=テイルズ オブ レジェンディア= 『テイルズ オブ レジェンディア』(TALES OF LEGENDIA、略称:TOL / レジェンディア)は、ナムコ(現・バンダイナムコエンターテインメント)から2005年8月25日に発売されたPlayStation 2用RPG。『テイルズ オブ』シリーズのマザーシップタイトル(本編作品)第7作目で、シリーズ内で作品ごとに掲示されるジャンル名称は「絆が伝説を紡ぎだすRPG」。 開発はこれまでのシリーズとは異なるスタッフにより新規に編成されたプロジェクトチーム・メルフェスにより行われ、様々な違いから従来作とは全体的な雰囲気を異なるものとしている。ストーリーは「絆」をテーマとしており、街や遺跡を有し島ほどの大きさを持つ巨大な船「遺跡船」を舞台に、主人公の少年セネルがヒロインの少女シャーリィを巡る勢力同士の戦いや2つの種族の対立を描く「メインシナリオ」全7章と、セネルおよびシャーリィ以外のパーティーキャラクターたちに焦点を当てた物語「キャラクタークエスト」全6話が展開される。戦闘システムはこれまでと同じくアクションゲームのような操作性だが、本作ではアクションが苦手でも簡単に楽しめるシンプルなものとなっている。 ==システム== ストーリーは、「目的地への移動」・「敵との戦闘」・「辿り着いた場所で起こるイベント」の3つを繰り返しながら進行する。戦闘シーンやフィールドなどのグラフィックは3Dで描かれており、移動中・戦闘中のキャラクターのグラフィックは4頭身ほどにデフォルメされている。メインシナリオをクリアするとキャラクタークエストに移行し、各地の宝箱の中身が一新され、街では既存のアイテムを組み合わせ新たなアイテムを作り出す「合成屋」や、敵と戦い勝利することで賞金・賞品が得られる「闘技場」がオープンする。ストーリーの進行具合は登場人物たちが付けている日記という設定の「あらすじ」で確認できる。イベントは通常、上記のデフォルメされたグラフィックで進行するが、専用の画面上にて通常の頭身のイラストで表現される「イベントスキット」が挿入されることがある(従来のように自発的に発生させ、キャラクター同士の雑談を楽しむためのスキットは本作では「フリースキット」と呼ばれ、発生の条件が限定されている。こちらが本作での「スキット」とされ、イベントスキットを考慮しない場合もある)。 街と各ダンジョンはフィールドに点在する赤色のワープ装置「ダクト」で行き来できる(ダクトが設置されていないダンジョンへの移動は徒歩に限られる)。ダンジョン内に時折設置されている緑色のダクトは初めて起動させると「パズルブース」に繋がり、ここでのみ使えるアイテム「ソーサラーリング」から出る光線でスイッチに光を灯しパズルブース内のダクトを起動させ、配置されているブロックを移動させてダクトに辿り着かなければ脱出は不可能(プレイヤーが解けないときは仲間キャラクターに解いてもらう選択も可能である)。どのダクトも一度起動させれば以降は自由に使用可能。ダンジョンに存在する紫色の空間「カオティックゾーン」ではエンカウント率が上昇し、名前に「ヌシ」とついた通常より強い敵と遭遇することがある。遭遇した敵を倒せばゾーンは消滅する。ゾーンの先には宝箱が用意されていることが多い。キャラクタークエストで手に入るアイテム「ソーサラースキャナー」は街やダンジョンで使用することで、隠されたアイテムやモンスターを見つけることができる。 ===戦闘=== 本作の戦闘システムは、対戦型格闘ゲームのようにサイドビューの1ラインで戦う従来の基本的な戦闘システム「LMBS(リニアモーションバトルシステム)」と、ナムコの格闘ゲームから採用された戦闘システムを融合させた「X‐LMBS(クロスオーバー・リニアモーションバトルシステム)」。戦闘は「わかりやすく」ということを意識しており、そこから考案された要素として、隣接する敵の背後に回り込む行動「パッシングスルー」や、敵が特殊な行動を取ろうとする際に表示される「コーションシグナル」がある。 本作の術技は、「爪術(そうじゅつ)」と言い、特技・奥義・投げ技・我流奥義を使用する「アーツ系爪術士」と、術を使用する「ブレス系爪術士」がいる。いずれの術技も発動にはTP(テクニカル・ポイント)を消費する。TPは戦闘中1秒ごとに、また戦闘勝利時に一定量自動回復する。従来と違い、戦闘不能になるとHPとともにTPも0になる。術はレベルを上げることによって手に入る「呪文書」に書かれた量の「スカルプチャ」を集めることで初めて使用可能となる。投げ技はセネルとボスキャラクターのヴァーツラフのみが使用でき、通常はダメージを与えられないダウン中の敵にダメージを与えられ、投げた敵がほかの敵に命中すると命中した敵にもダメージを与えられる。セネルは投げ技を複数持っており、敵に設定されている「重さ」に合うものでなければ効果はない。我流奥義は習得した特技・奥義を使い込むことで入手できる「極意」を組み合わせることで使用可能となり、特定の種族以外には効果は薄い(もしくは無効)が大ダメージや状態異常を与えられる。 相手にダメージを与えたり味方がダメージを受けたりすることで溜まる「クライマックスゲージ」を満タンにすることで、敵が一定時間無防備の状態で停止する「クライマックスモード」を任意で発動できるようになる。発動中には味方の状態異常が回復し、敵に当てた攻撃は全て連続ヒットしたものとみなされ、ゲージが多く残っているほど大きなダメージを与えられる連携攻撃「クライマックスコンボ」を繰り出すことが出来る。 その他のシステムとして、「敵キャラクターの残存体力の円グラフによる表示」、敵の周囲に展開され、入ると状態異常や能力低下といった変化を引き起こす円陣「FOE(フィールド オブ エフェクト)」、「術者操作時の特殊操作による詠唱時間短縮」といったものがある。また従来との違いとして「マルチタップ未対応による協力プレイの不可」、「戦闘中の操作キャラクターの変更不可」という点があり、マザーシップタイトル第3作『テイルズ オブ エターニア』以降搭載されていたキャラクターごとの強力な術技「秘奥義」は本作では没となった。 ===料理=== パーティーキャラクターがレシピに基づいて食材を調理し、できた料理を食べることでHP回復などの効果を得られる料理システムは本作では「ブレッドバスケットシステム」と言い、登場する料理は全てパンや調理パン、パンケーキなどである。従来と違いレシピと食材が揃えばいつでも作れるということはなく、特定の場所にあるパン焼き窯でのみ調理可能。料理はバスケットに入れて一定数持ち歩くことができ、バスケット画面を開ける状態ならいつでも食べられる。料理を捨てたり売ったりすることは出来ない。従来作のように1度料理を食べるとキャラクターが満腹になるということはなく、回復が必要な状態なら連続で食べることが可能。レシピは主に遺跡船各地で様々なオブジェに扮しているワンダーパン職人を探し出すことで入手可能。一つの料理の作成個数が一定を超えると同系統のレシピがアレンジとして追加される。アレンジレシピは単に追加食材によるものではなく、アレンジ元の料理に必要だった食材がアレンジレシピには不要なこともある。なお他のシリーズ作品ではキャラクターごとに違う食材を使用したり、「熟練度」の度合により調理に失敗することがあるが、本作では使用する食材は全員共通であり、熟練度が設定されていないため調理の失敗もない。 ===称号=== 特定の条件を満たした際には、「称号」を取得でき、装備画面で変更することで能力値が上昇・下降する。名称は各キャラクター共通のもの、固有のものと様々だが、ストーリーの進行状況に従い取得できるものはキャラクター固有の共通名称が付いている。 ===グレードシステム・衣装変更=== 戦闘中の様々な行動により、戦闘評価が「グレード」という数値として算出される。キャラクタークエストクリア後に保存したセーブデータをロードすると、グレードを消費し次周開始時に「アイテム最大所持数の変更」「最大HPの増減」「術技の引継ぎ」などの特典を得られる「グレードショップ」を利用できる。他のシリーズ作品にはない特典として、戦闘中にパーティーキャラクターの容姿が変わる「コスチューム変更」が存在する。白と青を基調とした衣装「正装」と動物の「着ぐるみ」のどちらかに変更できるが、購入した周の途中でコスチュームを変更したり、元の衣装に戻すことはできない。 ==世界観・設定== 物語の舞台の星には、「水の民(みずのたみ)」と「陸の民(りくのたみ)」という2つの種族が存在する。両者の姿形は似ているが、水の民は水中での呼吸が可能な水生民族で皆金色の髪を持ち、水中で髪が輝くことから陸の民からは「煌髪人(こうはつじん)」とも呼ばれる。水の民の間では「古刻語(ここくご)」という言語が使用され、彼らが苗字の代わりに使用する「誠名(まことな)」も古刻語で表現される。水の民は意思を持つ海「滄我(そうが)」を崇め、滄我の声を聴くことが出来る存在「メルネス」を通じて滄我との意志交感を行い生きている。ほぼ全ての水の民は滄我の力を源とする特殊能力「爪術(そうじゅつ)」の高度な行使能力を持つ。陸の民はいわゆる「人類」であり、水中での生活は不可能で爪術も当初は使えなかったが、本編から数えて50年ほど前から使える者が現れ出した(その理由は不明)。4000年前に起きた大地の半分を海に沈めた災害「大沈下」の影響で陸の民は壊滅的な打撃を受けたが、ゲーム本編の時代では人口を増加させている。逆に水の民は環境の変化により個体数が極端に減少している。 爪術の使用者は「爪術士(そうじゅつし)」と呼ばれる。爪術の使用には滄我との意志交感が不可欠で、意志交感がより強くなると爪術の究極奥義「聖爪術(せいそうじゅつ)」を行使できる。爪術には体内の滄我の力を攻撃とともに放出する「アーツ系」と、使用者を取り囲んでいる滄我の力に働きかけて術を発動させる「ブレス系」の2つの系統がある。水の民が繰り出す精神の結晶体「テルクェス」は広義には爪術とされているが、水の民しか使えないため爪術との位置づけはされていない。 冒険の舞台は海上を進む巨大な船「遺跡船(いせきせん)」。船上は陸地のようになっており、外面は自然で覆われ、遺跡や洞窟なども多数存在している。操舵方法などの機能は存在するものの、使用方法を知る者はいない。物語の始まりから数えて15年ほど前に発見され、調査や遺跡の財宝目当てに訪れた考古学者、トレジャーハンターらが築いた「灯台の街ウェルテス」には陸の民が現在生活している他、各集落にて水の民やラッコのような生物「モフモフ族」も少数ながら住んでいる。正確な大きさは作中では明らかにされないが、設定上は全長120キロメートル、全幅60キロメートル、全高9キロメートルとされる。 ==ストーリー== ===メインシナリオ(第1章 ‐ 第4章)=== 「爪術」と呼ばれる不思議な術の使い手セネル・クーリッジは、金色の髪を持つ少女シャーリィと霧が立ち込める海を漂流中、何かに導かれるように不思議な大地に辿り着く。規模こそ普通の島か大陸のようだが、当たり前のように植物が繁茂し、川が流れる足下は、人工の大地。2人が命からがら漂着したのは、「遺跡船」と呼ばれる巨大な船の上だった。 遺跡船へ漂着した直後、シャーリィは山賊の首領にして魔獣使いのモーゼス・シャンドルに捕まる。シャーリィはセネルや、灯台の街ウェルテスの保安官ウィル・レイナード、騎士の名門ヴァレンス家の娘クロエ・ヴァレンスらにより連れ出されるが、その後も空飛ぶ男ワルターに連れ戻され、彼女をつけ狙うクルザンド王統国の王子ヴァーツラフが率いる軍隊に投降を余儀なくされるなど彼女を巡る追走劇は加速していく。セネルたち一行はトレジャーハンターの少女ノーマ・ビアッティや、紆余曲折の末に協力することとなったモーゼスを仲間に加えつつ、シャーリィを追っていく。ヴァーツラフ軍の捕虜となったシャーリィは、同じく捕まっていた少女フェニモールと親友となる。シャーリィを追う中でセネルは、死んだと思っていたシャーリィの姉にして自身の想い人であるステラが生きていたことを知る。 ワルターは「水の民」の指導者メルネスの力を受け継ぐシャーリィを守るため、ヴァーツラフはシャーリィのメルネスとしての力で遺跡船の兵器をコントロールしようとするため、彼女を追っていた。ヴァーツラフの野望を阻止するためにセネルたちは水の民の長マウリッツの協力を得て、新たに情報屋の少年ジェイも仲間に加える。セネルたちはヴァーツラフを倒し、遺跡船の動力源として使用されていたステラを救い出すが、ヴァーツラフは最期に遺跡船に搭載された主砲「滄我砲」を発射させ、彼の祖国クルザンドと交戦状態にある聖ガドリア王国を攻撃しようとする。ステラは最後の力を使い滄我砲を食い止め、セネルとシャーリィに見守られながら息を引き取る。 ===メインシナリオ(第5章 ‐ 第7章)=== シャーリィは、ステラの死をきっかけに、メルネスとなるための「託宣の儀式」を行うことを決意する。儀式の最中に陸の民の軍人が現れ、シャーリィを滄我砲発射の犯人であるとして拘束及び殺害しようとし、シャーリィを庇いフェニモールが殺される。多くの仲間を殺され敵対を表明されたことでシャーリィは戦いを決意。必要となる契約を交わしメルネスとして覚醒する。力を取り戻したシャーリィは陸の民から意思を持つ海「猛りの滄我」の力である爪術を取り上げ、マウリッツやワルターとともに、契約通りセネルたち「陸の民」を滅亡させるため行動を開始する。爪術を取り上げられたセネルたちは遺跡船の地下に広がる空間「静の大地」に辿り着き、以前からいつの間にかついてきていた記憶喪失の女性グリューネを正式に仲間に加える。 セネルたちは静の大地に存在するもう1つの滄我「静の滄我」にある光景を見せられる。それは遺跡船と水の民が宇宙からやってきたところ、4000年前の陸の民と水の民の争い、そしてメルネスが陸の民を滅ぼすため遺跡船の大陸造成装置「光跡翼」を使用し、世界の半分を海に沈めた大洪水「大沈下」を起こす場面だった。セネルたちはこのことから、マウリッツたちが大沈下を再現し陸の民を滅ぼそうとしているという予測を立てる。静の滄我の力を借りて爪術を復活させたセネルたちはシャーリィの元へ向かう。 マウリッツとの会話からセネルたちは、宇宙から飛来し光跡翼を用いて海しかなかった世界に陸地を作ったのが、水の民ではなく陸の民だったことを知る。仲間たちは「自分たちの先祖が来なければ何も起きなかった」と考え項垂れるが、セネルは前へ進みシャーリィに自身の想いを伝え、2人は互いの心を通わせる。水の民を代表するシャーリィが陸の民との共存に踏み切ったことで、陸の民の滅亡は回避された。しかしシャーリィを裏切り者と見なしたマウリッツが滄我の力を取り込み光跡翼を発動させようとする。メルネスではないマウリッツが滄我を取り込んだことで彼は暴走し異形の姿に変貌するが、セネルたちに倒され元の姿に戻る。シャーリィが陸の民を受け入れたことで、猛りの滄我もまた陸の民を許したことを知ったマウリッツは陸の民への憎悪をなくし、彼らとの共存を決意する。陸の民と水の民は少しずつ和解への道を歩み出し、遺跡船に平穏が戻る。 ===キャラクタークエスト=== 遺跡船の平穏な日々が続く中、謎の魔物を生み出す黒い霧を目撃したセネルたちは遺跡船に何かが起きていると感じる。そんな中、セネルの仲間たちの回りで様々な事件が起こる。 ウィルは娘ハリエットとの親子関係に悩んでいたが、亡き妻アメリアとの思い出を語り合い少しずつだが和解していく。ノーマは師匠スヴェンが追い求めていた秘宝「エバーライト」を見つけ出す。クロエは両親の仇との決着を付ける。モーゼスは魔獣の避けられぬ運命「野生化」で魔物へと還っていくパートナーのギートとの絆を確かめ合う。ジェイは自身を苦しめてきた育ての親ソロンと決別する。 これら全てに黒い霧はかかわっていた。ソロンを倒した直後、黒い霧が女性の姿を取って現れる。彼女と出会ったことで記憶を取り戻したグリューネはセネルたちに、自身と黒い霧から現れた女性シュヴァルツが太古の昔から様々な世界の存続と破壊を巡り争いを続けている神のごとき存在であることを明かす。セネルたちは自分だけで決着を付けようとするグリューネに協力するため彼女を説得する。セネルたちはシュヴァルツへの対抗手段として、猛りの滄我の力を借りることを思いつく。猛りの滄我の力を受け取ったセネルたちはシュヴァルツと対峙するが、シュヴァルツは負の感情そのものである黒い霧を操って人々の負の感情を煽り力を増していく。しかし滄我に爪術を与えられた人々が黒い霧を跳ね除けたことでシュヴァルツは負の感情の力を得られなくなり、セネルたちは弱体化したシュヴァルツを消滅させる。 シュヴァルツが消滅した直後、グリューネの体も消滅を始める。二柱の女神は同じ存在であり、一方の消滅はもう一方の消滅も意味していたのである。仲間たちは嘆き悲しむが、グリューネは仲間たち1人1人に優しい言葉をかけ、自分がいなくてももう大丈夫だと諭す。「皆とは笑ってお別れしたい」というグリューネの願いを聞き届けたセネルたちは笑顔で彼女を見送る。グリューネは笑顔を返して空に消えていき、セネルたちはグリューネの言葉を胸に刻んで未来へ歩き出す。 ==登場キャラクター== 一部のキャラクターの名前は文学者および文学作品にちなむ。名前の決定には音の響きが重視されており、由来になった作家や登場人物とキャラクターに関連はない(ただしスヴェンは「例外かも」とコメントされている)。他作品への登場などについては#他のシリーズ作品との関連を参照。 ===パーティーキャラクター=== ====セネル・クーリッジ (Senel Coolidge)==== 声 ‐ 鈴村健一本作の主人公。職業は、沿岸を魔物や犯罪者から警護するマリントルーパーで、顔にはその証である模様が刻まれている。性格は生真面目で他人と必要以上に関わろうとしないが、大切に想う存在に対しては強い執着を見せる。最愛の女性であるステラから妹のシャーリィを守ることに固執しており、彼女が関わる情勢に過剰なまでに干渉することが多いが、キャラクタークエストでは自立している彼女を受け入れて、行動するのではなく黙って見守れるようになる。かなりの寝ぼすけであり、階段から転げ落ちても起きない。勘は鋭いが女心には非常に疎い。全体的にメインシナリオでは荒々しく、キャラクタークエストでは落ち着いた態度となっている。生まれはクルザンド王統国で、戦災孤児だったところをヴァーツラフ軍に拾われ兵士として育てられる。初めての任務であるメルネスの誘拐のためシャーリィとステラに近づいたが、2人の優しさに触れクルザンドを裏切る。その後シャーリィと共にヴァーツラフ軍から逃げていたところ遺跡船に流れ着き、そこから世界の命運をかけた戦いに巻き込まれていく。武器はリスト(ガントレットやナックルの総称)で、体術主体のアーツ系爪術士。HP・攻撃力・防御力・命中が高い接近戦向けのキャラクター。「魔神拳」のような飛び道具での攻撃もあり、遠距離からでも戦える。また打撃系の技に加え、ダウン中の敵に攻撃できる「投げ技」を使用可能。主力は発生が非常に早い通常攻撃であり、通常攻撃時の「ふっ、はっ、くらえ」という戦闘ボイスが耳に残る人は多いという。名前はキューバの作家セネル・パス(es)から。 ===シャーリィ・フェンネス (Shirley Fennes)=== 声 ‐ 広橋涼本作のヒロイン。セネルを兄と呼び慕う一方で好意を抱いていたが、彼に対する姉ステラの想いも知っており踏み出せずにいる。おとなしいが、これと決めたことは譲らない芯の強さがある。また市民に対して献身的で、困っている人間を見捨てることが出来ない優しい性格だが、それ以上に同族への強い忠誠心を持っており、彼らの力になるべく辣腕を振るい、彼らと共に侵攻を受けたことで陸の民と敵対する。水の民の指導者「メルネス」として生を受けるが、メルネス覚醒の儀式に失敗したため、生来の爪術を使えなくなり、海水や潮風に当たると体調を崩し真水に浸かれば回復する、という体質となったが、後に再び儀式を行いメルネスとして覚醒したことで症状は消えた。メルネスと目されていることから様々な人物に目を付けられ、身柄を移していく彼女をセネルの元へ連れ出すことがメインシナリオの目的となっている。上記の理由から本格的にパーティに参加するのはメインシナリオクリア後のキャラクタークエストからとなっており、全キャラ中最も加入時期が遅い。戦闘時には羽ペンを用いてテルクェスを描き発射して攻撃する他、ブレス系爪術も行使する。彼女の爪術は全て古代呪文という扱いで、ウィルやノーマと同名のブレスでも消費するTPと威力が大幅に増加しており演出も多少異なる。誠名「フェンネス」は古刻語で「祈る人」の意。名前はイギリスの作家シャーロット・ブロンテの『シャーリー』の登場人物から。 ===ウィル・レイナード (Will Raynerd)=== 声 ‐ 千葉進歩ウェルテスで保安官を務める博物学者。生真面目な性格で街の住民に慕われており、パーティー内でも年長者として頼りになる存在。仲間の和を乱す者や、自身をオヤジ扱いするノーマには容赦なくゲンコツをかます。珍しい魔物を見ると博物学者としての血が騒ぎ、平静でいられなくなる。聖リシライア王国の貴族令嬢だったアメリア・キャンベル(声 ‐ 豊嶋真千子)と恋に落ち遺跡船へ駆け落ちし娘のハリエット・キャンベル(声 ‐ 斎藤千和)を授かるが、ウィルを残し2人は国へ連れ戻され、元から病弱な体質だったアメリアは数年後に病死。以降ハリエットとは会っておらず、再会後も親としてどう接すればいいのか分からず戸惑っていたが、和解後は親子として共に暮らし始め、その距離を縮めつつある。また、ハリエットの料理を「この世のものとは思えない不味さ」と称しながら平らげたり、「ハリエットを嫁に貰おうとする男を殴る」のが夢だったりと親バカにも目覚め始めた。街で問題行動を起こしたセネルを牢に閉じ込めていたが、シャーリィを追おうとするセネルを見たミュゼットに諭され、セネルと行動を共にすることとなる。ブレス系爪術士に似合わず筋肉質な体躯をしており、戦闘ではハンマーを振り回してアーツ系のセネルを唸らせた。雷系を中心に多数の攻撃系ブレスを習得する。また、単体回復や状態異常の解除も可能。名前はイギリスの作家ウィリアム・シェイクスピアから。ハリエットの名前はイギリスの作家アン・フィリッパ・ピアスの『トムは真夜中の庭で』の登場人物から。 ===クロエ・ヴァレンス (Chloe Valens)=== 声 ‐ 浅野真澄5年前に取り潰された、聖ガドリア王国の名門ヴァレンス家の令嬢にして騎士。正義感が強く、困っている人を助けずにはいられない性格だが、後先考えずに行動するためミスを犯すこともある。口調はやや男勝りで、常に毅然とした態度を取っているが、年頃の少女らしく可愛らしい一面や、「泳げない」という弱点も見せる。例外を除き男性を苗字で呼ぶ。セネルに恋心を抱いているが、自分が仲間の1人としてしか見られていないことを気にしている。5年前に両親を殺害され、家が取り潰される原因を作った「腕に蛇の入れ墨をした男」を探して遺跡船にやって来た。シャーリィが山賊に捕まったことを聞き、山賊を討伐すべく独自に行動していたが、道中でセネルとウィルに合流し、行動を共にするようになる。騎士となる前は白いドレスと長い髪のいかにも深窓の令嬢と言った出で立ちだったが、騎士になる際に長い髪を切り落としている。剣技を主体とするアーツ系爪術士。体力と防御力が低いのが難点だが、ヒット数の多い技を数多く覚えるため、コンボを決めて相手の動きを止める役に適している。名前はフランスの作家ボリス・ヴィアンの『うたかたの日々』の登場人物からで、シナリオ担当の田中豪は「音の響きが気に入り、いつか使おうと思っていた」と述べている。公式サイト「テイルズチャンネル」にて実施された第2回「『テイルズ オブ』キャラクター人気投票」では8位にランクインし、本作から唯一の10位以内入りとなった。 ===ノーマ・ビアッティ (Norma Biatty)=== 声 ‐ 水橋かおり秘宝「エバーライト」を探すトレジャーハンターの少女。前向きな性格でパーティー内におけるムード(トラブル?)メーカー。モーゼスと共に掛け合いを繰り広げ、グリューネとはいいコンビ関係を築く。シリアスな雰囲気などを嫌う性格から、無理矢理にでも笑いや活気を導こうとする。脳天気かつおチャラけた態度を取っているが人知れず努力を重ねており、古刻語習得のために膨大な量の研究ノートを記している。金に対する執着心が強い他、理想とかけ離れている自分のスタイルを嘆いており、グリューネやクロエのことを羨ましがっている。敵味方関係なく独自のあだ名で呼ぶが、センスのなさから周りには呆れられている。家出中に出会ったトレジャーハンタースヴェン(声 ‐ 浜田賢二)の薦めで勉学に励んでいたが、エバーライトの探索中に消息を絶った彼の意思を継ぐため休学し単身遺跡船に乗り込む。その後出会ったシャーリィのブローチにエバーライトの可能性を見出し、セネルたちと行動を共にするようになる。ノーマとスヴェンの師匠であるザマラン(声 ‐ 丸山詠二)がいる。パーティーで唯一全体回復魔法および蘇生魔法を覚えるブレス系爪術士。武器は毒液のシャボン玉を吹き出すストロー。名前はアメリカの文学者ノーマ・フィールドから。スヴェンの名前は探検家スヴェン・アンダシュ・ヘディンから。 ===モーゼス・シャンドル (Moses Sandor)=== 声 ‐ 中井和哉遺跡船にアジトを持つ山賊の首領にして魔獣使い。左目に眼帯をしている。広島弁をベースにアレンジされた独特の訛りで喋り、気合を入れる際や興奮した時には「ヒョオオオオオオ!」という雄叫びを上げる。人情に厚く手下たちにも慕われている。がセネル達はノーマとはまた違う意味でのトラブルメーカーなため、度々衝突したり、ハズレくじを引かされる、またノーマとは別にあだ名のようなもので他者を呼ぶ。大陸西部にある魔獣使いを多数輩出する部族の長の家に生まれたが、最強のガルフと恐れられるグランドガルフのギート(声 ‐ 増谷康紀)をパートナーに選んだことにより、モーゼスを慕うチャバ・ライク(声 ‐ 西脇保)らとともに部族を離れることとなる。究極の爪術である聖爪術に執心しており、それを得るためのカギであるメルネスとされるシャーリィを攫うが、その後ヴァーツラフ軍に仲間を傷つけられたことから、仇打ちのためセネルたちと共闘する。投げ槍を扱うアーツ系爪術士。特技から奥義への連携を苦手としているため使いにくいという印象があるが、技は攻撃力が高いものが多い。名前はルーマニアの作家モーゼス・ガスター(en)から。 ===ジェイ (Jay)=== 声 ‐ 白石涼子「不可視のジェイ」の通り名を持つ情報屋の少年。気になったことは確かめないと気が済まず、得意なことが他人と重なるのも気になる性格。容姿は小柄で中性的だがかなりの皮肉屋で、気に食わない相手には慇懃無礼に接する。情報屋としての能力は自身の忍者としての技術やモフモフ族の協力によるもの。企てた作戦をモーゼスによって台無しにされて以来彼に対して嫌味を言うなど不仲であったが、打ち解けるうちにからかいあうようになる。大陸東部の王国の王子だったが両親に捨てられる。後に忍者ソロン(声 ‐ 島田敏)に拾われ彼に道具として育てられ忍術を学んでいたが、遺跡船にてある軍隊を相手にした際に囮として一人取り残された時を境に彼の傍から離れ、現在は傷ついた自分を介抱してくれたモフモフ族と暮らしている。自分を救ってくれたモフモフ族を大事に想っており、対ヴァーツラフ軍戦においてセネルたちと共闘しようとする彼らを留まらせるため、不本意ながら自身が戦列に加わる。小刀を携帯し、素早い立ち回りを利用しての体術や忍術を利用するアーツ系爪術士。地面から様々な属性の攻撃を発生させる特技を持つ。名前はアメリカの作家ジェイ・マキナニーから。 ===グリューネ (Grune)=== 声 ‐ 川澄綾子自分の名前以外の記憶を失っている女性。記憶がないことに落ち込むことはなく常に微笑みを浮かべており、マイペースな言動で周囲の人間を和ませる。天然ボケであり、のんびりとした雰囲気は何が起きても崩れない。プロポーションはノーマに絶賛され、カーチスにも素材のよさを認められている。「人食い遺跡」の最奥で眠っていたところをセネルたちに介抱され、以降いつの間にかついてくるようになる。正体は「時の紡ぎ手」と言われる世界の存続と繁栄を司る女神。虚無と破壊を司る女神シュヴァルツ(声 ‐ 川澄綾子)から世界を守るために降臨したが、自身の力の影響によって世界の均衡が崩れることを恐れ、自ら力の大部分を封印し、その際に記憶も失った。記憶を失って以降の性格は元の性格とは似ても似つかぬもので、記憶を取り戻した後には自身が付けていた日記(あらすじ)の文章の違いに驚いている。戦闘では水瓶を鈍器のように使用し、呪系と海系を中心に攻撃呪文のみのブレス系爪術を習得する。シナリオ担当の田中豪はマザーシップタイトル第1作『テイルズ オブ ファンタジア』や同第3作『テイルズ オブ エターニア』でゲスト出演していた『ワルキューレの冒険 時の鍵伝説』のワルキューレを正式なパーティーキャラクターとして本作に登場させたいと考えたことがあったが、このアイデアはプロデューサーに一蹴された。そこで形を変えて生まれたのがグリューネであり、イメージカラーが緑であるところなどに片鱗が残っている。またシュヴァルツは「ワルキューレにはブラックワルキューレというライバルがいる」という図式を踏襲して生まれたキャラクターである。 ===水の民=== ====マウリッツ・ウェルネス (Maurits Welnes)==== 声 ‐ 大友龍三郎水の民の長老的存在。同じ里に暮らしていたシャーリィ、ステラ、ワルターに誠名を付けた。温和そうに見える通り普段の物腰は穏やかだが、戦場においては非情な状況でも必要戦力を維持する高い指揮管理能力を発揮し、暮らしていた里がヴァーツラフ軍による襲撃を受けてからは、行方不明となったシャーリィの捜索と、ヴァーツラフ軍攻略に向け、部下を率いて情報収集に努めた。セネルの下にいるシャーリィの所在を突き止めてのち本格的に活動を開始。軍の追跡からセネル達を救出後、ウィルを通じて聖レクサリア皇国軍を動かし共闘戦線を実現させ、ヴァーツラフ軍を攻略した。その後、再び水の民の利用・殲滅を目論む陸の民から襲撃を受け、シャーリィがメルネスとして覚醒してのち陸の民への抗戦に乗り出す。光跡翼最深部にてシャーリィが陸の民の保護に動き出した際、自らが大沈下を起こすべく滄我を取り込んで「ネルフェス」となり、メインシナリオの「ラストボス」としてセネル達と戦う。滄我の怒りが鎮まったことで戦闘は終結し、その後は陸の民との共存を望む滄我の願いに共感。キャラクタークエスト以降も水の民のまとめ役として、外交に従事するシャーリィと共に共存を推し進めるようになる。誠名「ウェルネス」は古刻語で「大いなる知性」の意。 ===ワルター・デルクェス (Walter Delques)=== 声 ‐ 櫻井孝宏シャーリィの親衛隊長となるはずだった水の民の青年。それ故に努力し続けてきたが、セネルにその立場を奪われてしまったため、彼に対して激しい敵愾心を抱いている。責任感はあるが協調性がなく、同族との間でも馴れ合いを好まない。シャーリィのメルネス覚醒後セネルたちと対峙するが、敗北後も怪我を押して戦いを挑み続け力尽きる。誠名「デルクェス」は古刻語で「黒い翼」の意(「漆黒の翼」とも)。シナリオ担当の田中豪によると「仲間になりそうで絶対にならない」という立ち位置のキャラクターで、プレイヤーからは「仲間になって欲しかった」という声が上がっていた。小説『誓いの星』では彼がクローズアップされている。 ===ステラ・テルメス (Stella Telmes)=== 声 ‐ 園崎未恵シャーリィの実の姉で、セネルのかつての想い人。ある事件を境に消息を絶ちセネルからは死んだものと思われていたが、実際はヴァーツラフに攫われ遺跡船の動力源として使われていた。しかし精神を遺跡船と同調させることで遺跡船そのものとなり、セネルを遺跡船へ導き彼の危機を何度も救っていた。最終的には水の民・レクサリア皇国連合軍の手により解放されたが、ヴァーツラフが作動させた滄我砲をテルクェスを用いて阻止したことで力を使い果たし命を落とす。誠名「テルメス」は古刻語で「始まりの星」の意。 ===フェニモール・ゼルヘス (Fenimore Xelhes)=== 声 ‐ 小清水亜美テューラの双子の姉。ヴァーツラフ軍に捕らえられ、人体実験を強いられている際にシャーリィと出会う。陸の民と共にいるシャーリィを憎んでいたが徐々に打ち解けていき親友となり、怒りや懐疑の目を向けていたセネルに対しては密かに想いを寄せるようになる。託宣の儀式の最中、聖ガドリア王国の騎士の攻撃からシャーリィを庇い死亡。誠名「ゼルヘス」は古刻語で「祝福」の意。 ===テューラ・ウェルツェス (Thyra Welzes)=== フェニモールの双子の妹。「陸の民に苦しめられた水の民の市民」側として、水の民でありながら陸の民と共存しようとするシャーリィに辛辣な言葉を浴びせる。しかし彼女の優しさに触れて少しずつ心を開いていき、劇中では描かれなかったがその後シャーリィの新たな友達となったと思われる。誠名「ウェルツェス」は古刻語で「希望」の意。この姉妹には「『マジカルフェニモール』と『ミラクルテューラ』という双子の魔女っ娘」という設定の台詞・イラストが存在するが、没となっている。なおその設定によるとフェニモールはブレス系、テューラはアーツ系爪術が使えることになっている。 ===その他のキャラクター=== ====フェロモン・ボンバーズ==== 灯台の街ウェルテスにて歌と踊りを披露するユニット。「人類皆兄弟」を信条とする、自称街の顔役エド・カーチス(声 ‐ 稲田徹)と相棒のイザベラ・ロビンズ(声 ‐ 水城レナ)の2人で構成される(時折現れるダンサーやバックコーラスは正式なメンバーではない)。ユニットとしての活動は源聖レクサリア皇国近衛軍総司令およびその副官という正体を隠すためのもので、遺跡船に陣取り他国の牽制を行っている源聖レクサリア皇国聖皇陛下ミュゼット(声 ‐ 北浜晴子)の護衛も担っているが、本業はそっちのけでユニット活動を行っている。イザベラの名前はチリの作家イザベル・アジェンデから。 ===敵キャラクター=== ====ヴァーツラフ・ボラド (Vaclav Bolud)==== 声 ‐ 小杉十郎太クルザンド王統国の第三王子にして、独立師団を率いて戦場に立つ武将。長兄が王座を継ぐ慣わしに納得せず、兄を蹴落とし次期国王となるため、クルザンドと交戦中の聖ガドリア王国を滅ぼさんとメルネスの行方を捜索し、水の民を捕獲しては人体実験を繰り返していた。傲慢な性格で、常に人を見下した態度をとる。体術主体のアーツ系爪術士で、敵キャラクターでは唯一投げ技を使う。第四章終盤でセネル達と交戦し、敗退するも最後の悪足掻きで聖ガドリア王国に向けた滄我砲の発射スイッチを押し、息絶える。結果として滄我砲は発射されるもメルフェスの力を解放したステラにより、滄我砲の軌道は逸れて失敗に終わる。 ===トリプルカイツ=== ===ヴァーツラフ直轄のクルザンド王統国独立師団幹部である閃紅のメラニィ(声 ‐ 佐藤ゆうこ)、幽幻のカッシェル(声 ‐ 高戸靖広)、烈斬のスティングルの3人の総称。「彼らの部隊が参戦すれば勝利が約束される」とされるほどの実力者で、ヴァーツラフからも信頼を得ている。 スティングル (Stingle) 声 ‐ 大場真人 トリプルカイツの幹部で、アーツ系爪術士。5年前に傭兵として独立師団に加わって以来、大剣を振るい幾度となく戦功を重ね、トリプルカイツに名を連ねた。クロエの両親を殺害した張本人で、使っている剣はクロエの父親の形見。 本名はアーノルド・オルコットで、一人娘であるエルザ・オルコット(声 ‐ 鎌田梢)の患う病気を治療する方法を模索するためヴァーツラフ軍で名を偽り行動していた。クロエの両親を殺害するなど数々の所業も治療の関係で大金を要したためである。スティングルとしてセネルたちとの戦闘に敗れた後、逃亡し行方をくらませていたが、キャラクタークエストにてエルザを伴い、素顔の薬剤師として再び姿を現す。キャラクタークエスト・クロエ編でクロエと再び相対するが、後に和解。=== ===スティングル (Stingle)=== 声 ‐ 大場真人トリプルカイツの幹部で、アーツ系爪術士。5年前に傭兵として独立師団に加わって以来、大剣を振るい幾度となく戦功を重ね、トリプルカイツに名を連ねた。クロエの両親を殺害した張本人で、使っている剣はクロエの父親の形見。本名はアーノルド・オルコットで、一人娘であるエルザ・オルコット(声 ‐ 鎌田梢)の患う病気を治療する方法を模索するためヴァーツラフ軍で名を偽り行動していた。クロエの両親を殺害するなど数々の所業も治療の関係で大金を要したためである。スティングルとしてセネルたちとの戦闘に敗れた後、逃亡し行方をくらませていたが、キャラクタークエストにてエルザを伴い、素顔の薬剤師として再び姿を現す。キャラクタークエスト・クロエ編でクロエと再び相対するが、後に和解。 ==開発・スタッフ== 企画の発端は「シリーズをナムコの格闘ゲーム部門が作ったらどうなるか」という期待からだった。そのため、ナムコの格闘ゲーム「鉄拳シリーズ」や「ソウルシリーズ」のスタッフが参加し、格闘ゲームではないが「エースコンバット」や「リッジレーサー」の開発に携わったメンバー、さらにプロデューサーの豊田淳をはじめマザーシップタイトル第3作『テイルズ オブ エターニア』のストーリー周りなどを作っていたスタッフが参加し、これらのスタッフによって新規に編成されたプロジェクトチーム・メルフェスにより本作は開発された。 制作は『テイルズ オブ エターニア』の後に始められた。開発ラインはマザーシップタイトル第4作『テイルズ オブ デスティニー2』および第5作『テイルズ オブ シンフォニア』のラインと同時に動いていたため、キャラクターデザインもゲームの方向性も異なっている。明確な開発期間は不明だが、『ファミ通PS2 vol.185 2005年3月11日号』での発表の時点で3年以上前から制作が行われていたこと、2012年がプロジェクト立ち上げ10周年であることが明かされている。 シナリオは田中豪と松元弘毅によるシナリオ作成チーム「Romancework」による。田中は絆というテーマを掲げ、「誰かが誰かに向ける想いが繋がって絆が生まれ、それがいくつも重なりあうことで大きなうねりを生み出す」ということの過程を描きたいと思ったと述べている。本作のテーマを絆とするにあたり松元は「絆とは何か」をまず考え、それについて「人と人の間に生まれるもの」という結果を出し、それを表現するにはキャラクター1人1人を丁寧に描かなければならないという考えに達し、主人公とヒロインのストーリーの他に、パーティーキャラクターごとのストーリーであるキャラクタークエストを描くこととなった。デザインの統括は過去に「エースコンバットシリーズ」に参加した鈴木隆晴により行われ、鈴木は遺跡船を「見た目は島だが船のよう」と思って貰えるようデザインした。 戦闘システムにはゲームデザイナーとして『デス バイ ディグリーズ』に参加した加藤正隆、本作が初プロジェクトの吉村広、杉山高尚、バトル・メインプログラマーに本作が初プロジェクトの松本欣之、バトル・プログラマーとして『鉄拳3』の本多良行、デザイナーとして『ソウルキャリバーII』の田宮清高などがかかわっている。 スタッフにファンがいたことから、キャラクターデザインには中澤一登が起用された。アニメーション制作は従来と同じくProduction I.Gで、当時は『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』の制作で多忙だったというが、「ぜひやらせて欲しい」と答えられたという。なお、同じく従来作でアニメーションパートの作画監督としてかかわってきたアニメーター松竹徳幸は本作には不参加で、本作では亀井幹太が担当。そのほかアニメーションパートには結城信輝やうつのみや理、スタジオジブリなど、シリーズ初参加の人物や企業が名を連ねている。 ===音楽=== BGMには、前作『テイルズ オブ リバース』までのシリーズ全てを担当してきた桜庭統と田村信二ではなく椎名豪を初起用。まず核となる曲を作り、そのメロディを様々なところに使用するという手法を取っている。また同じメロディに異なるアレンジを加えるなどの手法を取ることで、キャラクターの曲、マップに付随する曲、戦闘曲の3つが綺麗に混ざるようにしている。作品独自の言語「古刻語」を使用したボーカル曲が多数存在し、挿入歌「蛍火」やエンディングテーマ「My Tales」は椎名が作曲だけでなく作詞も行っている(「My Tales」の英訳は別人による)。一部の曲は新日本フィルハーモニー交響楽団が演奏しており、壮大なストーリーを一層盛り上げている(その他の曲はナオトストリングスによる)。 BGMは高い評価を受け、2007年に開催されたエミネンス交響楽団によるゲーム音楽のオーケストラコンサート「A Night in Fantasia 2007: Symphonic Games Edition」にて本作の曲が演奏され、日本を代表するゲーム音楽のコンサート「PRESS START」(2009年)に本作のタイトル画面などの曲「melfes〜輝ける青」が「Concert version」として曲目の1つに選ばれた。 本作のサウンドトラックには多くの曲が収録されず、理由について椎名は「曲として単体で成り立っているものと、ゲームのシーンを見ながら聴くと良い曲がある」というこだわりからとしている。しかし要望が多かったためドラマCD Vol.2に未収録曲の一部が収録されることとなった。 ゲーム中には椎名をモデルとしたキャラクターであるシーナが登場し、彼に欲しがっているパンを与えることで、そのパンに対応した曲を演奏してくれるようになる。 ===劇中歌=== 主題歌はDo As Infinityの「TAO」。本作の世界観をイメージし本作のために制作されたオリジナルソングで、幻想的なイメージを連想させる曲となっている。 挿入歌「蛍火」は歌唱を須藤まゆみ、作詞を上記の通り椎名豪が担当。当初はゲーム中の言葉で作詞される予定だったが、椎名の「直接的な言葉より、違う世界の近い出来事の方がしみじみと感じられる」という考えから、現実の世界を舞台とした詞が書かれた。またこの曲は1度プロデューサーの豊田淳に没にされたが、椎名が内緒でゲーム中に入れ、そのせいで椎名は豊田に怒られたものの最終的に認められたという。電撃オンラインで実施されたアンケート「もっとも好きなゲームの挿入歌は?」では第4位にランクインし、同ランキングの他の4曲とともに「絶妙な場面で挿入され、涙腺を崩壊させる名曲」と評価された。 エンディングテーマは「My Tales」(歌唱はDonna Burke&Gab Desmond)、「hotarubi」(歌唱はDonna Burke)。「hotarubi」は「蛍火」の英語バージョンで、英訳は歌唱担当のBurkeが行っている。 ==プロモーション== 2005年2月14日、公式サイト「テイルズチャンネル」で次回作のキャラクターがシルエットで公開され、新たなキャラクターデザイナーの起用が発表された。後にその次回作が本作であること、キャラクターデザイナーが中澤一登であること、開発進行度が50%であることが発表された。 予約特典として、セネル役の鈴村健一、シャーリィ役の広橋涼、クロエ役の浅野真澄らが参加したインタビュー、ミニサントラ、新日本フィルハーモニー交響楽団による演奏風景、プロモーション映像、メイキング映像、次回作『テイルズ オブ ジ アビス』の映像を収録した「プレミアムDVD」が付属した。 発売後の2005年9月1日から29日まで公式サイトにて実施されたアンケートに答えることで、抽選で本作のアフレコ台本がプレゼントされた。 ==評価== エンターブレイン調べでは発売週には242,003本を販売し、前作『テイルズ オブ リバース』の初動(37.3万本)には届かなかったものの8割近い消化率を記録した。 『週刊ファミ通』のクロスレビューにおいては40点満点中32点を獲得した。『テイルズ オブ リバース』に比べ様々な点で遊びやすくなっているとされる。4人のレビュアー全員が戦闘システムについて触れ、3人がシステムの簡略化を「新規プレイヤーが入りやすくなった」「アクションが苦手でも無理なく楽しめる」と評価している一方、1人は「ボタン連打で何とかなり、単調に感じる」としている。全体的に、シリーズのファンよりも初めての人のほうが楽しめるとされている。 『ゲーム批評 Vol.65』においてはシンプルなサイドビュー戦闘の採用を「わかりやすく遊びやすい」と評価しているが、エフェクトの地味さが残念とも述べている。ストーリーについては、主人公が海上を漂流している場面から始まりその理由が明かされるのがかなり進んでからであることなど、プレイヤーと主人公を切り離してストーリーを楽しませるという手法を評価している。またキャラクタークエストについて「シリーズだけでなく、他のRPGでも珍しい」と述べ、「各キャラクターにエンディングが用意されていることもあり、キャラクターの魅力を引き出すという点で成功を収めた」と評価している。定番のおまけ要素がないことがシリーズファンに違和感を覚えさせるとしながらも、第1作の影響を強く受けていることを指摘し、「第1作のファンには嬉しい内容」としている。 「プレイステーション・ドットコム・ジャパン ランキングで見る2005年」で公開された売上げランキングでは8位にランクインした。ここでは「それまでのシリーズのPS2用作品は情報量が多すぎでプレイヤーがお腹いっぱいとなってしまっていたが、本作はそこをスマートにまとめており遊びやすくなっている」と評価され、次作『テイルズ オブ ジ アビス』はシリーズファン向け、本作はシリーズ初心者向けと紹介された。 『GAME SIDE Vol.13』ではキャラクターデザインの違いやシリーズ定番の流れがないために、今までのファンからは評価されていないように見えるとし、レビュアー自身も「これまでと違うので本作に触れなかった」と述べている。しかし、「プレイヤーと主人公を切り離してストーリーを見せるという試み」「連作短編のようなキャラクタークエスト」「『テイルズ オブ ファンタジア』をベースに改良された戦闘システム」などについてのレビューを行い、異色な部分が目立つことが辛口な評価につながっていることを指摘し、「初めてプレイする人にもわかりやすく親切な作り」「『テイルズ オブ』の他作品にはない魅力を持っている」と評価している。 『ビバ☆テイルズ オブ マガジン Vol.2』での企画「あなたが選ぶ! 『テイルズ オブ』名シーンBest3」の本作の部分を執筆したライター・AOは、Best3の他に「独断と偏見」でキャラクタークエストのベスト3を紹介し、それらについての思い出を述べ、「『TOL』はある意味泣きゲー」と文を締めくくっている。シャーリィ役の広橋涼も、「台本で泣けるゲーム」と当時の思い出を語っている。 海外のレビュー収集サイト「metacritic」では37のレビューから点数が計算され、100点満点中平均点は72点で、最高点は91点、最低点は33点だった。各レビューでは「ソウルキャリバーシリーズ」の技術を採用した戦闘システム、『キル・ビル Vol.1』のアニメパートで絶賛された中澤一登によるキャラクターデザイン、オーケストラのBGM、幻想的な3Dグラフィックに好意的な評価が寄せられている。不満点としては、会話や演出によるゲーム全体の長さ、戦闘中の仲間のAIの性能がよくないこと、3Dのためにアクションが難しいこと、北米版のみの仕様である「キャラクタークエストのストーリー中にはボイスが存在しない」ことなどが挙げられている。 ==関連作品== ===漫画=== ====テイルズ オブ レジェンディア==== 作画は藤村あゆみ。『月刊ComicREX』(一迅社)2006年1月号(創刊号)から2009年1月号まで連載された。ゲーム版では描写のなかったセネルとシャーリィが遺跡船へ来るまでの経緯から、メインシナリオラストまでをオリジナルの展開や描写を交えて描いており、キャラクタークエストはウィル編とモーゼス編のみがメインシナリオに組み込まれる形で描かれている。クロエとスティングルの因縁などいくつかの伏線は描かれたまま未回収に終わっている。キャラクター描写についても、シャーリィが自分の意志で仲間のために戦う描写がなくゲーム版とは性格がかなり異なること、グリューネとフェニモールがゲーム版とは違った活躍をするといった相違がある。第4巻には漫画本編には登場しないフェロモン・ボンバーズとミミーについての描き下ろし漫画が収録されている。 2006年7月1日初版発行(2006年6月9日発売)、ISBN 4‐7580‐6004‐5。 2006年11月1日初版発行(2006年10月7日発売)、ISBN 4‐7580‐6025‐8。 2007年7月1日初版発行(2007年6月8日発売)、ISBN 978‐4‐7580‐6053‐0。 2008年2月1日初版発行(2008年1月9日発売)、ISBN 978‐4‐7580‐6075‐2。 2008年9月1日初版発行(2008年8月9日発売)、ISBN 978‐4‐7580‐6106‐3。 2009年2月20日初版発行(2009年2月9日発売)、ISBN 978‐4‐7580‐6131‐5。2006年7月1日初版発行(2006年6月9日発売)、ISBN 4‐7580‐6004‐5。2006年11月1日初版発行(2006年10月7日発売)、ISBN 4‐7580‐6025‐8。2007年7月1日初版発行(2007年6月8日発売)、ISBN 978‐4‐7580‐6053‐0。2008年2月1日初版発行(2008年1月9日発売)、ISBN 978‐4‐7580‐6075‐2。2008年9月1日初版発行(2008年8月9日発売)、ISBN 978‐4‐7580‐6106‐3。2009年2月20日初版発行(2009年2月9日発売)、ISBN 978‐4‐7580‐6131‐5。 ===ているず おぶ の食卓=== ===『ビバ☆テイルズ オブ マガジン』に掲載される、ゲームに登場する料理をテーマとする作品。 〜ライバルはプリンパン〜 2014年12月号に掲載。作画は藤小豆。「プリンパン」をテーマとする。 〜ジョシパン〜 2016 Festival!に掲載。作画は無糖党。パーティーキャラクターの女性陣による「女子会」が描かれる。=== ===〜ライバルはプリンパン〜=== 2014年12月号に掲載。作画は藤小豆。「プリンパン」をテーマとする。 ===〜ジョシパン〜=== 2016 Festival!に掲載。作画は無糖党。パーティーキャラクターの女性陣による「女子会」が描かれる。このほか一迅社からアンソロジーコミックと4コマ漫画が1冊ずつ、スクウェア・エニックスから4コマ漫画が2冊、マッグガーデンからアンソロジーコミックが1冊発行された。このうち一迅社とスクウェア・エニックスのものには『ビバ☆テイルズ オブ マガジン』で「テイルズ オブ TV」を連載している喜来ユウが4冊全てに参加しており、マッグガーデンのものは表紙に唐々煙、イラストに松葉博、漫画に原悠衣と『月刊コミックブレイド』で連載を持ったことのある作家が参加している。 ===小説=== ====『テイルズ オブ レジェンディア 誓いの星』==== 上下巻がファミ通文庫より発売。著者は工藤治で、イラストは山田正樹が担当。セネルたちが捕らわれのステラを見つけた所から、メインシナリオラストまでを描いている。工藤がワルターの生き様を印象的と感じたことからワルターがクローズアップされており、彼の幼なじみであり心境の代弁者である、小説版オリジナルキャラクターのオスカーを登場させている。 上 2005年12月12日初版発行(2005年11月30日発売)、ISBN 4‐7577‐2514‐0。 下 2006年1月4日初版発行(2005年12月24日発売)、ISBN 4‐7577‐2559‐0。上 2005年12月12日初版発行(2005年11月30日発売)、ISBN 4‐7577‐2514‐0。下 2006年1月4日初版発行(2005年12月24日発売)、ISBN 4‐7577‐2559‐0。 ===「月夜に、背中合わせで。」=== 2012年2月23日に発売された『テイルズ オブ ザ ヒーローズ ツインブレイヴ』の限定版付属の短編小説集において、収録作品の1つとして本作を題材に書かれた。著者は田中豪。内容はメインシナリオ第4章での、セネルたちが「マウリッツの庵」に匿われている時期の出来事を膨らませて描いたもの。 ===『ビバ☆テイルズ オブ マガジン』掲載のショートショート=== === 田中豪のコラム内に掲載 「モフモフ三兄弟とジェイのクリスマス」(2012年2月号) ‐ ジェイがモフモフ族の三兄弟と過ごすクリスマス。 「はじまりの日々」あらすじ冒頭(2012年5月号) ‐ セネルがシャーリィやステラと出会った頃の物語の冒頭部分(残りは通常のコラム)。構想があることは2006年の時点で公開されている。 「アラサー・ウィルがかつての出会いを語る」(2012年11月号) ‐ ウィルによる、自身とアメリアの馴れ初めの回想。 「ノーマがししょーの正式な弟子になった日」(2013年2月号) ‐ ノーマがスヴェンの正式な弟子になることを決めた日。 「クロエの剣」(2016 Festival!) ‐ クロエのヴァレンス家に対する想いが語られる。 その他 ワンダーパン職人 ミミーのショートストーリー(2014年1月号) ‐ 黒い霧事件の本格化前にあったかもしれないとされる、ミミーの短編小説。=== ===田中豪のコラム内に掲載=== 「モフモフ三兄弟とジェイのクリスマス」(2012年2月号) ‐ ジェイがモフモフ族の三兄弟と過ごすクリスマス。 「はじまりの日々」あらすじ冒頭(2012年5月号) ‐ セネルがシャーリィやステラと出会った頃の物語の冒頭部分(残りは通常のコラム)。構想があることは2006年の時点で公開されている。 「アラサー・ウィルがかつての出会いを語る」(2012年11月号) ‐ ウィルによる、自身とアメリアの馴れ初めの回想。 「ノーマがししょーの正式な弟子になった日」(2013年2月号) ‐ ノーマがスヴェンの正式な弟子になることを決めた日。 「クロエの剣」(2016 Festival!) ‐ クロエのヴァレンス家に対する想いが語られる。「モフモフ三兄弟とジェイのクリスマス」(2012年2月号) ‐ ジェイがモフモフ族の三兄弟と過ごすクリスマス。「はじまりの日々」あらすじ冒頭(2012年5月号) ‐ セネルがシャーリィやステラと出会った頃の物語の冒頭部分(残りは通常のコラム)。構想があることは2006年の時点で公開されている。「アラサー・ウィルがかつての出会いを語る」(2012年11月号) ‐ ウィルによる、自身とアメリアの馴れ初めの回想。「ノーマがししょーの正式な弟子になった日」(2013年2月号) ‐ ノーマがスヴェンの正式な弟子になることを決めた日。「クロエの剣」(2016 Festival!) ‐ クロエのヴァレンス家に対する想いが語られる。 ===その他=== ワンダーパン職人 ミミーのショートストーリー(2014年1月号) ‐ 黒い霧事件の本格化前にあったかもしれないとされる、ミミーの短編小説。ワンダーパン職人 ミミーのショートストーリー(2014年1月号) ‐ 黒い霧事件の本格化前にあったかもしれないとされる、ミミーの短編小説。 ===ドラマCD=== 1:164位(オリコン)2:135位(オリコン)『テイルズ オブ レジェンディア〜voice of character quest〜』のタイトルで、『1』が2006年8月23日、『2』が同年9月27日に発売された。時間軸はゲーム本編のキャラクタークエストと同じ。ミミーの企みでラジオ番組を制作・放送することとなったセネルたちの活躍を描く。 シリーズでは初めて本編のドラマCD化が行われず、オリジナルストーリーのみの発売となった。理由として「ゲームシナリオはゲームとしての面白さが優先され、ドラマCDはそれにより不足したキャラクター表現を補っていた。しかし『レジェンディア』はストーリーをメインシナリオとキャラクタークエストの2つにしたことでキャラクターの魅力を100%表現できたため、ドラマCDではいきなりオリジナルシナリオを投入することとなった」と説明されている。 封入特典としてプロモーションムービーや声優インタビューが収録されたDVDが付属。『2』にはサウンドトラック未収録曲やジングルなどを収録したCDが付属しており、収録されたBGMはユーザーから要望の高かったものが選ばれている。プロモーションムービーやサントラの一部は公式ページにて試聴が可能。 当初はキャラクタークエストの後日談という設定で第3のシナリオ「エクストラシーズン」も検討されていたが、エクストラシーズンが実現した際のプレイ時間が普通にプレイしても100時間を越える可能性があったため没となった。その内容は、平和になった遺跡船での日常を描くというものであったが、ドラマCD版における全体の「ノリ」や「空気」はそのエクストラシーズンで目指そうとしていた形に近いものとなっている。 ==関連商品== ===サウンドトラック=== 152位(オリコン)2005年8月24日発売。サウンドトラック42曲(DISC1・2)と、ショートドラマ2本(DISC3)を収録した計3枚組。ブックレットには挿入曲の古刻語と日本語訳が掲載されている(一部未掲載)。一部の曲は未収録で、収録されなかった曲の一部はドラマCD『テイルズ オブ レジェンディア〜voice of character quest〜2』に付属しているCDに収録されている。ショートドラマはゲーム本編のパーティーキャラクターによるものだが、モーゼスとグリューネは登場せず、ゲーム本編との関連性も明確ではない。 初回特典として、ゲーム本編に登場する「モフモフ族」のトレーディングカードが付属した。 ===メモリーカード=== テイルズ オブ レジェンディア メモリーカード8MB(2005年8月25日発売) ===攻略本=== ====テイルズ オブ レジェンディア ファーストアドベンチャーガイド==== 2005年8月30日初版発行(2005年8月25日発売)、ISBN 4‐08‐779335‐4。