瀾滄江(メコン川上流部の別名)などの急流が流れている。熱帯高原性の穏やかな気候で、稲作も当時から盛んだった。 ==背景== ===イギリスのビルマ統治と独立運動=== ビルマは1824年に始まった英緬戦争の結果、1886年にイギリス領インド帝国の一州に編入された。1935年ビルマ統治法が制定され、1937年その発効により、ビルマはインドから分離し、進歩穏健派のバー・モウを首班とする内閣と議会が設置された。しかしイギリス人総督の拒否権はほとんど統治全般に及び、自治権は完全には程遠く、ビルマは植民地と自治領との中間的状態に留め置かれた。議会における自治権拡大運動は、イギリスの行った小党分立政策のため勢力を持つには至らなかった。 ビルマ独立運動は1930年代に活発化した。運動の前衛は1930年に結成された「タキン党」だった。タキン党にはラングーン大学の学生が数多く参加しており、学生運動のリーダーとして活躍したのがタキン・オンサン(アウン・サン)やウ・ヌーらである。第二次世界大戦が勃発すると、タキン党はバー・モウの「シンエタ党」(貧民党)などと共に「自由ブロック」を結成した。 ビルマ民族主義者の中には議会を通じた穏健な運動を目指す者もいたものの、タキン党は対英非協力と武装蜂起を掲げ、インド国民会議派、中国国民党、中国共産党、日本など、いずれの外国勢力からの援助でも受け入れる考えを持っていた。1940年に入ると、イギリスは自由ブロックに対して弾圧を加えた。バー・モウら首脳陣が相次いで投獄される中、オンサンは同志ラミヤンとともに、外国勢力からの援助を求めるために苦力に変装して密出国した。 ===ビルマルートとアメリカの中国政策=== 日本と中国とは1937年に勃発した日中戦争の最中にあった。日本軍は沿岸部の主要都市を占領したが、中国の蒋介石政府は重慶へと後退し頑強に抗戦を続けていた。日中両国とも国際社会に対しては「これは戦争ではない」との立場をとったため、アメリカ政府は交戦国への軍需物資の輸出を禁止する「中立法」を発動しなかった。軍需物資の多くを輸入に頼っていた日本はこれにより恩恵を受けていたが、中国へのアメリカやイギリスからの援助も妨げることはできなかった。 蒋介石政府への軍需物資の輸送ルート(援蒋ルート)には以下があった。日本の参謀本部では1939年頃の各ルートの月間輸送量を次のように推定していた。 香港ほか中国沿岸からのルート(香港ルート):6,000トンソ連から新疆を経るルート(西北ルート):500トンフランス領インドシナのハノイからのルート(仏印ルート):15,000トンビルマのラングーンからのルート(ビルマルート):10,000トンビルマルートとは、ラングーンの港からマンダレー経由でラシオ(現在のラーショー)までの鉄道路「ビルマ鉄道(en)」と、ラシオから山岳地帯を越えて雲南省昆明に至る自動車道路「ビルマ公路」とを接続した、全長2,300キロの軍需物資の輸送ルートの呼称である。蒋介石政府はトラックがどうにか通れるだけの山越えの道路を1938年7月に完成させていた。 1940年6月、ドイツ軍のパリ占領を機に、日本政府はイギリス政府に対して申し入れを行い、ビルマおよび香港を経由する蒋介石政府への物資輸送を閉鎖させた。さらに日本は9月の北部仏印進駐により仏印ルートをも遮断した。しかしビルマルートの閉鎖はアメリカの反発により3か月間にとどまった。再開されたビルマルートを遮断するため、日本軍航空部隊は雲南省内の怒江(サルウィン川の中国名)にかかる「恵通橋」と瀾滄江(メコン川上流部の中国名)にかかる「功果橋(現在、中国が建設した Gongguoqiao Dam がある)」を爆撃したが、橋を破壊するまでには至らなかった。 アメリカとしては、ヨーロッパでの戦局を有利に導くためには、蒋介石政府の戦争からの脱落を防ぎ、100万の日本軍支那派遣軍を中国大陸に釘付けにさせ、日本軍が太平洋やインドで大規模な攻勢を行えないような状況を作ることが必要だった。蒋介石政府への軍事援助は、1941年3月以降は「レンドリース法」に基づいて行われるようになった。さらにアメリカは、志願兵という形を取って、クレア・リー・シェンノートが指揮する航空部隊「フライング・タイガース」をビルマへ進出させた。 ===南機関=== 1940年3月、日本の大本営陸軍部は、参謀本部付元船舶課長の鈴木敬司大佐に対し、ビルマルート遮断の方策について研究するよう内示を与えた。鈴木はビルマについて調べていくうちにタキン党を中核とする独立運動に着目した。運動が武装蜂起に発展するような事態となれば、ビルマルート遮断もおのずから達成できるであろう。 鈴木は「南益世」の偽名を使ってラングーンに入り、タキン党員と接触した。そこで鈴木はオンサンたちがアモイに潜伏していることを知り、彼らを日本に招くことを決意する。オンサンたちはアモイの日本軍特務機関員によって発見され日本に到着した。これを契機に陸海軍は協力して対ビルマ工作を推進することを決定し、1941年2月1日、鈴木を機関長とする大本営直属の特務機関「南機関」が発足した。 南機関は、ビルマ独立運動家の青年30名を国外へ脱出させ、軍事訓練を施し、ビルマへ再潜入させて1941年の夏頃に武装蜂起させるという計画を立てていた。1941年2月から6月までの間に、脱出したビルマ青年は予定の30名に達し、ビルマ青年たちは海南島で軍事訓練を受けた。しかし1941年の夏には、ドイツ軍のソ連進攻や、日本の南部仏印進駐とこれに対するアメリカの対日石油禁輸など、国際情勢の緊迫の度は深まっていった。このような情勢下、ビルマでの武装蜂起の計画にも軍中央から待ったがかけられた。 ===日本軍の南方作戦計画=== 1941年夏以降、アメリカやイギリスとの関係悪化を受け、日本軍は南方作戦を具体化していった。11月6日、大本営は南方軍、第14軍、第15軍、第16軍、第25軍の戦闘序列を発し、各軍および支那派遣軍に対し南方作戦の作戦準備を下令した。南方軍総司令官には寺内寿一大将、第15軍司令官には飯田祥二郎中将が親補された。以降陸海軍は、12月8日を開戦予定日として対米英蘭戦争の準備を本格化した。 それまで大本営はビルマへの進攻は考えておらず、南機関の活動は南方作戦計画とは無関係に進められていた。ビルマ作戦の詳細や兵力は開戦時においてすら固まっていなかった。計画では、連合軍の反攻に備える防衛線として、西はおおむねビルマを確保するとされていたが、占領地域を南部ビルマにとどめるのか、あるいはビルマ全土に手を広げるのかは未定だった。日本軍が使用できる兵力も限られており、第15軍を編成した当初の目的は、マレー作戦を実施する第25軍の背後を確保するためであって、ビルマ作戦を実施するためではなかった。ビルマ作戦に関する大本営の考え方は、緒戦の快進撃に応じて逐次具体化されていったのである。 ==日本軍の進攻(1941‐1942年)== 太平洋戦争開戦後間もなく、日本軍はビルマ独立義勇軍の協力のもとイギリス軍を急襲し、首都ラングーンを早期に陥落させた。ビルマ中北部では連合国軍に蒋介石が送った遠征軍も加わり、激戦となったが、日本軍はビルマ全域を制圧した。連合軍は多くの犠牲者と捕虜を残して退却した。 ===日本軍のビルマ進攻作戦=== ====ラングーン陥落==== 1941年12月8日、日本はアメリカ、イギリスへ宣戦布告し太平洋戦争が開始された。開戦と同時に、第33師団および第55師団を基幹とする日本軍第15軍はタイへ進駐し、ビルマ進攻作戦に着手した。まず宇野支隊(歩兵第143連隊の一部)がビルマ領最南端のビクトリアポイント(現在のコートーン(英語版))を12月15日に占領した。南機関も第15軍指揮下に移り、バンコクでタイ在住のビルマ人の募兵を開始した。12月28日、「ビルマ独立義勇軍」(Burma Independence Army, BIA)が宣誓式を行い、誕生を宣言した。 タイ・ビルマ国境は十分な道路もない険しい山脈だったが、第15軍はあえて山脈を越える作戦を取った。沖支隊(歩兵第112連隊の一部)は1942年1月4日に国境を越えてタボイ(現在のダウェイ)へ向かい、第15軍主力は1月20日に国境を越えてモールメン(現在のモーラミャイン)へ向かった。BIAも日本軍に同行し、道案内や宣撫工作に協力した。日本軍は山越えのため十分な補給物資を持っていなかったが、BIAとビルマ国民の協力により、給養には不自由せずに行動できた。さらにビルマの青年たちは次々とBIAへ身を投じた。 モールメンを含むテナセリウム(現在のタニンダーリ管区)を守るイギリス軍は英印軍第17インド師団だった。しかしこの部隊は準備不足で、日本軍の急襲を受けて退却に移り、2月22日、アーチボルド・ウェーヴェルは逃げ遅れた友軍を置き去りにしたままシッタン川の橋梁を爆破した。日本軍はサルウィン川とシッタン川を渡って進撃し、3月8日首都ラングーンを占領した。ウェーヴェルは責任を問われて解任された。 ===連合軍総退却=== アメリカ政府はジョセフ・スティルウェル陸軍中将を中国へ派遣した。スティルウェルは中国で駐在武官として勤務した経験が長く、事情に通じ中国語も堪能だった。蒋介石はビルマルート確保のために遠征軍を送ったが、アメリカ政府は遠征軍をスティルウェルの統一指揮下に置くよう要求し、蒋介石も実質上の指揮権を留保しつつこれに同意した。中国軍はビルマ中北部に到着し、ウィリアム・スリム中将が指揮を引き継いだビルマ軍団、シェンノートの率いるフライング・タイガースとあわせて体勢を整えた。 日本軍では、シンガポール攻略が予想以上に順調に進展したことから兵力に余裕が生じていた。そこでビルマ全域の攻略を推進することとし、第18師団と第56師団をラングーンへ増援した。両軍の戦闘は各地で激戦となった。特に孫立人少将の率いる中国軍新編第38師(中国語版)は4月17日からの3日間、イナンジョン(英語版)において第33師団と激しく戦った。 だが4月29日に第56師団がラシオ(現在のラーショー)を占領して中国軍の退路を遮断し、5月1日に第18師団がマンダレーを占領すると、連合軍は次第に崩れ始めた。第56師団はビルマ・中国国境を越えて雲南省に入り、5月5日怒江の線まで到達した。中国軍は怒江にかかるビルマルートの命脈「恵通橋」を自ら爆破した。 連合軍は総退却に移った。中国軍の大部分は雲南へ、孫立人をはじめとする一部はスティルウェルと共にフーコン河谷を経てインドのアッサム州へ脱出した。スリムのイギリス軍とビルマ総督レジナルド・ドーマン=スミス(英語版)はチンドウィン川を渡りインパール方向へ退却した。5月中旬からビルマは雨季に入り、連合軍の退却は困難をきわめた。将兵は疲労と飢餓とに倒れ、多くの犠牲者と捕虜が残された。5月末までに日本軍はビルマ全域を制圧した。 ===日本軍のインド北東部進攻計画(二十一号作戦)=== 援蒋ルートは実はもうひとつ生き残っていた。アッサム州のチンスキヤ飛行場からヒマラヤ山脈を越えて昆明へ至る「ハンプ越え」(The Hump)と呼ばれる空輸ルートである。危険性が高く、輸送量は月量5,000トンが限度だったが、人と物資の往来は続けられ中国軍は戦力を蓄えていった。日本軍はハンプ越えを遮断すべく、雨季明け後の10月頃を目標に、第18師団と第33師団をもってインド北東部へ進攻する「二十一号作戦」を立案した。だが補給確保の困難を理由に第18師団長牟田口廉也中将も反対し、作戦は実施には至らなかった。 ===日本軍によるビルマ軍政=== 開戦時には日本軍はビルマの全面占領までは意図しておらず、第15軍は軍政部を持っていなかった。那須義雄大佐を長とする軍政部が設置されたのはラングーン占領後である。5月13日、マンダレー北方のモゴク監獄から脱出していたバー・モウが日本軍憲兵隊によって発見された。これまでオンサンもビルマの指導者としてバー・モウを推奨していたこともあって、8月1日、バー・モウを行政府長官兼内務部長官としてビルマ中央行政府が設立され、長官任命式が行われた。 BIAはビルマ作戦が終了した時点で23,000人に膨張していた。規律は弛緩し、部隊への給養も問題となっていたためBIAは解散された。選抜した人員をもって「ビルマ防衛軍」(BDA)が設立された。 日本軍は戦勝後のビルマ独立を予定し、ビルマ国民の軍政への協力を要求する一方で、批判的な民族主義者や若いタキン党員の政治参加は抑圧した。 ==対峙(1943年)== アキャブ(現在のシットウェ)での連合軍の反攻の初動は失敗したが、チンディット部隊は1回目のビルマ進入を果たした。連合国は東南アジア連合軍司令部を創設し、スティルウェルは中国軍の再建に着手した。バー・モウ政府は日本の後押しのもとビルマ独立を宣言したが、日本軍の占領政策には綻びも出てきていた。 ===泰緬鉄道=== タイ・ビルマ国境のテナセリム丘陵(英語版)北部のビラウクタウン(英語版)サブレンジには、イギリスによる鎖国政策のため、鉄道はおろか満足な道路も整備されていなかった。日本軍は補給ルート確保を目的として山脈を越える全長約400キロの鉄道を計画し、建設工事は1942年6月から開始された。工事の指揮は鉄道第5連隊および第9連隊が取り、作業員として捕虜62,000人、募集で集まったタイ人数万人、ビルマ人18万人、マレー人8万人、蘭印人4万人が参加した。日本軍は人海戦術による突貫工事を要求し、雨季の間も強引に工事を進めた。作業現場ではコレラが流行し、約半数とも言われる大量の死者を出した。こうした犠牲のうえに、鉄道は1943年10月に開通した。 ===第一次アキャブ作戦(三十一号作戦、第一次アラカン作戦)=== 1942年から1943年の乾季、ビルマ戦線の連合軍にはまだ本格的反攻に移る余力はなかったが、2つの限定的な作戦を実施した。第1はビルマ南西部のアキャブ(現在のシットウェ)の奪回を目指した作戦、第2は「チンディット」部隊(いわゆるウィンゲート旅団)によるビルマ北部への進入作戦である。 アキャブはベンガル湾に面し、インドとの国境に近い最前線の要地だった。守備隊は宮脇支隊(歩兵第213連隊の一部)だった。1942年12月、イギリス軍第14インド師団が国境を越えて南下した。宮脇支隊はアキャブ前面まで後退し堅固な陣地を構築した。イギリス軍がこれを攻めあぐねている間に、日本軍第55師団が援軍に向かった。1943年3月末、第55師団主力はイギリス軍が横断不可能と判断したアラカン山脈を踏破して第14インド師団の側面を急襲した。奇襲は完全に成功し、第14インド師団は包囲されて大損害を受け、作戦開始地点まで後退した。こうして連合軍の反攻の初動は日本軍の快勝に終わった。 ===第一次チンディット(ロングクロス作戦)=== 第2の作戦はオード・ウィンゲート准将の発案によるものだった。ウィンゲートは非正規部隊を指揮した経験から、小部隊が航空機による補給を受けつつ敵地奥深く進入する長距離挺進作戦を構想していた。ウィンゲートはこの作戦のために第77インド旅団を編成し、「チンディット」の通称を与えた。「チンディット」とはビルマの寺院を守護する神獣「チンテ」に由来する名前である。 1943年2月8日「ロングクロス作戦」が開始され、チンディット部隊3,200名は7個縦隊に分かれインパール方面からビルマ北部へ進入した。各縦隊はアラカン山脈を越え、チンドウィン川を渡り、情報を収集しつつ鉄道や橋梁を爆破、一部はさらにイラワジ川を渡河し中国国境近くまで進出した。日本軍は第18師団を中心に各地から部隊をかき集めて掃討を試みたが、チンディット部隊は優勢な敵と遭遇すれば分散して後退するためつかみどころがなかった。だが小部隊に分散すると航空機による補給も難しくなる。3月24日、ウィンゲートは各縦隊に後退を命じた。 4か月間の作戦行動の末、インドまで帰還したチンディット部隊の将兵は2,182名だった。作戦は戦略的にはさして意味はなかったが、連合軍の部隊が航空機による補給を受けながらジャングルで長期間行動が可能であることを証明した。イギリスへ戻ったウィンゲートは英雄となった。チャーチルはアジアで傷ついたイギリス軍のイメージを回復してくれる人物であると賞賛し、8月のケベック会談にも随行させた。 日本軍は、アラカン山脈とチンドウィン川を防壁とするという構想が覆され衝撃を受けた。特に掃討作戦に奔走させられた第18師団長牟田口廉也中将は、イギリス軍の拠点インパールを攻略せねばビルマの防衛は成り立たないという認識を持つに至り、インパール作戦を構想し始める。 ===連合国側の態勢=== ====東南アジア連合軍司令部創設==== 1943年1月、カサブランカ会談が開かれ、アメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領とイギリスのウィンストン・チャーチル首相は、同年11月頃からのビルマにおける本格的反攻に合意した。イギリス陸軍は戦力を回復しつつあり、空軍は日本軍に対する航空優勢を確立していた。イギリス軍はインパール方面および南西沿岸部から、米中連合軍はフーコン河谷および雲南方面からの反攻を計画していた。 だがビルマに関するイギリスとアメリカの戦略には根本的な不一致があった。イギリスにとってビルマの失陥は、資源供給地であるイギリス領インド帝国への直接の脅威であり、さらには日本とドイツ・イタリアとの連携をも可能にさせるものだった。またイギリスの対日反攻の目標はマレー、シンガポール、香港の奪回であり、その前段階としてラングーンの奪回が必要だった。一方アメリカにとっては、アジアへの経済的依存は限定的だった。アメリカの関心は、援蒋ルートを回復し、中国を連合国につなぎとめることに向けられていた。 8月、指揮統一を目的として東南アジア連合軍司令部が創設された。総司令官にはイギリス王族で海軍中将のルイス・マウントバッテン伯爵が就任した。チャーチルははじめ43歳という伯爵の若さを懸念していたが、経験豊かなヘンリー・パウノル陸軍中将が参謀長として補佐することになった。アメリカ側からはスティルウェルが副総司令官に就任した。司令部はインド・ビルマに加えて東南アジア全域を統括するとされ、戦略全般はワシントンの米英連合参謀本部が立案し、ロンドンのイギリス参謀総長会議を通じて伝達すると決定された。 ===中国軍新編第1軍誕生=== その頃アメリカの中国戦略をめぐってはスティルウェルとシェンノートとが対立していた。フライング・タイガース司令官から昇格してアメリカ陸軍航空軍第14空軍司令官となり、中国空軍を指導していたシェンノートは、中国戦線に戦力を集中すれば制空権確保は可能であると主張した。戦力をビルマへ割くのを渋っていた蒋介石もこれを支持した。しかし、中国戦線での日本軍航空部隊との戦いはシェンノートの主張するようには進展しなかった。 一方スティルウェルは、ハンプ越えだけでは輸送量に限界があるとして、北部の上ビルマを日本軍から奪回し、インドのアッサム州レド(英語版)から国境を越えてカチン州に入り、フーコン河谷からミイトキーナ、ナンカンに至る「Stillwell Road」と、ナンカンから龍陵を経由し昆明へと至るビルマ公路を接続した、「レド公路」を早期に打通すべきと主張した。スティルウェルは、中国兵にアメリカ式の武装と訓練とを施して中国国内で30個師団、インドで数個師団を編成してビルマ北部奪回作戦に投入し、その後さらに中国軍全体を再建するという長期的な構想を持っていた。 スティルウェルはインドに退却してきた中国軍部隊にハンプ越えで空輸された中国兵を加えて、ビハール州(2000年、ジャールカンド州に分割された)のラムガルー野営地(英語版)で「新編第1軍(英語版)」を編成した。軍司令官にははじめ鄭洞国、後に孫立人が任命された。中国国内でも昆明に訓練所が設置された。蒋介石もスティルウェルの主張を認め、ビルマへの再出兵を容認する。 ===枢軸国側の態勢=== ====ビルマ独立と占領政策の綻び==== 日本は戦勝後のビルマへの独立付与を予定していたが、戦勝の見込みは当面立たなかった。一方でビルマ住民の全面的な戦争協力を必要としていた。そこで日本政府は早期のビルマ独立の方針を具体化し、1943年3月10日『緬甸独立指導要綱』を決定した。8月1日、軍政は廃止され、ビルマは独立を宣言し独立記念式典が行われた。国家元首となったバー・モウによって任命された主な大臣は次の通りだった。 首相:バー・モウ副首相:タキン・ミヤ(英語版)財務相:ティン・モン外相:タキン・ヌー国防相:タキン・オンサンビルマ防衛軍は「ビルマ国民軍」(BNA)と改名した。オンサンが国防大臣に就任したため、ビルマ国民軍の司令官にはネ・ウィンが任命された。独立と同時に「日本ビルマ同盟条約」が締結され、ビルマは連合国へ宣戦布告した。南シャン州(東部のケントゥン州とモンパン(英語版)州)がタイへ割譲され、カチン州は防衛上の理由から日本軍の軍政が続けられた。北シャン州(ラシオ(現在のラーショーなどを含む)については、気候風土や民族の違いから、ビルマから分離して日本の永久領土に編入し、日本人の集団移民を送り込もうという議論があった。だがビルマ側からの希望も強く、9月に日本政府は北シャン州のビルマ編入を決定した。 日本軍のビルマ占領は副次的効果を生んだ。ビルマ南部では戦前、インド人地主が農地の半分を所有し、ビルマ人の小作農に貸し付けていた。だがイギリス軍とともに、ビルマ人の敵対行動を恐れた地主たちもインドへ逃げた。バー・モウは放棄された土地をビルマの小作農へ引き渡した。コメの市場としては日本軍がおり、農民の負債は解消された。 だが日本軍の占領政策には綻びも出てきていた。日本軍が征服者意識をもってビルマ国民に接し、彼らを下に見たことは否めない事実だった。また1943年以降、ビルマ全土に対する連合軍の爆撃が激化し、ビルマ国民も被害を受けた。爆撃は生産活動を阻み、交通通信を途絶させた。流通の停滞とともに農民は自家消費分の農作物しか生産しなくなり、次第に食糧不足が顕著になっていった。 ビルマの僧侶は、日本軍が自分たちを宣撫工作に利用しようとすることに憤った。日本式の仏教とビルマの上座部仏教とは大きく異なっていた。妻帯したり従軍したりする日本の僧侶など、ビルマの僧侶からすれば想像を絶した。ビルマ仏教の教えからみれば天皇崇拝や戦死者の慰霊祭は邪教であった。コレラや天然痘の予防接種運動に動員されるのも嫌った。注射針を通じて女の体に触れさせられるからである。日本人は仏教徒同士の連帯を期待したが、期待は空回りに終わった。 日本軍とバー・モウ政権の関係も決して良好とは言えず、4月25日に南方軍ビルマ方面軍参謀副長・磯村武亮の示唆を受けた参謀部情報班所属の浅井得一によるバー・モウ暗殺未遂事件が発生した。 ===自由インド仮政府=== 8月1日の独立記念式典に参列した中にスバス・チャンドラ・ボースがいた。インド独立運動のリーダーの1人だったチャンドラ・ボースは、1943年4月にドイツから日本へ招致され、10月にシンガポールで自由インド仮政府の設立を宣言した。自由インド仮政府は、インド国民軍(INA)の統率を委ねられるとともに、連合国へ宣戦布告した。1944年1月、自由インド仮政府はラングーンへ進出し、インド進撃への熱意を示した。 ===ビルマ方面軍創設=== 日本軍もビルマの戦力を増強していた。それまでの第15軍の4個師団体勢では戦力不足であるため、1943年3月27日、河辺正三中将を方面軍司令官として「ビルマ方面軍」を創設し、その下に第15軍(軍司令官:牟田口廉也中将)を置いた。さらに1944年1月15日ビルマ南部担当の第28軍(軍司令官:桜井省三中将)を、4月8日ビルマ北部担当の第33軍(軍司令官:本多政材中将)を編成し、戦力は最大時で10個師団・3個旅団・1個飛行師団を数えるまでとなった。しかし広大なビルマを防衛することはそれでもなお困難だった。第15軍司令官牟田口中将は、連合軍の機先を制すべくインパール方面で攻勢をとり、その間アキャブ(現在のシットウェ)、フーコン河谷、雲南方面では最小限の兵力で持久するという戦略を主張した。 1943年10月30日、中国軍新編第1軍がフーコン河谷ニンビン(現在の Ningbyen, en:Tanai Township)の日本軍陣地を攻撃した。スティルウェルの構想する「レド公路」打通作戦の第一歩だった。連合軍の本格的反攻が開始されたのである。 ==連合軍の反攻(1944年)== 連合軍はフーコン戦線で反攻を開始した。日本軍はインパール作戦によりその機先を制しようとしたが、作戦は惨憺たる失敗に終わり、ビルマ方面軍の戦力は決定的に低下した。雲南では中国軍が怒江を越え、拉孟と騰越の日本軍守備隊は包囲され玉砕した。米中連合軍はレド公路打通を達成した。 ===フーコン作戦=== フーコン河谷は、ミイトキーナに近いモウガンからシンブイヤン(中国語版)を経てインド国境の”Hell Pass”(英語版)に達する、東西30キロから70キロ、南北200キロの大ジャングル地帯である。米中連合軍がフーコン河谷へ進攻したとき、ビルマ方面軍はインパール作戦の準備に追われていた。フーコン河谷を守備する第18師団に対しては、インパール作戦の勝利のときまで持久するよう任務を課した。 フーコン河谷の連合軍は、スティルウェルの指揮する中国軍新編第1軍(通称「インド遠征軍」)とアメリカ軍第5307混成部隊(通称「ガラハッド」部隊または「メリルズ・マローダーズ(英語版)」)だった。1943年12月24日、中国軍第38師はユパンガを守備する日本軍を攻撃し勝利した。中国兵は日本軍の精鋭部隊に対する初めての勝利に狂喜した。 厳しい環境と日本軍の持久戦により、フーコンでの戦闘はのろのろと続いた。 米中連合軍は日本軍の包囲殲滅に何度も失敗した。孫立人ら中国軍指揮官は補給の困難さを理由に統制前進を行なったためスティルウェルを激怒させた。 ===第二次チンディット(サーズデイ作戦)=== チンディット部隊は増強され第3インド師団と改名されていた。1944年2月、フーコン河谷での米中連合軍の作戦を支援するため、チンディット部隊は2回目のビルマ侵入作戦「サーズデイ作戦」を開始した。3月5日、大量のグライダーを使用した空挺作戦により、3個旅団9,000名がマンダレー・ミイトキーナ間に降下し、フーコン河谷で苦闘を続ける第18師団への補給路を切断した。だが指揮官オード・ウィンゲート少将は3月24日、飛行機事故により不慮の死をとげた。 日本軍は再び部隊をかき集めて掃討に努めた。第53師団の掃討部隊4千人はモール付近でチンディット部隊と激しい戦闘となった。 チンディット部隊はモールに陣地を構築し、空輸された増援も含めた1万6千人が立て篭もった。日本軍は4月初めに軽戦車や重砲も繰り出して攻撃したがゲリラ部隊による機動戦と陣地戦を併用したイギリス軍の戦術に撃退され、18日に後退した。 5月、モールのチンディット部隊がインドへ撤退したため第53師団は補給路の回復に成功したものの、陸路で後退するチンディット部隊を完全に捕捉することはできなかった。フーコン河谷では第18師団が補給を回復したのもつかの間、カマインで退路を絶たれ玉砕の危機に至った。6月末、第18師団は退路を切り開きフーコン河谷から撤退した。 第18師団の捕捉に失敗したことは米英中の連帯不足が原因であり、スティルウェルにとって不満の残る結果だった。 ===第二次アキャブ作戦(ハ号作戦、第二次アラカン作戦)=== ビルマ南西部ではイギリス軍第15軍団が再度アキャブへ向けて前進していた。日本軍は2月、アキャブ北方のシンゼイワ盆地において、桜井徳太郎少将が指揮する第55師団桜井支隊が東方から第7インド師団の側背に進出し、正面からの師団主力とともにこれを包囲した。戦況は第一次アキャブ作戦の再来となるかに見えた。だがイギリス軍は戦車と野砲を円形に配置し、航空機による補給を行って戦線を維持した。日本軍はこの空地一体の「円筒陣地」(Admin Box)を崩すことができなかった。イギリス軍が救援を差し向けると、日本軍は2月26日包囲を解いて後退した。 ===インパール作戦(ウ号作戦)=== ====作戦計画==== インド北東部マニプル州の中心都市インパールは、ビルマ・インド国境部の要地であり、イギリス軍の反攻拠点だった。第15軍司令官牟田口廉也中将は、インパールの攻略によって連合軍の反攻の機先を制し、さらにインド国民軍によってインド国土の一角に自由インド仮政府の旗を立てさせることでインド独立運動を刺激できると主張した。牟田口はさらにナガランド州ディマプルへの前進をも考えていた。これが成功すれば、ハンプ越えの援蒋ルートを絶ち、スティルウェル指揮下の米中連合軍への補給も絶つことができる。 牟田口の案は、第15軍の3個師団(第15、第31、第33師団)に3週間分の食糧を持たせてインパールを急襲し占領するというものだった。そのためには川幅1,000メートルのチンドウィン川を渡河し、標高2,000メートル級のアラカン山脈を踏破せねばならない。さらに困難な問題は作戦が長期化した場合の前線部隊への補給だった。ビルマ方面軍は当初牟田口の案を無謀と判断したが、南方軍と大本営は最終的にこの案を支持した。背景には、各方面で敗北続きの戦局を打開したいという軍中央の思惑があったと言われる。 ===抗命=== 第33師団は1944年3月8日に、第15師団と第31師団は3月15日に作戦を発起し、インパールとコヒマへ向けて前進した。作戦は順調に進むかに見えたが、この地域を守備していたイギリス第4軍団の後退は予定の行動だった。インパール周辺まで後退し、日本軍の補給線が伸びきったところを叩くのがイギリス第14軍司令官ウィリアム・スリム中将の作戦だったのである。 3月29日、第15師団の一部が、インパールへの唯一の地上連絡線であるコヒマ・インパール道を遮断した。4月5日、宮崎繁三郎少将の率いる歩兵第58連隊がコヒマへ突入した。だがイギリス第33軍団が反撃に移り、コヒマをめぐる戦いは長期化した。南からの第33師団の前進もイギリス軍の防衛線に阻まれていた。日本軍はイギリス第4軍団をインパールで包囲したものの、イギリス軍は補給物資を空輸して持ちこたえた。 第33師団長柳田元三中将は作戦中止を意見具申したが、牟田口は柳田を罷免した。第15師団長山内正文中将は健康を害して後送された。やがて雨季が訪れた。日本軍の前線部隊は作戦開始以来満足な補給を受けておらず、弾薬は尽き飢餓に瀕していた。第31師団長佐藤幸徳中将はたびたび軍司令部へ補給を要請するが、牟田口は空約束を繰り返すのみで、やがて両者が交わす電報は感情的な内容に変わっていった。激怒した佐藤は6月1日に独断で師団主力を撤退させた。 作戦成功の望みがなくなったにも関わらず、牟田口は攻撃命令を出し続けた。第33師団は、新しい師団長田中信男中将の指揮の下、インパール南側の防衛線ビシェンプール(英語版)への肉弾攻撃を繰り返すが、死傷者の山を築いた。 ===白骨街道=== 撤退した第31師団の最後尾を務めた宮崎繁三郎少将は、歩兵第58連隊を率い、インパール救出を目指すイギリス第33軍団の前進を巧みな戦術で遅らせ続けた。だが6月22日、ついにイギリス第4軍団と第33軍団がコヒマ・インパール道(英語版)上で握手した。7月3日日本軍は作戦中止を正式に決定した。将兵は豪雨の中、傷つき疲れ果て、飢えと病に苦しみながら、泥濘に覆われた山道を退却していった。退却路に沿って死体が続く有様は「白骨街道」と呼ばれた。 インパール作戦は、イギリス軍側の損害17,587名に対し、日本軍は参加兵力約85,600名のうち30,000名が戦死・戦病死し、20,000名の戦病者が後送された。インパール作戦の失敗はビルマ方面軍の戦力を決定的に低下させた。また、作戦にはインド国民軍7,000名が参加し、占領地の行政は自由インド仮政府に一任すると協定されていたが、作戦の失敗により雲散霧消した。 抗命事件を起こした佐藤は精神錯乱として扱われ軍法会議への起訴は見送られた。ビルマ方面軍司令官河辺正三中将、参謀長中永太郎中将、第15軍司令官牟田口廉也中将らは解任され、後任にはそれぞれ木村兵太郎中将、田中新一中将、片村四八中将が任命された。 ===ミイトキーナの戦い=== ビルマ北部では5月17日、ガラハッド部隊を中心とする空挺部隊と地上部隊がミイトキーナ(現在のミッチーナー)郊外の飛行場を急襲し奪取した。ミイトキーナはビルマ北部最大の要衝であり、インド・中国間の空輸ルートの中継点でもあった。守備兵力は丸山房安大佐の指揮する歩兵第114連隊だったが、各地に兵力を派遣し、手元の兵力はわずかだった。 この危急に第56師団から増援部隊を率いてかけつけた水上源蔵少将に対して、第33軍作戦参謀辻政信大佐は、「水上少将はミイトキーナを死守すべし」という個人宛の死守命令を送った。ミイトキーナでは、ガラハッド部隊と中国軍新編第1軍および新編第6軍の攻撃を、水上と丸山の指揮する日本軍が迎え撃ち激闘が展開された。だが日本軍は限界に達し、8月2日、水上は生き残った将兵に脱出を命じた後、死守命令違反の責任を取って自決した。 ミイトキーナ飛行場の占領で、従来の危険なハンプ越えのルートは大きく改善された。攻防戦の最中にも、輸送量は7月には25,000トンという実績を示した。8月2日、スティルウェルは大将へ昇進した。 ===AFPFL結成=== ビルマは独立を達成したものの、日本は戦争への協力を要求し、バー・モウのビルマ政府の政策も日本軍優先とならざるを得なかった。またインパール作戦の失敗により日本の敗北は明白な情勢となってきた。8月1日の独立一周年式典で、オンサンは「われわれの独立は紙の上の独立に過ぎない」と演説した。この頃オンサンらは多方面の勢力との接触を持ったらしい。8月から9月にかけて、抗日運動の秘密組織「反ファシスト人民自由連盟」(AFPFL)が結成され、タキン党、共産党、ビルマ国民軍をはじめ、農民、労働者の諸団体、少数民族の政治結社も加わり、勢力を拡大していった。日本軍はこの動きを察知できなかった。 ===拉孟・騰越の戦い(断作戦、サルウィン作戦)=== ====断作戦==== 1944年4月、蒋介石は中国軍のビルマへの再出兵を決断した。5月11日夜半、衛立煌大将を司令官とする16個師の中国軍雲南遠征軍が怒江を渡った。守備する第56師団は、騰越、拉孟、平戞、龍陵などの要地を固めるとともに、機動兵力による果敢な反撃を行った。しかし中国軍は圧倒的な兵力をもって各地の守備隊を包囲した。 ビルマ方面軍は第33軍(第18、第56師団)へ第2師団を増援するとともに、ビルマルート遮断の堅持を命じ「断作戦」を発令した。第33軍は各地の守備隊を救出すべく反撃に移り、9月上旬に龍陵を解囲し、平戞守備隊を救出したものの、拉孟と騰越の救出はできなかった。 ===拉孟・騰越の戦い=== 拉孟は、ビルマルートが怒江を横切る「恵通橋」の近くの陣地である。陣地は標高2,000メートルの山上に位置し、深さ1,000メートルの怒江の峡谷を隔てて中国軍と向かい合う最前線だった。日本軍は歩兵第113連隊を守備隊とし陣地設備を強化していた。6月2日、中国軍が拉孟を包囲したとき、連隊長松井秀治大佐は出撃中だった。金光恵次郎少佐以下1,270名の守備隊は、41,000名の中国軍の攻撃をたびたび撃退した。だが9月7日、木下正巳中尉と兵2名を報告のため脱出させた後、拉孟守備隊は玉砕した。 騰越は、連隊長蔵重康美大佐の指揮する歩兵第148連隊が守備していた。騰越は中世式の城郭都市であり、周囲を高地に囲まれ、近代戦の戦場としては守備の難しい地勢だった。騰越周辺での戦闘は6月27日に開始された。守備兵力は2,025名、攻囲する中国軍は49,600名だった。蔵重は8月13日に戦死し、大田正人大尉が代わって指揮を取った。8月下旬以降城壁は破壊され市街戦が展開された。守備隊は9月13日に玉砕した。 ===レド公路打通=== 太平洋方面の戦局悪化により、断作戦の目的も、ビルマルート遮断の堅持から、後退しつつ時間を稼ぐことに変わっていった。任務の変化に伴って第2師団はサイゴンへ転用され、断作戦は第18師団と第56師団のみで継続された。ミイトキーナ、拉孟、騰越を攻略した米中連合軍は、補充ののち進撃を再開した。雲南遠征軍は11月初旬に龍陵を攻略、ビルマ領内へ兵を進めた。インド遠征軍は12月15日にバーモを攻略した。第33軍は「15対1」の兵力差となるなか、持久戦を続けた。 1945年1月27日、雲南遠征軍とインド遠征軍はついにレド公路上で握手した。ラングーン陥落から2年半、ビルマルート遮断は終わりを告げたのである。物資を満載したトラック群は昆明へと向かっていった。目的を達成した蒋介石は中国軍を順次帰国させた。 ==終戦(1945年)== 日本軍はイラワジ会戦で決戦を試みたが、イギリス軍に圧倒され全面崩壊の様相を呈した。オンサンが率いるビルマ国民軍も日本軍に対して銃口を向け、イギリス軍はラングーンを奪回した。退路を絶たれた第28軍は敵中突破作戦を計画した。第28軍が大きな犠牲を払いつつ作戦を成功させた頃、終戦が訪れた。 ===イラワジ会戦=== ====盤作戦==== 1944年のインパールでの戦いに勝利したイギリス軍はそのまま追撃に移ろうとしたが中国方面における日本軍の大陸打通作戦によるアメリカ軍航空部隊の配置換えにより一時的に満足な航空支援が受けられなくなった。そのため翌年までのろのろとした追撃戦が続いた。 1945年1月、インパール作戦に敗れた第15軍はイギリス第14軍の追撃を受けつつ、ビルマ中部の中心都市マンダレー付近のイラワジ川の線まで後退していた。米中連合軍がレド公路打通を達成した以上、ビルマの戦略的価値は大きく低下しており、日本軍でもタイ国境まで後退すべきとする意見もあった。だがビルマ方面軍参謀長田中新一中将は、第15軍に「盤作戦」を、第28軍に「完作戦」を命じた。「盤作戦」はイラワジ川を防衛線としてイギリス軍を機に応じて撃滅するという強気の作戦、「完作戦」はベンガル湾沿いを防衛する作戦である。 だが、第15軍の4個師団(第15、第31、第33、第53師団)はそれぞれ実力1個連隊の戦力にまで損耗していた。それをイラワジ川沿いの200キロ以上の広正面に配置したところで有効な防御戦闘は困難だった。さらに、ビルマ中部の大平原は、乾季には砂漠のような荒涼たる大地に変貌する。制空権を持ち機動力に富むイギリス軍にとっては格好の舞台であるが、機動力を持たない日本軍にとっては苦しい戦場だった。 ===メイクテーラ攻防戦=== 「盤作戦」は出だしからつまづいた。スリムは第33軍団をマンダレーへ向かわせて日本軍を引きつけつつ、2月17日第4軍団をチンドウィン川とイラワジ川の合流点の下流で渡河させ、第17インド師団と第255インド機甲旅団を第15軍背後の要衝メイクテーラ(現在のメイッティーラ)へ向けて突進させた。機械化部隊の進撃速度は日本軍の想像を超えていた。メイクテーラの守備兵力は急遽かけつけた歩兵第168連隊の他は後方部隊ばかりで、3月3日イギリス軍に制圧された。 日本軍はシャン高原(英語版)から第33軍司令部を抽出し、これに第18師団と第49師団を配属して、メイクテーラの奪回を図った。日本軍はメイクテーラを包囲し、肉弾攻撃と夜襲を反復したものの、イギリス軍の機械化部隊に対して、十分な対戦車装備を持たない日本軍は一方的な打撃を被った。 その頃マンダレーでは第19インド師団が市内へ突入していた。死守を命じられた第15師団は激しく抵抗し市街戦となったが、幹部が相次いで死傷し、これまでと判断した片村四八軍司令官は独断で撤退を命じた。イラワジ河畔では第15軍の将兵が連日炎暑に耐えて苦闘を続けていたが、イギリス軍は至るところから突破し、戦線は次第に全面崩壊の様相を呈した。3月28日、日本軍はメイクテーラ奪回を断念し、盤作戦を中止した。第15軍はシャン高原へ後退した。 ===完作戦(第三次アラカン作戦)=== ビルマ南西部ではイギリス軍第15軍団がアキャブへ向けて前進していた。ビルマ西部の防衛は第28軍の担当で、第54、第55師団の二個師団だけだった。 日本軍はアキャブからイラワジ河周辺までに縦深の防衛線を張り、ラムリー島などの海岸地区を持久地帯、ラングーン周辺を機動反撃地帯とし、エナンジョンからラングーンまでの線の確保を目的とする完作戦を発令していた。 アキャブは1月3日に陥落したが、第28軍主力は既にここを撤退していた。次いでイギリス軍は1月21日、航空基地確保のためラムリー島(ラムレー島)へ上陸し、約1ヶ月の戦闘で日本軍を撤退に追い込んだ。第28軍は第55師団をイラワジ戦線へ抽出し、兵力は宮崎繁三郎中将の率いる第54師団のみとなっていたが、アラカン山脈へ後退しつつ抵抗を続けた(170高地の戦い(英語版))。 ===ビルマ国民軍離反=== 3月17日、アウンサンが率いるビルマ国民軍の出陣式がラングーンのシュエダゴォン・パゴダ前広場で行われた。バー・モウは「断固として敵を討て」と演説したが、すでにイラワジ戦線の崩壊によって日本軍の敗北は明白だった。アウンサンが日本と結んだのはビルマの独立のためであって、日本と心中する意思など持っていなかった。 3月27日、ビルマ国民軍11,000名はアウンサンの指揮のもと、AFPFLの旗を掲げ、日本軍に対して銃口を向けた。日本軍は背後からも攻撃を受けることになったのである。バー・モウのビルマ政府も崩壊の一途をたどってゆく。 ===ラングーン奪回=== イラワジ会戦で日本軍を粉砕したイギリス軍は雨季の到来前にラングーンを奪回すべく、第33軍団がイラワジ川沿いを、第4軍団がシッタン川沿いを南下した。日本軍は第28軍にイラワジ川沿い、第33軍にシッタン川沿いでの防戦を命じたが、防衛線は相次いで突破され、イギリス第4軍団の先頭は4月25日にラングーン北方のペグー(現在のバゴー)まで到達した。 4月23日、ビルマ方面軍司令官木村兵太郎大将は、ビルマ政府や日本人居留民に対する処置も明らかにしないまま、ラングーンを放棄し東方のモールメンへ脱出した。大混乱の中、イギリス軍は5月2日にラングーンを奪回した。イラワジ川下流部でイギリス第33軍団と戦っていた第28軍は、退路を絶たれ敵中に孤立してしまった。 ===イギリス軍のマレー進攻計画=== イギリス軍は次の目標であるマレーおよびシンガポールの奪回のため、「ジッパー作戦(英語版)」の準備を開始した。予定では9月9日にクアラルンプール南西岸に上陸作戦を行い、9月末頃シンガポールを奪回することとなっていた。8月には作戦準備がかなり進展していたが、8月15日マウントバッテンは全ての作戦の中止を命じた。 ===シッタン作戦=== 第28軍は、イギリス軍のラングーンへの急進撃により、退路を絶たれペグー山系(英語版)に追い詰められていた。ペグー山系はイラワジ川とシッタン川とに挟まれた標高500メートル内外の丘陵地帯で、竹林に覆われている。雨季が到来し、イギリス軍の作戦行動は不活発となっていたが、第28軍の食糧の手持ちは7月末が限界となっていた。将兵は竹の小屋で雨をしのぎ、筍粥で飢えをしのいだが、食塩の欠乏症に苦しんだ。食塩が欠乏すると、筋力が低下し、しまいには立っていられなくなるのである。 7月、雨季は最盛期に入り、河川は氾濫し、平地は沼地に変わった。ようやく兵力の集結を終えた第28軍は敵中突破作戦を計画した。闇にまぎれてペグー山系を脱出し、広大な冠水地帯を横断し、増水したシッタン川を竹の筏で渡るのである。シッタン川を防御していた第33軍は川を越えて第7インド師団へ牽制攻撃をかけた。戦いは胸の高さまで達する泥水の中で行われた。 7月下旬、第28軍は十数個の突破縦隊に分かれて一斉にシッタン川を目指した。将兵は筏に身を託して濁流へ身を投じた。体力の衰えていた者は濁流を乗り切ることができず、水勢に呑まれて流されていった。第28軍は34,000名をもってペグー山系に入ったが、シッタン川を突破できた者は15,000名に過ぎなかった。こうして第28軍が敵中突破を大きな犠牲を払いつつ成功させた頃、8月15日の終戦が訪れた。 ==影響== ===ビルマ=== 戦争はビルマの経済に大きな被害を与えた。鉄道は機関車の85パーセントを欠損し、ラングーンの港湾施設は破壊された。農民の生産手段も多くが奪われ、農地は放置されて荒廃した。コンバウン王朝の旧王宮のあったマンダレーや瀟洒な文化都市メイクテーラは激戦地となって破壊しつくされ、貴重な歴史遺産は失われた。 バー・モウとチャンドラ・ボースはビルマを脱出した。チャンドラ・ボースはソ連へ向かおうとしたが、台湾で飛行機事故により死亡した。バー・モウは日本の新潟県に潜伏した。協力者はイギリス政府の報復を恐れたが、バー・モウは1946年1月にGHQへ出頭した。結局イギリス政府は罪を問わず、バー・モウは8月にビルマへ帰国した。 反乱を起こしたオンサンは1945年5月16日にマウントバッテンと会談した。イギリス側にはオンサンを殺人者として訴追すべしとする意見もあったが、マウントバッテンはこの若き国民的英雄を是非とも味方につけるべきと考えた。両者は、ビルマ国民軍が「ビルマ愛国軍」と改称した上で連合軍の指揮下に入ることに合意した。 日本軍の占領下で、ビルマの指導者たちの力は強まった。小なりとはいえ軍隊を運営し、統治の方法を学んだのである。彼らの軍隊はイギリス政府との独立交渉において無視しえない力となった。オンサンは軍を去ってAFPFL総裁に就任し独立問題に専念した。だがオンサンは1947年7月に暗殺され、ウ・ヌーがAFPFL総裁を引き継いだ。1948年1月4日、ビルマはウ・ヌーを首班として独立を達成した。 ===イギリス=== ビルマの戦いにおいて、イギリス軍および英連邦諸国軍は戦死者14,326名、負傷者・行方不明・捕虜59,583名の犠牲者を出した。イギリスはビルマの戦いの最大の勝利者となり、英印軍の歴史の最後を栄光で飾った。しかしビルマは独立とともにイギリス連邦から離脱する道を選んだ。 最後のイギリス領インド帝国総督となったマウントバッテンは1947年8月15日、インドの独立式典に立ち会ってネルーへ権限を委譲し、アジアから去っていった。 ===アメリカと中国=== ビルマの戦いでの中国軍(国民党軍)は10万名が戦死、編成時3,000名を擁していたアメリカ軍メリルズ・マローダーズ(英語版)は、ミイトキーナの戦いまでの間に戦死・負傷・戦病を含め8割の損害を被った。 アメリカは勝利によって援蒋ルートを回復し、中国を連合国につなぎとめることに成功した。しかし米中連合軍がレド公路打通を達成したとき、最大の功労者スティルウェルの姿はそこにはなかった。スティルウェルは1944年10月19日、蒋介石によって中国軍における役職を剥奪され、ワシントンへ召還されていた。その理由はスティルウェルがルーズベルトを介し、中国軍全体の抜本改革を任せるよう要求したことに対して、蒋介石が反発したことが原因だった。 もしスティルウェルの計画が完全に実施されていたら、中国国民党軍が中国共産党軍に敗れることもなかったかもしれない。蒋介石政府へのアメリカの巨額の軍事援助は水泡に帰し、アメリカは中国大陸を制圧した共産主義政権と、朝鮮戦争、ベトナム戦争を戦うことになるのである。ただしトルーマン政権のアジア政策も対中政策を最も重要視し、国共内戦の調停を成立させることによって中国の「大国化」を達成しようとしたが、蒋介石は最大の援助国アメリカの内戦回避の意向を無視して内戦を起こしたことでアメリカは中国の経済援助政策を打ち切り(当初は軍事支援は受けていた)、さらにアメリカも中国内戦から撤退したため、蒋介石自身にも非はある。 ===日本=== 日本は敗戦によりアジアにおける全ての領土的権益を喪失した。ビルマ方面作戦に参加した303,501名の日本軍将兵のうち、6割以上にあたる185,149名が戦没し、帰還者は118,352名のみであった。 このような状況から帰還兵達は「ジャワの極楽、ビルマの地獄、死んでも帰れぬニューギニア」と評したという。 ===賠償と国交の回復=== ビルマとの間には1954年11月5日に「日本とビルマ連邦との間の平和条約」と賠償および経済協力協定を締結し、翌年4月の発効により正式に国交関係を確立した。この賠償に際し、日本との合弁事業によって国家の振興を図ることが検討され、戦争により破壊された鉄道、通信網の建設、内陸水路の復旧や、ラングーン港などの沈船の引き揚げ、インパールの南方100マイル程の地点に発見されたカレワ(英語版)にある炭田の開発、戦争で破壊された亜鉛製練所などが第21国会参院通商産業委員会にて検討されている。結局日本は2億ドル(720億円)の戦争賠償と5000万ドル(180億円)の経済協力をビルマへ供与した。 戦争後、主要国でビルマと最も友好的な関係を維持したのは、ビルマの戦いに敗れた日本だった。ネ・ウィンをはじめとするBIA出身のビルマ要人は日本への親しみを持ち続け、クーデターによって大統領となったネ・ウィンは訪日のたびに南機関の元関係者と旧交を温めた。これは南機関の遺産とも言えよう。1981年4月には、ミャンマー政府が独立に貢献した南機関の鈴木敬司ら旧日本軍人7人に、国家最高の栄誉「アウンサン・タゴン(=アウン・サンの旗)勲章」を授与している。 戦後間もない時期に『ビルマの竪琴』がベストセラーとなった。このことについて、馬場公彦は日本人の加害責任を認めながらも、ビルマ仏教の平和思想を身勝手に解釈することで、責任の痛覚からは免れているものと主張している。現在のミャンマーの国定教科書では、戦時下の日本をファシスト、イギリスを帝国主義者と記述している。 1962年にはこの戦いに従軍し虜囚として生活を送った歴史学者の会田雄次が、『アーロン収容所』を刊行した。同書は基本的には創作物である『ビルマの竪琴』と異なり、著者の体験記である。植民地支配の先駆者である英国人の性悪的な面に焦点を当てた内容で、版を重ねてロングセラーとなった。中公文庫の裏表紙では「西欧ヒューマニズムに対する日本人の常識を根底から揺さぶり、西欧観の再出発を余儀なくさせ」たと説明している。 ===遺骨収集、慰霊=== 上記の厚生省による集計の件とは別に、20数万以上の遺骨がビルマの戦跡に放置されたと下記の国会で言われることとなり、遺族から収集のための尽力について運動がなされた。その結果、バンドン会議に出席した黒川信夫がビルマ政府の要路に働きかけたのを契機に大日本遺族会、全日本仏教会などが活動を活発化させ、第22国会(1955年)から第24国会(1956年)において「海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会」でインパールを中心としたビルマ方面への遺骨収集、慰霊団の派遣が議論され実行に至っている。当時衆議院議員になっていた辻政信もこうした遺骨収集への配慮を求めた。そして1956年1月末より、政府職員6名、宗教代表2名、遺族代表4名からなるビルマ派遣団が派遣されている。なお、最初の派遣団が出発するまでに8万柱余りの遺骨が国内に送還されていた。派遣団は2月18日マンダレーヒルを皮切りに、インパール、続いて3月13日ラングーンで追悼式を実施した。この派遣団が収集した遺骨は1351柱、残りは8万7000余りと考えられた。現地人もまた戦争の記憶が残っている時期だったが、対日感情は良好で歓迎を受けた。しかし、現地の治安が良好ではなく、収集団には軍の護衛がつけられている。 また、インパール作戦に反対だった片倉衷も遺骨収集に尽力した一人である。ビルマ戦線で亡くなった兵士の遺族等は「全ビルマ戦友団体連絡会議」を結成し、1974年から慰霊碑の建立まで3回に渡り遺骨収集を実施している。 しかし戦場跡がインドとミャンマーの国境地帯であったことから民族対立が絶えず、外国人の出入りは厳しく制限され、遺骨収集にも障害となっていた。一方で、インパール作戦から半世紀余りが経過した1993年、同会議の働きかけが実を結び、当時のインド首相ナラシンハ・ラーオが来日時に「建立を認める」と発言しインパール市ロクパチンのレッドヒルと呼ばれている場所に用地を提供、ビアク島の戦いで戦死した日本兵の慰霊碑建立と同年度の日本政府予算で建立が決定した。慰霊碑は菊竹清訓の設計で1994年3月25日に完成した。慰霊碑には次のような碑文が刻まれている。 さきの大戦においてインド方面で戦没した人々をしのび平和への思いをこめるとともに日本インド両国民の友好の象徴としてこの碑を建立する ― インド平和記念碑 2010年現在でも、キャラウェイツアーズのように慰霊ツアーをメニューに用意する旅行代理店がある。 ==参加兵力== ===日本軍進攻時(1942年4月頃)=== ====日本軍==== 第15軍 ‐ 司令官:飯田祥二郎中将、参謀長:諫山春樹少将、参謀副長:守屋精爾大佐 1941年12月の開戦時兵力 第33師団 ‐ 師団長:桜井省三中将、歩兵第213、第214、第215連隊、山砲兵第33連隊、工兵第33連隊、輜重兵第33連隊基幹 第55師団 ‐ 師団長:竹内寛中将、歩兵第112、第143連隊、騎兵第55連隊、山砲兵第55連隊、工兵第55連隊、輜重兵第55連隊基幹(歩兵団司令部および歩兵第144連隊その他)は、大本営直轄の南海支隊(支隊長:第55歩兵団長堀井富太郎少将)として南太平洋へ分派) 1942年3月編入の部隊 第18師団 ‐ 師団長:牟田口廉也中将、歩兵第23旅団司令部(旅団長:佗美浩少将)、歩兵第55、第56、第114連隊、山砲兵第18連隊、工兵第12連隊、輜重兵第12連隊基幹(歩兵第35旅団司令部および歩兵第124連隊その他は、大本営直轄の川口支隊(支隊長:歩兵第35旅団長川口清健少将)としてボルネオ島へ分派) 第56師団 ‐ 師団長:渡辺正夫中将、歩兵第113、第146、第148連隊、野砲兵第56連隊、捜索第56連隊、工兵第56連隊、輜重兵第56連隊基幹 戦車第1、第14連隊 独立工兵第4、第20連隊 鉄道第5連隊1941年12月の開戦時兵力 第33師団 ‐ 師団長:桜井省三中将、歩兵第213、第214、第215連隊、山砲兵第33連隊、工兵第33連隊、輜重兵第33連隊基幹 第55師団 ‐ 師団長:竹内寛中将、歩兵第112、第143連隊、騎兵第55連隊、山砲兵第55連隊、工兵第55連隊、輜重兵第55連隊基幹(歩兵団司令部および歩兵第144連隊その他)は、大本営直轄の南海支隊(支隊長:第55歩兵団長堀井富太郎少将)として南太平洋へ分派)第33師団 ‐ 師団長:桜井省三中将、歩兵第213、第214、第215連隊、山砲兵第33連隊、工兵第33連隊、輜重兵第33連隊基幹第55師団 ‐ 師団長:竹内寛中将、歩兵第112、第143連隊、騎兵第55連隊、山砲兵第55連隊、工兵第55連隊、輜重兵第55連隊基幹(歩兵団司令部および歩兵第144連隊その他)は、大本営直轄の南海支隊(支隊長:第55歩兵団長堀井富太郎少将)として南太平洋へ分派)1942年3月編入の部隊 第18師団 ‐ 師団長:牟田口廉也中将、歩兵第23旅団司令部(旅団長:佗美浩少将)、歩兵第55、第56、第114連隊、山砲兵第18連隊、工兵第12連隊、輜重兵第12連隊基幹(歩兵第35旅団司令部および歩兵第124連隊その他は、大本営直轄の川口支隊(支隊長:歩兵第35旅団長川口清健少将)としてボルネオ島へ分派) 第56師団 ‐ 師団長:渡辺正夫中将、歩兵第113、第146、第148連隊、野砲兵第56連隊、捜索第56連隊、工兵第56連隊、輜重兵第56連隊基幹 戦車第1、第14連隊 独立工兵第4、第20連隊 鉄道第5連隊第18師団 ‐ 師団長:牟田口廉也中将、歩兵第23旅団司令部(旅団長:佗美浩少将)、歩兵第55、第56、第114連隊、山砲兵第18連隊、工兵第12連隊、輜重兵第12連隊基幹(歩兵第35旅団司令部および歩兵第124連隊その他は、大本営直轄の川口支隊(支隊長:歩兵第35旅団長川口清健少将)としてボルネオ島へ分派)第56師団 ‐ 師団長:渡辺正夫中将、歩兵第113、第146、第148連隊、野砲兵第56連隊、捜索第56連隊、工兵第56連隊、輜重兵第56連隊基幹戦車第1、第14連隊独立工兵第4、第20連隊鉄道第5連隊第3飛行集団 ‐ 集団長:菅原道大中将第5飛行集団 ‐ 集団長:小畑英良中将 ===連合軍=== ビルマ軍 ‐ 軍司令官:ハロルド・アレクサンダー大将 ビルマ軍団 ‐ 軍団長:ウィリアム・スリム中将 第7機甲旅団 第1ビルマ師団 ‐ 第1、第2ビルマ旅団 第17インド歩兵師団 ‐ 第16、第48、第63インド歩兵旅団 第13インド歩兵旅団ビルマ軍団 ‐ 軍団長:ウィリアム・スリム中将 第7機甲旅団 第1ビルマ師団 ‐ 第1、第2ビルマ旅団 第17インド歩兵師団 ‐ 第16、第48、第63インド歩兵旅団 第13インド歩兵旅団第7機甲旅団第1ビルマ師団 ‐ 第1、第2ビルマ旅団第17インド歩兵師団 ‐ 第16、第48、第63インド歩兵旅団第13インド歩兵旅団アメリカ義勇軍「フライング・タイガース」 ‐ 司令官:クレア・リー・シェンノート中国軍 遠征第一路軍(在ビルマ中国遠征軍) ‐ 総指揮官:ジョセフ・スティルウェル米陸軍中将、副指揮官:羅卓英中将 第5軍 ‐ 第200師、新編第22師、第96師 第6軍 ‐ 暫編第55師、第49師、第93師 第66軍 ‐ 新編第28師、新編第38師、新編第29師 以上のほか、怒江方面に増援したもの 第71軍 ‐ 第36師、第88師、予備第2師 雲南軍 ‐ 第6旅遠征第一路軍(在ビルマ中国遠征軍) ‐ 総指揮官:ジョセフ・スティルウェル米陸軍中将、副指揮官:羅卓英中将 第5軍 ‐ 第200師、新編第22師、第96師 第6軍 ‐ 暫編第55師、第49師、第93師 第66軍 ‐ 新編第28師、新編第38師、新編第29師第5軍 ‐ 第200師、新編第22師、第96師第6軍 ‐ 暫編第55師、第49師、第93師第66軍 ‐ 新編第28師、新編第38師、新編第29師以上のほか、怒江方面に増援したもの 第71軍 ‐ 第36師、第88師、予備第2師 雲南軍 ‐ 第6旅第71軍 ‐ 第36師、第88師、予備第2師雲南軍 ‐ 第6旅 ===連合軍反攻時(1944年4月頃)=== 緬甸方面軍 「森」集団 ‐ 軍司令官:河辺正三中将、参謀長:中永太郎中将 第15軍 「林」集団 ‐ 軍司令官:牟田口廉也中将、参謀長:久野村桃代少将 第15師団 「祭」兵団 ‐ 師団長:山内正文中将、歩兵第51、第60、第67連隊、野砲兵第21連隊、工兵第15連隊、輜重兵第15連隊基幹 第31師団 「烈」兵団 ‐ 師団長:佐藤幸徳中将、歩兵第58、第124、第138連隊、山砲兵第31連隊、工兵第31連隊、輜重兵第31連隊基幹 第33師団 「弓」兵団 ‐ 師団長:柳田元三中将、歩兵第213、第214、第215連隊、山砲兵第33連隊、工兵第33連隊、輜重兵第33連隊基幹 第28軍 「策」集団 ‐ 軍司令官:桜井省三中将、参謀長:岩畔豪雄少将 第54師団 「兵」兵団 ‐ 師団長:片村四八中将、歩兵第111、第121、第154連隊、捜索第54連隊、野砲兵第54連隊、工兵第54連隊基幹 第55師団 「壮」兵団 ‐ 師団長:花谷正中将、歩兵第112、第143、第144連隊、騎兵第55連隊、山砲兵第55連隊、工兵第55連隊、輜重兵第55連隊基幹 第2師団 「勇」兵団 ‐ 師団長:岡崎清三郎中将、歩兵第4、第16、第29連隊、捜索第2連隊、野砲兵第2連隊、工兵第2連隊、輜重兵第2連隊基幹 第33軍 「昆」集団 ‐ 軍司令官:本多政材中将、参謀長:片倉衷少将 第18師団 「菊」兵団 ‐ 師団長:田中新一中将、歩兵第55連隊、第56、第114連隊、山砲兵第18連隊、工兵第12連隊、輜重兵第12連隊基幹 第56師団 「龍」兵団 ‐ 師団長:松山祐三中将、歩兵第113、第146、第148連隊、捜索第56連隊、野砲兵第56連隊、工兵第56連隊、輜重兵第56連隊基幹 方面軍直轄部隊 第53師団 「安」兵団 ‐ 師団長:武田馨中将、歩兵第119、第128、第151連隊、捜索第53連隊、野砲兵第53連隊、工兵第53連隊、輜重兵第53連隊基幹 (動員・集結中)第49師団 「狼」兵団 ‐ 師団長:竹原三郎中将、歩兵第106、第153、第168連隊、騎兵第49連隊、山砲兵第49連隊、工兵第49連隊、輜重兵第49連隊基幹 独立混成第24旅団 「巌」部隊 (1944年11月編成)独立混成第72旅団 「貫徹」部隊 (1945年2月編成)独立混成第105旅団 「敢威」部隊 海軍連合陸戦隊(第12警備隊:河野康少将、第13警備隊:深見盛雄少将) 第5飛行師団 ‐ 師団長:田副登中将第15軍 「林」集団 ‐ 軍司令官:牟田口廉也中将、参謀長:久野村桃代少将 第15師団 「祭」兵団 ‐ 師団長:山内正文中将、歩兵第51、第60、第67連隊、野砲兵第21連隊、工兵第15連隊、輜重兵第15連隊基幹 第31師団 「烈」兵団 ‐ 師団長:佐藤幸徳中将、歩兵第58、第124、第138連隊、山砲兵第31連隊、工兵第31連隊、輜重兵第31連隊基幹 第33師団 「弓」兵団 ‐ 師団長:柳田元三中将、歩兵第213、第214、第215連隊、山砲兵第33連隊、工兵第33連隊、輜重兵第33連隊基幹第15師団 「祭」兵団 ‐ 師団長:山内正文中将、歩兵第51、第60、第67連隊、野砲兵第21連隊、工兵第15連隊、輜重兵第15連隊基幹第31師団 「烈」兵団 ‐ 師団長:佐藤幸徳中将、歩兵第58、第124、第138連隊、山砲兵第31連隊、工兵第31連隊、輜重兵第31連隊基幹第33師団 「弓」兵団 ‐ 師団長:柳田元三中将、歩兵第213、第214、第215連隊、山砲兵第33連隊、工兵第33連隊、輜重兵第33連隊基幹第28軍 「策」集団 ‐ 軍司令官:桜井省三中将、参謀長:岩畔豪雄少将 第54師団 「兵」兵団 ‐ 師団長:片村四八中将、歩兵第111、第121、第154連隊、捜索第54連隊、野砲兵第54連隊、工兵第54連隊基幹 第55師団 「壮」兵団 ‐ 師団長:花谷正中将、歩兵第112、第143、第144連隊、騎兵第55連隊、山砲兵第55連隊、工兵第55連隊、輜重兵第55連隊基幹 第2師団 「勇」兵団 ‐ 師団長:岡崎清三郎中将、歩兵第4、第16、第29連隊、捜索第2連隊、野砲兵第2連隊、工兵第2連隊、輜重兵第2連隊基幹第54師団 「兵」兵団 ‐ 師団長:片村四八中将、歩兵第111、第121、第154連隊、捜索第54連隊、野砲兵第54連隊、工兵第54連隊基幹第55師団 「壮」兵団 ‐ 師団長:花谷正中将、歩兵第112、第143、第144連隊、騎兵第55連隊、山砲兵第55連隊、工兵第55連隊、輜重兵第55連隊基幹第2師団 「勇」兵団 ‐ 師団長:岡崎清三郎中将、歩兵第4、第16、第29連隊、捜索第2連隊、野砲兵第2連隊、工兵第2連隊、輜重兵第2連隊基幹第33軍 「昆」集団 ‐ 軍司令官:本多政材中将、参謀長:片倉衷少将 第18師団 「菊」兵団 ‐ 師団長:田中新一中将、歩兵第55連隊、第56、第114連隊、山砲兵第18連隊、工兵第12連隊、輜重兵第12連隊基幹 第56師団 「龍」兵団 ‐ 師団長:松山祐三中将、歩兵第113、第146、第148連隊、捜索第56連隊、野砲兵第56連隊、工兵第56連隊、輜重兵第56連隊基幹第18師団 「菊」兵団 ‐ 師団長:田中新一中将、歩兵第55連隊、第56、第114連隊、山砲兵第18連隊、工兵第12連隊、輜重兵第12連隊基幹第56師団 「龍」兵団 ‐ 師団長:松山祐三中将、歩兵第113、第146、第148連隊、捜索第56連隊、野砲兵第56連隊、工兵第56連隊、輜重兵第56連隊基幹方面軍直轄部隊 第53師団 「安」兵団 ‐ 師団長:武田馨中将、歩兵第119、第128、第151連隊、捜索第53連隊、野砲兵第53連隊、工兵第53連隊、輜重兵第53連隊基幹 (動員・集結中)第49師団 「狼」兵団 ‐ 師団長:竹原三郎中将、歩兵第106、第153、第168連隊、騎兵第49連隊、山砲兵第49連隊、工兵第49連隊、輜重兵第49連隊基幹 独立混成第24旅団 「巌」部隊 (1944年11月編成)独立混成第72旅団 「貫徹」部隊 (1945年2月編成)独立混成第105旅団 「敢威」部隊 海軍連合陸戦隊(第12警備隊:河野康少将、第13警備隊:深見盛雄少将)第53師団 「安」兵団 ‐ 師団長:武田馨中将、歩兵第119、第128、第151連隊、捜索第53連隊、野砲兵第53連隊、工兵第53連隊、輜重兵第53連隊基幹(動員・集結中)第49師団 「狼」兵団 ‐ 師団長:竹原三郎中将、歩兵第106、第153、第168連隊、騎兵第49連隊、山砲兵第49連隊、工兵第49連隊、輜重兵第49連隊基幹独立混成第24旅団 「巌」部隊(1944年11月編成)独立混成第72旅団 「貫徹」部隊(1945年2月編成)独立混成第105旅団 「敢威」部隊 海軍連合陸戦隊(第12警備隊:河野康少将、第13警備隊:深見盛雄少将)海軍連合陸戦隊(第12警備隊:河野康少将、第13警備隊:深見盛雄少将)第5飛行師団 ‐ 師団長:田副登中将東南アジア連合軍司令部(South East Asia Command) ‐ 総司令官:ルイス・マウントバッテン英海軍中将、副司令官ジョセフ・スティルウェル米陸軍中将 イギリス第11方面軍 ‐ 司令官:ジョージ・ギファード(英語版)大将 イギリス第14軍 ‐ 司令官:ウィリアム・スリム中将 第15軍団 ‐ 司令官:フィリップ・クリスティソン(英語版)中将 第5インド歩兵師団 ‐ 第9インド歩兵旅団、第123インド歩兵旅団 第7インド歩兵師団 ‐ 第33インド歩兵旅団、第89インド歩兵旅団、第114インド歩兵旅団 第25インド歩兵師団 ‐ 第51インド歩兵旅団、第53インド歩兵旅団、第74インド歩兵旅団 第26インド歩兵師団 ‐ 第4インド歩兵旅団、第36インド歩兵旅団、第71インド歩兵旅団 第36インド歩兵師団 ‐ 第29インド歩兵旅団、第72インド歩兵旅団、第26インド歩兵旅団 第81西アフリカ師団 ‐ 第5西アフリカ歩兵旅団、第6西アフリカ歩兵旅団 第82西アフリカ師団 ‐ 第1西アフリカ歩兵旅団、第2西アフリカ歩兵旅団、第4西アフリカ歩兵旅団 第3特殊サービス旅団 第4軍団 ‐ 司令官:ジョフリー・スクーンズ(英語版)中将 第17インド軽師団 ‐ 第48インド歩兵旅団、第13インド歩兵旅団 第19インド歩兵師団 ‐ 第62インド歩兵旅団、第64インド歩兵旅団、第98インド歩兵旅団 第20インド歩兵師団 ‐ 第32インド歩兵旅団、第80インド歩兵旅団、第100インド歩兵旅団 第23インド歩兵師団 ‐ 第1インド歩兵旅団、第37インド歩兵旅団、第49インド歩兵旅団 第50インド空挺旅団 第254インド機甲旅団 第33軍団 ‐ 司令官:モンタグー・ストップフォード(英語版)中将 第2師団 ‐ 第4旅団、第5旅団、第6旅団 第268旅団 ルシャイ旅団 第3インド師団 ‐ 通称「チンディット」、司令官:オード・ウィンゲート少将、第3西アフリカ旅団、第14インド歩兵旅団、第16インド歩兵旅団、第23インド歩兵旅団、第77インド歩兵旅団、第111インド歩兵旅団 北部戦闘区域司令部(Northern Combat Area Command) ‐ 司令官:ジョセフ・スティルウェル米陸軍中将 アメリカ軍第5307混成部隊 ‐ 暗号名「ガラハッド」、通称「メリルズ・マローダーズ(英語版)」、指揮官:フランク・メリル(英語版)准将 中国軍新編第1軍 ‐ 通称「インド遠征軍」、司令官:鄭洞国中将 新編第22師、新編第38師 中国遠征軍 ‐ 通称「雲南遠征軍」、司令官:衛立煌大将 第11方面軍 第2軍 ‐ 第9師、新編第33師、第76師 第6軍 ‐ 予備第2師、新編第39師 第73軍 ‐ 新編第28師、第87師、第88師 第20方面軍 第53軍 ‐ 第116師、第130師 第54軍 ‐ 第36師、第198師 第8軍 ‐ 栄誉第1師、第82師、第103師 第200師イギリス第11方面軍 ‐ 司令官:ジョージ・ギファード(英語版)大将 イギリス第14軍 ‐ 司令官:ウィリアム・スリム中将 第15軍団 ‐ 司令官:フィリップ・クリスティソン(英語版)中将 第5インド歩兵師団 ‐ 第9インド歩兵旅団、第123インド歩兵旅団 第7インド歩兵師団 ‐ 第33インド歩兵旅団、第89インド歩兵旅団、第114インド歩兵旅団 第25インド歩兵師団 ‐ 第51インド歩兵旅団、第53インド歩兵旅団、第74インド歩兵旅団 第26インド歩兵師団 ‐ 第4インド歩兵旅団、第36インド歩兵旅団、第71インド歩兵旅団 第36インド歩兵師団 ‐ 第29インド歩兵旅団、第72インド歩兵旅団、第26インド歩兵旅団 第81西アフリカ師団 ‐ 第5西アフリカ歩兵旅団、第6西アフリカ歩兵旅団 第82西アフリカ師団 ‐ 第1西アフリカ歩兵旅団、第2西アフリカ歩兵旅団、第4西アフリカ歩兵旅団 第3特殊サービス旅団 第4軍団 ‐ 司令官:ジョフリー・スクーンズ(英語版)中将 第17インド軽師団 ‐ 第48インド歩兵旅団、第13インド歩兵旅団 第19インド歩兵師団 ‐ 第62インド歩兵旅団、第64インド歩兵旅団、第98インド歩兵旅団 第20インド歩兵師団 ‐ 第32インド歩兵旅団、第80インド歩兵旅団、第100インド歩兵旅団 第23インド歩兵師団 ‐ 第1インド歩兵旅団、第37インド歩兵旅団、第49インド歩兵旅団 第50インド空挺旅団 第254インド機甲旅団 第33軍団 ‐ 司令官:モンタグー・ストップフォード(英語版)中将 第2師団 ‐ 第4旅団、第5旅団、第6旅団 第268旅団 ルシャイ旅団 第3インド師団 ‐ 通称「チンディット」、司令官:オード・ウィンゲート少将、第3西アフリカ旅団、第14インド歩兵旅団、第16インド歩兵旅団、第23インド歩兵旅団、第77インド歩兵旅団、第111インド歩兵旅団イギリス第14軍 ‐ 司令官:ウィリアム・スリム中将 第15軍団 ‐ 司令官:フィリップ・クリスティソン(英語版)中将 第5インド歩兵師団 ‐ 第9インド歩兵旅団、第123インド歩兵旅団 第7インド歩兵師団 ‐ 第33インド歩兵旅団、第89インド歩兵旅団、第114インド歩兵旅団 第25インド歩兵師団 ‐ 第51インド歩兵旅団、第53インド歩兵旅団、第74インド歩兵旅団 第26インド歩兵師団 ‐ 第4インド歩兵旅団、第36インド歩兵旅団、第71インド歩兵旅団 第36インド歩兵師団 ‐ 第29インド歩兵旅団、第72インド歩兵旅団、第26インド歩兵旅団 第81西アフリカ師団 ‐ 第5西アフリカ歩兵旅団、第6西アフリカ歩兵旅団 第82西アフリカ師団 ‐ 第1西アフリカ歩兵旅団、第2西アフリカ歩兵旅団、第4西アフリカ歩兵旅団 第3特殊サービス旅団 第4軍団 ‐ 司令官:ジョフリー・スクーンズ(英語版)中将 第17インド軽師団 ‐ 第48インド歩兵旅団、第13インド歩兵旅団 第19インド歩兵師団 ‐ 第62インド歩兵旅団、第64インド歩兵旅団、第98インド歩兵旅団 第20インド歩兵師団 ‐ 第32インド歩兵旅団、第80インド歩兵旅団、第100インド歩兵旅団 第23インド歩兵師団 ‐ 第1インド歩兵旅団、第37インド歩兵旅団、第49インド歩兵旅団 第50インド空挺旅団 第254インド機甲旅団 第33軍団 ‐ 司令官:モンタグー・ストップフォード(英語版)中将 第2師団 ‐ 第4旅団、第5旅団、第6旅団 第268旅団 ルシャイ旅団 第3インド師団 ‐ 通称「チンディット」、司令官:オード・ウィンゲート少将、第3西アフリカ旅団、第14インド歩兵旅団、第16インド歩兵旅団、第23インド歩兵旅団、第77インド歩兵旅団、第111インド歩兵旅団第15軍団 ‐ 司令官:フィリップ・クリスティソン(英語版)中将 第5インド歩兵師団 ‐ 第9インド歩兵旅団、第123インド歩兵旅団 第7インド歩兵師団 ‐ 第33インド歩兵旅団、第89インド歩兵旅団、第114インド歩兵旅団 第25インド歩兵師団 ‐ 第51インド歩兵旅団、第53インド歩兵旅団、第74インド歩兵旅団 第26インド歩兵師団 ‐ 第4インド歩兵旅団、第36インド歩兵旅団、第71インド歩兵旅団 第36インド歩兵師団 ‐ 第29インド歩兵旅団、第72インド歩兵旅団、第26インド歩兵旅団 第81西アフリカ師団 ‐ 第5西アフリカ歩兵旅団、第6西アフリカ歩兵旅団 第82西アフリカ師団 ‐ 第1西アフリカ歩兵旅団、第2西アフリカ歩兵旅団、第4西アフリカ歩兵旅団 第3特殊サービス旅団第5インド歩兵師団 ‐ 第9インド歩兵旅団、第123インド歩兵旅団第7インド歩兵師団 ‐ 第33インド歩兵旅団、第89インド歩兵旅団、第114インド歩兵旅団第25インド歩兵師団 ‐ 第51インド歩兵旅団、第53インド歩兵旅団、第74インド歩兵旅団第26インド歩兵師団 ‐ 第4インド歩兵旅団、第36インド歩兵旅団、第71インド歩兵旅団第36インド歩兵師団 ‐ 第29インド歩兵旅団、第72インド歩兵旅団、第26インド歩兵旅団第81西アフリカ師団 ‐ 第5西アフリカ歩兵旅団、第6西アフリカ歩兵旅団第82西アフリカ師団 ‐ 第1西アフリカ歩兵旅団、第2西アフリカ歩兵旅団、第4西アフリカ歩兵旅団第3特殊サービス旅団第4軍団 ‐ 司令官:ジョフリー・スクーンズ(英語版)中将 第17インド軽師団 ‐ 第48インド歩兵旅団、第13インド歩兵旅団 第19インド歩兵師団 ‐ 第62インド歩兵旅団、第64インド歩兵旅団、第98インド歩兵旅団 第20インド歩兵師団 ‐ 第32インド歩兵旅団、第80インド歩兵旅団、第100インド歩兵旅団 第23インド歩兵師団 ‐ 第1インド歩兵旅団、第37インド歩兵旅団、第49インド歩兵旅団 第50インド空挺旅団 第254インド機甲旅団第17インド軽師団 ‐ 第48インド歩兵旅団、第13インド歩兵旅団第19インド歩兵師団 ‐ 第62インド歩兵旅団、第64インド歩兵旅団、第98インド歩兵旅団第20インド歩兵師団 ‐ 第32インド歩兵旅団、第80インド歩兵旅団、第100インド歩兵旅団第23インド歩兵師団 ‐ 第1インド歩兵旅団、第37インド歩兵旅団、第49インド歩兵旅団第50インド空挺旅団第254インド機甲旅団第33軍団 ‐ 司令官:モンタグー・ストップフォード(英語版)中将 第2師団 ‐ 第4旅団、第5旅団、第6旅団 第268旅団 ルシャイ旅団第2師団 ‐ 第4旅団、第5旅団、第6旅団第268旅団ルシャイ旅団第3インド師団 ‐ 通称「チンディット」、司令官:オード・ウィンゲート少将、第3西アフリカ旅団、第14インド歩兵旅団、第16インド歩兵旅団、第23インド歩兵旅団、第77インド歩兵旅団、第111インド歩兵旅団北部戦闘区域司令部(Northern Combat Area Command) ‐ 司令官:ジョセフ・スティルウェル米陸軍中将 アメリカ軍第5307混成部隊 ‐ 暗号名「ガラハッド」、通称「メリルズ・マローダーズ(英語版)」、指揮官:フランク・メリル(英語版)准将 中国軍新編第1軍 ‐ 通称「インド遠征軍」、司令官:鄭洞国中将 新編第22師、新編第38師 中国遠征軍 ‐ 通称「雲南遠征軍」、司令官:衛立煌大将 第11方面軍 第2軍 ‐ 第9師、新編第33師、第76師 第6軍 ‐ 予備第2師、新編第39師 第73軍 ‐ 新編第28師、第87師、第88師 第20方面軍 第53軍 ‐ 第116師、第130師 第54軍 ‐ 第36師、第198師 第8軍 ‐ 栄誉第1師、第82師、第103師 第200師アメリカ軍第5307混成部隊 ‐ 暗号名「ガラハッド」、通称「メリルズ・マローダーズ(英語版)」、指揮官:フランク・メリル(英語版)准将中国軍新編第1軍 ‐ 通称「インド遠征軍」、司令官:鄭洞国中将 新編第22師、新編第38師新編第22師、新編第38師中国遠征軍 ‐ 通称「雲南遠征軍」、司令官:衛立煌大将 第11方面軍 第2軍 ‐ 第9師、新編第33師、第76師 第6軍 ‐ 予備第2師、新編第39師 第73軍 ‐ 新編第28師、第87師、第88師 第20方面軍 第53軍 ‐ 第116師、第130師 第54軍 ‐ 第36師、第198師 第8軍 ‐ 栄誉第1師、第82師、第103師 第200師第11方面軍 第2軍 ‐ 第9師、新編第33師、第76師 第6軍 ‐ 予備第2師、新編第39師 第73軍 ‐ 新編第28師、第87師、第88師第2軍 ‐ 第9師、新編第33師、第76師第6軍 ‐ 予備第2師、新編第39師第73軍 ‐ 新編第28師、第87師、第88師第20方面軍 第53軍 ‐ 第116師、第130師 第54軍 ‐ 第36師、第198師第53軍 ‐ 第116師、第130師第54軍 ‐ 第36師、第198師第8軍 ‐ 栄誉第1師、第82師、第103師第200師 ==地名の表記について== 英語でも日本語でも、ビルマ語を原音通りに表記することは不可能である。イギリス人はビルマ語を英語で表記する際に一定の音写原則を採用していた。日本軍は、この原則を知らずに、ビルマの地名を基本的にその英語表記を元に発音し、かつ、日本語で表記していたため、一部の地名に関してはビルマ語の原音と日本語での表記とが大きくずれたものとなった。この表記は戦後出版された戦記等でも継承され、現在でも大部分の文献において使用されている。さらに1989年、ミャンマー政府は一部の地名の英語表記を、古いビルマ語の発音に由来する表記から、現代ミャンマー語の発音に近い表記に改称した。本項目では、地名の表記については特に断りのない限り、戦時中の日本風の表記を採用している。原音との対応関係は以下の通りである。 ==ビルマの戦いを題材とした作品== ===映画=== 『加藤隼戦闘隊』 1944年、社団法人映画配給社、監督:山本嘉次郎、特撮監督:円谷英二The Stilwell Road 1945年、アメリカ戦争情報局Objective, Burma! 1945年、アメリカ映画、主演:エロール・フリン『日本戦歿学生の手記 きけ、わだつみの声』 1950年、東横映画、監督:関川秀雄『ビルマの竪琴』 1956年・日活及び、1985年・東宝、監督:市川崑、原作:竹山道雄 作者の竹山道雄にはビルマ滞在の経験はなかった。単に「合唱で敵と和解する」というストーリーを考えており、日本人とイギリス人であれば「蛍の光」「埴生の宿」といった共通の歌を持っているので、舞台をビルマにしたというだけのことだった。この作品の発表が、従軍した者を罵倒することが正義で、戦死者への冥福を祈る気持ちが薄かった終戦直後の風潮に一石を投じたとの指摘もある。作者の竹山道雄にはビルマ滞在の経験はなかった。単に「合唱で敵と和解する」というストーリーを考えており、日本人とイギリス人であれば「蛍の光」「埴生の宿」といった共通の歌を持っているので、舞台をビルマにしたというだけのことだった。この作品の発表が、従軍した者を罵倒することが正義で、戦死者への冥福を祈る気持ちが薄かった終戦直後の風潮に一石を投じたとの指摘もある。『戦場にかける橋』 1957年、イギリス映画、監督:デヴィッド・リーン『陽動作戦(英語版)』 1961年、アメリカ映画、監督:サミュエル・フラー、主演:ジェフ・チャンドラー(英語版) ===小説=== マァウン・ティン 『農民ガバ』 1947年。 =無生野の大念仏= 無生野の大念仏(むしょうののだいねんぶつ)は、山梨県上野原市秋山の無生野地区に伝わる、踊り念仏を主体とした伝統行事、伝統芸能である。 踊り念仏の原型をよくとどめているものとして、1960年(昭和35年)11月7日、山梨県指定無形文化財に指定され、国により1972年(昭和47年)8月5日に記録作成等の措置を講ずべき無形文化財として選択された。 文化庁による指定種別は、民俗芸能・風流である。 さらに1995年(平成7年)12月26日には、山梨県内では2件目となる国の重要無形民俗文化財に指定された。 旧暦1月16日(旧正月期間)と太陽暦8月16日(お盆期間)の年2回、無生野集会場(公民館)に設けられた道場と呼ばれる会場(後述)で、白装束をまとった踊り手が、太刀、締太鼓、棒などを振りかざし、経典を唱え、鉦(かね)、太鼓を激しく打ち鳴らしながら踊りまくる。 ==概要== 無生野(むしょうの)地区のある上野原市秋山は、山梨県のほぼ最東端にあたり、村の中央を西から東へ流れる秋山川(相模川水系)に沿って集落が点在する、周囲を道志山塊に囲まれた山村である。 大念仏が行われる無生野は秋山川の最上流部、雛鶴峠を挟んで都留市と接した秋山地内の西端、標高約500‐550メートルにある山間の小集落である。 この地に伝わる無生野の大念仏は、古くから無生野地区の人々により連綿と受け継がれてきたもので、太鼓や鉦鼓(鉦叩)などの鳴物を鳴らし経典を唱え、踊り手は太刀や締太鼓を持ち鳴物の周囲をめぐるという、舞踊の初源的な姿を留めており、さらに演目次第の中に病気平癒への祈祷の意味を持つものがあるなど、祭祀行事から芸能へと進展する過程を示すものとして重要な無形民俗文化であり、かつ地域特色が濃い伝統行事である。 大念仏とは人々が一堂に会し念仏を修す行事に踊りが加わったもので、平安時代末期の永久年間頃に、天台宗の僧侶である聖応大師良忍が開宗した融通念仏宗が起こりとされ、日本各地に広まるにつれ、踊躍歓喜(ゆやくかんぎ)の動作を伴い、次第に芸能化するようになったと言われている。一般的にはこれらを総称して踊り念仏、あるいは念仏踊り、と呼んでいるが、厳密に言えば両者に共通点はあっても基本的には異質のものである。踊り念仏があくまでも宗教的な目的で行われる仏教儀礼であるのに対して、念仏踊りとは踊り念仏を基本として、次第に芸能化、娯楽化に進展・発展したもので、いわゆる風流に変化したものを言う。また、空也上人の影響から派生したものに六斎念仏がある。これは経文に節をつけた鉦念仏を唱えたものに、鉦や太鼓などが加わり、さらに「六斎踊り」という踊りもつけられたもので、仏教的儀礼的なもの(踊り念仏)と、風流的なもの(念仏踊り)の前二者に対して、その中間的な要素を持つものである。 これらの分類を基にして考察すると、無生野の大念仏は随所に仏教的要素を多くとどめながら、鉦や太鼓などの鳴り物、踊りの振り、道場の設置、飾りつけなど、全ての面で素朴であり華美なものは見当たらない。特に無生野大念仏のクライマックスともいえる「ぶっぱらい」に見られる悪霊追放の所作は、芸能と言うよりは、仏教儀礼要素や修験的要素が濃い、極めて初源的な大念仏であり、むしろ最初期の六斎念仏と見るのが妥当である。実際に1960年(昭和35年)に山梨県指定無形文化財に指定された際の指定名称は、「無生野大念佛(六斎念佛)」であった。 無生野には大念仏と小念仏が残されているが、小念仏は葬儀や新盆の際に、おもに女性によって唱えられる踊りの付かない念仏であるのに対して、大念仏は道場を設けて行われ踊りを伴う。 かつて大念仏は山中湖村平野地区、富士河口湖町西湖地区、大月市梁川町綱の上地区など、山梨県内各所で行われていたが、ほとんどが廃れてしまい、2016年現在山梨県下で大念仏が残されているのは無生野の大念仏のみで、経文を唱えるだけの小念仏が県内他所に僅かに残るだけである。 他地方であれば風流化し、念仏踊り化するものが、無生野の大念仏では、踊り念仏の原型を保ち、初期的な形態のまま受け継がれ、長い年月にわたり保たれているのは、この地が地形的に見て芸能伝播の終着点にあたり、ここから先の伝播の経路を持たなかったことに加え、無生野に伝わる雛鶴姫伝承によるところが大きいと考えられている。 ==雛鶴姫の伝承== 無生野の大念仏の起源、発祥の由来については、南北朝時代の、後醍醐天皇の皇子である、大塔宮護良親王の悲劇にまつわる雛鶴姫(ひなづるひめ)と、姫に仕えた人々の霊を慰めるために始まったものと伝えられており、無生野地区では以下のような伝承が古くから語り継がれている。 建武2年7月23日(1335年8月12日)鎌倉将軍府にあった足利直義によって、鎌倉二階堂ガ谷の東光寺の牢に幽閉されていた護良親王は、直義に命じられた淵辺義博によって殺害されたが、無念さを隠しきれない親王は刺客となった淵辺義博の顔を死後もにらみつけていたため、その形相に恐れをなした義博は、その首級を周囲の竹薮に捨て逃走した。 護良親王の寵愛を受けていた侍妃雛鶴姫は、親王の首級を竹薮から探し出すと、数人の従者と共にその首級を携え、ひそかに鎌倉を発った。相州(現:神奈川県)各地を転々とし、やがて甲斐(現:山梨県)秋山郷へと入り秋山川沿いを遡って行ったが、雛鶴姫はその頃、護良親王の子供を宿しており臨月の身重であった。秋山川上流部は当時人家も少なく、宿を乞う家も見当たらないまま雛鶴姫は産気づいてしまう。従者たちはやむなく、付近の木の葉を集めてしとねとし、そこを産所として皇子を出産したが、その日は師走の29日であったと言われ、真冬の寒さと飢えのため、雛鶴姫と生まれたばかりの皇子は他界してしまった。悲しんだ従者たちは、雛鶴姫と皇子の亡骸を手厚く葬り、護良親王の神霊とともにこの地に祀り、永久に冥福を祈るためにここに帰農した。 雛鶴姫に同情した村人は、正月用に飾りつけておいた門松を取り払い、樒(しきみ)の枝を立てて冥福を祈ったという。無生野地区では今日でも正月に門松を立てず、松飾りを行わない風習が残されている。また、雛鶴姫が臨終の際に悲しみのあまり、ああ無情…と嘆いたことから、この地が無情の野と呼ばれるようになり、無情野、そして無生野という地名になったと伝えられている。 それから約20年後、護良親王の王子である綴連王(つづれのおう)が戦乱の中を逃れ、この地にたどり着くと、無生野の人々から雛鶴姫の話を聞かされた。綴連王は無生野と自分との不思議な因縁を感じ、この地に住むようになり、一子五孫の繁栄を見て天寿を全うした。無生野の人々は、大塔宮護良親王、雛鶴姫、綴連王の3人を神に祀り、その供養のために大念仏を始めたと伝えられている。この綴連王は葛城宮とも言い、正史において陸良または興良親王に比定されているが、その後半生は行方不明とされている。また、雛鶴姫が生んだ皇子は死んでおらず、成長して綴連王となった等、諸説あるが、いずれにしても護良親王と雛鶴姫の悲劇の故事を発端として、無生野の大念仏は始まったと伝えられている。 以上で述べた雛鶴姫の言い伝えは、あくまでも伝承であり、文献や資料の上でこれを実証することは困難である。しかし、この伝承が無生野の大念仏の保存・継承に果たした役割は大きく、無生野における伝統行事としての大念仏は雛鶴姫伝説と結びつくことによって、より神聖化され崇敬の念をもって、今日まで絶えることなく続いてきたものと考えられている。大塔宮護良親王、葛城綴連王、雛鶴姫の3名を祀った小さな祠が、無生野地区の西端、雛鶴峠の直下にあったが、この祠のあった場所に、1989年(平成元年)10月22日、雛鶴神社が建立されている。 ==無生野大念佛演目次第== ===道場設置=== 無生野大念佛は、旧暦1月16日と新暦8月16日の、1年に2回執り行われる。以前は無生野地区を上下に分けた2つの地区から、年毎に選出されたトウヤク(当役、旧暦1月担当)、アイトウヤク(相当役、新暦8月担当)と呼ばれる役員個人の家で行われていたが、今日では地区住民によって構成される無生野大念佛保存会が中心となり、1990年(平成2年)3月に地区の公民館として完成した無生野集会所において行われている。 大念仏施行に先立ち、会場にはドウジョウ(道場)と呼ばれる1段高い場所に、二間四方の区画が設けられる。ここは大念仏を執り行う神聖な場と見做されており、四隅に小柱(こばしら)と呼ぶ青竹(枝葉のついたもの)を立て、中央にも親柱および小柱を立てる。四隅の小柱に張り巡らされた注連縄には六本宛の御幣が下げられており、これらは全て白色で計24本、中央の1本を加えて合計25本となり二十五菩薩を表し、中央の親柱から四隅の小柱へ向け対角線に張る縄には、各七本宛ての御幣が下げられ合計28本となり二十八宿を表している。また、四隅には東方に青色、南方に赤色、西方に白色、北方に黒色、中央に黄色の御幣が下げられている。 また、道場の壁には大祖三神と称する阿弥陀如来を中心に、右に不動明王、左に十六善神の、計3枚の掛軸が掲げられ、その前に供物を並べ、祓いや清めに用いる塩や砂を盛った皿が置かれる。 施行者(演者)の資格は無生野地区在住者で、人数は約20名で行われる。各約名は、教主、鉦たたき、太鼓たたき、太鼓ふり、一本太刀ふり、二本太刀ふり、棒ふり、二本太刀太鼓たたき、ぶっぱらい太鼓たたき、ぶっぱらい太刀ふり、ぶっぱらい太鼓ふり、ぶっぱらい棒ふり、である。なお、各役はすべて白装束、白帯、素足で儀礼を行う。 ===演目次第=== 大念仏は当日の19時から20時頃より始まり、以下に示した順序に従い約1時間をかけて施行される。 道場入り道場浄(きよ)めほんぶったてかりぶったて一本太刀二本太刀ぶっぱらい念仏のふた送り出しほぼ全編にわたり大太鼓、締太鼓、鉦鼓による鳴り物が激しく打ち鳴らされ、勇壮な拍子と踊りが渾然一体となる。 ===鳴り物によるリズムパターン=== テンポの変化や音の強弱はあるが、これらのリズムが延々と繰り返される。 ===道場入り・道場浄め=== 道場とは前述したように、当日作られた踊り念仏を行う場のことで、この場所へ入ることを道場入りと言う。まず3人が道場に向かって横一列に並び、中央の1人が『大念佛経本』と呼ばれる経文を唱える。唱え方と動作の形式は修験系行事における儀礼にほぼ一致している。経文が終わると、両脇の2人が砂と塩の入った皿を持って、道場の周囲を歩きながら撒いて浄め、大念仏施行の準備が整う。 ===ほんぶったて・かりぶったて=== 道場の中央に置かれた太鼓を囲むように演者が道場に入り、ほんぶったてと呼ばれる演者たちによる経文が唱えられ、太鼓、鉦鼓による鳴り物が始まる。太鼓の両面にそれぞれ太鼓たたき(奏者)2名がつき、鉦鼓たたき(奏者)も2名である。鳴り物は次第に激しさを増し、続いてかりぶったてと呼ばれる『舎利経』経文が始まる。演者たちは鳴り物の伴奏に合わせ一心に経文を唱える。 ===一本太刀・二本太刀=== いわゆる踊り念仏の踊りの部分がここから始まる。一本太刀を演じる3人は道場へ入る前に、注連縄の前に立って身を浄める所作を行う。 3人の演者とは、太鼓(締太鼓)を持つ太鼓ふり、青竹の棒を持つ棒ふり、1本の太刀を持つ一本太刀ふりである。 このうち締太鼓は「親王の首級」に、太刀持ちは「雛鶴姫を追う追っ手」に見立てられている。 3人はまず最初に、注連縄の一部を指で摘み取り、以下の呪文を唱える。 天竺の天の河原の水絶えて、水なき里にからちりちょうずをわが身にかけて、あぴらうんけんそわか〔ママ〕 ― 無生野大念佛、秋山村教育委員会 呪文が終わると鳴り物が始まり、太鼓ふり、棒ふり、一本太刀ふりの順に道場へ入り、大太鼓の周囲を時計回りに廻りながら踊る。まわり方は最初に静かに3回太鼓の周囲を周り、4回目からは鳴り物のリズムが速く激しくなり、演者もそれに合わせて激しく踊る。この激しい踊りを3回繰り返し、太鼓の周囲を計6回周り一本太刀は終わる。 続いて二本太刀の演者が一本太刀演者と交代し呪文を唱え道場に入る。呪文の所作は一本太刀と同じである。二本太刀の演者は太鼓ふりと、両手に1本ずつ計2本の太刀を持った二本太刀ふりの2名である。踊り方は一本太刀と同様に前半の3回は静かに、後半の3回が激しく行われる。後半3回の際、二本太刀の太刀が×状に交差するちらしと呼ばれる所作を行う。 ぶっぱらいとは、病気平癒のためのお祓い、祈祷とされるものである。道場と繋がる手前の部屋に寝具を敷き、病人に扮した者が寝る。枕元には御幣を9本刺した祈祷用の輿(こし)と呼ばれる三方が置かれ、その脇に教主がつく。教主はぶっぱらいの最中、祈祷文を唱えながら御幣で病人に扮した者を摩り続ける。 鳴り物が始まると同時に道場内で一本太刀と同じ踊りが始まり、太鼓の周囲を3回周ったところで道場から飛び出し、太鼓ふり、棒ふり、一本太刀ふりの順に、病人に扮した者が寝ている寝具の上を次々に飛び越える。 鳴り物のリズムが激しさを増し、演者の動作も激しさを増す。鳴り物のうち締太鼓と鉦鼓を打つ奏者は、神霊が乗り移ったように狂気の振りとなって、頭の上に楽器を上げて打ち続ける。楽器を頭にかぶるような動作から、この状態をぶっかぶりと呼ぶ。やがて棒ふりが青竹の棒で寝具の掛け布団を素早く払い除ける。ぶっぱらいという呼び名はこの動作を指したものである。 病人に扮した者は寝ていられなくなり、寝具から離れることによって病気回復の象徴とし、ぶっぱらいは終わる。 ===念仏のふた・送り出し=== ぶっぱらいが終わり、教主が『病気引取り』の祈祷を行うと、これで踊り念仏がすべて終わったという意味で念仏に蓋をする。道場の中心で参加者全員が南無阿弥陀仏で始まる経文を唱え行事の区切りとする。念仏の蓋の儀式が終わると、道場は片付けられ、送り出しの儀式が行われる。大念仏で使用した、青竹、御幣、注連縄などは束ねられ、無生野集会場から100メートルほど西に位置する県道沿い(無生野バス停留所)にある大念佛供養塔へ運ばれ置かれ、一連の大念仏が終わる。 ==研究史と保存活動== 前述したように無生野の大念仏は、踊念仏の初期形態をとどめるものとして、五来重の『庶民文化資料集成・民間芸能』、佐藤森三の『無生野の大念仏』、跡見学園短期大学の『山梨県秋山村調査報告書』および『無生野の六斎念仏調査報告書』、東京女子大学民俗調査団の『甲州秋山の民俗』など、複数の民俗学者や民俗学研究団体により調査が行われ、その民俗資料価値が指摘されてきた。また、1972年(昭和47年)から翌年にかけ、國學院大學の芸能史研究会が文化庁の三隅治雄監修のもと、数回に及ぶ現地調査・民俗採集を行い、雑誌『民俗芸能』に詳細な報告書を発表している。 太平洋戦争中でも中断することなく、連綿と継承されてきた無生野大念佛講は、約50世帯ある無生野地区住民全員が講員であり、文化財指定以前は、大念佛で浄めたお札を各戸に配って浄財を集めていたと言う。文化財指定後は県や国からの補助金によって運営されており、1973年(昭和48年)10月4日に無生野地区住民から構成される無生野大念佛保存会が設立され、無生野地区在住の小学生や中学生が参加するなど、後継者の育成が行われている。 =ジョゼフ・フーリエ= ジャン・バティスト・ジョゼフ・フーリエ男爵(Jean Baptiste Joseph Fourier, Baron de、1768年3月21日 ‐ 1830年5月16日)は、フランスの数学者・物理学者。 このほか、方程式論や方程式の数値解法の研究があるほか、次元解析の創始者と見なされることもある。また統計局に勤務した経験から、確率論や誤差論の研究も行った。 固体内での熱伝導に関する研究から熱伝導方程式(フーリエの方程式)を導き、これを解くためにフーリエ解析と呼ばれる理論を展開した。フーリエ解析は複雑な周期関数をより簡単に記述することができるため、音や光といった波動の研究に広く用いられ、現在調和解析という数学の一分野を形成している。 ==生涯== ===生い立ち=== フーリエは1768年3月21日に、フランス中部、ヨンヌ県のオセールで仕立屋の9番目の息子として生まれた。8歳のときに父親の死去によって孤児となり、地元のベネディクト派司教のもとへあずけられた。司教はフーリエを同じくベネディクト派の僧侶が経営する陸軍幼年学校へ入学させた。そこで彼は早くも数学に興味を示し、夜中になってから蝋燭の燃えさしを集めて一人で勉強に没頭した。 当時数学を教える学校は士官学校しかなかった。フーリエは貧乏な身分で軍人になれなかったため、卒業後彼は僧侶たちの勧めに従ってサン・ブノワ修道院(聖ベネディクト修道院)で修道士として修行を始めた。修道院でも、並行して数学を学んだ。 1789年、フーリエは『定方程式の解法』と題した論文を発表するためパリへ向かい、そこでフランス革命に遭遇した。身分から解放されたフーリエは、故郷の友人たちのはからいで幼年学校の数学教師になった。当時の政治状況から、彼はオセールの革命委員会に加わり、その委員長となった。ロベスピエールの政府との対立から、フーリエは要注意人物とされ、逮捕されるなど政治的弾圧を受けることになる。 ===革命後=== フランス革命後の恐怖政治によって、多くの科学者が処刑されたり亡命したりしていた。しかし科学の復興が必要と考えた革命政府は学校の設立を奨励し、パリにエコール・ノルマル・シュペリュールやエコール・ポリテクニークといった新しい高等教育機関(グランゼコール)が創設された。 1794年、フーリエはエコール・ノルマル・シュペリュールに第一期生として入学した。エコール・ノルマル・シュペリュールは翌年一時閉鎖されてしまうが、才能を認められたフーリエはラグランジュやモンジュのもとでエコール・ポリテクニークの築城学の助講師に、のち解析数学の教授になった。ここの講義の中で、彼は代数方程式の実数解の個数に関するフーリエの定理を証明した。 1798年、ナポレオンはイギリスとインドの連絡を絶つため、「不幸な人民を救い、文明の恩恵を与える」ことを口実にエジプトへ遠征した。フーリエはこのとき編成された文化使節団の一員に選ばれ、モンジュやベルトレらとともにナポレオンに随行した。 フーリエは新設されたエジプト学士院の書記としてさまざまな数学的・考古学的研究を行い、のちに発表された『エジプト誌 (Description de l’Egypte) 』(1808年‐1825年)も監修した。なお、このエジプト滞在でロゼッタ・ストーンを発見してフランスへ持ち帰り、しばらく自室で保管することとなった(シャンポリオンが訪問した際、見せている)。 しかし翌年、ヨーロッパ情勢が不安定になったため、ナポレオンはモンジュ他わずかな部下を伴ってフランスへ逃げ帰った。このときフーリエは大多数の将兵とともにエジプトに取り残され、帰国したのは1801年、イギリスやオスマン帝国との間に停戦協定が成立してからのことであった。 このエジプト滞在中に、フーリエには妙な癖がついた。フランスの寒さと湿気を嫌い、健康と思索のためには砂漠のような熱気と乾燥が必要だと考えるようになったのである。彼は四六時中部屋を締め切って蒸し暑い状態にし、全身に真綿と包帯をミイラのようにぐるぐるに巻いて暮らすようになった。この習慣が心臓に負担をかけ、皮肉なことに逆に彼の死期を早めることになったという。 ===グルノーブル=== フランスに帰国したフーリエは、エジプト遠征中に発揮した行政・外交手腕をナポレオンに認められ、1802年1月2日にイゼール県知事に任命された。知事としては、革命後悪化していた治安の回復、トリノへの道路の建設、ブルゴア沼沢地の干拓、マラリアの一掃などといった事業を行なった。これらの功績を称えられ、1808年に彼は皇帝に即位していたナポレオンによって男爵に叙された。 知事としてグルノーブルに赴任していた時代は、フーリエが生涯の中でもっとも精力的に活動していた時期だった。知事として多忙な職務をこなし、エコール・ポリテクニークから続けていた方程式論の研究をする一方、固体内における熱伝導を数学的に研究した。 熱伝導に関する最初の論文は1807年にアカデミー・デ・シアンスに提出された。ラグランジュ、ラプラス、モンジュ、アンペールが論文の審査委員会の委員となった。ラプラスとラグランジュはフーリエ級数の正当性を疑問視し、ラプラス、ビオ、ポアソンは熱伝導方程式の説明が不十分であると指摘し、アカデミーは内容が不十分だとして掲載は見送った。その有望さから1812年の懸賞論文の題目を「熱の解析的理論」とした。これに応じ、フーリエは大幅に加筆訂正した第二論文を提出した。審査員のひとりであったラグランジュは、その数学的厳密性に難があると厳しく指摘した(実際、ラグランジュも似たことを考えていたが導出にまでは至らなかった)。しかしながら重要性が認められ、この論文はアカデミー大賞を受賞した。 電流を論文中における熱の流れと同じように扱ってオームがオームの法則を導き、方程式を解くために導入されたフーリエ級数は解析学に一分野を築くことになるなど、この論文は学界に大きな影響を与えた。 また、エジプトから持ち帰った史料の中にあったロゼッタ・ストーンを、自身のサロンに出入りしていた当時12歳のシャンポリオンに初めて見せたのもフーリエだった。刻まれている三種の文字のうちの一つ(ヒエログリフ)が未解読であることを告げられたシャンポリオンは、「自分がいつか読んでみせる」と宣言し、約20年の歳月をかけて解読に成功することになる。 ===ナポレオン戦争=== ライプツィヒの戦いで敗れたナポレオンは、1814年に退位してエルバ島へ流された。しかしフーリエはラプラスらとともに寝返ってルイ18世に忠誠を誓ったため、知事を続けることを認められた。 ところが翌1815年3月1日、エルバ島を脱出したナポレオンはフランスに帰還し、パリへ向かって進軍を始めた。エジプトで置き去りにされたことを覚えていたフーリエは自らリヨンへ赴き王党派に通報したが、グルノーブルへ戻ってみるとそこはすでにナポレオンに占領され、部下の兵士たちはその下についてしまっていた。捕らえられたフーリエは再びナポレオンに従ってローヌ県知事に任命されるが、後に強権的姿勢に反対して辞職した。 ワーテルローの戦いののちナポレオンはセントヘレナ島へ流され、フランスはみたび王政に戻った。復位したルイ18世は裏切りを許さず、フーリエは罷免された。フーリエはパリで財産を売りながら糊口をしのいでいたが、それをみかねた友人のセーヌ県知事シャブロル伯によってセーヌ県統計局長の職を用意してもらうことができた。このころ、職務の関係から生命保険に関する研究を行なった。 ===晩年=== 1816年、アカデミー・デ・シアンスはフーリエを会員に推薦したが、ルイ18世はそれを認めなかった。しかしアカデミーは抵抗し、翌年彼は会員に選出された。さらにその後もルイ18世やポアソンの反対にもかかわらず勢力を伸ばして1822年には終身幹事に、1826年にはアカデミー・フランセーズ会員となった。他にもラプラスの後をついでエコール・ポリテクニークの理事長になるなど、フーリエの晩年はナポレオンに最後まで従ったため悲惨な末路を辿ったモンジュなどと比べれば、名誉に満ちたものであったといえる。権力欲も旺盛だったようで、当時パリに来ていたアーベルはその学界への君臨ぶりを伝えている。 フーリエの最後の数年は、過去の研究をまとめ、それまでに発表した論文を出版するために費やされた。また、後進の指導にも力を注いだ。たとえば、フーリエ級数が収束するために必要な「ディリクレの条件」を導いたディリクレは彼の教え子の一人である。 1830年5月16日、下院の選挙でシャルル10世に対する反対派が圧勝し、世情が再び革命(7月革命)へと動いていく中でフーリエは息を引き取った。63歳だった。心臓病だったとも、動脈瘤だったともいう。 20代の頃から続けていた方程式論の研究をまとめるべく全7巻の予定で執筆途中だった『定方程式の解析』は、ナヴィエが遺稿をまとめて1831年に2冊だけが出版された。 ==業績== ===フーリエの法則と熱伝導方程式=== ある固体内の温度分布は、どのような方程式で表されるか。その答えがフーリエが導いた熱伝導方程式(熱方程式やフーリエの方程式などとも呼ばれる)である。 フーリエは、「各点での熱の移動する速さは、その点における温度勾配に比例する」(フーリエの法則)ことを示した。これにより、ある時刻のある領域における熱量は流入した熱と流出した熱の差で表すことができる。また、熱量と比熱・温度の関係式からも熱量を表すことができる。フーリエはこれらの関係式を用いて熱伝導方程式を導き、さらにいくつもの境界条件のもとでこれを解いた。 ===フーリエ解析=== ある有限区間上の関数を三角関数の級数で表すことをフーリエ展開といい、無限区間に拡張されたそれをフーリエ変換という。 フーリエ解析とは、これらフーリエ展開やフーリエ変換を用いて関数を解析すること、特に関数を周波数成分に分解して調べることである。これは線形微分方程式を解くための極めて強力な武器であるばかりでなく、物理学や工学において光や音、振動、コンピュータグラフィックスなど幅広い分野で用いられている。 フーリエは著書『熱の解析的理論』において、「任意の関数は、三角関数の級数で表すことができる」(フーリエの定理)と主張した。この証明は不十分なものであったが、のちに多くの数学者たちによって厳密化が行なわれた。 フーリエ解析は「ほとんどあらゆる」関数が周期関数の和として「表せる」という逆説性から多くの数学者たちの注目を浴び、「ほとんどあらゆる」の範囲や「表せる」という根拠をめぐる議論は、まだ関数という言葉の意味すら曖昧だった19世紀の解析学の厳密化に貢献した。後のリーマンの積分論やカントールの集合論もこれに関する研究から生まれることになる。 ===その他の業績=== フーリエの最初の論文は方程式の数値解法についてのもので、方程式論や方程式の解法に彼は終生興味を持ち続けた。熱伝導方程式を解くとき、フーリエは単位に注目して解のあたりをつけるということを行なった。これは次元解析のはしりであった。 ==年表== 1768年 ‐ オセールに生まれる。1787年 ‐ サン・ブノワ修道院に入る(‐1789年)。1794年 ‐ エコール・ノルマル・シュペリュール(高等師範学校)の聴講生となる。1795年 ‐ エコール・ポリテクニーク(高等理工科学校)の助講師となる(‐1798年)。1796年 ‐ 代数方程式の実数解の数に関する定理(フーリエの定理)を証明。1798年 ‐ ナポレオンのエジプト遠征に従い、カイロ大学幹事、エジプト学士院書記となる。1802年 ‐ イゼール県知事に任命され、グルノーブルに赴任する(‐1815年)。1807年 ‐ 熱伝導に関する最初の論文をアカデミー・デ・シアンス(科学アカデミー)に提出。1808年 ‐ 男爵に叙される。1815年 ‐ エルバ島を脱出したナポレオンに従うが、のち辞職する。1817年 ‐ パリに移住し、すぐにアカデミー・デ・シアンス会員となる。1822年 ‐ アカデミー・デ・シアンス終身幹事、ロンドン王立協会外国人会員となる。著書『熱の解析的理論 (Th*7860*orie Analytique de la Chaleur) 』が出版される。1826年 ‐ アカデミー・フランセーズ会員となる。1827年 ‐ ラプラスの後任としてエコール・ポリテクニーク理事長となる。1829年 ‐ ペテルブルク科学アカデミー名誉会員となる。1830年 ‐ パリで病没。63歳。1831年 ‐ 著書『定方程式の解析』が出版される。 ===関連人物=== ダニエル・ベルヌーイ、ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ ‐ フーリエに先駆けて微分方程式を三角関数で解くことを考えた。ガスパール・モンジュ、クロード=ルイ・ベルトレ ‐ 数学者のモンジュと化学者のベルトレはともにフーリエの友人であり、また3人はナポレオンの部下でもあった。ゲオルク・ジーモン・オーム ‐ 『熱の解析的理論』に触発され、オームの法則を導いた。ジャン=バティスト・ビオ、シメオン・ドニ・ポアソン ‐ ビオやポアソンとの間に熱伝導方程式やその解法の先取権をめぐって論争が起きた。ペーター・ディリクレ ‐ フーリエの弟子であったディリクレは、フーリエ級数がもとの関数に収束する条件(ディリクレの条件)を厳密に導いた。 =犀 (木版画)= 『犀』(さい、独: Rhinocerus、英: D*11638*rer’s Rhinoceros)はルネサンス期のドイツ人画家、版画家のアルブレヒト・デューラーが1515年に製作した木版画。この木版画は、1515年初頭にリスボンに到着したインドサイを描写した作者未詳の簡単なスケッチと説明をもとにしており、デューラー自身が直接サイを観察して製作したものではない。ローマ時代以降1515年まで、生きたサイはヨーロッパに持ち込まれたことがなく、デューラーも本物のサイを見たことはなかった。1515年の終わりごろにポルトガル王マヌエル1世がローマ教皇レオ10世にこのサイを贈ろうとしたが、輸送途中の船が1516年初頭にイタリア沖で難破し、サイも死んでしまう。これ以降、1579年にスペイン王フェリペ2世にインドからサイが贈られるまで、ヨーロッパでは生きたサイを目にすることはできなかった。 デューラーの手によるこの木版画は生物学的、解剖学的に正確なものではない。しかしながらヨーロッパで非常に有名となり、その後3世紀に渡って何度も模倣された。ヨーロッパでは18世紀末にいたるまで、この木版画はサイを正確に描写しているものと信じられていたのである。その後サイのイメージは、1741年にロッテルダムに持ち込まれ、17年間ヨーロッパ中を巡業したメスのインドサイのクララ (en:Clara (rhinoceros)) などを描いた、より正確なスケッチや絵画に置き換えられた。とはいえ「動物を描写した作品のうち、これほど芸術分野に多大な影響を与えたものはおそらく存在しない」とまでいわれている。 ==モデルとなったサイ== 1514年初頭にポルトガル領インド総督アフォンソ・デ・アルブケルケは、グジャラート・スルターン朝の統治者だったムザッファル・シャー2世に同王国のディーウ島に要塞の建設許可を求める使者を送った。最終的にこの建設要求は却下されたのだが、交渉時に外交儀礼として互いに交わした贈答品に一頭のインドサイが含まれていた。当時の実力者たちには、諸外国との外交手段として動物園で飼育されるような珍しい動物を贈りあう慣習があり、1515年5月20日に極東からリスボンへ到着したのは、このときのインドサイである。 ムザッファル・シャー2世から贈られたこのサイはもともと飼育されていたもので、人間によく馴れた個体だった。デ・アルブケルケはガンダ(ganda)と名づけられていたこのサイとインド人飼育係のオケムとを、ポルトガル王マヌエル1世への贈物とすることとする。1515年1月にゴアからインドサイを積んだ輸送船が船出し、当時ポルトガルの植民地だった北アフリカのフォゴ島 (現カーボベルデ共和国)の、ノッサ・セニョーラ・ダ・アジューダ (Nossa Senhora da Ajuda)を経由する航路をとった。フランシスコ・ペレイラ・コウティーニョを船長とするこの輸送船は、異国の香辛料を満載した2隻の僚船とともにインド洋を横断、喜望峰を回って大西洋を北に向かっており、航海途中にモザンビーク、セントヘレナ、アゾレス諸島に寄港している。 120日間という比較的短い航海の後、サイはポルトガルに到着する。当時建築中だったマヌエル様式のベレンの塔のすぐ近くであった。後にベレンの塔にはサイの頭を象ったガーゴイルが、コーベル(軒下の飾り)として設置されている。サイはローマ時代以降、ヨーロッパでは見ることができなかった。このことはサイに神秘性を与えることとなり、ときに神話上の動物とみなされたり、動物寓意譚では想像上の動物であるモノケロス(ユニコーン)と同一視されたりもしていた。こういった理由により、生きたサイの実物がヨーロッパにもたらされたことは大騒動を巻き起こした。ルネサンスの精神では、サイは古代ギリシア・ローマの一部であり、古代彫刻や碑文などと同様に古典古代の復興といえるものだった。 サイは学者や好奇心に満ちた人々によって観察され、この幻想的な生物について記述した書簡がヨーロッパ中に送られた。このサイを表した最初期の画像は、ヴェネツィア人医師のジョヴァンニ・ジャコモ・ペンニ(en:Giovanni Giacomo Penni)によるものである。これは1515年7月にローマで出版された詩集の挿画で、サイがリスボン到着してから8週間足らずで出版された。この挿画の現存する唯一の模写が、セビリアのコロンビナ図書館に所蔵されている。 サイはリスボンのリベイラ宮殿にあったマヌエル王の野獣園(en:Menagerie)に収容された。ここはマヌエル王が他に所有していた、ゾウなどの大型獣が収容されていたエスタウス宮殿とは離れた場所であった。マヌエルはその年の三位一体主日(Trinity Sunday)である7月3日に、このサイと自身が所有していた若いゾウとの戦いを企画する。これはゾウとサイが互いに天敵であるという、古代ローマの博物学者大プリニウスの記述を確かめることを目的としていた。サイは敵に対してゆっくりと慎重に近づいていったが、ゾウはこの催しを見物する騒々しい観客におびえ、一合も交わすことなくその場を逃げ出した。 マヌエルはこのサイをメディチ家出身の教皇レオ10世への贈答品とすることを決めた。1498年にヴァスコ・ダ・ガマが喜望峰経由でのインドへの航路を「発見」して以来、ポルトガル海軍が展開していた極東における植民地化の占有権継続をローマ・カトリック教会に認めさせるために、マヌエルは教皇の機嫌をとる必要があったのである。この前年にもマヌエルは白いインドゾウをレオ10世に贈っており、教皇は自身で「ハノ (Hanno)」と名づけたこのゾウに非常に満足していたという経緯もあった。1515年12月に、花で飾られた新しいグリーンのビロード製首輪をつけられたサイは、銀食器や貴重な香辛料などとともに、テージョ川からローマへ向けて航海に出た。1516年初めに船がフランスの港町マルセイユ近くを通過したときに、プロヴァンス郊外のサン=マクシマン=ラ=サント=ボーム(en:Saint‐Maximin‐la‐Sainte‐Baume)から帰還していたフランス王フランソワ1世は、このサイを見物したいと要望した。このため船はマルセイユ沖のイフ島に寄港し、フランソワ1世が見物できるように、1516年1月24日にサイが短時間この島に上陸したというエピソードがある。 航海を再開した後、リグリア海沿岸ラ・スペツィアの北にあるポルトヴェーネレ海峡を通過する際に、船は突然の嵐に遭遇し難破する。このときサイは暴れたりしないようにデッキに鎖で縛り付けられていたため、泳ぐことができずに溺死してしまう。サイの死骸はヴィルフランシュ=シュル=メール近くで収容され、その後リスボンへ返されたサイの毛皮は剥製となった。毛皮の標本が1516年2月にローマへ送られ、中に藁を詰めて展示されていたとする記録もあるが、16世紀の剥製作成技術からすると信憑性に疑問が残る。リスボンで生きたサイが大きな評判を呼んだのとは対照的に、ローマではほとんど話題にならなかったが、当時の画家ジョヴァンニ・ダ・ウディーネ(en:Giovanni da Udine)やラファエロ・サンティが絵画に残している。 サイの剥製がその後どうなったのかは不明である。その後もローマにあったとすれば、メディチ家によってフィレンツェへ持ち去られたのかも知れず、1527年のローマ略奪で失われたのかも知れない。1996年にイギリスの作家ローレンス・ノーフォークが、このサイをもとにして『教皇のサイ(The Pope’s Rhinoceros)』という小説を書いている。 ==デューラーの木版画== モラヴィア出身の商人で、印刷業者でもあったヴァレンティン・フェルナンデスはサイがリスボン到着後すぐに見に行き、1515年6月にニュルンベルクに住んでいた友人にサイのことを書いた書簡を出している。ドイツ語で書かれた原本の書簡は現存していないが、イタリア語に翻訳された写しがフィレンツェ国立中央図書館に残されている。同じ頃に筆者不明の書簡が、同じく作者不明のサイのスケッチとともにリスボンからニュルンベルクへと送られた。デューラーはこの書簡とスケッチをニュルンベルクで見ている。この書簡とスケッチをもとに、デューラーは自身で一度もサイを見ることなしに、ペンとインクによるスケッチを2枚描き上げた。そして2枚目のスケッチから、構図を左右逆にして木版画が制作されたのである。 この木版画にはドイツ語の説明書きがあり、そこには大プリニウスの著作からの引用が含まれている。 西暦1513年5月1日(原文ママ)に、偉大なるポルトガル王マヌエルによってインドからサイと呼ばれる動物がもたらされた。以下は正確な説明である。小さな斑点があるカメのような色合いで、身体の大部分は分厚いウロコで覆われている。ゾウと同じくらいの大きさだが脚はより短く、傷つけるのは難しい。鼻先には強靱で尖ったツノがあり、石に擦りつけて鋭く磨き上げる。サイはゾウの天敵である。ゾウはサイを恐れており、両者が遭遇するとサイはツノを振りかざして突進し、ゾウの腹部に食らいつく。ゾウはこの攻撃から身を守る術を持たない。サイはほぼ完璧な装甲を持ち、ゾウはサイに危害を加えることはできない。サイは頑健、獰猛で、狡猾な動物である。 デューラーの木版画は実在のサイを正確に表現したものではない。デューラーはサイを、喉当てや胸当てが鋲止めされた鎧のような強固な装甲に覆われた動物として描いた。不正確な箇所は他にも背中前方の捻れた小さなツノ、うろこに覆われた脚、身体が極端に短いことなどが挙げられる。このような特徴は本物のサイには見られない。しかしながら、全身を守る西洋の鎧がゾウに立ち向かうサイをモデルとしてポルトガルで作製されたかも知れず、デューラーが描いたこのような表現は、逆説的に鎧の描写として正確であった可能性もある。もしかしたらデューラーが表現した「鎧」はインドサイの厚い表皮のしわを再現したものか、あるいは他の明らかな誤り同様にデューラーの単純な誤解か想像の産物だったものかも知れない。さらにデューラーはサイがウロコで覆われているかのような質感で表現している。これはデューラーがインドサイのざらついた、ほぼ無毛な表皮を表現しようと試みたのかも知れない。上脚部と肩部にはイボ状の突起物が見られるが、これはインドからポルトガルへの4か月の輸送中に狭い場所に閉じこめられていたために罹病した皮膚炎をそのまま表現している可能性がある。 デューラーがニュルンベルクに滞在していたときとほぼ同時期にアウクスブルクに滞在していたドイツ人画家、版画家ハンス・ブルクマイアーが作製した、もう一枚のサイの木版画がある。当時ブルクマイアーはリスボン在住の商人と書簡の遣り取りをしていたが、デューラーと同様にサイに関する書簡やスケッチを目にしたのか、実際にポルトガルでサイを観察したのかどうかは分かっていない。ブルクマイアーの木版画はデューラーのものと比較するとサイの実物に近い。デューラーの木版画に見られる架空の2本目のツノなど余計な付け足しは見られず、サイを拘束し繋ぎとめていた脚鎖が表現されている。しかしながらデューラーの作品はより迫力のあるもので、ブルクマイアーの作品の評判を上回った。ブルクマイアーの木版画のコピーが1枚だけしか現存していないのに比べ、デューラーのオリジナルの木版はその後も何度もコピーされている。デューラーは最初の木版画を自身で作製し、その木版画には5行の説明書きが添えられている。この説明書きが、1528年にデューラーが死去した後も何度もコピーされ作製された木版画と、デューラーのオリジナルの木版画とを識別する相違点である。1540年代に作製された2種類の木版画や16世紀後半に作製された2種類の木版画では説明書きが6行となっている。1620年ごろに、単色刷りで1枚の木版しかなかったデューラーの木版画に明暗を与える(キアロスクーロ)ことを目的として追加の木版が製作され、この木版を用いてウィリアム・ジャンセンが作製した版画をアムステルダムで見ることができる。デューラーの手によるオリジナルの木版はサイの脚部に虫食い穴ができ、ひび割れてしまったが、その後も長く使い続けられた。 『犀』はサイの描写に誤りが多かったにもかかわらず非常に有名な作品で、これは18世紀後半になって正確にサイが描写されるまで続くことになる。デューラーは『犀』を製作するにあたって、美しく緻密な作品ができる銅版を用いたエングレービングではなく、おそらく故意に木版画を選択しており、これは木版画のほうが大量印刷に適していたためと考えられている。この作品はゼバスチアン・ミュンスター(en:Sebastian M*11639*nster)の『コスモグラフィア(Cosmographiae)』 (1544年)、コンラート・ゲスナーの『博物誌 (en:Historiae animalium (Gesner))』(1551年)、エドワード・トプセル(en:Edward Topsell)の『四足獣の歴史(The History of Four‐footed Beasts)』(1607年)など、多くの博物学者、地理学者たちの著作に引用されてきた。他にデューラーの『犀』をもとにしたことが明白なのは、1536年7月にアレッサンドロ・デ・メディチのサイをモチーフとしたエンブレムである。このエンブレムには「勝利なき帰還なし(Non buelvo sin vencer、古スペイン語)」というモットーも刻まれている。パリにはデューラーの『犀』をベースとした彫刻がある。フランス人彫刻家ジャン・グージャンがデザインした高さ21mのオベリスクで、1549年に新王アンリ2世の行幸を祝ってサン・ドニ通りにあるセパルカー教会の正面に立てられた。また、『犀』は、ライデン大学教授で、動物学者、医学者のヤン・ヨンストンの『動物図譜』にも掲載された。『動物図譜』は江戸時代の日本にも伝わり、谷文晁が模写をした『犀図』が残されている。 『犀』の評価とそれをもとに派生した作品の数は、生きたサイがヨーロッパに輸入され、大衆の目に触れる機会が多くなった18世紀中盤以降低いものとなり、サイのイメージはより正確なものに置き換えられることとなる。ロココ期のフランス人画家、版画家ジャン=バティスト・ウードリー (Jean‐Baptiste Oudry)は、17年間ヨーロッパ中を巡業したインドサイのクララを1749年に実物大で描き、イギリス人画家ジョージ・スタッブスも、1790年頃にロンドンで大きなサイの絵画を描いている。この2枚の絵画はデューラーの木版画より正確で、人々のサイに対するイメージはそれまでのデューラーの作品によるものから、実物のサイのイメージへと徐々に変化していった。特にウードリーの絵画は、フランス人の博物学者ビュフォンの著書で広く模倣された『一般と個別の博物誌』に記載されている図像に大きな影響を与えている。 1790年にはスコットランド人の旅行家、紀行文作家ジェームス・ブルース(en:James Bruce)がアフリカを流れるナイル川を扱った紀行文『Travels to discover the source of the Nile』で、「あらゆる誤りが取り除かれたのは喜ばしいことだ」「サイが奇怪で間違った姿で描かれ続けたのはデューラーの作品が原因である」として『犀』を非難している。しかしブルースがデューラーの『犀』が誤りであるとしたのはアフリカのシロサイとの比較においてであり、インドサイとシロサイとではその外見が明白に異なっている。従ってシロサイとの比較によってデューラーを非難することが適当とは言えないのは明らかである 。 日本でも『薔薇の名前』の作者として有名な記号学者のウンベルト・エーコは、デューラーが描いた「ウロコや重なり合った鎧のような装甲」は、たとえサイをよく知る人であってもサイを表現する上で必要な要素であり、「このような様式化されたともいえる「記号」だけが、人々にとって「サイ」を理解する象徴となりえる」とした。さらにエーコは実在のサイの表皮が見た目よりも荒く、デューラーが『犀』に表現した鎧やウロコは見た目以上のものを表現していると指摘している。 1930年代までデューラーの『犀』は、サイを正確に表現しているとしてドイツの学校教科書に採用されていた。今でもドイツ語ではインドサイは「装甲に覆われたサイ(Panzernashorn)」と言われている。『犀』は未だに芸術への影響は大きく、サルバドール・ダリが1956年に製作した彫刻『Rinoceronte vestido con puntillas』が、2004年からスペインのマルベーリャのプエトロ・バヌースに展示されている。 =薔薇戦争= 薔薇戦争(ばらせんそう、英: Wars of the Roses)は、百年戦争終戦後に発生したイングランド中世封建諸侯による内乱である。共にプランタジネット家の男系傍流であるランカスター家とヨーク家の、30年に及ぶ権力闘争である。最終的にはランカスター家の女系の血筋を引くテューダー家のヘンリー7世が武力でヨーク家を倒し、ヨーク家の王女と結婚してテューダー朝を開いた。 ==概要== 1455年5月にヨーク公リチャードがヘンリー6世に対して反乱を起こしてから、1485年にテューダー朝が成立するまで(1487年6月のストーク・フィールドの戦いまでとする見方もある)、プランタジネット家傍流のランカスター家とヨーク家の間で戦われた権力闘争である。ヨーク家とランカスター家は、ともにエドワード3世の血を引く家柄であった。 ランカスター家が赤薔薇、ヨーク家が白薔薇をバッジ(英語版)(記章)としていたので薔薇戦争と呼ばれているが、この呼び名は後世のこととされる。 百年戦争中に、ランカスター家はプランタジネット朝を倒してランカスター朝を成立させていた。1422年、フランス王に対する勝利を重ね百年戦争における優位を確立したランカスター朝二代のヘンリー5世が死去し、生後9ヵ月のヘンリー6世がイングランド王に即位した。1430年代以降、大陸での戦況が不利になるとフランスから嫁いだ王妃マーガレット・オブ・アンジューやサマセット公エドムンド・ボーフォートをはじめとする国王側近の和平派(ランカスター派)とプランタジネット家傍流のヨーク公リチャードを中心とした主戦派(ヨーク派)とが権力闘争を繰り広げるようになった。イングランドは百年戦争に敗れ、ヘンリー6世は精神錯乱を起こして闘争を収拾できなかった。両派は対立を深め、1455年に第1次セント・オールバーンズの戦いで両派間に火蓋が切られた。以後30年間、内戦がイングランド国内でくり広げられる。 勝利したヨーク公は権力を掌握するが、マーガレット王妃率いるランカスター派の巻き返しを受けてヨーク派が窮地に陥ると1459年に戦いが再開した。1460年のノーサンプトンの戦いでヨーク派が勝利してヘンリー6世を捕らえ、ヨーク公は王位を目前にするものの、スコットランドの援助を受けたマーガレット王妃の反撃を受けてウェイクフィールドの戦いで戦死した。1461年、マーガレット王妃はウォリック伯リチャード・ネヴィルを破ってヘンリー6世を奪回するが、ロンドンの占領に失敗する。ヨーク公の嫡男エドワードがウォリック伯と合流してロンドンに入城し、新国王エドワード4世に推戴されてヨーク朝が成立した。タウトンの戦いでヨーク派が大勝し内戦の勝敗は決した。1465年にはヘンリー6世も捕らえられ、幽閉されている。(第一次内乱) 王位に就いたエドワード4世であったが、成立した政権は不安定であった。エドワード4世は身分違いのエリザベス・ウッドヴィルとの結婚を独断専行させ、ウッドヴィル一族を重用したこと、そして外交政策の意見の相違からウォリック伯の反逆を招いた。1469年にウォリック伯は王弟クラレンス公ジョージとともに反乱を起こしてエドワード4世を一時屈服させるが、翌1470年にエドワード4世が両人を反逆者と宣告すると国外逃亡を余儀なくされた。 ウォリック伯は宿敵であったマーガレット王妃と和解してランカスター派と手を結び、イングランドに上陸してエドワード4世を国外に追いやり、ヘンリー6世を復位させた。だが、エドワード4世はブルゴーニュ公の援助を受けて、翌1471年にイングランドへ攻め入り、バーネットの戦いでウォリック伯を敗死させ、さらにテュークスベリーの戦いでランカスター軍を打ち破ってマーガレット王妃を捕らえた。ヘンリー6世とエドワード王子は殺害され、ランカスター家の王位継承権者はほぼ根絶やしにされた。(第二次内乱) 1483年に再び転機が訪れた。エドワード4世が急死すると、王弟グロスター公リチャードはエドワード4世の幼い遺児エドワード5世と母后エリザベス・ウッドヴィルの一族を排除し、諸侯や市民の推戴を経てリチャード3世として即位する。リチャード3世の即位に反対する勢力によって国内は再び混乱した。フランスに亡命していたランカスター派のリッチモンド伯ヘンリー・テューダーは、1485年に兵を率いてイングランドに上陸すると、ボズワースの戦いでリチャード3世を撃ち破った。(第三次内乱) ヘンリー・テューダーはヘンリー7世として即位するとエドワード4世の王女エリザベス・オブ・ヨークと結婚してヨーク家と和解し、新たにテューダー朝が開かれた。 ==名称とシンボル== 薔薇戦争の名称は、2つの王家のヘラルディック・バッジ(英語版)(記章)であるヨーク家の白薔薇(英語版)、ランカスター家の赤薔薇(英語版)に由来するものである。もっとも、ランカスター家の赤薔薇の使用は戦争最末期である。この名称は19世紀の小説家ウォルター・スコットの『ガイアスタインのアン』(Anne of Geierstein)以降に広く用いられるようになった。 当時の疑似封建制のもと、この戦争に参加した者たちの多くが、直接仕えるまたは庇護者となっている諸侯のバッジがあしらわれた「お仕着せ」(そろいの制服:livery badge)を着用していた。例えば、ボズワースの戦いではヘンリー・テューダーの軍勢は「赤い竜」の旗の下で戦い、ヨーク軍はリチャード3世のバッジである「白い猪(英語版)」を用いていた。戦後、ヘンリー7世は赤薔薇と白薔薇を合わせて、ヨーク家とランカスター家の融合の象徴としたテューダー・ローズのバッジを用いた。 ライバル両家の名称は、おのおのヨークとランカスターの町に由来するが、両勢力の支持基盤とはほとんど関係がない。ヨーク家はミッドランド(イングランド中部)とウェールズ境界地方(ウェールズ・マーチ)に勢力をはり、家門名のヨークシャーではランカスター家が優勢だった。 ==背景== ===百年戦争とランカスター朝の成立=== 1330年代のスコットランド政策を巡ってのフランス王フィリップ6世とイングランド王エドワード3世との対立が百年戦争の発端となった。当時のイングランド王は大陸に領地を有するアキテーヌ公を兼ねており、フランス王の封臣としての立場でもあった。フィリップ6世がエドワード3世の封臣礼の不備を理由にアキテーヌ領の没収を宣言すると、エドワード3世はヴァロワ家のフィリップ6世の即位の不法性を申し立て、1340年に自ら「フランス王」を宣言してフィリップ6世と開戦した。エドワード3世と有能な将帥であるエドワード黒太子はクレシーの戦い(1346年)とポワティエの戦い(1356年)でフランス軍に大勝して戦局を有利に進めた。1360年のブレティニー・カレー条約で王位請求権放棄の見返りに旧アンジュー王領の回復とカレー、ポンティユー、ギーヌの割譲をフランス王に呑ませることに成功する。だが、その後、国内では反乱が起こり、黒太子が病に倒れたことで戦況も不利になり、カレー、ボルドーを残して征服した領域のほとんどを失ってしまう。 薔薇戦争につながる「大貴族間の抗争」はエドワード3世によって種をまかれた。エドワード3世と王妃フィリッパ・オブ・エノーは13人の子をもうけており、成人した男子は5人である。エドワード3世は彼らをイングランド貴族の女子相続人と娶わせ、クラレンス、ランカスター、ヨークそしてグロスターといったイングランド初の公爵家を創設させた。これら公爵家の子孫たちは、最終的には国王位を巡って相争うようになる。 1377年にエドワード3世は死去し、王位はその前年に没したエドワード黒太子の子でわずか9歳のリチャード2世が継承した。エドワード3世の子で初代クラレンス公ライオネル・オブ・アントワープもまた後を追って死去しており、娘のフィリッパが残され、リチャード2世の王位継承権者(推定相続人)となった。フィリッパは第3代マーチ伯エドマンド・モーティマー(英語版)と結婚した。1381年にエドムンドとフィリッパは相次いで死去した。子のないリチャード2世は彼らの息子の第4代マーチ伯ロジャー・モーティマーを王位継承者に指名したが、ロジャーは1398年に死去してしまい、第5代マーチ伯エドマンド・モーティマーが残された。黒太子の系統が断絶した際には長男子相続権法に基づけばライオネル・オブ・アントワープの子孫である第5代マーチ伯が王位を継承するべきであった。だが、実際にはそうはならず、このことが薔薇戦争の決定的な要因となった。 百年戦争に苦戦していたリチャード2世は、ワット・タイラーの乱をはじめとする頻発する民衆反乱に悩まされ、国費の浪費と寵臣政治が議会から批判を受けた。1399年に叔父のランカスター公ジョン・オブ・ゴーントが死去すると、リチャード2世はジョン・オブ・ゴーントの嫡子ヘンリー・ボリングブルックを領地没収と国外追放に処した。ボリングブルックは帰国し、当初はランカスター公位の回復を主張していた。多くの貴族が彼を支持するようになると、彼はリチャード2世を廃位してヘンリー4世として即位し、ここにランカスター朝が成立した。若年のエドムンド・モーティマーの王位継承権を支持する貴族はいなかった。しかし即位から数年がたつと、ヘンリー4世はウェールズ、チェシャーそしてノーサンバーランドでの反乱に直面することになり、これらの反乱は第5代マーチ伯エドムンド・モーティマーの王位継承を大義名分に利用した。これらの反乱は、幾らかの困難を伴いながらも鎮圧された。 1413年、ヘンリー4世が死去するとヘンリー5世が王位を継承した。果断な性格であったヘンリー5世は、国内が安定していたことから中断していた百年戦争を再開すると、1415年自ら兵を率いてフランスへ侵攻し、アジャンクールの戦いにおいてフランス諸侯の連合軍を打ち破った。そして1420年、フランスとトロワ条約を結び、ヘンリー5世の子孫によるフランス王位継承権を認めさせた。 ヘンリー5世の9年間の治世ではサウサンプトンの陰謀事件(英語版)が起こっており、エドワード3世の第4子エドマンド・オブ・ラングリーの子であるケンブリッジ伯リチャード・オブ・コニスバラがアジャンクールの戦いに先立つ1415年に反逆罪で処刑されている。ケンブリッジ伯の妻で王位継承権を有するアン・モーティマー(ライオネル・オブ・アントワープの曾孫でロジャー・モーティマーの娘)は1411年に死去している。アンの弟の第5代マーチ伯はヘンリー5世に忠実であり、1425年に子を残さずに死去しており、その王位継承権と称号はアンの子孫に相続された。 ケンブリッジ伯とアン・モーティマーの子のリチャードは父が処刑された時には4歳であった。ケンブリッジ伯は私権を剥奪(英語版)されたが、後にヘンリー4世はアジャンクールの戦いで戦死したケンブリッジ伯の兄のヨーク公エドワードの称号と領地をリチャードに相続させている。ヘンリー5世には3人の弟がおり、彼自身も壮健で結婚もしており、ランカスター家の王位は揺るがぬものと見られていた。 ===ヘンリー6世の治世=== 1422年8月31日にヘンリー5世が急死し、即位した一人息子ヘンリー6世はわずか生後9ヶ月だった。その2ヵ月後にフランス王シャルル6世も死去しており、トロワ条約に従えばフランス王位はヘンリー6世のものとなるが、王太子シャルル(シャルル7世)を擁するアルマニャック派はこれを容認しなかった。 ヘンリー6世にはベッドフォード公ジョンとグロスター公ハンフリーの2人の叔父がおり、年長のベッドフォード公が護国卿(摂政)となり、ベッドフォード公がイングランド不在時はグロスター公がその役割を果たすことになった。だが、グロスター公とランカスター家傍系のウィンチェスター司教ヘンリー・ボーフォート、サフォーク伯ウィリアム・ド・ラ・ポールとが反目するようになった。 1429年、ジャンヌ・ダルクの活躍によってアルマニャック派がオルレアンを解放し、シャルル7世はランスでフランス国王の戴冠式を挙行した。イングランド側もパリを一時的に確保して1431年にヘンリー6世のフランス国王戴冠式を挙行するが、1435年のアラスの和約で同盟者であったブルゴーニュ公フィリップ3世(善良公)がシャルル7世と講和し、イングランドにとって情勢は不利になった。 ベッドフォード公が1435年に死去すると、ヘンリー6世は権力争いが絶えない評議員や顧問官に囲まれることとなった。グロスター公は護国卿の地位を求め、この目的を遂げるべく意図的に庶民の人気を得ようと画策したが、枢機卿ヘンリー・ボーフォートやサフォーク伯の抵抗を受けた。 サフォーク伯はフランス国王との和平政策を推進し、シャルル7世の王妃マリーの姪にあたるアンジュー公ルネの公女マルグリット(マーガレット)とヘンリー6世との結婚を取り決めた。1445年に結婚式が執り行われたが、この和平にはメーヌの割譲が含まれており、イングランド国内では大変に不評だった。1447年、サフォーク侯は和平に反対するグロスター公ハンフリーを反逆罪で逮捕し、その5日後にグロスター公はベリー・セント・エドマンズ(英語版)の牢獄で死去した。 グロスター公を死に追いやったことで逆にサフォーク公の立場が悪くなり、今度はフランスとの和議を破棄して攻撃を行うが、失敗してフランスの領土のほとんどを喪失してしまう。1450年にサフォーク公は失脚し、国外追放の途上で殺害された。 代わってサマセット公エドムンド・ボーフォートが和平派の中心人物となった。一方、1446年まで「フランスおよびノルマンディーの総督」職に就いていたヨーク公リチャード(グロスター公の死により第一王位継承権者となった)が主戦派の中心となり、宮廷とりわけサマセット公を対仏戦において資金と兵士の供給を滞らせたと激しく非難した。 1450年、ケントにおいて民衆暴動が発生した(ジャック・ケイドの反乱)。ヨーク公の従弟を自称するケイドに率いられた一揆軍は政治的要求を掲げてロンドンに向かい、政府軍と衝突するがこれを打ち負かしてロンドンの一部を占拠し、ケント州長官と廷臣1名を殺害した。政府が赦免状を出したことによって暴徒は四散したが、ケイドを含む幾人かが処刑された。 1452年、アイルランド総督に左遷されていたヨーク公リチャードがイングランドに帰還し、サマセット公の排除と政府の改革を求めてロンドンへと進軍した。この時点では彼の大胆な行動に与する貴族は僅かであり、ブラックヒース(英語版)でヘンリー6世と会見するが欺かれて拘禁された。彼は1452年から1453年にかけて投獄されるが、恩赦により釈放されている。 宮廷での不協和音は国内全土にも反映されるようになり、貴族たちは私闘を繰り広げ、国王の権威や宮廷法に対する不服従を示すようになった。北東部でのパーシー家とネヴィル家の争いはこの時代の典型的な私闘で、他の貴族たちも制約を受けることなくこれを行った。多くの場合は、それらは古くからの貴族とヘンリー4世以降に台頭するようになった新興貴族間で戦われた。古くからノーサンバーランド伯の地位を有するパーシー家とこれに比べると成り上がりのネヴィル家との争いはこのパターンであり、これ以外ではコーンウォールとデヴォンで行われたコートネイ家とボンヴィル家の私闘がある。 フランスではシャルル7世がイングランド軍を追い詰め、1453年10月19日、イングランド軍最後の拠点であったボルドーを攻め落した。その後イングランド勢力による反撃が試みられたが、小競り合い程度であることから、これをもって百年戦争は終結したと見做されている。 1453年8月にヘンリー6世は最初の発作に見舞われて精神錯乱に陥り、王子(エドワード・オブ・ウェストミンスター)の誕生さえ認識できない有様となった。マーガレット王妃は自らを摂政にするよう要求したが容れられず、貴族院の指名によりヨーク公が護国卿に任命された。彼はすぐにこの権力を大胆に行使し、サマセット公を投獄するとともにパーシー家のノーサンバーランド伯(ヘンリー6世の支持者)と私闘を行っていた彼の同盟者ネヴィル家(義理の兄弟のソールズベリー伯、その息子のウォリック伯)を支援した。 1455年にヘンリー6世が回復すると、ヨーク公の政策は覆され、サマセット公が復帰した。マーガレット王妃はヨーク公に対抗する党派を構築して、彼の影響力を奪う陰謀を画策した。次第に追い詰められていったヨーク公とその一党は、身を守るために武力をもって対抗することを決意する。 ===大貴族と軍隊=== 15世紀のイングランドは神授権を主張し、民衆からは神に指示され導かれる「聖別された君侯」と信じられていた国王に統治されていた。王権の主なる機能は敵から民衆を守ること、公正に統治すること、そして法を維持執行することであった。このような社会での主権者の性格は自らの安全確保と臣下の安寧に依拠するがために肝要であった。統治と君臨によって国王は強大な権力を振るうが、300万人の国民を擁する政府の複雑性は政府機関の数が増すとともに臣下への権限の委任の増加を導いた。 王位継承法は明確なものではなかったが、一般的には年長の子とその相続人に継承させる長男子相続権の規則が適用されていた。12世紀の女君主マティルダの短い治世から、1399年のリチャード2世の廃位までの時期はプランタジネット朝には多数の男系継承者が存在していたためにこの長男子相続権でも問題が生じなかった。しかし、1399年から15世紀の末には、法学者ジョン・フォーテスキューの1460年代の著作が言うところの、「強大化しすぎた臣下」の台頭により、王位は抗争の的となった。この時代は王位請求者、もしくはその黒幕とならんとの野心を持つ、強大な大貴族があまりにも多くいた。この結果、新たなそして不穏な要素が王位継承の決定に加わることになり、権力に対する恣意の横行となった。 国土の防衛はとりわけ重要であり、イングランド国民の多くが軍事的成功に重きを置いていた。それ故に国王は有能な戦士と見なされねばならなかった。薔薇戦争の名で知られる一連の内戦の決定的な要因は、国王自身は常備軍を有していなかったことである。国王は必要な際に自らを守る兵の動員を貴族たちに依存しており、そのため、もしも刺激させればその兵力を国王に向けかねない、貴族やジェントリ(郷紳)との関係を良好に保つことが不可欠であった。このことは国王が、大貴族間の権力闘争(とりわけ、王国の安定を脅かしかねないもの)を抑止する責務にもつながっている。 薔薇戦争は主に大土地所有(英語版)の大貴族の間で行われた。彼らは王族たる公爵、比較的少数の侯爵や伯爵、多数の男爵と騎士、そして土着のジェントリたちであった。彼らは広大な私有地を持つ一方で、投資や貿易によって財産を増やし、政略結婚によって政治的影響力を拡大していた。彼らは封建的な扈従(こじゅう)(retainerまたはtenants)からなる武力によって支えられており、しばしば外国人傭兵も抱えていた。雇用された多数の兵士を統制する行為は「幇助」(maintenance)として知られる。このような私兵の規模のほかに、貴族の威信は「扈従団」(affinity:アフィニティ)によっても計られた。扈従団の一員となった扈従はその貴族の「お仕着せ」(livery:そろいの制服と記章)を着用し、戦役に従軍する。その見返りとして、貴族は年金の支払いや法的な保護そして土地や官職といった報酬を与えた。この非公式な「お仕着せと幇助」(livery and maintenance)の制度は百年戦争に続く封建制度の衰退を通じて現れたもので、封建制度本来の土地の授受を媒介とした封臣として貴族に仕えるあり方ではなく、「仕着せされた扈従」(liveried retainer)として貴族と請負契約を結ぶ、歴史家の言うところの、「疑似封建制」(bastard feudalism)の一環であった。薔薇戦争の時期には、フランスでの戦いに敗れイングランド軍から除隊させられた多数の兵士たちの存在があった。貴族たちは彼らを雇用して襲撃、または従臣とともに法廷に引き連れて行き、原告や傍聴人そして判事に対する威嚇に用いた(訴訟不法幇助)。 前世紀の戦争の経験から、弓兵に対する騎兵突撃が極めて危険なことが分かり、騎兵(装甲兵)たちはほとんどの場合、徒歩で戦った。しかしこれはしばしば言われるが、貴族の方が兵士よりも危険が大きかった。ブルゴーニュ人の観察者フィリップ・ド・コミュンヌ(英語版)は、エドワード4世が戦場で勝利を決した際に「兵士は逃がしてやれ、だが貴族は容赦するな」と命じていたと伝えている。 ==第一次内乱== ===第一次セント・オールバーンズの戦いと愛の日=== ヨーク派 ヨーク公リチャードソールズベリー伯リチャード・ネヴィル ウォリック伯リチャード・ネヴィルウォリック伯リチャード・ネヴィル ランカスター派 ヘンリー6世 マーガレット・オブ・アンジューマーガレット・オブ・アンジューサマセット公エドムンド・ボーフォートノーサンバランド伯ヘンリー・パーシー ―戦死または処刑。 1455年5月、大評議会開催のためにレスターに向かっていたヘンリー6世、マーガレット王妃そしてサマセット公エドムンドの宮廷一行は、公正な審理を求めるべくロンドンに向けて南下していたヨーク公リチャードの軍勢と対峙することになった。5月22日、ロンドン北方のセント・オールバンズで両軍は衝突する。比較的小規模なこの第一次セント・オールバンズの戦いはこの内戦における最初の会戦となった。戦いはランカスター派の敗北に終わり、サマセット公は戦死し、ノーサンバランド伯をはじめとするランカスター派の主だった指導者たちは処刑された。会戦の後、ヨーク派は評議員や従者たちに見捨てられて陣幕で一人たたずんでいたヘンリー6世を見つけ、国王は明らかに精神異常に陥った状態だった(国王は首に軽い矢傷を負ってもいた)。 この勝利により、ヨーク公と彼の同盟者たちは再び影響力を取り戻した。10月、国王が執務不能なためにヨーク公が再び護国卿に任命され、議会は彼が国王に武器を向けたことについて不問に付した。ヘンリー6世が回復すると、1456年2月にヨーク公は護国卿を解任された。同年6月、ヘンリー6世はミッドランド地方に行幸をし、マーガレット王妃はランカスター家領や王太子領に近いコヴェントリーに宮廷を置かせた。その後、サマセット公ヘンリー・ボーフォート(戦死したサマセット公エドムンドの子)が国王の寵臣として台頭するようになった。一方、ヨーク公はアイルランド総督に復職しており、またウォリック伯はカレー総督となり、おのおのヨーク派の拠点となしていた。 首都と北イングランド(ネヴィル家とパーシー家の戦闘が再開していた)での無秩序が広まり、南部海岸ではフランス海軍による海賊行為が増加していたが、国王と王妃は自らの地位を保つために動かなかった。一方、ヨーク派のウォリック伯(後にキングメーカーの異名を受ける)は商人の守護者としてロンドンで人気を集めるようになっていた。 1458年春、カンタベリー大司教トマス・バウチャー(英語版)は両派の和解を調停しようとした。大評議会のために諸侯がロンドンに集められ、町は武装した従臣たちでいっぱいになった。大司教は第一次セント・オールバーンズの戦い以降の流血の私闘を解決するための複雑な和解策を話し合った。その後、3月25日の「聖母マリアの受胎告知の祝日」(Lady Day)に国王は「愛の日」(Love day)の教会行列をセント・ポール大聖堂に向かって挙行し、ランカスター派とヨーク派の貴族たちが手に手をとってこれに続いた。教会行列と会議が終わるとすぐに陰謀が再開した。 カレー総督のウォリック伯はハンザ同盟やスペインの船を襲撃して人気を博すが、本国政府にとっては不愉快な行動だった。彼は査問のためにロンドンに召還されたが、自分の生命を脅かそうとする企てがあると主張してカレーに戻った。ヨーク公、ソールズベリー伯そしてウォリック伯はコヴェントリーの大評議会に召集されたものの、彼らは自らの支持者から切り離された上で逮捕されると危惧しており、これを拒絶した。 ===戦闘の再開と合意令=== ヨーク公はネヴィル一族をウェールズ境界地方(英語版)のラドロー城に集結させた。1459年9月23日、ランカスター軍はヨークシャーのミドルハム城からラドロー城へ向かっていたソールズベリー伯の進軍をスタッフォードシャーのブロア・ヒースの戦いで迎え撃ったが敗北した。それからしばらく後の10月12日、合流したヨーク軍はラドフォード橋の戦いで、数に勝るランカスター軍と対戦する。戦いはウォリック伯がカレー守備隊から派遣したアンドリュー・トロロープ(英語版)の部隊が寝返ったためにヨーク軍の敗北に終わった。ヨーク公はアイルランドへ戻り、長男のマーチ伯エドワード、ソールズベリー伯、そしてウォリック伯はカレーへ逃れた。 ランカスター派が主導権を取り戻し、ヨーク公とその支持者たちは反逆罪で私権剥奪処分を受けて所領と称号を奪われ、ヨーク公とその子孫の王位継承権も欠格とされた。サマセット公がカレーを接収すべく派遣されたが、ウォリック伯はカレー守り抜いた。1460年1月から6月にかけて、ウォリック伯はカレーからイングランド沿岸部を逆襲して国王軍に打撃を与えた。3月、ウォリック伯はヨーク公と作戦を協議するためにカレーを発し、エクセター公率いる国王艦隊をたくみにかわしてアイルランドに渡った。 1460年6月、ソールズベリー伯とウォリック伯そしてマーチ伯エドワードが海峡を越えてサンドウィッチに上陸し、人望の厚いウォリック伯のもとに兵が集まり、7月にロンドン塔を除くロンドン市街を制圧した。コヴェントリーの宮廷にいた国王と王妃は兵を軍隊を召集すると、ヨーク派に対するべくヘンリー6世の軍は南下し、マーガレット王妃はエドワード王子とともにコヴェントリーに留まった。7月10日のノーサンプトンの戦いでウォリック伯は、グレイ卿(英語版)の裏切りもあって、ランカスター軍を撃破できた。この戦いで、ランカスター派のバッキンガム公ハンフリー・スタフォード、シュルーズベリー伯、エグリモント卿、ボーモント卿らが戦死した。ヘンリー6世はまたもヨーク派に捕らえられ、彼は明らかに精神的な異常に見舞われている様子だった。国王を手中に収めたヨーク派はロンドンに凱旋する。 この軍事的成功を踏まえ、ヨーク公リチャードはランカスター家系の非合法性を根拠とする王位請求へと動いた。ウェールズに上陸したヨーク公とその妻セシリーは国王と同じ形式でロンドンに入城した。10月に開催された議会でヨーク公は王座を占めようとするが制止され、王位請求を宣言するものの、諸侯たち、ソールズベリー伯やウォリック伯までもが、依然としてヘンリー6世に対する忠誠義務を捨ててはおらずヨーク公に同調しようとはしなかった。 ヨーク公は、自らがランカスター家より兄の血統にあたるライオネル・オブ・アントワープの子孫であることを根拠に、より優位の王位継承権を有すると主張する文書を貴族院に送り、重ねて王位を請求した。議会における長い議論の後に、妥協案である「合意令」(Act of Accord)が成立した。ヨーク公がヘンリー6世の王位継承者と認められ、6歳のエドワード王子の継承権は排除された。この取り決めは彼に要求した大部分を与えており、彼は護国卿に就任し、ヘンリー6世の名の下で全土を支配しえた。 ===ランカスター軍の反撃=== マーガレット王妃とエドワード王子は依然としてランカスター派の勢力圏にあった北部ウェールズへと逃れた。その後、彼らは海路スコットランドに渡り、援助を仰いだ。スコットランド王ジェームズ2世の王妃メアリー・オブ・グエルダースは軍隊の貸与の条件としてベリックの割譲とメアリーの王女とエドワード王子との婚約を提示した。マーガレット王妃はこの条件を呑んだが、彼女には兵士に給与を支払う財産がなく、南イングランドでの略奪を認めた。 マーガレット王妃の軍はヨークシャーを制圧し、彼女の元へランカスター派が集結した。1460年暮れに、ヨーク公リチャードはソールズベリー伯とともに北部のランカスター軍を討つべくロンドンを出立した。12月21日にヨーク公はウェイクフィールド近郊のサンダル城(英語版)に入るが、マーガレット王妃の軍勢はヨーク公の4倍に膨れ上がっており、彼は援軍を待って城に留まるが、ランカスター軍はこれを包囲して食糧補給を遮断した。12月30日にヨーク公は城を出撃してランカスター軍に対して野戦を挑んだ。ウェイクフィールドの戦いはランカスター軍の勝利に終わり、ヨーク公と17歳の次男のラトランド伯エドムンドが戦死し、ソールズベリー伯は捕らえられ斬首された。マーガレット王妃はヨーク公の首に紙の王冠を被せた上で、彼らの首をヨークの城門にさらさせた。 ウェイクフィールドの戦いの結果、戦死したヨーク公リチャードの長男で18歳のマーチ伯エドワードが、ヨーク公位および合意令に基づく王位請求を継承することになった。彼はウェールズ境界地方の親ヨーク派の軍勢を糾合し、1461年2月2日、ウェールズに侵攻してきたオウエン・テューダー、ペンブルック伯ジャスパー・テューダー父子とウィルトシャー伯ジェームズ・バトラーの率いるランカスター軍をヘレフォードシャー近くのモーティマーズ・クロスで迎え撃った。この戦いの前、彼は払暁に見えた3つの太陽(幻日現象として知られる)を故ヨーク公リチャードの生き残った3人の息子(自身、ジョージ、リチャード)の具現であるとし、勝利の前触れであると告げて兵たちを奮起させた。このことにちなみ、エドワードは後に太陽の光彩を自らのヘラルディック・バッジ(英語版)(記章)に取り入れさせている。会戦はヨーク軍の勝利に終わり、ヨーク公エドワードはオウエン・テューダーを処刑した。 一方、敵の首領ヨーク公リチャードを討ち取ったマーガレット王妃のランカスター軍は、南イングランドで略奪行為を行いつつ、国王奪回を目指して南下を続けていた。ウォリック伯はこれをヨーク派への支持を強めるためのプロパガンダに利用し、コヴェントリーの町はヨーク派に鞍替えしている。ウォリック伯の軍勢は交通上の要衝たるセント・オールバンズの北側に陣地を築いたが、敵軍に数で圧倒されており、マーガレット王妃軍は西に迂回して背後から彼の軍勢に襲いかかった。2月17日の第二次セント・オールバンズの戦いはランカスター軍の圧勝に終わった。ヨーク軍はヘンリー6世を置き去りにして潰走し、国王は町の一軒家の中で発見された。 戦闘後、すぐにヘンリー6世は30人のランカスター軍兵士にナイト爵を授けた。マーガレット王妃は6歳になるエドワード王子にヨーク軍の騎士(ヘンリー6世の警護役で会戦の間中、彼に付き添っていた)の処刑方法を決めさせている。 ランカスター軍の南イングランドでの略奪行為によりロンドン市民は恐慌状態に陥り、ランカスター派の威信は地に落ちていた。マーガレット王妃はロンドンの明け渡し交渉を行うが、市民は城門を閉じて国王と王妃の入城を拒んだ。 ===ヨーク派の勝利=== ウォリック伯の残存兵力と合流したヨーク公エドワードの軍勢は西部からロンドンへと進軍した。同じ頃、王妃軍はダンスタブルに撤退しており、1461年2月27日、ヨーク公エドワードとウォリック伯は難なくロンドンに入城できた。ロンドン市民は彼らを熱狂をもって迎え、ヨーク派は市当局から財政援助も受けた。 この時点においてエドワードはもはや「君側の奸を除く」とは主張しなくなっており、この内戦は王位争奪戦となった。ヨーク派は先年の合意令に基づく正当なる王位継承者(ヨーク公リチャード)の殺害を許したヘンリー6世は王位にあり続ける権利を喪失したと主張した。3月4日、7人の聖俗諸侯からなる評議会とロンドン市民からの推戴を受けたヨーク公エドワードは王位についた(エドワード4世)。彼はヘンリー6世とマーガレット王妃を処刑するか国外追放するまで公式な戴冠式は行わないと誓った。 3月19日、ヨーク軍がロンドンを出立し、エドワードとウォリック伯は兵を集めつつ北上した。3月27日から28日にかけてウォリック伯率いる前衛部隊がランカスター派の本拠ヨーク近くでランカスター軍と衝突した(フェリブリッジの戦い)。 3月29日、ヨーク西方のタウトンで両軍の決戦が行われた。このタウトンの戦いは薔薇戦争最大の戦いとなった。強風と降雪の中で数万の兵が衝突し、終日戦われたこの会戦は、エドワード率いるヨーク軍の決定的な勝利に終わり、ランカスター軍は指揮官の多くが命を落として潰走した。ヨーク軍約12,000人、ランカスター軍約20,000人が戦死しており、イギリス本土において1日の戦闘で命を落とした数としては最大のものとなった。 ヨークで待機していたヘンリー6世と王妃そしてエドワード王子は、敗戦を伝えられるとスコットランドへ逃亡した。生き残ったランカスター派の貴族の多くは新国王エドワードに忠誠を誓い、それ以外の者たちは北部国境地帯やウェールズの城塞に立て籠もった。エドワードはヨークを占領すると、城門に掲げられていた父と弟、ソールズベリー伯の首級を降ろさせ、代わりにウェイクフィールドの戦いの後にラトランド伯を処刑したことで悪名高いクリフォード卿ジョンをはじめとするランカスター派貴族の首級をさらさせている。 ===エドワード4世の即位とランカスター派掃討=== 1461年6月、ロンドンにおいて、エドワード4世の正式な戴冠式が、支持者たちからの熱狂的な歓迎を受けつつ挙行された。エドワード4世はおよそ10年間、比較的平穏な統治を行った。 北部では、エドワード4世の支配は1465年まで完遂しなかった。タウントンの戦いの後、ヘンリー6世とマーガレット王妃はスコットランドに逃れ、ジェームス3世の宮廷に身を寄せた。この年の暮れにランカスター軍はカーライルを攻撃したものの、資金のない彼らは容易に撃退され、エドワード4世の軍隊は北部地方に残るランカスター残党を掃討を行った。ダンスタンバラ城(英語版)、アニック城(パーシー家の本拠)、バンバラ城(英語版)といったノーサンバランドのランカスター派の城塞は数年にわたって持ちこたえている。 1464年には北イングランドでランカスター派の蜂起が起こった。サマセット公ヘンリー・ボーフォート(タウトンの戦い後、エドワード4世に帰順していた)を含むランカスター派貴族が反乱を指揮した。この反乱はウォリック伯の弟モンターギュ卿ジョン・ネヴィルによって鎮圧された。寡兵のランカスター軍は4月25日のヘッジレイ・ムーアの戦いで打ち破られたが、この時のモンターギュ卿はヨークへと向かうスコットランド使節を護衛する任務中であったため、即座に追撃することはできなかった。5月15日のヘクサムの戦いでランカスター軍は撃滅されてサマセット公ら指導者たちは捕らえられ、後に処刑されている。 北部のランカスター派城塞はこれ以前に陥落しており、1465年にはランカシャーのクリザーロー(英語版)でヘンリー6世が捕らえられた。彼はロンドンに連行されてロンドン塔に幽閉され、当面は丁重に遇された。同時期にイングランドとスコットランドとの妥協が成立すると、マーガレット王妃とエドワード王子はスコットランドからの退去を余儀なくされ、海路でフランスに渡り、数年間の窮迫した亡命生活に甘んじなければならなかった。 唯一残っていたランカスター派の拠点、ウェールズのハーレフ城は7年の包囲戦の末、1468年に降伏した。 ===第一次内乱関係図表=== ヨーク公リチャード マーチ伯エドワード(エドワード4世) ラットランド伯エドムンド ジョージ・プランタジネット リチャード・プランタジネットマーチ伯エドワード(エドワード4世)ラットランド伯エドムンドジョージ・プランタジネットリチャード・プランタジネットソールズベリー伯リチャード・ネヴィル ウォリック伯リチャード・ネヴィル モンターギュ卿ジョン・ネヴィルモンターギュ卿ジョン・ネヴィルノーフォーク公ジョン・モウブレーウィリアム・ハルバート(英語版)ヘイスティングス卿ウィリアムフォーコンバーグ卿ウィリアム・ネヴィルネヴィル・ドゥ・レビィ卿ジョン・ネヴィルヘンリー6世 マーガレット・オブ・アンジュー エドワード・オブ・ウェストミンスターエドワード・オブ・ウェストミンスターサマセット公ヘンリー・ボーフォートエクセター公ヘンリー・ホランドバッキンガム公ハンフリー・スタフォードシュルーズベリー伯ジョン・タルボットウェストモーランド伯ラルフ・ネヴィル(英語版)ウィルトシャー伯ジェームズ・バトラーオウエン・テューダー リッチモンド伯エドマンド・テューダー ペンブルック伯ジャスパー・テューダーリッチモンド伯エドマンド・テューダーペンブルック伯ジャスパー・テューダークリフォード卿ジョン ==第二次内乱== ===ウォリック伯の反乱=== エドワード4世擁立の立役者となったウォリック伯は、イングランド最大の土地所有者になっていた。妻の財産によってすでに傑出した大貴族になっていたが、その上に父の領地を相続し、さらには没収されたランカスター派貴族の領地をも与えられていた。彼には五港長官職とカレー守備隊司令職が与えられた。ウォリック伯は親仏派の立場をとり、エドワード4世とフランス王族との縁組をルイ11世と交渉していた。しかし、エドワード4世はランカスター派騎士の未亡人のエリザベス・ウッドヴィルと1464年に秘密結婚をしていた。後にエドワード4世はこれを「くつがえせない事柄」(fait accompli)として公表し、縁談を進めていたウォリック伯の面目を失わせることになった。 エドワード4世はエリザベス王妃の父リチャード・ウッドヴィルをリヴァーズ伯に、弟のアンソニーをスケールズ卿に、そして連れ子のトマス・グレイ(英語版)をドーセット侯となし、親族の多くを貴族と結婚させ、その他の者たちも爵位や官職を授与した。エドワード4世はウッドヴィル一族の重用に留まらず、側近たちにも爵位を与え、さらにはネヴィル一族の宿敵であるパーシー家の遺児ヘンリー・パーシーにノーサンバランド伯爵位を返還させ、独自の党派形成を策した。 エドワード4世がフランス国王との同盟ではなく、ブルゴーニュ公シャルル(突進公)に王妹マーガレットを嫁がせて同盟を結んだことや、弟のクラレンス公、グロスター公とウォリック伯の娘たちとの縁組に乗り気でなかったこともウォリック伯を失望させる要因となっていた。エドワード4世もウォリック伯の弟のヨーク大司教(英語版)ジョージ(英語版)を尚書部長官職から解任して、ネヴィル一族排除の動きを見せる。 ウォリック伯は任地のカレーから国王の不正を糾弾するとともに、エドワード4世の意に反してウォリック伯の娘イザベルと結婚した王弟クラレンス公ジョージと盟約を結んだ。1469年4月、ウォリック伯の扇動によって北部地方でレデスデールのロビン(英語版)の反乱が起き、エドワード4世は鎮圧に赴いた。ウォリック伯はカレーの軍勢を率いてケントに上陸するが、エドワード4世は7月6日のエッジコート・ムーアの戦いで反乱軍に敗れていた。エドワード4世はバッキンガムシャーのオルニーで捕らえられ、ヨークシャーのミドルハム城に幽閉された。ウォリック伯は王妃の父リヴァーズ伯と弟ジョン(英語版)を処刑し、エドワード4世の側近たちも粛清したが、エドワード4世自身の非合法性を唱えてクラレンス公擁立する動きをすぐには起こさなかった。 国内は大混乱に陥り、貴族たちは再び私兵を用いた抗争を始め、ランカスター派は反乱を扇動した。ウォリック伯の権力掌握を支持する貴族はわずかだった。エドワード4世はヨーク大司教ジョージに伴われてロンドンに入り、ウォリック伯と表面的な和解をなした。 1470年3月、リンカンシャーでさらなる反乱が起った。エドワード4世はウォリック伯と疎遠な者を選んで国王軍を召集し、ルーズコート・フィールドの戦いで反乱軍を打ち破った。捕虜になった首謀者はウォリック伯とクラレンス公の教唆による反乱であったと証言した。彼らは反逆者と宣告され、フランスへの逃亡を余儀なくされた。 ===ヘンリー6世の復位と死=== フランスにはマーガレット王妃とその息子が既に亡命していた。エドワード4世と彼の義弟にあたるブルゴーニュ公シャルル(突進公)との同盟に危機感を持ったフランス王ルイ11世はウォリック伯とマーガレット王妃との同盟を提案した。不倶戴天の敵同士だった両者は同盟に合意し、ウォリック伯は王妃に敵対行為を謝罪して忠誠を誓い、ウォリック伯の娘アンとマーガレット王妃の子エドワード・オブ・ウェストミンスターとの婚姻が成立した。 この時、エドワード4世はヨークシャーでの反乱を鎮圧すべく軍を率いて北上中だった。従兄弟のトマス・ネヴィル(英語版)率いる艦隊の支援を受けたウォリック伯とクラレンス公はイングランド南西部のダートマスに上陸した。ウォリック伯は10月にロンドンを占領し、幽閉されていたヘンリー6世を復位させてロンドン市街を行進させたが、獄中生活で憔悴しきり、文字通りの「影の薄い」姿だったという。新たにモンターギュ侯爵位(実際の所領はなかった)を与えられたジョン・ネヴィルは、大軍を率いてスコットランド辺境部へと兵を進めた。この事態はエドワード4世にとって予想外のことであり、軍隊を解散させると王弟グロスター公とともにドンカスターから海岸部に逃れてホラントに渡り、ブルゴーニュに亡命した。だが、この段階になってもマーガレット王妃とエドワード王子はウォリック伯を信用せず、フランスから動こうとしなかった。 ウォリック伯の成功は短命なものであった。親仏派のマーガレット王妃とウォリック伯が牛耳るイングランドとフランスとの同盟成立に危機感を持ったブルゴーニュ公シャルルはこれに対抗すべく、エドワード4世にイングランド奪回のための軍を集める資金を提供する。 1471年3月15日、エドワード4世はドイツとフランドルの傭兵からなる少数の軍勢とともにヨークシャー海岸のレーヴェンスパー(英語版)に上陸した。彼はすぐにヨークの町を手に入れ、支持者たちを集めた。これを討つべくノーサンバランド伯、エクセター公、オックスフォード伯、ウォリック伯の軍が差し向けられた。討伐軍をすり抜けてロンドンに向けて南下するエドワード4世の軍に、ウォリック伯を見限ったクラレンス公が合流した。4月11日、エドワード4世とクラレンス公はロンドンに入城し、ヘンリー6世を逮捕した。 4月14日、エドワード4世とウォリック伯の軍はバーネットの戦いで決戦をした。この会戦は深い霧の中で戦われ、ウォリック伯軍の一部は同士討ちを演じている。裏切りが発生したと思い込み混乱状態になったウォリック伯軍にエドワード4世軍の騎兵が突入し、ウォリック伯軍は総崩れになった。ウォリック伯は馬に乗ろうとしたところを斬られ、モンターギュ侯も戦死した。 一方、マーガレット王妃とエドワード王子はバーネットの戦いの数日前に西南地方(ウェスト・カントリー(英語版))に上陸していた。フランスに引き返すよりはウェールズのランカスター派と合流することを選んだマーガレット王妃は、セヴァーン川の渡河を図るが、グロスター公が通行を阻止したために失敗した。第4代サマセット公エドムンド・ボーフォートが指揮する彼女の軍隊は捕捉され、5月4日のテュークスベリーの戦いで壊滅した。 捕らえられたエドワード王子とサマセット公は処刑された。戦いからしばらく後の5月14日にヘンリー6世も、ヨーク王朝を強固たらしめるために殺害された。マーガレット王妃はフランス王ルイ11世が身代金を支払うまでの5年間、ロンドン塔に幽閉された。帰国後はフランス王にアンジュー家領の相続権を剥奪され、失意と貧窮の中で1482年に没した。 ===第二次内乱関係図表=== エドワード4世 エリザベス・ウッドヴィルエリザベス・ウッドヴィルグロスター公リチャードリヴァーズ伯リチャード・ウッドヴィル スケールズ卿アンソニー・ウッドヴィル ジョン・ウッドヴィル(英語版) ドーセット侯トマス・グレイ(英語版)スケールズ卿アンソニー・ウッドヴィルジョン・ウッドヴィル(英語版)ドーセット侯トマス・グレイ(英語版)ペンブルック伯ウィリアム・ハルバート(英語版)ヘイスティングス卿ウィリアムヘンリー6世 マーガレット・オブ・アンジュー エドワード・オブ・ウェストミンスターマーガレット・オブ・アンジューエドワード・オブ・ウェストミンスターウォリック伯リチャード・ネヴィル モンターギュ侯ジョン・ネヴィル トマス・ネヴィル(英語版)モンターギュ侯ジョン・ネヴィルトマス・ネヴィル(英語版)クラレンス公ジョージサマセット公エドムンド・ボーフォートエクセター公ヘンリー・ホランドオックスフォード伯ジョン・ド・ヴィアーペンブルック伯ジャスパー・テューダーレデスデールのロビン(英語版) ==第三次内乱== ===リチャード3世の簒奪=== エドワード4世の残りの治世は比較的平和が保たれた。末弟グロスター公リチャードと長年の友であり支持者でもあったヘイスティングス卿ウィリアム・ヘイスティングスには忠誠に対して十分な恩賞が与えられ、おのおの中部と北部の支配を任された。クラレンス公ジョージは次第にエドワード4世と不和になり、1478年に謀反に関与した嫌疑で処刑された。一方、グロスター公はウォリック伯の遺児でエドワード・オブ・ウェストミンスターの未亡人であるアン・ネヴィルと結婚して、ネヴィル家の私党を引き継ぎ、北部で大きな勢力を蓄えるようになった。 1483年4月9日にエドワード4世が急死した。国王の死を契機に王妃の親族ウッドヴィル家(弟のリヴァーズ伯アンソニーと最初の結婚の時の子のドーセット侯トマス)と古くからの側近のヘイスティングス卿との対立が表面化した。エドワード4世が死去したとき、王位を継承するエドワード5世はわずか12歳であり、リヴァーズ伯のもとラドロー城で養育されていた。 死の床にあったエドワード4世は、グロスター公リチャードを護国卿に指名したとされる。エドワード4世が身罷った時、グロスター公は北部に滞在していた。ウッドヴィル一族は宝物庫と武器庫を兼ねていたロンドン塔を確保すると、兵を集めて一種のクーデターを断行した。エドワード4世の死を受けて開かれた国王評議会はウッドヴィル一族によって主導され、ヘイスティングス卿の反対を退けて、グロスター公を実権のない名誉職に祭り上げる決定をした。危機感を持ったヘイスティングス卿はグロスター公に、ウッドヴィル家に対抗しうる兵力を持ってロンドンに入るよう伝えた。 4月28日、グロスター公リチャードとバッキンガム公ヘンリー・スタフォードは、エドワード5世を警護しつつロンドンに向かっていたリヴァーズ伯をストーニー・ストラットフォード(英語版)で拘束した。彼らはリヴァーズ伯に争う意図はないと伝えていたものの、その翌日に彼を投獄してしまい、エドワード5世には国王の身を害そうとするウッドヴィル家による陰謀を妨げるために行ったと告げた。リヴァーズ伯と王の異父兄のリチャード・グレイはヨークシャーのポンテフラクト城(英語版)に送られ、6月末に処刑された。 5月4日、グロスター公リチャードに保護されたエドワード5世はロンドンに入城し、ロンドン塔に送られた。エリザベス王太后は残りの子とともにウェストミンスター寺院に入り庇護を求めた。6月22日のエドワード5世の戴冠式の準備は進められ、この時点でグロスター公リチャードの護国卿の任期は終わることになっていた。6月13日、グロスター公リチャードはヘイスティングス卿を呼び出すと、裁判なしでその日のうちに処刑した。 カンタベリー大司教トマス・バウチャーはエリザベス王太后に対して、9歳になる王弟ヨーク公リチャード・オブ・シュルーズベリーをロンドン塔にいるエドワード5世の元に送るよう説得した。子供たちの身柄を確保したグロスター公は説教師やバッキンガム公を使って、故エドワード4世とエリザベス・ウッドヴィルとの結婚を違法であり、2人の子は庶子であると訴えさせた。議会はこれに同意して、「王たる資格」(Titulus Regius)を発し、グロスター公を正式に国王リチャード3世であると宣言した。囚われの身の2人の少年は姿を消し、おそらくはリチャード3世に殺害されたと見られているが、王位継承権に疑義があったヘンリー7世によって殺害されたとする説もある。 7月16日に盛大な戴冠式が催され、それからリチャード3世は中部と北部への行幸に赴いて気前よく下賜金を施し、また自らの息子エドワード・オブ・ミドルハムにプリンス・オブ・ウェールズ(王太子)の称号を与えた。 ===バッキンガム公の反乱=== ランカスター派 リッチモンド伯ヘンリー・テューダー(ヘンリー7世) ペンブルック伯ジャスパー・テューダーペンブルック伯ジャスパー・テューダーオックスフォード伯ジョン・ド・ヴィアー ヨーク派 リチャード3世ノーフォーク公ジョン・ハワードノーサンバランド伯ヘンリー・パーシースタンリー卿トマス ウィリアム・スタンリー(英語版)ウィリアム・スタンリー(英語版) ―戦死または処刑。―ランカスター派に寝返り。 1471年にヘンリー6世とその王子のエドワード・オブ・ウェストミンスターが殺害され、その他の者も命を落としたことで、ランカスター家の王位継承者としてリッチモンド伯ヘンリー・テューダーの存在が浮上していた。ヘンリー・テューダーの父リッチモンド伯エドマンド・テューダーはヘンリー6世の異父弟であるが、王位継承権自体は母マーガレット・ボーフォートからのものである。マーガレットはエドワード3世の四男ジョン・オブ・ゴーントの子ジョン・ボーフォートの孫である。ジョン・ボーフォートは出生時には私生児であり、後に両親が結婚して嫡出子となったが、ヘンリー4世の命によってジョン・ボーフォートの子孫の王位継承権は排除させられていた。このためにヘンリー・テューダーの血統の王位継承権には疑義があった。 ヘンリー・テューダーは少年時代の大部分を包囲下にあったハーレフ城と亡命先のブルターニュで過ごしている。1471年以降、エドワード4世はリッチモンド伯ヘンリー・テューダーの王位継承権について軽視しており、幾度か身柄の確保を試みるだけだった。ヘンリー・テューダーの母マーガレット・ボーフォートは2度再婚しており、最初はバッキンガム公の甥、その次はエドワード4世治世での要人の一人であるトマス・スタンリーと再婚して息子に対する支持を固めていた。1483年、マーガレット・ボーフォートはエドワード4世の長女であり、弟たち亡きあとはヨーク家の相続人となったエリザベス・オブ・ヨークとヘンリー・テューダーとの婚約を成立させた。 リチャード3世に対する反抗は南部で起こった。1483年10月18日、バッキンガム公ヘンリー・スタフォード(リチャード3世の即位に貢献し、自らも遠縁ながら王位継承権を有する)がランカスター系のリッチモンド伯ヘンリー・テューダーの擁立を標榜して挙兵した。ヘンリー・テューダーよりはエドワード5世か王弟を擁立すべしという意見もあったが、バッキンガム公は両人は既に殺害されていると認識していた。 南部における彼の支持者の一部が蜂起したが、時期尚早な蜂起であり、リチャード3世の代官ノーフォーク公ジョン・ハワードによってバッキンガム公との合流を阻止されてしまう。バッキンガム公自身は中部ウェールズのブレコンで蜂起した。彼は南イングランドの叛徒との合流を図るが暴風雨によってセヴァーン川の渡河を妨げられ、ヘンリー・テューダーはイングランドに上陸したが形勢不利とみて引き揚げている。バッキンガム公の兵は飢えに苦しんで逃亡し、彼は裏切りにあって捕らえられ、処刑された。 バッキンガム公の反乱の失敗はリチャード3世に対する陰謀の終わりにはならなかった。身辺でも不幸が重なり、1484年に王妃アンと11歳の王太子エドワードを相次いで亡くしていた。リチャード3世は兄の遺児エリザベス・オブ・ヨークとの再婚を考えるが断念している。 ===ボズワースの戦い=== バッキンガム公の残党や不平貴族が亡命中のヘンリー・テューダーのもとに集まった。リチャード3世はブルターニュ公の重臣に賄賂を贈ってヘンリー・テューダーを裏切るよう唆したが、ヘンリー・テューダーは警告を受けてフランスへ逃亡し、ここで彼は庇護と援助を受けた。 大貴族やリチャード3世の官吏までもが自らに同心すると確信したヘンリー・テューダーは、1485年8月1日に亡命者とフランス人傭兵からなる軍勢を率いてアルフルール(フランス語版、英語版)を出帆し、追い風により6日目にウェールズのペンブルックシャーに上陸した。リチャード3世が任命したウェールズの代官たちは、ヘンリー・テューダーに合流するか、傍観した。ヘンリー・テューダーはウェールズと辺境地方を進軍しつつ支持者を募り、相当数の兵力になった。 8月22日、レスタシャーのボズワースでヘンリー・テューダーとリチャード3世の決戦が行われた。両者とも旗色を明らかにしないスタンリー兄弟(スタンリー卿トマスとウィリアム(英語版))の動静を睨みつつ戦いに入った。リチャード3世軍では初手の矢戦から配下のノーサンバランド伯の軍勢が動かず、乱戦に入るとスタンリー兄弟がヘンリー・テューダーの側につき、リチャード3世軍の側面を突いた。敗北を悟ったリチャード3世は自ら敵陣に突入して、ヘンリー・テューダーの目前にまで迫ったという。リチャード3世は沼地で落馬したところを、ウェールズ人の兵士リース・トーマス(英語版)によって長柄斧(英語版)で首を斬られて倒れた。 寝返ったスタンリー卿は、戦死したリチャード3世の王冠をヘンリー・テューダーに捧げたと伝えられる。リチャード3世の遺体には汚辱が加えられ、裸にされて騾馬で引き回された。 ===ヘンリー7世の即位とヨーク派の反乱=== 勝利したヘンリー・テューダーはロンドンに入って議会を招集し、1485年10月30日に戴冠式を挙行した(ヘンリー7世)。11月に開催された議会は、ヘンリー7世の血統についてはさほど詮索せず、ボズワースの戦いの勝利を「神の御意志」として即位の正当性を承認している。 翌1486年1月18日、ヘンリー7世は自らの地位を固めるために、エドワード4世の王女であり、当時最有力なヨーク家系の王位継承権を有していたエリザベス・オブ・ヨークと結婚した。これにより、ヘンリー7世は2つの王家を統合することになり、ライバルだった白と赤の両家の図案を組み合わせた新たなテューダー・ローズを用いるようになった。ヘンリー7世は王位を固めるために、様々な口実をもうけて潜在的な王位継承権者を粛清し、この政策は次代のヘンリー8世にも引き継がれている。 多くの歴史家たちはヘンリー7世の即位をもって薔薇戦争の終了としているが、一部の者たちは、ヘンリー7世を打倒してヨーク王家を再興しようとする陰謀がなおも存在していたことから、この内戦は15世紀末まで続いたとしている。ボズワースの戦いの翌1486年、リチャード3世の侍従だったラヴェル卿(英語版)がヨークシャーで挙兵する事件が起こったが、烏合の衆であり戦う前に四散した。 1487年にラヴェル卿はスイス人およびドイツ人傭兵を率いてアイルランドに上陸する。この反乱にはエドワード4世の妹でブルゴーニュ公の未亡人のマーガレットが関与しており、リンカーン伯ジョン・ド・ラ・ポール(リチャード3世の甥で王位継承者に指名されていたが、ヘンリー7世に帰順していた)も加わっていた。反乱軍の指導者たちはランバート・シムネルという少年を、ヨーク系王族の生き残りで最も有力な王位継承権を持つウォリック伯エドワード(クラレンス公の遺児)の替え玉とし、ダブリンにおいて「エドワード6世」として戴冠させた。だが、本物のウォリック伯の身柄は既にヘンリー7世に確保されており、その証明として彼はロンドン市街を行進させられた。反乱軍はランカシャーに上陸してイングランド本土に侵攻するが、7月17日のストーク・フィールドの戦いでヘンリー7世率いる国王軍に撃破され、リンカーン伯は戦死し、ラヴェル卿は逃亡した。捕らえられたシムネル少年は赦免され、宮廷の厨房の使用人とされた。 1491年に、エドワード5世とともにロンドン塔に幽閉され消息を絶った王弟ヨーク公リチャードを名乗る人物(パーキン・ウォーベック(英語版))が現れたことにより、ヘンリー7世の王座は再び脅かされた。ウォーベックはフランス王シャルル8世やブルゴーニュ公太妃マーガレット、ハプスブルク家のオーストリア大公マクシミリアンの支持を受けてリチャード4世を名乗り、ネーデルラントやアイルランドで活動し、幾度かイングランドへの上陸を図っている。1496年にはスコットランド王ジェームズ4世の支援を受けてノーランバランドへ攻め込むが、ヨーク派からの支持を得られず失敗した。 1497年にコーンウォールで重税に抗議する反乱が起きた(コーンウォール人の反乱(英語版))。ウォーベックはこの反乱に加わり、エクセターを包囲するが失敗して捕らえられた。彼は同じくロンドン塔に監禁されていたウォリック伯とともに脱獄を図るが失敗し、1499年に2人は処刑された。 ヨーク家の血統を継ぐ者として、バッキンガム公エドワード・スタフォード、リンカーン伯の弟であるサフォーク公エドムンド・ド・ラ・ポール、リチャード・ド・ラ・ポール(英語版)兄弟が残っていた。サフォーク公は1501年に国外へ逃れてヘンリー7世打倒を企てたが、もはや支援する君主はなく、イングランドに送還されて1513年に処刑され、ヨーク派による陰謀はほぼ終息する。 バッキンガム公エドワード・スタフォードはヘンリー8世の時代の1520年に、さしたる理由なく捕らえられ処刑された。リチャード・ド・ラ・ポールはフランス王フランソワ1世の後援を受けてイングランド侵攻を企てるが実現せず、1525年のパヴィアの戦いでフランス軍に加わり戦死している。クラレンス公の娘のマーガレット・ポールはテューダー家と和解して生き残り、ソールズベリー伯位の襲爵を許されたが、1541年にヘンリー8世によって処刑され、テューダー家に対抗しうるプランタジネット家系の王位継承権者は完全に抹殺された。 ==戦後== 30年以上も続いたこの内戦によってイングランドの国土は荒廃したとされるが、これは新たに成立したテューダー朝によって誇張されたプロパガンダに過ぎない。ヨーク家とランカスター家の権力争いであるこの内乱は他国の戦争や内乱と異なり、抗争を行う貴族たちは臣民の支持を得るために彼らを戦いに巻き込むことを避けており、同時代のフランスの歴史家フィリップ・ド・コミュンヌ(英語版)はイングランドでは田園も建物も破壊されなかったと述べている。戦闘行動自体も合計で428日間に過ぎなかった。戦闘はごく短期間のものが時間を置いて断続的に続いたのであり、攻城戦やそれに伴う略奪は少なく、1460年の北部兵を率いたマーガレット王妃の反攻時の例外的な略奪も、現存する当時の記録からはわずかな影響しか認められない。この内戦の30年間、民衆の生活はほとんど脅かされておらず、ヘンリー7世は良好な状態の国土を継承できた。 薔薇戦争の結果、貴族がほとんど絶滅したかのように説明されることがあるが、実際の減少は25%程度であり、少ない数字ではないが「絶滅」という表現には当たらない。家門断絶の理由も、嫡出男子を欠いたことが戦死や処刑と同程度に存在した。一方で、この時代以前の大貴族(公爵家と伯爵家)がほとんど姿を消したのも事実である。ヘンリー7世は貴族数を抑制し、1485年の即位時の50家が、1509年に死去した際には35家になっていた。断絶した貴族の所領は王領地化され、王室財政の強化に資された。 ヘンリー7世は貴族の私兵である扈従団の抑制を図り、最初の議会で貴族たちに扈従団を保有しないことを誓約させ、1504年には「揃い服禁止法」を出している。もっとも、その治世中には疑似封建制度(英語版)を完全に解体することはかなわず、譲歩を余儀なくされることもあり、部分的・個別的な規制に留まっている。大貴族パーシー家をはじめとする在地貴族が根を張り、王権の支配の弱かった北部については、1489年にノーサンバランド伯ヘンリー・パーシーが横死すると、これを好機にサリー伯トマス・ハワードを送り込み秩序回復に成功した。 地方統治においては、国王にとって危険な貴族に頼らず、ジェントリ(郷紳)に依存しようとするランカスター朝、ヨーク朝からの政策が踏襲されたが、その達成には長い時間を要することになる。ジェントリは無給の治安判事として地方行政の中心的役割を担い、有能な者は中央の国王評議会にも起用された。身分の枠にとらわれない実用主義の人材登用がテューダー朝の特徴となる。 ヘンリー7世以降、テューダー朝は王権の強化を通した絶対王政の基礎を固めてゆくが、イングランド王は古来からの慣習法(コモン・ロー)や議会による制約が強く、同時代のフランスやスペインの様な強力な中央集権の完成には至らなかった。 ==題材とした作品== ===シェイクスピアの史劇=== ウィリアム・シェイクスピアの最初期の作品『ヘンリー六世 第1部』(1591年 ‐ 1592年)、『ヘンリー六世 第2部』(1590年 ‐ 1591年)、『ヘンリー六世 第3部』(1590年 ‐ 1591年)そして『リチャード三世』(1592年 ‐ 1593年)は百年戦争末期から薔薇戦争の時代を題材とした歴史劇であり、「第1・四部作」と呼ばれている。エドワード・ホール(英語版)の『年代記』(1548年)、ラファエル・ホリンズヘッドの『年代記』(1577年、1587年)などが材源に用いられた。『ヘンリー六世』三部作については成立時期とともに執筆者を巡っても議論が続いており、第一部は合作説が強い。 歴史劇なので必ずしも史実に忠実ではなく、劇的効果のために人間関係は大胆にアレンジされ、事件の時系列は圧縮されている。リチャード3世は醜い容貌のせむし男として描かれ、劇中で王冠を狙う野心を吐露して悪党になると宣言する、際立った印象を与える人物となっている。「第1・四部作」は幼王を殺害して王位を簒奪した悪王リチャード3世がヘンリー・テューダーに倒され、テューダー朝の成立により真の平和がもたされて完結する。 その後、これらの歴史劇が一度に上演されることはほとんどなかった。1963年、ジョン・バートン(英語版)とピーター・ホール(英語版)がこれらの作品を要約した『薔薇戦争』(The Wars of the Roses)を製作し、ロイヤル・シェイクスピア・カンパニーによる上演を行った。この上演は1965年にBBCで放映された。1981年から1982年には原作の変更を最小限にとどめた4部作が上演され、BBCで放映されている。 『リチャード三世』は様々な形で、たびたび映画化されている(リチャード三世 (シェイクスピア)#映画化作品を参照)。 ===その他=== その他の薔薇戦争を扱った主な作品には以下のものがある。 ウォルター・スコットの小説『ガイアスタインのアン』(Anne of Geierstein)は亡命したランカスター派貴族の物語である。この作品以降に「薔薇戦争」(Wars of the Roses)の名称が広く用いられるようになった。ロバート・ルイス・スティーヴンソンの小説『黒い矢:薔薇戦争の物語』(The Black Arrow: A Tale of the Two Roses)は薔薇戦争の時期を題材とした小説である。ジョセフィン・テイの『時の娘』(The Daughter of Time)は、リチャード3世の仕業とされるエドワード5世とヨーク公リチャードの殺害事件の真相を現代の警官が究明する推理小説である。フィリッパ・グレゴリー(英語版)は薔薇戦争の時代を扱った歴史小説シリーズ ”The Cousins’ War” を著している。 The White Queen (2009年)/『白薔薇の女王』(日本語版題名) ‐ エドワード4世の王妃エリザベス・ウッドヴィルを扱った作品。 The Red Queen (2010年) The Lady of the Rivers (2011年) The Kingmaker’s Daughters (2012年) The White Queen (2009年)/『白薔薇の女王』(日本語版題名) ‐ エドワード4世の王妃エリザベス・ウッドヴィルを扱った作品。 The Red Queen (2010年)The Lady of the Rivers (2011年)The Kingmaker’s Daughters (2012年)ジョージ・R・R・マーティンのSF小説『氷と炎の歌』シリーズは薔薇戦争をモチーフとしている。菅野文の漫画『薔薇王の葬列』は、シェイクスピアの『ヘンリー六世』『リチャード三世』を原案にしたファンタジーで、リチャード3世を主人公とする。 ==年表== ==略系図== =付加体= 付加体(ふかたい、英: accretionary prismまたはaccretionary wedge)とは、右図に示すように海洋プレートが海溝で大陸プレートの下に沈み込む際に、海洋プレートの上の堆積物がはぎ取られ、陸側に付加したもの。現在のところ「日本列島の多くの部分はこの付加体からなる」という見方がされている。 ==概要== 付加体という概念は、日本では1976年に九州大学の勘米良亀齢が南九州の四万十層を調査して、その構造を付加体と名付けた。欧米でもほとんど同時期にオックスフォード大学の W. Stuart McKerrow らがスコットランド地方の複雑な地質を調査して1977年に付加体構造に関する論文を発表した。この概念によって日本列島を形成する海洋起源の堆積岩や変成岩について、系統的な説明ができるようになった。 プレートテクトニクスでは、海洋プレートは上部マントルの上昇部である海嶺で作られ、海洋底として徐々に海嶺からはなれて行き、最後には海溝で沈み込んでゆくと説明されている。この間、玄武岩質の海洋プレートの上に様々な岩石が堆積してゆく。まず海嶺近辺の所々で地下からの熱水の湧き出しによる『金属鉱床』が形成される。大洋では放散虫の死骸を含んだ珪酸塩質のチャートや、他の生物の死骸を含んだ炭酸カルシウム質の石灰岩が徐々に堆積してゆく。海底火山の玄武岩や、その周辺に発達したサンゴ礁からできた石灰岩も、海洋プレートの上に乗ったまま運ばれる。海溝に近づくと大陸から運ばれた土砂や岩石によって、砂岩や礫岩も堆積する。海洋プレートが大陸プレートの下に沈み込む際に、これらの堆積物が海洋プレートから剥ぎ取られて大陸プレートに付加したものを付加体と呼ぶ。海洋底表層のチャート類や大きなサンゴ礁などは、海溝で海洋プレートから別れて陸側に付加する。海溝では次々に新しい付加体が到着するため、新しい付加体は古い付加体の下のもぐりこみながら大陸側へ押上げる。この結果、付加体内部は並行する多くの逆断層を有し、逆断層を挟んで新しい堆積物が古い堆積物の下に潜り込んでいるため、地層累重の法則に反する構造を取る(ただし並行する2本の断層間にある岩体内においては、下部が古く上部が新しい)。また海洋プレートと共に地下に沈んだ堆積物の一部は、大陸プレートとの摩擦で海洋プレートから離れ、大陸プレートの下に「底付け」される。この場合、堆積岩は比較的低い温度と高い圧力を受け、特徴的な変成岩となる。日本列島に幅広く分布する三波川変成帯に代表される「広域変成帯」はこのようにして形成された。これらの変性帯も広い意味での付加体と考える事が出来る(外部リンク参照)。日本近海では現在も南海トラフにおいて付加体が形成されているが、現在の海溝沈み込み帯における付加体形成範囲は海溝全体の約30%の範囲でしかなく、大半の海溝では付加体を形成せずにプレートが沈み込んでいる。 海洋プレートが更に深部まで沈み込んで周辺温度が1000℃付近まで上昇すると、海洋プレートから搾り出された水分が周辺のマントルの融点を下げてマグマを形成する(上記図の右の黄色い部分に相当)。形成されたマグマは上昇して地殻に達し、更に地殻中の古い付加体を溶かしながら上昇してゆく。これらのマグマは火山フロントとして地表で噴火すると同時に、噴火に至らないまま地下にも多数の花崗岩の岩体をつくる。中部地方、近畿地方(六甲山など)、中国山地に広く分布する中生代の花崗岩がその代表例である。 日本列島以外でも、地球上で最も古い岩石であるグリーンランドのイスア地方の38億年前の地層(英語版)が付加体の特徴を有していることが確認された。また安定大陸であるカナダ楯状地においても25億年前に形成された海洋起源の地層中に付加体の特徴である新旧地層の上下逆転現象が確認されている。その他の大陸でも下記西オーストラリアや南アフリカ、さらにニュージーランド、スコットランド南部、カリフォルニア、イタリア北部など各地で付加体構造が見つかっている。 ==日本列島における付加体の状況== 日本列島の周辺では、約3億年前から断続的に海洋プレートが沈み込んでおり、各年代において特徴的な地質構造を有し、日本列島の骨格を形成している。海洋プレートの沈み込みは現在でも継続しており、東海地震や南海地震の震源とされる南海トラフにおいて、フィリピン海プレートが日本列島の下に沈み込んでおり、四国沖では新たな付加体が形成され続けている。海溝から遠い大陸側(日本海側)のほうが古い地層である。なお下記に示す年代は「付加体として大陸に固定された年代」であって、実際に海底で噴火したり堆積して岩石が形成された年代は 更に古い。 ===古生代石炭紀から中生代三畳紀=== 分布は北九州、中国地方、上越地区。石灰岩でできた巨大な鍾乳洞秋芳洞がある秋吉台は、約2億5千万年前のペルム紀に付加体となった。当時アジア大陸に沈み込んでいた海洋プレートは、ジュラ紀末に消滅した(プレートが全て地下に沈んでしまった)ものでイザナギプレートと呼ばれている。 ===中生代ジュラ紀=== この時代の付加体は九州中部、四国北部と中部、南部を除く近畿地方、中部地方と関東地方の大部分に分布。全部をまとめて「ジュラ紀付加体」と総称されることがある。岐阜県と滋賀県の県境にそびえる伊吹山や、海洋生物の化石がたくさん産出する大垣市の金生山は、海山の上に成長したサンゴ礁の頂部の名残と考えられている。中央構造線は広義のジュラ紀付加体の中にある。中央構造線周辺には広域変成作用を受けた領家変成帯や三波川変成帯が存在するが、いずれも大陸底に底付けされた付加体が地下深部で変成作用を受けたあと、その後の地殻変動で地表に現れたものと考えられている。 ジュラ紀付加体でのトピックは、地球史上最大の大量絶滅であるP‐T境界を記録したパンサラサ海の地層が1990年代に岐阜県の鵜沼にあるチャート層で発見されたこと。大量絶滅の前後を含む当時の海洋の継続的なデータが得られた。また愛媛県の別子銅山は、海底に析出した熱水鉱床がジュラ紀に海溝に沈んで大陸に底付けされた後、白亜紀に変成作用を受けて形成された鉱山と推定されている。 ===中生代白亜紀から新生代古第三紀=== この時代につくられた付加体は、九州南部、四国南部、紀伊半島南部、中部地方の南部の一部に分布。代表的なものに堆積岩の地層である四万十帯がある。この頃は太平洋プレートが直接日本列島の下に沈み込んでいたとされる。 ===新生代新第三紀以後=== 前代(古第三紀)に生まれたフィリピン海プレートが、南海トラフに沈み始めた。これは現在も継続しており、四国沖には今も付加体が形成され続けている。 ==付加体から得られる情報== 現在の海洋地殻の年齢は最も古いものでも2億年程度で、それ以前に形成されたものはプレート運動によってマントルに沈み込んでしまっている。付加体は2億年より古い海山やサンゴ礁や大洋底の状況を記録した貴重な情報源である。サンゴ礁からできた石灰岩からは古代の生物の化石がたくさん見つかっている。 サンゴ礁等を除く一般的な付加体の元となった岩石は、海底や海山を構成していた玄武岩や大洋の深海底に堆積したチャートなどの岩石が多い。これらは 上記のように地層累乗による新旧関係判断が不可能でしかも複雑に褶曲した乱雑な構造となっている場合が多い上、堆積した年代を判定する手がかりとなる大型生物の化石が見つかることは殆ど無いため、従来は年代測定が非常に困難であった。 ===年代分析法の進歩=== しかし1990年代になって、チャートをフッ化水素酸で処理して得られる放散虫の微化石の分析から、詳細な年代分析が可能になった。放散虫は進化が早く形態変化が明瞭なため、堆積年代推定の強力な手段となる。また近年 二次イオン質量分析法(SIMS)によって玄武岩などの岩石に含まれる鉱物ジルコンを使ったウラン鉛年代測定法が発達し、火成岩の生成年齢が非常に正確に測定できるようになった。これらのデータの積み重ねの結果、各個別の付加体について生成した年代が非常に正確に判定できるようになった。 ===最古の原核生物様化石=== 西オーストラリアのピルバラ地域のチャート層から、最古の原核生物様化石が発見されている。この一帯はグリーンストーンベルト(英語版)と呼ばれる25億年以上前に形成された地質で、変性度の低い玄武岩や堆積岩が帯状に配列しているが、所々に花崗岩の貫入も認められている。これらのことからこの地域の陸地形成について付加体地質学の考え方を元にした議論がなされている。原核生物様化石の見つかったチャート層は、海底噴火による枕状溶岩の上にケイ酸塩が無機的に堆積したもので、放散虫はまだ発生していないためケイ酸塩は化学的に沈殿したものと考えられる。また溶岩に残っていた熱水変質の分析から噴火が起こったのは深さ1,000m以上の海底であることが判明している。。 ===大洋底でのP‐T境界の状況=== P‐T境界は古生代のペルム紀と中生代の三畳紀の境界で、地球史上最大級の大量絶滅と呼ばれている事件。今まで見つかっている化石の記録から海生無脊椎動物の90%以上が絶滅したと推定されている。化石生物の記録は陸地周辺の浅海のデータであるが、陸から遠く離れた大洋におけるP‐T境界の証拠が岐阜県鵜沼に露出している付加体のチャート層(放散虫のケイ質殻を大量に含んでいる)で発見された。このチャート層の分析の結果から、P‐T境界を挟む約2000万年という長い期間 大洋中の酸素が欠乏していたことが判明したため、「超酸素欠乏事件、スーパーアノキシア(Superanoxia)」と名づけられた。鵜沼では スーパーアノキシア前後に堆積したチャートは、海中に酸素が十分あり放散虫が繁殖していたことを示す「赤色チャート」(赤色の由来は酸化鉄)であるが、スーパーアノキシア期間は酸素の欠乏を示す「灰色チャート」(海水中の鉄分が酸化されない状況)、その中心時期であるP‐T境界直後には放散虫の繁殖が認められず有機物も酸化分解されないまま海底に沈殿した「黒色炭質粘土岩」が存在する。即ち大量絶滅事件であるP‐T境界において、付加体の分析から 全地球規模で長期間に渡って大幅な酸素の欠乏という非常にカタストロフィックな変化が起こっていたことが判明した。 =小田急20000形電車= 小田急20000形電車(おだきゅう20000がたでんしゃ)は、1991年から2012年まで小田急電鉄(小田急)が運用していた特急用車両(ロマンスカー)である。 小田急では、編成表記の際には「新宿寄り先頭車両の車両番号(新宿方の車号)×両数」という表記を使用しているため、本項もそれに倣い、特定の編成を表記する際には「20002×7」のように表記する。また、特定の車両については車両番号から「デハ20300番台」などのように表記し、区別の必要がない場合はスーパーシート・グリーン席はまとめて「特別席」、初代3000形は「SE車」、3100形は「NSE車」、7000形は「LSE車」、10000形は「HiSE車」、本形式20000形は「RSE車」、60000形は「MSE車」、日本国有鉄道は「国鉄」、東海旅客鉄道(JR東海)は「JR」、371系電車は「371系」、箱根登山鉄道箱根湯本駅へ乗り入れる特急列車には「箱根特急」と表記する。 小田急小田原線と東海旅客鉄道(JR東海)御殿場線との相互直通運転に使用される車両として1991年に登場した。JR東海との協定により、371系電車と基本仕様を統一したため、それまでの特急ロマンスカーとは異なり連接構造や前面展望席が採用されず、2階建て車両(ダブルデッカー)や特別席(スーパーシート・グリーン席)を設置していることが特徴である。 ”Resort Super Express” (略して「RSE」)という愛称が設定され、1992年には鉄道友の会よりブルーリボン賞を授与されたが、2012年3月のダイヤ改正をもって営業運転を終了、1編成が富士急行に譲渡され、2014年から同社8000系として運用を開始した。 ==登場の経緯== 小田急では、1955年から御殿場線へ直通する列車をキハ5000形気動車により運行を開始し、御殿場線が電化された1968年7月以降は8両連接から5両連接に短縮したSE車を使用して連絡急行「あさぎり」として運行していた。SE車は耐用年数を10年として製造された車両であり、1968年の時点で既に10年を超えていたことから小田急社内では反対の声もあったが、国鉄の組合闘争の激しかった時期で「NSE車が乗り入れてくれば反対する」という噂もあり、在来車の改造で対応したものである。その後、1980年代にはLSE車で車齢25年を超えたSE車を置き換える案もあったが、これも当時の国鉄側の現場の反応などを考慮して、仕方なくSE車を更新することで対応していた。一方、御殿場線沿線では1964年ごろから小田急の直通列車を沼津まで乗り入れるように要望が出ていたが、当時の御殿場線は御殿場から裾野までの約15kmにわたって列車交換設備がなく、国鉄財政の問題もあって実現しなかった。 国鉄分割民営化後、1989年には御殿場線の利用者が増加したことに対応して富士岡と岩波に列車交換設備が新設された。これより前の1988年7月に、車齢30年を超えたSE車の更新について小田急からJRに対して申し入れがあったこともきっかけとなり、小田急とJRの間で相互直通運転に関する協議が進められることになった。この協議の中で、特急に格上げした上で運行区間も新宿 ‐ 沼津間に延長し、あわせて2社がそれぞれ新形車両を導入した上で相互直通運転に変更することとなり、登場したのがRSE車である。 2社の協議によって「相互直通運転車両の規格仕様に関する協定書」に基づいた設計となり、編成の内容や定員・性能・保安機器などは極力合わせ、それ以外の部分については各社ごとの特色を活かす方針となった。このため、特急ロマンスカーとしては2300形以来の通常のボギー車となったほか、前面展望席も設置されないことになった。また、「あさぎり」だけではなく箱根特急にも使用することから、編成長は全長140m程度の7両固定編成とすることになった。 ==車両概説== 本節では、登場当時の仕様を記述する。 RSE車は7両固定編成で、形式は先頭車が制御電動車のデハ20000形で、中間車は電動車のデハ20000形と付随車のサハ20050形である。編成については、巻末の編成表を参照のこと。 ===車体=== 先頭車は車体長20,650mm・全長は20,900mm、中間車はサハ20150番台・サハ20250番台が車体長19,750mm・全長20,250mm、それ以外の中間車は車体長19,500mm・全長20,000mmで、車体幅は2,900mmの全金属製車体である。サハ20150番台・サハ20250番台は2階建て(ダブルデッカー)構造、それ以外の車両は高床式(ハイデッカー)構造である。 先頭部の形状は、それまでの特急ロマンスカーと同様に鋭利な流線形を踏襲しており、前面窓の傾斜角はHiSE車の37度に近い38度とした。前面ガラスはセンターピラーをなくした大型の3次曲面ガラスとした。運転室は2階に上げることはせずに通常の床高さに設置されたが、客室が高床部にあるため、客室からの前面展望を楽しめるようになっている。 側面客用扉は各車両とも1箇所で、LSE車やHiSE車と同様自動開閉式折戸が採用され、扉幅は757mm幅とした。1999年7月までは、特急に乗車する際には乗車口を限定した上で、ホームで特急券を確認する乗車改札を行っていたため、半自動扱いも可能な回路となっている。全ての客用扉上部には列車名や行き先を表示するLED式表示器が設置された。 側面窓の配置は、HiSE車と同様連続窓風の外観としたが、窓柱部分に改良が加えられている。車両間の貫通路は750mm幅となっているが、サハ20150番台・サハ20250番台の間は2階部分で貫通させており、この箇所のみ600mm幅とした。2階建て車両の1階海側には非常口を設置した。 塗装デザインはスーペリアホワイトをベースとし、窓周りと裾部分にオーシャンブルー(タヒチアンブルー)を配し、相互乗り入れの車両であることを分かりやすく案内できるようにした。その一方で、「小田急ロマンスカー」であることを主張するため、オーキッドレッド(ピンク)の帯を窓下・裾部分に配している。 ===内装=== 従来、特急ロマンスカーは箱根特急の場合で1時間強の所要時間であったのに対して、新宿から沼津までは所要時間が2時間前後となるため、ゆったりとくつろげるスペースとするべく、新しいテーマのインテリアを採用した。 全車両に共通する内容として、室内照明はダブルデッカーの1階を除いて全て間接照明を採用したほか、客室側窓のカーテンは全て横引きプリーツカーテンとなり、床面は全てカーペット敷きとなった。また、客室端部にはLED式の情報案内表示器を設置した。全ての座席背面に収納式テーブルを設けたほか、普通車の壁面腰板部分に折畳みテーブルを設けた。 また、編成を大きく3つのグループに分離し、各ブロックごとにコーディネイトのテーマを設定した。 ===海 ‐ 1・2号車・3号車階下席=== 沼津側の1・2号車および3号車階下席については、テーマを西伊豆の「海」と設定し、グレー基調にブルーのモケット・カーペットでコーディネイトを行なった。特にカーペットは波をあしらった模様とした。 座席は、回転式のフリーストップリクライニングシートを採用、HiSE車よりも30mm広いシートピッチ1,000mmで配置した。また、足掛けについてもHiSE車までのパイプ式から、楕円形断面で幅のあるものに変更した。なお、3号車階下席については横3列配置となり、シートピッチも1,100mmとした。 2号車の新宿側車端部には身体障害者対応の洋式トイレと化粧室を設けた。 ===山・樹木 ‐ 3号車2階席・4号車=== ダブルデッカーとなる3・4号車では、テーマを「山・樹木」と設定し、さらに2階席では「小田急のファーストクラス」をサブテーマとした。2階席ではグレーとローズのモケットを使用し、大型シートを3列にシートピッチ1,100mmで設置した。この大型シートは1人がけで幅660mm、2人がけでは1,300mmの幅で、普通車の2人がけシートの幅が1,020mmであるのと比較して広幅である。また、座席のひじかけに6インチ液晶テレビを内蔵、座席ごとに読書灯やスチュワーデスのコールボタン・呼び出し灯を設置した。 4号車階下席ではセミコンパートメントを3室設置し、富士山麓をイメージするグリーン系の配色でコーディネイトした。 車内販売の基地となるサービスコーナーは、3・4号車の平屋部分に設けた。カウンター内には特別席のコールボタン表示盤が設置された。また、列車内専用の車椅子をサービスコーナーに常備した。 ===都会 ‐ 5・6・7号車=== 新宿側の5・6・7号車では、テーマを「都会」と設定、グレー基調に暖色系のモケット・カーペットでコーディネイトを行ない、ハイグレードなホテルの雰囲気を楽しめることをねらった。座席については1・2号車と同様である。 6号車の沼津側車端部には男女共用和式トイレと化粧室を設けた。 ===主要機器=== HiSE車の基本システムの信頼性が高いことから、基本的にはHiSE車と同様のシステムを採用した。また、電動車1ユニットをカットした状態でも、御殿場線内の9kmにおよぶ連続25‰勾配を定員乗車で運転継続できる性能とした。 主電動機については、HiSE車と同様、出力140kWの直流直巻電動機を採用し、各電動台車に2台ずつ装架した。東洋電機製造のTDK‐8420‐A形・三菱電機のMB‐3262‐A形を併用している。 制御装置は東芝の発電・抑速制動付電動カム軸式抵抗制御装置であるMM‐39B形を採用し、1・2・5・7号車に搭載した。SE車・NSE車・LSE車・HiSE車に引き続き東芝製の採用である。駆動装置はHiSE車に引き続きTD平行カルダン駆動方式(中実軸撓み板継手方式)で、歯数比も80:19=4.21とHiSE車と同様である。制動装置(ブレーキ)については、HiSE車と同様、電気指令式電磁直通制動のMBS‐D形としたが、東海道本線上での120km/h運転に対応できるように増圧ブレーキ機構を付加した。また、25‰下り勾配において85km/hでの走行を可能とする抑速制動を機能させるため、主抵抗器はHiSE車の自然冷却式に対して強制通風式とした。 台車は、電動台車がFS546、付随台車がFS046で、いずれの台車も小田急においては2200形以来実績のある住友金属工業製のアルストムリンク式空気ばね台車であるが、空気ばねには「シャーパック付低型スミライド」が採用された。車輪径は860mmで、基礎ブレーキ装置は電動台車・付随台車ともシングル式(片押し式)となっているほか、常時加圧式の踏面清掃装置が設置された。 集電装置(パンタグラフ)は、下枠交差型のPT‐4823A‐Mを採用、1・2号車の屋根上新宿側車端部と6・7号車の屋根上沼津側車端部に設置した。なお、5号車が電動車(デハ20100番台)であるにもかかわらず、付随車である6号車(サハ20050番台)に集電装置を搭載したのは、松田駅構内の連絡線のデッドセクション長や、高圧回路の関係である。冷房装置については、9,000kcal/hの能力を有する三菱電機製CU‐45形をハイデッカー車では4台、ダブルデッカー車では2台を床下に搭載したほか、ダブルデッカー車では18,000kcal/hの能力を有する三菱電機製CU‐702形を平屋部分の屋根上に各1台搭載した。また、乗務員室用の冷房装置として、3,000kcal/hの能力を有する三菱電機製CU‐25形を1・7号車の床下に搭載した。 補助電源装置は、出力140kVAの静止形インバータ (SIV) を1・5・6号車に、電動空気圧縮機 (CP) については低騒音型のC‐2000Lを2・6号車に搭載した。運転台の主幹制御器は右手操作のワンハンドル式を採用し、松田での乗務員交代の際に保安装置の切り替えをマスコンキー1本で可能とする「OJ切替え装置」を設置した。 ==沿革== 第1編成(20001×7)は1990年12月24日に竣功、1991年1月26日には第2編成(20002×7)も竣功した。同年3月16日の「あさぎり1号」から運行を開始した。 基本運用は「あさぎり1号」→「あさぎり4号」→「あさぎり5号」→「あさぎり8号」で、371系が検査の際には「あさぎり」全列車にRSE車が運用される。371系には「ホームライナー」の運用もあるが、RSE車は「ホームライナー」には使用されなかった。 検査時以外は、予備運用として、小田急時刻表では「原則として2階建て車両連結」と表記される箱根特急に使用されることがある。1991年3月16日の時点では、「あしがら71号」(平日のみ)・「はこね7号」(土休日のみ)→「はこね8号」→「はこね21号」→「はこね22号」に運用されていた。 1992年1月1日には「初詣号」にも使用され、営業運行では初めて江ノ島線に入線した。同年10月25日には、団体列車「カントリーハートインアサギリ」号として東海道本線経由で身延線の富士宮まで入線した。これは当時小田急電鉄が富士宮で営業を行っていたゴルフ場で実施したイベントで来場者を輸送する目的で運行された。。試運転以外で沼津以西に入線したのはこの時だけである。 1996年には2号車と6号車の側面に、ヤマユリをデザインしたマークが貼られた。1999年にはFM文字多重装置の搭載や、トイレの処理方式の変更(循環式から真空式に変更)、AV装置の改良が行なわれ、特別席の液晶テレビは撤去された。 その後、予備運用は土休日のみとなり、平日には「あさぎり」以外には使用されなくなった。『2006 小田急時刻表』において「原則として2階建て車両連結」と表記される運用は「はこね1号」→「はこね2号」→「はこね15号」→「はこね16号」→「はこね29号」→「はこね30号」→「はこね43号」→「はこね44号」となっている。 2002年3月23日改正からは多摩線へ直通する「ホームウェイ」が増発されることになり、「あさぎり8号」の折り返しで唐木田行きの「ホームウェイ71号」に使用されるようになった。「あさぎり」以外の列車にRSE車が使用されたのは予備運用や臨時列車以外ではこれが初めてで、営業運転での多摩線運用もこれが初となる。 平日の「ホームウェイ」運用は2008年3月15日改正では「ホームウェイ」1本が「メトロホームウェイ」に置き換えられたことで、平日の「あさぎり8号」の折り返し運用はなくなった。『2008 小田急時刻表』では「ホームウェイ75号」が「原則として2階建て車両連結」と表記される列車となっている。土休日は引き続き「あさぎり8号」の折り返しで「ホームウェイ73号」に使用される(こちらは「原則として」の表記がない)。同年7月25日には臨時特急「湘南マリン号」として16年ぶりに江ノ島線に入線した。 2010年1月にLSE車とHiSE車に不具合が発生した際には、本来LSE車・HiSE車の運用となる列車にも使用された。 2011年12月16日、RSE車および371系は2012年3月17日のダイヤ改正で「あさぎり」運用から離脱し、以後は全列車MSE車で運転するとJR東海から公式発表され、小田急電鉄でも同日、同ダイヤ改正でRSE車の運用離脱を実施すると発表した。運用離脱発表の後、小田急電鉄は公式サイト上に5000形通勤車・HiSE車・RSE車の運行終了記念特設サイトを開設し、HiSE車とともに運行ダイヤを公開した(外部リンク参照)ほか、2012年2月1日から3月16日の運用最終日まで車体に「『ラストラン』ステッカー」を掲出した。 定期運用最終日となる2012年3月16日には、RSE車では最後の新宿駅発列車となる13時50分発「あさぎり5号」の出発式が行われ、沼津17時30分発「あさぎり8号」の新宿到着後には到着式がおこなわれた。この列車をもって、RSE車は全ての営業運用を終了した。また、2012年3月に引退記念イベントが行われ、2013年11月11日を以って第2編成が廃車となり、RSE車は全廃となった。 全廃後、先頭車両2両と中間車両1両が保存されていたが、2017年10月18日、複々線が2018年3月に完成することによるダイヤ改正で計画中の通勤時間帯に増発する列車の収容や、緊急時における車両の収容場所の確保のために、先頭車両1両の解体を同年10月19日より随時行うことが発表されている。 ===富士急行への譲渡=== 運用離脱の発表から間もない2012年1月21日、富士急行がRSE車の取得に向けて交渉に入ったと報じられた。富士急行では2000形(旧JR東日本165系「パノラマエクスプレスアルプス」)を「フジサン特急」に運用していたが、同車の老朽化が著しく、部品の調達も困難になったことから、RSE車を譲り受けたうえで同車に代わる「フジサン特急」用に転用することになったもので、2013年10月11日に同年11月11日付で1編成が譲渡された。 富士急行での運用にあたり、7両編成の内の先頭車2両(1号車・7号車)と中間車1両(新宿側から2両目の6号車)を使用して、3両編成に変更した。車体には公式サイト上で行われたキャラクター投票で選ばれた44種類に、一般公募14種類を加えた「フジサン」キャラクターが描かれている。 改造の内容は以下のとおりである。 ===1号車(デハ20002→クモロ8001)=== 追加料金が必要な定員制の展望車両とすることとし、運転室後方の座席をゆったりと眺望を楽しめるソファータイプに変更した上で、最前部には子供向け運転台を設置した。一部座席はダブルデッカー車両の階下席に使用されていた座席を活用して3列シートとし、1人がけ座席の窓際には長手方向にテーブルを設置したほか、小グループ向けにセミコンパートメントを設けた。外観には大きな変更点はない。 ===2号車(サハ20052→サロ8101)=== 車体長の3分の1にあたる客室床面を400mm下げ、車椅子スペースとして車椅子固定ベルトを設けた座席とボックスシートタイプの座席を設置し、暖房機も設置したほか、この部分の側面窓については下方に拡大した。また、この改造によって、それまで床下にあったCU45形冷房装置が搭載できなくなるため、ダブルデッカー車両に設置されていたCU702形冷房装置を屋根上に設置したほか、客用扉は折戸から引戸に変更した。便所については車椅子対応でおむつ交換台を備えた大型トイレに改装した。これ以外の客室内は小田急時代と同様である。こうしたバリアフリー化改造のため、外観は大きく変更された。 ===3号車(デハ20302→クモロ8051)=== 客室内は小田急時代と同様で、外観にも大きな変更点はない。 ===乗務員室=== 小田急時代との大きな変更点はなく、自動列車停止装置・列車無線などの保安装置を富士急行用に交換したほか、GPS測位機能付きの自動放送装置を設置した。なお、小田急で使用していた車内チャイムも使用可能となっているほか、小田急時代の形式表記も残されている。 ===各種機器=== 耐雪ブレーキ・レールヒーター・外部電源接続装置付き床下機器保温回路を設置したほか、集電装置はシングルアーム式に変更した。なお解体された4両についても、台車・冷房装置・座席などの部品については予備部品として保管されている。 富士急行での形式は8000系となり、2014年(平成26年)7月12日から運用を開始した。 また、旧371系も上記の2000形を置き換え、「富士山ビュー特急」用8500系として2016年(平成28年)4月23日より運行を開始した。 ==編成表== ===凡例 === Mc…制御電動車、M…電動車、T…付随車、CON…制御装置、SIV…補助電源装置、CP…電動空気圧縮機、PT…集電装置乗…乗務員室、特…特別席(グリーン席・スーパーシート)、個…セミコンパートメント、喫…喫茶コーナー、WC…トイレ・化粧室、電…公衆電話 ===小田急時代=== ===富士急行時代=== =浅間山古墳 (栄町)= 浅間山古墳(せんげんやまこふん)は、千葉県印旛郡栄町龍角寺にある龍角寺古墳群に属する、7世紀前半に築造されたと考えられる前方後円墳である。 ==概要== 浅間山古墳が所属する龍角寺古墳群は、古墳時代後期の6世紀第二四半期に古墳の造営が始まった。古墳群は現在までに114基の古墳の存在が確認されているが、浅間山古墳は古墳群内最大の前方後円墳で、墳丘長は78メートルとされている。 浅間山古墳には複室構造の横穴式石室があり、石室は筑波山付近から運ばれた片岩の板石を用いて築造されており、石室内からは金銅製冠飾、銀製冠、金銅製の馬具や挂甲などが出土した。 墳丘からは埴輪は検出されておらず、前方後円墳最末期の古墳であることは間違いないとされるが、石室の構造や出土品から浅間山古墳の造営を7世紀第二四半期という新しい時期を想定する研究者もあり、一般的には6世紀末から7世紀初頭と考えられている前方後円墳の終焉時期との関係で論議を呼んでいる古墳である。 龍角寺古墳群を造営した首長は印波国造と考えられており、浅間山古墳の造営以前は、同じ印旛沼北東部にある公津原古墳群を造営した首長の勢力が龍角寺古墳群を造営した首長を上回っていたと考えられるが、6世紀末以降、勢力を強めた龍角寺古墳群を造営した首長は、周辺地域では最も大きい前方後円墳の浅間山古墳を造営し、その後、日本最大級の方墳である岩屋古墳を造営し、更には7世紀後半には龍角寺を創建したと考えられている。 浅間山古墳を含む龍角寺古墳群は、古墳時代後期から龍角寺の創建に代表される飛鳥時代にかけての地方首長のあり方を知ることができる重要な遺跡と評価されている。古墳群のうち、岩屋古墳は1941年に単独で国の史跡に指定されていたが、2009年2月12日付けで、浅間山古墳を含む周辺の古墳群が追加指定され、史跡指定名称は「龍角寺古墳群・岩屋古墳」と改められた。また、浅間山古墳の出土品は2009年3月4日、千葉県の有形文化財に指定された。 ==立地と龍角寺古墳群== 龍角寺古墳群は、印旛沼東岸の標高約30メートルの下総台地上に広がっている。その中で浅間山古墳は墳丘東側から伸びている谷の源頭部に築造されている。龍角寺古墳群では、浅間山古墳以前に造営された前方後円墳や円墳は、丘陵内の印旛沼に面した高台に造営されたのに対し、竜角寺岩屋古墳以降の後期に造営された方墳は、浅間山古墳と同じく丘陵東側に面した谷の源頭部に築造されており、古墳の規模のみならず築造場所から見ても浅間山古墳の築造は竜角寺古墳群の画期であったことがわかる。丘陵東側の谷は、古墳築造当時は香取海に注いでいた川の源流部に当たり、浅間山古墳は印旛沼よりも香取海を重視した立地であった。 龍角寺古墳群は6世紀第二四半期に最初の古墳が造営されたと考えられており、これは南隣の公津原古墳群が4世紀前半からの古墳の造営が見られることと比べて、新しい時期に古墳の築造が開始されたことがわかる。6世紀前半には船塚古墳が造営されるなど、当初は公津原古墳群を造営した首長が地域の主導権を握っていたものと考えられるが、6世紀後半には目立った古墳は築造されなくなり、龍角寺古墳群を築造した首長に主導権が移ったものと考えられている。 また龍角寺古墳群は地域を代表する首長墓ばかりではなく、その下位の首長墓を含めた複数系列の首長を葬る古墳が同時に築造されていたものと考えられている。つまり龍角寺古墳群最大の前方後円墳である浅間山古墳は、周辺地域の各首長を葬った龍角寺古墳群の盟主墳であり、同時期に周辺古墳群で造営された古墳の中でも最大である事実から、印旛沼周辺を代表する首長を葬った古墳と見られている。 なお龍角寺古墳群では、浅間山古墳の築造後は岩屋古墳、みそ岩屋古墳といった方墳の築造が行われた。これは内裏塚古墳群など、古墳時代後期から終末期古墳の時代にかけての千葉県内の古墳群、さらには埼玉古墳群など関東地方の有力古墳群でも確認できる現象である。 ==調査と発掘の経緯== 浅間山古墳はかねてから龍角寺古墳群最大の前方後円墳として知られていた。龍角寺古墳群について研究され始めた当時、浅間山古墳は古墳群の中で最初に造営された古墳と考えられていた。浅間山古墳について最初に本格的な調査が行われたのは、1979年から1981年にかけて、千葉県教育庁文化課によって龍角寺古墳群の墳丘の測量調査が行われた際のことであった。この時の調査では現存の墳丘長が66メートルある、印旛沼北岸では最大級の前方後円墳であることが判明した。 千葉県史編纂の資料収集の一環として、千葉県史料研究財団は1994年から、当面の発掘調査や史跡整備の対象になっていない千葉県内の古墳の中で、墳丘長60メートルを越える、古墳が築造された地域や時代を代表するような古墳を5ヶ所選定し、測量調査を行うことになった。浅間山古墳は房総風土記の丘の敷地外となったために整備されることもなく、荒れ果てていたが、調査対象古墳の一つに選定され、初年度である1994年11月から12月にかけて測量調査と1995年1月には内部レーダー調査が行われた。 その後、やはり千葉県史編纂の資料収集の一環として、千葉県史料研究財団は古代史関連では3ヵ所の重要遺跡の発掘を計画した。その中でまず龍角寺古墳群にある全国最大級の方墳である岩屋古墳の発掘が検討されたが、岩屋古墳は発掘が困難であったため、同じ龍角寺古墳群に属する浅間山古墳を発掘することとなった。 浅間山古墳の発掘は、まず1996年7月下旬から9月上旬にかけて墳丘や周溝部分の調査を行い、その中で埋葬施設の確認がなされた。その後1996年9月下旬から翌1997年2月後半にかけて、埋葬施設の調査が行われた。発掘調査の結果、浅間山古墳は7世紀前半、龍角寺古墳群の中でも最後の頃に造営された前方後円墳であることが確定した。 ==構造== 1994年の調査により、66メートルとされていた墳丘長は、元来は78メートルあったものと推定された。終末期の前方後円墳らしく後円部よりも前方部が発達しているが、前方部の長さがやや寸詰まりの墳形が特徴的である。またレーダー調査とトレンチ調査の結果、墳丘裾を巡る幅7‐8メートル、深さ約1.3メートルの周溝があったことが判明した。ただし、墳丘北西部には台地があって、その部分には周溝がなかった可能性が高いとされるが、墳丘の裾は平坦にしていたものと考えられている。 墳丘は三段築成で、一段目と二段目は低く、三段目が高かったと考えられている。築造当時の墳丘の高さは前方部が約7メートル、後円部が約6.7メートルで、前方部と後円部の高さはほぼ等しかったと見られている。 なお、浅間山古墳の墳丘は築造当初からかなり大きな改変を受けている。後円部北側には八坂神社があって墳丘の一部が削られ、後円部西側から前方部にかけては畑地として大きく削られている。前方部前面、そして前方部と後円部東側も削られている。そして後円部墳頂には浅間社があり、もともとの墳丘よりも約1.4メートル土盛りがされているため、現況では前方部よりも後円部の方が高くなっている。 浅間山古墳には、後円部南側を入り口にした複室構造の横穴式石室がある。全長は6.68メートル、幅は最大2.34メートル、高さ最大2.01メートルである。石室は筑波山周辺で産出される片岩で造られており、仕切りとなる石によって羨道、前室、後室の三区画に分けられる。片岩は大型の石材も用いられており、香取海の水運を用いて筑波山周辺から持ち込まれたと考えられている。前室の入り口部分は小さな石を敷き詰めていたが、入り口部分以外の前室と後室には、片岩の板石が敷かれていた。また石室内の羨道そして前室と後室は壁面に白土が塗られていた。石室の壁面に白土が塗布されていたため、壁画の有無についても調査されたが、壁画は確認されなかった。 石室の前庭部は石材の破片や粘土を含む土と、ローム土を交互に突き固める版築工法によって整地がなされており、横穴式石室の築造と並行して造られたものと考えられる。そして前庭部両脇は、黒色と黄色の粘土質の土を交互に突き固めるやはり版築工法が用いられており、これは石室両脇でも行われている可能性がある。また前庭部には柱穴が3つ確認されており、発掘結果から、前庭部の整地が終わった後に柱穴が掘り込まれたことがわかった。これは前庭部で古墳の被葬者の葬送儀礼が行われた際に使用された柱の跡との見方がなされている。 また石室前庭部の西側に、長さ6メートル、幅5メートル、深さは3メートルを越える大きな土坑が検出された。発掘内容から石室の築造前に掘られたものと考えられ、古墳の地鎮祭のようなものを行った跡との見方と、石室築造前の整地作業の一環との説があるが、 土坑内から全く遺物が検出されなかった点から、整地作業の一環であった可能性が高いとされる。 ==埋葬施設と出土品== 浅間山古墳は特徴的な埋葬施設、そして出土品の内容と、特異な遺物の検出状況が大きな論議を呼んでいる。 ===埋葬施設=== 浅間山古墳の横穴式石室の後室には、石室を構築していたのと同じ、筑波山周辺産の片岩を組み合わせて作られた石棺がある。石棺内部も石室で確認されたのと同じく、白土の塗布が確認された。しかし石棺内はほとんど空洞で、副葬品や遺骨は全く検出されなかった。後述のように石棺が安置されていた後室は盗掘の影響をあまり受けなかったと考えられており、石棺は盗掘の結果空になったわけではなく、何らかの理由で空のままであったと考えられている。 出土品と漆膜の検出状況から、前室部には漆塗りの木棺が安置されていた可能性が高いと考えられている。浅間山古墳の漆塗棺に用いられている漆の質はあまり良くなく、精製を十分行っていない漆を木棺に直接塗ったものと考えられる。しかし6世紀末から7世紀にかけて、漆塗棺が用いられた例は複数見られるものの、その多くは高松塚古墳など、畿内の有力者を葬ったと考えられる古墳で、関東地方で漆塗棺が使用された例は、現在のところ浅間山古墳以外では埼玉県行田市にある八幡山古墳のみであり、貴重な例であるといえる。 ===遺物の出土状況=== 浅間山古墳の出土品検出状況はかなり特徴的である。まず羨道の天井石上から鉄製の小札、大刀の破片、鉄製の馬具の破片などがまとまって出土した。これは羨道部の天井石上にあった杉の木の、根の部分から出土したものである。天井石上からまとまって出土したことから埋葬時に置かれた可能性も残るが、破片が出土していることから、前庭部にあった遺物が杉根の伸長によって羨道部の天井石上まで移動したとの見方が有力である。 浅間山古墳での出土品の検出状況で最も特徴的なのは、羨道前の前庭部から大量の遺物が検出されたことである。前庭部の遺物は、大きく分けて前庭部に堆積した土砂の上部と下部の二層に分かれて出土している。前庭部に堆積した土砂の上部からは鉄製馬具の破片、大刀破片などが検出され、これは平安時代に行われたと考えられる盗掘時に、石室内から持ち出された遺物の破片であると考えられている。前庭部に続く羨道に堆積した土砂の上部からは、盗掘時に用いられたと見られる平安時代中期の灯明皿が出土している。灯明皿が検出された付近からは特に大量の遺物の破片が見つかっており、盗掘者が遺物の選別を行った可能性が指摘されている。 前庭部に堆積した土砂の下部からも大量の遺物が出土した。検出された副葬品の多くは鉄製小札であるが、その他にも金銅製馬具、銀製の飾り金具、耳環、鉄製馬具、鉄鏃など、浅間山古墳で発掘された主要な出土品のうち、冠類以外はほぼ全て前庭部から出土している。この前庭部下層の出土品は、出土状況から見て平安時代の盗掘者によって持ち出されたものとは考えにくく、埋葬時からあまり時間を置かない時期に石室内から持ち出されたものと考えられるが、もともと初葬時から前庭部に埋葬された可能性を指摘する研究者もいる。また前庭部からは、7世紀中ごろから後半にかけて東海地方で作られた須恵器が見つかっている。須恵器については他の遺物と異なり、埋葬当初から発掘された場所に置かれていたものと考えられている。なお、羨道に堆積した土砂の下部からはわずかな遺物しか検出されなかった。 前室からは主に床石とその直上部から遺物が発掘されている。金銅製馬具、鉄製馬具、金銅製の透かし彫り金具、鉄製小札などの他に、釘と漆膜が検出されており、前室には漆塗りの木棺が安置されていたと考えられている。前室内の遺物の中で、奥に近い場所から検出された金銅製馬具などは埋葬当初の場所から動かされていない可能性が高いが、その他の遺物は埋葬当初に安置された場所から動かされていると考えられている。これは価値が高い金銅製品が多く残されていることなどから盗掘者が動かしたものとは考えにくく、やはり埋葬後ほどなく移動されたものと考えられている。また前室に堆積した土砂の下層には石材類の破片などが含まれていて、人為的に埋められた可能性が高い。なお人為的な石室内の埋め立ては後室でも確認できる。 後室も発掘当時土砂が堆積していた。後室は盗掘者の撹乱の跡が確認されず、盗掘の影響をあまり受けなかったものと考えられる。奥室内に堆積した土砂の多くは、石棺埋葬後に後室内に運び込まれた土砂であると考えられている。遺物は堆積した土砂の上層と下層の二層に集中していた。上層からは大刀、金銅製の刀装具などが検出された。堆積した土砂の下層からは金装の飾り弓、耳輪などの他に金銅製冠飾と銀製の冠が出土した。 浅間山古墳では平安時代の盗掘以降、石室内に人が立ち入った形跡はない。平安時代の盗掘では後室は比較的影響を受けず、冠類など多くの貴重な遺物が発掘されたが、埋葬当初に安置された場所から副葬品が大きく移動された形跡がある。また石室内を土砂で埋めるという行為がなされたと考えられ、更には盗掘時の撹乱のため、発掘された副葬品の評価を困難にしている。 なお、墳丘からは埴輪、葺石は検出されず、埴輪がないことからも浅間山古墳は前方後円墳最終期の古墳であると考えられている。 ===出土品=== 浅間山古墳から発掘された副葬品は、金銅製冠飾と銀製の冠、金銅製と銀製の透かし彫り金具などの装飾品、大刀、金装の飾り弓、鉄鏃などの武器類、鉄製の挂甲などの武具、金銅製と鉄製の馬具、その他刀子や斧、須恵器などである。 出土品の内容的には古墳時代における一般的な副葬品の構成であるが、個々に見ていくと金銅製冠飾、銀製の冠、金銅製馬具などは7世紀前半の作と考えられ、金銅製と銀製の透かし彫り金具は仏教美術の影響も見られ、やはり7世紀前半のものとされる。また鉄鏃も同じく7世紀前半代のものと見られており、7世紀初頭のものと考えられる出土品は大刀、挂甲など数少ない。最も新しい出土品は前庭部から検出された須恵器であり、7世紀半ばから後半にかけてものとされる。 浅間山古墳から出土した金銅製冠飾と銀製の冠は、ヤマト王権ないしは畿内の有力豪族と浅間山古墳の被葬者との関わりあいを示すものとも考えられ、また金銅製馬具は関東地方から東北方面に向かう道筋にあたる房総や常陸方面で多く発掘されており、香取海に近く、東北方面への交通の要衝に位置する浅間山古墳の被葬者が、ヤマト王権内で重要視されていたことを示すと考えられている。 ==築造時期== 浅間山古墳は横穴式石室の形態、そして出土品の内容から判断される古墳築造の時期をめぐって論争がある。まず浅間山古墳の横穴式石室は、筑波山周辺で産出される片岩を組み合わせて造られたものであり、石室の形態的に7世紀初頭のものであるとの説と、もう少し遅い7世紀第二四半期頃のものとの説がある。 石室の形態以上に問題が大きいのが出土品である。まず出土品の多くが7世紀前半のもので、全国的に前方後円墳が消滅したとされる7世紀の初頭以前に遡ると考えられる出土品は少ない。前述のように浅間山古墳の石室は平安時代に盗掘を受けているが、出土内容からみて盗掘の被害を受けなかった可能性が高く、埋葬当初の場所で発掘されたと考えられる金銅製の馬具は、7世紀第二四半期頃のものとされる。 前方後円墳は全国的に6世紀末から7世紀初頭にかけて消滅したと考えられているが、7世紀第二四半期に造営された可能性がある浅間山古墳は、前方後円墳消滅の時期をめぐる論議に少なからぬ問題を投げかけている。浅間山古墳の造営が7世紀初頭であるとする考え方では、出土品の項での説明でも触れたように、石室内の副葬品が盗掘以外の理由で大きく動かされている形跡があるため、古墳の造営も初回の埋葬も7世紀初頭に行われたものの、何らかの理由で初葬時の副葬品の多くが運び出されてしまったため、現在確認される副葬品が古墳築造よりも後世のものになったとの仮説や、古墳築造後何らかの理由で埋葬が遅れてしまい、古墳の築造と埋葬の時期にずれが生じたのではないかとの仮説が出されている。 ==龍角寺との関係== 浅間山古墳の造営後、龍角寺古墳群では日本最大級の方墳である岩屋古墳が造営された。そして古墳北方に7世紀半ばから後半にかけて龍角寺が造営される。浅間山古墳と岩屋古墳を造営した印旛沼周辺を支配していた首長、印波国造が龍角寺を造営したものと考えられている。 龍角寺古墳群を築造した首長は、6世紀末以降、それまで地域で主導的な役割を果たしていたものと考えられる公津原古墳群を造営した首長に替わって、浅間山古墳や岩屋古墳という地域を代表する大型古墳を造営するようになった。龍角寺古墳群を築造したと考えられる印波国造は、下総から常陸、そして東北方面へと向かう交通の要衝であった香取海の水運の拠点を押さえることによって勢力を強めたものと考えられている。浅間山古墳以降の龍角寺古墳群の古墳が印旛沼方面よりも、北東方向の香取海を意識した立地であることはそうした事実の表れと解釈されている。 また龍角寺が造営されたのとほぼ同時期に、香取神宮と鹿島神宮の社殿が造営されたとの見方もあり、これもやはり香取海を通して常陸、そして東北方面へ向かうルートをヤマト王権が重要視していたことの表れと見られている。龍角寺古墳群を造った印波国造と考えられる首長は、ヤマト王権が重要視する交通路を押さえることにより王権との結びつきを強め、浅間山古墳に示されるようにその力を強めたとされる。 また、龍角寺古墳群の近くには埴生郡衙跡とされる大畑遺跡群がある。これは6世紀の古墳時代後期以降、龍角寺古墳群を造った首長は、7世紀後半の龍角寺建立、そして律令制が成立した後も郡司となってその勢力を保ったことを示唆しており、龍角寺古墳群の画期である浅間山古墳の持つ意味は大きいと言える。 ==特徴== 浅間山古墳は、石室内に安置されていた石棺の中は盗掘に遭っていないと考えられるのにもかかわらず石棺内は空であり、また遺物の検出状況から埋葬後ほどなく副葬品が動かされた上、石室内を土砂で埋めたと考えられているなど、特異な埋葬状況が明らかになっている。そして平安時代には盗掘も行われており、発掘結果の評価が難しい面があるが、古墳の規模や立地、発掘結果や出土品などから浅間山古墳の特徴が浮かび上がってくる。 浅間山古墳は、房総半島では木更津市の祇園・長須賀古墳群に属する金鈴塚古墳、富津市の内裏塚古墳群に属する三条塚古墳、大堤・蕪木古墳群に属する山武市にある大堤権現塚古墳と並んで、前方後円墳最末期の地域での最有力古墳と考えられている。その中でも浅間山古墳の築造時期は、全国的に前方後円墳が消滅したと考えられている6世紀末から7世紀初頭との説もあるが、それよりも新しい7世紀第二四半期頃のものとの説もある。つまり全国的に見ても浅間山古墳は前方後円墳の中でも最も新しい古墳の一つと考えられており、前方後円墳の消滅時期をめぐる論議に少なからぬ影響を与えている。 印旛沼周辺では最大の前方後円墳である浅間山古墳は、立地的にもこれまでの印旛沼に面した場所から東北方向の香取海方面を意識した場所に築造されるというように、浅間山古墳の築造は龍角寺古墳群の画期であると考えられている。浅間山古墳の築造以前は南隣の公津原古墳群を造営していた首長が地域を代表する首長であったが、浅間山古墳築造以後は龍角寺古墳群を造営した首長に主導権が移ったとされる。龍角寺古墳群を造営した首長は印波国造と考えられており、最近の研究では大生部直氏ではないかとされる。浅間山古墳の造営後、龍角寺古墳群では全国最大規模の方墳である岩屋古墳が造営され、7世紀後半には龍角寺が創建され、そして律令制下の郡衙跡も古墳群の近くに見つかっており、大生部直氏は古墳時代後期から律令制の時代に至るまでその勢力を保ち続けたと考えられる。 浅間山古墳そのものについても、まず漆塗りの木棺が使用されたと見られることは、ヤマト王権から伝えられた最新の技術を古墳築造に用いていたことを示すと考えられている。また石室前庭部に版築工法を用いたり、石室や石棺に白土を塗っていたりする点は、関東地方では前方後円墳以降の終末期の古墳で見られるもので、浅間山古墳は前方後円墳から終末期古墳である方墳や円墳、上円下方墳へと築造される古墳が変わっていく変革期に造営された古墳であることを示している。 出土した金銅製冠飾と銀製の冠、そして金銅製の馬具はヤマト王権ないしは畿内の有力豪族との関わりあいを示すと考えられ、香取海に面し、関東地方から東北方面へと向かう交通の要衝を押さえた浅間山古墳の被葬者が、ヤマト王権内で重要視され、その力を強めていったと考えられる。浅間山古墳の被葬者は、ヤマト王権の大王家と直結する壬生部の責任者であったと考える研究者もいる。 その一方で、浅間山古墳の石室と石棺に使用された片岩は、筑波山周辺からもたらされている。これは金鈴塚古墳の石棺が埼玉県の長瀞付近から運ばれた石材を用い、一方、埼玉古墳群の将軍山古墳では、石室に千葉県富津市の海岸から運ばれた石を用いているのと同様の現象であり、浅間山古墳の被葬者も関東地方の他地域の首長との連携を深めていたことがわかる。 浅間山古墳は最も新しい時期に築造された前方後円墳の一つであり、古墳そのものと発掘された出土品は、当時の首長のあり方を知る貴重な史料となっている。また浅間山古墳が所属する龍角寺古墳群は、古墳時代後期から7世紀の寺院建立、そして律令制における郡司の時代に至るまでの関東地方の一首長について知ることができる貴重な遺跡と評価され、以前より史跡とされていた岩屋古墳に追加する形で、龍角寺古墳群・岩屋古墳として2009年2月12日、国の史跡に指定され、出土品は2009年3月4日、千葉県の文化財に指定された。 ==参考文献== 千葉県立房総風土記の丘『竜角寺古墳群測量調査報告書』千葉県立房総風土記の丘、1982年千葉県史料研究財団『千葉県史研究第4号』千葉県、1996年 白石太一郎他「印旛郡栄町浅間山古墳測量調査報告書」白石太一郎他「印旛郡栄町浅間山古墳測量調査報告書」白井久美子「竜角寺古墳群」『季刊考古学第71号』、雄山閣、2000年 ISBN 4‐639‐01679‐4千葉県立中央博物館『千葉県立中央博物館研究報告・人文科学第7巻第1号』千葉県立中央博物館、2001年 川尻秋生「大生部直と印波国造」川尻秋生「大生部直と印波国造」千葉県史料研究財団『印旛郡栄町浅間山古墳発掘調査報告書』千葉県史料研究財団、2002年 萩原恭一「序章、遺跡の位置と歴史的環境」 白井久美子「序章、調査の目的」 荻悦久「調査の経緯 測量調査」 白井久美子「調査の経緯、発掘調査」 白井久美子「墳丘と周溝、墳丘の平面形態」 白井久美子「墳丘と周溝、墳丘の立面形態」 石橋宏克「墳丘と周溝、墳丘裾部と周溝の確認調査」 白井久美子「周溝の復元」 白井久美子「埋葬施設」 白井久美子「遺物の出土状況」 白井久美子「出土遺物」 萩原恭一「考古学的考察、墳形の検討」 白井久美子「まとめ、年代的位置づけ」 白石太一郎「まとめ、東国古代史における浅間山古墳の位置」萩原恭一「序章、遺跡の位置と歴史的環境」白井久美子「序章、調査の目的」荻悦久「調査の経緯 測量調査」白井久美子「調査の経緯、発掘調査」白井久美子「墳丘と周溝、墳丘の平面形態」白井久美子「墳丘と周溝、墳丘の立面形態」石橋宏克「墳丘と周溝、墳丘裾部と周溝の確認調査」白井久美子「周溝の復元」白井久美子「埋葬施設」白井久美子「遺物の出土状況」白井久美子「出土遺物」萩原恭一「考古学的考察、墳形の検討」白井久美子「まとめ、年代的位置づけ」白石太一郎「まとめ、東国古代史における浅間山古墳の位置」広瀬和雄他『古墳時代の政治構造』、青木書店、2004年 ISBN 4‐250‐20410‐3 広瀬和雄「大和政権の変質」広瀬和雄「大和政権の変質」第10回東北・関東前方後円墳研究会大会『前方後円墳以降と古墳の終末』発表要旨史料、2005年 栗田則久「千葉県における前方後円墳以後と古墳の終末」栗田則久「千葉県における前方後円墳以後と古墳の終末」佐々木憲一編『考古学リーダー12 関東の後期古墳群』、六一書房、2007年 ISBN 978‐4‐947743‐55‐8 和田晴吾「古墳群の分析視覚と群集墳」 太田博之「北武蔵における後期古墳の動向」 萩原恭一「下総地域における後期群集墳」 川尻秋生「7世紀東国を考える一視点」和田晴吾「古墳群の分析視覚と群集墳」太田博之「北武蔵における後期古墳の動向」萩原恭一「下総地域における後期群集墳」川尻秋生「7世紀東国を考える一視点」吉村武彦、山路直充編『房総と古代王権』、高志書院、2009年 ISBN 978‐4‐86215‐054‐7 白井久美子「前方後円墳から方墳へ」 大塚初重「浅間山古墳と岩屋古墳が語る古墳時代」 山路直充「寺の成立とその背景」 大川原竜一「印波国造と評の成立」白井久美子「前方後円墳から方墳へ」大塚初重「浅間山古墳と岩屋古墳が語る古墳時代」山路直充「寺の成立とその背景」大川原竜一「印波国造と評の成立」白石太一郎『考古学からみた倭国』、青木書店、2009年 ISBN 978‐4‐250‐20912‐3東国古墳研究会シンポジウム『東国における前方後円墳の消滅』発表要旨、2009年 田中裕「千葉県域における前方後円墳の消滅」田中裕「千葉県域における前方後円墳の消滅」千葉県立房総のむら『龍女建立、龍角寺古墳群と龍角寺』千葉県立房総のむら、2009年 神野清「印波国造の奥津城」神野清「印波国造の奥津城」 ==関連項目== 日本の古墳一覧関東の史跡一覧印波国造龍角寺 =伊勢暴動= 伊勢暴動(いせぼうどう)は、1876年(明治9年)12月に三重県飯野郡(現在の三重県松阪市)に端を発し、愛知県・岐阜県・堺県まで拡大した地租改正反対一揆である。受刑者は50,773人に上り、当時最大規模の騒擾(そうじょう)事件となった。 現行の高等学校「日本史」の教科書では、茨城県で発生した真壁騒動(真壁一揆)と並び、地租改正反対一揆の代表とされている。この暴動を通して、地租が3%から2.5%に引き下げられたことから「竹槍でドンと突き出す二分五厘」とうたわれた。 ==概要== 明治維新により新政府は次々と改革を進めていったが、その改革の中に、米の代わりに現金で納めるなどとした地租改正が含まれていた。従来の税収を維持するように地租が定められたため、農民の負担は軽くならず、その他の要因もあって農民の不満は高まっていた。そして1876年(明治9年)12月18日、翌日に控えた租税取り立ての延期を現在の三重県松阪市に相当する地域の農民が戸長らに申し入れた。この農民と戸長らの話し合いはもつれ、松阪の農民は北と南に分かれ集団で行進を始め、各地で新政府に関係する施設の破壊・放火を行った。特に北へ展開した一揆は三重県を越え、愛知県や岐阜県にも広がった。こうした動きに対して新政府は鎮台や警視庁の巡査を派遣して農民を抑え込んだが、結局地租を引き下げざるを得なくなった。多くの犠牲を払いながら、民衆が政府に勝ったのである。 ==経緯== ===暴動前の社会情勢=== 1873年(明治6年)7月28日、政府は財源確保などを目的に地租改正条例を制定、コメの豊凶に関わらず税率を地価の3%とし、金納とすることを定めた。現在の三重県に相当する地域は、北部の三重県と南部の度会県に分かれており、地租改正事業の実施に差が生じていた。具体的には、戸長が官選で上意下達がうまくいった旧・三重県では1873年(明治6年)9月より公量人の選出が行われ、1876年(明治9年)4月には821村のうち761村で地租改正事業が完了した。一方で、戸長が民選であった度会県では民衆の意向を無視できなかったため、1874年(明治7年)3月から事業に着手し、1877年(明治10年)11月に市街地を除いて完了するという遅れが見られた。このずれが後の伊勢暴動に影響を与えることになるのであった。 1876年(明治9年)4月18日、度会県が三重県に編入され、現在とほぼ同じ領域を持つ三重県が誕生した。しかし、三重県誕生によってすぐ県下の政策方針が統一されたわけではなく、北勢(三重県北部)では1876年(明治9年)の米価を基準に地租を定めたのに対し、南勢(三重県南部)では1875年(明治8年)の米価を基準に定められた。1875年(明治8年)の方が1876年(明治9年)よりも米価が高かったため、南勢の農民の不満の種となった。また、地租は高いのに米を安く売らざるを得ず、更に米商人の買い叩きに遭い、その上櫛田川下流の三角州地帯は1876年(明治9年)9月に大雨で堤防が決壊、砂が田畑に流入するという多重苦に悩まされていた。 1876年(明治9年)11月14日、櫛田川下流の魚見村・久保村・新開村・保津村・松名瀬村(いずれも現在の松阪市北東部)の5村の連名で『正米納歟又ハ年々ノ相場ヲ以上納付様』という嘆願書を作成し、区長の桑原常蔵経由で三重県に提出しようと試みた。村人の思いはむなしく、桑原は嘆願書を三重県に届けなかったが、県内各地で地租の米納と地方税の減税を求める声が上がっていたこともあり、三重県は地租の3分の1を米納とすることを認める決定をした。ただし、農民には3分の2米納と誤情報が伝わってしまった。 ===暴動の萌芽=== 1876年(明治9年)11月27日、茨城県真壁郡吉間村(現在の筑西市)に約300人の農民が結集、副区長に強訴する事件が発生、同月30日には同郡飯塚村(現在の桜川市真壁町飯塚)で民衆蜂起が起きた。これらの動きは真壁一揆と呼ばれ、164名の捕縛者を出した。県南で起きた真壁一揆は県北にも波及、12月8日から12月10日にかけて那珂郡小舟村や上小瀬村(現在の常陸大宮市小舟、同市上小瀬)の村人を中心に小瀬一揆が勃発、死刑3名を含む1,091名の処罰者を出した。茨城県で起きた一揆は地租改正に反対するだけでなく、学校課賦金廃止なども掲げていた。小瀬一揆の直後、伊勢暴動が勃発することになる。 ===暴動の発生=== 1876年(明治9年)12月18日の朝、各村の戸長は翌12月19日に租税を取り立てるため、豊原村(現在の松阪市豊原町)で開かれる戸長会へ出かけた。その留守の隙に、魚見村(現在の松阪市魚見町)の農民は櫛田川を挟んで豊原村と向かい合う早馬瀬村(現在の松阪市早馬瀬町)の河原に集合、租税取り立ての延期を申し入れた。そして魚見村以外の戸長会を構成する4村からも農民が集まり、同じ要求をし、更にほかの村からも農民が集まってきた。 当初、組頭が農民の応対をしていたが、集まった農民が増大してさばき切れず、戸長・区長・巡査も説得に当たるようになった。そして区長が農民の意見をのみ、三重県宛ての嘆願書を書いた頃には日付が変わって12月19日の早朝になっていた。一方、この時には噂を聞いた農民が櫛田川上流や西岸からも集まってきて、約1,000人の大集団になったが、説得工作に当たった巡査が農民を挑発したため、遂に集団移動を始めたのであった。 ===三重県全域への拡大=== 早馬瀬村の河原に集まった農民集団は、多くが北上し三重県の出張所があった飯高郡松阪(現在の松阪市街)へ向かったが、一部は南下し三重県の支庁のあった度会郡山田(現在の伊勢市街)へ向かった。 北勢と南勢では一揆の展開に違いが見られる。北勢では地租改正が進行し、明確に地租改正そのもの、および新政を否定する一揆として展開された。南下した一揆隊の要求は北上した一揆隊とは違い、貢納石代値段の引き下げが主であった。南勢では地租改正の実施が北勢に比べ遅れており、近世までの惣百姓一揆のような形をとっていた。 ===松阪方面=== 約1万人の一揆隊は松阪中心街に向けて進み、12月19日午後1時に松阪へ進入、午後12時に納税の窓口であった三井銀行を焼き討ちにし、三井銀行の取締宅や垣鼻村(かいばなむら、現在の松阪市垣鼻町)の戸長宅も破壊した。12月20日朝の時点で松阪の町は一揆隊の制圧下にあったが、安濃郡津(現在の津市中心部)に向かわず、垣鼻村の海会寺野(かいえじの)にとどまったことで同日午後に県庁派遣の士族が到着してしまい、農民側は敗北を喫することとなった。一揆隊は県令宛ての嘆願書を渡し、解散した。 ===津・上野の攻防=== 一揆隊が松阪に入った12月19日の夕方より一志郡三渡村(みわたりむら、現在の松阪市六軒町)を中心に農民が結集、一志郡のほか安濃郡の農民を巻き込み県庁所在地の津を目指して進んだ。ちょうどこの時、津方面への一揆の拡大を食い止めるために県の役人が一志郡久居(現在の津市久居地区)付近に来て対策を検討している最中であったため、久居の町は農民に制圧された。ここから農民らは津へ向かう主力隊と伊賀方面に向かう部隊に分かれた。 津では県令が内務卿・陸軍卿や各鎮台に打電・出兵要請をし、津防衛を固めた。対する数千人の一揆隊側には全県的な流れを把握し統一的に指導できる者がいなかった上、津攻略に農民は全力を傾けていなかった。このため津に入ることはできず、農民は敗退、久居へ引き返し、更に南下して権現野(現在の松阪市嬉野権現前町付近)に集結したが、時すでに遅く、12月22日午前に垣鼻村の海会寺野で一揆隊を撃破した士族と戦い、敗れた。これ以降、一揆隊は地租改正と少しでも関係する者の屋敷に、徹底的に打ちこわしや焼き払いを加えるようになる。 伊賀には12月19日に太郎生峠(たろうとうげ)・青山峠・長野峠の3方向から一揆隊が進入したが、津攻略に向かった隊よりも勢力は弱かった。一志郡久居方面を発し、太郎生峠から入った部隊は170から180人の集団であったが、周辺の村々の農民を巻き込みつつ、12月20日午前8時に名張郡梁瀬(現在の名張市中心部)に入り、学校と区扱所を焼き払った。一志郡久居方面を発し、青山峠から入った部隊は300人の集団であったが、伊勢地(現在の伊賀市伊勢路)で2隊に分裂したが、最終目標は三重県庁の上野支庁であり、1隊は直接阿拝郡上野(現在の伊賀市中心街)へ、もう1隊は名張郡梁瀬経由で上野へ向かった。梁瀬経由の部隊は太郎生峠を超えた部隊と合流、さらに直接上野に向かった部隊とも再合流したが、12月20日午後に大内川で上野支庁が派遣した士族と戦い敗走する。彼らは伊勢地や梁瀬に引き返したが、伊勢地に逃げた部隊は追撃され、梁瀬に逃げた部隊は迎撃され、伊賀での一揆は鎮圧された。安濃郡から伊賀に入った部隊は上野に向かうことなく、山田郡平田村で折り返し、鈴鹿郡加太(かぶと、現在の亀山市西部)方面に進んだ。 ===北勢への波及=== 一志郡久居で分裂し、津の攻略に向かわなかった一揆隊は安濃郡、奄芸郡椋本(現在の津市芸濃町椋本)を経由して、12月19日深夜に鈴鹿郡関(現在の亀山市関町中心街)で扱所を破壊、東海道を進み、12月20日に鈴鹿郡亀山(現在の亀山市中心部)へ入り、鈴鹿郡庄野村(現在の鈴鹿市庄野町)で学校を破壊、備品や書籍を焼却した。鈴鹿郡石薬師村(現在の鈴鹿市石薬師町)では役場を破壊、12月20日午前6時に三重郡采女村(現在の四日市市采女町)へ達し、日永の区扱所を打ちこわして7時に三重郡四日市(現在の四日市市中心街)に入った。 津の攻略に失敗した一揆隊の一部は、周辺農民を扇動し再度勢力を高めて伊勢参宮街道を北上、奄芸郡一身田村(現在の津市一身田町)巡査屯所を破壊、河曲郡神戸(かわわぐん かんべ、現在の鈴鹿市神戸)を目指した。 12月20日から翌12月21日にかけて、神戸付近が伊勢参宮街道や東海道から入った一揆隊と、新興勢力の3つの集団から攻撃を受けた。東海道から入った一揆隊はこれまで焼き討ちはせず、亀山で火災が発生した際は自ら消火活動を行ったが、神戸進入以降は焼き討ち戦法を取り入れた。神戸学校(現在の鈴鹿市立神戸小学校)も放火の危機にあったが、十日市の住民が一揆隊を追い払ったため、難を逃れた。神戸の攻撃を終えた一揆隊は、更に周辺の玉垣村・岸岡村(ともに現在の鈴鹿市内)を経て伊勢湾沿岸各村へ破壊活動に向かったが、12月21日早朝の士族との戦いで消耗し、同日夜に到着した名古屋鎮台の前に敗れ去った。 鈴鹿郡両尾村(現在の亀山市両尾町)や奄芸郡白子町(しろこちょう、現在の鈴鹿市白子)では新興の一揆隊が結成され、両尾村の一揆隊は菰野方面へ北上し、白子町の一揆隊は伊勢湾岸を南下していった。 神戸から伊勢参宮街道を北上してきた一揆集団は三重郡河原田村(現在の四日市市河原田町)から、鈴鹿郡下大久保村(現在の鈴鹿市下大久保町)方面を北上してきた一揆集団は三重郡山田村(現在の四日市市山田町)から、三重郡日永(現在の四日市市日永)に達し、四日市で東海道から来た一揆隊に合流した。山田村では一部の一揆隊が菰野方面(現在の三重郡菰野町)へ向かった。鈴鹿山脈の麓にある三重郡水沢村(すいざわむら、現在の四日市市水沢町)にも一揆隊が進入したが、水沢村で一部の村人を引き連れ、もと来た鈴鹿郡大久保村(現在の鈴鹿市大久保町)へ引き返していった。稲葉三右衛門の『暴動日記』によれば、四日市中心街では午前中に電信局放火を皮切りに焼き討ちが始まり、三重県庁四日市支庁や郵便会所を攻撃した後、桑名郡桑名(現在の桑名市中心街)へ向けて進んだが、夜には別の一揆隊が四日市に入って高砂町で無差別放火を行い、築港所や海運会社を放火して地元民と対立したという。四日市では三井銀行はかろうじて放火を阻止できたが、三菱銀行は犠牲になった。 四日市を出た一揆隊が次に入ったのは、朝明郡(あさけぐん)羽津村(現在の四日市市羽津町)で区扱所を打ちこわし、仮戸長宅を放火、更に朝明郡大矢知村(現在の四日市市大矢知町)に進み、懲役場を包囲した。獄吏はやむを得ず囚人を解放し、懲役場にいた150人のうち50人ほどがそのまま一揆に加わった。 朝明郡の中野村・竹成村・田光村(たびかむら)・永井村(いずれも現在の三重郡菰野町内)では、前月に「全村団結」して改租を承諾したが、北勢での一揆がこの4村で最も激しくなったことから、全村民の総意で改租を承諾したわけではなかったことが表面化した。4村の一揆は更に員弁郡鳥取村(現在の員弁郡東員町鳥取)へ広がり、一部は四日市中心部付近まで進んだ。 現在の四日市市域では、建物への毀損だけでなく、明治政府と関係する公文書が多数焼却された。特に地租改正関連と学校関連の文書がその対象となった。処分された者は三重郡・朝明郡で合計7,840人に及び、全戸数の43%に及んだ。 大矢知を出た一揆隊が次に向かったのは桑名で、扱所・屯所・学校・権衡売捌所を焼き討ちにし、病院や融通会所などを破壊した。桑名郡では輪中地帯で根強い反対闘争があり、四日市と並び激しい攻撃が為された。桑名での攻撃方針は「御一新後ニ出来候分ハ不残焼払候事」であった。 員弁郡は全郡を挙げて押付反米に反対するも呑まされた地域であり、阿下喜村(あげきむら、現在のいなべ市北勢町阿下喜)周辺で焼き討ちが激しかった。員弁郡での一揆の特色として、地主も押付反米に反対していたことと、個人的な妬みから焼き打ちを実行する者がいたということである。 ===山田方面=== 早馬瀬の河原に集まった農民の一部と、飯野郡射和村(現在の松阪市射和町)や飯高郡茅原村(現在の松阪市茅原町)から集まった農民は多気郡相可村(現在の多気郡多気町相可)、度会郡田丸村(現在の度会郡玉城町田丸)などで協力者を集め、山田を目指した。多気郡斎宮(現在の多気郡明和町斎宮)に集まっていた農民らの一部も、山田・答志郡鳥羽(現在の鳥羽市)を目指して行進を始めた。田丸には12月20日朝に数百人の一揆隊が到達したが、戸主らは早く町を通過してもらうため炊き出しの準備を整えており、おにぎりと酒を一揆隊に振る舞った。これにより田丸に被害はなく、一揆隊は上地、川端、小俣(いずれも現在の伊勢市内)へ進んでいった。 伊勢神宮では、12月20日午後1時に神宮教院田丸教会所から暴動の情報を得て、小宮司以上の神階を持つ山田在住の神官は外宮参集殿に集い、防御の方針を話し合った。午後2時頃には宮川をはさんで山田と向かい合う小俣(おばた)に一揆の群衆が集まり、山田側に「暴動の趣旨に賛同しないなら乱入する」と申し入れ、山田側の戸長・区長は同意を示した。ここで小俣の一揆隊の一部は松阪へ引き返したが、同日午後11時過ぎに、現在の伊勢市南西部にあたる度会郡上野村・円座村・佐八村(そうちむら)・大倉村の農民が竹槍を持って宮川の「上の渡し」の河原に現れ、山田対岸の度会郡磯村・高向村・長屋村と現在の伊勢市南部にある度会郡前山村の農民も合流した。山田住民は棍棒を持ってこれに備えた。 翌12月21日午前2時頃、約2000人の一揆隊は小川町(現在の伊勢市中島二丁目)から山田に突入、八日市場町の農社に放火したのを皮切りに、山田師範学校・三重県山田支庁・小学校・三井銀行の支店・病院などの新政府と関係のある施設を襲った。他との違いは、特権を有する商人であった地主の家も焼き討ちに遭った、ということである。中島・浦口・常盤・大世古で町が炎上し、外宮別宮の月夜見宮の類焼が懸念されたため、神体を安全な風宮へ移した。火災は午前11時に収束し、心配された神宮への放火や破壊活動はなかった。12月21日夜には士族との戦いに敗れ、12月22日深夜0時頃に三重県の派遣した警部以下40名が神社港(かみやしろこう)に上陸して神宮の警備に就き、12月23日に警視庁の警部が、12月24日に鎮台兵が派遣され、抑え込まれた。 山田は92戸の焼失、27戸の破壊という被害を受け、一揆隊に酒食を提供した田丸や山田の戸長らは処分された。 旧志摩国域に相当する答志郡や英虞郡(現在の鳥羽市・志摩市)では伊勢暴動の直接的な影響や被害はなかったが、暴動の翌年である1877年(明治10年)から1878年(明治11年)にかけて合法的な手段で嘆願書や伺書を提出して、不当に高い地位等級の引き下げを要求する運動が展開された。 ===隣接県への波及=== 三重県の北端・桑名に達した一揆隊は県境を越え、愛知・岐阜に展開していった。 ===愛知県=== 愛知県では1875年(明治8年)6月より土地の測量を始め、地租改正に着手した。しかし村人の不安を背景に遅々として進まず、1875年(明治8年)末から翌1876年(明治9年)にかけて愛知県庁の役人の刷新が行われ、強力に推進されることになった。建前上、地価の査定は村や郡から選ばれた「地位銓評議員」(ちいせんぴょうぎいん)が村や郡の順位を決め、収量を見積もることとなっていたが、実際には役人が見込みを示して強制するという方法を採った。これにより、旧尾張国の領域では事実上2割弱の増税となり、村人の不満が高まっていた。 三重県の一揆隊は桑名から長島(現在の桑名市長島町)を越えて、愛知県の前ヶ須(現在の弥富市前ヶ須町)に上陸、愛知県の農民も巻き込んで海東郡津島(現在の津島市)方面に展開していった。1876年(明治9年)12月20日夜から翌12月21日にかけて、海東郡や海西郡で暴動が展開した。春日井郡東部では5割以上の増税となった村が3分の1以上に達したことから、伊勢暴動の後もくすぶり続け、1878年(明治11年)9月には明治天皇の名古屋行幸の時に直訴しようと名古屋に押し掛ける騒動にまで発展した。 三重県の一揆集団の愛知県への展開は、その先の名古屋、静岡県、ひいては東京への進出可能性を含んだものだったと考えられている。 ===岐阜県=== 桑名の一揆隊の一部は北上を続け、数百人の集団で桑名郡香取村(現在の桑名市多度町香取)から岐阜県石津郡境村(現在の海津市南濃町境)に入り、沿道の村民を集め、一揆隊は1000人に上った。数隊に分かれ石津郡中嶋村・太田村(どちらも現在の海津市南濃町内)を放火した後、石津郡山崎村(現在の海津市南濃町山崎)に向かう隊と揖斐川を越えて石津郡安田新田(現在の海津市海津町安田新田)に向かう隊に分裂した。 山崎村に向かった一揆隊は石津郡西駒野村、庭田村、多芸郡志津村(以上は現在の海津町)、小倉村、横屋村(以上は現在の養老郡養老町)へ入り放火した。横屋村で井戸警部に追われたため、隊は解散するが、西駒野村で一部の一揆隊が多芸郡駒野新田(現在の海津市南濃町駒野新田)、根古地村(現在の養老郡養老町根古地)を経て大巻村(現在の養老郡養老町大巻)に入り、学校を焼き払った。安田新田に向かった一揆隊は石津郡帆引新田、三葉村(どちらも現在の海津市海津町内)などで放火、高須村(現在の海津市海津町高須)では戸長宅と学校を焼き、更に安八郡へ入り西島村、高田村(どちらも現在の海津市平田町)で火を放ち、土倉村(現在の海津市平田町土倉)に入ろうとした時に川俣警部らの攻撃を受け、隊は崩壊した。また愛知県海東郡津島から岐阜県海西郡に入った一揆隊もあり、日原や駒ヶ江村(いずれも現在の海津市海津町内)などを荒らすも主力が衰えていたため、大きな被害は出なかった。 岐阜県内の一揆は12月23日にはすべて鎮静化した。4郡51村に被害をもたらし、民家56戸と学校6校が焼かれ、32戸が損害を受けたが、幸い死者はなかった。148名が逮捕され、佐屋川の河原には大量の武器が埋没したという。 ===暴動後の社会情勢=== 時の為政者・大久保利通は地租改正がうまく進まなかったことに焦りを覚えており、茨城県で一揆が起きた時点で減租を切り出す決心を固めていた。しかし茨城の一揆はすぐに鎮圧されたため撤回、伊勢暴動を受けて12月31日朝に閣議を招集、翌1877年(明治10年)1月4日に地租を2.5%に引き下げた。地租の率自体はわずか0.5%下げられただけであるが、日本中の農民に恩恵をもたらすこととなった。地租改正前の税額と比較すると旧・三重県域で22.9%、旧・度会県域で26.3%と大幅な減税となった。ただし、旧・三重県域でも抵抗により地租改正の遅れた桑名郡・朝明郡・河曲郡の60村は0.1%の減税にとどまった。農民が恩恵を受けたことと引き換えに、国家歳入の8割超を地租収入が占めていた明治政府は、1000万円以上の歳入減という大きな打撃を蒙り、官僚の削減や役所の統合整理が断行された。 この成果は21世紀初頭の現在、「竹槍でドンと突き出す二分五厘」の歌で表されているが、当時の新聞報道にこの歌はなく、東京日日新聞は「竹槍でちょいと突き出す二分五厘」と報じている。三重短期大学の茂木陽一の調査によれば、「ドンと突き出す」の初出は、1954年の三重県の農業史に関する論文であるという。 伊勢暴動は三重県全体で約2,300戸の被害を出したものの、暴動の始まった飯野郡では被害戸数は0で、員弁郡491戸、三重郡358戸、桑名郡278戸など北勢での被害が目立つ。これは、暴動の始まった南勢では村単位で行動するなど規律正しく一揆が進んだのに対して、一揆隊が北上するうちに付和雷同した群衆が暴徒化していったためである。例外として、南勢でも飯高郡では376戸の被害を出している。被害総額は139万円で、1879年(明治12年)の三重県の地方税収入33万円余の約4.2倍に上った。結果的に政府に対する農民の勝利と言われる伊勢暴動であるが、死者35人、負傷者48人、絞首刑1人と終身の懲役刑3人を含む処分者50,773人という大きな犠牲を払った上の勝利であった。 伊勢暴動の鎮圧のため、三重県に名古屋鎮台から2中隊、大阪鎮台大津営所1中隊、警視庁から巡査が200名派遣された一方で、旧津・上野・神戸・久居の各藩士が約4,400名集められ、鎮台兵到着前の政府側の武力行使は主に士族によってなされた。江戸から明治に時代が変わり、近代軍事制度が整いつつある中でも、緊急時には慣例的に士族の徴用が行われているという当時の状況があった。伊勢暴動や茨城県での一揆にあっては、県令が鎮台に派遣要請をせず、士族に召集をかけたことが鎮台側より抗議がなされ、1877年(明治10年)2月から3月にかけて「各鎮台長官への内愉」・「騒擾につき内達」が出され、鎮台と士族徴用の併用状態を解消し、武力行使の権限が鎮台に一義的に与えられることになった。 ==研究史== 1880年(明治13年)に地租改正当局者は、伊勢暴動とその前に発生した和歌山県や茨城県での一揆について次のように述べている。 茨城三重和歌山三県暴動ノ近因ハ米価ノ高キニ苦ムト云フニアリ。其事タル直接ニ改正ニ関係スルニアラサレトモ、其遠因ヲ尋ヌルハ又改正余響タルニ外ナラサルヲ以テ、之ヲ改正ノ為メノ苦情ト謂ハサルヲ得ス。 ― 「彙報」(『集成』7巻)381ページ すなわち、当時の役人は地租改正反対が一揆の目的にあるが、米価高騰も背景にあると捉えていた。 明治時代の文献で伊勢暴動について触れているものは、上野利三の1986年(昭和61年)の調査によれば、1885年(明治18年)出版の細川広世 編『明治政覧』・修史館 編『明治史要 上』が最初で、1892年(明治25年)の指原安三 編『明治政史 第九編』がある。三重県の郷土史として取り上げた文献は大正時代になって中林正三『飯南町史』や服部英雄 編『三重県史』などを始めとして登場し、同時代には竹清「明治九年の伊勢一揆」という論考も出現するようになった。昭和に入ると論文や伊勢暴動に関する基礎的な資料集の刊行が増えていき、特に三重県内務部が編集した『伊勢暴動顛末記』は、現在に至るまで伊勢暴動に絞って徹底的に研究した唯一の書籍である。『伊勢暴動顛末記』は現在でも資料的価値が高く評価されている一方、伊勢暴動の研究がこの書籍に多くを依存してきたため、歴史の論証のために他の新しい資料が強く求められている。 第二次世界大戦以後は経済史学と郷土史学の2つから研究が進み、地租改正が伊勢暴動の主目的であるとする説が通説となっていく。 茨城県の真壁郡・那珂郡の一揆を研究していた木戸田四郎は、茨城の一揆や伊勢暴動が石代納問題に端を発していることに着目し、1959年(昭和34年)に次のような説を唱えた。 茨城の場合とくにそうだが、三重愛知等においても、農民は地租改正反対を主たる目的として一揆をおこしたのではなく、維新以来諸負担の増加に憤激した農民が、九年の石代納米価基準を不満とし、これを契機として激発下ものと判断される。 ― 木戸田四郎(1959)”明治九年の農民一揆”(堀江英一・遠山茂樹 編『自由民権期の研究 第一巻 民権運動の発展』有斐閣)45 ‐ 50ページ また同年、伊勢暴動研究をしていた大江志乃夫も著書の中で以下のような木戸田説に近い見解を示している。 問題は地租改正そのものでなく、地租改正の過渡的な措置から発生した。 ― 大江志乃夫(1959)『明治國家の成立 天皇制成立史研究』ミネルヴァ書房、175ページ しかし、木戸田説は原口清・高橋芳男らから批判され、木戸田はこの説を撤回している。これに対し有元正雄は、木戸田が説を撤回したのは正しいが、巨視的に地租改正事業を見れば中心的な矛盾とは言えず、伊勢暴動において飯野郡の出した「歎願之大意」の第一条に「一田畠宅地トモ弐等下ケ」を掲げていることを例示している。 研究の成果は教科用図書(教科書)に反映されている。2008年(平成20年)度発行の中学校社会科歴史分野および高等学校地理歴史科日本史の教科書では、ほとんどに「伊勢暴動」または「三重県で暴動が発生」という文言が記載され、月岡芳年作の錦絵付きで取り上げているものも多い。 ==名称について== 「伊勢暴動」の名は大正時代に出現し、三重県内務部がまとめた『伊勢暴動顛末記』の出された1934年以降は伊勢暴動で統一されている。「伊勢暴動」の語の定着以前は、「藁焼き暴動」・「伊勢農民暴動」・「伊勢騒動」・「明治9年の農民暴動」などさまざまに呼ばれていた。三重県における郷土史研究の結果、伊勢暴動という用語が生まれ、それが定着したために、愛知・岐阜・堺の3県にも拡大したにもかかわらず、「伊勢」暴動となったと考えられている。しかし、「伊勢暴動」定着以降も「伊勢一揆」・「三重愛知岐阜堺四県下騒擾」などを使う研究者もいる。 三重短期大学の研究者らは、伊勢暴動を「東海大一揆」という呼称に変更することを提案し、同学教授の茂木陽一が執筆した『百姓一揆事典』(深谷克己監修)では、「伊勢暴動」を「東海大一揆」として掲載している。これは、伊勢暴動とともに近代日本の農民闘争として取り上げられている秩父事件の指導者・田代栄介が英雄として扱われるのに対し、伊勢暴動で唯一死刑となった大塚源吉の名を知る者はほとんどいないのは、「伊勢暴動」という名称から国家に抵抗した国賊が引き起こしたはた迷惑な「暴動事件」という見方をされていると考えられることから、歴史を正しく捉えられるように提案されたものである。 =焼戻し= 焼戻し(やきもどし、英語: tempering)とは、焼入れあるいは溶体化処理されて不安定な組織を持つ金属を適切な温度に加熱・温度保持することで、組織の変態または析出を進行させて安定な組織に近づけ、所要の性質及び状態を与える熱処理。 焼き戻し、焼もどしとも表記する。加工硬化を緩和する「焼なまし」とは異なる。 アルミニウム合金のような非鉄金属やマルエージング鋼のような特殊鋼などへの溶体化処理後に行われる焼戻し処理は時効処理の一種で、人工時効あるいは焼戻し時効、高温時効と呼ばれる。 本記事では焼入れされた鋼の焼戻しについて主に説明する。人工時効については時効 (金属)を参照のこと。また、本記事では日本工業規格、学術用語集に準じて、「焼戻し」の表記で統一する。 狭義には、焼入れされた鋼を対象にしたものを指す、鋼の焼戻しは、焼入れによりマルテンサイトを含み、硬いが脆化して、不安定な組織となった鋼に靱性を回復させて、組織も安定させる処理である。 ==目的== ===硬さと靱性の調整=== 焼入れによって得られた鋼のマルテンサイト組織は、硬いが脆い状態となっている。この焼入れ組織に粘り強さを与えるのが焼戻しの目的の1つである。基本的には焼戻し温度と呼ばれる焼戻し時に加熱・保持する温度を変更することで、硬さと靱性のバランスを決定する。靱性を重視する場合は比較的高温で焼戻しする高温焼戻しが、硬さを重視する場合は比較的低温で焼戻しする低温焼戻しが適用される。 ===残留応力の除去=== 焼入れによって、加工品にはマルテンサイト変態や熱膨張によって内部に応力が発生する。この応力は焼入れ後にも残り、変形・割れの発生や、機械的性質の悪化を生じさせる。このような応力を残留応力と呼ぶ。この残留応力を焼戻し処理によって除去あるいは軽減させることができる。加工品の大きさや加熱時間にもよるが、500℃程度の焼戻しで残留応力はほぼ除去でき、200℃程度の焼戻しで半減できる。 ===寸法と形状の安定化=== 焼入れ後の組織には、残留オーステナイトと呼ばれるマルテンサイト化しきれなかったオーステナイト組織が残っている。残留オーステナイトは常温で放置すると時間が経つに連れて徐々にマルテンサイトに変態する。残留オーステナイトからマルテンサイトへの変態の際、組織の体積が膨張するので変形や寸法変化を起こしたり、上記の残留応力とも相まって割れが発生する場合がある。また、マルテンサイトも低炭素マルテンサイトへ時間が経つに連れて徐々に変化していき、その際に縮小を起こす。焼戻しにより、このような不安定な組織を安定化させて、加工品の寸法変化や割れの発生防止をすることができる。 ===二次硬化の利用=== 焼戻しによる二次硬化現象を利用するもので合金鋼特有のものである。通常の焼戻しでは延性と硬さが反比例するが、二次硬化により延性と硬さが共に向上する。合金工具鋼や高速度工具鋼に適用される。 ==再加熱による組織変化== 焼入れされた鋼は、金属組織的にも内部応力的にも不安定な状態にある。焼入れで得られたマルテンサイト組織を再加熱していくと、マルテンサイトから過飽和に固溶されていた炭素や合金元素が吐き出され、安定な組織に近づいていき、機械的性質も変化していく。これが焼戻しの基本原理である。以下、焼入れ後の組織を再加熱していくと、組織にどのような変化が発生していくかを説明する。 ===第1段階=== まず80 ‐ 160℃まで加熱すると、マルテンサイトからε炭化物と呼ばれる炭化物が析出し、マルテンサイトは低炭素マルテンサイトあるいは焼戻しマルテンサイトと呼ばれる組織に変わり、組織は低炭素マルテンサイトとε炭化物で構成されるようになる。焼入れによる高炭素マルテンサイトはオーステナイトの炭素含有量をそのまま受け継いで炭素を0.8%含有しているのに対し、低炭素マルテンサイトは0.2 ‐ 0.3%程度の含有量である。結晶構造は、高炭素マルテンサイトは正方晶であるのに対し、低炭素マルテンサイトは立方晶を取る。ε炭化物は六方晶の結晶構造を持ち、Fe2 ‐ 2.5CあるいはFe2 ‐ 3Cで表され、標準組織で析出するFe3Cのセメンタイトとは異なる。また、このような変化により体積が縮小する。この変化は高炭素マルテンサイトが存在する場合のみに発生するので、炭素含有量0.3%以下の低炭素鋼では発生しない。 ===第2段階=== 次に230 ‐ 280℃まで加熱すると、組織中の残留オーステナイトが下部ベイナイトに変態する。この変化で体積は膨張する。この変化は残留オーステナイトが存在する場合のみに発生する。生じたベイナイトはやがてフェライトと炭化物(ε炭化物とセメンタイト)に変化する。 ===第3段階=== さらに300℃以上に加熱すると、ε炭化物は一端母相中に溶け込み、χ炭化物と呼ばれる別の中間相炭化物の析出を経てセメンタイトを析出するようになる。低炭素マルテンサイトは炭素をセメンタイトとして析出したことでフェライトに変態していく。この過程では体積は縮小する。 セメンタイトは、初めはフェライト素地中に細かい粒状で分散しているが、さらに温度が上昇していくと、大きな粒子に凝縮していく。400 ‐ 500℃程度までに加熱された組織は、トルースタイトと呼ばれる組織になり、500 ‐ 650℃程度ではソルバイトと呼ばれる組織になる。トルースタイトは光学顕微鏡では判別できないレベルで微細化されたセメンタイトと等軸のフェライトから構成され、ソルバイトでは光学顕微鏡約400倍程度で判別できる微細な球状セメンタイトと等軸のフェライトで構成される。 ===第4段階=== 以上の組織変化に加えて、合金鋼の場合、400 ‐ 450℃以上に加熱すると固溶されていた合金元素も放出され、合金鋼特有の変化が発生するようになる。この変化を第3段階に続く第4段階に加える場合もある。その合金鋼特有の炭化物が発生するようになり、次のような現象が発生する。 高合金鋼を焼戻しすると、焼戻し前よりも硬さが向上する場合がある。このような焼戻しによる硬化を、焼入れによる硬化を一次硬化として、二次硬化、あるいは焼戻し硬化と呼ぶ。二次硬化の要因は、残留オーステナイトが焼戻しによりマルテンサイト化することによる硬化と複炭化物の微細析出による硬化の2つである。二次硬化時に残留オーステナイトから変態したマルテンサイトは通常の焼入れ時に発生するマルテンサイトと同じなので、二次硬化を伴った焼戻し後には更にもう1回、2回焼戻しを繰り返すことが必要となる。 ==焼戻し温度と保持時間== 焼戻し温度によって得られる組織が変わるのは上記で説明した通りだが、焼戻し温度に加えて、その温度での保持時間も焼戻しの組織に影響する。焼戻しに伴う炭化物の析出やε炭化物からセメンタイトへの移行も、保持時間の延長と共に必要な焼戻し温度は低くなっていく。また、焼戻し温度の最高温度としては、原則として730℃のA1変態点温度が限界である。一般には650℃以下の温度が用いられる。以下、焼戻し温度と保持時間を決定する手法例を説明する。 焼戻し温度と保持時間が焼戻し後の硬さに及ぼす影響を統一して表す指標として、1945年に、ホロモン(J.H.Hollomon)とジャッフェ(L.D.Jaffe)により焼戻しパラメータと呼ばれる指標が考案された。英語では、考案者の名前に因みホロモン・ジャッフェ・パラメータ(Hollomon‐Jaffe parameter)とも呼ぶ。焼戻しパラメータをPとしたとき次式で表される。 ここで、Tは焼戻し温度で単位は絶対温度、tは焼戻し時間で単位は秒あるいは時間 (単位)である。Cは材料定数である。ラーソン・ミラー・パラメータと同形式だが、こちらはクリープ変形における温度と時間の影響を統一して表す指標である。 焼戻し温度と保持時間の組み合わせが異なる実験結果を、縦軸に焼戻し後の硬さ、横軸に焼戻しパラメータで整理すると、同じ材料であれば1つの曲線上に乗る。このような曲線を焼戻し母曲線と呼ぶ。すなわち、焼き戻し母曲線を作成すれば、設定しようとする焼戻し温度と保持時間から得られる硬さを予測できる。 上式は、焼戻しの進行が熱活性過程に従うとして、以下のように求まる。熱活性過程に従う場合、その材料の拡散速度vは、 で書き下せる。ここで、Aは定数、eはネイピア数、Qは焼戻し過程の活性化エネルギー、Rは気体定数、Tは絶対温度である。ある硬さHに達するまでの時間tは速度vに反比例すると考えられるので、 と表せる。ここでBは新たな定数である。上式の常用対数を取ると、 となる。ここで0.4342は自然対数から常用対数への換算係数である。さらに変形すると以下の形式で書き下せる。 ホロモンらの実験によると、活性化エネルギQと得られる硬さHの値は一対一で対応する。よって、上式左辺は係数が掛かっているが焼戻しパラメータPと同等である。ここで、 と置けば最初の焼戻しパラメータの式が得られる。 材料定数Cは、マルテンサイト中の炭素含有量C%の変数として以下のような推定式がある。 tが秒単位のとき tが時間単位のとき あるいは、同じ焼戻し硬さが得られる2組のT、tを実験などから得ることができれば、それぞれの組み合わせをT1、t1とT2、t2として、以下のようにCの値に得られる。 以上のように理論的には焼戻しパラメータによって得たい機械的性質に対する任意の温度と時間を選べる。ただし実際には、保持時間は1 ‐ 2時間を目安として、得たい機械的性質によって焼戻し温度を選択する場合が一般的である。 ==種類と方法== ===低温焼戻し=== 比較的低温域で焼戻しすることで、焼入れ後の硬さをあまり減少させず、残留応力の低減と性状の安定化を行うことができる。このような焼戻し処理を低温焼戻しと呼ぶ。焼戻し温度は目安として150 ‐ 250℃の範囲である。低温焼戻しによって生じる鋼組織は、上記で説明した低炭素マルテンサイトで、ビッカース硬さは約800HVとなっている。 硬さや耐摩耗性を必要とする材料に低温焼戻しが適用される。鋼種としては、炭素含有量が0.77%超える過共析鋼が主となっている。工具鋼の例としては、二次硬化特性を持たない炭素工具鋼や冷間加工用の合金工具鋼などに適用される。実際の製品としては、ナイフや包丁といった切削工具、ゲージやノギスといった計測器具、自動車車体のプレス金型、軸受などで適用される。また、低温焼戻しは高周波焼入れ後や浸炭焼入れ後の標準的な焼戻しでもある。 加熱装置には油浴が最適とされる。100℃に沸騰させたお湯に漬す焼戻しでも残留応力を25%程度減少でき、耐摩耗性向上の効果があるので、本来の低温焼戻し温度が不可能な場合などに推奨される。高温焼戻しの場合は焼戻し脆性を避けるために水冷などを用いた急冷が推奨されるが、焼戻し脆性温度を避けている低温焼戻しの場合は空冷などのややゆっくりした冷却が推奨される。これは、ひずみや割れを防ぐためである。 ===高温焼戻し=== 低温焼戻しに対して比較的高温域で焼戻しすることで、靱性を高める焼戻しを高温焼戻しと呼ぶ。焼戻し温度は目安として温度400 ‐ 680 ℃の範囲で行われる。加熱装置には塩浴や燃焼炉、電気炉が用いられる。 前述で説明した通り、焼戻し温度によって得られる組織が異なる。高温焼戻しと呼ばれる焼戻し温度域の中でも、400 ‐ 500℃から焼き戻すとトルースタイトと呼ばれる組織が得られる。トルースタイトのビッカース硬さは約400HVで、硬さを残しつつ靱性もある程度高い組織が得られる。ただし、トルースタイトは錆びやすいのが欠点の1つである。実際の製品としては高級刃物やバネ類などに適用される。 500 ‐ 650℃から焼き戻すとソルバイトと呼ばれる組織が得られる。ソルバイトのビッカース硬さは約280HVで、鋼の組織の中では最も靱性が高いのが特徴となっている。適度の強さと高い靱性を得られることから機械構造用鋼に適しており、実際の製品としても、トルースタイトと同じくバネ類も含め、機械部品全般で広く採用される。 日本工業規格によれば、高温焼戻しでトルースタイトかソルバイト組織を得る焼入焼戻しを、特に調質と呼ぶ。または、ソルバイト組織を得る焼入焼戻しに限って調質と呼ぶ場合もある。高温焼戻しが適用される製品としては、上記で述べたもの以外では、軸、高強度ボルト、軽中荷重用歯車などがある。 ==焼戻し軟化抵抗== 焼戻しでは基本的に焼戻し温度に比例して硬さが低下するが、炭素鋼や合金鋼の低合金鋼などの鋼種に対して、中合金鋼、高合金鋼などの鋼種では、焼戻し温度上昇に対する硬さの低下割合が低くなる。このように、鋼中の合金元素によっては、同じ焼戻し温度でも焼戻し後硬さが異なる性質を焼戻し軟化抵抗や焼戻し軟化抵抗性と呼ぶ、クロム、モリブデン、タングステン、バナジウムなどの炭化物形成元素が添加されていると、焼戻し軟化抵抗を大きくするように働く。 ==焼戻し脆性== 焼戻しは加工品の靱性を向上させる処理だが、焼戻し温度によっては逆に脆化する場合がある。これを焼戻し脆性と呼び、低温焼戻し脆性と高温焼戻し脆性がある。。焼戻し特有の欠陥で、焼戻し処理時には焼戻し脆性が発生する温度域には注意を要する。 ===低温焼戻し脆性=== 250 ‐ 350℃からの焼戻しで発生する脆化を低温焼戻し脆性と呼ぶ。低温焼戻し脆性は、焼戻しの冷却速度と鋼種を問わずに発生する。一端高温で焼戻しすれば、この条件で焼戻ししても低温焼戻し脆性は発生しなくなるのが特徴である。 低温焼戻し脆性の原因は、リン、窒素などの不純物が旧オーステナイト結晶粒界に析出すること、300℃以上で析出する初期セメンタイトが薄板状のため粒界に析出すること、残留オーステナイトから炭化物が析出して不安定になり、荷重負荷時にマルテンサイト変態して脆くなること、などが挙げられる。そのため、リン、窒素などの不純物を減らすことも脆化を軽減する対策の1つである。 防止策としては、この温度域からの焼戻しを避けることが第一で、珪素を添加も有効である。珪素の働きでε炭化物を安定させて、セメンタイトの析出と成長を抑え、脆化発生領域を高温域に移動させることができる。 ===高温焼戻し脆性=== 450 ‐ 550℃からの焼戻しで発生する脆化を高温焼戻し脆性と呼ぶ。さらに、この温度域を避けて550 ‐ 650℃から焼戻ししても500℃付近を徐冷すると同様に高温焼戻し脆性が発生してしまう。そのため、高温焼戻し脆性を避けて550 ‐ 650℃から焼戻しする時には急冷が推奨される。脆化を避ける冷却速度は空冷以上が望ましいとされる。 高温焼戻し脆性の原因は、リン、アンチモンなどの不純物が旧オーステナイト結晶粒界に析出するためで、モリブデンの添加が析出を遅らせるのに有効である。一方で、クロム、ニッケル、マンガンなどは析出を促進させるので、ニッケルクロム鋼、クロム鋼、ニッケルマンガン鋼、マンガン鋼などで発生しやすい。 低温焼戻し脆性と異なり可逆性を持つのが特徴で、適切な他の条件で焼戻ししても、その後にこの条件で焼戻しすると高温焼戻し脆性が発生する。逆に、高温焼戻し脆化された加工品でも再度急冷で焼き戻し直せば使えるようになる。 =石炭= 石炭(せきたん、英:coal)とは、古代(数千万年〜数億年前)の植物が完全に腐敗分解する前に地中に埋もれ、そこで長い期間地熱や地圧を受けて変質(石炭化)したことにより生成した物質の総称。見方を変えれば植物化石でもある。 しかし1970年代に二度の石油危機で石油がバレルあたり12ドルになると、産業燃料や発電燃料は再び石炭に戻ったが、日本国内で炭鉱が復活することは無かった。豪州の露天掘りなど、採掘条件の良い海外鉱山で機械化採炭された、安価な海外炭に切り替わっていたからである。海上荷動きも原油に次いで石炭と鉄鉱石が多く、30万トンの大型石炭船も就役している。 他の化石燃料である石油や天然ガスに比べて、燃焼した際の二酸化炭素 (CO2) 排出量が多く、地球温暖化の主な原因の一つとなっている。また、硫黄酸化物の排出も多い。 石炭は古くから、産業革命以後20世紀初頭まで最重要の燃料として、また化学工業や都市ガスの原料として使われてきた。第一次世界大戦前後から、艦船の燃料が石炭の2倍のエネルギーを持つ石油に切り替わり始めた。戦間期から中東での油田開発が進み、第二次世界大戦後に大量の石油が採掘されて1バレル1ドルの時代を迎えると産業分野でも石油の導入が進み(エネルギー革命)、西側先進国で採掘条件の悪い坑内掘り炭鉱は廃れた。 ==石炭の成り立ち== 現在の地球上では、枯れた樹木は時間とともに大半が菌類(カビ・キノコ等)、細菌、昆虫(シロアリ等)などによって分解されてしまうが、石炭ができるためには完全に分解される前に地中に埋没することが必要である。特に古生代においてはそれら分解者が、まだ出現していなかったり少数派であったため大量の植物群が分解前に埋没していた。植物の遺体が分解されずに堆積する場所として湿原や湿地帯が挙げられる。これらの場所においては植物の死体は酸素の少ない水中に沈むことによって生物による分解が十分進まず、分解されずに残った組織が泥炭となって堆積する。泥炭は植物が石炭になる入り口とされている。他の成因として大規模な洪水で大量の樹木が湖底等の低地に流れ込んで土砂に埋まることも考えられる。地中に埋まった植物は年代を経るに従って 泥炭→褐炭→歴青炭→無煙炭 に変わってゆく。この変化を石炭化と呼ぶ。 ===石炭化=== 地中に埋まった植物が地圧や地熱を受けて石炭になる変化を総称して石炭化と呼ぶ。これは多様な化学反応を伴った変化である。セルロースやリグニンを構成する元素は炭素、酸素、水素であるが、石炭化が進むに従って酸素や水素が減って炭素濃度が上がってゆき、外観は褐色から黒色に変わり、固くなってゆく。炭素の含有量は泥炭の70%以下から順次上昇して無煙炭の炭素濃度は90%以上に達する。化学的には植物生体由来の脂肪族炭化水素が脱水反応により泥炭・褐炭になり、次に脱炭酸反応により瀝青炭となり、最後に脱メタン反応により芳香族炭化水素主体の無煙炭に変わってゆく。植物が石炭化する速度は地中での圧力や温度の影響を受ける。日本は環太平洋造山帯に位置し地殻変動が盛んなため、諸外国の産地よりも高温・高圧にさらされて石炭化の進行が早いとする説もある。 ===石炭が産出する地層と歴史=== 石炭は元となった植物が繁茂していた時代に相当する地層から産出される。 古生代の地層は石炭が産出する地層としては最も古く、産出は無煙炭が主体。古生代に繁茂していた植物は現在のシダ類やトクサ類の祖先に相当するが、当時の代表的な植物であるリンボクは高さ30メートルになる大木で、大森林を形成していたと考えられている。 石炭紀(2億8千万年前頃): ヨーロッパ、北米二畳紀(2億2千万年前頃): 中国、インド、オーストラリア、アフリカ中生代はソテツやイチョウなどの裸子植物が優勢となった。この時代の地層から産出する石炭は海外ではほとんど瀝青炭だが、日本で産出するのは無煙炭が主体である。 三畳紀(1億9千万年前頃): ヨーロッパ中部、北米、中国南部、インドシナジュラ紀(1億5千万年前頃): ヨーロッパ中南部、北米、アジア東部白亜紀(1億2千年万前頃): ヨーロッパ中部 北米、南米、アフリカ新生代第三紀(7〜2千万年前)の植物は、現在に近い樹種が主体。産出する石炭は、外国では石炭化の低い褐炭が主体だが、日本の炭鉱では瀝青炭が産出される。 ドイツ、北米、中米、オーストラリア、日本植物の体はセルロース、リグニン、タンパク質、樹脂などなどで構成されている。このうち古生代に繁茂したシダ類ではセルロースが40〜50%リグニンが20〜30%であり、中生代以後に主体となる針葉樹類ではセルロースが50%以上リグニンが30%である(何れも現生種のデータ)。これらの生体物質を元にして石炭が形成された。 石炭の成り立ちの主な参考文献 ‐ 『石炭技術総覧』Batman、『太陽の化石:石炭』第1章石炭の生い立ちシルル紀後期にリグニンを有した植物が登場した。歴史上上陸した植物が立ち上がるためにはセルロース、ヘミセルロースを固めるためのリグニンが必要であった。リグニンを分解できる微生物がその当時はいなかったので植物は腐りにくいまま地表に蓄えられていった。これが石炭の由来となる。石炭紀に石炭になった植物はフウインボク、リンボク、ロボクなどであり、大量の植物が腐らないまま積み重なり、良質の無煙炭となった。石炭紀以降も石炭が生成されたが時代を下るに従って生成される石炭の量も質も低下することとなった。白色腐朽菌は、地球上で唯一リグニンを含む木材を完全分解できる生物で、リグニン分解能を獲得したのは古生代石炭紀末期頃(約2億9千万年前)であると分子時計から推定された。石炭紀からペルム紀にかけて起こった有機炭素貯蔵量の急激な減少は白色腐朽菌のリグニン分解能力の獲得によるものと考えられている。 ==燃料としての特徴== 石炭は燃料としては最も埋蔵量が多い地下資源である。しかし採掘・運搬・使用(燃焼)に際して不利な点も多い。 ===石炭の利点=== 石油が安価だった時代、重油製鉄も検討されたが、製鉄における石炭の優位は崩せなかった。重油ボイラーを比較的簡単に微粉炭ボイラー(石炭を粉にして吹き込む)に改造できたため、第二次石油危機後の1980年代にほとんどの発電燃料・産業燃料が値段の安い石炭に回帰するか天然ガスに切り替わった。発電燃料・産業燃料においても微粉炭ボイラーが開発され手作業給炭は過去のものとなった。 日本国内炭は一般的に炭層が薄くて傾斜しておりロングウォールに向かず、採炭コストでは海外炭に太刀打ちできなかった(釧路炭田は水平に厚く石炭層が形成されているために例外的に存続できた)。 ===安価なコスト=== 自動車の普及した先進国では石油の占める割合が高いが、エネルギー消費の過半数を占める発電燃料・産業燃料では、コスト優位によって石炭が首位を奪還した国も多い。北海油田を抱えるイギリスは産業燃料も天然ガスの比率が高く、フランスは原子力発電が8割を占めるが、ドイツは国内石炭が首位でシベリア天然ガスがそれに次ぎ、アメリカも発電燃料は石炭が圧倒的首位である。中国は自動車の普及で石油輸入量が急増し日本を追い抜いたが、依然として全エネルギーのうち7割以上を石炭が占めている。 ===輸送・貯蔵時のセキュリティ=== 石油・ガスのような流体ではないことや、核燃料のようにコンパクトではないことは、輸送のコストを押し上げる要因ではあるが、一方では輸送や貯蔵に際しての事故やテロによる被害の規模を抑制する要因でもある。 ===豊富な埋蔵量=== 石炭は他の燃料に比べて埋蔵量が多く、かつ石油のような一地域への偏在がなく、全世界で幅広く採掘が可能なエネルギー資源である。50年で枯渇が懸念されている石油に対し、石炭は112年の採掘が可能と考えられている。2000年現在、世界の消費は約37億 t、総一次エネルギー消費の27 %を占める。確認可採埋蔵量は、世界で約9800億 t(2000年)(BP統計2005年版では約9091億 t)。1990年のデータでは ウランを含む燃料資源を石油に換算した確認可採埋蔵量の比率は石炭が61.9 %に達し、オイルサンド類の16.1 %、石油の10.8 %、天然ガスの9.7 %に比べて圧倒的に多い。また石油が世界の埋蔵量のうち中東地区に70 %以上が偏在したり(1999年のデータ)、天然ガスが旧ソ連と中東で70 %以上の埋蔵量を占有する状況である(1999年のデータ)のに比べて 石炭は旧ソ連(23.4 %)、アメリカ(25.1 %)、中国(11.6 %)、オーストラリア(9.2 %)、インド(7.6 %)、ドイツ(6.8 %)と政情の安定している国の埋蔵量が大きいことが特徴(1999年のデータ)。 ===製鉄における石炭の有利=== 鉄鉱石とは錆びた鉄・酸化鉄と脈石の塊であり、製鉄とは還元反応である。現在の高炉法は粘結炭(瀝青炭)を蒸し焼きにしたコークスと塊状鉄鉱石を円筒形の高炉に積み上げ、下から空気を吹き込んで発生する一酸化炭素で銑鉄を作るので、石炭(特に粘結炭)が不可欠である。天然ガスでも還元できるが温度が上げにくいので、産油国のような石油採掘の時に随伴ガスとして出てきてしまう天然ガスを無駄に燃やしている国以外では、石炭のほうが優位である。豊富な埋蔵量の主な参考文献 ‐ 『エネルギー・セキュリティ』 ===石炭の欠点=== 石炭は上記のような利点がある一方で下記のような欠点がある。最近の日本での使用に際しては、環境に配慮して最新技術による対策が施されている。 ===エネルギーが小さい=== 石油と比較した場合は低エネルギーであり、重油と比べて約半分である。これは蒸気ボイラーで同じ出力を得ようとした場合、石油燃料を使用する場合よりも大きなボイラーが必要であることを意味する。 ===固体のため、採掘・運搬・貯蔵に際してコストがかかる=== 液体はポンプと配管で輸送できるが、石炭の輸送にはパワーショベルまたは人手による投炭、ホッパー、ベルトコンベアなどが必要である。貯蔵の際には屋内屋外の貯炭場などに積み上げられることになる。坑内掘りの場合は、粉塵やガスの爆発事故や、ガスによる酸欠事故、粉塵による塵肺、落盤事故などの危険が伴う。 ===天然ガスより熱効率を上げにくい=== 石炭も微粉炭にして酸素吹き込みで燃やせば高温の一酸化炭素・二酸化炭素が発生するので、ガスタービンを回したあとの数百℃の熱排気でボイラーを熱して蒸気タービンを回すコンバインドサイクルは可能で研究も進んではいる。ただし石炭に含まれる灰分が溶けてタービン翼に障害を与えるのを「低コストで」処理するのが難しい。そのためカロリーあたりでは石炭のほうが安くても、天然ガスコンバインドサイクル発電所のほうが石炭火力発電より燃料消費が少ないので、ドイツのような隣国からパイプラインで購入している国の場合は天然ガス発電所が増えている。日本やイタリアのように液化天然ガスで輸入している国は天然ガスを‐160 ℃で液化するコストが掛かっているので、どちらが有利か試算者によって結論が異なる。 ===大気汚染の原因になる=== 「化石燃料#化石燃料の使用が引き起こす公害・環境問題」も参照特に硫黄は原油同様0.数 %含まれているが、これは燃やすと酸性雨の主要因となる硫黄酸化物になる。窒素成分も他のエネルギー源より多く、これは燃やすと窒素酸化物となるため、酸性雨の原因となる。これらの環境汚染物質については(日本では)国や地方自治体で排出基準が定められている。環境対策として 硫黄酸化物については湿式石灰石‐石膏法による脱硫装置、窒素酸化物については燃焼方法の改善や排煙脱硝装置の稼動により排出基準を遵守している。また灰分を含んでいるため、燃焼後にその処分が必要である。他の燃料に比べて煤塵発生が多い。蒸気機関車が黒煙を吐いて走っているのが典型例。火力発電所などでは、排煙中の煤塵は集塵機により除去されている。石炭には微量のウランとトリウムが含まれる。1990年代におけるアメリカ地質調査所の推計によると、アメリカ人は平均して石炭由来の放射線を自然放射線量の0.1%程度、石炭火力発電所から1kmの場所に住んでいる場合は最大で5%を追加で被曝しているとされる。二酸化炭素排出量が他の燃料よりも多い。石炭は高品位になるほど炭素含有量が増えて水素・酸素が減ってゆき、無煙炭の炭素含有量は90 %以上に達する。他の燃料を燃焼すると二酸化炭素と水ができるが、高品位の石炭を燃やすと燃焼生成物の大部分が二酸化炭素となる。二酸化炭素は地球温暖化に強い影響を与える物質である。硫黄酸化物除去は実用化されており、二酸化炭素は地中処分が検討されているが、日本では貯留層に70年分の容量しかないといい、既存石炭火力発電所を寿命まで使い切って次世代発電所にバトンタッチする繋ぎ技術と目されている。石炭の欠点の主な参考文献 ‐ 『石炭技術総覧』第3章石炭を使う ==石炭の利用== 石炭は蒸気ボイラー用燃料として発電・製鉄所・各種工場燃料に使われるほか、途上国では鉄道・船舶暖房や煮炊きに使われる場合もある。また日本のセメント工業の燃料としては石油よりも多く使われている。製鉄所では瀝青炭を乾留したコークスが大量に使用されている。乾留の際の副生成物であるコールタールは化学薬品などの原料として重要であり、同じ副生成物のコークス炉ガスは過去に都市ガスとして使用された。また固体燃料の取り扱いの不便さ改善のために石油と混合して液体燃料化したCOMや、水と混合した液体燃料CWMも実用化されている。 また 石炭を化学的に液化(石炭液化)して人造石油を合成する方法として水素添加法や、石炭をガス化した一酸化炭素と水素を元にフィッシャー・トロプシュ反応により炭化水素を合成する方法(南アフリカで実用化)などが工業化、第二次大戦ではドイツは人造石油で軍用燃料をまかなっている。以下に石炭利用の歴史を概説する。 石炭の利用この章の主な参考文献 ‐ 『石炭技術総覧』第3章石炭を使う ===石炭使用の黎明期=== 古代ギリシアのテオプラストスの記録(紀元前315年)に石炭が鍛冶屋の燃料として使われたと書かれている。ほぼ同年代の中国戦国時代でも石炭を使用した遺跡が見つかっている。宋代から大々的に燃料として用いられるようになり、その強い火力により中華料理の炒め物のメニューができた。日本での本格使用は江戸時代に筑豊炭田の石炭が瀬戸内海の製塩に用いられた記録がある。イギリスは国内に豊富な石炭資源を有し、一部は地表に露出していたため700年以上前から燃料として使われていた。18世紀にイギリスで産業革命が始まり、製鉄業をはじめとした工業が大規模化した。燃料消費量が増え 従来の薪や木炭を使用した工業システムでは森林資源の回復が追いつかなくなる問題が持ち上がり、工業用燃料として石炭が注目され始めた。 ===石炭の第一次黄金時代=== 18世紀になってジェームズ・ワットによって蒸気機関が実用化され、燃料として石炭が大量に使用されるようになった。また同じ頃に石炭を乾留したコークスによる製鉄法が確立され、良質な鉄が安価に大量に生産できるようになり、産業革命を大きく推進させた。19世紀末になるとコークスを製造する際の副産物として出てきたドロドロの液体コールタールを原料として石炭化学工業が始まり、染料のインディゴ、薬品のアスピリン、ナフタリンなどが作られるようになった。石炭と石灰岩を高温(2,000℃)で反応させてできた炭化カルシウムからアセチレンが作られ、有機化学工業の主原料となった(現在この地位は石油起源のナフサ/エチレンに替わっている)。燃料としての石炭は工場の動力のほか、鉄道や船の蒸気機関の燃料として使われた。 都市の照明や暖房・調理用に石炭由来の合成ガスが使われた。これは石炭の熱分解から得られたガスで、最初はコークスを作る際に発生するメタンや水素を主成分とするコークス炉ガスがロンドンのガス灯などに使われた。次にもっと大量に生産できる都市ガスが開発された。灼熱したコークスに水をかけて得られる一酸化炭素と水素からなるガスで、大都市で1970年代まで使用されたが、便利ではあるが毒性が強いものであったため現在では毒性の少ない天然ガスに切り替わりつつある。19世紀末から20世紀中旬にかけて、先進各国の都市では工場や家庭で使用する石炭から出る煤煙による公害問題が大きくなっていった。 石炭の黄金時代の主な参考文献 ‐ 『Ghezunteidt』第3章石炭を使う ===石炭から石油への移行=== 20世紀にはいると石油の採掘技術が発展し、アメリカ国内、中東、インドネシアで大規模な油田が開発されて、大量に安価に入手できるようになった。石油は液体なので貯蔵・移送が便利な上、発熱量が大きく、煤煙が少ないので石炭に代わる燃料として使われるようになった。1910年まで世界の海軍の主要艦艇の燃料は石炭であったが、イギリスでは1914年に竣工した軽巡洋艦アリシューザ級と1915年竣工の戦艦クイーン・エリザベス級以後の艦は、燃料を重油に切り替えた。日本などの国々でも1920年代以後に建造された艦の燃料はほとんど全て石油に切り替わった。他の分野では石油への切り替えは少し遅れた。鉄道分野では当初動力車として蒸気機関車のみしかなかったが、1940年代にはアメリカで高出力ディーゼル機関車の本格運用が始まった。ドイツは第二次世界大戦中に、輸入が途絶した石油の代替として石炭液化技術を実用化した。これは高温(500℃以上)高圧(数十気圧以上)の条件下で石炭と水素を反応させて炭化水素を合成する方法であった。 第二次世界大戦で敗戦した日本は疲弊した国内産業の建て直しのために国策として石炭の増産を実施し(傾斜生産方式)、戦後の復興を遂げた。当時火力発電はほとんど石炭を燃料としていた。しかし1960年から発電用燃料として石油の使用量が増大し、1970年代には石炭のみを使う火力発電所は新設されなくなった時期があった。また既設の石炭火力発電所も石油使用に改造された。しかし2度のオイルショックを経て石油の価格競争力が石炭や天然ガスに劣るようになったため、1980年以降は原子力発電を主力とし、石炭火力発電と天然ガスコンバインドサイクルを組み合わせバランスよく使用するように方針転換されている(電源ベストミックス)。ただし化学工業の原料としては、現在圧倒的に石油が使われている。現在の化学工業の基本となっているのは、石油の低沸点部分ナフサを原料としたエチレンである。 燃料や工業原料としての石炭使用は石油や天然ガスに切り変わった部分も多いが、鉄鉱石を精錬して鉄に変える高炉では、瀝青炭から作られたコークスを大量に使用している。日本の石炭使用量の大きな部分が製鉄業であることは変わっていない。 ===石油危機と石炭回帰・天然ガスとの競争=== 二度の石油危機以降、原油価格がバーレル2ドルから12ドルへ上昇し、発電・工業用ボイラ燃料・セメント焼成燃料は1980年代に再び石炭に戻った。一方で石油代替燃料のライバルとして天然ガスが登場した。しかしながら価格が最も安価なため、1980年代以降米国や中国では石炭火力発電が発電の最大の柱となっている。日本では、東京電力・中部電力・関西電力のような大都市圏の電力会社では比較的天然ガスの比率が高いものの、地方の電力会社では、沖縄電力が2010年の統計で発送電電力量構成比で石炭火力発電が77%をしめるのを筆頭に、中国電力でも58%、北陸電力でも44%をしめるなど石炭火力発電が発電の柱となっている会社も多い。2005年以降で中国での自動車普及による需要急拡大などを背景として原油価格がバーレル50‐100ドルに暴騰し、メタノールやCNGなどの石油代替自動車燃料が広がりつつあるが、メタノールの合成原料は石炭と天然ガスである(アルコール燃料参照)。 ==石炭の種類== 石炭はその産地(炭層)によって性質が大きく異なる。一般には石炭化度の指標である燃料比(固定炭素/揮発分)によって分類されている。石炭化度の進んだ無煙炭と瀝青炭は高品位炭、石炭化の進んでいない亜瀝青炭・褐炭・泥炭は低品位炭とも呼ばれるが、半無煙炭などのように石炭化度が高いのに評価の低い石炭もあり、最高値の瀝青炭も粘結性には鉱山ごとに大きな差があるので石炭化度が高い石炭ほど値段が高いわけではない。鉄鋼生産の原料になるものを原料炭、発電ボイラー燃料やセメント回転炉燃料などに使われる亜瀝青炭以上の石炭化度の石炭を一般炭という。 日本では、石炭化度による石炭の分類のパラメーターとして、発熱量と燃料比(固定炭素÷揮発分、通常では無煙炭:4以上、瀝青炭:1〜4、褐炭:1以下)を用いているが、国際的には一般に揮発分が用いられている。 (石炭化度の高い順に) ===無煙炭 (anthracite)=== 炭素含有量90%以上。石炭化度が高く、燃やしても煙の少ない石炭。家庭用の練炭原料やカーバイドの原料、粉鉄鉱石を塊状に焼結する焼結炉に使われる。煙が少なく発見されにくく発熱量が高いため、かつては軍艦用燃料に重んじられた。ただし揮発分が低く、着火性に劣る。焼結に使用可能な低燐のものは原料炭の一種として高価格で取引される。 ===半無煙炭 (semianthracite)=== 炭素含有量80%以上。無煙炭に次いで石炭化度が高いが、粉鉄鉱焼結にも適さない一方、電力等微粉炭ボイラー用としては揮発分が少なすぎて適さず、比較的安値で取引される一般炭。セメント産業の燃料や流動床ボイラに使われる。着火性に劣るが比較的発熱量が高く、内陸工場への輸送コストが安く済む。 ===瀝青炭 (bituminous coal)=== 炭素含有量83〜90%。粘結性が高いものは、コークス原料に使われ、最も高値で取引される。 ===亜瀝青炭 (subbituminous coal)=== 炭素含有量78〜83%。瀝青炭に似た性質を持つが、水分を15〜45%含む。粘結性がほとんどないものが多い。コークス原料には使えないが、揮発分が多くて火付きが良く、熱量も無煙炭・半無煙炭・瀝青炭に次いで高く、電力用/産業用微粉炭ボイラーに大量の需要があり、一般炭の中では比較的高値で取引されている。豊富な埋蔵量が広く分布している。日本で生産されていた石炭の多くも亜瀝青炭であった。 ===褐炭 (brown coal)=== 炭素含有量70〜78%。石炭化度は低く、水分・酸素の多い低品位な石炭。練炭・豆炭などの一般用の燃料として使用される。色はその名の示す通りの褐色。水分が高すぎて微粉炭ボイラの燃料としては粉砕/乾燥機の能力を超えてしまう場合が多く、重量当たり発熱量が低いので輸送コストがかさみ、脱水すれば自然発火しやすくなるという扱いにくい石炭なので価格は最安価で、輸送コストの関係で鉱山周辺で発電などに使われる場合が多い。最近褐炭を脱水する様々な技術の開発が行われている。 ===亜炭 (lignite)=== 褐炭の質の悪いものに付けられた俗名。炭素含有量70%以下。褐炭も含めて亜炭と呼ぶ場合もあり、その基準は極めて曖昧である。学名は褐色褐炭。埋れ木も亜炭の一種である。日本では太平洋戦争(大東亜戦争)中に燃料不足のため多く利用された。現在は土壌改良材などとして輸入された亜炭がごく少量利用されている。 ===泥炭 (peat)=== 泥状の炭。石炭の成長過程にあるもので、品質が悪いため工業用燃料としての需要は少ない。また、ウイスキーに使用するピートは、大麦麦芽を乾燥させる燃料として香り付けを兼ねる。このほか、繊維質を保ち、保水性や通気性に富むことから、園芸用土として使用される。 ===石炭の分類 (JIS M 1002)=== ==石炭の採掘== 石炭は太古の植物の遺体が堆積したものであるため、地中には地層の形で存在する。石炭の鉱山を特に炭鉱と呼び、炭鉱が集中している地域を炭田と呼ぶ。 石炭の層(炭層という)が地表または地表に近いところに存在する場合、地面から直接ドラッグラインという巨大なパワーショベル等で掘り進む露天掘りが行われる。アメリカやオーストラリアの大規模な炭鉱で多く見られる。中国の撫順炭鉱は、700年ほど前から露天掘りがなされたと言われており、当時は陶器製造のための燃料として用いられたとされる。その後、清朝は「風水に害あり」との理由から採掘禁止としていたが、1901年、政府許可のもとで民族資本により採掘が始まり、その後ロシア資本が進出、さらに日露戦争後は東清鉄道及びその付属地は日本の手に渡ることとなり、1907年には南満州鉄道の管理下に移って、鞍山の鉄鋼業の発展に寄与した。 一方で地下深いところに石炭がある場合、日本の在来採炭法では炭層まで縦坑を掘り、その後炭層に沿って水平または斜め(斜坑)に掘り進む。石炭は層状に存在するので採掘は広い面積で行われるため、放置すれば採掘現場の天井が崩れ落ちる危険性が非常に高い。石炭を採掘する際には、天井が崩れないように支柱を組むなど様々な対処を行いながら掘り進む。従来採炭法では手持ち削岩機とダイナマイトの併用が多かったが、採掘も手間がかかり、崩した石炭をトロッコに積むのも手作業で、掘ったあとに支柱を組むので能率が悪かった。 オーストラリアやアメリカ合衆国などでは日本に比べ坑内掘りでも炭層が水平で厚く、厚さ数メートルにも及ぶ場合があり、ロングウォールという一種のシールドマシンによって機械採炭を行っている。これはコの字断面のシールドを横に長く並べ、コの字の内側を機織機のシャトルのようにドリルが往復して炭層を削り取ってゆくもので、ベルトコンベアで石炭は機械的にトロッコに積まれてゆく。省人員で生産能率が露天掘りに次いで高く、低コストである。ロングウォール炭鉱の場合、上層から採炭して採炭後の空間は支柱を立てずに崩す場合もある。(ただし、上層が高硫黄炭で下層が低硫黄炭で、保証スペックにあわせるため上層炭と下層炭ブレンドしたい場合なども多く、必ず支柱を省けるわけでもない) 最近は中国などでもロングウォールを取り入れている炭鉱もあるが、人件費が安いので依然従来採炭法の鉱山も多い。旧ソ連などでは石炭を地層内で不完全燃焼させガス化して取り出して採炭を簡略化するという、かなり乱暴な手法も研究されていたようである。 20世紀初頭、ウェールズには600以上もの炭鉱があり、約20万人が働いて経済を支えていた。 ===炭鉱事故=== 石炭が他の鉱石と著しく異なる点は「良く燃える」ことであり、それによる大規模な炭鉱災害が度々発生している。炭層内に含まれるメタンガスが突然噴出し引火して爆発したり、炭鉱内に飛散した石炭の粉塵に引火して炭塵爆発を起こしたりなどで多数の犠牲者が出た事故が過去何度も発生している。犠牲者が最も多かったのは日本統治下の満州の本渓湖炭鉱で1943年に発生した炭塵爆発事故で、死者の数は1,527名に達した。日本国内の事故では1914年に方城炭鉱でのガス爆発事故が死者687名を出している。1910年頃までヨーロッパでも死者300人を超える事故があったが、1913年のイギリスのセングヘニス炭鉱事故(死者439名)以後、欧米では犠牲者300名以上の爆発事故は発生していない。それに対して日本では1963年の三池炭鉱(盆踊りの炭坑節で有名)炭塵爆発事故で458名の死者を出している。アメリカにある炭鉱都市のセントラリアは、1962年に発生した坑内火災で町全体に退去命令が出てゴーストタウンと化した。現在も地下では火災が続いており、地上では煙が上がっている。 炭鉱災害の参考文献 ‐ 『太陽の化石:石炭』2.5炭鉱災害と保安の技術史について ===世界の埋蔵量=== 比較的埋蔵量の多い国はアメリカ合衆国・ロシア連邦・中華人民共和国。古期造山帯で多く産出される。炭層が厚く、広範囲に分布することから、露天掘りが多い。輸出向けの実績はオーストラリア、インドネシアが堅調に推移。インドネシアは良質な瀝青炭の埋蔵量が減少傾向にあり、今後は亜瀝青炭の生産量が増加していくものと見られる。中国は石炭需給が逼迫している中、2007年にはついに石炭輸出国から輸入国へ転じる見込みとなっており[1]、石炭生産の安全対策の確保が急がれる。日本は、オーストラリア、インドネシア、中国、ロシアなどから年間約1億8千万トンもの石炭を輸入している。 ( )内は2008年の埋蔵量(億トン、BP統計)。 アメリカ合衆国(2383)ロシア(1570)中国(1145)オーストラリア(762)インド(586)ウクライナ(339)カザフスタン(313)南アフリカ(304) ===主な産炭地=== ( )内は1980年からの産出量の割合(%)。年合計は38.34億トン。 中華人民共和国(31.2) 大同、平朔(朔州市)、神木(楡林市神木市)、撫順、阜新、唐山、萍郷大同、平朔(朔州市)、神木(楡林市神木市)、撫順、阜新、唐山、萍郷アメリカ合衆国(25.5) アパラチア(瀝青炭)、中央、ペンシルベニア(無煙炭)、ロッキー(褐炭)アパラチア(瀝青炭)、中央、ペンシルベニア(無煙炭)、ロッキー(褐炭)インド(8.7) ダモダルダモダルオーストラリア(7.1) ボウエン、ハンターボウエン、ハンター南アフリカ共和国(6.1) トランスヴァールトランスヴァールロシア(4.4) クズネツククズネツクポーランド(2.8) シロンスクシロンスクウクライナ(2.2) ドネツ炭田(ドンバス)ドネツ炭田(ドンバス)カザフスタン(1.9) カラガンダカラガンダイギリス ヨークシャー、ランカシャー、ウェールズ: かつては600以上の炭田があり20万人以上が従事していた。1911年、石炭は重量で輸出の9割を占めた。産業革命の原動力として申し分なかった。ヨークシャー、ランカシャー、ウェールズ: かつては600以上の炭田があり20万人以上が従事していた。1911年、石炭は重量で輸出の9割を占めた。産業革命の原動力として申し分なかった。ドイツ ルール、ザール、ザクセンルール、ザール、ザクセン参考資料:鉄鋼統計要覧など ===主な消費国=== 平成20年(2008年)の主要消費国上位5ヶ国は中国(70.2)、アメリカ合衆国(24.6)、インド(53.3)、日本(25.4)、南アフリカ(77.7)である。( )内は各国の1次エネルギー消費に占める石炭の割合(%)。 ===日本の炭鉱=== 2007年度、年間60万トン体制での採炭を続けている。この炭鉱のある釧路炭田は、推定埋蔵量20億トンと大規模であり、炭層が厚く水平に広がり、機械化(SD採炭)採掘が容易であることから、採炭技術の継承と海外技術者の研修受入先としても活用されている。 日本の炭鉱はアメリカやオーストラリアの大規模炭鉱と比べて地層構成が複雑なため、石炭は地下の深部にあることが多い。そのため何キロメートルにも及ぶ坑道を掘り採掘していたが、労働条件は悪く、上記のようにメタンガスや粉塵による爆発事故・落盤などが多発し、多くの殉職者を出してきた。 明治維新以後 石炭は燃料や工業原料(特に製鉄業)として使用量が増大した。北海道・福島県・山口県・福岡県・佐賀県・長崎県が主産地で、最盛期にはこれらの地域を中心に全国に800以上の炭鉱が開かれ、第二次世界大戦中に年間産出量は6000万トンに達した。終戦後急激に減少し、その後産業の回復につれて産出量は再度増加した。 1950年以降ほぼ5000万トンを超えるレベルに回復したが、石油の大量輸入(エネルギー革命)、コスト面で外国産のものに太刀打ちできないなどの問題で1961年をピークに徐々に衰退し、2002年以降国内で操業している坑内掘り炭鉱は、北海道の釧路炭鉱の1箇所のみとなった。 しかし石炭価格の高騰に伴い、国産石炭もコスト競争力をもつようになってきたため、露天掘り炭鉱が次々と開発される。また福島第一原発事故後、国内の原子力発電所が順次運転を停止する中、電力会社は電力の安定供給のため、既存の石炭火力発電所をフル稼働させるようになったため、採掘事業者に対して増産を求める動きもある。 2015年度の石炭生産は坑内掘りと露天掘りを合わせて120万トン弱で、内訳は坑内掘り(釧路コールマイン)が約47万トン、露天掘り(7社)が約73万トンとなっている。 ===主な日本の産炭地=== 釧路炭田:北海道釧路市(釧路コールマイン)埋蔵量25億t国内唯一の坑内掘り炭鉱として年50万t生産中。採炭とベトナム・中国等への石炭技術の継承も行う。おもに発電用。石狩炭田:北海道空知管内(夕張市・三笠市・美唄市・歌志内市・上砂川町・奈井江町・赤平市・芦別市)規模の小さな露天掘りによる炭鉱が数カ所存在する。 北菱美唄(北菱産業埠頭):美唄市 三美炭鉱(三美鉱業):美唄市 砂子炭鉱(砂子組):三笠市 空知新炭鉱(空知炭鉱):歌志内市 東芦別炭鉱(平野重機鉱業):芦別市 新旭(芦別鉱業):芦別市北菱美唄(北菱産業埠頭):美唄市三美炭鉱(三美鉱業):美唄市砂子炭鉱(砂子組):三笠市空知新炭鉱(空知炭鉱):歌志内市東芦別炭鉱(平野重機鉱業):芦別市新旭(芦別鉱業):芦別市留萌炭田(北海道空知管内・留萌管内):羽幌町・沼田町など 吉住炭鉱(吉住炭鉱):小平町吉住炭鉱(吉住炭鉱):小平町出典:“3.坑内掘炭鉱について (PDF)”. 北海道庁 (2017年3月9日). 2017年11月26日閲覧。“4.露天掘炭鉱について (PDF)”. 北海道庁 (2017年3月9日). 2017年11月26日閲覧。 天北炭田(北海道宗谷管内):猿払村・浜頓別町など常磐炭田(福島県東部〜茨城県北東部):いわき市・北茨城市・高萩市など宇部炭田(山口県西部):宇部市・山陽小野田市など大嶺炭田(山口県西部):美祢市日本には珍しい無煙炭の炭鉱。筑豊炭田(福岡県中央部、いわゆる筑豊地域):飯塚市・直方市・田川市など糟屋炭田(福岡県西部):糟屋郡主に海軍・国鉄向けの官有炭鉱。三池炭田(福岡県南西部・熊本県北西部):大牟田市・高田町(現・みやま市)・荒尾市唐津炭田(佐賀県北部):唐津市・多久市など北松炭田(長崎県北部):松浦市・佐世保市域北部・北松浦郡西彼杵炭田(長崎県中西部):長崎市域北西部・西海市・長崎市高島町など天草炭田(熊本県天草地方):本渡市(現・天草市)など西表炭鉱(沖縄県八重山列島):西表島(八重山郡竹富町)・内離島 宇多良炭鉱など =古池や蛙飛びこむ水の音= 「古池や蛙飛びこむ水の音」(ふるいけやかわずとびこむみずのおと)は、松尾芭蕉の発句。芭蕉が蕉風俳諧を確立した句とされており、芭蕉の作品中でもっとも知られているだけでなく、すでに江戸時代から俳句の代名詞として広く知られていた句である。 季語は蛙(春)。古い池に蛙が飛び込む音が聞こえてきた、という単純な景を詠んだ句であり、一見平凡な事物に情趣を見出すことによって、和歌や連歌、またそれまでの俳諧の型にはまった情趣から一線を画したものである。芭蕉が一時傾倒していた禅の影響もうかがえるが、あまりに広く知られた句であるため、後述するように深遠な解釈や伝説も生んだ。 ==成立== 初出は1686年(貞享3年)閏3月刊行の『蛙合』(かわずあわせ)であり、ついで同年8月に芭蕉七部集の一『春の日』に収録された。『蛙合』の編者は芭蕉の門人の仙化で、蛙を題材にした句合(くあわせ。左右に分かれて句の優劣を競うもの)二十四番に出された40の句に追加の一句を入れて編まれており、芭蕉の「古池や」はこの中で最高の位置(一番の左)を占めている。このときの句合は合議による衆議判制で行われ、仙化を中心に参加者の共同作業で判詞が行われたようである。一般に発表を期した俳句作品は成立後日をおかず俳諧撰集に収録されると考えられるため、成立年は貞享3年と見るのが定説である。なお同年正3月下旬に、井原西鶴門の西吟によって編まれた『庵桜』に「古池や蛙飛ンだる水の音」の形で芭蕉の句が出ており、これが初案の形であると思われる。「飛ンだる」は談林風の軽快な文体であり、談林派の理解を得られやすい形である。 『蛙合』巻末の仙花の言葉によれば、この句合は深川芭蕉庵で行われたものであり、「古池や」の句がそのときに作られたものなのか、それともこの句がきっかけとなって句合がおこなわれたのか不明な点もあるが、いずれにしろこの前後にまず仲間内の評判をとったと考えられる。「古池」はおそらくもとは門人の杉風が川魚を放して生簀としていた芭蕉庵の傍の池であろう。1700年(元禄13年)の『暁山集』(芳山編)のように「山吹や蛙飛び込む水の音」の形で伝えている書もあるが、「山吹や」と置いたのは門人の其角である。芭蕉ははじめ「蛙飛び込む水の音」を提示して上五を門人たちに考えさせておき、其角が「山吹や」と置いたのを受けて「古池や」と定めた。芭蕉は和歌的な伝統をもつ「山吹という五文字は、風流にしてはなやかなれど、古池といふ五文字は質素にして實(まこと)也。山吹のうれしき五文字を捨てて唯古池となし給へる心こそあさからぬ」とした。「蛙飛ンだる」のような俳意の強調を退け、自然の閑寂を見出したところにこの句が成立したのである。 なお、和歌や連歌の歴史においてはそれまで蛙を詠んだものは極めて少なく、詠まれる場合にもその鳴き声に着目するのが常であった。俳諧においては飛ぶことに着目した例はあるが、飛び込んだ蛙、ならびに飛び込む音に着目したのはそれ以前に例のない芭蕉の発明である。 ==受容== この句が有名になったのは、芭蕉自身が不易流行の句として自負していたということもあるが、芭蕉の業績を伝えるのにことあるごとにこの句を称揚した門人支考によるところが大きい。支考は1719年(享保4年)に著した『俳諧十論』のなかでこの句を「情は全くなきに似たれども、さびしき風情をその中に含める風雅の余情とは此(この)いひ也」として、句の中に余情としての「さびしさ」を見ており、この見方が一般的な見方として現代まで継承されていると思われる。ただし芭蕉の同時代には必ずしも他の俳人の理解が得られていたわけではなく、例えば前述の『暁山集』では「山吹や」を「古池や」に変えると発句にはならないとしている。また禅味のある句風から、『芭蕉翁古池真伝』(春湖著、慶応4年)に見られるように、芭蕉がその禅の師である仏頂を訪れて禅問答を行い、そこで句想を得た、というような伝説も流布した。 俳句の近代化を推進した正岡子規は、「古池の句の弁」(『ホトトギス』1898年10月号)においてこの種の神秘化をはっきりと否定し、「古池や」の句の再評価を行っている。この文章は「古池や」の句がなぜこうまで広く人々に知られるようになったのかと質問した客人に対して、主人がその説明をする、という態で書かれており、俳句の歴史をひもときながら、上述したように「蛙が水に飛び込む」というありふれた事象に妙味を見いだすことによって俳諧の歴史に一線を画したのだということを明確にしている。また子規はこの句の重要性はあくまで俳句の歴史を切りひらいたところにあり、この句が芭蕉第一の佳句というわけではないということも記している。 山本健吉は『芭蕉 ―その鑑賞と批評』(1957年)において、上五を「山吹や」とした場合には視覚的なイメージを並列する取り合わせの句となるのに対し、「古池や」は直感的把握、ないし聴覚的想像力を働かせたものであり、「蛙飛びこむ」以下とより意識の深層において結びつき意味を重層化させているのだとしている。そしてこの句が「笑いを本願とする俳諧師たちの心の盲点」を的確についたものであり、芭蕉にとってよりも人々にとって開眼の意味を持ったのだとし、またわれわれが誰しも幼いころから何らかの機会にこの句を聞かされている現在、「われわれの俳句についての理解は、すべて「古池」の句の理解にはじまると言ってよい」と評している。 大輪靖宏の『なぜ芭蕉は至高の俳人なのか』(2014年)によると、古池は古井戸の用法の如く、忘れ去られた池であり、死の世界であるはずである。「蛙飛び込む水の音」は生の営みであり、動きがある。蛙を出しておきながら、声を出していない。音は優雅の世界ではない。ここでは優雅でなく、わび、さびの世界である。古池という死の世界になりかねないものに、蛙を飛びこませることによって生命を吹き込んだのである。それでこそ、わび、さびが生じた、と述べている。 =鉱床学= 鉱床学(こうしょうがく、英: economic geology、独: Lagerst*10814*ttenkunde)は、鉱床がどのようにして形成されたかを解明し、人類にとって有用な資源を得る方法を検討する学問。 資源工学の一部でも鉱床学を扱っている。 ==概要== 有用な元素が人類が使用可能な化合物として濃集している岩石を鉱石といい、鉱石が経済的に採掘できる程度の十分な量の集合体を鉱床という。各元素の地殻中の存在量と、重要な鉱石を下表にまとめた。鉱床学ではこれらの鉱石の生成や集中の経緯について検討を行う。すなわち 有用元素がもともと存在していた場所はどこか、その場所からどのようにして運ばれてきたか、いかにして現在の場所(鉱床)に濃集・固定化したかを解明する。 各元素の鉱床の規模はその存在量に依存している場合が多く、存在量の多い鉄の主要鉱床である縞状鉄鉱床は長さ数百から数千キロのものがあり露天掘りで大量に採掘しているが、金の鉱山は幅数十cmから数m長さ数百m程度の鉱脈に沿って掘り進むような規模である。 有用元素が鉱物中に含まれていても工業的に分離・抽出できない場合は鉱石にならない。例えばアルミニウムは下表にあるように地殻中では非常に一般的な元素で、花崗岩中の長石や粘土鉱物カオリナイトにも大量に含まれているが、これらの鉱物からアルミニウムを工業的に単離する技術は確立していないため鉱石に相当せず、ボーキサイトのみが鉱石とされる。 ==金属資源利用の歴史== 人類が初めて金属を利用したのは、紀元前4000年頃のメソポタミア北部アナトリア高原で自然銅が道具に加工された。その後銅の鉱石からの精錬も行われるようになった。銅に続いて錫が銅との合金青銅を作るために使用された。青銅は銅より硬くて強いため武器や道具や容器に一般的に使用されるようになった(青銅器時代)。その後砂金から金製品が作られるようになり、古代エジプトでは多くの金製の装飾品が作られた。鉄の使用は紀元前1400年頃から始まったが、当時まだ鉄鉱石から鉄を精錬する技術はなく、組成分析から鉄を主成分とする隕石(隕鉄)を精錬したものと推定されている。鉄器は武器や工具として青銅よりも優秀であるため青銅に代わって金属の主流となり、精錬法も確立・改良された。中世以後の研究に伴い多くの金属元素が発見され19世紀末にはほとんどの金属元素が発見されたが、一部の金属を除き使用されることがなかった。実際に多様な元素が工業的に使用されるようになったのは20世紀からである。現在希少元素として重要視されている希土類などの元素の探求も鉱床学の分野である。 また古くから使用されてきた金属でも 資源の枯渇や精鉱・精錬技術の進歩により旧来とは異なったタイプの鉱床が開発されるようになった。例えば日本はかつて銅の大産出国であったが、その鉱床はいずれも熱水に由来する「鉱脈鉱床」(尾去沢鉱山や阿仁鉱山)・「スカルン鉱床」(釜石鉱山や長登銅山)・「塊状熱水鉱床、すなわち、黒鉱(小坂鉱山や花岡鉱山)やキースラーガー(別子銅山や日立鉱山)」等である。これらの鉱山は銅の含有率(銅品位)が高い鉱石が集中する鉱化部を有し(別子銅山で銅品位1.5%)、掘削はその鉱化部に沿って坑道を掘る形で行われた。これら日本の銅鉱山は現在資源が枯渇し、また外国からの安い買鉱に押されて、すべての鉱山は閉山された。現在諸外国で採掘されている主要な銅鉱石は斑岩銅鉱床で、銅品位は0.5%から1%と低品位であったため1900年代初期までは鉱床とみなされていなかった。しかし高品位鉱山の枯渇と精鉱技術の進歩により鉱床として価値が認められるようになった。これは直径1000‐2000m、厚さ400‐1000mという巨大な花崗斑岩全体がほぼ均一な銅鉱床を形成しており、大型機械で露天掘りして採掘している。 ==鉱床の種類== 鉱床とは有用元素が濃集して工業的に採掘・使用可能となったものであるため、有用元素の濃集過程を検討して分類している。鉱床の種類は大まかに3種類に分類される。 火成鉱床はマグマが地下でゆっくり冷却固化する際に各元素が分離・濃集してできた鉱床を指す。熱水鉱床は高温マグマから絞り出された高温の水 または高温のマグマの近傍に存在して熱せられた地下水が、マグマや近傍の岩石の成分を溶解して運搬し、特定個所で晶出させたことに由来する。最近話題になっている海嶺近くの海底での熱水活動(ブラックスモーク)による鉱床生成もこのタイプに含まれる。堆積鉱床は、地上の岩石が風化して風や水(河川)により運ばれ特定個所で堆積したもの。ボーキサイトの様にアルミニウム以外の成分が溶け出してアルミニウムだけが残った鉱物(残留鉱床)も含まれる。石炭や石油のような化石燃料鉱床も堆積作用の結果である。 ===火成鉱床=== 火成鉱床は地下深くで液体のマグマがゆっくり冷却固化する際に、凝固温度や比重の異なる各種鉱物がマグマ中で順次晶出・分離しマグマ中を沈降/浮上しながら各成分が濃集したもの。上記の理由により、火成鉱床は深成岩中に限られる。すなわち火山の噴出物などは急冷されるため有用成分の濃集は起こりえないことから、一般には鉱石にはならない。火成鉱床の元となる火成岩については、その成分や外見の違いによって分類がなされている。外見の違いは石英や長石のような鉄やマグネシウムを含まない無色鉱物と、これらの金属を多く含むかんらん石や輝石の存在比率に影響される。そのため火成岩は一般的に岩石中の有色鉱物の体積によって分類され、有色鉱物の占める堆積が全体の20%以下のものを花崗岩、20から40%に相当するものを閃緑岩、40から70%のものを斑れい岩、70%以上のものを橄欖岩と呼ぶ。鉱物学ではマグネシウムや鉄を多く含む有色鉱物をマフィック(mafic)鉱物、含まない無色鉱物をフェルシック(felsic)鉱物と呼び、花崗岩をフェルシック火成岩、斑れい岩をマフィック火成岩と称する 。これらの岩石種と、採取される有用元素の間には明確な相関関係がある。 マフィック火成岩(斑れい岩)ないし超マフィック火成岩(橄欖岩)に関連する鉱床 ニッケル、クロム、白金族、鉄ニッケル、クロム、白金族、鉄フェルシック火成岩(花崗岩)から中間火成岩(閃緑岩)に関連する鉱床 チタンチタンフェルシック火成岩(花崗岩)のうち、特にナトリウムやカリウム成分の富んだ岩石に関連する鉱床 希土類元素希土類元素これらの火成岩や鉱床の種類は、母体となったマグマの性質に大きく依存している。現在 花崗岩質のマグマは、日本を含む島弧などの沈み込み帯や大陸内部で生成されることが多いが、マフィックないし超マフィック火成岩はその成分がマントルの成分に比較的近く、中央海嶺やホットスポットなどの火山島に多く見られる。しかし先カンブリア紀においてはマフィックなマグマが大陸地殻へ貫入してできた鉱床が見られる。 火成鉱床の代表的な金属鉱床として下記3種類があげられる ニッケル・クロム鉱床ペグマタイト鉱床カーボナタイト鉱床 ===火成鉱床の例=== ニッケルやクロムの大きな鉱床は、マフィック性のマグマの塊が地下でゆっくり冷却されたものが多い。最も大規模なクロム鉱床である南アフリカの「ブッシュフェルト鉱山」は、約19億年前に当時の陸地の地殻の中に東西520km南北270km最大厚さ7600mという巨大なマフィックマグマが貫入した結果できたもの。巨大なマグマの塊がゆっくり冷えながら固化してゆく際に、融点が高く(即ち他より早く固化する)比重の重い鉄やクロムを含む成分が下に沈み、残った軽い成分が上部に分化して行った様子がわかる。岩相を下から順に説明する。 急冷層若干のクロム鉄鉱の層鉄やマグネシウムを多く含み融点が高く比重の重いかんらん岩類の厚い層(約1500m)クロム鉄鉱を主とする鉱床斑れい岩の厚い(約1000m)層磁鉄鉱の濃集部斑れい岩層鉄やマグネシウム類が少ない閃緑岩層(約1900m)また特殊な例として、カナダのサドベリー鉱山がある。この鉱山にはマフィック性マグマに起因するニッケルの大鉱床があるが、その成因として 直径約4kmの隕石が落下した衝撃が引き金となって地下深所からマグマが移動してきたと推定されている 。 ペグマタイトは深成岩のなかでも特に結晶のサイズが大きいもので、花崗岩ペグマタイトからは純度の高い石英(水晶)や長石などが採れ、光学レンズの材料に使用されている。またペグマタイトにはマグマの冷却固化の際に最後に残った水などの揮発成分を含む微量成分が濃集される事があり、「フッ素」「ベリリウム」「タングステン」「スズ」「モリブデン」「リチウム」「ニオブ」「タンタル」「希土類」などの鉱床として利用されている。 カーボナタイト鉱床は、方解石やドロマイトという炭酸塩類を主成分とする特殊なマグマに由来する鉱床で、希土類、ニオブ、銅などの鉱床となっている。カーボナタイトのマグマに由来する火山は現在非常に珍しく、活火山としては東アフリカのオルドイニョ・レンガイ山が唯一である。 ===熱水鉱床=== 熱水鉱床は、マグマ中から分離した水 またはマグマ近傍に存在してマグマに熱せられた地下水が、周囲の岩石の成分を溶かして移動し、特定個所で沈殿したもの。普通100℃以上の高温の地下水を指す。熱水の由来がマグマであるため広義の火成鉱床に含まれるとも考えられるが、通常は別のタイプの鉱床として取り扱われる。熱水鉱床にはその産出状況から、「鉱脈型鉱床」「塊状熱水鉱床」「スカルン鉱床」「斑岩銅鉱床」に分類される。 1960年代以後の高温高圧における実験で、マグマが高温高圧条件にあるときはマグマはかなりの量の水(10‐15%)を溶解させうることが判明した。実際のマグマ中の水はそれよりももっと少ないと見積もられているが、火山ガスの主成分が水であることからわかるように、マグマは実際にかなりの量の水分を含んでいる。マグマが地下15km以上の深所にあるとき水はマグマ中に溶解しているが、マグマが上昇するにつれて圧力と温度が下がって溶解度が減少し、水が分離される。また上昇してきたマグマは地下数kmほどの深さで地下水と接触してこれを加熱し、熱水を生成させる。これらの高温(100℃から550℃)の水は各種物質に対する溶解度が高く、多くの有用成分を溶解している。熱水が冷却されると溶解度が低下し有用成分を沈殿させて鉱床を形成する。鉱床形成に関与した熱水を鉱液と呼ぶ。鉱液の起源はマグマからの分離水やマグマに加熱された地下水など多様である。 ===鉱脈型鉱床=== 鉱脈型鉱床は、熱水(鉱液)が地下の割れ目や断層に沿って流れる過程で成分を沈殿させたもので、名前の通り鉱脈として産出する。その多くは深さ2000mから4000mほどで形成された。鉱脈型鉱床の例としては、かつてスズ・銅・亜鉛・タングステンを大量に産出した兵庫県の明延鉱山や、現在も金を産出している鹿児島県の菱刈鉱山などがある。産出する元素と鉱液の温度には下記の相関関係がある。 300‐550℃ スズ、タングステン、モリブデン鉱床200‐350℃ 銅、鉛、亜鉛鉱床100‐250℃ 金、銀鉱床鉱脈型鉱床の代表例であった明延鉱山では延長数百m以上の大きな鉱脈が50本存在したが、この鉱山では上記の温度勾配による鉱種の規則的変化が確認された。すなわちいずれの鉱脈においても鉱脈の下部から上部へ、または鉱液の供給元であった断層に近い所から遠い所に向けて、スズ‐タングステン‐銅‐亜鉛‐鉛‐金‐銀の順に主鉱種が変化していることが認められた。 ===塊状熱水鉱床=== 塊状熱水鉱床は、熱水が海中に噴出して急冷されてできたもので、秋田県北部の花岡鉱山などがある。秋田県北部には銅、鉛、亜鉛などの鉱石が濃集した品位の高い黒鉱が産出していたが、鉱床の生成原因は1960年代まで明らかではなかった。その後の研究で海底で堆積したことが判明し、ほぼ同じ頃に紅海の底で鉄や亜鉛を高濃度に含んだ泥が海底から採取され、海底成因説を決定づけた。現在では紅海と同様のプレート発散型境界の近くで、右写真の様なチムニーの映像が確認されており、塊状熱水鉱床の生成の場面を見せてくれる。黒鉱はチムニーが崩壊して堆積した後、早期に他の火山岩により埋められて固定化されたもので、黒鉱の産地では黄銅鉱が主体の黄鉱も産出した。日本の黒鉱の鉱山は2011年現在すべて閉山している。 塊状熱水鉱床が地下で変成作用を受けた鉱床をキースラーガーと呼ぶ。海洋プレートが海溝で島弧や大陸の下に沈み込む際に、鉱床がプレートと一緒に大陸下に引きずり込まれて高温高圧を受けた後、大陸に底付けされて大陸地殻に取り込まれ、その後地表まで移動したもの(付加体参照)。変成作用中に鉱石の再濃集が行われて、大規模な鉱床となる。愛媛県の別子銅山や茨城県の日立鉱山が代表例。 ===スカルン鉱床=== マグマから分離した鉱液は通常多量のケイ酸成分を含んでいるが、これが石灰岩と接触すると下記のように反応して珪灰石が生成する。 CaCO3 + SiO2 = CaSiO3 + CO2 母体となる岩石が大きく変化する中で、鉱液に含まれていた有用成分や石灰岩中の他の微量成分も反応し、濃集・固定化が生起して各種の金属鉱床が形成される。このようにマグマと石灰岩が接触した場所で形成される特徴的な熱水鉱床をスカルン鉱床と呼ぶ。鉱液が高温の時にはタングステン、モリブデン、スズ、鉄の鉱床が形成され、中低温の時には銅、亜鉛、鉛の鉱床が形成される。日本の代表例としては鉄と銅を産出して日本の近代化に貢献した岩手県の釜石鉱山や、奈良の東大寺の大仏作成にかかわったといわれる山口県の長登銅山がある。 ===斑岩銅鉱床=== 花崗岩ないし石英閃緑岩というフェルシックな深成岩に由来し、その上部(すなわち元の岩石より浅いところ)に形成された鉱床。地下深所の直径10km以上の巨大な深成岩バソリスの上部にあたかも本体から絞り出されたような形で形成された直径数百から数千mの花崗斑岩や石英斑岩の岩体全部が鉱床となっている。岩体中の鉱石は鉱脈を形成せず、比較的均一に存在するため露天掘りによる機械的な採掘が容易で、銅品位は低いが(0.5から1%)現在の銅鉱山の主流となっている。このタイプの鉱床はアンデス山脈、ロッキー山脈、フィリピン、ボルネオ島などの環太平洋に偏在し、形成された年代は五億年前以後と比較的新しい事が特徴。バソリスがゆっくり冷却する際に分離した熱水がバソリス上部に濃集し、バソリスの一部が凸型に盛り上がって比較的短時間に冷却し鉱石化したと考えられている。同様な起源によって形成されたモリブデン鉱山も存在する。 ===堆積鉱床=== 地上の岩石は空気(酸素)と反応したり、成分の一部が雨水に溶出したり、あるいは昼夜や季節の温度差による熱膨張の違いによる鉱物粒子の分離などにより変化してゆく。これらは風化と呼ばれる現象だが、風化によって岩石の一部は粘土化し、大きな岩石は細分化される。風化された岩石は風や河川によって運ばれるが、その途中で比重や溶解性の違いにより各々の鉱石が特定の個所に集中して堆積し鉱床を形成する。最もわかりやすい例として砂金の鉱床がある。金を含んだ岩石が風化し、雨水に流され河川に運ばれて流れのゆるくなった特定個所に集中的に堆積したものである。現在採掘されているウラン鉱石も砂金と同様の過程で河川や湖沼に堆積したもので、原生代や中生代に形成された。 雨水による風化で他の成分が溶出して、あとに残った成分が有用である場合も堆積鉱床に分類される。アルミニウムの鉱石であるボーキサイトは、ケイ酸成分やカリウムなどを含んだ元の岩石(例えば長石の一般式は(Na,K,Ca,Ba)(Si,Al)4O8)から、他の成分が水に溶解した結果Al2O3が濃集した物で、産地は雨水による風化力の強い熱帯雨林地域に多い。 水に溶解した成分が海底に堆積した鉱床の代表として、19億年前以前の大陸棚に形成された縞状鉄鉱床と、マンガンの鉱床がある。マンガンについては現在も深海で形成されつつあるマンガン団塊が将来の資源として注目されている。 縞状鉄鉱床の詳細な解説はその項目に譲るが、25億年前まで無酸素状態であった地球で海水に大量に溶解していた鉄成分が、ストロマトライトが光合成で作り出した酸素によって酸化されて不溶化し海底に沈殿・堆積したもの。鉱床の延長が数100キロを超えるものが多く、現在採掘されている大規模鉱山はほとんどこのタイプである。大気中に酸素が充満した19億年前以後は、鉄成分が大量に海中に溶解できなくなったため、スノーボールアースという例外を除けば縞状鉄鉱床は形成されていない。 ウクライナの「ニコポル鉱山」や南アフリカの「カラハリ・マンガン鉱床」などのマンガンの大規模な鉱床は大陸周辺の浅い海に堆積したものが多く、陸地の岩石が浸食されてマンガンが流出し海に供給されて堆積したと考えられている。過去日本で採掘されていた比較的小規模なマンガン鉱山は、海底熱水活動に由来するマンガンが海水中を移動し少し離れた海底に堆積した鉱床が主体で、チャートなどの堆積岩を伴って産出した。なお海底へのマンガンの堆積には酸素の存在が不可欠であり、酸素が少なかった22億年前以前の地層からは堆積性のマンガン鉱床は見つかっていない。このように金属の堆積鉱床の生成においては、生物の影響が考えられる場合がある。 マンガン団塊は世界の海洋底のところどころに見られる直径1cmから20cmの黒色団塊状の鉱石で、地域的には太平洋および北極圏に多く存在している。団塊の成長速度は百万年で平均10mm程度と分析されている。主成分のマンガンと鉄のほかに、ニッケル・鉛・コバルト・モリブデン等の重金属を含んでいるが、成分比率は場所によって異なる。マンガンは地上に大きな鉱山があるが、地上の鉱山資源が極めて限られ地域的にも偏在しているニッケルやコバルトの鉱床として将来性が注目されている。マンガン団塊の成因として海底熱水活動により海水中に供給されたマンガンに起因しているとされているが詳細は十分解明されていない。 生物起源の堆積鉱床として燐鉱石の鉱床があげられる。生物の遺体が堆積してできた燐鉱石が主体であるが、グアノと呼ぶ海鳥の糞や死体が堆積した鉱床も存在した。グアノは現在ほとんど枯渇している。 ===化石燃料鉱床=== 石炭・石油の起源については各々の項目に詳しく記載されているので、ここでは鉱床の形成条件について記述する(石炭や石油は鉱石ではないが非常に重要な地下資源なので、鉱床学の一分野として取り扱われる。)。石炭の鉱床を炭田 石炭の鉱山を炭鉱と呼び、石油の鉱床を油田 石油をくみ上げる施設を油井と称する。 石炭は植物の遺体が分解せずに地中に埋まって長い年月の間に熱や圧力を受けて変質したものである。このため鉱床(炭田)を形成する条件として下記のものがあげられる。 大量の植物が繁茂すること。石炭は植物が進化し地上に大規模な森林が形成されるようになった石炭紀(3億6700万年前から2億8900万年前)以後の地層に存在する。植物の遺体が完全に腐敗する前に地中に埋まること。現在の湿地帯の様な地表の酸素の乏しい条件が求められる。大規模な炭田が出来るためには長期間安定して植物が繁茂し続けること。すなわち地殻変動の少ない場所が望ましく、日本のような地殻変動の激しい地域では大規模な鉱床はできにくい。石炭資源の特徴として他の資源に比べて地域的な偏りが少ない点があげられる。オーストラリアや南アフリカなどの人口の少ない国の大規模炭鉱以外に 人口が多く産業活動の活発なアメリカ、中国、旧ソ連、インド、ドイツ、イギリスなどにも大きな炭田が存在する。昭和30年代まで日本にはたくさんの炭鉱が稼働していたが、複雑な地層に起因する困難な作業条件による高コストが、露天掘りで大量に採掘される安価な輸入炭に対抗できず、釧路コールマイン1か所を残して他はすべて商業的な採掘を終えた。 石油はその起源について諸説あるが、今のところケロジェン(kerogen)を中間体とする「生物由来説」が主流となっている。石油が他の鉱物と際立って異なる点は液体であること。このため地下でも隙間のある地層中では容易に移動できる。石油は周囲の岩石より比重が軽いので移動は主に上方に向かうが上部に液体を通さない緻密な層(帽岩)がある場合はその場所に滞留する。典型的な油田の構造は緻密な地層と隙間の多い地層がゆるやかに上下に波打って互層している場所で、隙間の多い地層(貯留岩)の最上部の凸部分に石油がたまっている構造である。地形としては平野、海岸、大陸棚に多く存在している。油田が海底にある場合右写真のような海上の掘削櫓が使用される。石油の素となった生物は石炭のように地上の植物に限定されないため、陸上植物発生前のオルドビス紀(5億0900万年前から4億4600万年前)の地層からも産出する。しかし主な油田は新生代第三紀(世界の油田の50から60%)と中生代(同30から40%)の地層中に存在する。石油資源は地域的な偏在が激しく、ペルシア湾周辺、旧ソ連およびメキシコ湾周辺に巨大な油田が存在し、この3か所だけで世界の可採埋蔵量の半分以上を占める。石油資源がこの地域に集中して形成された原因は現在明らかではない。 ==関連項目== 鉱床、鉱石鉱物学岩石学地質学熱水鉱床スカルン縞状鉄鉱床付加体石炭石油 =ファットマン= ファットマン(英語: Fat Man、「太った男」の意味)は、第二次世界大戦末期にアメリカ合衆国で開発された原子爆弾である。 Mark 2(ThinMan) というガンバレル型プルトニウム型爆弾が開発中止され、インプロージョン型原爆であるファットマンへと移行した。 その名はイギリス保守党の政治家であるチャーチル首相にちなんだものとする説もあるが、実際にはマンハッタン計画に参加した物理学者ロバート・サーバー(Robert Serber)が、映画「マルタの鷹」のキャラクターである「カスパー・ガットマン」から名づけたものと考えられている。アメリカ軍の分類番号はMk.3であり、大戦後も製造が継続された。最初の一発は1945年8月9日に長崎市に投下され、実戦使用された核兵器であり、この長崎に投下された原子爆弾、「インプロージョン方式プルトニウム活性実弾 F31」だけを指すこともある。 ==概要== ファットマンはマンハッタン計画の一部としてロスアラモス国立研究所で作られた核兵器である。リトルボーイ(Mark 1)が高濃縮ウランを用いたガンバレル型の原子爆弾であるのに対して、ファットマンはプルトニウムを用いたインプロージョン方式の原子爆弾である。 1945年8月9日に実戦使用されており、長崎県長崎市の北部(現在の松山町)の上空550mで炸裂した。長崎市への原子爆弾投下を行なったのは、B‐29爆撃機ボックスカー(機長: チャールズ・スウィーニー少佐)である。爆弾の威力は、8月6日に広島県広島市に投下されたリトルボーイより若干強いが、長崎市は起伏に富んだ地形で、平坦な広島市に比べて威力が減殺され、破壊の度合いは広島市に比べると小さいものの死者約73,900人、負傷者約74,900人、被害面積6,702,300m、全焼全壊計約12,900棟という甚大な被害をもたらした。 第二次世界大戦終結後も製造が続けられ、1940年代のアメリカ軍の核戦力を担った。 ==経緯== アメリカ合衆国では1941年よりマンハッタン計画として核兵器の開発を行なっていた。ウランを用いた核兵器の開発(Mark 1=リトルボーイ)は進んでいたものの、プルトニウムを用いた核兵器の開発には障害があり、1943年にガンバレル型(Mark 2=シンマン )とインプロージョン方式(implosion、爆縮)(Mark 3=ファットマン)の両方の開発が進められることとなった。1944年にガンバレル型(Mark 2)は放棄され、インプロージョン方式で開発が継続されることとなった。 核物質にはプルトニウム239を用いている。核出力はTNT換算22キロトンを記録した。インプロージョン方式で用いられている爆縮レンズはジョン・フォン・ノイマンらによって完成した技術である。 使用されたプルトニウムはワシントン州ハンフォードにあるハンフォード・サイトのB原子炉で製造された。 プルトニウム型原爆(インプロージョン方式)の実証のため、1945年7月16日にアメリカ合衆国は、ニューメキシコ州アラモゴード砂漠にあるホワイトサンズ射爆場でファットマンのプロトタイプであるガジェットを用いて人類史上初の核実験であるトリニティ実験を実行した。 ファットマンの特異な形状の空中挙動を確かめるため、通常爆薬を装填した同形・同重量の模擬弾「パンプキン」が作られ、投下訓練の一環として日本に対して実戦投入された。 ファットマン型の原爆はまず3発が製造され、1発が長崎へ投下されたほか核実験のクロスロード作戦(1946年)で使用された。 1945年7月にヘンリー・スティムソン陸軍長官にファットマン型原爆は毎月1個の生産が可能だと報告されたが、1945年8月15日に戦争が終結し、原爆製造の優先順位が引き下げられたため、生産量は縮小された。ハンフォードのプルトニウム生産炉も中性子照射による損傷で稼動に耐えなくなったため1946年に生産を停止した。 ファットマン自体は戦後も生産が継続され、1947年にはロスアラモス国立研究所にファットマン60発分の部品が備蓄され、アメリカ兵器廠には使用可能なファットマン型原爆13発が備蓄されていた。1948年までには50発が生産され、1949年までに120発が生産された。改良型のMark 4の生産は1949年からのことである。 ==命名== ガンバレル方式・インプロージョン方式のプルトニウム原子爆弾にはそれぞれ「シンマン」・「ファットマン」とのコードネームが与えられた。これらの命名を行なった人物は、ロバート・オッペンハイマーのかつての教え子で、自らもマンハッタン計画に参加したロバート・サーバー(英語版)だった。サーバーはそれぞれの爆弾の外観に基づいて名前を選んだ。Mark 2は細長い形状であったため、ダシール・ハメットの探偵小説『影なき男』 (原題:The Thin Man)と、その映画化作品から着想を得て、「シンマン(痩せ男)」と命名された。Mark 3は丸く、ずんぐりした形状であったため、『マルタの鷹』(ハメットの同名探偵小説の映画化作品)にて、シドニー・グリーンストリート(英語版)が演じたキャラクター「カスパー・ガットマン」から着想を得て、「ファットマン(太った男)」と命名された。 ==構造== AN 219 接地式起爆装置対地測距用アンテナ電源起爆用コンデンサー爆弾の前後の楕円部分を固定しているヒンジプルトニウムと爆縮レンズ対地測距用レーダーと起爆用タイマーなどの制御装置起爆制御装置尾翼(20インチのアルミニウム製) ===プルトニウムと爆縮レンズ内部の構造=== 爆縮レンズには合計で2,500キログラムもの爆薬が使用されている。その内部にそれぞれ120キログラムのアルミニウム合金製プッシャーと天然ウラン球があり、中心には6.2キログラムのδ相プルトニウム合金が収められている。 ファットマンの重量の半分以上を爆縮レンズの爆薬が占め、直径は137.8センチメートルもあってファットマン(ふとっちょ)という名前の由来にもなっていた。これは当時の技術水準では必要な圧力を得るためにこれだけの分量が必要だったためである。 コンポジションB/アルミニウム合金製プッシャー/天然ウラン中性子反射器/プルトニウム核 の順番に密度比が1.65/2.71/19.05/19.8となっている。 後年では爆薬部分の密度を上げたり副臨界系を小さくすることで急速に小型化が行われ、最終的には100キロトンクラスの核兵器でも直径30センチメートル程度にまで小型化された。 起爆電橋線型雷管 32個コンポジションB(早い爆薬) 32個バラトール(遅い爆薬) 32個取り外し可能なアルミニウム合金の蓋アルミニウム合金製プッシャー天然ウラン(U‐238)で出来た中性子反射体 兼 タンパー(Tamper)プルトニウムの塊コルク製の外殻7個の部品から構成されるアルミニウム製の外殻アルミニウム合金製プッシャーを固定するためのキャップ中性子点火器天然ウラン(U‐238)ホウ素合金のカバーフェルト樹脂 ==構成部品== ===起爆電橋線型雷管=== 衝撃波は1ミリ秒につき8メートルも進むため、32個の雷管が点火するタイミングの許容誤差は0.1マイクロ秒以下になる。このため原爆用に新しい原理の雷管が新規に開発された。詳細は起爆電橋線型雷管の項目を参照。 ===起爆装置=== 起爆電源のために、5キロボルト1000アンペアの大型の高圧オイルコンデンサが必要で、0.1マイクロ秒以下の誤差で作動させるために1マイクロファラッドの低キャパシタンスのスイッチ機構が必要である。これに電力を供給するための新型電池が開発された。コンデンサと電池だけで1トン近い重量があり爆縮レンズの爆薬に次いで重量を占めている部品である。 ===爆縮レンズ=== 爆薬だけで2.5トンもありファットマンの重量と体積の半分以上を占めている最大の部品である。詳細は爆縮レンズの項目を参照。 ===アルミニウム合金製プッシャー=== 爆薬と天然ウラン、プルトニウムの間の密度差があまりにも大きいため、爆縮による衝撃波の反射波が大きくなる。するとレイリー・テイラー不安定性などの流体力学的不安定性が大きくなって衝撃波の高い球対称性が崩れてしまうため、いったんアルミニウム合金製プッシャーで衝撃波を受け止めるようになっている。レイリー・テイラー不安定性が大きくなるとレイリー・テイラー波が発生して圧力が低下するのを防ぐ目的もある。 ===中性子反射体 兼 タンパー(Tamper)=== 核分裂物質から発生した中性子が外部に逃げてしまって連鎖反応が止まらないようにするために中性子反射体が必要である。ファットマンでは天然ウランを用いており、中性子反射体としては厚さ3センチメートルで十分であるが、1ナノ秒の間に80回の連鎖反応を繰り返すまでは核分裂物質を一箇所に留めておく必要がある。この押さえがタンパーである。核分裂物質を1ナノ秒間押さえ込むためにタンパーにはある程度の慣性質量が必要で、これを兼ねるために7センチメートルの厚さになった。後年の研究では熱量の20%は天然ウランによる副臨界系から発生したと言われている。 ===中性子点火器=== この装置はプルトニウムが核分裂反応を起こすために必要な最初の中性子線を出すための装置である。点火器という名称は燃焼(核分裂反応)を始めるために必要な火種となる中性子を出すための装置であることに由来している。構造は重量7グラムのベリリウム球の表面に楔形の溝15本を掘り込んで厚さ0.1ミリメートルの金メッキを施し、さらに11ミリグラムのポロニウム210をメッキしたものである。爆縮によって急速にベリリウムとポロニウムが混合されるとポロニウムが放射したアルファ粒子がベリリウム原子に衝突し、束縛から解き放たれた中性子を放射する。 ==起爆過程== 起爆電橋線型雷管が32個同時に起爆する。  衝撃波は起爆した地点から放射状に広がっていく。  早い爆薬:コンポジションB  遅い爆薬:バラトール(32個の遅い爆薬の中で衝撃波がレンズの中の光のように屈折する)  アルミニウム合金製プッシャー(低密度の爆薬から高密度のウランに衝撃波が投射されると、その密度差からレイリー・テイラー波と呼ばれる低圧の波が発生して十分な圧力をプルトニウムに加えることが出来なくなる。これを抑えるために、いったん爆薬より高密度な軽金属に衝撃波を投射してからプルトニウムへ伝達している。)  中性子点火器が爆縮の衝撃波を受けるとポロニウム殻と内部のベリリウム球が急激に混合され、ポロニウム210が放射したアルファ粒子がベリリウムに衝突して中性子を10ナノ秒に1個の割合で周期的に放出する。  低密度デルタ相の合金である核が爆縮による衝撃波で発生した数百万気圧の圧力によってアルファ相に転移すると、密度が増加して大きな反作用挿入を起こす。これに中性子点火器から放出された中性子が当たると急激に核分裂反応が進む。  天然ウランのタンパーが発生した中性子を反射して核分裂の効率を高める。  ホウ素合金の殻が発生した核分裂中性子を低速の熱中性子にし、散乱して天然ウランのタンパーに戻るのを防止することで核分裂の効率を高める。 ==ファットマンの組み立て== ファットマンは通常は最終段階の組み立てを行う前の状態で保管され使用する直前になって組立作業を行う。これには二つの理由がある。 安全上の理由完成状態では火災や搭載機の墜落などの事故により爆縮レンズが起爆すると核爆発が起こってしまうため。設計上の理由起爆装置には極めて大きな電源が必要であり、完成状態では電池が数日で劣化してしまうため。保管状態では「前部外殻」「後部外殻」「プルトニウムと爆縮レンズの塊」「電源装置」「中性子点火器」の5個のパーツに分解されている。中性子発生器を抜き取った空洞には小さな鉄球が詰め込まれている。 これは爆縮レンズが起爆してプルトニウムが爆縮されても中心に鉄の塊が入っていればそれが邪魔をして爆縮が進まず、核分裂が起きなくなるからである。 組立作業には48時間を要する。 組み立てたままの状態では電池が数日で劣化するため48時間以内に使用されなかった場合は再び分解して電池を交換する必要がある。 ==要目== ==参考資料== The Los Alamos Primer(ISBN 0520075765)Serber, Robert; Crease, Robert P. (1998). Peace & War: Reminiscences of a Life on the Frontiers of Science. New York: Columbia University Press. ISBN 9780231105460. OCLC 37631186. ==関連項目== 核兵器一覧リトルボーイ 表話編歴クリントン・エンジニア・ワークス(英語版)ハンフォード・サイトオークリッジ国立研究所ロスアラモス国立研究所ローレンス・バークレー国立研究所冶金研究所トリニティ実験エイムズ研究所(アイオワ)(英語版)デイトン計画(英語版)ヴァネヴァー・ブッシュアーサー・コンプトンジェイムス・コナントトーマス・ファーレルレズリー・グローヴスアーネスト・ローレンスケネス・ニコルスロバート・オッペンハイマーフランクリン・ルーズベルトヘンリー・スティムソンポール・ティベッツハリー・S・トルーマンハロルド・ユーリールイス・ウォルター・アルヴァレズハンス・ベーテニールス・ボーアジェームズ・チャドウィックエンリコ・フェルミリチャード・P・ファインマンクラウス・フックスマリア・ゲッパート=メイヤージョルジュ・コワリマーク・オリファントウィリアム・ペニー(英語版)ノーマン・ラムゼーブルーノ・ロッシグレン・シーボーグエミリオ・セグレルイス・スローティンレオ・シラードエドワード・テラースタニスワフ・ウラムロバート・ラスバン・ウィルソンレオナ・ウッズ(英語版)呉健雄日本への原子爆弾投下 (作戦命令35号:ヒロシマ/作戦命令39号:ナガサキ)クロスロード作戦第509混成部隊(シルバープレート:ボックスカー ‐ フルハウス ‐ ストレートフラッシュ ‐ グレート・アーティスト ‐ エノラ・ゲイ)ガジェットリトルボーイ (Mark 1)シンマン (Mark 2)ファットマン (Mark 3)パンプキン爆弾年表核兵器の歴史MAUD委員会核兵器とアメリカ合衆国(英語版)S‐1ウラン委員会シカゴ・パイル1号X‐10黒鉛炉(英語版)Y‐12国家安全保障複合施設(英語版)アルソス作戦(英語版)スミス報告(英語版)アインシュタイン=シラードの手紙冷戦 カテゴリ長崎原爆マンハッタン計画アメリカ合衆国の核爆弾プルトニウム参照方法出典を必要とする記事/2017年12月良質な記事ISBNマジックリンクを使用しているページ =原谷 (京都市)= 原谷(はらだに)は、 京都市北区大北山原谷乾町(おおきたやまはらだにいぬいちょう)を中心とする地域の名称である。 ==概要== 原谷地域は衣笠山の北側、鹿苑寺(金閣寺)の北西およそ1.2kmに位置し、四方を山に囲まれた大北山域の盆地にある。総面積は約0.55km*8337*(55町4反)。小道を経て、鷹峯や御室仁和寺にも通じる。ほぼ全域が北区に属するが、右京区にも一部またがっている。 ==地形== 原谷地域は平均標高220m前後の山間盆地で、原谷川の最上流域にあたる。西から東へ傾斜する緩やかな谷底面が発達するものの、宅地開発により原地形は不明瞭となった。西端は井手口川によって比高約20mもの谷が刻まれ、急崖をなしている。これは、西南側から侵食した井手口川に原谷川の最上流部が奪われて無能河川となり、幅広い段丘状の谷底面が残る河川争奪が生じたものとみられる。 この谷底面は、風化した厚さ20m以上の砂礫層から構成され、鷹峯台地の高位段丘面に続く。また、谷底面の西は井手口川の上流域から、高鼻川との分水界にまで延長している。 ==歴史== ===平家の落人伝説=== 古代より葬送の地として知られる蓮台野(れんだいの)、衣笠山、宇多野と呼ばれた山野の外側にある原谷地域は、京都の中心からほど近くに位置しながらも、歴史の表舞台に登場することはなかった。 当地で祀られる「原谷弁財天」の縁起には、 壇ノ浦の戦いに破れた平家一門が、都に近い当地に落ち延びた旨を記載し、その後400年の間に水田8反歩(約7,933m*8338*)、畑3町歩(約29,752m*8339*)を開墾したものの、後に住民が次々と離れ、過疎地帯になったとしている。 京野菜の辛味大根は、元来原谷大根と呼ばれており、元禄年間(1688年 ‐ 1704年)までに、当地で栽培されていたとされる。 当地は近世までは葛野郡大北山村の一部であったが、1889年(明治22年)に周辺各村が合併して衣笠村の一部となった。同年に発行された陸軍部測量局「明治京都中部実測図」では、衣笠山官有地の北方に、鷹峯、宇多野、そして金閣寺西側へ伸びる小道とともに字原谷の文字が記載されている。なお、この地図を含め、昭和初期までに発行された地図からは、当地内に集落の存在を確認することはできない。 先の縁起には、明治初期以降「恐慌と不便さのため、(中略)70年間、人の住まない山林と化した」と記されている。1918年(大正7年)に京都市上京区に編入されるも、民有地ながら手入れされない状況は変わらなかった。太平洋戦争の激化に従って山林の一部が乱伐されながら、昼なお暗い山林と化し、原野が広がるばかりの状態であったという。 昭和22年秋、(中略)京都府農地開拓課長(中略)により内命を受け、書いてもらった略図を頼りに下見聞にでた。 金閣の裏山にある蓮華谷火葬場の百米下から、まっ立に上る一本の溝の様な山道が、原谷に通ずる唯一つの道で、(中略)京都からたった2粁しかはなれていないが、文明社会から隔絶した一見平和の里がまん中に五町歩程度見える外は、周囲、松山と杉桧に雑木林で、昼なお暗いうっ蒼と茂った林一面で、ほそ道づたいに歩き廻ると、ところどころに山小屋程度の住宅にランプ生活の住み家が見えて、この土地の様子を聞くと、離ればなれに五戸程あるが、なにも交際していないので詳細は不明ですといった。 「原谷開拓二十周年を迎え、思い出の辞」(初代組合長 前原関三郎)より一部抜粋、原文ママ ===入植と開拓農協=== 1945年(昭和20年)に太平洋戦争が終結。在外日本人約600万人が帰国することとなり、彼らを国土へいかに収容するかについての計画が必要となった。国民の食糧確保が内政上の最緊急課題とされ、耕地の量的拡大による食糧増産および戦地からの引揚者の帰農を図るために、11月に緊急開拓事業実施要領が閣議決定された。この要領に従って、京都府が当地を開拓農地として選定し、国が不在地主の土地を買い上げることとなった。しかし、すべてが民有地であったため、買収は難航。当初計画の約80余町歩(約0.8km*8340*)は困難となり、入植時は約30余町歩(約0.3km*8341*)に留まった。その後、時間をかけて所有地主の理解と協力を得ながら、追加買収を進めることとなった。それでも、一世帯当たり農地1.5haや宅地180坪が割り当てられる計算で、食糧難の時代に行き場を探していた引揚者にとっては「御の字」ともいえる条件ではあった。 1948年(昭和23年)、洛北開拓農業協同組合(開拓農協)が設立され、満蒙開拓青少年義勇軍京都第三中隊長の前原関三郎を組合長として、開拓計画を策定。19世帯が入植した。 昭和23年10月12日10時に京都駅近くの京都府開拓自興会事務所に入植確定者12名のうち10名が参集、(中略)直ちに入植の準備に移った。(中略)自興会事務所のリヤカーを借受け、駅前から金閣寺を目指して市街地を縦断して行く、(中略)開こん資材に仮泊設備用の木材を満載してロープで肩を引く、軍の作業服に、戦斗帽姿の一行が汗にまみれて進んでいく姿は道行く街の人々の注視を浴びたのも無理からぬと思えるいで立ち、リヤカーの一行が金閣寺を通り越して、衣笠氷室町に入ると間もなく、(中略)精根つきて休もうという。(中略)体勢も構わず道ばたに座りこんでしまう。強行軍が余程疲れたのだろう、近くで見つめる数人の奥さんたちがこんなこともささやいていた。 「あの人たちが、原谷の開拓者らしいがあんなところで開こんを始めても、おそらく長続きはしないだろうに?」 聞えた者は顔を見合わせていたが「やり抜いて見せるぞ」の決意を固めている一行には、それ程気にならない。さあ、行こうの声で山道にかかったのが12時頃、 ―急な坂道では足が伴わない、そのうちに肩が切れそうな痛みを覚えてくる― 第1日から道なき土地の不便さ、苦しさを嫌というほど思いしらされ、やっと一行が現地(予定地)に着いたが休憩所があったわけではなかった。 水筒は空になっていたが、補給するお茶もない、一切は作らねばできない開拓とはいえ、先発の連中への不満も少しは出てくる。やっと落着いたのが午後3時頃、運搬に手間取ったことから予定の休息所兼仮泊設備は夕方までかかり、陽の落ちるまで明日からの作業予定を協議し、1日も早く現地に住み込む準備に努力をなそう。 「開拓地の建設はじまる(昭和23年)」より一部抜粋、原文ママ 地域内外を結ぶ幅員4mの幹線道路は全額国庫で敷設されたものの、入植者たちは木を伐採し、直径50cm近い切り株を一日に一、二株ずつ取り続けた。それが終わると家の建築、井戸掘り、畑の開墾を同時並行で進めた。家が建つまでは、どの入植者も自宅から通いながら作業を続けた。 1949年(昭和24年)に開拓農協事務所が落成し、換金かつ栄養確保のため、畜産動物の導入と、野菜栽培を軸とした営農計画を策定。しかし、苦心して畑を開墾するも、 酸性度の強い土壌のために、種すら取れない状況が続いた。また、仔豚を購入して豚舎を急造するも、その年の秋には豚肉相場の暴落で、価格は購入時の3分の1にも満たず、多くの組合員が失意のうちに養豚に見切りをつけたという。それでも土づくりのため、開墾と酪農を続けざるを得なかった。 1950年(昭和25年)5月より、その後の建設事業について、京都府の失業対策事業で行われることが決定。連日百名を超える作業員に支えられ、幅員2、3m前後の支線道路や山腹水路 、排水路が次々と設けられることとなった。同年12月には当地内に待望の電気が開通した。 ひるは建築の共同作業に朝夕は各自が受持つ開墾作業にと、全く休むいとまもない重労働の連続で、2ヶ年余り無灯に等しいカンテラ生活、播けど育だたず、植えれど伸びない開墾畑の作物、積って行くのは営農借入金で、酸性土に苦しみながらも、わずかのカユと屑芋で飢えをしのぎ、まさに砂を咬む思い ― あの恐ろしい自然の暴威、ジェーン台風で大半の住宅が屋根は飛ばされ、家は傾き倒されて、今年まで少しでもと期待をこめた農作物は全滅状態までに叩かれ、最悪の事態に直面したあの当時、台風一過後ただちに開かれた復旧対策を立てるための緊急総会に集まったみんなの顔 ― 応急対策に次ぐ復旧計画は直ちに総会で一決し、その翌日より全組合員が出動して、被災住宅の復旧に全力を傾むけ、3ヶ月余で被災前よりも立派な住宅を再建させた。 その年の12月には待望の電気の導入、2ヶ年余り続いたほの暗い夜の開拓地にあかあかと映える電灯の光を仰いだときのよろこびは、言葉ではつくし得ないほどであった。 「20年を顧みて」(組合長 平野辰男)より一部抜粋、原文ママ 京都市内にありながら、当初は電気も水道も通じておらず、まして開拓に必要となる初期投資さえも得ることができなかった中で、入植者は困難を極めつつ、荒地の開墾や居住地の譲受、そして農地開発のための基盤整備を進めていった。入植者の子供たちも、家畜の飼料をもらうため、毎日のように峠を越えて魚屋などを巡ったという。 1950年代の写真や映像記録などからは、養鶏、養豚、果樹園や、畑を歩く牛と酪農設備などの営農風景が映し出されている。この頃にようやく農地が完成し、酪農や養鶏も本格化。市内の農家の中でも高い収入を得られるようになったとされる。 1962年(昭和37年)に、就労延べ人員90万人超、事業費3億7887万円に達した失業対策事業は完了することとなり、地域内の道路、水路、広場などの施設は、開拓農協に有償で引き渡された。 ===開拓農協解散へ=== 居住環境に改善がみられることで、1965年(昭和40年)頃から、徐々に一般住宅の建設が増加し始めた。1971年(昭和46年)に市街化区域に指定され、2年後に都市計画上の原谷特別工業地区に指定されると、西陣織の職人やマイホームを求める人たちが次々と引っ越してきた。さらに、1976年(昭和51年)に上水道の給水と京都市営バスのマイクロバス(M1系統・原谷線)運行が開始され、地域内の既耕地が急速に居住地に変わるなど、地域内各所で宅地開発、住宅建設が顕著に見られるようになった。 さらに、1980年代のバブル景気が入植者の代替わりの時期とも重なった。酪農施設に対する臭いや鳴き声などの苦情が相次ぐ中、入植以来携わってきた農業を止め、相続税対策を兼ねた分譲やマンション建設、貸工場経営などへ転業する動きが進んだ。 平成に入り、1997年(平成9年)に市道衣笠緯40号線(氷室道)の拡幅改良工事、2001年(平成13年)に下水道の敷設工事がそれぞれ完了したことで人口増のピークを迎えた。 2008年(平成20年)、ほぼ完全に京都市中心部へのベッドタウンと化した今日、町づくりの役割を終えた開拓農協は解散総会を行い、初代組合長 前原関三郎の子である、開拓農協最後の組合長 前原英彦が府に解散申請を届け出て、60年に及ぶ開拓史に幕を下ろした。 ただし、開拓農協が所有していた財産(袋小路の道路11か所)の一部は「公共性が低い」とされ、京都市への移管を拒まれたままで、今日に至るまで処分が確定していない。現状は開拓農協解散と同時に設立された認可地縁団体に所有権を移転し、地域で補修などの維持管理を実施する体制が採られている。 ===行政区画の変遷=== 1889年(明治22年)4月1日 葛野郡大将軍村、北野村、大北山村(当地が所在)、小北山村、松原村、等持院村を合わせて衣笠村とする1917年(大正7年)4月1日 葛野郡衣笠村を廃し、その全部を京都市上京区に編入1917年(大正7年)8月5日 大字大北山字原谷巽、字原谷坤、字原谷乾、字原谷艮をそれぞれ大北山字原谷巽、大北山字原谷坤、大北山字原谷乾、大北山字原谷艮に改称(大字を廃止)1955年(昭和30年)9月1日 新設された北区の所管となる1962年(昭和37年)4月1日 北区大北山字原谷巽、大北山字原谷坤、大北山字原谷艮それぞれの全部を大北山字原谷乾と改称1965年(昭和40年)4月1日 北区大北山字原谷乾を大北山原谷乾町と改称(字を廃止、町とする)京都市北区の町名も参照のこと ==地域の現状と課題== ===人口構成と教育=== 2005年(平成17年)国勢調査によると、大北山原谷乾町(以下、原谷乾町)の世帯数は1,645世帯、人口は4,446人となっている。昭和後期の宅地開発による流入者が多いため、周辺地域と比較して核家族世帯が多く、また高齢者の割合が低いのが特徴的である。 金閣学区に属し、原谷乾町のみで学区人口の4割を占める。ちなみに、北区内においては鷹峯学区全域とほぼ同じ人口に達する。本来であれば町内に小学校が建設されても問題のない規模である。現状では用地取得が困難であることから、同町および隣接する大北山長谷町に住む子供たちは、毎日のように急峻な市道衣笠緯40号線(氷室道)を経て、2km近く離れた金閣小学校に通学している。 公園は2か所(原谷中央公園:中部、原谷公園:西部)、保育園は1園(0歳〜就学前、定員約90名)それぞれ存在するが、幼稚園、児童館ともに当地内になく、教育施設や育児施設の充実が求められる。 短期間に人口が増加したため、町域(原谷乾町)が分割されることなく今日に至る。地元組織は、原谷地区連絡協議会の下、南部、東部、西部、北部、中部、南西部と隣接する長谷町町内会の7つの自治会組織により、清掃活動や地蔵盆などが行われている。 ===地域の基盤整備=== 当地内のほぼ全域が一括して都市計画上の原谷特別工業地区に指定されており、一般住宅、事務所、小規模な工場、そして既耕地が混在している。計画的に整備されず宅地開発が行われたために、町並みにまとまりが見られない。 また、当地はもともと農業用地として整備されたため、道路幅員が総じて狭く(幹線幅員4m、支線幅員2〜3m)、信号設備に乏しい(地域内1か所のみ)ほか、ほとんど歩道が確保されていない。そのため、一般車両の離合を始め、緊急車両の通行や路線バスの運行ルート設定、さらには児童を始めとする歩行者の通行に支障をきたしている。さらに、将来的な建て替えの際には、2項道路によりセットバック(道路後退)を余儀なくされる恐れがある。 地域外につながる道路は、「衣笠緯40号線」(氷室道)、「千束御室線」の市道2路線である。「千束御室線」は幹線道路であるにもかかわらず、道路幅員が狭く、車両の離合が困難な箇所があるため、路線バスの運行する「衣笠緯40号線」が当地と市内中心部とを結ぶ唯一の大動脈の役割を果たしている。ただ、両路線とも歩道整備が不完全であるほか、高低差のある場所を結んでおり、冬季には道路凍結、積雪対策が必須となる。 ===地域の生活施設=== 交番、消防署、郵便局や銀行など金融機関の支店、公的集会所、病院、診療所は当地内に設置されていない。また、コンビニエンスストアは2か所、消防団詰め所、民営集会施設、ATM(コンビニATMを含めると3か所)、医院、歯科医院はそれぞれ1か所ずつ存在するのみである。 唯一のスーパーは2016年8月をもって閉店することに。 唯一の公共交通機関は、京都市営バス(M1系統・原谷線)で、北大路バスターミナル(2時間に1本程度)、立命館大学前(1時間に1〜3本)の北区内2拠点と結ばれている。運行経路、本数ともに十分とは言えず、現状ではマイカーに頼らず日常生活を送ることは困難な状況にある。 災害発生などの万が一の事態を考えた場合に、4千人を擁する地域の施設整備として、十分な状況にあるといえるかが問われている。 ==名所・旧跡== ===原谷弁財天(はらだにべんざいてん)=== 1186年(文治2年)に、落ち延びた平家一門が当地の坤方向(北西)に弁財天を祀り、「戦いの神」として信仰したとされる。明治以降に当地の深刻な過疎化で、一端は仁和寺へ遷座されたものの、1951年(昭和26年)に近隣の民家へ出迎えた。1978年(昭和53年)には流造の新社殿が落成し、大護摩供養、遷座祭を実施。再び当地の氏神として祀られることとなった。なお、本殿後方には「白龍大神」が祀られている。10月の第3日曜日に、当社例祭が行われる。境内でフリーマーケットが開催される中、前夜からの2日間にわたり、地元住民による花笠踊りや、太鼓、獅子舞による奉納が行われる。 ===妙法山常信寺(みょうほうざんじょうしんじ)=== 日蓮宗。水子供養、施餓鬼供養を受け付けている。かつて同地に八幡宮が祀られたが、明治初期にわら天神宮へ遷座されたという。 ===原谷苑(はらだにえん)=== 民有地内の約4千坪に及ぶ桜苑・紅葉苑。京都市内有数のシダレザクラの見どころとして知られ、春秋の開花シーズンに限り有料で一般公開される。 ===原谷中央公園(はらだにちゅうおうこうえん)=== 2010年(平成22年)開園。解散した開拓農協から京都市に寄付された土地1,876*8342*を造成した。遊戯施設、防災施設が備えられ、いざというときの避難場所としても利用できる。また、園内奥には開拓記念碑「開拓魂」が置かれている。農林大臣赤城宗徳の揮毫による同碑は、1963年(昭和38年)入植15周年式典の際に建立され、入植者の辛苦を今に伝えている。 ===やまびこくらぶ=== 室内トレーニングジム、バドミントンコート、クライミングウォール、ダンススタジオを備えた民間スポーツ施設であり、ピアノを始めとするレッスンルーム、研修や講演に用いられるイベントルームを備えた当地唯一の集会施設でもある。なお、当地には公的集会施設は存在しない。後述の「第四日曜原谷元気市」や市民検診の会場としても用いられる。あと、衣笠あたりに大北山公園という公園があるが、元火葬場の場所で不気味です ==地域活動== ===京都原谷和太鼓くらぶ どんつく=== 当地を中心に活動する小学生の和太鼓チーム。原谷弁財天の例祭を始め、近隣地域で開催される祭礼やイベントに出演する。 ===原谷地域まちづくり推進委員会=== 当地住民が関係行政機関との連携のもとに、開拓農協所有財産の移管や今後のまちづくり組織のかたちなど、原谷地域のまちづくりの下地づくりを検討している。 ===第四日曜原谷元気市=== 地域住民とのふれあいを大切にと、花や惣菜、手作り小物、地産の野菜などが販売される。当地の元気市実行委員会により毎月の第4日曜日に開催されている。 =はるひ野駅= はるひ野駅(はるひのえき)は、神奈川県川崎市麻生区はるひ野5丁目にある、小田急電鉄多摩線の駅である。駅番号はOT 04。 ==概要== ユニバーサルデザインに配慮した設計や、風力・太陽光ハイブリッド発電設備が開業時から導入されていたことが特筆される。2つのホームを繋ぐ跨線橋が1つの大きな屋根で覆われていることが外観上の特徴で、2005年の鉄道建築協会賞に入選している。 ==歴史== 多摩線建設時にはすでに当駅周辺の開発計画が存在し、小田急、京王が沿線開発の目的で用地の取得を行っていたが、地権者の合意が得られずに開発計画が難航、1977年(昭和52年)に両社とも開発計画を中止した。現在のはるひ野駅の位置は多摩線計画時にも駅の設置場所候補の一つだったとされる。1991年(平成3年)3月に当駅周辺の開発計画が認可され翌年着工、数次の計画変更を行いながら開発が進捗する中、2000年(平成12年)12月頃に小田急が駅の建設計画を表明、地元説明会などを経て、2003年(平成15年)2月に駅設置の認可が申請され、2003年11月に着工した。小田急設計コンサルタント、篠田義男建築研究所の設計により、小田急建設が施工、総工費約25億円を掛け、面積5,300平方メートルの駅がのちに「はるひ野」の住居表示が実施される黒川特定土地区画整理事業地内の中央部に建設され、2004年(平成16年)12月11日に小田急70番目の駅として開業した。都市再生機構、川崎市などの覚書では駅前広場を建設することになっていたが、開業時には都市計画が決定しておらず、都市計画決定を経て駅開業から4年弱たった2008年(平成20年)11月に南口に駅前広場が完成している。駅前広場設置構想時に周辺バス事業者にはるひ野駅への乗り入れ予定がなかったことから、駅前広場の設計には大型バス乗り入れが考慮されていないが、2011年(平成23年)3月31日 から稲城市循環バス(iバス)のマイクロバスが南口駅前広場に乗り入れるようになった。 ===年表=== 1974年(昭和49年)6月1日 ‐ 小田急多摩線開通2000年(平成12年)12月頃 ‐ 小田急が新駅を計画2002年(平成14年)9月 ‐ 新駅設置の説明会2003年(平成15年) 2月14日 ‐ 小田急が国土交通省に新駅認可を申請 11月 ‐ 着工2月14日 ‐ 小田急が国土交通省に新駅認可を申請11月 ‐ 着工2004年(平成16年) 12月7日 ‐ 開設 12月11日 ‐ 開業12月7日 ‐ 開設12月11日 ‐ 開業2008年(平成20年)11月 ‐ 南口駅前広場完成2011年(平成23年)3月31日 ‐ 稲城市循環バス(iバス)が南口に乗り入れ開始2014年(平成26年)3月15日 ‐ ダイヤ改正により準急停車駅となる ==駅構造== 10両編成対応の相対式ホーム2面2線を有する、当駅が建設された2004年の日本国内の新設駅としては珍しい地上駅で、両ホームを結ぶ跨線橋が通風、採光に配慮し、街のシンボルとなることを意図した1つの大屋根で覆われていることが外観上の特徴である。改札口は北口と南口の2か所、北口は新百合ヶ丘方面ホーム(以下、上りホーム)から数段階段を降りた所に、南口は唐木田方面ホーム(以下、下りホーム)と同一面に設けられている。駅務室は南口に設けられており、駅員は南口にのみ配置される。駅員が配置される時間帯は7:30 ‐ 11:00と13:00 ‐ 終電のみで、それ以外の時間帯は無人となる。定格出力400kWの風力発電機10基とこれを補完する定格出力136kWの太陽電池8基とで構成されるハイブリッド型発電システムを日本で初めて導入し、駅設備の電力の一部をまかなっているほか、上りホーム上屋の一部が緑化されている。両ホームと跨線橋を結ぶエスカレーターとエレベーターが設置され、上りホームのエレベーターは北口とも結ばれている。下りホームには車椅子やオストメイト対応の個室トイレが設置され、上りホームにも通常のトイレがある。上りホームには冷暖房装備の待合室が設けられている。2010年度には行先案内表示器が設置された。当駅は2005年の鉄道建築協会賞に入選している。 ===のりば=== ==駅名の由来== 都市基盤整備公団(2004年7月に都市再生機構に改組)開発の分譲地名称が「くろかわはるひ野」であることによる。「黒川」を駅名に入れる案が地元にはあったが、類似駅名は利用者が混乱するとの理由で「はるひ野」とされた。2006年3月13日には住居表示が施行され、都市再生機構開発地域の町名が黒川からはるひ野に改められた。2009年の時点では、小田急の駅で唯一ひらがなが入る駅名である。 「はるひ野」の地名自体は2001年(平成13年)4月に開催された地権者と都市基盤整備公団との協議で「はるひ野」「みずき野」「万葉の丘」の三案から、独自性を主眼に選ばれた。「はるひ野」は「はる」に新しい街の成長への期待、「ひ」はおおむね東向きの斜面に開発された土地であることから温かさを、「野」は広がりを表すものとされている。独自性を維持するため、「はるひ野」は都市再生機構が商標登録していた。 ==利用状況== 2017年度の1日平均乗降人員は9,865人である。開業以来の乗降人員・乗車人員の推移は下表の通り。 ==駅周辺== ここではおおむね徒歩10分圏の駅周辺に立地する施設と、バス停について述べる。 ===周辺施設など=== 1992年(平成4年)11月に宅地開発が着工されるまでは当駅周辺は山林だった。当駅周辺の開発構想は1973年(昭和48年)ごろから存在したが、地権者の合意が得られず開発がいったん断念され、開発再開後も反対運動などの影響で開発が長期化、構想から30年を経た2003年(平成15年)11月に居住が始まっている。 はるひ野全域が住宅地として開発され、行政商業施設として計画された2区画のうち1区画が集合住宅に転用されたこともあり、南口前の行政商業施設区画に開業した大規模薬局とスーパーが入るはるひ野ショッピングセンター、北口近くに立地する小田急グループのリストランテ アベーテを除いて大規模な商業施設はない。南口にははるひ野メディカルヴィレッジと呼ばれる小児科、内科、整形外科などの診療所と調剤薬局が入居する区画や、小学校と中学校が合築された 川崎市立はるひ野小学校・はるひ野中学校がある。当初学校のほか幼稚園、消防署も駅周辺に誘致する計画だったが、2001年11月に川崎市から公益用地の買い取りを拒否されたのち、数次の計画変更を経て2005年2月に市議会で学校建設が議決され、現位置にPFI方式で小中学校が建設されている。幼稚園は公立としては実現せず、私立の幼児園が南口近くに開業したほか、社会福祉法人運営の保育園2件が同じく南口にある。駅北東を通る県道上麻生連光寺線沿いにはチェーン系飲食店などが並び、京王若葉台ゴルフ練習場も徒歩圏に立地するが、飲食店とも地番としては黒川に属する。県道上麻生連光寺線の坂を下りきった所に京王相模原線若葉台駅があるが、当駅北口から徒歩約10分を要する。 ===バス路線=== 南口駅前広場にはるひ野駅バス停が設置され、小田急バスが運行を委託された稲城市循環バス(iバス)平尾団地行/南多摩駅行が乗り入れている。当駅から徒歩約5分の県道上麻生連光寺線上にはるひ野駅入口バス停があり、小田急バス 柿24系統 若葉台駅行/柿生駅北口行(休日1往復のみ)とiバス 平尾団地行/南多摩駅行が停車する。 ==隣の駅== ===小田急電鉄=== === 多摩線 ■快速急行・□通勤急行・■急行 通過 ■各駅停車 黒川駅 (OT 03) ‐ はるひ野駅 (OT 04) ‐ 小田急永山駅 (OT 05) === ===■快速急行・□通勤急行・■急行 通過=== ===通過=== ■各駅停車 黒川駅 (OT 03) ‐ はるひ野駅 (OT 04) ‐ 小田急永山駅 (OT 05) 黒川駅 (OT 03) ‐ はるひ野駅 (OT 04) ‐ 小田急永山駅 (OT 05) =名目的取締役= 名目的取締役(めいもくてきとりしまりやく)とは、適法な選任手続きを経て取締役に就任しているが、当該会社との間で取締役としての職務を果たさなくてもよいとの合意があるなど、実際には取締役としての職務を行っていない者を指す法理論上の概念である。取締役の員数を揃えるため、あるいは社会的地位のある人物を取締役とすることで会社の信用を高める目的で置かれることが多い。日本では、2005年(平成17年)改正前商法(以下、「旧商法」とする)において、株式会社には最低3名の取締役を置くことが必要であったことから、特に中小企業において多く見られた。 名目的取締役は、第三者に対する取締役としての責任で問題となることが多く、日本の最高裁判所の判例では、取締役として就任している以上は取締役としての監視義務があり、名目的であることをもって第三者に対する取締役としての責任を免れることはできないとする。一方、下級裁判所では、この判例を踏まえつつも、個々の事情により名目的取締役の第三者に対する責任を否定する裁判例も少なくない。 名目取締役(めいもくとりしまりやく)、名目上の取締役(めいもくじょうのとりしまりやく)ともいう。監査役の場合は名目的監査役(めいもくてきかんさやく)という。 ==概説== 取締役は、いわゆる「平取締役」であっても、自身が直接担当する業務分野や取締役会での議事事項だけでなく当該会社全体の業務執行が適正に行われるようにすることが任務であり、代表取締役や他の役員等の監視義務を負っている。取締役がこの任務を怠ったり、職務執行にあたって悪意または重大な過失によって会社や第三者に損害を与えた場合について、日本の会社法では、第423条第1項および第429条第1項において以下のとおり定めている。 ここから、その取締役自身が直接関与しておらず単に他の役員等の不正行為や職務懈怠を見過ごしただけであっても、前述の監視義務を怠った過失があると判断される場合には会社や第三者に対する損害賠償の責任が生じる。 しかし、法的に取締役の地位にある者と実際にその会社で取締役としての職務を行っている者とが一致しない会社も存在し、そのような者について会社法第423条第1項および第429条第1項が責任を負うと定める「役員等」に該当するか否かが議論となることがある。このうち、適正な選任手続きを経て取締役に就任し登記もされているが、実際には取締役としての職務を行っていない者を名目的取締役という。これに対し、適正な選任手続きを経ていないかすでに退任しているにもかかわらず取締役として登記されている者を登記簿上の取締役、選任も登記もされていないが実際には対外的にも対内的にも取締役として職務を執行している者を事実上の取締役、自身は表立って取締役としての職務を執行していないものの会社の経営に影響力を行使している者や親会社を影の取締役(事実上の主宰者)という。 会社が名目的取締役を置く理由としては、業界や地域の名士など社会的信用を有する者を取締役(場合によっては代表取締役)とすることで第三者からのその会社の信用を高めることを狙う場合や、本人が何らかの欠格事由に該当して取締役になることができないために身内の者を代わりに取締役とする場合などがある。古くはイギリスで近代的な会社組織が生まれた直後から、すでに会社に対する信用を高めるために貴族などの名前を借りて取締役とする例が見られたが、日本で名目的取締役が多く見られる特有の理由として、旧商法の第255条において株式会社には最低3名の取締役を置くことが必要とされていたことがあった。日本では小規模な個人事業主が社会的信用を得るために株式会社化する事例が多く見られるが、この規定を満たす取締役の確保に苦慮し、名目的取締役を置かざるを得ない状況があると指摘されていた。なお、現行の会社法では非公開会社で取締役会非設置の株式会社であれば取締役は1名で足りることとされたため、現在ではこの理由で名目的取締役を置く必要はなくなっている。 ==責任== ===第三者に対する責任=== 名目的取締役にその会社が求める職務は、何もしないことである。就任にあたり、無報酬あるいは低額な報酬とする代わりに何もしなくて良いことを条件とし、場合によっては会社および第三者に対する責任を一切負わなくてよいことまで約束することもある。こうした合意があったとしても、名目的とはいえ取締役である以上は取締役としての監視義務は免れることはできず、会社法に反するこうした合意は無効であり、第三者に対する責任が免責されるものではないとされる。しかしながら、名目的取締役はそもそも他の役員等の不正行為や職務懈怠を知りうる立場になく、一律に責任を問うことはできないのではないかとする見解もある。 この点について、日本の最高裁判所は、1980年(昭和55年)3月18日の判決(判例時報971号101頁)で「名目取締役であっても監視義務を負っており、代表取締役の業務執行を監視するにつき何らなすところがなかったことは、その職責を尽くさなかったものと言わなければならない」と判示しており、下級審でも、同様に名目的取締役であることで責任が否定されることはないとする裁判例が多い。一方で、最高裁の判例を踏まえつつも個々の事情を勘案して、悪意・重過失あるいは相当因果関係がないなどとして名目的取締役の損害賠償責任を否定する裁判例も少なくない。ただし、会社の詐欺的取引や違法な投資勧誘に関する事例ついては、取締役に対してより強い監視義務が求められ、名目的取締役に対しても監視義務違反による責任を認める傾向があるとされる。 ===会社に対する責任=== 名目的取締役の会社に対する責任については、当該会社との間で「一切職務は行わず責任も負わなくてよい」との合意がある場合であっても、会社法が定める役員の責任は強行法規であるためこうした合意は対会社であっても無効であるとされている。しかし、第三者に対する責任を追及された下級裁判所の裁判例で「会社内部において考慮されることがあるのは格別、第三者との関係では如何なる意味も効力も持ち得ない」と判示された例もあり、当該会社との間でのこうした合意の有効性については議論がある。事後的に取締役の責任を免除する場合に総株主の同意を必要とすることとの均衡で総株主の同意があればよいとする説や、第三者との間では免責を主張できないが対会社では認めるべきとする説もある。 ==判例== Xは、取引先A社の代表者Yに要請されて同社の株式を引き受けるとともに、A社の取締役に就任した。就任にあたって、XはA社に常勤せず経営内容に深く関与しないこととされており、実際にXは一度もA社に出社することはなかった。その後Yは代金支払いの見込みがないままB社から商品を購入したが、結局、同商品の代金を支払うことができずにB社に代金相当額の損害を与えたため、B社は、A社の取締役であったXに対してもYとともに1981年(昭和56年)改正前商法266条の3第1項前段(現行会社法429条1項)に基づく損害賠償を求めた。二審は、Xが社外重役として名目的に取締役に就任したに過ぎないこと、Yが他の取締役に要求されて取締役会を招集したり取締役会で他の取締役の意見を取り上げることがなかったことから、Xが取締役としての職責を果たすことは不可能であったとしてXに対する請求を棄却したため、B社は最高裁判所に上告した。 最高裁判所は、取締役の果たすべき職責は会社の内部事情や経緯によって名目的取締役となった者であっても同様であり代表取締役の業務執行を監視する義務を負うと判示した上で、XがA社の取引先の代表者であることやYの要請によってA社の株式の5分の1を保有する株主となってA社の取締役に就任した経緯などから、XのYに対する影響力は少なくなかったと考えられXが取締役としての職責を果たすことが不可能であったとはいえないとして、原判決のうちXに対する請求を棄却した部分を破棄して審理を原審に差し戻した。 学説上も、名目的取締役であることをもって取締役としての義務から逃れることはできず、これを怠った場合に第三者に対する損害賠償責任を負うことについて一致している。 ==裁判例== ===責任を否定したもの=== 下級裁判所においても名目的取締役であることを理由に第三者に対する責任を免れないとして責任を認めた裁判例も多くある。しかし、上記最高裁判所の判例が名目的取締役の影響力によっては監視義務違反に問われないとも考えられることもあって、その後も下級裁判所においては個々の事情に応じて悪意・重過失や相当因果関係を否定するなどして名目的取締役の第三者に対する責任を免責する傾向にあった。上記最高裁判所の判決後に名目的取締役の第三者に対する責任を否定した主な裁判例としては以下がある。 トラック運転手として他社で勤務する名目的取締役(代表取締役の実兄)について、悪意・重過失がないとして責任を否定。(福井地方裁判所1980年(昭和55年)12月25日判決、判例時報1011号116頁)。個人営業に近いワンマン会社であり、名目的取締役が監視義務を果たし阻止できる状況ではなかったため、重過失がないとして責任を否定。(東京高等裁判所1981年(昭和56年)9月28日判決、判例時報1021号131頁。)名目的取締役には事実上の影響力がなく、取締役としての職務を果たすことは不可能であったため、重過失がないとして責任を否定。(浦和地方裁判所1983年(昭和58年)6月29日判決、判例時報1087号130頁。)代表取締役のワンマン会社において、仮に取締役会の開催を要求しても受け入れられたとは考えられないなど名目的取締役が代表取締役の違法行為を阻止することは困難であったため、相当因果関係がないとして責任を否定。(大阪地方裁判所1984年(昭和59年)8月17日判決、判例タイムズ541号242頁。)仮に名目的取締役が粉飾決算を阻止しようとしても阻止できたとは考えられないため、相当因果関係がないとして責任を否定。(大阪地方裁判所1985年(昭和60年)4月30日判決、判例時報1162号163頁。)夫の個人営業に近い状態で、妻である名目的取締役に取締役としての職務を遂行することを期待するのは困難であり、悪意・重過失がないとして責任を否定。(仙台高等裁判所1988年(昭和63年)5月26日判決、判例時報1286号143頁。)全くの名目的取締役であったため第三者への加害は予測できず、悪意・重過失がないとして責任を否定。(東京地方裁判所1991年(平成3年)2月27日判決、判例時報1398号119頁。)代表取締役のワンマン会社で、取締役として扱われたこともない名目的取締役が第三者に対する加害を予知したり代表取締役の違法な抵当証券商法を辞めさせることは困難であり、悪意・重過失あるいは相当因果関係がないとして責任を否定。(東京地方裁判所1994年(平成6年)7月25日判決、判例時報1509号31頁。)有限会社で、仮に名目的取締役が是正を勧告していたとしても聞き入れられたとは考えられず、相当因果関係がないとして責任を否定。(東京地方裁判所1996年(平成8年)6月19日判決、判例タイムズ942号227頁。) ===免責理由=== このような名目的取締役の第三者に対する責任を否定する判決で考慮された事情は、以下のように大別できる。ただし、こうした理由で名目的取締役の責任を否定する裁判例に対し、学説上は批判も多い。 取締役としての職務を期待されていないこと 取締役としての職務を免除する合意があること 実質的に社長の個人営業であること 取締役会が開催されていないこと 出資をしていないことや報酬を受け取っていないこと これらは当該取締役が名目的取締役であったことを示す事情であるが、「会社との間で合意があっても、会社法が定める役員の責任は強行法規であり、こうした合意は無効である」、「取締役としての職務に熱心な者ほど責任を負わされ、怠慢であればあるほど責任を負わなくてすむ」、「取締役会の不開催を助長する」、「報酬を受けていないことは責任の有無と関係ない」などの批判がある。取締役としての職務を免除する合意があること実質的に社長の個人営業であること取締役会が開催されていないこと出資をしていないことや報酬を受け取っていないことこれらは当該取締役が名目的取締役であったことを示す事情であるが、「会社との間で合意があっても、会社法が定める役員の責任は強行法規であり、こうした合意は無効である」、「取締役としての職務に熱心な者ほど責任を負わされ、怠慢であればあるほど責任を負わなくてすむ」、「取締役会の不開催を助長する」、「報酬を受けていないことは責任の有無と関係ない」などの批判がある。取締役としての職務を行おうとしても困難であること 他の仕事と兼業していること 遠隔地に居住していること 専門知識がないこと 病気や老齢であること これらは任務懈怠があっても悪意・重過失があったとはいえないとする事情であり、こうした事情がある場合、ある程度職務を行っていれば重過失とはいえないとする学説もあるものの、「重過失の有無は通常の取締役がわずかな注意で防止できたかを基準とすべき」、「何もしなかったことをもって任務懈怠に重過失がなかったとは言えない」、「そもそも取締役としての職責を果たせない者は取締役になるべきではない」とする批判もある。他の仕事と兼業していること遠隔地に居住していること専門知識がないこと病気や老齢であることこれらは任務懈怠があっても悪意・重過失があったとはいえないとする事情であり、こうした事情がある場合、ある程度職務を行っていれば重過失とはいえないとする学説もあるものの、「重過失の有無は通常の取締役がわずかな注意で防止できたかを基準とすべき」、「何もしなかったことをもって任務懈怠に重過失がなかったとは言えない」、「そもそも取締役としての職責を果たせない者は取締役になるべきではない」とする批判もある。不正行為を阻止することが困難であること 事実上の影響力がないこと これは任務懈怠と第三者の損害の相当因果関係を否定する事情であるが、「ワンマン経営者であり忠告しても聞き入れられなかったであろうなどというのは、監視義務が必要な時ほど監視義務を免除することになる」、「事実上の影響力がある取締役にのみ責任を負わすことは、取り締まらない取締役の存在を肯定することである」、「阻止できたかどうかはやってみなければわからない」などとする批判も強い。事実上の影響力がないことこれは任務懈怠と第三者の損害の相当因果関係を否定する事情であるが、「ワンマン経営者であり忠告しても聞き入れられなかったであろうなどというのは、監視義務が必要な時ほど監視義務を免除することになる」、「事実上の影響力がある取締役にのみ責任を負わすことは、取り締まらない取締役の存在を肯定することである」、「阻止できたかどうかはやってみなければわからない」などとする批判も強い。このほか、取締役としての在任期間の長短を理由にした判決もあるが、在任期間が短いことを理由に責任を否定した判決がある一方で、5年や10年経過していることを理由に責任を否定したものもある。 ==近時の傾向== 上記のような名目的取締役の責任を否定する裁判例について、学説では、形式的に最高裁判所の判例を踏まえつつも実質的に骨抜きにするものであるとの批判もなされていた。しかし、2000年(平成12年)前後以降名目的取締役の責任を肯定する裁判例も増加してきており、とりわけ詐欺的商法や違法な投資勧誘によって消費者に損害を与えた事案では、取締役はより高度な監視義務を負うとして責任を肯定する傾向にある。名目的取締役等の責任を肯定した近時の主な裁判例としては以下がある。 ゴルフ会員権の詐欺的販売行為を行っていた会社において、代表取締役を含む複数の取締役が、取締役としての職務を行わない合意があり、事実上業務に関与せず、無報酬で、かつ株主総会や取締役会が全く機能していなかったと主張した事案に対して、それらの事情は取締役としての責任を免れる理由にはならず、特に代表取締役に関しては名目的代表取締役であったこと自体が悪意・重過失であり、さらに、犯罪的行為に対しては単なる放漫経営や経営判断の誤り以上に高度な監視義務が期待されると判示した上で、各々業務に一定の関与が認められるとして責任を肯定。(東京地方裁判所1999年(平成11年3月26日)判決、判例タイムズ1021号86頁。)取締役の職務執行に対する監査を怠ったとされる監査役に対して、「監査役としての在任期間が短く、あるいは病気療養等の理由で法令が求める職務行為を到底期待することができないために、悪意又は重大な過失がない、あるいは損害との因果関係がないとして、その責任が否定される場合があることはともかく」とした上で、当該監査役についてはそうした事情が認められないため、仮に名目的監査役であったとしても責任を免れないとして責任を肯定。(ジー・コスモス事件、東京地方裁判所2005年(平成17年)11月29日判決、判例タイムズ1209号274頁。)単なる名目的取締役に過ぎず実際の経営には全く関与していないと主張した取締役に対して、取締役に就任した以上は取締役の職責を果たすことが不可能であるなど特段の事情がない限り取締役としての責任を免れることはできないと判示した上で、当該取締役の主張は抽象的で特段の事情を認める立証がないとして責任を肯定。(東京地方裁判所2005年(平成17年)12月22日判決、判例タイムズ1207号217頁。)取締役に就任した自覚がなく、会社の経営に関与しておらず、報酬も受け取っていなかったとした上で、仮に会社の経営に意見したとしても代表取締役が取り上げる可能性はなかったと主張した取締役に対して、経営に関与せず報酬を受けていないとしても取締役としての責任を免れることができないのは明らかと判示した上で、経営に関する進言をしても代表取締役が取り上げた可能性はなかったとは認められないとして責任を肯定。(東京地方裁判所2008年(平成20年)12月15日判決、判例タイムズ1307号283頁。)代表取締役のワンマン会社であり名目的に役員に就任したに過ぎないと主張した他の役員に対して、例え名目的役員であったとしても責任は軽減されないとして責任を肯定。(東京地方裁判所2010年(平成22年)4月19日判決、判例タイムズ1335号189頁。)会社ぐるみで違法な投資勧誘を行って消費者に損害を与えた会社の取締役に対して、このような事例では取締役にはより高度な監視義務が期待されると判示し、名目的取締役であっても責任を免れることはなく、ワンマン会社であっても取締役の監視義務違反と第三者の損害との因果関係は否定されないとして責任を肯定。(東京高等裁判所2010年(平成22年)12月8日判決。)また、最高裁判所においては、農業協同組合で監事の組合に対する責任が問われた事案で、例えその組合において業務執行は理事会で代表理事に一任し、他の理事は業務執行に関与せず、監事も理事の業務執行に対する監査を行わない慣行があったとしても、その慣行自体が適正ではないのであるから、監事の責任は軽減されないとして責任を肯定した判例がある(最高裁判所2009年(平成21年)11月27日判決、判例時報2067号136頁)。 なお、日本において名目的取締役の責任を否定する裁判例が少なくなかったのは、旧商法で株式会社においては取締役会の設置が必置とされ、最低3名以上の取締役が必要とされていたことが背景にあったが、会社法の施行により非公開会社で取締役会非設置の株式会社であれば取締役は1名で足りることとされたため、員数合わせのために名目的取締役を選任する必要はなくなった。このため、名目的取締役の責任が追及される事案は少なくなると考えられているが、逆にこのような中で名目的取締役に就任した者に対しては、第三者に対する責任についてより厳しい判断が下されるようになるのではないかという指摘もある。 =法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘= 法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘(ほうりゅうじ こんどう しゃかさんぞんぞう こうはいめい)は、奈良県斑鳩町の法隆寺金堂に安置される釈迦三尊像の光背裏面に刻された銘文である。 題号の「釈迦三尊像」を釈迦三尊・釈迦如来・釈迦仏・釈迦像・釈迦などとも称し、銘文の内容が造像の由来であることから「光背銘」を造像銘・造像記とも称す。ゆえに法隆寺金堂釈迦造像銘などと称す文献も少なくない。 ==概要== 法隆寺金堂本尊釈迦三尊像の舟形光背の裏面中央に刻された196文字の銘文である。銘文には造像の年紀(623年)や聖徳太子の没年月日などが見え、法隆寺や太子に関する研究の基礎資料となり、法隆寺金堂薬師如来像光背銘とともに日本の金石文の白眉と言われる。また、造像の施主・動機・祈願・仏師のすべてを記しており、このような銘文を有する仏像としては日本最古で、史料の限られた日本の古代美術史において貴重な文字史料となっている。 文体は和風を交えながらも漢文に近く、文中に四六駢儷文を交えて文章を荘重なものとし、構成も洗練されている。ただし、本銘文の真偽についてはさまざまに議論されており、現在でもこの銘文を後世の追刻とする見方もある(#刻字の年代を参照)。なお、その議論の対象は銘文のみで、仏像そのものの成立時期ではない。仏像の成立時期について市大樹は、「仏像の様式や技法などの点からも、623年頃に完成されたとみてよい。」と述べている。 === 金堂釈迦三尊像=== 法隆寺金堂の中央に安置されている本尊・釈迦三尊像(国宝、指定名称は銅造釈迦如来及両脇侍像(止利作、金堂安置))は、中尊の釈迦如来坐像(像高87.5cm)と左右の脇侍菩薩立像の三尊からなる止利様式の仏像(#仏像様式と書法文化の源流を参照)である。三尊は背後に大型の舟形光背(全高177cm)を負う。宣字座と称される上下2段構成の箱形の木造台座上に釈迦如来が坐し、その左右に両脇侍像が侍立する。このように、本像は一光三尊の金銅像として日本で最も古い様式、また最も完具した仏像で、飛鳥彫刻の代表作とされる。そして光背裏面の銘文が美術史的、書道史的に本像をさらに重要なものとしている。 ==内容== 文字面33.9cm四方に、196字を14行、各行14字で鏨彫りしている。1行の字数と行数を揃える形式は日本で唯一のものである。 ===釈文=== 法興元丗一年歳次辛巳十二月、鬼 前太后崩。明年正月廿二日、上宮法 皇枕病弗*3705*。干食王后仍以労疾、並 著於床。時王后王子等、及與諸臣、深 懐愁毒、共相發願。仰依三寳、當造釋 像、尺寸王身。蒙此願力、轉病延壽、安 住世間。若是定業、以背世者、往登浄 土、早昇妙果。二月廿一日癸酉、王后 即世。翌日法皇登遐。癸未年三月中、 如願敬造釋迦尊像并侠侍及荘嚴 具竟。乗斯微福、信道知識、現在安隠、 出生入死、随奉三主、紹隆三寳、遂共 彼岸、普遍六道、法界含識、得脱苦縁、 同趣菩提。使司馬鞍首止利佛師造。 ― 『法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘』 法興元丗一年歳次辛巳十二月、鬼 前太后崩。明年正月廿二日、上宮法 皇枕病弗*3706*。干食王后仍以労疾、並 著於床。時王后王子等、及與諸臣、深 懐愁毒、共相發願。仰依三寳、當造釋 像、尺寸王身。蒙此願力、轉病延壽、安 住世間。若是定業、以背世者、往登浄 土、早昇妙果。二月廿一日癸酉、王后 即世。翌日法皇登遐。癸未年三月中、 如願敬造釋迦尊像并侠侍及荘嚴 具竟。乗斯微福、信道知識、現在安隠、 出生入死、随奉三主、紹隆三寳、遂共 彼岸、普遍六道、法界含識、得脱苦縁、 同趣菩提。使司馬鞍首止利佛師造。 ===大意=== 文面は、「推古天皇29年(621年)12月、聖徳太子の生母・穴穂部間人皇女が亡くなった。翌年正月、太子と太子の妃・膳部菩岐々美郎女(膳夫人)がともに病気になったため、膳夫人・王子・諸臣は、太子等身の釈迦像の造像を発願し、病気平癒を願った。しかし、同年2月21日に膳夫人が、翌22日には太子が亡くなり、推古天皇31年(623年)に釈迦三尊像を仏師の鞍作止利に造らせた。」という趣旨の内容である。 造像の施主たちは、銘文の前半では釈迦像の造像を発願しており、後半はその誓願どおりに造り終えたと記している。聖徳太子のために仏像を造ることが誓願であり、それは太子の生前に発せられた。その動機は太子の母の死と、太子と太子の妃が病に伏したことによる。まずは、この誓願の力によって、病気平癒を祈り、もし死に至ったときには浄土・悟りに至ることを祈念している。実際の造像は太子と太子の妃の死に際してであり、仏像を造り終えることで誓願が成就するとされている。と同時に造像の施主たちはその造像の利益によって、自分たちも現世での安穏と、死後には亡くなった3人(三主)に従って仏教に帰依し、ともに浄土・悟りに至ることを祈念している。そして末尾に造像の仏師を鞍作止利と記しているが、この時代の銘文に仏師の名前が記される例はほとんどない。施主たちが仏師の名をわざわざ記した理由は、鞍作止利が知恵者であるとともに、正しい行ないをなす者とされているがゆえに、施主の祈願に応じた仏像を造る者として、記名に値する存在であったと考えられる。 ===原文・訓読・口語訳=== ===注解=== 法興(ほうこう)とは、私年号で、法興元年は崇峻天皇4年(591年)にあたる。大矢透の説では、591年を仏法興る元年においている。また、『釈日本紀』所収の「伊予国風土記逸文」に、「法興六年」(596年)と見える。鬼前太后(かみさきのおおきさき)とは、聖徳太子の生母・穴穂部間人皇女のこと。ただし、穴穂部間人皇女を「鬼前太后」と呼ぶ例は他になく、この部分を「十二月鬼、前太后崩」と区切って読み、「鬼」を日付の意に解釈する説もある。「鬼」については、「一日」の意とする説(大矢透)、「晦日」の異名とする説(久米邦武)、二十八宿のうちの鬼宿に当たるとする説(福田良輔)などがある。上宮法皇(じょうぐうほうおう)とは、聖徳太子のこと。干食王后(かしわでのおおきみ)とは、膳(かしわで)夫人(膳部菩岐々美郎女)のこと。王子とは、山背大兄王らのこと。山背大兄王の生母は刀自古郎女であるが、山背大兄王は膳夫人の娘である春米女王を妃としているので、膳夫人は義母にあたる。愁毒(しゅうどく)とは、愁えいたむこと。発願(ほつがん)とは、誓願を発(おこ)すこと。釈像とは、釈迦像のこと。尺寸王身(しゃくすんおうしん)とは、(釈迦像の大きさが)聖徳太子と等身であること。仏像を亡くなった者と等身に造る習慣は初唐にある。釈迦如来坐像の像高は87.5cm、仏像の身長は坐像高の2倍であることから、聖徳太子の身長は175cmということになる。願力(がんりき)とは、誓願の力のこと。誓願は発することで効果が期待される。誓願は力をもつのである。定業(じょうごう)とは、前世から決まっている報いのこと。妙果(みょうか)とは、仏果と同意で、悟りのことをいう。三月中とは、「三月に」という時を示すもの。「中」は古代朝鮮半島での時を示す用法を受けた表記である。荘厳の具とは、ここでは光背と台座のことを指す。光背について『大智度論』は、釈迦の身から発せられる光明に触れることで、一切衆生は悟りに至ることができると説いている。二段重ねの高い台座に釈迦像が坐るのは、釈迦像に重ねられた聖徳太子が浄土に登ったことを示していると考えられる。信道の知識とは、道を信じる知識、つまりここでは造像の施主たちで組織された集団を指す。三主とは、亡くなった鬼前太后・上宮法皇・干食王后の3人を指す。紹隆(しょうりゅう)とは、受け継いで、さらにそれを盛んにすること。法界(ほっかい)とは、全宇宙のこと。含識(がんしき)とは、衆生のこと。造像の施主とは、造像の発願者のことであり、聖徳太子の妃(膳部菩岐々美郎女)・王子(山背大兄王ら)・諸臣である。仏像を造る動機は施主にあり、銘文は施主の立場から書かれるものである。銘文中、施主は自らを「信道の知識」と称している。聖徳太子の没年月日は、銘文中に推古天皇30年(622年)2月22日と見え、これは太子の命日を伝える最古の史料である。『日本書紀』には推古天皇29年(621年)2月5日とあるが、今日では本銘文の内容が太子の没年月日として定着している。総じて金石文は、作意がない限り、その物とともに終始しているので真実性が強い。しかも破れて失われやすい紙に書かれたのではなく、堅牢な材料である金石に、永く末代まで知らしめる目的をもって記されたものであるため、史料的価値の高さを期待されやすい傾向にある。なお、天寿国繍帳の銘文にも本銘文と同じ太子の没年月日が見える。 ===書体・書風=== 本銘文の筆者は不明である。書体はやや偏平で柔らかみを帯びた楷書体であるが、196文字中、35文字が今日の活字に存在しない上代通行の文字で、日本の上代金石文にしばしば現れる、いわゆる俗字を用いている。用筆は遒勁で精熟、韻致の高い作である。鏨彫りを用いた刻法も行き届き、法隆寺金堂薬師如来像光背銘に見るような鏨のまくれがない。ただし、横画や転折にやや荒削りのところがあり、また、終わりの方は彫りが浅く、字体が萎縮している。全体的には整然と配置された字配りによって統一感に満ち、秀麗と評される。 書風には見解の相違があり、『法華義疏』に通じる六朝書風(南朝)、隋代の墓誌銘風、虞世南・欧陽詢らを思わせる初唐の書風などといわれている。大山誠一は、「六朝書風のところも、初唐の書風の部分もあり、一つの書風で書かれていない。」と述べている。銘文中に9文字ある「しんにょう」の書き方が特徴的で、「しんにょう」が右下に軽く消えるように流れている。これについて魚住和晃は、「南朝書法の影響を受けている。」と述べているが、大山誠一は、「8世紀の墨書土器などに見られ、日本化した書風と考えることができる。」と解釈し、六朝書風への限定を否定している。 ===仏像様式と書法文化の源流=== 釈迦三尊像のようないわゆる「止利式」の仏像については、明治時代の学者・平子鐸嶺以来、中国北朝の北魏の仏像にその様式的源流を求めるのが長年の通説となっているが、これには異説もある。中国美術史学者の吉村怜は、止利式仏像の様式は中国南朝に源流をもち、それが朝鮮半島の百済を経由して日本へ伝えられたとした。この説は、日本に仏教を伝えた百済と中国南朝との国家の間には密接な外交関係があったのに対し、百済と北魏の間には交流のあった形跡が認められないことなどに基づく。 本銘文の書風の特徴の一つに起筆と収筆が尖りがちであることが挙げられるが、この特徴は北魏の書風には程遠いといえる。前述のように本像は北魏様式の仏像というのが通説であったため、この仏像様式と銘文書風との不統一は長い間の疑問であった。が、近年、同じように不統一な仏像が百済扶余地域から発見され、法隆寺の諸仏が百済扶余時代初期の様式の影響を受けたものであることが明らかになっている。また、百済の遺物である『武寧王陵買地券』(ぶねいおうりょうばいちけん、525年?)には買地券銘文が刻されており、これについて萱原晋は、「流麗な南朝系の楷書で書かれている。」と述べている。武寧王は南朝の梁との活発な交流を通して百済に熊津文化(ゆうしんぶんか)を築いた王として知られる。 欽明朝(在位・539年 ‐ 571年)の頃から大化の改新(645年)まで、日本は特に百済との友好関係を強めていたため、南朝の文化が日本で盛行していた。しかし、それ以後は蘇我氏を倒した中大兄皇子(後の天智天皇)らによって、特に高句麗から北朝の文化が伝入され、中国南北両朝の文化が日本で並行して展開された。高句麗の遺文である『広開土王碑』(414年)は北魏の『鄭羲下碑』に通じ、日本の遺文である『宇治橋断碑』(646年・通説)は北魏の『張猛龍碑』の書法で刻されている。その『宇治橋断碑』には、上に大きな石(笠石)が乗せられていた形跡があり、これは同じく北魏書法で刻された日本の碑、『那須国造碑』(700年)や『多胡碑』(711年)などにも共通する。その笠石の形は、特に高句麗の墓石に多く見られるもので、魚住和晃は、「高句麗から百済を経由して北魏の書法が伝入する経過を示すものといえよう。」と述べている。 ==刻字の年代== 河合敦は、「聖徳太子の業績は『日本書紀』においてかなり捏造されているという。それは同書が成立した奈良時代、時の為政者が太子を聖人にする必要があったことによるらしい。(趣意)」と述べているが、これは大山誠一の「聖徳太子は『日本書紀』によって生まれた。」という仮説に基づく。『日本書紀』成立(720年)以前に聖徳太子関係の正しい史料が存在すれば、その仮説は崩壊するが、その最も古く遡る可能性のある史料が、法隆寺金堂薬師如来像光背銘(607年)と本光背銘(623年)である。前者は後世の追刻である説が有力であるが、本光背銘に関しては、その真偽の決着がまだついていない。 ===623年刻字の肯定説=== 東野治之は本光背銘の詳しい実物調査を行ない、その調査報告に、仏像光背は最初から銘文を入れるように製作されていたことを論証し、それを支持する学者も少なくない(吉川真司、長岡龍作など)。 また、1989年の昭和資材帳調査で、釈迦三尊像の宣字形台座の下座下框から「辛巳年八月九月作□□□□」の墨書が発見された。この下框材は建造物の扉を転用したものとみられ、釈迦三尊像の完成が623年であることから、この墨書の「辛巳年」は621年に比定されている。森岡隆は、「当初から像と台座が一具であったことを示すもので、銘文を後刻したとは考えにくい。」と述べている。 ===623年刻字の否定説=== 623年の刻字を否定する説の根拠としては、以下のことがあげられている。 「法興」という年号は存在しないから後代に書かれたものである。「法皇」の語は、法王が天皇号の影響を受けたもので、後世に天皇号が成立した以後のものでなければならない(天皇号の成立年代については、法隆寺金堂薬師如来像光背銘#天皇号の成立年代を参照)。「仏師」の語は、和製語で、その使用は正倉院文書によると天平6年(734年)以後である。大山誠一は本銘文の成立時期について、上限を、天皇号によれば持統朝(在位・690年 ‐ 697年)、仏師の語によれば天平6年(734年)とし、下限は『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』(747年成立)に釈迦三尊像の記録があることにより、天平19年(747年)としている。大橋一章は、推古朝に天皇号や「仏師」の語が存在しなかったとは断定できないとして、本銘文の推古朝成立を否定した笠井昌昭説を批判している。大橋は、正倉院文書以前の現存する文書資料自体が乏しく、その中に「仏師」の語が書き残される確率は低いことから、本銘文が「仏師」の語の使用の初例であっても不自然ではないとする。 =XB‐42 (航空機)= XB‐42 ミックスマスター(Douglas XB‐42 Mixmaster)は、アメリカ合衆国で第二次世界大戦中にダグラス・エアクラフト(以下ダグラス)によって開発が進められていた試作爆撃機である。空気抵抗を最小限にする為に主翼を改良し、推進式プロペラを機体後部に配置するなど、従来にない様々な革新的な試みを盛り込んでいた。しかし戦後新たなパワーソース(推進力)としてジェットエンジンが登場したため、制式採用されることはなく試作のみで終わった。なおXB‐42をジェットエンジンに換装したXB‐43も開発が進められたが、こちらも制式採用されなかった。 ==B‐42計画の概略== B‐42計画とは、レシプロ機としては高速を出せる機体を生み出すためのものであった。当時の航空機のパワーソースはレシプロ動力(ピストンエンジン)が殆どであったが、すでに新技術であるジェットエンジンも実用化されつつあった。実際にドイツではジェットエンジン搭載の爆撃機の開発が進められてはいたが、当時のジェットエンジンは重量と比較して推進力が弱く、かつ燃料消費量も莫大であり航続距離も極端に短かった。そのため、ダグラスはレシプロ機の次期爆撃機の開発に着手するが、この計画コンセプト自体アメリカ陸軍航空軍(現在のアメリカ空軍)と連携を取って進められたものではなく、当初は実用化される見込みは全くなかった。しかし当時進められていた重爆撃機B‐29の開発が失敗した際の保険(後継機という位置付け)として軍から開発が承認され予算を獲得した。 開発された機体は、当時のレシプロ動力飛行機としては優れた高速性能を発揮したが、制式採用には至らず、純ジェット機XB‐43に改造されるも、これも採用には至らなかった。 ===開発の背景=== 高速爆撃機XB‐42の開発はアメリカ陸軍航空軍の要請を受けたものではなく、当初はダグラスの自社資金によって進められていた。その後1943年5月、軍部より開発計画が提示され、この計画に対し2機の試作機と1機の機体構造試験機の受注に成功した。 当初、XB‐42は中型攻撃機に位置付けられていたため制式名はXA‐42であったが、その後、爆撃機の分類とされXB‐42に変更される。開発時は第二次世界大戦中であり、ダグラスでは爆撃機や輸送機の大量生産に追われている中ではあったが、事前に開発が進められていたこともあり1944年5月6日に初飛行に成功した。 ===機体=== 機体コンセプトは可能な限りの空気抵抗を無くすことを目的としていた。牽引式プロペラでは機体前部に設置するため機体を”引っ張る”形になり、機体周辺を流れる気流を撹乱することになり空気抵抗が大きくなる。それを解消するため機体後部にプロペラを設置する推進式(プッシャー式)を採用していた。なお、このデメリットを解決する手段として主翼にエンジンを設置することも出来たが、ダグラスではこの方式はエンジンナセルという空気抵抗が生じるとして採用しなかった。 さらに機体の空気抵抗を軽減する為に、防禦用火器である機関銃を左右主翼後縁に内蔵しており、使用時のみ遠隔操作で銃身が扉から姿を出す構造になっていた。 操縦席は通常のものでは空気抵抗を生み出すとして独特のものを採用した。2人の操縦乗員にほぼ360度の視界を確保するため、別々の水滴型キャノピー(風防)を機首上左右に並べて設置していた。その結果、まるで2つの目が付いているような外見をしていた。しかしながら、この方式は乗員間の意志の疎通の障害(いちいち機内電話で会話しなければならない)となり、緊急事態発生時に迅速な対応が出来ない恐れがあった。この水滴型キャノピーは同じダグラスのC‐74でも当初は採用されていたが、ユーザーたるパイロットに不評だったため後に通常のものと交換された。 ===エンジンおよびプロペラ=== 推進力を生み出すエンジンとして、アリソン社のV‐1710‐V型12気筒液冷エンジンを搭載していた。このエンジンは当時のアメリカの戦闘機などに装着されていたものであったが、爆撃機に液冷式のエンジンを搭載した例はボーイング社のY1B‐9試作爆撃機(1931年進空)以来のことであり、当時のアメリカの輸送機や爆撃機で主流となっていた空冷エンジンを使用しない機体であった。なお、XB‐42が液冷式を採用したのは機体内部にエンジンを押し込めた為、空気冷却が出来なかったからに他ならない。 プロペラはレシプロエンジン2基で作動した。またエンジンは他のレシプロ爆撃機が機首ないし主翼に搭載していたのに対し、胴体前部の内部に収納されていた。そのためプロペラを稼動させるため、延長軸を使用して胴体後部のプロペラに動力を伝えていた。またプロペラは二重反転式を採用していた。この方式はプロペラ後流の偏向を正逆回転の組み合わせで相殺できるため、垂直尾翼の小型化が可能となり、空気抵抗の減少やプロペラ効率の向上などが得られるというメリットがある反面、複雑な機構となり高度の技術が必要となる。実際に同時期に開発されていたYB‐35でも、この二重反転式が採用されたが、わずかな飛行回数でエンジンに金属疲労を生じており、通常のプロペラに換装された事例がある。しかしながらXB‐42のそれはレシプロエンジンでは例外的に成功していた。愛称の「ミックスマスター」は強力な推進力が生み出す渦を連想して付けられたものであった。 なお、大口径のプロペラが後ろにあるため、万が一乗員が緊急脱出する際には回転するプロペラに巻き込まれる危険性があり、脱出直前にプロペラの結合部を爆破して先に脱落させて安全性を確保することとしていた。 このXB‐42は1944年12月にロングビーチからワシントンDCまでのアメリカ大陸横断飛行で平均時速704Km/h(433.6mph)の速度記録を作り、高速性能を示した。 ==その後のXB‐42== 結局、第二次世界大戦後にはレシプロ爆撃機が活躍する場が失われ、XB‐42が制式採用されることはなかった。XB‐42のうち1機は事故で喪失した。残された1機は改良型XB‐42Aに改造された。この機体では、主翼にウェスチングハウス社の 19B‐2ターボジェットエンジン2基を主翼下に吊り下げた為、レシプロ・ジェットの混合動力機となった。この改造により最高時速は785km/hにまでアップした。だが1947年に22回目の試験飛行の着陸時に損傷し、修理されずそのまま退役した。 ダグラスではXB‐42を純ジェット化したXB‐43ジェットマスターを開発し、これはアメリカ合衆国で最初に飛行したジェット爆撃機となった。だが、胴体にジェットエンジンを埋め込むコンセプトはのちのジェット機の主流にはならず、こちらも制式採用されなかった。 戦後最初の戦略爆撃機は、XB‐42Aと同様なジェット・レシプロ機のB‐36戦略爆撃機であったが、朝鮮戦争時には実戦投入されず1958年に退役する。B‐36の退役をもってアメリカ空軍の保有する爆撃機は全てジェット機となる。 なお残されたXB‐42Aであるが、1949年に登録抹消され国立航空宇宙博物館で保存されることになり、分解後運搬されるが、主翼部分は輸送中に紛失してしまう。 また、ダグラスはXB‐42の設計を低翼に変更し、エンジン位置を移動させて胴体部に最大48席の客席を設けた旅客仕様のDC‐8 スカイ・バス(後のジェット旅客機のDC‐8との関連はない)を構想して航空会社に売り込んだが、関心を集められず、実現することは無かった。 ==スペック== XB‐42(初期製作時) 全長:16.4m全幅:21.5 m翼面積:51.6 m高さ:5.7 m搭載エンジン及び推力:アリソン V‐1710‐V型12気筒液冷レシプロエンジン2基、1,300 kW (1.800馬力)X2航続距離:2,900 km (最大搭載時), 8,700 km (フェリー時)最大上昇限界高度:8,960 m空虚重量:9,475 kg全備重量:15,060 kg最大離陸重量:16,194 kg最大速度:660 km/h巡航速度:504 Km/h乗員:3名武装:12,7 mm 機関銃(ブローニングM2重機関銃)6門、 爆弾3.600 kg =高山市図書館= 高山市図書館(たかやましとしょかん)は、岐阜県高山市馬場町二丁目にある公立図書館。本館は高山市近代文学館および高山市生涯学習ホールとの複合施設である高山市図書館「煥章館」(たかやましとしょかん「かんしょうかん」)内にあり、9つの分館を設置して日本一面積の広い高山市で図書館業務を行っている。 煥章館にある本館と分館の一部は図書館流通センターが指定管理者として運営する。2004年(平成16年)の煥章館への移転以降、高い利用水準と利用者満足度を維持しており、古典を講読する「煥章館セミナー」を開催するなどして市民の読書と生涯学習を推進している。 ==歴史== ===教育会運営期(1906‐1943)=== 高山市図書館の歴史は、1906年(明治39年)2月に開館した戦捷記念高山図書館までさかのぼる。高山の町は金森長近が整備した高山城とその城下町を基礎とし、その後の幕府直轄領時代に京都と江戸の気風を反映した文化が栄えたところであり、人々の熱い思いを受けての開館となった。 1900年(明治33年)に大野郡高山町の教育者ら有志12人が東宮殿下御成婚記念事業として通俗図書館を設立する件を建議し、同年5月3日に高山町会は図書館の建設に対して補助を行うことを議決した。1905年(明治38年)11月2日には大野郡中部教育会が図書館創立委員8人を任命し、高山町へ諮問を行うなどの運動を展開した。同月、高山女子尋常小学校に図書館を置くことが決定している。こうして大野郡中部教育会の運営する私立図書館として1906年(明治39年)2月に戦捷記念高山図書館が開館した。大野郡中部教育会は書籍の購入費が十分でなく、設立趣意書を配布し、住民有志に賛助を求めた。 1908年(明治41年)7月、運営者の大野郡中部教育会は高山町教育会に改称した。1909年(明治42年)、高山町教育会は予算規模拡大が決まり、毎年図書購入費として約140円を支出することになった。1912年(大正元年)には荏野文庫1,400冊を購入、蔵書は倍以上の2,291冊に増加した。翌1913年(大正2年)9月20日、大野郡教育会施設図書館が創立され、戦捷記念高山図書館の蔵書や設備一式を大野郡教育会施設図書館に移した。1914年(大正3年)11月30日、御大典記念として大野郡公会堂が城山三の丸に建設され、図書館はその1階に移った。この時の大野郡公会堂は「仮開館」という形であり、1915年(大正4年)4月23日に落成式を挙行している。 1916年(大正5年)4月17日より、夜間開館を開始する。1923年(大正12年)4月に郡制が廃止されたことに伴い、高山町図書館に改称し、高山町教育会の運営に戻った。1929年(昭和4年)、高山町教育会は荏野文庫の整理・分類を行い、目録を作成した。翌1930年(昭和5年)2月11日には成績優良として文部省から選奨された。同年9月22日には蔵書目録を作成し、約800冊を頒布した。 1931年(昭和6年)4月10日、高山町に本籍を置く東京府牛込区在住の塚越正之助から332冊の図書の寄贈を受け、「塚越文庫」が設立された。同年の開館日数は前年比6日増の289日、閲覧人数は前年比5,993人増の10,762人であった。その後、高山町は大名田町と合併して市制施行し高山市となったことで、高山市図書館に改称する。 ===高山市直営期(1943‐2004)=== 1943年(昭和18年)4月1日、高山市図書館が教育会から高山市へ移管され、市では新たに館則を制定し、職員を任命した。当時の蔵書数は5,539冊である。岐阜県で第二次世界大戦以前に設立された市町村立図書館は高山市図書館以外には岐阜市立図書館、大垣市立図書館、羽島市立図書館、蛭川村立済美図書館(現・中津川市立蛭川済美図書館)の4館しかなく、飛騨地方では唯一であった。当時の図書館の活動として特筆すべきは、1944年(昭和19年)8月に始まった婦人読書会である。婦人読書会は月に1回、図書館が会費を徴収して会員に1冊回し読みさせるというもので、戦中という厳しい情勢でも市民の教育熱・文化熱の熱さを窺うことができる。 戦後間もない1949年(昭和24年)、読書サークル「紙魚の会」が発足し、名作を読む月例読書会の開催、年報の発行、文学散歩の企画などの活動を2008年(平成20年)まで継続し、図書館活動を支えることになる。1951年(昭和26年)度の蔵書数は7,663冊で年間290日開館し、34,133人が閲覧に訪れ、156,675冊が閲覧に供された。当時、高山市教育委員会が管轄していた社会教育施設は図書館と公民館だけであった。なお戦前から戦後間もない頃、古瀬文庫や角竹飛騨史料文庫など研究者向けに資料を公開する個人文庫が高山市内に点在していた。 1959年(昭和34年)9月1日に、火曜日と金曜日に19時から21時まで図書館を開く夜間開館を開始、1962年(昭和37年)9月には姉妹都市のアメリカ合衆国・デンバーから贈られたインディアンの女性民族衣装、カウボーイハット、現地の風景写真などを展示するデンバー室を設置し、市民に公開した。1969年(昭和39年)8月7日、高山市民会館北側の別棟に移転し、1階を書庫、2階を閲覧室として供用開始した。 1976年(昭和51年)10月31日、市制40周年記念事業の一環で進められていた新図書館の整備が完成、11月3日の文化の日から一般利用を開始した。図書館の建物は民間企業の社屋を改修したもので、鉄筋3階建て延床面積1,100mで工費は4000万円だった。古い街並みの残る上二之町に立地したことから周囲になじむよう外壁の塗装は茶色系で統一し、前庭の植栽や自然石の配置により落ち着いた雰囲気作りが行われた。高山市の図書館整備に呼応して、高山市文化協会は「1冊の本寄贈運動」を同年10月に展開し、中でも北村兵四郎は4,000冊の寄贈を行った。また武田貞之は同年9月に自身の1973年(昭和48年)の日展入選版画『いらか』を寄贈した。新館は約21,000冊をもって出発し、1階に児童閲覧室・視聴覚室・書庫、2階に中高生閲覧室・書架・事務室、3階に一般閲覧室を設けていた。また市制40周年記念協賛事業として11月3日から11月7日まで名誉市民の瀧井孝作展を開催し、瀧井の手書き原稿、色紙、著書など約80点を展示した。旧図書館は高山市民会館の一部となり、大小のホールとして利用されることになった。 1990年代に高山市図書館を訪れた海野弘は、「石庭があったりして、風流な図書館」、「高山をさらに深く知るには、一時間でも、ここに来てほしいもの」と称賛している。また2階に郷土資料室があり、職員が休憩室代わりにコーヒーを飲むのに使っていたと記している。1996年(平成8年)、高山市図書館は『源氏物語』と漢詩を読む講座を開設した。この講座からは『源氏物語』を講読するサークルが3つ生まれ、別の古典を扱った講座が派生するなど後の図書館活動に大きな影響を与えた。煥章館への移転前の職員数は7人で、そのうち正規職員は4人であった。 ===煥章館期(2004‐)=== 旧図書館は元来、図書館に利用されることを想定した構造になっていなかったため間取りが悪く、延床面積が狭いため増え続ける蔵書に対応するのが難しく、コンピュータシステムの高度化にも限界があった。そこで高山市生涯学習推進協議会は先進地の視察や住民アンケート、複数の協議を通して『生涯学習基本構想』を策定、1990年(平成2年)に新図書館建設を高山市に提言した。ちょうど1996年(平成8年)に高山市役所が移転して中心市街地に未利用地が出現したこともあり、翌1997年(平成9年)に市役所跡地を学習ゾーンとして整備することを議決した。2000年(平成12年)の『高山市生涯学習基本計画』、2002年(平成14年)の『図書館を中核とした生涯学習施設基本構想』策定を経て同年10月に設計プロポーザルの実施、12月の着工と進み、2004年(平成16年)1月に高山市図書館「煥章館」が完成した。総工費は15億5千万円であった。そして約300m離れた旧館から新館へ図書を移す作業が同年2月6日までに行われ、市民ボランティアも作業を手伝った。 2004年(平成16年)4月に新館での業務を開始した。高山市側の職員は館長を含む2人だけで施設管理や購入図書の決定、サークル指導などの管理系業務を担当し、カウンター対応や図書館だよりの発行など直接利用者と関わる業務は図書館流通センターに委託された。図書館流通センター側のスタッフは12人であった。同年12月までの実績は、入館者数が2.3倍に、貸出冊数が2.5倍になった。2005年(平成17年)2月に市町村合併によって新・高山市が発足したことに伴い、丹生川村図書館を高山市図書館丹生川分館とし、他の旧8町村の公民館図書室を高山市図書館の分室に位置付けた。2006年(平成18年)4月より指定管理者制度を導入して図書館流通センターを指定管理者とした。この時の職員数は館長を含め28人であった。 2008年(平成20年)1月30日、中部日本スキー大会に出席した常陸宮正仁親王・親王妃華子夫妻が煥章館へ視察に訪れ、近代文学館も併せて見学された。同年4月に8つの分室を分館に格上げし、7月からは日本で初めて住民基本台帳カードによる図書の貸し出しを開始した。翌2009年(平成21年)3月には本館と分館の図書館システムが統合された。 2013年(平成25年)4月23日、小中学校の学校図書館との連携や教育委員会との連携、図書館での読書推進活動が評価され、「平成25年度子どもの読書活動優秀実践校・図書館・団体」として文部科学大臣表彰を受けた。2016年(平成28年)8月20日には恐竜研究者の真鍋真を招いて講演会を開催、これに合わせて7月よりトリケラトプスなど3体の恐竜骨格模型を館内で展示した。2017年(平成29年)2月2日、煥章館の開館からの来館者数が400万人を突破した。 ==煥章館== 煥章館は高山市図書館を中核とした複合施設で、ほかに高山市近代文学館や高山市生涯学習ホールも設置されている。煥章館の名は、建物が立地している場所が学制発布時に創立した煥章学校(現・高山市立東小学校)の所在地であったことに由来する。煥章学校は瀧井孝作の祖父である大工の瀧井與六が建築した飛騨地方初の近代学校であった。「煥章」の語は『論語 泰伯』の一節「煥乎として其れ文章に有り」を典拠とし、中国神話上の君主・堯(ぎょう)の時代の活発な文物の探求を意味し、単に煥章学校の名を受け継いだだけでなく、煥章館が高山市の生涯学習・文化振興の核となるようにという高山市当局の願いを含んだものである。 煥章館は鉄筋コンクリート構造2階建て、延床面積3,836mで、煥章学校を模したフランス風の建築物である。設計は脇本・三計・小林特定設計・監理企業体、施工は飛騨・古橋・二反田特定建設工事共同企業体。当時の写真を基に、外観はほぼ完全に再現された。屋根瓦の煉瓦色、漆喰(しっくい)の白、柱とベランダの淡緑色(鶯色)が調和した外観で、2007年(平成19年)に日本漆喰協会第2回作品賞を受賞した。屋根瓦は、木の板を重ねて葺く伝統工法を模したものである。 内観は木材を多用した暖かな雰囲気の構造で、ユニバーサルデザインの考え方に沿った設計となっている。書架・机・椅子は地元の飛騨地方産の木材を使い、書架の間に設置された木製のソファは地元家具メーカーから寄付を受けた。 1階に「木のくにこども図書館」と名付けられた児童閲覧室(532m)と生涯学習ホール(204m、108人収容)、2階に一般閲覧室(1,008m)と近代文学館を設置する。木のくにこども図書館は大木のモニュメントが利用者に強い印象を与え、「おはなしのへや」や靴を脱いで入室する「たたみのへや」、授乳室を設け、列車の形をした絵本の棚「ブックトレイン」もある。館内は全面禁煙である。 ===高山市近代文学館=== 高山市近代文学館(たかやましきんだいぶんがくかん)は高山市図書館「煥章館」2階にある文学館。「文学を通して高山の文化を将来に伝え、発展させること」を目的に設置され、 『俳人仲間』の瀧井孝作、『山の民』の江馬修、『春の夢』の福田夕咲、『キューポラのある街』の早船ちよら高山市を代表する近代文学作家と市民の文学活動に関する展示をしている。館内は展示コーナーと関連図書閲覧コーナーで構成され、年2回企画展を開催する。入場料は無料で、開館時間・休館日は図書館と同じである。 ==分館== 旧・高山市域以外の9地域に分館を設置している。高山市は2005年(平成17年)2月に1市2町7村が合併して発足したが、旧・高山市域を除くと旧・丹生川村にしか図書館がなく、「図書館とはこのようなサービスを提供する場である」ということを住民に周知する段階から出発せねばならなかった。丹生川分館は合併当初から分館とされたが、他の分館は「分室」として出発し、2008年(平成20年)4月より分館に変更となった。新・高山市発足当初は分館で行事を開催してもあまり参加者が集まらなかったため、おはなし会を開くボランティアの育成や、地域課題に取り組む講座を開講して成果を1冊の本にまとめるなどの事業を実施することで分館利用の促進を図っている。 分館の運営で発生する赤字は、本館の黒字で補填する体制がとられており、指定管理者制度導入の利点の1つとなっている。なお、分館は無人になる時間帯があり、その間の貸し出しは自動貸出機を利用することになっている。蔵書は各分館に属するものと、本館からの定期配本、年4回の蔵書入れ替えの3種類がある。 ===丹生川分館=== 丹生川分館(にゅうかわぶんかん)は高山市丹生川町坊方2000番地の丹生川支所3階に設置されている。分館の面積は320m、ISILはJP‐1001758。2014年(平成26年)度の蔵書数は20,914冊、貸出冊数は9,538冊。 他の分館が新・高山市発足時点では分室扱いであったのに対し、丹生川村図書館を引き継いだ丹生川分館は発足時点から「分館」として位置付けられた。かつては公民館の一角を使用していたが、合併により利用されなくなった丹生川村議会議場へ移転した。議場の雰囲気をそのまま残した施設であるため、他の分館とは趣が異なる。 ===清見分館=== 清見分館(きよみぶんかん)は高山市清見町三日町305番地のきよみ館内に設置されている。分館は2階にあり、面積は138m、ISILはJP‐1001759。2014年(平成26年)度の蔵書数は10,927冊、貸出冊数は11,197冊。 ===荘川分館=== 荘川分館(しょうかわぶんかん)は高山市荘川町新渕430番地1の荘川総合センター内に設置されている。分館の面積は123mと小さいものの、公民館図書室時代と比べると蔵書が増加したため、住民からの評価は高い。ISILはJP‐1001760。2014年(平成26年)度の蔵書数は9,397冊、貸出冊数は3,895冊。 ===一之宮分館=== 一之宮分館(いちのみやぶんかん)は高山市一之宮町3095番地の飛騨位山文化交流館内に設置されている。飛騨位山文化交流館は旧宮村が一之宮地域を後世に継承したいと願う人々の思いを込めて建設し、集客交流施設として分館が設けられた。 分館の面積は91m、ISILはJP‐1001761。2014年(平成26年)度の蔵書数は14,341冊、貸出冊数は9,252冊。 ===久々野分館=== 久々野分館(くぐのぶんかん)は高山市久々野町久々野1505番地4の久々野公民館内に設置されている。分館の面積は133m、ISILはJP‐1001762。2014年(平成26年)度の蔵書数は14,856冊、貸出冊数は4,652冊。中央に広い閲覧席を設け、大きな窓ガラスからは周囲の風景がよく見える。 ===朝日分館=== 朝日分館(あさひぶんかん)は高山市朝日町万石800番地の燦燦朝日館内に設置されている。燦燦朝日館は2010年(平成22年)9月11日に岐阜県の「県産材利用拡大モデル木造公共施設等整備促進事業」を利用して建設され、同館の2階に分館が置かれた。分館の面積は54m、ISILはJP‐1001763。2014年(平成26年)度の蔵書数は5,372冊、貸出冊数は4,095冊。 ===高根分館=== 高根分館(たかねぶんかん)は高山市高根町上ケ洞428番地の高山市高根支所内に設置されている。分館の面積は47m、ISILはJP‐1001764。2014年(平成26年)度の蔵書数は1,682冊、貸出冊数は259冊。 高根分館は専属職員が無配置となっており、週1回本館から職員が派遣されるが、必要に応じて高根支所職員が応対することもある。中央にソファを設け、周囲に書架を配置する。 ===国府分館=== 国府分館(こくふぶんかん)は高山市国府町広瀬町880番地1のこくふ交流センター内に設置されている。こくふ交流センター内の分館は2011年(平成23年)7月1日に開館した。分館の面積は351m、ISILはJP‐1001765。2014年(平成26年)度の蔵書数は27,097冊、貸出冊数は22,496冊。 ===上宝分館=== 上宝分館(かみたからぶんかん)は高山市上宝町本郷540番地の高山市上宝支所内に設置されている。分館の面積は235m、ISILはJP‐1001766。2014年(平成26年)度の蔵書数は13,046冊、貸出冊数は4,048冊。 ==利用案内== 利用実績は人口10万人弱の都市に立地する公共図書館としては上位にある。日本各地の新図書館建設計画において視察対象となることがあり、これまでに市立小諸図書館、南砺市立図書館などの関係者が視察に訪れている。すべての人が利用しやすいように録音図書、点字図書、大活字本も多く所蔵する。 開館時間:9時30分から21時30分まで休館日:毎月末日(ただし末日が土・日・祝日の場合は前日)、特別整理期間(11月第4日曜日から7日間)、年末年始貸出制限:飛騨地方に在住・通勤・通学している者。図書利用カードは本館・分館共通。貸出可能点数:10点貸出可能期間:2週間(延長は1回のみ可能)自動貸出機、無料Wi‐Fiあり。予約、リクエスト可能。 ===長時間の開館と休館日削減=== 2004年(平成16年)4月の煥章館開館時に開館時間の延長を行った。これは住民の要望を受けての措置である。旧館時代から閉館時間は平日20時、土日19時で比較的遅い方だったが、それを平日1時間半、土日2時間半延長し21時30分としたのである。延長分の来館者数の全日に占める割合は1割で、勤め帰りの男性サラリーマンの来館が多いという。17時以降で見れば、全日の3分の1を占める。夜間の開館に関しては歴史があり、すでに1916年(大正5年)4月17日に夜間開館を開始しており、1959年(昭和34年)9月1日からは火曜日と金曜日に19時から21時までの夜間開館を実施していた。 開館時間の延長に加え、休館日の削減を実施した。旧館時代は月曜日、祝日、毎月末日で年間70日ほど休館していたが、毎週の休館日を廃止するなどして20日程度にまで減少させた。これには図書館流通センターへの業務委託が大きく貢献している。 ===住基カード・マイナンバーカードでの貸し出し=== 煥章館開館と同じ2004年(平成16年)4月に、館内に証明書自動交付機が1台設置された。この時住民基本台帳カード(住基カード)の多目的利用が検討され、同カードの独自利用領域に図書館利用カードの情報を書き込めるようにすることが決定した。高山市では市の広報誌やコミュニティ放送(飛騨高山テレ・エフエム)、ケーブルテレビ(飛騨高山ケーブルネットワーク)、インターネットなどを駆使して市民への利用を促進し、2008年(平成20年)7月から日本で初めて住基カードによる図書の貸し出しを開始した。同月以降、住基カード取得者は順調に増加し、図書利用カードとして利用する層は30 ‐ 40代と回覧板や口コミで知った70代が多くなっている。煥章館には自動貸出機も備え付けてあり、住基カードなら財布からカードを出さずとも財布ごとかざすだけで情報を読み取ることができる。 2009年(平成21年)3月からは分館でも住基カードによる貸し出しを開始した。また個人番号カード(マイナンバーカード)制度の開始に伴い、マイナンバーカードを利用した図書の貸し出しも可能となっている。 ==指定管理者制度の導入== 2004年(平成16年)の煥章館開館時から高山市図書館では業務大半を図書館流通センターに委託していたが、そもそもこの業務委託は図書館の開館時間および開館日数を旧館時代より大幅に拡張する上で公営では困難であったことに端を発する。また市内に9つの分館を設置・運営するにあたり、市の直営であれば維持費用が指定管理者による運営の2倍以上かかり、赤字は避けられなかったという見方もある。 2005年(平成17年)10月に指定管理者選定のプロポーザルが行われ、図書館流通センターが選定され、2006年(平成18年)4月から指定管理者による運営が始まった。同社が受注した指定管理の業務は、設備・備品などの維持管理、資料選定以外の図書館業務全般と一部の分館の管理運営、生涯学習ホールの運営管理、近代文学館の資料管理などであった。当初の契約期間は3年間で、2016年(平成28年)現在も契約は継続している。 図書館流通センターは高山市の指定管理者募集要項と業務水準書から以下の3点を高山市が図書館に求めていると捉えた。これらはビジネス支援が求められる傾向にある21世紀初頭の日本の図書館界の動向とは異なり、文化や生涯学習の支援を求める文教都市・高山の個性を反映したものである。 21世紀における活力ある市民社会の形成上記を達成するための多様で創造的な生涯学習の振興上記2点を達成するためのすべての人が参加し等しくサービスを受けられるバリアフリーの図書館作り以上の3点を踏まえ、8項目からなる『高山市図書館運営方針』が策定された。 指定管理者制度による図書館運営のメリットについて受注側は、予算に縛られないため柔軟な制度設計の変更が可能であること、事業の決定権限が館長に集中するため創意工夫や迅速な意思決定が可能であること、人事異動や契約外の業務の遂行を避けられるため図書館の専門性・独立性を保てることを主張している。また市直営時代よりも多くの職員を地域住民から雇用し、住民税を納税していることから、指定管理者制度の導入は企業誘致と同様の効果があるともしている。行政において直接的に市民生活に貢献する都市基盤整備部門に含まれない図書館は軽視されがちで、予算削減や職員の非正規化・雇い止めの進む公営より指定管理者の方が良く、もはや指定管理者でなければ図書館を運営できないという意見もある。 一般には指定管理者制度の導入に特徴付けられる高山市図書館であるが、図書館と教育委員会の連携という側面から評価する声もある。 ==主な取り組み== 図書館の運営はおおむね市民の評価を得ている。(利用者満足度は7割に達する。)戦前の1930年(昭和5年)2月11日には文部省から成績優良として選奨されており、かねてより評価されてきた図書館である。図書館で行われる事業は主に読書推進事業であり、研究会、鑑賞会、映写会、資料展示会などを通して市民の読書欲を高めようとしている。特に児童の読書推進に力を入れており、職員やボランティアによるおはなし会を中心に、外国語絵本展などを開催してきた。2007年(平成19年)度の延参加者数は本館が4,851人(うち児童向けの事業に3,594人)、分館が合計で592人(うち児童向け420人)であった。 ===煥章館セミナー=== 煥章館で開催する成人向けの中核事業であり、古典講読を中心とした講座を展開する。読書推進と生涯学習を兼ね、古典学習を通した伝統文化の再評価をも意図している。煥章館セミナー自体は指定管理者による運営以降のものであるが、その源流は市直営時代の1996年(平成8年)に始まった『源氏物語』と漢詩を読む講座に求められる。またセミナーの受講者がその内容に触発され、より深めるサークルを設立・運営するという動きが見られるのが高山市の特徴である。 これまでに扱われたのは『おくのほそ道』や『伊勢物語』といった日本文学、トーマス・ハーディ『アリシアの日記』などの「原書で読む英文学」シリーズ、「飛騨史を見直す」などの郷土学習などであるが、歴史や当時の社会との関係を考えながら聴くCDコンサートも開催している。中高年層を中心に評価が高く、2007年(平成19年)には延べ966人が参加した。 煥章館セミナーの講座はあらかじめ年次計画を高山市と図書館流通センターが協議して基本計画を決めておくが、参加者数が低迷した場合などには柔軟に変更して利用者目線のサービス提供に努めている。 ===調べ学習講習会=== 2007年(平成19年)に市内の小中学校の教諭・司書教諭・学校司書向けに「調べたいという子供の気持ちを大事にする」というテーマで開催し、2008年(平成20年)には小学校教員と小学生を招いて夏休みに生涯学習ホールで開催した。同年はワークショップ形式を取り、グループ名をまず決めてその関連語を集め、百科事典や図書館の蔵書で調査し、カードに書き出すという活動を実施し、最後に他の調べ方(人に聞くなど)を教授した。 調べ学習講習会は夏休みの宿題として課される「調べる課題」への支援という側面を持つが、子供たちに図書館を活用したもらうことと、高山市図書館と学校図書館をつなぐことを主眼としている。また高山市教育委員会の主催、図書館流通センターの共催で「高山市図書館を使った調べる学習コンクール」を行い、2016年(平成28年)に7回目を迎えている。 ===子供の読書推進活動=== 煥章館では子供の読書活動を推進するための施設を整え、年間200回に及ぶ活発な読み聞かせを開催している。2013年(平成25年)と2014年(平成26年)に連続で「子どもの読書活動優秀実践図書館」として文部科学大臣表彰を受けている。 ===ぬいぐるみのお泊り会=== 2011年(平成23年)に初めて開催した企画で、昼間に開催されるおはなし会の際に参加者が自分のぬいぐるみを持参し、会終了後にぬいぐるみだけ図書館に「宿泊」するというものである。持ち主が迎えに来た時に、ぬいぐるみが夜の図書館を探検する様子をまとめたアルバムがもらえる。またその時、宿泊中のぬいぐるみの様子を職員から聞くことができ、ぬいぐるみから「おすすめの絵本」の紹介も受けられる。 この企画はアメリカ合衆国の図書館が発祥で、高山市図書館以外でも葛飾区立図書館、宝塚市立西図書館、指宿市の山川図書館など各地で実施されている。 ===特集展示=== 煥章館2階に特集展示コーナーがあり、各種展示を行っている。2014年(平成26年)6月には「大人のための学び直しガイド」と称して図書館所蔵のお勧めの学習参考書の展示を行った。このほか「ブックス・オブ・ザ・イヤー」と称した人気本紹介を行い、来館者から毎年大きな反響を得ている。 子供向けの特集展示も実施しており、絵本作家の特集を毎月更新している。 ==『氷菓』聖地巡礼== 米澤穂信原作のテレビアニメ『氷菓』は高山市を舞台とした作品であり、作中では岐阜県立斐太高等学校とその周辺、高山の街並み、商店街などが忠実に描かれている。高山市図書館「煥章館」は、作中第18話で3年前の悲劇を追って折木奉太郎と千反田えるが訪れる「神山市図書館」のモデルとなっており、『氷菓』ファンは一般的な観光客とは違った視線から図書館を写真に収めていく。また2014年(平成26年)4月26日から5月6日まで、煥章館開館10周年記念事業の一環で高山「氷菓」応援委員会の主催による「奉太郎バースデーイベント」が行われ、奉太郎へのメッセージか煥章館の感想を書くと、上述の図書館シーンが描かれたポストカードがもらえる企画が煥章館で開かれた。 高山市には2012年(平成24年)4月の放送開始直後から、いわゆる聖地巡礼に訪れる人が現れ始め、高山市商工観光部観光課もこれに呼応して2013年(平成25年)2月に「聖地巡礼マップ」を作成、十六銀行は『氷菓』の巡礼者数を15万人、経済効果を21億円と推計した。 ==周辺== 高山市図書館「煥章館」の周辺は高山市の文教地区であり、飛騨高山まちの博物館や城山公園が近くにある。また、伝統的建造物群保存地区の三町や金森氏統治時代の武家屋敷区割り、京都を模した東山八刹などに囲まれている。これらの街並みは観光資源でもあり、高山市図書館では観光ガイドブックを揃え観光客の便宜を図っている。煥章館自体も観光拠点として日本国外からの来訪者を含む多くの観光客が訪れており、英語や中国語が話せる職員が対応している。 JR高山本線高山駅から徒歩約18分である。図書館に隣接して高山市営空町駐車場があり、図書館利用者・文学館入館者は2時間無料で駐車できる。 =桑名市立中央図書館= 桑名市立中央図書館(くわなしりつちゅうおうとしょかん)は、三重県の桑名市にある公立図書館である。1947年(昭和22年)に開館し、2004年(平成16年)に現在地に新築された。日本で初めてPFI方式によって建設・運営されている図書館であり、日本中の自治体や図書館関係者から注目された。開館時間は9時から21時までと、日本全国の図書館と比較しても大変長くなっている。 桑名市立中央図書館の略称はkcl(KCL)、基本理念は「いつでも・どこでも・誰でも」。 ==概要== くわなメディアライヴが建設されるまでは、古い公共施設を転用する形で運用されていたが、くわなメディアライヴの完成により生まれ変わった。その後は官民の協働により新しい事業を数多く展開している。 PFI事業者として新設された特定目的会社の株式会社くわなメディアライブが資金調達、施設の設計・建設を行い、同社が業務委託する形で図書館流通センターと三重電子センターが図書館業務を運営する。おおむね評価を得ている図書館であるが、田原市図書館の森下芳則は、田原市中央図書館と比べて利用者端末や座席数が少なく、住民1人当たりの貸出点数や入館者比率が田原市の2分の1程度とサービス実績の低さなどを指摘し、「総じて、人目を引く仕掛けは用意されていても、公共図書館のごく基本的な機能に対する理解に詰めの甘さを感じました」と評した。 職員は2008年(平成20年)現在34人で、桑名市職員が6人、残りがPFI事業者の職員である。両者が協働することで図書館が運営される。民間事業者の人事に市側は関与しないため、事業者の職員について市は把握していない。職員の多くが司書の資格を有する。 ===市内の図書館=== 桑名市立図書館は中央図書館と以下の2館の計3館で構成されている。ふるさと多度文学館は平成の大合併によって桑名市の図書館となり、長島輪中図書館は新・桑名市発足後に開館したが、どちらもPFIは導入せず、市の直接運営となっている。 ふるさと多度文学館 ‐ 桑名市多度町多度二丁目24番地1長島輪中図書館 ‐ 桑名市長島町源部外面337番地 ==くわなメディアライヴ== くわなメディアライヴは、桑名市立中央図書館が入居する建築物で、保健センター・勤労青少年ホーム・多目的ホールを含む複合施設となっている。佐藤総合計画が設計し、鹿島建設が建築した。事業者は株式会社くわなメディアライブ。鉄骨構造地上5階建て敷地面積は3,191.22m、建築面積は2,728.51m、延床面積は9,1113.77m。南側の外観は鳥居をモチーフとしている。これは「歴史と未来への鳥居」を表しており、桑名市の目指す「ひと育て」「まち育て」「歴史育て」に沿うものである。 図書館は3・4階にあり、1階入り口からはエスカレーターを乗り継いで行くことになる。同じ建物にあることを活かした中央図書館と保健センターの連携によるブックスタート支援事業が行われている。 ===館内=== ※桑名市勤労青少年ホームは2015年3月31日に廃止された。 ===施工業者=== 電気:ダイダン空調:新日本空調昇降機:東芝エレベータ ===図書館の構造=== 延床面積は3,169.06mで、旧桑名市立図書館(1,200m)の約2.6倍である。3階と4階の両方に読書テラス「天空の庭」が設置され、屋外での読書が可能である。館内には桑名発祥とされる連鶴が随所に飾られている。 3階にある一般開架は書架の高さを1.5m(5段)と低くし、車いすが通りやすく配置し、両側ガラス張り・吹き抜けの開放的な雰囲気を形成する。ガラス張りの窓は、昼間は外の光を取り込み、夜間は館内照明が行灯のように優しく街を照らし出す。児童開架は書架1.2mで、その奥に桑名市特産のハマグリを模した「おはなし室」がある。児童書架には読書用の図書と調べ学習用の図書の双方が用意され、子ども向けの「地域資料コーナー」も置かれている。おはなし室では、図書の読み聞かせ以外にもかるた大会など各種イベント会場として利用される。目の不自由な人のための「対面朗読室」も設置されている。 4階には郷土資料室のほかにインターネットや新聞社のデータベースを利用できる「ITコーナー」とビデオ・DVDなどが鑑賞できる「AVコーナー」がある。 ==利用案内== PFI導入前に比べて開館時間が長くなっただけでなく、年間開館日数が1割増加した。夜間時間帯(19時〜21時)の貸出利用者は半年に25,000人から35,000人と波があるものの、入館者数の増加へ確実に貢献している。これにより入館者数も増加し、1日平均2,114人が入館している。 貸出制限 ‐ 桑名市に居住・在勤・在学する者および周辺市町村(具体的には三重県四日市市、いなべ市、桑名郡木曽岬町、員弁郡東員町、三重郡朝日町・川越町・菰野町、愛知県弥富市・愛西市、岐阜県海津市)に居住する者貸出可能点数 ‐ 図書・雑誌10点、視聴覚資料2点貸出期間 ‐ 図書・雑誌15日間、視聴覚資料8日間開館時間 ‐ 9時 ‐ 21時休館日 ‐ 水曜日、年末年始、特別整理期間 ==PFIによる運営== PFIそのものの説明は「PFI」を参照。 桑名市立中央図書館のPFI方式では、桑名市当局が方針決定や図書選定などの決定権を持ち、図書館流通センターが方針に基づいて市側に提供するサービスや購入図書を提案する。事業内容が桑名市と図書館流通センターで重複しないよう、役割分担を明確にしている。 民間に任せることでサービスの低下が起きないよう、毎日図書館流通センターが自主点検を行い、月に1回桑名市がモニタリングを行う。ほかに問題発生時や緊急・非常時の「随時モニタリング」、市民モニターによる評価、利用者アンケートも行われる。 桑名市の採用したPFIは「サービス購入型」と呼ばれる方式で、利用実績・サービス実績に応じて桑名市では毎年事業者に支払うサービス購入料を変更する。利用実績で評価される「利用者数」は図書館への「入館者数」とは異なるが、桑名市の「利用者」の定義が広めにとられているので、ほぼ一致する。 ===利点と問題点=== PFI導入の最大のメリットは「安定した図書購入」であると言われている。従来は単年度で予算が組まれ、図書購入費の変動が激しかったが、開館から3年間は年間5万冊、以後は年間1万冊を購入すると決められたため、安定して新刊を購入し続けることができる。図書の購入は図書館流通センターが行い、市の組織である「図書等選定委員会」に報告するが、高価な図書や思想の偏りのある図書などは購入前に委員会に諮る必要がある。新刊は土曜日に配架される。 市側のメリットは歳出の削減と安定、事業者側のメリットは新規事業の獲得などが挙げられる。利用者にとっての最大のメリットは、開館時間の延長である。 明治大学経営学部の藤江昌嗣は、桑名市立中央図書館のPFI事業を特殊な例として評価する一方、問題点も指摘している。開館後30年で施設の所有権が桑名市に移ることになっている契約について、30年後に老朽化した施設を桑名市はどのように資金調達して更新(改築)するのか、と疑問を投げかけ、民間に任せたことで浮いた税金を他の用途に使っていることは将来へのリスクを高めているとした。また森下芳則は、企業連携・資金調達に民間のノウハウが生かされているが、図書館経営の面では特段の優位性はないと評した。 ===行政と業者の協働作業(図書館事業)=== 以下の6つの事業を協働して行っている。 レファレンスに関する研修会出前講座:小中学校向けの図書・図書館講座郷土資料・行政資料の収集・整理等「桑名市図書館を使った調べる学習コンクール」開催「昭和の記憶」収集郷土資料のデジタル化とインターネット公開 ==特色== ===情報技術を利用した効率化=== 図書には1冊ずつICタグが付けられており、利用者は自動貸出機(3台設置)を使って借りることができる。ICタグ導入は東海地方の図書館では初めてで、事業者側から提案された。これにより、図書の返却・貸出業務に当たっていた人員を図書館利用者へのサービス人員に振り替えることができた上、図書の紛失が激減するという効果もあった。学校図書館の蔵書もICタグ化して学校間の相互貸借、中央図書館との図書の往来も検討されたが、実現していない。 図書館の書庫は自動化されており、職員が「出納ステーション」で操作すると数分で自動的に書庫からカウンターに図書が届く。この自動化書庫は「オートライブ」と呼ばれ、利用者の待ち時間を大幅に短縮することに成功した。書庫がガラス張りになっているため、図書を運ぶバスケットの動きを見ることができるが、森下芳則は参考調査や蔵書管理に不都合はないのか、と疑問を発している。1階に設置されたブックポストも自動化する計画があったが、危険物の投入を想定して見送られた。 ===地域文化の活用=== 桑名市立中央図書館では郷土資料の収集を官民協働で行うことを決めていたため、開館前に図書館職員全員を対象とした郷土資料に関する研修を行い、職員全員が桑名の基本知識を修得している。研修で出題された問題と解答は館内ネットワークで参照できるようになっており、日常の利用者への案内に活用されている。 2006年(平成18年)度より年1回、「昭和の記憶」を展示する取り組みを行っている。これは業者側からの提案であったが、市では提案内容をさらに拡張し、市民に写真などの情報提供を求め、情報提供者の元へ聞き取り調査へ行く人も市民から募集した。この活動を通して市民から自然に情報が集まるようになり、開館から3年で目標としていた郷土資料の蔵書1万点を達成した。ここで収集された情報は桑名ふるさと検定の公式テキスト『桑名のいろは』にも収録され、同検定の問題になっているほか、将来的には市史編纂にも役立てる方針である。「昭和の記憶」事業では、収集資料のデジタル化も推進している。 収拾した郷土資料は、4階にある郷土資料室「歴史の蔵」に保存され、貴重書が含まれるため入室には申請が必要である。桑名市および三重県の資料を収集・保管する。江戸時代の史料や伊勢湾台風で被災した史料は帙(ちつ)の中で保存し、室内は自動温湿度管理システムと不活性ガスで資料劣化を防止している。主なコレクションに、古文書群である「秋山文庫」と「伊藤文庫」、民俗資料を中心とした「堀田文庫」、児童文学を中心とした「北村文庫」(北村けんじ寄贈図書)がある。 ===桑名市図書館を使った調べる学習コンクール=== 2005年(平成17年)に始まったコンクール。図書館を活用し、「知る喜び」を人に伝え、発表する場と位置付けられている。三重県で実施しているのは2012年(平成24年)現在、桑名市のみである。市のコンクールで上位成績を収めると全国コンクールへ出品される。 これに合わせて図書館では「調べる学習サポート教室」を実施している。教室では当初、外部講師を招いて開催していたが、後に図書館職員が研修を受けて開くようになった。この教室を受講して後に全国コンクールで受賞した子どももいる。 桑名市および全国のコンクールで入賞した作品の複製が一般書架・児童書架で常設展示されている。この展示に刺激を受けた子どもが作品を制作し、受賞するという効果も生まれている。 ==歴史== ===旧桑名市立図書館(1947‐2004)=== 終戦直後の1947年(昭和22年)4月15日に、市民の要望と寄付金を得て旧図書館令によって認可を受けた。当時の名称は「桑名市立図書館」であった。同年の予算は32,560円、蔵書は1,300冊と図書館としては不十分で、本格的に「図書館」としての機能を活かせるようになったのは1950年(昭和25年)の図書館法制定以降であった。翌1951年(昭和26年)3月に木造平屋建の旧桑名市議会議場を閲覧室とし、順次施設を拡張していった。1959年(昭和34年)時点で職員は3人、8時30分から16時30分まで開館し、休館日は火曜日であった。同年9月、伊勢湾台風の被害に遭い一時閉館、1960年(昭和35年)2月に業務を再開した。台風により、図書館の多くの資料が失われてしまった。 1968年(昭和43年)5月に旧桑名都市計画復興事務所へ移転、翌1969年(昭和44年)5月には鍛治町の旧診療所へ移転した。更に1973年(昭和48年)5月、旧桑名市役所庁舎へ移転した。この市庁舎は1952年(昭和27年)築であった。 1990年(平成2年)、AVブースを設置し、CD・ビデオ・LDの閲覧が可能となった。1996年(平成8年)時点では、2階建てで延床面積1,247m、蔵書は105,000冊であった。貴重書として桑名藩の儒者である秋山蝸庵・寒緑父子の残した『秋山文庫』と『伊藤文庫』を所蔵していた。旧図書館の蔵書は約13万冊であった。 ===PFI導入の検討(1999‐2004)=== 1990年代、桑名市が実施した市民アンケートで、新しい図書館の建設が最も多く挙げられた一方、保健センターと勤労青少年ホームを建て替える必要があった。3つの施設を建てるのは費用がかかるため、3つの機能を持つ1つの施設を建設することが検討された。1999年(平成11年)2月、「PFI推進検討会」を設置してPFIの導入可能性を検討し、2001年(平成13年)8月に正式にPFIを導入することを決定した。導入可能性の調査は日本経済研究所に委託された。桑名市が採用したPFIはBOT方式(英語版)と呼ばれるもので、民間が設計から建設、施設の所有と管理を行い、30年後に市へ無償で所有権を移すというものだった。計画段階ではくわなメディアライヴ全体にPFIを導入することを検討したが、民間に運営させてサービス向上できるものは図書館のみであると判断され、現在の形となった。事業参加の意思を表明した企業グループは8つであった。 2002年(平成14年)3月、総合評価一般競争入札を実施、6グループが入札に応じ、同年4月に鹿島建設を筆頭とするグループが76億2200万円で落札した。開館までには「PFI実施方針」に対し約500件、「入札説明書」に600件の質問が寄せられるなど、計画から図書館の完成までに5年8か月もかかったことが課題となった。 ===開館後(2004‐)=== 2002年(平成14年)7月に工事に着手、2004年(平成16年)7月に工事が完了した。そして2004年(平成16年)10月1日に開館。開館から1か月の入館者数は82,378人で旧館時代の4倍を記録した。1年目は見物を兼ねた入館者が多かったため、翌2005年(平成17年)度の入館者数は前年比10.1%減となった。 2005年(平成17年)度より「桑名市図書館を使った調べる学習コンクール」を開始、翌2006年(平成18年)度より「昭和の記憶」事業を始めた。2013年(平成25年)10月から2015年(平成27年)9月まで、「10年ありがとうイベント」と称して記念事業を開催した。 2017年(平成29年)11月以降、蔵書を破り表紙だけを書架に残して持ち去られるという事件が起きており、12月17日までに6冊が被害に遭った。図書館側は警告文の館内掲示や巡回強化で警戒に当たるとともに桑名警察署に被害届を提出している。 ==周辺== 図書館周辺は桑名市の中心市街地であり、JR・近鉄・養老鉄道桑名駅および三岐鉄道西桑名駅から徒歩6分である。路線バス利用の場合、K‐バス東部ルート乗車、桑名メディアライヴ前バス停からすぐ、または三重交通バス及び八風バス市役所前バス停から徒歩約3分である 三重県道504号桑名港線沿い。駐車場は当初50台だったが、利用者の安全のために38台に減らされ、駐車場不足が指摘されている。駐輪場は120台。 桑名市中央公民館桑名郵便局アピタ桑名店桑名市民会館桑名シティホテル =ワラキア= ワラキア(英語: Wallachia, Walachia [w*6859**6860*le*6861*ki*6862*]、ルーマニア語: Valahia [va*6863*lahi.a]、ハンガリー語: Havasalf*6864*ld [*6865*h*6866*v*6867**6868**6869*lf*6870*ld])は、ルーマニア南部の地方名である。ルーマニアの首都ブカレストがある地域で、かつては14世紀に建国されたワラキア公国があった。ここでは、古代に始まり、モルダヴィアと統合してルーマニア王国が成立するまでのワラキアの歴史を主に記す。 ==地理== ワラキアという地名は「ヴラフ人の国」という意味でルーマニア国外では慣用的に使われている呼称である。ルーマニア語には同義のヴァラヒア(Valahia)という呼び名もあるが、ルーマニア国内では「ルーマニア人の国」を意味するツァラ・ロムネヤスカ(*6871*ara Rom*6872*neasc*6873* [*6874*t*6875*sara rom*6876**6877*ne*6878*ask*6879*])のほうがより一般的である。 ワラキアはドナウ川の北、南カルパチア山脈の南に位置する。オルト川で東西を分け、東部をムンテニア、西部をオルテニアと呼ぶ。モルダヴィアとの境は、伝統的にミルコヴ川(Milcov River)となってきた。ドナウ川河口の南北を領するのはドブルジャである。 首都とされた都市は時代と共に移り変わり、クムプルング(C*6880*mpulung)からクルテア・デ・アルジェシュ、トゥルゴヴィシュテ、そして16世紀後半からブカレストが首都となった。 ==歴史== ===古代=== 第二次ダキア戦争(紀元105年頃)の際、オルテニア西部がダキア属州の一部となり、ワラキアの一部がモエシア属州(モエシア・インフェリオル、下モエシア)に併合された。ローマのリメスがオルト川沿いに建設された(119年)。2世紀中に国境線は東へわずかに伸び、ドナウ川からカルパチア山脈にあるルカル(Ruc*6881*r)へ拡張した。国境線は245年にオルト川まで退却し、271年にローマ人らはこの地域から撤退した(短期間のローマ支配で、ローマ文化とキリスト教が伝播した)。 ムレシュ=チェルナエホフ文化(Chernyakhov culture)をもたらしたゴート族やサルマタイ人や、さらに別の遊牧民族が、現在のルーマニアの大半を侵略した民族移動時代にも、ローマ文化の浸透は進んだ。328年、ローマ人がスキダヴァ(現在のゴルジュ県チェレイ)とオエスクス(現在のブルガリア・プレヴェン州ウルピア・エスクス)の間に橋を架けた。これはドナウ川北方の民族との大規模な交易があったことを示唆するものである。332年、コンスタンティヌス1世が、ドナウ川北岸に定住していたゴート族を攻撃し、その後コンスタンティヌス1世の下で短期間ワラキアが支配されていたことが立証されている。ゴート族はドナウ川北岸、のちに南岸に定住した。ゴート族支配は、フン族がパンノニア平原へ到着し、アッティラの統率下、ドナウ両岸にあった約170箇所のゴート族の定住地が攻撃され破壊されて終焉を迎えた。 ===中世=== 5世紀から6世紀にかけて東ローマ帝国の影響があったことは、イポテシュティ・クンデシュティ(Ipote*6882*ti‐C*6883*nde*6884*ti)の遺跡などにより明らかである。しかし6世紀半ばから7世紀にかけてスラヴ人がワラキアへ移動し始め、定住した。スラヴ人は東ローマへの経路にあたるドナウ南岸を占領した。593年、東ローマの将軍プリスクス(Priscus)はスラヴ人、アヴァール人、ゲピド人を打ち負かした。602年、スラヴ人は手ひどい敗退を喫した。マウリキウス帝は帝国軍にドナウ北岸へ展開するよう命じたが、軍の強固な反対に直面した。 ワラキアは、第一次ブルガリア帝国が681年に成立した際に支配され、10世紀後半にマジャル人がトランシルヴァニアを征服するまで続いた。ブルガリア帝国が(10世紀後半から1018年にかけ)衰え東ローマ帝国へ従属するようになると、10世紀から11世紀にかけ勢力を拡大してきたトルコ系のペチェネグ族がワラキアを支配下においた。1091年頃に南ロシアのクマン人がペチェネグ族を敗退させ、モルダヴィアとワラキアの領土を手中に入れた。10世紀初頭以降の東ローマ、ブルガリア、ハンガリーの文献、遅れて西欧の文献により、ルーマニア人(ヴラフ)の小勢力が、最初はトランシルヴァニアで、12世紀・13世紀にはトランシルヴァニア東部やカルパチア山脈南部で、クニャズ(Knyaz、公)やヴォイヴォド(Voivode、総督または知事)に率いられて乱立していたことが記録されている。 1241年、モンゴル人のヨーロッパ侵攻でクマン人支配は終焉を迎えた。ワラキアはモンゴルの直接支配を受けたと思われるが立証されていない。その後、ワラキアの一部はしばらくの間ハンガリー王国とブルガリア人の間の係争地となったようである。しかし、モンゴル侵攻を受けたハンガリー王国の極度の弱体化が手伝い、ワラキアでは新たに強固な諸勢力が確立されることになった。これら諸勢力は数十年間存続したことが実証されている。 ===公国の誕生=== ワラキアのヴォイヴォドについて初めて記された文献には、カルパチア山脈の両側の土地(トランシルヴァニアのハツェグ国を含む)を支配していたワラキア公リトヴォイ(Litovoi)に関連する記述が登場する(1272年)。リトヴォイはハンガリー王ラースロー4世へ朝貢することを拒んだとされる。リトヴォイの後を継いだのは弟のバルバト(B*6885*rbat、在位1285年‐1288年)であった。さらなるモンゴル侵攻(1285年‐1319年)でハンガリー国家の弱体化が続き、アールパード王家が崩壊したことでワラキア諸勢力の統合、そしてハンガリー支配からの脱却の道が開けた。 ワラキアの建国は、伝承によればワラキア公ラドゥ・ネグル(Radu Negru)の業績とされてきた。ラドゥ・ネグルは、歴史学上はオルト川の両岸に支配を確立しハンガリー王カーロイ1世に対し反乱を起こしたバサラブ1世に比定される。アルジェシュ地方のクネズ(首長)であったバサラブ1世は豪族たちをまとめ上げてバサラブ朝初代の公となり、クンプルングに宮廷をかまえた。バサラブ1世はファガラシュ、アムラシュ(Amla*6886*)、セヴェリンのバナトの領土をハンガリーへ割譲することを拒み、1330年のポサダの戦い(ルーマニア語版、ハンガリー語版、英語版)でカーロイ1世軍を撃破したことによってワラキア公国の独立が達成された。バサラブは東へ領土を拡張し、のちのベッサラビアとなる、ブジャクのキリアにまで至る領土を支配した。しかし、バサラブ1世の後継者らはキリアの支配を維持することができず、キリアは1334年頃ノガイ人によって奪われた。 バサラブ1世の次にワラキア公となったのはニコラエ・アレクサンドルで、ニコラエの次はヴラディスラヴ1世(Vladislav I)が継承した。ヴラディスラヴ1世は、ラヨシュ1世がドナウ川南部を占領するとトランシルヴァニアを攻撃した。1368年にヴラディスラヴ1世は、ラヨシュ1世を大王と認めることを余儀なくされたが、同じ年に再び反乱を起こした。ヴラディスラヴ1世の統治時代にはまた、最初のワラキア=オスマン帝国間の紛争が生じた。対トルコ戦でヴラディスラヴ1世はブルガリア皇帝イヴァン・シシュマン(Ivan Shishman)と同盟を結んだ。ワラキア公ラドゥ1世とその後継であるダン1世のもとでは、トランシルヴァニアとセヴェリンの領土がハンガリー王国との間で争われ続けていた。 バサラブ1世以降、ワラキアの統一的統治者は「公」(ルーマニア語:DomnまたはDomnitor、英語:Prince)と呼ばれる。それぞれが大土地所有者であるボイェリ(Boyar、ボヤールとも。封建貴族階級)は、自身の領地から賦役と十分の一税を取り立て、私兵を有する封建領主であった。建国より16世紀初頭まで公位はバサラブ朝の世襲であったが、長子相続制は確立されず、公家の男子なら誰にでも即位する資格があった。ボイェリ達は自分たちにとって都合のいい候補者を立てて、相争った。そのため、公権は弱体で、公は終身制と決まっているわけではなく、ごく短期で交替したり、同じ人物が2度、3度公位につくこともあった。 公は、役職者及び無官の大ボイェリによって構成される公室評議会に補佐されて統治を行った。役職には、宮廷における最高の役職である太政官(ヴォルニク)、公室宮廷の最重要役職である宮内卿(ロゴファット)、公国収入を処理する大蔵卿(ヴィスティエール)、儀式で公の刀剣を保持する公剣保持職(スパタール)、公室馬寮及び供奉車係の主馬寮(コミス)、公個室の管理に当たる侍従(ポステルニックまたはストラトルニック)、公及び公の客をもてなす内膳頭(ストルニック)、公室用ワインの管理・購入役の司厨職(パハルニックまたはチァシュニック)等が存在した。公は建前上、立法権、行政権、司法権、統帥権の全権を保有するとされていたが、その権力は公室評議会によって著しく制限されているのが実態であった。 ===1400年‐1600年=== ====ミルチャ1世からラドゥ大公の時代==== バルカン半島全体が、勃興したオスマン帝国の枢要部分となることで、ワラキアはトルコとの常習的な対決で時を費やされるようになった。ミルチャ1世(ミルチャ老公、在位1386‐1395年、1397‐1418年)時代末期にはワラキアはオスマン帝国の属国となった。 ミルチャ1世は初め数度の戦い(1394年のロヴィネの戦いを含む)でトルコを敗退させ、敵をドブルジャから駆逐して短期間ながら自身の支配をドナウ・デルタ、ドブルジャ、シリストラにまで広げた(1400―1404年頃)。彼は、神聖ローマ皇帝ジギスムントと同盟しながら、一方でポーランド・ヤギェウォ朝とも同盟を結んだ(どちらの国ともニコポリスの戦いで同盟した)。1417年、メフメト1世がトゥルヌ・マグレレとジュルジュを支配下においた後、ミルチャ1世はオスマン帝国の宗主権を受け入れた。この2つの港町は短期間の中断があったものの、1829年まで軍直轄地としてトルコの支配下におかれた。1418年から1420年、ミハイル1世(Mihail I)がセヴェリンでトルコを負かしたが、ミハイルはトルコの反撃で戦死した。1422年、ダン2世(Dan II)が、ハンガリー軍人ピッポ・スパノ(en:Pipo of Ozora)の助けを得てムラト2世軍を打ち負かし、対トルコ危機はしばらくの間ワラキアから遠ざかった。 1428年に和平が結ばれるとワラキア国内の危機に入った。ダン2世はラドゥ・プラスナグラヴァ(のちのラドゥ2世)から自身を防衛しなければならなかった。ラドゥは、既定のワラキア公に対抗して、率先してボイェリ連合と手を結んだ(当時、ボイェリらはトルコによる抑圧に応じて公然と親トルコとなっていた) 。1431年にボイェリ側は勝利を収め(ボイェリが後押しをしたアレクサンドル1世アルデアがワラキア公となった)、アルデアはおよそ5年間公位にあったが、ボイェリらはアルデアの異母弟ヴラド2世(Vrad II)から継続的に攻撃を受けた。そのヴラド2世にしても、やはりトルコの大宰相府と神聖ローマ帝国の間で妥協を図ろうとした 。しかし1444年のヴァルナの戦いでスルタン・ムラト2世軍にキリスト教国連合軍が大敗した後、ヴラド2世はトルコに従属する他なくなり、ハンガリーの将軍フニャディ・ヤーノシュと敵対するようになる。 その後の10年間は、同じバサラブ朝ながら、ダン1世に始まるダネシュティ家(en:House of D*6887*ne*6888*ti)とダン1世の甥のヴラド2世に始まるドラクレシュティ家(en:House of Dr*6889*cule*6890*ti)との公位争い、ハンガリー王国摂政となったフニャディ・ヤーノシュの影響力増大、ヴラディスラフ2世の中立的支配の後の、ヴラド2世の次男ヴラド3世の興隆が目立った。ヴラド3世時代に、ブカレストはワラキア公の居住地として初めて歴史上に名を現した。ヴラド3世は反抗的なボイェリたちに恐怖政治を敷き、ボイェリとオスマン帝国との全てのつながりを断ち切った。彼は1462年、トゥルゴヴィシュテの夜襲(en:The Night Attack)においてメフメト2世軍に打撃を与えたが、トゥルゴヴィシュテへ退却を強いられ、以前よりさらに多くの朝貢を飲まされた 。ヴラド3世時代には、イスラム教徒に改宗した実弟ラドゥ3世美男公やライオタ・バサラブとの対立が対トルコ戦と平行して続き、ハンガリー王マーチャーシュ1世軍のワラキア侵攻、モルダヴィア公シュテファン3世(シュテファン大公)のワラキア占領、ラドゥ3世によるワラキア征服とその死までの11年間の支配といった事態を招いた。1495年にワラキア公となったラドゥ・チェル・マーレ(ラドゥ大公)はボイェリらといくつかの妥協をし、彼はモルダヴィア公ボグダン3世との衝突があったものの、国内の安定した時代を守った。 ===ミフネア・チェル・ラウ公からペトル・チェルチェル公まで=== 15世紀後半には、有力なボイェリで、オルテニアのバン(総督)として事実上の独立した支配者であったクラヨヴェシュティ家からの公位就任がみられた。ワラキア公ミフネア・チェル・ラウ(ミフネア悪行公、ヴラド3世の子)と対立していたクラヨヴェシュティ家はオスマン帝国の支援を求め、ミフネアに替えてヴラドゥツ(Vl*6891*du*6892*)を公位につけた。このヴラドゥツがバンに対して敵意を示すと、バサラブ家はクラヨヴェシュティ家出身のワラキア公ネアゴエ・バサラブの台頭で公式に断絶した。ネアゴエ公の治めた平和な時代(1512年‐1521年)は、文化的興隆が特徴的で(クルテア・デ・アルジェシュ聖堂Curtea de Arge*6893* Cathedralの建設、ルネサンスの流入など)、また、ブラショフとシビウにおけるトランシルヴァニア・ザクセン人商人の影響が強くなった。そしてワラキアは、ハンガリー王ラヨシュ2世と同盟関係にあった。ネアゴエの子テオドシエ(Teodosie)がワラキア公となってから、再び4ヶ月間にわたるオスマン帝国の支配をうけ、ワラキアにおけるパシャルク(パシャ領)創設を目論んだとみられる軍政が敷かれた。この危機が、ワラキア公ラドゥ・デ・ラ・アフマツィ(Radu de la Afuma*6894*i)を支援すべく全てのボイェリを結集させた(彼は1522年から1529年にかけ、4度ワラキア公になっている)。ラドゥはクラヨヴェシュティ家とスレイマン1世との合意の後、戦いに敗れた。ラドゥ公は結局スレイマンの地位と宗主権を認証し、以前より多額の朝貢を納めることを承諾した 。 オスマン帝国の宗主権はそれから90年間を通じて事実上脅かされることなく続いた。1545年にスレイマンによって位を追われたワラキア公ラドゥ・パイシエは、同年にオスマン施政に対しブライラ港を譲渡した。ラドゥ・パイシエの後継ミルチャ・チョバヌル(en:Mircea Ciobanul、在位1558年‐1559年)は財産相続権を与えられることなく公位に就くことを強要され、そのために自治権縮小を呑んだ(徴税増額、および親トルコのハンガリー王位請求者サポヤイ・ヤーノシュを支援するためのトランシルヴァニアへの軍事介入実施)。ボイェリの一族らの間の対立がパトラシュク・チェル・ブン(P*6895*tra*6896*cu cel Bun)公時代以後緊迫し、ボイェリが支配者以上に優勢を誇ることが、ペトル・チェル・トゥナル(Petru cel T*6897*n*6898*r)公(1559―1568年、摂政ドアムナ・キアジナDoamna Chiajnaが執政し、徴税の高騰で知られる)、ミフネア・トゥルチトゥル、ペトル・チェルチェル時代には露骨となった。ボイェリたちは、西欧の貴族のような称号を持っていなくとも、財産にものを言わせて官職を買うことは可能であったし、そのうえイスタンブールのスルタンや大宰相に献金をすれば公という最高位も買えた。また、オスマン帝国の方も、古くからあるボイェリによるワラキア公選挙制を残しつつも、帝国の推す人物が有利になるよう買収を行うことは珍しくなかった。同時代のオスマン帝国領ハンガリーやバルカン諸民族と違い、ワラキア、トランシルヴァニア、モルダヴィアの3公国が帝国に占領されず、パシャ領にもならなかったのは事実である。しかし、帝国は上記の3公国を属国とみなしていたのである。 オスマン帝国は、オスマン帝国軍の物資供給と維持管理のため、ますますワラキアとモルダヴィアの徴税に頼っていった。一方で地元ワラキアの軍は、強いられる負担の増加や、傭兵軍のほうがはるかに効率的であることが明白となったことから、やがて消滅してしまった。 ===17世紀=== 当初はオスマン帝国の支援を利用して、1593年にミハイ勇敢公(en:Michael the Brave)がワラキア公位についた。ミハイはトランシルヴァニア公バートリ・ジグモンドとモルダヴィア公アロン・ヴォダ(Aron Vod*6899*)と同盟を結んだ上、ドナウの南北岸でムラト3世軍を攻撃した(カルガレニの戦い)。ミハイはやがて神聖ローマ皇帝ルドルフ2世の臣下に入り、1599年から1600年にはポーランド・リトアニア共和国時代のポーランド王ジグムント3世に対抗してトランシルヴァニアに干渉し、トランシルヴァニアをミハイの支配下に置いた。ミハイの支配は短かったものの、翌年にはモルダヴィアへ拡大した 。短期間ながらミハイはルーマニア人の住む全地域を統合し、古代ダキア王国の主要部を再興した。ミハイの没落につれて、ワラキアはシミオン・モヴィラ率いるポーランド=モルダヴィア連合軍に占領された(モルダヴィア・マグナート戦争Moldavian Magnate Wars)。モヴィラによる占領は1602年まで続いたが、同年にはトルコ系のノガイ人による攻撃を受けた。 オスマン帝国の拡大における最終局面では、ワラキアの緊張が増大した。政治支配に続き、オスマン帝国が経済的主導権を握り、首都であったトゥルゴヴィシュテが見捨てられブカレストが選ばれた(ブカレストはオスマン帝国との国境に近く、貿易中心地として急速に成長していた)。ミハイ勇敢公治下では荘園での収入増加策として農奴制が確立され、下級ボイェリらの重要性は薄れた(消滅を恐れた下級ボイェリらは1655年にセイメニの乱を起こした) 。その上、土地所有よりも高位官職に任命される重要度が増したことから、金で官位を買うべくギリシャ人とレバント人にすりより、これら一族の流入をもたらすことになった(ファナリオティスを参照。ギリシャ人らはワラキア人と同じ正教会信徒であり、金融業を営んでいたため富裕であった)。この過程は既に17世紀初頭のラドゥ・ミフネア公時代に地元ボイェリによって不快に思われていた 。ボイェリによって任命されたマテイ・バサラブは、1653年のフィンタの戦い(Battle of Finta。モルダヴィア公ヴァシレ・ルプを打ち負かした)を除けば、ワラキア公として比較的長い平和な時代をもたらした(1632年‐1654年)。フィンタの戦いの後にルプが公位を追われ、マテイ公の息のかかったゲオルゲ・シュテファンがヤシでモルダヴィア公位についた。ゲオルゲ・シュテファン公と、マテイの後継であるコンスタンティン・シェルバンの密接な同盟関係は、トランシルヴァニアの支配者ラーコーツィー・ジョルジ2世によって維持された。しかし、オスマン支配から独立するための3公国の計画は、1658年から1659年にかけ襲ったメフメト4世軍に打ち破られた。スルタンのお気に入りであったグリゴレ1世ギカとゲオルゲ・ギカの統治は、そのような反抗を未然に打ち砕くためのものであった。しかし、それが、ボイェリであるバレアヌ家(B*6900*leanu)とカンタクジノ家(ギリシャ人に始まるファナリオティスの家柄)との間の血なまぐさい衝突の引き金となった。この抗争は1680年代までワラキア史上の大事件であった。カンタクジノ家は、同盟を結んでいたバレアヌ家とギカ家に脅かされ、まずアントニエ・ヴォダやゲオルゲ・ドゥカといったカンタクジノ家が選んだワラキア公を後援し、後には同族からワラキア公を出した。それが1678年から10年間ワラキア公であったシェルバン・カンタクジノである。シェルバンはブカレストに公国初の学校を創立し、各種の活字印刷機の導入に同意した。シェルバンはルーマニア・キリル文字で書かれたルーマニア語訳聖書(通称カンタクジノ聖書)の編纂も命じた。この聖書はその後長きに渡ってルーマニア正教会で用いられた。 ===露土戦争とファナリオティス時代=== ワラキアは1690年前後の大トルコ戦争の終盤、ハプスブルク帝国(オーストリア)による侵攻の標的となった。当時、ワラキア公コンスタンティン・ブルンコヴェアヌ(英語版)は秘密裡に反オスマン連合を形成するための交渉を行っていたが失敗に終わった。ブルンコヴェアヌの統治時代(1688年‐1714年)は、後期ルネサンス文化(ブルンコヴェアヌ様式(英語版))が花開いたことで知られる。そして同時にロシア皇帝ピョートル1世(大帝) のもとで帝政ロシアが台頭した。 ブルンコヴェアヌは露土戦争 (1710年‐1711年) の最中ピョートル1世の接近を受けた。しかしスルタン・アフメト3世にロシアとの交渉を知られてしまい公位を失い、逮捕されイスタンブールへ連行された。そして3年後の1714年8月、ブルンコヴェアヌは4人の息子達と共に斬首刑に処された。ワラキア公シュテファン・カンタクジノ(英語版)は、ブルンコヴェアヌの政略を非難したにもかかわらず、自身も反オスマン帝国に回りハプスブルク家の計画に加わり、オイゲン・フォン・ザヴォイエン(プリンツ・オイゲン)率いるオーストリア軍に対しワラキアを通過できるようにした。カンタクジノも公位から追われ父・叔父と共にイスタンブールへ連行され、1716年に3人とも処刑された。 シュテファン・カンタクジノの廃位後すぐに、オスマン帝国は、単なる形式と堕していたワラキア公選挙制度を廃止した(既に当時、国民議会の重要性は低下し、スルタンの決定を覆すだけの力を失っていた)。ワラキア、モルダヴィア両公国の君主はイスタンブールのファナリオティスの中から任命されていた。モルダヴィアではディミトリエ・カンテミール公のあと、ニコラエ・マヴロコルダト(ルーマニア語版)が公に就任し、ファナリオティス支配はマヴロコルダト公によって1715年にワラキアへも導入された。ボイェリと公の間の緊張関係により、ボイェリの大多数に免税特権が与えられたことで徴税対象者が減り、その結果、公国全体の課税は増額された。マヴロコルダトは貨幣経済の成長を容認し、荘園制の衰退をもたらした。御前会議(Divan、最高会議とも)においてボイェリ集団の力が増大したのも事実である。 同時に、ワラキアはオスマン帝国対ロシア、またはオスマン対ハプスブルクの戦争の連続で、戦場となっていった。マヴロコルダット自身はボイェリの反乱によって公位を追われ、墺土戦争の最中にハプスブルク軍によって逮捕された。戦争後のパッサロヴィッツ条約でオスマン帝国はオルテニアを神聖ローマ皇帝カール6世へ割譲した。 オルテニアは啓蒙主義支配の影響を受け、すぐに地元ボイェリらが覚醒させられた。オルテニアは1739年のベオグラード条約によってワラキアへ復帰した(1737年から1739年にかけ起こったオーストリア・ロシア・トルコ戦争の結果)。国境線の変更を勝ち取ったワラキア公コンスタンティン・マヴロコルダト(英語版)は、1746年に農奴制の公式廃止を実施した(これには、重い負担にあえぐ農民が隣国のトランシルヴァニアへ大量移住するのを止める目的があった) 。この時代、オルテニアのバンは住居をクラヨーヴァからブカレストへ移し、またマヴロコルダトの命令で、バンの私的な財源を国庫に統合した。これが中央集権政権へと向かう流れとなった。 露土戦争 (1768年‐1774年) 最中の1768年, ワラキアはロシアによる最初の占領下におかれた(ワラキアのボイェリで、ロシア帝国軍の士官であった反トルコの首領、プルヴ・カンタクジノ(英語版)の反乱によってロシアは占領するのに有利であった)。1774年のキュチュク・カイナルジ条約は、オスマン帝国属国内に住む正教会信徒の保護をロシアに委ねたため、オスマン帝国による圧力が弱まり、ロシアの介入を許すことになった。この条約には義務となってきたトルコへの朝貢の減額も含まれていた。同時にトルコは、南ブーフ川とドニエプル川に挟まれた地域をロシアへ割譲したため、初めてロシア領土が黒海沿岸に達した。やがて国内は比較的安定し、ワラキアはさらにロシアの干渉を受けるようになった。 露土戦争 (1787年‐1791年) の最中、フリードリヒ・ヨージアス・フォン・ザクセン=コーブルク=ザールフェルト率いるハプスブルク軍がワラキアへ入国し、1789年にワラキア公ニコラエ・マヴロゲニ(ルーマニア語版)を退位させた。この危機に、オスマン帝国の影響が復活した。オルテニアはオスマン・パズヴァントグル(英語版)の遠征により荒らされた。パズヴァントグルは強力で反逆的なパシャで、パズヴァントグルの反乱の影響により、ワラキア公コンスタンティン・ハンゲルリ(英語版)が反逆罪の容疑をかけられ1799年に処刑されることにもなった。1806年、露土戦争 (1806年‐1812年) は、在ブカレストのワラキア公コンスタンティン・イプシランティ(英語版)が御前会議の決定によって退位させられたことが原因の一つとなって引き起こされた。この退位はナポレオン戦争の進展に合わせ、フランス第一帝政によって誘発されたのだった。これにはキュチュク・カイナルジ条約の影響がみてとれる(ワラキア及びモルダヴィアで構成されるドナウ公国(Danubian Principalities)ではロシアの政治的影響力に対して許容的な姿勢がみられた)。この戦争で、ワラキアはミハイル・アンドレイェヴィチ・ミロラドヴィチ将軍率いるロシア軍に占領された。 1812年のブカレスト和平条約後のヨアン・カラドジャ(英語版)公時代はペスト大流行(en:Caradja’s plague)で知られるが、また文化・産業の育成事業において知られている。この時代のワラキアは、ロシア帝国の拡大を警戒するヨーロッパ諸国の多くにとっての戦略上の要地となっていた。ブカレスト和平条約でロシアは正式にベッサラビアを併合し、モルダヴィア公国と近接するようになったためである。領事館がブカレストで開設され、スディツィ商人(オーストリア、ロシア、フランスに保護されたワラキア商人に対する名称)に対し恩恵を与え保護することを通し、間接的ながらワラキア経済への大きな効果を及ぼした。スディツィはやがて地元ギルドに対し競争力で優位に立った。 ===ワラキアからルーマニアへ=== ====19世紀初頭==== 1821年、ワラキア公アレクサンドル・スツの死は、ギリシャ独立戦争の勃発と同時期であった。スツの死によりボイェリによる摂政体制となり、スカルラト・カリマキ(Scarlat Callimachi)がブカレストで公位につくべくやってくるのを妨害しようとした。同時に起きた1821年のワラキア蜂起は、トゥドル・ウラジミレスクが民兵の首領として引き起こした。ウラジミレスクはギリシャ系による支配の転覆を狙っていた。しかしウラジミレスクはフィリキ・エテリアに属するギリシャ人革命家らと妥協し、摂政らと同盟した。その一方で、ロシアの支援を求めた 。 1821年3月21日、ウラジミレスクはブカレストへ入った。その後数週間で、特にウラジミレスクがオスマン軍に対抗する準備をしながらもオスマン帝国と合意を得ようとしたため、ウラジミレスクと同盟者の間の関係は悪化した。フィリキ・エテリアの指導者アレクサンドル・イプシランチはモルダヴィアで蜂起した。その後5月、ワラキア北部で、同盟が崩壊したと見て、イプシランチはウラジミレスクを捕らえ処刑した。このためにイプシランチは、ウラジミレスク側についていたパンドゥル(Pandur、民兵組織)やロシア帝国の後ろ盾なしに、侵攻してきたスルタンの軍と直面することとなった。イプシランチ軍はブカレストとドラガシャニで大敗を喫した(イプシランチはオーストリア帝国へ逃亡し、トランシルヴァニアで監禁されることになる)。これらの反乱でファナリオティスの大多数がイプシランチ率いるフィリキ・エテリアを支持したのを受け、スルタン・マフムト2世は公国を占領し(ヨーロッパ諸国の要請で放棄させられる)、また、ファナリオティス支配の終結を裁定した。ワラキアでは、1715年以降初となるワラキア出身の公グリゴレ4世ギカが即位した。ワラキアの残部を国家領土として新体制が発足したが、ギカによる支配は露土戦争 (1828年‐1829年)による破壊で短期間に断ち切られた。 1829年のアドリアノープル条約で、オスマン帝国の宗主権が打倒されることなく、ワラキアとモルダヴィアはロシア軍政下におかれ、両国には初の合同行政組織と擬似的憲法である「組織規定」(Regulamentul Organic)が与えられた。オスマン帝国は、それまでの軍直轄地ブライラ、ジュルジュ(この2都市はやがてドナウ川沿いの主要通商都市へと発展していく)、トゥルヌ・マグレレをワラキアへ返還した 。条約により、ワラキアとモルダヴィアにはオスマン帝国以外の国との自由貿易が許可され、高い経済成長と都市の発展、農民の生活状況改善につながった。多くの条項が、1826年のロシア=トルコ間のアッケルマン条約によって規定された(ただし3年間の履行期間中に完全に履行されることはなかった)。両公国の統治権限はロシアの将軍パーヴェル・キセリョフに委ねられた。この時期には、ワラキア軍の再設立(1831年)、税法改正(それでもなお特権階級のための免税措置は維持された)、ブカレストや他都市における大規模な都市基盤整備など、大きな変化が続いた。1834年、ワラキアの公位はアレクサンドル2世ギカが得た。アドリアノープル条約に反し、ギカは新たに設立された立法議会によって選ばれていなかった。ギカは1842年に宗主国(ロシアとオスマン帝国)から地位を追われ、議会が認定した公ゲオルゲ・ビベスクに取って代わられた。 ===1840年代から1850年代=== アレクサンドル2世ギカの専横と厳しい保守主義支配に対する抵抗や、自由主義の台頭と急進主義の勃興は、イオン・クムピネアヌ(Ion C*6901*mpineanu)による抗議活動の形で初めて表面化した(瞬く間に弾圧された)。そのためにますます政府打倒の陰謀が増え、ニコラエ・バルチェスクやミティカ・フィリペスク(Mitic*6902* Filipescu)といった若い士官らによって結成された秘密結社に勢力が結集していった。 1843年に結成された秘密結社フラツィア(Fr*6903**6904*ia、ルーマニア語で友愛)は、1848年にはゲオルゲ・ビベスク政権を倒す革命、および組織規定(Regulamentul Organic)の無効化を計画し始めた(ヨーロッパ諸国で起きた1848年革命に触発されていた)。フラツィアらのワラキア全土クーデターは最初、群衆が6月9日(新暦では6月21日)のイスラズ宣言(en:Islaz Proclamation)に喝采をおくったトゥルヌ・マグレレ付近で成功しただけであった。宣言には、外国による保護制廃止、完全独立、農地解放、国民防衛隊の創設が盛り込まれていた。6月11日から12日、運動はビベスク公を退位させることに成功し、臨時政府が設立された。オスマン帝国は、革命の反ロシア的な目的に共感を感じていたものの、ロシアの圧力で革命運動を押さえつけた。トルコ軍は9月13日、ブカレストへ入った。ロシアとトルコの軍は、1851年まで占領を続けた。退位したビベスク公の次にワラキア公となったのは、ロシア皇帝とスルタンから指名されたバルブ・ディミトリエ・シュティルベイで、革命関係者の多くが国外へ亡命した。 クリミア戦争の間ロシアによるワラキア占領が事実上再開され、戦後にワラキアとモルダヴィアは中立国オーストリア帝国管理(1854年‐1856年)におかれ、パリ条約に基づいて新たな地位を与えられた。条約には、オスマン帝国による宗主権をヨーロッパ列強(イギリス、フランス第二帝政、サルデーニャ王国、オーストリア帝国、プロイセン王国、ロシア帝国)の保障付きで認めること、列強の会議、カイマカム(en:kaymakam、トルコの地方長官職)主導の内政管理などが盛り込まれていた。ドナウ公国合同を目指す運動(最初1848年に要求され、亡命した革命家の帰還によって強固になった)が持ち上がり、フランス帝国とサルデーニャ、ロシア、プロイセンが援護した。しかし、他のすべての保護国は拒絶するか不審視した。 激しい運動の後、正式なモルドヴィア=ワラキア合同公国が最終的に承認された。協定によってそれぞれの公国は、現地出身の公と議会と選挙制議会を持つものの、両公国共通の司法裁判所を持つことになった。ボイェリの特権はこの時に廃止された。それにもかかわらず、1859年の暫定議会(Ad hoc Divans)選挙は法解釈の余地を突くことができるものであった(最終合意の原文には両公国それぞれの公位を明文化していたが、同時に一人の人物が、ブカレストのワラキア議会と、ヤシのモルダヴィア議会での選挙に立候補し当選することを妨げなかった)。自由主義政党パルティダ・ナツィオナラ(Partida Na*6905*ional*6906*)の合同主義者として立候補した軍人アレクサンドル・ヨアン・クザが、1月5日にモルダヴィアでモルダヴィア公に選出された。同様の投票結果が得られると合同主義者らが予想したワラキアでは、最高会議において多くの反合同主義者が返り咲きを果たし多数派となった。 このような状況で、ブカレストに集まった群衆が抗議行動を起こすと、議員らの支持傾向に変化が生じた。2月5日(旧暦では1月24日)、クザがワラキア公に選出された。これに伴いクザはモルドヴィア=ワラキア合同公国の公(Domnitor)として承認された(ルーマニア公国の成立、1861年以後はルーマニア公となる)。これで事実上の合同を果たしたのだが、合同公国が国際的に承認されたのはクザ一代の在位期間のみで、後任の公の在位期間における効力はなかった。クザは7年に及ぶ在位の間、寄進修道院所領の世俗化、農地改革、メートル法採用、刑法典と民法典整備(ナポレオン法典を模範とする)、教育制度整備を行った。これらの改革活動によってクザは保守・自由両派と対立を繰り返すようになった。クザが支持を失い1866年2月に退位させられた後、合同を維持することを第一に考えた臨時政府は、ホーエンツォレルン=ジグマリンゲン家のカール公子(カロル1世)を新たな公に選んだ。同年7月1日に憲法が制定され(1866年7月1日憲法)、正式に国名がルーマニアとなった。カロルの即位以後、両公国の合同は解消できないことになった(普墺戦争と同時期であった。この時オーストリアは決定に反対の立場をとったが、干渉する立場になかった)。 サン・ステファノ条約、ベルリン会議を経て、ルーマニア王国が独立国家として正式に列強から承認されるのは、1881年のことである。 ==関連項目== オルテニアムンテニア =ヨークシャー= ==概要== スコットランドが独立すると言うなら、ヨークシャーだってそうする資格がある。 ― バーナード・インガム(サッチャー首相の報道官) (”If the Scots can have independence, then in terms of being a viable unit Yorkshire can too. ” ‐ Bernard Ingham) 「ヨークシャー」という地方概念が確立されたのは9世紀に遡り、単一の地方としては、イギリスで最大の面積をもつ。面積はおおよそ1万5000kmで、おおむね日本の岩手県と等しい。面積比では「ヨークシャー」はイングランドの国土の約12%を占めている。この割合を日本に当てはめると九州全域と四国の半分を合わせたものに相当する。ヨークシャーの人口規模(約530万・2011年現在)はアイルランド、デンマーク、ノルウェー、フィンランド、ニュージーランドなどの国家に匹敵し、アメリカの14の州よりも多い。 「ヨークシャー」は他の地方と比べて著しく広いため、歴史的に何度も、いくつかに分割して行政などの機能を振り分ける試みが行われてきた。しかしそうした試みは常に議論を呼んできた。19世紀以降、とくに1970年代以降に地方再編が繰り返されており、地方区分の法的位置づけ、名称、範囲などが変わっている。このため厳密な意味での「ヨークシャー」は年代によって違いがある。こうした経緯にも関わらず、「ヨークシャー」は地理・文化の観点で一体の地方とみなされており、古典的な「ヨークシャー」概念は様々な場面で今も用いられている。 本項ではもっぱら古典的な「Yorkshire」を「ヨーク地方」とし、特定の時期や地方自治制度の文脈に限って「ヨークシャー」などの表現を用いることとする。一般的に、ヨーク地方は、自然が豊かな地域とみなされている。広大で、大都市のまわりにも、昔のままのカントリーサイドの風景が残されている。ヨークシャー・デイルズ(Yorkshire Dales)やノース・ヨーク・ムーア(North York Moors)がその典型である。ヨーク地方はしばしば「神の恵みの土地(God’s Own Country)」と称される 。 ヨークシャーの紋章は「ヨークの白薔薇(White Rose of York)」である。これはかつてのヨーク王家の紋章であり、青地に白薔薇の旗がヨークシャーの旗としてよく使われている。この旗は50年ほど使われてきたが、2008年7月29日に正式化された。1975年以来、毎年8月1日は、ヨーク地方の歴史、文化、方言を記念した「ヨークシャーの日(Yorkshire Day)」となっている。 ==名称・語源と範囲== 「ヨークシャー(Yorkshire)」は、後述するように、「カウンティ」と呼ばれるイギリスの伝統的な地方区分のなかでも最大の面積があり、2位のリンカンシャーと3位のデヴォンシャーを合わせたより広い。この広さゆえに、ヨークシャーは古くから3つの「ライディング」という下位区分にわけられていた。 日本の文献での訳語は様々である。「ヨークシャー」「ヨークシア」「ヨークシァ」「ヨーク地方」「ヨークシャー県」「ヨーク県」「ヨーク州」などと表記されてきた。古い文献の中には、ふつうの「カウンティ」を「県」、ヨークシャーを「州」と区別して和訳するものもある。近年の文献では、「シャー」とつくものは「ヨークシャー」「ヘリフォードシャー」とそのままにし、「シャー」のつかないものに「コーンウォール州」「デヴォン州」としている例もある。 ===「ヨーク」=== ヨーク地方は、この地方の中心地であったヨークという都市名からその名をとられている。古代ローマ時代の都市名「エボラクム」(Eboracum)が、アングロ・サクソンの古英語「エオフォヴィック(Eoforw*8397*c)」、デーン人(ヴァイキング)風の「ヨルヴィック(J*8398*rv*8399*k)」を経て「ヨーク(York)」に転訛したものである。 ローマ人が名付けた「エボラクム」の語源には諸説あるが、「イチイ(ebor)の木があるところ(‐cum)」の意味だったとする説が一般的である。このほか、「エブロス族の居住地があった場所」との解釈もあるが、「エブロス族」の名称はイチイの木から来ていると考えられており、いずれにしてもイチイの木が関わっていると考えられている。これがアングロ・サクソン人の「エオフォヴィック」に置き換わった際に、「野猪(エオフェル)」と同じ音を持つことから、イノシシがヨークのシンボルになっていった。 ===「シャー」=== 「ヨークシャー(Yorkshire)」の接尾語の「シャー(Shire)」は、行政上の区域や地域を表す言葉である。もともとはローマ人が去った後イングランド島に入ってきたサクソン人の言葉で、首長や豪族の領地を指す「scir」という語だった。のちに「scir」が転訛して「shire」となった。9世紀後半のアルフレッド大王が各地に王領「shire」を置き、10世紀のエドガー平和王は「州(シャー)」‐「郡(ハンドレッド)」‐「十人組(タイジング)」という地方統治の制度を敷いたことで「シャー」が地方区分の基本単位となっていった。「shire(シャー、シア、あるいはシャイア)」は地方ごとの発音の違いがあり、「シャー」/‐*8400**8401*/のほか、「シア」/‐*8402*i*8403*/のように発音されることもある 。 ===「カウンティ」=== イングランド島は主にデーン人からなるヴァイキングの侵略を受け、中部から北部にかけてはヴァイキングたちが住み着いた。ヴァイキングたちとアングロ人・サクソン人たちは争ったが、最終的にはノルマン人がやってきてイングランド全土を征服した(ノルマン・コンクエスト)。「shire」に相当するノルマン人の言葉は「county」(カウンティ)であり、「シャー」と「カウンティ」は地方区分を表すおおよそ同義の語として用いられた。 ヨークシャーほか、イングランドの多くの「カウンティ」では固有名の語尾に「‐シャー」がつく。「ケント(州)」や「サセックスのように固有名に「‐シャー」が付かない「カウンティ」もあれば、「デヴォンシャー」のように、かつては「‐シャー」がついていたが今では単に「デヴォン(州)」と呼ぶようになった「カウンティ」もある。この地方区分は長いところでは1000年以上も用いられており、地方自治制度の改革によって公式な区割りや名称が大きく変わった後も、「歴史的カウンティ(historic county)」と称して一般的に用いられている。 ===「ライディング」=== こうした地方区分のなかで、特に広い地方では下位の地方区分が設けられたところもある。これらの下位区分を表す語は地方ごとに異なっている。例えば「リンカンシャー」では「パート(part)」と称し、「サセックス」では「ウェスト・サセックス(West Sussex)」のように単に「西」とか「東」などを頭につけただけの地方もある。 「ヨークシャー」の場合には、3つの「ライディング(riding)」に分割されていた。 「ライディング(riding)」というのは、デーン人の「thridding」やヴァイキングの「Threthingr」という言葉に由来し 、意味は「/3部分」である。「ヨークシャー」は、「イースト・ライディング(東部)」、「ウエスト・ライディング(西部)」、「ノース・ライディング(北部)」に3等分されていた。これらの「ライディング」はそれぞれに政庁が置かれ、これらの中央に「ヨーク市(Ainsty of York、Ainsty参照)」があった。 「ライディング」という下位区分は、一時的に、近隣の他の「シャー」でも使っていた事があるが、それが極めて短い期間なので、「ライディング」は実質的に「ヨークシャー」固有の区分である。このため現代英語では単に「ライディング(Riding)」と言えば「ヨークシャー」の下位地方区分のことを指す。日本語文献では「区」という訳語を当てる場合もある。 1974年に「ヨークシャー」の下位区分としての3つの「ライディング」は廃止になり、「ヨーク市」は新設の「ノース・ヨークシャー」というカウンティ(county、「州/郡」)に組み込まれた。これは後にヨーク合同庁(York Unitary Authority)の一部になった。 詳細は下記記事を参照。ライディング (区)(英語: Riding (country subdivision)) ノース・ライディング・オブ・ヨークシャー(英語: North Riding of Yorkshire) イースト・ライディング・オブ・ヨークシャー ウエスト・ライディング・オブ・ヨークシャー(英語: West Riding of Yorkshire)ライディング (区)(英語: Riding (country subdivision))ノース・ライディング・オブ・ヨークシャー(英語: North Riding of Yorkshire)イースト・ライディング・オブ・ヨークシャーウエスト・ライディング・オブ・ヨークシャー(英語: West Riding of Yorkshire) ===1970年代の改革と「ヨークシャー」の廃止=== イギリスでは1970年代に地方自治の枠組みが大きく変わった。従来の伝統的な39の「カウンティ」から、新たに46の「カウンティ」となった。新しい「カウンティ」は大都市圏の「都市カウンティ」6、それ以外の「非都市カウンティ」40からなる。 詳細はイングランドの都市および非都市カウンティ参照。1972年の地方行政法(Local Government Act 1972)に基づいて、ヨークシャーの3つの「ライディング」と「ヨーク市」という枠組みは1974年に廃止された。 従前のヨークシャーの大部分は4分割され、「ノース・ヨークシャー」、「ウェスト・ヨークシャー」、「サウス・ヨークシャー」、ハンバーサイド(Humberside)」になった。しかし従来の「ノースライディング」と新しい「ノースヨークシャー」は大きく範囲が異なるし、「ウェスト」「サウス」でも同様である。従来の「イースト・ライディング」の大部分は「ハンバーサイド」に含まれることになったが、「ハンバーサイド」にはハンバー河の対岸で従前は「リンカンシャー」だった地域が相当含まれていた。北の方では、これまでノース・ライディングの一部だったミドルズブラが新しく出来た「クリーヴランド」(Cleveland)という「カウンティ」に含まれることになった。このほか、あちこちの地域がかつての「ヨークシャー」から外されて隣の「カウンティ」へ移管になった。 この改革は不評で、様々な批判が出た。ウェールズ公チャールズや、政府関係者の中にも、伝統的な地域性や郷土愛を無視した変更だと言い放つ者がいた。伝統的な地方区分を重視するヨークシャー・ライディング協会(Yorkshire Ridings Society)などの団体が政治的な働きかけを行った。 ===1990年代の改革と「リージョン」=== 1990年代に新たな地方区分が導入された。まず、イングランド全体を「リージョン(region)」という大区分に分けた。従前のヨーク地方の大部分とそれまでの「ハンバーサイド」は新たに「ヨークシャー・アンド・ザ・ハンバー」を構成することになった。 「イースト・ライディング・オブ・ヨークシャー(East Riding of Yorkshire)」は以前よりも範囲が少し狭くなって復活した。境界は若干の違いがあるが、かつての「ヨークシャー」の大部分は現在「ヨークシャー・アンド・ザ・ハンバー地方リージョン」(Yorkshire and the Humber region)になっている。 新たな「ヨークシャー・アンド・ザ・ハンバー」は以前の「リンカーンシャー」の北部を僅かに含んでいる。そのかわり、以前の「ノース・ヨークシャー」の一部(ミドルズバラ(Middlesbrough)とレッドカー・アンド・クリーヴランド(Redcar and Cleveland))がノース・イースト・イングランド地方リージョンに含まれることになった。 ほかにも、かつて「ヨークシャー」に含まれていた地域で、他の行政区域へ管轄が変わったところがある。 ノース・ウェスト・イングランド(地方リージョン)へ移った地域サドルワース(Saddleworth)は「グレーター・マンチェスター」へ ボウランド森林地帯(Forest of Bowland)は「ランカシャー」へ セドバー(Sedbergh)は「カンブリア」へ デント(Dent)は「カンブリア」へサドルワース(Saddleworth)は「グレーター・マンチェスター」へボウランド森林地帯(Forest of Bowland)は「ランカシャー」へセドバー(Sedbergh)は「カンブリア」へデント(Dent)は「カンブリア」へノース・イースト・イングランド(地方リージョン)へ移った地域ティーズデイル(Teesdale)の一部は「ダラム(郡)(County Durham)」へ詳細は下記記事を参照。 詳細はHistory of local government in Yorkshireを参照。古典的な概念についてはイングランドのカウンティ、歴史的カウンティ(Historic counties of England)1888年‐1974年についてはイングランドの行政カウンティ1990年代以降についてはイングランドの典礼カウンティ大都市圏についてはイングランドの都市および非都市カウンティYorkshire and the Humber ===面積と人口の変遷=== イギリスでは急増する人口と食糧問題に対処するため、1801年に人口調査が行われた。上表は2001年に人口統計200年を記念してイギリスの国家統計局から発表されたデータである。はっきりした数字がわかっている1831年以降、ヨーク地方の面積は概ね390万エーカー(約15800km)弱で推移している。その間、1844年の区割り変更(Counties (Detached Parts) Act 1844)でクレイク村(Crayke)を北ヨーク地方へ編入したことで面積が増えている。1970年代の大改革でヨーク地方からハンバーサイドが分割されるなどしたため、1971年と1981年の間で大きく面積が減少している。そのため単純比較は難しいが、国家統計局では200年の間にヨーク地方の人口は約5倍になったと結論づけている。 ==地理・地勢== イングランドでは、西からの湿った卓越風がペナイン山脈にあたって、山脈の西側や中央部でたくさんの雨を降らせる。そのあと、乾いて高温の下降気流となってヨーク地方のある東部へ降りてくる。このため、一般に寒冷・湿潤なイングランドのなかでも、ヨーク地方は比較的高温で乾燥している。 温暖湿潤なイングランド南部に比べると農耕に適さない一方、鉱産資源には富む。農耕に適したイングランド南部は古くから交易が盛んで文化が多様に変化・発達したのに比べると、北部のヨーク地方では古い文化がそのまま長く維持された。 ===ヨーク地方の範囲=== 古典的なヨーク地方の範囲はおおよそ次の通りである。 北はティーズ川(River Tees)南はハンバー川(Humber)、ドン川(Rivers Don)とその支流シーフ川(River Sheaf)東は北海の海岸まで西はペナイン山脈の西斜面に沿って蛇行し、ティーズ川にあたるまで。 ===「デイル」=== イギリス英語の「dale(デイル、デール)」は、「hill(ヒル、丘)」と「hill」のあいだの窪地を指す言葉である。一般の英和辞書では「谷」「谷あい」「盆地」などの訳語があてられるが、急流が削った険しい日本の「谷」とは大きく様相が異なっている。dale(デイル)地形は氷河によって削られてできたものであり、なだらかである。また、「dale」は地形的に広い範囲をカバーする語であり、「dale」のなかに谷川(valley)や川(river)が流れ、集落、耕作地、森林などが分布している。そのため「デイル」は風光明媚な場所とみなされている。 ヨーク地方には数多くの「デイル」地域がある。特にヨーク地方西部のペナイン山脈一帯は広範囲に及ぶ「デイル」地域で、「ヨークシャー・デイル」(Yorkshire Dales)と呼ばれている。ヨークシャー・デイルには数多くの川があり、川毎に流域が「デイル」と呼ばれている。たとえばスウェイル川(River Swale)の流域は「スウェイルデイル(Swaledale)」といった具合である。スウェイルデイルはイギリスの田園風景の保全活動の最初のモデルになった地域であり、ヨーク地方を代表する「デイル」である。 ===水系=== 古典的な「ヨーク地方」の範囲と、その下位区分である「ライディング」の境界は、主に川によって定められていた。ヨーク地方の南限はハンバー川で、「東ライディング」と「北ライディング」の境界はダーウェント川だった。「西ライディング」と「北ライディング」の境界はウーズ川と、ユア川・ニッド川の分水界だった。 ヨーク地方を流れる川のほとんどはウーズ川を経てハンバーに注いでいる。このほかの主な川は、ティーズ川、エスク川、ハル川である。ヨーク地方の河川は各地で水路によって連結されている。 ペナイン山脈の西側では、リブル川(River Ribble)が西のアイルランド海に向かって流れ、ランカシャーのリザムセントアンズ(Lytham St Annes)で海に出ている。 運河・水路については交通節参照。 ===ハンバー(川)=== 北から来るウーズ川(River Ouse)と、南から来るトレント川の合流地点より下流側の水域をハンバー川(HumberまたはHumber Estuary)と呼んでいる。ハンバー川は伝統的なヨーク地方の南限を区切る水域で、「川」というよりは巨大な三角江である。ハンバー川に面する都市ハルのあたりで川幅は2.5kmほどあり、「河口」に相当する北海沿岸ではその4倍ほどの幅に広がっている。1981年に架けられたハンバー橋(Humber Bridge)は全長約2.2kmあり、完成当時は世界最長の吊り橋だった。1998年に日本の明石海峡大橋が完成し、これを上回るものとなった。「ハンバー(Humber)」というのは古代西ゲルマン語の方言と考えられているが、その意味はわかっていない。中世初期にブリタニアに侵入したアングロ・サクソン人は、ハンバー川より北の地域を「Nor*8404*hymbre(North of Humberの意味)」と呼び、これが「ノーサンブリア(Northumbria)」という地名になった。 詳細はHumber参照。 ===ウーズ水系=== 西部・中央部の河川の多くはウーズ川(River Ouse)の支流で、ウーズ川はハンバー川(Humber Estuary)を経て北海に注ぐ。 ウーズ川の北部はユア川(River Ure)と呼ばれている。ユア川はウーズ川の各支流のなかで最も水量が多い川で、アエガスの滝(Aysgarth Falls)などでも知られている。上流はウェンズレー谷(ウェンズレーデイル)(Wensleydale)と呼ばれており、特産のウェンズリーデールチーズ(Wensleydale cheese)でよく知られている。ユア川はバラブリッジの町(Boroughbridge)で北から流れてきたスウェイル川を合わせ、グレートウーズバーン村(Great Ouseburn)の近くでウーズ沢(Ouse Gill Beck)が合流する。ここから下流側をウーズ川と名前が変わる。 スウェイル川(River Swale)は水系のなかでも最も北を流れている。源流は北ヨーク地方のケルド(Keld)にあるバークデイル(Birkdale)に発する。そこから東へ流れ、北ヨーク地方の代表都市リッチモンド(Richmond)に至る。これらの地域は「スウェイル谷(スウェイルデイル、(Swaledale))」と呼ばれている。そのあと南へ転じ、モウブレイ低地(Vale of Mowbray)を蛇行してユア川に注ぐ。 ニッド川(River Nidd)はヨークシャー渓谷国立公園(Yorkshire Dales National Park)の端部に発する。流域はニダー谷(ニダーデイル、(Nidderdale))と呼ばれており、昔のままの景観を残した観光地となっている。川の上流付近からは水路が分岐してブラッドフォードで利用されているため、ニッド川の本流は水量が少なく、大雨の時しか水位が上がらない。 ワーフ川(River Wharfe)はヨーク地方で最も流れが速い川の一つである。流域はワーフ谷(ワーフデイル、(Wharfedale))と呼ばれている。タドカスター(Tadcaster)を経て、カーウッド村(Cawood)の手前でウーズ川に合流する。 エア川(River Aire)とその支流のカルダー川(River Calder)はウーズ川水系の中でも南方を流れている。エア川はペナイン山脈のマルヘム池(Malham Tarn)に発し、エアギャップ(Aire Gap)という断層の谷を流れてくる。エア川の源流は砂岩地域の泥炭層で、石灰岩地帯を経由しないために水が軟水になっており、それが流域の毛織物産業の発達につながった。中流にはヨーク地方の最大都市で羊毛産業の中心地として栄えたリーズがあり、リーズ・リヴァプール運河(Leeds and Liverpool Canal)が並走している。 リーズの下流で合流するカルダー川は、源流は美しい自然で知られているが、中流にはウェイクフィールドをはじめ、多くの重工業都市が並んでおり、かつては長年にわたる深刻な水質汚染に悩まされた。川魚も全く姿を消し、その後の水質の改善の取り組みが続けられた。1990年代になって、清流とまでは言えないまでも、マスなどが戻ってくる程度には回復した。カルダー川とエア川は、ウェイクフィールドとリーズの間エア=カルダー水路(Aire and Calder Navigation)で接続されており、この水路はそのままウーズ川下流のグールの町(Goole)まで繋がっている。 ウーズ水系で一番南側の支流はドン川(River Don)である。ドン川はサールストン・ムーア(Thurlstone Moor)に発し、シェフィールド、ロザラム、ドンカスターなどの大都市を流れて北へ向かう。かつては水質が悪かったが、近年は魚が棲む程度に回復している。 北東側を流れる支流がダーウェント川(River Derwent)である。ダーウェント川はノース・ヨーク・ムーア(North York Moors)に発し、南にむかって流れたあと西向きに転じ、ピカリング盆地(Vale of Pickering)に入る。盆地をぬけると再び南流してヨーク盆地の東側を流れ、バムビー村(Barmby on the Marsh)でウーズ川に合流する。 ユア川から名前が変わったウーズ川の本流はニッド川を合わせたあと、ヨーク市に入る。さらにヨーク城付近で左岸からフォス川(River Foss)を合わせる。かつてはこの合流地点が、北海からハンバー川、ウーズ川を船で遡上することができる北限だった。その後、ワーフ川、ダーウェント川をあわせながら蛇行し、エア川をあわせてグール(Goole)に出る。グールから下流は川が広く深くなっているので、グールはかつて港町として栄えた。その後は南からドン川をあわせ、ハンバー川に注ぐ。 ===その他の水系=== ティーズ川(River Tees)はヨーク地方の一番北側を流れ、ダラム州との地方境になっている。川はペナイン山脈のクロスフェル山(Cross Fell)に発し、東へ流れる。流域はティーズ谷(ティーズデイル、チーズデイル、(Teesdale))と呼ばれ、州境をまたいだ両岸が一帯の地域とみなされる場合もある。川は比較的流れが早く、特に降雨時の影響が端的に顕れやすい。ミドルズブラ市の下流で北海に注いでいる。 同じくヨーク地方北部を流れるエスク川(River Esk)は、ノース・ヨーク・ムーアに発して東流し、ウィットビーの町で北海に注いでいる。 ヨーク台地(ヨークシャー・ウォルズ、Yorkshire Wolds)の東部にはハル川(River Hull)が南へむかって流れており、ハル市でハンバー川に注いでいる。 ===大地形=== 詳細はGeology of YorkshireおよびList of places in Yorkshireを参照 ===ペナイン(山脈)=== 「ペナイン山脈」は北イングランドから南スコットランドにかけて、島の中央部を南北に連なっている。高さはおおむね標高2000フィート(約600m)。夾炭層、珪質砂岩、石灰岩が層をなしていて、南へ行くほど強く褶曲している。 山脈は東西に走る断層帯によっていくつかに分けられている。ヨーク地方の北境であるティーズ川の上流にはステンモア山峡(Stainmore Gap)と呼ばれる断層帯があり、ここより北側の山塊を「オルストン山塊(Alston Block」、南側をアスクリグ山塊(Askrigg Block)と呼ぶ。アスクリグ地塊は全域がヨーク地方に含まれており、ヨークシャー・デイルズ(Yorkshire Dales)と呼ばれる丘陵地に相当する。 アスクリグ地塊の南端はヨーク地方南西部を流れるエア川で、この川に沿った断層帯を「エア・ギャップ(Aire Gap)」という。ここはヨーク地方とランカスター地方を結ぶ交通路になっていて、古くから人の往来があり、1700年開通のリーズ・リヴァプール運河もここを通っている。エア・ギャップの南側は南ペナイン山脈 (Southern Pennines)と呼ばれている。 山脈は北の方ほど褶曲が小さいぶん、断層面や侵食面の発達が著しく、険しい。アスクリグ山塊のうちヨーク地方の北西部には「ヨーク三山(Yorkshire Three Peaks)と呼ばれる山々があり、ワーンサイド山(Whernside)(標高2415フィート=約736m)、イングルボロ山(Ingleborough)(標高2372フィート=約723m)、ペニジェント山(Penyghent)(標高2277フィート=約694m)が聳えている。 これらの山頂は砂岩、頁岩、石灰岩地層が激しく侵食されてできたもので、かつてその上に乗っていた夾炭層(石炭層)は完全に侵食されてなくなっている。特にイングルボロ山付近では石灰岩露頭の節理が発達している。古い時代には鉛目当てに石灰岩の採掘が行なわれていた。この石灰岩地帯はカルスト地形になっていて、洞穴や鍾乳洞が多く、山麓では湧き水が多い。 ヨーク地方の北西部にあたるこの一帯は、降水量は年60インチ(約1500mm)と豊富だが、石灰岩に浸透してしまって地表は水が乏しい。そのうえ冬は氷点下に冷え込み、夏も11°C(50°F)程度までしかなく、窪地の湿原にわずかな草が生える程度である。こうした地域では、羊毛用の頑健なスウェイルデール種のヒツジ(Swaledale sheep)が放牧されている。この品種の名はウーズ川上流のスウェイル川流域(スウェイル谷(Swaledale))からとられている。スウェイル谷(スウェイル・デイル)をはじめ、ウーズ川の北側の支流であるウール川、ニッド川、ワーフ川などの谷は氷河時代に削られて深いU字谷になっている。この谷底は土壌が堆積しているうえ湧き水が豊富で、崖によって冷たい風から守られており、定住に向いている。ヨーク地方北西部ではこうした谷(デイル)に集落が形成され、わずかな草地でヒツジを肥育している。 エア・ギャップより南側のヨーク地方南西部の山塊は、北部に比べると褶曲が強まっていて、石灰岩まで侵食が及んでいない。山脈の中心に近い高標高地域では、石灰岩層の上の砂岩層が残っていて、平坦である。このためペナイン山脈に降った豊富な雨が地表にとどまっていて、砂岩をもとにした薄い土壌が泥炭地をつくっていて、酸性で痩せている。植生はおもにシダ類、ワタスゲ、コケモモやイネ科の雑草が生える程度のヒースになっている。ペナイン山脈に降り注いだ豊富な雨がこの泥炭地を流れて下ってくることで、ヨーク地方南西部の山麓の川は繊維産業に適した軟水となる。この豊富な軟水を利用することで、ヨーク地方南西部は世界的な羊毛工業地帯に発展した。 また、より標高の低い地域では砂岩層の上の石炭層が侵食されずに残っている(ヨークシャー炭田(South Yorkshire Coalfield))。この炭田はヨーク地方南西部から、ノッティンガム地方、ダービー地方にまで広範囲に広がっていて、近代になってシェフィールドやリーズなどで石炭産業が栄えた。 ヨーク地方の羊毛産業と石炭産業はイギリスの産業革命の牽引役となり、ここで生産された工業製品を運び出すために、ペナイン山脈を横断する交通網が整備されていった。 詳細はペナイン山脈参照。 ===ノース・ヨーク・ムーア=== 「ノース・ヨーク・ムーア(North York Moors)」は広さが1,436kmあり、イギリス最大のムーアである。標高はおおむね1,200フィート(約366m)と高原状で、四方を急崖で囲まれ、ムーアの中にもいくつもの谷が刻まれている。 この地域はおおむねジュラ紀の地層から成っていて、南に傾いた地層が氷河期などに差別侵食を受けたことで数々の丘陵地(ヒルズ)や谷(デイル)、低地(ヴェイル)が形成されている。高く取り残された高原・丘陵地には酸性の土壌が薄く形成され、痩せたヒースになっている。それらの土地は天然のヒツジの放牧地として利用されている。削られた谷底には深い土壌が堆積しており、家畜の牧草や飼料、根菜の栽培に利用されている。。 「英国地質学の父」と呼ばれるウィリアム・スミス(1769‐1839)がこのムーアの地質の研究をした。いまでも恐竜の足跡の化石がみつかることで地質学の世界ではよく知られており、世界中の研究者がムーアを訪れる。ムーアの北にあるスカーブラには、ウィリアム・スミスを記念した地質学の博物館がある。 ノース・ヨーク・ムーアは、丘陵、谷地、荒野、湿原、森林、居住地、農地、放牧地、海岸線の断崖、湾と砂浜、港など変化に富んでいる。1952年からイギリスの国立公園に指定されており、国内最大の国立公園である。 ノース・ヨーク・ムーアの辺縁から南西に伸びる起伏地帯は「ハワーディアン丘陵(Howardian Hills)」と呼ばれており、イギリスの「特別自然景勝地(Area of Outstanding Natural Beauty)」に指定されている。一帯はジュラ紀に形成された石灰岩地形が侵食され、丘や渓谷などの変化に富んで生物相が豊かで、田園地帯が広がり、古代遺跡が散在している。 ノース・ヨーク・ムーア、ハワーディアン丘陵、ヨークシャー台地に囲まれた低地をピカリング平野(The Vale of Pickering)と呼ぶ。ここはかつて氷河期に削られた古代湖(ピカリング湖(Lake Pickering))の名残で、低地部分には湖底堆積層のうえに湛水地が形成されており、肥沃だが農耕には向かない。この地域では湿地状の牧草地としてウシの飼育に利用するほか、排水が行われた場所では穀類の生産も行われている。居住地や鉄道・道路などは低地の辺縁の高いところに形成されている。 極めて古い時代には、この一帯の水系は東へ流れて直接北海へ注いでいたと考えられている。しかし氷河期にそれが堰き止められ、丘陵地に取り囲まれた古代湖となった。やがて南側で丘が決壊し、ダーウェント川が南西へ流れるようになった。この決壊によってできたのがカークハム峡谷(Kirkham Gorge)である。 ===ヨークシャー・ウォルズ(台地)=== ヨーク地方の東南部には高いところで海抜800フィート(約240m)弱の低起伏地帯が形成されており、「ヨークシャー・ウォルズ」(Yorkshire Wolds)と呼ばれている。「wold(ウォルド)」という語は一般的には「高原」「台地」と邦訳されるが、単に「(the) Wolds(ウォルズ)」といえばヨークシャー・ウォルズのことを指す。 一帯は白亜の台地になっており、乾燥している。この台地上では氷河期にも氷河に覆われなかったため、厚みのある土壌が形成されておらず、主に岩石が風化した砂状のロームが薄く表土を覆っている。水はけがよく、台地の上では水に乏しいため、集落は深い谷底に形成されている。土地は痩せているため、施肥によって大麦を栽培して肉牛を飼育するほか、輪作で夏に牧草、冬場は根菜を生産してヒツジを育てている。 ===ヴェイル・オブ・ヨーク(ヨーク谷)=== 北と東西の高地に挟まれた平坦な低地部分を「ヨーク谷(Vale of York)」という。おおむね標高は100フィート(約30m)弱で、この低地の中央部にはウーズ川とその支流が北から南へ流れている。 川の上流は泥岩や砂岩地帯で、ヨーク市より北では氷河期に削られた礫や粘土が層をなしていて、ヨーク市の南では沖積平野が形成されている。この沖積地は古代から中世までは水域や湿地だったが、排水によって肥沃な農地となった。一帯はペナイン山脈の影響でイギリスとしては降雨量が少なく、夏はよく晴れて高温になり、時として猛暑になる。そのため農作物の生育に適し、イングランドにおける小麦地帯の北限としてヨーク地方の主要な穀倉地帯になっている。排水が不十分な粘土地帯や北部の低湿地域ではウシ、高燥地域ではヒツジが飼われている。 ヨーク地方の中心都市であるヨーク市は、氷河時代に運ばれた石(氷堆石)が堆積した低く堅固な丘陵地に築かれている。かつてヨーク谷の南半分が水域だった頃も、ここは陸地だった。ハンバー川とウーズ川を船で遡上してこの地点まで来ることができ、古代ローマ人がそこに築いた要塞がヨーク市の起源になっている。多くの居住地がヨーク谷に集中しているほか、この低地はイングランドの北部と南部を結ぶ主要交通路にもなっている。 詳細はVale of York参照。特にヨーク谷の南部では、ウーズ川・トレント川・ハンバー川などが集まり、広大な低地(ハンバーヘッド低地(Humberhead Levels))になっている。一帯は氷河期に削られた巨大な湖(Glacial Lake Humber)の名残で、古代から中世にかけては大湿地帯だった。中世に多くの水路が築かれて排水がすすみ、低地の平原となった。 詳細はHumberhead Levels参照。 ===ホルダネス(低地)=== フランバラ岬(Flamborough Head)より南、北海・ブリッドリントン湾に近い東海岸一帯を「ホルダネス」(Holderness、Holderness peninsula)という。ここは白亜地層のうえに、氷河が削った礫や粘土が堆積して中世まで主に低い沼沢地だった。一帯は、近代になって排水と土壌改良がすすみ、肥沃な農耕地帯になった。このあたりでは近郊農業として野菜、根菜、豆類など園芸作物の栽培が行なわれて都市向けに出荷されている。 白亜(石灰岩)質の東海岸は激しい海岸侵食に晒されており、今も年に5フィート(約1.5m)から2ヤード(約1.8m)ずつ削られている。しばしばイギリス史の舞台となり、シェイクスピア作品の舞台にもなった港町レイヴンスパーン(Ravenspurn)など、多くの村が侵食で土地を失い消失した。古代ローマ時代から海岸線は3マイル(約5km)ほど後退したと考えられている。削られた土砂は漂砂となって、ホルダネス地域の南東部でスパーン岬(Spurn)という砂嘴を作っている。 詳細はHolderness参照。 ===地質=== ヨーク地方の大地形は、それが形成された地質学上の年代区分と、極めて密接な関係がある。 西部に丘陵が連なるペナイン山脈は石炭紀に形成された。中央の盆地状のあたりは三畳紀からペルム紀にかけてできた。ノース・ヨーク・ムーア(North York Moors)一帯はジュラ紀由来、ヨークシャー・ウォルズ(「ヨーク台地」)一帯は白亜紀由来の石灰質の土壌から成っている。 ===自然の景勝地=== ====田園風景とムーア==== ヨーク地方のカントリーサイドは、一般に「神の恵みの地方(God’s Own County)」と称される。近年は大手新聞の『ガーディアン』紙がヨーク地方北部(North Yorkshire)を「イングランドの庭園(Garden of England)」と言い表すようになった。(この表現は、かつてはケント州に対して用いられていたものである。) ヨーク地方には、ノース・ヨーク・ムーア国立公園(North York Moors)、ヨークシャー・デイルズ国立公園(Yorkshire Dales)がある。また、山岳部の「ピーク・ディストリクト国立公園(Peak District)」の一部がヨーク地方にまたがっている。ニダー谷(ニダーデイル、(Nidderdale))やハワーディアン丘陵(Howardian Hills)は「イギリスの特別自然景勝地(Area of Outstanding Natural Beauty、AONB)」に指定されている。 大部分が以前の「北ライディング」にあたるティーズ谷(ティーズデイル)の上流側は、イングランドでも最大級の「ムーアハウス・上ティーズデイル自然保護区(Moor House‐Upper Teesdale)」になっている。 イングランドおよびウェールズの国立公園、national nature reserveも参照。 ===海岸地帯=== ヨーク地方の海岸の砂浜には海の行楽地がいくつかある。スカボローは鉱泉で人気を博した17世紀に遡るイギリス最古の行楽地である。ウィットビーは旅行雑誌『Holiday Which?』の人気投票でイギリスで一番のビーチになったことがある。 スパーン岬(Spurn Point)、フランバラ岬(Flamborough Head)、及びノース・ヨーク・ムーアの海岸部は、「海岸遺産(Heritage coast)」に指定されている。 これらの地域は断崖の奇観で知られている。たとえばウィットビーにある黒玉の崖や、ファイリー(Filey)にある石灰岩の崖、フランバラ岬の白亜の崖などがその例である。王立の鳥類の保護学会(RSPB、Royal Society for the Protection of Birds)では、ベンプトン・クリフ(Bempton Cliffs)などの海岸で、シロカツオドリ、ニシツノメドリ、オオハシウミガラスなどの野鳥保護をしている。 ===スパーン岬=== スパーン岬は3マイル(約5km)ほどの細長い砂嘴である。激しく侵食されたホルダネスの海岸の土砂が流されて形成されるもので、約250年サイクルで形成されたり消滅したりを繰り返していることで知られている。ここはワイルドライフ・トラスト(The Wildlife Trusts)のヨーク支部(Yorkshire Wildlife Trust)が自然保護をしている。 詳細はTopographical areas of Yorkshireを参照。 ==都市と経済== ===ヨーク地方の羊毛産業と石炭産業=== 古代に軍都として建都されたヨーク市は、その後も政治、宗教、文化の中心地だった。一方、近代になってヨーク地方南西部のリーズやシェフィールドなどの一帯では、羊毛産業と石炭産業が興り、産業革命によって、イングランドのみならず、世界の毛織物産業の中心地の一つとなった。 この地方がイギリス最大の羊毛工業地帯となった要因は、地元から石炭、岩塩と、繊維生産に欠かせないソーダを産し、ペナイン山脈の豊富な雨量が工業用水、とりわけ軟水を供給したことによる。なかでも生産の中心はブラッドフォードで、リーズが集散地だった。 さらに、リーズやシェフィールドなどの一帯は石炭を産し、「ヨークシャー炭田」と呼ばれた。19世紀と20世紀にはヨーク地方南部は石炭業で栄えた。特にバーンズリー、ウェイクフィールドがその主要地である。採掘された石炭は地元の重工業地帯を支えても余りあり、運河でハルへ運んで輸出していた。 しかし、第二次世界大戦後に石炭産業は斜陽化し、1970年代後半までにこの地域の炭砿は6箇所だけになってしまった。1984年3月6日、国営の石炭企業NCB(National Coal Board)がイギリス全土で20箇所の炭砿を閉山すると発表し、石炭業は存亡の危機を迎えた。2004年3月時点では操業中の炭鉱は3箇所あったが、2007年の時点ではロザラム近郊のモルトビー炭鉱(Maltby Colliery)1つになった。 これらの工業地帯の諸都市は人口も大きく伸び、都市化が進んだ。しかし羊毛工業・石炭産業などが斜陽化すると、衰退する都市が出たり、金融業などにシフトする都市もでている。 ===主な大都市=== シティ・オブ・リーズはヨーク地方最大の都市圏で、商業・貿易の中心地になっている。中核をなすリーズ市はイギリスの金融の中心地である。1086年の検地帳(ドゥームズデイ・ブック)に登場するリーズは人口200の村だったが、中世に小規模なマーケットタウンとなった。大きな市は年に2回あり、そのときはヨーク地方一円から人が集まったものの、普段は住民はもっぱら農業で生計をたてていた。13世紀頃までは、せいぜい人口1000人程度であっただろうと推測されている。16世紀から17世紀にかけて、リーズは周辺地域で生産された安価だが良質な織物が集まる商取引の場として発展し、人口が一気に増えた。リーズは世界的な羊毛産業の中心地となり、「羊毛で出来た町(a city built on wool)」と呼ばれるようになった。石炭業も栄えたが、近年は金融産業・情報産業に産業転換を成功させ、経済発展を遂げている。 シェフィールドはかつて石炭業や鉄鋼業といった重工業で栄えた。これらの産業が斜陽化すると、第三次産業や小売業の管理部門の誘致を行った。シェフィールドにあるショッピングセンターのメドウホール・センター(Meadowhall Centre)はヨーク地方では最大規模で、イギリスで10位の大きさである。また、シェフィールドの重工業が衰退後、再開発によって、TWI社(The Welding Institute)などのハイテク産業を誘致している。このほか、ボーイング社と提携して工業団地(Advanced Manufacturing Park)を整備している。 ブラッドフォードはかつて羊毛産業で大いに栄えた都市である。とりわけヴィクトリア朝時代(1837‐1901)に建てられた壮麗な建物が目立ち、1867年築の羊毛取引所(en:Wool Exchange, Bradford)はヨーク地方の羊毛産業の栄光の象徴であると同時に、ブラッドフォードを象徴する建物である。これらのヴィクトリア建築は第二次世界大戦後に次々と取り壊されてオフィスビルが建てられていったが、まもなく繊維産業が衰え、都市経済も衰退すると無秩序に開発された空き室だらけのオフィス街が残された。市の財政も苦しく、残ったヴィクトリア建築を切り売りして財政に当てる状況に陥った。 このほか、ハリファクス、キースリー、ハダースフィールド、デューズベリ、などかつて栄えた諸都市も繊維産業の衰退とともに勢いを失っている。 ハルにはヨーク地方最大の港湾がある。かつてはイギリス1位の漁獲量を誇っていた。近年は水産業は落ち込んだが、生産拠点と貿易輸出入の拠点となっていて、イギリス国内でロンドン、リヴァプールに次ぐ3位の貿易港になっている。 ===観光業=== ノース・ヨーク・ムーア(North York Moors)、ヨークシャー・デイルズ(Yorkshire Dales)のふたつの国立公園を擁するノース・ヨークシャーは観光業が確立されている。ヨーク、ハロゲイト、スカボロー、リーズも観光が盛んである。 ヨークはヨーク地方の名前のもとになった古都で、紀元71年にウーズ川とフォス川の合流地点に設けられたエボラクム城塞(Eboracum)が起源である。ジョージ6世が「ヨークの歴史はイングランドの歴史である」と言ったように、ヨークはイングランドを形成した様々な民族によって支配されてきて、とくに軍事、宗教、文化の点でイングランドの中心地のひとつだった。12世紀から250年をかけて完成したヨーク大聖堂は、宗教政策の観点でイングランドを南北に二分して治めるための拠点である。 ヨークでは12世紀以来の中世の石造りの城壁や城門がいまも使われている。ヨークには町に関する特有の表現があり、道(street)のことを「ゲート(Gate)」、門(gate)のことを「バー(Bar)」と言う。道(street)を「ゲート(gate)」と言うのは、スウェーデン語の「gatan」(英語のstreetに相当)から来ていると考えられている。 中世にイングランドが統一されてからは、ヨークは商業や工業の点でもイングランドの中心的役割を担ってきた。14世紀の史料によれば、ヨークはロンドン、ブリストルに次いでイングランド3位の経済力をもっていた。ウーズ川の水運は何百年にも渡ってイングランドの経済を支え、近代に鉄道が発明されると、ヨークはイングランドの鉄道網の一大拠点となった。ヨークには世界最大と言われる国立鉄道博物館があり、毎年100万人近い来場客がある。 ハロゲイトはヴィクトリア朝時代に温泉(鉱泉)で人気になった保養地の町である。町の名前はヴァイキングの言葉で「石山(h*8405*rgr)」+「通り(gata)」から来ているとされる。ハロゲイトの鉱泉を飲むと病に効くといって貴族が集まるようになり、やがてトルコ式の蒸し風呂が設けられて保養地として人気を博した。町なかにはアール・ヌーヴォーやヴィクトリア様式の建築が多く並んでいる。文化人が多く集まったことでも知られており、詩人バイロンが有名である。ミステリー・ファンには、アガサ・クリスティの失踪事件の舞台としても知られている。 ハロゲイトは紅茶でも有名で、イギリスを代表するBettysがある。「ベティーズ」はたびたび英国紅茶協会(UK Tea Council)の「イギリス最高の紅茶店」に選ばれており、「ガーディアン」紙は「北イングランドに行くことがあれば、ベティーズに行くべきだ」と評している。 ハロゲイトは、現代のイギリスを代表する金融都市リーズに近く、ハロゲイトにも法曹街や金融街があり、リーズの高級ベッドタウンにもなっている。コンベンションセンターや国内3番めの大きさをもつ国際展示場(Harrogate International Centre)もあって、ヨーロッパの様々な会議や展示会が開催される。 キースリーはエア川の上流、エア・ギャップの谷あいの町で、ペナイン山脈を東西に越える交通路の中継地として発展した。羊毛産業の隆盛期には栄えたが、近年はブロンテ姉妹で有名な村ハワースへの観光の起点として知られている。 ハワースはブロンテ姉妹が住んでいた町で、『嵐が丘』の舞台にもなった。姉妹にちなんで一帯は「ブロンテ・カントリー(Bront*8406* Country)」との愛称があり、世界中から観光客が訪れる。 リポンは七王国時代に遡る古都で、ノーサンブリア王国の神官ウィリフリドが建都した宗教都市である。人口は少ないが、古くから巡礼の町として信仰を集めてきた。リポン大聖堂(Ripon Cathedral)や世界遺産のファウンテンズ修道院で知られている。 ホウズ(Hawes)はペナイン山脈の山中、ヨークシャー・デイルズ国立公園の真ん中にある小さな村である。景観の美しいウェンズレーデイル(Wensleydale)に位置し、美しい町並みと風光明媚なデイルズ目当ての旅行者が訪れる。 スカボロー(スカーボロ、スカーブラなどの表記もある)は北海に面した海岸のリゾート地である。ケルトの時代からこの地方の海岸の要衝であり、紀元前5世紀頃から砦が築かれていた。その後やってきたローマ人は、海岸に沿って狼煙台を建設した。長らく軍事要塞として重要視され、北のスコットランドに対する備えとしてスカボロー城(Scarborough Castle)が築かれてきたが、イングランド内戦では大きな戦いがあって荒廃した。その後、温泉(The Spa)の開発によってリゾート地として栄えていった。 ソルテアは ヴィクトリア時代にブラッドフォードのソルト・ミル紡績工場(Salts Mill)で成功した実業家のタイタス・ソルト(Titus Salt)が築いた町である。この工場の労働者のために、工場とリーズ・リヴァプール運河を隔てた対岸の土地に、住宅、学校、教会、診療所、救貧所、共同浴場などを揃えたモデル・ヴィレッジ (model village)となった。ヴィクトリア様式で統一された町並みはユネスコの世界遺産登録物件であると同時にヨーロッパ産業遺産の道のアンカーポイントの一つでもある。 ===企業=== ヨーク地方創業、もしくは拠点を置く大企業は次の通り。 Morrisons(ブラッドフォード) ‐ イギリス4位のスーパーマーケットチェーン。Asda (リーズ) ‐ アズダ。イギリス2位のスーマーマ―ケットチェーン。Jet2.com (リーズ) ‐ Jet2.com。格安航空会社。Ronseal (シェフィールド) ‐ 塗料の製造販売。Optare (リーズ) ‐ バスの車両製造。Wharfedale (リーズ) ‐ オーディオ機器製造。Plaxton (スカボロー) ‐ バスの車両製造。Seven Seas (ハル) ‐ 医薬品メーカー。Little Chef (シェフィールド) ‐ ファミリーレストランのチェーン。Halifax Bank (ハリファクス) ‐ 銀行。住宅ローン最大手。Rank Organisation (ハル) ‐ 娯楽産業。Yorkshire Bank (リーズ) ‐ 銀行業Yorkshire Building Society(ブラッドフォード) ‐ イギリス2位の建設業。Ebuyer (ホーデン(Howden)) ‐ 電子商取引の小売でイギリス最大手。GHD (リーズ) ‐ ヘアーアイロンなどの頭髪関連のメーカー。Marks and Spencer (リーズ) ‐ マークス&スペンサー。小売業。Burtons (リーズ) ‐ ファッション小売。イギリスとアイルランドで400店舗を展開。Jaeger (イルクリー(Ilkley))Magnet Kitchens (キースリー) ‐ キッチンセット販売。Reckitt and Sons (ハル) ‐ 家庭用雑貨のトップメーカー。McCains (スカボロー) ‐ 冷凍食品大手。First Direct (リーズ) ‐ ネットバンキング大手。Tetley’s Brewery (リーズ) ‐ ビール醸造Timothy Taylor Brewery (キースリー) ‐ ビール醸造Bradford and Bingley (ビングリー(Bingley)) ‐ 銀行業Skipton Building Society (スキプトン(Skipton)) ‐ 建築業Bettys and Taylors of Harrogate(ハロゲート) ‐ 喫茶店経営や紅茶の製造販売Provident Financial (ブラッドフォード) ‐金融業 ==農林水産業== ===農業=== 一般にイングランド北部は日照時間が短く、気温が低く、土壌が痩せ、特にペナイン山脈の東側は降水量が少なく乾燥しており、農業には不利とみなされている。例外的に、ヨーク谷などの低地にはかつて湿地が広がっており、これが中世以降に排水されて農耕に適した肥沃な土壌となった。この地域はペナイン山脈の影響で例外的に晴天が多く、日照時間が長く、気温が高くなるため、イングランドにおける小麦栽培の北限になっている。また、都市部近郊では排水後の土地で近郊農業が行われ、根菜類・野菜類などの園芸作物が生産されている。南西部にはルバーブの栽培が盛んな「ルバーブ・トライアングル(Rhubarb Triangle)」と呼ばれる地域があり、石炭暖房による冬季の促成栽培が営まれている。 ===畜産=== 一般にヨーク地方は穀倉地帯というよりは、畜産の盛んな地域とみなされている。ヨーク地方には広大な天然の放牧地があり、小麦の作付可能な地域でさえも家畜の飼料に適した大麦を生産し、ウシ、ヒツジなどが飼育されている。また、大麦はオートミールやビールの原料としても用いられ、ヨーク地方の食文化を支えている。 家畜は様々な品種がヨーク地方で創出されている。世界で最初に家畜の血統登録制度ができたのはウマのサラブレッド種(1791年設立)であるが、2番めはヨーク地方で創出されたウシの「ショートホーン種(Shorthorn)」(1822年)である。また19世紀半ばにヨーク地方で生まれたブタの「ヨークシャー種」は世界で最もポピュラーなブタ品種であり、世界中で品種改良にあてられた。このほかイヌのヨークシャー・テリアも高い知名度を持っており、これらはヨーク地方の品種改良技術の高さの象徴とみなされている。 「ショートホーン種」は、コリング兄弟(兄・ロバート(Robert Colling)と弟チャールズ(Charles Colling))によって創出された。乳肉両用として創出された「ショートホーン種」は肉用と乳用に分化してさらに改良が行なわれ、特に肉用の「ショートホーン種」は世界中で繁栄した。20世紀初頭のイギリスでは、国内の肉牛の総頭数700万頭のうち450万頭が「ショートホーン種」だった。明治時代の日本にも持ち込まれて日本短角種の祖になっている。乳用では、ヨーク地方北部とダラム地方・ノーサンバランド地方にまたがるティーズ川流域で、「ショートホーン種」を改良した「デイリー・ショートホーン種(Dairy Shorthorn)」が創出された。「デイリー・ショートホーン種」は1912年に血統登録が始まり、当時のイギリスでは乳牛の7割を占めるまでに繁栄した。日本にも持ち込まれて「ホルスタイン種」が普及するまでは乳牛として用いられ、「ショートホーン種」とともに日本短角種の祖になっている。 肉用「ショートホーン種」はアメリカで大繁栄し、やがてアメリカ産の安価な牛肉がイギリスへ輸入されるようになると、イギリス国内の肉用「ショートホーン種」は頭数を減らしてしまった。乳用「ショートホーン種」も世界中に輸出され、アメリカでは「六大乳用牛」の1つとなった。しかし様々な乳用専用種の改良が進むにしたがって見劣りするようになり、淘汰されていった。イギリス国内の乳用「ショートホーン種」の占有率は、2000年には数パーセント以下で、アメリカでは0.1パーセントに満たない。もはや21世紀にはイギリス国内の肉用「ショートホーン種」は1000頭あまりに過ぎず、乳用「ショートホーン種」が10000頭程度である。しかしイギリスでは、「ショートホーン種」はイギリスの家畜改良技術の栄光の象徴とみなされている。 ヨーク地方はブタの品種改良でも決定的な役割を果たした。19世紀中頃にヨーク地方で改良されて登場した「ヨークシャー種」は、21世紀になった今でも世界で最もポピュラーなブタ品種である。ブタの「ヨークシャー種」には大・中・小の品種があり、このうち「中」がイギリスではミドル・ホワイト(Middle White)と呼ばれているが、日本では明治時代にこれが「ヨークシャー種」の名前で登録された。「大」はイギリスではラージ・ホワイト(Large White pig)で、日本では「大ヨークシャー種」の名前で登録されている。「小」は絶滅した。「中」である「ヨークシャー種」は日本でも1960年代まではブタの90%を占めていたが、飼育技術の進歩によって「大」にとって代わられている。「大ヨークシャー(ラージホワイト)」はアメリカでもブタの三大品種となったほか、世界中で在来種に品種改良に用いられた。世界各国のさまざまな「ランドレース種」(Landraceは「地元の在来種」の意味)は「大」「中」の「ヨークシャー種」の血を引いている。 ヨーク地方固有のヒツジは、世界的に影響をもたらしたわけではないが、この地方では支配的な地位をもったローカル種「スウェイルデイル種(Swaledale)」がいる。 「スウェイルデイル種」はウーズ川上流のスウェイル川流域(スウェイル谷デイル)からその名をとられており、イングランド中部から北部にかけて広く飼育されているヒツジである。古くからヨーク地方西部のペナイン山脈の厳しい環境に適応してきた品種と考えられており、1920年代に血統管理されるようになった。岩の多い地形を素早く動きまわる丈夫で敏捷な脚と、荒野(ヒースやムーア)にわずかに生える草を食べるための幅広の歯を持っている。家畜化されたヒツジは一般に中間毛(ヘアー)と緬毛(ウール)を持っていて、特に品種改良によってウールしか持たないメリノ種が珍重されるようになったが、「スウェイルデイル種」は中間毛(ヘアー)と緬毛(ウール)の両方を維持している。そのため羊毛としては価値が低いが、ヨーク地方の厳しい気候には適している。「スウェイルデイル種」は1998年のイギリスの統計で国内に50万頭が飼育されており、これは日本のすべてのヒツジの頭数の30倍以上にあたる。 「ティーズウォーター種(Teeswater)」はヨーク地方北境のティーズ川流域のヒツジである。古いタイプの品種で、大型だが、頑健で従順で多産なので、牧草の乏しいヨーク地方でも長く細々と飼育されてきた。イングランドの長毛種としては代表的な品種の一つで、イングランドの長毛種の祖になってきたとも考えられている。この「ティーズウォーター種」から1838年に創出されたのが「ウェンズレーデイル(Wensleydale)種」である。「ウェンズレーデイル種」はヨーク地方西部のウェンズレー谷デイルからその名を取られている品種で、長毛ながら緬毛(ウール)だけを持ち(中間毛(ヘアー)を持たない)、独特の青みがかった毛色をしている。原産地ではこの「ウェンズレーデイル種」の乳で作ったチーズ(ウェンズリーチーズ。#食文化節参照)が特産品となったが、「ウェンズレーデイル種」は一時200頭弱にまで数を減らして希少家畜保護(Rare Breeds Survival Trust)の対象になっている。近年は800頭あまりにまで回復したが、特産のウェンズリーチーズは主に牛乳で作られるようになった。 畜産動物というよりもっぱら愛玩動物だが、イヌのヨークシャー・テリアやエアデール・テリアもヨーク地方で創出された品種である。ヨークシャー・テリアは家の中でネズミを捕るためにヨーク地方の都市部で品種改良されたもの、エアデール・テリアは川の中で猟をするためにエア川やワーフ川流域で品種改良されたものであり、いずれもヨーク地方の高い品種改良技術によって生み出されたものである。 ===水産業と港湾=== 古くはウーズ川とエア川の合流地点にあるグール(Goole)などの川港が栄えたが、大型船の建造技術が発達すると、もっと広い水道に面する港が発展した。なかでもハンバー川に面したハルはイギリス有数の漁港都市で、イギリス全体の18%の漁獲量を担う水揚げ量国内1位の港だった。北海有数の漁場ドッガーバンクに近く、ハンバー川が大きく南へ曲がるために川床がえぐれて深く、北海からハルまでは川の水深が5尋(約9m)ある。そのため大型船が入港でき、それでいてハル川に入ってしまえば水が穏やかで小中船舶の停泊に向く。ハルは漁業のほか、造船業、貨物の取り扱いなどで大きく発展し、20世紀にはヨーロッパを代表する港湾都市の一つとなった。しかしそのせいで第二次世界大戦中にはドイツ軍による空襲(ハル空襲(Hull Blitz))の標的となり、大きな被害を被った。 ハルは18世紀には捕鯨で賑わい、19世紀に発明されたトロール漁業によって、ドッガーバンクで操業するトロール漁船が集まって港と町がさらに発展した。鉄道網の整備によって水揚げした魚を新鮮なまま都市部へ輸送できるようになったこと、冷凍技術の確立によって遠洋漁業が可能になったことなどでさらに漁業が躍進し、最盛期にはここから100隻を超える漁船団がノルウェーやアイスランドの沖合、果ては白海にまで進出し、タラやオヒョウを獲っていた。しかし1970年代のタラ戦争によって遠洋漁業は打撃を受けた。 このほか、ハルの対岸にあるイミンガム(Immingham)やグリムスビー(Grimsby)も同じように漁業で栄えた町である。グリムスビーはかつて国内水揚げ量2位の漁業の町で、イミンガムは20世紀になって大型船の停泊可能な埠頭(Port of Immingham)が建設された新しい町である。イミンガムはハルよりも北海に近く、特に輸出入貿易の貨物量はハルの2倍に及ぶ。かつて、ハンバー川北岸のハル(ヨーク地方)と、南岸のグリムスビーやイミンガム(リンカン地方)はハンバー川によって隔てられて交通は不便だったが、1981年にハンバー橋(Humber Bridge)が開通して短絡路となると、一気に距離が近くなった。 ==ヨーク地方の小史== ヨークの歴史はイングランドの歴史である。 ― 英国王ジョージ6世 (”The History of York is the history of England.” ‐ King George VI) 第二次世界大戦期に「ヨーク公(Duke of York)」から国王になったジョージ6世はこのように述べた。ヨーク地方は、古代ローマ人によるブリタニア建国、アングロ・サクソン王国、ヴァイキングの侵入、そしてノルマン人による征服、国教の誕生、薔薇戦争、清教徒革命、産業革命で重要な舞台になり、イングランド史の大きな出来事が起きている。イングランド史のなかで大きな戦いとして知られる「スタンフォード・ブリッジの戦い」(1066年)、「スタンダードの戦い」(1138年)、「ウェイクフィールドの戦い」(1460年)、「タウトンの戦い」(1461年)、「マーストン・ムーアの戦い」(1644年)はヨーク地方で起きた。 詳しくはHistory of Yorkshireを参照。 ===先史時代とケルト=== ローマ人が紀元前1世紀に進入するより前のイングランドのことは文献史料に欠き、よくわかっていない。それでも農耕に適したイングランド南部は大陸と盛んに交易を行い、多くの言及を残しているが、農耕に向かないイングランド北部はそれもない。各地から青銅器時代か新石器時代に遡るとみられる遺跡が見つかってはいるものの、その意味や役割はほとんど解明されていない。 そのなかでもヨーク地方の東部では、大陸のラ・テーヌ文化の影響を受けたと思しきアラス文化(Arras culture)と呼ばれるケルト人グループが知られている。鉄器時代後期に栄えたとみられ、ヨークシャー台地と、当時はまだ湿地帯だった南北の低地一帯に戦車葬(Chariot burial)と呼ばれる墳墓遺跡が分布している。特にウェットワング遺跡(Wetwang Slack)がアラス文化の重要な遺跡として知られている。このあたりは紀元後40年頃の貨幣が見つかっており、ローマ以前のイングランドにおける貨幣流通の北限とされている。彼らは湿地に死体を埋める風習を持っていて、人身御供が行なわれていたのではないかと推測されている。 ヨーク地方の北部のスタンウィック(Stanwick)には、イングランド北部を代表するオッピドゥム(ケルトの都市)の遺跡がある。1950年代になって本格的な遺跡調査が行なわれ、紀元前50年から紀元100年頃のものと推定される銅製の馬用の仮面が発見されている。 紀元後40年代にローマがイングランドへ侵攻するようになってから、ローマ人による記録によってイングランドの様子が伝えられている。ローマ人がヨーク地方にまで到達したのは紀元後70年代で、その頃のヨーク地方は大部分がブリガンテス族(Brigantes)の縄張りだった。彼らは当時のイングランドのケルト人のなかで最大勢力であり、スタンウィックを中心としてヨーク地方北部から西部を支配していた。 一方、ヨーク地方東部は、ハンバー(Humber)に近いペトアリア(Petuaria)を本拠とするパリシ族(Parisi)の縄張りだった。彼らは、おそらくフランス(ルテティア)のゴール人の一派パリシイ族(Parisii)と関連があると考えられている。(パリシイ族はいまのフランスの首都パリの名のもとになった部族である。)パリシ族はローマに恭順し、ペトアリアはパリシ族の「国都」(ローマ人は「キウィタス」と呼ぶ)となった。これはのちにブロー(Brough)の町となって現代に至る。 ===ローマ時代=== 西暦43年からローマ皇帝クラウディウスがブリタニア遠征(Roman conquest of Britain)を行った。イングランド南部がローマによって征服されると、ヨーク地方を支配していたブリガンテス族はローマ帝国に恭順して属国として生きながらえる道を選んだ。当時のブリガンテス族を率いていたのは女王カルティマンドゥア(Cartimandua)と、その夫ウェヌティウス(Venutius)である。はじめは、ローマ人も、ブリタニアでもっとも戦闘的な部族と知られたブリガンテス族も、この支配体制を受け入れ、カルティマンドゥアはローマ人とうまく渡りをつけてブリガンテス族を治めていた。 関連項目:ローマによるブリタンニア侵攻 (紀元前55年‐紀元前54年)その後、カルティマンドゥアは、夫のウェヌティウスの小姓だったウェロカトゥス(Vellocatus)と通じるようになり、ウェヌティウスを退けてウェロカトゥスを新たな夫に迎えた。ウェヌティウスはかねがねローマの属国となることを不満に思っており、これを機に部族を煽動して女王とローマ人に対する反乱を起こした。 反乱は一度は鎮圧されたが、二度めの蜂起でウェヌティウスは女王の座から追い落とし、自ら部族の王となった。しかしまもなくローマ軍のケリアリス将軍がこれを討伐し、西暦71年にウェヌティウスも敗走した。これによってヨーク地方全域がローマの支配下になった。その後、ブリガンテス族は中心地(国都キウィタス)をアルボロ(Aldborough)にあるIsurium Brigantumに移した。古代ローマのプトレマイオスは、著書『地理学』のなかで、ブリガンテス族の「ポリス」9箇所のうち、6箇所が当時のヨーク地方に属していた、と記している。 ローマ人はブリタニア全土を二分割し、南部に上ブリタニア州(Britannia Superior、州都はロンディニウム(現在のロンドン))、北部に下ブリタニア州(Britannia Inferior)をおいて城塞都市エボラクム(Eboracum)をその州都とした。エボラクムは現在のヨーク市の古名である。 下ブリタニア州は広大なローマ帝国のなかで最も辺境の地で、かつ一番最後に征服された地域であり、北の「蛮族」カレドニア人に備えるための軍団がおかれていた。この軍事力を背景に、ローマ時代のエボラクムでは、古代ローマ史上の重要な出来事が時々起きている。ローマ皇帝セウェルス(在位193‐211年)は、没する前の最後の2年間をエボラクムで過ごし、ローマ帝国を治めた。コンスタンティウス1世は360年にヨーク地方を訪れ、そこで没している。その息子で、キリスト教をローマの国教と定めたことで知られるコンスタンティヌス1世は、エボラクムで即位を宣言した。 ローマ人は主要拠点を結ぶ石畳の道を整備した。ヨーク地方では、東回りのアーミン街道(アーミン・ストリート(Ermine Street))がエボラクラムを中継地として南北を縦貫していた。アーミン街道は途中でハンバーを船で渡る必要があり、季節によっては荒天で長く足止めされることがあるため、迂回路のローマ古道(ローマン・リッジ(Roman Ridge))も敷かれていた。この街道は北方へ伸び、カタラクトリウム(現在のカタリック(Catterick))で分岐してカレドニア(現在のスコットランド)へ向かっている。ローマ人が築いた街道は長きに渡り、北イングランドの大動脈になった。このほかローマ人は、ヨーク地方の北東海岸(ノース・ヨーク・ムーアの沿岸部)に信号所を整備している。 ゲルマン民族の大移動に発するローマ帝国が衰退し、ローマは辺境を守る兵力を維持できなくなっていった。5世紀のはじめ頃、とうとうローマ人は去り、ローマによるブリタニア支配は終焉を迎えた。 詳細はEnd of Roman rule in Britain参照。 ===ケルトの復活と七王国時代=== ローマが去ったあとのイングランドは七王国時代と呼ばれる戦国期を迎えた。しかしこの時期のことは文献史料に乏しく、詳しくはわかっていない。はじめ、ヨーク地方にはケルト人の小王国がいくつか興った。ヨーク市近辺のエブラク国(Kingdom of Ebrauc)や、西ヨーク地方(West Yorkshire)のエルメット王国( Kingdom of Elmet)が有名である。 ローマ人と入れ替わるようにイングランドに侵入してきたのがアングロ・サクソン人と呼ばれる人々である。彼らがイングランド各地に「七王国」を建てていった。ヨーク地方では560年にアングル人のエリ王(*8407*lla of Deiraないし*8408*thelric of Deira)がデイラ王国(Deira)を建国した。デイラ王国の版図はおおむね南はハンバー、北はティーズ川までの地域で、後のヨーク地方にほぼ相当する。デイラ王国は、さらに北隣にできたバーニシア王国(Bernicia)と争いを繰り返したが、7世紀に入るとバーニシア王とデイラ王女の結婚によって王国が統合され、ノーサンブリア王国となった。この時期に「エボラクム(Eboracum)」はアングロサクソン風の表記で「エオフォヴィック(Eoforw*8409*c、Eoforwic)」へと転訛していった。 ケルト人のエルメット王国は、アングル人のノーサンブリア王国にもしばらく屈しなかった。しかし7世紀のはじめノーサンブリア王国のエドウィン王(Edwin of Northumbria)は、エルメット王国からカラタクス王(Caratacus,Ceretic of Elmet)を駆逐し、エルメット王国を滅ぼして領地を併合した。これによってノーサンブリア王国は、西はアイルランド海から東の北海まで、北はエディンバラから南はハラム周辺(Hallamshire、現在のシェフィールド一帯)までを版図を広げたエドウィン王時代のノーサンブリア王国は最盛期を迎え、ヨークを王都として、イングランド南部のウェセックスまで影響下に置いた。 ===ヴァイキングの侵入=== 9世紀に入ると、いわゆるヴァイキングの襲来がノーサンブリア王国を脅かすようになった。ヴァイキングは主にヨーロッパ北部にいたデーン人(ノルマン人の一派)からなり、さまざまな族長が小集団を率いて入れ替わり立ち替わりブリテン島を襲った。ノーサンブリア王国の人々はヴァイキングを「大異教徒軍」(Great Heathen Army)と呼んだ。 ヴァイキングたちはブリテン島の海岸を襲っては略奪をして帰るということを繰り返していたが、9世紀後半になると襲来してそのまま居着くようになっていった。その頃ノーサンブリア王国内では権力争いがあり、ヴァイキングたちはこれに乗じて王国の有力者を倒し、傀儡の王エグバート(Ecgberht I of Northumbria)を立てるようになった。869年からは、ヴァイキングたちはノーサンブリア王国へ本格的な侵略を始めた。これを率いた者としてデーン人のハーフダン・ラグナルソン(Halfdan Ragnarsson,?‐877)がよく知られている。ラグナルソン率いるデーン人ヴァイキングは「エオフォヴィック(Eoforw*8410*c、Eoforwic)」(ヨークの古名)を奪い取り、デーン人風の表記である「ヨルヴィック(J*8411*rv*8412*k)」へと改名した。彼らはデーン人王国(ヨルヴィック王国)を作り、ヨルヴィックを王都とした。ヨルヴィック王国の勢力はノーサンブリア地域の南部一帯に及び、その版図は大雑把に言ってヨーク地方の境界に相当する。 デーン人たちはさらに勢力圏を拡大すべく、イングランド中を荒らしまわった。彼らの領地は「デーンロウ」(デーン人の法律が用いられる地)と呼ばれた。最盛期のデーンロウの範囲はおおよそイングランド全域に相当する。ヨルヴィック王国は広大な交易路を築いて繁栄し、ブリテン諸島や北欧のみならず、地中海世界や中東とも交易を行った。 10世紀になると、ヨルヴィック王国も勢力が弱まった。この時期の王として有名なのがエイリーク血斧王(Eric Bloodaxe,885‐954)である。エイリーク血斧王はデーン人ではなくノルウェー人であり、もとはノルウェー王だったが、10世紀中頃にヨルヴィック王国の王となった。ノルウェー人である血斧王は、デーン人を恐怖政治で統治した。その頃、南ではアングル人によるウェセックス王国が優勢になり、北方にまでその影響力を及ぼすようになった。ウェセックス王はヨルヴィック王国の住民に服属を要求したが、一部のデーン人住民たちは血斧王による恐怖政治を嫌い、すんなりとアングル人に従うことを承諾した。 こうして、ノーサンブリア王国を含めてヨーク地方はウェセックス王国に下り、属国となった。ウェッセックスの王は「イングランドの王」を名乗るようになった。ウェセックス王国は、属国の支配地を、属国の国王が治める王国としてではなく、貴族の領地として分割し一定の自治を認めた。その際、ヨーク地方ではノルウェー人の伝統的なやり方でヨーク地方を治めることを認め、法を定めることを含めて貴族の自治を許した。 詳細はJ*8413*rv*8414*kを参照。 ===ノルマン人による征服と北伐=== 11世紀までに、「イングランド王」がイングランドのおおよそを支配下に置くようになっていたが、1066年にこれがノルマン人によって簒奪されることになった。 1066年にエドワード懺悔王が没すると、ハロルド2世が後継者として即位した。しかし、彼の兄弟であるトスティグとノルウェー王のハーラル3世が、イングランド王位を狙ってイングランド北部に侵攻した。これらの軍勢はヨーク市の南で起きたファルフォードの戦い(Battle of Fulford)で、地元ヨークの貴族連合軍を打ち負かしてしまった。そこでハロルド2世は軍勢を率いて北へ向かい、スタンフォード・ブリッジの戦いでトスティグとハーラル3世を破って敗死させた。 だがその直後、今度はノルマンディー公ギヨーム2世が王位継承権を主張してイングランド南部に上陸、ハロルド2世は南部へ急行してこれを迎え撃ったが、ヘイスティングズの戦いに敗れて死んだ。この結果、ギヨーム2世はイングランド王ウィリアム1世(征服王ウィリアム)として戴冠し、イングランド全域の征服に乗り出した。 詳細はノルマン・コンクエスト参照北イングランドの住民はノルマン人の侵略者に抵抗した。1068年にはノーサンブリアとマーシアの貴族がスコットランド王マルカム3世を担いで反乱を起こし、ウィリアム1世は2度にわたってヨークを攻め落とした。しかし北イングランドの人々は、翌1069年に今度はデンマーク王スウェイン・エルトリットサン(Sweyn II of Denmark)を封じてヨーク奪還を試みた。スコットランドのマルカム3世もこれに呼応し、ウィリアム1世は苦戦した。ウィリアム1世はデンマーク王を買収して引き返させることに成功すると、ヨークを焼き払った。さらにウィリアム1世は北イングランドを徹底的に破壊することにした。これはイギリス史で「Harrying of the North(北部の蹂躙)」と呼ばれる大殺戮となり、北イングランドは荒廃することになった。 ウィリアム1世に命によって、1069年の冬、ヨークからダラムに至るまで、多くの村が焼き討ちされ、住民は撫で斬りにされた。作物、家畜、農機具に至るまで火をかけられて焼き捨てられた。翌1070年の春までに、北部では数えきれないほどの農民が寒さと飢えで死んだ。歴史家のオーデリック・ヴィタリス(Orderic Vitalis)は、北部では10万人以上が餓死したと推計している。 詳細はHarrying of the North参照。そのあと、新たなノルマン人領主たちがヨーク地方に入り、新しい町を次々と建設した。たとえば、バーンズリー、ドンカスター、ハル、リーズ、スカーブラ、シェフィールドなどである。ノルマン・コンクエスト以前からあった町で生き残ったのは、ブリッドリントン(Bridlington)、ポクリントン(Pocklington)、それになんとか再建されたヨークぐらいだった。ヨーク地方は彼らによって、北のスコットランドからの侵略に備える防衛基地となっていった。 ヨーク地方の人口はその後急激に伸びたが、1315年から1322年にかけてヨーロッパ全土を襲った大飢饉では、この地方も被害を蒙った。また、黒死病の禍は1349年にヨーク地方にも達し、人口の3分の1が失われた。 詳細はGreat Famine of 1315―17を参照。 ===ヨーク地方のキリスト教文化=== イングランドでは2つの異なるルートでキリスト教が伝来した。アイルランド経由のキリスト教と、ローマ経由のカトリックである。このうちアイルランド経由のキリスト教はケルト文化を色濃く反映していて異教的要素ももち、カトリックとは切り離されて発達した独自のキリスト教だった。ローマのカトリックが支配体制と結びついて少なからず世俗化していたのに対し、ケルトのキリスト教は世俗からの隠遁を希求し、孤立した修道院にひきこもっての規律と信仰生活を善しとしていた。こうした修道院は孤立を希求したので、各修道院相互のつながりはなく、ローマのカトリックのように教会組織化されたものではなかった。 アングロ・サクソン人はローマのキリスト教に帰依し、国内支配に利用した。彼らはローマから司教を招聘し、国内のカトリック化を進めようとしたが、これは旧来の土着のキリスト教との衝突を招いた。663年に、当時最も勢力が大きかったノーサンブリア王国オスウィユ王(Oswiu)により、両者の会談がヨーク地方のウィットビー修道院(Whitby Abbey)で行なわれた(ウィットビー宗教会議)。この会議によってイングランドのキリスト教のあり方が決定づけられた。ノーサンブリアはイングランドでもカトリック文化が最も進んだ地域となっており、ウィットビー修道院はノーザンブリア女王が設立したものだった。ヨークは知識階級が集まる場所だった。ヨーク大聖堂の原型もこの頃すでに建てられ、大司教区(Archbishop of York)が設置されていた。 ヴァイキングの侵略によって各地の教会や修道院は一時的に荒廃した。特にイングランド北部でそれが顕著だった。ヴァイキング国家が成立して安定をみると、南部では修道院が盛んに再建された。ヴァイキングたちは元来キリスト教徒ではなかったが、外国人としてイングランドを治める上ではキリスト教が有用であることがわかると、キリスト教化されていった。この時期のイングランドでは、王たちはキリスト教を通して国を支配することができた。しかし11世紀にグレゴリウス7世が改革を行って、ローマ教皇が国王に優越すると主張するようになると、イングランドでは王とキリスト教会勢力が対立するようになった。 ノルマン人貴族の征服王ウィリアムは、ローマ教会に従わないサクソン勢力を討つという大義名分を得て、ローマ教会の力を背景にイングランドの支配をすすめることができた。その過程で、反ローマ的だった土着キリスト教を刷新するため、古い修道院(abbey)や修道所(priory)を破却し、宗教指導者層を息がかかったローマ教会の司教にすげ替えた。その一方で「サクソン王朝の後継者」を装うために新しい修道院を建てた。ヨーク地方一円でも、この時期に多くの古い修道院が遺棄され、新しい修道院が建てられている。こうした教会勢力はウィリアムの王朝を外敵から守るようになった。12世紀のはじめには、スコットランド人の侵入に対してヨーク大司教のサースタン(Thurstan)が民兵を率いて「イングランド王国軍」を名乗り、数で勝るスコットランド軍をノーザラトン(Northallerton)で打ち負かした。これはイングランド王国とスコットランド王国のあいだで起こった本格的な戦いとしては最初のものだった(軍旗スタンダードの戦い(Battle of the Standard))。 しかしやがて、イングランド王はローマ教会と対立するようになっていった。イングランドの庶民には古くからの非ローマ的なキリスト教が受け継がれており、王はローマ教会からの独立に傾倒していった。16世紀のヘンリー8世はローマ教皇と決別し、1536年に修道院解散(Dissolution of the Monasteries)を断行した 。このときヨーク地方でも多くの修道院が遺棄された。かつて宗教会議を行ったウィットビー修道院(Whitby Abbey)もこの時に破却された。これらの修道院跡は遺跡となって、今ではヨーク地方の観光名所になっている。世界遺産のファウンテンズ修道院跡もこの時期に放棄されたものである。 ヘンリー8世は国民にカトリックからイングランド国教に改宗するよう強いたが、カトリック住民の中にはこれを拒んで一揆を起こすものも現れた。なかでもヨーク地方に端を発する「恩寵の巡礼(Pilgrimage of Grace)」と呼ばれる抵抗運動がよく知られている。エリザベス1世の時代になると、彼らは捕らえられて処刑されるようになった。そうしたカトリック信者のなかに、ヨークの女性マーガレット・クリスロー(Margaret Clitherow)がいる。マーガレットは後世に殉教者として列聖された。 詳細はEnglish Reformation、イングランド国教会を参照。 ===薔薇戦争=== 15世紀にイングランドでは薔薇戦争が起きた。この内乱はヨーク地方から始まった。薔薇戦争では「ヨーク家」と「ランカスター家」が争ったので、現在でもスポーツなどでヨーク地方とランカスター地方のチームが対戦するときに「薔薇戦争」という表現が用いられる。しかし薔薇戦争はヨーク地方・ランカスター地方が争ったわけではなく、イングランド全土が戦地になっている。実際のところ、ヨークはランカスター家の主要拠点であり、ヨーク家の本拠はロンドンにあった。ヨーク党のシンボルとされる「ヨークの白薔薇」の紋章は1960年代につくられたヨーク地方の旗(Flags and symbols of Yorkshire)や、イギリス陸軍のヨークシャー連隊旗(Yorkshire Regiment)にも採用されている。 ===「ヨーク公」と「ランカスター公」=== 薔薇戦争は「ヨーク公」を首班とするヨーク党と、「ランカスター公」を首班とするランカスター党の間で争われたものであり、ヨーク地方とランカスター地方が争ったわけではない。「ヨーク公」「ランカスター公」というのはイングランド王族の称号である。 ヨーク地方では、ヴァイキングがヨルヴィック王国を立てていた。954年に当時のヨルヴィック王・エイリーク血斧王(Eric Bloodaxe)がイングランド王国との合戦で敗死して王国が滅びると、イングランドはヨルヴィックの王号を廃して新たに「ヨーク伯爵(Earl of York)」という貴族号を設けた。ヨーク伯爵領はおおむねヨーク地方全域となっており、しばしば「ヨークシャー伯爵」(Earl of Yorkshire)とも表現された。しかしこの貴族号は、12世紀半ばのいわゆる「無政府時代」にヘンリー2世によって廃された。 14世紀の王、プランタジネット王家のエドワード3世には、長子エドワード黒太子を筆頭に多くの子がいた。ところが本来は王位を継ぐはずのエドワード黒太子は父エドワード3世王よりも早死にしてしまい、エドワード黒太子の子リチャード2世を後継者とした。その一方で、エドワード3世はエドワード黒太子の弟たちに「ランカスター公」、「ヨーク公」の爵位を授けた。この「ヨーク公」は、廃止されていた「ヨーク伯」を格上げして復活させたものである。 2代ランカスター公はリチャード2世に背いて国外へ追放されるが、1399年にヨーク地方のホルダネス地域(Holderness)にあったレイブンスパーンの港町(Ravenspurn)に舞い戻る。そして北イングランド諸侯の協力を得て、リチャード2世を囚え、南ヨーク地方のポンテフラクト城に幽閉して死なせてしまう。ランカスター公は新たなイングランド王ヘンリー4世として即位し、ランカスター朝が開かれた。はじめはランカスター家の王をヨーク家が補佐していたが、ランカスター家とヨーク家は次第に反目するようになっていった。 1455年に、とうとう両家はイングランドの王位をめぐって争いになり、3代ヨーク公が反乱を起こして薔薇戦争と呼ばれる内戦に発展した。この「戦争」は「ヨーク家(ヨーク党)」と「ランカスター家(ランカスター党)」の間で争われたが、ヨーク地方(ヨークシャー)とランカスター地方(ランカシャー)に分かれて争ったわけではない。 ===薔薇戦争の進展=== ヨーク地方では、を領有していたネヴィル家(House of Neville)がヨーク家の味方をした。ネヴィル家はヨーク家と縁戚関係にあり、シェリフハットン(Sheriff Hutton)とミドルハム(Middleham)など北部に広大な領地をもち、ミドルハム城を本拠にしていた。なかでも16代ウォリック伯ネヴィルは「キングメーカー」と呼ばれた。ヨーク家最後の王となるリチャード3世も生涯の大部分をミドルハムで過ごしている。 このほか、ボルトン(Bolton)のスクロープ家(Scropes)、ダンビー(Danby)とスネイプ(Snape)のラティマー家(Latimers)、サースク(Thirsk)とバートン(Burton in Lonsdale)のモーブレー家がヨーク家に与した。 一方、ヨーク地方でランカスター家の側についたのは、スキップトン(Skipton)のクリフォード家(Cliffords)、ヘルムスレー(Helmsley)のロス家(Ros)、ヘンダースケルフ(Henderskelfe)のグレイストック家(Greystock) 、ホルダネス(Holderness)のスタフォード家(Stafford)、シェフィールドのタルボット家(Talbot)などである。 薔薇戦争ではイングランドの各地で戦い行なわれた。ヨーク地方でもいくつか代表的な戦闘があり、ウェイクフィールドの戦いやタウトンの戦いなどが知られている。サンダル城の目前で起きたウェイクフィールドの戦いでは、反乱の首謀者3代ヨーク公が首を取られている。荒れ狂う吹雪の中で起きたタウトンの戦いでは2万8000人が殺され、イングランド史上最も死者の多い合戦だったとして知られている。 ボズワースの戦いで戦死したリチャード3世はヨーク朝から出た最後のイングランド王となった。勝者のランカスター党のヘンリー・テューダーはヘンリー7世として戴冠し、ヨーク王女エリザベス(エドワード4世の娘)を娶って両家の争いに終止符を打った。このとき、ヨーク家の紋章だった白薔薇とランカスター家の紋章だった赤薔薇が組み合わされて、有名なテューダー・ローズの紋章が作られた。 ===その後の「ランカスター公」と「ヨーク公」=== 現在は、「ランカスター公」はイングランド国王が襲名することになっており、「ヨーク公(ヨーク大公、デューク・オブ・ヨーク)」は王家の次男が襲名することになっている。(長男は「ウェールズ大公(プリンス・オブ・ウェールズ)」を襲名する。) 詳しくはヨーク家、薔薇戦争を参照 ===スポーツの「薔薇戦争」=== スポーツなどの分野では、ヨーク地方(ヨークシャー)のチームとランカスター地方(ランカシャー)のチームが対戦する場合にしばしば「薔薇戦争」に喩えられる。たとえばクリケット(County cricket)では、ヨーク州のチームとランカシャーのチームが対戦するときに「ローゼズマッチ(Roses Match)」と表現する。サッカーでは、マンチェスター・ユナイテッドとリーズ・ユナイテッドはそれぞれユニフォームのホームカラーが赤と白であり、両者の対戦を「薔薇戦争マッチ(”War of the Roses” games)」と称する。 ===イングランド内戦(清教徒革命)=== 17世紀のイギリスでは、農村での貧富格差の拡大、対外戦争による財政悪化、プロテスタントとカトリックの対立、国王の失政などから、王党派と議会派が対立を深めていった。それがとうとうヨーク地方での軍事衝突となり、これがイングランド内戦、清教徒革命へと発展していった。 ヨーク地方でも、王党派と議会派は真っ二つに割れた。1642年7月、ヨーク地方南部のハルでとうとう両者は武力衝突を起こした。ハルはもともと王党派よりで、城内に軍事物資を蓄えており、それを手にするため国王であるチャールズ1世みずからヨークかたら軍を率いてきた。しかし議会派の支持者が門を閉じ、王の入城を拒んだ。これを突破しようとして両者のあいだで戦闘が始まり(ハル包囲戦(Siege of Hull))、これが契機となってイングランド内戦に突入した。 ヨーク地方北部は特に強固な王党派に属しており、王党派はヨーク市を拠点として、リーズやウェイクフィールドを攻め落としていった。これらの諸都市は短い期間に奪ったり奪い返したりが行われたが、アドウォルトン・ムーアの戦いでの王党派の勝利によって、ヨーク地方のほぼ全域は王党派の勢力下におかれた。ハルだけは例外で、議会派の砦だった。 議会派はハルを拠点として反撃に転じ、1644年春にはスコットランド勢を引き入れてヨークを攻めた(ヨーク包囲戦(Siege of York))。ヨークは3ヶ月持ちこたえたが、7月のマーストン・ムーアの戦いで議会派が大勝すると、ヨークも陥落した。以後、形成は逆転し、議会派はイングランドの北部諸州を掌握していった。ヨーク地方では、東部海岸にあるスカボロー城(Scarborough Castle)が王党派の最後の砦となった。ここは難攻不落の要塞で、王党派は5ヶ月に渡る防衛戦(スカボロー城大包囲戦(Great Siege of Scarborough Castle))を持ちこたえたが、1645年夏にとうとう陥落した。 マーストン・ムーアの戦いで議会派を勝利に導いたのが、ヨーク地方出身のトーマス・フェアファクスとオリバー・クロムウェルである。クロムウェルはこのあとの革命を主導し、チャールズ1世を処刑した。クロムウェルの死後、王政復古によってチャールズ1世の息子がチャールズ2世として即位すると、クロムウェルの死体は墓から掘り出され、反逆者として晒し物にされた。後に、その遺骸は家族によってひっそりとヨークシャー台地ウォルドにあるコックスウォルド(Coxwold)村の修道院(Newburgh Priory)に運ばれて葬られたと伝えられている。 ===経済の発展と近現代=== ====軽工業==== 古代、ローマ人がイングランドに羊と毛織物を持ち込んだ。毛織物づくりはアングロ・サクソン人の侵入によって一度は滅びかけたが、ノルマン人がイングランドを征服すると再び盛んになり、中世にはイングランドの代表的な製品になっていった。ヨーク地方南西部では、ペナイン山脈を東西に横断する交通路として古くから小さな市場町が点在しており、家内工業で毛織物が作られていた。毛織物は大陸へ輸出されてイングランドに利潤をもたらしたが、14世紀になると黒死病による人口減で需要が落ち込み、打撃を受けた。 しかしその間、一部の地域では毛織物の技術改良や専門化がすすみ、競争力を高めていった。ヨーク地方南西部のペナイン山脈の裾野一帯もそうした地域にあたる。ペナイン山脈から湧き出る水は、軟水なので羊毛加工に欠かせない洗毛(scouring)や染色に適していたうえ、水量が豊富なので紡績のための水車も利用されて工業化(マニュファクチュア)されていった。ペナイン山脈からは漂白に用いるソーダも産した。ここで生産された毛織物は水運によって販路を拡大した。 こうした羊毛産業で16世紀に発展していったのが「羊毛で出来た町(a city built on wool)」と呼ばれるリーズである。ほかにもウェイクフィールド、ブラッドフォード、ハリファクス、ハダースフィールド、シェフィールドといった町が羊毛産業で発展した。ハルは対外輸出港として栄えた。 16世紀の羊毛産業の隆盛を象徴するのが「ハリファックスの断頭台」(ギロチン)である。毛織物は最終工程で真水洗いを行い、それを板に乗せて乾燥させる。ハリファックスは以前は山間の小さな村に過ぎなかったが、16世紀に毛織物産業によって急速に発展した。ハリファックスの村では、いたるところで毛織物の乾燥が行なわれていたが、毛織物は非常に高価で売れるので、乾燥中の毛織物の盗難が後を絶たなかった。村の経済を圧迫するほどにまで盗難犯罪が増えたために、1541年に村では王の許可を得て丘の上に断頭台を設置、毛織物泥棒には過酷な処刑が待ち受けていると宣伝したのである。これが文献史料でのハリファックスの初出となった。 17世紀に入ると大航海時代によって絹織物がヨーロッパに普及するとともに、対外戦争で大陸との貿易が落ち込み、イングランドの毛織物産業は打撃を受けた。17世紀半ばの清教徒革命でイングランドのトップに立ったクロムウェルは航海条例を定めて毛織物の水運を加速させ、ヨーク地方の毛織物産業はさらに発展した。 これを水路開発がさらに後押しした。1690年にエア=カルダー水路(Aire and Calder Navigation)が完成してリーズやウェイクフィールドから北海への輸送が大いに発展し、1700年にはイングランドで最長となるリーズ・リヴァプール運河(Leeds and Liverpool Canal)が開通、アイリッシュ海に面するリヴァプール港とも接続された。これによって輸送コストが大きく削減されることになり、競争力の高まったヨーク地方の毛織物製品は販路を世界中へ一気に拡大、ヨーロッパのみならず、オーストラリアやアメリカへも輸出された。19世紀の鉄道の開通によって発展にさらに拍車がかかり、ヨーク地方はイギリス最大の羊毛工業地帯となった。 この時代のヨーク地方の人物で、繊維工業に産業革命をもたらした人物としてベンジャミン・ゴット(1762‐1840)が知られている。ゴットは蒸気機関や鉄鋼を採り入れてリーズに世界最大の羊毛工場を建設し、羊毛産業に革新をもたらした。1799年からはリーズ市長も務めている。ゴットのもと19世紀のリーズは羊毛産業で最盛期を迎えるが、20世紀に入ると紡績産業は淘汰された。 産業革命にともなう急速な機械化は、労働者階級の反発を招くこともあった。リーズとブラッドフォードの間にあるクレックヒートン(Cleckheaton)という町では、新しい毛布製造機械の導入によって自分たちの職が奪われると考えた毛織物産業の労働者200名が暴動を起こし、次々と工場を襲って機械を破壊して回った。この運動は靴下製造機械を2台破壊したネッド・ラッドの名からラッダイト運動と呼ばれている。当時、工場の機械を破壊すると死刑と定められており、多くの者がヨークの裁判所で死罪を言い渡されて死んだ。 ===重工業=== ヨーク地方は古代から錫、亜鉛、石炭などの鉱産資源で知られていて、それがローマ人のブリタニア遠征の目的の一つだった。中世にも採掘が行われたとする史料もあり、16世紀には炭鉱が営まれていたが、石炭産業が主役に躍り出るのは18世紀以降である。蒸気機関の登場、運河の整備、大資本の集中、安価で大量の労働力などによって産業革命が起こり、19世紀にはウェイクフィールド、バーンズリー、ハダースフィールド、シェフィールドなどの地域が「ヨークシャー炭田」(South Yorkshire Coalfield)として栄えた。交通網もさらに整備され、鉄道も広がってゆき、ヨーク地方内の遠隔地同士を繋ぐようになった。南部ではシェフィールド=南ヨーク水路(Sheffield and South Yorkshire Navigation)によってドン川とウーズ川・トレント川などが接続された。 シェフィールドとロザラムなどは鉄鋼業が栄えた。なかでもシェフィールドは「刃物の町」として世界的に知られている。シェフィールドはもともと15世紀に小さな市場町から刃物生産で有名になり、王室御用達となった。これが産業革命期に大きく発展したものである。るつぼ鋼(Crucible steel)、ステンレス鋼はシェフィールドで開発されたものである。 18世紀のシェフィールドの鉄鋼業者としてベンジャミン・ハンツマン(1704‐1776)が有名である。19世紀に入ると、鋼鉄の精錬法を発明したヘンリー・ベッセマー(1813‐1898)が現れた。ベッセマーはヨーク地方生まれではないが、その発明を実用化しようという者がいなかったので、シェフィールドの土地を買って製鋼所を創めた。これが大成功し、鋼鉄の製法がイングランド全土へ広がっていき、鉄道、造船業、建築が大きく進歩した。一方で、産業の発展による都市部の過密化は生活環境の悪化をもたらし、1832年や1848年のコレラの流行となって現れた。こうしたことからこの地方では、19世紀の終わりに近代的な上下水道が発達した。また、工場で働く大量の労働者たちの間では、しばしばトラブルが起きた。労働組合側の労働者が組合加入者を増やすために、非加入者の家を爆破したり放火したりした。こうした暴力事件から労働組合法が確立されていった。 詳細はHistory of coal mining、South Yorkshire Coalfield参照。 ===交通網の発展=== イングランドでは、18世紀後半の「運河狂時代」、19世紀の鉄道狂時代によって、ヨーク地方でも運河網、鉄道網が急速に発展し、舗装された街道(turnpike)の整備が始まった。 1825年9月27日にヨーク市近郊のダーリントンと、北ヨーク地方のストックトンを結ぶストックトン・アンド・ダーリントン鉄道が開業した。これは蒸気機関車による「世界最初の鉄道路線」であり、ヨークは「鉄道発祥の地」として知られている。 その後、ノース・イースト鉄道(North Eastern Railway)、イースト・コースト本線(East Coast Main Line)などがヨーク地方を経由してイングランドを南北に縦貫し、南ヨーク地方の低地には鉄道が網目のように張り巡らされた。鉄道の発祥の地であることから、ヨークには世界最大規模のイギリス国立鉄道博物館がある。 19世紀にはハロゲイトやスカーブラが鉱泉で人気になり、治療に効果があると信じて鉱泉を飲む人々が集まり栄えるようになった。 ==交通== #交通網の発展節も参照。 ===道路=== ヨーク地方を通る道路で一番目立つのは「グレート・ノース・ロード」と呼ばれるA1号線である。この幹線道路はヨーク地方の中央を南北に貫いており、ロンドンとエジンバラを結ぶ最も重要な道路である。ほかの主要道では、A19号線(A19 road)がA1号線よりも東側を走っており、南のドンカスターから北部のニューカッスルを結んでいる。 高速M1号線はロンドンや南イングランドとヨーク地方を結んでいる。1999年にリーズの東側で約8マイル(約13km)の延伸工事があり、A1号線と接続された。高速M62号線(M62 motorway)はヨーク地方を東西に横断して、ハルからマンチェスターやマージーサイドと繋いでいる。 ===鉄道=== ロンドンとスコットランドを結ぶイースト・コースト本線は、ヨーク地方ではおおむねA1号線と並走している。ペナイン横断急行(First TransPennine Express)はハルからリーズを経由してリヴァプールの間を走っている。 また、ピカリングとウィットビーを結んで雄大な自然の中を走るノース・ヨークシャー・ムーアズ鉄道(North Yorkshire Moors Railway)は人気の観光地である。もともとは1835年開業の馬車鉄道だったが、1865年に蒸気機関車による運行になったもので、現在は観光鉄道として運行されている。 なかでも最高標高地点にあるゴースランド駅(Goathland railway station)は映画『ハリー・ポッター』シリーズの「ホグズミード駅」の撮影地になっている。 ヨーク地方は鉄道の発祥の地であり、世界最大規模のイギリス国立鉄道博物館があるほか、鉄道に関する多数の博物館や、鉄道に関する史跡が残されている。キースリーからハワースを通ってオクセンホープまで、保存鉄道であるキースリー・アンド・ワース・ヴァレー鉄道が走っている。 ===水上交通=== 鉄道網が発展する前は、ウィットビーとハルの港が物資の輸送に重要な役割を担っていた。ウィットビーは古くからの伝統的な港町で、海洋探検家のクック船長の出身地であり、ここからエンデバーで太平洋へ出港したことでも知られている。ハルからはオランダのロッテルダムやベルギーのゼーブルージュ(Port of Bruges‐Zeebrugge)へP&Oフェリー(P&O Ferries)の定期航路が就航している。 リーズ・リヴァプール運河(Leeds and Liverpool Canal)はイングランド最長の運河である。このほかエア=カルダー水路(Aire and Calder Navigation)、シェフィールド=南ヨークシャー水路(Sheffield and South Yorkshire Navigation)等によって主要都市が連結されている。これらの運河による水運はかつてイギリス全体の運河水運の5割に達し、ヨーク地方の経済的繁栄を支えたが、鉄道網の発達によってその使命を終えた。現在は運送には用いられておらず、観光客向けの船が運行されている。 そのほか#水産業と港湾節も参照。 ===空路=== 第二次世界大戦中、ヨーク地方は王立空軍の爆撃隊の重要な拠点となり、戦争を担う最前線となった。 リーズ・ブラッドフォード空港(Leeds Bradford Airport)は1931年に民生用の飛行場として開設されたが、1936年から空軍の第609飛行隊(No. 609 Squadron RAF)が使うようになり、第二次世界大戦中は軍用機の試験飛行場として活用された。戦後は民間の定期便が就航し、ロンドン、ダブリン、南部のサウスエンド、チャンネル諸島のジャージー、北アイルランドのベルファストのほか、ベルギーのオステンド、ドイツのデュッセルドルフへも国際便が飛んでいた。1970年代に滑走路の延長を行ってスペインやイタリアへ向かう国際線を増やしたほか、1996年以降も設備の拡充が行われ、急激に成長している。 南ヨーク地方でも、シェフィールドやロザラムといった都市では1960年代から空港誘致を望む声があった。しかし議会は空港建設しない決定を下した。というのも、シェフィールド周辺は鉄道網が発達しており、ロンドンへの鉄道の便がよく、近郊の空港へのアクセスも容易だったからである。1997年に両市の間にシェフィールド空港(Sheffield City Airport)が開港したが、まもなく近くのドンカスターのそばにロビンフッド空港ができることになった。さらにレスターシャーにあるイースト・ミッドランド空港(East Midlands Airport)との競合があり、利用客が伸び悩み、2008年に100万ポンドの赤字を出して空港は閉鎖された。しかし再開を望む声もある。 ドンカスター近郊フィニングレー(Finningley)では、第一次世界大戦期に設立された王立空軍フィニングレー基地(RAF Finningley)があった。この基地は第二次世界大戦とその後の冷戦時代に爆撃隊の主要基地となっていた。しかし冷戦の終結によって役割を終え、1996年に軍用利用が終わり、民間利用されることになった。これが2005年にドンカスター・シェフィールド・ロビンフッド空港(Robin Hood Airport Doncaster Sheffield)として開業した。 このほか北ヨーク地方にはダラム・ティーズ空港(Durham Tees Valley Airport)(旧称・ティーズサイド空港)がある。 ==文化== いいかね、彼はイングランド人ではない、ヨークシャー人なのだ。 ― 英国首相ジョン・メージャー(閣僚のウィリアム・ヘイグの実直さを評して) ”(straight‐talking Yorkshireman ‐) not English, mind you, Yorkshire ” ‐ Rt Hon John Major) ヨーク地方の文化は、歴史的に様々な文化を持つ民族がこの地方に入ってきたことで形成された。ケルト人のブリガンテス族(Brigantes)、パリシ族(Parisi)にはじまり、古代ローマ人、アングル人、ノース人、ヴァイキング、ノルマン人、ブルトン人などである。ヨーク地方の人々は地方特有の文化に高い誇りを持っており、それゆえにイングランド人のなかでもヨーク人を見分けることができる。一方でこれらはステレオタイプなヨーク人のイメージだと言うものもいる。 ブラスバンド、ハンチング帽、ドッグレース(whippet racing)、wrinkled stockings、肉汁に浸したパン、パイとマメ、これらはヨークシャーの典型的なイメージの例である。 詳細はCulture of Yorkshireを参照 ===ヨーク方言=== イギリスでは一般的に「方言」は下層階級の特徴とみなされるため、人々は標準語を話そうとする。しかしヨーク地方の人々はヨーク地方特有の文化に高い誇りを持っており、方言を隠そうとせず公の場でも方言を使う。ヨーク方言は「tyke」ともいい、「北の方の、質実剛健な人々の言葉」というイメージをもっている。1897年に設立の「ヨークシャー方言協会」は、世界最古の方言協会とされている。 たとえばヨークでの簡単な挨拶は次のようになる。 標準英語 → ヨーク方言 How are you? → Owdo, tha sees? Very well. → Champerton.標準英語 → ヨーク方言How are you? → Owdo, tha sees?Very well. → Champerton.英文学の代表作品のひとつ『嵐が丘』は全編にわたってヨーク方言が登場する。映画分野では、ケン・ローチ監督が作中にヨーク方言が登場させており、なかでも1969年の作品『ケス)』がその代表作である。このほか近年の映画では『ブラス!』(1996)や『フル・モンティ』(1997)で全編に渡りヨーク方言が使われている、『ホビット』3部作に登場するドワーフの一部がヨーク方言で話す。ヨークシャー人は他の地方の人々を「non‐Tykes(ヨークシャー弁が通じない連中)」ということさえある。 詳細はYorkshire dialectを参照。 ===ヨーク地方の「国歌」=== ヨーク方言の歌詞をもち、ヨーク地方の「国歌」とみなされているのが「On Ilkla Moor Baht ’at」である。「On Ilkla Moor Baht ’at」はケント地方風のメロディーに、ひどいヨーク西部訛りの歌詞をのせたもので、おそらくヨーク地方西部でつくられたものだと考えられている。この曲を収録した文献が初めて出版されたのは1916年であり、成立時期は19世紀後半と考えられている。 この歌の起源に関する伝承がある。それによれば、とある教会の集いで「イルクリー・ムーア(Ilkley Moor)」にピクニックにでかけ、「親子牛岩(Cow and Calf rock)」という巨岩のあたりで一行のうち2人がはぐれてしまった。帰ってきてから「どこに行っていたんだ?」と言い合っているものだという。 Yorkshire Anthem ‐ Ilkla Moor Baht ’At ‐ YouTube ‐ Welcome to Yorkshireによる公式動画。俳優ブライアン・ブレスドがヨーク訛りのラップを披露したほか、ソプラノ歌手レスリー・ギャレット(Lesley Garrett)、グライムソープ・バンドも参加し、シンガーソングライターのアリステア・グリフィン(Alistair Griffin)が「親子牛岩」をバックに歌うなど、ヨーク地方出身の様々なアーティストによる「On Ilkla Moor Baht ’at」である。この動画はBBCの記事でもとりあげられた。) ==建築・史跡== ===古城=== ヨーク地方には古代ローマ時代かそれ以前に遡る城塞跡が数多くあるが、その多くは中世に手が加えられている。中心新都市のヨークは古代ローマ時代のエボラクムに遡る。北海に面するスカーブラ城(Scarborough Castle)では紀元前1000年頃の青銅器時代ないし石器時代まで遡る遺構も見つかっている。 1068年のノルマン・コンクエスト、1069年の北伐(Harrying of the North)のあと、ウィリアム1世はヨーク地方全域にノルマン人貴族を領主として配置し、ノルマン風の城(castle)を建てさせた。ヨーク城(York Castle、Clifford’s Tower)、ピカリング城(Pickering Castle)、ポンテフラクト城(Pontefract Castle)、スキップトン城(Skipton Castle)などがそれである。 北ヨーク地方はウィリアム1世による征服前のマーシアのエドウィン(Edwin)の支配地域だったうえに、北のスコットランドに備えるための要地だった。ここにはウィリアム1世の親戚である重臣アラン・ルルー(Alain Le Roux)が入った。ルルーはブルターニュのブルトン人であり、ブルターニュ風の表記で「リシュモン(Richemont)に相当する「リッチモンド庄(Honour of Richmond)」が置かれた。ここに築かれたリッチモンド城(Richmond Castle)やボウズ城(Bowes Castle)は、ノルマン人による他の城とは様相を異にしている。 ヘルムズリー城(Helmsley Castle)、ミドルハム城(Middleham Castle)、スカーブラ城(Scarborough Castle)は、スコットランド人の侵入に備えて築かれた城である。ミドルハム城はリチャード3世が幼少の頃を過ごしたことで有名である。 これらの城や城跡の中にはイギリスの歴史遺産に登録されているものもあり、観光名所になっている。 ===カントリー・ハウス・近代建築=== ヨーク地方にはカントリー・ハウスながら、その名前に「城(castle)」を持つものがいくつかある。これらは実際には「城」というより宮殿の部類である。その代表格がアラートン・キャッスル(Allerton Castle)とカースル・ハワード(C*8415*stle H*8416*ward)である。この2つの建物はどちらもハワード家に繋がりがある。カースル・ハワードと、ヘアウッド伯爵(Earl of Harewood)の居宅だったヘアウッド邸(Harewood House)は、イギリスに9つある「トレジャー・ハウス(Treasure Houses)」となっている。 ヨーク地方には、「1等級(Grade I)」に格付けされている重要な建築物がたくさんある。その中には公共建築物も多く含まれており、リーズ市庁舎(Leeds Town Hall)、シェフィールド市庁舎(Sheffield Town Hall)、オームズビー・ホール(Ormesby Hall)、ヨークシャー博物館(Yorkshire Museum)、ヨーク・ギルド会館(York Guildhall)、ハリファクスのピース・ホール(Piece Hall)などがそれにあたる。 詳細はListed building、Grade I listed buildings in the East Riding of Yorkshire、Grade I listed buildings in North Yorkshire、Grade I listed buildings in West Yorkshire、Grade I listed buildings in South Yorkshireなど。ブロズワース・ホール(Brodsworth Hall)や、テンプル・ニューサム(Temple Newsam)、ウェントワース・キャッスル(Wentworth Castle)などの邸宅では、広大な敷地の中に重要な建造物が並んでいる。このほか、ナショナル・トラストが保全しているものとして、ナニントン・ホール(Nunnington Hall)、リヴォー・テラス(Rievaulx Terrace & Temples)、スタッドリー王立公園(Studley Royal Park)などがある。 ===宗教建築=== 現存する大聖堂のほか、廃された僧院・修道院跡といった宗教的建築物もある。こうした廃院の多くは、ヘンリー8世による1536年の修道院の再編(Dissolution of the Monasteries)の時に損なわれたものである。例を出すと、ボルトン修道院跡(Bolton Abbey)、ファウンテンズ修道院、ギスボロー修道所跡(Gisborough Priory)、リボー修道院跡(Rievaulx Abbey)、聖メアリ修道院跡(St Mary’s Abbey)、ウィットビー修道院跡(Whitby Abbey)などである。 今も使われているものとしては、有名なヨーク大聖堂は北ヨーロッパ最大のゴシック建築の大聖堂である。このほかビヴァリー大聖堂(Beverley Minster)、ブラッドフォード大聖堂(Bradford Cathedral)、リポン大聖堂(Ripon Cathedral)などがある。 ==文芸== ===文学=== ====ブロンテ姉妹==== 19世紀のヨーク地方から出たのがブロンテ姉妹である。彼女らはのちに「最後のロマン主義作家」などと評され、代表作はイギリス文学のみならず世界的な名著のひとつに数えられている。 ブロンテ姉妹はヨーク地方の南西部にあるハワース(Haworth)という村に住み、ハワースを舞台にした作品を書いた。彼女たちの作品にはヨークの自然、地理、文化が取り入れられており、それらを巧みに活かした物語になっている。代表作は、エミリーの『嵐が丘』、シャーロットの『ジェーン・エア』、アンの『ワイルドフェル・ホールの住人』である。いまではこの辺り一帯には「ブロンテ・カントリー」という異名があり、ハワースはヨーク地方の人気の観光地となっている。 19世紀中頃に著された彼女らの小説は、最初の出版と同時にセンセーションを巻き起こし、のちにイギリス文学の偉大な「正典」とみなされるようになった 。姉妹の作品群のなかでも最も代表的なものは、シャーロットの『ジェーン・エア』、エミリーの『嵐が丘』である。『嵐が丘』は実際のヨーク地方の生活にもとづいており、実際にそこに暮らしていた人々を登場人物として描き、ヨークシャー・ムーアの荒れがちな天候を物語に利用している。彼女らが実際に住んでいた牧師館はいまは記念館になっている。 ===ブラム・ストーカー=== ウィットビーは19世紀の終わりごろにブラム・ストーカーが『吸血鬼ドラキュラ』を執筆したことで知られている。ウィットビーにある聖メアリー教会(Church of Saint Mary)は12世紀初頭の建設と伝えられており、ブラム・ストーカーは古めかしい石の墓標が並んだ教会の墓地で、作品のインスピレーションを得た。この作品の中でドラキュラ伯爵が乗ってくる「デミター号」は、当時ウィットビーに入港したロシア船「デミトリ号」をモデルにしていると伝えられている。このロシア船はウィットビー港の外側で座礁し、船から遺体の入った大量の木棺が運びだされた。作中、デミター号からイングランドに上陸したドラキュラ伯爵が黒犬の姿で階段を駆け上がるシーンは、聖メアリ教会の199段の木造の階段がモデルになっている。 ===その他の文人=== ヨーク地方がノーサンブリア王国の南部だった時期の有名な人物として、アルクィン(聖職者)、キャドモン(C*8417*dmon)(詩人)、聖ウィルフレッド(Wilfrid)(聖職者)がいる。 20世紀のヨーク地方出身の作家で代表的な人物は、J・B・プリーストリー、アラン・ベネット(Alan Bennett)、マーガレット・ドラブル、A・S・バイアット、バーバラ・T・ブラッドフォード(Barbara Taylor Bradford)がいる。バーバラ・T・ブラッドフォードの代表作『女資産家(A Woman of Substance)』はオールタイムベストセラーのトップ10に入る小説である。 このほかの有名作家では、児童文学作家のアーサー・ランサム(代表作『ツバメ号とアマゾン号』シリーズ(Swallows and Amazons))がいる。ジェイムズ・ヘリオットはヨーク地方北部のサースク(Thirsk)での50年に渡る獣医の経験をもとにした作品が6000万部売れた。この作品中でヘリオットは、サースクをモデルにした「ダロビー(Darrowby)」という架空の町を舞台にしている。ただし、ヘリオットは実際にはもっと北部のタイン・アンド・ウィアのサンダーランド出身である。彼の作品は読みやすい文体と興味深い登場人物で人気である。 詩人ではテッド・ヒューズ、W・H・オーデン、ウィリアム・エンプソン、サイモン・アーミテージ(Simon Armitage)がいる。 ===絵画・彫刻=== ヨーク地方の有名な画家には、ウィリアム・エッティ、デイヴィッド・ホックニーがいる。ソルテアにあるソルツミル美術館(Salts Mill)の「1853ギャラリー」がホックニーの作品を数多く所蔵している。 20世紀の有名な彫刻家は次の通り。ヘンリー・ムーア、バーバラ・ヘップワース(Barbara Hepworth)、リーズ育ちのアンディー・ゴールズワージー。ヨークシャー彫刻公園(Yorkshire Sculpture Park)には彼らの作品がいくつか展示されている。 このほか、ヨーク地方にはフェーレン美術館(Ferens Art Gallery)、リーズ美術館(Leeds Art Gallery)、ミレニアム美術館(Millennium Gallery)、ヨーク美術館(York Art Gallery)などには豊富な収蔵品をもつ美術館がある。 ==食文化== ヨークシャー人でないかぎり、ヨークシャー・プディングをふっくらと焼き上げようと思っても、南部人が焼いたみたいにペッタンコになってしまうだろう。 (But try to get a rise out of any Yorkshireman or woman by invoking one of the above and your attempts will fall as flat as a Yorkshire Pudding baked by a southerner.) BBC‐News 2006年8月1日付“What’s so special about Yorkshire?”より ヨーク地方の郷土料理は、北イングランドとだいたい同じで、安価で手に入る材料をたくさん使う。ことデザートについてそれが顕著である。ヨーク地方発祥だったり、ヨーク地方と深い繋がりがある献立もいくつかある。 ヨークシャー・プディングはイギリス料理のなかでよく知られたもののひとつである。小麦粉、鶏卵、牛乳、塩を混ぜた液状の生地を、型に入れて焼いたパンのような食品である。 ヨークシャー・プディングはイギリス人にとってローストビーフに欠かすことができない付け合わせで、グレイビーソースをたっぷりと染み込ませて食べるのがよい。イギリスの伝統的な食文化のひとつであるサンデーローストは、ローストビーフ、野菜、ヨークシャー・プディングなどを盛り合わせたものである。ヨークシャー・プディングは「トード・イン・ザ・ホール(Toad in the hole、「穴の中のヒキガエル」)」と称するソーセージ料理のベースにもなる。ヨーク地方では伝統的に、料理の一皿目として、大きめに焼いたヨークシャー・プディングにグレイビーソースをたっぷりかけて食べる。さらに肉料理の皿には、小さめに焼いたヨークシャー・プディングを添える。 この食品自体は古くからあっただろうと考えられているが、「ヨークシャー・プディング」の名で広まったのは1747年に出版されてベストセラーになった料理本『The Art of Cookery made Plain and Easy』による。来歴は不詳であるが、イングランド北部のペナイン山脈の一帯で広まっていた料理と伝えられており、「イングランド南部の料理」と紹介した料理家がヨーク人たちによって批難されたこともある。ヨーク地方選出の国会議員アン・マッキントッシュ(Anne McIntosh)は、ヨークシャー・プディングをこの地方の郷土料理として保護するため、フランスのシャンパンやギリシャのフェタチーズのように正しいレシピと名称を定めるべきだと主張し、2007年から運動を展開している。 このほか、ヨーク地方に深いつながりがある料理・飲み物は次の通り。 セイヴァリー・ダック(Savoury Ducks) ‐ 「香りの良いアヒル」という意味の料理。実際に使うのは豚のレバー。豚レバー、豚肉、玉ねぎなどを薄くスライスし、バジル、タイム、セージ、ナツメグ、塩、コショウなどで味を整えて焼き上げたもの。肉汁に浸して食べる。安価な食材ばかりで手軽にできる料理。ヨーク・ビスケット(York Biscuits) ‐ 多めの牛乳を使い、ジンジャー(生姜)で風味をつけた生地に、紋様や「YORK」などの文字を型押しして、堅めに焼いたビスケット。ヨーク地方での紅茶の添え物の定番。1790年に当時のヨーク公フレデリックとプロイセン王女フリーデリケの婚礼の宴で提供されたのが始まりとされている。ヨークシャー・カード・タルト(Yorkshire curd tart) ‐ カードというチーズの一種を載せ、バラ水(Rose water)で風味をつけたタルト、ないしチーズケーキの一種。パーキン ‐ ジンジャーブレッドの一種。普通のジンジャーブレッドと違うのは、オートミールとトリクル(Treacle)という糖蜜の一種を使う。ウェンズリーデール・チーズ(Wensleydale cheese) ‐ ウェンズリー谷(ウェンズリーデール)に伝わるチーズ。12世紀にフランスから移ってきたシトー会の修道士が製法をもたらしたとされる。元来はヒツジ(ウェンズリーデール種(Wensleydale (sheep)))の乳でつくる青カビタイプだったが、のちに牛乳を使い、カビの入らないタイプが主流になった。スイーツのつけ合わせとして提供される。ウェンズリー谷は都市部から遠いため、生乳(牛乳)をそのまま販売するのは難しく、もともとは田舎で保存のためにほそぼそと作られるチーズだった。19世紀の終わりに地元(Hawes)の商人が取り扱うようになったものの、不人気でまもなく下火になった。第二次世界大戦前にKit Calvertがこれを集約して再興、一時期はKit Calvertが唯一のウェンズリーデール・チーズの生産者だった。1960年代後半から販路を広げ、チーズ生産者も増えた。現在は青カビタイプ(ブルー・ウェンズリーデイル)やヒツジの乳で作るものも生産されている。ジンジャー・ビール(Ginger beer) ‐ ショウガで風味をつけた飲み物。アルコールを含まない甘い炭酸飲料と、ビールに風味をつけたものとがある。18世紀中頃からヨーク地方で飲まれてきた。リコリス菓子 ‐ 1760年代に、ポンテフラクト(Pontefract)のジョージ・ダンヒル(George Dunhill)が考案したお菓子。甘草(スペインカンゾウ)の抽出物と砂糖を混ぜてつくったもの。ダンヒルのリコリス工場は後にHARIBOが買収した。ヨーク地方とヨーク市は、製菓産業が盛んである。Rowntree’s、Terry’s、Thorntonsなどのチョコレート工場があり、イギリスでポピュラーな様々な菓子を製造している。キャッスルフォード(Castleford)にはHARIBOのイギリスでの拠点がある。 このほか、ヨーク地方の伝統的な食べ物には「ピケレット(pikelet)」がある。これはクランペットに似ているが、もっとずっと薄い。 ブラッドフォードはイングランドでは「カレーの中心地(Curry Captial of Britain)」として知られている。繊維産業に湧いたブラッドフォードには多くのアジア系移民がいた。1950年代以降に繊維産業が落ち込み、市の経済が落ち込むと、ブラッドフォード市内のビルは空き室だらけになり、そこに1000軒を超すインド料理屋が開業したのである。 ヨーク地方には高級店から大衆店まで数多くのインド料理店があり、大きく発展した有名店(curry empire)がいくつもある。ブラッドフォードの隣町クレックヒートン(Cleckheaton)にある「アーカシュ(Aakash)」というカレー店には850席もあり、「世界最大のカレー店」とされている。 ===ビール醸造=== ヨーク地方では、ペナイン山脈からの豊富な水資源により、数多くのビール醸造業者がいる。Black Sheep、Copper Dragon、Cropton、John Smith’s、Sam Smith’s、Kelham Island、Theakstons、Timothy Taylor、Wharfedale、Leedsなどである。 このうち、キースリーのティモシー・テイラー醸造所(Timothy Taylor Brewery)の「Boltmaker」は、イングランドの消費者団体CAMRAが2014年の「イギリスのビール銘柄のチャンピオン」(ビター部門)に選出している。 ビールづくりは遅くとも12世紀には盛んになっており、ファウンテンズ修道院ではかつてエール酒を10日に60樽のペースで生産していた。いまの醸造業者のほとんどは、18世紀後半から19世紀はじめにかけての産業革命期の創業である。 ヨーク地方のビールはビタータイプ(Bitter)のスタイルが多い。また、イングランド北部では、ビールを提供するときはハンドポンプ式(Beer engine)が主流で、きめ細かくしっかりとした泡立ちにするため、注ぎ口にはスパークラーをつける。 ==ポップカルチャー== ===伝統芸能・伝統音楽=== ヨーク地方の様々な伝統芸能の中でも有名なのが「ロング・ソード・ダンス(Long Sword dance)」という舞踊(フォークダンス)である。 ヨーク地方はフォークミュージックがとても盛んで、フォークミュージック専門の会場(Folk club)が40以上、定期的なフォークミュージックの祭典(folk music festivals)が30以上ある。ヨーク地方のフォークミュージックの有名な演者では次のような名前をあげることができる。 The Watersons ‐ ハル出身。彼らは1965年以来、ヨーク地方のフォークミュージックをレコード化している。ヘザー・ウッド(Heather Wood,1945‐) ‐ The Young TraditionのメンバーMr. Fox ‐ 1970‐1972年に活動していたフォークロックバンドThe Deighton FamilyJulie MatthewsKathryn Robertsケイト・ラズビー ===ブラスバンド=== ブラスバンドもヨーク地方の代表的な文化とみなされている。 ブラッドフォード市のクインズベリー(Queensbury)にある紡績工場から始まったブラック・ダイク・バンドは、世界最古かつ最も有名なブラスバンドとされている。1816年の創設以来、ブラスバンドの全英チャンピオンに23回、全欧チャンピオンに13回輝いている(2015年9月時点)。カルダーデール(Calderdale)のブリッグハウスも全英選手権優勝8回(2010年時点)を誇る。このほかにも、Carlton Main Frickley Colliery Band、Hammonds Saltaire Band、Yorkshire Imperial Bandらが成功している。グライムソープ・コリアリー・バンドは、1996年公開の映画『ブラス!』のモデルになった(#映画作品参照)。 ===クラシック音楽=== クラシック音楽の分野でのヨーク地方出身者には次のような人物がいる。 フレデリック・ディーリアス、ジョージ・ダイソン、Edward Bairstow、William Baines、Kenneth Leighton、エリック・フェンビー、ハイドン・ウッド、Arthur Wood、アーノルド・クック、ギャヴィン・ブライアーズ ===映画作品=== 1963年の公開作『This Sporting Life(邦題 孤独の報酬)』では、主役の炭鉱夫を演じたリチャード・ハリスがカンヌ映画祭・男優賞を受賞した。このほか、『Kes(邦題 ケス)』(1969)、『Brassed Off(邦題 ブラス!)』(1996)、『The Full Monty(邦題 フル・モンティ)』(1997)は、いずれも重工業が斜陽化した町を描いている。『ブラス!』が炭砿閉鎖に揺れる実在のブラスバンドを描いているほか、不況下で鉄工所が閉鎖されたシェフィールドを舞台にした『フル・モンティ』はアカデミー作曲賞を受賞した。 このほか、『Room at the Top(邦題 年上の女)』(1959)(カンヌ映画祭・女優賞、アカデミー主演女優賞・脚色賞)、『Rita, Sue and Bob Too!』(1987)、『Calendar Girls(邦題 カレンダー・ガールズ)』(2003)、『Mischief Night』(2006)などがヨーク地方を舞台にしている。 ===テレビ番組=== ヨーク地方を舞台にしたTV番組では次のようなものがある。 「ラスト・オブ・ザ・サマーワイン」(Last of the Summer Wine) ‐ シットコム。1973年から2010年まで放映し、コメディ番組としては世界最長記録を作った。「ハートビート」(Heartbeat) ‐ 連続ドラマ。「エマーデイル」(Emmerdale) ‐ 昼ドラ。「ダウントン・アビー」(Downton Abbey) ‐ 第一次世界大戦前後を舞台にした歴史ドラマ。日本ではスター・チャンネルやNHKで放映。このほか、ヨーク地方で撮影を行ったものとして、「All Creatures Great and Small」、「The Beiderbecke Trilogy」、「Rising Damp」、「Fat Friends」、「The Royal」などがある。 ===現代音楽・ポップ&ロック=== テレビや映画・ラジオの音楽分野では次のような人物がいる。 ジョン・バリー (1933‐2011)‐ 映画「『007/ジェームズ・ボンド』シリーズのテーマ曲などで知られる。ヨーク市生まれで、ヨーク寺院で音楽を習い、ジャズ演奏を経て映画音楽の世界に入った。アンジェラ・モーリー(Angela Morley,1924‐2009) ‐ 作曲家・指揮者。リーズ出身。1950年代のBBCの人気ラジオ番組「Hancock’s Half Hour」のテーマ曲などで人気作曲家となった。エミー賞の音楽部門で2度の受賞がある。このほか、ロック&ポップスのジャンルでの有名なバンドは次の通り。 リーズ出身 ‐ シスターズ・オブ・マーシー、ギャング・オブ・フォー、ソフト・セル、ザ・ウェディング・プレゼント、カイザー・チーフス 、The Mission。このほか、チャンバワンバも一時期をリーズで過ごしている。シェフィールド出身 ‐ デフ・レパード、ABC、ヒューマン・リーグ、パルプ、アークティック・モンキーズ。ブラッドフォード出身 ‐ ザ・カルト、New Model Army、ウェイクフィールド出身 ‐ Vardis、ザ・クリブス。2000年代半ば頃にリーズやシェフィールドなどから出てきたカイザー・チーフスやアークティック・モンキーズなど、ポストパンクリバイバル系ギターロックのバンドを総称して「ニュー・ヨークシャー」と呼称することがある。 デヴィッド・ボウイは、父親がタドカスター(Tadcaster)の出身である。デビッド・ボウイの代表作である1970年代のアルバム『ジギー・スターダスト』は、ハル出身者が3人関わっている。ギタリストのミック・ロンソン、トレバー・ボールダー(Trevor Bolder)、ミック“ウディ”ウッドマンシー(Mick Woodmansey)である。 ==スポーツ== ヨーク地方では、サッカー、ラグビー、クリケット、競馬などのスポーツが19世紀以前に遡る歴史をもっている。 ===サッカー=== 国際サッカー連盟(FIFA)では、ヨーク地方をサッカー(アソシエーション式フットボール)の公式クラブの発祥の地としている。1857年創設のシェフィールドFCがそれで、世界最古のクラブとして認められている。世界初の公式クラブ戦が行われたのもヨーク地方で、世界最古のサッカー競技場であるサンディゲート・ロード競技場(Sandygate Road)で行われた。世界中で使われているサッカー競技規則を起草したのは、ハル出身のエベネーザー・コッブ・モーリーEbenezer Cobb Morleyである。 ヨーク地方のサッカークラブチームには、バーンズリーFC、ブラッドフォード・シティAFC、ドンカスター・ローヴァーズFC、ハダースフィールド・タウンFC、ハル・シティAFC、リーズ・ユナイテッドAFC、ミドルズブラFC、ロザラム・ユナイテッドFC、シェフィールド・ユナイテッドFC、シェフィールド・ウェンズデイFC、ヨーク・シティFCがある。うち4クラブはリーグ優勝経験がある。ハダースフィールド・タウンFCは史上初のリーグ三連覇を果たしたこともある。ミドルズブラFCは近年では2004年にフットボールリーグカップ優勝、2006年にUEFAヨーロッパリーグ決勝まで進出した。リーズ・ユナイテッドAFCはヨーク地方を代表する最大のクラブであり、1970年代には常に国内上位にいて、最近では2001年にUEFAチャンピオンズリーグで準決勝までいった。これに並ぶのがシェフィールド・ウェンズデイFCで、1990年代には黄金期を迎えた。どちらも多くのサポーターを抱える歴史あるクラブである。ヨーク地方出身の有名選手では、イングランドが優勝した1966 FIFAワールドカップで正ゴールキーパーを務めたゴードン・バンクス、バロンドール2度受賞のケビン・キーガンがいる。指導者としてはハーバート・チャップマン、ブライアン・クラフ、Bill Nicholson、George Raynor、ドン・レヴィーがいる。 ===クリケット=== ヨークシャー・クリケットクラブ(Yorkshire County Cricket Club)は国内のファーストクラス・地区対抗選手権(County Championship)で31回の優勝を誇り、国内全地区を通じて最高の成績を残している。 クリケットで最高の選手のうち何人かはヨーク地方の生まれであり、Geoffrey Boycott、Len Hutton、Herbert Sutcliffe、Fred Truemanらがいる。 ===ラグビー=== ラグビー・フットボール・リーグとラグビーリーグは、1895年にハダースフィールドにあるジョージ・ホテル(George Hotel)で創設された。これは従前のラグビー・フットボール・ユニオン内で、イングランドの北部と南部で意見の衝突により分裂に至ったものである。一番上のスーパーリーグにいるヨーク地方のチームは、ハダースフィールド・ジャイアンツ(Huddersfield Giants)、ハルFC(Hull F.C.)、ブラッドフォード・ブルズ(Bradford Bulls)、ハル・キングストン・ローバーズ(Hull Kingston Rovers)、ウェークフィールド・トリニティ・ワイドキャッツ(Wakefield Trinity Wildcats)、キャッスルフォード・タイガース(Castleford Tigers)、リーズ・ライノス(Leeds Rhinos)である。ラグビーの名誉の殿堂入り(Rugby Football League Hall of Fame)したヨーク地方出身者は、Roger Millward、Jonty Parkin、Harold Wagstaffなど6人いる。 ===競馬=== ヨーク地方はイギリスの競馬と馬産の中心地の一つである。18世紀初頭にアン女王がヨーク競馬場に巡幸して以来、ヨーク地方は競馬の重要地と認められており、当時もっとも格式の高いレースだった王室賞を複数開催する資格のあった数少ない地方だった。18世紀にはヨーク地方だけで25の競馬開催があり、2015年時点でも9つの競馬場がある。これはイングランドの一地方として最も多く、1年のうち170日あまりの競馬開催がある。 このうちドンカスター競馬場ではイギリスクラシック三冠競走の最終戦セントレジャーステークス、ヨーク競馬場では世界ランク1位(2015年)のインターナショナルステークスなどが行われている。また、イングランドでもっとも長く続いている競馬のレースが1519年から続く「キプリングコート・ダービー(Kiplingcotes Derby)」で、マーケットウェイトンの町(Market Weighton)の近くで行われている。 ヨーク谷はかつて競走馬の生産の中心地でもあった。サラブレッドの三大始祖として知られるダーレーアラビアンをはじめ、バートレットチルダーズ、レギュラスなどの種牡馬チャンピオン、スクワート、マースクなどがヨーク地方で生産されている。ピーク時にはイギリスのサラブレッド8割がヨーク地方で生産されていた。 ヨークに近いモルトン(Malton)と、リッチモンドに近いミドルハム(Middleham)は、イングランドを代表する競走馬の調教地である。19世紀に活躍したモルトンのジョン・スコット調教師(John Scott)は「北の魔術師」と呼ばれ、イギリスの初代三冠馬ウェストオーストラリアンなど、41頭のクラシックレース優勝馬を送り出した。この記録は2015年現在も破られていない。このほか、全英調教師チャンピオンに8度輝いたチャールズ・エルゼイ(Charles Elsey)、二冠牝馬ブリンクボニー(Blink Bonny)などを手がけたウィリアム・イアンソン(William I’Anson)などもモルトンの調教師である。 ===その他=== キツネ狩りの組織がイギリスで最初に作られたのはヨーク地方のビルスデール地域(Bilsdale)であり、1668年に創設になった。 ボクシングでは、“PRINCE”ことナジーム・ハメドがシェフィールド出身で、フェザー級のタイトルを獲った。英国放送協会(BBC)はハムドの戦歴を「イギリスのボクシング史上、最も輝かしい経歴のひとつ」と評した。リーズ出身のニコラ・アダムズは2012年のロンドンオリンピックで新たに加わった女子ボクシングで初代金メダリストとなった。(2012年ロンドンオリンピックのボクシング競技参照。) 「クヌア・アンド・スペル(Knurr and Spell)」というヨーク地方特有の競技がある。18世紀から19世紀にはヨーク地方で一番人気のある競技だった。詳細は不明だが、20世紀に入ると下火になってしまった。 2012年のロンドンオリンピックでは、ヨーク地方出身者からもたくさんの出場選手が「チームグレートブリテン(Team GB)」に参加した。「ヨークシャー・ポスト」紙(The Yorkshire Post)によれば、ヨーク出身者だけでスペイン全体よりも多くの金メダルを獲得した。 ツール・ド・フランス2014では、ヨーク地方がグランデパール(ツアー全体の出発地)になり、ヨーク地方での2日間の行程を見ようと、250万人の観客が集まった。翌2015年より、ツール・ド・フランスと同じアモリ・スポル・オルガニザシオンの主催により「ツール・ド・ヨークシャー」が5月1日から3日間の日程で行われ、1日目ブリッドリントンからスカボロー、2日目セルビー(Selby)からヨーク、3日目ウェイクフィールドからリーズのコースで争われ、120万の観客が集まった。2016年は4月29日から5月1日、2017年は4月28日から30日にかけて行われている。 ==選挙制度== 1889年にヨーク地方を3つに分けて地方議会(County council)が作られた。ただしこれらの行政区分には大都市は含まれず、大都市圏は単独で(County borough)となった。 詳細はYorkshire、High Sheriff of Yorkshire、Lord Lieutenant of Yorkshire、History of local government in Yorkshireを参照。イギリス議会では、13世紀から伝統的にヨーク地方には2議席、ヨーク市に2議席が与えられてきた。1265年にシモン・ド・モンフォールが創設した議会((en:Montfort’s Parliament、イギリス議会の基礎になったもの))ではヨーク市に2議席が与えられ、さらにヨーク大司教に1議席が設けられていた。1295年の模範議会からはヨーク地方の議席として定数2が与えられた。これは後の庶民院(House of Commons of the United Kingdom)、スコットランドとの連合王国が成立してからの大英国会(Parliament of Great Britain、1707‐1800年)、連合王国議会(Parliament of the United Kingdom、1801‐1832年)と発展しても定数2が維持された。 1832年の定数是正(Reform Act 1832)で、最大地方であるヨーク地方は定数が増えるとともに、東、北、西の「ライディング」に合わせた3つの選挙区に細分化された。1865年の総選挙(United Kingdom general election)以降は、「西ライディング選挙区」はさらに3つに分割された。「西ライディング北部(Northern)」、「西ライディング南部(Southern)」、「西ライディング東部(Eastern)」選挙区である。しかしこれらは1885年の定数是正(Redistribution of Seats Act 1885)によって廃止された。 詳細はEast Riding of Yorkshire、North Riding of Yorkshire、West Riding of Yorkshire参照。この定数変更によって、イギリスの行政は地方分権化が進んだ。ヨーク地方には26の議席が割り振られた(List of UK Parliamentary constituencies参照。)。1888年の地方行政法(Local Government Act 1888)では、「カウンティ・バラ(County borough)」の見直しがいくつかあり、ヨークシャーには19世紀の間、8つの「カウンティ・バラ」が存在した。 1918年の総選挙(United Kingdom general election)の前に、選挙区の改正(Representation of the People Act 1918)が行われ、選挙区の区割りに少々変更があった。これは1950年代に再び元に戻された。(List of UK Parliamentary constituenciesを参照。) 1972年に制定、1974年施行の法改正(Local Government Act 1972)によるヨーク地方の再編(reorganisation of local government in Yorkshire)は極めて不評だった。 1996年に「東ライディング」が変更となって、「unitary authority area」かつ「典礼カウンティ」となった。イングランドは新たに9つの「リージョン」に分けられ、ヨーク地方の大部分は「ヨークシャー・アンド・ザ・ハンバー」リージョンとなった。ただし伝統的なヨーク地方の一部の地域には別の「リージョン」になった場所もある。「ヨークシャー・アンド・ザ・ハンバー」は、欧州議会の選挙区にもなっており、定数6が与えられている。 ==有名人== サッチャー政権下で報道官を務めていたバーナード・インガム(Bernard Ingham)は、自著の中で「ヨーク地方出身者50傑」を発表した。選ばれたのは次の通り。 ジェームズ・クック(1728‐1779) ‐ 海洋探検家。ヨーロッパ人として初のハワイ諸島の発見、オーストラリアやニュージーランドの地図作成など。ウィリアム・ウィルバーフォース(1759‐1833) ‐ 奴隷貿易の廃止に尽力した政治家。ジョン・ハリソン(1693‐1776) ‐ 時計職人。クロノメーターを発明し、経度の測定を可能として遠洋航海に貢献。ノーサンブリア王エドウィン(Edwin of Northumbria,586‐633) ‐ デイラ王国とバーニシア王国を統一。アルクィン(753‐804) ‐ 教師、神学者。フランク王国のカール大帝の顧問となる。ジョン・ウィクリフ(1330‐1384) ‐ 神学者。宗教改革の先駆者。ウィリアム・ブラッドフォード(William Bradford,1590‐1657) ‐ メイフラワー号でアメリカに渡った最初の人物の一人。メイフラワー誓約で2番めに署名し、プリマス植民地を築いた。ジョン・スミートン(1724‐1792) ‐ 「土木工学の父」。セメントの発明、水車や風車の改良など、イングランドの公共建築の進歩に貢献。ウィリアム・ベイトソン(1861‐1926) ‐ 遺伝学者。メンデルの法則を広め、様々な遺伝学用語を作った。ジョセフ・ブラマー(Joseph Bramah,1748‐1814) ‐ 発明者。水洗トイレ、油圧プレスなどの工作機械、ビールサーバー(Beer engine)など。オーガスタス・ピット・リヴァーズ(Augustus Pitt Rivers,1827‐1900) ‐ 人類学者。考古学的手法を確立。膨大なコレクションがオックスフォード大学のピット・リヴァーズ博物館(Pitt Rivers Museum)に収蔵。ジョゼフ・プリーストリー(1733‐1804) ‐ 科学者。酸素の命名、炭酸水の発明、アンモニア、塩化水素、一酸化窒素、二酸化窒素、二酸化硫黄などの発見。ヘンリー・ブリッグス(1561‐1630) ‐ 数学者。常用対数の考案。ジョージ・ケイリー(1773‐1857) ‐ 「航空学の父」。ジョン・コッククロフト(1897‐1967) ‐ 物理学者。核反応を初めて実現。ノーベル物理学賞受賞。フレッド・ホイル(1915‐2001) ‐ 天文学者。アームロス・ライト(Almroth Wright,1861‐1947) ‐ 医学者。腸チフス予防接種の開発。エミー・ジョンソン(1903‐1941) ‐ 大西洋横断飛行、英印無着陸飛行などを行った女性パイロット。第二次世界大戦中の輸送任務中に死亡。ベティ・ブースロイド(Betty Boothroyd,1929‐) ‐ 政治家。イギリス下院史上唯一の女性議長。第2代ロッキンガム侯爵(1730‐1782) ‐ イギリス首相。初代アスキス伯爵(1852‐1928) ‐ イギリス首相。ハロルド・ウィルソン(1916‐1995) ‐ イギリス首相。タイタス・ソルト(Titus Salt,1803‐1876) ‐ 産業革命期の実業家。ソルト・ミル(Salts Mill)と呼ばれる繊維工場を経営。マイケル・サドラー(Michael Sadler,1861‐1943) ‐ 教育学者。ジョン・カーウェン(John Curwen,1816‐1880) ‐ 音楽家。Tonic sol‐faと呼ばれる音楽教育の手法を編み出した。トーマス・フェアファクス(1612‐1671) ‐ 清教徒革命の指揮官。マーストン・ムーアの戦いで議会派を勝利に導いた。聖ヨハネ・フィッシャー司教(1469‐1535) ‐ カトリックの聖人。ヘンリー8世の離婚やイングランド国教の設立に反対して処刑され、のちに列聖された。ガイ・フォークス(1570‐1606) ‐ 火薬陰謀事件の首謀者として知られる。英語で「男」を意味する「ガイ」の語源になった。トーマス・チッペンデール(1718‐1779) ‐ 家具職人。チッペンデール様式の祖で、18世紀イギリスで最も有名な家具デザイナー。パーシー・ショウ(Percy Shaw,1890‐1976) ‐ 発明家。道路の反射板(Cat’s eye)を考案。ハリー・ブレアリー(1871‐1948) ‐ 発明家。ステンレス鋼の発明。初代ランク男爵(J. Arthur Rank,1888‐1972) ‐ イギリス映画業界のプロデューサー。主な作品に『ヘンリィ五世』(1944)など。エミリー・ブロンテ(1818‐1848) ‐ 「世界の三大悲劇」の一つ、『嵐が丘』の著者。ブロンテ姉妹の一人。ウィリアム・コングリーヴ(William Congreve,1670‐1729) ‐ 劇作家、詩人。代表作に『世の習い』(The Way of the World)。J・B・プリーストリー(1894‐1984) ‐ 作家、劇作家。アラン・ベネット(1934‐) ‐ 作家。代表作に『英国万歳!』など。チャールズ・ロートン(1899‐1962) ‐ 俳優、映画監督。1933年に映画『ヘンリー八世の私生活』でアカデミー主演男優賞受賞。アンドルー・マーヴェル(1621‐1678) ‐ 清教徒革命時代の詩人。フェアファクス家で家庭教師をし、のちに議員も務めた。テッド・ヒューズ(1930‐1998) ‐ 児童文学者、詩人。イギリス王室から桂冠詩人の称号を与えられた。デイヴィッド・ホックニー(1937‐) ‐ 現代芸術家。ヘンリー・ムーア(1898‐1986) ‐ 芸術家、彫刻家。フレデリック・ディーリアス(1862‐1934) ‐ 作曲家。ジョン・バリー(1933‐2011) ‐ 映画音楽の作曲家。『007シリーズ』のテーマ曲などで知られる。アカデミー賞受賞5回。ジャネット・ベイカー(Janet Baker,1933‐) ‐ オペラ・歌曲のメゾソプラノ歌手。主な受賞歴にキャスリーン・フェリアー賞、ロンドン王立音楽院女王賞、デンマークのレオニー・ソニング音楽賞(L*8418*onie Sonning Music Prize)など。レン・ハットン(Len Hutton,1916‐1990) ‐ クリケット選手。イングランド代表チームの主将を務めた。フレッド・トルーマン(Fred Trueman,1931‐2006) ‐ クリケット選手。ブライアン・クラフ(1935‐2004) ‐ サッカー監督。UEFAチャンピオンズカップ連覇など。アラン・ヒンクス(1954‐) ‐ 登山家。ジェーン・ハリソン(Barbara Jane Harrison,1945‐1968) ‐ 航空会社の客室乗務員。1968年の飛行機事故(BOAC Flight 712)の際、炎上中の機内から112名の乗客を避難させ、さらに逃げ遅れた身体障害者を救出しようと機内に戻った所、機体が爆発し死亡。イギリスで2位となるジョージ・クロス勲章を授けられた。スタンレー・ホーリス(Stanley Hollis,1912‐1972) ‐ 英国陸軍軍人。第二次世界大戦中のノルマンディー侵攻作戦でゴールドビーチ上陸戦で曹長(Company sergeant major)として先陣を務めてドイツ軍の塹壕を撃破したほか、戦場に取り残された友軍兵を救出。イギリス最高位となるヴィクトリア十字章を授けられた。そのほか、List of people from Yorkshireを参照。 =タンタル= タンタル(独: Tantal [*9511*tantal]、英: tantalum [*9512*t*9513*nt*9514*l*9515*m])は、原子番号73の第6周期に属する第5族元素である。元素記号は Ta。名前はギリシア神話に出てくるタンタロスに由来する。タンタルの単体は比較的密度が高くて硬く、銀白色を呈し、光沢があって腐食耐性の高い遷移金属である。レアメタルのの1つに数えられており合金の微量成分などとして広く用いられる他、比較的化学的に安定で融点も高く、耐火金属としても知られる。化学的に不活性な特性から、実験用設備の材料や白金の代替品として有用である。今日におけるタンタルの主な用途は、携帯電話、DVDプレーヤー、ゲーム機、パーソナルコンピュータといった電子機器に用いられるタンタル電解コンデンサである。タンタルは、タンタル石、コルンブ石あるいはコルタン(タンタル石とコルンブ石の混合物であるとされ独立した鉱物とみなされていない)といった鉱物に含まれ、化学的に類似するニオブと共に産出する。 ==歴史== タンタルは、1802年にスウェーデンにおいてアンデシュ・エーケベリによって発見された。その前年にチャールズ・ハチェットがコロンビウム(現在のニオブ)を発見しており、1809年にイングランドの化学者ウイリアム・ウォラストンがニオブの酸化物コルンブ石の密度を5.918 g/cm、タンタルの酸化物タンタル石の密度を7.935 g/cmと測定して比較した。ウォラストンは測定された密度が異なるにもかかわらず、両者は同じであるものと結論付け、タンタルの方の名前を残すことにした。フリードリヒ・ヴェーラーがこの結論を確認したことから、これ以降コロンビウムとタンタルは同じ元素であるとされてきた。しかし1846年にドイツの化学者ハインリヒ・ローゼが、タンタル石にはさらに2種類の元素が含まれていると主張し、ギリシア神話でタンタロスの子とされている名前にちなんで、ニオブ(ニオベーから)とペロピウム(ペロプスから)と名付けた。ここで想定されていたペロピウムという元素は、後にタンタルとニオブの混合物であると確認され、またニオブは1801年にハチェットが発見していたコロンビウムと同一のものであると確認された。 タンタルとニオブが違うものであることは、クリスチャン・ヴィルヘルム・ブロムストラント(スウェーデン語版)やアンリ・サント=クレール・ドビーユ(フランス語版)が1864年にはっきりと示し、またルイ・ジョゼフ・トロースト(フランス語版)も1865年にいくつかの化合物の実験式を示した。スイスの化学者ジャン・マリニャックもさらなる確認を行い、1866年に2種類の元素のみが含まれていることを証明した。しかしこうした発見があったにもかかわらず、1871年までイルメニウム(英語版)という実在しない元素に関して科学者たちが文献を出していた。マリニャックはまた、1864年にタンタルの塩化物を水素雰囲気中で熱して還元することで、タンタルの金属形態を初めて得た。初期には不純なタンタルしか得ることができなかったが、1903年にヴェルナー・フォン・ボルトン(ドイツ語版)がシャルロッテンブルク(英語版)において、かなり純粋で延性のある金属タンタルを得ることに成功した。金属タンタルから作られた線は、タングステン製のものに置き換えられるまで、電球のフィラメントとして用いられていた。 タンタルという名前は、ギリシア神話でニオベーの父とされているタンタロスから取られている。神話においては、タンタロスは死後、あごまで届くほどの深さの水の中に立たされ、頭上には果物が豊かに実っているが、どちらも永遠に彼には手に入らずじらされるという罰を受ける(水を飲もうとすると、届かないくらい水位が下がり、果物に手を伸ばそうとすると、枝が手の届く範囲から遠ざかる、英語でtantalizeという単語はじらして苦しめるという意味がある)。アンデシュ・エーケベリは、「私がタンタルと呼ぶこの金属、酸に浸しても何かを吸収したり飽和したりする能力がほとんどないということを部分的に暗示する名前である」と書いている。 何十年もの間、ニオブからタンタルを分離する商業的な技術は、ジャン・マリニャックが1866年に発見した、フッ化タンタル酸カリウム(英語版)を分別晶析によりフッ化ニオブ酸カリウムから分離するという方法であった。この方法は、フッ化物含有のタンタル水溶液を溶媒抽出するという方法に置き換えられている。 ==性質== ===物理的性質=== タンタルは銀灰色で、密度や延性が高く、非常に固いが加工はしやすい。熱や電気の伝導度が高く、酸による腐食にも強い。金属を侵す能力の高い王水であっても、摂氏150度以下ではタンタルはまったく溶けない。フッ化水素酸やフッ化物と三酸化硫黄を含む酸性溶液、水酸化カリウムには溶ける。タンタルの融点は摂氏3,017度(沸点は摂氏5,458度)と高く、これを上回る元素はタングステン、レニウム、オスミウム、炭素だけである。 タンタルにはαとβの2種類の結晶構造が存在する。α‐Taは比較的やわらかく、展延性がある。体心立方格子構造を持ち(空間群はlm3m、格子定数はa=0.33058nm)、ヌープ硬度は200 ‐ 400 HN、電気抵抗は15 ‐ 60 μΩ・cmである。β‐Taは硬いがもろく、結晶構造は正方晶系を持ち(空間群はP42/mnm、格子定数はa=1.0194nm,c=0.5313nm)、ヌープ硬度は1000 ‐ 1300 HN、電気抵抗は比較的高く170 ‐ 210 μΩ・cmである。β構造は準安定で、摂氏750 ‐ 775度に加熱することでα構造に転移する。大量のタンタルはほぼすべてα構造であり、通常β構造は、溶融塩共晶からマグネトロンスパッタリング、化学気相成長あるいは電気化学析出で得られる薄膜として存在する。 タンタルの単体は、超伝導の研究が始まって間もない1930年頃までには、臨界温度4.5 Kで超伝導となることが発見されている。一方、タンタル酸カリウム単結晶の表面付近が0.005 K未満で超伝導になる現象も2011年に発見されている。 ===同位体=== 天然のタンタルは、Ta (0.012 %) とTa (99.988 %)という2つの同位体で構成されている。Taは安定同位体である。Taは核異性体で、基底状態のTaへの核異性体転移、Wへのベータ崩壊、電子捕獲によってHfへの崩壊の3種類の崩壊をすると予測されている。しかし、この核異性体の放射性崩壊は1度も観測されたことがなく、最低でも半減期2.0 × 10年(2京年)を持つと、半減期の下限値を示されているに過ぎない。基底状態であるTaは、わずか8時間の半減期である。放射性壊変によって生じる、あるいは宇宙線生成による短寿命の核種を除けば、Taは自然界に存在する唯一の核異性体である。これもまた放射性壊変によって生じる、あるいは宇宙線生成による短寿命の核種を除けば、Taはタンタルの元素存在比および天然同位体構成比を考慮すれば、宇宙でもっとも希少な同位体である。 タンタルは、核兵器に「加塩」(放射性物質の放出量を増強する)する材料として理論的に検討されてきた(コバルトの方が加塩材料として良く知られている)。仮説上、核兵器が爆発するときに出る強力な高エネルギー中性子線が外殻のTaに放射線を浴びせる。これによってタンタルを半減期114.4日の放射性同位体であるTaに変化させ、これが112万電子ボルトのエネルギーを持つガンマ線を出し、核爆発で生じた放射性降下物の放射能を数か月にわたって大幅に強化することになる。こうした加塩された核兵器は、少なくとも公的に知られている限りでは実際に作られたことも試験されたこともなく、実際に兵器として使用されたことは1度もない。 タンタルは、陽子線を当ててLi、Rb、and Ybといった様々な短寿命放射性同位体を作るためのターゲット材として用いられる。 ==化合物== タンタルは酸化数+2, +3, +4, +5の化合物を形成する。これらの中では酸化数+5が最も安定である。なお、+5価のイオン半径は、73 pmである。タンタルの化合物としては酸化物が安定で、タンタルの鉱物はすべて酸化鉱物である。酸化数が3より小さい無機化合物は、タンタル原子間の化学結合を特徴とする。炭素原子がタンタル原子と化学結合している有機タンタル化合物では、+1, 0, −1などのさらに低い酸化数も取る。 タンタルとニオブの化学的特性はよく似ている。同じ第5族元素のバナジウムと似ているところもあるが、バナジウムでよくみられる酸化数+2, +3の化合物はタンタルとニオブでは少ない。 ===酸化物=== 五酸化タンタル(英語版) (Ta2O5) は、実用上の観点からはもっとも重要な化合物である。4価の酸化物 (TaO2) は不定比化合物で、ルチル構造を取る。3価の酸化物 (Ta2O3) は知られていない。 タンタル酸塩と呼ばれる化合物は、実際には複酸化物であることがほとんどで、孤立したタンタル酸イオンを含む化合物はまれである。前者の例として、イルメナイト類似構造を取るタンタル酸リチウム (LiTaO3) や、ペロブスカイト構造を取るタンタル酸カリウム (KTaO3) が挙げられる。これらの結晶ではタンタル原子が6個の酸素原子に囲まれており、孤立した [TaO3] イオンは存在しない。タンタル酸イットリウム (YTaO4) は後者の例で、灰重石に似た構造を持つ結晶には、孤立した四面体状のタンタル(V)酸イオン [TaO4] が含まれる。 五酸化タンタルと水酸化アルカリを溶融し、生成物を水で処理すると、水溶性のイソポリ酸塩が得られる。カリウムイオン (K) とヘキサタンタル酸イオン [Ta6O19] からなる K8[Ta6O19]・16H2O がよく知られている。[Ta6O19]は、6個のTaO6八面体が稜共有でつながった構造をしており、タングステンのイソポリ酸イオン [W6O19] と同じ形である。25個の原子からなる大きなイオンであるが、水溶液中でもこのままの形で存在する。 ===窒化物・炭化物・ホウ化物=== 他の耐火金属と同様に、発見されているタンタル化合物の中でもっとも硬いのは、ホウ化物や炭化物である。炭化タンタル (TaC) は、同様の用途で用いられている炭化タングステンと同様、硬いセラミックスで、切削工具に使われる。窒化タンタルは、マイクロエレクトロニクスの分野において薄膜絶縁体として用いられる。 ===硫化物=== もっとも研究されているタンタルのカルコゲン化物は硫化タンタル(IV) (TaS2) であり、他の遷移金属ジカルコゲナイドに見られるように、層状半導体である。タンタルとテルルの合金は準結晶を形成する。 ===ハロゲン化物=== タンタルのハロゲン化物の酸化数は+5、+4、+3を取る。フッ化タンタル(V)(英語版) (TaF5) は融点が摂氏97.0度の白い固体である。気相の孤立TaF5分子は三方両錐形分子構造を取るが、固体中ではTaF6八面体が頂点共有した四量体として存在する。ヘプタフルオロタンタル(V)酸イオン [TaF7] は、タンタルをニオブから分離する際に用いられる。塩化タンタル(V)、臭化タンタル(V)、ヨウ化タンタル(V) (TaCl5, TaBr5, TaI5) は、固体中ではTaX6八面体が稜共有した二量体として存在し、水にあうと加水分解してハロゲン化酸化物となる。塩化タンタル(V)は、有機タンタル化合物の合成において出発物質として用いられる。 フッ化タンタル(IV) (TaF4) は知られていない。他のハロゲン化タンタル(IV) (TaX4) も不安定で、空気中で容易に酸化されてハロゲン化酸化物を与える。また加熱により酸化数+5のハロゲン化物 (TaX5) と酸化数+3のハロゲン化物 (TaX3) に不均化する。 見かけの酸化数が+2.5または+2.33となる塩化物、臭化物、ヨウ化物が知られている。これらのハロゲン化物では、6個のタンタル原子が正八面体状に並んだ、[Ta6X12]または[Ta6X12]が構成単位として認められる。この構成単位に含まれるハロゲン原子はタンタル原子がつくる八面体の外側に位置しており、化合物内の金属原子の間に化学結合が存在していること示している。 ===有機タンタル化合物=== 有機タンタル化合物としては、ペンタメチルタンタル(英語版)、塩化アルキルタンタル、水素化アルキルタンタル、およびカルベン錯体やシクロペンタジエニル錯体などがある。金属カルボニルは、ヘキサカルボニルタンタル(−I)酸イオン [Ta(CO)6] や関連するイソシアニドについて、多様な塩や置換誘導体が知られている。 ==存在== タンタルの宇宙における存在度は重量比では0.08 ppb程度、原子数では全原子数の8×10パーセント程度とされ、原子数では安定元素として宇宙でもっとも希少である。宇宙において鉄より重い元素のほとんどは、超新星爆発や恒星内部での中性子捕獲反応によって生成される。中性子捕獲による元素生成では、鉄が中性子捕獲により質量数が大きな鉄の同位体になり、ベータ崩壊によって原子番号の1つ大きな元素となる反応を繰り返して、各種の同位体が生成されるが、中性子捕獲やベータ崩壊の起きやすさによって、どの同位体が多くなるかが決定され、この結果タンタルは希少なものとなっている。 タンタルには、Ta (0.012 %) とTa (99.988 %) の2種類の天然同位体が存在し、このうちTaは全核種の中でもっとも少ない。従来の超新星爆発や中性子捕獲による機構では、このTaの少なさを説明できずにいたが、超新星爆発の際に放出されるニュートリノがHfやTaと弱い相互作用を起こしてTaを生成するモデルが新たに提案された。Taは基底状態で半減期8.15時間のものと、半減期10年以上の準安定な核異性体があり、弱い相互作用によって生成されるTaの基底状態と核異性体のうち、基底状態のものはすべて放射性壊変により消滅するため、半減期の長い核異性体のみが残り、基底状態と核異性体の生成比率の理論計算値から求めた核異性体の推定量が実在量と一致することから、Taの生成起源が説明され、またその希少さの理由も説明されることになった。 タンタルは、地球の地殻に重量比で1 ppmから2 ppm程度含まれていると推計されている。 タンタルを含む鉱物はたくさんあるが、工業的に原材料として利用されているのはそのごく一部だけである。タンタル石(鉄タンタル石、マンガンタンタル石、マグネシウムタンタル石などで構成される)、マイクロ石、ウォッジナイト(英語版)、ユークセン石(英語版)(より正確にはイットリウムユークセン石)、ポリクレース石(英語版)(より正確にはイットリウムポリクレース石)といった鉱物がある。タンタル抽出の観点では、タンタル石 (Fe, Mn)Ta2O6 がもっとも重要である。タンタル石とコルンブ石 (Fe, Mn) (Ta, Nb)2O6 と同じ鉱石構造をしている。ニオブよりタンタルが多いものをタンタル石と呼び、タンタルよりニオブが多いものをコルンブ石(あるいはニオブ石)と呼ぶ。タンタル石やそのほかタンタル含有鉱物は密度が高いため、選鉱には重力選鉱(英語版)が最良の手段である。他にサマルスキー石やフェルグソン石といった鉱物がタンタルを含むことがある。 こうした鉱石類の鉱床は、古い時代に起きた、大陸地殻内部の物質が溶融してマグマが生じ、結晶分化作用によって濃集したことによるものや、化学的風化作用によって難溶性の鉱物のみが残って形成される風化残留鉱床によるものなどで形成されている。その生成の由来から、古い地殻にのみ存在する鉱床であるとされている。 また、スズの原料鉱石である錫石の微量成分としてもタンタルが含まれることがある。錫石の鉱床も、花崗岩質マグマや熱水鉱液に由来し、風化・流出して地表水や海水により重力選別を受けて形成される。 ==生産== タンタルの生産は、スズの精錬に際して出てくる鉱滓(スラグ)に含まれるものから抽出するものと、タンタル鉱石を採掘して生産するものがある。タンタルの精錬は、冶金工業においても要求の厳しい分野である。精錬上の主な問題は、タンタルの鉱石にはかなりの量のニオブが含まれており、その化学的性質がタンタルとほとんど同じという点にある。この問題を解決するために多くの方式が開発されてきた。現代では、この分離は湿式精錬によって実施されている。 ===精錬=== スズスラグを起点としてタンタルを抽出する場合、電気炉中でスラグをコークスと反応させて炭化物とし、これを精製してアルカリ処理してタンタル分を濃縮して精鉱を得る。これ以降は、タンタル鉱石を起点としてタンタルを抽出する場合と同じである。 タンタル鉱石を起点とする場合、鉱石は砕かれて、重力選鉱により選別される。一般的にこの処理は、鉱山の近くで実施される。 フッ化水素酸と硫酸または塩酸を使って、鉱石の浸出(英語版)を行うところから抽出が始まる。これにより鉱石に含まれる多くの非金属不純物からタンタルとニオブを分離することができる。タンタルは様々な形態で鉱石に含まれるが、こうした条件下ではほとんどのタンタルの5価の酸化物は同じようにふるまうので、五酸化物を代表として取り扱うことができる。この抽出を簡単な式で示せば以下の通りとなる。 これとほぼ同じ反応がニオブ側の成分にも起きるが、この抽出条件においては六フッ化物が主に得られる。 この式は単純化されたものである。硫酸および塩酸を使った際に、それぞれ硫酸水素イオン (HSO4) および塩化物イオンがニオブ(V)イオンとタンタル(V)イオンの配位子として競合すると推測されている。タンタルのフッ化物とニオブのフッ化物の錯体が、水溶液からシクロヘキサノン、オクタノール、メチルイソブチルケトンといった有機溶媒に液液抽出によって抽出される。この単純な操作によって、鉄、マンガン、チタン、ジルコニウムといったほとんどの金属含有不純物が水溶液にフッ化物やそのほかの錯体として残り、取り除くことができる。 タンタルをニオブから分離する操作は、混合された酸のイオン強度を下げていくことによって、ニオブが水溶液に溶け出すことで行われる。この条件では、オキシフッ化物 H2[NbOF5] が形成されると見られている。ニオブの除去後、精製された H2[TaF7] の溶液はアンモニア水溶液によって中和され、酸化タンタルの水和物が固体として得られ、これを*9516*焼して五酸化タンタル (Ta2O5) を得る。 あるいは、ニオブ除去後のH2[TaF7] の溶液を加水分解する代わりに、フッ化カリウムで処理してヘプタフルオロタンタル(V)酸カリウム(英語版)(フッ化タンタル酸カリウム)を得ることもできる。H2[TaF7] と異なりカリウム塩は容易に結晶化し、固体として取り扱うことができる。 マリニャック法と呼ばれる古い手段では、H2[TaF7] と H2[NbOF5] の混合物を K2[TaF7] と K2[NbOF5] の混合物に変化させ、これを水への溶解度の差を利用する分別晶析法により分離していた。 ===金属タンタルの製造=== 精錬によって得られたフッ化タンタル酸カリウムあるいは五酸化タンタルは、その後フッ化タンタル酸カリウムのナトリウム還元あるいは五酸化タンタルの溶融塩電解、炭素還元、フッ化物・塩化物・酸化物などの水素還元といった方法で金属タンタルにする。工業的に用いられる方法は、ナトリウム還元法または溶融塩電解である。 フッ化タンタル酸カリウムのナトリウム還元は、反応るつぼに原料のフッ化タンタル酸カリウムを積み重ね、アルゴンなどの不活性ガスで満たし、ヒーターで加熱しながら金属ナトリウムを導入する。ナトリウムの沸点である摂氏883度に達するとナトリウムが蒸発してフッ化タンタル酸カリウムの表面に達し、これによって還元反応が進行する。還元後、温水やメタノールで洗浄することでタンタルの粗金属が得られる。 溶融塩電解法は、ホール・エルー法を改良したものを用いる。タンタル溶融塩電解では、入力として酸化物、出力として金属の、どちらも液体を利用するのではなく、粉末状の酸化物を用いて実行される。この手法の最初の発見は1997年のことで、ケンブリッジ大学の研究者がある種の酸化物の小さなサンプルを溶融塩に浸し、電流によりこの酸化物を還元したことによる。陰極には金属酸化物の粉末を使っていた。陽極は炭素製であった。摂氏約1,000度の溶融塩が電解質として用いられた。この方法の最初の精錬装置は、全世界の年間需要の3 ‐ 4パーセント程度を供給できる能力を持っている。 こうした方法で得られるタンタルは、真空熱処理によって脱水素を行ったり、電子ビーム溶解によってインゴット化したりする。タンタルをさらに高純度化するためには、電子ビーム帯域溶解法を用いる。 ===タンタルの加工=== タンタルの溶接は、大気中の気体による汚染を防ぐためにアルゴンやヘリウムなどの不活性気体の中で行わなければならない。タンタルははんだ付け不能である。タンタルを切削加工するのは難しく、特に焼なましをしたタンタルについては難しい。焼きなましをした状態では、タンタルは非常に展延性が高く、簡単に金属板に加工することができる。 ===生産国および生産量=== 21世紀初頭の時点では、オーストラリアおよびブラジルが主なタンタル生産国であったが、それ以降はタンタル生産の大きな地理的変化が進んでいる。2007年から2014年にかけて、鉱山からのタンタル生産はコンゴ民主共和国、ルワンダやその他アフリカ諸国へと大規模に移っている。2017年のタンタル生産国上位は、1位がルワンダで390トン、2位がコンゴ民主共和国で370トン、3位がナイジェリアで190トン、4位がブラジルで100トン、5位が中華人民共和国で95トンの順となっている。将来的なタンタル供給源は、推計されている埋蔵量順に、サウジアラビア、エジプト、グリーンランド、中華人民共和国、モザンビーク、カナダ、オーストラリア、アメリカ合衆国、フィンランド、ブラジルである。 長らくタンタルの最大生産国であったオーストラリアでは、最大生産者のタリソン・ミネラルズ(英語版)が西オーストラリア州の南西部のグリーンブッシュおよびピルバラ地区のウドギナという2か所で鉱山を操業している。世界的な金融危機のために、ウドギナ鉱山は2008年末に操業を中止していたが、2011年1月に再開された。再開から1年経たないうちに、タリソン・ミネラルズは「タンタル需要の軟化」とその他の原因を理由として、2012年2月末にタンタル採掘を中断することを発表した。ウドギナではタンタルの鉱物を採掘し、グリーンブッシュにおいてさらに精製が行われてから顧客に売却されている。ニオブの大規模生産国はブラジルやカナダであるが、そうした場所で生産される鉱物からも少ないがタンタルが得られる。他に、中華人民共和国、エチオピア、モザンビークといった場所の鉱山がタンタルの比率の高い鉱物を産出し、世界のタンタル生産量の上位を占めている。また、タイやマレーシアのスズ生産の副産物としてもタンタルが得られる。砂鉱床(英語版)からの鉱石を重力選鉱する際に、錫石 (SnO2) だけではなく、少ない比率ではあるがタンタル石も含まれてくる。この結果、スズ溶鉱炉から出てくる鉱滓には、経済的に有用な量のタンタルが含まれている。 タンタルの年間生産量は、1997年から2001年にかけては純タンタル換算で1,478トンから2,257トン程度であった。現状の生産量で考えれば、タンタルの残存埋蔵量は50年以下であると見積もられており、リサイクルの必要性が高まっていることを示している。 タンタルはコモディティとして市場で取引される商品ではなく、また金属単体での取引も基本的に行われていない。鉱石の形態で、売り手と買い手の直接交渉により値段が決定されている。タンタルの価格は、30パーセントTa2O5の鉱石ベースにして、1ポンド(約454グラム)あたりの価格が雑誌等で掲載されている。1980年代から1990年代にかけて長らく20 ‐ 30ドル程度で推移していたが、2000年以降はIT需要の拡大により高騰と、IT不況による停滞がたびたびあり、2007年末時点では35ドル程度となっている。その後は高騰し、2011年から2012年にかけては1ポンド当たりに換算して120ドルを超える高値で取引されていた。 ==紛争資源として== タンタルは紛争資源(英語版)(紛争鉱物)の1種であるとされる。コルンブ石とタンタル石の産業上の名称であるコルタンからはニオブとタンタルが抽出されるが、中部アフリカでも採掘される鉱石であり、コンゴ民主共和国(かつてのザイール)における第二次コンゴ戦争とタンタルが関わってくる理由となっている。2003年10月23日の国連報告によれば、密輸も含めたコルタンの輸出が、第二次世界大戦以来最悪の死者数記録となる、1998年以降だけで約540万人が死んだコンゴにおける戦争を助長しているとされる。コンゴ盆地の武力紛争地帯においてコルタンのような資源を収奪することに伴う、責任ある企業行動、人権、野生生物の危機といった倫理上の問題が問われるようになっている。しかし、コルタンの採掘はコンゴの地域経済にとっては重要であるが、世界のタンタル供給に占める割合は通常は小さい。アメリカ地質調査所の年鑑は、この地域のタンタル生産量は、2002年から2006年にかけての世界のタンタル生産量の1パーセント未満で、2000年と2008年に10パーセントに達したのが最高であるとしている。 「ソリューションズ・フォー・ホープ・タンタルプロジェクト」の目的は、「コンゴ民主共和国から紛争と関係しないタンタルを供給する」ことであるとされている。 ==用途== ===電気・電子機器=== タンタルの主な用途は、電子機器の製造であり、主にコンデンサ(キャパシタ)や高出力抵抗器などに金属粉末の形態で用いられる。タンタル電解コンデンサ(英語版)は、タンタルが表面に保護酸化被膜を形成する性質を利用し、タンタルの粉末をペレット状の形態に焼き固めたものを一方の極板とし、酸化物 (Ta2O5) を誘電体とし、電解液または伝導性のある固体をもう一方の極板としたものである。誘電体の層が非常に薄くなる(同様のアルミニウム電解コンデンサなどに比べてもかなり薄い)ことから、小容積でも大きな静電容量を実現できる。大きさと重量の利点から、携帯電話、パーソナルコンピュータ、自動車エレクトロニクス(英語版)、カメラといった用途に適する。 また、表面弾性波フィルター(SAWフィルター)の材料としても用いられる。これは特定の信号波のみを選択的に通すフィルターであり、携帯電話などにおいて決められた送受信周波数以外の周波数成分をカットするために用いられる。電気信号を圧電効果を利用して一旦機械的な振動に変換し、固体表面を伝搬する弾性表面波とした上で、その圧電結晶基盤の上に形成されたパターンの構造により選択的に周波数フィルターを適用し、再び電気信号に変換する仕組みとなっている。このための圧電単結晶としてタンタル酸リチウム (LiTaO3) またはニオブ酸リチウム (LiNbO3) が用いられている。 スパッタリングによって薄膜を形成する際に、ターゲット材(薄膜材料)としてタンタル(五酸化タンタル)を用いることがある。これによって高誘電率・高絶縁耐圧の薄膜形成が行われる。 かつて白熱電球のフィラメントの製造にタンタルが利用されていたことがある。フィラメントは当初炭素(カーボン)のものが使用されていたが、その性能を向上させるために様々な金属フィラメントの開発が行われ、1902年にドイツのジーメンス・ウント・ハルスケの技術者ヴェルナー・フォン・ボルトン(ドイツ語版)がタンタルを利用したフィラメントを開発した。この電球は効率が良く明るく白い光を出すことから好評であった。アメリカのゼネラル・エレクトリックはライセンス生産の権利を買って1910年まで生産しており、ジーメンス自体は1913年まで生産していたが、1904年に発明され1906年に商品化されたタングステンフィラメントを利用した電球がより効率が高く寿命が長かったことから、タンタル電球は時代遅れとなった。 タンタルは無線送信機の極超短波真空管の製造に広く用いられている。タンタルは、窒化物や酸化物を形成して窒素や酸素を捕獲できるので、グリッドやプレートといった真空管内部の部品に使って、真空管内に必要な高い真空度を維持するためのゲッター(英語版)としても利用できる。 ===合金および耐食金属=== タンタルは、高い融点や強度、展延性などを持つ様々な種類の合金を製造するために用いられる。他の金属と合金とすることで、金属加工用の超硬工具を製作したり、ジェットエンジン部品、化学処理装置、原子炉、ミサイル部品、熱交換器、タンクや容器向けの超合金の生産といった目的で用いられる。展延性が高いことから、細いワイヤやフィラメントをタンタルから作って、アルミニウムのような金属の蒸着処理に用いられる。 タンタルはほとんどの酸に対して不活性であるため、化学反応を行う容器や腐食性流体の配管などに有用な金属である。塩酸を蒸気で熱するための熱交換材はタンタルで作られる。ただし、フッ化水素酸、熱硫酸、熱アルカリ水溶液などはタンタルを腐食する。 融点が高く酸化耐性があることから、真空炉(英語版)の部品の生産にタンタルが使われる。タンタルは不活性であることから、サーモウェル(英語版)、バルブ本体、タンタル製締結部品などの腐食耐性のある様々な部品の製造に用いられる。 ===その他=== 密度の高さから、成型炸薬や自己鍛造弾の内張りがタンタルで作られる。タンタルはその高い密度と融点から、成形炸薬弾の装甲貫徹能力を大いに増進する。 またときには、その耐食性と重厚な高級感からオーデマ・ピゲ、ウブロ、モンブラン、オメガ、オフィチーネ・パネライといった高級腕時計、高級宝飾品の製造にも用いられる。 タンタルは体液に耐え、生体に対して不活性で刺激性が少ないため、外科用医療用具や人体埋め込み材(インプラント材)などの製作に広く用いられる。たとえば、タンタルは硬組織に直接接着する能力が高いことから、多孔性のタンタルコーティングが整形外科用の埋め込み物の製作に用いられる。タンタルは剛性が高いことから、応力遮蔽(英語版)を避けるために、多孔質発泡体や低い剛性の骨格の形態で人工股関節置換術に用いられる。タンタルは非鉄・非磁性の金属であるので、こうしたインプラント材を埋め込まれた患者も核磁気共鳴画像法 (MRI) の検査を受けられるとされている。 またタンタル酸化物は、カメラのレンズ用に特別に高い屈折率のガラスを作るために用いられる。 ==環境問題== タンタルは地球科学からの関心に比べて、環境分野ではほとんど関心を持たれていない。上部地殻でのタンタル濃度や地殻あるいは鉱物におけるニオブ/タンタル比率の計測は地球化学的な道具として有用であるため、値が計測されている。2008年時点で最新の上部地殻でのタンタル濃度は0.92 ppmで、ニオブ/タンタル比は12.7である。 環境中の様々な場所におけるタンタルの濃度に関する情報はあまりなく、特に自然の海水や淡水に溶けているタンタルの濃度に関する信頼性のあるデータが得られたことはない。海水中に溶けているタンタルの濃度に関する値がいくつか発表されているが、それらには矛盾がある。淡水中の値に関しても海水の測定値に比べいくらかましであるにすぎないが、しかし自然の水中における溶解濃度は現在の分析能力の限界未満であることから、おそらく1リットル当たり1ナノグラムを下回っていると考えられている。分析には予備濃縮法を用いる必要があるが、今のところは一貫性のある結果とならない。そしていずれにせよ、タンタルは自然界の水の中では溶けているというよりはほぼ微粒子の状態で存在しているものと思われる。 土壌、河床堆積物、大気エーロゾルなどに含まれる濃度の値はより容易に入手できる。土壌中の濃度はほぼ1 ppmであり、地殻中のタンタル濃度である。これは砕岩質に由来することを示唆している。大気エーロゾルに含まれる値はさまざまであり、また限られている。タンタルの濃縮が観測される場合は、雲の中のエーロゾルの水により溶ける物質が失われたことによるものであろう。 人間がタンタルを利用していることに伴う汚染が発見されたことはない。生物地球化学的にはタンタルは非常に変化の少ないものだと思われるが、その循環や反応性についてはいまだ完全に理解されているとは言えない。 ==人体への危険性== タンタルは生体適合性が高く、また化学的に安定で体液とも反応しにくいために人体への害は少ないと見られている。むしろ、医療材料として体内に埋め込んだ場合などは、タンタルよりも医療材料に使用されている他の元素や化合物の性質に注意が向けられる。 職場においては、吸入、皮膚への接触、眼球への接触といった形でタンタルに人体が暴露される可能性がある。アメリカの労働安全衛生局(英語版)は、職場におけるタンタル暴露の法的限界(許容暴露限界(英語版))を1日8時間労働に対して5 mg/mと設定している。アメリカ国立労働安全衛生研究所(英語版)では、推奨される暴露限度(英語版)として、1日8時間労働に対しては5 mg/m、短期限界として10 mg/mを設定している。2,500 mg/mに達すると、タンタルは生命または健康に対する差し迫った危険(英語版)であるとされる。 =四国同盟戦争= 四国同盟戦争(しこくどうめいせんそう、英語: War of the Quadruple Alliance)は、1718年から1720年まで行われた、スペインと四国同盟(オーストリア、イギリス、フランス、ネーデルラント連邦共和国(オランダ)の4カ国)およびサヴォイア公国(当時シチリア王国を称する)との間に行われた戦争。 ==背景== ===スペインとヨーロッパ諸国の紛争=== スペイン継承戦争を終結させた1713年のユトレヒト条約および1714年のラシュタット条約により、スペインはネーデルラント、ミラノ公国、ナポリ王国、サルデーニャ島を神聖ローマ皇帝カール6世に、シチリア王国をサヴォイア公ヴィットーリオ・アメデーオ2世に割譲した。スペイン王フェリペ5世は領土回復を追求したが、当面の急務は13年間の戦争で荒廃したスペインの国力の回復であり、イタリア出身の枢機卿であるジュリオ・アルベローニ(英語版)がそれを推進した。1714年、アルベローニは寡夫となったフェリペ5世と21歳のエリザベッタ・ファルネーゼの縁談をまとめた。この縁談の途中でアルベローニはエリザベッタの個人的な顧問になった。1715年、アルベローニは首相に就任、スペインの財政と陸軍を改革したほかスペイン艦隊を再建した(1718年だけで戦列艦を50隻建造した)。一方のエリザベッタもイタリアのいくつかの公国の継承権を有していたため、自分の子供のためにイタリアの君主位を確保したいと望み、アルベローニの支持を得てフェリペ5世とその息子たちのイタリアに対する野心を煽った。そして、スペインはオーストリアがオスマン帝国との戦争(墺土戦争)にかかりきりになっている間に、軍隊を派遣して1717年にサルデーニャを占領した(スペインによるサルデーニャ侵攻)。 スペインはフランスとの火種も抱えていた。1715年、フランス王ルイ14世が死去してルイ15世が5歳で即位したが、夭折の可能性もあり、フェリペ5世がユトレヒト条約でフランスの王位継承権を放棄したにもかかわらずフランス摂政のオルレアン公フィリップ2世とルイ15世の継承者の位を争った。その裏にはメーヌ公妃ルイーズ・ベネディクト・ド・ブルボンが夫を唆して参加させ、スペインの駐仏大使のチェッラマーレ公爵アントニオ・デル・ジューディチェ(英語版)が一枚かんでいたチェッラマーレ陰謀(英語版)もあり、オルレアン公を追放してフェリペ5世を摂政につかせるという陰謀があった。 さらに、スペインはイギリスへの牽制として、ジャコバイトとスチュアート家を支援した。1717年、イギリスがスウェーデンに宣戦布告して大北方戦争に参戦したが、スウェーデン王カール12世はジャコバイトを通してアルベローニと連絡をとった。英仏同盟はスペインとスウェーデンの共通した敵であり、イギリスのハノーファー朝国王が追放されることでスウェーデンは敵国を1つ減らし、スペインはフランスとの連合を促進、続いて東方での戦闘に手間とっているオーストリアを簡単に屈服させるができる、と考えたのだった。これに対してフランスの外務大臣ギヨーム・デュボワはイギリスからの圧力で英仏による連合交渉に同意、スペインに和議の条件としてシチリアとサルデーニャの交換、トスカーナ大公国とパルマ公国の継承権をエリザベッタの長男ドン・カルロスに戻すことの2条件を出した。イギリスはジブラルタルの返還まで持ちかけたが、スペインは和議を拒否した。 ===開戦事由=== これらの行動は諸国に警戒され、1717年1月にイギリス、フランス、オランダの間で三国同盟が結ばれた。しかしオーストリア軍は全ての資源を墺土戦争に投入しており、総指揮官のプリンツ・オイゲンはイタリアにおけるスペインとの大戦争を避けたかった。そのため、オーストリアの動きは鈍かった。しかし、1718年7月21日にオーストリアとオスマン帝国の間でパッサロヴィッツ条約が締結されると、8月2日に四国同盟が結成された。戦争の名前はこの同盟による。 一方、スペインは1718年7月に今度は3万人の指揮をレーデ侯に任せ、さらに船350隻と大砲250門以上も加えて、シチリア島に侵攻した。フランス、オーストリア、イギリスはスペインにシチリアとサルデーニャからの撤退を要求したが、サヴォイア公ヴィットーリオ・アメデーオ2世はアルベローニと反オーストリア同盟の交渉を始めたため、不明確な立場をとった。その後、サヴォイアは11月に同盟に加わった。 ==戦闘== ===シチリア=== イギリスはジョージ・ビング提督率いる艦隊を派遣して、スペインのシチリア島奪取を阻止しようとしたが失敗した。ビングは1718年8月11日のパッサロ岬の海戦でスペイン艦隊を壊滅させた。スペインはそれでも諦めず、イギリスは1718年12月に、フランスは1719年1月に対スペイン宣戦に踏み切った。オランダは1719年8月に宣戦した。 その後、イギリス艦隊の支援を受けたオーストリア軍はシチリアに上陸したが、ミラッツォの戦い(1718年10月)とフランカヴィッラの戦い(1719年6月)とスペイン軍に連敗した。しかし、艦隊の支援がなくなったスペイン軍の状況はそれ以上に悪化しており、1719年のミラッツォでの再戦はオーストリア軍が勝利、そのまま10月にはメッシーナも占領された。 ===スコットランド=== アルベローニはイギリスへの妨害として「アルベローニ計画」を立て、ジャコバイトとハイランド地方におけるジャコバイトを支持、ジョージ1世を廃位してジェームズ・フランシス・エドワード・ステュアートを王位につかせようとした。これにより、スペインはスコットランドに海兵隊(英語版)300人と第10代マリシャル伯爵ジョージ・キースなどジャコバイトの指揮官をスコットランドに上陸させた。スペイン軍は蜂起を支援するためにシーフォース卿(英語版)の住処の1つであるエレン・ドナン城に駐留軍を配置した。 しかしエレン・ドナン城はジャコバイトが出払っている間にイギリス軍に占領、破壊された。また第2代オーモンド公ジェームズ・バトラー率いる軍勢7千は1719年3月にカディスから出航したが、フィニステレ岬で嵐に遭いグレートブリテン島に上陸できなかった。スペイン軍とジャコバイト軍が糾合して戦ったグレン・シールの戦いも政府軍の勝利に終わり、「ザ・ナインティーン」または「1719年の反乱」と呼ばれた1719年ジャコバイト蜂起は1回の戦闘で鎮圧された。 ===スペイン=== シチリアでの戦闘の間、イギリスとオランダの艦隊がスペインの艦隊と通商を攻撃し、沿岸攻撃も行った。ジャコバイト蜂起の後、1719年10月にはイギリスが報復としてフェロルとサントーニャに上陸、さらにビーゴを占領、スペイン政府は動揺した。 フランス軍はベリック公ジェームズ・フィッツジェームズがパンプローナの攻囲を主張したが、物資の準備が追い付かなかったため、代わりに1719年6月18日にオンダリビアを3週間の包囲を経て攻略した。フェリペ5世率いるスペイン軍はその前日にオンダリビアから2リーグほどのレサカまで来ていたが、町が占領されたことを知ると引き返した。ベリック公は続いて8月にサン・セバスティアンを降伏させたが、背後にパンプローナという強固な要塞を残して進軍することに危険を感じて撤退、カタルーニャに転じて8月31日にラ・セウ・ドゥルジェイも攻略した。しかし、続くロザス包囲戦では悪天候が続き、嵐により補給船が多数破壊されたためベリック公はやむなく撤退、冬営に入った後パリへ戻った。 ===新大陸=== 新大陸においてはフランスが1719年5月にペンサコーラを占領した。同年8月、スペインの大部隊が救援に来たためフランスの小規模な駐留部隊は降伏した。しかし、9月1日に今度はフランス艦隊がきて、ペンサコーラを再び占領した。1720年2月、スペイン軍はバハマのナッソーを占領しようとしたが失敗、略奪しただけに留まった。 1719年に開戦の報せがスペイン植民地のサンタフェ・デ・ヌエボ・メヒコに届くと、植民地政府はグレートプレーンズのフランス勢力の増長を憂慮して、反撃として1720年6月にビリャスルの遠征を行ったがインディアン軍に敗れた。一方でイギリスは首脳部のスタンホープ伯爵とロバート・ウォルポールの両方が植民地遠征を支持しなかったため、スペインの植民地への遠征軍を派遣することはなかった。 ==和平== スペインの勝ち目が無いことが明らかになると、アルベローニは責任を取らされて1719年12月に失脚した。イギリス、フランス、オーストリアは1719年10月にスペインが四国同盟の講和条件を認めなければカルロス王子のパルマ・ピアチェンツァ・トスカーナ三公領の継承権を取り上げると決め、フェリペ5世は折れて1720年2月17日にハーグ条約を締結、戦争が終結した。 その結果、スペインはすべての占領地を返還し、その代わりパルマ公国の継承権が認められた。サヴォイア公ヴィットーリオ・アメデーオ2世は神聖ローマ帝国のカール6世にシチリア王国を割譲し、その代償として神聖ローマ帝国からサルデーニャ島を割譲された。神聖ローマ帝国からサルデーニャ王の称号も認められ、サルデーニャ王国が成立した。 戦後、パルマ・ピアチェンツァ・トスカーナ三公領の継承について1724年にカンブレー会議(スペイン語版)が開催されたが全く進展せず、オーストリアとスペインは独自に交渉して1725年4月のウィーン条約に繋げた。 =恋人たちのクリスマス= 『恋人たちのクリスマス』(こいびとたちのクリスマス、英: All I Want for Christmas Is You)は、マライア・キャリーが1994年に発表したクリスマスソングである。原題は「クリスマスに欲しいのはあなただけ」という意味である。この曲はシンガーソングライターであるキャリーとウォルター・アファナシェフの共筆で書かれ、キャリーにとって4枚目のスタジオアルバムかつ初めてのホリデーアルバムである『メリー・クリスマス』(1994年)のリード・シングルとして、1994年11月1日にコロムビア・レコードから発売された(→#背景と曲の執筆)。曲はアップテンポのラブソングで、ベル・チャイムやバック・コーラス、シンセサイザーなどが使われている(→#曲と歌詞)。 最初のリリースから何年も経っているが、曲には絶賛が寄せられ続けており、『ザ・ニューヨーカー』誌では、「ホリデーソングの名曲集に加える価値のある数少ない現代曲のひとつ」(英: ”one of the few worthy modern additions to the holiday canon”)と評された(→#曲の批評)。曲はクリスマスの定番曲と考えられており、毎年のクリスマス毎に人気が再燃する。商業的にも成功し、チェコ、ハンガリー、オランダ、ノルウェー、スロヴェニア、スペインでチャート1位、オーストラリア、日本、イギリスでチャート2位に入ったほか、多くの国でトップ10入りを果たした。中でも日本では、1994年秋放送の『29歳のクリスマス』主題歌に起用され、彼女の人気を押し上げる一因となった。シングルの売り上げは世界11位の1,600万枚以上にのぼり、キャリー最大のヒット作である。2017年段階で、この曲は6,000万ドルもの印税を稼ぎ出しているとの報道もある(→#チャート順位の変動)。 この曲には、キャリーと当時の夫トミー・モトラ(英語版)が出演するホームムービー(英語版)風映像と、白黒映像でザ・ロネッツ風の衣装を着たキャリーを映すミュージック・ビデオが存在する(→#ミュージック・ビデオ)。キャリー自身はテレビの生放送で何回もこの曲を披露しているほか、長年ツアーでも歌唱している(→#ライブ・パフォーマンス)。2010年には2作目のホリデー・アルバムである『メリー・クリスマスIIユー(英語版)』のために再録音したほか、カナダ出身の歌手ジャスティン・ビーバーのアルバム『アンダー・ザ・ミスルトウ(英語版)』(2011年)では彼とのデュエットを披露した(→#リミックスと再発盤)。他にも、キャリー以外の多くのアーティストにカバーされ続けている(→#カバーを行ったアーティスト)。 ==背景と曲の執筆== 1993年に発表し、自身最高の売り上げを記録した『ミュージック・ボックス』での成功に続き、キャリーと彼女のマネジメントを担当するコロムビア・レコードの職員は、次なるプロジェクトの企画・戦略を考えようとしていた。キャリーが当時結婚していたトミー・モトラ(英語版)は、コロムビアの親レーベルであるソニー・ミュージックエンタテインメントの長で、彼女のキャリア絶頂期において、次にどんな計画を打ち出すべきか検討を始めた。キャリー本人や、彼女と4年以上仕事をしてきた共執筆者のウォルター・アファナシェフを交え、クリスマスを題材にしたアルバムの制作が話し合われたが、その中では、キャリア絶頂期の人間がホリデー・アルバムを出すのは得策ではなく、落ち目のミュージシャンがキャリアの終わりにやることではないかという不安が出された。 アファナシェフは、ホリデー・アルバムに関する最初の会議での心証として、「あの時は、クリスマス・アルバムを出しているアーティストはそう多くなかった。あの時はその術も全く知られていなかったし、新しい人気のクリスマスソングなんて作った人は誰もいなかった。そういう訳で、自分たちは毎日の出来事みたいに、『やあ、知ってるだろ、クリスマスアルバムを出すんだ。大したことじゃないさ』というような感じに〔アルバムを〕発売した」と回想している。結局、モトラの粘り強さと、アファナシェフが言うキャリーの「リスク取り」(英: ”risk‐taker”)なイニシアチブが勝って、この曲と収録アルバムの『メリー・クリスマス』は1994年半ばに完成した。アルバム用の録音は6月に始まったが、キャリーとアファナシェフがこの曲を書き上げて録音したのは8月遅くのことだった。2人はコードや曲構成、メロディをわずか15分で書き上げたと言われており、アファナシェフも大枠をすらすらと書き上げたことを認めている。アファナシェフは更に、「あれは確かに白鳥の湖じゃない。でも、とても単純で楽しいからこそ、あれだけ人気なんだ」(英: ”It’s definitely not ’Swan Lake,’ But that’s why it’s so popular ― because it’s so simple and palatable!”)と述べている。自身を陽気な人物と評し、日頃からクリスマス関連のものが大好きだと明らかにしていたキャリーは、レコーディングに合わせて、モトラとニューヨーク北部でシェアしていた家(個人の録音スタジオもあった)を、クリスマスの飾りや、ホリデー風の装身具で飾り付け始めた。 当初アファナシェフは、キャリーが望むメロディやボーカルの幅に手こずり、「青ざめた」(英: ”blanched”)ことを認めているが、キャリーの側は曲作りの監督に「毅然とした態度で」(英: ”adamant”)臨んだ。その後アファナシェフは飛行機でカリフォルニアに戻り、曲の打ち込みやプロダクションを完了させた。当初彼は、生で感情的な音を作ろうと、ドラムや他の楽器をバンドに生演奏させるつもりだった。しかし、彼は録音された音源に納得せず、これを却下した上で、自身の個人的な編曲を使い、バック・ボーカル以外の楽器(ピアノ、エフェクト、ドラム、トライアングルなど)を全て打ち込みに変更した。キャリーがハンプトンズに借りた家で歌詞を書き続けている間、アファナシェフは曲の打ち込みを完了させ、バック・ボーカルを重ねるために彼女と会う約束の日を待った。 クリスマス・アルバムの収録・発売に興奮したキャリーは、自分にとって、曲の執筆・収録とアルバムにどんな意味があったか次のように語っている。 「私はとても陽気な人物で、ホリデーが大好き。小さな女の子の頃からクリスマス・ソングを歌ってきた。昔はクリスマス・キャロルにも行った。アルバムを出すには、定番のクリスマス聖歌と楽しい歌のいいバランスを取る必要があった。自分にとって、少なくとも2、3曲新しい曲を書くことは間違いなく重要事項だったけれど、新しい曲がどれだけ良くても、多くの人はクリスマスの時期に定番曲を聴きたいものでしょう」 ”I’m a very festive person and I love the holidays. I’ve sung Christmas songs since I was a little girl. I used to go Christmas caroling. When it came to the album, we had to have a nice balance between standard Christian hymns and fun songs. It was definitely a priority for me to write at least a few new songs, but for the most part people really want to hear the standards at Christmas time, no matter how good a new song is.” ==曲と歌詞== この曲はアップテンポで、ポップス、ソウル、コンテンポラリー・R&B、ゴスペル、ダンス・ポップ、リズミック・アダルト・コンテンポラリー(英語版)の影響を受けた構成になっている。8月初めまでにキャリーとアファナシェフは、「悲しくバラード風の」(英: ”sad and balld‐y”)『ミス・ユー・モスト(アット・クリスマス・タイム)』”Miss You Most (At Christmas Time)” と、「ゴスペル調で宗教的な」(英: ”Gospel‐tinged and religious”)『ジーザス・ボーン・オン・ディス・デイ』”Jesus Born on This Day” の2曲を既に書き上げていた。アルバムに収録される3曲目のオリジナル曲について、ふたりはこれをアルバムの中心に据えることと、「フィル・スペクター、古いロックンロール、60年代風のクリスマス・ソング」の雰囲気が感じられるようにすることを決めた。 曲は、「アンティークのオルゴールや風変わりなスノーグローブに似た」(”that resembles an antique music box or a whimsical snow globe”)、「きらめくような」(”sparking”) 打楽器から始まり、キャリーのアカペラ歌唱が入った後、お祝いの教会のようなベルや、快活なスレイベルの音、また「馬かトナカイをゆったりと走らせるリズムのような、後ろに聞こえるリズミックなビート」など、この季節を表すパーカッションの音が聞こえる。これらの音作りに対しては、「この音は、どちらの方向に明らかに舵を切りすぎてしまうことなく、宗教的にも非宗教的にも響き、〔この音のおかげで〕曲はアップビートの楽しい雰囲気になる」と評されている。 1994年のインタビューで、キャリーはこの曲を「楽しく」(”fun”) 、「とても伝統的で、古風なクリスマスだ。とてもレトロで、60年代風」(英: ”It’s very traditional, old‐fashioned Christmas. It’s very retro, kind of ’60s.”)だと述べている。アファナシェフは曲の音楽要素について分析し、「キーボードによる豪勢な土台は、小規模なウォール・オブ・サウンドを思い出させ、この曲の陽気なリズムの上に乗る一方で、魂の籠もったボーカル・コーラスは、断固とした驚きと、緊張感を作る対旋律、お祝い気分のハーモニーを曲に加える。それでも最も目立っているのは、陽気なピアノ・コードとメロディで、この曲が愉快に弾んでいることだ」と述べている。 歌詞では、プレゼントは要らないからクリスマスに最愛の人と共に過ごしたいと切望する気持ちが描かれている。曲ではピアノ、ドラムス、ヴァイオリン、オーボエ、フルート、ベルチャイム、バスドラム、カウベルなどの楽器音が使われている。また、ブリッジ(英語版)を含め、全編でバック・ボーカルが重ねられている。ソニーATVミュージックパブリッシングの Musicnotes.com が出版した楽譜によれば、この曲は4分の4拍子(英語版)で、キーはト長調(Gメジャー)であり、キャリーの声域(英語版)はG3からG5までに及ぶ。キャリーはこの曲の作詞・作曲を行い、アファナシェフが編曲に加え、シンセサイザーで作ったコンピュータ音源と録音を合わせて曲を完成させた。 『スレート(英語版)』誌のアダム・ラグシーは、曲のコードについて、「少なくとも13の和音が使われており、結果として豪華な色彩のメロディを形作っている。曲には自分がクリスマスっぽいと思うコードが全て入っている―サブドミナントマイナー(IV度)、6音を加えたコード、『クリスマスツリーの下で』との歌詞のところ、その他あちこちに(もしかしたらII音がハーフ・ディミニッシュになったセブンス・コードだったかもしれないが、どっちにしろ解説は正しい)」と述べている。また『オールミュージック』のロッシュ・パリジーンは、曲に「ザ・ビーチ・ボーイズ風のハーモニー、じゃんじゃん鳴るベル、そりに乗ったようなペース〔が含まれ〕、このバニラ・セットにほんの少しの快活な喜びを加えている」とした 。 批評では、この曲は1940年代・50年代・60年代の音楽から影響を受けており、キャリーの歌声やシンプルなメロディと共に成功の理由だったと評されている。『スレート』誌のラグシーは、コード進行と曲のスタイルを論じながら、この曲を「20世紀後半に書かれたクリスマス・ソングの中で、唯一グレイト・アメリカン・ソングブックに値する曲」(英: ”the only Christmas song written in the last half‐century worthy of inclusion in the Great American Songbook.”)だと絶賛したほか、『A.V. クラブ(英語版)』のアニー・ザレスキは、この曲が不朽の人気を誇る理由を、特定の年代に限定されることのない歌詞の曖昧な表現に見出している。 また、ジュディ・ガーランドやナット・キング・コールの曲を少し思わせる部分があることも指摘されているほか、「ジャクソン5やスティーヴィー・ワンダーのような、60年代や70年代にモータウンが出した戦前のクリスマス定番曲カバー」(”’60s and ’70s Motown covers of prewar Christmas classics, such as The Jackson 5’s [and] Stevie Wonder”.) を思わせるともされている。『スレート』誌のラグシーは、この曲が「40年代に書かれてブリル・ビルディングの金庫にしまわれていたような感じ」([”All I Want For Christmas Is You”] ”sounds like it could have been written in the ’40s and locked in a Brill Building safe.”) だと認めている。また『ヴォーグ』誌には、「フランク・シナトラが歌ったような歌詞だ―フランクじゃないかもしれないが、それなら当時の別の歌手だったのだろう。あの曲は不朽で、最高級のものだ」(”those lyrics could have been sung by Frank Sinatra―well, maybe not Frank, but another singer back then. I think that’s what gives it that timeless, classic quality.”) との批評が掲載された。 ==収録曲== ===日本 CDシングル(1994年)=== 恋人たちのクリスマスミス・ユー・モースト(アット・クリスマス・タイム) ===日本 CDシングル(1995年)=== ===日本 CDシングル(1996年)=== もろびとこぞりて(クラブ・ミックス) ===日本 CDシングル(2000年)=== 恋人たちのクリスマス(ミレニアム・リミックス)オー・ホーリー・ナイト 2000 (ライヴ・ヴァージョン) ==ミュージック・ビデオ== 『恋人たちのクリスマス』には3本のミュージック・ビデオが作られた。最初の1本は、スーパー8mmフィルムを用いたホーム・ムービー(英語版)風で撮影され、1993年のクリスマスシーズンに、キャリー自身の監督・撮影で制作された。このビデオは、キャリーがクリスマスツリーの飾り付けをしているシーンから始まり、雪の山辺ではしゃいでいるシーンに繋がる。外のシーンはニュージャージー州のフェアリー・テイル・フォレスト(英: the Fairy Tale Forest)で撮影され、キャリーが当時結婚していたトミー・モトラ(英語版)がサンタクロース役でカメオ出演している。その後、キャリーが自身のアルバムのカバー写真を撮ろうとしているシーン、また飼い犬のジャックと共に過ごすシーンに移る。最後にはサンタクロースがキャリーと共に、プレゼントの入った袋を持って、手を振るシーンになる。このミュージック・ビデオは2009年にYouTubeのアカウントで公開されたが、2017年12月段階で、再生回数は3億回を突破している。もう1本のミュージック・ビデオはザ・ロネッツに影響を受けたもので、キャリーは1960年代風のスタジオで、ゴーゴーダンサーに囲まれて歌う。1960年代風の設定に合わせ、映像は白黒で、キャリーは白いブーツに長く梳いた髪である。この映像もキャリーが監督したもので、2つの編集版がある。 「ソー・ソー・デフ・リミックス」用にもミュージック・ビデオが作られたが、これにはキャリーやこの曲を演奏するヒップホップミュージシャンは実写で登場しない。代わりにアニメを用い、キャリーが1999年に発表した『ハートブレイカー(英語版)』のビデオから1シーンが使われている。また、キャリーやジャーメイン・デュプリ、バウ・ワウ、ルイス・ミゲル(キャリーの当時の恋人)、キャリーの飼い犬のジャック、サンタクロースがアニメになって登場している。この映像の監督には、サンタクロースを意味する「クリス・クリングル」(英: Kris Kringle)の名前がクレジットされている。2009年からは、ESPN(『NBA on ESPN(英語版)』)と姉妹局のABC(『NBA on ABC(英語版)』)でクリスマスに放送されるNBAクリスマス・ゲームズ(英語版)用のミュージック・ビデオも作られている。ジャスティン・ビーバーとのデュエット版では、ニューヨークの百貨店・メイシーズでミュージック・ビデオを撮影し、ビーバーが友人たちと買い物をする一方で、キャリーがサンタクロースの格好をして歌う姿が収録されている。このミュージックビデオは1億4000万回以上再生されている。 ==ライブ・パフォーマンス== キャリーはこの曲を、自身のコンサートだけでなくテレビ生放送でも何度となく歌っている。1996年のデイドリーム・ワールド・ツアー(英語版)日本公演、1998年のバタフライ・ワールド・ツアー(英語版)、2002年から2003年のチャームブレスレット・ワールド・ツアー(英語版)、2006年のアドヴェンチャーズ・オブ・ミミ(英語版)で、この曲がセットリストに加えられた。以来キャリーは、ツアーの日本公演ではクリスマスの時期でなくとも、アンコールでは必ずこの曲を歌うほどである。これに加え、キャリーは2004年のウォルト・ディズニー・ワールド・クリスマス・デイ・パレード(英語版)で歌い、この様子はABCで放送された。 彼女は「ソー・ソー・デフ・リミックス」を、2009年の大晦日に行われたエンジェルス・アドヴォケート・ツアー(英語版)の初日公演で歌った。2010年11月9日には、この曲をクリスマス・スペシャル・ライブで録音し、2010年12月13日にこの時の映像がABCで放送された。またキャリーは、2010年のクリスマスに合わせて『オー・サンタ!(英語版)』とこの曲を歌い、クリスマスの昼にかけてESPNとABCで放送された。同年12月3日には、この2曲をウォルト・ディズニー・ワールド・リゾートのマジック・キングダムで歌い、録画された映像は『ウォルト・ディズニー・ワールド・クリスマス・デイ・パレード・オン・ABC』 (”Walt Disney World Christmas Day Parade on ABC”) の中で放送された。また、キャリーはこの2曲を、この日両曲で放送されるNBAの試合のプロモーションとしてミュージック・ビデオにして歌った。 キャリーは、ニューヨークのビーコン・シアターで行った初の年次クリスマス・コンサートでアンコール曲にこれを選んだが、”All I Want for Christmas Is You, a Night of Joy and Festivity” (en) と銘打たれたこの公演はチケット完売を記録した。キャリーは2016年12月15日に放送されたジェイムズ・コーデンの『レイト×2ショー with ジェームズ・コーデン』に出演し、番組の人気企画『カープール・カラオケ(英語版)』でこの曲を披露した。この回ではアデル、レディー・ガガ、デミ・ロヴァート、ニック・ジョナス、エルトン・ジョン、セレーナ・ゴメス、グウェン・ステファニー、クリス・マーティン、レッド・ホット・チリ・ペッパーズなどが出演した。この映像はすぐにネット配信され、24時間以内に200万回以上、また3週間以内に2,500万回以上再生された。 ==曲の批評== 『恋人たちのクリスマス』は音楽批評家に絶賛された。『オールミュージック』のロッシュ・パリジーンは楽器用法とメロディを褒め称え、「数年続く炸裂」(”a year‐long banger”) と評した。また『ボストン・グローブ』紙の編集者であるスティーヴ・モースは、キャリーの歌声には魂が強く感じられると書いた。『スタイラス・マガジン(英語版)』のバリー・シュワルツは、「この曲を今の名曲と言うなんて、この曲の凄さを捉え切れていない。これは現代の定番曲で、楽しく、うきうきさせ、声高で、願い事を仄めかしすらする」と述べ、歌詞については「美しいフレーズだ」(”beautifully phrased”)としたほか、キャリーの声は「ゴージャス」(”gorgeous”)で「誠実」(”sincere.”)だと絶賛した。 MTVのカイル・アンダーソンは、この曲が「チャイム、スレイベル、ドゥーワップの装飾楽句、決定的な弦楽器、またキャリーのキャリア史上最もダイナミックで澄んだ歌声で溢れる、壮麗な聖歌」だと述べた。2009年のリミックス版を批評して、『アイドレーター(英語版)』のベッキー・ベインは、曲を「不朽の名曲」(”timeless classic”) と評し、「クリスマス・ツリーを飾り、メノーラーに火を灯しながら、私たちはこの曲を愛している」と述べた。 スコットランドの『ヘラルド』紙では、ショーナ・クレイヴンが、「楽天主義と楽しさの曲で、多分、飽くまで多分、クリスマスの本当の意味を仄めかしているのかもしれない」と述べた。彼女はまた、この曲が大成功を収めた主因について、歌詞中に登場する「あなた」(”you”) の存在だとし、「もしかしたらこの曲が大ヒットを飛ばしたのは、全ての人に向けた歌だという事実が原因かもしれない」(英: ”Perhaps what makes the song such a huge hit is the fact that it’s for absolutely everyone.”)と述べた。またクレイヴンは、「ビング・クロスビーが墓に入っているのは当然だが、1980年代の子どもたちは、マライア・キャリーの素晴らしい曲『恋人たちのクリスマス』が、この国いちの祝歌になってチャートを躍り上がるところを見ても全く驚かないだろう」(英: ”Bing Crosby may well be turning in his grave, but no child of the 1980s will be surprised to see Mariah Carey’s sublime All I Want For Christmas Is You bounding up the charts after being named the nation’s top festive song.”)とまで述べている。 キャリーのアルバム『メリー・クリスマスIIユー(英語版)』の批評の中で、『シカゴ・サンタイムズ』のトーマス・コナーは、「単純で精巧に作られたチェスナット〔=お約束〕であり、クリスマスの名曲ポップスに最後に加えられた偉大な曲のひとつ」と述べた。2006年には、キャリーの経歴を振り返る記事で、『ザ・ニューヨーカー』誌のサシャ・フリア=ジョーンズ(英語版)が、「魅力的な」(”charming”) この曲はキャリーにとって最大の成果のひとつで、「ホリデーソングの名曲集に加わる価値がある、現代の数少ない一例」(英: ”one of the few worthy modern additions to the holiday canon”)だと述べた。また『ザ・ナショナル(英語版)』のダン・ハンコックスは、ジョーンズの記事を引用してこれに賛成し、曲は「完璧だ」(”perfection”) と述べた。 ==リミックスと再発盤== 1994年にシングルとして発売された時、作られたリミックスはインストゥルメンタル版だけだったが、これもシングルには収録されなかった。キャリーは2000年に日本でこの曲を再発売し、「ソー・ソー・デフ・リミックス」(英: the So So Def remix)と銘打った新リミックス版を収録した。リミックス版ではボーカルが新収録されたほか、アフリカ・バンバータ&ソウルソニック・フォース(英語版)の『プラネット・ロック(英語版)』のサンプルを含む、より激しくアーバンなビートに編曲され、ゲスト・ボーカルとしてジャーメイン・デュプリとバウ・ワウが参加した。このリミックスは、2001年のコンピレーション・アルバム『グレイテスト・ヒッツ(英語版)』に特典トラックとして収録された。 2009年には、キャリーとロー・サンデー(英: Low Sunday)によるリミックス、”Mariah’s New Dance Mix”(マライアのニュー・ダンス・ミックス)が発表された。このミックスでは、1994年のオリジナル版のボーカルに、新しい電子楽器音源を重ねている。このバージョンには肯定的な反応が寄せられた。MTVのカイル・アンダーソンは、「完璧なものを発展させるのは難しい」(”it’s difficult to improve perfection”) としつつも、このリミックスは「〔元の〕曲をディスコのリズムで飾り立て、職場のクリスマスパーティを去年より28パーセントいかしたものにする」と述べた。『アイドレーター(英語版)』のベッキー・ベインは曲の楽しくて覚えやすい様子を賞賛した。 2010年にキャリーは、自身13枚目のスタジオ・アルバムで、2枚目のホリデー・アルバムである『メリー・クリスマスIIユー(英語版)』を制作し、このために『恋人たちのクリスマス』を再録音した。このバージョンは ”All I Want for Christmas Is You (Extra Festive)” と銘打たれ、再録音されたボーカルに、柔らかくなったベルの音、力強くなったドラムスが加えられ、ゆっくり歌われる冒頭のヴァースはオーケストラ演奏に置き換えられた。『ラップ=アップ(英語版)』のスティーヴン・J・ホロヴィッツは、新バージョンについて「1994年版とぴったり同じく楽しい」とした。曲そのものには絶賛が寄せられる一方で、原曲と似通いすぎているとの批評もある。『シカゴ・サンタイムズ』のトーマス・コナーは、新しいバージョンは「全く同じ編曲に、2、3人の耳障りなバック・シンガーを足しただけ」(英: ”just seems to add a few brassy backup singers to the exact same arrangement.”)と評した。『ローリング・ストーン』のキャリン・ガンズもこれに賛成し、新しいバージョンから「どこが『余分にお祭り気分』[’extra festive’]なのか見つけるのは難しい」とまで書いた。『ザ・ナショナル』のダン・ハンコックスは、このリミックスは不必要だったとした。 2011年には、ジャスティン・ビーバーがキャリーとのデュエットでこの曲を録音し、自身のホリデー・アルバム『アンダー・ザ・ミスルトウ(英語版)』に収録した(日本語題名は『恋人たちのクリスマス Duet with.マライアキャリー』)。インタビューでビーバーは、キャリーの高いキーに合わせて歌うのは大変だったと述べているが、『ビルボード』誌では、その努力については認めつつも、オリジナルの方が断然上だと切り捨てられた。 ==チャート順位の変動== アメリカ合衆国で『恋人たちのクリスマス』は、1995年1月の第1週に、ビルボードのホット・アダルト・コンテンポラリー(英語版)で最高第6位、ホット100エアプレイ(英語版)で最高第12位を獲得した。また、1995年12月と1996年12月にも、この2チャートにランクインしている。曲は最初のリリース時には不適格としてBillboard Hot 100にランクインできなかったが、これは商業的にシングルとして発売されなかったためである。このルールは1998年に覆され、Billboard Hot 100へのランクインが認められるようになった(この段階での最高順位は2000年1月に記録した83位)。2005年12月には、ビルボードのホット・デジタル・ソングス(英語版)で1位を獲得したが、再発盤のシングルと考えられ、チャートへの再エントリーが適わなかったため、Billboard Hot 100で最高順位を更新することは出来なかった。 2005年から2008年まで、この曲は12月になる度にビルボードのホット100リカレンツ・チャート (Hot 100 Re‐currents chart) で1位を獲っていた。また2005年には、ビルボードのホット・デジタル・ソングスチャートでも1位を記録したほか、もしHot 100へのチャートイン資格があれば年間チャート6位につけるほどのヒットとなった。2012年には再発盤の扱いが見直され、トップ50以内相当のポイントを稼いだ作品はBillboard Hot 100にチャートインできるようになったため、この曲はまず29位にランクインし、2013年1月5日週の終わりには最高21位を獲得した。2015年12月には、Billboard Hot 100で11位を獲得し、最初のリリース以来最高順位を獲得した。2017年12月16日段階では、ビルボードのホリデー100チャートで累積27週トップを誇っている。このチャートは2011年に立ち上げられたが、ホリデー100で2週以上1位を獲得している曲は他に無い。Hot100では2017年に9位ランクインで初のトップ10入りし、翌2018年には7位にランクインして過去最高順位を更新したほか、2019年1月には3位に入って更に記録を塗り替えた。 『恋人たちのクリスマス』は、アメリカレコード協会 (RIAA) で初めてダブル・プラチナ(英語版)を獲得したホリデー着信音である。それに先立つ2006年12月には、マスタートーン(着信音)が50万回以上ダウンロードされたことで、RIAAからクリスマス・ソングのマスタートーンとしては初めてのゴールド認定を受けていた。また2000年以前に録音された女性歌手の歌で、最も売れたデジタル・シングルであるほか、ホリデーソング全体で最多の売り上げを誇るデジタル・シングルでもある。ニールセン・サウンドスキャンは、2016年11月段階でデジタルトラックとして推定320万回ダウンロードされたと見積もっており、ビルボード誌でも同様の結果が掲載された。 イギリスでは、1994年12月10日週に、全英シングルチャートで5位にランクインした。翌週には最高順位の2位に達し、12月の残り3週この順位を維持した(「クリスマスナンバーワン」の座はイースト17の『ステイ・アナザー・デイ(英語版)』に明け渡した (en) )。全英シングルチャートが2006年末より新たにダウンロード数のチャート包含を始めたことから、2007年のクリスマス期間中に、同チャートで最高4位を記録した。2017年12月段階で、この曲は全英シングルチャートに累積で80週以上ランクインしている。また2013年12月19日段階で、『恋人たちのクリスマス』はイギリスで100万枚以上売り上げた曲となった。2015年12圧11日には、ストリーミングを含め120万単位売り上げたとして、英国レコード産業協会からダブル・プラチナ (en) 認定され、キャリーにとってイギリスで最も売れたシングルとなった。2010年にはイギリスで、10年間のホリデーソングチャートの1位を獲得した。 曲はオーストラリア・シングル・チャートで2位を獲得し、21万単位以上を売り上げたとしてオーストラリアレコード産業協会 (ARIA) からトリプル・プラチナ認定を受けている。デンマークでは最高4位を獲得して16週連続チャートインしたほか、IFPIからゴールドディスク認定を受けた。 この曲は、日本でキャリーが最も売り上げたシングルでもあり、1995年の段階で110万単位の売り上げがあったと報道されている。この曲には『恋人たちのクリスマス』との邦題が付けられた上で、ドラマ『29歳のクリスマス』の主題歌に用いられて大ヒットし、日本でのキャリー人気を更に押し上げる一因となった。ソニー・ミュージックエンタテインメントは1994年12月21日に日本での出荷枚数が100万枚を突破(101万枚)したことを発表した。オリコンチャートの集計でも100万枚を突破したが、洋楽シングルとしてミリオンセラーを達成したのは、ダニエル・ブーンの『ビューティフル・サンデー』以来、オリコンチャート史上2例目・19年ぶりのことだった(1995/1/16付け達成)。オリコンシングルチャートでの最高順位は2位である。セールス・エアプレイ双方で成功したことから、2010年には再び日本のチャートにランクインし、Billboard Japan Hot 100で最高6位を獲得した。また日本レコード協会からは、CD(1994年、アルバム『メリー・クリスマス』でも)・着うた(2008年)の2形態でミリオン認定されている。キャリー初のベストアルバムである『ザ・ワンズ』は、日本国内の洋楽アルバム売上高として史上最高を記録したが、このアルバムとデビュー25周年記念アルバム『#1 インフィニティ』の双方に、日本版ボーナストラックとしてこの曲が収録されている。 ===チャート記録=== ====週間チャート==== ===イヤーエンド・チャート=== ===ディケイドエンド・チャート=== ===ジャスティン・ビーバーとのデュエット版=== ===各国での認定と売り上げ=== 認定のみに基づく売上枚数認定のみに基づく出荷枚数認定のみに基づく売上枚数と再生回数 ==レガシー== 『恋人たちのクリスマス』は、最初の発売以来、クリスマス・シーズンごとにチャートインするのがほぼ恒例となっている。キャリーはこのことについて、2018年のインタビューで、「毎年ビルボード・チャートに再登場するのは何度見ても驚き。何て素晴らしいクリスマス・ギフトなんだろう」と述べている。2015年12月には、Billboard Hot 100で11位を獲得し最高順位を更新したほか、2019年1月には3位にランクインしてさらに記録を塗り替えた。シングルの売り上げは世界11位の1,600万枚以上にのぼり、キャリー最大のヒット作である。2017年段階で、この曲は6,000万ドルの印税を稼ぎ出していると報道されている。 『デイリー・テレグラフ』では、この10年にイギリスで最も人気かつ最も再生されたクリスマス・ソングだと絶賛している。『ローリング・ストーン』では、「偉大なロックンロール・クリスマスソング」(英: Greatest Rock and Roll Christmas Songs list)で4位にランクインし、「ホリデーの定番曲」(英: ”holiday standard”)と評された。この曲の影響力が長く続いていることから、キャリーは「クリスマスの女王」(英: Queen of Christmas)と呼ばれている。一方のキャリーはこの称号を受け入れることに消極的で、「〔身に余る〕と思うので、その名前は受け入れられません。謹んで感謝しますし、ホリデー・シーズンには驚くくらいの愛を持っています。1年で最も素晴らしい時期なので」と答えている。 キャリーはこの曲に基づいた子ども向けの本を2015年11月10日に発表し、75万部を売り上げた。また2017年11月14日には、この曲・本に基づいたアニメーション映画を公開した。この映画は、日本では『マライア・キャリー クリスマスにほしいもの』の題名が付けられ、2017年12月21日にディスクとして発売された。2018年12月には、キャリーのSNSで彼女とスタッフがこの曲を歌う動画が公開され、Twitterでは10万件以上の「いいね」が付くなど話題となった。 ==カバーを行ったアーティスト== シャナイア・トゥエイン(テレビ番組『トゥデイ』での生演奏、1998年)サマンサ・ムンバ(英語版)(『サマンサ・シングス・クリスマス(英語版)』EP、2001年) オリヴィア・オルソン(映画『ラブ・アクチュアリー』、2003年)マイ・ケミカル・ロマンス(”Kevin and Bean’s Christmastime in the 909”、2004年)チーター・ガールズ(『チーター=リシャス・クリスマス(英語版)』、2005年)アグネス・カールソン(英語版) & モンス・セルメルロー(2007年)マイリー・サイラス(ライブ・パフォーマンス、2007年)セイム・ディフェンス(英語版)(ライブ・パフォーマンス、2007年)伊藤由奈(『Happy Xmas Show』での生演奏、2007年12月23日)ジョン・メイヤー(ライブ・パフォーマンス、2008年)SUEMITSU & THE SUEMITH (”Best Angle for the Pianist: Suemitsu & the Suemith 05―08”、2008年)ホイットニー・ダンカン(英語版)(2008年)アレクサンドラ・バーク(ライブ・パフォーマンス、2009年)エリック・マーティン(クリスマスアルバム『MR.VOCALIST X’MAS』、2009年11月日本発売)デイヴ・バーンズ(英語版)(”Very Merry Christmas”、2010年)ビッグ・タイム・ラッシュ(英語版) & ミランダ・コスグローヴ(”Holiday Bundle”、2010年)レディ・アンテベラム(『ア・メリー・リトル・クリスマス(英語版)』、2010年) US Billboard Hot Country Songs(英語版) ‐ 57位US Billboard Hot Country Songs(英語版) ‐ 57位ジェシカ・マーボイ(英語版)(”All I Want for Christmas”、2010年)May J.(『Believin’...』、2010年)ニューズボーイズ(英語版)(”Christmas! A Newsboys Holiday” (en) 、2010年)ノタ(英語版)(”Nota’s A Capella Christmas”、2010年)ボウリング・フォー・スープ(”Merry Flippin’ Christmas, Vol. 1 and 2’”、2011年)マイケル・ブーブレ(『クリスマス』、2011年)アンバー・ライリー(”Glee: The Music, The Christmas Album Volume 2”、2011年)東京事変(東京事変 Live Tour 2011 Discovery青森公演、2011年12月24日)ティファニー・アルヴォード(英語版)(2012年)デミ・ロヴァート(ライブ・パフォーマンス、2012年)アリアナ・グランデ(ライブ・パフォーマンス、2012年)シーロー・グリーン(『シーローズ・マジック・モーメント(英語版)』、2012年)クワイエットドライブ(2012年)アトミック・トム(英語版)(2013年)高垣彩陽(『melodia 2』、2013年)パク・ボム & イ・ハイ(2013年)エレクトリカル・ファイア(英語版)(2013年)ポーラ・アリーナズ(英語版)(2013年)西野カナ(『Kanayan X’mas Special〜real〜』、国立代々木競技場第一体育館、2013年12月13日)。ジム・ブリックマン(2014年)フィフス・ハーモニー(アイル・ビー・ホーム・フォー・クリスマス(英語版)』、2014年)マックライモンツ(英語版)(2014年)イディナ・メンゼル(『ホリデー・ウィッシズ(英語版)』、2014年)タル・ウィルケンフェルド(2014年)Ten Second Songs (Anthony Vincent)(””All I Want for Christmas Is You” in 20 Different Styles”、2014年)バットフット!(英語版)(『パンク・ロック・クリスマス(英語版)』、2015年)アリ・ブラストフスキ(英語版)(2015年)スティーヴ・グランド(ミュージック・ビデオ、2015年)チェイス・ホルフェルダー(英語版)(2015年)カイリー・ミノーグ & マムフォード・アンド・サンズ(ライブ・パフォーマンス(2015年)、2016年)ザ・ガール・アンド・ザ・ドリームキャッチャー(英語版)(2015年)サーラ・アアルト(英語版)(Xファクター、2016年)宇宙少女(JUSE TV、2016年)カーミン(英語版)(2016年)シー&ヒム(”Christmas Party”、2016年)ストレイト・ノー・チェイサー(英語版)(”I’ll Have Another...Christmas Album”、2016年)ダーシーズ(英語版)(2016年)ドリーロッツ(英語版)(2016年)ハンソン(”Finally It’s Christmas”、2017年)リンジー・スターリング(『ウォーマー・イン・ザ・ウィンター(英語版)』、2017年)レナ(”Sing meinen Song ― Das Weihnachtskonzert”、2017年)アウト・オブ・ザ・ブルー(2017年) ==関連項目== クリスマスの音楽一覧 =菌糸= 菌糸(きんし)とは、菌類の体を構成する、糸状の構造のことである。一般にいうカビやキノコなどは、主に菌糸が寄り集まったもので構成される。単細胞状態の菌類である酵母に対して、このように菌糸を形成した多細胞状態の菌類を糸状菌と総称することがある。また偽菌類や放線菌など、菌類以外の微生物にも菌糸を形成するものがある。 ==概説== 菌糸(きんし hypha pl. hyphae)というのは、多くの菌類が形成する糸状の構造であり、それらの菌類の栄養体を構成する単位として機能する。栄養体が菌糸から構成されている菌類を糸状菌と呼び、菌糸からなる菌類の体を菌糸体(mycelium pl. mycelia)という。 たとえばシイタケが樹木の幹から生えているのを見たとき、一般の人は樹皮上に出ているものをシイタケと見るが、これは子実体という繁殖のための構造に過ぎず、その本体はむしろ幹の中に広がる菌糸である。種菌として植え付けられたシイタケは、材木の中に菌糸をのばし、菌糸から酵素を出して周囲の材を分解し、それを吸収して成長し、やがて子実体を作ることで表面から見えるようになる。また、子実体そのものも菌糸から構成されている。カビの場合も同様で、たとえば餅の表面に出てくるアオカビは、粉の集まりのように見えるのは胞子の固まりであり、実際にはその下の餅の中に広がっている菌糸が本体なのである。糸状菌においては菌糸が本体であり、菌糸として成長し、菌糸からの分化によって様々な構造が作られ、そこで生殖も行われる。 一般には菌糸はそれぞれ単独で生命維持ができる単位であり、菌糸が分断されても、その一部から再び成長を続けることができる。しかし、生殖などの活動には、ある程度以上の大きさに発達した菌糸体であることが必要である。また、菌糸はそれぞれが遊離して栄養源である基質表面、あるいはその内部に侵入し、それぞれに栄養を分解吸収して成長するが、時にまとまって一定の構造を作る場合がある。菌類に於いては、1列に細胞が並んだ菌糸以上の複雑な組織は存在せず、子実体のような大型の構造も、すべて菌糸が集まって形成される。 ==一般的構造== 一般に菌糸と呼ばれるものは、糸状で、分枝しながら先端成長によって伸長し、その表面で周囲にある基質を分解吸収して自らの栄養とする構造である。多くの菌類は、胞子から発芽するとこのような構造となり、成長や分枝を続け、多数の菌糸の集まりによる体を発達させる。菌糸は細胞からなり、その表面は丈夫な細胞壁で覆われる。 ===大きさ=== 菌糸は先端で伸びるものであるから、原理的には無限に成長すると考えられ、長さについてはあまり考えても仕方がない。しかし実際にはその大きさは様々であり、これには環境条件などが大いに関わっているであろう。さらに、純粋培養の元でも大きくなるもの、あまり大きくならないものの差はあり、場合によってはその群の特徴となる。逆に、まず長くならないものもある。例えばハエカビ目のものは、ほとんど肉眼で確認できない程度の長さにしか伸びない。これを分節菌糸体と呼んでいる。 太さは0.5‐100μmまでの幅があり、菌群によって大きく異なる。ごく細いものは後述のツボカビ類の仮根状菌糸や、接合菌類のトリモチカビ目に見られる。これらでは2μm程度の菌糸が普通で、部分的にはさらに細くなっている。特に太いのは菌類ではないが卵菌類のミズカビ類で、20‐40μmは普通で、ミズカビやワタカビでは時には100μmを越えることもある。フハイカビで4‐6μm、これは一般の子嚢菌、担子菌程度である(椿他,1978:各種の記述から)。 ===細胞性=== 菌糸は基本的には多細胞的なものであるが、菌糸を細胞に区切る隔壁があるものとないものがある。隔壁が全くないか、所々にのみ形成される場合、菌糸の内容は仕切りがなくて多数の核を含む原形質からなる多核体の構造となる。ツボカビ門のサヤミドロモドキ目や接合菌門のケカビ目などにそのようなものが見られる。子嚢菌類や担子菌類では菌糸には規則的に隔壁があって、菌糸は細胞に分かれているが、実際にはその間に連絡があり、多核体的な面が強い。 ===細胞壁=== 菌糸の細胞壁の主要な構成成分は多糖類である。ほとんどの菌類に於いては、その大部分はキチンである。他にキトサンやβ‐グルカンを同時に含んでいるものが多い。それらは繊維状となり、層をなしているのが普通である。 ===隔壁=== 菌糸を仕切っている板を隔壁(septum)という。接合菌綱のケカビ目などでは菌糸には原則的には隔壁がなく、古くなると作られたり、生殖器官の下に形成される程度であるが、接合菌綱でもキクセラ目などでは規則的な隔壁が形成される。ただし、キクセラ目のものでは、隔壁の中央に、両側の細胞に突き出た特有の管がある。 子嚢菌類、担子菌類(および不完全菌類)の菌糸には、規則的に隔壁があり、それによって菌糸は細胞に分断されている。このような隔壁は核の分裂に連動して形成される。しかしながら、これらの菌類では、生殖部分を仕切る場合には完全な隔壁が形成されるが、通常の隔壁には、実はその中央に孔があって、細胞間で行き来ができるようになっている。子のう菌類の場合、隔壁は菌糸の軸に垂直な単なる細胞壁の板であるが、その中央部には1つの穴が開いている。この孔によって両隣の細胞質は連続しており、それを通じて、ミトコンドリアなどの細胞器官や核までも行き来が可能である。事実、子嚢菌に於いて、菌糸体の中を核が時速1〜4cmの速度で移動することが確認されている。また、不完全菌に於いて、他の菌糸との接触によって異質の核が導入され、それらが孔を通って移動して核が融合したりするような過程で有性生殖と同等の効果が生じる疑似有性生殖が行われる例もある。 担子菌類では隔壁の構造はさらに複雑で、中央の孔の周辺はたる型に肥厚し、その両側を小胞体が帽子状になった孔帽と呼ばれる構造が覆っている。このような構造を持つ隔壁をドリポア隔壁(dolipore septum)という。この部分の詳細な構造は、下位の分類群によっても異なっている。 なお、核分裂と連動して形成される規則的な隔壁を一次隔壁(primary septum)、不規則的に形成されるものを不定隔壁(adventitionus septum)と言うこともある。 ===二核菌糸=== 菌類においては、栄養体の核相は単相である例が多い。したがって、菌糸には単相の核のみを含む。それらは有性生殖時に何らかの形で接合すると、融合した核はほぼその場で減数分裂を行い、単相に戻る。 しかし、子嚢菌と担子菌では細胞の融合後に核が融合せず、一つの細胞に2つの核を含んだ状態を維持しながら菌糸が成長する。これを二核菌糸、あるいは二次菌糸と言う。これは子嚢菌では子実体の中でごくわずかに見られるが、担子菌ではむしろこの状態が普通であり、キノコを構成する菌糸はすべてこれである。これらの菌糸では、隔壁の部分に特殊なかすがい連結(clamp connection)と言う構造が出来る(出来ない場合もある)。 ===細胞の構造=== 古い菌糸の部分は、先端からの距離に応じて活動やその成分が異なっていることが知られている。細胞壁の内側には細胞質があるが、ほとんどは細胞壁に面する部分に集まり、中央には液胞がある。菌糸が古くなるにつれて液胞は大きくなり、最終的には細胞は空胞化する。 ==菌糸の成長== 菌糸はその先端部で新たな細胞壁が作られて、先へ伸びることで成長する。菌糸の成長部分より後方では、細胞質内に液胞があって、それが次第に拡大成長するので、これが原形質を前方へ押し出す力になっているとの説もある。菌糸先端部のすぐ後方では、小胞体で細胞壁の成分が合成され、この成分は小胞の形で前方へ押し出され、新しい細胞壁の形成に使われる。それらの後方にはミトコンドリアが多数見られ、その活動が菌糸の成長に結びついているとされる。特に規則的な隔壁を持つ菌糸の場合、先端部に光学顕微鏡では暗色に見える先端小体(Spitzenkr*9708*per)があり、先端成長と強く結びついていることが知られる。これは多数の小胞やその他の構造が集まったもので、その働きについてはまだ十分にはわかっていない。多細胞の菌糸では、菌糸先端がある程度成長した後に、その後方で核分裂を生じて新たな隔壁が作られる。 菌糸の成長は、温度によって大きく変わるが、菌群によっても異なる。 分枝が生じる場合、菌糸先端のやや後方から新たな先端を生じて枝分かれができるものが多い。先端部が2叉分枝をする例は少なく、ツボカビ門のカワリミズカビなどに見られる程度である。また、同種の菌糸が接触した場合にそこで融合が起こることも知られている。 ===菌糸体の形=== 寒天培地のような均質な基質上では、当初の菌糸の成長は各方向に一様であるが、次第に中心から外へ向かう方向に向きが定まる傾向がある。結果として、菌糸体は円形(立体的には球形)の形を取り、先端から一定距離に胞子形成を生じて同心円の形になることが多い。これは野外でも往々にして起きることで、草原や芝生などでキノコが輪の形に生じる現象が見られる。これを菌輪といい、西洋では妖精の踊った跡であるとの伝承がある。 ==菌糸の分化== 大部分の菌糸は基質上を這い、あるいは潜り、周辺の基質を分解吸収している。しかし、それ以外の目的のために分化した菌糸もある。特に生殖にかかわる部分が分化する例が多く、それらは別の名で呼ばれることもある。それらに対する一般の菌糸は、栄養菌糸(潜入菌糸、基底菌糸、基生菌糸)と呼ばれる。 普通の場合、菌糸は基質中かその表面を成長するが、基質を離れて空中へ伸び出す場合もあり、それが生殖等に関わらない場合、これを気中菌糸(または気菌糸)という。また、気中菌糸が先端で基質に附着し、そこに菌糸を伸ばすような場合、これを特に匍匐菌糸ということもある。 他に栄養関係のものでは、寄生菌が宿主に附着させる付着器(appresproim)、宿主内部に侵入させる吸器(haustorium)などもある。 ===仮根と仮根状菌糸=== 菌糸を形成しないツボカビ類には、胞子嚢を基質に固定するように、根状の構造を持つものがあり、これを仮根(rhizoid)という。さらに一部の菌ではそれがよく伸びて、その先に複数の胞子嚢をつけるようになったものがある。このような場合、これを仮根状菌糸体(rhizomycerium)という。このような菌糸は、一般の菌糸に比べて細くやや不規則で、先で枝分かれするに連れてさらに細くなる。一般の菌糸が細胞の並びに見えるのに対して、これは細胞の一部が伸び出したように見える。 同様の仮根状菌糸は菌糸を持つツボカビ類(カワリフクロカビなど)、ケカビ目でも見られ、これらの場合、通常の菌糸の側面からこのような仮根状菌糸を出すのが見られる。 なお、クモノスカビ・ハリサシカビ・クサレケカビなどの胞子嚢柄を立てる種の中で、その基部に根状の菌糸が限定的に生じるものも仮根と言うが、これはかなり性質の異なるものである。 ===生殖に関する構造=== 生殖にかかわる構造も菌糸から生じる。それらは大抵は限定成長をおこなってその先端に生殖のための構造をつけるので、その構造を支える柄と見なされ、そのように名付けられる。たとえばその構造が胞子嚢であれば胞子嚢柄(ほうしのうへい)、分生子であれば分生子柄(ぶんせいしへい)と呼ばれる。それらの構造は分類上の重要な特徴ともなる。 普通は菌糸の先端にそのための構造が形成され、そこに胞子を作るので、外生的に出芽したり内生的に形成されたりと様々であるが、より菌糸そのものから形成される場合もある。分生子においては、菌糸が形成された後、その菌糸の一部が胞子に変形することで形成される例がある。たとえばアレウリオ型といわれるものは、分生子はまず菌糸先端の細胞として形成され、その後に発達して胞子として成熟する。また、分節型といわれるものは、菌糸の先端の方から多数の隔壁を生じ、それらがバラバラになって胞子となる。このような型をまとめてthallicと呼ぶこともある。 この他、栄養菌糸の先端、あるいは介在的に一部が分断され、厚膜化して胞子のようになったものを厚膜胞子という。古くなった菌株で見られることもある。様々な菌群で見られ、比較的不規則で、分類形質としてはさほど重視されない。 なお、菌糸そのものが切り離されることで増殖することも可能である。植物の株分けみたいなものであるが、一般的には菌類の培養における植え継ぎはこの方法で行われる。また、土壌よりの菌類分離法に、土壌中から菌糸を洗い出し、これを培養する方法がある。実際に土壌中で活動している菌類を探す方法として使われる。 ==複数の菌糸からなる構造== 複数の菌糸が組み合わさって構造を作る場合もある。特に高等な菌類に見られることが多い。 子のう菌や担子菌はその多くがはっきりとした子実体を形成する。特に担子菌の子実体はいわゆるキノコ型で、大きくなるものがある。これらは、いずれも多数の菌糸が並んで形成されるものである。単に糸状の菌糸が絡まり合うだけでなく、菌糸の各細胞が球状に膨らみ、それらが隣接して一見すると植物の柔組織のように見える場合もあり、これを偽柔組織という。また、サルノコシカケなど、ほとんど木材のように固い子実体を形成するものもあるが、これも非常に細胞壁が肥厚した菌糸から形成されるものである。子実体とは認められないが、胞子形成部が多数集合したものに子座(しざ)がある。 栄養菌糸にも、複数の菌糸が束になるものがある。特にキノコの菌糸によく見られる。簡単な菌糸の束になったものを菌糸束という。複数の菌糸が寄り合い、あるいはその菌糸からの分枝も絡み合うように、まとまって一本の菌糸のように伸びるものである。たとえばある枯れ木についた菌が、隣の枯れ木まで菌糸をのばすような場合に、このようなものが見られることがある。 さらに構造が複雑になり、一見は維管束植物の根のような形になったものを形成するものもある。その表面に厚い細胞壁を持つ菌糸が並んで、固くて着色した外皮のようになり、先端には柔らかな菌糸の先が並んで、まるで根の先端のように見えるものである。このようなものは根状菌糸束(rhizomorph)と呼ばれる。他に、菌糸だけが集まって塊状になったものに菌核(sclerotium)がある。一般的には耐久性の構造である。 ==酵母と菌糸体== 菌糸からなる体は、菌類の典型と言って良いが、菌類の形態としては、単細胞の形からなる酵母という形態もある。一般に生物の進化は、単細胞から多細胞へという方向があるように言われる。もちろん菌類に関しても当然そうであるとはいえ、必ずしも酵母の方が原始的であるとは考えない。むしろ、菌類全体に多細胞化の傾向が強くないためもあり、酵母の姿も菌類の適応の一つの型だとの見方が一般的である。実際、環境条件によって酵母と菌糸の形を使いわける例や、生活環の中で酵母の時期と菌糸の時期を持つ例がある。このように酵母型と菌糸型(偽菌糸を含む)の両方の形態をとりうる性質を二形性と呼ぶ。なお、酵母に近縁のもので、出芽的に形成された新しい細胞が、それぞれ独立しないために菌糸に近い姿になるものがある。これを偽菌糸体(または仮性菌糸 pseudohypha)と呼ぶ場合がある。病原性真菌には二形性を持つものが多く、代表的な病原真菌の一種であるカンジダ・アルビカンスなどは、感染した宿主の体内で酵母型、偽菌糸、菌糸型のすべての形態を取りうることが知られている(新見 2007、山口 2007)。 また、菌糸ではあるがごく短くしか発達せず、あるいは短い部分に分かれてしまうようなものを分節菌糸体(hyphal body)という。ハエカビ目などに見られるものである。 ==様々な菌類と菌糸== ツボカビ門ツボカビ目のものでは、球形の胞子嚢から基質中に細い根状の構造をのばすものがある。これを仮根あるいは仮根状菌糸と呼ぶ。また、複数の胞子嚢と、それをつなぐ細い菌糸を形成するものがある。コウマクノウキン目とサヤミドロモドキ目とは、はるかに太い菌糸を形成する。コウマクノウキン目のカワリミズカビは、水中に二叉分枝の太い菌糸をのばし、基質中には仮根状菌糸をのばす。接合菌門ケカビ目のものは、多核体の太い菌糸をよく発達させ、その所々から仮根状菌糸を基質中に広げる。トリモチカビ目のもので、菌糸体を発達させるものでは、非常に細い菌糸をのばし、宿主の細胞内に吸器を侵入させる。子嚢菌門・担子菌門および不完全菌菌糸はほぼ均等な太さで、規則的に隔壁を持つ。菌子束や子実体など、複雑なものを形成するものも多い。 ==菌類以外の菌糸== ===偽菌類の菌糸=== かつては菌類であると考えられていたが、現在では系統を異にするものと考えられ、菌界に含めないものを偽菌類という。特にミズカビなどを含む卵菌類は、非常に菌類に似た生物である。その体は基質中や水中に伸びる、先端成長をおこなう糸状の構造であり、その表面で基質を分解吸収することも同じである。かつてはツボカビ類と共に鞭毛菌の名で、菌類のひとつと見なされた。現在では褐藻や珪藻などと同じストラメノパイルという群に含まれることが判明し、菌界(むしろ動物と類縁の近いとされている)からは外されている。 かつてはこの類の構造も当然のように菌糸と呼んだが、菌類ではないとの判断となった現在ではそれを躊躇する向きもある。しかし、形態的にも機能的にも菌糸であるから、そう呼ぶのは不思議ではなく、現在もそう呼ばれることが多い。菌類との相違点として、細胞壁がセルロースを主成分にしている点が挙げられる。 ミズカビ類は非常に菌糸が太く、成長が早い。また、仮根状菌糸を持っている。フハイカビやその他のものは、やや細くて比較的均一な菌糸を持つものが多い。ツユカビ目は植物寄生菌で、宿主細胞内に吸器を伸ばす。 ===放線菌の菌糸=== 放線菌はグラム陽性桿菌に分類される細菌の一種である。放線菌は原核生物であり、真核生物である菌類とは生物学的に大きく異なるが、細菌の中では例外的に菌糸を形成する。通常の細菌が二分裂による増殖をするのに対して、放線菌は分岐した菌糸による先端成長を行い、また培地上で培養すると気菌糸を着生してその先端に無性胞子を形成するという、菌類とよく似た形態を示すものが多い。 細胞壁の構成成分は菌類のものと異なり、真正細菌の細胞壁成分であるペプチドグリカンや、結核菌やジフテリア菌と共通の細胞壁成分であるミコール酸などから成り立っている。また、放線菌の菌糸は菌類のものと比べて細いものが多く、通常直径1μm程度からそれ以下である。 =大人買い= 大人買い(おとながい)とは、食玩(玩具付きの菓子)などの子供向けの商品を、大人が一度に大量に買うことを表す俗語。転じて、子供向け商品に限らず、単に通常人が1回に買う平均を大幅に上回る数量の物やサービスを購入することも言う。2000年前後頃から急速に一般化した言葉で、日本の代表的な国語辞典のひとつである『広辞苑』にも、その第六版(2008年)で関連語の「食玩」などとともに新規収録された。類似の表現に「箱買い」「ケース買い」「カートン買い」「まとめ買い」「爆買い」などがあり、ときには同義として用いられることもある。 ==語義== (原義)食玩(おまけ)などパッケージを開封しないと中身が分からない(ブラインドパッケージ販売)おまけ入りの子供向け商品を、金銭的に余裕のある大人が一度に大量に購入すること。転じて、子供向け商品に限らず通常人が買う平均を大幅に上回る量の物を一度に買うこと。主に趣味の分野(漫画の全巻/映画やテレビドラマの全シリーズ/音楽ソフト/書籍/キャラクターグッズなど)で同シリーズで何種類も販売されている商品を、一括で全て購入することを指すが、趣味以外のものを対象とする場合もあり、実質的には「まとめ買い」の言い換えに過ぎない例も多い。殊更に「大人」の語が含まれているように、この語には本来は子供たちがその小遣いで少量ずつ買うべき子供向け低額商品を、大の大人が財力に物を言わせて一括大量購入するというニュアンスが含まれている。さらには大量購入した結果、本体の食品や「ダブり」のおまけに大量の余剰が出ること、子供の列に大人が混じって購入すること、中のアイテムによって一喜一憂する姿や、良識のある大人ならばこういった品のない行為はしないという意味を踏まえ、大人買いとはすなわち「大人気ない買い方」であるとの皮肉った言い方もある。 なお語形がよく似ていて起源も語義も全く異なる異義語に「ヲトナカヒ」がある。これは明治時代中頃の盗っ人仲間の隠語を当時の警察関係者がまとめた『日本隠語集』(1892年)に収録されているもので、「店頭ノ物ヲ盗取スルコトヲ云フ」(愛知県管内ニ通スル語)と説明されている。この語は『日本国語大辞典』(小学館)にも同書を引用するかたちで収載されており、その語源については「『音無買』の意か」との注釈がなされている。 ==発祥とその背景== 「大人買い」という語の発祥の詳しい経緯は必ずしも明らかではないが、本来はオタク用語、あるいはトレーディングカードのコレクター間の用語が起源だと言われている。 最も古い使用例の一つとしては、1999年11月発行の久米田康治作の漫画作品『かってに改蔵』の単行本5巻第1話『これが大人のやり方だ!!』があり、謎の人物がトレーディングカードを箱ごと買い占めるストーリー中で「大人買い」の語が使用されている。この作品と「大人買い」の語の流布との関係は不明であるが、使用例としてはかなり早い時期であり、同作品は他にも『不発弾』などのネットスラングを中心に若者言葉として流布した表現も多いことから、何らかの影響があった可能性もある。 また、その数年前の1994年に発行された水玉螢之丞著『こんなもんいかがっすかぁ』には、カードダス200枚について「箱で買うのオトナだから」という表現が見られ、この表現が「大人買い」の単語形成に影響を与えた可能性もある。これら早期の例はいずれもトレーディングカードに関連しており、本来はカードコレクター間の用語であったとする説に真実味を与えている。 一方、現象としてのキャラクター商品の大人買いについて、絵本作家の相原博之は、1997年頃の(女子高生・女子大生・OLなどを巻き込んだ)ハローキティのブームがきっかけであるとしている。 いずれにせよ「大人買い」の語が広く流布したのは2000年前後の時期とみられ、その背景にはペプシコーラが1998年以降に商品のおまけとして付けたキャラクター型ボトルキャップや、1999年9月からフルタ製菓が発売したチョコエッグのおまけなどを熱心に集める大人たちによる「食玩ブーム」があったとされる。特に後者のチョコエッグのおまけの「日本の動物コレクション」は、大人の鑑賞に堪えうる精密さを誇り、食玩ブームの火付け役となったと言われる商品で、このブームと大人買いという用語の一般化とは時期をほぼ同じくしている。これらのおまけには1シリーズ中に複数種の造形のものが用意されており、そのうちのどれが入っているかは包装を開けるまで分からない仕組みになっていた。そのため全種類を収集するには、おまけがダブる(重複する)ことを覚悟で同じ商品を多数買わねばならず、さらには「シークレットアイテム」と称され、公表されたラインナップにも明確には紹介されない希少性の高いおまけ(レアアイテム)も付けられたことから、一度に大量に購入する大人が多く出現した。この現象がすなわち「食玩ブーム」であり、これをマスコミなどが紹介する際には、その様子を表す「大人買い」という語と併せて報道されることも多く、食玩ブームに乗ってこの語も流布されたと言える。 ==用法の拡大== この語の流布にともない語義の拡大傾向も見られるようになっていった。ネット上ではすでに2000年の時点でマンガ本の全巻一括購入やボウリング場のレーンの一日中の独占、あるいは子供時代にできなかった習い事を自腹で始めることなどを「大人買い」と表現したサイトが存在し、食玩に代表されるような子供向けの商品とは無関係なものへの使用例が見られたという。一方、雑誌などでも2000年代前半から、古書(2002年)、あるいは万年筆の詰め替え用インクや帽子(2003年)など、必ずしも子供向けでないものや明らかに大人向けの商品であっても、一度にまとめて購入することを大人買いと表現する例が見られる。さらに2000年代半ば以降では、単に子供向けではないというだけではなく、グッチ(2006年)やルイ・ヴィトン(2006年)、あるいは一流の仕立て職人を呼んで採寸させる一着60万円以上のオーダースーツ(2007年)といった、一般的な大人でさえ大量には買わないような高額商品のまとめ買いにも使用されるようになり、語義が拡大・拡散した。 ==一般化と定着== チョコエッグに代表される食玩ブームは2000年以降もしばらく続き、ビックリマンシリーズの人気再燃によるビックリマン2000、そして完全に大人をターゲットとしたトレーディングカード市場の活性化、さらにはコレクションアイテム以外への用法の拡大などを背景として「大人買い」の語は一般化されて確実に定着して行き、2008年刊行の『広辞苑』第六版では、新たに収載された1万語のうちの一つとなった。 このような一般化と定着の背景には、通常の「まとめ買い」を「大人買い」という耳新しい語に言い替えることで耳目を惹きつけ、商品のアピールをしようとする業者の存在もあった。例えば2005年頃からは大人買いの語を使った商品紹介記事が雑誌上に複数見られるようになったが、そこで紹介されているのはファッションアイテムや化粧品などの成人女性向け商品、あるいは家電製品や、革製小物から腕時計その他諸々の商品群である。景気が低迷する中で「大人買い」という新語に消費拡大の期待を寄せる業者の姿が見えるが、この流れはその後も続き、2008年にも、対象年齢を問わず一度にまとめて購入できるセットを用意して、「大人買い!」の文言や「大人買いセット」などの名とともに商品を販売する業者も少なからず見られた。 なお雑誌などの使用例では、購買者の立場に立った記事の場合には「大人買い」や“大人買い”のようにカッコなどで括られて「いわゆる大人買い」といったニュアンスのものが多いが、販売者側の立場からの記事では何の括りもなく使用されることが多く、「大人買い」に対するスタンスの違いが見られる。 ==大人買いと買占めの相違点== 特定の商品を一括して大量に購入するという点において「大人買い」と「買占め」は共通するが、「大人買い」の購買対象となる商品はコレクターズアイテムや趣味性の高い商品が多く、トイレットペーパーのような生活必需品を大量購入する場合、「大人買い」という用法は通常は用いられない。 ==大人買いの心理== 大人買いの話題を扱った新聞や雑誌の記事などでは、人を大人買いに駆り立てる心理についてもしばしば言及されており、低成長経済や社会的閉塞感の中にある大人たちの子供時代の夢の世界への回帰願望の表れとするものや、子供時代に思う存分に買えなかった憾みを晴らしたり、思う存分に買ってみたかった夢を大人になって実現するもの、あるいはこれらの両方が読み取れるものなどがあり、概して子供の頃に経済的な理由等から欲しい商品を満足に手にすることができなかったフラストレーションと、大人になって自由に商品を購入することでそのトラウマを解消しカタルシスを得る行為と解しているものが多い。 一方、このような解釈に異議を唱えるかのような意見もある。作家の林真理子は、「そんな幼少期のトラウマよりも『大人買い』の最大の原因は『また買いにくるのがめんどうくさい』これに尽きるような気がする」と述べている。その理由として、彼女自身も大人買いをするが、実家は貧しいながらも欲しい物は買ってもらえたこと、昔の子供は欲望が希薄で情報も少ないため、欲しい物自体タカが知れたものであることなどを挙げ、子供時代のトラウマ起因説を否定している。しかし大人である林自身が「また買いにくるのがめんどうくさい」という理由で行う「大人買い」の例として挙げるのは、作家の全集ものやコミックの全巻一括購入、シーズンごとの洋服のラック買い(ラックにぶら下がっている服を一括して買うこと)といった、一般には「まとめ買い」と言われる、語義が拡大された「大人買い」である。一方、林が否定しようとしているのは他者が子供時代のトラウマに関連付ける原義の「大人買い」の心理的解釈であるため、否定の対象と否定の根拠とが噛み合わず有効な異論とはなっていない。 ==大人買いの功罪== 購買力のある消費者が特定の商品を大量に購入することによって売り上げの向上につながるが、一方で限られた購買力の消費者にとっては商品の供給が需要に対して十分ではない場合には購買の機会を逸失する。ましてや購入対象商品が消費者にとって必要性の高い商品(医薬品等)であれば死活問題になる。生産者側にとっても大人買いをするかしないかは消費者の心理によるため、生産計画を立てる上で予測が困難である。購買者が希望する特定の商品が入手できた時点で大人買いは終了するため、一過性のものであり、その後の消費に結びつきにくいという弊害もある。また、マーケティングの見地から見て「大人買い」をする特定の消費者層の消費行動を把握することは対象商品の販売戦略を立てる上で無視できない要素になりつつある。 ==類似語== 大名買い大尽買い =カロリック説= カロリック説(カロリックせつ、英: caloric theory [k*9423**9424*l*9425*(*9426*)r*9427*k ‐]、仏: th*9428*orie du calorique)とは、物体の温度変化をカロリック(熱素、ねつそ)という物質の移動により説明する学説。日本では熱素説とも呼ばれる。 物体の温度が変わるのは熱の出入りによるのであろうとする考えは古くからあったが、熱の正体はわからなかった。18世紀初頭になって、カロリック(熱素)という目に見えず重さのない熱の流体があり、これが流れ込んだ物体は温度が上がり、流れ出して減れば冷える、とするカロリック説が唱えられた。カロリックはあらゆる物質の隙間にしみわたり、温度の高い方から低い方に流れ、摩擦や打撃などの力が加わることによって押し出されるものとされた。この考えは多くの科学者によって支持され、19世紀初めまで信じられていた。 ==歴史== ===前史=== 古代において、熱は光や火と同一視されていた。そして、その火の正体については、その当時から科学者や哲学者によって言及されてきた。エンペドクレスやアリストテレスは「火」「空気」「水」「土」を四大元素とし、デモクリトスは火の原子を考えた。このように、古代では火は物質であるとする捉え方が多かった。 17世紀に入ると、熱の本質についての議論が盛んになっていった。当時の熱理論は、大きく分けて、熱は何らかの物質であるという熱物質説と、現代と同じように、熱の原因を運動によるものと捉える熱運動説に分けられる。フランシス・ベーコンは1620年の著書で熱運動説を唱えたため、この説の先駆け的な人物とされる。科学者としては、ロバート・ボイルとその弟子ロバート・フックが熱運動説を唱えた。また、ガリレオ・ガリレイは「火の粒子」を仮定し、この粒子が運動することによって熱が発生すると考えた。ピエール・ガッサンディやクリスティアーン・ホイヘンスも、熱は「熱の粒子」がはげしく運動することによって発生すると考えた。 熱運動説は、後にアイザック・ニュートンの万有引力、およびそれとは逆のはたらきをもつ「斥力」の考えを取り込みながら進展してゆくのだが、やがて徐々に下火になっていった。熱に関する現象のすべてを運動として扱うと、関数があまりに複雑になってしまい、その式を実際に検証する方法は当時では存在しなかったのである。 これに対して、熱物質説は有力な説になっていった。ゲオルク・エルンスト・シュタールは1697年、燃焼をフロギストン(燃素)という物質で説明するフロギストン説をとなえた。この説はシュタールの死後、支持者を増やしていった。燃焼の結果として、熱も生じる。そのため、フロギストン説が広がることは、熱物質説を後押しする結果となった。 そのため、18世紀には熱物質説が主流になってきた。ヘルマン・ブールハーフェも著書で”火の物質”を論じた。そして、熱は「火の物質」が通常の物質にぶつかり、その結果通常の物質が動くことによって起きると考えた。ブールハーフェの理論は、当時の彼の名声もあいまって、科学者に強い影響を与えた。さらにジョセフ・ブラックは熱物質説をもとに実験を行い、熱容量や潜熱の概念を生み出すことで、それまであいまいだった「熱」と「温度」を区別した。 ===説の登場=== アントワーヌ・ラヴォアジエもまた、熱物質説をとった科学者であったが、フロギストン説には疑問を感じていた。彼は、金属を燃焼すると質量が増すという実験結果などを元に、当時まで信じられてきたフロギストン説を否定した。そして、物質の燃焼において中心的な役割をするのは、物質に含まれるとされていたフロギストンではなく、空気中に含まれる酸素であると提唱した。その一方でラヴォアジエは、酸素は、現在考えられているような酸素分子ではなく、「酸素の基」と「火の物質」から成るものであると考えていた。そしてこの「火の物質」は、後にカロリックと呼ばれた。 ラヴォアジエの熱理論は1777年に発表され、カロリック(フランス語:calorique)という語は1787年にギトン・ドゥ・モルヴォとの共著『化学命名法』においてはじめて登場した。この理論は1789年の著書『化学原論(英語版)』によって完成され、同書に掲載されている元素一覧でも酸素や水素などと並んで、光素と熱素が記されている。ラヴォアジエは、それまで同一視されてきた光、火、熱を分離し、光は光素、火は酸素、そして熱は熱素によるものだと捉えたのである。このカロリック説は、ラヴォアジエがその後功績を積み重ねてゆくにつれて、多くの科学者に認められるようになった。 ===説の発展=== ラヴォアジエは『化学原論』に先立つ1783年にラプラスとの共同研究で、化学変化の前後で熱量(カロリック説の言葉でいう、カロリックの量)は保存するという法則を提唱した。これは熱量保存則と呼ばれる。この法則自体はカロリック説を前提とした理論ではなく、実際ラプラスは当時熱運動説の支持者であった(後に熱物質説へと転向)。しかし、結果的に熱量保存則は、熱力学第一法則が確立されるまで、カロリック説に立脚する熱学の基本法則とされるようになった。 こうして基礎が形作られたカロリック説はその後、ゲイ=リュサックやジョン・ドルトンによる気体の熱的研究によって進められてゆくのだが、はじめは熱容量などの扱いをめぐって2派に分かれていた。 1つは、物質に含まれるカロリックの量は、その物質の熱容量に比例するという考えである。例えば、物体が固体から液体になる時には、熱容量(比熱)が大きくなるため、物質が含むことの出来るカロリックの量が多くなり、物体は周囲からカロリックを吸収する。こうした熱容量の変化は、気体の膨張や圧縮の際にも起こり、気体が圧縮された時は熱容量が減少するため、物質が含むことの出来るカロリックの量も少なくなり、余ったカロリックが熱として周囲に放出される。この現象は、水を含んだスポンジを圧縮すると、スポンジから水が溢れ出す現象に例えられる。この説は元々ブラックの弟子のウィリアム・アーヴィンによって生み出されたもので、後にアデア・クロフォード(en)が発展させた。カロリック説登場後は、ドルトン、クレマン、デゾルムなどがこの説を支持した(以下、杉山に倣って、この説を「アーヴィン流」と呼ぶ)。 もう1つの考えは、カロリックには、温度の変化を引き起こすものと、引き起こさないものの2種類あるというものである。温度の変化を引き起こさないカロリックは、物体に束縛されている。これを潜熱と呼ぶ。物体が固体から液体に変わる時は、物体が受け取った熱の一部が潜熱となったと解釈できる。この説ははじめブラックによって考えられ、後にラヴォアジエ、ゲイ=リュサック、ラプラスによって進展した(同様に、これを「ラプラス流」と呼ぶ)。 ===ゲイ=リュサックの実験=== 1806年、ゲイ=リュサックは、気体の比熱を求めるための実験を行った。2つの容器をつなぎ、真ん中に弁をつけ、片方の容器に気体を入れる。もう片方の容器は真空にする。そして弁を開けると、気体が真空の容器に流れ込む。この時の両方の容器の温度変化を求める。 結果、弁を開けた直後、気体の入っていた容器の温度は若干下がり、真空だった容器の温度はそれと同じだけ上がり、その後はやがてどちらの容器も実験前の温度に戻った。また、容器の初めの温度変化は、気体が入っていた容器の実験前の圧力が高いほど大きかった。 ゲイ=リュサックはこの結果から、アーヴィン流の熱理論の欠陥を指摘した。アーヴィン流では、気体が膨張する時は比熱が増加し、周囲からカロリックを取り込む。つまり気体の密度が下がると比熱は増加することになるので、真空だと比熱は最大になる。しかし実験では、初めの圧力が小さい、つまり容器内の密度が小さい場合は、温度変化は小さくなる。温度の変化が比熱に比例するならば、真空での比熱は最小、つまりゼロにならなければならない。 よってゲイ=リュサックは、「空気で満たされた空間よりも真空の空間のほうが多くの熱素を含むと信じる人の見解は、まるで根拠がない」と述べたが、一方で、「この結果の解釈がいかに誤りやすいものであるかを自覚しているので、これらの結論をごく控え目に提示しているにすぎない」とも記し、積極的な批判は控えた。 なお、現在の観点から考えれば、この結果はアーヴィン流のみならず、ゲイ=リュサックの支持していたラプラス流のカロリック説をも否定するものであった。というのも、ラプラス流によれば、気体は膨張するとき、カロリックの一部が「潜熱」となり、温度としては現れなくなるのだから、実験の前後で全体の温度は下がらなければならないからである。しかしこの点は当時見過ごされ、そしてこの実験自体も、後にマイヤーが取り上げるまで忘れ去られていった。 ===ランフォードの実験=== ベンジャミン・トンプソン(ランフォード)は、1778年から始めていた火薬の研究中に、大砲の中に弾丸を入れずに火薬を発射させると、弾丸を入れた時よりも砲身が熱くなることに気付いた。ランフォードはここから、弾丸を入れないときには、本来弾丸を発射させるのに使われる火薬の作用が、砲身の金属粒子を動かすのに使われたため、その結果余分に熱が発生していると推測し、熱の運動説へと傾いていった。 ランフォードが本格的にカロリック説を否定するようになったのは、大砲の砲身を削る工程で大量の熱が発生しているのを見たことがきっかけっだった。1796年および1797年、同じ工程を水中で行ったところ、水が沸騰するほどの熱が発生した。また、この工程で生じた金属の削りかすの比熱を測定したところ、それは実験前の値と変わりなかった。この結果からランフォードは、熱の本質がカロリックならば、熱が生み出された分だけ削られた金属のカロリックが少なくなっているはずなので、比熱は変化していなければならないはずだと論じた。さらに、この実験で生み出される熱は無尽蔵といえるほどの量なので、これが熱的に外部と遮断された実験装置の中から現れ出たとは考えられないと結論づけ、熱の物質説を否定し、熱は運動と考える以外にないとの判断を示した。 ハンフリー・デービーはこのランフォードの意見に賛同し、自らも1799年、2個の氷を摩擦すると熱が発生して溶解するという実験を行った。 ランフォードは1804年に書かれた手紙で、「私はカロリック説とフロギストン説とが同じ墓場に埋葬されるのを見る満足をえるまで生きられると信ずる」と記した。しかし実際にはランフォードの支持者はデービーの他にはトマス・ヤングら少数にとどまり、カロリック説はランフォードの死(1814年)以後も生き延びた。この当時、断熱圧縮の際に熱が発生することはすでに知られていて、研究も進められていたため、カロリック説の支持者はランフォードの実験についても、この研究を当てはめる形で説明しようとした。例えばドルトンは、熱が発生したのは砲身を削り取る作業で金属が圧縮され熱容量が下がったためだと反論した。ラプラス流の論者も、金属内に潜熱として隠れていたカロリックが現れたために熱が発生したと主張した。 ===新しい温度目盛の考案=== 熱の本質がカロリックであるならば、温度は「カロリックの量」を基準とした温度目盛で表すことができるという考えが、ドリュクやクロフォードによって生まれた。この理論によれば、温度はカロリックの量に比例し、比熱は温度によらず一定の値で表すことができる。 1801年、ドルトンは、気体の膨張率は、同じ温度であれば気体の種類によらず一定の値をとることを実験により明らかにした。また、ラプラスとゲイ=リュサックも共同で、ドルトンとは独立に同じことを見出した。一方で、液体や固体の場合は、膨張率は物体によって異なる。気体と液体・固体のふるまいが異なる理由について、ドルトンとゲイ=リュサックはどちらも、気体の場合は分子の形や分子間の引力などの影響を受けにくく、その分熱の力が際立って見えるからだろうと推定した。 このことからドルトンは、本来のカロリックの量を測るためには、従来の水銀温度計とは異なる指標が必要だと考えた。ドルトンが支持していたアーヴィン流のカロリック説によれば、温度が上昇し物体が膨張すると、熱容量が大きくなる。すなわち、低温の時に比べて、温度を1度挙げるのに必要な熱の量は多くなる。ドルトンは1827年に出された著書『化学哲学の新体系』において、この点を考慮に入れた新しい温度目盛りを発表した。 ピエール・ルイ・デュロンとアレクシ・テレーズ・プティも、カロリックの量を基準とした温度目盛を作ることができるという立場に立ち、水銀、銅、白金、ガラスといった物質で、0℃から100℃までの比熱と、0℃から300℃までの比熱を測定した。その結果、比熱は温度をあげると増加し、そしてその増加の割合は物質によってまちまちであることが確かめられた。カロリックの量を基準とした温度目盛を作るには比熱が一定になるように目盛をつければよいが、その比熱の上がり方が物質によって異なるため、このような温度目盛を作ることはできないことが明らかになった。 ===説の統一と完成=== フランス学士院は1812年、カロリック説の中のアーヴィン流とラプラス流の対立を解決すべく、気体の比熱に関しての懸賞論文を募集した。そしてそれに採用されたドラローシュとベラールの共同論文によって決着した。アーヴィン流では、発熱反応では反応前の熱容量よりも反応後の熱容量の方が小さくならなければならないが、ドラローシュとベラールの実験では、それとは逆の結果が得られたのである。よって、以降はラプラス流のカロリック説が主流となった。 ラプラスは、1823年の著書『天体力学』において、 私は、気体の分子はその引力によって熱素を保持し、その相互間の斥力は熱素の分子の斥力に負うと仮定する。その斥力は、温度が上昇するさいの気体の弾性の増加から明らかである。そして私は、その斥力はきわめて短い距離でしか作用しないと仮定する。 と記し、この前提のもとに、実際の測定結果に合うよう、カロリック説の理論を作り上げていった。また同じ時期にポアソンも、断熱変化の研究からポアソンの法則を導き出すなど、ラプラスと同様に解析的熱量学を発展させた。 1824年、ニコラ・レオナール・サディ・カルノーは『火の動力』を著し、カロリック説を元にカルノーサイクルを提示した。そして、『熱の動力は、それをとりだすために使われる作業物質にはよらない。その量は、熱素が最終的に移行しあう二つの物体の温度だけで決まる。』という、カルノーの定理を発見した。これらの理論の多くは、カロリック説が否定された現在でも有効である。 ラプラス、ポアソン、カルノーの研究が、カロリック説における熱学の到達点であった。 ===熱の波動説の登場=== カロリック説を前提とした熱現象の理論構築が進められていく一方で、18世紀の終わりごろから、熱放射に関する研究が盛んになっていた。熱の伝わり方としては伝導、対流、放射の3つがあるが、熱放射は熱伝導や対流とは異なり、離れた2点間に直接熱が伝わる。この現象に関しては、カロリックが物体から直接放射されることによって熱が伝わっているとする説と、物体の間にあるカロリックが振動することで伝わっているという2つの考え方があり、その中でも前者が多くの支持を得ていた。 一方でこの熱放射に関しては、古くから光との類似性が指摘されていた。そして1800年、ウィリアム・ハーシェルは太陽光をプリズムで分け、波長ごとの熱作用の力を調べる実験を行った。その結果、青色の波長から赤色の波長へと近づくごとに熱は強くなり、さらに赤色の波長を越えたあたりに熱は最大になること(赤外線)が確かめられた。この実験により、放射熱と光の類似性は確かなものとなった。 ハーシェルの実験に着目したのがトマス・ヤングだった。ヤングはハーシェルの実験と同じ年に、光の波動説を唱えた。さらにヤングは熱に関するランフォードの研究に賛同し、熱は摩擦によって無から生み出されるのだから物質ではないとした。そして熱は光や音と同じように、粒子の振動によって伝わってゆくものだと論じた。 当時、光については、この波動説と、ニュートン、ラヴォアジエからの流れをくみ、ラプラスらによっても支持された粒子説が対立していたが、1820年代には波動説が優勢となり、1830年ごろにはその優位は決定的なものになっていた。そしてそれに伴って、熱波動説も支持されるようになってきた。ゲイ=リュサックも1820年の講義で、熱の原因はカロリック説と波動説があることに触れたが、波動説はまだすべての熱的現象を説明できていないため、自身としては旧来のカロリック説を維持すると述べた。一方でカルノーは、『火の動力』執筆後まもなくに書かれたノートでカロリック説を否定し、熱運動説へと傾いていた。またジョゼフ・フーリエは、1822年に著書『熱の解析的理論』にて熱伝導の方程式などを導いたが、そこでは熱の本質を断定せず、どちらの説でも成り立つように理論を構成した。 ===説の否定=== 熱とは物質が振動することによって波動として伝わってゆくものだとする熱の波動説の支持者に対して説明が求められたのは、熱を伝える物質のない真空中でも熱が伝わるという事実だった。この事実は、熱は通常の物質とは異なるものだとするカロリック説に有利なものだとされていた。熱波動説の支持者は真空中にはエーテルが存在していて、それが振動によって伝わると説明した。 やがて熱波動説が受け入れられていくと、カロリック説の支持者のなかには、このエーテルの概念をカロリックにあてはめることもあった。すなわち、熱はカロリックが振動することで伝わるとする考えである。このように、カロリック説の支持者のなかでも、カロリックの定義は大きく分かれるようになっていった。そのような中でも、説の支持者の間で見解が統一されていたのが、カロリックの存在、及びその量が保存するという熱量保存則であった。 1843年、ユリウス・ロベルト・フォン・マイヤーは、運動のエネルギーが熱に、あるいは逆に熱が運動のエネルギーに変わり得ることを明らかにした。ジェームズ・プレスコット・ジュールは、実験を元に熱の仕事当量を算出した。またヘルマン・フォン・ヘルムホルツも、熱と仕事の等価性について論じた。こうした業績により熱力学第一法則(エネルギー保存の法則)が確立されると、この法則が熱量保存則では説明できない事象も含む広い範囲で成立することが明らかになり、熱量保存則に立脚していたカロリック説はその意義を失った。その後、熱が分子の運動であることが分かり、熱力学の台頭とともに消滅した。 ==カロリックの性質== カロリックの性質は、時代や当時の科学者によって見解が異なる。ラヴォアジエらによれば、基本的には以下の性質を持つ。 カロリックは互いに反発するカロリックは他の粒子に引き付けられる。カロリックを引き付ける力の大きさは、その物質によって異なるカロリックは質量を持たないカロリックは、物質粒子と化学的に結びつくと、知覚されなくなるカロリックは壊されることも、新たに作られることもない ==熱現象の解釈== カロリック説が信じられていた当時は、様々な熱的現象がこの説を元に説明されていた。 ===熱膨張=== 物体に熱を加えると膨張する。これは、物体内のカロリックの量が増え、その斥力により物体を押し広げたからだと説明できる。 ===三態=== 固体に熱を加えると、やがて液体、気体になる。これも熱膨張と同様に、カロリックの増加で説明できる。 ラヴォアジエによると、物体の状態は、粒子同士をつなぎとめる力(引力)と、引き離す力(斥力)の力の関係性で決まる。そして、斥力に当たるものが熱(すなわちカロリック)である。固体は引力の方が勝っているのでその形状を保っている。熱が加わる(すなわちカロリックが増える)と、カロリックの性質である反発力により物体の斥力が増し、物体は液体となる。さらにカロリックが増えると斥力は完全に引力を上回り、物体は気体となって拡散する。 ===比熱・熱容量=== 同体積の水と水銀を、共通の熱源から等しい距離に置き、同時に温めると、水銀の方が温度が早く上昇した。これはジョージ・マーチンが1739年に行った実験である。また、ファーレンハイトは、温度の異なる水と水銀を混合させると、混合したときの温度は両者の中間ではなく、それよりも水に近い温度になるという結果を出している。すなわち、水銀は水よりも温まりやすいことになる。 この事実は、当時の熱運動説では説明できないものであった。何故なら、熱が粒子の運動であるならば、密度の高い水銀の方が動かさなければならない粒子の数は多く、それだけ温まりにくくなるはずだからである。 カロリック説ではこの問題は、水と水銀ではカロリックをひきつける力の大きさが異なるためだと説明できる。ブラックは、ファーレンハイトの実験からさらに研究を進め、比熱や熱容量の概念を作り上げた。 ===断熱変化=== 気体の入った容器の体積を、外から熱が加わらないように急激に増加させると、容器内の気体の温度が下がる。これは現在では、容器内の気体の熱エネルギーが、容器を押し広げるための運動エネルギーに変換されたと説明でき、熱運動説の根拠の1つと考えることも出来る。しかし、この現象はカロリック説でも説明が可能である。 ドルトンは、温度が下がったのは、気体の熱容量が大きくなり周囲の熱を奪ったためだと説明した(この時点ではドルトンはアーヴィン流の熱理論論者だった)。ただし、この理論では、体積が増す、すなわち容器の密度が下がるにつれて熱容量は大きくなり、真空が最大の熱を持つということになる。このことは一見理解しがたいが、気体に熱を加えると膨張して密度が下がるという事実を踏まえれば、当時は納得できるものでもあった。 ラプラス流でもこの現象は潜熱の概念で説明できる。膨張すると、容器内の熱(カロリック)は潜熱となり、知覚されなくなるのである。 断熱変化の現象自体はボイルによって1662年に発見されたが、その後の研究はクレグホン(ブラックの教え子)、ドルトン、ラプラスなど、カロリック説の支持者によって行われた。そして1820年代までは、現在とは逆に、断熱変化はカロリック説の強力な証拠だと考えられていた。 ==盛衰== カロリック説はそれ以前からの熱物質説の流れをくむものであり、それに対する説としては熱運動説があった。そして現在では熱は運動であるとされており、カロリック説は否定されている。にもかかわらずカロリック説が18世紀に広く受け入れられた理由には、それが実験的なデータをもとに理論的に構築されていたことにある。また、カロリック説は当時さまざまな熱現象を説明できていた。そのため、ランフォードらの実験でカロリック説に不利な結論が出ても、今までの説を即座に捨て去ることは出来なかった。 一方その当時の熱運動説は、定量的な理論を作り上げることが出来ていなかった。また熱運動説は、摩擦による発熱は良く説明できたが、それ以外の熱現象については、カロリック説と比べると説明に難があった。現在のように熱運動説が広まるためには、熱運動説による定量的な理論、すなわちエネルギー保存則の誕生を待たなければならなかったのである。 =カナダ侵攻作戦= カナダ侵攻作戦 (カナダしんこうさくせん、英: Invasion of Canada)は、アメリカ独立戦争初期の1775年から1776年にかけて、新設間もない大陸軍の主導によって行われた最初の作戦行動である。作戦の目的はイギリス領ケベックを軍事支配し、フランス語を話すカナダ人に13植民地の側で革命に加わるよう説得することだった。 2隊は12月にケベック市の前で合流し、1775年の大晦日、暴風雪の中でケベック市を強襲した。この戦闘でモントゴメリーは戦死し、アーノルドは負傷したが、市を守るイギリス軍にはほとんど損失が無く、大陸軍にとって悲惨な敗北になった。その後アーノルドは無益な市の包囲を始めたが、その間に行われた情報宣伝活動によってロイヤリストを支持する声が高まり、またモントリオールでのデイビッド・ウースター将軍の失政には大陸軍を中傷する者だけでなく支持する者からも不満の声が上がった。 イギリス軍は1776年5月にケベック地方の戦力を補強するために、ジョン・バーゴイン将軍とドイツ人傭兵を含む数千名の援軍を派遣した。増援を得たカールトンは大陸軍に反撃を試み、天然痘で弱り組織が乱れていた大陸軍を7月にはタイコンデロガ砦まで押し戻した。一方アーノルド指揮下の大陸軍はイギリス軍の歩みを遅らせることに成功し、1776年の間はタイコンデロガ砦への攻撃をできないようにした。この侵攻作戦の終了後、バーゴインがハドソン川流域の支配を目指した1777年のサラトガ方面作戦に続いた。 大陸軍から2つの遠征隊が派遣された。1隊はリチャード・モントゴメリー将軍の指揮で1775年の8月下旬にタイコンデロガ砦から出発し、9月半ばにモントリオールの南にある主要防御地点であるセントジョンズ砦の包囲を始めた。11月にこの砦を落とされた後で、イギリス軍のガイ・カールトン将軍はモントリオールを放棄してケベック市に逃亡した。モントゴメリーはモントリオールを占領したときにカールトン将軍をもう少しで捕まえるところだった。もう1隊はベネディクト・アーノルドの指揮でマサチューセッツ湾植民地のケンブリッジを出発し、メインの荒野を艱難辛苦して通り抜けてケベック市に達した。荒野を通る大変な行軍のために残っている兵士は飢えており、物資や装備も欠けていた。 ==作戦の名前== 大陸軍の本軍事作戦の目的地であるイギリス領ケベックは、1775年の時点では「カナダ」と呼ばれることが多かった。例えば第二次大陸会議がフィリップ・スカイラー将軍に出した侵攻作戦の承認文では、もしも「カナダ人にとって不愉快でない」のであれば、「即座にセントジョン砦、モントリオールおよびかの国の如何なる所も占領すること」、そして「カナダでは」植民地の「平和と安全を促進」する「如何なる手段も追求すること」という文言があった。この作戦を詳細に語る比較的現代の歴史書であっても、その表題にカナダを使っている。イギリスがケベックと呼んだこの領土は、フランスがフレンチ・インディアン戦争を正式に終えパリ条約でイギリスに同地を割譲する1763年までは、フランス領カナダ植民地と呼ばれていた(フランス軍は1760年にこの植民地をイギリス軍に明け渡していた)。本稿では、具体的に「カナダ」と言及するものを引用する場合を除いて、この歴史的な使われ方と現代のカナダという国に関する使われ方の間の混同を避けるため、同地については「ケベック」という名称を使用する。 ==背景== 1775年の春、レキシントン・コンコードの戦いを契機に、アメリカ独立戦争が始まった。だが戦況はその後すぐに膠着し、ボストンのイギリス軍に対する包囲戦が続いた。1775年5月、イギリス軍のタイコンデロガ砦は防御が手薄で、しかも重火器(大砲や火薬)が置いてあることに気付いたベネディクト・アーノルドとイーサン・アレンがタイコンデロガ砦とクラウンポイント砦を占領し、セントジョンズ砦を襲撃した。これらの砦は全て当時はほんのわずかな手勢で守られていた。タイコンデロガ砦とクラウンポイント砦は6月にベンジャミン・ハインマンの指揮するコネチカット民兵1,100名によって守られることになった。 ===大陸会議の承認=== 1774年に会した第一次大陸会議は、10月26日付けの公式書簡で1775年5月に開催される第二次会議にフランス系カナダ人も加わること、つまりケベック植民地も革命に参加することを招請した。第二次大陸会議も1775年5月にそのような2度目の手紙を送ったが、どちらの手紙にも実質的な反応は無かった。 タイコンデロガ砦の奪取に続いてアーノルドとアレンは、イギリス軍がアメリカ植民地を分割しようという試みに対してタイコンデロガ砦を防御拠点とする必要性を主張し、併せてケベックの守りが薄いことも指摘した。彼らは、1,200から1,500名程度の小さな軍隊でもケベック植民地からイギリス軍を追い出すには十分なことを示して、それぞれ別にケベックに対する遠征を提案した。大陸会議は当初タイコンデロガなどの砦の放棄を命令し、ニューヨークとコネチカットの各植民地には基本的に防衛の目的で軍隊と物資を出すように促したが、ニューイングランドやニューヨーク植民地の一般大衆からは大陸会議にその姿勢を変えるよう抗議の声が上がった。このときケベック総督のガイ・カールトンがセントジョンズ砦の防御を強化しており、ニューヨーク植民地北部のイロコイ族インディアンを巻き込もうとしていることも明らかになり、大陸会議はより積極的な姿勢が必要であるとの決断を下した。1775年6月27日、大陸会議はフィリップ・スカイラー将軍にその地域を調査するよう認め、適切と考えられるならば侵略を始めることを承認した。指揮権を与えられなかったベネディクト・アーノルドはボストンに向かい、ジョージ・ワシントン将軍を説得して、アーノルドの指揮で別働隊をケベックに向けて派遣させることにした。 ===ケベック防衛の準備=== カールトン将軍はセントジョンズ砦の襲撃があった後に、南から侵略される危険性を痛切に感じ取り、ボストンにいるトマス・ゲイジ将軍からの援軍を要請した。カールトンはモントリオールとケベック市の防衛のために地元の民兵隊立ち上げに取り掛かったがほとんど成功しなかった。カールトンはフランス系住民が自発的に植民地の防衛にあたることを期待していたが、当の住民の大多数は英米どちらの側にもつかず、中立であることを望んでいたためである。イギリス側はタイコンデロガ砦が奪取されセントジョンズ砦が襲われたことに反応して、モントリオールの南、リシュリュー川沿いにあるセントジョンズ砦を守る為に700名の部隊を派遣し、シャンプレーン湖で使う為の船舶建造を命令し、またその防衛を援けさせるためにモホーク族インディアン約100名も兵士として採用した。主な防御はセントジョンズ砦に頼っていたので、カールトン自身は僅か150名の正規兵を連れただけでモントリオールの防衛を監督した。