メインシナリオ前半までの攻略情報と、パーティーキャラクターを演じた声優のコメントを収録。 ===テイルズ オブ レジェンディア 公式コンプリートガイド=== 2005年9月29日初版発行(同日発売)、ISBN 4‐902372‐07‐X。攻略情報や各種データ、開発者インタビューを収録。 ===テイルズ オブ レジェンディア ファイナルマニアックス=== 2005年12月16日初版発行(2005年12月5日発売)、ISBN 4‐7577‐2570‐1。攻略情報や各種データ、巻末に設定資料集、人名・用語辞典を収録。 ==他のシリーズ作品との関連== ===テイルズ オブ デスティニー(PS2版)(2006年11月30日発売)=== マザーシップタイトル第2作のリメイク版。第2部開始後「リーネの村」にてミミーが食材屋を開き、パンに関するフードストラップを販売する。 ===テイルズ オブ ザ ワールド レディアント マイソロジー(2006年12月21日発売)=== シリーズキャラクター共演作品。セネルがプレイヤーキャラクターとして登場し、シャーリィが名前のみ登場。 ===テイルズ オブ ハーツ(2008年12月18日発売)=== マザーシップタイトル第11作。貴重品「螺子の手袋」を入手すると戦闘中にセネルを援護キャラクターとして呼ぶことができるようになり、呼び出すと投げ技「軽岩砕落撃」を使用する。 ===テイルズ オブ ザ ワールド レディアント マイソロジー2(2009年1月29日発売)=== シリーズキャラクター共演作品。セネルとクロエがプレイヤーキャラクターとして登場。 ===テイルズ オブ バーサス(2009年8月6日発売)=== シリーズキャラクター共演作品。セネルがプレイヤーキャラクターとして登場し、投げ技「万物神追撃」が秘奥義となった。 ===テイルズ オブ ヴェスペリア(PS3版)(2009年9月17日発売)=== マザーシップタイトル第10作の移植版。クロエの衣装がエステル、ワルターの衣装がリタのコスチュームとして登場する。 ===テイルズ オブ グレイセス(2009年12月10日発売)=== マザーシップタイトル第12作。登場キャラクター・リチャードの偽名「タイガーフェスティバル」はモーゼスの没技からきている。 ===テイルズ オブ ザ ワールド レディアント マイソロジー3(2011年2月10日発売)=== シリーズキャラクター共演作品。セネル、シャーリィ、ウィル、クロエ、ノーマ、ジェイがプレイヤーキャラクターとして、キュッポ、ピッポ、ポッポ、ミミーがノンプレイヤーキャラクターとして登場。セネルからジェイまでの6人は原作で没となった秘奥義を使用できる。 ===テイルズ オブ ザ ヒーローズ ツインブレイヴ(2012年2月23日発売)=== シリーズキャラクター共演作品。セネル、クロエ、シュヴァルツがプレイヤーキャラクターとして登場し、ミミーがセネルの知り合いの「パンを武器に戦う女性」として言及される(本人は登場しない)。シュヴァルツは原作での技「虚時の独奏曲」を秘奥義として使用できる。 ===テイルズ オブ ザ ワールド タクティクス ユニオン(2012年7月2日配信)、テイルズ オブ ザ ワールド レーヴ ユナイティア(2014年10月23日発売)=== シリーズキャラクター共演作品。『タクティクス ユニオン』ではノーマ、『レーヴ ユナイティア』ではさらにセネルがプレイヤーキャラクターとして登場。 ===テイルズ オブ ザ レイズ(2017年2月28日配信)=== シリーズキャラクター共演作品。セネル、シャーリィ、クロエ、キュッポ、ピッポ、ポッポが登場。 =ベンジャミン・ディズレーリ= 初代ビーコンズフィールド伯爵ベンジャミン・ディズレーリ(Benjamin Disraeli, 1st Earl of Beaconsfield, KG, PC, FRS、1804年12月21日 ‐ 1881年4月19日)は、イギリスの政治家、小説家、貴族。 ユダヤ人でありながら保守党内で上り詰めることに成功し、ダービー伯爵退任後に代わって保守党首となり、2期にわたって首相(在任:1868年、1874年 ‐ 1880年)を務めた。庶民院の過半数を得られていなかった第一次内閣は短命の選挙管理内閣に終わったが、庶民院の過半数を制していた第二次内閣は「トーリー・デモクラシー(Tory democracy)」と呼ばれる一連の社会政策の内政と帝国主義の外交を行って活躍した。自由党のウィリアム・グラッドストンと並んでヴィクトリア朝の政党政治を代表する人物である。また、小説家としても活躍した。野党期の1881年に死去し、以降ソールズベリー侯爵が代わって保守党を指導していく。 ==概要== 作家の息子としてロンドンに生まれる。イタリアからの移民のセファルディム系ユダヤ人の家系だった。13歳の時にイングランド国教会に改宗した。15歳の時に学校を退学になり、17歳の頃から弁護士事務所で働くようになった。しかし弁護士事務所の仕事に関心が持てず、南米鉱山株の投機や新聞発行に手を出すも失敗して破産した。さらに処女作の小説『ヴィヴィアン・グレイ(英語版)』を出版して評判になるも激しい批判を集めた。 その後しばらく南欧や近東を旅行したが、1832年にイギリスへ帰国。帰国後も小説を執筆する一方でしばしば庶民院議員選挙に出馬するようになり、四度の落選を経て、1837年の解散総選挙(英語版)で初当選を果たす。保守党に所属していたが、サー・ロバート・ピール准男爵内閣に入閣できなかったことに反発して、党内反執行部小グループ「ヤング・イングランド(英語版)」を結成・主導、また小説『カニングスビー(英語版)』や『シビル(英語版)』を執筆してピール批判を行った。1846年にピールが穀物法を廃止して穀物自由貿易を行おうとすると、その反対運動を主導してピール内閣倒閣と保守党分裂をもたらした。 党分裂で党幹部が軒並みピール派へ移ったことで党内の有力者として台頭するようになり、1849年からは実質的な保守党庶民院院内総務(英語版)となり(1851年に正式に就任)。1852年2月に保守党党首ダービー伯爵の内閣が誕生すると、その大蔵大臣に任じられた。その後も1858年(第二次ダービー伯爵内閣)、1866年〜1868年(第三次ダービー伯爵内閣)とダービー伯爵内閣が誕生するたびに大蔵大臣に任じられた。いずれも少数与党政権なので、出来たことは多くなかったが、第三次ダービー伯爵内閣では庶民院院内総務として選挙法改正を主導し、自由党急進派に譲歩に譲歩を重ねた結果、第二次選挙法改正を達成した。 1868年にダービー伯爵が病気で退任すると、保守党ナンバー・ツーのディズレーリが継承する形で保守党党首、首相に就任した。第一次ディズレーリ内閣は少数与党政権だったので、腐敗行為防止法案や公開死刑廃止法案など超党派的法案のみ可決させた。同年の総選挙(英語版)で保守党が敗れた結果、自由党党首ウィリアム・グラッドストンに首相職を譲って退任することとなった。これは総選挙の敗北を直接の理由にして首相が退任した最初の事例であり、議会制民主主義の確立のうえで重要な先例となった。 以降5年ほど野党党首に甘んじ、グラッドストン政権の弱腰外交を批判した。その間、小説『ロゼアー(英語版)』を出版してベストセラーになっている。 1874年の解散総選挙(英語版)で保守党が半数を超える議席を獲得した結果、首相職に返り咲いた。安定多数政権だった第二次ディズレーリ内閣は強力な政権運営が可能だった。そのため、労働者住宅改善法制定による労働者の住宅状況の改善、公衆衛生法制定による都市の衛生化、強制立ち退きされた小作人への補償制度の制定、労働組合の強化など「トーリー・デモクラシー」と呼ばれる多くの改革を行う事が出来た。外交面では積極的な帝国主義政策を遂行し、1875年にはスエズ運河を買収してエジプトの半植民地化に先鞭をつけた。また1876年には”Empress”(女帝、皇后)の称号を欲しがるヴィクトリア女王の意を汲んで、彼女をインド女帝に即位させた。また1877年から1878年の露土戦争ではロシア帝国の地中海進出を防ぐため、国内の反オスマン=トルコ帝国世論を抑えて親トルコ的中立の立場をとった。同戦争の戦後処理会議ベルリン会議においてロシア衛星国大ブルガリア公国を分割させてロシアの地中海進出を防ぎ、かつトルコからキプロス島の割譲を受け、地中海におけるイギリスの覇権を確固たるものとした。南部アフリカでは1877年にトランスヴァール共和国を併合し、ついで1879年にはズールー族との戦争に勝利した。1879年には中央アジアへの侵攻を強めるロシアの先手を打って第二次アフガニスタン戦争を開始して勝利した。 グラッドストンとは対照的にヴィクトリア女王と非常に親密な関係にあり、1876年には女王からビーコンズフィールド伯爵の爵位を与えられた。 1880年の総選挙(英語版)で自由党が勝利した結果、グラッドストンが首相に返り咲き、ディズレーリは退任した。退任後に小説『エンディミオン(英語版)』を出版したが、1881年3月から体調を悪化させ、4月19日にロンドンで病死した。 ディズレーリの死後、保守党は貴族院をソールズベリー侯爵が、庶民院をサー・スタッフォード・ノースコート准男爵が指導していく。 ==生涯== ===出生と出自=== 1804年12月21日、イギリス首都ロンドンに生まれた。祖父の名前と同じ「ベンジャミン」と名付けられた。 父はイタリア系セファルディム・ユダヤ人の作家アイザック・デ・イズレーリ(英語版)。母は同じくセファルディム系ユダヤ人のマリア(旧姓バーセイビー)。父母ともに裕福であり、そのおかげで貴公子的な生活環境の中で育った。姉にサラがいる。また後に弟としてナフタライ、ラルフ、ジェームズが生まれている。 祖父ベンジャミン(英語版)は1730年に教皇領フェラーラ近郊のチェントに生まれたが、1748年にイギリスへ移住し、結婚を通じて株仲買人として成功し、1816年に死去した際には3万5000ポンドという遺産を残した。 ディズレーリ本人によるとディズレーリ家の先祖はもともとスペインのユダヤ人だったが、1492年にカスティーリャ女王イサベル1世とアラゴン王フェルナンド2世による異端審問・ユダヤ人追放の勅令(英語版)によって国を追われ、イタリアのヴェネツィアに移住し、のちディズレーリと改名し、商人として成功した。そして18世紀中頃にディズレーリの曾祖父アイザックが長男をヴェネツィアに残して銀行業を継がせ、次男ベンジャミン(祖父)をイギリスへ移住させた。しかしこの話は疑わしく、スペイン出自家系やディズレーリの大伯父がヴェネツィアで銀行業をしていたという資料は見つけられない。また、祖父ベンジャミンがデ・イズレーリ( D’Israeli)を名乗るまで姓はイズレーリ (Israeli)であったが、これはスペイン語系ではなくアラビア語系である。そのためセシル・ロスは、イズレーリ家はレバント(地中海東岸地域)からイタリアへ移民した家系であろうと推測している。またディズレーリは、祖父ベンジャミンの最初の妻レベッカの旧姓がラーラだったことからスペインの名門ラーラ家(スペイン語版)と縁続きだと言い張っていたが、レベッカの実家ラーラ家はポルトガル系であって、スペイン系の名門家ラーラ家と特に関係はない。 セファルディム系ユダヤ人社会では、スペイン系やポルトガル系のユダヤ人を最も「貴種」と看做すことが多く、ディズレーリがスペイン系出自にこだわっていたのはそのためであると考えられる。 一方母方の祖母の実家カードソ家はまさにそのスペイン系ユダヤ人であり、1492年以降の異端審問でスペインを追われイタリアへ逃れ、17世紀末にイギリスへ移住した家柄であった。しかしディズレーリは母親嫌いから母の家系にほとんど関心を持たず、この事実を知らなかった。いずれにしてもディズレーリは強い「貴種」意識を持っていた。 ===少年期=== ディズレーリはイズリントンにあった女子学校に通い、その後、非国教徒が校長を務めるブラックヒース(英語版)の学校に通い、13歳まで在学した。この学校での同級生によるとディズレーリはサージェスというもう一人のユダヤ教徒の生徒とともに礼拝に参加しなかったという。またユダヤ教のラビが週に一度やってきてディズレーリにヘブライ語を教えていた。子供の頃から気位が高かったディズレーリは、しばしばユダヤ人ということで教師からも学友からも滑稽な目で見られていることに傷付いていた。またディズレーリは、学校内で唯一同じユダヤ教徒であるサージェスを自分より劣っていると見下しており、非ユダヤ教徒の生徒たちと友達付き合いする方を好んだ。 ===イングランド国教会に改宗=== 19世紀初頭のイギリスにおいて反ユダヤ主義は大陸ヨーロッパ諸国と比べると比較的弱かった。とはいえ1829年までイングランド国教会の信徒以外は公職に就けなかった。 ディズレーリの父アイザックはヴォルテール主義者であり、ユダヤ教会にお布施を収めていたが、ユダヤ教の儀式にもほとんど出席しなかった。それでもアイザックがユダヤ教会に籍を置いていたのは父親ベンジャミンを喜ばせるためであった。アイザックは1813年にユダヤ教のベービス・マークス集会の長に選出されたがこれを拒否するとユダヤ教の掟で40ポンドの罰金が科されたため、これに反発し、役職を務めることも罰金を支払うことも拒否した。その後も3年ほど父に配慮してユダヤ教会に籍を置いていたが、1816年の父の死去を機に、1817年3月にディズレーリ家はユダヤ教会の籍を離れた。 アイザックはユダヤ教会離籍後、何の宗教にも入信しなかったが、親友である弁護士・考古学者シャロン・ターナー(英語版)が子供たちは将来のためにイングランド国教会に入籍させた方がいいと勧めたので、ディズレーリは13歳でホルボーン地区のセント・アンドリューズ教会(英語版)において洗礼を受けて改宗した。 アイザックはディズレーリを名門イートン校に通わせたがっていたが、改宗したばかりのユダヤ人が歓迎されるとは思えず、結局非国教徒ユニテリアン派の牧師エリーザー・コーガン(英語版)が運営していたハイアム・ヒル(英語版)の学校に入学した。この学校には裕福な中産階級の子供が多く、ラテン語やギリシア語でディズレーリは他の生徒らに後れを取っていたが、文章の創造力にかけてはディズレーリの右に出る者はいなかったという。スポーツにも熱心に打ち込み、やがて学友たちのリーダー的存在となっていった。しかしこのことでディズレーリが来る前から学校を仕切っていた復習監督生たちに目を付けられ、ディズレーリにユダヤ臭をかぎつけて馬鹿にした。ある時、ディズレーリとすれ違った復習監督生のグループがディズレーリを嘲って口笛を吹いたという。それに対してディズレーリは振り返って彼らに「今、口笛を吹いた者は前に出たまえ」と述べたという。復習監督生の一番年長の者が前に出てきて「外国人に引きずりまわされるのはもうウンザリなんだよ」と言い放つと、ディズレーリはその男の顔を殴り、殴り合いとなった。ディズレーリは小柄で力も貧弱だったが、軽やかな足さばきで合理的に戦い、年長の復習監督生を血塗れ状態にした。校長コーガン牧師はディズレーリを煙たがるようになり、アイザックになるべく早く御子息を引き取ってほしいと依頼した。こうしてディズレーリは1819年か1820年(15歳)にはハイアム・ヒルを退学した。この後1年ほど自宅の父の書斎や書庫で古典を読み漁って過ごした。 ===青年期=== ヴォルテール主義者である父アイザックは息子が文学の世界に浸かって神秘主義的になっていくのを懸念し、弁護士事務所で働くようディズレーリを説得した。ディズレーリは弁護士を「法文とダジャレで過ごし、うまくいけば晩年に痛風と准男爵の称号がもらえるという程度の職業」と看做しており、こんな仕事に就いたら偉人にはなれないと拒否したが、父は「慌てて偉人になろうとしてはいけない」「弁護士事務所という人間を知るうえで最適な観察場所を経ることは、何の道も閉ざすものではない」と説得した。1821年、17歳の時にオールド・ジェリー(英語版)街のフレデリック広場にあった4人の弁護士の共同事務所で勤務したが、すぐに飽きた。1824年7月末にはベルギーとライン地方を旅行し、ライン川下りをしている時に弁護士業を止める決意をした。1824年11月にリンカーン法曹院の入学許可が下りたが、すでに法曹になる意思を無くしていた。後年ディズレーリは弁護士事務所の勤務時代について、弁護士の仕事自体は何の役にも立たなかったが、この仕事を通じて執筆力が高まり、また多くの人間と知り合って人間の様々な本性を知ることができたのは財産になったと評している。 ===投機、事業の失敗=== 弁護士事務所を辞めた後は定職をもたず、父の友人である出版業者ジョン・マレー(英語版)の手伝いをしたり、書評をした。「上流階級の人間になるには血筋か金か才能が必要」と考えていたディズレーリは、弁護士事務所の顧客が儲けているのを見ていた南米鉱山投機に弁護士事務所の書記仲間とともに手を出した。しかし、ディズレーリは大損し、6月には7,000ポンドもの借金を抱えた。この間ジョン・ディストン・ポウルズ(英語版)という投機家が南米鉱山に対する信用を取り戻そうとパンフレットの出版を計画し、その執筆をディズレーリに依頼してきた。ディズレーリはこれを引き受け、いくつかのパンフレットを書き、南米鉱山株投機に疑問を投げかける政治家を批判しつつ、鉱山会社の宣伝を行った。しかし結局同年10月末に南米鉱山株が暴落し、12月までにシティは大混乱に陥った。ディズレーリも破産した。 一方、『クオタリーレビュー』誌で成功を収めたジョン・マレーは日刊紙を出版しようと考えていた。破産する前のディズレーリもこの企画に参加した。新聞の名称はディズレーリが『リプレゼンタティブ(英語版)』と名付けた。しかし破産によってディズレーリは出資金を出せる見込みがなくなったので、計画から外された。 ===処女作『ヴィヴィアン・グレイ』=== 破産したディズレーリは文筆で生計を立てる決意をし、1826年前半頃に『ヴィヴィアン・グレイ(英語版)』を著した。この小説は1826年4月に出版業者ヘンリー・コルバーン(英語版)によって匿名で出版された。野望に燃える主人公ヴィヴィアンが、ジャーナリストから庶民院議員となり政界で中枢の地位を得る物語である。賛否両論ながら評判となり、社交界でも話題になったが、やがて作者が社交界に入ったこともない21歳の若者だと判明した時、嘲笑に晒された。「貴族でもない癖に貴族かのように滑稽に気取っている」、「(ディズレーリは)急いで世の中から消え、忘れ去られた方が幸せである」などという厳しい評論がなされた。 またマレーは作中登場するカラバス侯爵(高い地位にあるが、頭の悪い飲んだくれで、ヴィヴィアンはこの男を操って政党を作らせ首相になろうとする)が自分をモデルにしていると感じ、ディズレーリへの怒りを露わにした。この頃のマレーはディズレーリに騙されて『リプレゼンタティブ』紙の事業をやらされたと思っていたので怒りは尚更であった。マレーは保守党の政治家たちに強い影響力を持っており、後にディズレーリが保守党の政治家としてやっていくうえでマレーとの不和は苦労する材料となる。また保守党所属議員からもディズレーリが保守主義者ではない証拠としてこの小説の様々な部分が引用されることになる。 ディズレーリ当人も後年『ヴィヴィアン・グレイ』を大いに恥じ、「若気の至り」「青臭い失敗作」と語り、1853年の全集に載せることにも強く抵抗したが、結局大幅に書き換えることを条件に掲載を許している。 非難の嵐から逃げるようにディズレーリはフランス・イタリアの諸都市の旅行に出た。2か月ほどの旅行だったが、イギリス国内ではいまだに『ヴィヴィアン・グレイ』批判の余韻が残っていた。しかし金銭に困っていたディズレーリは、1826年秋に『ヴィヴィアン・グレイ』第二部を執筆し、再びコルバーンが出版した。 ===神経衰弱=== 『ヴィヴィアン・グレイ』第二部を執筆後、神経衰弱を起こして倒れた。この後3年にわたって体調が悪いままで、その間法律の勉強に戻った。1828年には1825年春季学期以来、ほとんど通っていなかったリンカーン法曹院に通うようになったが、1831年に退学した。 1828年に『ポパニラ(Popanilla)』という小説を執筆して公刊し、功利主義者や穀物法、植民地支配を批判した。しかしこの小説はほとんど評判にならなかった。 1829年末頃に健康を回復し始めたディズレーリは再び長期旅行の計画を立てた。その資金を稼ぐために『若き公爵(The Young Duke)』の執筆を開始し、1830年3月までには完成させて原稿をコルバーンに送った。この本はディズレーリが近東旅行中の1831年4月に出版された。相変わらず貴族の言葉遣いや作法が分かっていない部分や現実離れした部分もあったものの、『ヴィヴィアン・グレイ』よりは出来が良く、大衆受けする内容であったので批評家もまずまずの評価を下した。 この頃ディズレーリの父アイザックを尊敬する小説家エドワード・ブルワー=リットンと知り合い、親しく付き合うようになりお互いに影響しあった。 ===南欧・近東旅行=== 1830年5月末、姉サラの婚約者メラディスとともにロンドンから船出して英領ジブラルタルへ向かい、南欧・近東を旅行した。特にエルサレム訪問はユダヤ人としてのアイデンティティを再認識するきっかけとなった。また、この旅行中からディズレーリは「デ・イズレーリ」という外国人風の姓を「ディズレーリ」と綴るようになった。カイロ滞在中の1831年7月、同行者メラディスが天然痘により病死したため、ディズレーリも急遽帰国の途に付き、12月末に帰国した。この帰路の船中でディズレーリは2本の小説(ユダヤ人について描いた『アルロイ(Alroy)』と文学の道へ進むか政治の道を進むか悩む若い詩人を描いた『コンタリーニ・フレミング (Contarini Fleming)』)を書いている。 ===政界進出:4回の選挙落選=== 1830年代初頭のイギリスでは産業革命による工業化した社会に対応した政治変革を行うことが緊急の課題となっていた。1830年には保守政党トーリー党の政権が倒れ、自由主義政党ホイッグ党の政権であるグレイ伯爵内閣が誕生した。 ディズレーリの友人ブルワー=リットンも1831年の総選挙(英語版)で当選を果たして急進派(英語版)に所属する庶民院議員になった。リットンの縁故でディズレーリも社交界に出席できるようになった。ディズレーリは自分も庶民院議員になりたいと思うようになった。ディズレーリの父アイザックはトーリー党支持者であり、ディズレーリ本人もトーリー党に好感を持っていたが、当時トーリー党は世論から激しく嫌われており、選挙に勝利できる見込みはなかった。そのため友人リットンと同じく急進派に接近した。 グレイ伯爵政権によって1832年6月7日に「腐敗選挙区」の削減や選挙権の中産階級への拡大を柱とする第一次選挙法改正が行われると、ディズレーリは庶民院議員選挙への出馬を決意し、ハイ・ウィカムで選挙活動を開始した。ディズレーリはリットンの伝手でジョゼフ・ヒューム(英語版)や合同法廃止によるアイルランド独立を目指す廃止組合(英語版)指導者ダニエル・オコンネルら進歩派の推薦状をもらった。 ===ウィカム選挙区補欠選挙=== この頃ウィカム選挙区選出の議員が別の選挙区に立候補するため議員辞職し、それに伴う補欠選挙がウィカム選挙区で行われることとなったため、ディズレーリは旧選挙法のもとで出馬した。リットンはディズレーリの対立候補が立たないよう骨折りしてくれたが、結局ホイッグ党が首相グレイ伯爵の息子グレイ大佐(英語版)を対立候補として擁立した。一方この選挙区で勝つ見込みがなかったトーリー党は、父親が熱心なトーリー党員であるディズレーリの出馬を歓迎していた。ディズレーリはこの補欠選挙で「私は1ペニーも公金を受けたことがない。また1滴たりともプランタジネット朝の血は流れていない。自分は庶民の中から湧き出た存在であり、それゆえに少数の者の幸福より大多数の幸福を選ぶ」と急進派らしい演説をした。しかしウィカム選挙区は典型的な「腐敗選挙区」であり、有権者は32名のみでこのうち20票をグレイ大佐が獲得し、対するディズレーリは12票しかとれず落選した。 ===1832年総選挙=== 1832年12月に庶民院が解散され、新選挙法のもとでの総選挙(英語版)が行われた。新選挙法のもとでのウィカム選挙区の有権者数は298名だった。ディズレーリは引き続き急進派の立場をとって「イギリス国民は、比類なき大帝国の中に生きている。この帝国は父祖の努力によって築き上げられたものだ。しかし今、この帝国が危機を迎えようとしている事を英国民は自覚せねばならない。ホイッグだのトーリーだの党派争いをしてる時ではない。この二つの党は名前と主張こそ違えど、国民を欺いているという点では同類だ。今こそ国家を破滅から救う大国民政党を創るために結束しよう」と演説し、公約として秘密投票や議員任期3年制の導入、「知識税」(紙税)反対、均衡財政、低所得者の生活改善などを掲げた。この選挙でもトーリー党はウィカム選挙区には候補を立てず、ディズレーリに好意的な中立の立場をとった。そのためディズレーリはホイッグ党支持者から「似非急進派」「偽装トーリー」として批判されたが、彼は「私は我が国の良い制度を全て残すという面においては保守派であり、悪い制度は全て改廃するという面においては急進派なのだ」「偽装トーリーとは政権についている時のホイッグ党のことである」と反論した。 しかし結局ディズレーリは最下位の得票で落選した。 ===1835年総選挙とグラッドストンとの出会い=== 1834年秋にホイッグ党の政権が倒れ、12月に庶民院が解散されて1835年1月に総選挙(英語版)となった。ディズレーリはこの選挙に保守党(トーリー党が改名)での出馬を考え、保守党幹部リンドハースト男爵(英語版)と接触したが、結局保守党からの出馬はならず、再び急進派の無所属候補としてウィカム選挙区から出馬した。リンドハースト男爵の骨折りで保守党から500ポンドの資金援助受けての出馬となったが、結局前回と同様に三人の候補の中で最低の得票しか得られず、落選した。 この選挙後の1835年1月17日にリンドハースト男爵主催の晩餐に出席し、そこで後のライバルであるウィリアム・グラッドストンと初めて出会った。グラッドストンはすでに1832年の総選挙で当選を果たしており、この頃には25歳にして第一大蔵卿(首相)を補佐してあらゆる政府の事務に参与する下級大蔵卿(英語版)の職位に就いていた。ディズレーリはその日の日記の中でグラッドストンへの嫉妬を露わにしている。一方グラッドストンのその日の日記にはディズレーリについて何も書かれておらず、後世にディズレーリとの初めての出会いを質問された時にグラッドストンは「異様な服装以外には何の印象も受けなかった」と語っている。 ===トーントン選挙区補欠選挙=== 三度の落選を経てディズレーリは無所属には限界があると悟った。1835年1月に保守党党首ウェリントン公爵に手紙を送り、「今の私は取るに足らない者です。しかし私は貴方の党のために全てを差し出すつもりです。どうか私を戦列にお加えください」と懇願した。公爵の計らいでディズレーリは保守党の紳士クラブカールトンクラブ(英語版)に名を連ねることを許された。 さらに同年トーントン選挙区選出の議員の辞職に伴う補欠選挙に保守党はディズレーリを党公認候補として出馬させることにした。これまで党派に所属しないと言いながら結局保守党の候補になったディズレーリは変節者として激しい批判を受けた。この選挙戦中、ディズレーリがオコンネルを扇動者・反逆者として批判したという報道がなされ、オコンネルはかつて推薦状を書いてやった若造の裏切りに激怒し、激しく批判した。これに対してディズレーリは名誉を傷つけられたとして決闘を申し込んだが、オコンネルは昔決闘で人を殺めたことがあり、二度と決闘しないという誓いを立てていたため躊躇った。結局そうこうしてるうちに警察が介入してディズレーリは果たし状を取り下げる羽目になった。ただこの件はディズレーリにとって売名にはなった。この頃のディズレーリの日記にも「オコンネルとの喧嘩のおかげで名前を売ることができた」と書かれている。しかし結果は落選であった。 ===借金と小説執筆=== 選挙活動と並行してディズレーリは小説家としても活発に活動した。近東旅行からの帰国の船の中で書いた『コンタリーニ・フレミング』を1832年5月、『アルロイ』を1833年3月に出版した。さらにその後『イスカンダーの興隆(The Rise of Iskander)』、『天国のイクシオン(Ixion in Heaven)』、『地獄の結婚(The Infernal Marriage)』などを続々と出版した。また、メルバーン子爵やホイッグ党政権を批判した『ランニミード書簡』、イギリス憲政について論じた『イギリス憲政擁護論』『ホイッグ主義の精神』など政治論文も多数著した。 だがいずれも大した儲けにはならなかった。しかもこの頃ディズレーリは社交界の女性ヘンリエッタと交際するようになっており、その交際費、また選挙活動の費用で支出が増えていた。生活費に困るようになり、友人オースチンから借金をしている。 さらにオースチンが止めるのも聞かず、スウェーデン公債の販売に関する事業に携わって失敗し、多額の借金を背負った。1836年から1837年はとりわけディズレーリが自堕落な生活を送っていた時期である。借金取りから追われる日々を送り、何度も金の無心に来るディズレーリにオースチンも我慢の限界に達した。オースチンは繰り返し返済の催促をし、一度は返済しないなら法的手段に訴えると脅しさえした。 1836年夏から秋にかけて恋愛小説『ヘンリエッタ・テンプル(Henrietta Temple)』を書きあげ、10月に出版され、『ヴィヴィアン・グレイ』に並ぶ金銭的成功を収めた。しかしこれだけでは借金返済できなかったので、1837年5月にさらに『ヴェネチア (Venetia) 』を出版したが、これは『ヘンリエッタ・テンプル』ほど売れなかった。 ===ヴィクトリア女王即位=== 1837年6月に国王ウィリアム4世が崩御し、18歳の姪ヴィクトリアが女王に即位した。彼女が開催した最初の枢密院会議に出席すべくケンジントン宮殿を訪問した枢密顧問官リンドハースト男爵にディズレーリはお伴として同行した。 枢密院会議を終えたリンドハースト男爵は、一人の少女が聖職者・将官・政治家たちの群衆の真ん中を悠然と歩いていき玉座に座る光景、イギリス中で最も権威ある男たちが一人の少女に騎士の誓いを捧げる光景をディズレーリに話してやった。ディズレーリはその光景を思い描いて憧れを抱き、今の自分では望むべくもないが、いつの日か自分も女王の前に膝まづいてその手にキスをして騎士の忠誠を捧げたいと願ったという。 ===一介の保守党代議士として=== ====当選==== 当時の慣例で新女王の即位に伴って議会が解散され、1837年7月に総選挙(英語版)が行われることとなった。この選挙でディズレーリは保守党候補の当選が比較的容易なメイドストン選挙区からの出馬を許された。 この選挙区は2議席を選出し、しかもホイッグ党が候補者を立てていなかった。急進派の候補が出馬していたが、保守党は2議席とも取れると踏んでおり、ウィンダム・ルイス(英語版)とディズレーリの二人を候補として擁立したのだった。 7月27日の選挙の結果、メイドストン選挙区はディズレーリとルイスが当選を果たした。ディズレーリは5年間に5度選挙に出馬したすえに、ようやく庶民院議員の地位を得たのであった。 ===処女演説=== 選挙後、ホイッグ党の首相メルバーン子爵はアイルランド選出議員の支持を取り付けて政権を維持しようとするだろうと予想された。 そのため、1837年12月7日、アイルランド選出議員の代表者オコンネルの演説後に議場の演壇に立ったディズレーリは、オコンネル批判の処女演説(英語版)を行った。これにアイルランド選出議員が激しく反発し、ディズレーリの演説は嘲笑とヤジに包まれた。ディズレーリが何か話すたびに議場から笑いが起こる有様だった。保守党党首ロバート・ピールさえも声援を送りながらも笑いをこらえていたという。ディズレーリは怒りを抑えきれず、「いつの日か、皆さんが私の言葉に耳を傾ける日が来るでしょう」と大声で叫んで演壇を去った。 しかしこれを見たアイルランド選出議員シェイルは「ディズレーリがアイルランド選出議員から妨害を受けずに演説していたら、あの演説は失敗だっただろう。ディズレーリの演説は失敗したのではなく押しつぶされたのだ。私の初演説はみんなが清聴してくれたがゆえに失敗だったと言える。つまり私は軽蔑をもって、ディズレーリは悪意をもって迎えられたという事だ。」と語ってディズレーリ演説を評価している。 ===結婚=== 1838年3月14日、ディズレーリと同じ選挙区選出のウィンダム・ルイス議員が突然死した。ディズレーリは悲しみの淵に沈む彼の妻メアリー・アンナ(英語版)のところへ通って彼女を励ました。 メアリー・アンナは、デボンシャーで農業を営む中産階級のエバンズ家に生まれ、1815年にウェールズの旧家出身で製鉄所の経営者であるウィンダム・ルイス(1820年から庶民院議員)との結婚を通じて上流階級に顔を出すようになった女性である。しかし彼女は子供が出来ないまま夫と死別することとなり、夫の残した終身年金を受けるようになった。 当時メアリー・アンナは45歳でディズレーリより12歳年上だった。ディズレーリは彼女との関係を深めて7月末には結婚を申し込んでいるが、メアリーは夫の一周忌が過ぎるまで返事は待ってほしいと回答した。 ディズレーリは当時借金で首が回らなかったから、彼女の終身年金を手に入れて借金を返済するのが狙いだと噂されたが、それだけが狙いだったのかどうかは定かではない。ディズレーリが熱心に彼女に送った手紙は強い愛を感じさせるものであり、一周忌が過ぎると彼女も結婚に応じた。二人は8月28日にハノーヴァー・スクエア(英語版)のセント・ジョージ教会(英語版)で挙式した。 ディズレーリもメアリーも配偶者に対して献身的だった。そのため二人の夫婦仲は非常によかった。後の政敵ウィリアム・グラッドストンもディズレーリ夫妻の夫婦仲を「模範的」と評している。ディズレーリが後に書く小説『シビル(Sybil)』は妻に捧げるという形式をとっているが、その中の献辞で妻について「優しい声でいつも私を励まし、また執筆にあたって最も厳しい批評家として様々な教示をしてくれた、完璧な妻に」と書いている。 デール・カーネギーは著書「人を動かす」において、幸福な結婚についてのエピソードとしてディズレーリ夫妻の「私がおまえと一緒になったのは、結局、財産が目当てだったのだ」「そうね。でも、もう一度結婚をやり直すとしたら、今度は愛を目当てにやはりわたしと結婚なさるでしょう」というやりとりを紹介している。 ===チャーティズム運動支援=== ディズレーリの初期の議員活動は注目される物が少なく、不明な点も多いが、チャーティズム運動を支援していた議員の一人だったことは判明している。 イギリスでは、産業革命による工業化・都市化の進展によって1820年代から1830年代にかけて労働者階級が形成されるようになった。しかし当時のイギリスには労働者のナショナル・ミニマムを保障するような制度がほとんど何も存在しなかった。 そのため労働者運動が盛んになり、「劣等処遇の原則」を盛り込もうとする救貧法改正(英語版)に反対する運動と工場法改正による10時間労働の法文化を求める運動が拡大してイングランド北部を中心にチャーティズム運動が形成されるようになった。1838年5月にはウィリアム・ラベット(英語版)によって「人民憲章」が提唱され、チャーティズム運動の旗印となった。チャーティズム運動は、人民憲章支持の署名を国民から集めて、1839年7月に議会に請願するという形で進展していった。 しかし保守党とホイッグ党の二大政党はそろって12万人の署名が入ったこの請願を拒否した。「改革の父」と呼ばれたジョン・ラッセル卿さえもがチャーティストを法廷で告発した。一方ディズレーリはチャーティズム運動を支援していた。庶民院の議員の中ではほとんど彼のみがチャーティストに理解を示していたといってよい。 チャーティスト達の議会への請願があるとディズレーリは自党の救貧法改正賛成の立場を批判し、またチャーティズム運動を取り締まるためのバーミンガム警察への予算増額にも反対した。この予算増額に反対したのはディズレーリを含めて3議員だけであり、下手をすると保守党からの公認を取り消されかねない危険を冒しての行動だった。1839年11月にウェールズ・ニューポートで炭鉱夫の反乱が発生するとチャーティスト指導者が続々と官憲に逮捕されたが、これに対してもディズレーリは4人の議員とともにチャーティスト指導者弾圧に反対する運動を行った。 ディズレーリは決してチャーティストの主義主張に賛同していたわけではない。しかしジョン・ラッセル卿のような改革者までがチャーティストを攻撃している姿を奇異に感じており、それに反発したのである。ディズレーリは庶民院の演説で「イギリスのような貴族主義の国では反逆者さえも成功するには貴族的でなければならないことをチャーティスト達は思い知ることになるでしょう。(略) イギリスでは同じ改革者でもジャック・某の場合は絞首刑に処せられ、ジョン・某卿の場合は国務大臣になるのです」と皮肉っている。 チャーティズムに理解を示した態度からもわかるように、ディズレーリはこの時点もこの後も保守党正統派というわけではなかった。保守党急進派、もしくは中道左派ともいうべき保守党内では特殊な政治的立場にいたのである。 ===ピール内閣に入閣できず=== 一方でディズレーリは保守党党首サー・ロバート・ピールに対する追従は欠かさず、タイムズ紙に寄稿してはピールを称え続けた。メルバーン子爵を寵愛するヴィクトリア女王がピールが提案した寝室女官の新人事に文句をつけてピールの組閣を阻止した寝室女官事件でも、ディズレーリは「マダム、それはなりません」という文を書いて女王を批判し、ピールの対応を称賛している。 ホイッグ党の首相メルバーン子爵はヴィクトリア女王の寵愛のみで政権を維持していたが、すでに死に体であった。1841年5月に内閣不信任案が一票差で可決され、解散総選挙(英語版)となった。この選挙でディズレーリはシュルズベリー選挙区に鞍替えした。選挙戦中にディズレーリは買収容疑をかけられたため、苦しい選挙戦となったが、なんとか再選を果たした。しかし買収容疑の追及は選挙後もしばらく受けた。 選挙の結果、保守党がホイッグ党から第一党の座を奪い取ったが、メルバーン子爵はなおも政権を維持するつもりだった。それを阻止すべく、保守党内では庶民院議長再選に反対すべきとの意見が出されたが、ピールら党執行部はその路線は退けた(これによって庶民院議長の不偏不党性が確立された)。だが党内にはなおもそれを主張し続ける者があり、彼らは『タイムズ』紙に「ピシータカス」という偽名でその意見を掲載し始めた。この「ピシータカス」がディズレーリだという疑惑が広まった。ディズレーリはその噂を否定しているが、この件で保守党執行部から忠誠を疑われるようになった。 ヴィクトリア女王はピールを毛嫌いしていたが、彼女の夫アルバートはピールを高く評価しており、彼がヴィクトリアを説得した結果、1841年8月30日にピールに大命降下があった。 ディズレーリはピール内閣に入閣できるものと思っていたが、お呼びはかからなかった。次々と閣僚ポストが埋まっていくのに焦ったディズレーリは、ピールに自分を見捨てないよう懇願する手紙を送ったが、ピールからの返事はそっけなかった。そもそもピールも有力議員の顔を立てなければならないのであるから、全ての閣僚人事を自由にできるわけではなかった。 結局ピール内閣は閣僚のほとんどが第1次ピール内閣(1834年〜1835年)の時と同じ顔触れであり、新規閣僚は4人だけだった。ディズレーリは入閣できなかった。ピールから嫌われているわけではなかったが、保守党上層部の中には彼を胡散臭がる者は多かった。もっともディズレーリが入閣できなかったのはこの当時の保守党内政治力学を考えれば順当なことであり、入閣はディズレーリの高望みであった。 ===「ヤング・イングランド」=== 入閣できなかったディズレーリは徐々にピールに批判的になっていった。とはいってもすぐにそうなったわけではない。院内幹事長トーマス・フレマントル(英語版)からも「採決において政府法案に賛成しそうな与党議員」と見られていた。 この立場をとり続けていれば、いつか閣僚になれたかもしれないが、ディズレーリはそんな悠長に待つ気にはなれなかった。党内反ピール派の若手議員ジョン・マナーズ卿、ジョージ・スマイズ(英語版)、アレクサンダー・バイリー=コックラン(英語版)の三人とともに党内反執行部グループ「ヤング・イングランド(英語版)」を結成した。 ディズレーリを除く三人はケンブリッジ大学出身者であり、オックスフォード運動に影響を受けていた。オックスフォード運動とは自由主義化の風潮に抵抗して宗教改革以前の「純粋で腐敗のない宗教」を復活させることを目的とする運動である。これを宗教から政治に転用しようとしたものが「ヤング・イングランド」であり、一口にいえば封建主義時代に戻ろうという復古主義運動であった。 こうした思想の者には紋切り型なピールよりディズレーリの機知にとんだ演説の方が魅力的に感じられた。とりわけ少年時代から顔見知りだったスマイズとディズレーリの相性が良かったが、コックランはディズレーリに野心性を見てとって警戒していたという。 またディズレーリはカトリックに対して同情的であったものの、イングランド国教会の歴史的偉大さを確信しており、オックスフォード運動が主張するようなイングランド国教会をカトリック化するという案には慎重であった。そのため宗教に一家言あるマナーズ卿としばしば宗教論争となり、シニカルなスマイズを面白がらせていたという。スマイズは「ディズレーリの穏健なオックスフォード主義は、ナポレオンが若干イスラム教に傾斜していたのに似ている」と評している。 マナーズ卿(第5代ラトランド公爵(英語版)の次男)とスマイズ(第6代ストラングフォード子爵(英語版)の長男)は貴族出身者であった。ディズレーリはコンプレックスがあったのか、二人に「イギリス貴族などというものは存在しない」と語りだしたことがあった。ディズレーリ曰く「今残っているイギリス貴族は5家を除いて、すべて最近になって称号を手に入れた者たち」であり、「真に長い歴史を持つ唯一の血筋はディズレーリ家」だという。スマイズはこれを笑って聞き、マナーズ卿は生来の真面目さで傾聴していたという。 「ヤング・イングランド」の存在は1843年には公然の存在となり、4人は議場でも固まって座っていた。彼らは自分たちの所属する保守党の方針に反してでも「復古主義」「民衆的保守主義」の信念を貫く投票を行った。 内務大臣サー・ジェームズ・グラハム准男爵は1843年8月に「ヤング・イングランドについていえば、その人形を操っているのはディズレーリである。彼が一番有能だ。」と書いている。 ===ピール内閣倒閣をめざして=== 自由貿易論者であるピール首相は1844年6月、外国産砂糖を植民地産砂糖と同じレベルの関税に引き下げる法案を通そうとした。これに反対を公言したのは「ヤング・イングランド」など一握りだけであったが、内心で反発する親植民地派は保守党内に少なくなく、彼らは「ヤングイングランド」の活動に好感を寄せるようになった。ディズレーリが「私は某大臣から48時間以内に態度を変えろと脅迫されたが、そのつもりはない」と演説すると議場から大きな拍手が起こっている。しかし結局、スタンリー卿(後のダービー伯爵)の巧みな演説のおかげで議会の状況はピール政権側に好転し、20票差で法案は可決された。 この頃にはピールに深い信頼を寄せるようになっていたヴィクトリア女王も激しい怒りを感じたらしく、叔父ベルギー王レオポルドに宛てた手紙の中で「ヤング・イングランド」を「若い狂人の群れ」と評して批判している。またラトランド公爵とストラングフォード子爵に対して息子をしっかり監督するよう命じている。 しかしディズレーリはお構いなしに1844年5月にピールを批判した政治風刺小説『カニングスビー(英語版)』を出版し、その翌年5月には続編『シビル(英語版)』を出版した。 『カニングスビー』は公爵の孫カニングスビーの政治生活や社交界生活を描くことで政府の方針や政党の主義主張、王権や貴族の衰微の原因などについて分析・批評した小説である。この小説が出版されてからイギリスで政治小説が流行るようになった。『シビル』では労働者やチャーティストの悲惨な生活を描き出し、富裕層と貧困層は階級の上下というよりも、もはや二つの国民に分断されている状態であると皮肉り、格差社会の弊害を説いた。この『シビル』の執筆によってディズレーリは自分の本来の世界観に立ち返ったといい、それがきっかけで1845年代にピール批判を一層強めることになったという。 さらに1847年にはこの二作の続編として『タンクレッド (Tancred)』を出版しているが(これ以降20年以上小説を出版しなかった)、これはピール失脚後に書かれた物であり、ユダヤ教について語った小説である。キリスト教国の改造にはユダヤ教の教えを導入すべきであることを暗示した小説だった。 1845年夏にアイルランドでジャガイモ飢饉が発生した。当時の一般的なアイルランド家庭はパンを買う余裕がなく、ジャガイモを主食にしており、アイルランドの食糧事情は危機的状態となった。ピール首相はただちに穀物法に定められている穀物関税を廃し、安い小麦を国外から買い入れられるようにしてパンの値段を下げなければならないと考えた。しかし地主が多く所属する保守党内の抵抗勢力から激しい抵抗を受けた。閣内も分裂状態となり、ピール首相は保護貿易主義者のスタンリー卿やバクルー公爵を説得できず、一度総辞職したが、ヴィクトリア女王が後任を見つけられなかったので、再度ピールに大命降下があり、保護貿易主義者のみを除いた以前と同じ顔触れの内閣を発足させた。 ピールは再び穀物法を廃止しようとしたが、やはり保守党内の抵抗勢力の激しい反発に遭った。ディズレーリはこの保守党内の空気を利用してピール批判の急先鋒に立った。彼は「穀物の自由貿易はイギリス農家を壊滅させる。また自由貿易にしたところで穀物の価格は下がりはしない」という持論を展開した。さらに議会の礼節を無視した罵倒さえ行い、これにピールの弟ジョナサン・ピール(英語版)が激怒し、ディズレーリに決闘を申し込み、またピール本人もかつてディズレーリが閣僚ポストを懇願してきた手紙を公開してやろうかと考えたほどだった。ディズレーリが全精力を注いで行ったピール批判演説によって、ピールは保守党内からイギリス農業を壊滅させようとしている党の裏切り者というレッテルを貼られるようになっていった。 さらに保護貿易主義派の保守党庶民院院内総務(英語版)ジョージ・ベンティンク卿(ポートランド公爵の次男)と連携して保守党内の造反議員を増やしていった。結局ピールは保守党庶民院議員の三分の二以上の造反に遭いながらも野党であるホイッグ党と急進派の支持のおかげで穀物法を廃止することができた。 ディズレーリとベンティンク卿はピールを追い詰めるため、アイルランド強圧法案を否決させることにした。当時、政府がこのような治安法案で敗北した場合、総辞職か解散総選挙しか道はなかったが、党執行部は議席を落とすことを恐れているので解散総選挙はできないとベンティンク卿は見ていた。ちなみにベンティンク卿はこの法案について第一読会で賛成票を投じていたが、適当な理由をでっちあげて反対に回ることにした。二人にとってはもはや政策よりピールを潰すという政局の方が大切だった。この法案には穀物法の時ほど党内造反者を作ることは期待できなかったが、それでも70名ほどの造反者を出させることに成功した。そしてこの法案に反対するホイッグ党や急進派と協力して、1846年6月25日の採決で73票差でこの法案を潰す事に成功した。 これを受けてピール内閣は6月29日に総辞職を余儀なくされた。 ===保守党分裂=== ピール元首相以下、保守党内の自由貿易派議員112名は保守党を離党してピール派を結成した。閣僚や政務次官経験者など党の実務経験者はすべてこちらへ流れていった(後のディズレーリの宿敵ウィリアム・グラッドストンもその一人)。 そもそも当時の保守党は貴族や地主の倅ばかりであり、家の力で議員になった者が多く、そこから実務経験者まで抜けてしまうとなると残るのは無能ばかりであった。そこにディズレーリが自由貿易批判、保護貿易万歳論を煽ったわけだから、保守党が単なる復古的農本主義団体と化していくことは避けられなかった。 国民は保守党の統治能力を疑うようになり、この政党を政権につけたら革命を誘発しかねないという懸念さえ持つようになった。保守党はこの後30年にわたって国民から倦厭され続け、少数党の立場から抜け出せなかった(その間もしばしば保守党が政権に付くことがあったのは野党が分裂していたからである)。これについてディズレーリの伝記作家ブレイク男爵は「ディズレーリとベンティンクはピールを攻撃してるつもりで保守党を破滅させた」と評した。 ピール内閣総辞職後、ヴィクトリア女王は新たな保守党党首スタンリー卿に首相の大命を与えようとしたが、彼は党の実務経験者がすべてピール派に移っていたことから組閣は不可能と判断してホイッグ党とピール派に連立政権を作らせるよう奏上した。 こうしてホイッグ党のジョン・ラッセル卿に大命降下があり、ラッセル卿内閣が成立した。発足当初のラッセル卿内閣はホイッグ党とピール派の連立を基盤としていたが、この両勢力は自由貿易以外に共通点がなく、政権はすぐに行き詰り、1847年6月には解散総選挙(英語版)となった。 すでに知名度の高い議員になっていたディズレーリは、この選挙でバッキンガムシャー選挙区に鞍替えしたが、圧勝して再選を果たしている。しかし総選挙全体の結果は改選前とほとんど変わらないものだった。結局ラッセル内閣は議会の支持基盤が不安定なまま、しかし保守党が分裂しているために政権を維持できるという状態で政権運営を続けることになった。 ===保守党庶民院院内総務、大蔵大臣として=== ====党の指導的地位をめざして==== 保守党の分裂で党有力者が軒並みピール派へ移ったことはディズレーリにとっては党内で枢要な地位を固めるチャンスであった。ディズレーリが保守党指導者に上り詰めるためには「反抗期の青年議員」を卒業して「威厳ある保守政治家」にならねばならなかった。 まず変化したのは服装だった。これまでのディズレーリの悪趣味なカラフルな服装は、落ち着いた雰囲気の紳士的な服装に変わった。また保守党内で出世するためにはどうしても大邸宅に住む地主になる必要があったので、大富豪ポートランド公爵の息子であるベンティンク卿とその弟ヘンリー・ベンティンク(英語版)卿から資金援助を受けて、1846年にヒューエンデン(英語版)に屋敷(英語版)を購入した。 しかし厄介な問題も発生していた。先の総選挙でユダヤ教徒の銀行家ライオネル・ド・ロスチャイルドがホイッグ党の議員として当選していたが、彼はキリスト教徒としての宣誓を行えないため、議員になることができなかった。これについて首相ラッセル卿がユダヤ教徒の公民権停止の撤廃を審議すべきとする動議を議会に提出した。これに対してディズレーリとベンティンク卿をのぞくピールを失脚させた保守党議員らがいっせいに反発したのである。ちなみにベンティンク卿は動議賛成に回ってくれたが、彼もユダヤ人に好意を持っていたわけではなく、ディズレーリとの友情からそうしただけであった。 ディズレーリがただひたすらに保守党指導者を目指そうと思うなら、批判と孤立を避けるためにこの動議の採決に欠席するという手段もあった(どっちにしてもホイッグ党や急進派、保守党内穏健派の賛成で動議は可決される見通しだった)。だがディズレーリにとってこれはアイデンティティに関わる問題であり、ユダヤ人同胞が不当な扱いを受けている時に隠れて見て見ぬふりをすることはできなかった。ディズレーリは演壇に立ち、『タンクレッド』の中で示した「ユダヤ教とキリスト教は兄弟である」という信念を改めて開示し、また「ユダヤ人は本来保守的な民族なのにこんな扱いばかり受けるからいつも革命政党の方に追いやられ、その高い知能でそうした政党の指導者になるのだ。これは保守党にとって大変な損失だ」と演説し、動議に賛成票を投じた。ディズレーリに従ってピールを失脚させた議員らは誰もこの演説に拍手しようとしなかった。評価したのはむしろホイッグ党であり、首相ラッセル卿は「仲間が嫌う理論をあんなふうに擁護するのは大変勇気がいることだ」と感心している。 病を患っていたベンティンク卿は上記動議に反発する者たちを抑えるため、党庶民院院内総務を辞職した。1848年2月10日、その後任にグランビー卿(ディズレーリの盟友ジョン・マナーズ卿の兄)が就任したが、彼は自分がその器ではないと自覚しており、3月4日には辞職した。その後しばらく保守党庶民院院内総務職は空席になっていたが、ベンティンク卿の健康が回復したら彼が再任されることを希望する保守党議員が多かった。 一方で8月末のディズレーリの社会風刺の演説で彼の保守党内での人気も高まっていた。さらに1848年9月にはベンティンク卿が死去した。 ベンティンク卿亡き今、人材不足の保守党の中にはディズレーリ以外に党庶民院院内総務が務まりそうな者はいなかったが、ディズレーリの毒舌や外国人風の風貌、『クオタリーレビュー』誌のマリーとの不和、『ビビアン・グレイ』の主人公はディズレーリの若いころの実話であるとの噂などから保守党内にはなおもディズレーリを胡散臭いユダヤの山師と看做す者が多かった。 党首スタンリー卿のディズレーリ不信も強かった。そのため1851年末までディズレーリは正式な庶民院院内総務には任命されなかった。だがそれでも実質的にはその数年前からディズレーリが庶民院院内総務の役割を果たしていた。 つまりディズレーリは250人の保守党庶民院議員を率い、保守党党首スタンリー卿を「副官」として支える立場になったのである。 ===保護貿易主義の限界=== ピールの置き土産である穀物の自由主義化は、イギリス農業に大きな繁栄をもたらしていた。ディズレーリらが必死に吹聴したイギリス農業の衰退は起こらず、貿易の拡大によりイギリス農家の利益は増え、農業労働者の賃金も上がっていった。穀物価格の低下は国民の福祉に貢献した。この素晴らしい成果に自由貿易は神聖化していった。もし今保護貿易主義を復古しようなどとすれば国民の暴動が起こるのは確実だった。 保守党もこれ以上保護貿易主義を掲げ続けるのは難しい情勢だった。現実主義者のディズレーリは真っ先にそれを受け入れた。彼はすでにベンティンク卿死去以前に保護貿易主義は実行可能な政策ではなくなったと考えるようになっており、1849年秋には党の保護貿易の方針は破棄するか、少なくとも前面には出さず、他の政策の後ろに隠す必要があると考えるようになった。だが党首スタンリー卿は保護貿易主義にこだわっていた。今の繁栄は一時的な物で終わるかもしれないので、保護貿易主義の撤回は時期尚早と考えていた。それに結局ピール派と同じ路線をとるなら党分裂に至る歩みは全部無駄だったことになる。党首としてそんな簡単に党の看板を下ろすわけにはいかなかったのである。ディズレーリの方も解散総選挙の兆しがない以上、急いで党の看板を変える必要もないと考えていたため、1850年中には貿易の問題は一切取り上げなかった。 1850年7月に元首相ピールが死去した。ラッセル卿内閣が弱体でありながら長期政権になっているのはピールが保守党に戻ることも、ホイッグ党と連立することも、単独で政権を担う事も拒否しているからだった。したがって保守党にとってこれはピール派との和解のチャンスに思われた。ディズレーリも「ピール派重鎮に党庶民院院内総務の地位を渡してもよい」と語って、彼らの取り込みを図ろうとしたが、ピール派のピールへの思慕は強く、結局戻ってこなかった。 1850年秋、ローマ教皇がウェストミンスター大司教(英語版)職を新設したことに対して首相ラッセル卿がイングランド国教会を害するものと激しく反発し、これによりラッセル卿政権とカトリックのアイルランド議員との連携が断ち切られた。ラッセル卿は1851年2月20日の庶民院の投票で敗北を喫し、女王に総辞職を申し出た。女王はスタンリー卿を召集して大命降下を与えたが、この際にラッセル卿は女王から直接聞いた話をもとにその一部始終を庶民院で報告し、「スタンリー卿は組閣できそうにないと女王に返答した」と発表した(=自分が政権を担い続けるしかない)。これに対してディズレーリはスタンリー卿が断るはずがないと非難の声をあげ、保守党議員たちが拍手した。これを知った女王は自分を嘘つき扱いしているに等しいディズレーリへの反感を強めたという。 しかし実際にスタンリー卿は人材不足により組閣できなかった。スタンリーとディズレーリはウィリアム・グラッドストンら実務経験のあるピール派幹部に入閣を呼びかけたが、彼らは保護貿易主義を放棄しない限りその下で働くつもりはないと断った。無名・無能議員ばかりの保守党だけで組閣するしかなかったが、混乱状態の中の組閣だったので保守党内にも個々様々な理由で入閣を拒否する者が続出し、結局スタンリー卿は組閣を断念した。 ディズレーリは「一つ確かなことは、経験と影響力がある有力議員は、保護貿易主義放棄を明確にしないと協力を拒むということだ」と書いている。いよいよ保護貿易主義を放棄しなければならない時が来ていたが、保守党内には相変わらず保護貿易強硬派は少なくないので難航した。 ===第一次ダービー伯爵内閣蔵相=== ラッセル卿内閣外相だったパーマストン子爵は、1851年末にナポレオン3世のクーデタを独断で支持表明した廉で辞任に追いやられ、1852年2月に議会が招集されると庶民院におけるラッセル卿内閣攻撃の急先鋒になった。以降ホイッグ党はラッセル卿派とパーマストン子爵派という二大派閥に引き裂かれる。ディズレーリはパーマストン子爵派と連携して在郷軍人法案でラッセル卿内閣を敗北に追い込んで倒閣した。 再びダービー伯爵(スタンリー卿。この前年に父第13代ダービー伯爵が死去して第14代ダービー伯爵位を継承した)に大命があった。