ケベック市の防衛は副総督のヘクター・クラマヘの指揮に委ねた。 ===インディアンの支援を求めた交渉=== ニューヨーク植民地モホーク川流域に住むロイヤリスト(王党派)でイギリスのインディアン代理人だったガイ・ジョンソンは、ニューヨーク植民地のイロコイ族と極めて親密にしていたが、パトリオット(愛国者)側の意見がニューヨークで支配的であることが明らかになってからは、自身と家族の身を案じていた。もはやイギリスとの商売を安全に行うことができなくなったと確信すると、200人の追随者やモホーク族の支持者等とともにニューヨークの領地を離れた。まずはオンタリオ砦に向かい、6月17日にインディアン部族の指導者達(大半はイロコイ族とヒューロン族)から、この地域での物資と通信の供給線に途絶えさせないことと、「敵による困りごと」があるときはイギリスを支援することという約束を取り付けた。そこからはモントリオールに向かい、カールトン将軍や1,500名以上のインディアンとの会談で、同様な合意を交渉し、「いつでも臨戦態勢を取れるように」戦争の帯を配った。しかし、これら合意事項に加わった者の大半はモホーク族だった。イロコイ連邦の他の部族はこれらの協議を避け、中立であろうとした。会議後もモホーク族の多くはモントリオール地域に留まった。しかし大陸軍が1775年中に本当に侵略を開始するかが不確かに思えたため、その大半は8月の中旬までに故郷に戻った。 大陸会議はイロコイ連邦の6部族を戦争の局外に置いておこうとしていた。1775年7月、オナイダ族に影響力のあった伝道師サミュエル・カークランドが、「私たちはあなた方が故郷に留まり、どちらの軍にも加わらず、戦いの手斧を深く埋めておくことを望む」という大陸会議からの声明文を持って行った。オナイダ族やタスカローラ族は公式には中立を守ったが、オナイダ族では個人的にアメリカ側への同調を表明したものが多くいた。ジョンソンがモントリオールで会議を開いたという報せを聞いたスカイラー将軍はやはりオナイダ族に影響力があったので、オールバニでの協議会を招集し、8月半ばに開催した。この会合には約400人のインディアン(主にオナイダ族とタスカローラ族、さらに幾らかのモホーク族)が参加し、スカイラーと他のインディアン・コミッショナーがイギリスから植民地を分かつ問題を説明し、植民地人は自分達の権利を守る為に戦うこと、征服を意図しているのではないことを強調した。集まった酋長達は中立を守ることに合意し、モホーク族のある酋長は「これは家庭内の問題である」として、「じっと座ってあなた方が戦っているのを見る」ことにすると述べた。しかし、このように中立を宣言する一方で、アメリカ側からの譲歩を引き出しもし、その譲歩には彼らインディアンの土地への白人開拓者の侵入といった打ち続く苦情にアメリカ側が対処するという約束も含まれていた。 ==モントゴメリー遠征隊== 侵略の主力部隊はスカイラー将軍が率い、シャンプレーン湖を上ってモントリオールとケベック市を襲撃することになった。遠征隊はニューヨーク、コネチカットおよびニューハンプシャー各植民地からの部隊で構成され、セス・ワーナーのグリーン・マウンテン・ボーイズもこれに加わり、食糧はニューヨークから供給されることになった。しかしスカイラーは過度に慎重で、兵を集め終わるのに8月末までかかるなど準備に手間取ったため、8月半ばにはカールトン将軍がモントリオール郊外に防衛陣地を強化し、イギリス軍に加担したインディアン部族もいるという報告を受け取ることになった。 ===セントジョンズ砦への接近=== スカイラーがまだインディアンと協議していた8月25日、モントゴメリーはセントジョンズ砦で建造中の船舶が完成間近であるとの報せを受け取った。モントゴメリーはスカイラーが不在であること(さらには行動を承認する命令が無かったこと)を利用し、タイコンデロガ砦で集めた兵士1,200名を率いてリシュリュー川沿いのイル・オ・ノワにある前進基地に向かい、9月4日に到着した。このとき病気になっていたスカイラーは途中でこの部隊に追いついた。スカイラーはその地域でアメリカ側を支援するために地元の民兵隊立ち上げの準備をしていたカナダ人ジェイムズ・リビングストンに伝言を送り、モントリオール南の地域を巡回するよう伝えた。翌日、この部隊は川を下ってセントジョンズ砦に向かい、その防御の度合いを視察し、両軍共に損失を出した簡単な小競り合いの後でイル・オ・ノワまで撤退した。この小競り合いのときイギリス軍側で戦ったのはインディアン達が大半であったが、砦の方からは支援が無かったので、インディアン達はこの紛争から身を退くようになった。また、オナイダ族が地域に折りよく到着したことで、イギリス軍に対する別のインディアンからの援軍も遮られた。オナイダ族はモホーク族戦士隊がコーナワガからセントジョンズ砦に向かっていたのを妨害した。このときモホーク族の村にはガイ・ジョンソン、ダニエル・クラウスおよびジョセフ・ブラントらが来てモホーク族の援助を得ようとしていたが、オナイダ族はモホーク族に自分の村に戻るよう説得した。オナイダ族はジョンソンやクラウスと直接会うことは拒否し、ブラントやモホーク族の面々にオールバニでの同意事項の条件について説明した。結局ブラントとイギリスの代理人は支援の約束をとりつけることも無くその場を去った(イギリスのより公式な扱いでは、ガイ・ジョンソンが7月にイロコイ族に与えた戦いの帯は1775年12月にアメリカ側インディアン・コミッショナーに渡された)。 この最初の小競り合いの後でスカイラーの病気が重くなり、指揮を続けられなくなったので、指揮権をモントゴメリーに譲った。スカイラーは数日後にタイコンデロガ砦に引き返した。モントゴメリーは、9月10日の攻撃でも兵が混乱するなどして失敗したが、コネチカット、ニューハンプシャーおよびニューヨークからの支援部隊800ないし1,000名とグリーン・マウンテン・ボーイズの一部が到着したので、9月17日に遂にセントジョンズ砦とその傍の町の包囲を開始、モントリオールと連絡網を遮断して砦に向かう物資を捕獲した。翌週イーサン・アレンは、単に地元の民兵を徴募しろという指示を受けただけだったにもかかわらずその指示を逸脱し、少数の部隊でモントリオールを占拠しようとしてロングポイントの戦いで捕虜になった。この出来事で、短期的にはイギリス軍を支援する民兵の士気が上がったが、効果は長続きせず、その後には脱走者が続出した。 セントジョンズ砦はシャンプレーン湖の北端にあり、リシュリュー川を通ってカナダに入る要衝だった。砦にはチャールズ・プレストン少佐の指揮で300名の歩兵正規軍がおり、この植民地では最も防御を構えた町だった。大陸軍は病気、悪天候、兵站の難しさに災いされたが、迫撃砲を据えて砦の中まで貫通弾を打てるようになった。砦の弾薬は十分にあったが、食糧などの物資は乏しくなった。プレストンは、2,000名の部隊と共にモントリオールに駐屯しているガイ・カールトン将軍に援軍を要請した。しかし、カールトンはケベック市の安全を損なうことに気が進まず、援軍を送ることを拒絶した。この判断ミスによってカールトンはモントリオールを失い、後にはケベックシティで彼自身が包囲されることになる。 10月18日、大陸軍はイギリス軍の小さな前哨基地シャンブリー砦を落としたことで、プレストンを完全に孤立させた。セントジョンズ砦は毎日砲撃され、砦の中は着実に破壊されていったが、プレストンは砦の守備を続けた。10月30日にガイ・カールトンが砦の包囲を解こうとした試みが失敗し、結局、プレストンは10週間の包囲後の11月3日に、援軍のあてがなく、来るべき冬の厳しさに備えて住民の助命を望み降伏した。。 ==モントリオール占領の開始== モントゴメリーは部隊を率いて北に進み、11月8日にセントローレンス川にあるセントポール島を占領し、翌日には対岸のポイントセントチャールズに渉り、解放者として迎えられた。11月13日、取り立てて抵抗を受けることもなくモントリオールが陥落した。ガイ・カールトンはモントリオール市が守れないと判断し、さらにセントジョンズ陥落の報せにかなりの数の民兵が脱走したこともあってモントリオールから撤退した。大陸軍が市の下流側で川を渡って上陸し、風のためにカールトンの戦隊が直ぐに出発できなかったので、危うく捕まりそうになった。この戦隊がソレルの町に近付いたとき、白旗を掲げた1隻のボートが現れた。そのボートは降伏勧告の書状を運んできており、カールトンに降伏するかさもなければ下流の砲台でその船団を破壊すると伝えてきた。カールトンは実際にそのような砲台があるかはっきりとは分からなかったので、もし降伏しなければならなくなったときのために火薬や砲弾を捨てさせた後で、船団を密かに発進させる道を選んだ(実際に砲台はあったが、その主張していたほど強力ではなかった)。11月19日、イギリス戦隊は降伏し、カールトンは平民の服装に身を窶してケベック市に向かって逃げた。捕獲した船にはイギリス軍が捉えていた捕虜も乗っていた。その中にマサチューセッツ生まれでセントジョンズ砦近くに土地を持っていた国外居住者モーゼス・ヘイズンがおり、イギリス軍に粗略に取り扱われたので、イギリスに反抗していた。ヘイズンはモントゴメリーの軍隊に加わったが、元々フレンチ・インディアン戦争での戦闘体験があり、その後独立戦争を通じて第2カナダ人連隊を率いることになる。 モントゴメリーはモントリオールからケベック市に向かうに前に市民にメッセージを発し、大陸会議はケベックが仲間に入り、大陸会議に送る代表を選出するために植民地会議を開く目的でアメリカへの同調者との討議に入ることを望んでいることを伝えた。またスカイラー将軍には、外交目的で大陸会議の代表団を派遣してくれるよう要請する手紙を送った。 モントゴメリー軍の大半はモントリオール占領後に徴兵期間が切れて隊を離れた。モントゴメリーは捕獲した船に約300名の兵士を乗せて11月28日にケベック市に出発し、モントリオール市にはデイビッド・ウースター将軍の指揮で約200名を残した。モントゴメリーはケベックに向かう途中で、ジェイムズ・リビングストンが新たに徴募した第1カナダ人連隊約200名を部隊に加えた。 ==アーノルド遠征隊== 2番目の遠征隊はベネディクト・アーノルドに率いられた。大陸会議はアーノルドが立てたカナダ侵攻計画を大筋で認めたが、アーノルド自身はその実行部隊に組み入れられなかった。すげなくされたと感じたアーノルドはマサチューセッツのケンブリッジに戻り、ジョージ・ワシントンに接近して、ケベックシティを標的とした支援部隊を東方から送る案を提案した。6月のバンカーヒルの戦い以後、ボストンではほとんど戦闘が無い状態だったので、多くの部隊が駐屯任務に飽きてきており、戦闘することを望んでいた事もあって、ワシントンはアーノルドの提案に同意した。ワシントンはアーノルドを大陸軍の大佐に任命し、二人で守備隊を見て回り遠征隊の志願兵を募った。アーノルドは最終的に約1000名の者を選出し、ワシントンはそこにダニエル・モーガンの部隊と他に何人かの狙撃兵を加えた。バージニア植民地やペンシルベニア植民地の荒れ地から来た開拓者達は、包囲戦よりも荒れ地での戦闘に向いているとの考えからだった。 ケベックに向けてケネベック川を遡る行程は20日の間に180マイル(290 km) 進む必要があった。アーノルドの遠征隊は、イギリス軍の指揮官カールトンがモントリオールでスカイラー軍に対抗するのに忙しいため、比較的抵抗もなく進めるものと予測していた。アーノルドはウェスターン砦に先乗り部隊を送り、物資とバトー(平底船)を用意させた。遠征隊は海を渡ってウェスターン砦まで5日で到着し、物資をまとめ船を準備した。 ガーディナーストンのコルバーン造船所で3日間滞在した。ここではリューベン・コルバーンがワシントンの要請に応えて15日間でバトーを造り上げていたが、このバトーは乾燥した材木が得られないために、切り出したばかりの松材で造られていた。部隊は9月25日にウェスターン砦を発した。その先は、ケネベック川を遡り、またショーディエール川を下ってケベックに至ることが予定されていた。しかし用意されたバトーはオールで漕ぐことができず、竿をさして進むやり方だったため予定に狂いが生じることとなった。コルバーンは軍隊に同行し、バトーの修繕を繰り返したが、川を遡りまた流れの速いショーディエール川を下る過程で火薬など多くの物資と数人の人命が失われた上、分水界付近は湿地の多い湖沼と水路の集まりであり、雨や嵐が追い打ちを掛けた。この結果ロジャー・エノス中佐の部隊300名が、その物資と共に退却した。遠征隊が持って行った地図はイギリス軍が将来の敵を欺くために出版した不正確なものだった。実際に予定された旅程は180マイルではなく、350マイル (560 km)あった。その結果、物資が枯渇してしまい隊員達は、連れて行った犬・靴・弾薬箱・皮・苔・樹皮などを食べざるをえなかった。 遠征隊は11月6日にセントローレンス川の南岸に到着したが、その時点で1,100名いた部隊は600名にまで減少していた。彼らは400マイル (640 km) 近い道なき道を踏破してきていた。しかし、この時点においてもアーノルドは町を奪取できると考えた。イギリス軍守備兵は、アレン・マクリーン中佐以下の正規軍約100名と、数百の装備が貧弱な民兵であり、大陸軍が正確な射撃で民兵を蹴散らしてしまえば、正規軍の数で大陸軍が優位に立てるからだった。11月14日、エイブラハム平原に着いた時に、アーノルドは白旗を掲げた交渉役を送ってイギリス軍の降伏を要求したが受け入れられなかった。大陸軍は大砲も無く、ほとんど戦闘には適していないまま、防御を固めた町に向かい合った。アーノルドは市内からの出撃が計画されていることを耳にし、最近モントリオール市を占領したばかりのモントゴメリー軍を待つ為に、11月19日にポイント・オ・トランブルまで後退した。アーノルドが上流に向かう間に、カールトンが川伝いにケベック市に戻った。 12月2日、モントゴメリーがモントリオールから川を下り、500名の部隊とイギリス軍から捕獲した物資と冬の衣類を持ってきた。この2つの部隊は合流し、改めて町を攻撃する作戦が練られた。3日後、大陸軍は再びエイブラハム平原に立ち、ケベック市包囲を始めた。 ==ケベックの戦いと包囲== ケベック市攻撃の作戦を立てているときにトロワリビエール近くに住んでいるフランス人クリストフ・ペリシエがモントゴメリーに会うために尋ねてきた。ペリシエはアメリカ側を政治的に支援しており、セントモーリスで鉄工所を経営していた。モントゴメリーは彼と植民地会議を開催する考えについて議論した。ペリシエはケベック市を占領して、市民達にその安全が保障され自由に行動できるようになるまでは、会議を開かないほうが良いと言った。2人の間ではペリシエの鉄工所が包囲戦に必要な銃弾を提供することで合意し、それは1776年5月に大陸軍が撤退するまで続いた。ペリシエはその後に逃亡し、最後はフランスに戻った。 合流しケベックの包囲をしていたモントゴメリーとアーノルドの部隊であったが、実働可能な兵はおよそ1000名しかおらず、さらに食糧不足や天然痘、そして冬の寒さに苦しめられていた。そうした中、多くの兵の軍隊在籍期間が切れる12月31日を目前とした12月31日の午前4時に戦闘が開始された。アーノルドは自分の部隊を2手に分けた。アーノルドが総勢600名を率き連れて町の北側を攻撃し、モントゴメリーは300名の部隊で南側を攻撃した。2つの攻撃部隊はセントローレンス川に接する1点で落ち合い、そこから防壁の中へ突入する手筈だった。しかし、防御は非常に堅く力押しでは落ちなかった上、夜明け前に吹雪がはじまっていた。モントゴメリーの部隊は川沿いにケープダイアモンド稜堡の下を進んでいたが、30名のカナダ人民兵が籠もるバリケードに出くわした。戦端が開かれ、最初の一斉射撃でモントゴメリーが殺され、他にも多くが死傷した。大陸軍は吹雪の中では使えないマスケット銃しか持っていなかったので、反撃もうまくいかないまま川岸を退却した。 一方、アーノルドはモントゴメリーの戦死と攻撃失敗を知らないまま、北側のバリケードに向かったが、町の防壁を守るイギリス軍と民兵の反撃を受けた。ソルト・オ・マテローという名の通りにある道路バリケードで、アーノルドはマスケット銃の弾を左くるぶしに被弾し後方に搬送された。アーノルドに代わり副官のダニエル・モーガンが指揮を執ってこの道路バリケードを突破した。しかし次の命令を待つ間に、大陸軍は通りや近くの家の中の民兵の攻撃にさらされ、イギリス軍の反撃でバリケードが再度奪取された事で、モーガンと彼の部下が狭い通りに孤立してしまい、モーガン部隊は降伏した。10時までにモーガン以外にも町に取り残されていた部隊が降伏し、戦闘が終わった。 この戦闘でアーノルドの部隊は30名以上が死亡し(他にも春の雪解け後に20名以上が発見され、凍結した川を越えて逃げる間に数名が溺れた)、モーガン以下426名が捕虜となった。モントゴメリーの部隊では少なくとも12名が南の川岸で死傷した。一方、イギリス軍の被害は、指揮官ガイ・カールトンによると、海軍士官1名とフランス系カナダ人民兵5名の死亡、正規軍兵士4名と民兵15名の負傷だった。 アーノルドは戦闘後にモーゼス・ヘイズンともう一人の国外居住者であるエドワード・アンティルを、モントリオールにいるデイビッド・ウースターとフィラデルフィアの大陸会議に敗北を報告し援軍を要請するために派遣した。 カールトンは大陸軍を追撃しないことに決め、市の防御工作物の中に留まる道を選び、春になって川の氷が溶ければ期待できる援軍を待つことにした。アーノルドは兵力比が3対1になっても効力の無いケベック包囲を続けたが、1776年3月にモントリオールに戻り、ウースター将軍と交代するよう命じられた。この期間包囲軍は厳しい冬季の気象条件に苦しみ、天然痘が宿営所に蔓延し始めた。これらによる損失で毎月到着する小さな中隊単位の援軍があっても勢力は相殺された。3月14日、市の下流に住む製材業者のジャン=バティスト・シャシュールがケベック市に入って、カールトンに川の南岸にいる200名が大陸軍に対抗する用意があることを伝えた。これらに加えてさらに多くが動員されたが、前衛部隊がサンピエールの戦いで、川の南岸に駐屯していたアメリカ寄り地元民兵隊の派遣部隊によって敗北した。 3月にジョン・トーマス将軍に率いられた大陸軍の援軍が到着し、総勢は3,000名まで回復したが、主に天然痘のためにその4分の1は戦えなかった。さらには、ロイヤリストの執拗な情報宣伝のために、500名のカナダ人を指揮していたリビングストンとヘイズンがその兵士や協力市民の忠誠心について悲観的になった。 ==モントリオールでの不満== モントゴメリー将軍はモントリオールを発ってケベック市に向かう際、市の管理をコネチカット出身のデイビッド・ウースター准将の手に預けていた。ウースターは当初そこの地域社会とまともな関係を築いていたが、地元の大衆がアメリカの軍隊が駐屯していることを嫌い始めるような多くの失政を行った。アメリカ人の抱く理想を大衆に約束した後でロイヤリストを逮捕し、アメリカ側に楯突く者は誰でも逮捕と刑罰で脅すようになった。また幾つかの地域社会を武装解除させ、地元の民兵隊員にはイギリスからの任命を放棄するよう強制し、それを拒んだ者は逮捕されシャンブリー砦に拘禁された。このような行動は、アメリカ側が物資や労働に対して硬貨ではなく紙幣で払っていたという事実と相まって、アメリカ側がやろうとしていること全体に対する地元住民の幻滅を生むことになった。1776年3月20日、ウースターはケベック市包囲中の部隊の指揮を執るためにモントリオールを離れ、アーノルドが到着する4月19日までの間、第2カナダ人連隊を立ち上げたモーゼス・ヘイズンにモントリオールの管理を委ねた。 4月29日に大陸会議からの代表団3人が、フィラデルフィアからのカトリックの聖職者1人やフランス人出版者1人と共にモントリオールに到着した。大陸会議はこの代表団に、ケベックの状況を評価し、そこでの世論をアメリカ側に誘導するような任務を宛てていた。代表団にはベンジャミン・フランクリンもいたが、既に住民との関係がひどく悪化していたので、ほとんど何もできなかった。代表団は累積されていた住民への負債を解決するために硬貨を持ってきたわけでもなかった。カトリックの聖職者がアメリカ側の大義につかせようとしたが、これも失敗した。地元の聖職者はイギリスの議会によって成立していたケベック法で彼らの望むことは与えられていると指摘した。出版者のフルーリー・メスプレは新聞発行の準備をする一方で、代表団にとって事態が空回りし始める前に何かをする時間が無かった。ケベック市の大陸軍がパニック状態に陥って退却をしているという報せを受けた後、フランクリンと聖職者は5月11日にモントリオールを離れ、フィラデルフィアに戻った。代表団の他の2人、サミュエル・チェイスとチャールズ・キャロルはモントリオールの南部と東部の軍事的状況を分析し、そこが防御線を布く好位置だと分かった。5月27日、彼らは大陸会議に対するこの事態の報告書を書き、南に向けて出発した。 ===シーダーズ=== モントリオールの上流には、大陸軍が占領中に意に介さなかったイギリス軍の小さな駐屯地が並んでいた。春が近付くと、カユガ族、セネカ族およびミシソーガ族の戦士達が駐屯地の一つであるオスウェガッチーに集まり始め、そこの指揮官であるジョージ・フォスター大尉にアメリカに対抗できるだけの力を与えた。フォスターはモントリオールから逃げてきた1人のロイヤリストの勧めで彼らを戦力に含めた。さらにウースター将軍が上流側に物資を送ればそこのイギリス側に使われることを恐れて上流のインディアンとの交易を許可しておらず、愛国者側およびロイヤリスト側の商人達にとって悩みの種だったが、大陸会議の代表団がこの決定を覆したので物資が上流側に流れ始めた。 モーゼス・ヘイズンは上流のイギリス側へ物資が流れることを阻止するため、またインディアンが集まっているという噂に反応し、ティモシー・ベデル大佐と390名の部隊を40マイル (64 km) 上流のレ・セドル(英語でザ・シーダーズ)という地点に派遣し、そこで柵で囲んだ防御工作物を造らせた。フォスターはこの動きをインディアンのスパイやロイヤリストから知らされ、6月15日にインディアン、民兵および正規兵の混成部隊約250名で下流への行軍を始めた。複数回の戦闘(シーダーズの戦い)の中で、ベデルの副官アイザック・バターフィールドが18日に戦わずして全軍降伏し、他に援軍として送られた100名も19日の短時間の小競り合いの後で降伏した。 ===カンズシェーヌ=== アーノルドはバターフィールドが捕まったという報せを受け取ると、即座にこれら捕虜奪還のために部隊を集め始め、モントリオールから直ぐ上流のラシーンで塹壕を掘らせた。レ・セドルの防御柵内に捕虜を留め置いたフォスターはこの時500名ほどになった部隊でモントリオールに接近し、5月24日までにアーノルド部隊の位置情報を掴み、またアーノルドが自隊を凌駕するような増援を期待していることも知った。フォスターの部隊は兵数が減りつつあったので、セントジョンズ砦の包囲戦で捕虜になっていたイギリス兵と今捕まえているアメリカ兵の交換を交渉した。カンズシェーヌで短時間の砲撃が交わされた後、アーノルドも捕虜交換に応じ、5月27日から30日の間で実施された。 ==ケベック市に到着した援軍== ===大陸軍=== ウースター将軍は4月初旬に援軍を率いてケベック市郊外の大陸軍宿営地に到着した。さらに南から少数の援軍が到着し続け、4月末にジョン・トーマス将軍が到着して指揮を引き継いだ時、全軍は2,000名以上になったが、実際には天然痘やカナダの冬の厳しさのためにかなり減っていた。5月2日にイギリスの艦船が川を上ってくるという噂が流れたため、トーマスは5月5日に病人をトロワリヴィエールまで退かせ、残った部隊も実行できる限り速く撤退することに決めた。その日遅く、15隻のイギリス側艦船がケベック市の下流40リーグ (190 km) に居り、川を遡るための好条件を待っているという報せが入った。翌日に艦船のマストを視認できたときには、宿営地退去の動きが慌しいものになった。風向きが変わり、艦隊の中の3隻がケベック市まで達した。 ===イギリス軍=== レキシントン・コンコードの戦いの報せがロンドンに届いた後、フレデリック・ノースの内閣は反逆者軍と戦う為に外国軍隊の支援が必要になると理解し、北アメリカでヨーロッパ同盟国の部隊を使わせてもらえるよう交渉を始めた。ロシア帝国のエカチェリーナ2世からは拒絶されたが、ドイツの諸侯国からは支援の用意があることが伝えられた。1776年にイギリスが立ち上げた5万名の軍隊のうち、3分の1近くはこれら諸侯国からの兵士だった。ヘッセン=カッセル方伯領やヘッセン=ハーナウからの兵士はヘシアンと呼ばれるようになった。5万名のうち、約11,000名はケベックでの従軍に送られた。ヘッセン=ハーナウとブラウンシュヴァイク=リューネブルクからの兵士は1776年2月にアイルランドのコークにむけて出帆し、そこでイギリス軍を運ぶ輸送船団に合流し、4月初旬に出港した。 カールトンは大陸軍宿営地に動きがあることを知り、到着した艦船から直ぐに援軍を降ろすと、正午頃には大陸軍に探りを入れるために約900名の部隊で前進した。これを見た大陸軍はまさに恐慌状態に陥った。カールトン隊が前進を早めると算を乱した撤退はさらに悲惨な状態を呈した。カールトンは手ぬるいやり方でも反逆者軍に勝てると思い、艦船を上流に送って大陸軍に嫌がらせを行わせ、恐らくは行く手を遮ってくれることを期待して満足していた。カールトンは大半が病人か負傷者の大陸軍兵士を多く捕まえたが、セントローレンス川南岸で遺棄されていた分遣隊も捕らえた。大陸軍は逃げるのに忙しく、大砲や火薬など貴重な軍需物資の多くも残していった。大陸軍は5月7日に、ケベック市から約40マイル (64 km) 上流のデシャンボーで再結集した。トーマスはそこで作戦会議を開いたが、指揮官たちの大半が退却に賛成した。トーマスはデシャンボーに500名を残し、残り部隊はソレルに行くことを決め、兵士の多くがその背嚢に着るものもほとんど無く、食糧も数日分しか無かったのでモントリオールに援助を仰ぐ伝令も送った。 モントリオールにいた大陸会議代表団はこの報せに接して、セントローレンス川を守ることは不可能と判断し、デシャンボーには極少数の部隊を派遣しただけだった。トーマスはモントリオールからの報せを6日間待ち、何も得られなかったので、トロワリビエールに向けての退却を始めたが、その後間もなく川のイギリス艦から降りた部隊との小競り合いが始まった。大陸軍は5月15日にトロワリヴィエールに到着し、そこでは病人を残し、また彼らを守るためのニュージャージ出身の分遣隊も残した。18日までに残りの部隊はソレルでウィリアム・トンプソン指揮下の援軍と合流し、21日には大陸会議代表団との作戦会議が持たれた。トーマスはその日に天然痘を発病し、6月2日に死んだ。後継はトンプソンになった。 ==カールトンの反撃== 1776年5月6日、イギリス海軍のチャールズ・ダグラス海尉が指揮する小戦隊が補給物資と3,000名の兵士を積んでケベック開放のために到着した。イギリス側の艦船がケベックシティに到着したことで、大陸軍は予定より早くソレルまでの撤退することとなった。しかしカールトン将軍はしばらくの間積極的な攻勢を採らず、5月22日になってから第47および第29連隊と共にトロワリヴィエールに向かった。レ・セドルでフォスター隊がうまく成果を収めた報に接すると、攻勢を掛ける代わりにケベック市に戻り、トロワリヴィエールの部隊指揮はアレン・マクリーンに任せた。ケベックでは6月1日に到着したジョン・バーゴイン将軍と面会した。バーゴインは大半がアイルランドからの募兵とヘシアンからなる大部隊と豊富な資金を運んできていた。 ===トロワリヴィエール=== ソレルに居た大陸軍は、トロワリヴィエールには「わずか300名」がいるだけとの情報を得てので、ソレルからトロワリヴィエールに部隊を派遣して占領し戻ってこられると判断した。トンプソン将軍はイギリス軍援軍の主力が到着したことを知らず、またその町の地形も無視したままに2,000名の部隊を率いてその湿地に進み、そこで兵力を増強し塹壕に身を隠したイギリス軍の待伏せ攻撃を受けた(トロワリビエールの戦い)。大陸軍はトンプソンと他上級士官の多数そして兵士200名らが捕虜となり、遠征に使ってきた船舶もイギリス軍に捕獲されるなどの損害を出し、この結果は大陸軍にとってケベック地方の占領の終わりを暗示するものになった。このときジョン・サリバンが指揮していた大陸軍もソレルから撤退しているが、カールトンはこのときもその利点に付けこもうとはせず、8月には寛大にも捕虜をニューヨークに戻すことまでやった。 ===クラウンポイントへの退却=== 6月14日の早朝、カールトンはついに川を遡上してソレルに進軍した。その日遅く到着した時には、大陸軍がその朝にソレルを放棄してシャンブリーとセントジョンズに向けてリシュリュー川を上りつつあることが分かった。ケベックからの後退の時とは異なり、大陸軍はいくらか秩序だった後退を行っていたが、カールトン艦隊の到着によって本隊を離れ、アーノルドの部隊と合流するためにモントリオールに向かった部隊もあった。カールトンはバーゴインに4,000名の部隊を率いてリシュリュー川を上らせ大陸軍の後を追わせる一方、自分はモントリオールに向かって帆走を続けた。 モントリオールではアーノルドが下流で起こっている事態を知らず、フォスターとの交渉を終えたばかりだった。5月15日にサリバン将軍からの報せを受けるために下流のソレルに送った伝令がカールトンの艦隊を目撃し、岸に逃れて盗んだ馬でモントリオールまで戻ってその報せを伝えた。アーノルドとモントリオール周辺にいた守備隊は伝令の報を受けてから4時間の内に市を放棄し(モントリオール市を焼き落とそうとはしなかった)、地元の民兵隊の手に委ねた。カールトンの艦隊は6月17日にモントリオール市に到着した。 アーノルドの部隊は17日にセントジョンズ近くで本隊に追いついたが、本隊であるサリバンの軍隊は戦える状態ではなく、簡単な作戦会議によってクラウンポイントまで退却することが決まった。この軍隊はバーゴインの前衛部隊が到着する文字通りまさにその瞬間にセントジョンズを離れた。 大陸軍の残党は7月初旬にクラウンポイントに到着した。この作戦の大半を経験した医者であるアイザック・センターが「おそらくはどこの国の年譜にも見出させないような特異で比べようも無い挫折と苦しみの不均一な連鎖」と表現した作戦の終わりだった。ケベックでの敗北は決定的となったが、イギリス軍はまだ動いていたので、作戦は完全には終わっていなかった。 ===造船と政治=== 大陸軍はリシュリュー川とシャンプレーン湖を撤退するとき、イギリス軍が残された船舶を使えないよう、撤退するごとに用心深くそれらを焼きあるいは沈めていった。このことでイギリス軍は船舶を建造する為に数ヶ月を要することになったが、カールトンは9月28日にロンドンに宛てて報告書を送り、「私はこの艦隊が間もなく出帆でき、戦闘で得られる成功を期待している。」と伝えた。アーノルドはイーサン・アレンと共に1775年5月にタイコンデロガ砦を占領した時、小さな海軍を作っており、それがこの時もシャンプレーン湖を偵察していた。 イギリス軍がアーノルドの戦隊に対抗するために海軍を作っている間に、カールトンはモントリオールの事後処理を行った。カールトンは、大陸軍が撤退する前のケベック市においても、地元の愛国者側同調者が演じた役割を調査する委員会を形成しており、委員を田園部に派遣してアメリカ側の活動に積極的に参加した者を逮捕した。その中にはロイヤリストを拘束した者も含まれた。カールトンは、モントリオールに到着した時にも同様な委員会を設定した。 ===バルカー島=== 7月初旬にホレイショ・ゲイツ将軍が大陸軍北部方面軍の指揮を任された。ゲイツは直ぐに軍の主力をタイコンデロガに写し、クラウンポイントには約300名の部隊を残した。ゲイツ将軍の主力部隊はタイコンデロガの防御を厚くすることに専念し、アーノルドにはクラウンポイントでアメリカ艦隊を建造する任務を与えられた。夏の間、タイコンデロガ砦に援軍が送られ、総勢は推計1万名にもなった。 カールトンは10月7日に行軍を始めた。9日にはイギリス艦隊がシャンプレーン湖上に浮かんだ。10日から11日の夜に始まったバルカー島と湖の西海岸付近での戦いでは、イギリス軍がアーノルドの艦隊に大きな損傷を出させ、クラウンポイントまで撤退させた。アーノルドはクラウンポイントではイギリス軍の攻撃に対して耐えられないと考え、さらにタイコンデロガまで後退した。イギリス軍は10月17日にクラウンポイントを占領した。 カールトンの軍隊はクラウンポイントに2週間留まり、幾らかの部隊はタイコンデロガ砦から3マイル (5 km) の所まで進出し、ゲイツの軍隊を誘い出そうとしたが効果なく、11月2日、ケベックで冬季宿営を行うためにクラウンポイントから撤退した。 ==戦いの後== ケベック侵攻はアメリカにとって悲惨な結果に終わったが、ケベックからの撤退時におけるアーノルドの行動とシャンプレーン湖での即席の海軍はイギリス軍の全面的な反撃を1777年まで遅らせることに功があったとされている。一方カールトンは、大陸軍のカナダからの撤退を徹底して追撃しなかったためにバーゴインから厳しく批判された。この批判と、カールトンが本国の植民地問題担当大臣で国王ジョージ3世の政府で戦争遂行の担当者だったジョージ・ジャーメイン卿に嫌われていたという事実のために、サラトガ方面作戦の指揮はジョン・バーゴインに任されることになった。このことはカールトンはケベック総督を辞する遠因ともなった。 ケベックやその他のイギリス領植民地を征服する事は、独立戦争の間大陸会議の目標であり続けた。しかし当初この遠征を支持していたジョージ・ワシントンが、これ以上の遠征は13植民地での主戦線から兵力や資源をあまりに多く分散させるものとして優先順位を低くしてからはケベックに向けての遠征はほとんど実現しなかった。 1783年のパリ条約交渉のとき、アメリカの代表団は戦利品の一部としてケベック全てを要求したが失敗した。ベンジャミン・フランクリンが主に関心を抱いていたのは1774年のケベック法によってケベックの一部とされていたオハイオ領土で、この和平会談ではケベックの明け渡しを提案し、オハイオのみが割譲された。 1812年の米英戦争で、アメリカは再度イギリス領北アメリカへの侵攻を開始した。このときも地元の民衆がアメリカを支持するものと期待していた。その侵略が失敗したことはカナダの歴史でも重要なことと見なされており、現代のカナダのアイデンティティが生まれたと言われている。 =マックス・パーキンズ= マクスウェル・エヴァーツ・”マックス”・パーキンズ(英: Maxwell Evarts ”Max” Perkins, 1884年9月30日 ‐ 1947年6月17日)は、アメリカ合衆国の書籍編集者である。チャールズ・スクリブナーズ・サンズ社に勤め、F・スコット・フィッツジェラルドやアーネスト・ヘミングウェイ、トーマス・ウルフなどの作家を見出して文壇へ送り込んだ。 ==生い立ち== ===両親の出自=== 父エドワード・クリフォード・パーキンズは、ボストン出身の美術評論家チャールズ・キャラハン・パーキンズ(英語版)の息子(3人きょうだいの2番目)であった。パーキンズ家は元々実業家だったが、チャールズはハーバード大学在学中に絵画へ興味を示し、その後アメリカ初の美術評論家となった。息子のエドワードも父と同様にハーバード大学へ進み、後に附属のロー・スクールを卒業した。 母エリザベス・エヴァーツは、ウィリアム・マクスウェル・エヴァーツの娘であり、パーキンズの名前はこの祖父から貰ったものである。エヴァーツはイェール大学からハーバード大学のロー・スクールに進んだ弁護士で、ラザフォード・ヘイズ政権のアメリカ合衆国国務長官を務めたほか、ニューヨーク州選出の上院議員として2期務め上げた。父のワシントン生活中、エリザベスは女主人役をよく務めていたという。 父方の祖父にあたるチャールズ・パーキンズは、ヨーロッパでの美術評論生活から財産を使い果たしてしまい、元々先祖が移住してきた土地であるニューイングランドへ戻って来た。ウィリアム・マクスウェル・エヴァーツとの家族ぐるみの付き合いはここで始まり、パーキンズの両親は2人が24歳になった1882年に、バーモント州ウィンザー(英語版)で結婚した。2人はニュージャージー州プレインフィールドに居を構え、エドワードはニューヨークの法律事務所に勤めた。2人の間には6人の子どもが生まれた。 ===幼少期=== パーキンズは、1884年9月30日に、ニューヨーク・マンハッタンでパーキンズ家の次男として生まれた。母方の祖父から取ってウィリアム・マクスウェル・エヴァーツ・パーキンズ(英: William Maxwell Evarts Perkins)と名付けられ、両親双方の名字を受け継いだ。エヴァーツ家の人間は謹厳実直な家風で、華々しいパーキンズ家をあまり良く思っていなかったというが、結果としてパーキンズは、苗字だけでなく両家の相対するような性質も受け継ぐこととなった。 パーキンズは16歳で、ニューハンプシャー州コンコードにあるセント・ポール・アカデミーへ入学した。1902年10月には、父エドワードが肺炎のため44歳で死去した。パーキンズは実家へ呼び戻され、ハーバード大学へ進学していた兄エドワードに代わって家長の役を務めた。経済上の理由からセント・ポール・アカデミーを1年で退学し、中等教育はプレインフィールドのリール・スクールで修了した。後に文芸評論家として知られるヴァン・ワイク・ブルックスは同郷の友人である。 ===ハーバード大学=== パーキンズは父や兄と同様、ハーバード大学へ進学した。在学中に彼は、全く使っていなかったファースト・ネームの「ウィリアム」を捨てた。父を亡くしたパーキンズは貧しい生活を送っていたが、伯父プレスコット・エヴァーツの援助で、ハーバード大学の会員制クラブであるフォックス・クラブ(英語版)へ入会している。 パーキンズは、『ハーバード・アドヴォケート(英語版)』の編集委員を務めていた。これは学内で発行される文芸雑誌で、当時の寄稿者には詩人のジョン・ホール・ホィーロック(英語版)、劇作家のエドワード・シェルドン(英語版)、ヴァン・ワイク・ブルックスなどがおり、彼らはパーキンズの友人でもあった。中でもブルックスは、パーキンズと同郷の後輩であり(ブルックスが1年遅れで入学している)、2人はウィンスロップ通り41番地の文芸クラブ「スタイラス」でしばしば一緒に過ごした。 パーキンズは大学で政治経済学を専攻した。またこれとは別に、チャールズ・タウンゼンド・コープランド教授の作文指導講座も受講している。入学当初は留置所に入れられたり、進級保留者にされたりとあまり真面目ではない学生生活を送っていたパーキンズだったが、コープランドの授業を受けて以来学業に専念するようになった。このコープランドの授業は、パーキンズの天職となった編集業に大きな影響を与えた。コープランドに恩義を感じていたパーキンズは、後に彼が選集『コープランド・リーダー』を出版する際、その編纂や各作品の版権獲得に大いに力を注いだ。1926年に刊行されたこの本は、コープランドが授業で取り上げた内、特にお気に入りの作品を集めたもので、1,700ページの大作ながら数万部を売り上げた。 1907年6月、パーキンズは専攻していた経済学で優等賞を受け、ハーバード大学を卒業した。 ===大学卒業後の生活=== 大学を卒業したパーキンズは、まずボストンのスラム街にある市営のサービス・ハウス(福祉会館)に就職した。昼間は巡回訪問をし、夜はロシアやポーランドからの移民に英語を教えた。 1907年の晩夏、パーキンズは新聞社に勤めようとニューヨークへ向かい、『ニューヨーク・タイムズ』紙の編集局長の息子と知己があったことから同社の社会部に就職した。最初の内は社会部長に気に入られず閑職に回されたが、後に昇格して警察記者となっている。 ==スクリブナー社での編集生活== 1909年の冬、記者を辞めて勤務時間が固定された仕事に就きたいと考えていたパーキンズは、チャールズ・スクリブナーズ・サンズ社(以下スクリブナー社)の宣伝部に欠員があることを聞きつけた。スクリブナー社長のチャールズ・スクリブナー(英語版)は、ハーバード時代の教授と旧友であり、パーキンズはこの教授へ頼み込んで推薦状を書いてもらっている。 パーキンズは翌1910年にスクリブナー社へ入社し、死去する1947年まで37年同社に勤め続けた。パーキンズが入社した当初のスクリブナー社は、話題の作家には目もくれず、イギリス風の伝統を重んじた作家の作品を出版し続けるやや古風な出版社であった。彼は入社から4年半ほど宣伝担当マネジャーを務めた後、編集者の1人が他社の共同経営者になるため辞職したのを契機に編集室へと異動した。 パーキンズは、フィッツジェラルドなど多数の人気作家を世に送り出したことで一目置かれ、1920年代前半には、有望な原稿は多くが名指しでパーキンズの元へ集まるようになっていた。彼の活躍まで、編集者の仕事は名作の再版、有名作家の原稿での綴りや句読点の細かな校正、宣伝文作りなどが中心だったが、パーキンズはその慣習を打ち破って前途ある作家を積極的に登用した。編集者を始めて15年後には、収入が1万ドルへ倍増していただけでなく、経営者のスクリブナー兄弟から自由に仕事をするよう一任されていた。1930年頃、彼はスクリブナー社の役員となったほか、編集局長のポストにも就いて、名実ともにスクリブナー社に欠かせない人物となった。ウォール街大暴落から始まった世界恐慌では出版業界にも不況が訪れたが、スクリブナー社はパーキンズの編集した本などで売り上げを維持した(例えばS・S・ヴァン・ダインの『僧正殺人事件』やヘミングウェイの『武器よさらば』など)。1932年夏にアーサー・H・スクリブナー (Arthur Hawley Scribner) が死去した後、パーキンズは編集長兼副社長に就任した。 パーキンズは、原稿を丁寧に読み込んで助言し、純文学・ミステリーなどのジャンルにかかわらず、質の高い作品を作者に求める編集姿勢を貫いた。原稿を丁寧に読み込んで助言するというのは、先述のように作品にほとんど関与しなかったそれまでの編集者とは大きな違いであった。彼の関心は、同僚ジョン・ホール・ホィーロック(英語版)の言葉を借りれば、「アメリカの作家の才能を育て、アメリカ文学を発展させること」にあった。 ===フィッツジェラルドとの出会い=== 1918年、スクリブナー社へ寄稿していた作家のシェーン・レズリー(英語版)を介して、F・スコット・フィッツジェラルドの原稿がスクリブナー社へ届けられた。『ロマンティック・エゴティスト』と題された12万語の小説原稿は、陸軍仕官中のフィッツジェラルドが、毎週末を費やして書き上げたものだった。この原稿は3ヶ月間編集部をたらい回しにされた末にパーキンズの元に辿り着いた。パーキンズは原稿に惚れ込んだが、編集室で同意は得られず、政府の出版物供給規制策や制作費の問題などを挙げて渋々出版を断った。出版を諦めきれなかったパーキンズは、作品の改善に繋がる感想をフィッツジェラルドに書き送ったり、ライバル社へ原稿を持ち込んだり(2社に送って結局どちらも突き返された)と、この小説の出版に向けて奔走している。 パーキンズの熱意の一方で、フィッツジェラルドはこの原稿への自信を喪失しており、彼の助言と骨組みを活かして、意図をより明確にした別の作品を書いた。当初『人格教育』とされていた作品のタイトルは、1919年9月にパーキンズへ実際の原稿が送られてきた時には『楽園のこちら側』と改題されていた。編集会議では、作品に眉を顰める者もおり意見は真っ二つに分かれたが、パーキンズの説得が実り出版が決定した。ゼルダ・セイヤーとの結婚を考えており、すぐにでも出版したがっていたフィッツジェラルドに対し、作品の売れ行きを考えたパーキンズは、出版シーズンとなる翌春まで待つよう説得した。『楽園のこちら側』は1920年3月26日に発行され、1週間後には2万部の大台を突破した。フィッツジェラルドは、スクリブナー社が作品を世に送り出した最年少の作家となり、刊行から1週間後には、スクリブナー社に程近い教会でゼルダと結婚した。 長編処女小説の成功で、フィッツジェラルドの年収は前年の879ドルから18,850ドルへと跳ね上がったが、彼はこれを全て使い果たして、後の破滅の一端となった浪費生活を始めた。長編第2作目に当たる『美しく呪われし者(英語版)』を書き上げたフィッツジェラルドは、夫妻のヨーロッパ旅行用の金をパーキンズへ無心しているが、この時交わした契約書が元で、パーキンズはフィッツジェラルドの金銭面を細かくサポートすることになった。この長編には、処女作刊行に一役買ったシェーン・レズリー、ジョージ・ジーン・ネーサンと並び、パーキンズ宛の献辞が付けられ、1922年3月3日に出版された。 その後もフィッツジェラルドは、『グレート・ギャツビー』などをはじめ、ほとんどの作品をスクリブナー社から刊行した。また若手作家のリーダー格として、前途のある作家をパーキンズへ紹介し続けた。その中にはリング・ラードナーや、アーネスト・ヘミングウェイなどの作家も含まれる。 ===リング・ラードナー=== リング・ラードナーは、ロングアイランド在住だった元スポーツ記者で、フィッツジェラルドがパーキンズに紹介した作家のひとりである。短編集『短編小説の書き方』”How to Write Short Stories” は、自作を手元に置いていなかったラードナーに代わり、パーキンズが苦心して探し出した作品を元に編纂された。パーキンズは先輩編集者から反対を受けていたが、ラードナー本人の合意もそこそこに、翌春の出版リストへ半ば強引にこの本を突っ込んだ。ラードナーの同名の息子リング・ラードナー・ジュニアは、フィッツジェラルドとパーキンズがいなければ父は新作を書かなかったかもしれないと振り返っている。各短編に付けられた警句めいた序文は、パーキンズが執筆の初歩本と間違われかねないと考え、ラードナーに書き加えさせたものである。この作品には好意的な書評が寄せられ、フィッツジェラルドのような若手作家の登用に首を傾げていたスクリブナー社長チャールズ・スクリブナー2世(英語版)も、この作品を気に入った。 ===ヘミングウェイを紹介される=== 長編第3作『グレート・ギャツビー』が完成間近だった1924年10月に、フィッツジェラルドはパーキンズへアーネスト・ヘミングウェイを紹介する手紙を送った。12月になって、『われらの時代(英語版)』と銘打たれた小品集がヘミングウェイから送られてきた。パーキンズは彼の非凡な能力を見て取って是非作品を刊行したいと考えたが、折悪しくオーストリアへ出かけたヘミングウェイは、パーキンズが連絡を取れないうちにボニ&リヴライト社(英語版)に刊行許可を与えてしまっていた。パリへ帰ってパーキンズの手紙を読んだヘミングウェイは、自分としてはスクリブナー社から短編集を出したかった旨を返信している。 パーキンズは契約を結べず落胆したが、ボニ&リヴライト社とヘミングウェイの契約は、風刺小説『春の奔流(英語版)』の刊行が拒否されたことであっさりと破綻した。ヘミングウェイの気持ちは、前々から色よい返事をくれていたパーキンズ、そしてスクリブナー社にぐっと傾いていた。ヘミングウェイの作品は猥語の多用などが原因で社の出版方針に反しており、パーキンズもあまり良い値は提示できなかったが、それでも彼はスクリブナー社との契約に合意した。この契約で『春の奔流』と『日はまた昇る』がスクリブナー社から刊行されることが決定し、パーキンズは仲介役となったフィッツジェラルドへ大いに感謝した。『春の奔流』は1926年5月28日、『日はまた昇る』は同年秋の10月22日に刊行され、後者は3年で10版を重ねた。1928年にヘミングウェイの父が猟銃自殺して以来、彼はパーキンズをますます慕い、スクリブナー社から『武器よさらば』(1929年9月)、『誰がために鐘は鳴る』(1940年)などの傑作を出版した。パーキンズの側も、彼を「やんちゃな弟」のように見ていた。またヘミングウェイも、かつてフィッツジェラルドがしてくれたように、有望な作家をパーキンズへ紹介した。 ===トーマス・ウルフとの出会いと別れ=== 1928年秋、パーキンズはマドレーヌ・ボイドから、ニューヨーク大学の講師トーマス・ウルフが書いた自伝的長編小説『失われしもの』”O Lost” について聞かされた。パーキンズは、ボイドから届けられた30万語に及ぶ原稿を、同僚と共に読み進めては前のページに戻ったりしながら何とか読み通した。読み終えた後、彼は作品が非凡なものだとは認めたものの、めちゃくちゃな構成であり、整えるためにいくつか大幅な削除が必要だった(実際出版までには6万6000語あまりが削除された)。それでも、数社から出版を断られていたウルフは、作品を丁寧に読み込んでくれたパーキンズに感謝して手直しに同意した。出版は翌年1月に正式決定し、ウルフはこの吉報を、ボイドへ原稿を持ち込んだ舞台装置家で当時パートナー兼パトロンだったアリーン・バーンスタイン(英語版)に伝えた。編集の途中で作品名は『天使よ故郷を見よ(英語版)』に変更され、1929年9月に出版された。ウルフはパーキンズへの感謝を序文に書きたがったが、パーキンズやボイドの意見を聞き入れ、結局「A・Bへ」としてバーンスタイン宛の献辞が付けられた。処女作刊行に尽力したバーンスタインに感謝していた一方、愛情が冷めていたウルフはこの関係を清算したがっていた。パーキンズはウルフから相談を受けたほか、バーンスタインから手紙を受けるなどして、ウルフの死までふたりの間を取り持つことになった。 ウルフの作品の分量が多いのは、登場人物の心情や動作を全て再現しようとするためだったが、一方で記述の分量などバランス感覚が欠けていたので、この点をパーキンズの編集が補った。ウルフはこれに深く感謝しており、第2作『時と川について(英語版)』(1935年)では、パーキンズ宛の献辞を付けた。編集者が表に出るのをよしとしなかったパーキンズは、ウルフの身を切らせて削除に同意させたことなどを挙げて献呈を断ろうとしたが、結局はこれを受け入れ、幸せなことだと書き送っている。 また、息子を欲しがっていたパーキンズにとって、ウルフとの関係は父子のようなものだった。パーキンズは仕事と家庭生活をきっちり分けていたが、ウルフだけは例外で、何度もパーキンズ家を訪れて会食した。一方ウルフの側も同じように思っていたのか、『汝再び故郷へ帰れず』中では、パーキンズがモデルのエドワーズ編集長について、次のように書き記している。 徐々に、フォックスの中に、亡くなった父、探し求めていた父親の姿を見いだしているようにジョージは思った。かくしてフォックスは第二の父――精神上の父――になったのである。 ― トーマス・ウルフ、『汝再び故郷へ帰れず』 ウルフは元から神経質な人間だったが、1935年に出した最初の短編集『死より朝へ』”From Death to Morning” が酷評を受け始めたことで、パーキンズなど周囲の人間に当たり散らすようになった。パーキンズとの決裂に追い討ちを掛けたのは、1936年にバーナード・デヴォート(英語版)が発表した非難記事だった。デヴォートはこの中で、構成力も無いウルフは、パーキンズ無しでは大作家になれなかったと断定した。1935年7月にコロラド大学で開かれた作家会議で、ウルフは自作執筆におけるパーキンズの助力を語り、これに加筆して『ある小説の物語』”The Story of a Novel”(1936年)を出版したが、デヴォートはこれを以てウルフを批判したのである。 自らの実体験を元に『天使よ故郷を見よ』『時と川について』を書き上げたウルフは、パーキンズから聞いた話などを元に、スクリブナー社の内幕を小説に起こし始めた。パーキンズの同僚だったホィーロックは、「彼は不用意な発言をする男ではなかった」が、「酔いがまわってくると、トムを授からなかった息子のように思って話をしたのだろう」と振り返っている。パーキンズはこれでは会社に居られなくなると漏らし、エージェントから不用意にもこの発言を伝えられたウルフは激怒した。さらに具合の悪いことに、『死より朝へ』収録の短編でモデルにされた女性が、ウルフへ慰謝料の支払いを求める訴えを起こそうとした。パーキンズは彼女たちが金目当てに申し入れたに過ぎず、ウルフを執筆に専念させるため示談で穏当に解決しようと考えていた。また、長年にわたって身近な人物を題材としてきたウルフには、裁判沙汰になれば名誉毀損訴訟を何件も起こされるリスクがあった。しかしウルフはこの行動に対して、「スクリブナー社が自分を守ってくれなかった」と不満を抱いた。この一件を機に、1936年11月12日、ウルフは契約の解除を手紙で申し入れ、スクリブナー社もそれを了承して印税を清算した。1937年8月、再びデヴォートのウルフ評が掲載され、本腰を入れて出版社を探し始めたウルフは、エドワード・アズウェル(英語版)の説得を呑み、12月にハーパー・アンド・ブラザーズ(英語版)と契約することを決めた。 スクリブナー社、そしてパーキンズと袂を分かったウルフは、パーキンズとの関係に敬意を表し、彼をモデルにした小説を書くことにした。この原稿を書いている途中で、執筆や周囲の騒乱に疲れたウルフは、そこまでの原稿をまとめてハーパーズの編集者であるアズウェルに託し、1938年5月にアメリカ西部の旅へと出かけた。ウルフは旅先のカナダ・バンクーバーで風邪をこじらせて重症の肺炎を発病し、シアトルのサナトリウムに入院した。その後脳の病気(脳腫瘍)が疑われたウルフは、1938年9月10日にボルティモアのジョンズ・ホプキンズ病院へ転院し手術を受けた。ウルフは手術の甲斐無く、結核性脳炎で9月15日に亡くなった(37歳没)。遺言の執行人に指名されていたパーキンズはこれを引き受け、またノース・カロライナ大学(英語版)の『カロライナ・マガジン』へ追悼文を寄せた。パーキンズをモデルとした部分の原稿は、1940年に『汝再び故郷に帰れず(英語版)』としてハーパーズから出版された。また、1947年春、ウィリアム・B・ウィズダムが収集したウルフの資料集がハーバード大学図書館へ寄贈されたが、パーキンズはこの紹介記事を『ハーバード・ライブラリー・ブレティン』”Harvard Library Bulletin” に寄せている。 ==晩年== パーキンズの晩年は、担当した作家たちに先立たれつつ、スクリブナー社での編集生活を続けるというものだった。 まず、働き過ぎと不摂生がたたったリング・ラードナーが、結核を再発させて弱り始めた。ラードナーは、結核に加えて不眠症・アルコール依存症などを併発し、1933年9月に亡くなった。トーマス・ウルフは1938年に亡くなった。S・S・ヴァン・ダインは、パーキンズに遺言の執行人を頼んだ数ヶ月後、心筋梗塞で亡くなった(1939年)。この頃、彼は愛読書の『戦争と平和』を何度も読み返している。1942年には、室内でも帽子を被るパーキンズの習慣を生む元となった、作家のウィル・ジェームズ(英語版)が亡くなった。1946年には、ハーバード大学の学友だったエドワード・シェルドン(英語版)が亡くなっている。 MGMからの契約を打ち切られ、様々な面で破滅していたフィッツジェラルドだったが、1939年には『ラスト・タイクーン』の概要をパーキンズに明かしていた。ところがフィッツジェラルドは、この小説が未完のまま、1940年12月21日に、愛人シーラ・グレアムのアパートで死去した(フィッツジェラルドは、直前に彼女のアパートへ転居していた)。法律的に疑義があったため、パーキンズは遺言の執行人こそ辞退したが、彼の娘スコティーが大学に通っている間の資金を手配したり、彼女の結婚式費用を支払ったりするなど支援を続けた。パーキンズの元にはグレアムから『ラスト・タイクーン』の遺稿が届けられ、彼はエドマンド・ウィルソンに編纂を依頼してこれを出版することにした。 編集者としてのパーキンズは、自分が表に出ることをよしとしなかった。『ザ・ニューヨーカー』紙は、ウルフの生前にパーキンズの特集記事を書かないか持ちかけたが、この意向によって話が頓挫した。この企画に目敏く反応したのが批評家のマルカム・カウリーで、1944年に『ザ・ニューヨーカー』紙に掲載されたパーキンズの取材記事は、長らく影でアメリカ文学界を支えた彼の名を世間に知らしめることになった(→#発展資料)。記事のタイトル「ゆるぎなき友」は、ウルフの第2作『時と川について(英語版)』の献辞から引かれ、紹介文が長かったことから異例の2回に分けて発表された。 パーキンズは、自身の編集者としての直感が失われつつあることに気付いていた。また、長年心に秘めていたアイデアを作家に押しつけようとすることも多かったが、ほとんど上手く行かなかった。酒量が増えただけでなく、喫煙を続けたことで空咳が激しくなったり、手の震えが出たりと、身体的な衰えも見え隠れし始めた。1942年頃には、妻ルイーズとの隔たりも大きくなり、パーキンズは一層仕事に打ち込むようになった。 編集者として有名になるにつれ、パーキンズに自作を編集してもらいたいとする作家も増え、その中には迷惑な人物も混じるようになった。何故自作を出版しないのか詰る人物も、個人的な相談を持ち込む者も、自分の文学観を押しつけようとする人物もいた。そんな中でもパーキンズは正気を保ち、唯一人エリザベス・レモンにだけ悩みを打ち明けた。 1945年2月、パーキンズはジェームズ・ジョーンズと出会った。パーキンズは持ち込まれた処女作よりも、彼が手紙で明かしたプロットの方に興味を示し、これは後に『地上より永遠に(英語版)』(1951年)として出版された。この作品の初稿を受け取った1946年末、咳が激しくなったり手が麻痺したりと、パーキンズの体調は更に悪化した。晩年のパーキンズは、ウルフの原稿に根気よく付き合ったような精力を欠き、丁寧な編集が出来なくなっていた。 1947年6月、パーキンズは体調を崩して熱を出し、救急車でスタンフォード病院へ担ぎ込まれた。搬送前に彼は、娘バーサに『地上より永遠に』と、アラン・ペイトンの『泣け、愛する祖国を(英語版)』の原稿を秘書のワイコフへ託すよう言いつけた(この2冊が彼の最後の仕事となった)。入院先で肋膜炎と肺炎を併発していることが分かったパーキンズは、翌日の6月17日午前5時に妻ルイーズに看取られて亡くなった。62歳没。 葬儀は1947年6月19日にニュー・ケイナン(英語版)の聖マーク教会で執り行われ、遺骸は近くのレイクヴュー墓地に葬られた。彼の死を知り、マーシャ・ダヴェンポート(英語版)は、最新作 ”East Side, West Side” をパーキンズに捧げた。残された仕事は、ハーバード大学時代からの友人で同僚のジョン・ホール・ホィーロック(英語版)がその多くを引き受けた。また遺言執行者は、長年パーキンズの秘書を務めたアーマ・ワイコフが務めた。 1950年、パーキンズの手紙を集め、書簡集 ”Editor to Author” が出版された。編纂にはジョン・ホール・ホィーロックが中心となって尽力した。 ==私生活== ===妻ルイーズと5人の娘=== 『ニューヨーク・タイムズ』紙の記者として働いていた頃、パーキンズはプレインフィールドのダンス教室で一緒だったルイーズ・ソーンダースの家に足繁く訪問した。ルイーズの実家もプレインフィールドの名家であり、父ウィリアム・ローレンス(英語版)は、ウッドロー・ウィルソンの友人だったほか、プレインフィールドの市長も2期務めていた。活動的なルイーズはアマチュア女優として活動する傍ら、自ら戯曲も書いていて地元では有名な女性だった。派手好みのルイーズは、夫の実家であるパーキンズ家・エヴァーツ家ではあまり評判が良くなく、むしろ見下されていたという。 1910年早春、スクリブナー社への就職が決まったパーキンズは、ルイーズと婚約した。2人は1910年12月31日に、プレインフィールドのホリー・クロス・エピスコパル教会で結婚式を挙げた。2人はハネムーンの旅行先に、ニューハンプシャー州コーニッシュ(英語版)を選んだ。ハネムーンから戻った2人は、ルイーズの父が購入した、ノース・プレインフィールド(英語版)、マーサー通り95番地の家で新婚生活をスタートした。左耳の耳硬化症から来る難聴を患っていたパーキンズは、義父から結婚祝いに送られた金時計を、難聴の進行度を測るのに使ったという。夫妻は自尊心の高さから何度もぶつかったが、それでも離婚が話に上がることは無かった。 2人の間には5人の娘が生まれた。パーキンズ自身は息子が生まれるのを切望していたが、その願いは叶わなかった。1911年に長女バーサ、1913年に次女エリザベス(愛称ジッピー)が生まれている。2人の娘は、それぞれルイーズとマックスの母から名前を取って命名された。さらに2年後の1915年には三女ルイーズ・エルヴィーア(愛称はペギーほか)が生まれた。 1916年、パーキンズは騎兵隊の予備役に志願し、同郷の兵士で組まれた中隊でメキシコ国境警備へ配備された。3ヶ月に及んだ彼の軍役中、妻ルイーズは妹夫妻から、父がくれた家が大きすぎるので交換しないかと持ちかけられた。パーキンズ家はこれを受け入れ、パーキンズの帰還後にロックビュー街112番地へ引っ越した。これから2年後の1918年、パーキンズ家に四女ジェーンが生まれた。また1924年に一家はコネチカット州ニュー・ケイナン(英語版)へ引っ越し、翌1925年には末娘ナンシー・ゴールトが生まれている。5人の娘はいずれもパーキンズ似であった。またパーキンズは、娘たちに毎晩本を読み聞かせたり、家族と離れている時には手紙を送るなど、まめな父親であった。 ルイーズはパーキンズの希望で結婚と同時に女優を辞めたものの、その活動力は児童演劇の脚本作りやアマチュア劇団の演出へ活かされた。1920年代半ばには以前よりも精力的に活動するようになり、スクリブナー社から児童劇の脚本を出版したり、『ハーパーズ』や『スクリブナーズ』に短編が掲載されたりした。 1933年、長女バーサを嫁に出したパーキンズ家は、ルイーズの父親がかつて住んでいたマンハッタンの家へと移り住んだ。隣家には女優のキャサリン・ヘプバーンが住んでいた。マンハッタンへの転居は都会生活に憧れていたルイーズが説得したものだったが、パーキンズ自身も娘の教育のため提案に同意した。転居後ルイーズはますます演劇に打ち込むようになったものの、結局成功することはなかった。次女ジッピーは1936年9月に結婚した。 1938年、夫婦は再びニュー・ケイナンに居を構えることにした。これと同じ時期、ルイーズは修道女の訪問を受けてカトリックに傾倒したが、パーキンズはこれを苦々しく思い、自身の改宗には取り合わなかった。 何かとぶつかることが多かった夫妻だが、1947年にパーキンズが死んだ後、ルイーズの心にはぽっかり穴が空いた。教会はますます心の拠り所となり、ルイーズは友人に修道院へ入りたいなどと漏らしている。また同時に飲酒癖も嵩じた。1965年2月21日、彼女は住んでいた家の離れで失火事故を起こし、重度の熱傷を負って同日中に亡くなった。 ===エリザベス・レモンの存在=== パーキンズより8歳年下のエリザベス・レモンは彼が最も親しく思っていた友人で、2人は1922年4月に知り合った。これは、レモンが毎春の恒例にしていた北部州での逗留先に、プレインフィールドを選んだのがきっかけである。彼女はヴァージニア州とボルティモアにゆかりがある旧家の出身で、ボルティモアで社交界デビューした。 パーキンズはレモンの姿に強く惹かれたが、これは飽くまでプラトニックな崇敬の念であり、夫妻の仲を脅かすような不倫関係に陥ることはなかった。パーキンズはレモンを心のよりどころと感じつつも、自分とレモンが深い仲になることは自律した。2人はパーキンズが亡くなるまでの25年間文通を続けたが、その一方で彼がレモンの家を訪ねたのはわずかに2回であった。レモンが大切に保管していたパーキンズの手紙は、折々の心中を綴りつつレモンを賛美するもので、結果として唯一残された彼の手記となった(なおこの手紙は、後に書簡集としてまとめられている)。パーキンズは、妻ルイーズがカトリックに傾倒した時期など、家庭や仕事上で悩みの多い時期に、レモンと数多く文通した。レモンはヴァージニア州ミドルバーグ(英語版)に住み、生涯独身を通した。 ==逸話== パーキンズは室内でも常に帽子を被っていることで有名だった。これは元々、『スクリブナーズ・マガジン(英語版)』に寄稿していた作家ウィル・ジェームズ(英語版)のテンガロンハットをパーキンズが気に入り、ジェームズが似たようなものを見繕って送ったのがきっかけだった。その内帽子は7号サイズで灰色のソフト帽に代わったが、室内でも帽子を被る習慣はパーキンズの奇癖として有名になるほどだった。その理由について、彼の秘書を務めていたアーマ・ワイコフは、会社の下層階にあったスクリブナー書店の店員と間違われないようにするためだったと語っている。ただし自身では、急な来客時に外出するところだったと装って逃れるため、などとしていた。 またパーキンズは、編集作業中に座りっぱなしになるのを防ごうと、演台のような高くて広々とした机を特注し、立ちながらそれに向かって原稿を読むのを常とした。昼には、オフィスから歩いて43丁目46番地のレストラン「チェリオ」に行くことを常としており、店の一角にはパーキンズ専用席が用意されていた。お気に入りのメニューはホロホロ鳥胸肉の蒸し焼きで、禁酒法撤廃以来は、昼のメニューにマティーニを付け加えた。 彼自身は編集者でありながら、しばしばスペルを間違うことでも有名だった。長年文通を続けたエリザベス・レモンへの最初の手紙では、彼女の名前を間違ってスペリングしている。また、F・スコット・フィッツジェラルドが最初に送った作品を『ロマンティック・エゴイスト』と勘違いしている(正しくは『エゴティスト』)。 自分の担当する作家が行き詰まっていると感じると、パーキンズは本を送るのが常だった。本を送られた作家の一人、ジェームズ・ジョーンズは、彼の送ってくる本が「相手の気持ちを引き立てるような」ものだったと述べている。また彼自身は、トルストイの『戦争と平和』を愛読し、しばしば娘たちに読み聞かせた。一方でシェイクスピアには触れることがなく、編集生活を通じて自分の無知を恥じていたという。 手慰みに悪戯描きをすることも好きで、よくナポレオンの横顔をスケッチしていたという。 ==パーキンズが担当した作家たち== F・スコット・フィッツジェラルド ゼルダ・フィッツジェラルドゼルダ・フィッツジェラルドリング・ラードナージョン・フィリップス・マーカンドウィル・ジェームズ(英語版)ジェームズ・ボイド(英語版)トーマス・アレクサンダー・ボイド(英語版)アーサー・トレイン(英語版)アーネスト・ヘミングウェイダグラス・サウソール・フリーマン(英語版)ヴァン・ワイク・ブルックスS・S・ヴァン・ダイントーマス・ウルフエドマンド・ウィルソンアースキン・コールドウェルモーリー・キャラハン(英語版)ロバート・マコールモン(英語版)フォード・マドックス・フォード(英語版)マーシャ・ダヴェンポート(英語版)ナンシー・ヘイルキャロライン・ゴードン(英語版)アリス・ローズヴェルト・ロングワース(英語版)マージョリー・キナン・ローリングスストラザーズ・バートスターク・ヤング(英語版)ハミルトン・バッソ(英語版)マックス・イーストマン(英語版)テイラー・コールドウェル(英語版)チャード・パワーズ・スミスアルヴァ・ベッシーシャーウッド・アンダーソンジェームズ・トラスロウ・アダムズ(英語版)マーサ・ゲルホーン(英語版)マルク・アルダーノフクリスティン・ウェストン(英語版)ブランチ・オエルリクス(英語版)ドーン・パウエルイーディス・ポープアン・チデスターキャサリン・ポメロイ・ステュアートジョゼフ・スタンリー・ペネルジェームズ・ジョーンズヴァンス・ブージェリ(英語版)アラン・ペイトン ===作家たちの顔ぶれ=== ==関連項目== チャールズ・スクリブナーズ・サンズ ‐ パーキンズが務めていた出版社。 『スクリブナーズ・マガジン(英語版)』‐ スクリブナー社が刊行していた文芸雑誌。『スクリブナーズ・マガジン(英語版)』‐ スクリブナー社が刊行していた文芸雑誌。『ベストセラー 編集者パーキンズに捧ぐ』 ‐ パーキンズと作家トーマス・ウルフとの交流を元にした映画。パーキンズ役はコリン・ファース、妻ルイーズ役はローラ・リニーが演じた。アーチボルド・コックス ‐ ウォーターゲート事件に関わった法律家。パーキンズの甥(妹ファニーの息子)にあたる。1983年の映画 ”Cross Creek” (en)  ‐ 1983年の映画。マージョリー・キナン・ローリングスの作品編集生活が取り上げられ、マルコム・マクダウェルがパーキンズを演じた。コネチカット州ニュー・ケイナン(英語版)にあった旧宅 (Maxwell E. Perkins House) は、現在アメリカ合衆国国家歴史登録財となっている。 =オリエント・エクスプレス ’88= オリエント・エクスプレス ’88 (ORIENT EXPRESS ’88) は、フジテレビジョン(フジテレビ)の開局30周年を記念して、1988年に行われたイベントである。 「ノスタルジー・イスタンブール・オリエント・エクスプレス」 (NIOE) を保有する車両を保有する会社名の表記は文献によって異なり、「イントラフルック」「イントラフルーク」「イントラフラッグ」「イントラフラグ」とまちまちであるが、本項では「イントラフルーク」という表記で統一する。また、本項では、「ベニス・シンプロン・オリエント・エクスプレス」 (VSOE) を保有するオリエント・エクスプレス・ホテルズを「VSOE社」、「ベニス・シンプロン・オリエント・エクスプレス」を ”VSOE” 、「ノスタルジー・イスタンブール・オリエント・エクスプレス」を ”NIOE” と表記する。また、国名は全て当時の名称で統一する。 ヨーロッパを走行するオリエント急行を日本まで走らせるという企画内容で、日立製作所が協賛し、東日本旅客鉄道(JR東日本)の特別協力とJRグループ各社の協力により、総事業費として約30億円を投じて実施された。このため、この企画の正式な名称は「日立オリエント・エクスプレス’88」と言っていた。 ==構想段階== ===企画の発端=== フジテレビでは、1982年にオリエント急行を題材とした特別番組『夢のオリエント急行 ロンドン ‐ イスタンブール華麗なる3500キロの旅』を制作していた。この番組は、1977年に運行を終了したオリエント急行が、VSOE社によって定期的な運行を再開することを機として制作が決定した もので、VSOE社の保有するVSOEだけではなく、イントラフルークの保有するNIOEも組み合わせた内容であった。 この時に製作を担当した、フジテレビのエグゼクティブプロデューサー沼田篤良は、番組準備としてオリエント急行について調査するうちに、オリエント急行に対する興味をふくらませていったという。かつてオリエント急行の終点だったシルケジ駅はトルコのイスタンブールに位置し、そこが洋の東西を分ける町とされていたが、沼田が興味を抱いたのは、東洋を意味する「オリエント」と称しているにもかかわらず、実際にはオリエント急行は東洋には乗り入れていないということであった。そこから沼田が考えたのは「オリエント急行を東洋まで、それも東洋の奥の日本まで走らせよう」というものであった。沼田は、ただ日本に運んできて走らせるだけでは「ヨーロッパを走っている豪華列車」というだけで終わってしまうと考えたのである。ただし、この時点では夢の域を出るものではなかったという。 折しも、イントラフルークの社長であるアルベルト・グラットは、パリからモスクワ・ナホトカ行きの列車を走らせたいと考え、その企画を沼田にも話していた が、沼田が「オリエント急行をそのまま走らせては?」と問いかけると、グラットは「本当はそれをやりたい」と述べたという。 ===実現の可能性の調査=== 1984年ごろ、沼田はオリエント急行を日本へ走らせることについて真剣に考えるようになった。英国放送協会 (BBC) の友人やイギリスの鉄道ファンに相談すると「理論的には可能」という答えが返ってきた。しかし、日本ではそうではなかった。制作スタッフやプロダクションにも相談したが、荒唐無稽と受け取られてしまったという。形だけの準備委員会は設置された が、社内でも沼田を変人扱いする者すらいた。また、日本の鉄道評論家や鉄道ファンにも話をしてみたものの、「なぜできないか」ということを丁寧に説明される有様であった。 そんな中で、初めて「大変おもしろい」と沼田の相談内容について興味を示した鉄道関係者が、当時日本国有鉄道(国鉄)で運転局長の職にあった山之内秀一郎であった。山之内は、パリの国際鉄道連合 (UIC) の事務局へ1969年から3年間赴任した経験があった 上、帰国後もオリエント急行について調査しており、1982年の特別番組の制作時にも協力していた。山之内は「難しいかもしれませんよ」とは言ったものの、オリエント急行が日本を走れるか検討することを約束し、国鉄内部から専門家を集めて検討を開始した。フジテレビを通じて車両の図面を取り寄せて検討した結果、「主要幹線なら走れそうだ」と見当をつけるまでに至った。 一方、沼田も1985年にVSOE社を訪れ、社長のデビット・ベンソンや技術部長のジョン・スキナーとも相談した。社長のベンソンは「技術的な問題が解決すれば、パブリシティと割り切っても構わない」と肯定的で、技術部長のスキナーも「鉄道技術は融通性がある」「最大の課題はシベリア通過と、対応する台車の製作」と述べた。また、時期の問題については、春先はVSOE社にとって繁忙期、オリエント急行の客車には食堂車以外には冷房装置がないので夏の日本運行は不可能、暖房装置も真冬のシベリア鉄道通過には耐えられないという事情から、「日本に行くのであれば秋」ということになった。 1986年になると、フジテレビ社内の対応にも変化が見られるようになった。当時沼田が所属する編成局の局長が企画に理解を示し、1988年のフジテレビ開局30周年の記念事業として検討するように指示を出したのである。最初の構想から時間がかかったことが、結果的にフジテレビの記念事業の時期と重なり、莫大な費用の捻出も可能となったのである。沼田はこれを受けて、VSOE社からソビエト連邦(ソ連)への列車通過について確認を依頼したが、その結果は「オリエント急行のシベリア鉄道通過について、ソ連政府は拒否することはない」というものであった。同年5月にはVSOE社からベンソンが営業担当者とともに来日し、山之内と具体的な相談をするに至った。しかし、この時期は国鉄の分割民営化が間近になっていた頃で、フジテレビ側でも検討中ということもあり、いったん国鉄側での動きは中断した。 同年10月22日、フジテレビからは沼田とともに編成局長と部長が常務理事に就任していた山之内を訪れ、1988年秋に開局30周年記念事業として行いたいので、具体的な検討を進めるように依頼があった。これを受けて、同年10月30日には国鉄の関係者を集めて、翌1987年1月までに検討結果をまとめた。その結果は「技術的にはオリエント急行は日本を走れそうだ」というものであった。また、この段階で、国鉄が分割民営化されたあとはJR東日本が中心となって計画を進めることと決めていた。山之内は「ヨーロッパに行って実際に車両を見ないと細かいことが分からない」と考えていた が、この時期は分割民営化の準備のためそのような余裕はなく、国鉄側での動きは再度中断することになった。 ===具体的検討へ=== 国鉄分割民営化から間もない1987年4月16日、フジテレビの幹部がJR東日本の副社長となっていた山之内を訪れ、オリエント急行の日本運行についての計画は予定通りに進めるように依頼があった。折りしも、民営化直後のJR東日本では、「国鉄時代にできなかったことをやってみたい」と考えていた。これを機に再度計画が進められることになり、VSOE社からの車両の借り入れや、オリエント急行が通過する各国の運行についてはフジテレビが責任を持ち、JRグループでは日本国内での運行と乗客募集・販売を担当することになった。フジテレビ側ではスポンサー獲得のための営業説明が社内で行われるようになっていた。 同年10月にはオリエント急行の運行について、JRグループ6社が集まって会議が開催された。オリエント急行が日本に来るのは10月上旬で、日本からヨーロッパに返却されるのは12月下旬となるため、車両の改造についてはできるだけ短期間で行い、一日でも多く日本国内での運行ができるように検討が重ねられた。また、運行計画についても、国鉄時代の検討では4往復程度の運行で考えていたが、日本一周以外にも金沢・広島・京都などの観光都市へ何度も往復する「シャトル列車」を運行することになった。その後も運行計画や沿線警備、さらに販売と宣伝について検討が重ねられた。なお、この時点で技術的な課題についても検討、調整が行われていたが、まとめて後述する。 ===紆余曲折の末の契約=== ところが、この時期にVSOE社の社長が交代することになった。ベンソンがヘッドハンティングにより航空会社の社長に就任することになったためである。技術部長のスキナーは「フジテレビには迷惑をかけない」と言った ものの、実際に契約する段になり、VSOE社の会長であるシャーウッドは、車両保護の観点から「船で運べば安全で確実ではないか」と主張した。また、提示された車両のリース料も非常に高額となった。1987年の年末にシャーウッドが来日した際に、再度フジテレビから交渉したが、結局「VSOE社の提案する内容ではこの企画は実行できない」という結論に達した。 やむを得ず、沼田はイントラフルークとの交渉に切り替え、イントラフルークのグラット社長に相談した。グラットは沼田に対して「なぜ真っ先に相談してくれなかったのか」と怒ったという。グラットの対応は早く、1988年1月には正式にオリエント急行の日本運行の実施が決定、同年3月にはフジテレビとイントラフルークの間で正式に契約が結ばれた。 ==運行への準備== こうして、オリエント急行を日本で走らせるための契約は成立した。しかし、短期間の間に各国の通過交渉や技術的課題の解決、さらに放送計画やイベントの計画、スポンサーや代理店に対する説明などを行わなければならなかった。特に、収支予測については前例がないことで、沼田をはじめとするフジテレビ関係者を悩ませた。 ===通過各国との交渉=== 前述のとおり、通過各国との交渉はフジテレビが担当した。ただし、フランスからポーランド(当時・ポーランド人民共和国)まではイントラフルークが交渉を担当した。 当初は日本へ車両の船積みは上海から行う予定であった が、折り悪く1988年3月24日に上海列車事故が発生したため、中国との交渉に悪影響を及ぼした。結局、港湾施設の事情もあって、日本への船積みは香港で行うように変更した。しかし、香港側も、最初のうちは「そんな列車が来るはずはない」と信用せず、交渉は困難を極めた。また、フランス国鉄 (SNCF) の交渉も、最初の頃は「そんな列車を本気で走らせようとする人間がいるとは思えない」と取り合ってもらえなかったという。 一方、最も困難な交渉が予想されていたソ連は、ゴルバチョフ書記長の政権下でペレストロイカと称する改革方針を打ち出した直後であったため、比較的簡単に了解を得られた のみならず、グラスノスチ政策によって列車の空撮まで認められた。ドイツ民主共和国(東ドイツ)やポーランド人民共和国の対応も好意的であったという。 ===技術的課題の解決=== ヨーロッパ内であれば、古い車両を国境を越えて運転する機会は多く、技術的・法的な問題はほとんどなかった。一方日本国外の車両を日本で運行するには、確認申請を運輸省(当時)に提出し、許可を受ける必要がある。しかし、島国である日本の法律は、そもそも国外から列車が走ってくることを想定していなかった ため、JR東日本では運輸省の許可を得るために1年以上も話し合いや指導を受けた。またイントラフルークでは車両の図面も満足に整備されておらず、JR東日本の技術者を困惑させた が、イントラフルークのルネ・ブーベンドルフ技術部長によれば、製造から60年近くたち、その間に戦争もあったため仕方のないことであるという。JR東日本では同年5月から6月にかけて、スイスへ現地調査団を送り、実際に車両の調査を開始した。 ===車両の規格=== オリエント急行の客車は、車体の幅については幅2.9mでJRの車両よりも狭かった が、長さは23.5mと長い ため、日本での走行については曲線の通過時に車両限界を抵触する可能性がある。このため、建築限界測定用の車両を運行を予定している区間に走行させて確認した。その結果、支障箇所は約800箇所にも上り、そのうち約300箇所については線路の移設を行うことで対応させることになった。また、ヨーロッパではホーム高さが低いために出入台には昇降用のステップが設けられているが、日本国内では取り外すことになった ほか、各種装備品についても移設や交換を行うことになった が、荷物車の監視用の窓の小さなドームについては、オリエント急行のデザインに役立っていると考えられた ことから、日本の規格に収まる大きさの監視窓を製作して取り付けることになった。 ===軌間=== ヨーロッパと中国では、軌間(レールとレールの間の幅)は国際的な標準軌間である1,435mmである のに対し、日本の国内では狭軌の1,067mmであり、途中通過するソ連では逆に1,524mmの広軌である。これに対して、ソ連を通過するために必要な広軌用の台車は30個を準備することになり、日本国内では旧型客車に使用していたTR47形台車を改造して22個用意した。日本での台車の準備はJR東日本大宮工場が担当し、台車の交換は協賛企業の日立製作所が担当することになった。なお、オリエント急行の客車は日本の客車よりも1両あたり約10t重いため、台車の軸ばねと枕ばねを交換し、強度試験が行われた。 ===連結器=== オリエント急行の連結器はヨーロッパでの標準であるねじ式連結器である が、ソ連・中国・日本では自動連結器が使用されている ため、その国での客車の片側をねじ式連結器に変更した車両を用意し、控車として機関車との間に連結することにした。日本国内の控車については巻末の車両一覧を参照。 ===防火=== 日本の普通鉄道構造規則では、当時は内装に木材を使用することは火災対策上認めておらず、暖房や調理用に石炭を焚くことも禁止されていた。しかし、オリエント急行は内装に木材を多用している ばかりでなく、食堂車では石炭レンジが使用され、各車両の暖房は小型の石炭焚きボイラーを使用していた。これでは日本の防火基準には全く合わない。これに対して、各車両に放送装置と火災報知器を設置し、防火専任の保安要員を乗務させるという条件で特認を受けることになった。 ===照明用電源=== オリエント急行では、各車両の台車に車軸発電機を設けることで照明用の電源を確保していたが、台車を交換することによって発電機の位置が合わず使用できなくなる。このため、荷物車両にディーゼルエンジン駆動の発電機を搭載し、各車両へ供給することになった。プルマン車とバー車は直流24V、食堂車は直流48V、寝台車は直流72V と、使用電圧はまちまちであり、荷物車からは380V三相交流を供給し、各車両に整流器を設置した。 ===ブレーキ=== 列車の運行において最も重要であるブレーキについては、通過する各国とも自動空気ブレーキで統一されており、しかもブレーキ圧力も全ての国で揃っていた。このため、ブレーキに関しては空気指令の読み替えなどを行う必要は全くなく、ブレーキ管の接続部分の種類と位置を合わせるだけで対応できることになった。 ===その他=== シベリアを横断するという長距離運行に対応させるべく、荷物車については冷凍冷蔵庫の増強と厨房用水タンクの容量増大が施工された。車両の改造を担当する日立製作所では、JR東日本とともに設計検討を行ったが、図面だけでは分からない部分が多かった。このため、検証のために笠戸事業所へ車両1両を先に送ってもらい、イントラフルークとJR東日本の立会いの下で、1988年8月4日から実際の車両を使用して作業項目の把握と技術的な見通しの検証を行った。 一方、ソ連を通過するために必要な広軌用の台車については製作が間に合わず、当初は9月2日に予定していたパリの出発日を9月7日に変更せざるを得なくなった。ソ連用広軌台車はオリエント・エクスプレス’88での使用後もイントラフルーク社で保管されていた。 ==運行開始== ===パリから香港まで=== 1988年9月5日、NIOEの車両は本拠地のスイス・チューリッヒを出発し、パリまで回送された。9月6日にはパリで乗客と関係者を招待して出発記念パーティーが行われた。 9月7日、フランスのパリ・リヨン駅の発車案内には「オリエント急行東京行き」と表示され、構内アナウンスもオリエント急行の東京行きと告げていた。そして、オリエント急行の先頭には、映画『オリエント急行殺人事件』にも登場した230G形蒸気機関車が連結されていた。この蒸気機関車は博物館に保存されていた が、この列車のためにフランス国鉄が用意したのである。 山之内は、現地でのテレビ局のインタビューに対して、フランス国鉄が蒸気機関車を牽引機として用意したことについて「粋な計らい」と評した上で、「日本でも蒸気機関車がこの列車を引くでしょう」と発言した。日本でテレビ中継を視聴していたJR東日本の社員は、副社長である山之内のこの発言に驚いた。当時、JR東日本ではD51形蒸気機関車の復元作業に着手していたが、当初の目的であった横浜博覧会での運行が取りやめとなり、作業の進捗は遅くなっていたのである。JR東日本では急遽会議を行い、「日本でのオリエント急行の運行の最終期にD51形に牽引させる」という方向性が決まり、突貫作業でD51形の復元作業が進められることになった。 ともあれ、東京行きのオリエント急行は、パリ・リヨン駅を予定より5分遅れの9時40分に発車した。パリから香港までは約14,600kmあり、無事に到着した場合は「ひとつの列車が乗り継ぎなしで走った最長距離」としてギネスブックにも掲載されることになっていた。 パリから香港・東京までの乗客は、阪急交通社主催のツアーとして募集された。参加したのは37名(資料により36名 あるいは39名)で、その中には作家の安部譲二が含まれる。このほかフジテレビの撮影班 と、リポーターとして上月晃が同乗した。 蒸気機関車による牽引はモーまでであった。ベルギーと西ドイツは夜間に通過し、東西ドイツの国境であるマリエンボルン(ドイツ語版)からは東ドイツ国営鉄道 (DR) の保有する01形蒸気機関車が重連でオリエント急行を牽引した。途中、乗客の観光のためポツダムでは6時間停車したほか、東ベルリンのリヒテンベルクではこの列車の乗客を招待した晩餐会が開かれた。東ベルリンを9月8日の深夜に発車したオリエント急行はポーランドに入国したが、ポーランドのクトノ(英語版)からはポーランド国鉄のPt47形・Ty51形蒸気機関車が重連でオリエント急行を牽引した。東ドイツ・ポーランドとも、日中の運転区間がほとんど蒸気機関車による牽引であった。なお、乗客はソハチェフからワルシャワまではバスに乗り換えて、フレデリック・ショパンの生家を訪れている。 9月10日にワルシャワを出発したオリエント急行はソ連に入国し、ブレストで台車の交換作業を行い、同時に前3両、後1両の控車が連結された。4時間停車の予定であったが、作業が遅れたために1時間遅れでブレストを発車することになり、ここからモスクワまではソ連国鉄のP36形蒸気機関車がオリエント急行を牽引した。ここからはソ連人のシェフが乗り込み、食堂車でロシア料理を提供した。途中、モスクワで1日半、ノボシビルスクで半日、イルクーツクで2日ほどの停車時間が確保されていたが、これは乗客の観光や車両のメンテナンスを行うだけではなく、ブレストで交換した標準軌用の台車をオリエント急行よりも先に中国との国境に近いザバイカリスクに輸送しなければならないための時間稼ぎでもあった。標準軌用の台車は貨車で輸送され、途中でオリエント急行を追い抜いている。 ザバイカリスクで再び台車を交換したオリエント急行は、9月20日に満州里から中国に入国、控車も中国の車両(前2両、後1両)に交換された。この時に連結された控車は食堂車が含まれており、この食堂車で調理した中国料理をオリエント急行の食堂車に運んで提供した。中国国内では安達からハルビンまでの区間で前進型蒸気機関車がオリエント急行を牽引した。北京では2日間ほど停車し、その後は京広線・広深線・九広鉄路を経由し、9月26日午後2時45分に香港の九龍駅に到着した。 オリエント急行の客車は9月27日から28日にかけてパナマ船籍の貨物船「せき・まつやま号」に積み込まれ、9月29日に日本へ出港した。 ===日本での整備=== 日立製作所笠戸事業所では、オリエント急行の改造作業に向けて準備が進められた。 短期間に10数両の改造を行うための広い場所が必要であった が、生産ライン上には場所が確保できなかったため、やむを得ず別の場所に軌道の仮設やリフティングジャッキの整備などが行われた。また、オリエント急行の客車は重要文化財に相当する物件であると考えられた ため、綜合警備保障のガードマンを24時間体制で配置し、作業者や立入者は特定の腕章とヘルメットを着用することを義務付け、夜間照明の増設や鉄条網の新設を行う など、作業場所の警備対策を強化した。これらの準備が全て完了し、イントラフルークからも作業内容の承認を得られたのは、1988年10月4日であった。 オリエント急行の客車を載せた貨物船「せき・まつやま号」が日本の徳山下松港に入港したのは同年10月6日早朝で、台風の影響で1日遅れの到着であった。客車は艀によって陸揚げと工場内への搬入が開始された。 陸揚げされた車両はすぐに改造工事が実施されたが、同じ車両でも1両ごとに細部が異なっており、図面も揃っていなかった ため、実際の車両をチェックしながら行われた。客室に木材が多用されているだけでなく、調度品も大部分が可燃物であったため、火気取扱いには特に注意が必要であった。また、食堂車については事前情報よりも重量が重く、日本走行用の台車に車体を載せたところ、枕ばねが密着状態になってしまった。これではばねの役目を果たせない。やむを得ず、運行時期を考えれば不要と考えられる冷房装置を撤去することで対処した。 日本国内での運行にあたり、オリエント急行はJR東日本の品川運転所所属となった。各車両の連結面には、日本で運行するために必要な表記が日本語で表記された。イントラフルークのグラット社長は、この日本語表記については「日本に来た証として、ヨーロッパに戻った後もそのままにする」と表明した。 同年10月14日には全ての改造が完了し 工場内で編成単位では初の試運転が行われた。10月15日には報道陣や市民に公開され、10月16日には山陽本線下松駅から新下関駅まで本線上での試運転が行われた後、広島駅へ回送された。客車の前後には、控車として客車が1両ずつ連結された。 ===日本国内運行=== 1988年10月17日午後6時15分、オリエント急行はEF65形電気機関車に牽引され、広島駅7番ホームに入線した。パリからの乗客17名 に加え、フジテレビから招待された広島からの乗客(報道陣とJRグループ、フジテレビ、日立製作所などの関係者約60名)がこの列車に乗り込んだが、出発当日はドレスコードにより「ブラックタイ着用」が指定されていた。午後6時36分、オリエント急行は広島駅を定刻に発車した。これが、オリエント急行にとっては初めての日本での営業運行であった。翌日の10月18日午前10時30分、パリから約15,494 kmを走り、オリエント急行は定刻通りに東京駅9番ホームに到着した。東京駅到着後には、地下コンコースにおいて「世界最長距離列車」としてギネスブックへの認定式が行われた。またパリからの全区間を乗車した乗客17人に記念証が贈られた。 10月19日には、招待客を乗せて東京駅から山手貨物線経由で大宮駅まで試乗会が行われた。 オリエント急行を利用した日本国内ツアーはJR東日本または西日本旅客鉄道(JR西日本)・九州旅客鉄道(JR九州)が主催し、合計70コースが設定された。10月24日からの日本一周ツアーは、9泊10日(うち車中4泊)で1人88万8千円という高額旅行商品であった が、ツアー定員74名に対して約13倍の951名の申し込みがあり、抽選となるほどの人気であった。このほかの69コースは2泊3日で片道のみオリエント急行に乗車するもので、東京・上野から函館や金沢、長崎、京都、神戸など、大阪から東京、横浜など、博多から熱海、鎌倉などへ往復した。定員は各々40名から80名で、費用は1人16万2千円から26万8千円と、国内旅行としては異例の高額であった が、平均で定員の5.2倍の申し込みがあり、すぐに満員となった。中高年の夫妻に人気があったという。最も高倍率となったのは、上野から函館を片道は寝台特急「北斗星」利用で往復するコース(「ロマンチック函館」、16万7千円)で、23倍に達した。ツアーの総定員は約2900名で、総売上は約6億7千万円となった。 日本一周ツアーでは、青函トンネルを通過して北海道を札幌駅まで走行した ほか、関門トンネルを抜けて九州の熊本駅まで、また瀬戸大橋を渡って四国の高松駅まで乗り入れた。各ツアーで乗客が観光のため下車している間には、駅でオリエント急行の客車の一般公開も行われた。 日本国内運行でのオリエント急行は、ダイヤ設定上は急行列車として扱われた が、これは日本国内で使用する台車では最高速度が95km/hに限られたためである。また、オリエント急行の車内サービスでは大量の水を消費するため、担当するイントラフルーク側からは運行途中での給水を要求されていた が、日本の鉄道では途中駅での給水は一般的ではなくなっていたため、給水設備のある駅での停車時間確保に苦労したという。客車の改造内容のうち、厨房用水タンクの容量増大が施工されたのはこうした理由もある。また、日本国内の運行においてはホーム有効長の関係から前後の控車を含めて13両編成とした ものの、編成重量は650t近くになるため、勾配の急な区間では機関車を重連運用にして対応した。 日本国内走行時は、NIOE固有の乗員は、列車長、技術者、清掃担当、各寝台車の乗客掛などイントラフルーク社所属の15名と、食堂やバーを担当するワゴン・リ社の11名の計26名である。ただし後半のシャトル走行時には23名程度となった。このほかJR各社からは通常の運転士、車掌に加え、火災対策のための保安要員1名、通訳1名、ツアー添乗員2名が乗り込んだ。列車運行の最終的な責任者はJRの車掌であるが、車内放送は緊急時を除き行わないことになっていた。 日本での運行中には小さなトラブルも続出した。部品の劣化によりブレーキが緩まなくなったり、乗客がトイレの便器にペーパータオルを投げ込んだために詰まりが生じたり する事象が発生した。また、車両基地での給水では水圧が強すぎて反対側の給水口から水が漏れてしまい、不完全な給水になってしまったりすることもあった。しかし、こうしたトラブルも、運行終了の頃には収まるようになっていた。 12月19日20時55分頃には、新潟県内の上越線上で、2両目と3両目の間の連結器が外れる事故が発生した。列車は5時間後に運転を再開し、目的地の京都には約35分遅れで到着した。 足掛け3ヶ月にわたったオリエント急行の日本国内運行の最後のツアーとなったのは、上野駅から京都駅へ往復するツアーであった が、このツアーの出発日である12月23日、上野駅を発車するオリエント急行の先頭には、この日が初の営業運行となるD51形蒸気機関車498号機が連結されていた。この蒸気機関車は、パリで山之内が「日本でも蒸気機関車がこの列車を引く」と発言して以来、突貫作業で復元工事が行われ、11月22日には復元作業の完成式が行われていた。D51形はオリエント急行を大宮駅まで牽引した。また、上野駅から水上駅までと、翌々日の水上駅から上野駅までは、「お召し列車」専用の電気機関車であるEF58形電気機関車61号機がオリエント急行を牽引した。この列車は同年12月25日午前10時45分に上野駅に到着し、オリエント急行の日本国内の営業運行は全て終了した。 ===ヨーロッパへ返却=== 運行終了後、オリエント急行の客車は回送され、12月27日に下松駅に到着した。直ちに復元作業が行われ、翌1989年1月6日には通関手続きも完了し、1月7日から9日にかけて貨物船「プロジクト・アメリカ号」に積み込まれた。同年1月9日午後5時50分、沼田をはじめとして、オリエント急行の日本国内運行に携わった関係者が見送る中、「プロジクト・アメリカ号」は西ドイツのハンブルク港へ向けて出港した。 ==終了後== フジテレビでは1989年に新年のスローガンが発表されたが、その内容は「しろうとのくろうと 時代を作るフジテレビ」であった。これは、フジテレビの社長が関西テレビ放送の社長とゴルフをした際に「オリエント急行を日本で走らせるという発想は鉄道の専門家からは出てこない」という指摘を受けたことによるものであった。 その後、イントラフルークの経営難のため、車両は他社に売却された。日本を走った車両のうち、プルマン車No.4158DEは2004年以降は日本の箱根ラリック美術館にて公開されている。 また、D51498は2018年11月〜2019年3月までオリエントエクスプレス88年仕様で運転される予定 ==関連製品== このオリエント急行来日に際して、特別デザインの写ルンです、オレンジカード、シールなど多くの記念品が作られた。 ===模型化=== 1988年の来日時に青島文化教材社が機関車・客車をHOスケールのプラスチック製組み立てキットとして、レストラン・カー、プルマン・カー、ドイツ形蒸気機関車を発売している。また、スポンサーであった日立製作所が家電購入者向けに展示ケース入りのディスプレイモデルを配布している。これは4158号車を模したものだが、車両番号が企画の行われた年を示す”No.1988”になっている。 2008年にKATOによりNゲージサイズで日本での運行時の13両編成が、2014年にはパリ〜香港間を走破した大陸走破時の15両編成が、同年箱根ラリック美術館展示のプルマン車No.4158DEも単品で相次いでモデル化されている。 ==データ== ===パリ→東京の運行経路=== ====凡例 ==== ●…6時間以上停車、◎…24時間以上停車、★…台車交換パリ(リヨン)→モー→ランス→ケルン→マリエンボルン(ドイツ語版)→●ポツダム→●リヒテンベルク(ドイツ語版)(東ベルリン)→クトノ(英語版)→ソハチェフ→●ワルシャワ→テレスポル→★ブレスト→◎モスクワ→キーロフ→ペルミ→スベルドロフスク→オムスク→●ノヴォシビルスク→クラスノヤルスク→◎イルクーツク→●チタ→★ザバイカリスク→満州里→安達→ハルビン→◎北京→広州→深*11091*→香港(九龍)→(船舶で輸送)→★下松→(回送)→広島→東京 なお、書籍やインターネット上の「モンゴルを経由した」「フランクフルト中央駅を経由した」という情報は誤りである。 ===運行された車両=== パリ発車時点では客車15両に郵便車を増結していた が、日本運行ではホーム有効長の関係から客車は11両とし、前後に控車を連結した13両の編成とした。下記の車両のほか、日立製作所笠戸事業所で作業の検証のために寝台車(Lx形 3540号車)が1両日本に運び込まれた。 日本国内を走行した客車は以下の通り。順序は広島 ‐ 東京間走行時の東京方からの連結順である。諸元は日本国内走行用に改造後のものである。 またパリ発車時に連結されていたが、日本国内では運行されなかった客車は以下である。 なおイントラフルーク社は旧ミトローパの「ラインゴルト」用サロン車(No. 24507)も保有していたが、ソ連通過用の台車が作れなかったためオリエント・エクスプレス’88には加わっていない。 ===車両公開=== 日本国内では、以下の各地で車両の一般公開が行われた。 また、日本国内運行に加わらなかったプルマン車、寝台車、シャワー車の3両が11月3日から12月4日まで汐留駅跡地で展示された。 ===テレビ放送=== 放送日時は東京のフジテレビジョンのもの。 ===イメージソング=== ====松田聖子「旅立ちはフリージア」==== 作詞…Seiko/作曲…タケカワユキヒデ =堀内良平= 堀内 良平(ほりうち りょうへい、1870年12月24日(明治3年11月3日) ‐ 1944年(昭和19年)7月4日)は、日本の実業家、政治家、執筆家である。富士身延鉄道(現:身延線)、富士山麓電気鉄道(現:富士急行)、東京市街自動車(戦時統合を経て現在の都営バス)の設立と経営に尽力し、山中湖一帯の別荘地開発を推進した。このことにより、富士急行グループの事実上の創業者と見なされる。新聞記者であったこともあり、「堀内浩庵」というペンネームで執筆活動を行っている。また日蓮宗を深く信仰していた。 ==来歴== ===生い立ち=== 1870年12月24日(明治3年11月3日)、甲斐国東八代郡、のちの黒駒村(現:山梨県笛吹市)の名主・堀内藤右衛門(十三代目)の長男として生まれる。1883年(明治16年)、尋常小学校の高等科を卒業し、黒駒村役場の吏員となる。1886年(明治19年)、学問の道を志して、黒駒村役場を辞し、東八代郡南八代村(現:笛吹市八代町南)の加賀美嘉兵衛が開いた私塾「成器舎」で学ぶことを選んだ。1888年(明治21年)、結婚。 ===上京=== 1892年(明治25年)、家族の反対を押し切り、弟3人と共に上京。伯爵、烏丸光亨の邸宅に居候しながら、東京法学院に入学。その一方で、烏丸光亨と共同で駿河台に書生向けの寮を開き経営。また烏丸邸宅を借りて私塾を開いた。 ===山梨へ帰郷=== 郷里の黒駒で報知新聞の販売権を手に入れ、1897年(明治30年)に帰郷した。報知新聞の新聞店経営の傍ら、自身も報知新聞山梨支局長として記事を執筆した。また「育英塾」と名付けた私塾を開く。しかし、塾経営は不振であり、窮余の一策として御料林払下げ運動を行い、耕地の拡大を目指した。 御料林払下げ運動で住民らの信頼を勝ち取り、上黒駒郵便局長に就任。さらに周囲の推薦をうけて、東八代郡の郡会議員選挙に立候補し、当選した。 ===甲州葡萄酒への経営参画=== 1902年(明治35年)、甲州葡萄酒を経営していた浅尾長慶が、堀内良平に経営参加を打診した。堀内良平は、甲州葡萄酒社長に就任し、甲州財閥として名を知られていた小野金六へ協力を要請するため上京し、直談判に及んだ。また、弟の堀内伝重を甲州葡萄酒大阪支社長とし、1903年(明治36年)大阪で開かれた第五回内国勧業博覧会に出品をするなど営業活動を進めた。 ===再上京=== 1907年(明治40年)10月、山梨県会議員選挙に東八代郡から立候補し、当選した。しかし、12月になり県会選挙無効の訴訟が起きた。投票用紙を再検査した甲府裁判所は東八代郡選挙区の無効の判決を下した。このため補欠選挙が行われたが、堀内は立候補をとりやめた。 1908年(明治41年)、上黒駒郵便局長の職も辞し、再上京した。報知新聞に経済部記者として入社。この頃、同じ山梨県出身で甲州財閥の一人として鉄道経営を手広く行っていた根津嘉一郎と知遇を得た。また國民新聞の徳富蘇峰ともこの頃より交遊を持つ。 ===富士身延鉄道の設立=== 1909年(明治42年)、報知新聞を辞した。堀内は甲府から静岡県富士川までの鉄道事業を計画し、これまで築いてきた山梨出身の財界人との人脈を使って建設運動を始めた。根津嘉一郎はこの話に前向きであったが、小野金六は当初出資に対して否定的であった。時間をかけて、小野金六を説得した。 1911年(明治44年)3月、静岡県大宮町(現、富士宮市)から甲府市までの鉄道免許を鉄道院に提出。しかし、大宮町から加島村(現、富士市)の間には、富士鉄道が軽便鉄道を免許をもち、鉄道馬車を走らせていた。このため同区間の免許が下りなかった。このため、富士鉄道の買収交渉を進め、1912年(明治45年)になり富士鉄道は買収に応じた。同年4月、正式に富士身延鉄道が創立し、小野金六が社長、堀内は専務取締役に就任した。 1913年(大正2年)7月に加島(現:富士駅)と大宮(現:富士宮駅)の間が開通した。1915年(大正4年)には芝川駅まで開通。しかし、資金難で工事中断に追い込まれた。 ===東京市街自動車の設立=== 堀内は、東京市営の路面電車がいつも満員であったのに着目し、東京でのバス事業を画策。渡辺銀行の頭取、渡辺六郎に相談したところ、渡辺は社長就任を条件に、資金提供を行った。堀内は専務として経営陣に加わることになった。1917年(大正6年)に 東京市街自動車の認可申請を行った。 堀内は「軍用自動車補助法」を活用し、バス購入に際して補助金を得た。また広く株式を公募し、資金を集めた。1919年(大正8年)3月、新橋を起点に2路線を開業した。 ===富士身延鉄道の経営=== 1918年(大正7年)、鉄道敷設工事を再開し、芝川と十島駅間が同年8月に開通。同年10月には、内船南部駅(現:内船駅)まで開通。翌1919年(大正8年)甲斐大島駅まで開通。しかし同年8月の暴風雨で被害にあい、復旧工事に営業収入の三分の一を費やした。 1923年(大正12年)4月、小野金六の死去を受けて、堀内良平が富士身延鉄道の社長に就任した。また弟の堀内宗平を富士身延鉄道の支配人として招聘した。 1926年(大正15年)の株主総会で、鉄道の電化を決定、合わせて増資を実施した。1927年(昭和2年)6月、加島(現:富士駅)から身延駅までの電化が完了。また、同年12月に身延駅から市川大門駅まで開通。 当初、市川大門から甲府までの間は、鉄道省の官営事業として行われる計画であったが、堀内の請願により富士身延鉄道での敷設で認可が降りた。1928年(昭和3年)3月、市川大門駅から甲府駅まで全線開通を果たした。 ===最初の富士北麓の開発計画=== かねてより富士山麓の北側一帯の土地開発を考えていた堀内良平は山梨出身の財界人と共に計画を立案し、1916年(大正5年)に山梨県知事となった山脇春樹の協力を仰いだ。山脇もこれに同調し、富士山麓の山梨県側を一大観光地とすべく堀内に取りまとめ役を要請した。 1918年(大正7年)、甲府市内で富士山麓開発準備委員会が、山梨県知事の山脇春樹、小野金六など山梨の政財界人を招いて開かれた。計画では、西湖、精進湖、本栖湖にまたがる県有林を別荘地として開発。大月から船津までの馬車鉄道を電化し、本栖湖から富士身延鉄道の下部まで電気鉄道を新設するものであった。 しかし、県有林に別荘地を開発するという計画に、「開発動機に不純の影あり」として世論の反対が強く、県議会も反対した。このため山脇の計画は頓挫することになった。 ===東京市街自動車の不正経理問題=== 1927年(昭和2年)に発生した昭和金融恐慌の引き金になったのは東京渡辺銀行の経営悪化であるが、同銀行は堀内が設立と経営に携わっていた東京市街自動車の売上金を流用していた。また社長の渡辺六郎が東京市街自動車で約束手形を乱発して資金調達していたことが発覚。この後、東京市街自動車は経営不振から東京地下鉄道に吸収、さらに東京市営に合併移管されることになる。 ===富士山麓土地開発と富士山麓電気鉄道の開業=== 1922年(大正11年)10月、当時の皇太子(昭和天皇)が富士五湖へ巡幸。1924年(大正13年)には、富士北麓が名勝仮指定地に選定を受けた。 一度、世論の反対で頓挫した富士北麓の観光地開発であるが、1924年(大正13年)6月、開発に前向きな姿勢であった本間利雄が山梨県知事として着任した。本間は着任後まもなく、県庁内に「富士嶽麓開発調査委員会」を設置、「富士嶽麓開発計画書」を取りまとめた。 1926年(大正15年)、「富士山麓電気鉄道」と「富士山麓土地」が設立された。代表取締役に堀内良平が就任した。富士山麓電気鉄道は、大月から吉田まで敷設されていた鉄道をさらに延伸し、吉田から山中湖へ向かう線と吉田から本栖湖を経由して下部までの線を免許申請した。また、富士山麓土地は山梨県の県有林を借地した富士五湖一帯を、別荘地として開発する目的で設立された。 1927年(昭和2年)、富士山麓電気鉄道は大月と吉田の間ですでに軌道路線を持っていた「富士電気軌道」を買収。1928年(昭和3年)、吉田と鳴沢村の間に鉄道馬車を走らせ、吉田と精進湖の間にバス路線を持っていた「富士回遊軌道」を買収。同年12月、吉田で起工式が行われた。1929年(昭和4年)6月、新設の鉄道線が大月と吉田の間で開通した。また、同年8月に「山中湖ホテル」を開業。富士山麓土地は山中湖の湖畔の旭日丘に別荘地を開発し、販売を始めた。 1927年(昭和2年)、東京日日新聞と大阪毎日新聞(現毎日新聞)が共催で、「日本新八景」選定のためハガキ投票を企画した 。1976年に富士急行から刊行された『富士山麓史』によると「湖沼の部には山中湖と河口湖とそれぞれが独立した名称で名乗りをあげていた。この時、堀内良平の胸にひらめいたのが『富士五湖』の名であった。山中湖や河口湖の名では、まだ、どこの湖とも知れず、さらに投票が個々に分散して不利になる。(中略)良平は新聞社に行き『富士五湖』の新名称で投票することの了解を取るとともに、自社の株主に一株一枚の投票を呼びかけた。締め切りまでに富士五湖に寄せられた票は360万票、湖沼の部日本一となった」とある。審査の結果「富士五湖」は「日本二十五勝」に選定され、富士山麓の知名度向上に寄与した。 しかし、不景気の影響が大きく、経営状況は厳しかった。そこで山中湖付近に大学の学生寮を誘致。1935年(昭和10年)に富士ゴルフ場を開設。また1933年(昭和8年)には、1周1600メートルの「富士競馬場」を突貫工事で建設し、8月にナイター競馬を開催している。 このような増収策も経営を好転させるに至らず、「富士山麓電気鉄道」と「富士山麓土地」を合併し、山梨県の県有林を一部返還するなどの事業規模縮小を行った。 ===衆議院議員=== 1930年(昭和5年)、第17回衆議院議員総選挙において、江木翼からの出馬要請を受けて立憲民政党から山梨全県区に立候補し、初当選。しかし、第18回衆議院議員総選挙で落選。第19回衆議院議員総選挙で再び立憲民政党から立候補し、当選を果たした。 ===富士身延鉄道の国営化=== 富士身延鉄道は、当初の見積りよりも多額の工事費を費やし、また住民の少ない山間地を走るため運賃収入が伸び悩んだ。このため、運賃も高めに設定されていた。1931年(昭和6年)、中国大陸での軍事活動に必要な物資や兵員輸送のために鉄道の統制化が議論されるようになると、富士身延鉄道沿線の住民たちは「富士身延鉄道国営期成同盟会」を組織し、内務省や鉄道省に富士身延鉄道国有化の陳情を行うようになった。 この状況に、根津嘉一郎の番頭として富士身延鉄道の取締役を務めていた河西豊太郎などが内部から国営化を画策した。しかし、堀内は、鉄道私営論を展開しており、富士身延鉄道の国営化に際して、これが問題となった。最終的には、根津嘉一郎に引導を渡される形で、社長を辞任した。ただしこれは堀内の業績を顕彰した『富士を拓く』での記述であり、異説もある。 ===富士山麓電気鉄道のバス事業活動=== 1927年(昭和2年)、大月から河口湖にかけてバス路線を有していた「桂自動車」を富士山麓電気鉄道が買収。次いで、1928年(昭和3年)「大月自動車」を買収した。 1933年(昭和8年)、御坂国道バス株式会社を設立。甲府から石和を経由し吉田までの路線バスを開業した。また1937年(昭和12年)に「富士自動車」を買収、1939年(昭和14年)に「松田自動車」を富士山麓電気鉄道と合併。富士山を一周するバス路線を構築するとともに、小田原地域への進出も図った。 ===晩年=== 1942年(昭和17年)の第21回衆議院議員総選挙を前に、議員引退を決意。後継者として長男の堀内一雄が大政翼賛会の推薦を受けて出馬し、当選した。その後、執筆活動に励み『皇道と日蓮』、甲斐国八代郡上黒駒村出身で幕末の侠客であった黒駒勝蔵の伝記本である『勤王侠客黒駒勝蔵』を出版した。 1944年(昭和19年)7月4日の朝、代々木の自宅で倒れた。その日の夕刻に死去。死因は脳溢血。 ==人物== ===信仰=== 鎌倉時代、日蓮が堀内家に宿泊するなど関わりが強かったこともあり、堀内自身も日蓮宗の熱心な信徒であった。富士身延鉄道を設立するために奔走していた際に、出資に消極的であった小野金六を説得するため、日蓮宗の総本山である身延山久遠寺にでむき、鉄道敷設の賛意を取り付けた。小野金六は、身延山の日慈大僧正の懇望によって発起人に名を加えたといわれる。また、富士身延鉄道の営業収入が低迷していた際には、沿線にあった身延山詣による集客営業に力を尽くした。このため「商売となれば日蓮宗の太鼓も叩く」と揶揄された。身延山久遠寺の信徒総代となり、以降も一雄、光雄、光一郎が総代を務める。 ===黒駒勝蔵研究=== 幕末の侠客であった黒駒勝蔵について、堀内良平はその生涯にわたって熱心に調査を行った。黒駒勝蔵の生家は、堀内と同じ黒駒村にあり、親類の間柄であった。黒駒勝蔵の名誉回復を願ったものだともいわれる。 大正期、当時の流行作家であった松田竹の嶋人に資料を提供して、黒駒村を案内してまわり小説執筆を依頼した。これは大正13年から『都新聞』に『黒駒の勝蔵』として連載された。さらに堀内は、子母澤寛を山梨に招いて案内し、黒駒勝蔵に関する資料を提供したうえで、子母澤に黒駒勝蔵について長編小説執筆を依頼した。この依頼は堀内の死後、『駿河遊侠伝』として1962年に産経新聞で連載された。さらに子母澤は清水次郎長と黒駒勝蔵を対比させた『富岳二景』も発表している。 堀内自身は執筆した『勤皇侠客黒駒勝蔵』を「随筆程度」としており、同書は事実とフィクションを明確に区別した執筆姿勢でないことが指摘される。後年、黒駒勝蔵について小説を書いた今川徳三は、「『勤王侠客黒駒勝蔵』は堀内良平自身が直接書いたものではなく、別人が執筆したものだと聞いた」と書いている。また今川は『勤王侠客黒駒勝蔵』 について「資料不足のため、明らかにこじつけや誤りとみられる箇所がある」と指摘している。 一方で、同書には堀内が逸話・伝承などの聞き取りを行った関係者の実名など具体的な情報源が記されており、博徒研究において文献史料が少ない観点から、民俗資料としての価値も指摘される。 ===戦時体制についての態度=== 堀内良平の業績を顕彰した本である『富士を拓く』には、戦時体制時に木炭を代用燃料としたバスの研究を行った話、軍部に鉄道レールの供出を断った話、反軍演説を行い衆議院議員を除名処分となった斎藤隆夫を、その日に慰めながら斎藤の自邸まで送った話が記述されている。 一方、1941年、堀内は『皇道と日蓮』を書いている。『富士を拓く』では、同時期に執筆したとされる『勤王侠客黒駒勝蔵』について数ページに渡って詳しく解説を加えている一方で、『皇道と日蓮』については数行のみの記述である。『皇道と日蓮』の中で堀内は立正安国論の要点を「一、内は日本仏法を信条として、我が国民思想の統一強化を図り、一、外は之を世界万邦に及ぼして、全人類の教化を期した」ことにあるとした。さらに「(立正安国論には)八紘一宇の大詔に副ひ奉る『世界的日本教』の創意が明らかに見られる」と書いている。 ===山中湖別荘地開発の姿勢=== 山梨県庁側で富士山麓の開発を取りまとめていた「富士嶽麓開発調査委員会」は、その後「山梨県景勝委員会」に拡大され、顧問に林学の権威であった田村剛を招いた。田村は、自然を利用して国民一般を広く社会教育する場をと考え、富士山域を国立公園にする計画にあたって「地方平民的」で「國民を對象とし、あらゆる階級の利用に適する」施設の建設を求めた。 これに対して堀内は、軽井沢を理想とし、上流階級に限定した別荘地としての開発を考えていた。先の国立公園にする計画の質疑の中で、堀内は「学者村とか、役人村とか外人村とか区別した方が、さう云う気分の人が集まるから確かに便利であらうと思ふ。変つた階級の人が混合して集まらないようにしたい」と発言している。 1930年(昭和5年)に、山中湖の旭日丘に別荘23軒が完成すると、懇意にしていた徳富蘇峰に別荘を無料提供した。徳富蘇峰は、東京日日新聞に「富士便り」という富士山麓の開発する様子を書き記した記事を連載した。また、堀内は山中湖に学校村をつくり大学の合宿所の誘致を行った。次男の堀内義男の出身校である慶応義塾に土地を寄付した。また東京帝国大学(現:東京大学)の学校寮をはじめ、千葉医科大学(現:千葉大学医学部)、麻布中学校などが学校寮を建てた。 このような営業努力の結果、山中湖には若槻禮次郎、松井石根などが別荘を購入した。このため堀内の試みはある程度達成したと言える。 ===富士身延鉄道社長辞任=== 堀内は1931年(昭和6年)に富士身延鉄道社長を辞任した。この原因について、堀内良平の業績を顕彰した本である『富士を拓く』では、富士身延鉄道の国有化に反対の立場をとったため、根津嘉一郎から辞任を要求されたと書かれている。 しかし異説もある。関東大震災により経営不振に陥った國民新聞は、1926年(大正15年)5月、根津嘉一郎の出資を受けて、徳富蘇峰との共同経営となった。このとき、徳富蘇峰に根津嘉一郎を紹介した一人が堀内良平であった。また堀内良平は國民新聞の新経営陣の一人として取締役に就任した。しかし根津と徳富の間に編集方針をめぐって確執が生じ、1929年(昭和4年)に徳富は社長の座を追われることになる。堀内は懇意にしていた徳富蘇峰を支持したため、根津から富士身延鉄道の社長を追われたとするものである。 ==家族・親族== 堀内良平の業績を顕彰した本である『富士を拓く』によると、「堀内家は甲斐源氏の祖である源清光にまで遡ると、清光の子、逸見光長の系譜が堀内を名乗るようになった」としている。また同著には、身延山久遠寺の記録を引用し、鎌倉期の1282年(弘安5年)、病を得て湯治に向かうため身延山を下りた日蓮が堀内家に立ち寄ったとの記載もある。幕末の侠客であり、堀内が伝記本を執筆した黒駒勝蔵とは生家が近く、親類の間がらであった。 ===系譜=== ==墓所・顕彰碑== 身延山久遠寺の寺平身延山聖園。銅像と墓碑が併設されている。 ==著書== ===自著=== 『山藍新説』 1897 有隣堂『銃後の護り軍事扶助法』 1937『皇道と日蓮』 1941 文昭社『勤王侠客黒駒勝蔵』 1943 軍事界社 (ペンネーム「堀内浩庵」) ===編集=== 『聖母河畔の十六年』 1926 =天文時計= 天文時計(てんもんどけい)とは、天文学的な情報、例えば太陽、月、十二宮の星座、時には主要な惑星の相対的な位置などを示すための特殊な装置と文字盤を備えた時計である。 ==定義== 「天文時計」の語によって示されるものに厳密な決まりはなく、時刻の他に何らかの天文学的情報が表されているもの全般が含まれる。それらの情報には天球上の太陽と月の位置、月齢、黄道上の太陽の場所に対応する星座、恒星時、さらには食を示す月の黄道との交点や回転する星図など、様々なものがある。 天文時計には普通、天動説に基づいた太陽系があしらわれている。文字盤の中央には地球を表す円盤や球が置かれていることが多く、これが同時に太陽系の中心を示している。太陽はしばしば金色の球で表され、24時間で地球のまわりを1周する。このように表現することで日常的な体験、あるいはコペルニクス以前のヨーロッパにおける哲学的世界観と一致させている。 ==歴史== 11世紀に宋朝の技術者蘇頌は水流と脱進機を動力とする天文時計を作った。 ヨーロッパで初期の時計がどのように開発されていったのかはよくわかっていないものの、一般には1300年から1330年ごろには既に機械仕掛けの時計(水ではなく脱進機を用いるもの)が存在したとされている。これには交通機関などの運行や公的な行事が行われる時刻を知らせることと、太陽系の動きを模することとの2つの機能が与えられていた。このころ天文学者や占星術師はアストロラーベを使っており、彼らはこれを機械化して自動的に動作する太陽系の模型を作ろうと考えたことから、必然的に後者の機能が発達することになった。 セント・オールバンス(St Albans )の「ウォリンフォードのリチャード」によって1330年代に、そしてパドヴァのジャコポ・デ・ドンディ(Jacopo De’Dondi )、ジョバンニ・デ・ドンディ(Giovanni De’Dondi )父子によって1350年代に発明された天文時計は、現存していないものの製法や設計に関する詳細な記録が残されており、それらに基づいて再現されている。ウォリンフォードの時計には太陽、月(月齢・月相・交点)、恒星、惑星に加えて「幸運の車輪(Wheel Of Fortune )」とロンドン橋での潮汐が配されていた。デ・ドンディの時計には7つの面があり、それぞれにそのころ知られていた惑星が割り当てられていた。これら2つの時計は他のもの同様、設計者が意図したほど正確ではなかった。ギア比は正確に計算されていたが、実際には摩擦の影響があり、また製造技術も未熟であったことから、理想的には動作しなかった。 18世紀になり天文学への興味が高まると再び天文時計が関心を集めた。哲学的な意味よりも振り子で制御された時計を用いることによって得られる正確な天文学的情報が求められるようになった。 ==よく知られる天文時計== 以下に有名なものの例を挙げる。 ===ストラスブール=== ストラスブール大聖堂には14世紀から残る3つの天文時計が納められている。1つは1352年から1354年の間に作られたもので、16世紀初頭に止まっている。2つめは、その後1547年から1574年にかけて Herlin, Conrad Dasypodius、ハプレヒト兄弟(The Habrecht Brothers )らによって作られた。これは1788年あるいは1789年に動かなくなった(一度にでなく、各部品がだんだんと止まっていった)。50年後、新しい時計がジャン=バプティスト・シュウィルジュ(Jean‐Baptiste Schwilgu*9621* )と30人の職工によって作成された。これは2つめの時計が入れられていた容器に収められている。多くの天文学的・暦法的情報が表現されており、人形も取り付けられている。また復活祭の日を算出するために必要なコンプトゥスの機能を持つ、最初の完璧な機械であると考えられている。詳細はストラスブール大聖堂#天文時計を参照のこと。 ===プラハ=== 最も有名な天文時計のひとつは、チェコ共和国の首都プラハにあるオールド・タウン・ホールの時計であり「プラハのオルロイ」(Prague Orloj )の名でも知られる。中核となる部分は1410年に完成した。時を打つ骸骨の姿をした死神など毎時に動作する4つの彫像が置かれている。さらに1時間ごとに時計上部の窓から使徒が姿を現し、正午には12体全ての像が揃って登場する。1870年には暦を表す図板が時計の下に加えられた。 第二次世界大戦の間、ナチスによる侵攻の際に大部分が破壊された。部品のほとんどを守るため努力した市民たちは英雄として賞賛されている。その後1948年までかけて徐々に復旧されていった。1979年、再度の清掃と修復が行われた。伝説によれば、もしこの時計を粗末に扱い、正しく作動させることを怠れば、都市に苦しみがもたらされるとされている。 ===オロモウツ=== チェコ共和国の東部に位置し、かつてモラヴィアの首都であったオロモウツの街の中心にも、特徴的な外観を備える天文時計がある。 ===蘇頌の「宇宙機関」=== ロンドンのサイエンス・ミュージアムには北宋の蘇頌が1092年に作った「宇宙機関」の縮小模型が所蔵されている。「宇宙機関」は高さおよそ10メートルの巨大な天文時計で、水流と水銀によって間接的な動力を得ていた。 ===ルンド=== スウェーデンのルンド大聖堂(英語版)にある Horologium Mirabile Lundense は14世紀の終わりに製作された。1837年に倉庫にしまわれたものの、1923年に元に戻された。教会の中の小さなオルガンから賛美歌102番「諸人声あげ(In Dulci Jubilo )」が流れる間、東方の三博士とその召使いをかたどった6体の木像がマリアとイエスのそばを通り過ぎる仕掛けが施されている。 ===コペンハーゲン=== コペンハーゲンの市庁舎には完全な形の天文時計があり、ガラス製の展示ケースに入れられている。天文学愛好家でもある時計職人のイェンス・オルセン(Jens Olsen )によって50年以上かけて設計されたものである。コンプトゥスなどいくつかの部分は、彼が研究していたストラスブールの天文時計から着想を得ている。1948年から1955年にかけて組み立てられた。1995年から1997年の間に補修作業が行われた。 ===ラスマス・ソーネスの時計=== ノルウェー人ラスマス・ソーネス(Rasmus S*9622*rnes )によって設計・製作された4つの天文時計のうち最後の1つは、これまで知られているこの種の時計の中でおそらく最も複雑なものであるとされており、精巧な機械が 0.70 × 0.60 × 2.10 メートルというさほど大きくない容器の中に詰め込まれている。十二宮上の太陽と月の位置、ユリウス暦の暦表、グレゴリオ暦の暦表、恒星時、グリニッジ標準時、夏時間とうるう年つきの時計、太陽・月の周期の補正、食、日出・日没、月齢、潮汐、太陽黒点の周期、さらに248年で1周し、25800年ごとに(地球の歳差により)極食(Polar Ecliptics )を起こす冥王星を含むプラネタリウムが含まれている。全ての歯車は真鍮製で、金めっきが施されている。文字盤は銀めっきである。 ソーネスはまた、必要な道具類も自作し、彼自身が行った天体観測に基づいて製作を行った。ソーネスの時計は1人の職人による手作りの芸術品としては最後の天文時計であると考えられている。その性能と正確性のすばらしさから、ソーネスによる電気振り子の仕掛けは機械からデジタルへの時計の変遷の象徴とされている。イリノイ州ロックフォードのタイム・ミュージアムからシカゴ科学産業博物館へと渡ったのち2002年に売却され、その後どこにあるのかは知られていない。ソーネスの3番目の時計、彼の道具類、特許、図画、望遠鏡などはノルウェー、サルプスボルグのボーガリッセル博物館(Borgarsyssel Museum )で展示されている。 ===万年自鳴鐘=== 嘉永4年(1851年)に東芝の創業者である田中久重によって製作された万年自鳴鐘は広く知られている機械式の置時計である。1000点以上の部品で構成され、不定時法にも対応しており、曜日、時刻、月齢、十干十二支、二十四節気を表示する。 ===その他=== ヨーロッパ諸国には天文時計が数多く存在する。ウェルズ大聖堂、エクセター、オタリー・セントメリー、ウィンボーン・ミンスター、ハンプトン・コート宮殿、シオン、ヴィンタートゥール、クレモナ、スプリト、マントヴァ、ブレシア、シュテンダール、ロスキレ、ミュンスターなど多くの都市で天文時計を見ることができる。 ルーアンの大時計(Gros Horloge )はよく知られる14世紀の天文時計であり、大時計通りにある。ベルンのチェートクロッケ(Zytglogge )も有名で、15世紀からスイスの首都に置かれている。リヨンにあるサン・ジャン大聖堂にも14世紀の天文時計が設置されている。 ドイツのエシュリンゲン・アム・ネッカーにあるフェスト(Festo )社では、ハンス・ショイレンブラント(Hans Scheurenbrand )がハルモニア・ムンディ(Harmonices Mundi 、ヨハネス・ケプラーの著書『世界の調和』からとっている)という名の時計を製作した。これは天文時計を技術的に洗練したものと世界時計に74片の音板からなるグロッケンシュピールを組み合わせたものである。 ===置き時計=== 展示品として見栄えが良いことから、様々な卓上天文時計が作られている。17世紀のアウクスブルクでは、一人前の時計職人となるには「一級品」と呼べる非常に精巧な卓上天文時計を作らねばならなかった。ロンドンの大英博物館などでその例を見ることができる。 パリ近郊のヴェルサイユ宮殿にはロココ時代の壮麗な卓上天文時計があり、これは時計職人や技術者が12年かけて製作したものである。1754年にルイ15世に献上された。 ===腕時計=== 近年では独立した時計職人のクリスティアン・ファン・デル・クラウーがアストロラーベを模した腕時計である「アストロラビウム」(Astrolabium )や、「プラネタリウム2000」(Planetarium 2000 )、「エクリプス2001」(Eclipse 2001 )、「リアル・ムーン」(Real Moon )を作っている。ユリスナルダンも「アストロラビウム・ガリレオガリレイ」(Astrolabium Galileo Galilei )、「プラネタリウム・コペルニクス」(Planetarium Copernicus )、「テリリウム・ヨハネスケプラー」(Tellurium Johannes Kepler )といった天文腕時計を販売している。 日本における特徴的な天文腕時計としては、シチズンが開発した「ムーンサイン」(1984年〜)及び「コスモサイン」(1986年〜)というシリーズが知られている。 ムーンサインには2枚の回転盤のずれによって月齢と月の位置を示すアイデアが採用されている他、1.70等以上の恒星22個と天の川を表示する星座早見盤等が内蔵されている。コスモサインは腕時計としては世界初の自動式精密星座速見盤が採用されている。 ==読み方== 細部は個々に異なるが、およそ以下のような共通する特徴を持っている。 ===時刻=== ほとんどの天文時計は24時間式の文字盤を備えており、外周にIからXIIまでの番号が2組振られている。現在の時刻は先端に金色の球か太陽の絵が付けられた時針で示される。正午は文字盤の上方、深夜は下方にあてられる。分針が使われることはまれである。 時針は同時に太陽の(北からの)方位角と高さも示す。文字盤の上は南を、2個のVIは東と西に対応する。また文字盤の上方は天頂を、2個のVIを結ぶ線は地平線を意味する(北半球で用いられることを意図した天文時計の場合)。春分・秋分の時にはこの割り当てはほぼ正しくなる。 もしXIIが文字盤の上方にない場合、あるいは数字がローマ数字でなくアラビア数字で振られている場合、いわゆるイタリア時(別名ボヘミア時、古チェコ時)が表されている可能性がある。この方式では日没を0時として、夜から昼に向かって時間を数えていき、次の日没で24時を迎える。 上に画像を掲載したプラハの時計では、時刻は太陽と指で示され、ほぼ正午(ローマ数字のXII)、もしくは第17時(アラビア数字によるイタリア時)である。 ===暦表と十二宮=== 通常一年は十二宮を表す記号によって表現され、24時間の文字盤の内側に同心円として、または別の場所に小さな円として配置される。この円は天球上の太陽の通り道である黄道、あるいは惑星の軌道や地球の軌道面を映したものである。 地球の自転面はその公転面に対して傾いているため、黄道面を時計の盤上に投影する際には中心をずらし、形を歪める。立体投影図を作成するための投影点としては北極点を用いる。これに対し、アストロラーベでは南極点がより一般的である。 黄道盤は23時間56分(うるう時間)で完全に1回転するが、そのためだんだんと時針からずれていく。 日は時針か太陽が黄道盤を横切っている点から読み取ることができる。黄道盤は現在の星座、すなわち黄道上の太陽の場所を示している。横切っている点は1年をかけて黄道盤上をゆっくりと動いていき、太陽は星座の間を渡っていく。 上のプラハの時計の画像では、太陽はちょうどうお座を出ておひつじ座(ヒツジの角の記号)に入った所である。ここから、現在の日は3月下旬から4月初旬であるとわかる。 十二宮を示す盤が時針の内側にあるならば、この盤自身も時針の動きにあわせて回転する。1年で1周する、十二宮上の太陽の位置を示す針が別に存在する場合もある。 ===月=== 番号が1から29または30まで振られている盤あるいは輪は、月齢を示すためのものである。新月のときを0として満ちていき、15前後で満月となり、29または30まで欠けていく。回転する球や黒い半球、もしくは下部が隠される黒い弧を描いた窓で月相が示されていることもある。 ===時間線=== 日中と夜間がそれぞれ12時間ずつに割り当てられていることから、夏時間との差異(Unequal Hour )が生じる。すなわち、ヨーロッパでは夏は日中が長く夜が短いため、日中の12時間は夜の12時間よりも長い。同様に、冬は日中が短く夜が長い。このような差異は中央から放射状に伸びる弧で補正されている。通常時間は文字盤の外側の時をそのまま読み、夏時間は時針が横切っている弧をたどり、そこに示されている数字を読む。 ===星の相=== 占星術師たちは太陽や月、惑星が天球上にどのような配置で並んでいるかということを重視した。いずれかの惑星が三角形、六角形、四角形の場所に来ていたり、対面や隣に位置していたりすると、対応する星の相を適用し、それが重要であるかどうかを導き出した。いくつかの天文時計には中心となる文字盤の内側に一般的な星の相、例えばその相を表す三角形、四角形、六角形などの記号を配した線や、合・衝を意味する記号が描かれている。アストロラーベにはそれぞれの惑星ごとの各種の星の相を付属させることができる。一方、天文時計の場合では星の相を示す線を回転させることは難しいため、通常太陽または月の星相のみが記されている。 上に示したブレシアの時計では、盤の中央に描かれた三角形、四角形、星印が(おそらくは)月の星相(第3、第4、第6相)を表している。 ===竜針=== 白道(月の公転軌道)は黄道面(地球の公転面)上にはなく、2点で交わる。月は1か月に2回黄道面を横切る。1回黄道面から昇ってきたあと、それからおよそ15日経つと面の下に沈む。それらが起こる2つの位置は、それぞれ月の昇交点、降交点である。太陽や月の食は月がこれら交点の近傍に位置する時にのみ起こる。天文時計には月の交点の位置を追跡するための文字盤上を横切る長い針をもつものがある。この針は「竜針」と呼ばれ、19年で1周する。竜針が新月と重なると月が地球や太陽と同じ面にあることを示し、これによりその日のある時間帯には地球上のどこかで食が観測できることを意味している。 ==参考文献== North, John (2005). God’s Clockmaker, Richard of Wallingford and the invention of time. Hambledon and London.S*9623*rnes, Tor (2003, 2005). The Clockmaker Rasmus S*9624*rnes. Borgarsyssel Museum, Sarpsborg Norway, 2003 Norwegian edition, and 2006 English edition.King, Henry (1978). Geared to the Stars: the evolution of planetariums, orreries, and astronomical clocks. University of Toronto Press. ==関連項目== アストロラーベアンティキティラ島の機械太陽系儀天球儀プラハの天文時計プラネタリウムトルクエタム万年自鳴鐘 =カール14世ヨハン (スウェーデン王)= カール14世ヨハン(スウェーデン語: Karl XIV Johan, 1763年1月26日 ‐ 1844年3月8日)は、スウェーデン=ノルウェー連合王国の国王として1818年から死去する1844年まで在位した。ノルウェー国王としての名はカール3世ヨハン(ノルウェー語: Karl III Johan, 1763年1月26日 ‐ 1844年3月8日)である。現代まで続くスウェーデン王家ベルナドッテ朝の始祖であり、彼の血は子孫を通じてノルウェー王家、デンマーク王家、ベルギー王家、ルクセンブルク大公家、ギリシャ王家にも受け継がれている。フランス革命・ナポレオン戦争期のフランスの軍人・政治家ジャン=バティスト・ジュール・ベルナドット(フランス語: Jean‐Baptiste Jules Bernadotte)としても知られ、元はフランスの平民階級出身者であった。ナポレオン・ボナパルトのライバルと目された人物であり、1810年にスウェーデン議会によって同国の王位継承者に選任されたのち、第6次対仏大同盟の立役者となってナポレオンの欧州における覇権に止めを刺したことは、ナポレオンをして「世界の運命を掌中に収めたフランス人」「我らが失墜の主たる要因のひとつ」と言わしめた。 ==概要== 1780年、ベルナドットはフランス王国海軍に兵士として入隊した。長い間下士官として軍務についた後、フランス革命の勃発により急速に昇進を遂げ、1794年には将軍に任命される。革命戦争期には幾つもの会戦と戦役にて際立った働きを見せ、短期間だがウィーン大使や陸軍大臣も務めた。1799年のブリュメール18日のクーデターでフランスの政権を握ったナポレオンに対しその後も反対姿勢をとったが、ナポレオンが皇帝に即位した1804年に和解し、帝国元帥に任命される。そしてナポレオン戦争に従軍しアウステルリッツの戦いや、ハレとリューベックの追撃戦などで戦功をたてる。また占領地の統治に関しても穏健かつ卓越した手腕を発揮した。しかしながら、ベルナドットとナポレオンの関係は緊張を孕み続けた。 1810年、ベルナドットはスウェーデン議会によってスウェーデン王位継承者に選任される。カール・ヨハンと改名し、老体のカール13世に代わって摂政王太子としてスウェーデンの国政の舵取りを行うようになった。カール・ヨハンが選出された主な理由は、1809年の戦争でロシアに割譲されたかつての領土フィンランドの奪還を目的として、フランスとの関係を強化するためであった。しかし、新王太子はフィンランドの奪還も、その後の維持も不可能であると考え、政策の転換を計った。そして1812年1月にフランス軍によってスウェーデン領ポメラニアとリューゲン島が侵略・占領された事を契機として、ロシア、イギリスと同盟を結んでナポレオンに対抗する外交方針を採用した。そこでは、ナポレオンに戦いを挑む報酬としてノルウェー(当時はフランスの同盟国デンマーク領)を獲得する事で、フィンランドに代わる失地回復を実現する取り決めが成立した。1813年、スウェーデンは第6次対仏大同盟に参加し、カール・ヨハンは連合国軍北方軍総司令官として解放戦争に参戦した。ライプツィヒの戦いでナポレオンに対し決定的な勝利を収めた後にデンマークを制圧し、1814年1月14日にキール条約が締結によってノルウェーはスウェーデン国王に割譲されることになる。その後5月17日、ノルウェーは独立を宣言し、デンマーク王フレゼリク6世の従弟クリスチャン・フレゼリク(のちのデンマーク王クリスチャン8世)が国王に選出されるものの、カール・ヨハンはこれを認めず、軍を率いて屈服させた。8月14日にモス条約(英語版)が締結されて、ノルウェーの自治権と独自の憲法を掲げることを承認した上で、スウェーデンとノルウェーは同君連合となり、カール13世を君主として推戴した。 1818年、カール13世の死去によって、カール・ヨハンはスウェーデン=ノルウェー連合王国の王位につく。対外的には、ロシア、イギリスという2大国の間に立って緩衝帯の役割を果たすことで勢力均衡を図ると共に、領土をスカンジナビア半島という自然国境内に保ち、欧州大陸のいかなる紛争にも関与しないことで、自国の安全と平和を確保する政策を取る。内政面においては経済の改善に注力し、財政の健全化と債務の削減を実現するかたわら、産業の振興、イェータ運河に代表されるインフラや、教育施設・医療機関など社会資本の整備を推進した。このように国内に物質的な豊かさをもたらす一方、1830年代以降、議会改革に関して保守的な姿勢を見せ、改革派としばしば対立した。しかしながらその治世の間、両国は内外とも安定と平和を保っていたため、彼の王朝が深刻な危機に瀕することは無かった。カール・ヨハンが打ち出した政策は、武装中立、高福祉、高教育など現代にも通じるスウェーデンの近代化の萌芽となる。 ==生涯== ===生い立ち=== ベルナドットは1763年1月26日にフランス南部ベアルン地方のポーにて5人兄弟の末子として生誕した。父親はアンリ・ベルナドットで母親はジャンヌ・ド・サン‐ジャンと言った。未熟児として生まれたため、洗礼式は後日に延ばされた。当初の名前はジャン・ベルナドットであったが、その後洗礼者ヨハネに倣って、バティストが加えられた。生まれてからすぐに乳母の下に送られ、その家で一年を過ごしている。父親のアンリ・ベルナドットは街の裁判所に勤める事務弁護士で、ベルナドットが17歳の時に他界している。母親のジャンヌ・ド・サン‐ジャンは近郊の名家の出身であった。ベルナドットと実母の関係はどこかよそよそしいところがあったらしく、彼が軍に入隊したあと実家を再訪したのは一度きりであった。 ベルナドットは地元のベネディクト会派の修道院に通って教育を受けた。15歳になると、地元の法律家のところへ見習いとして働きに出ている。法律家の家に生まれた事と短期間だが知的訓練を受けた事が、後年のベルナドットの優れた行政管理能力の下地となったと言われる。 ===初期の軍歴=== 1780年3月に父親が死去したことで、一家は経済的苦境に陥ることになった。同年9月、ベルナドットはフランス王国海軍の連隊に入隊する。ベルナドットが所属した連隊は、コルシカ、ブザンソン、グルノーブル、ヴィエンヌ、マルセイユ、そしてレ島などに配備された。 1785年6月16日、擲弾兵から伍長へと昇進、そして同年8月軍曹に至った。背が高く細身のスマートな風采をしていた事から、『美脚軍曹』とあだ名されるようになる。1784年に連隊は新しく任命された大佐を迎えており、彼は几帳面な働きぶりのベルナドットに目をかけ、新兵の教練や軍服の調達、剣術の師範といった任務を与えている。大佐のアンベール侯爵ルイ・ド・メルルはフリーメーソンの会員で、その影響でベルナドットもフリーメーソンに入会したという。 1788年6月、ベルナドットの連隊がグルノーブルに駐留していた時に、そこで起きた市民の暴動の制圧にあたった。ベルナドットはちょうど曹長に昇進したばかりで、ここで初めて実戦を経験した。この暴動は後にフランス全土を覆う革命につながっていく動乱の先駆けだった。 1790年2月、当時のフランス王国軍の下士官としては最高位の連隊付副官になったが、もしフランス革命が起きず、下士官と士官階級の間の身分差に基づく区別が一掃されなければ、これ以上の昇進は期待できなかったと考えられる。この頃、革命精神に触発された王国軍所属の兵士たちの脱走や蜂起が相次いだが、ベルナドットは軍務に従い続けた。1790年、革命の熱気が渦巻くマルセイユに駐屯していた時、上司の侯爵が貴族に反感を持つ民衆の怒りを買いリンチに遭いかけたが、同僚と共に救出している。また、連隊がマルセイユ近くのランブクの町に駐留していた時には、革命に共感する兵士たちが蜂起するのを食い止めたという。 同年夏、連隊はロシュフォール郊外のオレロン島に移動した。1791年、連隊はレ島にて第60歩兵連隊へと改編され、ベルナドットはそこで1年を過ごした。 ===第1共和政および革命戦争時代=== ====ライン方面軍〜サンブル・エ・ムーズ軍==== 1792年、全ての王国軍が国民軍へと編成されると共に、ベルナドットも王国海軍の連隊での12年間の軍務を終え、新たに中尉に任命され、ブルターニュに配備された第36連隊に配属された。すぐさま彼の連隊はライン方面軍(英語版)に組み込まれ、外国との戦いに赴く事になる。ライン方面軍はダントンの提唱する自然国境論に基づいてライン川を制圧目標とした。この自然国境論はベルナドットの領土認識に深い印象を与え、後年彼の政策上の指標となったと指摘される。連隊が東方に向かって行軍しているその時、革命は新たな段階に移行して、国民公会からの派遣議員が軍隊を監督するようになった。ヴァルミーの戦いでフランス軍が勝利を収めた後、ベルナドットの連隊はビンゲン・アム・ラインに配備され冬を越した。 1793年の春、プロイセン軍がライン川を渡河して進軍して来たことでフランス軍は押されて後退した。この頃スペインが参戦して来たため、ベルナドットはピレネー方面軍に配属されるよう、故郷ポーの兄に口利きを頼んでいる。兄への手紙の中で、ベルナドットは1793年5月にリュルツハイムにてオーストリア軍の反撃を受けた際に、いかに彼がパニックを起こした志願兵たちを防ぎ止めたか描写している。これは、ベルナドットがその後幾度も混乱した兵士たちを押しとどめ、鼓舞して軍隊を立て直した最初の事例のとなった。この後、急速に昇進を重ねていく。シュパイアーとマインツの戦いの後、兵士の選挙によって1793年7月に大尉に昇進し、わずか3週間後には中佐に任命された。この昇進はベルナドットが属する第36連隊がラインからベルギー沿岸に移動している時になされた。ウェルヴィクとメーネンにてイギリス軍と交戦し、イギリス軍の基地があるオーステンデとの連絡線を脅かした。 1794年4月4日、大佐に昇進し、更にラザール・カルノーの軍制改革の結果として、第71半旅団の指揮権を委ねられる。その後ベルナドットの部隊はサンブル・エ・ムーズ軍(英語版)へと編入された。このサンブル・エ・ムーズ軍にてネイ、クレベール、ジュールダン、マルソー(英語版)らと親しくなる。最初の小競り合いは不首尾に終わり、ベルナドットは部下の兵士たちが敵の前から逃げ出そうとするのを食い止めねばならなかった。ベルナドットの部下を鼓舞し規律を保つ才能は派遣議員のサン・ジュストの目を引き、彼から将軍への昇進を持ちかけられたが、この時は「その高位に見合う才能を備えていない」と辞退している。その後1794年7月26日のフリュールスの戦い(英語版)にて、彼の部隊は際立った働きを見せ、クレベールの後押しを得て少将に昇進する。同年10月のマーストリヒトの攻囲戦(オランダ語版)とアルデンホーフェンの戦い(英語版)の後、10月22日にベルナドットは革命軍の最高位にあたる中将に任命された。 ベルナドットは一般民衆を尊重し、軍隊によって被害を被らないよう配慮をしていた。「規律が無い軍隊は勝利を手にすることはできても、その勝利を活かすことができない」を信条として、部下の兵が略奪や暴行を行わないよう厳格な規律を敷いた。1795年の戦役にてベルナドットが記した書簡からは、彼が兵士たちの食料補給のこと、傷病兵の世話についてなど、部下の福祉にも気を配っていたことが示される。また、陸軍病院の運営に関しても、傷病兵が十分な治療を受けられるよう詳細な指導を行った。1795年の冬、ベルナドットの師団がバート・クロイツナハを占領した際に数名の兵が略奪を試みた。この時代多くの将軍は陥落した街を思いのままにしていたが、ベルナドットは有罪者を罰し、被害を受けた家々には弁償している。 ボッパルトで冬を越した後、ベルナドットの軍は1796年6月11日にライン川を越えてノイヴィートに進軍する。ラーン川で他の軍と集結した際にオーストリア軍の反撃を受けて、総司令官のジュールダンは全軍にライン川まで後退するよう命じた。その後ベルナドットはダルムシュタットとニュルンベルクへ進軍した。そしてアルトドルフにてジュールダンからレーゲンスブルクに向かうよう作戦指示を受ける。1796年8月22日、軍はノイマルクトとダイニングの間に位置していたが、そこでカール大公率いる優勢のオーストリア軍に攻撃を受け撤退をした。この撤退戦でベルナドットは、3〜4倍の兵力のオーストリア軍を相手にして殿軍を務めた。このような戦略上の難局を対処するのは初めての事だったが、ベルナドットは大きな犠牲を出すことなく成し遂げる。戦後、他の将軍たちと同様にジュールダンの失敗に終わった作戦に対し不満を訴えた。その後9月3日にジュールダンはヴュルツブルクにてオーストリア軍に一撃を加えるべく進軍したが、ベルナドットは病気を理由に参加していない。 ===イタリア方面軍=== バイエルンから撤退後のフランス軍はライン川西岸に位置していた。1796年の秋、ベルナドットはコブレンツの総督を務めていたが、フランスの新聞にニュルンベルクにて部下に略奪を許したと不本意な内容を報じられた事に激怒して、パリに抗議に赴かせてくれるよう総裁政府に要求した。敵の街を略奪することを特段許しがたい罪とも思っていなかった政府は、当初ベルナドットの抗議を真面目に受け取らなかったが、軍を辞めると言い出したところでこの将軍の奇妙なまでの繊細さに気づき、おだてて軍に残るように説得した。またクレベールも、「自然国境まで制圧したし、ホームシックにかかったから軍を辞めたい」と言い出したベルナドットの説得にあたっている。当時の五総裁の一人カルノーは面倒な将軍がパリに来ることを好まず、兵力が足りていないイタリア方面軍に補強と称して送ることにした。こうして1797年の年初、ベルナドットはオーストリア軍と対峙しているナポレオン・ボナパルトを支援するためロンバルディアに向かうこととなる。 2師団から成る総勢2万人の兵を率いて、ベルナドットはディジョン、リヨン、シャンベリを経由し、モン・スニ峠を越えてトリノに到着した。厳冬期の猛吹雪の中、大軍を率いてアルプス越えを無事成功させたことは驚くべき功績だと賞賛された。ちなみに、ナポレオンがマレンゴの戦いに向けてアルプス越えを行ったのは、これより3年後の5月である。1797年2月22日、ベルナドットの軍はミラノに入城したが、イタリア方面軍からは冷淡な扱いを受けることになる。ベルナドットはミラノ市駐留軍司令官であったドミニク・デュプイ大佐(英語版)から侮辱を受けたことで、彼を不敬と不服従の罪で逮捕しようとした。もっともなことではあったが、運が悪いことにデュプイはベルティエの親友であった。この出来事がベルナドットとナポレオンの参謀長との長きに渡る確執の端緒になった。 「ローマ人の精神とフランス人の頭脳を持った男。」‐ナポレオン その後3月3日、マントゥアにてベルナドットはイタリア方面軍総司令官のナポレオンと初対面を果たす。第4師団の指揮権を与えられたベルナドットは、大陸軍の右翼に配備されオーストリア軍に向かって進軍した。最初の命令はタリアメント川の渡河であった。ベルナドットは部下を鼓舞して自ら凍えた川に飛び込むと、銃火をかい潜って対岸にたどり着き、オーストリア軍の不意を打って抵抗を崩した(タリアメントの戦い(英語版))。グラディスカの征服の際に次なる勝利を収めたが、これはベルナドットの兵力を相当消耗させる。正面からグラディスカ・ディゾンツォを攻略した際に兵500を失い、ナポレオンはこの損失は不必要だったと見なした。かたやベルナドットはこの損失はナポレオンの不明瞭な命令によるものと捉えていた。 ベルナドットはクロアチア師団を追撃し、ポストイナを占領した。ここでもベルナドットの軍隊はその振舞いの良さで現地住民からの賞賛を得た。その後フランス軍はカルニオラを占領し、ベルナドットの軍隊はナポレオンの命令でイドリヤの水銀鉱を接収する。これにより得られた300万フランは本国に送られ国庫を潤し、その後4分の1がナポレオンに還元された。他方ベルナドットも5万フランを手に入れた。その後、ライバッハからクラーゲンフルトを経てナポレオンの後に続く形でスティリアに至った。ベルナドットはグラーツのエッゲンベルク城でナポレオンと合流し、ナポレオンはそこで停戦交渉を開始した。ベルナドットにとっては、欧州のパワー・ポリティクスの舞台に初登場したことになる。1797年4月18日に停戦の合意がなされ(レオーベンの和約)、フランス軍はスティリアから撤退を始める。ベルナドットはフリウーリ州の総督に命じられ、ウーディネに司令部を置いて統治にあたった。ベルナドットにとってこの任務は、軍政と民政の両面において広域にわたる管理責任を初めて担うものであった。彼とナポレオンの関係は当初は友好的だったが、戦役を経て冷え込んで行く。ベルナドットはナポレオンの政策が「非情」で「冷笑的」なところに、ナポレオンはベルナドットの「得意げな態度」と「南部フランス人的な饒舌さ」に対しそれぞれ反感を抱いたとされる。 1797年8月、ベルナドットはナポレオンの命令でパリに送られることになった。表向きの理由は獲得した敵の軍旗を総裁政府に届けることだったが、本音のところは独立心の強すぎるこの指揮官を体良く追い出すことであり、9月4日のフリュクティドール18日のクーデターへの支援も目的にあった。しかしベルナドットは政府内の策動に対して慎重な姿勢を見せ、総裁ポール・バラスがオージュローと協力してクーデターを起こすよう依頼しても拒否した。このパリ滞在中にベルナドットはスタール夫人を始めとする政界や社交界のエリート達と知遇を得ている。 一方、ナポレオンはベルナドットがイタリアに戻らないよう策を巡らす。ベルナドットは南部方面軍総司令官を持ちかけられたがやる気にならず、ナポレオンが彼の第4師団を解体しようとしている噂を気にして10月に再びウーディネに戻って来た。ナポレオンはベルナドットを総司令部での夕食会に招待したが、直前にベルナドットが不遜な態度を見せたためか、その席でナポレオンは彼が古典や軍事論について無学であると非難して侮辱を与えた。この侮辱はベルナドットの心に深い痕跡を残し、その年の冬、戦術や歴史に関する本の読書に駆り立てたという。 ===政治の舞台へ=== 1797年10月18日、カンポ・フォルミオの和約の締結によって第1次対仏大同盟は終焉したことで、イタリア方面軍は再編されることになり、ベルナドットの第4師団も解体を余儀なくされる。ライン方面軍時代からの付き合いの兵もおり、家族のように愛着を感じていたためベルナドットは強く抵抗したがナポレオンは取り合わなかった。その後総裁政府はベルナドットをケルキラ島司令官に任命したが、バラスはナポレオンが共和政を覆すこと危惧し、勢力を相殺する対抗馬としてベルナドットをイタリア方面軍総司令官に任命した。ベルナドットはこの決定を喜んだが、ナポレオンは彼が後任になる事を快く思わず、代わりにウィーン駐在大使に任命させようと外務大臣のタレーランに働きかけた。 1798年1月11日、ベルナドットはウィーン駐在フランス大使に任命される。この時代、外交官は実入りの良い地位だとみなされていたが、ベルナドット本人はこの人事は追放同然だとして不満に感じていたという。3月2日、彼が神聖ローマ帝国皇帝フランツ2世に拝謁した際には、皇帝本人にもオーストリア宮廷にも良い印象を与えている。しかしながらフランス革命以降、オーストリアとフランスは積年の敵同士であり、オーストリア政府は前年の和約による平和も永くは保たないと考えていた。ベルナドットはオーストリア警察に見張られており、彼にとってウィーン滞在は心地の良いものでは無かった。4月13日、大使公邸の外に共和国の標章を掲げていないことを総裁政府に譴責されたため、『自由』『平等』『友愛』の標語が記された三色旗を掲げたところ、怒りに駆られたウィーン市民によって公邸が襲撃される事態に発展してしまう。群衆は公邸の窓を破壊し、三色旗を破り、火をつけて燃やした。オーストリア軍の部隊がやって来て騒動を沈静化するまで5時間かかっている。その後オーストリア側からの遺憾表明を受け取ることなく、ベルナドットは2日後にウィーンを去っている。イギリス政府はこの騒動が再びフランスとオーストリア間の戦争を誘発する可能性を予想し、オーストリア支援のためにネルソンの艦隊を地中海方面に配備させるが、結局のところ事態はそれ以上大きくならず、同艦隊はエジプト出征中のフランス軍攻撃へ転用される。 フランスに帰国した後ベルナドットはパリに住居を構え、役職につくことなく休養をとった。その間熱心に読書を続けていたという。またこの時期、ナポレオンの兄ジョゼフ・ボナパルトと親睦を深め、その縁でジョゼフにとっては妻の妹に当たるデジレ・クラリーと知り合う。1798年8月17日、2人は結婚した。この結婚を通じてベルナドットとナポレオンは縁類として繋がりを持つことになる。またデジレはかつてナポレオンの婚約者でもあった。彼女がベルナドットとの結婚に同意したのは、彼が決してナポレオンに屈しない人物だと知らされたからだという。 その年10月、ライン川東岸のギーセンに置かれた師団指揮官に任命された。その街でも市民に負担を強いることがないよう注意を払った。また彼は街の大学に関心を寄せ、ユストゥス・リービッヒ大学ギーセンから名誉博士号を与えられた。 同年11月、パリに召喚されイタリア方面軍総司令官の地位を提案されるが、1年前と違い、現状でその任務を遂行するには追加の兵力が不可欠と見て取ったベルナドットはこれを断っている。結果として陸軍大臣であったシュレール(フランス語版)が総司令官となり、ベルナドットは再び上ライン方面に戻った。翌年2月5日、監視軍総司令官に任命され、ジュールダン指揮下のマインツ軍とマッセナ指揮下のヘルヴェティア軍の支援を行うことになる。 1799年3月、再びフランスと対仏大同盟諸国との戦争が勃発した。兵力の不足によりベルナドットは満足にジュールダンを支援することができず、ストレスから吐血するようになる。ジンメンで数週間休養を取った後、6月に政治的陰謀渦巻くパリに帰還した。総裁バラスはもう一人の総裁エマニュエル・シェイエスと共謀して残る3人の総裁を辞職させようとしており、リュクサンブール宮殿に集う議員たちを武力で一掃するため、ベルナドットをパリの司令官に任じようとした。しかしベルナドットは彼の幕僚やジョゼフ・ボナパルトの勧めにもかかわらずこの話を断った。よって前回のフレクチュドール18日のクーデター同様、彼はプレリアール30日のクーデター(フランス語版)では傍観者の立場にいた。 イタリアにてシュレール指揮下のフランス軍が無残な状況であることを見たジョゼフとリュシアンは、シェイエスに掛け合いベルナドットを陸軍大臣に任命させる。ベルナドットはしばらく躊躇したのち、7月2日から任務についた。実質的にフランス軍のトップとなったベルナドットは、連敗している軍の立て直しに精力的に取り組んだ。彼はまず官僚機構の能率化に取り組み、いかなる問い合わせに対しても24時間以内に回答を行うよう徹底させる。そして政治的理由によって遠ざけられた将軍たちを復職させた。兵の士気を高めて規律を遵守させるため、食料や衣服そして賃金が滞りなく行き渡るよう計らった。また新聞に熱烈な布告を投稿し、愛国心が揺り動かされた多くの古参兵が再度軍務に志願するようになった。加えてベルナドットは医療サービスに大きな関心を寄せ、陸軍病院の視察などその改善策を多く実行している。当時総裁であったバラスとゴイエ(英語版)は、マッセナがイタリアにて戦勝を得たのも、ナポレオンがマレンゴの戦いやドイツにおける戦役で成功を収められたのも、ベルナドットが整備した人員と物資に依るところが大きいと後年述べている。一方、ベルナドットはしばしば他の閣僚や総裁と対立している。兵士に払う給料も補給のための金も無いと言った財務大臣に対しサーベルを抜いて脅しをかけた事もあった。他方で総裁たちは彼がイギリス軍とロシア軍のオランダ上陸を防ぐためブリューヌ将軍に適切に兵の補強を行った模様に感銘を受けている。しかしながら、シェイエスとデュコの2総裁は、ベルナドットが急進的ジャコバン派に対し共感を寄せていると批判し、彼が熱狂的な人気を得ている様を警戒した。「政府を仕切っているのは陸軍大臣だ」「自分のことを鷲と思っている鶫がいる」とはこの頃のシェイエスの弁である。同年9月14日、現行憲法の破棄を目的としたクーデターを実行するにあたり、ベルナドットの存在を障害と思ったシェイエスらの策謀によって彼は陸軍大臣の任を解かれてしまう。 ===ブリュメール18日のクーデターと統領政府期=== 1799年10月、ナポレオンはエジプト遠征から帰国しフランス国民から熱狂的な出迎えを受ける。しかしベルナドットは彼が遠征軍をクレベールに押し付ける形で置き去りにした事を問題とみなし、総裁バラスにナポレオンを軍事法廷に掛けるべきだと提言したが拒否された。ナポレオンのパリ帰還の10日後になって、周囲に押される形でベルナドットはナポレオンと面会を果たすが、お互い打ち解けることはなかった。その後も何度か対面するが、企てに取り込まれるのを避けるよう行動している。後年スタール夫人はこの時共和政を救うことができたのはベルナドットだけだったと回想している。 ブリュメール18日のクーデター(1799年11月9日)当日の朝ナポレオンに呼ばれたが、平服で彼の家を訪問した。クーデターへの参加を促されたが、ベルナドットは「自ら兵を駆り立てようとはしない。ただし総裁政府ないし立法府から出動命令が出た場合には、現行憲法を守るために戦う心算だ」と返答した。 結局、総裁政府からも立法府からも命令を受けなかったことから、ナポレオンを第一統領に押し上げることになるクーデターの成り行きを眺めているだけだった。クーデター後ナポレオンからの報復を恐れ、妻子と共に部下の自宅に身を隠している。こうしてブリュメール18日のクーデターによってナポレオンは1814年までフランスの政権を握ることとなり、他方ベルナドットはこの国の政治の主導者となる機会を失った。 クーデターの不支持者であろうと、ナポレオンは国内の有力者を即座に排除することはなかった。1800年1月24日、ベルナドットは新たに設立された国務院議員となる。4月18日にはブリューヌの後任として西部方面軍総司令官に任命されてレンヌに司令部を置いた。イギリスの侵略から国土を防衛する意欲を持ってこの任に就いたが、着任早々にキブロン湾に上陸しようとするイギリス軍の掃討の機会を得ただけで、ヴァンデの反乱の鎮圧という気鬱な仕事に掛かりきりになった。ナポレオンが命じた王党派の頭目ジョルジュ・カドゥーダル(英語版)の捕獲はできなかったものの、前任者より穏健なやり方を用いてこの地方の平定に成功した。マレンゴの戦いへ出立する前、ナポレオンはベルナドットに対し、もし自分が戦死することがあればフランスの政権を取るよう言い送っている。これは自身が死亡した場合に備えベルナドットに一族の保護者としての役割を期待したと推察されている。 1802年の春まで公的には西部方面軍の総司令官であったが、国務院議員の職務のため多くの時間をパリで過ごした。他方ナポレオンは政治体制の権威主義的性質を強めていき、1802年の8月には終身統領に就任する。この間、ナポレオンに対する陰謀がいくつか明るみに出ており、ベルナドットがそれらに関与した形跡はないものの嫌疑をかけられるようになった。陰謀の嫌疑と彼のナポレオンの政策に対するあけすけな批判は両者の関係を緊張させることになる。 このような環境から抜け出すためか、ベルナドットは再び戦場に赴くことを希望したが、1800年12月3日のホーエンリンデンの戦いにてモロー将軍が勝利を収め、リュネヴィルの和約が締結されて第2次対仏大同盟は終焉する。1801年の4月、ベルナドットは西部方面軍に戻り、彼の望んだイギリス侵攻計画が上がったものの、同年秋に政府はイギリスとの講和準備を始めたため計画は実行されず落胆する。またハイチ反乱の鎮圧に派遣されたがったが、これはナポレオンの義弟ルクレールに任されることになった。他方、コンスタンチノープル駐在大使を持ちかけられたものの、外交官はもう懲りたのか断っている。この年、コンコルダート(政教条約)によってナポレオンがカトリック教会との関係修復を行ったことは、ナポレオンが絶対権力者としてフランスに君臨することを危惧する軍人や政治家の不満を駆り立てた。 1802年の1月、憲法改正が行われ、それにより統領政府は20人の自由主義者をパージした。その中にはスタール夫人と親しいバンジャマン・コンスタンらも含まれていた。スタール夫人曰く、このパージの後、ベルナドットは他の将校や政治家達から、現政権の独裁傾向を食い止めるよう促されたという。ベルナドットは法的手段を用いた対策をいくつか提案した。そのひとつは第1統領を譴責できる代理委員会を組織し、権力行使に制限を加えるというものだったが、しかし委員に進んでなろうとする人物を見つけることは難しかった。ベルナドット自身は、反ナポレオン活動は法律の範囲内で行うものと常に主張していた。これに関してザヴァリー(英語版)は回顧録にて、ベルナドットはナポレオンの生命に関わる企てには必ず反対していたが、彼の支援者の中には謀反に等しい行動を取る者がいたと述べている。 その年の3月にアミアンの和約が締結されたことでパリには無役の軍人が溢れかえった。ナポレオンの専制政治に不平を持つ軍人たちは、モロー、マッセナ、ベルナドットらに期待をかける。この頃ナポレオンは注意を要する人物に見張りをつけており、ベルナドットもフーシェ、ザヴァリー、ダヴーらそれぞれから監視の対象となる。5月、モローの友人の大佐2人がナポレオン暗殺を企てた嫌疑でダヴーに逮捕された。彼らはすぐに釈放されたが、これはモローとベルナドットへの牽制目的で仕込まれたことで、ベルナドットとダヴーの因縁の起源となった。同じ年レンヌにて彼の部下だった将校数名が、ナポレオンに対抗するため軍人たちに決起を促すビラを配布しようとした罪で逮捕された事件は、ベルナドットが関与した明確な証拠はなかったものの、ナポレオンは彼の無遠慮な体制批判が部下のこのような行為を引き起こしたとして激怒した。 ナポレオンはベルナドットを遠ざけるためフランス領ルイジアナの総督に任命する。ベルナドットもこの頃本気でアメリカ移住を考えていたためラファイエットに相談するなど前向きにその準備をしたが、彼が要求した3,000人の入植者と兵を伴う条件をナポレオンが拒絶したため任命は撤回される。1802年12月、ナポレオンのベルナドットに対する苛立ちは頂点に達し、タレーランの計らいでアメリカ駐在大使に任命することで本腰入れて追い出しにかかる。しかしながら翌年ナポレオンがルイジアナをアメリカ政府に売却したことと、アミアンの和約が破られ再びイギリスと交戦状態になったためこの話も白紙に戻ることになった。 パリに戻ったベルナドットはその後1年近く無役のままで過ごした。この頃、イギリス大使ウィットワース卿(英語版)がロンドンに帰還した際、ナポレオンが死亡した場合、モロー、マッセナ、ベルナドットの3頭体制の政権が出来るだろうと報告をしている。そして同卿はこの3頭政権は他の大陸国家との戦争勃発を防いで平和に貢献するだろうとの興味深い意見を述べている。ただ、モローとベルナドットはもはや共和政再興は不可能と考えていた。その代替としてモローは王党派に共感を寄せ、結果的にカドゥーダルの陰謀に連座する形でアメリカに追放された。他方ベルナドットはブルボン朝よりはナポレオンの方がまだましだと思っており、政治体制を専制政治から立憲政治へと転換させることで、ナポレオンが「クロムウェルではなくワシントンの先例に倣う」ことを希望したという。 ===帝国元帥時代=== ====『和解』と元帥任命==== 1804年の春、ベルナドットは未だにナポレオンに批判的な将軍の一人と目されていた。その年5月、ベルナドットはナポレオンに招かれ自分の味方をするよう説得を受ける。その場でナポレオンは、共和政は過去のものであり、革命の成果を守るにはフランスを帝政の下に再構築するしかないと指摘したという。この時の心境をレカミエ夫人に「選べる道はひとつしかありませんでした。私は彼に好意を持つことはできないが、忠実に協力すると約束しました。そしてこの言葉を守るつもりです」と告げている。この『和解』の後の1804年5月14日、ハノーファー軍総司令官と総督に任命された。そしてナポレオンが皇帝に即位するのと同時に帝国元帥の称号を与えられる。 1804年6月17日、ベルナドットはハノーファーに到着し、市民の歓迎を受けた。ライン方面軍時代の彼の軍隊の規律の行き届いた様はハノーファー市民の耳にも届いていたのである。そしてベルナドットは、自主性、穏健さ、行政管理能力において高い評判を得ることになる。着任してから数週間のうちに、市政府とゲッティンゲン大学に対して前任者より公正な管理を行った。また、税制の公正化も行っている。1804年の秋、フランスは北ドイツの領邦から3万ポンドを没収し国庫に納めたが、ベルナドットはハノーファー市の財政負担を減らすため、その金額をハノーファー駐留軍の軍資に回してもらうようナポレオンに願い出てその許可を得ている。加えて、1804年の冬から1805年の春にかけ、組織的に穀物を輸入することで飢饉の救済にあたった。ベルナドットの高い評判は他の同僚たちと対照をなすものであった。この当時、フランス軍の将軍の多くは占領地にて諸々のやり方で私腹を肥すのを常道としていたのである。ハノーファーにてベルナドットは長期にわたる独立した軍の指揮権と軍政・民政両面の管理を経験し、これは彼の将来のキャリアにとって試金石となった。 ===オーストリア戦役=== 1805年8月、第3次対仏大同盟が結成されたことで、ナポレオンは大陸軍を東方に向けて進軍させた。ベルナドットはハノーファーから15,000の兵を率いてワルツブルクへ移動し、そこでバイエルン兵20,000と合流し、双方の兵から成る第1軍団を構成しその司令官となった。後にウルムの戦役と呼ばれるこの戦役にて、ベルナドット第1軍団はフランス軍の左翼を担い、マック将軍(英語版)が率いるオーストリア軍の退路を断つよう行動する。第1軍団はゲッティンゲン―ヴュルツブルク間の350kmをわずか10日で駆け抜けるという驚異的な行軍をしたにもかかわらず規律を保っていた。9月27日にヴュルツブルクに到着し、5日の休息の後アンスバッハを経てインゴルシュタットまで行軍した。アンスバッハは当時中立国であったプロイセン領であり、ベルナドットは領土侵犯に際し現地住民に負担をかけぬよう注意を払った。10月12日、第1軍団はミュンヘンを占領し、1,500人の捕虜を得た後、ロシアのミハエル・クトゥーゾフ軍に対して迎撃態勢をとった。 10月20日のウルムの戦役におけるフランス軍の勝利の後、ベルナドットはクトゥーゾフに向かって進軍する。10月30日、第1軍団はザルツブルクを占領した。そこからメルクに移動し11月14日までにドナウ川を渡りクトゥーゾフ軍を攻撃するようナポレオンの命令を受けたが、メルクまでは200kmに渡る複雑な地形を行軍せねばならず、またドナウ川は増水していたうえ舟橋もなく軍団の渡河に時間を要し、ドナウ川北岸に辿りついたのは16日になった。結果的にクトゥーゾフを取り逃がすことになったとしてナポレオンは激怒した。皇帝は兄のジョゼフに対し、「ベルナドットは私に1日を無駄にさせた。世界の命運をかけた1日を」と怒りの心境を述べている。 ドナウ川を渡った後、ベルナドットの軍団は北に向かい、モラヴィアにて決戦となることを見越してイグラウに拠点を置いた。11月の末までに、オーストリアとロシア両軍85,000兵はブルノとオロモウツの間に集結していた。ナポレオンの戦略はベルナドットの第1軍団とダヴーの第3軍団による陽動で、敵軍に小規模な軍勢と対峙していると思わせることだった。11月29日、ベルナドットは第1軍団内のフランス人兵を率いてアウステルリッツに向けて行軍するよう命令を受ける。12月1日の夜、元帥たちはナポレオンの総司令部に集結し順々に指示を受けた。皇帝の幕僚のセギュール伯(英語版)は、ナポレオンがベルナドットに指示を与えた時の態度は「よりそっけなく、より横柄だった」と回顧している。アウステルリッツの戦い当日12月2日の正午過ぎ、1,000のロシア騎兵がプラツェン高地を駆け上るスールト元帥の軍団を急襲しフランス軍の戦列を破ろうとした。その時ベルナドットは北に向かって離れた位置にいたが、フランス軍の防衛線が脅かされているのを見て、自己判断で1師団をスールトの援護に送った。この行動はナポレオンの期待通りに戦いの趨勢を変化させる。戦闘終了後、皇帝は前夜とは態度を変えて、第1軍団の戦勝への貢献に満足を見せた。 オーストリアとのプレスブルクの和約の後、ナポレオンはベルナドットをアンスバッハの総督に任命する。アンスバッハにおいてもベルナドットは公正な行政官として評判を残した。この時期、皇帝は親族に対し占領地を貴族の称号とともに分配しており、周囲はベルナドットもアンスバッハ公爵に叙爵されるのではと予想していたが、代わって1806年7月6日、ポンテ・コルヴォ大公に叙爵された。ポンテ・コルヴォは教皇領に属していたイタリアの小さな街で、ナポリ王となったジョゼフの王国に組み込まれていた。ナポレオンはマッセナかベルナドットのどちらに与えるか悩んだが、最終的にベルナドットを選んだという。ナポレオンはベルナドットの叙爵についてジョゼフに「これは貴方の妻君を思ってのことだ。もっと良く仕えてくれて信頼の置ける忠実な将軍はいる。しかしナポリ王妃の義弟が宮廷で相応の地位にある方が望ましいと思ったのだ」と述べている。そこから得られる収入は他の領地と比べ特段多いものではなかったが、この叙爵は同僚たちからの嫉妬を駆り立てたと言われる。 ===ドイツ・ポーランド戦役=== 1806年の秋、ベルナドットは第1軍団を率いてプロイセンとの戦役に従軍する。ナポレオンの命令は、ニュルンベルクにて兵21,000を集結させたのちミュラの騎兵とともに、先鋒となってプロイセンの同盟国ザクセン選帝侯領のライプツィヒに向けて進軍し、次いでベルリン攻撃に向かうというものだった。ベルナドットとミュラの後にはダヴーの第3軍団が続く予定だった。 10月12日、ブラウンシュヴァイク公率いるプロイセン軍が自身の予想より遥か西方にいる事を知ったナポレオンは当惑し、その後斥候から届けられる情報に応じて頻繁に作戦変更を行った。ベルナドットの第1軍団は足場の悪い森の中を北東に向けて120kmにわたり行軍しており、ナポレオンから遠く離れていたため作戦変更に即座に反応しづらい状況だった。。ナポレオンはイエナで全プロイセン軍と対峙していると想定し、決戦の日を当初の予定の10月15日ではなく14日に突如変更した。全元帥の中でベルナドットただ一人が、その変更を直接知らされなかった。13日の夜、ナポレオンはダヴーにナウムブルクから引き返してアポルダに向かい、プロイセン軍の背後を襲うよう命令を送った。ダヴーはその命令書の写しを近くにいたベルナドットに渡す。それに記された「皇帝が彼にドルンブルクに向かうよう望む」との曖昧な文言に従い、ベルナドットは14日明け方にナウムブルクを出立し、ダヴーとは別路を通ってドルンブルクに11時に到着した後、アポルダに向かい16時に同地にたどり着いた。悪路に阻まれイエナの戦いには間に合わなかったが、軍団をアポルダ高地に布陣させることで、プロイセン軍の退路を脅かすことに成功した。 後年ナポレオンは、ベルナドットがアウエルシュタットにてプロイセン軍の主力と遭遇したダヴーの援軍要請を嫉妬心から拒んだと非難し、彼を軍事裁判にかけるため執行令状にサインをしたもののジョゼフやジュリー、デジレの事を思い取りやめたと述べているが、この見解に対して、むしろナポレオン自身に過失があったと異論が唱えられている。実際のところ、ナポレオンは作戦立案を総司令部に集中させすぎたあまり、元帥たちは作戦の全体像を把握できていなかった。ベルナドットはあくまでも皇帝の指示通りに行動したのであり、ナポレオンと参謀長のベルティエが敵主力の位置を読み間違えるという深刻なミスを犯したことのスケープゴートとしてベルナドットが槍玉にあがったという見方もされている。 その後ベルナドットはプロイセン軍の追撃を命じられ、3日後の10月17日ハレにてヴュルテンベルク公オイゲン率いる優勢のプロイセン軍を打ち破った(ハレの戦い(英語版))。ただしこの戦功は総司令部では喜ばれなかったという。戦闘終了3日後にハレに立ち寄ったナポレオンは戦場の光景を見て、「ベルナドットは手段を選ばない。いつかあのガスコン人は捕らえられるだろう」との謎めいた発言をしている。 次いでベルナドットは北ドイツを150km横切って10月22日にエルベ川を渡り、その3日後にブランデンブルクを押さえた。そして11月6日、ミュラとスールトの軍団と共にプロイセン軍が逃げ込んだリューベックを攻略し、シャルンホルスト、ブリュッヘルらプロイセンの将軍たちを捕虜とした(リューベックの戦い(ドイツ語版))。戦闘終了後、リューベックの街はフランス兵による大規模な暴行と略奪の対象となった。本来戦争とは無関係であるはずの中立都市を襲った悲劇は国際社会の憐憫を誘ったという。ベルナドットは麾下の兵を押さえ込み、略奪を行った者は罰する旨通告を行ったことで、市当局から感謝され馬6頭を贈与された。 このリューベックにて、プロイセン軍の援軍として来ていたスウェーデン兵1,500が捕捉される。ベルナドットはスウェーデン人捕虜を寛大に扱い、彼らを母国に帰還させるよう命じた。スウェーデン軍の指揮官であったグスタフ・フレドリク・メルネル(スウェーデン語版)伯爵はベルナドットの宿舎に同宿しもてなしを受けた。その時ベルナドットはスカンジナビアの情勢に興味を示したという。スウェーデン軍人たちは感銘を受け、母国に帰還したのち、いかにポンテ・コルヴォ公が公平公正にリューベックの治安維持に取り組んだか周囲に告げて回った。 プロイセンは敗北したものの、ロシアとは依然として戦争を続けており、ベルナドット第1軍はリューベックを発ってポズナンに向かうよう命令を受けた。霙が降りしきる悪天候にもかかわらず、200kmを35時間で踏破している。ポズナンにてナポレオンから大陸軍の左翼を任され、その際ネイとベシエール両元帥を指揮下に置くこととなった。本人曰く「世界最悪の土地」でベルナドットは2ヶ月以上ベニグセン将軍率いるロシア軍と対峙しあった。トルンとグロンド間の街道における競り合いにてベルナドットの軍は名を挙げたが、補給が十分でなく、他の指揮官達と共に皇帝に対し冬営を敷くよう促した。しかしベニグセン軍は冬にもかかわらず攻撃を仕掛けてきており、12月26日のプウトゥスクの戦い(英語版)ではランヌ元帥の第5軍団に著しい損害を与えていた。オステローデにある第1軍団の前線基地も急襲されたが、ベルナドットが素早く反撃に出たため1807年1月25日のモーランゲンの戦い(英語版)にてロシア軍を破り勝利を収めることができた。ちなみに敵将のベニグセンはハノーファー出身で、コサック兵に奪われたベルナドットの私物を「元帥のハノーファーにおける善政に敬意を表して」戦闘終了後に返還してきている。 ナポレオンはベニグセンを罠にかけようとしたが、ロシア軍はフランス軍の伝令を捕まえてその作戦を知り、北東のケーニヒスベルクに向かって後退した。伝令がベルナドットに届かなかったことで、彼は2月7日から8日にかけてのアイラウの戦いに参加できなかった。アイラウの戦いにてフランス軍は3人に一人が戦死ないし負傷しており、ナポレオンはベルナドットが参加していればこの損害は免れたと詰った。しかし次第にこの責任はベルナドットにはなく、ベルティエの伝令の出し方の不注意によるものと認識されるようになった。ナポレオンはアイラウの戦いの後、ベルナドットに送った手紙の中で第1軍団の貢献を誉めそやし、ポーにいる彼の兄に年金とレジオン・ド・ヌール勲章を贈与して機嫌を取っている。しかし以前からベルナドットは総司令部からの命令が度々遅れて届くことに神経をとがらせていたという。 1807年6月、ベニグセン軍とベルナドット第1軍団はエルブロンクにて戦闘を始めた。ベルナドットはシュパンダウに急行し、6月4日、ロシア軍による攻撃を撃退した。翌日、彼がシュパンダウにてフランス軍の海岸堡防衛の指揮をとっている時、マスケット弾を首に被弾し重傷を負う。落馬したものの、首に弾丸をめりこませたまま馬上で指揮を取り続けようとしたという。怪我の治療のためフリートラントの戦いは不参加となったが、ティルジットの和約の頃には回復しておりその式典に参加した。 ===ハンザ都市の統治とユトランド出兵=== 7月のティルジットの和約の後、ベルナドットはハンザ都市総督および総司令官に任命されハンブルクに司令部を置いた。ベルナドットはこの新しい任務を歓迎したものの、第1軍団の指揮権は新たに元帥に任じられたヴィクトルに委ねられることになった。これ以降ベルナドットが軍団規模のフランス兵の指揮権を与えられることはなかった。ナポレオンはベルナドットに、大陸封鎖令を北ドイツに施行させ、各港湾都市とイギリスとの貿易を阻止し、代わりにフランスと通商を行わせるよう命じた。更に、イギリス軍のデンマーク上陸を阻止し、そしてイギリスから援助金を得ているスウェーデンへの侵攻の準備をするよう命令を受けた。しかしベルナドットは大陸封鎖令を厳格に施行することは、各都市の財政に深刻な影響を与える事に気づいており、商人たちは彼が取り締まりに関して柔軟なやり方を用いたことに大いに感謝した。 ベルナドットのハンブルク着任後すぐの1807年9月にイギリス艦隊によるコペンハーゲン攻撃が起きたが、その時点では彼にはデンマークを支援するための軍隊が備わっていなかった。10月に締結されたデンマーク−フランスの同盟によって軍の配備が容易になり、ベルナドットはオランダ兵の分遣隊をユトランドに、スペイン人軍をフューン島に移した。1808年の2月、ベルナドットはスウェーデンのスコーネを攻めるべくスペイン兵、オランダ兵、デンマーク兵、フランス兵から成る混成軍団を組織した。しかしこの軍団はユトランドからそれ以上動くことはなかった。ティルジットにてナポレオンはアレクサンドル1世に第2次ロシア・スウェーデン戦争でロシアのフィンランド獲得の支援を行うと約束していたものの、ナポレオンはロシアの迅速な勝利を望まなかった。ロシアがバルト海方面にかかり切りで、ポーランド以南に野心を向けない方が都合が良いと考えたためである。またベルナドットの方もスウェーデン侵攻を回避しようとしていた。麾下のスペイン人兵の忠誠心を信用しておらず、加えてスカンジナビアをフランスの軍事力で制圧することの重苦しさに理由を見出せなかった。ハンブルクに滞在している間にベルナドットはスウェーデンの事情に精通し、ナポレオンに対し、スウェーデン貴族の内部では親フランス・反デンマークの派閥が影響力を持っており、それゆえフランスがデンマークに肩入れしすぎることは、スカンジナビア情勢を見誤ることになると報告している。 1808年8月、デンマークに駐留しているスペイン兵9,000が半島戦争にて母国を支援するため、イギリス艦隊に乗り込んで脱走した。スペイン人兵の脱走は、ナポレオンが命じたデンマーク諸島における部隊の散開も無関係ではないが、脱走したスペイン兵の指揮官のロマーニャ侯爵(英語版)に信用を置いていたベルナドットも責任を負うものだった。 ナポレオンはイベリア半島に親征に向かうにあたり、ダヴーにライン方面軍の総司令官としてほぼフランス兵からなる90,000の軍団を残し、事実上ドイツの統治者としての権限を与えた。他方ベルナドットは、北ドイツとデンマークの港湾の防衛用に12,000兵を与えられたのみで、しかもそのうちフランス兵は定員に満たない1師団だけだった。ダヴーは大陸軍内に諜報網を張り巡らせており、ベルナドットは自分への手紙がダヴーに開封されたことを知り憤慨している。 ===ヴァグラム〜ワルヘレン=== 再び大陸にて戦争の気配が高まるのと同時にベルナドットは体調を崩し、ひどく血を吐くようになる。妻デジレも心配して看病にやって来た。ベルナドットはナポレオンからハノーファーにデュパ将軍(英語版)のフランス人師団を伴って移動すること、更にドレスデンに行軍し、そこでザクセン軍と合流して第9軍団を編成し指揮をとるよう命じられた。ベルナドットは皇帝に健康上の理由で軍務に就くことは難しいと訴えた。また4年前バイエルン兵を率いた際に相互間の誤解が作戦行動を困難にした経緯があり、今回の戦役でも意思疎通と士気の両面において不利になる外国人兵を軍の主力として指揮するよう命じられたことに不満を述べた。実際、1805年にはバイエルン兵、07年にはポーランド兵、08年にはオランダ兵、スペイン兵、デンマーク兵そして09年にはポーランド兵とザクセン兵という様に、フランス兵と混成だったケースもあるものの、ベルナドットには外国人兵ばかり割り当てられているとの指摘がされている。またベルナドットは参謀長ベルティエ経由で送られる命令に矛盾があること、また遅いタイミングで送られてくることに不満を募らせていた。このような采配には、数年来パリにて嫡子のいない皇帝の後継者としてベルナドットの名前が噂されていたこともあり、かつての政敵であるベルナドットのフランス軍内部の影響力を削ぎ、かつ名声を得る機会を与えまいとするナポレオンの政治的意図があったのではと推測されている。いずれにせよ、一連の出来事はベルナドットのプライドと繊細な神経を圧迫したことは間違いなかった。 結局ベルナドットの訴えは受け入れられず、1809年3月、彼は健康状態が悪いにもかかわらずハノーファーとドレスデン間の500kmを6日で移動した。3月22日にザクセンの首都ドレスデンに到着したが、ザクセン王ですら彼の任命を知らされておらず、遅れてベルティエからその通知書が届けられた。また彼は自分への命令書がダヴーの司令部を通して送られていることにも怒りを覚え、軍を辞めるとまで言ってナポレオンに不平を伝えたが無視された。また合流したザクセン軍が鍛錬されておらず、実戦投入が厳しいことを繰り返し皇帝に訴えている。ナポレオンはベルナドット第9軍団に16,000のザクセン兵を伴ってオーストリアにやってくるよう命令を出した。だがナポレオンはドレスデンを無防備なままにさせたため、ベルナドットが出立した後にオーストリア軍によって街が略奪されてしまい、その事は第9軍団のザクセン兵の士気を著しく低下させる。 第9軍団は1809年4月16日にドレスデンを出立し、ベルティエの一貫性のない指示に従って5月17日にリンツに到着する。リンツ―ウーアファールの戦い(英語版)ではヴュルテンベルク軍ら他のドイツ人兵も指揮し、オーストリア軍の撃退に成功した。リンツに数週間留まった後、ザンクト・ペルテンの総司令部に到着する。デュパの師団を予備役として与えられたことでベルナドットのザクセン兵に対する不安は部分的に補われた。 ドナウ川を渡った後、1809年7月5日の午後にベルナドットの軍団はアーデルクラー村を押さえた。19時、ナポレオンはヴァグラム村を奪取するよう、ウディノ、ウジェーヌ、ベルナドットに命令を出す。しかしその時、総攻撃に踏み切るには各軍の足並みも態勢も整っていない状態であった。ベルナドットはラスバッハ川を渡ってヴァグラム村のオーストリア軍を攻撃するよう命令を受けて、援護のためにデュパ師団を投入しようとしたところ、それらがベルティエによってウディノの軍団に回されたことを知った。第9軍団は歩兵、砲兵の兵力が弱い状態であり、2度に渡ってナポレオンに増援要請をしたが拒否されたため、その状態で攻撃を敢行したザクセン軍は大きな損害を被り、アーデルクラー村に退却する。またヴァグラム村では薄暗がりの中同士討ちが起きたという。7月6日の朝、ベルナドットの軍団はアーデルクラー村を引き払い後退した。皇帝はベルナドットに対しマッセナの軍団と共にオーストリア軍に占領された村を再度奪回するよう命じた。戦闘が再開されたがザクセン軍は陣を持ちこたえられず潰走する。最もザクセン軍だけではなく、この時はマッセナ軍団も潰走していたとの指摘もある。ベルナドットが潰走する兵の群れに馬を乗り入れ、再度戦列を立て直そうと試みている最中に皇帝がその場にやってきた。両者の間で激しい言い争いがあったが、ベルナドットはその3日後までザクセン軍の指揮を取り続けている。 ベルナドットのザクセン軍はヴァグラムの戦いにおいて高い代償を払うことになった。彼らのうち3分の1以上が負傷ないし戦死している。戦闘終了後の数日間ベルナドットは負傷者の救護に当たった。彼は皇帝の発した戦勝の布告の中でザクセン軍が不当にも無視されていると感じ、別の布告を発して彼らの奮闘を称賛した。ナポレオンはそれを知ると、ベルナドットが「健康上の理由」でパリに帰還することを許可した。実際のところ、皇帝の著しい不興を被ったことは明らかであった。 7月25日、ベルナドットはパリに帰還した。その3日後イギリス軍がフランス軍基地のあるアントウェルペンを目指してワルヘレン(英語版)にて上陸を開始する。8月12日、警察長官のジョゼフ・フーシェがベルナドットに国民衛兵を率いて防衛にあたるようナポレオンからの命令を伝えた。ベルナドットがアントウェルペンに到着した8月15日、街の状況は混乱を極めており彼は広域にわたる守備体制を組織する。しかしイギリス軍はマラリアのため自滅しており、街が攻撃されることはなかった。 その後、ベルナドットは新しい布告を発し、国民衛兵の勇気と愛国心を賞賛した。ナポレオンはその話を聞くと、折しも共和主義者がベルナドットを担いで政権打倒を目論んでいるとの噂を耳にしたことから、彼とフーシェが自分に対して謀略を巡らしていると疑念を抱いた。そこで彼をパリから遠ざけようと、オージュローと交替でカタロニア方面軍総司令官に任じようとした。これはナポレオンが最後までベルナドットの軍事的才能を見限っていなかった証拠と言える。ベルナドットが着任を断ったところウィーンに呼び出されたため、はるばる1,350kmを9日かけて移動し、10月9日、シェーンブルン宮殿にて皇帝と面会した。ナポレオンはベルナドットに対し論争の的となっている諸々の行動について説明するよう求めた。ナポレオンから、スウェーデン攻撃を自身の裁量で差し控えたことを咎められると、「欧州で陛下を心から慕っている国民はもはやスウェーデン人とポーランド人だけではありませんか!」と言い返したという。ナポレオンはベルナドットをローマ総督に任命した。ベルナドットは拒否できなかったが、健康のためにしばらく休みを取らせて欲しいと伝えた。そしてウィーンよりパリに帰還した後公務につくことはなく、幾分面目を失いつつ、事実上退役した状態で過ごした。おそらく起源をブリュメール18日のクーデター以前まで遡る両者の緊張関係は、1804年の『和解』を経てもなお解消されることはなく、遂に限界に達したかに思えた。 ===スウェーデン王太子時代=== ====王位継承者のオファー==== 1809年、スウェーデンでは第二次ロシア・スウェーデン戦争にてロシアに敗北しフィンランドを割譲させられたのち、軍人たちが国王グスタフ4世アドルフに対しクーデターを起こし、国王を国外追放した。そして国王の叔父にあたるカール13世が新たに王位についたが、嗣子がいないためにデンマーク王家の分家にあたるアウグステンブルク家のカール・アウグストが王太子に選ばれた。しかし1810年5月、スウェーデンに来て間もない頃、王太子は乗馬中に事故死を遂げる。カール・アウグストの突然の死は王位継承者問題を生じさせた。候補者には カール・アウグストの兄、アウグステンブルク公フレゼリク・クリスチャン2世デンマーク国王フレゼリク6世ロシア皇帝アレクサンドル1世の従兄弟、オルデンブルク公アウグストが挙げられた。カール13世と枢密院は協議の上、アウグステンブルク公を次期王太子の第一候補とした。そして正式に決定する前に、欧州の支配者であるフランス皇帝の意向を伺った方が良いだろうと、使者をパリに遣わした。使者の一人カール・オットー・メルネル中尉(英語版)は、かつてリューベックにてベルナドットのもてなしを受けたメルネル伯爵(スウェーデン語版)の従兄弟であった。スウェーデン軍人の中には、ロシアに割譲されたフィンランドをフランスの助力を得て奪回しようと、その機会を伺っているグループがあり、メルネルもその一員であった。1807年のティルジットの和約以降、仏露は同盟関係にあったが、近い将来両国間の戦争勃発は不可避だと彼らは考えていた。そこにスウェーデンもフランス側について参戦し、フィンランドの奪回を果たすというのが彼らの狙いであった。 パリに到着したメルネルは、その目的のためにも瑞仏関係を強化する人物を王位継承者に据えるのが望ましいと考え、独断で候補者に接触することにした。6月25日、メルネルはベルナドットと面会し、彼を候補者にすることを持ちかけた。メルネルはベルナドットにスウェーデンはプロテスタントに改宗可能で、能力に長け、ボナパルト家と繋がりがあり、かつ後嗣となる息子を有しているフランス人を必要としていると告げた。加えて、スウェーデン国内にてベルナドットの名がリューベックでスウェーデン兵捕虜を寛大に扱ったこと、スウェーデン攻撃を差し控えたこと、北ドイツにて人道的な統治を行ったことで知られていたことも背景にあったという。話を聞いたベルナドットは半信半疑で、フランス皇帝とスウェーデン国王の承認なくして候補者になることはないが、自分としては差し支えないと返答した。その後メルネルは別件でスウェーデンからパリに来ていたファビアン・ヴレーデ将軍(スウェーデン語版)にこの計画を明かし、彼の協力を得ることができた。ヴレーデが再度申し入れを行ったことで、ベルナドットにスウェーデン軍人が本気でフランス人の候補者を求めていると確信させた。ヴレーデはベルナドットの人物像を称賛する手紙をメルネルに持たせて帰国させる。 ベルナドットは上述の話があったことをナポレオンに手紙で告げたところ、スウェーデンの意向はアウグステンブルク公だと知らされていたナポレオンは驚き、より好ましい候補をと思い、継子ウジェーヌ・ド・ボアルネにこの話をしたが当人から断られた。そこで皇帝自身の意向として同盟国デンマーク国王フレゼリク6世がスウェーデン王位を兼任するのが望ましいとスウェーデン公使に告げたが、ベルナドットが候補者になることには否定も肯定もしなかった。その理由ははっきりしない。ベルナドットが選ばれる見込みは薄く、もし自分が推薦して彼が落選したら皇帝の威信に関わるが、そうしなければただ本人が恥をかくだけだと考えたからだとも、ベルナドット以外にスウェーデン議会の支持を得られる部下がいないと気づいたからだとも推測されている。いずれにせよ皇帝の曖昧な態度は、スウェーデン側に王位継承に関して幅広い選択肢を与えられたとの解釈をもたらした。 一方、7月12日にスウェーデンに帰国したメルネルは独断専行で候補者探しをした科で地方に送られる憂き目にあったが、彼の計画は軍部を中心に徐々に支持者を集めていった。とりわけ従兄弟のメルネル伯爵らリューベックでベルナドットに世話になった軍人たちは議会で盛んにキャンペーンを張り、次第に党派を形成するまで支持者を集めていった。その頃パリのベルナドットは知人の商人フォーニエに肖像画などを持たせてスポークスマンとしてスウェーデンに送ることにした。7月30日、エレブルーで議会(リクスターグ)が開会される。まず12人から構成される枢密院で各候補者が審議されたのち、議会にて採決を取り、最後に国王の承認を経て王位継承者が決定される段取りとなった。8月2日の枢密院では12人中11人がアウグステンブルク公を、ヴレーデ将軍のみがベルナドットを支持したことで、彼が継承者になる見込みは失われたかと思えたが、ちょうどその頃フォーニエがエレブルーに到着し、議員らに向かってベルナドットの利点を強調して回った。とりわけベルナドットが個人資産を国庫に供出しても良いと言っていることは財務大臣の心を動かし再度枢密院にて投票が行われることになった。またナポレオンがデンマーク国王支持の駐在公使を引き上げさせたことを、スウェーデン人たちは皇帝がベルナドット支持に回ったと解釈した。 そんな中、ベルナドットを巡る選挙キャンペーンはストックホルム中を巻き込む狂騒へ発展していく。ストックホルム知事はカール13世に、「もしベルナドットが選ばれなかった場合、市内の平穏を保つ自信がない」と報告し、また側近の一人は「誰もが小さなオスカル(ベルナドットの息子)の肖像画を見るためにヴレーデ将軍の元に駆けつけている」と報告している。カール13世は熱狂する大衆を見て、議会の採決が下りる前にベルナドットを王太子にすることに同意した。8月16日、枢密院にて10人中8人がベルナドットを支持し、21日の議会では満場一致でベルナドットが王位継承者として採決された。 フォーニエの働きがこの結果に貢献したことは確かだが、実際は複合的な要素が作用しあってベルナドットの選出をもたらしたと推測される。アウグステンブルク公のカリスマ性の欠如や、当時のスウェーデンの国内事情も無関係ではない。当時のスウェーデンは領土喪失以外にも、人口減少、財政破綻、軍の弱体化など問題山積みであり、ロシア公使をして「死にかけている」と言わしめる未曾有の国難に直面していた。従って、ベルナドットの広範囲にわたる優れた管理能力も重要な要素であり、これはアウグステンブルク公には備わっていなかった。1809年の憲法改正によってスウェーデンは絶対君主制を廃していたが、スウェーデン人は国家を牽引する強力な君主を欲していたのである。 「私にとっては、彼がこの選任を受け入れないで欲しかった。だがどうやって干渉できよう?何よりも、彼は私の事が好きではない。...我々は互いを理解しあう事が無かった。もはや手遅れだ。彼には彼の目指す政策があり、私には私のがある。」 ナポレオンはこの結果を公の場では「我が帝国の誉れある業績にして栄光の拡張」と言祝いだが、オーストリア外相のメッテルニヒには、ロシアとの関係悪化につながること、平民出身者を王位につけることは既存の君主国に悪影響を及ぼすこと、他国の決定に介入はできないものの、カール13世がもっと早く相談してくれたら良かったがもはや遅すぎると不平を言っている。またカール13世の側近シュルマンはベルナドット選出へのナポレオンの影響に関して、「消極的かつ不本意なものだった」と述べている。ジョゼフ(スペイン王)、ルイ(オランダ王)やミュラ(ナポリ王)らとは違い、ナポレオンの力に依らず部下が王位につくことは、独立性を与えるという意味で他の元帥への悪例になることも危惧された。結局ナポレオンはこの結果は良い厄介払いになると納得したというが、他方でベルナドットがこの話を受諾せねば良かったとも言っており、候補者の可否を聞かれた際の曖昧な態度からも示されるように、ベルナドットのスウェーデン行きに幾重もの感情を抱いていたようである。 スウェーデンに向けて出立する前、ベルナドットはフランス人としての国籍と義務から解放する証書をナポレオンから得ようとした。ナポレオンは解放証書に「決してフランスに武器を向けない」との一文を差し込もうとしたが、ベルナドットはスウェーデン王太子として選任された以上、自身を外国に隷従させる如何なる取り決めも受け入れることは出来ないと抗議した。押し問答ののち、ベルナドットは「陛下、私に王冠を拒絶させることで、ご自身を上回る人間にしたいのですか?」と言ったという。これに対しナポレオンは「ならば行け!各々の運命を完遂しようじゃないか」と返答したとされる。 こうしてナポレオンから解放証書を得たベルナドットは、9月30日にパリを出立し、10月19日にデンマークのヘルシンゲルにてプロテスタントに改宗した。10月30日、スウェーデンのドロットニングホルム宮殿にて国王ならびに王妃と初対面を果たす。双方とも当初はベルナドットを王太子とすることを渋っていたが、会ってみてすぐさま魅了され良い印象を抱いた。カール13世は側近に「これは危ない賭けだと思った。だがわかった。私はその賭けに勝ったのだ」と言ったと伝えられる。11月2日、ベルナドットはストックホルムに到着した。5日、カール13世の養子となる宣誓式を行い、名前をカール・ヨハンに改めた。また同日、スウェーデン議会に公式デビューをし、そこにて所信表明を行った。 「私は戦争を間近で見て来ており、その邪悪さを良く知っております。国家を慰撫できるものは、その国民の血を異国で流すことを強いる征服ではありません。私は強大なるフランス皇帝が戦勝の桂冠を頭上に戴き、無敵の軍隊に囲まれた姿を幾度も見て参りました ― その後に続く平和のオリーブの枝を求める人々の嘆息も。そうです、皆様。平和こそが賢明にして開明的なる政府にとっての至高の目的なのです。国家の強さと独立性を成り立たせるものは国土の広さではありません。それは法であり、商業であり、産業であり、そして何よりも国民精神なのです。確かにスウェーデンは大きな損失を味わいましたが、その誉れある名は決して消えはしないのです。」 ― カール・ヨハン、1810年11月5日のスウェーデン議会での初演説より ===『1812年政策』と中立維持=== スウェーデンに来てすぐに新王太子は健康状態が悪化したカール13世に代わって摂政として国政に携わることなる。またスウェーデン王国陸海軍総帥として軍事面での指揮権も委ねられることになった。 スウェーデンの舵取りを行うにあたり、カール・ヨハンは3つの方針を自らに課していた。1)もはやナポレオンの凋落は不可避とみなすこと、2)スウェーデン経済にとって大陸封鎖令は有害でしかなくイギリスとの繋がりが必須であること、そして3)自身の統治者としての資質を証明せねばならないことである。最後にある資質の証明の最たるものが失われた領土の回復であった。 王太子は、スウェーデン人があまねく熱望しているロシアからのフィンランド奪回は、スウェーデンの国力では困難であり、再度ロシアに奪い戻される可能性が高く、しかもフィンランド人のスウェーデンに対する帰属意識は薄いため一体性を維持することが難しいと判断していた。むしろ王太子はデンマーク領のノルウェーに目を向ける。大陸に属するフィンランドを得るよりも、ノルウェーを獲得しスカンジナビア半島を一体化する方が自然国境論の視点からも適切であり、かつ大陸における紛争に巻き込まれることなく自国の平和と安定が守られると考えたのである。後年この政策はカール・ヨハンがロシアとの敵対関係を解消した年から『1812年政策(英語版)』と呼ばれ、この国の安全保障政策の根幹となる。 王太子がスウェーデンに到着した直後の11月、ナポレオンはスウェーデンに対し、大陸封鎖令の徹底とイギリスへの宣戦布告を要求し、さもないとフランス、ロシア、デンマークからの制裁を受けると言い送ってきた。この要求は王太子、スウェーデン双方を困難な状況に置くものであった。スウェーデンは1810年1月のパリ条約で大陸封鎖令を施行する事を約束していたが、イギリスとの貿易を遮断することはスウェーデン経済にとって死活に関わる問題で、政府が阻止しようとしても密貿易が行われていた。また、バルト海を遊弋するイギリス艦隊を撃破してイギリス本土を攻めるなどほぼ不可能で、国家経済にも人口にも大きな損害を与えることは間違いなかった。よってスウェーデンはイギリスに宣戦布告したものの、両国は暗黙のうちに名目的なものと理解しており、イギリスとの貿易は密かに続けられた。それでも、スウェーデンに輸入される商品は1810年の48億ポンドから1811年の5億ポンドまで減少している。 一方フランスの同盟国ロシアも、ナポレオンからの要求にしびれを切らしていた。ロシアにとってイギリスは麻や木造船用の松の樹脂の重要な輸出先であり、最も必要とする織物の輸入元であった。他方フランスからの輸入品は贅沢品ばかりで、従ってロシアは貿易赤字に陥りルーブルの通貨価値は常に下落していった。1810年の終わりにロシアは関税法令を発し、大陸封鎖令からの脱却を決定する。そして共にフランスの政策に不満を持つ国同士、スウェーデンとロシアは接近しあった。王太子はロシアのアレクサンドル1世に対し、仮にフランスとロシアが交戦してもスウェーデンはフィンランドに一切手を出すつもりがないことを伝えた。 その一方で王太子はノルウェー獲得のためにもフランスとは良好な関係を維持したいと考えていた。王太子はナポレオンに、フランスの同盟国デンマークからノルウェーを割譲してもらえるよう働きかけて欲しいと要請するが、ナポレオンは拒絶しイギリスと直ちに開戦すること並びにフィンランド獲得を条件にロシアとの戦争に参加するよう要求した。王太子がノルウェーの北方の一州まで要求を下げてもナポレオンは断固として応じようとしなかった。もしナポレオンが妥協を示してスウェーデンのノルウェー獲得を援助していたら、この後カール・ヨハンがフランスとの関係を断ち切ることは無かったと指摘される。 1812年1月26日から27日にかけ、ナポレオンはダヴーに命じて予告なしにスウェーデン領ポメラニアとリューゲン島を侵略・占領させ、スウェーデン船舶を拿捕し、住民に負担金を課し、かつ駐留していたスウェーデン兵をフランスへ連れ去り、更には財源を国庫に没収した。その妥当な理由は大陸封鎖令を徹底するためにそこにある港湾を差し押さえることだが、より決定的な動機はロシア遠征前に側面の安全を確保するためであった。加えてカール・ヨハン個人に侮辱を与えるため、あえて彼の誕生日に狙いをつけて侵略は実行された。 果たして心理的な要素が背景にあったのか、少なくともその帰結を見るとナポレオンは重大な失策をしたと言える。この侵略が起きるまでスウェーデンはまだフランス寄りだった。だがこの行為は明らかに国際法違反であり、事実上戦争を挑んだに等しく、当然の成り行きとしてスウェーデンの世論は怒りに沸く。さらにはスウェーデン政府内の親フランス勢力をも敵に回すことになった。 この勢いを受けて、王太子はスウェーデンの中立を宣言して港湾を全ての国の船舶に開放すると共に、フランス以外の国との交渉を開始した。サンクトペテルブルクに使者を派遣して、ノルウェー獲得に向けてロシアの支援を得たい旨をアレクサンドル1世に伝えた。しかしこの時点では王太子はまだフランスに敵対する道を選択しなかった。3月、無謀な遠征を企てるナポレオンに親書を送り、欧州の平和の為にもフランスとロシアの調停役となることを申し出たが、ナポレオンは調停を拒み、フィンランド、ポメラニア、メクレンブルク、シュチェチン等を与える代わりにスウェーデン兵40,000を率いてロシアと戦うよう要求した。しかしそこにはノルウェー獲得について言及されておらず、かつ非公式であやふやな約束であったため、王太子はフランスに付くことはしなかった。 同年4月、非公式のやり取りの中で、王太子はロシア皇帝よりデンマークからノルウェーをスウェーデンに割譲すること、ならびにその為の軍事的支援への同意を得た。代わりにスウェーデンはフィンランドをロシアに委ねること、ロシアとフランスとの戦いにスウェーデン軍を参加させることに同意した(サンクトペテルブルク秘密協定(英語版))。さらに5月、王太子はロシアとオスマン帝国間の和平調停を行った(ブカレスト条約)。こうしてロシアは北方と南方に兵力を割く必要がなくなり、西から攻めてくるフランス軍に全勢力を集中できるようになったため、かえってナポレオンは不利な状況に立たされることになる。 また王太子はイギリス大使エドワード・ソーントン(英語版)にノルウェー割譲にあたってイギリスの支援が欲しい旨書き送っている。この時期のスウェーデンは深刻な財政危機に直面していた。第2次ロシア・スウェーデン戦争にて莫大な戦費を費やし、スウェーデン国立銀行は銀貨を大量に発行していたため、高インフレかつ巨額の対外債務を抱えていたのである。1812年、王太子は議会にてフランス支配下にある国の債権者への支払いを拒否することを提案する。フランスがスウェーデンの船舶を拿捕した事を理由にこの提案は正当化された。これによりスウェーデンの対外債務は約1100万リクスダラーから約400万リクスダラーへと削減されることになる。7月、王太子がエレブルーに滞在している時、大陸軍がロシアの領土に侵入したことを知り、すかさずイギリス、ロシアの3国間で和平を締結した(エレブルー和平協定(スウェーデン語版))。 スウェーデンとロシアとの相互理解と、カール・ヨハンの国際社会における影響力は、1812年8月にアレクサンドル1世とフィンランドのイェーボ(フィンランド語ではトゥルク)で催された会談によって強化される。 「(フランス軍の緒戦での勝利について)結果がどうであれ、陛下が心配するに及びません。ナポレオンは1戦目、2戦目、3戦目さえも勝利するでしょう。4戦目は勝敗がつきません。しかしながら、陛下が軍兵を温存すれば、必ずや5戦目は勝利を収めることができます。」 この頃フランス軍はロシア領土内を進軍中であり、アレクサンドル1世はサンクトペテルブルクが陥落するのではないかと不安を抱えていた。王太子はこの遠征が失敗に終わることを確信しており、「ナポレオンは、あたかも自殺を決意したのか、あらゆる警告にも耳を貸さず、敵の性質も、欧州の絶えざる苛立ちも、時間も、距離も、気候も考慮に入れることなく、国境線から800kmも隔絶した荒野に身を投げ込んでいます」と伝えて励ました。更に王太子は自身のデンマーク攻略を延期することで、もともとそのためにアレクサンドル1世が約束していたロシア兵35,000をフランス軍からの防衛に充てることができるようにした。王太子は「陛下が敗北したら、全欧州がナポレオンに隷従することになります」と述べた。アレクサンドル1世はこの寛大な計らいに非常に感謝し、王太子にロシア軍の最高司令官になるよう提案したが、王太子はこれを断り中立の立場を崩さなかった。その代わりアレクサンドル1世に書簡を送り続け、必要とあればカスピ海までフランス軍を引きずり込めと戦術的助言を与えている。またこの会談中、アレクサンドル1世は王太子に妹のエカテリーナ大公女との結婚を持ちかけたが、王太子は断っている。その一方で彼の王朝を支持してもらえるよう私的な『家族契約』を交わしたという。 会談を経て公式の協定が結ばれ、イギリスが同意する限りスウェーデンはデンマークの処置に関して自由裁量を得ることになった。またこの協定によってスウェーデンの対ナポレオン戦争(第6次対仏大同盟)参戦は決定的になるのである。 ===ナポレオンとの戦い ―統治者の証明―=== 1812年の秋、ナポレオンのロシア遠征の動向を眺めつつ、カール・ヨハンは各国と頻繁に外交折衝を重ねていた。また彼はエージェントをノルウェーに送り、スウェーデン=ノルウェーの統合に向けた世論操作を行った。この頃ストックホルムの彼の元には、スタール夫人、バンジャマン・コンスタン、アウグスト・シュレーゲルらが参集しており、彼ら知識人の手を借りて各国政府内にスウェーデン寄りの論調を作るとともに、フランス占領地の民衆に向けて蜂起を促すプロパガンダを流布させた。モスクワ陥落のニュースが届いた時、その場にいた誰もが驚愕したが、王太子はオーストリア使節に向かって「貴下の皇帝に告げられよ、ナポレオンは敗れたと」と言ったとスタール夫人は回顧している。次いで王太子はロシア皇帝に「ナポレオンは必ず最後に敗北します。陛下の軍は損失を補填できますが、彼の軍は補給基地から遠く離れており、補強を得ようとも不可能だからです」と書き送った。しかし同年冬のあまりに悲惨なフランス軍の撤退ぶりには衝撃を受け見舞金を送っている。またフランス軍の著しい弱体化は、ロシアとイギリスがスウェーデン抜きで勝利できると判断し、よってノルウェーの獲得の話が白紙に戻る懸念を生じさせた。ロシアとイギリスはフランスの同盟国デンマークをナポレオンから引き離し味方に引き入れようとしたが、デンマークがあくまで敵側におらねばノルウェー獲得が困難であるため、王太子は手管を用いてその妨害にあたった。またイギリス外相のカスルリーは依然としてカール・ヨハンを信用しておらず、ノルウェー獲得へイギリスの承認を与えることを渋っていた。よって王太子はナポレオンと対決する姿勢を示すために、スウェーデン、フランス両国間の大使召還を決定する。 1813年のはじめ、フランスとの同盟関係を断ち切ったプロイセンはスウェーデンと接近しあう。スウェーデンが大陸に軍を派遣しプロイセンの領土回復に協力する代わりに、プロイセンはスウェーデンのノルウェー獲得の承認とその為の兵力の提供を約束した。更に王太子はオーストリアのフランツ1世、カール大公、メッテルニヒらにしきりに書簡を送り、第6次対仏大同盟に参加するよう促した。3月3日、イギリスとスウェーデンは公式な同盟関係を結び、イギリスはスウェーデンに対し、100万ポンドの補助金、ノルウェー獲得の承認とそれに向けたイギリス艦隊の海上支援、スウェーデン軍の大陸への輸送を約束した。代わりにスウェーデンは大陸における「共通の敵」との戦いに、王太子指揮下の30,000兵を従軍させる事を約束した(ストックホルム協定)。同時期、ナポレオンからフランス側について戦うならばフィンランドとポメラニアおよび大陸軍全軍団の指揮権を与えると非公式に告げられたが、王太子は3月23日付の親書にてポメラニア侵略を改めて非難するとともに、大陸封鎖令が国家間にひずみを生じさせていること、ナポレオンの征服事業のために夥しい人命が失われたこと、そしてナショナリズムの高まりは統一王朝構想と相和しないことを告げ、「政治には友情も憎悪も存在しません。神意が統治せよと命じた人民に対する義務しか存在しません」と訣別の意を伝えた。 後に解放戦争と呼ばれるこの1813年の戦役に向けて、ナポレオンは新たに兵力を増強しており、5月2日のリュッツェンの戦い(英語版)では、フランス軍の騎兵の不足によってかろうじてロシア‐プロイセン軍は決定的な敗北を免れることができた。カール・ヨハンの当初の計画ではナポレオンと戦う前にデンマーク制圧を行うはずであったが、連合国軍が苦戦を強いられていることから、延期することに同意させられた。5月18日、スウェーデン軍を率いて王太子はシュトラールズントに上陸する。王太子はナポレオンから「これまでの事は許すから中立でいろ」との伝言を受けたが無視した。だが、パリにいる妻デジレからの「フランスの敵となっては、貴方は国内の声望を失ってしまいます。もしナポレオンが失脚したら、貴方はフランスで重要な役割を担うはずです」との手紙は心理的葛藤を彼にもたらし、この後の行動を幾分左右した。 6月4日、ロシアとプロイセンがスウェーデンに告げずにフランスと停戦協定を結んだことは王太子を憤慨させる。ここでロシアとプロイセンが同盟から抜けたら、スウェーデンとイギリスだけでナポレオンと戦わざるを得なくなるからだ。ロシア皇帝からの使者ポッツォ・ディ・ボルゴはこの停戦は時間稼ぎで、プロイセンが軍を再組織し、オーストリアが参戦の準備をするためだと説得し何とか怒りを宥めたが、シュトラールズントに上陸した時、約束されていたはずのロシアとプロイセンからの補充兵が無かった前例があったこともあり、王太子は同盟参加国の信用性に疑念を抱く。 7月、シレジアのトラッヒェンベルク(英語版)にて、カール・ヨハンとアレクサンドル1世、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世ら連合国首脳の会談が開かれ、連合国軍の包括戦略が話し合われた。カール・ヨハンの帝国元帥時代の知識と経験が、戦略の考案に貢献したとされ、イギリスのウィリアム・カスカート将軍(英語版)は「王太子のプラン」が合意を得たとカスルリーに報告している。基本コンセプトは連合国軍を3つに分け半円を成して大陸軍を囲い込み、部下の将軍が率いる個別の軍と戦闘を行う一方、ナポレオン本体との戦闘は全軍が集結するまで避け、ナポレオンが連合国軍のいずれかに攻撃を仕掛けてきたら即座に退却し、その一方で他の軍がナポレオンの側面と連絡線を攻撃して消耗させるというものだった。かくして王太子は連合国軍北方軍の総司令官として、スウェーデン軍と、ロシア軍・プロイセン軍約95,000兵、イギリス兵その他を足し合わせた総勢158,000兵を率いることになる。しかしながら、スウェーデン軍の中には依然として親フランス・反ロシアの勢力が根強く存在していた。また戦役を通して領土を奪回せんとする連合国の間にも利益を巡って対立が生じていた。王太子はノルウェー獲得に向けたデンマーク攻略をナポレオンとの戦いの後に延期したため、そのために30,000しかいない自軍の兵を温存しておく必要があった。そしてそのデンマークだが、オーストリア外相のメッテルニヒはスウェーデン王太子を信用しておらず、デンマークを弱体化させることは欧州の勢力均衡を妨げかねないとしてノルウェーの割譲には好意的ではなく、デンマークに対し外交的支援を行っていた。また、シュトラールズントはスウェーデン軍にとって自国及びデンマークとノルウェーに至る重要な連絡線であり、よってそれが脅かされないよう後方を常に気にかける必要があった。上述のようにカール・ヨハンは軍事行動と政治的立場の両面で複雑かつ困難な状況に身を置きながらナポレオンと戦わねばならなかった。 8月11日、休戦が破られ戦争が再開される。8月23日のグロスベーレンの戦い(英語版)と9月6日のデネヴィッツの戦い(英語版)にて王太子の指揮する北方軍はフランス軍の攻撃からベルリンを防衛することに成功した。しかしプロイセン軍は一方的に負担を強いられたと苦情を申し立てた。事実、王太子はフランス人の血を流したくなく、元同僚のネイに向けて、連合国側から提示されている和平案を受け入れるようナポレオンを説得して欲しいと手紙を送りもしたが、8月末にフランス軍がドレスデンの戦いにて大勝を収めたことはナポレオンを勢いづけ、交渉による和平が成立する望みを失わせた。デネヴィッツの戦いの後、王太子はツェルプストで数週間過ごし、その間フランス軍の士気低下を狙ってプロパガンダによる心理戦を仕掛けていたが、他の連合国に不活発な印象を与えることになる。実際のところカール・ヨハンの一見やる気のない態度は、逆説的であるが、連合国軍内の団結を強める結果をもたらしていた。しかし盟友アレクサンドル1世さえも王太子の行動に不信を抱き、不活発でいるとかえって自身の立場が厳しいものになると使者を送って警告したため、10月4日、王太子の北方軍はエルベ川を渡河し、ゆっくりと慎重にケーテンを経由して連合国軍の集結するライプツィヒに向けて南進した。 のちに諸国民の戦いと呼ばれるライプツィヒの戦いは、10月16日から19日までの4日間かけて繰り広げられたが、王太子はその最終段階になって参戦する。15日の朝、ナポレオンはライプツィヒ周囲に集う連合国の大軍を見て、王太子の北方軍も既にいるものと誤解していた。その一方、北方軍は17日夜になって戦場近くに到着した。18日の戦闘では、王太子はフランス軍時代にドイツ人から人気だったこともあり、プロパガンダの効果も相まって、フランス軍に属するドイツ人兵を大量に寝返らせることに成功する。かつてヴァグラムで王太子の指揮下にいたザクセン人の砲兵隊長は、大げさな布告を出して自分たちを庇ってくれた元元帥の姿を見るやいなや、2個中隊もろとも寝返ってきた。そしてフランス軍に向かって砲を打ち込んだので、フランス軍は意表を突かれて混乱する。19日、王太子の軍はライプツィヒ南東の門を破り市内になだれ込んだ。ここへ来てナポレオンは敗北を悟り、ライプツィヒからの退却を決定する。こうして王太子は一番遅くやって来たにもかかわらず、ライプツィヒ中心部一番乗りを果たした。 トラッヒェンベルクからライプツィヒの戦いまでの期間が、国際政治におけるスウェーデン王太子の重要性の頂点だった。同盟結成自体もそうだが、戦略立案においても北方軍の統率においても王太子は連合国軍の勝利に貢献した。しかしながら、オーストリアやそれ以外にも多くの国々が連合側に参加したこと、王太子がスウェーデン兵を温存したこと、続くフランス戦役に参加せずノルウェー獲得に向けてデンマーク攻略に向かったことは、ライプツィヒ戦後の彼の国際的地位の下落をもたらした。 ===スカンジナビア半島の統一=== ライプツィヒの戦いで連合国軍が勝利を収めた後、今後の方針についてカール・ヨハンは他国の首脳陣と協議を行った。王太子はフランスの領土を自然国境に基づいて維持するよう連合国に主張したが、列強の君主たちはナポレオンとの交渉から彼を排除しようとした。その後王太子はイギリスのジョージ王太子を手助けしてハノーファーの領地回復とハンブルクのダヴーの脅威を取り除くため軍を北に向けたが、本当の目的はホルシュタインを攻撃してデンマーク国王フレゼリク6世を降伏させることにあった。他方、メッテルニヒ主導でナポレオンと交渉をしていた和平案(フランクフルト和平案(英語版))が締結される見込みが無くなったため、連合国軍はフランスに侵攻する。 小規模な戦闘を経て、1814年1月6日、スウェーデン軍に対抗するための軍資もナポレオンの援助も無いと判断したフレゼリク6世は降伏を決定する。1月14日にキール条約が締結され、代償としてスウェーデンはポメラニアとリューゲン島を手放すことになったうえで、ノルウェーはスウェーデン国王に割譲されることとなった。 キール条例の締結後、スウェーデン国民は目的が果たされたのだから王太子が帰国することを望んだ。しかしながら、カスルリーがナポレオンを決定的に排除する前にスウェーデン軍を連合から引き上げることに対し警告を持って反対したため、再度軍を南に向けた。2月末、王太子はベルギーのリエージュに司令部を置く。依然としてナポレオンと連合国は交戦中だったが、王太子はそこから先に進もうとはしなかった。その理由の一つは戦役の動向と戦後処理に関しての連合国との意見の不一致であり、また王太子自身が軍を率いて母国フランスに踏み込むことをためらったからでもある。リエージュで待機している間、ブルボン家の使者が彼に接触し、彼らの復古を手助けすればフランス王国軍総帥の座を約束すると伝えてきた。また、義兄ジョゼフからの使者が来てナポレオンの今後はどうあるべきか尋ねられると、王太子は一刻も早く和平を結ぶよう助言した。加えて使者から、王太子が連合国のいずれよりも早くパリ入城をすれば、ブルボン朝の復古を怖れる多数の国民からフランスの救世主として歓迎されるだろうと告げられると、「内戦を誘発する行為は決してするつもりはないが、国家の集合をなす人々の求めには応じたい」と返答をした。 こうして彼がリエージュで行動せずにいる間、ノルウェーとの統合関係に危機が訪れていた。スウェーデン軍の不在は、キール条約以前にノルウェー総督を務めていたクリスチャン・フレゼリク(後のデンマーク王クリスチャン8世)に反乱の機会を与えた。スウェーデンとの連合に反対する勢力の後押しを受けた彼はノルウェーの主権を握ろうとし、自ら摂政就任を宣言し、エイズヴォルで4月10日に開かれた議会でノルウェー国王との承認を得る。 1814年3月31日、アレクサンドル1世に率いられたロシア軍がパリ入城を果たす。アレクサンドル1世はフランスの外務大臣タレーランとナポレオンの後継者をどうするか協議した。タレーランは正統主義に基づいてブルボン朝の復古が妥当とみなしていた。アレクサンドル1世はブルボン朝の復古王政よりもカール・ヨハンによる立憲君主制の方が良いのではないかと提案したが、「ベルナドットは革命の新たな段階になります」とタレーランは言い、そして「なぜ最も強大な軍人を廃した後に、別の軍人を選ぶ必要があるのでしょう?」と続けた。 こうしてナポレオンの退位とルイ18世の即位が確定された後、4月12日になって王太子はパリにやって来た。戦後処理に関して、王太子は自分の中のスウェーデンとフランスへの忠誠心のバランスを取ることに努める。彼は連合国がフランスに要求した講和条件を支持することはせず、スウェーデンとフランスは個別に和平を締結した。パリ訪問の主な目的はノルウェー統合を確定するため他の連合国首脳と外交的調整を行うことだった。イギリス外相カスルリーとは反乱を起こしているノルウェーに対しイギリス艦隊による港湾封鎖を行うよう約束を取り付けた。パリ滞在中に、ネイ、ルフェーブル、オージュロー、マルモンら元帥やラファイエット、タリアンら政治家の出迎えを受け、またジョゼフィーヌ、オルタンスを訪ねている。また彼は祝いの手紙を多く受け取っていることから、後世言われるほどフランス人全体から裏切り者として手厳しい扱いをされた訳ではなかった。フランスを去る前に、亡命先から帰国したルイ18世と面会し、「この国は治めることが難しい国です。外柔内剛の姿勢で臨まれると良いでしょう」と述べたという。こうして5月1日にカール・ヨハンはフランスを出国する―これが彼と母国フランスとの永遠の別れとなった。 1814年6月10日、王太子とスウェーデン軍はストックホルムに凱旋する。しかし王太子は早急にクリスチャン・フレゼリクのもと独立を宣言したノルウェーへの対応に取り掛かかる。秋に開催されるウィーン会議の前にノルウェー統合を事実化せねば不利になるからである。ノルウェー人の抵抗は統合を平和裏に締結させるのが不可能に見え、両国の国民とも戦争は避けられないと予想していたが、王太子はスウェーデン側からの侵略は後々まで続く恨みを買うだけだと気付いていた。スウェーデンが占領者と見なされるのは避けるべきであり、よってノルウェーに実体性のある自治権を与えることにした。対外的な評判に配慮しても、また彼自身の国家元首としてのあり方を考慮しても、スウェーデンとノルウェーが対等な2国の連合であるとの認識を得ることは重要であった。 7月末、王太子はノルウェーに進軍する。王太子の注意深い用兵によって不要な流血を見ることなく、8月14日にモス条約(英語版)が両国間で締結された。クリスチャン・フレゼリクはノルウェーをスウェーデンに連合させること並びに自身の退位を受け入れた。代わりに王太子はノルウェーが独自の憲法を持つことと、連合の形態は先のキール条約ではなくこの度のモス条約(英語版)に基づく事を受け入れた。スウェーデン国内ではこうした寛大な条件を与えることに反対意見もあったが、王太子にとってノルウェーが被征服地としてではなく独立した国家として自発的に連合に加わることが望ましかった。その後ノルウェー議会は憲法修正を行い、11月4日に制定された憲法(11月憲法)にてカール13世をノルウェー国王として採択し、両国は同じ君主を推戴する同君連合となる。 スウェーデンの境遇はカール・ヨハンが来た1810年から急速な変貌を遂げた。この新しい王太子はグスタフ4世アドルフが退位させられた後の荒廃したスウェーデンを立て直し、あらゆる困難を克服し、『1812年政策』の目標であるスウェーデンとノルウェーの統合を成し遂げたのである。 その年秋のウィーン会議において、スウェーデン=ノルウェーの連合は参加国の承認を得ることができたが、その一方でカール・ヨハンのスウェーデン王位継承者としての正統性に関して、ルイ18世とメッテルニヒから異議が差し込まれる。彼らは廃されたグスタフ4世アドルフの嫡男グスタフ・ヴァーサに同情的な姿勢を見せた。しかしアレクサンドル1世やイギリス、そしてタレーランもそれらに同調しなかったため事なきを得る。 会議のさなかナポレオンのエルバ島脱出の報が届く。各国は大慌てで第7次対仏大同盟を結成して対抗姿勢を取るが、ストックホルムのカール・ヨハンは中立維持の原則と国内の反対意見から軍を動かすことなく静観した。彼はナポレオンの百日天下は失敗に終わると見越していたが、ナポレオンが領土的野心を示さず自然国境内に国土を維持するならば、反動的なブルボン朝より有用だろうと状況の推移を面白そうに眺めていたという。この時のカール・ヨハンはまだフランスの救済者として呼び声がかかる望みを無くしていなかったと言われる。またパリとサンクトペテルブルク間の調停役となることで、スウェーデンの国際政治上の威信を高めようと考えたが、ワーテルローの戦いで連合国軍がナポレオンに対し決定的勝利を収めたことはその可能性を失わせた。ナポレオン再退位後は白色テロの嵐を憂慮し、多くの亡命者をスウェーデンに受け入れた。元同僚ミュラのナポリ王位剥奪を食い止めようと列強国に掛け合っていたが、最終的にミュラは銃殺された。また親友ネイの処刑には衝撃を受け、遺児をスウェーデンに招き息子オスカルの副官に付け共に養育した。他にもフーシェやドルエ(英語版)の息子らをスウェーデン政府に士官させている。そして妻デジレの姉にしてジョゼフ・ボナパルトの妻ジュリーをイギリスのジョージ王太子の助力を得てフランクフルトに移し保護した。またリュシアンの娘をスウェーデンの外交官に縁付けており、さらに後年ナポレオンの継子ウジェーヌの娘ジョゼフィーヌをオスカルの妃に迎えていることから、ナポレオン没落後もボナパルト一族とある程度の関係を維持できていたと推測される。 再開されたウィーン会議ではスウェーデンは脇に追いやられ、列強主導でナポレオン戦争の戦後処理は進む。カール・ヨハンがフランス時代に所有していた個人資産の代償として1813年にイギリスから割譲されたグアドループ島がフランスに返還されることになった。ただしその代わりイギリスから100万ポンドを得ており、カール・ヨハンはこれを債務処理や公共事業にあてた。スウェーデンは政治面においては更に孤立しており、大陸の列強国の首脳の中ではアレクサンドル1世のみがカール・ヨハンの確固たる支持者であった。ナポレオン戦争後の政治的反動の中でカール・ヨハンの統治は長続きしないと目されていたのである。実際のところ、そのような諸外国の疑念にかかわらず解放戦争の勝利とノルウェーの統合はスウェーデン国内における王太子の人気を絶大なものにしていた。だがそれでも王太子時代の終盤には自分の置かれた状況に不安を募らせている。フランスの王政復古と神聖同盟が引き起こした欧州における反動主義の高まりはこの『革命の申し子』を排除しようとした。ある対抗者の一人は彼のことを「かつて美しかったヨーロッパに付着した醜い染み」と呼んだという。 ===スウェーデン=ノルウェー連合王国国王時代=== ====選任された統治者として==== カール13世の死去を受けて、1818年5月11日、カール・ヨハンはストックホルムにて戴冠式を行いカール14世ヨハンとしてスウェーデン国王に即位する。これが現在まで続くベルナドッテ朝の創立になる。次いで9月7日にノルウェーのトロンハイムにてノルウェー国王カール3世ヨハンとして戴冠式を行った。新国王の即位は両国で熱狂を興すとともに、ヨーロッパの列強国の君主からも祝賀の意が寄せられたことから、彼の王位継承者としての正統性への不安は幾分和らいだかと思えた。だがオーストリア使節が式典の最中に「全欧州がこの王朝の消滅を惜しまないだろう」と口にしたことは、ウィーン体制下にてカール・ヨハンが置かれた逆境を表現していると言えた。 その時代の他のヨーロッパの君主国からみて、カール・ヨハンの統治下のスウェーデンとノルウェーはその君主の王権が憲法によって制限されているという点で例外的であった。成立した当時欧州で最もリベラルであった1809年制定のスウェーデン憲法は王権を制限しており、国王と議会の権限はほぼ同等と定めていた。カール・ヨハンはフランス時代にナポレオンが行っていた政策を部分的に模倣したと指摘されているが、両者が決定的に違うのは、独裁的に必要と判断した政策を即座に実行できたナポレオンに対し、カール・ヨハンは上述の通り憲法の枠内で行動した点である。よって国王として統治するにあたり、政治的バランス感覚は重要なものになった。カール・ヨハンは自分が議会によって選任された統治者であることに極めて気を配っており、自身の地位はあくまで人々の自由意志によるものと見なしていた。彼はモンテスキューの権力分立制の支持者であり、自らの役割を「君主であるよりも調停者、王族であるよりも法の守護者」と称した。 ===内政改革=== スウェーデンはカール・ヨハンが統治した1810年から1844年にかけて根本的な改革がなされた。スウェーデンはほとんど一文無しの国から国家の基礎をなす繁栄と社会基盤をそなえた国へと変貌を遂げた。とりわけ1814年以降続いた平和は、政府が内政に注力することを可能にし、彼の治世の間にスウェーデンは大きな発展を遂げる。インフラストラクチャーや教育システム、経済の進歩は社会をより近代的かつダイナミックなものにした。なお彼の政策にはサン=シモンの影響があることが指摘されている。 カール・ヨハンが来た1810年時点のスウェーデンはヨーロッパ最貧国のひとつであった。先述の通り、政府は度重なる戦争がもたらした出費による対外債務を支払う能力もなく、いわゆる国家破綻と呼ばれる状況に置かれていた。1808年から1812年にかけて上昇し続けるインフレーションは、スウェーデン通貨の価値を45%も下落させた。同時期に飢餓を回避するため必要不可欠な食料を輸入していたため、その出費は国の経済の更なる負担になった。当時の人口の80%が農業に従事していたにもかかわらず、国内で生産される食料は全人口を賄い切れていなかったのである。 フランスにいた頃からカール・ヨハンは金融と財政についての一定の知識を有しており安定化政策の事もよく理解していた。彼はインフレーションが投機家と国外の政府関係者によって煽られていると考え、輸入制限や海外市場におけるスウェーデン為替下落に対抗するための為替投機など保護的な政策を採用した。しかしながら、ナポレオン戦争後、保護的政策を緩和しようとする議会とカール・ヨハンは衝突をする。1815年以降も彼は引き続き為替介入を行っており、そのために相当な公金を投入していた。1817年から1818年にかけ経済危機に陥った際、彼は専門家からなる諮問委員会の反対にもかかわらず紙幣の流通量を増やそうとしたが、議会の支持を得られなかった。この頃のカール・ヨハンが達成した重要な経済政策は、グアドループ島の返還時にイギリスから得た個人資産の100万ポンドによって残った債務の支払いを行ったことである。こうして事実上スウェーデンは債務ゼロ国家となり、それゆえ的確な財政政策が可能になった。その後カール・ヨハンの治世の間、国家財政は年々健全化していく。1834年、銀本位制が導入されたことで金融システムの不確実性が是正され、より長期的な視点に基づいて財政政策を取れるようになり、従って国家運営をより安定させた。 農業の生産性の向上は経済の安定化に向けた次なる課題であった。1811年にカール・ヨハンは農業学校を設立し、スウェーデンの風土にあった農作物の種子や家畜の品種の研究を促進した。また農家を実務的に支援する農業組合を国中に設立し、最新の農耕具や脱穀機も導入された。さらに開拓や土地改良が全国で行われた。これらの政策は成功を収め、1820年代にはすでにスウェーデンは農作物の輸出国に転じ、その後1844年にカール・ヨハンが死去するまで100万人以上も国民人口が上昇し続けたにもかかわらずその地位を保つことができた。この期間、農耕地は40%以上増え、農業生産量は53%以上増加している。 カール・ヨハンがスウェーデンに来た当初、鉱業や新興産業の従事者、貿易商や起業家等は資金を借り入れる手段に乏しかった。紙幣が造幣されるストックホルムとそれ以外の地域間の連絡手段が整備されておらず、スウェーデンのほとんどの地域で支払い手段となる紙幣が行き渡っていなかった。新しい銀行法が採択され、1820年にイギリスの例にならって最初の貯蓄銀行がヨーテボリに設立される。次いで1830年に最初の商業銀行がスコーネに、最初の私立銀行がイースタッドに設立された。以降急速に私立商業銀行が主要な都市に新しく設立されていく。これらの銀行は独自に銀行券を発行する権利を有し、それゆえ銀行自体が営利性を考慮に入れて自発的に資金を貸し出す機会をもたらした。信用貸付はとりわけ貿易商や農業従事者、そしてノルヒェーピングの織物産業から需要を得た。鉄鋼業も同様で、信用貸付で得た資金を溶鉱炉技術に投じ、ランカシャー工程(英語版)による鉄の精錬を可能にし、生産される鉄の質の改良を行った。こうして鉄の生産は1840年から1860年にかけほぼ2倍になり、かつて1700年代末から1800年代初頭にかけて失っていた世界市場に占めるスウェーデンのシェアを回復することができた。 国内のインフラストラクチャーは長い間乏しいまま捨て置かれていたが、迅速なペースで道路は建設されていく。ほとんどの幹線道路は舗装が施され、秋の雨天や春の雪解けにも悩まされることなく通行が可能になった。最も大きな建設プロジェクトは1832年に完成する63km(39マイル)の長さのイェータ運河である。この運河は経済の発展に大いに貢献し、1900年代初頭まで経済的に重要な役割を果たした。また沿岸部の海運業を拡大するために港湾の浚渫が行われた。行政機関同士のやりとりを円滑化するため電信も導入される。それまではストックホルム−マルメ間を6日かかるような手紙のやり取りに依存していたのである。 スウェーデンにおける商取引は都市部の特権的商人が占めており、そのルーツは中世のギルド制まで遡った。よって商取引の自由化は議会での反発が大きかったため段階的に進められる。1810年に郊外から都市部へ運ばれる商品に課せられた関税は撤廃された。1834年には農民は手工業製品をどこでも販売する権利を得る。しかしながら郊外でビジネスを開業する権利は1848年まで確立することは無かった。法制度は無くともカール・ヨハンは個別のケースに直接対応することで徐々に制限を緩めていった。完全な商業の自由化は国王の死後の1846年と1864年の法制化によって実現する。 1823年のスウェーデン議会では、貿易の自由化を求める声が優勢になり多くの物品の輸入規制が外され、ノルウェーへの関税も撤去された。輸出入関税は段階的に減額され、外国との貿易は簡便化したことで振興する。 産業面においては、作業場がストックホルムに建てられ、イギリス人技師のサミュエル・オーウェン(英語版)によって蒸気船が建造された。ノルヒェーピングには織物産業と鉱山業が興隆し、また北部では林業が活性化した。また国王は産業を促進に向けて外国で新しい技術を習得させるための奨学金を払った。 行政機関は次第により効率的なものになる。行政官庁は複雑化する社会に対応するため再編され、政府の各部局は閣僚を管理者として編制された。議会は反対したが、官吏はより高い賃金を得るようになった。革命を経験したカール・ヨハンは、働きによる功績は適切に報われるべきだと考えていたのである。 またカール・ヨハンにとって教育の向上は優先課題であり、全国にあらゆる分野の学校が設立された。とりわけ職業学校の設立に熱心だったという。1823年には学校数はわずか183校だったが1840年には1,400校まで増加した。教育分野における決定的な取り組みは1842年にスウェーデン議会にて義務教育が制度化されたことである。これは男女含めた全人口が読み書き能力と計算能力を取得することを目的としたものだった。その効果はてきめんで、1850年には10歳以上のスウェーデン人の非識字率はわずか10%となり、この国が教育国家へと変貌を遂げる重要な先行条件となった。大学や研究者は必要とする資金を時にはカール・ヨハンの個人資産からも賄われた。芸術家やその他文化活動従事者は国王からの奨学金によって奨励された。 医療福祉と公衆衛生にも注力している。カール・ヨハンが来た頃の病院の数はわずか数える程だったが、1833年にはその数は40となり病床数は1,800まで増加する。病院設立に国王自らの財産も当てられた。医師や医療従事者の組織を立ち上げ、医療サービスが国内隅々に行き届くよう医官を遠隔地に任命した。高い乳幼児死亡率は助産婦の訓練によって対応が取られ、死亡率は大幅に減少し人口の増加に結びついた。また、貧困層の病人や子供を抱えた未亡人への援助も行われた。 ===対外政策=== 『1812年政策』の理念である自然国境によって領土を維持することは、スウェーデンとノルウェーを大陸の紛争に引きずり込まれないことを目的にしたものだった。またこの政策は「バルト帝国復興」に示されるスウェーデンの歴史的な領土拡張路線と覇権追求を放棄したという点で、この国の外交史上の大きなターニング・ポイントとなった。カール・ヨハンはこの方針を1814年から死去に至るまで貫き平和を保つことに成功した。またこの間、他のヨーロッパ列強との間で生じた対立はわずか数える程であった。 その初期の事案はデンマーク政府からノルウェーに課せられた債務処理問題である。ノルウェーの脆弱な財政基盤を考慮するとその金額は最小であるのが望ましく、従ってカール・ヨハンはデンマーク政府に対してそのように働きかけた。しかしながら交渉に進展が無かったために、デンマークは列強国に掛け合いノルウェーの債務処理の解決に向けた支援を要請する。1818年のアーヘン会議にて列強はデンマークに対して親身なところを見せたが、国王は問題解決に向けて圧力をかけた。そして彼はどうにかイギリスの仲裁を得ることができ、もともと要求されていた6百万リクスダラーの負債額を3百万リクスダラーに減らし、それを10年かけて返済できるようになった。この債務処理問題は、一時ロシアとの関係を冷え込ませたが、片方でイギリスとの関係強化に結びついた。一方ノルウェー議会は債務処理に関するこの決定に不服で、スウェーデンも一部負担を受け入れるべきだとしたが、国王は反対した。紛糾は長引いたが、外国からの批判と圧力を受けた国王が軍隊をクリスチャニア(現オスロ)近郊に集結させ脅しをかけたために、最終的にノルウェー議会は譲歩する。 外国との間に直接生じた対立として、1825年に『軍艦売却問題』と呼ばれるものが起きた。スウェーデン海軍の刷新のための資金調達として老朽化した軍艦を売却しようとしたもので、買い手は公式にはイギリスの貿易商だったが、実際のところそれは仲買業者であり、軍艦はラテン・アメリカにあるスペイン植民地に転売される見込みだった。この植民地はスペインから独立を宣言していたが、イギリスしか承認していなかった。スウェーデンはこの商取引による政治的影響を重視しており、目的は新大陸の新興国との繋がりを強化し貿易を活発化させることだった。しかしながら神聖同盟に加盟した列強国は、こうした新興国は反逆国であるとし軍艦の売却に抗議した。アレクサンドル1世は、スペインのスウェーデンに対する非難を後押しする形で、軍艦の売却をキャンセルするよう要請した。国王は売買がうまくいくよう取り計らっていたが、最後には閣僚に命じて売買を取りやめることにした。これはカール・ヨハンにとって国際的にも国内的にも威信を傷つける出来事だった。売買時の契約に準拠してスウェーデンは弁償を支払うことになり、得るものより失ったものの方が多かったため、会計監査からも議会からも強い批判を受けることになる。大国からの圧力は、カール・ヨハンの議会に選ばれた統治者としての立場にとって、大きな不安要素であった。 カール・ヨハンの先々の外交方針に何よりも重大な影響を与えたのは、英露間の対立関係である。この両国で戦争が勃発するとスウェーデンとノルウェーの沿岸部はとりわけ危険に晒される可能性が高かった。運良く治世中に両国が交戦することはなかったが、その脅威が発生したのは一度だけではなかった。それを見越して中立性の維持に努め、スウェーデン、ノルウェー両国とも戦争に巻き込まれるのを避けようとした。 カール・ヨハンとロシアのアレクサンドル1世との友情は皇帝が死去するまで続き、その弟で後を継いだニコライ1世にも受け継がれる。ノルウェーとロシアの古くからある国境紛争が、1824年から再開した協議を経て1826年に最終合意がなされ、ロシアとの境界線はフィンマルク国境線に基づくことが結論付けられた。これには国王とロシア皇帝との良好な関係が寄与するところが大きかったと思われる。しかしながら、アレクサンドル1世の提唱した神聖同盟にはイギリス共々参加することはなく、絶対君主制には同調しなかった。カール・ヨハン自身が自国のことを「政治的にはイギリスの海域に位置している」「北ヨーロッパにて先進した地位にあるイギリス」と述べている通り、イギリスに経済面において依存しておりかつリベラルな政治システムも近似していることから、従ってロシアと良好な関係を維持するものの、イギリスとも敵対しないことが彼の採用した外交スタンスであった。後年ロシアの脅威が増すにつれ、さらにイギリス寄りにシフトしていく。そしてこのスタンスはイギリスからも歓迎される。自国とロシアの紛争の緩衝帯としてスカンジナビア半島が機能すると捉えられたからである。東方問題を巡ってロシアとイギリス間の緊張が高まりを見せると、1834年1月にカール・ヨハンは両国政府に覚書を送り、その中で自国の中立をあらかじめ宣言した。これがスウェーデンにおける中立政策の起源と指摘されている。 またカール・ヨハンはその中立性を維持するためには、相応の軍事力が必須と考えていた。以前は緩衝帯の役割を果たしていたフィンランドがロシアの手に渡った事もあり、国土を防衛する機能の整備を進めている。1819年、後にカールスボルグ砦(英語版)と呼ばれる城砦の建設に着手する。カール・ヨハンの採用した『中央防衛戦略』に基づき、この砦はスウェーデンが攻撃を受けた際の政府の移転先として内陸部のイェータ運河の近くに築かれた。さらにスウェーデン軍の再組織・拡充を行い、1814年には4万足らずだった兵力を1833年には17万まで増強している。 スウェーデンにおける中立政策は武装中立同盟に示されるように通商政策としてはカール・ヨハン以前から存在していた。しかしカール・ヨハンが在世中に実施した安全保障としての中立政策は、スウェーデン国民の支持を得て、現代にまで継続する中立主義(武装中立)を創成したのである。「皆様、あなた方の王と同じくそれを望む限り、独立は永続するでしょう。自然と何よりも技術革新が人類に課す限界を超えてはなりません。たとえ侵略者への攻撃を止めることになっても、国境を越えることなく国内に戻って来るのです。両国の領土の10分の9は島嶼にあり、欧州大陸にはただ1箇所あるだけで、とりたて価値はありません。我々の船で全ての海を行き来すること、世界の平和を求めること、これらが我々の使命なのです。」 ― カール・ヨハン、1839年1月25日、議会にて「墓に横たわる前に」伝えるべきこととして ===ノルウェー政策=== ノルウェーがスウェーデンと連合することで受けた大きな恩恵のひとつは、経済的拡大がもたらされたことである。1815年には物品や船舶数が拡張するよう互恵主義に基づいてスウェーデン−ノルウェー間の貿易における関税率の引き下げが行われた。そして1820年代半ばまでに列強国とノルウェーとの間に貿易協定が次々と結ばれ対外貿易が活性化する。1816年にノルウェー銀行が設立され、さらに銀本位制が導入されたことは通貨の安定をもたらした。さらにスウェーデンとイギリスによる漁業と農業への資本投下がなされた。農業は大きく活気付き、約3万haの農地から産出される穀物や芋類は国の需要の90%を賄うようになった。1836年までには財政の健全化を達成し、ニシンや木材、鉱石類の輸出が増大するかたわら穀物輸入量は減少し、人口は100万を越えるようになった。 他方カール・ヨハンはスウェーデンとノルウェーが将来的に融合することを期待して双方の結合を強めようとしたが、スウェーデンとノルウェー間の憲法や社会背景の相違から困難に直面した。両国の憲法の最大の相違は、スウェーデン憲法で定められている国王の絶対的な議決拒否権が、もう片方では制限されていることである。ノルウェー憲法は、議会(ストーティング)にて3度合意が得られれば国王の裁可を必要とせず法案が可決されるようを定めていた。また階級社会が色濃く残っているスウェーデンと比べ、ノルウェー社会には貴族と呼べる階級はほとんどなく、わずかな中産階級と大部分の農民層で構成されていた。またノルウェーの25歳以上の男子の45%が参政権を有しており、この割合は当時のヨーロッパのどの国よりも高かった。従ってスウェーデンと比べてよりリベラルで、政治の保守化をもたらす要素が希薄だったと言える。 ノルウェー議会とカール・ヨハンの最初の対立は貴族制の廃止を巡って生じた。国王は2度とも反対したが3度目には屈して1821年に貴族制廃止法案を受け入れた。反対の動機はノルウェー貴族の存在は王朝維持のためにも必要だと考えていたからとも、自身が革命主義だと国内外にて受け止められることを懸念してとも言われている。これは彼にとって、議決拒否権の制限によって自身の意思が通らなかった最初の事例となった。 国王は両国の融合にとって既存のノルウェー憲法が障害になるとみなしていたが、ノルウェーの政治家の多くは改憲に反対した。1824年の議会にて国王は憲法修正案を提示する。それは国王の影響力を議決拒否権の強化と議会解散権の付与によって拡大しようとするものだった。これは議会から反発を受け、またロシア含めた列強もノルウェーとの結合強化は支持しなかった。もっとも一見リベラルなノルウェー憲法自体にも不完全性や曖昧性があることは否定できなかった。1院制の議会制度は権力の濫用や尚早な決定の防止を必ずしも保証するものではなく、よってある種の利権に対する制度的な弱点を孕んでいた。 1818年から1821年にかけ、ノルウェー議会においてボードー事件(英語版)と呼ばれる密輸事件を巡って議論は紛糾した。あるイギリス商人がノルウェーの港で密輸を行ったとしてノルウェー当局に逮捕されたところ、イギリス政府は弁償をせよと圧力をかけてきた。当時、ノルウェーの外交はスウェーデン政府がその権利を有しており、最終的にノルウェー政府が支払いを行うことになった。この事件はノルウェーが個別の外交権を付与されていない事への不満につながった。議会はストックホルムにいるノルウェー首相がノルウェーの外交問題に主体的に取り組んでいないとし、初の弾劾請求まで取りざたされた。弾劾請求は政府と議会の間で争われ、最終的に財務大臣がわずかに責任を負うことになった。国王は憤り、早期の議会解散を行おうとしたが実際は意味をなさなかった。 更なる対立はノルウェー人が5月17日を憲法制定日として公的な記念日にしようとした際に発生する。国王はむしろ両国が同君連合となった11月憲法の制定日を記念日にすることを望んだ。1827年に5月17日に憲法を祝おうとする学生グループと軍隊の間で小競り合いが発生している。その後国王が折れる形で、総督経由で国王から祝賀を「寛恕」するとの意見が表明された。 しかしながら、国王の閣僚や官僚たちが極めてノルウェー人に不人気でかつ公然と糾弾されているにもかかわらず、1820年代の議会との対立を経てもなお国王はノルウェーの民衆から高い人気を維持していたという。 カール・ヨハンの治世最後のノルウェー議会との衝突は1830年代の後半に起きた。そのひとつはノルウェー商船に掲げる国旗と通貨をノルウェー個別のものにしてスウェーデンとあくまで平等な国だと主張したいという要求だった。もうひとつは、議会解散令に署名した閣僚を議員たちが弾劾しようとしたが、その前にカール・ヨハンが議会の解散を行ったことである。その後ノルウェー人の不満を宥める目的で、1829年以来空席となっていたクリスチャニア総督のポストに初めてノルウェー人を任命している。 国王は1838年から1839年にかけてノルウェーに生涯最後の巡幸をする。ちょうど彼の即位20周年の年で、国内至る所で熱烈な歓迎を受けた。彼はクリスチャニアに12月から翌年5月まで過ごしたが、その時期のノルウェーは政治的には落ち着いており、議会とも大きな対立はなく、彼がノルウェー商船にノルウェー国旗の掲揚を許可したことは彼の人気を高めていた。1839年には両国政府の合同会議を開催し、外交権の取り扱いについて議論の機会を設けている。 ノルウェーにおいては、カール・ヨハン個人の民衆からの人気は高かったが、政治に関してはノルウェー側の独立維持の動きとぶつかり合うことがあったため支持者は多くなかった。彼の死去によってノルウェー政治の不確定要素が無くなったため、かえって両国間の融合に向けた自発的な動きが活発化するようになったとの指摘もある。彼はむしろ建築や都市計画においてノルウェーに事跡を残したと言われている。彼は児童福祉施設、文化施設、その他様々な公共施設の設立のため多額の寄付を行った。彼の最も重要なプロジェクトはクリスチャニアの王宮の建設である。カール・ヨハンは1822年にこの計画を考えつき、翌年デンマーク人建築家リンストー(英語版)に従事させた。この王宮建設はクリスチャニアがノルウェーの首都として整備されていく発端となった。1814年から彼の死去までの期間にクリスチャニアの人口はおよそ2倍になり都市として発展を遂げる。王宮の前に設けられたカール・ヨハン通りは彼にちなんでその死後名付けられたものである。 ===革命の伝播と批判の高まり=== 1830年にフランスで起こった7月革命はカール・ヨハンを驚かした。かつて彼は百日天下後にオルレアン家によるフランス統治を希望したこともあったが、この時の彼はルイ・フィリップの七月王政がロシアを刺激しないか心配した。革命のもたらした自由主義思想はベルギーなど欧州各国に波及し、ノルウェーにおいても関心を引き起こした。革命は連合の反対者を喚起し、ノルウェーの政治に混乱を引き起こす可能性があったため国王は危惧する。またポーランドの11月蜂起に関して、スウェーデン人がロシアよりもポーランドに同情的であることはロシアとの関係に重きを置く国王を困惑させた。依然としてスウェーデン人のロシアに対する伝統的な敵対意識は根強いものがあり、議会にて国王の親ロシア的な姿勢はよく批判に挙げられた。 またスウェーデンの新聞『アフトンブラーデット(スウェーデン語版)』は自由主義思想を巧みかつ意図的に記事にし、すぐさま保守的な新聞各紙を上回る社会的な影響力を得た。カール・ヨハンは外国出身なことと、スウェーデン語が話せないこともあり、高まりを見せる憲法の法規を巡る政治議論‐市民的自由、商業の自由化、議院内閣制の導入など‐に対し主体性を発揮できなかった。現状反対派のジャーナリストたちは、国王個人に矛先を向けるようになり、彼を「独占主義者」であるとし、自身と取り巻きで政治を仕切っていると批判した。1834年から1835年にかけ、議会はこのような議論で紛糾し、政府は市民院と農民院からの反対に敗れ、国務院の権限強化に同意する。それに続く年には、報道の自由を巡って激しい対立が生じた。1838年、ジャーナリストのマグヌス・ヤコブ・クルセンストルプ(スウェーデン語版)が国王侮辱罪で有罪になったことはストックホルムにて抗議する市民の暴動を引き起こした。鎮圧にあたった軍隊が発砲したことで2人が死亡する事態になる。これはカール・ヨハンの在位期間に、軍隊がデモ隊に発砲した唯一の例であった。その年の終わりにはこの混乱も収まったが、反対派は王太子オスカルに期待をかけ、彼の統治を望むようになる。 1839年末、翌年の議会にて時代遅れとなった政治システムの打倒および国王に譲位を説得するため、反対派の議員は連合を組んだ。翌1840年の議会の会期は18ヶ月の長期に渡った。反対派は憲法改正と弾劾請求に向けた議案を上程した。対して国王と政府は護憲を盾に身を守った。反対派からの攻撃は次から次へとくじかれ、どの改正案も議会を通過することはできず、弾劾請求も認められなかった。最高裁判所の裁判員の罷免要求も、憲法の規定する多数派の支持を得られず失敗した。他方、閣僚の執行力を強化する改革案のひとつは国王に受け入れられた。結局、国王の譲位を求めた連合側はこの成果だけで満足せねばならなかった。 1830年代後半、汎スカンディナヴィア主義がスウェーデン、ノルウェーともに広がりをみせる。中でもとりわけデンマークで隆盛した。だがこの運動はドイツ諸国とロシアを刺激することに繋がった。ドイツ諸国から不満が寄せられたことと、ロシアがスウェーデン政府を批判したこと、さらに運動を通してデンマーク政府がノルウェーに手を伸ばすことを危惧した国王は賛同することはなかった。 1830年代、カール・ヨハンは絶え間ない政治的緊張に晒され続けた。自身への批判が高まるにつれ大衆の目を避けるようになり、公務を除いては王宮外へ出てくることは稀になる。孤独は老いた国王の健康を蝕み、胃腸の痛みとともに血を吐くようになった。国王は彼の外交政策に対する批判にとりわけ憤然としたという。彼が自身の主義よりもヨーロッパの勢力均衡を優先していること、彼のイギリスと敵対せずにロシアと良い関係を維持する外交手腕が国民から理解されていないと苦悩した。 彼の政治面での保守化に関しては、言語的な障壁が関係していると指摘されている。スウェーデンに来た当初スウェーデン語を学んだが途中でやる気を無くしている。30年以上に及ぶスウェーデン生活の中で日常的な会話はできるようになったが、月平均1,000通ある公文書は全部フランス語に訳させてから目を通した。スウェーデン語を習得した息子オスカルが彼の秘書役を務めた。当時のスウェーデンにおいてフランス語を理解できるのは貴族階級が大半であったため、結果的に周囲が貴族出身者で固められ、それが国王の保守的な態度に反映されたと推測されている。 それでも、同時代の他の君主と比較すれば、概して市民社会に理解のある統治者として振る舞ったと言えるだろう。終生、農民層と中産階級からの人気を失うことはなかったという。1838年、ユダヤ人の解放を行おうとしたが、これは逆に一般スウェーデン人の猛反発に会い妥協しなくてはならなかった。またスウェーデンは欧州の中でも最も強固な階級社会で、カール・ヨハンがスウェーデンに来た当時の宮廷のしきたりは極めて厳格だったが、彼はそれをより簡略化させた。今後は中産階級こそが社会の中で大勢を占めていくことを予期しており、自らと中産階級との繋がりを強化しようと努めた。それは彼が日常的に王宮に市民を招いて意見を聞く機会を設けたことに現れている。彼の26年の統治の間、両国合わせて2万から2.5万人もの市民が国王から引見を受けたと推定されている。 ===最晩年と業績=== 1841年、スウェーデン議会が閉会した時、カール・ヨハンのスウェーデン統治をめぐる対立は沈静化していた。1843年、80歳になった老王が即位25年目を迎えた時、その記念日は両国で大々的に祝われた。彼の在位期間26年に、様々な分野において豊かで安定した成長が見られた。スウェーデン単体の人口はフィンランドと共にあったときの総人口まで増加した。摂政王太子時代も含めた33年間にGNPは60%増加し、人口一人当たりの増加率は17%になった。スウェーデン人とノルウェー人の間に当初あった敵対感情も友情へと変化した。そしてなによりも1814年から続く長期に渡る平和を実現した。この平和と経済成長によってカール・ヨハンは続く世代が近代スウェーデンを築き上げていく基礎を提供したのである。 1844年1月26日、81歳の誕生日の朝カール・ヨハンは突然病に倒れる。その後3月5日、発作に襲われ意識不明になった。病床に伏して42日後、3月8日15時30分に息を引き取った。その寸前にかすかに目をさまし「オスカル、オスカル、我々は自らを守らねばならぬ」と囁いたという。4月26日、国葬がストックホルムのリッダルホルム教会にて執り行われた。王位は嫡子オスカル1世に受け継がれる。以降、世界が帝国主義の時代に入り、列強国間の覇権争いと2度の大戦を経てボナパルト朝、フランス・ブルボン朝、ロシア・ロマノフ朝、オーストリア・ハプスブルク家、プロイセン・ホーエンツォレルン家が君主としての公的資格を失っていったかたわらで、スウェーデン・ベルナドッテ朝は「200年間、同一家系で継承され、戦争も革命も経験せず、独立した国の自由民の上に君臨してきた世界唯一の王朝」として今日まで存続している。 「私と同じ道を辿った者は他にいない。…私はナポレオンの味方になる事ができたかも知れない。しかし彼がこの国を攻撃した時、私は運命をこの手に掴んだ ― 彼にとって私は敵以外の何者でもないのだと。この出来事がヨーロッパを揺り動かしその自由を取り戻させた事と、私がそれに果たした役割は知られていよう。オーディンの時代から今日に至るまでの歴史を紐解けば、スカンジナビア半島が世界情勢の均衡に重きをなしている事に気づかぬ者はおるまい。」 ― カール・ヨハン、死の床での口述記録 =神聖ローマ帝国= 神聖ローマ帝国(しんせいローマていこく、ドイツ語: Heiliges R*6311*misches Reich, ラテン語: Sacrum Romanum Imperium, イタリア語: Sacro Romano Impero, 英語: Holy Roman Empire)は、現在のドイツ、オーストリア、チェコ、イタリア北部を中心に存在していた国家。9〜10世紀に成立し、1806年まで続いた。西ローマ帝国の後継国家を称した。 ==概要== 神聖ローマ帝国はローマ教皇に即位を認められたローマ皇帝を君主とした国家である。「神聖ローマ帝国」の名称は1254年からのもので、それまでは「ローマ帝国」「帝国」と呼ばれていた。理念的には復興した古代ローマ帝国で、帝国とは西ヨーロッパのキリスト教社会全体を覆う概念でもあり、教会と教皇の守護者であるローマ皇帝は最高権威をローマ教皇と二分していた。しかし皇帝が実際に持つ権力は封建制の下で制限されており、フランスやイタリアはやがて皇帝の統治下から離れていった。皇帝に臣従するドイツ諸侯や都市もまた領地支配における特権を拡大していき、300以上に分裂した教会領、公領、侯領、伯領、帝国自由都市、その他小貴族の領地は半ば独立した政体となった。近世の神聖ローマ帝国は複数の民族から構成されるドイツ地域の国家連合に近いものであった。 日本では通俗的に962年のオットー1世戴冠を神聖ローマ帝国の始まりと見なし、高等学校における世界史教育もこの見方を継承している。しかしドイツの歴史学界では西暦800年のカール大帝戴冠を神聖ローマ帝国の始まりとするのが一般的である。帝国史は3つの時期に区分される。すなわち、フランク王カールの皇帝戴冠から中世盛期に至る「ローマ帝国」期(800年‐10世紀)・オットー大帝の戴冠からシュタウフェン朝の断絶に至る「帝国」期(962年‐1254年)・中世後期から1806年にいたる「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」期である。 「ローマ帝国」期はコンスタンティノープルのローマ皇帝に対抗できる力を持ったカロリング朝フランク王国の国王カールが、西暦800年にローマ皇帝に戴冠されたことで始まった。歴史学上の用語でカロリング帝国と呼ぶ。領域は当時のカトリック世界ほぼ全域にわたり、古典古代・カトリック・ゲルマンの文化的融合が推進された(カロリング朝ルネサンス)。しかし843年のヴェルダン条約と870年のメルセン条約でフランク王国は東・西フランクと北イタリアに分割された。その後も帝位はイタリアを舞台にして争われたが、924年に皇帝ベレンガーリオが暗殺されると帝国から皇帝はいなくなった。 「帝国」期は962年に東フランクのオットー1世が皇帝となって帝位を復興したことで始まった。皇帝はイタリア王と東フランク王を兼ねた君主で、1032年からはフランス南東部のブルグント王も兼ねた。帝国の政治的中心は東フランク、後のドイツであり、11世紀以降の東フランク王はローマ王を称した。ローマ王はゲルマン王国の伝統に基づいた選挙王制の形式で選出されていたが、ザクセン朝、ザーリアー朝、ホーエンシュタウフェン朝のいわゆる三王朝時代では事実上の世襲が行われた。実際に選挙原理が働くのは王統が断絶した非常時だけだった。ローマ王はローマで教皇から戴冠しなければ皇帝と名乗れず、そのためドイツ諸侯を率いてイタリア半島へたびたび遠征した(イタリア政策)。皇帝は独立性の強い諸侯に対抗する手段として帝国内の教会を統治機構に組み込んでいた(帝国教会政策)。10世紀から11世紀にかけて皇帝権は教皇権に対して優勢であり、歴代皇帝は度々腐敗した教皇庁に介入した。だが教会改革運動が進展すると皇帝と教皇の対立が引き起こされた。11世紀後半から12世紀にかけての叙任権闘争で皇帝は敗北して神権を失い、教皇の権威が皇帝を上回った。この間に諸侯は特権を拡大して領邦支配を確立した。1254年にホーエンシュタウフェン朝が断絶すると20年近くも王権の影響力が空洞化する大空位時代となり、諸侯への分権化がより一層進んだ。 「神聖ローマ帝国」の国号は大空位時代から用いられだした。大空位時代後の13世紀から15世紀にかけてローマ王位は殆ど世襲されず、異なる家門から国王が選ばれる跳躍選挙の時代となった。1356年に皇帝カール4世は金印勅書を発布し、ローマ王はドイツの有力な7人の選帝侯による選挙で選ばれると定めた。選帝侯には裁判権、貨幣鋳造権等の大幅な自治権が与えられた。15世紀半ばからはオーストリア大公のハプスブルク家が帝位をほぼ独占した。マクシミリアン1世治世の1495年から行われた帝国改造によって、神聖ローマ帝国は諸侯の連合体として新たな歴史を歩むこととなった。ローマ王は教皇から直接帝冠を受けなくてもローマ皇帝を名乗ることを許され、同時期に「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」という国号が定められた。この頃までには皇帝のイタリア王権・ブルグント王権は失われていた。 「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」期の16世紀、皇帝カール5世はイタリア戦争でフランスやローマ教皇と戦い、イタリアにおける覇権を手にした。しかし同時期に始まった宗教改革によってドイツはカトリックとプロテスタントに分裂した。宗教紛争は最終的に皇帝を中心とするカトリックの敗北に終わり、アウクスブルクの和議によりプロテスタント信仰が容認されるとともに領邦の独立性が更に強化された。それでも宗教対立は収まらず、1618年から始まった三十年戦争ではドイツ各地が甚大な被害を受けた。1648年にヴェストファーレン条約が締結されて戦争は終結し、全諸侯に独自の外交権を含む大幅な領邦高権(主権)が認められた。一方で平和的な内紛解決手段も整えられ、諸侯の協力による帝国の集団防衛という神聖ローマ帝国独特の制度が確立することとなった。しかしこのヴェストファーレン体制も18世紀になると諸侯間のバランスが崩れることで形骸化しはじめた。その中で台頭してきたのはプロイセン王国(ブランデンブルク選帝侯)で、18世紀初頭でのスペイン継承戦争で帝国の兵力はプロイセンに頼っていた。プロイセンは1740年からのオーストリア継承戦争で皇帝のハプスブルク家と決定的な対立関係となった。ハプスブルク家は外交革命で長年の宿敵だったフランスと同盟し、1754年からの7年戦争でプロイセンと相対した。1792年にフランス革命戦争が勃発すると帝国はナポレオン・ボナパルトの侵攻を受け、イタリアとライン川以西が事実上フランスに併合された。 「ローマ=ドイツ帝国」と1804年に改称した帝国は300以上あった諸侯を40前後に統合・整理した。しかし新たに生まれた中規模諸侯たちはナポレオンに従属するライン同盟を編成した。既に「オーストリア皇帝フランツ1世」を称していたローマ皇帝フランツ2世は1806年に「ドイツ帝国」解散を宣言した。こうして中世から続いた帝国は完全に解体され終焉を迎えた。 ==名称== 古代ローマ帝国の後継を称し、その名称は時代とともに幾度も変化した。 10世紀まで‐ ローマ帝国カールは公文書においてローマ帝国の名を用い、彼の後継者達もまた「ローマ帝国の皇帝」を名乗った。11世紀 ‐ 帝国(あるいはローマ帝国)独: R*6312*misches Reich羅: Imperium Romanum12世紀 ‐ 神聖帝国羅:Sacrum Imperium「神聖(Sacrum)」の形容詞は、1157年にフリードリヒ1世がドイツの諸侯に発布した召喚状に初めて現れる。13世紀 ‐ 神聖ローマ帝国独:Heiliges R*6313*misches Reich羅:Sacrum Romanum Imperium1512年 ‐ ドイツ国民の神聖ローマ帝国独:Heiliges R*6314*misches Reich Deutscher Nation羅:Sacrum Romanum Imperium Nationis Germanicae1804年 ‐ ローマ=ドイツ帝国独:ドイツ語: R*6315*misch‐Deutschen Reiche ‐ 皇帝称号変更命令による。1806年8月6日 ‐ ドイツ帝国独:ドイツ語: Deutschen Reich ‐ 神聖ローマ帝国の解散詔勅による。ただし皇帝の称号は終始「神聖ローマ皇帝」(ドイツ語: Erw*6316*hlter r*6317*mischer Kaiser)を名乗った。元々、彼らは古代ローマ帝国やカロリング帝国の継承国を自認していた。カロリング帝国はローマ帝国の継承国を自認しており、必然的に「神聖ローマ帝国」の名は(西)ローマ帝国から受け継がれた帝権を継承した帝国であるということを標榜していた。そして帝位にふさわしいと評価を得た者がローマ教皇によりローマで戴冠され、ローマ皇帝に即位したのである。しかし、この帝国は「神聖」の定義や根拠が曖昧で、「ローマ帝国」と称してはいるが、現在のドイツからイタリアまでを領土としていてもローマは含んでおらず、さらに「帝国」を名乗りつつも皇帝の力が実質的に及ぶ領土が判然としない国であった。 また、同時代に古代ローマ帝国の後継を称した国としては、15世紀中期まで東ローマ帝国が存続していた。当然のことながら、東ローマ帝国側は神聖ローマ帝国が「ローマ帝国」であることを認めず、その君主がローマ皇帝であることも承認しなかった(二帝問題)。一方、神聖ローマ帝国側でも、東ローマ皇帝のことをローマ帝国であると認めず、「コンスタンティノープルの皇帝」「ギリシア人の王」などと呼ぶようになっていた。 時代が下って1933年にナチスが政権を握ると、彼らは自らを「第三帝国」と呼び慣わしたが、これは神聖ローマ帝国(962〜1806年)、ドイツ帝国(1871〜1918年)に次ぐ第三のドイツ人帝国という意味である。 ==領域== 神聖ローマ帝国の領域は今日のドイツ(南シュレスヴィヒ (en) を除く)、オーストリア(ブルゲンラント州を除く)、チェコ共和国、スイスとリヒテンシュタイン、オランダ、ベルギー、ルクセンブルクそしてスロベニア(プレクムリェ地方を除く)に加えて、フランス東部(主にアルトワ、アルザス、フランシュ=コンテ、サヴォワとロレーヌ)、北イタリア(主にロンバルディア州、ピエモンテ州、エミリア=ロマーニャ州、トスカーナ、南チロル)そしてポーランド西部(主にシレジア、ポメラニア、およびノイマルク (en) )に及んでいた。 帝国は当初、ドイツ王兼イタリア王が皇帝に戴冠されて成立した。従ってその領域はドイツから北イタリアにまたがっていた。また9世紀末から10世紀にドイツ王に臣従していたボヘミア(現在のチェコ共和国)は1158年(または1159年)に大公から王国へ昇格し、帝国が消滅するまでその一部であり続ける。 1032年にブルグント王国の王家が断絶すると、1006年にブルグント王ルドルフ3世とドイツ王(のち皇帝)ハインリヒ2世の間で結ばれていた取り決めにより、ハインリヒ2世の後継者コンラート2世がドイツ王・イタリア王に加えてブルグント王も兼ねることとなった。ブルグント王国は現在のフランス南東部にあった王国であり、これにより神聖ローマ帝国の領域は南東フランスにまで拡大した。 13世紀半ば、皇帝不在の大空位時代を迎えて皇帝権が揺らぐとイタリアは次第に帝国から分離した。ブルグントにはシャルル・ダンジューを初めとするフランス勢力が入り込んだ。イタリアの諸都市は実質的に独立を得ていき、のちにはやはりフランスが勢力を伸ばそうとした。皇帝位を世襲するようになったハプスブルク家は北イタリアからフランスの勢力を撃退し、この地域の支配を確立するのであるが、それは北イタリアが再び帝国の一部となったことを意味するのではない。北イタリアが帝国の制度に編入されることはなかった。 また、1648年のヴェストファーレン条約(ウェストファリア条約)の結果、エルザス=ロートリンゲン(アルザス=ロレーヌ)のいくつかの都市がフランスに割譲され、スイスとオランダが独立した。この三地域は帝国から分離したのであり、北イタリアと同様、もはや帝国の制度外の地域となった。その後もフランスのエルザス=ロートリンゲンへの進出は続き、神聖ローマ帝国が消滅する1806年までにこの地域の全てが帝国から脱落することとなった。 ==歴史== ===中世前期=== 800年、カロリング朝のフランク王カール1世が教皇レオ3世によってローマ皇帝として戴冠された。5世紀末に西ローマ皇帝が絶えた後も西欧はローマ帝国の西域として存在していたが、ここにローマ帝国の西域にローマ皇帝が復活したのである。この帝国は公的にはローマ帝国であるが、現在の歴史学では西方帝国(フランス語: Empire d’Occident)、西ローマ帝国、フランク帝国、カロリング帝国など様々な名前で呼ばれている。この帝国はフランク王国の最終段階とされる場合もあるが、あくまでローマ帝国の皇帝をフランク王が兼任していた時代にすぎず、カールの戴冠以降も、フランク王国単体とフランク王国を含むローマ帝国全体とは、それぞれ異なるものとして区別されていた。 カールの戴冠は建国ではない。この帝国は中世西欧における古代ローマ帝国の連続体であり、カールは戴冠によって既にあったローマ帝国の皇帝位を受け継いだにすぎず、何らかの帝国組織や帝国制度を創出したわけではなかった。またフランク王国にしてもカロリング朝より前のメロヴィング朝の時代から既に存在しているし、カロリング朝にしてもカール大帝の代までには既にフランク王国の支配者となっており、フランク王国を当時の大国に育て上げたのは大帝の祖父であるカール・マルテルであり、カロリング朝最初の王は父のピピン3世であった。カールの戴冠の意義は西欧がコンスタンティノープルの皇帝に理念的にも従属しなくなったということであり、またローマ、ゲルマン、キリスト教の三要素からなる、後に神聖ローマ帝国と呼ばれる概念が誕生した瞬間だということである。しかし843年、ゲルマン人の風習である分割相続が元でフランク王国は分裂した。分裂したフランク王国は一度統合されるものの、888年にカール3世肥満帝が死去すると再び分割され再建されることはなかった。フランク王国の分裂はフランス、ドイツという国家の始まりでもある。なお、フランク王国分裂後も名ばかりの帝位をイタリア王が得ていたが、924年に途絶えた。 ===西ローマ帝国の衰退とフランク王国=== 395年、地中海世界の全域を支配する世界帝国であった古代ローマ帝国は東西に分割された。東ローマ帝国ではその後も1000年以上ローマ皇帝による支配が続いたが、西ローマ帝国では蛮族が侵入して自らの王国を建てていった。476年にはとうとう本土イタリアが失われ、西ローマ皇帝位も廃止された。ガリア(現在のフランス)北部ではローマ人の軍司令官が支配するソワソン管区が残っていたが、486年にメロヴィング朝フランク王国のクロヴィス1世によって滅ぼされた。フランク王国はガリア全域を支配下にいれ、分裂と統一を繰り返しながらも強大化していく。 メロヴィング朝フランク王国の末期は、宮宰が王国の実権を握っていた。宮宰とは、本来は王家の家政を取り仕切る、いわば執事長に過ぎない職である。しかしフランク王国では王家の家政上の私事と公務の区別があいまいのまま宮宰が行政、裁判、戦争に参加する権限を持ち、事実上の国王となっていた。8世紀初頭のフランク王国は東のアウストラシアと西のネウストリアに別れており、両方に宮宰がいた。アウストラシアでは7世紀半ばにカロリング家による宮宰職の世襲がほぼ確立していた。カロリング家のカール・マルテルは715年にアウストラシアの宮宰となり、718年には32歳前後でフランク王国全体の宮宰となった。 カール・マルテルはフランク王国における軍事、内政両面の制度を整えた。トゥール・ポワティエ間の戦いでウマイヤ朝のイスラム軍を破ったことでも名高い。このころ、ウマイヤ朝は北アフリカからジブラルタル海峡を越えてヨーロッパに侵入してきており、イベリア半島の西ゴート王国は滅ぼされてしまっていた。ウマイヤ朝は720年にはピレネー山脈を越えてフランク王国にまで進出してきていた。732年、ウマイヤ朝は大規模な北上を開始し、現在のフランス中央部ロワール川流域にまで迫った。カール・マルテルは厳しく訓練された重装歩兵の密集隊形によって敵将を討ち取った。結果、西ヨーロッパへのイスラム教徒の侵入はイベリア半島で留められた。内政面では王国全土の3分の1を占めていた教会領の没収を強行して、国を守る騎士に貸与(恩貸)した。封建制度の基礎を作ったのである。しかし当然ながら、カロリング家と教会との関係は悪化した。 741年にカール・マルテルは55歳で死去し、750年には息子のピピン3世が36歳前後でフランク王国全土の実権を握る宮宰となった。宮宰となったピピンは、まずカール・マルテルが悪化させた教会との関係を修復した。751年、ピピンはローマ教皇ザカリアスの支持を受けた上でフランク族の貴族たちによって王に選出され、メロヴィング朝の王キルデリク3世は廃された。754年から755年、ピピンは教皇の支持への見返りにイタリアの大部分を支配していたランゴバルド王国と戦い、イタリア中心部のラヴェンナを奪って教皇ステファヌス3世に献上(ピピンの寄進)した。ピピンの時代にはカトリック教会とカロリング朝の結びつきは強くなり、フランク王国を「神の国」とするような観念が見られ始める。768年にピピンは52歳で死去し、息子のカール(カール大帝)とカールマンがそれぞれ26歳と17歳前後で後を継いだ。その後771年にカールマンが早逝したので、以降カールが単独で王国を支配した。 カールの生涯の大半は征服行で占められていた。46年間の治世のあいだに53回もの軍事遠征を行った。北ではザクセン族(北ドイツ)、南ではランゴバルド族(イタリア)、西ではウマイヤ朝(スペイン)、東ではバイエルン族(南ドイツ)やアヴァール人と戦った。他にも西のブルターニュや北のフリース族と戦った。カールはフランク王国の領土を最大に広げ、800年にローマ皇帝として戴冠されることになる。 ===ローマ帝国復興=== 774年、カールはランゴバルドの首都パヴィアを占領し、自らランゴバルド王=イタリア王となった。中世イタリア王国の始まりである。北イタリアは事実上フランク王国の一部となった。カールはさらに父ピピンの例にならって中部イタリアの地を教皇に寄進した。しかし南イタリアはランゴバルド族の支配に留まり、ランゴバルド族の支配が終わっても、フランク王国や神聖ローマ帝国に組み込まれることはなかった。また、カールは772年から30年にわたるザクセン戦争を行い、異教を守って最後まで抵抗をつづけたザクセン人の国家もフランク王国の一部とした。こうしてカールはイギリス、アイルランド、イベリア半島、イタリア南端部をのぞく西ヨーロッパ世界の政治的統一を達成し、混乱した西ヨーロッパ世界に安定をもたらしたのである。 797年、東ローマ帝国でエイレーネーが皇帝コンスタンティノス6世を追放し、ローマ皇帝史上初めての女帝を名乗った。この女帝即位は帝国の西部では僭称として認められず、ローマ皇帝位は空位の状態であるとみなされた。そこで教皇レオ3世は、800年12月25日、バチカンのサン・ピエトロ大聖堂のクリスマスミサにて、58歳のカールを「ローマ皇帝」として戴冠した。これ以後、カールは自らの公文書において、それまで用いていた「ローマ人のパトリキウス」の称号を改め、「ローマ帝国を統べる皇帝」と署名するようになった。 この戴冠については当時カールに仕えていたアインハルトが、レオ3世とカールとの間には認識の差があったとして「もし前もって戴冠があることを知っていたら、サン・ピエトロ大聖堂のミサには出席しなかっただろう」というカールの言葉を伝えているが、現在の歴史学においてこれは事実とは考えられていない。少なくともカールは自身の戴冠については事前に知っており、また皇帝への就任にも意欲的であったろうことがいくつもの研究によって示されている。レオ3世は前年の799年に反対派に襲われてカールの下に逃げ込んだことがあったが、カールへの戴冠はレオ3世を助けたことへの報酬でもあり、教皇権の優位の確認でもあり、東ローマ帝国への対抗措置でもあったのである。この教皇による戴冠は16世紀まで帝国にとっての伝統となった。 カールがローマ皇帝に戴冠された後も、コンスタンティノポリスの皇帝はカールの皇帝称号を僭称であるとして容易に認めようとはしなかった。カールは自らの皇帝称号を帝国東方でも承認させるため、コンスタンティノポリスの宮廷へ使者を送った。コンスタンティノポリスの女帝エイレーネーからは彼女との結婚によるローマ帝国の統一が提案され、この申し出にカールも乗り気であったが、まもなくエイレーネーがクーデターによって失脚したため、この縁談は実現することがなかった。しかし、エイレーネーの死後の812年にようやく両者の間で妥協が成立し、カールが南イタリアの一部と商業の盛んなヴェネツィアを東ローマ皇帝領として譲り渡す代わりに、東ローマ皇帝ミカエル1世はカールの帝位を承認した。ただ、この時にも東ローマ側としては「ローマ人の皇帝」はコンスタンティノポリスの東ローマ皇帝のみであるとしており、カールには「ローマ人の皇帝」ではなく「フランクの皇帝」としての地位しか認めていない。これは後の第一次ブルガリア帝国の皇帝シメオン1世などに対しても同様である。 西欧的立場から見るならば、カールの戴冠は大きな意味を持っていた。これまで地中海世界で唯一の皇帝であった東ローマ皇帝に対し、西ヨーロッパのゲルマン社会からも皇帝が誕生したからである。ここでローマ教会と西欧は東ローマ皇帝の宗主権下からの政治的、精神的独立を果たしたと評価されている。 814年に大帝は71歳で死去し、存命だった唯一の息子ルートヴィヒ1世が35歳前後で後を継いだ。 ===帝国分裂=== フランク族には「領土相続権を長子のみに与えるのではなく、分割相続させる」という慣習が存在した。この慣習は明らかに統一国家維持の理念と相反していた。ピピン3世にもカール大帝にも共に国土を分割した兄弟がいたが、共同王たちは隠居するか早世するかしたため、王国は早いうちに一人の王の支配に戻った。カール大帝の三人の息子たちにもフランク族の伝統に従って分割相続する手筈が整えられていた。しかし兄二人が相次いで大帝に先だったため、末弟のルートヴィヒが全てを相続したのである。そして、ルートヴィヒ1世敬虔帝の治世に分割相続の問題点は一気に噴出した。 ルートヴィヒ1世敬虔帝は分割相続と統一国家維持の妥協点を見出そうとしたが、自らの我儘で台無しにして帝国を混乱させた。まず817年、39歳前後の敬虔帝は「帝国整備令」を発布。22歳前後の長男ロタール1世には共同皇帝の地位と帝国本土を、20歳前後の次男ピピンにはアキテーヌを、13歳前後の三男ルートヴィヒにはバイエルンを与える分割統治案を定め、分権的統一王国の創出を図った。しかし823年、敬虔帝が45歳位のときに四男カール2世が誕生してしまった。敬虔帝はカール2世を溺愛し、この末弟にも領土を与えることを決めた。三兄弟は激しく抵抗し、三度に渡って反乱を起こした。敬虔帝は妥協と前言撤回を繰り返しつつ、隙あらばカール2世に領土を与えようとした。三兄弟も敬虔帝を二度廃位に追い込んだが、懐柔されたり兄弟間で仲違いしたりとまとまりがなかった。838年に次男ピピンが41歳前後で死去。840年に敬虔帝も62歳前後で死去した。しかし、父という共通の敵がいなくなったことで兄弟の領土を巡る対立は頂点を迎えた。 ロタール1世の代に、とうとう帝国は解体した。841年、フォントノワの戦いで46歳前後の皇帝ロタール1世、37歳前後のルートヴィヒ2世、18歳のカール2世の三者が会戦。帝国全土を領有せんとする皇帝に対し、ルートヴィヒ2世とカール2世は同盟を結び、皇帝軍を撃破した。843年8月10日、ヴェルダン条約が結ばれて三人の兄弟それぞれがフランク人の王であることが確認された。これをもって帝国はカール2世(シャルル2世)禿頭王の西フランク王国、ルートヴィヒ2世ドイツ人王の東フランク王国、そして皇帝の中部フランク王国に分裂した。ロタール1世の帝位は保たれたものの東西両フランク王国に対する宗主権は失われた。855年9月29日、プリュム修道院にて皇帝は60歳前後で死去した。30歳前後の長男ルートヴィヒ2世(ロドヴィコ2世、ドイツ人王とは異なる)に皇帝の称号とイタリア、20歳前後の次男ロタール2世にロタリンギア(ロレーヌ)とブルグント北部など、10歳前後の三男カール(シャルル)にプロヴァンスとブルグント南部などが分割相続された。こうして中部フランク王国が三分された結果、フランク王国は5つにまで分裂してしまった。 ルートヴィヒ2世(ロドヴィコ2世)はイタリアの一部を支配したのみで、帝国全体に皇帝としての権威を示すことはできなかった。863年、末弟シャルルが18歳前後で相続人なく死去した。シャルルの遺領は皇帝と弟ロタール2世の間で分割された。皇帝はプロヴァンス王位を獲得してイタリア王国に併合した。869年にはロタール2世も嫡出子がないまま34歳前後で死去した。しかし、この時の皇帝はイスラム軍との戦いのためにイタリアから離れられなかった。この隙にロタール2世領(ロタリンギア)はメルセン条約により、叔父のドイツ人王と禿頭王の間で分割されてしまった。皇帝にはイタリアのみが保たれ、現在のフランス、ドイツ、イタリアの原型が形づくられた。875年8月12日、皇帝本人も嫡子無く50歳前後で死去。イタリア王国およびローマ皇帝位は教皇ヨハネス8世の支持を得たカール禿頭王が52歳で獲得した。 カール2世禿頭帝は帝国の再統一を目指した。西フランク、イタリア、帝位を手に入れたカール2世は、残る東フランクも併合しようとした。876年に兄のドイツ人王が72歳で死去するとアーヘン、ケルンへ侵攻。しかし同年10月8日、既に40歳前後の壮年に達していたドイツ人王の子たちにアンデルナハの戦いで敗北した。翌877年、反対勢力の鎮圧のためイタリアに入ったものの、ドイツ人王の長男である東フランク王カールマンの大軍がアルプスを越え近づいてきたため撤退した。その帰国の途中サヴォワにて54歳で死去した。子のルイ2世が30歳前後で西フランク王を継いだが、イタリア王国は47歳位のカールマンが獲得した。2年後、カールマンは病を得て身体が不自由になり、弟ルートヴィヒ3世とカール3世肥満王にそれぞれ東フランク王位とイタリア王位を譲った。翌880年、カールマンは50歳前後で死去。同年、新たな東フランク王ルートヴィヒ3世は父と叔父が分割していたロタリンギアを全てリブモント条約で東フランクに編入し、父の代からの領土相続争いを収拾させた。一方881年2月21日、イタリア王カール3世はローマにて42歳前後で皇帝として戴冠された。 カール3世肥満帝は分裂していた帝国を相続によって一時的に統一した。882年には47歳前後で死去した兄ルートヴィヒ3世の遺領を相続し、東フランク全土を手中に収めた。西フランクでもルイ2世が879年に32歳前後で死去し、後を継いでいたカルロマンも884年に嫡子無く18歳前後で死去した。このため、肥満帝は西フランクをも相続した。全フランクを相続した肥満帝だが、この時期にヨーロッパへ侵攻していたノルマン人、イスラム教徒そしてマジャール人に対処する力量がなかった。887年に肥満帝は廃位されてしまい、翌888年に49歳前後で死去すると帝国は再度分裂した。帝国はヴァイキング撃退に功績があったロベール家ウード(36歳前後)の西フランク、カールマンの庶子アルヌルフ(38歳前後)の東フランク、プロヴァンス公ボソの遺児で肥満帝の養子だったルートヴィヒ3世(ルイ3世、肥満帝の兄とは異なる。当時8歳前後)のプロヴァンス、在地領主のルドルフ1世(28歳前後)が国王となったブルグント、敬虔帝の外孫ベレンガーリオ1世(38歳前後)のイタリアに分かれた。この後、カロリング帝国が再統一されることはなかった。 ===帝国の衰退=== カール3世肥満帝の死後、教皇によって戴冠された皇帝はイタリアのみを統治する状態になった。イタリア内外の地方領主がイタリア王位とローマ皇帝位を巡って争った。分裂した帝国は、北からノルマン人、東からマジャール人、南のシチリアや北アフリカからはイスラム帝国に攻撃され防衛面でも苦しんだ。888年の帝国分裂において38歳前後でイタリア王となっていたベレンガーリオ1世は、すぐにスポレート公グイード(カール大帝のひ孫にあたる)にとって代わられた。891年、グイードは皇帝にも戴冠された。 グイードはイタリアを事実上二分化してベレンガーリオ1世と争った。892年、皇帝は息子のランベルトを後継者として共同帝位につけることに成功した。しかし教皇が代替わりしてフォルモススとなると対立関係になった。教皇は東フランク王アルヌルフをイタリアに呼び寄せた。45歳前後のアルヌルフはイタリアを征服することに成功して896年12月に皇帝として戴冠した。 アルヌルフはイタリアを長く支配することはできなかった。リューマチのため東フランクに帰還することを余儀なくされ、マジャール人の侵攻に苦慮しながら3年後の899年に50歳前後で死んだ。東フランクは嫡子のルートヴィヒ4世(幼童王)が6歳で王位を継承した。イタリアではグイード親子が既に病死していたため復権することはなく、ベレンガーリオ1世がイタリア王として復位した。しかし、イタリアにも侵入してきたマジャール人に王は大敗してしまった。家臣および政敵からベレンガーリオは王として不適格であると見なされ、成人して20歳前後になっていたプロヴァンス王ルートヴィヒ3世(ルイ3世)が900年のパヴィアでの議会で王に選ばれた。ルートヴィヒ3世は抵抗するベレンガーリオ1世を破り、901年に教皇から皇帝に戴冠された。 ルートヴィヒ3世は東ローマ帝国と連携して帝権を増そうとした。900年頃、東ローマ皇帝の娘アンナを娶り、産まれた子供に西ローマ皇帝のカール大帝と東ローマ皇帝のコンスタンティヌス大帝にちなんだシャルル・コンスタンティンと名付けた。しかしまもなくベレンガーリオ1世の反撃にあい、905年には目を潰されてプロヴァンスに追い返された。皇帝位は廃され、プロヴァンス王国も又従兄弟で同年代の摂政ユーグに乗っ取られた。イタリア王位を取り戻したベレンガーリオ1世は915年、ローマからイスラム教徒を追い出した功績により65歳位で皇帝に戴冠された。 老帝ベレンガーリオ1世の権力はイタリア北部にのみ影響を及ぼしたにすぎなかった。戴冠の数年後、再び皇帝に不満を抱く勢力が結成され、彼らはブルグント国王ルドルフ2世に支援を求めた。923年6月23日、皇帝は決定的な敗北を喫した。皇帝はマジャール人に支援を求めたが、このことで国内の支持者からも見放された。924年4月7日に皇帝は暗殺された。70代半ばであった。元皇帝派はルドルフ2世を受け入れることもなく、925年に45歳前後となっていたプロヴァンス摂政ユーグを王に選んだ。ルドルフ2世は926年にイタリアから撤退した。 ユーグはマジャール人撃退にかなりの成功を収めたが、帝位を得ることはできなかった。しかしこの時代にしてはかなり安定してイタリアを治め、931年には、5歳前後の息子ロタール2世を後継者として共同王位につけた。王はさらに親族に権力を与え、東ローマ帝国とも関係を築こうとしたが、これによって多くの敵を作った。945年、王は敵対するイヴレーア辺境伯ベレンガーリオ2世(ベレンガーリオ1世の外孫)に破れ、プロヴァンスに隠棲した。そして947年に70歳弱で死去した。イタリアに残された息子ロタール2世も950年に24歳前後で毒殺された。50歳前後のベレンガーリオ2世は19歳前後の息子アダルベルトとともにイタリア王として戴冠した。前王を毒殺した容疑により親子の政治的地位は弱体化していた。そのため新王は、前王の未亡人でルドルフ2世の娘である18歳前後のアーデルハイトに息子アダルベルトとの結婚を強制しようとした。アーデルハイトは監禁され、ドイツ王(東フランク王)オットー1世に救援を求めた。この事件がドイツ王とイタリア王を兼ねる皇帝が君臨する帝国成立の契機となる。 ===ドイツ王国の成立=== イタリアをベレンガーリオ1世が治めていた時代の911年、東フランク王国ではルートヴィヒ4世が嗣子無く死去し、カロリング朝が断絶した。ゲルマンの風習により、貴族による選挙で王が決められた。王に選ばれたのはフランク人の貴族であるコンラート1世(若王)だった。こうしてコンラディン朝が始まったものの、918年にコンラート1世が嫡子無く死去したため一代限りで断絶した。後を継いだのはザクセン人のハインリヒ1世(リウドルフィング家)であった。ハインリヒ1世によってザクセン朝が始まったことにより、王権はフランク人の手を離れた。このため、東フランク王国は単に「王国」と呼ばれるようになり、その王も単に「王」とのみ呼ばれるようになった(なお、ハインリヒ1世は女系でルートヴィヒ1世敬虔帝の玄孫にあたり、カール大帝の血は受け継いでいる)。国号すらはっきりとしない「王国」は100年以上の時間をかけてやがてドイツ王国と呼ばれるようになり、帝国を構成する3王国(ドイツ王国、ブルグント王国およびイタリア王国)の1つとして位置づけられることとなる。一般的にはコンラート1世の即位をもってカロリング朝の東フランク王国から、独自のドイツ王国へ転換したとされる。 ルートヴィヒ4世幼童王は父王アルヌルフが死んで王位継承した時点で6歳前後であり、貴族たちによる摂政団が組織された。摂政団はマジャール人の侵入に苦しめられ、907年以降には東方の領土が壊滅して摂政2名を失っている。西フランク王国の援軍を得て、アルプス山脈北側の高原でようやくマジャール人を撤退させた。911年、幼童王は僅か17歳前後で死去した。嗣子がなく、東フランクのカロリング朝は断絶した。貴族による選挙が行われ、王位はアルヌルフの外孫であるコンラディン家のフランケン公コンラート1世が30歳前後で継承した。 コンラート1世若王は国内の統制をうまくとることができなかった。東フランク王国はフランケン、シュヴァーベン、バイエルン、ザクセン、ロートリンゲン(ロタリンギア)といった部族公領の連合国家となっていたが、まずロートリンゲンの貴族たちが西フランク王シャルル3世(単純王)を自分たちの王として擁立した。結局、ロートリンゲンは西フランクに奪われて若王は統制勢力を弱めた。912年からはザクセン公ハインリヒ1世と対立することとなり、シュヴァーベンやバイエルンとの折り合いもつかず内戦となった。918年、若王は死の床にあった。王国の分裂を防ぐため、最も強大な勢力である宿敵ザクセン公ハインリヒ1世を敢えて後継者に指名したのち、37歳前後で没した。 ハインリヒ1世捕鳥王は解体しかけていた王国を再統一した。919年、フリッツラーの会合で40歳前後のハインリヒ1世はザクセン人とフランク人(フランケン人)によって新国王に選出され、ザクセン朝(オットー朝 (en) 、リウドルフィング朝)が開かれた。捕鳥王はまずシュヴァーベンとバイエルンに侵攻して臣従させた。921年に西フランクの単純王は捕鳥王を同格の「東フランク王」と認めた(ボン条約)。その後、西フランクが混乱状態に陥った925年、捕鳥王は若王時代に西フランクに奪われていたロートリンゲンを奪回した。東方ではマジャール人に対する城塞を整備し、さらにスラブ諸族を制圧した。イタリアではやはりマジャール人対策で功績を上げたユーグの治世であり、帝国全体で東方への防備が充実してきている。929年、捕鳥王は王令を出して次男のオットーを後継者に指名した。その際に王権と王国の単独相続を定め、フランク王国以来の均等相続の原則を否定した。936年7月2日、捕鳥王は狩りの最中に卒中で倒れ、メンレーベン(Memlebem)の王宮で60歳前後で死去した。生前の指名通り、23歳のオットー1世が後を継いだ。 ===中世盛期=== 962年、ドイツ王(東フランク王)兼イタリア王オットー1世が西方帝国の継承者として皇帝に戴冠された。この戴冠が一般的には神聖ローマ帝国の始まりとされる。しかしながら、当時は「神聖ローマ帝国」(Heiliges R*6318*misches Reich)なる名称は存在せず単なる「帝国」だった。オットー1世の戴冠によって新たな国家が誕生した訳でもなく、同時代の意識としてはあくまでもカール大帝からの連続としての教会の保護者そして西洋世界の普遍的支配者たる「ローマ皇帝」であった。ゲルマンの風習を残す選挙王制であったが、中世盛期の三王朝時代(ザクセン朝、ザーリアー朝、ホーエンシュタウフェン朝)では事実上の世襲が行われた。 帝国はドイツとイタリア、1032年からはブルグントを加えた三王国からなり、皇帝は3つの王位を兼ねていた。初期ドイツ王国は南西部のシュヴァーベン(アレマニア)、南東部のバイエルン、中央部のフランケン、西部のロートリンゲン、北部のザクセンといったゲルマン部族公領の連合であった。加えて東方の国境付近には防備の必要上マルク(Mark、辺境地区、辺境伯領)という軍事地区が設置されていた。イタリアでは王位と帝位を巡る争いが無くなり、コムーネと呼ばれる都市国家群に分裂していた。ブルグントでもかなりの自治が認められて10前後の領邦へと分裂していた。 西方帝国の問題は分割相続と封建制度による非中央集権的な社会にあったが、ザクセン朝はこの問題をある程度解決させた。まずオットー1世の父ハインリヒ1世は分割相続を否定し、国家の分裂を防いだ。そしてオットー1世は地位を世襲しない聖職者に注目し、帝国内の教会を官僚組織として統治機構に組み込んだ(帝国教会政策)。これにより、パリ周辺しか実効支配できていないフランス(西フランク)王権と比べてはるかに強大な王権が実現した。しかし皇帝が教会の人事権を握る事態は教会からの反発を招いた。皇帝と教皇の争いが続き、諸侯たちも両派に分かれて争った(教皇派と皇帝派)。歴代皇帝は教皇とイタリア都市国家を牽制するため、戴冠式を兼ねてイタリアに進駐した(イタリア政策)。カノッサの屈辱事件以降、皇帝権は徐々に弱まっていき、ホーエンシュタウフェン朝断絶と共に帝国の統治機構は崩壊した。 ===オットー大帝の戴冠=== オットー1世はドイツ王(東フランク王)とイタリア王を兼ね、ベレンガーリオ1世以来40年ぶりに皇帝に戴冠されて帝位の世襲にも成功し、帝国教会政策とイタリア政策という初期帝国の二つの柱となる政策を確立した。 936年にドイツ王(東フランク王)に即位したオットー1世は融和的だった父と異なり諸侯に強圧的な態度を取った。不満を持ったフランケン公(コンラート1世若王の弟)、バイエルン公、ロートリンゲン公は、王の異母兄と弟を旗印に反乱を起こした。異母兄は戦死したが弟は許され、以後兄の片腕として忠誠を尽くした(バイエルン公ハインリヒ1世)。反乱の平定後、王は公を全て近親者にすげ替えた。公領を全て王族の支配下に置くことで王国の統一を図り、国内を固めようとしたのである。 951年、オットー1世は前年に死んだイタリア王ロターリオ2世(ロタール2世)の未亡人アーデルハイト (en) の救援要請を受けた。ロターリオ2世は現イタリア王ベレンガーリオ2世に毒殺され、アーデルハイト自身はベレンガーリオ2世の息子であるアダルベルトとの結婚を強要され、監禁されているというのである。38歳のオットー1世はイタリア遠征を敢行してベレンガーリオ2世を破った後、19歳のアデライーデと結婚した。そして、彼女との婚姻関係に基づきロターリオ2世の権威を受け継ぐ正当なイタリア王となった。ベレンガーリオ2世親子はこのときは許され、オットーの共立王としてイタリアの支配を委任された。しかしこのイタリア遠征の際に21歳の王太子シュヴァーベン公リウドルフ(ロイドルフ)が父に反発して先走ったため、親子間に亀裂が走った。 953年、王太子は義兄のロートリンゲン公コンラート赤毛公(王から見て娘婿)をはじめとする諸侯とともに大反乱を起こし、王は危機に陥った。とき同じくしてマジャール人が侵入し、王はこれを逆手にとってマジャール人の侵入は王太子の差し金であると宣言した。危機感を持った諸侯は王に臣従し、王太子と赤毛公の反乱は鎮圧された。マジャール人に対しても王は955年のレヒフェルトの戦いで大勝して、その脅威に終止符を打った。この戦いで赤毛公は大きな功績を上げながらも戦死し、最期の忠誠を見せた。赤毛公のザーリアー家は以後厚く用いられ、赤毛公のひ孫であるコンラート2世はザーリアー朝を起こすことになる。 ここにきて、王は近親者による統治という政策の脆弱さを知り、教会勢力と結びつくことにする。司教や修道院に所領を寄進して特権を与えて世俗権力からの保護するとともに、司教の任命権を握って聖職者の忠誠を受け、国家行政を聖職者に委ねるのである。これを帝国教会政策(ドイツ語版))といい、初期帝国の根幹となった。 960年、イタリアでは若く世間知らずな教皇ヨハネス12世が無謀な教皇領拡大に乗り出してベレンガーリオ2世の反撃にあっていた。教皇は王に救援を要請した。翌961年に王はイタリアへ遠征してベレンガーリオ2世親子の共同王位を正式に廃位した。教皇を救った王は962年2月2日にローマにおいて教皇によりローマ皇帝に戴冠した(オットー大帝)。大帝は新たに教皇領を寄進したが、同時に「皇帝に忠誠を宣誓してからでなければ教皇職には叙任されない」と定めた。反発したヨハネス12世は敵対していたはずのベレンガーリオ2世と組み、東ローマ帝国やマジャール人とすら提携しようとした。しかし教会内部からの告発により、ヨハネス12世は大帝によって廃位された。以降の約100年は皇帝権が教皇権の上位に立ち、教会は帝国の官僚機構として利用されることとなる。 973年、オットー大帝は60歳で死去し、アーデルハイトとの子である18歳前後のオットー2世が後を継いだ。 ===帝国教会政策の強化=== オットー大帝以後の皇帝たちは、ゲルマン、ローマ、キリスト教の三要素からなる帝国の基本理念を確立させていった。一方、ピピンの寄進に始まる教会の世俗領主化は教会を堕落させていた。歴代皇帝は教会の綱紀粛正を理由とした改革によって教会人事を掌握していき、ついには教皇の罷免、選出すら自由にしていった。とは言え、あくまでも教会の堕落を食い止めることが目的であり、そうでなくては諸侯や市民の支持は得られなかった。 オットー2世赤帝は帝国各地の反乱に苦しんだ。父が存命時の961年に6歳前後でドイツ王に、973年には18歳前後で皇帝に戴冠していた赤帝だが、即位から程なく従弟のバイエルン公ハインリヒ2世喧嘩公が反乱を起こした。同時期に西フランクからの亡命王子シャルルの扱いを巡り、西フランク王ロテールと戦ってパリへ進撃した。喧嘩公と西フランクを退けた980年末に赤帝は、「至高なるローマ人の皇帝」(Imeprium Augustu Romanorum)の称号を用いてイタリア南部への遠征を行ったが失敗した。983年、ドイツ北東部のノルトマルクで起きたバルト・スラブ人の蜂起への対応に乗り出そうとした矢先、マラリアにより28歳前後で死去。子のオットー3世がわずか3歳で王位を継いだ。結局、ノルトマルクは帝国からしばらく失われた。また、オットー2世の死から4年後の987年、西フランク王国でカロリング朝の王ルイ5世が死去した際、亡命王子シャルルは無視されてカペー朝が成立した。シャルル唯一の男子オトンに嫡子は無く、カロリング朝の男系子孫は完全に途絶えた。 オットー3世は古代ローマ帝国の復興を夢見た。3歳で即位した直後に喧嘩公が復権して王位を狙ったが、母テオファヌが摂政となって難局を乗り切った。テオファヌは東ローマ帝国の皇族出身であり、ビザンティン文化を持ち込んで息子に大きな影響を与えた。また、王国の安定に尽くした。テオファヌの死後、994年に親政を開始した王はイタリア遠征を敢行。ローマの反乱貴族を退けた後、自らが立てた教皇グレゴリウス5世により、996年に15歳で皇帝に戴冠された。イタリアに留まった皇帝は古代ローマ様式の宮殿を新たに造営したり、東ローマ風の祭祀を行ったりした。しかし1002年1月23日に死去。21歳の若さであり、結婚直前の死であったため嫡子は無かった。そのため、ザクセン朝唯一の男系子孫となっていた喧嘩公の子がハインリヒ2世として29歳で即位した。 ハインリヒ2世聖帝は帝国教会政策を強化して諸公の力を抑制し、帝国統治の要となした。即位した王はまず諸侯の臣従を受けるためドイツ国内を巡行、次いでイタリア遠征を行って1004年には在地貴族が独自に立てたイタリア王アルドゥイーノを下した。また、同時期にボヘミア公国(チェコ)を帝国に併合している。1014年には40歳で皇帝として戴冠した。聖帝は普遍的なキリスト教帝国としての「フランク王国の復興」を目指しており、教会の守護者として教会改革に取り組んだ。改革自体は高潔なものだったが、教会の反発を招くことにもなった。1024年、聖帝は51歳で嫡子無く死去。ザクセン朝が断絶したため、オッペンハイムに聖俗諸侯が集まって国王選挙が行われた。オットー大帝の外玄孫で、かつ大帝を救って戦死した赤毛公のひ孫がコンラート2世として33歳前後で国王に選ばれ、ザーリアー朝 が開かれた。 コンラート2世の時代に帝国は版図を拡大した。即位後は聖帝と同じくドイツ国内の巡行とイタリア遠征を行い、1026年に35歳前後で皇帝として戴冠した。1032年9月、ブルグント王ルドルフ3世が嗣子なく死去した。聖帝時代の1006年に結ばれた条約に従い、皇帝はブルグント王国を相続した。つまり皇帝はドイツ王、イタリア王に加えてブルグント王も兼ねるようになった。古代ローマ帝国の名称で言えば、帝国は本土イタリアとゲルマニアに加えて一部とは言えガリアも領有するようになった。このためか「ローマ帝国」(Imperium Romanum)の国名が公文書で用いられ始めている。1039年、皇帝は48歳前後で死去し、子のハインリヒ3世が21歳で後を継いだ。 ハインリヒ3世黒帝の時代が「帝国」の最盛期である。黒帝は皇帝戴冠前から自ら「ローマ王」を名乗り、国王即位時点で地盤のフランケン公領に加えて、シュヴァーベン公位、バイエルン公位も手に入れていた。ロートリンゲンも即位後に掌握し、唯一基盤の無いザクセンでも多数の王室直轄地を作りだして城塞を築いた。1046年より黒王はイタリアへ遠征してローマ教皇庁に介入した。当時のローマ教会は聖職売買や私婚が横行して乱脈を極めていた。ハインリヒ3世は見苦しい権力闘争を行っていた3人のローマ教皇を罷免し、自らが任命したクレメンス2世によって29歳で皇帝として戴冠された。その後も聖職叙任権を握り、教会改革派のドイツ人聖職者を次々と教皇位につけていった。1056年に38歳で死去。子のハインリヒ4世が後を継ぐが、わずか5歳であったため王権は弱体化した。 ===叙任権闘争=== ハインリヒ4世は黒帝から受け継ぐはずだった王権を追い求め、教会と争って破滅した。歴代皇帝の教会への介入は、教会の堕落を食い止めるという正当性があった。教会が黒帝に教皇の叙任権まで握られたのは自業自得であった。しかし傲慢なハインリヒ4世は改革派が教会内に台頭している状態で教皇と正面から対立してしまった。その結果、皇帝は教会の守護者としての権威、神権的帝権という取り返しがつかないものを失った。 ハインリヒ4世はわずか5歳でローマ王となったため、治世当初は母アグネスが摂政となった。しかし1062年、12歳になった王はケルン大司教やバイエルン公オットー・フォン・ノルトハイムを中心とした諸侯に誘拐されてしまう。誘拐した諸侯の間でも権力闘争が続き、幼主は諸侯たちの政争の具となる。多感な時期に放置された少年王はわがままで頑固な性格となってしまう。1065年に15歳で成人した王は王権の強化を目指して諸侯と対立した。自分をないがしろにした諸侯への復讐である。まず自分の後見人ということになっていたハンブルク司教アダルベルトを追放し、バイエルン公オットーからも公位を剥奪した。その後、父の黒帝が作ったザクセンの王室直轄地を取り戻すために努力したが、出身地のザクセンに戻っていたオットーを中心にザクセン貴族は反乱を起こした。1073年に始まったザクセン戦争は、1075年に国王側の快勝に終わって王権は復活したかに見えた。 一方、教会ではクリュニー修道会改革派が台頭していた。教皇グレゴリウス7世は世俗権力からの脱却と聖職者の綱紀粛正を目指していた(グレゴリウス改革)。そしてローマ教皇庁は南ドイツ諸侯を通してザクセン貴族と繋がっていた。1075年、教皇は俗人による聖職者叙任を禁止する教皇勅書を発した。王は反発し、ミラノなどの諸都市で既存の司教に対して自分の息のかかった司祭を対立司教に立てるなど、教皇に対して露骨に挑戦した。これは教会の堕落とは関係がない単なる政治的行為であった。ローマ王とローマ教皇は激しく争い、王は不倫の醜聞を元に教皇の廃位を宣言するが、教皇も王を破門した。 強権的な王を嫌うドイツ諸侯はこれに喜び、破門赦免が得られなければ国王を廃位すると決議した。王は窮地に陥り、政治的支持を失っていることに気づかされた。そして1077年、北イタリアのカノッサで教皇に赦免を乞う屈辱を強いられた(カノッサの屈辱)。教皇はここで赦してもいずれ反撃されることは理解していたが、高潔な聖職者を志す立場上、破門を解かざるを得なかった。破門は口実に過ぎなかった諸侯は国王の姉婿でシュヴァーベン公のルドルフ (en) を対立王に立ててなおも抵抗し、教皇も支持した。しかし1080年10月15日、エルスターの戦いで王はついに勝利を収めてルドルフを戦死させた。シュヴァーベン公位は王の娘婿であるホーエンシュタウフェン家のフリードリヒ1世に与えられた。教皇による再度の破門は意味を成さず、王はイタリアへ遠征してイタリア王としても戴冠した。4年に及ぶ戦いの末に教皇はローマから追い出された。王は自ら立てた対立教皇クレメンス3世によって33歳で皇帝として戴冠された。教皇グレゴリウス7世は亡命地のサレルノで失意の内に死去した。 それでも教皇庁は屈服しなかった。外交の名手である教皇ウルバヌス2世は南ドイツと北イタリア一帯を味方に引き入れ、更に1093年には皇帝の長男コンラートをも寝返らせた。なお、ウルバヌス2世は第一回十字軍の派遣を呼びかけて名演説を行った人物としても有名だが、帝国はこの有様であったので十字軍には不参加である。皇帝は1098年にコンラートを廃嫡して12歳の次男を後継者としてローマ王に選出させた。ハインリヒ5世である。しかし、ハインリヒ5世もまた教皇との和解を望み1105年に父を捕らえて幽閉してしまう。皇帝は脱出して息子と戦うが、翌1106年に55歳で死去した。父の死去時、ハインリヒ5世は19歳であった。 ハインリヒ5世はその治世で叙任権闘争を終結させた。とは言え、なかなかスムーズにはいかなかった。王は1110年よりローマ遠征を決行し、一旦は国王有利のポンテ・マンモロ協約を結んだ。このとき、王は25歳前後で皇帝に戴冠された。しかしローマ教会はドイツに引上げた皇帝をすぐさま破門。父と同じくザクセンの反抗勢力に苦しめられた皇帝は、1122年に教皇カリストゥス2世との間でヴォルムス協約を成立させた。皇帝は高位聖職者の叙任権を放棄し、領土の授封権のみを留めるという内容で、抗争は皇帝の敗北で終わった。実のところ叙任権放棄自体は名目のみであったが、教会領は帝国権威の従属物ではなくなり、徐々に帝国政治体制における独立した諸侯と化すことになる。 1125年、ハインリヒ5世は38歳で嫡子無く死去し、ザーリアー朝は断絶した。国王選挙が行われ、ザーリアー朝の宿敵であるザクセン公ロタールが50歳でドイツ王に選出されてズップリンブルク朝を開いた(ロタール3世)。ハインリヒ5世は協力的であった甥でホーエンシュタウフェン家のシュヴァーベン公フリードリヒ2世を後継者にと望んだが、かなわなかった。 ===教皇派と皇帝派の対立=== 叙任権闘争によって神権を失った帝国は、教皇と皇帝という2つの頂点を持つことになった。ザーリアー朝断絶後、ズップリンブルク朝の皇帝ロタール3世は教皇に臣従したが一代で絶えた。そこでロタール3世に対抗していたホーエンシュタウフェン家がザーリアー朝の流れをくむ新王朝となった。ロタール3世のシュタウフェン家との争いは娘婿のヴェルフ家に引き継がれた。ホーエンシュタウフェン朝と、それに対抗するヴェルフ家の主導権争いは長く続いた。イタリアでは両家の争いが皇帝派と教皇派という都市国家間の争いに変化し、15世紀末まで続いて諸都市を分裂させている。皇帝の権威と権力は保たれ続けたがあくまでもホーエンシュタウフェン朝皇帝たちの個人的な有能さによるものであり、制度的な帝権は教皇との争いで弱体化の一途を辿った。一方、フランスでは1180年に即位したフィリップ2世尊厳王によって王権の強化が進み、ドイツとフランスの力関係は逆転しつつあった。 ロタール3世は先帝存命時に皇帝を無視した半ば独立した勢力を誇ったが、国王即位後はすぐさま逆の立場に立たされた。王と対立するシュタウフェン家は当主の弟コンラートを対立王に擁立し、1127年より軍事衝突に入った。王はシュタウフェン家を抑え込んだ後、ローマ教会の要望で南イタリアのシチリア王国に遠征した。その過程で1133年に58歳前後で皇帝に戴冠され、教皇に臣従した。しかしシチリアを打倒できぬまま、1139年に62歳で死去。嫡子無くズップリンブルク朝は一代で断絶した。皇帝は自身のザクセン公を継ぐことになる娘婿、ヴェルフ家のバイエルン公ハインリヒ10世(傲岸公)を後継者に望んだ。しかし国王選挙ではシュタウフェン家のコンラートが返り咲いて、コンラート3世として45歳前後で即位した。ここに帝国全土を巻き込むシュタウフェン家とヴェルフ家の対立が始まり、イタリアでは皇帝派(ギベリン)と教皇派(ゲルフ)の抗争となる。 コンラート3世はホーエンシュタウフェン朝の基礎を築いた。その治世はヴェルフ家との内戦から始まった。ヴェルフ家の傲岸公はコンラート3世の即位を認めず、王も傲岸公のザクセン・バイエルン公位没収を決定したため、ヴェルフ家とシュタウフェン家の戦争となった。傲岸公は捕縛されて2年後に死んだが戦争は続き、結局は傲岸公の子のハインリヒ獅子公にザクセン公のみ返還した。その後、1147年には第二回十字軍へ参加して大敗した。軍事面では冴えない王だったが内政面では皇帝権力の強化、シュタウフェン家の領土拡大に成功を収め、巧みな外交戦略をもってドイツ諸侯と提携を図った。1152年、王は58歳前後で死去。皇帝として戴冠できなかった最初のローマ王(ドイツ王)となった。嫡子はいたが僅か6歳であったため、甥である30歳前後のシュヴァーベン公をフリードリヒ1世として後継者に指名して帝国とシュタウフェン家を託した。 フリードリヒ1世赤髭王(バルバロッサ)は貿易で豊かになっていたイタリア諸都市に対する帝権の回復を目指した。赤髭王は即位するとまずヴェルフ家の獅子公と和解した。1155年、一回目のイタリア遠征において赤髭王は33歳前後で皇帝に戴冠されたが、教皇へ臣従する儀式を強制された。帰国した赤髭帝は「神聖帝国」(Sacrum Imperium)の国名を用い、皇帝は教皇と対等であって直接神の祝福を受けていることを示した。赤髭帝は1158年から十年に渡る二〜四回目の遠征でミラノを初めとする都市国家群を征服し、ロンカーリャ(イタリア語版)の帝国議会にて多額の貢納を強制した。諸都市は激しく抵抗し、新教皇アレクサンデル3世は皇帝を破門した。諸都市はロンバルディア同盟を結成し、本国の獅子公も四回目の遠征からは参加を拒否するようになった。そして1176年、五回目の遠征におけるレニャーノの戦い (en) でついに赤髭帝は惨敗を喫し、1177年のヴェネツィア条約 (en) で教皇に屈服した。しかし赤髭帝はこれを逆に好機とし、敗戦の責任を非協力的な獅子公におしつけて1180年に国外追放した。1183年、イタリア諸都市に自治を認める代わりに貢納金をせしめた。1184年からの六回目の遠征では子のハインリヒ6世をシチリア王女コスタンツァと結婚させて同盟を結び、教皇領を南北から圧迫した。赤髭帝は中欧でもポーランド、ハンガリー、ボヘミアに対して皇帝の権威を認めさせた。さらにオットー3世時代に失われた北東部ノルトマルクをブランデンブルク辺境伯アルブレヒト熊公に再征服させた。1189年、赤髭帝は第3回十字軍の総大将となってイスラム軍に圧勝するも、不幸にも水難事故により68歳前後で死去した。ハインリヒ6世が24歳で後を継いだ。 ハインリヒ6世は南イタリアにあるノルマン王朝のシチリア王国の併合を企てた。元々1189年にシチリア王グリエルモ2世が子を残さずに死去した際、王位は叔母婿のハインリヒ6世に回るはずであった。しかし反ドイツ派は庶子筋のタンクレーディを擁立した。さらに先帝時代からの宿敵・獅子公が密かに帰国し、反乱を起こし始めた。1191年、王は獅子公を牽制しつつシチリア遠征を決行。その途上、ローマにて25歳で皇帝に戴冠した。情勢は苦しかったが、ここで事件が起こる。先帝死後も第3回十字軍を続行した挙句にパレスチナから敗走してきたイングランド王リチャード1世がオーストリアで捕縛され、皇帝に引き渡されたのである。イングランドから多額の身代金を得た皇帝夫妻は軍勢を整え、1194年にシチリアを制圧した。皇帝は獅子公とも講和して先帝の追放令を解除し、改めて諸侯の一人として認めた。しかしザクセン公位は返還しなかった。ザクセン公位は先帝時代に東方辺境のアンハルト伯に渡っており、ザクセン公領は大幅に縮小した上で東方に移動した。1197年、皇帝は31歳で急死。前年にドイツ王に選出されていた2歳の息子フリードリヒ2世が後を継ぐが、教皇派は獅子公の子で22歳前後のオットー4世を擁立した。皇帝派はこれに対応するため、ハインリヒ6世の弟にあたる20歳のシュヴァーベン公フィリップを王に推戴した。フリードリヒ2世のドイツ王位は排除されてシチリア王のみとなり、教皇インノケンティウス3世の後見を受けた。 フィリップの治世は対立王オットー4世との戦いに終始した。1207年にはほぼ勝利を収めつつあり、ローマで皇帝として戴冠する手はずを整えたが、翌年に娘の結婚問題から31歳で暗殺された。教皇の手引きであったともされる。代わりにオットー4世が1209年にイタリア王、ついで皇帝として戴冠し、ついにシュタウフェン家に代わってヴェルフェン朝(ヴェルフ朝)が開かれた。 オットー4世は即位にあたって多くの帝権を放棄して教皇の権威に服する誓約をした。しかし守る気は無く、たちまち教皇との関係が悪化した。1210年、皇帝は教皇が後見するフリードリヒ2世のシチリア王国へ遠征に向かったため、激怒した教皇から破門されてしまう。フリードリヒ2世も既に15歳に成長しており、翌々年には教皇とフランス王フィリップ2世の支援を受けて対立ローマ王に選出された。窮地に陥った皇帝は、叔父のイングランド王ジョンと組んでフィリップ2世を挟撃するが、1214年にブーヴィーヌの戦いで大敗した。1215年にオットー4世は皇位を失い、1218年に43歳前後で病死した。ヴェルフ朝は1代限りとなり、シュタウフェン朝が復活した。フリードリヒ2世は1220年に25歳で皇帝に戴冠された。 フリードリヒ2世は明確なビジョンのもとにローマ帝国の復興を志した。ドイツを小勢力が分立する属州と見なした上で、本拠シチリアを含むイタリアの本土化を試みたのである。ドイツでは既成事実化していた諸侯の特権に法的根拠を与えて支持を得るとともに、各々の領地の経営に専念させた。勢力を拡大した諸侯によってドイツ農民や商人による東方移住が促され、神聖帝国の影響力はポメラニアやシレジアにまで拡大した。1226年にはプロイセンのキリスト教化のためにドイツ騎士団がポーランドに招聘されて修道会国家ドイツ騎士団国(Deutschordensstaat)を建国、神聖帝国と密接な関係を保った。一方でシチリアにおいて皇帝は中央集権化を推し進め、官僚の養成、公共事業の実施、財政改革などによって500年後の絶対王政を先取りした革新的な国家建設に努めた。シチリアは地中海交易の要地のため文化交流地でもあり、ルネサンスに200年先がけた古代ローマ文化の復興も行われた。さらに先進的なイスラム文化を受容しての多民族・多宗教国家の建設が目指された。こうした態度はやがて教皇庁との対立を招き、十字軍出兵を渋ったことからグレゴリウス9世の怒りを受けて破門される。仕方なく1228年に第6回十字軍を興してアイユーブ朝のスルタンアル=カーミルと交渉し、無血でエルサレムの奪回とエルサレム王位の獲得に成功した。しかしイスラムと闘わなかったことで教会のさらなる怒りを買い、ついには反キリストとまで非難された。十字軍以前から皇帝は教皇派諸都市とも紛争を起こしており、1232年にはドイツ総督(名目的にはローマ王)の嫡男ハインリヒも反乱を起こした。皇帝は忠実なる直属のイスラム兵をもって戦いを優勢に進めたが、教皇派は20年近くにわたって徹底抗戦を続けた。ついに皇帝は勝利を確定させることなく1250年に68歳で死去した。後を子のコンラート4世が23歳で継いだ。 コンラート4世は父帝の戦いを継続した。1237年には9歳でローマ王となっていたコンラート4世だが、父帝存命時から教皇派が選出したテューリンゲン方伯ハインリヒ・ラスペ、ホラント伯ヴィルヘルム・フォン・ホラントといった対立王との戦いに明け暮れていた。当然教皇からの支持は得られず、皇帝に戴冠されないまま僅か4年で1254年に25歳で死去した。その後、ローマ教皇からの支持を受けたフランス王族のシャルル・ダンジューによってシチリア王国は奪われ、幼い息子のコッラディーノや弟のマンフレーディも殺され、ホーエンシュタウフェン朝は断絶した。このため、フリードリヒ2世によってシチリアの属国群とされていたドイツは、宗主を失うことで解体してしまった。部族公領もこの時代にはバイエルンを除いて分裂し、縮小し、あるいは消滅してしまっていた。イタリアでも諸都市が皇帝の支配をはね除けたことで実態的な政体としての王国が消滅し、多数の都市国家群に分裂した。それでも神聖帝国という枠組みと普遍的支配権を持つ皇帝という概念は残っていた。 ===中世後期=== 1254年、ローマ王ヴィルヘルム・フォン・ホラントによって「神聖ローマ帝国」の国号が初めて正式に用いられた。しかしこの4年前のフリードリヒ2世の死によって、封建社会の頂点に立つ皇帝が西欧を支配するという意味での帝国は解体されていた。「神聖帝国」という枠組みだけはかろうじて残っていたが、叙任権闘争で神聖さを失い、シュタウフェン朝断絶でローマ帝国復興への道も途絶し、ゲルマン、ローマ、キリスト教の三要素からなる帝国は元のゲルマンのみに戻っていた。もはや国家ではなくなりかけていた帝国は、中世的封建制帝国から近世的領邦国家連合体へと長い時間をかけて変わっていく。こうして帝国は西方帝国(カロリング帝国)、名無しの「帝国」に続く第三の時代に入った。実質的な領域もドイツとボヘミア(チェコ)に限られるようになっていった。ブルグントは政略結婚と買収によって徐々にフランス王領に組み込まれ、1378年には法的にもフランスに割譲された。イタリアは小勢力同士が衝突しつつもルネサンスが花開き、ドイツの影響から離れた。とは言え、中世後期にはまだドイツ王がイタリアへ赴いてイタリア王とローマ皇帝に戴冠する伝統は残っていた。ダンテ、パドヴァのマルシリウス、ペトラルカといったルネサンスの文化人は、都市国家が乱立するイタリアに秩序をもたらす皇帝の復権を期待した。しかし神聖ローマ帝国の勢力は回復すること無く、1512年には「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」の国号が用いられた。神聖ローマ帝国はイタリアに宗主権を主張し続けたものの、帝国秩序の中に置くことは殆ど諦めてしまった。 対外的にはフランスに劣勢を強いられていた。フランスでは神聖ローマ帝国とは逆に中央集権化が進み、王権が強化されていた。フランス王権はブルグントを事実上併合したばかりか教皇権をも掌握した。フランスはカペー朝からヴァロワ朝への交代を原因とした百年戦争勃発により一時衰えたが、終戦後に盛り返して神聖ローマ帝国を遙かに上回る軍事力を持った。また1453年のコンスタンティノープルの陥落により、古代から続いていた本来のローマ帝国(ビザンツ帝国)が滅亡した。古典的にはこの事件をもって中世の終わりとし、イスラム(オスマン帝国)の脅威が東から直に迫ってきた。 ===大空位時代=== フリードリヒ2世が死去した1250年(またはコンラート4世が死去した1254年、あるいはヴィルヘルム・フォン・ホラントが死去した1256年)からハプスブルク家のルドルフ1世が国王に選出された1273年までの期間を大空位時代(Interregnum)と呼ぶ。原語を直訳すると「王権の空いた期間」であり、王はいたものの権力がなかったという意味である。弱小貴族や非ドイツ人が王として選出されたが、神聖ローマ帝国に現実的な影響を及ぼすことはできなかった。この選挙の歳にマインツ大司教、ケルン大司教、トリーア大司教、ライン宮中伯(プファルツ)、ブランデンブルク辺境伯、ザクセン大公、そしてボヘミア王といった、後に選帝侯(Kurf*6319*rst)と呼ばれるグループが現れた。 ヴィルヘルム・フォン・ホラントは「神聖ローマ帝国」(Imperium Romanum Sacrum)の国名を初めて用いた王だった。しかし実態としては弱小地方領主の域を出ない有名無実の王だった。1247年に教皇派によって20歳で対立王に選出されるが、ホーエンシュタウフェン朝との戦いに自ら勝つことは出来なかった。1254年にシュタウフェン朝最後の王コンラート4世が死去したことで唯一のドイツ王となったが、依然として王としての権力はなかった。名ばかりの単独王となった2年後、ヴィルヘルムは1256年のフリースラント遠征中に28歳で戦死してしまう。1257年に教皇派であるプファルツ、ケルンそしてマインツの3人の選挙人は後継国王をもはやドイツ諸侯から選ぶことすらしなかった。彼らが推戴したのは46歳のコーンウォール伯リチャード(イングランド王ヘンリー3世の弟)だった。 リチャードも神聖ローマ帝国に王権をふるうことはできなかった。王に選出された数ヵ月後には皇帝派(トリーア、ブランデンブルク、ザクセン、ボヘミア)が対立王としてローマ王フィリップの孫でカスティーリャ王のアルフォンソ10世を選出し、早くも正当性が怪しくなった。リチャードはアーヘンで正式に戴冠したもののドイツにはほとんど不在だった。アルフォンソ10世に至ってはスペインに留まって一度もドイツに入ることがなかった。このため、国王がドイツにいない状態が長期化した。帝国の秩序は乱れた。諸侯は特権獲得と領域形成を強固にして、より一層自立した統治者と化した。諸侯の勢力に対し、ドイツ西部の諸都市がライン同盟を結成するといった現象も起こった。また、ホーエンシュタウフェン朝を滅ぼしてシチリア王国を乗っ取ったシャルル・ダンジューが荒廃した神聖ローマ帝国をも狙い、甥のフランス王フィリップ3世を帝位につける野望を抱いた。1272年、リチャードが全く実権の無いローマ王位を抱えたまま63歳で死去した。諸侯は外国の干渉を防ぎつつ強力な王の誕生を防ぐため、南シュヴァーベンの小領主に過ぎないハプスブルク家のルドルフ1世を国王に選出した。ルドルフ1世は当時としては高齢の50歳であり、その治世はすぐに終わるはずであった。 ===跳躍選挙=== 1272年、弱体な君主を望む諸侯は当時弱小諸侯だったハプスブルク家のルドルフ1世を王に選出した。ルドルフ1世は著しく減少していたとはいえ未だ残されていた王権を利用し、ハプスブルク家を一躍大諸侯の一角へと押し上げた。このためハプスブルク家の世襲は認められなかった。以後約150年間、1代除くすべての国王選挙で異なる家門が選出され、跳躍選挙(Springende Wahlen)と呼ばれている。歴代国王はドイツ全体の経営よりもまず自領拡大を優先した(家門王権(Hausmachtk*6320*nigtum))。中世盛期から国王選挙のルールは明確で無かったため、二重選挙や対立王の擁立など多くの混乱が起こった。1356年、カール4世は金印勅書(bulla aurea)を発布して秩序と平穏をもたらした。勅書において、ローマ王は7人の選帝侯による過半数の得票で選出されると定められた。選帝侯には多くの特権が認められたため、勅書は領邦分裂体制の固定を促すことにもなった。 ルドルフ1世はハプスブルク家をヨーロッパ有数の家門に発展させた。ルドルフの即位後、神聖ローマ帝国最大の諸侯であるボヘミア王オタカル2世がローマ王への臣従を拒否して戦争になった。勢力は圧倒的にローマ王が不利であったが、巧みな外交手腕によって諸侯やハンガリー王国と同盟を結んだ。そして1278年、ローマ王はマルヒフェルトの戦い (en) でオタカル2世を敗死させた。この結果、ハプスブルク家は後に地盤となるオーストリアとシュタイアーマルクをボヘミアから奪い取った。ローマ王はさらに皇帝即位を目指した。シチリア王シャルル・ダンジューと取引をし、形骸化著しいブルグント王国を割譲する見返りに自身の皇帝戴冠と世襲の支持を得た。しかしシャルルがシチリアの晩祷事件によって失脚したため、計画は破綻した。1291年にローマ王は73歳で死去。ハプスブルク家の勢力伸長を警戒した諸侯は王位世襲を認めず、ナッサウ家のアドルフが42歳でローマ王に選出された。 アドルフは王権強化を目指して領土拡大を積極的に行おうとしたが、ドイツ諸侯からの反発を招いた。1298年に廃位された上、新たにローマ王に選出された43歳前後のアルブレヒト1世(ルドルフ1世の子)と戦って敗れ、48歳で戦死した。 アルブレヒト1世も王権強化を目指して失敗した。アドルフのように失脚はしなかったものの厳格で冷酷な性格の王は民衆から嫌われた。父王死去時の1291年時点で元の地盤である南シュヴァーベンの三都市が同盟を結んで反乱を起こしており、これがスイスの建国とされる。1303年には敵対した諸侯と妥協するため、教皇権へ服従した。同年、フランスではアナーニ事件が起きて教皇がフランス王の言いなりとなる状況となり、神聖ローマ帝国とフランスの力関係が逆転した。1308年、各地で戦い続けた王は財産をめぐるいさかいが原因で甥のヨハンに53歳で暗殺された。王位世襲は再び否定され、ルクセンブルク家のハインリヒ7世が33歳前後で国王に選出された。 ハインリヒ7世は王権を蘇らせつつ、皇帝権の再建をも企図した。王はまず婚姻政策でボヘミア王位を自家に獲得し、領土を短期間に拡大させた。1310年からはイタリア遠征を行って帝国のイタリア政策を再興した。5000人の騎士を連れてアルプスを越えたローマ王はまず、イタリア王としての戴冠式が行われるミラノの反皇帝派を撃破した。1311年にイタリア王として戴冠すると、1312年に皇帝戴冠を目指してローマへと向かった。皇帝戴冠はフリードリヒ2世以降、約100年ぶりのことであった。しかし、フランスに牛耳られた教皇庁は1309年にブルグント(南フランス)のアヴィニョンへ動座していた(アヴィニョン捕囚)。王は仕方なく枢機卿の手により37歳前後で戴冠された。久しぶりの皇帝誕生は秩序を重んじる初期ルネサンス文化人から非常に期待された。しかし1313年、皇帝はナポリへの遠征中に38歳前後で死去した。1314年に二重選挙が行われ、ハプスブルク家のフリードリヒ(美王)とヴィッテルスバッハ家で32歳のバイエルン公ルートヴィヒ4世がローマ王に選出された。 ルートヴィヒ4世の治世では教皇と皇帝の対立が再燃した。ルートヴィヒ4世は対立王フリードリヒを8年がかりで下したが、ここにアヴィニョンの教皇ヨハネス22世が横やりを入れた。教皇の認可無き国王選出は無効であり、さらに皇帝が不在のイタリア王権は教皇が代行するとまで主張した。これに対抗するため、1327年にローマ王はイタリア遠征を行い、ミラノにてイタリア王に戴冠した。翌年にはローマに赴き、神学者マルシリウスの理論を根拠に教皇ではなくローマ人民の名で皇帝に戴冠した。皇帝と教皇は激しく対立し、廃位と破門の応酬となった。紛争が長期化した1338年、フランクフルトの帝国議会にて「選挙で選ばれた王は同時に皇帝でもあり、教皇の承認は必要ない」と決められた。1339年、英仏間で百年戦争が始まったためフランスの圧力が弱まった。1340年以降、皇帝は戦争の混乱を利用して教皇との和解を狙ったが、かえって諸侯に見放された。1346年、チロル伯爵領での強引な家門拡大策で教皇から再度破門を受けた皇帝は廃位され、先帝の孫でルクセンブルク家のカール4世が30歳で対立王に選出された。皇帝は翌1347年に65歳で死去した。 カール4世は自領ボヘミアの発展と帝位世襲に専念し、ドイツの制御に腐心し、イタリア・ブルグントへの干渉を正式に放棄した。単独王となった翌年の1348年、ローマ王兼ボヘミア王はボヘミアの首都プラハを神聖ローマ帝国の都として大々的に整備を始めた。その一環としてドイツ語圏初の大学となるプラハ大学を設立した。また、商売に長けたユダヤ人を囲い込んだ。ペストの大流行を原因とするポグロム(ユダヤ人虐殺)から保護したのである。1355年にローマ王はイタリア遠征を行い、ミラノにてイタリア王に、ローマにて39歳で皇帝に戴冠された。その際、教皇庁からの干渉を排する代わりにイタリアへの干渉を放棄した。帰国中にも北イタリアの諸都市に皇帝特権の切り売りを行い、莫大な上納金を得た。戴冠式を行うためだけにイタリアを素通りし、多くの帝権を売却して帰ってしまった皇帝はルネサンスの文化人を失望させた。1356年、カール4世は金印勅書(bulla aurea)を発布してローマ王選出に教皇の許可が必要無いことを改めて示した。そして7人の選帝侯による過半数の得票で王が選出されると定めた。同時に選帝侯には強力な特権が認められ、ドイツ領邦の自立化も決定的なものとなった。また、金印勅書には都市同盟の結成禁止も含まれていた。都市同盟は諸侯と対立する勢力だったためである。しかし皇帝は世襲工作の資金調達のため、1375年と1376年にハンザ同盟とシュヴァーベン都市同盟を許し、諸侯を憤慨させた。都市同盟許可に先立つ1365年、カール4世はアルルで正式にブルグント王に戴冠し、フリードリヒ1世以来のドイツ・イタリア・ブルグントの戴冠を全て行った皇帝となった。しかし1378年、皇帝はブルグント王国の支配権をフランスに譲った。既にブルグントの大部分はフランス王領に組み込まれるか買収されていたので、実情に合わせた措置だった。ブルグント王位自体は神聖ローマ帝国滅亡まで歴代皇帝が保持し続けた。同年皇帝は62歳で死去した。長年の努力のかいあって死去前の1376年には息子のヴェンツェルが15歳で国王に選出されていた。 ヴェンツェルは父帝の路線を受け継いだ。ボヘミアの経営にのみ力を入れ、神聖ローマ帝国全体の運営には無関心で皇帝戴冠もしなかった。ローマとアヴィニョンにそれぞれローマ教皇が立つ教会大分裂(シスマ)への対処にも消極的だった。また、イタリアの僭主たちを次々と公に叙爵して上納金を得た。イタリア貴族に称号と正当性を与える立場にあることを示して神聖ローマ帝国君主としての権利を誇示した、という見方もあるが当時の諸侯は憤慨した。1400年、選帝侯たちによって弱腰と判断されたローマ王は39歳で廃位された。なお、ボヘミア王位は保った。代わってヴィッテルスバッハ家のプファルツ選帝侯ループレヒトが48歳でローマ王に選出された。 ループレヒトはしかし権力基盤が弱体でありすぎ、効果的な統治を行えなかった。ローマ教皇の戴冠を受けるためにイタリア遠征を行ったが、ロンバルディアすら突破できず軍は瓦解した。加えてボヘミア王ヴェンツェルはローマ王廃位を認めていなかった。1410年にループレヒトが58歳で死去するとヴェンツェルの異母弟で42歳のハンガリー王ジギスムントが選出され、49歳となっていたヴェンツェルもようやく廃位を認めた。 ジギスムントは教会への介入でローマ王の権威を増そうとした。当時、教会大分裂(シスマ)による混乱は頂点に達し、ローマに二人、アヴィニョンに一人、計三人の教皇が並び立つ状態になっていた。ローマ王は1414年にコンスタンツ公会議(1414年‐1418年)を開催して新たな教皇を選出させ、シスマを解消した。しかし、この公会議でボヘミアの教会改革派ヤン・フスを異端者として火刑に処したため、ボヘミアのフス派が武装蜂起しフス戦争(1419年‐1436年)を引き起こした。フス派支持だった兄ボヘミア王ヴェンツェルがこの事件でショック死したことでボヘミア王を兼ねたローマ王は、1431年まで5回にわたる十字軍を派遣した。しかし連敗を喫して王としての威信を失った。王は権威回復のため1431年にミラノにて63歳でイタリア王に、1433年にローマにて65歳で皇帝に戴冠された。1437年に皇帝が69歳で死去するとボヘミア王位とハンガリー王位は娘婿であるハプスブルク家のオーストリア公アルブレヒトに渡った。ルクセンブルク家に直系男子は無く、姪が継いでいた大本の本拠ルクセンブルク公領も借金のカタにフランスのブルゴーニュ公国に接収され、ルクセンブルク家は断絶した。こうしてカール4世が人生をかけて取り組んだ帝位世襲政策は凡庸な子孫たちにより露と消えた。アルブレヒトは1438年にローマ王アルブレヒト2世として41歳で選出された。 アルブレヒト2世の治世はあまりに短く、ローマ王としての実績は殆ど無い。国王即位1年半後の1339年、オスマン帝国との戦争中にハンガリーで赤痢によって42歳で急死した。オーストリアの所領とボヘミア王位は王の死後に生まれた息子ラディスラウス・ポストゥムスが継承し、ハンガリー王位も後にラディスラウスに回った。しかし新たなローマ王には又従弟に当たる傍系のフリードリヒ3世が24歳で選ばれた。このフリードリヒ3世が以後神聖ローマ帝国消滅まで皇帝位を世襲したハプスブルク朝の直接の祖である。 ===ハプスブルク家の伸長=== ハプスブルク家はルドルフ1世、アルブレヒト1世、フリードリヒ美王と三代にわたってローマ王(対立王含む)を輩出した後、しばらく歴史の表舞台から姿を消した。美王の跡をついだアルブレヒト2世 (オーストリア公)賢公は1315年、スイス誓約同盟(ドイツ語版、英語版)(Eidgenossenschaft)にモルガルテンの戦い、に敗れて発祥の地を事実上失った。しかしスイスへのこだわりは捨ててオーストリアの内政に勤しんだ。1335年にはケルンテン公領、クライン公領 (en) を皇帝ルートヴィヒ4世から拝領している。皇帝カール4世の治世に賢公の跡を継いだルドルフ4世は、金印勅書に定められた選帝侯にオーストリアが含まれていないことを不満に思った。そして選帝侯を上回る特権を持つ「大公」(Erzherzog)なる称号を自称し、特許状を偽造して皇帝に送りつけた。皇帝はこれを挑発と見抜いてうやむやにしたが、否定もされなかった特許状はハプスブルク家発展の布石となった。時代が下り、皇帝ジギスムントの死後にその娘婿となっていたオーストリア公アルブレヒト5世はボヘミア王とハンガリー王を相続した。1438年にはアルブレヒトはローマ王に選出され、ローマ王アルブレヒト2世となった。しかし、僅か1年ほどで急死。オーストリア、ボヘミア、後にハンガリーはアルブレヒトの死後に生まれた息子ラディスラウス・ポストゥムスが継承した。しかしローマ王には1440年にアルブレヒトの又従兄弟であるフリードリヒ3世が24歳で選出された。 フリードリヒ3世は「帝国第一の就寝帽」「神聖ローマ帝国の大愚図」と評されるほどの無能な人物だった。決断力に欠けて臆病で気が弱く、常に借金で追われ、けちであり、長所は忍耐力のみだった。王は即位するとラディスラウスの存在に怯えてすぐさま監禁し、オーストリアを弟と共同統治した。1442年、ローマ王として正式に戴冠。同年、英仏で百年戦争が終結している。1450年以降、ラディスラウスを自由の身にするよう求めるオーストリア貴族が同盟を結成した。1452年に王はラディスラウスを連れ、結婚式と皇帝への戴冠式を兼ねてイタリアに逃亡した。ポルトガル王女エレオノーレと結婚して持参金を得、36歳で皇帝にも戴冠したが、首都ウィーンに戻ったところでラディスラウスを解放せざるを得なかった。 1453年、コンスタンティノープルが陥落してビザンツ(東ローマ)帝国が滅亡するとオスマン帝国の脅威が迫ってきた。1457年にラディスラウスが都合良く死去して皇帝は名実ともにオーストリアを得たが、存亡の危機にあるハンガリー貴族は救国の英雄フニャディの息子マーチャーシュ1世をハンガリー王に選出した。マーチャーシュは有能で、ワラキア、セルビア等次々に領土を拡張した。こうした中、貧乏だが権威を持つ皇帝と、皇帝の権威を狙う豊かなブルゴーニュ公シャルル(突進公)の利害が一致し、皇帝の嫡男マクシミリアン1世と突進公の一人娘マリーの婚約が1473年に実現した。1477年、突進公が都合良く戦死し、ブルゴーニュはハプスブルク家のものとなった。しかし1479年、ハンガリーのマーチャーシュがオーストリアにまで来襲し、1485年にはウィーンが占領された。これをきっかけに、マクシミリアン1世はローマ王に戴冠した。1490年、都合の良いことにマーチャーシュは嫡子無く死去したため、皇帝はオーストリアを回復した。1493年、皇帝は77歳で死去。自発的に行動しなかった53年の在位中、神聖ローマ帝国は概ね平和だった。特にイタリアでは滅亡したビザンツから流れてきた文化人により、ルネサンスの最盛期を迎えた。また、ルドルフ4世の大特許状を密かに帝国法に組み込み、帝位世襲の布石を打っている。婚姻政策も成功しており、結果としてはハプスブルク家発展の道を開くことになった。神聖ローマ帝国に初めて「ドイツ人の」という接頭語をつけたのもこの皇帝である。 マクシミリアン1世はフランスとの戦争を通じ、消極的ながらもドイツを近世国家へ移行させた。父帝死去直後の1494年、35歳の王はイタリア半島に侵攻していたフランス王シャルル8世との戦争状態に入り、イタリア戦争が始まった。翌1495年、王は諸侯に軍資金を求めるヴォルムス帝国議会を開催し、さらに全ドイツ国民から税を徴収する一般帝国税(Gemeiner Pfennig)の導入と兵士の提供を求めた。これに対し、マインツ大司教を中心とした諸侯代表たちは諸改革案を提案した。当時、ドイツには新体制を構築しようとする帝国改造(Reichsreform)が求められていた。王は妥協して同意した。なお「帝国」改造とは言うものの、改革の対象はドイツのみである。イタリアは既に帝国行政の範囲外であった。 帝国改造の根本は治安維持であり、決闘の禁止である。古代よりゲルマン貴族には決闘による報復と権利回復が広く認められていた。これをフェーデと言う。しかし略奪目的の言いがかりも多かった。期間限定でフェーデを禁止する「平和令」はたびたび出されていたが、帝国改造ではこれを徹底したのである。帝国改造はフェーデを完全に禁止する永久ラント平和令(Ewiger Landfriede)、フェーデに代わって封臣間の政治的争いを解決する帝国最高法院(Reichskammergericht)の設置、及び帝国最高法院の選挙区である帝国クライス(Reichskreise)の設置から成る。帝国クライスは徐々にドイツの自立的な地方行政区分へと変化し、治安維持の実務、徴税、帝国軍編成の管理運営に加え、17世紀には国防をも担っていく。なお、帝国クライスは同時に設置された中央政府「帝国統治院」の選挙区でもあったが、早くも1502年に統治院は廃止されている。また、帝国最高法院には皇帝(国王)の権力が殆ど及ばない仕組みだったため、皇帝直轄の帝国宮内法院 (Reichshofrat) が1497年に設置され、二つの最高裁判所が併存した。 1508年、教皇ユリウス2世の要請により、王は大軍を率いて帝国外の独立国ヴェネツィアへ遠征した。しかしイタリア北東部全域を併合していたヴェネツィアは手強く、遠征は失敗した。ヴェネツィア征伐後には皇帝への戴冠式を行う予定だったが果たせず、教皇の同意の下で以後のローマ王は戴冠せずに皇帝を称することになった。その後も神聖ローマ帝国は連戦連敗であり、弱体化は明らかだった。1512年、皇帝は「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」(Heiliges R*6321*misches Reich Deutscher Nation)の国名を公文書で用いた。神聖ローマ帝国はイタリアに宗主権を主張しつつも、版図がもはやドイツ語圏及びその周辺に限られ、世界帝国建設という目的の放棄も明確となった。こうして中世は終わった。 一方で、皇帝個人の婚姻政策は大成功を収めていた。1500年にスペイン王女フアナと結婚させた息子フィリップにカルロス、フェルディナントの兄弟が生まれ、カルロスは1516年にスペイン、ナポリ=シチリアの王位を15歳で継承した。フェルディナントはハンガリー=ボヘミアの王女と結婚し、皇帝死後の1526年にこの地をハプスブルク家に取り戻した。こうしてハプスブルク家はスペイン、ドイツ、ネーデルラント、ナポリ=シチリア、サルデーニャ、オーストリア、ハンガリー=ボヘミアそして広大なスペインの新大陸領土を治める「普遍的君主制」(monarchia universalis)に君臨し、神聖ローマ帝国とは別の世界帝国が成立しつつあった。1519年に皇帝は59歳で死去。孫のスペイン王カルロス1世が19歳で皇帝に選出され、神聖ローマ皇帝カール5世となった。 ===近世=== ====カール5世の世界帝国と宗教改革==== 16世紀に入ったこの時期、フランス、イングランド、スペインでは中央集権化が進められていたが、既述の通りにドイツでは逆に諸侯の特権が強化される傾向にあった。そして、ドイツではカール5世の治世に神聖ローマ帝国の解体を決定的にさせる事態が生じる。 カール5世が神聖ローマ帝国を統治し始める以前の1517年にマルティン・ルターがヴィッテンベルク大学で発表した『95ヶ条の論題』が宗教改革の発端となった。ローマ・カトリック教会の大きな財源となっていた贖宥状の効力に疑義を呈するこの論題は活版印刷の普及もあってドイツ各地に広まって大きな反響を呼び、事態を憂慮した教皇レオ10世はルターにローマ出頭を命じるが、ルターは領主であるザクセン選帝侯フリードリヒ3世(賢公)の庇護を受けてこれに応じなかった。ドイツ内のアウクスブルクとライプツィヒで行われた異端審問でルターは教皇庁側と決裂した。1520年にルターは『ドイツ貴族に与える書』、『教会のバビロニア捕囚』、『キリスト者の自由』を発表し(三大宗教改革論)、これに対して教皇庁はルターに破門を通告する勅書を送って自説の撤回を迫る。ルターはヴィッテンベルクの公衆の前で、この勅書を燃やして答えた。 1520年にカール5世はヴォルムス帝国議会を開き、先代マクシミリアン1世から引き継いだフランスとのイタリア戦争のために諸侯に妥協し、帝国統治院の再設置を承認させられた。この帝国議会にルターが召喚されて審問を受けたが、彼は断固たる態度で自説の撤回を拒否した。カール5世はヴォルムス勅令(ドイツ語版)を発してルターを帝国追放に処して著書を禁圧したが、ルターはフリードリヒ賢公に匿われ、ヴァルトブルク城で新約聖書のドイツ語翻訳を成し遂げた。 ヴォルムス帝国議会が終わるとカール5世はスペインへ帰国し、以後約10年間もドイツでは皇帝不在となる。1525年のパヴィアの戦いで皇帝軍はフランス王フランソワ1世を捕虜とする大勝をおさめ、カール5世は北イタリアからフランス勢力を駆逐できた。フランソワ1世は不利な内容のマドリード条約の締結を余儀なくされたが、解放され帰国するとこの条約を反故にしてしまい、戦争はなおも継続し、更にスペインを脅威と感じた新教皇クレメンス10世がフランスに加担する事態まで生じる(第二次イタリア戦争)。この戦争の最中の1527年に皇帝軍による「ローマ劫掠」が発生し、ヨーロッパ精神世界に大きな衝撃を与えた。 一方、ドイツでは1521年から1524年にかけてルターの福音主義は大きく広がり、ルターの支持者たちは独自解釈を始めて過激な改革運動が各地で引き起こされた。また、スイスではチューリッヒ市のフルドリッヒ・ツヴィングリが宗教改革運動を主導し、更にはより急進的な再洗礼派が現れてスイス諸州や南ドイツに波及している。1522年に宗教改革運動に乗じて地位回復を図った騎士階層が蜂起して騎士戦争が起こったが、短期間で諸侯連合軍に敗北した。続いて、1524年から急進的な宗教改革を唱えるトマス・ミュンツァーらに主導された農民層が各地で蜂起してドイツ農民戦争が勃発する。農民たちは農奴制の廃止や司祭任免権の要求といった「12ヶ条の要求」を掲げた。ルターは当初は農民、諸侯双方を非難したが、やがて諸侯の側に立ち農民反乱軍を激しく非難している。統制を欠いた農民反乱軍は短期間で鎮圧され、7‐10万人が殺された。 農民戦争鎮圧を通して諸侯の権力は強まり、以降ドイツにおける宗教改革は諸侯に主導される。宗教改革は諸侯にとって教皇庁の支配から逃れられる政治的経済的メリットがあった。1528年までにドイツ騎士団、ヘッセン方伯、ブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯、マンスフェルト伯などの諸侯、そしてストラスブール、フランクフルト、ニュルンベルクといった諸都市がルター派になっていた。ヘッセン方伯フィリップ1世やザクセン選帝侯ヨハンを中心とするルター派は教会改革を要求し、1529年のシュパイエル帝国議会でヴォルムス勅令の実施が重ねて決定されると、ルター派の5人の諸侯と14の帝国都市が「抗議書」(Protestatio)を提出し、これにちなんでルター派をはじめとする教会改革派はプロテスタントと呼ばれるようになった。 この時期、オスマン帝国の脅威が神聖ローマ帝国へ迫っていた。1396年のニコポリスの戦いでハンガリー王ジギスムント率いる対オスマン十字軍が大敗を喫して以降、オスマン帝国はバルカン半島の支配を固めており、1520年に即位したスルタン・スレイマン1世はヨーロッパ進攻を開始した。彼はまずハンガリーを攻撃してベオグラードを奪取し、1526年のモハーチの戦いでハンガリー王ラヨシュ2世を戦死させる決定的勝利をおさめた。その後、カール5世の弟フェルディナントがハンガリー=ボヘミア王を継承したが、ハンガリーは中部のオスマン帝国占領地、西部のフェルディナントの支配する西ハンガリー王国そして東部は対立王を立てた現地諸侯にと各々支配され、いわゆる三分割時代となった。1529年にオスマン軍はウィーンを包囲する(第一次ウィーン包囲)。ウィーンは陥落を免れたが、この後もカール5世はオスマン帝国との戦いを強いられ、フランス王フランソワ1世がオスマン帝国と結んだためにより困難なものとなった。 ローマ劫掠後、フランス王フランソワ1世はイングランド王ヘンリー8世と盟約を結んでナポリへ侵攻したが、ジェノヴァが離反したため遠征は失敗に終わった。フランスの形勢が悪化すると教皇クレメンス10世はカール5世と講和を結び、イングランド王ヘンリー8世もフランスを見離し始める。1529年にカンブレーの和が結ばれ、フランスはイタリアにおける権益を放棄させられた。イタリアにおける覇権を確立したカール5世は、1530年にボローニャにおいて教皇の手による皇帝戴冠式を挙行し、彼が教皇による戴冠を受けた最後の皇帝となった。 ===アウクスブルクの和議=== 同年、カール5世は約10年ぶりにドイツ入りをし、宗教解決のためのアウクスブルク帝国議会を開催した。ルター派は弁証書としてフィリップ・メランヒトン起草による「アウクスブルク信仰告白」を提出したが、ツヴィングリやシュトラースブルクなどの改革派4都市が独自の「信仰」を提出し、プロテスタント内部の宗派分裂も明らかとなった。議会ではカトリックが優勢を占め、最終的決定は翌年の議会に持ち越されたものの、カール5世はルターを帝国追放刑にしプロテスタントを異端とする1521年のヴォルムス勅令を暫定的とはいえ厳しく執行するよう命じた。 翌1531年に弟フェルディナンドをローマ王に推戴させて後継体制を固めるとカール5世は広大なハプスブルク帝国の統治のためにネーデルラント、ブルゴーニュへと居を移し、またオスマン帝国の脅威にも対処せねばならず、1535年には地中海を渡りチュニスにまで遠征している。1536年にフランス王フランソワ1世がミラノ公国継承を主張してイタリアに侵攻し、イタリア戦争が再開した。 一方、プロテスタントの帝国諸侯・諸都市はアウクスブルク帝国議会直後にシュマルカルデンに集まり、軍事同盟結成を協議し、翌1531年2月にヘッセン方伯とザクセン選帝侯を盟主とするシュマルカルデン同盟が結成された。宗教戦争が一触即発に迫ったが、カール5世は妥協し1532年にニュルンベルクの宗教平和によって暫定的にプロテスタントの宗教的立場が保障された。この宗教平和を境にプロテスタントは勢力を一気に拡大した。南ドイツのヴュルテンベルク公領では、プロテスタントであったために追放されていたヴュルテンベルク公ウルリヒが1534年に復位し、北ドイツでも同年ポメルン公、1539年にザクセン公とブランデンブルク選帝侯がプロテスタントに転じた。西南ドイツではルター派とは異なる改革派信仰が広がっていたが、教義上の問題で妥協し(ヴィッテンベルク一致信条)、プロテスタントの政治勢力は統一性を持つようになった。カトリック諸侯の側もニュルンベルク同盟を結成し、プロテスタントに対抗した。 この時期、スイスでは新しい動きが起こっていた。1536年にプロテスタント神学の基礎と評価される『キリスト教綱要』を著わしたフランスの神学者ジャン・カルヴァンが亡命生活中に立ち寄ったジュネーヴで教会改革に参与していた。カルヴァンは教会改革を強力に指導し、教会規則を定めて平信徒も加わる長老制を創始する。彼の30年近くにわたる神権政治により、ジュネーヴは福音主義の牙城となり、カルヴァン派はやがて一大勢力に成長することになる。 1544年にフランスとのクレピー条約 (en) が締結されるとカール5世は一転ドイツ国内の問題に専心するようになった(オスマン帝国とは1547年に講和)。1546年にはルターが死去し、同年、プロテスタント陣営の盟主ザクセン選帝侯ヨハン・フリードリヒ(寛大公)の一族であるザクセン公モーリッツが選帝侯の地位を条件に皇帝支持に転じた。それ以前にヘッセン方伯も重婚問題からカール5世につけこまれ、政治的に中立を守らざるをえなくなっていた。自身に有利な条件が整ったと感じたカール5世は同年シュマルカルデン戦争をおこし、ミュールベルクの戦い (en) でシュマルカルデン同盟を壊滅させ、翌年のアウクスブルク帝国議会ではカトリックに有利な「アウクスブルク仮信条協定」が帝国法として発布された。皇帝は西南ドイツの帝国都市のツンフト(職業団体)が宗教改革の温床であると考えてこれを解散させるなど強硬な政策を実施した。カール5世の強硬な政策を見て、徐々にカトリック諸侯も反皇帝に転じ、嫡男フェリペにドイツ・スペインの領土と帝位を継承させようとすると、ますます反発を招いてカール5世は孤立した。 このような情勢の中、プロテスタントから「マイセンのユダ」と呼ばれたザクセン選帝侯モーリッツが1552年にフランスと結んで反旗を翻して、インスブルックのカール5世を急襲する。カール5世は敗北し、パッサウ条約によって「仮信条協定」は破棄された。この敗北からカール5世は弟のフェルディナントに宗教問題の解決を任せ、1555年のアウクスブルク帝国議会で、アウクスブルク宗教平和令が議決された。この平和令により「一つの支配あるところ、一つの宗教がある」(cujus regio, ejus religio)という原則のもとに諸侯が自身の選んだ信仰を領内に強制することができるという領邦教会制度が成立した。ただしこの時点ではカルヴァン派・ツヴィングリ派・再洗礼派などは異端とされ、信仰の自由から除外された。 また、同帝国議会で発布された帝国執行令(Reichsexekutionsordnung)は帝国クライスの役割の詳細を定め、フリードリヒ3世の時代からの一連の帝国改造運動を完了させた。同令によって帝国クライスがラント平和維持を担いクライス台帳に基づき、帝国等族の兵役分担を定めることになった。またクライスが帝国最高法院判決の執行を担うことになる。皇帝が自らの責務を果たす能力がないことを示したため、平和維持の名目のもと、今や皇帝の役割は帝国クライスが引きうけることになった。 翌1556年、カール5世は弟ローマ王フェルディナンドに帝位(皇帝フェルディナント1世)を、嫡男フェリペにはスペイン王位(スペイン王フェリペ2世)をそれぞれ譲位し、ハプスブルク家はオーストリア・ハプスブルクとスペイン・ハプスブルクとに分かれることになった。カール5世の内政および外交政策は最終的に失敗に終わった。 ===宗派対立=== この時期、ルター派はザクセン選帝侯とブランデンブルク選帝侯をはじめとする北ドイツ一帯に広まっており、帝国領域外ではドイツ騎士団も改宗してプロイセン公国が成立し、デンマークとスウェーデンもルター派を導入している。一方、カルヴァン派は西部に浸透し、プファルツ選帝侯が改宗した。諸侯の数では依然としてカトリックが多かったが、人口ではプロテスタントが圧倒していた。 フェルディナント1世はプロテスタント諸侯に対して融和的な施策を取り、1560年代前半まで大きな軍事的紛争を起こすことなく帝国を統治した。1564年にフェルディナント1世が死去すると、彼の息子マクシミリアン2世が皇帝になり、父と同様にプロテスタントの存在と時々の妥協の必要性を受け入れていた。スペインに対するオランダ人プロテスタントの反乱(八十年戦争)では帝国は中立を守っている。だが、この宗教融和は「単なる休戦」に過ぎなかった。 1570年代からイエズス会を尖兵とする反宗教改革がドイツに浸透し始めており、各地でカトリック勢力によるプロテスタント弾圧が行われた。これに対して、プロテスタント勢力はルター派と西部ドイツに勢力を広げるカルヴァン派とが対立しており、カトリックに対して統一行動が取れない状態になっていた。1577年に選帝侯であるケルン大司教ゲプハルト・トゥルホゼス・フォン・ヴァルトブルク (en) がカルヴァン派の女性と結婚するために改宗を表明し、これに反対して大司教罷免を強行するカトリック諸侯とのケルン戦争 (en) が勃発するが、ルター派の多いプロテスタント諸侯はこれを傍観している。 プロテスタントに寛容なマクシミリアン2世が1576年に死去すると、頑迷なカトリックである彼の息子ルドルフ2世は父の政策を廃棄して帝国宮内法院と帝国最高法院の判事の過半数にカトリックを任命する。帝国諸制度は次第に麻痺化し、1588年には既に帝国最高法院が機能しなくなっていた。16世紀初めにはプロテスタント諸邦はもはやカトリックによって独占的に運営される帝国宮内法院を認めなくなり、事態はさらに悪化した。同時期、帝国クライスの選帝侯や諸侯は宗派によって集団を形成するようになっていた。1608年のレーゲンスブルク帝国議会は閉会宣言なく終了し 、カルヴァン派のプファルツ選帝侯とその他の出席者たちは皇帝が彼らの信仰を認めなかったために退席している。 同年、プファルツ選帝侯フリードリヒ4世を盟主に6人の諸侯がプロテスタント同盟(Protestantische Union)を結成した。その後、その他の都市や諸侯もこの同盟に加入する。当初、ザクセン選帝侯と北部諸侯は加盟を拒否したが、後にザクセン選帝侯も同意している。これに対して、翌1609年にカトリック諸侯がバイエルン公マクシミリアンを盟主とするカトリック連盟(Katholische Liga)を結成した。連盟は帝国におけるカトリックの優位を守ることを目的としていた。帝国諸機関は麻痺状態となり、戦争は不可避となった。 一方、皇帝ルドルフ2世はプラハに引きこもって神秘諸術に耽る状態で、事態に対処する能力を持たなかった。ルドルフ2世は不満を持った弟・マティアスと争って1608年にハンガリー王位を奪われ、ボヘミア・プロテスタント等族の支持を得るためにプロテスタントに信仰の自由を与える「勅許状」を出すが、マティアスに軟禁され1612年に死去した。 帝位を継いだマティアスは宗教対立の仲裁を試みるが失敗に終わり、ボヘミア王位を従弟のシュタイアーマルク公フェルディナントに譲らざるをえなくなる。 ===三十年戦争=== *6322*1620‐1623:ボヘミアとプファルツ選帝侯の敗北。*6323*1625‐1629:デンマーク王クリスチャン4世の介入。*6324*1630‐1632:スウェーデン王グスタフ2世アドルフの介入。*6325*1635‐1643:フランスの介入。*6326*1645‐1648:テュレンヌ将軍とスウェーデンのドイツ戦役。 ボヘミア王となったフェルディナント2世はイエズス会の教育を受けた厳格なカトリックであり、ルドルフ2世の「勅許状」を反故にしてボヘミアのプロテスタントに迫害を加えた。1618年、弾圧に反抗するボヘミア貴族がプラハ城に押し掛け、フェルディナントの代官2名と秘書官を城外に投げ落とす事件を起こした(プラハ窓外投擲事件)。この事件を契機にボヘミアで大規模な反乱が発生し、シレジア、ラウジッツそしてモラヴィアといったこれ以前からカトリックとプロテスタントに分裂していたボヘミア全土に広がる。1619年に皇帝マティアスの死去により、フェルディナント2世が皇帝に選出されるとほぼ同時にボヘミア貴族はカルヴァン派のプファルツ選帝侯フリードリヒ5世(冬王)を新国王として迎えた。 フェルディナント2世はカトリック連盟のバイエルン公マクシミリアン1世のみならず、カルヴァン派を憎むルター派のザクセン選帝侯ヨハン・ゲオルク1世の支持をも受けて反撃に転じた。1620年にプラハ郊外で行われた白山の戦いでボヘミア反乱軍はティリー伯ヨハン・セルクラエス率いる皇帝軍に大敗を喫した。プファルツへはスペイン軍が侵攻し、プファルツ選帝侯フリードリヒ5世は没落して反乱軍は事実上瓦解した。ボヘミアではプロテスタントに対する徹底的な弾圧が行われ、15世紀のフス派以降、プロテスタント諸派の勢力が根強かったこの国を再びカトリックへ引き戻すことを確実にした。 この事態にプロテスタントであるデンマーク国王クリスチャン4世が戦争への介入を決意する。クリスチャン4世は反ハプスブルク政策を取るフランスの宰相リシュリュー枢機卿の仲介により、プロテスタントのイギリス、オランダそしてスウェーデンとの対ハプスブルク同盟(ハーグ同盟)を結んだ。デンマーク軍は1625年に帝国へ侵攻し、フェルディナント2世は窮地に陥る。皇帝を救ったのがボヘミア貴族で資産家でもあるアルブレヒト・フォン・ヴァレンシュタインであった。彼は5万の傭兵軍を集めて皇帝に提供し、皇帝軍総司令官に任命された。一方、プロテスタント陣営内では内部不和が生じており、デンマーク軍と別れたプロテスタント諸軍はヴァレンシュタインに各個撃破されてしまう。1626年、クリスチャン4世はルッターの戦いでティリー伯に大敗を喫した。以降、デンマーク軍は劣勢に陥り、1629年にリューベックの和約が締結されてデンマークは戦争から脱落した。 軍事的優位を確保したフェルディナント2世は帝国議会を無視する態度に出るとともに、3月6日に「復旧勅令」(独: Restitutionsedikt)を布告して宗教改革以来、プロテスタントに没収された教会財産の返還を命じた。復旧勅令の過激さとフェルディナント2世の絶対君主的な振る舞いはプロテスタント諸侯のみならず、カトリック諸侯からも反発を受ける。皇帝軍を支えるヴァレンシュタインは強引な軍税徴発によって諸侯から憎まれており、彼らはヴァレンシュタイン罷免を強硬に要求し、フェルディナント2世もこれを受け入れざる得なくなった。 ポーランドとの戦争を外交的に有利に終結させたスウェーデン王グスタフ2世アドルフは1630年に帝国への介入に本格的に乗り出した。グスタフ2世アドルフはフランスと軍資金援助を含んだベールヴァルデ条約を結び、軍制改革によって近代的徴兵軍となっていたスウェーデン軍を率いてポンメルンに上陸する。当初、ザクセン選帝侯、ブランデンブルク選帝侯をはじめとするプロテスタント諸侯はスウェーデンへの加担を躊躇っていたが、皇帝軍総司令官ティリー伯によるマクデブルク略奪が起こるとスウェーデンとの連合に踏み切った。グスタフ2世アドルフはブライテンフェルトの戦いとレヒ川の戦いで皇帝軍を連破してティリー伯を戦死させた。スウェーデン軍はバイエルンの首都ミュンヘンを陥れる。 再び窮地に陥ったフェルディナント2世はヴァレンシュタインに皇帝軍総司令官復帰を要請し、ヴァレンシュタインは皇帝から有利な条件を引き出した上でこれを承諾した。グスタフ2世アドルフとヴァレンシュタインとの決戦は1632年のリュッツェンの戦いで行われた。戦闘ではスウェーデン軍が勝利したもののグスタフ2世アドルフは戦死しており、事実上の痛み分けで終わった。その後もヴァレンシュタインは皇帝軍総司令官の地位に留まり隠然たる勢力を保っていたが、独自に講和を行おうとしたため、1634年にフェルディナント2世から反逆を疑われ、暗殺されている。 国王を失ったスウェーデン軍は、なおも宰相兼摂政であるオクセンシェルナの元でドイツに留まり戦争を継続、プロテスタント諸侯とハイルブロン同盟を結び、皇帝軍と対峙したが、1634年のネルトリンゲンの戦いでスペイン軍を投入した皇帝軍に敗れた。この敗戦で打撃を受けたザクセン選帝侯をはじめとするプロテスタント諸侯の大半は翌1635年に復旧勅令の撤回を条件とするプラハ条約を締結して皇帝に帰順した。これによって孤立したスウェーデンは窮地に陥るが、プラハ条約発表直前に、これまで間接的な参戦に留まっていたフランスがスウェーデンとベールヴァルデ条約の更新を行い、スペインおよび皇帝に対する本格参戦に踏み切った。1637年にフェルディナント2世は死去して嫡男フェルディナント3世が帝位を継承した。戦争はなお10年以上続き、決定的な戦闘こそなかったものの戦況は次第にフランス、スウェーデン優位に傾き、スペインは国内事情の悪化から介入を続ける余力を失い、帝国諸侯も脱落し始める。一方スウェーデン軍は、背後を脅かすデンマークを撃破し(トルステンソン戦争)、北方での地位を安定させると、今度はボヘミアへ侵攻した。フランス軍もロクロワの戦いでスペイン軍に勝利し、皇帝やカトリック諸侯を追い詰めて行った。 1642年にリシュリュー枢機卿が死去し、それから5か月後にフランス王ルイ13世も死去しており、僅か4歳のルイ14世が即位してマザラン枢機卿が宰相となった。マザラン枢機卿は戦争終結に動き、一方のスウェーデンも親政を開始した女王クリスティーナの元で皇帝との和平交渉の末、1648年にミュンスター講和条約およびオスナブリュック講和条約(総称してヴェストファーレン条約)が締結されて戦争は終わった。 同条約により、カルヴァン派が公式に容認され、領民は領主と異なる信仰を持つことが認められた(ハプスブルク世襲領は除く)。全ての領邦には選帝侯と同等の領邦高権(Landeshoheit:国家主権に近い権利)が与えられ、帝国に敵対する同盟を結ぶことができないなど依然として幾つかの制約はあったが外交権まで加わっていた。また、バイエルン公が選帝侯に加えられている。一方、皇帝の権限は帝国議会によって大きく制限されることになる。 加えて、事実上の独立状態にあったスイス連邦と北ネーデルラント(オランダ)が帝国から離脱した。フランスはエルザス=ロートリンゲン(アルザス=ロレーヌ)を獲得、スウェーデンは西ポメラニアをはじめとする北ドイツの領土を獲得して戦後における大国の地位を確保した(バルト帝国)。また、スウェーデンは、フォアポンメルン、ブレーメン、フェルデン等を獲得したが、これはスウェーデンが帝国の公位を帯びることを意味し、同時に帝国議会と帝国クライスに席を有することを意味した。フランスが獲得した領土が帝国からの離脱を意味したのとは異なり、スウェーデンはレーエンの授与という形で帝国諸侯の一員となった(スウェーデンでは、1654年にヴァーサ王朝が事実的に断絶し、外戚である帝国諸侯のプファルツ=クレーブルク家から王家を迎え入れることとなった。元よりデンマーク王家のオルデンブルク朝は、北ドイツのオルデンブルク家出身であり、北欧は中世より帝国との関係を有していた。この関係は、19世紀初頭の帝国の消滅に至るまでとドイツ連邦及びドイツ帝国が興隆するまで継続することとなる)。 これらによって、皇帝の有名無実化と帝国の解体が決定的になったとして同条約は一般に「帝国の死亡証明書」といわれる。しかしながら、近年のドイツ史学では統一された国民国家を到達点とする従来の歴史観から離れ、ヴェストファーレン条約によりドイツにおいては平和的な仲裁により宗派対立を解決する体制が確立されたとする研究もある(ヴェストファーレン体制)。スウェーデンでは、この条約に基づいて、条約保証国として帝国に対する体制の維持と利害関係の維持に拘泥するようになった。特に18世紀の大北方戦争における敗戦によって、帝国への影響力を喪失した後は、この外交路線は鮮明となり、皇帝との関係をより強化していった。このことは、後のナポレオン戦争による帝国解体に際して、スウェーデン使節のみが唯一、強行抗議を行っているが、これも帝国等族及び条約保証国としての立場から生じたことであった。 この戦争によって引き起こされた破壊の規模は歴史家の間で長い間論議されてきた。従来はドイツ人口が30‐40%減少し、経済水準が回復するまでに200年を必要としたとされてきたが、この見積もりについては現在では疑問視されている。 ===近代=== ====オーストリアとプロイセン==== ヴェストファーレン条約によって帝国は300以上の領邦国家と帝国自由都市の集合体となり、その中には極めて小規模な領邦も存在していた。一方、ハプスブルク家はオーストリアその他の世襲公領とボヘミア王国、西ハンガリー王国との同君連合を統治し、このハプスブルク君主国における絶対主義国家形成へと向かう(オーストリア絶対主義)。 1657年にフェルディナント3世が死去するが、皇位継承者だったローマ王フェルディナント4世は父に先立って既に死去していた。皇帝選挙ではマザラン枢機卿がハプスブルク家を排除してフランス王ルイ14世を将来の皇帝とすべく、中継ぎとしてバイエルン選帝侯フェルディナント・マリアを推す動きもあったが、結局、フェルディナント3世の次男レオポルト1世が選出された。しかしながら、この為にレオポルト1世は選挙協約で諸侯に対するより一層の譲歩を余儀なくされている。 1663年にレーゲンスブルク帝国議会が開催されたが、この帝国議会は以降、議決も散会もされずに帝国が消滅するまで継続して「永続的帝国議会」(Immerwahrender Reichstag)と呼ばれるようになり、諸侯の使節会議と化してしまった。 レオポルト1世の治世、帝国は度重なるルイ14世の領土的野心とオスマン帝国の脅威に直面している。1667年に始まった一連のネーデルラント継承戦争(帰属戦争、オランダ侵略戦争)でフランスはスペイン、ネーデルラントそして神聖ローマ帝国に戦いを仕掛け、ナイメーヘンの和約でスペインからフランシュ=コンテ、帝国からはフライブルク・イム・ブライスガウその他の領土を獲得し、その後、ルイ14世は東部国境地帯の「再統合」を推し進め、1681年にはシュトラースブルク(ストラスブール)を占領した。 1683年、ルイ14世からの中立の約束を得たオスマン帝国が軍事行動を起こし、20万の兵力をもってウィーンを包囲した(第二次ウィーン包囲)。オーストリア軍は包囲戦を耐え抜き、到着したポーランド王ヤン3世やドイツ諸邦の援軍がオスマン帝国軍を決定的に打ち破った。以後もオスマン帝国との戦争は16年に渡り続くが(大トルコ戦争)、1697年にプリンツ・オイゲン率いる帝国軍がゼンタの戦いで大勝して勝敗は決した。1699年にカルロヴィッツ条約が結ばれてオスマン帝国はヨーロッパ領土の割譲を余儀なくされ、オーストリアはオスマン帝国領ハンガリーとトランシルヴァニア、スロヴェニア、クロアチアを獲得した。 一方、ルイ14世はオーストリアとオスマン帝国との戦いに乗じて1688年にプファルツ選帝侯領へ侵攻して多大な被害をもたらした(プファルツ継承戦争)。だが、フランスはオーストリア、ドイツ諸侯、スペイン、オランダ、スウェーデンそしてイギリスが加わったアウクスブルク同盟諸国と敵対することになり、戦争は長期化して1697年に終結したが、フランスはプファルツのみならず、以前の戦争で獲得した領土の大半を放棄せざる得なくなった(レイスウェイク条約)。 この時期のスペイン王カルロス2世は生来病弱の上に子がなく、スペイン・ハプスブルク家は断絶しようとしていた。レオポルト1世のオーストリア・ハプスブルク家、そしてルイ14世のブルボン家ともに有力な王位継承権を有しており、スペイン王位継承を巡る対立が高まる中、カルロス2世はルイ14世の孫アンジュー公フィリップを後継者に指名した。1700年にカルロス2世が死去するとルイ14世はアンジュー公フィリップのスペイン王継承に同意するが(スペイン王フェリペ5世)、オーストリア、イギリスを初めとする諸国がこれに反対してスペイン継承戦争が勃発する。この戦争では帝国諸侯のほとんどが皇帝軍に加わったが、バイエルン選帝侯マクシミリアン2世エマヌエルと弟のケルン大司教ヨーゼフ・クレメンス・フォン・バイエルンがフランスに味方して皇帝軍と戦っている。 ブレンハイムの戦いでオーストリア=イギリス軍はフランス=バイエルン軍に勝利するものの、戦争は膠着状態に陥り、1713年と1714年にそれぞれユトレヒト条約とラシュタット条約が締結され、各国がフェリペ5世の王位を承認する見返りにスペインが多くの領土を割譲することで終わっている。オーストリアはスペイン領ネーデルラント、ミラノ、ナポリ、サルデーニャを獲得した。レオポルト1世は戦争中の1705年に死去しており、ルイ14世も戦争終結から程ない1715年に死去した。 この時代、聖俗諸侯領では絶対主義化が進行していた。フランスやオスマン帝国の脅威を受けていた中小領邦はその存立を守護する存在としての帝国国制を必要としていた。特に西南ドイツでは帝国クライスが地域自治機関として機能しており、クライス議会が活発に活動し、クライス軍制はその防衛機能をある程度だが果たしている。 ハプスブルク家のオーストリアがフランスやオスマン帝国との戦争を行いつつ大国としての地位を固めている間に、帝国内ではブランデンブルク=プロイセンが台頭し始めていた。1618年にプロシア公領とブランデンブルク辺境伯領との同君連合が成立したホーエンツォレルン家のブランデンブルク=プロイセンはフリードリヒ・ヴィルヘルム(大選帝侯)の治世にヴェストファーレン条約によって東ポメラニアを獲得し、戦後はポーランド王国の影響力を排除するとともに等族との対決に打ち勝って絶対主義に基づく統治体制を構築していた。この間に大選帝侯は、スウェーデンの影響力を排除して海上にも進出した(ドイツ領黄金海岸)。そして、1701年、フリードリヒ1世はスペイン継承戦争でオーストリアに味方する見返りに帝国領域外での戴冠の承認を受け「プロイセンの王」(K*6327*nig in Preu*6328*en)を名乗る。次代のフリードリヒ・ヴィルヘルム1世(兵隊王)は軍制改革を実施してプロイセン王国を軍事国家となさしめた。 この時期、プロイセン=ブランデンブルク以外にもザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト1世がポーランド・リトアニア共和国の王位(アウグスト2世)をハノーファー選帝侯ゲオルク1世ルートヴィヒがイギリス王位(ジョージ1世)をそれぞれ帝国領域外で獲得している。 スペイン継承戦争と並行して東方では大北方戦争(1700年 ‐ 1721年)が行われており、スウェーデンと北方同盟諸国(ロシア、ザクセン=ポーランド=リトアニア、デンマーク=ノルウェー:後にプロイセン、ハノーファー=イギリスが加わる)とが戦い、ザクセン選帝侯領やスウェーデン領ポメラニアなど帝国領域も戦場になった。カール12世率いるスウェーデンは、攻勢に出てバルト海沿岸諸国を圧倒するも、ロシア国内での大敗を機に優位を失った。長期化した戦争は、ロシアがポーランドまで影響力を伸張し、さらに帝国内での影響力を失ったスウェーデンの最終的な敗北に終わった(ストックホルム条約の締結により、ハノーファー選帝侯やプロイセン王国が帝国北部において勢力を拡大した)。勝利したロシアのツアーリ・ピョートル1世は1721年に皇帝(インペラトル)を名乗り、ロシア帝国が成立した。スウェーデンはバルト海世界の覇権を失い、ロシアが代ってヨーロッパの列強の一角として浮上した(ニスタット条約)。ロシア皇帝は東ローマ皇帝の後継者を主張しており、1453年に東ローマ帝国が滅亡して以来、約300年ぶりにキリスト教世界に二人の皇帝が並び立つこととなった。 ヨーゼフ1世の短い在位を経て1711年に即位したカール6世は対外戦争によってハプスブルク家の領土を拡大したが、唯一の男子が夭逝して女子しか子がなく、この為、1724年にカール6世は皇女マリア・テレジアを後継者とすべく国事詔書(Pragmatische Sanktion)を出し、諸国にこれを認めさせるために多くの外交的・領土的な譲歩をしている。 だが、1740年にカール6世が死去するとフランス王ルイ15世、プロイセン王フリードリヒ2世(大王)を初めとする諸国がマリア・テレジアのハプスブルク家世襲領継承に異議を唱えオーストリア継承戦争が勃発した。また、帝国法は女子の皇帝を認めておらず、このためハプスブルク家はマリア・テレジアの夫フランツ・シュテファンの皇帝選出を目論んでいたが、選出されたのはフランスと結んだバイエルン選帝侯カール・アルブレヒト(ヴィッテルスバッハ家)であった。1742年にカール・アルブレヒトは神聖ローマ皇帝カール7世として即位し、彼が1437年に即位したアルブレヒト2世以降、唯一のハプスブルク家以外の皇帝である。だが、即位の直後にバイエルンの首都ミュンヘンをオーストリアに占領され、カール7世はフランスの支援が十分に得られないまま各地を転戦するうちに僅か3年の在位で1745年に死去した。オーストリアとバイエルンとの和議が成立して次の皇帝にはマリア・テレジアの夫フランツ・シュテファンが選出された(神聖ローマ皇帝フランツ1世)。1748年にアーヘンの和約が成立してマリア・テレジアはハプスブルク家世襲領継承を承認させることに成功したが、シュレジエンをプロイセンに割譲せねばならなかった(シュレージエン戦争)。 英明な君主であったマリア・テレジアはオーストリアの内政改革を進める一方、シュレジエンを奪回するべく外交を展開してロシア、ザクセンそして長年の宿敵だったフランスとの同盟を成立させ対プロイセン包囲網を構築した(外交革命)。1756年に勃発した七年戦争でイギリスと同盟したフリードリヒ2世は圧倒的な国力の差にもかかわらず幾つかの戦いで勝利して持ちこたえるが、1761年にはイギリスの援助が打ち切られ苦境に陥った。だが、1762年にフリードリヒ2世の信奉者だったピョートル3世がロシア皇帝に即位するとロシアは戦線を離脱し、フリードリヒ2世は危機を脱した。オーストリア、プロイセンそしてザクセンとの間で1763年に締結されたフベルトゥスブルク条約により、プロイセンはシュレジエンを確保してヨーロッパの列強にのし上がる。これがドイツの覇権をめぐるオーストリアとプロイセンの対立の始まりとなった(ドイツ二元主義)。 フランツ1世は1765年に死去し、後を継いで皇帝に即位した嫡男ヨーゼフ2世は母マリア・テレジアとハプスブルク君主国の共同統治に入った。マリア・テレジアとヨーゼフ2世は啓蒙的諸政策を実施して、オーストリアにおける「啓蒙専制主義」を確立した。 1780年にマリア・テレジアが死去して単独統治に入ったヨーゼフ2世は宗教寛容令や修道院の廃止、死刑制度の廃止といった急進的な啓蒙諸改革(ヨーゼフ主義)を実施するも、反発を受け治世の晩年にはその大部分の撤回を余儀なくされている。 オーストリアとプロイセンは1772年にポーランド分割を行って領土を拡張させており、ヨーゼフ2世は更にバイエルン選帝侯領獲得を企て、1777年にバイエルン継承戦争を起こすが、プロイセンの干渉によって一部の領土を獲得したに留まった。ヨーゼフ2世は尚もバイエルン獲得を諦めなかったが、プロイセン、ザクセン、ハノーファーに諸小邦が加わって「帝国国制の維持」を掲げる「君侯同盟」(F*6329*rstenbund)を結成し、ヨーゼフ2世の企てを挫折させた。ヨーゼフ2世は1790年に死去し、弟のレオポルト2世が帝位を継承した。 ===フランス革命と帝国消滅=== 1789年にフランス革命が勃発した。当初、諸外国は武力干渉を控えていたが、1791年にフランス王ルイ16世とマリー・アントワネットの国外逃亡失敗事件(ヴァレンヌ事件)が起こると、皇帝レオポルト2世とプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世はフランスにおける王権復旧を要求する宣言(ピルニッツ宣言)を発し、これに対してフランス革命政府は宣戦布告で応じた(フランス革命戦争)。レオポルト2世は開戦直前に死去しており、フランツ2世が皇帝に選出された。 オーストリア=プロイセン軍はフランス軍に進撃を阻まれて反攻を受け、1795年までにフランス軍はオーストリア領ネーデルラントとライン川西岸を制圧し、プロイセンは戦争から脱落した。オーストリアは戦争を継続したが、イタリアでナポレオン・ボナパルトに敗れ(イタリア戦役)、1797年にカンポ・フォルミオ条約の締結を余儀なくされた。同条約により、オーストリアはヴェネチアを獲得したものの、ミラノの放棄とオーストリア領ネーデルラントの喪失を承認させられた。 1799年に第二次対仏大同盟が結ばれて戦争が再開したが、ブリュメールのクーデターで権力を掌握したナポレオンがアルプス越えを敢行してマレンゴの戦いでオーストリア軍を撃破し、戦争は1802年のリュネヴィルの和約により終結し、フランツ2世はフランスによるライン川西岸地域の併合を承認させられた。 リュネヴィルの和約でナポレオンはフランス併合地域の代替地をプロイセンその他の諸侯に提供するよう要求し、これを受けて帝国は1803年にレーゲンスブルク帝国議会の代表者会議を開催して帝国諸邦の再編成を決議した(帝国代表者会議主要決議:Reichsdeputationshauptschluss)。これによってマインツ大司教以外のすべての聖界諸侯領の俗界諸侯領への併合(世俗化 (en) )および小規模領邦国家と帝国都市の廃止と大諸侯領への編入(陪臣化)が進められ、西南ドイツに新たな幾つかの中規模国家が成立した。また、プロイセンは北西ドイツの領土を獲得している。 1804年5月18日、フランス共和国政府は元老院令を発して共和国を世襲皇帝に委ねると宣言し、ナポレオンはフランス皇帝(Empereur des Fran*6330*ais)を称した(戴冠式は12月2日)。フランス皇帝は神聖ローマ皇帝やロシア皇帝と異なり、もはや古代ローマ帝国との理念・歴史的関連性を持たない皇帝である。これに対して、フランツ2世はハプスブルク家世襲領と皇帝の称号を守るべく、8月11日に神聖ローマ皇帝とは別のオーストリア皇帝(Kaiser von *6331*sterreich)を称した(オーストリア皇帝フランツ1世)。 1805年に第三次対仏大同盟戦争が始まった。オーストリア主力軍はウルムでナポレオンの迅速な機動により降伏し、フランス軍はウィーンを占領した。フランス軍は追撃を行い、アウステルリッツでフランツ2世とロシア皇帝アレクサンドル1世の率いるオーストリア=ロシア連合軍と会戦して勝利した(三帝会戦)。プレスブルクの和約でオーストリアはヴェネチア、チロルの割譲とバイエルン、ヴュルテンベルクの王国、バーデンの大公国への昇格を認めさせられる。 中小帝国領邦はナポレオンを「守護者」とすることを決め、1806年7月にバイエルン、ヴュルテンベルクを初めとする帝国16領邦がマインツ大司教ダールベルクを首座大司教侯とするライン同盟を結成して帝国脱退を宣言した。 ここに至り、フランツ2世は8月6日にドイツ皇帝(神聖ローマ皇帝)退位と帝国の解散を宣言する。 朕はライン同盟の結成によって皇帝の権威と責務は消滅したものと確信するに至った。それ故に朕は帝国に対する全ての義務から解放されたと見なし、これにより、朕とドイツ帝国との関係は解消するものであるとここに宣言する。 これに伴い、朕は帝国の法的指導者として選帝侯、諸侯そして等族その他全ての帝国の構成員、すなわち帝国最高法院そしてその他の帝国官吏の帝国法によって定められた義務を解除する。 ― フランツ2世のドイツ皇帝退位宣言―1806年8月6日(全文は左記リンク) ハプスブルク家は神聖ローマ帝国の消滅後もオーストリア皇帝、ハンガリー王としてオーストリア=ハンガリー帝国を、第一次世界大戦の敗北により瓦解するまで統治し続けた。 ナポレオンの敗北により始まったウィーン体制により、1815年にオーストリア、プロイセンを含むドイツ諸邦39カ国によって構成されるドイツ連邦が成立した。ドイツ統一を巡るオーストリアとプロイセンの対立は19世紀後半まで続いたが、1866年の普墺戦争でのプロイセンの勝利によってドイツ連邦は解体され、翌1867年に新たにオーストリアと南ドイツ4カ国を除いた北ドイツ連邦が成立した。 オーストリアを除くドイツ諸邦が統一されるのは、普仏戦争でプロイセンと南北ドイツ諸邦がフランス帝国に勝利し、プロイセン王ヴィルヘルム1世がヴェルサイユ宮殿で皇帝に即位してドイツ帝国(Deutsches Kaiserreich)が成立する1871年1月18日のことである。 ==国制== 神聖ローマ帝国は今日の国々のような高度に中央集権化された国家ではなく、等族と呼ばれる王、公爵、伯爵、司教、修道院長及びその他の統治者に支配される数十の(最終的には千以上の)領邦に分かれていた。また、皇帝に直接支配される地域もあった。皇帝が単純に法令を発布して、帝国全域を自律的に統治しえた時代は存在しなかった。皇帝の権限は様々な地方領主たちによって厳しく制限されていた。 中世盛期以降、神聖ローマ帝国は帝権を排除しようと抵抗する地方諸侯との不安定な共存政策に特徴づけられる。フランスやイングランドなどの中世の諸王国と比較して、皇帝は自らの統治する領土を十分に支配する力を獲得し得なかった。反対に、皇帝たちは廃位を避けるために聖俗領主たちにより一層の権限を授与することを強いられた。このプロセスは11世紀の叙任権闘争に始まり、1648年のヴェストファーレン条約でおおよそ完了している。幾人かの皇帝たちはこの自らの権力の弱体化を食い止めようと試みたが、教皇や諸侯によって妨げられた。 ===皇帝=== 皇帝はドイツ王国、イタリア王国、ブルグント王国(1032年以降)の3つの王国の統治者であった。これはカロリング朝フランク王の正式な称号が「フランク人、ランゴバルト人、ローマ人の保護者」であった伝統を引き継いでいる。皇帝となるためには、その人物はまず3つの国王としての戴冠式をそれぞれ別の場所で行い、その上で、教皇により「ローマ皇帝」に戴冠された。 帝国の重要な特徴は選挙王制である。9世紀以降、ドイツ王は国王選挙によって選ばれており、この時期、彼らは最も有力な部族(サリ=フランク (en) 、ロートリンゲン、リプアリ (en) 、フランケン、ザクセン、バイエルンそしてシュヴァーベン)の5人の指導者たちによって選出されていた。ただし、中世盛期の三王朝時代(ザクセン朝、ザリエル朝、ホーエンシュタウフェン朝)では事実上の世襲が行われており、実際に選挙原理が働くのは王統が断絶した非常時だけだった。ハインリヒ3世は皇帝戴冠式を挙行するまでの7年間、ローマ王(羅: Rex romanorum; 独: r*6332*mischer K*6333*nig)を称しており、以降、皇帝予定者はまずローマ王を称するようになった。また、皇帝の存命中に後継者をローマ王に選出させることもあった。 大空位時代以降においては選挙原理が働くようになり、ドイツ王国内の主要な公爵や司教たちがローマ王を選出している。1356年にカール4世は金印勅書を発布して7人の選帝侯を定めた。皇帝候補者たちは票固めのために選帝侯たちと選挙協約(Wahlkapitulation)を結んで特権面での譲歩を約束させられた。 選出されたローマ王は名目上は教皇による戴冠を受けねば「皇帝」を名乗ることができなかった。多くの場合、国王たちは他の責務に時間を取られて皇帝戴冠には数年を要しており、しばしば、彼らはまずは北イタリアの反乱や教皇本人との不和を解決せねばならなかった。1508年にマクシミリアン1世が教皇から戴冠されることなく「皇帝」を称してからは、後期の皇帝たちは「ローマ皇帝に選ばれし者」(Erw*6334*hlter R*6335*mischer Kaiser)の体裁を取り、教皇による戴冠を省略してドイツ王=ローマ王に選出された時点で皇帝を名乗るのが慣例化した。教皇によって戴冠された最後の皇帝は1530年のカール5世である。 ===皇帝=ドイツ王の権力所在地=== 帝国は特定の首都を持たず、中世初期から中世盛期の皇帝=ドイツ王は王国を巡り、その時々の皇帝の所在地で宮廷会議や教会会議そして法廷の開催や授封といった行政を執り行う、「旅する王権」(Reisek*6336*nigtum)の統治方式を取っていた。 しかしながら、帝国統治の中心は全土に隈なく所在する訳でもなく、ザクセン朝、ザリエル朝の諸王はハルツ山地周辺のプファルツに王宮を造営して国王支配領域を形成しており、ゴスラーの歴史都市はそのひとつである。また、オットー3世以降は帝国内の司教管区も一時的な政庁として活用するようになっている。ホーエンシュタウフェン朝は権力基盤のシュヴァーベンに加えて、ザーレ・ウンストルート川流域やライン・マイン川流域、ライン川上流域に国王支配領域を形成した。 大空位時代以降は諸侯の自立性の高まりにより、国王支配領域を形成することはできなくなり、皇帝たちは各々の家門の領地から帝国の統治を行っている。フェルディナント2世(在位:1619年‐1637年)以降はハプスブルク家所領のウィーンが恒常的な宮廷所在地となった。 ===封建制=== 初期のドイツ王は部族大公(Stammesherzog)によって選出されていた。部族大公はフランク王国によって征服統合されたゲルマン諸族で、フランク王から大公(duces)の官職を任命された者たちである。フランク王国の部族大公は8世紀頃に解体されたが、カロリング朝末期に復活し、ザクセン大公、フランケン大公、バイエルン大公、シュヴァーベン大公そしてロートリンゲン大公が確立した。部族大公は12世紀末まで帝国における主要な役割を果たしている。 オットー1世に始まる帝国教会政策により、三王朝時代の皇帝たちは大司教、司教、修道院長を任命して所領を寄進し、特権を与えるなど彼らとのレーエン(知行制・封建制)的な絆を結び、教会を帝国の制度基盤となした。ザクセン朝とザリエル朝の皇帝たちは大公領、辺境伯領、伯領はレーエン的なものではなく官職として扱おうとしていたが、ロタール3世(在位:1106年 ‐ 1137年)の時代に帝国の封建化は発展し、12世紀から13世紀のホーエンシュタウフェン朝の時代にレーエン化が進められて部族大公領が解体され、国王を最高封主とする帝国国制の封建化が完了した。 12世紀末の時点で聖界諸侯の他に以下の20の世俗諸侯がいた。 大公:バイエルン、ザクセン、シュヴァーベン、ロートリンゲン、ブラバント、オーストリア、ケルンテン、シュタイアーマルク、ボヘミア辺境伯:ブランデンブルク、マイセン、ラウジッツ方伯:テューリンゲンライン宮中伯、アンハルト伯 ===帝国等族=== 帝国領邦の数は相当数に及び、18世紀末の時点で領邦高権を有する領邦314、自立権力を有するその他の帝国騎士領は1475家に上った。これら小邦(Kleinstaaten)の幾つかは飛び地を含む数平方マイルの規模しかなく、そのため帝国はしばしば「パッチワーク」(Flickenteppich)と呼ばれた。皇帝と直接的な封建関係を結んで帝国封(Reichslehen)を授封された者は帝国等族(Reichsst*6337*nde)と見なされた。帝国等族は以下のものである。 選帝侯。金印勅書によって定められたマインツ大司教、ケルン大司教、トリーア大司教、ライン宮中伯(プファルツ)、ブランデンブルク辺境伯、ザクセン公そしてボヘミア王。三十年戦争後にバイエルン(1648年)とハノーファー(1692年)が加わっている。1777年にライン宮中伯とバイエルンが統合され、帝国最末期の1803年の再編でケルン大司教とトリーア大司教が除かれ、ザルツブルク、ヴュルテンベルク、ヘッセン=カッセル、バーデンが選帝侯に加えられた。大公、公爵、伯爵または帝国騎士(Reichsritter)といった世襲貴族に統治されている領地(俗界領邦)。大司教、司教または修道院長といった高位聖職者に統治されている領地(聖界領邦)。一般的に司教領では、この一時的な領地はしばしばより広い教区と重なっており、司教に聖俗両方の権力を与えた。マインツ大司教領、ケルン大司教領、トリーア大司教領がその事例である。皇帝直轄の帝国自由都市(Freie Reichsstadt)。1495年ヴォルムス帝国議会の時点では選帝侯7、聖界諸侯(大司教4、司教46、修道院長86)、俗界諸侯(公爵24、伯爵その他の領主145)、帝国自由都市83となっている。 ===帝国議会=== 帝国議会(Reichstag/Reichsversammlung)は神聖ローマ帝国の立法機関であり、その起源は皇帝が諸侯に重要事項を諮問する宮廷顧問会議(Hofrat)や大空位時代の選挙人集会であり、1356年の金印勅書によって成文化された。帝国議会は三つの部会に分かれている。 第一部会である選帝侯部会(Kurf*6338*rstenrat)は1273年に現れ、ローマ王選挙権を有する選帝侯によって構成される。 第二部会の諸侯部会(F*6339*rstenrat)は1480年に成立したもので、その他の諸侯や帝国伯によって構成される。諸侯部会は二つの「議席」に分かたれており、一つが世俗諸侯、もう一つが聖界諸侯である。高位諸侯は個人票を持ち、その他の伯や高位聖職者は地域別に分けられた集合票になっている。各々の集合票は1票扱いである。18世紀半ばの時点で個人票は100票(俗界諸侯65、聖界諸侯35)、集合票は高位聖職者2票、伯4票となっている 第三部会が帝国自由都市の代表によって構成される都市部会(St*6340*dtetag)であり、シュヴァーベンとラインの二つの集合票に別けられる。各々の集合票は1票扱いである。帝国議会への自由都市代表の出席は中世後期から一般的になっていたが、彼らの出席が公式に確認されたのは1648年のヴェストファーレン条約以降のことである。都市部会は他の部会と対等ではなく、この部会がキャスティングボートを握ることを防ぐべく、他の二部会の決定が下された後に意見を求められる形式になっていた。1521年には87都市が出席権を有していたが、都市の衰退などの事情により1803年の時点では3都市に激減している。 ===帝国裁判所=== 帝国の司法機関としては皇帝が主催する宮廷裁判所(Hofgericht)が存在していたが、15世紀の帝国改造運動の一環として司法改革が求められた。フリードリヒ3世は司法は皇帝のレガリア(大権)であるとして改革に抵抗していたが、マクシミリアン1世は諸侯、等族の要求に妥協をし、1495年に永久ラント平和令を施行させる機関として専門の法律家による帝国最高法院(Reichskammergericht)が開設された。だが、マクシミリアン1世はこれに対抗すべく国王/皇帝の裁判所である帝国宮内法院(Reichshofrat)をウィーンに開設しており、帝国には2つの最高法廷が存在することになった。 帝国最高法院はフランクフルトに開設され、その後、ヴォルムス、アウクスブルク、ニュルンベルク、レーゲンスブルク、シュパイヤー、エスリンゲン (en) 、再びシュパイヤーへと移転した。アウクスブルク同盟戦争の際にシュパイヤーが破壊されたため、裁判所はヴェッツラーへ移転し、1689年から帝国が消滅する1806年までここに所在している。 両裁判所は通常の刑事、民事訴訟は扱わない上訴の最上級法廷である。帝国裁判所は諸侯間や諸侯と帝国等族との係争を私的な武力行使(フェーデ)ではなく法的手続きによって解決することを目的としており、制度は1670年代頃に定着して帝国の平和維持や宗教対立の緩和に一定の役割を果たしている。 ===帝国クライス=== 帝国改造の一環として、1500年に6管区の帝国クライスが設置され、更に4管区が1512年に設置されている。クライスは帝国最高法院陪席判事の選出、平和維持と防衛の分担調整、貨幣制度の監督、そして公共平和の維持を目的とした帝国内諸邦のほとんどを含む地域行政単位である。各々のクライスはクライス会議(Kreistag)の名で知られる独自の議会とクライス内の問題を調停する1‐3人のクライス公示事項担当諸侯(Kreis Ausschreibender F*6341*rst)を有していた。 全ての領域が帝国クライスに含まれている訳ではなく、ボヘミア王の領土 (en) 、帝国騎士領や帝国内のドイツ騎士団領地などの小邦、そして、スイス、北イタリアの帝国諸侯は除外されている。 ===郵便事業=== 宗教改革から続く帝国郵便をルドルフ2世は1597年に公認して領邦郵便を禁じたが、君主国の郵便は堂々と営業した。ゲラルド・ファン・スウィーテンはイエズス会の検閲制度を段階的に帝国のものへと転化した。その過程ではモンテスキューによる『法の精神』が発禁解除となった。帝国郵便は新聞の流通を掌握し、検閲網となった。このような体制はドイツ統一まで続き、万国郵便連合の基礎となった。 ==評価== 18世紀フランスの思想家ヴォルテールによる「神聖でもなければ、ローマ的でもなく、そもそも帝国ですらない」との神聖ローマ帝国評は特に有名であるが、17世紀の法学者プーフェンドルフも帝国を国家論の規則に外れた「妖怪に似たもの」と評した。また、帝国解散の新聞記事を読んだ日のゲーテの素っ気ない日記も当時の人々の帝国に対する無関心ぶりを示す例として知られる。一方で、18世紀後半のドイツ法学者ピュッター (en) は帝国の法維持機能を積極的に評価し、その国家性を強調している。 ドイツ帝国が成立した19世紀中盤以降のドイツ歴史学界は権力国家志向であり、中央集権化に失敗してナポレオンに敗れて消滅した神聖ローマ帝国を民族を分裂させドイツの利益を守りえなかった政治的無能と断じ、これに対して権力国家を構築してドイツ統一を成し遂げたプロイセンを擁護するプロイセン中心主義的解釈を取って来た。ナチス・ドイツの経験と第二次世界大戦の敗戦によって、権力国家概念は信用を失ったが、神聖ローマ帝国が近代国家への転換に失敗した体制であるとの解釈は続いた。 1960年代から西ドイツの歴史学界で従来の集権的な国民国家を唯一の歴史的選択肢とはしない神聖ローマ帝国に対する修正主義的なアプローチが出始めた。1980年代以降、この修正主義的解釈は活発化し、その主な論旨は帝国の構造を皇帝と諸侯とに二元主義的に理解せず、帝国議会、帝国裁判所、帝国クライスなどの多様な構成員からなる帝国諸制度の相互作用や法共同体としての側面を考察することである。 