相変わらず保守党は人材不足の少数党だったが、ダービー伯爵は今回はなんとしても組閣するつもりだった。 ピール派に持ちかけることなく、ただちに保守党議員たちだけで組閣が行われた。ディズレーリには大蔵大臣への就任要請が来た。ディズレーリは財政は門外漢として辞退しようとしたが、ダービー伯爵は「カニングぐらいの知識は君にもあるだろう。数字は官僚が出してくれる」と説得して引き受けさせたという。ディズレーリは外務大臣として入閣するという噂があっただけにこれは意外な人事だった。ヴィクトリア女王がディズレーリを嫌っていたため、頻繁に引見する外務大臣は嫌がり、単独で引見することはほとんどない大蔵大臣に就任させたのではないかといわれる。 第一次ダービー伯爵内閣は大臣・枢密顧問官経験者がわずか三人の内閣で後は全員新顔だった。そのため「誰?誰?内閣(英語版)」と呼ばれた。ディズレーリにとっても初めての入閣である。初めて大臣の礼服を袖に通した際、事務官から「重いでしょう」と聞かれるとディズレーリは「信じられないくらい軽いね」と答えたという。 蔵相となったディズレーリは、ヴィクトリア女王に報告書を送るようになったが、その報告書はどこか小説的でヴィクトリア女王を楽しませた。これによってヴィクトリア女王の彼への心象は随分良くなった。 ホイッグ党党首ラッセル卿としてはただちにダービー伯爵内閣を議会で敗北に追い込んで政権を奪還するつもりだった。だがピール派は夏に議会を解散することと11月に議会を招集して会計制度改革問題を取り上げることを条件として当面ダービー伯爵が政権を運営することを承認していたため、内閣はそれまでは安泰だった。 政権発足後、ダービー伯爵内閣は保護貿易について曖昧な態度をとった。ダービー伯爵自身もこれ以上保護貿易にこだわると来る総選挙において安定議席は取れないであろうと認めていたが、公然と保護貿易破棄することは躊躇っていた。だがディズレーリは一歩進めて、4月の予算演説(英語版)において前内閣の大蔵大臣サー・チャールズ・ウッドの作成した自由貿易主義の予算案を適切な物と評価する演説を行った。びっくりしたダービー伯爵はディズレーリに勝手な真似をしないよう警告の手紙を発している。 ピール派との公約通り、7月に議会が解散され、総選挙(英語版)となった。保守党はいまだ公式な保護貿易主義撤廃を宣言しておらず(ダービー伯爵がヴィクトリア女王に「穀物に関税をかけるのはもはや論外です」と確約するなど事実上保守党も自由貿易主義に移行していたが)、貿易について曖昧な態度をとったまま選挙戦に突入した。保守党執行部が明確な方針を示さないので、保守党各候補の見解もばらばらだった。概して地方の候補は保護貿易主義的に、大都市の候補は自由貿易主義的にふるまっていた。選挙の結果、保守党は若干議席を上積みしたが、過半数を制することはできなかった。 選挙後、ピール派との公約により蔵相ディズレーリは予算編成にあたることとなった。しかしまだ年度半ばで財政状況が明らかでないこの時期に予算編成に当たらねばならないのは大変なことだった。ディズレーリは毎日夜中の3時まで仕事して慣れない予算編成の仕事にあたった。そうしてできた予算案は12月3日に議会に提出された。自由貿易によって損失をこうむった(と思っている)「利害関係人」に税法上の優遇措置を与え、その減収分は所得税と家屋税の免税点を下げることによって賄う内容だった。保護貿易主義と自由貿易主義の折衷をとって党内地主層の反発を抑えつつ、ピール派にもすり寄る意図の予算案だったが、結局ホイッグ党とピール派から激しい批判にさらされた。ピール派のグラッドストンがディズレーリ批判の先頭に立ち、彼の予算案を徹底的に論破した。12月17日の採決の結果、ディズレーリの予算案は否決された。 これによってダービー伯爵内閣は総辞職することとなり、ピール派のアバディーン伯爵がホイッグ党や急進派と連立して組閣した。ディズレーリの大蔵大臣職はグラッドストンが継承した。 ===野党としての戦術=== 第一次ダービー伯爵内閣は短命に終わったが、閣僚職を務めたことでディズレーリの知名度は上がった。 ディズレーリはアバディーン伯爵政権はすぐにも倒閣できる存在であると見て、政権に徹底的な闘争を挑むことにした。野党第一党の使命は政府の法案に何でも反対することというのは、現代の議会制民主主義の国ならばどこでも見られる現象だが、これを世界で最初に確立した者はこの頃のディズレーリであるといわれている(それまでのイギリスの野党はすべて是々非々で対応していた)。 しかし党首ダービー伯爵は徹底闘争路線は拒否した。彼は先の内閣で閣僚経験のない者ばかり集めたために政権運営に苦労する羽目になったと考えており、同じことは二度とお断りという心情だった。実務経験のあるピール派も内閣に参加させるべきであり、そのため現政権を徹底攻撃することには反対というわけである。 ディズレーリはダービー伯爵に相談することなく独断で行動することが増えていった。 ===クリミア戦争をめぐって=== 1853年10月にはロシア帝国とオスマン=トルコ帝国の間でクリミア戦争が勃発。首相アバディーン伯爵は平和外交家として知られていたが、閣内には対外強硬派の内相パーマストン子爵と外相ジョン・ラッセル卿がいたので、イギリスはナポレオン3世のフランス帝国の誘いに乗って1854年3月から対ロシアで参戦することとなった。 ディズレーリはクリミア戦争について不要な戦争に参加させられたと思っており、「連合の戦争(Coalition War)」と呼んで皮肉った。公式な立場としては野党の愛国者として政府の戦争遂行を支持する一方、戦争遂行中の失敗については批判するという立場をとった。クリミア戦争が泥沼化し、ジョン・ラッセル卿が責任をとって外相を辞職すると、ディズレーリはチャンス到来と見てダービー伯爵を説得して政府への大々的攻撃を開始した。ディズレーリの反政府演説の結果、1855年1月29日にジョン・アーサー・ローバック(英語版)議員提出の戦争状況を調査するための秘密委員会設置の動議が大差で可決され、アバディーン伯爵内閣は倒閣された。 女王からダービー伯爵に再び大命降下があったが、ダービー伯爵はパーマストン子爵に外相就任を求め、これをパーマストン子爵が断ったため首相職を辞退した。女王はランズダウン侯爵を召して相談し、ランズダウン侯爵の助言に従ってラッセル卿に大命降下を与えたが、ラッセル卿が辞退したため、結局パーマストン子爵に大命降下を与えた。ディズレーリはこの一連の動きを知ると、政権を取り戻すチャンスを棒に振ったダービー伯爵を非難した。 1855年9月にロシア軍のセヴァストポリ要塞が陥落し、戦況は英仏に傾き始めた。パーマストン子爵はロシアの無条件降伏まで戦争を継続するつもりだったが、これに対してディズレーリは今こそ和平交渉の時と訴えた。フランスのナポレオン3世も和平に入ることを提案してきたため、パーマストン子爵も折れるしかなくなり、最終的に1856年3月30日にパリ条約が締結されて終戦した。保守党内にはイギリスが得た国益が少ないと不平を述べる者が多かったが、ディズレーリは「そもそも戦況が良くなかったのだからイギリスの面子が潰れない和平なら歓迎すべき」と評価した。 1856年11月には盟邦フランスのパリを訪問し、皇帝ナポレオン3世の引見を受けた。彼とは彼がイギリスに亡命していた頃から14年ぶりの再会だったが、特に政治的に得る物はなかった。ナポレオン3世のディズレーリ評は芳しくなく、この会見の後「全ての小説家にありがちな独り善がりと多弁が目立つ。でありながら行動すべき時には臆病になる」と評している。 ===パーマストン子爵内閣倒閣をめざして=== クリミア戦争後もパーマストン子爵のナポレオン3世と連携しての強硬外交は続いた。英仏は再び同盟を組んで清に対してアロー戦争を開始した。パーマストン子爵は容赦なき戦争を遂行し、清を徹底的に叩きのめした。それに対して保守党、ピール派、急進派は人道的見地から政府批判を行った。ディズレーリはこの問題で政府を攻撃しても恐らく国民の支持を得られないだろうと正しく分析していたが、党首ダービー伯爵がこの問題で徹底的に政府を攻撃することを決定した。 パーマストン子爵批判決議は僅差で可決され、パーマストン子爵は1857年4月に解散総選挙(英語版)に踏み切った。広東の清の高官を「無礼な野蛮人」と呼ぶなどのパーマストン子爵の攻撃的なパフォーマンスは、英国民の愛国心を刺激して共感を呼び、選挙は党派を超えてパーマストン子爵とアロー戦争を支持する議員たちが大勝し、強硬な戦争反対派議員はほぼ全員落選した。保守党全体としては20議席ほど減らす結果となった。 続くインド大反乱ではパーマストン子爵ははじめ鎮圧に手間取り、反乱が拡大する気配を見せた。世論はインド人の残虐行為を批判し、反乱の徹底的な鎮圧を支持していたが、ディズレーリは調査もしないで残虐行為の話を信じこむべきではないとして無差別報復を支持しないよう世論に訴えかけた(ただし残虐行為の話は誇張されている物もあったが、概ね事実であった)。そしてイギリス東インド会社を解体して、ヴィクトリア女王とイギリス政府による直接統治でインド臣民に権利を保障しなければならないという持論を展開した。しかし結局1857年暮れ以降には英軍の攻勢が強まり、反乱は鎮圧・収束へと向かっていった。 パーマストン子爵はなかなか失点を見せず、ディズレーリとしても手詰まりな状況であった。そんな中の1858年1月14日、フランスにおいてイタリア愛国者フェリーチェ・オルシーニ伯爵によるナポレオン3世爆弾暗殺未遂事件が発生した。ナポレオン3世は無事だったが、市民に多数の死傷者が出た。オルシーニ伯爵はイギリス亡命中だった人物で爆弾もイギリスのバーミンガムで入手しており、フランス国内からイギリスは暗殺犯の温床になっているという批判が強まった。フランス外相アレクサンドル・ヴァレフスキからの要求を受け入れてパーマストン子爵は殺人共謀取締法案を議会に提出したが、これを「フランスへの媚び売り法案」とする批判が世論から噴出した。ディズレーリはこの愛国ムードを利用すればパーマストン子爵内閣を倒閣できると確信し、慎重姿勢を示すダービー伯爵を無視して、殺人共謀取締法案反対運動を起こし、2月19日に同法案を第二読会で否決に追い込んだ。これを受けてパーマストン子爵内閣は総辞職した。 ===第二次ダービー伯爵内閣蔵相=== 1858年2月、女王はダービー伯爵に再度大命を降下した。ダービー伯爵はこれを引き受け、保守党のみで組閣した。ディズレーリは再び蔵相として入閣した。ただし保守党は先の総選挙で議席を落としているから、第二次ダービー伯爵内閣は第一次内閣の時よりも更に議会の基盤が弱い状態である。結局第二次ダービー伯爵内閣も短命で終わったため、予算編成を行う事がなく、ディズレーリが大蔵大臣らしい仕事をすることもほとんどなかった。 代わりにディズレーリが力を入れたのが庶民院院内総務としての仕事であった。まずユダヤ人が議員になれない状態の解除に取り組んだ。1848年のライオネル・ド・ロスチャイルドの登院問題の時の動議もそうだが、庶民院ではしばしばユダヤ人議員を認める動議が通過するのだが、貴族院ではねられるのが常だった。しかしこの第二次ダービー伯爵内閣の時の1858年、ディズレーリとダービー伯爵の仲介で庶民院と貴族院がそれぞれの宣誓の形を定めて妥協し、ついにユダヤ人も議員になれるようになった。 ついで選挙法改正に取り組んだ。ディズレーリは以前から、ホイッグ党政権が1832年に改正した現行の選挙法を保守党を不利にするための選挙制度と疑っており、保守党の手で新たな選挙法改正を行うべきと主張していた。ディズレーリによって作成された選挙法改正案は地主に従順な州(カウンティ)選挙区の有権者資格に都市(バラ)選挙区の有権者資格と同じ賃料価値10ポンド以上の不動産所持者を加えるという内容だった。本来ディズレーリは賃料価値に関わらず一戸ごとに一票を与える戸主選挙権制度を欲していたが、保守党内にも様々な意見があったので意見の統一はこの程度が限界だった。法案は1859年2月に議会に提出されたが、保守党有利の選挙法改正法案と看做されて野党の激しい批判を受け、否決に追い込まれた。 これを受けて1859年4月、ダービー伯爵は解散総選挙(英語版)に踏み切った。選挙の結果、保守党が30議席を増やし、いまだ少数党ながら野党との差を大幅に縮めた。 あと少し議席があれば保守党が多数派になるという状況の中、ディズレーリは、ホイッグ党のパーマストン子爵(ホイッグ党内でジョン・ラッセル卿と争っていた)に打診し、20人から30人の議員を引き連れて保守党へ来てくれるならダービー伯爵退任後の保守党党首に貴方を据えたいと持ちかけたが、パーマストン子爵はこれを拒否した。ついでディズレーリはアイルランド議員やホイッグ党系無所属議員と折衝を図り、またダービー伯爵もグラッドストンの引き込みを図ったが、いずれの多数派工作も成功しなかった。 ===イタリア統一戦争と自由党の結成=== この頃、フランス帝国・サルデーニャ王国の連合軍(イタリア・ナショナリズム派)とオーストリア帝国(イタリア・ナショナリズムを抑圧してイタリア内のオーストリア領保全を狙う)の間でイタリア統一戦争が勃発した。 イギリスでは、ジョン・ラッセル卿やパーマストン子爵などホイッグ党の政治家が自由主義の立場からナショナリズムに共感を寄せ、一方保守党の政治家は親オーストリア的な立場をとる者が多かった(そのためナポレオン3世はイギリスの政権について保守党政権よりホイッグ党政権を望んでいた)。ダービー伯爵や外務大臣マームズベリー伯爵も親オーストリア的な立場をとり、サルデーニャ王国を平和撹乱者として批判し、またフランスに対してもすぐにオーストリアと休戦してオーストリアと共同で教皇領改革にあたるよう求めた。だがイギリス世論はイタリア・ナショナリズムへの共感が強かった。ディズレーリはこれを敏感に感じ取っており、女王とダービー伯爵を説得して、女王演説(クイーンズスピーチ)から親オーストリア的な表現を取り除いた。 イタリア問題をめぐって自由主義が活気づく中、ホイッグ党の二大派閥(ラッセル卿派とパーマストン子爵派)、ジョン・ブライト率いる急進派、ピール派が合同して自由党が結成された。 女王演説では外相マームズベリー伯爵のイタリア問題についての外交文書を公開するという約束がされていたが、ディズレーリがこれを公表しないミスを犯したことが影響し、自由党の提出した内閣不信任案は可決されて第二次ダービー伯爵内閣は総辞職することとなった。 ===再び野党=== 1859年6月、パーマストン子爵が再び大命降下を受けて自由党政権が発足した。以降6年にわたって自由党政権が続く。つまりディズレーリら保守党にとっては6年間の野党生活だった。 1861年末にヴィクトリア女王の王配アルバートが薨去した。ディズレーリがアルバート顕彰の先頭に立ち、またアルバートの人格を褒め称えた演説を行い、ヴィクトリア女王から高く評価された。 ディズレーリはこれまで借金に追いまわされる生活だったが、この頃ようやく家計が改善した。1862年末にヨークシャー在住の大地主アンドリュー・モンタギュが保守党への寄付のつもりでディズレーリの高利貸の借金を肩代わりしてくれた。さらに1863年11月には友人ブリジス・ウィリアムズ夫人が死去し、相続人の一人に指定されていたディズレーリは彼女の巨額の財産を相続したからである。この女性はディズレーリと遠い縁戚関係のあるユダヤ人老婆で、ディズレーリと同じく自分がラーラ家の子孫だと思い込んでおり、その縁でディズレーリと親しい間柄だった(彼女はディズレーリにラーラと改名してほしがっていたが、相続の条件には加えられていなかったので結局ディズレーリは改名しなかった)。 ===グラッドストンの選挙法改正法案を阻止=== 1860年代から選挙権拡大を求める世論が強まっていたが、パーマストン子爵が選挙法改正に反対していたため、政界での動きにはならなかった。しかしそのパーマストン子爵が1865年10月に死去し、選挙法改正に前向きなラッセル伯爵(ジョン・ラッセル卿。1861年にラッセル伯爵に叙される)が首相となったことで選挙法改正が動き出すことになった。 ラッセル伯爵は選挙法改正法案の作成を大蔵大臣兼庶民院院内総務ウィリアム・グラッドストンに任せた。グラッドストンは年価値50ポンドの土地保有という州選挙区の有権者資格を14ポンドに、また都市選挙区も年価値10ポンドの家屋保有という条件を7ポンドに引き下げることで労働者階級の上部である熟練工に選挙権を広げようという選挙法改正法案を提出した。 熟練工はすでに自助を確立している体制的存在となっていたので、彼らに選挙権を認めること自体には自由党にも保守党にもそれほど反対はなかった。ただ安易に数字を引き下げていくやり方は、何度も切り下げが繰り返されるきっかけとなり、やがて「無知蒙昧」な貧しい労働者にまで選挙権を与えることになるのではないか、という不安が議会の中では強かった。「普通選挙→デマゴーグ・衆愚政治→ナポレオン3世の独裁」という議会政治崩壊の直近の事例もあるだけに尚更だった。 ディズレーリもグラッドストンが「イギリスの平和と秩序維持に関心を持つ人が450万人おり、そのうち40万人に選挙権を付与しようというに過ぎない」と自らの法案を弁護したのを捉えて「グラッドストンは450万人もの非有権者に有権者資格があると考えている」と批判して、その不安を煽った。 結局、自由党内からもロバート・ロウ(英語版)など法案に反対する議員が出たことで1866年6月にグラッドストンの選挙法改正は挫折することとなった。 これを受けてラッセル伯爵内閣は自由党分裂を避けるために解散総選挙を断念して総辞職した。 選挙法改正挫折に対する国民の反発は大きく、トラファルガー広場やハイド・パークで大規模抗議デモが行われる事態となった。 ===第三次ダービー伯爵内閣蔵相、第二次選挙法改正=== 1866年6月27日に再びダービー伯爵に大命があった。第三次ダービー伯爵内閣(英語版)が成立し、ディズレーリも三たび大蔵大臣兼庶民院院内総務として入閣した。もっとも自由党内紛による政権奪還でしかなく、保守党は依然少数党なので第一次、第二次ダービー伯爵内閣と同様に選挙管理内閣の性格が強かった。ディズレーリも大蔵大臣としてより庶民院院内総務として主に活動することとなった。 怒れる世論を背景にジョン・ブライトは国民の武装蜂起をちらつかせて政府に選挙法改正を迫ってきた。保守党内にも暴動への恐怖が広がり、早急な選挙法改正を求める声が強まった。ディズレーリも政権を維持するためには選挙法改正が不可避と考えていた。ダービー伯爵も前向きだったし、ヴィクトリア女王も自由党による急速な改正よりも保守党による緩やかな改正を望んでいた。 法案作成は庶民院院内総務ディズレーリが主導し、1867年2月に選挙法改正法案を議会に提出した。法案は、都市選挙区については基本的に男子戸主に選挙権を認めるが、そこに様々な条件(地方税直接納税者に限る、2年以上の居住制限、借家人の選挙権は認められない、有産者は二重投票可能など)を加えることで実質的に選挙権を制限する内容だった。先のグラッドストン案と違い、切り下げが繰り返されるのではという議会の不安を払しょくした点では優れたものであった。 しかし閣内からは造反者が出た。保守的なインド担当相クランボーン子爵(後のソールズベリー侯爵)、陸相ジョナサン・ピール(英語版)将軍、植民相カーナーヴォン伯爵らが反対して辞職したのである。 また野党のグラッドストンもこの法案では有権者数は14万人しか増えないし、それ以前に恐らく委員会における審議の中で法案の中で付けられている条件は急進派への譲歩でほとんど撤廃されてしまい、結果的に「無知蒙昧」な下層労働者にまで選挙権が広がると懸念した。そこでグラッドストンはこの法案に付けられているような条件はいらないが、代わりに地方税納税額が5ポンド以上という条件を付けるべきと主張した。だがディズレーリは「(グラッドストンは)一方では法案の資格制限の撤廃を主張しながら、一方では5ポンド地方税納税という別の資格制限を加えようとしている」と彼の根本的な矛盾を指摘してやり込めることで巧みにグラッドストンと急進派の離間を図った。 結果、法案は3月26日の第二読会を採決なしで通過した。これに対抗してグラッドストンは地方税納税額5ポンド条件を盛り込んだ修正案を提出したが、自由党議員の造反に遭って否決された(このためグラッドストンはこれ以降の法案審議への参加は見合わせることとなった)。 一方ディズレーリは、庶民院における主導権を自らが握るため、何としても選挙法改正法案を通す決意を固めていた。そのためジョン・ブライトら急進派に譲歩を重ね、条件を次々に廃した結果、法案は6月15日に第三読会を通過した。貴族院では激しい反発があったものの、ダービー伯爵が辞職をちらつかせて不満を抑え込んだ結果、貴族院もなんとか通過し、8月15日にヴィクトリア女王の裁可を得て法律となった。ここに第二次選挙法改正が達成された。 可決された法案は、都市選挙区については男子戸主であれば選挙権を認めていた。地方税直接納税の条件は地方税の納税方式を直接納税のみにすることによって単に地方税納税だけの条件と化しており、2年の居住制限の条件も1年に減らされていた。また年価値10ポンド以上の住居の借家人にも選挙権が認められた。州選挙区については年価値12ポンド以上の土地所有者に選挙権を認めることになった。 この選挙法改正によって有権者数は100万人から200万人に増えた。法案が提案された当初は誰も予想していなかった選挙権の大幅拡大となった。ディズレーリにとってもダービー伯爵にとっても予想外の大盤振る舞いになったが、彼らは政権維持のための代価と考えて割り切ったという。このおかげで自由党を分裂状態のままにしておくことに成功し、保守党政権が今しばらく延命できることとなったのである。そしてディズレーリはこの業績をもってダービー伯爵の後継者たる地位を確固たるものとしたのである。 ただしディズレーリは選挙法改正によって保守党が不利にならぬよう選挙区割り是正法案も提出していた。新有権者の中の自由党支持層らしき者たちをもともと自由党が強い選挙区、あるいは保守党が圧倒的に強い選挙区に組み込もうという内容だった。野党の批判を受けて多少修正に応じることにはなったが、基本的な部分は残したまま法案を可決させることができた。 ===首相、保守党党首として=== ====第一次ディズレーリ内閣成立==== 首相ダービー伯爵はかねてから持病の痛風に苦しんでいた。彼は今しばらく在任したがっていたが、結局医者の勧めに従って辞任を決意した。1868年2月21日、ダービー伯爵はヴィクトリア女王に辞表を捧呈した。その際にディズレーリ以外に党内をまとめられる者はいないとして彼に大命降下するよう助言した。保守党内では、クランボーン子爵など一部の者の反対論もあったものの、大半の者は後任はディズレーリ以外には考えられないという認識だった。 2月27日にディズレーリはヴィクトリア女王の召集を受け、ワイト島にある女王の離宮オズボーン・ハウスを参内した。そこで組閣を命じられたディズレーリは承諾し、女王の前に膝まづくと彼女の手にキスをし、「忠誠と信頼の心に愛をこめて」と述べた。この頃にはすっかりディズレーリに好感を持っていたヴィクトリアは娘ヴィッキー宛ての手紙の中で「彼には一風変わったところもあるが、非常に聡明で、思慮深く、懐柔的な面を持つ」「彼は詩心、創造性、騎士道精神を兼ね備えている」と書いている。 ディズレーリはダービー伯爵内閣の時の顔ぶれをほぼそのまま留任させたが、大法官チェルムスフォード男爵(英語版)は嫌っていたので彼だけは内閣から外した。 第一次ディズレーリ内閣は、トップの顔が変わっただけで第三次ダービー伯爵内閣の延長でしかないから、少数与党の状況は変わっていない。総選挙に勝利して多数派を得るしか政権を安定させる道はなかった。結局その総選挙に敗れて短命政権におわる第一次ディズレーリ内閣だが、その短い間にも様々な法律を通している。選挙における買収禁止に初めて拘束力を与える罰則を設けた腐敗行為防止法(Parliamentary Elections Act 1868)、パブリックスクールに関する法律(1868年パブリック・スクール法(英語版))、鉄道に関する法律(1868年鉄道規制法(英語版))、スコットランドの法制度を定めた法律、公開処刑を廃止する法律(Capital Punishment Amendment Act 1868)、郵便局に電報会社を買収する権限を与える法律(1868年電信法(英語版))などである。これらは官僚が作成した超党派的な法律だったため、少数与党のディズレーリ政権でも議会の激しい抵抗を起こさずに通すことができたのである。 外交では前政権から続くイギリス人を拉致したエチオピア帝国への攻撃を続行し、マグダラを陥落させて、皇帝テオドロス2世を自害に追いこんだ。拉致されたイギリス人を救出すると、エチオピアを占領しようという野心を見せることもなく早々に軍を撤収させた。ディズレーリは議会に「ラセラス(サミュエル・ジョンソンの著作『アビシニアの王子』のこと)の山々に聖ジョージの旗を掲げた。」と報告して、笑いをとった。 一方ラッセル伯爵の引退を受けて自由党党首になったばかりのウィリアム・グラッドストンは、1868年3月23日にアイルランド国教会廃止の今会期での準備と次会期での立法化を求める決議案を提出した。この法案は5月1日に65票差で可決された。 本来ならここで解散総選挙か総辞職すべきだが、この時点で解散総選挙をしてしまうと旧選挙法の下での選挙となり、世論の反発を買う恐れが高かった。そのためディズレーリとしてはしばらくは解散なしで政権を延命させる必要があった。ヴィクトリア女王から「アイルランド問題は重要であるから、国民の意思を問うために解散を裁可するのにためらいはない」という回答を得たディズレーリは、解散権を盾にして、閣内からの総辞職の要求や自由党の内閣不信任案提出を牽制した。これに対してグラッドストンは「議会で可決された決議案の実行を解散で脅して阻止しようとするとは言語道断だ」と批判した。またディズレーリは政権延命のためにはヴィクトリア女王の大御心を利用しようとさえし、「政治が重大な局面にある時は国民も君主に備わる威厳を感じ取るべきであり、政府もそのような時局における内閣の存立は女王陛下の大御心次第だということを了解するのが賢明です」と立憲主義に抵触しかねない発言まで行った。 だがそのような努力のおかげで閣内からの総辞職要求も野党の内閣不信任案も阻止し、7月31日の議会閉会を迎えることができた。 11月に新選挙法の下での総選挙(英語版)が行われた。新有権者となった労働者階級上層の熟練労働者はグラッドストンを支持していた。選挙戦中にディズレーリが新有権者に向かって「私が貴方達に選挙権を与えたのだ」と述べると、彼らは「サンキュー、ミスター・グラッドストン」という声をあげたといわれる。自由党がアイルランド、スコットランド、ウェールズで議席を伸ばし、379議席を獲得したのに対して、保守党は279議席しか取れなかった。 この結果を受けてディズレーリは新議会招集の前に総辞職した。これは総選挙の敗北を直接の原因として首相が辞任した最初の事例であり、以降イギリス政治において慣例化する。これ以前は総選挙で敗北しても議会内で内閣不信任決議がなされるか、あるいは内閣信任決議相当の法案が否決されるかしない限り、首相が辞職することはなかった。 退任にあたってヴィクトリア女王はディズレーリに爵位を与えてやろうとしたが、ディズレーリは拝辞して代わりに妻メアリー・アンをビーコンズフィールド女子爵に叙してもらった。メアリー・アンはこの4年後に死去している。 ===グラッドストン内閣倒閣を目指して=== 1868年12月9日にウィリアム・グラッドストンに大命降下があり、自由党政権が誕生した(第1次グラッドストン内閣)。この政権は5年以上続く長期政権となり、ディズレーリの長い野党党首時代が始まった。 ディズレーリはこの野党時代にも引き続き保守党党首を務め続けたが、保守党内における彼の立場は微妙だった。もともとディズレーリは貴族院に対する影響力が弱く、ソールズベリー侯爵(クランボーン子爵、1868年に父第2代ソールズベリー侯爵が死去し、第3代ソールズベリー侯爵位を継ぐ)をはじめとする反ディズレーリ派が貴族院議員に多かった。総選挙後にマームズベリー伯爵が保守党貴族院院内総務を辞職した際にもディズレーリの権威が微妙なために後任がなかなか決まらなかった(結局はリッチモンド公爵が就任する)。 しかも党勢は1832年以来最低水準であったから庶民院議員たちにも不満が高まっていた。次の選挙に勝つために党首をダービー伯爵(元首相ダービー伯爵の息子)に代えるべきという声も少なくなかった。 首相を退任して時間に余裕ができたディズレーリは小説『ロゼアー(英語版)』の執筆を開始し、1869年5月にこれを出版した。カトリックに改宗したビュート侯爵(英語版)をモデルにしたと思われるロゼアーを主人公にして、社交界の人々の野心や陰謀、虚栄を描きだし、世の中の若い貴公子たちに教訓を与えようという小説である。元首相の小説として評判になり、ベストセラーとなった。とりわけ社交界では『ロゼアー』を読まなければ入れてもらえないという状況にさえなった。 グラッドストン政権はアイルランド国教会廃止、アイルランド農地改革、小学校教育の充実、秘密投票制度の確立、労働組合法制定など内政で着実に改革を推し進めたが、外交には弱かった。プロイセン王国宰相オットー・フォン・ビスマルクによる普仏戦争とドイツ帝国樹立の動きを阻止できず、ヨーロッパにおける発言力をドイツに奪われ始めた。ロシア帝国外相アレクサンドル・ゴルチャコフもドイツの後ろ盾を得て「ゴルチャコフ回状」を出し、パリ条約の黒海艦隊保有禁止条項の破棄を一方的に通告してきた。これによりロシアがバルカン半島に進出を強めてくるのは確実な情勢となり、イギリスの地中海の覇権がロシアに脅かされる恐れが出てきた。さらにアメリカ合衆国に対してもアラバマ号事件(英語版)で譲歩していた。イギリスの威信を下げていると言わざるをえない状況だった。 これに対してディズレーリは、1872年6月24日に水晶宮で開催された保守党全国大会において「40年前に自由主義が登場してきて以来のイギリスの歴史を調べたなら、大英帝国を解体しようとする自由主義者の企みほど、絶え間なく巧妙に行われた努力はないと分かる。」「自由党は”大陸的”、”コスモポリタン的”な政党であり、保守党こそが真の国民政党である。」「諸君らはイギリスを帝国としなければならない。諸君らの子孫の代まで優越的地位を維持し続け、世界から尊敬される国家にしなければならない。諸君らが選挙区に戻ったら、一人でも多くの選挙区民にそのことを伝えてほしい」と演説した。帝国主義や強硬外交を選挙の目玉争点にしたディズレーリの戦術は功を奏した。これがイギリス国民の愛国心を大いに刺激し、次の総選挙での保守党の大勝に繋がるのである。 またディズレーリは1872年4月にマンチェスターで開かれた保守党大会以降、保守党の機構改革にもあたっていた。ホワイトホールに保守党中央事務局(Central Conservative Office)を設置し、党内でも特に有能な者を参謀としてここに集め、選挙運動全体を指揮させた。この組織と1867年にジョン・エルドン・ゴースト(英語版)の主導で創設された保守党協会全国同盟(英語版)が保守党議会外活動の中心的存在となっていく(この体制は現在の保守党まで維持されている)。この選挙運動の組織化も総選挙大勝の要因になったといえる。 1873年の議会でグラッドストンはアイルランドに信仰を侵さない大学を創ろうとしたが、アイルランド議員からも保守党議員からも批判され、法案が否決された。 グラッドストンが総辞職を表明したのを受けて、ヴィクトリア女王はディズレーリに大命降下したが、ディズレーリは拝辞した。ディズレーリとしては総選挙を経ず少数党のまま政権に付きたくなかった。組閣後に解散総選挙するとしても二か月はかかるので、それまでの間は自由党に媚を打って政権を存続させなければならなくなり、それによって保守党に対する信頼は揺らぎ、選挙に大勝できなくなると考えていた。これに対してグラッドストンは内閣への信任決議相当の政府法案が否決された場合には、野党は後継として組閣するのが義務であると述べてディズレーリの態度を批判した。 結局グラッドストンが引き続き首相を務めることとなったが、予算をめぐる閣内分裂が原因で1874年2月に解散総選挙(英語版)となった。選挙の結果、保守党が350議席(改選前279議席)、自由党が245議席(改選前379議席)、アイルランド国民党(英語版)が57議席を獲得した。これを受けてグラッドストンはディズレーリの先例に倣って新議会招集を待たず、ただちに総辞職した。 グラッドストン夫人キャサリン(英語版)は息子に宛てた手紙の中で「お父さんの勤勉と愛国心、多年にわたる仕事の結晶を、あのユダヤ人に手渡すことになるなど考えただけでも腹立たしいではありませんか」と苛立ちを露わにしている。 ===第二次ディズレーリ内閣=== 1874年2月28日にヴィクトリア女王から召集され、大命を受けた。今度はディズレーリも了承し第2次ディズレーリ内閣の組閣を開始した。 両院の過半数を制する大議席、大敗を喫した野党自由党の混乱状態、ヴィクトリア女王のディズレーリへの寵愛、不安要素が皆無の第2次ディズレーリ内閣が長期安定政権になるのは誰の目にも明らかだった。党内反ディズレーリ派さえも内閣への参加を希望し、反ディズレーリ派の筆頭ソールズベリー侯爵もインド担当大臣としての入閣を了承した。同じく反ディズレーリ派だったカーナーヴォン伯爵も植民地大臣として入閣した。彼らは高教会派の右派であり、その彼らを取り込めたことは党内右派の不満を減らして内閣に安定をもたらした。保守党の主要政治家をそれぞれの専門分野に応じて適材適所に配置した内閣でもあり、内閣の能力も著しく高かった。保守党政権としては30年前のピール内閣以来の安定政権であるといえる。 ディズレーリは「政治家がまず考えるべきことは国民の健康」「政治改革より社会改革の方が重要」と主張して、社会政策に力を入れた。30年前の小説『シビル』で示した労働者階級の貧困への同情は、この時にも変わってはいなかった。ディズレーリの社会政策を「トーリー・デモクラシー」と呼ぶことがある。ただし「トーリー・デモクラシー」は自由放任主義から国家介入主義への転換を意味しない。イギリスでは強制は嫌われる風潮があるため、ディズレーリが行った社会立法の多くも強制することにならないよう配慮がされている。ディズレーリは「任意に委ねる法律こそが自由な人間が持ち得る特質」と語っている。 政権奪還後、ただちに工場法改正に取り組んだ。これまで工場法により一週間の最大労働時間は60時間と定められていたが、繊維業労働組合などから最大労働時間を54時間に短縮すべしとの声が上がっていた。グラッドストン前政権は自由放任主義の立場からこの要請を拒否していたが、ディズレーリは労働組合に歩み寄りの姿勢を示し、57時間労働制を定め、また最低雇用年齢も10歳に引き上げる改革を行った。 1875年には労働者住宅改善法(英語版)を制定して「都市の住宅状況の公共の責任」を初めて明記し、地方自治体にスラムの撤去や都市再開発の権限を与えて、都市改造を促した。しかしこの法律は補償の点について問題があったため、1879年になってその問題点を解消するために改正があり、スラムを整理した後に労働者が家を建てられるよう国庫から金を貸し付けることとした。当時は家の価格が安く、賃料はもっと安かったので、この制度は一定の労働者保護になったといえる。この法律を使ってのスラム整理で有名なのが、バーミンガム市長ジョゼフ・チェンバレンの都市改造である。 同じく1875年、主人及び召使法(英語版)を近代的な使用者及び被使用者法(英語版)に改正し、これによって雇用契約における使用者と被使用者の間の通常の債務不履行は刑事訴追の対象外とした。雇用契約は基本的に民事上だけの関係となったのである。 さらに100くらいあった既存の公衆衛生に関する地方特別法を一つにまとめた公衆衛生法を制定した(1875年公衆衛生法(英語版))。水道、河川の汚染、掃除、道路、新築建物、死体埋葬、市場規制などについて規定し、都市の衛生化を促進した。この法律は途中二回の改正をはさみながらも1937年までイギリスの公衆衛生に関する基本法として君臨した。 農地法によって強制立ち退きされた小作人に対する補償制度も定めた。しかしこの問題は地主の多い保守党内では慎重に扱わねばならない問題であった。ディズレーリの「ヨーロッパでは騒動を企む勢力が小作人の権利問題を利用します。わが国でも同様の勢力が君主制・貴族制の根幹をなす土地所有形態を破壊しようと企んでいます。我が国では強制されることを嫌う風潮があります。そして残念ながら地主と小作人の関係は変則的な強制関係が存在します。それが小作人の権利要求に結び付いています。陛下の内閣が行う施策の目的は、平穏な今のうちに変則的状況を解除することにあります。」というヴィクトリア女王への報告にもそれがよく現れている。 労働組合にも強い関心を持ち、労働組合のピケッティング(スト破り防止)を禁じた1871年刑法修正法(英語版)を廃止し、代わって共謀罪及び財産保護法(英語版)を制定し、個人で行った場合に犯罪ではない行為は集団で行っても犯罪ではないと明記したことで、平和的ピケッティングを解禁した。このおかげで労働組合の圧力組織としての力は大きく向上した。 労働者階級出身の初めての庶民議員アレグザンダー・マクドナルド(英語版)は「保守党は5年の政権の間に50年政権にあった自由党よりも労働者階級のために多くのことをした」と評した。 ディズレーリの一連の社会政策はジョゼフ・チェンバレンの「社会帝国主義」の萌芽に位置付けられることもある。 第2次ディズレーリ内閣が発足した頃、大陸では普仏戦争に敗北したフランス共和国が凋落し、ドイツ帝国が大陸の覇権的地位を確立していた。更にドイツはロシア帝国やオーストリア=ハンガリー帝国と結託して保守的な三帝同盟をつくっていた。これはかつての神聖同盟に類似していた。ディズレーリは尊敬するカニング外相が神聖同盟とは距離を置いた外交を行ったのに倣った。つまり三帝同盟弱体化をイギリス外交の目標に据えたのである。 三帝同盟は決して盤石ではなかった。ロシアは、普仏戦争でドイツを支持したが、戦後のドイツの増大化とフランスの弱体化を懸念していた。また、この頃のロシアは汎スラブ主義が高揚しきっており、バルカン半島の覇権をめぐってオーストリアとの対立が絶えなかった。それをドイツ宰相ビスマルクが強引に結び付けている状況だった。そのため三帝同盟を切り崩すチャンスはすぐにも訪れた。 1875年4月の『ポスト』紙事件(ドイツ語版、フランス語版)で独仏戦争の危機が高まるとロシア外相アレクサンドル・ゴルチャコフが介入してドイツのフランスに対する予防戦争を阻止しようと図ったのである。ディズレーリは孤立主義者である外相ダービー伯爵にイギリスもこの問題にもっと積極的に介入するよう指示を与え、ロシアと共同歩調をとらせて、ドイツに圧力をかけて予防戦争を阻止した。 1875年夏、オスマン=トルコ帝国領ボスニアとヘルツェゴビナでキリスト教徒スラブ人農民が蜂起した。イスラム教国であるオスマン=トルコ帝国はキリスト教徒スラブ農民に対して苛酷な税を取り立て、また何ら権利を認めようとしない圧政を敷いていたからである。この反乱は拡大し、1876年4月にはブルガリアのスラブ人もオスマン=トルコの支配に対して蜂起、さらに7月にはトルコの宗主権下にあるスラブ人自治国セルビア公国とモンテネグロ公国が、オスマン=トルコに対して宣戦布告した。ロシア帝国でも汎スラブ主義がどんどん高揚し、バルカン半島のスラブ人蜂起を積極的に支援した。多くのロシア人が蜂起軍支援のため義勇兵や篤志看護婦に志願してバルカン半島へ赴いていった。 オスマン=トルコは、かつての繁栄の残滓でバルカン半島、小アジア、中近東、北アフリカにまたがる巨大な領土を領有していたが、この時代にはすっかり衰退し、常にロシアから圧迫され、国内では内乱が多発していた。すでにギリシャには独立され(ギリシャ独立戦争)、エジプトも事実上独立していた(エジプト・トルコ戦争)。イギリスの庇護で何とか生きながらえている状態だった。イギリスにとってもオスマン=トルコを生きながらえさせることは死活問題だった。インドへの通商路は陸路の場合はオスマン=トルコ領を通らずにはすまなかったし、海路もスエズ運河が大きな役割を果たすようになっていたから、もしオスマン=トルコ領がロシアの手に墜ちるなら、イギリスの「インドの道」は陸路も海路もロシアの脅威に晒されることになる。ディズレーリとしてはオスマン=トルコを支援するしかなかった。 ロシアがドイツとオーストリア=ハンガリーの支持を取り付けて三国連名でオスマン=トルコ批判声明を出した時、ロシアは同じキリスト教国としてイギリスも名前を連ねるよう呼びかけてきたが、当然ディズレーリはこれを断った。 しかし1876年6月23日付けの『デイリー・ニューズ』が「オスマン=トルコ軍はブルガリアで2万5000人に及ぶ老若男女の虐殺、少女奴隷売買などの残虐行為を行っている」と報道したことでイギリスの世論は急速にオスマン=トルコに対して硬化した。ディズレーリは記事の信ぴょう性に疑問を呈したが、彼のそのような態度は世論の激しい反発を招いた。ディズレーリを寵愛するヴィクトリア女王さえもがディズレーリに対して「なぜトルコのキリスト教徒虐殺に抗議しないのか」と詰め寄っている。グラッドストンに至っては「ディズレーリは全てを嘘で塗り固めた男であり、ユダヤ人としての感情だけが本物だ。彼の親トルコ政策は、ユダヤ人の本性をむき出しにしたキリスト教徒への復讐である」とユダヤ陰謀論的な主張までし始めた。 ディズレーリは8月11日の議会における演説で「この重大な時局における我々の義務は大英帝国の維持である。トルコの生存はその最低条件なのである」と述べ、反トルコ感情の高まりの火消しに努めた。だが全く功を奏しなかった。庶民院ではディズレーリがトルコの残虐行為を軽視したとする問責決議がなされた。またイギリス各地でトルコ批判の国民集会が開かれ、十字軍を結成するための署名活動も開始された。グラッドストンの地元であるリヴァプールでは特に反トルコ機運が盛り上がり、シェークスピアの『オセロ』の上演で「トルコ人は溺死した」というセリフが出るや、観客が総立ちになり、拍手喝采に包まれたという。 一方トルコ政府はイギリスは国益上自分たちを庇護せざるを得ないので、どれだけキリスト教徒虐殺を続けても結局は目をつぶるしかないと思っていたため、ディズレーリが自重するよう説得しても聞く耳を持たなかった。 1877年4月、ついにロシアがオスマン=トルコに宣戦布告し、露土戦争が勃発した。ロシア外相アレクサンドル・ゴルチャコフはイギリスに中立を要求してきた。これに対してディズレーリはスエズ運河、ダーダネルス海峡、コンスタンティノープルを侵さないとの確約を求め、ゴルチャコフもこれを了承した。 もっともロシアはイギリス国内の世論状況をよく調べており、イギリスがオスマン=トルコ側で参戦するなど到底できないことを知っていた。そのため約束を守る気などなく、ロシア皇帝アレクサンドル2世は軍司令官に「目標コンスタンティノープル」という命令を下している。 ヴィクトリア女王はロシアの膨張を恐れるようになり、ディズレーリに退位をちらつかせて対ロシア参戦を要求するようになった。女王の寵愛を自らの内閣の重要な要素と考えているディズレーリとしては、女王の意思をないがしろには出来ず、彼も8月頃から参戦の必要性を考えるようになった。しかしこの頃のディズレーリは喘息と痛風に苦しんでおり、参戦するか否かの議論は閣僚たちに任せて、ヒューエンデンに引っ込んでいた。またロシア軍の侵攻はプレヴェンのオスマン=トルコ軍によって阻まれており、イギリスが援軍を送るまでもなくオスマン=トルコが自力でロシアを返り討ちにできそうにも見えた(当代一の名将と呼び声の高いドイツ参謀総長モルトケ元帥もそう予想していた)。 ロシアがバルカン半島に侵攻を開始してからイギリス国内世論もだんだんオスマン=トルコに対する同情の声が強くなっていき、イギリスの対ロシア参戦も不可能ではなくなってきた。 12月にプレヴェンの防衛線を守っていたオスマン=トルコ軍がロシア軍によって壊滅させられると、ディズレーリはいよいよ危険水域に達したと判断した。どうすべきか結論を出せない閣僚たちを無視して、ヴィクトリア女王に上奏してイギリス陸軍に戦闘態勢に入らせた。この際にディズレーリはヴィクトリア女王に「イングランドは何があってもロシアの傘下には入りません。そうなれば本来の高みから二流国に転落してしまいます。」と述べている。これを受けて対露開戦に反対する植民地相カーナーヴォン伯爵が辞職した。1878年2月にイギリス海軍にコンスタンティノープルへの出動命令を下したが、目標が定まらず、命令を取り消した。 そうこうしてる間にもオスマン=トルコ軍は敗走を続けていた。オスマン=トルコ政府はもはや限界と判断してイギリスに独断でロシアとの間にサン・ステファノ条約を締結して休戦した。この条約によりエーゲ海にまで届く範囲でバルカン半島にロシア衛星国大ブルガリア公国(形式的にオスマン=トルコの宗主権下)が置かれることとなり、地中海におけるイギリスの覇権が危機に晒された。またアルメニア地方のカルスやバトゥミもロシアが領有することになり、そこがロシアの中近東・インド侵略の足場にされる危険も出てきた。イギリスの権益など形だけしか守られていないサン・ステファノ条約に英国世論は激高した。 ディズレーリは駐英ロシア大使ピョートル・シュヴァロフ(ロシア語版)伯爵に対してこのような条約は認められないとして、大ブルガリア公国の建国中止、アルメニア地域で得たロシア領土の放棄を要求した。シュヴァロフ大使は「それではロシアの戦果がなくなってしまうではありませんか」と答えたが、ディズレーリは「そうかもしれないが、それを認めないならイギリスは武力をもってそれらの地からロシアを追いだすことになる」と通告した。 ディズレーリは3月27日の閣議でインド駐留軍の地中海結集と予備役召集、キプロスとアレクサンドリア占領を決定した。この方針に反対した対ロシア開戦慎重派の外相ダービー伯爵が辞職した。彼の辞職はディズレーリには残念なことだったが、シュヴァロフ大使にプレッシャーを与えることができた。 「公正な仲介人」としてドイツ帝国宰相オットー・フォン・ビスマルクが仲裁に乗り出してきて、1878年6月から7月にかけてベルリン会議が開催されることとなった。会議にはイギリスからは首相ディズレーリと新外相ソールズベリー侯爵が出席することとなった。ヴィクトリア女王はディズレーリの健康を心配してベルリン行きに反対していたが、ディズレーリは鉄血宰相と対決できる者は自分しかいないと女王を説得し、出席することになった。 ディズレーリには会議で強硬姿勢をとれるだけの条件が整っていた。指を鳴らして対ロシア開戦を待ちわびている好戦的な女王と国民世論を背負い(その国民世論は対ロシア開戦に反対するグラッドストンの家に投石があったことにもよく現れていた)、さらにコンスタンティノープル沖ではイギリス海軍が臨戦態勢に入っていたからである。会議前の外相ソールズベリー侯爵とシュヴァロフ大使の交渉・秘密協定の段階ですでに大ブルガリア公国南部のトルコへの返還などロシアから譲歩を引き出すことに成功していた。 ディズレーリは会議において、会議前の英露協定で懸案事項のまま残されていた諸問題、たとえばトルコ皇帝の南部ブルガリア軍事権の確保、トルコ通行路の確保、東ルーマニアの統一運動の鎮圧権の確保などの問題に取り組んだ。会議でディズレーリは徹底的な強硬路線を貫き、ロシアが反対するなら会議が決裂するだけであると脅迫して、イギリスの主張をほとんど認めさせた。会議の途中にビスマルクとシュヴァロフが譲歩を拒否した時、ディズレーリは帰国の準備を命じ、それを聞いたビスマルクはただの脅しだと思っていたが、本当に英国代表団が荷造りをしているので、やむなく譲歩したという逸話まであるが、この逸話は疑う説もある。 ただディズレーリが一歩も引かなかったことは事実で、その姿を見たビスマルクは「あのユダヤの老人はまさに人物だ (Der alte Jude, das ist der Mann) 」と舌を巻いたといわれる。 ベルリン会議の結果、大ブルガリア公国は分割された。その南部は東ルメリア自治州としてオスマン=トルコに戻され、ロシアのエーゲ海への道は閉ざされた。さらにイギリスはオスマン=トルコからキプロスを割譲され、東地中海の覇権を確固たるものとした。一方でカルスとバトゥミについてはイギリスが譲歩することになり、ロシアが領有することとなった。しかし全体的に見ればイギリス外交の大勝利であった。 またこの会議でロシアがビスマルクに不満を抱くようになったこともディズレーリにとってはおいしかった。ディズレーリは会議から2年後に「我々の目標は三帝同盟を打破し、その復活を長期にわたって阻止することだったが、この目標がこんなに完璧に達成されたことはかつてなかった」と満足げに語っている。 イギリスに帰国したディズレーリは国民から歓声で迎えられた。ヴィクトリア女王は恩賞としてディズレーリにガーター勲章と公爵 (Duke) 位を与えようとしたが、公爵位についてはディズレーリの方から辞退している。またガーター勲章についても外相ソールズベリー侯爵にも同じ名誉が与えられるのでしたら、という条件付きで授与を受けた。 ちょうどバルカン半島蜂起が発生した頃の1875年夏、ロシアのバルカン半島への野心を確信したディズレーリは喜望峰ルートに代わって増えていくエジプトからインドへ向かうイギリス船籍の航路の安全を早急に確保しなければならないと考え、フランス資本で作られ、株をフランスが多く握るスエズ運河に注目するようになった。 フランス資本家が破産しかけだったエジプト副王イスマーイール・パシャが所持するスエズ運河の株(全株式40万株中17万7000株)を買収するという情報をつかんだディズレーリは友人のライオネル・ド・ロスチャイルドに協力を依頼して400万ポンドの資金を借り受けて、先手を打ってその17万7000株を買収した。これによりイギリス政府がスエズ運河の最大株主となった。ディズレーリはヴィクトリア女王に「陛下、これでスエズ運河は貴女の物です。フランスに作戦勝ちしました」と報告した。 1876年、運河を買収されたエジプト政府は財政破綻し、債権者のイギリスとフランスを中心としたヨーロッパ諸国によりエジプト財政が管理されることとなった。1878年にはイギリス人とフランス人が財政関係の閣僚としてエジプトの内閣に入閣することになった。英仏はエジプト人から過酷な税取り立てを行い、エジプトで反英・反仏感情が高まっていった。 この反発はやがてエジプト人の反乱「ウラービー革命」へと繋がっていくが、ディズレーリの後任の第2次グラッドストン内閣が鎮圧軍をエジプトに送りこんで占領し、フランスの影響力は排除されて、エジプトはイギリス一国の半植民地となっていくのである。 ヨーロッパ大陸諸国が次々と保護貿易へ移行する中、イギリス綿業にとってインド市場の価値は高まっていった。ディズレーリ政権もインドとの連携の強化を重視した 。 1876年、ヴィクトリア女王がインド女帝位を望むようになり、ディズレーリもインドとの連携強化の一環になると考え、議会との折衝にあたったが、イギリス国民は皇帝という称号を好んでいなかったので、野党自由党から批判された。フランス皇帝ナポレオン3世やメキシコ皇帝マクシミリアンなど皇帝を名乗り始めた者がろくな末路を辿っていないジンクスもあった。 この称号はインドに対してのみ用いるという条件付きで野党の反発を押し切り、4月には王室称号法によって「インド女帝」の称号をヴィクトリアに献上することができた。 インド総督が主催する大謁見式が開催され、ヴィクトリア女王とインド社会有力者との一体化が図られた。 1860年代から1870年代にかけてロシア帝国は中央アジア諸国に次々と侵攻を行い、支配下に組み込んでいた。インドに隣接するアフガニスタン王国に触手を伸ばしてくるのも時間の問題だった。ロシアの対英強硬論者がインド侵攻を主張しはじめるようになる中、首相就任直後のディズレーリも先手を打って中央アジアとペルシア湾を抑えることを考えた時期があったといい、インド総督ノースブルック伯に対してヘラートにイギリス出先機関を置くよう命じた。しかしノースブルック伯はロシアはアフガンへの野望を見せておらず、アフガンとの関係を損なうだけであるとしてこれに反対し、ディズレーリもアフガンの件はしばらく捨て置いた。 しかし新たにインド総督に就任したリットン伯爵(ディズレーリの友人エドワード・ブルワー=リットンの息子。リットン調査団で知られる第2代リットン伯爵の父)はロシアのアフガンへの野望を確信しており、アフガンの外交をコントロールしようとイギリス外交使節団を首都カーブルに置くようしばしばアフガン王シール・アリー・ハーンに要求を続けたが、王は丁重に断り続けた。 ところが1878年7月にはロシア軍がシール王の抗議を無視してカーブルに入城し、シール王がしぶしぶロシア軍来訪の歓迎を表明して、あげくロシア軍のアフガニスタン国内への駐屯を認める条約を締結するという事件が発生した。これに対してリットン総督はシール王にイギリス軍の駐屯も認めさせる条約を締結させて、ロシア軍をアフガニスタンから追い払おうと決意した。 ディズレーリはロシアから正式な回答が得られるまで行動を起こさないようリットンに命じたが、リットンは9月21日に独断でアフガン侵入を開始するも失敗して撤収した。これによりディズレーリはリットンの計画を強行するか、アフガンに頭を下げるしかなくなった。さらにシール王がリットンに対して強硬な返答をしたため、ディズレーリとしてはリットンを支持するしかなくなり、アフガンに対してイギリス使節団のカーブル駐在を求める最後通牒を出した。アフガンはこの最後通牒を無視したため、1878年11月に第二次アフガン戦争が開戦することとなった。イギリス軍は勇戦し、シール王をトルキスタンに追い、イギリスにとって御しやすそうな新王が擁立されて休戦協定が締結され、イギリス軍がアフガンに駐在することとなった。ロシア軍が反撃に出てくる様子はなく、ディズレーリもリットン総督の命令無視を不問に付した。 しかしディズレーリの後任グラッドストンはリットンを罷免し、アフガン王アブドゥッラフマーン・ハーンにイギリス以外のどの国とも関係を持たないこと、どこか別の国がアフガンへ侵攻してきた際にはイギリス軍がアフガンを支援することを条件としてアフガンの内政に干渉しないという条約を締結し、アブドゥッラフマーンとイギリスは良好な関係を保っていくことになる。 当時南アフリカには英国植民地が2つ(ケープ植民地、ナタール植民地(英語版))、オランダ人植民者の子孫でイギリス支配に反発してグレート・トレックで内陸部へ移住したボーア人による国家が2つ(オレンジ自由国、トランスヴァール共和国)、計4つの白人植民者共同体があった。オレンジ自由国は比較的親英的で英国と協力関係にあったが、トランスヴァール共和国は反英的だった。そしてその周囲に白人植民者の20倍にも及ぶ数の先住民の黒人が暮らしていた。彼らには様々な部族があったが、とりわけ好戦的なズールー族(ズールー王国)が大きな勢力であった。 こうした状況の中、4つの白人共同体を南アフリカ連邦としてまとめることで、ズールー族をはじめとする黒人部族に対して優位に立とうと考えたのがディズレーリ内閣植民地相カーナーヴォン伯爵だった。彼はダービー伯爵内閣でも植民地相を務め、カナダ連邦の創設に主導的な役割を果たした人物であり、植民地に連邦制を導入することに熱心だった。しかし反英的なトランスヴァールと本国主導の連邦形成に不満があるケープ植民地が反発したため調整は難航した。 ここに来てディズレーリもカーナーヴォン伯爵もトランスヴァールを併合することを決意した。トランスヴァールは財政難であり、政治も対英穏健派の大統領トマス・フランソワ・バーガーズ(英語版)と対英強硬派が鋭く対立して混乱していた。そのためズールー族にいつ征服されるか分からない国情であり、またドイツやフランス、ポルトガルと手を組む恐れも考えられたからである。 1876年7月にトランスヴァールと黒人部族ペディ族(英語版)の間に戦争が勃発すると、カーナーヴォン伯爵がナタール総督として現地に送り込んだサー・ガーネット・ヴォルズリー(英語版)将軍と英領ナタール行政府先住民担当相サー・シオフィラス・シェプストン(英語版)は、それへの介入を口実にトランスヴァールを併合することを企図した。この後トランスヴァールとペティ族の戦争が一時収束したため、介入の口実を失い、計画は一時延期されたものの、結局1877年1月にイギリス軍はトランスヴァール領へ侵入し、バーガーズ大統領やトランスヴァール議会と交渉の末に4月2日にトランスヴァール併合宣言にこぎつけた。 当時バーガーズ大統領は病気だったので弱腰だったのだが、トランスヴァール国民の多くは40年前にイギリス支配から逃れたグレート・トレック精神を忘れておらず、内心ではイギリスの併合に不満を持っていた。結局トランスヴァールは第二次グラッドストン政権下の1880年12月から1881年3月にかけて第一次ボーア戦争を起こして再独立することとなる。 またズールー族もトランスヴァールがなくなった今、イギリスに直接敵意を向けてくるようになった。 英領ナタール行政府高等弁務官(英語版)サー・ヘンリー・バートル・フレア(英語版)とズールー族は対立を深めていった。1878年12月11日にフレアはズールー族の王セテワヨ・カムパンデに最後通牒を送った。完全にフレアの独断行動であり、フレアはディズレーリへの報告をわざとゆっくり行い、ディズレーリに選択の余地を与えずに彼を戦争に引きずり込んだ。 最後通牒に対するズールーからの返事はなく、1879年1月、フレアの命令を受けたチェルムズフォード男爵率いる1万6000人のイギリス軍がズールー王国へ侵攻を開始したが、イサンドルワナの戦い(英語版)で敗北した。 この報告を受けたディズレーリは卒倒しかけたという。チェルムズフォード男爵が援軍を要求してきたため、やむなく許可し、2月には最新鋭兵器を持たせて応援軍を送ることとした。一方でサー・ガーネット・ヴォルズリー(英語版)将軍を新司令官に任命し、チェルムズフォード男爵はその隷下とした。 援軍が到着するとチェルムズフォード男爵はヴォルズリーの命令を無視してすぐに反撃に打ってでて、7月4日にズールー王国首都ウルンディは陥落した。ズールー族を事実上イギリスの支配下に組み込むことに成功した(ズールー王国が正式に大英帝国ナタールに組み込まれたのは1897年)。 なお派遣された援軍の中に王立陸軍士官学校卒業生のナポレオン4世(ナポレオン3世の息子、普仏戦争の敗北で父母とともにイギリスに亡命)が従軍していた。ディズレーリはフランス第三共和政の反発を恐れて彼を従軍させることに慎重だったのだが、ナポレオン4世の母である元フランス皇后ウジェニーと英女王ヴィクトリアが強硬にナポレオン4世の意思を支持したため、結局ディズレーリが折れた。ディズレーリは「執拗な女性二人も相手にして私に何ができるでしょう」と嘆いている。しかし6月初め、前線の小競り合いでナポレオン4世は戦死した。ヴィクトリア女王はこれに大いに悲しみ、ヴィクトリア女王の計らいで彼の葬儀は盛大に行われ、女王自身も葬儀に出席した。女王が葬儀に出席するのは相手も君主の場合だけであり、臣民の葬儀には出席しないのが慣例である。そのような栄誉がボナパルト家の者に認められると、フランス第二帝政を廃した第三共和国の反発が予想されることからディズレーリが再び反対したが、やはり女王は聞き入れなかった。さらに葬儀を終えた女王は「土壇場になるまで植民地の軍備増強を怠った政府の責任である」としてディズレーリに叱責の電報を送った。女王の格別な寵愛によりディズレーリにだけ許されていた女王引見の際の様々な特別扱いも一時中止されたほど、この時の女王の怒りは激しかったという。 1876年8月12日、ヴィクトリア女王よりビーコンズフィールド伯爵、ヒューエンデン子爵に叙された。これにより貴族院に移ることとなったが、30年にわたって庶民院保守党議員を支配してきたディズレーリにとっては辛いことだったという。ヴィクトリアは「貴族院に移れば疲労はずっと少ないですし、そこから全てを指導することもできます」と説得したという。 毀誉褒貶はあっても、強力な個性の持ち主であるディズレーリが庶民院を去ることを庶民院議員たち(特に若手)は惜しんだ。ディズレーリにとって最後の庶民院本会議が終わると、彼は議場を見渡せる位置まで歩いて行って、自分が初めて演説した演壇、自分が長いこと座っていた野党席、ピールの肖像画が掛かっている国庫の席などを眺めて、物思いにふけっていたという。また議場から退出する時には涙を見せた。 貴族院に移ったディズレーリは直ちに貴族院院内総務となった。貴族院は保守党が半永久的に優勢ながら、保守党執行部に従わないことが多いという特殊な議会だった。ディズレーリはすぐに貴族院から受け入れられ、第14代ダービー伯爵(元首相)並みの権威を確立できた。 しかし貴族院議員ソールズベリー侯爵がイギリス貴族院を指して「この世で最も活気のない議会」と称したように、ディズレーリには物足りないものであったようだ。「貴族院の気分はどうですか」と聞かれたディズレーリは「私は死にました。極楽浄土の中で死んでいます。」と答えている。 1876年頃からイギリスにも不況の波が押し寄せてきた。1878年にはグラスゴー市銀行(英語版)が経営破たんし、衝撃を与えた。失業率が急速に上昇していた(1872年には1%、1877年には4.7%、1879年には11.4%)。 一方農業も悪天候続きで収穫不足になっており、ピールの穀物法廃止以来、30年以上続いていたイギリス農業の生産率増大がこの頃に止まりはじめた。反面アメリカ農家の農業技術と運送技術の向上でアメリカからの輸入穀物はますます安くなっていた。ヨーロッパ大陸各国は次々と保護貿易へ移行し、イギリスの地主の間でも保護貿易復活を求める声が強まった。だが、農業人口よりそれ以外の人口が多いイギリスにおいてはそう簡単にはいかなかった。保護貿易を復活させれば食品価格の大幅な上昇を引き起こし都市部の労働者の反発を買うのは必至だったからである。ディズレーリが決めかねている間に保守党内の一部の地主層が保守党を離党して農民同盟を結成する事態となった。 一方自由党はもともと自由貿易主義者しかいないので、分裂することなく総選挙に邁進できた。ウィリアム・グラッドストンがスコットランドで行ったミッドロージアン・キャンペーン(英語版)と呼ばれる一連のディズレーリ批判演説は大きな成功を収めた。 さらにアイルランド国民党党首チャールズ・スチュワート・パーネルが、政府との徹底対決路線をとり、何十時間にも及ぶ演説を行って、政府法案の議事を妨害するようになった(当時この手の議事妨害を阻止する議事規則がなかった)。これが原因でディズレーリ政権は末期の頃にはほとんど立法ができなくなった。これに対しては議事規則を改正して対策を立てようとしたが、野党との協議が整う前に総選挙となったのである。 1879年夏か秋に解散総選挙に打って出ていれば、保守党は敗れるにしても大敗することはなかったと言われている。だがディズレーリは解散総選挙を出来る限り先延ばしにしようとして解散時期を見誤った。1880年2月5日に議会が招集されたが、ディズレーリは女王に対して「何か予期しない問題が発生しない限りは解散はない」と述べている。ところが2月14日のリバプール補欠選挙で自由党候補が勝利するという前評判を覆して保守党候補が勝利した。この選挙結果を聞いたディズレーリは保守党に風が吹いていると判断して、3月6日に急遽庶民院解散を決定した。この突然の解散総選挙は与野党問わず、誰もが驚いた。 しかし3月から4月にかけて行われた総選挙(英語版)の結果は、保守党が238議席(改選前351議席)、自由党が353議席(改選前250議席)、アイルランド国民党が61議席(改選前51議席)という保守党の惨敗に終わった。不況と農業不振でもともと現政権に不利な選挙ではあったが、ここまで負けたのは保守党の機能不全がある。党が自由貿易か保護貿易かで分裂していたし、選挙の準備もまるでしていなかった。対して自由党は準備を整えて待ち構えていた。 この選挙の報を聞いた時、ヴィクトリア女王はバーデン大公国にいたが、絶望して「私の人生はもはや倦怠と苦しみしかありません。今度の選挙は国全体にとって不幸なことになるでしょう」「私は、全てを破壊し、独裁者となるであろう半狂人の扇動者と交渉を持つぐらいなら退位を選びます」と語った。 ディズレーリが退任の挨拶にヴィクトリア女王を訪れたとき、女王は悲しげだった。女王は彼のブロンズ像を送るとともに、これからも手紙を送ってくれること、会いに来てくれることを頼んだ。そして改めて公爵位を与えたいと申し出たが、ディズレーリは選挙に惨敗した首相がそのような高位の爵位を賜るのはまずいとして固辞し、代わりに自分の秘書モンタギュー・コーリーをロートン男爵に叙してもらった。政治家の秘書に爵位が与えられるのは極めて異例のことであった。 ヴィクトリア女王のグラッドストン不信をよく知っているディズレーリは、女王に次の首相として自由党下院指導者ハーティントン侯爵を推挙した。最後っ屁の嫌がらせであった。女王はディズレーリの助言通り、ハーティントン侯爵を招いて後継首班指名を告げたが、侯爵はグラッドストン首班以外では組閣できないと拒絶し、女王は「半狂人の扇動者」を首班に指名せざるを得なかった。 ===晩年=== ダウニング街10番地を去ったディズレーリは、1880年5月1日にヒューエンデンへ帰っていった。以降、党の会合や貴族院出席以外の時はここで過ごした。またヴィクトリア女王との文通も続け、しばしばウィンザー城を訪れては女王の引見を受けた。 1880年5月19日のブリッジウォーター・ハウス(英語版)で開催された保守党両院総会において、ディズレーリが引き続き党首を務めることが確認された。ディズレーリ以外に党首が務まる者はいなかったためである。ディズレーリはグレイ伯爵内閣(ホイッグ党政権)の急速な凋落の先例をあげ、敗北に悲観的に成り過ぎないよう議員たちを励ました。そして「保守党は帝国と憲政を保守する」と宣言し、議員たちから万雷の拍手を受けた。 庶民院では大敗を喫した保守党だが、貴族院は半永久的に保守党が牛耳っているので野党党首としてのディズレーリの権力は弱いものではなかった。グラッドストン政権が提出した小作料を支払うことができない小作人をアイルランド地主が追い出すのを暫定的に禁止する法案についてディズレーリは保守党の総力をあげて攻撃し、廃案に追い込んだ。 晩年にはランドルフ・チャーチル卿(ウィンストン・チャーチルの父)やアーサー・バルフォアら「第四党(英語版)」と呼ばれる向う見ずな保守党若手議員たちを支援した。彼らはその行儀の悪さから保守党庶民院院内総務サー・スタッフォード・ノースコート准男爵に睨まれていたのだが、ディズレーリはチャーチルらに「私自身リスペクタブルであったことは一度もないよ」と語って励ましたという。一方で彼らが公然と党執行部に造反しないよう忠告を与えるなど、「第四党」をうまく扱った。 1881年初めにはマルクス主義団体「社会民主連盟(英語版)」の指導者ヘンリー・ハインドマンの訪問を受けた。ハインドマンは格差問題を説いたディズレーリの『シビル』に深い感銘を受けており、社会政策についてディズレーリの意見を聴きに来たのだった。しかしディズレーリは、ハインドマンの民主帝国連邦構想や財産の社会化の話に冷めた様子で「ハインドマン君、この国は動かすのが全く難しい国なんだよ。全く難しい国だ、そして成功するより失敗することの方が多い国だ。しかし、君は続けようというのだね?」と答えた。この接触はハインドマンがビスマルクとラッサールの関係に倣ったものとされている。 10年前から執筆を開始していた政治小説『エンディミオン(英語版)』を1880年11月に出版した。エンディミオンという青年が政治を志し、幾多の女性遍歴を経て、ついにイギリス首相となる物語である。もちろんディズレーリ自身がモデルであり、世間からはベンジャミンとエンディミオンをかけて「ベンディミオン」と呼ばれたという。他の登場人物も大体ディズレーリの接した者たちであり、一種の自叙伝であった。 さらにグラッドストンをモデルにした人物を主人公にした小説『ファルコーネ』の執筆を開始したが、これを完成させることはできなかった。 ===死去=== 1880年12月にディズレーリはヒューエンデンを離れてロンドンへ行き、以降死去するまでヒューエンデンに戻る事はなかった。ディズレーリは以前から喘息と痛風に苦しんでいたが、死を予期させるような病状は死の直前までなかった。1881年2月から3月にも外出して政治家たちと会合したり、皇太子アルバート・エドワード(後のエドワード7世)の晩餐に招かれたりしていた。3月1日にはウィンザー城でヴィクトリア女王から最後の引見を受けた。3月15日の貴族院では、ロシア皇帝アレクサンドル2世の暗殺を悼み、女王が弔辞を送ることに賛成する最後の演説を行った。 3月22日の帰宅途中に雨にぬれたことで風邪を引き、これが死につながることとなった。なかなか病状は回復せず、そんな中ディズレーリが無理をして書いたヴィクトリア女王への手紙は、短信だった。ヴィクトリア女王は心配になり、有名医をディズレーリの下へ派遣するよう命じた。 3月29日、女王の命を受けた胸部疾患の権威クエイン博士がやってきた。博士はディズレーリの病状を気管支炎と診断した。クエイン博士は応援を要請し、数日後に別の胸部疾患の専門医と看護婦二人がかけつけてきて24時間体制の看護が行われた。医師たちは望みがある口ぶりだったが、ディズレーリ本人は死を予感しており、「今度の病気はダメだろう。とても生きられないと自分で感じる」と述べた。また医師たちに「自分は死ぬのか」と執拗に尋ねつつ、「生きられる方がいいが、死を恐れてはいない」とどこか超然としていたという。 4月19日に入った深夜に危篤状態に陥った。同日午前4時15分過ぎ、昏睡状態だったディズレーリが突然上半身を起こそうとしたので、その場にいた者たちはみなびっくりした。彼はいつも議会で行っていた両肩を後ろに揺する身振りをした。その後再びベッドの中に倒れ、眠りに就き、午前4時30頃、安らかに息を引き取った。 ディズレーリの訃報に接したヴィクトリア女王は悲しみのあまり、しばらく口をきけなかったという。保守党本部、自由党本部、公共の建物は半旗を掲げた。グラッドストン首相は議会における演説でディズレーリの政策こそ褒めなかったが、そのユニークな人柄、属する民族への愛、妻への愛、恨み事を残さなかったことなど人格面を称える演説を行った。 ディズレーリの死は突然であったので、保守党は後任の党首をただちに決めることはできず、貴族院保守党はソールズベリー侯爵が、庶民院保守党はサー・スタッフォード・ノースコートが指導するという両院別個の二党首体制が取られることになった(貴族院が保守党の野党活動の中心となっていたのでソールズベリー侯爵の方が指導的であった)。 4月26日、ディズレーリの遺言に基づき、国葬ではなく、ヒューエンデンの聖マイケル及びオール・エンジェルズ教会(英語版)で葬儀が営まれた。ヴィクトリア女王は葬儀に出席したがっていたが、当時のイギリスでは君主が臣民の葬儀に出席することは禁じられていたので断念せざるを得なかった。代わりに皇太子、コノート公爵アーサー、レオポルド王子(後のオールバニ公)ら女王の王子3人が葬儀に出席している。保守党政治家はほとんど参加し、自由党政治家も一部参加したが、首相グラッドストンは仕事を理由に欠席している。 ヴィクトリア女王は葬儀に出席できなかったが、ディズレーリの墓参りを希望し、ヒューエンデンへ赴いた。女王は、ディズレーリがヒューエンデンにいた時、最後に歩いた道を歩いてから教会へ向かった。女王は掘り返されたディズレーリの棺の上に陶器の花輪を供えた後、教会内に自分の想いを刻んだ大理石の記念碑を置かせた。 そこには「ビーコンズフィールド伯爵、ベンジャミンの敬愛すべき思い出に捧ぐ。この記念碑を捧げるは、君主にして友人、感謝に満ちる、女王にして女帝ヴィクトリア。『王は正義を語る者を愛する』箴言16‐13」と刻まれている。 ディズレーリには子がなく、ビーコンズフィールド伯爵位は彼の死とともに消滅した。ヒューエンデンの家屋敷や遺産はディズレーリの遺言により、甥であるカニングスビー(英語版)がディズレーリ姓を名乗ることを条件に相続した。女王はディズレーリの生前からビーコンズフィールド伯爵位の継承者がないことを心配しており、特例でカニングスビーに男爵位を与えると内諭していたが、ディズレーリはそれを拝辞していた。ちなみにカニングスビーも子供ができないまま1936年に死去しており、ヒューエンデンの家屋敷は現在ナショナル・トラストに管理されている。 ==人物== ===貴族的素養・貴族意識=== 生誕時に貴族ではなかったこと、ユダヤ人であること、また学歴がないことの影響か、ディズレーリには成りあがり者のイメージがある。しかしディズレーリは著名な作家を父に持ち、経済的にも裕福な家庭で、文学的教養を身につけながら貴公子的に育った人物である。若いころに借金を背負っているが、借金を背負うのは貴族にも珍しくはない。ディズレーリにはもともと上流階級の素養が十分にあったのである。 加えてディズレーリは自らの血筋に誇りを持っていた。ユダヤ人は英国貴族などよりはるかに古い歴史を持つ真の貴族であり、さらに自分はそのユダヤ人の中でも「スペイン系」の「貴種」なので貴族の中の貴族だと思っていた。とりわけヒューエンデンの地主になって以降のディズレーリはその貴族意識を増大させていった。 ===君主主義・貴族主義・民衆主義=== ディズレーリの伝記作家ウィリアム・フラベル・モニーペニー(英語版)は伝記の中で「ディズレーリにとって政治組織は2つの実在からなっており、その一つである君主は円の中心であり、もう一つの民衆は円周である。この両者の相互関係を維持することで全ての調和が保たれると考えていた」と書いている。 ディズレーリの考えるところ、その両者の橋渡しをするのが貴族だった。貴族は特権を持って当然であり、同時に特権をもつがゆえに義務を果たさなければならず、その義務とは民衆の生活向上に尽くして、民衆が君主を尊敬するよう導くことであると考えていた。ディズレーリは「偉大な義務と特権を持った貴族がいない国は決して繁栄することはできない」と述べている。 ディズレーリは、ホイッグ党が1832年に行った第一次選挙法改正で政治権力が土地貴族から産業資本家に移されたことによって、民衆が「労働者階級」という名の「奴隷」にされたと考えていた。ディズレーリには自由主義最盛期のイギリスは「抵当に入る貴族、賭博的海外貿易、国内の激しい競争、墜落する民衆」と腐敗しきった社会にしか見えなかった。1835年から1836年にかけて書いた政治論文の中でディズレーリは、「ホイッグ主義は進歩的に見えるが、実際には王権や国教会を引きずりおろして資本家の寡頭政治を狙う反民衆思想であり、一方トーリー主義は王権や国教会の専制を擁護しているように見えるが、実際は資本家の寡頭政治から民衆の自由を守る立場」と主張している。 ホイッグ党によって引き裂かれた貧困層と富裕層という「二つの国民」を再び一つに統合できる者は、その両方の民の頂点に立つ女王のみと考えており、『シビル』の中でも「政党間の激しい争いによって君主の大権が狭められ、それによって民衆の権利も消滅する。王位は虚飾となり、民衆は再び奴隷となる。私が願うのは、イギリスが再び自主性をもった君主と、権利を与えられ繁栄した民衆を持つことである」と書いている。 こうした理想化された封建主義社会を思い描くディズレーリは、中央集権主義、官僚主義、功利主義に強く反発する地方分権的貴族主義者でもあった。地主貴族とイングランド国教会牧師が統治する地方の世界観こそが彼が最も保守したいと願うものだった。 ディズレーリはイギリス一般民衆の保守性を確信しており、1849年には「イギリスの本当の財産は物質的な豊かさではなく、民衆の国民性である」と語っている。ディズレーリが1867年の第二次選挙法改正を主導した際に選挙権拡大を恐れなかったのも民衆の保守性を信じていたからだし、社会政策を行ったのも民衆の保守性を強化するためであった。 ===帝国主義=== ディズレーリはイギリスの帝国主義時代の幕を開いた政治家である。帝国主義は元々はディズレーリの外交政策を批判した反対派の用語であり、ディズレーリによって体系化され、新たな意味が付与され、保守党の理念に組み込まれた。 1872年の水晶宮演説以前のディズレーリは植民地獲得にほとんど関心を持っていなかった。というのもディズレーリはそれまで小英国主義者(英語版)だったからである。小英国主義とはイギリスの自由貿易が世界中に拡大した今、植民地領有の必要性がほとんどなくなっており、むしろ行政費や防衛費など膨大な費用がかかるお荷物であるという論であり、自由主義者の中でもマンチェスター学派によって盛んに支持された考えである。ヴィクトリア朝前期にはこの小英国主義論が論壇や政治家の中で根強かった。 しかしこの時期の英国政府の外交を主導したのは「自由貿易帝国主義者」のパーマストン子爵であったため、イギリス政府の実際の動きとしては植民地放棄どころか、インド周辺地域への領土拡大を図り、それ以外の地域に対しては砲艦外交を仕掛けて非公式帝国化を推し進めていった。 保守党政治家はこのパーマストン外交との対決軸を作る意図から小英国主義的立場をとることが多かった。水晶宮演説以前のディズレーリも小英国主義的立場をとっていた。特にカナダやアフリカ西海岸は自由貿易体制の中ではほとんど価値がないのに防衛費ばかりどんどん増えていく「しょうもない植民地」の典型であるから、自分で勝手に防衛させるべきと主張していた。 ところが第二次ディズレーリ内閣時のディズレーリはこれまで主張を180度変えて植民地領有の必要性を声高に訴えるようになった。この変化の原因はまず第一に国内の政治情勢の変化である。1868年の総選挙の頃から大都市の中産階級が「安定」を求めて自由党支持から保守党支持へ移り始めたことで、保守党は「地主の利益を守る党」から「あらゆる有産者の利益を守る党」に変貌していた。ディズレーリはこの中産階級の支持を維持しつつ、労働者層にも支持を拡大していくべく、保守党が特定の階級の担い手ではなく、あらゆる階級、つまりナショナルな利益の擁護者であることを宣伝しようと帝国主義を保守党の新たな理念に打ち立てたのである。 当時労働者の世論は完全に帝国主義化していた。1860年代後期からの金融危機でイギリス国内が失業者であふれかえったため、植民地の雇用が注目されていたのである。第一次グラッドストン内閣が行ったニュージーランド駐在軍撤収など植民地放棄的な政策に対しても強い不満の声が労働者層からあがっていた。ディズレーリにとって帝国主義は労働者層の集票手段であった。 第二に国際的な事情もあった。ドイツ帝国の勃興によるイギリスの相対的な地位の低下、また実現すればイギリスに更なる地位の低下をもたらすであろうロシア帝国の地中海(バルカン半島)およびペルシャ湾(中央アジア)獲得の野心である。これに対抗するためイギリスは帝国を固めなければならない時期だった。 しかし第二次ディズレーリ内閣においてさえ、ディズレーリ当人が植民地に関心を持っていたかは疑問視する声もある。というのも彼は植民地政策のほとんどを植民地相カーナーヴォン伯爵に任せきりの状態にしていたからである。 ===ユダヤ教・ユダヤ人について=== ディズレーリは幼少期にキリスト教に改宗し、キリスト教会の墓で眠っている。だが生涯を通して隠れユダヤ教徒という疑惑が付きまとった(特にグラッドストンはそう思っていた)。しかしディズレーリはユダヤ教の儀式にまったく無知であり、ディズレーリの伝記作家ブレイク男爵は「そんな説は一考にも値しない」と退けている。一方ディズレーリはユダヤ人をユダヤ教徒ではなく人種(race)ととらえ、自分はユダヤ人種であること、そしてユダヤ人種の優秀性を公言していたので「一笑に付すことはできない」とする説もある。セシル・ロスは「ディズレーリは”ユダヤ民族”に情熱を持つあまり、ユダヤ教とキリスト教を対等視するのに忙しく、その差異を軽視する」としている。 ディズレーリ当人は「私は旧約聖書と新約聖書の間の白ページみたいなものだ」と冗談を飛ばしたことがあった。 ディズレーリは1844年のロバート・ピールを批判した『カニングスビー』(1844)や『シビル(女預言者)』(1845)などで、ヨーロッパの修道院や大学にはマラーノなどのユダヤ人がひしめき、ヨーロッパではユダヤ的精神が多大な影響力を行使していることを描いて、ゲルマン至上主義の逆を突いた。『カニングスビー』でディズレーリは「ユダヤ人が大きく加わっていないようなヨーロッパにおける知的な大運動はない。最初のイエズス会修道士たちはユダヤ人だった。西ヨーロッパを大いに混乱させているロシアの謎めいた外交は主にユダヤ人によって導かれている。現在ドイツにおいて準備され、イギリスではあまり知られていない強力な革命は第二のより広大な宗教改革運動になるであろうが、これは全体としてユダヤ人の賛助のもとで発展しているのである」と書いた。『タンクレッド』(1847)では「思い上がりではりきれんばかり、叩いてみて響きだけはよい革袋のような鼻のひしゃげたフランク人(ゲルマン人)」を揶揄し、セム的精神(ユダヤ精神)を称揚し、セム的精神が光明をもたらすことがなかったらゲルマン民族は共食いで滅亡していたと、いった。同時に、ディズレーリはみずからの人種を恥とみなしていたユダヤ人を批判し、ユダヤ人はコーカサス人種であると考えていた。 1847年下院での国会演説でディズレーリは、初期のキリスト教徒はユダヤ人であったし、キリスト教を普及させたのはまぎれもなくユダヤ人であったし、カントやナポレオンもユダヤ人であり、そのことを忘れて迷信に左右されているのが現在のヨーロッパとイギリスであると演説し、議会では憤怒のさざ波が行き渡った。カーライルはディズレーリの演説に憤慨し、ロバート・ノックスは、ディズレーリが挙げたユダヤ人一覧には一人もユダヤ的特徴を示している者はいないと批判した。1848年革命についてもディズレーリは、この全ヨーロッパ的暴動の指導者はユダヤ人だと述べ、その狙いは選民たるユダヤ人種がヨーロッパのあらゆる人種もどき、あらゆる下賤の民に手を差し伸べ、恩知らずのキリスト教を破壊し尽くすことであると主張した。ディズレーリは歴史の原動力について「すべては人種であり、他の真理はない」と述べるなど、ユダヤ主義に基づく人種主義者でもあった。こうしたディズレーリのユダヤ主義的な歴史観は、フランスの反ユダヤ主義者ムソーやドリュモンによってユダヤ人の秘密外交の証拠として好意的に引用された。また、ナポレオンを嫌っていた歴史学者のミシュレも、ディズレーリのナポレオンユダヤ人説に梃入れした。 「ユダヤ教徒イギリス国民」の意識を持ち、宗教的平等を求めていたライオネル・ド・ロスチャイルドら同時代のユダヤ人らと比較するとディズレーリはかなり特異な「ユダヤ人」であったといえる。宗教に関する彼の特異さは、彼の皮肉屋の性格が影響しており、それがヴィクトリア朝英国紳士らしからぬ無教養と看做されて、彼のアウトサイダー的印象を創ったとブレイク男爵はみている。 アイザイア・バーリンはディズレーリとカール・マルクスの心理状態には似通ったところがあると見て二人を比較する研究を行っている。バーリンは、「二人とも父親がユダヤ教会から離れたことによってユダヤ教社会から隔絶されたユダヤ人だった。二人の父親(アイザック・デ・イズレーリとハインリヒ・マルクス)は、中産階級社会に平和的に同化した。しかし父より情熱的だった二人にはもっと強固なアイデンティティの足場が必要だった。二人はそのような足場を生来もっていなかったので、創り出すしかなかった。二人は父の願いに反して中産階級に反逆した。ディズレーリは貴族エリート階級の指導者、マルクスは世界プロレタリアート階級の指導者になるために。二人は社交界と工場でいつでも合えるはずのその構成員たちと直接触れ合う事は大して重視せず、一般的にイメージされるその集団に自らを一体化させ、その集団を指導することにだけ関心を示した。二人はそれぞれの方法で自らの出自から逃げようとした。マルクスは自らの出自を隠し、ユダヤ人をブルジョワと同視して下から攻撃することによって、ディズレーリは場違いにユダヤ人を押し出し、ユダヤ人を裕福で奇妙な存在にすることによって。」と分析している。 一方ディズレーリの人物像を研究する上で彼がユダヤ人であることが注目され過ぎているという主張もある。ディズレーリは13歳の時にイングランド国教会に改宗しており、政治家になるうえでの法的制約はなかった。反ユダヤ主義的な中傷を受けることもあったが、イギリス上流階級の反ユダヤ主義は大陸のそれよりずっと弱かったのでユダヤ人のアイデンティティを感じる機会がどれほどあったか疑問だからである。 ===プリムローズ=== ディズレーリはプリムローズ(サクラソウ)の花を愛したといわれる。ヴィクトリア女王もディズレーリの葬儀の際にプリムローズを葬儀に送っている。 ディズレーリの二度目の命日である1883年4月19日に行われたディズレーリ像の除幕式がきっかけで、毎年4月19日にプリムローズを飾ったり、着用したりする「プリムローズ・デイ(英語版)」の習慣がイギリス各地で広まった。この習慣は第一次世界大戦中にディズレーリ像へのプリムローズの飾り付けが一時中止されたことで衰退するまで国民的イベントであり続けた。 この文化を通じてディズレーリは死後、党派を超えた国民的英雄に昇華した。これについて『タイムズ』紙は「支持者だけでなく政治的敵対者からも彼が追慕されるのはわが国の政治闘争が憎悪とは無縁であることを証明している」と論評している。 1883年11月には「ディズレーリの後継者」を自任するランドルフ・チャーチル卿らによって「プリムローズ・リーグ」が結成された。これはディズレーリが目指した「宗教、国制、大英帝国の護持」を目的とする団体だった。この団体は、党派や宗派、性別を超えてメンバーを広く募集した結果、ヴィクトリア朝最大の大衆組織となり、保守党が労働者票を確保する上で大きな礎となり、世紀転換期の保守党長期政権を支えた。 ===女性に人気=== アンドレ・モロワの『ディズレーリ伝』によるとディズレーリは全ての階級の女性に人気であったという。同書の中で紹介される逸話によると、売春婦たちの晩餐の席上の会話で「グラッドストンとディズレーリ、どちらと結婚したい?」という話題になった時、彼女たちのほとんどがディズレーリと答えたが、一人だけグラッドストンと答えた者がいたという。他のみんながびっくりして理由を問うと、彼女は「まずグラッドストンと結婚して、その後ディズレーリと一緒になるの。グラッドストンがどんな顔をするか見たいから」と答えたという。 ブレイク男爵も「もし婦人参政権が認められたらディズレーリほど婦人票を集められる政治家はいなかっただろう」と評している。そのためディズレーリ自身も保守党の政治家ながら婦人参政権に反対ではなかったという。ただ彼は現実主義者だったので婦人参政権を議会で通すのは現状では無理と理解しており、ジョン・スチュアート・ミルが婦人参政権を求める動議を提出した時にも助力することはなかった。 ===その他=== その弁論術は、劇的魅力があったという。標準英語をしゃべるが、どこか異国風のしゃべり方だったという。ヒューエンデン邸の近くの池で釣りをすることを好んだ。 ==ヴィクトリア女王との関係== ディズレーリはヴィクトリア朝の長い歴史の中で数多く輩出された首相たちの中でも最もヴィクトリア女王に寵愛された首相である。 ディズレーリが初めてヴィクトリア女王の姿を見たのは、ヴィクトリアの戴冠式や結婚式においてであった。だがその時のディズレーリは一介の庶民院議員に過ぎず、ディズレーリの方は大きな印象を受けても、ヴィクトリアの方から特段注目されることはなかった。そのディズレーリがヴィクトリアから最初に注目されたのは嫌悪感によってであった。それはピール内閣の時のことである。ヴィクトリアの夫アルバートは自由貿易主義者であり、そのため女王夫妻はピール首相の自由貿易改革を支援していたが、そこに「ヤング・イングランド」のディズレーリが保護貿易主義を掲げてピールを徹底的に攻撃したからである。ディズレーリの盟友ジョージ・ベンティンク卿に至っては「ドイツ人の王室がピール派と結託してイギリスの農業利益をドイツに売り飛ばそうとしている」などと王室を侮辱する演説まで行った。そうした保護貿易運動の先頭に立っていたディズレーリに女王が嫌悪感を持つのは当然のことだった。 ヴィクトリアのディズレーリへの心証が若干良くなったのは第一次ダービー伯爵内閣の時のことである。大蔵大臣として入閣したディズレーリの報告書が小説的だったことが、ヴィクトリアの注目を惹いたのである。この内閣の時にディズレーリを晩餐にまねいたヴィクトリアは、その時の印象を「風貌は典型的なユダヤ人風、青白い顔に黒い目とまつ毛、黒い巻き毛の髪、その表情は不快感を覚えるが、話してみるとそうでもなかった」と日記に書いている。この頃には保守党の保護貿易主義も身をひそめていた。だが夫アルバートはなおも保守党やディズレーリに嫌悪感をもっていたため、ヴィクトリアの不信も完全には消えなかった。 大きな変化が生じたのは1861年のアルバートの薨去だった。ディズレーリがアルバート顕彰の先頭に立ち、またアルバートの人格を褒め称えた演説を行ったことがヴィクトリアの心を捉えた。1866年の第三次ダービー伯爵内閣の頃にはヴィクトリアは完全にディズレーリに好感を寄せるようになっていた。ダービー伯爵の辞任でディズレーリが後任の首相になると親密さは増し、1868年春頃からヴィクトリアは自らが摘んだ花束をディズレーリへ送り、ディズレーリはお礼に自分の小説をヴィクトリアへ送るという関係になった。第二次ディズレーリ内閣で二人の親密さは頂点に達した。ディズレーリはしばしばヴィクトリア女王を「妖精」と呼ぶようになった。 二人の親密さの背景について、生後間もなく父ケント公を失ったヴィクトリアの父性コンプレックスと「母との疎外感が強く、生涯を通じて母の愛を補う女性を求めていた」(ブレイク男爵)ディズレーリの母性コンプレックスが結び付いたのではないかとする説がある。 グラッドストンの伝記を書いた神川信彦は、ディズレーリの「女はみな虚栄心をもつ。男の中には虚栄心を全く持たない者もいるが、虚栄心をもった男の虚栄心は、女の虚栄心では及びもつかないほど激しい。」という言葉を引用し、その「巨大な男の虚栄心」を持つディズレーリにとって、ヴィクトリアの「小さな女の虚栄心」など簡単に支配できたと主張している。 ヴィクトリアがナポレオン3世にも好感を寄せていたことから、リットン・ストレイチーは、ヴィクトリアはディズレーリの中にもナポレオン3世と似たもの、山師的・魔術的魅力を見たのだろうと主張している。 二人は、小さな島国を司令塔に南アフリカから極東までまたがる世界最大の大帝国に素朴な誇りを持っている点も共通していた。ヴィクトリアは、ロマンチックに仕立てるのがうまいディズレーリから帝国の状況について報告される時、自分が全能の神であることを認識できたという。 ==ディズレーリとグラッドストン== グラッドストンとディズレーリはあらゆる面で対称の存在であり、終生のライバルであった。ディズレーリの現実主義者の立場は、グラッドストンの杓子定規なキリスト教主義的倫理感とは決定的に相いれないものだった。 二人の違いについて、アンドレ・モロワは「グラッドストンにとってディズレーリは、宗教と政治信念を持たない不信者だった。ディズレーリにとってグラッドストンは上辺だけ飾って辣腕を隠す偽信者だった」、「ディズレーリはグラッドストンが聖人ではないと信じていたが、グラッドストンはディズレーリが悪魔だと疑っていた」、「二人ともダンテの『神曲』を好んだが、ディズレーリは地獄篇を愛し、グラッドストンは天国篇を愛した。」、「ディズレーリはモリエールやヴォルテールから学んだが、グラッドストンはタルチュフを三流の喜劇だと思っていた」、「グラッドストンは大金持ちなのに毎日几帳面に出納帳を付けていた。ディズレーリは借金まみれなのに勘定もせずに金を使った」、「ディズレーリの敵は彼を正直な人間ではないと言った。グラッドストンの敵は彼を最も悪い意味における紳士ぶった奴だと言った。」、「グラッドストンはディズレーリがわざと表明するシニックな信仰告白を全て真に受けていた。ディズレーリはグラッドストンが発する自らも本気で欺かれている言葉を偽善だと思っていた。」、「軽薄で通っているディズレーリが社交界では無口で、真面目で通っているグラッドストンが社交界では魅力的なおしゃべりをした」等の例えを使って表現した。 ディズレーリと同じ4回目の落選をした時からアンドレ・モロワのディズレーリの伝記の愛読者という日本の政治家田中秀征は、「ディズレーリに対するグラッドストン、彼は全てを持っていた。大金持ちで23歳で国会議員になっていた。ディズレーリは60すぎてやっとグラッドストンに追いつく。僕には分かる。ディズレーリが屈折した人生の果てに得た物を」と語っている。 ==小説== ディズレーリの伝記作家ブレイク男爵(英語版)は、「ディズレーリの小説は強引さと好き嫌いの激しさ、誇張、滑稽な筋立てが多くみられる。人々は彼を19世紀の小説家の最上位には置かないだろうが、しかし二流に置く事もないだろう。オックスフォード大学のある試験官は非常に優れたところがあるが、それに不釣り合いな馬鹿げた答えが書いてある答案に対してアルファ/ガンマと記入するというが、ディズレーリはヴィクトリア朝の小説家の中では、そのアルファ/ガンマであった」と評価している。 首相になる以前のディズレーリはベストセラー作家になったことはなく、どれも売り上げはわずかであるか、ほどほどという程度である。ベストセラーになって金銭的に成功したのは首相退任後に著した『ロゼアー(英語版)』と『エンディミオン(英語版)』だけである。 ブレイク男爵が評価する小説は、『ロゼアー』と『カニングスビー(英語版)』である。彼は『ロゼアー』に描かれる華やかな貴族社会の描写は「貴族は政治力をなくしつつあるが、社会的地位と財産は保持しており、義務感を喪失しそうな状況だが、自らが無用な階級だと思って墜落しないことがそれを防ぐ手段である」という思想が貫かれていると評価する。『カニングスビー』については「英国政治小説の先駆」と評価し、「政治小説という分野自体がディズレーリによって開拓された」としている。 日本では明治時代前期に『カニングスビー』が『政党余談 春鴬囀』(明治18年)、『ヘンリエッタ・テンプル』が『双鸞春話』(明治20年)、『コンタリーニ・フレミング』が『昆太利物語』(明治23年)として邦訳されている。日本で最初に翻訳された西洋小説は、ディズレーリの友人であるエドワード・ブルワー=リットンが著した恋愛小説『アーネスト・マルトラヴァーズ(Ernest Maltravers)』とその続編『アリス(Alice)』を、北白川宮能久親王随行員として渡欧し英国で学んだ丹羽淳一郎の訳による『欧州奇事 花柳春話』(明治11年)である。これが日本で大ヒットした結果、同時代英国の小説家ディズレーリの小説も翻訳されるようになったという経緯である。本書や『政党余談 春鴬囀』は日本でも政治小説が流行するきっかけとなった。 『ヴィヴィアン・グレイ』(Vivian Grey)(1826年; Vivian Grey ‐ プロジェクト・グーテンベルク)『ポパニラ』(Popanilla) (1828年; Popanilla ‐ プロジェクト・グーテンベルク)『若き公爵』(The Young Duke)(1831年)『コンタリーニ・フレミング』(Contarini Fleming)(1832年)『アルロイ』(The Wondrous Tales of Alroy)(1833年)『地獄の結婚』(The Infernal Marriage)(1834年)『天国のイクシオン』(Ixion in Heaven)(1834年)『イスカンダーの興隆』(The Rise of Iskander)(1834年; The Rise of Iskander ‐ プロジェクト・グーテンベルク)『ヘンリエッタ・テンプル』(Henrietta Temple)(1837年)『ヴェネツィア』(Venetia)(1837年; Venetia ‐ プロジェクト・グーテンベルク)『アラコス伯爵の悲劇』(The Tragedy of Count Alarcos)(1840年; The Tragedy of Count Alarcos ‐ プロジェクト・グーテンベルク)『カニングスビー』(Coningsby)(1844年; Coningsby ‐ プロジェクト・グーテンベルク)『シビル』(Sybil)(1845年; Sybil or, The Two Nations ‐ プロジェクト・グーテンベルク)『タンクレッド』(Tancred)(1847年; Tancred ‐ プロジェクト・グーテンベルク)『ロゼアー』(Lothair)(1870年; Lothair ‐ プロジェクト・グーテンベルク)『エンディミオン』(Endymion)(1880年; Endymion ‐ プロジェクト・グーテンベルク)『ファルコーネ』(Falconet) (未完成 1881年) ==栄典== ===爵位=== 初代ビーコンズフィールド伯爵(連合王国貴族爵位)(1876年)初代ヒューエンデン子爵(連合王国貴族爵位)(1876年) ===勲章=== ガーター勲章士(KG)(1878年) ===その他=== 枢密顧問官(PC)(1852年)王立協会フェロー(FRS)(1876年)法学博士号(エジンバラ大学名誉学位)(1867年)法学博士号(グラスゴー大学名誉学位)(1873年)法学博士号(オックスフォード大学名誉学位)(1873年) ==ディズレーリを演じた俳優== アントニー・シャー(英語版)(1997年映画『Queen Victoria 至上の恋』)アレック・ギネス(1950年映画『The Mudlark』)エイブラハム・ソフィア(英語版)(1947年映画『The Ghosts of Berkeley Square』)ジョン・ギールグッド(1941年映画『The Prime Minister』)デリック・デ・マーニー(英語版)(1938年映画『Sixty Glorious Years』)マイルズ・マンダー(英語版)(1938年映画『スエズ』)ヒュー・ミラー(英語版)(老年期)、デリック・デ・マーニー(英語版)(青年期)(1937年映画『ヴィクトリア女王(英語版)』)ジョージ・アーリス(1911年舞台『ディズレーリ』、1921年映画『平民宰相』、1929年映画『ディズレーリ』) ==関連項目== 第1次ディズレーリ内閣第2次ディズレーリ内閣ヴィクトリア (イギリス女王)ウィリアム・グラッドストン保守党 (イギリス)ディズレーリ (カナダ)(英語版):ディズレーリの名を冠するカナダ・ケベック州の都市『嘘、大嘘、そして統計』 =フィンセント・ファン・ゴッホ= フィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホ(Vincent Willem van Gogh、1853年3月30日 ‐ 1890年7月29日)は、オランダのポスト印象派の画家。 なお、オランダ人名のvanはミドルネームではなく姓の一部であるために省略しない。日本を含め多くの国では、これを省略してゴッホという呼び方が定着しているが、本項では正式にファン・ゴッホと呼ぶ。 主要作品の多くは1886年以降のフランス居住時代、特にアルル時代(1888年 ‐ 1889年5月)とサン=レミでの療養時代(1889年5月 ‐ 1890年5月)に制作された。感情の率直な表現、大胆な色使いで知られ、ポスト印象派を代表する画家である。フォーヴィスムやドイツ表現主義など、20世紀の美術にも大きな影響を及ぼした。 ==概要== ファン・ゴッホは、1853年、オランダ南部のズンデルトで牧師の家に生まれた(出生、少年時代)。1869年、画商グーピル商会に勤め始め、ハーグ、ロンドン、パリで働くが、1876年、商会を解雇された(グーピル商会)。その後イギリスで教師として働いたりオランダのドルトレヒトの書店で働いたりするうちに聖職者を志すようになり、1877年、アムステルダムで神学部の受験勉強を始めるが挫折した。1878年末以降、ベルギーの炭坑地帯ボリナージュ地方で伝道活動を行ううち、画家を目指すことを決意した(聖職者への志望)。以降、オランダのエッテン(1881年4月‐12月)、ハーグ(1882年1月‐1883年9月)、ニューネン(1883年12月‐1885年11月)、ベルギーのアントウェルペン(1885年11月‐1886年2月)と移り、弟テオドルス(通称テオ)の援助を受けながら画作を続けた。オランダ時代には、貧しい農民の生活を描いた暗い色調の絵が多く、ニューネンで制作した『ジャガイモを食べる人々』はこの時代の主要作品である。 1886年2月、テオを頼ってパリに移り、印象派や新印象派の影響を受けた明るい色調の絵を描くようになった。この時期の作品としては『タンギー爺さん』などが知られる。日本の浮世絵にも関心を持ち、収集や模写を行っている(パリ時代)。1888年2月、南フランスのアルルに移り、『ひまわり』や『夜のカフェテラス』などの名作を次々に生み出した。南フランスに画家の協同組合を築くことを夢見て、同年10月末からポール・ゴーギャンを迎えての共同生活が始まったが、次第に2人の関係は行き詰まり、12月末のファン・ゴッホの「耳切り事件」で共同生活は破綻した。以後、発作に苦しみながらアルルの病院への入退院を繰り返した(アルル時代)。1889年5月からはアルル近郊のサン=レミにある療養所に入所した。発作の合間にも『星月夜』など多くの風景画、人物画を描き続けた(サン=レミ時代)。1890年5月、療養所を退所してパリ近郊のオーヴェル=シュル=オワーズに移り、画作を続けたが(オーヴェル時代)、7月27日に銃で自らを撃ち、2日後の29日に死亡した(死)。発作等の原因については、てんかん、統合失調症など様々な仮説が研究者によって発表されている(病因)。 生前に売れた絵は『赤い葡萄畑』の1枚のみだったと言われているが(他に売れた作品があるとする説もある)、晩年には彼を高く評価する評論が現れていた。彼の死後、回顧展の開催、書簡集や伝記の出版などを通じて急速に知名度が上がるにつれ、市場での作品の評価も急騰した。彼の生涯は多くの伝記や、映画『炎の人ゴッホ』に代表される映像作品で描かれ、「情熱的な画家」、「狂気の天才」といったイメージをもって語られるようになった(後世)。 弟テオや友人らと交わした多くの手紙が残され、書簡集として出版されており、彼の生活や考え方を知ることができる(手紙)。約10年の活動期間の間に、油絵約860点、水彩画約150点、素描約1030点、版画約10点を残し、手紙に描き込んだスケッチ約130点も合わせると、2,100枚以上の作品を残した。有名な作品の多くは最後の2年間(アルル時代以降)に制作された油絵である。一連の「自画像」のほか身近な人々の肖像画、花の静物画、風景画などが多く、特に『ひまわり』や小麦畑、糸杉などをモチーフとしたものがよく知られている。印象派の美学の影響を受けながらも、大胆な色彩やタッチによって自己の内面や情念を表現した彼の作品は、外界の光の効果を画面上に捉えることを追求した印象派とは一線を画するものであり、ゴーギャンやセザンヌと並んでポスト印象派を代表する画家である。またその芸術は表現主義の先駆けでもあった(作品)。 ==生涯== ===出生、少年時代(1853年‐1869年)=== フィンセント・ファン・ゴッホは、1853年3月30日、オランダ南部の北ブラバント州ブレダにほど近いズンデルトの村で、父テオドルス・ファン・ゴッホ(通称ドルス、1822年‐1885年)と母アンナ・コルネリア・カルベントゥス(1819年‐1907年)との間の長男として生まれた。父ドルスは、オランダ改革派の牧師であり、1849年にこの村の牧師館に赴任し、1851年、アンナと結婚した。ブラバントは、オランダ北部とは異なりカトリックの人口が多く、ドルス牧師の指導する新教徒は村の少数派であった。 フィンセントという名は、ドルス牧師の父でブレダの高名な牧師であったフィンセント・ファン・ゴッホ(1789年‐1874年)からとられている。祖父フィンセントには、長男ヘンドリク(ヘイン伯父)、次女ドロアテ、次男ヨハンネス(ヤン伯父)、三男ヴィレム、四男フィンセント(セント伯父)、五男テオドルス(父ドルス牧師)、三女エリーザベト、六男コルネリス・マリヌス(コル叔父)、四女マリアという子があり、このうちヘイン伯父、セント伯父、コル叔父は画商になっている。 父ドルス牧師と母アンナとの間には、画家フィンセントが生まれるちょうど1年前の1852年3月30日に、死産の子があり、その兄にもフィンセントという名が付けられていた。画家フィンセントの後に、妹アンナ(1855年生)、弟テオドルス(通称テオ、1857年生)、妹エリーザベト(1859年生)、妹ヴィレミーナ(通称ヴィル、1862年生)、弟コルネリス(通称コル、1867年生)が生まれた。 フィンセントは、小さい時から癇癪持ちで、両親や家政婦からは兄弟の中でもとりわけ扱いにくい子と見られていた。親に無断で一人で遠出することも多く、ヒースの広がる低湿地を歩き回り、花や昆虫や鳥を観察して1日を過ごしていた。1860年からズンデルト村の学校に通っていたが、1861年から1864年まで、妹アンナとともに家庭教師の指導を受けた。1864年2月に11歳のフィンセントが父の誕生日のために描いたと思われる『農場の家と納屋』と題する素描が残っており、絵の才能の可能性を示している。1864年10月からは約20km離れたゼーフェンベルゲンのヤン・プロフィリ寄宿学校に入った。彼は、後に、親元を離れて入学した時のことを「僕がプロフィリさんの学校の石段の上に立って、お父さんとお母さんを乗せた馬車が家の方へ帰っていくのを見送っていたのは、秋の日のことだった。」と回顧している。 1866年9月15日、ティルブルフに新しくできた国立高等市民学校、ヴィレム2世校に進学した。パリで成功したコンスタント=コルネーリス・ハイスマンスという画家がこの学校で教えており、ファン・ゴッホも彼から絵を習ったと思われる。1868年3月、ファン・ゴッホはあと1年を残して学校をやめ、家に帰ってしまった。その理由は分かっていない。本人は、1883年テオに宛てた手紙の中で、「僕の若い時代は、陰鬱で冷たく不毛だった」と書いている。 ===グーピル商会(1869年‐1876年)=== ====ハーグ支店==== 1869年7月、セント伯父の助力で、ファン・ゴッホは画商グーピル商会のハーグ支店の店員となり、ここで約4年間過ごした。彼は、この時のことについて「2年間は割と面白くなかったが、最後の年はとても楽しかった」と書いている。テオの妻ヨーによれば、この時上司のテルステーフはファン・ゴッホの両親に、彼は勤勉で誰にも好かれるという高評価を書き送ったというが、実際にはテルステーフやハーグ支店の経営者であるセント伯父との関係はうまく行っていなかったと見られる。1872年夏、当時まだ学生だった弟テオがハーグのファン・ゴッホのもとを訪れ、職場でも両親との間でも孤立感を深めていたファン・ゴッホはテオに親しみを見出した。この時レイスウェイクまで2人で散歩し、にわか雨に遭って風車小屋でミルクを飲んだことを、ファン・ゴッホは後に鮮やかな思い出として回想している。この直後にファン・ゴッホはテオに手紙を書き、以後2人の間で書簡のやり取りが始まった。 ファン・ゴッホは、ハーグ支店時代に、近くのマウリッツハイス美術館でレンブラントやフェルメールらオランダ黄金時代の絵画に触れるなど、美術に興味を持つようになった。また、グーピル商会で1870年代初頭から扱われるようになった新興のハーグ派の絵にも触れる機会があった。 ===ロンドン支店=== 1873年5月、彼はロンドン支店に転勤となった。表向きは栄転であったが、実際にはテルステーフやセント伯父との関係悪化、フィンセントの娼館通いなどの不品行が理由でハーグを追い出されたものともいわれている。8月末からロワイエ家の下宿に移った。ヨーの回想録によれば、ファン・ゴッホは下宿先の娘ユルシュラ・ロワイエに恋をし、思いを告白したが、彼女は実は以前下宿していた男と婚約していると言って断られたという。そして、その後彼はますます孤独になり、宗教的情熱を強めることになったという。しかし、この物語には最近の研究で疑問が投げかけられており、ユルシュラは下宿先の娘ではなくその母親の名前であることが分かっている。ファン・ゴッホ自身は、1881年のテオ宛書簡で「僕が20歳のときの恋はどんなものだったか……僕はある娘をあきらめた。彼女は別の男と結婚した。」と書いているが、その相手は、ハーグで親交のあった遠い親戚のカロリーナ・ファン・ストックム=ハーネベーク(カロリーン)ではないかという説がある。いずれにしても、彼は、ロワイエ家の下宿を出た後、1874年冬頃から、チャールズ・スポルジョンの説教を聞きに行ったり、ジュール・ミシュレ、イポリット・テーヌの著作、またエルネスト・ルナンの『イエス伝』などを読み進めたりするうちに、キリスト教への関心を急速に深めていった。 ===パリ本店、解雇=== 1875年5月、彼はパリ本店に転勤となった。同じパリ本店の見習いで同宿だったハリー・グラッドウェルとともに、聖書やトマス・ア・ケンピスの『キリストに倣いて』に読みふけった。他方、金儲けだけを追求するようなグーピル商会の仕事には反感を募らせた。この頃、父は、フィンセントには今の職場が合わないようだとテオに書いている。翌1876年1月、彼はグーピル商会から4月1日をもって解雇するとの通告を受けた。解雇の理由の一つは、ファン・ゴッホが1875年のクリスマス休暇を取り消されたにもかかわらず無断でエッテンの実家に帰ったことともいわれる。この事件は両親に衝撃と失望を与えた。 ===聖職者への志望(1876年‐1880年)=== ====イギリスの寄宿学校==== 同年(1876年)4月、ファン・ゴッホはイギリスに戻り、ラムズゲートの港を見下ろす、ストークス氏の経営する小さな寄宿学校で無給で教師として働くこととなった。ここで少年たちにフランス語初歩、算術、書き取りなどを教えた。同年6月、寄宿学校はロンドン郊外のアイズルワースに移ることとなり、フィンセントはアイズルワースまで徒歩で旅した。しかし、伝道師になって労働者や貧しい人の間で働きたいという希望を持っていたファン・ゴッホは、ストークス氏の寄宿学校での仕事を続けることなく、組合教会のジョーンズ牧師の下で、少年たちに聖書を教えたり、貧民街で牧師の手伝いをしたりした。ジョージ・エリオットの『牧師館物語(英語版)』や『アダム・ビード(英語版)』を読んだことも、伝道師になりたいという希望に火を付けた。 ===ドルトレヒトの書店=== その年のクリスマス、彼はエッテンの父の家に帰省した。聖職者になるには7年から8年もの勉強が必要であり、無理だという父ドルス牧師の説得を受け、翌1877年1月から5月初旬まで、南ホラント州ドルトレヒトの書店ブリュッセ&ファン・ブラームで働いた。しかし、言われた仕事は果たすものの、暇を見つけては聖書の章句を英語やフランス語やドイツ語に翻訳していたという。また、この時の下宿仲間で教師だったヘルリッツは、ファン・ゴッホは食卓で長い間祈り、肉は口にせず、日曜日にはオランダ改革派教会だけでなくヤンセン派教会、カトリック教会、ルター派教会に行っていたと語っている。 ===アムステルダムでの受験勉強=== ファン・ゴッホは、ますます聖職者になりたいという希望を募らせ、受験勉強に耐えることを約束して父を説得した。同年3月、アムステルダムのコル叔父や、母の姉の夫ヨハネス・ストリッケル牧師を訪ねて、相談した。コル叔父の仲介で、アムステルダム海軍造船所長官のヤン伯父が、ファン・ゴッホの神学部受験のため、彼を迎え入れてくれることになった。そして、同年5月、ファン・ゴッホはエッテンからアムステルダムに向かい、ヤン伯父の家に下宿し、ストリッケル牧師と相談しながら、王立大学での神学教育を目指して勉学に励むことになった。ストリッケル牧師の世話で、2歳年上のメンデス・ダ・コスタからギリシャ語とラテン語を習った。しかし、その複雑な文法や、代数、幾何、歴史、地理、オランダ語文法など受験科目の多さに挫折を味わった。精神的に追い詰められたファン・ゴッホは、パンしか口にしない、わざと屋外で夜を明かす、杖で自分の背中を打つというような自罰的行動に走った。1878年2月、習熟度のチェックのために訪れた父からは、勉強が進んでいないことを厳しく指摘され、学資も自分で稼ぐように言い渡された。ファン・ゴッホはますます勉強から遠ざかり、アムステルダムでユダヤ人にキリスト教を布教しようとしているチャールズ・アドラー牧師らと交わるうちに、貧しい人々に聖書を説く伝道師になりたいという思いを固めた。 ===ラーケンの伝道師養成学校=== こうして、同年(1878年)10月の試験の日を待たずに、同年7月、ヤン伯父の家を出てエッテンに戻り、今度は同年8月からベルギーのブリュッセル北郊ラーケンの伝道師養成学校で3か月間の試行期間を過ごした。同年11月15日に試行期間が終わる時、学校から、フランドル生まれの生徒と同じ条件での在学はできない、ただし無料で授業を受けてもよい、という提案を受けた。しかし、彼は、引き続き勉強するためには資金が必要だから、自分は伝道のためボリナージュに行くことにするとテオに書いている。 ===ボリナージュ=== 同年(1878年)12月、彼はベルギーの炭鉱地帯、ボリナージュ地方(モンス近郊)に赴き、プティ=ヴァムの村で、パン屋ジャン=バティスト・ドゥニの家に下宿しながら伝道活動を始めた。1879年1月から、熱意を認められて半年の間は伝道師としての仮免許と月額50フランの俸給が与えられることになった。彼は貧しい人々に説教を行い、病人・けが人に献身的に尽くすとともに、自分自身も貧しい坑夫らの生活に合わせて同じような生活を送るようになり、着るものもみすぼらしくなった。しかし、苛酷な労働条件や賃金の大幅カットで労働者が死に、抑圧され、労働争議が巻き起こる炭鉱の町において、社会的不正義に憤るというよりも、『キリストに倣いて』が教えるように、苦しみの中に神の癒しを見出すことを説いたオランダ人伝道師は、人々の理解を得られなかった。教会の伝道委員会も、ファン・ゴッホの常軌を逸した自罰的行動を伝道師の威厳を損なうものとして否定し、ファン・ゴッホがその警告に従うことを拒絶すると、伝道師の仮免許と俸給は打ち切られた。 伝道師としての道を絶たれたファン・ゴッホは、同年(1879年)8月、同じくボリナージュ地方のクウェム(モンス南西の郊外)の伝道師フランクと坑夫シャルル・ドゥクリュクの家に移り住んだ。父親からの仕送りに頼ってデッサンの模写や坑夫のスケッチをして過ごしたが、家族からは仕事をしていないファン・ゴッホに厳しい目が注がれ、彼のもとを訪れた弟テオからも「年金生活者」のような生活ぶりについて批判された。1880年3月頃、絶望のうちに北フランスへ放浪の旅に出て、金も食べるものも泊まるところもなく、ひたすら歩いて回った。そしてついにエッテンの実家に帰ったが、彼の常軌を逸した傾向を憂慮した父親がヘールの精神病院に入れようとしたことで口論になり、クウェムに戻った。 クウェムに戻った1880年6月頃から、テオからファン・ゴッホへの生活費の援助が始まった。また、この時期、周りの人々や風景をスケッチしているうちに、ファン・ゴッホは本格的に絵を描くことを決意したようである。9月には、北フランスへの苦しい放浪を振り返って、「しかしまさにこの貧窮の中で、僕は力が戻ってくるのを感じ、ここから立ち直るのだ、くじけて置いていた鉛筆をとり直し、絵に戻るのだと自分に言い聞かせた。」