この修正主義的再評価から、帝国がヴェストファーレン条約以降まったくドイツで宗教戦争が起こることなく新旧両派が共存できたのはなぜか、あるいは小国に分裂したのであればなぜその小国群のほとんどが帝国崩壊まで命脈を保つことが出来たのか、といった疑問に答えるためにマクシミリアン1世に始まる帝国改造を指摘する者もいる。帝国改造によって皇帝権力から独立した司法制度と、帝国クライスを単位とする軍隊制度が創設されたため、宗教対立などの紛争は裁判所において解決が図られ、対外戦争に対しては一致して対応することも可能になったという主張である。 また、ヴェストファーレン条約についても否定的側面のみでは捉えず、以後150年に渡り領邦の独自性を維持しつつドイツの完全な分解を防ぐ法共同体を構築した役割、更には今日に続くドイツ連邦制の基礎になったと評価する見方もある。 =ハンガリー料理= ハンガリー料理/マジャル料理(ハンガリーりょうり/マジャルりょうり)は、ハンガリー国内および主要な民族であるマジャル人独自の料理である。伝統的なハンガリー料理は主に、肉、調味した野菜、果物、焼きたてのパン、チーズ、および蜂蜜を用いる。ハンガリー料理は、数世紀の歴史を持つ調味法や調理法に基づいている。 ==特徴== ハンガリー人は特にスープ、デザート、ペイストリーと具入りのパラチンタ(クレープ状の薄いパンケーキ)を愛し、同じ料理についても地方の間に激しい競争意識が見られる。例えば、ハンガリーの辛い川魚のスープ、ハラースレー (Fisherman’s soup) は、ハンガリーの主要な2つの川、ドナウ川とティサ川沿岸において調理法がそれぞれ異なる。他の有名なハンガリー料理には、ノケドリ(小さなダンプリング)を添えて供されるパプリカーシュ(サワークリームとパプリカのソースで肉を煮込んだシチュー)、グヤーシュ、挽いたクルミを振り掛け、フランベしてからダークチョコレート・ソースを添えて供されるグンデル・パラチンタおよびドボシュ・トルテがある。 ハンガリー料理において、地元では普通とされるものの外国人から驚かれる特有の2つの要素は、フェーゼレーク (f*10869*zel*10870*k) と呼ばれる野菜のシチューと、ヒデグ・メッジュレヴェシュ(ハンガリー語: hideg meggyleves、スミミザクラのスープ)のような冷たい果物のスープである。 肉のシチュー、キャセロール、ステーキ、ローストした豚肉、牛肉、家禽、ラム、狩猟肉、およびハンガリー風ソーセージ(コルバース (Kolb*10871*sz) )およびテーリサラーミは、ハンガリー料理で主要な位置を占める。一つの料理に異なる種類の肉を混ぜることはハンガリー料理の伝統的な特徴である。グヤーシュ、テルテット・パプリカ(具入りパプリカ)、テルテット・カーポスタ、ファターニェーロシュ(Fat*10872*ny*10873*ros, 木の大皿に乗せて供するハンガリーのミックスグリル)には、牛肉と豚肉、あるいは羊肉を組み合わせる。非常に高価な料理では、プラムやアンズのような果物が肉、辛いソース、狩猟肉の詰め物、ローストや薄切り冷肉とともに調理される。また、様々な種類の麺やダンプリング、ジャガイモ、米が副菜として供される。ハンガリー料理では幅広い種類のチーズが使われるが、最も一般的なチーズはトゥーロー (t*10874*r*10875*) というクヴァルクに似たフレッシュチーズ、クリームチーズ、ユートゥロー(juhtur*10876*, 羊乳チーズ)、オルダ (orda)、エメンタールチーズ、エダムチーズ、およびハンガリー産のトラッピシュタ(英語版)やパールプスタイ(英語版)である。 ドゥナーントゥール地方(英語版)(ドナウ川西岸)は古くからガチョウ飼育が盛んで、フォアグラの大産地でもある。 ==調味料== 唐辛子、ラード、および紫タマネギの組み合わせ、およびテイフル (tejf*10877*l) と呼ばれる濃いサワークリームの使用がハンガリー料理で一般的である。ハンガリー料理は唐辛子の使用により、辛いものが多く、ハンガリー料理がヨーロッパ生まれの料理で最も辛いともいわれる。唐辛子の他に、辛くないパプリカもまた日常的に使われる。タマネギは生のまま、あるいは煮たり炒めてキャラメル化してから用いる。 このほかに、一般的な風味付けにはニンニク、パセリ、挽いた白または黒コショウ、粒黒コショウ、ローリエ、ディル、マジョラム、粒または粉に挽いたキャラウェイ、タイム、マスタード、タラゴン、酢、セイボリー、ラベージ、クリーピングタイム(ヨウシュイブキジャコウソウ)、チャービル、レモンの果汁および果皮、アーモンド、バニラ、ケシの実およびシナモンが使われる。この他にワイン、コリアンダー、ローズマリー、ジュニパーベリー、アニス、バジル、オレガノ、オールスパイス、ホースラディッシュ、クローブ、メース、およびナツメグが使用される。 ==歴史== ハンガリー料理は、マジャル人の歴史に影響されてきた。ハンガリーの食における肉の重要性は家畜の重要性とマジャール人の遊牧民的な生活習慣により明らかであり、グヤーシュのような、火で調理する伝統的な肉料理に反映されている(マジャル語で「guly*10878*s」は「牧夫の(食事)」を意味する)。煮込み料理ペルケルト(英語版)や辛い川魚のスープ、ハラースレーは、伝統的に屋外で火にかけてボグラーチ(釜)で調理する。15世紀に、マーチャーシュ1世とナポリ出身の妃ベアトリクスはイタリアで興隆していたルネサンス文化に影響され、ニンニク、ショウガ、メース、サフランおよびナツメグやタマネギのような新しい調味料や香辛料や、果物を詰め物に用いたり肉と一緒に調理する料理法をハンガリーにもたらした。これらの香辛料のうち、ショウガやサフランは現在のハンガリー料理ではもはや使われていない。これ以降、非常に多数のサクソン人(ドイツ系民族)、アルメニア人、イタリア人、ユダヤ人、セルビア人がパンノニア平原とトランシルヴァニアに移住した。オスマン帝国領ハンガリーの時代には、様々な古典的トルコ料理の要素が取り込まれた。テレクメーズ (t*10879*r*10880*km*10881*z) と呼ばれる白いヌガー、マルメロの菓子、ロクムやハルヴァ、トルココーヒー、ベイグリ (Bejgli) と呼ばれるケーキ、トランシルヴァニアに見られるピラフのような米料理、パドリジャーンシャラータ(padlizs*10882*nsal*10883*ta, ナスのサラダ) (Eggplant salads and appetizers) 、ドルマに影響されたテルテット・パプリカ (T*10884*lt*10885*tt paprika) やテルテット・カーポスタ(T*10886*lt*10887*tt k*10888*poszta, 具詰めキャベツ)のような肉と野菜の料理などがこれに当たる。また、トウガラシはオスマン帝国時代に伝来した。そしてハンガリー料理はオーストリア=ハンガリー帝国の下、オーストリア料理の影響を受けた。料理および調理手法がオーストリア料理から取り入れられ、またグヤーシュのようにハンガリー料理が逆にオーストリア料理に影響を与えた例もある。ハンガリーのケーキと菓子には、ドイツ・オーストリアの強い影響が見られる。現在のハンガリー料理は、古代アジアの要素にドイツ、イタリア、スラヴの要素を統合したものと言われている。ハンガリーの食文化は、ユーラシア大陸の食文化のるつぼであると考えることができる。 ==ハンガリーの食事== ハンガリーでは、多量の朝食を摂る。ハンガリーの朝食は、焼きたてのパンまたはトースト、バター、チーズや様々なクリームチーズ、トゥーロー (t*10889*r*10890*) やクルズット(K*10891*r*10892*z*10893*tt, リプタウアー)、ハムのような薄切り冷肉、ヴェーレシュ・フルカ(v*10894*res hurka, ブラックプディングに似たブラッドソーセージ)、マーイクレーム(m*10895*jkr*10896*m)またはケネーマーヤシュ(ken*10897*m*10898*jas)というレバーパテやレバーソーセージ、ベーコン、サラミ、牛タン、モルタデッラ、ディスノーシャイト(diszn*10899*sajt, ヘッドチーズ)、カバノス(英語版)、ブリュー・ヴルスト(英語版)のようなソーセージや様々なハンガリー風ソーセージ(コルバース、Kolb*10900*sz)で作るオープンサンドイッチが一般的である。卵料理(目玉焼き、スクランブルエッグ、ゆで卵)、ブンダーシュケニェール (bund*10901*skeny*10902*r) と呼ばれるフレンチトースト、野菜(唐辛子、ピーマン、トマト、ハツカダイコン、ポロネギ、キュウリ)もハンガリーの朝食の定番メニューである。牛乳、紅茶、またはコーヒーと、菓子パン、キフリ(英語版)、シュトゥルーデルといったペイストリーにジャムまたは蜂蜜をそえた朝食、またはミューズリーのようなシリアル食品の朝食もある。子供はテイベリジュ(tejberizs, ライスプディング)やテイベグリーズ(tejbegr*10903*z, セモリナの粥)にココアと砂糖をかけた朝食を食べることもある。朝食には熱い飲み物が好まれる。 「フォークで食べる朝食」を意味するヴィヤーシュレッゲリ (Vill*10904*sreggeli) は、特別な行事の日や休日に食べる量の多い贅沢な朝食である。しばしば客を招待し、デビルドエッグ(英語版)(詰め物をしたゆで卵)、冷たいステーキ、冷たいサラダ、サケのオムレツ、パンケーキ、クルズット、キャビア、フォアグラ、果物のサラダ、コンポート、フルーツヨーグルト、果汁、シャンパンとペイストリー、ケーキ、クッキーが供される。 昼食は1日で最も重要な食事であり、通常複数のコースから成る。魚、卵、あるいはレバーなどの冷製または温製の前菜から始まり、次にスープが供され、主菜が続く。主菜は甘いペイストリーまたは肉料理とサラダで、デザートが続く。最後に果物が出ることもある。ハンガリーではパラチンタ(パンケーキ)は主菜とされ、朝食としては食べない。サラダは常に肉料理と共に供され、レタス、トマト、キュウリとタマネギを合えたものか、またはヴィネグレットソースで和えたキュウリの薄切りである。ロシアサラダやポテトサラダは、茹でたジャガイモ、野菜、固ゆで卵、キノコ、肉や魚の揚げ物や茹で物を、ヴィネグレットソースやマヨネーズで和えるか、ゼリーで寄せてアスピックとしたもので、前菜または主菜となる。 一部の人や子供は午後に、ウソンナ (uzsonna) と呼ばれる軽い食事として通常オープンサンドイッチを食べる。夕食は昼食に比べて重要な食事ではなく、朝食に類似しており、オープン・サンドイッチとヨーグルト、またはヴィルシュリ (Virsli) とバンズのホットドッグが通常で、食後にデザートとしてケーキやパンケーキ(パラチンタ)を食べることはまれであり、単品の料理で済ませる場合が多い。 ==行事食== クリスマスには、ハンガリー人はハラースレー(魚のスープ)を食べる。ガチョウ、シチメンチョウやアヒルのローストとテルテット・カーポスタ(ロールキャベツ)を供することもある。クリスマス菓子はクルミや芥子の実を巻いた焼き菓子ベイグリやサロンツコールのようなクリスマスツリーに飾りつけるキャンディーで、後者はクリスマス期間中誰もがツリーから直接取って食べる。シルヴェスター(Szilveszter、大晦日の夜)には、ヴィルシュリとヒラマメのスープを食べて祝う。年が明けると、二日酔いを治すといわれるヒラマメのスープやコルヘイレヴェシュ(korhelyleves、肉とザワークラウトのスープ)を摂る人が多い。フーシュヴェート(H*10905*sv*10906*t、復活祭)の食事に特別な料理はほとんどないが、ハンガリー人の中には(特に旧サボルチ県(英語版)では)、トゥーローと卵から作るシャールガ・トゥーロー(S*10907*rga t*10908*r*10909*)という黄色く甘いチーズを作る人もいる。 ==主なハンガリー料理== ===スープ=== グヤーシュレヴェシュ (Guly*10910*sleves) :グヤーシュスープ。ハンガリーのグヤーシュはルーやスメタナでとろみをつけないので、ドイツやオーストリアのグヤーシュ(グーラッシュ)よりもはるかにさらっとしているのが特徴。セーケイグヤーシュ (Sz*10911*kelygulyas) のようなシチュー状のグヤーシュは例外。具を多くするとグヤーシュフーシュ(Guly*10912*sh*10913*s,「グヤーシュ肉」)と呼ばれる。ハラースレー (Hal*10914*szl*10915*) :辛いパプリカで作る、有名な川魚の辛いスープ。コイ、ナマズ、チョウザメ、パーチ、ノーザンパイクなどが用いられる。地方によって変異が大きい。フーシュレヴェシュ (H*10916*sleves):透明な肉のスープ。鶏肉または子牛肉で作り、野菜とチペトケ (Csipetke) という薄いダンプリングが入る。ヒデグ・メッジュレヴェシュ (Hideg meggyleves):スミミザクラの冷製スープヨーカイ・バブレヴェシュ (J*10917*kai bableves):作家ヨーカイ・モール(英語版)の名を冠したインゲンマメのスープヴァドゴンバレヴェシュ (Vadgombaleves):キノコのスープボルレヴェシュ (Borleves):ワインのスープパローツレヴェシュ (Pal*10918*cleves):ハンガリー北東部の民族集団、パローツの名を冠したスープケメーニィマグレヴェシュ (K*10919*m*10920*nymagleves):キャラウェイシードのスープ ===主菜=== テルテット・カーポスタ (T*10921*lt*10922*tt k*10923*poszta):具詰めキャベツテルテット・パプリカ (T*10924*lt*10925*tt paprika) :具詰めパプリカ。挽き肉、米と香辛料を合わせた具を詰めたもの。テルテット・トヤーシュ (T*10926*lt*10927*tt toj*10928*s) :茹で卵を縦半分に切り、黄身を潰して調味し、白身に詰め直した料理。デビルドエッグのように黄身をマヨネーズで和えて冷製とするか、サワークリームで和えてオーブンで焼き、温製で供する。フェーゼレーク (F*10929*zel*10930*k) :野菜をルーで煮込んだ料理レチョー (Lecs*10931*) :トマトと青トウガラシ、タマネギを主とした数種の野菜煮込みスーズ・テケルチェク (Sz*10932*z tekercsek) (挽き肉を詰めた「乙女のルラード」の意味)ペチェニェ (Pecsenye) :薄い豚肉ステーキのキャベツ添え。またはファターニェーロシュ(fat*10933*ny*10934*ros,「木の皿料理」):ハンガリーの木の大皿で供するミックスグリル)ベーチ・セレット (B*10935*csi szelet):ヴィーナーシュニッツェル。シュテファーニア・セレット (Stef*10936*nia szelet): 中に固ゆで卵を入れたミートローフ。切り分けると、中央に茹で卵の断面が現れるトゥーローシュ・チュサ  (T*10937*r*10938*s csusza) :ガルシュカと呼ばれるダンプリングや他の麺をトゥーローと和え、ベーコンを加えて塩味で、または甘くして供するセーケイグヤーシュ (Sz*10939*kelyguly*10940*s):3種類の肉を用いたグヤーシュシチューペルケルト (P*10941*rk*10942*lt) :ルーを用いた肉のシチューチルケパプリカーシュ (Csirkepaprik*10943*s) :たっぷりの甘口パプリカとクリームまたはテイフル (tejf*10944*l) と呼ばれる濃いサワークリームで煮込んだ鶏のシチューパプリカーシュ・クルンプリ (Paprik*10945*s krumpli) :辛いソーセージとジャガイモのパプリカ煮込みラコット・クルンプリ (Rakott Krumpli):ジャガイモのキャセロール。レシピ(英語)参照ラコット・カーポスタ (Rakott k*10946*poszta):キャベツを層状に重ねた料理ショレット (S*10947*let) :インゲンマメ、オオムギ、パプリカ、牛肉、ガチョウ肉、卵の煮込み料理。卵は殻ごと鍋に入れてゆで卵にし、食べる前に殻を剥いて半分に切り、煮込みと一緒に供する。アシュケナジム由来の料理で、ユダヤ教徒は安息日の始まる金曜日の日没からオーブンまたはパン焼き窯でゆっくりと蒸し焼きにし、土曜日に食べた。チョレントに類似。オロス・フーシュシャラータ (Orosz h*10948*ssal*10949*ta):オリヴィエ・サラダパラチンタ (Paracsinta):具入りの薄いパンケーキ。フィリングは通常はジャムで、干し葡萄入りの甘いトゥーローや肉の場合もある。ホルトバージ・パラチンタ (Hortob*10950*gyi palacsinta) :子牛肉シチューを具としたパラチンタグンデル・パラチンタ (Gundel palacsinta):グンデル風パラチンタ。具はクルミでチョコレートソースを掛け、フランベすることがある。ラコット・パラチンタ (Rakott palacsinta):甘いカッテージチーズ、レーズン、ジャム、クルミとパンケーキを層に重ねた料理チャーサールモルジャ (Cs*10951*sz*10952*rmorzsa):小さくちぎった甘いパンケーキラーントット・シャイト (R*10953*ntott sajt):チーズにパン粉をまぶして揚げた平たいチーズクロケットゴンボツェン (Gombotzen)、シルヴァーシュゴンボーツ (Szilv*10954*sgomb*10955*c):甘いプラムをフィリングにしたジャガイモダンプリング。余った生地はニョッキという小さなダンプリングにして加え、炒めた甘いパン粉かシュトロイゼルをまぶす。ドイツのクネーデルに類似。トゥーローゴンボーツ (T*10956*r*10957*gomb*10958*c):甘いトゥーローを詰めたジャガイモダンプリング ===ソーセージと薄切り冷肉=== フルカ (Hurka):ソーセージ。マーヤシュ・フルカ (m*10959*jas hurka) という豚レバー、肉と米で作るレバーソーセージと、ヴェーレシュ・フルカ (v*10960*res hurka) という血のソーセージの2種類がある。テーリサラーミ (T*10961*liszal*10962*mi):香辛料で風味付けした肉を冷燻して乾燥・熟成させる。最も有名な銘柄はピックセゲドヘルツサラーミ (Herz Szal*10963*mi):ブダペスト産サラミチャバイサラーミ (Csabai szal*10964*mi) とコルバース (Kolb*10965*sz) :ベーケーシュチャバ産の香辛料の効いたサラミと薫製ソーセージジュライ・コルバース (Gyulai kolb*10966*sz):ジュラ (Gyula, Hungary) 産の、香辛料の効いたソーセージデブレツェニ・コルバース (Debreceni kolb*10967*sz) :デブレツェンのソーセージディスノーシャイト (Diszn*10968*sajt):肉の煮こごりと肉の薄切りのアスピックにゼラチンを加えた寄せもの。ヘッドチーズサロンナ (Szalonna) :燻煙した豚の背脂肉。通常の朝食用ベーコンより脂の多い背肉のベーコンヴィルシュリ (Virsli):ホットドッグ用ソーセージのように細長いソーセージで、茹でてパンとマスタードと共に食べる ===菓子とケーキ=== ドボシュ・トルタ (Dobos torta):チョコレートペーストと薄切りのスポンジケーキを層状に重ね、表面をキャラメルとナッツで覆ったトルテ(ケーキ)リンツァー・トルタ (Linzer torta):上面が格子状のジャムタルトリゴー・ヤンチ (Rig*10969* Jancsi) :チョコレートスポンジケーキにチョコレートクリームを挿み、ダークチョコレートのアイシングを表面に塗った立方体状のケーキゲステニェピュレー (Gesztenyep*10970*r*10971*):茹でた甘いヨーロッパグリの実を磨り潰して砂糖とラム酒を加えてピュレにし、ホイップクリームを乗せたものベイグリ(ハンガリー語版):イースト生地や練りパイ生地でクルミやケシの実のフィリングを包んだ、クリスマスや復活祭に食べる焼き菓子。クルミのベイグリはディオーシュ・カラーチ(di*10972*s kal*10973*cs)、ケシの実のベイグリはマーコシュ・カラーチ(m*10974*kos kal*10975*cs)とも呼ばれるキュルテーシュカラーチ (K*10976*rt*10977*skal*10978*cs):菓子パンの生地を棒に巻き付けて回転させながら野外の火で焼き上げるケーキ。トランシルヴァニアの特産でありハンガリー最古のペイストリー。調理法はドイツのバウムクーヘンやリトアニアのシャコティス、ポーランドのセンカチュと共通するメーゼカラーチ (M*10979*zekal*10980*cs):ジンジャーブレッドの一種ピテ (Pite):ショートクラスト(練りパイ生地)を用いたパイ。主な種類にアルマーシュ・ピテ(Alm*10981*s Pite, アップルパイ)、チョコラーデーシュ・ピテ(Csokol*10982*d*10983*s Pite, チョコレートパイ)、トゥーローシュ・ピテ(T*10984*r*10985*s Pite, トゥーローのパイ)などがある。チェレゲ (Cs*10986*r*10987*ge) またはフォルガーチュファーンク (forg*10988*csf*10989*nk):カリッとして軽いハンガリーの薄い揚げ菓子。小麦粉の生地を薄く延ばしてねじって揚げ、粉砂糖をまぶしたもの。ポーランドのファヴォルキ(ポーランド語版)、フランスのビューニュ(フランス語版)と類似する。ヴァニーヤーシュ・キフリ (Van*10990*li*10991*s kifli) :バニラ味の三日月パンあるいは小さな三日月型ビスケットババピシュコータ (Babapisk*10992*ta):ビスコッティ・サヴォイアルディ。細く軽く、脆くてサクサクした甘いビスケット。レーテシュ (R*10993*tes):シュトゥルーデル。キャベツやキノコを巻いた塩味のレーテシュもある。クグローフ (Kugl*10994*f):伝統的なオーストリア‐ハンガリーのコーヒータイムのケーキレクヴァーロシュ・ブクタ (Lekv*10995*ros Bukta) またはブクタ (Bukta) :ジャム、トゥーローまたは挽きクルミを詰めた焼き菓子レクヴァーロシュ・テケルチュ (Lekv*10996*ros tekercs):スポンジケーキにジャムを乗せて巻いたロールケーキレクヴァール (Lekv*10997*r) :果物を煮詰めて作るスプレッドビルシャルマシャイト (Birsalmasajt) :マルメロの果実で作るゼリーまたはスプレッドテレクメーズ (T*10998*r*10999*km*11000*z):砂糖、卵白、蜂蜜、クルミ片で作る甘く粘りのある白いヌガーを、2枚のウエハースの間に挟んだものハルヴァ (Halva):ヒマワリの種で作るトランシルヴァニアの甘い菓子。トルコ起源マダールテイ (Mad*11001*rtej)  :「鳥のミルク」。クレーム・アングレーズにメレンゲを浮かべたデザートトゥーロー・ルディ (T*11002*r*11003* Rudi):甘いトゥーローを詰めたチョコレートバーサロンツコール (Szaloncukor) :クリスマスツリーに飾り付けるキャンディー。クリスマスに食べる ===その他=== ラーンゴシュ (L*11004*ngos) :揚げパンポガーチャ (Poga*11005*a) :スコーンに似た、丸く膨らんだペイストリー。トゥーロー、キャベツ、豚やガチョウの油かす入りのポガーチャもある。伝統的に直火焼きで作る。ジェムレ (Zsemle):丸く小さいパン。ドイツ・オーストリアのゼンメル (Semmel) に類似。半分に切ってバターを塗り、薄切り冷肉をのせたりジャムを塗って食べる。朝食向け。ファーンク (F*11006*nk) :ジャム入りドーナツキフリ (Kifli) :三日月型のロールパン。ドイツ・オーストリアのキッフェルンに類似。写真参照ペレツ (Perec):プレッツェル。塩味のカリッとしたペイストリーマーイガルシュカ (M*11007*jgaluska) :小さなレバーのダンプリングで、様々なスープの浮き身とする。グリズガルシュカ (Grizgaluska) :セモリナ粉のダンプリングを茹でたクネーデルの一種で、スープの浮き身に用いる。タルホニャ (Tarhonya) :粒の大きいクスクス風のパスタ。副菜として供されるリジビジ (Rizi‐bizi) :ハンガリー風リゾット。白いご飯をグリーンピースと混ぜ、副菜として供される。リバマーイリゾットー (Libam*11008*jrizott*11009*):フォアグラのリゾットヴィネッタ (Vinetta) またはパドリジャーン・クレーム (padlizs*11010*n kr*11011*m):トランシルヴァニアのナスのペーストサラダ。焼きナスの皮をむき、みじん切りにして作る。ケレゼット (K*11012*r*11013*z*11014*tt) またはリプタイ・トゥーロー (Liptai t*11015*r*11016*) :リプタウアー。甘口のパプリカ粉末と玉ねぎを混ぜたチーズ・スプレッド。リバマーイパーシュテートム (Libam*11017*jp*11018*st*11019*tom):フォアグラのパテブンダーシュ・ケニェール (Bund*11020*s keny*11021*r):「コートを着たパン」または「毛皮を着たパン」を意味するフレンチトーストで、朝食として、またホウレンソウと共に食べる。ケニェール (Keny*11022*r):パン。ハンガリーのパン屋では、その日の朝焼いた新鮮なパンを買うことができる。伝統的な形にはツィポー (cip*11023*) とヴェクニ (Vekni) があり、ツィポーは大きく丸くて皮が堅く厚い。ヴェクニはバゲットに似た長い形のパンで、皮の厚さは様々で、ぱりぱりしている。マーコシュ・グバ (M*11024*kos Guba):スライスしたキフリと芥子の実で作るデザート ==飲み物== ハンガリーワインの歴史は、ローマ帝国の時代にさかのぼる。その歴史は、スラヴ人とゲルマン人の国の中間という位置に影響されている。最も有名なワインは、トカイの「トカイ」と呼ばれる白いデザートワインとバラニャ県ヴィラーニー(英語版)の赤ワインである。「エゲルの雄牛の血」という意味のエグリ・ビカヴェール(英語版)も有名で、その名の通り濃い血の色のような赤いワインである。アカスグリワインのようなハンガリーのフルーツワインは、軽く口当たりが良い味である。 ハンガリーワインほど有名ではないが、ハンガリービール(英語版)にも長い伝統がある。ハンガリーの最も有名な酒は、薬草酒のビターズの一種ウニクム(英語版)と、様々な果実のブランデー、パーリンカ(英語版)(サボルチ・アルマパーリンカなど)である。 また注目に値するのは、ハンガリーのミネラルウォーターである。アペンタ(英語版)やケーックーティ (K*11025*kk*11026*ti) など21銘柄があり、爽やかな風味でおいしく、そのいくつかはミラ (Mira) やトランシルヴァニアのボルセーキ (Borsz*11027*ki) のように、健康に良いとされていることである。 トラウビ(英語版)またはトラウビショダ (Traubisoda) は、バラトンヴィラーゴシュ(英語版)で生産されるソフトドリンクである。 =一畑電車= 一畑電車株式会社(いちばたでんしゃ、英: Ichibata Electric Railway Co.,Ltd.)は、島根県東部で鉄道事業を運営する企業。持株会社の一畑電気鉄道の傘下にある。北松江線・大社線の2路線を運営している。社名は、出雲市にある一畑寺(一畑薬師)への参詣者輸送を目的とした鉄道を計画し建設したことに由来する。本社は島根県出雲市平田町2226(雲州平田駅構内)。 本項では、主に北松江線・大社線を中心とした鉄道事業について記述する。広瀬線および前身の広瀬鉄道・島根鉄道については「一畑電気鉄道広瀬線」を、立久恵線および前身の大社宮島鉄道・出雲鉄道については「一畑電気鉄道立久恵線」を、鉄道事業以外を含めた歴史については「一畑電気鉄道#歴史」を参照。 ==歴史== ===創業期=== 一畑電車の前身となる鉄道は、国鉄(鉄道院→鉄道省→日本国有鉄道)の山陰本線が1910年(明治43年)に米子駅から出雲今市駅(当時)まで延長されたのを受け、出雲今市から一畑寺(一畑薬師)を結ぶ鉄道として1911年(明治44年)8月に762mm軌間の蒸気動力車による軽便鉄道敷設免許を受けたものに端を発する。計画当初は出雲今市から出雲大社までを結ぶことを念頭においていたが、国鉄では既に山陰本線から分岐する路線(後の国鉄大社線)の計画があったことから、目的地を一畑薬師に変更したものである。 翌1912年(明治45年)4月には「一畑軽便鉄道株式会社」の創立式が行われた。同社の設立にあたっては、関西鉄道の重役であった井上徳治郎、大阪にある才賀電機商会の技師である才賀藤吉をはじめとする関西の財界人7人と、地元の有力者ら8人が発起人として参加していた。ところが、会社創立式からわずか半年弱後の1912年(明治45年)9月に才賀電機商会は経営破綻してしまった。このため、地元の有志で資本金の大半を負担することになり、そのうちの25パーセントを一畑寺が負担することになった。それまで、出雲今市から一畑薬師参りをするには、陸路を徒歩でたどるか、宍道湖を小境灘(当時)まで舟で渡るかのいずれかの方法しかなかったため、出雲今市から一畑薬師の麓までの鉄道敷設は、一畑寺の念願でもあったのである。 その後、用地買収と測量を進めている際には、平田の町の南北どちらを通すかで論争になり、最終的に市街地の南側を経由することでまとまった。その後、国鉄との連絡を考慮し、軌間を762mmから1067mmに変更した上、1913年(大正2年)9月15日に起工式が行われた。出雲今市から平田までは簸川平野の平坦な地域だったこともあり、7か月ほどで完成し、1914年(大正3年)4月29日に一畑軽便鉄道の運行が開始された。開通当日は2万人ほどの人出があったと伝えられている。その後、平田から一畑坂下(一畑駅付近)までの工事も進められ、1915年(大正4年)2月4日に全線開業となった。出雲今市から一畑までは70分前後で結ばれ、小境灘では松江行汽船と連絡していた。 ===電化から終戦まで=== 開業からしばらくした1923年(大正12年)7月の株主総会において、松江・出雲大社までの路線延長が決議された。出雲大社への延長路線は、当初は出雲今市から出雲大社へ国鉄大社線と並行する計画であったが、競合路線とみなされ、許可が下りなかった。そこで、武志から出雲大社への路線に変更した上で、「国鉄と終点は同一であるが、一畑薬師への参拝客も利用可能である」と主張した上で、政府補助金を辞退する動きを見せた。また、1922年(大正11年)には東京の有力実業家が「松江電気鉄道」として美保関と出雲大社を結ぶ計画を示しており、一畑軽便鉄道では他社の鉄道建設を防ぐために、具申書や嘆願書などを鉄道大臣へ提出するなどの運動も行った。その結果、一畑軽便鉄道の計画に対しては1924年(大正13年)9月に敷設を免許されることになった。松江電気鉄道の計画はその主な目的が鉄道事業ではないと判断されたため退けられた。その後、1926年(大正15年)10月9日に、大社への路線の起点について川跡への変更が認可された。1927年(昭和2年)には大社への路線の起点を大津起点とする変更申請を行っているが、実現していない。 これらの延長線は、当初はそれまでと同様の蒸気動力車による運行で計画されていたが、その頃は民間鉄道は電気動力車による運行に変わりつつあった。そこで、既設線も含めて全線を電化することになり、1925年(大正14年)7月には社名を「一畑電気鉄道株式会社」に改めた。まず既設線である出雲今市と一畑の間が1927年(昭和2年)10月1日に電化、1928年(昭和3年)4月5日には小境灘から北松江までの区間が当初より電化路線として開業、1930年(昭和5年)2月2日には川跡から大社神門(当時)までの延長線が当初より電化路線として開業した。電化開業に際しては、当時としては最新鋭の電車を導入した。出雲今市から一畑までは40分前後に短縮されたほか、1928年(昭和3年)11月のダイヤ改正では1日2往復の急行列車が設定されている。 しかし、その後第二次世界大戦中の1944年(昭和19年)11月16日、小境灘から一畑までの区間については不要不急路線として営業休止の上で撤去し、その軌条を戦時輸送を行っていた名古屋鉄道に供出するように運輸通信省からの要請があった。これを受けて、同区間については同年12月10日に営業を休止、その状態で終戦を迎えることになった。 ===戦後の展開=== 1954年(昭和29年)5月1日には出雲鉄道を買収の上で立久恵線とし、同年12月1日には島根鉄道を買収して広瀬線とした。立久恵線では、北松江線・大社線との直通運転も行われた。 1953年(昭和28年)からは、北松江線の最高速度を向上するため、車両の改造に着手した。最高速度は1957年(昭和32年)に85km/hで認可されたが、これは当時の地方私鉄では稀な高速運行であった。この時期、一畑電気鉄道では経営の多角化の一環として、1958年(昭和33年)10月に一畑百貨店を松江市に開店していたが、出雲市にも一畑百貨店を出店するために国鉄出雲市駅に隣接してターミナルビルを建設した。このビルは1964年(昭和39年)4月に供用を開始したが、この時に国鉄駅構内への乗り入れを中止し、ターミナルビル1階に独立した駅として電鉄出雲市駅を設けると同時にダイヤ改正を行い、増発と同時に出雲市と松江を最短37分で結ぶ特急列車の運行を開始した。また、1966年(昭和41年)には列車集中制御装置(CTC)を導入したが、これは日本の地方私鉄では初めての導入事例で、それまで252人在籍していた鉄道部門の従業員数を222人に減少させるなど、合理化も進められてゆくことになる。 その一方で、経営不振だった広瀬線は1960年(昭和35年)6月20日に廃止され、立久恵線も水害による被害を受けた1964年(昭和39年)7月19日より全線が運休となり、翌1965年(昭和40年)2月19日付で廃止された。また、戦時中に休止となっていた小境灘から一畑までの区間については復旧されることはなく1960年(昭和35年)4月26日に正式に廃止となり、廃線後は一畑電気鉄道が運営する自動車専用道路(一畑自動車道)とされた。 ===モータリゼーションの波=== しかし、この時期からモータリゼーションの進展に伴い、日本各地の地方私鉄の運営環境は厳しくなってゆく。一畑電気鉄道も例外ではなく、1966年(昭和41年)以降は鉄道部門で赤字を計上するようになり、1967年(昭和42年)に589万人を輸送したのをピークとして、利用者が減少してゆくことになる。特に、一畑電気鉄道の沿線は早いうちに道路整備が進み、1975年(昭和50年)ごろまでにはほぼ道路整備が完了していたことから、マイカーへの逸走が進んだ。 駅業務の委託化や保線・電気業務の統合など合理化を進めたものの、経営は好転せず、1972年(昭和47年)度には累積赤字が5億円に達したことから、鉄道部門の運営を別会社への委託にすることを提案した。しかし、これは廃止につながるとして労働組合から反発を受け、ストライキも行われた。また、沿線自治体も一斉に廃止反対の意思を表明、大社町町議会では鉄道の存続要請を全会一致で可決し、1973年(昭和48年)には島根県と沿線自治体で「一畑電車沿線地域対策協議会」が結成された。こうした動きと、島根県の努力により1974年(昭和49年)以降は運輸省から欠損補助金が得られることになったことから、一畑電気鉄道では存続を前提としてさらなる合理化を進めることとなった。この時点ですでに鉄道部門の従業員数は170人にまで減少していたが、これをさらに110人にまで減少させた。その後も合理化は進められ、1973年(昭和48年)3月16日に貨物輸送を廃止、同年5月15日限りで特急列車の通年運行も取りやめられた。また、1978年(昭和53年)3月1日からは大社線のワンマン運行も開始された。駅の委託化や無人化も進められ、1984年(昭和59年)の時点では社員配置駅は平田市と松江温泉の2駅だけとなった。 その他にも電気部門社員を別会社への出向など、合理化が進められた結果、1984年(昭和59年)時点では鉄道部門の従業員数は72名までに減少した。当時、40.1kmと同程度の営業キロを有する筑波鉄道で従業員数が101名、逆に従業員数が同程度(69名)の栗原電鉄の営業キロは26.2kmしかなく、営業キロ42.2kmの鉄道としてはきわめて徹底的な合理化が行われたことになる。 これらの対策が功を奏し、利用者の減少傾向は止まらなかったものの赤字はいったん減少し、1980年(昭和55年)度からは補助金を近代化補助制度に変更した上で、一部車両の置き換えや重軌条化など、設備の更新を行った。しかし、会社負担率が高いことと、電力費の高騰などから1984年(昭和59年)度以降は再び欠損補助の制度に戻している。1992年(平成4年)3月25日からはプログラム式運行管理システム(PRC)も導入された。 合理化の一方でサービスの改善にも着手し、1982年(昭和57年)には電車とバスの乗継割引定期券を導入、1986年(昭和61年)には電車・バス乗継割引回数券やフリー乗車券類、さらに日中限定で60パーセントの割引率の「お買いもの定期券」の発行も開始した。また、1988年(昭和63年)には松江温泉駅で酒類の販売を開始、同年には松江市郊外で島根県開発公社が住宅地の造成を始めたのに対応し、県開発公社の費用負担により新駅が設置された。また、1989年(平成元年)には学生を対象に、15日間電車とバスが乗り放題となる「夏休み定期券」の発売も行われた。 このように合理化や割引乗車券の充実を行ったものの、乗客の減少には歯止めをかけることはできず、1992年(平成4年)度の輸送人員は171万人と、ピーク時の3割程度に減少してしまった。また、赤字額は年間で1億円を越える状態で、1992年(平成4年)時点で欠損補助を受給している鉄道事業者10社のうち、一畑電気鉄道はもっとも多額の補助金(1億8千万円)を受給している事業者であった。 また、合理化による経費節減の努力と比較すると、他の設備の更新については消極的ともみられていた。冷房車は1両も存在せず、1927年(昭和2年)に製造された手動扉の半鋼製車両が1990年代に入ってもほぼ毎日運用されていた。1981年(昭和56年)以降に西武鉄道から購入した車両は、車体こそ全金属製であったものの走行機器は吊り掛け駆動方式であった。駅施設も無人駅は荒れ果て、委託駅員が配置されている川跡でさえも廃屋に近い状況で、保線状態もあまりよくない状態であった。利用者から直接見える部分が旧態依然としたままの状態だったのである。その上、ある程度維持されていた運行ダイヤについても、1993年(平成5年)1月16日に行われたダイヤ改正の内容は、電力費や人件費の低減を狙って、運行本数を合計89本から72本に減回するという消極的な内容であった。 ===欠損補助の見直し=== 1992年(平成4年)末、運輸省では欠損補助の大幅な制度見直しを行うことになったが、一畑電気鉄道に対しては「補助金に甘えている」として、今後経営改善の見通しがなければ補助の打ち切りもありうるという「最後通告」を行った。1993年(平成5年)度に関しては前年とほぼ同額の補助金支給を認められたものの、沿線自治体や労働組合は危機感を募らせた。 労働組合では独自に利用促進を目指した啓発運動を展開したほか、補助金の継続を求めて運輸省に陳情を行った。また、1973年(昭和48年)に結成されていた「一畑電車沿線地域対策協議会」では、1993年(平成5年)度の広告予算をそれまでの年間120万円程度から680万円へと大幅に増額し、新聞の全面広告やテレビCMなどを活用した利用促進活動を行った。島根県や沿線自治体では独自に沿線住民に対するアンケートを実施したが、一畑電気鉄道の存続を問う質問への回答はほとんどが「鉄道は必要」との考えが示されていたことを受け、同社の支援のためには新たな予算措置をも講じる姿勢を見せた。特に平田市では一畑電気鉄道が唯一の鉄道路線であることから、補助打ち切りをもっとも深刻に受けとめており、地域ぐるみの利用促進運動を行った。これら自治体の動きを受けて、一畑電気鉄道ではそれまではどちらか片方だけしか受給できなかった欠損補助と近代化補助を同時に受給することを前提に、1993年(平成5年)11月に経営改善5ヵ年計画を発表した。この内容は、列車増発・駅施設の整備や老朽車両の置き換えを主軸とするものであり、総額5億7千万円にのぼるものであった。 こうした沿線自治体の全面的なバックアップ体制や一畑電気鉄道の企業努力から、運輸省や大蔵省では「結果が出なければ補助金打ち切りもある」としながらも1994年(平成6年)度以降の補助金継続と、欠損補助と近代化補助の併用を認めた。 経営改善計画に従い、同年から1998年(平成10年)にかけて京王電鉄と南海電気鉄道からワンマン運転に対応した冷房付車両を購入し、非冷房の老朽車両は予備車2両とイベント用の2両を残して置き換えられた。また、駅設備の改築も1994年(平成6年)から1997年(平成9年)にかけて進められたほか、それまで1か所しかなかった変電所をさらに2か所増設した。設備改善以外にも、1993年(平成5年)3月からは電車・バス共通の金券式回数乗車券の発売を開始をはじめとした割引乗車券類の充実を行い、運行面でも1998年(平成10年)からは松江温泉と出雲大社前を直通で結ぶ列車が設定された。 しかし、当面の危機的状況からは脱したものの、1994年(平成6年)6月には一畑電気鉄道の社長が「鉄道部門の経営はすでに私企業の努力範囲を超えており、第三セクター化の方向性も検討してほしい」と発言しており、自治体関係者に問題解決の難しさを再認識させられるものであった。 運輸省からの欠損補助は1997年(平成9年)度を最後に終了し、翌1998年(平成10年)度以降は新しい経営改善5ヵ年計画による島根県・沿線自治体の「運行維持補助金」に変更された。 ===分社化=== 新経営改善計画により、次々と旅客サービスにつながる施策を打ち出した。1998年(平成10年)には終日全線を対象に電車内への自転車持込サービスを開始、2000年からは自転車持込回数券も設定した。1999年(平成11年)には駅周辺への無料駐車場設置と合わせてパークアンドライドも開始したほか、2000年代に入ってからは松江フォーゲルパークや島根県立古代出雲歴史博物館などの沿線施設とタイアップした企画乗車券の設定も行われた。また、電車運転体験などのイベントなども行われている。 一方で、1998年(平成10年)からの新経営改善5ヵ年計画が終了した2002年(平成14年)以降も島根県と沿線自治体の単独事業として欠損補助が維持されていたが、これと並行して「一畑電車および沿線公共交通確保のあり方に関する検討委員会」が組織され、今後の一畑電気鉄道の鉄道路線のあり方について検討を行った。この検討委員会は、2003年(平成15年)11月の答申において、一畑電気鉄道の鉄道路線を地域の社会基盤として、事業者側と自治体の適切な関与によって存続するという方向性を打ち出した。この時の内容では、責任の範囲を明確化した上で、インフラストラクチャー(駅施設や線路・車両など)の所有権を移転しない上下分離方式を考えることになっていた。交通ジャーナリストの鈴木文彦は、これを「基盤整備は行政が面倒を見るが経営赤字の面倒は見ないというもの」と表現している。 この答申をベースとして、市町村合併が落ち着いた2005年(平成17年)に新しい支援制度が設定された。この支援制度では、すべての分野について補助の対象としていたことによる問題点の反省から、国・島根県・沿線自治体・運行事業者の役割分担を明確化することになった。ここで、財務の透明性を確保した上で意思決定の機動性を高める目的で、鉄道部門を分社化することが決まり、2006年(平成18年)4月1日から鉄道部門を一畑電気鉄道100パーセント出資の「一畑電車株式会社」として分社化した。これにより、一畑電気鉄道は持株会社へ移行した。 分社化後、「愛され乗ってもらえる電車」へと視点を変え、2007年(平成19年)7月17日からは電車アテンダントの乗務、2008年(平成20年)にはメールによる運行情報提供サービスを開始、2009年(平成21年)には運行中の電車内を物産販売店とする「楽市楽電」の運行開始など、積極的なサービス展開を行った。2010年(平成22年)には関連会社のカーテックス一畑と提携し、駅で自動車検査(車検)の申し込みを行い、検査終了後の車両を駅で受け取る「BATADEN車検」のサービスも開始した。 こうした中、2008年(平成20年)には一畑電車を舞台とした映画が製作されることが決まり、同社では全面的に撮影に対して協力を行った。この映画は2010年(平成22年)5月29日より『RAILWAYS 49歳で電車の運転士になった男の物語』として公開されたが、試写会の段階から利用者が増加し、定期外利用者が前年と比較して約10パーセントほど上回った。一畑電車でもロケ地見学会やデハニ50形の展示などを行ったが、特にデハニ50形を使用した体験運転イベントは毎回定員を上回る応募があった。 しかし、2006年(平成18年)には災害による長期不通も発生するなどの影響もあり、利用者の減少傾向は止まっていない。2008年(平成20年)度にも沿線が舞台となったテレビドラマや映画が放映された時期にもある程度の利用者増は見られたが、翌年度には前年度と変わらないレベルに戻っており、テレビドラマや映画の効果はそう長く続くものではないとみられている。また、2008年(平成20年)から2009年(平成21年)にかけては「一畑電車沿線地域対策協議会」がモビリティ・マネジメントの取り組みを行っており、これに伴う施策を行っているうちは通勤定期券利用者が増加したものの、取り組みの終了とともに利用者数は元に戻ってしまった。また、2010年(平成22年)には宍道湖の対岸を並行する山陰自動車道が無料開放された影響で、通勤定期券利用者数が大きく落ち込んだ。 このため、島根県は2011年(平成23年)7月1日、2011年(平成23年)度から2020年度までの一畑電車への支援事業計画を明らかにした。県は沿線の出雲市・松江市とともに、国の補助金を含めて2011年(平成23年)度から10年間で約59億円を投じて老朽化した車両の更新や線路などの施設改良を行うと共に、年間利用客数140万人台の維持を目指している。 ==路線== ===現有路線=== 北松江線 : 電鉄出雲市 ‐ 松江しんじ湖温泉大社線 : 川跡 ‐ 出雲大社前 ===廃止路線=== 広瀬線 : 荒島 ‐ 出雲広瀬立久恵線 : 出雲市 ‐ 出雲須佐北松江線 : 一畑口 ‐ 一畑 ==経営状況== ===年間輸送人員=== 近年における年間輸送人員の概数値は以下の通り。 143万1000人(2006年度)140万8000人(2007年度)147万1000人(2008年度) ===営業係数=== 近年の営業係数は以下の通り。 157(2006年度)161(2007年度)148(2008年度) ==特徴的なサービス== ===レール&サイクル=== 1998年(平成10年)より、終日全区間において、自転車を折り畳まずに電車の中への持ち込みを可能とする制度を開始した。持ち込み料金は2014年(平成26年)4月現在区間に関わらず1回310円。2000年以降は5枚つづり回数券も設定されている。この制度は、映画『RAILWAYS』のシーンでも活用されている。 ===ファミリーパスポート制度=== 土曜・休日に通勤定期券所持者と家族が同時に利用する場合、運賃が一律200円(2014年4月現在、小児半額)となる。小児の利用では、事前に申請すると通勤定期券所持者の同伴なしでも利用が可能であることが特徴。 ===体験運転事業=== 前述の通り、2010年(平成22年)に行われたデハニ50形の体験運転イベントは定員を上回る応募者があった。これを受けて、一畑電車では体験運転を新規事業として位置づけ、通年行うこととした。雲州平田駅構内に延長約150mの専用線と車庫を新設し、体験運転の教官は運転課に所属する6名の社員がローテーションを組んで担当するもので、対象年齢は10歳以上とされており、午前中に講習を受け、午後に実際の体験運転を行う「1日コース」をはじめとした複数のコースが用意された。体験運転で使用される車両はデハニ50形53号で、加速は1段だけに固定されており、体験運転での最高速度は15km/hとなっている。 ===手荷物・小荷物制度=== 駅と駅の間で荷物の託送を行う手荷物・小荷物(チッキ)制度は、既にJR全社および大半の私鉄で終了しているが、一畑電車ではこれらの制度が残っている。手荷物は電鉄出雲市駅 ‐ 松江しんじ湖温泉駅間限定で、運賃は10kg以下で640円、小荷物は有人駅相互間での取り扱いとなり、運賃は10kg以下で680円。 ==車両== ===車両史=== ====一畑軽便鉄道時代==== 一畑軽便鉄道の最初の免許区間である出雲今市駅(現・電鉄出雲市駅) ‐ 一畑駅の工事に当たっては、一畑軽便鉄道は蒸気機関車4両、客車10両、有蓋貨車6両および無蓋貨車4両を使用するものとして認可申請し、内閣総理大臣から1913年(大正2年)9月9日付で工事施行認可を受けた。 ただし、一畑軽便鉄道が認可申請時に示した設計は簡単なもので、そのため「其構造等の詳細は目下考研中にあり追て認可を申請するものとす」としていた。 実際に、1914年(大正3年)4月20日付で詳細な設計の認可を受けたが、この際には蒸気機関車2両、客車6両、有蓋貨車2両および無蓋貨車2両に両数が減らされ、同年同月29日の出雲今市駅(現・電鉄出雲市駅) ‐ 雲州平田駅間の部分開業時までに竣功したのはこの両数だった。 1915年(大正4年)2月4日には雲州平田駅 ‐ 小境灘駅(現・一畑口駅) ‐ 一畑駅が開業、免許および工事施行認可区間が全通した。この3か月前にあたる1914年(大正3年)12月17日付では、客車2両を荷物合造客車に改造するとともに、工事施行認可時の車両数を客車は10両だったものを1両増加、2両を前述の通り荷物合造客車に改造し差し引き9両に、有蓋貨車は6両から2両減少し4両とする旨、届出を提出した。なお、改造については認可事項のため内閣総理大臣は届出書を認可申請書とみなして認可した。また、蒸気機関車についても別途1915年(大正4年)2月2日付で1両の詳細設計認可を受けた。 その後、乗客の増加により1922年(大正11年)6月9日付で蒸気機関車1両の設計認可を得て、同年11月20日付で竣功届を提出。客車についても同年10月28日付で4両の増加届を提出したほか、翌1923年(大正12年)3月6日付設計認可で有蓋緩急貨車を1両追加した。これにより非電化時代には最終的に蒸気機関車4両、客車9両、荷物合造客車2両、有蓋貨車4両、有蓋緩急貨車1両および無蓋貨車4両の体制となった。 ===一畑電気鉄道時代=== 1927年(昭和2年)の電化開業時に用意された車両はデハ1形5両で、翌1928年(昭和3年)にはクハ3形2両とクハ14形1両が増備され、さらに1929年(昭和4年)にはデハニ50形が2両増備されている。これらの車両は、当時としては最新鋭の電車を導入しており、都市部からの旅行者が「こんな田舎に最新鋭の電車が」と驚いたという逸話が残っている。1928年(昭和3年)にはデキ1形電気機関車を導入している。 その後の車両の増備は、新車導入ではなく他社から譲り受けた客車を制御車に改造することによって行われた。まず1934年(昭和9年)に大阪電気軌道(旧吉野鉄道)の客車2両を購入した上でクハ102・クハ103へ改造、その後1940年(昭和15年)には国鉄から客車を2両購入して制御車化、クハ109・クハ111として使用開始した。これとは別に、1942年(昭和17年)にはクハ14を電装の上デハ1形に編入している。戦後の1949年(昭和24年)にも国鉄から客車1両を譲受した上でクハ120として運用開始した。なお、1936年(昭和11年)にデキ1形は三河鉄道に譲渡された。 1951年(昭和26年)から1953年(昭和28年)にかけて、デハ1形とデハニ50形から合計4両を2扉クロスシート車のデハ20形に改造したほか、1953年(昭和28年)には国鉄の木造電車を2両譲受し、それぞれデハ31・クハ131として使用を開始した。このうち、デハ31については車体の鋼体化と共に荷物室を設置する改造を1955年(昭和30年)に行った上でデハニ31形に変更された。 1958年(昭和33年)からは西武鉄道からの車両譲受が多くなる。まず1957年(昭和32年)に同社から1両を購入してデハ10形デハ11として導入、1958年(昭和33年)から1959年(昭和34年)にかけては4両を譲受してクハ100形として導入、デハ20形と連結して運用を開始した。次いで、1960年(昭和35年)から1961年(昭和36年)にかけては西武鉄道から6両を2扉クロスシート車に改造した上で譲受、60系として使用された。また、1962年(昭和37年)5月にはデハ1形デハ7を制御車化した上でクハ111へ変更した。これらの車両導入と引き換えに、戦前から戦後間もない頃に導入された客車改造の制御車は淘汰された。なお、1957年(昭和32年)に購入したデハ11は1961年(昭和36年)に西武鉄道に譲渡されているほか、デハ7が制御車化されてクハ111となった。このほか、1960年(昭和35年)には近江鉄道からED22形電気機関車を譲受している。 1964年(昭和39年)になると、特急の増発のために西武鉄道から4両を2扉クロスシート車に改造した上で購入し、70系として運用された。また、1967年(昭和42年)にはデハニ50形のうち1両がデハ11形に改造された他、デハニ31形は1968年(昭和43年)に荷物室が撤去されてデハ31となった。 その後しばらくは、1973年(昭和48年)の貨物輸送廃止後にED22形電気機関車を弘南鉄道に譲渡した以外に車両の動きはなかったが、1981年(昭和56年)のくにびき国体を機に車両の近代化に着手した。このために西武鉄道から全金属製車体の車両を譲受し、80系として運用を開始したが、この時に置き換え対象となった車両の大半は開業当時からの車両ではなく1960年代に譲り受けた60系であった。これは、経済的な事情の他に、開業当時の車両の台枠が一体鋳造で製造されているため頑丈であるのに対して、西武鉄道から譲受した車両は部材を溶接して製造されていたため、継ぎ目からの傷みが進行しやすかったという事情があり、さらに自社発注車両を大事にする機運があったからであると推測されている。その後も西武鉄道からの車両譲り受けに伴い、60系やデハ11形などが淘汰された。しかし、識者からは合理化への努力と比較すると設備の更新については消極的ともみられていた。1990年代に入っても、1927年(昭和2年)に製造された手動扉の半鋼製車両が運用されていたのである。 1993年(平成5年)前後の欠損補助見直しに際して発表された経営改善計画では、車両も一新することになり、1994年(平成6年)から1998年(平成10年)までに京王電鉄と南海電気鉄道から冷房付きの車両を購入し、2100系・3000系・5000系として運用を開始した。これに伴い、イベント用や予備車となった車両を除いて釣りかけ駆動の車両はすべて淘汰された。 2010年代に入るとこれらの車両も製造後45から50年程度が経過し老朽化が目立ってきたため、2011年7月2日に在来車両の更新計画が立案された。当初の計画では2013年度から2020年度にかけてVVVFインバータ制御の中古車両を2両編成6本と1両編成6本の合計18両投入し、3000系8両全車と2100系・5000系10両の合計18両を置き換える予定となっていたが、置き換えに適した状態のよい中古車両が見つからず、改造費用も高く付くために、2012年秋に車両更新計画の修正版が発表された。具体的には、単行運転可能な新造車両を4両、譲渡車両を6両(2両編成3本)新規投入し、既存車両のうち8両(2両編成4本)は修繕して継続使用するというもので、同年11月16日に開催された一畑電車沿線地域対策協議会の臨時総会において、この車両更新計画の見直し案が承認されている。 ===車両各説=== 本節では、導入順に車両形式を記述する。 ===非電化時代=== ===1・2号蒸気機関車=== ドイツ・コッペル製の8.5トン4輪連結タンク機関車。1913年(大正2年)9月9日付、監第1882号工事施行認可では4両の認可を得たが、1914年(大正3年)4月20日付、監第952号では2両の詳細設計認可を受け、開業時までに竣功した。1914年(大正3年)製のもので、1935年(昭和10年)頃に廃車。 ===3号蒸気機関車=== 1914年(大正3年)10月アメリカ・ボールドウィン製の11.6英トン6輪連結タンク機関車。1915年2月2日付、監第214号で詳細設計認可を受けた。1929年(昭和4年)に廃車、七尾セメントへ譲渡。 ===4号蒸気機関車 「いずも」1号として保存される一畑軽便鉄道4号機関車=== ドイツ・コッペル製の12トン6輪連結タンク機関車。1922年(大正11年)6月9日付、監第1142号で設計認可を受けた。1922年(大正11年)製造のもので、1929年(昭和4年)に廃車、七尾セメントへ譲渡。同社でも1959年(昭和34年)に用途廃止となった後、1977年(昭和52年)に工場内に留置されていた4号機をプレスアイゼンバーンの松本謙一と前里孝が購入した上で動態復元、同年8月に大井川鉄道(当時)の動態保存機に加わった。同社では「いずも」という愛称が付けられ、主に井川線千頭駅 ‐ 川根両国駅間の小運転に使用された。1984年(昭和59年)には運転台の屋根を切り詰めた上、同線の客車を牽引して井川駅まで乗り入れた。動態保存終了後は大井川鐵道大井川本線新金谷駅にある「プラザロコ」にて静態保存されている。 ===ハブ1 ‐ 13号客車=== 名古屋電車製造所製の木造デッキ付貫通式4輪客車。定員は40人。工事施行認可では10両の認可を受け、1914年(大正3年)4月20日付、監第952号詳細設計認可では6両分の認可を受けた。この6両については開業時までに竣功した。残る4両の詳細設計認可は不明だが、1914年(大正3年)12月17日付、庶第186号車両増減御届で工事施行認可の10両を9両に変更した。2両を下記の荷物合造客車に改造したため1両の増加である。さらに、1922年(大正11年)10月28日、庶第85号増加届で1914年(大正3年)4月20日付、監第952号認可と同一設計の4両を増備し、最終的に非電化時代の客車は13両が存在した。全車、電化後の1928年(昭和3年)6月8日付、監第1816号減少認可で廃車された。 ===ハニ1・2号荷物合造客車=== 名古屋電車製造所製の木造デッキ付貫通式4輪荷物合造緩急客車。定員は20人、荷物の荷重は2トン。開業時には存在せず後日上記の客車2両を改造したもので、1915年(大正4年)3月3日付、監第486号で認可を受けた。2両共電化後の1928年(昭和3年)6月8日付、監第1816号減少認可で廃車された。 ===ワ1 ‐ 4号有蓋貨車=== 1914年3月名古屋電車製造所製の4トン積み有蓋貨車。工事施行認可時には4両分の認可を受けたが、1914年(大正3年)4月20日付、監第952号詳細設計認可では2両分となり、開業時までに2両が竣功した。残る2両の詳細設計認可は不明だが、最終的に1914年(大正3年)3月名古屋電車製造所製の車両が4両存在した。全車、1928年(昭和3年)2月17日付、監第475号減少認可で廃車された。 ===ワフ1号有蓋緩急貨車=== 1922年(大正11年)9月名古屋電車製造所製の5トン積み有蓋緩急貨車。1923年(大正12年)3月6日、監第428号で設計認可を受けた。全車、1928年(昭和3年)2月17日付、監第475号減少認可で廃車された。 ===ト1 ‐ 4号無蓋貨車=== 1914年(大正3年)3月名古屋電車製造所製の4トン積み無蓋貨車。工事施行認可時には4両分の認可を受けたが、1914年(大正3年)4月20日付、監第952号詳細設計認可では2両分となり、開業時までに2両が竣功した。残る2両の詳細設計認可は不明だが、最終的に1914年(大正3年)3月名古屋電車製造所製の車両が4両存在した。全車、1928年(昭和3年)2月17日付、監第475号減少認可で廃車された。 ===電化後=== 特記のないものはすべて電車。 ===ワフ1形有蓋貨車=== 1891年(明治24年)オールドヘリー製。1927年(昭和2年)7月13日付、監第1926号で譲受使用認可を受けた8トン積み有蓋緩急車。 ===デハ1形=== 日本車輌製造で1927年(昭和2年)9月に製造された。1929年(昭和4年)にデハ4をデハ6に改番。1942年(昭和17年)にクハ101形クハ101(初代)を電装の上デハ7として編入。デハ1・デハ2・デハ5は1951年(昭和26年)から1953年(昭和28年)にかけてデハ20形へ改造、デハ7は1962年(昭和37年)にクハ110形(II)に改造。デハ3とデハ6は1978年(昭和53年)に自動扉化・ワンマン化改造を行った上で大社線で運用されていたが、1998年(平成10年)に廃車。 ===クハ3形→デハニ50形=== 1928年(昭和3年)4月にクハ3形クハ3・クハ4として製造された。その後電装の上デハニ51・デハニ52となり、1929年(昭和4年)12月にはデハニ53・デハニ54が製造された。1951年(昭和26年)にはデハニ51が改造の上デハ20形デハ21となり、1967年(昭和42年)9月にはデハニ54がデハ10形デハ11(2代)に改造された。1994年(平成6年)にはデハニ52がお座敷電車に改装、1999年(平成11年)にはデハニ53もお座敷電車に改装された。2009年(平成21年)に旅客運用から外れたが、その後映画『RAILWAYS』の撮影に使用され、2012年(平成24年)からは体験運転用の車両にデハニ53が起用されている。 ===クハ14形→クハ101形(I)=== 1928年(昭和3年)4月に日本車輌製造で製造された制御車。その後クハ101形クハ101(初代)に改番されたが、1942年(昭和17年)に電装の上デハ1形に編入。 ===デキ1形電気機関車=== 電化に対応して1928年(昭和3年)に製造した。1936年(昭和11年)に三河鉄道に譲渡されて同線のキ10形15号機となり、同鉄道が名古屋鉄道に合併されるとデキ300形306となった。その後、名鉄の犬山検査場に事業用として籍を有していたが、2014年3月に除籍された。 ===ト1形無蓋貨車=== 元は大社宮島鉄道→立久恵線の貨車。ト60とト61が砂利散布に使用されていたが、2011年(平成23年)に売却された。 ===クハ100形(II)=== 1924年(大正13年)製の吉野鉄道ホハ11形を1934年(昭和9年)に2両購入し、クハ102(初代)・クハ103(初代)として使用。1958年(昭和33年)にクハ105・クハ106に改番、1960年(昭和35年)に廃車。 ===デハ10形(I)=== 1940年(昭和15年)に梅鉢車両で製造された西武鉄道クハ1232を1957年(昭和32年)に譲受し、デハ11として使用。1961年(昭和36年)に西武鉄道に譲渡。 ===クハ109形=== 1902年に鉄道省新橋工場で製造された国鉄ホハニ4060を1940年(昭和15年)に購入、クハ109として使用。1959年(昭和34年)に廃車、西武鉄道に売却。 ===クハ110形(I)=== 1906年(明治35年)に鉄道作業局新橋工場で製造された最急行用の2等緩急車オブロ3を出自とする3軸ボギー客車の国鉄オハフ8911を1939年(昭和14年)に購入、1940年(昭和15年)からクハ111(初代)として使用。制御車となった後も3軸ボギー台車を装着していた。1959年(昭和34年)に廃車、西武鉄道に売却。 ===クハ120形=== 1924年(大正13年)に鉄道省兵庫工場で製造された国鉄ナハ22033を1949年(昭和24年)に購入し、クハ120として使用。1959年(昭和34年)に廃車。 ===クハ130形=== 1921年(大正10年)に汽車会社東京支店で製造された国鉄モハ1047を1953年(昭和28年)頃に譲受し、クハ131として使用。1958年(昭和33年)に廃車。 ===デハ20形=== 1951年(昭和26年)から1953年(昭和28年)にかけデハ1形デハ1・デハ2・デハ5とデハニ50形デハニ51を改造した2扉クロスシート車。いずれも手動扉のままで運用されたが、デハ24は1981年(昭和56年)に、デハ21は1994年(平成6年)に、残る2両も1996年(平成8年)に廃車。 ===デハ30形→デハニ30形→デハ30形 デハ31=== 1921年(大正10年)に汽車会社東京支店で製造された国鉄モハ1057を1953年(昭和28年)に譲受し、デハ31として使用。1955年(昭和30年)にナニワ工機で車体を鋼体化し、荷物室が設置されてデハニ31となるが、1968年(昭和43年)に荷物室が撤去されてデハ31となり、同時に2扉化された。デハニ時代は貨車牽引や荷物輸送、2扉改造後は予備・増結車として使用されていたが、1986年(昭和61年)3月に廃車となり、その後は1990年代初頭まで部品取り用として平田車庫に留置されていた。 ===クハ100形(III)=== 西武クハ1231形を1958年(昭和33年)から1959年(昭和34年)にかけて譲受。手動扉のままデハ20形と2両編成を組んで運用されたが、1981年(昭和56年)にクハ104が、1994年(平成6年)にクハ103が、残る2両も1996年(平成8年)に廃車。 ===ED22形電気機関車=== ボールドウィン・ウェスティングハウスによる1927年(昭和2年)製の電気機関車。当初信濃鉄道に3両導入されたが国有化により国鉄の車両となる。戦後西武鉄道に譲渡され、近江鉄道を経たうちの1両を1960年(昭和35年)に購入。1973年(昭和48年)の貨物輸送廃止後に弘南鉄道に譲渡された。 ===60系(I)=== 西武鉄道モハ221形・クハ1221形を1960年(昭和35年)から1961年(昭和36年)にかけて2扉クロスシート車に改造して譲受。1982年(昭和57年)にデハ63とクハ163をのぞく4両が廃車、残りの2両も1985年(昭和60年)に廃車。 ===クハ110形(II)=== デハ1形デハ7を1962年(昭和37年)5月に制御車化し、クハ110形クハ111(2代)となる。1967年(昭和42年)に自動扉装備の2扉ロングシート車に改造、デハ11(2代)と2両編成を組んで運用されたが、1986年(昭和61年)3月に廃車。 ===70系 70系クハ171=== 西武鉄道クモハ301形を1964年(昭和39年)に2扉クロスシート車に改造して譲受。1995年(平成7年)に廃車。 ===デハ10形(II)=== デハニ50形デハニ54を1967年(昭和42年)に自動扉装備の2扉ロングシート車に改造し、同年9月23日に竣功。クハ111(2代)と2両編成を組んで運用されたが、1986年(昭和61年)3月に廃車。 ===80系=== くにびき国体をきっかけとした車両近代化のため、西武鉄道451系を1981年(昭和56年)から1982年(昭和57年)にかけて譲受した、片運転台の2両編成(デハ80形+クハ180形)。旧形式車と60系 (I) を置き換えた。1995年(平成7年)から1996年(平成8年)にかけて廃車。 ===90系=== 西武鉄道551系を1985年(昭和60年)から1986年(昭和61年)にかけて譲受した。1985年(昭和60年)に譲受した車両は片運転台の2両編成(デハ91+クハ191)で、1996年(平成8年)に廃車。1986年(昭和61年)に譲受した2両(デハ92・デハ93)は入線当初より両運転台に改造されており、同年内にデハ60形 (II) に改番された。 ===デハ60形(II)=== 90系のうち両運転台の車両は、1986年(昭和61年)内にデハ60形61・デハ62に改番された。冷房車導入後もしばらく残されていたが、2006年(平成18年)に廃車。 ===2100系=== 1994年(平成6年)から1995年(平成7年)にかけて京王5000系(初代)の2両編成を4編成譲受した、一畑電気鉄道では初の冷房車。ワンマン対応車両である。2013年に2104編成が島根県のキャラクター「しまねっこ」を配した「ご縁電車しまねっこ号」となっている。 ===3000系=== 1997年(平成9年)に南海21000系の2両編成を4編成譲受した、ワンマン対応車両である。老朽化のため2015年(平成27年)より、後述の1000系及び7000系に置き換えられ、2017年(平成29年)1月21日 ‐ 22日のさよならイベントを持って運用を終了。 ===5000系=== 1998年(平成10年)に京王5000系(初代)の2両編成を、一部座席のクロスシート化を行った上で2編成譲受した、ワンマン対応車両である。 ===1000系=== 東急1000系電車を譲受・改造した2両編成の電車。2014年度に2編成が導入され、2015年2月より営業運転を開始した。2015年度にも1編成が導入され、12月10日より「しまねっこ号II」として営業運転を開始した。 ===7000系=== 1両編成で運行可能な、デハニ50形以来86年ぶりとなる新造車両。2016年度に2両が導入され、2016年12月より営業運転を開始、2017年度にも2両が導入された。 ===車両数の変遷=== 1982・83年は1月1日現在、84年以降は4月1日現在『私鉄車両編成表』各年版、ジェー・アール・アール ==関連会社== 一畑電気鉄道(持株会社)一畑バス松江一畑交通出雲一畑交通隠岐一畑交通奥出雲交通(第三セクター、奥出雲町が96%、一畑電気鉄道が4%を出資)双葉タクシーミツワタクシー一畑百貨店(三越と業務提携)ホテル一畑カーテックス一畑シュテルン島根(メルセデス・ベンツ島根) =ポーランド・リトアニア共和国= ポーランド・リトアニア共和国(ポーランド・リトアニアきょうわこく)、正式国称ポーランド王国およびリトアニア大公国(ポーランドおうこくおよびリトアニアたいこうこく、ポーランド語: Kr*6425*lestwo Polskie i Wielkie Ksi*6426*stwo Litewskie)は、ポーランド王国とリトアニア大公国の制度的国家合同(ルブリン合同)によって1569年から1795年まで存在した複合君主制国家。18世紀後半には対外的な国称として最も静穏なるポーランド共和国、国内ではジェチュポスポリタ(ポーランド語: Rzeczpospolita、共和国)と呼ばれた。また、二民族の共和国という呼称もあるが、1967年のパヴェウ・ヤシェニツァによる造語である。歴史学では「貴族の共和国 (Rzeczpospolita szlachecka) 」や「第一共和国 (I Rzeczpospolita) 」という用語も用いられる。 16・17世紀のヨーロッパ世界においてオスマン帝国に次いで広大な国の1つであった。 ==政治形態== この連合国家の政治システムは、法と貴族階級(シュラフタ)によって支配される立法府(セイム)が王権を著しく制限するという特異な性質を備えていたため、しばしば貴族共和国ないし黄金の自由とも呼ばれる(以下、国称を共和国と略称)。この政治システムは、現代的な概念を当てはめれば民主制、立憲君主制、連邦制の先駆的存在と言える。二つの構成国は公的には平等な関係にあったが、実際にはポーランドがリトアニアの支配国であった。しかし、これについてはポーランド民族がリトアニア民族を支配したというような現代的な民族主義の解釈をするべきではなく、多民族のポーランド王国の立法・行政・司法の決定事項が同じく多民族のリトアニア共和国のそれらに対して優位であり、万が一両者の決定が対立した時にはポーランド王国の決定が優先された、という制度的な意味である。ポーランド国王がリトアニア大公を兼位しており、共和国は両国を中心にコモンウェルスの体制を形成していた。共和国の人口構成は民族的、宗教的な多様性がきわめて顕著であり、時期によって程度の差はあるものの、同時代にあって異例といえる宗教的寛容が実現していた。 黄金期であった初期の数十年間を過ぎると、共和国は17世紀中葉以後は政治的、軍事的、経済的な衰退を続け、1795年には強大化した近隣の絶対主義国家ロシア、プロイセン、オーストリアによる領土分割によって国家自体が消滅するに至った。その消滅までの期間は急速なものだったにもかかわらず、末期の共和国は政治的な大改革を成し遂げ、1791年には世界で最も古い民主主義成文憲法の一つである「5月3日憲法」を生みだすこととなった。 ==地理== 16世紀、ポーランドの司教で地図学者だったマルチン・クロメルは、ラテン語の地図帳『ポーランド:その地理、民族、文化およびポーランド共和国の官職』を出版したが、これは当時の最も分かりやすい共和国の案内ガイドだと言われていた。クロメルの著作とゲラルドゥス・メルカトルが製作した同時代の地図は、共和国の国土の大部分を平野として描いている。 共和国南部のクレスィは、ステップ地帯として有名であった。タトラ山脈をその最高部とするカルパチア山脈は南部国境を形成し、バルト海が北部の自然国境となっていた。当時の大部分のヨーロッパ諸国家と同じく、共和国は広大な森林地帯に覆われており、その傾向は東部において顕著だった。歴代国王の公的な狩猟場であったビャウォヴィエジャの森の今日に残留する部分は、無傷で残っているヨーロッパの原生林としては最後のものである。 ==人口== 1569年、ルブリン合同後の人口は 総合人口 約700万人 ポーランド人 ‐ 450万人リトアニア人(リーヴ人) ‐ 75万人ユダヤ人 ‐ 70万人ルーシー人 ‐ 20万人 1618年デウリノの和約後、共和国は領土拡大に伴い人口も増加した。 総合人口 約1200万人 ウクライナ人(ルーシー人) ‐ 350万人ベラルーシ人(ルーシー人) ‐ 150万人リトアニア人 ‐ 75万人プルーセン人 ‐ 50万人ユダヤ人 ‐ 50万人リーヴ人(リトアニア人) ‐ 50万人タタール人( リプカ・タタール人) ‐ 10万人ロシア人 ‐ 10万人 ==地方行政区画== ポーランド・リトアニア共和国は、大きく分けて二つの部分に分けられる: ポーランド王冠領(原ポーランド、口語では「王冠領」) 大ポーランド州(ヴィエルコポルスカ) ブジェシチ・クヤフスキ県(県都ブジェシチ・クヤフスキ) グニェズノ県(県都グニェズノ) イノヴロツワフ県(県都イノヴロツワフ) カリシュ県(県都カリシュ) ウェンチツァ県(県都ウェンチツァ) マゾフシェ県(県都ワルシャワ) ポズナン県(県都ポズナン) プウォツク県(県都プウォツク) ラヴァ県(県都ラヴァ) シェラズ県(県都シェラズ) ヴァルミア司教区 小ポーランド州(マウォポルスカ) ベウズ県(県都ベウズ) ブラツワフ県(県都ブラツワフ) チェルニフフ県(県都チェルニフフ) キユフ県(県都キユフ) クラクフ県(県都クラクフ) ルブリン県(県都ルブリン) ポドラシェ県(県都ドロヒチン) ポドレ県(県都カミェニェツ) ルーシ県(県都ルヴフ) サンドミェシュ県(県都サンドミェシュ) ヴォウィン県(県都ウツク) シェヴィエシュ公国 ポーランド王領プロシア(大ポーランド州に含まれる) ヘウムノ県(県都ヘウムノ) マルボルク県(県都マルボルク) ポモージェ県(県都スカルシェヴィ) ハンガリー王国領の一部 スピシュ郡(スピシュ城を除く一帯の13都市)・・・1412年にポーランド王国がハンガリー王国へ資金を融資した際(ルボフラ条約)の担保として、ポーランド王国の管理下にあった大ポーランド州(ヴィエルコポルスカ) ブジェシチ・クヤフスキ県(県都ブジェシチ・クヤフスキ) グニェズノ県(県都グニェズノ) イノヴロツワフ県(県都イノヴロツワフ) カリシュ県(県都カリシュ) ウェンチツァ県(県都ウェンチツァ) マゾフシェ県(県都ワルシャワ) ポズナン県(県都ポズナン) プウォツク県(県都プウォツク) ラヴァ県(県都ラヴァ) シェラズ県(県都シェラズ) ヴァルミア司教区ブジェシチ・クヤフスキ県(県都ブジェシチ・クヤフスキ)グニェズノ県(県都グニェズノ)イノヴロツワフ県(県都イノヴロツワフ)カリシュ県(県都カリシュ)ウェンチツァ県(県都ウェンチツァ)マゾフシェ県(県都ワルシャワ)ポズナン県(県都ポズナン)プウォツク県(県都プウォツク)ラヴァ県(県都ラヴァ)シェラズ県(県都シェラズ)ヴァルミア司教区小ポーランド州(マウォポルスカ) ベウズ県(県都ベウズ) ブラツワフ県(県都ブラツワフ) チェルニフフ県(県都チェルニフフ) キユフ県(県都キユフ) クラクフ県(県都クラクフ) ルブリン県(県都ルブリン) ポドラシェ県(県都ドロヒチン) ポドレ県(県都カミェニェツ) ルーシ県(県都ルヴフ) サンドミェシュ県(県都サンドミェシュ) ヴォウィン県(県都ウツク) シェヴィエシュ公国ベウズ県(県都ベウズ)ブラツワフ県(県都ブラツワフ)チェルニフフ県(県都チェルニフフ)キユフ県(県都キユフ)クラクフ県(県都クラクフ)ルブリン県(県都ルブリン)ポドラシェ県(県都ドロヒチン)ポドレ県(県都カミェニェツ)ルーシ県(県都ルヴフ)サンドミェシュ県(県都サンドミェシュ)ヴォウィン県(県都ウツク)シェヴィエシュ公国ポーランド王領プロシア(大ポーランド州に含まれる) ヘウムノ県(県都ヘウムノ) マルボルク県(県都マルボルク) ポモージェ県(県都スカルシェヴィ)ヘウムノ県(県都ヘウムノ)マルボルク県(県都マルボルク)ポモージェ県(県都スカルシェヴィ)ハンガリー王国領の一部 スピシュ郡(スピシュ城を除く一帯の13都市)・・・1412年にポーランド王国がハンガリー王国へ資金を融資した際(ルボフラ条約)の担保として、ポーランド王国の管理下にあったスピシュ郡(スピシュ城を除く一帯の13都市)・・・1412年にポーランド王国がハンガリー王国へ資金を融資した際(ルボフラ条約)の担保として、ポーランド王国の管理下にあったリトアニア大公国(リトアニア州)(口語では「リトアニア」) 大リトアニア地方(原リトアニア) トロキ県(県都トロキ) グロドノ県(県都グロドノ) ‐ 1793年トロキ県より分離 ヴィルノ県(県都ヴィルノ) ジムジ公国(首都ヴォルニェ) ブラスワフ県(県都ブラスワフ) ‐ 1793年形成 小リトアニア地方など ブジェシチ・リテフスキ県(県都ブジェシチ・リテフスキ) ミンスク県(県都ミンスク) ムシチスワフ県(県都ムシチスワフ) ノヴォグルデク県(県都ノヴォグルデク) ポウォツク県(県都ポウォツク) ヴィテプスク県(県都ヴィテプスク) スモレンスク県(県都スモレンスク)大リトアニア地方(原リトアニア) トロキ県(県都トロキ) グロドノ県(県都グロドノ) ‐ 1793年トロキ県より分離 ヴィルノ県(県都ヴィルノ) ジムジ公国(首都ヴォルニェ) ブラスワフ県(県都ブラスワフ) ‐ 1793年形成トロキ県(県都トロキ) グロドノ県(県都グロドノ) ‐ 1793年トロキ県より分離グロドノ県(県都グロドノ) ‐ 1793年トロキ県より分離ヴィルノ県(県都ヴィルノ)ジムジ公国(首都ヴォルニェ) ブラスワフ県(県都ブラスワフ) ‐ 1793年形成ブラスワフ県(県都ブラスワフ) ‐ 1793年形成小リトアニア地方など ブジェシチ・リテフスキ県(県都ブジェシチ・リテフスキ) ミンスク県(県都ミンスク) ムシチスワフ県(県都ムシチスワフ) ノヴォグルデク県(県都ノヴォグルデク) ポウォツク県(県都ポウォツク) ヴィテプスク県(県都ヴィテプスク) スモレンスク県(県都スモレンスク)ブジェシチ・リテフスキ県(県都ブジェシチ・リテフスキ)ミンスク県(県都ミンスク)ムシチスワフ県(県都ムシチスワフ)ノヴォグルデク県(県都ノヴォグルデク)ポウォツク県(県都ポウォツク)ヴィテプスク県(県都ヴィテプスク)スモレンスク県(県都スモレンスク)リヴォニア公国 ドルパート県(県都ドルパート) パルナヴァ県(県都パルナヴァ) ヴェンデン県(県都ヴェンデン) インフランティ県(県都ディネブルク)ドルパート県(県都ドルパート)パルナヴァ県(県都パルナヴァ)ヴェンデン県(県都ヴェンデン)インフランティ県(県都ディネブルク)共和国はヴォイェヴツトフォ(県)という地方行政区画でさらに細かく分けられて、各県はヴォイェヴォダ(県知事または宮中伯)によって統治されていた。各県はさらにスタロストフォ(王領地 / 代官統治地域)によって区分されており、スタロスタ(代官)がこれを治めた。都市にはカシュテラン(城代)により治められた。ただし、都市はしばしばジェミャのような地域行政単位を組み入れることで、頻繁に代官の統治を避けていた。 かつて共和国に属していた地域は、中欧から東欧にかけて現存する複数の国家の中に、広範に分布している。ポーランド、ベラルーシ、リトアニア、ウクライナ(東縁部と南縁部を除く)、ラトビア南部を中核に、モルドヴァ(トランスニストリア)、ロシア、エストニアである。そしてハンガリー王国の一部だったスロヴァキアのいくつかの都市も、ルボフラ条約でポーランドの一部となっていた。とくに、共和国の南西部国境は、黒海沿岸部を除き現在のポーランドとスロバキアおよびルーマニア・モルドヴァ国境とほぼ一致している。 共和国の主要な地域は以下の通り(行政区域では分けていない): マウォポルスカ…ポーランド南部、主都はクラクフ。ヴィエルコポルスカ…ポズナンとヴァルタ川水系に囲まれた、ポーランド中西部。マゾフシェ…ポーランド中央部、主都はワルシャワ。原リトアニア…リトアニア大公国のカトリック地域、または民族的リトアニア人の居住地域。大公国の北西部を占めた。ジェマイティヤ…リトアニア大公国内の自治領、大公国の西部の大部分を占める原リトアニアの西部地域に当たる。王領プロイセン…バルト海南岸地域、第2次トルニの和約によって自治領となった。1569年のルブリン合同に際し王冠領に組み込まれた。 ポメレリア…グダニスク近郊のポモジェ地方、王領プロイセンの西部地域。ポメレリア…グダニスク近郊のポモジェ地方、王領プロイセンの西部地域。プロイセン公国…ドイツ騎士団総長がローマ・カトリックからルター派に改宗して世俗のプロイセン公となり、封建領主として共和国君主であるポーランド王に臣従したもので、共和国のうちのポーランド王国の従属国。ケーニヒスベルク(ポーランド語クルレヴィエツ)を中心とする旧ドイツ騎士団領。1660年にポーランドの宗主権から離れて独立。プロイセン連合の諸都市…ドイツ騎士団との抗争を経て、ポーランド王の庇護を得て発展した、グダニスク(ダンツィヒ)、トルニ(トルン)、エルブロンク(エルビング)をはじめとした27の自治都市群。1466年にはポーランド王を各都市の君主とし、1569年のポーランド・リトアニア共和国発足と同時に共和国に加盟。ルーシ…共和国の東部、ロシアとの隣接地域。ベラルーシ・ウクライナのほぼ全域に相当。リヴォニア公国(英語版)…王冠領とリトアニア大公国の共同領有地域。後にラトガレとリーフランドに分離。インフランティ公国(英語版)…王冠領とリトアニア大公国の共同領有地域。1620年代および1660年にスウェーデンの侵攻を受けた。1621年にラトガレ地域に発足。1660年に正式に北部リヴォニアがスウェーデン領リヴォニア(英語版)(リーフランド)として離脱。クールラント公国…共和国の北部に位置する封土。1637年トバゴ島に、1651年ガンビア川の聖アンドレ島にそれぞれ植民地を建設した(クールラントによるアメリカ大陸の植民地化)。シロンスク…共和国には属していなかったが、小規模な地域が共和国の国王に属した。特に、ヴァーサ家の諸王は1645年から1666年までオポーレ公国の君主となった。共和国の国境は戦争や条約によって変化し、時には10年の間に数度も変わる場合があった。国境の変動は特にロシアと接する東部およびオスマン帝国と接する南部で激しかった。ヤム・ザポルスキの和約(1582年)が結ばれた後の共和国は、およそ815,000 km*6427*の領土に約650万人の人口を抱えていた。デウリノの和約(1618年)の後では、共和国の領土はおよそ990,000 km*6428*に拡大し、人口も倍近い1000万から1100万人程度に増加した(うち民族ポーランド人は400万人程度)。 ==歴史== 1569年のルブリン合同に始まる共和国の創出は、ヤギェウォ朝最後の国王・大公であったジグムント2世アウグストによる、世襲王権を選挙王制から守るための戦略の一環という性格を持っていた。ジグムンドが1572年に崩御した後に続いた3年間の混乱期にこの連合体制の調整がなされ、貴族階級(シュラフタ)の権力を強化する立憲体制および完全な選挙王制が機能するようになった。共和国の名目的な最大版図は、1592年にスウェーデンと同君連合を組んだヴァザ朝を共和国の王朝として迎え入れた時であった。ジグムント3世ヴァザは、母方からヤギェウォ家の血筋を引き、1587年に共和国の国王・大公となり、さらに父王からもスウェーデン国王を継承し、名目的ながらその版図は北欧にも拡大した。しかしジグムント3世は、専制君主的で、対抗宗教改革を共和国に導入した。これは本来の共和国の宗教的寛容精神にそぐわないばかりか、宗教改革を推し進めるスウェーデンとの軋轢を招き、わずか数年でスウェーデンとの連合は終了した(この問題は、王位継承問題として両国の関係を悪化させ、最終的に共和国に大洪水時代を招来し、ヴァザ朝の終焉に繋がった)。 共和国の黄金期は17世紀前半に訪れた。貴族たちに支配された強力な議会(セイム)は三十年戦争への参加を見合わせることによって、ヨーロッパ世界の大部分が巻き込まれた深刻な宗教戦争による惨事から自国を防衛することに成功した。共和国はスウェーデン、ロシアそしてオスマン帝国の属国から自国を守りぬいたばかりか、近隣諸国への積極的な拡張政策を開始した。17世紀初頭にはモスクワの民主派貴族とツァーリ派貴族が対立して動乱時代に陥り、ロシア大飢饉(英語版)で弱体化したロシアへロシア・ポーランド戦争で進出、モスクワの民主派貴族と連帯した共和国の軍勢は1610年9月27日から1612年11月4日に陥落するまでモスクワを占領統治していた。ポーランド・オスマン戦争(英語版) (1620年 ‐ 1621年)。スモレンスク戦争(1632年 ‐ 1634年)。スモレンスク戦争は、ロシアによるスモレンスク奪回を目的とした戦争であったが、共和国は領土確定と引き替えにツァーリ称号とレガリアをロシアに返還した。また共和国は、1618年のロシアとのデウリノの和約で連合の歴史上で最大の領土を実現させたが、1620年代のスウェーデン・ポーランド戦争で1629年に北部リヴォニアを事実上、失っている。この時はスウェーデンのワルシャワ侵攻を阻止し、その勢威を示したが、共和国としては、停戦条約の結果、リヴォニアの分割を余儀なくされている。ロシアとスウェーデンは、軍事的には敗北したものの、外交上の勝利を得たと言える。この頃、共和国は相次ぐ戦争により、軍事費が増大し、国家財政上の懸念が生じることとなった。そして表面的には磐石に見えた共和国の国家経済は疲弊し始めていた。そして共和国の巨大化によって様々な文化的背景を持つ勢力を取り込んでしまったために、共和国の社会制度に政治的な混乱をもたらすこととなった。また、ポーランドのヴァザ王家は、スウェーデンのヴァーサ王家を仮想敵国とし、王権の強化と海軍増強計画を目論んだが、議会(セイム)によって破棄された。この時代の共和国は、なおも地域大国として君臨していたが、これらのことから海洋大国としてバルト海での覇権争いに食い込むまでには至らなかった。 共和国の勢威は、1648年以後に受けた2度の衝撃によって衰えを見せ始めた。最初の衝撃とは、歴史的に最も大規模だったウクライナ・コサックによる反乱である。東部国境のクレスィで起きたこのフメリニツキーの反乱は、クリミア・ハン国の援護を受けたものであった。さらに反乱者が1654年にはロシアのツァーリに支援を求める事態に至り(ペレヤスラフ条約)、ポーランドはウクライナに対する影響力をモスクワ・ロシアに奪われることになった。もう一つの衝撃は、1655年のスウェーデンによる侵略「大洪水」(トランシルヴァニアの支配者ラーコーツィ・ジェルジ2世、ブランデンブルク選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルムの軍事的支援を受けていた)である。この侵略はヴァザ家出身の選挙王たちが続けていた、スウェーデンへの敵対政策が引き起こしたものだった。1667年に共和国は侵攻国を撃退することに成功したが、東のロシア、北のスウェーデンの影響力が増していった。共和国は、北西のプロシア公領及び北東のスウェーデン領リヴォニア(英語版)を共和国版図から正式に喪失した。前年の1660年にはプロイセン公国が漁夫の利を得て、スウェーデン王国との対ポーランド枢軸を図らないという条件でポーランド王国からの独立をポーランド王から承認されている。のちにこの新興独立国家はプロイセン王国を経て、現代欧州最強の軍事独裁国家「ドイツ帝国」となっていくのである。さらには主権下にあったウクライナのヘーチマン国家が独立し、のちにモスクワに吸収されてしまう。 17世紀後半に入ると、弱体化した共和国は神聖ローマ皇帝レオポルト1世と同盟したヤン3世ソビエスキのもとで、オスマン帝国に壊滅的な打撃を与えることに成功した。1683年のウィーンの戦いは、250年にわたって続いたキリスト教世界=ヨーロッパと、イスラーム世界=オスマン帝国との長い抗争の歴史における、最終的な転換点となった。何世紀にもわたったムスリム側の脅威にさらされ続けたため、共和国は「キリスト教世界の防波堤(Antemurale Christianitatis)」の称号を得ることになった。続いて起きた16年にわたる大トルコ戦争の結果、オスマン帝国の国境は永久的にドナウ川以南に押しとどめられ、再び中央ヨーロッパに脅威を及ぼすことはなかった。ヤン3世ソビエスキ王は宿敵であるはずのオスマン帝国からも「レヒスタンの獅子」(「レヒスタン」はトルコ語でポーランドを指し、ポーランド人の古名である「レフ族」(ポラン族)にちなんで「レフ族の国」を意味する)として尊敬された。この時代は共和国にとっては最後の栄光であり、中興の時代であった。しかしこの結果、オスマン帝国を撃破した共和国は、欧州内の近隣諸国の警戒を引き起こし、緊張関係が生じることとなった。そして1701年にプロイセン王国として承認されることとなるブランデンブルク=プロイセンが次第にバルト海南岸に勢力を強め、さらにロシアは東ヨーロッパの覇権国としての地位を不動のものとしたが、これは共和国とロシアとの同盟政策において起ったものであり、ヤン3世が犯した失策でもあった。オーストリアも旧オスマン帝国領への勢力圏を拡大し、ロシア、オーストリア、プロイセンという18世紀の中東欧における3列強国のパワー・バランスが成立し、17世紀の覇権国だった共和国とオスマン帝国は共倒れすることとなった。共和国は、17年間もオスマン帝国と戦い続けた結果、物質的に疲弊し、内政にも手が回らず、バルト海世界での共和国の地位を改善する努力は完全に忘れ去られた。 1700年に始った大北方戦争において共和国は完全な守勢に立たされ、強国として最後の活躍をすることとなったスウェーデン・バルト帝国に蹂躙された。共和国はこのスウェーデンの下で傀儡国王を押しつけられた。この強引な君主のすげ替えは、のちのポーランド継承戦争でも行われ、没落した共和国は大国となったプロイセン、オーストリア、ロシアの緩衝国として扱われるようになった。 18世紀までに、共和国は数多くの国内問題に直面し、また諸外国の影響力にさらされるようになった。1768年には、共和国は法的にロシア帝国の保護国となり、ロシアは外交的、軍事的戦略をポーランドへと集中させるようになった。政治体制のぐらつきは共和国を無政府状態の淵にまで追い込んだ。5月3日憲法の制定をその頂点とする、4年議会(1788年 ‐ 1792年)などの改革の試みは遅きに失したものであり、共和国は近隣諸国であるロシア、プロイセン、オーストリアによる3度の領土分割を通じて統治すべき国土を失った。1794年3月24日、軍人のタデウシュ・コシチュシュコがコシチュシュコの蜂起を起こしたが、ロシアのアレクサンドル・スヴォーロフに鎮圧され、1795年にポーランド・リトアニア共和国はヨーロッパの地図上から姿を消した。ポーランドとリトアニアが独立を再び手にするのは1918年、それもポーランド第二共和国とリトアニア共和国という別個に独立した国家としてであった。 ==国家組織と政治== ===黄金の自由=== 共和国の政治原則は「我が国は国王の統轄の下にある共和国である」というものである。大法官ヤン・ザモイスキはこの原則を「国王は君臨すれども統治せず ”Rex regnat et non gubernat” 」と要約する。共和国は選挙王、元老院(セナト)のほか、代議制の議会であるセイムを有していた。国王はヘンリク条項および選出時に取りきめられるパクタ・コンヴェンタにより規定された共和国市民(=シュラフタ)の諸権利を尊重することを義務付けられた。 王権は強大な貴族階級の権力のために制限を受けていた。歴代の国王はポーランドの政治システム(およびほぼ前例のない宗教的寛容)の根幹をなすヘンリク条項に署名せねばならなかった。時代が下るにつれ、ヘンリク条項はパクタ・コンヴェンタと組み合わされていき、選挙王が誓うべき明確な誓約という性格をもった。その結果、国王は常に元老院の監督を受けるようになった。のちにヨーロッパ初の成文憲法で本格的な近代民主主義憲法である1791年5月3日ポーランド憲法が成立すると、国王は「国家の所有者」や「国民の支配者」ではなく、「国民が所有する国家」に対して無限の責任を負う「国家の代表者」(近代的な立憲君主)であると規定された。 共和国の政治システムとしての「黄金の自由」(ポーランド語表記:Zlota Wolno*6429**6430*,この語は1573年から使われ始めた)は、以下の諸要素をその基礎とした。 国王自由選挙…国王選出は投票を希望する全てのシュラフタによる自由選挙によって行う。セイム…国王によって2年ごとに召集される共和国の代議制議会。パクタ・コンヴェンタ…即位時に国王が共和国政府との間で取り決める統治契約。諸権利の請願も行われる。国王の政治行動を束縛し、初期のヘンリク条項に由来する。ロコシュ(抵抗権)…貴族に保障されている諸特権が国王によって脅かされた場合、反乱を起こすことを法的に認められる権利。リベルム・ヴェト…セイムでの決議において多数派の決定を、代議員一人の反対によって否決出来る権利。セイムの会期中、全ての法案を廃案にしてきた「無制限の拒否権」として悪名高い。17世紀後半の危機の時代に入ると、リベルム・ヴェトは地方議会(セイミク)にも適用された。連盟…共通の政治目的のために団体を結成する権利。3地域(後述)のみが共和国内の自治領としての権利を享受していた。各県にはそれぞれに地方議会(セイミク)が置かれていた。セイミクは国家立法府(セイム)に送り込む代議員を選出し、指示書によって代議員に様々な要望・提案をする権利を有していた。リトアニア大公国はポーランド王国(王冠領と呼ばれた)とは別個に軍隊、国庫、官職体系を組織していた。 黄金の自由は当時としては国家に特異な性格を与えたが、同時代にはヴェネツィア共和国のような都市国家が類似した政治システムを採用していた(両国は「最も静穏なる共和国」を自称した点でも共通していた)。ヨーロッパ諸国が中央集権化、絶対主義、宗教戦争や王朝による争いに直面している時期、共和国は地方分権、国家連合と連邦制、民主政治、宗教的寛容さらには平和主義までも経験していた。シュラフタがしばしば国王による戦争計画を廃案にしたことは、民主的平和論に関する論議に相当するものとさえ見なされる。 この政治システムは他の階級と王権に立脚した政治システムに対するシュラフタ貴族階級の独占的な勝利に由来する。この時代、シュラフタはニヒル・ノヴィ(1505年)を始めとして十分すぎる特権を蓄積し、どの王も彼らの支配を力で捩じ伏せることは出来なかった。共和国の政治システムは単純なカテゴライズには適しないが、一応は以下のような定義付けが混ざり合う状態にあるといえる: 広大な自治領を領域内に含む国家連合ないし連邦。共和国を国家連合か連邦体制にあったかは限定しにくい。寡頭制。シュラフタのみが参政権を持ったといっても、彼らの階層は人口の約10%を占めていたのであり、少数者による支配というイメージとはずれがある。全てのシュラフタに等しい権利と特権が与えられる民主政治。彼らの拠るセイムが立法、外交、宣戦布告、課税(既存の税制の変更、新しい税の制定)といった重要な事項について国王に反対出来る。共和国は当時のヨーロッパ諸国の中で最も高い、約10%の参政権者を抱えていた。フランスでは1831年の時点で人口の約1%、1867年のイギリスでは約3%に参政権が与えられているに過ぎなかったのとは対照的である。選挙王制。シュラフタによって選出される国王、つまり世襲君主でない国王が国家の首長であること。立憲君主制、つまり君主がパクタ・コンヴェンタやその他の法律によって誓約されており、シュラフタは国王が法的に不正な行為をしている場合は従う義務はないとされた。 ===参政権者=== 共和国の主要な参政権者は以下の通り。各人一人一票の原則は共和国の滅亡まで守られた: 国王…王権の拡大のために奮闘し、絶対王政の創出を試みていた。僧侶…平民出身者であっても僧籍に入ることで参政権を得ることがあった。マグナート…シュラフタのうち最も裕福な階層、日本の幕藩体制のごとく特権的な寡頭政治によって国家を統治し、国王と貧窮シュラフタを統御しようとしていた。特に大きな財産を持つマグナートはオルディナトと呼ばれ、彼らはそれぞれがヨーロッパの大国の君主たちに匹敵する財産を持っていた。中小シュラフタ…セイムの権限を拡大し、シュラフタによる民主政治で国家を統治しようとしていた。マグナートと中小シュラフタが一つの貴族階級として連帯することはなく、多くの党派が国王ないし大勢のマグナートをばらばらに支援していた。 ===共和国の制度的欠陥=== 1572年にヤギェウォ家の統治者がいなくなると、(共和国の唯一かつ最大の制度的欠陥であるとのちに指摘されることになった)「リベルム・ヴェト(任意拒否権)」が濫用され、かろうじて均衡を保っていた共和国政府は崩壊した。権力は徐々に中央政府から地方のシュラフタ達へと移っていった。 周期的に空になる王座を埋める機会が訪れるたび、シュラフタ達は共和国内に強大な新王朝を築く心配のない外国人の候補者を好んで探し求めた。この政策によって王位についた人物は皆、影響力を持たないか、シュラフタとの恒常的な抗争によって力を衰えさせることとなった。さらには、有名な例外といえるトランシルヴァニアの支配者ステファン・バートリ(在位1576年 ‐ 1586年)を除けば、外国出身の国王はすべて自国あるいは出身家門の利害に共和国の利害関心を従属させようとする傾向があった。この傾向は特にヴァザ家出身の最初の選挙王2人の統治期の政策と軍事行動に顕著であり、彼らの政治方針は共和国とスウェーデンとの間に抗争を引き起こし、それは大洪水時代(1648年)において頂点に達した。そしてこの動乱こそが、共和国を黄金期から衰退期へと転換させることになった。 ゼブジドフスキの反乱(1606年 ‐ 1607年)を転機としてマグナートは権力を増長させ、シュラフタ民主政はマグナート寡頭政にとって代わられた。共和国の政治システムは国外からの干渉に弱く、諸外国から賄賂を受け取ったセイム代議員がリベルム・ヴェトを乱発して改革の試みを潰すべくを行使することも珍しくなかった。こうした弱みは独立国家としての共和国を掘り崩し、近隣諸国が国内を安定させて軍事力を付けていた17世紀半ばから18世紀半ばまでの100年以上もの間、共和国はリベルム・ヴェトが濫用され政治的な麻痺状態・無政府状態においたのである。 ===後期の諸改革=== 共和国は政治システムの改革のために大変な労力を費やし、1791年に近代ヨーロッパでは初めての成文国家憲法である5月3日憲法を制定した。これはその2年前に制定されていたアメリカ合衆国憲法についで、世界で2番目に早く誕生した成文憲法である。革命憲法は旧来のポーランド・リトアニア連合国家を世襲王制のポーランド・リトアニア連邦国家へと変貌させ、古いシステムが持つ有害な特徴を排除していった。新しい憲法では以下のように取りきめられた: リベルム・ヴェトを廃止し、シュラフタの連盟結成を禁止する。政府では立法権、行政権、司法権の三権分立が導入される。「国民主権」を創出し、貴族だけでなくブルジョワジーにも参政権を拡張する。小作農の権利を向上させる。宗教的寛容を保障する(ただしカトリック教徒の棄教は罪に問われる)。共和国を弱体な緩衝国の地位に留めておきたい近隣列強によって全国境から攻め込まれることになったために、これらの改革は手遅れとなった。しかし、国王スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキとその他の改革者たちによる強国化政策は国内に大きな反響を生んだ。ロシアは5月3日憲法の政治改革による革命の波及と、共和国がヨーロッパ列強国の地位を取り戻す可能性を恐れた。エカチェリーナ2世は5月憲法を自身の命取りになる、憲法はジャコバン派の影響を受けたものだと述べていた。グリゴリー・ポチョムキン公爵はタルゴヴィツァ連盟結成のための文書を起草し、憲法については「民主主義理念とやらの伝染病」だと切り捨てた。また一方で、やはりプロイセンとオーストリアもポーランドの強国化を憂慮しており、これを領土拡大の口実にしようとしていた。プロイセンの宰相エヴァルト・フォン・ヘルツベルクは「プロイセンの王政に対する打撃」と述べ、かつてはプロイセンを従属させていたポーランドの再強国化に強い警戒心をもって臨んだ。結局、共和国が憲法制定後4年間のうちに完全に消滅したため、5月3日憲法は発効したものの、特に「クレシ」と呼ばれる東部辺境地域ではタルゴヴィツァ連盟などの抵抗勢力が結集して憲法への反対闘争を繰り広げた。 ===軍隊=== 共和国軍は2人の大ヘトマンおよび2人の野戦ヘトマンによって統率された。軍は以下の軍団から構成されていた: ヴォイスコ・クファルツィアエ…国税によって賄われる常備軍。後にヴォイスコ・コンプトヴェと合体した。ヴォイスコ・コンプトヴェ…戦時に創設される半常備軍。1652年以降、ヴォイスコ・クヴァルツィアエと共に新型軍を構成した。ポスポリテ・ルシェニェ…シュラフタの総動員による軍。ピェホタ・ワノヴァおよびピェホタ・ヴィブラニェツカ…農民の新兵を基盤とした軍。登録コサックの軍…ウクライナ・コサックで構成された軍勢、大抵は歩兵の銃士兵だが、まれに荷車要塞を引く騎兵として使われる。近衛軍…国王その家族を護衛するのが主な目的の小部隊。傭兵軍…通常軍隊の補充のために雇われ、他の多くの軍とともに戦う。ドイツ人、スコットランド人、ワラキア人、セルビア人、ハンガリー人、ボヘミア人、モラヴィア人、シロンスク人など。私兵軍…平常時には、たいてい小規模な連隊(数百人程度)としてマグナートや都市に養われている。しかし戦時には国家から給金をもらい、その規模も格段に大きくなる(数千人規模)。共和国にはいくつかの部隊も存在した: フサリア(フサーシュ)…重装備騎兵。槍、コンツェシュ(剣)、サーベル、斧、弓、鎚矛、後にはピストルを装備した。彼らの戦闘力は、17世紀後半に入り銃が普及して銃歩兵連隊が登場してからにおいても長い間きわめて頼りにされていた。フサリアは約200年もの間、無敗であった。メンバーはトヴァシシュ・フサルスキと呼ばれ、3‐4人のポチュトヴィを率いていた。コサック騎兵…共和国における軽騎兵の一般的呼称である。オスマン帝国の騎士軍団のように速く機動性に富む。17世紀後半のフメリヌィーツィクィイの反乱以後は、ウクライナ・コサックと区別するため、「パンツェールニ」(鎖帷子の騎兵)と呼ばれるようになった。タボル…補充用の兵を荷車に乗せて戦場へ馬に引かせ運ぶ要塞。その防御陣形は登録コサックによって熟達したものになったが、他の部隊と比べ数が少なかった。共和国海軍は共和国の歴史の中ではさほど大きな役割を果たしていないが、スウェーデンの海上封鎖を破ったオリヴァの海戦では勝利を収めた。黒海では、コサック達がオスマン帝国やその属国に対し、チャイカと呼ばれる小型の舟に乗って掠奪行為を続けていた。彼らは帝国の首都イスタンブール郊外に火を放ったこともある。しかし共和国の海軍は、陸軍とは異なり規模的に周辺国に見劣っており、国王による海軍増強計画も議会によって破棄されたため、それ以上の発展をすることはなかった。 ==経済== 共和国の経済は農奴制を基盤とする封建制農業生産によって支えられていた。奴隷制度はポーランドでは15世紀には禁止されたが、リトアニアでは1588年になってようやく廃止されている。もっとも、奴隷制度が廃止され一時的に小作農がその大幅な自由を謳歌し経済的恩恵を享受したものの、のちに国際的な構造が大転換をして共和国の経済が衰退期に入ると再版農奴制に取って代わられていった。貴族達が所有するフォルヴァルクと呼ばれる大規模農場では、国外へ大量に輸出するための余剰農作物が、小作農たちによって生産されていた。この経済体制は、穀物生産が最も好調な時期に当たっていた共和国の初期においては、支配階級、農民、都市民の誰にも都合よく機能し、共和国の黄金時代を支えていた。しかしながら17世紀後半になると、新大陸から安価な穀物が大量に欧州市場に流入するようになり、穀物相場が下落していくにつれて国内の経済状況は悪化の一途をたどる。小作農は資金繰りが悪くなって地主であるシュラフタへの負債を増やしていき、シュラフタたちは利潤の落ち込みを埋め合わせるべく小作農たちに重労働を課したことで、小作農たちの生活や身分は再度地主に依存し隷属する状態、すなわち再版農奴制と呼ばれるようになった状況に陥ったのである。 共和国の経済が農業、とりわけ生産物の輸出に依存したままだったことは、ブルジョワジーに対するシュラフタの圧倒的優位と結びついたばかりか、農産物の市場価格の大幅な下落は国内の資本蓄積を遅らせ、共和国内での都市化と産業における発展をかなり阻害する結果となった。地主貴族と都市ブルジョワの社会階級間での葛藤はヨーロッパ世界全体に共通する現象だったが、経済を穀物という市場の変動の影響を受けやすい物品の輸出に過度に偏って依存していた共和国のように、貴族階級が勝利を収めたという事態は同時代の他地域にはあまり見られない現象であった(のちにプロイセン王国やロシア帝国ではまったく同じ現象が見られた)。しかし、17世紀中葉の戦争と相次ぐ危機が襲うまでは、共和国の諸都市の規模や富は西側諸国の諸都市のそれ比べて遜色なく、その危機の時代が都市の成長阻害に甚大な影響を及ぼしたのだ、という主張もあり、その是非は歴史家たちの間で今も争われている。共和国にはマクデブルク法に基づいた都市や町を多く抱えていた。共和国で最も大規模な市場はルブリンで開かれていた。 共和国はヨーロッパ最大の穀物生産国だったが、共和国は人口が多く穀物の量の面から言えば大部分は国内で消費されていた。1560年から1570年までのポーランド王冠領(元々のポーランド領地域)とポーランドの領邦であるプロイセンをあわせたポーランド国内の小麦の消費量を見積もるとおよそ11万3000トンに及ぶ。16世紀に共和国で生産されていた穀物量は約12万トン、うち6%が輸出され、19%が都市部で消費され、残りは農村部の消費となる。共和国が輸出した穀物は西ヨーロッパの需要の約2%程度を賄っていたと思われる。共和国の穀物は、1590年代から1620年代にかけてヨーロッパ中が不作に悩み、南欧諸国が体制安定のために競って穀物輸入を行ったような時期には、ポーランドが輸出する穀物はきわめて重要なもので、その状況が相場を支えたのである。 共和国において穀物は最大の輸出品だったが、フォルヴァルクの所有者たちはたいてい、国内での穀物取引の80%を扱い、バルト海の海港に向けて穀物を輸送するグダニスクの商人たちと契約を交わしていた。共和国を流れる多くの河川が輸送に利用されていた。ヴィスワ川、ピリツァ川、ブク川、サン川、ニダ川、ヴィエプシュ川、ネマン川などである。それらの川は比較的インフラ整備がなされており、港湾や穀倉を備えていた。多くの川ではさほど利益にならない輸送業に携わる人々が南北を行き交い、平底荷船やいかだはグダニスクで材木を売り捌くために北へと向かった。グダニスクから、船はアントウェルペンやアムステルダムのような大都市に穀物を輸送するためネーデルラントやフランドルへと向かった。穀物に加え、海上貿易の輸出品には材木や木材から作れるタールのようなものがあった。 陸上での貿易では、共和国は皮革、毛皮、麻、絹(大半はヴィエルコポルスカ産)やリネンを、ライプツィヒやニュルンベルクといった神聖ローマ帝国のドイツ人居住地域に輸出していた。5万頭ものウシがシロンスク経由で商品を運んだ。共和国はまた、香辛料や嗜好品、衣服、魚、ビールや、産業のために使われる鉄や様々な道具などを輸入していた。グダニスクから南へと向かってくる船は少なかったが、ワインや果物、香辛料、ニシンを運んできた。ところが新大陸からの安価な農産物が大量に欧州市場に流入するようになった16・17世紀の間に、共和国の収支バランスは黒字から赤字に転落した。 大航海時代の始まりとともに、琥珀の道のような数多くの古い貿易ルートが消滅するとともに、新しいルートが次々と築かれた。ヨーロッパとアジアを繋ぐ隊商貿易路としてのポーランドの重要性は薄れ、一方でポーランドとロシアとの間には新しい交易路が開かれた。しかし共和国の造船技術が改善して海上貿易に目が向けられた後も、西洋と東洋との結節点としての重要性は消えず、数多くの商品や生産物が共和国を通過して様々な地域に運ばれた。たとえば、イスファハーン絨毯はペルシアから共和国に輸入されていたが、西欧では「ポーランド絨毯」の名前で知られていた。共和国の通貨にはズウォティやグロシュなどがあった。グダニスクには独自の貨幣を鋳造する特権が与えられていた。 ==文化== ===政治思想=== 共和国は近代的な政治・社会思想の発展においてヨーロッパの重要な中心地の一つであり、エラスムスが称賛したように、当時としては稀な民主的な政治システムを備えていた。また対抗宗教改革の時代にあっても、やはり特異であった宗教的寛容を実現させ、ユダヤ教、東方正教、プロテスタント、イスラームが国教であるカトリックとともに平和的に共存していた。ただし時期によってはカトリックを強制する動きが強まった事もあった。 共和国はまた、イギリスとアメリカ合衆国のユニテリアン主義の先駆者であるキリスト教セクト、ポーランド兄弟団を生んだ。 その政治システムの影響もあり、共和国はアンジェイ・フリチュ・モドジェフスキ(1503年‐ 1572年)、ヴァヴジニェツ・グジマワ・ゴシリツキ(1530年 ‐ 1607年)、ピョトル・スカルガ(1536年 ‐ 1612年)といった政治思想家たちを生み、スタニスワフ・スターシツ(1755年 ‐ 1826年)やフーゴ・コウォンタイ(1750年 ‐ 1812年)はヨーロッパで最も早くに成立した近代的な成文憲法・国家憲法であり、大陸で最初の革命的な政治原則を打ち立てた、5月3日憲法の完成させるための道筋を示した。 クラクフのヤギェウォ大学はヨーロッパで最も古い総合大学の一つであり、ヴィリニュス大学とともに共和国における人文科学・自然科学の中心であった。1773年に創設された国民教育委員会は、世界最初の教育省であった。 共和国は多くの科学技術者を輩出した: アルベルト・ブルゼフスキ(1445年 ‐ 1497年)…天文学者、数学者、哲学者、文学者、外交官ベルナルド・ヴァポフスキ(1450年 ‐ 1535年)…地図学者、数学者ニコラウス・コペルニクス(1473年 ‐ 1543年)…天文学者、宗教家マルチン・クロメル(1512年 ‐ 1589年)…歴史家、地図学者ミカエル・センディヴォギウス(1566年 ‐ 1636年)…錬金術師、化学者クシシュトフ・アルツィシェフスキ(1592年 ‐ 1656年)…軍人、技術者、民族学者カジミェシュ・シェミェノヴィチ(1600年 ‐ 1651年)…軍事技術者、砲術の専門家、多段式ロケット砲開発者ヨハネス・ヘヴェリウス(1611年 ‐ 1687年)…天文学者、月地誌学の創始者ミハウ・ボイム(漢名:卜弥格,1612年 ‐ 1659年)…東洋学者、地図学者、博物学者、南明政権に仕えた外交官アダム・アダマンディ・コハニスキ(1631年 ‐ 1700年)…数学者、技術者また共和国は以下のような古典作家たちをも生んだ: ヤン・コハノフスキ(1530年 ‐ 1584年)…作家、劇作家、詩人ヴァツワフ・ポトツキ(1621年 ‐ 1696年)…作家、詩人イグナツィ・クラシツキ(1735年 ‐ 1801年)…作家、詩人、寓話作家、ポーランド最初の小説家ユリアン・ウルシン・ニェムツェヴィチ(1758年 ‐ 1841年)…作家、劇作家、詩人また多くのシュラフタたちが回想録や日記を残している。おそらく最も有名なのはアルブレフト・スタニスワフ・ラジヴィウ(1595年 ‐ 1656年)の『ポーランドの歴史に関する回想』、ヤン・フリゾストム・パセク(1636年頃 ‐ 1701年頃)の『回想録』であろう。 マグナートたちは自らの権威づけのために様々な建設計画に着手した。ワルシャワ大統領宮殿やポーランド大ヘトマンであったスタニスワフ・コニェツポルスキが建てたポドホルツァヒ城のような、教会、聖堂、宮殿などである。最大の建設計画は都市全体を建設するというものだったが、大概は途中でうやむやになり結局は廃棄されている。建設された都市の名前の多くは出資したマグナートの名前にちなんだ。これらの都市のうち最も有名なのは、ヤン・ザモイスキによって建設され、イタリア人建築家ベルナルド・モランドが設計を担当したザモシチである。 ===サルマティズム=== シュラフタの間で普及していたイデオロギーは、「サルマティズム」と呼ばれた。貴族階級が自らを東欧から中央アジアにかけて活動し多文化主義の社会(チェルニャコフ文化)を構成していた古代スラブの地に定住した遊牧民「サルマタイ人」の出自との確信から、東方地域に影響された特異な文化を形成した。サルマタイはトルコが起源ともされている。この信条体系はシュラフタ文化の重要な部分を占め、彼らの生活領域の全面に浸透した。サルマティズムはシュラフタ階級のあいだでの母語(民族)・宗教宗派・職業・家柄を超えた平等意識、彼らの騎馬趣味、伝統重視、地方での田園生活、平和主義を奨励したし、オリエントに影響された服飾の流行を生みだした。丈長のジャケットのジュパン(英語版)やスクマナ(ポーランド語版)を着てコントシュ(英語版)というマントを広幅のベルトのパス・コントショヴィ(英語版)でとめ、冬にはデリア (衣服)(英語版)というコートを重ねた。筒の太いズボンのシャラヴァルィ(英語版)を履くなどである(腰にシャブラ(英語版)を佩(は)く)。さらには、多民族で構成された共和国の貴族階級に単一民族意識に近い連帯感を、シュラフタの「黄金の自由」に正統性をそれぞれ付与した。 初期のサルマティズムは理想主義的な文化運動として理解できるもので、信仰心、誠実さ、愛国心、勇敢、平等と自由を鼓吹した。しかし、そうした性格は徐々に歪んでいく。後期に現れた過激なサルマティズムは、信心を狂信に、誠実さを政治的無知に、誇りを傲慢さに、勇敢を頑迷に、自由を無秩序に変容させてしまった。サルマティズムは18世紀後半に起きた国家の消滅に責任があったとして非難を受けている。サルマティズムに対する批判は、ラディカルな変革を志向する改革者たちによって、しばしば偏った見地からなされた。この自己批判はまた、ポーランドの消滅は自己崩壊が招いたものだと証明しようとした、ロシア、プロイセン、オーストリアの歴史家たちの著作に同調したものでもあった。 しかしサルマティズムにあるのは否定的な側面ばかりではない。サルマティズムは多元文化主義を機能させるための政治的手段でもあった。サルマティズムにおいて、シュラフタ同士では民族、宗教、宗派、職業、家柄によって政治的に差別されることはなく、誰もが平等に参政権を有した。ここでは共和国におけるシュラフタは共和国市民であり、古代の共和政ローマにおけるローマ市民に相当した。この市民主義は後にポーランドで確立する立憲政治や民主主義の基盤となったものであり、近代の市民はここに生まれたのである。ヨーロッパ初の近代成文憲法である1791年5月3日憲法および当時の一連の改革(世界初の教育省である国民教育委員会の設立を含む)はその内容から、非シュラフタだった階級の人々をシュラフタに引き上げる意味があった。すなわち共和国に住むすべての人々を共和国市民にしようとした試みであり、明らかにサルマティズムの流れに沿ったものであった。 ===使用言語=== ポーランド語:公認言語、公用語、支配的言語。共和国の貴族階級の大部分、および王冠領の農民層が使用していた。1697年からはリトアニア大公国の官庁言語として使用された。また共和国の都市部における支配的言語でもあった.。ラテン語:公認言語、公用語。外交分野で主流であり、貴族階級の間では第2言語として一般的に使用されていた。フランス語:非公認言語。18世紀初めにワルシャワの宮廷において、外交分野の主流言語として、ラテン語に取って代わった。科学や文学の言語、貴族階級の間での第2言語として一般的に使用されるようになった。ルーシ語:公認言語、公用語。官庁スラヴ語としても知られる。1697年まではリトアニア大公国の官庁における標準言語であり、時として外交分野で使われた(その後はポーランド語となった)。ルーシ語の口語(派生言語であるウクライナ語およびベラルーシ語)はリトアニア大公国および王冠領の東部で、広く使用されていた。リトアニア語:非公認言語。リトアニア大公国の北西部(原リトアニア)および王領プロイセン北部(小リトアニア)で話されていた。また大公国の公文書の一部にも使用された。ドイツ語:公認言語、公用語。王領プロイセンおよび都市部の少数派住民が使用していた。外交分野で使われる場合もあった。ヘブライ語:公認言語。ユダヤ人が使用していた。イディッシュ語も使われたが公認されていはいなかった。イタリア語:非公認言語。都市のイタリア系の少数派住民が外交関係で使用する場合があった。アルメニア語:公認言語。アルメニア系の少数派住民が使用した。アラビア語:非公認言語。外交分野で使用する場合や宗教行事でタタールが使用する場合があった。また、タタールはアラビア文字でルーシ語を記した。 ==遺産== 1807年に建国されたワルシャワ公国は、共和国をその原点としていた。同様の発想は、11月蜂起(1830年 ‐ 1831年)や1月蜂起(1863年 ‐ 1864年)のような祖国回復運動や、ユゼフ・ピウスツキが提唱したが失敗に終わった、リトアニア、ウクライナを組み込むポーランド主導のミェンズィ・モジェ(Mi*6431*zy morze/英訳Between the seas)連邦構想(バルト海〜黒海間の多民族連邦共和国構想)にも継承されていた。今日のポーランド共和国はポーランド・リトアニア連合国家の後継者を自任している。1918年に成立したポーランド共和国(いわゆる「第二共和国」)はポーランド=リトアニア共和国の継承国家で、ナチス・ドイツとソ連に国家が蹂躙された1939年から1989年までは行政の実権が奪われていたものの、イギリスのロンドンにポーランド亡命政府を設け、大統領や首相を置いて活動し、ポーランド第二共和国を法的に継承している。1989年に民主化を果たして以来存続している現在のポーランド共和国政府はレフ・ヴァウェンサ大統領が就任するときにロンドン亡命政府の大統領リシャルト・カチョロフスキより法的に政権を継承した。したがって、現在のポーランド共和国(第三共和国)はポーランド=リトアニア共和国の継承国家である。 一方で第一次世界大戦の終結後に再独立したリトアニア共和国は、当初は反ポーランド主義を国是としており、かつての連合国家であるポーランド共和国(第二共和国)へのリトアニア国家の参加を長い間否定的に見ていた。この反ポーランド主義の一端は、リトアニア人の民族自決によるものもあったが、何よりもポーランドとの軍事衝突、そして首都ヴィリニュスをポーランドに併合された事が影響している。1939年にドイツ、スロヴァキア、ソ連の3ヶ国によるポーランド侵略に乗じて奪還するが、戦後ソ連に併合された。以後、冷戦を経て東欧革命でラトビア、エストニアなどと連携して独立運動を進めた事が、よりバルト三国間の絆を深めさせたと言える。一方で1991年のソ連崩壊後もしばらくは激しい反ポーランド主義を貫いた(リトアニアは、中欧諸国の国家間連携であるヴィシェグラード・グループではなく、ポーランドもリトアニアも共に中欧と北欧の橋渡しをするバルト海諸国理事会に加盟しているにもかかわらず、バルト三国の他国とともに北欧理事会への加盟希望の表明をしている。これはエストニアとラトビアが北欧との関係が深い事もあるが、近代はそれにリトアニアも含まれ、三国が共同歩調を取って親米・親西欧の経済・外交政策を展開している事も影響している)が、2004年の欧州連合(EU)加盟と2008年からの世界金融危機によるリトアニアの経済危機・財政危機と、金融危機の影響を食い止めて景気後退を回避したポーランド経済の力強い発展と安定した財政力を受けて、リトアニアのポーランドに対する敵対的な態度は近年になって徐々に変わりつつある、と言われる。 =ニカラグア事件= ニカラグア事件(ニカラグアじけん、英語:Nicaragua Case、フランス語:Affaire Nicaragua)は、ニカラグアに対する軍事行動などの違法性を主張し、1984年4月9日にニカラグアが違法性の宣言や損害賠償などを求め、国際司法裁判所(ICJ)にアメリカを提訴した国際紛争である。1986年6月27日に本案判決が下されICJはアメリカの行動の違法性を認定したが、結局アメリカの賠償がないままニカラグアの請求取り下げを受けてICJは1991年9月26日に裁判終了を宣言した。 国家間の武力紛争の合法性が裁判の場で争われることは稀であり、中でも本件のICJ判決は国際法上の集団的自衛権行使のための要件や武力行使禁止原則の内容について初めて本格的な判断がなされたリーディングケースといえる判例である。しかしニカラグアへの損害賠償などを命じたICJの判決をアメリカは履行せず、その上判決履行を求めてニカラグアが安保理に提訴するも再度アメリカの拒否権行使によって否決されたなど、本件でICJは裁判所として紛争解決の機能を果たすことができなかったとする批判もある。 ==背景== ===アメリカの対中米政策=== 1959年のキューバ革命の成功により中米地域は冷戦下の東西対立構造の中に組み込まれていくことになり、この地域においては親ソ勢力を排除することがアメリカの政策上の柱となった。特に反米的な勢力が政権の座についたり、そのような可能性がある場合にはアメリカはこの地域に対して軍事力を行使することすらためらわなかった。こうしたアメリカの動きは、例えばソ連のキューバにおけるミサイル配備計画の発覚(キューバ危機)に続くキューバ敵視政策、1965年のドミニカ共和国占領、1983年のグレナダ侵攻などにみられる。ニカラグア革命後のニカラグアに対しても同様に、アメリカは親ソ勢力排除を目的とした介入をおこなった。 1979年、ニカラグアを43年間にわたり支配してきたソモサ政権が武力により反政府組織サンディニスタ民族解放戦線に打倒され、新たな左翼政権が樹立された(ニカラグア革命)。アメリカ合衆国は経済援助を行うなど新政権に対して当初友好的であったが、新政権は西側諸国との関係を築いていく一方でキューバをはじめとする共産圏との関係も緊密にしていった。1981年に発足したアメリカのレーガン政権はサンディニスタ民族解放戦線が周辺諸国の反政府組織に武器弾薬などの供与し、ニカラグアがソ連の米州進出や麻薬取引・テロリズムの拠点になっているとの理由でこれを米州全体の脅威とし、経済援助を停止して次第にニカラグアの反政府武装組織コントラを支援するようになった。コントラはホンジュラスやコスタリカとの国境地帯に基地を設けて活動し、1980年代半ばには約1万5千人の兵力を有するほどまでに拡大した。 ニカラグアが後に国際司法裁判所に主張したところによると、アメリカはコントラの人員募集、武器供与、訓練など行いニカラグアを攻撃させてニカラグア市民に損害を与えたほか、中央情報局(CIA)の職員がニカラグアの港湾施設に機雷を敷設して第三国の船舶にまで損害を与えたり、空港や石油施設への攻撃、偵察飛行や領空侵犯を行ったという。1984年3月、ニカラグアはアメリカによる一連の行動を「侵略」であると主張し、国連安保理に提訴しアメリカを非難する決議案を提出したが、この決議案は4月4日の安保理理事会にてアメリカの拒否権行使によって否決された。この決議案に対しては反対票を投じたアメリカと投票を棄権したイギリスを除き、すべての理事国が賛成票を投じていた。 ===ニカラグアによる提訴=== ニカラグアは「アメリカがニカラグアに対し武力行使と内政干渉を行い、ニカラグアの主権、領土保全、政治的独立を侵害し、国際的に受け入れられた国際法の基本的原則に違反している」と主張し、1984年4月9日にアメリカを国際司法裁判所(ICJ)に一方的に提訴した。またニカラグアは提訴に際して仮保全措置を申請した。仮保全措置命令とはICJ規程第41条に基づき訴訟当事国の利益を保護するために裁判所が暫定的に指示する措置のことであり、当事国の権利が本案に関する判決を待っていたのでは回復不能なほどに侵害されるおそれがある場合になされる。本件でニカラグアが請求した仮保全措置の内容は以下の通り。 アメリカが、ニカラグアに対する軍事的・準軍事的活動を行う者に対する援助を即座に中止すること。アメリカ軍やアメリカ合衆国当局によるニカラグアに対しての軍事的・準軍事的活動を中止し、ニカラグアに対する武力による威嚇、武力の行使を即座にやめること。アメリカは本件を審理する管轄権がICJにないため仮保全措置命令を下す権限もないと主張したが、ICJはアメリカの主張を認めず1984年5月10日に仮保全措置命令を下し、アメリカに対して特に機雷を敷設するなどニカラグアの港湾への出入りを危険にさらす行動を控えること、そして両国に対しさらなる事態の悪化をまねくような行動を慎むこと、を命じた。しかし1985年にニカラグアに対する経済封鎖政策を開始するなど、結局アメリカがこの命令に従うことはなかった。 ==先決的判決== 国際司法裁判所(ICJ)に限らず、国際裁判において当事者(通常は被告)が事件の本案に先立って予備的に議論すべき事柄であるとして、本案の審理を阻止するために行う抗弁を先決的抗弁という。この先決的抗弁は大きく2つに分類され、その事案について裁定する権能が裁判所にあるかどうかを争う抗弁を管轄権に対する抗弁といい、訴えの利益を欠くなど訴訟の本案以外の理由で原告の請求を受理しないと裁定すべきとする抗弁を請求の受理可能性に対する抗弁という。本件において被告国アメリカは、管轄権に対する抗弁と受理可能性に対する抗弁との双方を含む広範にわたる事項に関して先決的抗弁を行い本案の審理へと進むことを阻止しようとしたが、ICJは1984年11月26日の判決でアメリカの抗弁を却下し、1986年6月27日の本案判決へと進むことを決定したのであった。ここでは1984年11月26日の先決的判決について概観する。 ===管轄権=== 国家間の国際紛争が付託される場合、ICJの管轄権は基本的に紛争当事国間の合意の存在を前提としている。紛争当事国が紛争発生後に合意を取り交わしICJに付託する方式もあるが、本件でニカラグアが主張したICJの管轄権は両国間の強制管轄受諾宣言や紛争発生前の両国間合意(友好通商航海条約第24条第2項)に基づくものであった。アメリカはICJの管轄を否定する抗弁を行ったが、ICJはこれをすべて退け本件に対する自らの管轄権を肯定した。 ===強制管轄受諾宣言=== 国際司法裁判所規程第36条第2項によると、各国は法律的紛争について、同一の義務を受諾する他国との関係において、特別の合意を成すことなしにICJの管轄権を義務的なものとして受諾する旨を宣言することができる。これを強制管轄受諾宣言、または選択条項受諾宣言という。ここでいう法律的紛争として具体的に規程第36条第2項には、条約の解釈、国際法上の問題、国際義務の違反となるような事実の存在、損害賠償の性質または範囲、が規定される。強制管轄受諾宣言は一定の範囲内でICJの義務的管轄を除外することも合わせて宣言される(これを「留保」という)ことが多く、宣言を行っている国の間では、互いに同一の義務を受諾する旨が宣言されている範囲内においてのみICJの強制管轄権が発生する。以下にニカラグアとアメリカの宣言を引用する。 私はニカラグア共和国を代表し、常設国際司法裁判所の管轄が無条件に強制的であることを認める。 (中略)ただし、この宣言は次のものには適用されない。 (略)判決によって影響されるすべての条約当事国が裁判所に提起された事件の当事者である場合(中略)を除き、多国間条約の下で生ずる紛争この宣言は5年の効力期間を有し、その後はこの宣言を終了させる通告がなされた後、6箇月が満了する時まで効力を有する。 ニカラグアによる1929年の宣言はICJではなく常設国際司法裁判所(PCIJ)の強制管轄を受諾する宣言であったが、ICJ規程第36条第5項により、戦後設立されたICJの強制管轄受諾国とみなされるとニカラグアは主張した。この点を含めアメリカはICJには本件を審理する管轄権がないことを主張したが、ICJは以下のようにこれを退けたのである。 上記のようにICJは常設国際司法裁判所(PCIJ)の強制管轄受諾国としてのニカラグアの地位を否定したが、ニカラグアが批准書を寄託していなかったにもかかわらず、戦前のPCIJの強制管轄をICJが継承する旨を定めたICJ規程第36条第5項によりニカラグアの宣言が拘束力を生じたとする多数意見の論理展開は批判されることも少なくなく、実際に先決的判決に反対した5名の裁判官もこの点を指摘している。 ===友好通商航海条約=== ニカラグアは両国の強制管轄受諾宣言とともにICJの管轄権の基礎として、1956年に結ばれた両国間の友好通商航海条約の第24条を援用した。特定の条約の中に紛争解決手段としてICJに付託すること定めた条項を挿入したものを裁判条項といい、ICJの管轄権の基礎として強制管轄受諾宣言に加えてこうした裁判条項を併せて原告国が主張することは少なくない。このような二国間条約における裁判条項の場合、二国間条約が締結される点で両国間関係は友好的であるか、または条約が締結された時点で将来生じうる両国間紛争についてある程度見通しが立っていることが多いため、管轄権に関する抗弁がなされることは少ないが、本件においてはICJの管轄権の基礎として原告国ニカラグアが主張した両国間条約における裁判条項に対しても被告国アメリカはそれを否定する主張をした。以下にニカラグアが援用した両国間条約の裁判条項を引用する。 この条約の解釈又は適用に関する締約国間の紛争で外交によって満足に調整されないものは、締約国が他の平和的手段による解決について合意しない限り、国際司法裁判所に付託される。 ― アメリカ・ニカラグア間の1956年友好通商航海条約第24条第2項 ニカラグアはアメリカによる軍事的・準軍事的活動が同条約に違反していると主張するとともに、上記第24条第2項を援用してニカラグアが同条約上の義務違反を主張する場合にはICJの強制管轄が生じると主張した。アメリカはこの点に関しても、ニカラグアは提訴の段階で友好通商航海条約に言及していなかったのであって審理が開始されてからこれを追加することは認めるべきではない、と抗弁したが、ICJは、提訴の段階で当該条約に言及しなかったとしても審理の段階でその条約を援用することが禁止されるわけではない、としてアメリカの抗弁を退けた。 ===受理可能性=== 「進行中の武力紛争」に関するアメリカの抗弁は、直接的にアメリカは言及こそしなかったものの政治的性格の強い紛争(政治的紛争)に関する請求の受理可能性を争うものであり、従来からICJでこのような先決的抗弁が主張されることは少なくない。ICJは紛争の政治性を理由に請求の受理可能性を否定することに対しては極めて消極的であり、紛争に政治的側面と法律的側面の双方があったとしてもそのうちの法律的側面を扱うことでICJの司法的機能を果たすことができるとする見解をICJは従来から示している。 ==アメリカの出廷拒否と欠席裁判== 1985年1月18日、アメリカは1984年11月26日の先決的判決を不服とし以下のような声明を発した。 アメリカ合衆国は、裁判所の判決が法や事実に照らし疑いの余地もなく明白に誤りであると結論せざるをえない。陳述書や口頭陳述ですでに述べたように、裁判所に本件を審理する管轄権はなく、また1984年4月9日のニカラグアの請求は受理不能であるとの見解をアメリカ合衆国は堅持する。したがってアメリカ合衆国は今後本件に関するいかなる手続きにも参加する意思はなく、ニカラグアの訴えに関する裁判所のいかなる決定に対してもアメリカ合衆国は同国の権利を留保する。 アメリカはこの声明以降本件の審理には参加しなかった。ICJ規程第53条により、ICJは管轄権の存在と原告国の請求の根拠とを確認すれば、当事者の一方が出廷しない場合であっても裁判を行うことができる。ICJが設立されて以降当事国が出廷を拒否したまま裁判が行われたのは、1974年のアイスランド漁業管轄権事件判決におけるアイスランド、同年の核実験事件判決におけるフランス、1980年の在イランアメリカ大使館員人質事件判決におけるイランに続き、本件で4例目であった。しかし本件におけるアメリカの態度は、先決的判決の審理に参加しておきながら自国に不利な判決が下された段階で審理不参加を決定したという点で、前述の3カ国の態度とは性質が異なる。その後アメリカは自国の強制管轄受諾宣言を終了させる旨を通告し、この宣言終了は1986年4月7日に発効した。さらにアメリカはニカラグアが本件を審理する管轄権がICJにあることの根拠として援用した1956年友好通商航海条約を破棄し、この破棄は1986年5月1日に発効した。しかしこれらのアメリカの行動は、すでに成立している管轄権に影響を及ぼすものではないとし、ICJは審理を継続した。 ==本案判決== ===適用法規=== ICJは、アメリカがエルサルバドルなどのための集団的自衛権行使であったと主張していることから、ニカラグアによる米州機構憲章違反との主張に対して裁定を下せば米州機構憲章という多国間条約の締約国が影響を受けることになるとし、これら多国間条約に基づくニカラグアの請求を受理することはできないとしたが、ICJ規程第38条に基づく多国間条約以外の法源、特に慣習国際法の適用は妨げられないとした。ICJはアメリカの宣言にある多数国間条約をめぐる紛争をICJの強制管轄から除外する旨の留保(#強制管轄受諾宣言参照)の有効性を認めて国連憲章や米州機構憲章といった多数国間条約は本件の適用法規から除外されるとした上で、多数国間条約に規定されている規則と同じ内容の慣習国際法が存在するならば、それを本件に適用することは可能としたのである。つまり以下に説明する1986年6月27日の本案判決は、アメリカの行動が慣習国際法や両国間の友好通商航海条約などのような二国間条約に違反するかという点にのみ絞って判断されたものである。 ===内政干渉と武力行使=== ICJはアメリカの行動に関して以下のことを事実として認定した。 アメリカ大統領の指令を受けた中央情報局(CIA)の職員によって雇用された人員が、ニカラグアの港に機雷を敷設して損害を発生させたこと。アメリカの指揮・監督下において、アメリカ合衆国に雇用された人員が港湾施設、海軍基地、石油施設に攻撃をしたこと。ニカラグアの反政府武装組織コントラに対して大規模な資金供与、訓練、武装化、組織化を行ったこと。ただしコントラの行動すべてがアメリカの責に帰すわけではない。偵察飛行による領空侵犯と超音速飛行による衝撃波。ニカラグア国境付近における軍事演習。ニカラグア文民に対する発砲。ニカラグア政府役人の「無害化」を推奨した手引書『ゲリラ戦における心理作戦(英語版)』等を作成しコントラに供与したこと。ニカラグア船舶のアメリカへの寄港禁止やアメリカ国内の空港からのニカラグア航空機発着締め出しを含む全面的禁輸措置。先決的判決に際した抗弁の中で、アメリカはニカラグアに対する一連の行動をエルサルバドル、ホンジュラス、コスタリカに対するニカラグアの武力攻撃・ゲリラ支援に対応した集団的自衛権の行使であると主張していた。この点に関し本案判決多数意見は、ニカラグアの行動に関しても以下のことを事実として認定した。 1979年から1981年初頭にニカラグア領内からエルサルバドルの反政府団体に対して武器の流出があった。ただしそれ以降の反政府団体への支援などについてニカラグアの責任を認定するには証拠不十分。1982年から1984年にニカラグア領内からホンジュラスとコスタリカの領域への越境が行われた。しかしこの越境がニカラグアの責に帰す武力攻撃であったかどうかを決定するには証拠不十分。ニカラグアはアメリカの行動が2国間の友好通商航海条約の趣旨・目的を破壊するものであったと主張したため、ICJはアメリカの上記行動が同条約第21条が言うところの「本質的な安全保障上の利益を守るために必要な措置」に該当するかを審理した。ニカラグアの港湾や石油施設などへの攻撃、機雷の敷設といったアメリカの行動についてICJは、2国間条約の精神を破壊するものであったとの裁定した。特に機雷の敷設については、友好通商航海条約第19条が保障する航行や通商の自由を侵害するものであったとした。また禁輸措置など通商関係の一方的な破棄は2国間条約の趣旨・目的を無効にするとまでは言えないものの、条約上の義務に違反した措置であったと判断した。 国連憲章第51条は相手国からの「武力攻撃」が発生したことを自衛権行使のための要件としているが、ICJは国連憲章第2条第4項において明文化された「武力の行使」を禁止する武力行使禁止原則は慣習国際法上の原則と合致したものであるとして、慣習国際法上の「武力の行使」の概念を以下のように定義し、相手国による自衛権行使が容認される「武力の行使」と容認されない「武力の行使」とを区別した。 その上で、ニカラグアからエルサルバドルに対する武器の流入は、場合によっては国際法上内政不干渉の原則に反した違法な行為(上記表のB)であった可能性を指摘しながらも、直接の被害国ではない第三国が集団的な武力対応を行うことの対象となる行為、すなわち集団的自衛権を行使する対象となる行為(上記表のA)には該当しないとした。 以上を踏まえた上でICJは、集団的自衛権という権利が慣習国際法上の権利として確立していることについては認めたが、武力攻撃の犠牲国が自ら犠牲となった旨を宣言せず、なおかつ集団的自衛権を行使する国に対して犠牲国が援助要請をしていない場合に、集団的自衛権行使を容認する規則は慣習国際法上存在しないとし(右表「個別的および集団的自衛権行使の要件」も参照)、エルサルバドルは援助要請を行ったもののそれはエルサルバドルが本件訴訟への参加要請を行った1984年8月15日のことであって、これはアメリカによるニカラグアに対しての一連の行動よりもはるかに後のことであり、ホンジュラスとコスタリカに至っては援助要請を行っていないと指摘した。さらに自衛権行使のためには武力攻撃に反撃する必要が存在するという必要性の要件と、反撃行為が相手国の武力攻撃と均衡のとれたものでなければならないという均衡性の要件が満たされなければならないと指摘し、アメリカのニカラグアに対する活動はこの2つの要件をも満たさないとして、正当な集団的自衛権の行使であったとしたアメリカの主張を多数意見は退けた。 この集団的自衛権に関する多数意見に対しては2名の判事が反対意見の中で批判を述べた。アメリカ出身の判事シュウェーベル(英語版)は「侵略の定義に関する決議」を引用しながら、ニカラグアのエルサルバドルへの非正規軍派遣などの活動は「武力攻撃」に該当するものであり、アメリカの集団的自衛権行使は正当なものであるとして多数意見を批判した。またイギリス出身の判事ジェニングス(英語版)は、国連憲章第7章による国際的平和維持が実効性を欠いている状況で、多数意見のように自衛権行使のため要件を必要以上に厳格に課すことは危険であるとして、多数意見を批判した。多数意見は国連憲章第51条に「固有の権利」と表記されていることを集団的自衛権が慣習国際法上の権利として確立していることの根拠とし、確かに学説上も集団的自衛権が慣習国際法上国家の権利として確立していたことは疑いの余地がないことであるが、その行使のための要件のうち、武力攻撃を受けた旨を被害国が表明することと、援助要請をすることという2要件が、当時の慣習国際法上確立していたとした点について十分な論証をICJは行っていないとする批判も学説上有力である。 ===損害賠償=== ニカラグアは本案判決に続く手続きにおいて賠償額をICJが決定することを求めたが、暫定的に直接的な損害として3億7020万ドルの支払いを命じる判決を求めた。ICJは慣習国際法と1956年友好通商航海条約に違反したことによりアメリカはニカラグアに対して損害賠償の義務を負うとしたが、当事者間の交渉による解決を妨げるような行動をICJは差し控えるべきであるとし、本案判決において示された紛争の平和的解決に関する諸原則を想起したうえで両当事国に対して協力することを求めた。そしてもし両当事国が損害賠償の性質と総額について交渉により合意に至ることができない場合には、本案判決に続く手続きにおいてICJが賠償額等を決定するとした。ニカラグアは1987年9月7日にICJに対して賠償額を決定するための手続き開始を求め112億1600万ドルの賠償を申し立てたが、アメリカはこれにも応じなかった。 ===各判事の賛否=== ==アメリカの判決履行拒否== 1986年7月11日、ニカラグアは国連安保理に対して1986年6月27日の本案判決履行を求める決議採択を提案した。しかし安保理常任理事国のアメリカが拒否権を行使したことにより、判決履行を求める決議案は否決された。同年8月21日にもニカラグアは安保理に対して同趣旨の提起を行ったが、やはりアメリカの拒否権行使によって安保理での決議採択はならなかった。アメリカの判決不遵守問題は国連総会でも審議され、1986年から1989年にかけて以下のように判決の遵守を求める決議が4度採択された。 日本語訳:総会は(中略)「対ニカラグア軍事・準軍事活動」事件に関する1986年6月27日の国際司法裁判所判決を、国際連合憲章の関連する規定にも適合した形で即時かつ完全に遵守することを緊急に求める。原文:The General Assembly(中略) Urgently calls for full and immediate compliance with the Judgment of the International Court of Justice of 27 June 1986 in the case of ”Military and Paramilitary Activities in and against Nicaragua” in conformity with the relevant provisions of the Charter of the United Nations ― 国連総会決議41/31、同42/18、同43/11、同44/43、以上4決議に共通する一文を抜粋。 しかしすべての国際連合加盟国対して法的拘束力を生じる安全保障理事会の決定と違い、基本的に国連総会決議は勧告としての機能を持つにしか過ぎず、結局アメリカは判決遵守を求める総会決議をすべて無視した。 国連憲章第94条第2項によれば、本件におけるアメリカのように一方の当事者がICJの判決を履行しない場合には、もう一方の当事者は国連安保理に提訴することができるとされている。しかし国連憲章第7章に基づいた強制措置に関する安保理の決定に対しては常任理事国の拒否権が作用するため、本件のように常任理事国が判決に従わない場合に安保理の強制措置が発動する可能性は極めて低い。実際には本件のようにICJの判決が履行されなかったケースは稀でICJ判決は自発的に履行される場合がほとんどではあるが、そのように判決が履行されるのは紛争発生後に当事国が裁判に付すことに合意した場合であって、本件のように紛争発生後に被告国の同意を得ずに紛争発生前の事前合意に基づいて手続きが進められた国際裁判では、被告国が判決に従わない場合がほとんどであるとする研究もある。1986年6月27日の判決を無視するアメリカの態度に鑑みて、ICJの判決には法的拘束力がない、などと報道されたこともある。国家権力が判決を強制的に履行させる国内裁判と比較すると、確かに本件ICJ判決は異質なものといえる。現代の国際社会は並立する複数の主権国家からなり、世界政府、世界軍、などといった国家の上に立つ権威は存在せず、その国家が当事者となるICJの裁判手続きは国内法で言うところの民事手続きに近いが、そのようなICJの裁判手続きにおいてまるでアメリカの刑事責任を追及したかのような、本件判決のような判断を実践することが果たして現実的に可能であるのか、疑問視する意見もある。結局のところICJは本件において裁判所としての任務である「紛争解決機能」果たすことができなかったとの批判もある。他方で自国の立場を国際世論に訴える意味では、大国による武力行使の違法性をICJ判決が認定したこと自体にニカラグアにとっては政治的な意味があるとする見方もある。そうした立場では「紛争解決機能」だけではなく「法宣言機能」もまた裁判所の任務のひとつであるとし、このニカラグア事件判決についても武力行使に関する国際法の内容について初めて本格的な判断がなされたという点で評価する見解も存在する。 ==裁判終了== 1984年以降、コントラの活動によって生じた物的損害は2億5000万ドルにも上り、1万3000人の死傷者を出した。またこのような直接的損害だけでなくニカラグア国内では経済状況も悪化していった。GDPの成長率は1984年以降マイナスに転じ失業率は20パーセントを超えた。1985年にはインフレ化が進み、1984年に35.4パーセントだったインフレ率は翌1985年には219.5パーセント、1986年には681.6パーセント、1987年には1,100パーセントと急激に上昇していった。こうしたニカラグア国内経済への悪影響もコントラの活動に起因するものといえる。こうした危機的状況下でサンディニスタ政権は超緊縮政策をとらざるをえず、その結果ニカラグア国民の反感をかった。一方でアメリカでは、中米における紛争への介入に反対するアメリカ国内世論をうけ、1987年に議会がコントラへの援助停止を決定した。こうしたニカラグア国内の疲弊やアメリカのコントラに対する態度の変換から、両国の対立関係は次第に変化していく。1990年にニカラグアで行われた総選挙ではアメリカが支持する反体制国民連合(英語版)が圧勝して同年2月25日にビオレタ・チャモロが大統領に選出され、4月19日にはサンディニスタ民族解放戦線とコントラの間で停戦協定が成立し、コントラの武装解除や政府軍の兵力縮小が行われた。ICJは1987年9月7日のニカラグアによる損害賠償額算定手続き開始の請求(#損害賠償参照)をうけて一旦手続きを開始したが、1991年6月5日にニカラグア議会(英語版)はアメリカに賠償を要求することを定めたニカラグア国内法を廃止する法案を可決、前記のようにアメリカの支持のもと成立したニカラグアの新政権は1991年9月12日にICJに対し本件請求の取り下げを通告し、同年9月26日にICJは裁判終了を宣言する命令を下した。 =ハインズ・ウォード= ハインズ・ウォード(Hines E. Ward, Jr. , 1976年3月8日 ‐ )は、韓国出身の元アメリカンフットボール選手。現役時代はピッツバーグ・スティーラーズに所属していた。ポジションはワイドレシーバー(WR)。プロボウル選出4回の実績を持ち、第40回スーパーボウルではMVPに輝いている。アフリカ系アメリカ人の父と韓国人の母との間に生まれたハーフ(アメラジアン、コリアンアメリカン)である。ソウル特別市名誉市民。 ==経歴== ===高校時代まで=== 1976年3月8日、大韓民国のソウル特別市で、アフリカ系アメリカ人で軍人の父と韓国人の母との間に生まれる。人種差別を避けるため、生後5ヶ月で家族と共にアメリカ合衆国ジョージア州フォレストパークに移住。後に、ウォードは「当時の韓国は、他の人種と一緒に住むことを容赦できない雰囲気だった。母は私と父のために韓国を出た」と語っている。しかし、渡米後間も無く両親は離婚。母親の手により育てられた。地元のフォレストパーク高校(Forest Park High School)へ進学したウォードは、クォーターバック(QB)として才能を発揮し,USAトゥデイが選ぶオールアメリカンにも選ばれた。 ===大学時代=== ジョージア大学にカレッジフットボールの奨学生として進学したウォードは、ワイドレシーバー(WR)としてのキャリアを開始する。大学時代には通算で144のレシーブを決め、1,965ヤードを獲得した。これはジョージア大学のWRとしてはチーム史上2位の記録である。また、ランニングバック(RB)やクォーターバックとしても活躍し、トータルで3,870ヤードを獲得。これもハーシェル・ウォーカーに次いでチーム史上2位の記録となっている。在学中に経済学の学位を取得している。 ===ピッツバーグ・スティーラーズ=== 1998年のNFLドラフト3巡目(全体92番目)でピッツバーグ・スティーラーズに指名され、入団。幼少期の事故が原因の前十字靭帯の古傷がNFLのスカウト陣から嫌われ、指名順位はウォードの実力からすると低いものになった。しかし、全て途中出場ではあったものの、ルーキーイヤーから全試合に出場する活躍を見せる。2年目からは先発WRのポジションを掴み取り、14試合に先発して61レシーブで638ヤードを稼いだ。 2001‐2002シーズンには、94回のレシーブで1,003ヤードを稼ぎ、初の1,000ヤードレシーブを達成。同年にプロボウルに初選出される。以後、4年連続で1,000ヤードレシーブを達成すると共に、プロボウルにも4年連続で選出され、リーグを代表するWRとしての地位を確立していく。2005年には新たに5年総額2750万ドルでスティーラーズと契約延長。2005‐2006シーズンでは、新人からの連続試合出場が途切れ、1,000ヤードレシーブにも僅かに届かなかったものの11月27日のクリーブランド・ブラウンズ戦で538回目のキャッチを達成、これまでジョン・ストールワースが持っていたチーム記録を更新した。チームは2年目のQBベン・ロスリスバーガーの大活躍もあり、スーパーボウルに進出。 2006年2月5日に行われた第40回スーパーボウルでは、出場選手中トップの5レシーブで123ヤードを獲得。第2Q終盤には逆転TDへとつながる37ヤードレシーブ、第4Qには試合を決定付ける貴重な追加点となる43ヤードTDパスレシーブを決めるなど、要所での活躍が光り、アジア系として初のMVPに選出された。ウォードのMVP受賞は、生まれ故郷である韓国でも大きく報道され、英雄的扱いを受けた。 スーパーボウル制覇後の2シーズンは、いずれも全試合出場はならなかったが、2008‐2009シーズンは、4シーズンぶりに全16試合出場を果たし、レシーブ81回、4シーズンぶりの1,000ヤードレシーブとなる1,043ヤード、7TDをマーク。サントニオ・ホームズ、ネイト・ワシントンと共に強力WR陣を形成し、チームを3年ぶりのスーパーボウルに導いた。ボルチモア・レイブンズとのカンファレンス・チャンピオンシップで右ひざを痛め途中退場するアクシデントがあったものの、第43回スーパーボウルには強行出場してチームを牽引、3年ぶりの王座奪還に貢献した。シーズン終了後、スティーラーズと4年総額2200万ドルで契約を延長。2012‐2013シーズンまでの在籍が決まり、スティーラーズ一筋のまま現役を終える可能性が高くなった。 2009年9月28日のシンシナティ・ベンガルズ戦で、スティーラーズのWR史上初となる通算10,000ヤードレシーブを達成。 2010年11月14日のニューイングランド・ペイトリオッツ戦の第1Qに相手のヒットを受けた際、脳震盪を起こし退場、再びその試合に戻ることなくレシーブの連続記録はNFL歴代3位の186試合で止まった。 2012年2月にチームより解雇を宣告され、3月20日に記者会見を開き、引退を発表。他チームへの移籍も考えたようだが、スティーラーズでキャリアを終えることを選択した。 ===現役引退後=== 2013年4月、NBAの現役選手であるジェイソン・コリンズが同性愛者であることを告白した際、多くのNBA選手やNFL選手が支持を表明した中、NFLでは同性愛者が受け入れられる準備はできていないだろうとコメントした。 ==選手としての特徴== スティーラーズ一筋の現役生活でチーム歴代1位のレシーブ954回、11,702ヤード、83TDレシーブ(2010シーズン終了時点)を記録しているチームの顔とも言うべき存在である。183cmというWRとしては大柄とはいえない体格ながら、タフで恐れ知らずのプレイスタイルであり、一度ボールを捕球すると、RBのような走りを見せる。また、ゾーンディフェンスに対してノーマークになる術に長けている。 卓越したレシーブ力に加え、ブロッカーとしてもリーグ屈指のWRと評価されている。リーグ有数のハードブロッカーとして知られ、度々リーグから罰金処分を受けている。後述の「ハインズ・ウォード・ルール」制定のきっかけともなった。ウォードのハードヒットを嫌う対戦相手も多い。ウォード本人も、自分が守備陣に対して特に当たりの強い攻撃プレイヤーであることは認めているが、今後もプレースタイルを変えるつもりがないことを明言している。 2006年のプレシーズンにESPNがNFL選手361人の投票により最も汚いプレーをする選手は誰かという調査をした際、4%の票を集めた。 2011年に米誌『スポーティング・ニューズ』においてNFLで最もダーティーだと思う選手は誰かというアンケートの結果、第5位になった。 ==特筆== ===韓国系としてのアイデンティティー=== 幼少期に両親が離婚したため、韓国人の母親の手によって育てられたウォードは、自らを「ハーフ・コリアン(半分は韓国人)」と表現し、腕にハングルで「ハインズ・ウォード(*11951**11952**11953* *11954**11955*)」という入れ墨を入れるなど、韓国系であることを誇りに思っている。しかし、元々韓国内で根強い人種差別を避けるために家族でアメリカに移住したという過去を持っており、アメリカ移住後も韓国系コミュニティからは、片親が韓国人ではないという理由で差別を受けたという。ウォードは少年時代にアジア系との混血であることで周囲からからかわれ、韓国系であることを恥じていたと回想しているが、母と一緒に居る姿を黒人の友達に見られるのを嫌がって顔を隠したウォードに対し、車で迎えに来た母が涙を流して「お前はもうお父さんと暮らしなさい。そのほうがお前にとって幸せなのよ」と語って以来それまで口にしなかった韓国料理を積極的に食すようになり、友達を家に招いてカルビを振舞うなど、韓国系であることを隠さず、むしろ誇りにするようになった。 2006年4月には母と一緒に生まれ故郷である韓国を訪問し、盧武鉉大統領とも対面。ソウル市からは名誉市民権を授与された。しかし、この韓国訪問で、韓国での混血児に対する深刻な人種差別(混血児の半数が職に就けない)を目の当たりにしたウォードは、「韓国は美しい国だが、混血児は入隊もできず、スポーツをしてもチームメートのいじめに遭う国」だという感想を地元ピッツバーグのメディアに述べている。生まれ故郷訪問をきっかけに、より一層混血児支援事業に力を注ぐことを決意したというウォードは、韓国の混血児童を支援する『ヘルピング・ハンズ財団』を設立するなどして、精力的にチャリティ活動を行っている。 ===ハインズ・ウォード・ルール=== NFLでは、選手の安全性を確保するために、毎年のように細かなルール変更を行っているが、2009年3月にブロッカーが相手守備選手の死角からヘルメット、上腕部、肩を使って、頭部と首にタックルすることが禁止され、これを犯すと15ヤードの罰退となった。このルール改正のきっかけとなったのがウォードであった。2008‐2009シーズンの対シンシナティ・ベンガルズ戦において、ベンガルズの新人ラインバッカー(LB)キース・リバースに対し、ウォードが死角から激しいブロックを行った結果、リバースは顎を複雑骨折、残りのシーズンを棒に振ってしまった。新ルールは制定のきっかけとなったウォードの名を冠して「ハインズ・ウォード・ルール」と呼ばれるようになった。ウォードは自身の名前がついた新ルール制定に対して「おかしな話だよ」と語り、不満を露にしている。 ==年度別成績== (2010‐2011シーズン終了時点) ===記録・表彰=== スーパーボウル制覇:2回 (第40回、第43回)スーパーボウルMVP:1回(第40回)プロボウル選出:4回 (2001年 ‐ 2004年) =ヒューストン= ヒューストン(Houston)は、アメリカ合衆国テキサス州南東部に位置する都市。2,099,451人(2010年国勢調査)の人口を抱えるテキサス州最大、全米第4の都市である。ハリス郡を中心に9郡にまたがるヒューストン都市圏の人口は5,920,416人(2010年国勢調査)にのぼる。市域面積は1,500kmにおよび、市郡一体の自治体を除くとオクラホマシティに次ぐ全米第2の広さである。 このようにヒューストンは工業都市・ビジネス都市としてのイメージが強い都市であるが、文化水準の高い都市でもある。ダウンタウンの南側には10以上の博物館・美術館が建ち並び、年間700万人の訪問者を呼び寄せるミュージアム・ディストリクトがある。ミュージアム・ディストリクトに隣接するエリアには、全米の総合大学の中で常にトップ25位以内の高評価を受けている名門私立大学、ライス大学のキャンパスが広がっている。一方、ダウンタウンの中心部に位置するシアター・ディストリクトはヒューストンにおける演技芸術の中心地で、演劇のみならず、オペラ、オーケストラ、バレエなど多彩な演技芸術の公演が行われている。 ジョンソン宇宙センターの存在から、ヒューストンには1967年にSpace City(宇宙の街)という公式な別名がつけられた。地元住民はこのほか、Bayou City(バイユーの街)、Magnolia City(マグノリアの街)、H‐Townなどと呼ぶこともある。 ヒューストンは1836年8月30日にオーガストゥス・チャップマン、ジョン・カービーのアレン兄弟によってバッファロー・バイユーの河岸に創設された。市名は当時のテキサス共和国大統領で、サンジャシントの戦いで指揮を執った将軍、サミュエル・ヒューストンから名を取って付けられた。翌1837年6月5日、ヒューストンは正式に市制施行された。19世紀後半には海港や鉄道交通の中心として、また綿花の集散地として栄えた。やがて1901年に油田が見つかると、市は石油精製・石油化学産業の中心地として成長を遂げた。20世紀中盤に入ると、ヒューストンには世界最大の医療研究機関の集積地テキサス医療センターやアメリカ航空宇宙局(NASA)のジョンソン宇宙センターが設置され、先端医療の研究や航空宇宙産業の発展が進んだ。古くからこうした様々な産業を持ち、フォーチュン500に入る企業の本社数がニューヨークに次いで多いヒューストンは、テキサス州のみならず、成長著しいサンベルトの中心都市の1つであり、アメリカ合衆国南部のメキシコ湾岸地域における経済・産業の中枢である。また、全米最大級の貿易港であるヒューストン港を前面に抱え、ユナイテッド航空(旧・コンチネンタル航空)のハブ空港であるジョージ・ブッシュ・インターコンチネンタル空港を空の玄関口とする、交通の要衝でもある。また、日本を含む世界86ヶ国が領事館を置く世界都市でもある。 ==歴史== 1836年8月、ニューヨークの不動産起業家、オーガストゥス・チャップマン・アレンとジョン・カービー・アレンの兄弟はバッファロー・バイユー周辺のこの地に都市を創設すべく、6,642エーカー(約27km)の土地を購入した。サンジャシントの戦いで名を馳せた将軍で、その年の9月にテキサス共和国の大統領に選出されたサミュエル・ヒューストンの名を取って、アレン兄弟はこの都市をヒューストンと名付けることを決定した。ヒューストンは翌1837年6月5日に市制を施行し、ジェームズ・サンダース・ホルマンが初代市長に就任した。またその年、ヒューストンはテキサス共和国の暫定首都、およびハリスバーグ郡(現ハリス郡)の郡庁所在地となった。1840年、バッファロー・バイユーに建設された新しい海港における貨物の積降や水上交通のビジネスを活性化させるため、ヒューストンには商業局が設置された。 1860年頃には、ヒューストンは綿花の集積地・輸出拠点として栄え、商業や鉄道交通が発展した。テキサス州内陸部各地からの鉄道はヒューストンで合流し、ガルベストンやボーモントの港へと通じていた。南北戦争中、ジョン・B・マグルダー将軍はガルベストンの戦いにおいてヒューストンを隊の集合地とし、市内には同将軍の司令部が置かれた。南北戦争が終結すると、ヒューストンの実業家たちは市の中心部とガルベストン港との間での商業を活性化させるため、イニシアチブを取ってバイユー網の拡張に努めた。 1900年にガルベストン・ハリケーンが上陸してガルベストンの港町が壊滅的な被害を受けると、内陸のヒューストンにより安全な、水深の深い、近代的な港を造る機運が高まった。翌1901年、ボーモントの近くのスピンドルトップ油田で石油が見つかると、ヒューストンでは石油産業が興った。さらにその翌年、1902年には、当時の大統領セオドア・ルーズベルトがヒューストン港の運河、ヒューストン・シップ・チャネルの整備費用100万ドル(当時)の計上を承認した。掘削に7年の歳月を費やした後、1914年、大統領ウッドロウ・ウィルソンはヒューストン港を開港した。1930年には人口292,352人を数え、サンアントニオとダラスを抜いてテキサス州最大の都市になった。 第二次世界大戦が開戦すると、ヒューストン港の貨物取扱量は減少し、積降は保留とされるようになった。しかし、戦争需要から市の経済はむしろ活性化した。戦時中の石油化学製品や合成ゴムの需要増加に対応するため、シップ・チャネル沿いには石油化学工場や製造工場が建設された。地元の造船業も増産し、市の成長を促した。経済成長をエリントン・フィールド空港は、もとは第一次世界大戦の最中に設置されたものであったが、航空士や爆撃手の上級訓練センターとして生まれ変わった。1945年、M.D.アンダーソン財団はテキサス医療センターを設置した。第二次世界大戦の終結とともに、ヒューストンの経済は再び港湾中心に戻った。1948年、近隣の所属未定地を合併したことにより、ヒューストンの市域はそれまでの2倍以上になり、地域全体にわたって広がり始めた。1950年代に入り、エアコンが普及し始めると、蒸し暑いヒューストンの夏も快適に過ごせるようになり、多くの企業がヒューストンに移転してきた。その結果、ヒューストンの経済は高度成長期を迎え、エネルギー産業を中心とした経済に移行していった。1961年には有人宇宙船センター(1973年にジョンソン宇宙センターに改称)が設置され、ヒューストンには航空宇宙産業が興った。 1970年代に入ると、北部のラストベルトから南部のサンベルトへの人口と産業の移動が始まり、ヒューストンの人口は急増した。1973年の第一次オイルショックで原油価格が高騰すると、大量消費型の製造業を中心としていた北部の工業都市が軒並み衰退する一方で、産油地であるヒューストンは潤い、石油産業を中心に創出された雇用を求めて大量の住民が移入してきた。しかし、1980年代中盤に入ると原油価格が暴落し、経済は沈滞、人口増加のペースも鈍化した。そこに1986年のチャレンジャー号爆発事故が追い討ちをかけ、航空宇宙産業も打撃を受けた。アメリカ経済そのものの低迷もヒューストンの地域経済に影響を及ぼした。その教訓から1990年代以降、ヒューストンは経済の多様化に努め、航空宇宙産業やバイオテクノロジーといったハイテク分野に力を入れることで石油化学産業への依存度を減らしてきた。 ==地理== ===地形=== アメリカ合衆国統計局によると、ヒューストン市の総面積は1,558.4km(601.7mi)である。そのうち1,500.7km(579.4mi)が陸地で57.7km(22.3mi)が水域である。総面積の3.70%が水域になっている。ダウンタウンの標高は約15mである。市の最高点はダウンタウンから遠く離れた北西部にあるが、それでも標高は約38mにとどまる。 ヒューストン地域の大部分はメキシコ湾西岸草原地帯に属する。その植生は亜熱帯性の森林および草原に分類される。市の大部分は森林、湿地、沼地、草原を切り開いて建設された。同じメキシコ湾岸の低湿地に位置するニューオーリンズほどではないものの、土地が低く平坦で、かつ市街地のスプロール化が進行しているヒューストンは、洪水の被害に見舞われやすい。かつては水道水源を地下水に頼っていたが、地盤沈下を引き起こしたため、ヒューストン湖やコンロー湖などの地表水を用いるようになった。 バイユー・シティの別名が示す通り、ヒューストン市内にはバイユーと呼ばれる小川がいくつも流れている。中でも最大のバッファロー・バイユーは、ヒューストン西郊のケイティに源を発し、ヒューストンのダウンタウンを東西に貫いて流れ、ヒューストン港のヒューストン・シップ・チャネルに注ぐ。ヒューストン・シップ・チャネルは南東へ続き、ガルベストンでメキシコ湾に注ぐ。 ===気候=== ヒューストンはケッペンの気候区分では温暖湿潤気候(Cfa)に属するが、実際には亜熱帯と呼ばれる、熱帯と温帯の中間にあたる気候である。春の雷雨は竜巻を伴うこともある。1年を通じて南から南西寄りの風が吹き、メキシコの砂漠地帯からの熱気とメキシコ湾からの湿気をヒューストンとその周辺地域にもたらす。 ヒューストンの夏の日中の気温は摂氏30度を上回ることが常である。過去の統計の平均では、最高気温が華氏90度(摂氏32.2度)を超える日は年間の約1/4、99日におよぶ。またヒューストンは湿度が高いため、体感気温はさらに上がる。夏の午前中の相対湿度は平均90%を超え、午後でも60%近くなる。海岸沿いの一部を除いて、夏季のヒューストン周辺の風は弱く、暑さや湿気が和らげられることもあまりない。この暑さに対処するため、ヒューストンの住民は市内の建物という建物、通行する車という車のほぼ全てでエアコンを効かせている。1980年には、ヒューストンは「地球上で最もエアコンを効かせている場所」と評された。ヒューストンにおける観測史上最高気温は2000年9月4日に記録した摂氏42.7度である 一方、ヒューストンの冬は温暖で、過ごしやすい日が続く。最寒月の1月においても、月平均気温は摂氏11度を超え、最高気温は摂氏17度、最低気温でも摂氏6度ほどである。降雪はめったに見られない。2004年のクリスマスイブには大規模な雪嵐がメキシコ湾岸を襲い、テキサス州南部は「記録的な」大雪に見舞われたが、その時もヒューストンにおける降雪量はわずか2.5cmであった。ヒューストンにおける観測史上最低気温は、1940年1月23日に記録された氷点下15度である。 ヒューストンの降水量は1年を通じて多く、年間では1,200‐1,300mm程度になる。夏季には散発的な雷雨が起こりやすく、ハリケーンや熱帯低気圧の通り道になることもよくある。2001年6月には、トロピカル・ストーム・アリソンがテキサス州南東部に1,000mmを超える豪雨を降らせ、ヒューストンは市史上最悪の洪水に見舞われた。アリソンによる被害総額は60億ドルを超え、死者はテキサス州だけで20名を数えた。2005年9月、ハリケーン・リタが接近したときには、ヒューストン市街地への直撃が懸念され、ヒューストンとその周辺地域の住民約250万人が避難した。リタ襲来の1ヶ月前にニューオーリンズに甚大な被害をもたらしたハリケーン・カトリーナの教訓から多くの住民が早目に避難したことに加え、実際にはリタの進路が東寄りにずれてテキサス・ルイジアナ州境付近に上陸し、ヒューストン市街地はハリケーンの左側半分(可航半円)に入ったため、ヒューストンにおけるリタの被害は、ハリケーンの規模の割には比較的軽微であった。ただし広範囲に避難勧告を出したため数十時間路上に滞在したり自家用車のガソリンが路上で切れたりなどの混乱を伴う極端な避難渋滞が発生し、後のハリケーン・アイクの際の避難計画策定や人々の避難行動に影響を与えた。2008年9月13日に南東郊のガルベストンに上陸したハリケーン・アイクは高潮によりガルベストン西部に壊滅的な被害を与え、ヒューストン周辺で35名以上の死者を出し、ヒューストンの広範囲に停電を引き起こした。市民生活に多大な影響があったが、避難勧告地域を限定したためハリケーン・リタの際に起こった避難渋滞による混乱は発生しなかった。 ===都市概観=== ヒューストン市内での位置は概ね、環状線I‐610の内側か外側かで分類される。I‐610の内側には業務・商業集積地が形成され、第二次世界大戦前に建てられた古い住宅が主に建っている。近年では、人口密度の高い、職住近接型の住宅地の再開発が進められている。I‐610の外側は郊外型の住宅地が広がっている。第2環状線となる州道環状8号線は、I‐610よりもおよそ8‐12km外側を走っている。この州道環状8号線のさらに外側に、ヒューストン都市圏第3の環状線となる州道99号線の建設が進められており、1994年に一部が開通している。 アメリカ合衆国内でゾーニング規定のない都市の中では、ヒューストンは最大の人口規模を抱える都市である。しかし、ヒューストンは他のサンベルト諸都市と同じようなしかたで発展してきている。ヒューストンにおいては、法的契約の付帯事項が都市計画において、民主度はやや低くなるものの、ゾーニングとほぼ同じような役割を果たしている。1948年、1962年、1993年と3度にわたって住宅地と商業地をわける試みがなされたものの、3度とも否決されている。そのため、市中心部に一極集中型のビジネス街が形成され、郊外に住宅地が広がるという形ではなく、市内の複数の地区が発展している。ダウンタウンには市最大のビジネス街が形成されているが、ダウンタウンの10km西、ヒューストンきっての高級住宅街であるアップタウンにも大規模なビジネス街が形成されている。このほか、ミッドタウン、エナジー・コリダー、グリーンウェイ・プラザ、ウェストチェースなど、住宅地と商業地、ないし工業地が混在する職住近接型の地区がいくつも形成されている。 ヒューストンのダウンタウンには、総延長約11kmにわたる地下トンネル通路が整備されている。この通路はダウンタウンのビルを結ぶもので、コーヒーショップやレストラン、コンビニエンスストアもある。この地下通路システムによって、通行者は夏の暑さや降雨を気にすることなく、ビル間を移動することができる。 ===建築物=== 1960年代、ダウンタウン・ヒューストンの建物はそのほとんどが中層オフィスビルであった。1970年代に入り、ヒューストンがエネルギー産業ブームに沸くようになると、建設ブームが起こり、矢継ぎ早に超高層ビルが建ち始めた。この時期に建てられた超高層ビルの多くは市内で不動産開発会社を営むジェラルド・D・ハインズが手がけたものであった。1982年には、高さ305.4m、75階建てのJPモルガン・チェース・タワーが完成した。JPモルガン・チェース・タワーはテキサス州で最も高いビルで、全米でも11位、全世界でも35位の高さである。翌1983年には高さ302.4m、71階建てのウェルズ・ファーゴ・バンク・プラザが完成した。2006年現在、ダウンタウン・ヒューストンのオフィススペースの総面積は約4,000,000mに及ぶ。 ポスト・オーク大通りとウェセイマー通りを中心としたアップタウンは、1970年代から1980年代初頭にかけて開発が進められ、環状線I‐610に沿って、主に中層のオフィスビルやホテル、小売店などが建ち並ぶようになった。アップタウン・ヒューストンは最も成功したエッジ・シティの一例となった。フィリップ・ジョンソンとジョン・バーギーの設計によるウィリアムズ・タワーは高さ274.6m、64階建ての超高層ビルで、アップタウンのランドマークになっている。1983年に完成した当時は、ウィリアムズ・タワー(当時の名称はトランスコ・タワー)は都市中心部以外に建つものとしては世界で最も高いビルであった。このほかにも、アップタウンにはイオ・ミン・ペイやシーザー・ペリなど、著名な建築家の設計による建築物が建ち並んでいる。1990年代から2000年代初頭にかけては、アップタウンには高層マンションがいくつも建った。この時期に建てられた高層マンションの中には30階建て以上のものもある。2002年現在、アップタウン・ヒューストンのオフィススペースの総面積は2,100,000mを超える。その質も総じて高く、総面積の7割以上にあたる1,500,000mはクラスAのオフィススペースである。 ==政治== ヒューストンは市長制を採っている。ヒューストンは特定の権限を委譲されている。ヒューストンを含め、テキサス州内においては、すべての市政選挙は党派を特定せずに行われる。ヒューストンの市政選挙で選ばれるのは市長、会計監査官、および14名からなる市議会の議員である。 2016年現在の市長はシルベスター・ターナーである。ヒューストン市長は市の管理者の長であり、最高責任者であり、公式な代表である。市長は市の全般的な管理業務、および法律・条令の施行に責任を負う。1991年の住民投票の結果により、ヒューストン市長の任期は2年と定められ、連続多選が認められるのは3選までとなった。1997年、リー・P・ブラウンが市長に就任し、ヒューストン市史上初の黒人市長が誕生した。 ヒューストン市議会議員選挙においては、市は9つの選挙区に分けられている。この9つの選挙区は、もともとは1837年にヒューストンが市制を施行した際の区が基になっている。各選挙区から1名ずつがまず当選となり、残る5議席はワイルドカードとして市全体から選出される。このシステムは、1979年にアメリカ合衆国司法省が義務付けたものが基になっている。現行の市の認可条件では、市域人口が210万人を超えたときには、市議会議員選挙の選挙区は2区増やされ、11区に改組されることになっている。 ==治安== ヒューストンの治安はヒューストン市警等いくつかの法執行機関によって守られている。ヒューストンは「犯罪都市」と呼ばれることこそないものの、その犯罪率は決して低くはない。殺人の発生率が高く、全米の人口250,000人以上の都市の中でワースト18位である。ヒューストンにおける2005年の犯罪発生件数を2004年と比較すると、非暴力的犯罪こそ2%減少しているものの、殺人発生件数は23.5%増加し、336件を数えた。その原因の1つとしては、ハリケーン・カトリーナで大被害を受けたニューオーリンズからの避難民がヒューストンに大量に流入したことが挙げられる。カトリーナの襲来後、2005年の11月・12月においては、前年度の同時期に比べて殺人発生率が70%増加している。 ヒューストンにおける2006年の殺人発生件数は379件、発生率は人口100,000人あたり17.24件で、2005年の16.33件より増加している。この人口100,000人あたり17.24件という数値は全米平均の約2.5倍にあたる。アメリカ合衆国内の他都市同様、ヒューストンはギャングがらみの犯罪にも直面している。1996年現在、ヒューストンには380のギャングが存在し、少年2,500人を含む8,000人が加わっている。 ==経済== ヒューストンはエネルギー産業、こと石油・天然ガス産業では世界的にその名を轟かせている。また生命医学分野や、航空・宇宙開発分野でもよく知られている。全米最大級の貿易港であるヒューストン港の運河、ヒューストン・シップ・チャネルの存在もヒューストンの経済に大きく寄与している。世界中の多くの場所とは違い、エネルギー産業に従事する住民の多いヒューストンでは、原油やガソリンの価格の高騰は経済に好ましい影響を与えるものであると見られている。 スーパーメジャーと呼ばれる6大石油会社のうち、4社がヒューストンに主要な業務拠点を置いている。オランダのハーグに本社を置くロイヤル・ダッチ・シェルの米国法人、シェル石油会社はダウンタウンのワン・シェル・プラザに本社を置いている。エクソンモービルは本社こそダラス・フォートワース複合都市圏のアービングに置いているものの、同社の上流部門と化学部門はヒューストンに置かれている。サンフランシスコ・ベイエリアに本社を置くシェブロンは、エンロンの本社ビルになる予定だった40階建てのビルを2003年に買収し、同社のヒューストンオフィスをそこに置いている。また、シェブロンの子会社であるシェブロンパイプラインの本社はヒューストンに置かれている。コノコフィリップスは本社をヒューストンに置いている。また、これら石油メジャーの存在だけでなく、ヒューストン都市圏には油田設備の設置やサービスを主事業とする企業も集中している。中には数千人から10,000人以上の従業員を抱える大企業もある。 こうしたヒューストンの石油産業・石油化学産業の中心地としての成功はヒューストン港の存在によるものが大きい。ヒューストン港は外国貨物取扱量全米一で、総貨物取扱量では南ルイジアナ港に次いで全米2位、全世界でも10位にランクされる大規模な貿易港である。 ヒューストン都市圏における2006年の地域総生産(Gross Area Product、GAP)は3255億ドルで、オーストリア、ポーランド、サウジアラビアなどの国内総生産(GDP)を若干上回る。全世界の国の中でも、ヒューストン都市圏のGAPを上回るGDPを有する国はアメリカ合衆国自身を除いて21ヶ国しかない。主に石油や天然ガスの生産による鉱業は、ヒューストンのGAPの11%を占めるが、1985年の21%からは大幅に減っている。オイルショック後の原油価格暴落による経済停滞の教訓から、ヒューストン地域経済は石油への依存度を減らしており、その分技術サービス、保健サービス、製造業など、産業の多様化を進めている。GAPに占める鉱業の割合の減少には、そういった傾向が如実に現れていると言える。 ヒューストンは全米10大都市圏の中で、雇用増加率では2位、名目雇用増加数では4位である。フォーブス誌による「ビジネスやキャリアアップに良い場所」のランキングでは、ヒューストンはテキサス州内で1位、全米でも3位につけている。ヒューストンにはアメリカ合衆国外の40ヶ国の政府が国際貿易・通商機関を置き、23ヶ国の商業局・貿易協会が現在活動している。また、アメリカ合衆国外10ヶ国の銀行20行がヒューストンに支店もしくは事業所を置き、地域内の外国人コミュニティに財務補助サービスを提供している。 ==医療== 国際的にその名を知られているテキサス医療センターはヒューストンにある。テキサス医療センターは世界最大級の医療研究機関の集積地である。テキサス医療センター内の45機関すべてが非営利団体である。これらの機関は治療、予防医学、研究、教育、地域・国家・国際コミュニティの福祉と、医療とその研究に関わるあらゆる側面をカバーしている。センターには著名な病院13院をはじめ、特別機関2機関、医学校2校、看護学校4校、歯学校、公共保健学校、薬学校があり、医療・保健関連のあらゆるキャリア・パスが用意されている。テキサス医療センターはまた、ライフ・フライトと呼ばれる、救急ヘリコプター派遣のシステムが創設された地でもある。複数の機関が連携しての移植手術プログラムも開発されてきた。心臓外科の手術においては、テキサス医療センターは世界で最も術例が多い。 テキサス医療センター内にある医療・保健関連の学術・研究機関の中で著名なものには、ベイラー医科大学、テキサス大学ヒューストン保健科学センター、メソジスト病院、テキサス子供病院、テキサス大学M・D・アンダーソンがんセンターなどがある。ベイラー医科大学は、1900年に「ダラス大学医学部」としてダラスに設立され、1903年にベイラー大学と合併した後、1943年にテキサス医療センターに移転してきた。その後、1969年にベイラー大学との提携を解消し、以降現在に至るまで独立した医科大学として運営されている。同校はUSニューズ&ワールド・レポート誌による医学部・医科大学のランキングでも上位10位以内に入る高評価を得ている。テキサス大学ヒューストン保健科学センターは保健教育の博士課程では全米1位である。テキサス大学システムに属するもうひとつの機関、テキサス大学M.D.アンダーソンがんセンターは1990年代以降、がん治療に特化した病院としては全米で1、2を争う存在である。メソジスト病院は全米の優れた病院の1つに数えられ、心臓外科手術、がん治療、てんかん治療、臓器移植など幅広い分野で世界的にその名を知られている。 ==交通== ===航空=== ヒューストンの玄関口となる空港はダウンタウンの北約37kmに位置するジョージ・ブッシュ・インターコンチネンタル空港(IATA: IAH)である。単に「インターコンチネンタル空港」とも呼ばれるこの空港の2006年の年間利用旅客数は42,550,432人を数え、同じテキサス州内のダラス・フォートワース国際空港にこそ及ばないものの、全米ではニューヨークのジョン・F・ケネディ国際空港に次いで8位、全世界でも17位であった。同空港はヒューストンに本社を置いていたくコンチネンタル航空最大のハブ空港であった。現在はコンチネンタル航空と合併したユナイテッド航空がヒューストンからアメリカ合衆国内外182都市へ1日700便以上を飛ばしている。同空港と日本の成田国際空港間は直行便が、ユナイテッド航空により毎日1便就航している。日本の航空会社は全日本空輸(ANA)が2015年6月12日から毎日1便の直行便を運航開始した。歴史上日本の航空会社によるヒューストンへの直行便開設は初めての事である。機材はB777‐300ER型機を使用しての路線開設となった。この路線開設により、ANAのコードシェア便も含め、ジョージ・ブッシュ・インターコンチネンタル空港からスターアライアンス加盟会社を初めとした豊富な国際路線網を利用できるようになり、日本から南米大陸各地やカリブ海諸国への乗り換え利便性が大きく向上した。2006年、アメリカ合衆国運輸省は、インターコンチネンタル空港はアメリカ合衆国内10大空港の中で最も高い成長を遂げている空港であると発表した。2007年初め、アメリカ合衆国税関・国境警備局はインターコンチネンタル空港をアメリカ合衆国外からの旅行者に対する入国港湾のモデルと位置づけた。テキサス・ルイジアナ・ミシシッピ・アラバマ4州の南部をカバーするヒューストン航空管制センターは、インターコンチネンタル空港の敷地内に置かれている。 インターコンチネンタル空港は1969年に開港したが、それ以前はダウンタウンの南西約13kmに位置するウィリアム・P・ホビー空港(IATA: HOU)がヒューストンの空の玄関口としての役割を果たしていた。1967年まではヒューストン国際空港と呼ばれていたこの空港は、現在では近距離・中距離の国内線や、企業・個人のチャーター便などを主とし、インターコンチネンタル空港を補完する役割を果たしている。同空港に発着する旅客機の8割はサウスウエスト航空の便で占められている。サウスウエスト航空はインターコンチネンタル空港を利用せず、ホビー空港のみに航空機の便を発着させている。同社はヒューストンを拠点都市の1つとして位置づけており、今後もホビー空港発着の新路線を開拓していく計画を立てている 。ホビー空港の敷地内にはヒューストンにおける航空史の史料を展示する1940エアターミナル博物館が立地している。このアール・デコ調建築の博物館は、もともとはホビー空港がヒューストン市立空港と呼ばれていた頃、1940年に建てられた空港ターミナルビルであった。 ダウンタウンの南東約25kmに位置するエリントン空港は、もとはアメリカ合衆国空軍の基地『エリントン・フィールド』であったものを民間に転用した空港であるため、IATAコードはエリントン・フィールド時代のEFDのままである。同空港は第一次世界大戦中の1917年、航空機の黎明期に空軍の前身であるアメリカ合衆国陸軍航空隊の訓練施設としてつくられた。現在でも軍用やNASAの航空機の発着・航空祭に使われているが、それらに加え、商用やジェネラル・アビエーションにも用いられている。 ヒューストンはインターコンチネンタル、ホビーの両空港を改善するプログラムを数年間にわたって、31億ドルの費用を投じて進めてきた。それが実り、ヒューストンの空港システムは2005年、連邦航空局とテキサス州政府によってエアポート・オブ・ザ・イヤーに選ばれた。 ===高速道路=== ヒューストンのダウンタウン付近では2本の州間高速道路、I‐10とI‐45が交わる。I‐10はサンベルト地帯を東西に貫いて走る幹線である。一方、I‐45はダラスとヒューストンを結ぶ、テキサス州で最も重要な道路のひとつである。これらの高速道路上にはグレイハウンドをはじめとする都市間の中・長距離バスが走っており、ダラス、サンアントニオ、バトンルージュなどへの便がある。 これらの州間高速道路のほか、10郡にわたるヒューストン都市圏には、総延長926kmにおよぶ高速道路網が張り巡らされている。ヒューストンの高速道路システムはダウンタウンを中心とした放射線と、複数の環状線の組み合わせで構成されている。最も内側の環状線は、形式上はI‐10の支線となっているI‐610である。I‐610はダウンタウンを中心に、テキサス医療センターなど半径8km程度の範囲内にある地域を取り囲んでいる。その外側を走る州道環状8号線はヒューストン都市圏の第2環状線という位置づけになっており、南東に隣接するパサディナ市などダウンタウンから半径20km程度のところを走っている。環状8号線の約3/4はサム・ヒューストン有料道路になっている。インターコンチネンタル空港はこの環状8号線のすぐ外側に位置している。 環状8号線のさらに外側には、ヒューストン都市圏第3の環状線となる州道99号線(グランド・パークウェイ)の計画・建設が進められている。ヒューストンの南西に隣接するシュガーランド市とI‐10とを結ぶ区間は1994年に完成し、既に供用されている。また、現在ミシガン州のカナダ国境からインディアナポリスへと通じているI‐69は、将来的には南へ延伸し、現在のUS‐59のルートを通ってヒューストンを通ってブラウンズビルのメキシコ国境に通ずる予定になっている。そのほかにも、ダウンタウンから延びる放射線が数本建設される予定がある。 ヒューストンの高速道路システムはテキサス州交通局、ハリス郡政府、ハリス郡都市圏交通局、ヒューストン市の4機関のパートナーシップによる交通センター、ヒューストン・トランスターが監視している。ヒューストン・トランスターはヒューストン都市圏における交通サービスと緊急事態への対処に責任を負っている。ヒューストン・トランスターは、全米で初めて交通サービスと緊急事態への対処のサービスを一体化したセンターであり、また全米で初めて4機関でリソースを共有するセンターでもある。 ===その他の公共交通機関=== ヒューストンの路線バスやライトレールなどの公共交通機関はハリス郡都市圏交通局(Metropolitan Transit Authority of Harris County, Texas、METRO)によって運営されている。しかし、ヒューストンは市域も都市圏も広いため、公共交通機関によってカバーされていない地域も多い。そのためアメリカ合衆国内の他都市同様、ヒューストン都市圏における主な交通手段は個人所有の自動車である。 METROの主力となっている路線バスは100系統以上あり、普通路線、急行路線、パークアンドライド路線に大別される。パークアンドライド路線はその名の通りパークアンドライドを促進するための路線で、高速道路上を走り、郊外の高速道路沿いにつくられた25ヶ所の大規模な駐車場とダウンタウンとを結んでいる。この路線バス網に加え、METROは2004年1月1日にライトレールの営業運転を開始した。第1弾として開通したレッドラインはヒューストン大学ダウンタウン校とNRGパークを結ぶ13kmの路線で、途中ライス大学やミュージアム・ディストリクト、テキサス医療センターを通る。METROはライトレール網を整備する10ヶ年計画を進めており、将来的にはこのレッドラインに加え、5路線が開通する予定になっている。 アムトラックの長距離列車、サンセット・リミテッド号はダウンタウンの北側にある駅に停車する。サンセット・リミテッド号はアムトラックで唯一、シカゴを経由せずに大陸を横断する列車で、ロサンゼルスとオーランドを結び、西行、東行とも週3便運行している。2006年度のヒューストン駅の年間利用客数は10,855人であった。 ==教育== ヒューストンには55校の高等教育機関がある。その中でもとりわけ知名度が高いのはダウンタウンの南にキャンパスを構えるライス大学である。ライス大学は1912年開校で、アメリカ合衆国の大学の歴史の中では比較的新しい部類に入る大学でありながら、USニューズ&ワールド・レポート誌の総合大学のランキングでは常にトップ25位以内に入る高評価を受けている。同校の学生数は学部生・大学院生合わせて4,500人ほどで、教授1人あたりの学生数が少なく、少数精鋭制で密度の高い教育を行っている。 一方、ヒューストン大学は本校だけで約36,000人の学生を抱える大規模な州立総合大学で、世界130ヶ国から留学生を受け入れている。同学は40の研究センター・機関を有している。ヒューストン大学システムはダウンタウンの南西にキャンパスを構えるヒューストン大学本校のほか、クリアレイク校、ダウンタウン校、ビクトリア校の3校を有している。クリアレイク校は市の南東部、ジョンソン宇宙センターに程近いクリアレイク地区にキャンパスを構え、コミュニティ・カレッジ卒業生を対象に上級学年向けの講義を開講している。ダウンタウン校はダウンタウンの北側に校舎を持ち、ヒスパニック系の学生が全学生の1/3を占める。ビクトリア校はヒューストンの南西約200kmに位置するビクトリア市に小規模なキャンパスを構えている。これら4キャンパスに加え、ヒューストン大学システムは西郊のフォートベンド郡にシュガーランド教育センターとチンコ・レンチ教育センターを有している。これらの教育センターでは、大学の上級学年および大学院レベルの一部のコースを受講することができる。 このほか、ヒューストンにはテキサス南大学、セント・トーマス大学、ヒューストン・バプテスト大学などの4年制大学がある。ヒューストン・コミュニティ・カレッジ・システムは、ヒューストンとその周辺都市に立地するコミュニティ・カレッジ6校からなり、合計約57,000人の学生を抱える、全米でも4番目に大きい規模を持つコミュニティ・カレッジ・システムである。 テキサス州には公立のロー・スクールが4校あるが、そのうちの2校がヒューストンにある。1つはヒューストン大学ロー・センターで、もう1つはテキサス南大学のサーグッド・マーシャル法科大学院である。ヒューストン大学ロー・センターはUSニューズ&ワールド・レポートのロー・スクールのランキングで全米60位にランクされている。この2校に加え、ヒューストンには私立の南テキサス法学校もある。同校は1923年に創立された、ヒューストンでは最も長い歴史を誇る法学校で、模擬裁判プログラムがつとに良く知られている。 全米で7番目に規模の大きいヒューストン独立学区(Houston Independent School District、HISD)をはじめ、17の公立学区がヒューストン市域をカバーし、ヒューストンにおけるK‐12課程を支えている。これらの学区で運営されている公立学校のほかにも、ヒューストンには多数のマグネット・スクールやチャーター・スクールもある。ヒューストンに校舎を構える私立学校は300校を超える。ヒューストンの私立学校の多くはテキサス私立学校認定協会(Texas Private School Accreditation Commission、TEPSAC)の認定を受けている。ヒューストン周辺の私立学校約50校が参加している非営利の組合、ヒューストン地域独立学校組合(Houston Area Independent Schools、HAIS)は、宗教的ないし非宗教的な様々な観点からの教育を提供している。ヒューストンとその周辺地域のカトリック系私立学校はガルベストン・ヒューストン司教区が運営している。 ==文化== ===芸術=== ヒューストンは工業都市・ビジネス都市としてのイメージの強い都市であるが、文化・芸術面での充実度も高い。ヒューストンは文化・芸術活動を行う団体・施設を200以上有している。ダウンタウンの17ブロックにわたって広がるシアター・ディストリクトには9つの著名な演技芸術団体が本部を置き、6ヶ所のホールが立地している。ダウンタウンにおける劇場の席数では、ヒューストンは全米2位である。ヒューストンにはオペラ(ヒューストン・グランド・オペラ)、バレエ(ヒューストン・バレエ)、クラシック音楽(ヒューストン交響楽団)、演劇(アレイ・シアター)がすべて揃っている。これら4種の演技芸術をすべて揃えている都市は、全米でもニューヨーク、シカゴ、シアトル、サンフランシスコなど、ごくわずかな大都市に限られている。これらに加え、ヒューストンではブロードウェイのミュージカルやコンサートなどのツアー公演も行われる。 ダウンタウンの南、ライス大学のキャンパスやテキサス医療センターに隣接するエリアには、ミュージアム・ディストリクトと呼ばれる博物館・美術館街が広がっている。ミュージアム・ディストリクトには年間700万人が訪れる。ミュージアム・ディストリクト内の著名な博物館・美術館には、ヒューストン美術館、ヒューストン自然科学博物館、ヒューストン現代美術館、ヒューストンホロコースト博物館などがある。ヒューストン美術館は1924年に創立され、常設展示だけで40,000点の作品を展示する、テキサス州最古・最大の美術館である。ヒューストン自然科学博物館が立地するハーマン・パーク内にはヒューストン動物園もある。ミュージアム・ディストリクトの北西に隣接するモントローズ地区には、油田検層事業の世界最大手シュルンベルジェ社の令嬢で、芸術と公民権運動に献身したドミニク・デ・メニルとその夫ジョンが設立した美術館メニル・コレクションと、超教派の教会堂ロスコ・チャペルが立地している。 ヒューストンではロック、ブルース、カントリー、ヒップホップ、テハーノ音楽などの活動も市域の至るところで見られる。しかし、ヒューストンがこういった大衆音楽の世界でミュージックシーンの中心になることはあまりない。ヒューストンが生んだアーティストは、ある一定レベルの成功を収めるとアメリカ合衆国内の他地域に移住する傾向が見られる。しかし、その中でもヒューストン・ヒップホップだけは例外で、サウス・ヒップホップやギャングスタ・ラップと互いに影響し合いながら、独自のミュージック・シーンを打ち出し、商業的にも成功を収めてきた。 ===名所・イベント・レクリエーション=== ダウンタウンの南東約40kmにはNASAのジョンソン宇宙センターが立地している。ライス大学から広大な土地を寄付されて1965年に開設された同宇宙センターは、有人宇宙飛行の研究・開発、スペースシャトルや国際宇宙ステーションなど有人宇宙飛行ミッションの管制・運用、宇宙飛行士の訓練など、NASAの有人宇宙飛行プログラムの遂行において中核となる活動を行っている。そのビジターセンター、スペースセンター・ヒューストンは、アポロ計画によって持ち帰られた月の石や、スペースシャトルのシミュレータ、NASAの有人宇宙飛行プログラムの歴史に関するプレゼンテーション資料など、NASAや航空・宇宙に関連する展示物を展示している。 ヒューストン自然科学博物館やヒューストン動物園を抱えるハーマン・パークをはじめ、レイク・ヒューストン・パーク、メモリアル・パーク、トランクイリティ・パーク(アポロ11号が着陸した月の「静かの海」に由来)、セスクィセンティニアル・パーク、サム・ヒューストン・パークなど、ヒューストンには大小337の公園と200以上の緑地があり、その総面積は約7,930haにおよぶ。セスクィセンティニアル・パークはその名が示す通り1986年に市創設150周年を記念して開園した公園で、ジョージ・H・W・ブッシュの銅像が立っている。サム・ヒューストン・パークには1823年から1905年までの間に建てられた家屋が修復・復元されて残っている。これらの公園は市が管理している。 ヒューストンではあらゆるイベントが行われるが、その中でも、最も伝統があり、最も規模が大きいのはダウンタウンの南西約10kmに位置するNRGパークを会場として行われるヒューストンライブストックショー・アンド・ロデオである。家畜の品評会としても、ロデオの大会としても世界最大級のこのイベントは毎年2月下旬から3月上旬にかけて20日間以上にわたって執り行われ、会期中には200万人以上の来客が訪れる。普段はヒューストン・テキサンズやNCAAのフットボールの試合が行われるNRGスタジアムは、このイベントのときだけはダートが敷かれ、ロデオの会場となる。同イベントではロデオのほか、家畜の品評会、コンサート、パレード、カーニバル、トレイル・ライド、ピッグレース、バーベキュー、ワインの品評会なども行われる。このほかにヒューストンで行われる主なイベントとしては、ヒューストン・プライド・パレード(LGBTのプライド・パレード)、ヒューストン・グリーク・フェスティバル、ヒューストン・アート・カー・パレード、ヒューストンオートショー、ヒューストン・インターナショナル・フェスティバル、バイユー・シティ・アート・フェスティバルなどがある。 ===スポーツ=== ヒューストンはプロスポーツリーグにとっても重要な拠点である。MLBはヒューストン・アストロズ、NFLはヒューストン・テキサンズ、NBAはヒューストン・ロケッツと、ヒューストンには北米4大プロスポーツリーグのうちの3リーグがチームを置いている。NHLのチームはない。また、MLSのヒューストン・ダイナモもヒューストンを本拠地としている。 ヒューストン・アストロズは1962年にヒューストン・コルト45sとして創設され、1965年にジョンソン宇宙センターの存在から「宇宙飛行士」を意味するastronautを縮めてアストロズという名に改められた。1960年代から1970年代には低迷していたが、1980年にノーラン・ライアンを獲得するとチームは躍進、1990年代中盤以降は地区の上位に食い込む成績をほぼ毎年残している。2005年にはワールドシリーズに出場したがシカゴ・ホワイトソックスに敗れた。その後2011年から3年連続100敗以上と低迷するが、2015年に10年ぶりのプレーオフに進出した。2017年には2度目のワールドシリーズに出場し、ロサンゼルス・ドジャースを第7戦で破って、球団創設56年目にして初優勝した。 アストロズはダウンタウンの再開発地区に建てられ、2000年に開場したミニッツメイド・パークを本拠地としている。開場当時はエンロンが30年・1億ドルの契約で命名権を獲得したためエンロン・フィールドという名であった。しかし2002年に同社が経営破綻すると、暫定的に4ヶ月間だけアストロズ・フィールドという名が使われた後、コカ・コーラが28年契約・1億ドルを超える額で命名権を買い取り、同社のジュース「ミニッツメイド」から球場名をミニッツメイド・パークとした。ヒューストンは夏が非常に蒸し暑いため、球場には開閉式の屋根がついており、必要に応じて球場内を空調完備にできる。ミニッツメイド・フィールドに本拠地が移る前は、アストロズはアストロドームを本拠地としていた。1965年に完成したこの球場は世界史上初のドーム球場で、当時は「世界八番目の不思議」とさえ呼ばれた。 ミニッツメイド・パークと同じダウンタウンの再開発エリアには、ヒューストン・ロケッツが本拠地にしているトヨタセンターも立地している。ヒューストン・ロケッツは一見、野球のアストロズ同様にNASAに由来するチーム名であると思われがちであるが、もともとは1967年にカリフォルニア州サンディエゴにサンディエゴ・ロケッツとして創設されたチームであり、NASAとの関連性はない。かつてはアキーム・オラジュワン、クライド・ドレクスラー、チャールズ・バークレーといった選手を擁した。1994年、1995年のNBAファイナルでは2連覇を飾り、ロケッツは黄金時代にあった。しかし1997年以降、ドレクスラーやバークレーが引退し、オラジュワンがトレードに出されると、その後は若年選手を中心として再建を進めているが、低迷が続いている。 トヨタセンターはそれまでロケッツの本拠地として使われていたコンパック・センターに代わって2003年に開場したアリーナで、ロケッツのほか、ヒューストン・コメッツ、およびヒューストン・エアロズが本拠地にしている。また、ヒューストンにおけるイベント会場・コンサート会場としても使われ、エルトン・ジョン、ポール・マッカートニー、スティーヴィー・ワンダーらの「大御所」アーティストからティーン・アイドルのハンナ・モンタナに至るまで、様々なアーティストがここでコンサートを行った。所有者はハリス郡とヒューストン市スポーツ局であるが、トヨタ自動車の米国法人が命名権を獲得したため、同社の名が冠せられている。 一方、アストロドームの建つNRGパークには、ヒューストン・テキサンズの本拠地であるNRGスタジアムが立地している。2002年に開場したこのNRGスタジアムは、NFLの本拠地となるスタジアムとしては初めて開閉式の屋根を採用した。テキサンズは2002年のリーグ拡張のときにできたチームである。新興チームの多くがそうであるようにテキサンズもまたリーグの下位に低迷しており、チームとしての歴史が浅いことも相まって、目立った成績は残していない。このテキサンズとは別に、1960年から1996年までは、ヒューストンにはオイラーズというチームがあったが、その後テネシー州の州都ナッシュビルに移転し、チーム名もテネシー・オイラーズを経てテネシー・タイタンズとなっている。オイラーズはアストロドームを本拠地としていた。 NRGスタジアムではこのテキサンズのホームの試合のほか、ヒューストン家畜ショー・アンド・ロデオの会期中はダートを敷いてロデオの大会にも使われる(前述)。2004年には、第38回スーパーボウルがNRGスタジアムで行われた。2005年には、カレッジフットボールのビッグ12カンファレンス決勝戦がNRGスタジアムで行われ、テキサス大学がコロラド大学を70‐3の大差で破った。地元テキサス州で大勝したテキサス大学はローズボウルに出場し、南カリフォルニア大学を破って全米優勝した。 ==人口動態== ヒューストンは人種・民族の多様性に富んだ都市である。ヒューストンで話されている言語の数は90を超える。特にヒスパニック系の住民の割合は高く、総人口の約37%を占め、非ヒスパニック系白人の30.8%を上回る。ヒューストン都市圏全体では、アメリカ合衆国外生まれの住民は約110万人を数え、都市圏人口の2割に達している。その半数近くはメキシコ系で、メキシコ以南を含めた中南米系全体では2/3近くにのぼる。さらに、ベトナム系、インド系、中国系などアジア系も約1/5を占めている。ヒューストンにはダウンタウンのオールド・チャイナタウンのほか、南西部にもニュー・チャイナタウンと呼ばれる、新たに形成されたチャイナタウンがある。また、ニュー・チャイナタウンの近くには「リトル・サイゴン」と呼ばれるベトナム人街も形成されている。このように一部の移民は民族性の強い街区を形成し、ヒューストンを世界都市たらしめている。しかしその一方で、ヒューストンに住んでいると推定される不法入国者数は400,000人を数えるなど、移民がらみの問題も抱えている。 ===都市圏=== ヒューストンの都市圏は州南東部、ハリス郡を中心に9郡にまたがっており、その面積は21,464km(8,287mi)である。広域都市圏はこの都市圏に、近隣の4つの小都市圏を合わせた14郡から成っている。 右図はテキサス州におけるヒューストン・ザ・ウッドランズ広域都市圏の位置を示している。この広域都市圏に含まれる都市圏および小都市圏はそれぞれ、下記の色で示されている。 ヒューストン・ザ・ウッドランズ・シュガーランド都市圏  ハンツビル小都市圏  エルカンポ小都市圏  ベイシティ小都市圏  ブレナム小都市圏また、ヒューストンの都市圏、および広域都市圏を形成する各郡の人口は以下の通りである(2010年国勢調査)。 ===ヒューストン・ザ・ウッドランズ・シュガーランド都市圏=== ===ヒューストン・ザ・ウッドランズ広域都市圏=== ===市域人口推移=== 以下にヒューストン市における1850年から2010年までの人口推移をグラフおよび表で示す。 ==姉妹都市== ヒューストンは以下17都市と姉妹都市提携を結んでいる。全米国際姉妹都市協会(Sister Cities International)加盟都市。 アバディーン(イギリス・スコットランド、1979年提携) アブダビ(アラブ首長国連邦、2001年) イスタンブール(トルコ、1986年) ウエルバ(スペイン、1969年) カラチ(パキスタン、2008年) グアヤキル(エクアドル、1987年) 深*8981*市(中華人民共和国、1986年) スタバンゲル(ノルウェー、1980年) 台北市(中華民国、1963年) タンピコ(メキシコ、2003年) 千葉市(日本・千葉県、1973年) チュメニ(ロシア、1995年) ニース(フランス、1973年) パース(オーストラリア・西オーストラリア州、1983年) バクー(アゼルバイジャン、1976年) ライプツィヒ(ドイツ、1993年) ルアンダ(アンゴラ、2003年) 武漢市(中華人民共和国、2016年) ==註== ==参考文献== Allen, O. Fisher. City of Houston from Wilderness to Wonder. Self Published. 1936年.Johnston, Marguerite. Houston, The Unknown City, 1836―1946. Texas A&M University Press. College Station, Texas, United States. 1991年. ISBN 0‐89096‐476‐9Miller, Ray. Ray Miller’s Houston Gulf Publishing Company. 1984年. ISBN 0‐88415‐081‐XSlotboom, Oscar F. ”Erik”, Houston Freeways. Oscar F. Slotboom. 2003年. ISBN 0‐9741605‐3‐9.Wilson, Ann Quin. Native Houstonian ‐ A Collective Portrait. The Donning Company ‐ Houston Baptist University Press. 1982年. 80‐27644.Young, Samuel Oliver. A thumb‐nail history of the city of Houston, Texas, from its founding in 1836 to the year 1912. Press of Rein & Sons Company. Houston, Texas, United States. 1912年. Republished by Copano Bay Press, 2007年.Young, Samuel Oliver. True stories of old Houston and Houstonians: historical and personal sketches. Oscar Springer. Galveston, Texas, United States. 1913年. Republished by Copano Bay Press, 2007年. =ムカシトカゲ= ムカシトカゲはニュージーランドの限られた地域に生息する、原始的な形質を残した爬虫類。現地での呼称からトゥアタラ(tuatara)と呼ばれることもある。 ==名称と系統== トカゲと名付けられてはいるが、狭義のトカゲ(有鱗目トカゲ亜目)とは全く異なる系統の爬虫類であることが、骨格とくに頭蓋などの比較により結論付けられている。ムカシトカゲはSphenodon (スフェノドン)属の総称であり、現生のムカシトカゲ目にはSphenodon 属1属しか存在しない。彼らはかつて数多くの種と幅広い生態的地位を占める一大グループだったムカシトカゲ目(または喙頭目)の唯一の生き残りであり、1895年以来絶滅危惧種とされている。 彼らは名前だけでなく姿もトカゲによく似ている。しかし実際はトカゲ類とも、またトカゲに最も近縁なヘビ類とも同じくらいかけ離れた間柄である。この理由のため、彼らはヘビとトカゲの進化の研究や、初期の双弓類の姿や生態の推測において大きな関心を集めている。 ==発見史== 西洋へのこの動物の報告としては、クック船長が1769年にニュージーランドに上陸したとき、マオリ族の族長から現生生物についての聞き取り調査をした際に聞いた「トカゲ」の話がその最初のものであるとする見方がある。ただし、ここで記録されているその「トカゲ」に関する証言は「体長はおよそ2.5m、身体の幅はヒトと同じぐらい、地下の洞窟に住み、ヒトを襲って食う」という、生息場所以外の記述は実際のムカシトカゲとかなり異なるものである。 この生物に関する確実な記録としては、1838年にJ.S.ポラックというユダヤ人商人が出版した書籍の中に、「プレンティ湾の島々にすむトカゲ」として記されているのを確認することが出来る。だが、実際にこの動物を捕獲して持ち帰ったのは、博物学者で探検家でもあったエルンスト・ディーフェンバッハ (Ernst Dieffenbach) であった。彼はニュージーランド商会の後援のもと、ニュージーランドの各地を何年にもわたって旅し、地理学・地質学・動物学・植物学・文化人類学など各分野にわたる記録を残していた。原住民がトゥアタラと呼ぶ大型のトカゲがいるということを聞いたディーフェンバッハは、懸賞金付きでそのトカゲを探し求めた。しかし長い間そのトカゲは手に入らず、結局彼がそのトカゲを手に入れたのは1841年ヨーロッパに帰る10日前になってからであった。彼はそのトカゲをアガマ科の仲間と推測し、生きたまま持ち帰った個体をしばらく飼育していた。そしてその動物が死ぬと、大英博物館にその死体を寄贈した。 その標本を受け取って研究したのは当時大英博物館で動物学部門の管理者であったジョン・エドワード・グレイであった。1842年、彼はそのトカゲにHatteria punctata という学名を与えて発表した。しかしその後、この動物の頭蓋骨が以前大英博物館に送られており、他ならぬグレイ自身がそれに Sphenodon という学名(ただし属名のみ)を1831年に与えていたことが判った。そのため、学名の先取権の原則により、現在のこの動物の学名は Sphenodon punctatus となっている。しかしHatteria という名称もしくはこれに由来する語は、いくつかの言語で今でもムカシトカゲを指す単語となっている。 ==分類と進化== 姉妹群である有鱗目(トカゲ、ヘビ、ミミズトカゲ)と共に、鱗竜形類(下綱)の唯一の現存群である鱗竜類(上目)に属する。ムカシトカゲの祖先はおそらく鱗竜形下綱と主竜形下綱の分岐点近くに由来しており、「原爬虫類」に最も近い現存種である。ムカシトカゲはトカゲ類にそっくりではあるが、その類似はほとんど表面的なものであり、爬虫類の中でも独特ないくつかの特徴をもっている。典型的なトカゲ型の姿というものは初期の有羊膜類に共通のものであり、知られている中で最古の爬虫類の化石もトカゲ型の姿をしている。 グレイが模式標本を記載する際、ムカシトカゲは有鱗目トカゲ亜目の仲間として分類された。そしてそれは、1867年に同博物館のアルベルト・ギュンターがこの動物の独特な各特徴(解剖学の項参照)に注目し、化石種の仲間と会わせてRhyncocephalia(喙頭目:「嘴を持った頭」喙は嘴の意)という目を提唱してそこに属させるまで続いた。 しかし、ギュンターの喙頭目の設立以来多くの無関係の種がこの目に加えられてきた。このことは結果として喙頭目をいわゆる「分類のゴミ箱」にしてしまった。しかし1969年になってO. クーン (Oskar Kuhn) によってこれまで喙頭目とされてきたグループはムカシトカゲ目とリンコサウルス目に分割され、リンコサウルス目は主竜類に再分類された。現在、ほとんどの研究者はムカシトカゲとその親類に対してより限定的な名称であるSphenodontia(ムカシトカゲ目)を使用する傾向がある。Sphenodontiaはウィリストン(S. Williston)によって1925年に提唱されたため、エステス(R. Estes)によって1983年に提唱された類似した名称であるSphenodontidaに対して優先権がある。 ===現生種の分類=== 2種が現存している。 ===Sphenodon punctatus (Gray, 1842)=== ムカシトカゲ:以前は唯一の種とされていた。IUCNのレッドリストではLR/lc(軽度懸念)とされている。 ===Sphenodon gunteri Buller, 1877=== ギュンタームカシトカゲ:通常種よりさらに希少で、クック海峡のブラザー諸島 (Brothers Islands) にのみ生息し、オリーブ色の体色に黄色い斑点がある。IUCNのレッドリストではVU(危急)とされている。S. punctatus にはS. p. punctatus 以外にS. p. reischeki という亜種がリトル・バリアー島 (Little Barrier Island) に存在していたが、1970年代に絶滅したと考えられている。またこれとは別に現存するS. punctatus に関して、クック海峡のスティーブンズ島 (Stephens Island) とトリオ諸島 (Trios Islands) にすむグループを別亜種(未命名)として、北島北岸のプレンティ湾 (Bay of Plenty) から北に住む基亜種S. punctatus punctatus との2亜種とする説がある。また、Sphenodon 属の絶滅種として北島の東岸部から骨格が発見されたS. diversum がいる。 ===進化=== ジュラ紀の化石爬虫類Homeosaurus は現在のムカシトカゲに非常によく似ている。ムカシトカゲは一般的に、サメやワニと同様に「生きている化石」だと言われる。これは本質的にそれらの生物がこの地球上での存在期間中(ムカシトカゲの場合、約2億年)ほとんど変化していないことを意味する。 しかしながら、最近の分類学的研究 によると、ムカシトカゲ目は中生代を通じて多くの変異を経ていることがわかった。現在ではトカゲ類に占められている多くの生態的地位が、かつてはムカシトカゲ目に占められていた。中には海生爬虫類として成功したグループ(Pleurosaurs:プレウロサウルス類)さえいたが、彼らは現在のムカシトカゲとは似ても似つかない姿をしていた。詳細はムカシトカゲ目参照。 ニュージーランドが他の陸地から切り離されたのは、およそ8000万年前だとされているが、それ以前にここに到達していたムカシトカゲ目の一員が結果として今日まで唯一生き残ったムカシトカゲの先祖であると考えられている。ムカシトカゲは寒冷な気候への適応を示すが、これによりニュージーランドの島々での繁栄が可能となっている。この適応はおそらくムカシトカゲに特有のものであり、より温暖な気候で生息していた先祖形ムカシトカゲ目から受け継いだものではないと思われる。 ==解剖学的記載== ムカシトカゲは現生で最も特殊化していない有羊膜類である。脳や移動方式は両生類に似ており、心臓は他の爬虫類の中で一番原始的である。成体はオスで頭胴長280mm、全長610mm、体重1kgほど。性的二形を示し、メスはオスより小さく体重500gを越えない。背中に並んだトゲは三角形の折り畳まれた柔らかい皮膚で形成されており、メスよりオスで大きく、威嚇やディスプレイの際には逆立つ。メスの腹部はオスに比べてセイヨウナシ形をしている。オスにはカメ・ワニのような陰茎もトカゲ・ヘビのような半陰茎も無いため、ある程度成長した個体でないと性別を確認するのは困難である。ムカシトカゲの体色はオリーブグリーンから茶色や赤橙色まで変異があり、成長に伴っても変化する。脱皮は年一回。 ===頭蓋骨=== ムカシトカゲは現生の有羊膜類で最も原始的な頭蓋骨を持っており、完全な弓(側頭窩の下縁部を形成する骨の架橋部)で囲まれた2つの側頭窩をもつ双弓類の原始形を保持している。そのため、弓を退化消失させて顎関節の自由度を得た有鱗目に比べて堅固な構造のままである。ドイツ語でこの動物を表す単語 Br*9796*ckenechsen(Br*9797*cke:橋、Echse:トカゲ)はこの架橋部に由来する名称である。カメ目の頭骨はかつては有羊膜類のなかで最も原始的な無弓類形の頭骨をもっており伝統的に無弓類とされてきたが、最近の研究ではそれは元来持っていた側頭窩が二次的に無くなって無弓形に収斂した双弓類だと考えられてきている。 上顎の先端は嘴状になっており、頭骨に入り込んだ裂溝によって上顎の後方と分けられている。下顎1列、上顎2列の歯列があり、顎を閉じると下顎歯列は2列の上顎歯列の間に入り込む。上顎骨以外に口蓋に歯列を持つというのは他の爬虫類にもしばしば見られる特徴であり、例えば多くのヘビも上顎2列の歯列をもつが、その配列と機能はムカシトカゲとは異なる。ムカシトカゲの歯は骨から鋸歯状に飛び出ているだけで顎骨と分離した構造になっていない端生歯であり、生え変わりをしない(一生歯性)。靭帯によって連結した上下顎は、上下の剪断と組み合わさった前方・後方への動きを伴って咬合する。特殊化した独特の前後動に伴って、歯は閉じられる際に鋏のように前方へ動くため、保持力は非常に強力である。この仕組みによって、歯は自動的に研磨されて鋭さを保つ。老齢のムカシトカゲは、歯が磨耗していくためミミズやイモムシ、ナメクジなどの柔らかい獲物を食べ、最終的に歯が磨耗しきると顎骨の間で直接食べ物を咬まなくてはならない。 ===感覚器官=== ムカシトカゲの両眼は別々に調整可能で、昼夜とも視覚を得るため2種類の視細胞を含む二重網膜を発達させており、夜間の視覚のため光を反射させる輝板(タペタム)を持つ。瞳孔はネコのような縦型。また、第3の瞼である瞬膜を持つ。 ムカシトカゲは頭頂眼(顱頂眼)と呼ばれる第3の眼をその頭蓋の頂点に持つことで有名である。これは視床上部の一部である上生体複合体に由来する。上生体複合体は後部の上生体(松果体、松果腺)、前部の副上生体(旁松果体)からなるが、ムカシトカゲを初めとする数群の脊椎動物ではその片方もしくは両方が光受容機能を持つ。ムカシトカゲの場合、発達して光受容機能をもち頭頂眼となるのは副上生体である。他の四足動物ではトカゲ類に頭頂眼を持つものがいるが、やはり副上生体が基となる。かつて上生体複合体は本来の眼のように左右対の器官であり、左側が副上生体に、右側が上生体になったとする説がある。実際この器官は遠い祖先から受け継がれた本当の眼の名残であるとも言われている。ムカシトカゲの頭頂眼は単純ではあるが、本来の眼とよく似た構造を備えており、自前の水晶体、桿状体に似た構造を持つ網膜、脳に繋がった神経などを(退化してはいるが)備えている。この特徴的な眼が外部から確認できるのは孵化したてで頭頂部に透明な部分があるときだけで、4〜6ヶ月たつと色素を持った不透明な鱗で覆われてしまう。この器官の役割はよく判っていない。ビタミンDの生成に紫外線を吸収するのに有用であるとか、明暗周期の決定に役立つなどの説があったが、トカゲ類における切除実験の結果から、適切な体温調節のためだとする有力な説が出されている。 進化史において両生類の鼓膜は後頭部の切れ込みである耳切痕に張られていたが、初期の有羊膜類でこの鼓膜はいったん失われ、その後の様々な系統で新生していると考えられている。たとえば主竜類や有鱗類では、新たに新生した鼓膜は方形骨の後縁の弓状のカーブに張られ、主竜類と同じクレードに属するカメ類では逆に腎臓型に窪んだ方形骨によって形成された耳室から前方の方形頬骨に向かって前方に蓋をするように張られており、またスッポン科、カミツキガメ科、およびリクガメ科のほとんどでは方形骨単独で全周が形成された耳室を形作る(この事から主竜類と有鱗類の鼓膜は同じ形ではあるが祖先形質を共にする共有派生形質ではなく、別個に発達したものだと考えられている)。その一方で原始的な単弓類では鼓膜を持たず、下顎を構成する角骨に空気振動を拾う薄い反転板(reflected lamina)が付属していてここから下顎角骨>下顎関節骨>顎関節>方形骨>鐙骨という伝達系を持っていたが、哺乳類の段階になるとこの下顎を構成していた角骨全体が反転板を中心に鼓骨が形成するループに変化してここに鼓膜が新生し、先述の伝達系全体が3つの耳小骨から成る中耳に変形して繰り込まれ、顎関節そのものが新たに下顎歯骨と側頭部の鱗状骨間に再編成されている。そして、ムカシトカゲは有羊膜類の中で最も原始的な形質の聴覚器官を保っており、鼓膜を持たず、中耳腔も主に脂肪組織からなる粗い組織で充填されている。鐙骨は、舌骨や鱗状骨と同じく、不動性の方形骨に直接つながっている。有毛細胞は特殊化しておらず、求心性神経と遠心性神経両方の神経支配を受け、低周波のみに反応する。彼らは100〜800Hzの音に反応を示し、官能のピークは40dB・200Hzである。 ===脊椎と肋骨=== ムカシトカゲの脊椎骨は砂時計形で椎体の前後が両方とも凹んだ両凹型である。これは魚類と一部の両生類で一般的な物だが、ムカシトカゲ以外の現生有羊膜類では全く見られない。また、トカゲ類との意外な共通点として、尾椎には自切機能がある。 腹肋(腹部にある肋骨様の骨)を持っており、双弓類の祖先的形質だと推測されている。現在これが見られるのはトカゲの一部(ただしほとんどが軟骨)、ワニ、そしてムカシトカゲのみである。腹肋は脊椎や肋骨には結合しない。 真の肋骨も非常に興味深く、それぞれの肋骨に鈎状突起(鳥類に見られる、肋骨の後側から飛び出た鈎状の突起)を持つ。ワニ目にも鈎状突起の軟骨化した名残があるが、発達した腹肋と鈎状突起の両方を持つ唯一の四足動物がムカシトカゲである。 初期の四足動物では、腹肋と鈎状突起は皮骨や鎖骨と共に、一種の外骨格を形成していたと考えられ、腹部の保護や腸など内臓の保持に役立っていた。これらの解剖学的特徴は、脊椎動物が陸上に進出する以前に、移動様式に関係した構造から進化したのというのがもっとも可能性が高い。また、腹肋は原始的な絶滅両生類や爬虫類の呼吸過程に関係していたのかもしれない。腰帯と肩帯は(他の器官と同様に)内部構造や相対的な大きさでトカゲ類とはだいぶ異なっており、ムカシトカゲがトカゲとは別の生物であることを明確に示している。 ==生態== 成体のムカシトカゲはしばしば体温を上昇させるために日光浴をするが、基本的に地上性・夜行性である。それに対し幼体は樹上性・昼行性であるが、おそらくは成体が幼体を捕食するためであろう。餌は昆虫を初めとする地上性無脊椎動物などだが、海鳥の雛・卵や小型爬虫類なども食べる。森林下層や海岸部に巣穴を掘って生息しているが、海岸部では海鳥の巣に住み着いていることも多い。 ===低温耐性=== ムカシトカゲは多くの爬虫類が耐えられる温度よりかなり低い温度でも生存でき、冬眠することでも知られている。気温5〜10℃でも活動し、それより寒くなると冬眠する。彼らは7℃までは通常の活動性を維持可能で、16〜21℃が適温であるが、これはすべての爬虫類の最適温度中最低の部類である。28℃以上になると多くの場合死に至る。ムカシトカゲはトカゲ類より低い代謝率をもつが、それは体温の差に現れている。ムカシトカゲの体温は他のトカゲより低く、トカゲ類がおよそ20℃ぐらいの体温なのに対し、5.2〜11.2℃の範囲である。 ===繁殖=== ムカシトカゲの繁殖サイクルは非常に緩慢である。性成熟に少なくとも10年掛かり、メスの交配と産卵は4年に1度である(オスは毎年挑戦する)。交配は夏に行われ、求愛中オスは皮膚を暗色化し、背中のトゲを逆立ててメスに向かって行進する。オスはゆっくりと体を上下させながらメスの周りに円を描く。もしメスが求婚者を受け入れるなら、メスは頭を上下に振る。前述のようにオスは交接器を持たないため、交尾は総排出口を合わせて行われる。 受精から約10ヶ月後、メスは地面に深さ20cm、直径50cmほどの穴を掘り、柔らかい羊皮紙状の殻を持つ卵を8‐14個ほど産卵して埋める。卵は有鱗目と同様に水分を保持するアルブミン層、すなわち卵白を欠いており、発生に必要な水分は卵の外の土壌から吸収する。産卵から孵化まではさらに12‐15ヶ月。幼体の吻端には、ワニ目・カメ目と同様の卵角(有鱗目のような卵歯ではない)があり、これで卵殻を突き破る。幼体の頭胴長は54mmほどである。孵化した幼体の性別は卵の温度によってきまり(温度依存性決定)、高温だとオスが、低温だとメスが産まれる。21℃では雌雄比は半々だが、22℃では80%がオスになる。さらに20℃では80%が、18℃でほぼ100%がメスになる。ただしムカシトカゲの性決定は環境要因(温度)だけでなく遺伝子要因も関係している複雑なものらしいという説がある。 彼らは恐らく全爬虫類のなかで最も成長が遅く、35歳ぐらいまでは成長を続ける。寿命は100年以上とも言われている。 ==保護の状況== ムカシトカゲはニュージーランド原産の多くの動物と同じく、生息地の減少や農業、イタチ類やネズミなどの移入種によって危険にさらされている。残された個体群は哺乳類がいない沖合の32の島々に限られており、本土ではすでに絶滅していたが、2005年に、厳重に隔離され監視されているカロリ野生生物サンクチュアリ (Karori Wildlife Sanctuary) に再導入が試みられた。狭義のムカシトカゲ (S. punctatus) は現在60000個体が生存していると推測されている。一方でギュンタームカシトカゲが生き残っているのはノースブラザー島の約400個体のみであり、ブラザー諸島の他の2島へも再導入が進められている。 より一般的な種であるS. punctatus を公開しているのは、初めてムカシトカゲの繁殖計画を実行したインバーカーギルのサウスランド博物館・美術館 (Southland Museum and Art Gallery) や、ハミルトン動物園 (Hamilton Zoo)、ウェリントン動物園 (Wellington Zoo) であり、現在ではそれら全てが繁殖と再導入を行っている。ヴィクトリア大学ウェリントン校 (Victoria University of Wellington) ではムカシトカゲの飼育下での繁殖の研究が行われ、プカハ・マウント・ブルース自然公園 (National Wildlife Centre at Pukaha Mount Bruce) にはつがいと幼体がいる。ワイルドNZトラストはルアワイ (Ruawai) に繁殖の為の囲い地を持つ。(以上の施設は全てニュージーランド国内) いくつかの動物園では繁殖計画なしで公開されている。イギリスのチェスター動物園、アメリカのサンディエゴ動物園やセントルイス動物園、ニュージーランドのネイチャーランド動物園などである。 ==文化的側面== 英名・現地名のtuataraという呼称はマオリ語の「背中のトゲ」に由来する。多くの土着の伝説の中でムカシトカゲは重要な役割をはたしている。ムカシトカゲは神が姿を変えた族長だと考えられている。ムカシトカゲはマオリの死と災厄の神であるウィロ(Whiro)の使いだとみなされている。マオリの女性はムカシトカゲを食べることを禁じられている。属名のSphenodonという名はギリシャ語のクサビ(sphenos)と歯(odont)とから作られ、種小名のpunctatusはラテン語で「斑点がある」という意味である。2006年10月に廃止されたニュージーランドの5セント硬貨の片面にはムカシトカゲが描かれていた。 =源氏物語大成= 『源氏物語大成』(げんじものがたりたいせい)は、池田亀鑑編著による『源氏物語』の校異を中心にした研究書である。 ==概要== 『源氏物語』本文の校異を示した「校異編」、校異編の成果を元に作成された詳細な語句索引からなる「索引編」、古注や古系図などの源氏物語に関連する資料を集めた「研究資料編」(普及版では「研究編」および「資料編」)、源氏物語絵巻といった源氏物語に関する図録を集めた「図録編」から構成される。校異編は源氏物語の本格的な学術的校本としては初めてのものであり、その後の源氏物語の研究に大きな影響力を持ち、「近代の源氏物語研究における金字塔」「近代における源氏物語の文献学的研究成果として最大のもの」などとされる。 ==完成までの経緯== ===企画の発端と変遷=== もともと本書を編纂する事業は日本で最初の類義語辞典を編纂した国文学者芳賀矢一が1922年(大正11年)3月に東京帝国大学を依願により退官するのに伴った記念事業として企画されたものである。1923年(大正12年)3月にはこの事業の推進のために「芳賀矢一功績記念会」も結成された。最終的にこの事業は1926年(大正15年)4月に、当時若手の研究者として将来を期待されていた池田亀鑑に委嘱されることになった。この計画は最初は2ないし3冊程度からなる源氏物語の注釈書を2年程度で完成させることを目指して計画されたものであり、池田亀鑑は当初は当時入手できた印刷本の河海抄や花鳥余情をもとに作業を進めようとしたが、腑に落ちない点があって調べてみるとこれらの注釈書の写本にはいくつもの系統があって写本ごとの差異があったりするため、印刷本の注釈書の内容を元にして適当に取捨選択して一通りの注釈書にまとめ上げることは不可能ではないにしても杜撰の非難を受ける虞があるとして、それよりは古注を研究者が容易に利用できるような資料、すなわち「古注集成」を作ることの必要性を感じたため、記念会に対して同事業を「源氏物語の古注集成を作る事業」に変更することを申し出て了承された。さらに作業を進めていく中で、源氏物語本文の写本ごとの異なりが当時一般に言われていたような「源氏物語の本文には、写本や版本によって単純な写し間違いなどに起因すると見られる細かい差異は多数存在するものの、文の意味や話の筋立てに影響を及ぼすような違いはほとんど存在しない」という状況ではなく、古注の解釈の上でも無視できない差異がしばしば見られることが明らかになり、「それぞれ異なった本文に対して注釈を加えているそれぞれの古注のそれだけをただ集め並べても比較することは出来ない。古注集成を作るためには先に注釈の対象となっている本文の異同を明らかにする必要がある。」として、当時まだ源氏物語の本格的な校本は存在せず、湖月抄や首書源氏物語といった近代以前の版本をそのまま活字化したものか、金子元臣の『定本源氏物語新解』(明治書院、1925‐1930年)のような『湖月抄』を底本として河内本で校訂したものくらいしかなかったこともあり、再度計画を変更して第1段階の作業として源氏物語の学術研究に耐えうる校本を作ることになった。この度々の計画の変更については、「芳賀矢一記念会」の了承を得て、また芳賀矢一が死去する1927年(昭和2年)までは同人の了承をも得ていたとされており、この点について池田は源氏物語大成の序文の中で「本来の計画の正しい発展である」と述べている。 ===本事業のための資金=== 本事業のために、当初広く資金の募集を行って当時の金額で「五千余円」を集めたというが、作業が当初の予定を遙かに超えて長期化したため当初用意された資金だけでは全く足りず池田は後それ以外にも学士院から2回、無名の篤志家から数回研究補助金の交付を受けたという。さらにそれだけの資金援助を受けながらも新出の貴重な写本を購入する為の資金が足りず池田の両親が所有していた田畑を売るなどして用立てたこともあったことを池田は語っている。池田がこのような豊富な資金を背景にして源氏物語の古写本を片端から買いまくっていたために、古書を取り扱っている業界の中では「源氏物語関係のいい写本が出てきたら、まず池田先生の所へ持って行く。」という状況になってきたが、入札形式を取った売り立てでは購入することが出来ないことが多くなり、「自分で買えないものは他の人に買って貰ってそれを利用する」という形に方針転換し、コレクション「青谿書屋」で知られる三井合名会社理事の大島雅太郎、直江津商工銀行頭取などを務めた新潟県の大地主である保阪潤治、三井鉱山専務であった七海兵吉、「紅梅文庫」のコレクションで知られる前田善子といった人物に協力を求めたという。底本となった大島本をはじめ保坂本、七海本などこのような経緯で本書の校異に採用されるに至った写本も多く存在するが、それらの多くが戦後財閥解体や農地改革などによって財産を失ったために再度所有者を変えることになった。 ===第一期 校本作成の作業=== 当初は、以下のような理由から河内本系統の写本を底本にして校本を作る作業を進められた。 『水原抄』、『紫明抄』、『原中最秘抄』、『河海抄』など、鎌倉時代から室町時代にかけて作られた源氏物語の初期の古注釈書のほとんどが注釈の対象となる本文としてこの当時有力な本文であった河内本系統の本文を使用していたこと。1921年(大正10年)の山脇毅による「平瀬本源氏物語」の発見をはじめとする河内本諸写本の発見等によりすでに失われてしまったと考えられていた良質の河内本系の本文が実際に利用可能になったこと。当時は「河内本ブーム」と評されたほど今となっては過大とも言えるほどに河内本の発見が源氏物語研究への寄与すると考えられていたこと。そして1931年(昭和6年)に最終的な稿本を完成したとして1932年(昭和7年)11月19日および20日には東京帝国大学文学部国文学科において完成記念の展観会まで催されており、その際には集められた源氏物語の古写本を始めとする様々な資料と共に河内本を底本にした第1次から第5次までの稿本が閲覧に供されており、このうち第5次の稿本は全5巻からなる完成原稿であるとされている。 この時期の校本は「校本源氏物語」と呼ばれており、この時期の底本は、上記の展観会に際して発行された『源氏物語に関する展観書目録』には「校本源氏物語底本 河内本(禁裏御本転写)(室町時代)写 」と説明されている。かつては池田亀鑑のもとにあったが現在は天理図書館に所蔵されており、河内本の本文を持つことから「天理河内本」との名称で『源氏物語別本集成 続』で校合対象の一つになっている写本に、池田亀鑑が 本書は学会の重宝として貴重す へき希有の珍本にしてよろしく校本源 氏物語の底本として学界に弘布す へきものなり 昭和七年十一月 識之本書は学会の重宝として貴重すへき希有の珍本にしてよろしく校本源氏物語の底本として学界に弘布すへきものなり昭和七年十一月 識之と記した紙片が付されていることから校本源氏物語の底本はこの写本であろうと考えられている。 また、青表紙本系統の写本を底本とするようになってからも現在のように大島本を底本とする以前に現在は校合本文の一つとして採用されている横山本を底本とすることを検討していた時期があったとされている。 ===大島本を底本にした校本に=== しかし、当時源氏物語本文についての研究が急速に進展しており、河内本系の写本の本文よりも青表紙系の写本の本文の方がより良質な本文であることが次第に明らかになってきたことに加えて、その1,2年前に青表紙本系統の極めて良質な写本であると考えられた大島本の存在が明らかになった。そこで池田は、完成していた稿本を破棄し、大島本を底本にして校本の作成作業を一からやり直すことにし、さらに約10年をかけて1942年(昭和17年)10月、ようやく『校異源氏物語』全5巻は中央公論社から刊行された。 この校本完成までの作業は、それまで日本では、中でも国文学の世界では全く知られていなかった西洋の正文批判に関する研究成果を取り入れるため、文献を取り寄せて学びながらの作業であったとされている。本来の源氏物語の本文校訂の作業と並行して方法論に関する研究論文を発表したり、学んだ研究方法を小規模な作品の本文に適用して実践するということも行われた。 また、現在のように調査・研究の対象となる価値のある写本が公的な施設や大学等の研究機関よりも大名や公家の流れを汲む名家や個人の資産家に多く所蔵されていた時代であり、写本の調査を拒否されたり、許されてもさまざまな制約を付けられる場合も少なくなかった。一度閲覧を許されて調査を開始したものの、作業半ばでそれ以後の調査を拒否された写本もあったとされている。少なくない写本が様々な理由により研究を制約された。数多くの重要な写本は写本を写真に撮ることなども許され、そのフィルムの枚数は約50万枚にも及んだものの、写真を撮るために持ち出したり、あるいは撮影機材を写本の所蔵場所に持ち込んだりすることが許されず、「所蔵者ノ都合ニヨツテ極メテ短時間ノ内ニ調査シ、再調ノ機会ヲ許サレナカツタ」として調査を中断せざるを得なくなり、完了した部分についても校異を採用することが出来なかった大沢本や、当時出版されていた源氏物語の小型の印刷本を写本を所蔵している場所に持ち込んで本文の異同をその場で目で確認しながらその本に書き込むという方法によって本文異同を採録したような写本も存在する。また池田が直接写本の調査をすることが許されず、過去に別の研究者が行った調査の結果を間接的に利用することしか出来なかった写本もあるとされている。例えば池田は当時日本に居住していたある外国人資産家に渡った「阿仏尼本」と呼ばれる貴重な写本について調査を申し入れたものの、「極めて屈辱的な扱いを受けた上写本の調査を許されなかった。」と記している。 長期間の大規模な作業の結果できあがった校本は当初の計画より遙かに大規模な出版物となっていった。そのため最初に予定されていた出版社からは出版を断られてしまう事態になり、一時は出版を諦めて完成原稿を資料として東京大学図書館に所蔵するに止めるといったことも考えられていたが、池田ら関係者がさまざまな伝手をたどった結果、中央公論社が谷崎潤一郎による『谷崎潤一郎訳源氏物語』の出版に続く源氏物語の出版事業として同社から1942年(昭和17年)10月に『校異源氏物語』全5冊として一千部限定で出版されることになった。なお、「芳賀矢一記念会」は『校異源氏物語』の出版後、目的を果たしたとして解散しているが、「源氏物語大成 校異編」には藤村作が同記念会を代表する形で序文を寄せている。(なお、完成した研究成果を芳賀矢一に献呈するという記念会の当初の目的そのものは1927年(昭和2年)に同人が死去してしまったため叶わなかったものの、1953年(昭和28年)6月20日には、「芳賀矢一記念会」代表であった藤村作の発案により芳賀矢一の墓前に刊行されたばかりの『源氏物語大成 巻1』を献じ「奉告祭」を行っている。)ただ形になった成果が出るまでにこれほどまでに時間がかかってしまったことに対して、芳賀矢一が死去して5年ほどたった頃には「池田はいったい何をしているのだ」という批判が起こったという。またさらに本書の校異編において「簡明を旨とする」ことが校本の基本的な校合方針として採用されたのは、いつまでも完成しないことに対する批判を池田亀鑑が気にして完成を急ぐためにとった方針であるという。池田は生涯に亘って数多くの書物を著しているが、本校本の完成を前にして『伊勢物語に就きての研究』(1934年(昭和9年)、大岡山書店)から『古典の批判的処置に関する研究』(1941年(昭和16年)、岩波書店)までの数年間は専ら本校本の作成に専念するために大規模な著作を著してはいない。 ===第二期の作業=== 『校異源氏物語』の完成をもって芳賀矢一記念会が解散したことにより、これ以後は形式的には池田亀鑑個人の事業になる。池田亀鑑は第2段階の作業として古注集成の編集に入ったが、もともと頑健な体質であったとは言い難い池田が体を壊したことや戦中・戦後の混乱があったこともあって本格的な古注集成の完成は一旦断念し、『校異源氏物語』の校異の部分を明融臨模本との異同を書き加えるなど若干改めたものを「校異編」としてその中心に置くと共に、完成した校訂本を使用して源氏物語の詳細な字句索引を作成し、それを「索引編」とした。またこれまでの本文研究のさまざまな成果を「研究編」としてまとめ、古注集成のために集められた諸資料の一部は「資料編」および「図録篇」にまとめられた。こうして完成した『源氏物語大成』は、1953年(昭和28年)6月から1956年(昭和31年)12月にかけて中央公論社より発行された。 池田亀鑑は続いて第三期の作業として本来の目標であった「源氏物語古注集成」の編纂作業にとりかかったとされているが、まもなく再度体調を崩し、『源氏物語大成』の刊行を見届けた後1956年(昭和31年)12月に死去してしまう。池田亀鑑は1926年(大正15年)に東京帝国大学文学部国文学科を卒業し、1956年(昭和31年)12月に死去したため、学者としての、研究生活のほぼ全期間を本書を作成する仕事に捧げたことになる。なお、源氏物語の古注集成を作る作業はその後何人かの学者に引き継がれ、『源氏物語古注集成』(おうふう)など、いくつかの成果が公表されている。 ==校異編== 『源氏物語大成』の中核となる部分である。源氏物語研究史上初めて出来た源氏物語の学術的な校本であり、それにもかかわらずあまりにも完成度が高いためにこの後源氏物語の本文研究が止まってしまったと評されるほどのものである。 なお、校異編は『校異源氏物語』の完成(1942年(昭和17年))から時間を経たこともあり、「その後発見された古写本は相当の数に及んでいる」ためそれら新出の写本との校異を「校異源氏」の追加増補として刊行したいといった計画も発表されてはいたものの、結局は実現せず『校異源氏物語』の若干の誤植を手直した程度にとどまっており、例えば校異編の凡例は『校異源氏物語』の凡例を「校異源氏物語」の文言もそのままに使用しており、校合に使用した写本の所有者・所蔵者についても校異源氏物語作成時の内容を「侯爵家」・「伯爵家」・「子爵家」といった『源氏物語大成』刊行時にはすでに廃止されていた表記もそのまま変更せず収録しており、その後の所有者・所蔵者の変動は反映していない。そのため「校異源氏物語」を所有していた者の中には「源氏物語大成」が刊行されたとき校異編を購入せず「校異源氏物語」と「源氏物語大成 索引編」を組み合わせて利用している者もいた。但し各巻の巻末には採用されていた写本との異同のうち『校異源氏物語』に記載されなかった若干の異同を補記するとともに明融本との異同を付け加えてある。 ===底本=== 本校本は、全体としては「その数量において、またその形態・内容において希有の伝本である」とされた大島本を底本としている。但し、巻ごとに見ると、藤原定家の自筆本が存在する巻についてはそれを底本にしている。(柏木、花散里(尊経閣文庫蔵 前田家本))、早蕨(東京国立博物館蔵 保坂本) なお、藤原定家自筆本のうち、行幸(関戸本)については当時存在が知られていなかったため『源氏物語大成』ではこれを採用していない。また、 大島本に欠けている巻(浮舟)大島本があってもそれが飛鳥井雅康の筆でなく後人の補筆である巻(桐壺、夢浮橋)大島本が飛鳥井雅康の筆であっても別本系統の本文であることが判明した巻(初音)については大島本を底本にせず「大島本ニ次グベキ地位ヲ有スル」とされた二条為明らの書写と伝えられる池田本(旧池田亀鑑所蔵本)を底本にしている。 また、これ以後に作られた校訂本では冷泉明融により藤原定家の自筆本を文字の配列や字形に至るまで忠実に写し取った臨模本とされる明融臨模本が存在する巻(桐壺、帚木、花宴、若菜上下、橋姫、浮舟)については大島本よりもそちらを底本にすることが多いが、当時はその存在が知られていなかったため『校異源氏物語』の段階では採用されず、『源氏物語大成』校異編において巻末に補記する形で異同を記している。『源氏物語大成』の底本とされた大島本について言えば、この写本には、最初に書かれた本文に対して、時代の異なる(おそらく最初の書写後あまり間をおかない時期から江戸時代末期ころまでの期間にわたる)複数人によると見られる多くの墨筆・朱筆による書入れ・ミセケチ等が行われている。当初書かれた本文が比較的藤原定家の本文をよく保存しているよい青表紙本系統の本文であると考えられる(但し一部に独自の異文も見られる)のに対して後の書き込みの多くが河内本系統の本文によるものであると見られている(但し中には定家の自筆本に合わせた訂正も見られる)。 このような状況のもとで、本書では大島本の本文に訂正がある場合、書き込みにより訂正された後の本文を底本として採用していることが多いが、その方針で一貫しているわけでもなくもとの本文がそのまま採用されている場合もある。このような態度は底本である大島本についてだけでなく校合に使用した諸写本についても見られるため、伊井春樹などはこれを「近代になっての新しい異文発生の例」と呼んでいる。このため最近の本文比較研究では、「本来の大島本」(後の訂正が加わる前の最初に書かれた大島本の本文)とは別に「『源氏物語大成』の底本としての大島本」を一つの比較対照の本文とすることがある。なお、大島本にある大量の補訂作業の痕跡は本書及びこれに続くいくつかの校訂本において部分的に明らかにされてきたが、1996年(平成8年)に大島本の影印本が刊行されたことにより、その全貌が明らかになった。 また、この校本作成作業の開始時は河内本系統の写本を元に作業を開始したことは知られているが、それが河内本系統の中のどのような写本であったのかは明らかではない。また池田亀鑑の弟である池田晧は、「底本は数回変更された。」と語っており、底本が変更されたのは河内本系統の写本から大島本に変更された1回だけではないことになる。 ===比較校合に採用された写本=== 池田亀鑑は、約300点、冊数にして約15,000冊の写本を調査し、写本を撮影したフィルムは約50万枚に及ぶとされている。その中で『源氏物語大成』では青表紙本25本・河内本20本・別本16本の写本を校合対象としている。一つの写本でも巻によって校合の対象にしたりしなかったりすることがあるが、その基準は明らかではない。また、「原稿作製ノ都合上」昭和13年以後に発見された写本は採用されていない。但し『校異源氏物語』の段階では比較校合に採用されなかった写本のうち、明融本(明融臨模本)のみは特にその重要性から『源氏物語大成』校異編においてはその異同を巻末に補記している。 なお、校異編の凡例によれば、比較校合に採用した写本の基準は、おおむね 青表紙本系統の写本については吉野時代ころまでの書写であるもの。河内本系統の写本については鎌倉時代ころまでの書写であるもの。別本の写本については室町時代ころまでの書写であるもの。としている。但し「研究編」や『源氏物語事典』の記述を見ると江戸時代の写本についても詳細に調査しているものがあるため、写本の調査自体はこれより広い範囲の写本に対して行われたと見られる。 底本に対する異文の表記は大きく青表紙本、河内本、別本のそれぞれについて分けて記されている。これは、異なる系統の本文を安易に比較校合の対象とするべきではないとする池田亀鑑の考えを反映したものであると見られる。 ===採用された写本の一覧=== 本書で採用している各写本の記号・名称と筆者・所蔵者(当時のものであり、現在では変わっているものも多い)は以下の通り。 青表紙本 定 定家本 藤原定家筆 前田侯爵家蔵 定 定家本 藤原定家筆 保阪潤治蔵 大 大島本 飛鳥井雅康筆 大島雅太郎蔵 横 横山本 藤原為兼等各筆 横山敬次郎蔵 前 前田本 伝二条為氏筆 前田侯爵家蔵 榊 榊原家本 伝二条為氏筆 榊原子爵家蔵 池 池田本 伝藤原行能等各筆 桃園文庫蔵 肖 肖柏本 牡丹花肖柏筆 桃園文庫蔵 三 三条西家本 三条西実隆・公条・公順各筆 三条西伯爵家蔵 松      伝藤原為家筆 松浦伯爵家旧蔵(現善本叢書本) 秀      伝冷泉為秀筆 静嘉堂文庫蔵 長      伝耕雲花山院長親筆 大島雅太郎蔵 明      伝二条為明筆 桃園文庫蔵 家      伝藤原家隆筆 静嘉堂文庫蔵 氏      伝二条為氏筆 大島雅太郎蔵(現日大鎌倉諸本集成本) 耕      耕雲自筆書入 保阪潤治蔵(現善本叢書本) 冬      伝津守国冬筆 桃園文庫蔵 慈      伝慈鎮筆 静嘉堂文庫蔵 佐      伝二条為明筆 佐佐木信綱蔵 高      伝二条為藤筆 高野辰之蔵 鎮      伝慈鎮筆 桃園文庫蔵(現善本叢書本) 島      伝二条為氏筆 大島雅太郎蔵(現日大鎌倉諸本集成本) 西      筆者未詳(菅原院旧蔵) 西下経一蔵 二      伝二条為氏筆 静嘉堂文庫蔵 勝      筆者未詳(勝安房旧蔵) 桃園文庫蔵定 定家本 藤原定家筆 前田侯爵家蔵定 定家本 藤原定家筆 保阪潤治蔵大 大島本 飛鳥井雅康筆 大島雅太郎蔵横 横山本 藤原為兼等各筆 横山敬次郎蔵前 前田本 伝二条為氏筆 前田侯爵家蔵榊 榊原家本 伝二条為氏筆 榊原子爵家蔵池 池田本 伝藤原行能等各筆 桃園文庫蔵肖 肖柏本 牡丹花肖柏筆 桃園文庫蔵三 三条西家本 三条西実隆・公条・公順各筆 三条西伯爵家蔵松      伝藤原為家筆 松浦伯爵家旧蔵(現善本叢書本)秀      伝冷泉為秀筆 静嘉堂文庫蔵長      伝耕雲花山院長親筆 大島雅太郎蔵明      伝二条為明筆 桃園文庫蔵家      伝藤原家隆筆 静嘉堂文庫蔵氏      伝二条為氏筆 大島雅太郎蔵(現日大鎌倉諸本集成本)耕      耕雲自筆書入 保阪潤治蔵(現善本叢書本)冬      伝津守国冬筆 桃園文庫蔵慈      伝慈鎮筆 静嘉堂文庫蔵佐      伝二条為明筆 佐佐木信綱蔵高      伝二条為藤筆 高野辰之蔵鎮      伝慈鎮筆 桃園文庫蔵(現善本叢書本)島      伝二条為氏筆 大島雅太郎蔵(現日大鎌倉諸本集成本)西      筆者未詳(菅原院旧蔵) 西下経一蔵二      伝二条為氏筆 静嘉堂文庫蔵勝      筆者未詳(勝安房旧蔵) 桃園文庫蔵河内本 御 御物本 筆者未詳(源親行・聖覚奥書) 東山文庫蔵 七 七毫源氏 後醍醐天皇・兼良・頓阿等筆 東山文庫蔵 宮 高松宮家本 (一条冬良奥書) 高松宮家蔵 尾 尾州家本 (北条実時奥書) 尾張侯爵家蔵 平 平瀬本 伝伏見院他筆写 平瀬陸蔵 大 大島本 筆写未詳 大島雅太郎蔵 鳳 鳳来寺本 筆写未詳(源親行奥書) 鳳来寺蔵 為 為家本  伝藤原為家筆写 前田侯爵家蔵 為 為家本  伝藤原為家筆写 静嘉堂文庫蔵 兼      一条兼良奥書 桃園文庫蔵 海 源氏古注 筆写未詳 七海兵吉蔵 曼      畊雲筆写 曼殊院蔵 冷      伝冷泉為相筆写 大島雅太郎蔵(現日大鎌倉諸本集成本) 富      伝藤原為家筆写 富田仙助蔵 青      伝藤原為家筆写 大島雅太郎蔵(青谿書屋)(現日大鎌倉諸本集成本) 谿      伝二条為氏筆写 大島雅太郎蔵(青谿書屋)(現日大鎌倉諸本集成本) 俊      伝藤原俊成筆写 宮崎半兵衛蔵(現善本叢書本) 加      伝二条為氏筆(加持井宮旧蔵) 桃園文庫蔵(現善本叢書本) 前      伝津守國冬・慈覚筆写 前田侯爵家蔵 静      伝藤原為家筆写 静嘉堂文庫蔵御 御物本 筆者未詳(源親行・聖覚奥書) 東山文庫蔵七 七毫源氏 後醍醐天皇・兼良・頓阿等筆 東山文庫蔵宮 高松宮家本 (一条冬良奥書) 高松宮家蔵尾 尾州家本 (北条実時奥書) 尾張侯爵家蔵平 平瀬本 伝伏見院他筆写 平瀬陸蔵大 大島本 筆写未詳 大島雅太郎蔵鳳 鳳来寺本 筆写未詳(源親行奥書) 鳳来寺蔵為 為家本  伝藤原為家筆写 前田侯爵家蔵為 為家本  伝藤原為家筆写 静嘉堂文庫蔵兼      一条兼良奥書 桃園文庫蔵海 源氏古注 筆写未詳 七海兵吉蔵曼      畊雲筆写 曼殊院蔵冷      伝冷泉為相筆写 大島雅太郎蔵(現日大鎌倉諸本集成本)富      伝藤原為家筆写 富田仙助蔵青      伝藤原為家筆写 大島雅太郎蔵(青谿書屋)(現日大鎌倉諸本集成本)谿      伝二条為氏筆写 大島雅太郎蔵(青谿書屋)(現日大鎌倉諸本集成本)俊      伝藤原俊成筆写 宮崎半兵衛蔵(現善本叢書本)加      伝二条為氏筆(加持井宮旧蔵) 桃園文庫蔵(現善本叢書本)前      伝津守國冬・慈覚筆写 前田侯爵家蔵静      伝藤原為家筆写 静嘉堂文庫蔵別本 陽 陽明家本 伝後鳥羽院・後深草院・後京極良経等筆写 近衛侯爵家蔵 陽明文庫蔵 (伝甘露寺資經筆) 保 保坂本 伝藤原為家等筆写 保阪潤治蔵 国 國冬本 伝津守国冬筆本 桃園文庫蔵 麦 麦生本 麦生鑑綱筆写 桃園文庫蔵 阿 阿里莫本 筆者未詳 伝阿里莫神社旧蔵本 飯      筆者未詳 飯島春敬蔵 氏      伝二条為氏筆写 大島雅太郎蔵(現日大鎌倉諸本集成本) 相      伝冷泉為相筆写 静嘉堂文庫蔵 坂      伝二条為氏筆写 保阪潤治蔵 讃      伝二条院讃岐筆写 七海兵吉蔵(現善本叢書本) 長      伝冷泉為相筆写 長谷場純敬蔵(現善本叢書本) 言      山科言継自筆書入 前田侯爵家蔵 大      伝西行筆写 大島雅太郎蔵(現善本叢書本) 西      伝西行筆写 大島雅太郎蔵 桃      筆写未詳 桃園文庫蔵 図      伝二条為定筆写 宮内庁図書寮蔵陽 陽明家本 伝後鳥羽院・後深草院・後京極良経等筆写 近衛侯爵家蔵 陽明文庫蔵 (伝甘露寺資經筆)保 保坂本 伝藤原為家等筆写 保阪潤治蔵国 國冬本 伝津守国冬筆本 桃園文庫蔵麦 麦生本 麦生鑑綱筆写 桃園文庫蔵阿 阿里莫本 筆者未詳 伝阿里莫神社旧蔵本飯      筆者未詳 飯島春敬蔵氏      伝二条為氏筆写 大島雅太郎蔵(現日大鎌倉諸本集成本)相      伝冷泉為相筆写 静嘉堂文庫蔵坂      伝二条為氏筆写 保阪潤治蔵讃      伝二条院讃岐筆写 七海兵吉蔵(現善本叢書本)長      伝冷泉為相筆写 長谷場純敬蔵(現善本叢書本)言      山科言継自筆書入 前田侯爵家蔵大      伝西行筆写 大島雅太郎蔵(現善本叢書本)西      伝西行筆写 大島雅太郎蔵桃      筆写未詳 桃園文庫蔵図      伝二条為定筆写 宮内庁図書寮蔵 ===巻ごとの校合に採用された写本=== 複数巻にわたって校異が採られている写本は、それぞれの巻ごとに本文系統が吟味されており、その結果以下に示すように巻ごとに異なる本文系統に位置づけられていることがある。また、若紫などいくつかの巻では「別本の本文を持つ写本」として採用された写本は存在しない。 ===校異編の評価=== 『源氏物語大成』では、基本的な校合方針として「簡明を旨とする」という方針が示されており、漢字と仮名の使い分け、変体仮名、異体字、仮名遣いなど意味に影響を与えないと考えられた校異は多くの場合省略されている。校合対象の写本の採用基準は青表紙本系統の写本を最重要視しており、河内本系統の写本や別本系統の写本の採用は限られている。ある巻では校合に採用されており、別の巻でも採用することが可能と考えられる写本であっても巻ごとに採用を選んでおり、青表紙本と考えられた写本以外の写本の採用は比較的限定されたものになっている。また採用された写本に異文がある箇所でも校異が記載されていないことも少なくない。そのためこの校本から校合に採用された特定の写本の本文を復元することは原則として不可能である。 そもそも当然のことながら本文の比較校合の作業が始められた昭和初期の時点で存在が明らかになっており、かつ比較校合が可能であった写本しかとりあげられておらず、その後発見された、あるいは価値が明らかになった多くの写本との比較は行われていないが、その中には定家の自筆本の一部や臨模本等の現在重要と考えられている写本がいくつか含まれている。また、本書で校異に採用されていながら(おそらくは当時の所有者の意向により)「某家蔵」等としか表示されず当初から写本の所在が明らかでなかったり、当時の写本の所在は明らかであってもその後戦中・戦後の混乱期を経て所在が不明になった写本もいくつか存在するため、現在では校合のために採録した本文が正しいものなのかどうか再検証できない部分が存在する。 この校本が出来た当初は、「これで源氏物語本文の研究はほぼ完成した。これからはこの研究結果を元にして(作品論などの)次の段階の研究に進めばよい。」等として源氏物語の本文研究はもはや不必要であるかのような論調すら存在した。このような状況を問題視する阿部秋生によって、帚木帖を例にとって「簡明を旨とする」の具体的な内容を中心に校訂本文の精度についてさまざまな検証が行なわれたが、単純な誤りはほとんど発見されなかったものの、意図の不明な漢字表記や仮名遣いの統一などもあり、最終的な結論は、「特に精度の高い校本とは言い難い。この校本によっての『源氏物語』の本文研究や、校訂作業は全く不可能なこととは思わないが、非常に限られた調査しか出来ないことは承知しておかねばなるまい。」であった。 本書源氏物語大成の成立にも関わっていた松尾聡は、1978年(昭和53年)になって「これからの源氏物語の本文研究のさらなる進展のためには、本書を利用することによって大きく進展した現在の最新の研究水準に基づいて上記で指摘されているような問題点である漢字と仮名の使い分けや仮名遣い、河内本や別本について大幅に省略されている校異などについて、底本や校合本に当たり直して一切省略しない「新版校異源氏」を作る必要がある」と述べている。河内本に関する部分については1990年代に入ってから加藤洋介らによって実際に作業が行われ、その結果が『河内本源氏物語校異集成』に結実している。 このように現在の源氏物語の本文研究の学問的水準から考えると問題も多く、批判されることもしばしばある校本ではあるが、歴史上初めて完成した学術的な源氏物語の校本でありながら、21世紀に入っても通常の研究に利用しうる源氏物語の校本としては最も整ったものである。 ==校異編以外の部分== 1942年(昭和17年)10月、「校異源氏物語」全5巻(中央公論社)を完成させた池田であるが、戦時下の時局悪化に伴い、協力者の大半が太平洋戦争に駆り出されるに至った。そこで、新たにいわゆる「戦後の高弟」、稲賀敬二、石田穣二、森本元子、小山敦子、中村義雄、待井新一らを協力者に加え、前著「校異源氏物語」に「索引篇」「解説篇」「資料篇」「図録篇」を増補し、また新たに発見された明融本を校異本文に加え、「源氏物語大成」全8巻(中央公論社 1953年(昭和28年)‐1956年(昭和31年))として刊行した。 ===索引編=== 一般語彙編、助詞・助動詞編、項目一覧からなる。索引編は、校異編の完成以後の作業の中心となったものであり、このような作業にコンピュータを利用することなど考えられなかった時代に、この索引編を作成するために、一般語彙については約50万枚、助詞・助動詞については約60万枚の紙によるカードを作成したとされている。 なお、この索引編を作る作業自体は早くから始められていたらしく、校異源氏物語と同じ中央公論社から出版されていた谷崎潤一郎の旧訳源氏物語の付録(月報第11号及び13号)には、「池田亀鑑の『校異源氏物語』は昭和15年の時点では索引が計画されていた」旨が記されており、1943年(昭和18年)に東京帝国大学で池田亀鑑から源氏物語の講義を受けた今井源衛は、「講義の中で当時すでに一部完成していたらしい索引を元にして源氏物語語意論を語っていた」と述べている。 また源氏物語54帖の校訂本文を『校異源氏物語』では5冊、『源氏物語大成』では3冊、後に刊行された『源氏物語大成』普及版では6冊に分けて収録しているが、頁数は通し番号になっている(『源氏物語大成』になった際に加えられた「補正」の頁数は別立てになっており、通し頁数には影響を与えないようになっている。)ためにどれとどれを組み合わせて使用しても支障が出ないようになっている。そのため上述の通り「校異源氏物語」を所有していた者の中には「源氏物語大成」が刊行されたとき校異編を購入せずにもともと持っていた「校異源氏物語」と新たに購入した「源氏物語大成 索引編」を組み合わせて利用している者もいたという。 なお、1990年代半ばになって源氏物語大成の本文を元にコンピュータを使用した大規模な本格的用例索引が作成されている。 ===研究資料編=== 当初この「研究資料編」は源氏物語大成の最終巻として本文及び索引以外の部分全体を一冊にまとめて出版しようとしたものであるが、刊行途中でそれ以外に「図録編」が加わったため最終巻ではなくなり、普及版では「研究編」と「資料編」の二冊に分けられている。 ===研究編=== 本書(主として校異編)が成立するまでになされた本文の伝流や写本の系統についての研究成果をまとめたものである。晩年の池田は1954年(昭和29年)夏に脳出血によって倒れた後は右手が不自由になったために全ての著作は口述筆記によることになり、この研究編も1956年(昭和31年)8月初旬から10月中旬にいたる70日の間に1日も休むこと無く口述筆記によって作成されたものである。同編の章立ては、以下のように分かれている 「源氏物語古写本の伝流」 「平安時代における源氏物語の伝流」、「世尊寺家の源氏物語の伝流」、「源氏釈の形態と特質」からなり、紫式部が源氏物語を書き上げてから現在行われている青表紙本・河内本という区分が成立するまでの源氏物語の本文の流れについて論じたものであり、同時代の写本が存在せず、それ以外にも間接的・断片的な資料しか存在しない平安時代における源氏物語本文の伝流についての論述に多くのページが割かれている。このことは、池田の関心が本書の完成によって青表紙本・河内本というものについての研究が一応完成し、その成果を基礎として青表紙本・河内本が成立する以前の源氏物語の本文の流れを明らかにし、紫式部の書いた「原本」に迫ることにあったからであるとされている。「平安時代における源氏物語の伝流」、「世尊寺家の源氏物語の伝流」、「源氏釈の形態と特質」からなり、紫式部が源氏物語を書き上げてから現在行われている青表紙本・河内本という区分が成立するまでの源氏物語の本文の流れについて論じたものであり、同時代の写本が存在せず、それ以外にも間接的・断片的な資料しか存在しない平安時代における源氏物語本文の伝流についての論述に多くのページが割かれている。このことは、池田の関心が本書の完成によって青表紙本・河内本というものについての研究が一応完成し、その成果を基礎として青表紙本・河内本が成立する以前の源氏物語の本文の流れを明らかにし、紫式部の書いた「原本」に迫ることにあったからであるとされている。「源氏物語諸本の系統」 「青表紙本の形態と性格」、「奥入の成立とその価値」、「河内本とその成立」、「河内本の性格」、「別本の呼称とその性格」、「本文資料としての源氏物語古系図」、「耕雲本の成立とその特質」、「古注に現れた本文分別とその検証」からなり、青表紙本、河内本、耕雲本といった本文系統の成立とそれぞれの系統の特徴や性格・代表する写本について論じている。「青表紙本の形態と性格」、「奥入の成立とその価値」、「河内本とその成立」、「河内本の性格」、「別本の呼称とその性格」、「本文資料としての源氏物語古系図」、「耕雲本の成立とその特質」、「古注に現れた本文分別とその検証」からなり、青表紙本、河内本、耕雲本といった本文系統の成立とそれぞれの系統の特徴や性格・代表する写本について論じている。「現存重要諸本の解説」 校異編を作るに当たって調査した現存する計44の重要な写本についてそれぞれの写本ごとに項目を立て解説が行われている。但し、以下のような点に注意を必要とする。 藤原定家自筆本源氏物語、大島本、明融本、尾州家本源氏物語、高松宮家本源氏物語といったそれぞれの本文系統を代表する写本についてはここには挙げられず、上記の「源氏物語諸本の系統」の中のそれぞれの本文系統の説明の中で触れられている。 肖柏本源氏物語、三条西家本(日本大学蔵本)、国冬本源氏物語のように校異編で採用されていながら全く触れられていない写本が存在する。 校異編はで「池田本 伝藤原行能等各筆 桃園文庫蔵」とされている写本が研究編では「桃園文庫蔵源氏物語(青表紙本)」、校異編では「尾州家本 (北条実時奥書) 尾張侯爵家蔵」とされている写本が研究編では「正嘉二年奥書本源氏物語」とされているなど写本の名称が説明無く異なっていることがある。 天理河内本源氏物語(「桃園文庫蔵源氏物語(河内本)」として)、大沢本源氏物語、東京大学本源氏物語など、結果的に校異編に採用されなかった写本についても解説されている。 なお、この「現存重要諸本の解説」については後に大津有一が『源氏物語事典 下巻』の「諸本解題」において、校異編に採用されていたり池田が調査したにもかかわらず研究編で説明されていない写本及び絵入源氏物語、慶長中刊源氏物語、元和九年刊源氏物語といった版本を加えた計125本の写本・版本について研究編で説明されている以後の写本の所蔵者の異動などを書き加えた説明を行っている。校異編を作るに当たって調査した現存する計44の重要な写本についてそれぞれの写本ごとに項目を立て解説が行われている。但し、以下のような点に注意を必要とする。藤原定家自筆本源氏物語、大島本、明融本、尾州家本源氏物語、高松宮家本源氏物語といったそれぞれの本文系統を代表する写本についてはここには挙げられず、上記の「源氏物語諸本の系統」の中のそれぞれの本文系統の説明の中で触れられている。 肖柏本源氏物語、三条西家本(日本大学蔵本)、国冬本源氏物語のように校異編で採用されていながら全く触れられていない写本が存在する。 校異編はで「池田本 伝藤原行能等各筆 桃園文庫蔵」とされている写本が研究編では「桃園文庫蔵源氏物語(青表紙本)」、校異編では「尾州家本 (北条実時奥書) 尾張侯爵家蔵」とされている写本が研究編では「正嘉二年奥書本源氏物語」とされているなど写本の名称が説明無く異なっていることがある。 天理河内本源氏物語(「桃園文庫蔵源氏物語(河内本)」として)、大沢本源氏物語、東京大学本源氏物語など、結果的に校異編に採用されなかった写本についても解説されている。藤原定家自筆本源氏物語、大島本、明融本、尾州家本源氏物語、高松宮家本源氏物語といったそれぞれの本文系統を代表する写本についてはここには挙げられず、上記の「源氏物語諸本の系統」の中のそれぞれの本文系統の説明の中で触れられている。肖柏本源氏物語、三条西家本(日本大学蔵本)、国冬本源氏物語のように校異編で採用されていながら全く触れられていない写本が存在する。校異編はで「池田本 伝藤原行能等各筆 桃園文庫蔵」とされている写本が研究編では「桃園文庫蔵源氏物語(青表紙本)」、校異編では「尾州家本 (北条実時奥書) 尾張侯爵家蔵」とされている写本が研究編では「正嘉二年奥書本源氏物語」とされているなど写本の名称が説明無く異なっていることがある。天理河内本源氏物語(「桃園文庫蔵源氏物語(河内本)」として)、大沢本源氏物語、東京大学本源氏物語など、結果的に校異編に採用されなかった写本についても解説されている。なお、この「現存重要諸本の解説」については後に大津有一が『源氏物語事典 下巻』の「諸本解題」において、校異編に採用されていたり池田が調査したにもかかわらず研究編で説明されていない写本及び絵入源氏物語、慶長中刊源氏物語、元和九年刊源氏物語といった版本を加えた計125本の写本・版本について研究編で説明されている以後の写本の所蔵者の異動などを書き加えた説明を行っている。 ===資料編=== 古注集成の編纂のために収集した数多く存在する源氏物語の古注や関連資料の中から古い時期のもの中心に源氏物語の研究において最も重要と思われるものを厳選して下記の資料を収録している。 源氏釈 藤原伊行(前田家本) 最も古い時期の注釈書として収録された。最も古い時期の注釈書として収録された。奥入 (第1次(明融本、大島本)、第2次(定家自筆本)) 源氏研究の源泉として収録された。源氏研究の源泉として収録された。源氏物語絵詞 源氏物語絵巻の絵詞であり平安時代末期の本文資料として収録された。源氏物語絵巻の絵詞であり平安時代末期の本文資料として収録された。源氏物語古系図(九条家本、為氏本、正嘉本) 平安末期の本文資料として収録された。平安末期の本文資料として収録された。弘安源氏論議(九条家本) 最古の討論形態の注釈書として収録された。最古の討論形態の注釈書として収録された。原中最秘抄(阿波文庫本) 最古の秘伝書形態の注釈書として収録された。最古の秘伝書形態の注釈書として収録された。仙源抄(応永本) 最古の辞書形態の注釈書として収録された。最古の辞書形態の注釈書として収録された。 ===図録編=== 源氏物語絵巻のほぼ全巻および伴大納言絵巻、信貴山縁起絵巻、紫式部日記絵巻、枕草子絵巻、年中行事絵巻、粉河寺縁起絵巻、平家納経などの古い時期のものを中心に重要な絵図を数多く収録している。 このような図録集について、池田亀鑑は諸註集成とともに意義のあることとして準備を進めていたものの当時の出版事情からして困難であるとして源氏物語大成の刊行計画が発表された当初は本「図録編」は含まれていなかったが、刊行途中で追加されたものである。そのためシリーズ全体の出版事情を説明する「源氏物語大成の経過について」は最終巻である本巻ではなく一つ前の当初最終巻に予定されていた「研究資料編」(普及版では資料編)」の末尾に収録されている。 ==書誌情報・各巻の内容== 発行はいずれも中央公論社である。 ===限定版=== 1953年(昭和28年)6月から1956年(昭和31年)12月にかけて発売された。1970年代まで何度か版を重ねている。 源氏物語大成 巻1 校異篇 1953年(昭和28年)6月発売 ISBN 4‐12400‐441‐9 桐壺、帚木、空蝉、夕顔、若紫、末摘花、紅葉賀、花宴、葵、賢木、花散里、須磨、明石、澪標、蓬生、関屋、絵合、松風、薄雲、朝顔、少女までを収録 源氏物語大成 巻2 校異篇 1953年(昭和28年)11月発売 ISBN 4‐12400‐442‐7 玉鬘、初音、胡蝶、蛍、常夏、篝火、野分、行幸、藤袴、真木柱、梅枝、藤裏葉、若菜上、若菜下、柏木、横笛、鈴虫、夕霧までを収録 源氏物語大成 巻3 校異篇 1954年(昭和29年)2月発売 ISBN 4‐12400‐443‐5 御法、幻、匂宮、紅梅、竹河、橋姫、椎本、総角、早蕨、宿木、東屋、浮舟、蜻蛉、手習、夢浮橋までを収録 源氏物語大成 巻4 索引篇 1953年(昭和28年)8月発売 ISBN 4‐12400‐444‐3 一般語彙索引 源氏物語大成 巻5 索引篇 1956年(昭和31年)4月発売 ISBN 4‐12400‐445‐1 助詞・助動詞索引 源氏物語大成 巻6 索引篇 1956年(昭和31年)9月発売 ISBN 4‐12400‐446‐X 索引項目一覧 源氏物語大成 巻7 研究資料篇 1956年(昭和31年)11月発売 ISBN 4‐12400‐447‐8 源氏物語大成 巻8 図録篇 1956年(昭和31年)1月発売 ISBN 4‐12400‐448‐6源氏物語大成 巻1 校異篇 1953年(昭和28年)6月発売 ISBN 4‐12400‐441‐9桐壺、帚木、空蝉、夕顔、若紫、末摘花、紅葉賀、花宴、葵、賢木、花散里、須磨、明石、澪標、蓬生、関屋、絵合、松風、薄雲、朝顔、少女までを収録源氏物語大成 巻2 校異篇 1953年(昭和28年)11月発売 ISBN 4‐12400‐442‐7玉鬘、初音、胡蝶、蛍、常夏、篝火、野分、行幸、藤袴、真木柱、梅枝、藤裏葉、若菜上、若菜下、柏木、横笛、鈴虫、夕霧までを収録源氏物語大成 巻3 校異篇 1954年(昭和29年)2月発売 ISBN 4‐12400‐443‐5御法、幻、匂宮、紅梅、竹河、橋姫、椎本、総角、早蕨、宿木、東屋、浮舟、蜻蛉、手習、夢浮橋までを収録源氏物語大成 巻4 索引篇 1953年(昭和28年)8月発売 ISBN 4‐12400‐444‐3一般語彙索引源氏物語大成 巻5 索引篇 1956年(昭和31年)4月発売 ISBN 4‐12400‐445‐1助詞・助動詞索引源氏物語大成 巻6 索引篇 1956年(昭和31年)9月発売 ISBN 4‐12400‐446‐X索引項目一覧源氏物語大成 巻7 研究資料篇 1956年(昭和31年)11月発売 ISBN 4‐12400‐447‐8源氏物語大成 巻8 図録篇 1956年(昭和31年)1月発売 ISBN 4‐12400‐448‐6 ===普及版・豪華普及版=== 普及版は8巻だった限定版を14冊に再編して1984年(昭和59年)から1985年(昭和60年)にかけて発売された。1989年(平成元年)刊行のものは「豪華普及版」と称している) 源氏物語大成 第一冊 校異編 1984年(昭和59年)10月発売 ISBN 4‐1240‐2471‐1 桐壺、帚木、空蝉、夕顔、若紫、末摘花、紅葉賀、花宴、葵までを収録 源氏物語大成 第二冊 校異編 1984年(昭和59年)11月発売 ISBN 4‐1240‐2472‐X 賢木、花散里、須磨、明石、澪標、蓬生、関屋、絵合、松風、薄雲、朝顔までを収録 源氏物語大成 第三冊 校異編 1984年(昭和59年)12月発売 ISBN 4‐1240‐2473‐8 少女、玉鬘、初音、胡蝶、蛍、常夏、篝火、野分、行幸、藤袴、真木柱、梅枝、藤裏葉までを収録 源氏物語大成 第四冊 校異編 1985年(昭和60年)1月発売 ISBN 4‐1240‐2474‐6 若菜上、若菜下、柏木、横笛、鈴虫、夕霧までを収録 源氏物語大成 第五冊 校異編 1985年(昭和60年)2月発売 ISBN 4‐1240‐2475‐4 御法、幻、匂宮、紅梅、竹河、橋姫、椎本、総角、早蕨までを収録 源氏物語大成 第六冊 校異編 1985年(昭和60年)3月発売 ISBN 4‐1240‐2476‐2 宿木、東屋、浮舟、蜻蛉、手習、夢浮橋までを収録 源氏物語大成 第七冊 索引編 1985年(昭和60年)4月発売 ISBN 4‐1240‐2477‐0 一般語彙索引上(あ〜し) 源氏物語大成 第八冊 索引編 1985年(昭和60年)5月発売 ISBN 4‐1240‐2478‐9 一般語彙索引下(す〜を) 源氏物語大成 第九冊 索引編 1985年(昭和60年)6月発売 ISBN 4‐1240‐2479‐7 助詞・助動詞索引上 源氏物語大成 第十冊 索引編 1985年(昭和60年)7月発売 ISBN 4‐1240‐2480‐0 助詞・助動詞索引下 源氏物語大成 第十一冊 索引篇 1985年(昭和60年)8月発売 ISBN 4‐1240‐2481‐9 索引項目一覧 源氏物語大成 第十二冊 研究篇 1985年(昭和60年)9月発売 ISBN 4‐1240‐2482‐7 源氏物語大成 第十三冊 資料篇 1985年(昭和60年)10月発売 ISBN 4‐1240‐2483‐5 源氏物語大成 第十四冊 図録篇 1985年(昭和60年)11月発売 ISBN 4‐1240‐2484‐3源氏物語大成 第一冊 校異編 1984年(昭和59年)10月発売 ISBN 4‐1240‐2471‐1桐壺、帚木、空蝉、夕顔、若紫、末摘花、紅葉賀、花宴、葵までを収録源氏物語大成 第二冊 校異編 1984年(昭和59年)11月発売 ISBN 4‐1240‐2472‐X賢木、花散里、須磨、明石、澪標、蓬生、関屋、絵合、松風、薄雲、朝顔までを収録源氏物語大成 第三冊 校異編 1984年(昭和59年)12月発売 ISBN 4‐1240‐2473‐8少女、玉鬘、初音、胡蝶、蛍、常夏、篝火、野分、行幸、藤袴、真木柱、梅枝、藤裏葉までを収録源氏物語大成 第四冊 校異編 1985年(昭和60年)1月発売 ISBN 4‐1240‐2474‐6若菜上、若菜下、柏木、横笛、鈴虫、夕霧までを収録源氏物語大成 第五冊 校異編 1985年(昭和60年)2月発売 ISBN 4‐1240‐2475‐4御法、幻、匂宮、紅梅、竹河、橋姫、椎本、総角、早蕨までを収録源氏物語大成 第六冊 校異編 1985年(昭和60年)3月発売 ISBN 4‐1240‐2476‐2宿木、東屋、浮舟、蜻蛉、手習、夢浮橋までを収録源氏物語大成 第七冊 索引編 1985年(昭和60年)4月発売 ISBN 4‐1240‐2477‐0一般語彙索引上(あ〜し)源氏物語大成 第八冊 索引編 1985年(昭和60年)5月発売 ISBN 4‐1240‐2478‐9一般語彙索引下(す〜を)源氏物語大成 第九冊 索引編 1985年(昭和60年)6月発売 ISBN 4‐1240‐2479‐7助詞・助動詞索引上源氏物語大成 第十冊 索引編 1985年(昭和60年)7月発売 ISBN 4‐1240‐2480‐0助詞・助動詞索引下源氏物語大成 第十一冊 索引篇 1985年(昭和60年)8月発売 ISBN 4‐1240‐2481‐9源氏物語大成 第十二冊 研究篇 1985年(昭和60年)9月発売 ISBN 4‐1240‐2482‐7源氏物語大成 第十三冊 資料篇 1985年(昭和60年)10月発売 ISBN 4‐1240‐2483‐5源氏物語大成 第十四冊 図録篇 1985年(昭和60年)11月発売 ISBN 4‐1240‐2484‐3 ==その他== 本書は、刊行後昭和31年度の朝日文化賞(現朝日賞)を受賞している。 ===桃園文庫=== 「桃園」とは池田亀鑑の雅号であり、「桃園文庫」とは本書を作る過程で池田亀鑑が購入した源氏物語の写本をはじめとする『伊勢物語』、『土佐日記』等の王朝文学に関する様々な資料を含む池田亀鑑のコレクションの総称である。これらは、1956年(昭和31年)12月の同人の没後もしばらくの間同人の私邸において亀鑑の次男である池田研二らによって生前に利用されていたほぼそのままの状態で保存管理されていた(同人の住居に付随してコンクリート二階建の書庫があり、そこで整然と保存されていたとされている)が、東海大学附属図書館館長であった原田敏明が池田亀鑑の妻の兄であった関係等からその管理を任されるようになった。その後1972年(昭和47年)に、東海大学の建学三十周年事業の一環として同大学が一括して購入することが正式に決まり、1973年(昭和48年)11月、ほぼ1年に及ぶ調査・目録作成作業の後、保管場所も東海大学に移され、同大学の附属図書館において「桃園文庫」としてまとめて保管されることとなった。 東海大学では、1976年(昭和51年)5月に「桃園文庫整理準備委員会」が、さらに1983年(昭和58年)4月には「桃園文庫整理委員会」が設立され、1986年(昭和61年)3月に物語文学を中心とした目録『桃園文庫目録 上巻』が、1988年(昭和63年)3月に物語文学以外についての目録『桃園文庫目録 中巻』が出版されている。また「東海大学桃園文庫影印刊行委員会」が設立され、1990年(平成2年)から1996年(平成8年)にかけて、源氏物語大成において校異に採用された明融本のほか源氏物語古系図・梗概書の源氏小鏡や源氏抄さらには伊勢物語・土佐日記・古今和歌集・堤中納言集・紀貫之集・徒然草等を内容とする『東海大学蔵桃園文庫影印叢書』(全13巻)が刊行されているほか、貴重な写本類の展示もしばしば行われている。 なお、阿里莫本、池田本、国冬本、麦生本、肖柏本、天理河内本といった校異源氏物語及び源氏物語大成にその校異を採録されているような桃園文庫旧蔵とされる貴重な写本の少なくないものが現在天理大学天理図書館の所蔵になっている。このうち池田本・麦生本・阿里莫本については『源氏物語大成大成 研究編』の「現存重要写本の解説」のそれぞれの項目において「戦時中行方不明になった」との記述が存在する。これらは古書籍商である弘文荘反町茂雄の手を経て天理図書館に入り現在も天理図書館の所蔵となっているものである。この間の事情について、弘文荘反町茂雄はまだ池田亀鑑が存命中であった1950年(昭和25年)に池田亀鑑の有力なスポンサーの一人であった前田善子のコレクションであった「紅梅文庫」の蔵書が大量に売りに出されたが、その中に「桃園文庫」の蔵書印が押されている重要な源氏物語の古写本がいくつも含まれていたことを知り、これらが散逸したり非公開の個人所蔵となることを恐れて天理教真柱の中山正善に一括して買い取ってもらい、天理図書館でまとめて管理してもらうことになったと識している。なお、桃園文庫の蔵書が紅梅文庫の中にあった事情については反町茂雄は「戦時中に池田亀鑑が何らかの理由で物入りが生じたため、校異源氏物語が完成したことにより手元に置く必要が無くなりかつ多くの巻が揃っているため価値が高いと見られた写本を預けるような形で親しい前田善子に買い取ってもらったのが戦後の混乱の中で売りに出されてしまったのではないか」と推測している。 ===家族の協力=== 本書の成立には多くの研究者の協力があったほか、池田亀鑑の父宏文をはじめとする家族の協力もあったとされている。この「家族の協力」という点については『源氏物語大成』の序文等に謝辞が簡単に記されているに過ぎなかったため誰がどのような協力をしたのかその具体的な内容は不明であり、池田亀鑑に対する精神的な側面での助力や単純な労力的な作業の手伝いに限られているとする見方もあったが、池田亀鑑の弟である池田晧が普及版の月報において明らかにしたところによれば、校異編において使われている校異の表記方法はいくつかの試行錯誤の末池田晧の提案を池田亀鑑が採用したものであることなどを始めとして、『源氏物語大成』の成立に係わる極めて重要な部分にまでその助力が及んでいることが明らかになった。 ==関連出版物== 『源氏物語大成』の関連出版物として次のものが挙げられる。 東京帝国大学文学部国文学研究室編『源氏物語に関する展観書目録』岩波書店、1932年(昭和7年) 1932年(昭和7年)11月19日および20日に東京大学文学部国文学科において行われた河内本を元にした「校本源氏物語」の完成記念として本文資料として源氏物語の古写本青表紙系統六十二種、河内本系統三十四種、別本系統二十四種等を展観した際の目録である。1932年(昭和7年)11月19日および20日に東京大学文学部国文学科において行われた河内本を元にした「校本源氏物語」の完成記念として本文資料として源氏物語の古写本青表紙系統六十二種、河内本系統三十四種、別本系統二十四種等を展観した際の目録である。橋本進吉編『源氏物語展観書解説』富山房、1937年(昭和12年)2月 1937年(昭和12年)2月に芳賀矢一の十周年の忌辰として源氏物語の古写本及び古注釈書三十余部を展観した際の目録である。1937年(昭和12年)2月に芳賀矢一の十周年の忌辰として源氏物語の古写本及び古注釈書三十余部を展観した際の目録である。日本古典全書『源氏物語』池田亀鑑著 朝日新聞社 1946年(昭和21年)〜1955年(昭和30年) 池田亀鑑による『源氏物語大成』と並行して作業が進められた源氏物語の注解書であり、本文は基本的に源氏物語大成と同じになっている。全7巻。現代語訳が併記してあり、源氏物語54帖のほか、第7巻には山路の露が収められている。巻頭には140ページを超える「解説」が付されており、後に『源氏物語事典』などに転載された。池田亀鑑による『源氏物語大成』と並行して作業が進められた源氏物語の注解書であり、本文は基本的に源氏物語大成と同じになっている。全7巻。現代語訳が併記してあり、源氏物語54帖のほか、第7巻には山路の露が収められている。巻頭には140ページを超える「解説」が付されており、後に『源氏物語事典』などに転載された。『源氏物語事典』上下2巻 池田亀鑑編 東京堂出版 1960年(昭和35年)(合本は1987年(昭和62年)3月15日刊) ISBN 4‐4901‐0223‐2 池田亀鑑が死去した時点で第三期の作業として予定されていた「源氏物語諸注集成」のために池田により集められ、作成されつつあった膨大な未定稿が残されていた。この「源氏物語諸注集成」の作業は、当初弟子たちによって作業が引き継がれる事が考えられたが、「短月日の間にはまとめがたい」として大津有一を編集代表として弟子たちによって現在のような形にまとめられて出版されたものである。源氏物語に関するこの種の事典・資料集は多くの学者により作成され、さまざまな出版社から数多く出版されているが、その中でも最も大規模でかつ詳細なものであり、『源氏物語大成』と出版社は異なるが、判型や装幀は『源氏物語大成』と合わせたものになっている。当初1960年(昭和35年)に上下2巻で(上巻は3月、下巻は9月)刊行され、後に1987年(昭和62年)になって合本が刊行された。2008年(平成20年)には源氏物語千年紀を記念した出版事業の一つとして伊井春樹による新たな序文を付けて再刊された。内容は以下の通りである。 上巻(語彙編) 源氏物語本文に現れる人物名・地名・邸宅名などの固有名詞、服飾などの事物・官職名・年中行事など約3,000の項目を解説した源氏物語に関する通常の事項事典である。 下巻は源氏物語に関する各種の資料集として以下のものからなっている。 総記(池田亀鑑執筆) もともと日本古典全書「源氏物語」(朝日新聞社)のために池田が書いたものを大津有一が一部加筆した上で転載している。源氏物語に関する主要な問題を「名称」、「巻冊数」、「巻名と巻序」、「並びの巻について」、「物語の構想と各巻の配列」、「各巻の孤立性と関連性」、「短編性と長編性」、「作者」、「紫式部の略歴」、「紫式部の作家的生活」、「物語の主題」、「執筆動機について」、「執筆期間」、「巻々の成立順位」、「写実的精神と手法」、「浪漫的精神と手法」、「モデル論」、「もののあわれ」、「後代文学への影響」、「諸本とその系統」、「研究略史」、「源氏物語の現代的意義」の22項目に亘って論じている。 注釈書解題(大津有一執筆) 諸本解題(大津有一執筆) 梗概(清水好子執筆) 所引詩歌仏典(玉上琢弥執筆) 作中人物解説(稲賀敬二執筆) 系図・人物・呼称一覧(稲賀敬二執筆) 年立(稲賀敬二執筆) 主要人物官位身分年齢一覧(稲賀敬二執筆) 源氏物語年表(山脇毅執筆) 図録(石田穣二執筆、奥村恒哉地図作成、菱田青完図録作画)池田亀鑑が死去した時点で第三期の作業として予定されていた「源氏物語諸注集成」のために池田により集められ、作成されつつあった膨大な未定稿が残されていた。この「源氏物語諸注集成」の作業は、当初弟子たちによって作業が引き継がれる事が考えられたが、「短月日の間にはまとめがたい」として大津有一を編集代表として弟子たちによって現在のような形にまとめられて出版されたものである。源氏物語に関するこの種の事典・資料集は多くの学者により作成され、さまざまな出版社から数多く出版されているが、その中でも最も大規模でかつ詳細なものであり、『源氏物語大成』と出版社は異なるが、判型や装幀は『源氏物語大成』と合わせたものになっている。当初1960年(昭和35年)に上下2巻で(上巻は3月、下巻は9月)刊行され、後に1987年(昭和62年)になって合本が刊行された。2008年(平成20年)には源氏物語千年紀を記念した出版事業の一つとして伊井春樹による新たな序文を付けて再刊された。内容は以下の通りである。上巻(語彙編)源氏物語本文に現れる人物名・地名・邸宅名などの固有名詞、服飾などの事物・官職名・年中行事など約3,000の項目を解説した源氏物語に関する通常の事項事典である。下巻は源氏物語に関する各種の資料集として以下のものからなっている。 総記(池田亀鑑執筆) もともと日本古典全書「源氏物語」(朝日新聞社)のために池田が書いたものを大津有一が一部加筆した上で転載している。源氏物語に関する主要な問題を「名称」、「巻冊数」、「巻名と巻序」、「並びの巻について」、「物語の構想と各巻の配列」、「各巻の孤立性と関連性」、「短編性と長編性」、「作者」、「紫式部の略歴」、「紫式部の作家的生活」、「物語の主題」、「執筆動機について」、「執筆期間」、「巻々の成立順位」、「写実的精神と手法」、「浪漫的精神と手法」、「モデル論」、「もののあわれ」、「後代文学への影響」、「諸本とその系統」、「研究略史」、「源氏物語の現代的意義」の22項目に亘って論じている。 注釈書解題(大津有一執筆) 諸本解題(大津有一執筆) 梗概(清水好子執筆) 所引詩歌仏典(玉上琢弥執筆) 作中人物解説(稲賀敬二執筆) 系図・人物・呼称一覧(稲賀敬二執筆) 年立(稲賀敬二執筆) 主要人物官位身分年齢一覧(稲賀敬二執筆) 源氏物語年表(山脇毅執筆) 図録(石田穣二執筆、奥村恒哉地図作成、菱田青完図録作画)総記(池田亀鑑執筆)もともと日本古典全書「源氏物語」(朝日新聞社)のために池田が書いたものを大津有一が一部加筆した上で転載している。源氏物語に関する主要な問題を「名称」、「巻冊数」、「巻名と巻序」、「並びの巻について」、「物語の構想と各巻の配列」、「各巻の孤立性と関連性」、「短編性と長編性」、「作者」、「紫式部の略歴」、「紫式部の作家的生活」、「物語の主題」、「執筆動機について」、「執筆期間」、「巻々の成立順位」、「写実的精神と手法」、「浪漫的精神と手法」、「モデル論」、「もののあわれ」、「後代文学への影響」、「諸本とその系統」、「研究略史」、「源氏物語の現代的意義」の22項目に亘って論じている。注釈書解題(大津有一執筆)諸本解題(大津有一執筆)梗概(清水好子執筆)所引詩歌仏典(玉上琢弥執筆)作中人物解説(稲賀敬二執筆)系図・人物・呼称一覧(稲賀敬二執筆)年立(稲賀敬二執筆)主要人物官位身分年齢一覧(稲賀敬二執筆)源氏物語年表(山脇毅執筆)図録(石田穣二執筆、奥村恒哉地図作成、菱田青完図録作画)『源氏物語語彙用例総索引 自立語編』全五巻(勉誠出版、1994年(平成6年)12月) ISBN 4‐585‐08004‐X『源氏物語語彙用例総索引 付属語編』全五巻(勉誠出版、1996年(平成8年)2月20日) ISBN 4585100032 源氏物語大成の本文を用いた源氏物語の詳細な用例索引、本文には源氏物語大成の他『日本古典文学大系』(岩波書店刊)と『日本古典文学全集』(小学館刊)の対応する頁・行数も示し、比較出来るようにしてある。基本的には源氏物語大成索引編(助詞・助動詞の部)に基づいており、そこに掲出された付属語に、「きこゆ」「たうぶ」「たてまつる」「たまふ」「はべり」「まうす」等の補助動詞(自立語)を加えて前後の文脈を付して、一覧に供したもの。源氏物語大成の本文を用いた源氏物語の詳細な用例索引、本文には源氏物語大成の他『日本古典文学大系』(岩波書店刊)と『日本古典文学全集』(小学館刊)の対応する頁・行数も示し、比較出来るようにしてある。基本的には源氏物語大成索引編(助詞・助動詞の部)に基づいており、そこに掲出された付属語に、「きこゆ」「たうぶ」「たてまつる」「たまふ」「はべり」「まうす」等の補助動詞(自立語)を加えて前後の文脈を付して、一覧に供したもの。 =比羅夫丸= 比羅夫丸(ひらふまる)は日本初の蒸気タービン船で、日本鉄道が直営の青函連絡船航路開設のため、1906年(明治39年)10月、イギリス スコットランドのウィリアム・デニー・アンド・ブラザーズ社に建造を発注し、1908年(明治41年)春、相次いで就航させた2隻の同型の海峡渡船の第1船である。船名は発注当時の日本鉄道社長、曾我祐準の意向により、北海道・東北開拓に縁のある歴史的人物の名より採ることとし、第1船は阿倍比羅夫から比羅夫丸、第2船は坂上田村麻呂から田村丸と命名され、これら2隻は比羅夫丸型と呼ばれた。 青函連絡船としては、日露戦争後から第一次世界大戦後までの16年余りの期間運航されたが、その間の鉄道網の発達と北海道開拓の進展、更に第一次世界大戦により急増する客貨に、この2隻だけでは到底対応できず、就航後間もない時期から、雑多な傭船に囲まれての運航となった。しかしその高速性能を生かし、最後まで急行接続便として活躍し、青函航路引退後も四国航路で約10年間活躍した後解体された。 ここでは、比羅夫丸型建造に至るまでの青函連絡船の形成過程と、就航後の同航路についても記述する。 着工前の1906年(明治39年)11月1日、日本鉄道が鉄道国有法に基づき国有化されたため、逓信省鉄道作業局がこの建造契約を継承した。 ==鉄道会社直営化以前の青函航路== ===鉄道連絡船以前=== 津軽海峡を渡る航路は1873年(明治6年)2月、青森 ‐ 函館間の青函航路および安渡(大湊) ‐ 函館間航路が北海道開拓使によって開設された。同月、山口県下関の小田藤吉も青函航路に参入したが、ほどなく撤退した。1879年(明治12年)6月に至り、既に東京 ‐ 函館間航路も運航していた郵便汽船三菱会社が北海道開拓使から青函航路を引き継いだ。しかしこれ以前より、郵便汽船三菱会社による日本の海運界独占が顕著となり、運賃が高騰、これに対抗する共同運輸会社が1882年(明治15年)7月設立され、青函航路にも参入した。しかし今度は両社とも採算度外視の無制限競争状態に陥ったため、共倒れを危惧した政府の意向で1885年(明治18年)9月、両社は合併し日本郵船会社を設立、同年10月1日より青函航路を継承し、政府による命令航路として毎日1往復の定期運航が確保された。 ===鉄道連絡船=== 鉄道網は1891年(明治24年)9月1日、日本鉄道によって上野 ‐ 青森間が全通し、翌1892年(明治25年)8月1日には北海道炭礦鉄道によって岩見沢 ‐ 室蘭間が開通するにおよび、日本郵船は1893年(明治26年)2月、青函航路の延長として、函館 ‐ 室蘭間航路を開設した。ここに上野 ‐ 札幌間が曲りなりにも、この青森 ‐ 函館 ‐ 室蘭間の“三港連絡航路”を介して鉄道で結ばれ、事実上この航路は“鉄道連絡船”航路となった。これにより輸送量も急増し、1898年 (明治31年)10月には、青森 ‐ 函館間に夜行便1往復も設定され、その後、更に青森 ‐ 室蘭間直航便も開設された。 日露戦争中の1904年(明治37年)10月15日、北海道鉄道によって函館 ‐ 小樽間が開通し、更に翌1905年(明治38年)8月1日には、小樽から北海道炭礦鉄道の南小樽までの延伸工事も完成し、輸送量は一段と増加した。当時、日本鉄道、北海道鉄道とも1日2本の直通列車が運転され、青函航路もこれらを受ける2往復の定期運航が望まれた。しかし、当時、国内外で多くの航路を運航していた日本郵船は、日露戦争による船腹不足もあり、青森 ‐ 函館間の夜行便定期化まで手が回らず、定期運航は1往復のまま、客貨共に積み残しがしばしば発生し、両岸の鉄道会社と地元経済界からは、日本郵船や逓信省に対し、繰り返し増便要請が行われた。 ==国営連絡船== ===蒸気タービン船建造の経緯=== このような状況に対し、日本鉄道は1902年(明治35年)頃から、青函航路直営化の検討を開始し、一時は750総トン級の小型汽船3隻の建造を計画していた。 しかしその頃、北海道炭礦鉄道でも青森‐室蘭間に連絡船を運航しようという動きもあり、日本鉄道では、1905年(明治38年)8月の株主総会で、今後20年間は他の追従を許さない連絡船ということで、従来計画より大型の1,100〜1,500総トンで、航海速力も15ノット以上という当時としては破格の高速船3隻の建造を決定した。3隻建造により常時2隻運航との考えであった。 1905年(明治38年)10月、その船体構造設計を東京帝国大学助教授横田成年に、機関部設計を同助教授加茂正雄に依頼した。加茂はこの程度の大きさの船で15ノット以上となると、従来の蒸気レシプロ機関では機関室が過大となるため、既にイギリスの海峡渡船で実績を上げていた蒸気タービンの採用を曾我社長に進言した。これを受け、日本鉄道では当時の学界・業界の識者の意見も聞き、熟慮検討の結果、同年12月末、蒸気タービン採用を正式に決定した。しかし当時、加茂自身も蒸気タービンについての知識は文献によるもののみで、タービン機の製作上の仕様書を書くすべはなく、主機としてパーソンス式を採用することとし、プロペラに関しては全て製造者に一任した。 1906年(明治39年)2月末に設計仕様書、図面が完成し、これに基づく国内外の造船各社から建造費見積書の提出を受け、8月20日にイギリスのウィリアム・デニー・アンド・ブラザーズ社を選択することに決定した。しかし1906年(明治39年)3月30日には鉄道国有法が公布され、日本鉄道の買収は1906年(明治39年)11月1日と指定されたため、逓信省鉄道作業局の指定により、上記造船各社からの提出書類を全て逓信省管船局に提出して再審査を受ける必要が生じ、同年8月25日これを申請した。この再審査は9月17日に終了し、鉄道作業局から、ウィリアム・デニー・アンド・ブラザーズ社またはイギリスのフェアフィールド社のいずれを選んでも異議なし、とされたため、鉄道作業局からの修正覚書に基づき、竣工期限をフェアフィールド社と同じ11ヵ月に短縮のうえ、日本鉄道は1906年(明治39年)10月1日、ウィリアム・デニー・アンド・ブラザーズ社代理人高田商会と、横浜港引き渡し、最大速力18ノット以上という条件で、1,500総トン級の海峡渡船建造の契約を締結した。しかし、船価の関係で2隻の建造に留まった。この1ヵ月後の11月1日には日本鉄道は国有化され、この建造契約も鉄道作業局に継承されたが、同局は翌1907年(明治40年)4月1日には帝国鉄道庁に改組されている。工事監督には、当時イギリス滞在中であった逓信省技師で後に鉄道院の船舶課2代目課長を務めた松長規一郎が、また設計を担当した横田、加茂両助教授も官命で欧米留学することとなり、それぞれ逓信技師兼務として監督を嘱託された。 ウィリアム・デニー・アンド・ブラザーズ社では、建造契約締結後直ちに工場内設計を開始し、翌1907年(明治40年)1月に起工、7月10日に進水、10月15日には艤装工事も完了し、ダンバートンのウィリアム・デニー・アンド・ブラザーズ社から自航でクライド川を下り、対岸グリーンノックのスコット造船所に入渠して船底塗装し、10月16日から24日にかけ各種試験を行った。比羅夫丸は3軸船で各軸の馬力や回転数に差があるため、プロペラの選定が難しく、予め3枚羽根と4枚羽根のプロペラを製作し、各種組み合わせて取り付け、試験を重ね、中央を3枚羽根、両側を4枚羽根として19.1ノットの最大速力を記録した。 1907年(明治40年)10月29日にはイギリスでの全ての工事、検査等を済ませ、日本への回航のためダンバートンを出港した。比羅夫丸は海峡渡船のため航続距離が短く、石炭庫容量は90.9トンと小さいため、各船艙に積める限りの石炭を積み込んでの航海となったが、天候に恵まれ、途中アルジェ、ポートサイド、コロンボ、シンガポールと寄港しながらの順調な航海となった。しかし、シンガポールを出港して、あとは横浜まで直航というところで、北東の強い季節風に阻まれ、うち4日間は暴風に見舞われ一向に前へ進めず、錨鎖庫に流れ込んだ海水が非水密の隔壁を越えて第1船艙に浸水する事故もあり、給炭のため、やむなく香港に寄港し、横浜へは12月26日到着した。なお、比羅夫丸就航に際し、蒸気タービンの取り扱いおよび補修のできる機関長資格者が必要なため、この回航に先立つ1907年(明治40年)7月、商船学校教諭の下田文吾が帝国鉄道庁技師兼任としてイギリスへ派遣され、比羅夫丸・田村丸建造中のウィリアム・デニー・アンド・ブラザーズ社で実習見学を行い、この回航には機関長として、また唯一の日本人として乗り組み、就航後は初代機関長を務めた。 翌1908年(明治41年)1月7日からは日本での入渠を伴う関係官庁の各種検査を受け、2月4日には東京湾で試運転を行ったが17ノットしか出ず、2月7日には代理店の高田商会が再度試運転を行うも同様の結果で、ウィリアム・デニー・アンド・ブラザーズ社にその旨を電報で問い合わせ、試運転海域の水深を伝えたところ、「その水深ならその速度が正しい」との返電、水深が浅すぎたのであった。改めて2月13日に予備運転、2月17日に公式試運転を行い、イギリスの良質炭と熟達した火夫で達成した19.1ノットには及ばなかったものの、保証速力の18ノットを超える18.36ノットを達成できたため、2月20日帝国鉄道庁に引き渡され、2月27日横浜港を出港し2月29日青森港に到着、3月7日、青森10時発、函館14時着の下り便より就航した。 同時期、長崎の三菱合資会社 三菱造船所では、東洋汽船の天洋丸(13,454総トン、19,000軸馬力、20.6ノット) がイギリスから輸入したパーソンス式反動タービンを主機として建造中で、その竣工は1908年(明治41年)4月22日となったため、2月20日横浜引き渡しの比羅夫丸が日本初の蒸気タービン船の栄誉を担うこととなった。また同造船所では同年9月に、日本海軍初の蒸気タービン艦となるイギリス製パーソンス式反動タービン主機搭載の通報艦最上(常備排水量1,350トン、8,000軸馬力)が竣工している。 ===船体構造=== 甲板は上から、最上船橋(Flying bridge)、端艇甲板(Boat deck)、覆甲板(おおいこうはん)(Awning deck)、正甲板(Main deck)、下甲板(Lower deck)、船艙(Hold)の6層構造で、外見上船体の上甲板に相当する部分は覆甲板と呼ばれ、船首楼や船尾楼はなかった。船底から下甲板までは6枚、正甲板までは5枚の水密隔壁が設けられていた。覆甲板上には船の全長の半分程度の長さの甲板室が中ほどに設置され、この甲板室はほとんど1層で、その屋上中央部にやや後方へ傾斜した煙突が、その前方には特別室と、高級船員室の2棟が載って甲板室2階部分となり、高級船員室屋上の最上船橋は前方と両翼に張り出し、まさにフライングブリッジであったが就航当初は屋根すらなかった。甲板室前後の覆甲板上には2本のマストが煙突同様後方へ傾斜して立ち、スピード感のある外観となった。 ===覆甲板=== 覆甲板(オーニングデッキ)上には船体長の半分程度の長さの甲板室が設置され、甲板室両舷と後面は屋根付き遊歩廊となっていた。前部の露天部には、船体中心線上に前から順に、揚錨機、1層下の正甲板へ降りる階段の階段室、煙突同様やや後傾した前部マスト、ウインチ、前部貨物ハッチが設けられ、前部マストには荷役用デリックが設置され、前部貨物艙の荷役ができた。甲板室の煙突より前の部分が1等区画で、船首側左舷角には椅子とテーブルのほか、後壁を除く3方の窓または壁を背に長椅子ソファーを設置した社交室が設けられ、ここはイギリスでの新造時は定員外であったが、日本回航後4名の定員が付けられた。その後方には、扉を隔てて婦人用開放1等寝台室(寝台定員4名)が、またこれら2室の右舷側には同じく社交室から扉を隔てて紳士用1等開放寝台室(寝台定員8名)が設けられていた。これら寝台室では窓側に窓一つのスパンに1人掛けシート2脚が向かい合わせ設置され、夜間はナロネ21形開放1等寝台車下段同様、これら向かい合わせの2脚を1人用寝台に組み立てる構造で、この部分には上段は設けられなかった。一方壁側には2人掛けソファーが壁を背に設置され、夜間は背ずりを引き上げて2段寝台とした。これら二つの開放寝台室の出入口扉は後方にもあり、両舷の1等出入口につながる広間に面していた。この両寝台室の間には幅約1.3mの空間が設けられ、最上船橋天窓からこの空間を経由して、両寝台室直下、正甲板の高級船員食堂への通風採光を図られ、また両寝台室のこの空間に面する壁にはガラスパネルがはめられていた。 広間の右舷側には1等配膳室が、左舷側には1等洗面所が配置され、1等洗面所の前方に隣接して婦人用トイレも設置されていたが、ここは婦人用開放1等寝台室内からしか出入できない構造であった。この広間中央前方の紳士用・婦人用1等開放寝台室の間には船体中心線上を前方に向け、1層下の正甲板へ降りる階段が設置されていた。この広間の後方両舷には、それぞれ1室ずつ定員2名の1等個室寝台室が設けられ、その間の船体中心線上の廊下を後ろへ進むと1等食堂であった。この食堂では天井が全て約90cm持ち上げられた造りで、持ち上げ部分の両側面にはかもめ模様のステンドグラスを固定した窓を3面ずつ設け、この窓は1層上の端艇甲板面から上側に突出した部分にあり、採光は良好であった。更にその天井には花模様の焼付ガラス入り天窓が設けられ、食堂はゆったりとした明るい空間となっていた。食堂の両舷窓際には窓を背に長椅子ソファーが設置され、それらの前に設置されたテーブルをはさんで椅子も配置され、同時に16名が食事できた。1等食堂の後ろはボイラー室通気囲壁と煙突囲壁があり、覆甲板上にはここより後方へ続く室内通路はなかった。 煙突囲壁より後ろは2等区画で、新造時は天窓付き2等食堂であったが、当時の日本の実情に合わせて、日本へ回航後、定員32名の畳敷き2等雑居室に改装された。この2等雑居室には両舷の出入口と後ろに隣接する寝台室との間に扉があった。2等雑居室より後方は船体中心線上に長さ約4.5m、幅約3mの機関室囲壁があり、その両側をそれぞれ開放2段式の2等寝台室とし、両室とも前後方向約8mの外側壁に沿って2段寝台を4セット設置し、内側壁沿いには機関室囲壁後端から1セット設置し両舷合計寝台定員20名とした。両寝台室は後方にも出入口があり、甲板室後端の出入口スペースに通じていた。この両寝台室の間の船体中心線上には前方へ向け、正甲板へ降りる階段が設けられていた。甲板室の両舷側は屋根付き遊歩廊となっており、このうち左舷遊歩廊天井には、最上船橋から機関室への伝令器のワイヤーと伝声管が通り、2等寝台室の機関室囲壁から機関室内へ引き込まれていた。甲板室船尾側の露天部には、船体中心線上、前から順に、後部貨物ハッチ、ウインチ、やや後傾した後部マストが設置され、後部マストにも荷役用デリックが設置され、後部貨物艙の荷役ができた。その後ろには階段室があり、正甲板後部の3等船室船尾寄りの部位へ前方に向けて降りる階段があった。その後ろ、船尾の舵取機室直上には、非常用の汽力ならびに手動での操舵装置と磁気コンパスが設置されていた。また、後部マストの左舷側には舷梯が装備され、1、2等旅客は乗下船時これを使って小蒸気船に乗り移った。その船尾側両舷には端艇が1隻ずつ懸架されていた。 ===正甲板=== 覆甲板の1層下が正甲板で、ここの最前部、錨鎖庫直上を含む大部屋は2段寝台12名の甲板部員室、その後ろ船体中心線上の廊下をはさむ左舷側には2段寝台個室の操舵手室、2段寝台個室の郵便職員室、広い郵便室と続き、廊下右舷側にも2段寝台の個室が4室設けられ、甲板長、船庫手、船匠、事務員、2等航海士、3等航海士らに割り当てられた。この廊下から後ろ方向に覆甲板の船首係船作業場に上る階段が設置され、その階段の下には、1層下の下甲板へ前方に向けて降りる階段が設置されていた。この区画の後方は広間になっており、左舷に部員トイレが、右舷には部員シャワー室が設けられ、広間中央部は1層上の覆甲板の前部貨物ハッチ直下で、正甲板にも前部貨物ハッチが設けられ、この両舷側には荷役用の舷門も設けられていた。 この広間から後ろは、前後に走る廊下は2本となり、左舷廊下外側には前から機関長室(田村丸では事務長室)、1等機関士室、1等浴室、1等トイレ、高級船員浴室、食器洗い場と続き、その後ろはボイラー室側面の石炭庫直上となり、石炭庫への石炭投入口が3ヵ所設けられ、これに対応する舷側の載炭門3ヵ所も設けられていた。その後ろ、2等トイレ、2等浴室と続き、左右をつなぐ廊下に達し、この廊下より後方が2段雑居の3等船室であった。右舷廊下外側は前から郵便職員室、予備機関士室、2等機関士室、2等機関士室、事務長室(田村丸では機関長室)、その後ろに3段寝台12名の給仕室があり、その後ろには左舷と同構造の石炭投入口と載炭門が、その後ろには3等トイレ、3等浴室と続き、3等船室前の左右をつなぐ廊下に達した。 前部貨物ハッチのある広間から後方へ延びる2本の廊下の間には、前方からまず高級船員食堂があり、2本の廊下の何れからも出入でき、前壁と後壁を背にした長椅子ソファーを備え、中央部にテーブルとその周囲に椅子9脚が設置されていた。高級船員食堂の後方には左右の廊下をつなぐ廊下があり、この廊下から船体中心線上を後方へ向け上る階段があり、階段の先は、覆甲板前部1等出入口広間の婦人用1等開放寝台室と紳士用1等開放寝台室の間に達した。覆甲板の1等寝台室利用者のうち男性はこの階段を降りて、正甲板左舷の1等トイレを使う必要があった。なお、内側で窓の無い高級船員食堂の通風採光のため、最上船橋上に設けた天窓から、船長室と1等航海士室の間、1等婦人用寝台室と1等紳士用寝台室の間の縦空間を通して通風採光し、階段と廊下は端艇甲板天窓から採光していた。階段の後方には両廊下にはさまれた厨房があり、何れの廊下からも出入りでき、ここへは2層上の特別1等室屋上の天窓から同室後壁、覆甲板両側の1等個室寝台室後壁の空間を経由して通風採光されていた。 この後ろはボイラー室で、前側ボイラー部分は囲壁とせず、両廊下間にボイラー直上を跨ぐ防熱を施したアーチ型の鉄板を渡した構造であった。その後ろの両廊下の間は、煙突部分から後方は連続したボイラー室囲壁、機関室(タービン室)囲壁で占められていた。ボイラー室囲壁には両側の廊下に出入口があり、機関室囲壁には左舷廊下に出入口があった(田村丸は両側にあった)。この機関室入口を入ると、広いエンジンプラットホームがあり、前方壁面には全ての計器類が整然と取り付けられ、その前にはタービン操縦ハンドルが並び、これらの監視や操作のために機側まで降りる必要はなく、更にこの機関室の天井の一部は覆甲板の2等寝台室の間を吹き抜け、端艇甲板の天窓に達し、明るく通風も良好で、機関長の作業環境は良好であった。機関室囲壁の後ろ側は、既述の3等船室前の左右をつなぐ廊下であったが、この廊下の中央部から船体中心線上を後方に向けて覆甲板へ上る階段があり、その先は2等寝台室出入り口スペースに通じ、2等旅客はトイレ使用時にはこの階段を使う必要があった。 船尾側にはいわゆる“蚕棚式”の2段雑居の3等船室があり、その中央部、1層上の覆甲板の後部貨物ハッチ直下に、下の後部貨物艙のハッチがあり、その両舷には3等旅客の乗下船と荷役を行う舷門が設置され、3等旅客はこの舷門から貨物共々ハシケに乗り移った。3等船室船尾寄り部位からは後方に向け、覆甲板へ上る階段が設置されていた。最後尾は舵取機室で、汽力ならびに手動で回転する歯車装置を持ったウィリアム・デニー・アンド・ブラザーズ社方式の舵取機が設置されていた。通常この舵取機は最上船橋の舵輪から正甲板前部の高級船員食堂へ至る通風採光空間を通り、更に正甲板左舷通路、3等船室を経由するチェーンとロッドを介した機械装置で遠隔操縦された。 ===下甲板=== 正甲板の下が下甲板で、正甲板前部貨物ハッチは、水密隔壁上にあり、前半分はトランクハッチとなって第1船艙に達し、後ろ半分は第2船艙に開いた。このトランクハッチの水密囲壁周囲とその前方の下甲板には2段寝台大部屋18名の火夫室、2段寝台の6名の機関部員室、2段寝台4名の調理員室、2段寝台の6名の給仕室、倉庫等を設け、正甲板船首部左舷の郵便室横の船体中心線上の階段で交通した。これより前方は錨鎖庫、船首タンクとなっていた。 貨物艙である第2船艙の後ろには水密隔壁を隔ててボイラー室が続き、ここにハウデン式強圧通風付き舶用スコッチ缶が2缶、前後に搭載され、煙突は両缶の間の後ろ寄りに設置された。ボイラー室の両舷側には石炭庫が配置されていた。その後ろの機関室(タービン室)には、船体中心線上に高圧タービンが1基、その後方左右には高圧タービンで使った蒸気を再利用する低圧タービンが1基ずつ配置され、各タービンからはそれぞれプロペラ軸が出て、船尾水線下の中央と両側の計3基のプロペラに直結で繋がっていた。当時はこのような大出力のプロペラ軸を減速する歯車装置を造る技術がなかったため、毎分600回転というプロペラ効率の極めて悪い高回転数を余儀なくされていた。なお両側の低圧タービンには後進タービンがあり、両側のプロペラは逆転できたが、中央のプロペラは逆転できなかった。しかも両側のプロペラも互いに逆回転させることができなかったため操縦性は良くなかった。舵は中央のプロペラ直後の1枚だけであった。 ===端艇甲板=== 覆甲板の甲板室の屋上が端艇甲板で、その前端近くに、前側に船長室、後ろ側に1等航海士室の入った甲板室があり、そのすぐ後方には、その直下に設置された覆甲板から正甲板へ降りる階段の採光のための天窓が設置されていた。その後方には1等特別室の入った独立した甲板室が設置されていた。この特別室には左舷側に1段寝台が、後壁を背に長椅子ソファーが置かれ、椅子とテーブル、更に右舷後方にはトイレも設置され定員は2名で、右舷側に出入口が設けられていた。その後ろは90cm高く持ち上げた1等食堂の屋根で上部に天窓があり、両側面にはステンドグラス入りの窓が取り付けられていた。その後ろは煙突で、煙突の両舷には船尾方向へ向けて覆甲板両舷の遊歩廊へ降りる階段が設置されていた。煙突より後部の両舷には、それぞれ2隻ずつ端艇が懸架され、船体中心線上には2等食堂改装の2等雑居室の天窓、機関室天窓、2等出入口スペースから正甲板へ降りる階段の天窓と続いていた。 ===最上船橋=== 船長室の屋上の甲板を、前方と船体幅いっぱいに両舷に張り出して視界を確保し、船体中心線上に磁気コンパスと舵輪を、伝令器、海図机が設置され、最上船橋(フライングブリッジ)とされた。しかし、当時のドーバー海峡の渡船にならい、その周囲と天井には、風雨除け、日除けのキャンバス(帆布)を固定する骨組しかなかったため、寒冷で航海時間も長い津軽海峡の実情に合わず、就航後約1年で、板張りの天井を設け、前部中央のみガラス窓とし、1912年(大正元年)以降、全周の板張りとガラス窓化が行われた。 姉妹船の田村丸と区別するため、舷側に比羅夫丸は白線、田村丸は赤線を入れて区別した。 本船以降、青函連絡船の主力船には長らく石炭焚き蒸気タービンが採用され、 洞爺丸事件後の代船として1955年(昭和30年)に建造された初代檜山丸で、初めてディーゼルエンジンが導入された。 ==運航== ===比羅夫丸・田村丸による4時間、5時間運航=== 1908年(明治41年)3月7日から、比羅夫丸1隻で、4時間運航1往復が開始された。 青森10時発 函館14時着(4時間)函館0時発 青森4時着(4時間)同年4月4日から第2船田村丸も加わり、2隻2往復となり、夜間便は5時間運航となった。 1便・青森10時発 函館14時着(4時間)3便・青森19時発 函館0時着(5時間)2便・函館10時発 青森14時着(4時間)4便・函館23時発 青森4時着(5時間)比羅夫丸・田村丸就航当初は青森・函館共に連絡船の接岸できる岸壁はなく、沖合500〜600m地点に錨泊し、小蒸気船やハシケを用いての乗下船、荷役のため、4時間運航とはいえ、それは連絡船の抜錨から投錨までの時間で、岸壁から岸壁までの所要時間は両港でのハシケ連絡時間を加算する必要があり、相当の時間を要した。それでも青函間6時間運航の日本郵船(同様に港ではハシケ連絡)に比べれば格段に速かった。 ===日本郵船撤退と傭船時代=== 比羅夫丸・田村丸就航の1908年(明治41年)当時は、日本郵船の青森 ‐ 函館 ‐ 室蘭間の“三港連絡航路”が1日1往復定期便運航中で、更に青森 ‐ 函館には臨時夜行便1往復の設定もあり、2社競合航路であった。しかし、帝国鉄道庁(国鉄)連絡船の運賃は各等とも郵船より1割ほど安く、そのうえ所要時間が2時間も短く、船も新しく、蒸気タービンで静かなため、旅客は鉄道庁連絡船に集中し、郵船単独時代の1906年(明治39年)度の旅客輸送人員が9万6359名であったのに対し、国鉄連絡船開設初年度の1908年(明治41年)度の国鉄連絡船の旅客輸送人員は15万7440名と急増していた。しかし、比羅夫丸型2隻は、冬季に交代で入渠したため、就航一冬目は1船1往復に減便したが、これでは鉄道連絡船としての使命を全うできないうえ、競合する郵船に客が流れるため、就航二冬目半ばの1910年(明治43年)1月25日、青函間4時間運航可能な高速船ということで、長崎の三菱合資会社三菱造船所で1909年(明治42年)7月6日竣工し、その後、日本の各港を巡回していた帝国海事協会の義勇艦うめが香丸(3,273総トン、最大速力21.315ノット)を傭船し、2月1日より就航させて通年定期便2往復運航とした。なおこの船は有事の際、海軍の補助艦として使う目的で国民の献金で建造され、国産タービン(三菱造船所製パーソンス式反動タービン)搭載としては前年竣工の姉妹船さくら丸に次いで2番目であった。この3隻体制の効果もあり、1910年(明治43年)度の旅客輸送人員は22万3524名に、国営化5年後の1913年(大正2年)度には31万4571名と順調にその数を伸ばしていた。なお、帝国鉄道庁は国営航路開設初年の1908年(明治41年)12月5日をもって鉄道院となっている。 一方貨物は、従来からの日本郵船を利用する本州と北海道間の永年の商業取引関係もあり、大口荷主は依然郵船を使い、鉄道庁(国鉄)連絡船は小口貨物を僅かに扱う程度で、1908年(明治41年)度の貨物輸送量は8,503トンに留まった。このため、国鉄も一部貨物の運賃割引を行って集荷に努めたが、郵船側もそれに対抗するなど、かつての三菱対共同運輸の無制限競争の様相を呈してきたため、逓信省の仲介で、臨時船の青森入港を制限しないこと、同社所有地を当時の国鉄である鉄道院が買い上げること、などの条件で、1910年(明治43年)3月、日本郵船は同航路から撤退した。これにより、従来郵船が輸送していた貨物も国鉄が輸送することになり、貨物輸送量は、1909年(明治42年)度の2万421トンから、1910年(明治43年)度の7万2625トンへと一挙に3.5倍に増加、義勇艦うめが香丸ではその任に不向きなため、1911年(明治44年)1月、同船を関釜航路へ転出させ、代わりに関釜航路で傭船中であった元ロシア船の会下山丸(えげさんまる)(1,462総トン)を転入させ、3隻体制を維持した。比羅夫丸型も郵船撤退後の1910年(明治43年)5月には最速の1往復が4時間15分運航となっていたが、会下山丸は青森 ‐ 函館間5時間を要したため、会下山丸で運航する所要時間5時間の夜行便の5便・6便を設定し、1911年(明治44年)3月末からはこれを甲便(青森1時発 函館6時着)・乙便(函館1時発 青森6時着)と改称して客貨輻輳時の臨時便として運航した。また通常は比羅夫丸型で運航する4時間15分便も、比羅夫丸型入渠等で会下山丸が運航する場合は5時間運航とした。 このような状況で、比羅夫丸型にも貨物を満載せざるを得なくなったが、後部船艙は手小荷物用としていたため、貨物は前部船艙へ積載、これにより船首喫水が増大し、後部バラストタンクに注水してバランスを調整したが、結局全体の喫水が増大してしまい、正甲板後部両舷の3等舷門が水面近くになり、荒天時の旅客乗降に苦慮することとなった。 貨物輸送量はその後も北海道内の鉄道網の充実もあり、不況下にも前年割れすることなく、1914年(大正3年)度には15万4716トンと4年で倍増していた。この間、阪鶴鉄道が発注し、同鉄道国有化後の1908年(明治41年)6月竣工後は、山陰沿岸を行く舞鶴 ‐ 境 間航路で運航された第二阪鶴丸(864.9総トン)を、1912年(明治45年)3月の同航路廃止後、関釜航路での使用を経て、同年6月青函航路へ転入させ、会下山丸共々甲便・乙便に充当して貨物輸送に当たらせ4隻目とし、同船を阿波国共同汽船へ賃貸した1914年(大正3年)7月からは、万成源丸(886.94総トン)を貨物船として傭船して 4隻体制を継続し、増加する貨物需要にかろうじて対応していた。 なお国鉄青函連絡船は開設以来青森側の所管であったが、1913年(大正2年)5月5日 を以って函館側の鉄道院北海道鉄道管理局函館運輸事務所所管となり、以来1988年(昭和63年)の終航まで函館側所管が続いた。 ===大戦景気による混乱と車両航送導入決定=== 1914年(大正3年)7月勃発の第一次世界大戦は、その後の大戦景気と、世界的な船腹不足による海運貨物の鉄道への転移をもたらし、鉄道連絡船航路であった青函航路の貨物輸送量も、1916年(大正5年)度からは一層激しい増加を示し、翌1917年(大正6年)度には36万1259トンと、3年間で2.3倍にも達し、同年以降滞貨の山を築く混乱状態に陥ってしまった。 一方順調に伸びていた旅客輸送人員は、1913年(大正2年)からの不況のため、1914年(大正3年)度は前年割れの28万8964名となったものの、第一次世界大戦勃発後の大戦景気により、1916年(大正5年)度からは著しい増加に転じ、1917年(大正6年)度からは移民ならびに出稼ぎ労働者全員が青函連絡船利用となったこともあり49万4827名へと急増した。 1916年(大正5年)3月には、会下山丸と万成源丸を解傭し、生玉丸(856.02総トン)を傭船し、4月には泰辰丸(695.81総トン)を2週間傭船し、更に関釜航路で傭船中で、より収容能力が大きく、戦時には病院船として使う日本赤十字社の弘済丸(2,589.86総トン)を会下山丸の後継として青函航路へ転傭し、会下山丸同様、比羅夫丸・田村丸休航時の旅客便 1便・2便・3便・4便への充当と、通常は甲便・乙便として主に貨物便として使用し、同年6月には蛟龍丸(701.91総トン)を傭船した。 1917年(大正6年)2月には貨物便の丙便・丁便を設定して最大4往復とし、同年3月には生玉丸を解傭し、同年4月には万成源丸を再度傭船して、基本5隻体制を維持し、6隻目の船として、12月には3週間、第八大運丸(588.87総トン)を、12月から翌1918年(大正7年)1月にかけての1ヵ月間 関釜航路で傭船していた第三共栄丸(687.00総トン)を転傭し、更に1918年(大正7年)2月から4月まで、本来は冬期休航の逓信省航路標識視察船羅州丸(2,340総トン)が関釜航路で傭船されていたのを、1ヵ月余り貨物便に助勤させ、同年4月から5月にかけ甲辰丸(709.22総トン)を50日余り、6月から10月まで第十二小野丸(685.23総トン)を3ヵ月余り傭船し、貨物輸送力不足を補ったが、折からの船腹不足による傭船困難と傭船料高騰の中、貨物の発送制限、停止の措置も取らざるを得なかった。1917年(大正6年)8月からは甲便・乙便の貨物船 万成源丸に87名、蛟龍丸に63名の定員をとり3等旅客を乗船させ、急激な旅客増加に対応した。このような中、同年10月には、弘済丸が事故で休航したため、関釜連絡船対馬丸(初代)(1,679総トン)を16日間助勤させている。更に1918年(大正7年)7月には5便・6便を設定し、7月から9月までは旅客便として、漁民・移民輸送期には客貨便として、その他の季節は貨物便として運航し、定期旅客便2往復(1便・2便(4時間30分)3便・4便(5時間))、客貨便1往復(5便(6時間15分)・6便(6時間10分))、貨物便1往復(甲便・乙便(9時間))、臨時貨物便1往復(丙便・丁便(9時間))の5往復体制とした。これら5往復中、比羅夫丸・田村丸で運航する旅客便は高速で貨物積載量も相対的に少ないため荷役時間も短く、2船2往復できたが、その他傭船便は低速で貨物積載量も多く、長時間の荷役を日中に行う必要上、運航は夜行のみ1船片道となり、速力の異る、追い越しを伴う厳しい深夜運航が行われていた。 このように急増する客貨を前に、積替え回数が多く天候にも左右される一般型船舶の沖繋りによるハシケ荷役では、円滑な貨物輸送は到底望めないばかりか、長時間荷役による運航効率の悪さと、旅客定員の絶対的な不足もあり、旅客輸送にも支障をきたしていた。この打開策として、鉄道院は1919年(大正8年)、比羅夫丸型の約2倍の大きさの客船の船内に軌道を敷設し、貨物積載状態の貨車を積み込んで運ぶ「車両航送」の導入を決定した。しかし、この、“2階級特進”の決定は、車載客船建造のほか、貨車を積卸しできる専用岸壁建設と、本州、北海道間の鉄道車両の連結器統一を行う必要があり、すぐ実現できる計画ではなかった。 ===自社貨物船建造と比羅夫丸型の客船化=== このため、当座の貨物輸送力不足解消を目指し、安定して運航できる自前の貨物船建造を計画した。しかし、当時の日本の鉄鋼自給能力は未だは低く、第一次世界大戦の主戦場となったヨーロッパからの鉄材輸入途絶と、1917年(大正6年)4月のアメリカ合衆国参戦後、同年8月から同国が実施した対日鉄材輸出禁止による極端な鉄材不足の中、やむなく木造貨物船建造となり、1917年(大正6年)11月と12月に 白神丸(837.42総トン)と竜飛丸(841.01総トン)の建造が、この年から新造船建造に本格参入したばかりの横浜船渠で着手され、翌1918年(大正7年)6月と10月に就航した。両船とも載貨重量985トンと比羅夫丸型の4倍以上もあり、更に翌1919年(大正8年)4月には鉄道院の木造の石炭運搬船で、共に載貨重量1,477トンの第一快運丸(1081.00総トン)と第二快運丸(998.56総トン)も貨物船に転用して就航させ、貨物輸送力増強を図った。 これら4隻の自社貨物船就航による貨物輸送力充実を機に、1919年(大正8年)3月と4月には万成源丸と蛟龍丸の2隻の貨物船を解傭する一方、同じ4月に旅客設備のある伏木丸(1,330.28総トン)を傭船して5・6便の定期化が行われ、5月から7月までの1ヵ月半は第十二小野丸を再度傭船し、更に翌1920年(大正9年)4月には客船敦賀丸(996.51総トン)を傭船し、旅客輸送力の増強と円滑化が図られた。 白神丸・竜飛丸就航と相前後する1918年(大正7年)9月から、比羅夫丸型で運航され、従来は客貨混載であった旅客便の1便・2便・3便・4便への貨物積載が廃止され、引き続いて比羅夫丸型両船の貨物積載設備撤去と旅客定員増工事が行われた。比羅夫丸は1919年(大正8年)2月、田村丸は同年6月に後部覆甲板のウインチと貨物ハッチを撤去し、そこに甲板室を増設して2等雑居室とし、また正甲板前部貨物ハッチ上に1段式の3等雑居室を設け、比羅夫丸144名、田村丸136名の定員増加を図るとともに、正甲板後部の“蚕棚式” 3等雑居室の一部を1段式に改装し3等旅客の待遇改善も図った。これにより、比羅夫丸は従来の旅客定員より144名増しの1等22名、2等115名、3等443名の計580名となったとされるが、これでは従来の定員が436名ということになり、就航時の定員とされる1等22名、2等52名、3等254名、計328名と齟齬をきたすが詳細不明である。更に翌1920年(大正9年)2月には前部貨物艙(第2船艙)を3等船室に改装して、比羅夫丸82名、田村丸89名の定員増加を図り、比羅夫丸は662名(554名?)、田村丸は661名(553名?)の旅客定員となった。 1920年(大正9年)2月からは比羅夫丸型で運航され、接続列車の関係で最も混雑する最速の1便と2便に限り集中緩和目的で“急行料金”が徴収されたが、効果は見られず、旅客定員の多い翔鳳丸型が就航した1924年(大正13年)11月には廃止された。なお、これより前の1918年(大正7年)7月から、比羅夫丸型も4時間30分運航へとスピードダウンしていた。 1918年(大正7年)11月の第一次世界大戦終結により、大戦景気は一時落ち込んだもののすぐ回復し、また4隻の自社貨物船就航もあって、1920年(大正9年)度の貨物輸送量は、混乱の始まった1917年(大正6年)度から更に26%増の45万5597トンにも達した。旅客輸送も、上記施策もあり、1919年(大正8年)度は前年比42%増の70万5055名を記録した。この時期は、比羅夫丸型2隻による旅客便2往復、伏木丸、敦賀丸による客貨便1往復、と自社貨物船4隻での2往復で、このほかに弘済丸、後には壱岐丸も配置され、年間通じての5往復が可能であった。 しかし、1920年(大正9年)から始まった戦後恐慌の影響で、貨物は1920年(大正9年)度の45万5597トンをピークに以後3年間減少を続けたが、1923年(大正12年)度の40万6459万トンを底に再度増加に転じたため、1924年(大正13年)10月には山陽丸(972.00総トン)を車両航送開始直前の 1925年(大正14年)5月末まで、1925年(大正14年)1月から2月までの約1ヵ月間、伊吹丸(978.28総トン)を傭船し、車両航送開始前年の1924年(大正13年)年度には大戦景気のピーク時の1920年(大正9年)度を上回る46万5860トンを輸送した。 旅客も1919年(大正8年)度の70万5055名をピークに減少に転じたものの、2年後の1921年(大正10年)度の59万1465名を底にして増加に転じたが、そのテンポは遅く、1924年(大正13年)度は70万1708名とピーク時実績には達していなかった。 1920年(大正9年)4月以降は、自社船6隻に加え、弘済丸、伏木丸、敦賀丸の9隻で運航されて来たが、1922年(大正11年)関釜航路に新造船景福丸、徳寿丸が就航したことで、余剰となった壱岐丸(初代)(1,608.84総トン)を同年10月、青函航路に転属、11月から就航させ、1916年 (大正5年)4月以来6年半の長きにわたって傭船された弘済丸を同年11月解傭した。 1924年 (大正13年)5月には車載客船翔鳳丸が車両航送用陸上設備未完のため一般客船として就航し、これにより壱岐丸(初代)は同年5月、稚泊航路転属のための砕氷船化工事のため転出した。続いて伏木丸、敦賀丸も同年10月解傭され、車載客船、津軽丸、松前丸、飛鸞丸が同年10月から12月末までに、順次、一般客船として就航し、比羅夫丸は10月15日、田村丸は12月11日それぞれ係船された。 ===青函航路引退後=== かねてより、大阪商船が大阪 ‐ 小松島間航路で使用するため、比羅夫丸の賃借を申し出ており、鉄道省は函館港引き渡しで賃貸し、1924年(大正13年)11月14日、函館を出港した。1929年 (昭和4年)5月30日には鉄道省は雑種財産に編入し、同年7月8日、大阪港引き渡しで大阪商船に売却した。1931年(昭和6年)12月29日には大阪商船が同航路を摂陽商船に譲渡し、これに伴い同船も同社に売却され、1934年(昭和9年)9月、第1次船舶改善助成施設によりスクラップ・アンド・ビルドで解体され山水丸になった。 ==比羅夫丸・田村丸運航当時の青森港・函館港== ===青森港=== 1891年(明治24年)の日本鉄道による上野 ‐ 青森全通時の日本郵船の青森桟橋は、青森駅から東約2キロの浜町にあり、不便であったため、日本郵船と日本鉄道は県知事の許可を得て共同で青森駅構内の、後に建設される車両航送用の青森桟橋の最も南側の岸壁(建設当初は第2岸壁、戦後は第1岸壁と呼ばれた)の東側に位置する場所に、後に第2船入澗と呼ばれる船入澗を築造して1898年(明治31年)11月から使用開始し、1908年(明治41年)3月の国鉄連絡船開設の頃には、青森駅と船入澗の乗船場間には小運転列車が運転されていたとされるが、いつまで続けられたか不詳である。 しかし、連絡船はこの船入澗に直接接岸できず、500〜600m沖に錨泊し、客貨とも小蒸気船やハシケを介しての乗降荷役となり、これら小蒸気船やハシケが船入澗に接岸していた。日本郵船と共同で築造したため、1908年(明治41年)3月の国鉄連絡船開設当初も日本郵船と共用で、国鉄は西と南側の岸壁を使用した。しかしここだけでは狭隘なため、同年5月には、青森駅駅裏に貨物専用のハシケ岸壁として第1船入澗も完成させ、ハシケ岸壁の客貨分離を行い、1910年(明治43年)には第2船入澗南側に食堂併設の連絡船待合所を設けた。また1909年(明治42年)9月には係船用浮標1個を新設し、日本郵船の青函航路撤退後の1910年(明治43年)10月には郵船所有の係船浮標を借り入れた。しかし、青森港でのこれら浮標への係留作業と、1910年(明治43年)12月竣工の函館港木造桟橋への係留作業に時間を要するため4時間15分運航となった。 1921年(大正10年)1月、西防波堤の一部完成を受け、防波堤内に係船浮標を設置し、比羅夫丸型で運航される客便の1便・2便に限りここに係留した。1923年(大正12年)12月15日からは、一部完成した車両航送用の青森桟橋の岸壁で、完成当時は第1岸壁、戦後は第2岸壁と呼ばれた岸壁の一部を先行使用する形で、ようやく連絡船の直接着岸可能となった。 ===函館港=== 国鉄連絡船開設以前からの歴代青函航路各社の函館桟橋(東浜桟橋)は、1871年(明治4年)2月に北海道開拓使が函館への乗下船場所として指定した函館港最奥部の東浜町(後の末広町)にあった1877年(明治10年)建設の木造桟橋で、この桟橋も青森港同様、各社の連絡船が直接接岸できるものではなく、青森港同様、連絡船は500〜600m沖に錨泊し、小蒸気船やハシケを介して客貨の乗降荷役が行われた。1904年(明治37年)11月には函館駅裏に後述の小桟橋が完成し、その後この東浜町の桟橋は「旧桟橋」と呼ばれるようになった。 1908年(明治41年)3月開設の国鉄連絡船からのハシケも一部、競合する日本郵船と共にこの東浜町の桟橋も使用したが、函館駅からは1キロ以上離れており、鉄道との乗継客は徒歩または馬車鉄道での移動を要した。しかし、こちらが当時の函館の中心市街地であったため、函館発着の旅客にはこちらが便利で、1908年(明治41年)12月から1921年(大正10年)8月まで、ここには函館駅の出札所が設置されていた。 1902年(明治35年)12月の北海道鉄道 函館 ‐ 本郷間開通時の函館駅は一部函館区民の反対により、現在地より1.2キロ北の海岸町に設置されたが、1904年(明治37年)7月、若松町の現在地に新しい函館駅が開業でき、同年10月の 函館 ‐ 小樽間開通を迎えた。同年11月には、函館駅裏の海岸に小桟橋と荷揚げ場が建設され、日本郵船の連絡船からの客貨ハシケの一部は函館駅裏での陸揚げが可能となったが、当座は依然として東浜町の旧桟橋が使用された。翌1905年(明治38年)4月には、北側から小桟橋を守る、後に第1船入澗の北側護岸となる防波堤も建設され、1907年(明治40年)10月には日本郵船の船車連絡客のため、函館駅海側に本屋附属船車連絡待合室が開設され、翌1908年(明治41年)3月開設の国鉄連絡船からのハシケはこの小桟橋も使用した。 ===函館港木造桟橋と函館桟橋乗降場=== ハシケでの乗降の不便さ解消のため、1910年(明治43年)12月15日、その後車両航送用に築造される若松埠頭の基部付近の海岸から西方に1,138フィート(347m)突き出したT字型の木造桟橋を建設して、先端部即ち西面に連絡船が1隻着岸できるようにし、旅客の乗下船と手小荷物の積卸しは直接桟橋で行い、函館駅までは手押しトロッコで運搬されたが、貨物の荷役は依然桟橋係留中の連絡船にハシケを接舷させるハシケ荷役であった。また、この時期に至っても、船客の利便のため東浜町の旧桟橋からのハシケも運航されていた。更に1914年(大正3年)2月26日には桟橋及び通路を拡張し、桟橋北側を浚渫して、北面にも1隻着岸できるようにした。1913年(大正2年)5月の函館大火で駅本屋が類焼したのを機に、1914年(大正3年)12月25日には連絡船待合所を桟橋先端付近に新設した。 1915年(大正4年)6月16日には、木造桟橋上まで鉄道を延長し、函館桟橋乗降場として開業。連絡船接続列車のみこの乗降場からの発着とし、船車連絡時間の画期的短縮が図られた。 木造桟橋完成後も、貨物は依然ハシケ荷役のため、増加著しい貨物輸送に対応するため、1915年(大正4年)には駅裏の防波堤周囲を埋め立てて第1船入澗が築造され、小蒸気船やハシケはここに着岸し、中継貨物ホームも建設され、1921年(大正10年)には第1船入澗の北側に第2船入澗、第3船入澗が相次いで築造された。 1924年(大正13年)4月25日からは、車両航送用の若松埠頭築造工事のため、木造桟橋西面バースを使用停止し撤去開始。5便・6便の客扱いを沖繋りに戻し、同年5月1日には桟橋乗降場への列車運転も停止。同年10月1日には若松埠頭先端部の岸壁(当時は第1岸壁と呼称、1945年(昭和20年)6月以降は第2岸壁と呼称)が一部竣工したため使用開始、これに伴い同日木造桟橋は廃止された。この新岸壁使用開始後間もない10月15日に比羅夫丸が、12月11日には田村丸がそれぞれ係船された。 船の大きさに比べ、大出力の蒸気タービン機関を搭載し、公試最大速力18.36ノットは当時としては画期的で、就航当初の青函間4時間運航は、1964年(昭和39年)に就航した公試最大速力21ノット前後の津軽丸 型による3時間50分運航開始まで破られることはなかったが、両者を比べても、当時の乗組員の定時運航確保への苦労がしのばれるところである。 ==沿革== 1905年(明治38年)8月8日 ‐ 日本鉄道株主総会で本州・北海道連絡航路兼営を可決 10月 ‐ 東京帝国大学横田・加茂助教授に設計を依頼 12月末 ‐ タービン搭載決定10月 ‐ 東京帝国大学横田・加茂助教授に設計を依頼12月末 ‐ タービン搭載決定1906年(明治39年)10月1日 ‐ 英・ウィリアム・デニー・アンド・ブラザーズ社と契約 11月1日‐日本鉄道 国有化11月1日‐日本鉄道 国有化1907年(明治40年)1月 ‐ 起工 7月10日 ‐ 進水 10月29日 ‐ 日本への回航のためダンバートンを出港 12月26日 ‐ 横浜入港7月10日 ‐ 進水10月29日 ‐ 日本への回航のためダンバートンを出港12月26日 ‐ 横浜入港1908年(明治41年)1月7日 ― 日本の監督官庁による検査開始 2月4日 ‐ 日本での工事・各種検査終了し試運転をしたが17ノットしか出ず 2月17日 ‐ 試運転で18.36ノット達成 2月20日 ‐ 帝国鉄道庁が受領 3月7日 ‐ 帝国鉄道庁青函連絡船は東部鉄道管理局青森営業事務所所管となる 3月7日 ‐ 比羅夫丸青森10時発・1便で青函航路に就航 4月4日 ‐ 田村丸 青函航路に就航 12月5日 ― 鉄道院東部鉄道管理局青森運輸事務所所管となる2月4日 ‐ 日本での工事・各種検査終了し試運転をしたが17ノットしか出ず2月17日 ‐ 試運転で18.36ノット達成2月20日 ‐ 帝国鉄道庁が受領3月7日 ‐ 帝国鉄道庁青函連絡船は東部鉄道管理局青森営業事務所所管となる3月7日 ‐ 比羅夫丸青森10時発・1便で青函航路に就航4月4日 ‐ 田村丸 青函航路に就航12月5日 ― 鉄道院東部鉄道管理局青森運輸事務所所管となる1910年(明治43年)2月1日 ― 義勇艦うめが香丸就航 3月10日 ― 日本郵船 青函航路から撤退 12月15日 ― 函館木造桟橋使用開始3月10日 ― 日本郵船 青函航路から撤退12月15日 ― 函館木造桟橋使用開始1911年(明治44年)1月20日 ― うめが香丸転出、会下山丸傭船1912年(明治45年)6月17日 ― 第二阪鶴丸転入1913年(大正2年)1月22日 ― 田村丸 泉沢村更木磯に座礁 5月5日 ― 鉄道院北海道鉄道管理局函館運輸事務所所管となる5月5日 ― 鉄道院北海道鉄道管理局函館運輸事務所所管となる1914年(大正3年)7月25日 ― 第二阪鶴丸転出 7月30日 ‐ 万成源丸傭船 12月10日 ‐ 車運丸 就航7月30日 ‐ 万成源丸傭船12月10日 ‐ 車運丸 就航1915年(大正4年)3月31日 ― 日本郵船 青森‐室蘭直航便からも撤退 6月16日 ― 函館桟橋乗降場使用開始6月16日 ― 函館桟橋乗降場使用開始1916年(大正5年)3月31日 ― 会下山丸と万成源丸を解傭、生玉丸傭船 4月2日 ― 泰辰丸傭船 4月9日 ― 弘済丸転入 4月16日 ― 泰辰丸解傭 6月1日 ― 蛟龍丸傭船4月2日 ― 泰辰丸傭船4月9日 ― 弘済丸転入4月16日 ― 泰辰丸解傭6月1日 ― 蛟龍丸傭船1917年(大正6年)3月31日 ― 生玉丸解傭 4月1日 ― 万成源丸傭船 10月3日 ― 対馬丸(初代)助勤 10月27日 ― 対馬丸(初代)助勤終了 12月10日 ― 第八大運丸傭船 12月16日 ― 第三共栄丸転入 12月31日 ― 第八大運丸解傭4月1日 ― 万成源丸傭船10月3日 ― 対馬丸(初代)助勤10月27日 ― 対馬丸(初代)助勤終了12月10日 ― 第八大運丸傭船12月16日 ― 第三共栄丸転入12月31日 ― 第八大運丸解傭1918年(大正7年)1月18日 ― 第三共栄丸解傭 2月1日 ― 逓信省航路標識視察船羅州丸助勤 4月3日 ― 羅州丸助勤終了 4月10日 ― 甲辰丸傭船 5月31日 ― 甲辰丸解傭 6月26日 ― 第十二小野丸傭船 6月18日 ― 白神丸就航 10月2日 ― 第十二小野丸解傭 10月16日 ― 竜飛丸就航2月1日 ― 逓信省航路標識視察船羅州丸助勤4月3日 ― 羅州丸助勤終了4月10日 ― 甲辰丸傭船5月31日 ― 甲辰丸解傭6月26日 ― 第十二小野丸傭船6月18日 ― 白神丸就航10月2日 ― 第十二小野丸解傭10月16日 ― 竜飛丸就航1919年(大正8年)2月15日 ― 客室増設 旅客定員580名(472名?) 3月31日 ― 万成源丸解傭 4月3日 ― 第一快運丸転属就航 4月4日 ― 伏木丸傭船 4月6日 ― 第二快運丸転属就航 5月16日 ― 第十二小野丸傭船 4月10日 ― 蛟龍丸解傭 7月1日 ― 第十二小野丸解傭3月31日 ― 万成源丸解傭4月3日 ― 第一快運丸転属就航4月4日 ― 伏木丸傭船4月6日 ― 第二快運丸転属就航5月16日 ― 第十二小野丸傭船4月10日 ― 蛟龍丸解傭7月1日 ― 第十二小野丸解傭1920年(大正9年)2月 ― 客室増設 旅客定員662名(554名?) 4月5日 ‐ 敦賀丸傭船 5月15日 ‐ 鉄道省札幌鉄道局函館運輸事務所所管となる 7月10日 ‐ 比羅夫丸、田村丸、函館(大森浜)、青森(沖館海岸)に無線電信所設置4月5日 ‐ 敦賀丸傭船5月15日 ‐ 鉄道省札幌鉄道局函館運輸事務所所管となる7月10日 ‐ 比羅夫丸、田村丸、函館(大森浜)、青森(沖館海岸)に無線電信所設置1922年(大正11年)11月18日 ― 壱岐丸(初代)就航 11月28日 ― 弘済丸解傭11月28日 ― 弘済丸解傭1923年(大正12年)12月15日 ― 青森第2岸壁(当時の名称は第1岸壁)使用開始1924年(大正13年)5月 ― 壱岐丸(初代)転出 5月21日 ― 翔鳳丸就航 10月1日 ‐ 函館第2岸壁(当時の名称は第1岸壁)使用開始) 10月1日 ‐ 比羅夫丸 函館第2岸壁着岸(当時の名称は第1岸壁)乗客初めてこの岸壁から乗下船 10月10日 ‐ 伏木丸解傭 10月11日 ― 津軽丸(初代)就航、山陽丸傭船 10月15日 ‐ 比羅夫丸係船 10月25日 ‐ 敦賀丸解傭 11月11日 ― 松前丸(初代)就航 11月14日 ‐ 大阪商船へ賃貸 函館港で引渡し、その後大阪‐小松島航路に就航 12月11日 ‐ 田村丸係船 12月30日 ― 飛鸞丸就航5月21日 ― 翔鳳丸就航10月1日 ‐ 函館第2岸壁(当時の名称は第1岸壁)使用開始)10月1日 ‐ 比羅夫丸 函館第2岸壁着岸(当時の名称は第1岸壁)乗客初めてこの岸壁から乗下船10月10日 ‐ 伏木丸解傭10月11日 ― 津軽丸(初代)就航、山陽丸傭船10月15日 ‐ 比羅夫丸係船10月25日 ‐ 敦賀丸解傭11月11日 ― 松前丸(初代)就航11月14日 ‐ 大阪商船へ賃貸 函館港で引渡し、その後大阪‐小松島航路に就航12月11日 ‐ 田村丸係船12月30日 ― 飛鸞丸就航1925年(大正14年)1月9日 ― 伊吹丸傭船 2月17日 ― 伊吹丸解傭 5月21日 ― 1便・2便で試験車両航送開始 5月30日 ― 山陽丸解傭 7月30日 ― 白神丸終航 8月1日 ― 車両航送開始 9月3日 ― 第一快運丸係船、第二快運丸係船2月17日 ― 伊吹丸解傭5月21日 ― 1便・2便で試験車両航送開始5月30日 ― 山陽丸解傭7月30日 ― 白神丸終航8月1日 ― 車両航送開始9月3日 ― 第一快運丸係船、第二快運丸係船1926年(大正15年)4月16日 ― 田村丸 稚泊航路夏期就航 4月2日 ― 竜飛丸係船 11月8日 ― 田村丸 稚泊航路夏期就航終了4月2日 ― 竜飛丸係船11月8日 ― 田村丸 稚泊航路夏期就航終了1927年(昭和2年)4月7日 ― 田村丸 稚泊航路夏期就航 6月8日 ― 車運丸 青函航路終航 10月21日 ― 田村丸 稚泊航路終航 その後函館で係船6月8日 ― 車運丸 青函航路終航10月21日 ― 田村丸 稚泊航路終航 その後函館で係船1929年(昭和4年)7月8日 ― 比羅夫丸は大阪港で、田村丸は函館港でともに大阪商船に売却 8月21日 ― 田村丸 阿波国共同汽船へ譲渡される8月21日 ― 田村丸 阿波国共同汽船へ譲渡される1931年(昭和6年)12月29日 ― 大阪商船が比羅夫丸を摂陽商船に売却1933年(昭和8年)11月9日 ― 阿波国共同汽船が田村丸を久保田静一に売却、その後解体1934年(昭和9年)9月5日 ‐ 大阪で第一次船舶改善助成施設によりスクラップ・アンド・ビルドで解体され、山水丸が建造された ==初代の高級船員== 何れも帝国鉄道庁技師、職名は当時の呼称、船長:熊谷亥之助、一等運転士:松原善之助、機関長:下田文吾、予備船長:高索房太郎、予備一等運転士:内山常蔵、予備機関長:高山義治 、1908年(明治41年)2月26日付発令。 ==エピソード== 高速の最新式タービン船就航により、「タービン」という新語が新式で速い(早い)象徴とされ、当時の函館区市街地では店舗名に「タービン」とつける者が続出したという。 =無害通航= 無害通航(むがいつうこう、英語: Innocent passage)とは、沿岸国の平和・秩序・安全を害さないことを条件として、沿岸国に事前に通告をすることなく沿岸国の領海を他国船舶が通航することであり、内陸国を含めすべての国の船舶は他国の領海において無害通航権を有する。一方で領海の沿岸国は、自国の領海内において主権に基づき領海使用の条件を定めたり航行を規制することができるが、他国の無害通航を妨害する結果とならないように一定の国際義務が課される。1958年に採択された領海条約第14条4項では、無害通航とは「沿岸国の平和、秩序又は安全を害しない」航行と定義され、1982年の国連海洋法条約の第19条第1項では、前記領海条約第14条第4項で定められた無害性に関する定義が踏襲されたほか、国連海洋法条約第19条第2項では無害とみなされない活動が具体的に列挙された。 ==沿革== 通航は、沿岸国の平和、秩序又は安全を害しない限り、無害とされる。無害通航は、この条約の規定及び国際法の他の規則に従つて行なわなければならない。通航は、沿岸国の平和、秩序又は安全を害しない限り、無害とされる。無害通航は、この条約及び国際法の他の規則に従って行わなければならない。外国船舶の通航は、当該外国船舶が領海において次の活動のいずれかに従事する場合には、沿岸国の平和、秩序又は安全を害するものとされる。(a) 武力による威嚇又は武力の行使であって、沿岸国の主権、領土保全若しくは政治的独立に対するもの又はその他の国際連合憲章に規定する国際法の諸原則に違反する方法によるもの (b) 兵器(種類のいかんを問わない。)を用いる訓練又は演習 (c) 沿岸国の防衛又は安全を害することとなるような情報の収集を目的とする行為 (d) 沿岸国の防衛又は安全に影響を与えることを目的とする宣伝行為 (e) 航空機の発着又は積込み (f) 軍事機器の発着又は積込み (g) 沿岸国の通関上、財政上、出入国管理上又は衛生上の法令に違反する物品、通貨又は人の積込み又は積卸し (h) この条約に違反する故意のかつ重大な汚染行為 (i) 漁獲行為 (j) 調査活動又は測量活動の実施 (k) 沿岸国の通信系又は他の施設への妨害を目的とする行為 (l) 通航に直接の関係を有しないその他の活動(a) 武力による威嚇又は武力の行使であって、沿岸国の主権、領土保全若しくは政治的独立に対するもの又はその他の国際連合憲章に規定する国際法の諸原則に違反する方法によるもの(b) 兵器(種類のいかんを問わない。)を用いる訓練又は演習(c) 沿岸国の防衛又は安全を害することとなるような情報の収集を目的とする行為(d) 沿岸国の防衛又は安全に影響を与えることを目的とする宣伝行為(e) 航空機の発着又は積込み(f) 軍事機器の発着又は積込み(g) 沿岸国の通関上、財政上、出入国管理上又は衛生上の法令に違反する物品、通貨又は人の積込み又は積卸し(h) この条約に違反する故意のかつ重大な汚染行為(i) 漁獲行為(j) 調査活動又は測量活動の実施(k) 沿岸国の通信系又は他の施設への妨害を目的とする行為(l) 通航に直接の関係を有しないその他の活動無害通航の制度が国際法上成立したのは重商主義から自由貿易主義に転換した1840年代以降のことであるといわれる。無害通航を認め外国船舶の領海内通航権を確保することで、領海に対する沿岸国の権利を規制しようとしたのである。それより以前の17世紀までは、領海において外国船舶は沿岸国の恩恵による許可によって無害通過が認められるだけであった。 19世紀には領海における無害通航は公海自由の原則の当然の結果としてすべての船舶に認められるとされたが、これを規制する沿岸国の権利については領域主権を根拠とするのか、地役権を根拠とするのか、意見が対立してきた。その後領海内の外国船舶の通航自由を認めながら、沿岸国の規制という観点から安全・公序・歳入・軍事的安全への有害性の有無という基準が導入された。このようにして当初は船舶の具体的な行為などではなく船種などのような内在的な要因が重視され、ついで船舶上で行われる具体的行為や船舶の航行の態様などにも着目されるようになっていく。 第二次世界大戦前には、船種を基準とする無害性の認定基準が有力となった。この基準によれば、外国の私船は国際通商や交通の自由などの観点から国際法上領海内通航の権利が認められるとされたが、外国軍艦は私船の場合と異なり性質上有害性が推定されることから、外国軍艦の領海内通航は慣例や国際礼譲などにより認められるにしか過ぎないとされたのである。これに対して戦後になると、航行の上で不可避的な領海内通航に関しては軍艦と私船を区別する必要はなく、無害性の認定は船舶の具体的行為や態様によって行われるべきとする立場が現れた。例えば1949年のコルフ海峡事件(英語版)国際司法裁判所判決では、軍艦であっても行為や態様に着目し、武力の行使や威嚇に該当するようなものでない限りは無害性が推定されると判断された。 1958年の領海条約第14条第4項では、無害かどうかを判断するに際して特定の基準は採用されず、そのため船舶が具体的にどのような行為をするかという行為を基準(行為基準)とする無害性の認定だけでなく、例えば船舶が軍艦かどうかなど、船舶の種類・性質などを基準(船種基準)とした無害性認定の余地がある規定となった。1982年の国連海洋法条約では、第19条第1項で上記領海条約第14条第4項の無害性に関する定義をそのまま踏襲しながら、第19条第2項で無害とはされない活動が具体的に列挙された(#無害の基準参照)。 ==国連海洋法条約における制度== ===通航の定義=== 国連海洋法条約第18条によれば、無害通航の制度における「通航」とは領海の継続的かつ迅速な通過、または内水への出入りのための航行とされる。そのため不可抗力や遭難などの場合を除き外国船舶が領海内で停船・投錨をしたり、徘徊やその他不審な行動など明らかに通過以外の目的による活動は通常認められない。外国船舶が内水へ出入りする目的で領海を航行する場合には慣習国際法上無害通航権を有すると推定されるが、沿岸国は内水での自国の利益を確保する必要から国内法上の制度に基づく規制をする場合もある。 ===無害の基準=== イギリス軍艦のアルバニア領海航行が問題とされた1949年のコルフ海峡事件国際司法裁判所判決では、裁判所は軍艦の戦闘形態の有無や通行目的に着目してイギリスの軍艦の航行がアルバニアに害をなすものではなかったという判断がなされた。1958年の領海条約第14条第4項では、「沿岸国の平和、秩序又は安全を害しない」通行は「無害」であると定められた。しかしここでは外国船舶の領海通過が無害かどうかを判断するにあたって特定の基準が示されておらず、条文の解釈により異なる基準が適用される余地が残され異なる立場が対立することとなった。このうち行為基準説の立場では、例えば軍事演習、防衛情報の収集、資源の調査など、外国船舶船舶が領海内でどのような行為をするかを尺度として判断する。これに対し船種基準説の立場によれば、船舶が軍艦や原子力船など、船舶の種類や性質を基準に無害かどうかを判断する。1982年の国連海洋法条約では、第19条第1項で領海条約第14条第4項の無害に関する抽象的な定義を踏襲しながら、第19条第2項で無害ではない活動を具体的に列挙した。第19条第2項は、行為基準によって無害性を判断する場合の具体的内容を明らかにしたものと言える。しかしこうした国連海洋法条約の文言からは、確かに船種基準説が一般的な規則として成立していると判断することはできないが、逆に船種基準説にもとづく沿岸国の船種別規制が禁止されているとも条文の文言上は判断できず、第19条第1項は行為基準以外の基準をも含む余地を残しているため、今なお解釈上の問題は残る。実際に軍艦の領海内通航に関して事前許可制を採用している国も多い。 ===軍艦の無害通航=== すでに述べたように軍艦に無害通航権が認められるかどうかについて明文化した条約はなく、この点については異なる複数の解釈が存在する。1958年の国連海洋法会議ではこの点について合意に至ることができず、領海条約第23条に規則違反の軍艦に対する退去要請権が定められたことを除き、軍艦の無害通航権に関する規定を採択することはできなかった。1973年から1982年にかけての第3次国連海洋法会議においても意見の一致は見られず、同会議において採択された国連海洋法条約では無害性の基準について船種基準とするのか行為基準とするのか解釈上の問題が残る規定が採択された(#無害の基準参照)。その結果、軍艦の無害通航権を認める国(アメリカ、イギリス、オランダ、日本)、事前に通告することを求める国(エジプト)、事前の許可を求める国(ルーマニア、スーダン、オマーン)と、各国の立場が分かれることとなった。1989年にはアメリカとソ連が「無害通航の統一解釈」という共同声明を発し、「軍艦を含むすべての船舶は、積荷、軍備、推進方法にかかわりなく、国際法にしたがって領海の無害通航権を有し、事前の通告ないし許可を必要としない」という立場を示した。このように軍艦の無害通航権の有無については意見の一致が見られないものの、国連海洋法条約では領海条約第23条を引き継ぎ国際法や沿岸国の法令に従わない軍艦に対して沿岸国が退去要求をできると定められたほか(第30条)、軍艦の違法行為の結果として沿岸国に与えた損失に対して旗国(船舶が所属する国)が国際責任を負うと定められた(第31条)。 ===海中=== 国連海洋法条約第20条において、潜水船その他の水中航行機器は、沿岸国の領海を航行する場合、海面に浮上し所属を示す旗(軍艦旗、国旗)を掲揚すれば無害通航権を行使できる。 ===沿岸国の規制権=== 沿岸国は航行の安全、資源保護、汚染防止、関税・出入国管理のために必要な法令を制定することができ、安全確保に必要なときは航路帯や分離通航方式を採用することができるが、外国船舶に国際基準を上回る重い規制を課すことはできず、一方的に基準を超える厳しい基準を課せば部外通行を阻害することとなり国家責任を追及されることとなる(国連海洋法条約第21条、第22条)。内水に出入りせずに領海を通行する外国船舶が沿岸国の法令違反となる行為をした場合には一定の強制措置を実施する権限が沿岸国に認められるが、前述の国連海洋法条約第19条に規定される無害ではない通航に該当する場合を除き、通行権そのものを否定したり通航を阻害する結果となってはならない(国連海洋法条約第24条第2項)。無害ではない通航に該当する場合には、その通航を防止するために必要な措置をとることができ、軍事的安全保護のために不可欠な場合には特定海域において外国船舶の無害通航を一時停止することができる(国連海洋法条約第25条)。無害通航中の船舶内で起きた犯罪行為に対しては基本的に船舶の旗国が裁判管轄権を有するが、密輸、不法入国、汚染、安全保障に関する法令違反など、犯罪の結果が沿岸国に及ぶ場合、犯罪が沿岸国の平和、領海の秩序を乱すものである場合、船舶の船長や旗国の外交官・領事官から沿岸国に援助要請があった場合、麻薬・向精神薬不法取引の抑圧に必要な場合、これらの場合に限り沿岸国は捜査や逮捕などの刑事管轄権を行使することができる。ただしその場合にも沿岸国は犯罪の重大性と運航阻害の危険とをくらべ航行の利益に妥当な考慮を払わなければならない(国連海洋法条約第27条)。 ==強化された無害通航== 海上交通の要衝である国際海峡においては、伝統的に通常の領海におけるよりも緩和された通航が認められる「強化された無害通航」の制度が認められてきた。1958年の領海条約第16条第4項では、沿岸国は国際海峡における無害通航を停止することが認められず、平時には海峡の閉鎖などが禁止された(国際海峡でない領海においては領海条約第16条第3項により一定の条件下で停止権が認められる。#沿岸国の規制権も参照)。こうした国際海峡の非閉鎖性は、1894年の万国国際法学会の領海の定義と地位に関する決議や1930年のハーグ国際法法典化会議準備委員会の報告書においてもすでに定められていた。また1947年のコルフ海峡事件も認めたように、軍艦の通行も認められた。1982年の国連海洋法条約により領海の幅が12カイリまでとされたことにともない、多くの国際海峡がいずれかの国の領海とされることとなった。しかし1973年から始められた第三次国連海洋法会議においては、大きな海軍力を持つアメリカとソ連がこうした従来の「強化された無害通航」に否定的で、国際海峡においては公海なみの航行自由を認めるべきであると主張した。こうした主張に対してスペイン、モロッコ、インドネシアといった海峡を有する国々は反発し、国際海峡において厳格な無害通航制度の適用を主張した。この対立に対する打開策としてイギリスは通過通航制度を提唱した。通過通航制度とは、「継続的かつ迅速な通過の目的のみのための航行及び上空飛行の自由」と定義され、無害性が通航の直接の基準とはされず、軍用機を含め上空飛行が認められたことが無害通航との違いである。1982年の国連海洋法条約ではこの通過通航制度が定められ(第38条第2項)、それまでの「強化された無害通航」の制度が改められることとなった。 ==航空機== 航空機が開発された当初は外国の航空機にも船舶の無害通航に類似した権利が認められていたが、第一次世界大戦期になると欧州諸国は領空内での排他的主権を主張するようになり事前に飛行ルートを通告するよう求める国が増えた。現代では通過する領域国へ飛行計画を事前に提出することが求められる。飛行計画を提出していない場合、領空へ進入しなくても防空識別圏へ入った時点で領空侵犯の予兆とみなされ、空軍がスクランブルで対処する。 =蓬莱社= 蓬莱社(ほうらいしゃ)は1873年(明治6年)2月(設立年月には異説あり)征韓論を主張して敗れ下野した後藤象二郎を中心に士族たち、島田組・鴻池組などの関西商人、上杉・蜂須賀などの旧大名らなど後藤象二郎の幅広い人脈によって設立された会社。金融・為替業および高島炭鉱経営の他、海運業、洋紙製紙業、近代的機械精糖業、神岡鉱山経営などと幅広く業務を手がけたが、経営は不振で1876年(明治9年)8月 わずか3年半ほどの期間で倒産している。後藤の経営は大隈重信の言葉によると「士族の商売」であり、前時代的であり過ぎたが、資本の有限責任性や持分資本家と機能資本家の分離など時代の先を行く面もあり、また洋紙製紙業、近代的機械精糖業は結果的には事業に失敗したとはいえ、それぞれ日本における嚆矢であり時代的意義は大きい。後藤は蓬莱社の事業失敗で巨大な借金をかかえるが、その後も政界で活躍する。銀座汐留にかかっていた木橋は蓬莱社の資金で石橋に架け替えられたため蓬莱橋と名付けられ、現代に蓬莱橋交差点としてその社名を残している ==設立の経緯== ===大阪商人の思惑=== 明治政府は通商司の管理下で通商・為替会社を置き、全国的商品流通機構の再編を目指していた。これらの通商・為替会社は中央銀行以下近代的な銀行が整備された将来には役割を終えるものと考えられていたが、明治初頭の時期では大阪商人たちが再編の波に乗る機会でもあった。通商・為替会社の傘下の機能を持つ三陸商社や三越商社、先収会社などの商社が設立されたのもこの時期である。農民からの年貢米を換金し流通させる貢米買受業務とそれから派生する公金取り扱い業務(為替方)は三井組・小野組・島田組などが扱っていた。貢米買受業務および無利子で巨額の公金を扱う為替方のメリットは大きかったが、その業務に参加するには巨額の資本と米穀流通や為替に関する知識も必要であった。鴻池などの大阪商人たちもこれらの業務に携われるだけの条件を備えており、大阪商人たちは共同で会社を作りそれによって貢米買受業務や為替方業務を担うことを期待していた。鴻池らの大阪商人たちは江戸時代、大名家に多額の貸し付けをしていたが、明治維新によって幕藩体制が崩れても各大名家への膨大な貸し付け(旧藩債)は残っていた。大阪商人たちはその旧大名たちの債務を新政府が引き受けることを期待し、明治元年‐2年大阪府知事を務め接触のあった後藤象二郎にそれを頼み、代わりに旧大名たちの債務を引き受けた新政府が払った資金を後藤の設立する会社に出資することを約束した。 ===後藤象二郎の思惑=== 後藤は薩長が権力をふるう政府を見て、薩長を抑制するために民間の勢力を養成し下から薩長藩閥政府を打破して国民政府を作らねばならないと考えていた。後藤は自ら野に下り商人となって商業を興し、ひいては一般国民の力を盛り上げようと考えた。後藤自身は実務に暗いので、後藤よりは実務に明るい大隈重信に賛助を求めた。しかし、大隈からは後藤や自分では「士族の商法」で失敗すると反対された。大隈からは反対されたものの後藤は会社設立に突き進む。後藤は会社設立の動きを進めながらも、政府内では西郷、板垣、江藤、副島らと共に征韓論を唱える。しかし1873年(明治6年)10月征韓論者は敗れ野に下る。後藤も同じく参議を辞職し蓬莱社経営に専念することになる。 ===資本と参加者の変遷=== 前節で述べたそれぞれの思惑、つまり、旧大名家への貸し付け(旧藩債)が焦付くことを恐れ、また新しい通商・為替会社の必要を感じた大阪商人は後藤象二郎の政治力によって旧藩債を明治政府の国債として回収することを期待し、それを後藤の会社に投資することで貢米買受業務および為替方に参加する一石二鳥を考え、後藤も多額の資金を自分の会社に導入できるというメリットがあり両者の利害が一致し会社設立計画は進む。 1873年(明治6年)3月の蓬莱社出資計画では鴻池善右衛門の120万円、長田作兵衛(加嶋屋)71万円、和田久左衛門(辰巳屋)50万円、高木五兵衛(平野屋)49万円、石崎喜兵衛(米屋)30万円など大阪商人から340万円(ほとんどが現金ではなく大名貸付を転換した国債にての出資)と旧大名である上杉斉憲と蜂須賀茂韶からの105万円 計445万円を予定していた。しかし、この計画はもろくも崩れる。蓬莱社参加予定者だった長田作兵衛と高木五兵衛の分家の百武安兵衛は蓬莱社が扱うはずの広島県の公金を流用してしまい、その穴埋めを蓬莱社に参加する大阪商人たちがさせられたのである。さらに大阪商人たちの旧藩債は大幅に減額され、鴻池は120万円の大名貸債権が30万円しか回収できなかった。これらのことによって大阪商人たちは蓬莱社への参加・出資を取りやめる意向に変化した。後藤の慰留により大阪商人たちは名目上は蓬莱社に残るものの事実上の出資は行われず、後藤は蓬莱社の計画を大幅に見直さなければならなかったのである。 1874年(明治7年)8月、後藤らは大阪商人らと協議し、改めて規約を制定する。1874年の新たな出資予定では上杉斉憲26万円、蜂須賀茂韶24万円、後藤と親しかった京都の豪商島田八郎左衛門25万円、同じく島田善右衛門25万円、後藤象二郎8万円以下合計で250万円と大きく出資者を変え金額も減り、大阪商人たちは一応名前だけは残すものの出資金額は未定となっていた。つまり当初の大阪商人と後藤の会社の予定が、まったく異なってしまったのである。しかも新たな出資予定の250万円も全額が出資されたわけではなく、現実に払われた資本金は少なかった。大町桂月の後藤象二郎伝記ではわずか十数万円程度とさえされている。このように最初から予定外の船出であったが、にもかかわらず後藤は様々な事業に手を染めていくのである。 ==事業== 蓬莱社の事業は史料が十分には残っておらず詳細は不明な点も多い。わかっている中で大まかに蓬莱社の事業について述べる。 ===年貢米買請・石代金納業務=== 蓬莱社の正式な発足の前、1872年(明治5年)にすでに大阪商人たちの連名で三潴県・小倉県・福岡県・名東県・岡山県・東肥県(白川県・八代県)の6県(いずれも明治初頭の旧制度の県)で年貢米買請業務引き受けを申請し許可されている。蓬莱社の正式な発足前なのでこれは蓬莱社の前身の六海社としての受けたと思われている。蓬莱社がこれを引き継いだのは確実である。 ===府県為替・官金取扱い業務=== 蓬莱社は広島県と三潴県および陸軍省の公金を取り扱っている。また史料は残っていないが、前述した年貢米買請業務を担当した小倉県・福岡県・名東県・岡山県・東肥県(白川県・八代県)でも年貢米買請業務と関連した公金取り扱い業務を行っていた可能性は高い。 ===金融業務=== 蓬莱社では商品取引に対する貸し付け業務も行っている。しかし、生産以前の商品に対する貸し付けは行わず、船や不動産、畜類、銃弾などの取引に対しても貸し付けは行わなかった。また旧藩札の交換業務も行っていた。旧藩札の交換業務では交換手数料のほか相場変動に応じた取引での売買で利潤も上げていたとみられる。 ===石炭業=== 後藤象二郎は蓬莱社の名前で1874年(明治7年)11月55万円(内20万円は即納)にて高島炭鉱の払い下げを受けている。高島炭鉱は蓬莱社の経営というよりも後藤個人の経営という面が強かったが、後藤は代金の即納分20万円を用意できずジャーディン・マセソン商会から20万ドル(西南戦争までは1ドル=1円)借り受けている。さらに1875年(明治8年)3月ジャーディン・マセソン商会から40万ドルを借りて排水ポンプや巻揚機械を装備している。炭鉱はある程度順調に出炭するものの工夫48人が死亡するガス爆発事故や他にも火災事故、コレラ発生などがあり、炭鉱事業で特に利益を上げることもできず、蓬莱社の負債を炭鉱事業で穴埋めすることはできなかった。蓬莱社倒産後も後藤はしばらく高島炭鉱を所持し続けるが、結局高島炭鉱経営で後藤が負ったジャーディン・マセソン商会からの総額100万ドルの負債はまったく返せなないままだった。1881年(明治14年)1月、ジャーディン・マセソン商会は後藤に対する利子込の債権110万ドルを放棄、20万ドルの返済で合意し、高島炭鉱はその20万ドルを立て替えた三菱の手に渡る。三菱高島炭鉱の始まりである。 ===海運業=== 大町桂月の伝記『伯爵後藤象二郎』によれば蓬莱社は蒸気船5隻を持っていたとのことである。北海道や九州などとの海運業に加え貿易業(ジャーディン・マセソン商会との事業)にも携わったとされるが、大町桂月の伝記以外の史料は乏しく詳細は不明である。 ===製糖業=== 蓬莱社では正式な設立後まもなく製糖事業を計画している。商人・士族らの会社である蓬莱社がなぜ工場経営に手を出そうと考えたのかについては不明だが、1873年(明治6年)3月蓬莱社の資本家の一人島田八郎左衛門は大阪在留のイギリス商人キルビーにイギリス製の搾汁機と精製機を注文している。搾汁機はサトウキビを搾って白下糖(粗糖)を作り、精製機はそれを精製して精製糖(白砂糖)にする機械である。それらの製糖機を動かすためイギリス人技師を招聘し、また工場経営の実務に当たる英語に堪能な実業家として真島襄一郎を招聘した。工場敷地は大阪中之島の官有地の払い下げを受け、機械とイギリス人技師は1874年(明治7年)に到着し工場建設が開始された。しかし、機械とイギリス人技師が到着したころではすでに蓬莱社の経営は苦しく機械・建物を担保にして大阪府から借金し、1874年(明治7年)11月工場は完成する。しかしイギリス人技師の技術は未熟で砂糖の生産にこぎつけないうちに蓬莱社の経営は立ち行かなくなり、1876年(明治9年)4月中之島工場の機械・建物・設備および債務・債権の一切を蓬莱社は真島襄一郎に譲渡する。 真島襄一郎はその後なんとか少量の砂糖の生産にこぎつけ、1880年(明治13年)には年に200トンあまりの砂糖を生産するが経営は依然として困難で、圧搾はやめ精製のみ行ったりしたが、結局は1882年(明治15年)、機械・工場を他人に売り渡す。しかし、他人の手に渡った後も大阪中之島での製糖業は成功することはなかった。 結局は失敗したとはいえ、それまでは在来型の製糖法しかなかった日本において蓬莱社の近代的機械製糖業は草分け的存在ではあった。 ===製紙業=== 大阪商人高木五兵衛(平野屋)の分家である百武安兵衛は1870年(明治3年)、伊藤博文に同行してアメリカに渡ったが、アメリカで視察した製紙工場の先進性を見て関心を持ち、自分も日本で洋紙製造にあたろうと考えた。百武は当初アメリカ製製紙機械を購入しようとしたが交渉は上手くいかず、代わりにイギリス製製紙機械を発注する。しかし、イギリス製製紙機械が日本に到着する前に百武安兵衛も本家の平野屋も経営が苦しくなり、発注済の製紙機械を蓬莱社に引き取ってくれるよう依頼した。蓬莱社は躊躇するものの結局明治6年10月機械を引き取ることにした。蓬莱社では大阪府から融資を受けたうえで、ほぼ同時に進行していた製糖事業と同所大阪中之島の工場にこれを設置した。1874年(明治7年)末に完成した工場にはイギリス人製紙技師を雇い、製紙工場の経営は製糖工場と並行して真島襄一郎が担当した。1875年(明治8年)2月には製紙機械の試運転を開始するまでになった。中之島工場で上手くいかなかった製糖業とは違い、製紙業は1876年(明治9年)には3万円以上の売り上げを達成し事業は緒に就いたが、蓬莱社本体の経営不振で、1876年(明治9年)4月大阪中之島工場の製紙業・製糖業設備機械すべての債務債権の一切を真島襄一郎に譲渡し蓬莱社としての製紙・製糖業は終了する。 蓬莱社の大阪中之島工場の製紙・製糖業の一切を譲り受けた真島襄一郎はこれを大阪紙砂糖製造所と称して経営を始めるが、前述のとおり製糖業は失敗し、製紙工場も一時は好況であったが、後に不況となり1882年(明治15年)以降経営者がたびたび替り、紆余曲折を経て樺太工業に吸収され、樺太工業も1932年(昭和7年)、王子製紙に吸収合併される。 真島襄一郎は旧蓬莱社の製紙工場を手放したのちも製紙業界にとどまり、明治の製紙業で名を残す。 なお、蓬莱社は旧大名浅野長勲の有恒社の1874年(明治7年)に次いで日本で二番目に早い洋紙製造開始であった。王子製紙の前身である抄紙会社の洋紙製造開始はわずかに蓬莱社より後になる。 ===神岡鉱山経営=== 蓬莱社は飛騨高山に営業所(高山分局)を設け、神岡鉱山事業にも手を伸ばしている。蓬莱社は高山の地元商人などに出資を求め、その出資金の10倍の貸付金を用意した。これはもしも損失を出したときに地元資本に負担させる意図であった。蓬莱社は神岡の諸鉱山のうち鹿間鉱山・前平鉱山に貸し付けを行う。しかし、これらの鉱山の経営は順調ではなく、蓬莱社高山分局は漆山鉱山と高山鎔製所を買収して自ら直接鉱山経営に当たろうとまでした。本社から了解をとって交渉したものの、実際の契約時には蓬莱社本社の資金繰りは苦しく高山に買収資金は届かず、結局は違約金を払う羽目にすらなって、その業務を停止した。 ==資本形態== 蓬莱社の資本形態は日本初ではないものの、資本金に対して株券を発行したことと、今でいう「優先株式」「劣後債」に近い概念を導入したこと、株主の有限責任制を導入したこと、資本と経営の分離を考えていたことなどで明治初頭としては先進的な形態を持っていた。 日本では日本国郵便蒸気船会社などはすでに出資資本金に対して株券を発行し株式譲渡の自由性を確保していたが、明治初頭には株券を発行し株式譲渡の自由性を確保することはまだ一般的とは言えなかった。蓬莱社では1株を100円とし株券を発行していた。 蓬莱社では出資金250万円の半分を分益券、残り半分を保安券としていた。分益券は出資に対して利子を保証せず営業利益から配当を行ったものである。それに対して保安券は営業利益に関わらず年に8%の配当は約束するが、営業利益からの配当は分益券の半分で、つまり保安券は会社が利益を上げられなくとも最低限8%の配当は期待できるものの、会社が大きな利益を上げても分益券ほどの高配当は得られないものであった。逆に分益券は営業利益がなければ配当はないものが、営業利益が大きければ大きな配当を得られたものであった。保安券はまた会社解散に当たっても元本を保証されていた。いわば、分益券はハイリスク・ハイリターン、保安券はローリスク・ローリターンに近いものであったと思われる。 蓬莱社の特徴として出資者は有限責任制でつまり蓬莱社が債務超過で破たんしても出資金以上の損失は被らない。有限責任制は現代では普通のことであるが、明治初頭においては画期的な形態である。 また、蓬莱社は関係者の間での相異なる役割分担によって特徴つけられる会社であった。すなわち、旧大名の出資者は経営の実務に当たらない持ち分資本家、後藤ら士族は出資金は少ないものの経営管理者として、商人たちは資本を提供するとともに士族には不得手な商業実務の知識を提供する実務経営者という、それぞれの役割を果たしていた。 ==倒産== 前述したように蓬莱社の制度には先進的な面もあったものの、予定した出資金が実際には少ししか集まらず資本不足であったこと、手を広げすぎた各事業が期待に反してあまり利益を上げられなかったことなどから、蓬莱社は1876年(明治9年)8月に倒産するのである。 ==蓬莱社の史料と研究== 蓬莱社の一次史料は散失し残っているものは乏しく、鴻池家文書や大町桂月による伝記などわずかであり、したがって多くのことは不明である。蓬莱社の研究は鴻池家文書などを精緻に分析した宮本又郎によるものが最初であり、工業、鉱業など各論についてはそれぞれの専門家が分析を行っている。 =国富論= 『国富論』(こくふろん)は、1776年に出版されたアダム・スミスの著作である。全5篇で構成されている本書は、近現代における経済学の出発点と位置づけられているだけでなく、社会思想史上の古典とも位置づけられている。「見えざる手」への言及とともに、あらゆる規制を排したレッセフェール(自由放任主義)を推進した文献と受け止められることもしばしばであるが、20世紀以降の研究ではそのような短絡的な見方は斥けられており、スミスのもう一つの著書『道徳感情論』も考慮に入れる形で、より広い視野から研究されている。 英語で書かれた原著の正式名は An Inquiry into the Nature and Causes of the Wealth of Nations で、日本では『諸国民の富の性質と諸原因についての一研究』や『諸国民の富の本質と原因に関する研究』などと訳される。日本語による全訳本は『国富論』のほか、『富国論』や『諸国民の富』といった題名でも刊行されてきた。 ==背景== アダム・スミスは1751年からグラスゴー大学教授として、当初論理学、次いで道徳哲学を講じていた。グラスゴー大学の講義中に、ピン製造を使った分業論をはじめ、『国富論』に含まれることになる理論のかなりの部分が見られる。 スミスが1759年に刊行した『道徳感情論』は大きな反響を呼んだ。それがきっかけとなって、チャールズ・タウンゼンドの依頼に応じて大学教授を辞し、バクルー公の大陸へのグランドツアーに、家庭教師として同行することになった。この旅行の中では、親友デイヴィッド・ヒュームの仲介もあり、フランソワ・ケネー、ジャック・チュルゴー、ヴォルテールらとも親交を持った。この旅行でスミスは、『国富論』執筆のための刺激と、執筆に専念できるだけの十分な年金とを得た。帰国後のスミスは、ベンジャミン・フランクリンとも出会う機会があり、アメリカ植民地に関するスミスの認識には、フランクリンからの影響が見られる。 スミスは『道徳感情論』の中で、さらに法と統治に関する一般理論の刊行を予告していたが、その全体像が実現することはなかった。死を迎えた1790年の『道徳感情論』第6版では、1776年に刊行した『国富論』がその構想の一部であったことを、序論に付け加えた。 ==内容== 『国富論』の「序論および本論の構想」においては、富を生活の必需品と便益品すべてと位置づけ、年々の労働によって生み出されるものとした。この定義は、貴金属などを富と見なした重商主義の定義などを批判あるいは否定したものとされる。『国富論』は全5篇において理論、歴史、政策を包括的に扱っているとされ、例えば第1、2篇が理論、第3篇が経済史、第4篇が経済思想史・経済学史あるいは経済政策論、第5篇が財政学などと分類される。その叙述は十分に整理されているとは言い難いが、後の古典派経済学の要素のほとんど、あるいは後の経済学に登場する着想のほとんどが含まれているとさえ言われる。『国富論』はジョン・ロック、フランソワ・ケネー、ジャック・チュルゴーをはじめとする数多くの先達の思想を踏まえたものであり、そのすべてが独創的というわけではないが、鋭い洞察と広い視野に裏付けられた網羅性という点で抜きんでている。 ===構成=== 『国富論』は、全5篇から成る。 序論(introduction)および本書の構想(plan)第1篇 ‐ 労働(labor)の生産力(productive powers)における改善(improvement)の原因(causes)と、その生産物(produce)が国民(people)のさまざまな階級(ranks)のあいだに自然(naturally)に分配(distribute)される秩序(order)について 第1章 ‐ 分業(division of labor)について 第2章 ‐ 分業(division of labor)をひきおこす原理(principle)について 第3章 ‐ 分業(division of labor)は市場(market)の大きさ(extent)によって制限(limit)される 第4章 ‐ 貨幣(money)の起源(origin)と使用(use)について 第5章 ‐ 商品(commodities)の真の価格(real price)と名目上の価格(nominal price)について、すなわちその労働価格(price in labor)と貨幣価格(price in money)について 第6章 ‐ 商品(commodities)の価格(price)の構成部分(component parts)について 第7章 ‐ 商品(commodities)の自然価格(natural price)と市場価格(market price)について 第8章 ‐ 労働(labor)の賃金(wages)について 第9章 ‐ 資本(stock)の利潤(profits)について 第10章 ‐ 労働(labor)と資本(stock)の種々な用途(employments)における賃金(wages)と利潤(profits)について 第11章 ‐ 土地(land)の地代(rent)について第1章 ‐ 分業(division of labor)について第2章 ‐ 分業(division of labor)をひきおこす原理(principle)について第3章 ‐ 分業(division of labor)は市場(market)の大きさ(extent)によって制限(limit)される第4章 ‐ 貨幣(money)の起源(origin)と使用(use)について第5章 ‐ 商品(commodities)の真の価格(real price)と名目上の価格(nominal price)について、すなわちその労働価格(price in labor)と貨幣価格(price in money)について第6章 ‐ 商品(commodities)の価格(price)の構成部分(component parts)について第7章 ‐ 商品(commodities)の自然価格(natural price)と市場価格(market price)について第8章 ‐ 労働(labor)の賃金(wages)について第9章 ‐ 資本(stock)の利潤(profits)について第10章 ‐ 労働(labor)と資本(stock)の種々な用途(employments)における賃金(wages)と利潤(profits)について第11章 ‐ 土地(land)の地代(rent)について第2篇 ‐ 資本(stock)の性質(nature)・蓄積(accumulation)・用途(employment)について 序論 第1章 ‐ 資本(stock)の分類(division)について 第2章 ‐ 社会(society)の総資材(general stock)の一特定部門(particular branch)とみなされる貨幣(money)について、すなわち国民資本(national capital)の維持費について 第3章 ‐ 資本(stock)の蓄積(accumulation)について、すなわち生産的労働(productive labor)と非生産的労働(unproductive labor)について 第4章 ‐ 利子(interest)を取って貸し付けられる資本(stock)について 第5章 ‐ 資本(capitals)のさまざまな用途(employments)について序論第1章 ‐ 資本(stock)の分類(division)について第2章 ‐ 社会(society)の総資材(general stock)の一特定部門(particular branch)とみなされる貨幣(money)について、すなわち国民資本(national capital)の維持費について第3章 ‐ 資本(stock)の蓄積(accumulation)について、すなわち生産的労働(productive labor)と非生産的労働(unproductive labor)について第4章 ‐ 利子(interest)を取って貸し付けられる資本(stock)について第5章 ‐ 資本(capitals)のさまざまな用途(employments)について第3篇 ‐ 国(nation)ごとに富裕(opulence)への進路(progress)が異なることについて 第1章 ‐ 富裕(opulence)になる自然(natural)な進路(progress)について 第2章 ‐ ローマ帝国(Roman Empire)没落後のヨーロッパ(Europe)の旧状(ancient state)における農業(agriculture)が阻害(discouragement)について 第3章 ‐ ローマ帝国(Roman Empire)没落後における都市(cities and towns)の発生(rise)と発達(progress)について 第4章 ‐ 都市(towns)の商業(commerce)がいかにして農村(country)の改良(improvement)に貢献(contribute)したか第1章 ‐ 富裕(opulence)になる自然(natural)な進路(progress)について第2章 ‐ ローマ帝国(Roman Empire)没落後のヨーロッパ(Europe)の旧状(ancient state)における農業(agriculture)が阻害(discouragement)について第3章 ‐ ローマ帝国(Roman Empire)没落後における都市(cities and towns)の発生(rise)と発達(progress)について第4章 ‐ 都市(towns)の商業(commerce)がいかにして農村(country)の改良(improvement)に貢献(contribute)したか第4篇 ‐ 経済学(political economy)の諸体系(systems)について 序論 第1章 ‐ 商業主義(commercial)または重商主義(mercantile system)の原理(principle)について 第2章 ‐ 国内(home)でも生産(produce)できる財貨(goods)の外国(foreign countries)からの輸入(importation)に対する制限(restraints)について 第3章 ‐ 貿易差額(balance)が自国に不利(disadvantageous)と思われる諸国からのほとんどあらゆる種類の財貨(goods)の輸入(importation)に対する特別の制限(extraordinary restraints)について 第4章 ‐ 戻税(drawbacks)について 第5章 ‐ 奨励金(bounties)について 第6章 ‐ 通商条約(treaties of commerce)について 第7章 ‐ 植民地(colonies)について 第8章 ‐ 重商主義(mercantile system)の結論(conclusion) 第9章 ‐ 重農主義(agricultural systems)について、すなわち土地(land)の生産物(produce)がすべての国(country)の収入(revenue)と富(wealth)の唯一または主な源泉(source)だと説く経済学(political economy)上の主義について第1章 ‐ 商業主義(commercial)または重商主義(mercantile system)の原理(principle)について第2章 ‐ 国内(home)でも生産(produce)できる財貨(goods)の外国(foreign countries)からの輸入(importation)に対する制限(restraints)について第3章 ‐ 貿易差額(balance)が自国に不利(disadvantageous)と思われる諸国からのほとんどあらゆる種類の財貨(goods)の輸入(importation)に対する特別の制限(extraordinary restraints)について第4章 ‐ 戻税(drawbacks)について第5章 ‐ 奨励金(bounties)について第6章 ‐ 通商条約(treaties of commerce)について第7章 ‐ 植民地(colonies)について第8章 ‐ 重商主義(mercantile system)の結論(conclusion)第9章 ‐ 重農主義(agricultural systems)について、すなわち土地(land)の生産物(produce)がすべての国(country)の収入(revenue)と富(wealth)の唯一または主な源泉(source)だと説く経済学(political economy)上の主義について第5篇 ‐ 主権者(sovereign)または国家(commonwealth)の収入(revenue)について 第1章 ‐ 主権者(sovereign)または国家(commonwealth)の経費(expences)について 第2章 ‐ 社会(society)の一般収入(general revenue)あるいは公共収入(public revenue)の財源(sources)について 第3章 ‐ 公債(public debts)について第1章 ‐ 主権者(sovereign)または国家(commonwealth)の経費(expences)について第2章 ‐ 社会(society)の一般収入(general revenue)あるいは公共収入(public revenue)の財源(sources)について第3章 ‐ 公債(public debts)について ===第1篇=== 第1篇は、分業による労働生産性の上昇と、その配分の問題が論じられる。 スミスの分業論は、ピン製造の題材から始まる。この例は、スミスが故郷カーコーディ(英語版)で幼い時に見た経験が生かされていると言われる。従来、その着想は『百科全書』のピンの項目から得たと言われており、直接的体験をそこに加える見解は1970年代以降にに現れたものだったが、21世紀に入ってから、『百科全書』以外のフランス語文献の利用を指摘する研究も現れている。『国富論』の出現は産業革命初期に当たっており、アダム・スミスは機械制大量生産の本格化を見ていなかったという時代的制約がある。ゆえに、もう少し時代がずれていたら、ピン製造を踏まえた立論は違ったものになっていたのではないかとも言われている。しかし、スミスの重要な貢献は、新時代の予言よりも、それまでの考えの古さを打破したことや、人間社会における関係性を、労働を介して把握した点などに求められる。 分業のシステムを理論的に定式化する際に用いられたのが、交換性向や説得性向といった人間の本性に含まれる特質である。すなわち、分業しても生活が成り立つためには、交換する市場が先んじて成立している必要があり、交換性向はそれを裏支えする人間の性向といえる。そして、その交換性向よりも本源的に存在するのが説得性向であり、他人と言葉を交わし同感を得ようとする本性が、他者を説得して交換を成立させることに結び付くと考えたのである。そして、その交換性向は、他者への慈愛ではなく、自己の生存を確立するために自分自身の利益に持つ関心、すなわち自愛心に由来するとした。 スミスは工場内分業の進展を、社会内の分業、すなわち職業の分化にも拡大する。彼の立論においては工場内分業と社会内分業の違いが明確に区別されていない憾みはあるものの、ともあれ分業の進展が生産力の上昇、ひいては商業社会の発展につながることが説かれる。スミスが想定する商業社会は、地主、資本家、労働者による階級社会が想定されており、商業社会においては賃金、地代、利潤の自然な水準に規定された「自然価格」が存在し、公正さを含む参加者の同感に市場が支えられていれば、需要と供給によって決定される市場価格は、長期的には自然価格に一致するように動くとされる。この議論の基盤をなしたのは、まだ十分に練られた形ではなかったが、労働価値説であった。スミスは投下労働価値説と支配労働価値説とを用いたが、この問題を十分に突き詰めたとは言い難い。 ===第2篇=== 第2篇で論じられるのは資本蓄積の問題である。分業が発展するためには、それに先立って剰余生産物が蓄積されている必要がある。というのは、分業を始めるには、それを支える機械や設備を整える必要があるし、分業による生産物が実際に交換されるまでの生活も支えなければならないからである。 スミスはこの問題を扱うのに際し、労働を生産的労働と不生産的労働に分けた。前者は農業や工業を指すのに対し、後者はサービス業を指す。これらを分ける基準はスミスが富と定義した生活の必需品・便益品を生産するかどうかであって、不生産的労働が持つ社会での有用性を否定するものではない。 スミスは生産的労働から資本が蓄積されると捉えた。スミスは生産的労働の生産物のうち、生産に用いられた分の資本が回収され、残った部分が剰余となる。剰余は税及び消費(不生産的労働の雇用を含む)に充てられ、残りの部分が貯蓄となり、この貯蓄がすなわち資本の蓄積に回される。言い換えると、剰余の中から税と消費に回る分を抑えれば抑えるほど、資本の蓄積量は増大することになる。そしてスミスは、人には支出性向と倹約性向があり、長期的には後者の方が上回ると見なした。しかし、倹約性向はあくまでも自身の財産にしか及ばず、公共財産の管理にはこうした性向が働かないと考え、資本蓄積を妨げる要素としては個人の浪費よりも政府の浪費の方が深刻であるとした。こうした考えは、浪費を肯定的に捉えた重商主義とは、対立的なものである。 ===第3篇=== 第3篇は経済史に位置づけられる。ローマ帝国没落後のヨーロッパの発達史をたどる。アダム・スミスは、国富を示す生活資料の主要部分、すなわち食料を生産する農業にまず資本を投下し、その発展が商工業の発展へとつながることを自然としたが、実際にヨーロッパでは都市への特権付与などによる転倒が起こったとする。そして、その不自然な発達史を裏支えした理論が重商主義であるとした。 この第3篇は全5篇の中で最も短いが、第4篇で展開する重商主義批判に繋がる点では重要な篇といえる。 ===第4篇=== 第4篇は経済学史などに位置づけられる。旧来の学説、具体的には重商主義、重農主義への批判だが、ほとんどは前者への批判に割かれている。スミスは重農主義に対しては批判しつつも影響を脱し切れておらず、農業を重視する生産的労働と不生産的労働などにも投影されている。 重商主義は金銀貨幣を富と解釈し、その蓄蔵を志向する。しかし、国内商業では、売り手に富が蓄蔵される一方、買い手は損失を出すことになる。そこで重商主義では、国際貿易で財貨を稼ぐことを重視し、輸出の奨励と輸入の抑制のための政策が採られるとともに、植民地拡大を目指し、軍事費も増大することになる。しかし、スミスは重商主義政策を輸入抑制のための2政策、輸出奨励のための4政策、計6つに分類し、この第4節では1章ずつを割いて批判した。批判した論点の中では植民地論の比重が明らかに大きいが、これは当時のアメリカ植民地の情勢(初版刊行から約4か月後にアメリカ独立宣言が出された)と強く結びついている。 スミスは輸入の制限を有害なものとした。他方で国防をより上位に置き、航海条例を高く評価している。ゆえに無条件に規制の全廃を主張したわけではないし、規制をなくすことで損害を被る人々のために、改革の速度を漸進的とすべきことも主張した。また、輸出奨励金も有害なものとし、輸出を奨励する政策は、不利な産業に過度の資本を投入させるものとして批判している。同様に植民地支配にしても、植民地から安く買いたたいて高く売りつけたところで、不利な産業への資本の偏重を促進することで、自国の産業発展を歪めることになるとした。また、植民地の防衛に本国の税金が投入されるというコスト面からも、植民地支配の非効率性を指摘した。 そして、アメリカ植民地については、彼らの代表権(イギリス議会の議席)を認めて取り込む案と、植民地を放棄し、同盟国とする案とを示した。とはいえ、スミスは前者の実現困難性に触れており、アメリカの伸長に伴って課税額に応じた代表数が拡大すれば、イギリスの首都がアメリカ大陸に移転する事態が起こりうると懸念した。 ===見えざる手=== 『国富論』に登場する「見えざる手」 (invisible hand) という言葉は広く知られており、ジョン・ケネス・ガルブレイスは経済学の隠喩の中で最も有名なものとまで位置付けている。しかし、直接的にこの単語が登場するのは、第4篇2章の1か所だけである。 この「見えざる手」の背後にある思想は、人々が利己的に行動することこそが、市場を通じて公益の増大にもつながるということである。この着想は、私悪が公益につながるというバーナード・デ・マンデヴィルの思想から影響を受けたといわれている。 ただし、スミスが市場に無条件で全てを委ねる自由放任主義(レッセフェール)を礼賛したという理解は正しくない。スミスが説く利己心はあくまでも「同感」とセットになって「正義の法」に反しないものであり、まったくの好き勝手に振る舞うこととは異なる。スミスの考えに沿えば、独占などが行われていないフェアな市場で自己の利益を最大化するには、他者の批判を招く行為に出て今後の取引に差し障ることは避けようとするはずであり、好き勝手に振る舞うことは、むしろ自己の利益を最大化することにはつながらないのである。そもそも、「自然的自由」「自由競争」といった表現ならばスミスの書き物には頻出するが、「自由放任」という表現は一切登場しない。 しかしながら、スミスの「見えざる手」は曲解され、『国富論』の初期の擁護者となった新興の資本家たちは、レッセフェール以外のスミスの主張を無視した。そして、人道的な政策(児童労働の禁止など)に反対する資本家たちまで、政府によるあらゆる規制に反対するものとして、スミスを引用する始末であった。 ===第5篇=== 第5篇は財政学や経済政策論にあたる。第4篇までの議論によって、国家の不適切な介入を峻拒したスミスが、国家の役割について扱ったのが本篇である。