と書いている。ジャン=フランソワ・ミレーの複製を手本に素描を練習したり、シャルル・バルグのデッサン教本を模写したりした。 ===ブリュッセル=== 同年(1880年)10月、絵を勉強しようとして突然ブリュッセルに出て行った。そして、運搬夫、労働者、少年、兵隊などをモデルにデッサンを続けた。また、この時、ブリュッセル王立美術アカデミーに在籍していた画家アントン・ファン・ラッパルトと交友を持つようになった。ファン・ゴッホ自身も、ハーグ派の画家ヴィレム・ルーロフスから、本格的に画家を目指すのであればアカデミーに進むよう勧められた。同年11月第1週から、同アカデミーの「アンティーク作品からの素描」というコースに登録した記録が残っており、実際に短期間出席したものと見られている。また、名前は不明だが、ある画家から短期間、遠近法や解剖学のレッスンを受けていた。 ===オランダ時代=== ====エッテン(1881年)==== 1881年4月、ファン・ゴッホはブリュッセルに住むことによる経済的な問題が大きかったため、エッテンの実家に戻り、田園風景や近くの農夫たちを素材に素描や水彩画を描き続けた。まだぎこちなさが残るが、この頃にはファン・ゴッホ特有の太く黒い描線と力強さが現れ始めていた。夏の間、最近夫を亡くしたいとこのケー・フォス・ストリッケル(母の姉と、アムステルダムのヨハネス・ストリッケル牧師との間の娘)がエッテンを訪れた。彼はケーと連れ立って散歩したりするうちに、彼女に好意を持つようになった。未亡人のケーはファン・ゴッホより7歳上で、さらに8歳の子供もいたにもかかわらずファン・ゴッホは求婚するが、「とんでもない、だめ、絶対に。」という言葉で拒絶され、打ちのめされた。 ケーはアムステルダムに帰ってしまったが、ファン・ゴッホは彼女への思いを諦めきれず、ケーに何度も手紙を書き、11月末には、テオに無心した金でアムステルダムのストリッケル牧師の家を訪ねた。しかし、ケーからは会うことを拒否され、両親のストリッケル夫妻からはしつこい行動が不愉快だと非難された。絶望した彼は、ストリッケル夫妻の前でランプの炎に手をかざし、「私が炎に手を置いていられる間、彼女に会わせてください。」と迫ったが、夫妻は、ランプを吹き消して、会うことはできないと言うのみだった。伯父ストリッケル牧師の頑迷な態度は、ファン・ゴッホに聖職者たちへの疑念を呼び起こし、父やストリッケル牧師の世代との溝を強く意識させることになった。 11月27日、ハーグに向かい、義理の従兄弟で画家のアントン・モーヴから絵の指導を受けたが、クリスマス前にいったんエッテンの実家に帰省する。しかし、クリスマスの日に彼は教会に行くことを拒み、それが原因で父親と激しく口論し、その日のうちに実家を離れて再びハーグへ発ってしまった。 ===ハーグ(1882年‐1883年)=== 1882年1月、彼はハーグに住み始め、オランダ写実主義・ハーグ派の担い手であったモーヴを頼った。モーヴはファン・ゴッホに油絵と水彩画の指導をするとともに、アトリエを借りるための資金を貸し出すなど、親身になって面倒を見てくれた。ハーグの絵画協会プルクリ・スタジオの準会員にも推薦してくれた。しかし、モーヴは次第にファン・ゴッホによそよそしい態度を取り始め、ファン・ゴッホが手紙を書いても返事を寄越さなくなった。ファン・ゴッホはこの頃にクラシーナ・マリア・ホールニク(通称シーン)という身重の娼婦をモデルとして使いながら、彼女の家賃を払ってやるなどの援助をしており、結婚さえ考えていたが、彼は、モーヴの態度が冷たくなったのはこの交際のためだと考えている。石膏像のスケッチから始めるよう助言するモーヴと、モデルを使っての人物画に固執するファン・ゴッホとの意見の不一致も原因のようである。ファン・ゴッホは、わずかな意見の違いも自分に対する全否定であるかのように受け止めて怒りを爆発させる性向があり、モーヴに限らず、知り合ったハーグ派の画家たちも次々彼を避けるようになっていった。交友関係に失敗した彼の関心は、アトリエでモデルに思いどおりのポーズをとらせ、ひたすらスケッチをすることに集中したが、月100フランのテオからの仕送りの大部分をモデル料に費やし、少しでも送金が遅れると自分の芸術を損なうものだと言ってテオをなじった。 同年(1882年)3月、ファン・ゴッホのもとを訪れたコル叔父が、街の風景の素描を12点注文してくれたため、ファン・ゴッホはハーグ市街を描き続けた。そしてコル叔父に素描を送ったが、コル叔父は「こんなのは商品価値がない」と言って、ファン・ゴッホが期待したほどの代金は送ってくれなかった。ファン・ゴッホは、同年6月、淋病で3週間入院し、退院直後の7月始め、ゴッホは今までの家の隣の家に引っ越し、この新居に、長男ヴィレムを出産したばかりのシーンとその5歳の娘と暮らし始めた。一時は、売れる見込みのある油絵の風景画を描くようにとのテオの忠告にしぶしぶ従い、スヘフェニンゲンの海岸などを描いたが、間もなく、上達が遅いことを自ら認め、挫折した。冬の間は、アトリエで、シーンの母親や、赤ん坊、身寄りのない老人などを素描した。 ファン・ゴッホはそこで1年余りシーンと共同生活をしていたが、1883年5月には、「シーンはかんしゃくを起こし、意地悪くなり、とても耐え難い状態だ。以前の悪習へ逆戻りしそうで、こちらも絶望的になる。」などとテオに書いている。ファン・ゴッホは、オランダ北部のドレンテ州に出て油絵の修行をすることを考え、同年9月初め、シーンとの間で、ハーグでこのまま暮らすことは経済的に不可能であるため、彼女は子どもたちを自分の家族に引き取ってもらうこと、彼女は自分の仕事を探すことなどを話し合った。シーンと別れたことを父に知らせ、ファン・ゴッホは、9月11日、ドレンテ州のホーヘフェーンへ発った。また、同年10月からはドレンテ州ニーウ・アムステルダムの泥炭地帯を旅しながら、ミレーのように農民の生活を描くべきだと感じ、馬で畑を犂く人々を素描した。 ===ニューネン(1883年末‐1885年)=== 同年(1883年)12月5日、ファン・ゴッホは父親が前年8月から仕事のため移り住んでいたオランダ北ブラバント州ニューネンの農村(アイントホーフェンの東郊)に初めて帰省し、ここで2年間過ごした。2年前にエッテンの家を出るよう強いられたことをめぐり父と激しい口論になったものの、小部屋をアトリエとして使ってよいことになった。さらに、1884年1月に骨折のけがをした母の介抱をするうち、家族との関係は好転した。母の世話の傍ら、近所の織工たちの家に行って、古いオークの織機や、働く織工を描いた。一方、テオからの送金が周りから「能なしへのお情け」と見られていることには不満を募らせ、同年3月、テオに、今後作品を規則的に送ることとする代わりに、今後テオから受け取る金は自分が稼いだ金であることにしたい、という申入れをし、織工や農民の絵を描いた。その多くは鉛筆やペンによる素描であり、水彩、さらには油彩も少し試みたが、遠近法の技法や人物の描き方も不十分であり、いずれも暗い色調のものであった。ピサロやモネなど明るい印象派の作品に関心を注ぐテオと、バルビゾン派を手本として暗い色調の絵を描くフィンセントの間には意見の対立が生じた。 1884年の夏、近くに住む10歳年上の女性マルホット(マルガレータ・ベーヘマン)と恋仲になった。しかし双方の家族から結婚を反対された末、マルホットはストリキニーネを飲んで倒れるという自殺未遂事件を起こし、村のスキャンダルとなった。この事件をめぐる周囲との葛藤や、友人ラッパルトとの関係悪化、ラッパルトの展覧会での成功などに追い詰められたフィンセントは、再び父との争いを勃発させた。1885年3月26日、父ドルス牧師が発作を起こして急死した。フィンセントはテオへの手紙に「君と同様、あれから何日かはいつものような仕事はできなかった、この日々は忘れることはあるまい。」と書いている。妹アンナからは、父を苦しめて死に追いやったのはフィンセントであり、彼が家にいれば母も殺されることになるとなじられた。彼は牧師館から追い出され、5月初めまでに、前からアトリエとして借りていた部屋に荷物を移した。 1885年の春、数年間にわたって描き続けた農夫の人物画の集大成として、彼の最初の本格的作品と言われる『ジャガイモを食べる人々』を完成させた。自らが着想した独自の画風を具体化した作品であり、ファン・ゴッホ自身は大きく満足した仕上がりであったが、テオを含め周囲からの理解は得られなかった。同年5月には、アカデミズム絵画を批判して印象派を持ち上げていた友人ラッパルトからも、人物の描き方、コーヒー沸かしと手の関係、その他の細部について手紙で厳しい批判を受けた。これに対し、ファン・ゴッホも強い反論の手紙を返し、2人はその後絶交に至った。 夏の間、ファン・ゴッホは農家の少年と一緒に村を歩き回って、ミソサザイの巣を探したり、藁葺き屋根の農家の連作を描いたりして過ごした。炭坑のストライキを描いたエミール・ゾラの小説『ジェルミナール』を読み、ボリナージュでの経験を思い出して共感する。一方、『ジャガイモを食べる人々』のモデルになった女性(ホルディナ・ドゥ・フロート)が9月に妊娠した件について、ファン・ゴッホのせいではないかと疑われ、カトリック教会からは、村人にゴッホの絵のモデルにならないよう命じられるという干渉を受けた。 同年(1885年)10月、ファン・ゴッホは首都アムステルダムの国立美術館を訪れ、レンブラント、フランス・ハルス、ロイスダールなどの17世紀オランダ(いわゆる黄金時代)の大画家の絵を見直し、素描と色彩を一つのものとして考えること、勢いよく一気呵成に描き上げることといった教訓を得るとともに、近年の一様に明るい絵への疑問を新たにした。同じ10月、ファン・ゴッホは、黒の使い方を実証するため、父の聖書と火の消えたろうそく、エミール・ゾラの小説本『生きる歓び』を描いた静物画を描き上げ、テオに送った。しかし、もはやモデルになってくれる村人を見つけることができなくなった上、部屋を借りていたカトリック教会管理人から契約を打ち切られると、11月、ニューネンを去らざるを得なくなった。残された多数の絵は母によって二束三文で処分された。 ===アントウェルペン(1885年末‐1886年初頭)=== 1885年11月、ファン・ゴッホはベルギーのアントウェルペンへ移り、イマージュ通りに面した絵具屋の、2階の小さな部屋を借りた。1886年1月から、アントウェルペン王立芸術学院で人物画や石膏デッサンのクラスに出た。また、美術館やカテドラルを訪れ、特にルーベンスの絵に関心を持った。さらに、エドモン・ド・ゴンクールの小説『シェリ』を読んでそのジャポネズリー(日本趣味)に魅了され、多くの浮世絵を買い求めて部屋の壁に貼った。 金銭的には依然困窮しており、テオが送ってくれる金を画材とモデル代につぎ込み、口にするのはパンとコーヒーとタバコだけだった。同年2月、ファン・ゴッホはテオへの手紙で、前の年の5月から温かい物を食べたのは覚えている限り6回だけだと書いている。食費を切り詰め、体を酷使したため、歯は次々欠け、彼の体は衰弱した。また、アントウェルペンの頃から、アブサン(ニガヨモギを原料とするリキュール)を飲むようになった。 ===パリ(1886年‐1888年初頭)=== 1886年2月末、ファン・ゴッホは、ブッソ=ヴァラドン商会(グーピル商会の後身)の支店を任されているテオを頼って、前ぶれなく夜行列車でパリに向かい、モンマルトルの弟の部屋に住み込んだ。部屋は手狭でアトリエの余地がなかったため、6月からはルピック通り(英語版)のアパルトマンに2人で転居した。パリ時代には、この兄弟が同居していて手紙のやり取りがほとんどないため、ファン・ゴッホの生活について分かっていないことが多い。モンマルトルのフェルナン・コルモンの画塾に数か月通い、石膏彫刻の女性トルソーの素描などを残している。もっとも、富裕なフランス人子弟の多い塾生の中では浮き上がった存在となり、長続きしなかった。オーストラリア出身のジョン・ピーター・ラッセルとは数少ない交友関係を持ち、ラッセルはファン・ゴッホの肖像画を描いている。 1886年当時のパリでは、ルノワール、クロード・モネ、カミーユ・ピサロといった今までの印象派画家とは異なり、純色の微細な色点を敷き詰めて表現するジョルジュ・スーラ、ポール・シニャックといった新印象派・分割主義と呼ばれる一派が台頭していた。この年開かれた第8回印象派展は、新印象派の画家たちで彩られ、この回をもって終了した。ファン・ゴッホは、春から秋にかけて、モンマルトルの丘から見下ろすパリの景観、丘の北面の風車・畑・公園など、また花瓶に入った様々な花の絵を描いた。同年冬には人物画・自画像が増えた。また、画商ドラルベレットのところでアドルフ・モンティセリの絵を見てから、この画家に傾倒するようになった。カフェ・タンブランの女店主アゴスティーナ・セガトーリ(英語版)にモデルを世話してもらったり、絵を店にかけてもらったり、冬には彼女の肖像(『カフェ・タンブランの女』)を描いたりしたが、彼女に求婚して断られ、店の人間とトラブルになっている。 同居のテオとは口論が絶えず、1887年3月には、テオは妹ヴィルに「フィンセントのことを友人と考えていたこともあったが、それは過去の話だ。彼には出て行ってもらいたい。」と苦悩を漏らしている。他方、その頃から、フィンセントは印象派や新印象派の画風を積極的に取り入れるようになり、パリの風景を明るい色彩で描くようになった。テオもこれを評価する手紙を書いている。同じくその頃、テオはブッソ=ヴァラドン商会で新進の画家を取り扱う展示室を任せられ、モネ、ピサロ、アルマン・ギヨマンといった画家の作品を購入するようになった。これを機に、エミール・ベルナールや、コルモン画塾の筆頭格だったルイ・アンクタン、トゥールーズ=ロートレックといった野心あふれる若い画家たちも、ファン・ゴッホ兄弟と親交を持つようになった。彼が絵具を買っていたジュリアン・タンギー(タンギー爺さん)の店も、若い画家たちの交流の場となっていた。 ファン・ゴッホは、プロヴァンス通りにあるサミュエル・ビングの店で多くの日本版画を買い集めた。1887年の「タンギー爺さん」の肖像画の背景の壁にいくつかの浮世絵を描き込んでいるほか、渓斎英泉の『雲龍打掛の花魁』、歌川広重の『名所江戸百景』「亀戸梅屋舗」と「大はし あたけの夕立」を模写した油絵を制作している。英泉作品は、『パリ・イリュストレ』日本特集号の表紙に原画と左右反転で印刷された絵を模写したものであり、ファン・ゴッホの遺品からも表紙が擦り切れた状態で発見されたことから、愛読していたことが窺える。こうした浮世絵への熱中には、ベルナールの影響も大きい。 同年(1887年)11月、ファン・ゴッホはクリシー大通りのレストラン・シャレで、自分のほかベルナール、アンクタン、トゥールーズ=ロートレック、A.H.コーニングといった仲間の絵の展覧会を開いた。そして、モネやルノワールら、大並木通り(グラン・ブールヴァール)の画廊に展示される大家と比べて、自分たちを小並木通り(プティ・ブールヴァール)の画家と称した。ベルナールはこの展示会について「当時のパリの何よりも現代的だった」と述べているが、パリの絵画界ではほとんど見向きもされなかった。同月、ポール・ゴーギャンがカリブ海のマルティニークからフランスに帰国し、フィンセント、テオの兄弟はゴーギャンと交流するようになる。 ===アルル(1888年‐1889年5月)=== ====ゴーギャン到着まで==== ファン・ゴッホは、1888年2月20日、テオのアパルトマンを去って南フランスのアルルに到着し、オテル=レストラン・カレルに宿をとった。ファン・ゴッホは、この地から、テオに画家の協同組合を提案した。エドガー・ドガ、モネ、ルノワール、アルフレッド・シスレー、ピサロという5人の「グラン・ブールヴァール」の画家と、テオやテルステーフなどの画商、そしてアルマン・ギヨマン、スーラ、ゴーギャンといった「プティ・ブールヴァール」の画家が協力し、絵の代金を分配し合って相互扶助を図るというものであった。 ファン・ゴッホは、ベルナール宛の手紙の中で、「この地方は大気の透明さと明るい色の効果のため日本みたいに美しい。水が美しいエメラルドと豊かな青の色の広がりを生み出し、まるで日本版画に見る風景のようだ。」と書いている。3月中旬には、アルルの街の南の運河にかかるラングロワ橋を描き(『アルルの跳ね橋』)、3月下旬から4月にかけてはアンズやモモ、リンゴ、プラム、梨と、花の季節の移ろいに合わせて果樹園を次々に描いた。また、3月初めに、アルルにいたデンマークの画家クリスチャン・ムーリエ=ペーターセン(英語版)と知り合って一緒に絵を描くなどし、4月以降、2人はアメリカの画家ドッジ・マックナイト(英語版)やベルギーの画家ウジェーヌ・ボックとも親交を持った。 同年(1888年)5月からは、宿から高い支払を要求されたことを機に、ラマルティーヌ広場に面した黄色い外壁で2階建ての建物(「黄色い家」)の東半分、小部屋付きの2つの部屋を借り、画室として使い始めた(ベッドなどの家具がなかったため、9月までは3軒隣の「カフェ・ドゥ・ラ・ガール」の一室に寝泊まりしていた)。ポン=タヴァンにいるゴーギャンが経済的苦境にあることを知ると、2人でこの家で自炊生活をすればテオからの送金でやり繰りできるという提案を、テオとゴーギャン宛に書き送っている。5月30日頃、地中海に面したサント=マリー=ド=ラ=メールの海岸に旅して、海の変幻極まりない色に感動し、砂浜の漁船などを描いた。6月、アルルに戻ると、炎天下、蚊やミストラル(北風)と戦いながら、毎日のように外に出てクロー平野の麦畑や、修道院の廃墟があるモンマジュールの丘、黄色い家の南に広がるラマルティーヌ広場を素描し、雨の日にはズアーブ兵(アルジェリア植民地兵)をモデルにした絵を描いた。6月初めにはムーリエ=ペーターセンが帰国してしまい、寂しさを味わったファン・ゴッホは、ポン=タヴァンにいるゴーギャンとベルナールとの間でさかんに手紙のやり取りをした。 7月、アルルの少女をモデルに描いた肖像画に、ピエール・ロティの『お菊さん』を読んで知った日本語を使って『ラ・ムスメ』という題を付けた。同月、郵便夫ジョゼフ・ルーランの肖像を描いた。8月、彼はベルナールに画室を6点のひまわりの絵で飾る構想を伝え、『ひまわり』を4作続けて制作した。9月初旬、寝泊まりしていたカフェ・ドゥ・ラ・ガールを描いた『夜のカフェ』を、3晩の徹夜で制作した。この店は酔客が集まって夜を明かす居酒屋であり、ファン・ゴッホは手紙の中で「『夜のカフェ』の絵で、僕はカフェとは人がとかく身を持ち崩し、狂った人となり、罪を犯すようになりやすい所だということを表現しようと努めた。」と書いている。 一方、ポン=タヴァンにいるゴーギャンからは、ファン・ゴッホに対し、同年(1888年)7月24日頃の手紙で、アルルに行きたいという希望が伝えられた。ファン・ゴッホは、ゴーギャンとの共同生活の準備をするため、9月8日にテオから送られてきた金で、ベッドなどの家具を買い揃え、9月中旬から「黄色い家」に寝泊まりするようになった。同じ9月中旬に『夜のカフェテラス』を描き上げた。9月下旬、『黄色い家』を描いた。ゴーギャンが到着する前に自信作を揃えておかなければという焦りから、テオに費用の送金を度々催促しつつ、次々に制作を重ねた。過労で憔悴しながら、10月中旬、黄色い家の自分の部屋を描いた(『アルルの寝室』)。 ===ゴーギャンとの共同生活=== 同年(1888年)10月23日、ゴーギャンがアルルに到着し、共同生活が始まった。2人は、街の南東のはずれにあるアリスカンの散歩道を描いたり、11月4日、モンマジュール付近まで散歩して、真っ赤なぶどう畑を見たりした。2人はそれぞれぶどうの収穫を絵にした(ファン・ゴッホの『赤い葡萄畑』)。また、同じ11月初旬、2人は黄色い家の画室で「カフェ・ドゥ・ラ・ガール」の経営者ジョゼフ・ジヌーの妻マリーをモデルに絵を描いた(ファン・ゴッホの『アルルの女』)。ゴーギャンはファン・ゴッホに、全くの想像で制作をするよう勧め、ファン・ゴッホは思い出によりエッテンの牧師館の庭を母と妹ヴィルが歩いている絵などを描いた。しかし、ファン・ゴッホは、想像で描いた絵は自分には満足できるものではなかったことをテオに伝えている。11月下旬、ファン・ゴッホは2点の『種まく人』を描いた。また、11月から12月にかけて、郵便夫ジョゼフ・ルーランやその家族をモデルに多くの肖像画を描き、この仕事を「自分の本領だと感じる」とテオに書いている。 一方で、次第に2人の関係は緊張するようになった。11月下旬、ゴーギャンはベルナールに対し「ヴァンサン〔ファン・ゴッホ〕と私は概して意見が合うことがほとんどない、ことに絵ではそうだ。……彼は私の絵がとても好きなのだが、私が描いていると、いつも、ここも、あそこも、と間違いを見つけ出す。……色彩の見地から言うと、彼はモンティセリの絵のような厚塗りのめくらめっぽうをよしとするが、私の方はこねくり回す手法が我慢ならない、などなど。」と不満を述べている。そして、12月中旬には、ゴーギャンはテオに「いろいろ考えた挙句、私はパリに戻らざるを得ない。ヴァンサンと私は性分の不一致のため、寄り添って平穏に暮らしていくことは絶対できない。彼も私も制作のための平穏が必要です。」と書き送り、ファン・ゴッホもテオに「ゴーギャンはこのアルルの仕事場の黄色の家に、とりわけこの僕に嫌気がさしたのだと思う。」と書いている。12月中旬(16日ないし17日)、2人は汽車でアルルから西へ70キロのモンペリエに行き、ファーブル美術館を訪れた。ファン・ゴッホは特にドラクロワの作品に惹かれ、帰ってから2人はドラクロワやレンブラントについて熱い議論を交わした。モンペリエから帰った直後の12月20日頃、ゴーギャンはパリ行きをとりやめたことをテオに伝えた。 同年12月23日、ファン・ゴッホが自らの左耳を切り落とす事件が発生した。12月30日の地元紙は、次のように報じている。 先週の日曜日、夜の11時半、オランダ出身のヴァンサン・ヴォーゴーグと称する画家が娼館1号に現れ、ラシェルという女を呼んで、「この品を大事に取っておいてくれ」と言って自分の耳を渡した。そして姿を消した。この行為――哀れな精神異常者の行為でしかあり得ない――の通報を受けた警察は翌朝この人物の家に行き、ほとんど生きている気配もなくベッドに横たわっている彼を発見した。この不幸な男は直ちに病院に収容された。 ― 『ル・フォロム・レピュブリカン』1888年12月30日 ファン・ゴッホ自身はこの事件について記憶にないようであり、何も語っていない。翌日の12月24日、ゴーギャンは電報でテオをアルルに呼び寄せた。 ===アルル市立病院=== ファン・ゴッホは、アルル市立病院に収容された。ちょうどヨーとの婚約を決めたばかりだったテオは、12月24日夜の列車でアルルに急行し、翌日兄を病院に見舞うとすぐにパリに戻った。ゴーギャンも、テオと同じ夜行列車でパリに戻った。テオは、帰宅すると、ヨーに対し、「兄のそばにいると、しばらくいい状態だったかと思うと、すぐに哲学や神学をめぐって苦悶する状態に落ち込んでしまう。」と書き送り、兄の生死を心配している。アルル市立病院での担当医は、当時23歳で、まだ医師資格を得ていない研修医のフェリックス・レーであった。レー医師は、出血を止め、傷口を消毒し、感染症を防止できる絹油布の包帯を巻くという比較的新しい治療法を行った。郵便夫ジョゼフ・ルーランや、病院の近くに住むプロテスタント牧師ルイ・フレデリック・サルがファン・ゴッホを見舞ってくれ、テオにファン・ゴッホの病状を伝えてくれた。12月27日にオーギュスティーヌ・ルーランが面会に訪れた後、ファン・ゴッホは再び発作を起こし、病院の監禁室に隔離された。 しかし、その後容態は改善に向かい、ファン・ゴッホは1889年1月2日、テオ宛に「あと数日病院にいれば、落ち着いた状態で家に戻れるだろう。何よりも心配しないでほしい。ゴーギャンのことだが、僕は彼を怖がらせてしまったのだろうか。なぜ彼は消息を知らせてこないのか。」と書いている。そして、1月4日の「黄色い家」への一時帰宅許可を経て、1月7日退院許可が下り、ファン・ゴッホは「黄色い家」に戻った。 退院したファン・ゴッホは、レー医師の肖像や、耳に包帯をした2点の自画像を描き、また事件で中断していた『ルーラン夫人ゆりかごを揺らす女』も完成させた。1月20日、ジョゼフ・ルーランが、転勤でアルルを離れなければならなくなり、ファン・ゴッホは、親友を失った。ファン・ゴッホは、テオに、耐えられない幻覚はなくなり、悪夢程度に鎮まってきたと書いている。しかし、2月に入り、自分は毒を盛られている、至る所に囚人や毒を盛られた人が目につく、などと訴え、2月7日、近所の人が警察に対応を求めたことから、再び病院の監禁室に収容された。2月17日に仮退院したが、2月25日、住民30名から市長に、「オランダ人風景画家が精神能力に狂いをきたし、過度の飲酒で異常な興奮状態になり、住民、ことに婦女子に恐怖を与えている」として、家族が引き取るか精神病院に収容するよう求める請願書が提出された。2月26日、警察署長の判断で再び病院に収容された。警察署長は、関係者から事情聴取の上、3月6日、専門の保護施設に監禁相当との意見を市長に提出した。 ファン・ゴッホは、3月23日までの約1か月間は単独病室に閉じ込められ、絵を描くことも禁じられた。「厳重に鍵をかけたこの監禁室に長い間、監視人とともに閉じ込められている。僕の過失など証明されておらず、証明することもできないのに」と憤りの手紙を送っている。4月18日の結婚式を前に新居の準備に忙しいテオからもほとんど便りはなく、フィンセントは結婚するテオに見捨てられるとの孤独感に苦しんだ。 そんな中、3月23日、画家ポール・シニャックがアルルのファン・ゴッホのもとを訪れてくれ、レー医師を含め3人で「黄色い家」に立ち入った。不在の間にローヌ川の洪水による湿気で多くの作品が損傷していることに落胆せざるを得なかった。しかし、シニャックは、パリ時代に見ていたファン・ゴッホの絵とは異なる、成熟した画風の作品に驚いた。ファン・ゴッホも、友人の画家に会ったことに刺激を受け、絵画制作を再開した。外出も認められるようになった。 病院にいつまでも入院していることはできず、「黄色い家」に戻ることもできなくなったため、ファン・ゴッホは、居場所を見つける必要に迫られた。4月半ばには、レー医師が所有するアパートを借りようという考えになっていたが、1人で生活できるか不安になり、あきらめた。最終的に、4月下旬、テオに、サル牧師から聞いたサン=レミの療養所に移る気持ちになったので、転院の手続をとってほしいと手紙で頼んだ。当時、公立の精神科病院に入れられれば二度と退院の見込みはなかったのに対し、民間の療養所は遥かに恵まれた環境であった。 ===サン=レミ(1889年5月‐1890年5月)=== 同年(1889年)5月8日、ファン・ゴッホは、サル牧師に伴われ、アルルから20キロ余り北東にあるサン=レミのサン=ポール=ド=モーゾール修道院(フランス語版)療養所に入所した。病院長テオフィル・ペロンは、その翌日、「これまでの経過全体の帰結として、ヴァン・ゴーグ氏は相当長い間隔を置いたてんかん発作を起こしやすい、と私は推定する。」と記録している。 ファン・ゴッホは、療養所の一室を画室として使う許可を得て、療養所の庭でイチハツの群生やアイリスを描いた。また、病室の鉄格子の窓の下の麦畑や、アルピーユ山脈の山裾の斜面を描いた。6月に入ると、病室の外に出てオリーブ畑や糸杉を描くようになった。同じ6月、アルピーユの山並みの上に輝く星々と三日月に、S字状にうねる雲を描いた『星月夜』を制作した。彼は、『オリーブ畑』、『星月夜』、『キヅタ』などの作品について、「実物そっくりに見せかける正確さでなく、もっと自由な自発的デッサンによって田舎の自然の純粋な姿を表出しようとする仕事だ。」と述べている。一方、テオは、兄の近作について「これまでなかったような色彩の迫力があるが、どうも行き過ぎている。むりやり形をねじ曲げて象徴的なものを追求することに没頭したりすると、頭を酷使して、めまいを引き起こす危険がある。」と懸念を伝えている。7月初め、フィンセントはヨーが妊娠したことを知らされ、お祝いの手紙を送るが、複雑な心情も覗かせている。 ファン・ゴッホの病状は改善しつつあったが、アルルへ作品を取りに行き、戻って間もなくの同年(1889年)7月半ば、再び発作が起きた。8月22日、ファン・ゴッホは「もう再発することはあるまいと思い始めた発作がまた起きたので苦悩は深い。……何日かの間、アルルの時と同様、完全に自失状態だった。……今度の発作は野外で風の吹く日、絵を描いている最中に起きた。」と書いている。9月初めには意識は清明に戻り、自画像、『麦刈る男』、看護主任トラビュックの胸像、ドラクロワの『ピエタ』の石版複製を手がかりにした油彩画などを描いた。また、ミレーの『野良仕事』の連作を模写した。ファン・ゴッホは、模写の仕事を、音楽家がベートーヴェンを解釈するのになぞらえている。以降、12月まで、ミレーの模写のほか『石切場の入口』、『渓谷』、『病院の庭の松』、オリーブ畑、サン=レミのプラタナス並木通りの道路工事などを描いた。 1889年のクリスマスの頃、再び発作が起き、この時は1週間程度で収まった。1890年1月下旬、アルルへ旅行して戻ってきた直後にも、発作に襲われた。1月31日にテオとヨーの間に息子(フィンセント・ヴィレムと名付けられた)が生まれたのを祝って2月に『花咲くアーモンドの木の枝』を描いて贈ったり、ゴーギャンが共同生活時代に残したスケッチをもとにジヌー夫人の絵を描いたりして創作を続けるが、2月下旬にその絵をジヌー夫人自身に届けようとアルルに出かけた時、再び発作で意識不明になった。4月、ペロン院長はテオに、ファン・ゴッホが「ある時は自分の感じていることを説明するが、何時間かすると状態が変わって意気消沈し、疑わしげな様子になって何も答えなくなる。」と、完全な回復が遅れている様子を伝えている。また、ペロン院長による退院時(5月)の記録には、「発作の間、患者は恐ろしい恐怖感にさいなまれ、絵具を飲み込もうとしたり、看護人がランプに注入中の灯油を飲もうとしたりなど、数回にわたって服毒を試みた。発作のない期間は、患者は全く静穏かつ意識清明であり、熱心に画業に没頭していた。」と記載されている。 一方、ファン・ゴッホの絵画は少しずつ評価されるようになっていた。同年(1890年)1月、評論家のアルベール・オーリエが『メルキュール・ド・フランス』誌1月号にファン・ゴッホを高く評価する評論を載せ、ブリュッセルで開かれた20人展ではゴッホの『ひまわり』、『果樹園』など6点が出品されて好評を博した。2月、この展覧会でファン・ゴッホの『赤い葡萄畑』が初めて400フランで売れ(買い手は画家で20人展のメンバーのアンナ・ボック)、テオから兄に伝えられた。3月には、パリで開かれたアンデパンダン展に『渓谷』など10点がテオにより出品され、ゴーギャンやモネなど多くの画家から高い評価を受けているとテオが兄に書き送っている。 体調が回復した5月、ファン・ゴッホは、ピサロと親しい医師ポール・ガシェを頼って、パリ近郊のオーヴェル=シュル=オワーズに転地することにした。最後に『糸杉と星の見える道』を描いてから、5月16日サン=レミの療養所を退所した。翌朝パリに着き、数日間テオの家で過ごしたが、パリの騒音と気疲れを嫌って早々にオーヴェルに向かって発った。 ===オーヴェル=シュル=オワーズ(1890年5月‐7月)=== 同年(1890年)5月20日、ファン・ゴッホはパリから北西へ30キロ余り離れたオーヴェル=シュル=オワーズの農村に着き、ポール・ガシェ医師を訪れた。ガシェ医師について、ファン・ゴッホは「非常に神経質で、とても変わった人」だが、「体格の面でも、精神的な面でも、僕にとても似ているので、まるで新しい兄弟みたいな感じがして、まさに友人を見出した思いだ」と妹ヴィルに書いている。ファン・ゴッホは村役場広場のラヴー旅館に滞在することにした。 ファン・ゴッホは、古い草葺屋根の家々、セイヨウトチノキ(マロニエ)の花を描いた。またガシェ医師の家を訪れて絵画や文学の話をしつつ、その庭、家族、ガシェの肖像などを描いた。6月初めには、さらに『オーヴェルの教会』を描いた。テオには、都会ではヨーの乳の出も悪く子供の健康に良くないからと、家族で田舎に来るよう訴え、オーヴェルの素晴らしさを強調する手紙をしきりに送った。最初は日曜日にでもと言っていたが、1か月の休養が必要だろうと言い出し、さらには何年も一緒に生活したいと、フィンセントの要望は膨らんだ。そして6月8日の日曜日、パリからテオとヨーが息子を連れてオーヴェルを訪れ、フィンセントとガシェの一家と昼食をとったり散歩をしたりした。フィンセントは2日後「日曜日はとても楽しい思い出を残してくれた。……また近いうちに戻ってこなくてはいけない。」と書いている。6月末から50cm×100cmの長いキャンバスを使うようになり、これを縦に使ってピアノを弾くガシェの娘マルグリットを描いた。 この頃、パリのテオは、勤務先の商会の経営者ブッソ、ヴァラドンと意見が対立しており、ヨーの兄アンドリース・ボンゲル(ドリース)とともに共同で自営の画商を営む決意をするか迷っていた。またヨーと息子が体調を崩し、そのことでも悩んでおり、テオは6月30日、兄宛に悩みを吐露した長い手紙を書いている。7月6日、フィンセントはパリを訪れた。ヨーによれば、アルベール・オーリエや、トゥールーズ=ロートレックなど多くの友人が彼を訪ねたほか、ギヨマンも来るはずだったが、フィンセントは「やり切れなくなったので、その訪問を待たずに急いでオーヴェルへ帰っていった」という。この日、テオやヨーとの間で何らかの話合いがされたようであるが、ヨーはその詳細を語っていない。フィンセントは、7月10日頃、オーヴェルからテオとヨー宛に「これは僕たちみんなが日々のパンを危ぶむ感じを抱いている時だけに些細なことではない。……こちらへ戻ってきてから、僕もなお悲しい思いに打ちしおれ、君たちを脅かしている嵐が自分の上にも重くのしかかっているのを感じ続けていた。」と書き送っている。また、大作3点(『荒れ模様の空の麦畑』、『カラスのいる麦畑』、『ドービニーの庭』)を描き上げたことを伝えている。また、フィンセントはその後にもテオの「激しい家庭のもめ事」を心配する手紙を送ったようであり(手紙は残っていない)、7月22日、テオは兄に、(共同自営問題に関し)ドリースとの議論はあったものの、激しい家庭のもめ事など存在しないという手紙を送り、これに対しフィンセントは最後の手紙となる7月23日の手紙で「君の家庭の平和状態については、平和が保たれる可能性も、それを脅かす嵐の可能性も僕には同じように納得できる。」などと書いている。 ===死(1890年7月)=== 7月27日の日曜日の夕方、オーヴェルのラヴー旅館に、怪我を負ったファン・ゴッホが帰り着いた。旅館の主人に呼ばれて彼の容態を見たガシェは、同地に滞在中だった医師マズリとともに傷を検討した。傷は銃創であり、左乳首の下、3、4センチの辺で紫がかったのと青みがかったのと二重の暈に囲まれた暗い赤の傷穴から弾が体内に入り、既に外への出血はなかったという。両名は、弾丸が心臓をそれて左の下肋部に達しており、移送も外科手術も無理と考え、絶対安静で見守ることとした。ガシェは、この日のうちにテオ宛に「本日、日曜日、夜の9時、使いの者が見えて、令兄フィンセントがすぐ来てほしいとのこと。彼のもとに着き、見るとひどく悪い状態でした。彼は自分で傷を負ったのです。」という手紙を書いた。翌28日の朝、パリで手紙を受け取ったテオは兄のもとに急行した。彼が着いた時点ではファン・ゴッホまだ意識があり話すことが出来たものの、29日午前1時半に死亡した。37歳没。7月30日、葬儀が行われ、テオのほかガシェ、ベルナール、その仲間シャルル・ラヴァルや、ジュリアン・フランソワ・タンギーなど、12名ほどが参列した。 テオは8月1日、パリに戻ってから妻ヨー宛の手紙に「オーヴェルに着いた時、幸い彼は生きていて、事切れるまで私は彼のそばを離れなかった。……兄と最期に交わした言葉の一つは、『このまま死んでゆけたらいいのだが』だった。」と書いている。 テオは、同年(1890年)8月、フィンセントの回顧展を実現しようと画商ポール・デュラン=リュエルに協力を求めたが、断られたため画廊での展示会は実現せず、9月22日から24日までテオの自宅アパルトマンでの展示に終わった。一方、9月12日頃、テオはめまいがするなどと体調不良を訴え、同月のある日、突然麻痺の発作に襲われて入院した。10月14日、精神病院に移り、そこでは梅毒の最終段階、麻痺性痴呆と診断されている。11月18日、ユトレヒト近郊の診療所に移送され療養を続けたが、1891年1月25日、兄の後を追うように亡くなり、ユトレヒトの市営墓地に埋葬された。なお、フィンセントの当初の墓地(正確な位置は現在は不明)は15年契約であったため、1905年6月13日、ヨー、ガシェらによって、同じオーヴェルの今の場所に改葬された。1914年4月、ヨーがテオの遺骨をこの墓地に移し、兄弟の墓石が並ぶことになった。 ファン・ゴッホは自殺を図ったとするのが定説だが、現場を目撃した者がいない事、自らを撃ったにしては銃創や弾の入射角が不自然な位置にあるとも言えることなどから、異説もある。2011年にファン・ゴッホの伝記を刊行したスティーヴン・ネイフとグレゴリー・ホワイト・スミスは、彼と一緒にいた少年達が持っていた銃が暴発し、ファン・ゴッホを誤射してしまったが、彼らをかばうために自殺に見せかけたとする説を唱えた。ファン・ゴッホ美術館は「新説は興味深いが依然疑問が残る」とコメントしている。2016年7月、ファン・ゴッホが自殺に用いたとされる、1960年にオーヴェルの農地から発見された拳銃がファン・ゴッホ美術館にて展示された。 ==病因== ファン・ゴッホが起こした「耳切り事件」や、その後も引き続いた発作の原因については、次のようなものを含め、数多くの仮説がある(数え方により100を超える)。このうち、てんかんとする説と統合失調症とする説が最も有力である。しかし、医学的・精神医学的見解は混沌としており、確定的診断を下すには慎重であるべきとの指摘がされている。 ===てんかん説=== アルルの病院の上層部による診断は「全般的せん妄を伴う急性躁病」であったが、若いレー医師だけが「一種のてんかん」と考え、ファン・ゴッホもその説明に納得している。当時、伝統的に認められてきたてんかんとは別に、発作と発作の間に長い安定期間があり比較的普通の生活を送ることができる類型があること、日光、アルコール、精神的動揺などが発作の引き金となり得ることなどが分かってきていた。ペロン医師も、レー医師の診断を支持した。 ===統合失調症説=== カール・ヤスパースは、てんかんのうち強直間代発作における典型的症状である強直痙攣が見られないことから、てんかん説に疑問を呈し、統合失調症か麻痺であるとした上で、2年間も発作に苦しみながら判断能力を失わなかったことから見て統合失調症との判定に傾いている。 ===梅毒性麻痺説=== ファン・ゴッホは、アントウェルペン滞在中に梅毒と診断されて水銀剤治療と座浴療法を受けている。ランゲ・アイヒバウムは、「急性梅毒性分裂・てんかん様障害」との診断を下している。 ===メニエール病説=== メニエール病とは内耳の病気で、ひどい目まい、吐き気、強い耳鳴り、難聴を伴うものである。ファン・ゴッホは「目まいに襲われている間、痛みと苦しみの前に自分が臆病者になってしまった思いだ」と書いており、こうした手紙の詳細な調査からメニエール病の症状に当てはまるとする研究がある。 ===アブサン中毒説=== ファン・ゴッホはアントウェルペンないしパリ時代からアブサンを多飲していたが、アブサンには原料のニガヨモギに含まれるツジョンという有毒成分があり、振戦せん妄、てんかん性痙攣、幻聴を主症状とするアルコール中毒を引き起こす。サン=レミの精神病院に入院中、ファン・ゴッホが絵具のチューブの中身を飲み込んだことがあるが、これは絵具の溶剤であるテレビン油がツジョンと性質が似ているためであるという意見も発表されている。しかしこれを「耳切り事件」のような行動と結びつけるには難点もある。ゴッホの手紙の中にアブサンを飲んだという記録はないし、アルルではアブサンはほとんど売られていなかったという指摘もある。 ===急性間欠性ポルフィリン症説=== ポルフィリン誘導体の代謝異常により、間欠的な腹痛、悪心、嘔吐を伴い、光過敏症となり、神経症状を引き起こすとされている、まれな病気である。この説に対しては、遺伝的な説明が不十分との意見もある。孤独な社会的行動、狭い興味関心などの特徴を指摘して、アスペルガー症候群であったとする見解もある。彼の病気と芸術との関係については、発作の合間には極めて冷静に制作していたことから、彼の芸術が「狂気」の所産であるとはいえないという意見が多い。 ==後世== ===1890年代の評価=== ファン・ゴッホの作品については、晩年の1890年1月に『メルキュール・ド・フランス』誌に発表されたアルベール・オーリエの評論で、既に高く評価されていた。オーリエは、「フィンセント・ファン・ゴッホは実際、自らの芸術、自らのパレット、自然を熱烈に愛する偉大な画家というだけではなく、夢想家、熱狂的な信者、美しき理想郷に全身全霊を捧げる者、観念と夢とによって生きる者なのだ。」と賞賛している。同時期の他の評論家らによるアンデパンダン展についての記事も、比較的ファン・ゴッホに好意的なものであった。他方、ファン・ゴッホの絵が生前売れたのは、友人の姉アンナ・ボックが400フランで買い取った『赤い葡萄畑』だけであるとされ、これは一般的に生前の不遇を象徴する事実とみなされている。ただし、これについては、ファン・ゴッホが絵を描いたのは10年に満たず、ちょうど展覧会に出品し始めた時に若くしてこの世を去ったことを考えれば、彼の絵画が成熟してから批評家によって承認されるまでの期間はむしろ短いとの指摘もある。 ゴッホ死後の1891年2月、ブリュッセルの20人展で遺作の油絵8点と素描7点が展示された。同年3月、パリのアンデパンダン展では油絵10点が展示された。オクターヴ・ミルボーは、このアンデパンダン展について、『エコー・ド・パリ』紙に「かくも素晴らしい天分に恵まれ、誠に直情と幻視の画家がもはやこの世にいないと思えば、大きな悲しみに襲われる。」と、ファン・ゴッホを賞賛する文章を描いている。オーリエや他の評論家からもファン・ゴッホへの賞賛が続いた。オーリエは、ファン・ゴッホを同時代における美術の潮流の中に位置付けながら、「写実主義者」であると同時に「象徴主義者」であり、「理想主義的な傾向」を持った「自然主義の美術」を実践しているという、逆説的な評価を述べている。唯一、シャルル・メルキが1893年に、印象派ら「現在の絵画」を批判する論文を発表し、その中でファン・ゴッホについて「こてに山と盛った黄、赤、茶、緑、橙、青の絵具が、5階から投げ落としたかごの中の卵のように、花火となって飛び散った。……何かを表しているように見えるが、きっと単なる偶然であろう。」と皮肉った批評を行ったが、同調する評論家はいなかった。 ヨーは、1892年、アムステルダムでの素描展やハーグでの展覧会を開いたり、画商に絵を送ったりして、ファン・ゴッホの作品を世に紹介する努力を重ね、12月には、アムステルダムの芸術ホール・パノラマで122点の回顧展を実現した。北欧ではファン・ゴッホの受容が比較的早く、1893年3月、コペンハーゲンでゴーギャンとゴッホの展覧会が開かれ、リベラルな新聞に好評を博した。パリの新興の画商アンブロワーズ・ヴォラールも、1895年と1896年に、ゴッホの展覧会を開き、知名度の向上に寄与した。 1893年、ベルナールが『メルキュール・ド・フランス』誌上でゴッホの書簡の一部を公表し、ファン・ゴッホの伝記的事実を伝え始めると、人々の関心が作品だけでなくファン・ゴッホという人物の個性に向かうようになった。1894年、ゴーギャンもファン・ゴッホに関する個人的な回想を発表し、その中で「全く、どう考えても、フィンセントは既に気が狂っていた。」と書いている。こうして、フランスのファン・ゴッホ批評においては、彼の芸術的な特異性、次いで伝記的な特異性が作り上げられ、賛美されるという風潮が確立した。 ===社会的受容と伝説の流布(20世紀前半)=== 1900年頃から、今までルノワール、ピサロといった印象派の大家の陰で売れなかったシスレー、セザンヌ、ゴッホらの作品が市場で急騰し始めた。1900年にはファン・ゴッホの『立葵』が1100フランで買い取られ、1913年には『静物』が3万5200フランで取引された。さらに1932年にはファン・ゴッホ1点が36万1000フランで落札されるに至った。また、作品の価値の高まりを反映して、1918年頃には既に偽作が氾濫する状態であった。このように、批評家や美術史家のグループを超えて、ファン・ゴッホの絵画は大衆に受け入れられていった。それを助長したのは、彼の伝記の広まり、作品の複製図版の増殖、展覧会や美術館への公衆のアクセスであった。 ===展覧会=== 1901年3月には、パリのベルネーム=ジューヌ画廊で65点の油絵が展示され、この展覧会はアンリ・マティス、アンドレ・ドラン、モーリス・ド・ヴラマンクというフォーヴィスムの主要な画家たちに大きな影響を与えた。1905年3月から4月のアンデパンダン展で行われた回顧展も、フォーヴィスム形成に大きく寄与した(→絵画史的意義)。 オランダでも、ドルドレヒト、レイデン、ハーグ、アムステルダム、ロッテルダムなど、各地で展覧会が開催され、1905年にはアムステルダム市立美術館で474点という大規模の回顧展が開催された。ヨーはこれらの展覧会について、作品の貸出しや売却を取り仕切った。 ドイツでは、ベルリンの画商パウル・カッシーラーが、フランスの画商らやヨーとのコネクションを築いてファン・ゴッホ作品を取り扱っており、1905年9月以降、ハンブルク、ドレスデン、ベルリン、ウィーンと、各都市を回ってファン・ゴッホ展を開催した。ドイツでのファン・ゴッホ人気は他国をしのぎ、第1次世界大戦開戦期には、ドイツは油彩画120点・素描36点という、オランダに次ぐ数の公的・私的コレクションを抱えるに至った。もっとも、ファン・ゴッホを「フランス絵画」と見て批判する声もあった。1928年にはカッシーラー画廊がベルリンで大規模なファン・ゴッホ展を行ったが、この時、数点の油彩画が偽作であることが判明し、ヴァッカー・スキャンダルが明るみに出た(→#真贋・来歴をめぐる問題)。 ロンドンでは、ロジャー・フライが1910年11月、「マネとポスト印象派の画家たち」と題する展覧会を開き、ファン・ゴッホの油彩画22点も展示したが、イギリスの新聞はこれを冷笑した。 1937年には、パリ万国博覧会の一環として大規模な回顧展が開かれた。 アメリカ合衆国では、1929年、ニューヨーク近代美術館のこけら落とし展覧会で、セザンヌ、ゴーギャン、スーラ、ゴッホの4人のポスト印象派の画家が取り上げられた。後述のストーンの小説でファン・ゴッホの知名度は一気に上がり、1935年に同美術館をはじめとするアメリカ国内5都市でアメリカ最初のファン・ゴッホ回顧展が開催され、合計87万8709人の観客を呼んだ。第1次世界大戦後、世界経済の中心がヨーロッパからアメリカに移るにつれ、アメリカ国内では新しい美術館が次々生まれ、ゴッホ作品を含むヨーロッパ美術が大量に流入していった。ナチス・ドイツの退廃芸術押収から逃れた作品の受入先ともなった。 ===書簡集と伝記の出版=== 1911年、ベルナールが自分宛のファン・ゴッホの書簡集を出版した。1914年、ヨーが3巻の『ファン・ゴッホ書簡集』を出版し、その冒頭に「フィンセント・ファン・ゴッホの思い出――彼の義妹による」を掲載した。 書簡集の出版後、それを追うように、数多くの伝記、回想録、精神医学的な研究が発表された。そこでは、ファン・ゴッホの人生について、理想化され、精神性を付与され、英雄化されたイメージが作り上げられていった。すなわち、「強い使命感」、「並外れた天才」、「孤立と実際的・社会的な生活への不適合」、「禁欲と貧困」、「無私」、「金銭的・現世的な安楽への無関心と高貴な精神」、「同時代人からの無理解・誤解」、「苦痛に耐えての死(殉教のイメージ)」、「後世における成就」といったモチーフが伝記の中で繰り返され、強調されている。これらのモチーフは、キリスト教の聖人伝を構成する要素と同じであることが指摘されている。こうした伝説は、ファン・ゴッホ自身の書簡に記されたキリスト教的信念や、テオの貢献、「耳切り事件」、自殺といった多彩なエピソードによって強められた。1934年にはアーヴィング・ストーンがLust for Life(邦訳『炎の人ゴッホ』)と題する伝記小説を発表し、全米のトップセラーとなった。 ===精神医学的研究=== 1920年のビルンバウム(ドイツ)による論考に引き続き、1924年フランスで精神医学者ジャン・ヴァンションが、ファン・ゴッホの事例に言及した論文を発表すると、ゴッホの「狂気」に関する同様の研究が次々発表されるようになった。1940年代初頭までに、1ダースもの異なった診断が提示されるに至った。他方、アントナン・アルトーは、1947年に小冊子『ファン・ゴッホ――社会が自殺させし者』を発表し、ファン・ゴッホが命を捨てたのは彼自身の狂気の発作のせいではないとした上で、ガシェ医師がゴッホに加えた圧迫、テオが兄のもとを訪れようとしなかったこと、ペロン医師の無能力、ガシェ医師がファン・ゴッホ自傷後に手術をしなかったこと、そしてファン・ゴッホを死に追いやった社会全体を告発している。 ===大衆文化への取込み(20世紀後半)=== 第2次世界大戦後、ファン・ゴッホは大部数の伝記、映画、芝居、バレエ、オペラ、歌謡曲、広告、あらゆるイメージ(作品の複製、模作、ポスター、絵葉書、Tシャツ、テレフォンカード等)で取り上げられ、大衆文化に取り込まれていった。他方で、L.ローランドは、1959年の著作の中で、テオの妻ヨーが、ゴッホ書簡集を出版した際、テオのフィンセントへの愛情と献身という物語にとって不都合な部分は削るなどの作為を加えていることを明らかにし、アルトーに引き続いて、ファン・ゴッホをめぐる伝説に疑問を投げかけた。 1970年代、ヤン・フルスケルがファン・ゴッホの日付のない手紙の配列について研究を進め、今まで伝えられてきた多くのエピソードに疑問を投げかけた。1984年、ニューヨークのメトロポリタン美術館が、「アルルのファン・ゴッホ」展を開催し、学芸員ロナルド・ピックヴァンスによる徹底的な研究に基づいたカタログを刊行した。1987年には、続編となる「サン=レミとオーヴェルのファン・ゴッホ」展を開催した。これらは、不遇と精神病のイメージに彩られた伝説を排除し、歴史的に正確なファン・ゴッホ像を確立しようとする動きの到達点を示すものであった。同様のゴッホ展は各国で開催され、没後100年に当たる1990年には、ファン・ゴッホ美術館が回顧展を開催した。 ===映画=== 1990年のカタログによれば、1948年から1990年までの間にファン・ゴッホを題材としたドキュメンタリーおよびフィクションの映像作品は合計82本に上り、近年では年間10本も制作されている。劇場公開された代表的な作品としては次のようなものがある。 『ファン・ゴッホ』(1948年、フランス) アラン・レネ監督の短編映画(日本では劇場未公開)。アラン・レネ監督の短編映画(日本では劇場未公開)。『炎の人ゴッホ』(Lust for Life, 1955年、アメリカ) 監督ヴィンセント・ミネリ、出演カーク・ダグラス。ゴッホの伝記映画の中では最も有名な作品で、「周囲の無理解にもかかわらず情熱をもって独自の芸術を追求した狂気の天才画家」という通俗的なファン・ゴッホのイメージを定着させるのに決定的な役割を果たした。原作は同名のアーヴィング・ストーンの小説。監督ヴィンセント・ミネリ、出演カーク・ダグラス。ゴッホの伝記映画の中では最も有名な作品で、「周囲の無理解にもかかわらず情熱をもって独自の芸術を追求した狂気の天才画家」という通俗的なファン・ゴッホのイメージを定着させるのに決定的な役割を果たした。原作は同名のアーヴィング・ストーンの小説。『ゴッホ』(Vincent & Theo, 1990年、アメリカ) 監督ロバート・アルトマン、出演ティム・ロス。神話化されたファン・ゴッホの物語の脱構築を目指した作品で、いくぶん脚色されているとはいえ比較的史実に近い。画家は、他の作品に比べれば感情を抑えた冷静で分析的な性格として描かれている。原題が示すように弟のテオにもスポットが当てられている。監督ロバート・アルトマン、出演ティム・ロス。神話化されたファン・ゴッホの物語の脱構築を目指した作品で、いくぶん脚色されているとはいえ比較的史実に近い。画家は、他の作品に比べれば感情を抑えた冷静で分析的な性格として描かれている。原題が示すように弟のテオにもスポットが当てられている。『夢』(1990年、日本・アメリカ) 監督黒澤明。八つのエピソードのうちの一つ「鴉」が、ファン・ゴッホの絵画世界の中に入り込んでしまう夢話である。ファン・ゴッホを演じたのは映画監督のマーティン・スコセッシ。監督黒澤明。八つのエピソードのうちの一つ「鴉」が、ファン・ゴッホの絵画世界の中に入り込んでしまう夢話である。ファン・ゴッホを演じたのは映画監督のマーティン・スコセッシ。『ヴァン・ゴッホ』(1991年、フランス) 監督モーリス・ピアラ。ゴッホの最晩年、オーヴェル=シュル=オワーズにおける2カ月の生活を描く。医師ガシェの娘マルグリットとの関係なども描かれる。監督モーリス・ピアラ。ゴッホの最晩年、オーヴェル=シュル=オワーズにおける2カ月の生活を描く。医師ガシェの娘マルグリットとの関係なども描かれる。『ゴッホ 最期の手紙』(2017年、イギリス・ポーランド合作) 監督ドロタ・コビエラ、ヒュー・ウェルチマン。全編が、ゴッホの油絵タッチで描かれたアニメーション映画。俳優の演じた実写映像をもとにしている。監督ドロタ・コビエラ、ヒュー・ウェルチマン。全編が、ゴッホの油絵タッチで描かれたアニメーション映画。俳優の演じた実写映像をもとにしている。 ===作品の高騰=== 第一次世界大戦後には、前述のようにファン・ゴッホ作品の評価が確立し、1920年代から1930年代の最高価格は4000ポンド台となり、ルノワールに肉薄するものとなった。第二次世界大戦後は、近代絵画全体の価格水準が高騰するとともに、ファン・ゴッホ作品も従来の10倍ないし100倍となり、ルノワールと肩を並べた。1970年には『糸杉と花咲く木』が130万ドルで取引されるなど100万ドルを超えるものが出て、1970年代には美術市場に君臨するようになった。1980年、『詩人の庭』がクリスティーズで520万ドル(約12億円)という、30号の作品としては異例の高額で落札された。この時期は、記録破りの落札価格が普通になり、サザビーズやクリスティーズといったオークション・ハウスが美術市場を支配することがはっきりした時代であった。 さらに1980年代にはオークションの高値記録が次々更新されるようになった。1988年2月4日付「リベラシオン」紙は、「昨年(1987年)3月30日、ロンドンのクリスティーズにて日本の安田生命(安田火災海上、現損害保険ジャパン日本興亜)がひまわりを3630万ドル(約58億円)で落札した瞬間、心理的な地震のようなものが記録された。……またアイリスは、(同年)11月11日に、ニューヨークのサザビーズで5390万ドルで落札された。」と取り上げている。日本のバブル景気であふれたマネーが円高に支えられて欧米美術品市場に流入し、特に『ひまわり』の売立ては、市場の構造を根本から変化させ、印象派以降の近代美術品の価格を高騰させた。 さらに、1990年5月15日には、ニューヨークのクリスティーズで齊藤了英が『医師ガシェの肖像』を8250万ドル(約124億5000万円)で落札し、各紙で大々的に報じられた。この作品は、ヨーによって1898年頃にわずか300フランで売却されたと伝えられるものである。この落札は、1980年代末から90年代初頭にかけての日本人バイヤーブームを象徴する高額落札となった。反面、こうした動きに欧米メディアは批判的で、齊藤が作品を「死んだら棺桶に入れて燃やすように言っている」と発言したことも非難を浴びた。 ファン・ゴッホの油絵作品は約800点であるが、パリ以前と以後では価格に少なからぬ差異があり、主題によっても異なる。高い人気に対して名品が比較的少ないことが高値の原因となっている。 ファン・ゴッホの作品のうち、特に高額な取引として有名な例は次のとおりである。 ===日本での受容=== 1910年(明治43年)、森*204*外が『スバル』誌上の「むく鳥通信」でファン・ゴッホの名前に触れたのが、日本の公刊物では最初の例であるが、ファン・ゴッホを日本に本格的に紹介したのは、武者小路実篤らの白樺派であった。1910年に創刊された『白樺』は、文学雑誌ではあったが、西洋美術の紹介に情熱を燃やし、マネ、セザンヌ、ゴーギャン、ファン・ゴッホ、ロダン、マティスなど、印象派からポスト印象派、フォーヴィスムまでの芸術を、順序もなく一気に取り上げた。第1年(1910年)11月号には斎藤与里による最初の評論が掲載、第2年(1911年)2月号からは児島喜久雄訳の「ヴィンツェント・ヴァン・ゴォホの手紙」が掲載され、第3年(1912年)11月号には「ゴオホ特集」が掲載された。特集号には、多くの作品の写真版、阿部次郎の訳したヨーによる回想録、武者小路や柳宗悦の寄稿などが掲載された。そして、1920年(大正10年)3月には、白樺美術館第1回展が開催され、実業家山本顧彌太に購入してもらったファン・ゴッホの『ひまわり』が展示された。白樺派は、西欧よりも早く、かつ全面的にゴッホ神話を作り上げたが、彼らはファン・ゴッホの画業を語ることはなく、専らその人間的偉大さを賛美していたことが特徴的である。他方、画壇でも、1912年(大正2年)に第1回ヒュウザン会展を開催した岸田劉生ら若手画家たちが、ファン・ゴッホやセザンヌに傾倒していた。もっとも、岸田は間もなくファン・ゴッホと決別し、他の多くの画家も同じ道をたどった。第2次世界大戦前、海外からのファン・ゴッホの展覧会はなかったが、多くのファン・ゴッホ関連出版物が出され、ゴッホ熱は高まった。1920年代から1930年代にかけてパリに留学する画家等が急増すると、佐伯祐三や高田博厚らはゴッホ作品を見るべくオーヴェルのガシェ家を続々と訪問し、その芳名帳に名を連ねている。1927年から1930年代にかけて、斎藤茂吉や式場隆三郎がゴッホの病理についての医学的分析を発表した。 戦後は、ファン・ゴッホ複製画の展覧会を見て衝撃を受けたという小林秀雄が、1948年「ゴッホの手紙」を著した。劇団民藝代表の滝沢修が、1951年から生涯にわたり、世間の無理解と戦う悲劇的な人生を描いた新劇作品『炎の人 ヴァン・ゴッホの生涯』(三好十郎脚本)を公演したことも、日本でのファン・ゴッホの認識に大きな影響を与えた。1958年に初めて東京国立博物館と京都市美術館で素描70点、油彩60点から成る本格的なファン・ゴッホ展が開催され、日本のゴッホ熱はさらに高まった。2011年現在、27点の油彩・水彩作品が日本に収蔵されているとされる。 ==手紙== 画家としてのファン・ゴッホを知る上で最も包括的な一次資料が、自身による多数の手紙である。手紙は、作品の制作時期、制作意図などを知るための重要な資料ともなっている。ゴッホ美術館によれば、現存するファン・ゴッホの手紙は、弟テオ宛のものが651通、その妻ヨー宛のものが7通あり、画家アントン・ファン・ラッパルト、エミール・ベルナール、妹ヴィレミーナ・ファン・ゴッホ(通称ヴィル)などに宛てたものを合わせると819通になる。一方、ファン・ゴッホに宛てられた手紙で現存するものが83通あり、そのうちテオあるいはテオとヨー連名のものが41通ある。 テオ宛の書簡は、ヨーにより1914年に「書簡集」が刊行され、この「書簡集」およびヨーが巻頭に記した回想解説をもとに、あらゆる伝記、小説、伝記映画でのゴッホ像は形成された。ただしこの「書簡集」は、手紙の順序や日付が間違っている場合があることが研究者によって指摘されており、ヨーが人名をイニシャルに変えたり、都合の悪い箇所を飛ばしたり、インクで塗りつぶしたりした形跡もある。 1952年から1954年にかけ、ヨーの息子フィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホが、テオ宛の書簡だけでなく、ベルナールやラッパルト宛のものや、ファン・ゴッホが受け取ったものも網羅した完全版「書簡全集」をオランダで出版し、日本語訳も含め各国で翻訳された。 2009年秋ゴッホ美術館が15年をかけ、決定版といえる「書簡全集」を刊行した。ここでは、天候の記録や郵便配達日数などあらゆる情報をもとに、日付の書かれていない手紙の日付の特定が行われ、旧版の誤りが訂正されている。また、手紙で触れられている作品、人物、出来事に詳細な注が付されている。同時にウェブ版も無料公開されている。 ==作品== ===カタログ=== ファン・ゴッホは、1881年11月から死を迎える1890年7月まで、約860点の油絵を制作した。生前はほとんど評価されなかったが、死後、『星月夜』、『ひまわり』、『アイリス』、『アルルの寝室』など、多くの油絵の名作が人気を博することになった。油絵のほか、水彩画150点近くがあるが、多くは油絵のための習作として描かれたものである。素描は1877年から1890年まで1000点以上が知られている。鉛筆、黒チョーク、赤チョーク、青チョーク、葦ペン、木炭などが用いられ、これらが混用されることもある。 今日、ファン・ゴッホの作品は世界中の美術館で見ることができる。その中でもアムステルダムのゴッホ美術館には『ジャガイモを食べる人々』、『花咲くアーモンドの木の枝』、『カラスのいる麦畑』などの大作を含む200点以上の油絵に加え、多くの素描、手紙が集まっている。これは、ヨーがテオから受け継いで1891年4月にパリからアムステルダムに持ち帰った作品270点が元になっている。アムステルダム近郊のオッテルローには、熱心なコレクター、ヘレーネ・クレラー=ミュラー(英語版)が1938年オランダ政府に寄贈して設立されたクレラー・ミュラー美術館があり、『夜のカフェテラス』などの名作を含む油彩画91点、素描180点超が収蔵されている。 ファン・ゴッホ作品のカタログ・レゾネ(作品総目録)を最初にまとめたのがジャコブ=バート・ド・ラ・ファイユであり、1928年、全4巻をパリとブリュッセルで刊行した。ド・ラ・ファイユは、その後の真贋問題を経て附録や1939年補訂版を出すなど、1959年に亡くなるまで補訂作業を続けた。1962年、オランダ教育芸術科学省の諮問によってド・ラ・ファイユの原稿の完成版を刊行するため委員会が組織され、10年をかけて決定版が刊行された。ここでは作品にF番号が付けられている。また、1980年代にヤン・フルスケルが全作品カタログを編纂し、1996年に改訂された。こちらにはJH番号が付されている。F番号は最初に油絵、次いで素描と水彩画を並べているのに対し、JH番号は全ての作品を年代順に並べている。F番号の末尾にrとある場合は、1枚のキャンバス・紙の両面に描かれている場合の表面、vとあるのは裏側の絵を指す。JH番号は表・裏のそれぞれに固有の番号が付されている。 フルスケルのカタログに掲載された油絵を時期とジャンルで分けると、概ね次のようになる。 ===真贋・来歴をめぐる問題=== 前述のようにファン・ゴッホが死後有名になるにつれ、贋作も氾濫するようになった。ファン・ゴッホの作品の多くは、彼の死後テオが受け継ぎ、その後ヨー、そして子ヴィレムに相続された。しかし、ファン・ゴッホが人に譲ったり転居の際に置き去りにしたりして記録に残っていない作品があること、ファン・ゴッホ自身が同じ構図で何度も複製(レプリカ)を制作していることなどが、真偽の判断を難しくしている。1927年、ベルリンのオットー・ヴァッカー画廊が33点のファン・ゴッホ作品を展示し、これらはド・ラ・ファイユの1928年のカタログにも収録されたが、その後、偽作であることが判明し、ヴァッカーは有罪判決を受けるというスキャンダルが起こった。この裁判ではX線鑑定が証拠とされたが、1880年代と同じキャンバス、絵具等を入手可能だった20世紀初頭の贋作に対しては決め手とならない場合もある。ほかにも初期の収集家だったエミール・シェフネッケルやガシェ医師が贋作に関与したとの疑いもあり、1997年にロンドンの美術雑誌が行った特集によれば、著名なものも含め100点以上の作品に偽作の疑いが投げかけられているという。他方、長年偽作とされていた『モンマジュールの夕暮れ』は、2013年、ファン・ゴッホ美術館の鑑定で真作と判定された。 また、史上最高価格で落札された『医師ガシェの肖像』については、1999年の調査で、ナチス・ドイツのヘルマン・ゲーリングが1937年にフランクフルトのシュテーデル美術館から略奪し売却したものであることが明らかになった。このような来歴を隠したままオークションにかけられていたことは、美術市場に大きな問題を投げかけた。 ===作風=== ====初期==== ファン・ゴッホは、画家を志した最初期は、版画やデッサン教本を模写するなど、専ら素描を練習していたが、1882年にハーグに移ってからアントン・モーヴの手ほどきで本格的に水彩画を描くようになり、さらに油絵も描き始めた。初期(ニューネン時代)の作品は、暗い色調のもので、貧農たちの汚れた格好を描くことに関心が寄せられていた。特にジャン=フランソワ・ミレーの影響が大きく、ゴッホはミレーの『種まく人』や『麦刈る人』の模写を終生描き続けた。 当初から早描きが特徴であり、生乾きの絵具の上から重ね塗りするため、下地の色と混ざっている。伝統的な油絵の技法から見れば稚拙だが、このことが逆に独特の生命感を生んでいる。夕暮れに急かされ、絵具をチューブから直接画面に絞り出すこともあった。 ===印象派と浮世絵の影響(パリ)=== しかし、1886年、パリに移り住むと、ファン・ゴッホの絵画に一気に新しい要素が流れ込み始めた。当時のパリは印象派や新印象派が花ざかりであり、ファン・ゴッホは画商のテオを通じて多くの画家と親交を結びながら、多大な影響を受けた。自分の暗いパレットが時代遅れであると感じるようになり、明るい色調を取り入れながら独自の画風を作り上げていった。パリ時代には、新印象派風の点描による作品も描いている。もっとも、ファン・ゴッホが明るい色調を取り入れて描いた印象派風作品においても、印象派の作品のような澄んだ色彩はない。クロード・モネが『ルーアン大聖堂』の連作で示したように、印象派がうつろいゆく光の効果をキャンバスにとらえることを目指したのに対し、ファン・ゴッホは「僕はカテドラルよりは人々の眼を描きたい。カテドラルがどれほど荘厳で堂々としていようと、そこにない何かが眼の中にはあるからだ。」と書いたとおり、印象派とは描こうとしたものが異なっていた。 また、ゴッホはパリ時代に多数の浮世絵を収集し、3点の油彩による模写を残している。日本趣味(ジャポネズリー)はマネ、モネ、ドガから世紀末までの印象派・ポスト印象派の画家たちに共通する傾向であり、背景には日本の開国に見られるように、活発な海外貿易や植民地政策により、西欧社会にとっての世界が急速に拡大したという時代状況があった。その中でもファン・ゴッホやゴーギャンの場合は、異国的なものへの憧れと、新しい造形表現の手がかりとしての意味が一つになっていた点に特徴がある。ファン・ゴッホは、「僕らは因習的な世界で教育され働いているが、自然に立ち返らなければならないと思う。」と書き、その理想を日本や日本人に置いていた。このように、制度や組織に縛られないユートピアへの憧憬を抱き、特定の「黄金時代」や「地上の楽園」に投影する態度は、ナザレ派、ラファエル前派、バルビゾン派、ポン=タヴァン派、ナビ派と続く19世紀のプリミティヴィスムの系譜に属するものといえる。一方、造形的な面においては、ファン・ゴッホは、浮世絵から、色と形と線の単純化という手法を学び、アルル時代の果樹園のシリーズや「種まく人」などに独特の遠近法を応用している。1888年9月の『夜のカフェ』では、全ての線が消失点に向かって収束していたのに対し、10月の『アルルの寝室』では、テーブルが画面全体の遠近法に則っていないほか、明暗差も抑えられるなど、立体感が排除され、奥行きが減退している。アルル時代前半に見られる明確な輪郭線と平坦な色面による装飾性は、同じく浮世絵に学んだベルナールらのクロワゾニスムとも軌を一にしている。 ===激しいタッチと色彩(アルル)=== 単純で平坦な色面を用いて空間を表現しようとする手法は、クロー平野を描いた安定感のある『収穫』などの作品に結実した。しかし、同じアルル時代の1888年夏以降は、後述の補色の使用とともに荒いタッチの厚塗りの作品が増え、印象派からの脱却とバロック的・ロマン主義的な感情表出に向かっている。ファン・ゴッホは、「結局、無意識のうちにモンティセリ風の厚塗りになってしまう。時には本当にモンティセリの後継者のような気がしてしまう。」と書き、敬愛するモンティセリの影響に言及している。図柄だけではなく、マティエール(絵肌)の美しさにこだわるのはファン・ゴッホの作品の特徴である。 ファン・ゴッホの表現を支えるもう一つの要素が、補色に関する色彩理論であった。赤と緑、紫と黄のように、色相環で反対の位置にある補色は、並べると互いの色を引き立て合う効果がある。ファン・ゴッホは、既にオランダ時代にシャルル・ブランの著書を通じて補色の理論を理解していた。アルル時代には、補色を、何らかの象徴的意味を表現するために使うようになった。例えば、「二つの補色の結婚によって二人の恋人たちの愛を表現すること」を目指したと書いたり、『夜のカフェ』において、「赤と緑によって人間の恐ろしい情念を表現しよう」と考えたりしている。同じアルル時代の『夜のカフェテラス』では、黄色系と青色系の対比が美しい効果を生んでいる。 ===渦巻くタッチ(サン=レミ)=== サン=レミ時代には、さらにバロック的傾向が顕著になり、「麦刈る人」のような死のイメージをはらんだモチーフが選ばれるとともに、自然の中に引きずり込まれる興奮が表現される。その筆触には、点描に近い平行する短い棒線(ミレー、レンブラント、ドラクロワの模写や麦畑、オリーブ畑の作品に見られる)と、柔らかい絵具の曲線が渦巻くように波打つもの(糸杉、麦刈り、山の風景などに見られる)という二つの手法が使われている。色彩の面では、補色よりも、同一系統の色彩の中での微妙な色差のハーモニーが追求されている。渦巻くタッチは、ファン・ゴッホ自身の揺れ動く心理を反映するものといえる。また、一つ一つのタッチが寸断されて短くなっているのは、早描きを維持しながら混色を避けるために必要だったと考えられる。キャンバスの布地が見えるほど薄塗りの箇所も見られるようになる。 ===絵画史的意義=== ファン・ゴッホは、ゴーギャン、セザンヌ(後期)、オディロン・ルドンらとともに、ポスト印象派(後期印象派)に位置付けられている。ポスト印象派のメンバーは、多かれ少なかれ印象派の美学の影響の下に育った画家たちではあるが、その芸術観はむしろ反印象派というべきものであった。 ルノワールやモネといった印象派は、太陽の光を受けて微妙なニュアンスに富んだ多彩な輝きを示す自然を、忠実にキャンバスの上に再現することを目指した。そのために絵具をできるだけ混ぜないで明るい色のまま使い、小さな筆触(タッチ)でキャンバスの上に並置する「筆触分割」という手法を編み出し、伝統的な遠近法、明暗法、肉付法を否定した点で、アカデミズム絵画から敵視されたが、広い意味でギュスターヴ・クールベ以来の写実主義を突き詰めようとするものであった。これに対し、ポスト印象派の画家たちは、印象派の余りに感覚主義的な世界に飽きたらず、別の秩序を探求したといえる。ゴーギャンやルドンに代表される象徴主義は、絵画とは単に眼に見える世界をそのまま再現するだけではなく、眼に見えない世界、内面の世界、魂の領域にまで探求の眼を向けるところに本質的な役割があると考えた。ファン・ゴッホも、ゴーギャンやルドンと同様、人間の心が単に外界の姿を映し出す白紙(タブラ・ラーサ)ではないことを明確に意識していた。色彩によって画家の主観を表出することを絵画の課題ととらえる点では、ドラクロワのロマン主義を継承するものであった。ファン・ゴッホは、晩年3年間において、赤や緑や黄色といった強烈な色彩の持つ表現力を発見し、それを、悲しみ、恐れ、喜び、絶望などの情念や人間の心の深淵を表現するものとして用いた。彼自身、テオへの手紙で、「自分の眼の前にあるものを正確に写し取ろうとするよりも、僕は自分自身を強く表現するために色彩をもっと自由に使う。」と宣言し、例えば友人の画家の肖像画を描く際にも、自分が彼に対して持っている敬意や愛情を絵に込めたいと思い、まずは対象に忠実に描くが、その後は自由な色彩家になって、ブロンドの髪を誇張してオレンジやクロム色や淡いレモン色にし、背景も実際の平凡な壁ではなく一番強烈な青で無限を描くと述べている。別の手紙でも、「二つの補色の結婚によって二人の恋人たちの愛を表現すること。……星によって希望を表現すること。夕日の輝きによって人間の情熱を表現すること。それは表面的な写実ではないが、それこそ真に実在するものではないだろうか。」と書いている。 こうした姿勢は既に20世紀初頭の表現主義を予告するものであった。1890年代、ファン・ゴッホ、ゴーギャンやセザンヌといったポスト印象派の画家は一般社会からは顧みられていなかったが、若い画家たちの感受性に強く訴えかける力を持ち、ナビ派をはじめとする彼ら世紀末芸術の画家は、印象派の感覚主義に反発して「魂の神秘」の追求へ向かった。その流れは20世紀初頭のドイツ、オーストリアにおいて感情の激しい表現や鋭敏な社会的意識を特徴とするドイツ表現主義に受け継がれ、表現主義の画家たちは、ファン・ゴッホや、フェルディナント・ホドラー、エドヴァルド・ムンクなどの世紀末芸術の画家に傾倒した。エミール・ノルデやエルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナーら多くのドイツ・オーストリアの画家が、ファン・ゴッホの色彩、筆触、構図を採り入れた作品を残しており、エゴン・シーレやリヒャルト・ゲルストルなど、ファン・ゴッホの作品だけでなくその苦難の人生に自分を重ね合わせる画家もいた。同様の表現主義的傾向は同時期のフランスではフォーヴィスムとして現れたが、その形成に特に重要な役割を果たしたのが、色彩と形態によって内面の情念を表現しようとしたファン・ゴッホであった。1901年にファン・ゴッホの回顧展を訪れたモーリス・ド・ヴラマンクは、後に、「自分はこの日、父親よりもファン・ゴッホを大切に思った。」という有名な言葉を残しており、伝統への反抗精神にあふれた彼が公然と影響を認めたのはファン・ゴッホだけであった。彼の絵には、ファン・ゴッホの渦巻きを思わせるような同心円状の粗いタッチや、炎のような大胆な描線による激しい色彩表現が生まれた。さらに、印象派の写実主義に疑問を投げかけたファン・ゴッホ、ゴーギャンらは、色彩や形態それ自体の表現力に注目した点で、後の抽象絵画にもつながる要素を持っていたといえる。 ===主題とモチーフ=== ファン・ゴッホは、記憶や想像によって描くことができない画家であり、900点近くの油絵作品のほとんどが、静物、人物か風景であり、眼前のモデルの写生である。自然を超えた世界に憧れつつも、現実の手がかりを得てはじめてその想像力が燃え上がることができたといえる。自分にとって必要な主題とモチーフを借りてくるために、先人画家の作品を模写することもあったが、その場合も、実際に版画や複製を目の前に置いて写していた。もっとも、必ずしも写真のように目の前の光景を写し取っているわけではなく、見えるはずのないところに太陽を描き込むなど、必要なモチーフを選び出したり、描き加えたり、眼に見えているモチーフを削除したりする操作を行っている。 当時のオランダやイギリスでは、プロテスタント聖職者らの文化的指導の下、16世紀から17世紀にかけてのエンブレム・ブックが復刊されるなど、絵画モチーフの図像学的解釈は広く知られていた。ファン・ゴッホの作品を安易に図像学的に解釈することはできないが、ファン・ゴッホも、伝統的・キリスト教的な図像・象徴体系に慣れ親しむ環境に育っていたことが指摘されている。 ===肖像画=== ファン・ゴッホは、農民をモデルにした人物画(オランダ時代)に始まり、タンギー爺さん(パリ時代)、ジヌー夫人、郵便夫ジョゼフ・ルーランと妻オーギュスティーヌ(ゆりかごを揺らす女)らその家族(アルル時代)、医師ガシェとその家族(オーヴェル=シュル=オワーズ時代)など、身近な人々をモデルに多くの肖像画を描いている。ファン・ゴッホは、アントウェルペン時代から「僕は大聖堂よりは人間の眼を描きたい」と書いていたが、肖像画に対する情熱は晩年まで衰えることはなく、オーヴェル=シュル=オワーズから、妹ヴィルに宛てて次のように書いている。「僕が画業の中で他のどんなものよりもずっと、ずっと情熱を感じるのは、肖像画、現代の肖像画だ。……僕がやりたいと思っているのは、1世紀のちに、その時代の人たちに〈出現〉(アパリシオン)のように見えるような肖像画だ。それは、写真のように似せることによってではなく、性格を表現し高揚させる手段として現代の色彩理論と色彩感覚を用いて、情熱的な表現によってそれを求めるのだ。」。 ===自画像=== ファン・ゴッホは多くの自画像を残しており、1886年から1889年にかけて彼が描いた自画像は37枚とされている。オランダ時代には全く自画像を残していないが、パリ時代に突如として多数の自画像を描いており、1887年だけで22点にのぼる。これは制作、生活両面における激しい動揺と結び付けられる。アルルでは、ロティの『お菊さん』に触発されて、自分を日本人の坊主(仏僧)の姿で描いた作品を残しており、キリスト教の教義主義から自由なユートピアを投影していると考えられる。もっとも、自画像には、小さい画面や使用済みのキャンバスを選んでいるものが多く、ファン・ゴッホ自身、自画像を描く理由について、「モデルがいないから」、「自分の肖像をうまく表現できたら、他の人々の肖像も描けると思うから」と述べており、自画像自体には高い価値を置いていなかった可能性がある。 アルルでの耳切り事件の後に描かれた自画像は、左耳(鏡像を見ながら描いたため絵では右耳)に包帯をしている。一方、サン=レミ時代の自画像は全て右耳を見せている。そして、そこには『星月夜』にも見られる異様な渦状運動が表れ、名状し難い不安を生み出している。オーヴェル=シュル=オワーズ時代には、自画像を制作していない。 ===ひまわり=== ファン・ゴッホは、パリ時代に油彩5点、素描を含め9点のひまわりの絵を描いているが、最も有名なのはアルル時代の『ひまわり』である。1888年、ファン・ゴッホはアルルでゴーギャンの到着を待つ間12点のひまわりでアトリエを飾る計画を立て、これに着手したが、実際にはアルル時代に制作した『ひまわり』は7点に終わった。ゴーギャンとの大切な共同生活の場を飾る作品だけに、ファン・ゴッホがひまわりに対し強い愛着を持っていたことが窺える。 西欧では、16世紀‐17世紀から、ひまわりは「その花が太陽に顔を向け続けるように、信心深い人はキリスト(又は神)に関心を向け続ける」、あるいは「愛する者は愛の対象に顔を向け続ける」という象徴的意味が広まっており、ファン・ゴッホもこうした象徴的意味を意識していたものと考えられている。 後に、ファン・ゴッホは『ルーラン夫人ゆりかごを揺らす女』を中央に置き、両側にひまわりの絵を置いて、祭壇画のような三連画にする案を書簡でテオに伝えている。 ===糸杉=== サン=レミ時代に、糸杉が重要なモチーフとして登場する。入院直後の1889年6月に、『星月夜』、『2本の糸杉』、『糸杉のある小麦畑』などを描き、テオに宛てて「糸杉のことがいつも僕の心を占めている。僕は糸杉を主題として、あのひまわりの連作のようなものを作りたい。……それは、線としても、比例としても、まるでエジプトのオベリスクのように美しい。」と書いている。糸杉は、プロヴァンス地方特有の強風ミストラルから農作物を守るために、アルルの農民が数多く植えていた木であった。 西欧では、古代においてもキリスト教の時代においても、糸杉は死と結びつけて考えられており、多くの墓地で見られる木であった。アルル時代には生命の花であるひまわりに向けられていたゴッホの眼が、サン=レミ時代には暗い死の深淵に向けられるようになったことを物語るものと説明されている。 ===模写=== ファン・ゴッホは、最初期からバルビゾン派の画家ジャン=フランソワ・ミレーを敬愛しており、これを模写したデッサンや油絵を多く残している。ニューネン時代の書簡で、アルフレッド・サンシエの『ミレーの生涯と作品』で読んだという「彼[ミレー]の農夫は自分が種をまいているそこの大地の土で描かれている」という言葉を引用しながら、ファン・ゴッホは「まさに真を衝いた至言だ」と書いている。 アルル時代(1888年6月)には、白黒のミレーの構図を模写しながら、ドラクロワのような色彩を取り入れ、黄色にあふれた『種まく人』を描き上げた。このほか、「掘る人(耕す人)」、「鋤く人」、「麦刈りをする人」などのモチーフをとりあげて絵にしている。しかし、生身の農民と多様な農作業を細かく観察していたミレーと異なり、ファン・ゴッホは実際に農民の中で生活したことはなく、描かれた人物にも表情は乏しい。むしろ、ファン・ゴッホにとって、これらのモチーフは聖書におけるキリストのたとえ話に出てくる象徴的意味を与えられたものであった。例えば「種まく人」は人の誕生や「神の言葉を種まく人」、「掘る人」は楽園を追放された人間の苛酷な労働、「麦刈り」は人の死を象徴していると考えられている。ファン・ゴッホ自身、手紙で、「僕は、この鎌で刈る人……の中に、人間は鎌で刈られる小麦のようなものだという意味で、死のイメージを見たのだ。」と書いている。「種まく人がアルル時代に立て続けに描かれているのに対し、「麦刈りをする人」は主にサン=レミに移ってから描かれている。また、「掘る人」も、1887年夏から1889年春までは完全に姿を消していたが、サン=レミに移ってから、特に1890年春に多数描かれている。 サン=レミ時代には、発作のため戸外での制作が制限されたこともあり、彼に大きな影響を及ぼした画家であるドラクロワ、レンブラント、ミレーらの版画や複製をもとに、油彩画での模写を多く制作した。ゴッホは、模写以外には明確に宗教的な主題の作品は制作していないのに対し、ドラクロワからは『ピエタ』や『善きサマリア人』、レンブラントからは『天使の半身像』や『ラザロの復活』という宗教画を選んで模写していることが特徴である。ゴッホは、ベルナールへの手紙に、「僕が感じているキリストの姿を描いたのは、ドラクロワとレンブラントだけだ。そしてミレーがキリストの教理を描いた。」と書いている。サン=レミでは、そのほかにギュスターヴ・ドレの『監獄の中庭』やドーミエの『飲んだくれ』など何人かの画家を模写したが、オーヴェルに移ってからは1点を除き模写を残していない。 ファン・ゴッホはこれらの模写を「翻訳」と呼んでいた。レンブラントの白黒の版画を模写した『ラザロの復活』(1890年)では、原画の中心人物であるキリストを描かず、代わりに太陽を描き加えることにより、聖書主題を借りながらも個人的な意味を付与していると考えられる。この絵の2人の女性マルタとマリアはルーラン夫人とジヌー夫人を想定しており、また蘇生するラザロはファン・ゴッホの容貌と似ていることから、自分自身が南仏の太陽の下で蘇生するとの願望を表しているとの解釈が示されている。 =桂正和= 桂 正和(かつら まさかず、本名同じ、1962年12月10日 ‐ )は、日本の男性漫画家。プロダクション名は STUDIO K2R。福井県生まれの千葉県育ち。阿佐ヶ谷美術専門学校中退。血液型はA型。2015年より嵯峨美術大学客員教授。 評価は日本国内に留まらず香港・台湾・アメリカ・フランスなど様々な国のファンより支持されている。 1981年(昭和56年)に『週刊少年ジャンプ』(集英社)32号掲載の「転校生はヘンソウセイ!?」でデビューし、1983年(昭和58年)に同誌5・6合併号から連載を開始した『ウイングマン』で連載デビュー。主に『週刊少年ジャンプ』で活躍し、その後『週刊ヤングジャンプ』(同)に移籍。代表作に『ウイングマン』・『電影少女』・『I”s』など。『週刊ヤングジャンプ』誌上において『ZETMAN』を連載していた。 ==来歴== ===連載デビューまで=== 1962年(昭和37年)福井に生まれ、小学生の時に千葉県千葉市村田町へ引っ越し、さらに中学になる頃に同県市原市八幡へ移り20歳頃までを過ごす。子供の頃から絵は得意で受賞などもしていたが、アニメや漫画にはさほど惹かれておらず、ウルトラシリーズや仮面ライダーシリーズといった特撮ヒーロー物に夢中になっていた。 中学時に V55 (Technics) という50万円のコンポーネントステレオが欲しく、当時50万円だった賞金目当てに手塚賞への応募を始める。最初の道具は手塚治虫の入門書を読んで小遣いで揃えた物だった。それまでは漫画家を目指していたわけでもない上に漫画もほとんど読んでおらず、当初は賞金だけが目的であった。目的のコンポは賞金を手に入れる前に買ってもらったが、漫画を描き続ける中で描く面白さを覚え、高校時には授業中にペン入れをするなどして漫画に没頭する。そして1980年(昭和55年)の高校卒業間際にフレッシュジャンプ賞に投稿した作品が選外ながらも編集者・鳥嶋和彦の目に止まり、また同時期に手塚賞に応募していた「ツバサ」が佳作に入選する。 高校時代には『電子戦隊デンジマン』をきっかけとし東映の特撮テレビドラマにのめり込む(詳細は趣味の節で後述)。こうした特撮ヒーロー物のファン故、そのトレースしただけの様なSF作品ばかりを描いていたが、担当となった鳥嶋にラブコメディ作品を描く様に薦められ「転校生はヘンソウセイ!?」を執筆する。同作は初めてのラブコメであったにも関わらず手塚賞準入選に入賞して『週刊少年ジャンプ』 (以下『WJ』)に掲載され、専門学校在籍中に漫画家としてのデビューを果たす。その後『WJ』で「ウイングマン」の連載を開始し多忙となったこと、そして3年への進級に失敗したことから専門学校を中退。同作は自身の好きなヒーロー物にラブコメディ要素を取り入れたことによりヒットし、アニメ化もされた。 ===恋愛作品のヒット=== 「ウイングマン」終了後は「超機動員ヴァンダー」・「プレゼント・フロム LEMON」と短期終了の連載が2作続き、不遇の時代を迎える。再び担当となった鳥嶋のサポートから「恋愛モノ」に取りかかり、『ウイングマン』とは逆に恋愛にSF要素を取り入れた読切「ビデオガール」を1989年(平成元年)に発表、同年さらにこれを基にした「電影少女」の連載を開始する。『電影少女』は単行本巻数としては『WJ』時代最長となる15巻まで続き、OVA化・実写映画化等様々なメディアミックス展開が行われるヒット作となった。両作は桂にとって漫画家としてのターニングポイントとなっており、作風に様々な変化をもたらした(詳細は作風の節で後述)。またこの年公開された映画『バットマン』をきっかけに桂は『バットマン』のファンとなり、以降の作品に影響を与えた(詳細は趣味の節で後述)。 「電影少女」終了後、1992年(平成4年)からは鳥嶋が創刊編集長を務めた『週刊少年ジャンプ特別編集増刊 V JUMP』において「SHADOW LADY」【VJ版】を連載、その後『WJ』に戻り1994年(平成6年)から「D・N・A*194* 〜何処かで失くしたあいつのアイツ〜」・1995年(平成7年)からは「SHADOW LADY」【WJ版】とアクション色の強い作品を続けて発表する。『D・N・A*195* 』の連載は単行本5巻分と比較的短期だったが、テレビアニメ化されている。 1996年(平成8年)には初の青年誌向け作品として「エム」を『MANGAオールマン』にて発表する。そして翌1997年(平成9年)にはWJ編集部の意向に沿う形で、SF要素を一切排した恋愛漫画「I”s」の連載を開始する。同作は『WJ』時代最長の作品となり、連載終了後にもメディアミックスが行われるヒット作となった。 ===ヤングジャンプへの移籍=== 2000年(平成12年)の「I”s」連載終了と同年に掲載された読切「Dr.チャンバリー」を最後に、桂は長年活動の場として来た『WJ』を離れる。そして2002年(平成14年)に発表された「M 完全版」以降は活動の場を『週刊ヤングジャンプ』に移し、同年より「ZETMAN」の連載を開始する。5年以上に渡って連載が継続されており、桂最長の作品となっている。移籍後に発売された『I”s』の完全版は『WJ』連載作品でありながら、ヤングジャンプ・コミックスレーベルからの発売となっている。 ==年表== ※連載誌の記載がないものは『週刊少年ジャンプ』において連載。 1962年(昭和37年) ‐ 福井県で生まれる。197?年(昭和4?年) ‐ 小学生の頃に千葉市に引っ越す。その後中学になる頃に市原市へ引っ越し、20歳頃までを過ごす。1980年(昭和55年) ‐ 高校卒業間際にフレッシュジャンプ賞に応募していた作品が鳥嶋和彦の目に止まる。また「ツバサ」で第19回手塚賞佳作受賞。阿佐ヶ谷美術専門学校へ入学する。1981年(昭和56年) ‐ 専門学校在籍中に「転校生はヘンソウセイ!?」で第21回手塚賞準入選を受賞。漫画家としてデビューする。1983年(昭和58年) ‐ 「ウイングマン」で連載デビュー( ‐ 1985年)。初の単行本となる『ウイングマン』1巻が8月に発売。1984年(昭和59年) ‐ 『夢戦士ウイングマン』として『ウイングマン』が初のテレビアニメ化。初の短編集『桂正和コレクション』1巻を発売。1985年(昭和60年) ‐ 「超機動員ヴァンダー」連載開始( ‐ 1986年)。1987年(昭和62年) ‐ 「プレゼント・フロム LEMON」連載開始(同年終了)。1988年(昭和63年) ‐ 「小さな灯り」を『週刊少年ジャンプ特別編集 スーパージャンプ』に掲載。初の青年誌掲載。1989年(平成元年) ‐ 「電影少女」連載開始( ‐ 1992年)。1991年(平成3年) ‐ 『電影少女 ‐VIDEO GIRL AI‐』として『電影少女』が初の実写映画化。1992年(平成4年) ‐ 『電影少女 ‐VIDEO GIRL AI‐』として『電影少女』が初のOVA化。『週刊少年ジャンプ特別編集増刊 V JUMP』において「SHADOW LADY」【VJ版】連載開始( ‐ 1993年)。1993年(平成5年) ‐ 「D・N・A*196* 〜何処かで失くしたあいつのアイツ〜」連載開始( ‐ 1994年)。1994年(平成6年) ‐ OVA『I・Я・I・A ZЁIЯAM THE ANIMATION』のキャラクターデザインを担当。1995年(平成7年) ‐ 「SHADOW LADY」【WJ版】連載開始( ‐ 1996年)。1996年(平成8年) ‐ 「エム」を『MANGAオールマン』に掲載。初の青年向け漫画。1997年(平成9年) ‐ 「I”s」連載開始( ‐ 2000年)。1998年(平成10年) ‐ 初のイラスト集『4C』を発売。1999年(平成11年) ‐ ゲーム『LOVE & DESTROY』のキャラクターデザインを担当。2002年(平成14年) ‐ 「M 完全版」より活動の場を『週刊ヤングジャンプ』に移し、『ZETMAN』を連載開始。2011年(平成23年) ‐ テレビアニメ『TIGER & BUNNY』のキャラクター原案を担当。2014年(平成26年) ‐ 4月、鳥山明との共作短編集『カツラアキラ』発売。7月、12年もの長期連載となった連載版『ZETMAN』の第一幕が完結。 ==作風== 同じく漫画家で友人の鳥山明は桂の作風について「(桂は)感動させたくてしょうがない」と評している。「作風が真逆なくらい違う」鳥山が人間味を表現するのを嫌い、明るくくだらないやり取りを好むのに対し、桂はやや暗く感動を誘うような描写を好む。こうした自身の作風について桂は、あすなひろしの“哀しい”作品の影響を述べている。 『コミッカーズ』1997年10月号では「美少女とヒーローをカラーで描かせたら右に出る者はいない」との形容によって、桂の作品の特徴を端的に表している。こうした特徴から初のイラスト集である『4C』も、恋愛作品のイラストを中心とした「L‐side 〈LOVERS‐side〉」とヒーロー物を中心とした「R‐side 〈HEROES‐side〉」 という構成になっている。 ===ヒーロー物=== 手塚賞佳作受賞作である「ツバサ」から長期連載の『ZETMAN』に至るまで、変身ヒーローを扱った作品が多い。上述の通り高校時代には特撮ヒーローに夢中となってそのトレースのような作品ばかりを書いていたこともあり、初期の作品には特撮ヒーロー物の影響が強い。また、『バットマン』公開以降の作品については同作の影響を自身で述べている。(特撮ヒーロー・バットマンについては趣味の節で後述) 桂自身はヒーロー物に対してはこだわりがあり、『ZETMAN』については物語の構想としては変身ヒーローである意味が無いことを認識しながらも、「僕がやる限りヒーローだよな」との思いから変身ヒーロー物として描いている。 ===恋愛物=== 「少年誌でやってる限り、……『ラブコメ』が向いているらしくて」と桂自身が述べるように、『電影少女』・『I”s』とヒットし長期連載となった作品には恋愛要素が強い作品が列び、また恋愛を主題とはしていない変身ヒーロー物であっても『WJ』時代の連載作品には必ず恋愛要素と性的なサービスカットが含まれている。同じく鳥嶋にラブコメを求め続けられながらも頑なに拒否した鳥山明とは対極的に、桂はその要望を受け入れたことによって作品が時代とマッチし、ヒット作を生み出していった。 しかしこうした恋愛要素はコメディ要素と共にあくまで編集の意向を汲んで描かれたものであり、初のラブコメディ作品「転校生はヘンソウセイ!?」も担当のアイデアを取り入れることで執筆された作品であった。桂は恋愛作品について自身の趣味とは全く異なるものではあるが、嫌ではない旨を述べ、最初のラブコメを苦痛無く悩まず描けたことがその後へと繋がっていったと懐述している。 ただし、「(『電影少女』の開始時には)恋愛モノなんて、イヤでイヤでしようがなかったし、連載で描き続ける自信など、まるでなかった」や、「自分に求められている物を意識しすぎて、……恋愛やエロを入れなきゃとか」、などのより消極的な発言も見られ、『ウイングマン』に登場する女性戦隊ウイングガールズについては、ストイックな特撮ヒーロー物をやりたかったため本心としては出したくなかったが、編集の意向に合わせて仕事と割り切り登場させた旨を懐述している。 なお、恋愛物についてはラッセ・ハルストレムの映画『マイライフ・アズ・ア・ドッグ』の影響を自身で述べている。 ===性的描写=== 鳥山は桂との対談で「(桂は)エッチなのが武器」と述べており、性的な描写は桂の作品の魅力の一つとなっている。サービスカットは『ウイングマン』初期より登場していたが、『電影少女』の連載中に性的な表現に対する大きな転機が訪れる。当初恋愛物の執筆にあまり乗り気ではなかった桂は、せめてもの抵抗として少年誌にありがちな恋愛漫画を避けようとリアリティ(現実感)ある描写を求めていく。そして男女交際の帰結としてベッドシーンなどにも踏み込んでいくが、「キスまで」という少年誌的な制約は厳しく、桂はこの制約の中で「裸を出さずにエッチに描く」ことにより、際どくリアリティのある描写を目指していく。とはいえその限界の見極めは難しく、『電影少女』では単行本に収録される際の修正・単行本発行後の修正・山口県での第3巻の有害図書指定と、当時強まっていた漫画に対する表現規制のあおりを直接受けることとなった。こうした際どい表現方法は、以降も桂の作品の特徴となっており、後の「エム」や『I”s』などにも受け継がれていく。 ===画風=== 「美少女とヒーローをカラーで描かせたら右に出る者はいないスーパーテクニシャン」と言われるように、画力の高さには定評がある。しかし桂自身はあまり自分の画力を評価しておらず、絵柄の変更に抵抗を持たずに作品に合わせて意図的に変化させている。 大きな転機となったのは『電影少女』の原型となった読切「ビデオガール」の頃で、それまでの絵柄を壊しリアリティのある絵柄を模索し始める。これは『電影少女』の連載前の漫画を描けない入院生活によって手が自分の絵を忘れてしまったことも転機とはなっているが、その他にも自分のキャラクターのルックスに飽きたこと、アイドル好きが加熱していたこともあり自分の絵よりも現実の女の子の方が可愛いと思っていることなどが理由として挙げられている。 その後の『D・N・A*197*』ではコミックらしさにこだわって描き、『ZETMAN』ではシリアスなストーリーに合わせ劇画にしている。鳥山明との合作「さちえちゃんグー!! 」では好きでありながら自分で封印しているデフォルメにも挑戦している。 ===美少女=== 上述の通り桂の描く美少女には定評があるが、「ウイングマン」の連載中には担当編集より「色気がない」との指摘を受けていた。この指摘から桂は色気を出して描くことを意識するが、その結果として女の子を主人公にした作品の依頼しか来なくなったと語っている。ただし、早い時期から美少女の描写は評価されており、「ウイングマン」連載中のファンレターや『超機動員ヴァンダー』の巻末にコメントを寄せた土居孝幸からは共に「女の子が可愛い」との評価を受けている。少女の描写の中でも特に尻の描写は評価が高く、鳥山は「桂君と言えばお尻」との理由によって「さちえちゃんグー!! 」の主人公さちえの痣を尻に設定している。また同じく漫画家の河下水希も、「桂正和先生の描かれるお尻なんて物凄い」と評している。 美少女を描くのに当たり桂は、グラビアなどからイメージをする程度にとどめ、特定のモデルを決めずに描いている。これは特定のモデルを決めて描くと目の大きさなどのバランスが絵としては悪くなり、修正を加えていっても良い物が描けないことによる。 ==趣味== 趣味は映画鑑賞とグッズのコレクション。また高校時代には特撮ヒーローにも夢中になっていた。 映画鑑賞のために自宅地下にはバットマングッズのコレクションルームも兼ねたAVルームを設けており、かなりの予算を掛けている。好きな映画監督としてはサム・ライミを挙げており、『死霊のはらわた』からの熱心なファン。2002年(平成14年)の『スパイダーマン』公開に当たりライミが訪日した際には、『週刊ヤングジャンプ』の企画で対談を果たしている。 コレクションの対象としては、バットマングッズ、アンティークウォッチ、スニーカーが挙げられている。 ===特撮ヒーロー=== 特撮変身ヒーローのファンであり、好きな作品としてはスーパー戦隊シリーズの『電子戦隊デンジマン』、宇宙刑事シリーズの『宇宙刑事シャイダー』、ウルトラシリーズの『ウルトラマン』を挙げている。中でも高校時代に出会った『デンジマン』は特撮ヒーローに夢中となるきっかけとなった作品であり、「エポック」であり「僕の中で戦隊物であれを越えられる物はない」と語っている。特撮に対する熱意は作品鑑賞には留まらず、専門学校時代には自主制作映画の中で『太陽戦隊サンバルカン』のコスプレを行い、学園祭には『大戦隊ゴーグルファイブ』のレッドのコスプレで参加していた。 そして特撮は単なる趣味に留まらずに作品にも多大な影響を与えており、中でも東映作品は桂がヒーロー物を描くようになった原点となっている。デビュー時期に執筆された短編「学園部隊3パロかん」とその続編「学園部隊3パロかんII」は、戦隊物の自己紹介アクションを漫画で表現することを目的として執筆されたものであり、『サンバルカン』や『バトルフィーバーJ』と言った戦隊物のパロディ作品となっている。そして同シリーズに先立ち執筆され、デビューのきっかけとなった短編「ツバサ」は『デンジマン』に熱中していた時に描かれた作品であり、本作を基として描かれた連載デビュー作『ウイングマン』も様々な面で特撮の影響下にある作品となっている。そもそもとして同作は「東映の特撮物を、自分で動かしてやってみたい」という動機で描かれた作品であり、作中ヒーローであるウイングマンのデザインは鳥を基本とした上で、「デンジマンの目がないところ」と「胸から腕までの白いライン」を基とし、デンジマンのシンプルさを目指してデザインされた物である。また「ウイングマン」という名称もウルトラマンに字数と「ウ」から始まり「マン」で終わる所を合わせて命名されたものである。連載開始後には製作に100万円以上掛けた衣装で自らウイングマンのコスプレを行い単行本各巻の目次背景に写真を掲載、さらに単行本ではおまけページにおいて変身アクションの解説も作成している。 ===バットマン=== 桂はバットマングッズのコレクターとしても有名で、1997年(平成9年)の『バットマン&ロビン Mr.フリーズの逆襲』および2012年(平成24年)の『ダークナイト ライジング』ではパンフレットにコメントを寄稿、2008年(平成20年)にバンダイより発売される『ダークナイト』のアクションフィギュア『MOVIE REALIZATION BATMAN&BAT‐POD』ではスーパーバイザーを務め、デザインアレンジとパッケージイラストを担当している。ファンとなったきっかけは1989年の映画『バットマン』(ティム・バートン)で、同作によって「ウイングマン」の連載終了後には飽きていたヒーロー物に対する情熱が再燃した旨を語っている。 映画自体については「好きな映画ではあるが一番おもしろい映画ではない」と述べており、桂にとってのバットマンの魅力はバットマンのキャラクター性にある。誰も見ていないところでコウモリの格好をしてどちらが悪人だか分からないような対応でチンピラに脅しをかけるといった行動や、怖い容姿をして常に怒っている正義の味方バットマンと馬鹿みたいに笑っている悪役ジョーカーの両方が同じ位に狂気に満ちていることが、東映特撮によって作られた桂にとってのヒーロー像とは異なり新鮮であったこと、そして自分がヒーローであることを見て欲しい自己中心的な性格が『ウイングマン』の健太とシンクロしたことをその魅入られた理由として挙げている。また一番好きな敵キャラクターとしてはジョーカーを挙げ、敵がジョーカーであったこともバットマンに没頭した理由の一つである旨を述べている。 『バットマン&ロビン』特集号の『S.M.H.』VOL.8 では自作のバットマン胸像が表紙を飾り、「自他ともに認める強度のバットマニア」との形容と共にバットマングッズのコレクターとしての取材を受けた他、『フィギュア王』NO.27でも「漫画界きってのバットマニア」として取材を受けており、これらの取材ではバットマングッズのコレクションルームを兼ねた自宅地下のAVルームを公開している。 バットマンは桂の作品にも影響を与えており、特に『SHADOW LADY』と読切「ZETMAN」はバットマンの世界へのオマージュ作品となっている。より直接的な描写としては、頭の「とがった耳」をバットに変えたパロディキャラクター「ばっとマン」が『電影少女』の作中に登場している。 なお、愛犬はバットマン登場キャラクターアルフレッドに因み、雌であるためアルフレッコと名付けられている。 また、『WJ』連載時の自画像にも、バットマンの絵を使用していた。 ==作品リスト== ===漫画作品=== 2011年12月現在。デフォルトでの表記は発表順。雑誌未掲載作品については執筆年で代用している。他列でのソート後に再度発表順でソートするには、最左列を利用する。「種」欄は連載か読切かで2種に大別。発行出版社のうちグラフィック社については「G社」と略記。「掲載」欄は初出を記載。雑誌の場合は掲載誌名と号数、書籍については『書籍名』と発行年を記載。 掲載誌のうち『週刊少年ジャンプ』の増刊については冒頭に「WJ増刊」と略記。 掲載誌のソートは刊行頻度(週刊 etc.)を除いた名称で行う。WJ増刊については個別の誌名を無視し「しょうねんじゃんぷぞうかん」+「発行順」でソートする。掲載誌のうち『週刊少年ジャンプ』の増刊については冒頭に「WJ増刊」と略記。掲載誌のソートは刊行頻度(週刊 etc.)を除いた名称で行う。WJ増刊については個別の誌名を無視し「しょうねんじゃんぷぞうかん」+「発行順」でソートする。「収」欄は収録単行本またはイラスト集を「略号x‐y」の形で示す。 〈略号〉4C:イラスト集『4C』、TB:『桂正和×TIGER & BUNNY 原画&ラフ画集成』、未:単行本未収録、この他の漫画単行本の略号対応は#漫画単行本を参照。 「x」は収録巻、「y」は各単行本内での収録順を示す。〈略号〉4C:イラスト集『4C』、TB:『桂正和×TIGER & BUNNY 原画&ラフ画集成』、未:単行本未収録、この他の漫画単行本の略号対応は#漫画単行本を参照。「x」は収録巻、「y」は各単行本内での収録順を示す。 ===書籍=== ====漫画単行本==== 書名が同じ物は【 】内の注記で区分を付けている。デフォルトでの表記は作品毎にまとめて初巻の発行順とし、短編集については最後にまとめた。他列でのソート後にデフォルトの順へと戻すには、最左列を利用する。「判」欄はその書籍の判型を示し、ハードカバー本については「H」を付記する。「略」欄は上記#漫画作品の収録欄で用いている略号を示す。 ===イラスト集=== 『4C』 集英社、1998年8月9日初版第1刷発行、ISBN 4‐08‐782762‐3 ‐ 『I”s』初期までのカラーイラスト等を収録。3冊組。タイトルは4色カラー (color) 原稿に由来するが、イラスト集自体は特色を加えた5色での印刷となっている。 L‐side 〈LOVERS‐side〉 Katsura Masakazu Illustrations 1 ‐ 恋愛作品のイラスト等を収録。 R‐side 〈HEROES‐side〉 Katsura Masakazu Illustrations 2 ‐ ヒーロー作品や短編のイラスト、インタビュー、作品リスト、ゲストメッセージを収録。 SHADOW LADY Katsura Masakazu Illustrations 3 ‐ 「SHADOW LADY」【VJ版】を収録。L‐side 〈LOVERS‐side〉 Katsura Masakazu Illustrations 1 ‐ 恋愛作品のイラスト等を収録。R‐side 〈HEROES‐side〉 Katsura Masakazu Illustrations 2 ‐ ヒーロー作品や短編のイラスト、インタビュー、作品リスト、ゲストメッセージを収録。SHADOW LADY Katsura Masakazu Illustrations 3 ‐ 「SHADOW LADY」【VJ版】を収録。『I”s ILLUSTRATIONS』 集英社、1999年12月9日初版第1刷発行 ‐ I”s BOX の一部。名前の通り『I”s』のカラーイラストのみを収録。『桂大全』集英社、2011年6月30日第1刷発行、ISBN 978‐4‐08‐782365‐3 ‐ 画業30周年記念本。3冊組。 桂図録 ‐ イラスト集。 桂特録 ‐ グラビア、寄稿イラスト、作品解説。 桂事録 ‐ ドキュメンタリー。桂図録 ‐ イラスト集。桂特録 ‐ グラビア、寄稿イラスト、作品解説。桂事録 ‐ ドキュメンタリー。『桂正和×TIGER & BUNNY 原画&ラフ画集成』集英社〈YJ愛蔵版〉2011年10月31日第1刷発行、ISBN 978‐4‐08‐782392‐9 限定版 2012年2月15日第1刷発行、ISBN 978‐4‐08‐908153‐2、ワイルドタイガーの S.H.Figuarts 付き限定版 2012年2月15日第1刷発行、ISBN 978‐4‐08‐908153‐2、ワイルドタイガーの S.H.Figuarts 付き『桂図録 exteded version』集英社、2012年3月31日第1刷発行、ISBN 978‐4‐08‐782449‐0 ‐『桂大全』収録の「桂図録」を単独で発売。一部収録作品が異なっている。『桂正和×TIGER & BUNNY 2 原画&ラフ画集成』集英社〈YJ愛蔵版〉2014年2月13日第1刷発行、ISBN 978‐4‐08‐782748‐4 ===その他=== ====イラスト==== ジュール・ヴェルヌ(著)・横塚光雄(訳)『十五少年漂流記』集英社〈集英社文庫〉2009年4月8日改訂版第1刷、ISBN 978‐4‐08‐760572‐3 【表紙イラスト】古橋秀之(著)『ALPHAS ‐ZETMAN ANOTHER STORY‐』集英社〈JUMP j BOOKS〉2012年3月29日、ISBN 978‐4‐08‐703260‐4 【表紙イラスト】 ヤングジャンプ増刊の「ミラクルジャンプ」2011年2号から2012年7号に掲載されたものに加筆修正されたもの。連載時のイラストはこちも氏で一部巻末に収録されている。ヤングジャンプ増刊の「ミラクルジャンプ」2011年2号から2012年7号に掲載されたものに加筆修正されたもの。連載時のイラストはこちも氏で一部巻末に収録されている。 ===キャラクターデザイン=== I・Я・I・A ZЁIЯAM THE ANIMATION【OVA】(1994年)LOVE&DESTROY【プレイステーション用ゲームソフト】(1999年)TIGER & BUNNY【MBS・TOKYO MX・BS11放送テレビアニメ】(キャラクター原案、2011年)劇場版 TIGER & BUNNY ‐The Beginning‐【劇場アニメ】(キャラクター原案・ヒーローデザイン、2012年)劇場版 TIGER & BUNNY ‐The Rising‐【劇場アニメ】(キャラクター原案・ヒーローデザイン、2014年)Scarlet Blade【ネクソン、MMORPG】(ゲーム内イベント用オリジナルキャラクターデザイン、2014年)牙狼 ‐紅蓮ノ月‐【テレビアニメ】メインキャラクターデザイン(2015年)劇場版 仮面ライダードライブ サプライズ・フューチャー(パラドックスロイミュードキャラクターデザイン、2015年)あかねさす少女(キャラクター原案、2018年)DOUBLE DECKER! ダグ&キリル(メインキャラクターデザイン、2018年)プラスティック・スマイル(劇中漫画のキャラクターデザイン、2018年)ASTRAL CHAIN【Nintendo Switch用ゲームソフト】(2019年) ===フィギュア=== アクションフィギュア MOVIE REALIZATION BATMAN&BAT‐POD【スーパーバイザー、イラストも担当】(2008年9月27日発売)スーパーバイズドフィギュア I”s Pure【完全監修】葦月伊織・秋葉いつき(2009年7月発売) ===曲=== OVA『電影少女 ‐VIDEO GIRL AI‐』のサウンドトラックCD(どちらも発売はビクター音楽産業)において、歌・作詞・作曲に一部参加している。 『電影少女 オリジナル・サウンドトラック』(1992年3月27日)収録曲 あの日に…(歌:木村真紀、作詞:桂正和、作曲:松浦有希) 明日は明日(歌:桂正和、作詞:田口俊、作曲:岡田徹)あの日に…(歌:木村真紀、作詞:桂正和、作曲:松浦有希)明日は明日(歌:桂正和、作詞:田口俊、作曲:岡田徹)『「電影少女 2nd」イメージ・サウンドトラック ‐Memories‐』(1992年3月27日)収録曲 心の水たまり(歌:桂正和、作詞:泉水敏郎、作曲:岡田徹・鶴来正基) まだ見ぬ夢(歌:桂正和、作詞:覚和歌子、作曲:桂正和)心の水たまり(歌:桂正和、作詞:泉水敏郎、作曲:岡田徹・鶴来正基)まだ見ぬ夢(歌:桂正和、作詞:覚和歌子、作曲:桂正和) ===出演=== ===映画=== 電影少女 ‐VIDEO GIRL AI‐(1991年6月公開) ‐ カメオ出演。ゼイラム(1991年12月公開) ‐ 専門学校の先輩、雨宮慶太の監督作。通行人役としてカメオ出演。 ===テレビドラマ=== 実験刑事トトリ 第4話(NHK総合、2012年11月24日放送) ‐ 『TIGER & BUNNY』の脚本担当、西田征史の脚本作品。酒屋の店主役としてカメオ出演。牙狼‐GARO‐ ‐魔戒ノ花‐ 第10話(テレビ東京、2014年6月6日放送) ‐ 倉橋ゴンザ(演:螢雪次朗)とアンナ(演:松坂慶子)を描く似顔絵画家役としてカメオ出演。99.9 ‐刑事専門弁護士‐ 第7話(TBS、2016年5月29日)‐ カメオ出演。居酒屋の客(本人)役 とと姉ちゃん 第88回(NHK総合、2016年7月15日) ‐ 「実験刑事トトリ」と同じく西田征史の脚本作品。闇市の男役でゲスト出演。99.9 ‐刑事専門弁護士‐ SEASON*198* 第3話 (TBS、2018年1月28日)‐ 居酒屋の客(本人)役電影少女 ‐ VIDEO GIRL AI 2018 ‐ 第5話 (テレビ東京、2018年2月11日)‐ カメオ出演。アフロ正和役 ===バラエティ=== 漫道コバヤシ第6回「桂正和 全仕事」(フジテレビONE、2013年11月16日)牙狼〈GARO〉金狼感謝祭2016生放送 (ファミリー劇場HD、2016年11月23日) ===テレビアニメ=== 牙狼〈GARO〉 ‐炎の刻印‐ 第15話(テレビ東京、2015年1月24日放送) ‐ ブルーノ役として声の出演。上記の『魔戒ノ花』のトークイベントへ登壇した際、原作者の雨宮から直々に出演を依頼されたことが、発端となっている。 ===ゲーム=== セガサターン『おまかせ!退魔業(セイバーズ) 』(1996年発売)‐ 農協の青年団役として友情出演。 ==関連人物== ===鳥山明=== 鳥山と桂は鳥嶋和彦によって才能を見出された友人同士であり、数少ない漫画家の友人の中で最も親交の深い人物として互いに互いを挙げている。またアシスタント経験の無い桂は鳥山に漫画の相談をすることもあり、鳥山との関係について「師匠と言ってもいいかも」や「学校の先生のようなもの」と表現している。 初期には共に田舎出身であることから、鳥山が『Dr.スランプ』に田舎者として桂を登場させ、桂が『ウイングマン』に都会者であるかの様に振る舞う「生徒会トリヤマ」や「Mr.マヤリト」として鳥山を登場させるなどと、互いに相手の方が田舎者であると冗談でけなし合うやり取りを『ジャンプ』誌上で行っていた。また、桂が病気療養のために「ウイングマン」を一時休載した際には、応援コーナー「がんばれ! がんばれ! 桂くん! 」に「イナカ友だち」として鳥山がタイトルとイラストを寄稿している。 互いの作品に影響を与えている場合もあり、『ドラゴンボール』において孫悟空が界王を笑わせるために使ったギャグは桂が考えたものであり、フュージョンのポーズの考案にも関わっている。一方、「すず風のパンテノン」は鳥山との雑談の中から生まれ、『D・N・A*199*』で主人公が髪の色を変えて変身するのは鳥山のアドバイスによるものである、桂から「スーパーサイヤ人に似るのでは。」との問いに、鳥山は「大丈夫、わかりゃしないよ。」の応答から作品を発表するも、読者からは「パクるな!」との批判の声が多かった。 また『ZETMAN』では車のデザインを行っている。 2008年には原作:鳥山明・漫画:桂正和で読切「さちえちゃんグー!!」を共作。また2009年末からは、同じ分担で「JIYA ‐ジヤ‐」を『週刊ヤングジャンプ』において全3話の短期集中連載を行う。 桂正和×鳥山明共作短編集 カツラアキラ ===漫画関係者=== ====鳥嶋和彦==== 元担当編集者で、桂を漫画家としての成功へと導いた功労者。月例新人賞に応募してきた桂の作品を見て、「一コマだけいい顔あったから」と声をかけて担当となりデビューへと導いた。またターニングポイントとなった「ビデオガール」・『電影少女』も鳥嶋の協力のもとで誕生している(詳しくは来歴の節で上述)。