前半で国家経費論が論じられ、後半が国家収入論で、租税や公債が論じられる。 スミスは国家の役割を国防、司法、公共事業の3点に絞った。こうした国家論をフェルディナント・ラッサールは夜警国家と批判したが、この批判は失当である。また、20世紀末に新自由主義が台頭すると、小さな政府の権威付けにスミスが担ぎ出されるようになった。しかし、第5篇においてスミスが論じる国家の役割は決して小さなものではなく、そのコストも安価なものではない。 まずスミスは国防について、野蛮な国々の脅威から文明国を守るためには、規律や練度の点で民兵組織よりも常備軍が適切であることを説いているが、それはそのコストを国民が負担することをも意味する。次に司法については、国家が担当するとしつつ、権力分立の考えに則って、行政権から分けるべきとした。最後に公共事業については、インフラストラクチャー整備のための公共工事のほか、教育が含まれる。スミスはオックスフォード大学在学中に失望した記憶から、高等教育においては各教授がより良い授業を提供し、学生を多く獲得できるように競争すべきと考えた。しかし、分業には負の側面があることに踏み込み、分業の細分化された作業に従事する一般民衆は愚昧になる危険を抱えている一方、教育のための時間や費用を自己で捻出するのが難しいと判断したのである。 スミスは、このように国家の3つの役割を規定し、これに主権者の威厳を保つための費用を加えたものを歳出とし、その財源について論じた。スミスは国有地などの国家独自の収入源を増やすことは、民間の土地などを減らすことになるとして否定的であった。スミスが推すのは租税であり、租税の4原則に照らして様々な税を検討した上で、地代税と奢侈品税を他の税目よりも評価した。最後に、公債や貨幣改悪も有害なものと位置付け、特に戦争を理由とする公債発行には強く否定的であった。 スミスは第5篇で再びアメリカ植民地に言及し、植民地を手放すことを示唆しつつ、『国富論』を締めくくった。 ==評価== 『国富論』初版刊行直後の書評の数は少なく、その内容のほとんども、論評というよりも内容紹介にとどまるものであった。 しかし、知人のエドワード・ギボンからは私信の中で絶賛された。同じく知人のデヴィッド・ヒュームからの私信でも、見解の相違はさておき評価を受けた。また、アダム・スミスが政治家たちの会合に出席した際に、ウィリアム・ピットは、自分をはじめとする列席者が皆スミスの弟子であると位置づけた。のちに下院の演説でも、ピットはスミスの示した「解決策」を高く評価する演説を行った。 スミス自身が細分化された意味での「経済学者」ではなかったように、当時は経済学以外の学者たちにも読まれ、ジョゼフ・ブラック、アダム・ファーガソン、ウィリアム・ロバートスン(英語版)たちからも、高く評価された。 経済学の領域では、その幕開けとなった文献と位置付けられている。証券仲買人であったデヴィッド・リカードは、1799年に夫人の療養のため、バースに滞在していた。この保養中に『国富論』を偶然読んだことで、彼は経済学への関心を持ったという。その後、研究を深化させたリカードは、古典派経済学の完成者とも位置付けられている。また、カール・マルクスの労働価値説が、スミスからリカードへと引き継がれた流れの延長線上に位置づけられるなど、マルクス経済学への『国富論』の影響は決定的なものと見なされている。 新古典派経済学においても、アダム・スミスについて、ケンブリッジ学派を創始したアルフレッド・マーシャルは、「近代の経済学の創立者とみなされてよいであろう」と評し、限界革命の中心人物の一人レオン・ワルラスも「経済学の父と呼ばれる人」と位置付けていた。『国富論』はまたトマス・ロバート・マルサスを経由してジョン・メイナード・ケインズにも影響を与えた。ヨーゼフ・シュンペーターは『国富論』を、経済書としてだけでなく科学書としても、チャールズ・ダーウィンの『種の起源』を除いた中で「最も成功した書物」と位置付けた。 なお、19世紀末以降、『道徳感情論』と『国富論』が描く人間像が、片や利他的、片や利己的で対立していると見なす「アダム・スミス問題」が提起されたが、それは現在までに誤解として退けられている。『道徳感情論』においても利己的であることは否定されておらず、『国富論』においても人間が本来的に持つ利他性は「正義の法」や「同感」といった概念を通じて示されているからである。そして、『国富論』の評価の高さに対し、『道徳感情論』の方は、ジョン・ケネス・ガルブレイスが1980年代後半に「今ではおおむね忘れ去られて」いるとしたほどだったが、研究状況は変化している。むしろ21世紀に入ってからのスミス研究では、『道徳感情論』の比重が高くなるにつれて、『国富論』をスミス思想の中心に置かず、「経済学の古典」よりもずっと広い道徳哲学全体の中の一部分として捉えなおすことが主流となっている。ゆえに『国富論』を研究対象とする研究者も、経済学史学者に限られなくなっている。 ==書誌== 国富論はアダム・スミスの生前、5版を数えた。その第5版を底本に、先行する各版との異同をおさめたエドウィン・キャナンの校訂版が刊行されている。 ===初版=== アダム・スミスは、1773年には『国富論』のおおよそを書き上げていたが、その仕上げにさらに3年ほどを費やした。これは、『国富論』でもかなりの分量になるアメリカ植民地問題の進展に対応するものだった。スミスはなおもアメリカ情勢を見守ろうとしていたが、生前の刊行を望んだ親友デイヴィッド・ヒュームの願いを聞き入れて、出版に踏み切った。初版は四つ折版2巻本(セットで1ポンド16シリング)で、1776年3月9日に刊行された。これは廉価とはいえず、当時の労働者の日当でいえば20日分に相当する金額であったが、半年で売り切れた。 この初版には、エディンバラ版と通称される異本、同じ年のうちにダブリンで刊行された不正版や、第2版の刊行後にそれを土台にして標題紙を差し替えた偽版なども存在する。 ===第2版=== 第2版は1778年1月前半の頃に刊行され、版型、巻数、価格は初版と全く同じであり、形式的な違いは、第1巻の冒頭だけにまとめられていた目次が、各巻に分けて付けられるようになった点である。 内容的には、内容に関わる訂正や削除も含め、全体的に手が入れられ、脚注の数や分量も大きく増えた。 ===第3・4・5版=== 第3版は八つ折版3巻本(並製18シリング、上製1ギニー)と小型化し、1784年11月20日に刊行された。このときの改訂は、スコットランド関税監督官になっていた経験も活かして第4篇に大きく加筆するなど、大掛かりなものとなった。そのため、スミスは初版と第2版の購入者のために、増補訂正部分を抜き刷りとして別売りすることを、第3版の刊行に先駆けて版元に提案しており、これを受け入れた版元によって、第3版と同じ日に、増補訂正部分の別冊が刊行されている。 これに対し、1786年11月6日に刊行された第4版は第3版と版型・巻数とも同じ(価格は18シリング)で、「第4版のためのはしがき」が追加された以外の訂正箇所は微細なものにとどまる。スミス自身、上記のはしがきにおいて、何の変更もしていない旨を表明している。1789年に刊行された第5版は、第4版と版型・巻数・価格が同じで、変更点は誤植の訂正などわずかなものだが、翌年に没したスミスが直接関与できた最後の刊本であった。 ===第6版以降=== 第6版は、アダム・スミスの死後である1791年に刊行された。従来、アダム・スミスが自ら手を入れた版は第5版とされており、後述するキャナン版や日本語訳なども第5版を底本とすることがしばしばであった。しかし、第6版がアダム・スミス自ら改訂作業を行った最後の版ではないかという説もあり、第6版との異同を考慮に入れたり、第6版を底本とした翻訳も出されるようになっている。 以降、版次が明記されたものは第11版(1805年)まで刊行されることになる。 ===注釈付き版=== 19世紀は自由貿易が推進された時代であり、時代に適合していた『国富論』は、専門家による序論と注釈がつけられた版も7種類刊行された。 その種の版の中で評価が高い版は、1904年に現れた。エドウィン・キャナン(英語版)が刊行した校訂版である。これは第5版を底本に、それ以前の各版との異同をまとめたものである。この版について、大内兵衛は「いちばん完備した版」とし、水田洋は「二〇世紀初頭のイギリスのスミス研究の最高水準」の中に位置付けた。 ==翻訳== 『国富論』は、初版刊行の年から翌年にかけて、ドイツ語訳(2巻本)が出て、その後もフランス語、イタリア語、デンマーク語による翻訳が刊行された。これらとスペイン語訳版は、アダム・スミスの存命中に出版されている。 ===日本での受容と翻訳=== 国富論の原書は、江戸時代の日本に入ってきていた。シーボルトの蔵書にドイツ語訳版があったほか、開成所には1863年版があったことが明らかになっている。明治時代初期には、太政官、内務省、大蔵省はじめ複数の官庁に原書が所蔵されていた。 その日本語訳については、明治初期から抄訳の類はあったが、最初の全訳といわれるのは石川暎作訳『冨國論』(富国論)である。これは石川が1882年(明治15年)から雑誌に掲載し始めたものだったが、第4篇の途中で石川が病没し、嵯峨正作が引き継いで、全12分冊、それがさらに合冊されて、全3巻として1888年に刊行された。その底本は明記されていない。杉原四郎は註の内容から、19世紀にマカロック(英語版)が編注を付けた版が底本になったと推測していたが、水田洋は1812年のマレーによる再版が底本だったとしている。この最初の全訳を後押ししたのが田口卯吉であり、彼や福沢諭吉の影響で、アダム・スミスの名は明治時代の小学校の教科書にも掲載されていた。 大正時代には竹内謙二が『全訳富国論』(1921年 ‐ 1923年)を刊行している。全訳としては、これは2番目のものであった。この竹内訳が完成した1923年には、アダム・スミス生誕二百年を記念する行事などが、東京大学、京都大学、東京商科大学(のちの一橋大学)、慶應義塾大学でそれぞれ挙行され、その講演が大盛況であったことが伝えられている。 竹内は『富国論』という書名を踏襲したが、『国富論』や『諸国民の富』と訳されている例があることに触れており、竹内自身、1924年に改訂版を刊行した際に『全訳国富論』と改題した。関東大震災で全巻刊行を断念した後、改造文庫から改めて全3巻の改版を刊行した際にも、『国富論』と題した。竹内が底本としたのは、キャナン版の第2版である。なお、版元の有斐閣はキャナン版の版元から版権料を要求され、支払った。これはキャナン版の日本語翻訳独占権を得たことを意味した。 昭和時代になると、太平洋戦争前の共産主義に対する規制から、自由主義経済の研究者だけでなく、マルクス経済学の研究者たちも『資本論』の代わりに『国富論』を講ずることがあり、学生たちも『国富論』を読むことが多かったという。そうした背景から、『国富論』を研究していた学生たちが、特別高等警察の取り調べを受けることもあったという。そのような中でも、フリードリヒ・リストとの関わりでアダム・スミスを研究することなどは認められており、大内兵衛による全訳が岩波文庫として刊行された(『国富論』)。大内は『国富論』という訳を採用した理由について、『富国論』『諸国民の富』といった訳名が存在していることを認識しつつも「特に優つてゐるとも思はれない」としていた。 戦後になると岩波文庫版は改訳され、大内兵衛・松川七郎訳『諸国民の富』(全5巻、1959年 ‐ 1966年。底本はキャナン版)となった。『諸国民の富』への変更は「いっそう適切であり、自然でもあると考えられる」ことや、日本の学界でも「比較的広く用いられるようになってきたと判断される」ことによるとした。この翻訳は、1969年に岩波書店の単行本として改訂された。 戦前と異なってマルクス主義に対する制約もなくなったが、『国富論』を含むアダム・スミス研究は独自の進展を遂げ、研究者たちによる「アダム・スミスの会」も発足した。 1968年には『世界の名著』叢書にも、キャナン版を底本とする『国富論』が入った(大河内一男責任編集『アダム・スミス』)。これは抄訳だったが、のちに同じ訳者により第5版を底本とする全訳が中公文庫や中公クラシックスにも入った。 20世紀末には岩波文庫版が刷新され、水田洋監訳、杉山忠平訳『国富論』全4巻(2000年 ‐ 2001年)が刊行された(第5版を底本に、第6版も含む各版と校合)。 第6版を底本としたのが、『国富論 国の豊かさの本質と原因についての研究』(山岡洋一訳、日本経済新聞出版社、2007年)で、経済学者らでなく、専業の翻訳家によって最初に全訳されたものとされる。 その一方、20世紀末以降、知名度の高さと裏腹に読まれざる古典と化し、一般読者どころか、エコノミストからさえも誤解されている、と指摘する経済学史学者も見られるようになった。もっともそれは日本だけの話ではなく、ジョン・ケネス・ガルブレイスも、まともに読んでもいない人間によって引用される文献として、『資本論』、『聖書』、『国富論』の3冊を挙げている。 =オードリー・ヘプバーン= オードリー・ヘプバーン(英: Audrey Hepburn、1929年5月4日 ‐ 1993年1月20日)は、イギリス人で、アメリカ合衆国の女優。日本ではヘップバーンと表記されることも多い。ハリウッド黄金時代に活躍した女優で、映画界ならびにファッション界のアイコンとして知られる。アメリカン・フィルム・インスティチュート (AFI) の「最も偉大な女優50選」では第3位にランクインしており、インターナショナル・ベスト・ドレッサーにも殿堂入りしている。 イギリスで数本の映画に出演した後に、1951年のブロードウェイ舞台作品『ジジ』(en:Gigi (1951 play)) で主役を演じ、1953年には『ローマの休日』でアカデミー主演女優賞を獲得した。その後も『麗しのサブリナ』(1954年)、『尼僧物語』(1959年)、『ティファニーで朝食を』(1961年)、『シャレード』(1963年)、『マイ・フェア・レディ』(1964年)、『暗くなるまで待って』(1967年)などの人気作、話題作に出演している。女優としてのヘプバーンは、映画作品ではアカデミー賞のほかに、ゴールデングローブ賞、英国アカデミー賞を受賞し、舞台作品では1954年のブロードウェイ舞台作品である『オンディーヌ』(en:Ondine (play)) でトニー賞を受賞している。さらにヘプバーンは死後にグラミー賞とエミー賞も受賞しており、アカデミー賞、エミー賞、グラミー賞、トニー賞の受賞経験を持つ数少ない人物の一人となっている。 ヘプバーンの女優業は年齢と共に減っていき、後半生のほとんどを国際連合児童基金(ユニセフ)での仕事に捧げた。ヘプバーンがユニセフへの貢献を始めたのは1954年からで、1988年から1992年にはアフリカ、南米、アジアの恵まれない人々への援助活動に献身している。1992年終わりには、ユニセフ親善大使としての活動に対してアメリカ合衆国における文民への最高勲章である大統領自由勲章を授与された。この大統領自由勲章受勲一カ月後の1993年に、ヘプバーンはスイスの自宅で虫垂癌のために63歳で死去した。 ヘプバーンはブリュッセルのイクセルで生まれ、幼少期をベルギー、イングランドで過ごした。オランダにも在住した経験があり、第二次世界大戦中にはドイツ軍が占領していたオランダのアーネムに住んでいたこともあった。各種資料の一部に本名を「エッダ・ファン・ヘームストラ」とするものがある。これは、戦時中にドイツ軍占領下にあったオランダで、「オードリー」という名があまりにイギリス風であることを心配した母エラが、自らの名前をもじって(EllaをEddaとした)一時的に変えたものである。5歳ごろからバレエを初め、アムステルダムではソニア・ガスケル (en:Sonia Gaskell) のもとでバレエを習い、1948年にはマリー・ランバートにバレエを学ぶためにロンドンへと渡って、ウエスト・エンドで舞台に立った経験がある。 ==前半生== ヘプバーンは、1929年5月4日にベルギーの首都ブリュッセルのイクセルに生まれ、オードリー・キャスリーン・ラストンと名付けられた。父親はオーストリア・ハンガリー帝国ボヘミアのウジツェ出身のジョゼフ・ヴィクター・アンソニー・ラストン(1889年 ‐ 1980年)である。ジョゼフの母親はオーストリア系のアンナ・ユリアナ・フランツィスカ・カロリーナ・ラストンで、父親はイギリス、オーストリア系のヴィクター・ジョン・ジョージ・ラストンだった。ジョゼフはヘプバーンの母エラと再婚する以前に、オランダ領東インドで知り合ったオランダ人女性コルネリア・ビショップと結婚していたことがある。後にジョゼフはラストンという姓を、より「貴族的な」二重姓であるヘプバーン=ラストンへと改名した。ジョゼフは自身のことを、スコットランド女王メアリの三番目の夫である第4代ボスウェル伯ジェームズ・ヘプバーンの末裔であると信じ込んでいたことによるが、ジョゼフがジェームズ・ヘプバーンの血をひいていたという事実はない。 ヘプバーンの母エラ・ファン・ヘームストラ(1900年 ‐ 1984年)はフリース人の血を引く、バロネスの称号を持つオランダ貴族だった。エラの父親は男爵アールノート・ファン・ヘームストラ (en:Aarnoud van Heemstra) で、1910年から1920年にかけてアーネム市長を、1921年から1928年にかけてスリナム総督を務めた政治家である。エラの母親のエルブリフ・ヘンリエッテもオランダ貴族の出身だった。エラは19歳のときに、ナイト爵位を持つヘンドリク・グスターフ・アドルフ・クオールズ・ファン・ユフォルトと結婚したが、1925年に離婚している。エラとヘンドリクの間には、アールノート・ロベルト・アレクサンデル・クオールズ・ファン・ユフォルト(1920年 ‐ 1979年)と、イアン・エドハル・ブルーセ・クオールズ・ファン・ユフォルト(1924年 ‐ 2010年)の二人の男子が生まれている。 ジョゼフとエラは、1926年9月にジャカルタで結婚式を挙げた。その後二人はベルギーのイクセルへ戻り、1929年にオードリー・ヘプバーンが生まれた。さらに一家は1932年1月にリンケビーク (en:Linkebeek) へと移住している。ヘプバーンはベルギーで生まれたが、父ジョゼフの家系を通じてイギリスの市民権も持っていた。母の実家がオランダだったことと、父親の仕事がイギリスの会社と関係が深かったこともあって、一家はこの三カ国を頻繁に行き来していた。このような生い立ちもあって、ヘプバーンは英語、オランダ語、フランス語、スペイン語、イタリア語を身につけるようになった。 ===幼少時代と第二次世界大戦期の少女時代=== ヘプバーンの両親は1930年代にイギリスファシスト連合に参加し、とくに父ジョゼフはナチズムの信奉者となっていった。また、ジョゼフは子供たちの子守と性的関係を持っており、エラがこのことを知ると、ジョゼフは家庭を捨てて出て行った。その後1960年代になってから、ヘプバーンは赤十字社の活動を通じて父ジョゼフとダブリンで再会している。ジョゼフはヘプバーンに対して肉親の情を既に失っていたが、ヘプバーンはジョゼフが死去するまで連絡を保ち、経済的な援助を続けた。 ジョゼフが家庭を捨てた後、1935年にエラは子供たちと故郷のアーネムへと戻った。このときエラの最初の夫ヘンドリク・グスターフ・アドルフ・クオールズ・ファン・ユフォルトとの間の息子たちは、父親と共にデン・ハーグに住んでいた。1937年にエラと幼いヘプバーンはイギリスのケントへと移住した。ヘプバーンはエラム (en:Elham) という村の小さな私立女学校に入学し、14人の少女たちのまとめ役となった 。第二次世界大戦が勃発する直前の1939年に、母エラは再度アーネムへの帰郷を決めた。オランダは第一次世界大戦では中立国であり、再び起ころうとしていた世界大戦でも中立を保ち、ドイツからの侵略を免れることができると思われていたためである。1939年から1945年にわたってヘプバーンはアーネム音楽院に通い、通常の学科に加えてウィニャ・マローヴァのもとでバレエを学んだ。1940年にドイツがオランダに侵攻し、ドイツ占領下のオランダでは、オードリーという「イギリス風の響きを持つ」名前は危険だとして、ヘプバーンはエッダ・ファン・ヘームストラという偽名を名乗るようになった。1942年に、母エラの姉ミーシェと結婚していた貴族の伯父オットー・ファン・リンブルク=シュティルムが、反ドイツのレジスタンス運動に関係したとして処刑された。また、ヘプバーンの異父兄イアンは国外追放を受けてベルリンの強制労働収容所に収監されており、もう一人の異父兄アールノートも弟イアンと同様に強制労働収容所に送られるところだったが、捕まる前に身を隠している。オットーが処刑された後に、エラ、ヘプバーン母娘と夫を亡くしたミーシェは、ヘプバーンの祖父アールノート・ファン・ヘームストラとともに、ヘルダーラントのフェルプ (en:Velp, Gelderland) 近郊へと身を寄せた。大戦中にヘプバーンは栄養失調に苦しみ、重度の貧血と呼吸器障害、浮腫に悩まされた。後にヘプバーンは回顧インタビューで「駅で貨車に詰め込まれて輸送されるユダヤ人たちを何度も目にしました。とくにはっきりと覚えているのが一人の少年です。青白い顔色と透き通るような金髪で、両親と共に駅のプラットフォームに立ち尽くしていました。そして、身の丈にあわない大きすぎるコートを身につけたその少年は列車の中へと呑み込まれていきました。そのときの私は少年を見届けることしか出来ない無力な子供だったのです」と語っている。 1944年ごろには、ヘプバーンはひとかどのバレリーナとなっていた。そしてオランダの反ドイツレジスタンス (en:Dutch resistance) のために、秘密裏に公演を行って資金稼ぎに協力していた。ヘプバーンはこのときのことを「私の踊りが終わるまで物音ひとつ立てることのない最高の観客でした」と振り返っている。連合国軍がノルマンディーに上陸しても一家の生活状況は好転せず、アーネムは連合国軍によるマーケット・ガーデン作戦の砲撃にさらされ続けた。当時のオランダの食料、燃料不足は深刻なものとなっていた。1944年にオランダ大飢饉が発生したときも、ドイツ占領下のオランダで起こった鉄道破壊などのレジスタンスによる妨害工作の報復として、物資の補給路はドイツ軍によって断たれたままだった。飢えと寒さによる死者が続出し、ヘプバーンたちはチューリップの球根の粉を原料に焼き菓子を作って飢えをしのぐ有様だった。当時のヘプバーンは何もすることがなかったときには絵を描いていたことがあり、少女時代のヘプバーンの絵が今も残されている。戦況が好転しオランダからドイツ軍が駆逐されると、連合国救済復興機関から物資を満載したトラックが到着した。ヘプバーンは後年に受けたインタビューの中で、このときに配給された物資から、砂糖を入れすぎたオートミールとコンデンスミルクを一度に平らげたおかげで気持ち悪くなってしまったと振り返っている。そして、ヘプバーンが少女時代に受けたこれらの戦争体験が、後年のユニセフへの献身につながったといえる。 ==女優業== ===キャリア初期=== 1945年の第二次世界大戦終結後に、母エラとオードリーはアムステルダムへと移住した。アムステルダムでヘプバーンは3年にわたってソニア・ガスケルにバレエを学び、オランダでも有数のバレリーナとなっていった。1948年にヘプバーンは初めて映像作品に出演している。カルル・ファン・デル・リンデンとヘンリー・ジョセフソンが製作した教育用の旅行フィルム『オランダの七つの教訓』で、ヘプバーンの役どころはオランダ航空のスチュワーデスだった。オランダでのバレエの師ガスケルからの紹介で、1948年にヘプバーンは母親と共にロンドンへと渡り、イギリスのバレエ界で活躍していたユダヤ系ポーランド人の舞踊家マリー・ランバートが主宰するランバート・バレエ団 (en:Rambert Dance Company) で学んだ。ヘプバーンが自身の将来の展望を尋ねたときに、ランバートはヘプバーンがこのままバレエの世界で成功するだろうと請け合った。ただしヘプバーンの170cmという身長と、第二次世界大戦下の成長期に十分な栄養が摂れなかったことから、ヘプバーンがプリマ・バレリーナになることは難しいかもしれないという懸念も口にしている。いずれにせよ、ヘプバーンはこのランバートの言葉を信じて演劇の世界で生きていくことを決心した。ヘプバーンが映画スターになった後に、ランバートは「彼女(ヘプバーン)は大変な努力家でした。もし彼女がバレエを続けていたとしても、素晴らしいバレリーナとなったことでしょう」と語っている。 当時ヘプバーンの母エラは下働きの仕事で家計を支えていたが、ヘプバーン自身も金銭を稼ぐ必要に迫られていた。ヘプバーンは自身がバレエで研鑽を積んでいることから、舞台作品のコーラスガールがいいのではないかと考えた。後にヘプバーンは「私にはお金が必要でした。舞台の仕事はバレエの仕事よりも3ポンド以上高給だったのです」と語っている。ヘプバーンが出演した舞台劇として、ロンドンのヒッポドローム劇場 (en:Hippodrome, London) で上演された『ハイ・ボタン・シューズ』(1948年)、ウエスト・エンドのケンブリッジ・シアター (en:Cambridge Theatre) で上演されたセシル・ランドーの『ソース・タルタル』(1949年)と『ソース・ピカンテ』(1950年)がある。舞台に立つようになってから、ヘプバーンは自身の声質が舞台女優としては弱いことに気付き、高名な舞台俳優フェリックス・エイルマーのもとで発声の訓練を受けたことがある。『ソース・ピカンテ』の出演時に、イギリスの映画会社アソシエイテッド・ブリティッシュ・ピクチュア・コーポレーション (en:Associated British Picture Corporation) の配役担当者に認められたヘプバーンは、フリーランスの女優としてイギリスの映画俳優リストに登録されたが、依然としてウエスト・エンドの舞台にも立っていた。ヘプバーンは1951年に『若気のいたり』 (en:One Wild Oat)、『素晴らしき遺産』 (en:Laughter in Paradise)、『若妻物語』 (en:Young Wives’ Tale)、『ラベンダー・ヒル・モブ』 (en:The Lavender Hill Mob) といった映画に端役で出演し、1952年にはソロルド・ディキンスン (en:Thorold Dickinson) の監督作品『初恋』に、主人公の妹役で出演した。ヘプバーンはこの映画で優れた才能を持つバレリーナを演じており、バレエのシーンではヘプバーンが踊っている姿を見ることができる。 1951年にヘプバーンはアメリカとフランスで公開される『モンテカルロへ行こう』への出演依頼を受け、フランスのリヴィエラでの撮影ロケに参加した。この現場に、当時自身が書いたブロードウェイ戯曲『ジジ (en:Gigi (1951 play))』の主役・ジジを演じる女優を探していたフランス人女流作家シドニー=ガブリエル・コレットが訪れた。そしてコレットがヘプバーンを一目見るなり「私のジジを見つけたわ!」とつぶやいたという有名なエピソードがある 。『ジジ』は1951年11月24日にブロードウェイのフルトン・シアター (en:Fulton Theatre) で初演を迎え、劇場入り口に張出された公演タイトルの上にヘプバーンの名前が掲げられた。『ジジ』の総公演回数は219回を数え、1952年5月31日に千秋楽を迎えた。ヘプバーンはこのジジ役で、ブロードウェイ、オフ・ブロードウェイで初舞台を踏んだ優れた舞台俳優に贈られるシアター・ワールド・アワード (en:Theatre World Award) を受賞している。『ジジ』はブロードウェイでの公演終了後、1952年10月13日のピッツバーグ公園を皮切りにアメリカ各地を巡業し、1953年5月16日のロサンゼルス公演を最後に、クリーヴランド、シカゴ、デトロイト、ワシントンで上演された。 ===『ローマの休日』と高まる人気=== 1953年に公開されたアメリカ映画『ローマの休日』で、ヘプバーンは初の主役を射止めた。『ローマの休日』はイタリアのローマを舞台とした作品で、ヘプバーンは王族としての窮屈な暮らしから逃げ出し、グレゴリー・ペックが演じたアメリカ人新聞記者と恋に落ちるヨーロッパ某国の王女アンを演じた。『ローマの休日』の製作者は、当初アン王女役にエリザベス・テイラーを望んでいたが、監督ウィリアム・ワイラーがスクリーン・テストを受けに来たヘプバーンをアン王女役に抜擢した。後にワイラーは「彼女(ヘプバーン)は私がアン王女役に求めていた魅力、無邪気さ、才能をすべて備えていた。さらに彼女にはユーモアがあった。すっかり彼女に魅了された我々は「この娘だ!」と叫んだよ」と振り返っている。 製作当初のフィルムでは、主演男優グレゴリー・ペックの名前が作品タイトルの上に表示され、ヘプバーンの名前はより小さなフォントで、ペックの名前の下に置かれていた。しかしながらペックがワイラーに「変えるべきだ。彼女は僕とは比べ物にならないような大スターになる」として、ヘプバーンの名前を、作品タイトルが表示される前に、ペックの名前と同じ大きな文字で表示することを提案した。 『ローマの休日』のヘプバーンは評論家からも大衆からも絶賛され、思いも寄らなかったアカデミー主演女優賞のほかに、英国アカデミー最優秀主演英国女優賞、ゴールデングローブ主演女優賞をヘプバーンにもたらした。A. H. ワイラーは『ニューヨークタイムズ』に、以下のような劇評を残している。 厳密に言えばオードリー・ヘプバーンは新人映画女優というわけではない。このイギリス人女優が演じたアン王女はほっそりして茶目っ気にあふれ、そしてどこか愁いを帯びた美しさをもっている。豊かな感情表現には大人びた雰囲気と子供っぽさが同居し、新たに見つけた喜びと愛情に満ちている。王女はこの恋が悲しい結末に終わることを知っているが、気丈にも微笑を浮かべている。これからの彼女を待ち受けているのは、息が詰まるような哀れで淋しい未来なのである。 ヘプバーンは7本の映画に出演するという契約をパラマウント映画社から提示され、映画撮影の合間には合計12カ月間の舞台出演を認めるという条件でこの契約にサインした。ヘプバーンの人気は高まり、1953年4月に発行された『タイム』誌の表紙にはヘプバーンのイラストが使用されている。 ===『麗しのサブリナ』=== 『ローマの休日』で大成功を収めたヘプバーンは、続いてビリー・ワイルダー監督の『麗しのサブリナ』に出演した。1954年に公開されたこの作品は、ハンフリー・ボガートとウィリアム・ホールデンが演じる富豪の兄弟が、お抱え運転手の娘で美しく成長したヘプバーンが演じるサブリナを巡って張り合うという物語である。ヘプバーンはこのサブリナ役でアカデミー主演女優賞にノミネートされ、英国アカデミー賞最優秀主演英国女優賞を受賞した。ボズリー・クロウザーは『ニューヨークタイムズ』誌で次のように評している。 これはヘプバーンの映画だと思う人は多いだろう。彼女の名前はタイトルロールに記されているし、前年に『ローマの休日』で大成功を収めたばかりなのだから。事実、この作品における彼女は素晴らしい。折れそうなほどに細い身体に、驚くほど多彩で繊細な感覚と揺れ動く感情が詰め込まれている。彼女が演じた運転手の娘は、前年に演じた王女よりもさらに輝いて見える。これ以上はもう何も付け加えることはない。 『麗しのサブリナ』が公開された1954年には、ブロードウェイの舞台作品『オンディーヌ』(en:Ondine (play)) でメル・ファーラーと共演した。ヘプバーンはそのしなやかな痩身を活かして水の精オンディーヌを演じ、ファーラー演じる人間の騎士ハンスとの恋愛悲劇を繰り広げた。この作品について『ニューヨークタイムズ』は次のような劇評を書いている。 ヘプバーンは水の精というあいまいな存在を、見事に舞台上に実体化してみせた。何のわざとらしさも不自然さもなかった。生来の才能に裏打ちされた迫真かつ情感あふれるその演技は、ただただ美しく魔法のようだった。 ヘプバーンは『オンディーヌ』で1954年のトニー賞 主演舞台女優賞を受賞した。同じ年には前年の『ローマの休日』でアカデミー主演女優賞を獲得しており、ヘプバーンはトニー賞とアカデミー賞を同年に受賞した三名のひとりとなった(2013年現在。その他の二人はシャーリー・ブースとエレン・バースティンである)。『オンディーヌ』で共演したヘプバーンとファーラーは、1954年9月25日にスイスで結婚式を挙げ、ときに波乱万丈だった二人の結婚生活は15年間続いた。 ヘプバーンは1955年にゴールデングローブ賞の「世界でもっとも好かれた女優賞」を受賞し、ファッション界にも大きな影響力を持つようになった。また、この頃ヘプバーンは、アンネ・フランクの『アンネの日記』を題材とした舞台作品 (en:The Diary of Anne Frank (play)) と映画作品の両方への出演依頼を受けた。しかしながら、アンネと同年の生まれであるヘプバーンはアンネ役を引き受けることが「感情的に不可能」であり、自身の年齢が30歳に近く、年をとりすぎていることを理由に断っている。最終的に舞台のアンネ役はスーザン・ストラスバーグが、映画のアンネ役はミリー・パーキンスが演じた。 ヘプバーンはハリウッドでもっとも集客力のある女優のひとりとなり、10年間にわたって話題作、人気作に出演するスター女優であり続けた。ヘンリー・フォンダ、夫メル・ファーラーらと共演した、ロシアの文豪レフ・トルストイの作品を原作とした1956年の『戦争と平和』のナターシャ・ロストワ役で、英国アカデミー賞とゴールデングローブ賞にノミネートされている。1957年にはバレエで鍛えた踊りの能力を活かした最初のミュージカル映画『パリの恋人』に出演した。ヘプバーンはパリ旅行に誘い出された本屋の店員ジョー役で、フレッド・アステア演じるファッション・カメラマンに見出されて美しいモデルになっていくという物語である。この年には『昼下りの情事』にも出演しており、ゲイリー・クーパーやモーリス・シュヴァリエと共演した。 ===『尼僧物語』=== ピーター・フィンチと共演した1959年の『尼僧物語』では、心の葛藤に悩む修道女ルークを演じた。このルーク役で3度目となるアカデミー主演女優賞にノミネートされ、英国アカデミー賞 最優秀主演英国女優賞を獲得した。『バラエティ』誌は「これまでにないほどに多くを求められる役を見事にこなした」と評し、『フィルムズ・イン・レビュー』誌はヘプバーンの演技が「これまで上映された映画の中でも、もっとも素晴らしいもののひとつである」と評した。ヘプバーンは自身の演技に真実味を増すために、実際に修道僧たちと何時間も修道院で過ごしたといわれている。ヘプバーンは「これまでのどの映画作品よりも、時間と努力と思考を費やした作品でした」と語っている。 ヘプバーンは『尼僧物語』に続いて『緑の館』(1959年)に出演した。この作品でヘプバーンは、アンソニー・パーキンス演じるヴェネズエラ人アベルと恋に落ちる、密林で暮らす「美しく誇り高い」「幻想的」な少女リーマを演じた。1960年にはヘプバーンが出演した唯一の西部劇『許されざる者』でレイチェル役を演じた。レイチェルはバート・ランカスターやリリアン・ギッシュが演じる「粗野で頑固な役とは異なり、やや洗練されすぎた、線が細く教養ある」インディアン差別に反対する女性という役どころだった。 ===『ティファニーで朝食を』=== ファーラーとの間の長男ショーンが生まれた三カ月後の1960年に、ヘプバーンはブレイク・エドワーズの監督作品『ティファニーで朝食を』に出演した。この映画はアメリカ人小説家トルーマン・カポーティの同名の小説を原作としているが、原作からは大きく内容が変更されて映画化されている。原作者のカポーティは大幅に小説版から離れた脚本に失望し、主役の気まぐれな娼婦ホリー・ゴライトリーを演じたヘプバーンのことも「ひどいミスキャストだ」と公言した。これは、カポーティが主役のホリー役には友人であったマリリン・モンローが適役だと考えていたためだった。また、映画脚本のホリー役も原作からはかけ離れた演出がなされており、ヘプバーン自身も「娼婦の演技はできない」ことを製作者のマーティン・ジュロウにもらしていた。 原作のホリーの魅力でもあった性的風刺に満ちた言動は皆無だったが、ヘプバーンは1961年度のアカデミー主演女優賞にノミネートされ、ヘプバーンが演じたホリーはアメリカ映画を代表するキャラクターになった。このホリー・ゴライトリーはヘプバーンを代表する役といわれることも多く、映画版『ティファニーで朝食を』でのホリーのファッションスタイルと洗練された物腰が実際のヘプバーンと同一視されるようになっていった。しかしながらヘプバーンはこの役を「人生最大の派手派手しい役」と呼び「実際の私は内気な性格なのです。このような外向的な女性を演じることはかつてない苦痛でした」と語っている。『ティファニーで朝食を』の冒頭シーンで、ヘプバーンが身にまとっているジバンシィがデザインしたリトル・ブラックドレス(シンプルな黒のカクテルドレス (en:Little black Givenchy dress of Audrey Hepburn)) は、20世紀のファッション史を代表するリトル・ブラックドレスであるだけでなく、おそらく史上最も有名なドレスだといわれている 。 ヘプバーンは1961年のウィリアム・ワイラー監督作品『噂の二人』で、シャーリー・マクレーン、ジェームズ・ガーナーと共演した。『噂の二人』はレズビアンをテーマとした作品で、ヘプバーンとマクレーンが演じる女教師が、学校の生徒に二人がレズビアンの関係にあるという噂を流されてトラブルとなっていくという物語だった。レズビアンを取り上げた作品としてはハリウッドで最初の映画のひとつだといわれている。当時の保守的な社会的背景のためか、作品自体もヘプバーンの演技も、批評家や大衆からあまり注目されなかった。『ニューヨークタイムズ』のボズリー・クロウザーは「よくできた作品とはいえない」としながらも、ヘプバーンの演技については「微妙な題材」のなかで「繊細かつ無垢な印象を与える」と評価している。『バラエティ』誌はヘプバーンの「柔らかな感性、深い心理描写と控えめな感情表現が見られる」と高く評価し、さらにヘプバーンとマクレーンを「互いを引き立てあう素晴らしい相手役」だと賞賛した。 ===『シャレード』=== ヘプバーンは1963年の『シャレード』でケーリー・グラントと共演した。ヘプバーンは、亡き夫が盗んだとされる金塊を求める複数の男たちに付け狙われる未亡人レジーナ・ランパートを演じている。そしてヘプバーンはこの役で、三回目にして最後となる英国アカデミー最優秀主演英国女優賞を獲得し、ゴールデングローブ賞にもノミネートされた。しかしながら、映画評論家ボズリー・クロウザーは「疑心暗鬼に陥っている役どころのはずなのに、一目で高級品と分かるジバンシィの衣装に身につけたヘプバーンは楽しそうだ」と辛口の評価を下している。かつてヘプバーンが主演した『ローマの休日』と『麗しのサブリナ』の相手役にも目されていたグラントは当時59歳で、年齢差がある当時34歳のヘプバーンを相手に恋愛劇を演じることに抵抗を感じていた。このようなグラントの意を汲んだ製作側は、ヘプバーンの方からグラントに心惹かれていくという脚本に変更している。ただしグラントはヘプバーン個人に対しては好印象を持っており、「クリスマスに欲しいものは、ヘプバーンと共演できる新しい作品だ」と語ったこともある。 ヘプバーンは1964年の『パリで一緒に』で、『麗しのサブリナ』で共演したウィリアム・ホールデンと、ほぼ10年ぶりにコンビを組んだ。パリで撮影されたこのスクリューボール・コメディは、「マシュマロみたいに中身のない空想譚 (marshmallow‐weight hokum)」とも呼ばれ、「一様に酷評された」。ただし、作品自体に低評価を下した批評家たちも、ヘプバーンの役作りには好意的だった。ヘプバーンが演じたガブリエル・シンプソンは、ホールデンが演じるスランプに陥った脚本家リチャード・ベンソンの手助けをする女性という役割だった。ヘプバーンの演技は「大げさに誇張された馬鹿話のなかで、一服の清涼剤だった」といわれている。 『パリで一緒に』に対する批評家たちからの悪評には、作品そのものだけでなく背景に使用されたセットの出来栄えの悪さも影響していた。さらに、『麗しのサブリナ』の撮影中にヘプバーンと恋愛関係にあったといわれるホールデンが、既に人妻であるヘプバーンを口説こうとしたことや、ホールデンがアルコール使用障害になっていたことなども、撮影現場の雰囲気や状況を悪化させた。主なシーンの撮影を終えて編集前のフィルムを目にしたヘプバーンが、あまりの出来の悪さに撮影カメラマンのクロード・ルノワール (en:Claude Renoir) の解雇を要求するという事態にまで発展した。また、ヘプバーンは縁起を担いで自身のラッキーナンバーである「55」番の楽屋を求めた。ヘプバーンは55番の楽屋を『ローマの休日』と『ティファニーで朝食を』でも使用していたことがあった。さらに、長きに渡ってヘプバーンの服飾を担当するジバンシィの名前を、香水担当としてクレジット表記することも要求している。 ===『マイ・フェア・レディ』=== 1964年のミュージカル映画『マイ・フェア・レディ』は、ジーン・リングゴールドが「『風と共に去りぬ』以来、これほど世界を熱狂させた映画はない」と1964年の『サウンドステージ』誌 (en:Soundstage) で絶賛した。しかしながら、ヘプバーンが演じた下町訛りの花売り娘イライザ・ドゥーリトルの配役決定の経緯は大きな論争を巻き起こした。ジョージ・キューカーが監督したこの作品は、同名の舞台ミュージカル『マイ・フェア・レディ』の映画化である。舞台でイライザを演じていたのはジュリー・アンドリュースだったが、アンドリュースには映画出演の話は来なかった。これは製作のジャック・ワーナー (en:Jack Warner) が、ヘプバーンかエリザベス・テイラーをイライザ役に据えたほうが興行的に「儲かる」と考えたためだった。イライザ役を持ちかけられたヘプバーンは、自分よりもアンドリュースのほうがイライザに相応しいとしていったん断ったが、最終的にはヘプバーンがイライザ役に決まった。 ヘプバーンは以前出演したミュージカル映画『パリの恋人』で歌った経験があり、さらに『マイ・フェア・レディ』出演に備えて長期間の発声練習をこなしていたが、映画の中でヘプバーンが歌う場面はマーニ・ニクソンによって歌が吹き換えられた 。ニクソンが吹き替えに使われたのは、劇中のイライザの歌のキーが高く、ヘプバーンの声域である低めのメゾ・ソプラノまでキーを落とすことが困難だったためである。理由はどうであれ、歌を吹き替えることを知らされたヘプバーンは、激怒してその場から立ち去った。しかし翌日になってヘプバーンは戻ってきて、「ひどい態度だった」とその場の全員に謝罪している。劇中でヘプバーンが歌う場面では、前もって録音しておいた自身の歌にあわせてリップシンクしているが、ニクソンがさらにその上から吹き替えたために、ヘプバーンの口の動きとニクソンの歌声とは完全には一致していない。吹き替えも使うが、ヘプバーンの歌はできるだけ残すという約束だったにも関わらず、最終的には歌のおよそ90パーセントがニクソンによって吹き替えられた。ヘプバーンの歌声が残されているのは「踊り明かそう」の一節、「今に見てろ」の序奏部、「スペインの雨」での台詞と歌の掛け合い部分だけである。歌唱部分が全く別の声質を持つ他の女優に吹き替えられたことについて質問されたヘプバーンは、不快感を露にして「よくもそんなことを訊けるものですね。確かにレックスは演技をしながら、同時に歌の録音もこなしていましたが・・・・・・次の機会には」と応え、唇をかみ締めてそれ以上は何も口にすることはなかった。後にヘプバーンは、もし歌のほとんど全てを吹き替えられることが分かっていれば、あの役を引き受けることは決してなかったと語っている。 ヘプバーンのイライザ役を巡る騒動は、第37回アカデミー賞授賞式で最高潮に達した。『マイ・フェア・レディ』はアカデミー賞に12部門でノミネートされ、そのうち8部門を受賞するという高い成績を残したが、ヘプバーンは主演女優賞にノミネートすらされなかった。そしてその年の主演女優賞を獲得したのは舞台版でイライザを演じたジュリー・アンドリュースで、『マイ・フェア・レディ』と同じミュージカル作品『メリー・ポピンズ』での受賞だったのである。マスコミはヘプバーンとアンドリュースが対立していると報道し、煽り立てようとしたが、ヘプバーンもアンドリュースも、両者の間には悪い感情はなく、仲のいい友人であるとこれらの報道を否定した。このような騒動はあったものの、多くの評論家は『マイ・フェア・レディ』でのヘプバーンの演技を「最高」だと賞賛した。ボズリー・クロウザーは『ニューヨークタイムズ』誌で「『マイ・フェア・レディ』で最も素晴らしいことは、オードリー・ヘプバーンを主演にするというジャック・ワーナーの決断が正しかったことを、ヘプバーン自身が最高のかたちで証明して見せたことだ」と評した。舞台版『マイ・フェア・レディ』でイライザの相手役のヒギンズ教授役を演じ、映画版でも引き続きヒギンズ教授役を務めたレックス・ハリスンはヘプバーンのことをお気に入りの一流の女優だと呼び、『サウンドステージ』誌のジーン・リングゴールドも「オードリー・ヘプバーンはすばらしい。彼女こそ現在のイライザだ」「ジュリー・アンドリュースがこの映画に出演しないのであれば、オードリー・ヘプバーン以外の選択肢はありえないという意見に反対するものは誰もいないだろう」とコメントしている。 ヘプバーンは1966年のコメディ映画『おしゃれ泥棒』で、有名な美術コレクターだが実は所有しているのは全て偽物であるという贋作者の娘で、父親の悪事が露見することを恐れる娘ニコルを演じた。ニコルはピーター・オトゥール演じる探偵シモン・デルモットに、相手が父親のことを調べている探偵だとは知らずに父親の悪事の隠蔽を依頼するという役だった。1967年には2本の映画に出演した。『いつも2人で』は、一組のカップルの波乱に満ちた結婚生活を、一本の道を舞台に描き出すという実験的なイギリス映画である。監督のスタンリー・ドーネンは、撮影中のヘプバーンがそれまでになく快活で楽しそうに見えたと語り、共演したアルバート・フィニーのおかげだったとしている。 1967年にヘプバーンが出演したもう1本の映画が、サスペンススリラー映画『暗くなるまで待って』だった。ヘプバーンは脅迫を受ける盲目の女性を演じ、その演技の幅の広さを見せ付けた。この『暗くなるまで待って』はヘプバーンとメル・ファーラーの離婚直前に撮影された映画だった。この作品にはファーラーが製作者として参加していたために、ヘプバーンの体重はストレスで7kg近く落ちてしまったが、共演者のリチャード・クレンナと監督のテレンス・ヤングに安らぎを見出したヘプバーンは、何とか撮影を乗り切ることができた。ヘプバーンはこの『暗くなるまで待って』のスージー役で5回目のアカデミー主演女優賞にノミネートされている。ボズリー・クロウザーは「ヘプバーンは哀切な役を演じた。彼女が見せる激しい動揺や恐怖心は我々の同情心や不安を掻きたててやまず、最後の場面では心から無事でいてくれと願ってしまう」と評した。 ===最後の映画作品=== 1967年に、ヘプバーンはハリウッドにおける15年間にわたる輝かしい経歴に区切りをつけ、家族との暮らしに時間を費やすことを決めた。その後ヘプバーンが映画への復帰を企図したのは1976年のことで、ショーン・コネリーと共演した歴史映画『ロビンとマリアン』への出演だった。1979年にはサスペンス映画『華麗なる相続人』の主役エリザベス・ロフを演じた。この作品の監督は1967年の『暗くなるまで待って』と同じくテレンス・ヤングで、共演はベン・ギャザラ、ジェームズ・メイソン、ロミー・シュナイダーらだった。『華麗なる相続人』の原作はシドニー・シェルダンの小説『血族』(Bloodline) で、シェルダンは映画化に当たり、ヘプバーンの実年齢にあわせてエリザベス・ロフを年長の女性に書き直している。大富豪の一族を巡る国際的な陰謀や人間関係をテーマとした映画だったが、評論家からは酷評され、興行的にも失敗して製作会社は大損害を被った。 ヘプバーンが映画で最後に主役を演じたのは、ピーター・ボグダノヴィッチが監督した1981年のコメディ映画『ニューヨークの恋人たち』(en:They All Laughed) である。しかしながら、ボグダノヴィッチの交際相手でこの作品にも出演していたドロシー・ストラットンが、離婚寸前だった夫に1980年に殺害され、この作品の公開が危ぶまれた。最終的には公開までこぎつけたが、それでも短期間の上映に留まってしまっている。テレビ映画では1987年に『おしゃれ泥棒2』(en:Love Among Thieves) で、ロバート・ワグナーと共演した。『おしゃれ泥棒2』には、ヘプバーンが主演した『シャレード』や『おしゃれ泥棒』などの映画から多くの要素が取り入れられている。 ヘプバーンの最後の出演映画となったのが1989年のスティーヴン・スピルバーグ監督作品『オールウェイズ』で、天使の役でのカメオ出演だった。この映画以降、ヘプバーンが携わった娯楽関連の作品は2本しかないが、どちらも非常に高く評価されヘプバーンの死後ではあるが国際的な賞を受賞している。1本がPBSのテレビドキュメントシリーズ『オードリー・ヘプバーンの庭園紀行』(en:Gardens of the World with Audrey Hepburn) で、1990年の春から夏にかけて撮影された、世界7カ国の美しい庭園を紹介するという紀行番組だった。本放送に先立って1991年3月に1時間のスペシャル番組が放送され、シリーズ本編の放送が開始されたのはヘプバーンが死去した1993年1月21日の翌日からだった。このテレビ番組で、ヘプバーンは死後に1993年のエミー賞の情報番組個人業績賞 (Outstanding Individual Achievement ― Informational Programming) を受賞した。もう1本の1992年に発売された子供向け昔話を朗読したアルバム『オードリー・ヘプバーン 魅惑の物語』 (en:Audrey Hepburn’s Enchanted Tales) では、グラミー賞の「最優秀子供向けスポークン・ワード・アルバム賞」を受賞した。ヘプバーンはグラミー賞とエミー賞をその死後に獲得した、数少ない人物の一人となっている。 ==ユニセフ親善大使== ヘプバーンは1989年にユニセフ親善大使に任命されている。そして、1992年にヘプバーンのユニセフでの活動をたたえてアメリカ合衆国大統領ジョージ・H・W・ブッシュが、文民に与えられるアメリカ最高位の勲章である大統領自由勲章をヘプバーンに授与した。さらに映画芸術科学アカデミーが、人道活動への貢献をたたえてヘプバーンの死後にジーン・ハーショルト友愛賞を贈り、息子が代理として賞を受け取った。第二次世界大戦中にドイツ占領下のオランダで辛い幼少期を送り、その後女優として大きな成功をおさめることができたという経験から、ヘプバーンは残りの人生を最貧困国の恵まれない子供たちへの支援活動に充てることを決めたのである。ヘプバーンは多くの国々を訪れているが、言葉の面で苦労したことはほとんどなかった。ヘプバーンは母国語として英語とオランダ語を、さらにフランス語、イタリア語、スペイン語の5ヶ国語を流暢に操ることができたためである。 ヘプバーンのユニセフでの本格的な活動は、1988年のエチオピアへの訪問が最初だった。当時のエチオピアは軍事クーデターで大統領となった独裁者メンギスツ・ハイレ・マリアムと、反政府組織が内戦を繰り広げており、100万人を超える難民で疲弊しきった国だった。このエチオピアでヘプバーンは、ユニセフが食糧支援を行餓死寸前の子供たち500人を収容していたメケレ (en:Mek’ele) の孤児院を慰問した。このエチオピア訪問でヘプバーンは「とても悲しく、絶望感すら覚えました。200万以上の人々が餓死寸前の危機にあり、その多くは子供たちなのです。エチオピアに食料がないわけではなく、分配できないだけです。エチオピアでは内戦が続いており、支援活動を行っていた赤十字とユニセフの職員は北部都市から避難するように勧告を受けました。私は反政府の地域へ赴き、そこで食料を求めて10日もあるいは3週間も歩き続ける母子を目にしました。床が砂でむき出しとなっているその場しのぎの難民キャンプで、人々は死を待つしかないのです。恐ろしいことです。耐えられません。「第三世界」という言葉が私は嫌いです。我々はともに一つの世界に暮らしているのです。人道上、非常な苦難に直面している多くの人々がいるのだということを世界中が認識してほしいと願っています」と語った。 ヘプバーンは1988年8月に、予防接種のキャンペーンのためにトルコを訪れ、10月には南米諸国を訪れた。ヴェネズエラとエクアドルをめぐったヘプバーンは「小さな山村やスラム街、貧民街にも水道が設置されています。これはユニセフによるちょっとした奇跡といってもいいでしょう。また、少年たちがユニセフから送られたレンガとセメントで自分たちの学校を立てているのも目にしました」と振り返っている。1989年2月には中米を訪問し、ホンジュラス、エルサルバドル、グアテマラでそれぞれの大統領と面会している。同年4月にはロバート・ウォルダースとともに「オペレーション・ライフライン」計画の一環としてスーダンを訪れた。当時のスーダンは内戦下にあり、援助団体からの食糧支援が途絶えており、この計画はスーダン南部へ食料を運びこもうとするものだった。さらに10月にヘプバーンとウォルダースはバングラデシュへ赴いた。国連の報道写真家ジョン・アイザック (en:John Isaac (Photographer)) は「二人におびえて逃げ出そうとする子供もいるが、そんなときに彼女(ヘプバーン)はそっと近づいて抱きしめる。見たことのない光景だった。ためらいを見せるような子供には手を握ってやる。そのうちに子供たちが集まってきて、彼女の手を握ったりまとわりついたりしてくるんだ。彼女はまるでハーメルンの笛吹きみたいだったよ」とそのときの様子を振り返っている。1990年10月にヘプバーンはベトナムを訪れ、ユニセフが支援する予防接種の普及と水道設備設置に協力した。 死去する4カ月前の1992年9月に、ヘプバーンはソマリアを訪問した。当時のソマリアは、以前ヘプバーンが心を痛めたエチオピアやバングラデシュを上回るほどの悲惨な状況にあった。それでもなおヘプバーンは希望を捨ててはいなかった。「政治家たちは子供たちのことにはまったく無関心です。でもいずれの日にか人道支援の政治問題化ではなく、政治が人道化する日がやってくるでしょう」「奇跡を信じない人は現実主義者とはいえません。私はユニセフがもたらした、水という奇跡を目にしてきたのです。何百年にもわたって、水を汲むために少女や女性たちが何マイルも歩く必要がありました。でもいまでは家のすぐそばに綺麗な水があるのです。水は生命です。綺麗な水はこの村の子供たちの健康と同義なのです」「貧しい場所に住む人々はオードリー・ヘプバーンはご存知ないでしょうが、ユニセフという名前を覚えてくださいました。ユニセフという文字を目にしたときにそのような人々の顔が明るくなります。何かが起こるということが分かっているからです。例えばスーダンでは、水を汲み上げるポンプは「ユニセフ」と呼ばれているのです」 ==私生活== ヘプバーンは1952年に、ロンドンで舞台に立っていたころに知り合った男爵ジェイムズ・ハンソン (en:James Hanson, Baron Hanson) と婚約した。ヘプバーン自身は「一目ぼれだった」と語っている。しかしながら、ウェディングドレスが出来上がり、日程も決まっていたにもかかわらず、この結婚は破談となった。二人の仕事があまりにも異なっており、ほとんどすれ違いの結婚生活になってしまうとヘプバーンが判断したためだった。当時のヘプバーンの言葉に「私は結婚するのなら「本当の」結婚がしたいのです」というものがある。また、1950年代初めには、その後ミュージカル作品『ヘアー』のプロデューサーをつとめるマイケル・バトラー (en:Michael Butler (producer)) と交際していたこともある。 ヘプバーンは、1953年の『ローマの休日』で共演したグレゴリー・ペックと噂になったことがあるが、両者共にこの噂を一蹴している。しかしながらヘプバーンは「多かれ少なかれ女優は主演男優に好意を抱くものですし、その逆の場合もあるでしょう。演じられているキャラクターを好きになった経験がある人には理解できると思います。珍しいことではありません。ただ、撮影が終わるとそのような感情はなくなってしまうものです」とも語っている。恋愛関係にあったかどうかはともかく、ヘプバーンとペックは終生の友人だった。1954年の『麗しのサブリナ』の撮影中に、ヘプバーンと既婚だったウィリアム・ホールデンは恋愛関係にあったといわれている。ヘプバーンはホールデンとの結婚と子供を望んだが、ホールデンは病気のため精管を切除しており、子供ができないことを告げられる。これによりヘプバーンが別れを切り出したといわれている 。また、『麗しのサブリナ』で共演したハンフリー・ボガートとは不仲だったと広く信じられているが、「「気の強いもの同士」と言われたこともありますが、私と一緒のときのボギー(ボガートの愛称)はとても優しい人でした」とヘプバーンは語っている。 グレゴリー・ペックが開いたカクテルパーティーで、ヘプバーンはアメリカ人俳優メル・ファーラーと出会った。ファーラーは「僕たちは劇場について話しはじめた。彼女は僕とグレゴリー・ペックが舞台を共同製作したこともある、ラ・ジョラ・プレイハウス・サマー劇場のことをとてもよく知っていた。僕が出ていた映画『リリ』は3回観たとも言っていた。別れ際に彼女は、僕と共演したいからいい作品があればぜひ声をかけて欲しいと言ってきた」と、ファーラーはこの出会いを振り返っている。ファーラーはヘプバーンの役を獲得するために奔走し、ブロードウェイ作品『オンディーヌ』の脚本をヘプバーンに送った。ヘプバーンはこの舞台への出演を承諾し、1954年1月から舞台稽古が始まっている。出会い、共演し、そして愛し合うようになった二人は、1954年9月25日にスイスのバーゲンストックで結婚した。二人の共演が決まっていた映画『戦争と平和』の撮影準備中のことだった。 ファーラーとの間の唯一の子供が誕生する以前に、1955年と1959年の二度にわたってヘプバーンは流産している。二度目の流産は『許されざる者』の撮影中に起こった落馬事故によるもので、岩に投げ出されたヘプバーンは背中を痛め、病院へと搬送されたが流産してしまった。このことはヘプバーンにとって心身ともに大きな傷となった。その後間もなく妊娠したヘプバーンは、子供を無事に出産するために一年間仕事を休んでいる。そして1960年7月17日に二人の長男ショーン・ヘプバーン・ファーラーが生まれた。 ヘプバーンとファーラーの結婚生活は長く続かないといわれていたが、ヘプバーンはファーラーが気難しいことは認めつつも、二人の仲はうまくいっていると主張していた。ファーラーがヘプバーンを支配下に置き、小説『トリルビー』の登場人物であるスヴェンガーリのようにヘプバーンを意のままにしているのではないかと噂されたことすらあるが、ヘプバーンはこの中傷を一笑に付している。ウィリアム・ホールデンは「オードリーがメルから影響されたがっているように見える」と語っている。その後もヘプバーンは妊娠したが、1965年と1967年の二度にわたり流産を繰り返した。最終的に二人は1968年12月5日に離婚し、二人の結婚生活は14年間で終わりを告げた。その後ファーラーは長寿を保ったが、2008年6月に心不全のために90歳で死去している。 ヘプバーンは1965年にスイス、レマン湖地方、モルジュ近郊のトロシュナ村に家を購入。息子、ショーンとの生活をはじめ、穏やかな生活を楽しみながら後半生を過ごした。 その後、ヘプバーンは船旅でイタリア人精神科医アンドレア・マリオ・ドッティと出会い、ギリシア遺跡を巡る旅行中にドッティに惹かれていった。ヘプバーンはさらに子供を望んでおり、そのためには女優を辞めてもいいと思っていた。当時40歳のヘプバーンと30歳のドッティは1969年1月18日に結婚し、1970年2月8日には帝王切開で男子ルカ・ドッティが生まれている。ルカを妊娠中のヘプバーンは日々の暮らしに非常に気を使い、数か月間にわたる休養生活を絵を描いて過ごしていた。1974年にヘプバーンは再びドッティの子を身篭ったが流産している。ドッティはヘプバーンを愛し、前夫メル・ファーラーとの息子ショーンとの仲も良好だったが、若い女性と関係を持つようになっていった。そしてヘプバーンのほうも1979年の映画『華麗なる相続人』の撮影中に、共演したベン・ギャザラと不倫の関係になっていた。ヘプバーンとドッティは1982年に離婚し、二人の結婚生活は13年で終わった。離婚したファーラーとの接触は徹底的に避けていたヘプバーンだったが、ドッティとは息子ルカの養育のことで離婚後も連絡を取り合った。ドッティは2007年10月に消化器官の合併症で死去している。 ドッティとの結婚生活が続いていた1980年から死去するまでヘプバーンは、妻であるイギリス人女優マール・オベロンと死別したオランダ人俳優ロバート・ウォルダース (en:Robert Wolders) と恋愛関係にあった。二人が知り合ったのは友人を介してであり、ヘプバーンとドッティとの結婚生活が終わりを迎えようとしていた時期だった。ドッティとの離婚が成立すると、ヘプバーンとウォルダースは一緒に暮らし始めたが、正式に結婚することはなかった。1989年のアメリカ人ジャーナリストバーバラ・ウォルターズとのインタビューで、ウォルダースと暮らしたそれまでの9年間を人生で最良の日々と振り返っている。 日本人では1972年テレビCMのコーディネートがきっかけで加藤タキとの交友が知られている。 ==死去== 1992年9月終わりに、ユニセフの活動で赴いていたソマリアからスイスの自宅へ戻ったヘプバーンは、腹痛に悩まされるようになった。専門医の診察を受けたが原因がはっきりせず、精密検査を受けるために10月にロサンゼルスへと渡った。11月1日にシダーズ=サイナイ医療センター (Cedars‐Sinai Medical Center) で診察を受け、担当医が腹腔鏡検査でヘプバーンの腹部に悪性腫瘍を発見し、虫垂にも転移していることが判明した。これは腹膜偽粘液腫と呼ばれる極めて珍しいがんの一種だった。何年もかけて成長した悪性腫瘍が転移しており、小腸をも薄く覆い尽くしていた。外科手術のあと、医者はヘプバーンに抗がん剤フルオロウラシルとフォリン酸の投与による化学療法を開始した。手術から数日後ヘプバーンは腸閉塞にかかり、薬物療法だけでは身体の痛みを和らげることができなくなった。12月1日に再手術が行われたが、すでに悪性腫瘍が身体各部に転移しており、外科手術による摘出は不可能であるという決断がなされた。 ヘプバーンの余命がわずかであることを知らされた家族たちは、ヘプバーンの最後になるであろうクリスマスを自宅で過ごさせるために、スイスの自宅へとヘプバーンを送り返すことを決めた。しかしながら術後のヘプバーンは回復しきってはおらず、通常の国際便での旅には耐えることができない状態だった。このことを知ったヘプバーンの衣装デザイナーで長年にわたる友人だったユベール・ド・ジバンシィが、メロン財閥のポール・メロンの妻レイチェル・ランバート・メロンに頼んで、メロンが所有するプライベートジェット機をヘプバーンのために手配した。そして多くの花々で満たされたこのジェット機が、ヘプバーンをロサンゼルスからジュネーヴまで運んだ。1993年1月20日の夕方、ヘプバーンはスイスのトロシュナ (Tolochenaz) の自宅で、がんのために息を引き取った。ヘプバーンの死を知った旧友グレゴリー・ペックは、ヘプバーンが好きだったラビンドラナート・タゴールの詩を涙ながらに朗読している。 ヘプバーンの葬儀は、1993年1月24日にトロシュナの教会で執り行われた。ヘプバーンとメル・ファーラーの結婚式で牧師を務め、1960年に生まれた二人の息子ショーンの洗礼も担当したモーリス・アインディガーがこの葬儀を取り仕切った。ユニセフからはサドルッディーン・アーガー・ハーン (Prince Sadruddin Aga Khan) が弔辞を寄せ、高官たちがこの葬儀に加わっている。家族や友人、知人としては、ヘプバーンの息子たちや共に暮らしていたロバート・ウォルダース、異父兄イアン・クオールズ・ファン・ユフォルト、元夫のアンドレア・ドッティとメル・ファーラー、ユベール・ド・ジバンシィ、アラン・ドロン、ロジャー・ムーアらが参列した。また、グレゴリー・ペック、エリザベス・テイラー、オランダ王室からは献花が届けられた。葬儀の後、ヘプバーンはトロシュナを一望できる小高い丘の小さな墓地に埋葬された。 ==後世への影響や評価== どのように言えばいいのでしょう。とにかく私の人生はとても幸せでした。 ― オードリー・ヘプバーン、 ヘプバーンの女優としての業績とその人間性は死後も長く伝えられている。米国映画協会が選定した「最も偉大な女優50選」でヘプバーンは第3位になっている。ハリウッドから遠ざかった晩年においても、ヘプバーンは映画界で存在感を放っていた。1991年にはリンカーン・フィルム・ソサエティから表彰を受け、アカデミー授賞式では何度もプレゼンターを務めている。ヘプバーンが死後に受けた賞としては、1993年のジーン・ハーショルト友愛賞、グラミー賞、エミー賞などがある。ヘプバーンの生涯は数多くの伝記となり、2000年には『オードリー・ヘプバーン物語』としてテレビ映画化されている。このテレビ映画でヘプバーン役を演じたのはジェニファー・ラブ・ヒューイットで、少女時代のヘプバーンはエミー・ロッサムが演じた。 ===広告媒体=== ヘプバーンの映像は、世界中の広告媒体に使用されている。日本では本人が出演したテレビCMが1971年(日本エクスラン工業のエクスラン・ヴァリーエ)・82年(銀座リザ)に放送され、『ローマの休日』のモノクロフィルムを着色してデジタル化された映像がキリンの午後の紅茶のCMに採用されているほか、三井住友銀行が、インターネットを利用した銀行サービスや女性顧客向けの総合口座サービスのCMキャラクターにヘプバーンを起用している。このCMは、ヘプバーンが出演した映画から有名な場面を抜き出し、宣伝する商品に合うような日本語の台詞を吹き込む形式を取っている。この吹替を担当した声優がヘプバーンの映画作品でヘプバーンの声を多く担当した池田昌子だった。 アメリカでは『パリの恋人』でヘプバーンが踊るシーンが、AC/DCの曲『バック・イン・ブラック』とともに衣料メーカのGAPのCMに採用された。GAPはオードリー・ヘプバーン子供基金に多額の献金をしている。2013年には、3DCG制作されたヘプバーンの映像が、イギリス製チョコレートのギャラクシー (en:Galaxy (chocolate)) の広告に使用された。また一部では、ヘプバーンを同性愛者のアイコンにしようとする動きがある 。 ===ファッション=== ヘプバーンは1961年にインターナショナル・ベスト・ドレッサー (en:International Best Dressed List) に選ばれて殿堂入りしており、死後においてもファッション界から敬意を払われている。アメリカの通信販売大手QVCによる「20世紀最高の美女」を決めるアンケート調査(女性2000人を対象に実施)と、飲料水エビアンを発売するダノンによる「史上最高の美女」の調査アンケートで、ともに1位となった 。当時のハリウッドでもてはやされていた、マリリン・モンロー、マルティーヌ・キャロル、キム・ノヴァク、ラナ・ターナーといった豊満な女優たちとは異なり、痩身のヘプバーンは優雅で大きな瞳と長い脚の非常に女性的な女優だった。当時の女性に対する典型的なイメージとは正反対の細いブラウンの眉を持つヘプバーンのことを、映画監督ビリー・ワイルダーは「忘れ難いファニーフェイス」と回想している。ワイルダーは「この女性が大きな胸を過去の遺物としてしまうだろう」とジョークを飛ばしたこともあった。 ヘプバーンのお茶目な妖精のような美貌と人形めいた痩身というイメージを決定付けたのは、ファッションデザイナーのユベール・ド・ジバンシィがデザインした洋服だった。。ジバンシィがヘプバーンのドレスを最初にデザインしたのは、1954年の映画『麗しのサブリナ』からである。衣装はイーディス・ヘッドの担当だったが、監督のビリー・ワイルダーは、パリで美しく変貌を遂げたサブリナの衣装は、パリのマネキンが着るような最新モードであるべきだと考え、自分で直接買い付けるようヘプバーンに命じた。 パラマウントの関係者であり、以前の修業先であったスキャパレリの元ディレクターだったスゴンザックから、「ヘプバーン」という女優が今パリに来ており、次の映画で使う衣装を探していると言われたジバンシィは、その名前から、自身の憧れでもあった大女優キャサリン・ヘプバーンだと思い込み、大喜びでアポイントメントを受けた。そのためオードリーと初めて顔を合わせたジバンシィは失望し、この依頼を断ろうとして、空いている時間がほとんどないとヘプバーンに答えている。それでも自身を魅力的に見せてくれるであろう衣装を正しく理解していたヘプバーンは、とにかくジバンシィがデザインした最新の洋服を見せてくれるように頼んだという。ジバンシィは仕方なく、前回のコレクションのサンプルの中から好きなものを選ぶように告げたが、最終的に3つのドレスとそれに合わせた帽子を選びだしたヘプバーンは、パリ・コレクションの一流モデルに合わせて作られたそれを、その場ですんなりと着こなしてみせた。ジバンシィは彼女が生みだした美しさとそのセンスの良さに衝撃を受け、以降二人は意気投合することとなった。 ところがジバンシィの名前は諸事情によりクレジットされず、独立して自分のメゾンを開いたばかりだった彼は酷く落胆した。そこでヘプバーンは、サブリナのプレミア・ショーで、映画の中で身に付けた3つのドレスを披露して回り、また彼のコレクションに出演するなどして宣伝に努めた。その後もヘプバーンは彼がデザインした多くの洋服を見事に着こなし、そのファッションスタイルはジバンシィの名とともに世界的に高く評価されることになっていった。二人の友情と協力関係はヘプバーンが死去するまで続いた。 「ジバンシィは私(ヘプバーン)の外見に、さまざまなものを加えてくれました。彼はいつも素晴らしく、そして最高でい続けてくれました。彼と私の好みはずっと同じだったのです。特別な素材と途方もない才能で仕立てられた、シンプルな細身のドレスと一組のイアリング以上に美しい装いはないでしょう」とヘプバーンは語っている。ジバンシィは『麗しのサブリナ』以降も『パリの恋人』、『昼下りの情事』、『ティファニーで朝食を』、『パリで一緒に』、『シャレード』、『おしゃれ泥棒』など、さまざまな映画作品でヘプバーンの衣装を担当した。また、ジバンシィはヘプバーンとの35年にわたる交友で「彼女(ヘプバーン)の身体のサイズは、1インチとして変わらない」ことにいつも驚かされていた。ジバンシィはヘプバーンの生涯を通じての友人、理解者であり、ヘプバーンはジバンシィにとって芸術の女神ミューズだった。ヘプバーンは「私とユベールはよく似ています。好みが同じなのです」と語っている。ヘプバーンはジバンシィのファッションモデルになったこともある。1988年にジバンシィがパリでサマー・コレクションを開催したときにヘプバーンは「私は世界のどこにいても、身近にユベールを感じています。彼は俗事に関心を向けるような人ではありません。自分の好きなことにしか興味がないのです」とコメントした。また、ジバンシィは「ランテルディ」という香水をヘプバーンのために調合している。 ジバンシィと同様に、著名なファッションカメラマンのリチャード・アヴェドンにとってもヘプバーンはミューズだった。アヴェドンが撮影したヘプバーンの顔のクローズアップ写真は、国際的に有名になった。この写真にはヘプバーンの特徴である眼差し、眉、口元が見事に映し出されていた。アヴェドンはヘプバーンについて「ヘプバーンを被写体にするという幸運に恵まれると、いまも、そしてこれから先もずっと私は自身の無力さを痛感することだろう。私には彼女の更なる魅力を引き出すことはできない。彼女はただそこに在り、私はそれを記録するのがやっとだ。何も付け加えることができない素晴らしい女性といえる。彼女の存在それ自身が完璧な肖像写真だ」と語っている。ヘプバーンと共演経験がある女優シャーリー・マクレーンは、1996年の著書『マイ・ラッキー・スターズ―わがハリウッド人生の共演者たち』で「(ヘプバーンは)稀に見る高い審美眼を持った女性で、私は彼女のスタイルやセンスを羨望の眼差しで眺めていました。彼女の近くにいるときには、自分が不恰好で流行おくれだと感じたものです」と記している。現代でもヘプバーンのファッションスタイルは、女性たちからの支持を集め続けている。 イタリアの靴デザイナーであるサルヴァトーレ・フェラガモは1999年に、「オードリー・ヘプバーンという女性、そのスタイル (Audrey Hepburn, a woman, the style)」と銘打った展示会で、ヘプバーンのためにデザインした靴を発表したことがある。また、『ティファニーで朝食を』でヘプバーンがサングラスをかけていたことで、当時の女性たちの間でもサングラスが流行した。この作品でヘプバーンがかけていたサングラスはレイバンのウェイファーラーモデル (en:Ray‐Ban Wayfarer) だと間違えられることが多いが、オリヴァー・ゴールドスミスがデザインした「マンハッタン」と呼ばれるサングラスである。サングラスを着用したヘプバーンの写真は『ヴォーグ』や『ハーパース・バザー』など、多くのファッション誌の表紙を飾った。ヘプバーンはその生涯を通じてファッション界に刺激を与え、死後も影響を及ぼし続けている。ファッション評論家たちは、ヘプバーンがファッション界のアイコンとして長きに渡って親しまれているのは「すっきりとしたライン、シンプルだが目立つアクセサリー、単色でまとめた色使い」という、自分に似合うスタイルを貫き通したからだとしている。 ヘプバーンはファッションを楽しんではいたが、普段の暮らしの中ではそれほど重要視していなかった。世間から思われているイメージとは違って、ヘプバーンが好んでいたのはカジュアルで気楽な衣服だった。さらにヘプバーンは自身が魅力ある女性だとは思っていなかった。1959年のインタビューで「私は定期的に自分のことが大嫌いになります。太りすぎ、背が高すぎ、もしかしたら単純に醜いだけなのではないかと。私が本来、自分に自信がなく劣等感を抱えた優柔不断な女性であることは間違いありません。無理矢理にでも気力を振り絞らないと何もできないのです」と語っている。 2006年12月5日に、『ティファニーで朝食を』のためにジバンシィがデザインしたリトル・ブラックドレスがクリスティーズのオークションにかけられた。落札予想額は70,000ポンドだったが、最終的にはその7倍近い467,200ポンド(約92万ドル)で落札された。映画由来の衣装についた価格としては当時最高額だったが、マリリン・モンローが『七年目の浮気』で着用した、地下鉄の通気口からの風でまくれ上がった「サブウェイ・ドレス」が2011年6月に460万ドルで売却されてヘプバーンの記録を更新している。このヘプバーンのドレスの収益金は、インドの恵まれない子供たちを救済するチャリティー基金に寄付された。基金の責任者は「私は涙を禁じえません。伝説的とも言える女優が着用した衣装がレンガやセメントの購入資金となり、世界中の貧しい子供たちが通える学校を建てられることになるとは、本当に信じられない気持ちです」と述べた。しかしながら、このクリスティーズのオークションに出品されたドレスは、ヘプバーンが『ティファニーで朝食を』で着用したドレスではなかった。『ティファニーで朝食を』ではジバンシィがデザインした複数のドレスが用意されたが、実際にヘプバーンが映画で着用したドレスは2点だけだった。それら2点のドレスのうち1点はジバンシィが保存しており、もう1点はマドリードの衣装博物館に展示されている。2009年12月にもロンドンでヘプバーンが映画で使用した衣装のオークションが開催され、60,000ポンドの価格がついた『おしゃれ泥棒』で着用した黒のカクテルガウンなど、総額270,200ポンド(437,000ドル)で落札された。そしてオークションの収益金のうち半分が、オードリー・ヘプバーン子供基金とユニセフが共同で行っている学童支援活動に寄付された。 ==出演作品== ==受賞== =ワラキア蜂起= ワラキア蜂起(ワラキアほうき、ワラキア農民蜂起とも)(ルーマニア語:Revolu*6907*ia de la 1821(1821年革命))とは1821年、オスマン帝国支配下のワラキア公国で発生した蜂起。ギリシャ独立戦争と同時に行われたが、ロシアの協力を得ることができずオスマン帝国によって鎮圧された。 ==背景== ===オスマン帝国の侵攻=== オスマン帝国がヨーロッパへ勢力拡大に動き、コソボの戦いでバルカン諸侯軍を撃破するとオスマン帝国のバルカン半島支配が決定的となった。そのため、ブルガリア、セルビアはオスマン帝国支配下となりギリシャ、ボスニア、アルバニアもその攻撃を受けた。そのなか、現在のルーマニア南部に位置するワラキアのミルチャ1世 (en) はオスマン帝国の宗主権を受け入れざるを得ない状況に陥り、1411年以降、オスマン帝国へ朝貢を行い、その公位もオスマン帝国の意思によって左右される事態に至った。 一時期、ウラド3世の時代には遠征してきたオスマン帝国スルタンメフメト2世を2度に渡って撃退し、ミハイ勇敢侯 (en) の時代にはオスマン帝国を撃退してモルダヴィア、トランシルバニアを併合、ルーマニア統一に成功した。しかし、ミハイ勇敢侯が死去すると再びワラキアはオスマン帝国支配下となったが、ギリシャ、セルビア、ブルガリアと違い半独立状態で自治権は与えられた。 当初、モルダヴィア、ワラキアはオスマン帝国へ貢納することで自治権を認められていたが、公爵の地位などをめぐって貴族(ボィエール) (en) らの間で争いが生じた。このため、ボィエールらは自らを有利にするためにオスマン帝国の高官らへ賄賂を送るようになったが、これは公爵の地位をオスマン帝国が左右することにつながった。そしてオスマン帝国占領下で認められた正教会を抑えていたためにその地位が向上していたギリシャ人らがワラキア、モルダヴィアへ移住しはじめた。 露土戦争 (1710年‐1711年)でオスマン帝国が勝利した1711年以降、ワラキア及びモルダヴィアの諸侯の地位はオスマン帝国の監督下となり、その公位をオスマン帝国で特権を有していたギリシャ人であるファナリオティスが務めるようになった。この中にはイプシランディス家 (en) 、マヴロコルダトス家 (en) といった後にギリシャ独立戦争で活躍する一族も着任した。そしてこのオスマン帝国による統治は徐々に肥大化していたオスマン帝国の維持のために貢納など搾取され、果てには公位でさえも競売される事態に至り、なおかつ極一部の公位を買うことのできるファナリオティスらに独占された。 ワラキア、モルダヴィア両公国は軍隊が廃止されて儀礼など必要最小限にされ、外交権もオスマン帝国の管理下に置かれた。そして搾取はワラキアの人々の困窮と反感をもたらし、18世紀以降、農民らは土地から逃亡し、さらにヨーロッパがオスマン帝国に対して優位になるとオスマン帝国は国の維持のために搾取を強化、これにワラキアの人々は抵抗を強めていった。 ===ワラキアを狙う列強国=== オーストリアとの間に墺土戦争が発生してオーストリア軍が優位に事を進めると、ワラキアのボイエールたちはオーストリア帝国 領としてワラキア公国を自治国化させることを提言、ワラキア公ニコラエ・マヴロコルダトス (en) はこれを鎮圧するために命令を下したが、そのためにルーマニア正教会大主教アンティム・イヴィレアヌ (en) らが殺害された。しかし結局、ボイエール側が勝利を収め、さらにオーストリア軍がワラキアへ進撃した。このため、1718年に結ばれたパッサロヴィッツ条約でオーストリアはセルビア、ワラキア公国の一部であるオルテニアなどを手に入れた。そしてオーストリアがオルテニアを支配している間、様々な改革が行われた。これは後にワラキアがオスマン帝国に返還された際に諸改革が行われることにつながるが、オスマン帝国の意に反する改革は阻止された。 1735年、ロシア、オーストリア対オスマン帝国の戦い(オーストリア・ロシア・トルコ戦争)が発生するとロシア軍はモルダヴィアへの侵攻に成功したが、ワラキアを奪取しようとしたオーストリア軍は進撃に失敗、オルテニアは放棄された。結局、1739年に結ばれたベオグラード条約 (en) でオルテニアはワラキアへ再び併合された。 またさらに、不凍港を求め南下政策を採用していたロシアのエカチェリーナ2世はオスマン帝国との戦いを続けていたが、露土戦争 (1768年‐1774年)で勝利したロシアは1774年に結ばれたキュチュク・カイナルジ条約で黒海北方を得た上でオスマン帝国内のキリスト教徒らを保護する権利も得た。そしてワラキア、モルダヴィア両公国のボイエールらもこの条約締結の際に参加していたが、彼らはロシア、プロイセン、オーストリアの保障の下でワラキア、モルダヴィアの自治国化を求めた。 ロシア、オーストリアらがオスマン帝国より優位に立ったことはワラキア、モルダヴィアの人々らに解放の気運を与え、両公国の人々はロシア、オーストリアなどの対オスマン帝国の戦いに義勇軍として参加、ボイエールたちはウィーンやサンクトペテルブルクへワラキア、モルダヴィア両公国の自治を認めるよう覚書を送付してオスマン帝国からの解放を表明した。 1774年以降、一時的な平和を得たワラキア、モルダヴィア両公国は一時的に停止されていたファナリオティス制が復活、アレクサンドル・イプシランティス (en) がワラキア公に就任すると様々な改革が行われた。しかしこの改革も困窮していたオスマン帝国政府が過大な要求を出したため、崩壊、さらに露土戦争 (1787年)が勃発するとロシア軍、オーストリア軍がワラキア、モルダヴィアへ侵攻、両公国は主戦場となり荒廃した。ただしオーストリア軍はフランス革命の発生とオランダにおける反乱の発生のために、途中で手を引かざるをえなくなったため、ロシアとオスマン帝国の間で1792年、ヤシー条約 (en) が結ばれた。そしてバルカン半島においてビザンツ帝国を復活させギリシャ帝国を復興させるというエカチェリーナ2世の夢はモルダヴィア、ワラキア両公国を占領しながらもイギリスとの利害関係が発生した事であきらめざるを得なかった。 一方、フランスで台頭したナポレオン・ボナパルトはオーストリア軍を撃破、オーストリアの南東ヨーロッパ進出計画をも断念させた上でルーマニアへ興味を示した。そのため、ワラキア、モルダヴィア両公国のボイエールたちはナポレオンへ覚書を送り、ワラキアへの自治制導入とファナリオティスによる公位独占を廃止することを求めた。ナポレオンはオスマン帝国に圧力をかけてワラキア、モルダヴィア両公を罷免させたが、これはあくまでも当時対立していたロシアを苦境に陥れるための措置であり、ボイエールらの願いを叶えたわけではなかった。しかし、その一方でナポレオンが1807年にオペール大尉(『モルダヴィアとワラキアに関する統計的基礎知識』の著者)を派遣したことでその影響を受けた。 ところが、このオスマン帝国による両公の解任はロシアとの協定に違反したものであったため、ロシアはオスマン帝国へ宣戦布告、露土戦争 (1806年‐1812年) (en) が勃発したが、おりしもナポレオンがティルジットの和約をロシアと結んだためにオスマン帝国は単独でロシアと戦わなければならなかった。そして、両公国は1806年、ロシアによって占領されたが、オルテニアのパンドゥーリ兵(ワラキアにおける非常備軍のこと)はロシアに協力、ロシアはオスマン帝国に勝利したが、この時の経験は後のワラキア蜂起において役立つことになった。 ===募るオスマン帝国への不満=== ロシア軍はワラキア、モルダヴィアにそのまま駐留したが、1812年、ナポレオンとの間に緊張が走ると5月28日、ブカレスト条約が結ばれてロシア軍はベッサラビア等、ロシアへ編入された地域まで撤退、両公国は再びファナリオティスによって統治されることになった。しかし、ファナリオティスたちもオスマン帝国への反発を徐々に明らかにしていった。 しかし、このファナリオティスらによる統治はワラキア、モルダヴィア両公国にとって圧政の象徴でしかなかった。オスマン帝国はこの制度を利用して莫大な金額、膨大な物資を搾取した。日々の労働時間は増加する一方で手工業も列強らが進出したことによって発展が阻害されていた。ワラキア、モルダヴィアで設立された工場のほとんどが短期間で倒産し、一部の工場だけが操業を続けている状況であった。 こうしてワラキア、モルダヴィア両公国が発展するにはオスマン帝国を排除するほかないという段階にまで至っていた。1804年以降、セルビアではオスマン帝国に対する反乱が頻発し、1817年に自治を得るに至っていた。また、ギリシャ人らも独立運動を展開しており、1814年、ロシアのオデッサにおいてフィリキ・エテリアを結成して独立を目指していた。こうしてオスマン帝国によって占領されていたバルカン半島の諸民族らに独立の気運が高まりつつあった。 ==バルカン半島に生じる民族意識== ===各地で発生する蜂起=== 1804年、セルビアでオスマン帝国に対する不満から反乱が発生した。後にセルビア蜂起と呼ばれるこの反乱はあくまでもセルビアで暴政を振るったイェニチェリに対してであったが、徐々に民族的側面を帯びセルビアの独立を目指すようになっていった。1804年に始まった第一次セルビア蜂起 (en) は失敗に終わったが、1815年に再び始まった第二次セルビア蜂起 (en) でセルビアは自治権の獲得に成功してセルビア公国が成立、オスマン帝国下ではあるが指導者ミロシュ・オブレノヴィチ (en) を世襲君主とする自治国家となった。また、ギリシャ人らも独立運動を展開し始め、1814年にはロシアのオデッサでフィリキ・エテリア(友愛教会)が設立され、アルバニア南部のアヤーン、アリー・パシャも不穏な動きを見せていた。 ===ルーマニアの状況=== しかし、ルーマニアはセルビア、ギリシャとは状況が異なっていた。第一に列強の影響を強く受けざるを得なかったこと、第二にルーマニア人社会が分裂していたことであった。 第一点については、ルーマニアはロシアに地理的に隣接しており、ロシア、オスマン帝国の間で戦争が始まると常にその被害を被ることになった。そしてロシアが徐々に優勢になっていくと、両公国は度々ロシアに占領され、その影響を強く受けるようになっていった。 第二点については、両公国はオスマン帝国占領以降も限定的自治権を持っていたことでそれまでのボイエール(貴族)、僧侶らの勢力が保持されたことである。そのため、農民らは農奴と変わらない状況で収奪されていた。そして、ファアナリオティスらによる統治がそれを悪化させていた上でさらにギリシャ人、ユダヤ人らが商業活動を行ったことでさらに苦しめられていた。ルーマニアで中間層を担うべき商人らはギリシャ人、ユダヤ人らに独占されていた。19世紀に入ってようやくルーマニア人らの中間層が形成されたが、これもボイエールと農民層の間で有効な活動ができなかった。 そのため、ルーマニア人らのナショナリズムはゆっくりとした歩調で育って行った。オーストリア占領下のトランシルヴァニアではルーマニア人僧侶が活動を行い、両公国に駐屯したロシア軍の影響でフランス文化の影響を受けた。そして18世紀に入ると両公国の権力者層を形成していたギリシャ人らが西欧の啓蒙思想を導入したことはルーマニア人らの文化的啓蒙に役立ち、さらにルーマニア人らの民族意識も高めることになった。 ===ヴラディミレスクの登場=== 1806年に勃発した露土戦争はワラキア、モルダヴィア両公国の地で展開されたが、これにはルーマニア人義勇兵らもロシア側で参加していた。この戦いはロシアの勝利に終わったが、ブカレスト条約 (1812年) (en) でベッサラビアがロシアに譲渡されるなど、ルーマニア義勇兵の奮闘も報われることはなかった。しかし、ルーマニアの人々はロシアがルーマニアを解放してくれるという期待を寄せ続けていた。そしてこの戦いにはのちにワラキア蜂起の指導者となるトゥドール・ヴラディミレスクも参加していた。 ヴラディミレスクは元々民兵(パンドゥル) (en) であったが、1806年の露土戦争に参加した際、第一次セルビア蜂起の指導者であったカラジョルジェ・ペトロヴィチ (en) の仲間であるセルビア人らと接触し、また、オーストリアに滞在した際には後のギリシャ初代大統領となるイオアニス・カポディストリアスらとも親交を結んでいた。 ヴラディミレスクはオーストリアに滞在した際、フィリキ・エテリアの活動を知った。そのため、フィリキ・エテリアの指導者であるアレクサンドル・イプシランティスがヴラディミレスクに接触、ヴラディミレスクはフィリキ・エテリアに協力することになった。そしてフィリキ・エテリアが蜂起した際にはイプシランディスがモルダヴィアに侵入する間に当時、御用調達官であったヴラディミレスクがオルテニアで民兵を率いて蜂起、ブカレストを占領して合流することになっていた。 しかし、ヴラディミレスクの目的はルーマニア人の権利を拡大することにあり、ギリシャの独立を助けることではなかった。また、ギリシャ人であるルーマニアの支配層ファナリオティスらの排除して「ルーマニア人によるルーマニア支配」を要求することにあったため、フィリキ・エテリアの目的や手段とは大きく違いを見せていた。 ==蜂起== 1821年1月15日、ワラキア公であったアレクサンドル・スツォフ (en) が死去するとヴラディミレスクはオルテニアのパデシュ(ro)で蜂起を開始、ワラキア公国の首都ブカレストはワラキアの貴族の中でも改革支持派による「統治委員会」が掌握した。この改革支持派の中でも有力な貴族3名、グリゴレ・ブルンコベアヌ(Grigore Br*6908*ncoveanu)、グリゴレ・ギカ(ro)、バルブ・ヴァカレスク(Barbu V*6909*c*6910*rescu)らはヴラディミレスクと盟約を結んだ。そしてヴラディミレスクはドナウ川流域へオスマン帝国軍を誘導、イプシランティスがペロポネソス半島へ向かえるよう打ち合わせた。 1月19日(旧暦1月18日)夜、ヴラディミレスクはオルテニアへ進撃、2月4日(旧暦1月23日)、ヴラデイミレスクはオルテニアに到着するとティスマナ修道院(ro)で自らの味方となる貴族への支援とヴラディミレスク軍の農民兵、農民らによる「人民議会」へ委ねることを主旨としたパデシュ宣言(ro)を発表して各地に檄を飛ばした。その激に応じて数千人の農民らがヴラディミレスクの元へ集まり、ヴラディミレスクは彼らから8,000人の農民兵を編成した。 これらの檄はトランシルヴァニアまで伝達され、トランシルヴァニアの人々もヴラディミレスクらの軍がやってきて貴族を打ち倒してくれるという期待を与えた。その一方でモルダヴィアではあまり動揺は広がらなかったが、モルダヴィア宮廷宰相ヤコヴァケ・リゾ・ネルロスはイプシランティス宛に期待を込めた書簡を送った。しかし、農民らは永年の恨みをはらすかのように貴族、僧院の領地を襲い、略奪を行ったが、ヴラディミレスクはそれを厳罰をもって取り締まった。しかし、ときにヴラディミレスクは農民の代表として振るわなければならず、ときに地方の官吏を解任したり、不当に徴収した税を取り戻したりしなければならなかったため、多数の貴族がヴラディミレスクの元から離れていった。 さらにヴラディミレスクは要塞化されていたティスマナ、ストレイハイア、モトルの修道院を占領して食料を貯蔵、オスマン帝国の襲来に備えた上で商人を農業経営者に任命して行政、軍事の権利を与えたが、貴族らがこれに圧力をかけたため、ヴラディミレスクは彼らを罷免せざるを得なかった。 そしてこれに呼応したアレクサンドロス・イプシランティス率いるフィリキ・エテリアも蜂起、3月6日(旧暦2月22日)にロシア国境を越えてモルダヴィアへ進撃した。これにはセルビア、ブルガリア、モンテネグロなどの義勇兵も加わった。そして、ヤシーで兵力を5,000人にまで増やした義勇軍はブカレストへ向けて進撃を開始した。 ヴラディミレスクはこの蜂起が一部の不当な貴族らやファナリオティスたちへのものであると、ブカレストのロシア総領事やオーストリア、オスマン帝国朝廷使節らに対して表明し、彼らを安堵させようとした。そしてブカレストの統治委員会もヴラディミレスク蜂起を支援しつつも「パデシュ宣言」はオスマン帝国に出来る限り秘密にしようとしており、さらにこの蜂起が小さいものでワラキア国内の軍事力で制圧できるレベルであるように矮小化した。そして統治委員会はヴラディミレスクらに委員会に服従させるために部隊を派遣したが、部隊の隊長であるアルバニア人がフィリキ・エテリアのメンバーであったため、結局、この部隊はヴラディミレスクに合流した。 しかし3月16 日にヴラディミレスクがブカレスト近郊へ到着すると大部分の住民がブカレストから姿を消していた。さらに悪いことにフィリキ・エテリア、ヴラディミレクスらが支援を期待していたロシア皇帝アレクサンドル1世がヴラディミレスクらを批判、ブカレストのロシア総領事もロシア本国の命令でブカレストから退去していた。そのため、ブカレストの統治委員会も成功の可能性がないと判断、トランシルヴァニアへ逃亡した。 4月6日(旧暦3月21日)、ブカレスト守備隊司令官ビムバシャ・サヴァはイプシランティスが到着する前にヴラディミレスクの入城を阻止しようとしたが、結局、ヴラディミレスクはブカレストへ入城、残っていた住民らの熱烈な歓迎を受けた上で、ボレンティン・ヴァーレで市民らに協力と団結を呼びかけた。しかし、ロシア皇帝が不同意を表明したことと統治委員会の貴族らが逃亡したことはヴラディミレスクに法的正統性が無いことを意味していた。そのため、ヴラディミレスクは貴族らと協議を行った上で国土を回復するために一時的に国を支配するという協定を結んで自らの行動が正統であることを示したが、貴族らはイプシランティスが到着するまで日和見的な態度をとろうとしていた。 一方、イプシランディス率いる義勇軍もワラキア、モルダヴィア公国で圧政を敷いていたファナリオティスの出身であったことからワラキアの人々はフィリキ・エテリアへの協力に消極的であったが、フィリキ・エテリアの義勇軍の中には現地で徴発を無理やり行なったため、嫌悪や反発の対象と化していた。 4月18日(旧暦4月6日)イプシランディス率いる義勇軍がブカレストに到着した際、ヴラディミレスクらは入城することを拒否した。そのため一週間後、両者の間で会談がもたれ、ヴラディミレスクはロシア軍が動かなかったこと、ワラキア、モルダヴィア両公国の人々をオスマン帝国の残忍な報復に晒したことや行軍中の略奪を激しく非難し、一方のイプシランディスは過去にヴラディミレスクがフィリキ・エテリアに協力を申し出たことで応酬したため、会議は物別れに終わった。 そして両軍が激突することを避けるために、ワラキアを2つの戦区に分けて、北方がイプシランティス、南方をヴラディミレスクが担当することだけを決定し、ヴラディミレスクはコトロチェニ(ro)に司令部をおいた。そしてヴラディミレスクはオスマン帝国の介入を避けるためにドナウ川流域のパシャらと接触したがことごとく失敗に終わった。そして両者にとって絶望的なことにロシア皇帝アレクサンドル1世がイプシランティスの行動を非難してオスマン帝国軍が両公国に軍事介入することを認めた書簡が彼らの元に届いたことであった。 イプシランティスがブカレストから離脱するとヴラディミレスクはブカレストを占領、ミハイ・ヴォダ、ラドウ・ヴォダ、メトロポリタンの各教会を占領、統治委員を逮捕して拘束、ヴラディミレスクはワラキア全土を支配する立場となった。そのため、彼はトゥードル公と呼ばれ、税を軽くし、農民の保護を行ったため、民衆の支持は増大して軍隊も強化された。 しかしヴラディミレスクはあくまでも自らが統治者であることを宣言せずにオスマン帝国との協調と貴族、僧侶たちの協力を求めていた。そのため、ヴラディミレスクはワラキア各地のパシャらと連絡をとって、あくまでもファナリオティス制への反対、オスマン帝国への忠誠と服従を誓うことを伝えたが、武器なくしては国は救えないとして抵抗の準備は怠らなかった。そのため、大規模な徴兵を行い、兵営としていたコトロチェニを要塞化、兵の訓練を行った。そしてさらに兵力を増強するためにアルバニア傭兵部隊の指揮官サヴァを陣営に引きこもうとしたが、サヴァはオスマン帝国軍と盟約をすでに結んでいた。 5月13日(旧暦5月1日)、オスマン帝国軍は3万の兵をワラキア、モルダヴィアへ投入、フィリキ・エテリア軍とヴラディミレスク軍はこれと交戦したが、オスマン帝国軍が5月27日(旧暦5月15日)にブカレストへの攻撃を行うとヴラディミレスクはブカレストに戦火が及ぶことを恐れていち早く撤退、29日にオスマン帝国がブカレストを占領した。しかし、この撤退はヴラディミレスクがオスマン帝国軍と協力してフィリキ・エテリア軍を攻撃するという噂につながった。 このため、疑心暗鬼に陥ったイプシランディスはジョルシオ・オリムピオスの協力の元、ヴラディミレスクを逮捕、ティルゴヴィシュテにおいて拷問にかけた上で裁判を開き、6月9日(旧暦5月27日)夜、密かに処刑して彼の亡骸は井戸に投げ捨てられた。 ヴラディミレスクを失ったルーマニアの蜂起軍はティスマナ修道院でオスマン帝国に撃破され、オスマン帝国軍がワラキア、モルダヴィア両公国に駐留することになった。 一方、ヴラディミレスクを処刑したイプシランディスも6月19日、ドラガシャニの戦い (en) でオスマン帝国軍に撃破されて崩壊、イプシランディスはオーストリアへ逃亡した。 7月、マフムト率いる軍によって彼らは掃討され事実上崩壊、ワラキア、モルダヴィア両公国はオスマン帝国によって占領された。 ==その後== この蜂起は結局は失敗に終わったが、ギリシャ独立戦争の嚆矢として重要な役割を果たした。また、ワラキア、モルダヴィア両公国におけるファナリオティスによる統治に対して大きな不満をルーマニアの人々が抱いていたことが表面化したことからオスマン帝国政府はファナリオティスによる統治を廃止、これ以降、両公国の君主にはルーマニアの貴族らが着任するようになった。 そしてルーマニアでは1848年に大規模な反乱を起こしたが、これは市民革命を目指したためにオスマン帝国とそれを援助したロシアによって鎮圧された。しかし、ロシアがクリミア戦争で敗れたことで両公国は自治を認められ、1860年にルーマニア公国として統一、1866年にホーエンツォレルン=ジグマリンゲン候の子であるカールが大公に即位することでルーマニアの独立が達成される。 =ロバート・ウォルポール= 初代オーフォード伯爵ロバート・ウォルポール(英語: Robert Walpole, 1st Earl of Orford, KG, KB, PC、1676年8月26日 ‐ 1745年3月18日)は、イギリスの政治家、貴族。 1701年にホイッグ党の庶民院議員に当選して政界入り。高い討論力で頭角を現し、ホイッグ党政権(あるいはホイッグ党参加政権)で閣僚職を歴任した。1720年の南海泡沫事件の後処理を指揮。事件後にはホイッグ政権の最大の有力者となり、1721年に第一大蔵卿に就任した。与党を統制して閣議を主宰し、議会の支持を背景に政治を行ったため(責任内閣制)、この時期の彼を最初の「イギリス首相」とするのが一般的である。巧みな政治手腕で議会を掌握し続け、20年に及ぶ長期安定政権を築いてイギリスが商業国家として躍進する土台を築いた。1733年のタバコ消費税法案の挫折で求心力を落としはじめ、1741年の総選挙で与党の議席を大幅に減らしたため1742年に退陣した。 ==概要== 1676年にイングランド・ホートン(英語版)に地主の三男として生まれる。イートン校を経てケンブリッジ大学キングス・カレッジへ進学。兄が死去したため、代わりにウォルポール家の財産を相続した(→生い立ち)。 1701年に父が議席を持っていた選挙区から立候補して庶民院議員に当選。ホイッグ党に所属して時のトーリー党政府に対して野党として論争を挑み、高い討論力を見せつけて庶民院内で急速に頭角を現した(→政界入り直後の野党期(1701‐1705))。1705年の総選挙(英語版)で与野党の議席が伯仲化した結果、ホイッグ党議員が閣僚に登用されるようになり、ウォルポールも海軍本部委員会委員、ついで戦時大臣(英語版)に就任した。しかしその後世論のホイッグ批判の高まりや1710年の総選挙のホイッグの敗北などによりホイッグ閣僚が次々と辞任に追いやられ、彼も1710年10月に辞職した(→政府への参加(1705‐1711))。その後再び庶民院でトーリー政府批判を展開したが、政府に危険視され、1712年1月には汚職行為を働いたとされて議会の議決によりロンドン塔に投獄された。しかしこれにより反政府派から英雄視され、ホイッグ党内で権威を高めた(→汚職容疑でロンドン塔に投獄(1712))。 1714年にハノーヴァー朝のジョージ1世が即位するとトーリーが退けられてホイッグ政権が創設され、ウォルポールも陸軍支払長官(英語版)に就任。また議会において前トーリー政権責任追及の中心人物となり、前政権首脳陣をジャコバイトとして徹底糾弾し、ホイッグ一党優位体制の確立に貢献する。1715年には第一大蔵卿に就任してホイッグ政府の最有力閣僚の一人となる。しかしその後国王やジェイムズ・スタナップのハノーヴァー優先外交を批判したことで1717年4月には下野に追い込まれた(→ハノーヴァー朝成立で政権復帰(1714‐1717))。 その後スタナップ政権に対して激しい野党活動を展開し、それに耐えかねたスタナップは、1720年6月にウォルポールを陸軍支払長官として再登用した(→スタナップ政権に対する野党期(1717‐1720))。直後に発生した南海泡沫事件ではバブル発生当時政権におらず責任追及される立場にない閣僚として後処理を指揮した。この事件中に多くのホイッグ有力政治家が辞職に追い込まれたり、死去したりしたため、ウォルポールが主導権を握る政権が誕生することになった(→政権復帰と南海泡沫事件(1720‐1721)) 1721年4月に第一大蔵卿に就任。閣議を主宰して他の閣僚を統制し、議会の与党議員も統制して議会の支持を基盤にした最初の閣僚という意味でこの時期のウォルポールを「初代イギリス首相」とするのが一般的である(→初代首相(1721‐1742))。政権内ライバルを失脚させたり、トーリー党や反政府派にジャコバイトのレッテルを貼って野党活動をけん制することで議会を掌握し続けた。1722年の総選挙や1727年の総選挙では政府機密費を流用して買収に励んだ結果、大勝を収めた(→政敵を排除して権力強化)。勃興期のジャーナリズムに対しては言論統制に努め、買収や言論弾圧を盛んに行った。1737年には演劇検閲法(英語版)を制定して言論統制を演劇に拡大し、ヘンリー・フィールディングらの反政府演劇を弾圧した。ジャコバイトの海外連絡の監視も強化した(→言論統制)。こうした政敵排除によって「ロビノクラシー」「パクス・ウォルポリアナ」と称される強力な安定政権を樹立することができた。 外交面では議会の不安定化を嫌って戦争回避の平和外交に努めた(→外交)。経済政策も議会統制の観点から行い、土地税減税・国内商工業振興・塩税など、議会に影響力を持つ地主・ブルジョワを優遇し、議会に影響力を持たない貧民から絞り取る路線を目指した(→経済政策)。1733年には土地税減税を続けるべくタバコ消費税導入を目指したが、一般消費税への拡大や徴税官の立ち入りを恐れたイギリス商人層が反発し、議会の野党活動が高まり、法案は挫折。直後の1734年の総選挙も与野党の議席差が約100議席に縮まる結果となり、ウォルポールの議会統制力に陰りが見え始めた(→消費税法案の挫折) 1739年には議会の反スペイン感情の高まりでスペインに対してジェンキンスの耳の戦争に及ぶことを余儀なくされたが、ウォルポール自身は戦争指導に消極的だったので政治指導力を落としていった(→ジェンキンスの耳の戦争)。さらに1741年の総選挙で与野党の議席差は20議席以下にまで縮まった。その後、召集された議会での採決に僅差で敗れたため1742年2月をもって辞職した。退任とともにオーフォード伯爵に叙せられた(→退任)。1745年3月18日にロンドンで死去した(→余生と死去)。 ウォルポールの20年に及ぶ長期安定政権はイギリスを商業国家として躍進させ、後の大英帝国の基礎となったと評価されている。他方、総選挙の度に政府機密費を流用して買収・接待に励んだため、金権政治をもたらした人物との批判もある(→人物・評価)。 ==生涯== ===生い立ち=== 1676年8月26日、イングランド東部ノーフォークの寒村ホートン(英語版)に生まれる。父は地主で後に庶民院議員も務めるロバート・ウォルポール(英語版)。母はその夫人メアリー(旧姓バーウェル)。夫妻は19人もの子供を儲けており、ウォルポールはそのうちの第5子・3男であった。 ウォルポール家は貴族でこそないが、13世紀まで系図を遡れる旧家であった。 イートン校を経てケンブリッジ大学キングス・カレッジへ進学した。跡継ぎになる前には父から聖職者になる事を望まれていたというが、大学在学中の1698年に長兄エドワードが急死し、次兄バーウェルもそれ以前の1690年に大同盟戦争におけるビーチー・ヘッドの海戦(英語版)で戦死していたため、急遽彼がウォルポール家の跡継ぎとなった。父の体調も悪化していたので、父の命令で地主業の勉強に専念すべくケンブリッジ大学を退学してホートンへ戻った。 父の勧めで1700年7月30日に裕福な材木商人ジョン・ショーター(John Shorter)の娘キャサリン(英語版)と結婚したが、彼女は我がままであり、後にうまくいかなくなる。同年11月18日に父が死去し、財産を相続した。 ===政界入り直後の野党期(1701‐1705)=== 1701年1月11日に父が議席を持っていたキャッスル・ライジング選挙区(英語版)から初当選し、ホイッグ党所属の庶民院議員となる。翌1702年7月にはキングス・リン選挙区(英語版)から選出され、以降40年にわたってこの選挙区の議席を維持する。 1702年3月、ステュアート朝最後の君主アン女王が即位した。スペイン王位継承問題をめぐる英仏の対立や、フランスがアン女王の異母弟でジェームズ2世の遺児ジェームズ・フランシス・エドワード(ジャコバイトが擁立する王位僭称者)を真のイングランド王・スコットランド王と認定したことなどでイングランド国内の対仏気運が高まり、同年5月にも女王はフランスに宣戦布告した(スペイン継承戦争)。女王はトーリー党中心の戦時体制を構築し、シドニー・ゴドルフィン(後の初代ゴドルフィン伯爵(英語版))が政治、初代マールバラ公爵ジョン・チャーチルが軍事、ロバート・ハーレー(後の初代オックスフォード伯爵=モーティマー伯爵)が庶民院を主導する三頭政治が展開された。 庶民院入りしたばかりのウォルポールは、トーリー政府に対して野党として論争を挑み、高い討論力でたちまち院内の主導的人物となった。1705年1月にはトーリー右派が推し進めようとした官職法案の否決にホイッグを動員するうえで大きな貢献を果たしている。 ===政府への参加(1705‐1711)=== 1705年6月の総選挙(英語版)の結果、トーリー党が267議席、ホイッグ党が246議席を獲得し、与野党の議席が伯仲化した。これによりアン女王はホイッグ政治家の一部を政府に登用する必要に迫られた。 ホイッグの若きエースとして評判だったウォルポールは元海軍卿オーフォード伯爵エドワード・ラッセルと親しかったこともあって海軍本部委員会の委員の一人に任命された。グレートブリテン王国成立(スコットランド併合)後の最初の議会である1707年の議会では、庶民院の海軍批判が激しかったが、ウォルポールの巧みな答弁のおかげで政府は戦費の承認を取り付けることに成功した。 この頃、閣内ではホイッグ党への譲歩を目指すゴドルフィンとホイッグへの強硬姿勢を崩さないハーレーの対立が深まっていたが、スコットランド併合で45人のホイッグ議員が生まれ、以降ホイッグが議会の多数派状態になっていたため、ハーレー批判が強まり、1708年2月にハーレーは辞職に追い込まれた。この際にハーレー派の戦時大臣(英語版)ヘンリー・シンジョン(後のボリングブルック子爵)も一緒に辞職し、その後任として海軍弁護で功績をあげたウォルポールが就任した。 1708年5月の総選挙はホイッグ党が大勝したが、1710年の国教会聖職者ヘンリー・サッシェバレル(英語版)の裁判の影響で民衆の非国教徒やホイッグ党への批判が高まり、逆にトーリー党が支持を集めるようになった。アン女王もこれに影響されて、1710年8月にはゴドルフィンを解任し、ハーレーを実質的な政府首脳に再登用した。さらに1710年10月の総選挙ではトーリー党が圧勝した。 こうした情勢からホイッグ閣僚の辞職が相次ぐようになり、ウォルポールも1710年10月に戦時大臣を辞職することになった。ウォルポールを高く評価していたハーレーは、彼を政権に引きとめ、ウォルポールは1月から兼務していた海軍会計長官(英語版)にしばらく留任した。しかし結局ウォルポールはハーレーへの協力を拒否したので1711年1月に完全下野することになった。 ===汚職容疑でロンドン塔に投獄(1712)=== アン女王やハーレーらトーリー党政権はフランスとの講和を目指したが、ウォルポールら野党ホイッグがそれに反対した。1711年12月5日に召集された議会でウォルポールは講和反対の動議を庶民院に提出するが、先の総選挙でトーリー党が多数を占めている議会だったので否決された。 トーリー政府はマールバラ公とウォルポールを講和・政権運営に邪魔な存在との認識を強めた。ウォルポールは当時すでにホイッグ党の大物議員の一人であり、庶民院においてトーリー政府大臣シンジョンと渡り合える唯一の存在だったためである。1711年12月21日からの会計審査委員会でマールバラ公とウォルポールの汚職容疑の調査が行われた。調査の結果、ウォルポールは軍馬の秣に関する契約の際に知人が1000ポンドの公金を着服するのを助けたとされ、1712年1月17日の議会の議決により議会追放とロンドン塔投獄の懲罰を受けた。ウォルポールは獄中のまま補選で再選されているが、議会は対立候補の訴えに基づいて当選無効にしている。 汚職行為自体は事実だったが、それは当時の服務基準から考えると重い物ではなく、この投獄は政治的弾圧の要素が強かったという。ウォルポール自身も自らを政党間争いの犠牲者と捉え、復讐を誓ったという。獄中のウォルポールのもとにはマールバラ公夫妻やゴドルフィン、第3代サンダーランド伯爵チャールズ・スペンサーなど野党有力者が次々と駆け付けて来てくれた。また同年7月8日に釈放された際には「殉教者」としてホイッグ党内で英雄視された。 釈放後にウォルポールはマールバラ邸で病気療養中のゴドルフィンを訪ねたが、この際にゴドルフィンはウォルポールを自らの継承者と認め、マールバラ公夫人サラに対して「貴女があの若者を見捨てるようなことがあり、魂が墓場から地上に戻ることが許されるなら、私は貴女の前に現れて叱って見せる」と述べたという(ゴドルフィンはこの直後の9月15日に死去した)。 ===ハノーヴァー朝成立で政権復帰(1714‐1717)=== 1714年8月にアン女王は崩御し、ハノーファー選帝侯ゲオルク1世がジョージ1世としてイギリス国王に即位してハノーヴァー朝が始まった。内部にジャコバイトを抱えるトーリー党を嫌うジョージ1世は、9月から10月にかけて政府の入れ替えを行い、初代ハリファックス伯爵チャールズ・モンタギュー、ジェイムズ・スタナップ、ウォルポールの義弟に当たる第2代タウンゼンド子爵チャールズ・タウンゼンドらを中心としたホイッグ党政府が創設された。ウォルポールもこの政府で陸軍支払長官(英語版)に任じられている。 スタナップやタウンゼンド子爵が国務大臣としての入閣であったことを考えると、その二人に並ぶ有力者と目されていたウォルポールにしては低い地位のポスト配分であったといえるが、同職は役得が多く、彼もこの時期に多額の財産を築き、ホートンの屋敷を立てなおしたり、ロンドンの屋敷に美術品を買い込んだり、我ままな妻を満足させたりすることができた。 1715年1月の総選挙はホイッグの大勝に終わり、1715年3月に召集された新議会においてウォルポールはアン女王晩年のトーリー政権指導者を徹底的に弾劾すべき旨の勅語奉答文を提案した。トーリー政権で国務大臣を務め、親ジャコバイト的態度をとっていたボリングブルック子爵(シンジョン)は身の危険を感じ、3月下旬にもフランスへ逃亡し、「ジェームズ3世」を僭称するジャコバイトの王ジェームズのもとに身を寄せたが、これはトーリー党をジャコバイトとして糾弾するうえで格好の証拠となった。 4月9日にはウォルポールのもとにトーリー政権閣僚を追及するための特別委員会が設置され、ユトレヒト条約締結の経緯とジャコバイトの陰謀の有無についての調査が行われた。ウォルポールは6月9日にも庶民院に調査結果を提出し、その結果、ボリングブルック子爵とオックスフォード伯爵(ハーレー)の弾劾が決議され、前者は私権剥奪、後者はロンドン塔投獄となった。1715年9月に勃発したジャコバイト蜂起により、トーリーをジャコバイト扱いして排除する路線はますます強まり、唯一のトーリー閣僚だった第2代ノッティンガム伯爵ダニエル・フィンチも政権を追われ、以降長きにわたるホイッグ一党支配体制が確立される。 ウォルポールは1715年10月に第一大蔵卿に転任し、スタナップやタウンゼンド子爵、サンダーランド伯爵らと並ぶ最有力閣僚の一人となったが、この後政府内で内部分裂が発生した。特にジョージ1世が1716年7月から大陸へ出てイギリスを空けると、それに随伴したスタナップ、サンダーランド伯爵(彼は途中から国王に随行)ら大陸組と、ウォルポール、タウンゼンド子爵ら留守政府の距離が広がった。国王はハノーファー選帝侯としての立場を優先して1700年以来続く大北方戦争にイギリスの支援を得て参戦し、スウェーデンに対抗すべくフランスと関係改善することを志向したが、ウォルポールはその政策をハノーヴァー優先策として批判していた。 国王とスタナップはフランスと条約を結ぼうとしたが、ウォルポールら留守政府がこれを妨害したため、条約締結は1716年11月末までずれこんだ。国王はこれに激怒し、まず1716年12月にタウンゼンド子爵をアイルランド総督に左遷し、ついで1717年初頭の議会で政府内部の対立が露呈したことで、1717年4月にウォルポールとタウンゼンド子爵が下野に追い込まれた。 ===スタナップ政権に対する野党期(1717‐1720)=== 以降ウォルポール派ホイッグは野党として政権の中枢スタナップを批判するようになった。しかしウォルポールの狙いは、スタナップ政権を困らせて自分を再登用させるという政局の意図が大きいため「反対のための反対」に終始し、トーリー党とも平然と共闘した。たとえばウォルポール自身が主導したはずのオックスフォード伯爵弾劾に反対したり、宗教的寛容を求めるホイッグの主張を体現したものであるはずの「便宜的国教会遵守禁止法」廃止の政策にも反対した。また政府の外交政策はイギリスの利害よりハノーヴァー家の利害を優先していると批判することで、党派に属しない独立派議員の疑念にも働きかけた。 国王の貴族創家の権限を大きく制限する「貴族法案」にも「国王大権の侵害」と批判するトーリーや皇太子ジョージ(ジョージ2世、父王と仲が悪かった)と一緒になって反対し、1719年12月に同法案を否決に追い込むことに成功した 更に国王ジョージ1世がハノーファー選帝侯国から連れてきたドイツ人側近たちがイギリス政治に介入するのがスタナップにとって頭痛のタネになっていたが、1720年4月頃にはウォルポールがこのドイツ人たちと連携を図ろうとしているという噂が流れ、それを恐れたスタナップはウォルポールの再登用を決断した。ウォルポールも国王と皇太子の和解を演出して政権復帰への環境準備を整え、1720年6月には陸軍支払長官(英語版)として再び政権に参加した。 ===政権復帰と南海泡沫事件(1720‐1721)=== 南海会社は1711年にスペイン領アメリカとの貿易会社として創設されたが、貿易会社としてはさほど業績は伸びず、金融会社として業績をあげている会社だった。1720年1月に3000万ポンドの国債を南海会社の株式に転換する法案が議会に提出され(4月に可決)、以降南海会社の株価は暴騰をはじめた。この余波で他にも投機的な会社が続々と設立され、常軌を逸した投機ブームがイギリスに到来した。南海会社は自社の株価つり上げを維持すべく、政府に働きかけて他の投機会社の投機を抑制する「泡沫会社禁止法(英語版)(Bubble Act)」を1720年6月末に成立させたが、これによって8月から南海会社の株価も暴落し、ロンドン金融市場は大混乱に陥った(南海泡沫事件)。 政府において南海泡沫事件の事後処理を指揮したのは政権復帰したばかりのウォルポールであった。彼はバブル発生当初、政権中枢にいなかったため、責任追及される立場になく、また財政にも強い政治家として期待されていたためである。世論の責任追及の機運の高まりを受けて、議会で南海会社理事や政治家への弾劾が行われたが、ウォルポールは長年の政敵だった北部担当国務大臣スタナップや第一大蔵卿サンダーランド伯爵の擁護にあたり、「遮断幕(Screener)」と渾名される役割を果たした。 財政処理に関しては、南海会社の政府への債務の半分を公信用回復法によって免除し、残りの負債は南海会社理事や南部担当国務大臣ジェイムズ・クラッグス(英語版)、財務大臣ジョン・エイズラビ(英語版)など弾劾された者たちからの没収財産を当てたり、年金公債と引き換えにイングランド銀行に負担させるなどして処理した。更に投資家に対する補償として所持株100ポンドについてその額の三分の一程度を加えた新株を無償交付し、その増資残高も無償交付した。南海会社から融資を受けた者は借入金の10%を返済すれば債務を免除するとした。しかしこれらの処置をもってしても結局公債を南海会社の株式に変換した人々は収入の三分の一から三分の二の打撃を受けたと言われている。 政局の上で重要であったのは、この時期にウォルポール以外の政府首脳陣がその座を去ることになったことだった。スタナップは貴族院で長時間にわたる弁明をしている際に心臓麻痺で死去し、もう一人の国務大臣クラッグスも追及前に病死した。財務大臣エイズラビは辞職のうえ庶民院除名となった。第一大蔵卿サンダーランド伯爵もウォルポールの擁護を受けたものの結局1721年4月に辞職に追い込まれており、第一大蔵卿の座をウォルポールに譲った。また死去したスタナップの後任の国務大臣にウォルポール派のタウンゼンド子爵が就任していたので、ここにウォルポールが全権を握る政権が誕生することになった。 ===初代首相(1721‐1742)=== 1721年4月に44歳で第一大蔵卿となったウォルポールは以降21年にわたって政権を主導することになる。この時期の彼をイギリスの初代首相と看做すのが一般的である(当初はタウンゼンド子爵との連立政権だが、1730年から単独政権)。国王は1718年以来閣議を主宰しなくなっており、ウォルポール時代にはウォルポールが閣議を主催して他の閣僚を統制していたこと、また議会の信任を背景に政権を維持していたことによる。 しかし政権発足当初のウォルポールは後世の首相のように与党を強力に支配しているわけではなかった。彼の21年にわたる政権の中で徐々に彼の支配力が強化されていき、ついには「第一大蔵卿=首相」の慣行が確立されるほどの権力を得たのである。ウォルポールの安定政権は彼のファーストネームから「ロビンの支配(Robinocracy, ロビノクラシー)」あるいは「ウォルポールの平和(pax walpoliana, パクス・ウォルポリアナ)」と呼ばれた。 ===政敵を排除して権力強化=== 初代首相に目されるほど彼の与党内での権力が強化されたのは彼が政敵を巧みに排除ないし封じ込めたためであった。 まずホイッグ党内野党となってトーリーとの連携を模索していたサンダーランド伯爵が1722年4月に死去したことがウォルポールの権力強化に資した。1722年3月から5月にかけて行われた総選挙はウォルポール政権が政府の機密費を選挙資金に流用して各地で買収を行った結果、ホイッグ379議席、トーリー178議席という大勝に終わったが、ロンドンではトーリーの当選者が目立ち、当選したホイッグ議員の中にも反ウォルポール派が少なからずいた。そのためウォルポールは同時期に摘発されたアタベリー陰謀事件を利用し、その危険を誇張して公表することでトーリー党や反政府派にジャコバイトのレッテルを貼り、その野党活動を抑え込むとともに、国王やロンドン市民の支持を得た。その結果、1720年代後半までウォルポールへの野党運動は鳴りをひそめることになる。 つづいてウォルポールは、外交面で国王への影響力を高めていた南部担当国務大臣の第2代カートレット男爵ジョン・カートレットを危険視し、1724年春には外交上の失態を理由に彼をアイルランド総督に左遷した。初代ニューカッスル公爵トマス・ペラム=ホールズをその後任に据え、弟であるヘンリー・ペラムも陸軍支払長官に取り立てた。このペラム兄弟はウォルポール最大の側近として活躍し、ウォルポール後のホイッグ政治を支えていくことになる。 1727年6月に国王ジョージ1世が崩御し、父王やウォルポール政権に反発していたジョージ2世が即位したため、その側近で庶民院議長のスペンサー・コンプトン(後の初代ウィルミントン伯爵)が次期政権を担うと思われたが、コンプトンには議会統制力が無く、王室経費の増額を議会に認めさせることができなかった。対してウォルポールにはそれができたのでジョージ2世も彼を頼るしかなかった。またジョージ2世の妃キャロラインが以前からウォルポール支持者だったことも手伝って、ウォルポールは国王の信任を維持し続けることができた。 当時の慣例であった新国王即位に伴う総選挙でも、ウォルポールが政府機密費を選挙資金に流用して有権者買収に励んだ結果、ウォルポール派ホイッグが400議席以上を掌握し、野党を極少数派に押し込めることに成功している(トーリー党128議席、反ウォルポール派ホイッグ15議席)。 ===言論統制=== ロンドン市民との関係においてウォルポールはシティの上層ブルジョワと関係が良かったが、中流以下の者から強く嫌われていた。特に1725年のシティ選挙法はロンドン市民の強い怒りを買い、野党勢力にロンドンの議会外同盟者を提供することとなった。 18世紀前半はジャーナリズム勃興期であり、新聞が世論に大きな影響を及ぼすようになった時期である。ウォルポール政権はこれを危険視し、積極的なジャーナリズム統制政策をとった。ウォルポールのジャーナリスト統制は主に買収と言論弾圧によって行われた。野党ホイッグの立場を取っていた『ロンドン・ジャーナル』紙を1722年に買収して反政府言論をやめさせたのがジャーナリズム買収のもっとも有名な事例である。 言論弾圧は中傷法の規定に基づいて郵便開封を行い、新聞配布前にその内容を事前検閲し、政府に批判的な内容が書かれていた場合「中傷にあたる」として新聞配布差し止め命令を出したり、新聞発行人を中傷罪で起訴するという手法によって行うことが多かった。市井にはトーリー党の反政府系新聞もかなり出回っていたが、これらはほとんどの場合、政府の弾圧を受けて短命に終わっている(1年以上続く反政府新聞はほとんどなかった)。 政権が危うくなり始めていた1737年にはヘンリー・フィールディングらの反政府演劇を危険視して演劇検閲法(英語版)を制定。演劇や文学作品も事前検閲を行うこととした。この法律によりフィールディングを演劇世界から締めだすことに成功した。 また国内不満分子と海外のジャコバイト派の連携を監視するため、情報部(Secret Office)と暗号解読部(Deciphering Branch)の拡張に努めた。ジャコバイトは無警戒に連絡を取り合っていたが、それらはウォルポールに筒抜けだったという。 ===外交=== ユトレヒト条約でジブラルタルをイギリスに割譲させられたことに不満を抱くスペインは1725年5月にもウィーン条約でオーストリアと手を結んだ。1724年にカータレットが失脚した後、外交は北部担当国務大臣タウンゼンド子爵が指導するところとなっていたが、彼はこれに対抗し1725年9月にフランス・プロイセンとの間にハノーヴァー条約を締結した。しかしこの条約は同盟国への多額の財政援助が必要になるうえ、戦争の危険を大きくするとして野党から批判を浴びた。 当初ウォルポールはタウンゼンドに外交を任せきりにしていたが、タウンゼンド外交批判が議会で高まると内政安定重視の立場から外交へ介入するようになった。1727年2月にイギリスとスペインは開戦したが(英西戦争)、その終結方法をめぐってタウンゼンドとウォルポールは対立を深めた。1729年11月にウォルポールの主導でスペインとの戦争を終結させるセビリア条約が締結されるとウォルポールの外交主導権はさらに高まり、1730年5月をもってタウンゼンドは下野するに至った。ウォルポールは1731年3月のウィーン条約でオーストリアとの関係も回復し、自らの平和外交の成果を誇示した。しかしその裏では英仏の関係は徐々に悪化し始めていた。 1733年8月に勃発したポーランド継承戦争も議会安定優先の観点から関与を避けたが、そのためにイギリスの国際的威信が低下したことは否めなかった。 ===経済政策=== 大蔵卿時代からイングランド銀行と南海会社に働きかけて減債基金を設立したが、ウォルポールは1722年から自分でそれを流用し大変な批判を浴びて、1733年にも地租軽減による経常費の不足を解消するため50万ポンドを流用した。 彼は、庶民院の多数を占め、政治的にトーリーが多い地主を満足させるために、土地税減税を定期的に実施していた。彼が戦争回避の外交に努めたのも土地税減税維持の観点が大きかった。1723年に地主のため「ブラック法」を制定、狩猟権を脅かす密漁行為を取り締まった。1727年には国債利子率を5%から4%に引き下げたが、金融ブルジョワの反発を買うことを避けるため、それ以上の引き下げは避けた。代わりに減債基金の余剰金を一般行政費に流用して賄おうとした。ウォルポールは1730年イギリス東インド会社依存公債の利払財源である塩税を廃止、不足分に減債基金を充当した。1732年に塩税を復活させ、大衆から搾取した。これは新規長期公債50万ポンドの発行原資となった。 貿易では工業製品への輸出関税や工業原料の輸入関税を次々と廃しつつ、国内工業と競合する恐れのある外国製品の輸入は制限した。植民地に対しても本国の都合をしばしば押しつけた一方、西インド植民地に対しては同地の大農場主が本国に戻って来て庶民院議員になることが多かったので、その要求に応じることが多かった。 こうした地主・産業資本・商業資本など議会に大きな影響力を持ついずれの有産者にも配慮した経済政策が彼の政権を安定させることにつながったといえる。国債保有者としてはオランダ人が主であった。 ===消費税法案の挫折=== 1723年にウォルポールは、茶とコーヒーの輸入品について高率関税を課すことなく一度保管倉庫に入れさせ、そこから国内消費用に搬出される物に対して消費税を課す制度を作った。これには関税収入を減少させている再輸出品への関税払い戻し制度や密輸などを抑止する狙いがあり、その狙いは成功を収めた。 1732年10月にヴァージニアのタバコ生産者からのタバコ輸入税をタバコ消費税に切り替える嘆願があったのを機にウォルポールは、タバコとブドウ酒にも消費税を拡大させることを計画した。ところがこれには「タバコ消費税を許せば一般消費税に拡大していく」「消費税徴収のために役人の立ち入りが行われ、個人の自由が侵害されるようになる」としてタバコ商人のみならずロンドン市長はじめロンドン商人層が一斉に反発した。数十の選挙区が選出議員に対して消費税に反対するよう迫り、野党勢力にとって格好の結集材料となった。 またイギリス各地で消費税反対デモが展開され、1733年3月14日にはウォルポールがタバコ消費税法案を提出して議会から退出しようとしたところを群衆に襲撃される事件も発生した。そのため議会内では消費税に賛成した議員は襲撃されるという噂が広まり、庶民院の委員会に付託された法案は採決のたびに票が減っていった。反対票が200票を越えた採決もあり、その数字はウォルポール政権始まって以来のことだった。そして4月10日の採決ではとうとう賛否が17票差にまで縮まり、法案通過を絶望視したウォルポールは自ら法案を撤回した。ブドウ酒消費税法案に至っては提出されることさえなかった。 野党は余勢をかってコーヒー・茶の消費税も廃止することを求める動議を提出したが、この動議は1733年4月10日に100票差で否決された。1734年1月に再開された議会でも野党が提出した反政府動議はすべて数十票差で否決されている。またトーリー党が提出した七年議会法案をめぐって野党の足並みは乱れた。さらに1734年4月から6月にかけて行われた総選挙では与野党の議席差が100議席程度に縮まるもののウォルポール派ホイッグ党が多数を維持した。そのためウォルポール政権は弱体化しつつも、すぐに崩壊することはなかった。 ===ジェンキンスの耳の戦争=== ウォルポールは戦争回避の外交を目指したが、密貿易取り締まりを強化するスペイン植民地帝国とイギリス商人の対立は深まり続けていた。1738年3月にスペイン沿岸警備隊に耳を切り落とされたというイギリス商船船長ロバート・ジェンキンス(英語版)が議会で証言したことで野党を中心に議会の反スペイン機運が高まった。野党はスペインに賠償要求を行うことを求めたが、ウォルポールは不可避的に戦争になるとして反対した。1年半ほど与野党の綱引きが続いたが、結局ウォルポール政権が折れ、1739年10月にはスペインとの間に「ジェンキンスの耳戦争」が勃発した。さらにその翌年にはオーストリア継承戦争が勃発し、イギリスはオーストリア女帝マリア・テレジアと結んでフランス・スペインと対抗することになった。 だがウォルポールは戦争に乗り気でなかったため、戦争指導に主導的役割を果たさず、それが彼の政治指導力の低下を招いた。また戦費の捻出のために土地税増額も余儀なくされ、ウォルポールの地主懐柔策が破綻した。その影響で1741年春の総選挙は、これまで与党の地盤だったスコットランドやコーンウォールで敗北。なおもウォルポール派ホイッグが多数を占めたものの、与野党の議席差は約20議席にまで縮まった。 ===退任=== 1741年の総選挙の結果、ウォルポール政権は不安定政権となった。そして同年12月に召集された議会において選挙結果異議申し立て判定委員会委員長の選出投票において242対238という僅差でウォルポール政権は採決に敗れた。これによってウォルポールの議会統制力が尽きたことは明白となり、1742年2月をもってウォルポールは第一大蔵卿を退任した。 ウォルポールを支持していた国王ジョージ2世は彼の退任を惜しみ、1742年2月6日付けで彼にオーフォード伯爵位を与えた。 ===余生と死去=== ウォルポールの辞職後、かつての庶民院議長でウィルミントン伯爵に叙爵されていたスペンサー・コンプトンが第一大蔵卿の地位を継承したが、実質的な政権の中心は反ウォルポール派のカートレットだった。議会ではウォルポールの不正追及の動きもあったが、ウォルポール派閣僚のニューカッスル公らが押さえこんだ結果、そうした動議が可決されることはなかった。 1745年3月18日、68歳でロンドンのアーリントンストリートの住居で死去した。 ==人物・評価== ウォルポールの時代に公式に首相という役職があったわけではないものの、一般にウォルポールは「イギリス最初の首相」とされる。彼以前にも首相的役割を果たした者がいないわけではないが(エリザベス1世時代の初代バーリー男爵ウィリアム・セシルやチャールズ2世時代の初代クラレンドン伯爵エドワード・ハイドなど)、彼らの場合は国王の権力の方がより巨大で彼らはその補佐役に過ぎなかった。対してウォルポールは自ら閣議を主宰し、閣僚を統制し、議会の支持を基盤に政権運営した。責任内閣制の基盤を築いた人物として彼は「初代首相」に擬されているのである。 政治上の最大の功績は名誉革命後の党派争いを終息させて政治的安定期を築いたことである。1714年から1760年のイギリス政界の状況を歴史家は「ホイッグ党優位」時代と呼ぶことが多いが、それを築いた者こそウォルポールである。彼は巧みな政治手腕で議会と国王からの支持を維持し続け、名誉革命以来はじめて強固な政権運営を行った。そして21年に及ぶ彼の安定政治がイギリス貿易・商業の振興を促し、後にイギリスが商業国家として発展するきっかけとなった。1726年にイギリス旅行に訪れたヴォルテールは旅行記『哲学書簡』でウォルポール政権下のイギリスを観察、宗教対立がなく商業がイギリスの繁栄を築いたと称賛している。その繁栄はやがて世界の頂点に君臨する大英帝国へとつながる。 ウォルポールは忠実なホイッグだったからホイッグ貴族・新興ブルジョワ・非国教徒との同盟のうえに政治を行ったが、出自的にはジェントリ層であるから、野党トーリー党ジェントリもウォルポールに対して根幹からの拒絶反応は示さなかったという。高慢な貴族でもシティの成金でも長老教会主義者でもないウォルポールはジェントリにとって好人物だった。 他方ウォルポールが批判されるのは金権政治である。ウォルポールは総選挙のたびに政府機密費を流用して買収・接待に励んだし、官職を餌に使って有権者取り込みを図ることも多かった。野党はこうしたウォルポールの選挙対策を腐敗政治と批判した。またウォルポールは文芸や文学者の保護に熱心でなく、1737年に演劇検閲を行った影響もあり、ジョナサン・スウィフトやヘンリー・フィールディングらから激しく嫌われた。彼らは小説の中でウォルポール政権を揶揄している。 ウォルポールは良くも悪くも現実主義者であり、理想が高じて冒険的政策をとったり好戦的態度を取るということがなかった反面、金権政治に罪悪も感じなかった。平和外交家だったのも「戦争=悪」という抽象的理念からではなく、「戦争になれば戦費がかかって土地税を上げることになり、議会を支配する地主層の支持が失われ、選挙に負ける」という実利的な発想に基づいている。 イギリスの首相官邸として知られるダウニング街10番地はもともとジョージ2世がウォルポール個人に下賜したものだが、ウォルポールはこれを公的な贈与として受け入れ、後任の第一大蔵卿に引き渡した。以降イギリスの首相官邸となったのである。 ==栄典== ===爵位=== 1742年2月6日に以下の爵位に新規に叙される 初代オーフォード伯爵 (1st Earl of Orford)(勅許状によるグレートブリテン貴族爵位)初代ウォルポール子爵 (1st Viscount Walpole)ノーフォーク州における初代ホートン男爵 (1st Baron of Houghton, in the County of Norfolk) ===勲章=== 1725年、バス勲章ナイト(KB)1726年、ガーター勲章ナイト(KG) ==家族== 1700年に材木商人ジョン・シューターの娘キャサリン(英語版)と結婚した。彼女との間に以下の3男2女を儲けた。 長男ロバート・ウォルポール(英語版)(1701年 ‐ 1751年) ‐ 第2代オーフォード伯位を継承次男エドワード・ウォルポール(英語版)(1706年 ‐ 1784年) ‐ 政治家三男ホレス・ウォルポール(1717年 ‐ 1797年) ‐ 第4代オーフォード伯位を継承。政治家、小説家長女キャサリン・ウォルポール次女メアリー・ウォルポール(1705年頃 ‐ 1732年)‐ 第3代チャムリー伯爵ジョージ・チャムリー(英語版)と結婚しかしキャサリンは抑制のきかない性格であり、金使いが荒いうえ、すぐに激昂するのでウォルポールは彼女との結婚生活で相当神経をすり減らしたという。妻の自尊心を満足させるためにロンドンの屋敷に金をかけ、立派な美術品もたくさん購入したが、そのうちほとんど別居状態となった。キャサリンは社交界で派手な付き合いを続け、一時は皇太子時代のジョージ2世との関係が噂になった。また四男ホレスの実父は宮廷の廷臣ジョン・ハーヴェイだという噂まで立った。 1737年にキャサリンが亡くなると、1738年に愛人だったマリア・スケリット(英語版)と再婚したが、同年にマリアは流産で急死した。ウォルポールは彼女のことを「自分の幸せのためには不可欠な女性」と呼び、悲嘆にくれたという。彼女との間には結婚前に以下の1女を儲けていた。ウォルポールは勅許を得て彼女を正式に子供としている。 三女マリア・ウォルポール (1725‐1801) ‐ チャールズ・チャーチル大佐と結婚 =エドゥアール・マネ= エドゥアール・マネ(*11394*douard Manet, 1832年1月23日 ‐ 1883年4月30日)は、19世紀のフランスの画家。 ==概要== エドゥアール・マネ(以下マネ)は、パリの裕福なブルジョワジーの家庭に生まれた。父はマネが法律家となることを希望していたが、中学校時代から、伯父の影響もあって絵画に興味を持った。海軍兵学校の入学試験に2回失敗すると、父も諦め、芸術家の道を歩むことを許された(→出生、少年時代)。歴史画家であったトマ・クチュールに師事したが、マネは、伝統的なクチュールの姿勢に飽き足らず、ルーヴル美術館での模写やヨーロッパ各地への旅行で、ヴェネツィア派やスペインの巨匠の作品を模写した(→修業時代(1850年代))。 1859年以降、サロン・ド・パリへの応募を続け、1861年にスペインの写実主義的絵画に影響を受けた『スペインの歌手』などで初入選を果たした。理想化された主題や造形を追求するアカデミズム絵画とは一線を画し、近代パリの都市生活を、はっきりした輪郭や平面的な色面を用いながら描く作品は、サロンでは非難にさらされることが多かったが、詩人シャルル・ボードレールから支持を受けた(→サロン入選の努力(1860年代初頭))。1863年にナポレオン3世の号令により開催された落選展で、『草上の昼食』を出展すると、パリの裸の女性が着衣の男性と談笑しているという主題が風紀に反すると非難を浴び、スキャンダルとなった。さらに1865年のサロンに『オランピア』を出品すると、パリの娼婦を描いたものであることが明らかであったことから、『草上の昼食』を上回る非難を浴びた。意気消沈したマネは、パリを離れてスペインに旅行し、ベラスケスの作品に接して影響を受けた(→絵画界のスキャンダル(1860年代半ば))。ベラスケス研究の成果といえる『笛を吹く少年』を1866年のサロンに提出したが、落選した時、作家エミール・ゾラの援護を受けた。この頃、マネは、パリのバティニョール地区にアトリエと住居を起き、カフェ・ゲルボワに足繁く通っていたが、マネの周りには、ゾラを含む文筆家や芸術家が集まっていた。1860年代後半には、モネ、ルノワールなどの若手画家もマネを慕って集まりに加わるようになり、バティニョール派と呼ばれるようになった。1870年に普仏戦争が勃発しプロイセン軍がパリに迫ると、マネは国民軍に入隊し、首都防衛戦に加わった(→バティニョール派の形成(1860年代後半))。 普仏戦争とパリ・コミューンの混乱が終息して第三共和政の時代になると、バティニョール派の若手画家たちはサロンから独立したグループ展を立ち上げ、印象派と呼ばれるようになった。マネは、批評家からは印象派のリーダー格と目されていたが、自身はサロンで成功することを重視し、印象派グループ展への参加を拒絶した。それでも、特にモネとの親しい関係は続き、モネのアルジャントゥイユの家を度々訪れ、戸外制作などの印象派の手法を取り入れた作品も制作している。また、詩人ステファヌ・マラルメと親しくなり、その影響も受けた(→第三共和政のパリ(1870年代))。1880年頃からは、梅毒により左脚の壊疽が進み、パリ郊外で療養しながら制作を続けた。1882年のサロンに最後の大作『フォリー・ベルジェールのバー』を出品した。1883年4月、壊疽が進行した左脚を切断する手術を受けたが、経過が悪く、51歳で亡くなった(→晩年(1880年代初頭))。 マネの死後、1890年にモネの働きにより『オランピア』が国のリュクサンブール美術館に受け入れられ、1896年にギュスターヴ・カイユボットの遺贈により『バルコニー』などが政府に受け入れられるなど、マネに対する公的な認知は進んだ。もっとも、これらの受入れの際にも美術界の保守派からは反対の声が上がり、マネと印象派に対する抵抗は根強いものがあった(→名声の確立)。しかし、その後、美術市場でのマネの評価は急速に上がり、1989年には『旗で飾られたモニエ通り』が2400万ドル(34億7520万円)で落札されるなど、美術市場の上位を占めるに至っている(→市場での評価)。 マネの油彩画は400点余りとされている(→カタログ)。マネは、保守的なブルジョワであり、サロンでの成功を切望していたが、『草上の昼食』と『オランピア』は意図せずスキャンダルを呼び、美術界の革命を起こすことになった。主題の面では、娼婦の存在や、近代社会における人間同士の冷ややかな関係をありのまま描き出したことが、革新的であり、非難の的ともなった。造形の面では、陰影による肉付けや遠近法といった伝統的な約束事にとらわれない描写を生み出していった(→時代背景、画風)。印象派の画家たちから敬愛され、彼らに大きな影響を与えた一方、マネ自身が後輩の印象派から影響を受けた。マネには印象主義的な要素の濃い作品もあるが、印象派グループ展には参加していないことから、印象派には含めず、印象派の指導者あるいは先駆者として位置付けられるのが一般的である(→印象派との関係)。後輩の印象派と同様、マネも、平面的な彩色やモティーフを切り取る構図などに日本の浮世絵の影響を受けていると考えられる(→ジャポニスム)。 ==生涯== ===出生、少年時代=== マネは、1832年、パリのプティ=ゾーギュスタン通り(現在のボナパルト通り(英語版))で、裕福なブルジョワジーの家庭に長男として生まれた。マネの父オーギュストは、法務省の高級官僚(司法官)で、共和主義者であった。母ウジェニーは、ストックホルム駐在の外交官フルエニ家の娘であった。マネの弟に、ウジェーヌ(英語版)(1833年生)とギュスターヴ(1835年生)が生まれた。 1844年から1848年まで、トリュデール大通りの中学校コレージュ・ロラン(フランス語版)に通った。父は、マネが法律家の道を継ぐことを望んでいた。一方、母方の伯父エドゥアール・フルニエ大尉は、芸術家肌の人物で、マネにデッサンの手ほどきをしたり、マネら3兄弟や、マネの中学校の友人アントナン・プルースト(後に美術大臣)をルーヴル美術館に連れて行ったりした。マネは、この頃から、絵画に興味を持っていたようであり、ルイ・フィリップがルーヴル美術館に設けたスペイン絵画館で17世紀スペインのレアリスム絵画に触れ、影響を受けた。プルーストの回想によれば、コレージュの歴史の授業で、画家が流行遅れの帽子を描いていることをドゥニ・ディドロが批判した展覧会評を読んだ時、マネが、「僕たちは、時代に即していかなければならない。流行など気にせず、見たままを描かなければならない。」と発言したという。また、伯父フルニエが絵画の課外授業に出席させてくれたが、言われたお手本を模写するのではなく、近くにいる生徒たちの顔をスケッチしていたという。 マネは、芸術家の道を不安視する両親の意向を受け、水兵になると父に宣言して海軍兵学校の入学試験を受けたが、落第した。1848年12月、実習船に乗ってリオデジャネイロまで航海した。後に、マネは、「私はブラジル旅行でたくさんのものを得た。毎夜毎夜、船の航跡の中に、光と影の働きを見たものだった。昼間は上甲板で、水平線をじっと見つめていた。それで、空の位置を確定する方法が分かったのだ。」と述べている。1849年6月にパリに戻ると、海軍兵学校の入学試験を再び受けたが、また落第した。これに父も諦め、マネは芸術家の道を歩むことを許された。 ===修業時代(1850年代)=== マネは、1849年秋頃、トマ・クチュールのアトリエに入り、ここで6年間修業した。クチュールは、1847年のサロン・ド・パリに『退廃期のローマ人』を出品して成功した、当時のアカデミズム絵画界の中では革新的な歴史画家であった。マネは、クチュールの近代性から影響を受ける反面、伝統的な歴史画にこだわるクチュールの姿勢には反発した。マネがモデルに服を着させたままポーズをとらせていると、クチュールが入ってきて、「君は君の時代のドーミエにしかなれない」と批判した。また、マネは、アトリエで学ぶ傍ら、ルーヴル美術館でティントレット、ティツィアーノ・ヴェチェッリオ、フランソワ・ブーシェ、ピーテル・パウル・ルーベンスなどの作品を模写した。1852年にはアムステルダム国立美術館を訪れ、1853年には弟ウジェーヌとともにヴェネツィア、フィレンツェを旅行し、ティツィアーノの『ウルビーノのヴィーナス』を模写した。さらに、この時、ドイツや中央ヨーロッパまで足を延ばし、各地の美術館を訪れたようである。存命中の画家の中では、ギュスターヴ・クールベの『オルナンの埋葬』、ジャン=バティスト・カミーユ・コロー、シャルル=フランソワ・ドービニー、ヨハン・ヨンキントらの風景画を高く評価していた。この頃、弟たちのピアノの家庭教師シュザンヌ・レーンホフ(英語版)と恋仲になった(後に妻となる)。1852年1月にはシュザンヌに男の子レオンが生まれ、戸籍上はシュザンヌの弟(レオン・コエラ=レーンホフ(フランス語版))として届け出られた。実際には、レオンは、マネの子であった可能性が大きいと考えられている。 1856年にクチュールのアトリエを去ると、友人の画家との共有で、バティニョール地区(英語版)のラヴォワジエ通りにアトリエを構えた。しばらくはサロンへの応募をせず、ルーヴル美術館で、ティントレット、ディエゴ・ベラスケス、ルーベンスなどの巨匠の模写を続けた。その中で、画家のアンリ・ファンタン=ラトゥール、エドガー・ドガと知り合った。1857年にはフィレンツェを再訪し、アヌンツィアータ教会のアンドレア・デル・サルトの壁画を模写した。 ===サロン入選の努力(1860年代初頭)=== 1859年のサロンに、『アブサンを飲む男』を初めて提出したが、下絵のような無造作な描き方が不評だったのに加え、酔った男や足元の酒瓶という露骨な現実を画題とすることがサロンにふさわしくないと酷評され、落選した。もっとも、審査員だったウジェーヌ・ドラクロワからは評価された。詩人のシャルル・ボードレールも、この作品を賞賛した。この頃には、マネとボードレールは親しく交流していた。 1861年のサロンに、『スペインの歌手』と、両親を描いた『オーギュスト・マネ夫妻の肖像』を応募し、いずれも初入選した。当時のフランスではスペイン趣味が流行しており、マネは、イタリア風の古典的作品に反発する立場から、スペインの写実主義的絵画に傾倒していた。彼は、マドリードの巨匠たちやフランス・ハルスを思い浮かべながら『スペインの歌手』を描いたと語っている。『スペインの歌手』は、サロン会場の人目につかない隅に展示されていたが、テオフィル・ゴーティエが絶賛したことから、急に中央の良い場所に移され、優秀賞(佳作)の評価まで受けた。一方、『オーギュスト・マネ夫妻の肖像』については、両親の間に奇妙な冷たさが流れていることから、批評家から、「マネは最も神聖な肉親の絆でさえも土足で踏みにじる」と非難された。それでも、サロンでの成功を重んじる父に対し、約束を果たすことができた。 1862年には、テュイルリー宮殿に隣接する庭園で開かれたコンサートを題材とした『テュイルリー公園の音楽会』を制作し、テオフィル・ゴーティエ、ボードレール、ジャック・オッフェンバック、ザカリー・アストリュク、アンリ・ファンタン=ラトゥールといった社交界の友人たちをモデルとして登場させた。第二帝政下の華やかなブルジョワ社会を描いた作品である。マネは、1863年、マルティネ画廊での個展に『テュイルリー公園の音楽会』や『ローラ・ド・ヴァランス』を展示したが、輪郭がはっきりした筆遣いや、平面的な色面の処理が奇妙だと捉えられ、激しい非難にさらされた。 この時期、マネは、内縁の妻シュザンヌをモデルにした『驚くニンフ』や、レオン少年をモデルにした『剣を持つ少年』などを制作している。1862年にマネの父が亡くなると、1863年10月、マネはシュザンヌと結婚した。また、この頃知り合った女性ヴィクトリーヌ・ムーランにモデルを依頼して、『街の女歌手』、『ヴィクトリーヌ・ムーランの肖像』などを制作している。 ===絵画界のスキャンダル(1860年代半ば)=== マネは、1863年のサロンに応募したが、落選した。この年のサロンの審査は例年に比べ非常に厳しく、落選者の不満が高まった。これを懸念したナポレオン3世が、サロンと並行して、サロン落選作で構成する落選展を開催することを命じた。マネの『水浴』(後に『草上の昼食』と改題)、『マホの衣装を着けた若者』、『エスパダの衣装を着けたヴィクトリーヌ・ムーラン』も落選展に展示された。ところが、特に『草上の昼食』は、批評家たちから酷評と嘲笑を浴び、一大スキャンダルとなった。当時、裸婦を描くこと自体は珍しいものではなく、実際、この年のサロンで賞賛されたアレクサンドル・カバネルの『ヴィーナスの誕生』は、官能的な裸婦を描いているが、現実ではなく神話の世界を描いたものであるため、良識に反することはなかった。また、マネが発想源としたティツィアーノの『田園の奏楽』でも、裸のニンフと着衣の男性が描かれている。しかし、『草上の昼食』の裸婦は、パリの現実の女性が着衣の男性と談笑するというもので、風紀に反すると考えられた。裸婦の周りに、果物などの食べ物や、脱いだ後の流行のドレスが描かれることによって、裸婦がニンフなどではなく現実の女性であることが露骨に強調されることになった。当時の鑑賞者は、この作品から、社会の陰の部分である売春の世界を読み取った。批評家エルネスト・シェノー(フランス語版)は、「デッサンと遠近法を学べば、マネも才能を手に入れることができるだろう」と、描き方の稚拙さを指摘するとともに、「ベレー帽をかぶり短いコートを着た学生たちに囲まれ、葉の影しか身にまとっていない娘を木々の下に座らせている絵が、申し分なく清純な作品だとは思えない。……彼は俗悪な趣味の持ち主だ。」と、テーマ自体を厳しく批判した。 1864年、バティニョール大通り(フランス語版)34番地に引っ越した。マネは、自由奔放な私生活を送っており、以前から、イタリアン大通り(英語版)のカフェ・トルトーニ(フランス語版)や、カフェ・ド・バードに足繁く通っていたが、バティニョール大通りに移った頃から、カフェ・ゲルボワ(英語版)に足を運ぶようになったと思われる。カフェ・ゲルボワのマネの周りには、次第に美術家や文学者が集まり始めた。その中には、詩人のザカリー・アストリュク、中学時代・クチュール画塾時代からの友人アントナン・プルースト、写真家ナダール、批評家エドモン・デュランティ(英語版)、テオドール・デュレ、フィリップ・ビュルティ、画家アンリ・ファンタン=ラトゥール、アントワーヌ・ギュメ(フランス語版)、版画家マルスラン・デブータン(英語版)などがいた。 マネは、1865年のサロンに、ヴィクトリーヌをモデルとした『オランピア』を出品し、入選した。ところが、この作品は、『草上の昼食』以上のスキャンダルを巻き起こした。裸婦がベッドに寝そべる構図は、ティツィアーノの『ウルビーノのヴィーナス』を発想源としていたが、マネの作品は、ヴィーナスとは程遠い、パリの娼婦を描くものであることが明らかであった。表題の「オランピア」とは、娼婦(ドゥミ・モンデーヌ)の源氏名として広く使われる名前であったし、黒人のメイドは娼館に多かった。メイドが運ぶ花束は、前夜の客から贈られたものである。『ウルビーノのヴィーナス』に描かれていた犬は忠誠・貞節のシンボルだが、マネが描き入れた黒猫は、性的なイメージを暗示するものと受け止められた。マネは、急速に近代化が進むパリのブルジョワ社会の暗部を赤裸々に描き出したのであった。なお、この時のサロンで、クロード・モネが海景画2点を提出し、アルファベット順でマネと同じ部屋に並べられていたが、この海景画を見た人が、名前の似たマネの作品と誤解し、マネに祝福の言葉をかけた。マネは、自分の名前を悪用して名を売ろうとする画家がいると思い、憤慨したという。 マネは、『オランピア』への批判に意気消沈し、ブリュッセルにいたボードレールに宛てて、「あなたがここにいてくださったらと思います。私の上には、罵詈雑言が雨あられと降っています。」と書き送り、ボードレールから励ましを受けている。マネは、物議に辟易し、8月からスペインに旅行をした。マドリードの王立美術館(現プラド美術館)でベラスケスを中心とするスペイン絵画に触れ、友人ファンタン=ラトゥールに、「ベラスケスを観るだけでも旅に出る意味がある。」と書き送っている。また、マネは、「これらの素晴らしい作品の中で最も驚くべき作品、おそらくこれまでに描かれた最も驚くべき絵画作品は、フェリペ4世の時代のある有名な俳優の肖像と目録に記載されている絵だ。背景が消えている。黒一色の服を着て生き生きとしたこの男を取り囲んでいるのは空気なのだ。」と書いている。この旅の中で、批評家テオドール・デュレと知り合い、親友となった。 ===バティニョール派の形成(1860年代後半)=== マネは、1866年、サン・ラザール駅近くのサン=ペテルスブール通り(フランス語版)に住居を移し、死去までこの通りに住んだ。 マネは、1866年のサロンに『笛を吹く少年』を提出したが、落選した。この作品は、スペイン旅行でベラスケスに学んだ単純で平坦な背景処理を実践したものであった。駆け出しの作家だったエミール・ゾラが、この年の春、画家アントワーヌ・ギュメの紹介でマネのアトリエを訪れ、マネに心酔するようになった。ゾラは、『レヴェヌマン』紙で、サロンで落選した『笛を吹く少年』について、「私は、これほどまでに複雑でない方法で、これ以上力強い効果を得ることはできないように思う。」とマネを強く擁護した。 1867年のパリ万国博覧会では、ジャン=レオン・ジェロームやカバネルのようなアカデミズム絵画のほか、ジャン=バティスト・カミーユ・コロー、ジャン=フランソワ・ミレーのようなバルビゾン派の作品が展示されたが、マネの作品は展示されなかった。そこで、マネは、展覧会場から遠くないアルマ橋付近に、多額の費用をかけてパビリオンを建て、10年近くにわたる主要作品50点を展示する個展を開いた。マネは、ゾラに宛てて、「私は危険な賭けをしようとしていますが、あなたのような人々の助けがあるので、成功を確信しています。」と書いている。しかし、賞賛した批評家もわずかにいたものの、マネが期待したような社会的評価は得られなかった。ただ、マネの傑作全てを一堂に見られる充実した内容であり、これを見た若い画家たちは大きな影響を受けた。モネやフレデリック・バジールが、サロンに頼らずに自分たちのグループ展を計画するきっかけにもなった。マネは、自分の作品についてほとんど文章を残していないが、個展に際しての「趣意書」の中では、次のように書いている。 今日、芸術家[マネ]は、「欠点のない作品を見に来てくれ」とは言わず、「率直な作品を見に来てくれ」と言う。この率直さゆえに、画家はひたすら自分の印象を描いているにもかかわらず、作品は図らずも抗議の色合いを帯びてしまう。マネは抗議しようとしたことなど断じてない。[中略]彼は他の誰でもなく自分自身であろうと努めたにすぎない。 ― マネ、趣意書 ゾラは、1867年、『レヴェヌマン』紙の記事を発展させて小冊子「マネ論」を発表し、マネの個展の中で販売した。ゾラは、その中で、次のように書いている。これは、絵画は純粋に色彩と形態を追求するものだというモダン・アートの先駆けとなる考え方であった。 いかなる対象を前にしても、画家[マネ]は、対象の様々な色調を識別する自らの眼に従う。それは、壁を背に立つ人物の顔は灰色の地に塗られた白っぽい円にすぎず、顔の横に見える洋服は青みがかった色斑でしかない、といった具合だ。[中略]多くの画家たちは絵画で思想を表現しようと躍起になるが、この馬鹿げた過ちを彼は決して犯さない。[中略]複数のオブジェや人物を描く対象として選択するときの彼の方針は、自在な筆さばきによって色調の美しい煌めきを作り出せるかどうかということだけだ。 ― エミール・ゾラ、「マネ論」 マネは、ゾラの応援に意を強くし、1868年のサロンにはゾラの肖像を出品している。その机の上には、青い表紙の「マネ論」小冊子が描かれている。 1860年代後半には、クロード・モネも、アストリュクの紹介でマネと知り合った。ゾラやモネのほか、ピエール=オーギュスト・ルノワール、フレデリック・バジール、カミーユ・ピサロなど、アカデミー・シュイスやシャルル・グレール画塾を中心として集まった若手画家たちも、カフェ・ゲルボワに顔を出すようになった。こうした若手画家たちは、「バティニョール派」と呼ばれるようになった。ファンタン=ラトゥールが描いた『バティニョールのアトリエ』には、マネを中心とする若手画家たちの集まりが描かれている。1868年には、ファンタン=ラトゥールを通じて、女性画家ベルト・モリゾとその姉エドマ・モリゾ(英語版)と知り合った。ベルト・モリゾは、マネの作品のモデルを務めるようになる。1869年2月には、エヴァ・ゴンザレスがマネのアトリエに弟子入りした。 エドガー・ドガとは、ルーヴル美術館で模写をしている時に知り合って親しくなったが、ドガがカフェ・ゲルボワに出入りするようになったのは1868年春頃からである。2人は、互いに敬意を持ちながらも、遠慮なく辛辣な言葉の応酬を繰り返す関係だった。。ドガが、ピアノを弾くシュザンヌとマネを描いた作品を贈ったが、マネは、妻の姿が気に入らず、絵を切断してしまった。ドガは、その絵をマネの家で目にして激怒し、マネからもらった静物画をマネに送り返した。ドガは、晩年、画商アンブロワーズ・ヴォラールから、「でも、その後マネと仲直りしましたよね」と聞かれると、「マネと仲違いしたままでいられるはずはないよ!」と答えている。 1869年のサロンには、『バルコニー』と『アトリエでの昼食』が入選した。『バルコニー』には、ベルト・モリゾがモデルとして登場している。左手前を見つめるモリゾを含め、3人の人物はぎこちなく、視線は虚ろで、かみ合っていない。モリゾは、サロン会場で見たこの作品について、「マネの作品は、いつものことですが、熟していない硬い果実のような印象をかもし出しています。……『バルコニー』に描かれた私は醜いというよりも奇妙です。」と書いている。批評家たちも、登場人物が何を考えているのか不明瞭で、静物画のようだと言ってけなした。しかし、現在では、近代の人間の中に存在する無関心を描き出すことこそがマネの本質であったと評されている。 1870年7月、普仏戦争が勃発し、ナポレオン3世は9月にスダンでプロイセン軍に降伏した。マネは、プロイセン軍のパリ侵攻に備えて、家族をピレネー山脈のオロロン=サント=マリーに疎開させた。11月、国民軍に中尉として入隊し、首都防衛戦に加わったが、1871年1月、フランス軍は包囲していたプロイセン軍に降伏し、開城した。マネは、2月、パリを去って疎開していた家族と合流し、パリに帰ろうとしたが、3月のパリ蜂起、パリ・コミューン成立と引き続く内戦によって足止めされ、5月の「血の1週間」でパリ・コミューンが鎮圧された頃にパリに戻ったと思われる。ベルト・モリゾの弟が、戦闘中のパリでマネとドガの2人連れを目撃したという記録がある。 ===第三共和政のパリ(1870年代)=== 普仏戦争とパリ・コミューンの混乱が終息すると、ロンドンに難を逃れていたモネやピサロなど、「バティニョール派」の若い画家たちがパリに戻ってきた。モネは、パリ郊外のアルジャントゥイユにアトリエを構えたが、その借家を周旋したのは、セーヌ川の対岸ジュヌヴィリエに広大な土地を所有していたマネであった。マネや、ルノワール、シスレーらは、頻繁にモネのアトリエを訪れ、一緒に制作した。マネは、モネら若い画家から敬愛される一方、モネらの新しい手法からも影響を受けていった。 ロンドンでモネやピサロと知り合った画商ポール・デュラン=リュエルが、他のバティニョール派の画家たちにも興味を持つようになり、1872年にはマネの作品24点を購入した。 第三共和政の下で最初に行われた1872年のサロンには、マネは1864年制作の『キアサージ号とアラバマ号の海戦』を提出し、入選した。1873年のサロンには、『ル・ボン・ボック』と『休息(ベルト・モリゾの肖像)』が入選した。『ル・ボン・ボック』は、伝統的な表現手法による肖像画で、サロンでは好評だったが、バティニョール派からは評価されなかった。 モネやピサロは、1873年のサロンには応募しなかった。彼らは、この頃から、サロンとは独立したグループ展の開催を計画していた。モネは、この年4月、ピサロへの手紙の中で、「マネ以外は、全ての人が賛同しています。」と書いている。そして、1874年4月、モネ、ピサロ、ルノワール、シスレー、ドガ、ベルト・モリゾなど30人の参加者で第1回グループ展を開いた。後に第1回印象派展と呼ばれる画期的な展覧会であった。マネは、1873年のサロンで『ル・ボン・ボック』が好評だったこともあって、サロンこそ画家の唯一の道であると考え、グループ展を開くことには反対であった。そのため、モネやドガから熱心に参加を進められたが、断った。参加しない口実として、「コテで描く左官にすぎないようなセザンヌと関わりたくない」と公言していたという。マネは、同じ1874年のサロンに、『鉄道』を出品している。深い愛情で結ばれた理想的な母子像ではなく、読書に熱中する母親と、退屈そうにサン・ラザール駅の構内を眺める娘を冷ややかに描き出した作品である。マネは、こうした現代都市の人間像に関心を寄せていた点でも、戸外制作による風景画を主にしたモネら印象派とは方向性が違っていた。 ドガは、グループ展に参加しないマネについて、「写実主義のサロンが必要だ。マネはそのことを分かっていない。どう考えても、彼は利口というよりうぬぼれ屋だ。」と批判した。とはいえ、この年、グループ展の入場者数は30日で延べ約3500人だったのに対し、サロンの入場者数は40日間で延べ50万人を超えていたと見られ、公衆の認知を得るためにはサロンはいまだ大きな力を持っていた。グループ展は、批評家ルイ・ルロワの風刺的な記事を筆頭に、嘲笑する声が大きく、経済的にも赤字に終わった。マネはグループ展に参加しなかったにもかかわらず、批評家たちは、「使徒マネ氏とその弟子たち」と書くなど、マネを印象派のリーダー格と目していた。 モネとの親しい関係は続き、度々アルジャントゥイユを訪れていた。モネが経済的困窮に陥り、マネに苦境を訴える手紙を送ると、マネは援助に応じた。モネは、小さなボートをアトリエ舟に仕立て、セーヌ川に浮かべて制作したが、その様子をマネが描いている。モネの回想によれば、1874年、マネとルノワールが、アルジャントゥイユのモネの家で、モネの妻カミーユと息子ジャンを一緒に描いたことがあったが(『庭のモネ一家』)、マネは、モネに、「あの青年には才能がない。君は友人なら、絵を諦めるように勧めなさい。」と言ったという。もっとも、マネは、心からルノワールを賞賛していたので、このエピソードは、ルノワールと競い合ったマネの苛立ちを表したものにすぎないとも指摘されている。ところで、マネはこの時初めて戸外にイーゼルを立てて制作したと思われるが、これは、戸外の明るい光の下で自然の印象を正確にとらえようというモネの戸外制作の手法に従ったものであった。マネは、印象派の技法をとりいれた『アルジャントゥイユ』を1875年のサロンに出品した。印象派に対するマネの支持表明といえる。しかし、背景のセーヌ川の描き方が青い壁のようだなどと酷評を浴びた。1874年12月には、マネの弟ウジェーヌ・マネと、ベルト・モリゾが結婚した。 マネは、1873年頃、詩人ステファヌ・マラルメと知り合い、親しくなった。1875年、マラルメがエドガー・アラン・ポーの『大鴉』を訳した時、その挿絵のためにリトグラフを制作した。翌1876年には、マラルメの『牧神の午後』の挿絵のために木版画を制作した。 マネは、1876年のサロンに、『洗濯』と、マルスラン・デブータンを描いた『画家』を応募したが、落選した。そこで、マネは、個展を開き、これらの落選作を公開した。招待状には、金色の文字で、「ありのままに描く、言いたいように言わせる」と書かれていた。この個展には、1日に400人もの来場者があり、新聞は大々的に報じた。「何ということ! 目鼻立ちがすっきりして、穏やかな眼差しをした、手入れされたブロンドのひげのこの紳士、[中略]パリッとしたシャツを着て、きちんと手袋をはめたこの紳士が、ボート遊びをする人々[『アルジャントゥイユ』]の作者なのだ!」と驚きをもって伝えており、相変わらずマネの作品に対する評価は低かった。 一方、マラルメは、『洗濯』について、「おそらく画家[マネ]の経歴において、そして確実に美術史上、時代を画する作品」だと賞賛した。マネは、マラルメに肖像画を贈り、マラルメはこれをずっと自分の家に飾っていた。マラルメは、ボードレール、ゾラに続くマネの擁護者としての役割を果たした。マネの死後、マラルメは、マネについて次のように述べている。 失望の中にも、[中略]男らしい無邪気さがあった。つまり、カフェ・トルトーニでは、からかい好きで、粋な人間だった。その一方、アトリエでは、まるで一度も絵を描いたことがないかのように、白いキャンバスに激情を投げ付けていた。 ― ステファヌ・マラルメ、『とりとめのない話』「マネ」 1877年のサロンには、『ハムレットを演じるフォール』が入選した。モデルのジャン=バティスト・フォール(英語版)は、有名なバリトン歌手で、印象派の作品を愛好しており、マネの作品を67点も収集していた。この絵は、フォールの当たり役ハムレットを演じるところを描いたものだが、サロンでは、「滑稽な肖像画だ」、「狂人になったハムレットが、マネ氏によって描かれた」などと風刺された。また、同じく1877年のサロンに応募した『ナナ』は、『オランピア』と同様、高級娼婦を描いた自然主義的な主題の作品だったが、落選した。 1877年の冬から1878年にかけて、サロンに出品するため、カフェ・コンセールを舞台にした大作にとりかかった。結局、マネはその作品を2分割し、『ビヤホールのウェイトレス』と『カフェにて』という2つの作品となった。 ===晩年(1880年代初頭)=== マネは、1880年頃から、16歳の時にブラジルで感染した梅毒の症状が悪化し、左脚の壊疽が進んできた。医師から、田舎での静養を指示され、1880年の夏はパリ郊外のベルビューに滞在した。マネは、暇をまぎらわすため、友人たちや、お気に入りのモデル、イザベル・ルモニエに多くの手紙を送っている。晩年の2年間は、病気のため、大きな油彩画を制作することが難しくなり、パステル画を数多く描いている。 1881年のサロンに、『アンリ・ロシュフォールの肖像』を含む肖像画2点を出品し、銀メダルを獲得した。これによって、以後のサロンには無審査で出品できることになった。この年の夏は、ヴェルサイユで療養した。親友アントナン・プルーストが美術大臣に任命されると、その働きかけにより、マネは同年12月末、レジオンドヌール勲章を受章することができた。 左脚の痛みに耐えながら、1881年冬から翌1882年にかけて、最後の大作『フォリー・ベルジェールのバー』の制作に取り組んだ。フォリー・ベルジェール劇場のバーで実際に働いていたシュゾンというウェイトレスに、モデルを依頼した。正面を向いたウェイトレスは、虚ろな視線であるが、鏡に映った後ろ姿では、飲み物を注文する男性客に向かって身をかがめ、話をしている。正面の姿と後ろ姿が一致しないことや、遠近法の歪みは、観る者を困惑させた。もっとも、これは、意図的に遠近法を無視し、ウェイトレスの空虚な表情に全力で焦点を当てたものとも説明されている。 1882年7月から10月にかけて、パリ西郊のリュエイユに滞在した。マネのもとには、上流階級の男たちの愛人メリー・ローラン(フランス語版)、オペラ歌手エミリー・アンブル(英語版)、宝石商人の娘イザベル・ルモニエなど、多くの女性たちが訪れた。マネは、これらの女性の肖像画を数多く描いている。この頃、マネは、唯一の相続人として妻シュザンヌを指名する遺言を作成した。ただし、死後の作品売立ての売却益から5万フランをレオン・コエラに遺贈することとし、シュザンヌが相続した遺産は、彼女の死亡時、全てをレオンに相続させることとされていた。 1883年4月20日、壊疽が進行した左脚を切断する手術を受けた。しかし、経過は悪く、高熱に浮かされた末、4月30日、51歳で亡くなった。葬儀は5月3日に行われ、パリのパッシー墓地に埋葬された。あらゆるグループの画家たちが葬儀に参列した。ドガは、「我々が考えていた以上に、彼は偉大だった」と語った。 ==死後== ===名声の確立=== 1884年1月、ウジェーヌ・マネとその妻ベルト・モリゾの企画により、エコール・デ・ボザール(官立美術学校)でマネの回顧展が開かれた。116点の油彩のほか、版画、デッサン、水彩、パステル画など合計200点を集めた大規模なものであり、成功を収めた。ただ、マネの評価が高まりつつあったアメリカと比べ、フランスでの評価はまだまだ低かった。『笛を吹く少年』について、その平面的な彩色を嫌い、「これは扉に貼り付けられたダイヤのジャックだ」とけなした保守的な批評家もいた。 1889年のパリ万国博覧会を記念して開かれた「フランス美術100年展」に、マネの『オランピア』が展示された。これを機に、モネは、『オランピア』を購入してルーヴル美術館に寄贈する計画を立てた。モネは、オーギュスト・ロダン宛ての手紙で、「これは、マネの業績に対する素晴らしい賛辞ですし、同時にこの絵の持ち主であるマネ夫人の経済状態をさりげなく援助することにもなります」と書いている。元美術大臣アントナン・プルーストの反対に遭ったが、最終的に、モネは、『オランピア』を購入し、1890年11月、国のリュクサンブール美術館に展示させることに成功した。その時でも、ルーヴル美術館にはふさわしくないという保守的アカデミズムの抵抗はまだ強かった。1907年にジョルジュ・クレマンソーの働きかけにより、ようやくルーヴル美術館に移送された。 1894年、印象派の画家で収集家でもあったギュスターヴ・カイユボットが亡くなった時、マネや印象派の作品68点をリュクサンブール美術館に遺贈するとの遺言を残した。この当時も、美術界の保守派の抵抗は根強く、受入れには反対の声が強かった。結局、1896年2月、コレクションの中から40点が選ばれて、フランス政府が受け入れることになった。この中にマネの『バルコニー』も含まれている。 1906年、近代美術の大収集家エティエンヌ・モロー・ネラトン(英語版)がルーヴル美術館に寄贈したコレクションの中に、マネの『草上の昼食』など5作品が含まれていた。 1932年、パリで生誕100年の記念展覧会が開かれた。 1983年には、パリのグラン・パレ美術館で、没後100年の回顧展が行われた。 ===市場での評価=== マネの生前の1878年、ジャン=バティスト・フォールが資金難によりオテル・ドゥルオ(英語版)でマネの作品を競売に出した時、1点が2000フラン(80ポンド)で売れただけで、その他は売れなかった。エルネスト・オシュデが破産して同じ年にマネの作品を競売に出したが、1点当たり35フランから800フランの間でしか落札されなかった。 死の翌年1884年の回顧展後、オテル・ドゥルオでその作品の多くが競売されたが、『オランピア』が400ポンド(1万フラン)、『アルジャントゥイユ』が500ポンド(1万2500フラン)というのが高い方で、油絵93点ほかパステル画、水彩、デッサン、エッチング、リトグラフの総売上は4665ポンド(11万6637フラン)と、マネ家の期待を大きく下回った。落札者も大部分が遺族と友人であった。 マネの市場価格は、徐々に上がり、1898年、『ギターを持つ女』が2800ポンド(7万フラン)で売られた。1910年以降、マンハイム市立美術館が『皇帝マキシミリアンの処刑』を4500ポンドで購入するなど、ポンドで4桁台が常態となり、1920年代にはポンドで5桁台のものも現れるようになった。1926年には、サミュエル・コートールド(英語版)が『フォリー・ベルジェールのバー』を2万4100ポンド(手数料込み)で購入し、第2次世界大戦前のマネの最高記録となった。 第2次世界大戦後は、ポンドで5桁台が常態となり、1958年に『旗で飾られたモニエ通り』が11万3000ポンドで落札され、ポンド6桁台が現れるようになった。それでも、ルノワールに比べると、市場での人気は高くなかった。ところが、1980年代以降、美術市場全体で良品が払底するに従い、マネ作品の価格は更に高騰した。1986年12月1日、ロンドンのクリスティーズで『舗装工のいるモニエ通り』が700万ポンド(1017万ドル、16億5410万円)という高値を記録した。1989年11月14日、ニューヨークのクリスティーズで、『旗で飾られたモニエ通り』がJ・ポール・ゲティ美術館によって2400万ドル(34億7520万円)で落札され、マネの史上最高値を更新した。1997年には、『パレットを持った自画像』が1700万ドル(20億3320万円)という2番目の高値で落札された。 ==作品== ===カタログ=== マネは、遅筆で、生涯の制作数が比較的少ない。油絵は400点余り、水彩画100点余り、版画100種余りである。 ===時代背景、画風=== 19世紀半ば、フランスの絵画を支配していたのは、芸術アカデミーとサロン・ド・パリを牙城とするアカデミズム絵画であった。その主流を占める新古典主義は、古代ギリシアにおいて完成された「理想の美」を規範とし、明快で安定した構図を追求した。また、色彩よりも、正確なデッサン(輪郭線)と、陰影による肉付法を重視していた。歴史画や神話画が高貴なジャンルとされたのに対し、肖像画や風景画は低俗なジャンルとされていた。明確な美の基準を持たない新興のブルジョワ階級は、伝統的なサロンの権威に盲従していたため、画家が絵を売って生活しようとすれば、サロンで入選し、賞をとることが絶対的な条件となっていた。 もっとも、こうした新古典主義に対抗して、ロマン主義を代表するウジェーヌ・ドラクロワは、ヴェネツィア派やピーテル・パウル・ルーベンスを信奉して、豊かな色彩表現を追求し、革命の第1の波をもたらした。次いで、ギュスターヴ・クールベは、写実主義を標榜し、卑近な題材を誠実に描こうとした。これは革命の第2の波であった。 マネは、保守的なブルジョワであり、彼自身はサロンに対する反旗を掲げるつもりはなく、むしろ過去の巨匠から積極的に学ぶことによって、サロンで成功することを切望していた。そのため、印象派グループ展が立ち上げられても参加せず、サロンへの応募を続けた。しかし、マネの『草上の昼食』や『オランピア』は、本人の意図に反して絵画界にとっての大スキャンダルを巻き起こし、第3の革命の引き金を引くことになった。その革命には、主題の問題と、造形の問題があった。 主題の面では、ニンフでも女神でもない現実の女性が、裸身をさらすということ自体、フランス第二帝政時代の厳格な道徳観の下では、強い非難に値した。当時のフランスは、産業革命が急速に進行し、ブルジョワが台頭する時代であり、パリには大量の人口が流入し、都市として急拡大していた。娼婦は享楽に湧くパリの裏面を象徴する存在であり、それを露骨に描いた『オランピア』は、ブルジョワ社会に冷や水を浴びせる作品であった。『鉄道』や『バルコニー』では、近代社会における人間同士の冷ややかな関係や、人間疎外の様子を、冷徹に描いた。このように、近代化・都市化する時代をありのままに描くことがマネの本質であった。 一方、造形の面では、『草上の昼食』も、『オランピア』も、伝統的な陰影による肉付けが施されておらず、平面的に見える。『笛を吹く少年』では、背景は無地で、奥行きが感じられない。『フォリー・ベルジェールのバー』では、ウェイトレスの正面の姿と、背後の鏡に写った後ろ姿とが、遠近法的に矛盾を来している。このように、マネの作品は、伝統的な約束事にとらわれず、画家が目撃した現実を伝えようとする点で革新的であった。 ===印象派との関係=== マネは、若い印象派の画家たちから敬愛を受け、前述のように伝統的な約束事にとらわれない造形という点でも印象派に影響を与えた。フレデリック・バジールの『バジールのアトリエ』では、キャンバスの前でマネがバジールに助言を与えているところが描かれている。明示的にマネにならった作品もあり、モネは、マネの『草上の昼食(水浴)』に発想を得て1865年‐66年に同様の主題で『草上の昼食』を制作し、ポール・セザンヌは、『オランピア』に惹かれ、1869年‐70年頃、『モデルヌ・オランピア(現代版オランピア)』を制作した。 1864年‐65年の『ロンシャンの競馬場』のリトグラフでは、馬は4本脚というような既存の知識に頼ることなく、一見殴り描きのような線で、一瞬の力強い動きを描写している。このような手法は、印象派に引き継がれている。 他方、マネが、後輩のモネや弟子のベルト・モリゾら印象派から影響を受けた面もあり、1870年代には、印象派的な様式に近づいている。モネにならって戸外制作を取り入れたり、印象派風の筆触分割を用いたりしている。もっとも、モネに代表される印象派が、光と大気の揺らぎをキャンバスに留めることに集中し、人物をラフな筆触で幻影のように描いたのとは異なり、マネの描く人物には存在感と現実感があり、印象派とはやや関心が異なっていた。 このように、マネは、印象派の画家たちと影響を与え合っており、印象主義的な要素の濃い作品もあることから、印象派の1人として語られることもあるが、印象派グループ展に参加しなかったことから、印象派そのものには含めず、印象派の指導者あるいは先駆者として位置付けられるのが一般的である。 ===ジャポニスム=== マネの絵画には、1860年代から流行したジャポニスムの影響も指摘されている。マネの『エミール・ゾラの肖像』の背景には、日本の花鳥図屏風と浮世絵が飾られており、浮世絵への関心が窺える。マネの場合、単なる異国趣味として浮世絵を取り入れただけではなく、造形の中にこれを生かしている。『笛を吹く少年』の平面的な彩色には、ベラスケスからのほかに、浮世絵からの影響があると考えられる。『キアサージ号とアラバマ号の海戦』には、伝統的な遠近法と異なり、高い視点と水平線、船を画面の端に寄せる構図が採用されており、日本風の空間表現である。『ボート遊び』の、水平線をなくし背景全体を水面とする構図、モティーフを切り取る手法も、同様である。 ゾラは、「マネの単純化された絵画を日本の版画と比較するのは興味深いだろう。日本の版画は、未知の優美さと見事な色斑によって、マネの絵と似ているから。」と書いている。 =荒川橋= 荒川橋(あらかわはし、あらかわばし)は埼玉県秩父市荒川日野と同市荒川小野原の間に架かり、荒川を渡る国道140号の密接する2本の橋梁。上り線(熊谷方面)が1929年(昭和4年)竣工の2代目の旧橋、下り線(甲府方面)が1986年(昭和61年)竣工の3代目の新橋である。 ==概要== 荒川河口から134.1 kmの地点に位置する、奥秩父の主要な交通路となっている橋である。また、埼玉県の第一次特定緊急輸送道路に指定されている。荒川の湾曲部に所在する上り方向専用の橋、および下り方向専用の橋の2橋で構成されており、橋詰で車道の上下線が分離し、それぞれの橋に1車線の一方通行として接続されている。なお橋の所在地は埼玉県秩父市荒川小野原である。 現在の橋は、上り線が旧橋の鋼上路ブレースト・リブ・バランスド・アーチ橋(鋼上路バランスド・ブレースド・リブ・アーチ橋とも呼ぶ)で、下り線は新橋の鋼上路トラスドアーチ橋となっている。この鋼上路ブレースト・リブ・バランスド・アーチ橋という橋梁形式は全国で2例しかなく、もう一つは栃木県那須塩原市の那珂川に架かる晩翠橋である。なお、晩翠橋は2002年に土木学会選奨土木遺産に認定されている。また、鋼上路トラスドアーチ橋は上路式のスパンドレルブレースドアーチ橋によく似た外見をしている。 双方の橋とも橋梁を支える拱台が両岸の岩盤に固定されている直接基礎で、橋脚は立てられていない。親柱(灯柱)は旧橋竣工当時のものが4か所とも橋名板とともに現存している。また、旧橋の欄干や照明灯は竣工当時のものではなく後年交換されたものである。歩道は旧橋は川下側、新橋は川上側にそれぞれ設けられている。双方の橋とも橋面は縦に弓なりに反った緩やかな縦断曲線を描いている。 橋を通過する車両は砂利等を積載したトラックの往来が目立つ。また、西武観光バスの西武秩父駅と三峯神社とを結ぶ路線バス「三峰神社線」の走行経路に指定されている。本橋梁の旧橋は土木学会による「近代土木遺産2800選Bランク(県指定文化財クラス)」および「鉄の橋100選」にも選出されている。旧橋は県内で数少ない歴史的近代橋梁として注目すべきとされている。 ==歴史== ===建設までの経緯=== 荒川橋が開通する以前は付近に渡しは無く、秩父甲州往還道は荒川の右岸沿いである白久を通り現在の「白川橋」の下流側の、この付近では谷が開けた場所に存在した「栃の木坂の渡し」と呼ばれた(「八幡坂の渡し」や「川端の渡し」とも呼ばれた)荒川最上流の船二艘を有する私設の渡し場で左岸側の贄川宿へ渡り、甲府方面に至っていた。この「栃の木坂の渡し」がいつから存在したかは定かではないが、1755年(宝暦5年)にはすでに渡船が行われたと言われている。渡船料は地元住民に対しては無料であったが、年間一定量の農作物を納めていた。冬場の荒川減水期には白久と贄川の住民により仮橋が架けられていた。なお、この渡し場は1929年(昭和4年)に上流側に白川橋が完成した事により廃止された。 1889年(明治22年)埼玉県議会は大宮町(現秩父市)から大滝村までの道路改築案を議決した。これは従来の荒川右岸沿いの日野地区(旧日野村)より白久地区(旧白久村)経由だったのを、大橋を架橋して日野地区から荒川左岸沿いの小野原地区(旧小野原村)・贄川地区(旧贄川村)経由で新道を建設して経路を変更するというものであった(旧自治体はいづれも明治の大合併により消滅)。この場所を橋の建設位置に選んだのは、地勢上この周辺の荒川では最も川幅が狭かったからである。 当初の道路改築案は従来通りの日野から白久経由の計画だったが白久の否決に会い、これによって日野・小野原・贄川経由に転換となったものである。記録によると白久の少数の反対者が目前の利に走り、その弁舌にとらわれて道路改築を否決したと記されている。しかし後になって事の重大さを認識した白久は、県議会や秩父郡長に対し新道を白久へ引き直す提言を繰り返したが受け入れられず、大橋を架橋して小野原から贄川を通る経路が確定することとなった。 なお旧経路は現在も武州日野駅から白久駅方面にかけて秩父鉄道とほぼ並行する道路として概ね存続している。当時秩父鉄道はまだ開通しておらず、その開通は1930年(昭和5年)3月15日まで待たねばならなかった。なお路線は旧経路に沿って敷設され、そこに白久駅と三峰口駅が設けられた。白久は道路とは対照的に積極的な誘致活動を行ない、上流側にある白川橋や平和橋はその一環として架けられたものである。 ===1898年の橋=== 初代荒川橋は、旧中川村を流れる荒川の、現在の荒川橋の下流側の川幅が最も狭くなっている地点に、「県道秩父甲府線」の橋梁として架けられていた。 大滝村、白川村、中川村の三村協議により「大宮大滝間道路組合」を発足して新道建設の企画を立て、埼玉県の援助のもと1890年(明治23年)6月に荒川に木橋を架設する工事に着手した。荒川を越える大橋の完成なくては新道建設の意味がなく、その完成は新道の開通において大きな課題であった。工事は当時はまだ架橋技術が未発達で、荒川の川幅が狭隘な場所であるがゆえの急峻な地形も相まって失敗苦難の連続であった。1892年(明治25年)9月、完成半ばまで工事が進捗した橋が、暴風雨に見舞われて足場と共に流失してしまった。工事は振り出しに戻ってしまったが、道路組合関係者は屈することなく再び架設工事に着手した。しかし1896年(明治29年)1月、二度目の工事が竣工目前までこぎつけた橋が突然、今度は突風に見舞われて橋が谷底に墜落し、架橋工事に従事していた作業員が多数死傷する惨事となるなど架橋工事は難航を極めることとなり、道路組合関係者による架橋工事は挫折した。そこで県はその完成を急ぐため、1897年(明治30年)に新道開通を待たずにこの計画道路を「大宮大滝道」として仮定県道に編入し、当時としては新式である構橋(トラス橋)を導入して県主導のもと工事を再開し、1898年(明治31年)、現在の荒川橋の約100 m下流側の位置に橋長78 m、幅員3.6 m、高さ33.3 m(11丈)の初代秩父橋や親鼻橋に似た上路式の木鉄混合プラットトラス橋で架橋が実現し、新道は開通した。これにより渡船に依存していた奥秩父の交通は近代化を遂げ、面目を一新した。また、この橋の開通の影響で交通の流れが変わり、贄川を始めとした新道の沿線は日を追って活況を呈するようになり、其れとは対照的に従来の街道筋である白久の衰退が目立つようになり、宿屋や店が次々と廃業に追い込まれるなど、困窮な事態に陥ってしまった。この橋は十数回の補修を行いながら新しい橋が架けられるまでの約30年間使い続け、2代目である旧荒川橋の開通後に役目を終えて廃止となり撤去された。橋の遺構や痕跡は残されていない。 ===1929年の橋=== 1924年(大正13年)初代の橋の老朽化が進み、交通量の増加への対応や、通過する車両の性能向上に対し安全を期し難くなったことから改築計画を立案し、翌年の1925年(大正14年)11月の通常県会において満場一致の協賛を得て4ヶ年継続事業として施行することとなり、工費20万3000円を投じて1928年(昭和3年)2月23日に橋の設計を開始し、1928年(昭和3年)8月9日工事に着手した。設計者は増田淳、施工は日本橋梁。事業主体は埼玉県である。架設地点は人を寄せ付けない切り立った渓谷地形で作業スペースが充分でなく、橋梁を構築することの困難さから当時の技術を結集し、アーチリブにおいて強度を増すための斜材を用いて組まれたトラス構造を持つ鋼上路ブレースト・リブ・バランスド・アーチ橋という、日本ではまだ前例のない新形式で架設された。橋の寸法に端数が見られるのは、設計や測量にメートル法ではなくヤード・ポンド法を用いていたからである。吊橋の架橋も検討されたが現地調査の結果、施工の難易度や費用の問題から断念された。 橋の施工は木製デリックやケーブルが用いられた。また、付帯工事として総延長1017メートル、幅員6.5メートル、最急勾配1/30(約3.3パーセント)、最小曲線半径80メートルの取り付け道路も合わせて整備された。 なお、増田淳は設計終了後も現場の状況変化に応じて設計修正を行い、施工時の吊り重量計算や、反力の算出などを現場対応した他、施工管理へも関与していた。橋は1929年(昭和4年)5月20日竣工した。終始天候に恵まれたとはいえ、1人も死傷者を出さず、施工機械がまだ未発達だった時代において工事着手から竣工まで約10か月弱という日数は、当時としては驚異的な工期の短さだった。橋長156.15 m、総幅員6.1 m(有効幅員5.5 m)。最大支間長は85.496 mで、支間割りは27.204 m、85.496 m、27.204 mの三等橋である。荒川の河底から橋面までの高さは53.2 mもあり、架設当時として荒川に架かる最も高い橋であった。 また、架橋場所が左岸側が斜面の傾斜が右岸側より緩慢な地形であることから、左岸側には橋脚を立てて15.545 mの単純プレートガーダー橋を別途配置して延長している。これによりアーチ全体のスパン割を対称にできたのだが、景観の面では残念であったと設計者の増田淳は述べている。 この橋の開通によって取り付け道路が、現在に近いに直線的な線形に改修されたことで車両の流れがよくなり、交通上の利便性の向上が図られたのはもちろん、景観的にも奥秩父の風景により一層風情を醸すものになった。また、竣工当時は山中に突如として現れた幾何学的な造形の橋に誰もが驚き、橋の開通式は花火を打ち上げてそれを祝った。 この橋が架設された後の1932年(昭和7年)当時の県道の交通状況は自転車と徒歩の利用が多く、また定期乗合自動車(路線バス)が秩父・大滝間で1日4往復運行され、林産物を運搬する貨物自動車の利用が増加した。橋付近に所在する中川尋常高等小学校(現秩父市立荒川東小学校)前の県道において、1932年8月27日の交通状況の調査によると、自転車が非常に多く1日の合計が506台を数え、他は徒歩が285人、荷車が29台、荷馬車が14台、自動車が15台、貨物自動車が25台で交通量は冬季より夏季の方が多かった。なお遠隔地への貨物の大量輸送は鉄道に依存することが多かった。 竣工当時は中川村に架かる橋であったが1943年(昭和18年)2月11日の合併により所在地が荒川村となった後、2005年(平成17年)4月1日の合併(平成の大合併)により秩父市となった。また1953年(昭和28年)5月18日、県道が「二級国道甲府熊谷線」となり国道の橋に昇格、1965年(昭和40年)に道路法改正に伴い、現在の一般国道140号として指定施行されている。 1966年(昭和41年)11月1日から1967年(昭和42年)1月27日午前零時にかけて橋を全面通行止めにして橋の補強工事を行なわれた。これにより重量制限が8トンから20トン(T‐20相当)に緩和された。 建設後80年以上経過しているが、上流側に新橋が開通した現在においても立派に機能している。安全面においても特に問題なく、今日もほぼ竣工当時の姿のまま実用に供され続けている。 ===1986年の橋=== 旧橋は幅員が狭いため大型車同士の橋上での行き違いが不可能で、モータリゼーションの進展により自動車交通が増加し、橋を通学路としている児童の鞄などに車両が接触するなど橋を通行する歩行者が危険に晒されるようになったため、村は県に橋の拡幅もしくは歩道橋の新設の請願や陳情を繰り返した。1975年(昭和50年)の1日当たりの通行量は5000‐10000台にも上っていた。その結果県は交通量のさらなる増加と車両の大型化に対処するため、総工費5億6000万円を投じて今までの橋のすぐ上流側に併行して下り線専用の新橋が、旧橋に似たプラットトラス構造を持つ鋼上路トラスドアーチ橋の1等橋(TL‐20)として架橋することとなった。 橋は1977年(昭和52年)より測量や設計、および用地買収に着手され、1984年(昭和59年)夏より橋の施工が開始された。 施工は日本橋梁、および三菱重工業(現、三菱重工鉄構エンジニアリング)が行い、深い谷でベント(仮受け台)の設置が困難な場所なため、架設工法としてケーブルクレーンによる斜吊り工法(ケーブルエレクション斜吊り工法とも呼ぶ)が用いられた。橋長149.200 m、総幅員6.500 m、有効幅員5.250 m(車道3.750 m、歩道1.500 m)。最大支間長は99.000 mで、支間割は21.700 m、99.000 m、21.700 mである。なお左岸側でコンクリート橋に接続され、その橋を含めた総延長は159.6 mと旧橋とほぼ同じ長さとなる。 1986年(昭和61年)2月15日午前11時より橋の閉合式が開催され、荒川村長をはじめ地元および工事関係者が出席した。式典では神事のあと、関係者が見守る中ケーブルクレーンで搬送された7.5メートル重さ3.7トンの桁が両岸より伸びる橋桁の隙間に降下させ結合して、橋が一本に繋がった。役目を終えたケーブルクレーンなどの仮設工は解体撤去され、床版コンクリート打設や橋桁塗装などの工事が行なわれ、橋は1986年(昭和61年)8月完成し、同年9月3日開通した。開通式は午前11時より新橋袂の特設テントにて挙行され、地元選出の代議士や県会議員が来賓として招かれた。式典は祝辞の後、荒川村長らによるテープカットが執り行われ、この後に渡り初めを行う予定だったが、台風崩れの低気圧による大雨のため渡り初めは中止され、二組の三世代家族によるくす玉開披に変更となった。橋は同日15時から一般供用が開始された。 新橋の開通後は旧橋は上り線専用の一方通行の橋として使用が継続されるため、旧橋を一時的に通行止めにして歩道を設置する工事を行ない、川下側に歩道が新設された。また、欄干を高くする工事や橋の塗装なども合わせて行われた。工事の間は新橋で信号による片側交互通行が実施された。 また、新橋の完成に合わせて上流側に取り付け道路が新設され、上下線を分離してそれぞれの橋に一方通行で接続する様、取り付け道路が改修された。 旧橋にあった親柱(灯柱)は、新橋建設に合わせて川上側の2本が新橋の川上側に移設されている。 開通当初は荒川村に架かる橋であったが、2005年(平成17年)4月1日の合併(平成の大合併)により荒川村は秩父市に編入された。 ==周辺== 橋付近の荒川はスプーンで抉ったような切り立った深い谷間を形成している。荒川の河道付近以外は標高差の大きい河岸段丘の比較的平坦な段丘面となっていてそこに集落等の生活圏がある。谷底河原は民有地となっていてキャンプ場等のレジャー施設として利用されている。また、橋の周辺は県立武甲自然公園の区域でもある。 道の駅あらかわ秩父市山里自然館(旧、埼玉県あらかわビジターセンター)武州日野駅埼玉県道43号皆野荒川線鈴加園将門の滝 ‐ 橋のすぐ真下にある。将門の滝オートキャンプ場小野原稲荷神社奥秩父美術館キングダムゴルフクラブ ==その他== 荒川橋は過去にも投身自殺が相次いでいて1955年の統計では37人目を数え、その後も後を絶たなかった。秩父市は橋からの投身自殺が多く、このような背景から市は荒川橋など主要な橋の高欄などに橋からの投身自殺を防ぐ目的で「自殺予防標語入り看板」を設置し、その成果を上げている。荒川橋は埼玉県のぐるっと埼玉サイクルネットワーク構想に基づき策定された「自転車みどころスポットを巡るルート」の「秩父4ダムを回るルート」や「ちちぶ歴史街道ミューズパーク正丸峠ルート」の経路に指定されている。 ==風景== ==隣の橋== 荒川(上流) ‐ 白川橋 ‐ 平和橋 ‐ 荒川橋 ‐ 日野鷺橋 ‐ 久那橋 ‐ (下流) =イェーガン= イェーガン(YaganまたはEagan、[*7034*j*7035**7036*g*7037*n]、1795年?‐1833年7月11日)は、オーストラリア先住民族の一部族ヌンガー族の戦士。パースに入植しその地を支配したヨーロッパ人に対するアボリジニの抵抗運動において、彼は重要な役割を担った。入植者を何度も襲撃したイェーガンには生死を問わない懸賞金がかけられ、最終的にヨーロッパ人の若者に射殺された。西オーストラリアにおいて彼の死は、入植した者たちが先住民族に為した不正や、時に野蛮きわまりない処遇をなした象徴として伝承されている。そしてイェーガンは、ヌンガー族の勇者としてオーストラリア中に知られている。 イェーガンの首級はロンドンに送られ、「人類学上の珍品」として一世紀以上博物館に展示された。この首は1964年に無縁墓地に埋められ忘れ去られたが、1993年に場所が特定されると4年後に掘り返され、オーストラリアに返還された。以後、彼を再埋葬する方法についてパースの先住民族間で大きな議論と衝突が生じ、今のところそれは実現していない。 ==生涯== ===人物=== イェーガンは、西オーストラリアに居住していたWhadjuk派ヌンガー族の、60人ほどの部族に生まれた。当時の開拓者のひとりロバート・リオンによると、その部族はBeeliarと呼ばれていたという。ただし今日では、ジャーナリストの デイジャ・ベイツ (en)がいうように、Beeliarと呼ばれた部族よりも大きい規模のグループに属す一集団だったという説が主流である。 リオンは、Beeliar族はスワン川とカニング川 (en) の南岸に接する地域からマングルス湾 (en) の南までを領土としていたと説明している。その一方でモンガー湖 (en) やヘレーナ川 (en) 北東にまで及ぶより広い地域を支配していた可能性を示唆する証拠も存在する。さらに、血縁や婚姻を通じて周辺の他部族とも親しいつながりを持ち、彼らは想像を上回る広域に影響力を及ぼしていた。 イェーガンが生まれたのは1795年前後だと考えられている。彼の父親MidgegoorooはBeeliar族の長老であり、おそらく二人の妻を娶っていたものと思われている。イェーガンはヌンガー族で「Ballaroke」の階級にあった。ネヴィル・グリーンは、彼には妻と二人の子供がいたと唱えているが、多くの検証では彼は独身であったと結論づけている。印象的なたくましい体躯と平均以上の身の丈を持ち、イェーガンは「部族の法によって認められた優れた男」を示す入れ墨を右肩に入れていた。彼はまた、部族内で最も力持ちとしても知られていた。 ===移民者との確執=== 1829年、イギリスからの移民が彼らの土地に現れ、スワン川岸に植民地を設けた。ヌンガーは白人の移民者を、死者の魂がこの世に戻ってきた「Djanga」と考えたこともあり、また何らかの資源をめぐる所有権について争うことも無かったため、最初の2年間は両者間に争いはほとんど生じなかった。しかし、時が経つにつれ異文化が接触した際の軋轢は顕著となり、やがて衝突が起こるようになった。移民者たちはヌンガーを放牧民族とみなし、土地を自由に往来しようが、耕作などのために囲いを設けようが、何ら主張や宣言をせずとも問題ないと考えていた。柵は段々と広がり、ヌンガーの昔からの放牧地や神聖とみなしていた地をも侵食し始めた。1832年頃には、払い下げられた土地に阻まれイェーガンのグループはスワン川やカニング川に近づくことすら出来なくなっていた。猟場を失ったヌンガー族たちは、獲物を探し回った末に移民者の作物や牛に手を出さざるを得なくなった。また、移民が持ち込んだ小麦など目新しい食べ物の味を覚えたヌンガーたちは窃盗に走り、植民地にとって深刻な問題となりつつあった。一方で、茂みに火を放って新芽の発育を促すアボリジニ伝統の火入れ耕作 (en) が、移民が建てた家屋に火災の危険をもたらすことも問題視された。 西オーストラリア最初で深刻なアボリジニの反乱は、1831年12月に起こった。農場経営者アーチボルド・バトラーのところで働いていた使用人トーマス・スメドレーは、ジャガイモ泥棒を畑で待ち伏せていたところ、盗みにやってきたアボリジニたちを見つけ発砲した。この銃撃を受け死亡した男はイェーガンの家族の一員だった。数日後、イェーガンは父Midgegoorooや他の数名と復讐のために農場の家を襲い、ドアが施錠されているとみるや日干し煉瓦の壁を壊し始めた。その家に住んでいたのは銃撃したスメドレーではなく、他の使用人のひとりエリン・エントウィッスルと二人の息子エニオンとラルフだった。エリンは子供たちをベッドの下に隠し、話し合うためにドアを開けた。だが、イェーガンと父は有無を言わさず槍を振るって突き刺し、エントウィッスルは即死した。ヌンガー族の掟では、殺人の報復は必ずしも当事者ではなくとも、部族内の誰かに向けられてもよいものとされていた。銃撃したスメドレーも、殺されたエントウィッスルも、同じバトラーと生活を共にする部族グループの構成員と見なす限り、ヌンガー族にとってこの復讐は正当なものと言えた。 しかし、白人移民者側から見れば、この事件は無実の者が殺された犯罪行為であった。 ===逮捕そして脱獄=== 1832年6月にはイェーガン率いる集団が、カニング川流域のケルムスコット(en)で小麦畑で種まきをしていた二人の作業者を襲撃した。ひとりは逃げ出したが、もうひとりのウィリアム・ゲイズは槍を受けて負傷し、後に死亡した。イェーガンはアウトローとみなされ、彼の捕縛には20UKポンドの賞金がかけられた。巧みに逮捕から逃れていたイェーガンだったが、10月には漁師のグループが彼と仲間2人を巧みにボートまで誘いこみ、水深の深いところへボートを押しやって、彼らを捕まえることに成功した。イェーガンら三人のヌンガーたちはパースの衛兵所、次いでフリーマントルのラウンドハウス (en) 収容所に身柄を移された。イェーガンには死刑の宣告が下されたが、移民者のひとりロバート・リオンが彼の弁護を買って出た。リオンは、イェーガンらからすれば当地の植民地化は侵略行為に等しく、彼らの行動はいわば抗戦行為であると主張した。そして、捕縛された彼は、犯罪者ではなく戦時の捕虜相当にあつかうべしとの意見を述べた。ジョン・セプチマス・ロウ(en)の勧告を受けた州知事の判断のもと、イェーガンたちはリオンと二人の兵士が監視する中、カーナック島(en)への追放処分となった。 リオンには、イェーガンに文明とキリスト教を教え込み、ひいてはヌンガー族そのものを白人社会の枠内に引き込もうという思惑があった。そのためにリオンはイェーガンから彼らの言語や習慣について聞き出すことに多くの時間を割いた。しかし、リオンの目論見はすぐに潰えてしまう。翌月、イェーガンたちは放置されたディンギーを盗み、秘かにカーナック島を脱出して本土のウッドマン岬 (en) に逃れた。だが政府は、処罰は充分に行われたものとみなし、彼らを再び捕らえようとする試みを行われなかった。 ===コロボリー=== 1833年1月、キングジョージ湾 (en) 岸に住む、白人移民と友好的なヌンガー族のGyallipertとManyatがパースを訪れた。移民のリチャード・デイルとジョージ・スミスは、彼らと当地のヌンガー族とが会う機会を設けた。それは、キングジョージ湾でのような良好な関係をスワン川植民地でも築くきっかけになることを期待したものだった。同月26日、モンガー湖のほとりでGyallipertとManyatは、正武装で身を固めた10人の集団を率いたイェーガンと面会した。彼らは武器を交換し、コロボリー (en) の儀礼を通じてお互いの言葉が通じ合うことを確認した。槍投げの競技が催され、Gyallipertと競ったイェーガンの投擲は25mの距離から見事に的を射止めた。 GyallipertとManyatは暫くの間パースに逗留した。3月3日には許可を得て、イェーガンたちはふたたびコロボリーの儀礼を行った。この時にはポストオフィス公園が会場となった。朝の薄明かりの中、パースとキングジョージ湾それぞれのヌンガーは対面し、白いペイントを施した身体を躍動させ、カンガルー猟を象徴する踊りなどを舞った。その模様を取材した『ウエスト・オーストラリアン(The West Australian)』『パース・ガゼット(The Perth Gazette)』両紙は、「イェーガンは儀式を主催し、その振る舞いは限りない優美さと威厳に満ちていた」と伝えた。 ==お尋ね者イェーガン== ===絶えぬいざこざ=== しかし、キングジョージ湾からの客が逗留していた2月から3月頃にも、イェーガンらヌンガーと移住者とのいざこざは続いた。2月に報告された移民のウィリアム・ワトソンの苦情によると、イェーガンは彼の家に押し入り、銃を寄越すよう迫り、ハンカチを奪い、さらに小麦粉やパンを強奪して行ったという。翌月、イェーガンはノーコット中尉の部隊からビスケットを受け取ったヌンガーの集団の中にいた。ノーコットは分け与える品を渋ったが、イェーガンは槍を突きつけて脅し取った。その翌月には、イェーガンたちの集団が主人のワトソンが留守にしていた家にふたたびに押し入った。この時は、ワトソンの妻が隣家に助けを呼びに行き、それを見た彼らは一旦は去ったが、翌日また現れもした 。 このような絶え間ないいざこざをパース・ガゼット紙は、「たった一本の針と人生を引き換えにするがごとき、ならず者の無謀な蛮勇。かくもつまらなき犯罪。彼(イェーガン)は気に障った者の命を奪うことにためらいを持たず、いざこざ在るところ常に彼はその先頭にいる」と報じた。 ===決定的な事件=== 4月29日の夜、ヌンガーの強盗団が小麦粉を盗もうとフリーマントルの商店に押し入った。これに対し、店を管理していたピーター・チッドローは発砲して応戦した。この騒動でイェーガンの兄弟であったDomjumが撃たれ、数日後には投獄された牢屋で死亡した。この報に触れたイェーガンは復讐を誓い、プレストン岬 (en) で強盗団の生き残りたちを合流した。ブルクリーク (en) の本街道沿いに集結した50〜60人のヌンガーたちは、やがて食糧を運搬する移住者の荷車隊を見かけた。ヌンガーたちは荷馬車襲撃を決め、数日後に待ち伏せてこれを襲い、2人の白人男性・トムとジョン・ベルビックを槍で突き刺して殺した。本来、部族の掟ではDomjumの死に対する償いならば奪える命は一人分であるはずだった。が、後に集団のひとりマンディが証言したところによると、殺された二人の男は前々から現地人を虐待しており、事実ベルビックは以前にアボリジニや有色人種の船員に対する暴行で有罪判決を受けていた。また、アレクサンドラ・ハズラクは略奪にあせる気持ちが暴走した結果だとも主張したが、これには反論も提示された。 しかしながら、ベルビック殺害の一件を理由に、フレデリック・アーウィン (en) 中佐はイェーガン、Midgegooroo、マンディを有罪とし、Midgegoorooとマンディの捕縛には20UKポンドの、イェーガンには生死を問わない30UKポンドの賞金が掛けられた。 マンディは無実を主張して認められたが、イェーガンとMidgegoorooは追われる身となったことを感じ取り、自分たちの縄張りから去って北のヘレナ谷へ逃亡した。しかし事件から4日後、Midgegoorooはヘレナ川で逮捕され、数日後には死刑判決を受けて銃殺に処された。だがイェーガンはその後の消息が掴めなかった。 ===イェーガンの思い=== 5月下旬、移民のひとりジョージ・フレッチャー・モーは、アッパースワン (en) で逃亡中のイェーガンと会い、現地語と混成英語で会談する機会を持つことに成功した。その時の様子を、モーは「イェーガンは歩み寄り、左手を私の肩にかけ、真剣な瞳で私の顔を覗き込みながら、右手でジェスチャーを交えて語った。その言葉を理解できなかったことが悔やまれる。だが、彼の口調やふるまいから、おおよそ彼が言いたかったことを推測できた。彼は、あとからやってきた私たちによって、彼らが住む場所から追い出され、彼らの生活を邪魔されていると言った。ただ自分たちの土地を歩くだけで白人から銃を撃たれるとも言った。そして、自分たちが何故そのように扱われるのかと問いかけた」と伝えている。 この意見についてハズラクは、モーはイェーガンの言語をほとんど知らなかったため、イェーガンが主張したかった真実よりも「白人側の良心の呵責」が一部紛れ込んでしまっていると推測している。 この席で、イェーガンは父の消息を尋ねた。モーは答えなかったが、使用人のひとりがカルナック島で投獄されていると言った。これを聞き、イェーガンは「もし白人がMidgegoorooを撃ったならば、3人の命で償わせる」と警告した。結局モーは行政長官に報告するのみで、イェーガンを捕らえようとはしなかった。彼は、「誰もが彼の逮捕を望んでも、心の底ではそうならないことを願っているだろう。彼の勇気は、人をして賞賛に駆り立てる何かを秘めている」と書き残している。 ==射殺== 1833年7月11日、キーツ家の18歳と13歳の兄弟ウィリアムとジェームズは、スワン川北岸のギルフォード (en) で牧牛の番をしていた時、ヘンリー・ブル (en) の家から食糧の小麦粉を盗もうと近づくヌンガーの集団を見つけた。少年たちは親しげな言葉を掛けながらイェーガンに近づき、彼らをかくまうと申し出た。イェーガンはこれを受けて翌朝まで留まったが、実は兄弟は賞金欲しさに彼を騙していた。ウィリアムは一度イェーガンを撃とうと試みたが、この時は撃鉄が引っかかるトラブルを起こし失敗した。イェーガンたちが部族の元へ戻ろうとした時を最後のチャンスとばかり、兄弟は銃で撃ちかかった。ウィリアムの弾はイェーガンを、ジェームズは他のヌンガー・Heeganを撃ったが、残りの男たちは槍を投げて少年たちに向かって反撃に出た。兄弟は川へ逃げたが、ウィリアムは槍に撃たれて死んだ。ジェームズは川に飛び込んで逃げ切り、ヘンリー・ブルの農場から武装した移住者たちとともに引き返して来た。 ジョージ・フレッチャー・モーが記録したところによると、この事件の直後に軍隊が現場に向かったと伝えた。彼は「おそらく先住民への脅しをかけるためか、または死体を回収するための行動」だったのではと推測している。移住者たちが駆けつけると、そこにイェーガンの死体と瀕死のHeeganを見つけた。モーによると「うなり声をあげるHeeganの頭部は一部が吹き飛んでいた。それが哀れみのためか、残虐なふるまいなのかは何とも言えないが、一人の男がHeeganの頭に銃を向け、打ち砕いた」という。イェーガンの首はこの時切り離され、部族の紋章が入れられた背中の皮が剥ぎ取られた。そして、身体は少し離れたところに埋められた。 ジェームズ・キーツは賞金をせしめたが、その行動は批判に晒された。パース・ガゼット紙は「野蛮で不誠実なふるまい。これがほめられた行動だという賞賛を耳にする事ほど不快なことはない」とイェーガン銃殺の件を報じた。 数ヵ月後、キーツ一家は植民地を後にした。理由は定かではないが、報復を恐れた側面もあったと推測される。 ==首級が辿った運命== ===見世物となった首=== イェーガンの首は当初、ヘンリー・ブルの家に持ち込まれた。そこでそれを見たモーは手書きの私蔵用日記にスケッチを取り、「これは、どこかの博物館で所蔵する方がいいかもしれない」と意見を述べた。これを受けて、腐敗を防ぐために首は木に吊るされ、約3ヶ月間ユーカリのチップで燻され続けた。 1833年9月、イェーガンの首は陸軍中尉ロバート・デールの手に渡り、イギリスへ運ばれた。デールは、この首は「人類学上の珍品」だと言ってフレデリック・アーウィン大佐を説得したという。 デールはロンドンに到着すると、解剖学者や骨相学者たちの間を廻り、首を「2〜3倍の価値はある」とふっかけながら20 UKポンドで売り込んだ。しかし買い手は見つからず、仕方なくデールは外科医のトーマス・ペティグルーに一年間首を貸し出した。古物収集家としても知られていたペティグルーは、私的なパーティを催しては検死した古代エジプトのミイラを展示することでロンドンの社交界で有名な人物だった。彼は、デールのスケッチから作成したキング・ジョージ・サウンド (en) の風景画をバックに、ヘアバンドとアカオクロオウム (en) の羽根をあしらった首をテーブルに据えて展示し、客に見せた。 ペティグルーはまた、骨相学者に首を分析させた。イェーガンの頭蓋骨後部には銃撃された際の骨折が広範囲にわたっていたため難しいとも思われたが、分析の結果は、当時のヨーロッパが持つオーストラリア先住民についての知見と予想通り一致した。 この評価を含んで、デールは小冊子『Descriptive Account of the Panoramic View & of King George’s Sound and the Adjacent Country 』(意:キング・ジョージ・サウンドと周辺地域を包括する説明の記述)を発行した。 この本は、表紙にジョージ・クルックシャンクが描いたイェーガンの首のアクアチントに手彩色された絵が描かれ、ペティグルーの夜会の土産として売られた。 1835年初頭、イェーガンの首は風景画ともどもリヴァプールに住むデールに返却された。10月12日、デールはリヴァプール王立協会 (en) にイェーガンの首を売り込んだ。首は、解剖頭蓋を説明した他の標本や蝋製模型などと一緒に展示されたと思われる。1894年に協会の所蔵品は分配され、イェーガンの首はリバプール世界博物館 (en) に貸し出されたが、そこでは展示されなかったと考えられる。 ===埋葬=== 1960年代に入ると、首は傷みが激しくなり、1964年4月に廃棄の決定が下された。同月10日イェーガンの首は、ペルーのミイラやマオリ人の首とともに合板の箱に詰められ、エヴァートン墓地 (en) の一般区画16番296墓に埋められた。特に墓標は設けられなかったため、後に、その周囲ではたくさんの埋葬が行われた。1968年には地元の病院が、20体の死産胎児と生後24時間以内に亡くなった2人の新生児を、博物館が埋めた箱の真上に埋葬した。 ===送還の陳情=== 何十年にも亘って、少なくとも1980年代初期の頃から、多くのヌンガーの集団がイェーガンの首返還を叫んでいた。1996年にイェーガンについての著作を記したアボリジニのKen Colbungはその心情を語った。「アボリジニの信仰に根付く考えから、首が揃わないままではイェーガンの魂が浮かばれることは無いと皆思っている。頭部と胴体が別々にあっては、彼の魂が束縛から逃れられることは無く、永遠不滅への旅立ちを足止めされていると考えるのだ」 しかしその頃、ペティグルーが手放した後のイェーガンの首の消息は不明だった。1980年初頭、部族長らの命を受けた長老のひとりKen Colbungは捜査を開始した。1985年、ColbungはLily Bhavna Kaulerを雇いイギリス中の博物館へ問い合わせをさせたが、その時は目立った成果を得られなかった。1990年代に入ると、ロンドン大学の考古学者のピーター・ウッコ (en) は捜査へ協力し、ウッコの研究員の一人クレシダ・フォードがオーストラリア政府の資金援助を得て文献調査に取り掛かった。1993年12月、クレシダはイェーガンの首の行方に辿り着いた。これを受けてColbungは、翌年4月に埋葬法1857(en)25節に則って発掘の許可を申請した。しかしこれを受けた英国内務省は、箱の上に埋葬された22人の新生児の近い親族の許諾が必要だとした。これに対しColbungが雇った行政書士は、発掘はイェーガンの親族にとってとても大きな意味を持ち、またオーストラリアにとっても国家的な重要性を帯びていると主張し、この制約は放棄されるべきだと要求した。 この頃、パースのヌンガー族コミュニティは分裂の気配を見せており、多くの長老たちが首の本国帰還活動におけるColbungの役割に疑問を呈したり、あるヌンガーなどはリバプール市議会に対してColbungへの不満を訴える行動を見せた。コミュニティ内部では誰がイェーガンの首を受け取るに足る文化継承者かについて、激しい議論が巻き起こっていた。7月25日、パースで公開討論が行われ、参加者たちは立場の違いを乗り越え、首の本国送還についての「国家的成功」を目指すことで一致した。こうして「イェーガン運営委員会」(A Yagan Steering Committee)が設立されて返還調整が行われ、Colbungは活動の継続が認められた。 1995年1月、英国内務省は、新生児の親族たちの同意無しに発掘は行うことは認められないとColbungに連絡した。内務省は住所が判明している5家族に接触したが、無条件の同意を得られたのはたった1家族からだけだった。そして同年6月、内務省はColbungや他の利害関係者に、発掘許可申請の拒絶を正式に通知した。 9月21日、イェーガン運営委員会は会合を開き、オーストラリアとイギリス政府に協力を求める圧力を掛けることを決め、実行に移した。1997年5月20日、Colbungはイギリス政府から費用持ちで招かれた。この訪問はマスメディアに取り上げられ、政府への政治的圧力を強める効果ももたらした。その上、英国首相へのアポ無し訪問を遂げた後には、前オーストラリア首相のジョン・ハワードからの協力も確保した。 ===発掘=== Colbungの英国滞在中、内務省はマーティンとリチャード・ベイツに墓地の調査を依頼した。彼らは地球物理学の手法を導入し、電磁気学と地中レーダー探査技術を駆使して調査に当たった。こうして特定されたた箱のおおよその位置は、横方向から掘り進めば取り出せる可能性を示唆していた。この報告書は英国内務省に提出され、イギリスとオーストラリア間で協議が持たれた。 しかし一方で英国内務省には、返還事業に携わっているColbungに抗議する手紙が無視できないほど多く届いていた。そのため内務省は、オーストラリア政府に彼の立場を正当とすべきか否かの保障を求めた。これを受けてColbungは民族の長老たちに、アボリジニー・トレス海峡島民委員会(ATSIC)を通して内務省に自己の正当性を回答して欲しい旨求め、ATSICはパースで会合を開いて彼の障害を再び取り除く決定を下した。 Colbungは、イェーガン没後164周年に当たる7月11日行われる式典に間に合うよう発掘作業の開始を求めたが、それは実行されなかった。追悼式典はエバートンにあるイェーガンの墓で小規模で行われ、Colbungは7月15日に手ぶらでオーストラリアに帰国した。しかし発掘作業は、Colbungが知らないうちに開始された。埋葬地点の側に6フィート(2メートル弱)の穴が掘られ、その位置から箱に向けて水平方向に掘り進められた。この手法が採用されたことで、発掘はどのような反対意見にも邪魔されず、箱は掘り出された。翌日、ブラッドフォード大学から法医学・古生物学者が派遣され、骨折部分とペティグルーの記録を検証し、頭蓋骨がイェーガンのものであることを同定した。 遺骨は一時的に博物館に保管され、8月29日にはリバプール市議会へ提出された。 ===返還と論争=== 1997年8月27日、Colbung、Robert Bropho、リチャード・ウィルクス(Richard Wilkes)、ヌンガーのMingli Wanjurriからなる代表団がイェーガンの頭蓋骨を受け取るためイギリスに入った。代表団はもっと大規模になる予定だったが、直近になって連邦基金が費用を渋ったため縮小された。 しかし、返還はすぐには行われなかった。何故なら、Corrie Bodneyというヌンガーが所有権を主張して西オーストラリア州最高裁判所に告訴したためである。訴状によると、彼の一族が唯一正当なイェーガンの子孫であり、発掘は違法で、オーストラリアに移す行為も伝統的または宗教的な必然性は全く無いと主張した。さらに他のヌンガーAlbert Corunnaも自分こそ最もイェーガンに近い系統だと訴え出た。最高裁判所は英国政府の行動を緊急に規制する権限を持っていなかったので、西オーストラリア州政府にイェーガンの遺骨引渡しを一時保留するよう求めた。事情を考慮したイギリス政府は、引渡しを一時見合わせ問題解決を待った。裁判所は、Bodneyが返還計画に以前は同意していたこと、民族の古老や人類学者へ行った調査の結果がどちらもBodneyの主張に反駁する内容だったことを考慮して、訴えを退けた。 1997年8月31日、リバプール・タウン・ホール (en) で式典が行われ、イェーガンの頭蓋骨がヌンガーの代表団に引き渡された。この際、Colbungは同日に亡くなったダイアナ妃の事件と結びつけ、「イギリス人(Poms ‐ Prisoner Of Motherlands)は自ら犯した罪の対する罰を受けたのだ。彼らは、我々がそうしているように、自然の意志を学び取る態度が求められているのだ」と語った。このコメントはメディアに取り上げられオーストラリア中で報道され、驚きや怒りの反響が数多く提起された。後にColbungは、このコメントは真意を伝えていないと抗議した。 パース返還の途上にあっても、依然としてイェーガンの頭蓋骨についての議論や争いは喚起され続けた。埋葬についてはリチャード・ウィルクスを委員長とした「イェーガン再埋葬委員会」(Committee for the Reburial of Yagan’s Kaat)が責任を持つことになったのだが、年長者たちの意見が纏まらず、再埋葬はすぐに行われなかった。議論が紛糾したポイントは主に埋葬地をどうするかであり、イェーガンの身体がどこに埋められたか明瞭でない点、またそもそも頭部と身体を一箇所に埋葬すべきかどうかで揉めていた。パース郊外のBelhusにあるウエスト・スワン街道のいずれかの地と推測されている、身体が埋葬された地を特定しようという調査は何度も行われていた。1998年からはリモートセンシング調査が行われたが結果は出ず、引き続き行われた2年間の考古学的調査でもさしたる成果は得られなかった。 この状況に、頭部と胴体を別々に埋葬する是非が論争された。リチャード・ウィルクスは、イェーガンが殺された地に頭部を埋葬すれば、ドリームタイム (en) の精神が彼の遺体をふたたびひとつにすると主張し、別々へ埋葬することを支持した。 1998年、西オーストラリア州開発委員会とアボリジニ関係局は共同で「イェーガン埋葬マスタープラン」を策定し、彼が埋葬されたとされる地所の所有権、管理、開発や将来にわたる利用などを定めた。そこには、埋葬地を首都墓地評議会(Metropolitan Cemeteries Board)が管理する先住民用の埋葬地に移すことも考慮されていた。 今のところ、イェーガンの頭蓋骨は埋葬されていない。それは検視官の手によって修復が施されて一時的に銀行の金庫室に置かれ、その後は州の死体安置所に保管されている。埋葬予定は何度も延期や遅れを見せ、その度にヌンガーのグループ間で争いの火種になっている。再埋葬委員会は記念公園やモニュメントを作って金儲けのネタにしようとしていると、ヌンガー共同体が告発したためである。これに対しリチャード・ウィルクスは、委員会メンバーはイェーガン直系に当たり、また適切な埋葬を志向しているが、用地交渉が長引いているために遅れているだけだと反論した。2006年6月には、ウィルクスは頭部埋葬を2007年7月までに実行する予定だと表明した。 また同年、火葬し灰をスワン川に流す代替案がColbungから提示されてもいる。 ==伝説== イェーガンは今やオーストラリアの有名な歴史的人物と評されている。 『オーストラリア人名辞典』(en)への採録や、西オーストラリア州の授業カリキュラムへも取り入れられている。 ヌンガーの人々にとって最も重要な存在のひとつであり、「尊敬を集め、敬愛され、勇猛さを示した人物……西オーストラリア南西域の、愛国者であり神秘的な英雄である」と評されている。 ==影響== ===あぁ、哀しきイェーガン=== 1997年9月6日、ウエスト・オーストラリアン紙に、ディーン・オルストン (en) による漫画『あぁ、哀しきイェーガン』(Alas Poor Yagan)が掲載された。 これは、イェーガン頭部の返還が、ヌンガー内の一体化を醸成するどころか逆に紛争の原因になっていることを批判した内容であった。この漫画は、ヌンガーの文化を侮辱しているとも、伝統的民族であるアボリジニの正統性に疑問を投げかけたとも解釈された。そのため多くの先住民やヌンガーの長老たちは人権および機会均等委員会 (en) に苦情を申し立てた。委員会は、この漫画が誤ったヌンガーについての情報に基づいていると判断したが、人種差別を禁止する法律には抵触していないと判断した。 この判断はオーストラリア連邦裁判所 (en) に支持された。 ===彫像=== 1970年代半ば頃、ヌンガーのメンバーがスワン川植民地150周年記念(WAY 1979)の一環としてイェーガンの像建立を陳情したが、地方の歴史家たちが西オーストラリア州首相 (en) のチャールズ・コート (en) にイェーガンは像を建てる程重要な人物ではないと提言したため、これは認められなかった。Colbungは、「コート首相は、納税者が誰も顧みず朽ちた西オーストラリア最初の提督ジェームス・スターリン (en) の墓を磨くことに熱心なのだ」と非難した。 政府には拒絶されたが、ヌンガー共同体はイェーガン委員会を設立して募金を呼びかけた。最終的には充分な資金が集まり、彫像製作はオーストラリアの彫刻家ロバート・ヒッチコックに依頼された。完成した青銅製彫像は、槍を両肩に背負って立つ裸身のイェーガンの、等身大の姿が形作られていた。除幕はイェーガン委員会の会長であるエリザベス・ハンソンによって1984年9月11日に執り行われた。この像はパース近郊の、スワン川の中州であるハリソン島(en)に展示された。 1997年、イェーガンの頭蓋骨がパースに返還された週に、この像の頭部が何者かによって切断され持ち去られる事件が起きた。破損された部分は修復されたが、またも同様に壊された。この事件に関し、「英国の忠臣」なる匿名の者からダイアナ元妃についてのColbungのコメントに対する報復という声明が寄せられたが、西オーストラリア警察は犯人の特定や頭部の奪回には至っていない。現在のところ、三度目の犯行は発生していない。 2002年、西オーストラリア州下院議員のジャネット・ウーラード (en) が、この像の局部を覆い隠すべきだと主張したが、これは実行されなかった。2005年11月には返還時の代表のひとりリチャード・ウィルクスが、実際のイェーガンはいつもこんな素っ裸でいたわけではなかったと、同様の意見を述べた。また、頭部についても監察医が復元したものを元に作り直すべきだとも主張した。 ===文学・映画=== 作家兼歴史家のメアリー・デュラック (en) は1964年に、イェーガンの生涯を題材にした子供向けフィクション小説『The Courteous Savage: Yagan of the Swan River』(「礼儀正しい野蛮人、スワン川のイェーガン」の意)を著した。1976年に再版された際、タイトルの「Savage」(野蛮人)が人種差別的だと考えられ、タイトルは『Yagan of the Bibbulmun』(「ビブルマン(ヌンガーの別名)のイェーガン」)と改められた。 1997年、先住民族の小説家アーチ・ウェラ (en) は、繰り返されたイェーガン像の頭部切断を題材とした短編小説『Confessions of a Headhunter』(「ヘッドハンターの告白」)を執筆した。1999年には映画監督のサリー・ライリー(Sally Riley)の協力を得て脚本化され、2000年には小説と同名の35分映画が製作された。 ライリー製作のこの映画は、2000年のAFI賞(オーストラリアのアカデミー賞に相当)を受賞し、翌年に脚本はWestern Australian Premier’s Book Awardsの脚本賞を獲得した。 2002年には南アフリカに生まれたオーストラリア籍の詩人ジョン・マティア (en) が発表した通算4作目の詩集『Loanwords』の中で、季節に対応する4編の3番目「In the Presence of a Severed Head」(「刈られた首の前で」の意)でイェーガンを主題に取り上げている。 ===その他の影響=== 1989年9月、西オーストラリア農務省が砂地で栽培した早期収穫が可能な大麦の品種に「Hordeum vulgare (Barley) c.v. Yagan」という名をつけた。この大麦は一般に「イェーガン」と呼ばれ、西オーストラリア伝統の栽培品種を受け継いだ穀物でもある。 =金属= 金属(きんぞく、英: metal)とは、展性、塑性(延性)に富み機械工作が可能な、電気および熱の良導体であり、金属光沢という特有の光沢を持つ物質の総称である。水銀を例外として常温・常圧状態では透明ではない固体となり、液化状態でも良導体性と光沢性は維持される。 単体で金属の性質を持つ元素を「金属元素」と呼び、金属内部の原子同士は金属結合という陽イオンが自由電子を媒介とする金属結晶状態にある。周期表において、ホウ素、ケイ素、ヒ素、テルル、アスタチン(これらは半金属と呼ばれる)を結ぶ斜めの線より左に位置する元素が金属元素に当たる。異なる金属同士の混合物である合金、ある種の非金属を含む相でも金属様性質を示すものは金属に含まれる。 ==定義== ===性質からの定義=== その性質から、以下の5つの特徴をすべて備えるものを金属と定義している。 常温で固体である(水銀を除く)。塑性変形が容易で、展延加工ができる。不透明で輝くような金属光沢がある。電気および熱をよく伝導する。水溶液中でカチオン(陽イオン)となる。ただし、金属元素以外でも特定環境下では金属状態となる可能性も指摘され、例えば常温で200GPaの高圧下では水素は金属様性質を帯びると推測されている。これを金属水素と呼称する。 ===化学結合からの定義=== 金属を原子の化学結合で定義する場合、特有の金属結合で説明される。これは、カチオン化した金属元素が規則正しく並び、その間を自由電子が動き回りながら、これらがクーロン力で結びついている結合を指し、常温下でこのような結合状態にある物質を金属と定義している。 原子の配列は、ほとんどの場合、面心立方格子構造 (fcc)、体心立方格子構造 (bcc)、六方最密充填構造 (hcp) のいずれかを取り、元素の種類や同じ元素でも状態によってそれぞれの構造となる。この構造はそれぞれ原子充填率が異なり、金属の塑性変形に影響を与える。 自由電子理論では、金属とは陽子がつくる格子状立体の中を電子が自由に飛び回っている状態 (Drude, 1900)、自由電子の気体の中に鋼体球(陽イオン)が浸かっている状態 (Lorentz, 1923) という表現で、カチオンと電子雲が結合する様子と自由電子のふるまいを説明した。この自由電子の存在が金属の特徴をもたらす。物体に外部の力が加わってズレが生じた際、イオン結合の物質は静電反発が起こり壊れるのに対し、金属は自由電子が取り囲んでいるために結合が安定する。金属光沢は、自由電子がほとんどの可視光をはねかえす、実際は自由電子の集団が様々な波長の光を吸収し再放出するために、全体では反射し光沢を持っている様に見えることによる。導電性には、電荷を持つ電子が自由に動き回りながら電極間に電荷を受け渡すことで寄与している。 ===バンド理論における金属=== 原子中の電子が取りうるエネルギーのレベルは、複数の原子が存在する状態下ではおのおのが重ならない電子軌道を取る。量子力学が要請するこの分裂によって生じる軌道は、金属においてアボガドロ数程度の原子が存在する状況ではエネルギーが低いところから順々に埋められ、最も高いエネルギー(フェルミエネルギー)を持つ電子が球状のフェルミ面を形成し、全体として定まった幅を持つ。これは「バンド構造」と呼ばれる(バンド理論)。このバンドには物質によっては電子が軌道を取りえない断絶したエネルギー領域(バンドギャップ、禁制帯)があり、電子が取りうる最大のエネルギー領域がこのバンドギャップ部分にあると、電子軌道はギャップよりも低く原子核に束縛されるバンド領域(価電子帯、バレンスバンド)に詰まってしまい、電流は流れない。しかし金属にはこのバンドギャップが無いため、電子は自由に動くことができ、電流が流れる。 半導体は、このバンドギャップが1eV前後であるため、光や熱のエネルギーを加えることで電子の一部をバンドギャップよりもエネルギー位置が高いところにある伝導帯(コンダクションバンド)まで引き上げることができ、結果通電するようになる物質である。 ==性質== ===融点=== 系の自由度を規定するギブスの相律では、物質の状態は以下の式で示される。 ただし、 金属の相律を考える際、わずかな圧力変化が及ぼす影響は無視してかまわないため、変数2が表す示強性のうち圧力を減らした次式を用いる。 この、一定である純金属の融点(凝固点)は、温度の定点として利用されている。国際温度目盛1990年改訂 (ITS‐90) ではスズ、アルミニウム、金、銀などの凝固点が採用されている。 ===硬さ=== 金属は一般には硬いものとしてイメージされ、ひっかき硬さなどの意味に置いては実際に硬いものが多い。しかし、アルカリ金属やアルカリ土類金属のように柔らかいものもある。また、塑性という観点に立てば、むしろ金属は柔らかく(延性があり)加工しやすいのが特徴といえる。工業的に大量に利用されている理由も、強度と加工しやすさのバランスの良さにある。 塑性には、金属原子がどのような構造配列を持っているかも影響を与える。金属の塑性変形は原子密度が高い辷り面(すべりめん)と呼ばれる結晶面に沿って、原子の間隔が広く抵抗が少ないところから間隔が狭い方向(辷り方向)に起こる。この辷り面と辷り方向の組み合わせは「辷り系(すべりけい)」と呼ばれ、原子の構造配列によって数が異なる。それぞれの系の数は、fccが12、bccが48、hcpが4となる。ただし、bcc構造は原子密度が高い領域が無いため、辷りを起こすためには大きなせん断力が必要になる。このような理由から、fcc構造の金属は比較的簡単に塑性を起こし、bcc構造の金属は力が必要だが多様な形に変形させることができる。 金属材料の硬さ評価は、JIS規格にてブリネル硬さ、ビッカース硬さ、ロックウェル硬さ、ショア硬さの4種類の測定法が定められている。ブリネル硬さ試験は鋳物などに限られ、荷重の幅が広いビッカース硬さ試験は柔らかい金属から超硬合金まで対応が可能。ロックウェル硬さ試験は黄銅や焼入れ合金などで用いられる。 ===変態=== 物質が相を固体、液体、気体に変えることを相変態というが、ほとんどの金属はこれ以外に固体状態で結晶構造を変える現象を起こし、これを「固相変態」、「同素変態」または単に「(金属の)変態」と言う。この変態は温度変化によって起こされ、大抵のケースでは低温のfccやhcp構造を取る金属が固有の温度(変態温度)でbcc構造へ変わる。しかし例外として鉄は特殊な変態を見せ、低温時のbcc構造(α‐Fe)から、912℃を境界にfcc構造(γ‐Fe)へ変り、さらに加熱すると1400℃でbcc構造 (δ‐Fe) となる。これは、低温の鉄は磁性が強いために起こる現象と説明されており、この特性が鉄の用途を広げる理由ともなっている。 高温の金属が冷却されbcc構造になる変態を「マルテンサイト変態」と言い、これは開始温度 Ms で始まり終了温度 Mf で完了する。逆にbcc構造の金属を加熱し起こす変態は「逆変態」と呼ばれ、温度 As で始まり Af で完了する。これらの温度は Mf<Ms<As<Af の関係にある。 この変態を工学に応用する例には、原子力発電所で利用するウラン処理がある。668℃以下で斜方晶構造 (α‐U) のウランは発電において鍛造や圧延加工を施し棒状に成形されるが、これには集合組織が形成されるため何度も加熱するうちに熱膨張を起こして数倍に伸びる。そこで、ウラン棒を加熱し正方晶構造 (β‐U) へ変態させた上で急冷し、集合組織を除去する。これによって熱膨張を低減させることができる。 ===導体、超伝導=== 自由電子のふるまいによって、金属の熱伝導率と電気伝導率は高くなり、しかも比例する(ヴィーデマン=フランツ則)。金属は温度が下がると電気伝導性が上がり、逆に温度が上がると伝導性は減少する。これは温度の上昇に伴って伝導電子がより散乱されるためである。この性質から、絶対零度に向けて金属の電気抵抗はゼロになることを検証する過程で、超伝導が1911年にヘイケ・カメルリング・オネスによって発見された。超伝導となる温度(臨界温度、Tc)は金属によって異なり、例えばニオブは9.22K、アルミニウムは1.20Kとなる。 ===腐食=== 貴金属など一部を除き金属は本来、酸化や硫化された状態が安定している。工業利用では還元反応を用いて化合物を取り除いているが、自然な状態に置いた金属は再び酸素や硫黄などと結びつこうとする性質を持ち、錆や脆化が発生する。これらや、酸による反応などは一般に腐食と呼ばれる。腐食は、「化学的腐食」に相当する溶液による「湿食」や腐食性ガスがもたらす「乾食」がある。「電気化学腐食」は、合金を含め複数の金属が接触しているものに対し、電極の電位差から起きる腐食であり、イオン化傾向が強い金属が陽極(アノード)となって電解腐食(ガルバニ腐食)を起こす。 一方、化学的腐食のうち酸などが金属の表面を侵した段階で、この部分が酸化皮膜化してそれ以上の腐食が起こらなくなる現象がある。例えば鉄を希硝酸に漬けると溶解するが、硝酸濃度を上げ40%を超えると溶解速度は遅くなり始め、65%以上では溶解しなくなる。これは、鉄の表面に数10*9468*厚の不溶性である酸化鉄(II,III)が生成されるためである。このような状態となった金属を不動態と言う。 金属が酸素と結びつく酸化反応には、激しく起こるものと緩やかに進行するものがある。金属粉が酸化する場合、急な発熱や閃光を伴うことがあり、爆発事故に繋がる場合がある。この現象を逆利用したものがアルミニウム粉末を用いた溶接の手段であるテルミット法や、マグネシウムを利用する写真用フラッシュなどである。 ===破壊=== 塑性がある金属でも、過大な力が掛かれば破壊する。引張破壊を例にすると「脆性破壊」と「延性破壊」に分かれる。ぜい性破壊は亀裂を起因とするもので破壊箇所に塑性変形が見られず、金属の結晶面に沿って破壊が始まり、劈開(ヘキカイ)破面と呼ばれる断面が2km/秒という瞬時に金属に走って断裂する。これは部品設計上の問題が大きい。延性破壊は荷重のため金属が延伸し、その限界に達したところで断裂を起こす。そのため、破断部分に伸び細った様子が見られ、破断面にはディンプルと呼ばれる小さなくぼみが多数観察される。このような破壊に対し、破断面を観察し研究する分野はフラクトグラフィ(破面学)と呼ばれる。 一方で、破壊を引き起こさない程度の力が繰り返し同じ箇所に掛かるような時にも破壊が起こる。これは「金属疲労」もしくは単に「疲労」と呼ばれる。 ==金属の分類== 金属の分類にはいくつかの方法がある。 ===化学的性質による分類=== 典型金属:(アルカリ金属:Li、Na、K、Rb、Cs。アルカリ土類金属:Ca、Sr、Ba、Ra。)マグネシウム族元素:Be、Mg、Zn、Cd、Hgアルミニウム族元素:Al、Ga、In希土類元素:Y、La、Ce、Pr、Nd、Sm、Euスズ族元素:Ti、Zr、Sn、Hf、Pb、Th鉄族元素:Fe、Co、Ni土酸元素:V、Nb、Taクロム族元素:Cr、Mo、W、Uマンガン族元素:Mn、Re貴金属(銅族、貨幣金属):Cu、Ag、Au白金族元素:Ru、Rh、Pd、Os、Ir、Pt。天然放射性元素:UおよびThを母体とする放射能壊変産物。U、Th、Ra、Rn、アクチノイド 。超ウラン元素:Np、Pu、Am、Cm、Bk、Cf、Es、Fm、Md、No等、ウラン以降の元素。 ===金属結晶構造による分類=== 面心立方格子構造 (fcc):Al、Ca、γ‐Fe、Ni、Cu、Rh、Pd、Ag、In、Ir、Pt、Au、Pb体心立方格子構造 (bcc):Li、Na、K、β‐Ti、V、Cr、α‐Fe、δ‐Fe、β‐Sn、Ta、W六方最密充填構造 (hcp):Be、Mg、α‐Ti、Zn、Cd、Nd、Os、Tl ===工業材料分類=== ====鉄鋼==== 炭素鋼:機械構造用炭素鋼、一般構造用炭素鋼など合金鋼:クロム鋼、ニッケル鋼、不銹鋼(ステンレス鋼)、高速度鋼、工具鋼など鋳鉄:可鍛鋳鉄、球状黒鉛鋳鉄(ダクタイル鋳鉄)など ===非鉄金属=== 銅および合金アルミニウムおよび合金ニッケルおよび合金貴金属:Au、Ag、Pt低融点金属:Sn、Pb、Biその他:Mg、Ti、Znなど ===比重=== 金属を比重で分類する場合は、比重5を基準に下回るものを軽金属、上回るものを重金属と一般に呼ぶ。しかしこれはあまり厳密な定義ではなく、基準を比重4とする場合もある。 主な軽金属と比重(比重5未満):Li (0.53)、Na (0.77)、K (0.86)、Ca (1.55)、Mg (1.74)、Be (1.85)、Al (2.70)、Ti (4.50)主な重金属と比重(高比重8種):Ir (22.65)、Pt (21.4)、Au (19.3)、W (19.3)、U (19.1)、Hg (13.6)、Hf (13.3)、Pb (11.3) ===貴金属と卑金属=== 貴金属と卑金属の分類にはさまざまな考え方がある。イオン化傾向から小さい金属を「貴金属」、大きいものを「卑金属」と呼ぶ概念、これに産出量の少なさや金属光沢の美しいもの(貴金属:precious metals)と大量産出されるもの(卑金属:base metals)を判断に加える概念もある。貴金属は財貨となり、硬貨や貨幣経済を裏打ちする金本位制の基礎など、世界経済を支える役割を担った。また、卑金属から貴金属を生み出すことを目的とした錬金術は、化学の生みの親ともなった。 ===有色金属=== ほとんどの金属が持つ金属光沢は灰白色であるが、一部に、比較的はっきりした色相を有する金属がある。純金属では金や銅、合金では黄銅、丹銅などがある。なお表面が酸化、塩素化、窒化など化学反応を起こした場合、これらの化合物の色や、酸化発色などの構造色によって変色することもある。 ===レアメタル=== 金属を汎用金属(コモンメタル、ベースメタル)と希少金属(レアメタル)に分ける分類もある。レアメタルの基準は以下の1‐4のどれか一項目を満たし、かつ5番目の条件にあてはまるものを言う。 存在する量が少ない鉱床を作らず、広く薄く分布している鉱床を作っても、特定の国や地域に限定されている鉱物から取り出したり精製したりすることが難しい現代の産業に欠かせない素材であるレアメタルは、典型元素15種類+希土類以外の遷移元素15種類+希土類金属(レアアースメタル)17種類の合計47種類があり、この中には半金属のホウ素、セレン、テルルも含まれる。これらレアメタルはクラーク数の少なさとは必ずしも一致せず、例えば銅は、地殻に含まれる量は少ないが古来青銅器が作られたように鉱石が発掘しやすく精錬も容易だった。 コモンメタルの定義は、「レアメタル以外の金属」「歴史的に文明を支えた鉄、銅、亜鉛、スズ、水銀、鉛、アルミニウム、金、銀の8種類」など複数ある。 以上のように「レア」と「コモン」の差は物質の絶対量ではなく、人類がいかに容易に調達できるか、需給バランスのギャップという点が強い。そのため、精錬技術の向上など製造プロセス革新によってレアメタルに分類される金属がコモンメタル化される可能性があり、その例としてチタンがコモンメタル化されつつある。 ==合金== 単一の金属を「純金属」というのに対し、複数の金属の化合物を「合金」という。合金は単体の金属が持たない性質を持つことがあり、工業用材料として用いられる金属は多くが合金である。 ===鉄鋼=== 鉄を基礎とする合金(鉄基合金)は鉄鋼と呼ばれ、その潤沢な生産性を背景に様々な分野で活躍している。鉄鋼は本質的に鉄 (Fe) と炭素 (C) の合金であり、その微細組織は Fe‐C 二元系が平衡状態にある物質と定義できる。鉄鋼の用途は構造部材が主流とするが、車両や船舶など輸送機械、発電、化学などのプラントや工作機械類、ばね、工具、金型など多岐にわたる。 鉄鋼はさらに別の金属を加えた改良が施され、クロムを加えて耐食性を付与した不銹鋼(ステンレス鋼)は100種類以上、優れた磁性を持つ磁石鋼、膨張など温度による影響を排除した不変鋼(インバー、バイメタルなど)、その他にも工具鋼や耐熱鋼、快削鋼など、多様な合金が上市されている。 ===アモルファス金属=== 本来は結晶相を持つ金属が、ある種の合金では規則的な格子を作らずガラスのように非晶性となることがあり、これはアモルファス金属と呼ばれる。1960年、金‐シリコン合金で発見されたこの性質は、他に鉄系、アルミニウム系、コバルト系、ニッケル系、マグネシウム系などが知られる。 アモルファス金属は、強い磁性に機械的強度や耐食性に優れ、温度変化による熱膨張や剛性低下の係数が低い。アモルファス金属の製造法には複数の手法が提案されているが、工業的には直接合金を得られる溶融金属の急冷凝固法が優れている。 ===機能性金属=== 合金の中には、特殊な機能を持つ種類がある。ニッケル‐チタンや鉄‐マンガン‐チタン合金などの形状記憶合金、相変態を利用した超弾性合金、金‐銅‐ジルコイル合金などの超塑性合金、マグネシウムなどを用いる水素吸蔵合金、結晶境界のずれを利用する制振合金などがある。水銀や高価なセシウムに替わる低融点の合金も研究されており、かつて開発されたウッドメタルの毒性を改良したガリンスタンなども提案されている。今後は、レアメタルの用途を代替する合金の開発などが求められている。 ==精錬と加工== ===精錬=== 地球の環境下において、天然の状態で得られる純金属はごく少数に限られ、ほとんどは酸化物、硫化物、炭酸塩、ケイ酸塩、ヒ化物といった化合物となっている。これらから他の元素を排除して利用に耐えうる金属を取り出す手法を精錬、冶金と言う。その方法は加熱して行う乾式精錬法(乾式冶金法)と、電気分解(電解精錬)や溶液内で抽出する湿式精錬法(湿式冶金法)があり、これらは金属と他の元素間に働く結合力(親和力)などから選ばれる。 金属利用範囲の拡大に伴って高純度の金属が求められるようになり、これらに対応する精錬法も開発されている。ゾーンメルト法(帯域溶融法)は、溶融させた不純物を含む金属を徐々に冷やし、偏析を利用して純度を高める。 ===鋳造=== 金属を工業材料として用いるには、まず溶融させて鋳型に流し込む鋳造から始まる。青銅器時代から用いられたこの金属加工法で作られた鋳物は、そのままでは粗く、不純物の遍在や鋳巣などがあり強度が低い。これらは金属部品の要求性能が高まるにつれ、塑性加工技術の進展や用いられる合金の改良などが施された。鉄では1947年に球状黒鉛鋳鉄、アルミニウム合金では1920年にシルミンの改良法が発案され、溶湯(ようとう、溶融状態の金属)処理法での強度改良に大きく寄与した。 製法も、砂型、金型、ダイカスト、精密鋳造など多種の手段が用いられるようになった。効率向上においては、連続鋳造法の基礎が1933年に発案され、1950年代にプロセス改良を経て実用的な技術として確立された。 ===塑性加工=== 金属に弾性限界を超える外的な力を与え、永久ひずみを起こして望む形状や寸法に加工することを塑性加工と言う。これには、加熱した状態で行う「熱間加工」と常温で行う「冷間加工」に分類され、前者は再結晶が伴い、後者は常温で再結晶する一部の金属を除いて再結晶化が起こらない。 塑性加工の手法には、圧延、引抜き、押出し、鍛造、深絞り、打抜きなどがあり、このような変形加工を通じて金属の不均一や粗い結晶粒の微細化が起こり、強靭さが増す。また、圧延などでは個々の結晶粒の方向性が揃いながら集合組織を形成するために、表面のエネルギー特性を高める効果もある。 ===硬化加工=== 金属硬度には、「焼入れ」も大きな影響を与える。これは、加熱した金属を急冷却させる工程で、変態を起こさせる暇を与えず水や油に投入して温度を下げ、高温時の結晶状態を維持する手段である。ただし焼入れのみではもろいため、「焼き戻し」という再加熱が対で行われる。この2工程を合わせて調質という。 鍛鉄や、金属を何度も折り曲げるなど外部から繰り返して力を加えると、金属は硬くなる。これは転位論で説明される格子欠陥のひとつ「転位」と呼ばれる原子配列の乱れが金属の塑性を起こす辷り面に生じ、これがやがて点欠陥に固着し、金属全体が動きにくくなる現象である。 ==人と金属の関係== ===宇宙と生命の関係=== 人体は、カルシウムを含む6つの多量元素、ナトリウム、カリウム、マグネシウムを含む5つの少量元素で99.4%を構成されている。これに加え必須元素、微量元素が生命活動や酵素の活性などに使われている。 このような金属をつくる元素は宇宙の誕生とともに生成された訳ではない。ビッグバンが起こった後、当初宇宙に満ちていた元素は水素とヘリウムだけだったと考えられる。これが重力によって集まり、産まれた恒星の中でより重い元素は核融合を起こし生成された。ただし太陽程度の星では酸素までであり、より重い質量の恒星でも内部で生成される元素は鉄までに止まる。鉄よりも重い元素は超新星爆発のエネルギーを吸収して初めて核融合を成すといわれる。地球が鉄よりも重い金属元素を含み、それらを生物が生命活動に、そして人類がエネルギーとして放射性元素を利用していることは、すなわち太陽系、人類を含む生命を構成し活動を支える物質はかつて爆発し散らばった星のカケラが再集結したものであることを示し、金属の存在はそれを証明している。このことを指し、人類を始め地球生命は「星の子」とも評される。 ===金属利用=== 文明が金属を使用した太古の例では、イラクで出土した紀元前9500年頃の銅製ペンダントが見つかっている。しかしこれは天然にあった純銅をほぼそのまま利用したもので、以後続いた銅の利用は、銅が純粋な形(自然銅)で鉱石となって集まりやすく、しかも地球表面のいたるところに分布していたことが幸いした。この初期段階で利用された他の金属は、金や銀など酸素と結合しにくい貴金属に限られ、その絶対量も希少だった。 酸化物から金属を得る製錬技術は、世界四大文明が生まれ、人類が数百℃以上の熱源を制御する手段を得て初めて可能となった。紀元前2000頃のエジプトの壁画には足踏みふいごと鋳型が登場する。さらに、銅‐砒素および銅‐錫合金が発明され、融点を940℃まで下げながら約3倍の強度を持つ青銅が古代中国の殷王朝や地中海のミケーネ文明、ミノア文明および中東などを例に金属器が広く製造、使用されるようになり、青銅器時代が到来した。 地球上に豊富にある鉄は酸化された状態にあり、最古の利用例と言われるエジプトやメソポタミアで発見された紀元前5000‐3000年前の鉄製品は、隕鉄を叩いて製造されている。酸化鉄を加熱し還元反応を経る精錬は、諸説あるが紀元前1650年頃のヒッタイトで始められ、彼らが持つ鉄製の武具は高い軍事力の裏打ちとなった。製鉄技術は約200年以上秘匿されてきたが、紀元前1200年頃に「海の民」にヒッタイトが滅ぼされると、製鉄技術の広範な伝播が始まった。なおヒッタイト秘術の真髄は、鉄の精錬そのものではなく炭素を含ませ鋼をつくる技術にあったと思われている。 金属精錬技術の普及とともに、金属は武器だけでなく農耕器具や生活用品にも広く用いられ、また貴金属類も装飾品などに使われている。金属の磁性は方位磁石から羅針盤へと発展し航海技術発展に寄与した。 18世紀以前、人類が使用していた金属は金や鉄、水銀など11種類だけであった。産業革命を迎えると採掘や精錬技術が進み、またドミトリ・メンデレーエフの周期表発表前後は新たな金属が続々と発見された。さらに19世紀以降には様々な化学実験や原子論など考察が金属にも加えられ、原子の構造が順次明らかとなった。20世紀には量子論など金属への根本理解がさらに深まり、さまざまな用途展開が行われている。 ===人体への影響=== 一部の金属は人体に強い毒性を持ち、必須、微量元素に当たる金属の中には過剰摂取で中毒症状を起こすものもある。公害の原因となったカドミウム(イタイイタイ病)、水銀(水俣病)や、グレアム・ヤング事件で使われたタリウムなどが知られる。江上不二夫は、このような元素類は海水中に含まれる濃度が低い点を指摘し、人類に繋がる生物が海中で発生した際に接触する機会がほとんど無く、進化の過程で解毒機構を獲得しなかったものと考察している。 2006年に起こったアレクサンドル・リトビネンコ暗殺事件で被害者の体内から検出された放射性元素のポロニウムは、純度50%での致死量は100万分の1グラムと言われる。ただしポロニウムは自然界に存在せず、原子炉で人為的にしか製造されない。 金属が生体に接触してアレルギー反応を示すことがあり、これは金属アレルギーと呼ばれIV型(遅延型)に分類される。金属そのものは抗原性を示さないがアレルゲンとなり、溶出した金属イオンが蛋白質と結合して抗原となる。 ==参考文献== 大澤直 『金属のおはなし』 日本規格協会、2008年(初刷2006年)、第一版第四刷。ISBN 978‐4‐542‐90275‐6。東北大学金属材料研究所 『金属材料の最前線』 講談社、2009年、第一刷。ISBN 978‐4‐06‐257643‐7。齋藤勝裕 『金属のふしぎ』 ソフトバンククリエイティブ、2009年(初版2008年)、第一版第二刷。ISBN 978‐4‐7973‐4792‐0。 =アメリカ合衆国における東アジア人のステレオタイプ= アメリカ合衆国における東アジア人のステレオタイプ (アメリカがっしゅうこくにおけるひがしアジアじんのステレオタイプ、英語: Stereotypes of East Asians) は、アメリカ合衆国での中国、日本、韓国、ベトナムなど東アジアからの移民1世、およびその子孫についての民族的ステレオタイプ。他の民族的ステレオタイプ同様、メディア、文学、映画などにしばしば登場する。これらのステレオタイプはアメリカ国内で広く集合的に内在し、移民およびその子孫たちに日常の交流、時事、政治において広くネガティブな影響を与えることもある。メディアでの東アジア人の描かれ方は、現実的で真実味のある文化、衣裳、行動というよりもむしろアメリカ文化中心主義を反映していることが多い。東アジア人は差別され、外国人嫌悪の増大により民族的ステレオタイプに関連してヘイトクライムの犠牲者となることもある。 ==オリエンタリズム、神秘主義、エキゾチシズム== エドワード・サイードによると、「オリエンタリズム」は西洋が独自に解釈、あるいは「外国」、「未知」、「オリエント」、「東洋」と遭遇および経験したことからきている。サイードは「オリエント」はエキゾチシズム、ロマンス、貴重な経験を味わえる東アジアを表すヨーロッパ人による造語で、西洋の人々との対比の意味もあると語った。 西洋文化でのオリエンタリズムの影響には東アジア人および東アジア系アメリカ人の「アザリング」(他人化)を含む。西洋の習慣を「オーディナリー」(普通)とする一方、アジアの文化や生活習慣を「エキゾチック」(異国風)としている。また西洋文化が近代化で変化しやすいとされる一方、東アジア文化は伝統的であるとされることもある。 ==幼く見えるアジア人== 東アジア人は未熟で幼稚に描かれ、真面目に受け取られない。ジョン・チョーは「アジア人の赤ん坊はとても可愛いと思われており、自分を含めてアジア人は皆ある程度幼く見られている。男性も女性も幼く見える。赤ん坊であればさらに幼く見せることができる。白人の赤ん坊よりも可愛らしく見せることもできる」と語った。幼く見えることによりアジア人は社会的自律性に乏しいと見なされる。アジア人は賢く物静かで他の民族に比べて攻撃的ではないと評価されることもある。アジア人は幼く見えるため、非力で行動性や管理能力に欠けると見なされることもある。 ==排斥および敵意のステレオタイプ== ===黄禍論=== 19世紀終盤にピークとなった「黄禍論」は白人によるアジア人に対する脅威のことであり、特にオーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ、カナダ、アメリカに居住する白人は大量に流入してきた東アジア人により圧倒され、外国文化や不可解な言語が国中に蔓延し、職を奪われ、最終的に西洋文化、生活様式、文化、価値が奪われ壊されるのではないかと危惧していた。また東アジア人社会が西洋社会に侵略および攻撃し、戦争が起こり、最終的に根こそぎ絶滅させられるのではないかと恐れていた。この頃、特にアメリカ合衆国西海岸の政治家、作家から多くの反アジア感情が表現され、「The Yellow Peril 」(黄色い危機、『ニューヨーク・タイムズ』(1886年))、「Conference Endorses Chinese Exclusion 」(中国人排斥を承認、『ニューヨーク・タイムズ』(1905年))などの見出しがつけられ、そしてのちに日本人排斥運動に繋がった。1924年、アジア人は「有害な」民族であると考えられ、アジア人排除法ができた。 オーストラリアでも同様の恐れがあり、1901年から1973年まで移民を制限する白豪主義が実施され、1980年代まで一部残存していた。2002年2月12日、ニュージーランドの首相ヘレン・クラークは「これまで人頭税を払ってきたのに差別されてきた中国人の方々そしてその子孫の方々」に向けて謝罪した。また中国人コミュニティへの支援および公平な扱いになるための和解として移民家族の代理人となるべく移民局大臣に任命されたことを発表した。20世紀初頭、カナダでは東アジア人移民には入国税が実施されていたが、2007年、政府は生存する入国税納税者およびその子孫に賠償し、公式に謝罪した。 ===永住外国人=== アジア系アメリカ人は「アメリカ人」ではなく、「永住外国人」と広く見なされている。アジア系アメリカ人は自身や祖先がアメリカにどのくらいの期間住んでいるか、あるいはその社会の一部であるにも関わらずしばしば他のアメリカ人から「元々どこの出身なのか」と聞かれることが報じられている。アジア系アメリカ人の多くはアメリカで生まれ育ち、移民ではない。 アジア系アメリカ人は居住期間や市民権の有無に関わらずアメリカ社会の多くから同化することができない「永住外国人」として見なされ、扱われ、描かれている。カリフォルニア大学バークレー校のアジア系アメリカ学名誉教授リン・チー・ワンは同様の視点について語った。アメリカでのアジア人コミュニティの主要メディアでの描かれ方は常に酷いと言い切った。また「主要メディアおよび為政者の視点では、アジア系アメリカ人は存在しないことになっている。彼らのレーダーでは感知しない。政治でも同様だ」と語った。 カリフォルニア大学ロサンゼルス校の研究者たちによるアジア系アメリカ人司法センター(AAJC)の研究『Asian Pacific Americans in Prime Time 』(プライムタイムのアジア太平洋系アメリカ人)によると、アジア系アメリカ人俳優はテレビであまり登場する機会がない。アメリカの総人口のうち5%がアジア系アメリカ人であるにも関わらず、テレビでは2.6%しか登場しない。ニューヨークやロサンゼルスなどアジア系の割合が高い都市が舞台となってもアジア人役は少ない。 ==モデル・マイノリティとしてのステレオタイプ== アジア系アメリカ人は「モデル・マイノリティ」として好意的なステレオタイプにもなっている。アジア人は一般的に勤勉、政治に攻撃的でない、勉強家、博識、生産的、無害であるとしてその社会的地位を上げている。しかしアジア系アメリカ人の一部はそうあるべきと要求されているように感じ、不正確であるとしてこのステレオタイプを排除する行動をする。学者、活動家、アメリカの主要メディアの多くはこのステレオタイプと実態は逆であるとして、アジア系アメリカ人の成功を誇張し誤認しているとしている。この誤認を明かそうとする者によると、モデル・マイノリティのステレオタイプはアジア系アメリカ人を他の少数民族から隔て、現在のアメリカでまだ正されていないアジア系アメリカ人の問題や欠如を覆い隠している。例えばアジア系アメリカ人が平均以上の収入を得ていると問題を目立たなくし、「竹の天井」のように経営者や重役などの最高レベルへの出世が阻害されるとの概念が広がっており、実際アジア系アメリカ人は白人の同僚と同じだけの給料を得るにはより高い学歴、より多くの労働時間が必要となる。 モデル・マイノリティのイメージはアジア系アメリカ人の学生にもダメージを与える。問題がないと思い込まれることは、実際に教育者に学問上困っているアジア系アメリカ人の学生を見落とさせる。 アジア系アメリカ人で25歳以上の25.2%が学士取得者であるのに対し、アメリカ人全体では15.5%しか学士取得者がいない。そのためアジア系アメリカ人が成功しているとの印象を与えている。しかしカンボジア系は6.9%、ラーオ族系は6.2%しか学士を取得していない。研究者によると、これはそれぞれの国の内戦からくる深刻な精神的問題や貧困に起因している。アジア系アメリカ人が成功していると見なすステレオタイプにも関わらず、モン族系アメリカ人、難民や亡命者からなるアジア系アメリカ人の8割が失業している。 アジア系アメリカ人の犯罪率は、アメリカ国内の他の人種や民族と比較して極端に低い。しかしモデル・マイノリティに反した犯罪や非倫理的行動をすることもある。2007年、アジア系アメリカ人は不正行為、銃乱射事件、政治腐敗に携わった。チョ・スンヒによりバージニア工科大学銃乱射事件が起こされ、チョ自身を含む33名が亡くなった。コリアンアメリカンが起こした銃乱射事件にアメリカ社会は震撼した。他に、ヒラリー・クリントンへの巨額献金を行なった中国系のノーマン・シュー、サンフランシスコ行政官の中国系のエド・ジュウ、韓国の大統領李明博のビジネス・パートナーとなったロサンゼルス市議のKim Kyung Joonなどの逮捕が話題になった。また2007年、デューク大学フューク・スクール・オブ・ビジネスの経営学修士の主に東アジア系の学生34名が不正行為に携わった。うち9名が退学処分、15名が1年間の停学、残りが落第となった。 2013年、モデル・マイノリティのイメージは、ハーバード大学の3名が逮捕されるなどアジア系アメリカ人の学生によって失墜させられた。うちEldo Kimは最終試験の回避のため、ハーバード大学のキャンパスへの爆破予告で逮捕され、全国ニュースとなった。ミシガン大学卒業生Bosung Shimは医学大学院進学適性テストの点数を書き換えるためウエブサイトをハッキングし、連邦刑務所に処せられた。 他の影響としては、アジア系アメリカ人にはまだ差別の問題があるにも関わらず、まるでないかのような扱いを受けることがある。人種差別のヒエラルキーが構築されており、アジア系アメリカ人は他の人種と比べて差別に関してそれほど重要視されていないことを問題としている。アジア系アメリカ人の成功および好意的なステレオタイプにより、人種差別やアメリカ社会において問題に直面していないと見なされ、アジア系アメリカ人のコミュニティは経済的平等、高学歴と考えられている。 ==フィクションでの東アジア人の典型== フー・マンチューとチャーリー・チャンはアメリカ文化史において最も重要でよく知られた架空の東アジア人登場人物の2人となっている。20世紀初頭、フー・マンチューはサックス・ローマー、チャーリー・チャンはアール・ダー・ビガーズとどちらも白人作家により創作された。フー・マンチューは皮肉的、博識で世界征服をたくらむ中国人殺人者で、東アジア人の移民の未知からくる脅威の具象化であった。一方チャーリー・チャンは控えめで従順な中国系ハワイ先住民の探偵で、白人のアメリカ人により多くの差別的な侮辱を投げつけられつつ丁寧に問題を解決する、アメリカ人が考える典型的「良い」東アジア人である。どちらのキャラクターも多くの小説や映画で広く人気を獲得した。 ===フー・マンチュー、「悪い」東アジア人=== フー・マンチューと、彼を止めようとするイギリスのエージェントのデニス・ネイランド・スミスが登場する小説13作、、中編1作がある。イギリスとアメリカで何百万部も売り上げ、アメリカでは雑誌、映画、コミック、ラジオ、テレビなどにも登場した。大人気キャラクターとなり、フー・マンチューのイメージは典型的な「悪い」東アジア人として浸透していった。『The Insidious Doctor Fu‐Manchu 』でサックス・ローマーはフー・マンチューを残酷で狡猾な男として描き、顔はサタンのようで黄禍論の具象化となっている。 サックス・ローマーは悪役のフー・マンチューと「黄色い危機(黄禍論)」の姿をした全ての東アジア人を表裏一体として描いている。またフー・マンチューには神秘主義およびエキゾチシズムの要素も描かれている。フー・マンチューは殺人をする際、実用性はない絹のロープなど東アジアの作法や特産品を用いて不必要に念入りに残酷な方法で行なう。満州民族であるが、その残酷さや狡猾さは全ての東アジア人の描写として誇張されている。 露骨な差別的台詞が(当時は差別と見なされていなかった)白人の主要登場人物により発せられる。フー・マンチューの独創的な殺人方法など、白人主要登場人物のデニス・ネイランド・スミスは東アジア人の知的、神秘的、エキゾチック、そしてとても残酷なステレオタイプの誇張された理知に不本意ながら敬意を表している。 ===チャーリー・チャン、「良い」東アジア人=== 実在した中国系ハワイアン警官チャン・アパナ(1871年‐1933年)を大まかに基にし、作家アール・ダー・ビガーズが架空の人物チャーリー・チャンを創作した。1925年から1981年の間に小説10作、映画40作の他、コミック・ストリップ、ボードゲーム、カードゲームが作られ、1970年代にはアニメ化もされた。映画でのチャーリー・チャン役はウォーナー・オランド、シドニー・トラー、ロランド・ウィンターズなど通常白人俳優により演じられる。 中国人の悪役フー・マンチューと正反対に、東アジア系アメリカ人チャーリー・チャンは典型的「良い」東アジア人として描かれている。『The House Without a Key 』でチャーリー・チャンは「とても太っているが、女性のような軽やかな華奢な歩きをする。頬は赤子のように丸々とし、肌は象牙のような色合いで、黒い短髪、琥珀色の目は吊り上がっている」と描写されている。強い訛りのある英語で、文法も間違いだらけだが、大げさなほど控えめで従順である。ボストンの女性から差別的に侮辱された際、チャンは深くお辞儀をして大げさにへりくだって切り抜けた。 チャーリー・チャンの無害、控えめ、そして地味な様相や行動により、彼の知性や能力に関わらず脅威的でない東アジア人男性像となった。多くの現代の批評家、特にアジア系アメリカ人批評家はチャーリー・チャンは当時の架空の白人探偵のような大胆さ、主張、魅力がないと主張し、「白人主義のアメリカでは男として扱われない」と語った。チャーリー・チャンの性格の良さについてフランク・チンやジェフリー・チャンは「差別的愛」と呼び、チャンはモデル・マイノリティやお世辞であると主張している。しかし探偵チャーリー・チャンの成功は、白人の上司や彼を過小評価する差別主義者に彼自身を認めさせたことである。 「万里の長城を建てた秦の始皇帝は「過去の栄光を語り今日という日を無駄にする者は明日には誇れるものが何もない」と語った」など毎回物語の最後で中国の故事が引用され、チャンのキャラクターはそのステレオタイプを定着させた。フレッチャー・チャンは、ビガーズの小説のチャンは白人にこびへつらったりせず、『The Chinese Parrot 』ではチャンは差別に怒り、殺人犯が明かされた後、チャンは「おそらくチャイナマンの話を聞くのは恥なのであろう」と語る。 ==東アジア人男性== ===セックス・シンボル=== ハリウッド映画の初期の頃、早川雪洲などの東アジア人男性が魅了させていたが、嫉妬に遭うことがあった。 ===軟弱で魅力に欠ける男性像=== 1800年代中期、中国人労働者たちはアメリカ人が考える「女性の仕事」をしており、その外見から軟弱なイメージが存在していた。中国人労働者は中国で強制されていた辮髪を施し、絹の長い服を着ている者もいた。中国人男性は白人労働者の経済的脅威とされ、中国人が多くの「男性の仕事」に就くことを禁じる法案が可決され、当時中国人はクリーニング、料理人、保育士など白人が「女性の仕事」とみなす職業にしか就けなかった。 これはハリウッドで早川雪洲がセックス・シンボルとされていたことへの反動として広がっていったとされる。早川がハリウッドでセックス・シンボルとなり、見た目の良い彼が恋愛映画で主演して何百万人ものアメリカ人女性が早川との出会いを夢見て、彼の人気、セックス・アピール、贅沢な生活がアメリカ社会の白人や黒人の反発を招き、アジア人男性の容姿や魅力が劣るという差別的なステレオタイプが作り上げられ、黄禍論に発展していったとされる。 ドキュメンタリー『The Slanted Screen 』(2006年)の中で、フィリピン系アメリカ人監督Gene Cajayonは、『ロミオとジュリエット』を基にし、アリーヤがジュリエット役、ジェット・リーがロメオ役を務めたアクション映画『ロミオ・マスト・ダイ』(2000年)のエンディングの改訂について語った。オリジナルのエンディングではアリーヤが中国人俳優リーにキスをするのだが、都会の観客には合わなかった。そのため映画会社は固いハグに変更した。監督によると、アメリカでは東アジア人男性の性的なシーンを見るのを好まれない。アメリカのメディアではアジア人男性はフェミニン、あるいは性的なことを感じさせず描かれることが多い。 ===白人女性の敵=== 東アジア人男性は白人女性を脅かす存在に描かれることがある。20世紀になっても東アジア人男性は好色で攻撃的に描かれていた。ダイムノヴェルやメロドラマ映画において白人女性が奴隷にされることへの脅威が広められた。 第二次世界大戦前の1850年から1940年の間、大衆メディアやプロパガンダの双方で中国人役には人間味ある役、日本人役には兵隊の他、安全上の脅威や白人女性への性的危機を与える役で描かれた。女性の体はその民族の家や国のシンボルとして認知されていたのである。1916年の映画『Patria 』で、狂信的な日本人グループが白人女性をレイプするためにアメリカに侵略する。『Patria 』はウィリアム・ランドルフ・ハーストから資金提供を受けた自主映画であったが、ハーストの新聞社は黄禍論を公表したことで知られていた。その後アメリカは第一次世界大戦に突入していった。 『風雲のチャイナ(英語版)』では白人女性を騙す「オリエント」として描かれた。メーガン・デイヴィス(バーバラ・スタンウィック)が宣教師ロバート・ストライク(ギャヴィン・ゴードン)と結婚し、彼の仕事を助けるため中国に向かう。駅で離ればなれとなり、メーガンはエン将軍(ナイルス・アスター)により助けられるがそのままさらわれる。メーガンは亡くなったものと思われたが、エン将軍はメーガンに夢中になり別荘に監禁する。 ===女性蔑視=== 東アジア人男性はミソジニーで女性に対し無神経、無礼というステレオタイプもある。東アジア人男性は白人男性より男女同権であるという研究結果も出ているが、東アジア人男性は西洋のメディアでは男性優越主義者として描かれることが多い。これはマイケル・クライトン著『ライジング・サン』、映画『ウルヴァリン: SAMURAI』でも描かれている。エイミ・タン著『ジョイ・ラック・クラブ』は批評家の称賛を受けている一方、アジア人男性の差別的ステレオタイプが永続するとしてフランク・チンなどアジア系アメリカ人から批判されている。 ===東アジア人男性への認識の変化=== 近年東アジア人男性の描かれ方は伝統的ステレオタイプから変化してきている。テレビ番組『LOST』では国際色豊かになり、テレビでの東アジア人の描かれ方が多次元的、複合的になっていくことを推し進めている。 ==東アジア人女性== ===ドラゴン・レディ=== 東アジア人女性は攻撃的、性的日和見主義、金目当てで女の武器を使うと描かれることもある。西部劇の映画や文学でこのような狡猾な「ドラゴン・レディ」としての東アジア人女性が度々描かれている。ドラゴン・レディは「芙蓉娘」、「チャイナ・ドール」、「ゲイシャ・ガール」、戦争花嫁などの控えめなステレオタイプのイメージとは一線を画している。 近現代、ドラゴン・レディのステレオタイプはコメディ・ドラマ『アリー my Love』(1997年‐2002年)でルーシー・リュー演じるリン・ウーによって描かれた。リンは冷淡、残忍な中国語を話す中国系アメリカ人弁護士であり、アメリカで知られていない快楽の知識を持っている。当時、この役がテレビに登場する唯一の主要な東アジア人女性役で、このステレオタイプに抗議する者は誰もいなかった。そのためリン・ウーの描き方は学術的注目を浴びた。ワイオミング大学アジア系アメリカ学教授ダレル・ハマモトはカリフォルニア大学デービス校にてリンについて「ソファでリラックスしながら平凡で無気力な日常から一時的に逃れるため、白人男性が作り上げたネオ・オリエンタリストの自己満足的なファンタジー」としつつ、「東アジア系アメリカ人女性は簡単な女ではないと白人主義のアメリカに力強いメッセージを送った」と語った。近年、ルーシー・リューはリン・ウー役を演じたことによってこのステレオタイプを広めたとして非難されている。 ===チャイナ・ドール=== 「チャイナ(china)」には「中国」の他に「磁器」の意味がある。 作家シェリダン・プラッソによると、チャイナ・ドールのステレオタイプおよび従順な女性の様々なタイプはアメリカの映画に繰り返し登場している。「チャイナ・ドール、ゲイシャ・ガール、芙蓉娘タイプはおとなしく、素直、忠実、うやうやしい。女狐/ニュンペータイプはセクシー、コケティッシュ、操作的である。不実、日和見主義タイプ。売春/人身売買被害者/戦争/抑圧タイプは助けが必要な場合もある」。 20世紀、西洋での東アジア人女性のイメージは香港の女性を描いた1957年のイギリス小説および1960年のアメリカ映画『スージー・ウォンの世界』が基となった。1980年代、カリフォルニア大学バークレー校アジア系アメリカ学教授エレイン・キムは、東アジア人女性のおとなしいステレオタイプは経済変動を妨げると主張した。 他にイタリアのジャコモ・プッチーニ作曲、ルイージ・イッリカおよびジュゼッペ・ジャコーザ脚本による3幕物のオペラ『蝶々夫人』がある。日本人少女「蝶々さん」がアメリカ海軍士官ピンカートンと恋をし結婚する。ピンカートンは海軍の仕事を続けるために日本を離れ、その直後ピンカートンの知らぬ間に蝶々さんは出産する。蝶々さんはピンカートンが戻るのを心待ちにするが、ピンカートンは日本人女性との日本での婚姻を全く気にしていない。ピンカートンがアメリカ人妻を連れて日本に戻ると、自分と蝶々さんの間に子供がいることを知り、アメリカに連れ帰ることを提案する。傷心の蝶々さんは無慈悲なピンカートンに別れを告げ、自害する。 『蝶々夫人』は特に女性差別および人種差別の面で大きな批判を受けている。アメリカで最も多く上演されているオペラで、オペラ・アメリカが選ぶ北アメリカで最も多く上演されているオペラ20選の第1位となっている。2005年、シェリダン・プラッソは著書『The Asian Mystique: Dragon Ladies, Geisha Girls, & Our Fantasies of the Exotic Orient 』において、権威ある白人男性が東アジア人女性を支配下に置き、そして捨てて簡単に乗り換える、と記した。 1989年、『蝶々夫人』を基にし、クロード=ミシェル・シェーンベルクとアラン・ブーブリルの脚本によるミュージカル『ミス・サイゴン』が初演された。『ミス・サイゴン』も人種差別および女性差別で批判されている。アジア人男性、アジア人女性、そして女性像についての描き方で抗議を受けている。ブロードウェイ初演時、前売券売り上げ2500万ドルを記録した。 ===不運で不幸なアジア人女性=== 『Asian Women in Film: No Joy, No Luck 』(映画の中のアジア人女性: 不運、不幸、の意)の著者で芸術家のジェシカ・ハジドーンによると、ハリウッド映画の黄金時代のアジア人女性は受け身で従順に描かれ、「良い」アジア人女性は純真、服従的、無口、そして好色に描かれていた。例えば『スージー・ウォンの世界』などの映画では主役のアジア人女性が白人男性の性の対象として描かれている。スージーは男性から殴られることに愛情を感じる純朴な売春婦として描かれている。このような描かれ方はアジア系アメリカ人の印象に影響を与え、ステレオタイプの深部、自己概念、ステレオタイプの承認からの不利益な影響を与える可能性もある。さらにモデル・マイノリティとして「良い」アジア系アメリカ人のステレオタイプで描かれている現在のシチュエーション・コメディにおいても、アジア系アメリカ人は中流階級の白人アメリカ人が思い描くイデオロギーに沿って受け身で従順に描かれている。 ===タイガー・マザー=== 2011年1月、作家エイミー・チュアは中国系移民の典型的な親のタイプとして儒教に基づく育児法についての回想録『タイガー・マザー』を発表し、議論を巻き起こした。大規模な反発が起こりメディアの注目を浴び、世界中で育児法や文化の違いについての議論が起こった。さらにチュアは殺害予告、人種的中傷を受け、児童虐待を疑われた。ユダヤ人の母親や日本の教育ママとも似た典型的タイガー・マザーは、東アジア、南アジア、東南アジアの育児法を用いて子供を高成績、高学歴にさせようとする厳しい親であり、その結果、子供は社会的、身体的、精神的、感情的に損傷を受ける場合もある。 ==体格、身体的特徴のステレオタイプ== ダレル・Y・ハマモトはアメリカ社会にテレビや映画によって作り上げられた差別が浸透していると論じている。批評家たちは、アメリカのメディアは東アジア人の内眼角贅皮のある目を、好意的に「アーモンド型」、悪意的に「つり目」と表現するが、風刺としてマイナスのイメージを持たせていると批判している。さらに東アジア人は黄色または茶色っぽい肌色で描かれることも問題となっている。19世紀後期から20世紀初頭にかけて、北アメリカの白人ヨーロッパ人と有色のアジア系アメリカ人は否定的に比較されていた。東アジア人はストレートの黒髪を持ち、少年は坊ちゃん刈り、少女はおかっぱがステレオタイプとされている。文化、言葉、歴史、生理学上や行動学上でひとくくりにされがちである。東アジア人はほぼ例外なく、中国、日本、韓国のいずれかの出身と見なされる。また西洋に住む東アジア人には見た目を良くするため、そして西洋風に近づけるために整形手術をする者もいる。 文化評論家たちは、東アジア人は皆武術に長け、英語が話せず、運転が下手であるというステレオタイプも存在することを指摘している。また社交性に欠ける、あるいは逆にインドヨーロッパ語族などのように社交性に長けるというステレオタイプも存在する。また従順でおとなしく、知性があり、勤勉で、コンピューターに精通し、自分に厳しく、生産性があり、順法精神があり学力水準が高いとのステレオタイプもある。2010年、アジア系アメリカ人にはナードが多いと見なされる傾向があるという研究結果が出た。このステレオタイプは移民排斥の歴史によりイメージが低下したためとされる。 東アジア人は他の人種に比べて運動能力が低いというステレオタイプがある。これによりアメリカのプロ・スポーツ界において東アジア人は過小評価され、雇用の過程で差別が引き起こされる。2010年、プロのバスケットボール選手であるジェレミー・リンがNBAのドラフトでどのチームも指名しなかったのは人種が一因とされている。これについては『タイム』誌のスポーツ・ライターであるショーン・グレゴリーやNBAコミッショナーのデビッド・スターンなども主張している。2012年のアメリカの人口におけるアジア系アメリカ人の割合は6%であったが、NFLでは2%、MLBでは1.9%、NBAでは1%以下であった。 2人の研究者による心理的実験において、ステレオタイプに当てはまらず、職場で支配的な立場の東アジア人は同僚から歓迎されず、他の人種から否定的反応や嫌がらせを受ける可能性もあるという結果が出た。 ==関連項目== 中国人排斥法コピー商品武道の老師(ストックキャラクター)ハリウッドにおける東アジア人の描かれ方反中 =クリーブランド (オハイオ州)= クリーブランド(Cleveland)は、アメリカ合衆国オハイオ州北東部に位置する都市。エリー湖の南岸、ペンシルベニア州との州境から西へ約100km、州都コロンバスから北東へ約220kmに位置する。人口は396,815人(2010年国勢調査)で、全米で第45位、オハイオ州内ではコロンバスに次ぐ第2の都市である。クリーブランドを中心とするクリーブランド都市圏は人口2,077,240人、また、クリーブランドの南約60kmに位置し、タイヤの町として知られるアクロンや、その南にあり、プロフットボール殿堂で知られるカントンなどを含む広域都市圏は人口3,515,646人(ともに2010年国勢調査)を数える。 2010年の『フォーブス』紙の調査では、クリーブランドは、米国で最も惨めな都市に挙げられている。しかし、こうした評価はここ数年のもので、2005年の『エコノミスト』紙の調査では、クリーブランドはピッツバーグと並んで、全米で最も住みやすい都市の1つに挙げられている。また同年の別の号では、同誌はクリーブランドをアメリカ合衆国本土48州で最もビジネスミーティングに適した都市として挙げた。しかし、一部の地区における貧困層の集中や教育改善のための資金不足など、クリーブランドはなおも大きな問題に直面している。また、治安も大きな問題と化しており、2007年度の「全米危険な街ランキング」では第7位に挙げられるなど、数年で評価が一変している。2013年には10年近く誘拐監禁されていた女性3人が発見されるクリーブランド監禁事件が起こっている。 クリーブランドの住民は「クリーブランダー」とよく呼ばれる。初期においては、クリーブランドはThe Forest City(森の街)と呼ばれた。20世紀初頭に隆盛を迎えようとしていたとき、市はSixth City(第6の街)と呼ばれた。一方、市が衰退の一途をたどっていた1960年代から1970年代にかけては、Mistake on the Lake(湖岸の過ち)と呼ばれた。近年つけられた市の別名には、Metropolis of the Western Reserve(西部保留地のメトロポリス)、The New American City(新しいアメリカの街)、America’s North Coast(アメリカの北海岸)、C‐Townなどがある。 市は1796年、カヤホガ川がエリー湖に流れ込む河口の近くに創設され、いくつもの運河や鉄道の起点となる立地から工業都市として発展した。かつてはオハイオ州最大、全米でも上位10位以内に入る大都市であったが、1960年代以降、それまで市の経済を支えていた重工業は衰退し、市の地位も低下していった。工業の衰退に伴って、金融、保険、ヘルスケア産業などサービス業を主体とする経済に移行していった。また変わったところでは、クリーブランドはロックンロールの歴史においても重要な位置を占めている。1951年、クリーブランドのDJ、アラン・フリードはリズム・アンド・ブルースをロックンロールと呼び、若者にロックンロールを流行させた。エリー湖の湖畔にはロックの殿堂が建っている。 ==歴史== クリーブランドは1796年6月22日、現在のオハイオ州北部にあたるコネチカット州の西部保留地の首都として建設された。クリーブランドという地名はコネチカット西部保留地の設置者であるコネチカット土地会社を率いていたモーゼス・クリーブランド将軍(Moses Cleaveland)からつけられた。それゆえ、当時の地名はCleavelandという綴りであった。モーゼス・クリーブランドはパブリック・スクエアを中心とした近代的なダウンタウンの開発計画を見渡すとコネチカットに帰り、その後オハイオに戻ることはなかった。 クリーブランドに最初に入植したのはロレンゾ・カーターであった。カーターはカヤホガ川のほとりに小屋を建てた。クリーブランドは1814年12月23日に正式な村になった。1831年、新聞の見出しにCleavelandが1文字だけ入りきらないため、aが抜かれ、地名の綴りが現在のClevelandに変えられた。 近隣が湿地性の低地で、冬の寒さが厳しいにもかかわらず、湖岸に位置するクリーブランド一帯は将来有望な土地であった。1832年にオハイオ・エリー運河が完成すると、クリーブランド一帯は急成長を遂げていくようになった。この運河はエリー湖とオハイオ川を結び、エリー湖・オンタリオ湖・セントローレンス川を通ると大西洋へ、またオハイオ川・ミシシッピ川を通るとメキシコ湾へと、クリーブランドから両方の海への出口へとつなぐものであった。鉄道が開通すると、クリーブランドの成長はさらに進んだ。クリーブランドは1836年に市に昇格した。 1836年、カヤホガ川に橋が架けられ、それまで川の東岸だけが発展していた市が西岸のオハイオシティ方面にも広がっていった。1854年、それまで1つの独立した市であったオハイオシティはクリーブランドに合併された。クリーブランドは船で五大湖上を運ばれてきたミネソタ産の鉄鉱石と鉄道で運ばれてきたアパラチア産の石炭の両方が積み下ろされる地であった。そうした立地条件からクリーブランドでは鉄鋼産業や自動車産業が発達し、工業の中心地として発展していった。また、スタンダード・オイルの創設者ジョン・ロックフェラーは、このクリーブランドで成功し、富を築き上げた。 1920年にはクリーブランドは796,841人の人口を抱え、ニューヨーク(5,620,048人)、シカゴ(2,701,705人)、フィラデルフィア(1,823,779人)、デトロイト(993,678人)に次ぐ全米第5の都市になった。この頃、市は全国的に起こっていた革新運動の中心地で、地元では市長トム・L・ジョンソンを筆頭として運動が起こっていた。第20代大統領ジェームズ・ガーフィールドをはじめ、この頃のクリーブランドの多くの著名人は市の東に位置する、歴史的なレイクビュー墓地に埋葬されている。1936年と翌1937年の夏には、クリーブランド市制施行100年を記念して、エリー湖畔でグレート・レイクス博覧会が開催された。世界恐慌で大打撃を受けた市をよみがえらせると思われたこの博覧会は1936年の第1シーズンには400万人を、1937年の第2シーズンには700万人を動員した。会場跡地には、現在ではグレート・レイクス科学センター(1996年開館)やロックの殿堂(1995年開館)などが建ち、バーク・レイクフロント空港にも利用されている。 第二次世界大戦の終戦直後、クリーブランドはしばしの間ブームになった。スポーツにおいては、クリーブランド・インディアンスが1948年のワールドシリーズで28年ぶり2度目のワールドチャンピオンに輝いた。1950年代には、クリーブランド・ブラウンズが黄金時代を謳歌していた。実業界においては、クリーブランドは「全米で最も良い地」とされた。1949年には、クリーブランドは同年に始まったオール・アメリカ・シティ賞の第1回受賞都市に選ばれた。1950年には市の人口は914,808人でピークに達し、全米でも第7の規模であった。 しかし、1960年代に入ると市は凋落に転じた。市の経済を支えていた重工業は衰退し始め、住民は郊外へと移り住んでいった。全米の多くの主要都市で見られたホワイト・フライトやスプロール現象、人種間の緊張といった現象はクリーブランドでも例外ではなかった。1966年7月にはヒュー地区で暴動が起こり、1968年7月にはグレンビル地区で銃撃戦が起こった。これらの地区はいずれも市の東側に位置し、アフリカ系の住民が多い地域であった。1969年には、カヤホガ川の水面に浮いていた産業廃棄物に引火したことが原因で火事が起こった。財政も逼迫し、デニス・クシニッチが市政を執っていた1978年12月には、全米の主要都市では世界恐慌以来初の債務不履行に陥った。こうした公害や財政の悪化、地元スポーツチームの不振を引き合いに出し、メディアはクリーブランドをThe Mistake on the Lake(湖岸の過ち)と呼ぶようになった。 それ以来、市はその汚名を雪ぐために手を尽くしてきた。近年では官民協働、ダウンタウンの再建、都市再生がメディアにも評価されつつある。ジョージ・ヴォイノヴィッチ、マイケル・ホワイト両市長の下、都市圏の再生が進められ、とりわけダウンタウンの再生は目覚しいものであった。1994年、ダウンタウンにはジェイコブス・フィールドとガンド・アリーナからなるゲートウェイ・コンプレックスが完成した。その財源にはカヤホガ郡の酒税とタバコ税が充てられた。かつては港湾施設で占められていたノース・コースト・ハーバー地区にはロックの殿堂やクリーブランド・ブラウンズ・スタジアム、グレート・レイクス科学センターといった娯楽施設や文化施設が建った。メディアはクリーブランドをComeback City(復活の街)と称えるようになった。しかしその一方で、ダウンタウン近隣の住宅街、インナーシティの治安は依然として軒並み悪く、また市内の公立学校システムは重大な問題を抱えたままである。市では、経済成長、若いプロフェッショナル層の確保、ウォーターフロント地区の有効活用による収益向上の3つを優先度の高い事項として挙げている。 ==地理== クリーブランドは北緯41度28分56秒西経81度40分11秒に位置している。アメリカ合衆国統計局によると、クリーブランド市は総面積213.5km*8952*(82.4mi*8953*)である。このうち201.0km*8954*(77.6mi*8955*)が陸地で12.5km*8956*(4.8mi*8957*)が水域である。総面積の5.87%が水域となっている。エリー湖の湖岸線はカヤホガ川の河口を境に西へはサンダスキーに至るまでほぼ東西に延びている。一方、カヤホガ川河口の東側では北東‐南西方向に延びている。クリーブランドの市域はこのエリー湖の湖岸線に沿って南西‐北東方向に広がっているほか、南東方向にも広がっている。 エリー湖岸の標高は173mであるが、クリーブランドの市街地は不規則に形成された段丘の上に広がっている。段丘はカヤホガ川やビッグ川、ユークリッド川に分断されている。そのため湖から少し離れただけでも標高がかなり上がる。湖岸からわずか3kmほどに位置するダウンタウンのパブリック・スクエアは標高198mである。湖岸から8km離れたクリーブランド・ホプキンス国際空港は標高241mである。こうした地形のため、ダウンタウンの中心部からエリー湖岸やフラットなどカヤホガ河岸へ向かう道には急な坂が数多く見られる。また段丘の上を結ぶ橋と下を結ぶ橋が二重に架かっているところもある。カヤホガ川に架かるデトロイト・スペリオル橋は段丘の上のほうを結んでいるが、その下には別の、河岸に近いところを結んでいる橋が架かっている。 ===気候=== クリーブランドの気候は温暖で湿気の多い夏と寒い冬に特徴付けられる。またカナダからの寒気がエリー湖で湿気を増すため、クリーブランドの冬の降雪量は多く、ブリザードも吹く。雪は11月中旬から降り始め、エリー湖が氷結する1月下旬から2月上旬まで降り続く。降雪量は市内各所で大きく異なる。スノーベルトにかかる市の東部ではひと冬の降雪量が100インチ(254cm)を超えることも珍しくないが、市の南西にあり、スノーベルトからは外れるホプキンス国際空港では、降雪量100インチに達したことは1968年以降3度しかない。 クリーブランドにおける観測史上最高気温は1988年6月25日に記録された摂氏40度、最低気温は1994年1月19日に記録された氷点下29度である。平年では、最も暖かい7月の平均気温は摂氏23度、最も寒い1月の平均気温は氷点下2度である。年間降水量は約990mm、年間降雪量は約170cmである。ケッペンの気候区分では、クリーブランドは計算上は温暖湿潤気候(Cfa)に合致するが、エリー湖の南岸をはじめ、五大湖周辺に広く分布する冷帯湿潤気候(Dfa)に含められている。 ==都市概観== クリーブランドのダウンタウンに建つ建物の建築様式は様々である。市庁舎やカヤホガ郡地方裁判所、クリーブランド市立図書館、クリーブランド市営講堂など、クリーブランド市政府や公共の建物の多くは20世紀初頭に建てられた新古典主義建築で、ちょうどワシントンD.C.のように、中心部からエリー湖に向かって延びるモールと呼ばれる緑地の周囲に建ち並んでいる。都市美運動の影響を受け、1903年に立案されたグループ・プランの結果できあがった、クリーブランドのモールは全米でも最も完成度の高い都市美観設計の一例となった。モールは1975年に国家歴史登録財に指定された。 クリーブランドのシンボルであるターミナル・タワーは、1930年に完成したボザール様式の超高層ビルである。52階建て、高さ216mのこのビルは1967年まではニューヨーク以外では最も高く、また1991年まではクリーブランドで最も高いビルであった。その名が示す通り、ターミナル・タワーは当時鉄道のターミナルであったユニオン駅の真上に建てられたビルであった。現在では駅としての機能はRTAのターミナルとしてのみに限られている。このターミナル・タワーと周囲のホテルやショッピングモールをあわせてタワー・シティ・センターという複合施設になっている。ターミナル・タワーよりも後に立てられた超高層ビルとしては、1991年に完成し、全米16位、オハイオ州では最も高い建物であるキー・タワー(57階建て、289m)や、ダウンタウンの立て直しが始まった頃、1981年に完成したBPビル(45階建て、201m)がある。これらの超高層ビルはポストモダン建築をベースにし、アール・デコの要素を取り入れている。1890年に建てられたビクトリア様式のクリーブランド・アーケードは、オールド・アーケードとも呼ばれる、ダウンタウンに残る歴史的建築物のひとつである。クリーブランド・アーケードは2001年に改装され、ハイアット・リージェンシー・ホテルとして再生した。 ダウンタウン中心部のパブリック・スクエアから市東部約8kmのユニバーシティ・サークルへと走るユークリッド・アベニューは、1860年代から1920年代にかけてはエルムの街路樹と豪邸が並ぶ、美しい通りであった。1880年代後半、紀行文作家ベイアード・テイラーはユークリッド・アベニューを「世界で最も美しい通り」と描写した。「百万長者の通り」として知られたユークリッド・アベニューには、ジョン・ロックフェラー、マーカス・ハンナ、ジョン・ヘイなどが邸宅を構えていた。ユニバーシティ・サークルはクリーブランドきっての文教地区で、ケース・ウェスタン・リザーブ大学をはじめ、ユニバーシティ・ホスピタル、シビランス・ホール、クリーブランド美術館、クリーブランド自然史博物館、ウェスタン・リザーブ歴史協会といった文化施設、教育機関、医療機関が集中している。 クリーブランドを取り囲むようにクリーブランド・メトロパーク・システムの公園群があり、クリーブランド市域内にも同システムの下で運営されている公園4つがある。ビッグ・クリーク川沿いにはそのうちの1つとなる動物園、クリーブランド・メトロパークス動物園がある。同園はサル目の飼育個体数では全米一である。またメトロパーク・システムのほか、エリー湖畔にはクリーブランド・レイクフロント州立公園が設置されている。市の北東側のエリー湖畔には、19世紀末から湖畔公園として賑わったユークリッド・ビーチ・パーク(1895年開園、1969年閉園)があった。市の東側にあるロックフェラー公園の園内には、市内の民族グループに敬意を表してつくられた多数の文化園がある。 ダウンタウンの西側には、フラットやウェアハウス・ディストリクトの各地区が広がっている。フラットはカヤホガ川両岸の低地一帯、ウェアハウス・ディストリクトはカヤホガ川東岸の段丘の上に広がる地区である。かつてはその名が示す通り倉庫街であったが、1990年代に入ると空き倉庫はコンドミニアムやアパート、レストラン、バー、ナイトクラブなどに改装され、姿を変えた。1990年代にはフラット(特にカヤホガ川東岸)で、2000年代に入るとフラットのカヤホガ川西岸やウェアハウス・ディストリクトでこうした変動が盛んに起こった。 クリーブランドの住民はしばしば、カヤホガ川の東側・西側どちら側に住んでいるかで、それぞれ「イースト・サイド」「ウェスト・サイド」と分類する。クリーブランド市内の各地区をイースト・サイド/ウェスト・サイドに分けると、概ね以下のようになる。 ===イースト・サイド=== バックアイ=シェーカー・スクエア(Buckeye‐Shaker Square)セントラル(Central)コリンウッド(Collinwood)コーレット(Corlett)ユークリッド=グリーン(Euclid‐Green)フェアファックス(Fairfax)フォレスト・ヒルズ(Forest Hills)グレンビル(Glenville)ペイン/グッドリッチ=カートランド・パーク(Payne/Goodrich‐Kirtland Park)ヒュー(Hough)キンズマン(Kinsman)リー・ハーバード/セビル=マイルズ(Lee Harvard/Seville‐Miles)リトルイタリー(Little Italy)マウント・プレザント(Mount Pleasant)ノッティンガム(Nottingham)セントクレア=スペリオル(St. Clair‐Superior)ユニオン=マイルズ・パーク(Union‐Miles Park)ユニバーシティ・サークル(University Circle)ウッドランド・ヒルズ(Woodland Hills) ===ウェスト・サイド=== ブルックリン・センター(Brooklyn Centre)クラーク=フルトン(Clark‐Fulton)カデル(Cudell)デトロイト=ショアウェイ(Detroit‐Shoreway)エッジウォーター(Edgewater)オハイオシティ(Ohio City)オールド・ブルックリン(Old Brooklyn)ストックヤーズ(Stockyards)ウェストボールバード(West Boulevard)ウェストパーク(West Park) ‐ 以下4地区の総称 カムズ・コーナーズ(Kamm’s Corners) ジェファーソン(Jefferson) ピュリタス=ロングミード(Puritas‐Longmead) リバーサイド(Riverside)カムズ・コーナーズ(Kamm’s Corners)ジェファーソン(Jefferson)ピュリタス=ロングミード(Puritas‐Longmead)リバーサイド(Riverside)また、カヤホガバレーにかかるインダストリアルバレー/ダック・アイランド(Industrial Valley/Duck Island)、スラビック・ビレッジ(Slavic Village)、トレモント(Tremont)の3地区は「サウス・サイド」と呼ばれる。 近年では、インナーシティに属する各地区ではジェントリフィケーションが進みつつある。ウェスト・サイド、イースト・サイドの両方で、ニューヨークのソーホーのようにクリエイティブ層の取り込みに成功し、新たな住宅開発を進める原動力となっている。また、イースト・サイドの近接地区においては、居住地区と勤務地区が重なっていることも、古い工業用建造物を芸術家たちのロフトスペースに転用することを促進する要因になっている。 ==政治== クリーブランドが工業の中心地として発展した背景には、もとより革新・進歩の気風が強く、初期においては労働組合の活動が活発であったことが大きく影響している。オハイオ州内の他地域、特にシンシナティなど州南部は概ね保守的で、共和党の勢力が強いのに対し、クリーブランドは民主党の勢力が強い。クリーブランドはアメリカ合衆国下院のオハイオ第10選挙区と第11選挙区に属するが、2006年の選挙では両方とも民主党が議席を獲得している。2004年の大統領選においては、オハイオ州を獲得したのはジョージ・W・ブッシュであったが、クリーブランドを含むカヤホガ郡ではジョン・ケリーの得票率が非常に高く、有効投票の2/3にのぼった。 クリーブランドは市長制を採っている。市長は市の行政の最高責任者であり、強力な権限を有している。1924年に一旦はシティー・マネージャー制が採用されたが、1931年にもとの市長制に戻った。市議会は21名の議員からなり、その任期は4年である。市は21の地区に分けられ、各地区から1人ずつの議員が選出される。市議員の定員は時代とともに減少しており、1885年には50名であったが、1960年代に33名に減り、1981年以降は21名になった。 クリーブランドは、長年に渡り犯罪や公害、汚職の町として知られ、「湖畔の過ち」との呼び名もあるが、2014年時点では過去10年の行政の取り組みにより活気を取り戻しつつある。 ==経済== カヤホガ川がエリー湖に流れ込むクリーブランドの立地は市の成長の鍵となる要因であった。オハイオ・エリー運河が完成し、鉄道網が発達すると、全米有数の工業都市として発展を遂げていくようになった。クリーブランドには製鉄業をはじめ、さまざまな製造業が興った。1914年にはクリーブランド連邦準備銀行が設置され、この地域における経済の中心地としての地位を確立した。クリーブランド連邦準備銀行はオハイオ州全域、ペンシルベニア州西部、ケンタッキー州東部、およびウェストバージニア州北部にわたる第4地区を管轄している。クリーブランド連邦準備銀行で発行された米ドル紙幣には、旧札であれば肖像の左側にDと、新札(1996年版)であれば左上の発券番号のすぐ下にD4と印刷されている。これはクリーブランド連邦準備銀行がカバーする第4地区を表している。 しかし20世紀後半になるとそれまで市の経済を支えてきた製造業の地位は低下し、商業や金融業、サービス業が市の経済の主体となっていった。クリーブランドには中西部を中心に展開し、アメリカ10大市中銀行の1つに数えられるナショナル・シティ・コープをはじめ、アメリカン・グリーティングス、イートン、フォレスト・シティ・エンタープライゼズ、シャーウィン・ウィリアムズ、キー・バンクといった企業が本社を置いている。1893年にクリーブランドで創立した世界有数の法律事務所ジョーンズ・デイは、現在でもクリーブランドに本部を置いている。その一方で、TRW、オフィス・マックス、BPなど、数多くの企業の本社が近年クリーブランドから移転・消滅した。その多くは市外の企業による吸収・合併によるものであった。2006年には、デューク・リアリティ社がクリーブランドにおける商用不動産市場の不振を理由に、クリーブランド都市圏の不動産をすべて売却した。 クリーブランド最大の雇用主であるクリーブランド・クリニックは、USニューズ&ワールド・レポート誌による病院ランキングでは全米でもっとも優れた病院の1つに数えられている。このほか、クリーブランドにはがん治療で高い評価を受けているユニバーシティ・ホスピタルズ・オブ・クリーブランドが本部を置き、メトロヘルスの医療センターがある。 クリーブランドでは2000年代に入ってハイテク産業も発展してきており、市の経済・産業の再生の鍵となっている。NASAはクリーブランドにグレン研究センターを置いている。またバイオテクノロジーと燃料電池の研究においては、クリーブランドは急速に発展しつつある。これらの分野の研究を支えているのはケース・ウェスタン・リザーブ大学(後述)、クリーブランド・クリニック、およびユニバーシティ・ホスピタルズ・オブ・クリーブランドである。クリーブランドにおけるバイオテクノロジーの立ち上げと研究への投資額は中西部でもトップクラスで、2007年度の第1四半期には12社が合計8350万ドルを投資した。ケース・ウェスタン・リザーブ大学、クリーブランド・クリニック、ユニバーシティ・ホスピタルの3者は、共同で大規模なバイオテクノロジー研究センターとインキュベーターを設立する計画を進めている。マウント・シナイ医療センター跡地を利用し、研究キャンパスを設立するこの計画は、クリーブランドにおける研究の成果を形にする企業の育成も視野に入れている 先端技術を用いたインフラの整備も進んできている。ワンコミュニティ(OneCommunity)と呼ばれる、クリーブランドおよびオハイオ州北東部の主要な研究施設を光ファイバーネットワークで結ぶプロジェクトは、ケース・ウェスタン・リザーブ大学の技術的なイニシアチブの下に進められている。さらにワンコミュニティ・ネットワークはシスコシステムズと協働し、地域一帯にワイヤレスネットワークを張り巡らせる計画も進めている。この計画は、シスコのワイヤレス「メッシュ」ネットワークという新しい技術のテストも兼ねている。既に第1フェイズは2006年9月に正式に始まっており、ユニバーシティ・サークル地区ではワイヤレスネットワークへの接続が可能になった。シスコシステムズは1999年に高速ワイヤレス技術を持つAironetを買収しており、同社のワイヤレスネットワーク機器とクリーブランド地域一帯の施設をワイヤレスネットワーク構築のために利用できるようになっていた。 ==交通== ===空港=== クリーブランドの玄関口となる商業空港はダウンタウンの南西17km、クリーブランド市域の南西端に位置するクリーブランド・ホプキンス国際空港(IATA: CLE)である。同空港はユナイテッド航空(旧コンチネンタル航空)のハブ空港である。同空港はI‐71とI‐480の2本の州間高速道路が交わるジャンクションの南西角に位置する。1925年開港の同空港は全米で最も早くに開港した市営空港のひとつである。1930年代には滑走路に誘導灯が設置され、管制塔が建てられた。いずれも全米の空港で初であった。1968年にはクリーブランド地下鉄が延伸され、同空港に乗り入れたことにより、全米で初めて空港と市街地とが地下鉄で結ばれた空港となった。 ダウンタウンのエリー湖岸にはバーク・レイクフロント空港(IATA: BKL)がある。チャーター機やエアタクシー、自家用機などゼネラル・アビエーションの空港である。発着する航空機は主にビジネスジェットであるが、エアタクシーも年間20,000機以上発着している。エアタクシーは主にシンシナティやデトロイトへと飛んでいる。また同空港は、毎年開かれるチャンプカー・ワールド・シリーズのグランプリ・オブ・クリーブランドや航空ショーの会場にもなっている。 ===鉄道=== クリーブランド駅はクリーブランド・メモリアル・ショアウェイ200にある。クリーブランド駅には アムトラックのシカゴ‐ニューヨーク・ボストン間の夜行長距離列車レイクショア・リミテッド号、シカゴ‐ワシントン間の夜行長距離列車キャピトル・リミテッド号がそれぞれ1日1往復停車する。 ===公共交通=== クリーブランドの公共交通機関は大クリーブランド地域交通局(Greater Cleveland Regional Transit Authority、RTA)の運営する3路線のクリーブランド地下鉄および100系統以上の路線バスによってカバーされている。クリーブランド地下鉄は、実際には地下にトンネルが掘られているのはダウンタウンのごく一部分の区間のみで、ほとんどは地上を走っている。クリーブランド・ホプキンス国際空港やユニバーシティ・サークル地区につながるレッドラインはフル規格の電車であるのに対し、ブルーラインとグリーンラインはライトレールである。これら3路線はタワー・シティ・センターの地下にあるターミナルをハブとしている。地元では単に「高速交通」(The Rapid)と呼ばれている。これに加え、RTAは「シルバー・ライン」という急行路線バスシステムの建設を進めている.。このシルバー・ラインはダウンタウンのパブリック・スクエアからユークリッド・アベニュー上を走り、ユニバーシティ・サークルを通ってイーストクリーブランドに至る。シルバー・ラインは2008年中に開業する予定になっている。 ===道路=== クリーブランド市内ではI‐71、I‐77、I‐90の3本の州間高速道路が交わる。I‐71はクリーブランドとコロンバス、シンシナティのオハイオ州3大都市を結ぶ、州で最も重要な道路である。I‐77はクリーブランドとアクロンを結び、さらに南下してオハイオ州北東部および東部においては幹線的な役割を果たしている路線であるが、これらの3本の中では最も混雑率が軽微である。I‐90はボストンからシアトルまで、大陸を東西に横断する幹線であり、I‐71とI‐77の両方の北の終点になっている。I‐80の支線であるI‐480はクリーブランドの南の外郭環状線になっている。I‐90の支線であるI‐490はI‐480よりも内側を走るバイパス路線で、I‐71がI‐90に合流するジャンクションとI‐77とを結んでいる。これらの州間高速道路にはグレイハウンドのバスが通っている。グレイハウンドのバスターミナルはクリーブランドのダウンタウン、シアター・ディストリクトのプレイハウス・スクエアの裏手に立地している。 このほか、ダウンタウンのエリー湖岸にはクリーブランド・メモリアル・ショアウェイが走っている。この高速道路は1930年代に完成したもので、1936年にはグレート・レイクス博覧会への交通手段として既に供用されていた。この道路は正式にはオハイオ州道2号線となっているが、国道6号線、国道20号線、さらには州間高速道路I‐90も部分的に兼ねている。しかし、レイクフロント空港の東側にあるI‐90との分岐点以西は他の高速道路とつながっていないため交通量が少なく、有効に利用されていないため、2009年以降は順次レイクフロント・ボールバードという一般道路に置き換えられる予定になっている。 ==教育== クリーブランドを含むオハイオ州北東部はオハイオ州内で最も高等教育機関の充実した地域である。中でも1880年創立のケース工科大学と1826年創立のウェスタン・リザーブ大学を前身とするケース・ウェスタン・リザーブ大学はクリーブランドを代表する一流私立大学で、特に工学と経営学で高い評価を受けており、市のハイテク産業の発展にも大きく寄与している。その研究水準は高く評価されており、USニューズ&ワールド・レポート誌の大学ランキングでは常に上位50位以内、オハイオ州内の全総合大学の中でトップである。2007年度版では38位であった。同学は市の東にあるユニバーシティ・サークル地区にキャンパスを構えている。同学のウェザーヘッド経営大学院の校舎であるピーター・B・ルイス・ビルディングは、2002年に完成したフランク・ゲーリー設計の建物で、観光名所にもなっている。 ユニバーシティ・サークル地区にはケース・ウェスタン・リザーブ大学のほか、クリーブランド美術学校、クリーブランド音楽学校、オハイオ足病治療術学校がキャンパスを置いている。一方、1964年創立、約15,000人の学生を抱えるクリーブランド州立大学はダウンタウンに高層ビルの校舎を持つ都市型大学である。ダウンタウンには2年制のカヤホガ・コミュニティ・カレッジのメトロポリタン・キャンパスもある。ビジネスに特化した4年制の単科大学、マイヤーズ大学もダウンタウンにキャンパスを置いている。南西郊のオベリン市にはオハイオ州きっての一流リベラルアーツ・カレッジ、オベリン大学がキャンパスを置いている。1833年創立の同学は全米のリベラルアーツ・カレッジの中で常に上位25位以内にランクされている。また、同学は全米最初の男女共学校(創立当初より)、全米最初の白人・有色人種共学校(1835年に有色人種の入学を許可)として知られている。日本の桜美林大学の校名はこのオベリン大学に由来している。 一方、クリーブランドにおける初等・中等教育事情は極めて厳しい。クリーブランドのK‐12課程はクリーブランド・メトロポリタン公立学区の公立学校によって支えられている。同学区はオハイオ州最大の公立学区で、127の公立学校を有し、55,000人以上の児童・生徒が在籍している。同学区は幼稚園から8年生までの園児・児童・生徒には制服の着用を義務付けている。また、同学区はオハイオ州内で唯一、市長の管理下に置かれている学区である。市長は教育委員会を設置している。市の人口の激減とチャーター・スクール等の台頭によって、同学区では学力低下が問題視されるようになり、様々な対策が取られた。その結果学力は2000年代中盤に入ってようやく改善に向かいつつあり、卒業率も向上してきているが、慢性的な資金不足もあり、依然としてクリーブランドにおける公教育事情は厳しい。 ==文化== ===芸術と文化施設=== クリーブランドのダウンタウン、ユークリッド・アベニュー沿いに立地するプレイハウス・スクエア・センターは、ニューヨークのリンカーン・センターに次いで全米第2の規模を持つ演技芸術施設である。プレイハウス・スクエア・センターにはステート・シアター、パレス・シアター、アレン・シアター、ハナ・シアター、オハイオ・シアターなどの劇場があり、一帯はシアター・ディストリクトと呼ばれている。プレイハウス・スクエア・センターにはクリーブランド・オペラ、オハイオ・バレイ、グレート・レイクス・シアター・フェスティバルが本部を置いている。また、同センターではブロードウェイのミュージカルの公演やスペシャルコンサートも執り行われる。クリーブランドの公共放送の本部となっているワン・プレイハウス・スクエアは、もとはWJWラジオのスタジオで、DJを務めていたアラン・フリードが初めて「ロックンロール」という語を世に広めた場所でもある。プレイハウス・スクエア・センターとユニバーシティ・サークルの間にはクリーブランド・プレイハウスとカラム・ハウスがある。クリーブランド・プレイハウスは1915年に建てられた全米最古の地域劇場である。クリーブランド・プレイハウス同様1915年に建てられたカラム・ハウスはアフリカン・アメリカンの演技芸術・美術センターで、国家歴史登録財に指定されている。同劇場は特にラングストン・ヒューズの作品を多数演じた。 クリーブランドはアメリカ5大オーケストラの1つに数えられるクリーブランド管弦楽団の本拠地である。1918年に創設された同オーケストラは5大オーケストラの中では最もヨーロッパ的なオーケストラであるとされ、世界でも屈指の実力を有するオーケストラである。同オーケストラは冬の間はユニバーシティ・サークルにあるシビランス・ホールで公演を行っている。1931年に完成したこのシビランス・ホールは、外観は他のクリーブランドの主要建築物にあわせて新古典主義建築様式で造られたが、そこにニューヨークの彫刻家ヘンリー・ヘリングによって制作されたアール・デコ調のペディメントがつけ加えられた。内装は様々な様式が混在しており、メインロビーはエジプト・リバイバル調とジョージア調の混成であるのに対し、講堂の天井や柱はアール・デコ調で造られている。一方夏の間は、同オーケストラはこのシビランス・ホールではなく、南郊の(実際にはアクロンにかなり近い)カヤホガフォールズのカヤホガバレー国立公園内にあるブロッサム・ミュージック・センターで公演を行っている。 クリーブランドには著名な美術館が2つある。1つはユニバーシティ・サークルにあるクリーブランド美術館である。1913年に建てられたこの美術館は常設展示作品数40,000点におよび、その制作年代は古代から現代までの6,000年の範囲にわたり、コロンブス来航以前のアメリカ大陸や中世ヨーロッパ、さらには東洋美術の作品も展示している。もう1つのクリーブランド現代美術館(MOCA)は、その名称が示す通り展示する作品を現代美術作品に絞り、評価の定まった、あるいは急成長中の芸術家による作品を主に展示している。常設展示物としては、アンディ・ウォーホル、クリスト、クレス・オルデンバーグらの作品が展示されている。また、同館には地元クリーブランド都市圏をはじめとするオハイオ州北東部出身の芸術家に目を向け、その作品を展示するコーナーも設けられている。 近年の再開発の一環として、エリー湖岸のノース・コースト地区にも文化施設が設置されるようになってきている。イオ・ミン・ペイの設計によるロックの殿堂は1995年に開館した。その近隣には1996年に開館したグレート・レイクス科学センターや、クリーブランド・クリフス社の旗艦であった蒸気船、ウィリアム・G・マザー号を改装したウィリアム・G・マザー海事博物館もある。第二次世界大戦で活躍したガトー級潜水艦、コッド号も1975年からクリーブランド港で博物館として一般公開されている。 ===スポーツ=== クリーブランドにはMLB、NFL、NBA、NHLの北米4大プロスポーツリーグのうち、NHLを除く3リーグがチームを置いている。MLBのクリーブランド・インディアンスは1901年にアメリカン・リーグが発足したときにリーグを構成していた8球団のうちの1つである。創設当時はクリーブランド・ブルースというチーム名であった。現在のインディアンスというチーム名に改められたのは1915年のことであった。インディアンスは1920年と1948年の2度ワールドシリーズで優勝している。1954年にはチーム史上最多の111勝を挙げてリーグ優勝したものの、ワールドシリーズではサンフランシスコ・ジャイアンツに0‐4で敗れた。1960年代に入ると、市の低迷と並行するようにチームは30年以上にわたって低迷を続けた。1960年から1993年までの34シーズンの間、勝率5割を上回ったのはわずかに6シーズンで、勝率3割台に落ち込んだことも5シーズンあった。映画「メジャーリーグ」は、不振にあえぐインディアンスを題材として制作された。その後チームは新設されたジェイコブス・フィールドに本拠を移し、快進撃が始まった。1995年に41年ぶりのリーグ優勝を飾り、1997年、2016年にもワールドシリーズに出場した。ただし、ワールドシリーズでは1995年の対アトランタ・ブレーブス、1997年の対フロリダ・マーリンズ、2016年の対シカゴ・カブスのいずれも敗れており、最後に優勝したのは1948年ということになる。1995年から2001年にかけては、ジェイコブス・フィールドでのインディアンスのホームゲームは455試合連続完売となった。これは2008年にボストン・レッドソックスに破られるまでの間メジャーリーグ記録だった。この記録に対するファンへの感謝の証しとして、インディアンスは背番号455を永久欠番とし、選手名をThe Fansとしている。2008年、クリーブランド郊外のメイフィールド・ビレッジに本社を置く自動車保険会社、プログレッシブが命名権を獲得したため、ジェイコブス・フィールドは「プログレッシブ・フィールド」という名に改められた。 NFLのクリーブランド・ブラウンズは1946年にAAFCのチームとして創設された。設立当初からAAFCでは圧倒的に強く、1950年にNFLに合流してからも、しばらくは隆盛が続いた。1950年、1954年、1955年、1964年にはNFLチャンピオンに輝いた。ただし、4度のタイトルはすべてスーパーボウルが創設される前のものであり、スーパーボウルへの出場経験はない。1996年にはブラウンズをボルチモア移転が一旦は決まった。しかし、移転に対しては地元ファンの猛反対などもあったため、この問題は法廷に持ち込まれた。NFL、ブラウンズ、クリーブランド市当局、ボルチモア市当局を巻き込んだこの法廷での裁定により、ボルチモアへ移転したチームは新チームのボルチモア・レイブンズとし、ブラウンズは3年間の「活動休止」に置かれた後、活動休止期間中に新スタジアムを建設し、再開した新チームがブラウンズの歴史を引き継ぐという形になった。1999年、ミュニシパル・スタジアムの跡地に新しく完成したクリーブランド・ブラウンズ・スタジアムを本拠とする新ブラウンズが活動を「再開」し、現在に至っている。しかし、新チームには往時の勢いはなく低迷しており、勝率5割を上回ったのは2002年と2007年の2シーズンのみである。2017年には、レギュラーシーズン16戦全敗という、2008年のデトロイト・ライオンズ以来NFL史上2チーム目となる不名誉な記録を残した。 NBAのクリーブランド・キャバリアーズは1970年に創設された。創設当初は弱く、勝率4割にすら届かないようなシーズンが続いた。1976年にはカンファレンス決勝に進出したものの敗退、その後しばらくはまた低迷した。1980年代中盤から1990年代にかけては、マイケル・ジョーダン率いる黄金期のシカゴ・ブルズの壁に悩まされ、シーズンでは安定した成績を残してプレーオフには出場するものの1回戦で敗退するシーズンが続いた。1994年には野球のジェイコブス・フィールドと共にダウンタウンに新設されたガンド・アリーナ(ともに当時の名称)に本拠を移した。2000年代に入ると三たび低迷し、2002‐03年のシーズンには17勝65敗、勝率.207に終わった。しかしこの低成績のため2003年のNBAドラフト1位指名権を獲得し、地元北東オハイオ、アクロン出身のレブロン・ジェームズを1位指名・獲得した。やがてチームは快進撃を始め、2007年にはチーム史上初のNBAファイナルに出場した。この快進撃の最中、2005年にガンド・アリーナはクイックン・ローンズ・アリーナという名に改められた。2010年にジェームズを手放すとチームは低迷したが、2014年にジェームズが復帰、翌2015年には再びNBAファイナル進出を、そして2016年には初優勝を果たした。クリーブランドのプロスポーツチームが優勝するのは、1964年のブラウンズ以来52年ぶりであった。 クリーブランドにはクリーブランド・ロッカーズというWNBAのチームもあった。ロッカーズは1997年にWNBAが創設されたときにリーグを構成していた8チームのうちの1つであったが、2003年にオーナーがチームを手放し、そのまま消滅した。 また、アリーナ・フットボールAFLのクリーブランド・グラディエーターズもクイックン・ローンズ・アリーナを本拠地とする。 ===メディア=== クリーブランドで購読されている日刊の新聞はクリーブランド・プレイン・ディーラー(The Plain Dealer)である。かつてはクリーブランド・ニュースやクリーブランド・プレスという新聞もあったが、前者は1960年、後者は1982年に休刊となり、プレイン・ディーラーが唯一クリーブランドに残る日刊新聞社となった。クリーブランドにはこのほか、フリー・タイムズやクリーブランド・シーンといった週刊の新聞がいくつかある。 2006‐2007年のニールセン・メディア・リサーチ社による調査では、クリーブランド・アクロンは全米第17位のテレビ放送市場であるとされた。クリーブランドにはABC、CBS、FOX、NBCの4大ネットワーク各局が支局を置いているほか、MyNetwork、The CW、ION、ユニビジョンの支局も置かれている。PBSはクリーブランドに会員局2局を置いている。ABCの加盟局、WEWSで1972年から放送されている朝の情報番組に The Morning Exchangeがある。この番組の成功により、1975年にABCはこの番組を基にし、全米ネットでグッド・モーニング・アメリカの放送を開始した。 クリーブランドにはAM・FM合わせて43局のラジオ局が置かれている。これに加え、オハイオ州北東部の他都市・町村に局を置く多くのラジオ局もクリーブランドをカバーしている。 ==人口動態== 1960年代から1970年代にかけてのホワイト・フライトや郊外化により、クリーブランドの人口は激減し、急速に衰退した。連邦最高裁判所がクリーブランドの学校に差別撤廃に向けたバス通学を義務付けたことが、市の衰退をさらに加速させた。1990年代にいわゆる「強制バス通学」は終わったものの、クリーブランドは貧困に傾き続け、2004年には全米で最も貧しい大都市であるとされた。クリーブランドは2006年に貧困率32.4%を記録し、再び全米で最も貧しい大都市に指名された。 クリーブランドの住民を祖先グループ別に見ると、最も多いのはドイツ系(9.2%)で、アイルランド系(8.2%)、ポーランド系(4.8%)、イタリア系(4.6%)、イギリス系(2.8%)が続く。また、ハンガリー系、アラブ系、ユダヤ系、ルーマニア系、チェコ系、スロバキア系、ギリシア系、ウクライナ系、アルバニア系、クロアチア系、セルビア系、リトアニア系、スロベニア系、韓国系、中国系のコミュニティが存在するなど、クリーブランドは民族の多様性に富んでいる。特にハンガリー系はクリーブランド市域内に大規模なコミュニティを形成しており、その規模はブダペスト以外では世界最大とも言われている。またポーランド系住民が多いため、市内にはポーランド大聖堂様式の教会堂もいくつか建っている。そういった教会堂の中には国家歴史登録財に指定されていたり、観光名所になっていたりするものもある。 ===都市圏人口=== クリーブランドの都市圏、および広域都市圏を形成する各郡の人口は以下の通りである(2010年国勢調査)。 ===クリーブランド・エリリア都市圏=== ===クリーブランド・アクロン・カントン広域都市圏=== ===市域人口推移=== 以下にクリーブランド市における1840年から2000年までの人口推移をグラフおよび表で示す。 ==姉妹都市== クリーブランドは以下20都市と姉妹都市提携を結んでいる。 アレクサンドリア(エジプト) イバダン(ナイジェリア) ウェストメイヨー(アイルランド) グダニスク(ポーランド) クライペダ(リトアニア) クリーブランド(イングランド) コナクリ(ギニア) 台北市(台湾) ハイデンハイム・アン・デア・ブレンツ(ドイツ) バヒルダル(エチオピア) バンガロール(インド) フィエル(アルバニア) ブラショフ(ルーマニア) ブラチスラバ(スロバキア) ボルゴグラード(ロシア) ホロン(イスラエル) ミシュコルツ(ハンガリー) メアングエラ(エルサルバドル) リマ(ペルー) リュブリャナ(スロベニア) =平安座島= 平安座島(へんざじま)は、沖縄県うるま市に属する島で、沖縄諸島の内、与勝諸島を構成する太平洋の有人島である。沖縄本島中部の東部海岸に突出する勝連半島の北東約4kmに位置する。 ==地理== 面積5.44km、周囲約7km、標高115.6mの低平な島で、2012年4月現在の島内人口は1,364人である。埋立て以前の平安座島は北東 ‐ 南西方向の長軸を持つ楕円形状の地形に加え、島に形成された砂嘴の部分となる。面積2.79km、周囲7.13kmの琉球石灰岩で覆われた台地状の島であったが、平安座島と宮城島間の「ダネー水道」と呼ばれる海域が、石油備蓄基地の建造により埋立てられた。島周辺のほとんどは急斜面を成し、砂嘴上に集落を形成している。沖縄本島南部の知念半島から伊計島まで伸びるサンゴ礁群の一つで、中城湾と金武湾を囲む堤防のような役割を果たしている。平安座島一帯の海域は「与勝海上政府立公園」として、1965年(昭和40年)10月1日に指定されたが、本土復帰直前の1972年(昭和47年)4月18日に取り消された。 平安座島は「平安座(へんざ)」と「平宮(ひらみや)」の大字で構成される。後者は1974年に埋立地に新設された字名で、平安座島と宮城島両島の頭文字を取って名付けられた。当初の平安座島は勝連間切の所属で、1687年に与那城間切へ移管、琉球処分後の1896年(明治29年)に中頭郡、1908年(明治41年)に同郡与那城村の一部となる。1994年(平成6年)に与那城町へ町制施行、その後の2005年(平成17年)4月1日に、近隣の自治体と合併改称し、うるま市となる。 ==歴史== 方言でも「ヘンザ」または「ヒャンザ」と呼ばれ、地名の由来は「干潮」を意味する沖縄方言、または平家の落人が島に安徳天皇を祀ったという伝説にちなむとされる。『おもろさうし』には「ひやもざ」ないし「ひやむざ」、『正保国絵図』には「平安座(ヒヤンザ)嶋」と記載され、また『ペリー日本遠征記』の地図に「ファンザ(Fanza )」、『ペリー提督沖繩訪問記』には「ファニア(Fania )」と表記されている。 ===前史から琉球王国時代=== 縄文時代晩期の遺跡「平安座東(あがり)ハンタ原(ばる)貝塚」は、1956年(昭和31年)に島丘陵東端の畑地から発見された。1968年(昭和43年)に琉球大学により調査が行われ、土器の他に石斧や貝製品が出土したが、発掘調査終了後、石油備蓄基地の建設により消滅した。また平安座島の最高所に位置する「平安座西(いり)グスク」の築城年は不明だが、勝連城の浜川按司の次男の居城と伝承され、『琉球国由来記』には「森城(むいぐすく)」と記されている。西グスクの南西側で土器や青磁、炭化した米穀と麦粒が発見され、また二次的に埋葬された人頭骨も出土している。当グスクは野面積みの石垣で囲まれた内部に祠があり、島民にとって聖地で、重要な拝所となっている。 平安座島の集落は、15世紀初期に西グスクを中心として海岸沿いに移動し、その後に3つの集落(西村渠・古島・新村渠)を形成した。慢性的な水不足により、親雲上らは1791年と1819年に天水田の灌漑用水路工事と水田開発を行い、また1850年代には傾斜面に開田している。島民の八端太良は怪力として知られ、『球陽』(1743年条)には貢納米1石を那覇まで運び、当日のうちに帰島したとされる。さらに彼の兄弟3人で帆船を持ち上げ、平安座島と対岸の沖縄本島を往来したという。 ===戦前から沖縄戦=== 1880年(明治13年)の島内人口は1,501人であったが、1903年(明治36年)は2,623人に増加し、新村渠集落の東側に新しく集落を設置した。明治期から戦前にかけては、女性と老人は農業、男性は漁業と海運業を中心に行った。大正期における漁業は1組30 ‐ 40人による追い込み漁が盛んで、素潜り漁も行われた。1913年(大正2年)に、平安座島を本拠地とする糸満漁民と浜比嘉島の漁民により、東方海上に位置する浮原島周辺海域の漁業権を巡る乱闘が発生した。 沖縄本島北部(山原)との交易船として発展した平安座島の山原船は、酒・穀類と生活用品を山原に輸送し、さらにそこから薪・建築用材等を搬出し、他地域へ取引を行っていた。北は奄美群島、南は先島諸島まで赴くなど、広範囲に交易が盛んに行われた。古来からサバニと呼ばれる小舟4隻を組み合わせたテーサン船(組船)が主流であったが、大正末期からは大型の山原船へ移行した。大正時代から1940年(昭和15年)頃までは、100隻以上の船が平安座島に集結すると同時に生活物資をもたらし、さらにそれら目当てに島外から人々が押し寄せるなど、山原船交易の最盛期を築いた。しかし、他籍船の首里士族の一部が平安座島の田畑を荒らし、婦女暴行事件を起こすなどトラブルが絶えない時期もあった。 1944年(昭和19年)10月10日の朝、山原船による物資輸送の拠点地として平安座島はアメリカ軍の空襲を受け、200隻以上の山原船を焼失したが、死者は誰一人も出なかった。翌年の1945年(昭和20年)に、日本軍の命令により島民は金武町に強制疎開させられたが、同年6月10日に米軍が与那城に上陸した際、平安座・宮城・伊計島と本島側の住民らを平安座島へ収容した。終戦後の同年9月に発令した「地方行政緊急措置要綱」により、平安座市の形成と同時に、市長と市会議員も選出された。当市の人口は8,317人で約7割は女性であった。翌月の10月から随時住民の帰村が許可され、1946年(昭和21年)2月21日に当市は廃止された。 ===戦後から現在=== 1968年(昭和43年)にアメリカ資本の石油会社ガルフ社により、平安座島に石油精製基地を建造、1972年(昭和47年)にも当島と沖縄本島を結ぶ海中道路を完成させた。その後の1975年(昭和50年)、三菱石油と丸善石油が平安座島 ‐ 宮城島間の海域を埋め立て、石油備蓄基地を建設した(次節を参照)。平安座島の農耕地は少なく、周辺海域での漁業が行われ、集落内には交番やホテルも立地している。平安座小中学校の前身である與勝尋常高等小学校の分校は、1902年(明治35年)に開校したが、宮城・伊計・浜比嘉島を含む4島の小中学校が統合され、2012年(平成24年)4月、平安座島に「うるま市立彩橋小中学校」(2012年4月10日現在の在籍児童・生徒数180人)が新設された。 ==石油基地建設の経緯== ===ガルフ社による基地建設=== アメリカの石油会社ガルフ・オイル社(後にシェブロンへ合併)は沖縄へ進出するため、1966年(昭和41年)10月までに金武湾周辺地域を石油備蓄基地(CTS:Central Terminal Station )の建設候補地として絞り込んだ。当初の計画では、宮城島に石油基地、伊計島に製油所を建設する予定であった。伊計島では誘致に概ね賛成であったが、宮城島の反対運動により進出計画は白紙になった。次にガルフ社は隣の平安座島へ誘致の検討を進めた。1967年(昭和42年)10月31日に平安座区長とガルフ社が覚書を取り交わし、翌年の1968年(昭和43年)5月17日にガルフ社が平安座島への石油基地進出の最終決定を下し、同日に平安座島の住民大会で誘致賛成を表明した。後にガルフ社の副社長が現地視察で来島した際、当時の平安座区長は彼に地主800人以上(面積にして計約64万坪)の土地貸与に関する同意書を提出した。平安座島でのCTS建設への賛成は、沖縄本島と結ぶ道路の建設が条件とされた。 CTSの起工式は1968年(昭和43年)12月8日に行われ、約1ヶ月後の1969年1月に着工された。翌年の1970年5月にCTSは完成した。この工事と並行して海中道路の建設が行われた訳ではなく、建設資材は満潮時に渡り船で、干潮時は米軍から売り渡された工事用トラックで運搬していた。1970年(昭和45年)2月12日に海中道路建設の許可申請を行ったが、道路コースの選定や事務手続きに時間を取られ、翌年の1971年(昭和46年)1月11日に埋立て許可が下りた。同年5月2日に着工し、6月6日に平安座島と沖縄本島が道路によって接続された。 ガルフ社は1970年1月に「ガルフ石油精製」を創設、後に出光興産と三菱化成の合弁会社「沖縄石油精製株式会社」となり、1972年(昭和47年)5月に製油所として操業した。1980年(昭和55年)6月に出光興産がガルフ社と三菱化成が有する全持株を買い取り、「沖縄石油精製」は出光興産の完全子会社となる。2003年(平成15年)11月に製油所機能を停止、翌年に「沖縄石油精製」は解散、2009年(平成21年)に沖縄出光を設立し現在に至る。また1972年11月4日に原油貯蔵・管理専門の「沖縄ターミナル株式会社」を設立し、ガルフ社が建造したCTSを買収した。2010年12月1日現在、当社は原油貯蔵タンク18基(計約175万キロリットル)を所有する。 ===埋立て地での基地建設=== 1960年代後半、アメリカ占領下の沖縄が日本復帰するという現実味を増す中、離島苦解消や財政強化を目指した当時の与那城村は企業誘致を進めていた。1969年(昭和44年)3月、村議会は三菱商事に平安座島と宮城島間の海域の埋立て事業を要請した。1970年(昭和45年)5月に三菱商事を中心とした企業団が来沖し調査を行ったが、工業用水と電力の調達が困難であるとした。その際、CTS建設も検討され、三菱石油にも協力を依頼した。三菱商事との折衝役を引き継いだ三菱開発より埋立て計画を決定し、1971年(昭和46年)4月28日に与那城村と覚書を締結、翌月の5月15日に琉球政府へ公有水面埋立て免許の申請を行った。また琉球政府の行政指導により、外資導入免許の取得を条件に事業主体を与那城村から新会社の「沖縄三菱開発」(以下「沖縄三菱」)へ移行した。しかし反対派の立法院議員らの圧力により、申請許可が下りない状態が続いた。沖縄三菱と誘致賛成派の村議員らと共に懇願し、1972年(昭和47年)5月9日にようやく認可された。 本土復帰後の1972年10月15日に埋立て工事の着工を行い、計画では2年後の1974年(昭和49年)12月までに貯蔵タンクとシーバースを含めた施設建造を完了させる予定であった。しかしこの頃、隣接するガルフ社の製油所から漏洩した原油が流出し、近海が汚染されるなどの公害問題が深刻化し、これらの事故を機に1973年からCTS建設反対派の運動が激化する。1974年4月30日に埋立て工事は完了し、同日に竣工認可を沖縄県へ申請した。1975年(昭和50年)10月4日にCTS竣工は許可され、その後埋立て地の所有権登記を行い、与那城村へ編入された。1980年(昭和55年)3月6日に貯蔵タンク等の石油関連施設は完工し、同月12日に操業した。 1973年(昭和48年)4月27日に三菱石油(現・JXTGエネルギー)と丸善石油(現・コスモ石油)の合同出資により、「沖縄石油基地株式会社」を設立した。2010年12月1日現在、原油貯蔵タンク45基(計約450万キロリットル)を有し、鹿児島県の喜入基地に次ぐ大規模な石油基地となる。 ===CTS建設問題=== ガルフ社の宮城島進出が周知されると、島内反対派は1967年(昭和42年)3月16日に「宮城島を守る会」を、賛成派は「工場誘致促進委員会」を結成した。5月8日の与那城村会議ではガルフ社誘致が議題となり、全会一致で誘致の早期実現に関する要請決議を行い、7月1日に「石油事業誘致特別委員会」を設置した。しかし、7月19日に宮城島内で賛成・反対派よる傷害事件が発生するなど、両者は益々対立した。そもそも島内の賛成派は反対派よりも多数であったが、反対派が所有する土地が建設予定地の半分以上を占め、さらに賛成・反対派の所有地が点在し、用地取得が困難であった。その上再三に亘る反対派への説得にも誘致の支持は得られず、結局宮城島でのCTS計画は頓挫した。その後、本島と結ぶ海中道路建設を条件に平安座島の島民は、島の4分の3の土地をガルフ社に貸与した。また、島民は建設工事の請負や開業後の雇用促進による経済効果に期待を寄せていた。 しかし、CTS建造後の雇用効果は予想を下回り、また島内の耕作地が激減し、農業振興地域の指定は解除された。1965年に指定された「与勝海上政府立公園」はCTS計画により取り消された。さらに海中道路の建設により島周辺の海域に赤土流出・潮流変化に伴い漁業に深刻な打撃を受けた。1973年のガルフ社による原油流出事故を切っ掛けに公害問題が深刻化し、CTS反対運動が激化する。村議会や開発事務所へ抗議が殺到、反対派団体「金武湾を守る会」(以下「守る会」)は当時の屋良朝苗知事へ押しかけ、CTS建設の中止を訴えた。これら反対派の中には革マル派の一員などによる扇動者も含まれていたという。1974年(昭和49年)1月19日、CTS建設反対の世論と全国で展開された公害防止運動の高まりを理由に挙げ、知事はCTS反対を表明、これを受け「沖縄三菱」社長は同月23日に知事と会見し、CTS反対決定の撤回を求めた。また同月25日、当時の中曽根康弘通商産業大臣は国会演説で、金武湾におけるCTS建設を積極的に行うべきと発言、さらに翌月2月8日に自由民主党沖縄県支部は、屋良知事の退陣要求デモを県庁前で行った。1974年9月5日に「守る会」に所属する漁民6人は沖縄県を相手取り、埋立て免許の無効確認を要求する裁判を起こした。翌年の1975年10月4日の判決で、既に完工した埋立て地を元の状態へ戻すのは不可能とし、県は全面的に勝訴した。次に「守る会」は1977年(昭和52年)4月9日に、環境権と人格権の侵害を理由に原告1,250人によるCTS建設の差し止めを求めた。しかし原告側にはCTSが立地する平安座島の住民は存在しなかった。1979年(昭和54年)3月29日の判決で原告は敗訴し、CTS反対運動は次第に衰退した。 ==文化== 「平安座島には多くの伝統行事が残されている」といわれ、行事の保存・継承を積極的に行っている。平安座自治会は、島内に参入した石油関連企業からの土地賃貸料等による潤沢な不動産収入を得て、行事は盛大に催される。実際、当自治会の2001年度の歳入額は約8500万円であったが、宮城島や伊計島などの周辺離島の自治会では毎年多くても1000万円は超過しないという。予算の掛かる大綱引きに関しては、水田の無い平安座島では藁は他所から購入しなければならず、財政的に負担の大きい行事であった。1960年以降開催されなかったが、1984年に再開された。また海中道路の開通で自動車での往来が容易になり、泊りがけで行われた旧盆も日帰りで済むようになり、行事のあり方にも変化が生じた。 ガルフ社が平安座島へ進出した際、当時は米軍統治下にあった為、沖縄住民以外の土地所得は高等弁務官命令により制限されていた。賃貸契約を結んだガルフ社と平安座島の土地所有者らは、定期的に土地代改正などに関した協議の場を設ける機会が増え、両者は深い関係を築いている。旧正月の元日に行われる祈願祭「初年頭(ハチニントウ)」に企業関係者も参加、また旧正月3日目に親族毎に縁のある井泉を巡る「河川撫で(カーウビー)」では石油基地内を通行して行われる。旧暦3月4日には「ナンザモーイ」と呼ばれる行事が開かれ、平安座島の東海岸に位置するナンザ島に赴き、本来の豊漁・海の安全祈願や石油企業の安全操業をニライカナイの神に願う。 1968年にガルフ社と平安座島民が土地賃借契約を締結した後、基地建設地に点在した約150の墓を共同墓地へ移転した。1968年(昭和43年)9月27日に移転先が決定し、翌年の1969年(昭和44年)8月12日に墓地の完成祈願祭が挙行され、その後納骨された。 ==交通== 与勝半島と平安座島の海域は遠浅で、干潮時に徒歩で往来可能であったが、離島苦の解消は島民にとって積年の願いであった。過去には1753年に親子が平安座島へ渡る途中に暴風雨に遭遇し帰路を見失い、満潮時に流され溺死した事故が起こっている。また戦後にはアメリカ軍が改造した海上トラックも通行していた。1961年(昭和36年)に島民約3,600人と米軍の工事用トラック車両3台による道路建設に着手したが、2度の台風襲来で失敗に終わった。その後の1968年(昭和43年)にガルフ社が平安座島に進出した際、島の大半を貸与する代わりに、1972年(昭和47年)にガルフ社の負担で全長約4.75kmの海中道路を完成させた。しかし、開通後には金武湾内の海流が変化し、土砂堆積などの問題が発生した。完成当初は与那城村道45号に指定されたが、1991年(平成3年)3月31日に沖縄県道として「主要地方道伊計平良川線」へ昇格した。1999年(平成11年)に4車線に拡張され、駐車場300台分を備えたロードパークを設置した。 埋立て以前の平安座島と宮城島の間の海域には、潮流により土砂が寄り集まった1本の盛り土が形成され、馬と共に渡れたが、埋立てにより2島は「桃原橋」により架橋された。また1997年(平成9年)2月7日に平安座島と浜比嘉島を結ぶ「浜比嘉大橋」が完成・開通した。 伊計島と宮城島の間には伊計大橋が架けられているため、宮城島を介して伊計島とも陸路で結ばれている。うるま市が運行する路線バス(うるま市有償バス)により、本島の屋慶名地区との間や、これらの各島の相互間を移動することができる。 =スバス・チャンドラ・ボース= スバス・チャンドラ・ボース(Subhas Chandra Bose、ベンガル文字:*7412**7413**7414**7415**7416**7417**7418**7419**7420**7421**7422* *7423**7424**7425*  発音、1897年1月23日 ‐ 1945年8月18日)は、インドの独立運動家、インド国民会議派議長(1938 ‐ 1939年)、自由インド仮政府国家主席兼インド国民軍最高司令官。民族的出自はベンガル人。ネータージー(指導者、*7426**7427**7428**7429**7430**7431*, Net*7432*ji。ネタージ、ネタジ とも)の敬称で呼ばれる。なおベンガル語の発音は、シュバーシュ・チャンドラ・ボーシューが近い。 ==プロフィール== ===生い立ち=== 1897年にインド(当時はイギリス領インド帝国)のベンガル州カタック(現在のオリッサ州)に生まれた。父親は弁護士で、イギリス人により過酷な扱いを受けていたインド人の人権を教護することもしばしばであった。ボースはこの父親から大きな影響を受けたと後に語っている。 その後カルカッタ大学に進んだ。大学ではイギリス人教師の人種差別的な態度がインド人学生の反感を買い、学生ストライキが勃発した。ボースは首謀者と見られ、停学処分を受けた。 カルカッタ大学で学士号を取得し、1919年に、両親の希望でイギリスのケンブリッジ大学フィッツウィリアム・カレッジに大学院留学した。大学院では近代ヨーロッパの国際関係における軍事力の役割について研究し、クレメンス・フォン・メッテルニヒの妥協無き理想主義に感銘を受けたと回想している。 ===独立運動家=== 1920年にはインド高等文官試験を受験した。ボース自身の回想では試験には合格したものの、このままではイギリス植民地支配の傀儡となるだけだと判断して資格を返上した。ただし、二次試験の乗馬試験で不合格となったという異説も存在する。いずれにせよこの頃からボースはインド独立運動に参加するようになっていった。 1921年にマハトマ・ガンディー指導の反英非協力運動に身を投じた。ボース自身は「ガンディーの武力によらぬ反英不服従運動は、世界各国が非武装の政策を心底から受け入れない限り、高遠な哲学ではあるが、現実の国際政治の舞台では通用しない。イギリスが武力で支配している以上、インド独立は武力によってのみ達成される」という信念を抱いており、ガンディーの非暴力主義には強く反対していた。 ボースは、この頃イタリアで台頭してきており、イギリスのウィンストン・チャーチルをはじめ世界中で喝采と注目を浴びていたファシズムに魅了され、1926年には「ファシズムと共産主義の新たな総合をインドは実現する」べきであると主張した。そのためイギリス当局は彼を明白なファシストと見なしていた。ボースは、議会内で反ファシストから圧力を受けると自身の見解を穏健化させ、ファシズムではなくトルコのケマル・アタテュルクによる権威主義に関心を向けるようになった。 ボースは1924年にカルカッタ市執行部に選出されるも逮捕・投獄され、ビルマのマンダレーに流される。釈放後の1930年にはカルカッタ市長に選出されたが、ボースの独立志向とその影響力を危惧したイギリスの植民地政府の手により免職された。 その後も即時独立を求めるインド国民会議派の左派、急進派として活躍し、勢力を伸ばした。ガンディーは組織の分裂を心配し、1938年度の国民会議派議長に推薦した。ボースはインド独自の社会主義「サーミヤワダ」を提唱し、若年層や農民、貧困層の支持を集めた。この成果に自信を持ったボースは翌年の国民会議派議長に立候補した。議長はガンディーの指名によって決定されることが慣例になっていたが、1年間の議長職だけでは満足しなかったボースは翌年以降も議長職に留まろうと考え、党内初の議長選挙を実施した。この選挙でボースは、ガンディーの推薦するボガラージュ・パタビ・シタラマヤ(英語版)に大差をつけて勝利した。 しかしこの行為はガンディーの支持を失わせることになり、ガンディーを支持する国民会議派の多数派からの支持も失わせることになった。ボースの動きを危険視した党幹部は彼に不信任を突きつけ、議長辞任を余儀なくされた。さらに3年間役職に就けない処分も受けた。議長退任後には前進同盟を結成し、独自の活動も開始した。またボースは統一インドとしての独立を望んでおり、独立派内でのムスリムとの対立が激化する中で、パキスタンが分離して独立する事態を憂慮していたという。ボースは政府から危険人物と見なされ、第二次世界大戦が勃発するとカルカッタの自宅に軟禁された。 ===亡命=== 1939年9月の第二次世界大戦開戦、つまりイギリスとドイツの開戦を知ったボースは、「待望のイギリスの難局がついに訪れた。これはインド独立の絶好の機会である」と述べ、独立のための武装闘争の準備を開始した。ボースは被搾取民族にとって独立達成こそが先決であり、反英諸国のイデオロギーについて論争する「贅沢な余裕はない」という見解を持っていた。1940年6月、フランス降伏とドイツ軍によるイギリス上陸が迫ったことを知ったボースはガンディーの元を訪れ、広範なレジスタンス蜂起のためのキャンペーンを行うように求めた。しかしガンディーは闘争のための準備ができておらず、現在の蜂起は犠牲が大きいとして要請を拒否した。 7月には大衆デモの煽動と治安妨害の容疑でイギリス官憲に逮捕され戦争終結まで収監される予定となった。ボースは反英諸国の支援を受けて国外でインド人部隊を結成し、インドに侵攻して民衆蜂起とともにインド独立を達成する計画を立て、脱獄の機会を待った。獄中でハンガーストライキを行い、衰弱のため仮釈放されていた12月にインドを脱出、陸路アフガニスタンを経て、ソビエト連邦に亡命しようとした。このときボースは、大英帝国の「敵」であるムッソリーニやヒトラーとの連携も目論んでいた。 当時ボースはインドを解放できる国はソ連だけだと考えており、社会主義的思想の点からも親近感を持っていた。ボースはカーブル駐在のソ連大使と交渉し、モスクワ行きの許可を得ようとしたが、大使はボースの入国を認めなかった。ボースはイタリア大使アルベルト・カローニの協力を得て、イタリア外交官に偽装してドイツに向かった。1941年4月2日、ボースはドイツのベルリンに到着した。 ===ドイツでの活動=== カーブルでボースの世話をしていた元国民会議派のウッタム・チャンドの回想では、ボースはドイツを「イギリスと同じぐらい」嫌っており、ドイツにいてもソ連に向かうための交渉を行っていたと見ている。それでも4月9日にはドイツ外務省に対し、枢軸国軍によるインド攻撃を含む、インド独立のための構想の覚書を提出している。この覚書に直接の回答は無かったが、4月29日にはヨアヒム・フォン・リッベントロップ外相と会見する機会を得た。しかし「インドでの蜂起と枢軸国軍によるインド攻撃という計画をドイツが受け入れるには2年間は待つ必要がある」という冷淡な回答があるのみであった。 親イギリス志向の強かったヒトラーは、インド独立運動家を「ヨーロッパをうろつき回るアジアの大ぼら吹き」と呼び、「インドは他の国に支配されるよりは、イギリスに支配されるほうが望ましい」と『我が闘争』に記していた。1941年9月の食卓談話でも「イギリスがインドから追い出されるなら、インドは崩壊するであろう」述べるなど、人種差別と対英和平の可能性を探っていたことを背景に「イギリスによるインド支配が継続されるべきである」と考えていた。 このためにドイツ政府はボースにベルリン中央部の広大な邸宅をあたえ、自動車や生活資金も供与したものの、独立運動への直接的な協力には極めて冷淡であった。 6月にはローマを訪れ、イタリア王国のムッソリーニを通じてドイツに影響を与えようとしたが、外相のガレアッツォ・チャーノと面会できたのみであり、ムッソリーニとは会うことすらできなかった。ローマ滞在中にはドイツがソ連に侵攻し、独ソ戦が開始された。ボースはこれに憤慨し、「インドの民衆はドイツが侵略者であり、インドにとってもう一つの危険な帝国主義国であると理解するであろう。ソビエトとの戦争は悲惨な失敗に終わるであろう」という抗議をリッベントロップ外相に送っている。 それでもボースはあきらめることなく、ドイツ外務省との交渉を行った。これをうけて外務省情報局内には特別インド班が設置され、インド問題の専門家とともに活動できるようになった。11月には外務省によって「自由インドセンター」が設立され、在外公館として認可された。同センターはインドに対する宣伝工作を行うとともに、北アフリカ戦線で捕虜となったインド兵から志願者を募り自由インド軍団(兵力3個大隊、約2,000人)を結成した(後の第950連隊(英語版))。ボース自身も積極的に反英プロパガンダ放送に参加した。 しかし対英和平の可能性を探っていたヒトラーは、インド独立に対する支持を明確化することは、対英和平交渉において不利になると考えていた。ボースがドイツ政府とヒトラーに求めていた『我が闘争』のインド蔑視部分の説明と、インド独立に対する支持の公式な表明は両方とも拒絶された。 ===日本との接近=== ムッソリーニやヒトラーとの連携に失敗したボースは、かつては「日英同盟」を結ぶなどイギリスと良好な関係にあったが、この頃は同じく枢軸国の1国としてイギリスとの対立姿勢を鮮明にしていた大日本帝国に目を向けた。 1941年12月に行われた日本軍によるイギリス領マラヤへの攻撃「マレー作戦」をきっかけに、日本がイギリスやアメリカ、オランダなどと交戦状態に入った(大東亜戦争/太平洋戦争)。ボースは「マレー作戦」や香港攻略戦での日本軍の勝利とイギリス軍の敗北を知ると、「今や日本は、私の戦う場所をアジアに開いてくれた。この千載一遇の時期にヨーロッパの地に留まっていることは、全く不本意の至りである」として、日本行きを希望して駐独日本大使館と接触するようになった。 しかし日本大使館は「考慮中」という対応しか示さなかった。日本の外務省や日本陸軍参謀本部はインド情勢に対する分析が不充分であり、ボースの価値についてほとんど認識していなかった。 マレー作戦の後、日本はインド方面への侵攻を本格化させ、1942年4月にはセイロン沖海戦で連合国海軍を破り、その勢いでアフリカ沿岸のマダガスカル島まで進出し、イギリス海軍をインド洋から完全に駆逐した。おりしも北アフリカ戦線で枢軸軍がスエズ運河に迫っており、ドイツ側も日本に対して対インド方面作戦の強化を働きかけていた。 ===日本への移動=== 6月15日に日本が占領下に置いた元イギリスの海峡植民地で、「昭南」と改名されたかつてのシンガポールを拠点として、ラース・ビハーリー・ボースを指導者とするインド独立連盟(英語版)が設立された。 連盟の指揮下にはイギリス領マラヤやシンガポール、香港などで捕虜になった英印軍のインド兵を中心に結成されていたインド国民軍が指揮下に入ったが、インド独立宣言の早期実現を主張する国民軍司令官モハン・シン(英語版)と、時期尚早であると考えていた日本軍、そして日本軍の意向を受けたビハーリー・ボースとの軋轢が強まっていた。11月20日にモハン・シンは解任され、ビハーリー・ボースの体調も悪化したことで、日本軍はインド国民軍指導の後継者をもとめるようになった。 国内外に知られた独立運動家であったボースはまさにうってつけの人物であり、またボース自身も大島浩駐独大使に強く日本行きを働きかけた。またビハーリー・ボースとともに行動していたインド独立連盟幹部のA.M.ナイルもボースを後継者として招へいすることを進言した。しかし陸路、海路、空路ともに戦争状態にあり、イギリスの植民地下にあるインド人が移動するには困難が多かったため、日独両政府はボースの移送のための協議を行った。 その結果、空路よりは潜水艦での移動のほうが安全であると結論が出て、1943年2月8日に、ボースと側近アディド・ハサン(英語版)の乗り込んだドイツ海軍のUボート U180はフランス大西洋岸のブレストを出航した。4月26日に、アフリカのマダガスカル島東南沖でUボートと日本海軍の巡潜乙型伊号第二九潜水艦が出会い、翌4月27日に日本潜水艦に乗り込んだ。 5月6日、潜水艦はスマトラ島北端に位置し海軍特別根拠地隊指揮下のサバン島(ウエ島)サバン港に到着した。現地で休養を取った後に日本軍の航空機に乗り換え、5月16日に東京に到着した。 ===自由インド仮政府=== 東京に到着したボースは、かねてから日本を拠点に活動していたビハーリー・ボースやA.M.ナイルらと合流した後、ビハーリー・ボースの後継者としてインド独立連盟総裁とインド国民軍最高司令官に就任した。 しかし当初日本の東條英機首相はボースを高く評価しておらず、ボース側の会見申し入れを口実を設けて拒絶していた。しかしビハーリー・ボースやA.M.ナイルが仲介したことでボース来日から一ヶ月後に実現した会見で、東條首相はボースの人柄に魅せられ、一ヶ月後の再会談を申し入れた。再会談でボースと東條は日本とインドが直面している問題に関する意見を一致させ、東條はその後食事会にボースを招待している。 東條はボースの影響でインドの独立に対する考え方を新たにし、またボースの東亜解放思想を、自らが提唱する大東亜共栄圏成立に無くてはならないものだと考えていた。しかし東条はボースの意思を受けて、独立を果たしたインドを大東亜共栄圏に組み込まないという意思を明確にしていた。 ボースは10月21日に昭南で自由インド仮政府首班に就任し、ボースはそのカリスマ的魅力やA.M.ナイルらの国民軍の首脳による献身的な協力を元に、日本軍の占領地域である東南アジアにおいて国民軍の募兵を積極的に行ったほか、ラジオを使い対英闘争の継続を訴えた。 また11月には大東亜会議への参加のために再度来日し、独立後にインドを大東亜共栄圏に組み込まないことを理由にオブザーバーとして参加したほか、大東亜結集国民大会で演説を行い、インド独立への支援を日本国民に訴えた。 ===インパール作戦=== その後ボース率いるインド国民軍は、インドの軍事的方法による解放を目指して、1944年1月7日にビルマのラングーンに本拠地を移動させた。ボースは同地においてビルマ方面軍司令官河辺正三中将と出会った。河辺中将は歓迎の宴席で示されたボースのインド独立にかける意志と、その後の態度を見てボースに惚れ込み、「りっぱな男だ。日本人にもあれほどの男はおらん」と極めて高く評価するようになった。 河辺中将は日本軍によるインド侵攻のための「インパール作戦」の指揮を執ることになるが、「チャンドラ・ボースの壮図を見殺しにできぬ苦慮が、正純な戦略的判断を混濁させたのである」と、この頃アジア太平洋戦線の各地でイギリス軍やアメリカ軍、オーストラリア軍をはじめとする連合国軍に対して劣勢となって来ていた日本軍にとっては、不要不急な作戦でしかない作戦実行の背景にボースに対する日本軍側の「情」があったとしている。ボースは国民軍をインパール作戦に参加させるようたびたび要求し、日本側を困惑させた。 わずか1国でイギリス軍とそれを支援するアメリカ軍と戦わざるを得ない日本軍の物量不足もあり、6月にはすでに作戦の失敗は明らかであったが、河辺中将は「この作戦には、日印両国の運命がかかっている。一兵一馬でも注ぎ込んで、牟田口(牟田口廉也第15軍司令官)を押してやろう。そして、チャンドラ・ボースと心中するのだ」と考えていた。インパール侵攻の失敗により、インド国民軍はその後、主にビルマで連合国軍と戦った。 ===事故死=== 1945年8月15日の日本の敗戦により、日本と協力してイギリスと戦いインド独立を勝ち取ることは不可能となった。ボースは延安で中国共産党の協力を得るか、あるいはソ連と協力するためにソ連軍が占領した満州国へ向かおうとした。ボースはかねてから暴力革命的傾向が強く、心情においてはコミュニストであったため、モスクワへの亡命をはかったとも指摘される。 ボースは満州国でソ連軍に投降し、それから交渉を行うつもりであった。ボースは8月9日のソ連対日参戦前にこの計画に対する日本軍からの協力を取り付けてあったため、直ちに満州国に向かう航空機の提供を受けた。 8月18日午後2時、ボースは台湾島の松山飛行場から大連へ向かう予定であった九七式重爆撃機に乗り込んだ。乗り込む直前には一人のインド人に「東南アジア在住300万のインド人からの贈り物」である宝石と貴金属の入った二つのスーツケースを受け渡した。しかし、離陸直前に左側プロペラが外れ、機体はバウンドして土堤に衝突、炎上した。 操縦士の滝沢少佐、同乗していた四手井綱正中将と士官一名は即死し、ボースは炎上する機体から脱出できたものの、全身に大やけどを負った。ボースは台北市内の大日本帝国陸軍病院の南院に運ばれ、手当を受けた。死を悟ったボースは、同乗していたが軽傷であったハブビル・ラーマン大佐に「インド独立の最後を見ずにして死ぬことは残念であるが、インドの独立は目睫の間に迫っている。それ故、自分は安心して死ぬ。自分の一生涯をインドの独立に捧げたことに対しては少しも遺憾がないのみではなく、非常にいいことをしたと満足して死ぬ」、「ハビブ、私はまもなく死ぬだろう。私は生涯を祖国の自由のために戦い続けてきた。私は祖国の自由のために死のうとしている。祖国に行き、祖国の人々にインドの自由のために戦い続けるよう伝えてくれ。インドは自由になるだろう。そして永遠に自由だ」と告げた。 夜に当番兵がボースに「何か食べたいものがあるか」と聞くと、「カレー」と答えたように聞こえた。当番兵がカレーライスを作り、スプーンで食べさせると、ボースは「グッド」と答えた。しかし2口3口食べると、ボースはそれきり動かなくなった。午後11時41分のことであった。 大本営はボースの遺体を東京に送るように命じたが、夏期である上に火傷による損傷が激しく、止む無く現地で火葬することになった。8月20日に、台北市営火葬場で荼毘に付され、台北市内の西本願寺で法要が営まれた。8月23日にボースの死が公表され世界に伝えられた。 ==葬儀== 1945年9月5日にボースの遺骨は日本に運ばれ、9月7日には参謀本部の元に届けられた。日本陸軍はインド独立連盟東京代表ラマ・ムルティに遺骨を引き渡した。東京都杉並区の日蓮宗蓮光寺の住職望月教栄が葬儀を引き受け、9月18日にボースの葬儀が行われた。 葬儀はビハーリー・ボースのそれとして行われ、ビハーリー・ボースが寄居していた中村屋の菓子が供えられたという。ムルティは大部分の遺骨を蓮光寺に託し、以降蓮光寺によって遺骨は保存されたが、望月住職はボースの死を認めたくないインド人による遺骨奪回を怖れて、遺骨を抱いて眠ったこともあるという。またムルティは遺骨の一部を個人的に保管し、その死後にはムルティの弟の元に渡り、2006年にはボースの兄の孫に返還されている。 その後も蓮光寺には、インドのラージェーンドラ・プラサード大統領、ジャワハルラール・ネルー首相、インディラー・ガンジー首相などの日本を訪問した歴代首脳が訪問しており、その時の言葉も碑文として残されている。また、多くのインド人観光客や在日インド人も訪れている。 ==死に対する議論== en:Disappearance of Subhas Chandra Boseも参照 ボースの死の知らせを受けたインド総督アーチボルド・ウェーヴェルや連合国東南アジア方面軍司令官ルイス・マウントバッテンのみならず、ガンディーでさえも日本の発表を信じず、ボースが独立闘争の継続のために日本の協力のもとに逃亡したと考えていたように、公式情報を信じない向きはその当時から存在した。また戦後からしばらくの間、世界各地でボースの目撃情報が相次いで伝えられている。 加えてボースと近い立場にあったA.M.ナイルも自書内で、今や敗戦国となった日本を経由して日本の旧敵国のソ連へ向かおうとする事が不可能であったことや、ボースの敵であるイギリスと同じ連合国の1国であるソ連と協力を行おうとすることの不可解さ、さらに事故の際に「死んだ」とされる日本人の複数の同乗者がその後も生存していたことや、ボースとS.A.アイエルが持ち出した、宝飾品などを中心とした仮政府の資産が行方不明になっているとして、ボースの「飛行機事故死」に疑問を投げかけている。特にインドにおいてボースの事故死を信じない者を中心として、生存説を支持する論説もたびたび出されている。 これらの疑問に対し、インド政府は過去3度にわたって調査委員会を組織し、1956年(シャー・ナワズ委員会(英語版)、シャー・ナワズはインド国民軍で最高幹部の一員を務め、戦後のインド国民軍裁判(英語版)被告のひとり)、1970年(コスラ委員会(英語版))、2006年(後述)にそれぞれ報告書を作成している。最初の2回(実施時の政権与党はいずれもインド国民会議派)は「飛行機事故で死亡し生存の可能性がない」と結論づけた。 しかし、インド人民党が与党であった1999年に組織した3度目の調査委員会であるムカルジー委員会(英語版)は「飛行機事故は連合軍によるボースの追跡をかわすために日本軍が作り上げた」とし、蓮光寺の遺骨はボースのものではなく、ボースがすでに死亡していることは間違いないものの死因については「説得力のある証拠がない」として具体的に言及せず、恐らくソ連に向かったとしたうえ、シベリアで厚遇されるボースを見たという証言、ソ連のニキータ・フルシチョフ第一書記が「45日以内にインド(当時はネルー首相)に返せる」と語ったなどの通訳の証言を集めた。 この3度目の報告書が発表された2006年には、政権与党は再びインド国民会議派などによる統一進歩同盟 (UPA) 連立政権に移っており、発表時のインド政府はムカルジー委員会の「調査結果に同意しない」と表明した。ただし同意しない理由については「複数の友好国との関係」を理由に公表を拒んだ。 このほかボースの甥の妻は「政府の考えに賛成だ。墜落死には多くの証拠があり、遺骨はチャンドラ・ボースのものだ」とコメントした。 その一方で、1985年9月にウッタル・プラデーシュ州ファイザーバードで死亡したバーグワンジー(英語版)(またはグムナミ・ババ)という人物こそボースだったという主張もインドでは根強い。 さらに2012年には 『India’s Biggest Cover‐up』という書籍が通常版、キンドル版で刊行されプラナブ・ムカルジー大統領の隠蔽工作への関与が名指しされて論争が再燃(最大級の英字紙ザ・タイムズ・オブ・インディアなど各メディアがこぞって取り上げた)、2013年1月にはイラーハーバード高等裁判所が実際にボースであったかの再調査を命じている。 2017年5月30日、インド政府は市民団体の情報公開請求に対し、ボースが「1945年8月18日、飛行機事故のため台北で死亡したと結論付けた」と回答し、生存説を公式に否定した。 ==顕彰== 1945年9月にインド国民軍指導者を裁いたイギリス軍の裁判が、独立前夜のインドにおいて英印軍はじめインド人の反乱を巻き起こしたため裁判は中止され、全将兵が釈放されたことでイギリスがインドの支配を続けることをあきらめたことからも見られるように、インド独立運動における国民軍とボースの貢献は現在では高く評価されている。 ただしガンジーの非暴力不服従路線と違い、多くの犠牲を出した点や、日本やドイツと手を組み活動したことから否定的な見方も存在する。実際、独立後のインドを主導したネルーは10年以上ボースの話題を口にせず、ラジオでも極力報道しないよう指導していたという。 なお、インドの国会議事堂(英語版)の中央大ホールにはガンディー、ネルーらの肖像画のみが掲げられていたが、1978年にはそれに並んでボースの肖像画も掲げられるようになった。またデリーの赤い城(ラール・キラー)には、かつてイギリス国王にしてインド皇帝であったジョージ5世の銅像が存在したが、現在その台座にはインド国民軍とそれを率いるボースの銅像が建っている。また1998年にはネータージー・スバース工科大学(英語版)が設立されている。 ボースの出身地であるベンガルの中心地コルカタにはボースがインドを脱出する直前まで住んでいた邸宅(ネタージ・バワン)もあり、記念館となっている(2007年に安倍晋三首相が訪問した)。またコルカタには彼の名を冠したネータージー・スバース・チャンドラ・ボース国際空港が存在、2005年にはインド映画『Netaji Subhas Chandra Bose: The Forgotten Hero』が公開されるなど、インドでは現在も人気が高い。 前進同盟は戦後に政党全インド前進同盟として再結成され、ボース流の民族主義的な社会主義を唱えて活動しており(現在はインド共産党マルクス主義派などとともに左翼戦線を構成)、ボースの出自にあたる西ベンガル州を中心に根強く支持されている。ほかマレーシア・インド人会議も党の行事でボースの活動を顕彰している。 ==人物評== 独立運動家のA・M・ナイルはボースの人柄について自己顕示欲が旺盛で自信過剰、そして非妥協的な闘争性を持っていたと指摘している。このため、ボースの態度が横柄であると感じる者も多かった。来日直後にボースと面会した日本政府関係者も「やけに尊大ぶる男」であると報告し、またイタリア外相のチャーノも「横柄な人物」と評している。 一方でそのインド独立に対する情熱や人柄によって東條英機や河辺正三を魅了した。ボースとの会見後、東条英機は「ありゃあ、人物だあ」ともらしている。しかしこれらの人間関係が、日本の戦略に大きな影響を与えたという指摘も存在する。 ==家族== 1937年に秘書のオーストリア人女性エミーリエ・シェンクル(英語版)とオーストリアのザルツブルク州バート・ガスタインで結婚した。しかし結婚の事実は公表していない。結婚生活では一女・アニタ・ボース・プファフ(英語版)をもうけた。 =小田急4000形電車 (初代)= 小田急4000形電車(おだきゅう4000がたでんしゃ)は、小田急電鉄(小田急)で1966年(昭和41年)から2005年(平成17年)まで運用されていた通勤車両である。 小田急では、編成表記の際には「新宿方先頭車両の車両番号(新宿方先頭車の車号)×両数」という表記を使用しているため、本項もそれに倣い、特定の編成を表記する際には「4004×5」「4014×3」「4055×4」「4251×6」のように表記する。また、特定の車両については車両番号から「デハ4100番台」などのように表記し、1200形・1400形をまとめて「HB車」、1600形・1700形・1900形・2100形をまとめて「ABF車」、2400形を「HE車」、2600形を「NHE車」と表記する。ただし、5000形以降の形式はそのまま表記する。 開業当時から戦後間もないころにかけて製造された旧形式車両の主電動機を流用し、車体や制御機器を新製することにより輸送力の強化を図った車両で、登場当初は非冷房・吊り掛け駆動方式で3両固定編成×22編成が製造されたが、1974年(昭和49年)から1976年(昭和51年)にかけて中間車を増備の上、一部の編成を5両固定編成としており、最終的には合計92両が製造された。1985年(昭和60年)以降は2400形(HE車)の主電動機を流用して高性能化するとともに冷房化改造が行なわれ、同時に4両固定編成×8編成と6両固定編成×10編成に組成変更されたが、2003年(平成15年)から3000形の増備によって淘汰が開始され、2005年(平成17年)までに全車両が廃車となった。 ==登場の経緯== 小田急開業当時から戦前にかけて製造されたHB車は、1950年代後半に大規模な更新修繕や形態統一を行なっており、「これで15年や20年は使える」と言われていた。しかし、1960年代に入ると16m級車体で2扉の小型車であるHB車は、高くなる列車密度の中では機能的に使用できなくなっていった。しかし、主要な機器は更新していたことから、使用可能な部品を再利用の上、NHE車と同様の大型車体を新造して、逼迫した輸送需要に対応できる車両とすることになった。 こうして、開業当時からの車両の電装品を流用して登場したのが4000形である。旧形式車両の車体更新自体は他の鉄道事業者においても例があるが、4000形は車体だけではなく制御機器や台車も新造し、流用したものは電装品などの一部の機器のみにとどまっていることが特徴である。 ==車両概説== 本節では、登場当時の仕様を基本として、増備途上での変更点を個別に記述する。更新による変更については沿革で後述する。 4000形は全長20mの車両による3両固定編成で製造され、1974年から1976年にかけて一部の編成が中間車を増備して5両固定編成となった。形式は小田原方先頭車(制御車)がクハ4050形で、新宿方先頭車(制御電動車)と中間車(電動車)はいずれもデハ4000形である。車両番号については、巻末の編成表を参照のこと。 ===車体=== 先頭車・中間車とも車体長19,500mm・全長20,000mmで、車体幅は2,900mmの全金属製車体である。正面は貫通型3枚窓で、側面客用扉は各車両とも4箇所である。基本的な車体構造はNHE車と同一となっている。 1974年以降に増備された車両では、車体側面中央の客用窓上部に種別表示器用の小窓が設置されたが、機器自体は未設置である。 外部塗色は、1969年6月以前に竣工した4017×3までは、ダークブルーとオレンジイエローの2色塗り塗装という当時の通勤車両の標準色であったが、1969年6月以降に竣工した4018×3以降の車両は、ケイプアイボリーをベース色として、300mm幅でロイヤルブルーの帯を窓下に入れるという通勤車両の新標準色塗装で登場した。 ===内装=== 車内はロングシートで、内装はNHE車と同一仕様である。 ===主要機器=== 主電動機は前述の通り、HB車およびABF車から流用した三菱電機製の直巻電動機である。HB車に使用されていたMB‐146‐A型はデハ4000番台のうちのデハ4017までとデハ4100番台のうちのデハ4117まで、デハ4213、デハ4313に使用され、それ以外の車両にはABF車に使用されていたMB‐146‐CFR型が使用された。これらの電動機の種車となった形式は、デニ1000形・デニ1100形・デハ1200形・デハ1400形・デハ1600形・デハ1700形・デハ1900形・デハ2100形の8形式に及んでいるが、全て端子電圧750V、出力93.3kWの主電動機で統一されており、戦前からの統一化思想が役立ったことになる。 主制御器は三菱電機製の直並列抵抗電動カム軸式制御装置であるABF‐125‐15型を新製し、デハ4100番台・デハ4300番台の車両に搭載した。4000形では1台の制御装置で8基の主電動機の制御を行なう方式 (1C8M) としたが、主電動機の端子電圧の関係から、主回路接続は電動機2基を直列に接続したものを1組として直並列制御を行なう方式 (2S4P) とした。また、分流式の弱め界磁が設置された。 制動装置(ブレーキ)は、1967年度までに製造された4008×3までは応荷重機構付電磁自動制動 (AMMR‐L) を装備し、ブレーキ弁についても種車のものを流用していたが、1968年度以降の増備車(4009×3)からは応荷重機構付電磁直通制動 (HSC) に変更された。発電ブレーキは装備せず、基礎制動装置として高速域からのブレーキ効果が高いディスクブレーキを採用した。1974年以降の増備車のうち、軸バネ式台車を装備した車両ではシングル式(片押し式)踏面ブレーキが採用された。 台車は、1970年までに製造された車両については東急車輛製造製の軸梁ゴムブロック式空気バネ台車であるパイオニアIII‐706形 (PIII‐706) を採用した。電動台車がPIII‐706M形、付随台車はPIII‐706T形で、いずれも車輪径910mm・軸間距離は2,350mmである。採用に先立って、1963年10月に東京急行電鉄から7000系デハ7019・7020を借り入れて性能確認試験を行なったほか、1964年にはデハ1304にP‐III704形を取り付けて性能確認試験が行なわれている。また、1974年以降に制御車用の台車として東急車輛製造製の軸バネ式空気バネ台車であるTS‐814形台車が、1976年に製造された車両のうち、デハ4212・デハ4213・デハ4212・デハ4213には東急車輛製造製軸バネ式空気バネ台車のTS‐818形台車が採用された。いずれの軸バネ式台車も車輪径910mm・軸間距離2,350mm(TS‐814形は軸間距離2200mm)である。 補助電源装置は、デハ4000番台の車両に9kVAのCLG‐318C型電動発電機 (MG) を2台搭載した。電動空気圧縮機 (CP) は、両方の先頭車にDH‐25型を1台ずつ搭載した。集電装置(パンタグラフ)は各電動車の小田原方屋根上に、PT42‐K4形菱枠パンタグラフを設置したが、デハ4200番台・デハ4300番台では取り付け位置が車体中央方向に800mm移設されている。 運転台の機器配置はNHE車と同様であるが、車両の性能が異なるため、乗務員室の色彩を変えて区別している。 編成両端の連結器については、1967年度までに製造された4008×3まではNCBII形密着自動連結器であったが、1968年度以降の増備車(4009×3)はCSD78形密着連結器とした。 ==沿革== ===登場当初=== 1966年12月以降にNHE車と並行して増備され、1970年までに22編成が導入された。4000形3両固定編成での定員は450名となり、HB車の3両編成での旅客定員が352名であったのと比較すると大幅な収容力の増強を実現した。1969年以降はABF車の1600形を種車として増備されている。1968年度に製造された車両からはブレーキ装置がAMMR‐LからHSCに変更され、それまでに製造された車両についても1969年までにHSCに改造され、同時にOM‐ATSの設置と先頭部連結器のCSD78形密着連結器への交換が行なわれた。 1967年11月には、小田急百貨店の本館が完成したことを記念して、4001×3が白をベースとして赤と金色の帯が入る特別塗装に変更された。この特別塗装は1968年3月に標準色に戻された。 登場後しばらくは単独編成で江ノ島線を中心に、相模大野以西の各駅停車に使用されていたが、2編成を連結した6両編成で高加減速を必要としない急行や準急にも使用された。 ===連続脱線事故と5両固定編成の登場=== 1969年から、小田急では朝の通勤輸送の対応策として、全長20m級の大型車による8両編成での運行を開始することになっていたが、この時点では大型車のみで8両編成を組成できる形式が5000形と1800形しか存在しなかった。折りしも1800形は1967年から1969年にかけて体質改善工事が実施されており、ブレーキも4000形と同じHSCに変更されていた。 このような事情から、4000形と1800形を連結した8両編成について検討が進められ、理論上は問題ないという結論となったことから、1969年から1800形と4000形を連結した5両編成での運用が、それに4000形をもう1編成連結した8両編成での運用が開始された。1800形と4000形の連結運用によって、朝の通勤急行のうち9本が4000形と1800形を連結した大型8両編成で運行できるようになり、大幅な輸送力増強が図られた。 ところが、4年ほど経過した1973年、4月19日と5月2日に連続して脱線事故が発生した。このため、急遽1800形との連結は中止されることとなり、1800形と4000形の連結によって運行されていた9本の通勤急行のうち、7本を4000形だけで運用する必要に迫られた。このため、7編成に対して制御車を外した上で他の編成に連結する暫定5両編成が組成され、編成から外された制御車7両は休車となった。 脱線事故については、運輸省内に「小田急線連続脱線事故調査委員会」が設置され、同年5月28日深夜には検証と原因究明のために実車を使用した測定試験が行なわれた。日本の私鉄における脱線事故で、大掛かりな現車試験が行なわれるのはこれが初めてのことであった。この結果、脱線の要因は低速時の浮き上がり脱線であることが判明した。当時小田急電鉄勤務だった生方良雄は、後年「4000形のパイオニアIII形台車と、ばねの固い1800形のDT13形台車の相性が悪かったことが真実だと思う」と述べている。 その一方、制御車7両が休車となったことによって運用車両数が確保できなくなり、一部列車の編成の削減を余儀なくされる状態となった。この対応策として、1974年から4000形の中間電動車を増備することによって暫定5両編成を解消することになった。 中間電動車の増備にあたり、制御車に使用していたPIII‐706T形台車を増備される中間電動車に流用することになり、1974年から1975年にかけて制御車の台車を新製された軸バネ式空気バネ台車のTS‐814形に交換した。PIII‐706T形台車は若干の改造の上電動台車のPIII‐706M形に変更された。しかし、増備される中間車が26両であるのに対し、パイオニアIII形台車を提供する制御車の両数は22両だったため、不足する4両分の台車は軸バネ式空気バネ台車のTS‐818形を新製した。主電動機については、ABF車の主電動機を流用することになり、ABF車の淘汰が進められることとなった。5両固定編成化に伴い、デハ4000番台のパンタグラフを撤去したほか、クハ4050番台の電動空気圧縮機 (CP) を大容量のC‐2000M形に交換し、デハ4200番台の車両にも搭載された。 中間電動車の増備により、1976年までに13編成が5両固定編成化され、暫定5両編成は解消された。 1973年から1976年にかけて自動解結装置と電気連結器の設置が行なわれたほか、1976年から1978年にかけて全ての先頭車にスカートを設置した。また、3両固定編成のクハ4050番台の電動空気圧縮機 (CP) を大容量のC‐2000M形に交換した。 ===冷房・高性能化=== 1977年の急行10両編成化以降、4000形の5両固定編成を2編成連結した10両編成の運用も見られたが、最高速度が95km/hで、車両重量の増加を伴う冷房化改造は車軸強度上から著しく困難であった。既に小田急の通勤車両は冷房付の高性能車が主力の状況であり、4000形についても同等の水準とすることが望ましくなった。 このため、1985年から冷房化と高性能化を主とした改造が開始され、同時に他の高性能車と同様の6両固定編成・4両固定編成への組成変更が行なわれた。 冷房・高性能化にあたり、主制御装置は元来装備していたABF‐125‐15形を流用したが、応荷重装置が加速時にも機能するようにしたほか、制御段数の変更が行なわれた。主電動機は、同年から廃車が開始されたHE車の使用していた主電動機である三菱電機製MB‐3039‐A形を流用した。駆動装置はWNドライブとなり、歯車比は5000形と同じ90:17=5.3となった。電動台車については、基礎制動装置をディスクブレーキとした軸バネ式空気バネ台車のTS‐826を新製したが、ブレーキディスクはパイオニアIII形台車から流用された。付随台車についてはTS‐814とTS‐818を流用した。発電ブレーキは装備していない。 搭載する冷房装置は8000形と同型で冷凍能力10,500kcal/hの三菱電機製CU‐195A形を採用し、各車両の屋根上に4台設置した。屋根上のクーラーキセ(カバー)は、8000形とは異なり各装置ごとに単独のものとなっている。なお、工作の簡易化を図るために冷風ダクトの設置は行なわず、補助送風装置として扇風機を先頭車4台・中間車5台設置した。また、補助電源装置については静止形インバータ (SIV) が新製され、4両編成ではクハ4050番台・デハ4000番台の車両に90kVAのSIVを1基ずつ、6両固定編成ではデハ4200番台・デハ4400番台の車両に120kVAのSIVを1基ずつ搭載した。 車体については基本的にはそのまま流用しているが、製造から20年近く経過していることから各部の補強が行なわれたほか、妻面の窓は固定化された。デハ4100番台・デハ4400番台の車両の新宿方には仕切り扉が設置された。また、全車両の側面に種別・行先表示器が設置された。パンタグラフの搭載位置は全て8000形と揃えられ、デハ4200番台を除く各車両の小田原方に搭載された。乗務員室内の色彩も他形式と同様のライトグリーンに変更された。 組成変更は以下のような3パターンに大別される。巻末の編成表「4両固定編成」・「6両固定編成」も参照されたい。 5両固定編成×2編成を4両固定編成と6両固定編成各1編成に変更3両固定編成と5両固定編成各1編成を4両固定編成×2編成に変更3両固定編成×2編成を6両固定編成×1編成に変更これに伴い、先頭車8両が中間車化されている。 1988年度末に全車両の改造が終了したが、この改造および組成変更に伴い、92両全車両が改番された。5両固定編成は1987年7月に運用を終了し、さらに3両固定編成も1988年9月16日限りで運用終了となり、小田急の路線から営業運行を行なう吊り掛け駆動方式の電車は消滅した。ただし、同年9月22日に発生した車輌故障に関連して、8000形と併結の上、突発的な代走営業運転が行われた旨、鉄道友の会小田急部会会報に記載があるという。これは代走とは言え、4000形の吊り掛け駆動時代最後の営業運転であり、さらには、小田急電鉄で記録に残るものとしては、最初で最後のカルダン駆動車と吊り掛け駆動車の併結運転でもあった。 ===淘汰=== 改造後の4000形は、4両固定編成が江ノ島線の各駅停車を中心に(ただし、一部小田原・箱根湯本ゆきの併結急行では相模大野で分割される形で急行でも運転されていた)、6両固定編成は全線で運用されるようになった。なお、高性能化以前は、5両固定編成と3両固定編成を組み合わせた8両編成がしばしばみられたが、高性能化以後は4両固定編成を2編成連結した8両編成で運行することは稀であった。 その後は大きな車両の動きはなかったが、2003年からは3000形の増備に伴い、NHE車とともに淘汰が開始された。2004年12月のダイヤ改正前日をもって運用離脱、さよなら運転などは行なわれず、2005年1月までに全車両が廃車・解体された。最後まで運用されていたのは4055F、4257Fで末期はこれら2本を繋げた10連で朝ラッシュ時の急行に半固定的に使用されていた。また、この頃の小田急はダイヤ改正に合わせて種別幕が順次新しい物に交換されていたが、当形式は廃車時期が近いこともあり、最後まで旧幕のまま運用されていた。 ==編成表== ===凡例 === Tc …制御車、Mc …制御電動車、M …電動車、T…付随車、CON…制御装置、MG…補助電源装置(電動発電機)、SIV…補助電源装置(静止形インバータ)、CP…電動空気圧縮機、PT…集電装置 ===3両固定編成(1966年‐1988年)=== 当時は号車番号は付番されていなかった。 ===暫定5両編成(1973年‐1976年)=== 当時は号車番号は付番されていなかった。新宿方2両と小田原方3両の組み合わせは変更されることがあった。 ===5両固定編成(1974年‐1987年)=== ===4両固定編成(1985年‐2004年)=== ===6両固定編成(1985年‐2004年)=== =キャプテン翼= 『キャプテン翼』(キャプテンつばさ)は、高橋陽一による日本のサッカー漫画。および、それを原作にした派生作品。サッカーに打ち込む少年達の姿を描き、連載時に日本国内でサッカーブームを起こすと、後にプロサッカー選手となる多くの選手達に影響を与えた。略称は「キャプ翼」(キャプつば)、「C翼」。 ==概要== 「ボールは友達」が信条の主人公・大空翼の活躍と成長を描いたサッカー漫画である。サッカーの楽しみや魅力を伝えることに重点が置かれた爽やかな作風は、従来のスポ根漫画に代わる新しいスタイルのスポーツ漫画として読者に受け入れられた。1983年にアニメ化されると日本国内でサッカーブームを起こし、それまでマイナーな競技と見做されていたサッカーの人気と競技人口拡大に寄与した。 Jリーグ発足に伴うサッカー人気の高まりにより連載が再開され、1994年から1997年までFIFAワールドユース選手権での活躍を描いた『キャプテン翼 ワールドユース編』が連載された。2000年代に入ると掲載誌を『週刊ヤングジャンプ』に移し、2002 FIFAワールドカップ開催に合わせる形で2001年から2004年まで『キャプテン翼 ROAD TO 2002』、2005年から2008年までは『キャプテン翼 GOLDEN‐23』、2009年から2011年までは『キャプテン翼 海外激闘編』が連載された。2013年からは掲載誌を『グランドジャンプ』に移し『キャプテン翼 ライジングサン』を連載している。これらの作品では、翼たち主要登場人物たちがスペイン、イタリア、ドイツ、日本などの各国リーグのプロ選手として活躍する姿が描かれている。 2007年11月までに出版された全シリーズの日本国内累計発行部数が、単行本・文庫本合わせて7000万部を突破した。また、国外での累計販売部数は、正式に出版契約を交わしている翻訳本で約1000万部。 2017年6月に出版された『キャプテン翼 ライジングサン』第6巻においてシリーズ通算100巻を達成した。 ==作品背景== ===連載までの経緯=== 作者の高橋は子供のころから野球をはじめとしたスポーツに親しみ、小学時代は徒競走を得意とし、中学時代は卓球部に、高校時代は軟式野球部に所属していた。その一方で、小学校高学年から『巨人の星』や『あしたのジョー』などといったスポーツ漫画に影響を受けて漫画を描き始めた。 サッカーについては少年時代から「ごっこ遊び」を通じて興味を抱いていたが、高校3年生の時にアルゼンチンで開催された1978 FIFAワールドカップをテレビ観戦したことを契機に注目するようになった。高橋によると「少年時代からサッカーという競技は知っていましたけど、ワールドカップのアルゼンチン大会をテレビで見て、『サッカーってこんなに面白いスポーツだったんだ』というのを再発見した」という。 1978年夏、高校卒業後の進路として漫画家を志し、新人漫画家の登竜門とされる手塚賞に応募するための短編を執筆した。この作品はそれまで描き続けていたスポーツものではなくSFものだったが、後に高橋の初代担当編集となる鈴木晴彦は可能性を感じ、一線級の漫画家のアシスタントに推薦することを約束した。さらに高橋に対してSFは不向きであると諭し、彼が最も得意とするスポーツを題材として作品を執筆し、新人賞に応募するように提案した。これを受けて高橋は、自身がプレー経験のある野球と他の新人が採用しない題材としてサッカーを選び、交互に作品を制作した。サッカーを漫画の題材として選んだ理由については「野球マンガといえばスポーツマンガの王道で、水島新司さんはじめ、描き尽くされた感もあったんです。僕は新人だし、ほかの人のやらないものを」と語っている。 平松伸二のアシスタントを務めながら作品作りに取り組み、1980年にサッカーを題材とした『キャプテン翼』が月例賞で入選し、同年18号に読切として掲載され漫画家デビューを果たした。なおこの作品は中学サッカーを題材としており、主人公の名前は「翼太郎」であるが、「南葛」「修哲」「若林」「石崎」といった、後の連載版のベースとなる設定や登場人物も登場した。ただし、鈴木によれば後の連載版に描かれた爽快さとは若干異なる内容となっており、「キャラクターの個性が上手くはじけなかった」と評している。この作品を基にして連載化するにあたり高橋は、読切短編と同様に中学生を主人公とした設定や、山奥に住む自然児を主人公にした設定を考案したが行き詰まり、試行錯誤を経て、後の作品へと繋がる「サッカーに情熱を燃やす小学生」を主人公とした構想へと転換した。 ===国内のサッカー受容=== 連載開始時にあたる1980年代初頭の日本サッカー界は、サッカー日本代表がFIFAワールドカップ予選やオリンピック予選での早期敗退が続き、日本サッカーリーグの人気が低迷していたことから、「冬の時代」と呼ばれていた。毎年冬に行われる高校選手権の人気が高まっていたものの選手の多くは将来の目標を見出せず、ある時期に差し掛かると競技から遠ざかっていく状況が続いていた。また、長い伝統と充実した練習環境を有する欧米のサッカー界に対して、日本にはプロサッカーリーグは存在せず、練習設備や育成システムの整備が立ち遅れていた。こうした状況から、代表チームがFIFAワールドカップへの出場が叶わないことは無理もないと考えられるなど、世界と日本との間には距離感が存在したともいわれる。 その一方で日本サッカー界全体としては競技を普及させるために各地に少年サッカークラブや、従来の学校スポーツの枠組みとは異なる読売クラブや三菱養和SCのようなクラブチームが誕生し、静岡県清水市(後の静岡市清水区)のように大人から子供まで町ぐるみでサッカーに取り組む動きがあり、人気が盛り上がる土壌は築かれつつあった。当時の小学生のサッカー受容について教育評論家、漫画評論家の斎藤次郎は「少なくとも小学生にとってはまださほど人気のある種目ではなかった。逆にそれだけ、手垢にまみれた野球などより新鮮に受けとられた、ともいえよう」と指摘している。 ==表現手法== ===スーパープレー=== 本作品では、読者にサッカーの魅力を伝えるために世界のサッカーを意識し、登場人物達に世界のトップ選手顔負けの超人的なプレーを実践させた。 高橋によれば、連載当初から「読者の印象に残るポイントとなるシーン」を意識して描いていたといい、実例を挙げると第1話の「翼が若林宅にボールをけり込むシーン」や、第2話の「街中を走行するバスの真下にシュートを放つシーン」などがある。第4話において翼がロベルト本郷に触発されてオーバーヘッドキックに挑戦するシーンについては、後の展開の中で盛り込むことを予定していたが、読者アンケートの結果が不調だったことを受けて、原稿を全て書き直して掲載した。第4話のアンケート結果が好評だったこともあり、高橋は「ストーリーが大事なのはもちろんですが、単純にすごいプレーとか、驚くような動きを読者は求めているのかな」と考えたという。 また、当時は「サッカー漫画はヒットしない」という定説があり、野球漫画とは異なり参考となり得る作品が少なかったことなどから、サッカーという競技を作品内でいかに表現するかに苦慮した。高橋によれば「野球だと、なかなか主人公の所まで打順が回ってこなかったりとか、九回までに決着をつけなければいけないとか、ルール上の制約がありますよね。サッカーだと九十分間何をやっても構わないというか、打順に関係なく自分のところにボールが回ってきたり、野球のバントのような決まり事も少なくて、自分の発想でプレーを組み立てていける。そういう野球とサッカーの違いをマンガで描ければいいな」と考えたといい、第4話での「オーバーヘッドキック」への反響と、最初の試合となった「南葛小対修哲小の対抗戦」を描き切ったことが連載を継続する上で自信に繋がったと語っている。 高橋の証言にある通り作品が進行するに従い、ゴールポストの反動を利用したジャンプ技、コンクリート壁を破壊する威力を持つ「タイガーショット」、往年の『アストロ球団』を彷彿とさせる「スカイラブハリケーン」などの超人的な描写が周期的に登場するようになった。一方、物語自体は一連のスーパープレーのみに依存して進行するのではなく、根幹には翼をはじめとした主要登場人物とその仲間らが織りなす奮闘する姿勢が存在する。スーパープレーの描写により作品に彩りを添えつつ個々の奮闘精神やそれに基づいたプレーとを交互させることでバランスを保ち、超人ではなく普通の人間であることを前提として試合全体の流れを着地させていく正統的なスポーツ漫画に近しい作品として描かれた。 ===コマ割り=== スポーツ漫画では、一つのページの中で個々に独立したコマをいかに連続性のあるものとして関係付けるのか、実際には動くことがない平面な絵を画面描写により動的なものとして表現するのかが焦点となるとされているが、本作品では漫画の基本である「コマ割り」を大きく崩した表現手法を多用することでサッカー競技の持つ流動性やダイナミックな動きを表現しようと試みられた。一例をあげると以下のようなものである。 ボールに積極的に関与する双方の選手達を描いた俯瞰図を描く。 俯瞰図の上からさらに、見せ場となるプレーを行う一人の選手の全身像を描く。 その周囲に実況アナウンサーあるいは狂言回し役の登場人物を配し、一連のプレーの技術解説、これから起こり得るプレーの予測をさせることで読者に物語の進行と競技に対する理解を手助けをする。 関西大学教授の杉本厚夫によれば、こうした手法は往年のスポ根の代表作である『巨人の星』や『あしたのジョー』、あるいは1990年代にバスケットボールを扱って人気を獲得した『SLAM DUNK』では見られないという。連載当時の1980年代のスポーツ界は少年スポーツが盛んになった時期であり、それと同時に指導者の強い管理下に置かれ旧来的な指導が行われていた時期であるが、杉本は「コマ割り」を大きく崩した表現手法を多用することで従来の堅苦しく暑苦しいスポーツの既成概念を漫画表現を通じて打破しようとしたのではないか、重圧感を打ち破る隠喩として用いたのではないかと指摘している。 ===キャラクター造形=== 本作品では『週刊少年ジャンプ』の中心テーマである「友情・努力・勝利」の要素を押さえ、「チームメイトやライバルとの友情と交流」、「誰からの強制でない『スポーツを楽しむ』ための自発的努力」、「全国大会や国際大会という舞台で技を競い合い勝利を目指す」といった要素が描かれている。天性の才能を有し難易度の高い技術も容易く身に付けることができる 主人公・大空翼に対しては彼の柔和な気質もあり 賞賛が与えられている。彼の周囲からは従来の「スポ根」では定番ともいえる「泥臭さ」「苦行」といった要素は排除され、ひたすら好きなサッカーのため、楽しみのために技術を磨き「プロサッカー選手になり、日本代表をFIFAワールドカップで優勝に導く」という単純明快かつ大きな目標を掲げている。 翼と周囲の仲間たちとの間には、彼の個性に引きずられるようにコミュニケーションの輪が形成され、チームワークが形成されていく。連載初期に翼の前に立ちはだかる若林源三は街の名士の子息であり、専属コーチの下で指導を受けるなど恵まれた練習環境を有する一方で、翼とは相反するかのようなプライドの高さを有していたが、彼の個性に影響されて次第に寛容さを見せるようになる。 その一方で天才型の主人公に対し、同世代の最大のライバルである日向小次郎については小学生編では貧困から抜け出す手段として家計を助けながら練習に取り組む姿が、中学生編では血のにじむような秘密特訓に励み必殺シュート「タイガーショット」を編み出す姿が描かれている。また、ライバルの一人である松山光についても雪国という練習環境や才能の欠如を努力によって補おうと練習に励むなど、努力型の主人公が描かれる傾向があった従来の「スポ根」の構造を逆転させている。 こうしたキャラクター造形やストーリー構成について、高橋が当初イメージしていたものは、翼と若林が別々のチーム同士で対戦する対抗戦までだったとしている。読者の人気を獲得したことで連載が継続され、対抗戦に続く新たなステージとして全日本少年サッカー大会を巡るライバル対決へと移行する中で、翼とは対照的な性質を有する日向、既存のキャラクターの隙間を埋めるように松山、三杉淳、立花兄弟といったキャラクターが新たに創作され、物語の進行とともに次第に存在感を増していった。さらにライバルとの関係の中で既存の翼、岬、若林、石崎といったキャラクターもキャラ立ちをしていった。 また、高橋は本作品について『ドカベン』などを手掛けた水島新司の描き方を参考にして野球からサッカーへと置き換えたものだとも語っており、三ツ谷誠著の『「少年ジャンプ」資本主義』では「南葛を『ドカベン』における明訓高校、大空翼と岬太郎を山田太郎と里中智だと考えれば構造は更に似てくる」としている。