なお「ビデオガール」の完成後、桂は鳥嶋が担当から外れたこともあり好評だった別の読切「SHIN‐NO‐SHIN」での連載を考えていたが、副編集長となった鳥嶋の推しにより「ビデオガール」を基とした連載を開始することとなった。また「SHADOW LADY」の名付け親でもある。 ===黒岩よしひろ=== 元アシスタント。病気で休載した時期も併せて2年近くアシスタントを経験した。渡辺満里奈のファンであったことから、桂と渡辺の対談について行っている。 ===稲田浩司=== 元チーフアシスタントであり、桂のアシスタント時代にデビューしている。1年半ほどアシスタントを経験した。 ===古味慎也=== 元アシスタント。古味初の単行本となる『EX‐VITA』1巻の付帯に桂が推薦文を寄稿している。 ===専門学校の同窓生=== ====雨宮慶太==== 専門学校の2年先輩。雨宮の監督映画『ゼイラム』(1991年12月公開)をはじめとして、雨宮作品の端役として数作に出演経験がある。他、ゼイラムのアニメ化作品『I・Я・I・A ZЁIЯAM THE ANIMATION』のキャラクターデザインを担当。2015年には同じく雨宮原作による『牙狼〈GARO〉』シリーズのアニメ版第2シリーズ『牙狼 ‐紅蓮ノ月‐』メインキャラクターデザインも担当。雨宮監督作品の一つである『未来忍者 慶雲機忍外伝』に触発され、桂は和風をコンセプトとした読切「SHIN‐NO‐SHIN」を描いている。 ===寺田克也=== 専門学校の1年後輩。「SHADOW LADY」【VJ版】第1回の背景を描いている。 ===竹谷隆之=== 専門学校の1年後輩。『ZETMAN』のキャラクターデザインに協力。また竹谷が造形を担当しているMOVIE REALIZATIONシリーズにおいて、桂がバットマンのスーパーバイザーを務める。また、関連シリーズである MANGA REALIZATION の第1弾としてウイングマンを造形制作している。 ===その他=== ====韮沢靖==== 『ZETMAN』のキャラクターデザインに協力。また桂は韮沢によるオムニバスイラスト集『Bitch’s Life Illustration FIle』に「a virgin」を寄稿している。 ===金田龍=== 寺田を介して知り合う。実写映画『電影少女 ‐VIDEO GIRL AI‐』の監督を務めた。また実現はされなかったが、金田を監督に『D・N・A*200*』を実写映画化する企画もあった。 ===酒井法子=== 桂が酒井のファン。コミック巻末において2度の対談を行っており、OVA『電影少女 ‐VIDEO GIRL AI‐』のサウンドトラックCDにも参加している。また『電影少女』13巻表紙の天野あいは、酒井をモデルに描かれている。 =ムハンマド・アリー= ムハンマド・アリー・パシャ(アラビア語: *50**51**52**53* *54**55**56* *57**58**59**60*‎, ラテン文字転写: Mu*61*ammad *62*Al*63* B*64**65**66*, 1769年? ‐ 1849年8月2日)は、オスマン帝国の属州エジプトの支配者で、ムハンマド・アリー朝の初代君主(在位:1805年 ‐ 1849年)。メフメト・アリー(トルコ語: Mehmet Ali)ともいう。 最終的に、勢力伸長を危険視したイギリスの介入によりその富国強兵策は頓挫したが、エジプトのオスマン帝国からの事実上の独立を達成し、その後のエジプト発展の基礎を築いた。近代エジプトの父、エル・キビール(大王)と呼ばれ、死後もエジプトの強さと先進性の象徴であり続けている。 エジプト・シリア戦役においてオスマン帝国がエジプトへ派遣した300人の部隊の副隊長から頭角を現し、熾烈な権力闘争を制してエジプト総督に就任。国内の支配基盤を固めつつ、近代性と強権性を併せもった富国強兵策を推し進め、アラビア半島やスーダンに勢力を伸ばし、遂にはオスマン帝国からシリアを奪うに至る。 ==生涯== ===生い立ち=== 当時オスマン帝国領だったカヴァラ(帝国の欧州側・バルカン半島のマケドニア地方東部の港町。現ギリシャ領テッサロニキ近郊)に生まれる。生年については諸説あるが、ムハンマド・アリー自身は1769年生まれと称し、「私はアレクサンダーの故郷で、ナポレオンと同じ年に生まれた」と語ることを好んだという。民族的な出自はアルバニア系ともトルコ系ともイラン系ともクルド系とも言われるが、アルバニア系とする見解が主流である。いずれにしても欧州出身ということになる。父のイブラーヒーム・アーガーは街道の警備を担当する非正規部隊の司令官で、母のハドラはカヴァラ市長官の親戚であった。幼い頃に父を失ったムハンマド・アリーは市長官のもとに預けられて成長し、18歳のとき市長官の親戚の女性と結婚して父の職を引き継いだ。前半生は多分に伝説的で、ムハンマド・アリーがこの時期の自分自身について言及することはなかった。岩永博によると、「比類ない出世を遂げた偉大な君主の、後身に釣り合わない青年時代の身分の卑しさを修飾する捏造」が疑われる言い伝えも存在する。 ===エジプト・シリア戦役、カイロ暴動を経てエジプト総督に就任=== 1798年、イギリスとの間でエジプト経由の交易路を巡る外交戦を展開していたフランスが、自国商人の保護を理由にエジプトへの侵攻を開始した(エジプト・シリア戦役)。エジプトの宗主国であるオスマン帝国はこれに対抗するべく、カヴァラ市に対しアルバニア人非正規部隊300人の派遣を命じた。この部隊の副隊長として戦功を挙げたムハンマド・アリーは、6000人からなるアルバニア人非正規部隊全体の副司令官へと昇進した。 遡ってフランス軍の侵入以前、18世紀エジプトではマムルークたちがエジプト総督(ワーリー)を差し置いて政治の実権を掌握し、オスマン帝国からの独立を宣言するマムルークも現れていた。18世紀後半にはマムルークの派閥抗争に支配権回復を図るオスマン帝国の巻き返しが絡む権力闘争が展開され、エジプトの政治情勢は混迷を極めた。イギリス軍がフランス軍を破り、さらに両国の間に講和条約(アミアンの和約)が結ばれイギリス軍がエジプトから撤退(1803年3月)した後のエジプトでは、オスマン帝国の総督および正規軍、アルバニア人非正規部隊、親英派マムルーク、反英派マムルークが熾烈な権力闘争を繰り広げた(カイロ暴動)。カイロ暴動の最中の1803年5月、アルバニア人非正規部隊の司令官ターヘル・パシャが暗殺され、ムハンマド・アリーが後任の司令官に就任した。これをきっかけに、ムハンマド・アリーはエジプトにおける権力闘争に割って入った。ムハンマド・アリーはまず、マムルークと協力してオスマン帝国が任命した総督を無力化し、次にマムルーク内の派閥抗争を利用しつつカイロ周辺からマムルーク勢力を排除した。さらに自らがエジプト総督に推したアフマド・フルシド・パシャと対立すると総督に対するカイロ市民の不満を巧みに自身への支持に絡げ、1805年5月にはウラマー(宗教指導者)たちから新総督への推挙を受けることに成功した。ムハンマド・アリーが市民の支持を背景に新総督への就任を宣言すると、オスマン帝国政府もこれを追認せざるを得なくなった。ムハンマド・アリーが数年のうちにアルバニア人非正規部隊の司令官からエジプト総督まで登りつめた過程について、フランスの総領事ベルナルディーノ・ドロヴェティー(英語版)は次のように評した。 構想力あるアルバニア人指導者の措置は、戦闘をせず、スルタンを個人的に怒らせないで、カイロのパシャとなることを狙っていたように私にはみえた。あらゆる行動はマキャヴェリ的精神を顕している。私は実際かれらがあらゆるトルコ人より強い頭脳をもっていると考えた。かれはシャイフ達や民衆の支持によって権力をえ、かれが入手できる地位をスルタン政府も進んで認めざるをえないようにしようと狙っている、と思えた。 ― 岩永1984、43頁。 加藤博は、ムハンマド・アリーのエジプト総督就任をもって独立王朝ムハンマド・アリー朝が誕生したとしている。 ===支配基盤の確立=== エジプト総督に就任したムハンマド・アリーであったが、その支配地域はカイロ周辺とナイル川デルタの一部に限られ、上エジプトやナイル川デルタ西部はムハンマド・アリーに敵対するマムルークや遊牧部族などの支配域であった。また、現状を追認する形でエジプト総督就任を認めたに過ぎないオスマン帝国や、アミアンの和約を破棄しエジプトを対フランス戦の拠点として確保しようとするイギリスは、ムハンマド・アリーの追い落としを画策した。しかし当時の国際状勢はムハンマド・アリーに味方した。まずナポレオン戦争の渦中にあったイギリスにはエジプト情勢に深く介入する余裕がなかった。イギリス軍は1807年3月から4月にかけてエジプト上陸を試みたものの、ムハンマド・アリーによって撃退された(1807年のアレキサンドリア遠征(英語版))。4月にロゼッタ近郊のアル・ハミード(英語版)で行われた戦闘(アル・ハミードの戦い)でイギリス軍が喫した敗北(総兵力4000人中2000人が死傷)は、「第一次アフガン戦争と並んで英国が東洋で喫した最大の敗退の一つ」といわれる。ムハンマド・アリーはイギリス軍を積極的に攻撃することを避け、最終的には協定により撤退させた。その後も交渉と協調がムハンマド・アリーの対英政策の基調をなしていく。オスマン帝国も1807年から1808年にかけてセリム3世とムスタファ4世が相次いで廃位されるなど政情が混乱し、ムハンマド・アリーに対応する余裕はなかった。ムハンマド・アリーはこうしたオスマン帝国やイギリスの苦境に乗じて政治基盤の強化に乗り出し、敵対するマムルークや宗教勢力を排除または懐柔することに成功した。しかしマムルークはムハンマド・アリーに完全に服従したわけではなく、常に反旗を翻す機会をうかがっていた。 ===近代化とマムルークの粛清=== 1811年、オスマン帝国はムハンマド・アリーに対し、マッカを支配下に置くなどアラビア半島のほぼ全域を支配下に置きシリアやイラクにも勢力を拡大しつつあった第一次サウード王国を攻撃するよう要請した。ムハンマド・アリーはこの要請を、いまだ完全に服従したとは言い難いマムルークの反乱を煽り自身を総督の座から追い落とそうとする計略であると察知し、後顧の憂いを断つべく苛烈な手法を用いてマムルークを粛清することを決意した。3月11日、次男アフマド・トゥーソンのアラビア遠征軍司令官任命式を執り行うという名目で有力なマムルーク400人あまりを居城におびき寄せて殺害する(シタデルの惨劇(アラビア語版))と、カイロ市内のマムルークの邸宅、さらには上エジプトの拠点にも攻撃を仕掛け、1812年までにエジプト全土からマムルークの政治的・軍事的影響力を排除することに成功した。山口直彦は、マムルーク粛清に成功したことによりムハンマド・アリーのエジプトにおける支配権は確固たるものとなり、実質的に独立王朝ムハンマド・アリー朝が成立したとしている。以後、ムハンマド・アリーは近代化政策を推し進め、国力の増強を図っていくことになる。後年、ムハンマド・アリーはマムルーク粛清について問われると、次のように答えたという。 私は、あの時期を好まない。あのような状況に私はいやおうなく追い込まれてしまったのであり、いつ果てるとも知らぬ戦いと悲惨、策略と流血について、今さら語ったところで何になろう。私個人の歴史は、私があらゆる束縛から解放され、この国を長い眠りからめざめさせることができた時、初めて開始された。 ― 牟田口1992、259頁。 ===アラビアおよびスーダンへの遠征=== 1811年3月、アフマド・トゥーソンを司令官とするアラビア遠征軍約1万が出陣した。遠征軍はヒジャーズ北部ヤンブーに上陸すると苦戦の末、1813年までにマディーナ、マッカ、ジッダの攻略に成功。その後本陣が襲撃され敗走を余儀なくされるなど劣勢に立たされたが、1814年に第一次サウード王国内部で後継争いが起こったことにより戦況は好転し、1818年9月に1万人の戦死者を出した末に首都ダルイーヤを陥落させたことでアラビア遠征は終結した。なお、アフマド・トゥーソンは1816年2月に病死し、司令官は長男イブラーヒーム・パシャが引き継いだ。戦後、イブラーヒーム・パシャはヒジャーズとアビシニアの総督に任命された。 アラビア遠征の結果マッカを領有するようになったムハンマド・アリーは、一部から「カアバを領有し、防衛する者がイスラム教徒の真の首長である」と支持されるようになるなど一定の名声と宗教的権威を獲得したが、一方で国力は大きく疲弊した。ムハンマド・アリーは国力を増強するためにスーダンを支配下に置いて奴隷貿易の権益や資源を得ようと軍を派遣したが、実際に獲得できたものは払った犠牲に見合うものではなかった。遠征軍の総司令官であった三男イスマイルは地元部族の反乱に遭って殺害され、その報復としてセンナールの住民3万を虐殺したところさらなる反乱を招いた。1820年に出陣した遠征軍が反乱の鎮圧に成功したのは1826年のことである。ムハンマド・アリーがスーダンに中央集権的な制度を導入したことはスーダン人の民族意識形成を促した。ムハンマド・アリー死後の1881年、エジプトでウラービー革命が起こるとそれに呼応する形でスーダンでマフディー戦争が起こった。 この時期のエジプト軍は様々な人種・部族の傭兵による混成部隊から成り立っており、指揮系統や軍備が統一されていなかった。ムハンマド・アリーはフランスを模範とする近代的な軍隊の創設を目指し、軍事改革を断行。1822年に農民に対する徴兵制を導入して陸軍の増強を図り、さらに艦艇の建造を推し進め海軍力の充実を図った。こうして創設された近代式軍隊ニザーム・ジェディトは1823年にアラビア半島で起こったワッハーブ派による反乱を鎮圧して以降、各地の戦いで実力を示した。 ===ギリシャ独立戦争=== 1822年、オスマン帝国からの要請によりギリシャ独立戦争に参戦。もともとムハンマド・アリーは、カイロやアレクサンドリアで革命組織が結成されアレクサンドリアから義勇兵が出港するのを黙認するなど反乱に厳しく対処していたわけではなかったが、アラビア遠征に続きオスマン帝国の「積極的で従順な奉仕者たることを強いられ」る恰好となった。 エジプト軍は1824年にクレタ島、カソス島、カルパソス島を制圧。次いでギリシア本土の制圧を命じられたが、この頃からムハンマド・アリーにはただ単にオスマン帝国の命令に従うのではなく、この戦争を近代式軍隊ニザーム・ジェディトの実力を試し、国際社会、イスラム社会における存在感を高める好機ととらえるようになった。ムハンマド・アリーにはさらに、モレア地方(ペロポネソス半島)を領有し東地中海における貿易権を獲得しようという目論みを抱くようにもなった。1824年7月、アレクサンドリアから海路モレア地方上陸を目指したエジプト軍は、反乱軍の艦隊に苦戦しながらも翌1825年1月に上陸に成功するとイブラーヒーム・パシャの指揮のもと陸上戦を優位に進め、ナヴァリノ(現ピュロス付近)、トリポリツァ、ミソロンギ、アテネなどを制圧した。 ムハンマド・アリーは単に武力を用いて反乱を鎮圧するのではなく、外交を駆使して自国に有利な状況を作り出そうとしていた。1826年9月、ムハンマド・アリーはアレクサンドリア駐在のイギリス総領事ヘンリー・ソールト(英語版)に対し、海軍力の増強とアラビア方面への勢力拡大を認めることと引き換えにギリシアからの撤退を打診した。この時、ソールトはムハンマド・アリーの真意を以下のように推し量っている。 ムハンマド・アリーは心中で、かれの独立についての総括的保障をイギリス政府から得、トルコ政府と対抗できるようになることを望んでいるが、直接それに言及することを避けているように思えた。 ― 岩永1984、91‐92頁。 イギリスとの交渉に際しムハンマド・アリーは、ギリシアでの軍事行動を抑制し、オスマン帝国や反乱鎮圧を支持するオーストリアを苛立たせた。オーストリアはムハンマド・アリーのもとに使者を送り、イギリスはエジプトに対し好意を抱いてはおらず、弱体化を望んでいると説いたが、ムハンマド・アリーはイギリスとの関係を重視する姿勢を崩さなかった。オスマン帝国はムハンマド・アリーに対し戦争の全指揮権を委ねることを打診した。ムハンマド・アリーはこれを辞退したがオスマン帝国側がかつてのエジプト総督でムハンマド・アリーによって追放された、ムハンマド・アリーの仇敵ともいえるヒュスレヴ・パシャ(フスロー・パシャ)をオスマン帝国海軍司令官から解任した上で改めて要請すると、受け入れざるを得なくなった。1827年7月6日、イギリス・フランス・ロシアは「休戦をもたらすために共同で努力する」旨の協定を結び、オスマン帝国側が停戦要求に応じない場合は海上封鎖を行いエジプト軍の補給路を断つことで合意した。ムハンマド・アリーは軍事行動の開始を引き伸ばしてイギリスとの交渉を続けたが、期待に反し1827年8月8日、イギリス側はムハンマド・アリーの要求に応えることなく、ギリシアへ軍隊を派遣し強力な干渉を行うことを予告した。岩永博は、イギリスがムハンマド・アリーの期待を裏切った原因として、ギリシャ独立戦争においてエジプト軍が行った虐殺や捕虜虐待に対する非難が西欧社会で湧き起こっていたことを指摘している。 イギリスとの交渉が決裂する2日前の8月6日、これ以上出兵を引き延ばせないと判断したムハンマド・アリーはアレクサンドリアから海軍を出撃させた。これに対しイギリス・フランス海軍も休戦を求め恣意行動を開始し、10月13日にはロシアの艦隊も合流した。10月20日、ナヴァリノ湾においてオスマン帝国海軍が発砲したのをきっかけに戦闘となり、オスマン帝国およびエジプト海軍は艦船の4分の3を失う大敗を喫した(ナヴァリノの海戦)。この戦いでエジプト海軍は壊滅し、さらにその後行われた海上封鎖により補給路を断たれたことで陸軍の半分を飢餓で失った。ギリシャ独立戦争参戦はエジプトに多大な社会的、経済的損失をもたらすこととなった。 ムハンマド・アリーは、事態を楽観視した挙句3か国の介入に対し「狂信的・短絡的」に反発した「豚頭のスルタン」と「驢馬のような宰相」の愚鈍さが敗戦を招いたと認識し、オスマン帝国からの完全な独立を決意するに至った。 ===第一次エジプト・トルコ戦争=== ====開戦経緯==== ギリシャ独立戦争終結後、ムハンマド・アリーは戦前にオスマン帝国が参戦の対価として提示していたシリア(シリア属州)総督の地位を要求した。しかしギリシャ独立戦争に続き1828年の露土戦争でロシアに敗れ莫大な損失を被っていたオスマン帝国は、ギリシャ独立戦争に敗れた以上約束は無効と主張して拒否した。この時点でムハンマド・アリーはオスマン帝国側に無断でギリシャから軍を撤退させており、さらに露土戦争において援軍を送ることを拒んでいた。オスマン帝国のスルタンマフムト2世はムハンマド・アリーのこうした動きに不満を抱いていた。 ===開戦=== シリア要求を拒否されたことで、ムハンマド・アリーはシリア侵攻を決意する。ムハンマド・アリーには、シリアを領有することでヨーロッパ諸国に対抗しようとする狙いと、当時政治情勢が混迷し治安状態が極めて悪かったシリアに秩序をもたらすのは自分であるという自信と志とがあった。侵攻に備え経済・軍備の立て直しを急ピッチで進めたムハンマド・アリーは1831年10月、徴兵を逃れたエジプトの農民を庇護していたアッコの知事に懲罰を加えるという口実でイブラーヒーム・パシャ率いる軍勢を差し向けた。エジプト軍は8か月でアッコ、ダマスカス、アレッポなどシリア全域を制圧するとそのままトロス山脈を超えてアナトリア半島に侵攻し、1833年2月2日、コンスタンティノープルの南方385kmの都市キュタヒヤを占領した。イブラーヒーム・パシャは進軍を続けマフムト2世を廃位に追い込むつもりであったが、ムハンマド・アリーは他国の反応を気にかけ、進軍を止めるよう指示した。 オスマン帝国はロシアに救援を求め、これに応じたロシア軍がボスポラス海峡に布陣。これを見てロシアの勢力拡大を嫌うイギリスとフランスが調停に乗り出し、1833年3月29日にキュタヒヤ休戦協定が成立した。この協定によりエジプトはシリア・アダナ・クレタ島の領有を勝ち取り、ギリシャ独立戦争以来の念願であった東地中海における貿易権の獲得に成功した。また、アラブ文化の中心地であるカイロとダマスカスをともに領有するムハンマド・アリーに対し、アラビア語圏全域にわたる王国を樹立し、オスマン帝国を「ロシアの魔手」から救うことを期待する機運も一部に生まれた。とはいえキュタヒヤ休戦協定によって認められた領有権はオスマン帝国によって一年ごとに更新される性質のものであったため、更新を拒絶される危険が残された。また、イギリスはこの戦争を境にムハンマド・アリーに対し警戒感と不満を抱くようになった。イギリスはムハンマド・アリーの目的について「アラビア王国」の樹立にあると分析したが、それはオスマン帝国の勢力維持を望むイギリスの外交方針と相反するものであった。イギリスは輸出市場とインドへの通商路を確保するためにオスマン帝国の勢力維持を望んでいたのである。やがてイギリスはムハンマド・アリーを「イギリスの外交原理に対する障害以外の何ものでもない」とみなすようになっていく。また、ムハンマド・アリーの軍事行動が引き金となってオスマン帝国がロシアに接近して軍事同盟を結んだ上、ロシアにのみダーダネルス海峡の航行を認める内容の秘密条約(ウンキャル・スケレッシ条約)を締結したことは、18世紀以来一貫してロシアの南下政策を阻止しようとしてきたイギリスにとって外交上の大きな打撃となったが、これに関するイギリスの不満の矛先はムハンマド・アリーに向けられた。イギリスからの支持を取りつけたいというムハンマド・アリーの願いは「およそ成り立ちがたいもの」となった。 第一次エジプト・トルコ戦争終結後の1833年、アレクサンドリア駐在のイギリス総領事キャンベルはイギリス政府への報告において、ムハンマド・アリーを「法的にはスルタンの臣下であるが、実際には独立している。かれは自らスルタンの家臣で、臣民であると言明しているが、そうでないと認められることを誰よりも望んでいるかにみえる……。」と評した。またフランスは、キュタヒヤ休戦協定締結へ向けた調停を行った際、特命公使をアレクサンドリアに派遣し、ムハンマド・アリーがオスマン帝国から名実ともに独立することを支持する姿勢を見せた。 ===イギリスとの対立=== 第一次エジプト・トルコ戦争の後、ムハンマド・アリーは各地でイギリスと対立するようになった。イギリスは蒸気船の実用化が進むにつれて、ムハンマド・アリーの勢力圏を通らずに地中海からインド洋に至るための経路としてユーフラテス川を重要視するようになったが、1834年にイギリス東インド会社がユーフラテス川を調査する動きを見せたことにムハンマド・アリーは反発し、調査を許可しないよう命じるとともに中流域の要衝であるデールを占領して調査・開発の進行を阻んだ。 アラビア半島では、1818年のダルイーヤ陥落後一度は放棄していた奥地を再び占領下に置き、1839年には勢力圏をペルシア湾岸にまで伸ばした。この時エジプト軍の司令官はイギリス海軍の提督に対し、当時イギリスが勢力下に置いていたバーレーンを武力をもって制圧する準備があると告げた。この件ではイギリス側の反発を受けてムハンマド・アリーが譲歩し、バーレーンへ侵攻しないよう軍に命令を出した。 イエメンではイギリスが、ムハンマド・アリーの機先を制する形で1839年1月にアデンを占領した。これによりムハンマド・アリーはモカを抑えることで独占していたコーヒー貿易の利権をイギリスに奪われた上、紅海およびインド洋に対する政治的経済的影響力を失うこととなった。 エジプトの支配がペルシア湾岸のアル・ハサー(英語版)地方、紅海沿岸のティハーマ地方に及んだことはインドへの交易路としてペルシャ湾、紅海を重視するイギリスの政策に直接の影響を及ぼした。さらにイギリスは中東地域を綿製品の有力な市場とみなしていたことから、イギリスからの綿製品輸入を規制し、繊維産業の国有化と製品の専売制を敷くムハンマド・アリーの存在を「国益に対する明らかな脅威」とみなすようになった。 ===シリア統治=== シリアには伝統的に宗教間宗派間の対立が激しく、紛争が絶えなかった。また封建的領主が幅を利かせ、地方行政の担い手が入札によって決められていたこともあって政治・行政の秩序は大いに乱れていた。さらに辺境地域では砂漠地帯の遊牧部族やワッハーブ派が治安を乱し、治外法権をもつヨーロッパ諸国の商人や領事は特権を悪用して私腹を肥やし、税秩序を乱していた。 ムハンマド・アリーはシリア社会の腐敗を是正しようと、シリア総督に就任したイブラーヒーム・パシャを通じ、強力な軍事警察力を背景とした武断的改革を実行しようとした。その結果地租収入が適正化の兆しを見せるなど改革は行政分野において一定の成果を収めたが、軍事力強化のために行われた戦時臨時税の徴収や労働力の徴用・食料の徴発は反発を招いた。さらにキリスト教徒やユダヤ教徒の地位を向上させようとしたことに対し、イスラム宗教界は激しく反発した。イブラーヒームがアラブ人を重用しようとしたことも、アラブ人と同視されることを嫌うシリア人の反感を買った。シリア人はムハンマド・アリーに対し面従腹背したに過ぎなかった。さらにイブラーヒームが強圧的な徴兵制を実施しようとしたことは、ローマ帝国の統治下にあった頃より兵役に就かず傭兵に頼ってきたシリア人の拒絶を招いただけでなく、人道的な観点からヨーロッパ諸国の反発を招いた。 1838年、イスラム教ドゥルーズ派による大規模な反乱が起こるとオスマン帝国はこれに乗じる動きを見せ、反乱を煽った。 ===第二次エジプト・トルコ戦争=== ====開戦まで==== オスマン帝国スルタンのマフムト2世は、第一次エジプト・トルコ戦争によってシリアを奪い自らの権威を傷つけたムハンマド・アリーを激しく憎悪し、復讐戦を起こすべくロシアやプロイセン王国の支援を受けて軍事力の強化に取り組んだ。ロシアはマフムト2世をけしかけてエジプト軍との戦いに大敗させ、援軍をオスマン帝国領内に進出させようと目論んでいた。1837年、オスマン帝国は51個の連隊を新たに編成。これに対しシリア総督に就任していたイブラーヒーム・パシャもオスマン帝国との国境に軍隊を集結させ、両者の間に緊張が高まった。1838年にオスマン帝国との間に通商協定を結んだイギリスは、以前にもましてオスマン帝国擁護の姿勢をとるようになり、オスマン帝国領内への侵攻はもちろんオスマン帝国を脅かす規模の軍隊を保持することにも警告を発するようになった。イギリスの外務大臣パーマストンはムハンマド・アリーをマフムト2世の臣下に過ぎないと認識し、「オスマン帝国はいつでもムハンマド・アリーの支配地を回収する権利を持つ」、「ムハンマド・アリーがオスマン帝国との戦争に備える事は不法で反逆的である」と解釈していた。パーマストンは1839年、国策要領の中で「ムハンマド・アリーがシリアを返還し、エジプトに撤兵してオスマン帝国との間に非武装地帯が設けられるまで、『ヨーロッパの平和を脅かす危険は終息しない』」とする見解を述べている。一方、フランスはムハンマド・アリーに好意的で、ムハンマド・アリーが終身総督権を得られるよう両者の仲介を試みたが、交渉は物別れに終わった。 1838年5月25日、ムハンマド・アリーはエジプトの独立を宣言した。エジプトで活動するイギリスやフランスの商人から自らの統治体制に対する支持を得ていた事がこの決断を後押しする要因の一つとなったが、この独立宣言はムハンマド・アリーに好意的であったフランスを含む欧米諸国の反発を買い撤回された。 ===オスマン帝国への攻勢=== 1839年4月、肺結核のため死に瀕していたマフムト2世はオスマン帝国軍8万をシリアに侵攻させた。ムハンマド・アリーは当初ヨーロッパ諸国の介入を警戒しイブラーヒーム・パシャに自制するよう命じていたがやがて迎撃に転じた。6月24日、イブラーヒーム・パシャ率いるエジプト軍は現在のトルコ共和国ガズィアンテプ付近でオスマン帝国軍を撃破し、1万4000人を捕虜にした。さらにマフムト2世が7月1日に病死し、アブデュルメジト1世が跡を継いだ直後の7月7日、オスマン帝国海軍大提督アフメット・フェウズィ・パシャ(アフマッド・ムシル)が指揮下の全艦隊を率いてムハンマド・アリーに降伏した。確執のあるヒュスレヴ・パシャがアブデュルメジト1世のもと新宰相に就任したことを、アフメット・フェウズィ・パシャが嫌ったのが原因の一つと言われている。窮地に立たされたオスマン帝国はムハンマド・アリーに対し、全支配地域における統治権の世襲を認める構えを見せた。 ===列強の介入と敗北=== エジプトがトルコを圧倒する事態に、ついにイギリスが介入した。7月27日にオスマン帝国に対し、フランス・プロイセン・ロシア・オーストリアとともにヨーロッパ諸国との事前協議なしにエジプトと妥協しないよう申し入れると、親エジプトのフランスを外交的に孤立させた上で翌1840年7月15日、プロイセン、ロシア、オーストリアとロンドン条約を締結。第二次エジプト・トルコ戦争での占領地の他、過去に占領したスーダンを除く領土(シリア、クレタ、アダナ、アラビア)の放棄と、7月に降伏したオスマン帝国艦隊の返還を要求した。オスマン帝国はこの動きをみて方針を転換し、8月16日にエジプト軍の撤退を要求する最後通牒を出した。ムハンマド・アリーはフランスの援護を期待しつつ拒絶する構えを見せたが、最後通告の期限が切れた9月16日にイギリス軍はオーストリア軍、オスマン帝国軍とともにベイルートに上陸し、シリア沿岸の都市を陥落させていった。フランスの支援は声明にとどまり、フランス海軍がイギリス海軍をけん制するために出撃するというムハンマド・アリーの期待は裏切られた。シリア駐留のエジプト軍は6万の兵力を2万まで失った末にカイロへ撤退した。11月15日、チャールズ・ネイピア(英語版)率いるイギリス艦隊がアレクサンドリアに現れると、ムハンマド・アリーは降伏を余儀なくされた。第二次エジプト・トルコ戦争の敗戦について山口直彦は、総督職の世襲を実現しようとするムハンマド・アリーの焦りと、それまでの成功経験への過信が、ついに「英国という強大なイギリスの虎の尾を踏」む結果を招いたと指摘する。歴史学者の山内昌之は、「フランスを除くイギリスなど4大国から受ける敵意を、かれが過小評価したのは驚くばかりであった」と述べている。 ===降伏とムハンマド・アリー朝の成立=== 第二次エジプト・トルコ戦争に敗北し、降伏交渉が完了したのは1841年6月のことであった。エジプトは領土の多くを失い、最盛期に15万以上の規模を誇った軍隊は1万8000万に削減され、海軍艦艇の建造および将軍以上の軍人の任命にはオスマン帝国の承認を得なければならなくなり、主要生産品の政府独占および専売制は廃止され、定率の関税、および治外法権を認めさせられるなど国力は大きく衰退した。その一方、オスマン帝国の宗主権のもとムハンマド・アリー家のエジプトおよびスーダンにおける総督職の世襲が認められ、エジプトは形式的には引き続きオスマン帝国の統治下に置かれるものの、実質的には本国政府から独立した行政権を行使できるようになった。山口直彦は、これをもって正式にムハンマド・アリー朝が成立したとする。 ===晩年=== 第二次エジプト・トルコ戦争敗戦後、ムハンマド・アリーは一時精神的に不安定な状態に陥りながらも引き続き政務を執ったが、1847年頃に老衰の兆しがみられるようになり、1848年4月5日に総督の地位を長男イブラーヒーム・パシャに譲った。しかしイブラーヒーム・パシャは同年11月20日に結核により死去。その跡を継いだのは次男アフマド・トゥーソンの子アッバース・パシャであった。実孫アッバース・パシャに対するムハンマド・アリーの評価は極めて低く、イブラーヒーム・パシャの死を知ったムハンマド・アリーは「これでアッバース・ヒルミがあとを継ぐことになるのか。我々が築き上げてきたものはすべて台無しになるだろう」と嘆いたという。実際にアッバース・パシャはそれまで推し進められてきた近代化政策を否定する方針を打ち出した。 1849年8月2日、アレクサンドリアで死去。遺体はカイロのムハンマド・アリー・モスクに安置された。 ムハンマド・アリーの生涯について、エジプトの経済学者ガラール・アミーンは、「強力な独立の工業国家建設策を超大国に認められず、……軍事的敗北に続いて門戸開放政策をとるように強制され、外国資本によって操作される政治的・経済的圧迫に屈せざるを得なかった」点において、第2代エジプト共和国大統領ガマール・アブドゥル=ナーセルの生涯と共通する部分があると指摘している。山口直彦は、「ヨーロッパ列強と中東の旧秩序に軍事力で挑み、そして敗れたムハンマド・アリの姿は敗戦までの日本を想い起こさせる」と評している。山内昌之は、「西欧による侵略と分割の脅威に直面して政治をリアリズムの観点から見すえ」る事を余儀なくされながら、片やオスマン帝国、片や江戸幕府による統治が手詰まりに陥った状況を打開すべく、「産業化と軍事的強化を結びつけながら近代化を図った点」が薩摩藩の第11代藩主島津斉彬と共通すると指摘している。歴史学者の牟田口義郎は、「エジプトのほか、一時的ながらシリアも領有し、アラビアを2度征服して、以後150年続く王朝を開いた点では、かの風雲児、バイバルスに匹敵されよう」と評している。 歴史学者のフィリップ・ヒッティ(英語版)は、ムハンマド・アリーの生涯を次のように評している。 19世紀前半のエジプトの歴史は、事実上、このひとりの男の物語である。 ― 山口2006、103‐104頁。 ==政策== ===総論=== ムハンマド・アリーは国政の様々な部門で改革・近代化を推し進めた。行政・財政・税制分野における改革の結果、政府の歳入は大幅に増加した。岩永博はムハンマド・アリーの経済政策の目的について、「生産を増大し通商を強化して財政収入を拡大し、強大な軍隊を編成して領土的発展を図る」ことにあったと分析している。山口直彦によると領土拡大はそれ自体が目的なのではなく、「国内産業のための市場と原材料供給源の獲得や紅海、東地中海における通商ルートの確保という冷静な経済的打算に裏付けられていた」。山口はムハンマド・アリーを当時の中東には珍しい「経済のわかる指導者」、「商人の才覚を持つ政治家」であったと評している。歳入は様々な分野における近代化政策推進のために用いられた。 ムハンマド・アリーの実施した政策について山口直彦は、「日本の明治維新や清の洋務運動、さらには現在の開発途上国の経済自立・工業化政策を先取りする画期的な試みであった」と評している。加藤博は「迫り来る西欧列強の進出のなかで非西欧世界が自立的な近代国家建設を目指した、最も早い試みの一つであった」と評している。さらに加藤や牟田口義郎も、ムハンマド・アリーの政策は明治維新と同様「和魂洋才」の精神に基づくものであったと評している。山内昌之は加藤や牟田口と同様の見解に立ちながら、近代的国営工場の経営に失敗した点が明治維新との違いであると指摘している。ムハンマド・アリーの経済政策は、長期的に見ればヨーロッパ経済への従属を招いた。 増加した歳入が国民の福祉のために用いられることはなく、彼らは過重な税負担や兵役、強制的な労役を課された。H.A.リブリンは以下のように指摘している。 ムハンマド・アリーの治下で国民所得は増加したが、農民の生活水準の改善と向上はみられなかった。かれは、しばしば民衆の福祉を口にのぼらせたが、社会的関心を実行に移すときは、民衆への新しい負担と圧殺的搾取を添加するだけに終わった。 ― 岩永1984、215‐216頁。 山内昌之によると「アラブ人でもなくエジプト人でもなく土着の民に愛情の薄かった」ムハンマド・アリーは民生安定の視点に欠けていた。 ムハンマド・アリーは改革を推進し近代技術の導入を図るため、ヨーロッパを中心とする国外から専門家を招いた。中心となったのはフランス人や、オスマン帝国内でマイノリティとして扱われていたギリシャ人、アルメニア人、シリア人キリスト教徒などである。主な外国人専門家として、フランス人オクターヴ・ジョゼフ・アンセルム・セーヴ(軍事分野)、フランス人の医師アントワン・バルテルミ・クロット(医療・衛生分野)、アルメニア人ボゴス・ユスフィアン(通商・外務分野)などが挙げられる。同時に留学生をヨーロッパに送り込み、技術を習得させようとした。代表的な人物として、薬学校、砲兵士官学校、外国語学校の運営やヨーロッパの書籍の翻訳を手掛けた啓蒙思想家リファーア・ライ・アッ・タフターウィー、後にアラブ系エジプト人として初の大臣となり教育制度改革に貢献したアリ・ムバラク(英語版)などがいる。 ムハンマド・アリーは農作物、工業製品の専売制により巨大な歳入を得た。軍事支出も巨額であったため度々財政難に陥ったが、他国からの借款に頼ることはなかった。この方針はヨーロッパ諸国による侵略への警戒からであった。岩永博は、「民衆に誅求の負担をかけたとは言いながら、国家の独立性保持の上から貴重な限界を守ったといえる」と評価している。山内昌之はムハンマド・アリーの死後、子孫が他国からの借款に頼り「エジプトを破滅のふちに導く原因」を作った事実を指摘し、「ムハンマド・アリーはやはり<英傑>の名にふさわしい」と述べている。 ムハンマド・アリーの改革は、エジプトに大幅な人口増をもたらし、後のエジプトの発展の基礎を築いたと評される。19世紀初頭の時点で246万人、1821年に253万人余りであった人口は1847年には447万に達した。しかし通商産業、とくに工業分野における政策は、「結果的には総じて失敗に終わった」とも評される。その最大の原因は第二次エジプト・トルコ戦争に敗れエジプトが政治的自立を失ったことに求められる。敗戦によりムハンマド・アリーは、低率の輸入関税を定め専売制を禁止する通商協定の実施を余儀なくされ、ヨーロッパの製品との自由競争にさらされたエジプトの工業は衰退の一途を辿った。 ムハンマド・アリーのとった政策は近代的である反面専制的・強圧的な要素も持っていた。イギリス政府、とりわけパーマストンがムハンマド・アリーの政策を前近代的、非民主的ととらえたことは、より近代的な改革を行いつつあったオスマン帝国を支持する一因となった。 ムハンマド・アリーが実施した改革のうち、中央集権化は18世紀のマムルーク指導者アリ・ベイ(英語版)が、軍隊の近代化はオスマン帝国のスルタンセリム3世が、税制改革や産業振興策はフランス占領軍がすでに構想ないし実行していたものである。山口直彦は、ムハンマド・アリーの政治家としての優れた点は「先人の様々な試みを取捨選択し、エジプトの、そしてその時代の実情に合うようにうまく適応した」点にあると述べている。 ===財政・税制=== ムハンマド・アリーが総督に就任した当時、政治の混迷が続いていたエジプトの経済状態は著しく悪く、総督府の財政状態は極めて不健全であった。フランス軍の撤退後、3人の総督およびマムルーク指導者が軍隊への給料遅配あるいはそれを避けるために課した重税に対する反発から失脚しており、財政再建はムハンマド・アリーにとって権力を維持するための最優先課題のひとつであった。 ムハンマド・アリーは歳入を確保すべく、農地に関する税制の改革に取り組んだ。それまでエジプトには数多くの免税地が存在し、課税対象農地については徴税請負人やその代理人が徴税を担当していた。税収の6割近くはこれら介在者の手に渡っており、さらに様々な名目の税金が不定期に徴収されていた。ムハンマド・アリーは免税地を削減し、20以上あった課税理由をハラージュに一本化し、政府の官吏が定期的に直接徴税を行うよう制度を改めた。税率は農地測量の結果に基づいて決定された。1810年から下エジプトで、1813年から上エジプトで測量が開始されている。既得権益を抱える徴税請負人たちの抵抗もあったが、農地全体の3分の2を管理下に置いていたマムルークの排除に成功したことで改革を進めることが可能となった。税制改革の結果、徴税効率が向上し税収は増加した。 ===行政=== ムハンマド・アリーはフランス、とくにナポレオン・ボナパルトの政策に範をとった、行政機構の近代化・中央集権化を断行した。中央集権が実現したことにより、主要生産物の専売制が進み、歳入は拡大した。一方で中央集権化の弊害として、ほぼすべての施策についてムハンマド・アリーの裁可を仰ぐ、行政手続きの煩雑化、セクショナリズムといった現象も見られた。 中央政府の機能は当初、総督官房と内務省の2つの機関に集約されたが、1837年、行政機能の拡大に対応するため財務・外務など8つの省が設置された。 地方の行政機関は州、県、郡、区の4つの機関により構成され、それぞれの機関に中央政府から官吏が派遣された。これらの機関は中央政府の政策を実現するためのものであって、自治は行われなかった。州や県の知事には施策実施に際して中央政府に対し、事前の承認を得、定期的な報告を行う義務があった。ムハンマド・アリーは地方農村部の行政を「国富の源泉」として重視し、年に2回地方を巡回したほか、監督機関である「監察総局」を設置した。 1828年に政府公文書館が設置され、各地に散逸していた行政文書が集められた。行政において用いられる言語は当初、トルコ語とアラビア語の併用であったが、アラブ系エジプト人の官吏への登用が進むに従ってアラビア語が優勢となっていった。 ===農業=== ムハンマド・アリーは前述のように農地に関する税制の改革に取り組んだ他、国家が農地を管理下に置いた上で栽培する作物を指定し、収穫物を公定価格で買い上げる制度を導入、実質的な農業の国営化を行った。また、主要農産物の専売制を導入し、国内販売および輸出を国家の管理下に置いた。専売制による歳入は1836年の時点で全体の22.4%を占めるなど国家財政の重要な基盤となった。ただし農業の国営化は短期的には生産の効率化をもたらしたものの、中長期的には農家の生産意欲の低下を招き、在位後期には民営化が進められることとなった。 ムハンマド・アリーは農業を振興するため、運河、堤防、排水路、灌漑設備などのインフラ整備を行った。在位中32の運河と42のダムが建設され、運河や堤防などに関する土木工事の総量は約7187万9000ないし約7911万5000立方メートルにのぼるとされる。1843年着工、1861年完成のダム、デルタ・バラージュの規模は、建設当時世界最大であったといわれている。ムハンマド・アリーが農業政策を実行する前に約321万8700フェッダンだった課税対象耕作地の面積は、1863年には約439万5300フェッダンに拡大した。 ムハンマド・アリーはナイル川流域に用水路を整備し、灌漑の方式を、増水期に発生する洪水を堤防内に引き入れて作った溜池を利用する旧来の方式(溜池式灌漑)から用水路を活用し増水期減水期を問わず耕作が可能となる方式(通年式灌漑)へ移行させることを試みた。その結果、通年式灌漑は19世紀末には全エジプトに普及した。加藤博は、ムハンマド・アリーが通年灌漑を導入したことは後にエジプトが農業立国として発展する基礎になったと評価している。一方、減水期に用水路にたまった泥土を除去する作業は農民の負担となった。1825年以降、この作業のために毎年35万人の農民が4か月間使役されたといわれている。 通年式灌漑の導入・整備により、換金作物の大規模栽培が可能となった。エジプト産の換金作物としては綿花、米、インディゴ、サトウキビなどが挙げられるが、ムハンマド・アリーがとくに生産を奨励したのは利幅が大きいとされる綿花であった。綿花の専売による歳入は全体の10分の1ないし4分の1を占めたといわれ、綿花はムハンマド・アリー以降の時代もエジプトにとって主要輸出品であり続けている。エジプトの主要な長繊維綿花のひとつである「ジュメル」は、ムハンマド・アリー在位中の1820年にフランス人ルイ・アレックス・ジュメルによって開発された品種である。 ===工業=== 農業分野と同様、工業分野においても国家主導の振興策がとられた。まず1800年代の終わりから造兵廠が建設され、1810年代に綿紡績、ジュート加工、石鹸、絹織物、製糖、毛織物、ガラス、1820年代にガラス、皮革、1830年代に製紙と、各分野で国営工場の建設が続いた。1833年には総労働力人口のおよそ9%にあたる11万人ほどがこれら国営工場に勤務していた。ムハンマド・アリーは兵器製造施設の整備にも力を注ぎ、1816年に造兵廠が拡張されるとともに鋳造工場が、1820年に大型の製鉄工場が建設された。1820年に建設された国営の印刷所はエジプト初の印刷所であり、2000年代においても「中東最大規模の政府印刷所」と称されている。この印刷所では1828年11月に、中東地域初のアラビア語による新聞『アル・ワカーイ・アル・ミスリーヤ』が発行された。 工場の多くは輸入を抑制するために建設されたが、綿産業など繊維産業についてはそれにとどまらず、将来的に輸出産業とすることが目標とされた。エジプト産の綿製品はやがて国家専売制が敷かれた国内市場ではイギリスからの輸入品に対抗できるだけの競争力を持つまでに成長し、そのことが第二次エジプト・トルコ戦争においてイギリスの介入を招く一因となった。もっとも、工場で生産された製品の多くは原価割れで販売された。資金面の問題から十分な任数の技師を雇用することができず、原料の浪費や機械の故障が相次いだことや、工場稼働のために徴用された農民は技術にも意欲にも欠けていたこと、何より燃料費が高額で技術者も不足していたため動力に蒸気機関を使うことができず、牛やロバ、ラクダを使役したこと、加えて機械の故障を修理する能力も十分ではなかったことなどが原因で、導入した設備の生産性がたちまち低下したためである。原価計算も適切ではなく、製品の原価は輸入品以上に高額となってしまった。ムハンマド・アリーは近代的な工場を整備することで歳入の大幅な増加を見込んだが、そのもくろみは失敗に終わった。 工業においても農業と同様、国家が生産者に原材料を販売し製品を公示価格で買い上げる制度が導入され、実質的な専売が行われた。この制度は手工業においては、政府が製造者から安く仕入れた製品を商人に高く販売することを可能とし、短期的には生産の効率化も実現した。しかし中長期的には製造業者の生産意欲の低下を招くこととなった。 第二次エジプト・トルコ戦争に敗れると、ムハンマド・アリーは1838年にイギリスとオスマン帝国が結んだ通商協定「バルタ・リマン協定」の実施を余儀なくされた。バルタ・リマン協定は低率の輸入関税を定め、専売制を禁止する内容で、締結された当初ムハンマド・アリーは支配領域内での協定適用を拒否していた。この協定を受け入れたことによりエジプトの専売制はほぼ崩壊し、エジプトの工業製品はヨーロッパの製品との自由競争にさらされた。自由競争によりエジプト産の製品はイギリス・インドの製品に駆逐されていった。さらに軍縮が行われたことで軍需も落ち込んだ。「バルタ・リマン協定」によりエジプトの工業は決定的な打撃を被り、衰退の一途を辿ったのである。その後のエジプトは「英国をはじめとするヨーロッパ諸国に綿花などの原材料を輸出し、工業製品を輸入するといういわば植民地型の国際分業の中に組み込まれていくことになる」。 ===通商=== ムハンマド・アリーの在位中、エジプトでは工業生産に必要不可欠であった鉄鉱石や石炭といった資源が産出されず、船舶建造のための木材も十分に確保することができなかった。それらの資源は輸入によって確保しなければならず、そのための資金(外貨)を捻出するために輸出を振興する必要があった。ムハンマド・アリーにとって幸運だったのは、18世紀末にヴェネツィア共和国が滅亡し、イギリスとの戦争によりフランスの国力が低下していたことから、地中海貿易によって利益を得る余地が十分にあったことである。貿易は国家の管理の下に行われたが、実際の取引は民間が行った。1830年代の時点で、主な貿易相手はオスマン帝国、オーストリア、イタリア(トスカーナ)、フランス、イギリスなどであった。 当初の輸出品目は穀物であったが1821年までに綿花、さとうきび、亜麻、亜麻仁、胡麻、絹、蜂蜜などが加えられていった。綿花は小麦にとって代わるようになり、1840年の綿花の輸出額は小麦の2倍にのぼった。ムハンマド・アリーは農産物輸出のための積出港としてアレキサンドリア港を整備し、さらに同港とナイル川とを結ぶ運河(マフムディーヤ運河、1817年着工、1820年完成)を建設した。これによりアレキサンドリア・カイロ間の水路距離が大きく短縮され、輸出能力が向上した。同時にアレキサンドリアへの飲料水の供給が容易となり、アレキサンドリアの水不足が解消された。マフムディーヤ運河によって、低迷していたアレクサンドリアは活力を取り戻した。 ムハンマド・アリーが権力を掌握した当初、政治の混迷が続いていたエジプトでは行政が機能せず、市民がインフラ整備を行う始末であった。また、農産物の略奪が相次ぐなど治安は極めて悪かった。 治安の改善を図るため、ムハンマド・アリーは各地に軍を駐屯させ、定期的な巡視を行わせた。その成果をイギリスの領事ミゼットは「エジプト全土で驚くほど治安が確立され、ヨークシャーと同じくらい安全になった」と表現している。これにより交通・通商の安全が確保され、経済活動が促進された。 ムハンマド・アリーは農産物・工業製品の専売制を実施して多額の利益を上げた。当初は輸出製品についてのみ実施していたが、1829年以降は国内流通分にも適用された。公定価格は市場価格よりも安く設定され、それにより政府は莫大な歳入を得た。1836年、ロシアの領事はエジプトの輸出品の95%が専売によるものであると報告している。前述のように第二次エジプト・トルコ戦争に敗れ専売制を禁止する「バルタ・リマン協定」の実施を受け入れたことでエジプトの専売制はほぼ崩壊した。 ===軍事=== 前述のように、ムハンマド・アリーはフランスを模範とする近代的な軍隊の創設を目指し、軍事改革を断行した。陸軍強化のために1822年に農民に対する徴兵制を導入し、ナポレオン戦争敗戦により失職したフランスの元軍人を軍事顧問として招へいした。1830年代後半には70人を超える軍事顧問が雇用されていた。ギーザには士官学校が設けられ、軍人の資質のある者への教育が行われた。ムハンマド・アリーは1807年のイギリス軍上陸を受けて海軍力の強化にも乗り出し、ヨーロッパで艦船の建造を行ったほか、カイロ北部とアレキサンドリアに海軍工廠を建設した。ナヴァリノの海戦で多くの艦船を失うと、精密な航海機器と大砲以外のすべてを自力で製造できる能力を備える造船所を建設した。エジプト海軍はナヴァリノの海戦でフリゲートとコルベット計43隻を失ったが、1837年には戦艦8隻、巡洋艦7隻にまで戦力を持ち直している。1830年時点の海軍力は世界第7位の規模であったが、第二次エジプト・トルコ戦争敗戦後就役艦はすべてオスマン帝国に売却された。 エジプトには農民が兵役につく慣習はなく、農民たちは徴兵制に恐怖した。農村からは逃亡者が相次ぎ、1831年には上エジプトの農民の4分の1が逃亡したと報告されている。ムハンマド・アリーは徴兵を拒否したり逃亡した者には親族の連帯責任を伴う処罰を課した。農民の中からは故意に身体の一部を傷つけて徴兵から逃れようとする者も多く現れた。そうした者は工場で労働に従事させられたが、1830年代後半になると健常な人間の確保に苦しみ、徴兵の実施地域をシリアおよびカンディヤに拡大させるとともに、盲人の連隊が設けられるに至った。徴兵の方法は強圧的なもので、農村では軍隊が出動して村を包囲し、農民を鎖で拘束して連行した。このような方法は農民の反発を招き、1820年代前半には大規模な反乱が起こった。都市部でも祭礼に参加するために集まった商人を軍隊が包囲し、連行するといった強引な方法がとられた。キリスト教徒をも徴兵の対象に含めたことはヨーロッパ諸国からの非難を招いた。徴兵制は農村の生産力に悪影響を及ぼす一方、兵士には基本的教育が行われ、農村単位の帰属意識を越えた国民的な共同体意識が植えつけられた。軍はウラービー革命以降、エジプトで起こった民族運動において中心的な役割を担っていくことになる。1837年、ムハンマド・アリーはフランス式の志願兵制度導入を決めたがこの政策は実行されず、フランスの国民兵制に範をとった兵制が実施された。 ムハンマド・アリーが有する兵力はスーダンへの遠征を開始した時点で1万6000人であった。ギリシア独立戦争中に増強が図られ1829年に6万2150人、第二次エジプト・トルコ戦争後の1832年に12万5000人、第二次エジプト・トルコ戦争開戦直前の1838年に15万7000人に増大したが、第二次エジプト・トルコ戦争敗戦後1万8000人に削減された。一般兵卒は全員エジプト人によって構成されたが、ムハンマド・アリーはエジプト人を信用せず、上級士官には登用しなかった。士官の多くはトルコ人、チェルケス人、アルバニア人、クルド人などトルコ・チェルケス系によって構成された。 ===教育=== 教育分野では専門部局(後に教育省に昇格)が設置され、フランス式の初等教育制度や、ヨーロッパの技術習得に力点を置いた理工系中心の高等教育制度が導入された。また、軍事省の管轄の下、医学、薬学、獣医学、鉱物学、応用化学、農業、通信、工芸、外国語など各種専門学校も設立された。これら教育制度の整備は「その後のエジプトの発展に最も貢献した中核的な政策」と評価されており、現在エジプトが他のアラブ諸国に対し多くの教員を派遣すると同時に多くの留学生を受け入れ、「アラブ世界の知的センター」として機能している基盤を作り上げたと評される。正規の教育を受けたことがなく、47歳のときに読み書きを学び始めたムハンマド・アリーは、教育の重要性を痛感していたといわれる。 ==人物== ムハンマド・アリーは清潔好きで、毎朝入浴を欠かさなかった。倹約家であり、服装は質素で、金の懐中時計を愛用した以外に宝飾品を身につけることはなかった。このことは肖像画に描かれた姿にも表れている。身のこなしが優雅で威厳に満ちていた反面、ユーモアのセンスも持ち合わせ、親しい相手には茶目っ気を見せたという。ムハンマド・アリーの目はくるくるとよく動き、会う者を惹きつけたという。 山内昌之はムハンマド・アリーの肖像画の目から、「ほんとうは人なつっこい性格なのに、権力者としてのポーズにそれを包みこんで含羞を隠している風情」が読み取れると述べている。一方牟田口義郎によると、イギリスのある外交官はムハンマド・アリーの笑顔について、「にこやかに笑いながら人を殺したというリチャード3世のあの笑顔だ」と評したという。ムハンマド・アリーの目はその他に、「もし天才を示す目を持つ人間がいるとしたら、ムハンマド・アリーこそかかる人間であり、……その目はガゼルのように魅惑的であり、また、嵐のときにおける鷲の目のように荒々しかった」とも、「落ち着きのない、自分の店で万引きを見張る商人の目」とも評された。 ==子女== 長男 イブラーヒーム・パシャ(1789年 ‐ 1848年)次男 アフマド・トゥーソン(1793年 ‐ 1816年)三男 イスマーイール・カーメル(1795年 ‐ 1822年)長女 テウヒィーデ(1797年 ‐ 1830年)次女 ナズーリー(1799年 ‐ 1860年)以上が正室のアミーナ・ハネムとの間に生まれた子。他に側室との間に30人の子が生まれており、その中にはサイード・パシャがいる。 =姫路城= 姫路城(ひめじじょう)は、兵庫県の姫路市にある日本の城である。江戸時代初期に建てられた天守や櫓等の主要建築物が現存し、国宝や重要文化財に指定されている。また、主郭部を含む中堀の内側は「姫路城跡」として国の特別史跡に指定されている。また、ユネスコの世界遺産リストにも登録され、日本100名城などに選定されている。別名を白鷺城(はくろじょう・しらさぎじょう。詳細は名称の由来と別名を参照)という。 ==概要== 姫路城は播磨国飾東郡姫路、現在の姫路市街の北側にある姫山および鷺山を中心に築かれた平山城で、日本における近世城郭の代表的な遺構である。江戸時代以前に建設された天守が残る現存12天守の一つで、中堀以内のほとんどの城域が特別史跡に、現存建築物の内、大天守・小天守・渡櫓等8棟が国宝に、74棟の各種建造物(櫓・渡櫓27棟、門15棟、塀32棟)が重要文化財に、それぞれ指定されている。1993年(平成5年)12月にはユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。この他、「国宝五城」や「三名城」、「三大平山城・三大連立式平山城」の一つにも数えられている。 姫路城の始まりは、1346年(南朝:正平元年、北朝:貞和2年)の赤松貞範による築城とする説が有力で、『姫路城史』や姫路市ではこの説を採っている。一方で赤松氏時代のものは砦や館のような小規模なもので、城郭に相当する規模の構築物としては戦国時代後期に西播磨地域で勢力を持っていた小寺氏の家臣、黒田重隆・職隆父子による築城を最初とする説もある。 戦国時代後期から安土桃山時代にかけて、黒田氏や羽柴氏が城代になると、山陽道上の交通の要衝・姫路に置かれた姫路城は本格的な城郭に拡張され、関ヶ原の戦いの後に城主となった池田輝政によって今日見られる大規模な城郭へとさらに拡張された。 江戸時代には姫路藩の藩庁となり、更に西国の外様大名監視のために西国探題が設置されたが、城主が幼少・病弱・無能な場合には牽制任務を果たせないために城主となる大名が頻繁に交替している。池田氏に始まり譜代大名の本多氏・榊原氏・酒井氏や親藩の松平氏が配属され、池田輝政から明治新政府による版籍奉還が行われた時の酒井忠邦まで約270年間、6氏31代(赤松氏から数えると約530年間、13氏48代)が城主を務めた。 明治時代には維新の初期に払い下げが行われ、百円で落札されたが、取り壊し費用が莫大であったことから落札者が願い下げした。その後陸軍の兵営地となり、歩兵第10連隊が駐屯していた。この際に多くの建物が取り壊されたが、陸軍の中村重遠工兵大佐の働きかけによって大小天守群・櫓群などが名古屋城とともに国費によって保存される処置がとられた。 昭和に入り、太平洋戦争において姫路も2度の空襲被害があったものの、大天守最上階に落ちた焼夷弾が不発弾となる幸運もあり奇跡的に焼失を免れ、現在に至るまで大天守をはじめ多くの城郭建築の姿を残している。