さらに三ツ谷は両作品の相違点について「『ドカベン』では個々のキャラクターが陰影を抱えているのに対し、『キャプテン翼』では人生の重さや不条理といった影は薄くなっており、翼を始めとした向日性豊かなキャラクター群に抑えられている。かつまた、サッカーという競技自体の面白さや魅力を前面に押し出しているため、それぞれの人生などというものはストーリーに花を添えるもの、書割にしかなっていない」と指摘している。 ==ストーリー== ===キャプテン翼=== 1981年 ‐ 1988年、『週刊少年ジャンプ』に連載された第1作、ジャンプコミックス全37巻。 本編に明記された章立てではないが、それぞれ小学生全国大会、中学生全国大会、ジュニアユース大会での戦いが展開され、最後に翼がブラジルへ旅立つまでが描かれている。 ===小学生編=== 南葛小に転入した天才サッカー少年・大空翼は修哲小の天才キーパー・若林源三と出会う。二人は両校の対抗戦において勝負を決することになり、翼は石崎了と共にプロ選手のロベルト本郷から指導を受ける。試合は南葛が強豪の修哲を相手に粘り強い攻防を繰り広げ延長戦に持ち込むと、転校生の岬太郎も加わり2‐2のスコアで引き分ける。試合後、翼はロベルトから勧誘を受けブラジルへの留学を決心すると、その条件として全国大会優勝を誓う。南葛市では全日本少年サッカー大会県予選に備え選抜チーム「南葛少年サッカークラブ(南葛SC)」を結成。翼、若林、岬、石崎らは南葛SCの選手として県予選に出場し全国大会出場を決めるが、予選決勝で若林が負傷し大会出場を危ぶまれる。全国の舞台では翼らの前にハングリー精神の旺盛な日向小次郎、恵まれた才能を持ちながら心臓病を抱える三杉淳、双子の立花兄弟といったライバルたちが立ちはだかるが、激戦を制して決勝進出を果たす。決勝戦は日向や若島津健らを擁する明和FCとの再戦となるが、負傷の癒えた若林が合流し再延長戦の末に4‐2のスコアで明和を退けて優勝を果たす。大会終了後、ブラジル行きに胸を膨らませる翼だったが、その夢を託されるに値する人間なのかと苦悩するロベルトは単身帰国する。さらに友人の岬は転校、若林は西ドイツへ留学するなど新しいステージへ旅立っていく。 ===中学生編=== 南葛SCでの全国優勝から3年後、南葛中の三年生になった翼たちが全国大会三連覇を目指す。国内最高レベルの選手に成長した翼は日本サッカー協会の片桐宗政の支援の下、来年度からのブラジル挑戦に向けて着々と準備を進めている。これに対して県予選決勝では大友中の新田瞬、全国大会1回戦では東一中の早田誠、3回戦では花輪中の立花兄弟、準々決勝では比良戸中の次藤洋、準決勝ではふらの中の松山光といったライバルたちが南葛に挑む。南葛中は苦戦の末に決勝進出を果たし、決勝戦は南葛対東邦学園という3大会連続同一カードとなるが、翼はライバルたちとの連戦により負傷する。一方、東邦のエース・日向は都予選後に秘密特訓のため無断行動をとったことが問題視され不出場となっていたが、その彼が決勝戦に出場することとなり南葛の前に立ちはだかる。試合は一進一退の攻防を続けるが延長戦に入るも決着がつかず、4‐4のスコアで両校同時優勝となる。 ===ジュニアユース編=== 中学生大会の優秀選手を中心に全日本ジュニアユースが結成されヨーロッパへ遠征、初戦で西ドイツの若き皇帝と呼ばれるシュナイダーや若林を擁するハンブルクと対戦するが1‐5のスコアで完敗する。続くブレーメン戦にも敗れ世界との実力差を知る選手達だが、徐々にチームとしてまとまりを見せはじめる。その後、中学生大会での負傷の癒えた翼、海外組の若林と岬がチームに合流しフランス・パリで開催される第1回フランス国際Jr.ユース大会に出場。ヘルナンデスを擁するイタリア、ディアスを擁するアルゼンチン、ピエールを擁する地元フランスといった強豪チームを抑えて決勝進出を果たす。決勝戦では優勝候補筆頭でありシュナイダーを擁する西ドイツとの対戦となるが、翼の決勝点で3‐2と西ドイツを下し大会初優勝を果たす。 ===エピローグ=== 若林はハンブルクの下部組織から昇格しトップチームと契約を結び、故障者の続出という内部事情もありリーグ戦出場を果たす。これに奮起した翼は日本代表合宿に挑むと、グレミオとの親善試合で史上最年少の代表デビューを果たす。一方、日向をはじめ同世代のライバルたちは高校への進学を、岬はフランスから帰国し石崎らと共に南葛高校への進学を決める。卒業を前に翼はこれまで支えとなっていた中沢早苗に見送られ、ロベルトのいるブラジルへと旅立つ。 ===キャプテン翼 ワールドユース特別編 最強の敵!オランダユース=== 1993年、『週刊少年ジャンプ』短期連載、全1巻。 第1作の連載終了後、5年の歳月を経過して短期連載された。高校選手権終了後、全日本ユースとオランダユースの親善試合が行われるが第1戦、第2戦とオランダに大敗。第3戦ではブラジルから帰国した翼がチームに合流し反撃に出る。一方、この試合ではオランダユース真のキャプテン、ブライアン・クライフォートが出場しておらず、その影を「ワールドユース編」への足がかりとしている。元々は独立したエピソードだったが、単行本化の際に一部加筆されワールドユース特別編と位置付けられた。 ===キャプテン翼 ワールドユース編=== 1994年 ‐ 1997年、『週刊少年ジャンプ』連載、全18巻。 フランス国際Jr.ユース大会から3年後が舞台。中学卒業後にブラジルでプロサッカー選手になった翼が日本に帰国し、新たに葵新伍を加えた全日本ユースのキャプテンとして再び世界に挑む。作品後半では前作で対戦したシュナイダー、ピエール、ディアスといった世界のライバルが再登場したものの、彼らの活躍は詳述されることはなかった。連載途中での打ち切りが決まり、因縁があったオランダユース戦を見開き2ページで試合結果のみを掲載するなど、急ぎ足での展開となった。エピローグの部分は単行本で大幅に加筆された。 ===太陽王子 葵の章=== 翼を目標とし、単身イタリアに渡った葵新伍の活躍を描く。中学卒業後にイタリアへと渡った葵は街の靴磨きからインテルの用具係見習いを経て同クラブの下部組織へ入団、『ジュニアユース編』に登場し翼らと対戦したヘルナンデスとチームメイトとなる。葵は持ち前の明るさをバネに異国の地で技術を磨いていく。 ===サッカーサイボーグ サンターナの章=== ブラジル全国選手権を舞台に、翼と新たなライバルのカルロス・サンターナとの対戦を描く。少年時代に育ての親を失い富豪の下に引き取られたサンターナは、最強の戦士となるべく過酷なトレーニングを課せられる。感情を無くし冷徹なプレーに徹するサンターナに対し翼はサッカーの楽しさを伝えることに苦心する。 ===アジアユース選手権の章=== 高校を卒業した日向、岬らの黄金世代が、Jリーグのクラブに入団せずワールドユース優勝のため全日本ユース一本に専念することを宣言する。一方、リアルジャパン7との対決、若林の負傷と若島津の離脱、新監督・賀茂港による主力選手の追放など波乱の船出となる。賀茂のスパルタ指導の下で満身創痍の日本は、翼と若林と葵が合流しアジアユース選手権1次予選をかろうじて突破した後、主力組が合流しリアルジャパン7との再戦に勝利する。ベストメンバーとなった日本はアジアユース選手権に出場すると、オワイランを擁するサウジアラビア、肖俊光を擁する中国を退けて優勝を果たし、本大会への出場権を獲得する。 ===ワールドユースの章=== 当初ワールドユース選手権の開催が予定されていたブルンガ共和国が内戦状態となり、日本での代替開催が決定。エスパダスを擁するメキシコ、ビクトリーノや元リアルジャパン7の火野竜馬を擁するウルグアイ、ヘルナンデスを擁するイタリア、レヴィンを擁するスウェーデン、オランダを下し決勝進出を果たすと決勝戦はロベルト本郷の率いるブラジルとの対戦となる。日本はブラジルの組織戦術によって防戦一方に追い込まれるが、相手の攻勢をしのぎ後半に逆転する。一方、ブラジルも終了間際に切り札のナトゥレーザを投入し同点とするが、延長戦に入り翼が決勝点を決め日本が初優勝を果たす。 ===キャプテン翼 ROAD TO 2002=== 2001年 ‐ 2004年、『週刊ヤングジャンプ』連載、全15巻。 ワールドユース選手権終了後のプロサッカーの世界が舞台となり、主要登場人物の各所属リーグでの活躍を描く。 翼はリーガ・エスパニョーラのバルセロナに移籍するが、10番を背負うリバウールとのポジション争いに敗れBチームに降格。若林はハンブルクの正GKとしてシュナイダーらを擁するB・ミュンヘンとの一戦に挑むも、試合時の判断を巡り監督と衝突。日向はユベントスへ移籍しリーグデビューを果たすも、世界トップレベルの選手達に圧倒されるなど挫折を経験する。一方、日本国内では岬や三杉や松山らがJリーグのクラブへと入団してポジションを獲得、プロの舞台で互いにしのぎを削りあう。その後、翼はファンサール監督から課せられた年間ノルマ「10得点10アシスト」を早々に達成しトップチーム再昇格を果たすと、ナトゥレーザを擁するR・マドリッドとのエル・クラシコに挑む。伝統の一戦を前に重圧を感じる翼だが、師匠であるロベルトの後押しもあり復調を果たすと、途中出場したリバウールとのコンビでチームを勝利に導く。 ===キャプテン翼 GOLDEN‐23=== 2005年 ‐ 2008年、『週刊ヤングジャンプ』連載、全12巻。 『ROAD TO 2002』で描かれたエル・クラシコから一週間後のストーリー。U‐22日本代表は吉良耕三監督の指揮の下で海外組を招集せず、日本国内に残る「黄金世代」を中心にオリンピック出場を目指す。これにフットサル日本代表の古川洸太郎や風見信之介、アルゼンチン帰りの井川岳人といった新メンバーが加わり黄金世代に挑む。日本は最終予選でオーストラリアに苦戦するも、ホームでの最終戦に4‐1と勝利し、オリンピック出場権を獲得する。ワールドユース直前に負った怪我の影響のため海外組に後れを取った岬のオリンピック出場に賭ける決意、ハンブルクで出場機会を失った若林の去就、翼のバルセロナでの活躍も描かれている。 ===キャプテン翼 海外激闘編 IN CALCIO 日いづる国のジョカトーレ=== 『週刊ヤングジャンプ』2009年23号 ‐ 47号まで連載、全2巻。 日向小次郎は出場機会を得るためにセリエC1のレッジアーナへ期限付き移籍をする。一方、葵新伍はインテルでのトップチーム昇格はならず同じくセリエC1のアルベーゼ(英語版)へ入団し、両者はセリエB昇格を賭けた試合で対戦する。また、赤嶺真紀も女子ソフトボールのオリンピック代表候補として再登場する。 ===キャプテン翼 海外激闘編 EN LA LIGA=== 『週刊ヤングジャンプ』2010年11号から2011年21号および、最終章として2012年16号から同年19号まで掲載、全6巻。リーグ優勝を目指す翼の所属するバルセロナの激闘の模様を描く。 リバウールに代わってトップ下のポジションに定着した翼は敵地で行われるエル・クラシコに出場しナトゥレーザとの再戦に挑む。試合は一進一退の攻防の末に2‐2のスコアで引き分けるが、勝負の行方を見守っていた牧師のミカエルはサッカーの魅力を実感し選手としての復帰を決意する。リーグ戦終盤、優勝の可能性を残すバルセロナはラドゥンガを擁するデポルティーボ・ラ・コルーニャ戦に勝利し、首位のマドリッドがヌマンシア戦に敗れたため勝ち点1差で首位に立つ。一方、ヌマンシアへ入団したミカエルはデビュー戦となったマドリッド戦において、ナトゥレーザを完封するなど実力の片鱗を見せる。 ===キャプテン翼 ライジングサン=== 『グランドジャンプ』2014年3号から連載。バルセロナでリーグ優勝を果たした翼がU‐23日本代表のキャプテンとしてオリンピック優勝(金メダル)を目指すストーリーとなる。 ===キャプテン翼 KIDS DREAM=== 『最強ジャンプ』2018年5月号から連載。『週刊少年ジャンプ』の創刊50周年を記念した企画に伴う連載で、作画は戸田邦和が務める。 ===短編集=== ====ボクは岬太郎==== 1984年、『フレッシュジャンプ』5月号、6月号に掲載(前後編)。岬太郎を主人公とした番外編であり短編集VOL.2に表題作として収録され、のちに第1作の文庫版7巻や『GOLDEN‐23』12巻にも収録された。 南葛SCでの全国大会優勝から1か月後、南葛市から引っ越した岬は転校先の西峰小でも活躍を続ける。一方で父・岬一郎は別れた妻・由美子と再会を果たし、彼女から岬を引き取りたいとの申し出を受ける。葛藤する岬親子だが一郎の絵画の修業のため共にフランスへ旅立つ、といった内容が描かれている。 ===キャプテン翼短編集 DREAM FIELD=== 本編のストーリーとは繋がらない番外編として描かれた短編作品を収録。なお、ほぼ全ての作品において試合の結末は描かれておらず、フェードアウトの形で終了している。 ===1巻=== === キャプテン翼2000 MILLENNIUM DREAM 『週刊ヤングジャンプ』2000年10月20日号増刊「がんばれ!ニッポン!五輪日本代表応援号」に掲載。 架空のゲーム内のストーリーという設定で、24歳の翼、日向、若林がオーバーエイジ枠でシドニー五輪日本代表に参加する。中田英寿や中村俊輔をはじめとした実在選手と共に、決勝でロベルト本郷の率いるブラジル五輪代表と対戦する。 キャプテン翼 ROAD TO 2002 Final Countdown 『週刊ヤングジャンプ』2002年7月1日号増刊「キャプテン翼日本勝ち増刊」に掲載。 2002 FIFAワールドカップに向けた最終テストマッチで、日本代表とオランダ代表が対戦するストーリー。今まで登場機会に恵まれなかったブライアン・クライフォートが満を持して翼と対決する。 キャプテン翼 GOLDEN DREAM 『週刊ヤングジャンプ』2004年34号、35号に掲載(前後編)。 FCバルセロナがアジアツアーで訪日しジュビロ磐田と対戦、長年の名コンビで親友同士だった翼と岬の黄金世代対決を描く。=== ===キャプテン翼2000 MILLENNIUM DREAM=== 『週刊ヤングジャンプ』2000年10月20日号増刊「がんばれ!ニッポン!五輪日本代表応援号」に掲載。架空のゲーム内のストーリーという設定で、24歳の翼、日向、若林がオーバーエイジ枠でシドニー五輪日本代表に参加する。中田英寿や中村俊輔をはじめとした実在選手と共に、決勝でロベルト本郷の率いるブラジル五輪代表と対戦する。 ===キャプテン翼 ROAD TO 2002 Final Countdown=== 『週刊ヤングジャンプ』2002年7月1日号増刊「キャプテン翼日本勝ち増刊」に掲載。2002 FIFAワールドカップに向けた最終テストマッチで、日本代表とオランダ代表が対戦するストーリー。今まで登場機会に恵まれなかったブライアン・クライフォートが満を持して翼と対決する。 ===キャプテン翼 GOLDEN DREAM=== 『週刊ヤングジャンプ』2004年34号、35号に掲載(前後編)。FCバルセロナがアジアツアーで訪日しジュビロ磐田と対戦、長年の名コンビで親友同士だった翼と岬の黄金世代対決を描く。 ===2巻=== === キャプテン翼 25th ANNIVERSARY 『週刊ヤングジャンプ』2005年4・5合併号から6・7合併号、11号から13号に掲載。 Jリーグ百年構想の一環により作られた、東京港沖の総合サッカー育成施設と巨大スタジアムを併設したJアイランドと呼ばれる人工島を舞台に行われる日本代表対世界選抜戦を描く。出場選手は第1作から『ROAD TO 2002』までの登場人物の中から、『週刊ヤングジャンプ』誌上の読者投票を元に編成されたものである。 キャプテン翼 GOLDEN‐23 JAPAN DREAM2006 『週刊ヤングジャンプ』2006年7月15日号増刊号「キャプテン翼 ファイト!日本増刊」に掲載。 2006 FIFAワールドカップに向けた壮行試合として、実在の日本代表と翼をはじめとしたU‐23オリンピック日本代表との対決を描く。=== ===キャプテン翼 25th ANNIVERSARY=== 『週刊ヤングジャンプ』2005年4・5合併号から6・7合併号、11号から13号に掲載。Jリーグ百年構想の一環により作られた、東京港沖の総合サッカー育成施設と巨大スタジアムを併設したJアイランドと呼ばれる人工島を舞台に行われる日本代表対世界選抜戦を描く。出場選手は第1作から『ROAD TO 2002』までの登場人物の中から、『週刊ヤングジャンプ』誌上の読者投票を元に編成されたものである。 ===キャプテン翼 GOLDEN‐23 JAPAN DREAM2006=== 『週刊ヤングジャンプ』2006年7月15日号増刊号「キャプテン翼 ファイト!日本増刊」に掲載。2006 FIFAワールドカップに向けた壮行試合として、実在の日本代表と翼をはじめとしたU‐23オリンピック日本代表との対決を描く。 ===その他=== ====キャプテン翼 読み切り版==== 『週刊少年ジャンプ』1980年18号に掲載。少年ジャンプの「第10回フレッシュジャンプ賞」に入選したことにより掲載が決まった。南葛中学の翼太郎は修哲中学の若林源三とは幼馴染だが、サッカーの才能に恵まれ名門中学に進学した若林に一度も勝ったことはない。ある日、幼馴染で南葛のマネージャーのアキが若林から交際を申し込まれていることを知る。太郎は中学生選手権の地区予選決勝で若林率いる修哲中学と対戦し、彼から得点を奪うことに執念を見せる、といった内容が描かれている。短編集VOL.1『100Mジャンパー』に収録された。 ===キャプテン翼 スペシャル編=== 1985年8月10日に刊行された別冊『キャプテン翼熱闘スペシャル』に「夢のブラジル・プロデビューの巻」と題して掲載。ブラジルプロ1部リーグの舞台でサンパウロFCの新監督・ロベルト本郷は日本人選手の大空翼を起用。日本人初のブラジルプロデビューを果たすと同時に初得点を決め、周囲の期待に応えるが夢オチで終わる。 ===キャプテン翼 GOLDEN‐23 WISH FOR PEACE IN HIROSHIMA=== 『月刊ヤングジャンプ』2008年8月号から9月号に掲載。海外組を招集したU‐23日本代表はオリンピックの壮行試合として広島ビッグアーチでUEFA欧州選手権優勝国のギリシャと対戦。日本はブンデスリーガ得点王のカゲスを擁するギリシャに苦戦するも後半に入り翼を起点に反撃に転じる、といった内容が描かれている。『キャプテン翼 GOLDEN‐23』12巻に収録された。 ===キャプテン翼 ENDLESS DREAM=== 『週刊少年ジャンプ』2008年36号に掲載。少年ジャンプの40周年を記念した企画の一つとして掲載された。『キャプテン翼 海外激闘編 EN LA LIGA』2巻特装版の小冊子に収録。翼たち南葛SCが全日本少年サッカー大会で優勝した直後が舞台となっている。ロベルトや若林が旅立ち、元気のなくなった翼を励まそうと元南葛SCのメンバーらが集まり、若林の一時帰国を翼に知らせたところ、翼が南葛小VS修哲小の対抗戦2NDステージを発案。浦辺、岸田、および全日本少年サッカー大会で知り合ったメンバーがゲストプレーヤーとして招待された。2017年、『グランドジャンプPREMIUM』9月号に再掲。 ===キャプテン翼 特別編 LIVE TOGETHER 2010=== 『月刊ヤングジャンプ』2010年6月号に掲載。EXILEとのコラボ作品。アルゼンチンと翼率いる日本代表との、W杯に向けた国内最終テストマッチの前半終了後、ハーフタイムショーでEXILEが登場し、サッカー日本代表応援ソング「VICTORY」を歌う。 ===キャプテン翼 MEMORIES〜これは南葛小VS修哲小 対抗戦当日に起こった話〜=== 『グランドジャンプPREMIUM』2018年5月号に掲載。南葛小と修哲小の対抗戦当日を描いたスピンオフ作品。翼や若林をはじめ、対抗戦に関わる人々の人間模様が描かれている。 ==登場人物== ===大空翼(おおぞら つばさ)=== この作品の主人公。「ボールは友達」を信条とするサッカー少年。柔軟なボールタッチを生かしたドリブル突破、多彩なキックを生かしたゲームメイクを得意としている。ポジションは小学生まではフォワードを務めていたが中学生になってからはミッドフィールダーに転向した。楽天的だが時には強気な姿勢でチームを牽引する。 ===岬太郎(みさき たろう)=== ポジションはミッドフィールダー。親友である翼と同様に柔軟なボールタッチを持ち味とし、彼との息の合ったコンビプレーを得意としている。温和な性格だが闘志を内に秘めるタイプ。 ===若林源三(わかばやし げんぞう)=== ポジションはゴールキーパー。少年時代から専属コーチの下で英才教育を受けキーパーとしての高い資質を持ち、ペナルティエリア外からのシュートを決して許さない、という信念を持つ。 ===日向小次郎(ひゅうが こじろう)=== ポジションはフォワード。翼とは対照的に力強さと勝利への執着心を前面に出し、直線的なプレーで得点を狙う。交通事故により父を亡くし、家計を助けながらサッカーに取り組む。 ===若島津健(わかしまづ けん)=== ポジションはゴールキーパー。空手道の技術を応用したセービング、高い反射神経を生かしてゴールを守る。状況に応じて攻撃に加わるなど若林とは対照的なプレースタイルの持ち主。 ===三杉淳(みすぎ じゅん)=== ポジションは主にミッドフィールダー。様々なポジションをこなすユーティリティ性と高い戦術眼を持ち「フィールドの貴公子」と呼ばれる。その一方で心臓病のハンデを抱えている。 ===松山光(まつやま ひかる)=== ポジションは主にミッドフィールダー。北国という環境で培った強い精神力とキャプテンシーを生かしてチームを牽引する。 ===ロベルト本郷(ロベルト ほんごう)=== 元ブラジル代表のプロ選手であり、翼の師匠。試合中の事故が基で網膜剥離を患い現役を引退するが、翼を世界トップレベルの選手に育成することを目指す。 ===中沢早苗(なかざわ さなえ)=== 翼や石崎と同級生で「あねご」と呼ばれる男勝りの少女。小学時代は応援団に所属していたが翼に惹かれてファンとなり、中学ではサッカー部のマネージャーを務めている。 ===石崎了(いしざき りょう)=== ポジションはディフェンダー。「顔面ブロック」などの根性を前面に出すタイプの選手。翼が南葛市に引越した際に最初に友人となった。 ===カール・ハインツ・シュナイダー=== ポジションはフォワード。西ドイツ(後のドイツ)出身。強烈なシュート力と、高い決定力を有するストライカー。元プロ選手の父を持ち、技量に裏打ちされた誇り高さを兼ね揃える ことから「若き皇帝」と呼ばれる。 ===ファン・ディアス=== ポジションはミッドフィールダー。アルゼンチン出身。「アルゼンチンの至宝」と称される天才プレーヤーで、ストリートで培った高度なドリブルテクニックや意外性のあるアクロバットプレーを得意とする。 ===エル・シド・ピエール=== ポジションはミッドフィールダー。フランス出身。高い技術を生かし多彩なキックで中盤を操ることから「フィールドのアーティスト」の異名を持つ。 ==用語== ===対抗戦=== 関連作品 ‐ 『キャプテン翼』静岡県南葛市内にある南葛小学校と修哲小学校の全スポーツクラブが参加して争われる競技大会で、翼らの世代では第26回大会にあたる。 ===全日本少年サッカー大会=== 東京都にあるよみうりランドで開催された小学生年代(第4種)の全国大会。全国から参加した48チームを6チームごと8グループに振り分けリーグ戦を戦い、各組の上位2チームが一発勝負の決勝トーナメントへ進出し優勝を決める。 ===全国中学生サッカー大会=== 埼玉県大宮市にある埼玉県営大宮公園サッカー場を中心とした3会場で開催された中学生年代(第3種)の全国大会。予選参加2246校の中から勝ち抜いた47チームが一発勝負のトーナメント方式により優勝を決める。 ===フランス国際ジュニアユース大会=== フランスの首都パリにあるパルク・デ・プランスで開催されたジュニアユース年代(第3種)の国際大会。世界各国から参加した12チームを3チームごと4グループに振り分けリーグ戦を戦い、各組の上位1チームが一発勝負の決勝トーナメントへ進出し優勝を決める。 ===ワールドユース選手権=== 関連作品 ‐ 『キャプテン翼 ワールドユース編』20歳以下の年代の世界一を決める大会。当初はアフリカのブルンガ共和国(架空の国家)で開催される予定だったが、内戦の影響により、日本で代替開催されることになった。 ===リーガ・エスパニョーラ=== 関連作品 ‐ 『キャプテン翼 ROAD TO 2002』 、『キャプテン翼 GOLDEN‐23』、『キャプテン翼 海外激闘編 EN LA LIGA』、『キャプテン翼 ライジングサン』スペインのプロサッカーリーグ。翼やリバウールらを擁するバルセロナ、ナトゥレーザらを擁するRマドリード などが所属する。 ===マドリッドオリンピック=== 関連作品 ‐ 『キャプテン翼 GOLDEN‐23』、『キャプテン翼 ライジングサン』国際オリンピック委員会の主催で行われる夏季オリンピックの男子競技。23歳以下の年代の世界一を決める大会だが、オーバーエイジ枠の選手を1チームにつき最大3名追加することが可能となっている。開催国のスペインをはじめ各地域の予選を勝ち抜いた16チームにより争われる。 ==舞台== 小学生編や中学生編では静岡県南葛市という架空の都市を舞台としているが、「南葛市」「南葛SC」「南葛中学校」などの名称は高橋の出身校である東京都立南葛飾高等学校に、若林らが小学校時代に所属していた「修哲小学校」の名称は修徳高等学校に因んでいる。この他にも作品内には土手のある河川敷など、葛飾区内の風景が色濃く描写されているという。小学生編の全日本少年サッカー大会の会場としてよみうりランドのサッカー場でのプレーが描かれたが実際の大会においても2000年代まで、このサッカー場が使用された。 中学生編の第16回全国中学生サッカー大会の会場としてさいたま市大宮公園サッカー場(当時の名称は埼玉県営大宮公園サッカー場)でのプレーが描かれた。実在の全国中学校サッカー大会では1970年の第1回大会から1981年の第12回大会までは同サッカー場をメイン会場として使用していたが、第13回大会からは単一の会場ではなく地域ブロックによる持ち回り制に変更している。高橋は「連載当時の国内では数少ないサッカー専用スタジアムであり、ピッチとスタンドの距離が近いため試合が観やすく、漫画にする際には描きやすかった」と評している。 また、続編の『キャプテン翼 ROAD TO 2002』以降はスペインのバルセロナを舞台にしているが、これについて高橋は「自分がスペインが好きだった」「1998年にフランスで行われた1998 FIFAワールドカップを観戦に訪れた際に、フランス国内で宿が確保できず、バルセロナのホテルに宿泊した。バルセロナ滞在中にカンプ・ノウスタジアムを訪れたところ「翼がここで毎試合プレーをしたら楽しいだろう」とイメージが湧いた」ことを理由に挙げている。 ==連載時の反響== 1981年から1988年にかけての『キャプテン翼』連載時には少年少女を問わず反響があり、1983年に開始されたテレビアニメの影響もあって、サッカーブームが到来した。子供たちは作品内に登場する「オーバーヘッドキック 」「ドライブシュート」「翼と岬のコンビネーションプレー」「タイガーショット」「スカイラブハリケーン」などのプレーを実際に模倣し、スポーツ用品店からはサッカーボールが品切れとなり、サッカー少年団への入部希望者が急増 するなどの社会現象が発生した。この作品に影響され、サッカーを始めた少年たちは数多く存在しており、連載開始時の1981年に行われた調査では日本サッカー協会に登録された小学生の選手数は約11万人だったのに対し、連載終了時の1988年に行われた調査では約2倍となる24万人に増加した。当時のサッカーブームについてサッカー解説者であり指導者のセルジオ越後は次のように評している。 日本には強化の思想はあっても、普及の思想がなかった。(そこで1978年から「さわやかサッカー教室」を主催して)僕は子供たちと一緒にボールを追いながら、この国に本当のサッカー文化を根付かせよう、自分はそのために種をまく人になろうって思ったの。でも、僕でもかなわないものが一つだけある。漫画の『キャプテン翼』は僕が30年かかった仕事を、たった2年でやっちゃったんだから。あれには僕も勝てないな。 ― セルジオ越後 ==書誌情報== 以下の単行本に収録されている。特記のない限り高橋陽一名義、集英社刊。 ===単行本/文庫本=== 高橋陽一『キャプテン翼』集英社〈ジャンプコミックス〉、 全37巻高橋陽一『キャプテン翼』集英社〈集英社文庫〉、全21巻 1997年8月17日発売 ISBN 4‐08‐617321‐2 1997年8月17日発売 ISBN 4‐08‐617322‐0 1997年10月22日発売 ISBN 4‐08‐617323‐9 1997年10月22日発売 ISBN 4‐08‐617324‐7 1997年12月17日発売 ISBN 4‐08‐617325‐5 1997年12月17日発売 ISBN 4‐08‐617326‐3 1998年2月23日発売 ISBN 4‐08‐617327‐1 1998年2月23日発売 ISBN 4‐08‐617328‐X 1998年4月22日発売 ISBN 4‐08‐617329‐8 1998年4月22日発売 ISBN 4‐08‐617330‐1 1998年6月23日発売 ISBN 4‐08‐617331‐X 1998年6月23日発売 ISBN 4‐08‐617332‐8 1998年8月16日発売 ISBN 4‐08‐617333‐6 1998年8月16日発売 ISBN 4‐08‐617334‐4 1998年10月21日発売 ISBN 4‐08‐617335‐2 1998年10月21日発売 ISBN 4‐08‐617336‐0 1998年12月16日発売 ISBN 4‐08‐617337‐9 1998年12月16日発売 ISBN 4‐08‐617338‐7 1999年2月23日発売 ISBN 4‐08‐617339‐5 1999年2月23日発売 ISBN 4‐08‐617340‐9 1999年2月23日発売 ISBN 4‐08‐617341‐71997年8月17日発売 ISBN 4‐08‐617321‐21997年8月17日発売 ISBN 4‐08‐617322‐01997年10月22日発売 ISBN 4‐08‐617323‐91997年10月22日発売 ISBN 4‐08‐617324‐71997年12月17日発売 ISBN 4‐08‐617325‐51997年12月17日発売 ISBN 4‐08‐617326‐31998年2月23日発売 ISBN 4‐08‐617327‐11998年2月23日発売 ISBN 4‐08‐617328‐X1998年4月22日発売 ISBN 4‐08‐617329‐81998年4月22日発売 ISBN 4‐08‐617330‐11998年6月23日発売 ISBN 4‐08‐617331‐X1998年6月23日発売 ISBN 4‐08‐617332‐81998年8月16日発売 ISBN 4‐08‐617333‐61998年8月16日発売 ISBN 4‐08‐617334‐41998年10月21日発売 ISBN 4‐08‐617335‐21998年10月21日発売 ISBN 4‐08‐617336‐01998年12月16日発売 ISBN 4‐08‐617337‐91998年12月16日発売 ISBN 4‐08‐617338‐71999年2月23日発売 ISBN 4‐08‐617339‐51999年2月23日発売 ISBN 4‐08‐617340‐91999年2月23日発売 ISBN 4‐08‐617341‐7高橋陽一『キャプテン翼 ワールドユース編』集英社〈ジャンプコミックス〉、全18巻高橋陽一『キャプテン翼 ワールドユース編』集英社〈集英社文庫〉、全12巻 2004年8月10日発売 ISBN 4‐08‐618221‐1 2004年8月10日発売 ISBN 4‐08‐618222‐X 2004年10月15日発売 ISBN 4‐08‐618223‐8 2004年10月15日発売 ISBN 4‐08‐618224‐6 2004年11月18日発売 ISBN 4‐08‐618225‐4 2004年11月18日発売 ISBN 4‐08‐618226‐2 2004年12月14日発売 ISBN 4‐08‐618227‐0 2004年12月14日発売 ISBN 4‐08‐618228‐9 2005年1月18日発売 ISBN 4‐08‐618229‐7 2005年1月18日発売 ISBN 4‐08‐618230‐0 2005年2月18日発売 ISBN 4‐08‐618231‐9 2005年2月18日発売 ISBN 4‐08‐618232‐72004年8月10日発売 ISBN 4‐08‐618221‐12004年8月10日発売 ISBN 4‐08‐618222‐X2004年10月15日発売 ISBN 4‐08‐618223‐82004年10月15日発売 ISBN 4‐08‐618224‐62004年11月18日発売 ISBN 4‐08‐618225‐42004年11月18日発売 ISBN 4‐08‐618226‐22004年12月14日発売 ISBN 4‐08‐618227‐02004年12月14日発売 ISBN 4‐08‐618228‐92005年1月18日発売 ISBN 4‐08‐618229‐72005年1月18日発売 ISBN 4‐08‐618230‐02005年2月18日発売 ISBN 4‐08‐618231‐92005年2月18日発売 ISBN 4‐08‐618232‐7高橋陽一『キャプテン翼 ROAD TO 2002』集英社〈ヤングジャンプ・コミックス〉、全15巻 2001年6月19日発売 ISBN 4‐08‐876167‐7 2001年9月19日発売 ISBN 4‐08‐876202‐9 2001年12月19日発売 ISBN 4‐08‐876244‐4 2002年3月19日発売 ISBN 4‐08‐876278‐9 2002年5月17日発売 ISBN 4‐08‐876294‐0 2002年8月19日発売 ISBN 4‐08‐876333‐5 2002年11月19日発売 ISBN 4‐08‐876368‐8 2003年2月19日発売 ISBN 4‐08‐876402‐1 2003年5月19日発売 ISBN 4‐08‐876443‐9 2003年8月19日発売 ISBN 4‐08‐876487‐0 2003年11月19日発売 ISBN 4‐08‐876525‐7 2004年2月19日発売 ISBN 4‐08‐876565‐6 2004年4月19日発売 ISBN 4‐08‐876596‐6 2004年6月18日発売 ISBN 4‐08‐876617‐2 2004年8月19日発売 ISBN 4‐08‐876656‐32001年6月19日発売 ISBN 4‐08‐876167‐72001年9月19日発売 ISBN 4‐08‐876202‐92001年12月19日発売 ISBN 4‐08‐876244‐42002年3月19日発売 ISBN 4‐08‐876278‐92002年5月17日発売 ISBN 4‐08‐876294‐02002年8月19日発売 ISBN 4‐08‐876333‐52002年11月19日発売 ISBN 4‐08‐876368‐82003年2月19日発売 ISBN 4‐08‐876402‐12003年5月19日発売 ISBN 4‐08‐876443‐92003年8月19日発売 ISBN 4‐08‐876487‐02003年11月19日発売 ISBN 4‐08‐876525‐72004年2月19日発売 ISBN 4‐08‐876565‐62004年4月19日発売 ISBN 4‐08‐876596‐62004年6月18日発売 ISBN 4‐08‐876617‐22004年8月19日発売 ISBN 4‐08‐876656‐3高橋陽一『キャプテン翼 ROAD TO 2002』集英社〈集英社文庫〉、全10巻 2008年1月18日発売 ISBN 978‐4‐08‐618704‐6 2008年1月18日発売 ISBN 978‐4‐08‐618705‐3 2008年2月15日発売 ISBN 978‐4‐08‐618706‐0 2008年2月15日発売 ISBN 978‐4‐08‐618707‐7 2008年3月18日発売 ISBN 978‐4‐08‐618708‐4 2008年3月18日発売 ISBN 978‐4‐08‐618709‐1 2008年4月18日発売 ISBN 978‐4‐08‐618710‐7 2008年4月18日発売 ISBN 978‐4‐08‐618711‐4 2008年5月16日発売 ISBN 978‐4‐08‐618712‐1 2008年5月16日発売 ISBN 978‐4‐08‐618713‐82008年1月18日発売 ISBN 978‐4‐08‐618704‐62008年1月18日発売 ISBN 978‐4‐08‐618705‐32008年2月15日発売 ISBN 978‐4‐08‐618706‐02008年2月15日発売 ISBN 978‐4‐08‐618707‐72008年3月18日発売 ISBN 978‐4‐08‐618708‐42008年3月18日発売 ISBN 978‐4‐08‐618709‐12008年4月18日発売 ISBN 978‐4‐08‐618710‐72008年4月18日発売 ISBN 978‐4‐08‐618711‐42008年5月16日発売 ISBN 978‐4‐08‐618712‐12008年5月16日発売 ISBN 978‐4‐08‐618713‐8高橋陽一『キャプテン翼 GOLDEN‐23』集英社〈ヤングジャンプ・コミックス〉、全12巻 2006年2月17日発売 ISBN 4‐08‐877037‐4 2006年5月19日発売 ISBN 4‐08‐877080‐3 2006年7月19日発売 ISBN 4‐08‐877109‐5 2006年10月19日発売 ISBN 4‐08‐877156‐7 2007年1月19日発売 ISBN 978‐4‐08‐877197‐7 2007年4月19日発売 ISBN 978‐4‐08‐877247‐9 2007年8月17日発売 ISBN 978‐4‐08‐877313‐1 2007年10月19日発売 ISBN 978‐4‐08‐877337‐7 2008年1月18日発売 ISBN 978‐4‐08‐877378‐0 2008年4月18日発売 ISBN 978‐4‐08‐877425‐1 2008年7月18日発売 ISBN 978‐4‐08‐877474‐9 2008年10月17日発売 ISBN 978‐4‐08‐877527‐22006年2月17日発売 ISBN 4‐08‐877037‐42006年5月19日発売 ISBN 4‐08‐877080‐32006年7月19日発売 ISBN 4‐08‐877109‐52006年10月19日発売 ISBN 4‐08‐877156‐72007年1月19日発売 ISBN 978‐4‐08‐877197‐72007年4月19日発売 ISBN 978‐4‐08‐877247‐92007年8月17日発売 ISBN 978‐4‐08‐877313‐12007年10月19日発売 ISBN 978‐4‐08‐877337‐72008年1月18日発売 ISBN 978‐4‐08‐877378‐02008年4月18日発売 ISBN 978‐4‐08‐877425‐12008年7月18日発売 ISBN 978‐4‐08‐877474‐92008年10月17日発売 ISBN 978‐4‐08‐877527‐2高橋陽一『キャプテン翼 GOLDEN‐23』集英社〈集英社文庫〉、全8巻 2010年4月16日発売 ISBN 978‐4‐08‐619132‐6 2010年4月16日発売 ISBN 978‐4‐08‐619133‐3 2010年5月18日発売 ISBN 978‐4‐08‐619134‐0 2010年5月18日発売 ISBN 978‐4‐08‐619135‐7 2010年6月18日発売 ISBN 978‐4‐08‐619136‐4 2010年6月18日発売 ISBN 978‐4‐08‐619137‐1 2010年7月16日発売 ISBN 978‐4‐08‐619138‐8 2010年8月18日発売 ISBN 978‐4‐08‐619139‐52010年4月16日発売 ISBN 978‐4‐08‐619132‐62010年4月16日発売 ISBN 978‐4‐08‐619133‐32010年5月18日発売 ISBN 978‐4‐08‐619134‐02010年5月18日発売 ISBN 978‐4‐08‐619135‐72010年6月18日発売 ISBN 978‐4‐08‐619136‐42010年6月18日発売 ISBN 978‐4‐08‐619137‐12010年7月16日発売 ISBN 978‐4‐08‐619138‐82010年8月18日発売 ISBN 978‐4‐08‐619139‐5高橋陽一『キャプテン翼 海外激闘編 IN CALCIO 日いづる国のジョカトーレ』集英社〈ヤングジャンプ・コミックス〉、全2巻 上巻 2010年5月19日発売 ISBN 978‐4‐08‐877725‐2 下巻 2010年5月19日発売 ISBN 978‐4‐08‐877870‐9上巻 2010年5月19日発売 ISBN 978‐4‐08‐877725‐2下巻 2010年5月19日発売 ISBN 978‐4‐08‐877870‐9高橋陽一『キャプテン翼 海外激闘編 EN LA LIGA』集英社〈ヤングジャンプ・コミックス〉、全6巻 2010年6月4日発売 ISBN 978‐4‐08‐877877‐8 2010年10月19日発売 ISBN 978‐4‐08‐879041‐1 2011年1月19日発売 ISBN 978‐4‐08‐879090‐9 2011年5月19日発売 ISBN 978‐4‐08‐879128‐9 2011年9月19日発売 ISBN 978‐4‐08‐879197‐5 2012年5月18日発売 ISBN 978‐4‐08‐879347‐42010年6月4日発売 ISBN 978‐4‐08‐877877‐82010年10月19日発売 ISBN 978‐4‐08‐879041‐12011年1月19日発売 ISBN 978‐4‐08‐879090‐92011年5月19日発売 ISBN 978‐4‐08‐879128‐92011年9月19日発売 ISBN 978‐4‐08‐879197‐52012年5月18日発売 ISBN 978‐4‐08‐879347‐4高橋陽一『キャプテン翼 ライジングサン』集英社〈ジャンプ・コミックス〉、既刊10巻(2019年1月4日現在) 2014年5月19日発売 ISBN 978‐4‐08‐880130‐8 2014年11月4日発売 ISBN 978‐4‐08‐880241‐1 2016年2月4日発売 ISBN 978‐4‐08‐880351‐7 2016年7月4日発売 ISBN 978‐4‐08‐880741‐6 2017年2月3日発売 ISBN 978‐4‐08‐881013‐3 2017年6月2日発売 ISBN 978‐4‐08‐881230‐4 2017年10月4日発売 ISBN 978‐4‐08‐881234‐2 2018年4月4日発売 ISBN 978‐4‐08‐881459‐9 2018年6月4日発売 ISBN 978‐4‐08‐881555‐8 2019年1月4日発売 ISBN 978‐4‐08‐881711‐82014年5月19日発売 ISBN 978‐4‐08‐880130‐82014年11月4日発売 ISBN 978‐4‐08‐880241‐12016年2月4日発売 ISBN 978‐4‐08‐880351‐72016年7月4日発売 ISBN 978‐4‐08‐880741‐62017年2月3日発売 ISBN 978‐4‐08‐881013‐32017年6月2日発売 ISBN 978‐4‐08‐881230‐42017年10月4日発売 ISBN 978‐4‐08‐881234‐22018年4月4日発売 ISBN 978‐4‐08‐881459‐92018年6月4日発売 ISBN 978‐4‐08‐881555‐82019年1月4日発売 ISBN 978‐4‐08‐881711‐8 ===短編集=== ボクは岬太郎〈ジャンプ・コミックス〉 1987年12月発売 ISBN 4‐08‐851050‐Xキャプテン翼〈ワールドユース特別編〉〈ジャンプ・コミックス〉 1996年4月4日発売 ISBN 4‐08‐872260‐4キャプテン翼短編集 DREAM FIELD 1 〈ヤングジャンプ・コミックス〉2006年5月19日発売 ISBN 4‐08‐877081‐1キャプテン翼短編集 DREAM FIELD 2 〈ヤングジャンプ・コミックス〉2006年7月19日発売 ISBN 4‐08‐877110‐9 ===小説=== 高橋陽一、ワダヒトミ『キャプテン翼』 〈集英社みらい文庫〉 全3巻 2013年12月5日発売 ISBN 978‐4‐08‐321186‐7 2014年3月5日発売 ISBN 978‐4‐08‐321199‐7 2014年6月5日発売 ISBN 978‐4‐08‐321215‐42013年12月5日発売 ISBN 978‐4‐08‐321186‐72014年3月5日発売 ISBN 978‐4‐08‐321199‐72014年6月5日発売 ISBN 978‐4‐08‐321215‐4 ===ガイドブック=== 週刊少年ジャンプ特別編集 キャプテン翼熱闘スペシャル 1985年8月10日発売キャプテン翼『3109日全記録』2003年5月20日発売 ISBN 4‐08‐782789‐5 ==アニメ== これまでテレビアニメが4回、映画が5回、OVAが1回、発表されている。1983年から放送された第1作目のアニメでは原作『キャプテン翼』の小学生編から中学生編までが描かれたが、テレビ東京開局以来のヒットと称され最高視聴率21.2%を記録し、日本国内にサッカーブームを起こした。また、世界50か国以上でテレビ放送されるなど世界中で親しまれている。 1994年から放送された第2作目のアニメでは原作の『キャプテン翼』小学生編から『キャプテン翼 ワールドユース編』のアジアユース編まで、2001年から放送された第3作目のアニメでは原作の『キャプテン翼』、『キャプテン翼 ワールドユース編』の一部、『キャプテン翼 ROAD TO 2002』の一部に相当するエピソードが描かれた。2018年4月から放送される第4作目のアニメでは設定を現代に移し、原作を忠実に描く予定となっている。 1985年から1986年に公開された4本の映画は全てオリジナル作品で、原作『キャプテン翼』の小学生編から中学生編の時期を舞台に全日本選抜と外国チームとの対決が描かれた。1989年から1990年にかけて発売されたOVAでは原作の『キャプテン翼』のジュニアユース編に相当するエピソードが描かれ、1994年に「ジャンプ・スーパーアニメツアー’94」のために製作された映画では「最強の敵!オランダユース」編が描かれた。 ==ゲーム== ゲーム版は1988年4月28日にテクモから発売されたファミリーコンピュータ専用ソフト『キャプテン翼』を皮切りにバンダイやコナミから複数のシリーズが発売された。また、携帯電話向け事業を扱うKLabからもソーシャルゲームサービスが提供されている。その多くは原作漫画に準拠した内容だが、1990年代に発売されたテクモ版のシリーズ作品は原作漫画の終了後のオリジナルストーリー、オリジナルキャラクター、オリジナル必殺シュート、オリジナルの名セリフが描かれるなど独自の進化を遂げ、一部ファンの間で支持を集めたといわれている。 ==小説== 小説版は第1巻が2013年12月5日に集英社みらい文庫より刊行された。この作品は翼らの小学生時代の活躍を描いたもので、執筆は『おおかみこどもの雨と雪』のアニメ絵本を手がけたワダヒトミが担当している。なお、2014 FIFAワールドカップが開催される2014年6月までに全3巻が刊行された。 ==演劇== 2017年に「超体感ステージ 『キャプテン翼』」として舞台化された。同作が舞台化されるのは初であり、ダンス・マーシャルアーツ・イリュージョン・バーチャルリアリティなどを駆使し五感で楽しめるステージとなる。総合演出は蛯名健一が務める。脚本・演出アドバイザーは加世田剛が手掛け、振付は松永一哉が担当する。 ===上演期間・会場=== 2017年8月18日 ‐ 9月3日(Zeppブルーシアター六本木) ===スタッフ=== 総合演出 ‐ 蛯名健一脚本・演出アドバイザー ‐ 加世田剛振付 ‐ 松永一哉 ===キャスト=== 大空翼 ‐ 元木聖也若林源三 ‐ 中村龍介日向小次郎 ‐ 松井勇歩岬太郎 ‐ 鐘ヶ江洸三杉淳 ‐ 鷲尾修斗若島津健 ‐ 渡辺和貴石崎了 ‐ 輝山立松山光 ‐ 反橋宗一郎早田誠 ‐ 土井一海新田瞬 ‐ 加藤真央立花政夫 ‐ 大曽根敬大立花和夫 ‐ 廣野凌大次籐洋 ‐ 皇希ロベルト本郷 ‐ 田中稔彦見上辰夫 ‐ 瀬川亮デューター・ミューラー ‐ 伊阪達也カール・ハインツ・シュナイダー ‐ 北村悠エル・シド・ピエール ‐ 西馬るいカルロス・サンターナ ‐ AKIエイブ・レオン(オリジナル) ‐ 松永一哉ノエル・ポポロ(オリジナル) ‐ 斎藤准一郎アルフレッド山守(オリジナル) ‐ 阿部丈二アンサンブル ‐ 高澤礁太、西田直樹、正宗雄太、水島勇貴、片山大樹 ==その他の展開== ===連載30周年記念=== 2010年には連載30周年を記念し、コンピレーション・アルバム『キャプテン翼30周年記念 THE BEST SOCCER SONGS 激闘サムライブルー』や、ゲームソフト『キャプテン翼 激闘の軌跡』が発売された。 ===フットサルコート=== 2010年6月、神奈川県横浜市中区に多目的フットサルコートの「キャプテン翼スタジアム」が開設された。このコートは土地契約上の問題のため3年間の期間限定で運営されたもので2013年1月に閉鎖されたが、2016年の時点では東京都北区に「キャプテン翼スタジアム東京北」、横浜市中区に「キャプテン翼スタジアム横浜元町」、大阪府大阪市淀川区に「キャプテン翼スタジアム新大阪」、同天王寺区の天王寺公園内に「キャプテン翼スタジアム天王寺」が運営されている。 ===葛飾区での町おこし=== 2013年3月には作者の高橋陽一の出身地である東京都葛飾区四つ木に、小学生時代の大空翼をモデルにした銅像が設置された。翼以外の登場人物についても2014年3月に「石崎了」「日向小次郎」「ロベルト本郷と大空翼」「中沢早苗」「岬太郎」「若林源三」「ヒールリフトを行う大空翼」の合計7体の銅像が同区内に設置された。四つ木にある商店街の一部は「つばさ通り」と改称され大空翼の姿が描かれたタペストリーが設置されている。また、同年6月12日からは翼、若林、日向らの姿が描かれたラッピングバスの運行がはじまり、都営バスと京成タウンバスの計2台が葛飾区や墨田区や千葉県市川市などの区間を走行している。また、東立石の洋菓子店「パティスリー N コトブキ」では「キャプテン翼サブレ」を製造・販売し、西新小岩のタクシー会社「かすみ交通」では、南葛SCとのコラボレーションでキャプテン翼(南葛SC)仕様にラッピングされた日産・NV200のタクシーを1台運行している。 ===キャプテン翼DREAM PROJECT2014=== 2014年、『キャプテン翼 ライジングサン』の連載に併せ「キャプテン翼DREAM PROJECT2014」と題し、同年6月から開催された「キャプテン翼展」、日本プロサッカーリーグとのコラボレーション などの企画が展開された。 ===CRキャプテン翼=== 2015年8月、サンセイアールアンドディからパチンコ台「CRキャプテン翼 南葛V3激闘編」がリリースされた。作者の高橋によれば当初は子供向け漫画とのタイアップということでオファーを断っていたが、「東日本大震災から復興していく段階で、娯楽やエンターテインメントが人々の励みになるのではと思ってOKした」としている。 ===ステンドグラス=== 2018年3月11日、埼玉スタジアム2002の最寄り駅である浦和美園駅に同作の登場人物99人が描かれたステンドグラスが設置された。この作品は横約20メートル、縦約1メートル60センチにおよぶ大きさのもので、主要登場人物のほか国内外のライバルたちがプレーする姿が描かれている。除幕式には、さいたま市長の清水勇人、作者の高橋、日本サッカー協会会長の田嶋幸三、Jリーグチェアマンの村井満、近隣高校のサッカー部員と幼稚園児らが出席した。 ==影響== ===漫画=== 『キャプテン翼』が登場する以前にはサッカー漫画やサッカーを題材とした作品は少なからず存在し、1970年代初頭に『赤き血のイレブン』が人気作品となったが一過性の流れに過ぎず、漫画界においてサッカーを題材とした作品は減少していた。そうした時代背景の中、本作品が登場しサッカー競技者だけでなく一般の読者に対してもサッカーの基礎的なルール、ポジション、技術、戦術を掲示する技術書的な役割を果たし、後のサッカー漫画の先鞭を着ける形となった。また、日本国内において培われてきたアクション漫画やスポーツ漫画の手法を取り入れアレンジすることで、競技と漫画との表現の相性が芳しくなく未開拓分野と呼ばれていたサッカー漫画のスタイルを確立した。 2008年8月、ニンテンドーDS用サッカーRPG『イナズマイレブン』が発売された。この作品は、『キャプテン翼』が1980年代にサッカーブームを起こし、数多くのサッカー選手を生み出したことに因み、「ターゲット層である子供達の中から将来の日本代表選手を生み出す」ことを企図したものであり、ゲームソフトを中心に漫画、アニメ、カードゲームなどのメディアミックス展開を実施した。この作品は『キャプテン翼』に影響を受けて育った世代の子供に相当する小学生の間で人気を獲得した。 ===サッカー選手=== 元サッカー日本代表の中田英寿や川口能活 などの日本代表経験者を筆頭に、団塊ジュニア以降の世代には『キャプテン翼』の影響でサッカーを始めたことを公言する選手が数多く存在する。 本作品の影響は日本だけに留まらず、世界各国におよんでおり、元フランス代表のジネディーヌ・ジダン やティエリ・アンリ やセバスティアン・フレイ、元イタリア代表のアレッサンドロ・デルピエロ やフランチェスコ・トッティ やジェンナーロ・ガットゥーゾ やジャンルカ・ザンブロッタ やフィリッポ・インザーギ、アルゼンチン代表のリオネル・メッシ やセルヒオ・アグエロ、ブラジル代表のカカ、スペイン代表のフェルナンド・トーレス やアンドレス・イニエスタ や元代表のシャビ、チリ代表のアレクシス・サンチェス、コロンビア代表のハメス・ロドリゲス、元ドイツ代表のルーカス・ポドルスキ らがファンであることや影響を受けたことを公言している。 日本のサッカー界ではミッドフィールダーに人材が集まる傾向があり、フォワードの人材難という問題を引き起こしているが、その問題の要因には『キャプテン翼』が関連しているのではないかという指摘がある。作品内で翼はロベルト本郷の教えに従い中学に進学するとセンターフォワードから攻撃的MFに転向したが、高橋はこの転向の理由について「中盤にポジションを移せばボールに触れる機会が増えるし、1980年代当時はアルゼンチンのディエゴ・マラドーナやブラジルのジーコらといったスター選手が、このポジションで活躍していた」ことを挙げている。 こうした問題について「新たなフォワードの人気キャラクターを創出し、子供達の憧れの対象とすることで解決すべきだ」とする指摘があり、高橋は2002年にフォワードを主人公とした『ハングリーハート WILD STRIKER』(週刊少年チャンピオン)を連載。2005年から2008年に連載された『キャプテン翼 GOLDEN‐23』では、スポーツライターの乙武洋匡からの「将来、日本の得点力不足が解消されるようなフォワードを描いてほしい」との依頼に応じて、主要登場人物の1人である若島津健をゴールキーパーからフォワードへ転向させた。 ===サッカークラブ=== 2001年から連載された『キャプテン翼 ROAD TO 2002』では主人公の大空翼がスペインのFCバルセロナでプレーする姿が描かれた。当初、主人公の翼は架空のクラブ「バルセロナ」に所属する設定であったが、彼を実際のFCバルセロナへ移籍させ、公式にFCバルセロナの選手にするコラボレーションが企画された。この企画について当初、出版元の集英社からは懸念が示されていたが、本作品が世界各国でアニメ放送をされ人気を獲得していた影響や、低迷期にあったバルセロナ側には復調の起爆剤にしたいという思惑もあり、交渉は滞りなく成立した。 2004年1月に高橋がクラブに招待され、会長のジョアン・ラポルタ(当時)との間で翼の入団会見が執り行われると、翌日の地元紙ではこの模様が一面で報じられるなど、反響を呼んだ。これに対して、FCバルセロナと伝統的にライバル関係にあるレアル・マドリードの幹部が「なぜ、我がクラブに翼を入団させなかったのか」と高橋に抗議したといわれている。 FC東京のサポーター達は、本作品の主要登場人物である三杉淳が東京都の「武蔵FC」出身ということもあり、彼の女性ファンが作品内で持参していた「三杉淳ファンクラブ」という横断幕をスタジアム内で掲げ、1999年頃から三杉を実際に入団させようとする活動を始めた。こうした活動を受けてクラブ側は2001年3月10日に行われた東京ヴェルディ1969との開幕戦において、三杉を特別招待するイベントを開催した。 2005年には、この作品にちなんだ芸能人女子フットサルチーム「南葛YJシューターズ」(後に南葛シューターズと改称)が結成され、芸能人女子フットサルリーグ「スフィアリーグ」に参加。作者の高橋が監督を務めている。 2013年12月14日、作者の高橋の地元である東京都葛飾区に翼らが小学校時代に所属していた選抜チームにちなんだ「南葛SC」というサッカークラブが結成された。同クラブは後援会長を務める高橋の提案により東京都社会人サッカーリーグ3部に所属していたサッカークラブ「葛飾ヴィトアード」を改称したもので、ユニフォームも原作漫画と同じ白地に青いラインの入ったデザインに変更された。総監督には元修徳高等学校監督の向笠実が就任し、2020年までのJ3リーグ昇格を目標として掲げている。 2014年1月19日、コンサドーレ札幌は本作品の主要登場人物である松山光の正式入団を発表し背番号36を与えた。また、同クラブの運営会社・北海道フットボールクラブ代表取締役社長の野々村芳和は、松山の入団に伴い「松山光プロジェクト」と題した選手育成プロジェクトをスタートする方針を示した。このプロジェクトは集った支援金を基に育成費やチーム強化費に充て、北海道から松山のような日本を代表する選手を輩出することを企図したものである。 ===国際社会=== 2001年に公開されたチャウ・シンチー映画『少林サッカー』は登場人物が少林拳を駆使してサッカーの試合に挑む内容であり、超人的なプレーが数多く登場するのが特徴だが、監督兼主演俳優の周星馳は「『キャプテン翼』にインスピレーションを得たものであり、サッカーとカンフーを組み合わせるアイデアは長年に渡って温めていた。しかし、それは漫画でのみ可能な表現で、今日のようにCG技術が発達するまで待たなければならなかった」と発言している。 本作品は世界各国で翻訳されており、集英社が出版権契約を結んだ10か国以外の国においても海賊版が出回るなど、相当数の国家で愛読されていると推定されている。 またアニメ版はアメリカ合衆国では『フラッシュ・キッカー』(Flash Kicker)、イタリアでは『オーリ・エ・ベンジ』(Holly e Benji)、スペインでは『オリベル・イ・ベンヒ』(Oliver y Benji)、フランスでは『オリーヴ・エ・トム』(Olive et Tom)といった題名で世界各国で放送され人気を獲得している。この他に、2001年3月にフランスのサッカー雑誌『フランス・フットボール』の表紙を飾ったこともある。 イラク戦争の復興支援として、2004年(平成16年)1月に日本の自衛隊による国際連合平和維持活動派遣が始まったが、首都バグダッド東南部に位置するサマーワでは、日本とイラクの友好関係をアピールする目的として、外務省のODAにより支給された給水車に高橋陽一と集英社の許可を取り付けた上で『キャプテン翼』のイラストが描かれた。これはイラクでサッカー人気が高いことや、同作品が『キャプテン・マージド』 (Captain Majed) という題名で中東全域で広く知られていたことに由来している。2006年には国際交流基金は外務省の協力を得て、イラク・メディア・ネットワークに対し、テレビアニメのアラビア語吹き替え版を無償提供した。 2016年8月、ブラジルではリオデジャネイロオリンピックが開催されたが、閉会式では2020年の東京オリンピックを紹介する演目「トーキョーショー」が披露された。この演目においてイメージ映像が流れた際、『ドラえもん』、『ハローキティ』、『パックマン』、『スーパーマリオブラザーズ』などの日本のアニメ・ゲーム作品と共に本作品の登場人物が登場。翼や岬太郎がツインシュートを行う場面や、リオデジャネイロへ赤いボールを届けるリレーの中で、翼がオーバーヘッドキックでボールを繋げる場面が描かれた。 ===二次創作=== 1980年代の『キャプテン翼』連載当時、女性読者を中心に、「キャプ翼もの」と呼ばれる本作を題材とした同人誌(二次創作)がブームになった。その多くはいわゆる「やおい」であり一般的なパロディとも異なり、登場人物同士による同性愛的な関係を扱った内容が多く、『週刊少年ジャンプ』の担当編集者は創作者に対して1987年9号の目次コメントにおいて「これ以上キャラを傷つけないで下さい」と自重を求めた。これは登場人物間の友情や信頼、あるいはライバル間の敵対心や執着心を恋愛感情に読み換えたことによるもので、本作品のほかにも「友情・努力・勝利」を中心テーマとした『週刊少年ジャンプ』の作品が題材として取りあげられる傾向が強い。精神科医の斎藤環は一連の現象について「女性おたくにとってのセクシュアリティとは何かを考える上で、きわめて示唆的な現象といえる」、社会学者の宮台真司らは「関係のインフレ」と評している。なお、本作品の二次創作化については漫画原作よりも配色や声や動作が加味され、固定的なイメージが得やすいアニメ版からの影響が強いことが指摘されている。 ==評価== 元日本サッカー協会会長の川淵三郎は本作品の後世への影響について次のように評している。 日本サッカーの大功労者だよ、疑いようもなく。『キャプテン翼』のおかげでサッカー好きな少年が爆発的に増えて、底辺が一気に拡大したからね。わかりやすい例を挙げれば、『キャプテン翼』が始まってから道端でボールを蹴っている子どもを見るようになった。それまでサッカーボールで遊ぶ子どもを見かけることなんてなかったが、それがいつの間にか子どもたちがサッカーで遊ぶようになり、今や子どものいる家庭にはサッカーボールがあるのが当たり前だからね。(中略)中田ヒデにしても、俊輔にしても、小野にしても、みんな『キャプテン翼』に影響を受けた世代。その意味では、『キャプテン翼』があったから現在のような日本のサッカーになれたといっても過言じゃないね。もちろん、Jリーグも『キャプテン翼』がサッカー人気の土台を作っていたからこそできた。 ― 川淵三郎 前述のように、本作品は世界のトップ選手顔負けのスーパープレーが描かれることが特徴的であるが、こうした手法について荒唐無稽なものと評するサッカーメディアもある。一方でプロサッカー選手の本山雅志は次のように評している。 「非現実的だ」とか言うけど、実はサッカーの発想なんて、そういうところから生まれる。今、ブレ球とか使う選手が多くなってるけど、あれなんてまさしく「ドライブシュート」じゃないかな。そういう意味では現代サッカーが『キャプテン翼』という「非現実」にやっと近づいたと思う。 ― 本山雅志 また、元スペイン代表のシャビは個性豊かな登場人物がさまざまな得意技を持っていたことが本作品の魅力だったとした上で、「さすがに技を習得することは出来なかったが、これらのスペクタクルなプレーが多く出てきたからこそ、サッカーへの情熱を高めるきっかけとなった」と評している。こうした選手たちは作品内に登場する大技の実現性については否定しつつも、そこに描かれる創造性や自由な発想に惹かれ、実際に模倣することで自身のプレーに反映させていったものと考えられる。 1980年代を通じたスポーツ漫画の傾向について社会学者の宮台真司らは「1960年代的な課題達成の物語が薄れ、友情という名の『無害な共同性』ものが急上昇する動きがあった」と評し、その典型例として本作品を挙げているが、東京学芸大学教授の松田恵示は次のように評している。 この作品が対決パターンを基調とするヒーローものであることには変わりはない。しかしこの作品は、主人公を取り囲む全ての人々が温かい保護で守っている点と、努力とか克服とか苦しみといった、スポ根漫画ではお決まりの要素がない点で、それまでのスポーツ漫画とは大きく違っている。あるいはこのようにもいえるだろう。この漫画を支えているのは簡単に「安心感」だと。つまり、これまでのスポーツ漫画に描かれた、勝負に生まれる泥臭さ、苦しさ、執念といったものが『キャプテン翼』では脱色されているというわけである。スポーツの持つ楽しさを、それが持つ現実の複雑性を単純化することで伝えようとした漫画。 ― 松田恵示 さらに松田は泥臭さを廃する傾向について「それが読者にとって居心地の良い物であればあるほど、現実のスポーツのリアリティを脅かすことになるだろう。泥臭いスポーツなど我慢できるものか、漫画のスポーツこそ本当のスポーツという感性まで、この地点まで来るとさほど遠くない」と評している。 また、政治評論家の田中直毅は本作品が受け入れられた理由について「かつての根性ものと違い、『キャプテン翼』では天才という言葉が頻出する。子供たちはひょっとして、今もテーマ性として残されている努力よりも、実は才能の方が決定的な要因だと直感し始めているのかもしれない。天才のサッカー少年と、これをとりまく少年たちの友情を確認することは、子供たちにとって夢と現実とを橋渡しすることになっているのではないか」、元『週刊少年ジャンプ』編集長の西村繁男は「ガンバってガンバって、練習して練習してっていうんじゃなくて、ともかく球を蹴るのが好きで好きでっていうね、そういうところから入ろうっていうのが良かった。後の方は友情・努力・勝利じゃないけどガンバリズムみたいのも出てくるんだけど、最初の段階では、ともかくボールが友達という、そういうところからスタートしていったのが良かったんですよ」と評している。 漫画家で元京都精華大学学長の竹宮惠子によれば、本作品の登場人物のキャラクターデザインについては「類型的」「手足がデフォルメ的」と評されることがある。こうした点について竹宮は自著の中で「作中人物に表面的な極端な差異がないぶん、かえって、パターン化することから遠ざかっている」と評している。また、竹宮は高橋の構図の描き方について次のように評している。 結局、何のためにあの手足が必要かっていうと、足先の問題ではなくて、構図的な問題のためだけなんです。「力の入り方のバランス」だけを語るために、あの絵があるような気がするの。スポーツをやってるところのデッサンをする時って、簡略デッサンをしてからでないとデッサンが狂うの。だから、あの絵を見ていると、それをそのまま描いてるんじゃないかって思う。体の曲がった流れとかが、すごく柔軟性があって抜群なのね。バネが感じられていいなって思う。 ― 竹宮惠子 高橋の初代担当編集の鈴木晴彦は作品の優れていた点について「空間の想像力と三次元の表現力」と評し、その特徴が最も現れたものとして第2話の「翼が街中を走行するバスの真下にシュートを放つシーン」を挙げている。前出の西村は「劇画のタッチでもない、いわゆる少年まんがのタッチでもないし、やさしい線」と評するなど、絵には難があるとした上で、「ボールの動かし方とか、そういうものに非常に臨場感もある」と評しており、その理由については高橋が時間があれば外で体を動かしていたいというスポーツマンタイプの漫画家であったためとしている。 =東京うど= 東京うど(とうきょううど)は、東京都内で生産される野菜(うど)である。もともとは山野に自生していたうどが尾張国で栽培されるようになったといわれ、その後江戸時代後期の文化年間(1804年から1818年まで)に江戸にも広まったと伝えられる。第2次世界大戦中に穴蔵での栽培法が試みられ、終戦後に穴蔵軟化法による軟白栽培法が確立した。当初は上井草村(現在の杉並区西荻北及び善福寺付近)と吉祥寺村(現在の武蔵野市の一部)及び現在の練馬区西部が一大産地であった。その後 北多摩方面に主要産地を移して、東京特産の「東京うど」として「江戸東京野菜」に認定されている。 ==歴史== うどは東洋原産で、ウコギ科タラノキ属に属する多年草である。うどは、フキやワサビなどとともに日本原産である数少ない野菜とされる。北海道から九州に至る日本各地に自生し、中国や朝鮮にも広く分布する。 日本では古代から自生のものが山菜として食されていたが、栽培されるようになった経緯は明らかではない。一説には、10世紀頃からすでに栽培が始まっていたともいわれる。最も古い栽培の記録は尾張国のもので、その後江戸時代後期に江戸に移入された。うどはアワ、ヒエ、ソバ、ムギ、サツマイモ、ラッキョウなどとともに、武蔵野台地の水の乏しい乾燥した畑作地で多く栽培された。 1924年(大正13年)の『東京府農会報』では、菱山萬三郎という人物が「豊多摩郡に於ける土当帰(うど)の栽培起源は文化年間の頃より栽培せられしも、確然たるは今より百年前(注:1824年)井荻村大字上井草、古谷岩右衛門氏尾張付近より此の方法を習い、其の後優良なる結果を得、爾来各町村に伝播し、今や郡内特産物の一となるに至れり」と記述した。『東京府農会報』より100年以上前の1820年(文政3年)に植田孟縉が著した『武蔵名勝図会』では、「野方領の村々にても出し、武蔵野新田にも作る」との記述があった。当初は上井草村、吉祥寺村及び現在の練馬区西部が一大産地であり、産地の名をとって「井荻うど」、「吉祥寺うど」と呼ばれていた。 初期の産地の1つである吉祥寺村では、西に約10キロメートル離れた所沢(現在の所沢市北原地区)からうどの実生苗を毎年買い付け、天秤棒や馬で運搬して村へ持ち帰っていた。苗は4月に畑に植え付け、11月に葉や茎が全部枯れた頃を見計らって根株を掘り出した。掘り出した根株は幅と深さがそれぞれ60センチメートルほどの溝穴中にすき間なく並べて、その上から土をかぶせた。この方法で光を当てずに茎を白く伸ばしたうどを栽培し、「もやしうど」(軟化うど)を作り出した。この方法で栽培されたうどは、初物を粋と考えた江戸の人々に喜ばれて俳句や川柳の題材にもなった。このうどの品種は「所沢うど」と呼ばれ、幕末から明治中期が最盛期であった。 所沢うどに続いて主力品種となったのは、「寒うど」と呼ばれる品種である。寒うどは、1960年代の半ばまで栽培されていた 。第2次世界大戦に突入して食糧事情が悪化するにつれて、うどの栽培は一時期途絶えた。ただし、武蔵野市でうど栽培を手がけていた高橋米太郎はひそかに栽培を続けていた。高橋はもし戦争に勝利したならば、祝賀会への需要でうどは高く売れるに違いないと考えて種株を残していた。1943年(昭和18年)に高橋は人目を避けてうどの軟化を試みるために、屋敷内にあったクワの葉の貯蔵用の穴蔵を用いた。その結果、良いできばえのうどを収穫することに成功した。 第2次世界大戦終戦後の1948年(昭和23年)から、高橋は横穴を掘って穴蔵でのうど軟化法の研究に本腰を入れて取り組んだ。1951年(昭和26年)の1月になって、軟化うど560キログラムを今までより1月も早く市場に出荷した。高橋の出荷した軟化うどは全く土がついておらずまっすぐに育っていて、そのできばえの良さに卸売りの業者たちは高い評価を与えたという。高橋の考案したうど軟化法は北多摩地域に広まり、1955年(昭和30年)に実用新案を申請し、1960年(昭和35年)に「軟白野菜促成穴蔵」として認可を受けた。この軟化法は他の産地にない独特のもので、軟化うどは日本料理向けの高級食材として受け入れられた。 都市化が進んでうどの産地が西へと移り始めた1951年(昭和26年)、高橋遼吉(高橋米太郎の親戚筋にあたる)が春うどを年末の高値で取引できる時期に出荷する方法を発案した。それは寒い時期が早く来る高冷地で種株を栽培すれば、休眠時期が早くなるためその終わりも出荷も早くなるということであった。この発案は翌年実行に移され、群馬県の嬬恋村で「愛知坊主」という種類の種株が委託栽培され、成長したうどを東京に持ち帰って穴蔵で軟化栽培した。高橋遼吉の発案は成功し、出荷時期を約1か月早めることができた。この発案はうど生産組合や農地の減少に悩んでいた北多摩地域の農家がただちに取り入れ、嬬恋村のような高冷地で種株を栽培してから平地にある穴蔵に植え替えて軟化する「リレー栽培(リレー生産)」が確立した。このリレー栽培は北多摩地域の農家はもとより、長野や群馬などの高冷地の農家においても有利な農業経営ができるという大きな利点があった。 リレー栽培の普及については北多摩地域を担当していた農業改良普及員の貢献も大きく、長野・群馬・山梨・栃木・福島の高冷地での種株委託栽培のとりまとめにも功績があった。リレー栽培以外でも寒うどに替わる優良品種(愛知県原産の愛知紫系統)の導入や穴蔵軟化法の改良と普及、夏うどの大阪市場への販路拡大などに幅広い情報を駆使して行動した。また、1961年(昭和36年)頃からジベレリン(植物ホルモン剤)処理による休眠短縮の技術が開発され、12月から1月の出荷が可能になった。 1958年(昭和33年)、立川市砂川の高橋正直と山本一男が畑でのうど根株掘り取り機を発明した。うどは夏場には葉茎を大きく広げる植物の上、連作障害を起こしやすいために畑には広大な面積が必要である。秋冬にその広大な畑を鍬で掘り返して根株を掘り取るのは重労働であり、そのため農家はうどの作付面積を制限せざるを得なかった。2人の発明したうど根株掘り取り機は耕運機を改良したもので、これによって作付面積の問題は解決を見た。 第2次世界大戦終戦後に、東京都内のうど生産者組合が1950年(昭和25年)から5年ほどの間に各市町別に設立された。武蔵野市東京うど組合を始めとして、各生産者組合は種苗の共同購入や栽培出荷についての 研究、品評会、リレー栽培委託や共販等の事業に取り組んだ。1954年(昭和29年)に、各組合は規格統一や販売面での体制強化などをめざして「東京うど生産組合連合会」を結成した。 江戸時代後期に始まったうど栽培は、多くの関係者の品種改良や栽培技術改善にかける努力によって北多摩地域を品質・生産量ともに日本一のうど産地とした。高度成長期には高級食材として高値で取引され、「うどで蔵が建つ」といわれるほどであった。 しかし、うどの栽培地は農地の宅地化や都市化の進行によって栽培面積の減少が進んだ。さらには長年の連作で畑の生産力が低下したことや、地球温暖化の影響で寒暖の差が小さくなったこと、天井が低く、階段の昇降をも伴う穴蔵での重労働や生産の担い手である農家の高齢化の進行など、複数の要因が重なって栽培の継続が困難になっていった。消費者の嗜好の変化(日本料理から洋風料理への需要の移行)もあって、うど自体の価格も下落した。栽培初期からの産地であった杉並区上井草付近では1975年(昭和50年)頃を境に栽培が見られなくなり、武蔵野や練馬周辺にかつては100軒ほどあった栽培農家も、2014年(平成26年)の時点では5軒ほどに減ってしまった。 2011年(平成23年)に、JA東京中央会は「江戸東京野菜」を商標登録した。東京都内で生産されるうどは江戸東京野菜の1種として「東京うど」の名で呼ばれるようになり、特産野菜としてその知名度を高めた。東京うどは東京うど生産組合連合会によって規格が統一され、規定の箱に入れる出荷の目安は約80センチメートルである。穴蔵軟化法によって白く育った姿と歯ざわりと香りのよさなどが評価され、日本料理向けの高級食材として利用される他に、洋風料理や中華料理などにも合う。東京うどは江戸東京野菜普及推進連絡協議会により江戸東京野菜として認定され、旬の野菜を食べるイベントで使われたり、都市農業の活性化を目指すNPO法人によってセミナーの題材として取り上げられたりしている。東京うどの産地の1つである立川市では、うどによる「街おこし」をめざして「うどラーメン」、「うどパイ」、「うどせんべい」などを開発している。 1965年(昭和40年)、武蔵野市境地区を流れる玉川上水に橋がかかった。その名を「うどばし」といい、橋の脇の「うどばし子供遊園地」には「うど記念碑」がある。この橋をかけた6人の地主のうちの1人が、穴蔵軟化法を考案した高橋米太郎であった。このうど記念碑は、武蔵野のうどの記念となるものを残したいという高橋の想いが実現したものであった。この「うど記念碑」の他に、JA東京グループが杉並区善福寺の井草八幡宮に「井荻うど」、武蔵野市吉祥寺東町の武蔵野八幡宮には「吉祥寺うど」の屋外説明板を設置している。 ==栽培品種の変遷== 最初期の栽培品種である所沢うどは、実生での繁殖のため生育こそ不ぞろいだったが正月出荷が可能な早生の品種であった。ただし品質は悪く、手(葉柄)ばかり出すために「乞食うど」とも呼ばれたという。 所沢うどに続いて主力品種となったのは、「寒うど」と呼ばれる品種である。原産地は北海道といわれ、「赤芽種」、「白芽種」、「ローソク」という3種に大別された。この3種の中では、安行村から導入された赤芽種が最も古くから栽培されていた。赤芽種は極早生種で品質は柔らかくて良いが、収量が少なかった。白芽種は下総から伝えられたといい、こちらも品質は良かった。ローソクは白芽種から出たものと推定され、品質は寒うどの中では最高級と評価されていた。寒うどの他には、晩生種で品質は中の上だが収量の多い「愛知坊主」(愛知県原産、大正末期から武蔵野、保谷、小平、練馬で栽培が始まり第2次世界大戦前に普及が進んだ)や、中晩生種で品質が極上の「伊勢白」(三重県原産、昭和初期に武蔵野、保谷、田無、練馬に入って普及が進んだ)、「愛知紫」(愛知県原産、昭和10年代の初めに武蔵野や国分寺で栽培が始まったが導入が遅かったためにあまり普及が進まなかった)などが第2次世界大戦前の主な栽培品種であった。 第2次世界大戦終戦後に導入されたのは、「紫芽白(紫白芽)」と呼ばれる品種である。紫芽白は晩生種で草勢は強く、品質こそ中の上であるが収量は多かった。紫芽白は生産者や農業試験場によって優良品種の選抜がなされ、「都」、「多摩」、「都香」などの系統が生まれた。「東京うど」として栽培され続ける品種は、みな紫芽白の系統に連なっている。 ==栽培方法== 東京うどの栽培は、春、晩秋及びその後の3つの段階に大別される。春は、群馬などの高冷地にある畑でまず種株の植え付けを行う。芽のついたうどの種株を3つから4つに分割して畑に植え付けて成長させる。うどは成長旺盛な植物のため、夏には高さ約2メートルにも育つ。 東京うどの栽培では、高冷地の寒暖差を利用して早く地上部を枯らすことが重要となる。地上部が枯れると根株が休眠状態に入るため、晩秋の11月から12月頃に根株を掘り取って東京に運搬する。 根株を植えこむ穴蔵は、クワの葉の貯蔵用の穴蔵を転用したものの他に、他の野菜貯蔵用の穴蔵を利用したものや、関東ローム層の土壌に横穴を新しく掘ったものも存在する。これらの穴蔵は、年間を通して16度前後の室温が保たれている。根株を穴蔵に入れて成長させる「伏せこみ」という作業には、約30日から40日を要する。 東京うどは、毎年12月から翌年の10月初めにかけてが出荷時期である。冬場に出荷する分は、休眠を打破して成長を促すためにジベレリンを利用する。立春の頃に、掘り取った根株のうち畑に埋めておいた分を掘り出して保冷庫に移しておく。保冷庫に移した根株は、休眠期を調節した上で春季から秋季にかけての出荷分として穴蔵に植え込む。育ったうどは70センチメートルから80センチメートルのところで刈り取り、規定の箱に入れて出荷される。 ==調理法や利用== うどは約95パーセントが水分であるが、ビタミンB群(チアミン、リボフラビン)やビタミンCを含み、アミノ酸(アスパラギン酸など)が比較的に多い低カロリーの野菜である。その芳香と淡白な味わいで、消化器を刺激して食欲を増進させるといわれる。 江戸時代の1805年(文化2年)に刊行された『素人庖丁二編』という料理書には「うどの葛だまりがけ」(だし汁で煮込んだうどに葛粉を使ったあんをかけたもの)、「うどの焚き出し」(適度な長さに切ったうどの皮を剥いて酒と醤油で煮たもの)が紹介されていた。酢水にさらしたうどを酢味噌和えや天ぷらなどとして食すほかに、サラダや炒め物など、洋風や中華風の料理の食材にもよく合う。 2014年(平成26年)3月には、東京うどをテーマとしたイベントが中野区内で開催された。このとき提供された料理は、和え物などの定番料理ではなくハムとうどを一緒に挟んだサンドイッチや羊羹などであり、「意外だけど、歯ごたえや風味が楽しめた」と参加者に好評を持って迎えられた。 =箱根登山バス= 箱根登山バス株式会社(はこねとざんバス、Hakone Tozan Bus Co., Ltd.)は、神奈川県小田原市に本社を設け、神奈川県小田原市および足柄下郡箱根町周辺を主な営業エリアとする、小田急グループのバス事業者である。 本項目では箱根登山鉄道のバス部門(自動車部)によって事業が行われていた時代についても記述する。 1913年3月1日に開業した小田原電気鉄道の貸自動車業と、1914年8月15日に開業した富士屋自働車の貸自動車業を前身とし、1932年に両社が合併して富士箱根自動車となるが、戦時中の交通事業統合の流れの中で1921年創業の足柄自動車とともに箱根登山鉄道に合併し、同社の自動車部門となった。2002年10月には小田急グループ内での事業再編に伴い分社化された。 ==歴史== ===創業期=== 2012年現在の箱根登山バスが主な営業エリアとしている神奈川県西部において自動車業が開始されたのは、1912年(明治45年)に営業を開始した箱根自動車の貸自動車業(ハイヤー)に端を発する。この頃に日本国外からの旅行者が自動車で箱根を訪れるようになっていたが、小田原電気鉄道の終点であった湯本駅の駅前にて茶屋を経営していたうちの1軒で、その親族が貸自動車業を開始したものである。これに驚いた小田原電気鉄道では、翌1913年(大正2年)3月1日より貸自動車業に参入した。当初の車両数は5台で、国府津駅から強羅までと、芦ノ湖畔の箱根町を結ぶ区間での営業であった。これらの貸自動車業は、それまで人力車夫や駕篭かきからは脅威として受け止められ、路上にガラス片をまかれたり投石されたりといった運行妨害を受けることもあった。 この1913年の夏、富士屋ホテルでの滞在を終えて帰任するアメリカ陸軍少佐から予約を受けたにもかかわらず小田原電気鉄道の貸自動車が約束した時間よりも遅れて配車されるという事態が発生した。この陸軍少佐は辛うじて国府津駅から予定の列車に乗車し、無事に帰任できたものの、帰任後に富士屋ホテルに対して「一流ホテルとしては、ホテル専属の自動車を所有すべき」と意見書を送った。当時、富士屋ホテルの取締役であった山口正造はこれに応えるべく、富士屋自働車を設立した。富士屋自働車は運転士に礼儀作法と英語を学ばせた上、当時としてはモダンな制服を着用させた。また、それまで人力車夫や駕篭かきを営業していたものに対して、富士屋自働車の株主になることを薦めた。 富士屋自働車では貸自動車だけではなく、乗合自動車の運行を行なう構想を抱いており、1915年(大正4年)8月には国府津駅と箱根地区を結ぶ乗合自動車、1917年(大正6年)6月には小田原と熱海を結ぶ乗合自動車の運行許可を得ていた。貸自動車業を開始した際にも反対運動があった経験から、乗合自動車の運行については慎重に時機をうかがうこととした。なお、箱根で最初に貸自動車業を開始した箱根自動車は、1919年に富士屋自働車に買収された。 その後、1912年に小田原電気鉄道が湯本から強羅までを結ぶ登山鉄道の工事を開始したが、登山電車の開通は貸自動車業にとっては脅威であり、それに対抗するためには乗合自動車の運行を行なう必要があると考えられた。そこで、富士屋自働車は登山電車の運行を待つこととし、1919年6月1日より国府津駅から宮ノ下、宮ノ下から箱根町において乗合自動車(路線バス)の運行を開始した。これが神奈川県下においても初となる本格的な路線バス運行であったが、同時に、鉄道とバスの競合の始まりでもあった。富士屋自働車では高級車両を投入し、横浜や東京に至る長距離路線の運行も開始した。対する小田原電気鉄道は、小涌谷から箱根町まで、自社の登山電車に接続する路線バスの運行を1921年(大正10年)より開始した。一方、1921年には足柄自動車が松田町で設立された。 登山電車で小田原から宮ノ下までの運賃が下等で61銭で、それでも下りは歩いて湯本に戻る利用客も多かった状況では、小田原から宮ノ下まで1円80銭もの運賃が設定された路線バスの利用者はさらに少なかった。このため、富士屋自働車では1922年には運賃の値下げを行い、小田原から宮ノ下までのバス運賃は1円となった。また、同年には小田原駅前に営業所を併設した食堂・売店として「カフェ・レゾート」をオープンさせた。一方の小田原電気鉄道側も運賃を値下げして対抗するなど、激しい乗客争奪が展開された。同年12月3日には両社の社員同士が乱闘事件を起こし、4人が傷害罪で送検された。 1923年9月1日に発生した関東大震災によって、富士屋自働車では前年に完成したばかりの「カフェ・レゾート」が倒壊、車庫にあった数十台の自動車も破壊された。また、湯本と塔ノ沢の間では乗客5人を乗せた自動車が崖崩れにより埋没し行方不明となり、底倉にある蛇骨川の橋を渡っていた自動車が谷底へ転落するなど、保有していた自動車の半数近くが失われるという被害を受けた。 ===競合の末の合併から戦時統合まで=== 震災後、富士屋自働車は復旧とともに車両の改良に注力した。1924年には当時としては超大型となる25人乗りのバスを導入し、1925年から実際に運行を開始している。また、1924年には三島・沼津にまで路線網を拡大したほか、震災以来中断されていた横浜と箱根を結ぶ路線の運行も再開されている。一方の小田原電気鉄道も1927年までにはほぼ復旧している。なお、小田原電気鉄道は1928年(昭和3年)1月にいったん日本電力に合併したあと、同年8月に再度箱根登山鉄道として分社化された。鉄道やバスの復旧とともに、再び激しい乗客争奪が展開されることになった。小田原駅前では富士屋自働車の社員は「乗り換えなしで箱根へ」と宣伝、一方の箱根登山鉄道の社員は「電車の方が静かで安い」と声を上げ、観光客を自社へ誘導した。時には観光客の手を引っ張りあい、ひどい時には互いの社員同士が殴り合いを始める始末だった。 箱根登山鉄道が1929年には国府津まで、1931年には箱根湯本と箱根町を結ぶ自社鉄道線と並行する路線バスの運行に至り、小田原駅前に乗り入れるようになると、この2社の競合はさらにエスカレートし、現地での社会問題にまで発展した。富士屋自働車はアメリカ製の高級バス「ホワイト」を導入、対する箱根登山鉄道はスイス製の高級バス「サウラー」を導入し、女性の車掌が自社のバスに乗せようと大声を上げる有様であった。 ここにきて、小田原市や警察署長、さらには鉄道省が両社の合併を再三にわたって勧奨する事態になり、1932年には京阪電気鉄道の社長であった太田光*11090*の仲介により両社のバス事業を統合することになった。こうして、1933年1月に箱根登山鉄道のバス事業全てが富士屋自働車に譲渡され、富士屋自働車は社名を富士箱根自動車に変更した。1934年には足柄自動車を傘下に組み入れた。なお、富士屋自働車は1931年には省線との連帯運輸を開始したが、乗合自動車が省線と連絡運輸を行ったのは、日本ではこれが初めての事例である。 しかし、戦時体制の波は富士箱根自動車にも影を落とすことになる。1935年(昭和10年)に電力統制が行われると、富士箱根自動車は箱根登山鉄道とともに日本電力の傘下に入った。戦時体制が強化されると、不要不急の路線は休止を命じられることになり、鉄道並行路線や観光路線などはこれによって休止されたが、これは全路線の6割強に達した。さらに、1942年(昭和17年)に強制統合の通牒が出され、統合母体として箱根登山鉄道が選ばれることになり、1944年(昭和19年)7月31日付で富士箱根自動車と足柄自動車は箱根登山鉄道に合併となった。加えて、箱根登山鉄道の社長に東京急行電鉄社長の五島慶太が就任し、かくして箱根登山は大東急の影響下に置かれることになった。本項では以下、単に「登山バス」とした場合は箱根登山鉄道および箱根登山バスをさすものとする。 ===戦後の復興=== 終戦間もない1945年(昭和20年)11月より、小田原から宮ノ下・江ノ浦への路線について運行を開始、以後順次休止路線の運行再開を図るが、路線網がほぼ完全に復旧したのは1954年と、9年を要している。この間の1948年、戦時統合により巨大な鉄道事業者となっていた東急から、小田急電鉄(小田急)・京浜急行電鉄(京急バス)・京王帝都電鉄(京王バス)が分離したが、元来旧・小田急電鉄が運行していた鉄道の井の頭線は京王の所属となり、その代わりとして神奈川中央乗合自動車(当時)とともに新生・小田急の傘下に入ることになった。1950年には貸切バス事業も再開、翌年には東京都・静岡県・山梨県にも営業エリアを拡大した。また、長距離路線の開設も目立ち、1950年には東京から箱根・熱海へ直通する路線を開設したほか、1952年には富士山麓電気鉄道(当時)との運輸協定により小田原駅と山中湖を結ぶ路線も開設された。 貸切バス事業においても、1953年には東京都内で貸切バス事業を行っていた新光バスを買収し、1956年に箱根登山バス(2003年以降とは別の会社)と改称した上で1960年に登山バスに吸収合併した。 ===箱根山戦争と事業拡大=== 大正後期以降、芦ノ湖近辺では箱根土地(当時)が別荘地の分譲などを中心とした観光開発を行なっており、開発に欠かせない交通機関の整備についても西武グループの手で熱海峠と箱根峠の間と、小涌谷から湖尻を経由して元箱根に至る有料道路を運営し、駿豆鉄道(当時)の路線バスが運行されていた。 1947年9月、駿豆鉄道では、小田原と小涌谷を結ぶ区間に路線バスの運行免許申請を行った。傘下にあった大雄山鉄道(当時)との一貫輸送を図ったものであったが、当時まだ東急の傘下だった登山バスは、自社防衛の見地から反対の立場をとった。しかし、当時の登山バスではただちに増強を図ることは難しかった上、地元からも「独占はよくない」という声も上がっていたこともあり、1949年12月には駿豆鉄道の路線バス運行については条件付で認可された。これに対応して、小田急の傘下に入った直後の登山バスでは早雲山から大涌谷を経由して湖尻に至る路線バス運行の免許申請を行なったが、これは逆に駿豆鉄道から反対を受けた。最終的には、1950年3月に両社の協定により、駿豆鉄道は途中停留所と運行回数の制限を、登山バスは1年ごとの有料道路利用契約の更新をそれぞれ条件とした上で、小田原へは駿豆鉄道バスが乗り入れ、代わりに登山バスが初めて芦ノ湖北岸へ乗り入れることになった。 登山バスはこれに続いて、1950年3月に芦ノ湖への湖上交通に着手するために、箱根町や仙石原で西武グループに敵対の立場を取っていた有力者と共同で船舶会社(箱根観光船)を設立した。当初の箱根観光船は小型遊覧船のみを保有する小規模な事業者であったが、1954年には芦ノ湖一周航路の免許を取得、さらに1956年には大型の遊覧船を就航させた。駿豆鉄道側ではこれに対して、1956年3月に「有料道路通行契約が満了すると共に契約を破棄する」と通告し、契約満了後の同年7月以降には有料道路に遮断機を設けて登山バスの通行を阻止した。これは箱根観光船の大型船導入に対する報復で、後に箱根山戦争として広く知られ、獅子文六の小説「箱根山」の題材にもなった西武グループと小田急グループの対立の始まりでもあった。 その後、互いに訴訟を起こして争う一方で、小田急側では1959年に箱根ロープウェイを開通させたことにより、小田急グループのみで芦ノ湖北岸へ到達できるようになった。また、1961年に有料道路を神奈川県が買い上げた上で一般道路として開放したことで、抗争は事実上終結した。数多くあった訴訟案件の決着がついた1968年には西武と小田急のトップが友好的な協定に調印したことから、以後両社は共存してゆくことになる。しかし、既に独自の周遊ルートを築いていたこともあり、小田原駅での観光客の呼び込みや箱根地区でのターミナルの違いなど、競合の構図は残った。これらの紛争の間にも、事業区域の拡大は進められた。1950年代には東海道本線と並行する路線が新設されたほか、1958年には定期観光バスの運行を開始している。また、1960年代には三島・沼津地区において東海自動車(現・東海バスオレンジシャトル)・富士山麓電鉄改め富士急行(現・富士急シティバス)との免許争奪合戦も行われた。 貸切バス事業においても拡大傾向は続き、1963年には名古屋にも営業所を設置した上で、1968年には箱根登山観光バスとして独立させている。 ===モータリゼーションの波と事業再編成=== 1970年代に入ると、モータリゼーションの進展に伴い、路線バスの走行環境は悪化の一途をたどる。特に登山バスの主たる路線は国道1号という幹線でありながらカーブの多い山岳道路を経由しており、観光客を乗せたマイカーが特定の道路に集中することによる渋滞とそれに伴う利用者減は、登山バスに対して深刻な影響を及ぼすものとなった。このため、1982年より中型車の導入が開始され、通勤通学路線の開拓を進めた他、1985年からは地域密着経営の一環として、沿線の小学生の絵画を車内に展示する「ギャラリーバス」の運行を開始した。一方で、1978年からは箱根旧街道経由のバスを毎日運行に切り替えたほか、定期観光バスのコースを拡充したり、祭りに合わせて会員制ツアーバスの運行を行うなど、新規需要の開拓に努めた。1998年5月からは、箱根地区の施設を巡る循環バスの運行を開始した。 しかし、モータリゼーションの進行に加え、箱根地区を訪れる観光客自体が減少傾向となったことにより、バス事業をとりまく環境はさらに厳しくなったため、長距離路線の廃止や短縮などが行われた。また、1996年には秦野市内の登山バス路線については神奈川中央交通100%出資の湘南神奈交バスに移管した。 一方で、静岡県内では1971年(昭和46年)、東海自動車が小田急グループ入りしたことで小田急系バス会社が2社併存することになる。非効率な状態を解消し、将来的な東海自動車の地域別分社化の際には統合させることも視野に入れて、1998年(平成10年)4月1日付で沼津・三島地区の一般路線を分社化の上沼津箱根登山自動車を設立した。法的にはこの時をもって現社設立としている。さらに、2002年(平成14年)10月には小田急グループ全体の再編成が行われた。沼津箱根登山自動車の路線は全路線が沼津東海バスに譲渡された上、沼津登山東海バスと改称されたほか、熱海営業所は伊豆東海バスに統合された。残った箱根登山のバス部門は法人格上存続することになった沼津箱根登山自動車に譲渡、社名を箱根登山バスと改称した。これによって、静岡県内の路線バス事業からは撤退し、営業拠点は消滅した。 貸切バス事業についても、東京・横浜の各営業所については1996年に箱根登山観光バスに移管、1997年には横浜と東京の各営業所を移転の上統合したが、同社は2002年には営業を廃止した。また、小田原観光営業所の貸切バス事業は1994年(平成6年)設立の箱根湯本バスに移管された後に、2000年に湘南箱根登山自動車に社名変更した。その後、2010年には湘南箱根登山自動車を箱根登山観光バスに社名変更している。一方、2002年には登山電車と登山バスに共通のプリペイドカードとして「とざんカード」を導入し、同時にバス共通カードも導入したが、2005年度にはICカード化の流れで「とざんカード」の販売は中止された。2005年3月からは、箱根湯本駅と宿泊施設との間で観光客の手荷物を託送する「箱根キャリーサービス」の運営を開始した。 2004年度には、小田急グループと西武グループとの協力体制構築が発表されたことを受け、伊豆箱根鉄道バスとは共同歩調をとることになり、停留所名の統一などが行われた。さらに、2010年(平成22年)6月15日からは、伊豆箱根バス・小田急箱根高速バス・沼津登山東海バスと連携し、箱根地区の路線に系統記号を設定し、路線図も各社共通の様式で作成した上で各停留所や案内所で掲出することになった。2016年(平成28年)4月1日、沼津登山東海バスは東海バスオレンジシャトルに社名変更。静岡県内拠点の消滅後も社名の上にあった登山バスの名残が消えた。 ==事業内容== ===バス事業=== ====路線バス==== 2008年の時点では、営業区域は小田原市・箱根町を中心に、足柄地域(南足柄市・開成町・松田町)や真鶴町・湯河原町を主な営業エリアとしている。一部路線は静岡県御殿場市にも乗り入れる。かつては熱海市や沼津市にもバス路線を開設していたが、その後小田急グループ内での事業再編に伴い他社への移管が行われている。 ===貸切バス=== 2008年時点では7台が稼動しているが、そのうち5台は小田原養護学校のスクールバス、1台が企業送迎用で、一般貸切車両は大型バス1台のみである。 ===特定バス=== 2008年時点では8台が稼動しているが、そのうち3台は箱根町立箱根の森小学校のスクールバス。富士フイルム系列企業の輸送も行っている。 ===その他事業=== ====箱根キャリーサービス==== 箱根を訪れる観光客の荷物を箱根湯本駅から提携している宿泊施設へ、また宿泊施設から箱根湯本駅へと託送するサービスで、2005年3月から開始された。 ==事業所== 以下の営業所を拠点として路線バスの運行を行なっている。 ===小田原営業所=== 小田原営業所と小田原観光営業所の路線バス部門を統合。 ===宮城野営業所=== 2005年5月に小田原観光営業所宮城野出張所を格上げして新設。 ===関本営業所=== 1921年5月22日に足柄自動車として開設。その後小田原観光営業所に統合されるが、足柄営業所統合後に再分離。 ===湯河原営業所=== 1956年5月に開設。 ===過去に存在した事業所=== ====小田原観光営業所==== 1963年1月16日に開設。路線バス部門は小田原営業所に移管、貸切部門は1999年に箱根湯本バスに移管後、2000年に湘南箱根登山自動車に商号変更。 ===熱海営業所=== 2002年10月に伊豆東海バスに譲渡。 ===沼津営業所=== 1958年6月1日に開設。1998年には沼津箱根登山自動車として分社化、2002年10月に沼津東海バスに移管され沼津登山東海バスと改称。 ===横浜観光営業所=== 1996年に箱根登山観光バスに移管され、関東支店神奈川営業所となる。1997年に東京営業所に統合して廃止。 ===東京営業所=== 1953年に設立された新光バスを1956年に箱根登山バス(初代)に改称し、1960年に合併。箱根登山観光バスに移管され、関東支店東京営業所となった後、神奈中ハイヤー(現・神奈中観光)に車両・乗務員ごと譲渡。これに伴って、神奈中ハイヤーは町田営業所を野津田車庫より移転。現在の神奈中観光東京営業所。 ===名古屋営業所=== 1964年3月1日に新設。1968年8月1日に箱根登山観光バス(初代)に移管されたが、2002年に廃止。 ==車両== ===車両史=== 路線バス車両は、富士屋自働車では当初はビュイックの乗用車を利用し、ラジエター上に行き先を掲出しただけであった。富士屋ホテルの宿泊客から意見を集めた上で、アメリカの高級車ホワイトを導入した。当初はシャーシのみ輸入し、車体は日本国内で製造させていたが、1923年にはアメリカのベンダー車体製造に依頼して製造させた車体をホワイトに架装して輸入、さらに詳細な図面を取り寄せた上で日本自動車に依頼して、日本国内で車体を製造させた。これがその後日本国内で製造されるバス車体の原型となったといわれている。 一方、箱根登山鉄道の自動車部門では、富士屋自働車に対抗して、スイス製の高級車であるサウラーが導入された。この車両は右ハンドル仕様ではあったが、スイス国内で使用される車両と同様にオープンタイプで、車体も含めて全てスイスから輸入されたものと推測されている。五十嵐平達は「活躍した場所から考えても、1930年代の遊覧バスを代表する1台」であるとしている。富士箱根自動車となってからもサウラーなどの大型車が導入された。 戦時中は他社と同様に代用燃料に対応させた車両が使用されたが、代用燃料車両では箱根を登りきることができず、宮ノ下で別のバスに乗換えを余儀なくされたという。 戦後にはディーゼルバスが順次導入され、1953年からは日野自動車(日野)のセンターアンダフロアエンジン車が大量導入された。 ===1970年代以降の車両概説=== 1970年代頃は日野と日産ディーゼルの台数が多かったが、2008年時点ではいすゞ・日野・三菱の3メーカーを導入している。箱根地区の道路環境から、自社導入の大型車は全て短尺の高出力車を採用している。また、貸切車については、全てフルエアブレーキ仕様である。車両のタイヤは年間を通じてスタッドレスタイヤを装着し、毎年冬に交換するほか、状況に応じてタイヤチェーンを併用する。 箱根登山バスの路線バスの特徴として、トップドア車(乗降扉が前方1つだけ)であってもドアの直後の窓には側面方向幕を設置せず、1つ後の窓部分に設置するという独特の仕様が挙げられる。これは、方向幕の大型化に伴い、急カーブで極力視界を確保するためとされている。ノンステップバスは山間部では走りにくいという理由で小田原市内路線に投入されている。 定期観光バスを運行していることから、標準床ながらオールリクライニングシートの観光仕様路線車も導入している。2010年には、同社では11年ぶりとなる定期観光バスの車両更新と同時に、神奈川県内では初導入となる日野・セレガハイブリッドを導入している。 乗降方式は車両の扉位置にかかわらず前乗り前降りである。そのため、ベビーカーは折りたたんで乗降する。扉配置は、ワンマン化初期には前中扉仕様が採用されていたが、その後前後扉仕様に変わり、さらに1980年代以降は座席定員を極力増加させるために前扉仕様が標準となった。2002年以降は交通バリアフリー法に準拠した前中扉仕様となり、中扉は車椅子専用の出入口として使用している。 ===カラーリング=== 戦後に採用されたカラースキムは、クリーム色の上下に青い帯が入るものであったが、1980年からは白ベースに青の濃淡2色と赤のラインが入るものになった。しかし、塗装パターンが比較的複雑である上に特別色も含まれていることからコストが高く、2000年代には「ハートフルバスとざん」色や試験塗色の採用なども行われた。2010年の新車からは、クリーム色ベースで灯火をイメージするオレンジ色(同社では「柿渋色」と呼称)の帯を配した上、箱根細工をイメージするデザインに変更されることになった。これまでの塗装デザインの車両については塗り替えは行わない。 ===譲受車・譲渡車=== 1970年代から2000年代初頭までは、東京都交通局・神奈川中央交通・長崎自動車からの譲受車や、東京都交通局の注文流れの車両を導入していた。近年は神奈川県生活環境の保全等に関する条例(ディーゼル車規制条例)に対応するため車両の更新は全て新車によって行なわれている。2008年時点では12年以内に代替されており、同条例の規制を受けないことから、グループ会社の東海バスへの譲渡が多い。 ===車両番号=== 小型車は001から099まで、中型車と大型車は100から999までの連番で、番号の前には車種頭文字(B:路線、BH:貸切、特:特定車)が付される。2001年から2003年までの導入車両については、営業所頭文字(K:小田原観光、T:(2001年当時の)熱海、Y:湯河原、A:足柄)+年式記号(A:2001年、B:2002年、C:2003年)+2桁の連番となる附番方式を採用していたが、2004年以降は2000年までの附番方式に戻されている。 =三嶋大社= 三嶋大社(みしまたいしゃ、三島大社)は、静岡県三島市大宮町にある神社。式内社(名神大社)、伊豆国一宮、伊豆国総社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。 ==概要== 静岡県東部の伊豆半島基部、三島市の中心部に鎮座する。境内入り口の大鳥居前を東西に旧東海道、南に旧下田街道が走る。周辺は伊豆国の中心部として国府のあった地で、のちに三嶋大社の鳥居前町として発達、いつしか地名も大社に由来して「三島」と称されるようになったとされる。 社名の「三嶋」とは伊豆大島・三宅島等から成る伊豆諸島を指すと言われ、主祭神は伊豆諸島の開拓神である。当社は、古代には伊豆諸島の噴火を畏れた人々から篤く崇敬された。中世に入ると、伊豆国の一宮として源頼朝始め多くの武家からの崇敬を集めた。近世以降は三島が東海道の宿場町として発達したことに伴い、東海道を往来する庶民からも篤く信仰された神社である。 境内では本殿・幣殿・拝殿が国の重要文化財に、キンモクセイが国の天然記念物に指定されている。また社宝では、北条政子の奉納と伝わる国宝の「梅蒔絵手箱」を始めとして、多数の所蔵品が国の重要文化財や静岡県指定文化財に指定されている。 ==社名== 社名は戦前は「三島神社」と称したが、戦後は「三嶋大社」を称している。歴史的には、史料上で次の呼称が見える。 三島大社/三嶋大社 (『続日本後紀』)伊豆三島神社/伊豆三嶋神社 (『延喜式』神名帳)三島社/三嶋社 (『吾妻鏡』、北畠顕家文書、北条氏綱文書)三島宮/三嶋宮 (矢田部家文書等)通説では、「三島」の呼称は伊豆諸島に対する尊称「御島(みしま)」に由来するとされる。伊豆諸島を指す地名の「三島」としては、古くは天平13年(731年)に「伊豆三島」の記載が、平安時代の『和名類聚抄』では伊豆国賀茂郡に「三島郷(みしまごう)」の記載が見える。なお、別説として伊予国一宮の大山祇神社(大三島神)を由来とする説もある。 現在の鎮座地の地名は「三島」であるが、これは先の伊豆諸島を指す「三島」とは異なり、古代の史料には見えない地名である。当地は、古代には伊豆国の国府があったことから「国府(こう)」と称された。そして三嶋神が国府に祀られたのち、13世紀末頃から大社にちなんで地名も「三島」と呼ぶようになったとされる。 以下本項では、神名としては社名にならって「三嶋」の表記を使用するが、史料の引用では常用漢字体を使用する関係上「三島」の表記を使用して解説する。 ==祭神== 祭神は次の2柱。 大山祇命(おおやまつみのみこと) 積羽八重事代主神(つみはやえことしろぬしのかみ)大山祇命(おおやまつみのみこと)積羽八重事代主神(つみはやえことしろぬしのかみ)2柱は「三嶋大神(みしまのおおかみ)」または「三嶋大明神(みしまだいみょうじん)」と総称される。本地仏は薬師如来。 ===祭神について=== 三嶋大社の祭神に関しては、古くは大山祇命祭神説・事代主神祭神説が存在した。大山祇命説は、鎌倉時代の『東関紀行』に始まって『源平盛衰記』『釈日本紀』『二十一社記』『日本書紀纂疏』等の諸史料に見える説である。三嶋神が伊予国一宮の大山祇神社(大三島神)に由来するという伝説に基づき、事代主神説が唱えられるまでは広く定着していた。 一方の事代主神説は、江戸時代後期の平田篤胤の『古史伝』での主張に始まる説である。室町時代の『二十二社本縁』に「都波八重事代主神(中略)伊豆賀茂郡坐三島神、伊予国坐三島神同体坐云」(都波八重事代主神は、伊豆国賀茂郡に坐す三島神で、伊予国に坐す三島神(=大山祇神社)と同じと云う)の記載に基づく。この記述は伊予の国の大山祇神社の主祭神も事代主神としてしまっている。 江戸時代までの祭神は大山祇命とされていたが、幕末に事代主神説が国学者の支持を得たため、明治6年(1873年)に事代主神に改められた。その後大正期に入って大山祇命説が再浮上したため、2柱説が昭和27年(1952年)に制定されて現在に至っている。 近年の研究では、三嶋神は「御島神」すなわち伊豆諸島の神を意味するとして、上記2説とも後世の付会とする見方が有力視される。この中で、噴火の盛んな伊豆諸島で原始的な造島神・航海神として祀られたのが「ミシマ神」の始まりであるという。そして「ミシマ」の音から、後世に他の神に結び付けられたとも推測されている。 ==歴史== 『式内社調査報告』で推測される三嶋神・伊古奈比*3618*命の変遷。 ===創建=== 創建は不詳。後述のように『延喜式』神名帳には伊豆国賀茂郡(伊豆半島南部・伊豆諸島)の所在と記載され、現在地(当時は田方郡)と相違することから、遷座説・郡名誤記説等の諸説が提唱されている。文献上で現在地の鎮座が確実なのは、『吾妻鏡』治承4年(1180年)の記事からである。 現在通説として知られるのは、初め賀茂郡三島郷(伊豆諸島か)、のち賀茂郡大社郷白浜(伊古奈比*3619*命神社付近か)、さらに田方郡小河郷の伊豆国府(現社地)へと遷座(一説に勧請)したとする説である。一方の郡名誤記説では、『延喜式』の記載を疑い、太古より当地に鎮座とする。以上のほか、「三嶋」の神名から伊予国一宮の大山祇神社(大三島神)との関係を想定する説もある。 ===概史=== ====古代==== 史料の初見は天平宝字2年(758年)で、「伊豆三島神」に対して10月2日に封戸9戸が、12月に封戸4戸が授けられている。国史では天長9年(832年)の記事において、三嶋神・伊古奈比*3620*命神(伊古奈比*3621*命神社)の2神が地2,000町に神宮二院・池三処を作るなど多くの神異を示したとして、名神に預かっている。同記事の3日前の記事では、日照りの原因が「伊豆国神」の祟りであると記されているが、この「伊豆国神」は三嶋神・伊古奈比*3622*命神と同一神とする説もある。 『続日本後紀』の記事によると、承和5年(838年)7月5日夜に上津島(神津島)で激しい噴火が発生した。占いの結果、それは三嶋神の後后が位階(神階)を賜ったにも関わらず、本后たる阿波神(阿波*3623*命:阿波命神社)には沙汰がないことに対する怒りによるものだと見なされた。同記事では「後后」に関する具体的な言及はないが、これは伊古奈比*3624*命を指すとされる。この記事を受けて約一ヶ月後には、阿波*3625*命と物忌奈命(阿波神の御子神:物忌奈命神社)の神階が無位から従五位下に昇った。 その後、三嶋神は嘉祥3年(850年)に従五位上の神階が授けられたのち、仁寿2年(852年)に従四位下、天安3年(859年)に従四位上、貞観6年(864年)に正四位下、貞観10年(868年)に従三位が授けられた。 延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では、伊豆国賀茂郡に「伊豆三島神社 名神大 月次新嘗」として、名神大社に列するとともに月次祭・新嘗祭で幣帛に預かった旨が記載されている。また、『延喜式』主税寮によると、「三島神料」として2,000束が下されていた。 承平年間(931年‐938年)頃の『和名類聚抄』では伊豆国賀茂郡に「大社郷(おおやしろごう)」の地名が見えるが、これは伊豆三島神社・伊古奈比*3626*命神社に基づく郷名とされる。 ===中世から近世=== 中世に入ると、三嶋社は伊豆国で一宮の地位に位置づけられたほか(初見は建武元年(1334年))、伊豆国の総社も兼ねたとされる。『伊豆国神階帳』(康永2年(1343年)以前成立)では「正一位三島大明神」と記載されている。 『吾妻鏡』治承4年(1180年)の記事によると、源頼朝は挙兵直前に安達盛長に対して三嶋社への奉幣を命じ、その後伊豆北条氏と組んで目代の山木兼隆を討ち取った。また、頼朝は同年に平家軍との戦のため西に向かう際にも三嶋神を拝んだという。このような戦勝祈願に見えるように、三嶋社は源頼朝から篤く崇敬され、頼朝からは治承4年(1180年)10月に御園・河原谷・長崎の神領の寄進、元暦2年(1185年)6月に臨時祭料として河原谷・御園の寄進、同年8月には放生会料として糠田・長崎の寄進、文治4年(1188年)正月に参詣、建久6年(1195年)に神馬・剣の奉納が行われた。頼朝が開いた鎌倉幕府は、三嶋社を鶴岡八幡宮や二所権現(伊豆山神社・箱根神社)と並んで信仰している。頼朝以後も鎌倉幕府将軍は代々三嶋社に参詣しており、特に4代将軍・藤原頼経は最も多くの参詣を行なった。 この時代、鎌倉幕府の将軍・御家人は東海道を従来の足柄越ではなく箱根越を利用した。これによって箱根路が活性化し、箱根手前に位置する三嶋社には数多くの旅人が参詣した。東海道の紀行文には必ず三嶋社のことが記されており、『東関紀行』の作者(未詳)や、竹崎季長(『蒙古襲来絵詞』上巻)、阿仏尼(『十六夜日記』『夫木抄』)、冷泉為相・飛鳥井雅有(『夫木抄』)、一遍(『一遍聖絵』)、後深草院二条(『とはずがたり』)などが参詣の様子を描写している。 南北朝時代に入り争乱が増えると、三嶋社では戦勝祈願を行う例が多く見られた。三嶋社は室町幕府・鎌倉公方からも篤い崇敬を受けたため、社領寄進が度々なされていた。 戦国時代には当地を治めた後北条氏の保護を受け、後北条氏からは造営の支援も行われた。永禄11年(1568年)の甲相駿三国同盟解消に伴って当地は対武田氏の最前線になったため、度々兵火に遭ったとされる。後北条氏は積極的に三嶋社の造営を支援したが、それが後北条氏にとっての重荷になったともいわれる。 江戸時代、江戸幕府からは文禄3年(1594年)に社領330石が寄進された(地割は神主100石、護摩堂25石、刑部大夫20石、在庁免25石、惣社人55石等)。慶長9年(1604年)にはさらに200石が加えられ、江戸時代を通じて計530石を有していた。 ===近代以降=== 明治維新後、明治4年(1871年)に近代社格制度において官幣大社に列し、「三島神社」と称した。戦後は「三嶋大社」と改称し、神社本庁の別表神社に列している。 ===神階=== 六国史における神階奉叙の記録 天長9年(832年)5月22日、名神に預かる (『釈日本紀』所引『日本後紀』逸文) ‐ 表記は「三島神」。 嘉祥3年(850年)10月7日、従五位上 (『日本文徳天皇実録』) ‐ 表記は「三島神」。 仁寿2年(852年)12月15日、従四位下 (『日本文徳天皇実録』) ‐ 表記は「三島大神」。 斉衡元年(854年)6月26日、従四位下 (『日本文徳天皇実録』) ‐ 表記は「三島大神」。仁寿2年記事と内容は重複。 天安3年(859年)1月27日、従四位下から従四位上 (『日本三代実録』) ‐ 表記は「三島神」。 貞観6年(864年)2月5日、従四位上から正四位下 (『日本三代実録』) ‐ 表記は「三島神」。 貞観10年(868年)7月27日、正四位下から従三位 (『類聚国史』) ‐ 表記は「三島神」。天長9年(832年)5月22日、名神に預かる (『釈日本紀』所引『日本後紀』逸文) ‐ 表記は「三島神」。嘉祥3年(850年)10月7日、従五位上 (『日本文徳天皇実録』) ‐ 表記は「三島神」。仁寿2年(852年)12月15日、従四位下 (『日本文徳天皇実録』) ‐ 表記は「三島大神」。斉衡元年(854年)6月26日、従四位下 (『日本文徳天皇実録』) ‐ 表記は「三島大神」。仁寿2年記事と内容は重複。天安3年(859年)1月27日、従四位下から従四位上 (『日本三代実録』) ‐ 表記は「三島神」。貞観6年(864年)2月5日、従四位上から正四位下 (『日本三代実録』) ‐ 表記は「三島神」。貞観10年(868年)7月27日、正四位下から従三位 (『類聚国史』) ‐ 表記は「三島神」。六国史以後 正一位 (『伊豆国神階帳』) ‐ 表記は「三島大明神」。正一位 (『伊豆国神階帳』) ‐ 表記は「三島大明神」。 ===神職=== 三嶋大社の神主職は、伊豆国造の後裔を称する矢田部氏(やたべし)が代々世襲する。 伊豆国造について『先代旧事本紀』では、神功皇后の時に若建命(わかたけのみこと)が国造に任じられたといい、この若建命は物部連祖・天御桙命(あめのみほこのみこと)の8世孫であるという。矢田部氏に伝わる系図『伊豆国造伊豆宿禰系図』では、初代に天御桙命、第9代に若多祁命(若建命を指す)を記載する。 矢田部氏は、元々は日下部直(くさかべのあたえ、日下部氏)であったとされる。『続日本紀』では天平14年(742年)に外従七位下の日下部直益人(ますひと;系図では第19代)が「伊豆国造伊豆直(いずのくにのみやつこ いずのあたえ、伊豆氏)」姓を賜った。また、宝亀2年(771年)に外従五位下の伊豆国造伊豆直乎美奈(おみな;系図では益人の子)が従五位下を賜ったと記載される。 系図によると、その後裔の伊豆貫盛(第30代)が三嶋神主となって以降、代々三嶋社の祭祀に携わったという。伊豆久恒(第33代)の時には久恒に子が無かったため、弟の国盛(第34代)が「東神主五郎大夫」を、末弟の貞盛が「西神主四郎大夫」を称して後を継いだ。康和5年(1103年)の国盛の宮司補任を示す文書は現在にも残っている(ただし検討余地のある史料とされる)。その後は東大夫・西大夫が並び立って三嶋社の社務を分担し、西大夫は二宮八幡宮の神主も兼務したという。東大夫と西大夫は代々継承されたが、南北朝期以降は西大夫は没落して東大夫のみとなった。以降の神主職は東大夫の世襲となり、一族は元禄年間(1688年‐1704年)に姓を「矢田部」に改めた上で、現在の宮司(第70代)に至っている。 社僧としては愛染院(別当)、大徳院・竜宝院・法正院(役僧)の4子院があった。また、神宮寺には「国分寺」の称も見える。 ===社殿造営=== 三嶋大社は元は下田市白浜に所在したといわれる。『日本後紀』逸文では社地に関する次の記載があるが、これは白浜鎮座時の描写とされる。 三島市域での所在を示す最古の史料は『吾妻鏡』治承4年(1180年)記事である。鎌倉時代の『一遍聖絵(一遍上人絵伝)』第6巻では、弘安5年(1282年)に一遍が参詣した際の楼門・拝殿・楼門(神門)・幣殿・本殿からなる社殿が描かれている(ただし『一遍聖絵』には建築史学的に疑義がある)。現在、その様子は三嶋大社宝物館に模型で再現されている。 鎌倉時代以降の文書に見える造営・修復年次は、文治3年(1187年)、建永元年(1206年)、嘉禎元年(1235年)、文永9年(1272年)、正安4年(1302年)、嘉暦4年(1329年)、延文3年(1358年)、応安3年(1370年)、永徳2年(1382年)、応永13年(1406年)、応永25年(1418年)、大永6年(1526年)、慶長9年(1604年)、寛永13年(1636年)、承応3年(1654年)、寛文11年(1671年)、正徳元年(1711年)、宝暦5年(1755年)、安永5年(1776年)、寛政8年(1796年)、文化9年(1812年)、天保3年(1832年)、慶応4年(1868年)、大正12年(1923年)、昭和10年(1935年)。 上記のうち特に、江戸幕府3代将軍・徳川家光による寛永期の造営で大規模な社殿が整えられた。その後の江戸期の社殿の様子を示す史料は多く、絵図では五重塔や護摩堂・経蔵といった仏教施設も見える。しかし嘉永7年(安政元年、1854年)に発生した安政東海地震によってほとんどは倒壊したため、社殿は幕末の慶応4年(1868年)にかけて再建された。その後は、大正12年(1923年)の関東大震災、昭和5年(1930年)の北伊豆地震による被害の修復を経て現在に至っている。 ==境内== 境内の広さは14,057坪(4.6ヘクタール)。他に境外地として約2,200坪(0.72ヘクタール)を所有する。 ===社殿=== 主要社殿は、本殿・幣殿・拝殿からなる権現造の複合社殿である。大社側ではこれらを「御殿(ごてん)」と総称する。いずれも江戸時代末期の嘉永7年(安政元年、1854年)の安政東海地震後に再建されたもので、慶応2年(1866年)9月9日に落成した。境内にある主な建造物も、同時期の明治元年(1868年)にかけての再建である。 社殿の形式は、寛永年間(1624年‐1645年)の徳川家光造営時を踏襲したものとされる。本殿は三間社流造で、銅瓦葺。幣殿は桁行三間、梁間一間、一重、両下造で、銅板葺。拝殿は桁行七間、梁間四間、一重、入母屋造、正面千鳥破風付、向拝三間、軒唐破風付で、銅瓦葺。本殿・幣殿・拝殿いずれも総欅素木造で、国内有数の規模の社殿である。また本殿脇障子の神功皇后の説話に基づく彫刻を始めとして、本殿の内法上の小壁、本殿と拝殿の蟇股などの要所に彫刻が施されているが、これらは伊豆国名工の小沢希道、駿河国名工の後藤芳治良が競い合って完成させたものといわれる。これら社殿3殿は、江戸時代を代表する建造物であるとして国の重要文化財に指定されている。 拝殿前に建てられている舞殿(ぶでん)は、本殿等と同時期の慶応2年(1866年)12月18日の再建。古くは「祓殿」と呼ばれる神楽祈祷を行う場であったが、のちに舞の奉納が主となったので「舞殿」と称されるようになったという。現在では、舞のほか各種神事でも使用される。舞殿には、中国・元代に郭居敬編纂の「二十四孝」を基にした彫刻が巡らされている。この舞殿は三島市指定文化財に指定されている。 神門(しんもん)もまた、本殿等と同時期の慶応3年(1867年)8月10日の再建。御殿同様に総欅造である。舞殿とともに三島市指定文化財に指定されている。 そのほか、境内には神馬舎(戦後完成)、総門(昭和6年(1931年)完成)、旧総門の芸能殿(慶応4年(1868年)2月11日完成)、客殿等の社殿がある。 ===社叢=== 著名な老木として、神門内にキンモクセイ(金木犀)がある。この樹木はウスギモクセイ(薄黄木犀)の雄木で、樹齢約1,200年、樹高10メートル以上を測る老木・巨木である。「2度咲き」の性質を持つが、特に2度目の9月下旬から10月上旬にかけては淡黄色の花で満開になる。このキンモクセイは国の天然記念物に指定されている(詳細は「三島神社のキンモクセイ」を参照)。 また、境内に広がる鎮守の森は「三嶋大社社叢」として三島市指定天然記念物に指定されている。 ===その他=== 神池(しんち) ‐ 『吾妻鏡』によれば源頼朝がこの池で放生会を行なったという。『一遍聖絵』でも描かれている。神鹿園(しんろくえん)頼朝腰掛石、北条政子腰掛石 ‐ 神馬舎の隣に所在。牛石(うしいし) ‐ 三島七石の1つ。社務所近くに所在。たたり石 ‐ 昔は東海道にあって交通整理の役割を担ったという。境内入り口近くに所在。 ==摂末社== 現在の摂末社は、摂社2社・末社13社の計15社(いずれも境内社)。古くは他にも多数の摂末社があったが、現在は事実上独立している。 ===摂社=== ====若宮神社==== 祭神:物忌奈乃命(ものいみなのみこと)、誉田別命(ほんだわけのみこと、応神天皇)、神功皇后、妃大神 社格:神階帳「正五位上 第三王子并十八所御子達」、伊豆国元二宮 例祭:8月15日 ‐ 本社例祭の前日。祭神:物忌奈乃命(ものいみなのみこと)、誉田別命(ほんだわけのみこと、応神天皇)、神功皇后、妃大神社格:神階帳「正五位上 第三王子并十八所御子達」、伊豆国元二宮例祭:8月15日 ‐ 本社例祭の前日。「わかみやじんじゃ」。古くは「八幡宮」「若宮八幡宮」「若宮社」等とも称された。祭神の物忌奈乃命は三嶋神の御子神で、神津島の物忌奈命神社の祭神である。古くは「元ツ神」と呼ばれた地主神で、大社西の二ノ宮町に鎮座したという(西若町の若宮神社付近と推定。移転時期不明)。社家は西大夫で、『吾妻鏡』では「二宮八幡宮」に料所を付す記事が見える。鎌倉時代中期の西大夫没落とともに衰退、のち「若宮」と称されるようになり、さらに大社境内に遷された。この遷座とともに三宮の浅間神社が二宮に格上げされたという。現在の社殿は慶応4年(1868年)8月20日の再建。社地移転に関する伝承として、三嶋神が地主神の若宮八幡に藁一把分だけの土地を譲るよう頼み、若宮八幡が了承すると、三嶋神は藁束を解いて一本ずつ輪にして広大な社地を占有するに至ったと伝わる。 ===見目神社=== 祭神:波布比売命、久爾都比*3627*命、伊賀牟比*3628*命、佐伎多麻比*3629*命、伊波乃比*3630*命、優波夷命 ‐ 三嶋神の后神6柱。総称して「見目6柱」とも。 例祭:11月14日祭神:波布比売命、久爾都比*3631*命、伊賀牟比*3632*命、佐伎多麻比*3633*命、伊波乃比*3634*命、優波夷命 ‐ 三嶋神の后神6柱。総称して「見目6柱」とも。例祭:11月14日「みるめじんじゃ」。6柱は三嶋神の后神で、「見目(みめ)」とは「御妃(みめ)」を意味するともいわれる。古くは、本社例祭の前々日に幕府から奉献された玉簾を見目神社の前で渡す儀礼が行われたという。現在の社殿は慶応4年(1868年)9月3日の再建。 ===末社=== ====東五社==== 舞殿の東方に鎮座し次の5社を祀る。祭神はいずれも不詳。 大楠社 ‐ 例祭は3月15日、11月15日。 天神社 ‐ 三嶋神御子神か。 聖神社 第三社 ‐ 三嶋神御子神。 幸神社大楠社 ‐ 例祭は3月15日、11月15日。天神社 ‐ 三嶋神御子神か。聖神社第三社 ‐ 三嶋神御子神。幸神社 ===西五社=== 舞殿の西方に鎮座し次の5社を祀る。東五社同様、祭神は不詳。 船寄社 飯神社 ‐ 三嶋神御子神。例祭は1月1日。 酒神社 ‐ 三嶋神御子神。例祭は1月3日。 第二社 ‐ 三嶋神御子神。 小楠社船寄社飯神社 ‐ 三嶋神御子神。例祭は1月1日。酒神社 ‐ 三嶋神御子神。例祭は1月3日。第二社 ‐ 三嶋神御子神。小楠社 ===祓戸神社=== 祭神:瀬織津姫神、速開都姫神、気吹戸主神、速佐須良姫神 ‐ 祓戸四神。 例祭:6月30日、12月31日祭神:瀬織津姫神、速開都姫神、気吹戸主神、速佐須良姫神 ‐ 祓戸四神。例祭:6月30日、12月31日「はらえどじんじゃ」。通称「浦島さん」。境内西方、桜川が流れ込む池中の島に鎮座する。当社は国司によってこの地に奉斎され、国司の大社参拝の際は必ず当地で祓いを行なったという。『一遍聖絵』では相当な規模の社殿が描かれている。現在の社殿は昭和11年(1936年)7月8日の改築。本殿は春日造、拝殿は入母屋造。 ===厳島神社=== 祭神:市杵嶋姫命。 例祭:1月1日祭神:市杵嶋姫命。例祭:1月1日境内南方の神池中の島に鎮座する。北条政子の勧請と伝える。 ===伊豆魂神社=== 「いづたまじんじゃ」。伊豆出身の戦没者2372柱を祀る。 ===元摂末社=== かつて三嶋大社に属した摂末社。下記はいずれも大社境外に所在する元摂社で、現在は独立する。 三嶋大社の元摂社(以下で全てであるかは不明)。 ===浅間神社=== 鎮座地:三島市芝本町6‐3(位置) 祭神:木花開耶姫命、波布比売命(相殿神に瓊々杵命、火明命、火蘭降命、彦火々出見命の4柱) 社格:神階帳「正一位 千眼大菩薩」、伊豆国三宮のち二宮 式内社の火牟須比命神社(熱海市の伊豆山神社摂社の雷電神社か)遥拝所か鎮座地:三島市芝本町6‐3(位置)祭神:木花開耶姫命、波布比売命(相殿神に瓊々杵命、火明命、火蘭降命、彦火々出見命の4柱)社格:神階帳「正一位 千眼大菩薩」、伊豆国三宮のち二宮式内社の火牟須比命神社(熱海市の伊豆山神社摂社の雷電神社か)遥拝所か「せんげんじんじゃ」。古くは三嶋大社八所別宮の1所であった。式内社「伊賀牟比売命神社」論社に挙げられるが、有力視はされていない。伊豆山神社の本地仏・十一面千手千眼観音の仏名「せんげん」から「浅間」の神名に転訛したとされる。この浅間神社は元は三宮であったが、二宮八幡宮が大社境内に遷座してのち二宮になったという。例祭は7月15日・16日。 ===六所王子神社=== 鎮座地:三島市日の出町6‐90(位置) 祭神:三嶋神の御子神6柱 社格:神階帳「正五位上 六所王子」鎮座地:三島市日の出町6‐90(位置)祭神:三嶋神の御子神6柱社格:神階帳「正五位上 六所王子」「ろくしょおうじじんじゃ」。神名は詳らかでなく、三嶋神の御子神であるとのみ伝えられる。 ===楊原神社=== 鎮座地:三島市北田町4‐7(位置) 祭神:事代主命、大山祇命 社格:神階帳「従一位 やきわらの明神」、伊豆国三宮か 名神大社の楊原神社(沼津市)遥拝所か鎮座地:三島市北田町4‐7(位置)祭神:事代主命、大山祇命社格:神階帳「従一位 やきわらの明神」、伊豆国三宮か名神大社の楊原神社(沼津市)遥拝所か「やなぎはらじんじゃ」。古くは三嶋大社八所別宮の1所であった。一説に、楊原神社の地が駿河国に編入されたことにより中島に遷祀、のち同所に徳川家光が御殿を営むにあたって現在地に遷座したともいう。境内には三島七石の1つ「蛙石」がある。例祭は7月5日。 ===広瀬神社=== 鎮座地:三島市一番町19(楽寿園内、位置) 祭神:倉稲魂命 社格:神階帳「従一位 廣瀬明神」、伊豆国四宮 式内社の広瀬神社(伊豆の国市)遥拝所か鎮座地:三島市一番町19(楽寿園内、位置)祭神:倉稲魂命社格:神階帳「従一位 廣瀬明神」、伊豆国四宮式内社の広瀬神社(伊豆の国市)遥拝所か「ひろせじんじゃ」。楽寿園内の池中の島に鎮座する。一帯が小松宮の別邸になったので一時は浅間神社境内に遷座したが、のち楽寿園が公園になるとともに園内に再建された。例祭は7月14日(楽寿園の公園記念日)。 ===日隅神社=== 鎮座地:三島市大社町8‐12(位置) 祭神:大己貴命 社格:神階帳「正五位上 角の明神」、伊豆国五宮か鎮座地:三島市大社町8‐12(位置)祭神:大己貴命社格:神階帳「正五位上 角の明神」、伊豆国五宮か「ひすみじんじゃ」。古くは三嶋大社八所別宮の1所であった。例祭は5月15日。 ===天神社=== 鎮座地:三島市川原ヶ谷和田51(位置) 祭神:少彦名命(配祀に誉田別尊、愛宕神、宇賀魂神、大山祇神) 社格:神階帳「正一位 天満天神」 名神大社の物忌奈命神社(神津島)遥拝所か鎮座地:三島市川原ヶ谷和田51(位置)祭神:少彦名命(配祀に誉田別尊、愛宕神、宇賀魂神、大山祇神)社格:神階帳「正一位 天満天神」名神大社の物忌奈命神社(神津島)遥拝所か「てんじんじゃ」。明治24年(1891年)に付近の八幡社・愛宕社・稲荷社・山神社を合祀。例祭は9月25日。 鎮座地:三島市西若町8‐7(位置) 祭神:誉田別命 社格:旧村社鎮座地:三島市西若町8‐7(位置)祭神:誉田別命社格:旧村社「わかみやじんじゃ」。国司勧請の八幡神社であるといい「若宮八幡宮」と称された。境内摂社の若宮神社との関係は不詳(『増訂豆州志稿』では言及なし)。大正11年(1922年)、同じく国司勧請と伝えられていた天神社を合祀(現在は境内社)。例祭は5月15日・16日。 ===賀茂川神社=== 鎮座地:三島市加茂川町17‐21(位置) 祭神:素盞鳴男命ほか10柱 社格:旧村社鎮座地:三島市加茂川町17‐21(位置)祭神:素盞鳴男命ほか10柱「かもがわじんじゃ」。古くは「祇園社」と称された。大正4年(1915年)に宮町の十柱神社を合祀し「賀茂川神社」と改称した。三嶋大社及び三島宿の鬼門(東北)の神として崇敬される。7月8日に三嶋大社の舞殿に渡御し、7月15日に三島の悪疫除を行う神事が古くから行われている。例祭は4月10日。 ===多賀神社=== 鎮座地:三島市谷田164(位置) 祭神:伊弉諾尊鎮座地:三島市谷田164(位置)祭神:伊弉諾尊「たがじんじゃ」。古くは「田川神社(田河神社)」とも。例祭は10月15日。 ===右内神社=== 鎮座地:三島市梅名1(位置) 祭神:櫛石窓命(配祀に9柱) 社格:神階帳「従四位上 河原の明神」論社、旧村社鎮座地:三島市梅名1(位置)祭神:櫛石窓命(配祀に9柱)社格:神階帳「従四位上 河原の明神」論社、旧村社「うないじんじゃ」。式内社「阿米都瀬気多知命神社」または「伊波*3635*別命神社」の論社に挙げられるが、有力視はされていない。左内神社とともに三嶋大社の御門守護神。両社は下田街道の左右に鎮座したという。例祭は10月18日。 ===左内神社=== 鎮座地:三島市中島字西310‐2(位置) 祭神:阿米都瀬気多知命 社格:式内社「阿米都瀬気多知命神社」論社、式内社「父梨神社」論社、旧村社鎮座地:三島市中島字西310‐2(位置)祭神:阿米都瀬気多知命社格:式内社「阿米都瀬気多知命神社」論社、式内社「父梨神社」論社、旧村社「さないじんじゃ」。右内神社とともに三嶋大社の御門守護神。もとは中島字園田に鎮座したが、明治19年(1886年)の火災により現在地に遷座した。例祭は7月17日。 ==祭事== ===年間祭事=== 三嶋大社の年間祭事一覧。 毎月 月次祭 (1日、16日)月次祭 (1日、16日)1月 開運祈祷祭、歳旦祭、飯神社例祭、厳島神社例祭 (1月1日) 元始祭、酒神社例祭 (1月3日) 昭和天皇祭遥拝、田祭(お田打神事) (1月7日) 小豆粥祭 (1月15日) 奉射祭 (1月17日) 崇敬会新年祭 (不定日)開運祈祷祭、歳旦祭、飯神社例祭、厳島神社例祭 (1月1日)元始祭、酒神社例祭 (1月3日)昭和天皇祭遥拝、田祭(お田打神事) (1月7日)小豆粥祭 (1月15日)奉射祭 (1月17日)崇敬会新年祭 (不定日)2月 節分祭、追儺祭(鳴弦式) (節分の日) 立春祭 (立春の日) 針感謝祭 (2月8日) 紀元祭 (2月11日) 祈年祭 (2月17日)節分祭、追儺祭(鳴弦式) (節分の日)立春祭 (立春の日)針感謝祭 (2月8日)紀元祭 (2月11日)祈年祭 (2月17日)3月 桃節句祭 (3月3日) 春季皇霊祭遥拝 (春分の日) 神鹿記念祭 (3月22日) 交通安全祈願祭 (3月31日)桃節句祭 (3月3日)春季皇霊祭遥拝 (春分の日)神鹿記念祭 (3月22日)交通安全祈願祭 (3月31日)4月 神武天皇祭遥拝 (4月3日) 明神講講社祭 (4月3日‐7日) 稚児健康祈願祭 (4月3日、5日) 鎮花祭 (4月9日) 敬老祭 (4月11日) 水産祭 (4月13日) 見目神社例祭 (4月14日) 大楠神社例祭 (4月15日) 酉祭 (4月16日) 昭和祭 (4月29日) 崇敬会大祭 (不定日)神武天皇祭遥拝 (4月3日)明神講講社祭 (4月3日‐7日)稚児健康祈願祭 (4月3日、5日)鎮花祭 (4月9日)敬老祭 (4月11日)水産祭 (4月13日)見目神社例祭 (4月14日)大楠神社例祭 (4月15日)酉祭 (4月16日)昭和祭 (4月29日)崇敬会大祭 (不定日)5月 端午祭・命名児健康祈願祭 (5月5日)端午祭・命名児健康祈願祭 (5月5日)6月 大祓式、大祓祈願祭、祓戸神社例祭 (6月30日)大祓式、大祓祈願祭、祓戸神社例祭 (6月30日)7月 八坂神社招神祭 (7月8日) 八坂大神渡御祭、八坂大神還御祭 (7月15日)八坂神社招神祭 (7月8日)八坂大神渡御祭、八坂大神還御祭 (7月15日)8月 若宮神社例祭、菅奉納祭、宵宮祭 (8月15日) 例祭、手筒花火神事 (8月16日) 崇敬会大祭、流鏑馬神事、後鎮祭 (8月17日)若宮神社例祭、菅奉納祭、宵宮祭 (8月15日)例祭、手筒花火神事 (8月16日)崇敬会大祭、流鏑馬神事、後鎮祭 (8月17日)9月 秋季皇霊祭遥拝 (秋分の日) 木犀の夕祭 (不定日)秋季皇霊祭遥拝 (秋分の日)木犀の夕祭 (不定日)10月 神嘗奉祝祭 (10月17日)神嘗奉祝祭 (10月17日)11月 明治祭 (11月3日) 見目神社例祭 (11月14日) 七五三祈祷祭、大楠神社例祭 (11月15日) 酉祭 (11月16日) 恵比須講祭 (11月20日) 新嘗祭 (11月23日)明治祭 (11月3日)見目神社例祭 (11月14日)七五三祈祷祭、大楠神社例祭 (11月15日)酉祭 (11月16日)恵比須講祭 (11月20日)新嘗祭 (11月23日)12月 天長祭 (12月23日) 大祓式、大祓祈願祭、祓戸神社例祭、古札焼納祭、除夜祭 (12月31日)天長祭 (12月23日)大祓式、大祓祈願祭、祓戸神社例祭、古札焼納祭、除夜祭 (12月31日) ===例祭=== 三嶋大社の例祭(れいさい)は、毎年8月16日に行われる。例祭自体は16日であるが、各種神事が15日の摂社・若宮神社の例祭に始まって17日まで執り行われる。三嶋大社では古くから4月・8月・11月の2の酉日に大祭が行われたが、明治に入って特に8月の祭が例祭に定められた。4月・11月の祭は、現在も「酉祭」として続いている。8月15日から17日の3日間は三島市内でも「三島夏祭り」と称して、源頼朝の出陣を模した行列が催されるほか、山車が出て「三島囃子(みしまばやし)」(静岡県指定無形民俗文化財)が披露されるなど最も賑わいを見せる。 ===特殊神事=== ====お田打ち神事==== 1月7日。正月に五穀豊穣を祈る予祝神事。本殿で「田祭」を行なったのち舞殿で行う。神事では舞殿中央に荒むしろを敷いて田所とし、田打に始まって種蒔きや鳥追いまでを模擬的に演じる。終盤では雷鳴として太鼓を鳴らして夕立に遭う所作を行う(雨乞いを意味する)。この神事から、三嶋神に農耕神の性格を見る指摘もある。神事は静岡県指定無形民俗文化財に指定されている。 ===粥占神事=== 1月15日。「かゆうらしんじ」。年頭に作物の収穫を占う神事。神事の前には「小豆粥祭」として、小豆の粥の中に餅を割り入れて各種神饌と共に供える祭を行う。そして粥占として、この粥の中に作物の名前を書き込んだ篠竹の筒を入れて炊き、竹筒への粥の入り具合から作物の収穫占いを行う。 ===奉射神事=== 1月17日。「ほうしゃしんじ」。年頭に悪病退散を祈る神事。本殿で「奉射祭」を行なったのち射場で行う。神事では大的に矢を放って平穏を祈る。神事の後に大的を破り取って災難除けのお守りとする習わしがある。 ===鳴弦式=== 節分の日。「めいげんしき」。悪霊退散を祈る神事。本殿で「追儺祭」を行なったのち舞殿で行う。神事では舞殿中央に祭壇を設け、祝詞奏上ののち弓の弦を鳴らす。これによって邪気が祓われるとする。 ===流鏑馬神事=== 8月17日(例祭翌日)。天下泰平・五穀豊穣を祈り流鏑馬を奉納する神事。神事は平安時代から続くといい、記録では源頼朝が文治元年(1185年)6月に流鏑馬を奉納したことが見える。古くは4月・8月の酉祭と6月20日の年3回行われたというが、明治初年に廃絶した。その後昭和59年(1984年)に再興されて現在に至っている。 ==文化財== ===国宝=== 梅蒔絵手箱 一具(工芸品) 鎌倉時代、源頼朝の妻・北条政子の奉納と伝わる手箱。縦25.8センチメートル、横34.5センチメートル、高さ19.7センチメートルで、代表的な鎌倉時代の蒔絵工芸品である。合口造の箱で、蓋には甲盛りがあり、典型的な鎌倉期の手箱の器形を示す。蓋表と身側面には沃懸地(いかけじ)に梅樹、几帳、飛雁、水禽などを高蒔絵で表し、梅花には銀の平文(ひょうもん)を用いる。蓋表には図中にまぎれるように銀の平文で「榮・傳・錦・帳・雁・行」の6文字が散らされているが、これは白居易(白楽天)が友と昇進を遂げた慶びを綴った漢詩(『白氏文集』所収)の詩意を表したものであり、「榮傳錦帳花聯萼 彩動綾袍雁趁行」(栄は錦帳を伝え花は萼を聯(つら)ねたり、彩は綾袍を動かし雁は行を趁(お)う」という詩句に由来する。 手箱内には以下の内容品(化粧道具)一式が納められており、これらも箱とともに国宝に指定されている。 白銅鏡 1面、蒔絵鏡箱 1合、蒔絵歯黒箱 2合、蒔絵白粉箱 1合、蒔絵薫物箱 2合、螺鈿櫛 18枚、螺鈿櫛残欠 4枚、平元結 2本、銀軸紅筆 1本、銀軸眉作 1本、銀鋏 1箇、銀鑷 1箇、銀笄 1本、銀髪飾 4枚(附:銀菊形鋺 1口、金銅扇形箱 1合、金銅菊文箱 1合、組紐残欠 1綴、袋残欠 1綴) この手箱は、鎌倉期に盛行する高蒔絵の技法を駆使したこの時代を代表する漆工芸品であり、内容品を存する手箱としては現存最古のものである。明治33年4月7日に当時の古社寺保存法に基づき国宝に指定、昭和27年11月22日に文化財保護法に基づき国宝に指定。 現在は東京国立博物館に寄託中で、三嶋大社宝物館には3年半かけて再現された復元品が展示されている。鎌倉時代、源頼朝の妻・北条政子の奉納と伝わる手箱。縦25.8センチメートル、横34.5センチメートル、高さ19.7センチメートルで、代表的な鎌倉時代の蒔絵工芸品である。合口造の箱で、蓋には甲盛りがあり、典型的な鎌倉期の手箱の器形を示す。蓋表と身側面には沃懸地(いかけじ)に梅樹、几帳、飛雁、水禽などを高蒔絵で表し、梅花には銀の平文(ひょうもん)を用いる。蓋表には図中にまぎれるように銀の平文で「榮・傳・錦・帳・雁・行」の6文字が散らされているが、これは白居易(白楽天)が友と昇進を遂げた慶びを綴った漢詩(『白氏文集』所収)の詩意を表したものであり、「榮傳錦帳花聯萼 彩動綾袍雁趁行」(栄は錦帳を伝え花は萼を聯(つら)ねたり、彩は綾袍を動かし雁は行を趁(お)う」という詩句に由来する。手箱内には以下の内容品(化粧道具)一式が納められており、これらも箱とともに国宝に指定されている。 白銅鏡 1面、蒔絵鏡箱 1合、蒔絵歯黒箱 2合、蒔絵白粉箱 1合、蒔絵薫物箱 2合、螺鈿櫛 18枚、螺鈿櫛残欠 4枚、平元結 2本、銀軸紅筆 1本、銀軸眉作 1本、銀鋏 1箇、銀鑷 1箇、銀笄 1本、銀髪飾 4枚(附:銀菊形鋺 1口、金銅扇形箱 1合、金銅菊文箱 1合、組紐残欠 1綴、袋残欠 1綴)白銅鏡 1面、蒔絵鏡箱 1合、蒔絵歯黒箱 2合、蒔絵白粉箱 1合、蒔絵薫物箱 2合、螺鈿櫛 18枚、螺鈿櫛残欠 4枚、平元結 2本、銀軸紅筆 1本、銀軸眉作 1本、銀鋏 1箇、銀鑷 1箇、銀笄 1本、銀髪飾 4枚(附:銀菊形鋺 1口、金銅扇形箱 1合、金銅菊文箱 1合、組紐残欠 1綴、袋残欠 1綴)この手箱は、鎌倉期に盛行する高蒔絵の技法を駆使したこの時代を代表する漆工芸品であり、内容品を存する手箱としては現存最古のものである。明治33年4月7日に当時の古社寺保存法に基づき国宝に指定、昭和27年11月22日に文化財保護法に基づき国宝に指定。現在は東京国立博物館に寄託中で、三嶋大社宝物館には3年半かけて再現された復元品が展示されている。 ===重要文化財(国指定)=== 本殿、幣殿及び拝殿(附 棟札1枚)(建造物) 江戸時代末期の造営。平成12年5月25日指定。江戸時代末期の造営。平成12年5月25日指定。太刀 銘宗忠(工芸品) 鎌倉時代初期、備前国福岡一文字派の宗忠による作刀。刃長81.8センチメートルで、平安時代末期の風潮を残す。本刀は、明治20年に旧宮内省から三嶋大社に寄進されたものである。 明治45年2月8日指定。鎌倉時代初期、備前国福岡一文字派の宗忠による作刀。刃長81.8センチメートルで、平安時代末期の風潮を残す。本刀は、明治20年に旧宮内省から三嶋大社に寄進されたものである。 明治45年2月8日指定。短刀 銘三嶋大明神他人不与之 貞治三年藤原友行(工芸品) 南北朝時代、貞治3年(1364年)の作刀。明治44年4月17日指定。昭和23年に盗難。南北朝時代、貞治3年(1364年)の作刀。明治44年4月17日指定。昭和23年に盗難。脇差 銘相模国住秋義伊豆三嶋大明神奉拝 佐藤松千代貞成(工芸品) 南北朝時代、相模国の刀工・秋義による作刀で、佐藤貞成による奉納。大正9年4月15日指定。南北朝時代、相模国の刀工・秋義による作刀で、佐藤貞成による奉納。大正9年4月15日指定。紙本墨書般若心経 源頼家筆(書跡) 鎌倉時代、建仁3年(1203年)8月10日に鎌倉幕府第2代将軍・源頼家が奉納したもの。頼家は将軍に就任したものの政争の中で病床につき、平癒祈願としてこの般若心経を筆写・奉納したとされる。現存では唯一の頼家自筆の書とされる。平成6年6月28日指定。鎌倉時代、建仁3年(1203年)8月10日に鎌倉幕府第2代将軍・源頼家が奉納したもの。頼家は将軍に就任したものの政争の中で病床につき、平癒祈願としてこの般若心経を筆写・奉納したとされる。現存では唯一の頼家自筆の書とされる。平成6年6月28日指定。三嶋大社矢田部家文書 592通(古文書) 三嶋大社とその宮司家の矢田部家に伝わる、平安時代から江戸時代にかけての古文書群。三嶋大社所蔵分155通、矢田部家所蔵分437通からなるが、一括で指定されている。中世では鎌倉時代の源頼朝・北条時政、南北朝時代の足利尊氏・足利直義といった主立つ武将の文書が見える。また近世では、三嶋大社境内や三島地域の変遷を伝える。平成6年6月28日指定。三嶋大社とその宮司家の矢田部家に伝わる、平安時代から江戸時代にかけての古文書群。三嶋大社所蔵分155通、矢田部家所蔵分437通からなるが、一括で指定されている。中世では鎌倉時代の源頼朝・北条時政、南北朝時代の足利尊氏・足利直義といった主立つ武将の文書が見える。また近世では、三嶋大社境内や三島地域の変遷を伝える。平成6年6月28日指定。 ===国の天然記念物=== 三島神社のキンモクセイ ‐ 昭和9年5月1日指定。 ===静岡県指定文化財=== 有形文化財 日本書紀並びに具書(典籍) 室町時代、応永35年(1428年、正長元年)の奉納で、『三島本日本書紀』と称される。『日本書紀』は全30巻から成るが、本書では巻1から巻3まで(神代上、神代下、神武天皇紀)と具書3巻(中臣祓解除・神口決、二十一社守護記)が保存される。流出部の一部は國學院大學図書館にある。良海・快尊・重尊・真尊(助筆)ら4人が応永35年(1428年)に大社に参籠して書写を行い、願主・施主の正本が奉納したと見られる。昭和24年4月13日に国の重要美術品に認定、昭和55年11月28日に静岡県指定有形文化財に指定。日本書紀並びに具書(典籍) 室町時代、応永35年(1428年、正長元年)の奉納で、『三島本日本書紀』と称される。『日本書紀』は全30巻から成るが、本書では巻1から巻3まで(神代上、神代下、神武天皇紀)と具書3巻(中臣祓解除・神口決、二十一社守護記)が保存される。流出部の一部は國學院大學図書館にある。良海・快尊・重尊・真尊(助筆)ら4人が応永35年(1428年)に大社に参籠して書写を行い、願主・施主の正本が奉納したと見られる。昭和24年4月13日に国の重要美術品に認定、昭和55年11月28日に静岡県指定有形文化財に指定。室町時代、応永35年(1428年、正長元年)の奉納で、『三島本日本書紀』と称される。『日本書紀』は全30巻から成るが、本書では巻1から巻3まで(神代上、神代下、神武天皇紀)と具書3巻(中臣祓解除・神口決、二十一社守護記)が保存される。流出部の一部は國學院大學図書館にある。良海・快尊・重尊・真尊(助筆)ら4人が応永35年(1428年)に大社に参籠して書写を行い、願主・施主の正本が奉納したと見られる。昭和24年4月13日に国の重要美術品に認定、昭和55年11月28日に静岡県指定有形文化財に指定。無形民俗文化財 三嶋大社のお田打 ‐ 昭和47年3月24日指定。三嶋大社のお田打 ‐ 昭和47年3月24日指定。 ===三島市指定文化財=== 有形文化財 舞殿・神門(建造物) ‐ 昭和41年2月7日指定。 三四呂人形(みよろにんぎょう) 2躯(工芸品) ‐ 昭和58年10月7日指定。舞殿・神門(建造物) ‐ 昭和41年2月7日指定。三四呂人形(みよろにんぎょう) 2躯(工芸品) ‐ 昭和58年10月7日指定。天然記念物 三嶋大社社叢 ‐ 平成3年3月4日指定。三嶋大社社叢 ‐ 平成3年3月4日指定。 ===その他=== 大太刀 江戸時代前期、寛文元年(1661年)の高力長吉の作刀、島原藩主・高力隆長(高長)の奉納。江戸時代前期、寛文元年(1661年)の高力長吉の作刀、島原藩主・高力隆長(高長)の奉納。後水尾院和歌懐紙 江戸時代前期、寛永14年(1637年)に後水尾院の宸筆で記された和歌。江戸時代前期、寛永14年(1637年)に後水尾院の宸筆で記された和歌。三十六歌仙縫取絵額 安土桃山時代から江戸時代初期の作と見られ、養珠院(お万の方;徳川家康側室)の奉納と伝える。安土桃山時代から江戸時代初期の作と見られ、養珠院(お万の方;徳川家康側室)の奉納と伝える。 ==関係事項== ===三嶋苗裔神=== 古代、伊豆国の祭祀には度重なる伊豆諸島の火山活動が深く関係した。その活動は7世紀半ばから8世紀初めにかけてと、9世紀にそれぞれピークを迎えたとされる。当時の火山活動は人々にとって重大な関心事で、その噴火は神の業と見なされていた。そのため、伊豆国では火山に関連した多数の神社が祀られるとともに、卜占の技術も発達した。 当時の祭祀の様子を示す史料として、平安時代の『延喜式』神名帳がある。同帳では伊豆国に全国9位相当の92座の式内社を載せるが、1郡あたりにした場合には式内社の多いことで知られる伊勢国・出雲国をも大きく上回る。伊豆国でも特に賀茂郡(伊豆半島南部と伊豆諸島)が重要視されたと見られ、賀茂郡には伊豆国の半数の46座が記載されるが、1郷あたりで見ると全国でも突出した密度になる(右表参照)。この46座のうち20数座は伊豆諸島の鎮座とされる。それらの神々の中でも筆頭に位置づけられたのが「伊豆三島神社」、現在の三嶋大社である。「三島」とは「御島」の謂とされるように、「三嶋神」とは伊豆諸島全体を象徴する神を意味するとされる。 三嶋神については『続日本後紀』において、本后として阿波神、阿波神の御子神として物忌奈乃命、その他に後后(伊古奈比*3636*命とされる)のあった旨の記載がある。神名帳記載の神々も、同記事のように三嶋神の苗裔に位置づけられたと考えられている。神名帳に見えない苗裔神の縁故関係を考証する史料としては、中世に記された「三宅記」が知られる。「三宅記」は伊豆地方の神々に関する縁起・本地物で、所載の神名には神名帳との一致も見られることから、苗裔神の類推に使用されている。神名帳や「三宅記」から三嶋苗裔神と考証される神々の一覧は次の通り(赤字は女神)。現在の比定社はそれぞれ「伊豆国の式内社一覧」「三宅記」を参照。 ===三島暦=== 三島暦(みしまこよみ)は、三嶋大社の暦師・河合家(大社の下社家とされる)から頒布された暦。起源不詳ながら古くから使用された暦で、伊豆地方を中心に東海・関東・甲信地方に広まった。初出は『空華日用工夫略集』応安7年(1374年)3月4日条、最古の暦は永享9年(1437年)の版暦。 ==現地情報== 所在地 静岡県三島市大宮町二丁目1番5号参拝時間 参拝は夜間も自由。ただし、境内駐車場の利用や社務所・売店等の営業時間は、通常朝8時30分頃から夕方5時頃まで。付属施設 宝物館 開館時間:午前9時 ‐ 午後4時30分(入館受付は午後4時まで) 拝観料:一般500円/大学生・高校生400円/小中学生300円開館時間:午前9時 ‐ 午後4時30分(入館受付は午後4時まで)拝観料:一般500円/大学生・高校生400円/小中学生300円交通アクセス 鉄道 伊豆箱根鉄道駿豆線 三島田町駅 (徒歩5分) JR東海東海道本線・東海道新幹線または伊豆箱根鉄道駿豆線 三島駅 (徒歩10分)伊豆箱根鉄道駿豆線 三島田町駅 (徒歩5分)JR東海東海道本線・東海道新幹線または伊豆箱根鉄道駿豆線 三島駅 (徒歩10分)バス 沼津登山東海バスで「大社前」バス停下車 (徒歩すぐ)沼津登山東海バスで「大社前」バス停下車 (徒歩すぐ)車 静岡県道22号三島富士線沿いに三嶋大社駐車場(有料) 大晦日から正月三が日、および三島夏祭り期間中(毎年8月15日 ‐ 8月17日)は、境内駐車場は閉鎖(観光バスのみ利用可)。静岡県道22号三島富士線沿いに三嶋大社駐車場(有料) 大晦日から正月三が日、および三島夏祭り期間中(毎年8月15日 ‐ 8月17日)は、境内駐車場は閉鎖(観光バスのみ利用可)。大晦日から正月三が日、および三島夏祭り期間中(毎年8月15日 ‐ 8月17日)は、境内駐車場は閉鎖(観光バスのみ利用可)。レンタサイクル かわせみ号 ‐ 三島駅南口観光案内所・三嶋大社駐車場・広小路駐輪場の3ヶ所で乗り捨て可能。かわせみ号 ‐ 三島駅南口観光案内所・三嶋大社駐車場・広小路駐輪場の3ヶ所で乗り捨て可能。周辺 伊豆国分寺 ‐ 境内には国分寺創建当時の塔跡が残る。 =佐藤在寛= 佐藤 在寛(さとう ざいかん、1876年〈明治9年〉8月17日 ‐ 1956年〈昭和31年〉10月9日)は、日本のろう教育者、社会教育者。北海道函館聾学校(北海道函館市)の前身である函館盲唖院の第3代院長。特殊教育の功労者、函館市教育界の元老として函館市民の尊敬を一身に集め、全道盲聾唖教育の父、北海道のペスタロッチとも呼ばれた。「在寛」の名は号で、本名は佐藤 政次郎(さとう まさじろう)。徳島県名西郡高川原村(後の石井町)出身。 ==人物歴== ===徳島での生活=== 徳島の酒造家に長男として誕生。名家の生まれのために経済的に恵まれた幼年期を過し、名西郡で唯一の高等小学校である名西高等小学校で漢籍などの学問を楽しんだ。しかし11歳のとき、一家の大黒柱であった祖父が死去。父も15歳のときに失踪し、家計が一気に苦しくなった。佐藤は祖父の「生涯学ぶ心を忘れるな」との遺言を守って勉学を望んだものの、家計を考慮して上級学校への進学を断念。官費で学べる徳島県尋常師範学校へ入学し、教員への道を目指した。 しかし当時の師範学校は、佐藤の予想と相反して、幕末の志士を気取った武士あがりの生徒が多かった。また教育も、国に貢献する教師を作ることが方針であり、「人と人との心の触れ合いを大切にし、そこから子供たちは多くを学ぶ」という祖父の教えを大切にしていた佐藤は、不満を募らせていた。後に佐藤はこの学校を「人間の向上心を圧抑して無理に小さな鋳型に入れんとした」、教師陣を「少しも親切心もなければ先輩らしきところもなく、地獄の赤鬼青鬼のやうな人ばかり」と厳しく批判している。 師範学校に不満を抱いた佐藤ではあったが、同校の友人たちによる佐藤の評判は良かった。非常にひょうきんで、巧みな風刺で人を笑わせることを得意とし、友情にも厚く、人を中傷するような陰険さは決してなかったという。 1897年(明治30年)に師範学校を卒業し、訓導として小学校の教壇に立った。しかし在職1年半で徳島を発ち、1899年(明治32年)にわずかな金を元手に上京した。これについて佐藤は後に「余は曾て小学校教師となったが町村長の干渉や郡視学の指図に不平を起してやめた」と語っているが、当時は実家が家屋と田畑一切を手放して借家住まいになるほど家計が切迫していたことから、乏しい給料で一家を養うことになった佐藤が、このままでは先行きのめどが立たないと考え、教育者としてより力をつけるべく上京を決意したと見る向きもある。 ===東京での生活=== 上京した佐藤は同1899年、東洋大学の前身である哲学館に入学した。日中の学業に加え、自身の生活費と学費、家族への仕送りのため、夜間は玄関番の仕事や、出版書肆・育成会での雑誌編集のアルバイトなどをこなし、睡眠時間を2、3時間に切り詰める日々を送った。極貧生活の苦学にも屈せず、東洋哲学、西洋哲学、宗教など勉学に励んだ。また雑誌編集の仕事では『倫理学書解説』、『心理学書解説』、『教育学書解説』各12篇の編集、『日本倫理彙編』10巻の編集に手伝いとして参加した。 1902年(明治35年)に哲学館を卒業後、雑誌編集の経験をいかし、教育雑誌『実験教授指針』(1906年に『実験教育指針』と改題)を発行した。東京帝国大学文科大学の当時の学長である井上哲次郎ら150名が賛助員として名を連ね、その内容は教授要綱、教授上の注意、現場の体験談、児童心理学、小児医学など多岐にわたった。特に「教育とは社会的事業であるべきにもかかわらず、今日の教育は個性や自由な発想を認めず、子供たちを器械のように教育するものであり、改正すべき」という佐藤の理論は、多くの支持を集めた。また、ろう教育にまだ関っていない当時、この雑誌の中ですでに障害者や聾唖児についての記事を頻繁に掲載していた。『実験教授指針』は第1号から3版4版の増刷という盛況で、最盛期には2万部の発行部数を誇った。 ===新井奥邃との出逢い=== 佐藤は哲学館で東洋・西洋哲学を学ぶ内に、当時の哲学青年と同様の悩み苦しみに陥っていた。その苦難から脱しようと、当時の教育雑誌の主筆で編集仲間でもあった渡辺英一(後の日本女子大学校教授)と共に学者や宗教家を訪ね歩いた末、1903年(明治36年)に、キリスト教徒で教育者でもある新井奥邃と出逢った。キリスト教の博愛の教えを教育にいかす彼の志に感銘を受けた佐藤は、新井の門下に入り、彼を終生の師と仰いで教育者としての心構えを学んだ。新井を通じ、佐藤自身もキリスト教徒となった。 新井の門下において、佐藤は渡辺と共に二哲と称され、新井の原稿など重要な仕事も任されたことで、仲間からは書記官長とも呼ばれた。以来、佐藤は新井が死去する年まで、家族ぐるみで教えを受け続け、強い人格的感化を受けた。 佐藤がいかに新井に心酔していたかは、新井の死去後「葬儀後、会葬者たちの帰宅後も、佐藤は1人で墓に残り、ついには子供のように泣き出した」「その後も新井から貰った衣服を自宅床の間に置き、香を炊いて合掌を捧げることを常としていた」「77歳のとき、老いた上に病床の身でありながら上京し、新井の墓を墓参した」とのエピソードにも表れている。 ===女学校の開校=== 『実験教授指針』で活躍する佐藤に、ある資産家が目をかけ、佐藤の理想とする学校の設立資金の提供を持ちかけた。まだ女子教育への関心の薄かった1904年(明治37年)、佐藤は友人らと共に、上野に小規模ながら5年制女学校・私立上野女学校(別名は鶯渓女学校、後の上野高等女学校→上野学園大学)を設立。翌1905年(明治38年)に開校し、下町の約50名の子女を相手に教育にあたった。 上野女学校では、佐藤は当時の賢妻良母主義に反対し、女性の自由と自立を尊重した。生徒と共に校内新聞を発行、さらに観察科という科目を設け、地域の文化財、動物園、図書館、美術館見学などの課外授業で完成を高めるという、ユニークな取り組みもあった。この頃、私生活では妻を迎え、子供にも恵まれ、公私ともに充実の日々を送っていた。 しかし、この学校の増築にあたり、融資をしていた銀行が「女子は夫に仕えるための花嫁修業だけすれば良く、自由で革新的な校風は不要」と教育内容に干渉してきた。1人1人の個性を大切にしたいとする佐藤は断固として反対したものの、銀行側の意向は変わらなかった。これが原因となり、創立から10年後の1915年(大正4年)、佐藤は志を同じくする多くの教師たちと共に、惜しまれつつ学校を去った。 なお人気を誇った教育雑誌『実験教授指針』も、後には部数が700から800部に減少し、1910年(明治43年)に廃刊した。この雑誌衰退の理由は、佐藤が次第に学校経営に集中するようになり、雑誌への力を欠いたといわれるが、社会主義支持者の社説や『平民新聞』を支持する論文を掲載するなど、反権力の姿勢も垣間見えていたことから、当局の弾圧を受けたとの説もある。 ===北海道での生活=== 教師として理想を掲げても、古来からの日本の慣習に阻まれると考えた佐藤は、新天地を求め、恩師の新井のゆかりの地である北海道の函館へわたることを決意した。それにあたって佐藤は新井のもとを訪ね、女子教育に身を捧げた「佐藤政次郎」は退職とともに消えたとし、新たな名前を求めた。そんな佐藤に新井は「どのような職務でも決して怠ることなく、功を急がず、寛裕をもって臨み、静かに事の成るのを待つ『寛に在れ』」との意味で「在寛(ざいかん)」の号を与え、以来佐藤は終生、「佐藤在寛」を名乗った。 1916年(大正5年)、佐藤は妻子と共に北海道へわたった。函館で佐藤は生活のため、函館商船学校(後の北海道函館水産高等学校)の教員となるが、校内で流行していた鉄拳制裁に反抗したことで衝突を起こし、退職。続いて函館商業学校(後の北海道函館商業高等学校)の嘱託教員として1935年(昭和10年)まで教壇に立ち、国語や漢文を教えた。また校務のみならず、生徒を自宅に呼ぶなどして親身にかかわっていた。 一方では紀元節に催された函館の教員たちによる講演会で、佐藤の講演が好評を得たことが契機となり、佐藤は1917年(大正6年)に函館毎日新聞に入社し、記者として「彦左衛門」または「彦左」のペンネームを名乗って教育時評を執筆した。東京での『実験教授指針』で手腕を振るった佐藤の教育論文は、函館でも高い評価を得、函館の教育界における一服の清涼剤ともいえる存在であった。 当時、新聞の教育時評は社会教育における唯一の読本であったため、佐藤の記事は教育の現状を知る上で大きな指標となり、佐藤の名は徐々に広まって行った。教育以外にも、1920年代の「癩病撲滅運動」に際しては、同紙と函館新聞の両紙で「帝国の面目にかかわる大問題」と訴え、函館市民に寄附を呼びかけた。 ===ろう教育の道へ=== そんな折、佐藤は後の函館市長である函館教育会長・齋藤與一郎から、函館盲唖院の再建を依頼された。特殊教育がまだ義務化されていない当時、同院の運営は地元有志たちの寄付で賄われていたために経営難に陥り、大正時代後期には廃校寸前に陥っていたのである。加えて火災の多い函館の地で、校舎は2度の函館大火と暴風、および老朽化に晒され、生徒たちも後に佐藤が「三十人計りの盲唖児がションボリと寂しく集まって居る」と語っているような状況であった。初代院長の篠崎清次は36歳で死去、その跡を継いだ伊東松太郎も病気療養を強いられていた。そうした窮状の中、齋藤が院の再建を函館図書館長の岡田健蔵に相談し、岡田が適任者として、函館毎日新聞で教育論を論じていた佐藤を優れた教育者として推薦したのだった。生徒たちからは一切授業料をとらない方針のため無給という悪条件であったが、1922年(大正11年)、佐藤はこの院長に就任した。 折しも1922年は、佐藤は妻と娘2人と死別し、17歳から1歳まで計7人の子供を抱えた身となり、院長就任後には恩師の新井奥邃も死去し、人生最大の試練といっていい時期であった。逆境の身にもかかわらず、この話を快諾したのは、教育に金銭的価値があってはいけない、無報酬の教育こそ自分の望んだ校風だとの考えであった。その意気込みを新たにするべく、立待岬の谷地頭共同墓地に「己を捨てて社会に尽くすことは人の行うべき道であり、私利私欲の感情を持ってはいけない」との意味で「大義滅私親(たいぎししんをめっす)」と刻んだ石碑を建立した。翌1923年(大正12年)には一家を離散し、年少の子供5人を親戚や知人に預け、年長の子供2人とともに盲唖院の寄宿舎に移り住んで仕事にあたった。 函館盲唖院の院長に就任した佐藤は、老朽化の激しい築30年の校舎の改築にとりかかった。函館新聞の紙上でその現状を訴えて寄付金を募り、後援会員の数を4倍にまで拡大した。さらに北海道内の小・中学校へ80万の慈善袋を送り、生徒たちと共に市内の家々を戸別訪問したりと、募金活動に取り組んだ。愛国婦人会のバザーや慈善音楽会などの活動も行われた。雄弁家でもあった佐藤の訴えは、救済教育の必要性について多くの市民に感銘を与えた。この活動の最中、前述のとおり同院院長としては無給であり、生活費は商業学校の嘱託教員としての給料で賄われていた。1925年(大正14年)には虫垂炎の病苦もあった。この厳しい状況の中、佐藤の子供たち7人のうち5人が盲唖院の教員となり、父を公私共に支えた。やがて寄付金は平成期でいうところの7千万円にまで達し、同1925年、ついに新校舎が完成した。その後も佐藤の手腕により、安定した経営を保つことができた。 3年後の1928年(昭和3年)には、日本聾唖教育総会が盲唖院で開催された。この会が私立盲唖院で開催されるのは初めてのことであり、市や地元の協力を仰ぎながら盲唖院の再建を成し遂げた佐藤の手腕は、社会事業家として日本全国的に見ても高く評価され、函館盲唖院は東京以北での有数の盲唖院となった。 1924年(大正13年)には日本聾唖協会の評議員に任命され、1935年(昭和10年)まで勤め上げた。財政緊縮の影響により盲唖教育補助費が大幅な減額を強いられた際には、他の委員たちと協力し、補助費の回復という結果をもたらした。また、日本聾唖協会の北海道支部の結成にも力を尽くした。 また勉強以外の教育理念として、校内には用務員を置かず、教師たちが率先して清掃活動にあたることで、子供たちも一緒に校内外の清掃活動に参加するようになった。老人ホームの訪問で奉仕の心を養ったり、地元の商店や工場に協力を求めることで、子供たちに和裁、洋裁、洗濯、靴製造などを教授するといった活動も展開した。 ===口話法との対立=== この当時、日本のろう教育は大きな転機を迎えていた。それまでの手話法に代る新たな教育法として口話法(言葉を声に出して発音する方法)が普及し始め、手話を一切認めないという運動にまで発展していた。1936年(昭和11年)発行の雑誌『聾唖教育』には、梓渓生なる人物の著で「手話は聾唖者同士の会話手段であり、健常者と会話することができない。かといって、健常者が手話を学習し、多数者が少数者の犠牲になる必要はない。手話は口話最大の敵である」「多数の教育のために少数の犠牲はやむを得ない」と論じられ、全国の聾唖学校が手話学級を廃止し、手話を使う子供は全体の1割以下にまで減っていた。しかし、それまで手話を使っていた子供たちにとって口話は大変な苦痛であり、補聴器も無い当時、聾唖者にとって正しい発音の困難さは想像を絶するものがあった。 これに対して佐藤は、『聾唖教育』の翌々号で、『理想と実際』と題した9000字以上の長文に及ぶ教育論文を発表し、口話法に真っ向から対立した。論文内で佐藤は「口話教育で効果を上げる生徒は全体の2、3割に過ぎず、聾唖者にとって手話は必要不可欠なものである」「口話を中心とした聾唖教育では国語科が中心であり、単純会話にほとんどの労力が費やされるため、道徳、地理、歴史、理科、算術などを学ぶ暇がなくなるが、手話を用いれば簡単に良い教育が可能となる」という持論を展開した。そして以下のように結び、少数者を多数者の犠牲にすることへの疑問と、愛情を込めた教育でハンディをもつ児童へ勇気と自信を与えるべきとの主張を訴えた。 (前略)少数者をして多数者の犠牲者たらしむることも亦人道の趣旨にかなはぬと思ふ。之れ功利的言説であり、覇者の道であり、動(やや)もすれば強者の横暴とならざるを得ないのである。(中略)教育は愛の精神を根基に置くべきであり、而して愛の精神は如何なる微細の者に対しても犠牲を強ふるものではない。(中略)然るにひとり聾唖者に対しては、正常者の立場に立ち、己と同様になれと強ふる口話主義教育は其の根元義に於て大々疑問をはさまざるを得ないのである。 ― 佐藤 1936, pp. 15‐16より引用 この実践として、函館盲唖院では手話と口話を、それぞれ生徒の特性に合わせる教育が実施された。その結果、ほかの学校では3年生になってから1年生の学習内容が理解されるところを、盲唖院では普通校と同じ学年対応で授業を行うことができた。また勉強以外にも、盲唖院の学芸会では、能力に合せたプログラムを組んで手話と口話を使い分けることで、子供たちは人前で生き生きと音楽や劇を披露することができた。口話能力で生徒の能力を評価しない盲唖院の教育は、地域の人々にも好意的に受け止められて感銘を与え、『函館新聞』でも生徒たちが学芸会で喝采を浴びたことが報じられた。 生徒1人1人が豊かな人生を歩むことのできる教育こそ、佐藤の目的であり、佐藤はろう学校のことを「単なる勉強の場ではなく、家庭であり、街」「親兄弟とも会話のできない子供たちにとって、人の輪ができ、会話が弾む、人生を表現する愛情のつまった家」と表現した。この主張には保護者、地域住民、教育界までもが感化を受け、盲唖院の教育に地域が一丸となって協力するまでになった。 同様に口話法に強く反対した教育者に大阪市立聾唖学校(後の大阪府立中央聴覚支援学校)校長の高橋潔がおり、佐藤は高橋と深い交流を持った。前述の日本聾唖教育総会開催以来、函館盲唖院の沿革には大阪市立聾唖学校との交流を示す記事が登場しており、また大阪市立聾唖学校の学校史にも、函館大火に遭った盲唖院に見舞金を贈ったことなどが記されている。また高橋の長女は、父がいつも手話について佐藤と話し合っていたと語っており、佐藤と高橋は強い絆で結びついていたと見られている。前述の佐藤の論文も、大阪市立聾唖学校では会報に転載され、広く読まれることになった。 ただし佐藤自身が聾唖児を教えたことや、手話擁護派にもかかわらず佐藤自身が手話を直接用いて聾唖児の教育にあたったことは確認されていない。佐藤の次女も、父が手話をあまり使わなかったと証言している。函館盲唖院は無給のために、生活費を得るための函館商業学校での仕事が週4日を占めており、ほかにも講演や新聞社での仕事の依頼もあったため、これが盲唖院での直接的指導を困難にさせた一因と見られている。 戦後の1947年(昭和22年)より、敗戦による経済界の混乱、物資不足、物価高騰にともない佐藤は次第に健康を害した。同年、函館盲唖院も経営難から市立に移管されて函館市立盲唖学校となり、翌1948年(昭和23年)には道立に移管、さらに盲学校と聾学校に分かれ、北海道立函館盲学校、北海道立函館聾学校として発足した。佐藤は病気の身ながら、両校の校長として発令された。その後も頑として手話法を擁護し続け、純口話法を認めることはなかった。 ===地域の精神文化向上=== ろう教育の一方で、佐藤は社会教育者として、いくつもの研修団体を主宰し、地域の青少年教育にも力を入れた。1925年末頃より、佐藤のもとに出入りしていた青年男女が集まり、盲唖院を会場として、毎週土曜に古典や聖書などを学習する「土曜会」が開催された。1927年(昭和2年)には毎月第2木曜に青年教師が集う「木曜会」、1928年には毎年夏に1週間行われる「夏季論語会」が発足し、1932年(昭和7年)にはこれらの参加者たちの要望に応えて「尚友会」が発足した。 また、「希望社学徒連盟」や、その後身「緑生会」の学生たちも佐藤を慕い、佐藤は彼らの相談や指導にもあたった。佐藤のもとに集った者たちの中で、思想的な影響を受けた者は数百名に上った。佐藤のもとで働くことを望み、盲唖院の教員となった者も多い。ただし、佐藤に憧れて盲唖院に就職したものの、聾唖児との意思疎通の困難さや盲唖院の窮乏から、短期間で盲唖院を退職した者も少なくなかった。 やがて日中戦争が勃発し、戦争が激化すると、佐藤は青年たちを集めて人生講座を開き、「戦争では何も解決しません。戦争のない社会にしなければなりません」と説き、皆からは慈父のように慕われた。講演においても北海道内の人々に親しまれ、晩年の病床にあっても、死の直前まで後進の指導を続けていた。 ===晩年=== 1949年(昭和24年)4月、訓盲院初代院長・篠崎清次の息子である篠崎平和が函館聾学校の校長に就き、盲・聾の両校の校長であった佐藤は、盲学校の専任となった。翌1950年(昭和25年)、盲学校校長を退職し、その後も教諭として後進の指導にあたった。同年に住みなれた校内の寄宿舎を出、函館市湯川町に移り住んだ。 1951年(昭和26年)から翌1952年(昭和27年)にかけては、北海道新聞でコラムを連載した。実質より形式を重んじる当時の宗教、教育界を皮肉たっぷりに批判した文章や、古今東西の知識を織り交ぜた教育・人生論など、鋭い感覚とユーモアに満ちた多彩な内容であり、函館の郷土史家である神山茂との教育論争、実名入りの函館人物評、椴法華村の旅行記など、地元に関する興味深い記述も多かった。 同1951年に函館市文化賞(人文科学部門)を受賞。1953年(昭和28年)に北海道文化賞(教育部門)、1955年(昭和30年)に北海道新聞文化賞(社会文化部門)を受賞した。 1956年(昭和31年)、「ただ御心のまま」の一言だけを遺し、胆石症により死去。没年齢80歳。その遺骨は前述した立待岬の「大義私親を滅す」の石碑の下に埋葬された。晩年に親交のあった歌人の宮崎郁雨は「小説の『坊ちゃん』のモデル漱石にあらずば蓋し若き在寛」「百人の弟子に歎かれ千人の友に惜しまれ天に召されし」など40首の短歌を詠み、佐藤の死を惜しんだ。1960年(昭和35年)、門弟や関係者らの寄付により墓碑が建立され、墓碑名は齋藤與一郎が手掛けた。 なお死去に前後して、市立函館図書館(現在の函館市中央図書館)は教育雑誌『実験教授指針』を含む著作と師・新井奥邃に関する旧蔵資料の寄贈を受け、これらを「在寛文庫」の名で郷土資料に加えている。 ==評価== 函館市文化賞の受賞について、齋藤與一郎は「今さらいうまでもないその人柄」と題し、佐藤を以下のように高く評価している。 先生は非常な経営困難とたたかいながら三十年間函館の盲唖教育に従事し、学校を今日あらしめた功労者ですが、学校が私立から市営、道営となるまでその苦心はたいへんなものでした。しかも自分の教育信条をいささかも曲げず何ものにもこびることなくその所信を貫いたことは現在の函館盲・ろう学校の校風に一だんの光彩をそえたのです。 ― 佐藤在寛先生顕彰会 1995, p. 23より引用 北海道国際交流センターの代表理事である大総一郎は、佐藤を以下のように高く評価している。 佐藤在寛(政次郎)先生は、函館の盲・聾両校にとっての大功労者であるばかりでなく、函館市における偉大な教育者、思想家であり、秀逸した指導者でもありました。(中略)市民意識の啓発、教育に多大の影響を与えていた。先生の薫陶を受けて、今もなお教育界、経済界で大きく活躍し、函館市のために貢献している人が多くおられるということは、在寛先生の偉大さを証するものといえよう。 ― 佐藤在寛先生顕彰会 1995, p. 1より引用 東京滞在時に出版した教育雑誌『実験教授指針』について、教育史家の石戸谷哲夫は自著で「教育界の開眼先駆者たち」と題し、「平民社に呼応して、教員の社会的開眼に働いたのは、官学の教育学者たちではなく、『実験教授指針』主筆任天佐藤政次郎と、『教育実験界』主筆隈川渡辺英一とであった」と述べている(『任天』は当時の佐藤の号)。 上野女学校の退職にあたっては、卒業生たちが総会を開き、同窓会は母校との絶縁を宣言した。また、多くの教え子たちが佐藤の退職に抗議し、温旧会を発足させ、佐藤を師と仰ぎ、その後も長きにわたって佐藤の教えを受け続けていた。佐藤の晩年には彼女らの子供が函館盲唖院に寄宿し、佐藤と生活を共にしたケースもある。これらのことから佐藤の影響力、教え子たちに慕われる佐藤の人間性の魅力を評価する声もある。 佐藤のもとで主宰された研修団体について、函館盲唖院の生徒であった日本点字図書館創立者の本間一夫は「町の真面目な青年たちが先生を慕って集まり(中略)私も函館の七年間特別に、薫陶を受け、大きな影響を受けた忘れられない大恩人です」と語っている。実際の参加者の内、茨城大学・明治大学の教授である桐田尚作は、木曜会のことを「行ってみたらとてもやさしいので安心した。(中略)その後むしゃくしゃしたときに、先生のお宅でお会いするとスーッと気持がさわやかになるので、知らず知らず足が向くようになりました」、函館文化会会長である棟方忠は土曜会を「先生は滅多に結論めいたことは言われなかったが、聖書や論語などを引用し、或いは巧みな比喩で、その行くべき道を示唆してくれた。しまいには先生の傍にいるだけで、胸のもやもやが拭い去られるような感じさえした」と語っている。 重複障害者として知られるアメリカの教育家のヘレン・ケラーは、1937年(昭和12年)に来日して函館盲唖院を訪問した際、佐藤を「単なる教育家でなく、人生におけるノーマルな幸をつくる人格者」と称えた。なお戦後の1948年(昭和23年)、ケラーは2度目の来日において佐藤に面会を求めたが、佐藤は戦争の責任の痛感から会見せずに終わった。 佐藤の手話擁護については、口話を推進していた戦前にあっては後進的なものとして捉えられていたらしく、評価は低かった。『聾唖教育』において佐藤が執筆した論文も、口話主義者たちからは黙殺に近い扱いを受けていた。函館聾学校も、佐藤が校長を退いた翌日からは口話教育が実施されている。しかし戦後、佐藤の教え子で盲唖院教員となった鈴木忠光の二男・鈴木重忠(金沢大学医学博士)は、「金沢方式」と呼ばれる聴覚障害児への言語指導を実践し、手話を効果的に用いている。このほかに東京、奈良、三重などのろう学校でも幼稚部から手話が導入され、効果を上げている。このことから、佐藤らの手話擁護の主張は平成期において確実に広がり始めていると見る向きもある。 =岡田健蔵= 岡田 健蔵(おかだ けんぞう、1883年〈明治16年〉8月15日 ‐ 1944年〈昭和19年〉12月21日)は、日本の社会事業家、郷土史家。北海道函館市の函館市中央図書館の初代館長(当時の名称は函館市立図書館)であり、同図書館の前身である函館毎日新聞緑叢会付属図書室、および私立函館図書館の設立者の1人。北日本屈指の図書館人ともいわれる人物であり、私財を投じて函館の郷土資料の収集に努めた。また、函館の火災の多さを考慮して耐火構造の図書館を提唱し、貴重な資料の多くを火災から守り抜いた。函館区*7077*澗町(たなごまちょう、後の函館市入舟町)出身。 ==経歴== ===図書館人となるまで=== 函館区*7078*澗町で大工の長男として誕生。1893年(明治26年)に父が死去し、母に育てられた。弥生尋常高等小学校を中退後、15歳のときに雑貨商の見習い奉公に出され、商売の基礎を学んだ。奉公先は、曲がった古釘を叩き直して再利用するほどの倹約家であり、後の岡田に大きな影響を与えた。 1903年(明治36年)に独立し、以前から興味のあった西洋式ろうそく製造業に乗り出し、自宅で「太陽石蝋発売元」を開業した。当時の日本ではろうそくの原料を海外輸入に頼っていたことから、これを日本国内の原料で賄うことを発案して資料を捜した。しかし見つかった資料がわずか1冊であり、その1冊によるろうそく製造も失敗に終わったことから、各種文献収集の重要性を認識し、図書館設立を決意した。 当時の函館には、図書館と呼べるべきものは存在しなかった。かつては1880年(明治13年)に開拓使ら読書愛好者たちにより「共覧会」(後に思斎会と改称)が結成され、函館公立図書館の設立が計画されていた。開拓使の廃止により同会の活動が困難になった後、その活動は函館区有の書籍館である区立函館書籍館へ引き継がれ、1888年(明治21年)に一般公開された。しかし利用者の少なさや経費の問題で1893年(明治26年)に廃止され、「函館区共有文庫」と改称されて単なる書庫としての存在となり、実質的に図書館としての機能を休止するに至っていた。 ===初の図書室の設立=== 1906年(明治39年)、函館区内では函館毎日新聞の投稿者たちにより、知識と教養の向上のための団体として「函館毎日新聞緑叢会」が結成された。これを知った岡田は早速入会し、図書館の必要性を説いた。この岡田の提案は結成同年の大会で満場一致で可決され、同会は図書館設立に向けて動き出し、岡田は設立委員に任命された。折しも1897年(明治30年)の帝国図書館開設を皮切りに、京都府立図書館、大阪府立図書館が開設するなど、日本全国で図書館の開館ブームが巻き起こっている時代であった。 翌1907年(明治40年)、岡田の自宅兼店舗を「函館毎日新聞緑叢会付属図書室」とし、岡田や会員たちの蔵書、各出版元から新刊紹介のために函館毎日新聞社に寄贈された図書の無料公開が開始された。これは図書館よりむしろ貸本屋に近いもので、店舗内でろうそくを作っている岡田の周りに書棚が並んでおり、来客の都度、岡田が本業の手を休めて図書の貸出を行なうという、小規模のものであった。 岡田たちの期待とは裏腹に、当初の利用者は1か月に22人から23人程度であったが、3か月も経つと、次第に函館区民にこの図書室の存在が浸透した。しかし同時期に函館を大火災が襲い、岡田の店舗は焼失。図書室の蔵書類も大半が失われ、閉鎖を余儀なくされた。岡田は一度は落胆したものの、このことが、火災の多い函館で大火災に耐え得る図書館の建造を目指すきっかけとなった。 なお先述した函館区共有文庫も、函館教育協会内において再び書籍館経営が検討されていたものの、この年の大火で焼失に至っている。 ===私立図書館の開館=== 緑叢会は図書館再建に向けて動き出した。岡田は緑叢会から図書館の知識を得るための視察を委ねられ、北海道外を巡る旅行に出た。この旅行で岡田は1か月以上にわたって、東北地方や東京府(後の東京都)を視察した。特に、耐火構造の帝国図書館(後の国立国会図書館)に圧倒された。早稲田大学図書館の館員らは北海道から東京を訪れた岡田の熱心さに感心し、彼を日本図書館協会に推薦し、岡田は道内会員1号となった。 帰郷後の岡田は早速、図書館創立委員会を結成した。この報せを知った人々からは、入会の問合せ、図書寄贈の希望など、毎日のように反響があった。大火で焼失した岡田の店舗は1908年(明治41年)に再建されていたが、図書館創立委員会のあまりの多忙さに岡田は家業を妹に譲り、自身は地元の名士たちの会員への勧誘、役所への連絡などに奔走した。図書館の建物として、函館区公共の建物である協同館を借り受け、函館毎日新聞社の社内にあった図書館創立事務所がそちらへ移設されると、岡田は協同館の事務所に寝泊まりして仕事に明け暮れた。この建物は30年近く無人であったために損傷が激しく、岡田は大工たちを指揮しつつ、自ら金槌を振るい、手に血豆を作りながら修理を行なった。 岡田の熱心さに、豪商の小熊幸一郎、銀行家の初代相馬哲平といった函館の有力者たちも岡田に賛同した。また図書の寄贈者の1人に、歌人の宮崎郁雨がおり、後に岡田と長年にわたる親友となった。 1909年(明治42年)、私立函館図書館が函館公園内に開館した。初日は51人、5日目には123人、6日目には178人が来館。開館後の最初の日曜日には、「あらゆる人に利用を」との岡田の理念のもとに児童室も開設され、絵本などで子供たちを喜ばせた。この日は、もの珍しさもあって、朝8時から子供たちが押し寄せていた。午前10時には子供たちの数が100人を超えたため、一時的に閲覧室を閉鎖するほどの盛況ぶりであり、来館者397人のうち半数以上の218人が子供であった。後の平成期の函館の年配者には、この児童室が図書館利用の嚆矢だったという人物も多い。その後も利用者は増加の一途を辿り、初年度の来館者は2万8千人を超えた。 図書館の運営資金は図書閲覧料と維持会員の納付金によるもので、納付金は月々50銭であった。貸本屋の単行本の借り賃が6銭、米1升が17銭の時代であり、維持会員になる者は文化的なことに興味を持つ、ごく限られた人員だったと見られている。 図書館の経営者は函館毎日新聞関係者や市内各界の有志たちであり、岡田は図書館主事兼事務主管として実務に専念した。事務主管は1年間のみ兼任の約束であったが、後任者不在のために1年後も事務主管を続けた。妹に任せた家業を顧みなかった上、図書館経営の資金に私財を投じていたため、家業は次第に経営が困難となり、1912年(明治45年)に廃業を余儀なくされた。 1910年(明治43年)、日本図書館協会の一員として、兼ねてから希望していた全国図書館大会に初めて参加。その後、1949年(昭和24年)の第33回の同大会まで毎年のように参加し、その回数は15回におよんだ。またこの頃、当時の函館区医、後に函館市長となる齋藤與一郎との出逢いがあった。 ===鉄筋製書庫の完成=== 1913年(大正2年)に再び帝国図書館を視察した岡田は、案内役の司書から「もしこれから図書館を新築するのであれば耐火構造にするべきで、蔵書を火災から守ることを第一義と心がける」ように強く言われた。岡田自身も、初の図書室を火災で失った過去の教訓から、図書館の現状に満足せず、火災に耐えうる耐火構造の図書館を目指していた。火災の心配のあまり、強風の日に図書館に泊まり込むことも多かったといわれる。 そんな岡田に助力したのが前述の相馬哲平である。大正初期のある日に街中で岡田と出逢った相馬は、耐火構造の図書館を目指す彼の想いを知り、その場で手持ちの千円を岡田に託し、さらに皇太子嘉仁(後の大正天皇)に拝謁した記念に建築費用3千円の寄付を約束した。その後も物価の高騰につれて建築費が当初の約3倍にまで膨れ上がったため、岡田はさらに相馬に寄付を懇願し、最終的に相馬の寄付金は9千円にまでなった。 相馬からの多額の寄付により、1916年(大正5年)、鉄筋コンクリート構造の5階建ての書庫が完成した。これは北海道最初の鉄筋コンクリ‐ト構造の建築物である。当時の公共建築物は木構造が主流であり、災害や劣化といった木構造の欠点を解決した建築物として、この書庫は北海道中の注目を集めた。 ===私生活での苦難=== 図書館主事としての岡田の収入は、図書館会員費から捻出のみの、わずか10円のみであった。すでに家業を廃業していたこともあり、岡田家の生活は貧困を極めた。1912年に7歳下の渡辺イネと結婚したが、そのときには蔵書収集の資金繰りのために不動産をすでに処分していたため、図書館の宿直室に夫妻で住み込み、母や姉妹は安価な住居に住まわせていた。 その後は6人の子供に恵まれたものの、家族が多人数となったことや、岡田が膨大な数の蔵書収集に没頭していたこと(後述)、加えて1914年(大正3年)に勃発した第一次世界大戦に伴う物価の騰貴や米騒動も、貧困に追い打ちをかけた。後の岡田の履歴書には、1918年9月の項に「創立以来報酬月額十円を贈られるに止り多年の収書に全資産を失う」とある。日々の食事も主食は外米の粥、副食は魚の粗ばかりであった。図書館の館員を雇うほどの経済的な余裕もなかったため、図書館経営には妻や妹たち家族総出、親戚まで駆り出した。この貧困と多忙の中で、1917年(大正6年)から1923年(大正12年)までの6年間で、3人の子供が幼少の内に病死、1922年(大正11年)には母とも死別した(後述)。 身を挺して函館に尽くす岡田のために、岡田の支援者たちは公私共に彼を支えた。当時の函館図書館館長であった平出喜三郎は、1918年(大正7年)から評議員会を開いて個人的に毎月80円を図書館に寄付、そのうち70円を岡田の収入にあて、後の市立図書館開館まで岡田家の家計を支えた。正月を迎える餅がない年には、匿名で餅米を差し入れた友人もいた。 ===市立図書館の開館=== 1916年(大正5年)、大正天皇即位に伴う御大礼記念事業が日本全国に発令された。函館では岡田ら有志による私立図書館に代って公立図書館を作る動きが開始され、岡田のもとへは私立図書館の蔵書をそのまま公立図書館へ寄贈するよう申し入れがあった。岡田側は新図書館を耐火構造で建築することを条件として、それに応じた。しかし函館区側では、鉄筋ではなく木造での新図書館建造が計画されていた。 鉄筋書庫に次いで鉄筋の図書館本館を目指していた岡田にとって、この函館区の方針は納得できるものではなかった。木造の建築計画を鉄筋に覆すためには自ら行政に直接介入するしかないと考えた岡田は、議員選挙への出馬を決意した。市政制定により函館区が函館市となった1922年(大正11年)、在職のまま市会議員に立候補。函館のための鉄筋図書館建造を公約に掲げた岡田は、区民たちからの大きな支持を得、当選に至った。 市会(現在の市議会)で岡田は、木造図書館を支持する市会に対し、鉄筋図書館の重要性を説き続けた。しかし両者の意見は平行線を辿るばかりで一向に交わることはなく、その状態は実に10年に及んだ。市会の圧力により、一時は200人以上いた私立図書館の維持会員も、わずか7人にまで減り、岡田家の苦難はさらに増した。衆議院議員でもある前述の平出喜三郎は、この膠着状態を重く見て仲介に入り、岡田を説得し、鉄筋図書館の建築を岡田に約束した。この際には宮崎郁雨も、平出からの依頼により岡田の説得にあたった。岡田は公私にわたって自分を支えてくれた平出を信じ、図書館問題を彼に託した。折しも大正天皇の病状が思わしくなかったことから、平出がこれを引合いに出し、「大正天皇の記念事業として始められた公立図書館設立は天皇の存命中に着手するべき」と主張したことで、この膠着状態は解決に至った。 平出の尽力や先述の小熊幸一郎の多額の寄付のもと、1928年(昭和3年)、函館市立函館図書館(後の函館市中央図書館)が完成した。岡田と交わした平出の約束は守られ、本館は岡田待望の鉄筋コンクリート構造の3階建であった。私立図書館の資産は約3万冊の蔵書をはじめ、すべてが市立図書館へ寄付された。この蔵書の中には日本で1冊しかない古書が何千冊も含まれており、平成期の金額に換算すれば少なくとも数十億円との声もある。 岡田は新技術の導入にも熱心であり、平成期の日本の図書館で広く用いられている日本十進分類法(NDC)がこの時期に発表され、1929年(昭和4年)に間宮書店より単行本『日本十進分類法』として刊行されると、ただちに注文した。さらに目録ケースの横にNDC索引部分を置くことで、利用者の利便性を高めるよう工夫を凝らし、間宮書店の間宮不二雄を唸らせた。また、本1冊につき1枚の基本カードを作成し、この複製によって目録を編成するユニットカードシステムを採用した。間宮不二雄は「ユニット・カードは恐らく同館が、わが国では最も早い実施館であったろう」と述べている。 岡田を館長に推す市民たちの声が市政に届いたことで、1930年(昭和5年)には岡田は館長に就任した。市会議員には1926年(大正15年)に再当選していたが、図書館業務専念のため、館長就任の同年に市会を引退した。図書館に隣接して岡田の公宅も設けられたが、岡田はその後も図書館内にベッドを持ち込んで1人で住み込み、妻イネに食事を運ばせて生活し続けた。 私立図書館開館前に入会した日本図書館協会では、1931年(昭和6年)に評議員に初当選。協会における特異な存在として重要視され、終生にわたって図書館事業と協会の発展に尽くした。 函館市の文化向上のために尽くした功績により、1939年(昭和14年)には高等官七等待遇となり、従七位に叙せられた。翌1940年(昭和15年)には社会教育事業功労者として文部大臣からの表彰を受けた。1942年(昭和17年)には高等官六等待遇となり、正七位に叙せられた。 ===函館大火=== 1934年(昭和9年)3月、世界の火災史に残るほどの大火災である函館大火が発生し、函館図書館も火災に見舞われた。このとき岡田は妻イネと共に、閲覧中であった蔵書類をすべて書庫へ戻し、水をかけた敷物で書庫への火を遮り、蔵書類を守った。さらにイネを避難させた後、自らは図書館内にただ1人残り、避難を呼びかける部下の声に耳を貸すことなく、消火に奮闘した。書庫の前に仁王立ちになった岡田は、目や鼻が煙に襲われ、髪が焼け焦げることにも構わず、バケツを振るって水を撒き続けた。 この岡田の活躍、そして図書館の鉄筋建築が功を奏し、函館の街の半分以上を焼き尽くした大火災にもかかわらず、図書館の蔵書類は一切焼失することがなかった。しかし岡田の公宅は焼失したため、岡田と家族は着のみ着のままとなってしまった。 火災から守られた図書館は、火災後には閲覧室などが避難所として活用された。岡田の長女である岡田弘子の小学4年生当時の作文によれば、図書館のどの部屋も多くの避難者がおり、まだ寒い時期の北海道でも、室内は昼夜ともに暖房で夏のように暖められ、多くの慰問品や食料が届いたことで、避難者たちは元気を取り戻したという。この作文は後に、北海道社会事業協会による『函館大火災害誌』に収録されている。 北海道小樽市の郷土史家である越崎宗一は、大火の翌年の1935年(昭和10年)の函館赴任にあたって岡田のもとに挨拶に訪れ、そのときの印象を以下の通り書き残している。 驚いたことに図書館を囲む樹々には生々しい焼け焦げの爪跡が残っており、附属していた館長官舎は焼け跡だけが残って姿がない。公園附近の人家も殆ど焼失して、バラックがボツボツ建ち始めている。 暴風下の……模様を伺うと、到底助かるような状勢ではなかったそうであるが、館長は中にいて、必死に、窓の戸締りを厳にし、防火につとめた甲斐あって、鉄筋不燃質の館と書庫が奇蹟的に焔の侵入を免れ助かったという。命をかけてつくりあげた館を、死守せねばならぬという館長の至誠、天に通じたと考うるより他ないと、私には思えた。 ― 坂本 1998, p. 172より引用。 函館大火の後、岡田は復興に要する建築資材の調達のため、北海道内外の建築業界や土木業界に呼び掛けた。多くの商社が資材を提供し、その数は百社以上に昇った。また、図書館ではそれら建築資材を展示した企画展を開催。函館市復興資料目録を刊行するなどし、市の復興のために尽くした。 また岡田は、被災した子供たちの心を癒すため、日本全国に児童書の寄付を呼びかけた。彼の声に応え、日本全国各地から児童書が贈られ、その数は12万冊以上にも昇った。中には台湾や満州などで発行された、日本では入手困難なものもあり、それらは函館の子供たちや学校に配布された後、残りの雑誌、図書は同図書館に保存された。その後の平成期に、かつては図書館や関係機関で長らく収集の対象とならず消耗品扱いされてきた児童雑誌が、後の児童文化や児童文学の研究において資料としての必要性が高まったことから、函館図書館に贈られたこの多数の児童書を中心とし、北海道立文学館により「函館貴重児童雑誌及び児童雑誌附録データベース」が作成された。さらに後の2011年(平成23年)に発生した東日本大震災に際しては函館からの恩返しとして、震災で被災した子供たちに絵本を贈る「被災地の子どもたちへ絵本を送ろう 函館プロジェクト」が開始されるに至っている。 ===晩年=== 1943年(昭和18年)に岡田は還暦を迎え、同年10月にはその祝賀会が開催された。戦中のためにジャガイモやカボチャによる会食であったが、多くの出席者たちで賑わい、岡田も同会を記念して出版された『岡田健蔵君還暦頌徳喜季』に満足していた。この席で「すべてを投げ打って図書館に尽くした岡田への感謝として、岡田の新居を建てよう」との意見が出、満場一致で採択された。岡田は皆の温情に涙ぐみ、俯いたまま動かなかったという。 しかし、同1943年初めより岡田は肺疾患で体を病んでおり、すでにこの時点では病状がかなり進行していた。同年末に周囲からの説得により函館中央病院に入院したが、回復には至らなかった。 翌1944年8月、祝賀会出席者たちの支援により、図書館に隣接して岡田の新居が着工された。同年12月20日、岡田は自ら希望して、医師の反対を押し切り、その新居に移り住んだ。その時点では新居はまだ未完成であり、せいぜい雨露が凌げる程度で、借り物の建具をはめ込むなどしてようやく住居らしい姿に仕上がった。そこまでして新居に移り住みたかった理由を、宮崎郁雨は「まことに彼は図書館以外の何処ででも死にたくなかったのである」、函館市のジャーナリスト、北海タイムス社主宰者の小野寺脩郎は「すでに死期を悟った彼は、持前の強い責任感から生命あるうちにせめて一夜だけでもそんな温い善意の家で過し多くの市民に感謝の心を伝えたかったのであろう」と語っている。 新居に移り住んだ翌日の12月21日、近親者、および主治医を務めた齋藤與一郎に看取られつつ死去した。遺言は妻イネに遺したただ一言「誰が来ても、生前の俺のことを絶対にシャべんなよ」であったという。葬儀は、岡田が生涯をかけて愛し続けた函館図書館の大閲覧室で図書館葬として執り行われた。齋藤與一郎が委員長を務め、300人の弔問客が訪れた。墓碑は函館市船見町の実行寺にある。 没後、日本図書館協会創立60周年にあたる1951年(昭和26年)には、日本全国での図書館活動功労者としての追悼を受けた。 ==そのほかの業績== ===石川啄木の資料の保存=== 函館ゆかりの歌人である石川啄木が1912年に死去した後、翌1913年(大正2年)、岡田は自ら中心となって一周忌の追悼会を市立函館図書館内で開催した。同年、啄木の義弟でもある宮崎郁雨らと共に、啄木にまつわる貴重な資料の維持保存のための団体として「函館啄木会」を組織し、幹事の1人を務めた。そして同会最初の仕事として、図書館館内に「啄木文庫」を設け、岡田の収集や宮崎の寄贈による図書類を収め、啄木の業績を後世に残すべく尽力した。 啄木文庫の所蔵資料は、開設当初は『一握の砂』『悲しき玩具』、そして第1詩集『あこがれ』のわずか3種であった。追悼会翌日、岡田は入院中であった啄木の妻である節子夫人を見舞い、啄木の遺稿の寄贈を申し入れた。節子死去の同1913年、その遺志に基いて日記などの遺稿類が図書館へ寄贈された。こうして図書館内に保存された啄木の資料は、先述の通り函館大火の際も鉄筋構造と岡田の尽力によって守られ、『啄木日記』など重要な資料が後に伝えられるに至った。 また、1913年に岡田は、前述した2度目の帝国図書館視察の際、節子夫人や宮崎郁雨の依頼のもと、啄木と彼の一族の遺骨を引き取り、函館へ持ち帰った。これは啄木が宮崎に宛てた手紙に「死ぬときは函館で死にたい」とあったことが理由とされる。岡田は遺骨を節子に引き渡したものの、改めて節子から遺骨の保管を依頼されたため、周囲から「気持ち悪い」と言われることも構わずに、図書館内に遺骨を保存していた。 節子夫人の没後、岡田と宮崎は彼女を含む一族の墓碑建設の計画に取りかかった。函館市立図書館の建設方針を巡って市会と対立し続けていたときも、岡田は墓碑建設の計画を絶えず勘案していた。毎年の忌日には、啄木追想の行事を続けた。啄木忌は、数十年の間には諸々の事情で参加者が減ることもあったが、岡田と宮崎だけは常に出席し続けた。また石匠の選定をはじめ、工事に関する一切も岡田が引き受けた。そして1926年(大正15年)に啄木一族の墓が函館の立待岬に建立されるに至った。 節子夫人から寄贈された遺稿のうち『啄木日記』については、岡田は非公開の姿勢を貫いていた。啄木と最晩年に親交のあった丸谷喜市は、啄木が「自分の死後に日記を出版したい奴が現れたら、日記を全部焼いてくれ」と遺言したと言い、図書館にある日記をすべて啄木の遺児である長女に返却するよう要求した。1926年(大正15年)に日記を啄木の遺児宛てに返却するよう求めたが、岡田は「職務上の責任感と、啄木が明治文壇に重要な存在であるから焼却には反対する」と返した。しかし1939年(昭和14年)頃、啄木の全集の刊行などによって、当初は少数の関係者が知るのみだった日記の存在が次第に公になり、日記の公開を求める世間の動きが活発し、『東京日日新聞』『報知新聞』など新聞各紙が相次いで公開キャンペーンを行なった。これに対し岡田は同年4月、NHKによる全国放送を通じ、日記の焼却および公開を否定する意思を表面化し、世間から大きな反響を呼んだ。 1944年、岡田の死去により日記の公刊を阻むものがなくなったことで、世界評論社から啄木日記が出版されるに至った。なお晩年に入院した岡田は、病床での1年間の療養生活の間、啄木の『小天地』の合本を常に枕元に置き、片時も離すことはなかったという。 岡田の十三回忌の後、函館図書館の児童図書室の利用者でもあった歌人・土井多紀子らが中心となり、岡田の仕事の継承と函館の文化向上への寄与のための団体として、岡田の雅号「図書裡(としょり)」にちなんで「図書裡会」が結成された。1957年(昭和32年)にこの図書裡会により、岡田の功績を称える目的で、前年に函館を訪れた与謝野寛・与謝野晶子夫妻の歌碑が立待岬に設置された。碑には晶子の詠んだ「啄木の草稿岡田先生の顔も忘れじはこだてのこと」が刻まれており、この「岡田先生」とは岡田健蔵のことである。 ===絵はがきの収集=== 1900年(明治33年)に逓信省令で私製はがきの製作が認められて以来、日本では全国の名所や都市景観、美人画、催事、年賀状などの絵はがきの製作や販売が盛んに行われた。1902年(明治35年)には万国郵便連合加盟25周年絵はがき、次いで日露戦役記念の絵はがきが登場し、空前の絵はがきブームが起きていた。 岡田は1903年の独立後から、以前から趣味としていた絵はがきの収集を始め、その数は3万枚以上にも昇っていた。その対象は郷土である北海道の史跡をはじめ、建造物、都市の景観、自然、風物など、あらゆる分野におよんでおり、友人たちが声をそろえて岡田を一流の収集家と呼んでいた。岡田にとって絵はがきの収集は、当時のブームに乗じた一時的な趣味でも、単なる趣味や娯楽でもなく、短文学の通信と研究を目指すものであった。岡田の少年時代に函館の富岡町で展覧会が開催されたときには、最も多い出品者が岡田であった。 1905年(明治38年)、岡田は絵はがき愛好者の団体として「函館絵葉雅喜倶楽部」を結成した。絵はがきのブームに伴い、日本全国各地には絵はがき同好会が結成されて展覧会や交換会が盛んに行われており、北海道内にも1905年から翌1906年(明治39年)にかけて6団体が結成されていたが、そのうち最も早くに結成されたのが岡田の函館絵葉雅喜倶楽部である。 結成同年には岡田の発案のもと、同団体主催による「絵葉雅喜大会」が開催された。このとき記念絵はがきの印刷を担当した業者の1人は、その盛況ぶりを以下のように語っている。 その頃公会堂で絵葉書展覧会が催されたことを知っている人は現在幾人もいないだろうと思う。これは岡田さんの発案であったが……全国各地からいろいろな絵はがきが収集され、三日間に渉るこの展覧会が……絵はがきの存在価値を高めた……。この事が発表さるるや函館のみでなく近郊からの参観者は意外に多く、当時としては一大センセーションを捲き起こした。 ― 坂本 1998, pp. 42‐43より引用。 函館市立図書館設立後、岡田は間宮不二雄設立による青年図書館員連盟に個人会員として加盟。同団体が1932年(昭和7年)に発行した『図書館学及書誌学関係文献合同目録』には、2千点以上に及ぶ図書や刊行物が収録されている中、末尾には「絵ハガキ」の項が設けられ、約70種の絵はがきが収録されている。うち最も多い物は間宮の擁する間宮文庫のもので、次いで函館市立図書館のものであり、ともにこの目録に収録されている絵はがきの約半数を占めている。 ===博物館への夢=== 岡田は図書館設立と共に、以前から函館に博物館を建てることも夢見ており、社会教育施設として図書館と博物館の活動の連携を理想としていた。1909年には後に北方民族研究の世界的な権威者となる馬場脩の提唱を受けて「函館考古会」を結成し、遺跡発掘や資料収集のための場とした。 1935年(昭和10年)には博物館建設に向けて具体的な活動に乗りだし、図書館内に函館博物館建設期成同盟を設け、博物館建設のために会員の募集を開始した。函館図書館発行による図書館報『市立函館図書館多与利 』では博物館の標本と図書との連絡活用の重要さを力説しており、1940年(昭和15年)には『函館日日新聞』において、説明より実物を見せることによる直感教育の観点においても博物館の存在が重要であることを説いている。 その後も岡田は地元の新聞や図書館報において、博物館の必要性を訴え続けた。しかし時代はすでに戦中であり、戦争の激化に連れ、次第に博物館の実現は困難となった。結局、岡田の存命中にこの夢が叶うことはなく、博物館完成は岡田の没後、1951年(昭和26年)を待つことになる。 ===函館市会=== 函館市会議員としての岡田は、市政の腐敗、議員たちの不正や疑惑を厳しく指摘するなど、異質な存在であった。1924年(大正13年)に函館水電の水電事業市営化問題が起きた際には、岡田の政治活動は極度に活発化した。市会のみならず、雑誌や新聞紙上でも函館水電、関係重役、水電派の議員たちへ猛攻撃を繰り返した。また自ら電圧計を入手し、電灯の電圧を計測することで函館水電の契約違反を責めた。市民の電灯料不払同盟を牛耳り、函館水電争議の急先鋒として、函館水電を相手に個人で訴訟まで起こした。 こうした岡田の活躍は函館市民から喝采を浴び、市政界の名物ともいわれた。また第1期で図書館問題が解決しなかった後も、再当選することで図書館問題に再び挑むことができたが、これは市政や議員を糾弾したことで市民たちの喝采を浴び、より多くの票を集めたことによるものである。 ==人物== ===収集癖=== 岡田が図書館経営に際して最も重要視したことが、蔵書の収集である。きっかけは私立図書館開館から間もない頃、京都帝国大学教授の内田銀蔵が来館し、岡田に「地方図書館の大使命こそは郷土資料の探索収集にある」と語ったことであり、これ以降、岡田は郷土資料収集に没頭することになった。 私立図書館の鉄筋書庫完成後は、岡田は建物の外側だけでなく内部も充実させるべく、蔵書集めにさらに没頭した。東京の神田の古書店から目録が届くと、岡田自身が貴重な地域書類などを捜し、高額でも即刻電報で注文していた。当時の蝦夷やアイヌ関連の貴重な図書類のある日本全国の書店には、必ず函館図書館から注文が届いていた。齋藤與一郎が東京や札幌の古書店を訪れた際には、齋藤が函館から来たと店主が知ると、しばしば「函館の岡田さんはどうなさいましたか」と聞かれたという。市立図書館開館後は収集癖に拍車がかかり、アイヌ絵、錦絵、ポスターも収集対象となった。函館図書館のアイヌ絵のコレクションは大部分が岡田の収集によるものであり、1936年(昭和11年)には岡田の発案により「アイヌ絵画展覧会」が開催されている。 1938年(昭和13年)度には図書費3500円中、4月早々に郷土資料に980円、アイヌ資料に16円を費やしており、これだけで図書費の28パーセントを占めている。さらにその後にも古文献を収集していることから、この年の郷土資料収集費は図書費の3分の1以上に昇ったと見られる。こうした膨大な購入資金調達のために岡田は私財を投じ、土地や家屋を売り払っており、これが前述のような極貧生活の要因の一つにもなっていた。 費用には限度があっため、市内の蔵書の持主のもとへ、できるだけ寄贈を募った。寄贈に応じない持主を岡田は「けちん坊」呼ばわりしており、これが市内の評判に昇るため、持主たちはできるだけ蔵書類を隠そうとした。しかし岡田は地獄耳ともいうべき情報網の持主で、どんなに蔵書を隠していても突き止めてしまったという。 蔵書の持主がどうしても寄贈に応じない際は、知己や友人・知人・後援者に資金を頼り、また自ら市内を歩き回り、有力者たちに寄付金を募っていた。岡田の長女の弘子は後に、父の収集癖にまつわる事情を「お金がなくてね、本当に大変なんです。なので、あっちこっちから寄贈本もずいぶんいただきました。どうしても寄贈してもらえない古書は職員で写本もしたんですよ。あのころの職員は大変だったと思います」と語っている。 これらの収集癖を示す一例として、岡田存命中に購入した最も高価な資料、江戸時代の紀行書『東遊奇勝蝦夷地歴遊日記』全13冊が挙げられる。これは1936年、東京の古書店経営者である反町茂雄のもとから購入したもので、これのみで同年の図書費の約5分の1に相当している。購入時に岡田は反町に「すぐ帰ります。帰って、お金の工面をしなければならない」「こんな大きな金の余裕が、市立図書館にあるもんですか。函館へ帰ったら、すぐ町の有力者の中を歩きまわって、寄附を頼まなくっちゃあ……」と語った。本件は『北海タイムス』紙上で「郷土研究資料が収集されている事では全国に名高い函館図書館に、唯一つよりなく、而も岡田館長が今日迄探し求めて止まなかった貴重な文献が現れ……」と報じられた。後に反町は「函館図書館は最も熱心な蒐集ぶりで、北海道関係の版本・写本は、目録以外でも、オッファーすれば大体必ず納まる常連客でした」「私の目録に掲載した蝦夷地及びアイヌ関係の希書・珍書には、必ずといってよい程、全国に先がけて、函館図書館から電報の注文が到来し、沢山の高価な古書が津軽海峡を渡りました」と語っている。 岡田のこの熱心さが周囲に伝わるにつれ、蔵書の持主たちは次第に「何々を岡田に取り上げられた」と、秘蔵品を図書館に寄贈させられることに誇りを抱くようにもなった。岡田の名が知られると、東京をはじめ日本全国から貴重な蔵書や絵画を岡田に売り込みに来るようにもなった。郷土や蝦夷に関する古書や絵画は、岡田の折り紙がつかなくては真偽のほどを世間から疑われることもあり、それらを秘蔵する者たちは積極的に岡田に見せるようにもなった。 1942年(昭和17年)、帝国図書館の図書館講習所では、県立長野図書館館長の乙部泉三郎が、岡田の収集癖を「ばた屋」(廃品回収業者)に例え、「図書館人の中には『バタヤ』みたいなものがいて、何でもかんでも集めたがる人がいまして、そのいい例が函館の岡田館長である」と話した。ところが偶然にも、受講者の中に弘子がいた。弘子は乙部の話に納得していたものの、弘子を通じて岡田がこの話を知ったことで、乙部は後に岡田に対して非常に恐縮し「『バタヤ』というのは古文献を何でもかんでも集めることを言ったのである」と訂正したという。 ===図書への情熱=== 紙を食い荒らすシミは本の大敵のため、岡田はしばしば書庫から本を取り出して厳しい目つきでページをめくり、シミを見つけると憎悪で睨みつけた。樟脳、ナフタレンなどの防虫剤も他人には任せず、常に自分で新品と交換した。ハエも本の糊付けを嘗めることから、当時の殺虫剤であるインセクト・パウダーやイマヅ蠅取り粉を大量に撒き、館員たちが咳き込むほどであった。ネズミもまた皮製のものを噛むことから、夜中にわずかでも物音がすると、書庫のあちこちにねずみ捕りや猫いらずを仕掛けた。 館員たちによる毎朝の掃除の際は、箒の埃が書庫にある本にかからないよう、必ず床におからを撒かせてから掃かせた。夏にはこのおからが腐敗して臭いを放つため、食卓に卯の花が出ると不快感を催す館員がいたほどだった。冬の寒い日に館員がストーブで暖をとりながら本を読んでいると、熱で本が傷むと言って「そんな心がけで図書館員が勤まるか」と厳しく叱った。児童室を利用している子供たちが相手でも、本の上でメモをとっていると叱りつけた。図書館内でのその叱り声は別の階に響くほどで、晩年には天然のウェーブのかかった白髪頭で怒号を飛ばすことから「ホワイト・ライオン」と仇名された。 心ない閲覧者が古書類を手荒く取り扱うことを恐れるあまり、閲覧を拒否することもあった。昭和初期、アメリカ議会図書館の主任であった坂西志保が石川啄木の資料を求めて函館図書館を訪れた後、大阪で間宮不二雄に会い「間宮さん! 日本には不思議な図書館がありますね! 函館の図書館長は蔵書を一般読者に余り見せることを好まない様だ」と語っている。 ===倹約癖=== 図書館経営にあたって岡田は、少年期に学んだように非常に倹約に努め、紙1枚、筆1本すら疎かにしなかった。原稿は新しい原稿用紙ではなく、ほとんど保護紙や使用済みの閲覧票の裏を用いた。製本用のボール紙の切れ端も捨てさせず、小さな紙片も製本のために再利用した。使用済みの封筒を裏返しにして再利用し、手紙は小さく切って蔵書印の裏写り防止に用いた。荷造りの紐、荷札の細い針金まできれいに伸ばして保存した。新聞社の取材を受けた際も、記者の用いた写真、写真版などを貰い受け、丁寧に整理して保存していた。 この倹約癖を後に伝えるものとして、平成期にも残されている旧函館市立図書館の屋根の上の、沖縄のシーサーのような獣の置物が挙げられる(右の画像外部リンクを参照)。これは元は、私立図書館の建物として用いられた協同館にあったものである。協同館自体は函館大火で焼け落ちたが、この置物だけは残り、岡田がそれを捨てられず、市立図書館の屋根に設置したものである。 ===無私無欲=== 岡田は自分個人に図書類が寄贈されても、自分の手元には置かずにすべて図書館の蔵書とした。友人から旅行の土産を貰っても、文房具は図書館の備品とし、芸術品も図書館に寄贈した。知人たちから贈られた色紙や短冊なども、すべて図書館の蔵書印を押して図書館のものとしていた。そのために没後には、家には軸物はおろか短冊、色紙など一切が残されていなかった。死去前の妻への遺言も、売名行為を嫌ってのことと見られている。 前述のように生活が貧困を窮めた際に平出喜三郎からの援助を受けたが、岡田は生活が楽になることよりも「おかげでまた蔵書をますことができ、区民のためこんなに嬉しいことはない」と喜んだ。函館は港町として日本でいち早く海外への門を開いた町であることから、五島軒などが洋食を取り入れていたが、極貧生活を通じて一汁一菜に慣れた岡田は、後年にもそのような料理には決して手をつけなかった。港町育ちということもあり、食卓での贅沢品はせいぜい、イカの刺身、カレイの焼き魚などの安価な部類の魚介類だった。 1920年(大正9年)に、函館教育会が教育功労者を表彰したことがあり、岡田も被表彰者の1人に選ばれた。しかし岡田は、自分を表彰に値しない人物と言い、これを辞退した。当時の教育会会長を務めていた齋藤與一郎はやむなく岡田の意思を尊重し、表彰状と賞金を預かっていた。その3年後に岡田が齋藤のもとを訪れ、賞金だけを受け取ったが、それは金銭欲ではなく、小学校の不燃化についての資料作成のためであった。小学校の不燃化に賛成する齋藤は、岡田の賞金を用いずに齋藤の個人的な援助で出版させようとしたが、岡田は齋藤の負担を固辞し、敢えて自分の賞金を出版費にあてることを承知させた。表彰状のほうは結局、最後まで受け取ることがなかった。齋藤は後にこのことを「君の純情誠に愛す可きものがある。真に君の如き天衣無縫天真爛漫の人とこそいう可きである」と回想している。 ===純正不曲=== 東京帝国大学の医学教授である佐藤精は『斎藤与一郎伝』において、岡田の性格を「直情径行で、不義邪悪を憎むこと極度には激しく、判断は自らの尺度を以て狷介、一度それに接すると、火を吐くような毒舌で罵倒し、(略)相手に誰であることをも弁じない」と述べている。 奉公時代には奉公先の店の主人が、客に対してわざと商品の値段を高く言い、客が値下げを要求したところへ本来の値段を言い、客に安く買ったと満足させる、といった方法を岡田に教えたところ、岡田はそれをペテンだといって店先の仕事を嫌い、店の奥の掃除になどに専念していた。この時代からすでに、不正を嫌う岡田の性格が現れていた。商人のもとに奉公しながら、自身は商人の道へ進むことはなかった理由も、この経験によるものである。 戦中には憲兵隊が蔵書を押収しようとした際も、決して屈することなく1冊の蔵書も渡すことはなかった。同じく戦中に岡田の新聞への投書が特別高等警察の目に触れ、病床の岡田に召喚状が来たときも、最期まで出頭することはなかった。 函館市会で、函館市長の坂本森一と対立した際、坂本に「図書館長たる貴男は、理事長の立場がだれよりもよく判る筈ではないか」と言われたところ、岡田は「市長、たわけたことをいうな、不肖岡田は図書館長である前に、市民の代表たる議員の立場で質問しているのですぞ、そのくらいのことが判らんで市長が勤まると思うか、このたわけ者めがッ」と返した。坂本は思わず苦笑し、論戦もそれで終わりとなった。元議長の高木直行は後に、「大市長といわれた自信満々のあの切れ者を“たわけ者”と極めつけたのは後にも先にも是空居士一人であったと思う」と語っている(『是空』は岡田の雅号の一つ)。 一方では、こうした岡田の言動が市会で反感を呼んだことが、10年にもわたる図書館問題の膠着に繋がったとも見られている。また市立図書館が完成して岡田が館長に推された際も、市の理事者は岡田の性格を嫌って同意しなかった。そこへ宮崎郁雨らの依頼により齋藤與一郎が調停を務め、館長就任が実現した。しかし、その翌年の1931年(昭和6年)には、市会で図書館費の4分の1が削減された。これに対して図書館後援者たちが削減分を寄付しようと、「従事員復活経費寄附採納方」を請願したが、これも否決された。これらのことから、岡田の言動を快く思わない議員たちが当時もまだ存在していたものとも見られている。 ===教育=== 尋常高等小学校の後に奉公に出たのは、学業よりも世間のことを学ばせるという母親の育児方針である。このために尋常高等小学校以上の高等学校へは進学していないが、後に図書館業を通じて膨大な数の図書に触れたことで、独学で学問を充実させた。日本図書教会が東京で講習会を開いた際、文学博士たちが講師を務める中、岡田は学歴のない者としてただ1人、講師に選ばれている。函館図書館経営にあたっても、館内の膨大な数の蔵書のほとんどを脳裏に記憶しており、郷土資料の一部始終をよく知っていたことから、博覧強記の持ち主とも見られている。 函館の郷土史に関する多くの著作物を著し、函館の文化への貢献者たちの事業や功績の顕彰にも努めており、民間学者ともいえる人物である。郷土史の知識は市内随一ともいわれ、蝦夷関係では専門学者が岡田に教えを乞うこともあった。 また後述のように大工の父の影響もあり、建築に深い興味を寄せていた。若いころから函館市内の古い建物を自分の足で調査しており、「建築博士」とも呼ばれた。函館工業補修学校(後の北海道函館工業高等学校)に特設科が設けられた際、1917年(大正6年)から半年間、若年の生徒たちに混ざって鉄筋コンクリート工法と万国建築条例を学び、修了証書をとった。このときの講師である村田専三郎は啄木の後輩にあたり、啄木と文通の経験もあったため、後の啄木の墓の建立にあたっては岡田の相談相手にもなった。 ===郷土愛=== 郷土である函館を強く愛した人物でもあった。それを示すエピソードとして、小学生だった頃の長女の弘子を連れて札幌を訪れた際、弘子が大通公園の花壇を見て羨ましがり「札幌に住みたい」と言ったところ、岡田は真顔で怒り「よそを見て羨ましいと思ったら皆で函館をそれ以上よいところにしなければ駄目だ」と言ったという。 岡田が業績保存に尽くした石川啄木は、岡田自身は一度しか会っていないが、その啄木に前述のように様々に尽くしたことも、郷土愛の現れと見られている。 ===家族=== 父は優れた大工であり、多くの建築物を手掛け、多数の弟子を育成した後、1893年(明治26年)、岡田が小学5年生のときに53歳で死去した。岡田が建築物の不燃化に拘ったこと、また函館大火直後にいち早く建築業界や土木業界と連携して街の復興に尽力したことは、大工である父の影響も大きいと見られている。母は岡田が私立図書館運営で極貧生活を強いられていた時期の1922年(大正11年)に、75歳で死去した。 妻イネは、岡田と苦難を共にし、不平一つ言わずその苦難を耐え抜いた。岡田が図書館に泊まり込み、神経痛で歩行が困難になった際には、彼を背負って坂道を歩いて連れ帰ることも多かった。岡田の没後も長年にわたって図書館職員として勤務し続け、岡田の十三回忌にあたる1956年(昭和31年)には、岡田が1916年に『函館毎日新聞』に連載した「函館百珍」全99話、雑誌『函館論評』『函館』に1928年から1930年まで連載した「函館史実」全80話をまとめ、『函館百珍と函館史実』として出版。1981年(昭和59年)、91歳で死去した。 子供は四男二女の6人がいたが、1917年(大正6年)から1923年(大正12年)までの6年間で次男、三男、四男の3人が1歳までに病死した。母同様に岡田の極貧生活による苦難の時期において、イネが図書館業務に追われ、育児や病気の看病にまで手が回りきらなかったためである。次女も1927年(昭和2年)に生後半年で死去した。 岡田の没後に遺された家族の内、長男は上野の図書館講習所を経て、1934年(昭和9年)より司書として函館図書館に勤務した。父の後継者として期待されていたが、太平洋戦争勃発後に出征。もともと体が弱かったことから、1945年(昭和20年)、終戦を目前にして南島で戦病死した。 その後に唯一遺された実子である長女の弘子は、長男に代って父の遺志を継ぎ、父直伝の図書館教育と図書館講習所を経て司書となり、1976年(昭和51年)から1982年(昭和57年)まで市立図書館館長を勤めた。その後は事務局長として勤務し、平成期は退職後においても散逸資料の発掘、収集と管理をライフワークとしている。また「啄木に関しては紙ひとつでも絶対になくすな」との岡田の教えに基づき、啄木文庫の維持保存、啄木の資料を後世に残す活動に努めている。 長男の息子、岡田の孫で弘子の甥にあたる岡田一彦は市立函館博物館に勤務し、資料保存のエキスパートとしての役割を果たしている。弘子は前述した函館啄木会の代表理事、一彦は会員であり、同会は平成期においても、啄木関連の資料を長年にわたって維持保存する団体として機能し続けている。 ===交友関係=== 岡田が生涯にわたって師と仰いだ人物が齋藤與一郎である。私立図書館建立後の時期、斎藤の人間性に惹かれた岡田は頻繁に彼のもとを訪ね、新たな知識を得るとともに、図書館設立にまつわる苦労を熱く語った。清廉潔白な性格や苦学の境遇、郷土のために身を挺して尽くす性格が共通していることから、2人は水魚の交わりを結んだ。岡田は寄付者として恩義のある相馬、小熊、平出らのことすら、陰では悪く言うことがあったが、斎藤にだけは常に敬意を払い「斎藤先生」と呼んだ。斎藤もその広い交流範囲の中、自分の知己は3人のみといい、その1人に岡田の名を挙げていた。 私立図書館建立にあたって岡田を援助したのが相馬哲平、小熊幸一郎である。相馬は岡田同様、郷土に報いる志を持つ人物であり、図書館の建造費に加え、図書購入費などで彼を援助し続けた。 小熊は奉公時代からの岡田の苦労を知っていたことから、その後も長年にわたって岡田を応援し続けた。私立図書館の鉄筋書庫完成後、鉄筋製の本館を目指した岡田は、1911年(明治44年)に小熊を訪ねてその意思を伝えたところ、小熊も同意見であった。もっともこの時点では小熊は軽く答えたつもりであったが、岡田は小熊が後で心変わりすることを危惧して念書を求め、小熊は2万円の寄付申込書を書いた。その寄付期限の迫った1915年(大正4年)、第一次大戦による戦争景気で小熊の寄付も多方面に及んでいたことから、岡田は小熊に当初の倍以上の5万円の寄付を依頼した。しかも小熊の返事を待つまでもなく、岡田は5万円の寄付を前提に建築計画を進めた。無茶なやり口にも関らず、岡田の性格を熟知する小熊は「君に会ってはかなわないな。いまに、百万円に値上げせなどと、いって来るのではないか」と笑って済ませたという。 函館市長の坂本森一は、市長就任が函館市立図書館開館の翌年であり、市長としてまだ日が浅かったこともあって、当初は市会における岡田の言動を快く思っていなかった。図書館に在職のまま議員活動を続ける岡田を「クビにしよう」と発言したことすらある。しかし齋藤與一郎が図書館問題の調停に入った際、斎藤は坂本に、岡田の人間性と図書館にかける情熱を語った。坂本が実際に岡田に会い、斎藤の言葉の通りの人物であることを確かめたことで、岡田と親密な仲に至った。 石川啄木の業績保存で関連した啄木の義弟・宮崎郁雨は、岡田自身の親友でもあった。岡田はよく酒の席では「俺の友達は皆初め一度喧嘩をしてそれから仲良くなるんだが、宮崎だけは喧嘩のしようがなかったな」と語っており、宮崎もまた「私の友達の中には幾人かの天才者が居る。その一人は石川啄木、一人は岡田図書裡」と語っていた。晩年に岡田が体調を崩すと、宮崎は毎日見舞いに訪れた。そんな宮崎に対し、すでに病状がかなり悪化していた岡田は「宮崎、もう駄目なんだろう。驚かないから本当のことを話してくれ」と、宮崎を困らせた。岡田の没後、彼の長男の死が確認された後の1946年(昭和21年)に函館図書館館長に就任したが、かつて軍籍にあったことから、公職追放令によりわずかの在任期間で退任した。宮崎の没後、その墓は立待岬の啄木の墓の隣接して建立されたが、生前には宮崎は啄木の墓のそばに自分たち2人の墓を建てようと何度も岡田に誘い、売名行為を嫌う岡田はそのたびに固辞したという。 函館市史の編集長を務めた郷土史家の田畑幸三郎は、岡田の弟子であると同時に公私ともに最良の協力者でもあった。もとは商社勤務であり、その社長が岡田の友人だったことから田畑自身も親交を持っており、晩年に岡田が入院に際し「おまえが手伝いに来てくれなければ、おれは安心して入院できない、ぜひ来てくれ」と懇願したことで、図書館に司書として勤務することとなった。岡田の没後は彼の遺志を継ぎ、岡田弘子とともに図書館を支えた。1983年(昭和58年)には病床の身でありながら、岡田の誕生百周年の記念とし、岡田の功績を後世に伝えるために『岡田健蔵と函館図書館』を著した。 函館市出身の作家である梁川剛一は、1928年(昭和3年)に東京美術学校を卒業後に函館図書館に通いつめ、図書館長である岡田や、当時すでに函館市長となっていた齋藤與一郎らと交流した。この縁で函館市中央図書館エントランスには、梁川の製作による「岡田健蔵先生像」が据えられている。 ==評価== ===図書館事業=== 『北海道新聞』の1944年(昭和19年)12月24日では、岡田の死去が以下のように報じられた。 函館図書館長の岡田健蔵氏が亡くなったことはひとり函館市にとつてのみならず北海道、否(いな)日本のために一つの損失といっても差支へあるまい(略)氏がはじめて自設図書館を自宅に開設したのは、その蝋燭屋時代であつたに相違なく、しかもそれがまだやつと子供あがりの二十三、四歳の頃だと聞いて、その賦性の高さと情熱に感嘆せぬものはないであらう(略)これまたその道の権威たるの北大の児玉医学部長等もこの才をたゝへ、これを組織し体系づけせぬことをいつも惜しんでゐたといはれる ― 北海道新聞 1944, p. 1より引用 後に齋藤與一郎、北広島市図書館館長の坂本龍三、函館市中央図書館4代目館長(2015年〈平成27年〉就任)の丹羽秀人らは、函館図書館の北方資料や郷土資料の豊富さと、それを収集した岡田の功績について、以下のように評価した。 天下に誇るべきもの(略)それは函館市立図書館であります。この図書館は内容の充実誠に天下に誇るべきもんだ、と私は思っております。(略)このりっぱな図書館は、郷土愛好者のたったひとりの人間の力によって出来たということを思いますと、人間の力もまた大きいもんだと思います。無論援助をして下すった人はありますが、とにかく函館図書館は、亡くなりました初代館長の岡田健蔵君の手によって出来たんであります。基礎が出来たばかりでなく、その上に土台並に内容までも築き上げた(略) ― 齋藤與一郎(NHK函館放送局『非魚放談』最終回〈1956年10月30日〉)、坂本 1998, pp. 318‐319より引用 市立函館図書館が内外に誇りうる資料は2万数千点余りにのぼる北方関係資料と詩人石川啄木の『日記』をはじめとする稿本・書簡などのコレクションであろう。これらはいずれも岡田健蔵が生涯をかけて収集し、そして守り通したものである。 ― 坂本龍三、坂本 1998, p. 454より引用。 当館のもとになった函館図書館には、帝国大学や国会図書館にもない満州や樺太、千島の資料が豊富にありました。岡田さんは北海道に関する価値ある資料を幅広く探し出し、このまちに残そうとした。あの時代にそこまで徹底して取り組んだ人は、皆無でした。向学心のかたまりだった岡田さんは、同時代の人たちよりもはるかに長い射程で、まちのあるべき未来を見据えていたのだと思います。 ― 丹羽秀人、谷口 2016より引用 この北方資料は日本国内のみならず、アメリカ、イギリス、ロシア、ドイツ、中国など、日本国外の研究者たちからの評価も高い。一例として、日露・日ソ関係史の分野の著名なフロリダ大学の教授ジョージ・レンセン(George Alexander Lensen)は、1967年(昭和42年)に来日して羽田空港に着いた際「すぐ函館に行きます。あの図書館は研究者の宝庫です」と語っている。また岡田が図書館内に設けた啄木文庫については、函館市史で「全国的に例を見ない優れたものばかりであり、日本の近代文学史上において、欠くことのできない貴重なコレクションでもある」と評価されている。 ただし郷土資料などの古書に強く目を向ける一方、新刊書への興味は薄く、そのことはしばしば批判の的になった。市会議員たちからは「昭和十三年私が市会に出た時……どうも岡田は怪しからん、こんな骨董物ばかりに金を出して新刊書というものは、更に用意しないと言って、非常に批難された」との声があり、前述の元議長・高木直行は「偉そうに構えているが反古紙だの古証文だの役にも立たぬ骨董品を漁っているだけではないか……、古典や文献を集めたところで市民の腹が脹らむものか、日本一の図書館長が聞いて呆れる」と批判した。市会の予算委員会からも「館長の図書選択がその趣味に堕する」と厳しく批判された。市会のみならず一般市民からも、岡田の収集物が古書ばかりとの苦情があった。岡田自身、市会で同様の批判を受けたが、「郷土愛を高めることは図書館の大切な役目」「郷土資料収集は、函館の将来を担う子供たちや若者たちに地元のことを知ってもらうために重要」と反論していた。また高木直行は、当時は自身がまだ若年であったため、岡田の真価を理解しておらず、一種の反感を抱いており、批判によって密かに鬱憤晴らしをしていたと後に述懐している。 函館図書館の運営にあたっては、図書館建設資金を得るための音楽を1909年(明治42年)頃より1919年(大正8年)頃まで続けたほか、郷土出身の画家を中心とした絵画展覧会、図書館記念日などの図書館行事として展示会や講演会を催した。また前述した函館大火後の函館復興に向けた企画展を始めとし、時節に応じたテーマによる展示会も開催した。後年には1936年の日本図書館協会による図書館大会では、図書館の附帯事業として講演会や展覧会などの開催が挙げられており、さらに後には図書館を含むあらゆる機関で情報の発信が推奨されていることから、函館図書館で様々な情報発信を行なったことについて、岡田の先見性を評価する声もある。 また、図書館業における岡田の美意識は、間宮富士夫や外地で活躍した図書館人である林靖一らによって下記の通り賞賛されており、これは前述した岡田の絵葉書収集の趣味を通じて培われたものと見られている。 私は岡田さんが図書館行事を催される際に、或は有名なアイヌ酋長とか、その他催しに因んだ多色刷のポスターを発行されたことである。他の館又は協会等で発行したポスターに比し函館図書館のものは図柄といい、形状に於ても断然頭角を表している。 ― 間宮富士夫、坂本 1998, p. 48より引用。 美を基調とする図書館、一体図書館に限らず、美の観点の乏しい施設が繁生するわけはないのだが、この点日本の図書館位い、この要素を欠き、旦無関心である。……それは貴館のトウシャ版のプリント、其他小印刷物を毎度見て快哉を叫んでいた。 ― 林靖一、坂本 1998, p. 48より引用。 ===石川啄木関連=== 宮崎郁雨は、岡田が函館図書館建立に尽力したことと同様、「若し岡田君が居なかったならば現在の様な啄木の墓碑は建設されなかっただろう」と語っている。ただし岡田が啄木の骨を函館へ持ち帰ったこと、および啄木の郷里である岩手県ではなく函館に墓を建てたことには批判も多い。 岡田が上京して啄木の遺骨を引き取ろうとした際、啄木と親交のあった歌人の土岐善麿に会っているが、土岐と親交のある大阪商業大学教授の川並秀雄によれば、土岐は遺骨を函館に移すことに反対して岡田と激論を交わしたといい、川並は岡田の行為を「強引」「高飛車」と批判している。また後に土岐は川並に「遺骨は全部を渡してはおらず、寺のあるものを分骨しただけ」と打ち明けているが、岡田は「すべての骨を持ち帰った」と主張している。 宮崎の著書『函館の砂』によれば、岡田は岩手ではなく函館に墓を建てるにあたり、礼儀として啄木の父である石川一禎に遺骨の取り扱いについて意向を伺ったが、一禎が「今さらそのような相談は迷惑なので適当に処理してほしい」と答え、それに憤慨した岡田は「墓は断然函館に建てる」と固く決意したという。これについては当時は石川啄木の実妹・三浦光子(三浦ミツ、当時は結婚前で石川ミツ)も存命で石川家にいたこともあり、もっとよく石川家に相談するべきだったとの意見もある。また一禎の先のような返答は、当時は妻や啄木に先立たれた一禎が次女の嫁ぎ先に寄食していた身のため、やむを得なかったとの見方もある。 後に三浦光子は自著『悲しき兄啄木』や『兄啄木の思い出』において以下のように語っており、これをもって岡田が石川家の了承を得ずに函館に墓碑を建立したことを問題視する意見もある。さらに後の1957年(昭和32年)、光子は啄木研究で知られる日本近代文学研究者の岩城之徳宛ての手紙で以下のように述べていることから、啄木の墓への考えは終生、変わらなかったものと見られている。 けれどもこの墓地を函館に移すということが、私たち石川家の誰の許可もえないで行なわれたのはどういうわけなのだろう。(略)ほんとうに故人兄啄木の遺志なのであろうか。私たち石川家の人々にとってどうしても納得のゆかないことであった。死ぬ日の朝まで、節子さんにすら決して行かぬと誓わせた函館に、どうして兄が自分の遺骨を埋めてほしがるであろう。(略)私たちには、はじめから一言の相談もなかったことだから、なんともできなかったのだが、どう考えても兄が嫌いぬいた函館にその墓を移したということは、兄に対して申し訳ない気がして困る。 ― 三浦光子(『兄啄木の思い出』)、三浦 1964, pp. 140‐144より引用。 墓地の事、誰が何と申しましても私は函館に埋めた事が最大の兄に対するぶじょくだと考へて居ります。(略)今此事に関していろいろな批判を下す方も少なく御座いません、いづれ私も此事については生命のある間に何とかせねばと考へて居ります。 ― 三浦光子(岩城之徳宛ての手紙)、岩城 1976, p. 206より引用。 三浦光子は、宮崎郁雨と節子の恋愛が明らかになったことで、啄木が怒って節子に「函館に行くな」と言い残しており、函館に死にたいとの啄木の遺志はその問題が表面化する以前のものだったとしている。この主張に対して前述の小野寺脩郎は、かつて宮崎が啄木を通じて光子に求婚したことがあったため、宮崎への恋慕が節子への憎悪に形を変え、節子亡き後はその想いが鬱積して兄の遺骨へ向けられたとしている。 前述の丸谷喜市も、以下のように岡田の行為を厳しく批判している。 骨を持って行ったのは岡田がわからずやなんですよ。あの男は自力で図書館に啄木文庫を造ったほど、熱烈な啄木文献収集家なんですが、盲目的なファンです。単純すぎる。あの男が、無作法にも土岐君の所へいったんでしょう。あれは非常識です。 ― 丸谷喜市、天野 1987, p. 88より引用。 また岡田らが建立した啄木の墓碑自体についても、土岐善麿や川並秀雄らは下記のように否定的に述べている。 函館の人達が、啄木との交遊を記念するために、もっと永久的な、立派な塋域を造るという計画に対しては、僕は初めから賛成しなかった。(略)あまり立派な設計のものは、あの啄木の生涯と思想に思い比べて、却って奇異な感を起すだろうと思ったのである。(略)実際眼前にみて来たものの話によると、どこの富豪のものかと思うほどのもので、おそらく近代日本の文学者のうち、これほど立派な塋域をもつものは、絶無稀有であろうとのことだ。(略)もし啄木の生前、こんな墓を建てるだけの金があったら、かわいい妻子は飢えさせなかったろうというような意味の歌を落書きするものもあるので、遺族が困るというようなことを聞かされた。 ― 土岐善麿、土岐 1975, pp. 51‐52より引用。 そこに立派な墓を建て、今日では観光バスは必ず立待岬に立ち寄りますし、また、東海山啄木寺という寺までつくって大きな観光財源にしています。そこで絵葉書を売っていますし、記念スタンプは百円出さないと押せません。与謝野晶子の啄木をたたえるところの歌碑もありますが、何かゴミゴミしていて静けさがありません。 ― 川並秀雄、川並 1975, p. 15より引用。 1965年(昭和40年)には啄木の生地である岩手県で、啄木生誕80年を記念する様々な行事が行われ、その一環として、啄木の遺骨を岩手へ分骨して故郷へ葬ろうとの動きが再燃するに至っている。1982年(昭和57年)時点での岡田弘子の証言によれば、遺骨に関する批難は三浦光子や土岐哀果といった関係者のみならず、毎年1,2通「啄木と無関係の岡田という男がなぜ東京から啄木の骨を函館に持ち去ったのか、まるで盗人のような行為ではないか」といった内容の抗議の葉書が届いているという。 また前述のように岡田が『啄木日記』の公開を控えた理由を、函館啄木会は「日記というものは極めて私的な内容を持つため」としているが、「貴重な研究資料であり、国民的な文化遺産である資料の公開を拒む」として頻繁に批判された。前述の川並秀雄も「まるで私有物化」と否定的に述べている。寄贈から10年を経て「日記その他の出版要求が強くなっているので、在京の友人に保管中のすべての日記を割愛して欲しい」という要求も出されたが、岡田は「啄木とどんな関係にある人でも、寄託者以外の第三者からの申し出には応じない」と拒否したため、新聞で叩かれるという事態まで招いていた。 ===建築物の不燃化=== 図書館事業のほか、市会議員時代に耐火構造の学校建築を提唱し、小学校校舎の増設と改築を決議させたことで、函館市立新川小学校(後の函館市立中部小学校)が鉄筋コンクリート構造の校舎として1927年(昭和2年)に完成した。鉄筋製の校舎は北海道ではこれが初であり、このことは市会議員としての岡田の最大の功績との声もある。 その後に先述の通り函館図書館が函館大火に耐えて貴重な蔵書が守られたこと、1941年(昭和16年)までに8校が耐火構造の校舎となったことで、岡田の卓見と信念が正しかったと見る向きもある。 ==著作== 『小学校建築の不燃化に就て』 紅茶倶楽部〈函館叢書〉、1923年4月14日。NCID BA58104253。2016年4月1日閲覧。『函館駐剳独逸領事ハアバア氏遭難記』 函館ハアバア記念会、1924年11月8日。全国書誌番号:43055431。2016年4月1日閲覧。『露西亜文化と函館』 函館商業会議所、1926年5月16日。NCID BN07955029。2016年4月1日閲覧。『ジヨン・ミルン博士の生涯』 ミルン博士追想記念会、1926年11月10日。NCID BA54682451。2016年4月1日閲覧。『函館の史蹟と名勝』 函館市、1927年7月。NCID BN0988255X。『函館郷土史料目録 函館開港記念回顧展覽會出陳』 市立函館図書館、1935年11月。NCID BN1015900X。『箱館開港史話』 是空会、1946年。NCID BN11776613。『函館百珍と函館史実』 岡田イネ、1956年。NCID BN05840580。2016年4月1日閲覧。 =国分氏 (陸奥国)= 国分氏(こくぶんうじ、こくぶんし)は、南北朝時代から戦国時代の末まで、陸奥国の陸奥国分寺付近から宮城郡南部に勢力を張った武士の一族である。戦国時代末に伊達氏から当主として国分盛重を迎えて伊達氏に臣従したが、1596年に伊達政宗の不興を買って滅んだ。 ==概要== 江戸時代の系図によれば国分胤通が鎌倉時代に宮城郡国分荘を領したのが初めだが、藤原北家秀郷流長沼氏一族の僧が婿に入って創始したとの伝えもあり、正確なところは不明である。南北朝時代に現れる国分氏は前述の藤原北家秀郷流で、国分寺郷を領し、戦国時代には近隣の土豪を従えて宮城郡南部から名取郡まで勢力を伸ばした。居城としては千代城(仙台城の前身)、小泉城(若林城の前身または近接地)、松森城が伝えられる。北で留守氏と対抗し、南で伊達氏に面して和戦があった。戦国時代の終わりに伊達氏から当主として国分盛重を迎えて伊達氏に従属したが、家臣には盛重に反抗する者があった。1596年に政宗は盛重を追放し、国分の家臣団を伊達家の直属にした。盛重は佐竹氏に身を寄せ、子孫は秋田久保田藩の家臣として続いた。 伊達氏の家臣としては信濃国小県郡国分庄を発祥とした藤原姓と称した国分氏があり、これは江戸時代に太刀上の家格で続いたが、本稿で述べる国分氏とは別である。 ==出自をめぐる問題== 国分胤通が陸奥国の国分荘を得たことを記すもっとも古い史料は元禄16年(1703年)成立の『伊達正統世次考』である。陸奥国の国分氏に関する系図はこれと同じく、平氏の流れをくむ千葉介常胤の五男、国分胤通が奥州藤原氏討滅時の戦功により宮城郡国分荘を賜ったことを起源とするといい、『封内風土記』など地誌類の記述も同じである。系図の一つ、佐久間義和が編集した「平姓国分系図」は、胤通が郷六に築城したと伝える。古内氏所蔵の「平姓国分系図」も胤通を祖とするが、二つの系図には胤通の次から戦国時代の宗政の前まで、一致する人名がない。また、下総国の国分氏に伝わる系図と比べても、『吾妻鏡』に出てくるような公知の箇所を除けば一致点がない。系譜の途中で血統の入れ替えがあったためではないかと推測する説もあるが、諸系図の信頼性は低いと言わざるをえない。 戦国時代に書かれた留守氏の重要史料『奥州余目記録』は、長沼氏の一族である僧が、有能なため婿養子になったのが国分氏だと述べている。それによれば、小山氏、白河氏、登米氏、八幡氏、国分氏は一族だという。小山氏・白河氏は藤原秀郷の子孫であって、平姓千葉氏系ではない。同時代史料として、室町時代の神社の棟札に国分氏の分かれである郷六氏が建立の記録を残しており、そこに現れる国分氏は藤原朝臣で長沼を称している。 これと別に、佐久間「平姓国分系図」には長沼氏でなく結城氏が国分氏の養子に入って国分胤親になったとする箇所がある。「古内氏系図」にも「結城朝光十二世国分治郎宗弘」と見える。結城朝光は結城氏の祖である。江戸時代の地誌には、結城七郎が南北朝時代に小泉城にいたとか、茂ヶ崎城にいたとか、あるいは杭城を落としたとあり、結城氏の活動が知られる。 以上をふまえて出される諸説には、まず鎌倉時代に国分胤通を祖とする国分氏が陸奥国にいたという説と、胤通との関係を否定して単に不明とする説がある。ついで、南北朝時代以降の国分氏について、長沼氏系とする説と、結城氏系であるとする説がある。平姓国分氏がそのまま続いたとする説はない。 ==南北朝時代== 陸奥国の国分氏で同時代的史料に初めて現れる人物は南北朝時代の国分淡路守で、文和2年(1353年)8月29日付で奥州管領の斯波家兼の下僚が国分淡路守に命じた文書に出てくる。それは、石川兼光が新たに与えられた宮城郡南目村の支配が本主の沢田氏に妨害されているので、南目村を石川氏の代官に引き渡すよう命じるものであった。国分氏がこの任務を与えられたのは、遠く離れた石川郡にいた石川氏と異なり、彼が南目村の近くにある国分寺郷に領地を持ち、そこに居館をおいていたからであろう。翌年12月20日付で斯波家兼は石川兼光に南目村を預け置いたと知らせており、国分氏の働きの成果と思われる。 国分氏はこれ以前の観応元年(1350年)から翌2年(1351年)の岩切城合戦で吉良貞家に味方して、勝利した。『奥州余目記録』は、敗れた畠山国氏についた留守殿が負け大将の味方で分限を下げたと述べるとともに、別のところで、国分は勝ち大将の味方を致し威勢を増したと記す。しかしその後、国分淡路守は国分寺郷の半分の地頭職を取り上げられ、その半分は、貞治2年(1363年)7月11日に相馬胤頼に与えられた。国分氏はやがてその領地を取り戻した。 ==戦国時代== 戦国時代に国分氏は近隣の小さな武士を服属させて、現在の仙台市都心部と周辺から、北は松森、山村(以上現在の仙台市泉区)、西は芋沢、愛子、熊ヶ根、作並(青葉区西部の旧宮城町地区)まで、宮城郡南部を支配した。その一族・家臣には、郷六氏(森田氏)、八乙女氏、北目氏、南目氏、朴沢氏、鶴谷氏、松森氏、秋保氏、粟野氏、古内氏、坂本氏、白石氏、堀江氏があったという。 この過程で、国分氏は宮城郡北部で勢力を伸ばしつつあった留守氏、南から勢力を伸ばしてきた奥羽最大勢力の伊達氏と衝突した。留守氏は、国分氏に奪われた領土の奪還のために大崎氏の力を借りるべく、大崎の当主持詮の弟直兼を招いて居城岩切城を明け渡した。直兼は留守氏のためには働かず、かえって国分氏の婿になって宮城郡から名取郡に及ぶ自己の勢力を築こうとした。不満を抱いた留守氏は持詮に訴えて直兼を追放した。 伊達氏の記録によれば、国分盛行は伊達成宗と応仁元年(1467年)から文明4年(1472年)までの間に3度戦ってようやく和睦した。永正3年(1506年)かそれより少し前には、小鶴で留守氏と国分氏の軍が合戦して、国分の勇者、長命別当の備えが打ち破られるということがあった。天文5年(1536年)に伊達稙宗が大崎氏の内紛に介入したときには、国分宗綱が伊達氏に従って兵を出した。この宗綱を国分宗政にあてる説がある。江戸時代の史書では、天文5年かその翌年に、伊達氏の武将懸田義宗が国分氏の援助に派遣されて千代城に入ったが、留守景宗によって連絡を遮断されて苦境に陥ったとされる。この頃、国分氏は松森城を居城にしていたらしい。その後、今度は伊達氏で天文の乱(1542年 ‐ 1548年)が起きると、国分宗綱は稙宗側につき、晴宗についた留守景政と天文11年(1542年)11月に松森で戦った。ここまでの国分氏は、伊達氏の強い影響下にあったものの、家臣ではなかった。 ==国分盛重の入嗣と国分氏滅亡== 天正5年(1577年)に、国分氏は伊達晴宗の子、輝宗の弟にあたる伊達政重を「代官」に迎えた。国分盛氏に子がなかったためとも、子の盛顕がいる時に乗り込んだともされるが、詳しい事情は不明である。後に政重は国分盛重と名乗り、国分氏家臣団を率いる伊達氏の武将となった。盛重を迎えたのは家臣の堀江掃部允であったが、天正15年(1587年)に堀江伊勢守(同一人物説もある)が2度にわたって反乱を起こした。最初は留守政景の援助で鎮めたが、再度の反抗で伊達政宗は堀江の肩を持ち、盛重を討とうとした。盛重は謝罪して許されたが、政宗の居城である米沢に留められ、国分領に政宗の支配が直接及ぶようになった。 天正18年(1590年)までに、留守政景も国分盛重も実質的に伊達政宗の武将になっており、その年に政宗が豊臣秀吉に降伏すると同時に主君を通じて間接的に秀吉に服属したはずであった。しかし秀吉は奥州仕置で留守氏だけを独立した大名とみなし、不服従を理由に取り潰した。国分氏は伊達氏の家臣とみなされたおかげで存続したが、慶長元年(1596年)に盛重が出奔して佐竹氏に身を寄せたため、大名としての国分氏は滅んだ。国分の家臣は伊達氏直属になり、慶長5年(1600年)には国分衆として一部隊をなし、最上氏への援軍に加えられた。彼らの一部は江戸時代にも国分氏に仕えていた頃の伝統を引き継ぎ、白山神社の祭礼に奉仕した。旧臣の中には、百姓になって土着したもの、町人になって新しく作られた仙台の城下町に移り住んだものもあった。 盛重の実の男子は3人あり、うち2人は僧になってそれぞれ実永、覚順房宥実と名乗った。1人は伊達氏の家臣古内氏の養子に入り、古内重広として近世初期の仙台藩政を支えた。 ==秋田伊達家== 盛重とその養子からなる子孫は伊達氏を名乗って代々佐竹氏に仕え、秋田伊達家となった。なお、秋田武鑑では石高1,000石で後に527石、家格引渡二番坐で出羽秋田藩の家老や相手番を勤めたことや菩提寺は白馬寺、家紋九曜紋、処宗の次男と敦重の次三男が国分氏を称したのが確認できる。 また、「三百藩家臣人名事典」では国分姓を嫡子以外の男子に伝えたとある。元和8年(1622年)の大眼宗の指導者厳中の捕縛に失敗して宣宗の代で一旦断絶となるが次の隆宗が家名再興を許されて再興。 秋田武鑑で確認できる歴代当主は以下の通り。尚、宣宗以降の歴代当主は佐竹氏宗家当主より偏諱の授与を受けており、< より右側、太斜字 の人物が1字を与えた人物である。原則的に通字は「宗」(むね)。 伊達盛重(三河守)伊達宣宗(左門。実は佐竹義久(中務大輔)三子) < 佐竹義宣伊達隆宗(外記) < 佐竹義隆伊達處時(処時)(一十郎) < 佐竹義處(義処)伊達處宗(処宗)(備前。実は佐竹義秀(中務)四子で秋田新田藩主佐竹義道叔父。相手番を勤める) < 佐竹義處伊達峯宗(備前。佐竹義敦の家老) < 佐竹義峯伊達敦宗(外記。相手番を勤める) < 佐竹義敦伊達敦重(外記。敦宗弟。相手番を勤める) < 佐竹義敦伊達和宗(彦九郎。敦重の子。) < 佐竹義和 ==系譜== ===同時代的史・資料に現れる国分氏の人物=== 国分淡路守国分広政国分宗政国分宗元国分盛重 ===佐久間義和「平姓国分系図」に見える系統=== 兄弟、注記まで含めた詳しいものは、胤通から盛重の曾孫までに限り、(佐々木 1950, §.「中世の仙台地方」)に収録されている。 国分胤通国分胤茂国分胤重国分胤光国分重胤国分盛胤国分胤輔国分胤経国分盛経国分盛忠国分盛行国分盛綱国分胤実国分盛氏国分盛顕 ===古内氏所蔵の「平姓国分系図」に見える系譜=== 国分胤継国分常通国分常治国分忠治国分忠清国分重清国分重氏国分重隆国分常隆国分重頼国分忠頼国分常信国分常政 ===系図=== ====太字は当主、実線は実子、点線は養子。==== =フクロウ= フクロウ(梟、*9824*、Strix uralensis)は、鳥綱フクロウ目フクロウ科フクロウ属に分類される鳥類。 夜行性であるため人目に触れる機会は少ないが、その知名度は高く、「森の物知り博士」、「森の哲学者」などとして人間に親しまれている。木の枝で待ち伏せて音もなく飛び、獲物に飛び掛かることから「森の忍者」と称されることがある。 ==分布== スカンジナビア半島から日本にかけてユーラシア大陸北部に帯状に広く分布する。温帯から亜寒帯にかけての針葉樹林、混交林、湿地、牧草地、農耕地などに生息し、留鳥として定住性が強い。 日本では、九州以北から、四国、本州、北海道にかけて分布する留鳥で、平地から低山、亜高山帯にかけての森林、農耕地、草原、里山などに生息する。大木がある社寺林や公園で見られることがある。 ==形態== 全長は50‐62 cm、翼開長は94‐110 cm、尾長は22‐25 cm。日本のフクロウ類ではシマフクロウ(全長約71 cm)、ワシミミズク、シロフクロウ(全長約58 cm)に次いで大きく、ハシボソガラス(全長約50 cm)と同じ程の大きさ。体重はオスが500‐950 g、メスが570‐1,300 g。尾羽は12枚あり、褐色の横斑があり、やや長く扇形。上面は褐色の羽毛で覆われ、濃褐色や灰色、白い斑紋が入る。下面は白い羽毛で被われ、褐色の縦縞が入る。顔は灰褐色の羽毛で被われ、顔を縁取る羽毛(顔盤)はハート型。翼は短く、幅広い。翼下面は淡褐色の羽毛で被われ、黒い横縞が入る。雌雄同色。 平たいお面のような顔で、頭は丸くて大きい。目は大きく暗闇でも物がよく見えるように眼球が大きく発達し、眼球とまぶたの間に半透明の瞬膜があり、日中は眼球を覆い網膜を保護する。角膜は大きく盛り上がり、網膜細胞が発達している。目は、他の種類の鳥が頭部の側面にあるのに対して、人間と同じように頭部の前面に横に並んでいる。虹彩は黒や暗褐色。嘴は先端が鋭く、視野の邪魔にならないように短く折れ曲がっていて、色彩は緑がかった黄褐色。趾は羽毛で被われ、指が前後2本ずつに分かれていて、大きな指の先に鋭いかぎ状の爪が付いている。ミミズクにある羽角はなく、耳は目の横にあり、顔盤の羽毛で隠れている。 幼鳥は全身が白い羽毛で被われる。 ==分類== 日本にはエゾフクロウ、フクロウ、モミヤマフクロウ、キュウシュウフクロウの4亜種が分布し、北の亜種ほど体色が白っぽく、南の亜種ほど暗色である。 分類は諸説あり例としてIOC World Birdlist(v7.3)では10亜種を認めている。一方でClements Checklists ver. 2016では亜種S. u. dauricaと亜種モミヤマフクロウを認めずに8亜種を認めている。日本産鳥類目録 改訂第7版でも少なくとも日本産の亜種間でも分布の境目は不明瞭で、検討が必要としている。以下の分類・分布はIOC World Birdlist(v7.3)に、和名・日本産亜種の分布は日本産鳥類目録 改訂第7版に従う。 ===Strix uralensis uralensis Pallas, 1771=== ヨーロッパロシア東部、シベリア西部 ===Strix uralensis daurica Stegmann, 1929=== シベリア中南部からモンゴル北東部・シベリア南東部・中華人民共和国北東部にかけて ===Strix uralensis fuscescens Temminck & Schlegel, 1850 キュウシュウフクロウ=== 本州南部、四国、九州 ===Strix uralensis hondoensis (Clark, 1907) フクロウ=== 本州北部。以前はトウホクフクロウと呼ばれていた。 ===Strix uralensis liturata Lindroth, 1788=== ポーランド北部からスカンジナビア半島・ロシア北西部にかけて ===Strix uralensis macroura Wolf, 1810=== ヨーロッパ中部および南東部 ===Strix uralensis momiyamae Taka‐Tsukasa, 1931 モミヤマフクロウ=== 本州中部 ===Strix uralensis nikolskii Buturlin, 1907=== 中華人民共和国北東部、朝鮮半島、シベリア南東部、サハリン ===Strix uralensis japonica (Clark, 1907) エゾフクロウ=== 北海道、千島列島南部 ===Strix uralensis yenisseensis Buturlin, 1915=== シベリア中央部と北東部からモンゴル高原北西部 ==生態== 単独またはつがいで行動し、渡りは行わない。夜行性で昼間は樹洞や木の横枝などでほとんど動かず目を閉じて休息している。夕方から活動を始めるが、日中に行動することもある。冬場の獲物が少ない時や強風や雨天が続いた場合は昼間でも狩りを行ったり、保存した獲物を食べる。日中木の枝でじっとしている時にカケスなどの他の鳥に騒ぎ立てられて、他の場所へ逃げ出すこともある。森林内の比較的開けた空間や林縁部などの樹上で獲物を待ち伏せて、首を回しながら小動物の立てる物音を察知し獲物を見つけると羽音を立てずに軽やかにふわふわと直飛し獲物に近づく。足の指を広げて獲物の背中に突き立て、獲物を押さえつけて締め殺す。目は人間の10‐100倍ほどの感度があるとみられていて、目で遠近感をつかめる範囲は60‐78度と広いが、視野は約110度と狭く、これを補うために首は上下左右約180度回り、真後ろを見ることができる。体を動かさずに首だけで約270度回すことができる。発達した顔盤は小さな音を聞くアンテナとしての機能があり。左右の耳は大きさが異なり位置も上下にずれているため、音源の位置の方向と距離を立体的に認識することができる。聴覚が発達しており、音により獲物の位置を特定し、雪の下にいるノネズミや地上付近のトンネル内を移動しているモグラやミミズを仕留めることができる。 ヨーロッパ北部でのペレットの内容物調査では主に小型哺乳類、鳥類、両生類が検出され、昆虫が含まれることは2%未満でまれという報告例がある。2000年に発表された北海道での同一個体のペレットの内容物調査では主にタイリクヤチネズミが検出され(81%)、次いでアカネズミ6.8%、ヒメネズミ4%、鳥類3.6%、シマリス1.4%、ハントウアカネズミ・ドブネズミ・ヒメヤチネズミClethrionomys rutiusが0.4%ずつという報告例がある。日本でも昆虫を食べることはまれとされていたが、2009年に発表された上賀茂試験地での調査では6 ‐ 8月にかけて本種の周辺にカブトムシの成虫の死骸が多く散乱し、実際に飛翔中のカブトムシを本種が捕える様子が確認されたという報告例もある。この報告例ではメスの死骸の発見率が高く、卵を持ち高栄養価のメスを選択的に捕食していた可能性が示唆されている。2007年に発表された富士河口湖町での人工巣内でのビデオ撮影および獲物の残骸から主にアカネズミ・ヒメネズミ・スミスネズミといったネズミ類(約79.7 %)、ヤマネ、アズマモグラ・ヒミズ・ジネズミといった無盲腸類(トガリネズミ目)、ニホンノウサギ(哺乳類全体で約87.9%)、昆虫(約7.8%)、コガラ・コジュケイ・コルリなどの鳥類(約1.7%)を捕食したという報告例があり、鳥類の比率が小さいのは夜行性の本種とは活動する時間帯が重複しないためだと考えられている。食性は動物食で、主にネズミや小型の鳥類を食べるが、モグラやヒミズなどのトガリネズミ目、モモンガ、リスといった小型の哺乳類、カエルなどの両生類、爬虫類、カブトムシやセミなどの昆虫なども食べる。最も多く捕食しているものが、丸呑みし易いハタネズミの仲間の野ネズミ。ハタネズミは体長が約10cm、体重が30‐40g程度で、アカネズミやヒメネズミなどと比較して敏捷性が劣る。日齢が2‐45日の巣立ち前のヒナの1日当たりの食餌量は50‐200g、日齢46 ‐ 66日の巣立ち後の幼鳥の食餌量は約200g、日齢66以上の若鳥を含む成鳥の食餌量は約100g。捕獲した獲物を丸呑みし消化し、骨や羽毛などの消化できないものを塊(ペリット)として吐き出す。市街地近くの森林の少ない場所で巣営するものは、周辺をねぐらとするカワラバトやスズメを捕食したり、民家の屋根裏をねぐらとするアブラコウモリ、飲食店付近ではドブネズミ、夜間に電灯や自動販売機の照明に集まる大型の昆虫などを捕食することもある。秋にはたくさんのノネズミを捕獲して皮下脂肪に蓄えて冬に備える。11月から翌年の2月までにフクロウが食べた物の種類とその割合の調査結果を下表に示す。 繁殖様式は卵生。主に大木の樹洞に巣を作るが、木の根元の地上、地上の穴、屋根裏、神社の軒下や巣箱、他の鳥類の古巣などを利用することもある。フクロウが利用した巣穴には獣毛が混じったペリットが残っていることが多い。2‐4月頃に、巣営地付近で夜になると雌雄で盛んに鳴き交わす。3‐4月頃に、巣穴に巣材を使わず直接産卵を行う。白色の卵を1‐3日おきに2‐4個産み28‐35日の期間メスが胸の羽根を開いて40度の体温で抱卵する。卵は長径約5.1cm、短径4.2cm、質量50gほどで、白色無斑。卵が転がりやすい形状であるため、巣に小さな窪みを彫って産座を設ける。抱卵の期間に、オスは1日に1‐2個体の獲物を捕獲し鳴きながら巣の近くまで来てメスに獲物を受け渡す。メスは獲物を丸呑みしてすぐに巣に戻る。雛へはオスとメスの両方がネズミなどを給餌する。メスは雛へ丁寧に餌を給餌し、雛たちは温厚で互いに争うことなく、35‐40日ほどで巣立つ。雛は孵化して2週間ほどで羽毛が生えそろって体温調整ができるようになり、餌を丸呑みできるようになる。この期間にオスが巣へ運ぶ餌の量が急激に多くなり、メスも巣内に留まり、餌を食いちぎって雛へ給餌を行い、巣内のヒナの糞を食べる。孵化して約2週間後には雛の餌の量が増えるため、メスも巣を離れて獲物を捕獲するようになる。孵化して1か月ほどで巣立ち、2‐3か月両親から狩りの訓練と受けたり飛ぶ練習などを行い、その年の9‐11月頃に親から離れて独り立ちする。雛は一度巣から出ると、もう巣には戻らない。雛に餌をちぎって与えるのはメスが行い、オスは獲物をメスに渡すとまた獲物を捕りに出かける。巣立ち後約50日ごろに羽毛が生え揃い若鳥となる。通常一夫一妻制で、繁殖に成功したつがいは翌年同じ巣を利用する傾向が強い。メスの平均寿命は約8年、3‐4年目から繁殖を始めることが多く、5年ほど繁殖を続ける。 ===鳴き声=== 種類は成鳥が14種類、幼鳥が4種類存在し、鳴き声は数キロメートル先まで届くことがある。 オスは十数秒おきに犬が吠えるような低い音でで物悲しく鳴くことから、不吉な鳥とされることもある。 ===さえずり=== オスは「ゴッホウ ゴロッケ ゴゥホウ」と透き通った良く通る声でと鳴き、メスは低くかすれたあまり響かない同様な声で鳴く。 鳴き声を日本語に置き換えた表現(聞きなし)としては「五郎助奉公」や「ボロ着て奉公」、「糊付け干せ」などがあるが、「糊付け干せ」に関しては「フクロウの染め物屋」という昔話が存在する。 フクロウの染め物屋(要約) 昔々、あるところにフクロウが経営する染め物屋がありました。 そこにカラスが目立つ色に着物を染めて欲しいとやってきたので全身を真っ黒に染めてあげたところ、予想外の色にカラスは激怒し以降フクロウを見るなり追いかけまわすようになりました。 平地で暮らしていたフクロウはカラスを避けるため、誰にも見られないよう夜の森の奥深くでひっそりと「ホーホ、糊付け干せ」と鳴きながら営業をしているそうです。 ===地鳴き=== オスは「ホッ、ホッ、ホッ、ホッ……」、メスは「ギャーッ!、ギャーッ!」と鋭く濁った鳴き声で鳴く。 ==名前の由来== 学名の属名(Strix)はフクロウを意味し、種小名の(uralensis)はウラル地方を意味する。 和名は、毛が膨れた鳥であることに由来する、鳴き声に由来する、昼隠居(ひるかくろふ)から転じたなどの説がある。異名として、不幸鳥、猫鳥、ごろすけ、ほろすけ、ほーほーどり、ぼんどりなどがある。古語で飯豊(いひとよ)と呼ばれていた。日本と中国では、梟は母親を食べて成長すると考えられていた為「不孝鳥」と呼ばれる。日蓮は著作において何度もこの点を挙げている。 譬へば幼稚の父母をのる、父母これをすつるや。梟鳥が母を食、母これをすてず。破鏡父をがいす、父これにしたがふ。畜生すら猶かくのごとし ― 日蓮開目抄 「梟雄」という古くからの言葉も、親殺しを下克上の例えから転じたものに由来する。あるいは「フクロウ」の名称が「不苦労」または「福老」に通じるため縁起物とされることもある。広義にフクロウ目の仲間全体もフクロウと呼ばれている。 ==人間との関係== 1979年にフクロウ目単位でワシントン条約附属書IIに掲載されている。2009年現在は岡山県レッドデータブックで絶滅危惧II類と判定されている。2010年現在は東京都レッドデータブックにおいて区部で絶滅危惧IA類・北多摩および南多摩で絶滅危惧IB類・西多摩で絶滅危惧II類と判定されている。2011年現在は埼玉県レッドデータブックで繁殖個体群が地域別危惧、越冬個体群が準絶滅危惧と判定されている。2011年現在千葉県レッドデータブックでは重要保護生物と判定されている。2015年現在は三重県レッドデータブックで準絶滅危惧と判定されている。 ===S. u. hondoensis フクロウ=== 2010年現在青森県レッドデータブックではランクCと判定されている繁殖に適した洞穴がある森林伐採により、個体数が減少している。1971年10月から2001年3月までの31年間に新潟県愛鳥センターで保護収容されたフクロウは288羽で、その後放鳥されたものは130羽であった。5月に幼鳥が多く収容されている。仙台市八木山動物公園が1982年に日本国内で初めて繁殖に成功し、繁殖賞を受賞した。 韓国では本種が大韓民国指定天然記念物に選定されている。 ===フクロウカフェ=== 近年はフクロウと直接ふれあうことができる、フクロウカフェというものが各地に存在し、人気が高まってきているが、フクロウにとって見ず知らずの不特定多数の人間に触られることは多大なストレスになるという。特に人馴れしていない個体は、ストレスにより死んでしまうことさえあるという。そのため一部の専門家の間ではカフェそのものが動物虐待にあたるのではという声も上がっている。 ギリシャ神話において、フクロウは女神アテーナーの象徴であるとされる。知恵の女神アテーナーの象徴であることから転じて知恵の象徴とされることも多い。民話や童話においては、森林の長老や知恵袋の役割としてフクロウがしばしば登場する。 一方東洋では、フクロウは成長した雛が母鳥を食べるという言い伝えがあり、転じて「親不孝者」の象徴とされている。唐朝の武則天は政敵を貶める目的から政敵の遺族の姓を「蟒」(ウワバミ、蛇の一種)と「梟」に変えさせている。「梟帥(たける)」は地域の長を意味する。「梟雄 (きょうゆう)」は荒々しい人、盗賊の頭を意味する。獄門の別名を梟首(きょうしゅ)と言う。 その一方で前述のように縁起物とされ、フクロウの置物も存在する。またことわざの一つに「フクロウの宵鳴き、糊すって待て」というものがある。宵にフクロウが鳴くと明日は晴れるので洗濯物を干せという意味。 普段は穏やかでおとなしい気質であるため人間から非常に親しまれている鳥であるが、繁殖期には雛を守るため巣に近づく人間に対して攻撃的になる。巣に近づく人間に向かって飛びかかり、鋭い爪で目を攻撃して失明させたり、耳を引きちぎったりする事例がヨーロッパでは広く認知されている。 フクロウの主食がノネズミであることから、日本では江戸時代から畑に杭を打ってフクロウの止まり木を提供しノネズミの駆除に利用し、東南アジアでは田畑や果樹園の横に巣営場所を提供しノネズミ駆除に利用している。 初列風切羽の外弁の縁ギザギザの鋸歯状の構造には消音効果があり、新幹線500系電車の翼型パンタグラフに取り付けられたボルテックスジェネレーターや風力発電は、このフクロウの羽根の構造を参考にして開発されている。 日本の場合、一定の大きさ以内であれば、個人が飼うには届け出等は不要である。肉食であること、飼育場所は常に清潔を保たなくてはいけないこと、飛ぶことのできる相応の広さを確保しなくてはならないことなどを留意すべきである。雛の頃から育てたとしても必ずしも懐く訳ではなく、飼ってから後悔しないように、よくよく検討してから購入するべきである。正しく飼育すれば20年ほど生きる。 日本では以下の多くの都道府県でレッドリストの指定を受けている。 絶滅危惧IA類(CR)‐ 東京都区部重要保護生物(B) ‐ 千葉県絶滅危惧II類(VU) ‐ 大阪府、和歌山県、岡山県、大分県、宮崎県準絶滅危惧(NT) ‐ 栃木県、埼玉県、神奈川県、山梨県、長野県、岐阜県、静岡県、愛知県、三重県、京都府、鳥取県、島根県、山口県 希少野生生物(Cランク) ‐ 青森県 希少種 ‐ 奈良県希少野生生物(Cランク) ‐ 青森県希少種 ‐ 奈良県その他 Dランク ‐ 岩手県 希少種 ‐ 滋賀県Dランク ‐ 岩手県希少種 ‐ 滋賀県以下の日本の自治体で指定の鳥とされている。 北海道石狩郡当別町北海道釧路郡釧路町(エゾフクロウ)青森県青森市岩手県花巻市茨城県つくば市、取手市千葉県松戸市山梨県北杜市静岡県袋井市 =お猿のかごや= 『お猿のかごや』(おさるのかごや)は、山上武夫(1917年2月8日 ‐ 1987年11月2日)作詞、海沼實(1909年1月31日 ‐ 1971年6月13日)作曲による日本の童謡である。海沼にとっては出世作であり、山上にとっても初のヒット曲であった。いかにも日本の土俗的な雰囲気の世界が、威勢の良い掛け声の軽快なリズムに乗って楽しく歌い上げられる。典型的なレコード童謡と言われる。 ==来歴== ===作詞者と作曲者=== 作詞者の山上は1917年2月8日に、長野県埴科郡松代町(現長野市松代町)の書画骨董業を営む父、八太郎、母みきの二人目の子として生まれた。山上は松代商業高校(現在の長野県松代高等学校)を卒業後、詩人として身を立てたいと思い、17歳で上京した。作曲者の海沼は、1909年1月31日に、同じ松代町の老舗の菓子屋である「藤屋」の長男として生まれている。山上と海沼の実家は歩いて十分以内の距離だった。海沼は独学でバイオリンを弾くような少年であった。1931年、23歳のとき、すでに結婚し子供もいたが、東京音楽学校に入学するため上京している。山上と海沼の出会いは1937年5月27日、山上が同郷の先輩作曲家草川信を訪ねたときに海沼を紹介された。それ以来二人は、親友として互いに励ましあう仲になり、山上は海沼を兄と慕うほどであったという。二人は共にレコードの売込みにも出かけたこともある。 ===歌の誕生=== 1938年、山上は上京から4年半過ぎて、すでにレコード2曲は発表していたものの、詩人としては未だ芽が出ないままであった。その年の9月に、山上が居候していた大森の義兄宅近所にある空き地を散歩しているとき、急に曲想が浮かんできたという。その時のことを山上は次のように記している。 「お猿のかごや」は、昭和十三年の九月、東京大森の義兄宅で作詞した。義兄の好意でころがり込んだ居候時代である。 その日の東京の空は、美しいオレンジ色の夕焼けであった。 すぐ裏に、子どもたちが勝手に出入して遊ぶことのできた、近くのラジオ製作工場所有の空き地があったが、そこにげた履きで出た私は草の中をそぞろ歩きながら、夕焼け雲のかなたのふるさとを思っていた。 山国に生まれ育った私は、何よりも山が恋しかった。郷愁は常に、山を思うことから始まった。九月‐‐‐、ふるさとの山々は、秋なのである。 帰りたい。あの山に登りたい。この足で、やわらかい落ち葉を踏みたい。……私の脳裏に、幼い頃から親しんだ山道が、目の前の夕焼けの色を映して、なつかしく浮かびあがった。 その山道を、私が歩いてゆく。……いや、いつの間にか、作曲家の海沼実先生と二人なのである。 不意に、何のつながりもなく、「小田原提灯」が、パサリと揺れた。駕籠が走った。 そのひらめきにハッとして、私は現実にもどった。 あたりは暗くなりかけていた。私は慌しく踵を返した。 与えられていた三畳の部屋に入るやいなや、原稿用紙をひろげ、ペンを握った。 ―  山上武夫『「お猿のかごや」に寄せて』(昭和五十二年三月十五日) 山上はここで浮かんだ曲想を元に三番目までの詞を一気に書き上げた。ただし四番目はなかなか浮かばず、苦吟の末、夜更けまでかかってようやく四番目を仕上げた。山上は詩ができるとすぐに海沼の下に持ち込み作曲を依頼した。作曲の際に海沼は山上の歌詞を一部変更した(後述)。海沼が『お猿のかごや』に曲を付けた1938年9月頃は、海沼がようやく師の草川から自分の名前で曲を公表することの許可を得た頃であった。それ以前から山上は作曲の練習用として海沼から詞を求められ、密かに作品を提供していた。『お猿のかごや』もその一つで、生原稿を直接渡していた。 ===レコード化と大ヒット=== その後、海沼は『お猿のかごや』の売り込みにいくつかのレコード会社を奔走した。当初ビクターに持ち込んだがなしのつぶてだったという。その間に歌詞の方は1938年12月、山上が主催していた自作発表童謡誌『ゆずの木』の第4号に発表された。ようやく一年もたってレコーディングが行われ、1939年12月にビクターから正月新譜として尾村まさこの歌で発売された。レコード番号は、ビクターレコードZ‐5036。当初はB面曲としての扱いであり、A面は『動物の大行進』であった。歌詞カードも『動物の大行進』はカラーであるのに対し、本歌は単色刷りであった。ところがレコードが発売されると、レコード会社には「『お猿のかごや』のレコードが欲しい」という注文が殺到し、1940年に改めてA面曲として再発売された。なお、当時の新人作家の作品は買取りであり、印税はなく『お猿のかごや』も同様であった。レコードは大ヒットしたものの、強化されてゆく戦時体制の中でやがて消えていった。 ===戦後の復活と広がり=== 戦前のレコードも大ヒットしたものの、本歌が全国的に歌われるようになったのは戦後のことである、終戦後、1946年に音羽ゆりかご会の大道真弓が、続いて川田孝子が1948年にレコードを出し、それぞれ大ヒットしている。音羽ゆりかご会がラジオで歌い、終戦時の暗い世相の灯火として津々浦々まで全国的に広まった。また、戦後は、オリジナルの童謡としてだけでなく、いろいろなスタイルに編曲されたバリエーションも数多く発表されている。トリオ・ロス・パンチョスによるもの、ジャズ化したもの、中村メイコによる声の使い分けで物語化したものなどがある。最盛期には70種のレコードに入っていたという。テレビドラマなどでも数多く使われ、高度成長期の昭和40年代まで広範に親しまれていた歌であるという。現皇太子の徳仁親王も1963年2月23日の3歳の誕生日に『お猿のかごや』を歌ったという。2008年に、介護福祉士やヘルパーなどの養成講座の学生、老人ホームやデイサービスセンターの職員、およびその家族など合計1152人に、高齢者に好まれているとされる歌130曲について、知っているかどうかアンケートをとったところ、本曲の認知度は82.9%であった。2012年に、神戸市のソプラノ歌手が、東日本大震災の被災地に元気の出る歌を送ろう、と提案し、インターネットで呼びかけた賛同者に「エッサ エッサ エッサホイサッサ」の掛け声を送ってもらい、本人の歌声にそれを取り込んで合唱に聞こえるように編集したDVDを販売した。提案者の歌手は阪神大震災で被災後、2004年から聴衆と共に歌うコンサートを開いて来たが、一番盛り上がる歌が『お猿のかごや』だったと言う。 ==歌詞== 山上は本曲の曲想について以下のように語っている。 つまずきながら、滑りながら、ただ懸命に駆け続ける二人‐‐‐、その姿を私はいつか自分のペンで描いてみたいと思っていた。そうだ、二人はかごやなのだ。先棒はいつもリードしてくれている海沼先生。後棒はそれに従う自分。二人とも「信州の山猿」だから、擬人化して猿にしよう……。 我が家にあった、「小田原提灯」を何の迷いもなくかつぎ棒にぶらさげて……、 ―  山上武夫『「お猿のかごや」に寄せて』(昭和五十二年三月十五日) また、二番目の歌詞に登場する「すましたこんぎつね」とは、当時レコード会社を訪問しても相手にしてくれなかった気位の高いレコード会社のディレクターを指しているという。そして最後に、「むこうのお山」をヒット曲と見て、下積み状態の二人にとってそれはまだまだ遠い、と結んだのである。 猿が駕籠をかつぐ舞台として、山上は故郷松代の東条の奥にある清滝あたりを思い浮かべていたという。また作曲者の海沼は、それより北にある愛宕山の先の鳥打峠のあたりを想定して作曲したといわれる。 当初の山上の詞では、冒頭部の掛け声は「エッサ ホイサ エッサ ホイサ」となっていた。海沼は曲がつけやすいようにこれを「エッサ エッサ エッサホイサッサ」と改変した。このような作曲者による原詞の改変は当時は普通のことであったが、山上は納得できず食い下がった。しかし海沼が曲を付けて歌って見せると「うん、この方がいい」と納得したという。また海沼は、最後の掛け声も原詞の「ホイ ホイ ホイ ホイ ホイサッサ」を「ホーイ ホイ ホイ ホイサッサ」と改変し、さらに原詞になかった「ソレ」の掛け声を「ヤットコドッコイ…」の前に付け加えた。童謡研究家の池田小百合は、この改作により「歯切れよく、いっそう力強く楽しく、あかぬけたように思われる」と評している。また、「エッサ エッサ エッサホイサッサ」と「サ」の音を反復することで「おさる」の「さ」が引き出されてくる、という分析もある。 ==旋律== 本曲の拍子は四分の二拍子、 音域は変ロ音(B♭)から二音(D)までの10度である。海沼実の作曲した童謡作品の音楽的傾向を検証するため、作品を音階分析した研究によれば、海沼の童謡作品は調性や構成音などの違いにより11パターンに分類できたという。そして『お猿のかごや』は、記譜上はト短調だが、終止音はハ音(C)であり、第六音(イ音(A))が使われておらず、ハ長調ともハ短調とも断定しかねる音構成であり、他のどのパターンにも当てはまらなかった。そこでこのような曲は、調性などの判別はせず、「お猿のかごや調」というパターンにまとめている。「お猿のかごや調」に分類された曲は、分析した366曲中12曲であったが、『お猿のかごや』の他に、大ヒットした『見てござる』も含まれることから、このパターンは海沼の作品の中で一定の役割を果たしていると考えられる。別の研究では、本曲の調を「わらべうた変ロ調陽音階」と表現している。また、伴奏では、掛け声部分にユニゾンを意識的に使用して言葉の面白さを強調している。しかし、一部の掛け声部分では少し変化を付けて非ユニゾンになっており、これにより、ユニゾン部分との対照的な印象を与えている。 ==評価== 山上自身は歌詞を書き上げた直後に、「涙も、ため息も、そして自嘲も、総て裏側に隠して、コミカルなスタイルに二人を仕上げたことに、私はいささかの満足があった。」と感じている。また山上は、「二人とも同じ土地に生まれたことが詞と曲が一致する作品を生み出したと思う」と評価していた。 作曲者海沼の孫である海沼実は、「まだまだ新人同様の二人が、何とか童謡界の険しい山道を極め、多くの人々に愛唱される歌を生み出したいという想いが、歌詞の中の至る所から感じられます」と評している その他、「疾風のように駆け抜ける駕籠に、時代の勢いと懐かしさをだぶらせていた思い出がある」という回想や、「躍動感のある囃子調と旋律が融合し一度耳にしたら忘れられない名曲」という評価もある。 一方で、サブカルライターの見崎鉄は幼い頃、『お猿のかごや』に対して、曲や掛け声の軽快さにもかかわらず怖さも感じ、「怖いが気になる歌」という印象を受けたという。見崎によれば、提灯の明かりだけで日暮れの山道を走っていく、という最初の部分から、先に何かがいるのではないか、後ろから何かに襲われるのではないか、というミステリアスな物語性を感じ、三番の歌詞の不安定な身体感覚、そして四番の歌詞でも「まだ遠い」と、最後までその寂しさや不安感は持続される。 1990年5月2日に、ニューヨークのカーネギーホールで音羽ゆりかご会による童謡コンサートが開かれ、童謡・唱歌・わらべ歌など30曲が披露されたが、聴衆に一番うけたのが『お猿のかごや』であった。 ===レコード童謡=== 童謡運動時代(1918〜1928頃)の童謡は『赤い鳥』『金の星』などの童謡童話雑誌を中心に発表されていた。また、戦後に童謡の創作・発表の中心的な場となったのはラジオやテレビの放送であった。一方、昭和初期からレコードの普及に従って、レコード会社は作詞家・作曲家・少女歌手などと専属契約を結んで新作童謡を発表し始め、1930年ごろから終戦前後までの童謡は、主にレコードにより発表された。通常はそれを「レコード童謡」と呼んでいる。 レコード童謡は、理念に支えられていた童謡運動時代の童謡や、公共性という建前を持つ放送に支えられた戦後の童謡と比較すると、作者の誠意や理念にかかわらず本質的に「商品」としての性質が非常に強い、という特徴がある。芸術性や児童文化的な高度性を追求していた大正期の童謡運動と比較すると、広く売れることを第一義とするレコード童謡には、珍妙なオノマトペや過度な感傷主義に頼った低俗的な作品が多く出現した。 そのため、児童文化の世界における「レコード童謡」という言葉には、この時代にレコードで発表された童謡、という意味だけでなく「レコード会社主導で大量生産され、子供におもねた、芸術的価値の低い大衆的童謡」という含みがある。このような大衆的童謡に対する芸術派の作家たちのプライドが、「レコード童謡」と言う言葉に対する侮蔑的なニュアンスに含まれているといえる。 作曲家の服部公一は、レコード童謡の大流行により、志の低い、商業主義的な、「小市民性と通俗性に満ちた」童謡が出回って、大正期の『赤い鳥』童謡時代から続いてきた清々しい理想は崩れていった、と評し、『お猿のかごや』や『かわいい魚屋さん』をそのようなレコード童謡の代表として挙げている。また、サトウ・ハチローも1953年に朝日新聞紙上で本歌を批判している。サトウは、「あまりにもひどい童謡がハンランしてる」とし、その一例として「エッサエッサ...」や「ヤットコドッコイホイサッサ...」など本歌の囃し部分を取り上げ、「不必要なはやしことばを、むやみにくっつけたウタ...[中略]...も、よいウタとはぜったいに言えないものの一つの形だ」 と評している。海沼實の作品全体もレコード童謡として特徴付けられることが多い。 ==小田原提灯と小田原との縁== ===『お猿のかごや』と小田原提灯=== 1番の歌詞に出てくる「小田原提灯」とは、主に旅行者用の携帯型提灯の一種であり、蛇腹部分が円筒形で、折りたたむと胴部が蓋と底の中に収まって懐に携行できるようになっているものである。山上は、「もし我家に小田原提灯がなかったらこの歌は生まれていなかった」と書いている。山上の実家に小田原提灯があった理由は、実家が骨董店を経営しており、店の片隅に小田原提灯があったためである。また山上は、実際に駕籠かきが小田原提灯をぶら下げて歩くことがあったのだろうか、と長い間気にしていたが、小田原提灯保存会の会長に会って、実際にあったと聞き、四十年ぶりに安堵したと述べている。「小田原提灯」の発音に関して、1946年の海沼による自筆の譜面には「オダハラヂャウチン」と書かれており、1988年建立の歌碑にも「おだわらぢょうちん」となっている。また、コロンビアから1948年3月に発売された大道弓子版でも「おだわらぢょうちん」と歌っているが、川田孝子版では「おだわらちょうちん」と歌っている。小田原提灯は『お猿のかごや』により有名になり、歌と共に全国的に知られるようになった。1972年頃、大阪で開いた神奈川の観光物産展において小田原市のコーナーに小田原提灯を配置したところ、「これが『お猿のかごや』に出てくる提灯か」と注目を集めたという。 ===小田原の歌に=== 前述のように、本歌は作詞者・作曲者ともに小田原や箱根との直接の縁はなく、曲想も同様に、同地域や箱根越えの駕籠かきをモデルとしたものではない。しかし、「小田原提灯」という単語、および山道を行く駕籠かきのイメージから本歌を箱根越えの歌と認識されることもある。 特に小田原市では、「小田原提灯」という言葉が入っていることもあって、郷土の歌として親しまれており、小田原市の観光課では、本歌を市の観光宣伝に用いている。小田原市教育委員会発行の「小田原文化がいど」でも、本歌を「小田原のうた」の一つとして紹介している。また、小田原市では1990年8月から暮らしのテレホンガイドを始めたが、メニューに『お猿のかごや』など地元ゆかりの童謡を入れたところ人気が上昇したという。 JR東日本小田原駅では、2014年11月1日から、発車メロディーとして『お猿のかごや』が採用されている 。これは、市民からの要望を受け、小田原箱根商工会議所や小田原市観光協会などがJR東日本横浜支社に要望していたことが実現したものである。編曲は小田原出身のロックバンド藍坊主によるものである。 小田原市からの要請を受けて、小田原商工会議所青年部が新しい祭りとして創作した、「ODAWARAえっさホイおどり」は、よさこい系の祭りであるが、「小田原らしさ」として『お猿のかごや』を取り入れている。参加チームに対する規約として、”曲中に「エーッサ エーッサ...」のフレーズを必ず使用すること”。”曲に合わせて「エッサホイサッサ」の掛け声を入れて踊ること”。”両手に「猿子」と称する鳴子を持って踊ること”、等が定められている。また、小田原市では、小田原をイメージできる動きを取り入れた市民体操「おだわら百彩」を作ったが、そのイメージの一つとして「めだかの学校」「小田原提灯」、「梅」、「海」などと並んで『お猿のかごや』も含まれている。 作詞者の山上は、「先日NHKの、「お国自慢西東」でも、<小田原の歌>として採りあげているように、すでに作者の手を離れ、信州からも遠ざかって、<小田原の歌>になりつつあるように思われる」と書いている。後に山上は、小田原ちょうちん保存会に招かれたとき、「この歌を保存会さんに差し上げますよ」とも言ったという。 ==その他== ===海外への紹介=== 2010年のイタリアの国際童謡音楽祭「第53回ゼッキーノ・ドーロ」では、『お猿のかごや』の曲調をアレンジしイタリア語歌詞を施した歌『La scimmia, la volpe e le scarpe』が出場曲の一つとして歌われた。イタリア語作詞はアントネッラ・ボリアーニによる。歌唱した海沼亮午(かいぬま りょうま)は、作曲者の海沼實の曾孫にあたる。 ===歌碑=== 海沼の菩提寺である松代町の法泉寺には『お猿のかごや』の歌碑がある。碑には海沼直筆の楽譜と共に、山上が直筆した原詩(海沼による改変以前のもの)が刻まれている。 ===旋律の利用=== 『お猿のかごや』のメロディーは、通常の音楽としての利用以外に警報音や信号音としても利用されている。 1975年頃には、音響装置付信号機の誘導用メロディーとして他の20曲ほどの童謡と共に使用されていた。しかし、次第にメロディーは『通りゃんせ』と『故郷の空』の二つに絞られ、他の曲とともに姿を消した畑へのサル接近警報装置の警報音として使用された(サルを撃退するための音ではなく、サルの接近を人間に知らせるための音である)。前述のようにJR東日本小田原駅ホームの発車メロディーとして使用されている。JR西日本の特急「くろしお」では、かつて停車駅到着前後に、その駅にちなんだ楽曲の車内チャイムを流していたが、紀勢本線の椿駅では、野猿の生息地ということに因んで本曲を流していた。 ===替え歌と差別問題=== 1969年に関東の教員等の共著により東京の教育系出版社が刊行した子供会のためのゲーム集に、本歌の「えっさえっさ...」の「さ」を「た」に変えて歌ってみよう、という記述があった。これは、差別用語の繰り返しになりかねず、部落差別を煽りかねないという指摘があり、出版社は1978年暮れに当該書を絶版処分にした。また、1979年2月21日の衆議院予算委員会において、社会党代議士から、教育関係者がこのようなことを書くのは文部省の同和教育の成果が上がっていないことの表れである、として、文部省の姿勢を追及する質問がなされた。 =即位灌頂= 即位灌頂(そくいかんじょう)とは、11世紀ないし13世紀から江戸時代にかけて、天皇の即位式の中で行われた密教儀式で、その内容は秘儀とされていた。一般的には即位式の前に摂関家、主に二条家の人物から天皇に対して印相と真言が伝授される「印明伝授」と呼ばれる伝授行為と、即位式の中で天皇が伝授された印明を結び、真言を唱える実修行為を併せて即位灌頂と呼んでいるが、印明伝授と即位灌頂の実修を明確に区別する研究者もある。ここでは印明伝授と即位灌頂を併せて説明する。 ==即位灌頂が生まれた背景== 灌頂は元来、古代インドの国王即位や立太子の際行われた、灌頂水と呼ばれる水が即位する王の頭上に注がれた儀式であった。この儀式はバラモン教のヴェーダに書き記されることによって後代に引き継がれ、『ラーマーヤナ』にもラーマ王が即位式で神々から民衆に至るまで王に対して灌頂を行い、後に本来の姿であるヴィシュヌ神に戻って世を去ったと、伝えられている。やがてその灌頂の儀式が仏教儀式に取り入れられ、特に密教の中では伝法灌頂など重要な儀式とされるようになった。 日本に密教が伝来した9世紀に灌頂の儀礼が開始され、やがて密教の灌頂儀式が天皇の即位式に取り入れられ、即位灌頂が成立することになる。 日本に密教を伝えた中国では、皇帝の即位式に灌頂儀式が行われた形跡はない。これは日本と中国の、君主についての概念の差に起因していると考えられる。中国では皇帝の即位式は、皇帝と臣下との相互承認という色彩が強いのに対して、天孫降臨の神話を持つ日本では、即位式に宗教的な観念が入り込む余地が大きかったと見られる。また、灌頂が古代インドの国王即位の儀式に源流があるとはいえ、密教の教義に基づく印明伝授と実修からなる即位灌頂は、古代インドで行われていた儀式とは思想的にも内容的にも異なったものである。 平安時代の院政期、仏法の興隆が王権の興隆に直結するという仏教的国家観が意識されるようになる。その結果、金輪聖王や十善の君などといった仏教的な名称が天皇の別称とされるようになり、即位式の中にも即位灌頂のような儀式が取り入れられるようになったとの説がある。このような状況を王権仏授説と呼ぶ研究者もいる。 また古代以来、天皇が行ってきた神道儀式は中世以降衰退していった。例えば大嘗会の翌年に古くから行われてきた八十嶋祭は鎌倉初期以降行われなくなった。そして大嘗会自体や新嘗祭も、15世紀にはいったん中絶する。そのような中、天皇の宗教的権威を保つ新たな儀式として即位灌頂は生まれ、発展していったとみられる。 なお、タイ王国においても即位儀式の中に灌頂が行われているが、これはアユタヤ朝時代に、国王をバラモン教を由来とするヴィシュヌ神やシヴァ神と同一視する「テーワラーチャ(神王思想)」を取り入れたことによる。このため、ラーマ1世以降の現在のチャクリー王朝の即位式においては仏教的な儀礼を元に行っているものの、灌頂のみはバラモン僧が行うことになっている。 ==即位灌頂の実施法== 即位灌頂は、即位する天皇が摂関家、主に二条家の人物から印相と真言の伝授を受け(印明伝授)、それを即位式の中で実修する。秘儀としての性格上、記録があまり残っておらず、その内容について知ることは困難であった。しかし近年、二条家に保存されていた文書が公開され、その中に即位灌頂関連の文書もあり、即位灌頂の実践方法についての研究が進みつつある。 印相の伝授は、即位式当日に行われることが基本であったが、印明伝授者が喪に服しているなどの事由がある場合、前日になることもあった。 即位灌頂の際、天皇が結ぶ印相は金剛界大日如来を表す智拳印とされる。大日如来を表す智拳印を結ぶ点については、本地垂迹において天照大神と同一視された大日如来の印相を結ぶことによって、即位する天皇が大日如来と同一化し、至高な存在となる意味があるとされる。 真言は、胎蔵界大日如来の真言ないし荼枳尼天の真言を唱えたとされる。なお、真言を唱えると言っても発声はせず、心の中で唱えた。荼枳尼天の真言は、後述する真言系寺院に伝えられている東寺方即位法でも用いられており、即位灌頂との密接な関連が指摘されている。性に関係が深い荼枳尼天が即位灌頂と関係があることについては、網野善彦が唱えたように性と天皇との関わり合いに求める説がある。 天皇が印明を結び、真言を唱える実修については、かつては即位式の際、天皇が高御座まで歩いている間に行うと考えられていたが、最近の研究では高御座に着座してから行われたとされている。即位灌頂が秘儀であったことから、高御座に天皇が着座した直後、女官が天皇の顔を翳(さしば)で覆っている間に行われたと見られている。 上記は江戸期における二条家の即位灌頂についての文書からの分析であるが、室町時代は、例えば後奈良天皇の宸記によれば、三印三明(つまり三つの印相と三つの真言)の伝授を受け、高御座へ進むまでに第一の印相を結び、着座後に第二、第三の印相を結ぶ方式をとっており、即位灌頂の実施方法は時代によってかなり変遷があったものと推定されている。 ==即位灌頂の歴史== ===即位灌頂の開始について=== 即位灌頂がいつから開始されたのかということについてはいくつかの説がある。最も古い説では後三条天皇から始まったとされる。これは大江匡房が著した「後三条院御即位記」に、即位時、後三条天皇は笏を持たず、手で大日如来の印相をしていたと書かれていることによる。しかしこの記述をもって即位灌頂が行われたとするのには疑問との意見もある。 二条家から近年公表された、即位灌頂に関する文章の分析から、後深草天皇から即位灌頂が始まったとの説が唱えられている。これは二条康道が記した、即位灌頂時に印明伝授を行った人物を併記した天皇家の系図によると、後深草天皇は即位時、摂政であった一条実経から即位灌頂を伝授されたとしている。 後深草天皇に続く亀山天皇、後宇多天皇については即位灌頂を行ったとの資料は残っていないが、伏見天皇が即位灌頂を行ったことについては、伏見天皇宸記の記述から明らかであり、伏見天皇から即位灌頂が開始されたとする研究者もいる。伏見天皇が即位灌頂を行ったことは確かであるため、遅くとも13世紀後半には即位灌頂は始まったことがわかる。 ===二条家と即位灌頂の開始について=== 即位灌頂では、多くの場合二条家の人物が印明伝授を行ってきたが、即位灌頂の誕生の経緯から二条家が深く関わっているとの説がある。 二条家初代の二条良実は、父である九条道家と不和で、有職故実に関する文書を一切引き継げなかった。そのため有職故実を重んじる鎌倉時代当時の状況下では、政治的に大きなハンディを持つことになった。 当時、即位式に続いて行われる大嘗会で行われる神膳供進の儀では、天皇が摂関に儀式の作法についての助言を受け、それに基づいて儀式を進めていたが、伏見天皇即位時に関白を勤めていた二条師忠は、儀式進行に関する天皇からの問いに答えられず、苦境に立たされることになった。これは二条家に有職故実に関するめぼしい書類がなかったことによる。 そのため、二条師忠は兄であり、天台座主を勤めた経験もある道玄の協力を仰ぎ、伏見天皇即位時に即位灌頂という新たなる儀式を始め、二条家が置かれた苦境から脱し、他の五摂家と対抗することをもくろんだという。これはまた、摂関が大嘗会で行われる神膳供進の儀で、天皇に儀式の進め方を伝授することが摂関の大きな存在意義となったことをヒントにして、摂関が即位する天皇に対して儀式の作法を伝授する、新たなる密教儀式を取り入れたことを意味しており、即位灌頂は摂関の存在意義の一つとなっていくことになる。 この説によれば、二条家の都合がもとで開始された即位灌頂であるため、天皇の即位時、二条家が摂関を勤めていない場合、当初、即位灌頂は基本的には行われなかったものと推定する。。ただ、歴代の当主が室町幕府と江戸幕府の征夷大将軍の偏諱を受けるなど武家政権と親密であった二条家は、室町時代において摂関を勤める期間が他の五摂家と比べて長かった。自然、天皇の即位時に即位灌頂が行われる機会が増え、また、天皇家の側でも権威確立の手段の一つとなる即位灌頂を歓迎する面があり、やがて即位式に即位灌頂が定着していくことになる。 上記の説は歴史的に二条家が即位灌頂を勤める機会が多く、即位灌頂が二条家の家業として定着していくことについて説得力がある説である。後深草天皇の時には一条実経が行ったとされる説は、先に紹介した二条康道の記録にのみ見えて信憑性に疑問が残る。しかも二条家では、実経の後、一条家では口伝が断絶し、二条家のみが伝えていることを繰り返し強調している。また後伏見天皇の時は鷹司兼忠が即位灌頂を行ったとされているが、「この時の儀、秘さるる子細これ有り」と記され、二条家以外の人物が即位灌頂を行ったことはあくまで例外・不吉とされている。 ===即位灌頂と即位法=== 実際に天皇が即位式に際して実修した即位灌頂と並んで、天台宗と真言宗には、天皇が即位式で実修するための、即位法と呼ばれる印明と真言が伝えられている。一般的に天台宗の即位法は天台方、真言宗の即位法は東寺方と呼ばれている。天台方、東寺方とも複数の即位法が伝えられており、それぞれ印明と真言が異なる。天台方の即位法は、周の穆王が大日如来から法華経の偈を授けられたとする穆王説話などの説話をもとに、当初は高僧が天皇に対して印明伝授を行う内容であったのが、その後、摂関が印明伝授する内容になったとされる。一方、東寺方の即位法は両部神道などの影響が見られるとされ、当初から摂関が天皇に伝授する内容であった。 即位法はそのまま実際の即位灌頂に用いられることはなかったが、即位灌頂の成立には少なからぬ影響を与えたと見られ、特に東寺方即位法と即位灌頂との類似が指摘されている。 鎌倉時代後半から南北朝時代にかけて、天皇の存在が互いに不可欠であった摂関家と寺院勢力は、自らの存続をかけて共同で即位儀礼の中に即位灌頂を持ち込んだものと見られる。鎌倉時代後期以降、持明院統と大覚寺統の争いはやがて南北朝の対立へと進み、二人の天皇が対立するようになった。また王統分裂の影響を受け、寺院勢力の中でも分派が進んだ。そうした分派それぞれが即位法を編み出し、それら即位法は、南北朝の争いが終焉しても統一されることなく現在まで伝えられることになった。 ===二条良基の活躍と二条家の家業化=== 即位灌頂が二条家の家業となっていく過程で、足利義満と親密な関係を保ち、南北朝時代に四度にわたって摂関を勤め、大きな権力を握った二条良基の力が大きかったことについては諸説一致している。 二条良基は観応の擾乱に際して北朝再建に尽力した。また三種の神器が無い上に、譲国の詔を発する治天の君が不在で、やむなく広義門院を治天とし、即位にこぎつけた後光厳天皇以降の北朝が、天皇としての正統性に傷がついた状況にある中で、状況の改善に腐心した。二条良基は即位灌頂を北朝の天皇の新たな権威の源泉として、儀式としての整備を進めた。そして四度にわたり摂関を勤めた二条良基は、数代の天皇の即位時に印明伝授を行い、即位灌頂の儀礼としての定着にも大きく貢献した。その結果、即位灌頂が二条家の家業となっていく道筋を開いた。 また、二条良基は後円融天皇の大嘗会神膳供進の儀の際、後円融天皇に印相と真言を伝授し、天皇は儀式中に印相を結び、真言を唱えた。神道の儀式である大嘗会で印相を結び真言を唱えたという記録は今のところ他に見られないが、即位灌頂が天皇の即位式ばかりではなく、大嘗会にも関係があったことを示す興味深い記録である。なお、大嘗会が後柏原天皇以降いったん中絶したことが、他に記録がない原因である可能性がある。いずれにしても宮廷の重要儀式である即位式と大嘗会に、二条良基が深く関わっていたことがわかる。 ===即位灌頂をめぐる五摂家の争論=== 即位灌頂は天皇の即位式に不可欠な儀式として定着するにつれ、印明伝授を主に担っていた二条家に対して他の五摂家も印明伝授を求め、しばしば争論が発生するようになった。古くは1414年、称光天皇の即位に際して関白の一条経嗣と権大納言の二条持基との間に争論があったが、印明伝授をめぐる争論が本格化するのは、二条家に印明伝授が定着した江戸時代に入ってからである。 まず1611年、後水尾天皇の即位の際、二条昭実と近衛信尹との間で争論となり、時の征夷大将軍 であった徳川秀忠の裁定によって二条昭実が印明伝授を行うことに決定した。 続いて1687年の東山天皇即位の際は、時の二条家当主の二条綱平が当時、まだ16歳の若さで権大納言であり、しかも父である二条光平が死去した時、二条綱平はまだ3歳で、印明伝授の内容を父から伝えられたかどうか疑念を持たれたことから、大きな争論となった。二条家にとってさらに悪いことには、1675年の火災で二条家の文庫は全焼しており、先祖伝来の文章もほとんど失われてしまっていた。摂政の一条冬経と左大臣の近衛基煕から、まだ大臣の地位に就いておらず、父からのきちんと伝授がなされたかどうか疑わしい二条綱平ではなく、自らの家にも伝承があるので、ぜひ印明伝授を行いたいとの主張がなされた。結局この時は、霊元上皇がそれぞれの家説を確認した上で、かつて自らが受けた印明伝授を二条綱平に伝え、二条綱平が印明伝授を行うことになった。 1710年の中御門天皇即位の際は、摂政の近衛家煕と右大臣二条綱平との間で争いとなった。当時二条綱平は東山天皇の崩御に伴う服忌中であり、印明伝授を行うことが危ぶまれており、太閤であった近衛基煕の強い意向もあって近衛家が印明伝授を希望した。このときも霊元上皇の裁定によって二条家が務めることとなり、服忌中の二条綱平に代わって二条吉忠が印明伝授を行うことになった。 1735年の桜町天皇即位時も、関白である近衛家久が印明伝授を希望した。結局このときも中御門上皇が左大臣の二条吉忠に伝授を命じたが、中御門上皇は近衛家の伝承も尊重することを認めた。 1739年、桜町天皇は二条宗基に対し、印明伝授は二条家が行い続けるよう命じた。これ以降、印明伝授は二条家が行うことが確定し、争論はなくなった。 ===即位灌頂の終焉=== 江戸時代の後期になると、国学が盛んになるなどの社会の動きに対応して、仏教と神道が結びついた神仏習合に批判的な意見が見られるようになった。そのような中、即位式の仏教儀礼である即位灌頂に非難が集まるようになった。1847年の孝明天皇即位の際に行われた即位灌頂では、多くの公家たちが即位式に即位灌頂を行うことに拒否感を示した。また、即位灌頂の背景にあった須弥山説などの仏教的世界観が、地球球体説・地動説・万有引力の法則などに代表される西洋天文学の導入によってその正統性が動揺していくことになり、やがてそれらは仏教における固有の真理ととして位置づけられていく一方で、社会が共有する世界観としての地位を失うことになる。 1868年の明治天皇即位時には、即位式の神道儀礼化が追求された結果、仏教的な色彩は全て追放され、即位灌頂は廃止されることになった。 ==即位灌頂の特徴== 即位灌頂は儀式として完成した江戸期、朝廷の重要事とされた。何度も繰り返された即位時の印明伝授についての争論もその重要性の表れである。争論の渦中にあった天皇や上皇、そして摂関家の人々からその重要性が繰り返し強調された。 即位灌頂を中心的に担ってきた二条家では江戸期、即位灌頂の前に鎮守や天神に儀式の無事成功を祈り、印明伝授の直前には二条家を挙げて潔斎の神事を行った。即位灌頂は仏教に基づく儀式であるが、二条家が神道式の儀式で即位灌頂の無事を祈る点は、近世の公家社会は神仏習合の要素があったことを示すものである。 また、即位灌頂は例えば西ヨーロッパでの君主即位に行われた塗油の儀式との比較することができよう。即位灌頂は、二条家を中心とする摂関家の人物が印相と真言を伝授し、即位する天皇が実修する。摂関家の人物が印相と真言を伝授する行為は、宗教的な儀式というよりも摂関家の家業としての色彩が強い。即位灌頂の伝授と実修から聖職者は排除されており、この点が、聖職者が即位する君主に対して行う儀式である塗油との違いである。 即位灌頂を行うことにより、天皇は大日如来と同一化し、極めて高い宗教的な権威を得ることになるが、その過程で高僧など聖職者の介在がないということは、天皇は宗教界の影響力が排除された中で高い宗教的権威を持つことが可能であると言え、天皇の権威の隔絶性を意味するとされる。 もっとも鎌倉時代〜室町時代については、僧侶が印明伝授を行った例があることが指摘されており、即位灌頂の成立からその完成に至る過程の解明が期待される。 ==歴代の印明伝授者== =全日空横浜サッカークラブ・ボイコット事件= 全日空横浜サッカークラブ・ボイコット事件(ぜんにっくうよこはまサッカークラブ・ボイコットじけん)とは、1986年3月22日に東京都北区の国立西が丘サッカー場で行われた日本サッカーリーグ第22節、 全日空横浜サッカークラブ対三菱重工業サッカー部戦において全日空に所属する6選手によって実行された試合ボイコット事件である。この事件によりチームは3か月間の公式戦出場停止処分が、6選手には無期限登録停止処分が科せられた。 ==背景== 読売、日産、全日空以外の9チームは名目上は全選手がアマチュアとされているが、フジタには2人、本田には1人、住金には1人の合計4人の外国人選手が所属していた。 日本のアマチュアスポーツの統括組織である日本体育協会は、「日本体育協会アマチュア規定」に基づき、傘下に置く全ての競技団体の登録選手をアマチュアに限定していた。プロとアマチュアという2つのカテゴリや団体を擁する競技では、双方の対立関係もあって交流は絶たれ、各競技の選手意識にもプロとアマチュアという概念は厳然な区分として刷り込まれていった。その一方で、日本テニス協会では1974年に「プレーヤーズ制度」を、同様に日本卓球協会では「レジスタード・プレーヤー」の制度を設けて 実質的なプロ選手活動の承認を始めていた。1984年のロサンゼルスオリンピックにおいてプロ選手の参加が容認されるなどの世界的なオープン化の流れの中、これに対応するために日本体育協会は同年から「アマチュア規定」の改定に向けた協議を進めていた。 日本サッカー協会 (JFA) では「アマチュア規定」に基づき、選手登録をアマチュアに限定していたが、読売サッカークラブや日産自動車サッカー部や全日空横浜サッカークラブでは、選手が社業に就かずにサッカー専業で報酬を得ることが出来る「契約選手」と呼ばれる形態を非公式に採用し、チーム強化に乗り出していた。1986年3月の時点で、こうした「契約選手」は日本国内に50人以上存在していたが、日産では日本代表の中心選手だった木村和司のように推定1300万円の年収を得ている選手も存在し、レギュラー選手の平均年収はボーナスを含め700万円前後だったと言われる。こうした契約選手はサッカーを専業とすることにより同世代のサラリーマンの平均水準より多くの収入を得ることが可能となる一方、トップクラスのサッカー選手が最盛期を維持できる期間の短さや、引退後の生活の不安などから社員選手として留まる選手もいた。 こうした国内の事情を受けてJFAは、1985年11月の理事会で「ノンアマ選手登録」、翌1986年には「プロ選手登録」の導入についての方針が打ち出され協議が進められていた。その一方、各チームの選手に対する身分保障や待遇についての明確な指針はなく曖昧なままであり、またJFAでも契約選手の雇用実態を把握し、早急な対応策を講じるなどの動きはなかった。 ==経緯== ===全日本空輸の支援=== 全日空横浜サッカークラブ(以下、全日空横浜または全日空)は1964年に神奈川県横浜市に設立された「中区スポーツ少年団」を前身としている。同少年団に所属していた選手達が成長し、中学生チームやトップチームを保有するクラブチームへと発展した経緯を持ち、横浜市教育委員会の後援もあり地域に根ざした市民サッカークラブとして活動していた。 1979年から全日本空輸(現・ANAホールディングス)による支援が始まり、チーム名を「ヨコハマ・トライスター・サッカークラブ」へ改称 したが、改称後も企業チーム化することはなかった。小学生からOBに至る数百人の会員の支払う会費などで運営され、トップチームは様々な職業や身分を持つ会社員や学生によって構成されるなど、ヨーロッパや南米のクラブ組織を理想とした。一方、自前のグラウンドを保持していない事情から練習場所を捜し求めて転々とする環境下に置かれていた。 トップチームは1981年に神奈川県リーグ1部で優勝し関東社会人リーグに昇格。1983年に関東社会人リーグと全国地域サッカーリーグ決勝大会を制し、JSL2部への昇格を果たす。1984年のJSL2部では住友金属と勝ち点で並び得失点差で2位となり、JSL1部昇格を果たした。チームが短期間で成績を伸ばした背景には、全日本空輸の潤沢な資金力を背景とした他チームからの選手補強があり、関東社会人リーグに在籍していた1983年から選手への金銭授受が始まった。1986年4月20日付けの『日刊スポーツ』の報道によると、同年にJSL1部のフジタ工業を退部し、全日空に加入したフォワードのカルバリオの年収は240万円だったとされ、1986年4月20日付けの『毎日新聞』の報道によると、トップチームの選手に対して毎月、交通費2万円と栄養費4万円の合計6万円が支給されていたとされる。 JSL1部昇格と共にスポンサー企業だった全日本空輸は「株式会社全日空スポーツ」を設立。クラブに所属する17人の選手は同社に嘱託社員という身分で雇用され、事実上の契約選手となった。この際、全日空の契約選手達が得ていた給与は、ベテラン選手で年収400万円、若手選手で120万円とされる。ボーナスはなく交通費などは自己負担、これらの給与から雇用保険が差し引かれ、健康保険や厚生年金はなかった。一方、前出のカルバリオは年収600万円 を得るなど、ヨコハマ・トライスター時代からの古参選手と移籍組との間の収入面での格差が生じていた。 ===内紛=== JSL2部に所属していた時点では「ヨコハマ・トライスタークラブ」の名称で横浜サッカークラブの手によってチームは運営されていた。トップチームのレギュラー選手11人には議決権が与えられ、クラブ総会で議題が協議され運営されてきたが、全日空スポーツが設立されたことで運営は横浜サッカークラブの手を離れ、全日空スポーツが全面的にチーム運営に乗り出すことになった。 全日空スポーツはJSL1部昇格に貢献したレギュラー選手の中から2人を解雇し、契約選手に対してはシーズンオフとなる1985年2月から3月の間、給与を支払わないことを通告した。これに契約選手11人が反発し、同年2月14日から4月24日までストライキを実施。最終的に全日空スポーツ側が譲歩して2人の解雇を撤回し、ストライキの中心となったA(34歳)を選手兼助監督に、B(28歳)を主将に任命することを条件に事態を収束させた。 AとBの証言によれば、全日空スポーツの介入はトップチームのみに限定され、それまで保有していた下部組織との交流や連携は希薄になった。また、全日空スポーツによる運営が行われるようになった後も、会社側がサッカー専用グラウンドを整備するなどの動きはなかった。全日本空輸の福利厚生施設である芝生のグラウンドは一般社員の使用が最優先され、選手達は同グラウンド傍に隣接されているアスファルトの駐車場での練習や、他の練習施設を渡り歩く生活を余儀なくされた。選手達はこうした状況を改善するように全日空スポーツ側に働きかけていたが、会社側から明確な返答を得ることは出来ず、不満を募らせていった。 チームはカルバリオのほか、香港リーグでのプレー経験がある李国秀、元日本代表の横谷政樹や加藤正明らを擁していたものの、JSLカップと天皇杯では共に2回戦敗退に終わり、JSLでも成績は低迷し最下位に沈んだ。1986年2月23日に国立霞ヶ丘陸上競技場で行われたJSL第18節の日産自動車戦で敗れ、翌2月24日に行われた10位の読売クラブの試合結果により両チームの勝ち点差は10に広がった。これにより、全日空は同シーズンの11位以下の成績が確定し、4試合を残して2部降格が決まった。 全日空スポーツは2部降格が決定した1986年2月末の時点で選手兼助監督のA(34歳)、主将のB(28歳)のほか、C(31歳)、D(25歳)、韓国籍のE(23歳)の5選手 を含む9選手の解雇を決定し、来季に向けてチームの若返りを図ろうとしていた。これに対して解雇された側は、「待遇改善を求めた側を『不満分子』と見做し切捨てた」「チーム強化に貢献してきた者を利用するだけ利用して一方的に解雇する。企業乗っ取りのようだ」として反発を強めていた。 ===ボイコット=== 3月22日、西が丘サッカー場で行われる最終戦には800人の観客が詰めかけていた。この試合は、リーグの優勝争いとも降格争いとも関係のない消化試合だったが、全日空側ではシーズン終了後の引退が噂されていたカルバリオやジャイールらの送別試合を兼ねてベテラン選手中心のメンバー構成で挑むことになっていた。また、三菱側ではミッドフィールダーの名取篤のJSL通算100試合目の記念試合となっていた。先発メンバーには、A、B、C、D、Eの5人を含む11人が選ばれ、来季の契約更新が内定していたF(26歳) は控えメンバーに選ばれた。14時30分の試合開始時間まで5分前に迫った時、この6人が試合のボイコットを表明し競技場を後にした。 全日空の控え室は事態に騒然となり、試合開始時間が10分以上も遅れたため、観客席からは入場料を返金するように要求する野次が飛ぶ騒ぎとなった。栗本直監督は、控えメンバーの2人を急遽、先発メンバーに起用して8人で試合開始。それから11分後に控えゴールキーパーの大澤浩司をフィールドプレーヤーとして起用するなど、2人の選手を追加し10人で試合を行うことになった。 リーグ規定で定められている最低人数の8人を満たしたことで没収試合となることは免れたものの、試合は原博実のハットトリックの活躍もあり、6‐1と三菱が大勝。全日空は64分に大澤の得点で1点を返すに留まった。全日空はこの敗戦によりシーズン通算19敗目を喫し、JSLワースト記録を更新した。 ===選手側の主張=== 6選手は「来シーズンにむけたチームの若返り」の名目で解雇が行われたことを理由に、公式戦のボイコットを行った。その際に「必要となる諸経費を含めた給与体系の見直し」「解雇の不当性と、将来の身分保障」「練習環境の不備の改善」を訴えた。ボイコット事件の中心となったAとBは、事件後に『日刊スポーツ』の取材に応じ、次のように語った。 ファンや対戦相手の三菱重工の選手には申し訳ないことをした。しかし、今回の解雇により企業側と話し合う機会さえ失われてしまう。多くの人々に現状を知らしめるために、厳しい処分を受ける覚悟をもってあのような行動に至るしかなかった。我々は、社会人としての身分保障もなく、給与待遇、チームの長期的ビジョンも全て不明瞭なままだった。全日空の社員としてチームに在籍する者は引退後は職場に復帰すればいいが、我々にその保証はない。西ドイツのようなクラブ組織を夢見て集まった者たちが、企業に利用されるだけで終わりたくはなかった。 一方で事件当時、全日空横浜の選手だった李国秀は、「全日本空輸の支援が始まると共に増加した社員選手(同社に正社員として雇用されていた選手)と契約選手との間の確執」「設立されて間もない全日空スポーツという企業の脆弱性」に端を発した組織内トラブルが事件の根底にあり、6選手がボイコットに際して訴えた給与面の問題は重大なものではなかった、と証言している。 ===反応=== 6選手に対する批判は大きく、全日空監督(当時)の栗本直は「1部リーグ昇格を目指して戦った仲間がスポーツマンの本分を忘れ、行動に至った経緯は理解に苦しむ。私の管理責任を問われても仕方がない」と発言。同じく全日空の選手であるカルバリオは「試合放棄はもってのほかだ。彼らの事情で生活権が脅かされるのでは選手としては堪らない」と発言した。 JFAプロアマ問題懇談会座長(当時)の平木隆三は「いかなる事情があるかはさておき、一言でいうと『甘ったれ』だ」と発言した。また、1986年3月24日付けの『朝日新聞』は「このような不祥事は前代未聞である。リーグの品格を汚し、ファン軽視も甚だしい。制裁は確実」と報じた。 一方、1986年3月25日付けの『日刊スポーツ』は「JFAは早急に契約選手の立場を明らかにし、実態に即した登録制度の整備を進める時期に来ている。その警鐘となれば6選手の行動も浮かばれる」と報じた。 ==試合== {{{team1}}} v {{{team2}}} ==処分== 3月25日、JSLは東京都千代田区神田小川町にあるリーグ事務所に全日空監督の栗本と同部長代理の岡村健吾らを呼び出し、総務主事の森健児らが事情聴取を行った。この際、全日空側は事件を陳謝し、JSLのいかなる決定にも従う意志を表明 すると共に、対外試合自粛や内部責任を追及する考えも明らかにした。 3月28日、JSLは全日空のボイコットに関与した6選手をリーグ事務所に呼び出し事情聴取を行った。6選手も関係者と同様に事件を陳謝し、JSLのいかなる決定にも従う意志を表明した。一方、JSLの規定には「選手の無断欠場」に関する条文が存在しないため、双方からの聴取内容を長沼健が委員長を務めるJFA規律委員会に報告し、同委員会や理事会での協議の上で6選手の処分を決定する方針を固めた。 同日夜、JFAは緊急規律委員会を招集し、6選手に対し「国内のあらゆるチームへの登録を禁止する」仮処分を下し、翌3月29日付けで各都道府県サッカー協会に通達した。 4月1日、全日空は「JFAによる処分決定までの期間の対外試合自粛」「伊藤徹部長と栗本直監督の解任」の内部処分を決定し、JFAに報告した。また、事件再発防止のために運営体制を見直し、4月末までに改善案を提出する意向を示した。これに対し、JFA規律委員会は改善案を早急に示すように文書で要請した。 JFA規律委員会は、6選手の行動を「チームに対する不満から有料公式戦において試合放棄に及んだ行為は、待遇問題以前に社会人選手として許さざるべきことである」と指摘。同委員会は6選手を、懲罰規定の「大会運営上の違反行為」「グラウンド内外での相応しくない行為」に抵触すると結論付け、4月17日に行われた理事会において、6選手に対し無期限登録停止処分を下した。この処分は事実上の永久追放に相当するもので、6選手の選手登録だけでなく、監督やコーチとしての登録、役員としての参加も禁止する内容となった。 一方、全日空横浜に対しては事件当日から6月22日までの、3か月間の公式戦出場停止処分を下した。選手の処分に比してクラブの処分が軽微となった理由については、「事件当日の試合成立に向けて努力が払われている」「内部責任者の処分が既に行われている」「運営体制の改善が約束されている」などの点が考慮された。同日、全日空横浜は処分解除後の6月28日から行われる予定のJSLカップの出場辞退を申し出た。 ==影響== JFAは4月17日に行われた理事会で、「プロ」「ノンアマ」「アマチュア」からなる新たな選手登録制度を全会一致で承認。5月7日、日本体育協会から新たに「スポーツ憲章」が制定・施行され、各競技団体ごとに規定を設けて金銭の授受やプロ選手登録を行うことを認めたことを受けて、JFAは5月23日に開かれた理事会で新選手登録制度を最終決定し、翌5月24日付けで施行した。この国内サッカー界初のプロ選手登録制度導入の背景には、ボイコット事件が影響していると言われている。 JFAによる6選手への無期限登録停止処分は結果として全日空横浜の内部から「横浜サッカークラブ」の色彩を一掃する後押しとなった。さらに1988年にクラブ名を「全日空サッカークラブ」と改称したことで「中区スポーツ少年団」創設以来の歴史は事実上途絶えた。 一方、全日空横浜に携わっていたスタッフやOBは企業に依存することのない地域密着型クラブを標榜して、1986年9月に横浜スポーツクラブを設立。1987年に横浜サッカー&カルチャークラブと改称し、2002年にNPO法人化し横浜スポーツ&カルチャークラブと改称すると、総合型地域スポーツクラブとしてサッカーのみならず、様々なスポーツの普及活動を行っている。さらに2014年からはトップチームがJ3リーグに参戦している。 ==その後== 無期限停止処分を受けた6選手のうちB、C、Dの3選手は1989年までに処分が解除された。2012年、AとFの2選手からJFAに対して処分解除の嘆願書が提出されたことを受け、「反省の意志が示されたこと」「懲罰決定から長期間が経過していること」を考慮して同年5月10日に開かれたJFAの理事会により2人の処分解除が決定した。なお、残るEについても嘆願書が提出された時点で、処分解除が検討されている。 全日空サッカークラブは1993年に開幕したJリーグでは横浜フリューゲルスと改称し横浜市を本拠地に九州を準本拠地とする変則的なフランチャイズ制を採用したが、1998年に出資会社の全日本空輸と佐藤工業の経営不振を理由に、横浜マリノスへの吸収合併を発表した。本来、Jリーグから脱退する場合には、1年前にリーグに申請することが規約で義務付けられているが、川淵三郎チェアマンは特例として合併を認めた。 選手やサポーターは経営側の主導により決定された合併に反発し、チーム存続や合併回避を求める活動を行ったが、決定が覆ることはなかった。 =赤痢菌= 赤痢菌(せきりきん、Shigella)とは、グラム陰性通性嫌気性桿菌の腸内細菌科の一属(赤痢菌属)に属する細菌のこと。ヒトとサルのみを自然宿主として、その腸内に感染する腸内細菌の一種である。ヒトには主に汚染された食物や水を介して経口的に感染し、赤痢(細菌性赤痢)の原因になる。主に腸管の上皮細胞の細胞内に感染する通性細胞内寄生性菌であり、細胞内では細胞骨格のひとつ、マイクロフィラメントを形成するアクチンを利用して細胞質内を移動して、さらに隣接する細胞に侵入し感染を広げるという特徴を持つ。1898年、志賀潔によって発見され、その名にちなんでShigellaという属名が名付けられた。これは、病原細菌の学名に日本人研究者の名前が付いている唯一の例である。 ==細菌学的特徴== 腸内細菌科(ブドウ糖を嫌気的に発酵する、芽胞を持たない、通性嫌気性のグラム陰性桿菌)に属する細菌であり、大きさは0.5×1‐3μmぐらいの棒状で、鞭毛を持たないため運動性がない。運動性の有無の他、リジン脱炭酸を行わない点や、大部分がラクトースを分解しない点で、近縁の大腸菌やサルモネラとは生化学的に鑑別される。酸に対する抵抗性は比較的高い。このことは胃酸による殺菌を受けにくく、少量(10‐100個程度)の菌でも発病することに関与している。 赤痢菌属は大腸菌属ときわめて近縁な関係にある。これまで形態的、生化学的、病理学的な観点から、別種だと考えられてきた赤痢菌属と大腸菌属は、最近の分類に用いられているDNA‐DNA分子交雑法では両者を区別することができず、遺伝子に基づく分類学上ではこれらは同種という位置づけになることが明らかになった。しかし医学上の観点からは、赤痢菌は大腸菌に比べて重篤な疾患の原因になることが多く、両者は医学上区別する必要があるという判断から、両者にはそれぞれ別々の学名(危険名)が与えられ、別種として扱われている。 赤痢菌属は、生化学的な特徴や抗原性の違いから、A〜Dの4つの亜群(subgroup)に分けられており、これらがそれぞれ独立した種として扱われている。 A亜群: S. dysenteriae (志賀赤痢菌)B亜群: S. flexneri (フレキシネル赤痢菌)C亜群: S. boydii (ボイド赤痢菌)D亜群: S. sonnei (ソンネ赤痢菌)赤痢菌属の分離培養には、SS寒天培地やDHL寒天培地などの選択分離平板培地が用いられる。 ==赤痢菌の細胞内寄生== 赤痢菌は、感染した宿主の細胞内と細胞外の両方で増殖を行うことが可能な、細胞内寄生体(通性細胞内寄生性細菌、細胞内寄生菌)の一種である。細胞内寄生菌には、赤痢菌以外に結核菌、レジオネラなどが存在し、これら細胞内寄生菌の多くは、生体内で異物の排除を担当しているマクロファージに貪食されることで細胞内に取り込まれ、その後、その殺菌機構を逃れてマクロファージ内で増殖するものが大半である。これに対して、赤痢菌は積極的に細胞に働きかけて、細胞のエンドサイトーシスを活性化させる機能を有しているため、マクロファージ以外の、通常ならば貪食活性を持たない腸管上皮細胞に侵入できる性質を持つ。 ===上皮細胞への侵入=== 汚染された食物や水とともに侵入した赤痢菌のほとんどは、胃酸による殺菌作用を受けながらも大部分生き残り、腸管内に到達して小腸内で増殖し、大腸に到達してそこで腸管上皮細胞に感染して増殖する。この腸管上皮細胞内への侵入には、赤痢菌が持つIII型分泌装置(さんがたぶんぴつそうち)と呼ばれる、細胞質タンパク質を菌体外に分泌するための機構が関与しており、この機構を用いてマクロファージ以外の、貪食機構が発達していない上皮細胞に侵入が可能であるという点は、サルモネラや一部の病原性大腸菌(腸管侵入性大腸菌、EIEC)と共通である。ただし、赤痢菌はサルモネラとは異なり、腸管の内側(管腔側、絨毛のある側)からは、ほとんど細胞内に侵入できない。赤痢菌が腸管上皮細胞に侵入するときには、一旦、腸管内から出てその外側(基底膜側)から行われることが多い。 消化管に到達した赤痢菌は、腸管上皮にあるパイエル板に近接するM細胞(絨毛が発達せず、リンパ球やマクロファージに異物の提示や受け渡しを行う細胞)に取り込まれ、これを介してマクロファージによって貪食される。しかし赤痢菌はマクロファージに対して、Ipa‐Bによるcaspase‐1の活性化を介してアポトーシスを誘導することによって殺菌から逃れてその細胞外に逃げ出し、腸管の基底膜側に到達する。そこで赤痢菌は、腸管上皮細胞基底膜側に存在するインテグリンα5β1と結合して、細胞表面に接着する。このインテグリンとの接着が赤痢菌の細胞内侵入に必要であり、この分子が基底膜側にのみ多く存在することが侵入が基底膜側から起こる理由だと考えられている。 上皮細胞に接着した赤痢菌は、III型分泌装置を宿主の細胞に突き刺して、その細胞内部に直接、エフェクター分子と呼ばれるタンパク質を送り込む。このとき送り込まれるエフェクター分子(プラスミドにコードされた、Ipaとよばれるタンパク質)は、細胞骨格を構成するアクチンを再構成する作用を持っており、この作用によって赤痢菌が付着した周辺で細胞の形態が変化(ラフリングと呼ばれる構造変化)して、付着した菌体周辺で偽足のような構造が発達する。この偽足様構造の発達は上皮細胞のエンドサイトーシスを促進し、このエンドサイトーシスによって赤痢菌は上皮細胞内でエンドソームに囲まれた状態で取り込まれる(引き金機構)。 ===細胞質での増殖と運動=== 他の多くの細菌の場合、エンドサイトーシスによって取り込まれたエンドソームが細胞内のリソソームと結合すると、その内部に取り込まれていた細菌が殺菌されてしまうが、赤痢菌の場合は、リソソームと結合する前にエンドソームから抜け出す能力を備えているため、細胞質に逃げ出すことによって殺菌を逃れることが可能である。このような殺菌回避は赤痢菌の他に、リステリアやレンサ球菌に見られる。ただし赤痢菌の場合、この殺菌回避機構がどのような分子メカニズムによるものかはよく判っていない。赤痢菌は、このようにして感染した上皮細胞の細胞質に移行し、そこで増殖する。なお通常、細胞では細胞質に異物がある場合には、オートファジーによって異物を排除しようとする機構が働くが、赤痢菌はicsBと呼ばれる菌体表面のタンパク質によってオートファジーを抑制することで、排除されずに細胞内で増殖することが可能である。 赤痢菌は鞭毛を持たないため、細胞外では運動性を持たない(鞭毛による遊泳ができない)が、細胞質内では細胞骨格を構成するアクチンを利用して、活発に運動することが可能である。この機構には、III型分泌機構によって分泌される菌体表面タンパク質の一つ、icsA(またはVirGと呼ばれる)が関与している。icsAは赤痢菌菌体の片方の端に局在しており、アクチンを再構成し重合させる働きを持つ。このタンパク質の働きによって、icsAがある側ではアクチンの繊維が重合して積み上げられ、それを足場にする形で推進力を得て、赤痢菌は細胞質を移動する。このとき、赤痢菌が移動した跡にアクチンの繊維が残って彗星の尾やロケットのように見えるため、この現象はコメットテイル、アクチンロケットなどとも呼ばれる。アクチンロケットによる細胞質内の移動は、赤痢菌以外にもリステリアやリケッチアなどの細菌で見られる。 赤痢菌はアクチンを利用して感染細胞内を移動するだけでなく、感染した細胞から隣接する細胞にアクチンロケットを伸ばして隣接細胞に貫入し、最終的にはその細胞内に侵入する。これによって赤痢菌は周辺の細胞に感染を広げていく。 ==病原性== 詳細については赤痢の項を参照のこと。 赤痢菌属に属する4つの亜群は、いずれも細菌性赤痢の原因になる。このうちA亜群(S. dysenteriae)は志賀赤痢菌とも呼ばれ、もっとも毒性が強い。志賀毒素(シガトキシン)という外毒素を産生するものがA亜群には含まれる。毒性の強さは、B亜群(S. flexneri)、C亜群(S. boydii)がA亜群に続き、D亜群(S. sonnei)は比較的毒性が弱い。従前は、A亜群による感染が世界各地で流行していたが、衛生環境の改善により先進国では減少している。しかし先進国でもB亜群、D亜群によるものが存在しており、特にD亜群による赤痢は、症状が軽いために感染しても気付かれないケースがあり、このような不顕性感染の例が報告されている。 細菌性赤痢は、赤痢菌によって汚染された食物や水を介して経口感染することが多いが、この他、患者の排泄物を処理した後の手指を介して経口感染(糞口感染)したり、ハエによる媒介によって汚染された食物から感染する例もある。これは、赤痢菌が胃酸に抵抗性で極少数(10‐100個程度)の菌でも発病するためである。 細菌性赤痢は、下痢、発熱を主症状とし、しばしば、しぶり腹を伴う膿粘血便が見られる。「赤痢」という名称は、この出血性の下痢に由来する。これらの症状は、赤痢菌の感染による上皮組織の傷害や、感染したマクロファージや腸管上皮細胞が放出する炎症性サイトカインによって白血球が遊走し、組織の炎症を生じることによると考えられている。潜伏期間は1‐5日程度で、1週間程度で軽快する。また日本では、赤痢が流行した1950年代前後に、小児において神経障害や循環器障害などを伴い、致命率が高い疫痢(英語名もEkiri)が見られたが、その後、赤痢の発生減少に伴って、発生がみられなくなった。 日本では感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律で細菌性赤痢が三類感染症に、赤痢菌4菌種が四種病原体に指定されている。 治療は抗生物質などによる化学療法が用いられるが、赤痢菌には薬剤耐性を獲得したものが多く、多剤耐性菌も報告されているため、使用する薬剤の選択が重要である。ニューキノロン系やカナマイシン、アンピシリン、コリスチンなどの併用が行われる。有効なワクチンはまだ開発されておらず、予防には患者を完全に治療することと、環境衛生を改善することが最も重要だとされている。 サルは赤痢菌に対してヒトと同様の感受性を有する。 ===志賀毒素=== 志賀毒素(シガトキシン)は、A亜群に属する赤痢菌の一部(S. dysenteriae 1)が産生し、菌体外に分泌する毒素タンパク質(外毒素)であり、腸管出血性大腸菌が作る二種類のベロ毒素のうちの、ベロ毒素1と同じものである(ベロ毒素2とも類似性が高い)。赤痢菌の志賀毒素はプラスミド上の遺伝子にコードされていることから、ベロ毒素と志賀毒素は腸管出血性大腸菌と赤痢菌との間でプラスミドを介して伝達された可能性が高いと考えられている。 志賀毒素は、毒素としての活性を持つAサブユニット(Activeサブユニット)1個と、細胞との結合活性を持つBサブユニット(Bindingサブユニット)5個から構成される、A1B5型と呼ばれる毒素タンパク質である。赤痢菌から分泌された志賀毒素は、5つのBサブユニットによって、宿主細胞の細胞膜にあるガングリオシドの一つであるGb3に結合し、エンドサイトーシスによって細胞内に取り込まれた後、Aサブユニットだけが細胞質に入り込む。Aサブユニットは、真核細胞のリボソームに含まれる28SリボソームRNAのうち、4324番目のアデノシンに作用して、その糖鎖を切断しアデニンを切り出す活性(N‐グリコシダーゼ活性)を持つ。28SリボソームRNAのこの領域はリボソームにとって重要な領域であり、この1塩基の変化で、新しいアミノアシルtRNAがリボソームに結合できなくなる。このため、タンパク質の伸長ができなくなってタンパク質合成が阻害され、最終的に細胞傷害が起こる。 志賀毒素を産生する赤痢菌では、通常の赤痢の症状(出血性下痢)以外に、小児では腸管出血性大腸菌でも見られる、溶血性尿毒症症候群(HUS)を起こすことが知られている。 =ナゴルノ・カラバフ自治州= ナゴルノ・カラバフ自治州(ナゴルノ・カラバフじちしゅう、ロシア語: Нагорно‐Карабахская автономная область, アルメニア語: *6160**6161**6162**6163**6164**6165**6166**6167* *6168**6169**6170**6171**6172**6173**6174**6175* *6176**6177**6178**6179**6180**6181**6182**6183* *6184**6185**6186**6187*, アゼルバイジャン語: Да*6188*лыг Гараба*6189* Мухтар Вила*6190**6191*ти)は、ソビエト連邦内アゼルバイジャン・ソビエト社会主義共和国のナゴルノ・カラバフに、1923年から1991年まで設置されていた、アルメニア人のための民族自治州である。 やがて1980年代末のペレストロイカ時代になると、棚上げされていた帰属問題が再燃し、アルメニア人は自治州とアルメニアとの統合を求めて活動を開始した。しかし、これに反発するアゼルバイジャン人との衝突は遂に多数の死者を出すまでに発展し、ナゴルノ・カラバフ戦争へとつながっていった。そして、ソ連崩壊に際して自治州のアルメニア人は「ナゴルノ・カラバフ共和国」を自称し、アゼルバイジャンから事実上独立するに至った。 古くからアゼルバイジャン人とアルメニア人の間で係争地となっていたナゴルノ・カラバフは、1920年代初頭にその一帯が共産化してからも、ボリシェヴィキの間で帰属先についての見解は分かれていた。やがて曲折の末にナゴルノ・カラバフはアゼルバイジャンへ帰属することとなり、それと引き換えに住人の大多数であるアルメニア人には自治権が与えられることとなった。こうして1923年にナゴルノ・カラバフ自治州は成立したが、その実態をめぐっては両民族の間でなおも論争がある。 ==歴史== ===背景=== 南カフカース南部に位置するカラバフ(ロシア語版)は、古くからアゼルバイジャン人とアルメニア人による領土紛争の舞台となってきた。アルメニア人の側は、カラバフが古代アルメニア王国の時代から数千年に渡るアルメニア文化(ロシア語版)の中心地である、と主張する。一方アゼルバイジャン人の側は、自らがカフカース・アルバニア人(アゼルバイジャン語版)の末裔であり、アルメニア人よりも古くにカフカース・アルバニア王国を形成していたカラバフ一帯の先住者である、と主張する。 カラバフのなかでも中部の山岳地帯(ナゴルノ・カラバフ)には特にアルメニア人が集中しており、1916年の時点でナゴルノ・カラバフのアルメニア人は総人口の約70パーセントまで達していた。しかし、アゼルバイジャン側によると、それは19世紀になってからアルメニア人が入植した結果に過ぎないという。やがてロシア帝国が崩壊し、両民族がアゼルバイジャン民主共和国とアルメニア共和国として独立してからも、カラバフは南西側のザンゲズル(ロシア語版)やナヒチェヴァンと併せ、両国の係争地となっていた。 ===成立史=== ====アゼルバイジャンの共産化==== やがてアゼルバイジャンとアルメニアの対立は軍事衝突にまで発展したが、このアルメニア・アゼルバイジャン戦争(英語版)の際、ボリシェヴィキが支配していたロシア社会主義連邦ソビエト共和国は、アゼルバイジャン軍がカラバフへ出動していた虚を衝いて赤軍をバクーへ侵攻させた(赤軍のアゼルバイジャン侵攻(ロシア語版))。そして1920年4月にミュサヴァト党民族主義政権を倒し、ボリシェヴィキによるアゼルバイジャン社会主義ソビエト共和国を成立させた。 この頃のボリシェヴィキには、アゼルバイジャンと同じくアルメニアが共産化されるまでの暫定措置として、ナゴルノ・カラバフとザンゲズルをアゼルバイジャンへ編入することに賛成するアルメニア人党員も多かった。アゼルバイジャン帰属への賛成意見は、アゼルバイジャン革命委員会 (az) 議長であったナリマン・ナリマノフ(ロシア語版)の他にも、アナスタス・ミコヤンやブドゥ・ムディヴァニ、そして赤軍のセルゴ・オルジョニキゼ、ミハイル・レヴァンドフスキー(ロシア語版)などの現地活動家に強かった。 その一方で、ボリシェヴィキの党中央委員会では、これら係争地のアゼルバイジャンへの編入に反対する意見が強かった。ロシア共和国外務人民委員 (ru) であったゲオルギー・チチェーリンは、ナゴルノ・カラバフがアルメニア固有の領土であると述べたが、紛争の解決のためには係争地を2国のどちらでもなく赤軍が直轄統治すべきである、と主張した。しかし、別の党幹部であったセルゲイ・キーロフはこれに反対し、領土問題でアゼルバイジャンを冷遇すれば、未だ活発なミュサヴァトの残党を刺激し、ひいては近隣のイランやトルコでのボリシェヴィキへの不信も強まる、と反論している。 一方カラバフでは、未だドラスタマット・カナヤン(英語版)などアルメニア人ゲリラの影響は根強く、7月にはザンゲズルの編入を試みた赤軍アゼルバイジャン人部隊がアルメニア人によって撃退されている。この時、カラバフ革命委員会議長であったアサド・カラエフは「喧嘩っ早い者が大勢いる場所でロシア軍人を一人殺して、アルメニア人の仕業ということにして下さい」「ザンゲズルにこの〔アルメニア人の〕畜生どもが二度と足を踏み入れないように、まともな人間と資産は残さないでください」との強硬な書簡を他の革命委員会に対して残している(ザンゲズルは、数年前にアルメニア人ゲリラのアンドラニクによる襲撃を受け、数万人のアゼルバイジャン人が追放された土地でもあった)。 アゼルバイジャン側が係争地の領有権を主張するなか、8月になってアルメニアのダシュナク党民族主義政権とロシアとの間で交渉が持たれた。その結果、アルメニア側はナゴルノ・カラバフ、ザンゲズル、ナヒチェヴァンに赤軍の駐留を認め、これらの地域はロシアとの和平が結ばれた後、アゼルバイジャン側の合意のもとにアルメニアへ帰属するとされた。しかし、その後もアゼルバイジャン共産党(アゼルバイジャン語版)はカラバフ西部に住むクルド人の間で政治活動を行うことにより、同地をアゼルバイジャンへ接近させようと試みている。 ===アルメニアの共産化=== アゼルバイジャンの共産化から半年余りが経過すると、アルメニアのダシュナク党政権もやはり、ボリシェヴィキによるアルメニア社会主義ソビエト共和国へと取って替えられた。これに際して同年12月1日、ナリマノフはアゼルバイジャン外務人民委員部員であったミルザ・ダヴド・グセイノフとの連名で、次のような宣言を行ったとされる。 アルメニアとアゼルバイジャンとの間の国境問題は解決した。ナゴルノ・カラバフ、ザンゲズル、ナヒチェヴァンはアルメニア共和国の一部と見なされる。 ― 『コミュニスト』第2号(1920年12月2日付)より この宣言では、アゼルバイジャンによるナゴルノ・カラバフなどの放棄とアルメニアへの編入が認められている。ナゴルノ・カラバフのアルメニア帰属は、ロシア共和国民族問題人民委員であったヨシフ・スターリンも出席する翌1921年6月3日の党中央委カフカース局 (ru) 総会でも確認された。 しかしナリマノフはこれについて、単にナゴルノ・カラバフへ自治権を付与すると宣言したものが歪められて紙面へ掲載されたのだ、と後日主張し、カラバフの喪失はアゼルバイジャンでの反ソ運動を呼び起こす、と主張してアルメニアへの帰属に強硬に反対するようになった。また、アゼルバイジャン共産党中央委も、そのような合意については関知していないと主張した(ただし、ナゴルノ・カラバフのアルメニア帰属は、アゼルバイジャン共産党機関紙『バキンスキー・ラボーチー』によっても幾度も確認されている)。 ===帰属の決定=== 事態の複雑化を受け、同年7月4日のカフカース局でナゴルノ・カラバフ帰属決定のための総会が開かれた。そしてこの総会ではオルジョニキゼ、キーロフ、アレクサンドル・ミャスニコフ、ユーリー・フィガトネルによる賛成4票、ナリマノフ、フィリップ・マハラゼ、アマヤク・ナザレチャンによる反対3票の結果、ナゴルノ・カラバフのアルメニアへの帰属が決定された。しかしナリマノフはこれを不服とし、ロシア党中央委で再び問題を審議するよう要求した。そして、先の7人に加えスターリンとマミヤ・オラヘラシュヴィリが出席した翌5日の会議において、前日になされたアルメニア帰属決定は採決のないままに覆された(この逆転決定には、スターリンの意向が強く働いていたとされる)。 ムスリムとアルメニア人の友好および上下カラバフの経済的つながり、アゼルバイジャンとの恒久的関係にかんがみ、山岳カラバフは自治区の一部であるシュシャ(ロシア語版)に行政的中心を置く広範な地域的自治を付与して、アゼルバイジャン・ソビエト社会主義共和国の一部とすること ― 決議文の一節 この会議ではアルメニアへの帰属にマハラゼとオラヘラシュヴィリが反対し、ナリマノフもアゼルバイジャン人民委員会議の総辞職を盾にして強硬な態度を取った。アルメニア代表としてこの会議に出席したミャスニコフは、ナリマノフが「アルメニアがカラバフを取るならば、もはやアゼルバイジャンは石油を供給しない」と恫喝した、と語っている(ナリマノフは自治権の付与自体にも反対した)。また、マハラゼやオラヘラシュヴィリなどグルジア人の代表がアルメニア帰属へ反対したのは、当時人口の94パーセントをアルメニア人が占めていたナゴルノ・カラバフをアルメニアへ編入することが許されれば、同じく人口の72パーセントをアルメニア人が占めるグルジア南部のアハルカラキもアルメニアのものとされる危険があったためであるという。 他方、ナゴルノ・カラバフとともに帰属が争われていた地方については、ザンゲズルは同時期にガレギン・ヌジュデ(英語版)率いるダシュナクの残党による二月蜂起(英語版)のために、現地のアゼルバイジャン人は完全に駆逐されており、ナヒチェヴァンは3月にロシアとトルコ大国民議会政府(英語版)の間で締結されたモスクワ条約によって、アゼルバイジャンに統治されることが取り決められていた。このような帰属分けは、ボリシェヴィキによる分割統治の表れであると指摘される。その後、カラバフはアルメニア人への自治権が認められたナゴルノ・カラバフと、単純にアゼルバイジャンの一部としての平地カラバフ(ロシア語版)、そしてクルド人が多く住む西部のクルディスタン郡(ロシア語版)へと分割された。 1923年7月7日、アゼルバイジャン共和国中執委は最高幹部会名でナゴルノ・カラバフ自治州の創設を布告した。自治州の主都は当初定められていたシュシャからハンケンディへと移転され、さらにハンケンディはアルメニア人ボリシェヴィキのステパン・シャウミャンに因んで「ステパナケルト」と改称された。1924年11月26日に基本法典がアルメニア語、アゼルバイジャン語、ロシア語で発布され、ナゴルノ・カラバフ自治州は行政体として完成した。 ===解体史=== ====争乱の始まり==== ナゴルノ・カラバフがアゼルバイジャンへ帰属した後も、アルメニア人たちはソビエト連邦の政局が変化する度、ナゴルノ・カラバフをアルメニアへ編入するようモスクワへ訴え続けた。しかし、ソ連国外においてはナゴルノ・カラバフをめぐる運動はほとんど知られていなかった。だが、1985年にミハイル・ゴルバチョフが連邦共産党書記長に就任し、ペレストロイカなどの自由化政策が開始されると、現地のみならずロシアでも、物理学者のアンドレイ・サハロフなどの著名人がナゴルノ・カラバフのアルメニア編入を支持するようになった。さらにはソ連国外でもアメリカやフランスを始めとする各国のアルメニア人ディアスポラがナゴルノ・カラバフ編入を支持するデモを行った。 ナゴルノ・カラバフのアルメニア人もこれに勢いを得て、1988年2月20日、ついに自治州ソビエトも公然とナゴルノ・カラバフのアルメニア編入を訴えるようになった。同日にアルメニアとの合同を求める住民のデモがステパナケルトで発生し、参加者は当時のソ連において空前の数である10万人を超えた。アルメニア本国でも30万人がこれに呼応し、エレヴァンでデモを行ったが、ソ連のメディアはこれを報じなかった。これと時を同じくして、ステパナケルトでアゼルバイジャン人の女学生たちが強姦されたとの噂が流れ、これに起因して22日にアスケラン(ロシア語版)で発生した民族衝突により、2人のアゼルバイジャン人が殺害されるに至った (en)。この事件の影響から、アゼルバイジャン東部のスムガイトでアゼルバイジャン人がアルメニア人を襲撃し、30人以上の死者が発生した(スムガイト事件)。以降、アゼルバイジャンとアルメニアの両国各地で民族衝突が続発するようになり、これはソ連崩壊後もナゴルノ・カラバフ戦争として継続してゆく。 ===帰属争い=== アルメニア人によるナゴルノ・カラバフ編入要求が高まるなか、2月24日には親アゼルバイジャン派として知られていた共産党自治州委員会第一書記のボリス・ケヴォルコフ (ru) が解任され、後任に自治州のアルメニア編入賛成派であるゲンリフ・ポゴシャン (en) が就任した。アルメニア共産党(英語版)第一書記のカレン・デミルチャン(英語版)もナゴルノ・カラバフのアルメニア編入支持を公言するようになり、アルメニア指導部は3月19日、帰属問題を国際司法裁判所へ提訴すると決定した。しかし、同月23日に連邦最高会議幹部会はアルメニア人の要求を却下し、5月21日にはデミルチャンとキャムラン・バギロフ(英語版)の両国共産党第一書記が更迭された。同月には自治州を自治共和国へ昇格させようとする試みも行き詰まった。 ここに至って6月15日、アルメニア最高会議 (hy) はナゴルノ・カラバフを自国へ帰属させる決議を一方的に通過させた。2日後にアゼルバイジャン最高会議 (ru) はナゴルノ・カラバフの移管を否認する対抗決議を通過させた。すると7月12日に自治州政府はまたもアゼルバイジャンからの一方的な離脱を宣言し、州名を「アルツァフ・アルメニア人自治州」へ改称すると決定した。そしてアゼルバイジャン最高会議も即日、この決定を無効であると決定した。「法の戦争」と呼ばれたこの争いにゴルバチョフは怒りを表し、翌18日の連邦最高会議幹部会ではアルメニア側の主張をすべて退ける決定が下された。その後、中央から派遣された全権のアルカジー・ヴォリスキーが現地で積極的に調停を行ったことにより、情勢は小康状態となった。 しかし、死者を伴う衝突はその後も続き、9月にはステパナケルトからアゼルバイジャン人が、シュシャからアルメニア人がそれぞれ追放された。モスクワは同月21日、ステパナケルトとアグダム地区に非常事態宣言と夜間外出禁止令を発し、内務省軍(ロシア語版)と正規軍が現地へ投入された。11月25日には党自治州委員会がアゼルバイジャン共産党からの離脱と中央直轄の要請を決議し、公然とアゼルバイジャンからの離反を宣言した。 翌1989年1月12日、連邦最高会議幹部会はヴォリスキーを長としてその他4人のロシア人と2人のアルメニア人、1人のアゼルバイジャン人による「特別管理委員会」(hy) を自治州に設置。これにより自治州はアゼルバイジャンの統治下からモスクワの直轄へと移されたが、同時に最高会議幹部会は、自治州が法的にはアゼルバイジャン領であり続けるとの声明を発表している。 しかし、7月には自治州外シャウミャノフスク地区で、アルメニア人の要求により党地区委員会が地区の自治州への編入を決議。アゼルバイジャン側はこれを否認したが、8月16日には自治州のアルメニア人会議がまたしてもアゼルバイジャンからの離脱宣言を発した。アゼルバイジャン側はこれについても無効決定をし、秋にはさらにアゼルバイジャン側がカラバフの鉄道を封鎖して資源の供給を遮断した。特別管理委員会への幻滅から、8月16日に自治州のアルメニア人指導層は78人体制の「民族評議会」(hy) を設置。アゼルバイジャン最高会議幹部会はこれを違法としたが、民族評議会は以降も自治州の実質的権力機関となっていった。 事態が悪化の一途をたどるなか、11月28日に連邦最高会議は「ナゴルノ・カラバフ自治州の状況安定化について」の決定を採択し、アゼルバイジャンに対して自治州の待遇是正を求めるとともに、自治州をモスクワからアゼルバイジャンの統治下へ戻すことを決議した。しかし、自治州とアルメニアからの代表はこの決定をボイコットした。翌29日、党自治州委員会は党組織のアルメニア共産党への編入要請を決議。さらに12月1日には、アルメニア最高会議と自治州民族評議会がまたも自治州のアルメニア編入を決議し、民族評議会が自治州外シャウミャノフスク地区およびハンラル地区(アゼルバイジャン語版)ゲタシェン(英語版)のアルメニア人利益も代表することを謳った。6日にアゼルバイジャン最高会議幹部会はこれを否決したが、翌1990年1月9日にはアルメニア最高会議が自治州の編入決議を繰り返した。そして、1月10日にゴルバチョフはこれを否認した。 ===ソ連崩壊=== その後、5月頃にはゴスプランにも変化が生じたため、アゼルバイジャン側はこれを利用して自治州の経済を完全に掌握することに成功した。一方で5月のアルメニア最高会議選挙が自治州にも選挙区を置いた反面、9月のアゼルバイジャン最高会議選挙は自治州での実施が不可能となっていた。2国内ではアゼルバイジャン人民戦線やアルメニア全国民運動などの民族主義政党が力を伸ばし、衝突は激しさを増していった。1991年夏にモスクワで発生した保守派クーデターも失敗に終わると、その直後の8月30日にアゼルバイジャン共和国が、9月21日にアルメニア共和国が、相次いでソ連からの独立を宣言した。 アルメニア人たちは、今や独立国家と化したアゼルバイジャンに対し領土主張を行うことで国際的な非難を受けることを恐れた。そこで、自治州ソビエトはシャウミャノフスク地区ソビエトと合同し、アゼルバイジャン独立から3日後の9月2日、歴史家のアルトゥル・ムクルトチャン(アルメニア語版)を初代元首として、独立国家「ナゴルノ・カラバフ共和国」となることを宣言した。一方、新生アゼルバイジャンの議会はこれに対し、ナゴルノ・カラバフにおける自治制度を廃止するとともに行政区画を解体し、ステパナケルトもかつての名称であった「ハンケンディ」へ戻すことを11月26日に決議した (en)。 しかし、ナゴルノ・カラバフでは12月10日、独立の是非を問う住民投票が国際監視員の立会いのもと(しかし、アゼルバイジャン人の関与しない形で)実施され、総投票数10万8736票(投票率にして82.5パーセント)のうち、賛成10万8615票、反対24票で独立宣言は受け入れられた。 ==社会== 総人口  アルメニア人  アゼルバイジャン人  ロシア人 ===アルメニア人の主張=== アルメニア人の側は、自治州においては常にアルメニア人の権利が侵害され続けてきたと主張する。まず、アゼルバイジャン政府は自治州にアゼルバイジャン人を移住させることにより、アルメニア人勢力の縮小を図ったという(実際に、自治州のアゼルバイジャン人は1980年代までに3倍に増加し、アルメニア人の割合は1923年の94.4パーセントから1979年には75.9パーセントに低下している)。 学校ではアルメニア史の授業は禁止され、アルメニア語の教材も制限されたという。さらに、自治州各地に数世紀前から残る教会建築の数々も、アゼルバイジャン人によって爆破され、銃撃され、石材として転用され、当局はその修復作業も行わなかったとされる。また、アゼルバイジャン人がアルメニア人を殺しても捜査や裁判はまともに行われず、あるいは「ナショナリズムを煽らないよう」アルメニア人が犯人であるかのように報道されたという。 工場や企業なども、自治州外の遠く離れた地域の管轄に置かれたために生産計画が破壊され、自治州の工業生産は人口当たりでも常にアゼルバイジャン全土で最低であったという。このような管理形態は、ナゴルノ・カラバフの経済を破壊しアルメニア人を国外逃亡させることを目的としていた、と主張される。また、1980年から1986年の間にアゼルバイジャン全体の主要生産予算は43パーセント増加したが、同時期に自治州のそれは17パーセント減少したとされる。加えて、農産物などの供出割り当ても、農業地帯として知られるナヒチェヴァン自治共和国よりも多く、1986年の時点で人口一人当たりの家畜の供出割り当てはナヒチェヴァンの4.6倍であったという。 自治州の住居は、1980年代末の近代的な村でも、その27.2パーセントが第二次世界大戦以前に建てられたままであり、さらにそのうち36.5パーセントは十月革命以前からのものであったという。また、シュシャは1920年にアゼルバイジャン民主共和国軍によるアルメニア人の虐殺(シュシャ虐殺(ロシア語版))があって以来ゴーストタウンと化しており、その再建は1961年になるまで行われなかった。 自治州内での都市と地方を結ぶ舗装道路も、自治州とアルメニア本国までの僅かな距離を結ぶ舗装道路も敷かれることはなかった(設立当初の自治州はラチン回廊も領域としていたが、1930年代に回廊が自治州から除かれたため、以降アルメニア本国とは完全に隔たれた状態となった)。鉄道路線は、ステパナケルト=アグダム(アゼルバイジャン語版)間の18キロメートルのみに敷かれていた。1988年に中央から現地を訪れたグリゴリー・ハルチェンコは、「道路はさながら核戦争の後のようで」、水道も非衛生的であったと語っている。 ===アゼルバイジャン人の主張=== 一方アゼルバイジャン人の側は、自治州でアルメニア人が圧迫されていた事実はなく、むしろ差別を受けていたのはアゼルバイジャン人の方であると主張する。そもそもアゼルバイジャン自体がソ連の中でも最貧国であり、そのような状況下でも自治州のアルメニア人は本国よりも恵まれた暮らしを送っていた、とするデータが公式統計にも表れている。ヴォリスキーも、1989年に自治州に割り当てられた9600万ルーブルの予算のうち、アゼルバイジャン人地区への割り当ては400万ルーブルのみであったと語っている。また、アゼルバイジャン側は自治州で密かにマリファナが栽培されていたとも主張する。 1988年から翌年までに自治州では136校の中等学校がアルメニア語で授業を行っており、民族間学校の数は13校であったという。また、小さなアルメニア人集落にも文化施設「文化の家(ロシア語版)」が置かれる一方、それよりも大きなアゼルバイジャン人の村には文化の家は置かれなかったという。人口1000人比での機械化車両数も、アゼルバイジャン全体で17.5台であったところ、自治州では26.3台であったとされる。 これに加え、1988年3月にアルメニア人の社会経済学者であるチグラン・ハチャトゥロフ(ロシア語版)らが行った社会調査においても、自治州の医療体制や教育施設の状況は、アゼルバイジャン全体やアルメニア本国のみならず、ソ連全体でみても良好な部分があったとの結果が得られている(表参照)。 ==産業== 1989年の時点で、自治州の人口がアゼルバイジャン全体の2.6パーセントを占めるところ、その農業生産額はアゼルバイジャン全体の3パーセント、工業生産額は1.8パーセントを占めていた。また、1975年の産業別労働人口は、42.5パーセントが農業、21.3パーセントが製造建築、20.2パーセントが学術医療分野となっている。自治州の経済構造は第二次産業に乏しく、自治州外アゼルバイジャンへ強く依存していたと指摘される。 自治州の工業生産は、1986年の時点で人口当たり1370ルーブルと、ソ連全体での平均の4分の1を下回っている。工業企業はステパナケルトに集中しており、1987年度の生産額は1億7330万ルーブルと、州全域での工業生産の70パーセントを担っていた。 他方、畜産では食肉の生産量が人口当たり67キログラム(アゼルバイジャン全体では27キロ)、畜乳が320キロ(アゼルバイジャン全体では155キロ)と盛んであったが、食肉は67パーセント、畜乳は57パーセントが自治州外への輸出へ回されており、州内での消費量は多くなかった。家畜のなかでも特に羊や山羊、家禽が広く飼育されており、1987年には27万5000頭の羊と山羊、そして26万4000羽の鳥が養われていた。これに加え、養蚕も重要な産業の一つであった。 主要産業である農業は、なかでも穀物と飼料作物の栽培が盛んであり、両者は1985年には663平方キロメートルの作付面積をほぼ二分していた。また、ナゴルノ・カラバフの低地部、山麓部では数世紀に渡って果物栽培が続けられており、自治州の経済においても果物、とりわけ葡萄の栽培は重要な位置を保っていた。1986年には、178平方キロの作付面積から9万3100トンの葡萄が生産されている。 ==地理・行政== 1989年の時点で、自治州の面積は4388平方キロメートルであり、アゼルバイジャン全体に占める割合は5パーセントである。1977年には、行政区画は独立市のステパナケルトに加えて5つの地区に分けられ、さらに下位には1市、7町と215の村落があった。集落ソビエト(タラシケヴィツァ版)数の総計は6、村ソビエト(ロシア語版)数の総計は73である。 1987年の調査によれば、48のコルホーズと27のソフホーズが編制されており、都市人口は全体の42パーセントである。住民のうち86パーセントが標高500メートル以上に住み、さらにそのうち4パーセントが1000メートル以上の山地に暮らしていた。また、人口密度は1平方メートル当たり30人から10人の間で、北部から南部へ下るほど低くなっていた。 =ナマズ目= ナマズ目(学名:Siluriformes、英語名:Catfish)は、硬骨魚類の分類群の一つ。35科446属で構成され、ナマズやギバチなど底生生活をする淡水魚を中心に、およそ2,867種が所属する。大きくて扁平な頭部と、感覚器官として発達した口ヒゲを特徴とし、食用魚あるいは観賞魚として世界の多くの地域で利用されている。 本稿では分類群としてのナマズ目の構成(Nelson, 2006の分類体系に基づく)、およびナマズ類全般の特徴について記述する。日本に分布するナマズ科魚類の1種、ナマズ(ニホンナマズ、Silurus asotus)およびナマズに関連する文化については、ナマズの項目を参照のこと。一般的な和名のない分類名については、科名は上野・坂本(2005)、種名は江島(2008)によるカタカナ表記をそれぞれ参考とした。 ==概要== ナマズ目には2006年の時点で2,800を超える種が記載され、魚類の目の中ではスズキ目(約1万種)、コイ目(約3,200種)に次いで3番目に大きな一群となっている。現生の魚類2万8000種のおよそ1割、淡水産種(1万2400種)に限ればその2割がナマズ目の仲間で占められる。流れの緩やかな河川・湖沼から洞窟、山岳地帯の急流にいたるまで、世界中のあらゆる陸水に幅広く分布するとともに、河口・汽水域および沿岸付近で暮らす海産種も含まれる。1994年の時点(約2,400種)から10年余りの間に、新たに400種以上が新種記載されるなど、分類の拡大傾向が続いている。地球上に存在するすべての水のうち、0.01%にも満たないこれらの陸水域において獲得されたナマズ目の生物多様性を解き明かすことは、生物全体の進化や生態系の成り立ちを理解する手がかりにもなると考えられている。 一般的なナマズ類に共通する形態学的な特徴は、平たくつぶれた大きな頭部と幅広い口、そして感覚器官として発達した長い口ヒゲである。世界の多くの地域において、古来より重要な漁業資源として利用された歴史をもち、養殖も盛んに行われている。近年では中〜大型種が趣味やスポーツとしての釣りの対象になるほか、コリドラス・シノドンティス・プレコなど観賞魚として親しまれる種類も非常に多く、世界各地の水族館および個人のアクアリウムで飼育されている。このように人間との関わりを深める一方で、移植された外来ナマズが固有の生態系に影響を及ぼすなどの問題も近年各地で発生している。 ==分布== ===世界=== 南極大陸からの化石種を含めれば、ナマズ目の仲間は地球上の全大陸に分布している。所属する2,800種余りのナマズのうち、半数以上の約1,700種が南北アメリカ大陸に分布する。他はアフリカ・南アジア・東南アジアの熱帯域に生息する種類が多く、ヨーロッパ・東アジア・オーストラリアにはごく少ない。ハマギギ科・ゴンズイ科の2科にはおよそ120種の海水魚が含まれるが、その多くは汽水域、ときには淡水にも進出する。他の33科はすべて淡水魚のグループである(汽水域に進出する種類を含む)。2006年の時点で少なくとも200種の未記載種が知られており、さらに多くの未発見種が存在することも確実視されている。 ===日本=== 日本では在来のナマズ目魚類は全国各地(沖縄は海産種のみ)に分布するものの、その数は5科11種のみと極めて少ない。淡水産種としてはナマズ科ナマズ属の4種(ナマズ、イワトコナマズ、ビワコオオナマズ、タニガワナマズ)、ギギ科の4種(ギギ、ネコギギ、ギバチ、アリアケギバチ)、およびアカザ科のアカザが知られるのみである。このうちイワトコナマズ・ビワコオオナマズ・タニガワナマズ ・ギギ科の4種・アカザは日本固有種であり、前二者は琵琶湖水系のみに分布し、タニガワナマズは東海地方に分布する。種としてのナマズ(S. asotus)の分布はかつて西日本に限られていたが、江戸時代以降東日本や北海道にも移植され、現在では沖縄を除く日本全国に生息している。 日本産ナマズ類はいずれも水質や環境の悪化に伴い数を減らしているとみられ、ネコギギ・ギバチ・アリアケギバチ・アカザの4種は、環境省レッドリストにおいて絶滅危惧種、または準絶滅危惧種に指定されている。海産種としては、ゴンズイ科・ハマギギ科の3種(ゴンズイ、ミナミゴンズイおよびハマギギ)が、本州から沖縄にかけての沿岸域に分布している。ゴンズイはスクーバダイビングなどでも頻繁に観察される普通種であるが、ハマギギは東シナ海からインド洋が分布の中心で、日本近海ではごくまれにしか捕れない。 ===移入種=== 養殖目的で移入された食用ナマズや、飼育放棄された外来の観賞用ナマズが自然界に定着し、問題となっている例が世界各地で知られる。淡水産ナマズ(特に中〜大型種)の多くは生息環境における食物連鎖の上位に位置することが多く、在来の水生生物を根絶やしにするなど生態系への悪影響が懸念される。ヒレナマズ科のウォーキングキャットフィッシュ(クラリアス・バトラクス、Clarias batrachus)は、本来は東南アジアに分布する熱帯性のナマズであるが、現在ではアメリカ合衆国南部やハワイなど、世界の多くの地域に帰化している。本種は空気呼吸が可能で、陸上を移動する性質があるため容易に分布を広げやすく、国際自然保護連合(IUCN)が指定する「世界の侵略的外来種ワースト100」の一つに選定されている。 外国産ナマズの定着は日本でも問題となっている。1981年、霞ヶ浦に食用目的で導入された北アメリカ原産のチャネルキャットフィッシュ(アメリカナマズ、Ictalurus punctatus)は、1994年以降急激に数を増やしている。本種は体長1mを超える大型の捕食魚で他に天敵はおらず、外来生物法における特定外来生物として規制の対象となっている。また、ヨーロッパオオナマズ(ナマズ目中の最大種)・ウォーキングキャットフィッシュの定着が懸念されるほか、マダラロリカリアは既に沖縄への定着が確認されている。いずれも在来魚類との競合が心配され、これら3種は環境省が指定する要注意外来生物リストに掲載されている。 ==形態学的特徴== ===外部形態=== ナマズ類の体表面には鱗がなく、一般に滑らかである。体は粘液に覆われぬるぬるしていることが多いが、ロリカリア上科とドラス上科の一部では硬い骨板が瓦のように列を成している。体は全体的に左右に平べったい(側扁)が、頭部は上下に圧迫されたように平たく(縦扁)、ナマズ目魚類の外見を特徴付けている。 鼻・上顎・下顎など頭部に最大4対のヒゲをもつことが、ナマズ目魚類の大きな特徴である。口ヒゲには味蕾など感覚器官が発達し、移動および餌を探すときにはヒゲを最大限に活用している。夜間に活動するものや、視界不良の濁った水域に住む種類では眼が退化的で小さいことが多く、口ヒゲに依存する度合いが大きい。ヘテロプネウステス科・ヒレナマズ科は空気呼吸のための特殊な器官(上鰓器官)をもち、水の外でもある程度生存が可能となっている。 ナマズ目中最大の魚は、ナマズ科のヨーロッパオオナマズ(Silurus glanis)である。本種は体長3mに達することは普通で、最大では5m、体重にして330kgの個体が知られている。パンガシウス科(メコンオオナマズなど)・ピメロドゥス科(ピライーバなど)の仲間も非常に大きくなるが、目全体で見ればこれらは例外であり、ほとんどの種類は体長12cm程度の小型の魚である。スコロプラクス科には体長2cm程度で成熟する超小型種が所属している。 魚類の重要な分類形質である鰭にも、ナマズ類ならではの特徴がみられる。ほとんどのナマズは、背鰭と胸鰭の先頭に1本の「棘」(いわゆる棘条とは異なる)をもっている。この棘はしばしば強靭で鋭く、種類によっては毒腺を備える場合もあるなど、外敵に対する強力な防御手段となっている。背鰭の棘の前にはさらに小さな棘状の構造があり、この小棘を使って長い棘を機械的に固定することができる。強い棘を立てた状態で固定されると、捕食者が飲み込むことは容易ではない。 ほとんどのナマズ類は脂鰭(あぶらびれ)をもつ。脂鰭は背鰭の後方、尾鰭の近くに位置する肉質の鰭で、サケ目・カラシン目など複数のグループにみられる。脂鰭は鰭条を欠くのが普通であるが、サカサナマズ科の一部の種類は脂鰭にも鰭条をもつ。淡水魚の一群としてナマズ目と双璧を成すコイ目の仲間には脂鰭はなく、両者の重要な鑑別点の一つとなっている。ナマズ類の尾鰭の主鰭条は18本以下で、多くの種では17本であるが、アスプレド科(10本以下)などさらに少ない場合もある。尾鰭の骨格は6つの分割された下尾骨をもつものから、完全に癒合した種類までさまざまで、科以下の分類形質として利用される。 ===内部形態=== ナマズ目はコイ目やカラシン目などとともに骨鰾上目と呼ばれるグループに属し、この仲間に共通する特徴としてウェーベル氏器官(ウェーバー器官とも)をもつ。この器官は脊椎骨から変化した4つの骨片によって構成され、内耳と浮き袋を連絡し、脳に音を伝える役目を果たしている。夜行性で小さな眼しかもたないナマズ類にとっては、口ヒゲと並ぶ重要な感覚器官である。浮き袋の形態は球形〜楕円形で、底部にじっとしてあまり遊泳しない生活様式を反映してかやや退化的であり、カプセル状に変形した椎骨によって完全に包まれる種類もある。 頭部が平らになっていることは、骨格上の特徴にも影響を与えている。上顎に歯がなく、上顎の骨格そのものが全般的に退化していることが顕著な特徴で、ほとんどの科では主上顎骨は骨片化している。この骨片化した主上顎骨は、口ヒゲを動かすための筋肉の基点となっている。頭部や鰓を構成する骨の中で、下鰓蓋骨・接続骨・基舌骨を欠く。中翼状骨は退化的で、前鰓蓋骨・間鰓蓋骨も比較的小さい。また、頭頂骨と後側頭骨は多くの場合不明瞭で、それぞれ上後頭骨、上擬鎖骨と癒合しているものとみられる。翼状骨・口蓋骨・鋤骨に歯をもつ。椎骨の数は15〜100以上と科によってさまざまである。他の真骨類の魚類とは異なり、尾舌骨は個体発生の初期に腱と癒合し、特殊な骨化を行う。 ==生態== 2,800種超に及ぶナマズ目魚類はコイ目と並び最も繁栄した淡水魚の一群であり、その生態も極めて多様性に富んでいる。ナマズ類は基本的に底生性で活発に泳ぎ回ることは少なく、水底を這うようにゆっくりと泳ぐものが多い。多くは夜行性で、口ヒゲを活発に動かして周囲を探りながら移動する。ロリカリア科など流れの速い渓流に分布する科では口が吸盤状に変化していることがあり、岩などに張り付くことで激流をやり過ごす。 ===毒性=== ナマズ目の魚には体内に毒を含むもの、あるいは毒腺を通じて体外に毒液を分泌する種類が知られる。毒液は背鰭と胸鰭(多くの場合は後者)の棘から分泌される。ほとんどの毒ナマズ類にとってこれらの棘は防衛手段であり、積極的に攻撃を行うことは少ない。インドに分布するレッドキャット(Heteropneustes fossiles、ヘテロプネウステス科)など一部の種類に限り、毒棘を使って他の魚や人間を襲う習性をもつことが知られる。日本沿岸にも分布する海産種のゴンズイ(Plotosus lineatus、ゴンズイ科)がもつ毒は強力で、刺された場合死に至ることもある。 ===発音=== ドラス科やギギ科などのナマズ類には、胸鰭の棘や浮き袋の振動を利用して音を出すことができる種類がある。日本を含めた東アジアに分布するギギ(Pelteobagrus nudiceps)は、胸鰭の棘を使って出す威嚇音が和名の由来となっている。これらのナマズ類は漁獲された際にも発音することから、外敵への警告の役割をもつものとみられるが、仲間同士の伝達手段として用いられているかどうかは不明である。 ===発電=== デンキナマズ科は発電を行う魚類として知られている。特にデンキナマズは最大で400ボルトを超える電圧を出すことが可能で、これは魚類としてはデンキウナギ(600ボルトに達する)に次いで高い発電力である。デンキナマズ科に限らずナマズ目魚類の多くには、体表(特に吻と頭部背側)に電場を感じ取る受容器があり、水中での電場の変化に敏感に反応していると考えられている。ナマズ類の電気受容器は、軟骨魚類がもつロレンチーニ器官と似た瓶型の形状をしているが、動毛の有無など細胞レベルでの微細形態に違いがある。夜行性の種類が多いナマズ類にとっては、口ヒゲやウェーベル氏器官と並ぶ重要な感覚器として機能するとみられる。 ===繁殖=== ナマズ目魚類の繁殖様式は群によってさまざまな形態をとる。ほとんどのナマズ類は魚類で一般的な体外受精による繁殖を行うが、アウケーニプテルス科の仲間は雄が交接器をもち、交尾による体内受精をする。コリドラス亜科の一部では雌が精子を飲み込み、腸管を経由して体内受精させるという特異な繁殖様式が知られる。親魚が卵や稚魚を保護する習性をもつ種類も多く、水底の砂をクレーター状に掘った巣を作るもの、カッリクテュス亜科など水面に泡巣を作るものなどがある。また、海産のハマギギ科の仲間は雄が卵を口の中にくわえて保護する、いわゆるマウスブルーダーとしての子育てを行う。 アフリカのタンガニーカ湖に生息するサカサナマズ科の1種(Synodontis multipunctatus)は、シクリッド(スズキ目)など他のマウスブルーダーに卵を預け稚魚を育てさせる托卵を行う、極めて珍しい習性をもつ魚類である。預けられたナマズの稚魚は、宿主であるシクリッドの卵よりも早く孵化・成長し、最終的には稚魚を食べ尽くしてしまう。このように宿主にとって利益のないカッコウ型の托卵を行う魚類は、本種以外には知られていない。 マラウィ湖に住むギギ科のカンパンゴ(Bagrus meridionalis)は、孵化後に雌親が多量の未受精卵を産み、稚魚に食べさせる習性がある。S. multipunctatus の例とは逆に、カンパンゴの巣には多くのシクリッド類が稚魚を預けにやってくる。 ==漁業== ナマズ目の魚類は世界各地で古くから食用魚として利用された歴史をもつ。漁獲対象とされるのはアメリカナマズ科(北アメリカ)、ナマズ科・パンガシウス科(アジア)、およびヒレナマズ科(アジア・アフリカ)に所属する中・大型種が多く、これらの淡水産種は養殖も各地域で盛んに行われている。 国際連合食糧農業機関(FAO)の統計によれば、1950年代には10万トン余りであった世界のナマズ目魚類の総漁獲量は年々増加し、1990年代後半には100万トンを超えた。2000年代以降も増加の勢いは衰えず、2000年に120万トンだった世界の総漁獲量は、2006年の時点で倍以上の260万トンに達している。地域別に見るとアジア・アフリカ地域での伸びが顕著で、特にアジアでは2000〜2006年にかけて約3倍の増加(60万トン→180万トン)を記録している。同じ期間において、南北アメリカでは40万トン台、ヨーロッパでは1万トン台で大きな変動もなく推移しており、近年のアジア地域の伸びが突出していることがわかる。 2006年の総漁獲量260万トンのうち、養殖ナマズが180万トンを占める。アジア・アフリカ両地域での漁獲量増大もまた、内水面での養殖業の発達によって支えられている。アジアにおける淡水ナマズ類の養殖による水揚げは、1990年・2000年・2006年の各時点でそれぞれ7万5千トン・24万トン・145万トンと、著しい上昇を示している。アフリカでは2000年の時点で7千トン弱であった漁獲量が、2006年には8万トンと10倍以上に増加した。生産額の面でも同様の成長がみられており、アジア地域では2006年に16億ドル(2000年時点で3億ドル)に達している。 海産のナマズ類としてはハマギギ科の漁獲量が比較的多く、アジア地域での水揚げは1990年代以降、ほぼ継続して20万トン台となっている。もう一つの海棲ナマズのグループであるゴンズイ科は、同地域・同年代で1〜3千トンの漁獲量に留まっている。 ==化石記録== 最古のナマズ目魚類の化石は、白亜紀後期(〜6500万年前)の地層から発見されている。化石種はオーストラリア大陸を除く6大陸から見つかっており、南極大陸からは始新世から漸新世(5,500〜2400万年前)にかけての地層から報告がある。ボリビアのマーストリヒト期(白亜紀最後の期)から暁新世(7,100〜5500万年前)にかけての地層から出土した3属(Andinichthys、Incaichthys、Hoffstetterichthys)は絶滅科 Andinichthyidae 科としてまとめられているが、現生の35科との関係はよくわかっていない。一方、北アメリカ産の始新世の化石種(1属2種)は Hypsidoridae 科として記載され、現生のケートプシス上科とロリカリア上科の中間に位置付けられるグループであると考えられている。このほか、帰属未定の絶滅属がいくつか知られている。 日本においては、古琵琶湖層群(現在の三重県上野盆地付近)の3〜400万年前の地層から、ナマズ科魚類の化石が見つかっている。これより遥か以前、香川県讃岐層群における中新世の地層(約1500万年前)からは、世界最古のナマズ科魚類の化石が発見されている。この化石種にみられる骨格上の特徴は現生のいずれの種にも該当せず、ナマズ科の共通祖先にあたるグループに含まれる可能性がある。 最古の化石が南アメリカで出土していること、原始的な特徴を残すディプロミュステース科やケートプシス科の仲間が南アメリカに分布していることなどから、ナマズ目の起源は南米とみなされることが多い。ナマズ目の姉妹群であるデンキウナギ目が南アメリカのみに生息することも、南米起源説の有力な証拠と捉えられている。全大陸へのナマズ類の拡散には、大陸移動が関与しているとみられるものの、起源および多様な種を獲得するに至る過程については、いまだ統一見解は得られていない。 ==分類== ナマズ目の分類は近年大きく変遷を重ねているが、本稿ではNelson (2006) において採用された11上科35科446属2,867種(絶滅群を除く)の分類体系に基づいて記述する。2005年には新たな科として Lacantuniidae 科の設置が提案されているが、本分類での採用は見送られている。ナマズ目は同じ骨鰾上目のネズミギス目・コイ目・カラシン目・デンキウナギ目と近縁で、特にデンキウナギ目とは極めて近く、互いに姉妹群の関係にある。このため両者を一つの「ナマズ目」にまとめ、ナマズ類とデンキウナギ類をそれぞれ亜目として扱う体系もある。 ナマズ目の単系統性、および各科の系統順位に関する研究は大幅な進展を見せているものの、下位分類群を区別するための鑑別点は必ずしも明瞭ではないなど、未解決の問題は多数残されている。各科のナマズ類にはそれぞれ進化の過程で新たに獲得した形質(共有派生形質)と、二次的に退化したと思われる形質とが複雑に入り乱れており、現在の分類はあくまでも暫定的なものに過ぎない。近年、アメリカ国立科学財団 (NSF) によるプロジェクトとして、ナマズ目全種の詳細な目録作成 (All Catfish Species Inventory, ACSI) が開始され、分類体系の確立へ向けての努力が進められている。 ===ディプロミュステース上科=== ディプロミュステース上科 Diplomystoidea は1科2属6種からなる。ナマズ目で最も原始的な特徴を残し、他のすべてのナマズ類の起源となった一群と考えられている。 ===ディプロミュステース科=== ディプロミュステース科 Diplomystidae は2属6種。チリ・アルゼンチンなど南アメリカ南部に分布する。よく発達した上顎と歯を備えるとともに、主鰭条18本の尾鰭をもち、これは現生のナマズ目魚類としては唯一本科のみに見られる特徴である。耳石の形態にも特徴がある。ヒゲは上顎に1対のみある。皮膚は小さな突起で覆われ、骨板はもたない。背鰭・胸鰭に棘があり、脂鰭をもつ。 Diplomystes 属Olivaichthys 属 ===ケートプシス上科=== ケートプシス上科 Cetopsoidea は1科7属23種からなり、すべて南アメリカに分布する。 ===ケートプシス科=== ケートプシス科 Cetopsidae は2亜科7属23種を含む。かつて独立の科として存在したヘロゲネス科は、本科の亜科として含まれた。ヒゲは両顎に計3対あるが、発達は悪く短いものが多い。体は滑らかで骨板はない。臀鰭の基底が長く、背鰭・胸鰭には棘がない。 ケートプシス亜科のナマズ類は一般に魚食性で、大型魚を集団で襲うなど攻撃的な性質をもつ種類が多く、トリコミュクテールス科の一部とともにカンディルと総称されている。 ケートプシス亜科 Cetopsinae 6属19種。脂鰭を欠く。浮き袋は縮小しており、骨に包まれるように存在する。背鰭は体の前半部分に位置する。 Bathycetopsis 属 Cetopsis 属 Denticetopsis 属 Hemicetopsis 属 Paracetopsis 属 Pseudocetopsis 属Bathycetopsis 属Cetopsis 属Denticetopsis 属Hemicetopsis 属Paracetopsis 属Pseudocetopsis 属ヘロゲネス亜科 Helogeneinae 1属4種。枯葉に擬態した茶褐色の体色をもち、流れの緩やかな河川に生息する。小さな脂鰭をもつことがある。尾鰭の主鰭条は15または16本と少ない。 Helogenes 属Helogenes 属 ===Hypsidoroidea 上科=== Hypsidoroidea 上科は化石種のみを含む絶滅群であり、1科1属2種で構成される。よく発達した上顎をもつなど、ディプロミュステース科と共通した特徴を有する。 ===Hypsidoridae 科=== Hypsidoridae 科は1属2種からなる絶滅科である。アメリカのワイオミング州およびオレゴン州から、始新世中期の化石が知られている。上顎が発達し、歯をもつ。尾鰭の主鰭条は17本。 Hypsidoris 属 ===ロリカリア上科=== ロリカリア上科 Loricarioidea は7科156属で構成され、ナマズ目全体の三分の一以上、1,187種が含まれる大きなグループである。アンピリウス科のみアフリカに、他6科は南アメリカを中心に分布し、プレコやコリドラスなど観賞用の小型熱帯魚が多数所属している。 ===アンピリウス科=== アンピリウス科 Amphiliidae は3亜科12属66種を含む。アフリカ大陸の熱帯地方に広く分布する。高標高の渓流域では特に一般的な小型種で、ほとんどの種類は川の急流に逆らい岩を登ることができる。ヒゲは3対で、鼻部にはない。背鰭・臀鰭の基底は短い。鰭には棘がなく、脂鰭をもつ。 Amphiliinae 亜科 2属26種。体は比較的短く、骨板はない。口はやや下向きにつく。 Amphilius 属 Paramphilius 属Amphilius 属Paramphilius 属Leptoglaninae 亜科 5属16種。長く突き出した上顎が特徴。 Leptoglanis 属 Zaireichthys 属 他3属Leptoglanis 属Zaireichthys 属他3属Doumeinae 亜科 5属24種。体は細長く、体は発達した骨板によって覆われる。口は下向き。 Doumea 属 Phractura 属 他3属Doumea 属Phractura 属 ===トリコミュクテールス科=== トリコミュクテールス科 Trichomycteridae は8亜科41属201種で構成される。中央アメリカの一部(コスタリカ・パナマ)から南アメリカ全域に分布する。体は滑らかで細長い。ヒゲは鼻部と上顎にあり、下顎にはないことが多い。脂鰭はもたない種類が多く、一部には腹鰭を欠くものもいる。鰓蓋骨にトゲをもつ。 Vandelliinae 亜科と Stegophilinae 亜科のナマズ類はその特異な生態から、英語で「parasitic catfish(寄生性ナマズ)」と総称されることがある。Vandelliinae 亜科には吸血性の種類が含まれ、他の魚類や動物の皮膚に噛み付いて血を吸い、鰓孔から体内に侵入することもある。ブラジルに分布する Vandellia 属の仲間(一般にカンディルと呼ばれる)は特に危険な魚類として知られ、人間の尿道に侵入し深刻な被害を与えた例が報告されている。Stegophilinae 亜科の魚類は他の魚の粘膜や鱗を主な餌とする。 Copionodontinae 亜科 2属4種。ブラジル北東部に分布。脂鰭がよく発達し、背鰭の基部は体の前半にある。 Copionodon 属 Glaphyropoma 属Copionodon 属Glaphyropoma 属Trichogeninae 亜科 1属1種。ブラジル南東部に生息し、臀鰭の基底が長い。 Trichogenes 属Trichogenes 属Trichomycterinae 亜科 8属139種。生息域が幅広く、河口付近から標高4,500mの高地にまで及び、急流の中に住む種類もいる。性質は一般に温和で、カンディル類のような攻撃性はもたない。本亜科は単系統性を否定された一群で、再検討の必要性が指摘されている。 Ituglanis 属 Trichomycterus 属 他6属Ituglanis 属Trichomycterus 属他6属Vandelliinae 亜科 4属9種。吸血性など特異な生態をもつ種類を含む。 Plectrochilus 属 Vandellia 属 他2属Plectrochilus 属Vandellia 属他2属Stegophilinae 亜科 12属26種。他の魚類を襲い、粘膜などを食べる種類がある。 Stegophilus 属 他11属Stegophilus 属他11属Tridentinae 亜科 4属7種。臀鰭の基底は比較的長い。 Tridentopsis 属 Tridens 属 他2属Tridentopsis 属Tridens 属Glanapteryginae 亜科 4属9種。尾鰭の主鰭条は11本以下と少ない。腹鰭とその骨格をもたない種類が多く、2種を除き背鰭も欠く。下尾骨は完全に癒合する。体は透明で、砂に潜って生活する。 Glanapteryx 属 Listrura 属 他2属Glanapteryx 属Listrura 属Sarcoglanidinae 亜科 6属6種。アマゾン川流域に分布する。得られた標本数が極めて少なく、詳細がほとんど知られていない一群である。 Sarcoglanis 属 他5属Sarcoglanis 属他5属 ===ネーマトゲニュス科=== ネーマトゲニュス科 Nematogenyidae は1属1種。チリ中央部に生息し、トリコミュクテールス科と姉妹群の関係にあるとみられている。体は滑らかで細長い。ヒゲは3対あり、両顎と鼻部に存在する。脂鰭をもたず、鰓蓋骨のトゲもない。背鰭は体の中央、腹鰭と向かい合わせに位置する。 ネーマトゲニュス属 Nematogenys ===カッリクテュス科=== カッリクテュス科 Callichthyidae は2亜科8属177種を含み、パナマおよび南アメリカに分布する。カリクティス科と表記されることもある。 頭部の骨格が非常に頑健であるほか、体表面が2列に並んだ骨板で覆われることが大きな特徴である。骨板は規則正しく瓦状に並び、側線上で互いに重なる。浮き袋は小型化し、骨に包まれる。口は小さく腹側についており、よく発達した1‐2対のヒゲをもつ。背鰭・胸鰭の棘は強靭で、脂鰭にも棘がある。一部の種類はある程度の空気呼吸が可能で、短距離であれば地上を移動することもできる。 カッリクテュス亜科 Callichthyinae 5属13種。吻(口先)は平たい。 Callichthys 属 Lepthoplosternum 属 他3属Callichthys 属Lepthoplosternum 属コリドラス亜科 Corydoradinae 3属164種。吻は丸みを帯びることがある。 コリドラス属 Corydoras 他2属コリドラス属 Corydoras ===スコロプラクス科=== スコロプラクス科 Scoloplacidae は1属4種。南アメリカに分布する。1976年に初めて記載された新しい一群で、体長2cm程度で成熟する超小型種を含む。体の両側に1列ずつ、腹部中央に1列の特殊な骨板が並ぶ。脂鰭を欠く。尾鰭の主鰭条は少なく、10‐12本。 スコロプラクス属 Scoloplax ===アストロブレプス科=== アストロブレプス科 Astroblepidae は1属54種からなる。パナマと南アメリカに分布する。山岳地帯の急流域における生活に適応した一群で、標高3,500mまでの渓流に生息し、滝を登ることさえある。ほぼすべての種が口に円形の吸盤をもち、岩などに張り付いて水流をやり過ごす。口ヒゲは鼻部と上顎に計2対ある。背鰭には棘があるが、固定することはできない。 アストロブレプス属 Astroblepus ===ロリカリア科=== ロリカリア科 Loricariidae は6亜科92属684種で構成される。中央アメリカ(コスタリカ・パナマ)から南アメリカにかけて分布する。標高3,000mまでの高地にも生息し、流れの激しい河川への適応も認められる。アンシストルス亜科・ヒポストムス亜科に属するナマズ類は特に「プレコ」と総称され、観賞魚として人気がある。ナマズ目の中で最大の科であり、毎年新種が報告される科でもある。 体は骨板に覆われ、口は下向きで吸盤状になっていることが多い。口ヒゲは目立たない場合もある。脂鰭の有無はまちまちで、棘をもつこともある。小型の観賞用ナマズとして知られるオトシンクルス属の仲間をはじめ植物食性の種類が多く、ナマズ類としては長い腸管をもっている。 Lithogeneinae 亜科 1属2種。うち1種 Lithogenes valencia は絶滅した可能性がある。以前はアストロブレプス科に所属していた。 Lithogenes 属Lithogenes 属Neoplecostominae 亜科 1属7種。ブラジル南東部に分布する。 Neoplecostomus 属Neoplecostomus 属Hypoptopomatinae 亜科 16属79種。 オトシンクルス属 Otocinclus Hypoptopoma 属 他14属オトシンクルス属 OtocinclusHypoptopoma 属他14属ロリカリア亜科 Loricariinae 31属209種。 ファロウェラ属 Farlowella Loricaria 属 他29属ファロウェラ属 FarlowellaLoricaria 属他29属アンシストルス亜科 Ancistrinae 27属217種。 Ancistrus 属 他26属Ancistrus 属他26属ヒポストムス亜科 Hypostominae 16属169種。 Hypostomus 属 他15属Hypostomus 属他15属 ===シソル上科=== シソル上科 Sisoroidea は5科41属230種で構成される。本上科はロリカリア上科と姉妹群を構成する。アスプレド科を除く4科は、南アジア〜東南アジアに分布する。 ===アカザ科=== アカザ科 Amblycipitidae は3属26種を含む。南アジア(インド・パキスタン)から、日本を含む東アジアの河川(主に渓流域)に分布する。アカザ(Liobagrus reini)は日本固有種。 口ヒゲは4対。背鰭は厚い皮膚によって覆われ、基底は短く棘は弱い。胸鰭の棘は強く、毒腺と連続する。脂鰭は尾鰭と連続している場合がある。側線の発達は悪い。 アカザ属 LiobagrusAmblyceps 属Xiurenbagrus 属 ===アキュシス科=== アキュシス科 Akysidae は2亜科4属42種で構成され、東南アジアに分布する。背鰭の棘は強い。かつて2亜科はそれぞれ独立の科として分類されていた。 アキュシス亜科 Akysinae 1属24種で、流れの速い河川に住む小型のナマズ類である。口ヒゲは4対。脂鰭をもち、胸鰭の棘は強い。眼は小さく、鰓の開口部は比較的狭い。 Akysis 属Akysis 属パラキュシス亜科 Parakysinae 3属18種。マレー半島・スマトラ島・ボルネオ島などに分布する。口ヒゲは4対だが、下顎に小さなヒゲが付属することがある。体は丸みを帯びた結節で覆われ、列状に並ぶこともある。脂鰭はない。眼は非常に小さい。 Acrochordonichthys 属 Breitensteinia 属 Parakysis 属Acrochordonichthys 属Breitensteinia 属Parakysis 属 ===シソル科=== シソル科 Sisoridae は2亜科17属112種を含む。西アジアから東南アジア、トルコからボルネオ島にかけて分布する。山岳の急流域に住む小型種がほとんどであるが、体長2mに達する大型種も含まれる。 口ヒゲは多くの種類で4対あり、上顎のヒゲは特に太い。体にはいろいろな形態の突起状の構造がある。脂鰭をもつ。背鰭の基底は短く、棘の有無はさまざま。 Sisorinae 亜科 6属23種。 Sisor 属 他5属Sisor 属Glyptosterninae 亜科 11属89種。 Glyptosternon 属 他10属Glyptosternon 属他10属 ===Erethistidae 科=== Erethistidae 科は2亜科6属14種を含み、南アジアに分布する。以前はシソル科の亜科とされた一群。 Continae 亜科 1属のみ。 Conta 属Conta 属Erethistinae 亜科 5属。 Erethistes 属 他4属Erethistes 属他4属 ===アスプレド科=== アスプレド科 Aspredinidae は3亜科12属36種で構成され、すべて南アメリカに分布する。頭部は強く縦扁し、楽器のバンジョーに似た独特の形態から、Banjo catfishという英語名をもつ。 体に鱗や骨板はないが、突起が列を成して並ぶ。脂鰭はない。鰓の開口部は退縮し、スリット状となっている。背鰭の棘は固定できない。尾鰭の主鰭条は10本以下と少ない。盲目魚(Micromyzon akamai)を含む。 Bunocephalinae 亜科 3属16種。 Bunocephalus 属 他2属Bunocephalus 属アスプレド亜科 Aspredininae 4属6種。 Aspredo 属 他3属Aspredo 属Hoplomyzontinae 亜科 5属14種。 Hoplomyzon 属 他4属Hoplomyzon 属 ===プセウドピメロドゥス上科=== プセウドピメロドゥス上科 Pseudopimelodoidea は1科5属26種で構成される。ロリカリア上科とシソル上科を合わせたグループと姉妹群を成すとみられるものの、系統上の位置づけにはなお不明確な点を残す一群である。 ===プセウドピメロドゥス科=== プセウドピメロドゥス科 Pseudopimelodidae は5属26種を含み、南アメリカに分布する。口は大きく、ヒゲは短い。褐色の斑紋をもち、観賞魚として人気のある種類を含む。かつてはピメロドゥス科に所属していた。 Microglanis 属Pseudopimelodus 属 ===ヘプタプテルス上科=== ヘプタプテルス上科 Heptapteroidea は1科25属175種で構成される。プセウドピメロドゥス上科と同様、本上科と他のグループの系統関係は曖昧な点が多い。 ===ヘプタプテルス科=== ヘプタプテルス科 Heptapteridae は25属175種を含み、メキシコから南アメリカにかけて分布する。プセウドピメロドゥス科と同じく、かつて所属したピメロドゥス科から分離されたグループである。 体に骨板はなく、口ヒゲは3対。大きな脂鰭をもち、尾鰭は二又に分かれる。これらの特徴はしばしばピメロドゥス科と共通し、外部形態のみで区別することは困難である場合が多い。多様性の理解が特に遅れている科の1つであり、個々の種の同定は非常に難しく、およそ50種の未記載種の存在が知られている。 Heptapterus 属他24属 ===クラノグラニス上科=== クラノグラニス上科 Cranoglanidoidea は1科1属3種で構成される。 ===クラノグラニス科=== クラノグラニス科 Cranoglanididae は1属3種からなる。中国・ベトナムなどアジア地域の大河に生息する。眼が大きく、口ヒゲは4対。体は滑らかだが、頭部に骨板がある。背鰭の基底は短く、背鰭と胸鰭に棘をもつ。背鰭は二又に分かれる。鋤骨の歯を欠く。 クラノグラニス属 Cranoglanis ===アメリカナマズ上科=== アメリカナマズ上科 Ictaluroidea は1科7属46種で構成される。 ===アメリカナマズ科=== アメリカナマズ科 Ictaluridae は7属46種を含み、うち1種は近年絶滅種と認められた。北アメリカ(カナダ南部からグアテマラ)を中心に分布する。雄またはペアによる子育てを行う一群で、水底にクレーター状の巣を作る習性がある。 体は滑らかで口ヒゲは4対。背鰭と胸鰭には棘がある。口蓋骨の歯を欠く。4種の盲目魚を含むとともに、深い掘り抜き井戸および関連水路に生息する種類も知られる。体長1.6mに及ぶ大型種がある。 Noturus 属Ictalurus 属 ===ドラス上科=== ドラス上科 Doradoidea は3科61属345種で構成される。 ===サカサナマズ科=== サカサナマズ科 Mochokidae は11属179種を含み、すべてアフリカに分布する。モコクス科とも呼ばれる。際立って大きな脂鰭が特徴で、Mochokus 属のうち2種は脂鰭にも鰭条をもつ。背鰭と胸鰭の棘は強靭で、固定が可能である。口ヒゲは3対で鼻部にはなく、下顎のヒゲは細かく枝分かれする。単系統性が確かなものと考えられている一群である。 シノドンティス属には観賞用に飼育される種類が多数所属している。腹部を上に向けて泳ぐ習性をもつサカサナマズ(Synodontis nigriventris)が特に知られるが、本種のように常に逆さに泳ぐ種類はごく少数である。 シノドンティス属 SynodontisChiloglanis 属Mochokus 属他8属 ===ドラス科=== ドラス科 Doradidae は30属72種を含み、南アメリカ(特にブラジル・ペルー・ギアナ地方)に分布する。胸鰭の棘を動かすか、浮き袋を振動させることによって音を出すことが可能で、英語ではtalking catfishと呼ばれることもある。 体には頑丈な骨板が列を成し、ほとんどの種類では整列したトゲをもっている。口ヒゲは3対で、枝分かれをもつ種類もある。脂鰭をもち、背鰭と胸鰭には棘がある。 Doras 属 ===アウケーニプテルス科=== アウケーニプテルス科 Auchenipteridae は2亜科20属94種で構成され、パナマおよび南アメリカの熱帯域に分布する。褐色から黒色の地味な体色をした種類が多く、岩や流木の陰に潜む性質がある。 本科の雄は臀鰭の前方に交接器をもち、ナマズ目としては例外的に、すべての種類で体内受精を行う。卵胎生ではなく、交尾した雌は受精卵を産む。体は一般に滑らかだが、頭部の皮膚の下に埋没した骨板をもつ。口ヒゲは3対で、上顎のものが最も長い。背鰭と胸鰭には強い棘がある。脂鰭は小さく、もたない場合もある。 Centromochlinae 亜科 4属31種。 Centromochlus 属 他3属Centromochlus 属Auchenipterinae 亜科 16属63種。かつて独立の科として存在したアゲネイオスス科 Ageneiosidae (2属約12種)は、本亜科に含められた。 Ageneiosus 属 Auchenipterus 属 他14属Ageneiosus 属Auchenipterus 属 ===ナマズ上科=== ナマズ上科 Siluroidea は7科45属275種で構成される。 ===ナマズ科=== ナマズ科 Siluridae は11属97種を含み、ヨーロッパからアジアにかけて広範な分布域をもつ。ユーラシア大陸を代表するナマズ類で、日本における「ナマズ」のイメージを形作る一群となっている。体長3mを超えるヨーロッパオオナマズ(Silurus glanis)はナマズ目最大の種で、欧州では重要な漁業資源である。日本からはナマズ(またはニホンナマズ)、ビワコオオナマズとイワトコナマズの3種が知られ、後二者は琵琶湖水系のみに分布する日本固有種である。 口ヒゲは2対、あるいは3対で、通常上顎のヒゲが長く伸びる。脂鰭はない。背鰭は小さく、棘は目立たない。Kryptopterus 属の一部は背鰭を欠いている。臀鰭の基底が非常に長い。結節状に退縮した口蓋骨などの特徴から、本科の単系統性は概ね支持されている。 ナマズ属 Silurus ===デンキナマズ科=== デンキナマズ科 Malapteruridae は2属19種を含み、ナイル川などアフリカの熱帯域に分布する。よく発達した発電器官をもつことが最大の特徴である。発電器官は体の前半部の筋肉を起源としている。口ヒゲは3対。背鰭を欠き、胸鰭には棘がない。脂鰭は体の後方に位置し、尾鰭は丸みを帯びる。浮き袋は体の後方に長く伸び、2あるいは3つの小室に分かれる。 デンキナマズ属 MalapterurusParadoxoglanis 属 ===Auchenoglanididae 科=== Auchenoglanididae 科は6属28種を含み、アフリカに分布する。前鼻孔が上唇の腹側に位置する。尾鰭は丸みを帯びる。かつてはギギ科に所属していたが、現在はデンキナマズ科の姉妹群とされることが多くなった。 Auchenoglanis 属 ===カカ科=== カカ科 Chacidae は1属3種からなり、インド東部からボルネオ島にかけて分布する。頭部は大きく、強く縦扁し平べったくなっている。口は端位で幅広く、カエルのような外見であることから英語では「frogmouth catfish」と呼ばれる。 口ヒゲは小さく2‐3対。上顎のヒゲをルアーのように動かし、餌をおびき寄せる習性がある。眼は非常に小さい。背鰭と胸鰭の棘をもつ。腹鰭が大きく、脂鰭は尾鰭と連続する。 カカ属 Chaca ===ゴンズイ科=== ゴンズイ科 Plotosidae は10属35種を含み、うち半数はインド洋から西部太平洋にかけて分布する海水魚で、他はオーストラリア・ニューギニア島に住む淡水魚である。 体は細長く、いわゆるウナギ型である。口ヒゲは4対。脂鰭はない。臀鰭は尾鰭と連続する。背鰭も尾鰭とつながっているように見えるが、これは尾鰭の基底が背中にまで伸び、背鰭のすぐ後ろまで達したものである。 ゴンズイ属 Plotosus他9属 ===ヒレナマズ科=== ヒレナマズ科 Clariidae には14属90種が所属し、多くはアフリカ、一部の種類がアジアに分布する。口ヒゲは4対。背鰭と臀鰭の基底は非常に長く、尾鰭と連続することもある。胸鰭か腹鰭をもたない種類がある。 鰓の開口部が大きく、鰓から発達した空気呼吸のための器官をもつ。短距離であれば陸上を移動できる種類があり、中でもウォーキングキャットフィッシュ(Clarias batrachus)は世界各地に分布を広げた外来ナマズとして問題となっている。アフリカに住む一部の属は掘った穴の中に潜る習性があり、眼は非常に小さく胸鰭・腹鰭を欠くなどの適応がみられる。盲目魚も数種類知られている。 ヒレナマズ属 ClariasClariallabes 属他12属 ===ヘテロプネウステス科=== ヘテロプネウステス科 Heteropneustidae は1属3種からなり、パキスタンからタイにかけての南〜東南アジアに分布する。ヒレナマズ科とは姉妹群の関係にあり、同科の亜科として含められることもある。 体は細長く、頭部は縦扁し、体部は左右に平たい。口ヒゲは4対。鰓から体の後方に伸びる空気嚢があり、肺のように空気呼吸の機能を司っている。背鰭は短く棘を欠き、脂鰭はないことが多い。胸鰭の棘は鋭く、毒腺と連続している。性質は荒く、縄張りに侵入した人間を襲うこともあるため、生息地域では危険な魚類として認識されている。 ヘテロプネウステス属 Heteropneustes ===ギギ上科=== ギギ上科 Bagroidea は7科96属551種で構成される。ピメロドゥス科(南アメリカ)を除いた6科はアフリカとアジアを中心に分布する。 ===Austroglanididae 科=== Austroglanididae 科は1属3種からなり、アフリカ南部に生息する。口ヒゲは3対で、鼻部にはない。背鰭・胸鰭の棘は強く、脂鰭は小さい。以前はギギ科に含められていた。 Austroglanis 属 ===Claroteidae 科=== Claroteidae 科は7属59種。アフリカに分布する。体はやや細長く、口ヒゲは4対。背鰭・胸鰭には強い棘がある。脂鰭をもち、アフリカンビッグマウスキャット(Clarotes laticeps)などClarotes 属は脂鰭にも鰭条がある。Austroglanididae 科と同様、かつてはギギ科に所属していた。 Clarotes 属 ===ハマギギ科=== ハマギギ科 Ariidae には21属150種が記載される。本科のナマズ類は海産種がほとんどで、熱帯から温帯にかけての暖かい海に広く分布するとともに、淡水・汽水域に進出する種類も多数含まれる。口ヒゲは多くの場合3対、まれに2対。脂鰭をもち、尾鰭は二又に分かれる。頭部と背鰭の近くに骨板をもつ種類もいる。背鰭・胸鰭に棘をもつ。 本科はナマズ目の中では数少ない海産のグループである。底生生活を行う他の淡水産ナマズとは異なり、活発に泳ぎ回るタイプの魚が多い。繁殖形態にも特徴があり、ほとんどの種類は雄が卵を口の中で守るマウスブルーダーである。 ハマギギ属 Arius他20属 ===スキルベ科=== スキルベ科 Schilbeidae は15属56種で構成され、アフリカと南アジアに分布する。半透明の体をもつ種類が多く、群れを作る習性がある。本科のアルファベット表記には揺れがあり、「Schilbidae」 と書かれる場合もしばしばある。 口ヒゲは4対。背鰭の基底は短く、ない場合もある。ほとんどの種類は脂鰭をもつ。臀鰭の基底は非常に長い。腹鰭をもたない種類もある。本科の単系統性は概ね確かなものと考えられ、パンガシウス科と最も近い関係にある一群とみなされている。 Schilbe 属 ===パンガシウス科=== パンガシウス科 Pangasiidae は3属28種を含み、パキスタンからボルネオ島にかけて、南アジアを中心に分布する。本科に属するメコンオオナマズは植物食性の大型種で、体長3m体重300kgに達する場合もある。 体は側扁し、口ヒゲは2対で短い。脂鰭は小さい。背鰭は体の前の方にあり、棘をもつ。食用にされる中・大型種を含み、活発に泳ぎ回るものが多い。 Pangasius 属 ===ギギ科=== ギギ科 Bagridae は18属170種で構成され、アフリカとアジアに分布する。体は滑らかで、口ヒゲは4対ありよく発達している。通常、背鰭と胸鰭には棘がある。脂鰭は大きいことも小さいこともあり、種によって異なる。大型の食用魚から小型の観賞魚まで、さまざまに利用されている。 かつて独立の科として存在したオリュラ科は、背鰭の棘を欠き、細長い体と長い尾鰭が特徴のグループであるが、現在では本科に含められている。本科の単系統性および他科との類縁関係には不明瞭な部分が多い。 ギバチ属 PseudobagrusBagrus 属 ===ピメロドゥス科=== ピメロドゥス科 Pimelodidae は31属85種を含む。パナマから南アメリカにかけて分布し、食用とされる中〜大型種が多数所属する。 体は滑らかで骨板はなく、口ヒゲは3対。背鰭・胸鰭の棘の有無はさまざまで、脂鰭はよく発達する。分類体系の構築はなお途上にあり、かつて独立の科であったヒュポプタルムス科が本科に含められた一方で、プセウドピメロドゥスおよびヘプタプテルスの仲間は本科から分離され新科となっている。 Pimelodus 属他30属 =グリム童話= 『グリム童話集』(独: Grimms M*13139*rchen)は、ヤーコプとヴィルヘルムのグリム兄弟が編纂したドイツのメルヒェン(昔話)集である。メルヒェンとは「昔話」を意味するドイツ語で、グリム兄弟はメルヒェンを収集したのであり、創作した(創作童話)のではない。正式なタイトルは『子どもと家庭のメルヒェン集』(独: Kinder‐ und Hausm*13140*rchen)で、1812年に初版第1巻(86編)、1815年に第2巻(70編)が刊行されている。兄弟はその後7回改訂版を出し、1857年の第7版が決定版とされている。現在170以上の言語に翻訳され、世界で最も多くの言語に翻訳され、最も多くの人々に読まれ、最も多くの挿絵が描かれた文学とされている。この書物に影響され、各国で昔話収集が盛んになり、昔話や民話の研究が新たな学問分野として立ち上がることになる。 ==成立背景== 『グリム童話集』が成立したのは、フランス革命の後ナポレオン・ボナパルトによりドイツが占領されたので、ナショナリズム高揚の動きがドイツ国内に広まっていたころである。このような状況のもとで、それまで芸術家主義的に展開していたドイツ・ロマン主義運動は一転して土着の民衆文化に目を向けるようになり、その一環として民謡やメルヒェンの発掘収集を進めるようになった。こうした収集の先駆的業績としては、ロマン主義以前、シュトルム・ウント・ドランク運動の提唱者であったヘルダーによる『民謡集』(1778年―79年)があり、グリム兄弟以前には他にもムゼーウスの『ドイツ人の口承メルヒェン集』(1782‐1786年)、ナウベルトの『ドイツ人の新しい口承メルヒェン集』(1789‐1792年)、『グリム童話集』の数ヶ月前に刊行されたビュッシングの『民間伝説、メルヒェン、聖者伝説』(1812年)など数種類のメルヒェン集が刊行されている。1808年にはグリム兄弟と同姓の(まったく血縁関係のない)A.L.グリムによる『子どもの童話集』も出ているが、『グリム童話集』が出た当時はこちらのグリムによる本もよく売れていたために、兄弟の生前はしばしば両者が混同された。 こうした流れの中で1806年、ロマン派の詩人ブレンターノとアルニムによる民謡集『少年の魔法の角笛』が刊行された。この民謡集には恩師であるサヴィニーの仲介によってヤーコプ・グリムも収集の協力をしており、その後この民謡集の続編となるメルヒェン集が計画されると、ブレンターノはグリム兄弟にもメルヒェン収集の協力を依頼した。このとき兄弟はブレンターノから、画家のフィリップ・オットー・ルンゲが方言で書き留めた二つのメルヒェン「猟師とその妻」と「ねずの木の話」を渡されており、兄弟のメルヒェン収集・編纂はこの二つのメルヒェンと、『少年の魔法の角笛』におけるブレンターノの再話法とによって方向付けられることになった。兄弟は口伝えと文献のふたつの方向からメルヒェン収集を進め、収集の成果である53篇をブレンターノに送った。しかしブレンターノから音沙汰がなくなったため、ブレンターノとは別に自分たちの童話集をつくることに決め、あらかじめ取っておいた写しをもとに『グリム童話集』の編纂を進めていった。その後ブレンターノのほうの企画は立ち消えとなり、ブレンターノはグリムから送られた原稿も返却しないまま紛失してしまったが、この初期の原稿は19世紀末になって、アルザスのエーレンベルク修道院で発見されており(エーレンベルク稿)、今日グリム兄弟によって加筆修正された刊本と原型を比較するための貴重な資料となっている。 ==出版史== アルニムから自分たちの童話集出版を後押しされたグリム兄弟は、アルニムの仲介でベルリンの出版者ゲオルク・ライマーを版元に決め、1812年のクリスマスに『子どもと家庭のメルヒェン集』初版第1巻を刊行した。この巻には86篇のメルヒェンが収められ、それぞれに学問的注釈をつけた付録が施されていた。しかし、この子ども向けの本と学問的資料との間のどっちつかずの体裁は、批判を呼んだ。86篇収めた第1巻の売れ行きは好調とはいえなかったが、新たに70篇を集めて1815年に刊行された第2巻はさらに売れ行きが悪く、このため計画が持ち上がっていた第3巻は実現しなかった。1819年に刊行された第2版は、弟ルートヴィヒ・グリムによる2枚の銅版画が口絵に入れられ、注釈も別冊として分離されたので、より親しみやすいつくりに変えられた。 1816年にはデンマーク語で、1820年にはオランダ語で『グリム童話集』抜粋の翻訳が出ており、1823年にはエドガー・テイラー(Edgar Taylor)による英訳版のグリム童話選集『ドイツの民衆メルヒェン集』が、当時の人気画家ジョージ・クルックシャンクの挿絵をつけて刊行され大きな反響を呼んだ。同年、兄弟はこのイギリス版を手本として『グリム童話集』の選集版『グリム童話名作選集』(「小さい版」)を作り刊行した。これには第2版『子どもと家庭の童話集』の170編から、子どもにふさわしいと思われるメルヒェンを50選んで収録しており、ルートヴィヒによる7枚の銅版画も挿絵として付けられている。この廉価な普及版はもとの2巻本よりもはるかに売れ行きがよく(ヴィルヘルム・グリムの生前1859年までの間に9版まで出版)、グリム童話の普及に貢献した。 『グリム童話集』がはっきりした成功を収めたのは、1837年に出版社をゲッティンゲンのディーテリヒス社に変えて出された第3版からである。その後『グリム童話集』はいくつかの話を加えたり入れ替えたりしつつ、兄弟の生前に7版まで改訂された。収録話数の変遷は以下のようになる。 初版(1812年‐1815年) ‐ 156篇(第1巻86篇、第2巻70篇)第2版(1819年) ‐ 161篇(第1巻86篇、第2巻75篇)付:「子どもの聖者伝」9篇第3版(1837年) ‐ 168篇(第1巻86篇、第2巻82篇)付:「子どもの聖者伝」9篇第4版(1840年) ‐ 178篇(第1巻86篇、第2巻92篇)付:「子どもの聖者伝」9篇第5版(1843年) ‐ 194篇(第1巻86篇、第2巻98篇)付:「子どもの聖者伝」9篇第6版(1850年) ‐ 200篇(第1巻86篇、第2巻114篇)付:「子どもの聖者伝」10篇第7版(1857年) ‐ 200篇(第1巻86篇、第2巻114篇)付:「子どもの聖者伝」10篇 ==書き換えとその傾向== 『グリム童話集』とそれまでのメルヒェン集との大きな違いは、後者がそれぞれの物語を大きく脚色して長い作品に仕立てていたのに対し、グリムのそれでは一つ一つが短く、比較的口承のままのかたちを保っていたことにあった。しかしそのために、文章が粗野である、話の内容や表現が子ども向きでない、あまりに飾り気がないといった批判を受け、以降の版ではこれらの点について改善が図られるようになった。具体的には、風景描写や心理描写、会話文が増やされ、また過度に残酷な描写や性的な部分が削除され、いくつかの収録作品は削除された。このような過程を経て『グリム童話集』は、庶民が「語り伝えたメルヒェン」から市民が「読むメルヒェン」になっていったのである。なお兄弟のうち初期の収集にあたっては主にヤーコプが仕事の中心を担っていたのだが、後の版のこのような改筆に当たったのは主にヴィルヘルムであり、メルヒェン集に学問的性格をもとめていたヤーコプのほうは次第にこの仕事から手を引くようになった。 ヴィルヘルムは加筆修正の際に、メルヒェン集の購入者である当時の都市富裕市民(独:B*13141*rger)の道徳観に合わせて記述を修正したといわれている。特にヴィルヘルムは物語から、妊娠などの性的な事柄をほのめかす記述を神経質なまでに排除している。また近親相姦に関わる記述も削除や修正がなされている。このほか、「ヘンゼルとグレーテル」「白雪姫」など、子を虐待する実母が出てくる話が、購買者である母親への配慮から後の版で継母に変えられているものが相当数存在する。しかしこれらの書き換えに比べると、ヴィルヘルムは刑罰の場面などの残虐な描写については意外なほど寛容で、例えば「灰かぶり(シンデレラ)」の最後で継姉たちの目を鳩に突かせて盲目にするなど、初版にはない復讐の場面が入れられたり、話によっては後の版のほうが却って残虐性が増しているようなものもある。このために『グリム童話集』は子どもへの読み聞かせに適しているか、あるいはそのままの形で読み聞かせてよいのかどうか、といった点が、初版刊行時以来しばしば議論の的となっている。物語内の少女から積極性や能動性を奪ったという指摘がアメリカの学者からなされているが、最近の研究ではグリム兄弟による中世化の結果、性別役割分担で消費者にされてしまった消極的な近代の女性像ではなく、生産者であったたくましく積極的であった近代以前(近世・中世)の女性像も保持されている(例えば「灰かぶり」)ことが、日本の学者によって指摘されている。このほか人種差別的な偏見が見られることなどが指摘されているが、グリム兄弟により挿入されたというより、当時の人々の間で持たれていた偏見がそのまま伝えられたと解釈すべきであろう。 ==取材源== 『グリム童話集』は長い間、グリム兄弟がドイツ中を歩き回って、古くから語り継がれてきた物語をドイツ生粋の素朴な民衆たちから直接聞き集め、それを口伝えのかたちのまま収録して出版されたものだと一般には考えられてきた。このように考えられてきたのは、一つにはグリム兄弟自身が童話集の序文でそのように宣言したためであったが、現実には「口伝えのかたちのまま」ではなく、兄弟の手によって少なからず手が加わっていることは前述したとおりである。取材源に関しても、『グリム童話集』にはラテン語の書物などを含む文献から取られた話が一定数含まれており(初版では全体の4分の1程度、第7版では5分の1程度の話が文献から取られている)、すべてが口伝えの聞き取りによっているわけではない。さらにほかの口伝えの情報源に関しても、ドイツの中世文学者ハインツ・レレケによる比較的近年の研究によって、上記の「ドイツ生粋の素朴な民衆から聞き取った」という通説が事実とは大きく異なっていたことが明らかにされている。実際には兄弟の聞き取りの取材源のほとんどが都市富裕市民の家庭であり、その中にはフランスなどをルーツとする人物が少なからず含まれていたのである。 グリム兄弟自身は生前メルヒェンの取材源を公にしなかった。唯一の例外がカッセル地方の仕立て屋の妻であった「フィーマンおばさん」ことドロテーア・フィーマン(ドイツ語版、英語版)であり、グリム兄弟は第2版の序文で、多数のメルヒェンを提供した彼女の貢献を称え、弟のルートヴィヒ・グリムが書いた彼女の肖像画を掲載したため、彼女は昔話の理想的な語り手として読者から親しまれきた。しかしこの人物は、実際には旧姓をピアソンという、フランスから逃れてきたユグノーの家庭の出で、普段はフランス語を話し『ペロー童話集』などもよく知っている教養ある婦人であったことがヴェーバー=ケラマンの研究によって明らかにされた。 グリム兄弟の没後、ヴィルヘルムの息子のヘルマン・グリムは、兄弟による取材源のメモを公表した。この際にヘルマンは、メモのなかにある「マリー」という女性について、これは自分の母(ヴィルヘルムの妻となったドルトヒェン・ヴィルト)の実家に住んでいた戦争未亡人のおばあさんで、昔話をよく知っていたと証言している。そのためにこの「マリーおばさん」は、先述の「フィーマンおばさん」と並び『グリム童話集』に貢献した昔話の語り手と信じられるようになった。ところがこれも1975年に発表されたレレケによる研究で、このマリーとは実際には戦争未亡人の老婆「マリーおばさん」などではなく、ヘッセンの高官の家庭であるハッセンプフルーク家の令嬢マリー(de)のことであり、その母親はフランス出身のユグノーであったことが明らかにされた。 レレケはこのほかにも、グリム兄弟にメルヒェンを提供した人物の詳細な調査を行い、特に初期の重要なメルヒェン提供者の多くが身分ある家庭の夫人や令嬢であったことを突き止めている。総じてグリム兄弟は(一般に信じられていたように)農村を歩き回って民衆から話を聞き取ったりはせず、中流以上の裕福で教養ある若い女性に自分のところまで来てもらって話の提供を受けていたのである。ただしレレケは、メルヒェンの提供者が教養ある人物であったことは、必ずしもそれらが上流階級の間でのみ語られていたことを意味しないということに注意を促してもいる。読み書きができ、話もうまいこれら上流階級の女性は下層階級(下僕や女中など)から聞いた話を仲介する役割も担っており、下層階級の人々にとってもそのような仲介は必要なことであった。 ==主な話== 番号は第7版での通し番号(KHM番号、KHMは Kinder‐ und Hausm*13142*rchen の略)を示している。 かえるの王さま (KHM 1)狼と七匹の子山羊 (KHM 5)兄と妹 (KHM 11)ラプンツェル (KHM 12)ヘンゼルとグレーテル (KHM 15)漁師とおかみ (KHM 19)灰かぶり (KHM 21):「シンデレラ」として有名ホレおばさん (KHM 24)赤ずきん (KHM 26)ブレーメンの音楽隊 (KHM 27)ねずの木の話 (KHM 47)いばら姫 (KHM 50):「眠り姫」「眠りの森の美女」とも呼ばれるつぐみの髭の王さま (KHM 52)白雪姫 (KHM 53)ルンペルシュティルツヒェン (KHM 55)千匹皮 (KHM 65)がちょう番の女 (KHM 89)星の銀貨 (KHM 153) ==受容と影響== 『グリム童話集』の出版を軸として、グリム兄弟はメルヒェンの体系的な収集と研究(その範囲はヨーロッパを超えアメリカ大陸や東洋にも及んでいる)によってメルヒェン学を樹立した。その業績は他国の民話収集や研究に広い範囲で影響を与えている。イギリスでは1879年、グリムとウォルター・スコットに触発された人々によって英国フォークロア協会が設立され、その会員J.ジェイコブズによって1890年に『イギリス民話集』が刊行された。ロシアでは19世紀なかばからグリム研究が開始され、アファナーシェフがグリムを範として『ロシア民話集』(1855年‐1864年)を編纂し、ウラジミール・プロップがこれを受けて徹底的なグリム研究に基づくメルヒェン学を確立した。プロップの主著『昔話の形態学』(1928年)はフランス構造主義を先駆けた著作としても評価されている。フランスではP.ドラリュがグリム研究を踏まえて『フランス民話集』(1957年)を、イタリアではイタロ・カルヴィーノが『イタリア民話集』(1956年)を刊行している。 ドイツの民間伝承の背景として成立したグリム童話は、ときに民族主義的思想とのつながりが指摘されることもある。実際に第二次大戦下のドイツでは、ワイマール共和国時代に削除されていたグリム童話の残酷な部分が再度取り入れられ、闘争の理想化や権力の賞賛、人種政策の正当化のために利用されたと指摘されることもある。。戦後まもない時期には、グリム童話の持つ残虐性の要素が収容所を生んだという極端な主張もなされ、1948年8月にイギリス占領軍によって、西ドイツ国内での『グリム童話集』の出版が一時禁止される事態となった。 1975年、グリム兄弟の故郷ハーナウから、「ブレーメンの音楽隊」の舞台ブレーメンまでを結ぶ600キロの街道が、ドイツ観光街道のひとつドイツ・メルヒェン街道として整備された。グリムゆかりの地や「いばら姫」の城があるザバブルクなどメルヒェン発祥の街70以上が参加する観光ルートとなっている。 ===日本における受容=== 日本におけるグリム童話の受容に関する研究は、1977年ドイツ・マールブルク大学に提出された野口芳子の博士論文が最初のものである。ドイツ語で書かれたその内容は、部分的に要約されたものが本として出版されている。『グリム童話集』が最初に日本に導入されたのは、学校で使う英語教科書によってであり、グリム童話「釘」(KHM184)が紹介されている。この話は2人の日本人によって邦訳されている。『グリム童話集』が一番最初に雑誌に紹介されたのは、『R*13143*MAJI ZASSI』である。グリム童話「牧童」(KHM152)と「藁と炭とそら豆」(KHM18)が1886年にローマ字で訳されている。『グリム童話集』が最初に本として出版されたのは、1887年(明治20年)の桐南居士(菅了法)による『西洋古事神仙叢話』である。目次には10篇しか記載されていないが、実際は11篇収められている。「金の鳥」「忠臣ヨハネス」「踊ってすり切れた靴」「十二人の兄弟」「蜜蜂の女王」「灰かぶり」「金の毛が三本ある悪魔」などが収録されている。Fairy Talesと書かれているので英語版を底本使ったと考えられるが、底本名だけでなく、グリム兄弟の名も書かれていない。最近の研究では、底本となった英語版はおそらくポール版であろうと考えられている。同年9月には統計学者でもあった呉文聰により「西洋昔噺第一号」として、「狼と七匹の子ヤギ」が「八ツ山羊」の題でカラー版仕掛け絵本として出版されているが、ここではなぜか子ヤギの数が8匹に変えられている。同年9月には中川霞城が「狼と七匹の羊」を雑誌『少国民』に訳出し、1889年(明治22年)10月には国語学者の上田万年が同じ話の翻案『おほかみ』を刊行しており、1895年(明治28年)には巌谷小波が同じ話を「子猫の仇」という題で猫の話に置き換えた翻案を出している。明治期には主に児童向けの教訓話を意図したものとして、『小国民』『幼年雑誌』『少年世界』などの、当時次々と創刊されていた児童雑誌でグリム童話が多く紹介された。その数は雑誌、単行本を合わせて147冊を数える。このように明治期にグリム童話の紹介が進められた背景には、当時日本でも影響力のあったヘルバルト学派の童話教育論が受け入れられていたためと考えられる。また明治期に日本風に書き換えられたグリムの翻案は、その後口承化し日本の昔話のようにして伝えられた事例もある。『死神の名付け親』のように、翻案されて落語に取り入れられた例すらある。 1919年(大正7年)創刊の『赤い鳥』では、久保田万太郎がグリムを素材とする童話劇を多く書いており、久保田は児童への配慮から、原作の陰鬱さや残虐性を意識して退けている。一方で大正期には、童話研究が進むとともに国民教育的な受容からの脱却もはじまっており、中島孤島が訳した『グリムお伽話』(1916年)、『続グリムお伽話』(1924年)は、岡本帰一の挿絵が好評で人気を博したが、原文の内容に添おうとしつつ改変が施されたものである。原文に忠実な訳の出現は1925年(大正13年)の金田鬼一による全訳本をまたなければならない(現在岩波文庫に収録)。1925年(大正13年)には金田鬼一による初の全訳が出ている(現在岩波文庫に収録)。第二次大戦期は政府の出版統制によってグリム童話の翻訳は一時下火となるが、戦後ふたたび注目され、以後原著に忠実な翻訳と教育的配慮から改変した訳との二つの系統で、途切れることなく翻訳や再話が出版され続けている。1980年代以降は第7版の訳だけでなく、小澤俊夫によるエーレンベルク稿の訳(1989年)や第2版の全訳(1995年)、吉原高志・吉原素子による初版の全訳(1997年)なども出版された。また日本では1990年半ばから、グリム童話の「残酷性」に焦点をあてた解説書やアンソロジーの類が相次いで出版され、桐生操『本当は恐ろしいグリム童話』(1998年)などがベストセラーを記録するというブームが起きている。 ===グリム童話を題材にしたフィクション=== 特定の物語を題材にしているものは各物語の個別項目を参照。またグリム童話に限らずお伽噺・昔話全般を広く題材としている作品は、表題にグリムの表記があっても以下には含めていない。 文学・絵本 古井由吉文、東逸子画 『グリム幻想―女たちの15の伝説』(Parco出版、1984年) ‐ グリム童話の各編を独自に解釈して綴る絵物語。ラジオドラマ化されている。ヤノーシュ、池田香代子訳 『大人のためのグリム童話』(JICC出版局、1994年) ‐ グリム童話の現代的・風刺的パロディ作品。池田香代子 『魔女が語るグリム童話』(洋泉社、1998年) ‐ 女性の視点でグリム童話を再話したパロディ作品。続編も刊行された。出海まこと文、柏餅よもぎ画 『ツングリ! ‐本当はツンデレなグリム童話‐』(エンターブレイン、2007年) ‐ グリム童話の少女を美少女キャラクターに見立てて書いたイラストストーリー。映像 TVアニメ 『グリム名作劇場』(1987年‐1988年) ‐ グリム童話から41篇をアニメ化。アニメ 『おとぎ銃士 赤ずきん』(2005年‐2007年) ‐ 「赤ずきん」ほかグリム童話をモチーフとしたキャラクターが登場するファンタジーアニメ。OVA、テレビアニメのほか漫画版、小説版などが発売された。テリー・ギリアム監督 『ブラザーズ・グリム』(2005年) ‐ 若いグリム兄弟を主人公に、グリム童話の各篇をモチーフとした物語が展開する実写映画。TVドラマ 『GRIMM/グリム』(2011年‐ ) ‐ アメリカ合衆国のドラマシリーズ。グリム童話のキャラクターが実在したという設定のもと、グリム一族の血を引く現代の刑事が魔物たちを相手に活躍する。TVドラマ 『Once Upon a Time』(2011年‐ ) ‐ アメリカ合衆国のドラマシリーズ。グリム童話を含む童話・説話・神話などのキャラクターが本来の記憶や魔法能力を失い、現代のアメリカで暮らしているという設定。映画「大人のためのグリム童話 手をなくした少女(原題 La jeune fille sans mains)」(2016年)‐ 新しい作画技法「クリプトキノグラフィー」による「手なし娘」のアニメーション映画。漫画 諸星大二郎 『グリムのような物語 スノウホワイト』(東京創元社、2006年) ‐ グリム童話を伝奇、SFなどの要素を加えて自由に翻案した連作短編集。ミステリーズ!において掲載されたもの諸星大二郎 『トゥルーデおばさん グリムのような物語』(朝日新聞出版、2007年) ‐ 上記の作品群と並行して、ネムキに掲載されたもの。狩野アユミ 『独裁グリムワール』(メディアファクトリー、2011年‐2012年) ‐ グリム童話の世界と魔術とを組み合わせたファンタジー作品。コンピュータゲーム 『絶対迷宮グリム 〜七つの鍵と楽園の乙女〜』(花梨エンターテイメント、2010年) ‐ グリム童話を題材としたキャラクターたちが登場する女性向けのアドベンチャーゲーム。『グリム・ザ・バウンティハンター』(QuinRose、2012年) ‐ グリム童話をモチーフとした女性向けアドベンチャーゲーム。音楽 Sound Horizon『M*13144*rchen』(キングレコード、2010年) ‐ グリム童話をヒロイン達による復讐劇として描いた物語音楽。 =太陽= 太陽(たいよう、英: Sun、羅: Sol)は、銀河系(天の川銀河)の恒星の一つである。人類が住む地球を含む太陽系の物理的中心であり、太陽系の全質量の99.86%を占め、太陽系の全天体に重力の影響を与える。 また、太陽が太陽系の中心の恒星であることから、任意の惑星系の中心の恒星を比喩的に「太陽」と呼ぶことがある。 太陽は属している銀河系の中ではありふれた主系列星の一つで、スペクトル型はG2V(金色)である。推測年齢は約46億年で、中心部に存在する水素の50%程度を熱核融合で使用し、主系列星として存在できる期間の半分を経過しているものと考えられている。なお、内部の状態については未解明な部分が多く、現時点では主に後述する「標準太陽モデル」によって求められているのが現状である。 ==概要と位置== 太陽の半径は約70万キロメートルであり地球の約109倍に相当し、質量は地球の約33.3万倍にほぼ等しい約1.989×10^30kgである。平均密度は水の1.4倍であり、地球の5.5倍と比べ約1/4となる。 太陽が属している銀河系では、その中心から太陽までの距離は約2万5千光年であり、オリオン腕に位置する。地球から太陽までの平均距離は約1億4960万キロメートル(約8光分19光秒)である。この平均距離は地球太陽間距離の時間平均と考えても、地球の軌道長半径と考えてもどちらでも差し支えない。なお、この平均距離のより正確な値は 7011149597870700000*9586*149597870700 m(誤差は 3 m)で、これを1天文単位 (au) と定義する。なお、2012年8月の国際天文学連合 (IAU) の決議で 1 au の値は誤差 ±3 m を除いて正確に 7011149597870700000*9587*149597870700 m であると再定義された。この距離を光が届くのに要する時間は8.3分であるので、8.3光分とも表せる。 太陽の数値を単位に用いるような場合、それらは太陽を表す記号*9588*をつけて表す。例えば質量ならばM*9589*、太陽光度ならばL*9590*で表示する。時間の基準も、現在は原子時計で決まる1秒を基底にしているが、かつては地球の自転と公転、人間の視点からすると日の出や日の入りや季節の一巡を基準に「日」や「年」を決める太陽暦・太陰太陽暦が使われた。 ==構造== 太陽はほぼ完全な球体であり、その扁平率は0.01%以下である。太陽には、地球型惑星や衛星などと異なり、はっきりした表面が存在しない。 太陽は、中心核(太陽核)・放射層・対流層・光球・彩層・遷移層・コロナからなる。可視光にて地球周辺から太陽を観察した場合の視野角と概ね一致するため、このうち光球を便宜上太陽の表面としている。また、それより内側を光学的に観測する手段がない。太陽半径を太陽中心から光球までの距離として定義する。光球には周囲よりも温度の低い太陽黒点や、まわりの明るい部分であるプラージュと呼ばれる領域が存在することが多い。光球より上層の、光の透過性の高い部分を太陽大気と呼ぶ。プラズマ化した太陽大気の上層部は太陽重力による束縛が弱いため、惑星間空間に漏れ出している。海王星軌道まで及ぶこれを太陽風と呼び、オーロラの原因ともなる。 太陽は光球より内側が電磁波に対して不透明であるため、内部を電磁波によって直接垣間見ることができない。太陽内部についての知識は、太陽の大きさ、質量、総輻射量、表面組成・表面振動(5分振動)等の観測データを基にした理論解析(日震学)によって得られるしか方法がないのが現実である。理論解析においては、太陽内部の不透明度と熱核融合反応を量子力学により推定し、観測データによる制限を境界条件とした数値解析を行う。よって、太陽中心部の温度、密度等はこのような解析によって得られた数値でありなおかつ推定値でもある。 ===中心核=== 太陽の中心には半径10万キロメートルの核(中心核)があり、これは太陽半径の約2割に相当する。密度が156g/cm(およそ水の150倍)であり、このため太陽全体の2%ほどの体積の中に約50%の質量が詰まった状態になっている。その環境は2500億気圧、温度が1500万Kに達するため物質は固体や液体ではなく理想気体的な性質を持つ、結合が比較的低い量子論的な縮退したプラズマ(電離気体)状態にある。 太陽が発する光のエネルギーは、この中心核においてつくられる。ここでは熱核融合によって物質からエネルギーを取り出す熱核融合反応が起こり、水素がヘリウムに変換されている。1秒当たりでは約3.6 ×10 個の陽子(水素原子核)がヘリウム原子核に変化しており、これによって1秒間に430万トンの質量が3.8 ×10 Jのエネルギー (TNT火薬換算で9.1 ×10 トンに相当する)に変換されている。このエネルギーの大部分はガンマ線に変わり、一部がニュートリノに変わる。ガンマ線は周囲のプラズマと衝突・吸収・屈折・再放射などの相互作用を起こしながら次第に「穏やかな」電磁波に変換され、数十万年かけて太陽表面にまで達し、宇宙空間に放出される。一方、ニュートリノは物質との反応率が非常に低いため、太陽内部で物質と相互作用することなく宇宙空間に放出される。それ故、太陽ニュートリノの観測は、現在の太陽中心部での熱核融合反応を知る有効な手段となっている。 ===放射層=== 太陽半径の0.2倍から0.7倍まで、中心核を厚さ40万キロメートルで覆う層では、放射(輻射)による熱輸送を妨げる程には物質の不透明度が大きくない。したがって、この領域では対流は起こらず、輻射による熱輸送によって中心核で生じたエネルギーが外側へ運ばれている。放射層をエネルギーが通過するには長い時間がかかり、近年の研究では約17万年が必要とも言われる。 ===対流層=== 0.7太陽半径から1太陽半径まで、厚さにして20万キロメートルの層では、ベナール対流現象でエネルギーが外層へ伝わる。ここでは微量イオンが原因となって不透明度が増し、輻射によるエネルギー輸送よりも効率が高い対流による熱伝導を行う。 ===光球=== 光球とは、可視光を放出する、太陽の見かけの縁を形成する層である。光球より下の層では密度が急上昇するため電磁波に対して不透明になり、上の層では太陽光は散乱されることなく宇宙空間を直進するためこのように見える。厚さ約300キロメートル ‐ 600キロメートルと薄い。 光球表面から放射される太陽光のスペクトルは約5,800Kの黒体放射に近く>、これに太陽大気の物質による約600本もの吸収線(フラウンホーファー線)が多数乗っている。比較的温度が低いため水素は原子状態となり、これに電子が付着した負水素イオンになる。これが対流層からのエネルギーを吸収し、可視光を含む光の放射を行う。光球の粒子密度は約10 個/mである。これは地球大気の海面上での密度の約1%に相当する。光球よりも上の部分を総称して太陽大気と呼ぶ。太陽大気は電波から可視光線、ガンマ線に至る様々な波長の電磁波で観測可能である。 光球の表面には、太陽大気ガスの対流運動がもたらす湧き上がる渦がつくる粒状斑・超粒状斑や、しばしば黒点と呼ばれる暗い斑点状や白斑という明るい模様が観察できる。黒点部分の温度は約4,000K、中心部分は約3,200Kと相対的に低いために黒く見える。また、スペクトル解析からこの黒点部分には水分子が観測された。 ===彩層=== 光球表面の上には厚さ約2,000キロメートルの密度が薄く温度が約7000 ‐ 10000Kのプラズマ大気層があり、この層から来る光には様々な輝線や吸収線が見られる。この領域を彩層と呼ぶ。皆既日食の始まりと終わりには紅色の彩層を見ることができる。この彩層ではさまざまな活発な太陽活動が観察できる。 ===コロナ=== 彩層のさらに外側にはコロナと呼ばれる約200万Kのプラズマ大気層があり、太陽半径の10倍以上の距離まで広がっている。彩層とコロナの間には遷移層と呼ばれる薄い層があり、これを境界に温度や密度が急激に変化する。 コロナからは太陽引力から逃れたプラズマの流れである太陽風が出ており、太陽系と太陽圏 (heliosphere) を満たしている。コロナの太陽表面に近い低層部分では、粒子の密度は 10 個/m程度である。自由電子が光球の光を散乱しており、輝度は光球の1/100万と低いため普段は見えないが、皆既日食の際に白いリング状(またはアーチ状とも表現できる)に輝くコロナが観察できる。 かつてコロナのスペクトル線を分析した際に、既知の元素に見られないスペクトルが発見されたため、地上に存在しない元素「コロニウム」が提唱されたことがある。しかしこれはコロナの温度がもっと低温と考えられていたためであり、このスペクトルは一般的な元素が高階電離状態で発するものであった。例えば最も強い波長530.3nmの緑線は13階電離(軌道電子を13個失った)鉄元素と判明した。 コロナの領域では、X線が観測されない領域が発生することがある。これは「コロナホール」と呼ばれ、磁力線が宇宙空間に向けて開いている箇所であり、ここはコロナガスが希薄で太陽風を発生させる原因のひとつである。 ==太陽活動== ===エネルギー源=== 光輝く太陽はどのようなエネルギーを源にしているかという問題は、19世紀頃までに続々と発見された化学反応ではとうてい解明できず、大きな疑問となっていた。当初は重力ポテンシャルエネルギーという想像もあったが、19世紀末に放射能が発見されると原子核反応が候補となった。そして1938年に核融合反応が発見されると、これが太陽活動のエネルギー源と考えられるようになった。 核融合反応だけでなく、「陽子‐陽子連鎖反応」も「CNOサイクル」の約100倍程度エネルギー生産に寄与していると考えられている。 ===標準太陽モデル=== 太陽の内部構造は直接観測できない。そのため、1950年代 ‐ 1960年代にかけてこれを理論的に構築する試みが行われた。これにより、熱核融合反応にて水素をヘリウムへ変換することでエネルギーを生み出す太陽46億年の歴史過程を求め、熱伝導や重力バランスを説明する現在の構造を試算した結果が「標準太陽モデル」と呼ばれる。このモデルによって、太陽中心温度や密度が計算された。 ===差動回転=== 太陽内部の物質は極端な高温のために全てプラズマの状態にあるとされる。このように剛体でないため、太陽は赤道付近の方が高緯度の領域よりも速く自転し、周期は赤道部分で約25日(地球上の観測では地球公転運動の影響から27日となる)、極近くでは約30日である。この太陽の赤道加速型「差動回転」(または「微分回転」)のために、太陽の磁力線は時間とともにねじれていくことになる。ねじれて変形した磁力線はやがて磁場のループを作って太陽表面から外へ飛び出して、太陽黒点や紅炎(プロミネンス)を作ったり、太陽フレアと呼ばれる爆発現象を引き起こしたりする。この天体現象については地球からの観察に限って言うと、日食の間であれば比較的観察しやすい条件下にある。 ===太陽磁場と周期=== ====太陽磁場==== 太陽は固有磁場を持っているが、その様相は地球磁場と大きく異なる。磁力線は太陽風によって放射状に広がり、しかも自転の影響を受けてらせん状に展開する。宇宙空間の一般磁場は1ガウスに満たないが、黒点部分では数千ガウスと強さもまちまちである。太陽付近の強い磁場がプラズマを拘束する際にX線が生じる。 このような磁場は地球同様にダイナモ効果によると考えられるが、差動回転の影響で単純な双極磁場とならず緯度によって差が生まれて、やがて水平方向のトロイダル磁場を作る。しかし磁力線は反発し合うために浮き上がりやループなどが生じ、黒点を生む原因となる。ここにコリオリの力が影響すると、磁力線の繋ぎ変えやねじれができ水平方向の電流(トロイダル電流)が誘起され、磁場はNS極が逆転した緯度方向のポロイダル磁場となり、上下逆の双極磁場に戻る。この変動は11年を周期に起こり、これは太陽周期と呼ばれる。 ===周期=== 太陽黒点は太陽周期で増減する。これは黒点の数で観測され、多くなれば活発な極大期へ向かう。このサイクルは古い磁場が一方の極から引き剥がされてもう一方の極まで達する周期に対応しており、1周期ごとに太陽磁場は反転する。太陽活動の周期には1755年から始まった周期を第1周期とする通し番号が付けられており、2008年1月から第24周期に入っている。この他、マウンダー極小期のようなさらに長い周期での変化もある。なお、11年周期は磁場極性変動が片方(例えば北から南)へ動く期間であり、一周する期間で考えれば22年周期とも言える。 この周期は、太陽磁場・差動回転・対流の3つが対流層で相互作用を起こした結果という説明が1950年代にアメリカのユージン・パーカーが提唱した「ダイナモ機構」で行われた。ただし太陽周期を正確に説明するダイナモモデルは完成されておらず、これには対流層での差動回転の様子を解明しなければならない。 ===表面現象=== 太陽表面には、数時間から数ヶ月にかけて現れては消えるしみのような太陽黒点などさまざまな現象が生じる。また爆発現象である太陽フレアや紅炎(プロミネンス)、CME(コロナ質量放出)なども観察できる。これらを発生させる原因は太陽磁場の磁力線管である。黒点は磁力線管が浮き上がり光球面と交わる部分に2つが対になって生じ、太陽エネルギー放出を阻害するためにその領域の温度は相対的に低くなる。 ===太陽フレア=== 太陽フレアは黒点上のコロナ部分周辺で数分から数十分発生する強力な爆発現象で、高さ1 ― 10万キロメートルのフレアリボンという明るい帯状の光と強いX線を放ちながら、10×10 ‐ 10×10ジュールの高エネルギー粒子が宇宙空間に放たれる。紅炎は黒点形成に関わる磁力線管に蓄積された2000 ‐ 3000Kの高温プラズマに耐えられず、付け根部分が破壊する現象で、これも高エネルギー粒子の放出が伴う。 ===コロナ質量放出(コロナガス放出、Coronal mass ejection, CME)=== コロナ内でもコロナ質量放出(コロナガス放出、Coronal mass ejection, CME)という現象がある。これはコロナ下層から湧き上がる電離高温ガスの塊であり、質量10 ×10g程度、速度10 ‐ 1000キロメートル/秒、エネルギーは10 ×10ジュール程度にもなる。かつては太陽フレア発生による副次作用と思われていたが、観測の結果CMEがフレアよりも先に起こることもあると判明しており、CME発生の根本原因は解明されていない。 ===太陽風=== コロナ内部でプラズマのガス圧力が高まり、太陽の引力を超える状態になると宇宙空間へ吹き出す現象が起こる。これは太陽風と呼ばれ、1951年にドイツのルートヴィヒ・ビーアマンが彗星の尾が太陽光の圧力以外に何かしらの力を受けていることから予測し、1962年にマリナー2号の観測で実証された。 太陽風の密度は粒子が1cm当たり5個程度、通常速度は秒速300 ‐ 500キロメートル。成分は主にプロトン (H)次いでアルファ粒子 (He)などイオンと電子などの荷電粒子である。これが太陽から磁力線に沿ったスパイラル状に吹き出している。温度は地球付近でも10万度を維持している。この太陽風は110‐160 auまで届き、銀河系の恒星間ガスと衝突するところまで到達する。この衝突面はヘリオポーズと呼ばれ、これより内側が太陽圏(ヘリオスフェア)と定義される。この太陽風が地球磁場の南北極域に達し、オーロラが発生する。 太陽風は発生元によって特徴があり、太陽フレアから生じる場合は1000キロメートル/秒の高速・高密度となる。CMEからは高密度だが速度は中程度となり、コロナホールからは高速だが密度が低い太陽風が発生する。 ==太陽の謎== ===三態においての分類=== これは太陽だけでなく他の恒星にも言えるが、太陽には固体からなる地球型惑星や衛星、液体が大半を占める木星型惑星や天王星型惑星などと異なり、はっきりした表面が存在しない。かつては、太陽を始めとする主系列星や未来の太陽の姿とされる赤色巨星は、気体で構成される、という説が有力であった。しかしながら、内部の重力の影響で、表面は気体だが、内部は液体ならびに固体で構成されている、とする説もある(前述の通り、核ではかなりの高温高圧になっているため、密度も非常に高くなっている)。21世紀初頭では、太陽の内部はプラズマや超臨界流体といった、固体でも液体でも気体でもない第四の状態となっている、とする説が最も有力となっている(中でも、既述したプラズマ説が最も有力)。このため、太陽の内部構造が三態のいずれかに該当するかについては結論は出ておらず、いまだにわかっていない。 ===コロナ加熱問題=== 太陽の表面温度は約6,000度であるのに対し、太陽を取り囲むコロナは約200万度という超高温であることが分かっているが、それをもたらす要因は太陽最大の謎とされた。1960年代までは太陽の対流運動で生じた音波が衝撃波へ成長し、これが熱エネルギーへ変換されてコロナを加熱するという「音波加熱説」が主流の考えだった。 1970年代からスカイラブ計画を通じてコロナのX線観測が行われたところ、コロナの形状は太陽の磁場がつくるループに影響を受けていることが判明し、ここから太陽磁場の影響による加熱が提唱された。しかし他にも磁場に伴うアルベーン波説や、フレアによる加熱説などもあり、結論には至っていない。 ===太陽ニュートリノ問題=== 太陽内部の核融合反応に伴って、太陽からはニュートリノが常時放出されている。これは可視光で調査不能な太陽内部を直接知る手段として注目された。標準太陽モデルで求められた陽子‐陽子連鎖反応による太陽ニュートリノは、以下の4種類が想定された。 これらの名称およびエネルギー値は上から、p‐pニュートリノ (0.42MeV)、pepニュートリノ (1.44MeV)、ベリリウム・ニュートリノ(0.38MeVおよび0.86MeV)、ボロン・ニュートリノ (6.7MeV) である。 太陽ニュートリノ観測は1960年代にアメリカ、1985年から日本でそれぞれ行われたが、その結果は、恒星内部の核反応の理論から予測される値の半分程度しかないことが分かった。その後行われた高精度が期待される手法による観測でも理論値よりも測定値が低い結果が再現された。複数の観測法で同じ傾向の結果が出たために、方法的欠陥とは考えられなくなった。 1990年代に複数の仮説が提案された。ひとつは素粒子物理学におけるニュートリノ振動が影響するというものであった。ニュートリノが質量を持つと仮定すると、そのフレーバー(電子型、ミュー型、タウ型)が宇宙空間を飛来する間に変化する可能性があり、過去の電子型ニュートリノのみを測定する手法では太陽ニュートリノが減衰したように見えるというものだった。他にも標準太陽モデルにおけるニュートリノ発生比率への疑問も呈され、過去の実験では高エネルギーのボロン・ニュートリノを捉えやすい性質があったため、仮に太陽中心の温度が想定よりも低いとするとp‐pIII反応の比率は低くなり、結果として太陽ニュートリノの観測値が低くなるという考えが提案された。他にも「太陽では核反応が起こっていない」という極端な説が飛び出る中、新たな観測方法が求められた。 21世紀に入り稼動したスーパーカミオカンデは、同時期に開始されたカナダの観測法よりも比較的電子型以外のニュートリノも捉えることが可能だった。太陽ニュートリノを観測した結果は、理論値よりも低いながらもスーパーカミオカンデの実測値はカナダのそれを上回り、太陽ニュートリノ問題はフレーバーの変化という説で決着した。スーパーカミオカンデは別な観測でニュートリノ振動を実証し、これを受けて「太陽ニュートリノ問題」提唱者レイモンド・デイビスとカミオカンデ実験を主導した小柴昌俊は2002年度のノーベル賞を授与された。 ===太陽に環は存在するか=== 1966年11月12日に観測された日食の際、アメリカの科学者が赤外線観測によって、太陽から約300万キロメートル離れた地点で数μm程度の微細な塵がリング状に広がっていることを発見した。だが1993年11月13日にインドネシアにおいて観測された日食の際に京都大学の研究チームが環を確認して以来、環は見えなくなっており、今後の研究が待たれている。 ==太陽の歴史と未来== 太陽は過去の超新星の残骸である星間物質から作られた種族*9591*の星であり、太陽は超新星爆発で四方八方に散らばった星間物質が何らかの影響によってふたたび集まって形成されたと考えられている。この根拠は主に質量の大きな高温の星の内部で元素合成によって作られる鉄や金、ウランといった重元素が太陽系に多く存在していることにある。このとき同じ星雲からは1000から2000個程度の星が生まれ星団を形成したが、重力的な束縛がない散開星団は45億年の間に散逸したと考えられている。HD 162826はこのときに同じ星雲から生まれた「太陽の兄弟星 (solar sibling) 」の一つとされている。 太陽の中心核では水素原子4個がヘリウム原子1個に変換される熱核融合が起きるが、この反応で圧力がわずかに下がり、それを補うために中心部は収縮し、温度が上がる。その結果核融合反応の効率が上昇し、明るさを増していく。45億年前(太陽誕生から1億年後)に主系列星の段階に入った太陽は、現在までに30%ほど明るさを増してきたとされている 。今後も太陽は光度を増し続け、主系列段階の末期には現在の2倍ほどの明るさになると予想されている。 太陽は超新星爆発を起こすのに十分なほど質量が大きくない。20世紀末 ‐ 21世紀初頭の研究では太陽の主系列段階は約109億年続くとされており、63億年後には中心核で燃料となる水素が使い果たされ、中心核ではなくその周囲で水素の核融合が始まるとされる。その結果、重力により収縮しようとする力と核融合反応により膨張しようとする力の均衡が崩れ、太陽は膨張を開始して赤色巨星の段階に入る。外層は現在の11倍から170倍程度にまで膨張する一方、核融合反応の起きていない中心核は収縮を続ける。この時点で水星と金星は太陽に飲み込まれ、高温のために融解し蒸発するだろうと予想されている。 76億年後には中心核の温度は約3億Kにまで上昇し、ヘリウムの燃焼が始まる。すると太陽は主系列時代のような力の均衡を取り戻し、現在の11 ‐ 19倍程度にまで一旦小さくなる。中心核では水素とヘリウムが2層構造で核融合反応を始める結果、主系列段階よりも多くの水素とヘリウムが消費されるようになる。この安定した時期はおよそ1億年程度続くとされるが、主系列期の109億年に比べれば1パーセントにも満たない。やがて中心核がヘリウムの燃えかすである炭素や酸素で満たされると、水素とヘリウムの2層燃焼が外層部へと移動し、太陽は再び膨張を開始する。最終的に太陽は現在の200倍から800倍にまで巨大化し、膨張した外層は現在の地球軌道近くにまで達すると考えられる。このため、かつては地球も太陽に飲み込まれるか蒸発してしまうと予測されていたが、20世紀末 ‐ 21世紀初頭の研究では赤色巨星段階の初期に起こる質量放出によって重力が弱まり、惑星の公転軌道が外側に移動するため地球が太陽に飲み込まれることはないだろうとされている。ただし、太陽がどのように膨張し地球がどのような影響を与えるのか正確に予測するのは困難とされる場合もある。 赤色巨星の段階に続いて太陽は脈動変光星へと進化し、これによって外層の物質が四方八方へと放出されて惑星状星雲を作り、10 ‐ 50万年にわたってガスを放出する。その後、太陽は白色矮星となり、何十億年にもわたってゆっくりと冷えていき、123億年後には収縮も止まる。この進化モデルは質量の小さな恒星の典型的な一生であり、恒星としての太陽は非常にありふれた星であると言える。 ==人類の太陽認識と観測== ===神話信仰=== 太古の時代から、太陽を人格として捉えた太陽神は世界の多くの神話・伝承などで最高神などとして描かれることが多く、太陽崇拝の対象であることも多い。その性質も、昼夜を分け世界を統治する男性神でもあれば、植物を育て恵みを与える女性神として考えられることもあった。月とともに普遍的な太陽神についての誕生や成立に関する説話は世界各地に伝記および伝承などの形で残されている。 ===古代の観測=== 太陽を天文学的に観測した初期の例は、古代ギリシアのアナクサゴラス(紀元前500年頃 ― 紀元前428年頃)が800キロメートル離れたシエネ(アスワン)とアレキサンドリアで同時刻の太陽視差を測定し、三角法で距離と大きさを求めた。これは、地球は平面という前提でなされたもので、距離を6400キロメートル、直径を56キロメートルと算出し「太陽はペロポネソス半島ほどの大きさ」と述べた。実際とはかけ離れた数字だが、当時のギリシア人はあまりの大きさに誰も信じなかったという。 地球が球体という前提で距離を計算したアリスタルコス(紀元前310年 ‐ 紀元前230年)が日食時に月と太陽の視差がほぼ同じという観察を根拠に三角関数を用いて月と太陽までの距離を計算した。さらにヒッパルコス(紀元前160年 ‐ 紀元前125年)が精度を高めた計算を行った。 ===宇宙の中心の座=== 歴史に残る最初の地動説は、紀元前500年頃のフィロラオスだが、彼の唱える宇宙の中心は太陽ではなく仮想的な「火」だった。太陽中心の地動説はサモス島のアリスタルコス(紀元前310年 ‐ 紀元前)が観測を元に唱えた。 しかし、クラウディオス・プトレマイオス(83年頃 ‐ 168年頃)が確立した天動説型太陽系モデルの体系化を成し遂げた。これを含む古代ギリシア学問はアラビア世界を経て12世紀にヨーロッパが取り入れ、キリスト教的世界観に組み込まれた。 中世ヨーロッパで地動説は、ニコラウス・コペルニクス(1473年 ‐ 1543年)によって唱えられ、ガリレオ・ガリレイ(1564年 ‐ 1642年)が望遠鏡を用いた天体観測を重ね、木星の衛星(ガリレオ衛星)軌道から地動説を提唱したが、二度の宗教裁判の末に敗れた。しかし地動説はヨハネス・ケプラー(1571年 ‐ 1630年)が堅持し、アイザック・ニュートン(1642年 ‐ 1727年)が万有引力の法則で理論的に説明したことで広く受け入れられるようになった。 ===太陽観察=== 太陽の観察は古代から行われ、皆既日食から彩層やコロナは観察されていたことが観察記録から判明している。ガリレオは黒点の観察を記録し、1859年にはリチャード・キャリントンが太陽フレアのスケッチを描いた。太陽光をプリズムで分析する観察はニュートンも行ったが、ヨゼフ・フォン・フラウンホーファー(1787年 ‐ 1826年)が分光の中に黒い線を発見した。1850年代に、グスタフ・キルヒホフ(1824年 ― 1887年)とロベルト・ブンゼン(1811年 ‐ 1899年)がこの黒線が特定の元素によって吸収された光の波長であることを突き止め、これによって太陽大気の元素成分が判明した。分光による輝線と元素の関連が判明した後の1868年に、ピエール・ジャンサン(1824年 ‐ 1907年)が日食時の太陽光スペクトルを観察していた際に未知の元素を示す輝線が発見され、後にこれは太陽のギリシア語にちなみ「ヘリウム」と名づけられた。ゼーマン効果による黒点磁場は1908年に発見された。 ===太陽観測時の注意点=== 日光には可視光線の青色光、紫外線、赤外線が含まれるため、肉眼で直接太陽を観測すると日食網膜症を引き起こし、網膜のやけどや後遺症、失明の危険がある。観察には日食グラスや太陽観測専用の遮光フィルターなどの専用の器具を使用する(すすのついたガラスや黒い下敷き、カラーネガフィルムによる減光では不十分とされている。)。太陽の位置を瞬間的に肉眼で確認してから、グラスやフィルターを目に当てる方法では、網膜のやけどによる影響が蓄積される(そのため、先にフィルターに目を当ててから、観測をはじめるように勧告されている。)。 望遠鏡や双眼鏡を使用する場合には、太陽投射板に太陽像を投射する方法、対物レンズの前にフィルターを装着する方法の他、(不適切な導入によって事故の危険があるが)接眼レンズに専用のサングラスを装着する方法や、サンプリズムで減光した後に接眼レンズに専用のサングラスを装着する方法もある。 上記のように適切な専用機器を使って正しい観測方法を行ったとしても、長時間の観測によって日食網膜症を引き起こすこともあり、1分観測するごとに2〜3分程度の休憩を取ることが最良かつ最適だとされており、市販されている日食グラスにもその旨の警告が記されている。 ===太陽望遠鏡=== 光量が非常に多く、しかも観測目標が光球表面の見かけ上微細かつ変化が激しい現象である太陽観察には、特別な望遠鏡が開発された。一般的には、焦点距離が長く拡大率を高められ、収差を小さくするためにF値が30以上のものに、分散性能が高い分光器が求められる。これらを満たす装置は大型になるため、太陽を追尾する部分・集光部分・分光部分が独立していることが必須となる。 これらを満たすものとして、追尾部分は「シーロスタット式」や「ヘリオスタット式」、反真空望遠鏡では「タロット式」が採用される。太陽観測は日中であるため夜間より大気の揺らぎが大きく、シーイング向上を目指した設置場所や方法も工夫が必要となる。高地や、海や森林などで囲まれた場所がよく選ばれるが、初期には太陽塔望遠鏡のような構造物の上に設置された。太陽観測用では、1998年にサクラメントピーク天文台で初めて設置された補償光学も、シーイングに成果をもたらしている。 ===日震学=== 太陽内部では乱流的対流とともに音波的波動(太陽の固有振動)が存在し、この2つが表面の運動速度場を決定している。太陽光、特に吸収線のドップラー効果から、光球表面の各部分についてこれを知ることができる。これは1960年にアメリカのロバート・レイトンらが粒状斑を観察する中で発見したもので、「5分振動」と呼ばれる。これは当初、太陽大気の局在が原因と思われたが、1970年代にpモードと呼ばれる太陽が持つ固有の振動が原因と判明した。太陽光球上で非常に目立つ5分振動は、量子力学で扱われる球面調和関数で記述できる、量子数が異なる様々な音波の固有振動が重なり合った結果だった。この理論は可視光で観察不能な太陽内部を調査できるために注目され、また地球内部を地震波で調査する手段と基本的に同じであるため、「日震学」(helioseismology) と呼ばれる。 日震学は、対流層の深さを明らかにした。外部から対流を観察するだけでは不明瞭だった対流の深さが固有振動の分析で判明し、それまで考えられていたよりも対流層は厚かった。また、音波が伝わる速度が温度に依存する点から、太陽内部の温度分布が計算可能となった。これは、後述する「太陽ニュートリノ問題」が解決される前に提示された中心温度への疑問に対し、計算値は標準太陽モデルに近いことを示した。さらに太陽内部の自転速度分析にも回答を与え、表面のような差動回転は内部には大きく見られないことが解明された。 ===太陽探査機=== X線による太陽観測は1970年代から活発に行われ、アメリカの「スカイラブ」や「ソーラーマックス」、ESA と NASA が共同で「SOHO」、日本の「ひのとり」や「ようこう」および「ひので」などが打ち上げられた。「スカイラブ」はコロナの詳細な像をもたらし、さらに「ようこう」は空間分解能の高いコロナ像を提供した。 光球の基本的な組成は分光観測によってよく知られているが、太陽内部の組成についてはあまりよく分かっていない。そこで太陽風に含まれる粒子のサンプルリターンミッションである「ジェネシス」は、研究者が太陽の物質を直接測定することを目的に計画された。このミッションでは2004年に機体が地球に帰還し、サンプルの解析が現在も進行中だが、試料カプセルが大気圏へ再突入する際にパラシュートが何らかの原因で正常に作動せず、カプセルが地表に激突したために、サンプルの一部が損傷を受けた。 =飛騨川流域一貫開発計画= 飛騨川流域一貫開発計画(ひだがわりゅういきいっかんかいはつけいかく)とは、岐阜県を流れる一級河川である木曽川の支流、飛騨川を中心として行われた大規模な水力発電計画である。 1962年(昭和37年)より開始されたこの計画は、古くは1911年(明治44年)より日本電力、東邦電力、日本発送電を経て中部電力により進められ、飛騨川の本流・支流に多数の水力発電所を建設。発生した電力を主に名古屋市を中心とした中京圏へ送電することを目的としており、23箇所の水力発電所で総出力114万3530キロワットの電力を生み出している。 ==地理== 飛騨川は木曽川水系における最大級の支流である。乗鞍岳と御嶽山の中間、小説・映画『あゝ野麦峠』で知られる岐阜・長野県境の野麦峠(標高1,672メートル)を水源とし、高山市を西、後に宮峠付近より南へと流れ下呂温泉で名高い下呂市を貫流。流域最大の支流・馬瀬(まぜ)川を下呂市金山町の金山橋付近で合わせた後は概ね南西に流路を取り、美濃加茂市において木曽川に合流、太平洋に注ぐ。流路延長約148.0キロメートル、流域面積約2,177平方キロメートルの河川であり、規模としては木曽三川に包括される揖斐川(長さ約121.0キロメートル、流域面積約1,840平方キロメートル)、長良川(長さ約165.7キロメートル、流域面積約1,985平方キロメートル)に匹敵し、特に流域面積については木曽川水系では最大の面積を有する。なお、かつては源流の野麦峠から馬瀬川合流点までを「益田(ました)川」、馬瀬川合流点より木曽川合流点までを「飛騨川」と呼称していたが、1964年(昭和39年)に河川法が改訂され、水系一貫管理の観点から源流より木曽川合流点までの全域が1965年(昭和40年)に「飛騨川」と改称された。 飛騨川は流域のほとんどを山地で占め、本流は飛騨木曽川国定公園に指定されている中山七里や飛水峡といった険阻な峡谷を形成しており概ね急流である。また飛騨山脈を始めとする豪雪地帯が流域の大半を占めるため、年間の総降水量が約2,500ミリと多雨地帯でもある。このため急流・高落差・豊富な水量という水力発電開発の好条件を全て備える河川であり、只見川や黒部川、庄川、熊野川などと並んで明治時代より水力発電の好適地として注目されていた。飛騨川における河川開発はそのほとんどが水力発電に基づくものである。 ==歴史== 飛騨川の水力発電事業は1911年にその第一歩が記され、日本電力・東邦電力の開発競争、日本発送電による国家管理を経て戦後中部電力が一貫開発計画として大規模に推進していった。ここでは飛騨川の電力開発史を時系列に記述する。 本文に表記されている水力発電所の出力は、運転開始当時の出力を記している。このため現在の出力とは異なることがある。 ===開発の黎明=== 木曽川水系における水力発電事業の初見は1898年(明治31年)に当時の八幡水力電気が長良川の支流である吉田川にごく小規模な発電設備を設けて郡上郡八幡町・川合村(現在の郡上市)に電気を供給したのが最初とされている。その後名古屋電灯が1910年(明治43年)に長良川発電所を稼働させ、発電所から名古屋市まで52キロメートルの長距離送電を開始する。当時は日清戦争・日露戦争に伴い重工業が発達、それに伴い電力需要が急増していたためこれに対応するための電力開発が日本各地で盛んに実施されていた。木曽川水系は水力発電の好適地として俄然注目されていたが、その中でも飛騨川は特に開発地点として魅力的な河川であった。 飛騨川では1914年(大正3年)6月、益田郡小坂町(現在の下呂市)にある製材所の用水を利用した川井田発電所(出力50キロワット)が小坂電灯によって運転を開始し、付近の90戸に電力を供給したのが最初の水力発電事業である。その後飛騨川流域において各集落ごとに自家発電用の発電所が建設され、それと同時に小坂電灯を始め飛騨電灯、下呂共立電気、佐見川水力電気など小規模な電力会社が設立され、飛騨川流域における電化は徐々に進行した。こうした中で長良川発電所の建設に携わった小林重正は、当時大阪電灯とのシェア競争に鎬を削っていた宇治川電気の招きを受け、1911年に関西電力の設立に際し発起人の一人として参画する。関西方面に電力を供給するため飛騨川の河水を利用しようと企図していた宇治川電気は、岐阜・名古屋間の長距離送電に成功していた小林の技術を利用して飛騨川と京都間の送電網を確立させ、大阪電灯とのシェア競争に勝つという思惑を持っていた。小林は飛騨川における本格的な水力発電開発を目指し、瀬戸発電所・久々野発電所など4地点の開発申請を同年河川管理者である岐阜県庁に提出した。この小林の計画案は、例えば瀬戸発電所については現在運用されている瀬戸第一発電所とほぼ同様の計画であり、1910年から1913年(大正2年)まで当時の逓信省によって実施されていた第一次水力発電調査よりも正確な計画であったとされている。 第一次世界大戦勃発以降電力需要はさらに増加の傾向を見せ、これに対処すべく宇治川電気は中部山岳を流れる河川の水力発電開発を促進し、関西方面に電力を供給するための新会社設立を1919年(大正8年)に行った。これが日本電力であり発足後直ちに小林が計画した4発電所の着手に向けて動き出す。一方名古屋電灯などを吸収合併して東海地方に基盤を築いていた東邦電力は当時飛騨川の発電用水利権を保有していた岐阜興業に役員を送り込んで、将来的に合併させる方向で1922年(大正11年)岐阜電力を設立し飛騨川の開発に当たらせた。こうして飛騨川の水力発電開発は日本電力と東邦電力による開発競争時代に移行する。 ===開発競争時代=== 日本電力と東邦電力による飛騨川の電力開発競争は、まず日本電力が一歩先に開発に着手した。小林が計画した瀬戸第一・馬瀬川・小坂・久々野の4発電所計画を1911年岐阜県庁に申請し、1920年(大正9年)に申請が許可され直ちに工事が開始された。まず瀬戸第一発電所の工事用動力源となる竹原川発電所の工事に着手、益田郡竹原村(現在の下呂市)を流れる飛騨川支流の竹原川に取水堰を設けて最大920キロワットの電力を発生させ、瀬戸第一発電所の工事現場に送電するという目的であった。竹原川発電所は1921年10月に工事許可を得るとわずか1年後の1922年11月に運転を開始した。竹原川発電所完成後日本電力は計画の枢軸となる瀬戸第一発電所の建設に着手。益田郡川西村の飛騨川本流に取水堰である瀬戸ダムを建設し、6,600間の導水路で発電所に導水し2万894キロワットを発電する計画であり、1924年(大正13年)3月に完成した。続いて小坂発電所の建設に着手、途中送電線の用地買収や軟弱な地盤による難工事で工期が長期化し、1920年の工事着手より6年を費やし1926年(大正15年)11月、出力1万8000キロワットの発電所として運転を開始。小坂発電所完成後に今度は馬瀬川発電所の工事に着手、瀬戸第二発電所と名称を変更し馬瀬川上流に西村ダムを建設、そこから全長9キロメートルのトンネルで飛騨川に導水して最大2万1000キロワットを発電する計画とした。 一方東邦電力は岐阜電力に開発を委託し、1919年6月に日本電力の瀬戸第一発電所より下流の飛騨川において発電用水利権を獲得すべく岐阜県庁に申請。翌1920年に飛騨川第一・第二・第三発電所計画が許可されて工事に着手した。この3発電所はその後金山・飛騨川第一・飛騨川第二発電所と名称がそれぞれ変更され、さらに金山発電所計画より下原発電所計画が分離。飛騨川第一発電所は七宗(ひちそう)発電所と名倉発電所に分割、飛騨川第二発電所は上麻生発電所に名称が変更された。東邦電力が最初に着手したのは飛騨川第一計画が分割してできた七宗発電所で、佐見川合流点の直上流に取水堰である七宗ダムを建設、その下流に発電所を建設し最大5,650キロワットを発電する計画で1923年(大正12年)1月23日運転を開始。続いて上麻生発電所の建設に着手する。白川合流点の下流に取水堰である上麻生ダムを建設、途中支流の細尾谷に建設された細尾谷(ほそびだに)ダムを経て加茂郡七宗町上麻生の飛水峡に発電所を設け、最大2万4300キロワットを発電する。当時飛騨川最大の発電所となった上麻生発電所は1926年10月29日に運転を開始した。続いて馬瀬川合流点直下流に建設する大船渡ダムを取水元とする出力6,425キロワットの金山発電所と下原ダムを取水元とする出力1万9451キロワットの下原発電所が1926年より着手されたが、ここで日本電力の計画と東邦電力の計画が衝突する。 日本電力は先述の通り馬瀬川に西村ダムを建設して飛騨川へ導水する瀬戸第二発電所の建設を進めていたが、これは東邦電力が下原発電所の水利権申請を行った5年後の1930年(昭和5年)に計画を変更したものであり、下原発電所の申請時とは異なる計画であった。この計画変更に沿って瀬戸第二発電所が建設されると下原発電所は工事の大幅変更を迫られるほか、この後東邦電力が計画していた東村発電所計画は費用対効果の面で計画が成り立たなくなる。東邦電力と日本電力は4年間協議を重ね、瀬戸第二発電所の方が発電効率が良いことから東邦電力は東村発電所の計画を中止し、下原発電所については馬瀬川ではなく飛騨川の水量を増加させて発電するという日本電力に有利な条件で妥結した。ただし日本電力は1日たりとも発電所工事の遅延が許されなくなり、遅れた場合は相応の賠償金を東邦電力に支払うという取り決めも同時に交わされている。日本電力は期日どおり瀬戸第二発電所を1938年(昭和13年)10月に完成させ、東邦電力も下原発電所を同年12月に完成させている。日本電力は瀬戸第二発電所の運転開始により、飛騨川流域での開発に一区切りをつける。 その後東邦電力は岐阜電力を合併し、直接飛騨川の開発に乗り出す。加茂郡白川町の飛騨川に建設した名倉ダムを取水元とする出力1万9678キロワットの名倉発電所を1936年(昭和11年)に完成させ、開発の手を飛騨川最下流部に伸ばす。まず加茂郡川辺町の飛騨川本流に川辺ダムを建設し、出力2万6500キロワットの川辺発電所を1937年(昭和12年)3月26日に完成させ、さらに発電による放流で流量が不均衡となり、下流への利水や河川環境への影響を防ぐための逆調整池を建設するため飛騨川と木曽川の合流点にダムを建設する計画を立てた。しかしここで今度は木曽川本流の水力発電事業を進めていた大同電力と衝突する。 大同電力は既に落合ダム、大井ダム、笠置ダムといった発電用ダムを木曽川本流に建設しており、大井ダム建設に際して宮田用水取水口が水没することから下流の宮田用水・木津用水を介して灌漑の恩恵を受ける農家との間で宮田用水事件という水利権問題を抱えていた。この水利権問題解決と逆調整の目的を以って東邦電力と同じ地点にダムを建設する構想を立てていた。このため事業の調整が必要となり両社は協議を重ねるが、濃尾平野の重要な水源である木曽川の水利用において、計画中のダムは重要な役割を果たすため速やかな施工を河川管理者である岐阜県知事より求められた。両社は発電用水利権をそれぞれ提供し共同事業としてダム及び発電所の建設に取り掛かり、1939年(昭和14年)に完成させた。これが今渡ダムと今渡発電所であり、現在は関西電力が管理している。 こうして大正・昭和初期における飛騨川の水力発電開発は日本電力、東邦電力、大同電力という当時の五大電力会社のうちの三社が事業に絡み合う複雑な様相となっていた。しかしこの間日本は満州事変以降急速に戦時体制に向かっており、電力事業も次第にその影響を受けるようになった。 ===日本発送電の登場=== 国家総力戦を至上命令に政治の主導権を掌握していた東條英機などの軍部統制派の圧力に抗し切れなくなった第1次近衛内閣は、1938年1月第73回帝国議会に電力国家統制のための三法案を上程。東邦電力社長であった松永安左エ門ら電力業界の猛反発を抑えて国家総動員法などと共に電力管理法、日本発送電株式会社法ほか1法案を成立させ、これに沿って1939年日本発送電を発足させた。「半官半民」と謳ってはいたが、経営・人事の全てを内閣が握っており事実上国家による電力管理が開始された。日本発送電は出力5,000キロワット以上の水力発電所およびダム、出力1万キロワット以上の火力発電所、重要な送電・変電設備を管理し、発電と送電を一括して実施すると同法で定められ、これに伴い日本各地の発電・送電・変電施設は「出資」という形で強制接収された。 飛騨川に建設された水力発電所についてもこの例に漏れず、接収の対象となった。1941年(昭和16年)配電統制令の発令に伴い日本全国の電力会社が解散させられ9配電会社に再編されたが、この年の5月日本電力と東邦電力が所有していた全ての水力発電所とダムが日本発送電に接収され、全て「国直轄管理」となった。日本発送電は接収後飛騨川の水力発電事業について、飛騨川上流部の大野郡朝日村(現在の高山市)に大規模なダム式発電所の建設を計画する。これが朝日ダムと朝日発電所であるが太平洋戦争の激化に伴い建設物資が不足、事業は中断したまま終戦を迎えた。 戦後の1946年(昭和21年)6月、日本発送電は朝日村に現地事務所を設置するが、設置当初は養蚕小屋を借りて業務を行うという状況であった。その中で基礎的な資料収集を行うが1948年(昭和23年)日本発送電は戦時体制に協力した独占資本であると連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)より過度経済力集中排除法の指定を9配電会社と共に受け、以後電力再編成について政界や財界を巻き込んだ激しい論争の渦中に叩き込まれた。最終的に旧東邦電力社長で、電気事業再編成審議会委員長である松永が提案した「9ブロック分割案」がGHQに受け入れられ、1951年(昭和26年)ポツダム政令として電気事業再編成令が発令。日本発送電と9配電会社は発電・送電・配電を一括で行う9電力会社として分割・民営化された。中部地方では日本発送電東海支社と中部配電が合併する形で中部電力が誕生する。しかし発電用水利権の帰属に関しては旧日本電力・旧大同電力の流れを汲む関西電力との間で木曽川水系の水利権帰属について紛糾する。 豊富な水量と高落差を有し、未開発の水力資源が多く残存する木曽川水系の水利権帰属は、北陸地方の河川と同様に大いに揉めた。最終的に公益事業委員会の裁定によって木曽川本流については関西電力、長良川・揖斐川そして飛騨川については中部電力が水利権を継承することで決定し、以降飛騨川の水力発電所とダム、そして発電用水利権の一切は中部電力が所有することになり現在に至る。 ===流域一貫開発へ=== 飛騨川流域の水力発電事業を継承した中部電力は、日本発送電が調査していた朝日発電所とダム工事に着手する。当時電力施設は空襲による破壊や酷使による故障、新規開発の停滞により十全の電力供給を図れなかった。反面電力需要は民需用電力の使用制限が解除されたことで爆発的に増加、結果需給バランスが崩壊して頻繁な停電を伴う深刻な電力不足に陥った。このため大規模な貯水池を有する水力発電所を建設することで年間を通じ安定した電力供給を行い、当時石炭不足で稼働率の低かった火力発電所に代わる主力設備として大規模なダムを擁する水力発電所の建設が日本各地で盛んに行われるようになった。さらに流域間で効率的な水の利用を行うことで既に運転している水力発電所の出力や年間発生電力量を増加させることも電力供給上重要となった。このため飛騨川流域でも戦前とは異なり流域全体で水力発電開発計画を進める必要が生じ、朝日発電所の建設などを経て1962年流域全体の大規模水力開発計画を立てた。飛騨川流域一貫開発計画である。 まず朝日発電所については飛騨川本流に朝日ダムを、支流の秋神川に秋神ダムを建設し両方の貯水池より導水した水を発電所に送り、2万500キロワットの発電を行う。朝日発電所は1953年(昭和28年)に両ダムと共に完成、運転を開始。続いて小坂・瀬戸第一発電所間に残された落差を有効利用するための東上田発電所(出力3万5000キロワット)の建設が始まり、飛騨川本流の旧小坂町東上田に東上田ダムを建設して発電する水路式発電所として1955年運転を開始。さらに小林重正が発案し1920年に水利権使用許可を得ていた久々野発電所(出力3万8400キロワット)は1960年(昭和35年)より朝日ダムの直下流に久々野ダムを建設、トンネルによって大野郡久々野町(現在の高山市久々野町)の発電所に送水するという計画で、1962年に運転を開始した。 朝日・東上田・久々野の3発電所は河川の流量が減少する冬季の渇水期にも安定して発電し、電力需要のピークに対応可能とするため建設されたが、1960年代に入ると大容量火力発電所の建設が活発になり次第に電力開発の主眼が水力から火力へ移行する「火主水従」時代になりつつあった。また原子力発電も実用化され始めた。こうした火力発電や原子力発電は高出力運転を継続しなければならないため、緊急時即座に出力を増強する運転は困難であった。これを補い火力・原子力との連携を図る上で注目されたのが揚水発電であり、1965年7月には従来の飛騨川流域一貫開発計画を拡充した飛騨川150万キロワット一貫開発計画を立案。その根幹事業として計画されたのが高根第一・第二発電所である。飛騨川本流最上流部の大野郡高根村(現在の高山市)に高根第一ダムと高根第二ダムを、両ダムの間で揚水発電を行う高根第一発電所(出力34万キロワット)と、高根第二ダムを取水元とする高根第二発電所(出力2万5100キロワット)をそれぞれ建設して増加する電力需要に対応するというものである。両発電所は1969年(昭和44年)に運転を開始し、飛騨川流域における電力発生量は大幅に増加した。なお高根第一ダムは飛騨川流域における唯一のアーチ式コンクリートダムであり、高さ133.0メートルは飛騨川流域随一を誇る大規模なダムである。 ===河川総合開発への参加=== 戦後の河川開発において重要だったのは電力開発だけではなく、カスリーン台風を皮切りに連年日本を襲った水害に対応するための治水と、極端な食糧不足に対処するための灌漑整備があった。経済安定本部は木曽川のほか日本の主要10水系を対象に1949年(昭和24年)多目的ダムを軸とした治水対策である河川改訂改修計画を、農林省(現在の農林水産省)は1948年より国営農業水利事業を策定し1河川単独ではなくテネシー川流域開発公社(TVA)を模範とした水系全体での河川開発を志向していた。第3次吉田内閣はこうした河川総合開発事業をより強力に推進するため、1951年国土総合開発法を制定し日本各地で22地域を選定した特定地域総合開発計画を立案する。 飛騨川を含む木曽川水系では1951年に木曽特定地域総合開発計画が閣議決定された。この計画において飛騨川流域は主に水力発電を主眼とした河川開発が計画され、その中で朝日・秋神・久々野・東上田の各ダム・発電所計画が明記されているが、翌1952年(昭和27年)3月には建設省中部地方建設局(現在の国土交通省中部地方整備局)により木曽川水系流域計画が策定され、木曽川を始め揖斐川、長良川、飛騨川に洪水調節を目的としたダムの建設が計画された。これにより木曽川水系には信濃川水系との導水を含む15箇所の多目的ダムを建設して治水と灌漑、そして水力発電を行う方針に変更され、その手始めに関西電力が発電専用として建設していた丸山ダム(木曽川)が治水目的を持つ多目的ダムに変更されている。中部電力が手掛けていた飛騨川流域においても5箇所の多目的ダム計画が立てられた。 飛騨川本流に久田見ダム、支流の小坂川に落合ダム、馬瀬川に岩屋ダム、和良川に岩瀬ダムが新規で計画され、中部電力が施工していた朝日ダムについては規模を拡大して治水・灌漑目的を追加するというのが計画の骨子である。久田見ダム建設により上麻生発電所は取水口である上麻生ダムが水没するが、代わりに久田見ダムが新たな取水元となり、出力も7万2000キロワットに拡充される。その反面朝日ダムについては治水容量や灌漑容量が増設されるため相対的に発電容量が減らされ、出力も1万9000キロワットに減少する。しかしこれらのダム計画は何れも立ち消えとなり、飛騨川の開発は中部電力による先述の計画が進められた。 飛騨川流域において再度の総合開発計画が登場したのは高度経済成長が本格的となる1963年(昭和38年)のことである。まず高根第一ダムの多目的ダム化が検討されたが費用対効果の面で断念され、次に馬瀬川において総合開発計画が検討された。既に木曽特定地域総合開発計画において馬瀬川本流に岩屋ダム計画が検討されたが、中部電力は高根第一・第二発電所に次ぐ揚水発電開発地点としてこの岩屋地点に注目していた。そこへ木曽川中流部への灌漑を目的とした木曽川総合用水事業を農林省が計画、岩屋地点に灌漑用ダムの建設を考えたことから1968年通商産業省は灌漑と水力発電を目的とした総合開発計画として岩屋地点を正式に採択、岩屋ダム計画が復活する。ところが今度は中京圏の水需要増加に対処するため木曽川水系が1965年(昭和40年)に水資源開発促進法による開発水系に指定されたことで、水資源開発公団(現在の水資源機構)が岩屋地点を開発対象に選び、さらに伊勢湾台風以後の木曽川水系治水対策として建設省が1966年(昭和41年)に特定多目的ダム法に基づく岩屋ダム計画を発表したことから事態は複雑になり、関係各省庁との折衝が長期化した。 一時は電源開発促進法に基づき電源開発が事業を担当するという案も出されたが、建設省、農林省、通商産業省、経済企画庁、中部電力の間で調整が図られた結果、水資源開発公団が事業主体、中部電力は電気事業者として馬瀬川総合開発事業である岩屋ダム計画に参加することが1968年(昭和43年)10月総理府告示第35号で公示された。岩屋ダムは飛騨川流域最大の総貯水容量を有する多目的ダムとして建設され、岐阜県・愛知県・三重県北部の水がめとして1976年(昭和51年)完成する。ダムの施工は中部電力が担当し、揚水発電である馬瀬川第一発電所(出力28万8000キロワット)と、逆調整池兼揚水発電の下部調整池として馬瀬川第二ダムを直下流に建設。馬瀬川第二発電所(出力6万6400キロワット)を同時に建設して夏季の電力需要ピーク時に対応する態勢を整えた。なお岩屋ダムを水源とする木曽川用水は上麻生ダム貯水池において取水され、濃尾平野の農地へ灌漑用水を供給する。 なお、河川法改訂により発電用ダムなどの利水のみを目的とするダムにおいても治水に対する責務が明確化されたことで、1965年の河川法施行令や1966年の建設省河川局長通達・建河発第一七八号が施行され具体的な治水対策が明文化された。中部電力管理のダムでは大井川本流の畑薙第一ダム、畑薙第二ダム、井川ダムが通達第一類ダムに、天竜川本流の泰阜ダム、平岡ダムが通達第二類ダムに、大井川本流の奥泉ダムが通達第三類ダムに指定された。木曽川水系でも水資源機構の牧尾ダム(王滝川)が第一類、木曽川本流の関西電力落合・大井・笠置ダムが第二類に指定されたが、飛騨川流域については最初から目的に洪水調節がある岩屋ダムと大ヶ洞ダム(大ヶ洞川)を除き、中部電力管理の発電用ダムについては通達でどの分類に指定されているかは詳らかではない。 ===計画完了へ=== 馬瀬川第一・第二発電所の完成によって、大規模なダムによる水力発電開発は峠を越える。1977年(昭和52年)より水路式発電所である中呂発電所(出力1万3300キロワット)の建設が開始されたが、この発電所は瀬戸第一発電所や馬瀬川第一・第二発電所の放流水を有効に活用して発電に利用するため建設されたものである。馬瀬川と飛騨川を結ぶ長さ6.6キロメートルのトンネル工事は阿寺断層に阻まれ難航したが、翌1978年(昭和53年)に運転を開始した。1983年(昭和58年)には支流の小坂川に小坂川発電所(出力2万1300キロワット)が完成するが、この小坂川発電所完成を以って、新規の水力発電所建設は終了し、以後は既に建設された水力発電所の再開発へと軸足を移す。 大正時代に建設された瀬戸第一発電所などの水力発電施設は長年にわたる使用によって老朽化が進んでおり、またそれ以降に完成した水力発電所との連携を図る上では施設を改築することでより効率的な発電を行うことが可能となる。1982年(昭和57年)に七宗発電所の近傍に新七宗発電所(出力2万キロワット)が、1987年(昭和62年)には上麻生発電所の隣に新上麻生発電所(出力6万1400キロワット)が完成し、増え続ける電力需要に対応している。また2003年(平成15年)には瀬戸第一・第二、下原、大船渡(金山発電所を改称)、七宗、佐見川の各発電所の設備が改修されている。 現在飛騨川流域に存在する水力発電所は23箇所に上り、その総出力は114万3530キロワットに達し大規模新鋭火力発電所1基に匹敵する。飛騨川流域が持つ包蔵水力は1956年(昭和31年)に通商産業省が実施した第四次水力開発調査によれば116万7560キロワットあり、新上麻生発電所完成とその後の発電所改修により調査で示された包蔵水力の97.9パーセントが開発され、ほぼ水力資源は開発され尽くしている。従って現時点で新規に開発が予定されている水力発電所計画は存在しない。また支流の佐見川に高さ117.0メートルの佐見川ダムを建設し出力1万5700キロワットを発電する新佐見川発電所計画を始め、新朝日・新東上田・濁河・小原・新名倉・中麻生などの水力発電所計画があったが、費用対効果や地元の了承が得られないなどの理由で構想のみ、あるいは計画が中止している。飛騨川流域一貫開発計画は所定の目的がほぼ達成され、新上麻生発電所の運転開始を以って、事実上完了した。 また、険阻な飛騨川の地形や厳しい気候環境の中で実施された大規模な開発計画であり、この計画遂行により合計138名の労務者が労働災害で殉職している。名古屋市など東海地方の発展に寄与した計画の影で、飛騨川に命を散らした人々がいたことは、記憶に留めておく事実である。 ==発電・送電施設== ===発電所一覧=== 下表は現在飛騨川流域で運転を行っている水力発電所と取水元のダム・堰について一覧にしたものである。なお発電所・堰データは『飛騨川 流域の文化と電力』p.878および社団法人電力土木技術協会『水力発電所データベース』、ダムデータは財団法人日本ダム協会『ダム便覧』岐阜県のダムより引用する。また単位については常時・認可出力はキロワット、ダムの高さはメートル、総貯水容量は1,000立方メートルである。 ===送電=== 飛騨川流域一貫開発計画で建設された水力発電所で生み出された電力は、幾つかの高圧送電線を経由して名古屋市、長野県方面、北陸地方に送電されている。 1954年(昭和29年)5月に最初に完成した濃飛幹線は朝日発電所から飛騨川本流の各発電所を経由して川辺発電所に至る全長86キロメートル、15万ボルト二回線、鉄塔159基の送電線網である。各発電所で発電された電力は川辺発電所から愛知県岩倉市にある岩倉変電所を経て、三重県四日市市にある三重変電所まで送られる。濃飛幹線の完成直後には北陸方面へ電力を融通するために北陸連絡線が完成する。これは朝日・久々野発電所の中間点付近より分岐して北上し、富山県へと至る全長25キロメートルの幹線である。建設については北陸電力と工事費を折半して施工された。これにより飛騨川の電力は北陸方面にも融通されるようになった。 1969年には高根第一発電所建設に伴い、超高圧送電線として高根幹線が建設される。この幹線は全長91キロメートル、27万ボルト二回線、鉄塔222基の送電線網であり、高根第一発電所から馬瀬川第一発電所を経て岐阜県関市の関開閉所へと至る。さらに1970年(昭和45年)10月には高根第一発電所を起点とする高根中信一号線が完成する。これは高根第一発電所から野麦峠を越えて長野県塩尻市にある中信変電所へ電力を送電する全長48キロメートルの送電線網であり、完成によって今度は長野県へも飛騨川の電力が送電されることになった。1973年(昭和48年)には二号線が増設されている。これにより高根幹線は長野県塩尻市から飛騨川流域最大級の水力発電所である高根第一・馬瀬川第一発電所を経由して岐阜県関市へ至る長大送電線網になった。 ==バス事故とダム操作== 1968年8月18日、折からの集中豪雨によって飛騨川沿いの国道41号を走っていた観光バス2台が上麻生ダム直下の飛騨川に転落、104名の死者を出す日本のバス事故史上最悪の事故が発生した。飛騨川バス転落事故である。この事故に際し、人命救助の観点から飛騨川流域一貫開発計画で建設されたダム・発電所が異例とも言える操作を行っている。 事故当時の飛騨川は台風崩れの豪雨によって水位が大幅に増水しており、かつ飛水峡という険阻な峡谷にバスが転落していたため、バスの引き上げと乗客の救助活動は難航を極めていた。陸上自衛隊守山駐屯地を始め岐阜県警、消防などが救助活動に当たっていたが、飛騨川流域のダムや発電所を管理する中部電力も要請を受けて岐阜支店長を本部長として社員延べ380名、管理用舟艇350艘を動員して支援体制に入っていた。しかし濁流渦巻く飛騨川の救助活動が難航を極めていることもあり、事故翌日の8月19日に上麻生発電所の全取水発電を行ってダム下流の水位を下げ、転落した2台のうち1台の引き上げを支援した。しかし川の中に没している残り1台の救助は水位がかなり低下しない限り困難であった。 8月21日中部電力は本社会議を行い、救助活動援護を目的に上麻生・名倉の両発電所とダムを利用して飛騨川の水位を極限まで下げる「水位零作戦」の実施を決定、捜索本部連絡会議で提案し了承された。まず上麻生ダムの貯水を全て放流して貯水池を空にし、上流にある名倉発電所では全出力運転を行い取水口である名倉ダムに極力貯水する。上麻生ダムが空になったところで名倉ダムから放流を行い、上麻生ダムはゲートを全閉して可能な限り洪水を貯留、同時に上麻生発電所が全出力運転を行い、ダム湖から取水することで水位の上昇を抑える。この上麻生ダム全閉操作により水がなくなった飛騨川に捜索隊が入り残る1台を捜索するという内容であった。ダムとはいえ上麻生ダムは極めて小規模でかつ治水容量は有しないことから、一歩間違えればダム決壊に繋がる操作であるが、飛騨川の流量が正常に戻るまで待つことが許されないため、ダム管理上異例の操作が8月22日より8月23日までの2日間にわたり岐阜支店長の指揮下で行われた。 ダムが全閉操作を行ってから満水になるまでは30分しか時間の余裕が無かったため、操作は反復して行われた。その30分間に海上自衛隊横須賀基地の潜水部隊と陸上自衛隊豊川駐屯地施設大隊によって残る1台が引き揚げられた。しかし乗客のほとんどは下流に流されていたため、今度は下流にある川辺ダムの全放流操作を1937年の完成以来初めて実施、ダム湖である飛水湖を空にして捜索活動を支援した。大正時代より飛騨川の開発に携わり地形や水文データが蓄積していることが、このような異例の放流操作を行えた要因となっている。なお、事故地点付近に建立された慰霊碑・「天心白菊の塔」は、上麻生発電所職員による清掃活動が月例奉仕として現在も続けられている。 ==補償== 飛騨川流域一貫開発計画において建設された発電所やダムは多数に上るが、建設に伴う地元住民との補償問題の解決は避けて通れない課題であった。ダム建設によって故郷が水没する住民への一般補償、漁業が盛んな飛騨川の漁業補償、発電所の取水と灌漑用水取水との整合性が問題となった農業補償など、幾つもの補償案件が山積しており、その解決には相応の努力が必要であった。計画進行による住民の犠牲は、こうした大規模河川開発における最大の問題となっている。 ===一般・公共補償=== 飛騨川流域のダム開発において、住民の移転を伴う一般補償が実施されたのは川辺発電所・ダムの23戸が最初である。下表は発電所・ダム建設によって移転を余儀なくされた住民の戸数である。 川辺ダムについては当時は東邦電力が施工しており、電力開発の国家的重要性を説いて最終的には円満解決されたと『飛騨川 流域の文化と電力』で述べられているが、詳細は不明である。戦後最初の補償案件となったのは朝日発電所と朝日ダム・秋神ダムにおける一般補償であり、両ダム合計で66戸水没することになった。当初は朝日村や久々野町といった関係自治体はダム建設を歓迎、朝日ダムに水没する地区住民も概ねダム建設は否定的ではなかったが、1951年に発電効率向上のため高さを一律12メートル高くすると発表したところ、当初の水没戸数24戸に加え42戸が新たに水没するため住民は挙って反発、当初融和的だった朝日村や久々野町もダム建設に否定的な姿勢を見せ、補償交渉は深夜に及んだ。最終的には日下部禮一高山市長や飛騨選出の前田義雄岐阜県議会議員、高山商工会議所が代替地を斡旋することで解決した。 東上田発電所・ダムでは当時田子倉ダム補償事件を始めダム補償交渉において高額の補償金妥結が報道されていたこともあり、住民は高額の補償金を要求。一時は事業者の中部電力が発電所建設を断念して大井川水系の開発に軸足を移そうとするなど決裂寸前に至った。この時期は水源地域対策特別措置法などの水没住民に対する法整備が未熟だったこともあり、岐阜県当局や周辺市町村の斡旋により解決が図られるケースが多かった。高根第一・第二発電所と高根第一・第二ダムの補償交渉では1963年に閣議決定された「電源開発等に伴う損失補償基準」が策定されたことから基準に沿った補償交渉が実施されたが、高根第一・第二については多額の補償金受け取りによる住民の生活基盤崩壊を防ぐため現金に代わり社債を提供して堅実な資金運用を提案、水没する69戸のうち64戸が応じている。 馬瀬川第一発電所・岩屋ダムでは水没戸数が157戸と多数に上り、補償交渉を担当した中部電力と地元住民の間で水没見舞金の支給を巡り当初は激しい対立があった。しかし岐阜県が水没見舞金の呈示に前向きな姿勢を示した段階から住民の態度も軟化。岐阜県・益田郡金山町(現在の下呂市)長の斡旋、また水没はしないがダム建設によって地域から地理的に孤立する少数残存者補償を受け入れるなど事業者側も譲歩したため、住民側も事業者側の提示する補償基準に合意。水没住民の移転を含め大規模なダムとしては異例の3年目で交渉が妥結している。ダム規模が同等で当時激しい反対運動により事業が長期化していた八ッ場ダム(吾妻川)、大滝ダム(紀の川)、川辺川ダム(川辺川)などと比べほぼ円満な解決であり、水没予定地にはダム反対運動によく見られる「ダム反対」の看板や幟が全くみられなかったという。 一般補償については水源地域対策特別措置法といった法整備がない状態であったが、基本的には流域自治体が電力開発に理解を示し交渉妥結のために様々な斡旋を行ったことが、頑強な反対運動にまで発展しなかった理由である。一方公共補償については報奨金という名目で学校や消防施設、医療機関の建設や道路・上下水道の整備などが中部電力の負担で実施され、特に道路については劣悪だった道路事情の改善に寄与している。またダムや発電所建設に伴う固定資産税収入は自治体の財政において無視できない位置を占め、1974年(昭和49年)には電源三法(電源開発促進税法・発電用施設周辺地域整備法・電源開発促進対策特別会計法)が施行され、特に発電用施設周辺地域整備法については完成して年月の経過した発電所も対象になることから自治体の公共事業整備に役立っている。 その反面、多くの住民が移転したことにより過疎化が進行、旧朝日村では60戸300名が高山市などに移転したため急激に人口が減少、旧高根村では人口の16.5パーセント、世帯数の16パーセントに当たる65戸350名がやはり高山市などに移転し過疎化に拍車を掛け、旧金山町では152戸836名、旧馬瀬村では特に下山地区が25戸155名の集落全体が関市などへ移転。これらの地域では深刻な過疎化を招いている。 ===漁業補償=== 飛騨川は流域のほとんどを山地で占めているが、植生は良好で水源涵養(かんよう)も保持されていた。これが水生昆虫や藻類の繁殖を促し、さらに魚類が棲息するという好循環を生み出していた。飛騨川や支流の馬瀬川はアユ釣りが特に盛んなほか、イワナ、アマゴ、ウナギ、コイなど豊富な漁業資源を有する河川であった。しかし水力発電所、特にダムを建設することでアユなどの遡上する魚類が深刻な影響を受けるほか、工事中の濁水で河川環境が悪化するなど漁業で生計を立てる関係者にとっては死活問題であり、日本各地のダム開発では漁業権を保有する漁業協同組合との漁業補償交渉が特に困難を極めていた。 飛騨川でも例に漏れず、漁業補償は一般補償に比べはるかに交渉が難航した。日本電力や東邦電力が競って開発を行っていた大正時代は飛騨川に漁業協同組合は存在せず、またダム自体の高さが低く抑えられていた。さらに岐阜県当局がダム建設を許可する条件として魚道の設置を義務付けていたため、上麻生・七宗・大船渡などのダムには魚道が設置され、魚類の遡上には支障を来たしていなかった。しかし戦後に入ると小坂ダムを境に上流を益田川上流漁業協同組合、下流を益田川漁業協同組合、最下流部を飛騨川漁業協同組合が第五種共同漁業免許を取得して漁業権を管理。馬瀬川でも馬瀬川上流・下流漁業協同組合が漁業権を管理しており、漁業資源が衰微するダム・発電所建設には頑強に反対した。特に戦後のダム建設は朝日ダムなど魚道の設置が物理的に不可能なハイダムを多く建設していたことから、より解決が困難になっていた。 朝日ダムから始まった漁業補償交渉は、魚道の設置可否を巡り意見が対立。最終的に魚道を設けない代わりに東上田ダムでは漁業資源保護のための河川維持放流を行い、また益田郡萩原町(現在の下呂市)に岐阜県水産試験場を大垣市から誘致し養殖を促進するなど対策を行って妥結した。しかし1965年7月飛騨川流域を集中豪雨が襲い、朝日ダムに合流する渓谷でがけ崩れが多発。それが原因で濁水が流れ込み数年にわたって飛騨川が濁る朝日ダム濁水問題が発生した。 飛騨川の濁水は年を追っても一向に解決する気配を見せず、朝日ダムの放流と高根第一ダムのコンクリート骨材採取に原因を求めた益田川漁業協同組合は濁水解決を中部電力に対して強硬に主張。濁水が飛騨川バス転落事故捜索を困難にさせている一因であると世論に訴え、中部電力が補償に応じなければ高根第一ダム工事現場に実力行使を以って工事を停止させるとまで強硬な姿勢を取った。飛騨川流域の町村長・町村議会議長、下呂温泉を始めとする町村観光協会なども漁協の主張に同意し、1966年飛騨川公害対策協議会が設置され濁水問題は公害問題に発展する気配を見せた。さらには岐阜県公害対策協議会・岐阜県議会公害対策特別委員会が設けられる事態に発展し、政治問題となった。濁水問題への反発が高まりダムを管理する中部電力は小坂発電所増設、高根第一・第二発電所の工事、さらには馬瀬川第一・第二発電所計画が遅延、飛騨川流域一貫開発計画は停滞する。最終的には事態を重く見た岐阜県当局が仲裁に乗り出し、県の斡旋案で収拾させるに至った。中部電力は朝日ダムに表面取水設備を設置し、比較的清浄な貯水池上層の水を放流することで飛騨川の濁水を解消する対策を取るほか、上流発電所群の運用改善と東上田ダムの放流水を15ppm以下に抑える、秋神貯水池の清浄な水を朝日貯水池に導水し濁水軽減を図るなどの恒久対策を行うことで1972年(昭和47年)3月、岐阜県庁公害対策事務局との協定締結により一連の問題は発生から6年目で解決した。 岩屋ダムを始めとする馬瀬川第一・第二発電所では長良川と並ぶアユの宝庫であった馬瀬川にダムを建設することに馬瀬川上流・下流の漁業協同組合が反発。特に下流漁協は瀬戸第二発電所の取水元である西村・弓掛ダムの撤去を求めるなど強硬な姿勢を取った。この件も岐阜県が仲裁に入り両ダムに魚道を新設する、またアユ養殖施設を新設するなどの条件で妥結した。中呂発電所では度重なるダム・発電所建設で漁場が縮小に次ぐ縮小を受けた益田川漁業協同組合が反対、交渉妥結に3年を費やしている。下表は漁業補償交渉において中部電力が各漁協に支払った補償金の一覧表である。 このように漁業補償は難航を極めた。漁協としては水力発電所やダム建設により生業である漁場が繰り返し失われるため、将来の生活に不安を覚えたための反対運動であったが、電力開発の重要性も認識していたため最終的には苦渋の決断を行っている。飛騨川は多数のダムが建設されたことで回遊魚の遡上が只見川などと同様に絶望的になったが、一方で陸封魚となったアマゴなどが巨大化しており、秋神貯水池などでは新たな漁業資源となっている。飛騨川の水質管理については朝日ダム濁水問題の教訓として高根第一ダムなどにも選択取水設備を設置、濁水防止対策を講じている。2006年(平成18年)7月の洪水においてその効果は発揮され、財団法人ダム水源地環境整備センターより「ダム・堰危機管理業務顕彰奨励賞」を受賞している。 ===農業補償=== 農業に関連する補償としてはダム建設に伴う農地水没に対する補償、特産品栽培に対する補償、慣行水利権に対する補償の3種類が飛騨川流域の水力発電事業では見られた。ここでは後二者について解説する。 特産品補償については朝日ダムと高根第一ダムにおいて見られた。当時朝日村と高根村ではワラビの根からワラビ粉を生産しており、高根村では特産品として多額の収入を上げており生活基盤の一つであった。しかしダム建設に伴い移転する住民の中には、ワラビ粉の生産が不可能になるため収入の途が閉ざされる。このため減収に対する補償が求められ、生活再建の一環として補償が転出住民に行われた。 一方慣行水利権に対する補償は、主に農業用水の取水がダムや発電所の建設によって取水量が減少し、十分な灌漑が行われなくなることに対する補償である。これは戦前・戦後を問わず、発電所建設時に水利権を取得する際に交付される水利使用許可命令書、あるいは水利使用規則においてこれら慣行水利権の使用に支障を来たさないようにしなければならないと定められているためであり、農業保護対策として水利権使用の許認可権を持つ河川管理者が特に注文していた。 飛騨川の水力発電開発の場合、瀬戸第二発電所や朝日発電所、久々野発電所、小坂発電所において頭首工の新設や取水堰からの河川維持放流によって慣行水利権分の流量を維持する対策が取られており、多目的ダムや治水ダムにおける目的の一つ不特定利水が事実上実施されている。馬瀬川第二発電所では発電用水利権により取水される水で農業用水の取水に支障を来たすことから新たに揚水施設を建設した。東上田発電所では流域の旧萩原町が丘陵地に農地が多く営まれているため、ダム建設に伴う取水量減少に不安を持つ土地改良区が反対していた。またダムから発電所へ導水するためのトンネル工事で水脈を掘ったことから、渓流が枯渇したり水が少なくなることで農業用水11件、800戸の水道供給に被害を与えた。このため補償費支払いのほか頭首工の新設、簡易水道整備などの対策を実施している。 ===益田川流木事件=== 流木に対する補償は主に戦前の一時期に見られた補償形態であり、戦後は佐久間ダム(天竜川)や長安口ダム(那賀川)など少数に留まり現在は実施されていない。飛騨川流域の山林は江戸時代は加茂郡の一部が尾張藩の領地として、明治時代は皇室御料林として管理される美林であった。その総面積は20万ヘクタールにも及び、ヒノキ、スギ、モミなどが生育するため江戸時代以降林業が盛んになった。当時の飛騨川流域は険阻な峡谷のため道らしい道は存在せず、木材を名古屋方面に運搬するには専ら流木による輸送が行われていた。流れた木材は現在の加茂郡七宗町下麻生にていかだに組みなおされ、木曽川を下って名古屋へ輸送された。こうした流木が行われるのは洪水期を避ける意味から水量の少ない冬季に行われるが、往々にして急流河川で流木は実施されていたことから、急流河川で好んで行われた水力発電開発が流木を途絶させるため流木業者との相性は悪かった。しかも流木が盛んに行われる冬季は水が少ないため、水力発電所は水量を確保するために特に取水を強化する時期であり、水量が少なくなって流木が支障を来たすことで流木業者の不満は高まる一方であった。 これらの理由で電力会社と流木業者の紛争はしばしば激しいものとなった。特に知られているのが、庄川において浅野総一郎率いる庄川水力電気と飛州木材が、小牧ダム建設と慣行流木権の有無を巡り長期にわたって法廷闘争にまで発展した庄川流木事件である。この庄川流木事件に先んじ、飛州木材は飛騨川においても日本電力との間で慣行流木権を巡り激烈な紛争を1920年から1924年まで繰り広げていた。これを益田川流木事件と呼ぶ。契機となったのは日本電力が瀬戸第一発電所を建設する際に、河川管理者である岐阜県知事から流木権保全のため冬季の流木シーズンには毎秒400立方尺の放流義務を許可条件としたことに始まる。しかしこれを行うと冬季の取水量は激減し発電能力は最大で2万7000キロワットの能力がわずか2,000キロワット弱に低下し、発電所として用を成さなくなる。このため発電所に導水する導水路を流木用水路と兼用させ、発電能力の維持を図る折衷案を県知事に提示し、許可を受けた。ところが飛騨川の流木を一手に引き受けていた飛州木材は当初の条件を遵守するよう強硬に異議を申立て、折衷案を是とする日本電力との間で激しい対立を招き、瀬戸ダムに貯留した木材の流下を促すためのゲートの開放を巡り両者が一触即発の衝突寸前にまで至った。 事態を重視した岐阜県は県議会議長を仲介役として調停に入り、木材輸送に関する輸送期間の遵守と流木従事者への賃金負担、輸送期間を超過した場合の損失補てんを盛り込んだ覚書を飛州木材と交わし、代わりに折衷案を飛州木材は認めることで合意が図られ、4年間に及ぶ紛争は解決した。この益田川流木事件以降、流木権維持のためダムには魚道の流木版である流木路を設けて流木を円滑にさせることが絶対条件となり、川辺ダム建設までは流木路や舟運確保のためのレール敷設が行われた。しかし1934年(昭和9年)10月25日に高山本線が岐阜駅と高山駅間で全通したことで木材輸送は一挙に鉄道輸送に切り替えられ、流木による木材輸送は衰退。戦後は全く見られなくなりダムや発電所建設において流木補償を行う必要性はなくなった。 ==ダムと観光== 飛騨川流域に建設されたダムは発電に利用されているだけではなく、地域のレジャーにも利用されている。特に川辺ダムについては穏やかな水面がボート競技に適しており、1970年に岐阜県川辺漕艇場が人造湖である飛水湖に設けられた。日本ボート協会が認定する国際A級ボートコースに認定されており、インターハイなど多くの大会が開催される日本有数のコースで、2012年(平成24年)開催予定の岐阜国体のボート競技会場に決定している。また観光の面ではダムや発電所の半数以上が、現在の下呂市金山町に集中していることから旧金山町では「ダムの町」として観光の一つに挙げていた。またアユやアマゴなどが高根第一ダムの人造湖である高根乗鞍湖や岩屋ダムの人造湖である東仙峡金山湖などの人造湖で釣ることができる。下原ダムは左岸を高山本線が通過するが、ダム建設に際し線路が水没するため新たに鉄橋を設けた。この下原ダム湖を渡る鉄橋は高山本線における撮影スポットの一つとして知られ、休日には鉄道ファンが撮影のために訪れている。国道41号や国道361号沿いからは建設されたダムの多くを容易に望むことが可能である。 しかし飛騨川流域のダムはほとんどが管理上の理由で、水資源機構が管理している岩屋ダムとダムの天端(てんば)が生活用道路として利用される瀬戸ダム、七宗ダム、大船渡ダム、馬瀬川第二ダム以外は一般人の立入が厳しく規制されている。発電所は中部電力の許可を得ない限り全て立入禁止である。かつては高根第一ダムも立ち入りが可能であり、冬から春に掛けては雪を被った乗鞍岳を正面に望むことが出来たが、発電所・ダムの無人管理が実施されて以降は立入禁止となった。国土交通省や水資源機構、各地方自治体が積極的にダムを観光資源として開放しているのとは対照的で、国土交通省直轄ダムのほか都道府県営ダムや電力会社管理ダムなども発行を開始したトレーディングカードであるダムカードも、飛騨川流域では岩屋ダムしか発行していない。 ==年表== 1911年の関西電力発起人による瀬戸第一発電所など4発電所の水利権申請に始まる飛騨川流域の水力発電開発は、戦後飛騨川流域一貫開発計画として大規模に展開され、1987年の新上麻生発電所の運転開始まで76年間、新規の水力発電事業が続けられた。ここでは年表形式で開発の歴史を記す。 ==参考文献== 建設省『国土総合開発特定地域の栞』、1951年建設省河川局開発課『河川総合開発調査実績概要』第一巻、1955年建設省河川局開発課『河川総合開発調査実績概要』第二巻、1955年建設省河川局監修・財団法人ダム技術センター編『日本の多目的ダム 直轄編 1990年版』山海堂、1990年中部電力編『飛騨川 流域の文化と電力』、1979年水資源開発公団編『水資源開発公団30年史』財団法人水資源協会、1992年 =大日本沿海輿地全図= 大日本沿海輿地全図(だいにほんえんかいよちぜんず)は、江戸時代後期の測量家伊能忠敬が中心となって作製した日本全土の実測地図である。「伊能図(いのうず)」や「伊能大図」とも称される。完成は文政4年(1821年)。 ==作製の経緯== 本図は、寛政12年(1800年)から文化13年(1816年)にかけて江戸幕府の事業として測量・作成が行われたものである。上総国出身で商人だった伊能忠敬(1745年 ‐ 1818年)は隠居後に学問を本格的に開始し、江戸にて幕府天文方の高橋至時(1764年 ‐ 1804年)に師事し、測量・天体観測などについて修めていた。当時、地球の緯度1度に相当する子午線弧長について、30里、32里あるいは25里などと諸説があったなか、高橋・伊能師弟はこれを正確に測定するという目標を有していた。そこで高橋は幕府に伊能を推薦し、当時ロシア南下の脅威に備えて海岸線防備を増強する必要があった蝦夷地(現在の北海道)の測量を兼ねて、その往復の北関東・東北地方を測量することで子午線1度の測定を行わせるよう願い出た。こうして幕府の許可を得た伊能は寛政12年(1800年)、私財を投じて第1次測量として蝦夷地および東北・北関東の測量を開始した。各地の測量には幕府の許可を要したが、幕府は測量を許可したばかりか全国各藩に伊能への協力を命じた。これは、その時点で西洋列強の艦船が頻繁に日本近海に現れるようになっており、国防上の観点から幕府も全国沿岸地図を必要とし、伊能の事業を有益と判断したためである。 蝦夷地測量の翌年の享和元年(1801年)には、本州東海岸、東北西海岸、東海・北陸地方沿岸の測量を完了。文化元年(1804年)には、それまでの測量の結果をいったんまとめ、大図69枚・中図3枚・小図1枚(大中小図については後述)からなる東日本の地図を幕府に提出、将軍徳川家斉の上覧に供した。なお、子午線1度の長さについては28.2里(約110.74キロメートル)と算出し、今日の計測値と較べても極めて誤差の小さい数値となっている。従来の日本地図とは異なり、実測による正確・精密な地図の質の高さに幕府上層部も驚き、伊能の測量事業への支援をいっそう強化することとなった。伊能は正式に幕府天文方の役人として雇用され、翌文化2年(1805年)の第5次測量からは、幕府直轄事業として行われることとなった。 以後、伊能らは文化13年(1816年)の第10次測量まで(第9次測量のみ伊能は不参加)日本全土を歩測した。また蝦夷地北部宗谷附近に関しては、測量術の弟子である間宮林蔵(1780年 ‐ 1844年)の観測結果を採り入れている。伊能は文化15年(1818年)に完成を待たずに死去するが、その喪は伏せられ、師・高橋至時の子である高橋景保(1785年 ‐ 1829年)が仕上げ作業を監督し、文政4年7月10日(1821年8月7日)「大日本沿海輿地全図」が完成した。そして同図は全国に渡る緯度・測量結果を収録した「大日本沿海実測録」とともに幕府若年寄に提出された。 ==地図としての特徴== 測量結果を基に、江戸で伊能らが作図作業を行った。すべて手書きの彩色地図で、利用上の便宜のため以下の3種類の縮尺の地図が作製された。 大図 1里=3寸6分(縮尺1/36,000、全214枚)最も詳細に描かれた地図。北は宗谷岬、南は屋久島、東は国後島、西は五島列島までの海岸線および内陸河川の形状をつぶさに描く。その他、地図内には国郡名、境界線、領主名、村落、寺社名、河川名、磯・浜の種類、田畑、塩田なども記入し、海岸線のみならず、詳細な地図情報が記載されている。なお、大図には緯線・経線は記入されていない。中図 1里=6分(縮尺1/216,000、全8枚)縮尺の都合上、大図と較べて地名などの記載内容は若干簡略化されているが、代わりに緯線・経線が引かれている。京都西三条改暦所を通る子午線を本初子午線として経度の基準とし、実測値を元に経度・緯度1度ごとに直交する度線を引いてある(西洋のサンソン図法に近いとされるが異説もある)。ただし、伊能は地球を球体として考えていた(実際には地球は完全な球ではなく赤道方向に長い回転楕円体(扁球)に近い)ため、緯度・経度ともに若干の誤差が生じている。また緯度については天体観測からほぼ正確に測定できているものの、経度については測定に必要なクロノメーターの未発達などの理由により若干精度が劣り、北海道や九州南部などの辺縁部では実際の位置よりもやや東方向にずれている。小図 1里=3分(縮尺1/432,000、全3枚)利用しやすさを求め、中図よりさらに半分の縮尺で製図し、全国を3枚に収めた図。地名その他の記載は簡略化してある。 ==その後の伊能図== ===シーボルト事件=== 幕府に提出された伊能図は、江戸城紅葉山文庫に秘蔵され、一般の目に触れることはなかった。あまりに詳細な地図のため、国防上の問題から幕府が流布を禁じたためである。文政11年(1828年)紅葉山文庫を所管する書物奉行でもあった高橋景保が、長崎オランダ商館付の医師であるシーボルト(1796年 ‐ 1866年)に禁制品である伊能図を贈ったことが露顕し、高橋景保は逮捕され、翌年3月に獄死した(シーボルト事件)。 日本を強制退去となったシーボルトは帰国後の1840年に、伊能図をオランダでメルカトル図法に修正した「日本人の原図および天文観測に基づいての日本国図」を刊行している。その精度の高さにより、当時のヨーロッパ識者の一部に日本の測量技術の高さが認識されることになる。 ===幕末の伊能図=== 開国後の文久元年(1861年)、イギリス海軍の測量艦アクテオン号(Actaeon)が、「攘夷派をあまり刺激しない方が良い」との幕府の勧告を無視して日本沿岸の測量を強行しようとした際、たまたま幕府役人が所有していた伊能小図の写しを見て、その優秀さに驚き、測量計画を中止して幕府からその写しを入手することで引き下がったという。なお、このときの伊能図の写しを元に1863年にイギリスで「日本と朝鮮近傍の沿海図」として刊行され、日本に逆輸入されて、勝海舟(1823年 ‐ 1899年)の手によって慶応3年(1867年)に「大日本国沿海略図」として木版刊行された。これにより伊能図を秘匿する意味がなくなったため、同年には幕府開成所からも伊能小図を元にした「官板実測日本地図」が発行され、小図のみとはいえようやく一般の目に供されるようになった。 ===原本の焼失=== 明治維新で江戸幕府が崩壊した後、幕府が保管していた伊能図も新政府に移譲された。明治3年(1870年)には開成所から名を変えた大学南校から「官板実測日本地図」が再版されるとともに「大日本沿海実測録」も刊行された。 伊能図の原本は、明治6年(1873年)の皇居の大火災の際に焼失してしまう。そこで伊能家に保管されていた控図(副本)が翌年政府に献納された。 ===近代地図への寄与=== この副本により明治10年(1877年)9月には小図を元に文部省から「日本全図」が発行され、明治11年(1878年)6月には中図を元に内務省地理局より「実測畿内全図」が発行された。さらに同局から中小図に基づいて明治13年には864,000分の1図である「大日本全図」が刊行される。そして明治17年(1884年)には大図・中図が陸軍参謀本部測量部(国土地理院の前身の1つ)によって作成された「輯製20万分1図」の基本図になった。他にも各府県で作成された管内地図の多くが伊能大図・中図を元に作成されるなど、近代日本の行政地図において、伊能図は多大な貢献を果たした。 ===副本の焼失=== その後、伊能家から献納された伊能図の控えは東京帝国大学の附属図書館に保管されることとなったが、これも大正12年(1923年)の関東大震災ですべて焼失してしまった。以降、長きにわたって伊能図(特に大図)は「失われた地図」となり、千葉県佐原市(現在は香取市)の伊能忠敬記念館に保管されていた写しの一部など、全214枚のうち約60枚の写しのほかは、東京国立博物館が所蔵する中図の写しが残るのみとなっていた。 ===21世紀の状況=== ところが、平成13年(2001年)3月にアメリカ合衆国議会図書館で、伊能大図のうちの207枚(うち169枚が彩色なし)が発見された。これは上記の陸軍による輯製20万分1図作成のための骨格基図として模写されたものが、米国に渡ったものと考えられる。 さらに残る7枚のうち、佐倉市の国立歴史民俗博物館で2枚(34番:蝦夷江差、35番:蝦夷ヲコシリ島)、国立国会図書館で1枚(107番:駿河静岡)が発見された。 最後に残った4枚(12番:蝦夷宗谷、133番:山城・河内・摂津、157番:備中・備後福山、164番:備後・安芸・伊予今治)についても、2004年5月に海上保安庁海洋情報部で保管されていた縮小版の写しの中に含まれていることが判明した。海上保安庁の前身である旧海軍水路部が明治初期に海図を作製する目的で模写したものだという。これらの発見により、伊能大図214枚の全容がつかめるようになった。これを受け、2006年5月に国土地理院所管財団法人日本地図センターが「伊能大図総覧」を刊行し、伊能図が一般の目にも触れられるようになった。大図の詳細な検討によって、伊能忠敬による測量がいかに行われたかなど従来検証しづらかった点についても、今後の研究が期待される。なお、その後も2007年1月に、やはり海上保安庁から高画質の原寸模写図3枚を含む色彩模写図が発見されるなど、まだまだ状態の良い伊能図が発見される可能性はある。 ==雑記== 「大日本沿海輿地全図」の「輿地」とは大地(地球)もしくは世界のことである。万物を載せる輿(こし)に地面をたとえたもので、坤輿(こんよ)ともいう(坤も大地を表す)。マテオ・リッチによる「坤輿万国全図」(1602年)なども同様の命名である。「沿海輿地全図」の名の通り、国防上の事業として行われたため、本図は海岸線の描写が中心であり、内陸部に関しては空白も少なくない。シーボルトがヨーロッパで刊行した日本国図は、内陸部の記述については正保日本図(1645年)などで補っているため、異同が多い。アクテオン号が持ち帰った伊能小図の写しはその後も英国海軍水路部で所有され、現在ではグリニッジの国立海事博物館に保管されている。グリニッジは国際標準子午線(経度0度)となっているグリニッジ子午線の町でもある。 ==画像== =ニュージーランドの歴史= ニュージーランドの歴史(History of New Zealand)では、太平洋南西部(ポリネシア)に位置する国家、ニュージーランドを構成する島嶼の歴史について詳述する。 ==概要== 元来は無人島だったこの島に最初に定住した民族は東ポリネシア系のマオリ人で、8世紀ごろにニュージーランドに到達したと考えられている。彼らは巨大な鳥・モアの狩猟を生業としていたが、狩猟対象の激減により14世紀ごろにはライフスタイルの大きな変化が見て取れるようになる。その後、オランダのアベル・タスマンによって1642年に「発見」され、1769年、イギリス人探検家ジェームズ・クックがヨーロッパ人として初めてニュージーランドに上陸を果たした。これを契機としてクジラやアザラシの捕獲を行う人々の補給地として利用されるようになる。 1830年代後半に入るとイギリスの植民会社であるニュージーランド会社が組織的な植民活動を開始したことによって入植者が増加していった。イギリスは1840年、マオリ人代表者とワイタンギ条約を締結してニュージーランドをイギリス主権下へ置いたが土地を巡る入植者とマオリ人との紛争が絶えず、1860年にはマオリ戦争が勃発している。1872年に戦争が終結した後はイギリス主導による大規模なインフラの整備が進められ、大きな経済発展を遂げることとなった。1880年代には経済的な不況を経験しつつもジョージ・グレーを中心とした政治家たちの活動によって法整備、議会整備が実施され、政党の結成が図られた。1893年にリチャード・セドンが政権を握ると1906年までに多くの制度が導入・立法され、ニュージーランドは「社会立法の実験室」として世界に知られるようになる。1907年にはイギリス連邦内ドミニオンの地位を獲得した。1914年に勃発した第一次世界大戦ではオーストラリアとの連合軍ANZACを組織し、ガリポリの戦いに参加するなど多くの犠牲者を出しつつもその地位を向上させ、戦後には国際連盟に原加盟国として参加するようになった。1929年に始まった世界恐慌はニュージーランドにも大きな影響を与えたが、経済に対する国家介入を拡大する政策を打ち出して乗り切った。 第二次世界大戦では連合国の一員として参戦するも、直接的な交戦はほとんど無く終戦を迎える。戦後はキース・ホリオーク主導のもとに経済的発展・国際地位向上を見せるが、1960年代の繁栄から一転して1970年代に入るとオイルショックやイギリスの欧州諸共同体加盟による輸出市場の喪失などによって経済不況に陥ることとなる。これを受けて1984年に労働党政権が誕生すると経済改革、社会改革といった大々的な改革が進められた。 ==マオリの到来== 現在ニュージーランドに居住する先住民族マオリの伝承では、「祖先はハワイキからワカに乗り、海を渡ってやってきた」とされている。彼らがニュージーランドにいつ、どこからやってきたのかに関する年代は明確になっておらず、言語学的な推察と、ニュージーランドに残る遺跡の放射性炭素年代測定から、およそ1100年から1200年ごろにクック諸島、ソシエテ諸島あるいはマルケサス諸島からニュージーランド北島へ渡来したものと考えられている。元来、漁撈・農耕を営んでいた彼らはニュージーランド渡来後、狩猟を中心とした生活に変化した。狩猟対象となったのはアザラシやニュージーランド原産の無翼巨鳥モアで、数多くの狩猟遺跡が、島の各地に残されている。1960年代、大量のモアの骨が狩猟遺跡から発見された際には従来のポリネシア人のライフスタイルとのあまりの相違から、マオリ渡来よりも前に先住民族(モア・ハンター)がいたのではないかとする推測がなされたが、現代ではマオリ自身の生業の中心が漁撈から狩猟に転換したに過ぎない相違であるという意見が一般的となっている。 モアは大量の食料を供給するだけでなく、その骨は釣り針や装身具、工具材として利用され、羽毛はケープや首飾りに用いられるなど、マオリの生活文化に密接に関わっていた。マオリはモアを追いつつその居住地域を北島から南島へと徐々に広げていった。モアの狩猟は1300年代をピークとして、個体数の減少から徐々に衰退していったが、ほぼ絶滅したと見られる1550年ごろまで行われた。モアの減少に伴いマオリの生活スタイルにも変化が見られるようになり、ポリネシアから持ち込んだタロイモやサツマイモの栽培、魚介類や海獣類の捕獲が生活基盤を支えるようになっていった。モアを追って拡散した人々はやがてその地理的・気候的な環境差異から、独自の生活文化を生み出すようになった。北部では植物栽培を中心とした生活が見られ、南部やチャタム諸島などでは脂肪分の多い海獣が重要な食料資源とされていた。 1500年ごろに入ると塹壕や木製の柵や城壁を備えたパ(砦)が急速に普及するようになる。これは集団地域交流と並存して部族間の戦闘が断続的に行われていたことが原因と考えられている。パはニュージーランド全域に6,000を超える数が記録されており、特に人口密度の高かった北島北部に多く残されている。 ==ヨーロッパ人の到来== ニュージーランドをヨーロッパ人として初めて発見したのはオランダの探検家、アベル・タスマンであった。南の海にあるとされる未知の南方大陸の発見を目的として1642年8月4日にジャワ島バタヴィアを出航したタスマンは、インド洋西部のモーリシャスから南下し、タスマニア島を発見する。さらにその東から北上することで同年12月13日、ニュージーランド南島の一角を発見するに至った。しかし、タスマン自身はこれを島と思わず、南アメリカ大陸の西端と誤認し、北上を続けた。南島と北島を隔てるクック海峡に差し掛かった際、これを湾入と考え、飲料水を得るために投錨・上陸を試みたが、マオリに発見され、船員4人が殺されてしまう。この事件がきっかけでタスマンは極度に警戒・躊躇し、一度も上陸することなくニュージーランドを後にした。タスマンはこの陸地に故国オランダの臨海州ゼーランドにちなみ、ゼーランディア・ノヴァと名付けた。これが現在のニュージーランドの呼称の由来となっている。 それから100年以上が経過した1768年、イギリスの探検家ジェームズ・クックが、イギリス王立協会の要請による金星の太陽面通過観測のため、タヒチ島へ派遣された。金星観測を終えた1769年、クックはタヒチから西への航海の最中の10月7日にニュージーランド北島の陸影を発見する。翌日、現在のギズボーン沖に投錨したクックはヨーロッパ人として初めてニュージーランドへの上陸を果たした。その後6ヶ月をかけて北島、南島の全海域を周航したクックは、極めて正確な海岸線図を作成している。 クックの「発見」をきっかけとして交易・捕鯨・宣教などを目的としたニュージーランドへの来訪者が現れるようになる。交易品目としてはカウリやニュージーランド麻がマストやロープの材料として人気を博した。また、ラッセルは捕鯨船の良好な寄港地として知られるようになり、イギリスだけでなくアメリカ、フランスなど様々な国籍の船舶が停泊する港町へと変貌を遂げた。海産物ではクジラの他にアザラシやオットセイなども取引がなされ、南島の各地に次々と拠点が作られた。しかしこうした乱獲によりクジラやアザラシ、オットセイは19世紀始めにはその数を急激に減らしていき、捕鯨や海獣漁は1850年代までに衰退していった。 また、文化面では1807年以降、舶来のマスケット銃が持ち込まれるようになり、先住民同士の戦争形態にも大きな変革が起こった。殺傷力の高い武器を手にしたことによる抗争激化はヨーロッパ人が持ち込んだインフルエンザ、赤痢、百日咳、はしか、チフスといった病気とともに19世紀のマオリの人口減少を招いた一因と指摘されている。キリスト教は1814年、英国国教会を基盤とするチャーチ・ミッショナリー協会のサミュエル・マースデンによってもたらされた。馬などの家畜もこのとき持ち込まれたとされている。 1830年までに約2,000人のヨーロッパ人がニュージーランドに居住するようになった。この中にはオーストラリア流刑地から脱走してきたものも多く含まれており、ニュージーランドの治安は大いに乱れた。特にラッセルは「太平洋の地獄」とも称されるほどの荒れようだったという。 1830年、イギリス人船長がマオリ間の紛争に介入し、ンガイ・タフ・マオリを虐殺するという事件(オナウェ事件)が起こったことをきっかけとして、イギリスはニュージーランドへ法と秩序をもたらすべく1833年5月、ジェームズ・バズビーを駐在弁務官として任命し、その対応にあたらせた。バズビーはまずニュージーランドの国旗制定に取り組み、翌1834年3月、マオリ首長たちを交えた会議にてニュージーランドの国旗を取り決めた。これをもとにマオリ首長たちに独立宣言書に署名を行わせ、1835年10月25日、ニュージーランド北部にニュージーランド部族連合国が誕生した。 ==ワイタンギ条約の締結== ヨーロッパの投資家たちは、ニュージーランドが遠くない未来にイギリスに併合されるだろうという予測の下、植民地化のための活動を1820年代より徐々にすすめていた。1825年には最初の植民地会社がロンドンに設立され、ニュージーランドへの移民斡旋をはじめるようになった。エドワード・ギボン・ウェークフィールドが1838年にニュージーランド会社を設立するとその流れは加速した。マオリたちは戦争のためのマスケット銃獲得のため、土地取引に応じ、ニュージーランド国土の約1/3にあたる2000万エーカー以上の土地がニュージーランド会社の手に渡ったとされている。 イギリス政府の依頼を受けて1837年から実地調査をしていたウィリアム・ホブソンはこうした状況を政府に報告した。民間会社による組織的な植民活動、マオリ部族間での激化する争いのほか、イギリスの他にニュージーランドの併合を狙うフランスの動きなどを背景として、イギリス政府はマオリ首長らから彼らの土地をイギリスに譲渡するよう交渉する必要があると考えるようになった。1840年1月29日、再度政府から命を受けてニュージーランドを再訪したホブソンは、同年2月5日、ワイタンギのバズビー邸宅にマオリを呼び集め、「イギリス女王はこの地を侵略せんとする外国勢力からマオリを保護する用意があるが、イギリス領土以外ではその権威が及ばない。そのため、一同がこの条約に署名することを希望している」と前置いて持参した条約3条(ワイタンギ条約)を読み上げた。マオリ首長たちはこれに対して賛成派、反対派に分かれて大いに議論したが、当日の結論は出ず、翌日1840年以前の土地取引について再度見直すことを条件に45人の首長が条約に署名した。ホブソンはその後南北両島の512人の署名を集めることに成功し、1840年5月12日、スチュアート島を含むニュージーランド全土がイギリス領となったことを宣言した。 ==マオリ戦争== ニュージーランドでの農牧業を推進していくため、ヨーロッパ人はマオリから次々と土地を買い上げていった。特に人口密度の低かった南島ではほとんど抵抗無く土地を手に入れることに成功し、1864年の時点で南島におけるマオリの所有する土地は全面積の1%となっている。こうした状況からヨーロッパへの隷属化を危惧したマオリたちによって土地不買運動が持ち上がり始めた。特にワイカトではこれをさらに推し進めたマオリ王擁立運動へと発展し、激しい抵抗を見せるようになる。 1859年3月、土地売買賛成派のマオリ首長テイラが、共同所有権を持つ土地を独断でイギリス政府へ売却する動きを見せたため、反対派のマオリ首長ワイレム・キンギとの間に争いが勃発する。これが1872年まで続くマオリ戦争の発端となった。タラナキの地で1,500人のマオリが戦争に加わり、3,000人のイギリス政府軍と衝突した。1861年4月に休戦が呼びかけられて一時戦闘はおさまったが、1863年にはワイカトへと広がり、ゲリラ的な戦争が繰り広げられた。ジョージ・グレイは12,000人のイギリス・植民地政府連合軍と、イギリス側に付いた1,000人のマオリ軍を率いてこれの鎮圧にあたった。マオリは地の利を活かした戦闘で数の差を埋めていたが次第に戦局は政府軍が優勢となっていった。1864年3月にマオリの勇将レウィ・マニアポトが討たれると残ったマオリはワイカトを追われ、北島中西部へと逃げ込んでいった。小康状態になりつつも断続的な戦争は続き、キンギが降伏する1872年まで戦争は続き、1881年の正式な和平交渉をもってマオリ戦争は終結した。死者数は政府側が1,000人、マオリ側が2,000人を数えた。 戦争の勃発を受けて政府は1863年に反乱鎮圧法を制定し、マオリの権利を一時的に停止、さらに翌年にはニュージーランド入植地法を制定して戦争関係者のマオリの土地を没収した。マオリにとって政府軍との戦争は自らの土地を守る自衛的なものであったが、反乱民のレッテルを貼られ、先祖伝来の土地を没収される結果に終わった。マオリ戦争の結果、ワイカト(1,205,000エーカー)、タラナキ(1,275,000エーカー)、タウランガ(738,000エーカー)などいくつもの地域で政府による土地の没収が行われた。 ==ニュージーランド自治領== 1840年のイギリス政府とマオリによるワイタンギ条約の締結によってニュージーランドはイギリスへ正式に併合されることとなった。これに伴いオーストラリアのニューサウスウェールズ植民地政府に付随する一地方であったニュージーランドはイギリス直轄の植民地となり、初代総督はそのまま代理総督だったホブソンが引き継いだ。1846年には北島大部分で構成されるニューアルスター州と南島、スチュワート島及び北島南部で構成されるニューマンスター州が定められ、それぞれが立法院、行政院を持つ独立した政治体となった。1852年に基本法が制定されるとニュージーランドは内政に関する自治が認められるようになり、直轄植民地から自治領へと移行を果たす。基本法により2州制から6州制へと改められ、オークランド州、ニュープリマス州、ウェリントン州、ネルソン州、カンタベリー州、オタゴ州が置かれた。各州には州長官と州議会が設置され、測量、土地登記、移民、公共事業、教育行政に関する権限が与えられた。州の数はヨーロッパ人入植者の増加に伴って分離独立が行われ、ホークスベイ州、マールバラ州、サウスランド州、ウエストランド州などが新たに新設された。 政治形態としては二院制が採用され、立法院が上院としての役割を果たしたが、1951年に一院制へと移行している。1853年には最初の下院議員選挙が実施され、1856年にその結果を受けた内閣が組閣された。初代首相にはヘンリー・スーウェルが就任している。 1850年代は金脈の発見などによるゴールドラッシュ景気が続いたがやがて金の枯渇による失業者の増加に伴ってニューヨーク経済は不況に陥り、1860年代から1870年代にかけてはこの建て直しが急務となった。ジュリウス・ヴォーゲルはこの対策として公共事業の推進を提案し、ロンドン資本市場から2000万ポンドの借款を行い、鉄道・電信網の整備など大々的なインフラ整備が実施された。 1891年、ジョン・バランスが首相に就任するとニュージーランドで最初の政党である自由党が結成された。一部の大農園による土地の寡占化解消を謳って当選を果たした自由党は、1891年に「土地・所得税評価法」、1892年に「入植用地法」、「永続借地法」、1894年に「入植者融資法」を制定し、土地相に就任したトーマス・マッケンジー主導のもとに大々的な土地改革を実施した。これらの一連の改革によって1912年までに52万ヘクタールの農園が7,000家族へと再分配された。 ==戦争への参加== 1899年、南アフリカで第二次ボーア戦争が勃発すると、当時首相を務めていたリチャード・セドンは、この戦争に派兵することを決定、イギリス本国へ申し入れた。当時全人口の62%がイギリス人移民で占められていた市民はこの決定を歓迎した。1902年の戦争終了までに6,171名の志願兵と6,600頭の軍馬をこの戦争に派遣し、市民は祖国へ貢献できたことを誇ったという。1914年の第一次世界大戦においても当時の首相ウィリアム・マッセイは「我々は我が国を護るために、そして帝国を支援するために取り得るあらゆる行動を起こさねばならない」と演説し歓待を持って迎えられると戦争終結までに約10万名の兵士を供出した。ニュージーランド軍はオーストラリア軍と連合してANZACを組織し、中東でのガリポリの戦いなどに参加した。ガリポリの戦いで派兵した8,574名のうち2,721名が戦死する凄絶なものとなった。第一次世界大戦におけるニュージーランド軍の戦死者の数は17,000名を数え、イギリス本国を上回る規模であった。 1939年9月3日、イギリスがドイツに対して宣戦布告を行って第二次世界大戦に突入するとニュージーランドもそれに追随し、北アフリカ、ヨーロッパなどの戦線を中心に戦った。この一方で太平洋方面の防衛はアメリカに依存していたため、ニュージーランドがアメリカの重要性を意識する契機となった。 こうした戦争への参加は国際社会の中でニュージーランドの存在を高め、1931年11月、ウェストミンスター憲章の可決によって、ニュージーランドはカナダ、オーストラリア、南アフリカ連邦などとともにイギリス本国と対等な関係を持つ自治国家として認められることとなった。しかし、ニュージーランドから見た場合、独立国家となるよりもイギリス国民として留まることのほうが利点が大きかったことなどから、この正式な承認は1947年まで待つこととなる。 ==第二次世界大戦後== ===経済改革=== 第二次世界大戦は、イギリスに深刻な損害をもたらしたのに対し、ニュージーランドはほとんど無傷であった。このような状況からニュージーランドはイギリスに対して特恵待遇で生産物を供給する対策を打ち出し、国内で生産される産出品目の安定市場の確保に成功する。バター、チーズ、食肉、羊毛などの主要な輸出品は90%以上がイギリスへ輸出され、その割合は輸出品全体で見ても半分以上を占めるに至った。ニュージーランド経済はイギリス市場に依存することで大躍進を遂げ、1960年代には経済成長率、国民所得が先進諸国の最高水準に接近するなど、栄華を極めた。 しかし、1973年にイギリスが欧州諸共同体に加盟すると、それまで大きく依存していたイギリス市場を喪失することとなり、一転して経済は不安定となった。さらに翌1974年と1979年のオイルショックが追い討ちをかけニュージーランド・ドルは劇的な下落を記録した。1982年にはインフレ率が17.6%に上昇し、政府は緊急対策として「物価・賃金・金利統制令」を発動したが、あまり効果は挙げられなかった。失業率が上昇し、財政赤字が増大する中、当時の首相ロバート・マルドゥーンは、「シンク・ビッグ計画」を打ち出し、大々的な経済改革に乗り出した。シンク・ビッグ計画は外債調達資金による大規模な工業開発計画であったが、結果的に失敗に終わり、多額の負債を抱えたニュージーランド政府は破綻してしまうこととなる。この失敗から1984年には労働党政権が誕生し、ロジャーノミクスといった新自由主義的改革が推し進められ、財政赤字を解消するための行政改革に乗り出し、高福祉・高負担の社会主義的政策が撤廃され、ニュージーランドの福祉制度は後退を見た。この影響で1991年には失業者が20万人を超える経済不況に見舞われるが、1993年をピークに徐々に混乱は落ち着き、ニュージーランド経済の体質と構造は大きく変革を遂げた。 =新東名高速道路= 新東名高速道路(しんとうめいこうそくどうろ、SHIN‐TOMEI EXPRESSWAY)は、神奈川県海老名市から静岡県を経由し愛知県豊田市へ至る高速道路(高速自動車国道)である。略称は新東名高速(しんとうめいこうそく、SHIN‐TOMEI EXPWY)、新東名(しんとうめい)、第二東名(だいにとうめい)など。法律上の路線名は第二東海自動車道横浜名古屋線。 高速道路ナンバリングによる路線番号は、本線が伊勢湾岸自動車道・新名神高速道路とともに「E1A」、清水連絡路が中部横断自動車道とともに「E52」、引佐連絡路が三遠南信自動車道とともに「E69」と各区間割り振られている。 ==概要== 日本経済を担う大動脈として開通した東名高速道路も、モータリゼーションの進展や沿線地域の開発によって、渋滞の頻発や走行速度低下が増加し、経済の発展、維持を図ることが困難となってきたことから、東名と同等かそれ以上の高速性と輸送量を持つ道路として計画されたのが新東名高速道路である。伊勢湾岸自動車道、新名神高速道路と一体的に整備され、東京 ‐ 名古屋 ‐ 神戸間約500 kmの国土軸を形成する幹線高速道路の一部である。 路線は東名とほぼ並行関係を保ち、両路線の間隔は最大でも10 km強であり、数か所の連絡路を介して相互に補完、連携し合う。これによって輸送量が増大することから東名の混雑緩和に資することの他に、ダブルネットワークによって、事故や補修、大地震等の天災により一方が通行止めとなっても、もう一方が迂回路として機能するという代替路線としての役割を担うものとされる。 道路名「新東名高速道路」は一般公衆に案内されている通称(営業路線名)で、法令による国土開発幹線自動車道の予定路線名では「第二東海自動車道」、高速自動車国道法に基づく法定路線名では「第二東海自動車道横浜名古屋線」と称する。法定路線の第二東海自動車道の起点は東京都であるが、新東名高速道路は首都圏中央連絡自動車道と接続する海老名南JCTが起点となり、海老名南JCT以東のルートは未定である。また、第二東海自動車道の終点は名古屋市であるが、豊田東JCT ‐ 東海IC間は、東海IC ‐ 四日市JCT間と合わせ伊勢湾岸自動車道として供用中であり、四日市JCTで新名神高速道路や東名阪自動車道に接続している。 道路構造令による設計速度は全区間で第1種第1級の120キロメートル毎時 (km/h) となっているが、伊勢原市 ‐ 豊田市間では140 km/hを担保する構造となっている。これは諸外国の設計速度やドイツのアウトバーンの走行実態などから判断のうえ、将来における走行性、安全性等の調査、研究の進展によって条件が整えば、乗用車において140 km/h走行の実現の可能性があることを考慮して決定した。また、計画時点(2010年)における新東名、新名神の平均断面交通量を62000台(日)と推計したことで、車線数は往復6車線で計画された。この道路規格は建設コストの面から批判を浴び、2003年(平成15年)に開催された第1回国土開発幹線自動車道建設会議で暫定往復4車線に縮小することが議決され、2012年(平成24年)の開通時点では、一部付加車線として往復6車線区間がある他は基本往復4車線で供用している。なお、国土交通省は2018年(平成30年)に静岡県内の区間については車線数の全線6車線化を決定し、2020年以降の順次供用を始めるとしている。また、最高速度についても見直すとして、こちらは2017年(平成29年)11月から静岡県内の一部区間で試験的に110 km/hに引き上げている。 2018年(平成30年)時点の開通区間は、海老名南ジャンクション(JCT) ‐ 厚木南インターチェンジ(IC)間、御殿場JCT ‐ 豊田東JCT間となっている。途切れている厚木南IC ‐ 御殿場JCT間については2020年度までに順次開通する予定である。 ===路線データ=== 起点 : 神奈川県海老名市(海老名南JCT)終点 : 愛知県豊田市(豊田東JCT)路線延長 : 253.2 km道路規格 : 海老名南JCT ‐ 御殿場JCT間 : 第1種第2級(完成時第1種第1級)、御殿場JCT ‐ 浜松いなさJCT間 : 第1種第1級、浜松いなさJCT ‐ 豊田東JCT間 : 第1種第2級(完成時第1種第1級)設計速度 : 120 km/h(完成時)車線数 : 暫定4車線(完成時6車線) ==インターチェンジなど== IC番号欄の背景色が     である区間は既開通区間に存在する。施設欄の背景色が     である区間は未開通区間または未供用施設に該当する。未開通区間の名称は全て仮称である。スマートインターチェンジ (SIC) は背景色     で示す。路線名の特記がないものは市道。バスストップ (BS) のうち、○/●は運用中、◆は休止中の施設。無印はBSなし。英略字は以下の項目を示す。 IC:インターチェンジ、SIC:スマートインターチェンジ、JCT:ジャンクション、SA:サービスエリア、PA:パーキングエリア、BS:バスストップIC:インターチェンジ、SIC:スマートインターチェンジ、JCT:ジャンクション、SA:サービスエリア、PA:パーキングエリア、BS:バスストップ ===本線 (E1A)=== ===清水連絡路 (E52)=== 清水連絡路は全区間静岡県静岡市清水区に所在。 ===引佐連絡路 (E69)=== 引佐連絡路は全区間静岡県浜松市北区に所在。 ==歴史== 本節における路線名は、新東名として開通した2012年以前については計画段階の名称である「第二東名」の名称を用いて解説する。 ===東名の限界=== 東海道メガロポリスを貫く戦後日本の新しい動脈として1969年(昭和44年)に全線開通した東名高速道路(以下、東名)だが、ほどなく都市通過地域を中心に混雑が目立ち始め、特に東京 ‐ 厚木間は休日ともなると高速道路の態をなさないほど渋滞が酷くなった。このため建設省は割合早い段階から東名の代替路線の必要を認識した。1971年(昭和46年)4月には調査を開始し、この時点で道路規格第1種第1級、設計速度120 km/h、往復6車線として構想され、のちの新東名で採用された幾何構造がこの時すでに考えられていた。 しかし、第二東名の計画は遅々として進まなかった。地形的な条件が厳しく、資金を要するためである。なお、東名の増強案としては、並行する東海道新幹線の路線を2階建てにしてその上に第二東名を建設する案、東名を2階建てにする案、並行する国道1号のバイパスを建設する案、東名の交通集中著しい区間を往復6車線化する案が挙がった。この内、2階建て案は資金がかかり過ぎることが予想され、何よりも新幹線と高速道路の線形は全く異なり、インターチェンジを造ることも難しかった。 なお、一部の人からは国土開発幹線自動車道建設法(国幹道法)で定められた7,600 kmの高速道路の建設を終了してから第二東名の建設を検討すればいい、という意見も出た。だが、そうした悠長なことを言っていられないほどに東名の混雑は年々酷さを増した。1979年度のデータでは、自動車保有台数は東名開通時から10年で2倍になっており、東京 ‐ 川崎間で既に路線キャパシティを超え、平均時速で見ると東京 ‐ 横浜間、静岡 ‐ 焼津間、音羽 ‐ 岡崎間、春日井 ‐ 小牧間などで時速70キロを下回り、国際水準で見ると高速道路の概念に入らないような低速ぶりであった。 東名、名神の渋滞が特に他の道路(高速、一般を問わず)よりも抜きん出て問題視される理由は、日本の経済活動を支える貨物輸送の9割が自動車と圧倒的であるが、その多くを東名、名神が担っているからである。これは1977年度の調査であるが、東名、名神の1年間に輸送された貨物総量は約15億トンで、これは国道、都道府県道、市町村道を合わせた日本全道路の約14パーセントを東名、名神が担っていることになる。東名、名神の路線延長は全道路の0.0005パーセントに過ぎないのに、これだけの高い貨物量が集中している。 この東名、名神に対する高い分担率が日本経済に与える影響を一部垣間見させたのが1979年(昭和54年)7月に発生した日本坂トンネルにおける火災事故であった。事故から完全復旧に至るまでまる2か月を要したが、この間は並行する一般国道が代替道路として利用された。だが、一般国道が東名のバイパスとなり得ないことは明らかで、これは同じ日本の大動脈である東海道新幹線と全く同様の弱点でもあった。なぜなら、東名、名神、東海道新幹線とも、そのポテンシャルがあまりに図抜けているために、不通の際には並行する一般道路や在来線ではリリーフの役割が期待できないからである。東海道新幹線の場合、一列車あたり約1000人の乗客を200 km/h以上のスピードで時間あたり10本以上の高頻度で高速輸送するが、これを並行する東海道本線のローカル列車がその代役を果たそうとすることは土台無理な話で、東名の場合も並行する国道では東名の代替を果たすには荷が勝ち過ぎるのである。果たして、日本坂トンネルを迂回した車が国道1号や国道150号バイパスに流れ込んだ途端に、場所によっては40 kmの大渋滞が発生するなど麻痺状態に陥る有様であった。なお、普段の国道1号における普通車と大型車の比率は概ね4対1であるが、日本坂トンネル事故の期間中は1対1となった。つまり、普段25パーセントの大型車混入率が50パーセントに跳ね上がった訳で、これなど東名が普段からいかに大量の長距離大型トラックの輸送を担っているかを示す証左である。 この事故によって「カンバン方式」を採用するトヨタ自動車に対して部品や材料が時間通りに届かないことによる組み立てラインの停止など産業への影響が少なからず発生した。地域によってはゴミ収集や郵便配達の停滞、果てはスーパーなどで売られる野菜や魚などが品薄になって値上がりするなど市民生活にも大きな影響が出た。なお、静岡、愛知、兵庫などの野菜生産地から東京への輸送は100パーセント東名、名神を利用しており、自動車産業におけるジャスト・イン・タイム輸送方式は生産行程の合理化に役立っているが、それは高速道路利用による時間厳守の確実な輸送によって成り立っている。また、長距離輸送のワンマン運転を可能にして物流の合理化に寄与し、翌日に配達されるという宅配便のシステムも高速道路の力に負う所が大きく、このことからも東名、名神が日本の経済活動に深く関わっていることが判るのである。なお、焼失した173台のうちの7割にあたる127台がトラックで、そのナンバープレートに刻印されていた地名は、東北地方を除いてほぼ日本列島の全域をカバーした。そして焼けた積み荷の中身は、自動車部品、農産物、金属材料、ゴム、紙ロール、水産物、清涼飲料などあらゆる産業の材料、製品が含まれ、これらによっても東名が果たしている役割の一端が垣間見えるのである。 東名の混雑度も当初は部分的に散見されたものが、1980年頃にはほとんど全線に渡って過密の状態に立ち至り、日本の産業構造が東名、名神に支えられている状況を見るにつけ、いよいよこれ以上放置しておくことは出来ないレベルまで到達した。 そして渋滞のみならず、上記に見る日本坂トンネル火災事故をはじめとした交通事故、あるいは静岡市清水区由比地区付近の台風や高潮による通行止めの頻発、さらには東海、東南海地震が発生した際には大動脈が一本だけでは経済面や災害対応でも大いに問題があることから、何らかの対策を必要とする時期に差し迫ってきた。 ===提言と四全総=== 1982年(昭和57年)1月、第26回国土開発幹線自動車道建設審議会(国幹審)が開催され、ここで交通量の増加に悩む東名、名神の一部区間の路線増強が決定した。東名では大井松田 ‐ 御殿場間の増強が決定され、一部拡幅のほかは基本別線で建設されることになった。だが、一部専門家には混雑区間に的を絞った部分改良では問題の根本的解決にはなり得ないと不安視する意見もあった。つまり、混雑区間が渋滞解消されたとしても、日本坂トンネル事故のようなどこで発生するかわからない大事故で東名が長期間不通になろうものなら収拾がつかなくなるなるというのである。 1982年(昭和57年)3月には道路審議会が建設大臣に建議という形で、21世紀を目指した道路づくりの提言を行なった。1980年から下準備を開始して、この度ようやくまとめたものだが、その内の一つが東名、名神の部分的拡幅を行なうと同時に、長期的には第二東名、第二名神の建設を促す内容であった。ここでも部分改良だけでは問題は解決しないとしているが、理由は東海道地域における交通は今後とも増えると見込まれることや、東名、名神が全国高速道路網のかなめの位置にあることから、各地方が3大都市圏と交流し、あるいは地方相互に交流する場合に東名、名神を使わざるを得ない訳で、そこへ東名、名神の混雑があっては地域間の交流も妨げることにもなりかねない。また、交通量増加によって道路への負荷もかかることで維持補修の必要も増し、これに対して大規模な交通規制を敷くことは渋滞を招来することになって流通の停滞、追突事故の増大など悪循環となる。休憩施設も大幅な不足をきたしており、この現状を鑑みると、一部施設の改良や道路拡幅と並行しながら別線建設も検討する必要があると報告している。この提言が直ちに第二東名、第二名神建設に結びつくことはなかったが、その翌年からは第四次全国総合開発計画(四全総)の策定作業が国土庁によって開始されており、これと絡んで少しずつではあるが第二東名の計画が具体化していくことになった。 四全総が計画されていた頃、政治的にもっぱら問題となっていたのは、日米間における貿易摩擦と予想以上の円高により発生した不況であった。この対策としては、円高に弱い業態(造船、鉄鋼、石炭)をある程度あきらめて、産業構造の調整を図ることとされた。また、これらの対外的な問題から、外需依存では立ちゆかなくなってきたことで、国内経済に依存する内需依存型経済を指向する必要が生じていた。こうした背景の下、国内経済を刺激するためには東京一極集中ではなく、地方経済の独立化と活性化が必要となるが、その実現のためには高速道路が必要であるとの要望が多く寄せられるに至った。つまり、大都市圏と地方を結ぶよりは、地方同士を結ぶ交流ネットワークが必要とされ、これを踏まえて四全総では地域間の移動に1時間以内で到達できるような高速道路ネットワーク形成が目標として掲げられるに至った。またこれとは別に、既定の高速道路の内、混雑が著しい区間の解消を目指すとしたが、これが東名、名神の代替路線建設を指すことは明らかであった。こうして諸々の案件を加えて、当初は7600 kmで計画された全国高速道路網は、今回計画分の6220 kmを足して約14000 kmに拡充されることになった。ただし、6220 kmには採算性が悪い路線も含まれることから、これを全て日本道路公団(以下、公団)が引き受けると内部補助に問題が生じる。このため、一般国道自動車専用道路2300 kmと国土開発幹線自動車道3920 kmに分けて公団引受け分は後者とすることになり、1987年9月の臨時国会で国幹道法の法律改正を目指すことになった。なお、四全総は1987年6月に内閣によって承認され、第二東名、第二名神は高規格幹線道路14000 kmの枢要部を形成する路線として位置づけられた。 ===国幹道法改正以後=== 1987年(昭和62年)9月1日、1966年(昭和41年)に国幹道法による予定路線7600 kmが制定されて以来、21年ぶりに法改正されて予定路線は11520 km(7600 km+公団引受け分3920 kmの合計)に拡充された。その中でも整備の緊急性、優先順位が最も高いと位置づけられたのが第二東名と第二名神である。 地方間を結ぶ交流ネットワーク推進のために、予定路線を11520 kmに拡充するというのが四全総における一応の建前であったが、実態は高速道路を求める各地方自治体が地元の有力政治家に働きかけて半ば強引に計画路線に組み入れた結果が今回追加分(3920 km)の路線網である。なお、かつて7600 kmに制定された路線とは、一定の交通需要が見込めて採算ラインに載ることを念頭に選び、そこに人口分布なども勘案して定められた路線であって、それ以外の路線は不採算路線であることから建設省が除外した経緯がある。なぜ不採算路線を計画から外したかと言えば、公団は高速道路建設にあたって税金投入ではなく、郵便貯金や簡易保険を財源とする財政投融資、および銀行から建設資金を借り入れてのち、通行料金で返済する方式を採用しているため、建設する高速道路の採算が悪ければ借金返済が滞って公団経営が悪化しかねないためである。これに対して一般国道などは税金が投入されることから、採算性はそれほど問題視されない訳で、ゆえに通行量が極端に少ない地方にも国道が建設できるのである。今回追加された3920 kmの路線はそのほとんどが不採算路線とされ、それも追加分の目玉路線が高コストの第二東名、第二名神とあっては赤字必至であることから、後述するように公団関係者の一部には経営を不安視する者さえ現れた。 第二東名、第二名神の予定路線は、四全総計画時点で示された高規格幹線道路網計画図によると、概ね東名、名神に並行して計画されているが、伊勢湾北端(名古屋港付近)をかすめることと、岐阜県を避けて三重県側に寄せられるなど完全な並行とはなっていない。なお、 国幹道法改正の5か月前には、愛知県知事が元々一般有料道路として計画されていた豊田 ‐ 四日市間の伊勢湾岸道路を第二東名、第二名神に取り込むための提案をしており、政府も伊勢湾岸道路が東名、名神のバイパスになりうるとの判断から伊勢湾岸道路を第二東名、第二名神に取り込む決定を下した。 建設省は第二東名、第二名神のルート確定に向けてさまざまな構想を練ったが、1988年(昭和63年)6月に公表したルートでは、東京近郊と大阪近郊の用地買収は困難として、当面は御殿場と栗東間を構想し、それ以外は東名、名神を拡幅のうえ供用する案を出した。そして3大都市圏以外の設計速度(工学上の安全速度で実際車を運転する速度とは異なる)を140 km/hに引き上げ、道路の勾配を2パーセント(1000メートルの間に2メートルの高低差)以下に抑える、雪や霧などの天候の影響を抑えるために標高を300 m以下に抑える、山間地振興の地元要望受け入れと海岸部の人口密集地帯を避けるために山すそにルート設定するなどの案を示した。この内の勾配抑制とは、自動車の性質からいって、下りはスピードが増して上りはスピードが落ちるという現象から渋滞発生要因の一つとされることで、可能な限り道路を水平に保って渋滞発生要素を初めから排除しようという考えによっている。なお、140 km/hの根拠は、公団の広報誌によれば、欧米の例、ユーザーのニーズ、投資効率などの条件から最適と思われる数値として決定したとする。そして設計速度を高く設定すれば安全性を確保するために路肩を広くしたり、カーブや坂を減らす工夫を要し、結果的にコストの高い道路ができあがる。この高い規格を指示したのは1986年(昭和61年)まで建設大臣を務めた江藤隆美とされ、「第二東名は立派な道路を造るよう指示した(中略)後世に誇れるような財産を造れと指示した」とNHKのインタビューで述べているが、同時に「安くという発想は全くなかった。世界に誇れるものをということだけだった」とも述べている。 1989年(平成元年)2月には第28回国幹審で横浜市 ‐ 東海市間が基本計画区間(国幹道の予定路線のうち建設を開始すべき路線として策定されるもの)に格上げされ、月内には第二東海自動車道横浜東海線として高速自動車国道の路線に指定された。今回策定にあたり、過密が酷く用地買収が困難、かつルートを巡って地元自治体との調整がつかなかった東京 ‐ 横浜間(約30 km)、および一般有料道路として事業中の東海 ‐ 名古屋間(約4 km)は除外された。この頃までには具体的なルートが検討されており、並行する東名、名神の代替性を重視して新旧両道の乗り移りを可能とする渡り線を設けることなどが計画された。つまり、複数の連絡路で東名と相互に行き来できるラダー(梯子状)とすることで、東名の一部区間で不通になった場合はこの連絡路で第二東名に移動して迂回路として活用することとされた。また、両道路は近い位置で並行することから、一般道路においても各IC経由で相互連絡できる構造とした。 1991年(平成3年)12月には環境影響評価の手続きが終了した静岡県長泉町 ‐ 愛知県東海市間の216 kmについて、第29回国幹審の議決を経て着工前提の整備計画路線に昇格した。 そして1993年(平成5年)11月、長泉町 ‐ 東海市間に建設大臣から公団に対して施行命令が下された。だが、この規模にとどまる施行命令ではなかった。日本道路公団始まって以来の最大規模の施行命令で、他の高速道路までも含んでその延長距離は1184 km、事業費は9兆7000億円もの規模であった。この中でも特に金のかかる第二東名、第二名神の建設費を工面し、他の採算の見込めない路線を建設して償還を達成するために公団は、1994年(平成6年)に高速道路の通行料金の値上げに踏み切った(実施は翌年4月)。 値上げにあたり、公団は専門家に意見を聞いたうえでその値上げ幅を4割増と試算したが、認可を出す立場の建設省は、バブル経済がはじけて企業収益が軒並み悪化している中で、運輸業界を始めとする財界からの反発を予想し、前回値上げ時からこの時に至るまでの物価上昇率(約11パーセント)以内に値上げ幅を抑えたいとの意向を持っていた。結果的に9.7パーセントで落着したが、ここまで圧縮するために建設省は公団に一層のコスト緊縮策を迫り、道路建設に対して新技術導入による建設費削減などの努力を求めた。公団はこうした要請に応えるべく、第二東名建設にあたって大型機械導入や新工法の積極的導入を図ったが、これについてはトンネル・主な橋梁節で後述する。それにしてもこの時期はバブル経済が崩壊して不況のただ中にあった訳で、それでも空前の施行命令が下された背景には、第二東名が景気浮揚の起爆剤につながるとの期待が経済界にあったからである。 なお、1996年(平成8年)12月に開かれた第30回国幹審で、新たな基本計画が策定されることになり、第二東海自動車道では東海 ‐ 名古屋市間約4 kmが追加された。これを反映して翌1997年(平成9年)2月には、高速自動車国道法による路線名が第二東海自動車道横浜名古屋線となった。また今回の国幹審では、海老名 ‐ 秦野間、御殿場 ‐ 長泉間が整備計画認可を受けた。そして残りの区間(秦野 ‐ 御殿場間)も1998年(平成10年)12月開催の第31回国幹審で整備計画認可を受け、当面の営業区間となる海老名 ‐ 東海間の整備計画がこれで出揃うことになった。 前述したように、公団内部には1987年(昭和62年)の国幹道法改正以後、高速道路ネットワークが11520 kmに拡大されたことに対してある種の危機感を抱く者が少なからずいた。危機感の根底にあったのは、今回の拡大によって不採算路線を多く抱きかかえたことと、それにも増してコストがあまりにも高い第二東名が正式に計画に盛り込まれたことにより、公団の存在そのものが吹き飛びかねないことにあった。慢性的な渋滞により東名の機能低下が目立ってきていることで、その代替路線が必要なことは理解できるとしながらも、道路規格や事業の進め方には疑問を投げかけ、このままでは公団は倒壊するというのである。果たして第二東名の建設が始まってみると、持てる技術を駆使して多くの「日本一」と「世界一」を実現しながらも、コスト意識がない事業手法と体質が祟って公団の借金はうなぎ登りに増加することとなった。 ===第二東名への批判=== 上記に見る第二東名の設計速度140 km/h、曲線半径3000 m、勾配2パーセント以下という構造基準によって、第二東名は高コストで建設されることになった。何故なら、これらの条件で建設すれば必然的に道路は直線形状に近づき、かつ限りなく水平に造らざるを得ず、それを実現するためには橋梁、トンネルの構造物比率が増加するためである。直線であることは山を避けることが出来ずにトンネル数が多くなり、水平に近いことは山間部において非常に高い橋梁が必要となってくるが、これによって第二東名に占める構造物は全体の6割(東名は2割)に及ぶことになった。盛土の上に道路を造る場合と違い、トンネルや橋などの構造物を造るには莫大な建設費用がかさむのである。これに加え、第二東名は往復6車線のため、トンネル断面は往復4車線の東名と比較して2.5倍となって、さらにコストが膨らむ結果となっている。これによって第二東名、第二名神の1キロ換算の工事費は一般高速道路の5.1倍(236億円)に膨れ上がり、総事業費は約10兆円(2002年当時)と見積もられた。 この構造基準は1990年(平成2年)8月6日、当時の建設省道路局長の藤井治芳(後の日本道路公団総裁)の通達によって正式に定められた。通常、政令にはない構造規格の道路建設には道路構造令の改正が必要となるが、藤井は改正手続きを飛び越えて局長通達1通だけで公団に対して指示を下したのである。道路構造令には140 km/hの規定は無く、警察庁との調整も無視して、第二東名、第二名神の構造規格は一介の官僚によって強引に制定された。これは第二東名、第二名神にA、B、Cの3規格を設け、A規格が最もハイスペックの140 km/h、ほかの大都市近郊ないし中心部をB、C規格として120 km/h、100 km/hとする内容であった。その結果が莫大な高コストとなって跳ね返ることになり、これには後年、道路関係四公団民営化推進委員会が藤井に対して厳しく責任追及している。 (表典拠:『高速道路と自動車』第43巻第9号(2000年9月)公益財団法人高速道路調査会、37頁) (典拠:『土木施工』2012年4月、56頁) この局長通達後、建設省は警察庁と非公式に協議を行ない、120 km/hまでしかない道路構造令の改正を目指した。だが警察庁側は事故防止の観点から140km/h化に対する反対意見が優勢で合意は得られず、建設省は道路構造令はそのままにして、1993年(平成5年)に施行命令を出して事業化した。後年、道路構造令にはない140 km/hの規格で建設続行していることに対して国土交通省(建設省からの改称)は「規制速度が140 km/hを下回っても安全性は高まっているので一概に無駄になるとは言えない」として、法改正を経ずして通達だけで高コスト路線の建設に邁進していることについては問題にしないような素振りを見せた。なお、民営化推進委員会が第二東名のコスト縮減策を模索し始めた段階では既に6車線分で完成した区間が多く、規制速度や交通量の予測を精査することなしに建設に邁進した公団の姿勢に対してマスコミはこぞって批判を浴びせた。 用地買収もたけなわの頃、一つのニュースが新聞記事を賑わした。静岡県浜松市の宅地が第二東名および県道建設予定地にかかることから、宅地をそれぞれ2つに分割した。土地は元々一つであるから、分割された2つの土地は接している。しかし、第二東名の用地は一平方メートルあたり55000円、一方の県道用地は25000円で売却したとすることで、公団が県道の2倍の高値で土地を購入していたことが判明したのである。不動産鑑定士によって評価額の差異があるにせよ、通常は2割から3割程度とされるなかで、2倍から4倍の差がつくことは公団のコストに対する意識が希薄であるとの批判がなおのこと強まる結果となった。 今ひとつの批判として、第二東名の2001年度における建設工事の指名競争入札のうち、平均落札率が予定価格の98パーセント台という高率であったことも公団のコスト意識の無さを改めて印象づける結果となった。指名競争入札であるから、公団が設定した予定価格(業者には非公表)より最も安い価格を提示した企業が落札するのが通常だが、予定価格の98パーセント台というのは競争が無きに等しい数値である。予定価格が事前に業者に知らされ、業者間で落札する業者を談合によって決めていたと糾弾されても仕方の無い落札率である。そして入札に参加した企業には公団のOBが天下っていたことから、業者と公団の癒着という構造が存在し、高速道路の高い建設費用と公団の借金が膨らんだ背景には、こうした公団の体質があったとされる。 第二東名は当面の起点を神奈川県海老名市(海老名南JCT)として、それ以東は住宅密集地帯のため一部で基本計画区間として策定されているのみで着工の計画はない。しかし、東名の交通量は東京に近づくほど増大し、渋滞が酷くなることを考えると、海老名市起点では東名の補完道路としてどこまで有効であるのか疑問視された。そもそも東名の渋滞解消が第二東名の主たる使命であるのに、東名の最混雑区間について第二東名はカバーしないのである。前出の当時の道路局長の藤井が元公団総裁を訪ねて第二東名建設の是非を問うたとき、元総裁から第二東名の高コストを懸念され、東京側の入口の計画がはっきりしないならば造らない方がいい、との忠告を受けていた。しかし、用地買収をも含めた計画がはっきりしないまま着工に踏み切り、これには公団内部からも見切り発車との批判が出ている。 第二東名建設に対して、建設省や事業主体の公団側にコストカットの意識が全く無かったかといえばそうではなく、1990年代初頭には高い構造規格を実現するには高コストになるため、橋梁に対するプレキャストセグメント工法の採用などが早くから考えられていた。公団発行の広報誌にはやたらとコスト低減を標榜した工法の採用や実績が示されている。それにも関わらず第二東名や公団に対するマスコミおよび世間の風当たりは一層厳しくなった。第二東名を不採算路線として見直すべきとする意見から、東名の現実を見て第二東名は必要だが140 km/hや勾配2パーセント、往復6車線はコストを押し上げ、贅沢すぎるなどの意見もあった。そして上記に見る国や公団のコスト意識の希薄さと天下りやファミリー企業問題により借金が30兆円に達しようという状況から2001年には小泉政権の下、特殊法人改革が推し進められ、これに乗じて道路関係四公団民営化推進委員会が設立されるに至った。 ここでは公団の民営化が目的であったが、同時に高コストの第二東名、第二名神がやり玉に挙がった。先に国土交通大臣は第二東名の交通量や最高速度が曖昧なまま工事が続けられている状況から全線6車線を4車線に見直し、最高速度の見直しも図る見解を示したが、これは建設凍結を回避するための代替案でもあった。結局、政府は2003年(平成15年)3月に第二東名、第二名神の規格見直しを決定し、第二東名の場合、豊田以東は基本往復4車線で建設されることになった。これにより1兆円規模の経費削減が可能とされた。これは2003年(平成15年)12月に開催された第1回国土開発幹線自動車道建設会議(国幹会議:それまでの国土開発幹線自動車道建設審議会〈国幹審〉を改称したもの)によって議決された。 なお、日本道路公団は2005年(平成17年)10月に民営化され、第二東名の建設は中日本高速道路(NEXCO中日本)が引き継ぐことになった。 ===諸外国の事例=== 建設過程では何かと批判の多かった第二東名であるが、その要因の一つに東名と並行することで無駄と映ったことが挙げられる。しかし、第二東名が必要とされたのは、先述したように産業構造が過度に東名に依存していることと、その動脈が天災や事故によって不通になった場合は国民生活へのダメージが深刻であることから、その代替路線が必要と判断されたことがそもそもの構想の発端であった。 主要都市間を結ぶ幹線高速道路に並行して、もう一本の幹線高速道路を建設し、しかも並行する2本はラダーとなる道路で結ばれるという形態は、道路先進国のドイツではごく普通に見ることができる。ケルンやボンとミュンヘン間約600 kmを結ぶアウトバーンはライン川をはさんで2本存在し、あるいはボンからルール地方、ブレーメン、ハンブルクを結ぶ路線についても同様で、いずれも途中でラダー(これもアウトバーンである)に結んだネットワークを形成している。この結果、都市間を結ぶどのリンクに障害が生じても代替ルートが提供されており、例えばアウトバーンには「Umleitung」(迂回路の意味)の文字に高速道路ナンバリングを組み合わせた緊急の迂回道路を示す標識があって、ルートの一部で事故があった場合は、ドライバーがラジオで情報をキャッチして直ちに迂回道路に回るというシステムが構築されている。なお、アウトバーンにおけるラジオや標識を使った迂回システムは1975年(昭和50年)までには早くも実施されており、日本の場合はドイツより大きく出遅れて1982年(昭和57年)7月に郵政省(現、総務省)よりハイウェイラジオの実験局の免許認可が下りている。同年12月からは東名で試験運用を開始しているが、そもそも迂回路がないために放送内容はもっぱら渋滞距離や事故発生案内に終始した。 イギリスではロンドン ‐ リバプール間約400 kmに、バーミンガム経由とノッティンガム、マンチェスター経由の2本の高速道路が敷設され、こちらもラダーで結ばれている。アメリカも同様で、幹線道路には代替路線が整備されている。なお、1980年代におけるイギリスやアメリカの道路整備状況は決して良好とは言えず、アメリカに至っては荒廃が目に余る状況であったとされるが、そうした国でさえ補完道路を含めた幹線ネットワークがしっかりと整備されていたのである。 ひるがえって東名の場合、並行する代替路線と相互連絡する道路もない状況で国内経済を下支えしていたのであるから、ある種の危険と隣り合わせとなっている。さらに災害時に道路が寸断されれば国民生活やセキュリティにも影響が出るわけで、このことからも高速道路同士を相互に連絡するラダー状道路を建設し、代替路線を含めたネットワークを形成しておくことが交通断絶による国民生活へのダメージを抑えることにつながるのである。 ===開通後=== 第二東名としては1998年(平成10年)3月に名古屋南IC ‐ 東海IC間が最も早く開通したが、この区間は名古屋都市圏の幹線道路網構築を優先するとの意味から当面は「伊勢湾岸自動車道」を称することになり、2005年(平成17年)3月までにこの路線名で豊田東JCT ‐ 東海IC間(西は四日市JCTまで)が全通している。 一方、伊勢湾岸自動車道を除いた区間についてNEXCO中日本は、2011年(平成23年)8月にその開通見通しを2012年(平成24年)初夏として、道路名称を仮称の第二東名高速道路から新東名高速道路に決定した旨をプレス発表した。 開通を目前にしてもマスコミはなお、新東名に対する懐疑的な見方を持った。並行する東名の渋滞解消に貢献するとしても、高コストの新東名がそれに見合う交通量の確保が出来るかは疑問であるとした。1990年代半ば以降、東名の交通量は頭打ちで、日本国内の新車の販売台数も1990年代半ばの6割近くに落ち込むなど、将来の交通量の大幅な増加を見込めない状況にあったからである。 そして2012年(平成24年)4月、御殿場JCT ‐ 三ヶ日JCT間(161.9 km、本線144.7 km、連絡路17.2 km)が総事業費2兆5710億円、施行命令から18年5か月を費やして開通した。約162 kmという、これまで開通した日本の高速道路のうち、一度の開通としては最長であったことで、NEXCO中日本ではこれを「史上最長の作戦」と呼んで、一丸となって工事完成にこぎ着けたとする。かつて新東名が批判にさらされていた頃、建設途上の、一見して効用が判らない橋脚を利用して無駄の見本市であるかのような報道をされたこともあり、今回はその試練を乗り越えての開通となった。 今回開通により、東名において行なわれていた改修工事について、新東名への迂回路が完成したことで長期規制を伴う大規模老朽化対策工事の実施が可能となった。これまでは工事期間を限定した集中工事方式を採用せざるを得なかったが、それも今回開通によって資材搬入や施工範囲に制限がない重点的な工事が出来ることになった。そして、今回開通区間は東名の由比地区における台風、高潮における通行止めの際の代替ルートを担うことが特徴となっている。開通後1年間における効果としては、東名と合わせた利用台数が約8万3000台と開通前より14パーセント増加した。そして、静岡県内の東名で発生していた10 km以上の渋滞は9割減少した。以前は東名を走行していた長距離を走るトラックは起伏やカーブが少ない新東名に移行したというデータも示された。当該区間は2003年(平成15年)の第1回国幹会議で新東名の車線縮小が議決される以前から着工、概ね完成していた経緯から、暫定往復4車線運用とはいえ、路肩側に1車線分の空間が余るという広幅員路線となっている。のちに当初から往復4車線断面で開通した愛知県、神奈川県内の区間と比較すると、静岡県内の区間の広さが際立つ結果となっている。 2016年(平成28年)2月には浜松いなさJCT ‐ 豊田東JCT間(55.2 km)が延伸開通して伊勢湾岸自動車道と接続された。当該区間は暫定4車線(完成時6車線)で整備された。開通から1週間のデータでは、並行する東名の渋滞発生回数が前年同月では13回であったものが開通後は発生せず、ダブルネットワークの効果が早速現れた。また、2017年(平成29年)4月に公表された開通5年間の効果としては、御殿場 ‐ 豊田間における渋滞の時間的損失は、2011年比約9割減の約150万台・時間となった。2016年度における利用台数は約9万2000台で、大型車は約3割を占めた。事故率はNEXCO中日本管内の平均に対して36パーセントと低く、カーブや勾配が緩いことが貢献しているとされる。沿線の工場立地も加速し、2016年には静岡県では74件と全国首位となった。 2018年(平成30年)1月には神奈川県内としては最初の供用区間となる海老名南JCT ‐ 厚木南IC間 (1.5 km) が開通した。僅か1.5 kmの距離であるため、4車線(暫定形で用地は6車線確保済)では車線変更が伴うことで、今回は片側1車線の運用とした。施行命令を受けている区間としては、新東名にとって海老名南JCTが当面の起点となる。 2018年(平成30年)8月には御殿場JCT ‐ 浜松いなさJCT間の6車線化が決定された。渋滞対策ではなく、自動運転の一形態である「トラック隊列走行」の実現を見据えたものである。なお、この区間は一部を除き6車線分の道路施設がほぼ完成した状態で4車線による整備計画に変更された経緯があり、ガイドポストの設置により4車線に減らされている区間が多いことへの批判があった。 ===年表=== 1982年(昭和57年)3月5日 : 建設相の諮問機関、道路審議会が第二東名、第二名神の建設を提言。1987年(昭和62年) 6月30日 : 第四次全国総合開発計画の閣議決定により、第二東名自動車道として東京 ‐ 名古屋間が高規格幹線道路に構想される。 9月1日 : 国土開発幹線自動車道建設法の一部改正により、第二東海自動車道として東京都 ‐ 名古屋市が国土開発幹線自動車道の予定路線となる。6月30日 : 第四次全国総合開発計画の閣議決定により、第二東名自動車道として東京 ‐ 名古屋間が高規格幹線道路に構想される。9月1日 : 国土開発幹線自動車道建設法の一部改正により、第二東海自動車道として東京都 ‐ 名古屋市が国土開発幹線自動車道の予定路線となる。1989年(平成元年) 2月17日 : 第二東海自動車道横浜東海線として横浜市 ‐ 東海市が高速自動車国道に指定される。 2月27日 : 基本計画が決定する。2月17日 : 第二東海自動車道横浜東海線として横浜市 ‐ 東海市が高速自動車国道に指定される。2月27日 : 基本計画が決定する。1991年(平成3年)12月3日 : 長泉沼津 ‐ 東海間の整備計画が決定する。1993年(平成5年) 11月9日 : 長泉沼津 ‐ 東海間に施工命令が出る。 12月4日 : 長泉沼津IC ‐ 豊田東JCT間の工事に着手する。11月9日 : 長泉沼津 ‐ 東海間に施工命令が出る。12月4日 : 長泉沼津IC ‐ 豊田東JCT間の工事に着手する。1996年(平成8年)12月27日 : 海老名南JCT ‐ 秦野、御殿場JCT ‐ 長泉沼津間の整備計画が決定する。1997年(平成9年) 2月5日 : 第二東海自動車道横浜名古屋線として横浜市 ‐ 名古屋市が高速自動車国道に指定される。 12月25日 : 御殿場JCT ‐ 長泉沼津IC間に施工命令が出る。2月5日 : 第二東海自動車道横浜名古屋線として横浜市 ‐ 名古屋市が高速自動車国道に指定される。12月25日 : 御殿場JCT ‐ 長泉沼津IC間に施工命令が出る。1998年(平成10年) 1月20日 : 御殿場JCT ‐ 長泉沼津IC間の工事に着手する。 4月8日 : 海老名市 ‐ 伊勢原市間に施工命令が出る。 4月17日 : 海老名南JCT ‐ 伊勢原北IC間の工事に着手する。 12月25日 : 秦野IC ‐ 御殿場JCT間の整備計画が決定する。1月20日 : 御殿場JCT ‐ 長泉沼津IC間の工事に着手する。4月8日 : 海老名市 ‐ 伊勢原市間に施工命令が出る。4月17日 : 海老名南JCT ‐ 伊勢原北IC間の工事に着手する。12月25日 : 秦野IC ‐ 御殿場JCT間の整備計画が決定する。1999年(平成11年)12月24日 : 伊勢原市 ‐ 秦野市間に施工命令が出る。2000年(平成12年)1月12日 : 伊勢原北IC ‐ 秦野IC間の工事に着手する。2003年(平成15年)12月25日 : 第1回国土開発幹線自動車道建設会議(国幹会議)で整備計画の変更(コスト削減)が決定する。2006年(平成18年) 3月31日 : 事業許可および機構協定締結する。 4月19日 : 秦野IC ‐ 御殿場JCT間の工事に着手する。3月31日 : 事業許可および機構協定締結する。4月19日 : 秦野IC ‐ 御殿場JCT間の工事に着手する。2009年(平成21年)8月15日 : 8月11日に発生した駿河湾地震で東名高速道路が通行止になり、その影響で特に混雑が著しい大井川の渡河区間において、建設中の大井川橋を緊急通路として開放する。2011年(平成23年) 3月1日 : 静岡SAスマートIC、浜松浜北スマートIC(現・浜松SAスマートIC)の設置が許可される。 3月11日 : 東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)が発生し、東名高速道路および並行する国道1号が通行止になり、建設中の藤枝岡部IC ‐ 新富士ICの上り線を緊急輸送路として活用する。 8月26日 : 道路名称が新東名高速道路に、御殿場JCT ‐ 浜松いなさJCT間と清水連絡路および引佐連絡路の各施設の名称が正式決定する。 11月2日 : 静岡SAスマートIC、浜松浜北スマートICの名称がそれぞれ静岡SAスマートIC、浜松SAスマートICに正式決定する。3月1日 : 静岡SAスマートIC、浜松浜北スマートIC(現・浜松SAスマートIC)の設置が許可される。3月11日 : 東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)が発生し、東名高速道路および並行する国道1号が通行止になり、建設中の藤枝岡部IC ‐ 新富士ICの上り線を緊急輸送路として活用する。8月26日 : 道路名称が新東名高速道路に、御殿場JCT ‐ 浜松いなさJCT間と清水連絡路および引佐連絡路の各施設の名称が正式決定する。11月2日 : 静岡SAスマートIC、浜松浜北スマートICの名称がそれぞれ静岡SAスマートIC、浜松SAスマートICに正式決定する。2012年(平成24年)4月14日 : 御殿場JCT ‐ 浜松いなさJCT間、清水連絡路の清水JCT ‐ 新清水JCT間、引佐連絡路の三ヶ日JCT ‐ 浜松いなさJCT間がそれぞれ開通し、これまでに開通した日本の高速道路で一度の開通延長が最も長い区間となる約162 kmが開通する。2014年(平成26年) 3月29日 : 遠州森町スマートICが供用開始する。 7月23日 : 2014年度末に開通予定だった浜松いなさJCT ‐ 豊田東JCT間の開通予定年度を2015年度末に見直すことを発表する。 9月18日 : 浜松いなさJCT ‐ 豊田東JCT間の各施設の名称が正式決定する。3月29日 : 遠州森町スマートICが供用開始する。7月23日 : 2014年度末に開通予定だった浜松いなさJCT ‐ 豊田東JCT間の開通予定年度を2015年度末に見直すことを発表する。9月18日 : 浜松いなさJCT ‐ 豊田東JCT間の各施設の名称が正式決定する。2016年(平成28年) 2月13日 : 浜松いなさJCT ‐ 豊田東JCT間が開通する。 3月24日 : 警察庁が御殿場JCT ‐ 浜松いなさJCT間の最高速度を100 km/hから110 km/hに引き上げを2017年から試行を認める方針を発表する。 4月21日 : 2016年度末に開通予定だった海老名南JCT ‐ 厚木南IC間の開通予定年度が2017年度末になると発表する。 10月13日 : 警察庁が新静岡IC ‐ 森掛川IC間(50.5 km)の最高速度を試験的に100 km/hから110 km/hに引き上げを2017年度に試行すると発表する。2月13日 : 浜松いなさJCT ‐ 豊田東JCT間が開通する。3月24日 : 警察庁が御殿場JCT ‐ 浜松いなさJCT間の最高速度を100 km/hから110 km/hに引き上げを2017年から試行を認める方針を発表する。4月21日 : 2016年度末に開通予定だった海老名南JCT ‐ 厚木南IC間の開通予定年度が2017年度末になると発表する。10月13日 : 警察庁が新静岡IC ‐ 森掛川IC間(50.5 km)の最高速度を試験的に100 km/hから110 km/hに引き上げを2017年度に試行すると発表する。2017年(平成29年) 3月18日 : 駿河湾沼津スマートICが供用開始する。 5月24日 : 2017年度に供用開始予定で仮称だった厚木南ICの名称が正式名称として決定する。 11月1日 : 警察庁が新静岡IC ‐ 森掛川IC間(約50 km)の最高速度を試験的に100 km/hから110 km/hに引き上げる。3月18日 : 駿河湾沼津スマートICが供用開始する。5月24日 : 2017年度に供用開始予定で仮称だった厚木南ICの名称が正式名称として決定する。11月1日 : 警察庁が新静岡IC ‐ 森掛川IC間(約50 km)の最高速度を試験的に100 km/hから110 km/hに引き上げる。2018年(平成30年) 1月28日 : 海老名南JCT ‐ 厚木南IC間が開通する。 3月20日 : 2018年度に開通予定だった伊勢原JCT ‐ 伊勢原北IC間の開通予定年度が2019年度になると発表する。 8月10日 : 御殿場JCT ‐ 浜松いなさJCT間の6車線化について国土交通省より事業許可を受ける。1月28日 : 海老名南JCT ‐ 厚木南IC間が開通する。3月20日 : 2018年度に開通予定だった伊勢原JCT ‐ 伊勢原北IC間の開通予定年度が2019年度になると発表する。8月10日 : 御殿場JCT ‐ 浜松いなさJCT間の6車線化について国土交通省より事業許可を受ける。2019年(平成31年) 1月27日:警察庁は3月1日から新静岡IC ‐ 森掛川IC間(約50 km)の最高速度を試験的に110 km/hから120km/hに引き上げると発表する。 3月10日 : 新清水JCTで中部横断自動車道と接続する予定。1月27日:警察庁は3月1日から新静岡IC ‐ 森掛川IC間(約50 km)の最高速度を試験的に110 km/hから120km/hに引き上げると発表する。3月10日 : 新清水JCTで中部横断自動車道と接続する予定。 ===開通予定年度=== 2018年度 : 厚木南IC ‐ 伊勢原JCT(仮称)2019年度 : 伊勢原JCT(仮称) ‐ 伊勢原北IC(仮称)2020年度 : 伊勢原北IC(仮称) ‐ 御殿場JCT※この情報は2018年3月現在の情報であり、工事の進捗状況によって前後する可能性がある。 ==路線状況== 前述した通り、本路線は暫定4車線(海老名南JCT ‐ 厚木南ICは暫定2車線、清水連絡路・引佐連絡路は完成4車線)での供用となっており、路肩側に6車線化の為の用地が確保・舗装されている区間もある。静岡県内の一部区間では5車線や6車線に拡幅されているが、現時点では付加車線扱いとなっている。付加車線の延長は上下線ともに概ね50 kmで、静岡県内区間の約3分の1が片側3車線となっている。付加車線は主に自然渋滞の発生が見込まれるインターチェンジ付近やジャンクションの合流部、サグ区間で、短い区間で約3 km、長い区間では約14 km連続する。 また、第1種第1級(設計速度120 km/h)で施工されている御殿場JCT ‐ 浜松いなさJCT間を含め、開業当初の最高速度は100 km/hとされた。現在は5車線や6車線になっている部分が多く交通事故も少ない区間である新静岡IC ‐ 森掛川ICに関して、試験的に最高速度が110 km/hに引き上げられている。この区間では大貨等・三輪・牽引の最高速度とそれ以外の車種の最高速度の標識がそれぞれ設置されている。 ===車線・最高速度=== ===道路規格=== 本線 道路規格 : 第1種第1級(海老名南JCT ‐ 御殿場JCT、浜松いなさJCT ‐ 豊田東JCTは暫定施工時: 第1種第2級)設計速度 : 120 km/h車線幅員 : 3.50 m(暫定)、3.75 m路肩 左側 : 2.50 m ‐ 3.00 m 右側 : 1.25 m ‐ 1.75 m左側 : 2.50 m ‐ 3.00 m右側 : 1.25 m ‐ 1.75 m中央分離帯 : 2.25 m ‐ 4.50 m最小曲率半径 : 標準値3,000 m最急縦断勾配 : 標準値2.0 %車線数 : 暫定4車線(完成6車線) 海老名南JCT ‐ 厚木南IC : 暫定2車線海老名南JCT ‐ 厚木南IC : 暫定2車線連絡路 道路規格 : 第1種第3級、第1種第2級設計速度 : 80 km/h最小曲線半径 : 標準値3000 m最急勾配 : 標準値4.0% ===設計速度=== 当初は、従来の高速道路よりも道路規格が高い設計速度140 km/hで建設運用が計画されていたが、道路構造令で設計速度140 km/hは定められておらず、国土交通省が改正を要請していた。 新名神高速道路と同じく、道路規格は第1種第1級(設計速度120 km/h)として建設され、規制速度も法定最高速度の100 km/hが基本となっている。この法定100 km/hは世界水準で見れば最も低い制限速度とされ、各国の事例では、オランダやデンマーク、スウェーデンで120 km/hから130 km/h、イギリスで70マイル毎時(約113 km/h)、ドイツは無制限などである。なお、最高速度100 km/hで設定されている理由について警察庁は、資料が残っていないために不明としている。 警察庁は、国土交通省の担当者や学識者らをメンバーに加えた「規制速度決定の在り方に関する調査研究検討委員会」において、高速道路や一般道路の最高速度引き上げを2006年(平成18年)から3年がかりと長期間かけて検討を行ったが、高速道路の制限速度については「上限を上げるにはさらなる検証が必要で、直ちに上げる必要はない」と見送りという方針を示した。ただし、有識者として会議に出席した交通工学が専門の中村英樹(名古屋大学大学院教授)は制限速度引き上げに肯定的なコメントを出している。 これに対し静岡県は、6車線化(前述)を前提とした法定速度140 km/h化を国などに要望するとしている。 2014年(平成26年)2月24日に静岡市で開かれた自民党の会合で警察庁を統括する国家公安委員会・委員長の古屋圭司は制限速度を120 km/hに見直すことを検討することを表明し、翌日にはこの発言を受けて、静岡県知事の川勝平太も140 km/hの設計速度にふれた上で、いきなり制限速度を140 km/hにあげるのではなく、120 km/hが妥当だという見解を示した。その後警察庁で行われた「交通事故抑止に資する取締り・速度規制等の在り方に関する懇談会」において、「新東名高速道路を始めとする高規格の高速道路については、設計速度120 km/hで、かつ、片側3車線以上の道路などに関して、最高速度100 km/hを超える速度への引き上げについて早急に検討を開始すべき」との提言がなされた。 それを踏まえ、2016年(平成28年)3月24日、御殿場JCT ‐ 浜松いなさJCT間において、2017年以降に試験的に最高速度を110 km/hに引き上げると発表し、同年10月23日には、試行的に最高速度を引き上げる区間を「新静岡IC ‐ 森掛川IC間」 (50.5 km) とすることが発表された。2017年度にも実施され、1年以上をかけてデータ収集・分析が行われた上で、最高速度100 km/hとした交通規制基準の見直しを検討するとしている。 2017年(平成29年)9月28日、警察庁から「2017年11月1日から、新静岡IC ‐ 森掛川ICで試験的に最高速度を110 km/hに引き上げる」との発表がされ、予定通り11月1日午前10時に実施された。ただし、大型貨物車の最高速度は現行(80 km/h)据え置きとされた。それから1年経過してのちに静岡県警から発表された事故発生件数によると、速度引き上げに起因する大きな事故の発生はなく、前年同月比では概ね横ばいという。 なお、1971年から1986年までの日本の高速道路と速度無制限のアウトバーンとの10億走行台キロあたり死者数を比較したデータによれば、両国にそれほど差が無いことが判明している。これは速度が事故率を押し上げる唯一の要因では無いことを暗に示している。ドイツでは速度の取り締まりよりも、高速走行時の危険運転行為に対して厳しく対処する傾向があるとされ、摩耗したタイヤ、急な車線変更、追越時以外の追越車線の走行などに処罰を下すとされる。 ===暫定4車線区間の6車線化対応方法=== 歴史節で先述した通り、新東名はその高い建設費用が世間の批判を浴びたことで、2003年(平成15年)に開催された第1回国土開発幹線自動車道建設会議で当初計画の往復6車線から暫定往復4車線に縮小することが議決され、2004年(平成16年)の整備計画変更で正式に計画に盛り込まれた。さらに2006年(平成18年)の整備計画変更によってさらなるコスト縮減に取り組むために、それまでの第1種第1級A規格の往復4車線から第1種第2級B規格の往復4車線にサイズダウンすることとされた。 この決定を見たとき、静岡県内区間は既に大半が6車線サイズで完成していたことから、橋梁、トンネルは6車線サイズで施工のうえ、一部で車線のみ縮小して暫定4車線で運用されている。一方で愛知県内と神奈川県内の区間は、将来の往復6車線化を見据えての往復4車線による施工であることから、横断構成は縮小されている。よって、トンネルや橋梁も往復4車線(片側2車線)のサイズで施工されている。 既に往復6車線化が決定した静岡県内区間は全線6車線サイズで施工済みであることから、拡幅工事もそれほど大規模ではないとされる。これに対してそれ以外の区間は、将来の拡幅の事業許可が下りた暁には2通りの拡大方法が採られることになっている。1つは盛土や橋梁を両側に1車線分ずつ拡大する方法で、これを単一断面と称する。拡幅においては橋梁の場合、両側に床板を付け足すことになるが、この際は斜材(ストラット)を追加することになっており、暫定施工では既にストラットを追加するための準備工事が施工済みである。 もう1パターンは分離断面と称され、これは既存の往復4車線道路を片側3車線化のうえ、その隣に3車線の別線を建設する方法である。主としてトンネルが連続する山岳区間では後者が採用されることになっている。よって、既存の2本のトンネルの他に片側3車線の大断面トンネルをもう1本掘削することになる。 ===道路施設=== ====インターチェンジ==== 新東名高速道路においては全ての一般レーンが自動精算機による対応で行われている。 ===サービスエリア・パーキングエリア=== 区間内の全てのサービスエリア (SA) と清水パーキングエリア (PA) は「NEOPASA」(ネオパーサ)のブランド名で施設を展開する。このブランドは新東名(御殿場JCT ‐ 三ヶ日JCT間)開通に合わせて立ち上げたものである。また、ヘリポートを併設しており、大地震発生の際には防災活動や医療搬送などで活用される。 売店は全てのサービスエリア・パーキングエリアに設置されている。ガソリンスタンドは全てのサービスエリアにあり、全て24時間営業である。岡崎SAを除き、普通車はセルフ式である。24時間営業の売店は全てのSAと遠州森町PA上り線と藤枝PA下り線を除く全てのパーキングエリアにある(駿河湾沼津SAの上下各1店舗と藤枝PA上り線を除き全てコンビニである)。飲食店は全てのサービスエリアと清水PAの一部店舗で24時間営業である(サービスエリアでは持ち帰りのみ24時間営業店舗あり) 富士市では、駿河湾沼津SA ‐ 新富士IC間に位置する神戸(ごうど)地区に休憩施設の設置(追加)を目指し、住民運動が行われている。また、静岡県商工会議所連合会は静岡県に設置を要望しており、静岡県知事の川勝平太は既に中日本高速道路に要望している旨を明らかにしている。 なお、新東名にはバス停(バスストップ)は1か所も設置されておらず、区間内で乗降扱いを行わない長距離バスの一部は東名から新東名に経路をシフトしている。 ===道路構造物=== 東名が比較的海岸線近くを走っているのに対し、新東名は人口の集中した市街地を避けるべく山寄りに建設されている。これよりもさらに山寄りに建設すれば山岳区間が多くなることでトンネル長が5000 mを超過するため、道路法第46条第3項に基づき危険物積載車両の通行制限が適用される。さらに深い谷を越えることで橋脚は勾配2 %を保つために非常に高く建設する必要が生じる。このことから新東名のルート選択についてはこれらの条件を勘案して選定されている。 ルートを山寄りに位置づけたことで、工事関係者の間ではルートの構造物別比率として「トンネル2、橋梁4、土工4」と言われているが、ルートに占めるトンネルと橋梁の比率は東名と比較すると高めである。そして全線往復6車線、設計速度140 km/hを実現するための幾何構造を採用したことも手伝って勢い建設費用も高額となり、折からの経済不況から政府による公共事業コスト縮減の要請もあって、新東名建設では土の運搬では巨大ダンプカーやバックホウによる巨大マシーンの導入、橋梁では鋼とコンクリートの複合構造やストラット付PC箱桁の採用などでコスト節減に取り組むこととした。 以下、トンネル、橋梁、路面について代表的な構造を各々解説する。個々のトンネル、橋梁の詳細な解説は新東名高速道路のトンネルと橋を参照されたい。 新東名・新名神を問わず上記の理由からトンネル長は全て5,000 m未満で建設されている。トンネル断面は、従来のトンネル入口が心理的圧迫となってスピードダウンを促し渋滞発生が問題化していたことから、大断面化することで心理的問題を解消している。他高速道路のトンネルは、路肩については縮小を認めていることから2 mの縮小で建設されている。これに対して新東名では路肩の縮小はせず、原則3.25 mの「望ましい幅員」を維持することとし、これに掘削断面積を少なくする必要もあって横長の扁平断面形状という外観的特徴を持つに至った。 この扁平大断面トンネルの掘削にあたっては、特に1000 m以上の長大トンネルの場合、経済性向上と施工性向上の観点から英仏海峡トンネル掘削で使われた「トンネル・ボーリング・マシーン」(略称:TBM)を導入して直径5 mの穴(先進導坑)を掘り進み、後工程で新オーストリアトンネル工法(NATM)により大断面に拡大する方法を採用した。 新東名として最初に着工した静岡県区間は、延長161.9 kmのうち橋梁延長は102.8 km、全体の32パーセントを占める。そして全てにおいて片側3車線、幅員16.5 mと大規模な橋梁となることで、その橋梁延長とも相まって高コストとなることが予想された。建設にあたっては、従来式の片側2車線の工法を3車線に応用するだけでは上部工の幅が広くなることで重量が増し、それに伴って下部工(基礎、橋脚)も大規模となってコストが増す。よって、上部工の重量いかんによって橋梁全体のコストが上下することがわかる。以下に挙げる鋼とプレストレスト・コンクリート(PC)の複合構造、ならびにストラット付きPC箱桁橋の採用は新東名におけるコスト削減の要請を反映したものである。 従来の橋梁は「PC橋」あるいは「鋼橋」というように、素材を棲み分けて建設されたが、1990年代以降は両者を融合した橋梁が出現した。その狙いは、重量軽減(鋼板は鉄筋コンクリートよりも軽い)による下部構造の縮小が可能となることで建設費が低減されること、および、PC箱桁の側面(ウエブ)が鋼に置き換わることで、配筋の手間が省略されることによる工期短縮(人件費低減)である。このPC箱桁と鋼を融合した橋梁は1980年代にフランスで開発され、日本道路公団としては東海北陸自動車道の本谷橋で初採用した。以降、建設コスト縮減を標榜する新東名の建設でも積極的に採用された。 ストラット付PC箱桁橋は、箱桁の両端にある床板をストラット(斜材=鋼製)で支える構造である。これによって主桁の重量軽減に寄与し、その結果として上部工を支える橋脚や基礎が縮小され、建設コスト縮減に寄与した。コンクリート橋におけるストラット箱桁の採用は、日本国内では新東名が初めてである。ストラットの発想自体は昔からあったとされるが、それを生かせるだけの条件、すなわち、高い橋脚、幅広の道路のニーズがこれまでは無かったために採用には至らなかったとされる。ストラット式の採用により、橋脚の幅は従来は12.6 m必要なところが7 mまで縮小され、橋全体で15パーセントのコスト縮減を実現した。 新東名、新名神を象徴する光景の一つに、山岳区間のコンクリート製橋脚がある。新東名の道路の勾配は標準2パーセントであるが、これを山岳部で実現しようとした場合、谷の通過では必然的に橋脚を高くして、出来るだけ道路を水平に保つことが必要となる。逆に橋脚を低くすればそれだけ勾配がきつくなることでサグが発生し、渋滞発生の温床となる。このことから新東名の山岳区間では場所によっては高さ80 m程度の高い橋脚が建設されている。ただし、これだけの高い橋脚を施工するにあたっては従来の工法では阪神淡路大震災クラスの大地震に耐えるためには大量の鉄筋が必要とされ、施工性の低下とコスト高、工期の延伸を招く恐れがある。このため、直径1.3 mの太い鋼管を縦方向に何本も建て込み、その周りに鉄筋をらせん状に巡らせてからコンクリートを打設する「鋼管・コンクリート複合構造橋脚」が採用された。これにより高い耐震性と作業省略化を両立させている。なお、急峻な地形での基礎工では、従来の工法では斜面を大規模に掘削する必要があったが、新東名では「竹割り式土留め工法」を採用することにより、掘削量の大幅削減を実現し、自然景観の保全にも配慮した。 新東名の土工区間における路面の舗装は、表面のアスファルトの下に鉄筋コンクリート版を施工したコンポジット舗装を採用している。これまでのアスファルト舗装では繰り返し通過する自動車の荷重によってアスファルトが変形(わだち掘れ)し、維持管理に難点があった。特に新東名は大型貨物車が交通量全体の50パーセントに達すると見込まれ、この点から変形しにくい高耐久の路面が望まれた。アスファルト舗装は走行性がよく、打ち替えも容易であることから維持管理には適しているが変形も早い。一方で鉄筋コンクリート舗装は維持管理や走行性には劣るが高い耐久力を発揮する。コンポジット舗装はこの両者のよいところを引き出したものである。高速道路におけるコンポジット舗装の採用は1990年(平成2年)11月開通の山陽自動車道の河内IC ‐ 西条IC間が初めてで、この時は試験的意味から採用された。その後、館山自動車道など調査区間を広げ、2000年代に入ってからは伊勢湾岸自動車道のみえ朝日IC ‐ 四日市JCT間でも採用されたが、この時に至ってもまだ試験的な意味合いが強かった。だが、新東名では満を持して土工区間における標準構造としてコンポジット舗装が採用され、標準としての採用はこれが初めてとなった。同舗装の採用によって、補修の頻度が低下して維持管理費が低減し、併せて補修により発生するアスファルト廃材の低減と、補修に伴う車線規制によって利用者へのサービスレベルダウンを抑制することにもつながるとされる。ただし、軟弱地盤上の土工区間では重いコンポジット舗装では路床面の沈下の恐れがあることから、従来のアスファルト舗装で対応している。 (御殿場JCT ‐ 三ヶ日JCT間のトンネル数の典拠:『土木施工』2012年4月、56頁、浜松いなさJCT ‐ 豊田東JCT間の典拠:『プレストレストコンクリート』2015年11月12日、74‐81頁、東名の典拠:『東名高速道路』池上雅夫、中公新書、1969年、131頁) ===道路付属物=== 新東名上に設置されている道路照明灯の光源はすべての区間でLEDが採用されている。従来はトンネル内部の一部でナトリウムランプやメタルハライドランプが用いられてきたが、技術革新による高出力LEDの開発によってトンネル内部のすべての区間でLEDランプの採用が可能となった。また、トンネル内部で前方を走る車両(先行車)を見やすくするよう「プロビーム照明方法」(走行する車両に向けて照射する照明方法)が使われている。 新東名では東名とのダブルネットワークを形成することから、利用者がどちらを走行するかの判断を支援する目的から情報設備のグレードを向上させている。なかでも道路情報板は従来の赤色・緑色・橙色の3色のみのものではなく、赤色・緑色・青色・黄色・マゼンダ・シアン・白色の7色のものを用いたマルチカラー情報板によって判読性の向上および多くの情報量を提供している。また、新東名ではきめ細やかな情報提供を行うため、1 kmごとに「路側情報板」が設置されており、情報の隔絶化を防いでいる。こうした路側情報板の設置により、工事規制時に規制標識の本数を減らすことができ、高速道路上での作業時にかかる負担を削減している。 新東名では濃霧の発生が報告されており、明かり部(トンネル以外の区間)の多くの区間では「視線誘導灯」を設置している。視線誘導灯は視程計の観測によって自動的に作動するシステムになっている。一方で、「視線誘導灯」と同じ筐体のものを常時作動させ、ベクションを利用した速度抑制や速度回復を促す発光体も設置されている。 新東名のトンネルでは、火災感知器を広域監視タイプとして、設置間隔を50 mとしている。これは従来の設置間隔の2倍である。また、消火設備の保守点検を効率的にできるように、放水試験の簡素化やホースの収納時間短縮が期待できるメンテナンス弁の設置、消火設備収納施設の扉の透明化などが行われている。 路肩には距離標(キロポスト)が100 m間隔で設置されている。なお、0.0キロポストは首都圏中央連絡自動車道(圏央道)との接続点である海老名南JCTである。 ===交通量=== 24時間交通量(台) 道路交通センサス ==災害時の対応== 2009年(平成21年)8月11日に発生した、駿河湾地震で東名高速道路の一部区間が通行止となったことから、迂回路の混雑緩和のために、8月15日9時‐16時まで、大井川橋(静岡県島田市牛尾‐同市相賀間)の上り線(約1.3 km)を普通車・小型車のみ緊急に供用した。 また、2011年(平成23年)3月11日に発生した、東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)の際に大津波警報が発表されたことにより、それぞれ海に面する由比海岸付近が通行止となった東名高速道路と国道1号の代替道路として、工事中の新東名が緊急車両のみ通行可能となったこともある。 新東名のすべての休憩施設にヘリポートや自家発電設備、一般道からの出入りに対応する緊急開口部、防災拡声放送装置、緊急地震速報装置を設置している。また、一部の休憩施設では地下水を利用できるよう設備の設置が行われている。また、防災への備えを強化するために陸上自衛隊東部・中部方面隊や国土交通省中部地方整備局と防災に関する協定を結んでいる。 ==その他== ===利用道路の選択=== 利用者は任意で東名、新東名の通行を選択できる。新東名は東名よりも若干距離が短いうえに、新東名の曲線半径と勾配は東名よりも改善されていることから、特に長距離走行の自動車および、荷物を積んだ非力な大型トラックの場合は、新東名の走行が適しているとされる。 かつて新東名がまだ計画段階にあった頃、東名と新東名の棲み分けについて様々な議論があって、その一例として、新幹線になぞらえて東名を「こだま」、新東名(当時は第二東名)を「ひかり」にたとえて、両者を機能分担するべきであるという議論があった。根拠としては、新東名の方が走行速度が高く、インターチェンジ間隔も長いことで長距離の自動車専用道路としてうってつけと言うのである。また、長距離、短距離の別ではなく、乗用車と貨物車両(トラック)の別に分ける方が適正であるという意見もあった。これについて建設省と日本道路公団は、以下の理由から役割分担を否定してあくまで混合運用に徹するという見解を出した。 まず、東名の利用実態から、利用する曜日や時間帯によって乗用車とトラックの交通量が大きく変動し、昼は乗用車、夜は貨物車がそれぞれ卓越する。そして平日は貨物利用が多く、休日は少ないというデータからも、利用交通の変動が大きいことが確認されており、もし両道路を機能分担してしまうと、時間帯や休日によって道路の利用効率が著しく変動して施設の有効利用がはかれない問題がある。いまひとつは、事故や災害、補修工事に伴う交通規制における代替性を図るという意味からも、両道の機能を一本化しておく必要があるとしている。 ===周回走行の扱い=== 東名と新東名が連絡路で結ばれるという路線形態から、不正に大回りのうえ通行料金を安く抑えるという不正走行の事例が新東名開通直後から問題化した。例えば、横浜青葉ICから東名に入って三ヶ日JCTおよび浜松いなさJCT折り返しで東名川崎ICで流出して通行料金300円という事例である。これにはサービスエリアが高機能化していることで、これらのSA巡りのために不正通行に至ることがあるとされるが、NEXCOでは不正通行については徴収金を加えて3倍額を請求するという規則がある。基本的に2通りの経路がある場合は、実際の走行経路に関わらず短い経路の料金で徴収するが、実際の走行距離が最短経路の2倍を超える場合はその対象から外れ、距離に応じた支払いが必要となる。不正通行の場合、所要時間が長すぎる場合はETCゲート通過時にバーが開かない等の対策および、ゲート以外にも不正走行を感知するシステムが構築されている。NEXCOでは周回走行車は料金所で係員に申告することを要請している。 ===隊列走行=== トラックドライバーの人手不足を解消するべく、自動運転技術を駆使して縦列に3台並んだトラックを1人が運転することを目標とする走行実験が2018年(平成30年)1月23日に新東名で行なわれた。実験では約15 kmを走行、先頭車両のみ運転手がアクセルとブレーキを操作し、後続車を無線で制御した。なお、後続車2台には運転手が乗車し、ハンドル操作のみ担当した。2020年の実用化を目指すという。先述した静岡県内の新東名の全線6車線化の動きは、トラックのダブル連結や隊列走行を実施しやすくする意図も含まれている。 ===東海道物流新幹線構想=== 新東名の中央分離帯を使って、東京 ‐ 大阪間に貨物列車専用の東海道物流新幹線を敷設する提言が2009年(平成21年)12月に「東海道物流新幹線構想委員会」(物流関係者や有識者で組織)よりなされた。これにより約600 kmの距離を約6時間30分で結び、トラックの荷物を列車に載せ替えるほか、トラックそのものを列車に搭載するとしている。その効果として、二酸化炭素削減やトラックドライバーの人手不足の代替を担うことが見込まれているが、約2兆円とされる事業費をどう工面するかの道筋は立っていない。 ===メディアとの関係=== NEXCO中日本協力のもと、開通前の和田島トンネルでは、テレビドラマ『コード・ブルー ‐ドクターヘリ緊急救命‐』の撮影が行われていたり、他のトンネルや本線上でテレビ撮影も行われている。他にも、浜松いなさJCT ‐ 豊田東JCT間の開通に合わせて、中日本高速道路とドワンゴによる共同IP製作プロジェクト「幻想交流」が立ち上げられ、道路施設であるサービスエリア・パーキングエリアを擬人化したキャラクターが登場する異世界と、NEXCO中日本やドワンゴが登場する現実世界が入り混じった幻想的な世界観をベースとして、メディアミックス展開が進められている。 ==地理== ===通過する自治体=== 本線 神奈川県 海老名市 厚木市 海老名市 厚木市海老名市厚木市静岡県 駿東郡小山町 御殿場市 裾野市 駿東郡長泉町 沼津市 富士市 富士宮市 富士市 富士宮市 静岡市 清水区 葵区 藤枝市 島田市 掛川市 周智郡森町 磐田市 浜松市 浜北区 北区 駿東郡小山町 御殿場市 裾野市 駿東郡長泉町 沼津市 富士市 富士宮市 富士市 富士宮市 静岡市 清水区 葵区 藤枝市 島田市 掛川市 周智郡森町 磐田市 浜松市 浜北区 北区駿東郡小山町御殿場市裾野市駿東郡長泉町沼津市富士市富士宮市静岡市 清水区 葵区清水区葵区藤枝市島田市掛川市周智郡森町磐田市浜松市 浜北区 北区浜北区北区愛知県 新城市 豊川市 岡崎市 豊田市 新城市 豊川市 岡崎市 豊田市新城市豊川市岡崎市豊田市清水連絡路 静岡県 静岡市 清水区 静岡市 清水区静岡市 清水区引佐連絡路 静岡県 浜松市 北区 浜松市 北区浜松市 北区 ===通過予定の自治体=== 神奈川県 伊勢原市 秦野市 足柄上郡松田町 足柄上郡山北町 伊勢原市 秦野市 足柄上郡松田町 足柄上郡山北町伊勢原市秦野市足柄上郡松田町足柄上郡山北町 ===接続する高速道路=== C4 首都圏中央連絡自動車道(海老名南JCTで接続)E1 東名高速道路(伊勢原JCTで接続予定)E1 東名高速道路(御殿場JCTで接続)E70 伊豆縦貫自動車道(長泉沼津ICで接続)E52 中部横断自動車道(新清水JCTで接続予定)E1 東名高速道路(清水連絡路を経由して清水JCTで接続)E69 三遠南信自動車道(浜松いなさJCTで接続)E1 東名高速道路(引佐連絡路を経由して三ヶ日JCTで接続)E1A 伊勢湾岸自動車道(豊田東JCTで直結)C3 東海環状自動車道(豊田東JCTで接続) ==ギャラリー== =奥澤神社= 奥澤神社(おくさわじんじゃ)は、東京都世田谷区奥沢にある神社。かつてこの地を領していた吉良氏の家臣、大平氏が室町時代に奥沢城を築城するにあたって世田谷郷東部の守護神として勧請したものと伝えられる。古くは八幡神社と称し、明治期に近隣の神社を合祀した際に奥澤神社と改称した。江戸時代中期から続く大蛇お練り神事は世田谷区指定無形民俗文化財の指定を経て、2016年(平成28年)3月11日に東京都の無形民俗文化財(風俗慣習)に指定された。 ==歴史== 奥澤神社の発祥は、室町時代までさかのぼる。奥沢地区近辺は、南北朝時代の貞和年間(1345年‐1349年)頃に吉良氏の領地となった。奥澤神社の発祥について、社伝では室町時代に入って吉良氏家臣の大平氏が奥沢城を築くにあたり、世田谷郷東部の守護神として八幡神を勧請したものと伝えている。当初は八幡神社と呼称され、吉良氏が各地に建立した「世田谷七沢(しちざわ)八八幡(はちはちまん)」の1つに数えられていた。 1590年(天正18年)、後北条氏の滅亡とともに吉良氏の勢力も衰え、奥沢近辺は徳川氏の直轄領とされて荏原郡世田谷領奥沢村となった。1662年(寛文2年)、村の西方が開墾された後に1669年(寛文9年)に検地を受けて「奥沢新田村」(現在の奥沢四丁目から八丁目の付近)が成立し、従来からの奥沢村(現在の奥沢一丁目から三丁目、及び四丁目の東側付近)は「奥沢本村」と呼ばれるようになった。八幡神社は奥沢新田村の鎮守となった。文化・文政期(化政文化の時期)に編纂された『新編武蔵風土記稿』巻之五十 荏原郡之十二では「村ノ東ノ方ニアリ。本社三間半ニ一間、拝殿二間ニ三間、前ニ鳥居ヲ建ツ。(中略)祭礼九月十五日、村民ウチヨリテ神楽ヲ奏ス。下沼部村密蔵院持(後略)」とあり、下沼部村(現在の大田区田園調布付近)の密蔵院(真言宗智山派、大田区田園調布南24番18号に現存)が別当寺を務めていた。 明治時代に入ると、奥沢一帯は品川県に属することになった。続いて明治4年(1871年)には廃藩置県、大区小区制によって「東京府第7大区第6小区」となった。1875年(明治8年)3月の『神社明細簿』という資料によると、祭神は応神天皇で「創建年月不詳旧社号八幡大菩薩ト相称候」とあり、前年4月に村社に定められている。 奥沢本村と奥沢新田村の両村は、1878年(明治11年)の小区制廃止とともに合併して奥沢村となった。奥沢村は1889年(明治22年)に尾山村、等々力村、上野毛村、下野毛村、野良田村、瀬田村、用賀村が合併して新たに発足した玉川村の一部となった。 1909年(明治42年)10月には、旧奥沢本村の鎮守である子安稲荷神社が合祀された。子安稲荷神社は倉稲魂之命を祭神とし、現在の奥沢一丁目11番地付近に鎮座していた。明治時代の初めごろ、子安稲荷神社の一帯は「稲荷山」と呼ばれていた。この神社の氏子は26戸と少なかったため、秋祭りは毎年行うことがなかったと伝わる。 八幡神社は子安稲荷神社の合祀を機に、「奥澤神社」と名を改めた。昭和期に入る前後に一時神職不在の時期があり、荏原郡衾村(現在の目黒区碑文谷)の氷川神社から神主が来ていたという。 『新編武蔵風土記稿』巻之五十で言及されていた本殿は、1912年(明治45年)に九品仏浄真寺に移築の上改修されて観音堂となった。1913年(大正2年)に建立された本殿も、同じく九品仏浄真寺に移築されて五社として祀られた。2回にわたる本殿の移築の経緯は不明とされるが、1985年(昭和60年)の『奥沢 世田谷区民俗調査第5次報告』では当時の禰宜の話として「単に置き場所に困っただけではないか」という説を載せている。なお、九品仏浄真寺との特別の関係はないという。その後、1970年(昭和45年)に本殿が再建された。 奥澤神社は、世田谷区立八幡小学校の発祥地である。慶応の末に、この神社の社寮に下沼部村向河原の人(名は不明)が土地の子弟を集めて、そろばんや読み書きなどを教えた。その後に小林大次郎という名の浪人が、その仕事を引き継いだ。さらに東京府士族の松沢弘義が寺子屋を始め、さらに茨城県人の池田孝一郎が「池田学校」と名を改めて授業を続けた。1879年(明治12年)12月20日、戸長の毛利多喜蔵などが社寮の一部を改修して認可を得、神社名をとって「八幡小学校」と命名した。開校当時の児童数は30名、校舎の広さは15坪(約49.6平方メートル)であった。その後1884年(明治17年)9月に隣接地での校舎新築を経て、1902年(明治35年)8月5日に現在地(世田谷区玉川田園調布二丁目17番15号)に移転した。これを記念して、1970年(昭和45年)11月29日に「八幡小学校発祥之地」記念碑が境内に建立された。 ==祭神と境内社== 奥澤神社の祭神は、誉田別命(応神天皇)と倉稲魂之命の2柱である。歴史の節で説明したとおりもともとの祭神は誉田別命で、倉稲魂之命は旧奥沢本村の鎮守である子安稲荷神社の祭神であった。 神社の境内社としては、本殿及び八幡小学校発祥地碑の裏手付近に弁才天社が祀られている。この弁才天社は「福寿弁天」と呼ばれていて、かつて奥沢駅の南方100メートルほどのところにあった湧水池に鎮座していたものを、1950年(昭和25年)に移したものである。 この弁才天社の前にある石柱には、1737年(元文2年)11月11日の日付と和田和右衛門およびその妻せんの名が刻まれている。神体の石祠裏面には、1821年(文政4年)に奥沢本村の領主および村人によって神体が再建された旨の記述があるという。1933年(昭和8年)には、それまでの社が老朽化したため新たに造り直した。当時は「サンの日」が弁才天の縁日であり、毎月3日・13日・23日の各日に近隣の商店街の人たちがオスワリ(餅)、神酒、果物などを供えていて、出店が並ぶほどの賑わいを見せていた。特に4月13日の縁日には、奥澤神社から宮司が修祓に来ていた。 弁才天社の旧地である湧水池は「奥沢弁天池」の名で呼ばれ、池の主の白蛇が奥沢の田畑に水の恵みを与えていたと伝わる。ただし池の跡地は商店街となっていて、その名残を確認することはできない。 ==境内と文化財== ===境内=== 緑の多い境内は、1978年(昭和53年)3月1日に世田谷区の保存樹林地に指定されている。世田谷区の保存樹木に指定されたシイノキがあるが、この木は幹が空洞になって皮だけで生きている状態のため「皮だけシイノキ」と呼ばれている。1988年(昭和63年)発行の『世田谷区名木百選』によれば、樹高は3メートル、幹回りは1.7メートルを測っている。 鳥居をくぐって境内に入ると、狛犬一対が鎮座している。その近くには、「奥沢開発三百年記念碑」が建っている。この記念碑は、1962年(昭和37年)10月に奥沢村開発300年を記念して神社の氏子有志が狛犬と石灯籠とともに献納したものである。その他に境内には、「八幡小学校発祥之地」記念碑を始めとして、32貫(120キログラム)の重さのある力石、道標(奥沢一丁目18番3号に現存する浄土宗大音寺そばから移築されたもの)、日清・日露両戦役慰霊碑などが存在する。 境内には、地蔵尊や庚申塔なども祀られている。1735年(享保20年)の「子育延命地蔵尊」は地蔵尊女講中の奉納による。庚申塔には「享保三年」の銘があり、「青面金剛講中」のものである。「文政三年「下沼部村密蔵院現住廣照」と刻まれた「南無大師遍照金剛」の碑もあり、密蔵院が奥澤神社の別当寺であったことを裏づけている。 境内社の弁才天社は、祭神と境内社の節で記述したとおり南方100メートルほどのところにあった湧水池から1950年(昭和25年)に移転してきたものである。1972年(昭和47年)には、弁才天社の築山を造園している。 ===建造物=== 境内には本殿(祝詞殿と拝殿を含む)、神楽殿、手水舎、社務所がある。『新編武蔵風土記稿』では建造物について「本社三間半に一間、拝殿二間に三間、前に鳥居を建つ、本社の右に四間に二間の寮あり、社を護るものここに居れり(後略)」と記述している。1875年(明治8年)の『神社明細簿』という資料所載の境内配置図を参照すると、本社は南を向き、東南に神楽殿、西に末社、東南方向隅に鳥居がある。ただし、『新編武蔵風土記稿』で「本社の右」と記述されていた寮(社務所)は、本社の左側(西方向)に移転している。 鳥居は通りに面して建ち、前年の大蛇お練り神事で使用された藁製の大蛇が巻き付いている。この鳥居は、1939年(昭和14年)にそれまでの木造のものから石造に取り替えられた。以前の鳥居は、厳島神社(広島県廿日市市)の海中に建つ大鳥居と同じ「四脚鳥居」という形状であった。 歴史の節で既に触れたとおり、奥澤神社の旧本殿は2度にわたって九品仏浄真寺に移築された。旧本殿2棟は、世田谷区教育委員会によって「世田谷区社寺調査」の対象となり、その結果が『世田谷区社寺史料 第二集 建築編』で公表されている。1970年(昭和45年)に再建された本殿は、良質の尾州産ヒノキ材を用いて室町時代の建築様式を再現している。 ==信仰== ===氏子=== 旧奥沢本村の鎮守である子安稲荷神社を合祀して奥澤神社となった当時、氏子は奥沢村の全戸であった。1935年(昭和10年)頃から転入者が増えて戸数が3,000戸ほどになったときも、転入者は氏子の義務として年1円の維持費を負担していた。1985年(昭和60年)の『奥沢 世田谷区民俗調査第5次報告』によれば、2,000戸の氏子が年600円の維持費を納めていた。『奥沢 世田谷区民俗調査第5次報告』では、氏子の減少の理由について当時の禰宜の話として「年寄が亡くなり、世帯主が代わった事、特定の宗教に入信したこと」を挙げることが多いと記述していた。 神社の当番は、「カミ」、「ナカ」、「シモ」の各ズシが1年交替で務めていた。氏子の総代は「宮大将」とも呼ばれ、1985年(昭和60年)の時点では14人いた。以前は旧奥沢一丁目 ‐ 三丁目から選ばれていたが、その後現在の奥沢一丁目‐八丁目から原則2名ずつ選出されていた。ただし、2名というのは流動的なものであり、手薄になった場合は補充こともできる。総代の選出方法は選挙などではなく、人望や経済状態、そして家柄などを考慮の上で選ばれるため、「世襲」の形になるという。氏子総代の上には責任総代がいて、1985年(昭和60年)の時点では2名がこの役を務めていた。責任総代には定員は特になく、宮司や氏子総代の監督、税務署に提出する神社の財政決算書の確認、総会での決算報告などを行う。 奥沢地区では、子供が生まれた家は奥澤神社への宮参りを行っていた。誕生後に男の子は31日目、女の子なら33日目に参拝し、これは「氏子入りを果たす」という意味での参拝であった。宮参りに子供を連れていくのは姑か実家の母親であり、父親や仲人の妻などが付き添う場合もあった。ただし、太平洋戦争前頃までは、母親は「産後75日を過ぎなければ参拝をしてはいけない」とされていたため、たとえ一緒に行っても神社境内の外で待たされていたという。 ===雨乞い=== 奥沢村では、大正時代中期頃まで雨乞いを行っていた。夏に日照りが続いたときには村民から足の速い者を選び、神奈川県の大山阿夫利神社まで水をもらいに赴いていた。大山阿夫利神社へ赴く村民は二子の渡しから船で対岸に渡り、厚木街道を経る道筋をとっていた。残りの村民の中から、途中まで出迎えに行く人がその後を追って出発した。 2人はあらかじめ落ち合う場所を決めておき、後から出発した村民が大山阿夫利神社からもらった水を入れた竹筒を受け取って奥澤神社まで運んだ。先に村を出た村民は、急ぐことなく奥沢村へ戻ってきた。この道中では大山阿夫利神社からもらった水を入れた竹筒を運ぶ途中はもちろん、受け渡しの際にも立ち止まることは許されなかった。その理由は、立ち止まるようなことがあるとその場で雨が降ってしまうと信じられていたからであった。 奥澤神社の境内には、水の入ったヒトダル(四斗樽、約72リットル)が用意されて竹筒の到着を待ち受けている。竹筒に入れられた大山阿夫利神社の水はこのヒトダルに注がれ、当番の人々(「カミ」、「ナカ」、「シモ」の各ズシが交替で当番を務めた)が掛け念仏を唱えながらその周囲を巡る。当番の人々は「トンボ」というT字型の藁製の道具を手に持ち、それをヒトダルの中に浸しながら境内に水を撒く。 1度目の雨乞いを行っても雨が降らなかったときは、別の地域の人々に交替して再度雨乞いが執り行われた。雨乞いの後に降雨があると、1日農作業を休んで「オシメリ正月」と称した。 ==年中行事・祭礼等== ===年中行事=== 年中行事は、次のとおり執り行われる。 1月1日‐7日:初詣 氏子の人々は、主に元旦の午前3時までに詣でるという。1985年(昭和60年)の時点では、初詣客の数は3000人ほどであった。 5月朔日‐9月朔日(5‐9月の各朔日):縁日。6月30日:大祓 藁で作った大きな輪を境内に飾り、これを「チノワ」と呼ぶ。神社に詣でる人はこの輪をくぐって中に入る。大祓は12月31日にも行われる。9月第2土曜日と第2日曜日:例祭(後述)11月15日:七五三祝12月31日:大祓 ===祭礼「奥澤神社の大蛇お練り神事」=== 奥澤神社の祭礼について、『新編武蔵風土記稿』巻之五十には「祭礼九月十五日、村民ウチヨリテ神楽ヲ奏ス」との記述しか見当たらない。一般には9月第2土曜日に行われる「奥澤神社の大蛇お練り神事」が知られている。 この神事については、次のような由来が伝えられている。江戸時代の中頃、奥沢の地に疫病が蔓延した。ある夜名主の夢枕に八幡神が現われた。八幡神は「藁で作った大蛇を村人が担いで村内を巡行させよ」と名主に告げた。名主は早速夢告に従って新藁で大きな蛇を作り村内を巡行させたところ、疫病は程なくして治まった。藁の大蛇は厄除けの守護神として崇められ、年に1度村内を巡行する祭が始められた。 お練りは例祭の最初のセレモニーとして行われる。午前10時に氏子たちの手で本殿から大蛇が担ぎ出され、宮司から修祓を受ける。拝殿前にある大イチョウを左回り(反時計回り)に3回巡り、鳥居をくぐって巡行を開始する。巡行の先頭は榊持ち1人、紙吹雪を撒く係1人、そして宮司となる。宮司の後ろには、警固役として高張提灯持ち2人が従う。高張提灯持ちの次に大蛇が続くが、頭部は担ぎやすいように木の枠が取り付けられていて、これを4人がかりで担ぐ。大蛇の胴体部分は10人前後が担ぐ。巡行の最後尾は、大蛇の後に従う高張提灯持ち2人となる。周囲には各睦(共栄睦、商睦、あずま睦、諏訪山睦、本町睦、奥沢南睦、九品仏睦)からの役員10名ほどが付き添って車と人の通行に配慮し、車の流れが途切れているときには大蛇w左右に動かしながら担いで蛇の這う様子を表現する。大蛇を作った際に残った藁の束を抱えた役員1人が、沿道の人々に厄除けとして藁を配る。 掛け声は「わっしょい!わっしょい!」で統一され、各睦が設置した神酒所7か所などの町内約4キロメートルの距離を2時間半ほどかけて巡行する。神酒所を回る順番は、共栄睦、商睦、あずま睦、諏訪山睦、本町睦、奥沢南睦、九品仏睦となっている。神酒所で担ぎ手は宮司から修祓を受け、各睦との境目で次の睦の者と担ぎ手を代わる。 正午過ぎに九品仏睦が担ぐ大蛇が環状8号線まで到着すると、交通規制の関係で大蛇は車両に積み込まれて、奥沢駅南側の三叉路付近まで運搬される。車両から大蛇が降ろされると、各睦の代表者たちが担ぎ手となって自由通りを約200メートルほど神社へ向かって巡行を続ける。巡行を終えた大蛇は、本殿に1年間安置された後に神職が修祓を行い、奥澤神社の鳥居に以前の大蛇と交代するかたちで巻きつけられて飾られる。 大蛇お練り神事は、1939年(昭和14年)から1957年(昭和32年)にかけて中断されていた。中断に至った理由は、木造の鳥居から石造の鳥居に替えた際に「石の鳥居では大蛇の腹が冷えてしまうだろう」と気づかったためという。その後1958年(昭和33年)になって、「神社は古いことを見直し、伝えるべきである」との当時の宮司の働きかけによって再興された。 大蛇の制作は、毎年9月の第1日曜日、朝9時に氏子の有志(「奉製者」と呼ばれる)が集まって宮司から修祓を受けた後に開始される。制作に使用する藁は、もち米のものを用いて2‐3日前にハカマ(藁の下葉)を除いた上で小さく束ねておく。宮司と約40人の氏子は、頭造りの組と胴体創りの組の2手に分かれて作業を行い、頭部約80センチメートル、胴体部の長さ約10メートル、直径約25センチメートル、総重量約150キログラムに及ぶ大蛇を作り上げる。なお、祭りの中断前は「カミ」、「ナカ」、「シモ」の各ズシが1年ごとの交替制で大蛇を作っていた。その頃は各ズシが大蛇の出来栄えを競い合っていたため、最近の大蛇に比べてよくできていたという。1935年(昭和10年)頃からは各ズシだけで藁を調達することが困難になったため、栃木や群馬からも藁を取り寄せるようになった。他に地元商店街の有志が小型の大蛇を制作している。こちらの大蛇は、四斗樽5本を積み重ねて作られた共栄睦の大神輿に絡めさせられた形で例祭のときに町内を巡行している。小型大蛇の制作を手掛けることによって、藁製の大蛇づくりの技術が若い氏子たちに引き継がれていく。 奥澤神社の例祭はかつて9月15日であったが、明治維新後に太陽暦が導入されると10月15日になり、1974年(昭和49年)年からは敬老の日に合わせる形で9月15日に戻った。両日とも囃子が奏されるが、奥沢地区では囃子の演者が絶えている。そのため奥澤神社では、瀬田地区にある瀬田囃子保存会に演奏を依頼している。 大蛇のお練り神事は1977年(昭和52年)のテレビ放映によって知名度が高まり、初詣や厄除けにも奥澤神社の氏子以外の人々が訪れることが増えたという。この神事は、1993年(平成5年)に世田谷区指定無形民俗文化財(風俗慣習)に指定された。2016年(平成28年)には東京都文化財保護審議会により、東京都の無形民俗文化財(風俗慣習)に指定する旨の答申が行われ、同年3月11日付で指定された。東京都文化財保護審議会の答申では藁の大蛇を担いで地域を巡行する形をとるものは都内では他に例がなく、全国的にも珍しいという理由が挙げられた。 ==資料写真== ==交通アクセス== ===所在地=== 東京都世田谷区奥沢五丁目22番1号 ===交通=== 東急目黒線奥沢駅から徒歩約2分。または東急東横線・東急大井町線自由が丘南口から徒歩約5分。 =中田厚仁= 中田 厚仁(なかた あつひと、1968年1月10日 ‐ 1993年4月8日)は、国際連合ボランティア(UNV)。 1993年に国際連合カンボジア暫定統治機構(UNTAC)が実施した1993年カンボジア総選挙の選挙監視員として活動中に殺害された。大阪府東大阪市出身。大阪大学法学部卒業。父は国連ボランティア終身名誉大使の中田武仁。 ==経歴== 1968年1月、大阪府に生まれる。商社に勤務していた父武仁の転勤に伴い、1976年から1980年までの4年間をポーランドで過ごした。1977年、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所を訪れたことをきっかけに平和に関心を抱き、国際連合で働くことを希望するようになった。1987年4月に大阪大学法学部に入学し、国際法を専攻。 大学卒業後の1992年5月、中田は国際連合カンボジア暫定統治機構(UNTAC)が1993年5月にカンボジアで実施予定の総選挙を支援するボランティア(国際連合ボランティア(UNV))に採用され、7月にカンボジアへ渡った。この募集は社会人経験者を対象としたものであり、大学を卒業したばかりで採用されるのは異例のことであった。中田はクメール・ルージュとカンボジア政府との衝突が激しい地域への赴任を自ら望み、9月からコンポントム州プラサットサンボ郡の郡選挙監視員(DES)として赴任した。中田は郡内の村を回り選挙に関する説明や選挙人登録など、選挙実施に向けた活動を行った。 1993年4月8日、中田はプラサットサンボ郡を自動車で移動中、フィル・クレル村の域内で何者かによって拘束・射殺された。UNTACは大きく軍事部門と文民部門の2部門からなっていたが、文民部門に属する者が殺害されたのは初めてであった。事件発生後、最も早く射殺現場に到着したUNTAC兵士(インドネシア軍所属)のテジョー・スラックスターによると、背中に3箇所、後頭部に1箇所弾丸が命中した跡があり、後頭部に命中した弾丸は左目の方向へ貫通していたという。救援を要請した無線での最後の言葉は「I’m dying(私はもうすぐ死ぬ)」であったと伝えられている。 UNVの同僚であったイブラハム・ガーニーによると、殺害の直前、プラサットサンボ郡ではガーニーと中田が殺害されるという噂が広まり、殺害の2日前の4月6日には普段多くのカンボジア人が訪れていた中田の事務所に立ち寄るものがいなくなるという現象が起こっていた。日本人文民警察官で、コンポントム州警察署長を務めていた坂井清三は4月6日夜、コンポントム州の州都コンポントム市において中田から「地元の人間から『危害を加える』と脅されている」と打ち明けられ、翌7日、プラサットサンボ郡に戻らずコンポントム市にとどまるよう忠告していた。坂井はコンポントム州のUNTAC駐屯地に運ばれた中田の遺体を見て、「おれがきのう、うちに泊まるよう、もっと強く引き止めていたら……」と後悔の念にかられたという。 4月11日にプノンペンで葬儀と追悼式が営まれ、遺体は火葬された。4月17日には日本(大阪府吹田市)でも追悼式が営まれ、およそ2000人が参列した。追悼式から帰宅後、父の武仁は中田の誕生を記念して植えた桜の木を「厚仁とともに、おまえもこの世での務めを終えたのだ」という言葉とともに切り倒した。 ==殺害の経緯== UNVの同僚であったイブラハム・ガーニーによると、殺害直前、プラサットサンボ郡ではガーニーと中田が殺害されるという噂が広まり、事件発生2日前の4月6日には、普段来訪者の多い中田の事務所に立ち寄る者がいなくなるという現象が起こっていた(この話を耳にした日本人文民警察官の坂井清三は中田に対し、当分の間プラサットサンボ郡に近付かないよう忠告していた)。 4月8日午前7時頃、中田は国際連合ボランティア(UNV)の会議に出席するため、カンボジア人通訳のレイ・ソク・ピープとともにプラサットサンボ郡プラサット・サンボーから、州都コンポントムに向けて車で出発した。7時30分頃、プラサットサンボ郡選挙監視本部に「クメール・ルージュとみられるグループに停止命令を受けて拘束された」という無線連絡が入れられた。7時55分、「クメール・ルージュが攻撃してきた」「我々は撃たれた。助けてくれ」という連絡を最後に無線が途切れた。 その後、コンポントムの北東30キロの場所で車が発見された。車のフロントガラスおよび後部には銃撃された跡が認められ、フロントガラスは粉々になっていた。中田は車の下でうつ伏せに、レイが車内の右側の座席に倒れていた。中田は既に死亡しており、レイは息があったためプノンペンの病院へと運ばれたがまもなく死亡した。レイは病院で、クメール・ルージュによる犯行であると述べたといわれている。 この事件に関してUNTACは4月28日、「投票業務のための現地スタッフ採用を巡ったトラブルから発展した単独犯の疑いが強い」と発表し、当初予測されていたクメール・ルージュの関与を否定した犯行の動機としてUNTAC側は、プノンペン政権に所属する軍人と深い関わりのある人物の採用を中田が取り消したことに対する恨みを挙げている。なお、UNTAC担当国際連合事務総長特別代表であった明石康は事件発生直後に「疑われるのはクメール・ルージュである」と発言しており、この発表に「断言できるんですかな」と不満を表明していたが、後に発行された著書ではUNTACの発表と同様の見解に立ち、より具体的に、プノンペン政権に所属する軍人による犯行と推測している)。テジョー・スラックスターも、自身が知るクメール・ルージュの犯行と照らし合わせ、「クメール・ルージュの犯行であったなら、お金から車から、全部持っていくはずだ」(現場には自動車が残され、中田が所持していた2000ドルの現金も手つかずの状態であった)と述べた上で、中田が生前現地でスタッフを募集した際、殺害現場となったフィル・クレル村の住民を採用せずコンポントムの住民ばかりを採用したことに恨みを持った同村の住民が犯人であると推測している。ただしスラックスターは、現場に残された足跡から3‐5人による犯行だという見解を述べている。こうした見解に対し、UNVや文民警察官の中には懐疑的な目を向ける者も存在している。事件発生当時カンボジアで取材活動を行っていた三好範英は、1回目の銃撃でレイは重傷を負ったが中田は無傷であったと推測した上で、その時中田が急いで現場を立ち去らなかったのは「車の前方にも武装した人間がいたのであり、彼らが中田さんの車の進行を阻止したのではいかとの見方もできるのではないか」と述べている。三好によると、事件の有力な容疑者は浮上したものの逮捕することはできなかった。カンボジア政府が2002年に中田と父の武仁に勲章を授与した際の証書には「中田厚仁氏はクメール・ルージュによって殺害された」という一文がある。 UNVの中にはUNTACに対し、安全確保策が不十分であったと非難する者もいる。事件発生後から2日後の4月10日、コンポントム州のDESは「UNTACが適切な処置をとっていれば2人の死は避けられたはずであった」という声明を発表した。一方、テジョー・スラックスターによると、中田が出発した時刻はインドネシア軍が治安上の理由から郊外へ出ないよう通告していた時間帯(夜間から午前8時にかけて)にあたり、インドネシア軍は当該時間帯に外出する際には護衛につく旨を申し出ていたが、中田は殺害当日を含め一度も護衛を依頼したことがなかったという。さらに中田は外出時にインドネシア軍に報告を入れることも稀で、この日も報告なしに外出したという。ただし明石康によるとUNVの多くは英語を用いていたのに対しコンポントム州に配備されていたインドネシア軍には英語を話せる者が少なく、両者の意思疎通は不十分であった。事件後、インドネシア軍に英語を話せる者を増員する対策がとられた。明石はさらに、「UNTACの要員全部をテロ行為から守ることは、物理的に不可能」であったと述べている。この点については共同通信社記者の近藤順夫も、全国に200以上の事務所があり移動の多いUNVの警備は「手が回らないのが現状だった」と述べている。 中田の遺族は葬儀のためにカンボジアを訪れた際に、明石康に対し直接、事件に関する調査報告書を提出するよう求めたが、実行されないままUNTACは解散した。事件の調査について明石は、「カンボジアではこの種の事件の調査を徹底的にやろうとしても曖昧な結果に終わってしまうことが通例」とした上で、「ご遺族にはお話しする言葉も見つからない」と述べている。 ==死後== ===総選挙の実施=== 中田の殺害を受けて、UNVの中には任務の続行を断念して、帰国する者が現れた。また任務を続行したものの殺害予告を受け、赴任地からの避難を余儀なくされる者もいた。4月14日、UNV事務局はUNTAC側に安全対策など10項目にわたる要求を行った。UNV事務局はさらに「仮にもう1人UNVから犠牲者が出たら、UNV全員を選挙監視の仕事から引き上げる」と通告した。 これを受けて明石は、UNV無しでの総選挙の実施案の作成を命じた。また、日本国内では中田のように、UNVとしてDESの職務に就く者とは別に、選挙直前の短期間選挙に関与する国際投票所員(IPSO)が募集されたが、中田の殺害と翌5月4日に起こった高田晴行(文民警察官としての職務に就いていた日本の警察官)の殺害を受け、候補者の辞退が相次いだ。 投票は、予定通り5月23日から28日にかけて行われ、翌6月1日に開票作業が終了した。中田が赴任していたプラサットサンボ郡の投票率は、99.9%を記録した。投票箱の中からは投票用紙以外に、中田を追悼する内容の手紙が複数発見された。 ===中田の名を冠した活動=== ====ナカタアツヒト・コミューン==== 1995年、中田が殺害された現場一帯が開発され、周辺の7つの村を併合した新たな村が建設されることになった。村人の多くは中田のことを記憶しており、協議の結果村名は「ナカタアツヒト村」に決まった。これを受けてカンボジア政府は村名を「ナカタアツヒト・コミューン」と公式に定め、同時に中田をコンポントム州の最高名誉州民とした。1998年には中田の父武仁が日本で集めた募金をもとに村に小学校が建設され、「ナカタアツヒト小学校」と名付けられた。小学校の敷地内には中田の名前の頭文字Aを模ったモニュメントが設置されている。さらに村では中田の功績を讃える歌が作られた。 ===基金=== 1993年12月、中田の遺族が中心となり、海外で活動するボランティアを支援する目的の特定公益信託「中田厚仁記念基金」が設立された。基金から報奨金を授与された者の中には中田とともに銃撃され死亡したレイ・ソク・ピープも含まれている。また、中田は大学時代にロータリークラブの奨学生となり、1989年9月から1年間アメリカ合衆国アイオワ州のグリネル大学(Grinnell College)へ留学した経験があるが、同大学には卒業生のポール・ミリオラトによって中田の名前を冠した奨学基金が設立された。 ===中田厚仁記念文庫=== 中田の母校である大阪大学は1994年、大学図書館に中田厚仁記念文庫を設置した。 ===父・武仁の活動=== 中田の父武仁は国際連合ボランティア(UNV)の要請を受け、1993年6月から2008年4月まで国連ボランティア名誉大使としてボランティア精神普及のための活動を行った。1996年、武仁は2001年をボランティア国際年とするよう提案し、1997年の国連総会で承認された。 =アカウキクサ属= アカウキクサ属(Azolla)は、アカウキクサ科(Azollaceae)に所属する水生シダ植物の属。学名のアゾラと表記されることも多い。浮遊性の水草で、水田や湖沼などに生育する。水田や湖の水面を覆う雑草として扱われる一方、合鴨農法でアイガモの餌や緑肥として用いられることもある。 なお本項では、特に断りがない限り、以降アカウキクサ属植物の総称をアカウキクサと表記する。種としてのアカウキクサについては当該記事に記載する。 ==分布== 世界中に分布する汎存種である。分布を拡大する主な要因は人間活動であり、稲作の緑肥として用いられ始めたこともあって、本来自生していなかった地域にも分布を広げている。特に、アメリカ大陸から持ち込まれた種(ニシノオオアカウキクサなど)がアジアやアフリカに持ち込まれ、中国などではすでに定着している。一方日本では、生育地の消失や農薬の使用などによって、在来種の個体数が各地で減少している。 ==特徴== ===形態=== 水田や湖沼の水面に浮かぶ浮遊植物 (Free‐floating plants) であるが、抽水植物 (Emergent plants) として生育することもある。1個体当たりの全長は通常1‐4cmであるが、全長15cmになる A. pinnata や、全長35cmになる A. nilotica のような比較的大型の種もある。茎は短く、羽状に分枝して、長さ約2mmほどの葉を密生する。葉は赤緑色から青緑色で、葉の表面には半透明の突起が多数ある。通常夏期には緑色であるが、冬期には赤く色づく(「赤浮草」という和名もこの葉の色にちなんで付けられた)。葉は上葉と下葉の2片に分かれており、2列に互生する。根は茎から垂れ下がって水中に伸びる。根の長さは約1‐1.5cm。 側枝の下葉にある翼状の裂片に、大胞子嚢群と小胞子嚢群からなる胞子嚢群をもつ。小胞子嚢群の中には球形の小胞子嚢が多数含まれており、各小胞子嚢の中に数個の球状体(マスラ)がある。その球状体の中に多数の小胞子が入っている。球状体表面には数本の鈎状毛(グロキディウム)があり、その形状が種の同定に用いられる。 ===繁殖=== 主に無性生殖によって個体群を拡大する。生長力は非常に強く、最も生長の速い植物の一つであるとされる。ちぎれた植物体からも新しい葉を次々と形成し、条件さえ整えば急速に個体群を拡大させる。生育に適した5‐7月頃には、個体群の大きさが1ヶ月で100‐300倍にもなるとされる。生育適温は20‐30℃、生育に最適なpHは4.5‐7.5とされる。日本では気温が20℃程度となる6月頃から急激に繁殖するが、気温が25℃を超える7月には繁殖力がやや劣るとされる。 また、大胞子嚢が雌性の、小胞子嚢が雄性の前葉体を生産することによって有性繁殖することもある。大小二つの胞子嚢果を形成する時期は通常4‐7月である。しかし、全体的に有性生殖をすることはあまりなく、主に環境ストレスによる影響があるときに有性生殖をすると考えられている。多年生植物として、そのままの形態で越冬するが、胞子で越冬することもある。 酸性条件や弱アルカリ性条件では生育が悪くなるとされるほか、高密度、高温条件でも生育が悪くなる。また、アゾラ(Azolla)という属名の由来は、ギリシア語の Az*9702* (to dry, 乾くこと) + olly*9703* (to kill, 殺すこと) であるが、これは水田や湖沼などが干上がって植物体が乾燥すると死滅する、というアカウキクサの性質を表している。 アカウキクサは草体が小さく、ちぎれやすいため、水鳥やカエルなどに付着して散布されることで容易に分布を広げる。またホームセンターで販売されている水生植物の苗に、アカウキクサの植物体断片が付着していることもあり、その苗をビオトープ等に植栽することでも分布を広げる例が知られている。 またアカウキクサはアレロパシー作用を持つ物質を水中や空気中に放出して、他の植物の繁殖を抑制する可能性がある。アカウキクサがアレロパシー物質を生成している可能性は実験的に確認されており、築地ほか(2010)では、アカウキクサの抽出液がオオカナダモやレタスの生長を抑制させる効果が確認されている。しかし、イネやヒエなどのイネ科植物に対しては生長を抑制する効果がほとんどないとされている。 天敵はミズメイガの幼虫で、特に夏期に被食をうける。 ===ラン藻との共生=== アカウキクサの上葉には、粘液質の液体で満たされた小孔があり、そこにラン藻(シアノバクテリア)の仲間であるアナベナの1種(Anabaena azollae)が共生している。アナベナは大気中の窒素をアンモニアに還元して、栄養素として利用可能とする能力をもっており、それによってアカウキクサの繁殖を助けている。アカウキクサが固定できる窒素の量は種や環境条件によっても異なるが、アカウキクサ1mが1年で0.25kgの窒素を固定するといった報告や、1ha(10000m)のアカウキクサが1年で1500kgの窒素を同化したという報告もなされている。このうち少なくとも80%の窒素はアナベナによって固定されたものと考えられている。 自然界ではごくまれにアナベナが共生していない個体も見られるが、通常はすべての個体に共生している。しかし根粒菌のように、植物体が成長してから共生関係を構築するわけではなく、アカウキクサの場合は最初から葉の中にアナベナが共生している。胞子で繁殖する場合は、大胞子嚢内にアナベナが侵入し、次世代に引き継がれる。そのため、雑種の場合は常に母親由来のアナベナが次代に受け継がれる。 共生しているアナベナは種によって特性が異なるとされており、異なる種から取り出したアナベナを実験的に交代すると、高温耐性などといった特徴が変化することが知られている。 ==分類== ===分類体系の混乱=== アカウキクサ科唯一の属であるアカウキクサ属は、アカウキクサ亜属(Subg. Rhizosperma)とオオアカウキクサ亜属(Subg. Azolla)に細分するという見解が多い。しかしその2亜属の他に、A. nilotica を独立した亜属である Tetrasporocarpia 亜属に分類すべきという見解も見られる。これらの亜属に属する各種は、小胞子嚢の球状体(マスラ)にある鈎状毛(グロキディウム)という突起の形状や、葉の細胞表面にある突起の形状などをもとに分類されており、約6種ほどに区別されている。しかし総じて、各種の外見は非常に類似しており、また大胞子と小胞子をつけることが少ないため、分類が困難となっている。そのため、特に雑種を同定する際などに、遺伝子解析による同定も行われている。 ただ、分類方法についての見解は統一されておらず、例えば日本の在来種として、アカウキクサ(A. imbricata)とオオアカウキクサ(A. japonica)が記載されているが、日本以外ではこれらの学名は別の種のシノニムとされることが多い。アカウキクサの学名は A. pinnata または A. pinnata subsp. asiatica などと記載され、オオアカウキクサはニシノオオアカウキクサのシノニムともされることがある他、A. filiculoides var. japonica として変種扱いにされることもある。しかし日本では、この2種の学名については、それぞれ A. imbricata、A. japonica とすることが慣習となっている。また、例えば沖縄県のアカウキクサ(A. imbricata)が A. pinnata subsp. pinnata である可能性もあると示唆されるなど、特に日本のアカウキクサ属の分類についてはまだ不明瞭な点が残る。 また2005年に、オオアカウキクサ節の3種、アメリカアカウキクサ(A. caroliniana)、A. microphylla、A. mexicana について、これらの種は形態的、遺伝的に区別できないとして、アメリカオオアカウキクサ(アゾラ・クリスタータ、A. cristata)として統合するべきとした見解が示された。日本などではこの説が支持されており、特定外来生物に指定された際にもアメリカオオアカウキクサの学名が採用されている。 ===種=== 上述のことを勘案した上で、Kannaiyan (2002) と渡辺 (2006) をもとにまとめると、種以下の分類は以下のようになる。分布域は主に Kannaiyan (2002) をもとに記載したが、外来種として侵入している事例などが多いため、分布地の再検討が必要とされている。 またここで挙げた種の他に、種間で雑種を形成する事も知られている。例えば、アメリカオオアカウキクサとニシノオオアカウキクサの雑種であるアイオオアカウキクサ (A. cristata x filiculoides) が日本で確認されている。 アカウキクサ科 Azollaceae ‐ アカウキクサ属 Azolla ==進化と古生物学的側面== ===進化=== アカウキクサ属にもっとも近縁な分類群は、同じ水生シダ類のサンショウモ属 (Salvinia) であるとされており、分子系統解析の結果からも、両属は姉妹群を形成している。アカウキクサ属の化石が約9000万 ‐ 1億4000万年前の地層からも記録されていることから、少なくともこの頃にはアカウキクサ属が分化していたものと考えられており、分子系統解析の結果からは、両属は約8900万年前に分化したと推測されている。 アカウキクサ属中のアカウキクサ亜属 (Subg. Rhizosperma) とオオアカウキクサ亜属 (Subg. Azola) が分岐したのは、分子系統学的解析から、約5070万年前と推測されている。オオアカウキクサ亜属の化石が初めて記録されたのは約2840‐3720万年前であり、オオアカウキクサ亜属の種がアカウキクサ亜属の種より分化したものと考えられている。 また、アカウキクサと共生関係にあるアナベナは、アカウキクサから単離すると生育できない(自由生活能力を喪失している)ことなどから、アカウキクサと共進化してきたものと考えられている。アカウキクサとアナベナの共生関係が始まった時期は不明だが、化石記録のある約9000万 ‐ 1億4000万年前頃にすでに共生関係にあった可能性も示唆されており、アナベナが自由生活能力を失っていることからも、両種の共生関係は非常に長く続いているものと考えられている。 ===アカウキクサ・イベント=== アカウキクサ・イベント(英語版)とは、今からおよそ4900万年前に、アカウキクサが北極海で爆発的に発生したことで、気温が大きく低下したとする仮説である。この仮説は、始新世の初期には3500 ppm ほどであった二酸化炭素の濃度が、アカウキクサ・イベント(北極海上でのアカウキクサの大量発生)により 650 ppmまで減少したとする主張である。この仮説は、北極海盆などの海底堆積物からアカウキクサの化石が発見されていることなどに基づいて推測されているが、周辺の三角州やラグーンで生育していた個体が流入したとする反対意見もある。以下、アカウキクサ・イベントの概要について述べる。 始新世の頃には、北極海は周りの大陸に囲まれた内海となっており、塩分濃度が非常に高くなっていた。そのため、周囲の河川などから流入する淡水は、塩分濃度の高い北極海の海水と混ざらず、淡水の混濁層(英語版)が形成され、海水表面に淡水の層が出来ていた。また当時の北極海周辺の気候は温暖であり、1日の日照時間も夏期で約20時間、冬期でも約12時間以上あった。このような環境はアカウキクサの繁殖にとって適しており、2,3日でバイオマス(個体重量)を倍増させることが出来る環境であった。そのためアカウキクサが北極海上で大量に繁殖し、北極海上の淡水層がなくなるまでの80万年もの間に、400万kmの個体群を形成していた。この個体群が大気中の二酸化炭素濃度を大幅に減少させたことで、北極海表面の気温は13℃から‐9℃に低下したとされ、アカウキクサが大規模な気候変動を引き起こす主要因となったと考えられている。なお淡水層が消滅して死滅したアカウキクサの草体は、多くの炭素を固定したまま海中深くに沈んでいるものと予想されている。 ===化石種=== アカウキクサの小胞子嚢の中にある球状体(マスラ)は化石として残りやすく、主に第三紀の地層からアカウキクサの球状体などが多く発見されている。2007年現在、記録された化石種は50種を超えており、第四紀の地層から発掘された2種をのぞいては、全て第三紀の層から発見されている。また、化石属である Azollopsis と Parazolla、Paleoazolla も記録されている。 アカウキクサの化石は、現在アカウキクサが生育している地域だけで発見されているのではなく、ヨーロッパやシベリアなど現生種のいない地域からも多く発見されている。ただし、日本からアカウキクサ属植物の化石種は発見されておらず、現生種の化石が発見されるにとどまっている。 以下のような種が化石で発見されている(現生種の化石も含む)。なお発掘された地質年代が判明している分については、地質年代を付記している。 Azollaceae アカウキクサ科 Azolla アカウキクサ属 Rhizosperma アカウキクサ節 A. pinnata ‐ 中新世〜鮮新世 A. imbricata (アカウキクサ) ‐ 完新世 Azolla オオアカウキクサ節 A. filiculoides (ニシノオオアカウキクサ) A. caroliniana (アメリカアカウキクサ) 以上更新世。 A. japonica (オオアカウキクサ) A. microphylla A. mexicana A. nilotica 以上完新世。 †節 Filifera †A. circinata ‐ 白亜紀後期(英語版) (節不明) †A. barbata †A. crenata †A. distincta †A. geneseana †A. gigantea †A. montana †A. simplex 以上、白亜紀後期。Azolla アカウキクサ属 Rhizosperma アカウキクサ節 A. pinnata ‐ 中新世〜鮮新世 A. imbricata (アカウキクサ) ‐ 完新世 Azolla オオアカウキクサ節 A. filiculoides (ニシノオオアカウキクサ) A. caroliniana (アメリカアカウキクサ) 以上更新世。 A. japonica (オオアカウキクサ) A. microphylla A. mexicana A. nilotica 以上完新世。 †節 Filifera †A. circinata ‐ 白亜紀後期(英語版) (節不明) †A. barbata †A. crenata †A. distincta †A. geneseana †A. gigantea †A. montana †A. simplex 以上、白亜紀後期。Rhizosperma アカウキクサ節 A. pinnata ‐ 中新世〜鮮新世 A. imbricata (アカウキクサ) ‐ 完新世A. pinnata ‐ 中新世〜鮮新世A. imbricata (アカウキクサ) ‐ 完新世Azolla オオアカウキクサ節 A. filiculoides (ニシノオオアカウキクサ) A. caroliniana (アメリカアカウキクサ) 以上更新世。 A. japonica (オオアカウキクサ) A. microphylla A. mexicana A. nilotica 以上完新世。A. filiculoides (ニシノオオアカウキクサ)A. caroliniana (アメリカアカウキクサ) 以上更新世。以上更新世。A. japonica (オオアカウキクサ)A. microphyllaA. mexicanaA. nilotica 以上完新世。以上完新世。†節 Filifera †A. circinata ‐ 白亜紀後期(英語版)†A. circinata ‐ 白亜紀後期(英語版)(節不明) †A. barbata †A. crenata †A. distincta †A. geneseana †A. gigantea †A. montana †A. simplex 以上、白亜紀後期。†A. barbata†A. crenata†A. distincta†A. geneseana†A. gigantea†A. montana†A. simplex 以上、白亜紀後期。以上、白亜紀後期。†A. schopfi†A. teschiana 以上暁新世。以上暁新世。†A. intertrappea†A. berryi†A. primaeva 以上始新世。以上始新世。†A. antiqua†A. nana†A. sibirica†A. turgaica†A. prisca†A. tertiaria 以上漸新世。以上漸新世。†A. parapinnata†A. tuganensis†A. ventricosa†A. aspera†A. glabra†A. nikitinii 以上中新世。以上中新世。†A. pseudopinnata ‐ 鮮新世†A. vera ‐ (第三紀)†A. pyrenaica†A. tegeliensis 以上更新世。†Azollopsis †亜属 Spiralopsis †Azollopsis intermedia †Azollopsis pusilla †亜属 Azollopsis †Azollopsis coccoides †Azollopsis tomentosa (亜属不明) †Azollopsis pilata †Azollopsis spinata†亜属 Spiralopsis †Azollopsis intermedia †Azollopsis pusilla†Azollopsis intermedia†Azollopsis pusilla†亜属 Azollopsis †Azollopsis coccoides †Azollopsis tomentosa†Azollopsis coccoides†Azollopsis tomentosa(亜属不明) †Azollopsis pilata †Azollopsis spinata†Azollopsis pilata†Azollopsis spinata†Parazolla †Parazolla heterotricha†Parazolla heterotricha†Paleoazolla †Paleoazolla patagonica†Paleoazolla patagonica ==人間との関係== ===飼料、緑肥としての利用=== アカウキクサは、シアノバクテリアであるアナベナの1種(Anabaena azollae)と共生しており、このアナベナの働きによって旺盛な窒素固定(大気中の窒素をアンモニア等に変える働き)を行っている。このためアカウキクサは窒素に富んでおり、稲作を行う際にアカウキクサを繁殖させ、それを漉き込んで緑肥として利用されることがある。肥料になるというだけでなく、一面に繁茂して水面を覆うことで、湖沼の富栄養化を抑制する効果や、他の雑草が繁茂することを抑制する効果があるとされている。これらの性質に加え、安価に利用出来るということもあり、中国やベトナムでは数百年間の間、水田緑肥として用いられていた。しかし窒素肥料である尿素価格の低下などもあり、1980年代頃からは徐々に使用されることが少なくなっている。 アカウキクサのタンパク質含有量は20‐30%であるとされており、中国南部や東南アジアでは、家畜や魚の飼料としてもアカウキクサが用いられている。そのほか、東南アジアなどの熱帯域でも緑肥としての利用が試みられたが、高温に弱い、リンが不足している土壌では生長しづらい、水位調整などの栽培管理が必要となる、などといった課題もあり、定着するには至っていない。 ===アイガモ農法における利用=== アイガモ農法にオオアカウキクサなどのアカウキクサを利用することもある。これはアイガモ―アゾラ農法とも呼ばれ、1993年から日本で行われているほか、中国でも同様の農法が導入されている。この農法では、アカウキクサ類が作物の肥料となる上にアイガモの飼料ともなり、雑草を抑制する効果もあるということで、多くの人々の関心を集め、普及が進められている。またその他に、中国やフィリピンなどでは、アカウキクサを利用した稲作に養魚も組み合わせて、イネと魚を同時に収穫する農法も試みられている。ただし、これらの農法で用いられる種は、主にニシノオオアカウキクサやオオアカウキクサであり、窒素含量が少なく生育しづらいアカウキクサはほとんど利用されない。 アイガモ農法では、より繁殖力の強い外来種であるアメリカオオアカウキクサやニシノオオアカウキクサ、またそれらを人工的に掛け合わせて作出された雑種(雑種アゾラと表記される)などを用いることもある。特に雑種アゾラであるアイオオアカウキクサは、増殖力やタンパク質量、窒素固定量が他の種より優れているとされ、農業における利用価値が高いとされている。 しかし、本来自生していない種が導入されることで、絶滅危惧種である在来種と競争して駆逐する可能性が指摘されているほか、交雑による遺伝子汚染なども懸念されている。また在来種を用いる場合でも、地域変異があることが判明しているため、安易に導入することで自然植生が撹乱されるおそれが指摘されている。ただし、雑種のアイオオアカウキクサに関しては、元々が雑種であるため他種と交雑しづらく(交雑成功率は数%であるとされている)、仮に雑種が形成されても不稔になるため、在来種などとの浸透交雑が起きる可能性はほとんど無いと考えられている。 なお、日本においてアメリカオオアカウキクサは、在来種との競合や遺伝的撹乱のおそれがあることから特定外来生物に指定されている。またアカウキクサ属の全種が種類名添付証明書生物(輸入時に種名を添付することが義務付けられる生物)に指定されている。そのため日本では、アメリカオオアカウキクサをアイガモ農法に用いることは出来ないが、アイオオアカウキクサなどの雑種アゾラの農業利用は認められている。 ===研究=== アカウキクサは農業において緑肥などとして用いられるため、より効率的に利用するための研究が盛んに行われている。特に国際稲研究所(IRRI)ではアカウキクサの農業利用に関する研究が盛んに行われているほか、500を越えるアカウキクサの株がコード番号をつけて管理されており、世界中の研究者と利用者に株が提供されている。また中国の福建省にある中国福建省農業科学アカデミーには、アカウキクサの研究を専門に行う研究センター(福建省*9704**9705*科学院*9706*萍研究中心)が設置されており、アカウキクサの交雑や育種についての研究などを進展させた。 アカウキクサ属の各種は、比較的容易に種間雑種を形成し、親種の組み合わせによっては雑種強勢を示すことが知られているため、農業利用に当たって、特にオオアカウキクサ亜属の各種間で、様々な交雑種が作出されている。しかしアカウキクサ亜属の種を親種とした人工交雑種の作出にはまだ成功していない。 また、農業利用以外の用途として、土壌や水中の有害金属を除去するファイトレメディエーションにアカウキクサを用いることが提案されており、カドミウムや水銀を植物体中に取り込んで除去できるとする研究結果も報告されている。 ===雑草、害草としての扱い=== 前述したように、緑肥などとして扱われる一方で、水面を覆うことで水温を低下させ、水中を貧酸素状態にするため、害の強い雑草としても扱われる。そのため、除草剤等で駆除される場合がある。農地において被害が出ることもあり、1959年には佐渡島でオオアカウキクサが大繁殖し、約120haもの被害面積を出したため、農薬等で駆除された。水稲がまだ定着していない段階でアカウキクサが繁殖し水面を覆うと、幼苗の生長を妨げるという点も、雑草として扱われる理由の一つである。 また、実利的な被害のために除去されるだけではなく、赤い草体が水面を覆うことで、湖や日本庭園の景観を損なうという理由で駆除されることもある。また、アカウキクサで覆われた湖面を地面と間違えて、子どもが誤って湖に落ちてしまうという事故も発生しており、看板を立てて警戒を呼びかけるといった事態に発展することもある。そのほか、カスミサンショウウオやオニバスなどの希少な生物が生息している水域に繁殖することで、その水域の生態系に影響を及ぼす事例などが知られているため、その場合でも駆除が検討される。特に、水中の酸素を減少させることで酸欠状態となるため、魚類などが死滅する可能性が指摘されており、実際に養魚場では強害草として扱われている。また水中に届く日光を遮って、他の水生植物の生長を抑えることが懸念されているが、実際に植物の繁殖を阻害するかどうかについてや、水生昆虫に対する影響の有無などについては、2010年現在研究事例がない。 本来アカウキクサが生育していない水域であっても、植物体が水鳥の足などに付着して運ばれ、大繁殖したとみられる例が確認されている。網などですくって除去しても、取り残された僅かな個体からすぐに繁殖し、再び水面を覆ってしまうため、除去は容易ではない。しかしその一方で、一面に繁茂していたアカウキクサの個体群が、食害などによって数年で自然に消滅する事例も多くある。 ===保護=== 移入種として扱われることがある一方、もともと生育していた個体群が減少して絶滅が危惧されている地域もあり、アカウキクサを保護するための動きもみられる。例えばカナダでは、絶滅の危機に瀕するカナダの野生生物の現状に関する委員会(英語版)(COSEWIC)によって、Azolla mexicana が絶滅のおそれのある種に指定されており、種の保護にあたっての戦略がまとめられている。また日本においては、外来種として繁殖しているアカウキクサ類を駆除することがある一方、在来種であるアカウキクサやオオアカウキクサについては、農薬の使用や水質汚染などによって個体数が減少しているため、環境省のレッドデータブックで絶滅危惧II類に指定されている。そのため、すでに判明している自生地や、新たに自生地が発見された際などに、自治体や住民が池の環境を保護するといった活動に乗り出す例もある。また生育地を保護するだけでなく、植物園に株を持ち込んで生息域外保全(英語版)する試みもなされている。しかしもともと雑草としても扱われており、なぜ絶滅させてはいけないのかといった保全の是非が自生地で議論されることもある。 また、繁殖しているアカウキクサが、絶滅危惧種である在来種であるのか、特定外来生物に指定されているような外来種であるのか外見から判別することが困難であるため、保護すべきか除去すべきかが判断できないという事態も生じている。そのため実際に、絶滅危惧種のオオアカウキクサを誤って除去するという事例も発生している。 ==ギャラリー== =バヤズィト2世= バヤズィト2世(トルコ語:II. BayezidもしくはII. Beyaz*7526*t、1447年12月3日 ‐ 1512年5月26日)は、オスマン帝国の第8代皇帝(スルタン)。第7代皇帝メフメト2世の子(在位:1481年 ‐ 1512年)。「聖者(ヴェリー)」と呼ばれるほど信心深い敬虔なムスリムであった。華々しい外征を行った父メフメト2世と息子セリム1世に比べて外征で目覚ましい成果が見られず、書籍では業績を低く評されることもある。彼の治世については、停滞の時代、あるいはメフメト2世の時代の反動でイスラーム色が前面に出た保守的な時代とする見方がある。 ==生涯== ===即位以前=== 1447年にメフメト2世の長子として生まれた。1456年に弟のムスタファと共に割礼を施され、同日にメフメトによってアナトリアのベイリクたちを招待しての大宴会が開かれた。この祝宴はメフメトがベオグラード包囲で大敗して帰国した直後のことであり、宴を開いたのは敗北を忘れる意味合いもあった。オスマン帝国の皇子の慣例としてアマスィヤの知事を務め、1473年に起きた白羊朝とのバシュケントの戦い(en:Battle of Otlukbeli)では、イェニチェリとヨーロッパ人からなる部隊を指揮し、ウズン・ハサンの甥が率いる騎兵隊と交戦した。 メフメトの存命中、中央集権化と国際化に反発する運動がイスラーム宗教界、そしてバヤズィトによって行われた。アマスィヤのバヤズィトの宮廷にはメフメトの独裁的とも言える政策に反対する党派が形成され、メフメトは反対派を監視することはできても、彼らを解散させることはできなかった。 ===ジェムとの争い、周辺諸国への対応=== 1481年にメフメト2世がイタリア遠征途上で陣没すると、弟のジェムとの帝位をめぐる争いが始まる(もう1人の弟ムスタファは1474年に暗殺されていた)。バヤズィトとジェムの両方にメフメトの死を告げる使者が送られたが、縁戚の総督(ベイレルベイ)シナンによってジェムへの使者が足止めを受け、ジェムに先んじてイスタンブールに入城した。バヤズィトの入城に先立ち、ジェムの擁立を考えていた大宰相メフメト・カラマニーはイェニチェリに殺害されており、イェニチェリとメフメトの政策に反対的だった臣下に支持されて、1481年5月21日に正式に皇帝として即位した。その即位の経緯からイェニチェリに特権と恩賞を付与し、反対派の要求に対して譲歩する必要があった。 帝位を逃したジェムはブルサを占領して貨幣とフトバに自らの名を刻んで独立を表明し、バヤズィトに帝国の分割統治を条件とした和平を提案した。バヤズィトはジェムの提案を拒絶して対決の意を示し、戦前にジェム側の司令官の幾人かを調略し、同年6月20日のイェニシェヒルの戦いでジェムの軍を破った。敗れたジェムはエジプトのマムルーク朝に亡命し、白羊朝に亡命していたカラマン侯国の王族カシム・ベイと協力して再起を図るが失敗、エジプトを離れてロドス島の聖ヨハネ騎士団の元に身を寄せた。バヤズィトはマムルーク朝、聖ヨハネ騎士団、フランスのヴァロワ朝、教皇庁といったジェムが亡命した北アフリカ、ヨーロッパの諸勢力と交渉を行い、聖ヨハネ騎士団との交渉では騎士団側の要求に応じて多額の身代金を支払わなければならなかった。ジェムの子オウズ、ジェム派の高官を粛清し、1495年にジェムが病死した後に彼の生母、妻、娘を保護するが、男子の子孫はロドス島に残っていた1人を除いて全員が絞首に処された。 1495年にジェムが病死するまでの間、オスマン帝国と亡命中のジェムを保護したマムルーク朝の関係が悪化する。マムルーク朝とはジェムの処遇以外に、メッカの水路の修理を拒絶されたこと、インドからの贈物を携えた使節がマムルーク朝の領土を通行した際にジッダの太守に荷物を奪われたことで関係が険悪なものとなり、バヤズィトはドゥルカディル侯国のベイリクであるアラー・アッダウラがマムルーク朝のスルターン・アシュラフ・カーイトバーイと対立していることを知ると、アッダウラを助けるために1485年にアナトリア南部に派兵した。オスマン・ドゥルカディルの連合軍はマラティヤ付近でマムルーク朝軍と戦うが敗れ、かえってアダナ、タルソス内の城砦を奪われる。戦後にマムルーク朝から和平が提案され、和解を勧めるカリフの親書と共に奪われた贈物も届けられるが、バヤズィトはこの提案に対して進軍という答えを返した。オスマン軍はウズバク・ブン・タタハ率いるマムルーク朝軍に3度敗れる不利な状況にあったが、マムルーク朝も長期の戦争によって財政が悪化しており、1491年にハフス朝の仲介によって和議が結ばれた。 ===オスマン海軍の躍進=== ハンガリー王マーチャーシュ1世が没した後、1492年にマーチャーシュの死を好機と考えてベオグラード攻略に挑むが失敗、1495年にハンガリーと10年の休戦協定を結んだ。しかし、ベオグラード遠征と同じ1492年にモルダヴィア公国を属国化し、黒海方面への拡大は着実に果たした。黒海沿岸部のキリア、アッケルマン(いずれもブジャクに属する都市)を支配下に置いて黒海西岸の通行を確保し、クリミア・ハン国の騎兵の動員を容易にした。 陸軍と海軍に新兵器を導入して戦力の増強を進め、当時勢力を伸ばしていたヴェネツィアに対抗する戦力を蓄え、大航海時代に入っていたヨーロッパ各国と対峙するとともに、アフリカのイスラーム諸国を征服する基盤を整えた。1495年にバルバリア海賊など地中海やエーゲ海で跋扈していたムスリムの海賊をオスマン海軍に編入し、彼らの知識と経験を軍内に取り入れた。この時にオスマン海軍に編入された代表的な海賊として、ケマル・レイス、ピーリー・レイースらがいる。また、西欧から積極的に造船技術を取り入れて、新型の艦船を設計した。イタリア語、フランス語、スペイン語に由来する海事用語は、ほぼそのままオスマン語に取り入れられ、海軍で使用されたバヤズィトの時代に導入された兵器の最たるものに、キリスト教徒の技術者ヤーニがヴェネツィアの技術を取り入れて設計した2隻の大型艦船があり、全長70キュビット(約32メートル)、全幅30キュビット(約13.7メートル)の大きさを誇った。 海軍の強化中はヴェネツィアとの衝突を避けるために地道な交渉を行っていたが、1499年にバヤズィトはヴェネツィア領のレパントへ親征、別働隊としてダウード・パシャの率いる艦隊がアドリア海より出発し、艦隊には2隻の大型艦船も含まれていた。同年8月12日のゾンキオ(ツォンキオ)城近海の戦いでオスマン海軍のガレー船がヴェネツィアのガレアス船を破り、ヤーニの艦は包囲を仕掛けたヴェネツィア船を沈める勝利を収め、キリスト教徒はこの戦いを「ゾンキオの悲しい戦い」(en:Battle of Zonchio)と記録した。ダウード・パシャの艦隊はバヤズィトの本隊に合流し、8月28日にレパントをオスマンの支配下に置いた。 勝利の翌1500年に、さらにモレア半島にあるヴェネツィア領のモドン(en:Methoni, Messenia)、コロン (en:Koroni)、ナヴァリノ(en:Pylos)を獲得し、イスラム勢力の進出を重く見たヨーロッパではヴェネツィア、ハンガリー、スペイン、フランス、教皇庁による軍事同盟が結成された。同盟軍による攻撃は、艦隊がアナトリアの沿岸部を数度襲撃する程度の規模にとどまり、1502年12月にヴェネツィア、1503年3月にハンガリーと講和を結ぶに至った。しかし、それでもなお、海軍の戦力は陸軍に比べると充実しているとは言えなかった。 ===サファヴィー朝の宣教活動=== 16世紀初頭に東方のイランで勃興したサファヴィー朝は勢力を拡大しており、当初オスマン帝国とサファヴィー朝は友好的な関係にあったが、やがてサファヴィー朝はアナトリア方面への進出の準備を開始する。 サファヴィー朝のシャー・イスマーイール1世はアナトリア進攻の布石として、配下にアナトリア全域でのシーア派の布教を指示した。優れた詩人でもあったイスマーイール1世は自ら筆を執ってトルコ語で勧誘の詩を綴り、宣教師(ハリーフェ)を通じて勧誘の詩がアナトリアに伝えられた。バヤズィトは当初サファヴィー朝の宣教活動を静観しており、高官たちもサファヴィー朝の動向に関心を持たず、皇子たちの目は帝位に向いていたが、1511年にシャー・クル(「サファヴィー朝のシャーの奴隷」を意味する)を名乗る者が反乱を起こすと事態は急変する。バヤズィト治下のオスマン帝国で確立されつつあるスンナ派に違和感を抱く、あるいは彼が推進する厳格なイスラームの教えに不満を持つ民衆が反乱に参加し、その軍勢は10000にも達したのである。 ===反乱の鎮圧と廃位=== バヤズィトにはコルクト、アフメト、セリム(次代のセリム1世)の三子がおり、長子のコルクトは文人気質で帝位への関心を見せず、次子のアフメトが後継者と目されていたが、シャー・クルの反乱中に息子たちの後継者争いに影響を与える事件が起きた。アフメトと大宰相ハドゥム・アリー・パシャが反乱軍を包囲した際にイェニチェリがアフメトの命令を拒否したために反乱軍の包囲に失敗する事件が起き、反乱の鎮圧においてコルクトとアフメトはイェニチェリ達の間の評判を落とし、イェニチェリ達の中では三男のセリムの人気が高まっていった。しかし、当のセリムは反乱中に後継者争いを有利に進めるためにバルカン半島への任地替えを要求し、次子アフメトを後継者に考えていたバヤズィトが要求を退けると、セリムはクリミア半島に亡命していた。 かろうじて反乱は鎮圧されるがハドゥム・アリー・パシャ、司令官ハイダル・パシャら主だった指揮官は戦死、指揮官を欠いたために反乱を完全に鎮圧することができず、反乱軍の大部分はサファヴィー朝に亡命した。反乱の後にアフメトは帝位を継ぐためにイスタンブールに入城しようとするがイェニチェリに阻まれて入城できず、1512年3月にクリミアからセリムが帰還、イェニチェリの支持を受けたセリムがクーデターを起こし、1512年4月25日にバヤズィトは廃位された。同年5月26日、バヤズィトは隠棲先であるトラキアのディメトカ(en:Didymoteicho)に向かう途上で急死するが、セリムによる毒殺を指摘する声は多い。 ==政策== 対外政策としては聖ヨハネ騎士団の手引きで生き延びたジェムが、ヨーロッパ諸国に13年間にわたって留まり人質として利用されたこと、および父の代の精力的な領土拡大による国家財政の疲弊からバヤズィト2世の治世では戦争は先代に比べると大幅に減り、父の時代に拡大した領土の基盤固めが主な施策となった。国庫の立て直しのために余分な支出を減らし、その一方でメフメトが導入した新税を廃止して社会不満の抑制を試みた。また、積極的に他国の人材を迎え入れ、レコンキスタ後の迫害で国を追われたユダヤ教徒の一部もイスタンブールに逃れ、技術者として受け入れられた。バヤズィトと交流を持とうとしたヨーロッパの技術者の中で著名な人物として、レオナルド・ダ・ヴィンチが挙げられる。バヤズィトが橋の建造を考えてはいるがオスマン帝国内に技術者がいないと聞いたダ・ヴィンチはオスマン帝国に書簡を送った。書簡で金角湾、ボスポラス海峡に橋を架けることが提案されたが実現には至らず、設計図は現在も残っている。 メフメト2世の治世に建設されたマドラサで学んだイスラーム法学者(ウラマー)の影響力が増加し、彼らは国政と立法で力を持った。バヤズィトの時代に編纂された法典が「立法者」スレイマン1世時代のものとされる法典の基礎となり、代表的な法令にティマール制を整備するために土地を有する兵士の義務と権利を告知した文書がある。 ==バヤズィト2世とイスラーム== ===学問水準の向上と民衆の反発=== 皇子時代と皇帝になった当初は娯楽と美食に目がなく、麻薬を愛好していたとも言われるが、快楽への情熱は宗教にも向けられた。内政においてはメフメト2世による中央集権化への反動が起きたが、文化面でも同様の反動が起きた。敬虔なムスリムである彼は偶像崇拝を忌み嫌っており、王宮が有していた絵画を売却あるいは破棄し、ジェンティーレ・ベリーニらがイスタンブールで制作した作品の多くが失われた。バヤズィトは宮廷でイスラームの神秘主義(スーフィズム)と韻文に親しみ、学者の保護にも熱心だった。彼の保護を受けた人物としては、アラビア書道の6つの基本的な書体を独自の手法によって再解釈した書家シェフ・ハムドゥッラーを挙げられる。オスマン帝国内のイスラーム諸学の研究水準は向上したが、同時にイスラーム法学が権威化されたことで国内の規定がイスラーム法(シャリーア)の制限を受けるようにもなる。同時に正統のスンナ派を奉じる国家としての意識も高まるが、領民の全てがバヤズィトとイスラーム学者が推進する教義を受け入れたわけではなく、シャー・クルの反乱に参加した民衆の中には、政府の宗教政策に否定的な者も多く含まれていた。 ===バヤズィト・モスク=== バヤズィトはモスク、マドラサ、救貧院を建てており、1501年から1506年にかけてイスタンブールに建設したバヤズィト・モスクは、今もイスタンブール大学の向いに姿を留めている。メフメト2世が建設したファーティフ・モスクが1766年の地震によって入口の一部を除いて倒壊したため、バヤズィトのモスクがイスタンブールに現存する、最古の皇帝によるモスクとなっている。アヤソフィアを構成する半ドーム、大ドーム、半ドームという設計が簡略化されながらも継承されていることがバヤズィト・モスクの特徴であり、オスマン帝国の建築家たちが東ローマ帝国の建築技術を意識し、あるいは目標としていたことがうかがえる。 ==年表== 1447年 ‐ 誕生1473年 ‐ バシュケントの戦いで白羊朝と交戦1481年5月21日 ‐ 即位1485年 ‐ マムルーク朝との戦争を開始1491年 ‐ マムルーク朝と和約を締結1492年 ‐ モルダヴィア公国の属国化1495年 ‐ 弟ジェムの死1499年 ‐ レパントを制圧1501年 ‐ バヤズィト・モスクの建設を開始1506年 ‐ バヤズィト・モスクの完成1511年 ‐ シャー・クルの反乱1512年4月25日 ‐ クーデターによって廃位1512年5月26日 ‐ 死去 ==肖像画== =アルブレヒト・フォン・ローン= アルブレヒト・テオドール・エミール・フォン・ローン伯爵(Albrecht Theodor Emil Graf von Roon, 1803年4月30日 ‐ 1879年2月23日)は、プロイセン及びドイツの軍人、政治家。 プロイセン陸軍大臣(ドイツ語版)(在職1859年‐1873年)として国王ヴィルヘルム1世の軍制改革を任せられていた。オットー・フォン・ビスマルクを宰相に据え、軍制改革を断行してドイツ統一に関わる3つの戦争の勝利に貢献した。1873年には一時的にプロイセン首相(ドイツ語版)も務めた。軍人としての最終階級は1873年1月元帥。 ==概要== プロイセン王国東部の土地貴族(ユンカー)の出身。陸軍幼年士官学校を出て、1821年にプロイセン陸軍に入隊。陸軍大学を経て1836年に参謀本部に配属され、参謀将校としてキャリアを積んだ。1848年革命のバーデン大公国での反乱の鎮圧に従軍した際、鎮圧軍総司令官の皇太弟ヴィルヘルム王子(1861年にプロイセン王に即位してヴィルヘルム1世となる)の目にとまって彼の側近となった(→前半生)。 ヴィルヘルム王子より軍制改革案の立案を任せられ、自由主義・民主主義・ナショナリズム的な要素が強いラントヴェーアを後備軍にして弱体化させつつ、正規軍の現役兵役3年制を維持し、徴兵数を増加させる内容の軍制改革案を作成した(→軍制改革)。 ヴィルヘルム王子が摂政となった後の1859年に陸軍大臣(ドイツ語版)に任じられる(→陸軍大臣就任)。軍制改革予算案を承認させるべく衆議院と折衝を図ったが、自由主義者が多数派を占める衆議院は拒否した。衆議院に対する軍事クーデタを主張するエドヴィン・フォン・マントイフェル軍事内局局長に反対し、憲法体制を破壊せずに軍制改革を断行する道を模索した(→衆議院との折衝、衆議院との関係が緊迫)。 小ドイツ主義統一を掲げて自由主義者の懐柔を図りつつ、自由主義者の協力が得られない時には強引な憲法解釈(隙間説)で無予算統治を行う覚悟のあるオットー・フォン・ビスマルクを支持し、1862年、国王ヴィルヘルム1世に彼を宰相に任命させた。ビスマルクの無予算統治によってローンは軍制改革を断行することが可能となった(→ビスマルクを宰相に据える)。 1864年の対デンマーク戦ではビスマルクとともにデュッペル要塞攻撃を支持し、参謀総長モルトケと対立した。またデンマーク戦後には親墺派のマントイフェル軍事内局局長を左遷に追いやった(→対デンマーク戦争とマントイフェルとの対立)。1866年の普墺戦争や1870年の普仏戦争でもしばしば軍事上の問題でモルトケと対立した(→普墺戦争と普仏戦争)。 ドイツ帝国樹立後の1873年に一時的にビスマルクからプロイセン宰相職を譲られたが(ドイツ帝国宰相職は引き続きビスマルクが在職)、鉄道協会設立の経費をめぐる疑惑の追及を受けて失脚し、すべての役職を辞して引退することとなった(→プロイセン宰相)。 ローンの軍制改革が三度のドイツ統一戦争の勝利に貢献したといえるため、ヴィルヘルム1世は「ローンが剣を研いで準備し、モルトケがこの剣を振るい、ビスマルクは外交で他国の干渉を防いでプロイセンを今日の勝利に導いた」と評した(→ビスマルクやモルトケとの関係)。 ==生涯== ===前半生=== プロイセン王国ポンメルン県(ドイツ語版)のコルベルク(現ポーランド領コウォブジェク(ポーランド語版))に生まれる。 ローン家は歴史ある名門貴族というわけではなく、もともとはオランダのブルジョワだったと考えられている。プロイセン移住後に騎士領(ドイツ語版)所有者(ユンカー)となった貧乏貴族の家系である。ローンの父もプロイセン軍将校だったが、ナポレオン戦争で戦死している。母もプロイセン軍人家庭の出身者であった。 ポンメルン地方の敬虔主義のサークルの中で育ち、1816年にクルムのプロイセン陸軍幼年士官学校(ドイツ語版)に入学し、1821年に少尉としてコルベルクの歩兵連隊に配属された。1824年にベルリンのプロイセン陸軍大学(ドイツ語版)に入学した。1826年に同大学を卒業するとベルリン陸軍幼年士官学校の教官となった。在任中『Milit*7665*rische Landerbeschreibung von Europa』などいくつかの軍事地理学の本を著した。 1836年に大尉に昇進するとともに参謀本部に配属された。1842年に少佐に昇進するとともに陸軍大学の教官となる。1844年にフリードリヒ・カール王子(国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世の次弟カール王子の息子)の軍事教育係に任じられ、王室との縁故ができた。 1845年に第8軍団の参謀将校となる。ここには後の参謀総長ヘルムート・フォン・モルトケも参謀将校として配属されていた。1849年に第8軍団参謀長となる。第8軍団は、1849年のバーデン大公国の自由主義者の反乱鎮圧の際、鎮圧軍総司令官の皇太弟ヴィルヘルム王子(後のドイツ皇帝ヴィルヘルム1世)の指揮下で参戦し、ローンも従軍した。これがきっかけとなり、以降ローンはヴィルヘルム王子の取り巻きの一人となる。 1850年、中佐に昇進し、トルンに駐留する第33予備歩兵連隊連隊長に就任した。1851年には大佐に昇進し、連隊ごとケルンへ転属となった。ケルンはヴィルヘルム王子のコブレンツ宮殿に近かったため、以降頻繁にヴィルヘルムの引見を受けるようになった。 1856年に少将に昇進した。1858年6月25日に聖ヨハネ騎士団の騎士となる。その翌日にヴィルヘルム王子から軍制改革案の作成を命じられた。 ===軍制改革=== 当時のプロイセン軍では1814年制定の兵役法により20歳以上の男子に対して正規軍の現役兵役3年、予備役兵役2年が課されていた。また予備役終了後には1815年制定のラントヴェーア条例によって39歳までラントヴェーアの兵役に服することが義務付けられていた。ラントヴェーアには第1兵役(25歳から32歳まで)と第2兵役(32歳から39歳まで)があり、戦時には第1兵役は正規軍とともに野戦軍となり、第2兵役は後方の守備や兵站を担当すると定められていた。予備役とラントヴェーアの兵役は平時には一般の市民生活を送りながら定期的な軍事教練に参加し、戦時に動員される。正規軍とラントヴェーアはお互いに独立した軍隊だった。 しかし実際の運用面においては色々な問題があった。まず財政状況から正規軍の現役兵役3年が維持できておらず、2年もしくは2年半に減じられていた。また人口の増加(1817年に1000万人、1857年に1800万人)にもかかわらず、徴兵数は4万人で固定されたままだったため、多数の青年が徴兵から逃れていた。もし動員されるとなれば、徴兵されている者は39歳未満なら既婚者であってもラントヴェーアの兵役に就いて家族や仕事から離れねばならないので、その家族は救貧扶助を受けることになる可能性が高かった。一方で最も徴兵に適している結婚していない若者は徴兵されていなければ一般市民生活を送っていることになり、これは著しい不平等と考えられた。またそもそも年齢層が高めで既婚者が多いラントヴェーアは軍隊としての能力や士気を専門軍人から疑われていた。加えて思想面でも民主主義・ナショナリズム的要素が強かったため、絶対主義者であるヴィルヘルム王子はラントヴェーアに強い不信感を持っていた。 早急な軍制改革が必要と考えたヴィルヘルム王子は、1858年6月、ローンにその計画案の提出を求め、ローンは7月にそれを提出した。ローンの案は、ラントヴェーア第1兵役を正規軍の傘下(後備軍)にし、加えて3年兵役制維持と徴兵数の増加、陸軍幼年学校の増設などを柱としていた。 一方陸軍編成局に所属するクラウゼヴィッツ中佐(カール・フォン・クラウゼヴィッツ中将の甥)は、財政的に兵役3年制の維持は不可能なので兵役は2年とし、代わりに予備役の兵役を1年増やすべきとした。またラントヴェーアは独立した軍隊としつつも野戦軍ではなく要塞守備専門にすべきとした。この案は陸軍大臣フリードリヒ・フォン・ヴァルダーゼー(ドイツ語版)に支持されて陸軍省案としてヴィルヘルム王子に提出された。 だがヴィルヘルム王子は現役兵役3年維持にこだわりがあり、ローン案を支持した。ヴィルヘルム王子は1858年10月9日に正式に摂政に任じられ、プロイセン王国の統治権を委ねられた。彼は早速オットー・テオドール・フォン・マントイフェル内閣を更迭し、自由主義的保守派によって構成される「新時代(ドイツ語版)」内閣を誕生させた。陸軍大臣にはグスタフ・フォン・ボーニン(ドイツ語版)を任じた。軍事リアリストとしての面を評価しての任命だったが、彼には自由主義的なところもあり、まもなくヴィルヘルム王子と対立することとなる。 1859年1月、ヴィルヘルム王子はボーニン陸相に「多額の予算が必要になったとしてもローン案の軍制改革を支持する」旨を通達した。しかしボーニンはラントヴェーアの独立性を奪いすぎる事は国民の軍への信頼を低下させると恐れていたためラントヴェーア改革については野戦軍から除外することのみに留めるべきと主張した。また財政面から考えて3年現役兵役制の維持は不可能であるから、形式的に兵役3年としつつ、冬期休暇制度を導入して実質的に兵役2年半にすべきと主張し、ヴィルヘルム王子の不興を買った。 ===陸軍大臣就任=== 折しもボーニン陸相は、ヴィルヘルム王子の軍事官房であるエドヴィン・フォン・マントイフェル軍事内局局長と人事権をめぐって対立を深めていた。ヴィルヘルム王子はマントイフェルの進言で1859年7月に勅令を出し、そのなかで人事や軍令について、国王と軍団長の間に陸軍大臣が介在することを拒否し、軍の人事権はあくまで国王(実質的にはその軍事官房たる軍事内局局長)にあることを確認した。これにより陸軍大臣は軍事予算に関する副署機能を残すのみとなった。 孤立無援となったボーニンは1859年11月28日に陸相を辞任した。その後任に選ばれたのがローンであった。陸軍大臣就任とともに中将に昇進している。 ローンは「新時代」内閣を牽制するために軍が内閣に打ち込んだ楔であり、閣僚たちの中では異質な存在だった。 なお1861年にはプロイセン海軍省が新設されたのに伴い、陸軍大臣(ローン)が海軍大臣を兼務している(1871年にプロイセン海軍がドイツ帝国海軍に改組されるまで在職する)。 ===衆議院との折衝=== 陸軍大臣となったローンは早速ヴィルヘルム王子の軍制改革(3年現役兵役維持、徴兵数増加、連隊新設、ラントヴェーア第1兵役の後備軍化、軍事予算増額)を推し進めようと図ったが、衆議院の自由主義勢力はドイツ統一のため軍拡の必要性は認めつつも、長い兵役は国民の経済的自由への侵害と看做しており、またラントヴェーア弱体化も軍隊から市民的な要素を奪い、王権を強化しようとするものと批判していた(プロイセン自由主義者には1848年革命以来「ラントヴェーア無くして憲法なし」という伝統があった)。そのため1860年1月12日に召集された衆議院の軍事委員会は軍制改革について徴兵数増加には賛成しつつ、3年兵役制とラントヴェーアの野戦軍からの分離、多額の経費には反対した。 ローンは軍制改革は国王の統帥権で当然に実施されるものとして、議会にはその予算問題のみ掛けることとし、陸軍大臣に900万ターレルの使用を認める暫定法案を議会に提出した。これに対して衆議院の自由主義者たちはこの金額では3年兵役制は実施できないし、短期間ごとに軍制改革予算を特別経費として議会が審議することを常態化するチャンスと考えた。またヴィルヘルム王子の軍制改革を拒否しすぎて彼を完全に保守陣営の側に追いやりたくはなかった。そうした意図から自由主義者たちが「軍制改革が最終的決着を見るまでの暫定的措置」として賛成に回ったことで暫定法は1860年5月15日の衆議院本会議においてほぼ満場一致で可決された。この財源を使ってローンは、ラントヴェーアの連隊をいくつか解散させる一方、正規軍の連隊数を増加させ、貴族の将校への道を更に広げた。 1861年1月2日に国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世が崩御し、ヴィルヘルム王子がヴィルヘルム1世としてプロイセン王に即位した。その後召集された衆議院は、第二次暫定法を可決したが、同時に「暫定法はあくまで暫定措置であり、軍制改革を継続するには兵役法の改正が必要である」とする見解も決議した。ラントヴェーアに関する改革は兵役法に反しており、これを統帥権の名の下に強行することは命令による法律の改正にあたるためである。それについてローンは「兵役法改正法案は提出するが、それは政府が自らに課した義務であり、議会に対して責任を負うものではないと理解している」と宣言して衆議院を牽制した。 ===衆議院との関係が緊迫=== 1861年11月と12月に行われた衆議院総選挙で、自由主義左派政党ドイツ進歩党が352議席中109議席を獲得した。他に自由主義右派が95議席、自由主義左翼中央派が52議席、カトリック派が54議席、ポーランド人派が23議席を獲得した。一方保守派はわずか15議席だった。一気に自由主義的になった衆議院は、国王ではなく議会に責任を負う内閣の誕生を要求するようになり、また政府の軍事法案の阻止を図るようになった。 ローンは、この選挙結果に動揺するヴィルヘルム1世や内閣に対して「もし国王が衆議院に譲歩するなら軍は国王に不信を抱かざるを得ない」と脅迫し、衆議院に対して断固たる姿勢をとることを求めた。これは軍事内局局長マントイフェルと同じ立場であるが、マントイフェルは衆議院に対してクーデタを起こそうとしていたのに対して、ローンはクーデタには反対していた。ローンは現行憲法の体制を破壊せず、小ドイツ主義統一を推し進め、自由主義者のナショナリズムの矜持を満足させることによって、自由主義者の革命を抑え込み、権威主義体制を守ることを考えていた。これと同じ考えの同志がオットー・フォン・ビスマルク(当時駐ロシア大使)であった。 自由主義者の増長を恐れたヴィルヘルム1世とローンは、1862年3月に衆議院を解散し、さらに「新時代」内閣の自由主義大臣たちを罷免した。その後ローンと蔵相アウグスト・フォン・デア・ハイト(ドイツ語版)男爵を中心とするアドルフ・ツー・ホーエンローエ=インゲルフィンゲン内閣を誕生させた。 しかし1862年4月と5月の解散総選挙の結果は政府にとってさらに壊滅的だった。保守派の議席は更に減って11議席になり、政府に協力的な態度をとった自由主義右派とカトリック派も大きく議席を落とした。一方で進歩党が135議席、中央左派が96議席を獲得して躍進した。政府と議会の協調は一層難しくなった。プロイセン王権の支柱は陸軍のみとなり、ローンが政府の中心となった。 1862年8月4日の衆議院予算委員会において委員である進歩党のカール・トヴェステン(ドイツ語版)、中央左派のフリードリヒ・シュターヴェンハーゲン(ドイツ語版)、ハインリヒ・フォン・ジイベル(ドイツ語版)の三者は軍制改革の妥協案(現役兵役2年、軍事予算の一定の削減のみを条件として軍制改革予算案に賛成する)を提出した。 ここ至ってローンもこの妥協案で手を打つ決意をし、9月17日に衆議院本会議でその旨を発表した。その日の夜に行われた国王臨席の閣議で他の閣僚たちもローンの方針の支持を表明したが、最後に口を開いたヴィルヘルム1世は兵役3年を譲歩することは許さないとして無予算統治で軍制改革を断行するか、さもなければ自分は退位すると語った。この脅迫で閣議の流れはすっかり変わり、フォン・デア・ハイト蔵相らをのぞく、ほぼ全閣僚(ローンも含めて)がヴィルヘルム1世の無予算統治路線に賛同した。これを受けてローンは、9月18日の衆議院予算委員会で前日の妥協案の受け入れの意思表示を撤回すると宣言した。怒り狂った衆議院は、9月19日の本会議で妥協案を否決し、政府への徹底抗戦の構えを見せた。 ===ビスマルクを宰相に据える=== 事実上内閣の取りまとめ役だったフォン・デア・ハイト蔵相は無予算統治に反対して辞職した。これによりホーエンローエ=インゲルフィンゲン内閣は事実上崩壊した。 後任の宰相にオットー・フォン・ビスマルク(当時駐フランス大使)を据えようと考えたローンは、9月20日、パリのビスマルクに「遅延は危険(Periculum in mora)。急がれよ(D*7666*p*7667*chez‐vous)」という電報を送った。この召集はローンの独断だった。9月22日にヴィルヘルム1世の引見を受けたビスマルクは、無予算統治を行ってでも軍制改革を断行する決意を表明した。これを聞いたヴィルヘルム1世はビスマルクを宰相に任じる決意を固めた。 宰相となったビスマルクは、自由主義者のナショナリズムを煽ろうとして、9月30日の衆議院予算委員会において鉄血演説を行ったが、自由主義者の反応は冷やかだった。ローンはこの演説を自分たちの目的に利するところがほとんどない「機知にとんだ無駄話」と評した。この後ビスマルクとローンは自由主義者への譲歩を決意し、正規軍現役兵役を職業軍人と徴集兵に分離して、後者を兵役2年とし、かつ補償金を支払えば兵役を逃れることができる制度を定めた兵役法案を衆議院に提出しようとしたが、マントイフェルの進言を受けたヴィルヘルム1世によって却下された。 自由主義者の取り込みに失敗したビスマルクは結局、空隙説(ドイツ語版)という強引な憲法解釈を振りかざして無予算統治を開始した。これを違憲として批判する自由主義者との間に憲法闘争(ドイツ語版)が撒き起こるが、ビスマルクとローンは小ドイツ主義統一を推し進めることによって自由主義者のドイツ・ナショナリズムを煽ることで解決を目指した。 ===対デンマーク戦争とマントイフェルとの対立=== 小ドイツ主義統一のための最初の戦争が1864年のシュレースヴィヒ=ホルシュタイン問題をめぐる対デンマーク戦争だった。デンマーク軍が立てこもるデュッペル要塞をめぐって参謀総長モルトケが犠牲が出過ぎるとして攻撃に反対したのに対して、ローンは、ビスマルクやマントイフェルとともに要塞攻撃を主張した。ローンとビスマルクはこの要塞を落とすことで話題性を作り、国内の憲法闘争を有利にしようと目論んでいた(一方マントイフェルは軍事クーデタヘ繋げようという意図だった)。 デュッペル要塞が陥落するとマントイフェルは「今や国内のデュッペル要塞が問題」と称して衆議院に対するクーデタを主張し始めた。また対デンマーク戦争勝利後、ビスマルクが小ドイツ主義統一の次なる標的としてオーストリア帝国への敵視政策をとるようになったことに反対し、オーストリアと反革命の連帯を結ぶことを主張した。加えて宰相と陸相の接近を国王の統帥権を弱めるものと看做して警戒し、ローンとビスマルクに対する対決姿勢を強めていった。 ローンとビスマルクは1865年5月ヴィルヘルム1世を説得してマントイフェルをシュレースヴィヒ総督に任じさせて中央から追放した。 ===普墺戦争と普仏戦争=== デンマークに勝利したプロイセンとオーストリアはシュレースヴィヒ=ホルシュタインをめぐって対立を深めていき、1866年6月に普墺戦争が開戦した。ローンはこの戦争中に歩兵大将に昇進している。しかしローンの戦争指導への介入は限定的にならざるを得なかった。開戦直前の6月2日の勅令によって参謀総長モルトケに陸軍大臣に図らずとも全軍に命令を下せる権限が与えられたためである。 それでもなおローンはしばしばビスマルクと結託してモルトケと対立した。モルトケがオーストリア側に付いた南ドイツ諸国に対する戦線に投入予定の二個軍団をオーストリアとの主戦場へ移そうとしたことにローンとビスマルクは反対して、これを阻止した。また逆にローンとビスマルクがフランスを牽制するために一個軍団をライン川に置こうとした際にはモルトケがこれに反対して阻止している。 ケーニヒグレーツの戦いの勝利後のウィーンに進軍するか否かの論争においては、ローンは当初ウィーン進軍を主張するも、後にビスマルクやモルトケと同じく批判的になっていった。国王ヴィルヘルム1世はウィーン進軍にこだわっていたが、ビスマルクと皇太子フリードリヒがヴィルヘルム1世を説得した結果、ウィーン進軍は中止され、プロイセンはオーストリアと講和に入った。 普墺戦争の勝利でオーストリアはドイツから追放され、プロイセン国王を盟主とした北ドイツ連邦が樹立された。北ドイツ連邦宰相を兼務するようになったビスマルクは南ドイツ諸国との統一のため、フランスとの対立を煽るようになり、スペイン王位継承問題をめぐって1870年に普仏戦争が開戦した。この戦争でも指揮権は参謀総長モルトケが握っており、ローンはモルトケと対立を深めていった。近衛砲兵連隊長をしていたローンの次男はセダンの戦いで戦死している。パリ包囲戦中、パリ砲撃に反対したモルトケに対し、ローンとビスマルクは砲撃を主張した。最終的にはモルトケが折れてパリへの砲撃が行われることになり、パリはまもなく開城され、アドルフ・ティエール政府との間に休戦協定が締結された。 1871年に伯爵位を与えられた。 ===プロイセン宰相=== ドイツ帝国樹立以来、ドイツ帝国宰相とプロイセン宰相職を兼務していたビスマルクは、病気を理由に1872年12月20日にプロイセン宰相職のみ辞して、ローンをその後任にした。1873年1月1日にローンが正式にプロイセン宰相に任命され、同時に元帥位を与えられた。 この頃ビスマルクはユンカーの領主裁判権をはく奪する郡法案を可決させるべく、プロイセン貴族院に同法案に賛成する議員を押し込む「貴族院議員製造措置」を強行し、貴族院保守派から激しい反発を受けていた。陸相ローンも貴族院保守派に同調してビスマルクを批判していた。老齢で軍務経験しかないローンに宰相の職は務まらないと確信していたビスマルクは、ローンをあえて宰相にすることで、プロイセン衆議院選挙において保守派を大敗させ、保守派が再びビスマルクを支持せざるをえない状況を作り出そうと目論んでいたという。 しかしプロイセン衆議院選挙を待つまでもなく、ローンと保守派は大打撃を受けることになった。1873年1月14日、国民自由党の議員エドゥアルト・ラスカー(ドイツ語版)がプロイセン衆議院においてプロイセン内閣首席参事官ヘルマン・ヴァーゲナー(ドイツ語版)とプロイセン商務大臣ハインリヒ・フリードリヒ・フォン・イッツェンプリッツ(ドイツ語版)伯爵による鉄道会社設立をめぐる不正を追及したのである。これに対するローンの対応は杜撰で、彼はヴァーゲナーを擁護し、ラスカーこそ汚職にまみれていると批判した。だがラスカーは2月7日のプロイセン衆議院において実名をあげて汚職組織を暴いていくことでローンを論破した。 ヴァーゲナーは辞職する羽目になり、ローンも7月には休暇に入り、11月には全ての公務から引退することを余儀なくされた。ちなみにローンの辞任直前にプロイセン衆議院選挙が行われ、保守派は惨敗した。したがってもしこのスキャンダルがなかったとしても結局ローンは辞職する羽目になったと考えられている。 ===死去=== 晩年には喘息に苦しめられた。1879年2月23日にベルリンにて死去。ゲルリッツ近郊、クロブニッツ城内にあるローン家の納骨堂に埋葬された。 ==人物== 強固な君主主義者であり、反革命主義者であった。その点ではエドヴィン・フォン・マントイフェルら強硬保守と変わらないが、ローンはマントイフェルよりは柔軟性があった。共和政や民主主義、国民主権が阻止され、本質的にプロイセンの権威主義体制が守られるのであればブルジョワや自由主義勢力と手を組むことも厭わなかった。ローンは強硬保守の復古路線は逆に王権に危機をもたらすと考えており、はやくも1854年には強硬保守たちを批判している。 一方でローンの前任のボーニン陸相や週報党に代表される様な自由主義的保守ともまた違っていた。ローンの見るところ、彼らは自由主義的ブルジョワに追従しすぎであった。つまりローンは強硬保守と自由主義的保守の勢力の中間に位置する立場だった。これはビスマルクと同じ政治的立場であり、そのためローンはビスマルクに宰相の道を開いてやったのである。 ドイツ統一に貢献したローンだが、その保守性からプロイセン人の意識を強く持ち続けていた。そのため領邦中心主義者であり、領邦の独立性を奪い過ぎることには反対していた。内心では北ドイツ連邦やドイツ帝国の存在にも強く反発していたという。 気さくな性格で冗談好きだったという。ヴィルヘルム1世は「陸相と一緒にいると楽しくて不思議とくつろぐ」と評した。 親しい友人だったロベルト・ルーチウス・フォン・バルハウゼン(ドイツ語版)は「ローンは厳格で義務感が強く誠実なプロイセン人の典型だった。彼は高度な知性に恵まれ、組織を作る偉大な才能、揺らぐことのない断固たる決意、意思の力を備えていた。振る舞いの点では、時として性急で困惑させられる事があったが、骨の髄まで純粋な人だった」と評している。 ==ビスマルクやモルトケとの関係== ナポレオン3世を捕虜にしたセダンの戦いの戦勝祝賀パーティーでヴィルヘルム1世は「ローンが剣を研いで準備し、モルトケがこの剣を振るい、ビスマルクは外交で他国の干渉を防いでプロイセンを今日の勝利に導いた」と語った。その三人の中ではローンが最も地味な存在であるが、これはローンの業績が軍制改革という戦争の準備にあり、戦争が始まった後にはビスマルクの陰に隠れた存在となったことが原因である。 ビスマルクとは長きに渡って二人三脚を組んだが、彼に不安を感じることもあった。ローンは、ビスマルクについて「彼はどんな代価を支払ってでも踏みとどまろうとする。だが、目的を達成するための手段ときたら!目的によって手段は正当化されるのか。」とビスマルクの目的のためには手段を問わないやり方を否定的に語ったことがあった。またビスマルクが保守主義にほとんどこだわりを持っていないのではと疑う事もあり、甥のモーリッツ・フォン・ブランケンブルクに「ビスマルクは保守主義者とは保守的に、自由主義者とは自由主義的に語り合う」と嘆いたことがあった。 モルトケとの関係はよくなかった。モルトケはローンについて「悲観的すぎて、一緒に仕事しにくい人物」と思っていたという。 =アイユーブ朝= アイユーブ朝(アラビア語: *5963**5964**5965**5966**5967**5968**5969**5970**5971*‎、クルド語:*5972**5973**5974**5975**5976**5977**5978* *5979**5980**5981**5982**5983**5984**5985**5986* )は、12世紀から13世紀にかけてエジプト、シリア、イエメンなどの地域を支配した スンナ派のイスラーム王朝。シリアのザンギー朝に仕えたクルド系軍人のサラーフッディーン(サラディン)を王朝の創始者とする。 1169年にエジプトを支配するファーティマ朝の宰相に就任したサラディンは、ザンギー朝から事実上独立した政権を樹立する。サラディンはアッバース朝のカリフの権威を認め、支配の正統性を主張してマリク(王)を称した。ファーティマ朝の実権を握ったサラディンは独自の政策を立案したため、後世の歴史家はサラディンが宰相の地位に就いた1169年をアイユーブ朝が創始された年と見なしている。サラディンの死後、国家の領土は各地の王族たちによって分割され、ダマスカス、アレッポ、ディヤルバクルには半独立の地方政権が成立した。アル=アーディル、アル=カーミル、アッ=サーリフら有力な君主の時代には一時的に統一が回復され、彼らはカイロで政務を執った。1250年にマムルーク(軍人奴隷)のクーデターによってカイロのアイユーブ家の政権は滅亡し、シリアに残った地方政権も1250年代後半から中東に進出したモンゴル帝国とマムルーク朝の抗争の過程で消滅した。 ==歴史== ===セルジューク朝、ザンギー朝時代=== 12世紀前半、アルメニアに居住していたクルド人のシャージーはナジムッディーン・アイユーブとシールクーフを連れてイラクに移住し、セルジューク朝の下でバグダードの軍事長官を務めるビフルーズに仕官した。シャージーはティクリートの城主に任じられ、彼の死後はアイユーブがティクリートの城主の地位を継承した。 1131年にセルジューク朝のスルターン・マフムード2世が没した後に王位を巡る内戦が起こり、この戦争の中でアイユーブは敗走するモースルの領主イマードゥッディーン・ザンギーに助けを与えた。1137年/38年にアイユーブはビフルーズの命令でティクリートを追われるが、城を失った日の夜にアイユーブの妻は男児を生み、生まれた子供はユースフ(後のサラディン)と名付けられた。ティクリートを失ったアイユーブは弟のシールクーフとともにモースルのザンギーの元に逃れ、ザンギーから迎え入れられた。アイユーブはシールクーフとともにザンギー配下の軍団の司令官に命じられ、1139年にはバールベックの知事に任命された。 1146年にザンギーが没した後にバールベックはセルジューク朝のダマスカス総督の攻撃を受け、アイユーブは現金・領地と引き換えに降伏した。1152年に14歳になったサラディンはアイユーブの元を離れ、ザンギーの子でアレッポを支配するヌールッディーン・マフムードに仕官する。サラディンはヌールッディーンからイクター(封土)を与えられ、彼に近侍した。ヌールッディーンがダマスカスへの進出を試みたとき、ダマスカスに居住していたアイユーブはヌールッディーンに仕えていたシールクーフと連絡を取りあい、1154年にヌールッディーンはダマスカスの無血開城に成功した。ダマスカスの開城後、アイユーブはヌールッディーンに協力したことを評価されてイクターとダマスカスの支配権を与えられ、引き続きダマスカスに留まった。 ===サラディンによる独立政権の樹立=== 1163年、エジプトを支配するシーア派の国家ファーティマ朝の宰相シャーワルは政敵のディルガームとの戦いを有利に進めるためにザンギー朝に援助を求めた。翌1164年4月にヌールッディーンはシールクーフを司令官とする遠征軍を派遣し、遠征軍の幕僚にサラディンが付けられた。シールクーフはビルベイスでディルガムに勝利し、シャーワルを宰相に復職させた。だが、シールクーフを恐れるシャーワルは彼にエジプトからの撤退を求め、十字軍国家エルサレム王国のアモーリー1世に援助を求めた。8月からシールクーフの立て籠もるビルベイスはエルサレム軍とエジプト軍の包囲を受け、11月に和議が成立し、シールクーフとアモーリー1世はエジプトから撤退した。1167年にシールクーフとサラディンは再びエジプト遠征を行うが不成功に終わり、同年8月に和議を結んで撤兵する。 1167年の和議に際してシャーワルはエルサレム王国に貢納と引き換えに援助の約束を取り付けるが、ファーティマ朝のカリフ・アーディドや民衆はシャーワルの方針に不満を抱き、シャーワルを排除する計画が巡らされた。さらにエジプトは十字軍の攻撃を受け、フスタートが十字軍によって制圧されることを恐れたシャーワルはフスタートに火を放ち、フスタートは焦土となった。シャーワルと敵対する派閥の人間はヌールッディーンに支援を求めた。1168年12月にシールクーフとサラディンはアレッポを発って3度目のエジプト遠征を行い、シールクーフの進軍を知ったアモーリー1世はパレスチナに撤退する。翌1169年1月にシールクーフ軍はカイロに入城し、シャーワルはアーディドの命令によって処刑される。シールクーフはシャーワルに代わるファーティマ朝のワズィール(宰相)・軍司令官に就任するが、1169年3月にシールクーフは急死し、サラディンが宰相職を継承した。宰相に就任した後、サラディンは「マリク・アル=ナースィル(勝利の王)」の称号を使用する。 一方、ヌールッディーンはサラディンがエジプトで半ば独立した政権を樹立したことに大きな衝撃を受け、エジプトのアミール(軍司令官)の中にもヌールッディーンの呼びかけに応じてシリアに帰国した者以外に、サラディンに従ってエジプトに留まるものが現れる。ヌールッディーンはエジプトでスンナ派の様式に則った礼拝を行うよう求めていたが、サラディンはシーア派に対して慎重な姿勢を取っていたため、ヌールッディーンの猜疑心をかきたてたと言われている。サラディンはエジプトに留まった兵士の中からクルド人とトルコ系のマムルークを選抜し、サラディンの名前にちなんでサラーヒーヤと呼ばれる軍団を新たに編成した。ファーティマ朝に仕える黒人宦官のムータミン・アル=フィラーハはサラディンがファーティマ朝の軍人から没収した土地を自身の配下に授与していることを危ぶみ、十字軍勢力と結託して反乱を企てたが、陰謀を察知したサラディンは事前にムータミンを処刑した。1169年8月、ムータミンの処置に反発したファーティマ朝のザンジュ(黒人奴隷兵)はカイロ市内で蜂起し、サラディンはザンジュの反乱を鎮圧し、彼らの勢力を一掃する。サラディンはエジプトの大カーディー(大判事)からシーア派の人間を外してスンナ派のイブン・アルダルバスを抜擢し、エジプト各地のカーディーをシーア派からスンナ派の人間に入れ替えた。 1171年9月4日、サラディンはフスタートのモスクで行われる金曜礼拝でフトバ(説教)からアーディドの名前を削ってアッバース朝のカリフ・ムスタディーの名前を入れることを命じ、エジプトにおけるスンナ派の復活を表明した。9月10日にはカイロの金曜礼拝でも同様のフトバが読み上げられ、エジプト各地でスンナ派の復権は受け入れられた。同年9月15日に病床にあったアーディドは没し、ファーティマ朝は滅亡する。サラディンの下でファーティマ朝時代に課されていたマクス(市場税、巡礼者の通行税など)は撤廃され、民衆からの支持を集める。また、イスマーイール派の教育・研究機関を排除するために、ファーティマ朝のカリフ・ハーキムによって建設された図書館(ダール・アル=イルム)に収蔵されていた書物が売却された。 ===十字軍勢力との戦争=== サラディンは兄弟のトゥーラーン・シャーを司令官とする遠征軍を近隣の地域に派遣し、1173年にヌビア、1174年にイエメンを征服して支配領域を拡大する。1174年5月にトゥーラーン・シャーの軍隊はザビードに到達し、翌6月に国際貿易の拠点となっていたアデンを占領した。イエメン遠征が実施された理由には諸説あり、ヌールッディーンのエジプト攻撃に備えた土地の確保、紅海貿易の拠点の確保などが挙げられている。ファーティマ朝の残党はエジプトの兵士の一部がイエメン遠征に従軍し、サラディン配下の騎士が徴税のために自分たちのイクターに戻る機会に乗じて反乱を企てたが計画は事前に露見し、1174年5月に反乱者は逮捕・処刑された。また、1174年5月にはヌールッディーンが没し、サラディンとヌールッディーンの衝突は未然に終わる。 サラディンは表面上はヌールッディーンの跡を継いだサーリフの宗主権を認め、シリアに残ったザンギー朝の領土の併合に取り掛かる。1174年10月末、サラディンはザンギー朝の宰相アル=ムカッダムの招聘を受けてダマスカスへの無血入城を果たし、市民から歓迎を受けた。一方、アレッポではサーリフを擁する将軍グムシュテギーンがサラディンに敵対する人間を糾合しており、11月にサラディンはアレッポに向けて進軍する。サラディンはザンギー朝の王族と十字軍勢力両方からの攻撃に苦戦するが、1175年春にエジプトからの援軍と合流し、ザンギー軍に勝利を収めた。同時にバグダードのムスタディーからサラディンのエジプト・シリア支配を承認する文書が届き、サラディンはフトバと貨幣からサーリフの名前を除き、代わりに自身の名前を入れてザンギー朝からの自立の意思を公にする。1176年9月にサラディンはダマスカスでヌールッディーンの寡婦イスマト・アッディーンとの結婚式を挙げるが、この婚姻にはザンギー朝の正統な後継者であることを示す意図があったと考えられている。結婚式を終えたサラディンはカイロに戻り、エジプトの統治に取り掛かった。 1178年にサラディンはザンギー朝に領土の返還を要求するルーム・セルジューク朝の軍を破って南進政策を押し、北方からの脅威を絶った。サラディンは十字軍勢力の支配下にあるサイダ、ベイルート、キリキア・アルメニア王国を攻撃し、アッバース朝のカリフからザンギー朝の王族が拠るモースルの支配権を承認された。十字軍との戦争に備えた艦船が増強と兵力の点検の後、1182年5月にサラディンはエジプトを発ってシリアに進軍する。 1182年9月にジャズィーラ(北イラク)に到着したサラディンは現地の領主に帰順を進める手紙を送り、モースルのザンギー朝の支配下にあった領主は次々にサラディンに降伏した。しかし、モースルを支配するザンギー朝の王族マスウードにアイユーブ朝の主権と対十字軍戦への参加を認めさせることはできなかった。1183年6月にアレッポがアイユーブ朝の支配下に入ったことでシリア内陸部が統一され、1186年にマスウードがアイユーブ朝への臣従を受け入れたことでモースルの併合が達成された。 1187年初頭、サラディンは数度にわたって和平協定を犯したカラクのルノー・ド・シャティヨンの背信行為を非難し、3月にジハード(聖戦)を宣言した。7月4日にヒッティーンでサラディンはエルサレム王ギー・ド・リュジニャンが率いる十字軍と交戦し、勝利を収める(ヒッティーンの戦い)。ベイルート、サイダなどの都市がアイユーブ朝の支配下に入り、9月までに地中海沿岸部のシリア諸都市の多くがイスラーム勢力の元に置かれた。9月20日からサラディンはエルサレム包囲を開始し、身代金と引き換えにエルサレム住民の安全を保障することを条件として、エルサレムの開城が取り決められる。10月2日にサラディンはエルサレムに入城し、岩のドームではイスラームの礼拝が行われた。1か月の間サラディンはエルサレムに滞在して町の治安を回復し、十字軍が使用していた施設をモスクやマドラサに改築した。カトリックの信者はエルサレムから追放されたが、東方正教の信者は町に残り、十字軍時代に町から追放されていたユダヤ人が帰還した。エルサレムを攻略したサラディンはスール、アッカー(アッコン)を攻撃するが十分な成果は上げられず、カリフ・ナースィルからはサラディンを非難する書簡が届けられた。 エルサレムがアイユーブ朝の占領下に置かれた後、ヨーロッパではイングランド王リチャード1世、フランス王フィリップ2世、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世による十字軍の派遣が決定された(第3回十字軍)。フリードリヒ1世は行軍中に陣没し、1191年7月末にフィリップ2世がフランスに帰国した後、サラディンと最後に残ったリチャード1世の戦闘は一年以上に及んだ。サラディンとリチャード1世の戦闘は膠着状態に陥り、1192年9月2日に和平が成立した。和平に伴ってヤッファ以北の沿岸部は十字軍、アシュケロン以南はイスラム勢力が領有する取り決めが交わされ、キリスト教巡礼者のエルサレム入城が許可された。 1192年11月にサラディンはダマスカスに凱旋し、翌1193年3月4日に没した。 ===領土の分割、再統合=== サラディンの長子であるアル=アフダルが彼の後継者になると思われていたが、領土はアイユーブ朝の王族によって以下のように分割され、それぞれの地域を治める人間が配下の軍人にイクターを授与する体制が敷かれることになった。 アル=アフダル ‐ ダマスカス、エルサレム、バールベック、海岸地帯アル=アジーズ(サラディンの子) ‐ エジプトアル=マリク・アル=ザーヒル(サラディンの子) ‐ アレッポアル=アーディル(サラディンの弟) ‐ カラク、シャウバク、ディヤルバクルマンスール(サラディンの甥の子) ‐ ハマーシールクーフ(1169年に没したシールクーフの孫) ‐ ホムスアフダルはバグダードのナースィルに自らの支配の正当性の承認を求めたが回答は得られず、やがてアフダル配下のアミールはアジーズを支持するようになる。1194年春、アジーズは君主権力の象徴であるフトバと貨幣に名前を入れる権利を譲渡するようにアフダルに迫り、両者は武力衝突の寸前に至る。それぞれが従来の領土を保持する条件で妥協が成立したが、各地の王族は独立した政権を樹立し、アイユーブ朝は事実上分裂した状態に置かれることになる。一方、アイユーブ朝の内紛を静観していた中東の十字軍勢力は1195年末からエルサレム奪回の準備を進めており、リチャード1世が結んだ休戦協定の失効を待っていた。また、ヨーロッパでは再度の十字軍の実施が提唱され、1197年に神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世が派遣したドイツ十字軍がアッカーに上陸する。ベイルートなどの沿岸地域の主要都市を奪回した十字軍勢力はシリア内陸部への攻撃を試みるが、イタリアに滞在していたハインリヒ6世が病死したため、再びアイユーブ朝と十字軍の間に和約が結ばれる。 十字軍の攻撃に前後して、カラクのアーディルはサラディンの息子たちの不和に乗じてエジプト・シリアで勢力を拡大していく。1196年7月にアーディルはアフダルをダマスカスから追放し、1198年11月にアジーズが狩猟中に事故死を遂げると彼の領地であるエジプトを勢力下に収めた。エジプト支配を確立したアーディルは一族間で優位に立ち、サラディンが帯びていなかったスルターンの称号を使用するようになる。アーディルと彼の地位を継承したスルターンたちは、対立するアイユーブ朝の諸王族や十字軍勢力との間で複雑な駆け引きと政治を展開した。 第4回十字軍によって1204年にラテン帝国が建国された後、アーディルはヴェネツィアやピサなどのイタリア半島の都市国家との通商関係を継続するため、ラムラとナザレを十字軍勢力に割譲する。1204年と1212年の2度にわたってアイユーブ朝と十字軍勢力の休戦協定が更新されたが、ローマの教皇庁では中東遠征の再開が検討されていた。アーディルは東方に存在する十字軍勢力に干渉を行わず、1218年に第5回十字軍が実施された当初も戦争の回避を考えていた。 ===第5回十字軍、エルサレムの譲渡=== 1218年8月24日にエジプトの港湾都市ダミエッタ(ディムヤート)が十字軍によって包囲され、8月末にアル=アーディルはカイロで没する。アーディルの死後、彼の息子たちが領土を分割して相続し、アル=カーミルがエジプト、アル=ムアッザムがダマスカス、アル=アシュラフがメソポタミアを支配した。そしてホムス、ハマー、イエメンにはアーディル一族以外のアイユーブ家の人間が割拠していた。 ダミエッタの返還を望むカーミルはエルサレムとサラディンが獲得した「真の十字架」の返還、全ての捕虜の解放などの条件と引き換えに和平を提案する。十字軍内では和平を受け入れるか否かで議論が交わされ、枢機卿ペラギウス、テンプル騎士団、聖ヨハネ騎士団の意見が勝って提案は撥ね付けられ、戦争は継続された。1219年11月にダミエッタは陥落、1221年夏に十字軍はダミエッタを発って進軍を再開した。一方、メソポタミアのアシュラフ、ダマスカスのムアッザムら地方の王族はホムスに集まって十字軍への対応を協議し、エジプトの救援に向かった。1221年8月に十字軍は進軍中にナイル川の氾濫に巻き込まれて壊滅し、エジプト軍は壊滅した敵軍に追撃を行って勝利を収める。8月30日に両軍の間で和平が結ばれ、翌9月にダミエッタはエジプトに返還された。 カーミルはアーディルの政策を継承し、対外平和と国内の再統一を推し進めた。カーミルの治世には農業・灌漑が重視され、ヨーロッパ諸国と通商協定が締結される。領内のキリスト教徒は厚い保護を受け、コプト正教会ではカーミルは歴代のエジプト君主の中で最も情け深い人間として見なされるようになった。1226年にホラズム・シャー朝のジャラールッディーン・メングベルディーがメソポタミアに侵入した際、ダマスカスのムアッザムはカーミル、アシュラフら他の王族に対抗するため、ジャラールッディーンに好意的な態度を示した。 一方、ヨーロッパ世界では1225年に神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世がエルサレム王位の継承権を獲得し、フリードリヒ2世はエルサレム王国での領主権を確保するため、十字軍の実施を誓約した。一方カーミルは関係が悪化したダマスカスのムアッザムに対抗するため、フリードリヒ2世との同盟の締結を試みた。カーミルとフリードリヒ2世は書簡を通して学問的な議論を行い、カーミルは動物学に深い関心を持つフリードリヒ2世にクマ、サル、ヒトコブラクダ、ゾウ(クレモナの象)を贈った。1229年2月にヤッファで双方の宗教的寛容を条件とする十字軍へのエルサレム返還を約束する協定が締結され、エルサレムではイスラームの礼拝が続けられた。十字軍国家の貴族と騎士団はフリードリヒがエルサレムの返還以上の成果を挙げなかったことに失望していたが、カーミルの行動もイスラム勢力から裏切りとして非難を受けた。ムアッザムの跡を継いでダマスカスの支配者となったアル=ナースィル・ダーウードは自身の支配下にあるエルサレムの譲渡に抵抗したが、カーミルはダーウードをカラクに追放し、ダマスカスを支配下に置いた。ダマスカスはアシュラフに譲渡され、その代償としてカーミルはアシュラフが支配していたメソポタミアの都市を獲得する。 アイユーブ朝が十字軍勢力との抗争に軍事力を集中している間、イエメンのアル=マンスール・ウマルがイエメンで起きた反乱に乗じてアイユーブ朝からの独立を企て、1229年にザビードでラスール朝が創設される。1241年/42年には、ラスール朝によってメッカからアイユーブ家の勢力が一掃された。 1230年にアイユーブ家の支配下に置かれていたヒラート(英語版)がジャラールッディーンによって占領された後、アシュラフはルーム・セルジューク朝と同盟し、エルズィンジャン近郊の戦闘でアイユーブ朝・セルジューク朝の連合軍はジャラールッディーンを撃破する。1231年、モンゴル軍の侵入に苦しむカリフ・ムスタンスィルはイスラーム諸国に救援を要請した。メソポタミアのアイユーブ朝の領地もモンゴル軍による略奪の被害を受けていたため、カーミルはメソポタミア遠征を決意する。モンゴル軍がヒラートから退却したことを知ったカーミルは進軍を中止し、進路を変えてイスラームの領主マスウードが統治するディヤルバクルを包囲した。1232年10月にディヤルバクルを占領したカーミルは町を子のアッ=サーリフに与え、さらにヒスン・カイファー(英語版)を攻略して遠征を終えた。他方でアシュラフはダマスカスに安定した支配を確立し、アシュラフと配下の将軍たちはエジプトのカーミルからの独立を企てた。緊張した情勢の中、1237年8月にアシュラフは没し、4か月後に彼の兄弟であるアッ=サーリフ・イスマーイールがダマスカスを継承する。 ===第7回十字軍、マムルーク政権の成立=== カーミルの死後に国家の統一は再び失われ、王朝は衰退に向かっていく。1238年にカーミルが没した後、アッ=サーリフとアル=アーディル2世の兄弟によって国土が分割され、ヒスン・カイファーのサーリフはカイロでスルターンを称した弟のアーディルとエジプトの支配を巡って争った。1238年12月にサーリフはダマスカスを占領するが、1239年9月にダマスカスはイスマーイールに奪回され、アーディルの逮捕を阻もうとするカラクのダーウードによって拘束される。また、1239年11月にダーウードはエルサレムに奇襲をかけ、町をイスラーム勢力の手に回復する。翌1240年にダーウードから解放されたサーリフは彼と同盟を結び、5月にアーディルを廃してスルターンに即位する。 1240年代初頭、サーリフはかつてのアーディルの支持者に報復を行い、ダマスカスのイスマーイールとの関係を改善したダーウードと対立した。サーリフ、イスマーイールらは、ライバルに対抗するため十字軍との同盟を計画する。ダーウードも他の競争者と同様に十字軍勢力に同盟を持ちかけ、1243年に同盟の条件としてエルサレムを十字軍に返還し、町からイスラームの宗教家を引き上げさせた。1244年にサーリフはシリアに逃れたホラズム・シャー朝の遺民と連合してラ・フォルビの戦いで十字軍勢力に勝利を収め、エルサレムを再び支配下に置いた。 サーリフは多数のマムルークを購入し、1241年2月にナイル川のローダ島に彼らが居住する兵舎を建設する。ローダ島で暮らすマムルークは「川のマムルーク」を意味する「バフリー・マムルーク」の名前で呼ばれた。 1249年にフランス王ルイ9世が率いる十字軍がダミエッタに襲来し、町を占領下に置いた(第7回十字軍)。十字軍の襲来時に病床にあったサーリフはエルサレムの返還と引き換えに十字軍のダミエッタからの撤退を提案したが、ルイ9世はサーリフの提案を拒絶し、サーリフはマンスーラに移動して迎撃の態勢をとった。同年10月にサーリフは没し、サーリフの子であるムアッザム・トゥーラーン・シャーが駐屯先のメソポタミアからエジプトに帰国するまでの間、サーリフの寡婦シャジャル・アッ=ドゥッルが代理で政務を執った。サーリフの死を伏せるために一定の時刻に食事と薬が病室に運び込まれ、偽のサーリフの署名がある命令が発せられた。フランス軍はダミエッタからマンスーラに進軍するが、2月9日に将軍バイバルスが率いるバフリー・マムルーク軍団がマンスーラの戦いで十字軍に勝利を収める。2月にトゥーラーン・シャーはエジプトに帰国し、シャジャル・アッ=ドゥッルから国政を譲渡される。4月7日に追い詰められたフランス軍はエジプト軍に降伏し、捕虜となったルイ9世はマンスーラの邸宅に拘留された。 即位したトゥーラーン・シャーは義母のシャジャル・アッ=ドゥッルに敵意を表し、バフリー・マムルークを投獄・免職して、直属の部下を要職に登用した。シャジャル・アッ=ドゥッルとバフリー・マムルークはトゥーラーン・シャーの殺害を共謀し、1250年5月2日にトゥーラーン・シャーは暗殺され、エジプトのアイユーブ家の政権は滅亡する。トゥーラーン・シャーの死後にシャジャル・アッ=ドゥッルを君主とする政権が樹立され、マムルーク朝が成立した。また、捕らわれていたルイ9世はトゥーラーン・シャー存命中の合議に従い、全兵士の撤退と身代金の支払いと引き換えに釈放された。 ===モンゴル帝国の侵攻=== マムルーク朝の成立後、シャジャル・アッ=ドゥッルに敵対するマムルークはアレッポのアイユーブ王族アル=ナースィル・ユースフに援助を求めた。1250年7月にダマスカスに入城したナースィルは市民から熱烈な歓迎を受け、ダマスカス、アレッポと近辺の都市を勢力下に組み入れた。ナースィル以外のシリア各地のアイユーブ朝王族も独立を図り、エジプト・シリアはマムルーク政権とアイユーブ家の人間によって分割される。シャジャル・アッ=ドゥッルからスルターンの地位を譲られた夫のイッズッディーン・アイバクはアイユーブ家との関係の改善を図り、アイユーブ家の王子アル=アシュラフ・ムーサーを共同統治者としたが、効果は無かった。1250年9月にエジプトを攻撃したナースィルはマムルーク軍に敗北し、1251年2月のサーリヒーヤの戦いでは多くのアイユーブ家の人間がマムルーク軍の捕虜となった。アイバクはアイユーブ家の残党が残るシリアへの進軍を企てたが、モンゴル帝国の侵入に晒されたカリフ・ムスタアスィムはイスラームの統合を提唱し、1253年4月にアイユーブ家とマムルーク政権の講和が成立する。講和の取り決めにより、エジプト、エルサレムを含むヨルダン川以西・ナーブルス以南の地域がマムルーク政権の支配下に、その他のシリアがナースィルの支配下に置かれた。また、アル=アーディル2世の子であるアル=ムギース・ウマルがカラク、シャウバクで自立した政権を樹立した。 1258年にバグダードのアッバース朝が滅亡した後、ナースィルは子のアジーズをモンゴル帝国のフレグの元に派遣して貢納を行ったが、フレグはナースィル自身が出頭しなかったことを詰問した。メソポタミア北部がモンゴル軍によって征服される事態に至り、ナースィルはこれまで敵対していたマムルーク政権、カラクのウマルと講和し、対モンゴルの同盟を締結する。1260年初頭にアレッポ、ダマスカスがモンゴルの支配下に入り、アレッポでモンゴル皇帝モンケ崩御の報告に接したフレグはペルシアに帰還した。マムルークの指導者であるムザッファル・クトゥズはナースィルを警戒して彼の配下の将軍を調略してエジプトへの入国を拒み、ナースィルは移動先のトランスヨルダンでモンゴルの将軍キト・ブカによって捕らえられる。親族とともにタブリーズに護送されたナースィルはフレグに面会し、フレグからシリアの領有を約束された上でダマスカスに移動した。ダマスカスへの移動中、ナースィルはフレグが派遣した追手によって他のアイユーブ家の王族とともに殺害され、ナースィルの子のアジーズだけが助命された。 1260年のアイン・ジャールートの戦いでモンゴル軍に勝利したマムルーク朝はイスラーム世界で確固たる地位を築いたが、反対にアイユーブ家の権威は低下し、アイユーブ朝の衰退は決定付けられる。 ===マムルーク朝時代のアイユーブ家=== 1262年にアイユーブ家の一員であるアル=アシュラフ・ムーサーが没した後、バイバルスは彼の領土であるヒムスを併合した。ナースィルがキト・ブカに捕らえられたころ、ウマルは子のアジーズをフレグの元に派遣して臣従を申し入れた。1263年にマムルーク朝のスルターン・バイバルスはウマルをフレグと内通した罪状で処刑し、カラクを支配下に編入した。 ハマーを統治するアル=マンスールはモンゴルの侵入に際して当初からマムルーク軍と共に戦っていたため、ハマーの分家はマムルーク朝の支配下で存続し続ける。1299年に最後のハマーのアイユーブ家領主が没すると、ハマーは一時的にマムルーク朝の直接支配を受ける。しかし、スルターン・ナースィル・ムハンマドの援助を受けて、1310年に著名な地理学者・著述家として知られるアブル=フィダーを当主としてハマーのアイユーブ家は再興される。1331年にアブル=フィダーは没し、彼の子であるアル=アフダル・ムハンマドが跡を継いだ。マムルーク朝のスルターンからの支持を失ったアル=アフダル・ムハンマドは1341年にハマーの支配者の地位を追われ、ハマーは正式にマムルーク朝の支配下に置かれた。 アナトリア半島南東部のヒスン・カイファー(英語版)はアイユーブ家に属し、フレグの子孫が支配するイルハン朝の下で1330年代まで独立を保ち続ける。イルハン朝の衰退後、1334年にヒスン・カイファーはアルトゥク朝の攻撃を受けるが勝利を収め、アルトゥク朝からチグリス川の左岸部を獲得した。14世紀のヒスン・カイファーのアイユーブ家はマムルーク朝とドゥルカディル侯国に臣従する一方で居城を改修して存続していたが、16世紀初頭にヒスン・カイファーはオスマン帝国の支配下に組み込まれた。 ==社会== ザンギー朝と同じく、アイユーブ朝の軍事・政治体制はセルジューク朝で実施されていたマムルーク制度とイクター(封土)制度を継承し、より発達させたものだった。 ワズィールやカーディーが文官、ハージブ(サラール)が軍人の頂点に立ち、それぞれ君主を補佐していた。軍の主力はクルド人とテュルク系のマムルークで構成され、大規模な戦争の際にはトゥルクマーンやアラブ遊牧民も招集された。後世のマムルーク朝時代の軍隊と比べると指揮系統の組織化は発達していなかった。1187年のヒッティーンの戦いではマムルークが大きな役割を果たし、サラディンの死後に各地の領主は勢力を保持するために自己のマムルークを購入した。危機に際してクルド人兵士が逃亡し、マムルークたちは自分の周りに残った即位前の経験からアッ=サーリフはマムルークたちの忠誠心を高く評価し、サーリフの時代にバハリー・マムルーク軍団が設置された。強大な勢力を持つようになったマムルークたちはサーリフの子のトゥーラーン・シャーを殺害して自己の王朝を創始し、エジプト・シリアから十字軍勢力とモンゴル軍を駆逐する。また、ファーティマ朝時代にはザンジュ(黒人奴隷兵)が一定の勢力を有していたが、1169年8月にサラディンによってザンジュの蜂起が鎮圧された後、彼らの勢力はエジプトから一掃された。 サラディンは叔父シールクーフの土地政策を拡大し、1169年の初夏にファーティマ朝の軍人が所有していた土地を没収し、シリアから引き連れてきた騎士たちにイクターとして分配した。ファーティマ朝の宰相に就任したサラディンは直属の兵士にイクターを授与し、父のアイユーブに下エジプト、兄弟のトゥーラーン・シャーに上エジプトを与えた。支配体制が確立していないサラディン時代には、王族やアミールが自分が望むイクターの授与・保有を求めて国家と衝突する事例がままあった。1171年から1181年にかけて行われた検地ではイクター収入の調査以外に、測量、税率の引き下げが実施され、建国されたばかりの国家の基盤づくりが進められた。アミール(軍司令官)たちはイクターから上がる収入を軍備や配下の俸禄に充て、与えられた土地の治水事業に力を注いだ。政府が実施する運河の開削・修復事業にあたってはそれぞれのアミールにイクターの収入に応じた作業が割り当てられ、工事には農民たちが駆り出されたイクターの所有者から課せられる賦役、徴税に反発して、土地の農民たちはアラブ遊牧民の協力を得てしばしば反乱を起こした。 ==人口== アイユーブ朝の支配下に置かれていた地域の正確な人口は計測されていない。Colin McEvedy、Richard Jonesは12世紀当時のアイユーブ朝の領土の人口について、シリアは約2,700,000人、パレスチナおよびトランスヨルダンは500,000人、エジプトは5,000,000人に達する人口を擁していと推定している。Josiah C. Russelは同時代のレバント地方に存在した8,300の村落には2,400,000の人間が住み、10の主要都市には230,000から300,000の市民が住んでいたと考えている。10の主要都市のうち8がアイユーブ朝の支配下に置かれ、人口はエデッサ、ダマスカス、アレッポ、エルサレムの順に多かった。 また、Russelはアイユーブ朝時代のエジプトの農村地帯について2,300の村落に3,300,000人の人間が住んでいたと見積もり、当時としては高い水準にあった人口密度の高さはエジプトでの農業生産量の増加に貢献したと推察した。エジプトの都市部の人口は233,100人と農村地帯の人口に比べて少なく、エジプトの全人口のうち都市民が占める割合は5.7%にとどまっていた。エジプトの都市部の人口密度も高く、その原因は都市化と工業化の進展に求めることができる。当時のエジプトの主要都市の人口は、以下のように推定されている。 ==農業・経済== アイユーブ朝の政治体制は安定していなかったものの、エジプト・シリアの経済は順調に成長を遂げていく。 アイユーブ朝では農産物の生産量を増やす様々な政策が実施され、農地の灌漑を容易に行うために運河の開削が行われた。アイユーブ朝時代のエジプトではナイル川を利用した農業が経済の基盤をなし、小麦、綿花、サトウキビの栽培が盛んになった。年間のナイル川の水量に異変が無い場合、エジプトではヨーロッパに比べて4‐5倍多い量の小麦の収穫が見込まれ、シリアの1.5倍の税収が期待できた。アイユーブ朝時代にサトウキビ栽培は下エジプトから上エジプトに拡大し、砂糖商人やスルターン、アミールによる製糖工場の経営が盛んになり、砂糖は輸出品の中で重要な地位を占めるようになる。エジプト中部の農業地帯であるファイユーム地方は国家収入の財源となり、サラディンの治世にはエジプト内の全イクターからあがる収入の約8%がファイユーム地方のイクターで占められていたと考えられている。 十字軍勢力との抗争がアイユーブ朝とヨーロッパ諸国の経済関係の発展を妨げる事はなく、二つの異なる文化の接触は経済活動、農業をはじめとする様々な分野において双方に良い影響をもたらした。サラディン死後の後継者争いに勝利してエジプト・ダマスカスを勝ち取ったアル=アーディルは、エルサレムの回復と十字軍勢力の弱体化によってサラディンが宣言したジハードに意義が見いだせないと判断し、キリスト教勢力との共存・通商関係の構築を試みた。1202年にアル=カーミルとヴェネツィアの交渉により、ヴェネツィア船のアレキサンドリアやダミエッタなどのナイル川デルタの港湾都市への入港の許可と船舶の保護と引き換えに、ヴェネツィアはエジプト遠征を試みるヨーロッパ諸勢力に対して一切の援助を行わないことが約束された。アイユーブ朝の領土内にはヴェネツィア人の居住区が設置され、領事館の開設が認められる。ショウガ、アロエ、ミョウバン、そしてアラビア半島とインドからもたらされた香料、香水、香油がヨーロッパに輸出され、グラス、陶器、金銀細工などのイスラーム世界で製造された工芸品はヨーロッパで珍重された。アイユーブ朝と十字軍の間に生まれた交流を通して中東・中央アジアで生産された絨毯、カーペット、タペストリーが西方に紹介され、ヨーロッパ世界の衣服や家具の様式に新しい風を吹き込んだ。また、アイユーブ朝およびザンギー朝との交易によって、ゴマ、キャロブ、キビ、コメ、レモン、メロン、アンズ、エシャロットといった植物がヨーロッパにもたらされた。 イラク方面の混乱のため、東西交易においては紅海を経た海路が主要な経路になり、カイロ、アレクサンドリアは交易の拠点として繁栄する。紅海の安全を確保するために保安船の配備、中継基地の建設が実施され、紅海を通る商人はその恩恵に与ることができた。イエメンのアデンから紅海、ナイル川を経てカイロ、アレクサンドリアに至るルートではカーリミー商人が活躍し、彼らは香辛料、絹織物、陶磁器などの商取引に従事していた。アイユーブ朝は十字軍勢力と紅海交易の独占権を巡って争い、1183年にアイザーブ沖での戦闘でエジプト艦隊が十字軍艦隊を破った後、カーリミー商人が紅海交易を独占した。カーリミー商人は地中海方面の交易活動ではジェノヴァ、ヴェネツィアの商人と競合していたが、紅海では交易活動の独占権を有していたため、国際貿易においてアイユーブ朝は強力な地位を保っていた。そして、インド洋を経た交易活動も、カーリミー商人が半ば独占する形で展開されていた。カーリミー商人のインド交易の活性化に伴い、彼らから徴収した諸々の税金で国庫が潤された。アイユーブ朝からマムルーク朝にかけての時期にカーリミー商人の活動は活発化し、財政収入の増加にも貢献した。 国際貿易の発展に伴い、債権と銀行制度の基本的な原則も発達していった。ユダヤ人、イタリア人の銀行家はシリアに代理店を置き、経常的に営業する店舗には遠方の主人に代わって取引に従事する人間が駐在していた。商取引には手形が用いられ、シリア各地の銀行では預金制度が利用されていた。カーミルの治世には国家財政は厳格に統制され、彼の死後に国家予算の1年分に相当する貯蓄が遺されたと言われている。また、13世紀のイタリアではレヴァント交易(東方交易)に従事したイタリア商人によって、イスラーム諸国から支払手形の概念が導入される。「小切手」を意味するアラビア語のサック(*5987*aqq)、ペルシア語のチェック(cheqq)が英語のチェック(cheque)の語源になったと考えられている。 安定した農業活動とカーリミー商人の活躍により、カイロはバグダードに代わる大都市への発展を遂げていく。 ==文化== ===教育=== スンナ派保護の方針もあって、アイユーブ朝時代にはエジプト、シリアに多くのマドラサ(神学校)が建設される。国家によって建てられたマドラサは教育以外に、スンナ派の知識を普及させる役割も備えていた。16世紀までにダマスカスに建てられたマドラサのうち、約半数がアイユーブ朝時代に建設されたもので占められていた。12世紀末の旅行家イブン・ジュバイルは、サラディン時代のダマスカスには20のマドラサ、数多くのスーフィーの道場が建てられていたことを記録し、マドラサの建築事業はサラディンより後のアイユーブ朝のスルターンに継承された。そして、スルターンだけでなくスルターンの妻や娘、有力な軍人や貴族もマドラサの建設と資金援助に携わっていた。 アイユーブ朝ではシャーフィイー学派が主要な地位を占めていたが、シャーフィイー学派以外のスンナ派四大法学派のマドラサも建設される。アイユーブ朝成立前のシリアにはハンバル学派とマーリク学派のマドラサは存在していなかったが、アイユーブ朝期にシリアに初めてこの2つの学派のための独立したマドラサが設置された。1170年秋にカイロにシャーフィイー学派とマーリク学派のマドラサが開設され、翌1171年にサラディンの甥タキー・アッディーン・ウマルによってより豪華なマドラサが建設された。サラディンに仕えた学者のイブン・シャッダードによれば、当時のダマスカスには40のシャーフィイー学派のマドラサ、34のハナフィー学派のマドラサ、10のハンバル学派のマドラサ、最後に3つのマーリク学派のマドラサが存在していたという。シーア派の最高学府であるアル=アズハル大学の存在は軽んじられ、マムルーク朝の成立までアズハル大学の影響力は失われる。 サラディンと彼の後継者は他のイスラーム国家の権力者と異なり、権勢を誇示するための大規模なモスクの建設事業を行っておらず、マドラサの建設事業に熱意を注いでいた。エジプトにスンナ派を復活させたサラディンはこの地に10のマドラサを建設し、彼の死後にエジプトにはさらに25のマドラサが建てられたが、それらのマドラサの場所はフスタートに集中していた。エジプトに建てられた多くのマドラサはシャーフィイー学派に属し、残りはマーリク学派とハナフィー学派に属していた。イマームのアッ=シャーフィイー(英語版)の廟に隣接する場所に建てられたマドラサは重要な巡礼地となり、スンナ派の信奉者が多く集まる場所となった。エジプト、エルサレム、ダマスカスには高官によって26のマドラサが建てられたほか、当時としては珍しく市民によって18のマドラサがエジプトに建てられ、その中には2つの医療機関が含まれていた。 マドラサには原則的に教師と学生が寄宿する規定が設けられており、多くのマドラサは住宅としての役割も備えていた。教師たちは法学、神学、伝統的なイスラーム諸学を教授し、彼らの給与はマドラサのワクフから捻出されていた。そして学生たちは宿舎、研究を志す様々な分野の教授、定期的な奨学金を利用する事ができ、彼らが必要とするものはおおよそ与えられていた。アイユーブ朝時代の社会ではマドラサは権威ある機関と考えられ、マドラサで教育を受けていない人間は公職に就くことができなかった。しかし、アイユーブ朝時代に建設されたマドラサの多くは、教育・居住に十分な空間が確保されていなかった。多くのマドラサには建設者の墓が併設されており、墓は校舎とともにワクフによって維持され、近接する校舎で詠唱されるコーランによって埋葬された死者の魂の安寧が保障される恩恵に与ることができた。このためマドラサは学究機関以外に霊廟としての役割も備えるようになり、後継国家のマムルーク朝でもこの傾向は続いた。 ===研究活動=== 高度な教育を受けたアイユーブ朝の君主は学問と教育の有力な保護者となり、新たに建設された研究・教育機関と王朝内の学芸の保護者によって、様々な分野でスンナ派の知的活動が復活し、特に医学、薬学、植物学の分野に関心が集まった。アイユーブ朝時代のエジプト、シリア、メソポタミアには多くの学者、医師が集まり、カイロにはイブン・マイムーン(マイモニデス)、アブドゥルラティーフ・バグダーディーなどの学者が集まった。医師の中にはアイユーブ朝の王族に直接雇われ、スルターンの侍医になった者もいた。また、サラディンはヌールッディーンがダマスカスに建設した病院を模して、カイロに二つの病院を建設した。 ===建築=== 頑強かつ美しい石材を生かした力強さがアイユーブ朝時の建築物の特徴であるが、同時に装飾が過剰であるという指摘もされている。自然の地形に沿った城壁の構築といった、アイユーブ朝の要塞の建築に用いられた技術の一部は十字軍から吸収したものだった。アイユーブ朝はファーティマ朝から出し狭間、円塔などの多くの建設技法を継承していたが、同時に円状の都市計画をはじめとする独特の様式の発達も見られた。アイユーブ朝期にエジプトに建てられたマドラサは姿を留めていないものの建築史に影響を与え、アイユーブ朝で育まれた古典的なアラブ風建築様式はマムルーク朝に継承される。一方、モスク建築の技術はファーティマ朝時代のものと比べて大きな変化は見られない。 アイユーブ家、地方の統治者、ウラマー(学者)などの有力者の家に生まれた女性は建築事業の熱心な後援者にも成り得た。ダマスカスは長きにわたって女性による宗教施設の建設事業が推進された場所であり、15のマドラサ、6のスーフィーの道場、26の宗教・慈善施設が建てられた。 ファーティマ朝の宰相に就任したサラディンはカイロ市内の「宰相の館」で政務を執っていたが、カイロの市街地化が進展したために館の警備に困難をきたし、サラディンはカイロ郊外に新たな居城の建設を計画した。カイロ南のムカッタム(モカッタム)の丘に城砦が建設され、サラディン没後の1207年に完成した城砦は19世紀に至るまでエジプトの君主の居城として使用された。サラディンはフスタートとカイロを囲む城壁の建設も試みたが、完成には至らなかった。サラディンが建築した王の居城とカイロの旧市街を結ぶ道に沿って新たな市街地が形成され、後代のカイロの発展の方向性が定まった。 アイユーブ朝期にはシリア北部のアレッポに印象的な建築物が多く建てられ、城塞の修復と用水路の拡張、通りと街区への噴水とハンマーム(公衆浴場)の設置といったインフラストラクチャーの整備が実施される。また、町の各地に数十のモスク、マドラサ、霊廟が建立された。アレッポの街並みに大きな変化が現れたのは、サラディンの子アッ=ザーヒル・ガーズィーの時代である。城塞、用水路、砦、城壁の外の地域の開発の4点に、アイユーブ朝時代のアレッポで実施された建設事業の成果が遺されている。ザンギー朝のヌールッディーンによって建てられた城壁がアッ=ザーヒルによって取り払われた時から町の再開発が始まり、頻繁に外敵の攻撃に晒されたal‐Jinan門とal‐Nasr.門の間に広がる北・北西の城壁の修復が行われた。東側の城壁は南東に拡張された際、アッ=ザーヒルの希望を汲んで市外の荒廃した要塞Qala’at al‐Sharifが城壁の中に収められる。また、アレッポでの建築・城壁の拡張にはアッ=ザーヒルだけでなく彼の息子や配下の将校たちも関わっており、塔の中には王子たちの名前が刻まれたものもある。アル=アーディルの娘Dayfaの後援によってアレッポに建てられたフィルダウス・マドラサは、アイユーブ朝時代のシリアに建てられた代表的な建物として知られている。1256年にアン=ナースィル・ユースフによって再建されたキンナスリーン門は、中世シリアの軍事建築の最高傑作として名高い。1260年のモンゴル軍の攻撃でアレッポは多大な被害を受け、アイユーブ朝期に建設された防御施設のほとんどが失われた。 サラディンによってエルサレムが占領された後、町では家屋、スーク(市場)、ハンマーム、巡礼者のための宿泊所の建設に多額の費用が投入され、エルサレム旧市街の神殿の丘に多くの施設が建てられた。エルサレムを占領したサラディンは、アクサー・モスクと岩のドームからキリスト教的な要素を取り除こうと試みた。アクサー・モスクに描かれたキリスト教の図柄が取り払われ、岩のドームの内部に置かれている巨石から覆っていた大理石が剥がされた後、石はサラディンの甥タキーウッディーン・ウマルによってバラ水で清められる。エルサレム内の多くのキリスト教会はモスク、マドラサに改装されたが、聖墳墓教会はキリスト教会のまま留め置かれた。聖アンナ教会はサラディンの名前を冠したマドラサに、聖墳墓教会近くの大司教館はダルヴィーシュ(スーフィーの修行者)の宿泊所に改築される。1217年にアクサー・モスクのミフラーブが修復され、アル=ムアッザムによってモスク北側の3つの門にポーチが取り付けられた。1219年の第5回十字軍に際し、十字軍によってエルサレムの城壁が利用されることを恐れたムアッザムは城壁を取り壊した。町に愛着を持つ人々はダビデの塔をはじめとする防御施設の破壊を嘆き、城壁の破壊が住民に不安を与えたために人口の流出と町の衰退を招いた。 ==アイユーブ朝の歴代君主== サラーフッディーン(在位:1169年 ‐ 1193年)アル=アジーズ(在位:1193年 ‐ 1198年)アル=マンスール・ムハンマド1世(在位:1198年 ‐ 1200年)アル=アーディル(在位:1200年 ‐ 1218年)アル=カーミル(在位:1218年 ‐ 1238年)アル=アーディル2世(在位:1238年 ‐ 1240年)サーリフ(在位:1240年 ‐ 1249年)トゥーラーン・シャー(在位:1249年 ‐ 1250年)アル=アシュラフ・ムーサー(在位:1250年 ‐ 1254年) ===ダマスカス=== サラーフッディーン(在位:1174年 ‐ 1193年)アル=アフダル(在位:1193年 ‐ 1196年)アル=アーディル(在位:1196年 ‐ 1218年)アル=ムアッザム(在位:1218年 ‐ 1227年)アン=ナースィル・ダーウード(在位:1227年 ‐ 1229年)アル=アシュラフ(在位:1229年 ‐ 1237年)アッ=サーリフ・イスマーイール(在位:1237年 ‐ 1238年)アル=カーミル(在位:1238年)アル=アーディル2世(在位:1238年 ‐ 1239年)アッ=サーリフ・ナジュムッディーン・アイユーブ(在位:1239年)アッ=サーリフ・イスマーイール(復位・在位:1239年 ‐ 1245年)アッ=サーリフ・ナジュムッディーン・アイユーブ(復位・在位:1245年 ‐ 1249年)アン=ナースィル・ユースフ(在位1250年 ‐ 1260年) ===ハマー=== アル=ムザッファル・ウマル(在位:1179年‐ ‐ 1191年、サラーフッディンの兄弟シャーハンシャーの息子)アル=マンスール・ムハンマド(在位:1191年 ‐ 1222年)アン=ナースィル・キリジ・アルスラーン(在位:1222年 ‐ 1230年)アル=ムザッファル・マフムード(在位:1230年 ‐ 1245年)アル=マンスール・ムハンマド2世(在位:1245年 ‐ 1284年)アル=マンスール・マフムードアル=ムアイヤド・アブル=フィダーウ(地理学者として有名)アル=アフダル・ムハンマド ===イエメン=== トゥーラーン・シャー(在位:1174年 ‐ 1181年、サラーフッディーンの兄)トゥグ=ティキーン(在位:1181年 ‐ 1202年、上記のトゥーラーン・シャーとサラーフッディーンの兄弟)アル=ムイッズ・イスマーイール(在位:1202年 ‐ 1203年、トゥグ=ティキーンの息子)アン=ナースィル(在位:1203年 ‐ 1203年、アル=ムイッズ・イスマーイールの兄弟)ガーズィー・イブン・ジュバイル(在位:1203年 ‐ 1214年)スライマーン(在位:1214年 ‐ 1216年、トゥーラーン・シャーの子タキーユッディーン・ウマルの子)アル=マスウード(在位:1216年 ‐ 1229年、エジプトのスルターン・アル=カーミルの息子)ユースフ(在位:1229年 ‐ 1240年) ==系図== ===諸家=== ===エジプトのスルターン・ダマスカス領主=== =コリン・レンフルー= ケイムズソーンのレンフルー男爵アンドルー・コリン・レンフルー(英: Andrew Colin Renfrew, Baron Renfrew of Kaimsthorn [*7625**7626*ndru*7627* *7628*k*7629*l*7630*n *7631*r*7632*nfru*7633*], 1937年7月25日 ‐ )は、イギリスの著名な考古学者である。ニューアーケオロジー(新考古学)のリーダーの一人で、先史時代言語学、考古遺伝学 (archaeogenetics) や「離心減少モデル」などの理論や、考古遺跡の略奪・破壊の防止についての業績が注目されてきた。放射性炭素年代測定の権威でもある。レンフルーは、原印欧語族の「原郷」がアナトリアにあって農業の発展に伴い、まずギリシャへ移動してから徐々に拡大し、イタリア、シチリア、コルシカ、フランスの地中海岸、スペイン、ポルトガルにうつっていったという仮説(いわゆる「レンフルー仮説」)によってその名を知られている。 ==経歴と学績== レンフルーは、イングランド南東部のハートフォードシャーにあるセント・オールバンズ・スクール(英語版)に学び、1956年から1958年にかけてイギリス空軍の兵役に就いた。その後、ケンブリッジ大学セント・ジョンズ・カレッジ(英語版)に入学し、考古学と人類学、自然科学を学んで、1962年に卒業した。1965年に「キクラデス諸島における新石器時代及び青銅器時代文化と対外関係 (Neolithic and Bronze Age cultures of the Cyclades and their external relations)」と題する博士論文を提出して、その年にJane M. Ewbankと結婚している。 1965年に、シェフィールド大学で先史学と考古学の講師をつとめ、1968年から1970年の間にギリシャのシタグロイ遺跡を調査した。1968年には、シェフィールド・ブライトサイド選挙区から保守党 候補として立候補したが落選する一方、ロンドン古代学協会のフェロー(Fellow、特別研究員)に選ばれている。1970年にはスコットランド古代学協会(英語版)のフェローにも選ばれた。1972年、サウサンプトン大学でサー・バリー・カンリフ(英語版)の後任として考古学担当教授となった。サウサンプトン時代のレンフルーは、オークニー諸島のQuanterness遺跡や、ギリシャのメロス島にあるフィラコピ遺跡の発掘調査を指揮している。 1973年、レンフルーは、「文明以前:放射性炭素年代測定革命と先史時代のヨーロッパ (Before Civilisation: The Radiocarbon Revolution and Prehistoric Europe)」を著した。これは、ヨーロッパの先史文化の変革、発展は中東を起源としており、それがヨーロッパに普及したという仮説を論じようとするものであった。また、レンフルーは、マリア・ギンブタスとともにシタグロイ遺跡の調査をしている。 1981年、レンフルーは、ケンブリッジ大学のディズニー教授職に選ばれて着任し、2004年に退職するまで教授職にあった。1990年、レンフルーはケンブリッジ大付属のマクドナルド考古学研究所(英語版)の所長となった。1987年に「考古学と言語:原インドヨーロッパ語族の起源の謎 (Archaeology and Language: The Puzzle of the Indo‐European Origins)」を著した。また、1986年から1999年までケンブリッジ大学ジーザス・カレッジ(英語版)の学寮長を務めた。2004年に先史考古学の分野で名誉あるバルザン賞を受賞した。同じ年にケンブリッジ大の職を辞し、アテネ・ブリティッシュスクールの運営理事長になった。2005年から2006年にはカリフォルニア大学ロサンゼルス校のCotsen考古学研究所の招聘研究者となった。 レンフルーは、1991年、「ケイムズソーンのレンフルー男爵」として一代貴族に叙せられた。爵位の名称はスコットランドのレンフルー地方にちなんでいる。 ==レンフルー仮説== 「レンフルー仮説」とは、インド・ヨーロッパ語の「原郷」は、従来比較言語学の分野などで提唱されてきた南ロシアにあるのではなく、トルコ中部のアナトリアにあるとする仮説であり、これは1987年の ”Archaeology and Language: The Puzzle of the Indo‐European Origins”(『ことばの考古学』橋本槇矩 訳)のなかで詳細に展開されている。 ここでレンフルーは言語学による先史時代研究の危険性をいくつもの事例を掲げて指摘し、印欧諸語にのこされた語彙や想定される原語彙から「原郷」の自然環境や生業などを類推する手法を批判している。民族と言語を等記号で結ぶのは誤りであるとし、また、考古学の立場からインド・ヨーロッパ祖語を話した集団とその拡散をもたらした歴史的背景を論じている。同時に、従来ビーカー土器とコーデッド土器の分布から唱えられてきた諸説に対しても、新しい文化の出現は必ずしも新しい言語を話す集団の侵入を意味するものではないとして、土器型式を特定の言語グループと安易に結びつけることに批判を加えている。 レンフルーは、特定地域における言語変化のプロセスとして、 最初の入植(それまで人が住んでいなかった地方に人間が入り込んでいくプロセス)置換(特定の地方で話されていた言語が別の言語に置き換えられていくプロセス)継続的発達(持続性と革新、混交)を掲げている。このうち、「最初の入植」を考古学的に研究するのは容易であり、「継続的発達」に関してはそれを示す資料に欠くことが多いので難しい。言語の「置換」に関しては、特定の地域において、ある言語が別の言語に取ってかわる諸条件を考察することは可能であるとして、いくつかのモデルを提示している。 ひとつは、「新しい言語を話す人々がある地域に大量に流入した結果、新しい言語が生まれる」というモデルである。このプロセスが最も明瞭に現れるのは、それまで狩猟採集民だけが住んでいた地域に農耕がもたらされた場合である。狩猟採集期の人口密度と初期農耕開始時期のそれの比は 1:50 におよぶ。この差は決定的であり、さらに初期農耕の伝播の波動モデルによれば、住民数増大の波形は一貫して放射状に進むのであり、いわゆる「植民」とは区別できるものであるとしている。言い換えれば、方角はどうであれ最終的な結果としては、農耕は、すでに耕地化された地域から周囲に伝播していくのであり、平均すれば一定の速度でそれは進行するであろうというものである。 ふたつめのモデルは「優等民による支配」である。異なった言語を話す比較的小規模な組織的集団が、領域外から到来し、整備された軍事力を背景に先住民を支配し、従属させるというものである。このモデルは、移住者集団がすでに「序列化」された社会組織をもっていることが前提であり、定住地にも序列化があって、周辺の町には地方執政官の制度がしかれる。古代ローマによるヨーロッパの征服は、このモデルの典型例である。 3つめは「体制の崩壊」である。初期国家や文明のなかには、紀元前1110年以降のミケーネ文明や890年以降の低地マヤ文明のように、外部からの侵略や征服によらずして消滅したと考えられるものがある。「暗黒時代」と呼ばれる現象がそれであるが、その場合、集団の移動をまねき、その地域で話されていたことばに重大な結果をもたらす場合があると考えられる。たとえば、内部危機をもつ中央勢力が辺境地帯から撤退したとき、その機に乗じて外部の小集団がその辺境を占領する場合があり、それにはローマ帝国崩壊期にブリタンニアを占領したアングロ・サクソン語を話す小集団の例がある。なお、レンフルーは、この3つのモデル以外に「強制的移住」、「定住/移動による境界変化」、「贈与/受容の人口システム」のモデルを掲げている。 このようないくつかの論点、あるいはモデルの提示のなかで、間違いなく全ヨーロッパに決定的な影響を与えた主要なプロセスこそ農耕の開始であるとレンフルーは主張する。印欧語は紀元前3500年から3000年頃にヨーロッパに伝播したとするクルガン説、コーデッド土器説・ビーカー説(紀元前2900年 ‐ 2000年頃)、火葬墓文化説(紀元前1500年以前の後期青銅器時代)のいずれも、全ヨーロッパにあてはめられるほどの広がりをもたないと彼は指摘する。 現在では、ヨーロッパにおける農耕民の定着の始まりは紀元前6000年以前のクレタ島をふくむギリシャだろうと考えられているが、これは、コムギを豆類とともに耕作し、羊や山羊を飼育する混合農業であった。放射性炭素年代測定によれば、農耕は紀元前6500年以前にギリシャに達していたと考えられ、紀元前3500年頃にはスコットランドの北端とオークニー諸島に到達していた。その間、上述の波動説を援用して、農耕文化は小規模な地域的移動と相まって、長い年月をかけて全欧州へと次第に広まっていったというのが、「レンフルー仮説」の骨子である。 なお、中石器時代に先住の狩猟採集民が密に居住し、貝塚などによってかなり繁栄したであろうことを示す地域においては、土着の中石器時代の人々が、のちになって実際に農耕を開始した可能性が高く、それは、イタリア中部のエトルリア語、スペイン北部のバスク語、イベリア半島東部のイベリア語など、歴史時代にまで生き残った非インド・ヨーロッパ語族がインド・ヨーロッパ語族の居住域のなかに点在することの説明がつくとしている。 さらにレンフルーは、アナトリア南部のチャタル・ヒュユクとギリシャ北部のネア・ニコメディアの両遺跡では、四角形の家屋設計、木組みと泥壁、解放型定住地設計などの建築様式、家畜をともなう混合農業、鋲と釘、装飾スタンプ、ベルト・ファスナーなどの付属品、あるいは土器における白塗りと指文様、レッド・オン・クリーム塗り、モデル・フェイスといった装飾面において、文化的に互いに類似する要素が多いことを指摘しており、これらをふまえて、自らの仮説の試金石として、以下のように印欧諸語の推移の概要を示している。 アナトリアからギリシャへ(テッサリアと西マケドニア) ‐ 最終的にギリシャ語に至る北ギリシャから第一次温帯へ(スタルチェヴォ/ケレス/カラノーヴォ) ‐ イリュリア語、トラキア語、ダキア語に至る第一次温帯(ケレス)からリニア土器へ ‐ 中央ヨーロッパの言語(ケルト語、ゲルマン語)に至るリニア土器から原ククテニと原トリポリエへ ‐ 現在スラヴ語が話されている地域の諸言語に至るリニア土器からスカンジナビアそして西方の北フランスへ ‐ 初期ゲルマン語、スカンジナビアの諸言語に至る西ギリシャからインプレスド土器(地中海沿岸)へ ‐ イタリア諸言語(エトルリア語を除く)に至るインプレスド土器からイベリアの新石器時代へ ‐ スペイン・ポルトガルの初期の諸言語に至るインプレスド土器から中・北部フランスへ ‐ フランスの初期ケルト(または前ケルト)諸言語に至る<そこに推移5.が寄与>北フランスと低地地帯(リニア土器)からイギリス、アイルランドへ ‐ イギリスとアイルランドの初期諸言語に至る〈ここにケルト語(または前ケルト語)とピクト語が含まれる〉「これほど単純な図式化は危うい」とレンフルー自身も述べているが、いずれにしても、かれは印欧語族が通説よりはるかに古い起源をもつ可能性を指摘し、その起源を従来よりも4000年以上さかのぼらせて、ゴードン・チャイルド以来の「インド・ヨーロッパ問題」にひとつの解答を与えたのであった。 ==黒曜石の産地同定== 「天然ガラス」とも称されることの多い黒曜石は一般に産地ごとの化学的組成が均質であることから、その化学組成に特徴がある場合、遺跡出土の黒曜石製石器の化学組成を原産地ごとのそれと比較することによって産地を特定することが可能である。肉眼観察の限界を超えた理化学的分析法がいくつか開発されており、しかも産地の分布は地域的に限定されているため、こんにちでは黒曜石は、考古学的な産地同定にとって理想的な石材とみなされる。1964年、J.R.キャンとレンフルーは、黒曜石の化学的性質の差異に着目し、これを用いて文化交流を跡づけるという画期的な方法論を提示した。このことによって、材質分析や産地同定のみならず、遺跡や地域における使用石材の組み合わせ、さらには運搬や交換システムの研究が飛躍的に進展し、従来、遺物からは解き明かすことの難しい領域であった先史時代の交易にかかわる研究に道をひらいた。 ==その他の業績== レンフルーのその他の業績として知られているのは、ギリシャの遺跡の調査成果や分布状況から、初期の国家は、20マイル(32km)四方の範囲で形成されたのではないかとして「初期国家単位 (Early State Module)」の概念を提唱したことが挙げられる。 また、黒曜石の交易の研究から、「ある社会が単純な社会構造を持っている場合に、モノが個人から個人、または、集団から集団へ順番に交換されていく過程で、ある特定のモノは、原産地から離れるにしたがって、交易品に含まれる割合が減少する」という「離心減少モデル (Distance Dacay Model)」を提唱した。具体的には「モノを直接採集によって入手した集団を中心としてモノの行き来がありその集団の地域経済圏内では、特定のモノの含まれる割合はあまり変わらないが、いったんその地域経済圏外へ出た場合に急速に減少する」パターンをグラフで概念化した。消費地の中心地で再分配が行なわれる場合、交易に仲介者がいる場合、モノの性格が威信財である場合、さらにモノがある集団のセンターから他の集団のセンターへ運ばれて再分配が行なわれるケースなどを提示した。このグラフに示されるモデルは「フォールオフ・モデル」と呼ばれ、世界的に交易をテーマとする研究に応用されている。 ==主要著書== Renfrew, A.C., J.E.Dixon and J.R.Cann 1966, Obsidaian and Early Cultural in the Near East. Proceeding of the Prehistorical SocietyRenfrew, A.C., J.E.Dixon and J.R.Cann 1968, Further Analysis of Near Eastern Obsidians. Proceeding of the Prehistorical SocietyRenfrew, A.C., 1972, The Emergence of Civilisation: The Cyclades and the Aegean in The Third Millennium BC, London.Renfrew, A.C., 1973, Before Civilisation, the Radiocarbon Revolution and Prehistoric Europe, London: Pimlico. ISBN 0‐7126‐6593‐5 (『文明の誕生』大貫良夫訳、岩波書店〈岩波現代選書32〉、1979年9月)(『文明の誕生』大貫良夫訳、岩波書店〈岩波現代選書32〉、1979年9月)Renfrew, A.C. and Wagstaff, Malcolm (editors), 1982, An Island Polity, the Archaeology of Exploitation in Melos, Cambridge: Cambridge University Press.Renfrew, A.C., (editor), 1985, The Archaeology of Cult, the Sanctuary at Phylakopi, London: British School at Athens and Thames & Hudson.Renfrew, A.C., 1987, Archaeology and Language: The Puzzle of Indo‐European Origins, London: Pimlico. ISBN 0‐7126‐6612‐5 (『ことばの考古学』橋本槇矩訳、青土社、1993年7月、ISBN 4‐7917‐5252‐X)(『ことばの考古学』橋本槇矩訳、青土社、1993年7月、ISBN 4‐7917‐5252‐X)Renfrew, A.C. and Bahn, P. , 1991, Archaeology: Theories, Methods and Practice, London: Thames and Hudson. ISBN 0‐500‐28147‐5 (『考古学‐理論・方法・実践‐』池田裕、常木晃、三宅裕訳・監修、東洋書林、2007年8月、ISBN 978‐4‐88721‐715‐7)(『考古学‐理論・方法・実践‐』池田裕、常木晃、三宅裕訳・監修、東洋書林、2007年8月、ISBN 978‐4‐88721‐715‐7)Renfrew, A.C., 1993, Cognitive Archaeology:Some Thoughts of Archaeology of Thought. Cambridge Archaeological JournalRenfrew, A.C., 2000, Loot, Legitimacy and Ownership: The Ethical Crisis in Archaeology, London: Duckworth. ISBN 0‐7156‐3034‐2Renfrew, A.C., 2003, Figuring It Out: The Parallel Visions of Artists and Archaeologists, London: Thames and Hudson. ISBN 0‐500‐05114‐3Ernestine S. Elster and Colin Renfrew (eds), Prehistoric Sitagroi : excavations in northeast Greece, 1968‐1970. Vol. 2, The final report. Los Angeles, CA : Cotsen Institute of Archaeology, University of California, Los Angeles, 2003. Monumenta archaeologica 20.Colin Renfrew, Marija Gimbutas and Ernestine S. Elster (eds.), Excavations at Sitagroi, a prehistoric village in northeast Greece. Vol. 1. Los Angeles : Institute of Archaeology, University of California, 1986. =熊本市交通局0800形電車= 熊本市交通局0800形電車(くまもとしこうつうきょく0800がたでんしゃ)は、熊本市交通局が市電(熊本市電)用に導入した路面電車車両である。2車体2台車方式・100%低床構造の超低床電車で、2009年(平成21年)4月に営業運転を開始した。 3編成在籍しており、そのうち2014年(平成26年)10月に運転を開始した第3編成 (0803AB) は熊本市電開業90周年記念の導入であり「COCORO」(こころ)の愛称を持つ。 ==1次車 (0801AB・0802AB)== 以下、2009年に導入された1次車の2編成 (0801AB・0802AB) について記述する。 ===導入までの経緯=== 本形式が導入された熊本市交通局の路面電車線(熊本市電)は、熊本市内を走る2つの路線からなる、約12キロメートルの路線網を持つ。 1970年代末に全廃計画を撤回して以降市電へ積極投資を続けていた交通局では、1990年(平成2年)より当時ヨーロッパで開発されつつあった超低床電車の導入について検討を始め、1997年(平成9年)になって2車体式の超低床電車9700形導入という形でこれを実現させた。同形式はアドトランツ(ドイツ)が製造する「ブレーメン形」が元になっており、同社と業務提携した新潟鐵工所(現・新潟トランシス)によって設計・製作された日本仕様の車体と輸入品の台車・電機品と組み合わせることで製造された車両である。初め1編成が導入され、1999年(平成11年)に2次車2編成、2001年(平成13年)には3次車2編成がそれぞれ増備されて計5編成10両が在籍する。 2002年(平成14年)、メーカーの新潟鐵工所は熊本市交通局9700形3次車に続き岡山電気軌道9200形 (MOMO) を製造した。この車両も9700形と同様「ブレーメン形」を日本向けに設計変更したものであるが、車体のデザインは他都市と異なるものをとの意向から、当時フランスのナントに納入されていた「インチェントロ」と呼ばれる車両のデザインを、アドトランツを買収したボンバルディアの協力を得て利用している。以降日本では、新潟鐵工所の鉄道車両部門を引き継いだ新潟トランシスによって、「ブレーメン形」の足回りに「インチェントロ」の丸みを帯びた車体を組み合わせた超低床電車の製造が続いている。 9700形3次車以後超低床電車の導入が止まっていた熊本市交通局では、2006年(平成18年)に施行されたバリアフリー新法において鉄道車両のバリアフリー化率目標が50パーセントとされたことを受けて超低床電車の増備に着手。九州新幹線全線開通(2011年)を見据えてJR熊本駅と都心部の輸送力増強を図る狙いもあり、「0800形」の導入となった。新潟トランシスにて製造が続く「インチェントロ」タイプのデザインの車両を導入するのが有利との判断から9700形ではなく新形式となっている。 ===車体・主要機器=== ====車体==== 本形式は「インチェントロ」タイプの車体を持つ2車体2台車式の超低床電車で、パンタグラフのある車両を「A車」、反対側を「B車」と称する。1次車では連結部を除いた車体の長さは8.74メートルで、編成の全長は18.4メートル。車体幅は2.4メートルで、9700形よりもわずかに拡大した。車両の全高(パンタグラフ折りたたみ高さ)は3.745メートル。自重は25.0トンである。 車体の塗装は白を基調とする。車両先頭部は大型の曲面ガラスと鋼製の大型バンパーからなり、アクセントとなるよう紺色のラインを配する。車体側面は熊本の伝統園芸肥後六花の一つ「肥後椿」をイメージした赤紫色の塗装とされている。 ===車内=== レール上面から車内の床面までの高さは通路部分で36センチメートルだが、ドア部分ではさらに下げて30センチメートルとし、電停ホームとの段差を極力小さくしている。客室内の座席配置は車輪を収めるタイヤハウスや主電動機配置の関係から車体中央部をクロスシート(3列)、車端部をロングシートとしている。ドア(有効幅1.25メートル)は片側2か所ずつ計4か所の設置で、位置は左右対称ではなく反対側にはロングシートが配置される。また運転席直後のロングシートは折りたたみ式となっており車椅子スペースも兼ねる。 先の9700形では座席数が少ないという乗客からの意見が多数あったことから、本形式ではクロスシートの一部を1人掛けから2人掛けに変更することで座席を全体で6席増やし、座席を24席から30席へ、定員を76人から82人へとそれぞれ増加させた。客室内の配色は、天井・側壁の化粧板が白、座席モケットと床がブラウン系。 ===台車・床下機器=== 台車は各車中央部に1台ずつ、車軸のない左右独立の車輪4輪からなるボルスタレス式ボギー台車を配する。台車・車体間の枕バネおよび車輪・台車間の軸バネはゴムバネを、車輪にはゴムを挟み込んだ弾性車輪をそれぞれ使用することで、振動や騒音の軽減を図っている。従来の新潟トランシス製超低床電車では台車はボンバルディアからの輸入品であったが、新潟トランシスは2007年(平成19年)にボンバルディアより技術供与を受けライセンス生産によって自社生産する体制を整えており、本形式では新潟トランシスが台車を自社製造する。こうして輸入品を主電動機など一部に限定することで製造費の削減を図っている。 主電動機は出力100キロワットのかご形三相誘導電動機(ボンバルディア製、形式名:BAZu3650/4.6)で、台車1台につき1台ずつ搭載。車体床下に装荷されており、駆動力は主電動機から自在継手(ユニバーサルジョイント)、推進軸(スプライン軸)、かさ歯車、2段減速平歯車装置を経て片側の動輪に伝わり、さらに駆動軸(ねじり軸)を介して反対側の動輪に伝達される(車体装荷式直角カルダン軸駆動方式)。 ブレーキは、主電動機を用いる電気ブレーキ(発電・回生併用)があり、これで低速域まで減速。それ以降は機械ブレーキであるバネ作用・油圧緩め式のディスクブレーキ(主電動機出力軸に設置)を用いる。これらの常用ブレーキのほかにも蓄電池駆動の電磁吸着ブレーキ(トラックブレーキ)を保安ブレーキとして備える。 ===屋根上機器=== 床下機器は主電動機や駆動関連機器のみと最小限に留められており、主要な機器は屋根上に配置されている。 集電装置はシングルアーム式パンタグラフ(形式名:FB500.80)で、A車先頭部寄りに設置。主電動機への供給電力を制御する主制御装置はIGBTによるVVVFインバータ制御方式であり(三菱電機製、形式名:MAP‐102‐60VD140)、1群のインバータにつき1台の主電動機を制御する(1C1M方式)。設置場所はA車屋根上の連結部寄り。 そのほか屋上に配置された機器としては、冷房装置の室外機(各車、冷房装置の形式名はCU206SA)、蓄電池(B車)、補助電源用SIV装置(B車)がある。 ===その他機器=== 運転席は中央部にあり、9700形と共通化された右手扱いのワンハンドル式マスター・コントローラーを備える。車体形状の都合で9700形にあったような後方監視用のバックミラーが設置できなくなったため、代用として車外確認用のカメラを設置しており、運転台左右にモニターがある。2010年度(平成22年度)になって、他車と同じく常時記録型ドライブレコーダーが新設された。 車体前面と側面の行先表示器はLED式を用いる。 ===竣工と運行開始=== 0801AB・0802ABともに、2009年(平成21年)3月19日付で竣工した。導入事業費は合計5億円。同年4月1日のダイヤ改正より営業運転に投入され、改正当日は0801ABが運用に入った。 この本形式2編成導入により熊本市電の超低床電車は9700形とあわせて7編成に増加し、予備を除いて6編成が毎日運用に就く体制が可能となった。1時間あたりでは1往復ずつの増便になる計算で、運行本数は2系統(現A系統)では毎時2 ‐ 3本、3系統(現B系統)では毎時1本(朝夕ラッシュ時毎時2本)へと増加した。また本形式導入の代替で、連接車5000形が2編成廃車された。 ==COCORO (0803AB)== 以下、2014年に導入された2次車(0803AB、愛称「COCORO」)について記述する。 ===運行開始までの経緯=== 1次車導入後、熊本市交通局は経営の悪化により2008年度末には資金不足額が55億円に達して資金不足比率が198%を超えるにいたり、地方公共団体の財政の健全化に関する法律に基づいて2009年度から2015年度まで7年間にわたる「経営健全化計画」を策定し、経営の健全化に取り組むこととなった。同計画では、軌道事業(市電)については厳しい経営の中でも魅力を高めるためとして新型超低床車両の導入が盛り込まれた。 新型車両のデザインは、熊本市観光文化交流局シティプロモーション課の発案で九州新幹線800系などJR九州の列車デザインで実績がある工業デザイナー水戸岡鋭治に依頼することとなり、同課がデザイン作成費用を、交通局が車体制作費をそれぞれ予算化。さらに車両の導入は当初予定の2013年度(平成25年度)からデザイン作成期間を考慮して2014年度(平成26年度)となり、熊本市電開業90周年の記念事業との位置づけになった。2013年(平成25年)4月、熊本市の会合で新型車両は現在運行中の新潟トランシス製車両(0800形の増備)によると決定。同年8月、デザイン作成に関し市シティプロモーション課と水戸岡が代表を務めるドーンデザイン研究所との間に契約が締結された。水戸岡が熊本市交通局の車両デザインに携わったのは先に9700形2・3次車の例がある。また新潟トランシス製超低床車では岡山電気軌道9200形「MOMO」の例がある。 翌2014年(平成26年)3月30日、熊本市現代美術館において、水戸岡や熊本市長の幸山政史(当時)らにより水戸岡のデザイン展(6月より9月まで)の告知とともに新型車両のデザインと愛称が発表された。愛称の「COCORO」(こころ)は、子供から高齢者までさまざまな乗客を迎える「思いやり」や、熊本市を訪れる観光客への「おもてなしの心」を表すという。導入費は約3億1900万円で、通常の車両より3000万円ほど高くなった。 車体の製作は同年1月より新潟県にある新潟トランシスの工場で進められ、8月末に完成、9月1日トレーラーに載せられて熊本へと出発した。熊本への到着は9月4日で、大江車庫で線路上に降ろされた後、ほかの車両に牽引されて上熊本の車両工場へ移送された。同工場ではエンブレムの取り付けなど最終調整が実施されている。12日には報道関係者向けの内覧会を開催。熊本市現代美術館(市電沿線、通町筋停留場近くにある)で開催中の水戸岡のデザイン展最終日にあたる15日には試運転を兼ねたサプライズ運行があった。竣工は30日付。 2014年10月3日午前10時より、大江車庫において「COCORO」の出発式が開催された。テープカットに続く市長や水戸岡ら来賓を乗せた記念列車運転の後、同日午後より営業運転が始まった。 ===車体デザイン=== 車体の塗装は黒に近いメタリックの濃茶色一色で、熊本城の城壁をイメージしたもの。さらに金色のロゴとシンボルマークを車体各所に配することで、在来車両との差異化を図っている。シンボルは3つのハートマークからなり、それぞれ熊本市の都市ブランドコンセプトである「水・緑・情熱」を表すという。またロゴはやさしさを感じられるようにとの狙いで丸みを帯びた形となった。 車体前面には、愛嬌のある「どんぐり目玉」をイメージした、少し飛び出した丸いヘッドライトが並ぶ。車体側面には夜間走行時に周囲を走る車両などへ存在を示すためオレンジ色に発光するするLEDの表示灯を片側10個ずつ、計20個設置している。表示灯のメーカーはスイスのEAO。 車両の寸法については、連結部を除いた各車の全長が8.77メートル(編成全長は18.46メートル)となり、1次車よりわずかに長くなった。車体幅は2.4メートル、パンタグラフ折りたたみ高さは3.745メートルで、1次車と同一である。 ===客室デザイン=== 内装は「森と水の都くまもと」を表現する狙いで可能な限り木材を使用する。その上、2両編成であることからそれぞれの車両で異なった車内空間とするために、明るい車内空間を形成する「メープル材」(B車)と、落ち着いた雰囲気を形成する「ウォールナット材」(A車)を車両によって使い分けている。木材の使用箇所は床板、座席、吊り輪など。座席にはウレタンを入れた皮製の座布団が取り付けられている。 各車中央部のクロスシート部分には、「短い乗車時間でもちょっとした旅行気分を味わえるように」との理由で着脱可能なテーブルが備わる。このテーブルの上にはステンレス板を支えとしてキャンディトレイが載っている。座席配置の見直しにより座席定員は38人となり、全体の定員は1次車の82人から86人に増加した。 天井はアルミニウム合金板にメラミン樹脂のエナメル塗装を施したもの。各車両に14個ずつ、合計28個のダウンライトを設置し、側壁にも6個ずつ計12個のLED灯を備えていることから、夜間は車内があかるく、外からは車内の様子が明るく浮かびあがって見えるようになっている。 各車車内の前後には停留場や運賃を案内する液晶ディスプレイが設置されている。レシップ製で、外国人観光客に対応するため日本語のほか英語・韓国語・中国語の4か国語に対応する。 ===機器の変更点=== 機器類では主電動機が東洋電機製造製のかご形三相誘導電動機(形式名「TDK6413‐C」)へと変更されている。出力は100キロワットのまま。また2012年4月以降の新造VVVFインバータ制御車に設置が義務付けられた運転記録装置を装備する。 ===運用=== 「COCORO」の運用は独立した固定ダイヤで行われている。2017年4月改正時点では、 平日は、上熊本車庫を出庫してまず上熊本駅前からB系統として健軍町へ向かい、その後A系統として健軍町 ‐ 田崎橋間を6往復する。最後に健軍町からB系統として上熊本駅前へ戻って入庫する。土曜は、終日B系統に入り上熊本駅前 ‐ 健軍町間を7往復する。日曜・祝日は、出庫してまず上熊本駅前から辛島町折返しで田崎橋まで運行し、その後A系統として田崎橋 ‐ 健軍町間を6往復する。さらに田崎橋から健軍町まで運行した後、B系統として上熊本駅前へ戻って入庫する。という運用が組まれている。 ==車掌の乗務について== 本形式は9700形と同様に、運転士の負担軽減のため車掌が乗務する。元は「Lパーサー」(「L」はライトレール (Lightrail) の頭文字をとったもの)という名称であったが、2011年(平成23年)3月の九州新幹線全通にあわせ「トラムガイド」へと改称された。このとき業務に観光案内が追加されている。車掌が乗務するため、前後どちらのドアからも乗降が可能である。 =清水局事件= 清水局事件(しみずきょくじけん)は、1948年(昭和23年)に静岡県清水市で発生した書留郵便の窃盗事件である。無実の罪に問われた冤罪被害者が、自らの手で真犯人を探し出し、事件を解決に導いた稀有な事例として知られる。 もはや裁判では有罪を覆すことができない、と考えたAと弁護人は、上告審までの僅かな期間に自力で真犯人を捕えることを決意した。そして独自の調査の結果、Aはかつての捜査でアリバイがあるとされていた人物に、アリバイが成立しない可能性があることを突き止めた。Aによるこの調査が契機となってその人物は検挙され、書留窃盗事件の真犯人であることが判明した。そして、事件発生から4年が経過した1952年(昭和27年)4月、最高裁は自判によりAに無罪判決を言い渡し、事件は冤罪と認められた。 1948年2月、清水市の合板会社へ宛てられた小切手の書留郵便が、逓送中に何者かに盗まれ、さらに偽造印と架空の名義で換金されていることが発覚した。捜査の結果、清水郵便局局員であった当時22歳の男、Aが容疑者として浮上した。Aには犯行日のアリバイがなく、複数の目撃者もAが犯人に似ていると証言し、4度に渡って行われた筆跡鑑定の結果も、そのすべてがAを犯人であると指し示した。Aは一貫して無実を訴え続けるも、一審と控訴審ではともに懲役1年6か月の実刑判決を受けた。 ==事件と捜査== 1948年(昭和23年)2月4日、静岡県清水市に在する合板会社、富士合板株式会社は、神奈川県の取引先へ商品を発送した。取引先はこれに応え、15万8991円の代金を、7万9491円の自由小切手と7万9500円の封鎖小切手に分けて、同月6日に速達の書留郵便で静岡銀行清水支店へ送金した。 ところが、小切手が一向に到着しないことを不審に思った富士合板が銀行へ問い合わせると、7万9491円の自由小切手は同月10日の時点で、すでに何者かによって換金されていることが発覚した。その小切手の裏書には、 清水市宮加三〔略〕番地 富士合板株式会社 高尾隆 という架空の名義とともに会社の偽造印が捺されていたため、同月16日に富士合板は清水警察署へ被害届を提出した。清水署はこれを、逓送中の書留が郵便局員によって窃取された事件であると推定し、捜査を管轄の名古屋逓信局へ委託した。 ===書留の行方=== 名古屋逓信局の調査によって、小切手を送った書留の行方について次のような情報が得られた。すなわち、書留は2月6日に神奈川郵便局から東京発の鉄道郵便で清水郵便局まで発送されている。同日に神奈川局から清水局へ発送された書留はこの他に5通あったが、神奈川局はこれらを3通ずつ2つの郵袋に分けて発送した。しかし、清水局へは郵袋が1個しか届かず、さらに、未着の郵袋中の書留のうち富士合板宛のもの以外の1通も紛失していることが判明した(残る1通は後日、普通郵便に混じっているところを静岡局で発見され、清水局へ回送された)。 書留のうち1通が普通郵便に混じって発見されていたことから、窃盗は郵便列車内で書留が普通郵便に紛れてから、書留が普通郵便とともに静岡局あるいは清水局へ着くまでのいずれかの段階で、内部犯により行われた、と逓信局は推測した。 ===目撃証言と筆跡=== 小切手が換金された静岡銀行清水支店によれば、換金に訪れたのは年齢や人相は分からないが若い男のようで、その日時は2月10日の10時30分頃であったという。 一方、富士合板の偽造印を作成したのは静岡市の印判屋であることが逓信局の調べで分かったが、印判屋の店主と店員によれば、印の注文に訪れたのは23歳程度、身長5尺1寸ほどの痩せ型の男で、2月8日の10時頃から15時頃にかけて3度来店し、「高尾隆」の印と「富士合板株式会社」の印の注文と受け取りを行ったという(下表参照)。さらに、その男は自分が清水の人間であると語り、店の帳簿にも「清水市入江岡〔丁目以下略〕高尾隆」という実在の地名を記入している。以上のことから逓信局は、犯人が清水に土地鑑のある人物、すなわち清水局の局員であると推定した。 そして、局員の中で整理前の郵便に触れる機会があり、なおかつ2月8日と10日の両方のアリバイがない唯一の人物として、当時22歳の通信監視員、Aが浮かび上がった。逓信局が印判屋の店主と店員にAの面通しをさせたところ、2人は揃ってAが犯人に似ていると証言し、店主は「オーバーを着てズボン軍靴を履いた後ろ姿はそっくりである」「注文の印判原簿をもって、私があなたにこの印章の注文を受けたとつきつけてもいい」とまで断言した(ただし、実際には店主は犯人と応対しておらず、犯人の姿も店から出てゆく後ろ姿しか見ていない)。 これらの証言に加え、犯人が印判屋の帳簿に記した「清水市入江岡〔略〕高尾隆」という文字をAにも書かせてみたところ、その筆跡も帳簿や小切手の裏書にある犯人のものと酷似していたため、逓信局は2月27日にAの身柄を清水警察署へ引き渡した。 ===取調べ=== 清水署へ引き渡されたAは即日緊急逮捕され、2日後に静岡地検へ送致された。 清水署と地検の調べに対してAは容疑を否認したが、2月8日と10日のアリバイについての主張は曖昧であった。また、逮捕から6日目の3月3日には、「普通郵便の区分をしていた際に発見した書留から小切手を盗み換金したが、すべて賭博で擦った」という内容の自白を行っている。また、清水局の配達区分棚は、富士合板行きのものとAの自宅行きのものが隣接していて、さらに局員は自分宛の郵便物を自由に持ち帰ることができたため、Aが配達先をごまかすことは容易であった。 しかし、翌日にAはこの自白を撤回した。当局もこの自白を重視せず、聴取書も作成していない(自白の存在も一審公判でA自身が証言したことにより初めて明らかになった)。 Aの尋問を行う一方で、清水署は各物証についての筆跡鑑定を、3月5日に県内の書家に対して依頼した。依頼を受けた書家は、小切手の裏書、印判屋の帳簿、印判屋に犯人が残したメモ書き、そしてAの筆跡の4点を比較した結果、そのすべてが同一人によるものである、と結論した(下表参照)。しかしAは、犯人の筆跡は自分のものに似ているが自分は犯人ではない、として容疑を否認し続けた。 ==一審== 3月10日、Aは窃盗罪および詐欺罪で静岡地裁へ起訴された。公判は同月22日から開始され、Aの弁護人となったのは、後に島田事件の主任弁護人となったことで知られる鈴木信雄であった。依頼を引き受けた当初の鈴木は、数々の証拠が示している通りにAが犯人ではないかと疑っていた。しかし、接見の際も自身の潔白を訴えるAの真摯な態度を目にして、鈴木はAが無実であるとの確信を持ったという。 ===証言=== 一審では多くの証人が出廷した。Aの同僚らは、Aは信用のおける人間であると証言した。Aの家族も、2月8日にはAは11時頃まで家にいて、また事件後に金回りのよくなった様子もない、と述べた。一方で、印判屋の店員は捜査段階と同じく、Aは2月8日に来店した男に似ている、と証言した。弁護側は、店員と店主に対して嘘発見器を使用して尋問することを求めたが、裁判所はこれを却下した。 そしてこれら証人のうち、鉄道郵便局の監査役が次のような証言を行っている。すなわち、事件発生からしばらくして、件の書留が逓送された列車の乗務員の1人が消息を絶った。その局員は入局1か月目の新人であったが、窃盗の前科があり素行も不良であったという。しかし、この局員は2月8日の9時過ぎに東京駅で乗務に就いていたことが確認されており、そこから1時間ほどで静岡市の印判屋に姿を現すことは不可能であるとされたため、捜査の対象とはならなかった。 ===アリバイの主張=== 4月28日、Aは保釈金を納入し身柄を解放された。そしてその直後、新たに2月8日のアリバイを申し立てる上申書を提出した。それによると、当日は市内の映画館へ向かおうと11時頃に家を出たが、上映時間まで間があったので清水局へ顔を出して、しばらく局の電信業務を手伝った。そして12時頃に映画館へ向かい、そこで偶然居合わせた同僚と映画を鑑賞した。その後は同僚と別れて15時頃に再び局へ顔を出し、16時前まで再度電信業務を手伝ってから帰宅したという。 Aの同僚は、Aと一緒に映画を見たのは確かだが、それが2月8日であったかは確実でないと証言した。しかし清水局の2月8日の記録には、Aが電信を打っていたと主張する時刻の原簿が、Aのものと思われるサイン入りで残されていた(清水局では、電信課員以外の者が電信を行った場合には、原簿の隅に姓の頭文字を記入することになっていた)。そして、清水局から印判屋までは電車で40分から1時間かかることから、自分にはアリバイが成立している、とAは主張した。 ===筆跡再鑑定=== 争点の一つとなったAの筆跡について、静岡地裁は職権で東京地裁に再鑑定人の選任を嘱託し、東京地裁に選任された筆跡印影鑑定人は5月24日付で鑑定結果を提出した。そして再鑑定の結果はまたしても、犯人が残した3点の筆跡はAの筆跡と一致する、というものであった(下表参照。この結果を聞いたAは、「この手はどうして悪い人間と同じ様な字を書くのだ」と自らの手を叩いて嘆いたという)。 ===一審判決=== 以上の審理を経て事実調べと証拠調べは終了し、検察側はAに懲役2年6か月を求刑した。対する弁護側は、筆跡鑑定はあくまで推測にすぎないのであって断定的な証拠ではない、とAの無罪を主張した。そして7月19日の第7回公判において、判事の小倉明により判決は言い渡された。 主文 被告人ヲ懲役一年六月ニ処ス 未決勾留日数中三十日ヲ右本刑ニ算入ス 訴訟費用ハ全部被告人ノ負担トス 詐欺ノ点ハ無罪 判決は、目撃者の証言と筆跡鑑定の結果、そして1日だけとはいえAが犯行を自白していることを理由として、Aに窃盗罪で懲役1年6か月の実刑判決を下した(詐欺罪については、窃盗行為に吸収されるとして罪数の構成を認めなかった)。判決を不服としてAは即日控訴した。 ==控訴審== 控訴審は東京高裁刑事第九部に係属することとなり、公判は一審判決から2年以上が経過した1950年(昭和25年)8月14日に開始された。 ===アリバイの検証=== 控訴審で新たな証言を行ったAの近隣住民は、2月8日の11時前にAが自宅にいるのを見た、と証言した。なぜ2年以上前の記憶がそれほど克明なのか、との問いに対してその住民は、2月8日は田舎で神送りの祭があり、その準備をしていたため印象に残っている、と述べた。 さらに、一審でAが自身のアリバイの根拠とした清水局の電信原簿についても、検討が加えられた。2月8日の電信原簿のうち、隅にAの姓の頭文字のサインが入ったものは、 11時27分から11時52分までの発信 / 19通13時29分から13時46分までの発信 / 9通15時22分から15時50分までの発信 / 12通の計40通あった。清水局にはAと同じ姓の頭文字を持つ経理係員がいたが、11時台と15時台の発信がAによるもので、13時台の発信が経理係員であるという点について、Aと経理係員の両者の主張は一致した。 ===筆跡再々鑑定=== Aのアリバイを補強するこの証言に対し、検察側はこれまでの鑑定試料の再々鑑定に加えて、電信原簿のサインの筆跡鑑定を行うことを求め、裁判所はこれを許可した。鑑定人となった警視庁刑事鑑識課技官の町田欣一は、これまでの鑑定とは異なり拡大写真を使用した科学的な分析を行い、12月25日に鑑定結果を提出した。その結果は、犯人の残した3点の筆跡がやはりAと一致するのみならず、Aが自身の筆跡であると主張していた11時台と15時台の原簿の筆跡も、経理係員のものとされる13時台の原簿のそれと同一である、というものであった(下表参照)。 3度目の鑑定もAの不利に働いたことを受け、弁護側は4度目の鑑定を裁判所へ申請した。裁判長はこの要請に「鑑定料がもったいないでしょう」と呆れたが、結局は弁護側の申請した鑑定人である、科学捜査研究所写真課課長の高村巌による再鑑定を許可した。高村もまた拡大写真による分析を行い、1951年(昭和26年)4月6日に鑑定結果を提出した。そしてその結果は、従来のものと同様にAの筆跡が犯人のものと同一であることを肯定し、Aが発信したはずの15時台の電信原簿の筆跡も、経理係員による13時台の原簿の筆跡と一致する、というものであった(下表参照)。 ===控訴審判決=== 弁護側が選任した鑑定人すらも、Aが犯人であることを示す結論を出したことは、Aにとって致命傷となった。検察側は、Aが犯人であることは明らかであるとしながらも、Aに改悛の情がまったく見られないとして付帯控訴し、懲役2年を求刑した。 しかし、なおも鈴木は、Aは無実である、誤っているのは筆跡鑑定の方であると信じ続けた。最終弁論においても鈴木は、「判決の言い渡しを半年延期していただきたい。さすれば、被告人と弁護人とで真犯人を捕えて裁判長の面前に竝し来ることができる」と言い張った。だが、この「一世一代のハッタリ弁論」は受け入れられず、4月30日の第9回公判において、裁判長の中野保雄により控訴審判決は言い渡された。 主文 被告人を懲役一年六月に処する。 原審における未決拘留日数中参拾日を右本刑に算入する。 当審及び原審における訴訟費用は全部被告人の負担とする。 判決は、一審と同じく懲役1年6か月の実刑であった。有罪の理由もやはり自白の存在と筆跡鑑定の結果であったが、弁護側のアリバイ立証は排斥され、筆跡鑑定の結果も、電信原簿についての部分のみ排斥された。 ==真犯人の捜索== 控訴審判決日の夜にAは、こうなった以上は1年半後に釈放されてから自分で真犯人を探し出すより道はない、との覚悟を語った。これを聞いた鈴木も、このままAを服役させておめおめと弁護士を続けることはできない、もしも有罪が覆らなければ、自分は帰郷して農民に戻る、と決意した。そして鈴木は、もはや裁判で勝ち目はないと知りながら、ただ時間稼ぎのためだけに、翌5月1日に上告を申し立てた。 私が此の世の中から姿を消せば、〔弟妹達が〕将来幾分とも、幸せになれるのではなかろうかと思いペンを持ち涙を流したこともあつたのであるが、しかし、幼い妹達のことを考えると、可愛さに死の気持ちは一変に崩れて死んではならない、仮令、前科者の汚名を着てもこの親弟妹には信じて貰えるのだから、絶対に生きなくてはならない、まして貧乏の我が家のことで蓄えは無かつた。 〔中略〕 この半年足らずの間に最後まで調べ尽すことだ。死んだ気持ちで調査に当れば、どんなことでも辛抱出来るはずだ、岩の下草の根をかき分けても犯人を探し出し裁判官の目の前に突き出し潔白の明しを立てようと覚悟は決つても現実は簡単に行かなかつた。 ― 1954年(昭和29年)にAが静岡地検へ宛てた感想録より 自力で真犯人を探し出すと決意したAと鈴木が最初に疑いを向けたのは、書留の本来の宛先である富士合板であった。2人は富士合板の従業員70人分の筆跡を「いろいろと手をつくして」入手したが、犯人の筆跡に近いものはなかった。従業員らの顔写真を、見合い話を作り出してまで収集したが、それらしき人相の者も見つからなかった(この頃の捜査についてAは「疑つた点だけでも申し訳なく思つているので、詳細については記したくない」と、多くを語らない)。 ===発見とアリバイ崩し=== 次に疑いが向けられたのは、書留が逓送された鉄道郵便車の乗務員、中でも事件後に消息を絶っていた当時21歳の乗務員、Xであった(上記参照)。事件当時の記録が散逸してしまっているなか、上京したAは関係者を訪ね歩き、8月になってついにXの現住所を特定した。素行不良者であるXのこと、何かしらの記録が残ってはいないか、とAは近郊の警視庁世田谷署横根駐在所を尋ねた。すると、偶然にも静岡県人であった駐在所巡査はAの境遇にいたく同情し、さらに3年前に知人の東京鉄道郵便局局員から、件の書留窃盗事件について相談を受けていたことも思い出した。巡査からXを調べてみると約束されたAは、一度清水へ戻った。 しかしながら、かつての捜査によれば、そのXは2月8日の9時過ぎに東京駅にいたという完璧なアリバイがある点が、Aには疑問として残っていた。そして、今までの裁判では犯人の印判注文日が2月8日とされていたが、その日付自体が誤っているのではないか、という可能性に思い至った。印判屋へ出向いてその点を追及するAに対し、店主は、犯人は2月8日に来店したとあくまでも主張した。しかし店の原簿については、一日ごとに記帳するのではなく、記憶を頼りに数日分を纏め書きすることもある、と認めた。 そこでAは再度上京し、物証である印判原簿を東京高裁で直接に閲覧した。そして、記帳に使用された筆記具の変化やインクの濃淡、線の太さの違いから、原簿が必ずしも規則的には書かれていないことを発見した。Aは、印判屋の店主と店員は不正確な原簿の日付をそのまま証言したに過ぎない、犯人が実際に来店したのは2月9日であり、Xにアリバイは成立しない、と結論した。 ==解決== Xのアリバイが成立していない可能性がある、との報告をAから受けた横根駐在所の巡査は、管内で発生していた他の窃盗事件についての取調べも兼ねて、9月6日にXを駐在所へ出頭させた。管内での窃盗についてXの聴取を行う傍ら、巡査は3年前の書留窃盗事件について水を向けた。すると、Xは「そのことか」と頭を掻いて、その場で書留の窃盗についてすべてを自白した。 ===真相=== 自白によれば、1948年2月6日、下り郵便列車で乗務に就いていたXが車内を清掃していると、列車の揺れで区分棚から1個の書留郵袋が床へ落ちたという。しかし、中の3通すべてを盗めば発覚すると考え、1通を普通郵便の棚に戻し、1通は金目のものでなかったので後に破り捨てた。 残る富士合板宛の1通を窃取したXは、2月8日に清水へ赴いて払出銀行や富士合板の下見を行い、翌9日に静岡市の印判屋で店主の妻に「高尾隆」と「富士合板株式会社」の印を注文した。取調べを面倒に思った店主の妻は、証言を店員に任せきりにしており、自分が見てきたような証言を続けていた店員は、実際には犯人の応対に出ていなかった。原簿に記した「清水市入江岡」という住所も、単に昔の交際相手の関係で知っていた清水の地名を使ったに過ぎないという。 翌10日にXは銀行で7万9491円の自由小切手を換金したが、26日までにほとんどを遊びに使い果たし、その後東京へ戻った。7万9500円の封鎖小切手についても某人に現金化を頼んだが、その後行方知れずになったという。 自白の内容はその後の捜査によって裏付けられた。印判屋店主の妻は、XがAよりも犯人に似ていると証言し、新たに行われた筆跡鑑定でも、小切手の裏書とXの筆跡は一致するとの結果が出た。1951年11月26日に東京地裁は、横根駐在所管内での窃盗事件について懲役1年6か月、書留窃盗事件について懲役1年の有罪判決を即決でXに言い渡した。Xは控訴せず、判決は確定した。 ==上告審判決== Xの有罪判決から4か月後の1952年(昭和27年)3月27日、最高裁第一小法廷にて、Aに対する上告審公判が開始された。弁護側は、無辜の処罰が憲法違反である旨の上告趣意を述べ、検察側もまた、Aが犯人でないことは明らかであるとして、刑事訴訟法第411条に基づき自判による無罪判決を求めた。 そして、事件発生から4年余りが経過した1952年4月24日、裁判長の斎藤悠輔以下4名の全員一致により、破棄自判による無罪判決がAに言い渡された。 主文 原判決を破棄する。 被告人は無罪。 この判決は、本来は再審事由について定めた新刑事訴訟法第411条第4号を、上告理由として受け入れている。しかしながら、再審事由を上告理由と認める規定は旧刑事訴訟法第413条にあるのであって、刑事訴訟法施行法第3条の2も、上告理由については新刑訴法を適用するよう定めている。また、仮に旧刑訴法に基いて再審手続きを進めるにせよ、本件上告審は旧刑訴法第506条の定める再審開始決定手続きのみを行い、同第511条の定める審判手続きを省略したとされるなど、この上告審判決には自判を行う法的根拠についての理論的不備が指摘されている。 ==その後== 最高裁での無罪判決が確定し、Aは2万4800円の刑事補償を受け取った。無罪判決言い渡しの日、Aは同僚たちに抱きかかえられながら、即日清水局へ復職した。1954年にAは、事件後も自分を信じ、支え続けてきた女性と結ばれた。結婚式には鈴木も出席したが、その祝辞は涙で言葉にならなかったという。 後に最高検刑事部が取りまとめた報告書『起訴後眞犯人の現われた事件の検討』では、この事件は 偶然、AとXの容貌、服装、筆跡までが類似しており偶然、Aの勤務状況が書留の窃取に都合のよいものであり偶然、Aにアリバイがなく偶然、Xに清水市の土地鑑があったという不幸の重なり合いが招いた、極めてまれな事例である、と分析されている。しかし、それでもなお報告者は、捜査の素人である逓信局の報告を無批判に踏襲し、何らの裏取りも行わずAの逮捕、起訴に至ったとして、当時の警察、検察を厳しく批判している。そして、ただ独力で事件を解決せざるを得なかったAの苦闘は「ひしひしと私どもの胸に迫るものがあり、烈しく心を打たれるのである」と報告者は述べている。 裁判において正攻法で無罪を勝ち取ることができなかったこの事件を、鈴木は「弁護士としては失敗の記録である」と回顧している。しかし、Aは「今ある私の人生は、先生から頂いたものであると深く肝に銘じている」と鈴木に対する感謝を語っている。 =エジプト先王朝時代= エジプト先王朝時代とは、エジプトを統一する王朝(初期王朝時代)が登場する以前の古代エジプトを指す時代区分である。 現在のエジプト地域では50万年前には人類の痕跡が残されているが、歴史学の見地からは先王朝時代の始まりがいつであるとするのか明確ではなく、考古学においては農耕の開始をもってその開始とするのが代表的な見解となる。本記事ではエジプトにおける農耕・牧畜の始まりからエジプト初期王朝時代の始まりとされる第1王朝の登場までを概観する。ただし、先王朝時代の定義について、特にその開始について統一的な見解が存在するわけではない事に注意されたい。 ==自然環境と終末期旧石器文化== 現在では広大な砂漠地帯となっているナイル川西方の地域は、12,000年前頃から7,000年前頃まで、第4湿潤期と呼ばれる湿潤な時代に入った。湿潤と言っても年間降水量は200mm前後であったとみられるが、スーダン北部からエジプト南部の地域においては植物が繁茂し、ノウサギ、ガゼル、オリックス等が生息していた。この時期は考古学的には「終末期旧石器時代(Terminal Palaeolithic)」または「続旧石器時代(Epipalaolithic)」に分類され、現在砂漠となっている地域にも人類の居住が確認されている。特に夏季の降雨の後に水たまりができる低地や、比較的浅い位置に地下水が存在する場所にその居住は集中している。現在の西部砂漠地方にあるナブタ・プラヤ遺跡周辺で終末期旧石器時代の遺跡から発見される人類が捕獲した動植物の遺存体にはノウサギやガゼルの他、ダチョウの卵や鳥類の骨片、アカシア、ギョリュウ、ナツメヤシ等が含まれており、現在より遥かに生物密度の大きい当時の環境を証明している。 ナイル川中流域(現在のスーダン中部)でも多数の集落が形成されている。このナイル川中流域の遺跡から発見された文化はカルトゥーム(ハルツーム)中石器文化(Khartoum)と呼ばれている。このカルトゥーム中石器文化の遺跡からエジプトで最も古い段階の土器が発見されており、また豊富な動植物資源、水産資源に支えられて定住も開始したと考えられている。 7,000年前頃から、アフリカ大陸北東部では乾燥化が徐々に進行し始めた。これに合わせて人類の生活環境も、年間を通して水が手に入るナイル川流域が中心となっていった。そして、ナイル川流域での農耕の開始をもって新石器時代の開始とされている。考古学的見地からはこの時点を先王朝時代の開始とする見解がある。 ==農耕・牧畜の始まり== かつての発掘調査ではナイル川流域の農耕、牧畜は紀元前6千年紀後半に突如として始まるような印象が持たれていた。その後、20世紀後半の調査によりナイル川西方の砂漠地帯にこれを説明する遺跡が多数発見され、ナイル川流域の農耕・牧畜文化は、現在では砂漠化している西部砂漠地方に起源を持つ可能性が議論されている。しかし、西部砂漠地方とナイル川流域の関係は今だ明瞭には理解されていない。 アフリカ大陸北東部における牧畜の発生については、ウェンドルフらが紀元前7000年頃にウシの家畜化が独自に始まるとする説を唱えている。ヒツジとヤギについては西アジアで家畜化がなされたことがはっきりしている。ヒツジとヤギは紀元前6000年期後半に導入された。 一方、農耕(植物栽培)については現在確認できる最古の例は紀元前5000年頃のファイユームで発見された麦であるが、紀元前6000年頃にはソルガムやミレットが現在の西部砂漠地方で栽培されていたとする説がある。 ==各地域の初期農耕文化== 古代エジプト人は今日のエジプトの土地を上エジプト(タ・シェマ)と下エジプト(タ・メフ)と言う2つの国、あるいは2つの土地に分けて理解していた。上下という表現は、ナイル川の上流・下流に対応し、上エジプトが南、下エジプトが北である。ナイル川が一筋に流れ、ナイル川の狭隘な沖積平野と河岸段丘を生活の舞台とし、そこから僅かにでも離れると不毛の砂漠地帯が広がっていた上エジプトと、ナイル川の広大なデルタ地帯が扇状に広がり、一面の緑が広がり海に面した下エジプトでは、その自然環境に根差した生活習慣や文化にも当然相違があり、先王朝時代にはこの上下エジプトでそれぞれ独自の文化が発達した。その後エジプトが統一された後も、この2つの土地の差異はエジプト史に大きな影響を与えた。 また、上エジプトと下エジプトの結節点近くには、ファイユーム低地地方が存在した。ナイル川の分流が流れ込んで形成されたカルーン湖を中心とするこの地方は、中王国時代に干拓が行われるまで、広い湿地帯が広がる独特の景観が形成されており、継続的に人類の生活の舞台であった。 ===ファイユーム=== ====ファイユーム文化==== エジプトにおける最古の確実な農耕の痕跡はこの地方で発見されており、ファイユーム文化と呼ばれている。放射性炭素年代測定によれば紀元前5230年頃から1,000年あまり継続した。剥片石器を中心とする石器を用い、穀物を栽培、ヒツジとヤギを飼育していた。漁労・狩猟も未だ重要であり、ガゼルやハーテビースト、カバ、ワニ、カメなどの動物骨、魚類の骨が発見されている。ウシも発見されているが、家畜化されたものであるかどうか不明である。ファイユーム文化はエジプトで初めて農耕・牧畜を導入した文化ではあったが、これによって生業は多様化したものの、未だ本格的な生産経済に基盤を置く文化であったとは言い切れない。このファイユーム文化と、終末期旧石器時代の文化の間には1,000年以上の時間的隔たりがあることが判明しており、学者の中には農耕・牧畜の技術を持った人々が外部からファイユームに移動してきた結果、古代エジプト王朝の基礎を築いたとする主張する者もある。 ===下エジプト=== ====メリムデ文化==== 現在のカイロの南西45キロメートルの地点、現在のワルダーン村近くにあるメリムデ・ベニ・サラーム遺跡では、ファイユーム地方と並ぶ時代の新石器文化が発見されており、遺跡の名前からメリムデ文化と名付けられている。この遺跡から検出された石器等の史料はこの地方がシリア地方と交流を持っていた事を示し、集落の形態にもシリア地方、メソポタミア、キプロスと共通する要素があると見られる。エンマー小麦、六条大麦、豆類、亜麻等を栽培し、ウシ、ヒツジ、ヤギ、ブタを飼育していたことが知られる。またファイユームと同じく狩猟は重要であり、アンテロープ、ガゼル、カバ、ワニ、鳥類が捕獲されていたほか、多数の魚の骨が発見されている。また死者の頭を東側に向けて埋葬する習慣があったことから、この当時既に死者の埋葬について宗教的な習慣が確立していた可能性もある。メリムデ文化の絶対年代は不明であり、放射性炭素年代測定では紀元前4750年頃から紀元前4250年頃であるが、研究者の中にはこの年代は新しすぎると批判するものもいる。 ===オマリ文化=== カイロの南約20キロメートルのナイル川東岸にあるオマリ遺跡では、ファイユーム文化やメリムデ文化の最終段階と同時期に位置付けられる文化が発見され、遺跡の名前を取ってオマリ文化と呼ばれている。放射性炭素年代測定による年代測定では紀元前4600年頃〜紀元前4400年頃という年代が得られている。やはりエンマー小麦、クラブ小麦や大麦などを栽培し、ウシ、ヒツジ、ブタ、ヤギを飼育、野生の植物や動物を捕食していた。水産物もナマズやナイル・パーチ等が豊富に捕獲されていた。石器はフリントを用いた剥片石器が中心であるが、少数ながら石刃技法によるものも認められる。石皿等穀物を食するのに必要な道具類の数が少ないことから、ここでも穀物栽培は未だ補助的な役割を果たしていたに過ぎないと推測されている。オマリ文化はメリムデ文化と並行する時代であり、共通点も相違点もあることから、相互の関係については明確ではない。 ===マーディ・ブト文化(ブト・マーディ文化/マーディ文化)=== デルタ地帯付け根部分の東岸にあるマーディ遺跡から、メリムデ、オマリ文化に続く時代の文化遺構が発見され、マーディ文化と名付けられた。その後同種の文化がブト遺跡でも発見されたことから、マーディ・ブト文化とも呼ばれる。この文化は、先行するメリムデ文化やオマリ文化を引き継いで発展したものと考えられ、牧畜においてはロバ、ウシ、ヒツジ、ヤギ、ブタ、イヌが飼育されていたことが明らかとなっているが、特に重要なのは発見された動物骨の大半が飼育動物のものであることで、未だ狩猟は行われていたもののその重要性は大きく下がっている。ただし、漁労は非常に盛んであり多数の魚の骨が発見されている。遺跡において特徴的なのは楕円形をした半地下式の住居で、類似する形態の物がパレスチナ地方からも発見されており、その密接な関係を示唆している。また、農耕・牧畜のみならず銅製品の加工も行われていたことが明らかになっている。下エジプトで銅は得られない事から、周辺地域から原材料を輸入していた事を示すものであり、このこともマーディ・ブト文化の人々の周辺地域との関係の大きさを知る事ができる。 マーディ・ブト文化の遺跡は下エジプトの全域から発見されているが、ナカダ2期の終わり頃(紀元前3500年〜紀元前3300年)から次第に独自性を喪失し、上エジプトから広がったナカダ文化が下エジプトに定着していく。 ===上エジプト=== ====ターリフ文化==== ターリフ文化は上エジプトで初めて土器を導入した文化である。放射性炭素年代測定では紀元前5200年頃という年代が得られている。この文化の居住跡は炉と石器、土器しか発見されず、恐らく人々は移動型の生活を送っていたのだろうと推定されている。この文化では農耕の痕跡は発見されていないが、アル=サラムニ遺跡からこの文化の最末期と同じ時代かやや新しい時代の家畜化されたウシの骨が出土しており、これが上エジプトにおける最も古い牧畜の痕跡である。 ===バダリ文化=== ターリフ文化に続く文化が、マトマールからハマミーヤまでのナイル川東岸でまとまって検出され、バダリ文化と名付けられた。先行するターリフ文化との関係性はわかっていない。バダリ文化は放射性炭素年代測定等から紀元前4500年頃から紀元前4000年頃とされる。バダリ文化に属する人々は砂漠の縁辺部に集団墓地を形成し、多量の副葬品を添えて死者を手厚く埋葬する習慣を初めてエジプトに導入した人々であった。遺体は基本的に南に頭を置いて埋葬され、土器や装身具、パレットなどと共に埋葬された。既にこの頃から階層分化が見られるという。また、生活の情報は非常に不完全であるが、エンマー小麦や六条大麦、亜麻の栽培が確認されており、家畜としてウシ、ヒツジ、ヤギを飼育し、ガゼル、ワニ、カバ、カメ等野生動物の狩猟も行っていた。この文化は農耕・牧畜を主体としながらも、野生動物の狩猟と漁労に補完されて成り立っていた。 ==ナカダ文化== 紀元前4000年頃登場したナカダ文化の遺跡は19世紀末に発見されて以来の調査でエジプト全域で発見されており、その数は主要な物だけでも50を数えるが、その発祥地は上エジプト南部のアビュドスからナカダ付近を中心とするナイル河谷であった。ナカダ文化は上エジプトのバダリ文化から発達したと考えられ、より一層農耕と牧畜に重きが置かれるようになっている。農業生産物としてエンマー小麦と六条大麦が最も頻繁に検出され、亜麻も発見されている。豆類やシカモア、イチジク、根菜等野生種も見つかっている。家畜としてヤギ、ヒツジ、ウシ、ブタの畜産が確認され、食肉や乳製品を供給した。ガゼルやカバ等狩猟による野生動物の捕食も確認されているが重要度は低かったようである。また非常にバリエーションに富んだ土器を生産しており、中盤に入ると轆轤製の物が登場しはじめる。 現在までに発見されているナカダ文化の遺物の多くは墓地の副葬品であり、その中でも最大の特徴がパレット(化粧板)と呼ばれる遺物が登場することである。このパレットは古代エジプト独特の遺物であり、その発展過程から古代エジプト史の流れを概観することができると考えられている。パレットはシルト岩と呼ばれる石で作成されており、目を保護するためにエジプト人が使用していたマラカイトなどの顔料を磨り潰すために使われた。初期のパレットは四角や円形などの単純なものであったが、次第に様々な装飾が加えられた儀礼用のものが作られるようになった。またナカダ文化の土器は後代の土器に比べ、極めて高品質であることが特徴である。これは副葬品として作成された土器が、高貴な人々のためのものであったので品質管理が行き届いていた結果であると考えられる。後の時代には一部の例外を除き土器は単なる日用品に過ぎなくなっていき、ナカダ期に比べて粗雑化していく。 ナカダ文化はやがて南北へ分布を拡大し、エジプト全域に広がっていった。 ===ナカダ文化の編年=== ナカダ遺跡においてナカダ文化を最初に発見したフリンダーズ・ピートリーは、墓の副葬品を中心とする出土品の詳細な分類によってナカダ文化の編年関係を表すSD法と呼ばれる編年法を開発した。更にナカダ文化を大きく3つの時期、「アムラー期」「ゲルゼ期」「セマイナー期」に分類した。このピートリーによって先鞭をつけられたナカダ文化の編年法はその後ウェルナー・カイザー等によって改良と議論が重ねられた。現在ではアムラー期はナカダ1期(紀元前4000年頃‐紀元前3500年頃)、ゲルゼ期はナカダ2期(紀元前3500年頃‐紀元前3300年頃)とされ、セマイナー期は存在が否定されている。更に第1王朝成立直前の時期はナカダ3期(紀元前3300年頃‐紀元前3150年頃)として再分類され、エジプト第0王朝とも呼ばれる。 ===社会階層の分化の進展=== ナカダ文化ではナカダ2期前半まで、次第に墓の平均的規模が大型化していくとともに大小のばらつきが大きくなっている。ナカダ1期では集落の大小に拘らず2つの社会階層(大型墓に埋葬される富裕層と小型の墓を持つ人々)が確認される。小型の集落よりも大型の集落で墓の大きさの格差はより顕著であり、大規模な集落ではエリート層が発達したために社会階層格差が増大していく様子がわかる。このような格差拡大は、ナカダ3期に入ると多くの集落で逆に縮小する傾向が起った。ナカダ3期には多くの集落で墓地の廃絶や縮小が確認され大半の墓地で社会階層分化が低下する。一方で中心的な集落遺跡では、他と隔絶する大型の墓が建造されるようになり、これが当時拡大した「王国」の支配者達の物であると考えられる。 ===大型集落(都市)=== このような中心集落としては最大の物がヒエラコンポリスであり、続いてナカダ、アビュドスが代表的な物である。古代エジプトでは隣接するメソポタミア地方のような政治的に独立した都市、あるいは都市国家は形成されなかった。しかし、政治的中枢、あるいは経済的中心としての大型集落はナカダ期に発達した。ナカダ期最大の集落遺跡ヒエラコンポリスは3600平方メートルの規模を持ち、メソポタミアの都市と比較しても充分な規模を持つ人口集住地であった。文化の名前として採用されているナカダでは2000基以上の墓が発見されている。アビュドスは後の第1王朝時代に集中的に王墓が造営される集落である。 ===周辺地域との関係=== ====ヌビア==== エジプトの南方に位置するヌビア地方では、ナカダ文化と同時期にヌビアAグループ文化と呼ばれる高度な文化が栄えていた。このヌビアで、ナカダ1期の終わり頃に下ヌビア地方を中心にナカダ文化からの搬出品が多量に認められる。主なものとしてスレート製のパレットや装身具、土器があるが、大量の農産物も輸出されたらしい。一方でナカダ期のエジプトがヌビアから輸入したものは現在あまり確認できていない。ヌビアで確認されているエジプトからの輸出品の量を考えれば、それが当時の経済に影響を及ぼすレベルであったと推測されるが、この物質的な交流の規模に比べエジプト内部に文化的影響を大きく与えていない。一方ヌビア側では当時の中心地であったクストゥール等から発見されたモチーフにヒエラコンポリス等で見られる王の意匠の採用や、ホルスと見られるハヤブサの図像等があり注目される。これらのエジプト風のモチーフが実際にはヌビア起源であるという説が提唱されたこともあったが、広く支持されることはなかった。 ===パレスチナ=== エジプト東方のパレスチナでは紀元前4500年頃からエジプトからの搬入品が出土する。しかし規模は小さくエジプトとの緊密な接触を示す証拠は少ない。パレスチナ南部でエジプトからの影響が大きくなるのは初期王朝時代に入ってからである。一方でエジプト側にはナカダ2期頃からパレスチナからの搬入品とその模倣品が多数出土するようになる。ナカダ文化に最も多大な影響を与えたのは、パレスチナで製作されていた波状把手付土器である。輸入品の数は限られるが、その模倣品である波状把手土器がナイル川下流域で作成されるようになり、初期王朝時代まで続く重要な容器の形となった。アビュドスやヒエラコンポリスからは、中にワインが入れられていたと推定されるパレスチナ土器が、多量に発見されている。これらが当時の王国の首都と考えられる大型の集落跡から見つかっている点は重要である。 ===メソポタミア=== メソポタミアはエジプトに先行して農耕と牧畜が始まった土地であり、ナカダ期には発達した都市国家が栄えていた。古くよりエジプトにおける初期の国家形成に影響を強く与えたと考えられてきたのがこのメソポタミア地方である。ナカダ期のメソポタミアとエジプトの関係を示す史料はメソポタミア側からは希薄な一方、エジプト側では多数発見されている。特にナカダ2期以降、その量は飛躍的に増大する。主に土器、印章、ラピスラズリ、図像のモチーフなどである。ただし、このうち確実にメソポタミアからもたらされたと確認できるものはラピスラズリのみである。印章はメソポタミアで使用された円筒印章等があるが、影響を受けている事は確実であるもののその多くはエジプトで作成された模造品とみられている。この点は土器についても同様である。ヒエラコンポリスの王墓で発見された壁画やレリーフの中にはメソポタミアの英雄(または神)ギルガメシュの図像と思われる物がある。初期の王権と関わりの深い場所で発見された象徴的な表現にメソポタミアの影響が見られる事は重要であると考えられている。 ===王権の成立=== 各地に成立した「王国」の支配者達の実像は不明瞭である。しかし彼等が作り上げた「王国」や「王権」はその後のエジプト王朝の土台となった。それを伺い知る事ができるのは彼等の墓から発見された威信材からであり、代表的な物として象牙製品(護符や櫛など)、波状把手土器、棍棒、パレット(化粧板)等がある。このうち、棍棒とパレットは後世のエジプト歴代王朝を通じて王の権力のシンボルとして取り扱われたもので、先王朝時代末の、あるいは初期王朝時代初頭の王であるサソリ王やナルメルのメイスヘッド、パレットに繋がっていく。棍棒で敵を打ち据えるモチーフの図像がこの時期のヒエラコンポリスで初めて登場するが、このモチーフの表現形式はプトレマイオス朝時代まで3000年以上に渡って連綿とエジプトで受け継がれることになる。ヒエラコンポリスでは100号墓と呼ばれる大型の墓から、上述の図像の他に王権に関係すると思われる図像表現が多数発見されている。ナカダ2期中頃までにはヒエラコンポリスは人口も増大し、上エジプト地域を統合した政治連合(国)の中心として機能するようになっていたとする説もある。 ===文字に表れる王=== 先王朝時代の末期、あるいは第1王朝成立の直前の時代にあたるナカダ3期には初めて文字(あるいはその前身となる絵文字)が登場する。各地の発掘調査で、この時期に年代づけられる複数の王名の存在が明らかとなっている。こうした王名はセレクと呼ばれる王宮正面をかたどった枠の中に書かれた。最初期の物はセレクのみで王名を記さない物があったが、ナカダ3期後半には王名を判別できるものが現れる。これらのセレクはハヤブサの図像を伴う物が早い段階から見られ、王とハヤブサの神ホルスを同一視する後世の思想に繋がるとみられる。 ===統一までの過程=== ナカダ文化はナカダ2期頃までには上下エジプト全域に広がり、「文化的にはエジプトが統一」されたと言われるような状況が現れていた。しかし、このナカダ文化の拡大過程と、エジプトの政治的統合を単純に同一視できるかどうかはわからない。 基本的な流れとして、上エジプトの政権によるエジプト統一というところまでは多くの学者の意見として共通している。前提となるナカダ文化が上エジプト発祥のものである事に加え、先述の通り、ヒエラコンポリス等、上エジプトで発見された王権に関わる図像には、その後古代エジプト時代を通じて使用されるモチーフとなるものがあるためである。更に図像的な証拠として、ナカダ遺跡から発見された紀元前3500年頃の土器片に彫られた赤色王冠のレリーフがある。この赤色王冠は王朝時代には下エジプトの王冠と見なされたものであり、上エジプトの王冠である白色王冠と対を為すものである。上エジプトにあるナカダ遺跡からこの赤色王冠の図像が発見され、しかもそれが先王朝時代のものであることは、「下エジプト王冠である赤色王冠」の形態が下エジプト固有のものではなく上エジプトで考案されたものである可能性を示すものであり、統一王朝成立過程を考慮する際に重要な情報を提供している。 しかし統一の具体的な経過については百家争鳴の状態にある。 W.カイザーの研究(1956年)ではナカダ文化が南北に拡張していく過程の編年を精緻に調べ、それを政治的な統合過程に限りなく近いものと見なした。しかし、このナカダ文化の拡張過程は、主に墓地の分析で確認されており、それをそのまま政治的集団の拡張過程と見なせるかどうかは明らかでない。 B.J.ケンプ(1989年)は、統一王朝の成立過程を3段階に分ける仮説を立てた。彼の見解では第1段階としてナイル川下流域に多数の群小政体が誕生する。第2段階として上エジプトにアビュドス(ティス)、ナカダ、ヒエラコンポリスを中心とする3つの王国が成立する。第3段階としてヒエラコンポリスがこの3つの王国を統合した上エジプトの王国を作り、この国が下エジプトを征服して統一王朝が成立するというものである。この説は、ナルメルのパレットなどから推測されてきた統一王朝の成立過程や、王朝時代の伝説も念頭に置いている。 T.A.H.ウィルキンソン(2000年)はナカダ1期後期にアビュドス(ティス)、アバディーヤ、ナカダ、ゲべレイン、ヒエラコンポリスの5か所を中心とする政体が存在したとし、ナカダ2期前期にアバディーヤが脱落。ナカダ3期にはナカダとゲベレインの政体も力を失ってアビュドスとヒエラコンポリスが二大勢力となり、ナカダ3期後期にはアビュドスの王ナルメルが2つの政体を統合し、初の統一王朝を築くという仮説を立てた。 また、古王国時代(紀元前27世紀頃〜)に作成された『カイロ年代記』には第1王朝以前の王達が上下エジプト王冠を戴く姿で描かれており、これを論拠に実際のエジプト統一を第1王朝以前と見る学者も少数ながらいる。 いずれの説にせよ、文字資料が基本的に存在しない時代であり完全な証明は困難であるのが実情である。 ===統一・初期王朝時代=== 古代エジプトの歴史記録において最初の王は伝説的な王メニ(メネス)であった。しかし考古学的に最初の統一王朝の王である可能性が高いのはナルメルである。一般に彼の存在が確認される紀元前3150年頃‐紀元前3050年頃からをエジプト初期王朝時代とし、ナルメルに始まる王朝をエジプト第1王朝と呼ぶ。以後、ローマ帝国による征服まで続く古代エジプト王朝の時代が始まる。 ==研究史== ===古代=== 古代エジプト人も、自分達の国家の起源について深い関心を持っていた。古くから王朝の起源が、主に王名表等の形で残されている。紀元前2400年頃に作成されたエジプト最古の年代記である『パレルモ石』とその別版である『カイロ年代記』には、統一王朝以前にも王らしき人物(それは王冠を被った表現でわかる)がいたことが記されている。しかし具体的な歴史記録を読み取ることはできない。 エジプト新王国時代に作成された『トリノ王名表』には、エジプトの最初の王としてメニの名が記されている。また、紀元前5世紀のギリシア人の歴史家ヘロドトスの『歴史』はエジプトの神官達の証言として初代王ミン、マネトがプトレマイオス朝時代に著述した『エジプト史』では初代王としてメネス(メニのギリシア語形)が登場する。これらからわかるように、王朝時代の古代エジプトではメニ(メネス)から始まるエジプトの歴史が共有されていた。更に『トリノ王名表』には王朝以前の時代に「ホルスの信奉者たち」(ホルスの信奉者であった精霊)と呼ばれる半神達の王朝があったことが記されている。 古代の歴史家マネトによる記録でも、初代王メニ以前の時代は神、半神達の時代とされていた。エウセビオスによれば、マネトの記録は3巻に分類されており、1巻はヘファイストス(エジプト神話におけるプタハ)を筆頭とする神、2巻は神人、すなわち死者の精霊について、続いて3巻でメネスに始まる人王について述べていたとされる。人王の時代は第1から、第30までの王朝として分類されている。 以上のように古代エジプトにおける先王朝時代の記録は概して神話的であるが、図像表現等にそれらしき物が見られる。 ===近代の発見=== ローマ時代後半以降、古代エジプトの文献記録の継承は途絶えてしまった。そのため、王朝以前のエジプトについての研究も何ら進展は見られない。1822年、フランス人研究者J.F.シャンポリオンがヒエログリフの解読に成功した事によって近代エジプト学が確立されると、エジプト王朝時代の王達の歴史が再び明らかにされるようになった。そして19世紀終わりまで、エジプトの歴史の曙は、王朝時代の記録や、ギリシア語の文献記録に基づき、初代王メニをはじめとする初期王朝時代の王達の業績に求められることになった。 相次ぐ考古学的発見に伴い、19世紀終わり頃になると文献記録のみに頼ることのない文明誕生の本格的な研究が始まった。フリンダーズ・ピートリーによるナカダ遺跡周辺の発掘調査(1894年‐1895年)と、J.ド・モルガンによるエジプト南部およびナカダ遺跡の調査(1896年‐1897年)が王朝時代以前から初期王朝時代にかけての遺跡における最初の本格的な調査であった。これらの調査で発見された文化は、最初に発見された遺跡の名前からナカダ文化と呼ばれるようになった。 その後、20世紀前半までの調査によって数多くの王朝時代以前の遺跡が調査され、文明誕生期の歴史と文化についての知見が蓄積された結果、エジプト第1王朝開闢に先立つ時代は「先王朝時代(英:Predynastic Period)の呼称を与えられ、エジプト学の中でも独立した研究分野としての地位を確立していった。 初期の研究をリードしたピートリーは、ナカダ文化期から初期王朝時代にかけての文化変化を「アムラー」「ゲルゼー」「セマイネー」の3つの文明の交代として捕らえ、その背景には東方(西アジア)からの異民族侵入があったとした。この考え方は王朝民族侵入説と呼ばれ、ハヤブサをトーテムとする王朝民族(ホルス族)が東方からエジプトにやってきてエジプトに王朝を打ち立てたとするもので、W.B.エメリーなど当時のエジプト学の権威などからも支持されたため広く学会で受け入れられた。大城道則はこの説について、日本史における騎馬民族征服王朝説を思い起こさせるという所感を述べている。 その後の調査で、エジプト北部ではナカダ文化と様相を異にする複数の文化が発見された。これらの文化も発見された遺跡や地方の名前からマーディ文化、メリムデ文化、ファイユーム文化、オマリ文化等と命名された。更にアビュドス遺跡で初期王朝時代の王達の墓が発見され、メニ王を同時代の王と同定しようとする試みが盛んになった。 ===20世紀後半=== 1944、H.J.カンターらの研究で、ピートリー以来の民族侵入によってこの先王朝時代の変遷を説明しようとする見解が否定された。彼女は土器の発展過程の調査によって、エジプトにおける土器の進化に特別な変革期はないという結論を下した。また、ウェルナー・カイザーの研究の結果、上エジプトで発祥したナカダ文化が時代と共に南北に分布を拡大していくことが明らかにされた。これらの研究により先王朝時代の文化・社会の変遷を外的要因に求めるではなく、エジプト内部にその主要因を求める流れが形成された。更にナカダ文化の拡張が明らかになったことで、統一王朝形成の過程でそれが大きな役割を果たした事が強く認識されるようになった。 20世紀後半になると欧米で隆盛したプロセス考古学と、実用化されつつあった放射性炭素年代測定法が大きく寄与し、諸文化の編年関係や埋葬形態、集落形態の研究が大きく進展した。これによって古くから続いていた文献史料の影響から本格的な脱却が図られた。 1970代年以降、中東情勢の安定に伴いエジプトにおける発掘調査が活発となった。この時期以降の調査は、プロセス考古学の影響を受けて旧来の墓地を中心とする調査よりも、集落跡に焦点を当てる傾向が顕著であった。更に従来ほとんど手付かずであった下エジプトのデルタ地帯での発掘調査が進展した。これらの調査で既存の下エジプトの文化(マーディ・ブト文化の中に次第にナカダ文化が浸透していく様が明らかになった。更にアビュドス遺跡での再調査で初期王朝時代黎明期の詳細な情報が提供された。 またイスラエル・パレスチナで行われた発掘調査は、紀元前4千年紀のエジプトがパレスチナ南部と密接な関わりを持っていることを明らかにした。また、F.ウェンドルフらによるアメリカ・ポーランド合同調査隊は、周囲の砂漠地帯における調査を進展させ、ナイル川近辺で未発見であった終末期旧石器時代の遺跡を各地で発見し、歴史の空白を埋めた。 =朝鮮民主主義人民共和国の鉱業= 朝鮮民主主義人民共和国の鉱業(ちょうせんみんしゅしゅぎじんみんきょうわこくのこうぎょう)では、朝鮮民主主義人民共和国(以下、北朝鮮)における鉱業について述べる。なお、同国政府の産業分類に鉱業という概念はなく、鉱業の他に林業などを含む「採取工業」という概念が最も近い。 ==鉱床== 朝鮮半島では「北の鉱工業、南の農業」という言葉がかつてあったほど、金などをはじめ北部で様々な鉱物が採掘されてきた。大韓商工会議所が2007年に出した報告書によれば、マグネサイト、タングステン、モリブデン、黒鉛、蛍石など7種類の鉱物の埋蔵量が世界トップ10に入る。同年までに把握されている北朝鮮の鉱山は約760か所であり、そのうち30%が炭鉱である。同国の地下資源は200種類以上に達し、経済的価値を有する鉱物だけでも140種類を超えると見られる。 北朝鮮における鉱床は、生成時期別に以下のようなものがある。 先カンブリア時代:ニッケル原生代 ‐ 古生代:マンガン三畳紀 ‐ 新第三紀:金、銀、銅、鉛、亜鉛、モリブデン、タングステン、ニッケル、コバルト、マンガン、アンチモン第四紀:砂金また、無煙炭は古生代の、褐炭は新生代第三紀の地層に、それぞれ存在している。黄海の堆積盆地には石油が埋蔵していると見られるが、大規模な商業採掘には至っていない。 ==歴史== ===李氏朝鮮時代まで=== 朝鮮半島では広く砂金が産出し、古代から容易に採取されていた。李氏朝鮮において鉱山は国有化され、私有化は厳しく規制されていた。官によって金、銀、銅、鉄、鉛や硫黄、珠玉などが採掘され、貨幣の鋳造や武器および農器具の生産などに用いられた。しかし世宗は金銀鉱山の開発を禁止したと言われるなど、歴代の王朝は開発に消極的だったとされる。文禄・慶長の役で朝鮮に侵攻した加藤清正は、咸鏡南道端川郡の檜億銀山で銀を製錬し、豊臣秀吉に献上したという。 官主導の開発では採掘の賦役を課された農民の抵抗運動が起こり、また供給が不足がちとなり農器具製造のための盗掘が多発するなど、さまざまな問題が生じていた。18世紀末から19世紀前半にかけて、主に金銀の鉱山について民間人が経営の許可を得る事が可能になった。19世紀後半になると西欧の列強などから鉱業の開放を求める圧力が強まり、1896年に鉱業特許制度が実施されると、同年にはアメリカ人グループが平安北道雲山郡で、ロシア人グループが咸鏡北道セビョル郡で、それぞれ金山などの開発権を取得している。また、1901年には金・銀鉱を中心に重要な51か所の鉱山が皇室直営となっている。なお同時期には、1897年の金本位制への移行や産業革命の資本蓄積のために日本が金を大量に必要としており、1887年には日本国内で産出された金49万円に対して朝鮮半島からの輸入した金は139万円に上る。 日本やフランス、ドイツなど様々な国が、特に金鉱に興味を示して開発の特許を得ていったが、一方で卑金属や石炭の開発に対する関心は低かった。これらの鉱山からは特許料と税金が皇室に毎年納められたが、漏税がはなはだしく、国家財政の改善は進まなかった。1905年に日本によって設立された韓国統監府は、翌1906年に朝鮮鉱業法を公布した。これによって、朝鮮皇室直営の鉱山のうち25か所が、統監府の所有に漸次移行された。また、朝鮮人と日本人以外の外国人にも鉱山経営を開放し、1908年には鉱業用機械の輸入や鉱石の輸出にかかる関税を免除したが、この方針は資本や技術面で劣勢な日本人鉱業家の強い反発を受けた。 ===日本統治時代=== 鉱業権出願の件数は韓国併合の前年の1909年から急増し、1910年には1,031件に達してピークを迎えた。その後は徐々に減少したが、1914年に始まった第一次世界大戦が長期化すると鉱物の需要が急増し、朝鮮でも1916年に鉱業権の出願数が前年の3.8倍、1917年にはさらにその2倍に増加している。なお、1906年から1919年までの出願件数のうち、日本人は66%を占め、朝鮮人が37%、その他外国人が3%となっている。また、許可数で見ると日本人が60%、朝鮮人が37%、その他外国人が3%となっており、出願も認可も日本人が圧倒的な比率となっている。 1915年に公布された朝鮮鉱業令により、それまで活発だった外国人による鉱山の新規開発が1916年4月から禁止され、日本資本による独占的な開発が進むようになった。ただし、西洋列強の鉱山会社は李氏朝鮮時代に優良な鉱山を獲得していたため、鉱産金額は1917年の段階でも日本人および朝鮮人資本の合計を上回っている。しかし、1918年に兼二浦製鉄所が操業を開始すると、原料の鉄鉱石などを増産した日本人の鉱産金額は前年の3倍以上となり、以降は他国人の金額を上回る状態が続いた。 日本統治時代の朝鮮において、石炭はほぼ全量、金属鉱は70%以上が全期間を通じて半島北部で生産されていた。また、1930年代前半に北朝鮮の鉱業生産額は大きく増加している。 ===朝鮮民主主義人民共和国時代=== 第二次世界大戦が1945年に終戦すると、朝鮮半島北部はソビエト連邦軍が占領した。1946年8月には軍政下の北朝鮮臨時人民委員会によって重要産業国有化法令が公布され、同地域の鉱山や鉄道など主要な産業施設が無償で国有化されている。 その後、1950年から1953年まで続いた朝鮮戦争によって、北朝鮮では膨大な人的および物的損失が生じた。この間に人口は962万人から849万人まで減少し、鉱工業および電力生産は60 ‐ 70%も減少している。この状況下で金日成らは1954年から戦後復興3ヵ年計画を設定し、日本統治時代と同様に豊富な地下資源を利用した重工業優先の経済政策を打ち出し、社会主義諸国からの支援を製鉄所や発電所などに重点配分した。 1970年時点で北朝鮮の国民1人当たりGNPは286ドルと、同年の韓国の203ドルを上回っていたが、労働力の不足を過剰労働によって補う増産運動は限界に達し、停滞を迎えていた。韓国経済の急成長に焦りを感じた北朝鮮は、1970年代に入ると日本や西欧諸国から工業プラントの導入を図ったが、オイルショックの影響で主要な輸出品目の亜鉛など非鉄金属の価格が下落し、外貨による返済が滞って後年まで西側諸国との貿易に禍根を残した。 中国の改革開放を参考にした合弁法の制定など1980年代の経済政策は目立った効果を生まず、1980年代後半にはソ連など東側諸国との経済協力に対する依存が大きく高まっていた。このような状況下で社会主義経済圏が崩壊したため、1990年代に入るとソ連からバーター貿易で入手していた原油やコークスなどが確保できなくなり、北朝鮮の経済は大きく後退する。外貨不足から投資が不振になり、設備が老朽化して品質が低下し、輸出と外貨獲得高が減少する、という悪循環によって石炭をはじめとする鉱物の生産量も減少し、1998年には多くの品目で最低量を記録した。 その後、国際社会の支援もあって食糧事情が改善すると鉱山への労働力供給に余裕が生じ、中国からの鉱山開発投資を誘致したこともあって資本や設備にも改善が見られ、生産量は回復に転じた。また、政策的にも電力・石炭・金属・輸送をいわゆる先行部門と位置付け、炭鉱などに資源を優先的に配分するとともに、2000年代に入ると地下資源による外貨獲得を奨励し、中国など外国からの投資受け入れを拡大している。 これらの成果もあり、2013年の対中国輸出では総額29億2400万ドルのうち、無煙炭や鉄鉱石など鉱物資源が18億1500万ドルを占めている。また、対韓国の輸出においても2007年には鉱物資源だけで1億2800万ドルに達していたが、2010年の天安沈没事件を受けた韓国政府の報復措置によって投資や交易が途絶した。一方でこれらに先立つ2006年には、過剰な資源採取などを防止するため、鉛や亜鉛などを未加工の鉱石の状態で輸出する事を禁止する基本方針を打ち出している。多くの炭鉱や鉱山は設備の老朽化が進んでおり、2010年代に入っても鉱物資源の輸出は1980年代の水準を下回っている。 ==金属鉱物== ===金=== 金鉱床は北朝鮮の広範囲に分布しており、特に平安北道および黄海南道に産金量の多い重要な鉱床が集中している。平安北道には朝鮮半島最大の金山である雲山鉱山をはじめ、三成鉱山や昌城鉱山などが存在し、それぞれの総産金量は100トン、62トン、43トンと推定されている。黄海南道には栗浦鉱山や遂安鉱山があり、総産金量はそれぞれ17トン、5トンと推定される。また、砂金は平安南道および咸鏡南道に多い。北朝鮮全体では92か所の金山が確認されており、総埋蔵量は2,000トンである。 ===金の歴史=== 朝鮮半島北部には、先カンブリア時代の変成岩類や中生代の花崗岩類などの深成岩類が広く分布するため、砂金は各地に産出する。このため古代から採取が行われ、産金の歴史は144年までさかのぼる。しかし、世宗は金銀鉱の開発を禁じたと言われるなど、朝鮮の王朝は鉱業開発に消極的だった。 この状況が変化したのは西欧の列強が東アジアに進出した19世紀後半以降で、その外圧によって1890年代から朝鮮北部の金鉱床の開発が外国資本に許可された。特に、マザーロードと同じ深成鉱脈型の雲山鉱山は、カリフォルニア・ゴールドラッシュの次の採掘地として魅力を有していた。1891年に外国人として初めて馬木健三が慶尚南道昌原郡で金鉱および銅鉱の開発許可を得ると、1896年のロシア人およびアメリカ人のグループを皮切りに、ドイツ人、イギリス人、フランス人などが1901年までに各地の鉱山開発権を獲得している。 雲山鉱山はアメリカ資本により開発が進められ、1915年の段階で8つの坑口と3つの製錬所が設けられ、約2,000名の鉱夫が働き年間300万円以上にあたる金を生産していた。黄海南道の遂安鉱山はイギリス資本によって経営され、1915年の時点で鉱夫は約1,000名、年産は約130万円に達した。北朝鮮で最初に金鉱開発を行った小規模な日本資本による経営は不振だったが、1912年には古河合名会社が平安南道亀城郡、後に安川敬一郎は平安北道昌城郡、朝鮮総督府は平安北道の尚州市および義州郡、咸鏡南道新興郡で、それぞれ金の採掘を行っている。また、採掘用具への投資が軽くて済む砂金は、鉱業権許可の手数料が鉱山より安いこともあり、活発に採取が行われていた。 1916年の時点で民族別の金の産出額は、優良な鉱山を有する欧米人が80%以上を占めていた。しかし1924年に朝鮮人のグループが平安北道の三成鉱山で富鉱部を掘り当て、1926年の時点で金の産出額の比率は欧米人が52%、朝鮮人が42%、日本人が6%となっている。朝鮮半島の砂金を含む産金量は1910年の3,746kgから1926年には7,159kg、1935年には16,710kgにまで増加し、その大部分を北部が占めている。 第二次世界大戦中の統計は途絶しているが、1947年には北朝鮮の産金量が10,014kgとなっている。 ===鉄=== 鉄鉱石は、咸鏡北道茂山郡の磁鉄鉱、黄海南道殷栗郡および載寧郡の赤鉄鉱・褐鉄鉱、咸鏡南道利原郡および北青郡の赤鉄鉱などが代表的である。茂山鉱山は推定埋蔵量15 ‐ 20億トンの北朝鮮最大の露天掘り鉱山であり、年間350万トンを算出している。 2010年の時点における北朝鮮の鉄鋼生産能力は、製銑部門が532万トン、製鋼部門が657万トン、圧延鋼材部門が404万トンとなっている。咸鏡北道清津市の金策製鉄連合企業所、金策市の城津製鋼連合企業所、黄海北道松林市の黄海製鉄所などが主な製鉄所である。 なお、殷栗および載寧の鉄鉱山は朝鮮王朝の所有下にあったが、1910年から八幡製鐵所が経営するようになった。1913年には当時の朝鮮全体の総生産量の63%にあたる9万トンの鉄鉱石を産出し、その全てを八幡製鐵所の原料として納入していた。また、黄海道(現・黄海北道)の安岳鉱山では年間5万トンを産出し、その中にある三菱合資会社の経営する兼二浦鉄鉱山からは、1918年に操業を開始した兼二浦製鉄所に原料を供給していた。 ===その他金属=== タングステンは黄海北道新坪郡の万年鉱山をはじめ、平安南道新陽郡の任坪鉱山などが稼働し、鉄マンガン重石ならびに灰重石の形で産出されている。北朝鮮全体の推定埋蔵量は24.6万トンに及び、これは世界2位に相当する。 モリブデンの北朝鮮全体の推定埋蔵量は、品位90%基準で54,000トンであり、平安南道成川郡の龍興鉱山、黄海北道新渓郡の歌舞里鉱山などの大規模な鉱山では良好な条件で採掘される。鉛および亜鉛は、咸鏡南道端川市に北朝鮮最大の検徳鉱山があり、鉛500万トン、亜鉛1500万トン以上を埋蔵していると見られる。また、これに次ぐ規模の黄海北道銀波郡光明地区には、鉛200万トン、亜鉛300万トン以上が埋蔵されている。 銅鉱石は、北朝鮮全体の埋蔵量が約290万トンとみられ、そのうち40%以上が両江道に集中している。同地の甲山鉱山は古くから銅山として操業しており、黄海北道の笏洞鉱山や遂安鉱山、咸鏡南道の虚川鉱山でも黄銅鉱や半銅鉱などが採掘されている。また、2011年には中国との合作で恵中鉱業合営会社が設立され、恵山市の恵山青年鉱山で採掘設備の現代化などに取り組み、2014年には年間5,000トンの銅精鉱を中国に輸出している。 マンガン鉱物の鉱山は、平安南道順川市の元上里、江原道鉄原郡大浦里、平壌市中和郡など49か所に存在する。北朝鮮全体の埋蔵量は30万トンとみられ、相当部分がマンガン含有量3 ‐ 15%のマンガン土の形で存在している。 ==非金属鉱物== ===マグネサイト=== 北朝鮮のマグネサイト埋蔵量は推定60億トンで、世界1位ともされる。摩天嶺山脈周辺が主な産地となっており、咸鏡南道端川市には露出部分だけで長さ7.7km、深さ100mに達する露天掘りの鉱床があり、その埋蔵量は推定36億トンに達する。同市の竜陽鉱山および大興鉱山は、MgOを基準とした品位がそれぞれ30%および30 ‐ 50%、年間精鉱生産能力がそれぞれ60万トンおよび30万トンであり、韓国が開発協力を検討している。 ===その他=== 石灰石は北朝鮮の全域に埋蔵され、品質も高い。北朝鮮においては無煙炭と埋蔵領域が重なっており、セメント・カーバイド合成工業の発展を有利なものにしている。平安南道順川市、黄海北道勝湖区域、江原道川内郡などに代表的な石灰石鉱山があり、1000億トンの石灰石を北朝鮮は保有していると見られる。 グラファイトは、1910年代には世界最大の鉱産額を記録した。鱗片状黒鉛の埋蔵量は北朝鮮全体で200万トンに達し、慈江道長江郡の東方鉱山、咸鏡北道金策市の偉業鉱山、平安北道泰川郡の取興鉱山などが主な産地となっている。また、土状黒鉛は平安南道价川市などで採掘される。 ==化石燃料== ===石炭=== 北朝鮮では、1998年時点での一次エネルギー(英語版)消費のうち66%、2002年時点で同84%を石炭が占めており、社会にとって重要度の高い存在となっている。無煙炭は主に平安南道や咸鏡南道一帯の古生代地層に、厚さ0.5 ‐ 8mの炭層として存在している。無煙炭は、生成後の長期にわたる地層伸縮によって分布が非常に不規則になっており、また粉炭が大部分を占めている。また、褐炭は咸鏡北道を中心として新生代第三紀層から採掘されている。 韓国の研究者の推計によれば、北朝鮮全体の石炭埋蔵量は90億トンであり、そのうち61億トンが採掘可能と見られる。後者の内訳は無煙炭が16億トン、褐炭が34億トン、超無煙炭が11億トンである。なお、瀝青炭は産出されないため、鉄鋼生産などに使用する分は全量を輸入に頼っている。全体的に灰分および水分(20%)が多いのが特徴であり、熱量は様々であるが、会寧市やセッピョル郡、恩徳郡産のものは7,000kcal/kgにもなる。風化が早く、硬度が低いため貯蔵や輸送に向かないのが欠点である。 ===石炭利用の歴史=== 朝鮮で石炭を使用した記録としては、高麗期に撫順の炭鉱で陶器製造に使用したとみられるのが最も古い遺物である。1590年に尹斗寿(朝鮮語版)が記した『平壌誌』によれば、当時の平壌周辺では炭田が近いこともあって炊事の燃料などに石炭を使っていたという。李氏朝鮮においては、19世紀以降も産業革命の根幹となる石炭の工業利用に対する政府の関心は非常に低かった。 韓国併合のあった1910年の時点でも炭鉱開発の申請は年間わずか27件だったが、1913年には三菱財閥が大寶炭鉱、1918年に明治鉱業が大成炭鉱、1919年には東洋拓殖が江東炭鉱の経営をそれぞれ始めるなど、日本資本の進出が進んだ。朝鮮の石炭は煤煙が少ないという特長があるため、1911年に朝鮮総督府が平壌鉱業所内で加工して、朝鮮で初となる練炭の販売を開始した。家庭におけるオンドルや炊事での使用向けに製造され、1915年には10,000トンが生産されている。1918年までは生産された石炭の60%以上が日本に輸出され、1911年にはその全量が徳山町の海軍練炭製造所に納入されている。 1918年に黄海道(現・黄海北道)で兼二浦製鉄所が操業を開始すると、朝鮮における石炭の需要は急増した。しかし、製鉄に必要なコークスの原料となる瀝青炭は朝鮮で産出されないため、筑豊炭田や撫順から移入ないし輸入され、総督府によって石炭の輸入税が同年から免除されている。鉄道でもこれらの移・輸入石炭は使用され、1910年には年間58,000トンだった移・輸入の超過量は、1919年には年間793,000トンまで増加している。 北朝鮮では石炭の年間生産量が1985年に史上最高の3750万トンを記録したが、経済悪化や食糧難を受けて1998年には史上最低の1860万トンまで減少した。その後、4大先行部門に指定されて生産の回復に注力したこともあり、2009年には年間2550万トンまで生産が回復している。 ===石油=== 16世紀に書かれた『本草綱目』には、「高麗に石油がある」と記述されている。また、19世紀初頭に韓致*10823*(朝鮮語版)が著した『海東繹史』内の『物産志』にも、石油の産出に関する記述がある。1917年および1918年には、これら古典の情報などを基に石油の鉱業権が取得されているが、具体的な成果はなかった。 1964年、平安南道安州市における炭田の調査・開発中に油微が発見され、石油存在の可能性が具体的に認識された。これを受けて北朝鮮はソ連に協力を要請し、黄海の重磁力探査を行っている。翌1965年に燃料資源地質探査理局を、1968年には安州市に原油探査を専門とする研究所をそれぞれ設置し、原油探査を行ってきた。 1973年からは中国の技術者の指導を受けて本格的な試掘を行い、1976年に測線長2,200kmにわたる西海の地震探鉱を行った結果、同海域に石油の胚胎が期待できる堆積盆地が発達しているという自信を得たとされる。1978年にはユーゴスラビアと共同開発契約を結んで探鉱を行ったが、1981年に資金不足を理由にユーゴスラビアは撤退した。1983年には政務院の傘下に原油探査総局を設置し、シンガポールから14,000トンの試掘探査船を購入するとともにボーリングを建設して黄海の南浦沖合を重点的に探査した。1987年にはイランおよびオーストラリアの企業が南浦沿岸22,600kmの探査と試掘を行ったが、不発に終わっている。 1987年から1990年にかけては、ソ連の協力で日本海でも測線長7,500kmにおよぶ物理探査を行い、その結果を受けて東朝鮮湾で試掘を行っている。1990年代に入ると金正日が陣頭指揮を取り、1993年には原油探査総局を原油工業部に昇格させ、1994年の最高人民会議第9期第7回会議では原油埋蔵地の探索のために投資を拡大する事を強調している。 2001年には朝鮮日報により、1999年から粛川郡近海の油田で北朝鮮が年間220万bblの原油を生産している、という報道がなされたが、衛星写真からは生産設備などが認識されず、生産は確認されていない。2002年には中央日報が、粛川郡と文徳郡の間の西海岸から5kmほど内陸に入った地点で日量400bblの原油生産が行われている事を、写真付きで報じた。同地では少量の原油生産が継続していると見られる。 =第二次ブルガリア帝国= 第二次ブルガリア帝国(ブルガリア語: Второ българско царство, 英語: Second Bulgarian Empire)は、12世紀後半から14世紀末までブルガリアに存在した国家。14世紀末にオスマン帝国によって滅ぼされた。 ==歴史== ===第一次ブルガリア帝国滅亡後=== 1018年の第一次ブルガリア帝国の滅亡後、ブルガリアはビザンツ帝国(東ローマ帝国)領となった。ビザンツの支配下に置かれたブルガリアではテマ制(軍管区制)が実施され、ビザンツに従属するブルガリアの貴族と高位聖職者は特権を保証された。しかし、第一次ブルガリア帝国を滅ぼしたビザンツ皇帝バシレイオス2世が没し、彼の後継者たちの時代になるとブルガリアには圧政が敷かれるようになる。ブルガリア内の正教徒を管轄するオフリド総主教座は大主教座に降格されてその地位にはギリシャ人が就くようになり、ブルガリア人の中から総主教を選ぶことができなくなった(ブルガリア正教会#オフリド大主教区も参照)。 1040年にミカエル4世の治下で実施された財政改革によってブルガリアの農民に金銭での納税が課され、ブルガリアの農民の生活はより圧迫された。同じ時期にブルガリアではテマ制に代わって疑似封建的な土地制度であるプロノイア制が導入され、農民は領主の搾取にも苦しめられる。1040年にマケドニア地方でブルガリア皇帝サムイルの孫ペタル・デリャン(英語版)が指導する民衆蜂起が勃発し(ペタル・デリャンの蜂起)、指導者のデリャンはブルガリア帝国の再建を掲げた。デリャンの反乱は傭兵の助けを借りたビザンツ軍によって鎮圧されたがその後もブルガリアでは反ビザンツの蜂起が頻発し、その背景には社会不安が存在していた。 ===アセンとペタルの蜂起、ブルガリア帝国の再建=== 1180年代にシチリア王国によるビザンツ領への攻撃が始まるとブルガリアでは増税と徴兵の強化が実施され、さらにビザンツ皇帝イサキオス2世の結婚に際して特別税が課される。1185年にタルノヴォ近郊のヴラフ人(あるいはクマン人)地主ペタルとアセン(英語版)の兄弟は新税の軽減とプロノイアの付与をビザンツ皇帝イサキオス2世に願い出るが、2人の要求は拒絶された。帰国したペタルとアセンはタルノヴォの聖ディミタル教会の聖別式でブルガリア国家の再興と挙兵を宣言し、ブルガリア人修道士ヴァシリィは年長のペタルを皇帝(ツァール)に戴冠した。 ビザンツの統治に不満を持っていたブルガリアの人々は蜂起に参加し、ペタルとアセンは国家の継承性を強調するために第一次ブルガリア帝国時代の首都だったプレスラフ(英語版)を制圧した。1187年の夏にイサキオス2世が北ブルガリアに親征を行うと、ペタル兄弟はドナウ川北方の遊牧民のクマン人の元に逃れた。イサキオス2世の軍はブルガリアを破壊し刈り取った穀物を焼き払った後、解放運動は終息したと判断してコンスタンティノープルに帰還した。同年の秋にクマン人を同盟者としたペタル兄弟はブルガリアに帰国、ドナウ川沿岸部を奪回し、蜂起はトラキア、ロドピ、マケドニアにも波及した。 1188年春にブルガリア軍はタルノヴォに進軍するビザンツ軍をロヴェチで食い止め、3か月にわたる包囲を凌いだ。包囲が解除された後にブルガリアとビザンツの間に和平が締結され、この和約でブルガリアの独立が事実上承認された。和平の際、人質としてペタルとアセンの弟カロヤン・ヨアニッツァがコンスタンティノープルに送られた。 ===アセン兄弟の暗殺=== 1189年に第3回十字軍が行われると、ブルガリアはビザンツと敵対する神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世に同盟の締結を提案した。同盟の条件としてブルガリアが奪回した領土の保持と皇帝の称号の許可と引き換えに、神聖ローマ帝国に40,000人の援軍の提供を申し出るが、フリードリヒ1世からの回答は得られなかった。フリードリヒ1世がビザンツ領を通過した後、1190年の夏にビザンツ軍はブルガリアの首都タルノヴォに遠征を行う。天然の要害に位置する堅牢な城壁を持つタルノヴォはビザンツ軍の包囲に耐え、クマン人がブルガリアの援軍として到着した噂が広まるとビザンツ軍は撤退した。追撃に出たブルガリア軍はトリャヴナでイサキオス2世が率いるビザンツ軍に大勝し、ビザンツ皇帝の象徴である帝冠、笏、衣装を手に入れた(トリャヴナの戦い)。同年にペタルは弟のアセンに帝位を譲り、自身はプレスラフを中心とするブルガリア北東部とドブルジャ地方を統治した。 ブルガリアの軍事活動はバルカン山脈南部のビザンツ領に達し、1193年にブルガリアはスレデツを回復した。また、ブルガリアは北方のハンガリー王国との戦いでも勝利を収め、長らくハンガリーの支配下に置かれていたベオグラードとブラニチェヴォを奪還した。 しかし、中央集権的な政策を採るアセン1世の元で、ビザンツからの独立運動中から見られた貴族の反抗がより顕著になり、1196年に宮廷内のクーデターによってアセン1世は暗殺される。陰謀の首謀者であるアセン1世の従兄弟イヴァンコ(英語版)はクーデターを教唆したビザンツに援助を求めるが、ビザンツから派遣された軍隊は行軍中に反乱を起こしてブルガリアに入ることを拒んだ。プレスラフを統治していたペタルは支持者から軍隊を集めてイヴァンコをビザンツに追放し、皇帝に復位した。だが、ペタルも貴族の反抗を抑えることができず、1197年に暗殺される。 空位となった皇帝の座には、コンスタンティノープルから逃亡してブルガリアに帰国していたアセン兄弟の末弟カロヤンが就いた。 ===カロヤン・ヨアニッツァの時代=== 兄たちの跡を継いで皇帝に即位したカロヤンは、かつてのシメオン1世と同様にビザンツ帝国を見本とした国家を作るために積極的な外交政策を推し進める。 カロヤンは国内の貴族層に厳格な処置を下して政権を固め、独立状態にあったマケドニアとロドピのブルガリア人支配者、亡命先のビザンツで統治官に任命されていたイヴァンコと同盟を結ぶことに成功する。1201年に北ブルガリアに残る最後のビザンツ領であるヴァルナがブルガリアの占領下に入り、翌1202年にブルガリアとビザンツ帝国の間に和約が締結され、ブルガリアが占領した地域の獲得が正式に承認された。また、1203年に一時期ハンガリーに再占領されたベオグラードとブラニチェヴォを奪還し、帝国の北部からハンガリー人を放逐した、 カロヤンはブルガリア正教会の独立を回復するためにローマ教会との関係を強化し、1199年からブルガリアとローマ教会の交渉が開始された。1202年から交渉は活性化し、1204年秋にローマ教皇からの使節がタルノヴォを訪問した。カロヤンはローマの使節である枢機卿レオからブルガリアの「王」に戴冠されるが、カロヤンは皇帝の称号が授与されたとみなして「ブルガリア人とワラキア人の皇帝」を自称した。同年にブルガリアがローマ教会の権威を認める協定が結ばれ、建国時から続いていたハンガリーとの戦争が終息する。協定の締結後にブルガリア正教会がローマ教会からの干渉を受けることはほとんどなく、ブルガリア正教会は実質的には東方正教会に属していた。 1204年に西欧から派遣された第四回十字軍によってコンスタンティノープルが征服され、ラテン帝国が建国される。ラテン帝国の初代皇帝ボードゥアン1世は、ブルガリア人は隷属民であると宣言し、ブルガリア侵略の意思を顕わにした。ローマ教皇インノケンティウス3世はブルガリアとラテン帝国の対立を解消しようとするが、教皇の試みは失敗に終わる。ラテン帝国軍はトラキアの北部、東部に侵入し、トラキアに避難していたビザンチン貴族はビザンツ帝国の帝位を条件にブルガリアに保護を求めた。要請に応えたブルガリアは東トラキアの住民反乱を扇動し、またフィリッポポリス(現在のプロヴディフ)とアドリアノープル(現在のエディルネ)を占領した。 翌1205年4月14日にカロヤンはアドリアノープル(現在のエディルネ)付近の戦いでラテン帝国軍に大勝を収め、ラテン帝国皇ボードゥアン1世を捕らえて処刑した。しかし、ブルガリアの軍事的成功はトラキアのビザンチン貴族に不安を与え、彼らはブルガリアとの同盟を解消してラテン帝国の側に付いた。カロヤンは裏切りの報復として東トラキアを破壊・略奪し、征服地の住民をドナウ川沿岸部に移住させた。カロヤンはかつて「ブルガリア人殺し」と呼ばれたバシレイオス2世のように「ローマ人殺し」の渾名で呼ばれるようになる。 カロヤンは1207年までに第一次ブルガリア帝国が領有していたマケドニア地方の大部分を再征服するが、同年のテッサロニキ包囲中に部下の裏切りによって急死する。カロヤンの死後、暗殺の首謀者であるカロヤンの甥ボリルが帝位を簒奪し、帝位の継承権を有していたアセン1世の子イヴァン・アセン(後のイヴァン・アセン2世)とアレクサンダルの兄弟はルーシのガリツィア公国に亡命した。 ボリルの即位後、ブルガリアの封建貴族は再び自立性を強め、ロドピ、中部マケドニアの地方領主は中央から独立した統治を行い独自に外国と同盟した。即位当初ボリルはカロヤンと同じく反ラテン帝国路線を取るが、1214年にブルガリアはローマ教会の介入によってラテン帝国とハンガリー王国の二国と和平を結んだ。一方、ブルガリア国内では貴族層と民衆の両方がボリルの統治に不満を抱くようになり、ヴィディンではボリルに対する反乱が発生した。 1217年にイヴァン・アセン2世は傭兵を率いてブルガリアに帰国し、ボリルに戦いを挑んだ。7か月に及ぶ包囲の後に市民が城門を開いてイヴァン・アセン2世を迎え入れ、1218年春にイヴァン・アセン2世はボリルを廃位して帝位に就いた。 ===最盛期=== イヴァン・アセン2世の治世にブルガリア帝国は最盛期を迎える。アセン2世は国境地帯の防御を固めつつ、ハンガリー王国、セルビア王国、ニカイア帝国、エピロス専制侯国といった近隣の国家と婚姻関係を作り、国際社会におけるブルガリアの地位を高めた。この時代にブルガリアは完全に統一され、国土の統一は経済と文化の発展に好影響を及ぼした。 1223年にテッサロニキを占領したエピロス専制侯国がバルカン半島情勢の中心に台頭すると、ブルガリアはエピロスの間に協定が結んだ。他方、エピロスと戦うにあたっての協力者を求めるラテン帝国の諸侯は、イヴァン・アセン2世に幼帝ボードゥアン2世の後見を依頼し、ブルガリアとラテン帝国との間にも同盟関係が成立する。エピロス専制侯国の君主テオドロス1世は盟約を破棄してブルガリアに遠征するが、1230年3月9日にアセン2世はクロコトニッツァ(英語版)でエピロス軍を破ってテオドロス1世と彼の家族を捕虜とした(クロコトニッツァの戦い(英語版))。戦後ブルガリアはエピロスをブルガリアの影響下に置き、トラキアの大部分、ロドピ地方、マケドニア全土、アルバニアを制圧した第二次ブルガリア帝国の支配領域は第一次ブルガリア帝国の最大版図に並んだ。 クロコトニッツァの戦いを経たブルガリアはバルカン半島第一の大国となる。ローマ教会はブルガリアのラテン帝国への攻撃を牽制するため、ハンガリーにブルガリア北西部への攻撃を促した。ハンガリー軍はベオグラード、ブラニチェヴォ、ヴィディンを一時的に占領するが、アセン2世の兄弟アレクサンダルによってハンガリー軍は撃退される。ブルガリアとラテン帝国、ハンガリーの関係は悪化し、カロヤンの治世に成立したローマ教会との合同も事実上解消された。 カトリック世界との対立が顕著になると、イヴァン・アセン2世はニカイア帝国との同盟とブルガリアの東方正教会への復帰を試みる。1235年にブルガリアとニカイアの間に反ラテン帝国の同盟が結ばれ、同時に東方正教会の全総主教の合意によってブルガリア総主教座が再興され、第1次ブルガリア帝国の滅亡以来失われていたブルガリア正教会の自治独立が回復された。しかし、アセン2世はニカイア帝国がブルガリアの脅威になると考え直し、翌1236年にラテン帝国との関係を回復した。 イヴァン・アセン2世はブルガリア帝国の最大版図を実現するが、彼の死後に皇帝の支配権は弱体化し、ブルガリアは周辺の国家からの攻撃に晒される。 ===モンゴルの襲来=== アセン2世の治世末期に東方で拡大するモンゴル帝国の軍が東ヨーロッパを席巻していた(モンゴルのヨーロッパ侵攻(英語版)、モンゴルのポーランド侵攻)。1241年のイヴァン・アセン2世の死後、アセン2世とハンガリー出身の妃アンナ・マーリアの子であるカリマン1世が帝位を継いだ。1242年、オゴデイ・ハーンの訃報が届くと東方に退却を開始した。3月にモンゴル軍は帰路でブルガリアとセルビアを通過したが。ブルガリアはモンゴル軍を攻撃した。翌年、モンゴル軍は復讐戦に戻ったが講和を結んで戦闘は行なわれず、ブルガリアにはモンゴルへの貢納が課され、13世紀末にはブルガリアはモンゴル国家のキプチャク・ハン国(ジョチ・ウルス)の従属国とされた。 1246年にカリマン1世は義母のイレネ(イリニ)によって毒殺され、イレネの子であるミハイル・アセンが即位し、ニカイア、セルビアとの戦争が開始された。ブルガリアの勢力下に置かれていたセラエ(現在のセレス)、テッサロニキ、アドリアノープル、ロドピ山脈地方はニカイアによって占領され、1247年にブルガリアはニカイアと和約を結んだ。1256年秋にミハイル・アセンが政敵に殺害された後、アセン家の血統に連なる3人の皇族が帝位を争う。最終的には、1257年にステファン・ウロシュ1世の甥にあたるスコピエのコンスタンティン・ティフがタルノヴォの貴族によって皇帝に選出された。コンスタンティンはハンガリーを攻撃するが敗北し、西北ブルガリアの領土を喪失する。コンスタンティンは足を折ってしまったために国政に参加することができなくなり、彼の後妻であるビザンツ皇族出身の皇妃マーリアが実質的な最高権力者として君臨した。 国家の権威の失墜、中央権力の弱体化はブルガリアに無秩序をもたらし、軍費を調達するために民衆に重税が課せられた。13世紀末からブルガリアではキプチャク・ハン国の侵入が頻繁に起こるようになり、また1272年にはヴィディンを統治する南ルーシから亡命した領主ヤコブ・スヴェトスラフがブルガリア皇帝を自称して独立した。民衆は搾取以外にキプチャク・ハン国を初めとする外国からの侵入者の略奪にも苦しめられるが、皇帝と貴族は外敵の侵入を進んで対処しようとしなかった。 ===農民皇帝の即位=== 13世紀半ばから続く混乱期には民衆の反乱が頻発するが、1277年に起きたドブルジャの豚飼いイヴァイロ(在位:1277年―1280年)の蜂起(イヴァイロの蜂起(ブルガリア語版、英語版))は皇帝軍とキプチャク・ハン国の双方に大きな打撃を与えた。イヴァイロの蜂起にはモンゴルの略奪に不満を抱いた農民が多く参加し、蜂起は支配者に対する反封建的な性質と、権威を失った皇帝に対して「正しい皇帝像」の復興を求める性質が併存していた。 1277年に「神の啓示を受けた」豚飼いイヴァイロは仲間や農民に困窮から脱出する道を説いて回り、イヴァイロの周りに集まった義勇兵はモンゴル軍を破り、彼らをドナウ川の北方に後退させた。この戦勝がきっかけとなって、皇帝に失望していた農民たちがよりイヴァイロの元に集まるようになる。同年秋にイヴァイロはタルノヴォに向かい、進軍中に民衆から皇帝に推戴された。義勇軍は進軍中の会戦で皇帝コンスタンティン・ティフを敗死させ、1278年にタルノヴォを包囲する。イヴァイロの蜂起に対してビザンツ皇帝ミカエル8世は当初イヴァイロへの接近を試みるが蜂起が階級闘争的な性質を持ち合わせていることを知ると翻意し、ギリシャ文化に同化したアセン家の皇族イヴァン・アセン3世(在位:1279年―1280年)をブルガリア皇帝に擁立する。ミカエル8世はイヴァン・アセン3世に軍隊を付けてブルガリアに送り返した。ビザンツ軍の接近を知ったイヴァイロはタルノヴォの政府と講和し、未亡人となっていた皇妃マリアと結婚してヨーロッパ初の農民皇帝として帝位に就いた。 皇帝に即位したイヴァイロは南から進軍するビザンツ軍と北のモンゴル軍の両方と戦わなければならず、迎撃に出たイヴァイロがタルノヴォを留守にしている間にクマン人の血を引くゲオルギ・テルテルらタルノヴォの貴族がクーデターを起こし、イヴァン・アセン3世をタルノヴォに迎え入れた。ビザンツの包囲を破ったイヴァイロはタルノヴォに戻り、イヴァン・アセン3世はコンスタンティノープルに逃亡した。しかし、イヴァン・アセン3世の失脚後にゲオルギ・テルテルがタルノヴォの貴族によって皇帝に推戴された。イヴァイロとゲオルギ・テルテルの戦いはおよそ1年の間続くが厭戦気分の高まるイヴァイロの軍は次第に劣勢になり、1280年にイヴァイロは皇帝の地位を失った。失脚したイヴァイロはキプチャク・ハン国に亡命するが、宴席の座でキプチャク・ハン国の有力者ノガイによって殺害された。 ===テルテル家の統治=== ゲオルギ1世テルテル即位後のブルガリアには半独立状態の封建領主が乱立していた。 ブラニチェヴォ ‐ ダルマンとクデリンの兄弟ヴィディン ‐ シシュマンバルカン山脈山麓部とスレドナ・ゴラ山脈 ‐ スミレツ、ラドスラフ、ヴォイシルの3兄弟クラン(英語版)(クルン) ‐ エルティミル1285年にキプチャク・ハン国がブルガリアで大規模な破壊を行うとゲオルギ1世はノガイに従属を誓い、息子のテオドル・スヴェトスラフ (英語版)を人質に差し出し、娘をノガイの子チャカに嫁がせた。1292年に政争に敗れたゲオルギ1世はビザンツ帝国に亡命し、ノガイはスレドナ・ゴラのスミレツをブルガリア皇帝に擁立して自分の傀儡とした。スミレツの治世にブルガリアの領土の一部がセルビアに併合されてヴィディンが攻撃を受けるが、積極的な対応は行われなかった。 1299年にキプチャク・ハン国の内戦によってノガイが戦死した後、ノガイの子チャカがテオドル・スヴェトスラフに伴われてブルガリアに亡命する。タルノヴォの貴族たちに賄賂を贈ったチャカはブルガリア皇帝に選出されるが、1300年にテオドルはチャカを殺害し、彼の首をトクタ・ハンの元に届けた。その対価として、キプチャク・ハン国からブルガリアにベッサラビア地方が返還された。 モンゴルの支配から脱したテオドル・スヴェトスラフは敵対する貴族と高位聖職者への牽制として、以前から他国に内通している疑いがかけられていたタルノヴォの総主教ヨアキム3世に極刑を下した。テオドルは即位から3年の間にビザンツ帝国からの内政干渉を絶ち、また貴族の反抗を抑えて中央集権化に成功する。テオドルは長年ブルガリアに干渉を行ってきたビザンツに対して攻勢に転じ、ビザンツによって占領された北トラキア、ザゴラ、黒海沿岸部の都市がブルガリアの元に戻った。1308年にビザンツとの間に結ばれた和約で、ブルガリアが奪還した地域の支配が認められる。セルビアとの関係は反ビザンツ政策によって改善され、1321年にビザンツで帝位を巡る内戦が起きた際には、ブルガリアは内戦の当事者の一方であるアンドロニコス3世に加担して領土の拡大を図った。 1321年にテオドル・スヴェトスラフが没すると、テオドルの子のゲオルギ2世テルテルが帝位を継ぐ。ゲオルギ2世は内戦で分裂したビザンツに進攻し、フィリッポポリスなどの都市を奪回した。ゲオルギ2世の軍はアドリアノープルにまで南下するが、行軍の途上でゲオルギ2世は急死する。フィリッポポリスはビザンツに再占領され、指導者を失ったブルガリアは危機に陥る。 ===シシュマン家の皇帝=== 1323年にヴィディンのデスポット(封建領主)・ミハイル・シシュマンが貴族に推戴されて帝位に就く。新たな皇帝に選出されたミハイル3世は、北トラキア、ザゴラ、黒海沿岸部に侵入したビザンツの軍を撃退し、1324年にブルガリアとビザンツの間で結ばれた和約でこれらの地域を回復した。往時のブルガリアの勢力を回復するため、ミハイル3世はビザンツ帝位を巡って争うアンドロニコス3世とその父のアンドロニコス2世の両方に支援を行い、1327年にはコンスタンティノープルの占領を企てたが計画は失敗に終わった。1328年に内戦を制したアンドロニコス3世が正式に帝位に就くと、ブルガリアの失地回復の可能性は絶たれた。 しばらくの間ブルガリアとビザンツの戦争は続くが、マケドニアで勢力を拡大するセルビアに対抗するため、1329年に両国の間に同盟が結ばれた。ビザンツと同盟を結んだミハイルはセルビアに進攻するが、1330年にヴェルブジュドの戦いでブルガリア軍はステファン・ウロシュ3世デチャンスキが率いるセルビア軍に大敗し、ミハイル3世は戦死した。戦後セルビア王家の血を引く皇子イヴァン・ステファンのブルガリア皇帝即位を条件として、ブルガリアとセルビアの間に和平が結ばれた。一方、ブルガリアの敗北を知ったアンドロニコス3世は同盟を破棄して南ブルガリアに進軍し、ソゾポリス(現在のソゾポル)、メセンブリア(現在のネセバル)などの黒海沿岸部の都市を占領下に置いた。 新たに即位したイヴァン・ステファンには政務の経験が無く、また多くの貴族はイヴァン・ステファンをセルビア側の人間とみなしていた。1331年にタルノヴォの貴族ラクシンとフィリップのクーデターによってイヴァン・ステファンは廃され、ミハイル・シシュマンの甥であるロヴェチのデスポット・イヴァン・アレクサンダルが皇帝に選出される。 ===最後の安定期=== イヴァン・アレクサンダルは伯父ミハイル・シシュマンが戦死した後の混乱を収め、ブルガリア帝国は最後の安定期を迎える。 同盟国のキプチャク・ハン国の協力とビザンツに占領された都市のブルガリア人の蜂起によって、イヴァン・アレクサンダルはビザンツに占領された南ブルガリアの都市を短期の間に奪還した。1332年のルソカストロの戦い(英語版)でブルガリア軍はアンドロニコス3世の率いるビザンツ軍を破り、戦後ブルガリアに有利な和約が結ばれる。ビザンツを破った後、イヴァン・アレクサンダルは自身の即位に反対したヴィディンのデスポット・ベラウルを攻撃し、ヴィディンを併合した。 イヴァン・アレクサンダル即位の同時期、セルビアではクーデターによってステファン・ウロシュ3世が廃位され、ウロシュ3世の子ステファン・ウロシュ4世ドゥシャンが王位に就く。アレクサンダルの姉妹エレナはステファン・ウロシュ4世の元に嫁ぎ、ブルガリアは新王が即位したセルビアとの関係を改善した。1339年にはアレクサンダルの長子とアンドロニコス3世の娘マーリアとの婚姻が成立し、ビザンツとの関係も改善される。1345年にアレクサンダルはワラキア人の妃テオドラ(英語版)を離縁し、1355年から1356年の間にテオドラとの子であるイヴァン・スラツィミルをヴィディンの統治者に封じた。 14世紀のブルガリアは統一を欠いた状態にあり、各地のデスポット(封建領主)の中でもヴィディンとドブルジャはタルノヴォの中欧政府と並ぶ勢力になっていた。イヴァン・アレクサンダルの在位中もデスポットが独立した状況は続き、ブルガリアの分裂は解消されなかった。イヴァン・アレクサンダル時代のブルガリアには、以下の封建勢力が割拠していた。 ヴィディン ‐ イヴァン・スラツィミルドブルジャ ‐ テルテル家出身のバリク、テオドル、ドブロティツァの3兄弟ヴェルブジュド ‐ コンスタンティン・デヤンストルミツァ、スティプ(英語版)、ストビ(英語版) ‐ フレリョ14世紀の半ばにアナトリア半島の新興国家オスマン帝国がバルカン半島に進出すると、バルカン半島の情勢は新たな局面を迎える。 1351年にビザンツ帝国はブルガリアとセルビアにオスマンに対抗する艦隊建設の協力を呼びかけるが、同盟は実現しなかった。1356年にブルガリアはビザンツと共同でオスマン軍を攻撃するが失敗する。オスマン帝国のスルターン・ムラト1世は南ブルガリアに軍を進め、1364年にボルイ(現在のスタラ・ザゴラ)とプロヴディフがオスマンの占領下に入り、アレクサンダルはムラト1世に講和を求めなければならなくなった。同1364年にビザンツ軍が黒海沿岸部のブルガリア領に侵入してアンヒアロス(現在のポモリエ)を奪ったが、これがブルガリアとビザンツの間に起きた最後の戦争となる。この敗戦は、ブルガリアの軍事力がビザンツよりも衰退したことを示していた。 1365年にイヴァン・スラツィミルが統治するヴィディンがハンガリーの攻撃を受け、1369年にアレクサンダルがワラキア公国とドブルジャの支援を受けて奪回するまでヴィディンはハンガリーの支配下に置かれた。1366年から1367年にかけて黒海沿岸部はサヴォイア伯国の攻撃を受け、またハンガリーと西欧の攻撃の最中に南ブルガリアの都市のいくつかがビザンツの領土に組み込まれた。 ===タルノヴォの陥落=== イヴァン・アレクサンダルの没後、ブルガリアの将来はバルカン半島の大国であるオスマン帝国とセルビアの動向に委ねられる。 プリレプの統治者ヴカシン(ヴルカシン)とセラエのデスポット・ウグリェシャ(英語版)が連合してオスマン軍を攻撃するが、1371年のマリツァの戦いで連合軍は壊滅し、両者は戦死した。オスマンは新たにブルガリア皇帝に即位したイヴァン・シシュマン(英語版)に対して、講和の条件の不履行を挙げて南ブルガリアへの攻撃を再開した。1375年にイヴァン・シシュマンはオスマンへの臣従と貢納を条件に条約を更新、イヴァン・シシュマンの妹ケラ・タマラがオスマンに送られてムラト1世の妻とされた。また、ヴィディンのイヴァン・スラツィミル、ドブルジャのドブロティツァ、ヴェルブジュドのコンスタンティン・デヤンら各地の封建勢力も、オスマンに対して臣従を誓った。1378年にオスマンは和約を破棄してブルガリアに進攻し、1382年にソフィアが陥落する。 オスマン帝国の拡大に際して、セルビアの公ラザル・フレベリャノヴィチはキリスト教徒による同盟の結成を呼びかけ、イヴァン・シシュマンはボスニア王ステファン・トヴルトコ(英語版)と共に同盟に参加した。しかし、イヴァン・スラツィミル、コンスタンティン・デヤン、ヴカシンの子マルコ・クラリエヴィッチ(英語版)らはオスマンに臣従を誓い、オスマンの軍事行動を支援した。1387年にラザルの連合軍はプロツニク(現在のプロクプリェ)近郊の戦いでオスマン軍に戦勝を収めるが、戦後にブルガリア帝国とドブルジャがオスマンの報復の標的にされる。 1388年春にオスマン帝国の大宰相チャンダルル・アリ・パシャ(英語版)が30,000の軍隊を率いてブルガリアに侵攻する。ブルガリア各地の要塞がオスマン帝国に占領されるが、ヴァルナとニコポリスはオスマンから守り通せた。イヴァン・シシュマンはヤンボル近郊に駐屯していたムラト1世のもとを自ら訪れて臣従の誓いを改めて示し、ブルガリアとオスマンの間に講和が成立する。1389年のコソボの戦いでラザルがオスマン帝国に敗れると、オスマン帝国はブルガリアの直轄地化を更に進めていく。 ビザンツ帝国の弱体化、ワラキア公国のブルガリアへの進出といったバルカン半島の情勢を好機と見たオスマン帝国は1393年にバルカン諸国に攻撃を行い、ブルガリアもオスマン軍の標的とされる。3か月に渡るオスマン軍の包囲の末、1393年7月17日にタルノヴォが陥落する(タルノヴォの包囲(英語版))。タルノヴォを脱したイヴァン・シシュマンはニコポリスに逃れ、やむなくオスマンと和約を結んで領土の保持を認められる。 ===オスマン帝国のブルガリア支配へ=== 1395年のロヴィネの戦い(英語版)の後、オスマンは自国への非協力を理由にイヴァン・シシュマンとブルガリア各地のデスポットを攻撃し、彼らの領土を併合した。イヴァン・シシュマンが投獄された後もイヴァン・スラツィミルが統治するヴィディンはオスマンに忠誠を誓って独立を維持し、ヴィディンはブルガリアの中で唯一独立を保つ勢力となった。 1396年にハンガリー王ジギスムントがニコポリス十字軍を提唱すると、イヴァン・スラツィミルはオスマンへの臣従を破棄して十字軍に参加した。1396年9月25日のニコポリスの戦いでオスマン軍が勝利した後、ヴィディンはオスマン帝国に併合される。イヴァン・スラツィミルはアナトリアに連れ去られ、中世ブルガリアの国家はすべて消滅した。 ==社会== 第二次ブルガリア帝国は、皇帝を頂点とする封建国家だった。社会的構造、行政組織、経済はビザンツ帝国、封建制度に含まれる要素は同時期の西欧の国家と類似する点が多いことが指摘される ===行政=== 帝位は長子、兄弟、近親者によって継承され、皇統が断絶したときには大貴族から新皇帝が選出された。 皇帝に次ぐ地位にはデスポット・セヴァストクラトルの称号を持つ大貴族が位置していた。地方と中央の高官と宮廷の大臣職は、大貴族によって占有されていた。宮廷の官職には皇帝を補佐する大ロゴテット、財務を担当するプロトヴェスティアリイ、宮廷儀礼を司る大プリミキュルなどが存在していた。軍事には皇帝の部隊を直接指揮するプロトストラトル、近衛隊を指揮するプロトケリオトなどの称号を持つ指揮官が携わっていた。 国内の軍事と行政はホラという地方単位で区分され、セヴァスト、ドゥカ、ケファリアの称号を持つ総督によって統治され、ドゥカとケファリアは都市を統治した。ブルガリア内に多数存在する農村共同体には多くの人間が属しており、一定の自治を持った共同体は住民が選出した指導者(クニャズ)によってまとめられていた。イヴァン・アセン2世時代のホラは、以下の12地域に区分されていた。 ベオグラードブラニチェヴォタルノヴォカルボナクラン(英語版)ボロウィアドリアノープルスコピエデヴォルセルディカプリレプアルバナシ(英語版) ===ブルガリアの封建化=== 13世紀から14世紀にかけて、ビザンツ支配時代から続くブルガリアの封建化が進行した。中央権力の衰退に伴って、力を付けた地方領主は農民などの従属民からの搾取を行い、また土地や財産の寄進を受けた教会や修道院が大封建勢力へと化していった。このため、第二次ブルガリア帝国は多数の村を有する聖俗の封建勢力と農奴とされた農民が併存する状態になっていた。封建領主は都市にも介入し、都市部の商人や職人も封建領主から圧迫を受けた。 ブルガリア内の土地の所有形態は皇帝領、封建領主領、教会領、修道院領に四分される。皇帝領と封建領主領は、一定の範囲内に領地が集まっていた。逆に教会領と修道院領の場合、一つの寺院が所有する土地は国中に分散しており、支配地には住宅、耕作地、水車などの様々な施設が含まれていた。当時広範囲にわたる土地の所有を認められていた修道院には、アトス山のヒランダル修道院(英語版)、リラ修道院、バチコヴォ修道院(英語版)などが挙げられる。 封建勢力が従属民に課した税には労働(賦役)と物品の納付のほか、時代が進むにつれて貨幣の納付が加わった。牧草地、水車などの農畜・漁業に必要な道具の使用賃として、農民は生産品を領主に納付しなければならなかった。また、収穫品の10分の1を徴収するデセトカル、金貨による特別税を徴収するペルピラキなどの、新たな官職が徴税のために設けられた。 ===社会階級=== 当時のブルガリア社会は、封建勢力と農民を初めとする従属民の2つに分化していた。中間層には都市の商人と職人、下位の聖職者と修道士、官吏と兵士が位置しており、少数の奴隷も存在していた。封建勢力は皇帝と貴族ら世俗の権力者と、上位の聖職者が占める教会貴族に分かれ、下位の階級の中から封建勢力に加わる者もいた。 また、第二次ブルガリア帝国期には人口の多数を占める農民の農奴化、封建勢力の大土地所有が進行していた。皇帝、領主の支配下に置かれた農奴は「パリツィ」、教会勢力の支配下に置かれた農奴は「ポポヴャニン」と呼ばれた。彼らは耕作用の土地の所有、封建所領内での土地の相続・売却・贈与は認められていたが、土地を離れて別の場所に移ることは認められていなかった。土地を持たず、封建領主から土地を奪われた農奴は「オトロク(オトロツィ)」と呼ばれ、他の農奴よりも厳しい環境に置かれていた。さらにオトロクより低い層の農奴として、土地と生産手段を有していない「ラタイ」という小作農がおり、彼らは労働と引き換えに領主から報酬を受け取っていた。 14世紀になると封建領主の自立化、貴族間の内訌、他国の侵入によって民衆が置かれた状況はより悪化する。オスマン帝国のブルガリアへの侵入に伴って、バルカン山脈以北の土地に移住する者も現れた。社会的不安に対して民衆は異端とされる教義の布教、封建領主からの逃亡といった手段を取り、修道士となる下層階級の人間が増加した。また、土地や財産を失った民衆にはドゥルジナ(匪賊)となる者もおり、彼らは封建勢力の領地を襲撃することもあった。 ==経済== ===農業=== 前時代と同様に第二次ブルガリア帝国はの産業は農業と畜産が中心であり、依然として二圃式農業が続けられていた。小麦、大麦、雑穀が広い範囲で栽培され、13世紀以降は野菜、果実、ブドウの重要性が増す。家畜としては、主にヒツジ、ブタ、ウシが飼われていた。農業技術の発展に伴って、機械仕掛けの水車小屋と風車小屋が広い範囲で導入され、14世紀には養蜂と養蚕の技術に向上が見られた。 当時のブルガリアの特産品として、穀物、養蜂の産物(蜂蜜、蜜蝋)、絹製品、革製品が挙げられる。中でもブルガリアからコンスタンティノープル、ジェノヴァ、ヴェネツィアなどに輸出された小麦の品質は高い評価を受けていた。 ===産業=== 製造業の分野においても著しい発展が見られた。都市の増加と都市民の需要の拡大、農商業と軍事技術の発達が製造業の発達を促し、精錬業と鋳造業の発達は他の分野にも好影響を与えた。中でも製陶、石材製作、金属加工、仕立が目覚ましい発達を遂げる。 都市や大規模な村落に居住する職人は、「テフニタリ」と呼ばれる独自の階層を形成した。また、13世紀から14世紀にかけて北西ブルガリアに移住したドイツ系移民は鉱業において大きな役割を果たし、彼らは「サシ」と呼ばれた。 ===交易=== ブルガリアの領土拡大に伴って経済も成長し、皇帝と封建貴族は自らの懐を潤す輸出を奨励した。また、内外の貿易の活発化は貨幣の流通を促進する。 イヴァン・アセン2世時代のブルガリアは外国との通商関係を強化し、タルノヴォは南東ヨーロッパの経済の中心地に成長した。交易の活性化に伴い、ブルガリア独自の貨幣以外にビザンツ、セルビア、ヴェネツィア、モンゴルなどの貨幣も国内で流通した。 当時のブルガリアの商取引の中心は、祭に伴って開かれる縁日と定期市だった。また、都市では常設の市場が置かれ、一部の村落や修道院でも週ごとに市が開かれた。皇帝と封建勢力は交易に「クメルク」などの商業税と物品の納入を課していたが、一部の修道院は免税特権を受けていた。 外国との貿易は条約の締結と皇帝の勅書によって統制されていた。対外貿易におけるビザンツ帝国の地位は第一次ブルガリア帝国時代よりも低下し、ジェノヴァ共和国、ヴェネツィア共和国、ドゥブロヴニクが台頭する。テオドル・スヴェトスラフの時代にブルガリアがキプチャク・ハン国の影響下から脱すると、通商関係に変化が起きる。テオドル治下のブルガリアと関係の悪化したジェノヴァ共和国に代わる相手として、ヴェネツィア共和国との政治、経済両方の結びつきが強化された。 13世紀は外国の商人に関税は課されていなかったが、14世紀になると彼らにも規制が課せられる。 輸出品 ‐ 小麦、大麦、ライ麦、金、銀、革製品、蜂蜜、蜜蝋輸入品 ‐ 布、石鹸、香辛料、武器、オリーブ油、塩、鉄製品、奢侈品 ==宗教== ===異端の教義=== 第二次ブルガリア帝国内では異端と見做される教義も信仰されていた。 第一次ブルガリア帝国の時代からブルガリア内で活動していたボゴミル派は、ブルガリアが内訌によって混乱する12世紀の末から信者を増加させた。ボリルの統治下では皇帝の治世に不満を持つ民衆の間にボゴミル派が流布したため、1211年2月にタルノヴォの議会はボゴミル派に異端宣告を行って彼らを迫害した。しかし、ブルガリア社会に定着したボゴミル派を根絶することは不可能だった。政情が安定したイヴァン・アセン2世の治世にボゴミル派への迫害は緩和される。14世紀に入るとボゴミル派の信仰者は一部の修道士や都市の下層民に変化し、様々な分派が生まれた 民衆に流布する異端に対して、貴族層は14世紀半ばにビザンツで提唱された静寂主義(ヘシカスム(英語版))の教えを受け入れた静寂主義は正教会の教えと調和する点もあったために正教の教義に組み入れられ、また支配層と密接な関係を有していた。静寂主義は異端、腐敗した聖職者、ローマ教会との合同に対する批判手段として機能し、文学と芸術の発展にも貢献した。 静寂主義の普及と同じ時期に、コンスタンティノープル出身の修道士・医師のテオドレトスはタルノヴォにバルラーム主義をもたらした。カラブリア出身の修道士バルラーム(英語版)が提唱したバルラーム主義は、ギリシア哲学の流れを汲む合理性を備えていた。バルラーム主義は都市の下層民には受け入れられず、富裕層と一部の貴族に支持者を得る。都市部のユダヤ系住民の間で信仰されたユダヤ主義は、バルラーム主義と類似した合理主義性を有していた。 1355年と1360年にタルノヴォで開かれた宗教会議では、既成の権力と対立する思想に異端の宣告がされた。14世紀に開かれた2度の宗教会議では、変質したボゴミル派以外にバルラーム主義とユダヤ派に対しても弾圧が加えられた。 ===教育の場としての教会=== 第二次ブルガリア帝国期、教会は教育の場としての役割も有していた。修道院の付属校と大都市に存在する教会付属の学校では、聖職者と書記官の育成を目的として若年者への読み書きの教育が行われていた。学校を卒業した生徒のうち数人は修道院に入って「グラマティク」の称号を得、修道院が所蔵する書物の講読と書写によって学識を深めると共に教師の資格を得た。さらにタルノヴォ、アトス山の修道院、コンスタンティノープルで教育を受ける者もおり、当時のブルガリアで実施された教育は高い水準にあった。現存する第二次ブルガリア帝国の写本に見られる洗練された書法と正書法は、当時行われていた教育の賜物だった。 ==文化== ===文学=== 独立した国家の樹立とブルガリア正教会の独立はブルガリア文学の発展を促し、首都のタルノヴォを中心として文学活動が展開された。 12世紀末から13世紀初頭にかけて、ブルガリアでは過去に描かれた典礼書・雑録の翻訳と写本の作成が盛んになる。14世紀に中世ブルガリアの文学活動は隆盛を迎え、典礼書の増加、伝統文学の発達といった現象が見られる。聖者伝、聖歌などの新たなジャンルもこの時期に発生した。 文芸活動に参加する聖職者の多くがアトス山派とタルノヴォ派のどちらかに属し、この二派がブルガリアの文芸活動の中心となった。タルノヴォ派に属したブルガリア総主教エフティミィ(英語版)は中世ブルガリアを代表する文芸家の代表として挙げられる。エフティミィは伝記、讃辞、書簡、教会の規則書といった広い分野で執筆活動を行い、独自の雄弁的な文体を生み出した。14世紀から15世紀にかけて活躍したブルガリアの文芸家にはエフティミィの弟子筋にあたる者が多くおり、彼らはエフティミィの作風をロシア、セルビア、ワラキア、モルダヴィアへともたらした。 ===美術=== イヴァン・アセン2世の治下で首都タルノヴォは発展し、タルノヴォは絵画の中心地ともなった。第二次ブルガリア帝国期の絵画は中世初期ブルガリア美術以来の伝統を受け継ぎながらも、ビザンティン美術から強い影響を受け、西欧美術の要素も取り入れられている。タルノヴォ、リラ修道院などのブルガリア各地の教会には第二次ブルガリア帝国時代の絵画が現存し、その中でも1259年に作成されたボヤナ教会の壁面を飾るフレスコ画はスラヴォニア芸術の完成品の1つとして高く評価されている。 また、書物の装丁、挿絵に用いられた細密画も発達を見せる。13世紀から14世紀の間に装丁技術が発達し、次いで14世紀に挿絵が発達を遂げる。1356年にイヴァン・アレクサンダルが制作を依頼した4福音書には366の細密画が含まれ、中世ヨーロッパで制作された写本の中でも特に豪華なものに数えられている。 ===建築=== 第二次ブルガリア帝国に建設された城塞は、防備に優れた天険の地に建設された。都市は丘の上に建てられた城砦と麓に広がる居住地区と商店から成り立ち、城砦の中には領主の住居、教会、兵舎が存在していた。そして、それらの都市に見られる城砦と居住区の構造は首都のタルノヴォを基にしていた。 タルノヴォの町全体は城壁で囲まれ、高所にはツァレヴェツ、トラペジツァ、モミナ・クレポストなどの要塞と防備を固めた修道院が建ち、その下に都市民の居住区が広がっていた。最も高い位置にはツァレヴェツ要塞が築かれ、内部には宮殿、総主教座教会、貴族と従者の居住区などが建てられていた。 教会建築の変化に、13世紀に西欧の建築文化の影響を受けて鐘楼を導入したことが挙げられる。第二次ブルガリア帝国期の代表的な教会建築の1つとして、イヴァン・アセン2世の時代にタルノヴォに建立された聖40人殉教者教会が挙げられる。クロコトニッツァの戦いが起きた3月9日がセバステの40人の殉教者(英語版)の受難日であることにちなんで建立された教会であり、教会内の大理石中にはクロコトニッツァの戦勝を記念する文言が刻まれた。 民衆は半竪穴式住居、石と煉瓦の壁と藁葺き屋根の家、石造りの二階建て家屋、木造家屋などの異なる種類の住居で生活していた。 ===音楽=== この時代のブルガリアでは規範化された東方正教会の聖歌に対して、民俗的な教会旋律であるブルガリア唱法が確立される。 代表的な作曲家・歌手として、ヨアン・ククゼル(英語版)(1280年 ‐ 1360年)が挙げられる。ククゼルは教会音楽に民族音楽の要素を取り入れ、ブルガリアとビザンツの教会音楽に変革をもたらした。 ==年表== 1185年 ‐ アセンとペタルの蜂起1187年 ‐ ビザンツ帝国(東ローマ帝国)がブルガリアの独立を承認1204年 ‐ ブルガリア正教会とローマ教会の教会合同1205年 ‐ アドリアノープル(現在のエディルネ)近郊の戦いでラテン帝国軍に勝利1207年 ‐ 皇帝カロヤンの暗殺1218年 ‐ イヴァン・アセン2世の即位。第二次ブルガリア帝国の最盛期へ1230年 ‐ クロコトニッツァの戦い(英語版)でエピロス専制侯国に勝利1242年 ‐ モンゴル帝国の侵入、ブルガリアの従属国化1277年 ‐ イヴァイロの蜂起1280年 ‐ アセン家に代わり、大貴族テルテル家のゲオルギ1世テルテルがブルガリア皇帝に即位1300年 ‐ キプチャク・ハン国の王族チャカがブルガリア皇帝から廃され、ゲオルギ1世テルテルの子テオドル・スヴェトスラフ(英語版)が即位1323年 ‐ テルテル家に代わり、ヴィディンのデスポット(領主)シシュマン家のミハイル3世シシュマンがブルガリア皇帝に即位1330年 ‐ ヴェルブジュドの戦いでセルビア王国に敗北1355年(もしくは1356年) ‐ 皇帝イヴァン・アレクサンダルの皇子イヴァン・スラツィミルがヴィディンの統治者に封じられる1371年 ‐ マリツァの戦いでデスポットの連合軍がオスマン帝国に敗北1389年 ‐ コソボの戦い1393年7月17日 ‐ 首都タルノヴォの陥落1395年 ‐ イヴァン・シシュマン(英語版)の廃位1396年 ‐ オスマン帝国がヴィディンを併合 ==歴代君主== ===各王家の関係図=== =ナチス・ドイツによるフランス占領= ナチス・ドイツによるフランス占領(ナチス・ドイツによるフランスせんりょう)は、ドイツ軍による1940年のナチス・ドイツのフランス侵攻とフランス第三共和政政府の崩壊によって開始され、1944年以降にドイツ軍が連合国軍に駆逐されるまで続いた。 ==概要== ドイツ軍による占領下のフランスは、アドルフ・ヒトラー率いるドイツ国の四カ年計画に基づき、ドイツ企業によるフランス企業の吸収や輸出入の統制、占領経費の供出を強いられるなど、経済的支配を受けた。占領初期から中期には自由地域が設定され、ヴィシー政権による一応の独立が認められていたが、戦局の変化に従い1942年11月から全土が占領された。 コラボラシオンによりドイツはフランスからの協力体制の強化を試み、一定の成功を収めたが、フランス国民の生活は窮乏した。またヴィシー政府はナチス・ドイツの政策下、ユダヤ人の迫害を行った。国民のレジスタンス活動は次第に活発化してゆき、マキなどの組織が結成され、連合軍の動きに呼応した。1944年のノルマンディー上陸作戦を経たパリの解放とヴィシー政権の崩壊によってドイツによる占領体制は崩壊し、国土は順次解放されていった。 ==占領開始== 1940年6月22日、ドイツはヴィシー政府と独仏休戦協定を締結し、さらに仏伊休戦協定(イタリア語版)を締結した。これにより、形式的にはフランスにヴィシー政府の主権が残ったものの、半分以上の領域はドイツ軍・イタリア軍によって占領されることとなった。また、アルザス=ロレーヌには民政が敷かれ、「ドイツ国民経済への急速かつ効果的な編入のための諸措置」がとられるなど、事実上ドイツ領に編入された(第二次世界大戦下のアルザス=ロレーヌ(フランス語版))。 ドイツ軍の占領地域(フランス語版)はジュネーヴとスペインをつなぎ、トゥール(アンドル=エ=ロワール県)を経由するラインの北西側という、パリを含む広大なものであった。これらの占領区域のうち、大西洋に面する地域とベルギー国境付近(現在のノール=パ・ド・カレー地域圏)は「禁止地域(フランス語版)」とされ、フランス側の官憲は立ち入りできなかった。また仏伊国境の地域はイタリア王国に占領された(イタリア南仏進駐領域)。フランス軍政部(Die Befehlsstelle des Milit*6487*rbefehlshaber Frankreich)はパリに設置され、オットー・フォン・シュテュルプナーゲル(英語版)大将が軍政長官(Milit*6488*rbefehlshaber)となった。軍政部はインフラの修繕・捕虜の監視・宣伝・通信・防諜を担当する軍務局と民政局の二つに分かれていた。民政局は三つの課に別れ、人事・通訳・許認可を担当する総務課、警察・学校・運輸・文化・芸術の保護を担当する行政課、補給・経済・労働力・企業のアーリア化を担当する経済課に分かれていた。ただし軍政当局さほど強力ではなく、警察の権限を親衛隊に譲り渡し、ヴィシー政府との交渉はドイツ大使館に一任していた。さらに全国指導者ローゼンベルク特捜隊やトート機関、労働力配置総監などはフランス軍政部から独立して行動した。やがてフランス軍政部はこれら錯綜した勢力の連絡調整センターにすぎなくなった。 また、休戦協定22条に基づき、休戦条件の達成を確認するための休戦委員会が設置されたが、この委員会はドイツの国防軍最高司令部の監督下にあるとされ、フランス側には「要望を表明し」「執行についてドイツ休戦委員会から諸規則を受諾するため」の代表を送ることしかできなかった。さらに20条ではドイツに捕らえられた戦時捕虜はそのまま抑留されることとなっており、占領地区の武器はドイツに引き渡されることとなり、自由地区の武器はドイツ・イタリア両軍の監督下に置かれただけでなく、陸軍は10万人に限定され、新たな軍備装備の製造は禁止された。またヴィシー政府はドイツ軍とイタリア軍の占領経費を支払わねばならなかった。1940年6月25日からドイツに対して毎日2000万マルク(4億フラン)、イタリアに対して月額5000万マルクを支払うこととなった。ドイツはこの費用を経済大臣の管掌に任せ、ドイツ企業がフランスにおいて資本や企業を買収する費用に充てられた。占領経費の支払いは10日分を一括で、前払いであった。 ヴィシー政府は一応正統な政府としてイギリス以外の各国から承認されたが、自由地域でもドイツの要求を拒むのは困難であった。ヴィシー政府の支配地域の南部は自由地域(フランス語版)とされたが、自由地域と占領区域の間には境界線(フランス語版)が配置された。境界線はドイツ軍の許可がなければヴィシー政府閣僚ですら通行できず、小荷物は郵送できるが、手紙のやりとりは禁じられた。 ==占領政策== ===初期=== 独仏休戦協定の諸条件は「もっぱらドイツの安全の立場から厳命された」ものであった。フランスの敗北が明らかになると、ドイツ経済省はドイツ国内の大企業や全国工業集団 (ReichsgruppeIndustrie) に対し、フランス産業界に対する要求を提出させた。当時の大企業の一つであるIG・ファルベンインドゥストリーを中心とする化学工業団体はフランス化学工業界への参入を希望しているが、この中でIG・ファルベンはフランス染料諸企業資本の50%を要求している。このほかに諸企業の要求は「十分な割り当ての保証」「為替・通商政策におけるドイツ利害の配慮」「ドイツ人に対する無条件の滞在許可」「ドイツ側の必要に応じたドイツ人の労働許可」「租税上の不利益措置の排除」など、ドイツ側の優越を押しつけるものであった。これらの要求、特にIG・ファルベンの要求は国家の新秩序計画に組み込まれ、ドイツの公的政策となった。 1940年6月13日に四カ年計画全権ヘルマン・ゲーリングは西部占領地域の経済利用に関する命令を発出した。ゲーリングは「フランスが征服された国であり、そこから引き出されるべき主要な諸利益は戦利品である。」と考えており、占領地からの資源・機械・家畜の没収を基本方針としていた。ヒトラーもこの方針に賛同しており、「フランスとの全交渉は政治的側面からのみみられるべきであって、けっして経済的側面からみられてはならない」と考えており、経済に支障が出るためフランスが撤廃を求めていた占領区域の境界線検問の廃止にも応じなかった。ドイツ側の考えはこのような搾取と懲罰によるものであり、経済省の案の中にはフランスを「いくつかの奢侈品工業を持つ農業国」に転化させる計画すらあった。一方で外務省はフランスを「新秩序」に編入するためにはもっと穏やかな政策をとるべきであると主張した。 8月には駐仏大使オットー・アベッツ(英語版)がパリに赴任した。アベッツはドイツの宣伝やヴィシー政府との連絡、政治的重要文書の調査など様々な任務を帯びていた。アベッツはパリの社交界の中心となり、10億マルクを使った男と呼ばれた。アベッツはフランスを「ゲルマン戦士の休息の場」「憩いの庭、歓楽の場」に育て上げるつもりであったが、軍政当局に助言する程度の権限しかなく、ドイツ側の残忍さをこぼす程度のことしかできなかった。 この1940年10月までの時期は主にドイツによる一方的な搾取の時期であった。ヴィシー政府も敗北によって方向を見失っており、対独協力の動きもさほどではなかった。フランスの対独輸出入は戦争中と変わらない低水準のままであった。しかし効率的な軍需生産が求められるようになり、ドイツ側は方針転換を迫られることとなった。 8月26日、ゲーリングはフランスを含む西部占領地域の軍需・公的・私的注文を調整する機関として、中央発注所 (Zentralauftragsstelle) を設置する指令を出した。各官庁や公私企業は占領地域ごと(オランダ、ベルギーと北フランス、ヴィシー政府)の中央発注所に発注を届け出ることとなり、戦争遂行に必要な軍需生産を優先させる体制ができあがった。一方フランス側の産業もほとんどが軍需生産に振り向けられており、軍需生産を継続したいフランス産業界側からの要望もあった。 ===中期=== 1940年10月から1942年11月まではドイツとフランスの間で一定の利害調整が行われた時期である。この時期にはピエール・ラヴァルらの対独協力(コラボラシオン)が活発化し、ドイツ側は次第に利益を上げられるようになった。このためドイツに対する輸出も全体の40%に達するまでに増加し、輸入量も改善された。このようなコラボラシオンの結果の一つが、1941年7月に成立した航空機製造のための独仏共同計画である。1943年にはフランスの全航空機産業がドイツに併合された。この頃にはフランスは「ドイツ経済に対する原料、食糧、および工業製品の最も重要な供給者となっていた」。1941年5月11日からは占領経費の支払いが1500万マルクに減額された。 一方でドイツの権威を背景としたドイツ企業によるフランス企業の吸収が進んだ。中でもフランス染料企業はIG・ファルベンが51%を出資する「フランカラー」社に統合され、事実上IG・ファルベンの支配下となった。また、通常の取引でもドイツ軍の圧力を背景に、フランス側には不利益が押しつけられた。たとえばフランス通貨フランとドイツ通貨のマルクの為替レートは12フラン=1マルクが相場であったが、一方的に20フラン=1マルクと公定された。また、1940年11月にヴィシー政府との間で結ばれた相殺協定は、物資の輸出入に当たって支払いを即時に行わず、両国間の輸出入額を均衡させるという名目であったが、フランス側はその支払代金を受け取ることができず、事実上ドイツ側の輸入代金踏み倒しに利用された。いっぽうでユダヤ系企業の資産没収により、クレディ・リヨネ(フランス語版)やパリバ、国立商工銀行などの銀行業界は資産を倍増させている。 1942年になると大使館の機能はドイツ労働戦線や親衛隊に取ってかわられるようになり、アベッツの役割はますます小さなものとなった。4月からはゲシュタポが占領地区で公式な活動を開始し、5月にはフランスの親衛隊及び警察指導者にカール・オーベルクが就任した。ヴィシー政府首相ピエール・ラヴァルは親衛隊やアプヴェーア(ドイツ国防軍諜報部)の活動を自由地域でも許可している。 ===全土占領期=== トーチ作戦による北アフリカ喪失を受けたドイツは、1942年11月11日にアントン作戦を実行し、自由地域の占領を開始した。占領経費は再び増額され2500万マルクとなった。さらに1943年9月のイタリアの降伏後は、月額5000万マルクの補償金はドイツに支払われることとなった。 このドイツによる全土占領が行われた1942年11月から1943年の時期、ドイツはフランスから最大の利益を得ることに成功した。四カ年計画当局は「占領諸地域から非常に注目すべき量の物資を取り出すことに成功した」としている。この時期にはコラボラシオンがフランスの「奴隷化」を招き、ドイツによる搾取はもっとも大きなものになった。フランスはドイツの粗国民生産の4分の1に達する商品とサービスを提供し、総輸出の8割以上をドイツに向けていた。これはドイツの総輸入の40%以上に達するものであった。これらの「成果」はフランス人の犠牲の上に成り立っており、食糧割り当てはドイツ人に対して半分の割合であり、肉に至っては3分の1以下であった。 また労働力配置総監フリッツ・ザウケルはフランスからドイツ本土へ25万人の労働者を移送することを要求した。1943年2月16日、ヴィシー政府は強制労働局 (STO) を設置し、ドイツにおける労働者を募集した(義務協力労働(フランス語版))。STOの募集は拒絶すれば食糧配給が停止されるなどほとんど強制的なものであり、1943年3月までには要求された25万人がドイツ本土へ移送された。強制労働者は栄養不良で体調を崩すものが多く、3万5千人が結核などで死亡している。強制労働を拒否した人々はマキと呼ばれる抵抗運動に参加した。これら徴用や捕虜の強制労働、大西洋の壁等の建設に関わっていたドイツ企業など、ドイツのために働いたフランス人は合計で350万人を超えた。 全土占領後、フランス警察は全土でドイツ軍の指揮下になったが、士気の低下が目立ち、投獄されるものも現れた。かわってゲシュタポは手先となるフランス人を町中に潜伏させ、密告や暗殺によって治安活動を行うようになった。フォッシュ街のフランスゲシュタポ本部では、毎晩のように悲鳴が聞こえていた。 ==占領地域の国民== ===生活=== 休戦後しばらくは混乱が続いていたが、やがて市民生活は平穏を取り戻した。しかし占領地域においてフランスの国旗の掲揚は禁じられ、市民の胸中には軍や対独協力者に対する恐れと怒りがあった。ジャン=ポール・サルトルはパリ市民とドイツ軍の間には「屈辱感を伴った名状しがたい一種の」「何等共感を伴わない」「連帯関係」があったと語っている。 フランスの輸出入は極度に減少し、残った輸出入の大半はドイツ向けとなった。1940年9月からは配給制が始まり、年齢別・職業別によって食糧が割り当てられるようになった。ドイツの戦況が悪化すると、配給量は減少の一途をたどり、電力不足・交通の悪化がはげしくなった。パリではウサギを飼う人が増え、空き地や公園、道路の斜面などで野菜が作られるようになった。人々は闇市や遠距離からの輸送に頼らざるを得なかった。1942年秋からはイギリス軍による空襲が増加し、多くのフランス人が命を落とした。自転車は鍵をかけておいても盗まれるほど治安は悪化し、ユダヤ人等に対する密告が横行した。 一方でアンドレ・ジッドやパブロ・ピカソなどの独創的な作家・芸術家にとって、ドイツ軍占領下のパリはヴィシー政府の統制に比べると自由だと感じられた。ヴィシー政府の検閲はナチスよりも対象が多く、その点では占領地域のほうが比較的ましであった。 ===レジスタンス=== 占領直後の抗独レジスタンスは、個人の自発的な抵抗として始まった。彼らは密告を警戒しながら個人の協力者を求め、やがて小規模な抵抗組織ができあがっていった。1940年6月18日にはシャルル・ド・ゴールがロンドンからフランスに向けて抗戦を呼びかけるラジオ放送を行ったが、この時点での彼はまだ大きな存在ではなかった。 1940年11月11日の第一次世界大戦休戦記念日には、あらゆる素材でできた三色旗章をつけた学生数千人がシャンゼリゼ通りをパレードした。彼らはラ・マルセイエーズを歌い、中には二本の釣り竿(ドゥ・ゴール、シャルル・ド・ゴールと引っかけている)を担いだ学生もいた。軍政当局は123人の学生を逮捕し、5人の学生を有罪としたうえで、デモの発端となった大学を一時閉鎖した。 この時期にできた主要なレジスタンス組織としてはクリスティアン・ピノー(英語版)が率いるフランス社会党系の「北部解放(フランス語版)」、アンリ・フルネが率いるキリスト教民主系の「コンバ」、エマニュエル・ダスティエとジャン・カヴァイエス(フランス語版)らによって結成された「南部解放(フランス語版)」が知られる。またノートルダム信心会はその信徒組織を使って北と南のレジスタンス組織の連絡を取り持った。 1941年になるとロンドンの自由フランスと国内レジスタンス運動の間で連絡が取られるようになった。6月22日には独ソ戦が開始され、それまで対独協力的であった「モスクワの長女」フランス共産党の方針が反独に切り替わった。共産党系のレジスタンス組織は「国民戦線(フランス語版)」であり、共産党系以外の者も参加できる組織であった。国民戦線は職業別の組織を作って次第に拡大し、レジスタンス組織の一大勢力となった。 フランス革命記念日の7月14日には、自由フランスの呼びかけで、パリ市民が青・白・赤のものを身にまとい、密かに三色旗を現す「デモ」が行われた。またこの年にはパリの各地で「V」という文字が落書きされる事件が相次いだ。これは連合国の勝利を願う「Vサイン」であり、ドイツ軍は逆にエッフェル塔や議事堂にドイツの勝利を現す「V」を掲示することで対応した。 8月23日には共産党によるドイツ将校暗殺事件が発生した。この前日には、ドイツ将校が暗殺されれば、拘禁されている共産主義者やユダヤ人の「人質」を処刑するという布告が行われており、8月30日には8人の人質が処刑された。8月28日にはラヴァルとマルセル・デアが狙撃されるという事件が起きた。9月にはフランスに強制収容所を建設する許可が出た。ヴィシー政府とドイツ軍の取り締まりは苛烈になり、ド・ゴールがレジスタンスに自重を促す演説を行うほどであった。12月には『夜と霧の布告』が出され、ドイツ将兵の殺傷行為を働いたものは処刑にされることなった。1942年4月からは占領地区の警察活動は親衛隊が行うこととなり、取り締まりはより激しくなった。 1942年11月の全土占領までは、占領地域では軍事的な、自由地域では政治的な抵抗が行われていた。北部地域では個人的な暗殺やインフラの破壊、大規模ストライキなどが行われた。ドイツ側は激しい摘発と密告の奨励によって対抗した。全土占領後はヴィシー政府に対する国民の期待が消滅したこともあり、レジスタンス運動の拡大と、組織化が促進された。1943年9月からの3ヶ月間で709人の治安関係者が暗殺され、9000件の爆弾事件が起き、600の列車が脱線させられた。 1943年になると共産党系の組織も自由フランスとド・ゴールを承認するようになった。5月には全国抵抗評議会 (CNR) が結成され、自由フランスを中心とした新生フランス樹立を目指すこととなった。6月9日にはフランス秘密軍(フランス語版)指揮官のシャルル・ドゥレストラン准将が逮捕された。またこの頃には激しい徴用から逃亡した人々で結成されたマキの抵抗が活発になった。 またポール・エリュアールの『自由(フランス語版)』やヴェルコール(ジャン・ブリュレル(英語版)の筆名)の『海の沈黙(英語版)』やサルトルの『蝿(英語版)』など、レジスタンスを支援する文芸も現れている。芸術家の中にはガブリエル・ペリ(英語版)やアルベール・カミュのように自らレジスタンス組織に参加するものもいた。 ===コラボラシオン=== ドイツ大使アベッツはフランスのジャーナリズム界に働きかけ、フィリップ・アンリオ(fr:Philippe Henriot)等の協力者を得、対独協力の宣伝を行わせた。ドイツ大使館は1943年までにパリの新聞界に3億フランを提供したという。またロベール・ブラジヤック、アベル・ボナール等の、戦前フランスに反感を持つファシスト知識人も対独協力に積極的であった。1941年と1942年には、国民啓蒙・宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッベルスがフランスの作家・芸術家をドイツに招き、ドイツに好意を持つようし向けた。『新フランス評論』を発行するガリマール社は対応に苦慮し、一方ではドイツの意向に沿う編集者・作家を起用する一方で、反ドイツ的作家を雇用するなど綱渡り的な運営を行っていた。 またナチス運動に魅了され、軍事的・政治的に対独協力を行ったジャック・ドリオやジョゼフ・ダルナンのような存在もあったが、ドイツ側はさほど信頼を置いていなかった。さらに戦前の左派のうち、マルセル・デア(フランス語版)をはじめとする反共主義者や平和主義者も対独協力に積極的であった。デアは国家人民連合 (RNP) を結成し、ヴィシー政府よりも積極的な対独協力を主張した。 フランス共産党は独ソ不可侵条約を支持していたため、開戦以降禁止され、弾圧されていた。また党指導者モーリス・トレーズは亡命先のモスクワから、ドイツと戦わないように指令を出していた。このためドイツの占領後は、むしろ帝国主義政府が打倒されたことを歓迎し、ドイツ側と党の合法化に向けた交渉を行っている。しかしソビエト連邦とドイツの関係が微妙となった1941年5月頃からは抗独の動きを見せ始め、独ソ戦開始後は、大量の党員が逮捕されたこともあって、はっきりと反独にふみきった。 ==ヴィシー政府の動き== ===リオン裁判=== マルク・ブロックが「打ち負かされた国民はすべて裏切り者を探すか、やむをえなければ敗北を幾人かの身代わりの責任に帰する」と述べたように、ヴィシー政府では敗北の責任を問う動きが占領直後から起こっていた。フランス共産党もこの動きに賛同しており、フランソワ・ビュー(英語版)は獄中から検察側証人となることを訴えており、北アフリカで監禁されていた共産党議員も証言に協力する意向を示した。ヴィシー政府はこの裁判で民主主義制度を糾弾するつもりであり、被告側もそれを見抜いていた。 1942年2月から始まったリオン裁判(英語版)では、レオン・ブルム、エドゥアール・ダラディエらの歴代フランス人民戦線首相、モーリス・ガムラン陸軍総司令官が裁かれた。しかし裁判の過程で、人民戦線政府が再軍備の計画を立てていたのに対し、軍側が退嬰的な防御方針に固執していたことが明らかになった。このことは軍部やヴィシー政府首班のフィリップ・ペタン元帥の責任につながることになりかねず、またヒトラーの不興も買ったこともあり、4月には裁判が中止された。 ===宣伝=== 1940年7月にヴィシー政府は3つの国営放送局と民放2局を占領軍の使用にゆだね、フランス国内ではドイツのプロパガンダ放送が繰り広げられることとなった。フィリップ・アンリオ(英語版)はもっとも有名な扇動家の一人であり、反共・反ユダヤ・反連合国を訴えた。また占領地域の映画館では上映に先立ってニュース映画の上映が義務づけられ、反共・反ユダヤ・反連合国、ヴィシー政府の国民革命などが喧伝された。 これらの宣伝もあって、降伏前からすでに高まっていたヴィシー政府主席ペタン元帥への個人崇拝は非常に高まった。1944年4月にペタンがパリを非公式訪問した際にも熱狂的な歓迎が起こるほどであった。 独ソ戦開始以降は反ボルシェヴィキ・反共のキャンペーンが強化された。 ===ユダヤ人迫害=== 占領開始後、ペタンは「国際ユダヤ資本」を批判する演説を行い、反ユダヤの動きが明確化された。パリの商店では「ユダヤ人お断り」の張り紙が出現し、ユダヤ人排斥デモが各地で発生した。1940年9月には教師に対してフリーメーソンやユダヤ人でないことの誓約が義務づけられ、1927年以降に移民した6300人のユダヤ人が帰化を取り消された。この措置は教師だけでなく上級公務員、将校、雑誌編集者、映画監督、劇場支配人までに及んだ。ヴィシー政府はユダヤ人を宗教ではなく人種で定義し、またアルジェリア在住のユダヤ人のフランス国籍を取り消した点でドイツよりも過酷であった。ドイツが占領地域で施行したユダヤ人取締法はまもなく自由地域でも施行された。ユダヤ人は公共施設に入ることもできず、買い物もろくにできない状態に追い込まれた。またドイツ本土で行われていた経済のアーリア化政策は占領地・自由地域でも行われ、ユダヤ系、またはそう見られた企業の吸収・資産没収などが行われた。 このユダヤ人摘発の影には在仏ユダヤ人総連合(フランス語版) (UGIF) の対独協力が存在した。UGIFは東欧や外国籍のユダヤ人を優先してナチスに引き渡すことで、フランス国籍のユダヤ人を守ろうとした。しかし1943年から組織はゲシュタポの手に落ち、UGIFは完全にゲシュタポの道具と化した。 1942年になるとパリではたびたび外国系ユダヤ人が検挙され、強制収容所に送られた。6月にはドイツがヴィシー政府にユダヤ人10万人の移送を要求し、ヴィシー政府側はフランス国籍ユダヤ人を逮捕しないが、外国籍のユダヤ人は子供もろとも逮捕する方針を固めた。7月16日には「春の風」作戦が実行され、1万2千884人のユダヤ人が逮捕され、ヴェロドローム・ディヴェール競技場に集められた(ヴェロドローム・ディヴェール大量検挙事件)。これはパリ在住のユダヤ人の半数に及ぶが、フランス警察の中にはユダヤ人に情報を流して避難させるものもいた。 このユダヤ人迫害にはヴィシー政府に協力的であったカトリック教会の反発を招き、枢機卿会議はペタンや首相ピエール・ラヴァルに大量検挙を批判する書簡を送った。ラヴァルはフランス国籍ユダヤ人の擁護に動き、一部ユダヤ人の出国に協力した。 イタリア占領地域ではユダヤ人取り締まりはほとんど行われず、フランス各地からユダヤ人が逃げ込んだ。しかし1943年9月のイタリア休戦以降、ユダヤ人が逃げ込める場所はフランスになくなった。 ==崩壊== 1944年6月6日、ノルマンディー上陸作戦が開始され、フランスに再び連合軍が上陸した。8月11日にはドラグーン作戦が実行され、南フランスも連合軍の手に落ちた。8月25日にはパリの解放が行われ、フランス共和国臨時政府がパリに移転した。ヴィシー政府は崩壊し、閣僚はドイツ本土に拉致された。一方で6月10日にはオラドゥール=シュル=グラヌ村が武装親衛隊によって焼き討ちされる惨事が起きている。 7月19日にはベルギー国境付近の地域とベルギーに「Reichskommissariat」(国家弁務官支配下のベルギーと北フランス(英語版)(Reichskommissariat Belgien und Nordfrankreich もしくは Reichskommissariat f*6489*r die besetzten Gebiete von Belgien und Nordfrankreichce))が設置され、ヨーゼフ・グローエ(ドイツ語版)が国家弁務官となったが、この地域もまもなく連合軍に奪回された。1944年中にフランスの大部分は連合軍によって解放され、1945年2月のコルマールの戦いによって、アルザス=ロレーヌも奪回された。ただしサン=ナゼールやラ・ロシェル、ロリアンのドイツ軍部隊は降伏を拒否し、連合軍もあえて強攻しなかったため、彼らの降伏は5月のドイツ降伏以降となった(欧州戦線における終戦 (第二次世界大戦))。 戦後、フランス法廷においてドイツ企業がフランス企業と結んだ諸契約は無効となり、IG・ファルベンも解体された。対独協力者、もしくはそう見られたもの達は裁判やリンチにかかり、正規の裁判を経ずに処刑されたものは1万人に達した(エピュラシオン)。 =スコモローフ= スコモローフ(ロシア語: Скоморох)は、中世ロシアで活動した芸能人の呼び名である。複数形でスコモローヒ(Скоморохи)とも。日本語での翻訳として「放浪芸人」、「漂泊楽師」などがある。 ==概要== およそ11世紀から17世紀にかけて、ロシアの民衆の宴会や婚礼(婚配機密)、埋葬式などの際に歌や舞踊、楽器演奏、人形劇などの芸によって娯楽を提供したのがスコモローフである。これらによってスコモローフは、伝統的な民衆劇や儀礼をはじめとしたロシアの民俗に決定的な役割を果たした。 とりわけ音楽面においては、スコモローフは古代から中世にかけてのロシア歌唱芸術の中心的な担い手であった。彼らが伝承し民衆の中でその血肉となった民族音楽は、近代・現代のロシア芸術音楽の最大の源泉となった。また、スコモローフはロシアの口承叙事詩ブィリーナの作者かつ語り手であったとも考えられている。 スコモローフは18世紀以降衰退したが、彼らの民俗・文化は、例えば見世物小屋の呼び込みや大道芸、サーカスなど後世の都市フォークロア、あるいは都市の下層民や職人のもたらす文化へとつながっている。ベラルーシやスモレンスク地方では、現在でもフォーク・ヴァイオリン弾きをスコモローフと呼ぶ。 ==スコモローフの歴史== ===成り立ち=== 11世紀に建設されたキエフの聖ソフィア大聖堂に6人の楽師たちを描いた壁画があり、スコモローフを描いたものとしては最も古いものである。聖堂内の絵であることから、彼らはビザンチン文化の流入に伴って移ってきたギリシャ系の芸人ではないかとする説が有力である。一方で、キリスト教以前のロシアで宗教的儀礼を司ったのがスコモローフの前身だともいわれている。このことから、スコモローフの音楽は、古代スラヴ人の民族的な歌謡をもとにしつつ、ビザンチンの正教奉神礼の影響を受けながら発展したと考えられている。 「スコモローフ」の呼び名は、ロシア語文献では原初年代記の1068年の記述に現れている。古代スラヴ文献の中では、10世紀にブルガリアで用いられたのが最初と見られる。この呼び名は13世紀末までは広く用いられておらず、彼らの個々の芸に相当する「踊り手」、「笛吹き」、「ひょうきん者」、「俳優」、「おふざけ屋」、「遍歴楽師」などといった表現が並行して使われていた。「スコモローフ」が定着したのは16 ‐ 17世紀とされる。なお、「スコモローフ」の語源そのものは不明である。現代ロシア語の辞書で「スコモローフ」は吟遊詩人あるいは放浪芸人をさすとされるが、後述するように、実際には都市に定住するスコモローフもいた。 11 ‐ 13世紀ごろのロシア社会では、異教的な色彩を帯びた遊興・宴会・婚礼などが普及しており、スコモローフはこうした祝祭の場に歌舞や演技者として加わった。例えば、結婚式にスコモローフが招かれたのは、歌や踊りで陽気な気分を盛り上げるためだけではなく、彼らの演奏や演技が魔力を持ち、結婚に悪意を抱く者の「邪視」などの妨害から新郎新婦を守ると信じられたからである。 このように、スコモローフは異教的な世界観の体現者であったため、ロシア正教会からは敵視され、「悪魔の使い」として排斥を受けた。 ===活動盛期=== スコモローフは社会的には多様な民衆層からなっていた。その多くは無宿の漂泊者であり、演奏や演技を生業として町や村を転々とした。一方で都市に定住する者もあり、別に生計を立てながら楽師を務めて副収入を得る者や、単に道楽として興じる者もあった。 初期には、主として諸侯・貴族の宮殿や屋敷で養われて演技していたスコモローフは、数を増すとともに活動範囲を広げ、民衆や農民に近づいていった。彼らは、民衆の娯楽の集いや商業都市の広場、同業者仲間の宴会、身内の集まりなどの場で芸を披露するようになった。 13世紀から15世紀にかけての「タタールのくびき」の時代にモンゴル軍の襲撃を受けなかったノヴゴロドでは、スコモローフの芸術水準はとくに高まった。 ノヴゴロドでは、教会がスコモローフに対して比較的寛容な立場を取り、キエフ・ルーシやモスクワ・ルーシに見られたような厳しい弾圧を加えなかったこともあって、暴露的な風刺文学のジャンルも発達した。こうしたなかで、『鳴れ、私のヴォリンカ』、『ヴィヴァーロ』といった音楽風刺の文献が見つかっている。 ===弾圧=== 17世紀に入ると、ロシアでは農奴制が完成するとともに都市を中心とした貨幣経済の浸透が始まった。社会的矛盾の拡大と封建的な圧政から、たびたび民衆蜂起が起きるようになると、スコモローフはこれに直接関わった。旅のスコモローフ一座の中には、強盗に早変わりする者もあった。スコモローフの芸もまた、一般大衆の支持を受けるために次第に風刺的な内容が増えていき、聖職者や権力者を面白おかしく採り上げるようになったことで、教会に加えてツァーリや貴族からの迫害も招いた。 ロシア正教会の攻勢は強まり、政権に対してスコモローフのいっそうの弾圧を求めるようになった。のちに古儀式派の指導者となった長司祭アヴァクーム(1621年? ‐ 1682年)は、自伝で次のように述べている。 「ひたすらハリストス(キリスト)の教えを守る者として、私はスコモローフを追い払ったことがある。ただひとり野原で大勢の者どもから道化の仮面や太鼓を取り上げてこれを破り捨て、二頭の大熊も奪い取った。」 また、1630年代にロシアを訪れたドイツ人外交官アダム・オレアリウス(en:Adam Olearius, 1603年 ‐ 1671年)の旅行記には、次の描写がある。 「ロシア人は教会の外ならどこでも音楽を好んでいる……けれども現在の総主教は酒場や街頭などであらゆる種類の放埒と猥褻な歌のために音楽が利用されていると見なし、すべての楽師に演奏を禁じ、楽器を破壊するように命じた。かき集められモスクワ川の向こうで焼き捨てられた楽器が馬車で五台分もあった」 ===衰退=== 1648年、モスクワ大公アレクセイの勅令「モラルの匡正と迷信の根絶について」によって、スコモローフの演技や楽器演奏が禁止された。法的基盤を失ったスコモローフはロシアの中央地域から追放され、ウラル、シベリア、ヴォルガ川の中下流の左岸など辺境の地に移り住んだ。 都会を追われ、あるいは追及を逃れて地方へ向かったスコモローフも、地方では演技を生業としていくことは困難であり、楽器演奏家や民衆劇の役者として一部が残ったほかはやがて姿を消していった。このような過程で、ブィリーナがスコモローフから地方の農民などに伝えられて残ったのではないかと推定されている。 とはいえ、その後も各種史料にスコモローフの名は登場し、18世紀に活動したスコモローフとされるキルシャ・ダニーロフの曲集が出版されたのは、19世紀に入ってのことである(「音楽」の節参照)。スコモローフ衰退の要因として、直接的には政権や教会の弾圧が挙げられるものの、むしろ決定的だったのは、都市に劇場を建てさせた時代の流れといえる。 すでに触れたように、商品の流通と都市の発展・近代化に伴って、商人や下層聖職者、一般市民が影響力を持つようになり、芸術分野においてもその題材は教会的なものから世俗的なものへと転換していった。新しく生まれたコミュニケーションによって、それ以前の語り手・演技者と民衆の関係もまた打破されていったのである。活字以前の時代の文化の担い手であったスコモローフが17世紀を境として急激に歴史の表層から姿を消した背景には、中世から近世への転換があった。 古代スラヴ人の異教崇拝の奥底で生まれたスコモローフの音楽は、17世紀末になって生活機構の社会的な変化と結びつき、その結果、内容も形態も一新されたのである。 ==スコモローフの芸能== スコモローフの仲間には楽師、歌手、踊り手のほか、語り手、奇術師、アクロバット、動物調教師、喜劇役者たちもいた。漂泊楽師たちはロシアの各地をさまよいつつ自分たちの芸術を広め、土地や公園のさまざまな民族的な創造を吸収して歩いた。 ロシアの口承叙事詩ブィリーナの研究家たちに広く支持されている説が、スコモローフがブィリーナを語っていたというものである。ブィリーナの中で、スコモローフはしばしば重要な役割を果たしている。例えば、キエフの勇士ドブルィニャ・ニキーティチはスコモローフの扮装をして戦いの話を語り、ノヴゴロドの商人サトコは流しのスコモローフである。これらの場面においては、楽器グースリがスコモローフのトレードマークとして使用される。 ===音楽=== スコモローフの音楽は、古代スラヴ人の宗教儀式や民族的歌謡から生まれ、11世紀ごろからはビザンチンの正教奉神礼の影響を受けながら発展したと考えられている。 16世紀には、モスクワに娯楽宮殿が造られ、才能あるスコモローフの音楽家や作家が招かれた。楽師たちによって多くの楽器が作られ、改良され、アンサンブル演奏が育った(「スコモローフの楽器」の節参照)。 1818年、キルシャ・ダニーロフの『古代ロシア詩集』が出版された。ダニーロフは、1760年代にウラルまたは西シベリア地方で活動したスコモローフといわれる。この曲集には楽譜付きの全71曲が収録されており、古代スラヴ音楽の最初の楽譜本かつ本格的なブィリーナ集でもあった。 ダニーロフの曲集は、ルーシの生活風俗やエピソードを表現する合唱曲や器楽作品に役立つことになった。例えば、ブィリーナを題材にしたニコライ・リムスキー=コルサコフのオペラ『サトコ』(en)第4場で義勇兵士の歌「高く、高く、天高く」はこの曲集から採られたものである。 ===スコモローフの楽器=== ===グドーク(en)=== スコモローフが最初に手にしたと考えられている弦楽器である。楕円型あるいは梨型の胴と平らな共鳴板を持ち、3弦であった。1951年‐1963年の発掘調査で12世紀のものと思われるグドークが見つかっている。16世紀には種類が増え、グドーチェク、グディーシチェといったバリエーションが誕生した。 ===グースリ=== キエフのスコモローフたちがもっとも多用したと考えられている楽器である。初期のものは、翼の形をした木製の小型の胴から「翼型」と呼ばれた。ノヴゴロドで1951 ‐ 1962年にかけての考古学的な発掘調査によって13世紀の翼型グースリが発見されている。この型のグースリの弦は4‐9本であった。14‐15世紀には翼型の改良版として兜型グースリが登場した。弦の数は11‐30本に増えている。16世紀になると、箱形(卓上型)グースリが製作された。 ===ドムラ=== 14世紀末から15世紀にかけて、ノヴゴロドのスコモローフたちの音楽が開花した時期に登場した楽器がドムラである。半球形の胴、短いネック、2弦を持つこの楽器は当時の実物が発見されていない。16世紀には、ドムリーシカ、バスドムラも現れた。 ===バラライカ=== 1688年のモスクワで親衛従兵の命令記録に、スコモローフがバラライカを弾いて歌っていたことが記されている。歴史上にバラライカが登場したもっとも早い時期の記録である。このほか、フルートやソペリ・スヴィストコーヴァヤ、パンフルート、ヴォリンカ(バグパイプ)などの管楽器やブーベン(タンブリン)、ブリャチャーロ(小型のシンバル)などの打楽器も用いられ、11世紀には、すでにアンサンブルが生まれていた。キエフ大公スヴャトスラフ・ヤロスラヴィチ(en:Sviatoslav II of Kiev, 1027年 ‐ 1076年)の宮殿では、定期的に大編成の器楽アンサンブルが民謡を題材としたレパートリーとされた。 19世紀末から20世紀にかけて、ワシーリー・アンドレーエフ(en:Vasily Vasilievich Andreyev, 1861年 ‐ 1918年)はこれらの楽器を復元・改良し、「大ロシア・オーケストラ」(ロシア民族楽器オーケストラ)を組織した。 ===演劇など=== 20世紀ソビエト連邦時代の研究者アナトーリイ・ベールキンによれば、芝居や祭りの儀礼など民衆劇を主としたレパートリーはスコモローフの中でも定住型の芸人によって演じられ、一方、放浪型の芸人はペトルーシカ(人形劇)、ラヨーク(のぞきからくり)、熊使いなど、長時間の準備を必要としない機動性を持つレパートリーを開拓していったとする。 ロシアの定住農耕民にとって大きな民俗儀礼としてクリスマス週間があり、期間中に行われる仮装やめぐり歩きなどの遊興は、後の演劇の形成に深く結びついている。スコモローフは、これをはじめとして婚礼や埋葬式など民衆の集いや遊興に中心的な役割を果たした。仮装や歌舞、演技などを通じて民衆にパロディとファルス(笑劇)の形式を与えたことで、スコモローフはロシアの笑いの文化と同時に演劇の起源をもたらした。このような演劇の際だった特徴は、見物人の直接参加がなされていたことである。スコモローフの歌や踊りが元になり、後に民衆劇場や民俗的な題材による芝居の上演が生まれた。 また、17世紀の民俗的な風刺文学『カマリンスカヤ』や『バールィニャ』は、その原典をスコモローフの芸術に見ることができる。 ===人形劇と熊使い=== 1630年代にドイツ人外交官アダム・オレアリウスがロシアを訪れて残したスケッチには、スコモローフたちの楽器演奏や踊りのほか指人形や熊使いが描かれており、人形劇と熊の調教はスコモローフの重要なレパートリーに組み込まれていたと見られる。ミーシカ(ミーシャ)という愛称を付けられた熊の芸はとくに人気があり、ロシアから西ヨーロッパへも伝えられた。 現代のロシアサーカスを代表する熊の芸は、スコモローフを祖先としている。スコモローフが衰退する18世紀以降、ロシア民衆の娯楽は町の見世物小屋を中心として興業されるようになり、ここからロシアの近代サーカスが誕生する。 ==スコモローフ研究== 音楽や演劇はもとより、ロシアのフォークロアのあらゆるジャンルの形成と発展においてスコモローフの果たした役割は絶大であった。にもかかわらず、従来のスコモローフ論は、演劇史や民俗学などの立場から側面的に触れたものが多く、スコモローフの全体像を扱った研究は少ないとされる。 19世紀半ばにベリャーエフがスコモローフと異教との関連、呪術・儀礼とのつながり、芸能の性格、民衆・教会・国家との関係などの点について基本的な問題設定を行ったのがスコモローフ研究の始まりである。このほか、アレクサンドル・ファミンツィン『ロシアにおけるスコモローフ』(1889年)、ソビエト連邦時代の研究として、アナトーリイ・ベールキン『ロシアのスコモローフ』(1975年)がある。 ==関連項目== ===スコモローフを題材にした音楽作品=== ピョートル・チャイコフスキー:劇付随音楽『雪娘』 作品12(1873年)……第14曲に「スコモローフたちの踊り」がある。モデスト・ムソルグスキー:『展覧会の絵』(1874年)……ムソルグスキーの友人ヴィクトル・ハルトマンの急死を悼んで作曲されたピアノ作品。第2曲「古城」の元になったとされるハルトマンの絵画には、スコモローフの影が描かれている。ニコライ・リムスキー=コルサコフ:歌劇『サトコ』(1898年)……ブィリーナを題材にしたオペラ作品。主人公サトコはスコモローフであり、音楽も18世紀のスコモローフといわれるキルシャ・ダニーロフの曲集から一部採用されている。イーゴリ・ストラヴィンスキー:バレエ音楽『狐』(1917年)……『狐、雄鶏、猫、雄羊の一口話』とも。19世紀にアレクサンドル・アファナーシェフが編纂した『ロシア民話集』を題材とするバレエ音楽。この作品で使用されたツィンバロンはグースリの響きを模しており、スコモローフの芸を想起させる。また、『ペトルーシュカ』(1911年)も、中世ロシアの見世物小屋の人形劇を題材とする管弦楽作品である。 ===その他=== 吟遊詩人サーカススコモローヒ (ロックバンド)……ロシアの歌手アレクサンドル・グラツキー(1949年 ‐)が率いたロック・グループ(1966年 ‐ 1976年)。グラツキーは1990年、日本の第41回NHK紅白歌合戦に出場している。 大道芸旅芸人道化師 ‐ 宮廷道化師 =株仲間解散令= 株仲間解散令(かぶなかまかいさんれい)は、江戸幕府の法令。商人の組合である株仲間の解散を命じた法で、天保の改革期に施行された。株仲間解放ともいう。 天保13年3月2日には、十組問屋以外の株仲間を改めて禁止し、組合・仲間・問屋という名称も禁止する法令が江戸で出された。解散の理由は問屋仲間の「不正」で、十組問屋以下、全ての問屋仲間・組合の解散を命じ、仲間による独占を廃止して営業・取り引き自由勝手とした(『日本財政経済史料』第三巻、7頁)。大坂では同月13日に、京都・大津では18日に発布された。日光町では13年6月18日に解散令が出され、質屋・古着屋・古鉄屋が上納してきた537両の運上金が免除された上で、仲間・組合の停止と自由商売が宣言された。 享保期以来、幕府は株仲間を利用して間接的に物価・流通の統制を図ってきたが、時代を経るにつれて仲間組織の統制機能が低下し、逆に物資流通の独占により物価を騰貴させるようになったため、幕府は方針を転換し、株仲間を廃止した。文化10年(1813年)に、江戸十組問屋を中核にして菱垣廻船積問屋仲間65組1995人に株札を交付して、新規加入を禁止する代わりに、幕府は各種の株仲間からの運上金や毎年1万200両におよぶ冥加金を上納させていた。この上納金は幕府の主な財源の1つであったが、それらの上納も不要とした(『撰要永久録』。『日本財政経済史料』第三巻、7頁)。ただし、質屋・古手屋・古道具屋その他は、解散令から除外されて、しばらくは仲間・組合の姿をとどめていた。 株仲間の停止期間は、停止令が出された天保12年12月から株仲間再興令が発令された嘉永4年(1851年)3月の約9年間(1842年 ‐ 1850年)となる。 幕府は株仲間を解散する前の準備として、江戸の市場構造の実態を把握するために、天保12年7月には大伝馬町・白子両木綿問屋仲間に荷物引請員数を、10月には天保11年・12年の繰綿注文員数などを調査している(北島正元編著『江戸商業と伊勢店』)。 最初の法令が江戸で発布されたのは天保12年(1841年)12月13日で、菱垣廻船・樽廻船の廻船組織や十組問屋など商工業全ての株仲間・諸組合を解散させ、全ての仲間外商人の直売買を公認して商品流通の自由を保証した。大坂では同年12月23日に、京都では翌13年(1842年)3月13日に、同様の法令が発布された。最初の法令発布の後、12月23日には荷物は菱垣・樽どちらの廻船に荷物を積んでもよいが、菱垣廻船については文政期に紀州藩から貸与された天目船印を同藩へ返却するようにと指令した(『大阪市史』第四下)。 ==法令発布の目的== この法令には、物価の騰貴は問屋株仲間が流通を独占したためであり、諸商人による業界参入を自由化すれば、江戸への物資流入が促進され、物価が引き下げられるという狙いがあった。 株仲間による市場支配・価格引き上げ行為に関しては、中井竹山の『草茅危言』、太宰春台の『経済録』『産語』、山片蟠桃の『夢の代』などで社会に与える害悪を指摘されていた。水戸徳川家の当主徳川斉昭も、物価騰貴の原因が貨幣改鋳と十組を中心とした問屋仲間にあると考えており、これを全面的に禁止することを求めて天保12年に水野忠邦に書状(『戊戌封事』『水戸藩史料』別記上、140頁)を送っている。これには、十組問屋が流通を独占したことで日本中が迷惑を蒙っていること、冥加金を得られるといっても株仲間をそのままにしていては天下国家の損になること、十組問屋の利益よりも国民の憂いを考慮すべきことを説き、株仲間を廃止し商売の自由を認めれば物資が多く流入し、物価騰貴も収まるだろうと書かれていた。なお、株仲間解散を提言したものとしては徳川斉昭の意見書の他には、物価問題と関連させて株仲間の解散を論じた中井竹山の『草茅危言(そうぼうきげん)』がある。また江戸市中には株仲間に対する不満と十組を潰して貰いたいという考えも存在しており、十組問屋への批判や仲間解散後にその措置を歓迎する落書などが『藤岡屋日記』などに収められている。 問屋仲間解散後の流通統制についての意見として、法令施行前の天保12年7月には、取締諸色掛の江戸鈴木町肝煎名主源七が、十組問屋仲間の解散を主張し(『大日本近世史料 市中取締類集』一、一四五号)、諸問屋から商品流通の独占権を取り上げ、諸産物の集散地や大都会の便利な場所に検閲所を設け、代官の監督下に商品を集めて、それらを江戸の町会所が一手に集荷して売り払うという中央卸売市場の構想を記した上書を提出している。また水野忠邦は、農学者の佐藤信淵が「復古法」で提示した幕府の手による直接的な産業統制案(「国産統制仕法」)にも興味を抱いていた。 しかし、そういった考えに対する反対意見もあり、当時の江戸の町奉行矢部定謙は徳川斉昭の家臣・藤田東湖に、物価騰貴の原因は度重なる貨幣改鋳にあり、商人の株仲間に責任を帰するのは間違っていると述べていた(「見聞偶筆」『東湖全集』、549‐551頁)。そして、物価の騰貴は、諸大名が大坂の問屋を経由することなく産物を江戸に回送するようになったこと、そして諸大名が国産品を江戸に直送したいという願いを幕府が認めてきたことにこそ問題があるとしている。矢部は、大坂問屋の商品扱い量が減少したことで、利益減少分を補うために大坂問屋が口銭(取扱手数料)を倍にしたために商品の値段が高くなったと解釈しており、大坂問屋の商品取り扱い量が減るほどに物価は上昇する、と考えていた。 物価騰貴の原因調査を命じられた大坂町奉行阿部正蔵も、大坂への物資回送量が減少していることが原因で、その対策としては問屋商人による流通機構の再強化を図ることを提言していた。文政年間から、大坂市場に直結してきた瀬戸内海地域の商品が専売制を採用した藩によって中央市場へ直送されるようになっており、文政から天保年間にかけて大坂市場を経由せず江戸に直接専売商品を積み出して入札販売をする藩は姫路・広島・阿波・紀伊・長州・彦根・薩摩・豊前中津・福井・尾張・秋田・米沢・遠州相良・備中成羽・同松山・武州忍藩など多数におよんでいた(『天保撰要類集』国産物之部)。また、大坂への輸送途中に地方へ高値で商品を売買する「道売り(みちうり)」という行為も増えており、その高値取引が大坂市場の相場高騰も招いていた。 しかし、矢部や阿部正蔵の意見は採用されることもなく、全国全ての株仲間は停止された。 ==株仲間解散による影響== 北町奉行・遠山景元配下の同心宍戸郷蔵(ししどごうぞう)は、発令から1ヵ月後の時点では、値下げした商品もあれば値上げした商品もあると報告しており(『市中取締類集』一)、生産地と江戸の商人たちの「人気」(気風、気質)が一変すれば値下げが期待できそうだという見解を述べていた。 株仲間解散によって、自由競争と自由取り引きによる物資流入の増加、そして物資が豊富になることで物価下落を期待した幕府は、町奉行所内部に諸色掛与力を置き、その下に諸色掛町名主を任命、強制的な価格の引き下げと監視をおこなわせた。しかし、日用品の物価は下落したが、品によっては下がらないものがあったため、天保13年5月に出された物価引下げ令では、密かに巡回役人に買い試しをさせ、違反者は厳罰にすると触れている。 流通の独占を停止し、業者の新規参入により物価の下落を図ったが、両替商などの業種は資本力や信用が必要なので新規参入は難しく、自由競争による物価の引き下げは果たせなかった。一方で簡単に参入できる業種では、過当競争や取引秩序の破壊によって、かえって流通が混乱した。両替商のうち、金銀貨の両替・預金・貸付などを扱う本両替は、仲間が解散させられると取り付け騒ぎが起きたため、預り金や御用向きはこれまで通りとした。また、参入した素人がそれぞれの見込みをもって商品を発注するので産地の相場が上昇していた。 また問屋株には、株仲間へ加入したという事実を表わし、その業種での営業を保証する機能があるが、同時に資産価値・担保価値も有しており、株を担保とした金融手段ともなっていた。しかし、株仲間が解散され、株が消滅したことで株を担保にした金融がすべて停止した。表通りで手広く商売している十組問屋でさえ店舗を含めて家屋敷を所有しない者の方が多く、地借(借地人)・店借(借家人)と呼ばれる階層の者が多く、彼らが抵当に入れられる物は仲間株くらいしか無かった。そのため、江戸・大坂をはじめとする全国の金融活動がほとんど麻痺し、さらに問屋を通じた零細企業への運転資金の供給も止められたため、経済は大混乱に陥った。京都でも株式に相当する「印札」による金融ができなくなったことが報告されている。 江戸時代後期にいたって、庶民の所得が増えて需要が拡大したことで日本各地の地域市場が成長し、江戸や大坂といった中央の大市場への商品流通量が減少していたことも、物価の上昇の一因となっていた。株仲間の解散により、中央市場への商品流通機能はさらに低下することになった。 幕府が民間の経済的取引に対して契約履行を保証する制度を作らなかったため、株仲間は取引のルールを自主的に決めることで、運営に当たっていた。仲間商人のいずれかに代金の不払いや商品の数量不足などの不正行為をした取引相手がいた場合、仲間内で評議した上で、全員一致して取り引きを停止することで、代金支払の保証・品質の保持などの自衛手段を講じてきた。しかし、仲間の解散によりそうした商取引にともなう債権保全の手段も失われた。 ==諸都市や諸藩の反応== 法令が通達されたにもかかわらず、規約を残したまま組や講と称して年行司を置くようになるなど、解散令は徹底されなかった。堺・近江八幡では株仲間は無くならず、兵庫では問屋・仲買の名称をやめて諸問屋を「諸国荷請屋」に、穀物仲買は「穀物商人」と変えたただけで内実は変えず、奈良では物価引下げ令は諭達されたが仲間解散は実行されなかった。江戸では法令は十組問屋に対してのものでそれ以外の問屋は自分たちには無関係のことだとし、江戸以外の地では江戸の問屋仲間だけの解散令であるとして、活動を続ける者が少なくなかった。問屋仲間は解散されたものの、問屋それぞれの商売は自由であったため、問屋仲間の機能を維持させ続けている者たちもいた。かれらは問屋仲間の名称こそ使用していないものの、「御触以前の姿にて取引」していた。これは、歴史学者の北島正元は問屋側が法令をできるだけ自分たちに有利に解釈し、既得権を守りぬこうとしたからと解釈している。 そのため、翌13年2月27日に、京都所司代と大坂城代にあてて、法令は十組に限らず全ての仲間に適用されることを触れ(『日本財政経済史料』第三巻、8‐9頁)、京都町奉行・大坂町奉行・伏見奉行・奈良奉行その他の支配向きに対して洩れなく連絡するように命じた。翌3月2日、仲間・組合だけでなく問屋の名目も廃止し、物価に関係がないために除外してきた湯屋や髪結床の仲間も弊害が認められるので解散となった。冥加・無代納物・無賃人足・川浚駆付などの負担はすべて免除。同業者が出来しても妨害は禁止。品物を買い込むのはよいが、他国へ前金を送って品物を囲い置き、値が上がるのを待つのは〆売りに当るので禁止。同年10月には、符帳による取引きを禁止、商品一品ごとに正札をつけ、帳面にも元値段・売値段を記入するよう命じた。 大坂の二十四組問屋・三所綿屋仲間などは解散され、生産者・農村商人の活躍はいちだんとはげしくなったが、仲間外の商人の買占め・せり売り・横流しがいっそうさかんになったため、自由な流通を保証することで大坂からの商品入荷量を増やすという幕府の意図は達成されなかった。そのため天保13年8月、在方綿売買取締り令を発し、大坂町奉行の阿部正蔵は大坂への出綿額の減少を防ぐため大坂綿市場の解体を保留した(『大阪市史』第四下)。京都・大坂の金銭両替は、株仲間という呼称が禁止されたに留まり、堂島米市場はここでの米相場が全国の米価の基準とされていることから、諸物価への影響を考慮して、米仲買の株仲間は解散させられたが米売買方は従来どおりとなった。ほかにも大坂では砂糖屋・竹材木屋や、警察的機能を果たす質屋・古手屋・古金古道具屋など約20の仲間が解散を保留され、冥加金銀も当分上納を認められた。物価引き下げ令は大坂では江戸より半年ほど遅れて発令された。諸色値段・卸値段・小売値段の引き下げのためには、生産地の原価から引き下げねばならないが、株仲間解散によって問屋商人の集荷機構が崩壊していたため、引き下げ令はさほどの効果を上げられなかった。 大名諸家では、領域市場を掌握するためにも、特産物専売のためにも、特権的な問屋商人との結託が必要だったため、法令に無関心かあるいは黙殺する方針をとる藩が多かった。広島藩では天保期に入ってから問屋仲間の結成を奨励して木地物改所・木綿改所を設置し(『新修広島市史』。広島県編『広島県史』近世2(1982年))、松前藩では18世紀中葉に株立された廻船問屋が移出入津税の徴収を代行しており(中西聰『近世・近代日本の市場構造』第二編、東京大学出版会、1998年)、上田藩や岡山藩のように解散令を実施した藩は一部だけだった。一方で、藩発行の米切手の値段が下落し、物価が騰貴していた尾張藩では、天保13年3月に仲間・組合を解散し、冥加銀の上納を免除した。しかし、同時に国産会所を設立して問屋を藩権力の傘下に置き、江戸へ直送して売り込む体制を作った。 貨幣鋳造権をもたない諸藩は藩財政悪化克服のために、幕府以上に藩専売や流通課税を強力に推し進めた。従来大坂の蔵屋敷に送って売却していた特産品を大坂市場を経ずに江戸や諸都市の需要地に直送したり、回漕途中で赤間ヶ関などで買われたり、蔵屋敷に納めた産品を値上りを待って売り惜しみしたりと、大坂における諸藩国産品の流通を混乱させ、大坂の中央市場としての地位はさらに低下した。西日本の領主たちは、自国だけでなく他国の特産品を買い集めて蔵屋敷に保管して相場が高値になった時に売り払ったり、出入りの町人に売却させたり、民間の売買を禁止する専売仕法を実施したりしていた。そのため、株仲間解散後も江戸への商品入荷が増えない原因の1つであるとして、幕府は天保13年10月に諸藩の専売制を禁止した。 ==施行後の各業種での影響== 安政年間に行なわれたと推定される株仲間停止後の流通機構についての調査によれば、下記のような影響があった(本庄栄治郎「幕末の株仲間再興是非」)。 灯油 ‐ 文政期から灯油が高値となったため、天保3年(1832年)に霊岸島に油寄所を設けて役人が駐在するなどの対策がとられたが、市中の日用にも差し支えるようになり、さらに高値となって、天保8年(1837年)には供給が途絶えた。そこで、油問屋経由の売買に復したが、6年間の空白があったため十分な仕入れができず、市中で品不足となっていた。株仲間解散によって自由な商売が命じられたが、油屋は損失を嫌い、新規に参入しようとした者は油の性質なども分からなかったため、日用に支障をきたした。灯油の原料である菜種の生産地である近畿地方では、他国への直接売買が盛んになり大坂・江戸の中央市場への入荷は増えなかった。関東の地廻り油の早急な増産も不可能だったため、江戸での膨大な需要を賄うだけの入荷量を確保することはできなかった。海産物 ‐ 仲間解散が命じられたが、仲間外の素人では御用の肴・乾物の献上に差し支えるとして、仲間行事を御用肴同乾物納番納人に、仲間会所を御用品撰立所と改称して、日々御用品の集荷をさせた。蠣殻灰・石灰 ‐ 蠣殻灰の竈数は享保期に10口、寛政期に人足寄場に2口設けられて、計12竈となった。しかし、解散令によって竈数が増加し、焼き立てる蠣殻が不足し、従来からの竈持ちも焼き立てに差し支えるようになった。石灰も、素人や漆喰練売が、取り締まりも無く、自由に買い取りをしたため、品不足となった。舂米(つきごめ) ‐ 大道舂(だいどうつき)と呼ばれる者たちが享保12年(1727年)から御舂屋御次米の舂立を務めてきたが、仲間解散令により舂立を免じられたため、御賄方(まかないかた)御掛に差し支えを生じるようになった。桶 ‐ 寛政期ごろから桶職人住居の表役裏役差別を立てて、役銭を受けて御国役を務める仕法だったが、仲間停止以来、桶方の御用が不便となったため、嘉永5年から従来の仕法通りとなった。海運 ‐ 諸商売自由、諸荷物船積みも諸国勝手次第となったことで、廻船の船頭や水主までが航海中に不正の取り計らいをするようになった。浦改め(検査)が無いため、難船(船の遭難)または荷打をした旨を申し立て、商人は多額の損失をこうむって、世間では品不足となった。そのため、天保14年(1843年)に9店が共同出資して、大坂で堅牢な船を選んで廻船させ、元菱垣積諸問屋諸品積合の世話をし、難船の場合は大坂と江戸の9店で処置することとした。これでようやく船の取り締まりや、大坂からの買い付け・貨物運送が滞りなく行われるようになった。木材 ‐ 文政12年(1829年)3月の大火の際、買い付け自由が命じられたため、素人も競って買い取ったため品薄になり入荷した材木の所在も不明となり、8月になっても払底状態にあった。そのため天保5年(1834年)2月の大火の際に、諸国の板材木問屋に限って引き受けること、問屋は手筋の荷主から引き受けるように努めるべきことが命じられ、同年3月には木材が潤沢になった。しかし、株仲間解散後の弘化3年(1846年)正月の大火の際には、再び素人や職人が直買いしたため荷物が所在不明となり、同年9月ごろにようやく市場は沈静化した。出版物 ‐ 出版物の統制は、書物問屋仲間で選んだ行事が点検する自主規制が基本で、許可を決め難いもののみ町奉行所に伺い出る方式だった。町奉行所は、書物問屋仲間を通して書物に関する法や申し渡しを徹底させていたが、仲間の解散により直接統制をすることになり、「著者→版元→町年寄→町奉行所」という検閲方式になった。御寮織物司および高機元八組の陳情書によれば、株仲間解散後は、西陣織および糸の取引に携わる者の中で困窮した者や、仲間停止後に創業した織屋などが、古くからの慣行に従わず手抜きをした商品を出荷し、それが従来の慣行を守る織屋にも影響がおよぼしている。このままでは西陣織が粗製濫造され、御用織物でさえ手抜きをした物が納められ、これまでの当地名産という名声も失われるのではないかという懸念が示されている。 幕府の御用商人は、江戸城で消費される魚・鳥・野菜・塩・味噌・醤油などの食材を供給する商人らは、たとえ「御用損」が出ても、従来は問屋仲間で割り合って「仕理」(補填)してきたが、仲間解散により幕府御用に関する損失に対し商人たちが「自儘」(我儘)を申し募るようになった。 このように、様々な業種で流通が滞って物資や財・サービスの供給不足をもたらし、幕府御用にまで支障を来すようになっていた。 ==農村== 幕府は、農民が農業以外の副業(余業)をすることが彼らの「奢り」を促すだけでなく、物価騰貴をまねくと考え、農民の副業調査を行なってきたが、天保12年に行なわれた調査は、その後の株仲間解散のための資料集めの意味があったと言われている。 臨時廻の調査では、江戸の問屋が府内の入り口に出張り、炭や薪を売りに来た江戸近在の百姓を自分の店に連れて行って安く買い占めるため、市価が高くなり、百姓も商売にならず困っているという報告が上げられていた。 天保13年7月には関東の幕領村々に代官関保右衛門の名で在方株仲間の解散令が出された。村々で生産される絹・紬・木綿・紙などの類は手数のかかる高価なものをやめること、実用品を多くつくって廉価に売り出すこと、これまで村方から江戸の問屋へ積み送ってきた商品は今後は誰にでもどこの河岸でも自由に船積み・水揚げをしてもよいと布達された。これは江戸の問屋仲間に従属して生産地から商品を吸いあげる在方株を廃止することで、江戸の市場的機能の強化を図ったものと考えられている。 江戸地廻り経済の発展に対応して、幕府は商品を河岸揚げする河岸問屋仲間を公認してこれを在方株に編成する工作を促進した。しかし文化期から生産者・在郷商人の進出が顕著となり、江戸への直積(直送)が盛んになったため河岸問屋仲間の独占は揺らいできた。そこで江戸市場を安定させるため、地域的流通の支配権を失いつつあった河岸問屋の株立を廃止し、在地の商品流通を江戸に直結させようとした。江戸問屋仲間による流通機構独占を排除し、それらとつながる生産地の在方株を廃止することで江戸の物価引き下げをねらったが、江戸地廻り経済圏を混乱させたたけで江戸への商品入荷の増加にはつながらなかった。 株仲間の解散を受けて農村でも商売を始める者が現われ、農民が余業(副業)に走ったために農家の奉公人が少なくなりその賃金も上昇した。そのため、天保13年9月に全国を対象として出された触書には、仲間解散による営業の自由は農村には適用されないことを明言し、農民は農業に精励することを要求している。 ==法令への反発== 株仲間解散は、老中の水野忠邦や勘定所(勘定奉行所)が中心となって推進され、本来江戸の町の経済に関与する江戸町奉行はこれに関わっていなかった。物価引き下げ政策に関連して諮問を受けてはいるが、株仲間解散に関する評議にはくわえられておらず、江戸町奉行所にも関係史料は残されていない。 町奉行の矢部は物価騰貴の原因を貨幣改鋳にあると考えていたが(#法令発布の目的参照)、遠山景元も弘化3年7月に書いた上申書(『大日本近世史料 諸問屋再興調』一)で矢部と同様の意見を述べている(#改革後参照)。株仲間解散令に異を唱えていなかった南町奉行の鳥居耀蔵も、天保14年6月の上申書で物価騰貴の要因が劣悪な貨幣にあり、物価の安定は貨幣改革無しにはあり得ないとし、翌7月の上申書には「金銀の弊は御改革の一闕(けつ)」で貨幣だけ改革しないのはおかしいと論じていた(勝海舟『吹塵録』)。 解散を命じる触書は天保12年12月9日に老中から町奉行たちに渡されたが、この時遠山景元は市中への法令伝達を理由を付けて引き延ばしており、そのことで御目通り差し控えの処分を受けた(東京都立大学付属図書館所蔵水野家文書「水野忠邦日記」十二月十四日の条)。 専売制を禁止して各藩の領国経済の発展を抑え、全国市場の機能を強化しようとしたことから、幕府の政策に反発を示す大名もいた。法令が出された際に、菱垣廻船に貸与した藩の船印を返却するよう命ぜられた紀州藩もその1つで、徳川御三家の紀州家の威光で江戸廻送を有利にしようという企図を挫かれたことから恨みを抱き、これが上知令にからむ忠邦打倒運動の動機になったともいわれる。 株仲間解散の本来の目的である物価引き下げの効果がなかなか出ないため、一律2割(20%)以上という物価引き下げ幅を定めて市中の物価を下げようとしたが、実効が上がる前に水野忠邦は失脚する。 天保15年(1844年)には、当時の町奉行・跡部良弼と鍋島直孝が、株仲間を解散しても期待したほど物価が下落しておらず、1万200両の「莫大の冥加金御免仰せ出され候ほどの実効御座無し」として諸問屋組合再興の内慮伺を提出している(「諸色調類集」『東京市史稿』産業篇五六)。 ==改革後== 江戸では天保13年春から物価は下落しはじめ、その年の秋には米・醤油・味噌は前年秋に比べて10‐20%近くまで下落、塩は34%低落した。大坂・京都もほぼ同様であったが、水野忠邦が失脚する天保14年秋ごろから諸物価は再び上昇した。これは、物資の流入増加により需給が安定して物価が自然に下落したのではなく、人為的・政策的な物価下落だったことが理由だった。 しかし、市場の自由化により市場メカニズムの機能は高まり、文政3年(1830年)から安政5年(1858年)の江戸と大坂の物価を比較すると、米・大麦・大豆などの主穀類の価格はほぼ平準化しており、味噌や清酒など地域間市場の流通がかぎられている商品を除いた繰綿・蝋・種油・黒砂糖・醤油などの主要商品は、運賃や保険料などの輸送コストをふくめると価格はほぼ平準化しているというデータも存在している。歴史学者の平川新の集計によれば、発令後しばらくは白米・塩・味噌・醤油・酒・水油(灯油)などはいずれも値下がりし、発令から1年後の時点で白米は11%安、その他も7‐19%の値下げとなった。しかし2年半後には、白米と酒は発令前の水準になり、醤油と水油も徐々に元の値段に戻っていった。味噌・塩は発令から8‐9年の間は下値であり、嘉永2年(1849年)から同3年(1850年)ごろまでは、物価下落に関して一定の効果をあげていた。 弘化3年(1846年)には当時寄合だった筒井政憲が、嘉永元年4月には遠山景元が、老中阿部正弘に対して株仲間復興に関する建議をし、弘化3年7月には町年寄の館市右衛門は株を認めれば株を担保に金融が動き流通も活発になるという意見書を提出している。嘉永4年(1851年)には、問屋組合を許可する株仲間再興令(問屋再興令)が出されることになる。 弘化2年(1845年)3月にも遠山は阿部に対して諸問屋組合再興の意見書を提出していたが、江戸に品不足や物価高などの深刻な影響は出ておらず、役人たちの中にも株仲間解散令の効果は出ていると認識している者たちがいた。そのため、役人たちの間で意見がまとまっていないという理由でこの時点では、意見書は却下されている。 ==評価== 株仲間解散は、物価問題の解決にならず反対に流通機構の混乱を引き起こしたと当時の為政者も認識していた。遠山景元は、嘉永元年(1848年)9月に提出した意見書で、株仲間を禁止したことで、資金融通が停滞する一方、物価は下がらなかったという認識を示していた。 脇本祐一は、天保の改革は「改革という名の「破壊」」で、株仲間解散令を「「天保の改革」で失政の最たるもの」と評している。 北島正元は、株仲間解散令が諸藩に全面的に受け入れられなかったのは、特権的な城下町商人の独占に対抗して生産者・在郷商人が作り出しつつあった新しい領内市場を、藩が専売制の強化を通じて掌握を進めてゆこうとしていたからとしている。このため藩経済が全国市場から自立してゆく傾向が促進され、全国市場を再建・強化しようとした幕府の企図は果たされなかった。 歴史学者の大口勇次郎は、発令直後は市場に混乱が生じたが、長期的に見れば流通上の規制緩和となった。そして、地方に展開していた農村手工業の産物や藩専売の国産品の商品化を活性化させ、中央市場に大量の産物が流入する契機となったと評価している。 =変電所= 変電所(へんでんしょ)は、電力系統中で電気の電圧や周波数の変換(変電)を行い、各系統の接続とその開閉を行って、電力の流れを制御する電力流通の拠点となる施設である。英語の ”(electrical) substation” の文字を取り、SSまたは、S/Sと略される。 ==概要== 一般電気事業者(電力会社)の発電所は多くの場合、電力消費者から離れた場所に設置される。特に大規模水力発電所の場合はその適所が山間部となり、消費者の多い平野部とは距離がある。原子力発電所は水力発電所のような地形的制約は無く、都市部等、人口密集地への設置も可能ではあるが、リスク管理の観点からどの国においても人口密集地からは離れた所に設置される。長距離の送電では電力の損失(主にジュール熱)が発生するため、より高電圧かつ低電流に変換して送電ロスを低下させている。また臨海部の火力発電所も発電出力が大きく大容量の送電では送電線の発熱が問題になるため、発電所内の変電所では27.5万から50万ボルトの超高電圧へ変電(昇圧)され送電されるが、電力の最終消費者までの送電網の途中に変電所が幾つかあり、そこでは段階的に電圧が下げられ(降圧)、一般家庭向けには日本では100ボルトまで変圧される。 ===送電経路の例=== ===発電所=== 発電所の出力は数千から2万ボルトの電圧であり、発電所内または隣接した変電所で27.5万から50万ボルトの超高電圧へ変電(昇圧)され送り出される。 ===超高圧変電所=== 超高圧変電所は発電所から最初の変電所で、より電力消費者に近くに立地し、15.4万ボルトへ変電され1次変電所へ送電される。 ===1次変電所=== 1次変電所では一部は15.4万ボルトのまま大工場や鉄道へ電力供給され、また6.6万へと変電され中間変電所へ送電される。 ===中間変電所=== 中間変電所では6.6万ボルトから2.2万ボルトへ変電され、一部は工場へ供給され、残りは配電用変電所へ送電される。 ===配電用変電所=== 配電用変電所では2.2万ボルトから6600ボルトへ変電され一部はオフィスや工場へ供給され、残りは柱上変圧器へと送り出される。 ===柱上変圧器=== 柱上変圧器では100ボルト、200ボルトへ変電され家庭や小規模事業所などへ供給される。 ==役割== 電力は電流×電圧で表される。電流が流れると送電線の抵抗によりジュール熱として送電したエネルギーが失われ、かつ電圧降下により有効な電圧を送電線の終点のところで受け取ることができなくなる。送電中の電力損失は電流の2乗に比例することから、送電線の電圧をできるだけ高く上げ少ない電流で送電することが、低い電圧のまま大きな電流を用いて送電する場合と比較して、同じ電力を送る際の電力損失を減らすことができる。したがって、発電所のそばで高い電圧に上げて、オフィスや一般家庭などの電力消費者のなるべく近くで低い電圧に落として配電することがエネルギーを無駄にしない観点上望ましい。この電圧の変換を行っているのが変電所である。 高い電圧を取り扱う変電所ほど規模が大きくなり、また送電線に関わる施設も大きくなる。こうした施設を建設する費用の兼ね合いから電力消費者に近い末端では低い電圧で送る必要があり、発電所に近い側が最も高い電圧で送られ、消費者に近づくにつれて順次電圧が落とされていくようになっている。この電圧が次第に低くなっていく各段階のことを電圧階級と呼んでいる。各階級の間にはそれに対応した変電所が設置されている。 また電力系統は、発電所から消費者まで一直線になっているわけではなく、電力システムの信頼性を高め故障や補修作業時のバックアップを相互に行うために、複数の発電所からの送電線が集合され、あるいは必要に応じて各所へ分散されていくようになっている。変電所はこうした送電系統上の集合・分岐点にもなっており、必要に応じて系統をつないだり切り離したりする役割もしている。さらに、送電線に落雷があるなどで一部の区間に障害が発生すると、遮断器を動作させてその区間を送電系統から一旦切り離し、障害の波及を防止し回復を図る役割もしている。 この他に、直流送電に関連して交流と直流を変換する交直変換所や、周波数の異なる電源を接続する周波数変換所も変電所の一種である。 ==種類== 変電所の種類は、電圧階級、用途、形式、形態、監視制御方式などで分類できる。 ===電圧階級による分類=== 変電所はまず、送電用変電所と配電用変電所に大きく分類される。送電用変電所は、電力系統の途中に配置されて電圧の変換を行っており、大電力が通過する。これに対して配電用変電所は電力系統の末端に近いところに配置されて、送電用変電所から送られてきた高い電圧を消費者に供給する低い電圧に落として地域の配電網に供給する。送電用変電所に比べて1つの変電所を通過する電力は小さく、施設の規模も小さくなるが、その数は送電用変電所よりかなり多い。配電用変電所の受電電圧は154 ‐ 22 kV程度で、配電網へ送り出す電圧は22 ‐ 6.6 kV程度である。 送電用変電所の多くは高い電圧を低い電圧に落とすために使われているが、逆に低い電圧を高い電圧に上げるために用いられているものもある。電圧を上げる変電所は昇圧用変電所、下げる変電所は降圧用変電所と大きく分類される。昇圧用変電所は基本的に発電所に付属して設置されており、電力を発電所から送り出す段階での電圧変換を行っている。 降圧用変電所は、発電所に近い側ほど高い電圧になっており、順次電圧階級を構成している。高い方から500kV変電所、超高圧変電所、一次変電所、中間変電所などと呼ばれている。二次変電所、三次変電所などが含まれることもある。電圧階級の各段階でどのような電圧を使用しているかは、電力会社によってもその系統によっても様々であり、必ずしも全ての種類の変電所を経由して降圧されていくわけではなく途中の段階を飛ばすこともあり、必要に応じて複雑に組み合わせられている。また、発電所が必ず最上流に入っているわけではなく、小さな発電所ではこの電圧階級の途中に給電を行っていることもある。電力消費者も必ず最下流に入っているわけではなく、工場や電気鉄道など大口の需要家は途中の高い電圧の変電所から給電を受けていることがある。各種類の変電所でどの程度の電圧が使われているかを表に示す。参考として2006年3月31日現在の日本の電圧別変電所の設備数と容量を表に示す。 ===用途による分類=== 変電所は、電力事業者が所有している電力変電所、大口の電力消費者が設置している自家用変電設備、電気鉄道事業者が設置している電気鉄道用変電所などに分類できる。電力変電所は前述したように送電用・配電用の分類と、昇圧用・降圧用の分類がある。電気鉄道用の変電所は、直流電化区間では直流への変換機能のある変電所、交流電化区間では交流の降圧のみの変電所となる。 長距離で大容量の送電を行ったり、海底送電線を使って送電を行ったりする目的で、直流送電を行うことがある。この際には直流送電線の両端に一般の交流送電網と接続するための交直変換所が設置される。この他、日本では東日本が50 Hz、西日本が60 Hzと周波数が分かれているので、この周波数の境界に周波数変換所が設置されて、東西で電力の融通ができるようになっている。 ===形式による分類=== 変電所の形式としては、屋外式、屋内式、半屋内式、半地下式、地下式、移動式がある。 ===屋外式変電所=== 変圧器や開閉器などの変電所の主要設備の大半を屋外に設置し、配電盤など制御機器のみを屋内またはキュービクルに配置した形式の変電所である。他の形式の変電所に比べて敷地面積を最も広く必要とするが、建設費用は安く、全ての機器が平面的に配置されることから運用開始後のメンテナンス性にも優れている。 ===屋内式変電所=== 変圧器や開閉器などの変電所の主要設備の大半を屋内に設置した形式の変電所である。屋外式変電所に比べて用地面積を大きく縮小することができるが、建物の建設費が高く付く。また、変電所機器の搬入・設置やメンテナンスにも難がある。海岸線に近いところなどで塩害対策を必要とする場合には、この形式の変電所の効果が高い。 ===半屋内式変電所=== 変電所の主要機器の一部を屋内に設置し、残りを屋外に設置した形式の変電所である。変圧器のみを屋内に設置した形式は、主に変圧器の騒音対策を目的としている。一方、開閉器のみを屋内に設置した形式は、主に塩害対策と建物建設費の削減を目的としている。前者を半屋内式、後者を半屋外式と呼んで区別することもある。 ===地下式変電所=== 建物や公園などの地下に変電所の主要機器を全て収納した形式の変電所である。新しい変電所用地の取得が困難な都市部を中心に見られる形式で、各種の変電所の中でも建設費は最も高く付くが、景観対策や防犯対策の面での効果が高い。この形式であっても、変圧器の冷却設備だけは地上に設置する必要がある。建物に併設する場合には、その建物に冷却用の水や空気など作動流体が流れる経路を確保しなければならない。 なお、住宅地における建物の高さ制限などに関連して、変電所の建物に地下室を設けて、一部の設備を地下階に、一部の設備を地上階に設置する、屋内式変電所の全体を掘り下げたような形の半地下式変電所も存在する。 ===移動式変電所=== トレーラーや鉄道車両の上に変圧器などを設置して、移動可能にした形式の変電所である。既存の変電所が故障したり、機器更新のために一時設備の運用を停止したりしたときに、現地に仮設して変電所の容量を補う役割を果たす。 ===形態による分類=== 変電所は絶縁の方式により、気中絶縁形、GIS、ハイブリッドGISの形態に分類できる。 ===気中絶縁形変電所=== 変電所の回路の主要部分の絶縁が空気によっている変電所である。回路を碍子などで空気中で間隔を置いて保持することで、他の回路や地面との間を絶縁している。変電所の用地面積は最も広く必要とするが、工事費は最も安くなる。 ===GIS変電所=== 絶縁性能の高い六フッ化硫黄 (SF6) ガスを利用したガス遮断器 (GIS: Gas Insulated Switch) を用いて回路の主要部分を構成した変電所である。用地面積は少なくて済むが、工事費は高くなる。 ===ハイブリッドGIS変電所=== 母線部分は気中絶縁とし、開閉設備はGISで構成した変電所である。用地面積を縮減しながら、工事費も削減する方式である。 ===監視制御方式による分類=== 変電所は、常時技術員が勤務していて監視・制御作業に当たっているものから、遠隔制御されているもの、無人化されているものなど監視・制御方式によって複数に分類できる。技術員が常駐している変電所はほとんどなくなり、2005年時点で日本の変電所の無人化率は98.6 %となっている。 ===常時監視制御変電所=== 変電所に常時技術員が勤務している方式の変電所である。通常1グループ2 ‐ 3名の技術員が3交代制で変電所に詰めており、常時変電所の機器の監視と操作に当たっている。 ===遠隔常時監視制御変電所=== 技術員が変電制御所(変電所を遠隔監視制御する場所)に常時駐在しており、そこから遠隔で常時制御と監視を受けている方式の変電所である。変電所自体の保守作業で人が来る場合以外は、変電所自体は無人である。 ===断続監視制御変電所=== 技術員は技術員駐在所におり、必要に応じて断続的に変電所へ出向いて制御と監視を行う方式の変電所である。具体的には、日中のみ変電所で制御と監視を行い、夜間は付近に設けられた社宅などに帰って、特に緊急の事態が生じた時にいつでも変電所に駆けつけられる体制を維持しておくような方式である。変電所と技術員駐在所の距離には300m以内という制限が課せられており、また170 kVを超える変電所ではこの方式を採ることはできない。 ===遠隔断続監視制御変電所=== 技術員は変電制御所または技術員駐在所におり、必要に応じて断続的に制御所へ出向いてそこから遠隔で制御と監視を受けている方式の変電所である。断続監視制御変電所と同じく制御所と技術員駐在所の距離には300m以内の規制があり、また変電所電圧も170kV以下に規制されている。 ===簡易監視制御変電所=== 技術員が技術員駐在所から必要に応じて変電所に出向いて監視と制御をその変電所で行う方式である。変電所電圧は100kV以下に限られる。電力系統を構成するような変電所ではほとんど用いられずに、小規模な変電設備などでのみ採用されている。 ==設備== 変電所には、電圧を変換するための変圧器、電源を入り切りするための遮断器、電源が切れている状態で回路を切り離す断路器、落雷時の異常電流を逃がす避雷器、無効電力の調整をする調相設備などがある。また、直流に関連する変電所では整流器やインバータなどが設置されるが、これについては後述する。 ===変圧器=== 変圧器は、電磁誘導現象を利用して交流の電圧を変換する装置である。変電所における最も基本的な装置である。変電所で取り扱う電気は通常三相交流であり、変圧器も三相用のものか、あるいは単相用のものを3つ接続して三相交流用に使用している。変電所に設置される変圧器は大変大きなもので、工場で製造して搬入することには様々な困難を伴う。このことから、かつては単相交流用のものを3つ搬入することが多かった。さらに変圧器の取り扱い電圧が高くなり大容量化すると、それでも搬入が困難なほど巨大化してきたため、工場で生産した部品を搬入して現地で組み立てる方式が一般的となり、三相式の変圧器を用いることが普通になった。単相式変圧器を用いた場合に比べて、三相式を用いると同容量で半分程度に面積を縮小することができる。 変圧器は、絶縁と冷却の方式で分類することができる。変圧器自体は大変効率の高い設備であるが、それでもわずかながら損失が発生してこれが熱に変わる。変電所の変圧器は大電力を取り扱うことから、この放熱が大きな問題となる。この冷却方式は絶縁の方式とも大きく関係している。 乾式変圧器は、間隔を空けて回路を保持することで空気により絶縁する方式で、小容量のものに用いられる。冷却は自然放熱によるか、送風して空気で熱を運び出す方式となる。特に耐熱性の高い絶縁材料を使用して送風により冷却をしたものでは、数千 kVA程度の容量のものまである。変圧器全体の効率的な運転を図るために、変圧器の負荷に応じて送風量を加減する方式もある。巻線などをエポキシ樹脂などで固めたモールド変圧器もある。 油入変圧器は油を用いて絶縁と冷却を行う方式であり、広く用いられている。初期には鉱物油を用いていたが、火災の危険があるためあまり用いられなくなった。またポリ塩化ビフェニル (PCB) も広く用いられていたが、生物に対する毒性の問題から使用禁止となった。現代ではシリコーン油が広く用いられているが、コストが高いという問題がある。油入変圧器では油を循環させることで冷却を行っている。自然対流によるものと強制循環によるものがある。また放熱器にも送風ファンを取り付けることがある。さらに冷却水の配管を油中に通して水冷する方式もある。 ガス絶縁式は、六フッ化硫黄 (SF6) ガスで絶縁した方式で、冷却もこのガスを循環させることで行っている。 負荷の変動に応じて電圧を調整し、また電力系統上の電力の潮流を制御するために、変電所の変圧器には出力電圧を制御するための負荷時電圧調整器(負荷時タップ切換装置)が取り付けられている。巻線に設けられたタップ上のある地点をタップ選択器で選ぶことで、変圧器の巻数比をある範囲で変更可能としているものである。 変圧器では、主に鉄心の磁歪現象により振動と騒音が発生する。住宅地に設置される場合などには騒音対策が必要になることがある。 ===遮断器=== 遮断器は、電力回路の入り切りを行い、また落雷や短絡などの事故発生時に回路を切り離して安全を保つために用いられる開閉器である。事故時の遮断も行うため、通常負荷時に流れている電流よりもはるかに大きな電流であっても遮断できるように設計されている。構造としては可動する接触子を接点に接触させたり離したりするものであり、電化製品などで用いられるスイッチと原理的に大きな差はないが、大電力では接点から接触子を外しても接点間にアーク放電が発生して電流が流れ続けてしまう現象があり、これを防ぐために様々な絶縁方式が考えられている。油遮断器、磁気遮断器、真空遮断器、空気遮断器、ガス遮断器などがある。 変電所では、送電線に落雷が発生した際に当該区間の送電線を系統から切り離すために遮断器を作動させることがある。この際落雷の発生箇所はコンピュータにより瞬時に計算され、両端の変電所に遮断器の動作指令が送られ、遮断器により系統から開放されたのち落雷による電荷を送電線から排除し、系統へ再投入するという処理が高速で行われている。この際故障回線が切り離されるまでの間、0.2秒程度の電圧低下が発生することがあり、瞬時電圧低下(瞬低)と呼ばれている。 ===断路器=== 断路器は、遮断器と同様に電力回路の入り切りを行う装置であるが、遮断器とは異なり電流が流れている回路を切り離す能力はない。遮断器にはアークを切り離す能力(消弧機能)が備わるが、断路器にはそれがない。しかし、高速動作の求められる遮断機は接点間の距離が短く何らかのきっかけで意図しない電源再投入が起こる場合がある。確実に切り離すために動作が比較的遅い接点間の距離の長い断路器が用いられる。これは例えば、遮断器の点検作業時などに用いられる。 ===避雷器=== 避雷器は、雷や遮断器の動作による異常電圧がある限度を超えたときに作動して、異常電流を逃がすことで電気回路の保護を行う装置である。 ===調相設備=== 調相設備は、無効電力を調整することで送電線の力率を改善し受電側での電圧制御を行うための設備である。同期調相機は同期電動機を無負荷で運転して界磁電流を調整することにより連続的に進相にも遅相にも制御することができる装置である。進相コンデンサは進相方向のみに制御でき、分路リアクトルは遅相方向のみに制御できるので、これらを組み合わせて設置することもある。また静止形無効電力補償装置 (SVC: Static Var Compensator) を用いることもある。 ===制御設備=== 変電所に設けられている各種の機器を一箇所から監視・制御できるように制御設備が設けられている。各種機器の動作状況は、計器用変成器などを介して取り扱いやすい低電圧の信号に変換されて送られ、制御装置の計器に表示される。また制御装置上のスイッチを操作することにより、遠隔で各種機器を操作できるようにもなっている。制御所から遠隔で監視される無人の変電所では、遠方監視制御装置を変電所に設置してこれらの情報をCDT方式やHDLC方式などの伝送方式で制御所に中継するようになっている。 ===電源=== 変電所では、変圧器の冷却装置や遮断器の動作、制御回路などに電源を必要としている。この電源は、まさにその変電所で変電を行っている電力系統から変圧器を介して受電するもの、付近の一般配電網から受電するものがある。一般に大規模な変電所では電力系統から受電している。停電に備えて異なる二系統から受電できるようになっていることが多い。また二系統ともに停電することに備えて非常用発電機やバッテリーを備えている。 ==特殊な変電所== ===交直変換所・周波数変換所=== 直流送電を行う場合、その両端に交直変換所が設置される。また、周波数の異なる地域で電力の融通を行う場合、その境界点に周波数変換所が設置される。直流送電では直交変換を行う施設と交直変換を行う施設が遠く離れており間に直流送電線があるが、周波数変換所では直交・交直変換設備はすぐそばにあって接続されており、技術的には似たような施設である。 古くは水銀整流器を用いて交直変換を行っていたが、技術の進歩によりサイリスタ式の変換装置が主流となっている。この交直変換設備に付随して、変換装置の特性に合わせた変圧器、直流の遮断が可能な直流遮断器、直流波形のリプル分を取り除く直流リアクトル、交流波形の高調波を取り除く高調波フィルタ、交直変換装置を通すことによって遅れ力率が発生することに対処する調相設備などが設けられる。 日本には、交直変換所として上北変換所・函館変換所(各600,000kW)・紀北変換所・阿南変換所(各1,400,000kW)・南福光連系所(600,000kW)、周波数変換所として佐久間周波数変換所(300,000kW)・新信濃変電所(600,000kW)・東清水変電所(100,000kW)がある。 ===鉄道変電所=== 電気鉄道に電力を供給する鉄道変電所には、通常の変電所とは異なる特殊な点がある。 直流電化区間では、電力会社から供給される三相交流を直流に変換して供給している。三相交流をまず変圧器で所要の電圧に降圧し、ブリッジ回路などで整流器につないで所定の直流電圧を得ている。かつては回転変流機や水銀整流器を用いて直流へ変換していたが、サイリスタや近年ではPWM整流器などが用いられるようになっており、こうした点では交直変換所と同じである。ただし、交流から直流へ変換するのみで、逆に直流から交流への逆変換機能は無いのが普通である。 しかし、回生ブレーキが用いられるようになると、制動時に電車の運動エネルギーが電気エネルギーに変換されるが、この回生電力を他の車両で消費しきれない場合は変電所に送り返されてくるので、これを電力網に回生できるように変電所に逆変換装置を設置する必要が生じた。このための設備は回生インバータと称されている。また電力網に回生電力を返還する機能が無く、変電所に設置した抵抗器で熱に変えて捨てるだけのものもある。 電力会社の送電線から遠く離れた地点で変電所を増設できずに電圧降下が問題になったり、回生電力を吸収しなければならなかったりする場合には、架線と接続した蓄電装置が設置されることがある。これはフライホイール・バッテリーを使ったりその他の蓄電池を用いたりすることがある。回生電力や、電車が走行していない時間帯の電力を蓄電池に蓄積して、負荷が高い時間帯に放出することで、回生時の電圧上昇を抑制し力行時の電圧降下を補償する仕組みとなっている。 交流電化区間では、単に変圧器で電圧を変換するだけで架線へ電力を供給している。ただし、交流電化の鉄道では一部を除き単相負荷であるため、スコット結線変圧器やウッドブリッジ結線変圧器などの三相二相変換変圧器を用いて二相に変換した上で、複線の上下線にそれぞれを供給するか、あるいは変電所の前を中心に両側に供給している。上下線に別の位相を供給する方式を上下線別異相饋電方式、両方向へ供給する方式を方面別異相饋電方式と呼んでいる。 その他の遮断器や断路器などの設置に関しては通常の変電所と同様である。 ==環境対策== 変電所では、建設時は別として、日常の運用に際して排気や排水など、汚染物質を外に放出することはない。しかし、変圧器やその冷却装置などから常時騒音が発生し、また遮断器の作動時には特有の音がする。こうしたことから、変電所での環境対策としては騒音対策が大きな割合を占めている。住宅地に建設される変電所などでは、低騒音型の機器を採用したり、屋内に機器を格納するようにしたり、防音壁を設けたりといった対策が採られている。 変電所の機器は複雑で見慣れない形状をしていることから、周辺の住民からは異質で危険なものと見られる傾向にある。このため変電所の新設に理解が得られないといった問題がある。このことから景観対策として、様々な機器を屋内に収納した方式を採用したり、目隠しの壁を取り付けたりして対処している。また、建物やフェンスなどを周囲の風景と調和したものにする工夫も行われている。 ==歴史== ===直流=== 世界で最初の商用電力事業は、アメリカ合衆国のニューヨーク・マンハッタンで、トーマス・エジソンが設立したエジソン電灯会社 (EELC: Edison Electric Light Company) によって1882年9月4日に始められた。しかしこの時は直流115 ‐ 120ボルトで発電所から需要家までを直接結んで配電しており、電圧を変換する機構は入っておらず、したがって変電所もまだ存在しなかった。低圧で送配電することに伴う大きな損失を改善するために、様々な工夫が試みられた。その中には、高電圧の直流で送電して電動発電機で低圧直流に変換するものや、高圧直流で直列に接続されている蓄電池を充電し並列につなぎ変えて低圧放電させる仕組みなどがあった。 直流での大規模な送電は、1954年にスウェーデンでゴットランド島への2万kW 100 kV送電で実用化された。水銀整流器を用いたもので、その後1961年には英仏連系にも導入された。 日本では北海道・本州間連系設備(上北変換所 ‐ 函館変換所)や紀伊水道直流連系設備(紀北変換所 ‐ 阿南変換所)で直流送電が行われている。 ===交流=== 本質的に、低圧で送電することによる大きな送電損失を改善するためには高圧で送電するしかなく、そのためには自由に電圧を変換する方法が必要とされた。交流の電圧と電流を変換する変圧器は、マイケル・ファラデーが電磁誘導の法則を発見して以来、19世紀を通じて何人かの技術者・発明家によって次第に改良され形作られてきたが、電力網に組み込んで利用するための具体的な形にまとめたのはフランスのルシアン・ゴーラールとイギリスのジョン・ディクソン・ギブスの2人であった。彼らは1882年にイギリスで変圧器の特許を出願した。1884年にイタリアのトリノで開かれた博覧会で、5,000 Vで40 kmを送電する実験に成功し、それまで都市内部で蒸気機関で発電してそのすぐ近くで配電する以外の方法が無かった電力事業に対して、山岳地帯で水力発電を行い長距離を送電して都市に配電することを可能にした。 まだ彼らの変圧器は、鉄心の磁路に開いた部分があり効率が悪かったので、ハンガリーのガンツ社やアメリカのジョージ・ウェスティングハウスなどが改良に取り組んだ。世界で最初の実用交流送電線は、イタリアで1886年にガンツ社の発電機を使って112 Vの電気を2,000 Vに昇圧して27km送電し、ローマに供給するものであった。三相交流システムや誘導電動機など、交流を実用的に利用するための技術が開発され、1895年8月にナイアガラの滝に水力発電所が建設され、翌1896年から変電所を通じて高圧に変換して三相交流で送電し、ニューヨーク州バッファローへ供給するシステムが稼動を開始した。このシステムでは、ウェスティングハウス・エレクトリック製の二相の3,750 kW発電機12台からの電圧5,000 Vを、二相三相変換の変圧器(スコット結線変圧器)で三相11,000 Vにして40 kmを送電し、ゼネラル・エレクトリックが建設した変電所で降圧して給電していた。このようにして交流送電の技術は普及し、これにともなって変電所の建設も進んでいった。 交流での送電電圧は急速に上がっていった。1896年のナイアガラ‐バッファローの送電システムでは11 kVであったが、同年中にはスイスで33 kV送電線ができ、1897年には40 kV、1901年にはアメリカ・ミズーリ州で50 kVになり、1910年代にはドイツとアメリカで100 kV送電線が用いられるようになった。当初は、発電所で起こされた電力は、それぞれ独立した送電網を通って送られ、それぞれ独立した地域に給電していた。異なる発電所から供給する電力網同士には電力を融通する機能が無く、発電所が運転を休止したり故障したりすると、その発電所の供給範囲は停電となった。周波数や電圧などはバラバラで、それぞれの電力網に合わせた機器を導入していた。イギリスでは1928年からグリッドシステムの導入が始められ、電力供給の規格が作られて電圧や周波数が統一され、上位の電力供給網が全国を接続するようになった。アメリカでも、「超電力方式」と称する統一周波数の送電システムの建設が1920年から始められた。日本でも、1920年代頃から系統の連系が行われるようになり、これによって電圧階級を持った変電所などの現代的なシステムが整えられるようになったが、東西の周波数は統一されなかった。そのため周波数変換所を実用化する必要が生じ、1965年10月に佐久間周波数変換所を稼動した。 =モールの定理= モールの定理(モールのていり、英語: Mohr’s theorem)は構造力学における定理の一つ。はり部材のたわみを図を用いて簡易に導出するのに利用される。 このモールの定理を用いると、微分方程式を直接解いたりエネルギー保存則を利用することなくはりのたわみを求めることが出来る。このようにして、はりの変形を求める方法を弾性荷重法(だんせいかじゅうほう、英語: elastic load method)、あるいはモールが考えた方法や共役ばり法と呼ぶ。 モールの定理自体は、共役ばり(きょうやくばり、英語: conjugate beam)と呼ばれる仮想的に設定するはりに、弾性荷重(だんせいかじゅう、英語: elastic load)と呼ばれる元のはりに作用している曲げモーメントから生成される仮想的な荷重を加えると、その曲げモーメントとせん断力がそれぞれ元のはりのたわみとたわみ角に一致するという定理のことを指す。 ==概要== これらの関係を整理すると表1のようになる。 この定理は、1868年にハノーファー建築家・技術者連合(ドイツ語: Architekten‐ und Ingenieur‐Verein Hannover) の会報である『ハノーファー建築家・技術者連合誌』 (”Zeitschrift des Architekten‐ und Ingenieur‐Vereins Hannover”) にて、オットー・モール(英語: Christian Otto Mohr)により発表されたもので、モール自身はこの方法を変断面はりのたわみを求めるのに有効であると述べている。 また、この発見について、ステパーン・ティモシェンコは、モールの応力円と共に、モールの材料力学に対する大きな功績として挙げている。 現代においては、はりのたわみなどを求める構造計算は、計算機を用いることが主流であり、弾性曲線方程式を数値的に解いたり、有限要素法などを用いてはり部材の仮定を用いず直接に構造物の変形を計算することが多い。 そのため、現代において、実務でモールの定理(弾性荷重法)が用いられることは殆どないが、構造力学の基礎として大学学部・高等専門学校・工業高校などで学ばれている。 ==共役ばり== このように境界条件を満たすために仮想的に考えられたはりを、共役ばりといい、与系のはりと共役ばりの変位と断面力を対応させて変換することで作ることができる。 代表的な与系の条件に対する共役ばりの条件は表2のようになり、この変換表を代表的なはりに適用すると表3のようになる。 このように、単純ばりは同じ単純ばりのままだが、片持ちばりでは左右が逆になり、ゲルバーばりはヒンジの位置が変わるなど、与系のはりと共役ばりでは異なるはりとなる。 ==弾性荷重法== モールの定理を利用して、たわみやたわみ角を求める方法を弾性荷重法と呼ぶがこれは以下のように整理される。 与系の曲げモーメント M を求める。曲げモーメントを曲げ剛性 EI で除して、弾性荷重 z = M/EI を生成し、共役ばりに作用させる。共役ばりにおけるせん断力(相当量)Q を求めると、与系のたわみ角 θ を得ることができ、さらに曲げモーメント(相当量)M を求めると、与系のたわみ v を得ることができる。このように、弾性荷重法を使うと、微分方程式を直接解くことなく、はりのたわみやたわみ角を求めることができるが、以下のような長所と短所がある。 ===長所=== 微分方程式を直接解く場合には、はりの中間でモーメント外力が働いていたり断面寸法(曲げ剛性)が急変するなどしてすると、場合分けが必要になり解法が煩雑になる。一方、弾性荷重法ではそれが必要ない。 ある特定の点でのたわみやたわみ角だけが必要な場合、曲線を全て求めなくても、、共役ばり上でのその点の曲げモーメント相当量あるいはせん断力相当量だけを求めるだけでよい。微分方程式を直接解く場合には、はりの中間でモーメント外力が働いていたり断面寸法(曲げ剛性)が急変するなどしてすると、場合分けが必要になり解法が煩雑になる。一方、弾性荷重法ではそれが必要ない。ある特定の点でのたわみやたわみ角だけが必要な場合、曲線を全て求めなくても、、共役ばり上でのその点の曲げモーメント相当量あるいはせん断力相当量だけを求めるだけでよい。 ===短所=== 荷重の分布形状が複雑で曲げモーメント高次式になる場合、弾性荷重の合力の大きさや作用位置の計算が煩雑になる。 計算に曲げモーメントが必要になるので、弾性荷重法のみでは不静定ばりは解くことができない。荷重の分布形状が複雑で曲げモーメント高次式になる場合、弾性荷重の合力の大きさや作用位置の計算が煩雑になる。計算に曲げモーメントが必要になるので、弾性荷重法のみでは不静定ばりは解くことができない。 =甑島列島= 甑島列島(こしきしまれっとう)は、東シナ海にあり、鹿児島県薩摩川内市に属する列島。甑列島(こしきれっとう)ともいう。上甑島(かみこしきしま)、中甑島(なかこしきしま)、下甑島(しもこしきしま)の有人島3島と多数の小規模な無人島からなる。中甑島北部にある「甑」(蒸籠)の形をした巨石を甑大明神として崇拝したことに由来し、かつては「古敷島」「小敷島」「子敷島」「古志岐島」などとも書いた。列島全体では人口5,576人、面積117.56km、海岸線延長183.3kmである。 従来、「こしきじま」という呼称であったが、薩摩川内市は国土地理院に変更を申請し、2014年8月に「こしきしま」に呼称が変更された(#名称参照)。 ==名称== 地名の由来は、海岸にある甑(底に穴の開いた取手付きの食物を蒸すための土器)形の岩を御神体に甑島大明神として祭ったことからであるという。平安時代中期の文献である『和名抄』には「古之木之万(こしきしま)」と表記してある。 「甑島」は従来「こしきじま」と呼称され、椋鳩十の児童文学「孤島の野犬」でも下甑島を「じま」と読ませている。また、教科書や地図でも従来「こしきじま」とルビ表記されていた。しかし、読みが混在しているとして平安時代の文献や、合併前の旧村の郷土誌を調査し、その結果に基づき2014年4月に薩摩川内市は国土地理院に変更を申請し、2014年8月に「こしきしま」に呼称が変更された。薩摩川内市では市民へ強制はしないとしているが、島民からの反発も報道されている。 ==地理== 甑島列島は鹿児島県いちき串木野市の沖合約45kmにあり、列島全体の長さは38km、幅は10kmである。その隔絶性から、歴史と民俗の宝庫とされてきた。かつての山脈の頂上部が海上に残ったとされ、リアス式海岸と起伏に富んだ地形がある。北東から南西にかけて上甑島、中甑島、下甑島の有人島3島が並んでおり、それらに付随する小規模な無人島もある。中甑島は面積も人口も規模が小さく、上甑島と合わせて考えられることが多い。中甑島は集落名から平良島(たいらじま)または単に平良と呼ばれることもある。面積は上甑島が44.14km、中甑島が7.31km、下甑島が66.12kmであり、上甑島と中甑島を合わせると下甑島の約4/5である。鹿児島県の離島の面積は奄美大島、屋久島、種子島、徳之島、沖永良部島、長島、加計呂麻島、下甑島、喜界島、上甑島の順となり、下甑島の面積は山手線の内側とほぼ等しい。2010年(平成22年)の国勢調査による人口は上甑島が2,488人、中甑島が308人、下甑島が2,780人であり、上甑島と中甑島を合わせると下甑島にほぼ等しい。最高標高地点は上甑島が423mの遠目木山、中甑島が294mの木の口山、下甑島が604mの尾岳であり、尾岳の尾根には航空自衛隊の下甑島分屯基地がある。第9警戒隊の警戒管制レーダーが設置されており、2009年(平成21年)3月に大陸間弾道弾も追尾可能な最新鋭の警戒管制レーダー(J/FPS‐5)への更新工事が完了した。 甑島列島は全体的に山肌が海にせまり、沖積平野の発達が極めて少ない。上甑島と中甑島は比較的緩やかな丘陵が広がるが、下甑島は400‐500m台の山地が卓越し、特に西岸には切り立った断崖が点在する。上甑島は縦の変化に乏しい一方で、里集落の陸繋砂州(トンボロ)、3つの池と東シナ海とが砂州で区切られた長目の浜、奥地まで海が入り組んだリアス式海岸の浦内湾など、横の地形的な変化が豊かである。 ===おもな島=== ====有人島==== 上甑島(かみこしきしま)中甑島(なかこしきしま)下甑島(しもこしきしま) ===無人島=== 野島近島双子島沖の島筒島 (かせとう)松島弁慶島由良島上甑島北東部、遠見山の東部に野島、近島、双子島、沖の島、筒島、松島が固まっており、中甑島の南に弁慶島がある。下甑島の地峡部西側に由良島があり、下甑島西岸には松島やナポレオン岩(チュウ瀬)などもある。 ===気候=== 甑島列島の年平均気温は18.1度と温暖であり、東京(16.3度)や大阪(16.9度)を1.2‐1.8度上回っている。川内など本土の同緯度地域に比べても1度ほど高く、夏期の平均気温に大きな差はないが、冬期の平均気温には顕著な差がある。年降水量は2,279mmであり、本土の同緯度地域や鹿児島市とほぼ等しく、東京(1,528mm)や大阪(1,279mm)の1.5‐1.8倍の降水がある。夏・秋には台風、冬には季節風の影響を強く受け、台風の影響は列島の西海岸よりも東海岸のほうが著しい。 ==歴史== ===古代・中世=== 甑島列島には約8000万年前の白亜紀の地層が残っている。日本国内では初めてケラトプスの化石が発見され、アジアを見渡しても貴重な発見とされている。恐竜の化石が発見されたのは鹿児島県で初めてであり、藺牟田にある地層からは翼竜やワニなど爬虫類の化石も発見されている。上甑島の里遺跡は、甑島列島唯一の縄文土器が出土した遺跡である。上甑島の里遺跡、江石遺跡、桑之浦遺跡、下甑島の手打遺跡、片野浦遺跡からは弥生土器、土師器、須恵器などが出土している。 上甑島の桑之浦には神功皇后の三韓征伐に関する伝説が残る。奈良時代には薩摩隼人族の一根拠地(甑島隼人)だったと推測される。平安時代初期に編纂された『続日本紀』が「甑島」という名の初出であり、遣唐使船が甑島に停泊したことが記された。平安中期に編纂された『和名抄』には「甑島郡管管」、「甑島」という名前が登場する。甑島列島の各地に平家の落人伝説が残っている。鎌倉時代中期から370年間、13代に渡って小川氏が統治を行ない、この時代から行政単位が上下(上甑島・中甑島、下甑島)ふたつに区分された。里には承久の乱で功績を挙げた小川季直が築城した亀城(かめじょう)があり、近隣の鶴城と合わせて鶴亀城と呼ばれている。1595年(文禄4年)、小川氏は本土の日置郡田布施(現南さつま市)に移封されて甑島の統治から離れた。 ===近世・近代=== 江戸時代には島津藩の直轄地となり、島津藩が採用した外城制の枠組みの中で地頭(領主)が派遣された。里・中甑・手打には地頭仮屋が置かれ、ひとつの集落の中に士族の居住地である麓、農民の居住地である在、漁民の居住地である浜が置かれた。藩政時代には下甑島東岸の金山海岸で銅・金・銀などの採掘が行なわれ、薩摩藩の南蛮貿易の中継基地にもなった。甑島列島は天草諸島や長崎と同じくキリシタン文化を受け入れた場所のひとつであり、1638年(寛永15年)には甑島列島に潜んでいた島原の乱の残党35人が処刑されて殉教した。1780年代の天明の大飢饉の際には、下甑島の百姓が出水(現出水市)に、郷士48戸が笠野原台地(現鹿屋市など)に集団移住した。江戸時代には薩摩藩が浄土真宗を禁じたため、1835年(天保6年)には下甑島の長浜村が焼き払われるという「天保の法難」が、1862年(文久2年)には下甑島全島の住民が取り調べられるという「文久の法難」が起こった。1871年(明治4年)には鹿児島県に所属。1889年(明治22年)に町村制が施行されると、上甑島7村と中甑島1村が甑島郡上甑村(かみこしきむら)となり、役場は中甑に置かれた。1891年(明治24年)には山地によって隔てられている里が上甑村から分離して里村(さとむら)となり、上甑島・中甑島はそれから1世紀以上も2村体制が続いた。下甑島も6村が合併して下甑村(しもこしきそん)となったが、1949年(昭和24年)、やはり地理的に隔てられた藺牟田が分離して単独で鹿島村(かしまむら)となった。下甑島の最高峰である尾岳北側にある分水嶺が2村の行政界となっている。明治10年代には台風・飢饉・悪疫流行などがあり、上甑島からは種子島に33戸、本土の薩摩郡高江村(現薩摩川内市)に6戸が移住し、下甑島からは395戸1732人が種子島に集団移住した。1896年(明治29年)には甑島郡が薩摩郡に編入。1901年(明治34年)には上甑島に本土からの海底電信が到達し、九州商船によって串木野航路が開かれた。 ===現代=== 国勢調査が始まった1920年(大正9年)から1940年代まで甑島列島の人口は2万人強で推移し、1950年(昭和25年)には24,744人とピークに達した。しかし、1950年から1980年(昭和55年)の人口減少が著しく、いずれの集落でも1/2から1/3に減少しており、この期間中に1/4以下となった集落も存在する。奄美大島の瀬戸内町や宇検村と並んで、甑島列島は鹿児島県の離島の中で特に過疎化が著しい地域であり、全国の離島の中でももっとも人口減少が激しい島のひとつだった。1965年(昭和40年)から1970年(昭和45年)の間に、鹿児島県の本土で人口が20%以上減少した自治体はなかったが、甑島列島の4村はいずれも20%以上の減少率を記録し、特に鹿島村は43.3%という極めて高い減少を見た。 九州の主要な離島(壱岐、対馬、五島列島、種子島、屋久島)と比較した際、1954年(昭和29年)時点での第一次産業人口率は6島中1位、農業機械不使用農家率は6島中1位、面積あたりの道路長は6島中5位であり、古くから本土との距離の割に離島的性格の強い地域だった。1972年(昭和47年)時点での甑島列島内(中甑管内)の電話加入数は約800であり、鹿児島県でもっとも加入者が少ない管内だったが、人口100人当たりの電話普及率は7.0‐9.9であり、鹿児島県平均12.6よりは少ないが、本土の垂水管内や枕崎管内などを上回っていた。 1951年(昭和26年)に九州を襲ったルース台風では甑島列島も大きな被害を受け、里では護岸が900mに渡って破られたほか、500もの住居が潮水に呑まれた。1960年代には、現職の下甑村議会議員2人が辞職して島を去ったことが全国に波紋を投げかけた。このうちのひとりは農業を主業とする村議会副議長であり、村の最高所得者のひとりだったが、離島後に大阪府堺市の工場に就職した。昭和30年代初めは近隣の熊本県への県外転出者が多かったが、その後は約半数が近畿地方に転出しており、大阪府と兵庫県の2府県で45%弱を占めた。 里村は上甑島の東側半分を占め、単独で村を構成する大字里に人家が集中していた。上甑村は上甑島の西側半分と中甑島の全域を占め、役場がある中甑に加えて、中野、江石、小島、瀬上、桑之浦(いずれも上甑島)、平良(中甑島)の計7つの大字に人家が分散していた。鹿島村は下甑島の北側1/3を占め、大字藺牟田が単独で村を構成していた。下甑村は下甑島の南側2/3を占め、手打、片野浦、瀬々野浦、青瀬、長浜などの集落に人家が分散していた。簡易裁判所、電報電話局、鹿児島県土木事務所の出張所、鹿児島県農業改良普及所の支所など、甑島列島における公的機関の多くは上甑島中甑に置かれていた。距離的にもっとも近い本土の自治体は川内市だったが、川内市には規模の大きい港がないために甑島との交流は薄かった。しかし、甑島列島の4村は2004年(平成16年)に本土の川内市ほか4町と新設合併し、それぞれの村は薩摩川内市の一部となった。市町村合併時に甑島にある大字は「従前の村名を町名とし、従前の大字名に冠したものをもって大字とする」としたため、大字名がそれぞれ改称され、薩摩郡上甑村大字中甑が薩摩川内市上甑町中甑、薩摩郡下甑村大字手打が薩摩川内市下甑町手打などという表記をされている。 ===行政区画の変遷=== ===人口の変遷=== 出典 : 国勢調査里地域 上甑地域 下甑地域 鹿島地域いずれの自治体も、2004年に川内市などと合併して薩摩川内市の一部となった。 ==交通== ===列島外部との交通=== ====交通の歴史==== 甑島列島は琉球諸島から天草・長崎・朝鮮半島・日本海に向かう船の通り道にあり、琉球とのつながりが深い。また、戦前までは鹿児島本土よりも天草(特に南端の牛深)や長崎などとのつながりの方が強い時代があった。1901年(明治34年)には九州商船が本土と甑島列島の間に航路を開き、長崎‐天草(西と牛深)‐里‐手打を結んでいたが、1928年(昭和3年)にはこの航路が廃止され、串木野と甑島を結ぶ航路が開かれた。1951年(昭和26年)には阿久根と甑島を結ぶ航路が2日に1便就航し、1952年(昭和27年)からは毎日就航に変更された。地理学者の藤岡謙二郎らが調査した1964年(昭和39年)時点では、串木野港と中甑港を結ぶ航路には200トン船が、阿久根港と里港を結ぶ航路には75トン船が運航されていた。1971年(昭和46年)時点では串木野港との間に200トン船が、阿久根港との間に278トン船が運航されており、1980年(昭和55年)時点では串木野港との間に200トン船が、阿久根港(川内港経由)との間に400トン船が運航されていた。いずれも一日一便であり、東岸伝いに里、中甑、鹿島、手打などを巡り、各港では艀(はしけ、小型船)で客と荷を積み下ろした。1971年時点の運賃は里までが270円、手打までが480円だった。阿久根港・里港間の33kmを約2時間で結んでいたが、台風の前後には欠航が相次いだという。九州商船の他には、1956年(昭和31年)から保健船が週2便運航され、平良・中甑間には艀が一日数便運航されていた。2002年(平成14年)までは串木野から長崎に大型フェリーが運行され、甑島列島‐串木野‐長崎は経済的なつながりが続いていた。 ===現在の航路=== ===串木野‐甑島列島=== 本土から甑島列島までの主要な交通手段は、甑島商船がいちき串木野市の串木野新港から運航している高速船とフェリーである。「高速船シーホーク」と「フェリーニューこしき」は、一日あたりそれぞれ往復2便が運航されており、高速船は上甑島の里港まで約50分、フェリーは約75分である。いずれも起点は串木野新港であり、終点は下甑島の長浜港であるが、便によって立ち寄り先が異なり、下甑島の鹿島港などに立ち寄る場合がある。2013年(平成25年)7月1日時点での自動車航送を含まない料金は、高速船が3,610円(串木野‐長浜)、フェリーが2,330円(串木野‐長浜)である。高速船とフェリー以外では、五色産業が貨物フェリーと高速チャーター船を運航している。 串木野新港とJR鹿児島本線串木野駅間には、船の発着時間に合わせたバスが運行されており、所要時間は約12分である。串木野駅から鹿児島中央駅までは在来線で約35分である。串木野新港と川内駅間にも船の発着時間に合わせた直行バスが運行されており、所要時間は約34分である。川内駅から博多駅までは九州新幹線で最速71分であり、川内駅から鹿児島空港まではバスで約70分である。串木野新港から鹿児島インターチェンジまでは自動車で約40分であり、九州縦貫自動車道や南九州西回り自動車道などを経由する。 ===薩摩川内‐甑島列島=== 老朽化した「高速船シーホーク」の代替船として「高速船甑島」が2014年(平成26年)春に就航している。新幹線800系電車「つばめ」など、九州地方の輸送機関のデザインを数多く手掛けている水戸岡鋭治がデザインを担当した。「フェリーニューこしき」はこれまで通り串木野新港を発着するが、高速船の本土側寄港地は甑島列島が属する薩摩川内市の川内港に移設された。川内港と薩摩川内市街地はやや離れているため、JR鹿児島本線川内駅と川内港の間にシャトルバスが運行されている。 ===列島内部の交通=== 1950年(昭和25年)時点での陸上交通の大部分が徒歩であり、自転車でさえもほとんどみられなかった。1959年(昭和34年)10月時点でも各集落を結ぶ車道はなく、上甑島にはジープが1台、下甑島には小型三輪車が1台のみが存在。この頃には陸上交通の主流が自転車となり、1961年(昭和36年)時点で甑島列島全体に616台の自転車が存在した。1965年(昭和40年)には里と中甑の間に初めてバスが通じた。全国的に自動車の普及が進んだ1971年(昭和46年)においても、「現代離れした地区」として鹿島村(自動車は7台のみ)が引き合いに出されるなど、甑島列島において自動車の普及は大きく遅れた。 甑島列島には鹿児島県道348号から352号までの5本の県道が通っており、国道は通っていない。県道348号桑ノ浦里港線は上甑島西端の桑ノ浦と里を結ぶ路線であり、中甑を通ってZ字型に東西を結んでいる。県道352号瀬上里線は瀬上と里を結ぶ路線であり、348号の短絡線として長目の浜近くを通っている。県道351号鹿島上甑線は下甑島の藺牟田と上甑島の中甑を結ぶ路線であり、現在は藺牟田瀬戸によって分断されているが、藺牟田瀬戸架橋が完成すると一本の道となる。県道349号手打藺牟田港線は下甑島の南北端を結ぶ路線であり、県道350号長浜手打港線は長浜から西岸の瀬々野浦を経由して手打に至る路線だが、瀬々野浦南側の一部が完成していない。 現在では上甑島・下甑島のいずれでもレンタカー、タクシー、レンタサイクルが利用可能である。薩摩川内市は公用車として3台の電気自動車(EV)を甑島に導入している。2013年(平成25年)8月には1人乗りEV「コムス」(トヨタ車体製、ミニカー扱い)を20台導入し、「甑島電気自動車レンタカー導入実証事業」として観光客へのEVの貸し出しも行なっている。水中展望船「きんしゅう」、観光船「かのこ」、観光船「おとひめ」の3つの観光遊覧船が運航されている。 ===甑島コミュニティバス=== 上甑島と中甑島では「甑ふれあいバス」(里・上甑地域コミュニティバス)、下甑島では「甑かのこゆりバス」(鹿島・下甑地域コミュニティバス)という名称の定期路線バス(薩摩川内市甑島コミュニティバス)が南国交通によって運行されている。基本的にどの路線も定期船の発車時刻に合わせたダイヤが組まれており、一日あたり4‐7便が運行されている。 ===列島内の架橋=== 上甑島の南には無人島の平良島を挟んで中甑島があり、1994年(平成6年)に開通した甑大明神橋(上甑島‐平良島)と鹿の子大橋(平良島‐中甑島)の2本の橋が架かっている。中甑島と下甑島は最狭部で1.3kmほどであり、2006年(平成18年)から藺牟田(いむた)瀬戸架橋事業が進行中である。中甑島の南側半分には人家がなく、車が通行可能な道路もないが、この事業では中甑島の平良から下甑島の藺牟田まで自動車道路を整備し、海峡を1,533mのPC連続橋桁橋でつなぐ。上甑島の里港と下甑島の長浜港は一日2往復のフェリーで約115分かかっているが、24時間通行可能な藺牟田瀬戸架橋が完成すると自動車で約50分に短縮されるという。中央部の橋梁の中央径165mは、PC連続橋桁橋としては日本国内最大級である。総事業費は220億円であり、完成予定は2017年(平成29年)である。 平良島と中甑島、中甑島と下甑島は海で隔てられてはいるが、前者の間には沖の串と呼ばれる浅瀬があり、また後者の間にも沖の瀬上やヘタノ瀬上などの浅瀬があるため、かつては上甑島から下甑島まで一続きの島であったと考えられている。甑大明神橋・鹿の子大橋の架橋前も、干潮時には上甑島と平良島、平良島と中甑島が陸続きになったという。1984年(昭和59年)に芦浜トンネルが開通すると陸路で旧鹿島村と旧下甑村の往来が可能となり、両地域の交流が活発化した。2011年(平成23年)には長浜・青瀬と手打をトンネルなどで結ぶ手打バイパスが開通し、安全性や利便性が大幅に向上した。 ==自然・地形・地質== 甑島列島の地形は天草や長島の延長にあり、地質的にも両島と同じく中生層の砂岩・頁岩・花崗岩が卓越している。1981年(昭和56年)には甑島列島が甑島県立自然公園に指定され、2009年(平成21年)には下甑島の鹿島断崖が日本の地質百選に選出された。中甑島北部には巨大な正断層である鹿の子断層があり、北西‐南東方向に発達した断層が露頭している。海岸にはウミガメが上陸する。また、周辺海域はカツオクジラなどの鯨類の回遊海域になっており、昭和23年までは、シロナガスクジラやマッコウクジラなどの大型種を対象とした捕鯨も行われていた。甑島列島は熱帯性の木生シダであるヘゴの自生北限地のひとつであり、「ヘゴ自生北限地帯」の名称で国の天然記念物に指定されている。列島に生息するカラスバトは種として天然記念物の指定を受けている。 ===カノコユリの自生地=== 里村、上甑村、鹿島村(シロカノコユリ)、下甑村の4村すべてがカノコユリを村花としており、2004年に誕生した薩摩川内市もカノコユリを市花に制定した。カノコユリは九州の西海岸や四国に生育しているとされるが、甑島列島が日本唯一の自生地とされることもある。下甑島の百合高原などで夏場に薄紅色の花を咲かせるが、本来、湿気に弱いはずのカノコユリがなぜ高温多湿の甑島列島に自生するのかは解明されていない。 江戸時代にはフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトが球根を日本から持ち出してヨーロッパで知られるようになり、明治時代には煮て乾かした球根が菓子原料として中国に輸出された。自生していたカノコユリの栽培に着手したのは1873年(明治6年)、初めて輸出したのは1894年(明治27年)であるとされる。大正時代には球根がアメリカに輸出され、クリスマスや復活祭用の生花に用いられた。1929年(昭和4年)が球根生産のピークのひとつであり、野掘り(野生)と畑掘りが半分ずつで67万球・39万円の売り上げがあった。カノコユリは救荒作物でもあり、天明の飢饉や太平洋戦争中には鱗茎を掘って食べたという。戦後には海外で観賞用花としての需要が高まり、1964年(昭和39年)をピークとして甑島列島で栽培された球根が高値で輸出された。1960年(昭和35年)には甑島列島全体で177トン・1290万円のユリ根を輸出していた。干した甘藷の相場が41kg1000円だった時代に、カノコユリは1kg100円の高値で取引されたという。高度成長期には良質なユリを生み出すための品種改良が行なわれたが、1969年(昭和44年)以降には海外での需要が減少。その後は日本国内中心に出荷していたが、1980年代には一般ユリ・系統ユリ(品種改良した球根)ともに国内向けの出荷を終了し、現在では鹿の子百合生産振興協議会が細々と出荷しているのみである。 ===里集落の陸繋砂州=== 上甑島北端にある遠見山はかつて独立した島だったが、流砂によって上甑島本島と陸続きとなり、沿岸流と波の作用で海底の砂礫が水面上に現れたのが陸繋砂州(トンボロ)である。その上に形成された里集落は、陸繋砂州上にある集落としては日本国内最大規模であり、函館(北海道)や串本(和歌山県)と並んで日本三大トンボロに数えられることもある。砂州の全長は約1,400m、全幅は最狭部で250m、標高2.3mであり、半島のように突き出た遠見山と島の南側をつないでいる。この砂州は10cm×5cmほどの礫で構成されており、一般的な砂丘や砂嘴にみられる細砂礫が少ないが、西岸は西之浜海水浴場となっている。先史時代の遺跡や藩政時代の士族居住地は山麓に形成され、真水に恵まれない沿岸部には被支配者層が居住した。 下甑島の手打でも、手打湾と手打港の間に小規模な陸繋砂州が形成されている。1889年(明治22年)や1951年(昭和26年)(ルース台風)には砂州が切断されたといい、現在は防潮堤が張り巡らされているが、高潮時にはしばしば手打湾から手打港に水があふれる。 ===長目の浜(甑四湖)=== 上甑島には長目の浜と呼ばれる、大小3つの池が砂州によって海と隔てられた景勝地がある。北からなまこ池(海鼠池)、貝池、鍬崎(かざき)池であり、似たような地形で隣接しながらも、それぞれ塩分濃度や成層状態が異なっている。長目の浜からやや東側に離れて、ウナギやボラが生息している須口池があり、上述の3つの池と合わせて甑四湖と呼ばれる。甑四湖はいずれも、離島にある湖沼としては規模が大きく、面積0.56kmのなまこ池は日本第3位、面積0.16kmの貝池と鍬崎池は5位、面積0.10kmの須口池は8位である。 2015年(平成27年)3月には、それぞれの特徴を有する「このような砂州上に発達した植物群落は全国的にも少なく、性質の異なった三つの潟湖群とともに学術上貴重である」として、長目の浜と、海鼠池、貝池、鍬崎池の3湖沼、砂州上の植物群落が、「甑島長目の浜及び潟湖群の植物群落」の名称で、国の天然記念物に指定された。 ===武家屋敷跡の玉石垣=== 下甑島の手打と上甑島の里には、小川氏の統治時代の名残である武家屋敷通りがあり、大きさの等しい玉石垣(丸石の石垣)が特徴である。海岸に近い屋敷は玉石垣を築くほかに、道路面から屋敷地面を下げて風を防いでいることが多い。下げ幅は50cm以下から1.5mほどまで様々であり、屋敷地面が下げられた家の石垣は屋敷内部から見ると2‐3mほどにもなる。手打の武家屋敷通りには御仮屋門や異国船を取り締まった津口番所跡などがある。2009年には里町里にある武家屋敷跡の玉石垣が、日本の有人離島にある優れた景観を選定する「島の宝100景」(国土交通省)に選出された。「玉石の石垣が残る『たましいの島』」という短評が付いている。 ==経済== 2010年(平成22年)の国勢調査による甑島列島の産業分類別就業者数は、第一次産業が12.3%、第二次産業が19.4%、第三次産業が68.1%であり、第一次産業の内訳は農業が1.3%、林業が0%、水産業が10.9%である。就業者数・総生産額ともに、日本全体の平均に比べて第一次産業(特に水産業)が大きな割合を占め、甑島列島の基幹産業は農林水産業である。 ===水産業=== 甑島列島周辺海域はアジ、サバ、ブリなどの回遊魚に加え、キビナゴ、バショウカジキ、アワビなどの水産資源が豊富で、鹿児島県内有数の漁場となっている。江戸時代にはイワシやカツオ漁が盛んであり、薩摩干鰯の主要産地だったほか、甑島産のカツオは土佐産に次ぐ質の高さとされた。明治時代にはカツオ漁業が行き詰ったことからサンゴ採取が好況に沸いたが、すぐに採りつくして大正時代には急速に衰えた。大正時代にはブリの定置網漁業が盛んとなり、戦後には巾着網漁業が活況を呈した。甑島漁協の水揚げ量の45%を刺網漁業で漁獲したキビナゴが占め、鹿児島県最古の歴史を持つ定置網漁業や、カンパチとマグロの養殖漁業も行なっている。キビナゴは一年中漁獲されるが、5月から7月の夏期がキビナゴ漁の最盛期であり、里が漁獲の中心となる。キビナゴは冷凍加工品としても出荷されているが、多くは鮮魚として、いちき串木野市または阿久根市の卸売市場を経由して主に鹿児島市内に出荷されている。 上甑島の浦内湾はリアス式海岸をなし、1950年(昭和25年)から真珠の養殖を行なっている。母貝には長崎県の大村湾から購入したアコヤガイを使用している。2000年代前半には日本各地に海洋深層水利用施設が建設されており、2003年(平成15年)には下甑島でも民間企業が海洋深層水の取水を開始した。比較的規模が小さいが、沖縄を除く九州で唯一海洋深層水が取水されている場所であり、沖合4km・水深375mの地点から400トン/日を汲み上げている。 ===農林業=== 急峻な地形のため耕地は少なく点在しているが、水稲、サツマイモ(主に焼酎用)、ソラマメ、パッションフルーツなどが生産されており、肉用牛が放牧されている。森林面積における天然広葉樹林の割合が84%を占め、155ヘクタールの椿林を含む。特用林産物としてはシイタケ、椿の実、木炭などが生産されている。甑島列島には共有地が多いという特徴があり、山林や原野は1980年(昭和45年)においてもその大部分が共有地だった。上甑島の江石では田畑でさえも大部分が共有地であり、田は5年ごと、畑は10年ごとに耕作者の割替が行なわれてきたが、1975年(昭和40年)を最後に総体的な割替は行なわれていない。 ===観光業=== 2009年(平成21年)の上甑島への観光客は約21,400人、中甑島への観光客は約1,700人、下甑島への観光客は約14,100人であり、観光客は上甑島がもっとも多い。全体の観光客数は約37,200人であり、うち列島内での宿泊者数は約34,600人と93%を占める。2010年の甑島列島全体への入込客数は44,870人であり、薩摩川内市全体の約2%程度である。薩摩川内市全体の入込客数は右肩上がりであるが、甑島列島への入込客数は年によってばらつきがあり、2006年(平成18年)は31,528人、2008年は55,224人だった。列島内にはキャンプ場、海水浴場、ダイビング場などの観光施設が整備されており、その他にも甑大明神マラソン大会、こしき島アクアスロン大会、甑島イカ釣り大会、竜宮文化フェスタなどのイベントが開催されている。里にある甑島風力発電所は1990年(平成2年)に日本で初めて実用化された風力発電所であり、観光名所のひとつとなっている。2015年には集落や港湾部を除くほぼ列島全体が甑島国定公園に指定されている。 ==教育== ===いずれも薩摩川内市立=== 2013年(平成25年)時点で甑島列島には薩摩川内市立中学校が4校、市立小学校が5校所在するが、いずれの学校も児童生徒数不足に悩まされている。2013年5月1日時点の各小中学校の児童生徒数は、里中学校が17人、上甑中学校が16人、海陽中学校が18人、海星中学校が26人、里小学校が64人、中津小学校が41人、鹿島小学校が13人、手打小学校が52人、長浜小学校が59人である。甑島列島内に高校はなく、中学校卒業生の多くは本土に引っ越して本土の高校に進学する。1960年(昭和35年)頃からは子どもの高校進学を機に島外に移住する挙家離村が多くみられ、主に農業従事者が特に阪神地域、次いで名古屋や京浜地域に一家揃って移住した。漁業従事者や公務員などの安定した職を持っている人の離村は少なく、1975年(昭和50年)以降には挙家離村はほとんどみられない。高度成長期の中学卒業生の就職先は、大阪府と兵庫県で6割を占めていた。 ===学校の統廃合=== 上甑島にはかつて小学校が5校あったが、1968年(昭和43年)に桑之浦の宇佐小学校が、1969年(昭和44年)に江石の江石小学校が閉校となっている。2004年(平成16年)の合併後、薩摩川内市は大規模な小中学校の統廃合を進めた。上甑島の瀬上には1903年(明治36年)に開校した浦内小学校があったが、2008年(平成20年)に中甑の中津小学校に統合され、106年(卒業生2,065人)の幕を閉じた。中甑島の平良には1879年開校の平良小学校と平良中学校があったが、2001年(平成13年)には平良中学校が閉校となって上甑中学校に編入した。平良小学校の児童数は1950年(昭和25年)には226人を数えたが、2010年(平成22年)には7人となり、2011年(平成23年)に閉校となって中津小学校に統合された。現在、中甑島に住む児童生徒は橋を越えて上甑島の学校まで通っている。上甑島にある2つの中学校、里中学校と上甑中学校は、今後の生徒数の推移によっては統廃合が検討され、下甑島にある2つの中学校、海陽中学校と海星中学校も同様である。2012年(平成24年)には下甑島の鹿島中学校が休校となり、鹿島中学校に通っていた生徒は海星中学校に通うこととなった。鹿島中学校の学校再開や鹿島小学校の統廃合については、藺牟田瀬戸架橋完成後の状況変動などから判断される予定である。下甑島では2012年には青瀬小学校が長浜小学校に、子岳小学校が手打小学校に統合され、2013年には西山小学校が長浜小学校に統合された。 ===山村留学制度=== 薩摩川内市は下甑島で山村留学制度を実施している。鹿島小学校・鹿島中学校は1996年(平成8年)から「ウミネコ留学」を実施し、本土などから海村留学生(1年間)を年間10名程度受け入れている。留学生は里親の下で暮らし、長期休暇のみ実家に帰省していたが、近年では家族そろっての留学(移住)も増えているという。2007年度の鹿島小学校の全校生徒数は16人であり、このうち留学生は6人だった。愛称は下甑島がウミネコの繁殖南限地であることに由来する。西山小学校でも2000年(平成12年)から鹿島小中学校同様の「ナポレオン留学」を行なっていたが、近年は希望者がいなかったことから2011年に制度が廃止され、また西山小学校自体も2013年度に統廃合の対象となった。愛称は瀬々野浦集落北部にある奇岩「ナポレオン岩」に由来する。 ==文化== 2008年(平成20年)度から、甑島列島を高等教育機関の学外活動の場として提供する「こしきアイランドキャンパス事業」を進めている。2010年度には京都造形芸術大学、東京造形大学、鹿児島純心女子大学、鹿児島大学、熊本大学の5大学が文化交流・伝統食文化研究・化石発掘などを実施し、2011年度には熊本大学、宮崎大学、九州産業大学、鹿児島純心女子大学の4大学計6団体が、2012年度には熊本大学、九州情報大学、宮崎大学、鹿屋体育大学、鹿児島国際大学、九州産業大学の6大学が甑島列島で学外活動を行なった。 鹿島村離島住民生活センター(旧藺牟田漁業組合)は国の登録有形文化財に登録されている。鹿島地域は中野姓が1/3、橋野姓が1/3、残りの1/3が小村姓などである。1949年(昭和24年)に下甑村から分村して以来、鹿島地域は交通死亡事故ゼロを継続しており、2013年(平成25年)6月には日本記録が連続22,000日まで伸びた。 ===上甑島の内侍舞=== 上甑島・中甑島の8集落には内侍舞(ないしまい)が伝承されている。中学生女子が舞妓となり、11月に里の八幡神社で行なわれる内侍舞は鹿児島県指定無形民俗文化財となっている。現在でも内侍舞が伝承されている地域は、鹿児島県では上甑島・中甑島と十島村(トカラ列島)だけとされている。地元では内侍舞という言い方はせず、「メシジョウ」「マチジョウ」などと呼んでいる。 ===下甑島のトシドン=== 下甑島にはトシドンという伝統的な民俗行事がある。かつては上甑島・中甑島・下甑島のそれぞれでトシドンが行なわれていたが、今も伝承されているのは下甑島のみである。かつては種子島と屋久島でもトシドンを行なっており、種子島のトシドンは甑島からの移住者がもたらしたとされる。 1977年(昭和52年)には国の重要無形民俗文化財の指定を受け、2009年(平成21年)、国連教育科学文化機関(UNESCO)の無形文化遺産の新制度第1号のひとつとして「甑島のトシドン」が登録された。後に日本が「男鹿のナマハゲ」を無形文化遺産に登録しようとした際、「甑島のトシドンに形式的にも象徴的にも類似している」と指摘されて事務局に却下され、トシドンの登録名を「正月の来訪神行事」と変更してナマハゲを追加するなどといった案が検討された。 ===瀬々野浦のビーダナシ=== 甑島ではフヨウの幹の皮を糸にして織った衣服(ビーダナシ)が日本で唯一確認されており、甑島の中でも下甑村の瀬々野浦でのみ確認されている。フヨウを表すビーと袖・袂付き長着を表すタナシを組み合わせてビーダナシと呼ぶ。軽くて涼しいために重宝がられ、裕福な家が晴れ着として着用したようである。現存するビーダナシは下甑の歴史民俗資料館に展示されている4着のみであり、いずれも江戸時代か明治時代に織られたものである。フヨウで編んだ紐や綱は南西諸島や九州の島嶼部や伊豆諸島などでも見られ、かつては中国大陸でも甑島同様にフヨウで衣類を編んだという。生糸・木綿・麻・葛で編んだ布は甑島の他の集落でも見られるが、瀬々野浦には生糸・木綿・麻・葛・イチビ・アカメガシワ・フヨウの7種類の材料から作った繊維が存在した。独自の文化が瀬々野浦にのみ存在した背景としては、昭和30年代頃までは陸路での訪問が難しい孤立集落だったこと、民具や無形文化の伝承に熱心な集落だったことなどが挙げられる。 ===作品の舞台=== 堀田善衛の怪奇小説『鬼無鬼島』は下甑島のクロ宗を題材としている。椋鳩十が書いた児童文学『孤島の野犬』は下甑島の野犬が主人公であり、手打にはこの作品に因んだ銅像が建てられている。 映画「釣りバカ日誌9」では下甑島がロケ地となり、手打地区の民家や手打海岸が登場する。 下甑島は森進一の母親の出身地であり、1999年(平成11年)には手打に「おふくろさん」の歌碑が建立された。 山田貴敏の漫画「Dr.コトー診療所」の舞台「古志木島」は下甑島がモデルであり、主人公のモデルは手打診療所の瀬戸上健二郎医師である。テレビドラマ版のモデルは「八重山列島の架空の島」に変更され、ロケは沖縄県の与那国島で行なわれた。 下甑島の奇岩「ナポレオン岩」はDr.コトー診療所やゆでたまごの「キン肉マン2世」などの漫画に登場する。 ==関連人物== 梶原景季 ‐ 平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。播磨を経て甑島に上陸したとされる。楠木正行 ‐ 南北朝時代の武将。中甑で死没したとされる。町春草 ― 女流書家。1922年下甑村長浜生まれ。本田成親 ‐ 数学者、文筆家。1942年神奈川県横浜市生まれ、里村育ち。斉藤きみ子 ― 児童文学作家。1949年里村生まれ、大阪育ち。小倉一郎 ― 俳優。1951年下甑村生まれ、東京都新宿区育ち。石原登― 衆議院議員。第22回衆議院議員総選挙で当選。里に詩の石碑がある。 ==ギャラリー== =グレンコーの虐殺= グレンコーの虐殺(ぐれんこーのぎゃくさつ、The Massacre of Glencoe)は1692年、イングランド政府内強硬派およびスコットランド内の親英勢力の手によって、グレンコー村(スコットランド)で起きた虐殺事件である。規模は歴史上の虐殺事件に比して小さいものであったが、罪なき村民が背信行為によって殺された手法と経緯に、国内外から批判が集まった。これによって名誉革命体制は打撃を受け、イングランド・スコットランド関係が険悪になる原因を作った。グレンコーはスコットランド・ハイランド南西部の谷である。 ==背景== ===名誉革命体制=== 17世紀末のブリテン島において、北端のハイランド地方の人々はロンドン・ウェストミンスタの支配力が及ばない「化外の民」であった。地理的に遠いばかりでなく、交通の便も劣悪で、しかも言語・民族も異なっていた。1688年の革命によって王位についたウィリアム3世はウィリアマイト戦争を皮切りにフランスと交戦状態に入っており、北方の地を従わせることは対フランス戦略においても、また屈強をもって知られるハイランド人を味方に引き入れるためにも必要と考えられていた。 いっぽう革命によって王の座を奪われフランスに亡命したジェームズは、革命の原因でもある自身のカトリック信仰によって、アイルランドやフランスで支持されていた。特にルイ14世とは親密な関係で、ルイ14世はたびたびジェームズのために、あるいは戦略上の理由から、ウィリアム3世のイングランドと砲火を交えていた。ハイランド氏族は、後述するように、海のものとも山のものとも知れないウィリアムよりも、ジェームズにおおむね同情的だった。 ===ジャコバイトとウィリアマイトの戦闘=== ダンディー子爵などジャコバイト(名誉革命の反革命派)急先鋒は、ウィリアマイト戦争(アイルランド)に呼応するかたちで、革命に対してただちに武装蜂起で応えた。イングランドはアイルランド・スコットランドを同時に相手することになり、結果キリクランキーの戦いでの敗北という結果を招いた。しかし、この戦いでスコットランド・ジャコバイトの核であったダンディー子爵が戦死し、つづくダンケルドの戦いではイングランド側が勝利をおさめた。スコットランドはもとより上から下までジャコバイト一色というわけではなかったが、2つの戦いによって、とにもかくにも名誉革命体制に従う風潮が主流となった。 戦いに勝利したといっても、ただちにスコットランドの安定までは意味しなかった。ハイランドを中心に、各地でジャコバイトがくすぶっていた。南の敵国フランスと対峙するうえで、北方ハイランドの不安は厄介な問題のひとつであった。このような事情から、政府はハイランドに対して、何らかの方法によって実力を見せつける機会が必要だと考えていた。 ===名誉革命期のハイランド=== 名誉革命期のブリテン島北端ハイランドにおいて、2つの理由から革命に反対する思潮が主流であった。ひとつは親近感の問題で、ハイランドからみれば遥か彼方のネーデルラント総督よりも、スコットランド王家の流れを汲むジェームズが王として望ましかった。いまひとつはタニストリーを始めとするスコットランドの法と伝統である。イングランドと違って法的にウィリアムの王位継承を正当づける根拠が薄かった。臣下が王を追放できるのは、スコットランドの法によれば、民意にそむいてイングランドに屈服したときだけであった。 とはいってもハイランド人は戦闘に敗れたばかりで、さしあたりウィリアムに従ったほうが無難だという声もあり、内部で揺れていた。ウィリアム支持を鮮明に打ち出したキャンベル氏族は、ハイランド氏族社会のなかでは例外的な存在であった。したがって国王ウィリアムやイングランド政府は、キャンベル氏族を介してハイランドの情報を得たり、また懐柔させようとしたりもした。 ===カトリックへの敵意=== 1641年、清教徒革命の直前にアイルランドで虐殺事件がおこり、プロテスタント住民が犠牲になった。これは後になって誇大宣伝だったことが明らかになったが、当時はこれによるカトリックへの恐怖と敵対心が根強く「野蛮で残忍なカトリックに対しては何をしてもよい」という風潮があった。ハイランドはカトリックが多いと考えられており、そのことがイングランドの敵愾心をあおった。 ==経緯== 1691年8月27日、ウィリアムはハイランドの氏族長たちに、明くる1月1日までにウィリアムに従うと誓約するよう──しないならば、血の制裁があるであろうという脅迫付きで──求めた。氏族たちはどう処すべきか迷い、フランスに亡命中のジェームズ2世に伺いを立てた。ジェームズも如何に反応するか悩み、時間だけが過ぎていった。12月も中盤になってジェームズから「とりあえず」署名しておくようにとの意思が届いた。氏族長たちは冬の雪のなか、急いで署名の場に向かった。 ===犠牲者の選別=== 氏族長たちは続々と署名に集まったが、なかには期限間近になって到着する氏族もあった。しかしイングランドのほうが一枚上手で、土壇場になって署名の場を変更し、しかも関所を設けて足止めをはかった。結果的にグレンコーのマクドナルドが1月2日になって到着し、治安判事の不在によって署名は1月5日にずれこんだ。これを名目として、ステア伯ジョン・ダルリンプルをはじめとする政府内の革命支持強硬派は、実力行使の矛先にグレンコーのマクドナルドを選んだ。 マクドナルド氏族が選ばれたいまひとつの理由は、イングランドと氏族社会の仲立ちをしていたキャンベル氏族の長年の宿敵だったことであった。マクドナルドはキャンベルと同じく、ハイランドで最有力氏族のひとつで、また双方ともハイランド西岸が主な勢力圏であった。両氏族は──近隣氏族がしばしばそうであったように──不仲で、牛泥棒などの小競り合いが絶えず、しばしば死者を出す事件が起きていた。キャンベル氏族長のブレダルベーン伯ジョン・キャンベルは、マクドナルドが遅れたのを見逃さず、これを粛清するようステア伯らに進言した。 ==虐殺事件== 政府は遅れた署名を無効とし、制裁の手続が進められた。命令に署名したのはステア伯(スコットランド担当国務大臣・司法長官)、キャンベル氏族長ブレダルベーン伯、そしてウィリアム3世であった。1月、キャンベル氏族出身の士官ロバート・キャンベルは命令を受け、手勢120名を従えてマクドナルド氏族を訪ねるよう命じられた。当初は調査という名目であった。1月末ごろ、彼は部下たちとともにグレンコーのマクドナルド氏族の村に到着し、2週間ほど滞在した。ハイランド氏族の間には客人には宿と食事をあたえるべしという慣習が古くからあり、マクドナルドはこの慣習にのっとりキャンベルと部下たちを客人としてもてなした。 ロバート・キャンベルがこの任務の性質や目的を正確に理解していたかどうか、いまだ明らかでない。2月12日ロバートは直属の上司による命令書を受け取った。命令書の写しによると、それは以下の文面であった。ロバート・キャンベルは命令を受け取ったのち、犠牲者「候補」とトランプに興じ、翌日の晩餐の誘いを受けて床についた。 2月13日早朝、皆が起きる前に命令が部下たちに公表され、実行に移った。家々に火をかけ、族長以下38名を刃にかけ、子供を含む40人が焼死した。しかし村の人口は400人以上で、相当数が脱走したと考えられている。命令のむごさに兵士たちが躊躇したのではないかとも指摘され、また不服従の証として剣を自ら折った兵士もいたといわれるが、いずれにせよ命令書のいうような殲滅は達成されなかった。脱走した者の中からも凍死者・餓死者が出たが、生き残った者から事件の顛末が口づてに広まることとなった。 ==事件の影響== 事件の情報が広まると、国内・国外から批判の声が上がり、名誉革命直後の不名誉な事件となってしまった。ウィリアム率いる名誉革命体制イングランドの威信は傷つき、これ以上強硬策に出ることができなかった。スコットランドを懐柔する一方、事件の黒幕はキャンベル氏族に引き受けさせて不満をそらす必要があった。事件は結果的にジャコバイトに恰好の攻撃材料を提供してしまったが、その一方で氏族間の溝もまた深くなり、一致団結してイングランドと相対することも非現実的となった。 ===体制の動揺=== 事件は政権にとって一大スキャンダルとなった。特に問題となったのは背信行為であった。すなわち、マクドナルド氏族は敵同士でありながらも、慣習に従ってロバート・キャンベルらを客として遇し、2週間にわたって宿と食事を提供した。虐殺事件はその恩を仇で返した形となったのである。まずフランスで批判がおこり、ウィリアムと政府を激しく非難した。これがイングランド・スコットランドに飛び火し、スコットランドからはもちろん、知らされていなかった大部分のイングランド議員や支配層からも批判がまきおこった。政府は調査を始め、ステア伯がこの事件で主導的役割を果たしたことを突き止めた。ステア伯は審問を受け、1695年官職を追われた。スコットランド側の不満はこれだけでは収まらず、ウィリアムはアフリカ・インド諸国会社の設立申請を許可せざるをえなかった。 犠牲になったマクドナルドの運命に、ハイランド人たちは恐怖するいっぽうでウィリアムとイングランドへの反感を強め、ジャコバイトがふたたび正統性を主張できる根拠を提供する結果となった。以後半世紀にわたって、スコットランドではジャコバイトの蜂起が度々起こった。ハイランド人を味方に引き入れるという当初の目論見は、短期的には成功といえなくもなかったが、長期的には裏目に出てしまった。 ===責任の所在=== 事件が有名になると、キャンベルと司法長官ステア伯およびイングランド王室の間で、責任の押し付け合いが始まった。イングランド政府は当初キャンベルの主導だったとした。そのうえでステア伯はすぐに公職に戻されたが、命令書が発見されて風向きが変わった。さらに虐殺を指揮したジョン・キャンベルの子孫が、事件の詳細を執筆・出版し、そのなかでステア伯とウィリアムが黒幕であると指弾した。かくして議論は泥沼化したが、論争を続けても双方が傷つくだけであった。ヨーロッパ列強との戦争が続くうちに、次第に虐殺事件は忘れられていった。 ===村と氏族の「その後」=== キャンベル氏族は、もともとスコットランド氏族内で「イングランド寄り」と評判がよくなかったが、虐殺に加担したことを機に氏族社会でさらなる孤立を深めていった。20世紀後半にいたるまで、グレンコーやマクドナルド氏族系のパブなどの多くで「No Hawkers or Campbells(行商とキャンベルお断り)」の札が掲げられ、キャンベルの子孫はひっそりとウイスキーを飲まなければならなかった。 虐殺を生き永らえた者たちはその後、王の許しを得てグレンコーに戻って村を復活させた。現在、グレンコー村では事件の歌が残っている。 ===歌詞=== (chorus)O cruel is the snow That sweeps Glencoe And covers the grave o’ Donald And cruel was the foe That raped Glencoe And murderd the house of Macdonald They came in a blizzard We offered them heat A roof o’er their heads Dry shoes for their feet We wined them and dined them They ate of our meat And they slept in the house of Macdonald (chorus) They came from Fort William Wi’ murder in mind The Campbells had orders King william had signed Put all to the sword These words were underlined And leave none alive called Macdonald They came in the night When the men were asleep This band o’ Argyles Through snow soft and deep Like murdering foxes among helpless sheep They slaughtered the house of Macdonald Some died in their beds At the hand of the foe Some fled in the night And were lost in the snow Some lived to accuse him That struck the first blow But gone was the house of Macdonald † おお、極寒の雪は グレンコーの谷を浚い ドナルドの墓を覆う そして非情なる敵は グレンコーの地を破壊し マクドナルドを滅ぼした 彼らはブリザードを越えてやって来た 彼らに暖かい火を与え 風雪をしのぐ宿を与え 乾いた靴を与え ワインと夕食を与えた 彼らは我々のもてなしを受け マクドナルドの家で眠った †(繰り返し) 彼らはフォート・ウィリアムからやって来た 殺意をその胸に秘めて 命じたのはキャンベル 署名したのはウィリアム すべてを切り捨てよと マクドナルドを生かしておくなと 彼らは夜、やって来た 皆が眠りについたとき アーガイルの軍隊が雪の中から現れた 無防備な眠りに襲いかかる狐のように ほしいままに殺戮を ある者は敵の手にかかり ベッドに骸を横たえ ある者は夜闇にまぎれ 雪の中に斃れた ある者は生き残った ウィリアムに一太刀報いるために けれどもマクドナルドはもう戻らない =マケドニア共和国= 北マケドニア共和国(きたマケドニアきょうわこく、マケドニア語: Република Северна Македони*8885*а)、通称マケドニアは、東ヨーロッパのバルカン半島に位置する共和国。前身はユーゴスラビア連邦の構成国の1つで、南はギリシャ、東はブルガリア、西はアルバニア、北はセルビアおよびコソボと、四方を外国に囲まれた内陸国である。 ==北マケドニア共和国とマケドニア地域== 北マケドニア共和国は、地理的にはマケドニアと呼ばれてきた地域の北西部にあり、現在ではマケドニア地域全体の約4割を占めている。残りの約5割はギリシャに、約1割はブルガリアに属している。また歴史上、北マケドニア共和国の多数民族はマケドニア人と自称・他称されるが、彼らはスラヴ語の話し手で南スラヴ人の一派であり、ギリシャ系の言語を話していたと考えられる古代マケドニア王国の人々と直接の連続性はない。これらの理由から、1991年の独立当初の国名(マケドニア共和国)をめぐり、ギリシャとの間で後述するような国名論争(マケドニア呼称問題)が生じた。 ==国名== 憲法上の正式名称は、Република Северна Македони*8886*а (マケドニア語。ラテン文字転写は、Republika Severna Makedonija。通称は、Северна Македони*8887*а(Severna Makedonija)。 公式の英語表記名は、Republic of North Macedonia。略称、North Macedonia。また、アルバニア語での表記はRepublika e Maqedonis*8888* s*8889* Veriutである。 日本語での表記は、北マケドニアもしくは北マケドニア共和国。2019年2月まではマケドニア、もしくはマケドニア共和国であったが、前者では地域としてのマケドニアと区別がつかない。また日本は国連と同様にマケドニア旧ユーゴスラビア共和国で国家承認を行っており、行政公文書等における日本語の表記は「マケドニア旧ユーゴスラビア共和国」となっていた。しかし、日本国外務省では単に「マケドニア」あるいは「マケドニア共和国」と簡略化して表記する部分も部分的に見られた。この他に日本語でのリリースを発表する機関として欧州連合(在日欧州委員会代表部)があるが、欧州連合の加盟国であるギリシャがマケドニア共和国の正式呼称を認めていないため、通常「マケドニア旧ユーゴスラビア共和国」で言及された。 ===マケドニア呼称問題=== アレクサンダー大王で有名な古代マケドニア王国の領地が自国にあるギリシャは、「本来のマケドニアはギリシャである」と主張している。実際、マケドニアとは北マケドニア共和国のほかにギリシャ(ギリシャ領マケドニア)やブルガリア(ピリン・マケドニア)、アルバニア(マラ・プレスパおよびゴロ・ブルド)のそれぞれ一部にもまたがる地域の名称である。特にギリシャ領はマケドニア地方の5割ほどを占めており、北マケドニア共和国の領土は全体の4割に満たない事に加え、アイガイ(現ヴェルギナ)やペラ、テッサロニキ等の古代マケドニア王国当時の主要都市の多くも現ギリシャ領である。このように、歴史的な古代マケドニアとの継承性、および地理的にマケドニア地方全体の4割に満たない北マケドニア共和国が「マケドニア(共和国)」と名乗ることへの警戒感から、この国をマケドニアの名称で呼ぶことを嫌い、ヴァルダル、スコピエなどと地名を使って呼んだ。同時に、1990年代よりマケドニア共和国の国号を改めるよう要求した。これに対してマケドニア共和国の側は、共和国にはギリシャ領マケドニアへの領土的野心がないことを説明し、国名を自国で決める権利は認められるべきであると主張した。 北マケドニアがマケドニアという国名で独立した1991年以降、ギリシャはマケドニアに経済制裁を課し、マケドニアという国号、古代マケドニアと類似したヴェルギナの星を用いた国旗、「周辺国に住むマケドニア人の権利を擁護する」という内政干渉的な憲法条項の3つを改めるよう圧力を加えた。このため、マケドニアは国際的な暫定呼称を変え、国旗をヴェルギナの星とは無関係のものに改め、ギリシャ領マケドニアへの領土的野心を明確に否定する憲法改正を行い、1995年に経済制裁を解除された。この当時のマケドニアは、ユーゴスラビア崩壊によってかつてのユーゴスラビアという市場を失い、またユーゴスラビア紛争に伴って北に隣接するセルビアの経済も混迷し、また国際的な経済制裁下に置かれていた。また、冷戦終結によって東西に隣接するアルバニアおよびブルガリアの経済は混乱状態にある中、海を持たないマケドニアにとって、南に隣接するギリシャの経済制裁の威力は絶大であった。 マケドニアは1993年に「マケドニア旧ユーゴスラビア共和国」(英語表記:The Former Yugoslav Republic of Macedonia、略称「FYROM」) を国際社会における暫定的呼称として国際連合へ加盟した。これ以後、多くの国々や国際的組織は、この暫定名称でマケドニアとの関係をもった。しかし、2008年11月の時点で、アメリカ合衆国やロシア連邦等約125カ国の国々は、暫定名称の「マケドニア旧ユーゴスラビア共和国」ではなく、憲法上の国名である「マケドニア共和国」の名でこの国と外交関係をもっている。 2008年、マケドニアとアルバニア、クロアチアの北大西洋条約機構(NATO)加盟についてルーマニアの首都ブカレストにてNATO加盟国の間で議論が持たれた。この時、クロアチアおよびアルバニアの加盟が承認された一方、マケドニアの加盟はギリシャの拒否によって否認された。このことはマケドニア国内で激しい怒りを生み、「ブカレスト」は「ひどい仕打ち」の同義語とみなされるようになった。マケドニア側は国名に関して一定の譲歩をする代わりに、国民や国を表す形容詞として単に「マケドニアの」または「マケドニア人」と呼ばれることを望んだが、ギリシャ側はこれらを否定し、全て統一的に変更されなければならないとして譲歩を示さなかった。マケドニア側は、国名の問題に関して国際司法裁判所に提訴した。 しかし2017年に発足したゾラン・ザエフ政権はNATOやEU加盟を目指すため従来の強硬姿勢を改め、これをギリシャ側も好感。呼称問題を解決する機運が高まり、2018年1月には両国の外相会談で作業部会の設置が決定され、国連による仲介も再開される見通しとなった。2018年2月、ゾラン・ザエフ首相は新しい国名の案として「北マケドニア共和国(Republic of North Macedonia)」、「上マケドニア共和国(Republic of Upper Macedonia)」、「ヴァルダル・マケドニア共和国(Republic of Vardar Macedonia)」、および「マケドニア・スコピエ共和国(Republic of Macedonia (Skopje))」の4つが挙がっていることを明らかにした。 2018年6月12日にマケドニアは国名を北マケドニア共和国とすることでギリシャとの政府間合意が成立、17日には両国の外相が暫定的な合意文書に署名した。正式決定には両国議会で了承されることが必要となったが、両国国内には改名に反対する世論も存在した。マケドニアでは議会の最大野党が合意を非難し、またイヴァノフ大統領は承認を拒否する方針を表明した。ギリシャでも議会の最大野党が合意に対する不支持を表明、またアテネの国会前、および署名式典が開かれた両国の国境に近いサラデス(英語版)の周辺において、抗議デモに対し警察が催涙弾などで鎮圧にあたる事態となった。 マケドニアでの国民投票は同年9月30日に実施されたが、野党側がボイコットを呼び掛けたこともあり、投票率は約37%にとどまり成立条件の50%を下回ったため無効となった。今回の投票結果が法的拘束力を持たないことから、ザエフ首相は引き続き改名の手続きを進め、野党が同意しなければ総選挙を早期に実施する意向を表明した。議会の承認プロセスでは両国内で野党勢力の切り崩しなどが行われ、まず2019年1月11日にマケドニア議会が国名変更のために必要な憲法改正案を承認し、同年1月25日にはギリシャ議会で改名合意が承認され、呼称問題はマケドニアの国名変更で決着した。2月12日に改名が発効し、翌13日には国名変更を国際連合に通知した。 ==歴史== ===古代=== マケドニア地域には、古くから人が居住しており、イリュリア人やトラキア人などの部族が割拠していた。紀元前4世紀から紀元前3世紀にかけて、現在の北マケドニア共和国に相当するマケドニア地域北部はマケドニア王国の支配下となっていった。マケドニア王国はアレクサンドロス3世(いわゆる「アレキサンダー大王」)の時代に、アジアやエジプトに及ぶ最大版図となるが、その死後、国は分裂。紀元前2世紀には西から勢力を拡大したローマ帝国の支配下となっていった。紀元前146年、この地域は正式にローマ帝国のマケドニア属州の一部とされた。ローマ帝国が東西に分かれると、マケドニアは東ローマ帝国の一部となった。 ===中世=== マケドニア地域には北から西ゴート族、フン族、アヴァールそしてスラヴ人などが侵入を繰り返した。7世紀初頭には、この地域の多くはスラヴ人の居住地域となっていた。スラヴ人たちは、それぞれ異なる時期に段階的にこの地域に入ってきた。スラヴ人の居住地域は、現ギリシャ領のテッサロニキなどを含む、マケドニア地域のほぼ全域に拡大していった。680年頃、クベル(英語版)に率いられたブルガール人の一派がマケドニアに流入した。 9世紀後半、テッサロニキ出身のキュリロスとメトディオスの兄弟によってキリスト教の聖書がスラヴ語に翻訳された。9世紀に北方から侵入し東ローマ帝国と衝突しながら勢力を拡大していった第一次ブルガリア帝国は、9世紀末のシメオン1世の時に最盛期を迎え、マケドニア地方もその版図に収められた。キュリロスとメトディオスの弟子たちにはスラヴ語の聖書を用い、ブルガリア帝国の支援の下、スラヴ人たちにキリスト教を布教していった。シメオンの死後、ブルガリア帝国は次第に衰退し、マケドニア地方は再び東ローマ帝国の支配下となった。 978年、マケドニア出身のサムイルはこの地で東ローマに対する反乱を起こした。サムイルはこの地方のオフリドを首都としてブルガリア帝国を再建し、彼の下で再度ブルガリア帝国は急速な拡大を迎えた。しかし、1014年にサムイルが死去するとブルガリア帝国はその力を失い、1018年には完全に滅亡し、再び東ローマの支配下に帰した。 その後、この地方は北で起こったセルビア人の地方国家の乱立やその他の地方領主の群雄割拠の状態を経て、12世紀末頃には新興勢力の第二次ブルガリア帝国とセルビア王国、そしてラテン帝国やニカイア帝国といった十字軍国家の間で勢力争いが繰り広げられる。 十字軍を退けて復活した東ローマ帝国やブルガリア帝国は、東から伸張してきたオスマン帝国によって国力を落とた。その間隙を衝いてセルビア王国はステファン・ウロシュ3世デチャンスキの下、大幅な領土拡大に成功し、マケドニア地方全域を支配下に収めた。その息子ステファン・ウロシュ4世ドゥシャンの下でセルビアは絶頂を迎え、ウロシュ4世はスコピエを首都として同地にて1345年、「セルビア人とローマ人の皇帝」として戴冠を受け皇帝に即位する。しかし、ウロシュ4世の死後はセルビアは地方領主の割拠する状態となり、1371年のマリツァ川の戦いなどを経てマケドニアはオスマン帝国の支配下となった。 ===オスマン帝国統治時代=== オスマン帝国は支配下の人々の分類を言語や民族ではなく宗教の所属においていた。これらの人々の帰属意識もキリスト教の正教会信仰に置かれ、マケドニア人という民族意識も民族名称も存在しなかった。教会の管轄はコンスタンディヌーポリ総主教庁(コンスタンティノープル総主教庁)であった。長いオスマン帝国の支配下で多様な民族の混在化が進み、マケドニア地域にはスラヴ人、アルーマニア人、トルコ人、アルバニア人、ギリシャ人、ロマ、ユダヤ人などが居住していた。この地域のスラヴ人の話す言語はブルガリア語に近く、マケドニア地方のスラヴ人はブルガリア人とみなされていた。 19世紀、セルビア王国やギリシャ王国がオスマン帝国から独立を果たすと、この地域の非トルコ人、特に正教徒の間ではオスマン帝国からの分離の動きが加速した。1878年にブルガリア公国が成立すると、一度はマケドニア全域がブルガリア公国の領土とされたものの、ブルガリアの独立を支援したロシア帝国の影響力拡大を恐れた列強諸国によってブルガリアの領土は3分割され、マケドニア地方はオスマン帝国領に復した。マケドニアで最大の人口を持っていたスラヴ人の間では、マケドニアの分離とブルガリアへの併合を求める動きが強まり、内部マケドニア・アドリアノープル革命組織などの反オスマン帝国組織が形成された。この頃、マケドニア地域のスラヴ人の多くはブルガリア人を自認していたが、ブルガリア人とは異なる独自のマケドニア人としての民族自認も芽生え始めていた。 内部マケドニア革命組織はゴツェ・デルチェフらの指導の下で武装蜂起を進め、1903年8月にイリンデン蜂起(英語版)を起こした(この年のグレゴリオ暦の8月2日は、ユリウス暦では7月20日の聖エリヤの日であり、イリンデンとは聖エリヤの日を意味する)。イリンデン蜂起は失敗に終わったものの、この地域のスラヴ人による反オスマン帝国の闘争は続き、また、比較的オスマン帝国への親和性の高かったアルバニア人の間でもプリズレン連盟を中心にオスマン帝国からの自立を求める動きが高まった。また、マケドニアを自国領へと組み込むことを狙っていたギリシャ、セルビア、ブルガリアからも複数の組織がマケドニア地方に浸透していった。1912年の第一次バルカン戦争の時、内部マケドニア革命組織はブルガリア軍の側についてオスマン帝国と戦った。第一次バルカン戦争によって、オスマン帝国はマケドニア地域を手放すこととなったが、マケドニア地方全域を自国領とすることを求めたブルガリアと、マケドニアの分割支配を求めたセルビア、ギリシャの間で対立が起こり、翌1913年の第二次バルカン戦争へと発展した。 ===セルビアおよびユーゴスラビア統治時代=== 第二次バルカン戦争ではマケドニア地域の南部5割はギリシャ、西北部4割はセルビア(後にユーゴスラビア王国)が奪取し、ブルガリアは1割を確保するに留まった。この時のセルビア領マケドニアが、のちの北マケドニア共和国の領土となった。ギリシャ領、セルビア領のマケドニアでは、ブルガリアの支援を受けた抵抗運動が活発に起こったが、第一次世界大戦で中央同盟側についたブルガリアが敗北すると、ヌイイ条約によりギリシャ領マケドニアのスラヴ人は住民交換の対象となった。この時、すべてのスラヴ人の母国はブルガリアとされ、自身をギリシャ人と宣誓した者以外は全てブルガリアへと追放された。他方、ユーゴスラビアとなったセルビア領マケドニアではその後も内部マケドニア革命組織による抵抗運動が続き、1934年にはユーゴスラビア王アレクサンダル1世を暗殺した。 第二次世界大戦時、枢軸国はユーゴスラビアに侵攻した。枢軸側についたブルガリアはユーゴスラビア領マケドニアの大部分を支配下に収め、マケドニア併合の夢を実現する。マケドニアのブルガリアへの統合を歓迎する内部マケドニア革命組織の右派はブルガリアによる占領統治に協力するが、ブルガリアから独立した統一マケドニアの実現を志向した左派の勢力は、ヨシップ・ブロズ・ティトー率いる共産主義者のパルチザンとして枢軸国に抵抗した。1944年には枢軸国に対する抵抗勢力はマケドニア人民解放反ファシスト会議の下に統一された。 第二次世界大戦でブルガリアが敗退し、ユーゴスラビアがマケドニア北西部の支配を回復すると、ユーゴスラビアはティトーの指導の下、共産主義体制をとる連邦国家となった。マケドニア人民解放反ファシスト会議の決定に従って、ユーゴスラビア領マケドニアはマケドニア人民共和国(1963年よりマケドニア社会主義共和国)となった。ユーゴスラビア連邦の下では、ブルガリア人とは異なるマケドニア人意識が涵養され、またスコピエ方言を基礎としたマケドニア語の正書法も確立された。 1963年にはスコピエでスコピエ地震 (1963年)(マケドニア語版)大震災が発生し、死者1,100人を出した。 ===独立以降=== 1990年、冷戦終結の影響を受け、ユーゴスラビアでは戦後初めての複数政党制による民主選挙が行われた。マケドニアでも国名から「社会主義」の語を外し、マケドニア共和国と改称された。マケドニア同様にユーゴスラビアの構成国であったスロベニア、クロアチアでは独立を志向する勢力が圧倒的勝利を収め、ユーゴスラビアからの独立を宣言した。これを受けてマケドニアでも独立の準備が進められ、1991年9月8日、マケドニア大統領キロ・グリゴロフの下、マケドニアは独立を宣言した。独立国となったマケドニアは、古代マケドニア王朝のシンボルであるヴェルギナの星(ヴェルギナの太陽ともいう)を描いた国旗を制定した。ユーゴスラビア連邦軍が保有する兵器をマケドニア側に分け与えず、全てセルビア側が持ち去ることを条件に、1992年3月にはユーゴスラビア連邦軍の撤退が実現された。 1993年1月に国連に加盟申請するが、ギリシャとの間で「国名論争」が勃発し、4月に暫定国名「マケドニア旧ユーゴスラビア共和国」で国連加盟が承認された。しかしギリシャは納得せず、1994年2月に経済封鎖された。この時、国旗を変更し、憲法の一部を改正した。1995年にはギリシャの経済封鎖が解除された。 1998年、総選挙の結果、共産主義時代の政権党であったマケドニア共産主義者同盟の流れを汲むマケドニア社会民主同盟に代わり、中道右派政党に転向した内部マケドニア革命組織・マケドニア国家統一民主党を中心とする連立政権が成立し、1999年の大統領選挙では同党のボリス・トライコフスキが首相となった。 前述のように、マケドニアからは大きな衝突なしにセルビア人勢力(ユーゴスラビア軍)が撤退し、ユーゴスラビア紛争の前半で激戦地となったクロアチアやボスニア・ヘルツェゴビナに比べて平穏に独立を達成した。しかし、1990年代後半、隣接するセルビア領のコソボ自治州で発生したコソボ紛争によって、セルビア側の勢力の迫害を恐れたアルバニア人の難民が大量にマケドニア共和国に流れ込んだ。セルビアがコソボ自治州から撤退した後、彼らの多くはコソボへと帰還していった。 2001年、マケドニア国内で人口の2割強を占めるアルバニア人に対する待遇に不満を持つ者らによって、武装勢力民族解放軍が結成された。民族解放軍はコソボ解放軍と深いつながりが指摘される武装勢力で、コソボ紛争が終わって自由になったコソボ解放軍の武器や人員が多く含まれている。2月の民族解放軍の蜂起によって起こったマケドニア紛争は、8月にアルバニア人との権力分有や、アルバニア語での高等教育などを含む、アルバニア人の民族的権利の拡大を認める和平合意文書(オフリド合意)が調印されて終結した。和平監視のためにNATO軍が駐留を開始した。同年11月には、オフリド合意に基づいて議会で憲法の改正が可決された。 2002年9月の総選挙では、マケドニア社会民主同盟が政権を奪還し、民族解放軍が改組したアルバニア人政党「民主統合連合」と連立政権を組んだ。その後もアルバニア系武装勢力によるテロ事件や、警察との衝突は散発的に起こったが、治安は回復し、平穏な推移をみせている。2006年、2008年の総選挙では内部マケドニア革命組織が勝利を収めたが、常にアルバニア人政党との連立政権を組んでおり、アルバニア人政党とマケドニア人政党による権力の分有は定着しつつある。アルバニア語教育をはじめとするアルバニア人の民族的権利は守られており、国内のマケドニア人とアルバニア人の関係は比較的良好である。 2008年2月には、隣接するコソボが独立を宣言した。マケドニアのアルバニア人を中心にコソボの独立を承認する動きが強まった結果、同年10月にマケドニア共和国はコソボの独立を承認し、2009年に正式な外交関係が樹立された。 2019年1月には国名を北マケドニア共和国とすることが決定。2月12日に改名が発効した。 ==政治== 北マケドニアは共和制、議院内閣制を採用する立憲国家である。現行憲法は1991年11月17日に制定され、同月20日に施行されたものである(その後、数度の改正を経ている)。 国家元首である大統領は国民の直接選挙で選出され、任期は5年、3選は禁止されている。大統領は元首として北マケドニアを代表し、形式的に国軍最高司令官および治安評議会議長を務める。しかし、その権限は、儀礼的なものに限られている。実際の政治は行政府たる内閣が率いる。総選挙後初の議会で首相が選出され、その後、議会により閣僚の選出が行なわれる。 立法府は一院制議会で、定数は123議席である。議員は比例代表制により選出され、任期は4年である。 北マケドニアでは複数政党制が機能している。主な政党には中道右派の内部マケドニア革命組織・マケドニア国家統一民主党(VMRO‐DPMNE)と中道左派のマケドニア社会民主同盟(SDSM)の2党がある。北マケドニアのアルバニア人を代表する政党は、アルバニア人民主党と、民族解放軍から改組した民主統合連合の2党がある(詳細はマケドニアの政党一覧を参照)。 2004年の大統領選挙では、社会民主同盟のブランコ・ツルヴェンコフスキがVMRO‐DPMNEの候補を抑え、当選した。2009年4月5日の大統領選挙の決選投票では、与党・VMRO‐DPMNEのジョルゲ・イヴァノフが65%前後の得票率で野党・マケドニア社会民主同盟のリュボミル・フルチュコスキを破り当選した。2014年の大統領選挙では、イヴァノフが再選を果たした。 ==国際関係== ===対セルビア関係=== マケドニアは、1990年代前半のユーゴスラビア崩壊に伴うユーゴスラビア連邦からの独立に際して、戦禍に巻き込まれることなく平和的な独立を果たした唯一の国家である。そのため、連邦解体に反対の立場にあったセルビアや、その他の旧ユーゴスラビア諸国に対する国民感情は、他の旧ユーゴスラビア諸国の国民に比べると穏やかである。 2008年10月にセルビアが自国領と考えるコソボを、マケドニアは国家として承認した。セルビア共和国はこれを受け入れられないとし、マケドニアに駐在する大使を召還するとともに、セルビアに駐在するマケドニアの大使をペルソナ・ノン・グラータとして国外追放した。マケドニアからは新しい大使がセルビアに入る予定である。 ===対アルバニア、コソボ関係=== 北マケドニアには、人口の2割から3割程度のアルバニア人が居住しており、アルバニアおよびコソボを巻き込んでの大アルバニア主義の伸張は国土の統一を脅かす問題として警戒されている。アルバニアの1997年の暴動で混乱状態に陥ったアルバニアでは、コソボ独立を求めるアルバニア人武装勢力・コソボ解放軍が拠点を設け、人員を集め、また軍施設から略奪された武器を集めていたと考えられている。コソボ紛争が終わると、その武器と人員の一部がマケドニアのアルバニア人武装勢力・民族解放軍にもたらされたと考えられている。このようなことから、アルバニアおよびコソボの安定は北マケドニアにとって死活的な問題となっている。 マケドニアは、2008年2月にコソボが独立すると、10月に同国を国家承認した。2009年には両国間に外交関係が樹立された。 ===対ブルガリア関係=== マケドニアの独立を最初に承認したのは東の隣国ブルガリアであった。歴史的にブルガリアは、マケドニア人はブルガリア人、マケドニア語はブルガリア語の一部であるとみなし、マケドニアを含むマケドニア地域全体への領土的な執着を持ち続けてきた。ブルガリアはマケドニアの独立を認める立場をとりつつ、その民族や言語の独自性には否定的な見解を繰り返し表明している。そのため、マケドニアでは、ブルガリアはマケドニアの存在そのものを脅かしかねないものとして警戒されている。しかし一方で、周辺地域の緊張関係に悩まされるマケドニアにとってブルガリアは最大の擁護者でもあり、両国の関係は複雑である。ブルガリアはマケドニアのNATOおよび欧州連合(EU)加盟を強く支持していた。 ===対ギリシャ関係=== 南のギリシャとは先述したマケドニア呼称問題を抱えていたほか、スラヴ系の「マケドニア人」という民族自認や、「マケドニア語」という言語呼称も問題となっている。ギリシャには、第一次世界大戦後のヌイイ条約の定める住民交換によってギリシャからブルガリアに追放されるのを逃れるために、自身をギリシャ人と宣誓してギリシャ領マケドニアに留まった少数のスラヴ人が住んでいる。このスラヴ人の中でも、1991年のマケドニア共和国独立以降、自身を「マケドニア人」と考える人々が現れている。ギリシャでは公式にはスラヴ系「マケドニア人」という少数民族の存在は認められておらず、彼らの民族的・文化的権利の追求が両国間の問題となっている。 また、マケドニア国内ではギリシャ領やブルガリア領も含めた統一マケドニアに関する議論が多く見られ、右派政党内部マケドニア革命組織・マケドニア国家統一民主党もかつてはこれを党是に含めていた。ギリシャは、マケドニアが独立後しばらくその国名を諦めないことと併せて、マケドニアが潜在的にギリシャ領マケドニアに対する領土的野心を持つことを警戒した。 ギリシャは国名や言語・民族呼称などに関する問題を抱えている一方で、これらの問題が解決されれば地域の安定と繁栄のために、マケドニア共和国のNATOおよび欧州連合加盟が望ましいとしている。ギリシャはドイツとならんでマケドニアの最大の貿易相手国であり、両国の経済は深い結びつきを持っている。マケドニアとギリシャを結ぶ幹線道路の建設も進められ、マケドニアはギリシャから多数の投資を呼び込んでいる。北マケドニア共和国はギリシャと比べると物価も賃金も安く、ギリシャ向けの生産拠点、あるいはギリシャからショッピング・観光の場ともなっている。 ===地域統合=== マケドニアは、NATOおよび欧州連合(EU)加盟を目指してきた。北マケドニア共和国への国号変更で、NATOとEUの加盟国であるギリシャによる反対が解消したため、NATO加盟国とマケドニアは2019年2月6日、マケドニアを30番目のNATO加盟国とする議定書に署名した。 2005年、マケドニアは「マケドニア旧ユーゴスラビア共和国」の名で、正式に欧州連合加盟候補国となった。ニコラ・グルエフスキ首相は2014年頃の加盟を目指すとしていたが、2008年後半の欧州連合議長国となったフランスのニコラ・サルコジ大統領は、マケドニアの欧州連合への参加には国名問題の解決が前提となると繰り返し表明し、マケドニアの国民や政府関係者を失望させた。 2008年、NATOはアルバニアおよびクロアチアの加盟を認める一方、マケドニアの加盟はギリシャの拒否権行使によって否定された。マケドニアはクロアチア、アルバニアと同時のNATO加盟が勧告されており、マケドニアに対する加盟拒否は国内で激しい怒りを生んだ。アメリカは「マケドニア共和国」の呼称を認めており、この時のアメリカのジョージ・W・ブッシュ大統領はアフガニスタンやイラクにも軍を派兵している同盟国マケドニアのNATO加盟を強く支持している。 一方、ロシアはバルカン半島でのNATO加盟国増加を妨害するため、マケドニア国内に対して、ギリシャとの和解および米国やNATO、EUに対する反感を高める政治・世論工作を展開していると報道されている(ロシアは否定)。 マケドニアは中欧自由貿易協定や南東欧協力プロセスに加盟しており、ユーゴスラビア崩壊後の新しいバルカン諸国の地域協力体制の枠組みに加わっている。 ==地理== 北マケドニアは国土の大部分が山地の内陸国である。北にコソボおよびセルビア、東にブルガリア、南にギリシャ、西にアルバニアと国境を接し、いずれも高い山脈が連なる高山地帯である。最高地点はアルバニア国境のコラブ山 (標高2764m) 。国土の中央には北西から南東にヴァルダル川が流れ、ギリシャ領へと続いている。ヴァルダル川の周りには急峻な渓谷が刻まれ、この渓谷には北からの冷たい風が流れ込み、ギリシャ領へと吹き付ける。この強い北風はヴァルダリスと呼ばれている。南西部のアルバニアおよびギリシャとの国境地帯にはオフリド湖とプレスパ湖という2つの湖がある。 北マケドニアは、地中海性気候と高山性気候の中間にある。ヴァルダル川の渓谷部は標高が低く、地中海性気候に近い。ここでは夏季には最高気温が40度に達することもある。一方で高山地帯は冷涼であり、冬季は深い雪に閉ざされる。 ==地方行政区分== 北マケドニアには、州や県に相当するような中間の地方自治体は設置されていない。北マケドニアはオプシュティナと呼ばれる基礎自治体に分割され、その数は2004年以降、84自治体となっている。首都のスコピエは単独の自治体ではなく、10の独立したオプシュティナによって構成されている。 ===主な都市=== ==経済== 北マケドニアは、ユーゴスラビア時代は低開発地域として、連邦から受け取る開発資金の恩恵を受けていた。ユーゴスラビアが解体されると、連邦からの援助が得られなくなったことに加えて、ユーゴスラビアという市場を失ったことや体制の転換をめぐる混乱によって、経済は大きく落ち込んだ。北に隣接するセルビアは紛争当事国となって国際的な制裁下に置かれた。西の隣国アルバニアは冷戦期に独自の鎖国政策を採ったことからヨーロッパの最貧国となっており、また独立時は社会主義・冷戦体制崩壊によって東のブルガリアも経済的な混乱の最中にあった。海を持たないマケドニアの南の隣国であるギリシャは、呼称問題を理由にマケドニアに対して経済制裁を行い、国内経済は壊滅的な影響を受けた。マケドニアの国内総生産(GDP)は1996年までマイナス成長となった。2003年頃からは周辺諸国の経済混乱も一段落し、また一連のユーゴスラビア紛争が終結、ギリシャとの関係改善の努力も進められた結果、マケドニア経済は毎年平均して4%程度の成長を続けた。しかし、政治的不安によって2017年の成長率は0%と落ち込んでいる。2003年には世界貿易機関(WTO)への加盟も果たした。また、マケドニアはオフリド湖などの観光資源に恵まれており、観光開発にも力を入れている。 2007年の推計では、雇用者の19.6%は農業を中心とした第一次産業、30.4%は第二次産業、50%は第三次産業に従事している。対GDP比では、第一次産業は11.9%、第二次産業は28.2%、第三次産業は59.9%となっており、第三次産業が大きな比率を占めている。2007年の失業率は34.9%となっているが、これに含まれていない闇経済はGDPの20%ほどを占めていると考えられる。主要な輸出品目は食品、飲料(ワインなど)、繊維、鉄鋼、鉄などである。輸入品目は機械、自動車、化学製品、燃料、食品などである。主要な貿易相手国はドイツ、ブルガリア、セルビアである。 2016年アメリカ合衆国大統領選挙以降、マケドニアはインターネットにおけるフェイクニュースの一大作成・発信源として知られるようになった。きっかけはヴェレスで30歳代の兄弟が銀行に高級車で乗り付けて数千ドルを引き出し、「健康食品のサイトで稼いだ」という噂が広まって、追随する者が増えたためであるという。フェイクニュースの作成・流布が行われている背景には、ユーゴスラビア解体以来、経済低迷に苦しむマケドニア国民が「どうすれば稼げるかを考え続け」るようになり、モラルが崩壊したためと指摘されている。 ==国民== ===民族=== 住民はマケドニア人が64.2%、アルバニア人が25.2%、トルコ人が3.8%、ロマ人が2.7%、セルビア人が1.8%、その他が2.3%である(2002年時点)。 マケドニア人は5世紀から7世紀頃にこの地に移り住んだスラヴ人の子孫であり、スラヴ系のマケドニア語を話す。マケドニア語はブルガリア語と極めて類似しており、ブルガリア人からはマケドニア人・マケドニア語はブルガリア人・ブルガリア語の一部であるとみなされている。マケドニア人の多くは自らをブルガリア人とは異なる独自の言語を持った独自の民族であると考えている。 アルバニア人は主にアルバニア語を話し、多くはイスラム教徒である。アルバニア語はインド・ヨーロッパ語族に属するものの、アルバニア語のみで一つの語派を形成しており、周囲の言語との類似性は低い。アルバニア語は古代のイリュリア語と関連があると考えられており、アルバニア人は自らを、古来よりこの地に住んでいたイリュリア人の末裔であると考えている。アルバニア人は一般に、マケドニア人と比べて出生率が高く、マケドニアにおけるアルバニア人の人口比率は増大を続けている。またアルバニア人はアルバニアおよびコソボで人口の多数を占めており、彼らが大アルバニア主義の担い手となることが警戒されている。現代の北マケドニア共和国のアルバニア人の有力な政治家らは、いずれも大アルバニア主義は明確に否定している。 トルコ人は14世紀にオスマン帝国がこの地に進出した後に移り住んできた人々の子孫である。彼らの多くはトルコ語を話すムスリムである。ただし、かつてのオスマン帝国では人々を宗教によって区別していたため、時代によっては、トルコ語を話さず、トルコ人の血を引いていない者もイスラム教徒であれば「トルコ人」とみなされることがある。近代以降でもこのようなイスラム教徒が自らの民族自認を「トルコ人」としていることもある。またスラヴ語を話すイスラム教徒の一部は、自らを「トルベシュ」「ポマク」「ゴーラ人」「ムスリム人」あるいは「ボシュニャク人」と規定している。また、「イスラムの信仰を持ち、民族的にはマケドニア人」と考える者もいる。 ロマは9世紀頃から、西アジア・南アジアよりバルカン半島に移り住んだ民族である。彼らは職人や大道芸人、演奏家などの職業を主体とする独特の移住型の生活を送っていた。ロマの多くは正教会かイスラムの信仰を持っているものの、独自の民間信仰も併せ持っていることが多い。スコピエのシュト・オリザリ地区はロマが人口の多数を占め、ロマ語が公用語に指定されている。 アルーマニア人は北マケドニア共和国やギリシャ領マケドニアに多く住む民族である。彼らの話すアルーマニア語はインド・ヨーロッパ語族のロマンス語派に属し、特にルーマニア語との類似性が高い。彼らには第二次世界大戦前までルーマニアの支援を受け、アルーマニア語の学校が運営されていた。彼らはルーマニア人と近縁の民族と考えられており、その起源はこの地方がローマ帝国の支配下にあった時にラテン化した人々であると考えられている。 ===言語=== 住民が母語としている言語はマケドニア語(公用語)が68%、アルバニア語が25%、トルコ語が3%、セルビア・クロアチア語が2%、その他が2%である。マケドニア語は憲法により公用語とされている一方で、地方自治体(オプシュティナ)において話者人口が2割を超える言語は、マケドニア語とともにその自治体の公用語とされる。この規定により、自治体によってはアルバニア語、トルコ語、ロマ語、アルーマニア語、セルビア語がマケドニア語とともに公用語に指定されている。マケドニア語のほか、少数言語話者が母語で教育を受ける機会が保障されており、アルバニア語やトルコ語による教育も行われている。 ===宗教=== 宗教は正教会が70%、イスラム教が29%、その他が1%である。 マケドニアの領域がバルカン戦争以降セルビアの領土に組み込まれると、国や地域ごとに教会組織を置く原則となっている正教会の慣習に従い、この地域はセルビア正教会の管轄となった。第二次世界大戦以降、共産主義者によるユーゴスラビア連邦政府によって、マケドニアの脱セルビア化が進められ、共産主義者の政府の指導の下、1958年にマケドニア地域の正教会組織はマケドニア正教会として分離され、セルビア正教会の下位に属する自治教会となった。1967年、マケドニア正教会はセルビア正教会からの完全な独立を宣言した。マケドニアがユーゴスラビアから分離すると、両教会の対立が表面化し、セルビア正教会はマケドニア正教会の独立を認めず、自治教会の地位に復するよう求めている。マケドニア正教会はこれに反発してセルビア正教会との交流を絶ち、セルビア正教会を非難している。マケドニア側でセルビア正教会の自治教会に復することに同意した主教らはマケドニア正教会を去り、独自にセルビア正教会の自治教会として正統オフリド大主教区を組織し、マケドニア正教会と対立している。 ===婚姻=== 婚姻時、伝統的には女性は婚姻時に夫の姓の女性形に改姓するが、夫の姓に改姓することも、改姓しないことも(夫婦別姓)、複合姓を用いることもできる。 ==文化== ===食文化=== ===祝祭日=== =兵庫 (佐賀市)= 兵庫(ひょうご)または兵庫町(ひょうごまち)は、佐賀県佐賀市の町名で、佐賀市中心部の真東から北東にかけて位置する。1889年(明治22年)から1954年(昭和29年)まで佐賀郡兵庫村。1954年からは佐賀市兵庫町。住所は、兵庫町の大字である若宮(わかみや)、瓦町(かわらまち)、渕(ふち)、西渕(にしぶち)、藤木(ふじのき)と、住居表示が行われている兵庫南(ひょうごみなみ)1丁目から4丁目、兵庫北(ひょうごきた)1丁目から7丁目。 ==地理== 佐賀市域の東部に位置する東西約5km・南北約5km、面積10.328kmの町で、東は神埼市の神埼町姉川・千代田町境原に接する。南は佐賀市巨勢町、西は同神野町、北西は同高木瀬町、北は同金立町・久保泉町。 佐賀平野の中央部にあり、起伏がなく平坦な地形。北部の最高点で標高約5m、南に緩やかに傾斜しているものの、町内の標高差は1m未満。 町の中央を筑後川水系の巨勢川(こせがわ)が南へ流れる。また、かつては水田の間を走る複雑な形状の堀(クリーク)が多いことが特徴だったが、ほとんどが圃場整備により整理・直線化され、公園として保存されたものなどが僅かに残っている。 町内各地区を概説する。瓦町と若宮は巨勢川の東に位置し、瓦町は北半分、若宮は南半分を占める。渕は巨勢川西岸に位置し南北に長い。西渕は渕の北西、藤木は渕の西に位置する。概ね国道34号(北部バイパス)より南側かつ県道333号(東部環状線)より西側の地域、および県営兵庫団地より南側の地域は、住居表示が行われている。県道294号より南側が兵庫南、北側が兵庫北となっている。 かつては全域に水田が広がる農村地帯だったが、幹線道路沿いや佐賀市街に隣接する地域で市街化が進んできた。さらに、兵庫北や兵庫南は1988年から2014年にかけて区画整理が行われた。地図を見ると、兵庫北や兵庫南は住宅街や事業所・商業施設が連なる一方、このほかの地域では幹線道路沿いを除くと田んぼが広がる。 ===地区と世帯数・人口=== 出典:1878, 1914, 1920‐2010, 2015 出典:人口‐平成27年国勢調査(2015年10月1日時点)、面積‐平成27年版佐賀市統計データまたは政府統計「地図で見る統計(統計GIS)」( * 付きの値・参考値)、人口密度は前記の値をもとに算出( * 付きは面積が参考値のため留意が必要) 出典:平成27年国勢調査(2015年10月1日時点) 新興住宅地の兵庫南・兵庫北は15歳未満や15歳 ‐ 64歳の割合が高く、65歳以上の割合が低い。兵庫南は40代・50代、兵庫北は30代・40代と10歳未満の割合が特に高く、開発時期の違いを示す。なお両地区は集合住宅(マンション・アパート・団地)に居住する世帯の割合も高く、兵庫南は65%、兵庫北は74%に達する(大字の地域は12%と対照的)。一方、旧来農村地帯だった大字の各地域は佐賀市の平均に近いが、市街から遠い瓦町(12.7%)、若宮(11.1%)は15歳未満の割合が低く、瓦町、若宮、渕は65歳以上の割合が高く3割を超えている。 ===主な字名=== 渕 ‐ 香田、下村、下渕、東中野、東渕西渕 ‐ 西渕上分、西渕下分藤木 ‐ 土井、西中野、藤木瓦町 ‐ 瓦町上分、瓦町下分、千住、堀立、牟田寄若宮 ‐ 伊賀屋、中野吉、野中、傍示、若宮 ==地名の由来== 「兵庫」の地名は、1889年(明治22年)の兵庫村設置時に生まれた。当時の佐賀郡長武富時敏の考案で、利水・治水事業により地域開拓の礎を作った成富兵庫茂安から取り、その恩恵を長く後世に伝える意味を込めたという。。茂安は、東の城原川から新設の横落水路を、西の川上川(嘉瀬川)から改修延長した市の江を、それぞれ経由し水を引き、兵庫を含めた巨勢川流域を灌漑し開発を促した(後述)。 ==水系== ===巨勢川=== 町の中央を南へ流れる。金立や川上の山地が水源地で、金立町千布で黒川を、西渕で市の江を合流し、巨勢町で佐賀江に注ぐ。その後、城原川、筑後川を経て有明海に注ぐ。明治中頃までは舟運で米や麦、石灰などを積んだ船が東渕付近まで往来していた。昭和中頃まで川床は砂質で水は澄んでおり、飲み水や炊事に使うため早朝に水汲みをする光景が見られたほか、ウナギ、ナマズ、ドンポ、エビ・カニ類、シジミなどが採れ食用としたり、水田の代掻きをした牛馬の体を川で洗ったりしていたという。河川改修後は川床に浮泥が堆積するようになり、環境変化によりシジミは姿を消した。 ===市の江=== 町の北西部を流れる。大和町久池井の川上頭首工で川上川(嘉瀬川)から分水、大和町南部、高木瀬町北部、金立町千布南部を経由し、兵庫町東渕で巨勢川に合流する。 ===横落水路=== 神埼町仁比山の三千石堰で城原川から分水、神埼町西郷、神埼町境野、久保泉町に至る延長6kmの水路で、兵庫町の北東部は受水域。 ===焼原川=== 町の東部を流れる。下流はクリークのように蛇行・混合し、巨勢町東西で佐賀江に注ぐ。 ===三間川=== 町の南西部、渕の下村地区南端を流れ、巨勢町牛島とを境する。 ===大溝川=== 町の南西部、渕の下村地区西端を流れ、大財とを境する。以上のような川のほか、用水路や堀(クリーク)が水田の間を縦横に走る。下村、東中野、若宮地区には堀が住宅を囲む形の環濠集落がある。 ===茂安の水利・治水システム=== 成富兵庫茂安はまず、原野の開墾を奨励するため、希望する農家に2 ‐ 3町づつ土地を割り当てて資金の世話を行った。これが元和年間(1615年頃)のことで、これに前後して水利と治水を兼ねた以下の工事を執り行った。 ===市の江の改修・延長=== 大和町久池井の惣座橋上流に石造の井樋(堰)2双を設け、取水地とした。井樋には「樋番」役を置き、常水時は開放、洪水時は閉鎖して管理。川の流路を巨勢川まで延長し、途中十数か所の樋管(水門)を設けた。 ===巨勢川の改修=== 金立町千布・兵庫町西渕で流路を360m程東に移し、水量を確保した。その東端で南に曲がる金立町白土居に砂堰と石造の「三樋管」を設け、水を3方面に分けた。石堰ではなく砂堰としたのは、洪水時でも詰まらず流下するため。 ===横落水路の建設=== 城原川に石堰(三千石堰)を設け、兵庫まで延長6kmに亘る水路を建設。なお、川久保(久保泉町)に領地を持つ神代氏の采配によるものとする資料もある。 ===段差堤防・千布沖田=== 市の江や巨勢川は、佐賀城側になる右岸の堤防を高く、郊外側になる左岸の堤防を低く築いた。右岸のみ洪水の流れを緩和する笹を密植している地域もある。洪水時は左岸を遊水地とし、城下町を守る設計となっている。また、市の江と巨勢川の合流点の内側に位置する金立町千布の沖田地区には、あえて堤防を築かなかった。洪水時は一時的な遊水地とし、佐賀江の引き潮を待ってから流下させるためである。そのため沖田地区は「3年に1度米が収穫できればよい方」とも言われ免税地となった。また、巨勢町高尾にも井樋(越流堤)を設け、洪水時に遊水地となった。 ===近代の紛争=== 1886年(明治19年)、市の江の水の配分を巡り、瓦町村、若宮村(以上現兵庫町)、修理田村、高尾村、東西村(以上現巨勢町)の5か村で紛争が発生した。裁判にまでもつれ込んだ騒動は「兵庫村の水喧嘩」とも呼ばれ、2年間を費やして決着した。 昭和30年代(1955 ‐ 1964年)頃には、排水河川である八田江の枝吉樋門(水門)を巡り紛争があった。増水時に枝吉樋門を開ければ上流の兵庫町や巨勢町北部は洪水が軽減される一方、巨勢町南部や北川副町では洪水を被ることになる。増水の折には北と南の住民がお互いに駆け付け、開閉を巡って口論となる騒ぎが毎年のように見られたという。 ===クリーク=== 昭和30年代(1955 ‐ 1964年)の佐賀県による調査では、水田面積に対するクリーク面積の比率は佐賀平野で平均6.2%、旧佐賀郡で平均8.5%に対して、兵庫町付近では10 ‐ 12%超に及び佐賀平野で最も高かった。また一定の水田面積当たりのクリーク貯水量も、周辺地域に比べて2倍程あった。町内でも、巨勢川の右岸(西側)に比べ左岸(東側)のほうが、大型のクリークが多かった。クリークは、干ばつ時の水源池の機能と洪水時の排水池の機能を兼ね、意図的に掘り下げたり幅を広げたりすることで、その容量を増やし、掘り起こした土で家屋の地盤を嵩上げして浸水しにくくする目的があったと考えられる。 クリークの水は炊事や風呂などの生活用水としても使われていたが、戦後上水道が整備されるとこれを代替し、クリークに生息する魚介類の食用も冷蔵庫の普及によって見られなくなるなど、生活の中に組み込まれていたクリークは次第に生活から遠ざかる。農業に化学肥料が普及し、手入れされなくなったクリークにはごみが増え、水質汚染が問題化した。更に農業の機械化も進むと、クリークが細かく複雑に区切る水田地割は大型機械の導入を阻むこととなり、むしろクリークは不要との意見も出るようになった。 ===現代の水路整備=== 1957年(昭和32年)、嘉瀬川上流に北山ダムが竣工し、その中流に分水堰である川上頭首工が建設されると、嘉瀬川流域と周辺に水利権が配分されて用水路が設けられ、茂安以来の利水・治水システムが少しずつ変更されていく。 市の江は、取水地が川上頭首工に変更され、コンクリート化・用水路化される。その他の主な用水路も、昭和40年代(1965 ‐ 1974年頃)までに概ねコンクリート化された。 昭和20年代前半(1945 ‐ 1949年頃)には、巨勢川流域の水害防止のため、巨勢川や八田江の川底掘削・堤防のかさ上げ工事が県により行われ、併せて三樋管に自動堰が設置され、一定の効果を挙げた。 その後、佐賀市東部で開発が進んだり地盤沈下が進行したりしたことで、浸水被害が頻発するようになった。佐賀市は県や国に川の改修や樋門・ポンプの設置を陳情し、1962年(昭和37年)には蓮池町蒲田津に満潮時の河川逆流を防ぐ樋門が設置された。しかし、1972年(昭和47年)に豪雨による大規模な浸水が起きるなど、度々被害が発生した。 1990年(平成2年)の豪雨で再び被害が発生したのを契機に、激甚災害指定による佐賀江の改修事業が行われ、巨勢川調整池の建設と2008年(平成20年)完成の佐賀導水事業により洪水時巨勢川から嘉瀬川へ毎秒30トンの放流が可能となった。また、巨勢川は兵庫町内全区間で川幅25mに拡幅され、洪水流下を妨げる橋桁をなくす改良が行われた。小河川や水路も改修・新設され、東部では焼原川と2本の幹線水路、西部では三間川の改修と樋門・ポンプ設置、下村雨水幹線と城東川の整備が区画整理と併せて行われた。 1989年(平成元年度)から2008年(平成19年度)にかけて行われた圃場整備では、併せて国の筑後川下流土地改良事業と水環境整備事業も行われ、農地の用水路や排水路は改良工事が施された。これにより、かつて複雑な形状を呈していたクリークは、大きな幹線水路として付け替えられるか、埋め立てられて無くなり、その名残はほとんど見えなくなっている。 しかし、一部は保存あるいは復元という形で残されている。渕にある「ひょうたん島公園」は、南北約700mに亘り従来のクリークの形を残して周辺を整備し2000年に開園した。また、若宮にある「横堤」は水路沿いに設けられた洪水防止機能を持つ緑地帯で、かつて佐賀平野各地にあったものの多くが失われ貴重となったことから、圃場整備による伐採計画を中止して保存されている。 ==歴史== ===古代=== 佐賀平野における弥生遺跡の分布から推定される約2,000年前の海岸線(貝塚線)は、兵庫町付近を通る。 北に隣接する佐賀市金立町千布には縄文早期の東名遺跡があり、大規模な貝塚と多数の編みかご・木製品・骨角製品などが発見されている。 兵庫町内の最も古い遺跡は弥生時代中期の瓦町遺跡(瓦町)や渕遺跡(渕)で、カキを主とする貝塚や、青銅器生産が始まっていた可能性を示す無紋土器などが発見されている。 瓦町の牟田寄遺跡は弥生後期のもので、昭和30年代(1955 ‐ 1964年)までに表土の下や堀岸から弥生土器や砥石、石造厨子、カキを主とする貝塚が発見されていた。その後用水路整備や圃場整備により兵庫の広範囲で遺跡が発見・再調査された。牟田寄遺跡や千住遺跡(瓦町)では掘立柱建物跡や溝、井戸、土坑などの遺構とともに多くの土器が発見されており、地域の拠点的集落だった可能性がある。なお、両遺跡は竪穴式住居がなく、特に牟田寄遺跡では、柱穴の底に樹皮を敷き詰め横木を載せる特殊な基礎構造の建物群が見つかっており、軟弱地盤に対応しようと試行した跡と考えられている。牟田寄遺跡は古墳時代前期まで続いた。 奈良時代や平安時代の遺構が発見されたウー屋敷遺跡(藤木)やコマガリ遺跡(藤木)では、廂のある掘立柱建物跡、「厨」と読める表記のある刻書土器、「大木」と表記のある墨書土器が、また西中野遺跡(藤木)でも多数の墨書土器や硯が、それぞれ出土している。藤木の西中野地区から西渕、高木瀬町東高木にかけての地域は和名類聚抄にある「深溝郷」に比定されており、前述の遺跡付近に何らかの公的機関があった可能性がある。また、巨勢郷に比定されている牟田寄遺跡(瓦町)でも墨書土器や銅製印章が出土しており、同様の可能性がある。 藤木では井樋(水門)の名に「一の坪」「二の坪」などがあり、条里制の地割名の遺構と考えられている。 ===中世から近世=== 兵庫町内の地名が文献に登場する古い例として、『河上神社文書』のうち平安期の1章、1176年(安元2年)のものがある。現在の佐賀市大和町にある與止日女神社の所有する神田の所在地の一つとして、肥前国佐賀郡の六条の地に「淵里」という地名が記されており、これは現在の渕にあたると考えられる。なお「淵」はこの地が古く有明海の入り江の頃に波打ち際だったことに由来するという。 中世から近世にかけて、この地は肥前国佐賀郡(佐嘉郡)の巨勢郷(古瀬郷、古世郷)と佐賀郷(佐嘉郷)に属していた。東部の若宮と瓦町が巨勢郷、渕と藤木が中佐賀郷、西渕が上佐賀下郷であった。1605年(慶長10年)の慶長絵図には、中佐嘉郷と中古世郷の付近にこれらの地名がある。 ウー屋敷遺跡(藤木)、コマガリ遺跡(藤木)、西中野遺跡(藤木)、牟田寄遺跡(瓦町)では平安末期から鎌倉時代にかけての集落跡が多数発見されている。ウー屋敷遺跡、西中野遺跡、西渕遺跡(西渕)、藤木四本杉遺跡(藤木)では戦国時代頃の集落跡や墓地跡、藤木遺跡(藤木)では同時期の大型の掘立柱建物跡が発見されている。一方、それ以降の時代の集落跡は発見例が少ないが、これは近世以降の集落と現代の集落の分布が似通っていて連続性が高いことを示す。なお近世の遺構では、鍋島藩窯の染付を含む肥前の陶磁器類が大量に出土しており、日常利用されていたと考えられる。 瓦町千住にある経島寺は、1179年(治承3年)平重盛が父清盛の罪障消滅を願い建立したとする伝承もあり、併せて写経を石棺に納めて埋め、その周囲を掘り上げ島を造ったと伝えられる。その島とされるものは経島寺の傍に現存しており、「経の島」と呼ばれている。このほかに同寺では、戦国時代の天文年間(1532 ‐ 1555年)に戦火によって観音堂が焼失し再建した記録があるほか、1570年(元亀元年)には寺の近傍の「堂の前」で大内氏方の戸次鑑連勢が旗本の龍造寺隆信勢に突入して激しい戦いが行われた(『北肥戦誌』による)。 藤木には中世武士の藤木党(藤木氏)の拠点があったと考えられており、その館跡を示す「東屋敷」「川上屋敷」「夫婦廟」「唐木廟」などの地名が残っている。渕の東中野地区や藤木の西中野地区の「中野」地名は、天正年間(1573年‐1593年)に中野氏の知行地となったことに由来する。また渕の下村地区は、1497年(明応6年)に小城郡から移り住んでこの地の開発を進めた下村三郎左衛門に由来する地名とされ、その後下村に移住した。 戦国時代、若宮付近では度々合戦が行われている。1534年(天文3年)、神埼郡三津山に陣を置いた大内義隆の家臣陶興房が水ヶ江城に向けて進攻した際には、龍造寺家兼の軍勢が若宮や巨勢・若宮原(金立町)・犬童(千代田町)でこれを迎え討った。また、1569年(永禄12年)大友宗麟が大軍で肥前に侵攻した際(多布施口の戦い)には、若宮付近に構えた大友勢に向け、西中野天満宮(藤木)から龍造寺隆信・鍋島直茂の軍勢が出陣した。若宮の線路橋付近の巨勢川に「清光の渡」という古地名が残るが、この時多くの軍勢が川を越えたこと「勢越し」が起源だとする説がある。 江戸時代の藩政期は、佐賀藩本藩の支配地であった。現在の渕と藤木にあたる各村は本藩の蔵入地となる一方、若宮、瓦町、西渕には白石鍋島家、村田鍋島家をはじめとする家臣の知行地があった。 近世まで、兵庫の東部は原野だった。巨勢郷高尾(現・佐賀市巨勢町高尾)から尾崎(現・神埼市神埼町尾崎)まで南北約8kmの一帯は茅野だったと伝えられる。成富兵庫茂安により元和年間に開拓が始まった。これによって生まれた新田は兵庫と巨勢で約1,600ha、石高は7千石余に上る。若宮・瓦町には開墾地名「吉野」「立野」「外野」「柴野」が残る。 ===明治前期=== 明治に入ると、兵庫では諸村の統合により若宮村、瓦町村、渕村、藤木村、東高木村が成立する。 1874年(明治7年)、若宮小学校、瓦町小学校、渕小学校、藤木小学校の4小学校が設立され、4年後の1878年(明治11年)には、若宮小と瓦町小が統合され順成小学校、渕小と藤木小が統合され渕藤小学校となった。 ===兵庫村=== 1889年(明治22年)4月1日、町村制施行に伴い、佐賀郡若宮村、瓦町村、渕村、藤木村と東高木村の一部が合併して兵庫村が成立した。前記4か村はそのまま兵庫村の大字となり、東高木村から合併した地域は大字西渕となった。瓦町に村役場が置かれた。 土地面積の8割が耕地、戸数の75%が農家、村の一般生産総額の94%が農業生産(いずれも1937年(昭和12年)時点)で占めていた村は、農業が主産業の農村だった。1917年(大正6年)の就業者は農業81%・工業2%・商業4%と、佐賀郡の中(群平均 : 農業50%・工業9%・商業17%)でも、鍋島村(当時)などと並んで特に農業比率が高かった。 農業生産額では米が87%(1937年時点)と大半を占め、米の出来・不出来が村の経済・財政を大きく左右した。このほか、約10%を占めた麦類や、蔬菜、緑肥作物も生産した。また養蚕、養鶏、馬・山羊・兎の飼育のほか、クリークを利用した淡水魚の養殖も振興・奨励された。1931年(昭和6年)には村内に51か所の養魚場があった。こうした農業の振興策は対外的にも評価され、1952年(昭和27年)には全国町村会から「全国優良村」の表彰を受ける。 その農業は天候に強く影響を受ける。1939年(昭和14年)には干ばつ被害、1949年(昭和24年)と1953年(昭和28年)には洪水被害が発生した。特に1949年の洪水では、巨勢川が氾濫したほか他の川でも各所で堤防が決壊、村の6割の世帯が床上浸水し、他の世帯もすべて床下浸水、全ての水田が冠水し農業は甚大な被害を受けた。 工業では、瓦や、農家の副業としての藁製品を生産したほか、工場で縄を生産した。 1889年(明治22年)、町内を北東から南西に貫くルートで、佐賀と神埼を結ぶ旧国道34号が開通する。1937年(昭和12年)にはコンクリート舗装される。 1928年(昭和3年)、兵庫や周辺の村民らの請願運動により国鉄長崎本線に伊賀屋駅が開業し、その後1933年(昭和8年)までに伊賀屋と脊振村方面を結ぶ県道が開通。駅前には伊賀屋郵便局が設置され、商店や住宅も建ち並び、市営バスが市中心部とを結ぶ路線を設置した。また1931年(昭和6年)から1939年(昭和14年)にかけて、佐賀駅北側方面から兵庫村中心部を経て金立村とを結ぶもう1本の県道が開通した。 1900年(明治33年)、順成小と渕藤小が統合され兵庫尋常高等小学校となる。校舎は渕に置かれた。のち、1941年(昭和16年)に兵庫国民学校、1947年(昭和22年)の学制改革で兵庫村立兵庫小学校と改称する。一方、小学校尋常科の卒業生で農家の子弟を対象に、修業年限2年で経営者育成を行う兵庫農業学校が1911年(明治44年)に設立され、1922年(大正11年)まで続いた。また1916年(大正5年)には兵庫実業補習学校が設立され、学制の変化に伴い青年訓練所充当実業補習学校、青年訓練所充当公民学校、高等実業青年学校と改称し1947年まで続いた。その後継は1947年設立の兵庫村立兵庫中学校である。 ===佐賀市兵庫町=== 1954年(昭和29年)3月31日、隣接していた佐賀市に編入され、佐賀市兵庫町となった。5つの大字はそのまま継承される。 役場はその後数年間、兵庫支所として運用される。1961年(昭和36年)4月には規模が縮小され兵庫出張所となり、1969年(昭和44年)6月にはこれも廃止され、以降、一部の役割は自治会に委嘱された。また1958年(昭和33年)、佐賀市立兵庫中学校は巨勢町に所在する佐賀市立城東中学校に統合された。 1959年(昭和34年)には地下水を水源とする佐賀市東部地区上水道が竣工し、水道水の供給が始まった。後に地下水源の減少や水質汚染が進み、1970年(昭和45年)までに多布施川を水源とする佐賀市水道に統合され、地下水源は廃止された。 1967年(昭和42年)、市内の一部で始まっていた都市ガスの供給が、兵庫町内では初めて西渕の団地で開始される。また佐賀駅の北側移転と神野町の区画整理に伴い、神野町にあった佐賀市ガス局が1972年(昭和47年)に藤木(現兵庫北1丁目)に移転した。 戦後の自動車普及により国道の交通量が急増すると、国道34号北部バイパスの計画が持ち上がる。1972年(昭和47年)4月に下渕‐国立病院前間、同年12月に堀立‐三日月間が開通し、後にこちらが国道34号に指定され、旧道は国道264号及び県道51号となった。 国道等の整備により、その沿道に商社や工場などの企業が進出した。また佐賀市の中心市街地に隣接していた藤木や渕南部の下村地区では、昭和30 ‐ 40年代(1955 ‐ 1974年)に農地から市街地となり人口が増加した。 1967年(昭和42年)8月1日 兵庫町渕、兵庫町藤木に加えて大財町、神野町、巨勢町牛島の各一部で住居表示実施。大財5・6丁目となる。1981年(昭和56年)8月1日 兵庫町藤木に加えて大財町、神野町の各一部で住居表示実施。駅前中央1・2・3丁目および大財北町となる。農業は、産業構造の変化を受けて従事者が減少していった。全世帯に占める農家率は1965年(昭和40年)の55%から1975年(昭和50年)には28.5%と半減したものの、佐賀市平均(16%→9%)と比較すると高かった。昭和40年代(1955 ‐ 1964年)以降は減反政策に伴う米作の代替として、ナスやトマト、イチゴなどの園芸作物の栽培が増加し、養蜂農家なども現れた。 その後、大型機械導入や効率化のため、1989年(平成元年度)から2008年(平成19年度)にかけて圃場整備が行われ、耕地は整理統合された。南部、西部、北部、東部の4地区に分けて順次行われ、総事業費87億円余を費やした。 1991年(平成3年)、藤木に夢咲公園が開園し、隣接地にメートプラザ(佐賀勤労者総合福祉センター)、ほほえみ館(佐賀市保健福祉会館)、児童センターが建設され公共施設が集積した。一方、1996年(平成8年)には県道東部環状線が長崎本線を跨いで(とんぼ橋)国道34号北部バイパス間で繋がり、交通量が増加した。 町西部の渕や藤木では、佐賀市東部の市街地化開発の一環として、1988年(昭和63年)から2014年(平成26年)にかけて、2地区に分けて土地区画整理事業が行われた。兵庫(兵庫南)の事業は社会保険病院(佐賀中部病院)の移転を契機としたもの。兵庫北の事業は当初学校の移転を核としたものだったが、バブル崩壊による景気悪化の影響などで事業費は約210億円から2割圧縮、計画も大型商業施設の誘致を核としたものに変更した。その結果、2006年12月に大型ショッピングモール「ゆめタウン佐賀」が開業、周辺には商店、飲食店、温泉施設、結婚式場などが進出、2014年には佐賀清和中学校・高等学校が与賀町から移転した。住宅開発も進み、兵庫北地区内の人口は約620人から約9,400人と15倍に増加した。 1997年(平成9年)1月21日 兵庫町渕、兵庫町藤木の各一部で住居表示実施。兵庫南1・2・3・4丁目となる。2013年(平成25年)9月1日 兵庫町渕、兵庫町藤木、兵庫町西渕の各一部で住居表示実施。兵庫北1・2・3・4・5・6・7丁目および兵庫南1丁目となる。2つの土地区画整理事業により、1980年から2010年にかけての30年で、町全体の人口は2倍に増加した。 ===変遷表=== ==交通== ===道路=== 国道34号 ‐ 東の神埼・鳥栖方面と西の小城・武雄方面を結ぶ。町域全区間が全線4車線。堀立西交差点より西の区間は北部バイパスと呼ばれる。 道路交通センサスの自動車類交通量によると、土井(西渕 ‐ 佐賀警察署前間)で約30,700台/日(1999年、約26,000台/日:1994年)、若宮(堀立西 ‐ 下渕間)で約20,600台/日(2015年、約20,700台/日:2010年)。道路交通センサスの自動車類交通量によると、土井(西渕 ‐ 佐賀警察署前間)で約30,700台/日(1999年、約26,000台/日:1994年)、若宮(堀立西 ‐ 下渕間)で約20,600台/日(2015年、約20,700台/日:2010年)。佐賀県道51号佐賀脊振線 ‐ 西は佐賀城堀端・県庁前方面に至る国道264号に接続。町南西部を斜めに通り、堀立西・堀立東交差点(国道34号と交差)を経て、伊賀屋駅の西で長崎本線を踏切で横断し、久保泉町川久保から神埼市脊振町方面とを結ぶ。 道路交通センサスによると、若宮の中野吉バス停付近で約5,300台/日(2015年、約5,900台/日:2010年)。道路交通センサスによると、若宮の中野吉バス停付近で約5,300台/日(2015年、約5,900台/日:2010年)。佐賀県道294号薬師丸佐賀停車場線 ‐ 佐賀駅南口・大財方面から東中野交差点(県道333号と交差)、下渕交差点(国道34号と交差)、東渕を経て金立町薬師丸とを結ぶ。 道路交通センサスによると、JAゆめさき支所付近で約6,200台/日(2015年、約10,800台/日:2010年)。道路交通センサスによると、JAゆめさき支所付近で約6,200台/日(2015年、約10,800台/日:2010年)。佐賀県道333号佐賀環状東線 ‐ 東部環状線。佐賀市街地東部の幹線道路。西渕交差点で国道34号と交差。 道路交通センサスによると、兵庫南3丁目の東中野交差点付近で約26,500台/日(2015年、約27,100台/日:2010年、19,600台/日:1999年、13,100台/日:1994年)。道路交通センサスによると、兵庫南3丁目の東中野交差点付近で約26,500台/日(2015年、約27,100台/日:2010年、19,600台/日:1999年、13,100台/日:1994年)。市道大財修理田線(2937番)・牟田寄千住線(2940番) ‐ 町南部を東西に貫く直線道路。大財方面から兵庫南の市街地、中部病院の南、千住を経て神埼市千代田町方面とを結ぶ。市道頭西渕線(15番) ‐ 兵庫北の市街地を通る。ゆめタウン佐賀の南東角から、メートプラザ・ほほえみ館・佐賀消防署の前を経て、神野町や八戸溝方面とを結ぶ。 ===バス=== 町内に所在する主要バス停は下線で示す。佐賀市営バス 5系統 ゆめタウン線(佐賀駅バスセンター ‐ 夢咲公園 ‐ ほほえみ館前 ‐ 夢咲コスモスタウン ‐ 佐賀清和学園前 ‐ ゆめタウン佐賀) 32系統 二俣・金立公民館線(県庁前 ‐ 佐賀駅バスセンター ‐ 藤木 ‐ 致遠館前 ‐ 市文化会館東 ‐ 健康運動センター ‐ 金立公民館前) 56系統 兵庫・久保泉工業団地線(佐賀駅バスセンター ‐ 大財 ‐ 佐賀中部病院西 ‐ 兵庫小学校西 ‐ うえむら病院前 ‐ 東渕 ‐ 久保泉工業団地) 60系統 伊賀屋・清友病院線(佐賀駅バスセンター ‐ 大財 ‐ 佐賀中部病院前 ‐ 瓦町 ‐ 堀立 ‐ 伊賀屋 ‐ 川久保 ‐ 清友病院前)5系統 ゆめタウン線(佐賀駅バスセンター ‐ 夢咲公園 ‐ ほほえみ館前 ‐ 夢咲コスモスタウン ‐ 佐賀清和学園前 ‐ ゆめタウン佐賀)32系統 二俣・金立公民館線(県庁前 ‐ 佐賀駅バスセンター ‐ 藤木 ‐ 致遠館前 ‐ 市文化会館東 ‐ 健康運動センター ‐ 金立公民館前)56系統 兵庫・久保泉工業団地線(佐賀駅バスセンター ‐ 大財 ‐ 佐賀中部病院西 ‐ 兵庫小学校西 ‐ うえむら病院前 ‐ 東渕 ‐ 久保泉工業団地)60系統 伊賀屋・清友病院線(佐賀駅バスセンター ‐ 大財 ‐ 佐賀中部病院前 ‐ 瓦町 ‐ 堀立 ‐ 伊賀屋 ‐ 川久保 ‐ 清友病院前)西鉄バス佐賀 40系統 神埼線(佐賀第二合同庁舎 ‐ 佐賀駅バスセンター ‐ 片田江 ‐ 瓦町 ‐ 堀立 ‐ 神埼 ‐ 目達原 ‐ JR久留米駅 ‐ 西鉄久留米 ‐ 信愛女学院)40系統 神埼線(佐賀第二合同庁舎 ‐ 佐賀駅バスセンター ‐ 片田江 ‐ 瓦町 ‐ 堀立 ‐ 神埼 ‐ 目達原 ‐ JR久留米駅 ‐ 西鉄久留米 ‐ 信愛女学院)昭和バス 佐賀地区 神埼・三瀬線(佐賀駅バスセンター ‐ 片田江 ‐ 瓦町 ‐ 堀立 ‐ 神埼 ‐ 広滝 ‐ 三瀬)神埼・三瀬線(佐賀駅バスセンター ‐ 片田江 ‐ 瓦町 ‐ 堀立 ‐ 神埼 ‐ 広滝 ‐ 三瀬) ===鉄道=== 九州旅客鉄道長崎本線の線路が町域を斜断する。 伊賀屋駅 ‐ 兵庫町若宮。町内北東端に位置。1日平均乗車人員は、2005年度に237人、2010年度に248人、2015年度に257人。なお、町域は佐賀駅(駅前中央一丁目)から1.5 ‐ 5kmの範囲内にある。 ==文化・史跡・人物== ===寺院=== 経島寺 ‐ 瓦町千住。曹洞宗。平重盛の建立とする伝承もある。天正年間、龍造寺氏の被官としてこの地に移住した千住忠時により再興されたという。姉川城主・姉川惟安の石碑がある。光円寺 ‐ 若宮堀立。浄土真宗本願寺派。1600年(慶長5年)鍋島生三の建立と伝わる。寿徳寺 ‐ 兵庫北2丁目(藤木)。曹洞宗。鍋島直茂の建立と伝わる。長興寺 ‐ 兵庫南2丁目(渕下村)曹洞宗。開基は江戸初期にこの地を知行した下村生運と伝わる。また、天保年間に初代下村辰右衛門により本堂と観音堂が再建された。なお、下村辰右衛門の家系で四代下村辰右衛門は貴族院議員を務めた人物で、その娘婿は作家の下村湖人である。万徳寺 ‐ 渕東渕。浄土真宗本願寺派。創建は天正年間、武士の源左衛門尉正国なる人物と伝わる。1695年(元禄8年)に真言宗から転派した。妙常寺 ‐ 渕下渕。日蓮宗。永正年間、千葉胤繁の建立と伝わる。藩政時代は藩内日蓮宗12ヶ寺の1つとされた。無量寺 ‐ 若宮野中。曹洞宗。龍造寺隆信に付き従い島原の乱で没した中牟田七郎衛門を弔うため、息子の喜左衛門が建立。1903年(明治36年)に焼失したが、子爵で海軍中将を務めた中牟田倉之助の発願で再建。 ===神社=== 老松天満宮 ‐ 若宮。巨勢神社(巨勢町高尾)由緒記によると、建久年間(1190 ‐ 1198年)に巨勢荘地頭に任命された武蔵の牟田(有荘)参河守俊治が武蔵で氏神としていた老松大明神を勧進し、牟田の地に建立した。しかし、牟田氏は100年余で絶え、代わって延慶年間に任命された鎌倉の立川阿波守一族は、巨勢荘今泉に居館を立てこちらに老松大明神を遷霊し、跡地には老松天満宮を建立したとされる。昭和中期まで、春と秋の例祭は参道に出店が並び夜まで賑わい、境内の舞台では歌・踊り・にわかなどが演じられていた。平成に入って圃場整備により舞台は解体された。西中野天満神社 ‐ 兵庫北7丁目。龍造寺隆信と鍋島直茂が、大友宗麟との戦を前にこの神社で武運を祈願したところ勝利し、礼として社殿と末社を建立し、その後の戦でも必ず祈願に訪れたと伝わる。また、祈願に訪れた隆信を迎え挨拶に出た神主が、隆信の威風堂々とした姿に腰を抜かして立てなくなったという逸話がある。これを家来が見て唄ったとされる小唄が、大正の頃まで、子供が喧嘩をして転んだり、幼な子をあやしたりする時に唄われたという。「中野のじゃあどん起ってみやい、起っぎいよかことあろうばん」伊賀屋天満宮 ‐ 若宮。1680年(延宝8年)に鍋島直氏が再興したとの銘記がある。農村における五穀豊穣や雨乞いの神として、巨勢郷の各地から参詣者を集めた。干ばつのときには、浮立を奉納する沖の島参りをして雨乞いとした。毎年9月、神埼町境野の塩井浜場と呼ばれる川岸に仮宮を立てて神輿を運ぶ「御水取り」という神事が行われる。 ===史跡等=== 「ネバル」 ‐ 渕の下渕地区にある地名。秦の徐福上陸伝説の1つで、一行が上陸地の浮盃(諸富町)から金立山(金立町)へと進む途中、葦が生い茂り「ねばる」悪路に歩みを止めて休憩したと伝わる。その100m余り西方には「千速(洗足)」という地名もあり、一行が足を洗ったと伝わる。渕川城(淵川城)跡 ‐ 渕の東渕地区にある平城の城館。空閑光家による築城で、小城高田城主の千葉胤繁が、東方の大内氏や渋川氏への抑えとして空閑氏に渕村を与えたのが起源。本館は3重の水濠に囲まれており、その跡からは一定間隔に並んだ礎石が発見されている。後の城主空閑久家は龍造寺家家臣、その後鍋島家家臣となり、佐賀城内居住を命じられ移住する。久家の墓は城跡のすぐ南東にあり、廟(びゅう)と呼ばれている。牟田氏の居館跡 ‐ 若宮の牟田地区にある居館。武蔵国から多数の家臣・従者を引き連れ下向した牟田(有荘)参河守俊治が築いた。現在も「館濠」「ロクジャー(六左衛門)屋敷」「アキサン屋敷」など複数の関連地名が残る。(参考:老松天満宮)惣よん橋 ‐ 若宮の水路に架かる橋。神代勝利に仕えた武士西村惣衛門が架けたと伝わる。 ===指定文化財等=== 牟田寄遺跡出土銅印 ‐ 1点。牟田寄遺跡で出土した古代の印章で、佐賀県内初出土。鋳銅製、高さ43mm、縦・横共34mm、重さ105g、完存。印文は1文字、「勝」とする説、逆字の「粮」とする説もあるが、確定できず。平安時代前半の私印と推定。2012年に佐賀県の重要文化財に指定。牟田寄遺跡出土卜骨 ‐ 8点。牟田寄遺跡で出土した古代卜占用具で、佐賀県内初出土。動物の骨を焼き、その焼けひびで吉凶を占う骨卜(こつぼく)に用いるもので、弥生時代後期から古墳時代初頭のものと推定。2012年に佐賀県の重要文化財に指定。 ===人物=== 宮崎林三郎(みやざき りんざぶろう、1859 ‐ 1931) ‐ 兵庫村生まれの発明家。農業に従事し兵役の後、商業で財を成すものの、30歳の頃眼病が悪化し失明してしまう。はじめ漁網製造の機械化を試みたものの断念し、農家で手作業により行われていた縄綯い(なわない)の機械化に取り組む。盲人となりながらも8年をかけて製縄機(せいじょうき)を完成させるが、高価なため売れず苦心を続ける。1904年(明治37年)日露戦争により需要が伸び普及を始め、1905年(明治38年)には特許を取得する(宮崎式製縄機)。また、後に莚(むしろ)を編む莚織機や畳を編む畳織機も開発し、帝国発明協会から表彰を受けた。なお、1911年(明治44年)に帝国農会主催全国農具展覧会に出品され5等賞を受賞した宮崎式人力用製縄機は、農研機構の農機具資料館(埼玉県)に展示されており、他の展示物と併せて「農機具資料館」として2014年に機械遺産に認定されている。松本弘二(まつもと こうじ、1895 ‐ 1973) ‐ 東渕生まれの洋画家。旧制佐賀中学中退。画を高木背水、黒田清輝に学び、1921年(大正10年)二科展に初入選。のち二科会会員、理事となる。1970年(昭和45年)「男鹿の夏」で内閣総理大臣賞を受賞。岸川健一(きしかわ けんいち、1888 ‐ 1954) ‐ 東渕生まれの軍人。1911年(明治44年)陸軍士官学校を卒業し歩兵少尉に任官。麻布連隊区司令官、第29旅団長、独立混成第17旅団長などを経て第63師団長として終戦。戦後はシベリアに抑留され、さらに中国に引き渡されたのち、1954年6月10日、撫順戦犯管理所で病死。死後、正四位勲一等旭日大綬章。小野哲一(おの てついち、1895 ‐ 1967) ‐ 若宮生まれの政治家。東京帝国大学法学部政治科を卒業後、横浜正金銀行に入社。海外の支店長、支配人を経て東亜部次長を最後に退職。1951年から佐賀市長を2期務める。1962年の佐賀球場完成の際、「法無乱」と揮毫。これを石板に刻み球場正面に掲げた。「法、無くんば乱れる」と読み、野球人やスポーツマンらに教訓として示したものである。死後、勲五等瑞宝章。 ===行事=== 兵庫の里まつり ‐ 盆踊り・子供みこしを主体とする夏祭りで、兵庫まちづくり協議会が主催。こども会で行われていた夏祭りが発展し、1986年(昭和61年)頃現在の呼称となった。町民体育大会 ‐ 毎年9月末頃開催される。兵庫公民館文化祭、兵庫町民文化際、農業まつり ‐ 同日に近隣の会場で開催される。農業まつりは地元農協主催。ひょうたん島公園ひまわりまつり ‐ 8月上旬頃。農家の協力で提供されている1ha余のひまわり畑が黄色に染まる。鬼火たき(ほんげんぎょう) ‐ 青竹や菰などを束ねて立てた櫓を夜明け前に点火、しめ縄、お札やお守りなどを投げ入れて、災難なく1年を過ごせたことに感謝する祭事。古くは各家庭が家の前や堀岸で行っていたが、1980年(昭和55年)から兵庫校区で統一して開催している。四万六千日 ‐ 元来は7月10日で、参詣すると4万6千日間参詣したものに等しい功徳があるとされる。藤木では藤木天満宮、十一面観世音菩薩など大小の寺社を巡るが、子供の夏休みにあたる8月10日に行われ、10余ヶ所で子供にお菓子などが振る舞われる。豆祇園 ‐ 子供の成長を願うとともに災厄除けをする祭事。北修理田(兵庫南4丁目)では、8月第3日曜日に行われる。午前中、小中学生による子供みこしが地区内を練り歩き、一周した後一度解散する。夕方になると公園に再び集まり、悪霊(鬼)が嫌うとされる煮豆が振る舞われる。近年はカラオケ大会などが企画され趣向が凝らされている。 ==公共施設・福祉== ===公益施設=== 佐賀市立兵庫公民館 ‐ 渕佐賀広域消防局 本部・佐賀消防署 ‐ 兵庫北3丁目兵庫交番 ‐ 兵庫南3丁目。佐賀北警察署の管内。メートプラザ(佐賀勤労者総合福祉センター) ‐ 兵庫北3丁目ほほえみ館(佐賀市保健福祉会館) ‐ 兵庫北3丁目佐賀市中央児童センター ‐ 兵庫北3丁目佐賀市立佐賀勤労者体育センター ‐ 兵庫北3丁目佐賀市民運動広場 ‐ 兵庫北3丁目 ===学校・保育=== ====保育所等==== ===保育所=== あおぞら保育園(藤木/私立)、さがのゆめ保育園(兵庫北4丁目/小規模保育B型)、さがのゆめ第2保育園(兵庫南2丁目/小規模保育B型)、ちえんかん保育園(兵庫北4丁目/私立)、ニチイキッズ 夢咲保育園(兵庫北2丁目/小規模保育A型)、兵庫保育園(瓦町/私立)、兵庫託児所(兵庫南2丁目/小規模保育B型)(以上2017年時点、五十音順) ===認可外保育施設=== キッズハウスこうせい(瓦町)、託児所KOKORO(兵庫北2丁目)(以上2017年時点、五十音順) ===幼稚園=== エミール幼稚園(渕/私立)、光生幼稚園(瓦町/私立)、宝正幼稚園(若宮/私立)(以上2017年時点、五十音順) ===小・中学校の学区=== 小学校は、兵庫町・兵庫北・兵庫南の全域が佐賀市立兵庫小学校の校区。なお、隣接する高木瀬東1丁目、駅前中央3丁目、大財北町の各一部も校区に含まれる。中学校は、同じく全域が佐賀市立城東中学校の校区で、近隣の巨勢小および循誘小の各校区も城東中校区。 ===小・中学校・高等学校=== 佐賀市立兵庫小学校 ‐ 渕佐賀県立致遠館中学校・高等学校 ‐ 兵庫北4丁目佐賀清和中学校・高等学校 ‐ 兵庫北2丁目 ===各種学校=== 高齢・障害・求職者雇用支援機構(JEEO) ポリテクセンター佐賀 佐賀職業訓練支援センター ‐ 若宮佐賀県立総合看護学院 ‐ 兵庫南3丁目佐賀県消防学校 ‐ 瓦町佐賀コンピュータ専門学校 ‐ 瓦町 ===公園=== 夢咲公園 ‐ 兵庫北3丁目。広場、遊具、噴水がある。市内で行われる大会にちなみバルーン(熱気球)の形をしたモニュメントは、1日6回演奏するからくり時計。ひょうたん島公園 ‐ 渕。圃場整備前のクリークの景観を保存した公園。トンボの池公園 ‐ 兵庫北6丁目。広い池を有する。パークゴルフ場「夢の里兵庫」が併設。都市計画により設置された街区公園として、西中野公園、東中野公園、下村公園、土井公園、藤木天満宮公園、藤木中央公園、藤木公園、西中野天満宮公園、ねむのき公園、西中野西公園、西中野橋公園がある。 ===その他の公共的施設=== ====主な病院==== 地域医療機能推進機構(JCHO) 佐賀中部病院 ‐兵庫南3丁目。1993年から1995年にかけて多布施から移転。1996年まで佐賀社会保険病院。2014年に現名称に改称。病床数約160(2015年時点)。救急指定病院。うえむら病院 ‐ 明治初期に開業、1993年に松原町から移転。1704年(明和元年)に佐賀藩の典医となった上村春庵以降、代々典医を務めた上村家の創始。救急指定病院。 ===住宅団地=== 兵庫団地(佐賀県営住宅) ‐ 兵庫南3丁目兵庫団地(佐賀市営住宅) ‐ 渕楊柳団地(佐賀市営住宅) ‐ 兵庫南3丁目 ===その他の公共施設=== 九州地方整備局 武雄河川事務所佐賀庁舎 ‐ 兵庫南2丁目兵庫町郵便局 ‐ 兵庫南2丁目。伊賀屋駅近くにあった伊賀屋郵便局が1994年8月に移転・改称した。佐賀東部水道企業団 事務所 ‐ 西渕。佐賀市・神埼市・吉野ヶ里町・基山町・上峰町・みやき町の工業・農業用水と上水道を供給する地方公営企業。JAさが 佐賀市ゆめさき支所 ==経済・産業== ===産業構成=== 旧来農村地帯である大字の地域は農業従事者が多いが、人口流入により、町全体としては市平均よりも第一次産業従事者の割合が低くなった。一方、新興住宅地である兵庫南・兵庫北の住民は第三次産業従事者が多く、町全体としても市平均より4ポイントほど高くなった(いずれも2015年時点)。 また兵庫町に所在する事業所や従業者(兵庫町の事業所に勤める者)を産業別比率で見ると、特に卸売・小売業、情報通信業、生活関連サービス業・娯楽業、医療・福祉、電気・ガス業で、佐賀市の平均より高い(2014年時点)。 ===主な商業施設・事業所=== ====商業施設==== ゆめタウン佐賀 ‐ 兵庫北5丁目 ベスト電器、ニトリ、紀伊国屋書店、トイザらス、スーパースポーツゼビオ、ザ・ダイソー、UNIQLO、無印良品、LOFT、アカチャンホンポなどベスト電器、ニトリ、紀伊国屋書店、トイザらス、スーパースポーツゼビオ、ザ・ダイソー、UNIQLO、無印良品、LOFT、アカチャンホンポなどエディオン佐賀本店ヤマダ電機テックランド佐賀本店スポーツDEPO佐賀店ダイレックス兵庫店ドラッグストアモリ兵庫店ディスカウント ドラッグコスモス佐賀兵庫店フードウェイ佐賀兵庫店アルタゆめ咲きいちばザ・ダイソー佐賀兵庫南店洋服の青山佐賀本店ファッションセンターしまむら兵庫町店、バースデイ兵庫町店西松屋佐賀店TSUTAYA兵庫町店ゲオ佐賀兵庫店 ===サービス業=== ===結婚式場=== アルカディアSAGA、アクアデヴュー佐賀スィートテラス、アイランドヒルズ迎賓館 ===葬儀場=== 北佐賀草苑、夢咲メモリードホール ===レジャー・アミューズメント=== FACE850佐賀、ラウンドワンスタジアム佐賀店、佐賀ぽかぽか温泉 ===金融機関=== 佐賀銀行兵庫支店佐賀共栄銀行兵庫支店朝銀西信用組合佐賀支店 ===事業所本社・拠点=== 佐賀ガス ‐ 西渕、都市ガス供給業佐賀電算センター ‐ 藤木、情報通信業誠文堂印刷 ‐ 出版業福博印刷 ‐ 出版業有明電設 ‐ 建設業佐賀県食糧 ‐ 卸売業 ==関連項目== 成富兵庫茂安佐賀市の地名日本のニュータウン =東急7000系電車 (初代)= 東急7000系電車(とうきゅう7000けいでんしゃ)は、134両が東急車輛製造で製造され、1962年(昭和37年)から2000年(平成12年)まで東京急行電鉄で運用された通勤形電車である。 本項の主題である初代東急7000系電車を文中「本系列」と表記し、編成単位で表記する場合は東横線上で渋谷寄りの先頭車番号で代表し、「7001F」などの様に表記する。「6000系」は1960年製造開始の東急6000系電車 (初代)を指す。本系列の仕様に大きな影響を与えた、日比谷線直通車両の規格や運転取り扱いは、「乗り入れ協定」と表記する。「東急」と表記する場合は鉄道会社の「東京急行電鉄」を指し、車両製造メーカーの「東急車輛製造」は「東急車輛」と表記する。東急の各線は過去に路線名・運転系統を何回か変更し、路線名および区間が時代により異なるが、記事中では記載された事象がおこった時点の路線名で記載している。 アメリカのバッド社と東急車輛製造との技術提携より製造された、日本鉄道業界初のオールステンレス車両である。日比谷線直通運用を含む東横線、田園都市線などで使用されたのち、オールステンレス車両は解体しない東京急行電鉄の方針のもと、134両すべてが改造、譲渡などを経て再利用され、初号車製造から50年を経過した2012年4月1日時点で84両が5鉄道事業者で旅客営業に供されている。 ==概要== 東急車輛がアメリカのバッド社と技術提携により製作した日本初のオールステンレス車両であり、1962年1月25日から1966年9月10日にかけて、134両が同社で製造された。総数134両は、東急の1系列として当時最大両数であった。東横線と帝都高速度交通営団(現・東京地下鉄)日比谷線の直通運転を前提として設計されたため、車体の規格は乗り入れ協定に準拠したものとなっているが、乗り入れに必要な機器が搭載された車両は一部にとどまった。最初に製造された車両には制御装置をはじめとする電装品には6000系で採用されたのと同等のものも多く採用されたが、車体や台車にはバッド社の特許技術が多く盛り込まれた。東急車輌は本系列について、『東急車輌30年のあゆみ』に以下のように記している。 当社にとって,オールステンレスカーと国鉄電車製作は経営史上においても画期的な事柄であった ― 『東急車輌30年のあゆみ』、56‐57頁より引用。 また、本系列の製造を通じて、同業他社と肩を並べるまでの技術発展ができたと評している。また、「1960年代のエポックメーカー」などと評されることもある。 当初は東横線に配置され、1964年から日比谷線乗り入れを開始、次いで1966年から田園都市線でも運用されるようになるなど、池上線、新玉川線を除く東急の鉄道線各線で広く運用された。1987年から7700系への改造が行われるとともに田園都市線、東横線、大井町線用車両の大型化の進行で1988年から廃車が始まった。1000系の登場によって1991年には日比谷線直通運用から撤退するなど徐々に運用範囲を狭め、最後は2両がワンマン改造、専用塗装化などの改造を施されてこどもの国線用として運用されたが、同線の通勤線化に伴って1999年に一般営業運転を終了した。2000年3月20日にさよなら運転として鷺沼駅 ‐ 中央林間駅間を2往復した後、2000年6月にこの2両が東急車輌に譲渡され、本系列は東急線から姿を消した。 1987年から1991年にかけて56両がVVVFインバータ制御化・冷房化・台車交換などを行って7700系へと改番されたほか、76両が1988年から1991年にかけて5つの鉄道事業者に譲渡された。7700系の3両編成化に伴う中間車11両、秩父鉄道に譲渡された16両、7700系に改造後十和田観光電鉄に譲渡された6両が廃車になるなど、2000年から徐々に廃車が進行しているが、初号車製造から50年を経過した2012年4月1日時点でも84両が5鉄道事業者で旅客営業に供されている。 ==オールステンレス車誕生までの経緯== 本系列はアメリカの技術を導入した日本初のオールステンレス車両であり、導入に至るまでの経緯が本系列の構造や部品、その後の車両に大きな影響を与えている。 ===バッド社との技術提携まで=== 本系列の製造にあたった東急車輛製造は、国有財産の設備や土地などを借り受け、1948年8月23日に株式会社東急横浜製作所として設立された、戦後発足の車両製造メーカーであり、戦後の混乱を乗り越えた後も先行する同業他社に追いつく努力が必要だった。1952年7月11日に同社社長に就任した吉次利二は、鉄道部門の業績向上のために、同業他社を上回る技術力でシェアを獲得することと、海外メーカーの技術の取り入れ・自社の技術や車両の輸出をセットで行うことを経営方針の1つとして掲げ、その一環として、吉次を団長とした業界関係者が北米・南米の市場開拓や視察を目的として1956年に海外へ渡り、南米では日本製車両の長所を伝えて回った。訪問先の鉄道事業者ではアメリカ製の車両が導入されており、ブラジルではアメリカのバッド社が製造したオールステンレス車両に乗車する機会があった。吉次は後に東急車輌創立20周年記念の座談会で以下のように述べている。 南米はどこへ行っても「俺たちは米国からこんな立派な車両を買っているんだ。お前たちも乗せてやろう」と言われ、ブラジルではバッド社製のオールステンレス車に乗った。乗ってみたら素晴らしい。PRに行きながら他国の車両に感心してほめほめ乗って歩いた。 ― 『鉄道ピクトリアル』通巻696号、67頁より引用。 バッド社は1934年には世界初のステンレス製ディーゼル列車である「パイオニア・ゼファー」を世に送り出し、1959年までに累計3000両を超えるステンレス車両を製造していたほか、視察時点で7社の海外メーカーと技術提携していた。視察の帰り際、先方との交渉の末に吉次ほか一部の人間がバッド社の工場を見学し、ステンレス製車両が鋼製車両に比べ軽量化(経済性)と構造の強靱さ(安全性)の面で優れていることから、吉次はステンレス車両の将来性を確信したという。吉次は帰国後の視察報告や質疑応答の際、オールステンレス車やバッド社のことには触れておらず、これには、先の視察団には同業他社の関係者が多く参加していたことから、自社の動向を他社に察知されないようにするための判断だったのではないかという見方や、バッド社の工場を見学したのは視察団の一部だったと推定され、視察団の公式訪問の扱いではなかったから、との見方がある。 東急車輌では1955年ごろから独自にステンレス製車両の技術開発を始めていたが、吉次は先の視察から帰国した直後にはオールステンレス車両の製造を決意しており、社内でも優秀な技術者を集めて技術開発や設計業務に着手、独自設計の東急5200系を1958年に、東急6000系を1960年に製造していたが、これらはいずれもセミステンレス構造の車体であった。この構造では車体の腐食を完全に防止することはできず、実際にも6000系では登場から20年を経ないうちに腐食した裾部分の構体を取り替えている。セミステンレス構造は塗装費の節減にはつながっても、車体そのものの耐久性ならびに軽量化という観点では満足できるものではなかった。 5200系が営業運転を開始した1958年当時、東急車輛の技術陣はすでにステンレス鋼の特長を最大限に生かすにはオールステンレス車両しかないとの結論に達しており、バッド社の技術は必要欠くべからざるものだとの認識も持たれていた。この流れの中で、同年8月、東急車輌の幹部がバッド社を訪問、折衝の末技術提携の合意を得た。日本の外貨事情が良くない時代の技術提携は円貨の流出を伴うため、日本政府の認可が必要となり、認可ののち1959年12月15日に契約締結に至った。翌年には親会社である東急と本系列の試作車となる試作品納入の同意を取り付け、販売先を確保することができた。 ===提携により導入された技術=== 1960年2月、東急車輛社内に臨時の技術開発部が設けられ、技術者がバッド社に赴いて技術研修が行われた。帰国後もバッド社との緊密な連携のもとに技術の習得が進められ、いくつもの画期的な新技術が導入された。 本系列では従来のステンレス鋼よりも強度を高めた高抗張力ステンレス鋼を含む厚さ0.4mm ‐ 5.0mmの鋼材を採用し、日本国内での調達が困難だった一部の部材や加工装置はアメリカから輸入された。屋根板には厚さ0.4mmの部材が用いられるなど、従来より薄い部材が用いられた箇所もある。これらの部材の溶接に際し、もともと熱に敏感なステンレスには従来からスポット溶接が採用されていたが、バッド社がスポット溶接の際の電流・時間などの条件管理を通じて開発した、「ショット溶接」と呼ばれる工法が本系列では新たに採用された。図面に指定された部品形状、精度などを厳格に守る必要から、自動電流調節装置や自動溶接条件記録装置が用意され、工程では多くの治具が使用された。 床下配線や床下機器の取り付けでは台枠が完成した時点で裏返して艤装する「反転艤装」と呼ばれる方式が採用された。これもバッド社が採用していた工法であり、上下を反転させずに終始上を向いて作業をする従来の工法に比べて、作業者の負担を減らすことができる上、本系列では事前に製作された10分の1スケールの模型を確認しながら施工する方法で作業効率が向上し、この工法は以降のステンレス車両の製造にも取り入れられた。しかし、従来の工法では構体が完成した時点までに電機品が用意されていればよかったが、反転艤装の場合は台枠が完成するまでに全ての電機品を用意する必要があり、工程が長い電機部品が必要な場合は車両の製作期間全体が長くなってしまう欠点があった。 生産ラインの構成では、普通鋼車両の生産ラインから生じた鉄粉がステンレス鋼の表面に刺さって腐食することを懸念したバッド社が、オールステンレス車両の生産ラインを鋼製車両のものと分離することを求めたため、オールステンレス車両専用の工場を新設して対応、新工場が1961年9月に完成した。各工程で使用される機械のうち、溶接機械や加工機械など特殊性の高いものはアメリカから輸入され、東急車輌がオールステンレス車両の製造にあたって設備投資した2億3518万円のうち、輸入分はおよそ4分の1にあたる6254万円分を占めた。機械や装置類の中には、電源電圧の違いに対応する改造が行われたものがあるほか、バッド社から派遣された担当者は1人で扱えても東急車輌側の担当者は2人がかりでないと扱えない機械類があったため、これらについては操作法の変更が行われた。 製図法、部品表作成、材料手配など一連の設計業務などは全てバッド社の方式に沿うことになり、過去の類似設計に頼ってこれまで強度計算を行っていなかった細かい部位の強度計算も行われた。 作業の各段階では数ステップの品質試験が義務づけられており、それらをクリアしなければ部材を次の工程に送ることはできない決まりになっていた。 バッド社との契約には英文のバッド社のライセンス下で製造されたことを示す銘板を「東急車輌」の銘板と併設することが含まれており、バッド社側は当初、車両の内側と外側の両方に銘板を設置することを求めていたが、東急車輌側が外側設置に難色を示したため、車内のよく見える位置のみに設置することで決着した。 ==車両概説== ===車体=== 東急では東急車輛から提案を受けたオールステンレス車両を、当時計画されていた地下鉄日比谷線への乗り入れ用車両として導入することとした。乗り入れ協定によって車両の規格が詳細に決められていたため、本系列の仕様もそれに大きく影響されている。車体寸法は18,000mm(連結面間)×2,800mm(車体幅)×4,000mm(パンタグラフ折りたたみ高さ)で、床面高さは6000系よりも25mm低い1,125mmであった。客用扉は6000系に続いて両開きが採用され、1両あたり3カ所・6メートル間隔で設けられた。 車両デザインはバッド社からの推奨によりアメリカ・ペンシルベニア州フィラデルフィアの公共交通ネットワークである「SEPTA」の車両をモデルとし、1959年から61年にかけて270両が製造された「M‐3形」が直接のモデルと言われているが、設計陣は国内の諸条件に合わせるのに苦労したという。M‐3形と同様に直線を基調としたスタイルとなり、屋根板がR3,450mmの単純曲線となったことと合わせ、6000系よりも丸みが少なくシンプルな形状となった。台枠の端部、構造が複雑な枕ばり及び正面貫通路両脇に設けられた衝突柱はステンレス製ではない。 車体裾は5200系と6000系では凹凸のない直線だったのに対し、本系列では台車の直上の部分に補強があり、その部分の裾部の構体が下に出っ張っている。6000系と同様、先頭部にはコルゲーションがないが、窓の上下にコルゲーションがあった6000系に対し、5200系と同様側面の下半分にのみコルゲーションが入った。いずれの形式に比べても、コルゲーションの密度は高い。車体設計に際しては、コルゲーションの有無や仕上げをデザインとして上手に取り込むような工夫がなされた。 先頭部は三面折妻で、貫通扉の上に前面方向幕が、左右の窓下に設置されたケースには前照灯と尾灯が収まっている。このケースは、デハ7040以前はステンレス製、デハ7041以降はFRP製である。バッド社との技術提携初期に設計された本系列ではバッド社からの直接的な技術指導を受けたことから当時のアメリカの鉄道車両構造規格の影響を受けた部分が少なからずあり、その一例として車両が衝突した場合に運転台周りが局部的に破損しないよう衝突柱が設けられた。貫通扉はこの衝突柱の奥に設けられたので、従来の車両よりやや奥に設置されている。貫通幌を使用しない場合はこの凹んだ部分に折り込めるようになっていた。 車両番号は先頭車の向かって右上と、各車両側面車端寄り1箇所に紺色の文字で表示された。初期に製造された車両の先頭部の車両番号は5200系や6000系と同様サイズが小さかったが、デハ7007以降は大きめのものに変更された。 当初は各駅停車のみの運用を想定していたためにデハ7018までは正面に通過標識灯を設置せずに登場したが、1964年に標識灯が設置され、以降はこれらの車両も急行列車に運用されるようになった。 ===台車=== 台車もバッド社の自社設計により1956年に発表され、アメリカでも広く使用されていたパイオニア*10785*形台車が採用された。本系列の台車はTS‐701形またはP*10786*‐701形と呼ばれる。以下、同形態の台車を「パイオニア台車」と総称する。なお、オリジナルでは車輪よりも内側にあった台車枠が外側にあるなど、複数の設計変更がなされている。 台車そのものは枕ばねを空気ばねとした1自由度系台車で、軸ばねや軸梁、下揺れ枕などの部品が省略されており、構造の単純化によって台車重量は6000系A編成の6.7tに比べて2t以上軽量化された4.2tに軽減された。車体荷重は空気ばね→枕ばり→側受→側ばりと伝わる。 側梁は小判型の断面で内部が空洞となっており、軸箱は側梁にゴム板を介して固定されている。枕梁と台車枠が接する側受が唯一の摺動部であり、この部分に摩擦軽減を目的としてテフロン材を貼り付けることで定期給油が不要となった。これ以外にも、軸受にゴムブッシュをはじめとした耐摩耗性のある材料を採用し、保守の合理化がはかられた。 横梁は左右で分割されている特徴的な形態で、左右が自由に動けることから、軸ばねがない構造にも関わらず走行中に車軸が変位しても台車枠に無理な力をかけずに、レールに追従できる。6000系では1台車・1モーター・2軸駆動方式を採用し、粘着性能は非常に良好だったものの、本系列では横梁が分割された構造から同様の方式が採用できず、1台車・2モーター・2軸駆動となった。 ディスクブレーキは安定した制動力が得られるものの、1,067mm軌間の電動台車にはスペースの制約から当時は採用が困難とされていたが、台車の外側にブレーキディスクを配置する構造とすることでこれを採用、制輪子交換を容易にするとともに、回生ブレーキを最大限に利用する方式の採用と併せて制輪子の摩耗が少なく、従来車の制輪子の交換に追われていた現業部門からは好評を得た。また、当時鋳鉄制輪子を使用していた在来車に比べ、大きく保守性が向上した。 運用開始時に東急の車両部長(当時)を務めていた白石安之は、本系列完成前にアメリカでパイオニア台車装着車両に乗車した際の感想を以下のように記している。 幾分ローリングを感じたが,ビビリ振動を含む細い振動は全く感じないと言える成績であった ― 『電気車の科学』通巻167号、20頁より引用。 それを踏まえ、この台車も基本構造が同じであることから高いパフォーマンスを示すであろうと期待を述べていた。 一方、1自由度系台車であるため、軸箱を固定する部分のゴム板はあるものの台車のばねは、枕ばねの空気ばねのみであり、枕ばね・軸ばねを装備した2自由度系の台車と比べ、乗り心地が劣るうえ、台車枠に架装された主電動機や駆動装置などが2自由度系台車ではばね上重量となる一方、1自由度系台車ではばね下重量となるため、軌条に与える振動の面でも劣っていた。特に日比谷線乗り入れが始まって以降はフランジの摩耗や台車枠にキズが入るなどの事象が発生するようになった。また、その構造上保守管理についても、ブレーキ系統は格段に容易になった一方、台車枠が左右別々であることから、組み立て時には専用の作業台が必要になり、位置合わせや車体乗せにあたっては一定の熟練が必要とされるなど、必ずしも日々の保守管理が容易になったわけではなかった。1966年に台車性能の調査のために滑走防止装置と車輪踏面清掃装置をデハ7047とデハ7154に取り付け、ボルスタアンカーの取り付け位置を本来より下げてテストが行われている。デハ7042では通常より支点の低いボルスタアンカーが試作・取り付けられた。 結果的に、本系列以降の東急の車両ではパイオニア台車は7200系と8000系の付随台車として採用されたのみに終わり、8000系のものは1990年から1991年に交換されている。東急車輌が本系列に続いて1962年から製造したオールステンレス車両である京王3000系と南海6000系にもパイオニア台車が装備されたが、いずれも製造途中から異なる形式の台車に変更されている。特に京王3000系は、パイオニア台車の振動特性が電動車には不向きであると判断されたため、電動車のパイオニア台車を別形式の台車に交換し、捻出したパイオニア台車を同時期に新製された車両の先頭車(いずれも付随車)に装備している。 本系列の設計に携わった守谷之男は後年、パイオニア台車の評価が芳しくなかった要因としてアメリカと日本の鉄道のゲージや許容最大軸重など線路条件の違いを挙げている。 パイオニア台車の実績と評価については鉄道車両の台車史#パイオニアIIIも参照のこと。 ===電装部品=== 本系列には日立製作所製の電装品を装備した車両(日立車)と、東洋電機製造製の電装品を装備した車両(東洋車)があり、主電動機定格電圧が異なるなど、大きく異なるシステム構成が採用されたため、連結して運転することは可能であるものの、ユニットを組むことはできないなどの制約があった。1962年製は東洋車のみだったが、1963年以降日立車と東洋車は並行して製造され、電装品メーカーの区別なしに車両番号は製造順に付番された。両社製とも4.0km/h/sと、高い起動加速度・減速度を有しているが、定格速度が低いために最大加速度を発揮する速度域は狭い。駆動装置は中空軸平行カルダンで、歯車比は全車両が85:13 (6.54) と比較的低速向けだが、弱め界磁制御により中速域までの性能を確保しており、日立車は急行運用にも使用されるために高速性能も確保している。設計最高速度は110km/hだが、当時の東横線急行の最高速度は90km/hだった。日比谷線直通に使用された東洋車の弱界磁最終段における1時間定格速度は50km/hで、営団3000系は64km/h、東武2000系は73km/hと、日比谷線で運用される他車車両よりも低かった。出力も60kWと、営団3000系・東武2000系の75kWに比べやや低く、協議の過程で営団側から出力増強の要請もあったが、最終的には加速時間を他車より延ばしてダイヤに乗れるよう取り扱うことで決着した。 ===主電動機・駆動装置=== 主電動機は両社製とも複巻式で、東洋車では東洋電機製造のTDK‐826A。が採用され、8台のモーターを永久直列接続する方式だったことから、定格電圧が187.5Vとなっており、日立車に比べて整流の面で優位性があった。 日立車では日立製作所製HS‐533‐JrbおよびHS‐830‐Arbが採用され、こちらは4台ずつ直並列切り替えする方式で、定格電圧は375V、出力は70kWであった。 ===制御装置=== 主回路制御方式は抵抗式で、1制御器あたり8つの主電動機を、日立車は直並列制御、東洋車は永久直列制御する。 初期の東洋車では6000系と同一のACRF‐H860‐754A形(永久直列14段、弱め界磁4段)が採用された。電動車2両1ユニットに含まれる8台の主電動機を直列に接続し、起動時には抵抗制御を、起動終了後は分巻界磁制御を行うものだった。1963年に入籍したデハ7007以降では、設計変更を加えたACRF‐H860‐757A形が採用された。 日立車ではMMC‐HTR‐10A(直列10段、渡り1段、並列8段、弱め界磁5段)を採用、主電動機を4台2セットで低速時は直列、高速時は並列に接続していた。 両社の制御器では弱め界磁制御の方法が異なり、日立車の弱め界磁は主電動機の分巻回路に抵抗器を挿入するごく一般的な電動カム軸式だったが、東洋車の弱め界磁はサーボモータで駆動する界磁調整器と呼ばれる整流子形の可変抵抗器を使用する。 マスコンハンドルの段数は全車4段で統一されており、第1段目は「起動」、第2段目は「直列制御」で統一されていたが、日立車の第3段目は「直並列制御」なのに対して、東洋車は「直列制御+弱め界磁制御(2段のみ使用)」であり、第4段目も同様に日立車が「直並列制御+弱め界磁(5段すべて使用)」で、東洋車は「直列制御+弱め界磁(4段すべて使用)」である。特に第3段目が大きく異なるのは、東洋車の全界磁定格速度が28km/hと低かったことによる。また、日立車は第3段以上、東洋車は第2段以上で弱め界磁制御のノッチ戻しが可能である。なお、マスコンハンドルは営団3000系や東武2000系と同様、跳ね上げデッドマン式である。この後7200系まで採用される。 ===その他電装品=== ブレーキ装置は6000系で採用された回生ブレーキ併用電磁直通空気式(HSC‐R) を引き続き採用し、1つのブレーキハンドルで電力回生ブレーキも操作できるようになっていたが、日比谷線内では電気ブレーキは発電ブレーキのみとすることが乗り入れ協定で定められていたことから、日比谷線内では回生ブレーキは使用せず、空気ブレーキのみが使用され、中目黒駅で切り替えが行われていた。 パンタグラフは東洋電機製造のPT43‐B形を採用した。すり板は、東横線では長年にわたってカーボン製が使われていたが、営団日比谷線への乗り入れに際し、東横線に在籍していた全車がカーボン製からブロイメット製に交換された。 電動発電機は東洋車ではTDK381‐A形を、日立車ではHG‐533Jrb形を採用した。空気圧縮機はMH80‐C1000形を採用したが、東横線や田園都市線などの駅間距離の関係から、容量を適正化するため、MH80‐C1000形を3000系に移した上でCM515‐A‐1HB1500T形およびD1215‐HS20Gに換装した。 制御器が変更されたデハ7007以降の東洋車のみを乗り入れ対応車とすることになり、デハ7007 ‐ デハ7022およびデハ7025 ‐ デハ7030に乗り入れに必要なWS‐ATCと誘導無線が1964年に取り付けられた。 ===接客設備=== 照明は40ワットの蛍光灯を1両あたり16本装着し、照度の向上を図ったほか、6000系に装備された蛍光灯カバーは装着されず、保守の合理化にもつながった。暖房装置は電圧250ボルト・750ワットの電熱器を座席下に並べる方式とした。発熱体の長さは1個あたり1.5メートルで、座席のどこでも同等の暖房効果を得られるようになった。座席のモケットはエンジ色で、新たにステンレス製のパイプを設置した。 側窓は最初に製造された3編成(デハ7001 ‐ デハ7006)のみ上下の窓をつるべ式につないだ上段下降・下段上昇式で、乗り入れ協定の「側窓の開放寸法は150mm以内かまたは保護棒を設ける場合は下より150, 100mmのピッチを標準とする」との規定に従い、外側に保護棒をつけていた。この3編成はいずれも乗り入れ運用には充当されなかったが、つるべ式の構造は保守管理に難があることから、1978年から1983年にかけて施工された車体更新時に上段下降・下段固定式に改造されている。 それ以外の車両は全て一般的な上段下降・下段上昇式での落成となったが、下窓の開口幅が140mmとなったことから、保護棒は設置されていない。 地下鉄線内を走行する際の騒音を防ぐため、床面にはトラップドアが設けられなかった。 冷房装置の搭載は想定されておらず、7000系としての冷房化は行われなかった。屋根上の通風器は側面に通風口があるバッド社特有の形状で、冬季は開口部に蓋がされていた。車内側は1982年 ‐ 1984年頃にファンデリア(シャンデリア状の換気扇)から扇風機に換装されている。 デハ7001 ‐ デハ7018およびデハ7101 ‐ デハ7106に対し、1978年から1983年にかけてドアと先述の側窓の更新、内装板の張り替えをはじめとする更新工事が施工された。 ===コスト貢献・波及効果=== 1両あたりの価格は在来の車両よりも7 ‐ 8%ほど(製造当時で300万円程度)高額になったが、塗装工程が不要になることから重要部・全般検査では1回1両あたり30万円前後の費用削減(1986年当時の価額)になるなどのランニングコスト削減を通じ、おおむね3 ‐ 4年程度で回収できるとされた。また、外板の更新費用もゼロに抑えることができた。 塗装工程の廃止は車両の検査期間を短縮に貢献し、後に東急の全車両がステンレス製車両となった時点で工場の塗装部門が廃止され、作業環境の向上も達成した。 ==編成== ===形式=== 本系列は全車電動車で、デハ7000形とデハ7100形の2形式で構成される。形式にかかわらず奇数番号の車両と偶数番号の車両で2両1ユニットを組み、偶数番号の車両にパンタグラフと主制御器が奇数番号の車両に電動発電機や空気圧縮機などの補機が搭載された。 デハ7000形 ‐ 制御電動車(Mc)。下り方がM1c、上り方がM2c。デハ7100形 ‐ 中間電動車(M)。上り方がM1、下り方がM2。東洋車・日立車の最終的な製造数および内容は下記の通りである。このうちデハ7003 ‐ デハ7042とデハ7103 ‐ デハ7168の計106両は信託車両として製造され、三井信託銀行または三菱信託銀行の信託車両である旨を記した銘板が車内に設置されていた。 東洋車(92両) デハ7000形 ‐ 42両 デハ7100形 ‐ 50両デハ7000形 ‐ 42両デハ7100形 ‐ 50両日立車(42両) デハ7000形 ‐ 22両 デハ7100形 ‐ 20両デハ7000形 ‐ 22両デハ7100形 ‐ 20両 ===車両一覧=== 下表は、全車両の竣功年と電装品メーカー、他形式へ改造または他社に譲渡された時期の対照表である。 凡例 車両番号 後ろに※印が付いている車両は日比谷線乗り入れ対応工事が施工された車両 番号に下線が付いている車両は1978年から1983年に車内更新が施工された車両 電装品メーカー 東洋:東洋電機製造、日立:日立製作所 新番号 社名がない車両は7700系へ改造されたもの 新番号2はその後改番、譲渡などをされた場合の社名、番号 譲渡された車両は譲渡先と番号を記載。譲渡先での形式などは「譲渡と保存」節を参照。車両番号 後ろに※印が付いている車両は日比谷線乗り入れ対応工事が施工された車両 番号に下線が付いている車両は1978年から1983年に車内更新が施工された車両後ろに※印が付いている車両は日比谷線乗り入れ対応工事が施工された車両番号に下線が付いている車両は1978年から1983年に車内更新が施工された車両電装品メーカー 東洋:東洋電機製造、日立:日立製作所東洋:東洋電機製造、日立:日立製作所新番号 社名がない車両は7700系へ改造されたもの 新番号2はその後改番、譲渡などをされた場合の社名、番号 譲渡された車両は譲渡先と番号を記載。譲渡先での形式などは「譲渡と保存」節を参照。社名がない車両は7700系へ改造されたもの新番号2はその後改番、譲渡などをされた場合の社名、番号譲渡された車両は譲渡先と番号を記載。譲渡先での形式などは「譲渡と保存」節を参照。 ===編成表=== 「+」は先頭車同士の連結部を、「‐」はそれ以外を示す。 ===1985年4月時点の編成表=== 東横線 ←渋谷/桜木町→ 7011‐7128‐7127‐7130‐7129‐7008+7007‐70127013‐7144‐7143‐7142‐7141‐7010+7009‐70147015‐7152‐7151‐7150‐7149‐7042+7041‐70187021‐7170‐7169‐7154‐7153‐7016+7017‐70227025‐7118‐7117‐7116‐7115‐7064+7063‐70267027‐7122‐7121‐7120‐7119‐7062+7061‐70287035‐7148‐7147‐7146‐7145‐7044+7043‐70367055‐7138‐7137‐7058+7057‐7136‐7135‐70567019‐7140‐7139‐7110‐7109‐7108‐7107‐70207029‐7126‐7125‐7124‐7157‐7158‐7123‐7030大井町線 ←大井町 7001‐7102‐7103‐7104‐7101‐70027023‐7114‐7113‐7112‐7111‐70247037‐7168‐7167‐7156‐7155‐70387059‐7160‐7159‐7162‐7161‐70607005‐7106‐7105‐7006+7003‐70047031‐7134‐7131‐7032+7049‐70507033‐7132‐7133‐7034+7039‐70407047‐7166‐7163‐7048+7053‐70547051‐7164‐7165‐7052+7045‐7046出典: ===最後まで目蒲線に残った原型の7000系=== ←目黒/蒲田→ 7017‐7160‐7159‐70367035‐7162‐7161‐70167021‐7170‐7121‐70227061‐7146‐7145‐7028 ===最後まで在籍していた原型の7000系=== ←長津田/こどもの国→ 7057‐7052 ==歴史== 最初の編成は1962年(昭和37年)1月25日に竣功した4両編成であり、編成は東横線の渋谷方から順に7001‐7102‐7101‐7002であった。1月27日には東横線の渋谷 ‐ 元住吉間で試乗会が行われ、国鉄や私鉄関係者が多く参加した。 しばらくは東横線向けに増備が進められていたが、1965年9月以降に入籍した車両の一部は田園都市線に配置されることになり、東横線からの転属分と合わせて36両(2+2の4連5本、4両固定4本)が1966年4月1日の溝の口 ‐ 長津田間開業時に営業運転を開始し、そのうち4両編成1本(7045‐7162‐7161‐7046)が祝賀列車として装飾を施されて走行した。当時は3000系列や5200系、6000系も営業運転を行っており、いずれも分割できる編成は鷺沼駅で分割される大井町 ‐ 長津田間の直通運転に、分割できない編成は大井町 ‐ 梶が谷・二子新地前(現二子新地駅)間の運用に使用されていた。同線で快速列車に使用される際は、赤地に白文字で「快速」と記された種別表示板を先頭部に取り付けて運行した。 東横線では、主電動機の出力が比較的大きい日立車が高速性能に優れていたことから急行列車は日立車を中心に運用され、7200系・6000系・8000系と同様に、急行運用では「急行」と書かれた赤色の種別表示板を取り付けて運行していた。1964年4月1日のダイヤ改正以降は6両編成の急行列車が運転されることになり、本系列6連9本が中心となって運用された。 乗り入れ対応工事が施工された車両は、1964年8月29日に日比谷線との相互直通運転を開始した。関係各社の協議の中で「相互直通は営団と東武,および営団と東急それぞれの間に限ること」という合意があったことから直通列車の運転区間は日吉 ‐ 北千住間とされ、初日には本系列が祝賀列車として装飾を施されて運行された。当初の乗り入れ協定では最大連結両数は6両としていたが、輸送力増強のために1969年から1971年にかけて北千住 ‐ 茅場町間の各駅を8両編成対応にする工事などを施工し、1971年5月31日のダイヤ改正で全列車8両編成での運転が始まった。1978年3月からは青地に白文字で「日比谷線直通」と記されたサボが側面に取り付けられた。本系列は日比谷線開業後も渋谷発着の運用にも充当された。1988年8月9日より日吉駅改良工事に伴い、日比谷線直通列車はこれまでの日吉から菊名まで区間が延伸された。 その後、田園都市線の5両編成化に際して本系列は5両編成は組成できないこと、さらに1977年4月7日の新玉川線開業以降は同線経由で半蔵門線に乗り入れる田園都市線の輸送力増強が必要になったことから、8000系に替わられる形で東横線への転属が進み、1980年と1981年には8連16本と6連1本に組成され、134両全てが東横線に集められた。6連は東洋車4両と日立車2両の混結であった。 翌1982年から、大井町線と改称されていた大井町 ‐ 二子玉川園間の6両編成運転開始に伴い再び同線へ一部が転属、1986年には78両となって東横線の56両を上回ったが、1988年から行われた7700系への改造や1989年3月に4両編成化された目蒲線への転属で同区間の運用を終了した。 1988年の春から夏にかけて、7200系・7600系・7700系・8000系とともに先頭車の前面に赤帯が施された。 東横線では、本系列に代わる日比谷線乗り入れ用車両として製造された1000系が1988年12月26日に営業運転を開始し、直通運用からも順次はずれ、1991年(平成3年)6月3日朝方の営業運転(資料によっては6月7日 )で直通運用を終了した。 なお、目蒲線では1989年(平成元年)3月18日に旧3000系列が営業運転を退いたことに伴い 、翌日から同線は3両編成から4両編成運転とされ、また運用車両として本系列と7700系が配置された。この時点で目蒲線には本系列4両編成7本(28両)と7700系4両編成10本(40両)が配置された。その後、7700系への改造の進行と1991年(平成3年)9月からの1000N’系(1014F以降)の投入の開始により 、1991年9月21日をもって最後まで目蒲線で運用されていた編成(7061F)が営業運転を終了した。 1991年8月25日にはスタンプラリー号として7061Fを使用してさよなら運転が行われ 、渋谷 ‐ 桜木町間を2往復した。先頭車には「スタンプラリー号 7000系ありがとう」のヘッドマークが掲出された。 1989年1月26日にこどもの国線がワンマン運転化され、7057 ‐ 7052の2両編成に対応工事が施されて同線専用となった。この2両はワンマン改造に加え、運転台のワンハンドル化、テープによる放送装置の設置などを行った上で、こどもの国のマークを掲出し、赤・青・緑の装飾がほどこされて営業運転に充当された。こどもの国線の通勤線化に伴って1999年(平成11年)7月31日に横浜高速鉄道Y000系に置き換えられて営業運転を終了し、その後2000年(平成12年)3月20日にさよなら運転として鷺沼 ‐ 中央林間間を2往復した。この2両は本系列で最後まで東急線に在籍していた車両であり、同時に東急の鉄道線用として最後の非冷房車でもあった。 ==他社線での走行実績== ここでは、1960年代に東急の車籍のまま他車線を走行した事例についてまとめる。 ===伊豆急行線への貸し出し=== 1961年12月9日に伊東 ‐ 伊豆急下田間を開業させた伊豆急行線へ、1964年夏、落成直後の6両編成1本が貸し出された。単線トンネルの多い同線では車内を吹き抜ける強風への対策が必要であり、2両ごとに仕切り扉(横引きタイプではなく、蝶番のついた「ドア」であった)が設置されていた。本系列の貸し出しは夏季のみの措置であり、1966年まで貸し出しが行われた。 ===小田急線での走行試験=== 1963年9月28日、落成したばかりのデハ7019・デハ7020の2両がP*10787*台車の高速走行試験のため東急車輌から小田急の大野工場へと送られた。10月1日から走行試験を開始し、翌日からは新宿‐小田原間を最高時速100km/h以上で走行した。ここで得られた成果を踏まえ、小田急4000形の台車にP*10788*706形台車が採用された。 ==譲渡と保存== オールステンレス車両は1両も解体しない東急の方針のもと、7700系へ改造された車両以外は全て他の鉄道事業者などへ譲渡された。秩父鉄道に譲渡された8両と、福島交通に譲渡された2両を除き、デハ7100形には東横車輌(現・東急テクノシステム)で先頭車化工事が施工された。譲渡後の処遇などは各記事を参照のこと。 ===弘南鉄道(7000系)=== 1988年10月から1990年12月までに合計24両が譲渡された。大鰐線に日立車、弘南線に東洋車が配置された。弘南線には先頭車化改造車もある。1997年の弘南線での事故で2両が1999年に除籍された。 ===北陸鉄道(7000系)=== 1990年7月に日立車10両が譲渡された。電機品と台車はJR・西武鉄道・営団地下鉄の廃車発生品を流用したものに交換され、600ボルトへの降圧改造が施工された。地方に譲渡された7000系のうち、台車を振り替えたのは北陸鉄道への譲渡分のみである。原型の先頭車と運転台新設車両の2タイプがあり、譲渡後に冷房化改造された車両がある。 ===水間鉄道(7000系・1000形)=== 1990年8月に東洋車10両が譲渡された。4両が先頭車化改造車で、4両が譲渡時に冷房化された。同時に1500Vへの昇圧が行われ、在来車を全て置き換えた。譲渡された10両中8両が2006年から2007年にかけてリニューアル工事を受け、1000形へ改番された。一方で対象外となった2両は車籍を残したまま水間観音駅の車庫に留置されている。 ===福島交通(7000系)=== 1991年6月24日に750Vから1500Vへの昇圧が行われるのに先立ち、6月中に2両編成5本と3両編成2本の東洋車16両が譲渡された。先頭車は全車デハ7100形を先頭車化改造したものである。一部には冷房装置が搭載され、在来車を全て置き換えた。2001年に福島駅での事故で2両が廃車された。 ===秩父鉄道(2000系)=== 1991年11月と12月に東洋車16両が譲渡された。最後まで目蒲線で運用されていた4連がほぼそのままの状態で譲渡され、外観上の改造は前面の帯が青色に変更される程度だった。非冷房の車両はすでに時代遅れであり、冷房化もされないまま、1999年から2000年にかけて5000系に置き換えられ、2000年2月に全車廃車・解体された。事故廃車を除けば元東急7000系として初の廃車であった。 ===東急車輛製造(→総合車両製作所横浜事業所)=== こどもの国線で運用されていたデハ7057とデハ7052の2両が2000年6月に東急車輛製造に譲渡され、入換車として使用された。その後、自社の発展に貢献した製品を「東急車輛産業遺産」として保存する事業を進めていたが、デハ7052が2009年8月に同社敷地内に開設された「横浜製作所歴史記念館」横で保存された。同遺産への指定は5200系デハ5201に続いて2例目で、現地ではデハ5201と背中合わせで保存されている。地上から電力が供給され、車内灯や標識灯などは点灯させることができる。ただし、東急車輌はこの2両と記念館はいずれも一般公開しない方針としているが、2012年2月に1度だけこの2両を含め「東急車輛産業遺産」が一般公開されている。また、この2両は、2010年5月15日に産業考古学会(JIAS)から推薦産業遺産の認定を受けているほか、2012年8月7日に日本機械学会から機械遺産第51号(2012年度認定分の一つ)の認定を受けた。 =町屋 (商家)= 町屋(まちや)とは、民家の一種で町人の住む店舗併設の都市型住宅である。町家(まちや・ちょうか)ともいう。同じ民家の一種である農家が、門を構えた敷地の奥に主屋が建つのに比べ、通りに面して比較的均等に建ち並ぶ点に特徴がある。経済の発展と平行して商人が資本を蓄積し、明治時代には現在の川越に見られるような蔵造の重厚な建物も建てられ、表通りは華やかな風景が作り出されていた。商人による多大な財の蓄積によって建てられた町屋は全国に残っており、技術的にも意匠的にも日本の住宅の水準の高さを表すものとなっている。 ==概説== 表通りに面して建つ町屋は、職住が同じ建物で行われるいわゆる併用住宅と呼ばれる形式が多く、一般的には商家としての町屋が多く建てられていた。表土間等を構えて出入口とし、奥に居住のための空間を設け、正面と敷地奥を繋ぐ必要のある場合は「通り土間(通り庭)」という通路で表と奥が連絡された。商家では敷地の奥に蔵が建てられ、通り土間によって表側の店土間と連絡される。また、奥の居住用の空間には日常の空間である居間と接客の空間である客間の両方が取られていた。客間は建物奥に造られた庭を望める場所に位置し、最後部に置かれることが一般的であった。台所のかまどや洗い場などの水まわりは通り土間等の後部に設けられ、排水口を後部に設けた。排水溝が表にある場合は表側に台所が設けられることもあった。商家の規模の大きな家では式台玄関の形式を通り土間に面して持つ町屋もあり、店の空間である「みせ」、接客空間である「おもて」、日常生活空間である「おく」の空間構成が比較的にしっかりと区別されている家もあった。 一方、裏通りや敷地の奥の路地に面した場所には、職人の仕事場を兼ねた町屋や住居専用の町屋、複数個の間取りが一つ屋根の下に作られる棟割長屋などが建てられた。住居専用の町屋は住居水準の低い小規模のものや長屋の形式を取ることが多く、これらはほとんどは集住が進んだ街場に建設された。近世には、特に店をやっていない住居専用の町屋を仕舞屋(しもたや)と呼んだ。住居専用の場合、表側に玄関土間を構え、奥を居住用の空間とする構成を取る。仕舞屋は、近世において街場の俸給生活者の住居として広く使われた。 町屋の形式は、主に近世に作られた地割りの影響をよく表していた。近世の町人地は江戸幕府等により町割り(敷地割り)され、通りに面して間口を狭く取り奥行きはほぼ一定で奥に長い縦長の敷地形状を持っていた。これは、間口の広さによって課税がされていたためで、間口を広く構えるには多大な財力を要した。その結果、町屋は敷地の間口いっぱいに建てられ、奥に長い間取りを持つことになった。 ==構造== 通り土間は、表側からの出入口であると同時に奥への連絡路、台所土間という機能を兼ねている。店を持つ商家では商品の一部を並べる店土間を兼ね、通り土間に接して玄関の機能を設けるところもあった。幅はほとんどが1間以上、規模の大きな町屋では3間以上あるところもあり、この場合簡単な作業場を兼ねたと考えられる。 通り土間の奥の通りから見えない位置に台所が置かれ、かまどや流しが置かれた。江戸時代には漆喰で塗り込めた重厚なかまどが作られ、近代には煉瓦が使われることが多かった。江戸では、表側に表土間を設けそこに台所を置く形式が発達し、表勝手や表台所と呼ばれた。近代になってこの表台所が後部に移され、正面に玄関を構える家が増加した過程がみられる。 天井には煙抜けが付けられ、天井を貼らずに小屋組を見せる形式とした。煙抜きは最も高い位置が効率が良く、棟の位置に付けられるものや、屋根面に付けて引き窓とする形式などがあった。これらの窓は、天井から光が入ってくる構造を作り出し、梁組や小屋組などの構造を見せることでその家の普請の水準の高さを表現した。 表側正面には間口を広く取れる大戸が付けられ、奥に蔵がある場合は奥へ荷物を運ぶ都合から、敷居のない跳ね上げ大戸の形式が使われた。正面の大戸は普段は跳ね上げたままにして開けておくことが多く、中が見えてしまうことから、大戸の奥に目隠しの袖壁を柱に付けたり、近代においては格子戸等の中戸が多く用いられた。 狭い敷地に必要な居住面積を確保しなければならなかった町屋は、住居専用の住宅より早く2階化が進んだと考えられている。当初は表側にのみ2階を造り、2階の軒を低くした「つし二階」とする形式であった。つし二階になったのは、藩が禁令によって制限を加えていたためである。つし二階の2階部屋は普通の部屋と比較して天井等の高さが低いため、物置や使用人の部屋などに使われた。時代が下ると、1階の面積と2階の面積がほぼ等しい総二階へと変化し、2階は客座敷として利用された。 江戸時代の町屋には、隣との境の屋根に小屋根付きのうだつをあげて、隣からの延焼を防ぐ構造を持ったものや、塗屋造の町屋で2階の軒下の両側に袖壁を出す袖うだつを持つものもあり、明治に入ってからも地域によっては盛んに使われた。また、近代に至っては耐火性の高い煉瓦が建築材料として使われ、町屋の両側を煉瓦の壁で区切って防火しようとする形式も見られるようになる。 ==歴史== ===古代の町屋=== 平安京では次第に人が集まり都市人口の増加が進んだが、移住者のための宅地がなかった。既存の宅地と道路の境界には、水路を含めれば一番狭い小路でも6尺(約1.8メートル)の幅があったため、塀に寄りかかる形で小屋掛けすることで、道路から全く距離を置かずぎりぎりに建つ住宅が登場した。 また、官設の市以外の商業空間の成立がその普及に拍車をかけた。平安京では、当初商業は西市・東市のみ認められていたが、11世紀初頭には「町座」と呼ぶ商業形態が認められ、市以外の場所でも商売を営むことができるようになった。商売をする上では、客の目を引くようできるだけ道と近い方が有利である。こうして、道路境界に面して家を建てる形式が浸透していった。 平安時代末期の町屋の構造は、『年中行事絵巻』で確認できる。間口2間、奥行き2間で、奥行き方向の前と奥の半間が庇(下屋)になっており、梁間1間となる。屋根は板を吹いた上に丸太材で押さえた素朴な作り方である。柱は地面に直接埋める掘っ立て、表通りに面した壁は腰部分を網代でつくり、その上の高窓には半蔀を設けていた。入口は内開き戸で、のれんが掛かる。入口のところの袖壁の上は竹を縦横に組んだ格子窓であった。そこを入ったところが通り土間である。高窓の内側は床上で、通り土間とは舞良戸で仕切られている。 『信貴山縁起』には地方の町屋が描かれている。町屋のつくりは平安京とほぼ同じだが、住宅が高密に隣接することはなく町屋の間に菜園が設けられていた。 ===中世の町屋=== 室町時代末期の京都町屋は、間口2間、奥行き2間ほどの小さな町屋が一般的であった。通り土間があり、その横の見世(みせ)の表側は空きの広い格子が付けられ、そのかたちは縦横に桟を通した狐格子が多い。平安時代の町屋の窓は半蔀であったから、このような格子が付けられるのは鎌倉時代以降である。その格子の前には京都町屋独特の揚見世が普及し、そこに多くの商品が並べられていた。多彩な見世があり、多くの職人兼商人たちが品物を製作・販売していた。 室町時代末期の平安京の町屋の構造は、『洛中洛外図屏風』で確認できる。屋根の棟には十数本の青竹を丸く束ねたものを飾った。うだつも造られていたが、その小屋根は藁や茅葺きであり防火を目的としたものではなく、屋根の端部を押さえるために発生したと考えられるが、やがて一戸一戸の独立性を表象する装置として定着した。屋根は板葺きであったが平安時代の町屋より進展し、押さえ木(または竹)を縦横に通し丸石を乗せて屋根板の反りや剥がれを防いでいた。 中世固有の町屋として、中土間型の町屋がある。長屋形式の各戸に対して、中央の土間とその左右に居室がならぶ形式で、一つのユニット中に複数の家族が住む。中土間型の町屋は、身分的に従属する別家・手代層や被官層のために建てられた供給型住宅と見られている。 地方における、街道沿いに町屋がならぶ街村形態は鎌倉時代には成立していた。また鎌倉では、門屋や武士の住宅に混じって町屋が建てられていた。 ===近世の町屋=== ====江戸の町屋==== 江戸時代前期の江戸では、メインストリート付近に*10763*葺に混じって瓦葺の町屋が建ち並び、特に交差点に面した家では3階建ての櫓を載せた城郭風の町屋が建てられた。成立期の江戸町は、徳川氏の伝馬・染物・鉄砲・大工などの御用を国役で請け負う代償として、数町単位で町地を拝領した国役請負者が配下の者に屋敷地を分配して住まわせたと推定されており、城郭風町屋は国役請負者の権威を誇示するために建てられたと考えられている。しかし、慶安2年(1649年)に町屋の3階建てが禁止されてからは新築されず、明暦の大火による焼失後は見られなくなった。こうした特別な家を除けば、江戸時代前期にはまだ*10764*葺や板葺が多かった。 町屋の多くは間口1間半、奥行き2間ほどの小さな規模であり、室町時代末期の京都町屋より小規模であった。町屋の多くは中二階で、うだつも造られていた。その店は京都町屋の影響を受けた通り土間形式であり、通り土間の幅は半間ほどの狭いものであった。しかし店の表側は、京都町屋にみる格子はなく全面開口であり、江戸独特の店構えが成立していた。そこでは男女の職人たちが様々な商品を製作・販売していた。表通りの町屋に囲まれた街区の中(裏庭)は広い空間であるが、そこには会所と呼ばれる広場があった。住居や蔵も建てられ、その蔵はむくり屋根の独特のものであった。 初期に同業者町として成立した町には、土間を共有して複数の店舗が一つの町屋に混在する表長屋形式の町屋が建てられていた。しかし、中・後期になると大店が町屋敷を集積して表通りを占めるようになり、こうした表長屋の均質な町並みは次第に姿を消していった。 江戸は火事の多い都市だったが、特に明暦3年(1657年)の大火後、幕府は江戸の防火策に乗り出した。明暦の大火直後、茅葺や*10765*葺の上を土で覆って延焼を防ごうとしたが、耐久性が悪く普及しない。そこで享保5年(1720年)、一時は町人に禁止していた瓦葺や、壁を土蔵のように土で塗り込める土蔵造など、本格的な火事対策を推奨した。また、延宝2年(1647年)に本瓦よりも軽くて安い桟瓦が発明されたことで瓦葺の普及に拍車をかけた。 土蔵造の町屋は防火機能だけでなく、商人の経済力を誇示する建築表現として定着し、大きな箱棟を持つ黒漆喰の重厚な土蔵造が建設された。土蔵造は「店(見世)蔵造(みせぐらづくり)」とも呼ぶように、町屋のみせ機能を特化させたものである。しかし、江戸に土蔵造が普及するのは幕末以降になる。 幕末頃の店蔵は、黒漆喰仕上げの外壁に重厚な屋根と軒蛇腹を持ち、2階の開口部には観音開きの扉か格子を付けた横長の窓を設けていた。下屋庇は板葺きで、出桁造の建物が半数ほどあった。黒漆喰仕上げは「江戸黒」と呼ばれ、白漆喰仕上げより多くの手間がかかるが、表通りの店蔵や袖蔵では好んで用いられた。 城下建設が進むにつれ、上方からも多くの商工業者が江戸に移り住むようになり、伊勢や近江の商人が江戸に進出した。江戸中期になると初期特権商人は姿を消し、それにかわって「現金掛値なし」の店前売りを前面に打ち出した新興商人が台頭する。近江出身の白木屋、伊勢出身の越後屋はその代表で、彼らは本町通りや日本橋通りに巨大な店舗を構え、次第に大店の立ちならぶ景観が形成された。江戸の大店は京都とは異なり、隣接する町屋敷を合併した大規模な屋敷間口を示すものが多く、36間の間口を持つものや15間の間口を持ち屋敷が裏の町境を越えるものなどがあった。こうした大店はほとんどが呉服屋だった。 大店の表側には道路に沿って幅1間の「店下(みせした)」と呼ばれる庇下通りがあり、それにそって「踏込(ふみこみ)」という狭い土間がある。内部は仕切りのない大空間「みせ」が中心にあり、奥には商品や書類などを保管する蔵が林立する。ここには、番頭以下、百数十人の奉公人が厳格な規律の下で働いた。大店の町屋には原則として居住空間はなかったが、住み込みの奉公人たちは2階に寝泊まりした。 上層町人の家では、街区の中(裏庭)に町屋と分離して住居を構えることが寛永期から続いているが、その住居は表通りの町屋とは縁と中庭でつながり、入り口は表通りから路地に入ったところに設けられていた。京都の町屋が大きさに関係なく見世と住居が一体で、住居への専用入口が大きな町屋では表通りに面したところに設けられていたり、あるいは中規模の町屋では客入口と同じ通り土間であることとは大きく異なる。 中後期の中小規模の町屋は、初期の通り土間型ではなく、店を間口全体に広げ表側に奥行き半間ほどの土間を設けた前土間型の町屋が一般的であった。前期の町屋にみられた店の表側の全面開口は変わらず、江戸町屋の特徴は続いている。あまりに広く道に開口しているため、その一部にのれんを庇から地面に掛けた町屋も多くみられた。また、江戸町屋の庇は通常庇柱が立ち、アーケード状の庇下通りを形成した。 江戸の町人地の町割りは、道から道までの内法が京間(1間=6尺5寸、約2メートル)60間で計画された。この正方形の大きさは、平安京の1町の寸法とほぼ同じで、京都を意識して計画されたことが指摘されている。ただし、京都と異なるのは、この正方形の内側を有効に使うため、60間を3等分している点で、このため通りに面する町屋の敷地の奥行きは20間に統一されていたことになる。大店の場合、通り側を店としてその奥に商品を保管する蔵や奉公人の住まいを設けて敷地を目一杯利用したが、多くの場合は通り側に「表店(おもてだな)」と呼ばれる店舗兼住居を建ててその背後に「裏長屋」と呼ばれる長屋を設けた。裏長屋は表店の主人が大家となり、店子に貸し出される借家である。裏長屋へは、2軒の表店の間に設けられた木戸と路地から出入りした。 このように、表店を5間程度の奥行きに抑え、その奥に裏長屋を取る構成はかなり定型化されており、長屋の各戸の間取りも「9尺2間の裏長屋」といわれるように、間口1間半、奥行き2間ほどで土間まで含めた広さ6畳程度が定番である。手前側に設けた土間にかまどと流しを備え、畳敷きの部分は4畳半ほど。裏長屋の各戸は同じ平面で、表店の間口が3間程度なら片側、5間程度なら両側に並んでいた。路地の一角に、便所と井戸が共同で設けられる点も定型で、この井戸は井戸水ではなく神田上水や玉川上水から分岐した、いわば水道水である。 こうした表店と裏長屋の構成は、江戸時代中期に成立したとみられている。江戸の人口は享保年間ですでに100万人を越え、町人はその半分を占めていた。裏長屋は、この巨大な人口を収容するために生まれた、過密都市ならではの住居だった。 ===京都の町屋=== 京都町屋の格子は、室町時代末期の空きの広い縦横の桟で構成された狐格子から、隙間を縮めた竪格子へ変化した。その格子は、全面を竪格子(惣格子)にする町屋と、上半分は竪格子にし下半分を揚見世にする町屋とがあった。格子の組み方にも変化があった。室町時代末期の町屋にみた格子は、同じ幅の縦桟と横桟で組み、縦桟に貫として横桟を通していた。その交点は面一となる。しかし江戸時代後期の竪格子は貫としての横桟を何本か渡し、その上に細い竪格子を空きを狭くして釘打ちする。そのことで縦の線が強調され、美しい竪格子が生まれた。これを京格子という。 近世を通じて京都町屋の2階は大規模な商家以外あまり発達せず、中二階である「厨子二階(ずしにかい)」が一般的だった。2階は納戸や住み込みの使用人の居室として使われた。また、江戸の町屋が2階の壁面が1階より3尺(約1メートル)後退しているのに比べ、京阪の町屋は2階と1階の壁面がそろっており、この形式は「大阪建(おおさかだて)」と呼ばれていた。 京都も江戸と同じく町人の階層分化は顕著であり、間口10間以上の大きな町屋を持つ町人、間口4、5間の一般的な町屋を持つ町人、そして間口1間半から2間の小さな町屋を持ち、または借家をする町人とに分かれており、江戸時代の中頃から分化が進んでいた。しかし、階層分化の中でも一般的な町屋と大きな町屋では従来からの通り土間形式を持続し、見世の部分と住居部分が一体化した間取りを続けていた。そのため、居住部分へは表通りから入るようになっており、江戸の大きな町屋にみるような、路地に回り込んで裏屋の住居へいたるという入り方とは異なっていた。 このように京都の表通りは江戸とは違って、格子の付いた中2階の町屋が立ち並ぶ、落ち着いた町並みであった。これは、京都では中世以来の町共同体による自治が行われており、町屋の表構えの意匠にも厳しい相互規制が加えられていたことによる。 敷地の奥には、離れや付属屋・土蔵などが配置された。京都では土蔵が道側に建てられることはなく敷地の奥に置かれるのが通例で、江戸の土蔵造の町屋とは対極をなしていた。敷地奥に建つ土蔵は町境になると共に、一種の防火帯として機能していた。 ===大阪の町屋=== 大阪の町屋は京都とほぼ同じ形式であったが、通り土間型以外にも前土間型・切り土間型・裏土間型など多様な類型が存在していた。裏土間型は長屋形式のものが多く、大阪で大量に建設された借家建築の存在を示唆している。江戸や京都でも多くの借家が建てられたが、居住者の回転が速い大阪では、地借りの多い江戸とは異なる独特の借家文化を形成していた。 自らは借家に居住して町屋敷経営を行う家主が少なからず存在し、借家に住むことは必ずしも階層の格差を示すものではなかった。また、町屋の建具を取り払った状態で借り主に貸す「裸貸(はだかがし)」と呼ばれるシステムが早くから成立し、現在のスケルトン・インフィルのような、建築の*10766*体と中身を分離してフレキシブルに建築を転用する方法がすでに近世でみられていた。 また大阪では京都に比べて近世を通じて同業者町が多かったことも特徴で、道修町・桝屋町など同業者の店が建ち並ぶ景観も大阪特有のものであった。 ===地方の町屋=== 地方城下町や宿場町、港町、門前町、在郷町などにも多くの町屋が建てられていたが、そこにも地方独特の町屋が成立していた。その間取りは、京都町屋の通り土間形式のもの、江戸町屋の前土間を少し広くしたもの、そしてその二つが融合したものに分かれる。京都に近い地域では京都の通り土間形式が、それより遠隔の地域は前土間形式や融合形式が多い。それらの町屋にも竪格子がみられるが、それは京都町屋の京格子が全国の町屋に広く普及したものである。 ===近代の町屋=== ====質の向上==== 明治に入ると、それまで住宅に対して加えられていた幕府による厳しい建築規制がなくなり、町屋の意匠や建築技術はピークに達した。豪快かつ洗練された吹き抜け空間を持つ明治40年(1907年)築の吉島家住宅(岐阜県高山市)や隣接する明治12年(1879年)築の日下部家住宅のような、大規模な町屋が建設されている。 ===土蔵造の普及=== 明治14年(1881年)2月25日に、東京府知事と警視総監によって防火規則「甲第弐拾七号」が布達された。内容は大きく二つに分けることができ、一つは主要道路に面した建物に対して煉瓦・石造・土蔵造の3種類に改造することで、もう一つは現在の千代田区・中央区の家屋に対して瓦屋根など不燃物質で屋上を葺くことを義務づけていた。この規則は罰則もある厳しいもので、以降は東京が大火に見舞われることはなくなった。また、規制前は2、3割しかなかった土蔵造の町屋の割合が、規制後では100パーセント近くまで達し、明治中期の東京には黒塗りの店蔵が立ちならぶ景観が生まれた。 明治期の店蔵は、幕末頃に比べ板葺きの庇がほとんどなくなった。また、2階開口部の形式が観音開きより格子を付けた横長窓の割合が高くなっている。これは2階の総二階化に伴って、2階に座敷が設けられるようになったためと考えられる。 東京よりもやや遅れて明治の中期から後期にかけて、店蔵や土蔵造の店舗が各地で建設されている。埼玉県の川越市や富山県の富山市・高岡市(山町筋)・伏木町には、大火を契機に黒漆喰仕上げの土蔵造の町並みがつくられた。そして、町並みをつくるほどではないまでも、土蔵造の店舗は明治20年代後半から40年代にかけて全国各地に建設されている。江戸で生まれた店蔵は、土蔵発祥の地である関西地方にも逆輸入されるが、東京のものとは異なり外壁は白漆喰仕上げで通り土間形式であった。 ===総二階化=== 近代に入ると都市に人口が集中し徐々に居住面積が不足したことで、町屋のみならず住宅全般で2階に住居空間を作る家が増加した。また、住宅における間取りの機能分化が進み、複数の部屋が必要になったこともその一因となった。明治に入ると主人の居室と客室が分離され、十分に建坪の取れない都市住宅では客室を2階に取るようになる。1階の床の間つきの座敷と2階のそれを比べると、2階の方が形式が整い規模も大きい。しかも2階の客座敷は次の間とセットになった続き間座敷形式を取っていた。当時は結婚式なども自宅で行っていたため、社会的なつきあいの広い家では多くの人を呼べる広さが必要だった。 また、2階の面積を増大しようとする傾向は、正面の意匠形式をも変えることとなった。1階の正面に下屋が張り出し、2階正面が約半間後退する形式の町屋は、2階面積の増大傾向に伴いこの後退部分も室内に取り込み、1・2階正面を同一面にする形式が造られた。特に敷地を有効に使おうとする長屋の形式を持つ町屋に多く採用されるようになり、1階正面上部には庇が付けられた。この庇は時に道路境界を越えて道路に突出することもあったが、大正8年(1919年)の「市街地建築物法」の制定によって道路境界を越えた1階の庇は付けられないことになった。都市部では、道路ぎりぎりに建物を建てて正面に突出部分を出さない、銅板張りの看板建築が造られるようになり、正面に軒を出す伝統的な町屋の形式は徐々に減少していった。 ===近代化と町屋の衰退=== 普段は商品を蔵にしまっておく座売り販売方式から商品を店頭に並べておく陳列販売方式への移行がおこり、銀座に代表される都市の繁華街ではウインドーショッピングという新しい行動形態が定着する。 また、近代化によるオフィスの登場とそれに伴う大量のホワイトカラー層の出現により、都市部では職と住の分離と核家族化が急速に進み、住むことに特化した住宅地が私鉄沿線に形成された。加えて、同潤会アパートに代表される、立体的な集合住宅も建設されるようになる。 こうした変化において、町屋は不適合なものとして切り捨てられ、徐々に衰退していった。 ===現代の町屋=== 1960年代後半の高度経済成長における活発な建設活動から伝統的な町並みを守るべく、1975年に文化財保護法が改正され重要伝統的建造物群保存地区がスタートする。地方ではゆるやかな資本主義経済の浸透という事情もあって、幕末から明治にかけて形成された町並みはまだよく残っており、この制度によって破壊から救われた町は少なくない。しかし、妻籠宿が映画のセットやテーマパークのような観光地になったように、多くの町並みでは住民の生活や都市的活動との関係がすでに失われている。