昭和の大修理を経て、姫路公園の中心として周辺一帯も含めた整備が進められ、祭りや行事の開催、市民や観光客の憩いの場になっているほか、戦国時代や江戸時代を舞台にした時代劇などの映像作品の撮影が行われることも多く、姫路市の観光・文化の中核となっている。 ==名称の由来と別名== 姫路城天守の置かれている「姫山」は古名を「日女路(ひめじ)の丘」と称した。『播磨国風土記』にも「日女道丘(ひめじおか)」の名が見られる。姫山は桜が多く咲いたことから「桜木山」、転じて「鷺山(さぎやま)」とも言った。天守のある丘が姫山、西の丸のある丘が鷺山とすることもある。 橋本政次『姫路城の話』では、別名「白鷺城(はくろじょう)」の由来として、推論も含め、以下の4説が挙げられている。 姫路城が「鷺山」に置かれているところから。白漆喰で塗られた城壁の美しさから。ゴイサギなど白鷺と総称される鳥が多く住んでいたから。黒い壁から「烏城(うじょう)、金烏城(きんうじょう)」とも呼ばれる岡山城との対比から。白鷺城は「はくろじょう」の他に「しらさぎじょう」とも読まれることがあり、村田英雄の歌曲に『白鷺(しらさぎ)の城』というものもある。これに対し、前出の橋本は漢学的な名称であることから、「しらさぎじょう」という読みを退け、「はくろじょう」を正しい読みとしている。現在は、『日本歴史大事典』(小学館)、『もういちど読む山川日本史』(山川出版社)のように「しらさぎじょう」の読みしか掲載していないもの、『日本史事典』(三訂版、旺文社)、『ビジュアルワイド 日本名城百選』(小学館)のようにどちらかを正しいとせずに「はくろじょう」「しらさぎじょう」を併記しているものなども見られる。日本放送協会(NHK)の番組でも「しらさぎじょう」と紹介されることがあるため、一般的には「しらさぎじょう」と認識されていることが多いと思われる。姫路市内では市立の白鷺(はくろ)小中学校のように学校名に使用されたり、小中学校の校歌でも「白鷺城」または「白鷺」という言葉が使われていることが多い。戦前の姫路市内の尋常小学校で歌われていた『姫路市郷土唱歌』の歌詞にも「白鷺城」や「池田輝政(三左衛門)」などが使われている。 他にも以下のような別名がある。 ===出世城=== 羽柴秀吉が居城し、その後の出世の拠点となったことから呼ばれる。同様の例として浜松城も出世城と呼ばれる。 ===不戦の城=== 幕末に新政府軍に包囲されたり、第二次世界大戦で焼夷弾が天守に直撃したりしているものの、築城されてから一度も大規模な戦火にさらされることや甚大な被害を被ることがなかったことから。 ==歴史・沿革== ===南北朝時代・戦国時代=== 1333年(元弘3年)、元弘の乱で護良親王の令旨を奉じて播磨国守護の赤松則村が挙兵し、上洛途中の姫山にあった称名寺を元に縄張りし、一族の小寺頼季に守備を命じた。南北朝の争乱で足利尊氏に呼応した則村が再度挙兵し、1346年(南朝:正平元年、北朝:貞和2年)、次男の赤松貞範が称名寺を麓に移し姫山に築城し姫山城とした。1349年(南朝:正平4年、北朝:貞和5年)、貞範が新たに庄山城(しょうやまじょう)を築城して本拠地を移すと、再び小寺頼季が城代になって以後は小寺氏代々が城代を務める。 1441年(嘉吉元年)、嘉吉の乱で赤松満祐・教康父子に対して山名宗全が挙兵、赤松父子は城山城で自害し赤松氏は断絶、赤松満祐に属していた城代の小寺職治は討死した。その後、山名氏が播磨国守護に、山名氏の家臣・太田垣主殿佐が城代になった。1458年(長禄2年)、長禄の変で後南朝から神爾を取り戻した功績で赤松政則(満祐の弟の孫)の時に赤松氏再興が許された。1467年(応仁元年)、応仁の乱で山名氏に対立する細川勝元方に与した政則が弱体化した山名氏から播磨国を取り戻し、当城に本丸・鶴見丸・亀居丸を築いた。 1469年(文明元年)、則村が隣国の但馬国に本拠地がある山名氏に備えるため新たに築いた置塩城に本拠地を移し、小寺豊職が城代になった。1491年(延徳3年)、豊職の子・政隆が城代になり、御着城(姫路市御国野町御着)を築城開始。1519年(永正16年)、政隆が御着城に本拠地を移し、子の則職が城代になった。 1545年(天文14年)、則職が御着城に移り、家臣の黒田重隆に城を預ける。黒田重隆・職隆父子が主君で御着城主の小寺政職(則職の子)の許可を受けて、御着城の支城として1555年(天文24年)から1561年(永禄4年)の間に、現在よりも小規模ではあるが居館程度の規模であったものから姫山の地形を生かした中世城郭に拡張したと考えられている。姫路(姫山)に城があったと確認できる一次史料は、永禄4年の『正明寺文書』に「姫道御溝」の記述や『助太夫畠地売券』に城の構えがあるという記述で、これらを根拠に姫路城の始まりという説もある。職隆は百間長屋を建てて貧しい者や下級武士、職人、行商人などを住まわせるなどして、配下に組み入れたり情報収集の場所としていた。 1567年(永禄10年)、職隆の子・孝高が城代になった。1568年(永禄11年)、青山・土器山の戦いで赤松政秀軍の約3,000人に対して黒田軍(職隆・孝高父子)は約300人という劣勢で姫路城から撃って出て赤松軍を撃退する。以後、1573年(天正元年)まで孝高(官兵衛・如水)が城代を務めた。 ===安土桃山時代=== 1576年(天正4年)、中国攻めを進める織田信長の命を受けて羽柴秀吉が播磨に進駐すると、播磨国内は織田氏につく勢力と中国路の毛利氏を頼る勢力とで激しく対立、最終的には織田方が勝利し、毛利方についた小寺氏は没落した。ただし小寺氏の家臣でありつつも早くから秀吉によしみを通じていた黒田孝高はそのまま秀吉に仕えることとなった。1577年(天正5年)、孝高は二の丸に居を移し本丸を秀吉に譲った。 1580年(天正8年)、三木城・英賀城などが落城し播磨が平定されると孝高は秀吉に「本拠地として姫路城に居城すること」を進言し姫路城を献上、自らは市川を挟んで姫路城の南西に位置する国府山城(こうやまじょう)に移った。秀吉は、同年4月から翌年3月にかけて行った大改修により姫路城を姫山を中心とした近世城郭に改めるとともに、当時流行しつつあった石垣で城郭を囲い、太閤丸に天守(3層と伝えられる)を建築し姫路城に改名する。あわせて城の南部に大規模な城下町を形成させ、姫路を播磨国の中心地となるように整備した。この際には姫路の北を走っていた山陽道を曲げ、城南の城下町を通るようにも改めている。同年10月28日、龍野町(たつのまち)に、諸公事役免除の制札を与える。この最初の条文において、「市日之事、如先規罷立事」とあることから、4月における英賀城落城の際に、姫路山下に招き入れ市場を建てさせた英賀の百姓や町人達が龍野町に移住したとする説がある。1581年(天正9年)、秀吉は姫路城で大茶会を催した後、鳥取城攻略へ出陣した(中国攻め#鳥取城攻めと淡路平定 /天正9年)。 1582年(天正10年)6月、秀吉は主君・信長を殺害した明智光秀を山崎の戦いで討ち果たし、一気に天下人の地位へ駆け上っていく。このため1583年(天正11年)には天下統一の拠点として築いた大坂城へ移動、姫路城には弟・豊臣秀長が入ったが1585年(天正13年)には大和郡山へと転封。替わって木下家定が入った。 1600年(慶長5年)、池田輝政が関ヶ原の戦いの戦功により三河吉田15万石から播磨52万石(播磨一国支配)で入城した。輝政は徳川家康から豊臣恩顧の大名の多い西国を牽制する命を受けて1601年(慶長6年)から8年掛けた大改修で姫山周辺の宿村・中村・国府寺村などを包括する広大な城郭を築いた。中堀は八町毎に門を置き、外堀からは城下と飾磨津を運河で結ぶ計画であったが輝政の死去と地形の高低差の問題を解決できず未完に終わる。運河計画は後の本多忠政の時代に船場川を改修して実現することになる。普請奉行は池田家家老の伊木長門守忠繁、大工棟梁は桜井源兵衛である。作業には在地の領民が駆り出され、築城に携わった人員は延べ4千万人 ‐ 5千万人であろうと推定されている。また、姫路城の支城として播磨国内の明石城(船上城)・赤穂城・三木城・利神城・龍野城(鶏籠山城)・高砂城も整備された。 ===江戸時代=== 姫路藩の歴史も参照。 1617年(元和3年)、池田氏は跡を継いだ光政が幼少であり、山陽道の要衝を任せるには不安であることを理由に因幡鳥取へ転封させられ、伊勢桑名から本多忠政が15万石で入城した。忠政は城の西側を流れる妹背川を飾磨津までの舟運河川に改修し船場川と改名した。1618年(元和4年)には千姫が本多忠刻に嫁いだ化粧料を元に西の丸が整備され、全容がほぼ完成した。 城内の武士階級の人口は次の通り。 池田氏時代(1603年頃):300石以上の中級武士が約500人。本多氏時代(1617年から1639年):忠政の家臣が700人以上、忠刻の家臣が500人以上、足軽や小者を含め約4000人。榊原氏時代(1649年から1667年、1704年から1741年):家臣・足軽など約3000人、酒井氏時代(1749年から1871年):家臣・足軽など約2200人藩主は親藩および譜代大名が務めたが、本多家の後は奥平松平家、越前松平家、榊原家、再度越前松平家、再度本多家、再度榊原家、再々度越前松平家と目まぐるしく入れ替わる。1749年(寛延2年)に上野前橋城より酒井氏が入城してようやく藩主家が安定する。しかし、姫路城は石高15万石の姫路藩にとっては非常な重荷であり、譜代故の幕府要職の責務も相まって藩の経済を圧迫していた。 幕末期、鳥羽・伏見の戦いにおいて姫路城主酒井忠惇は老中として幕府方に属し将軍徳川慶喜とともにあったため、姫路藩も朝敵とされ姫路城は岡山藩と龍野藩を主体とする新政府軍の兵1,500人に包囲され、車門・市ノ橋門、清水門に兵を配置されている。この時、輝政の子孫・池田茂政の率いる岡山藩の部隊が景福寺山に設置した大砲で姫路城に向けて数発空砲で威嚇砲撃を行っている。その中に実弾も混じっており、このうち一発が城南西の福中門に命中している。両者の緊張は高まり、新政府軍の姫路城総攻撃は不可避と思われたが、摂津国兵庫津の勤王豪商・北風荘右衛門貞忠が、15万両に及ぶ私財を新政府軍に献上してこれを食い止めた。この間に藩主の留守を預かる家老達は最終的に開城を決定し、城の明け渡しで新政府に恭順する。こうして姫路城を舞台とした攻防戦は回避された。 ===明治時代=== 1871年(明治4年)に廃藩置県が実施され陸軍が置かれ大阪鎮台の管轄下になった。さらに1873年(明治6年)の廃城令によって日本の城の多くがもはや不要であるとして破却された。 姫路城は競売に付され、城下の米田町に住む金物商の神戸清次郎(かんべ せいじろう)が23円50銭(現在の貨幣価値に換算して約十万円)で落札した。落札の際、酒井忠邦城主より東屋敷庭前に据え置かれた芥田匠作の雪見灯籠を購得し、これを1892年(明治25年)に歩兵第10連隊本部へ寄贈した際に「撮歴縁起」書と銀杯を拝受した。陸軍省と協力して城の永久保存をするために落札したという説と、城の古鉄または瓦を売るのが目的であったという説の2つがあるが、後者の説では、瓦を一般家屋に転用するには城の瓦は大きく重いことや解体費用が掛かりすぎるとの理由で結局そのままにされ、権利も消失した。その後1927年(昭和2年)5月末、その息子である神戸清吉が、姫路城の所有権を主張して訴訟を起こそうとしたと報じた新聞があったが、別の新聞が後日取材したところでは提訴する意思がないことを述べており、また同記事で1874年(明治7年)に買い受けた後に陸軍省に買い上げてもらったとしている。 城跡は陣地として好適な場所であったことから陸軍の部隊は城跡に配置される例が多く、姫路城でも1874年(明治7年)に三の丸を中心に歩兵第10連隊が設置され、この際本城などの三の丸の建物や武蔵野御殿、向屋敷などの数多くの建物が取り壊された。さらに1882年(明治15年)には失火で備前丸を焼失した。1896年(明治29年)には姫路城南西に歩兵第39連隊が設置された。この頃の建物は第10師団兵器庫(1905年(明治38年)‐1913年(大正2年)。現在の市立美術館)、第10師団師団長官舎(1924年(大正13年)。現在の淳心会本部)、旧逓信省姫路電信局(1930年(昭和5年)。後のNTT西日本兵庫支店姫路2号館、現在の姫路モノリス)などが残っている。中曲輪南東部(射楯兵主神社周辺)には第8旅団司令部や偕行社が置かれた。 1873年(明治6年)から1876年(明治9年)にかけて東部外堀の東半分が埋め立てられ、生野銀山と飾磨津を結ぶ生野鉱山寮馬車道が整備された。 一方で、明治時代初頭の大変革が一段落付いた1877年(明治10年)頃には、日本の城郭を保存しようという動きが見られるようになった。この頃の姫路城は、屋根は傾いて草が生え、壁や石垣は崩れたまま放置されているような状態だった。明治10年12月、陸軍少佐の飛鳥井雅古(飛鳥井家)が陸軍中将の西郷従道に宛てて「姫路城天守修繕之義ニ付伺」を提出し承認されている。また、陸軍において建築・修繕を担当していた中村重遠工兵大佐は、1878年(明治11年)に陸軍卿山縣有朋に名古屋城および姫路城の保存を太政官に上申するよう願い出て、ようやく姫路城の修復は第一歩を踏み出した。姫路城の菱の門内側には中村大佐の顕彰碑が残る。1879年(明治12年)に行われた大天守の地階を補強支柱工事の文書が残っている。だが、肝心の予算はなかなか下りず、陸軍の予算からどうにか捻出された保存費は要求額の半分にも満たないものであった。これによってどうにか応急的な修理を施したもののなおも腐朽は進む一方であり、1908年(明治41年)には市民による白鷺城保存期成同盟の結成や城下各地の有志達の衆議院への陳情によってようやく1910年(明治43年)、国費9万3千円が支給されて「明治の大修理」が行われた。 工事は1910年(明治43年)7月10日から1911年(明治44年)7月15日に行われ、修理個所は、大天守・東小天守・西小天守・乾小天守・はの渡櫓・ろの渡櫓・いの渡櫓・にの渡櫓・台所・水の四門・水の五門・水の六門が対象となった。 ===大正時代=== 明治の大修理終了後、姫路市は陸軍が使用していない本丸・二の丸と三の丸の一部の城域を借り受け、姫山公園として整備し、1912年(大正元年)8月から一般公開を始めた。1919年(大正8年)には陸軍省が西の丸を修理している。城内にあった歩兵第10連隊は後に岡山市へ移転し、歩兵第39連隊は姫路所在のまま太平洋戦争の終戦を迎えた。1912年(大正元年)から1932年(昭和7年)にかけて南部中堀が埋め立てられ道路とされた(現在の国道2号)。 ===昭和時代=== 1928年(昭和3年)に姫路城は史跡に指定され、文部省の管理となる(実際の管理は姫路市)。次いで1931年(昭和6年)1月、大小天守など8棟が国宝に指定され、同年12月には渡櫓、門、塀等74棟も国宝に指定される。ただしこの時点での「国宝」は「旧国宝」と呼ばれるもので、1950年(昭和25年)施行の文化財保護法における重要文化財に相当するものである。 1933年(昭和8年)、本来は繋がっていない三の丸東部の内船場蔵と喜斎門南の下三方蔵を繋ぐ通路を整備、1957年(昭和32年)に拡幅した。1944年(昭和19年)、中村重遠大佐の顕彰碑を建立。 太平洋戦争中、姫路城の白壁は非常に目立ち、また陸軍の部隊が置かれていてかつ軍需産業の拠点でもあった姫路はアメリカ軍の爆撃対象とされることは明らかであったため、黒く染めた網(擬装網)で城の主要な部分を覆い隠すこととした。しかし、1945年(昭和20年)7月3日の姫路空襲で城下は焼き尽くされた。城内にも着弾したが本城跡にあった中学校校舎が焼失しただけで、西の丸に着弾した2発は不発あるいはすぐに消火された。また大天守にも焼夷弾が直撃したものの、不発であったことなどにより、城郭建築の焼失は免れた。翌朝、焦土の中に無事に建つ姫路城を見て、姫路市民は涙したという。この空襲の罹災者を西の丸に避難・収容した。擬装網は終戦後に撤去された。 かつて、姫路城は貴重な文化財なので爆撃対象とはされなかったと言われていたこともあるが、獨協大学の四宮満の研究によって否定されている。城内にも実際に着弾したものの、運良く破壊を免れただけのことであり、事前に爆撃対象から外されていたわけではなかったと考えられる。当時のB‐29の機長だったアーサー・トームズは戦後50年に来日し姫路を訪れた際に「私は城があることすら知らなかった。上官から城について何の指示もなかった。レーダーから見れば城も輝く点の一つであり、それを歴史的建造物と認識するのは難しい」と語っており、実際の空爆時刻が夜間だったこともあって上空からは姫路城とは視認されず、レーダーには外堀の水が映ったことから姫路城一帯を沼地だと思い、沼地を攻撃しても意味がないと判断したため爆撃しなかったと回顧している。 この戦争の前後、いわゆる「昭和の修理」が行われた。直接的な契機は1934年(昭和9年)の豪雨で櫓や石垣の一部が損壊したことによる。この年から順次行われた修理は、戦時中の中断をはさんで1964年(昭和39年)まで続き、特に1956年(昭和31年)からの大天守の修理を「昭和の大修理」という(1934年からの修理全体を広義の「昭和の大修理」とする場合もある)。一連の修理は全解体を伴う大規模かつ抜本的なものであったことから「昭和の築城」の異名もとる(詳しくは#昭和の大修理参照)。なお、この機会に後出の俗謡にも歌われた城の傾きを改善するために、礎石の取替えが行なわれ、鉄筋コンクリート製の基礎構造物になった。 1976年(昭和51年)から姫路公園整備計画が行われ城北の姫山住宅跡地が公園に整備され野外ステージなどが建てられた。この整備工事の過程で清水門の石垣が発掘された。 ===平成時代=== 1992年(平成4年)、日本は世界遺産条約を批准すると、世界遺産暫定リストに姫路城などを記載した。そして姫路城は最初に推薦された物件の一つとなり、1993年(平成5年)12月11日、法隆寺地域の仏教建造物とともに日本初の世界遺産(文化遺産)に登録された。後述するように、木造建築物であり抜本的な修理工事を経ている姫路城の登録は、文化財のオーセンティシティ(真正性、真実性)をどう評価するかという問題を改めて提起し、その後の世界遺産登録にも大きく影響した「奈良ドキュメント」成立につながった。 この世界遺産登録を機に制定されたのが「平成中期保存修理計画」である。このときには大天守の修理は昭和の大修理から50年を経て別途検討することとなっていたが、その後の破損などを踏まえて計画が前倒しにされ、2009年(平成21年)から2015年(平成27年)に姫路城大天守保存修理工事が行われることとなった。これがいわゆる「平成の大修理」である(詳細は#平成の修理参照)。 ==構造== ===縄張=== 典型的な平山城で、天守のある姫山と西の丸のある鷺山を中心として、その周囲の地形を利用し城下町を内包した総構え(内曲輪は東西465m南北543m、外曲輪は東西1418m南北1854m)を形成している。堀は姫山の北東麓を起点にして左回りに城北東部の野里まで総延長約12.5kmあり、内堀で囲んだ1周目は内曲輪、中堀で囲んだ2周目は中曲輪、外堀で囲んだ3周目は外曲輪といい、3重の螺旋を描くような曲輪構造で渦郭式縄張を形成している(内曲輪だけに注目すると階郭式)。しかし外堀は城北部の野里で不完全に終わり最後まで閉じていないため姫路城の総構えの欠点になっている。これは輝政が城郭を大規模に整備する頃に野里周辺で力を持っていた芥田氏に対して強硬な行動を取る事が出来なかったためと推測されている。この欠点を補うために榊原時代に城の守備について描かれた『姫路城防備布陣図』には有事の際に堀を掘る計画が示されている。 1992年(平成4年)、昭和時代から空堀になっていた東部中堀を整備し水堀に戻した(1998年(平成10年)と2007年(平成19年)には北部中堀も整備)。堀の水は船場川から取水していて、現代ではポンプを使用して約5日間で循環するようになっている。 内堀 ‐ 長さ約3km、堀幅12m‐34m。内堀以内の面積は約23ha(23万平方メートル)。中堀 ‐ 長さ約4.3km、堀幅約20m。中堀以内の面積は約107ha(107万平方メートル)。外堀 ‐ 長さ約5.2km、堀幅約14m。外堀以内の面積は約233ha(233万平方メートル)。各曲輪を仕切る門が以下の通り置かれた。 内曲輪 ‐ 八頭門・桜門・絵図門(出丸内側に菊門)・喜斎門・北勢隠門・南勢隠門中曲輪 ‐ 市ノ橋門・車門・埋門・*175*門(くまたかもん)・中ノ門・総社門・鳥居先門・内京口門・久長門・野里門・清水門(八町毎に1門が置かれた)外曲輪 ‐ 備前門(または備前口門・福中門)・飾磨津門(または飾磨門・飾万門)・北条門・外京口門・竹ノ門大まかには、内曲輪は天守・櫓・御殿など城の中枢、中曲輪は武家屋敷などの武家地、外曲輪は町人地や寺町などの城下町が置かれた。これらの多くが城郭の内にあり、江戸時代の日本では数少ない城郭都市を構成していた。このような総構えは他に江戸城や小田原城などの例がある。明治維新以後の陸軍設置や近代化で堀の埋め立てや建造物の破壊が行われたが、中曲輪・外曲輪は堀と石垣の一部が残っているほか、国道372号に竹の門交差点、野里街道沿いに野里門郵便局といった形で門の名前が残っている。外曲輪の南側は山陽本線姫路駅付近にまで達している。1888年(明治21年)に外曲輪の外堀南側に姫路駅が作られ、そこを通る形で山陽鉄道(山陽本線の前身)が敷設された。 内曲輪以内の面積は23ha、外曲輪以内の面積は233haとなっている。現在では内曲輪の範囲が姫路城の範囲として認識されている。 輝政による築城はちょうど関ヶ原の戦いと大坂の陣の間であり、ゆえに極めて実戦本位の縄張となっている。同時に優美さと豪壮さとを兼ね備えた威容は、「西国将軍」輝政の威を示すものでもある。姫路城以降は慶長20年(1615年)の江戸幕府による一国一城令(同年閏6月13日)や武家諸法度(同年7月)によって幕府の許可なく新たな築城や城の改修・補修ができなくなったこともあり、一大名のもので姫路城に続くほどの規模の城は建築されていない。 ===石垣=== 石垣の積み方や加工の詳細は石垣の積み方を参照。 築かれた時代によって大きく5つの時期に分けられる。本多氏以降は城郭の増改修に幕府の許可が必要となったため補修が主になっている。 1期 ‐ 羽柴氏時代、1580年(天正8年)‐1582年(天正10年)に築かれた石垣で、二の丸に多く残る。野面積み。 2期 ‐ 池田氏時代、1601年(慶長6年)‐1609年(慶長14年)に築かれた石垣で、本丸に多く残る。打ち込み接ぎ、算木積み、扇の勾配。 3期 ‐ 本多氏時代、1618年(元和4年頃)に築かれた石垣で、西の丸に多く残る。打ち込み接ぎ、算木積み。 4期 ‐ 江戸時代、1867年(慶応3年)までに行われた三の丸など各所の補修。切り込み接ぎ。 5期 ‐ 明治時代、1878年(明治7年)以降に行われた西の丸や三の丸(本城)などの補修。1期 ‐ 羽柴氏時代、1580年(天正8年)‐1582年(天正10年)に築かれた石垣で、二の丸に多く残る。野面積み。2期 ‐ 池田氏時代、1601年(慶長6年)‐1609年(慶長14年)に築かれた石垣で、本丸に多く残る。打ち込み接ぎ、算木積み、扇の勾配。3期 ‐ 本多氏時代、1618年(元和4年頃)に築かれた石垣で、西の丸に多く残る。打ち込み接ぎ、算木積み。4期 ‐ 江戸時代、1867年(慶応3年)までに行われた三の丸など各所の補修。切り込み接ぎ。5期 ‐ 明治時代、1878年(明治7年)以降に行われた西の丸や三の丸(本城)などの補修。内曲輪の石垣には約10万t超の石材が使用されている。石質は多くの割合を占める凝灰岩の他、花崗岩・砂岩・チャートがある。石材は近隣の山、広峰山・増位山・景福寺山・手柄山・八丈岩山・砥堀山・鬢櫛山(びんぐしやま)・今宿山・別所谷などから採取された他、転用石として五輪塔・宝篋印塔・古墳の石棺・墓石・石臼・石灯籠の台座などが再利用されている。石材には、地名等の文字、斧や五芒星等の文様が刻印されたものもあり、54種類117個が確認できる。 ===屋根瓦・鯱=== 建物や塀の屋根に用いられている鬼瓦や軒丸瓦などには、その瓦を作った時の城主の家紋が意匠に使用されており、池田氏の揚羽蝶紋、羽柴(豊臣)氏の桐紋、本多氏の立ち葵紋などがよく見られる。家紋の他には、桃の実(カの櫓、への渡櫓)、銀杏(井郭櫓)、小槌(への門)、波頭と十字(にの門)などが意匠に使用されている。また軒平瓦に滴水瓦が使用されているのは現存城郭では姫路城だけである。大天守に使われている瓦は昭和の大修理時に集計した約8万枚とされてきたが平成の修理時に再集計したところ1割ほど少ない約7万5000枚であることが分かった。姫路市城周辺整備室では昭和の大修理での数字は葺き直した瓦の枚数ではなく取り外した枚数ではないかと推測している。 天守以外の櫓の屋根にも鯱が載せられている。 江戸時代の鯱:1687年(貞享4年)と1803年(享和3年)の刻印がされた物、2種類が残っている。貞享4年刻印の鯱は昭和の大修理の時に大天守3階の屋根裏から発見された物。享和3年刻印の鯱は江戸時代の取り替えの際に圓教寺が城主から賜り保管してきた物。明治時代の鯱:1910年(明治43年)の刻印があり「明治の大修理」の時に製作・据えられた鯱。昭和時代の鯱:1687年(貞享4年)の鯱を元に「昭和の大修理」の時に製作・据えられた鯱。通常、鯱は雌雄一対(阿吽)だが、元にした貞享の鯱が雌(吽)だったため大天守に据える11の鯱は全て雌となっている。平成時代の鯱:昭和時代の鯱と同様に、貞享4年(1687年)の鯱を元に「平成の修理」の時に製作・据えられた鯱。 ===防御設備=== 城壁には狭間(さま)という射撃用の窓が総数997個(往時は城郭全体で数千とも)残っており、開口部の内側と外側に角度を付けることで敵を狙いやすく、敵には狙われにくくしている。また城壁を折り曲げて設置している箇所では死角がより少なくなる。形は丸・三角・長方形の穴が開いており長方形のものが「矢狭間」、ほかが「鉄砲狭間」である。長方形の狭間はほかの城にもよく見られるが、さまざまな形の狭間をアクセントとして配置してあるのは独特である。狭間は姫路市内においても公共施設のデザインに組み込まれている。さらに天守の壁に隠した隠狭間、門や壁の中に仕込まれた石落としなど、数多くの防御機構がその優美な姿の中に秘められている。大天守と小天守を繋ぐ渡櫓、小天守同士を繋ぐ渡櫓の各廊下には頑丈な扉が設けられ、大天守、小天守それぞれ独自に敵を防ぎ、籠城できるように造られている。 ===城門の開閉と通行=== 榊原時代の宝永3年(1706年)正月付では、城主在城時は大扉は卯の刻(午前6時)に開門し酉の刻(午後6時)に閉門、潜り戸は酉の刻(午後6時)に開門し戌の刻(午後8時)閉門となっていた。酒井時代は市ノ橋門・車門・埋門・*176*門(くまたかもん)・中ノ門・総社門・鳥居先門・内京口門・久長門・野里門・清水門において「御門、明六ツ打候は直ちに番所の戸を開く。御在城中は明六時打候は御門開、暮六時打候は締めくくり、戸明置五ツ時に至りくくり共に閉める。」とされた。門の出入りは身分や所属と名前を確認したうえで許可された。女性の通行については主人の手形を持っている者に限り、理由のない女性は通行が禁じられた。 ===城主の居館=== 城主の居館は当初、天守台の下にある本丸にあって「備前丸」といった。これは池田輝政の所領備前国にちなむ名である。しかし、備前丸も山上で使いづらいため、本多忠政は三の丸に本城と称する館を建てて住んだ。以降の城主は本城、あるいは中曲輪の市の橋門内の西屋敷に居住している。徳川吉宗の時代の城主・榊原政岑が吉原から高尾太夫を落籍し住まわせたのもこの西屋敷である。西屋敷跡およびその一帯は現在では姫路城西御屋敷跡庭園「好古園」として整備されている。 ===内曲輪=== 内曲輪は大きく分けて本丸・二の丸・三の丸・西の丸・出丸(御作事所)・勢隠曲輪の多重構造になっている。さらに内部は、いの門・ろの門などいろは順に名付けられた門などによって水曲輪・腰曲輪・帯曲輪などの曲輪に細かく区切られている。内曲輪における櫓や門の位置関係については右の画像の説明文を参照。内曲輪には天守や櫓群などの軍事と、御殿や屋敷などの政務の中枢が置かれた。 姫山北部には樹木が生い茂る「姫山原生林」がある。この原生林の中には、本丸からの隠し通路の出口があるという噂があるが、その存在は確認されていない。姫山の西を流れる船場川は、内堀に寄り添う形で流れており、堀同様の役割を果たしている。江戸時代にはその名の通り水運のために利用されていた。 ===内曲輪の通路と門=== 内曲輪の通路は迷路のように曲がりくねり、広くなったり狭くなったり、さらには天守へまっすぐ進めないようになっている。本来の地形や秀吉時代の縄張を生かしたものと考えられている。門もいくつかは一人ずつ通るのがやっとの狭さであったり、また、分かりにくい場所・構造をしていたりと、ともかく進みづらい構造をしている。これは防御のためのものであり、敵を迷わせ分散させ、袋小路で挟み撃ちにするための工夫である。 たとえば、現在の登城口(三の丸北側)から入ってすぐの「菱の門」からは、まっすぐ「いの門」・「ろの門」・「はの門」の順に進めば天守への近道のように見えるが、実際は菱の門から三国濠の脇を右手に進んで石垣の中に隠された穴門である「るの門」から進むのが近い。「はの門」から「にの門」へ至る通路は守り手側に背を向けなければ進めない。「ほの門」は極端に狭い鉄扉である。その後は天守群の周りを一周しなければ大天守へはたどり着けないようになっている。「はの門」へ続く坂道は「将軍坂」と呼ばれている。 「菱の門」は伏見城から移されたという伝承があり、長押形の壁に火灯窓を配した古式な姿を残している。また、「との一門」は置塩城から移築したという伝承があり、壁が板張りであって、門の下側にいる敵を弓矢や槍などで攻撃できる「石落し」がないなど古風な様式で、城内に現存する門の中でも異色の存在である。 ===本丸=== ===天守丸・備前丸=== 天守丸は連立した天守群によって構成され、天守南の備前丸には御殿や対面所があり池田氏時代には政務の場であった。御殿や御対面所などは明治時代に焼失している。 姫路城の天守は江戸時代のままの姿で現在まで残っている12の現存天守の一つで、その中で最大の規模を持つ、まさしく姫路の象徴といえる建物である。姫路城の天守群は姫山(標高45.6m)の上に建っており、姫路城自体の高さは、石垣が14.85m、大天守が31.5mなので合計すると海抜92mになる。天守の総重量は、現在はおよそ5,700tである。かつては6,200tほどであったとされるが、「昭和の大修理」に際して過去の補修であてられた補強材の撤去や瓦などの軽量化が図られた。天守内には姫路城にまつわる様々な物品が展示されている。 姫路城の最初の天守は1580年(天正8年)の春、羽柴秀吉によって姫山の頂上、現在の大天守の位置に3重で建てられた。この天守は池田輝政により解体され、用材は乾小天守に転用された。 2代目の天守は池田輝政により建てられ、5重6階天守台地下1階(計7階)の大天守と3重の小天守3基(東小天守・西小天守・乾小天守)、その各天守の間を2重の渡櫓で結んでいる「連立式天守」である。天守は全て2重の入母屋造の建物を基部とする望楼型で、建設時期や構成からさらに後期望楼型に分類されることもある。壁面は全体が白漆喰総塗籠(しろしっくい そうぬりごめ)の大壁造で造られており、防火・耐火・鉄砲への防御に加え、美観を兼ね備える意図があったと考えられている。折廻櫓には編目格子が施されている。 ===水曲輪・腰曲輪=== 天守の下は岩盤で井戸が掘れず、そのため天守と腰曲輪の間の補給の便のため水曲輪を設け、「水一門」から「水五門」までの門を設けている。 天守の北側にある腰曲輪(こしくるわ)には、籠城のための井戸や米蔵・塩蔵が設けられている。なお平時に用いる蔵は姫山の周囲に設けられていた。腰曲輪の中、ほの門内側、水一門脇に5.2m分だけ、油塀(あぶらべい)と呼ばれる塀がある。白漆喰で塗られた土塀ではなく、真壁造りの築地塀である。製法については油、もしくはもち米の煮汁を壁材に練りこんだと考えられている。理由については、秀吉時代の遺構という説があるが、防備の上で特に高い塀を必要としたという説もある。 ===外観意匠=== 外観は最上部以外の壁面は大壁塗りで、屋根の意匠は複数層にまたがる巨大な入母屋破風に加えて、緩やかな曲線を描く唐破風(からはふ)、山なりの千鳥破風(ちどりはふ)に懸魚が施され多様性に富んでいる。最上階を除く窓はほとんどで格子がはめ込まれている。 初重目 ‐ 方杖付きの腰屋根を四方に、東面中央に軒唐破風と下に幅4間の出格子窓(でごうしまど)、北東・南東・南西の隅に石落としを設置している。2重目 ‐ 南面中央に軒唐破風と下に幅5間の出格子窓を設けている。東西に3重目屋根と交わる大入母屋破風を設置している。3重目 ‐ 南面・北面に比翼入母屋破風、2重目から大入母屋破風が交わっている。4重目 ‐ 南面・北面に千鳥破風、東面・西面に軒唐破風5重目 ‐ 最上部。南北に軒唐破風、東西に入母屋屋根、壁面は他の壁面とは違って柱などが浮き出る真壁になっている。 ===内部構造=== 各階の床と屋根は天守を支えるため少しずつ逓減され、荷重を分散させている。大天守の心柱は東西方向に2本並んで地下から6階床下まで貫き、太さは根元で直径95cm高さ24.6mの木材が使用されている。うち、西大柱は従来の材が継がれたものであったため一本材に取り替えようとしたが、その際に折れてしまったので3階床下付近で継いでいる。東西の旧大柱は、目通りは東大柱十尺、末口は五尺三寸の杉木材。西大柱も同様の木材ではあるが三重目あたりで松に継いであり、根元から二尺に継ぎ目に補修した「貞享保四年丁卯の六月」の墨書きがあった。その他の柱用材は欅・松・犬桜など堅い樹種を二寸角にして使用している。敷居・鴨居は一尺二寸幅で舞良戸をはめていたが現在は建具は取り付けられていない。 地下 ‐ 東西約11間半・南北約8間半。穴蔵と呼ばれている。簀の子の洗い場(流し台)と台所を付属させ、厠を3箇所設置している。1階 ‐ 東西約13間・南北約10間。北側に東小天守と接続するイの渡櫓、西側に西小天守と接続するニの渡櫓。2階 ‐ 1階とほぼ同様の構造。地下から2階は身舎の周りに武者走りを廻し、鉄砲や槍などが掛けられる武具掛が付けられている。3階 ‐ 東西11間・南北8間。武者走りがあるが、それに加えて破風部屋と武者隠(むしゃがくし)と呼ばれる小部屋が数箇所設けられている。また、石打棚(いしうちだな)という中段を窓際に設けて、屋根で高い位置に開けられた窓が使えるように高さを補っている。4階 ‐ 東西9間・南北6間。3階同様に石打棚がある。武具掛けのある比翼入母屋破風の間が南北に2箇所ずつ(計4箇所)ある。5階 ‐ 東西9間・南北6間。大広間一室で4重目の屋根裏部屋に相当する。大柱はこの階の天井まで通っている。6階 ‐ 最上階。東西7間・南北5間。一段高い身舎周囲に入側を巡らしている。部屋の中央に柱を立てず、書院造の要素を取り入れ長押や棹縁天井など書院風の意匠を用いている。長壁神社が分祀されている。頼山陽が詠んだ漢詩も展示されている。”五畳の城楼 晩霞を挿む 瓦紋 時に見る 桐花を刻するを *177*州 曽つて啓く 阿瞞の業 淮鎮 興すに堪えたり 匡胤の家 甸服 昔時 臂指に随い 勲藩 今日 喉牙を扼す 猶思う 山陰道を 経略せしを 北 因州に走る 路叉を作す”。3基の小天守の最上階は蟻壁長押、竿縁猿頬天井の書院風意匠になっている。釣鐘のような形の火灯窓を西小天守、乾小天守の最上階に多用している。火灯窓は同様の後期望楼型天守である彦根城天守や松江城天守などにも見られる。乾小天守の火灯窓には、「物事は満つれば後は欠けて行く」という考え方に基づき未完成状態(発展途上状態)を保つため格子を入れていないという。 ===東小天守=== 3重3階・地下1階で天守丸の北東に位置する。西小天守や乾小天守のような火灯窓や軒唐破風はない。建設当初は丑寅櫓(うしとらやぐら)と呼ばれていた。 ===乾小天守=== 3重4階・地下1階で天守丸の北西に位置する。建設当初は乾櫓(いぬいやぐら)と呼ばれていた。秀吉が築城した三重天守であったという説があり「昭和の大修理」では秀吉時代の木材が転用された事が分かっている。 ===西小天守=== 3重3階・地下2階で天守丸の南西に位置する。水の六門が付属している。建設当初は未申櫓(ひつじさるやぐら)と呼ばれていた。2002年(平成14年)、西小天守の修理が完了した。 ===イ・ロ・ハ・ニの渡櫓=== 大天守と各小天守を連結している渡櫓。イ・ロ・ハの渡櫓はいずれも2重2階・地下1階、ニの渡櫓は水の五門が付属して2重2階の櫓門になっている。天守群と渡櫓群で囲まれた内側に台所櫓があり大天守地階とロの渡櫓1階を繋いでいる。 ===二の丸=== 秀吉時代の縄張りを活かした雛壇状の作りになっており通路は迷路のように入り組んでいる。 ===三国堀=== 姫山と鷺山の間にあった谷を利用して作られた捨て堀で輝政の所領、播磨・淡路・備前の三国に由来する。姫山と鷺山から流れた雨水を濾過する役割があったとも、秀吉の時代は空堀であったともいわれている。 ===菱の門=== 二の丸入口にある櫓門で現在では正面登閣口から入って最初に通る門。西側にある石垣と土塀で枡形虎口を形成し門の片側が石垣に乗る変則的な櫓門で、西側部分に番所詰所、東側部分に馬見所がある。城内の現存の門では唯一、柱・舟肘木・長押を表面に出した真壁造りで安土桃山時代の意匠を残している。櫓二階部分の中央に黒漆と金箔で装飾された格子窓と両側に同じ装飾の火灯窓、その右手に庇出格子窓がある。門名は冠木に木製の花菱模様が装飾されている事や築城以前に流れていた菱川に由来する。 ===帯曲輪(腹切丸)=== 天守の南東にある帯曲輪(おびくるわ)は城の防御において射撃などを行う場所として築かれた。帯郭櫓は2重2階で1階2階ともに3部屋に区切られ、1階には石打棚がある。帯の櫓は1重1階(地下1階)で約23mの石垣の上にコの字型に建てられている。外側から見ると平櫓であるが地下に井戸があるため内側からは2重の多門櫓に見える。内部は座敷部屋や床の間も設けられている。太鼓櫓は1重1階で折れ曲がり西・南・北の3部屋がある。歪みのある石垣上に建てられたため西部屋は傾斜がある。江戸時代は「への櫓」と呼ばれた。太鼓櫓の西側には「りの門」があり帯曲輪と上山里曲輪を区切っている。「りの門」は脇戸付高麗門で「慶長四ねん大工五人」と書かれた墨書が発見されており、解体や移築の痕跡もなく木下家定の時代の建築と判明している。帯曲輪が俗に「腹切丸」と呼ばれる由来としては、建物の形状やその薄暗い雰囲気などから切腹の場を連想させることにより呼ばれるようになったと見られているが、通常では処刑場は城外にあり、藩主の屋敷付近や井戸付近では実際に切腹が行われたことは考えにくいという。 ===上山里曲輪=== ぬの門 ‐ 脇戸付きの鉄板張り二重櫓門。一層目は鉄格子窓、二層目は出格子窓。東側石垣に巨石を置き鏡石としている。「お菊井戸」が残っている。 ===三の丸=== 江戸時代、三の丸西側には御殿や屋敷があり本城(御居城)と呼ばれ、東側には向屋敷と庭園があり本多氏以降の政務の中心の場であった。 本城には、 大広間(鶴之間):151畳虎之間:36畳雁之間:23畳半蜜柑之間:40畳小書院:70畳新書院4:7畳半装束の間:18畳評定之間:43畳半時計之間:25畳勝手之間:52畳御使者の間:12畳用人詰所:12畳他に御居間、能舞台、湯殿、便所、台所などの御殿建築があった。 東側の向屋敷には池泉式庭園・築山・茶室が設けられ、北側には御用米蔵や上三方蔵があった。本多忠刻・千姫夫妻が居住していた武蔵野御殿は金箔や銀箔を張った戸襖に千姫が幼少のころに過ごした武蔵野を偲んで一面に緑青でススキの絵が描かれていたことに由来する。三の丸からは西の丸の石垣下にある鷺山口門が内堀に通じていた。江戸時代の建物や庭園は明治時代に取り壊され現存していない。1998年(平成10年)、姫路藩主・本多家の家老であった中根家の子孫宅から第二次本多時代(1682年(天和2年)、本多忠国から1704年(宝永元年)、本多忠孝まで)の姫路城内曲輪を詳細に描いた『播州姫路城図』が発見された。この絵図から兼六園のように広くはないが三の丸・向屋敷にも大名庭園があったことが分かるなど、失われた御殿や屋敷など往時の様子を偲ばせる貴重な史料となった。 1939年(昭和14年)4月、旧制の姫路市立鷺城中学校(現姫路市立姫路高等学校)が設置されたが1945年(昭和20年)の姫路空襲で焼失した。三の丸跡のうち本城跡は千姫ぼたん園に、向屋敷跡は三の丸広場に整備された。三の丸広場は市民の憩いの場となっており、花見や各種のイベントスペースとしても使用されている。三の丸の東部と東側に位置する出丸(御作事所)は姫路動物園の一部になっている。1947年(昭和22年)、三の丸に野球場と相撲場が建設された。 2014年(平成26年)11月6日、姫路市教育委員会が三の丸の発掘調査で大手から菱の門前まで通じる南北200m、幅21mの三の丸大路の跡や礎石の跡などを確認したと発表した。また三の丸西にあった御居城への通路の幅も約8mと分かった。『播州姫路城図』に描かれていた当時の様子が明らかになりつつある。9日に現地説明会が行われた。 ===下山里曲輪=== 三の丸北部、二の丸の上山里曲輪の南側下段にある曲輪。西側から南側の石垣に土塀が築かれ東側に門があった。1955年(昭和30年)までは「下山里展望台」となっていた。その後の「昭和の大修理」の時に発見された墓石・石像などが祀られ、春と秋の彼岸、旧盆には正明寺と姫路城を守る会によって供養が行われている。 ===大手門(桜門)=== 現在「大手門」と呼ばれている大型の高麗門は1937年(昭和12年)に「桐二の門」があった場所に再建した門で江戸時代の意匠とは異なる。本来の大手口は入り口から桜門・桐二の門・桐一の門と続き、それらを三重の太鼓櫓・多聞櫓・ねの櫓で囲み、6回曲がらなければ天守方面へ行けない厳重な二重枡形を形成していたが、建物は明治時代の陸軍設置の際に取り壊されて現存しない。2007年(平成19年)に桜門橋を復元している。 ===西の丸=== 西の丸は本多忠政が伊勢桑名から移ってきた時に整備・拡張された曲輪。北端に位置する化粧櫓及び櫓群と、これらを結ぶ渡櫓(長局)が残っている。 ===渡櫓(長局)=== 渡櫓の城外側は幅1間の廊下が「カの渡櫓」から「レの渡櫓」まで長さ約121間(約240m)に渡って連なっており「百間廊下」と呼ばれている。城外に向けて石落としや狭間、鉄砲の煙出しの窓も付設されている。城内側は侍女達の部屋があり主室と付属室などに区分され長局を構成している。昭和の大修理の際に、草花模様で彩色した痕跡のある柱が発見されている。 ===化粧櫓=== 化粧櫓は、千姫が忠政の嫡男・忠刻に輿入れする際の化粧料10万石で1618年(元和4年)に建てられたものである。外観は二重二階、内部は畳が敷かれた座敷部屋が3室に区分され床の間がある奥御殿になっている。戦前の修理までは、化粧櫓にはその名の通り当時の化粧品の跡が残っていたという。千姫は西の丸内に設けられた中書丸(天樹院丸)と三の丸脇の武蔵野御殿に住んでいたが、いずれも現在は失われている。 ===勢隠曲輪=== 天守東部の搦め手から北部一帯の広い曲輪で喜斎門・八頭門・北勢隠門・南勢隠門で仕切られていたが、いずれの門も建築物は無く石垣が残っている。内堀に面する北側は屏風折れに石垣が組まれ死角を少なくしている。「ゐの櫓」・内船場蔵・下三方蔵があった。酒井忠実の時代にはこの曲輪内で南部産の馬を飼育していた。東端区域は姫路神社になっている。大正時代に一般公開されてから終戦までは搦め手の登城口から入城していた。勢隠曲輪と三の丸は本来は繋がっていなかったが、1933年(昭和8年)、三の丸東部の内船場蔵と喜斎門南の下三方蔵を繋ぐ通路が整備され、1957年(昭和32年)に拡幅した。2017年(平成29年)の石垣修復による調査で竪堀の跡や新たな刻印の発見などがあった。 ===中曲輪=== 中曲輪は武家地で、城主が居住する東屋敷・西屋敷(樹木屋敷)、家老などの上級武士の侍屋敷などが建ち並んでいた。内曲輪の正面(南側)やそこに近いほど役職が高く広い屋敷を与えられた。東部から北部にかけては中級から下級武士の屋敷、南部には姫路藩校の好古堂、東部端には桐の馬場があった。明治維新後から太平洋戦争終了まで帝国陸軍が置かれ軍の建物や広大な練兵場になっていた。桜門へ通じる大手筋があった城南部は城南練兵場に、城北部は姫山練兵場になり、城南西部は歩兵第39連隊が、城東部は第10師団司令部や衛生病院が建設されていた。終戦後は城の北東部に市役所(現在の市立美術館)、裁判所、検察庁、労働基準局、保健所などの官公庁があった。酒井氏時代の筆頭家老・高須隼人の屋敷があった場所は平成になって『姫路侍屋敷図』を元に大手筋の復元や飲食店や土産物販売をする家老屋敷館(い・ろ・は・にの屋敷)が建てられた家老屋敷跡公園に整備された。家老屋敷館のシャッター(36箇所・全長134m)には『行軍横図 鉄砲洲警衛絵巻』(姫路市所蔵)が描かれている。 ===中曲輪の門=== 内曲輪の南勢隠門から堀が続く中曲輪には11の門があり、中曲輪西部の市ノ橋門から反時計回りに車門・埋門・*178*門(くまたかもん)・中ノ門・総社門・鳥居先門・内京口門・久長門・野里門・清水門となっている。いずれも門や櫓などの建物はなく石垣や土塁が残っている。 市ノ橋門中曲輪の西側で、外堀に最も接近した門であり、外堀の外へ通じている。門のすぐ西にある市ノ橋に由来する。車門中曲輪の西側、船場川沿いにあった門で、北に車(荷車)が通行する車道門があったことに由来する。普段は車道門を使わず南側の枡形門を使っていた。第一門は西向き、第二門は南向きでいずれも脇門付高麗門、内門は南向きで脇門付櫓門の3つの門で二重枡形を構成していた。第一門の横には番所が置かれていた。木橋が架けられており、外側の船場川とは水門で繋がっており船溜まりがあった。枡形は2つの門で構成される事が多いが、車門の枡形は西国方面への攻守両面に備えて3つの門で構成した厳重な二重枡形になっている。石垣は池田輝政の築城時に築かれたものと推定されている。埋門(うずみもん)中曲輪の南西隅櫓の傍ら、船場川沿いにあった門。城から見て裏鬼門の方角(南西)に当たることに由来する。内門(脇門付櫓門)と外門(脇門付高麗門)はともに南向きで中堀には土橋を架けていた。*179*門(くまたかもん)中堀南部の西側、本町と坂元町との境にあった門で、城主交代の際、ここで鷹を手渡す儀式が行われたことに由来する。内門(脇門付櫓門)と外門(脇門付高麗門)はともに南向きで中堀には土橋を架け、外門を入った所には番所があった。門外に鷹の世話をした人の町・鷹匠町(たかじょうまち)の地名が残っている。中ノ門中堀南部中央にあった門。外曲輪の飾磨門から内曲輪の桜門へ通じる大手筋にあった。終戦後に大手前通りが整備されるまでは大手筋は、江戸時代から明治末期は中ノ門筋(現在の大手前通りの西側)、明治末期から昭和30年代はみゆき通り(現在の大手前通りの東側)であった。中曲輪の正面五門の中央であることに由来する。総社門中堀南部(中ノ門の東)にあった門。播磨国総社の西門に通じていることに由来する。鳥居先門総社門の東にあった門。播磨国総社の南鳥居の前にあったことに由来する。祭事以外では開けることがなかったので、不開門(あかずのもん)とも言われた。石垣など遺構は残っていない。内京口門中堀東南にあった門。外曲輪の外京口門とともに京都方面に通じることに由来する。戦後は賢明女子学院の裏門になっている。久長門(きゅうちょうもん)中堀東側にあった門。久長町にあることに由来する。内門(脇門付櫓門)と外門(脇門付高麗門)はともに東向きで中堀に土橋が架けられ、外門の内側に番所があった。石垣の一部は残っている。野里門中堀北東にあった門。野里への出入口にあることに由来する。内門(脇門付櫓門)は北向き、外門(脇門付高麗門)は東向きで中堀に土橋を架け横矢を仕掛けるため堀を鍵型に屈曲させていた。土塁は残っているが石垣は残っていない。清水門北面の北勢隠にあった門。「鷺の清水」と呼ばれる井戸があることに由来する。中堀と外堀の合流地点。枡形内にある鷺の清水跡は、播磨十水の一つに数えられ、『播磨鑑』には京都の名水「柳の水」と飲み比べられたという記述の他、歴代城主が茶の湯などにも利用した井戸の跡であり、平成になって『人口幾蔵姫路城図』(1823年(文政6年))などを参考に上屋形が復元された。 ===外曲輪=== 外曲輪には下級武士や町人の居住区・寺院などが置かれた。広峰山を山あて(目印)にした立町筋(竪町筋)を中心に、78町に町割りした城下町(姫路町)が形成された。姫路市中心部に現在も残る町名として、鍛冶町・白銀町・金屋町・材木町・紺屋町などの職人の町、呉服町・綿町・米屋町・塩町・魚町・博労町などの商人の町、小姓町・鷹匠町・同心町・坊主町など身分に因む町名、上寺町・下寺町などの寺社の町がある。二階町には国府寺本陣や脇本陣、家老の河合道臣が藩の財政を立て直すために作った木綿会所・切手会所、札の辻などがあった。 2012年9月28日、市内平野町での住宅建設工事における調査で17世紀初め頃の外曲輪の武家屋敷跡が発見されたと姫路市埋蔵文化財センターが発表した。池田時代の外曲輪の遺構が見つかるのは初めて。江戸時代後期の絵図では川合又四郎の屋敷にあたり井戸・溝跡などの遺構の他、「安永九年」(1780年)と書かれた茶碗など17世紀から幕末にかけての土器・陶磁器なども発見された。 ===外曲輪の門=== 中曲輪の清水門から続く外曲輪には5つの門があり、外曲輪南西部の備前門から反時計回りに飾磨津門・北条門・外京口門・竹ノ門となっている。いずれも門や櫓などの建物はなく石垣や土塁も破壊または地中に埋められている。 備前門(または備前口門・福中門)外堀南西にあった門。西の備前国へ通じることに由来する。中堀・外堀に面していた。2014年(平成26年)9月17日、県道整備に伴う調査で市内博労町付近の外堀に掛かっていた備前門橋の礎石と外堀の両岸にあった石垣を発掘したと兵庫県立考古博物館と姫路市教育委員会が発表した。外堀に掛かっていた橋は5つあったが遺構が発見されたのは初めてで絵図や屏風絵などの資料と一致する。橋の礎石は長さ1.2mから1.4mの直方体の石が4本、欄干の礎石は45cm四方で15cmの穴が開いていることから角材と推測される。調査に立ち会った広島大学大学院教授の三浦正幸によると「江戸時代に備前門にかかっていた木橋の一部に間違いない。橋は幅約3間(5.4m)以上あり、西国街道が通る立派な木橋だったと推定できる。当時の木橋は幅1間(約1.8m)。メーンストリートである西国街道から西日本最大級の城下町への入り口として、極めて大きな橋が架けられたことが実証できた。」とのこと。また城から南東の神屋町で見つかった外堀(堀幅は約17m)の石垣は逆L字に石垣が屈曲する部分で、城内側は南北約5m、東西約1.8mが出土した。石垣は幅60cmから90cmセンチ、厚さ20cmから40cmの凝灰岩を2m以上積み上げていた。対岸の石垣は南北約5.5m、高さ約0.7mが残っていた。形状や加工方法から築城当初の物と判断でき、江戸時代の水害で補修した跡も見つかった。現地説明会も行われた。平成29年9月、備前門の石垣跡が発掘された。私有地であるため調査後は埋め戻された。飾磨津門(または飾磨門・飾万門)外堀南部にあった門。中ノ門筋から南の飾磨津(姫路港)へ通じる事に由来する。東西60m南北80mの門があった。山陽姫路駅建設時に埋め立てられた。北条門外堀南東部にあった門。城南東部の北条地域へ通じることに由来する。兵庫信用金庫本店前交差点付近にあった。2013年(平成25年)11月、発掘調査により城下南東部にあった北条口門付近で下級武士の建物跡とみられる掘立柱建物の跡や柱穴列などが発掘された。2014年(平成26年)11月26日には、江戸時代の姫路城城下町跡(市内北条口)で武士の居住区と町人の居住区を分けた溝が初めて見つかった。中世の溝を踏襲した形で溝の北側が町人、南側が武士の居住区となっていた絵図と合致する。外京口門外堀東部にあった門。中曲輪の内京口門とともに京都方面に通じることに由来する。姫路市立東光中学校の体育館床下に石垣が保存されている。この門が面していた外堀東部の東半分が明治時代に埋め立てられ、生野銀山と飾磨港を結ぶ生野鉱山寮馬車道(銀の馬車道)が整備された。竹ノ門外堀北東部にあった門。城の北東、鬼門に当たるため「他家→竹」としたことに由来する。北西に進み野里堀留町で堀の終点となる。2012年11月15日、市内白銀町(当時の町屋と浄恩寺があった場所に相当)での発掘調査で礎石・石組・井戸・土坑・かまどなどの跡が発見されたと姫路市埋蔵文化財センターが発表した。 ===野里・船場・外縁=== 城北の野里(野里町)や城西の船場(龍野町)は外堀の外縁にあって総構えには含まれてはいないが、築城以前からある町で、野里は但馬道、船場は山陽道や船場川と通じており流通や交通で栄えた。野里や船場の建物は三叉路や街路に対し斜めに配置されたノコギリ横丁と呼ばれている。城下に攻め込まれた場合にも斜めに配置することで死角に身を隠すことが出来た。 ==修理の歴史== ===江戸時代の修理=== 大天守の大規模な補強修理は、1656年(明暦2年)に東・西大柱の腐った根元を取り除き栂材をはめ込み、更に帯鉄を巻き添え柱を建てる根継ぎ補強工事、1684年(貞享元年)と1700年(元禄13年)の梁などへの補強支柱の組み入れの他、1692年(元禄5年)、1743年(寛保3年)にも行われている。小規模な修理では、軸部の補強修理19回、屋根や軒廻りの修理17回が墨書などにより確認されている。酒井氏時代には「姫路城は広大で修繕する箇所が多い」、「壁の塗り直し以外にも基礎の手入れを怠らぬように」といった趣旨の記録が残っている。姫路城は江戸時代にもたびたび修理が行われてきたが、当時の技術では天守の重量に礎石が耐えられず沈み込んでいくのを食い止めることは難しかった。加えて柱や梁などの変形も激しく、俗謡に『東に傾く姫路の城は、花のお江戸が恋しいか』などと歌われる有様であった。 ===明治の大修理=== ====第一期工事==== 工事は1910年(明治43年)7月10日から1911年(明治44年)7月15日に行われ、修理個所は、大天守・東小天守・西小天守・乾小天守・はの渡櫓・ろの渡櫓・いの渡櫓・にの渡櫓・台所・水の四門・水の五門・水の六門が対象となった。 1910年(明治43年)6月24日、第10師団経理部で工事入札が行われ、中村祐七(姫路)、松村雄吉(福知山)、中村勘次郎(神戸)、澁谷治三郎(京都)、大溝組(大坂)が参加、中村祐七が当時の額5万6900円で落札した。同年7月10日から工事が行われ、まず資材の搬入出をするために大天守の東側の喜斎門側から全長150m、幅4mの桟橋が架けられた。桟橋にはモーターで巻き上げるワイヤーロープが設置されトロッコで資材を運び、天守の周りには1万本の木材を組んで足場が組まれた。筋交いを2層目に3本、3層目に6本、4層から7層目には8本入れ、支柱を2層と3層目の東南部分に各14本入れた。破損や腐食のある梁・桁・隅木・棟木・根太・床板・破風は取り換えられた。瓦は全て取り外され半数は洗浄の後に再利用された。葺き替えの際には屋根漆喰は5回の重ね塗りが行われた。 木材は大天守の各階の壁面に筋交い柱として組み入れボルトで締められた。同時に大天守の屋根修理と壁漆喰の塗り直しも施された。しかし、明治の大修理では天守の傾きを根本的に修正するには費用が足りず、傾きが進行するのを食い止めるに留まった。 ===第二期工事=== 修理個所は、井郭櫓・折曲櫓・帯郭櫓・帯渡櫓・菱の門・喜斎門・各門(に・ほ・へ・と・ち・り・ぬ)・各櫓と渡櫓(い・ろ・は・に・ほ・ち・り・を)・土塀各所が対象となった他、場内の通路整備などが行われた。 1910年(明治43年)10月25日、第一期工事と同じ場所と参加人で工事入札が行われ、松村雄吉が2万9015円で落札した。同年11月5日から第一期工事の資材を再利用して工事が始まった。 ===昭和の大修理=== 昭和の大修理は、1934年(昭和9年)6月20日、西の丸の「タの渡櫓」から「ヲの櫓」が豪雨のため石垣もろとも崩壊したことに端を発する。1935年(昭和10年)2月から修復工事が始まったが同年8月の雨で「ルの櫓」の石垣が崩落する。これを受けて修理計画を見直し西の丸全域の修理を国直轄事業で進め、全ての建物を一度解体してから部材を修復し再度組み立て直すという方法が採られることとなった。大工棟梁は和田通夫。建築物の修復の他、石垣の修復も行われたが、その際に作業員が死亡している。 第一期工事は1935年(昭和10年)から1950年(昭和25年)3月まで行われることとなり、まず天守以外の建物のある西の丸及び北腰曲輪の櫓群や門・土塀などがその対象となった。1938年(昭和13年)に西の丸の解体修理が終わり北腰曲輪の修理に取り掛かるが1944年(昭和19年)、太平洋戦争での日本の戦局悪化により中断を余儀なくされた。 姫路空襲による焼失の危機を免れると、1949年(昭和24年)、姫路市長らが「白鷺城修築期成同盟」を結成し市民の署名とともに『姫路城補修、保護施設費国庫補助請願』を政府に提出し、衆議院本会議において採択された。国からの1300万円(当初予算1千万円と災害費300万円)と、県と市を併せて300万円の合計1600万円(金額は全て当時の額)の予算が組まれ文部省直轄事業で行われた。1950年(昭和25年)に大修理が再開され、第二期修理計画は第一次と第二次に分かれて行われた。 ===第一次六カ年計画(昭和25年度 ‐ 昭和30年度)=== 菱の門・帯の櫓・帯郭櫓などの櫓8棟のほか、門7棟、土塀13箇所、石垣3箇所が解体修理され、1956年(昭和31年)3月末までに天守以外の修理を完了した。第一次修理では当時の額で約1億円を要した。 ===第二次八カ年計画(昭和31年度 ‐ 昭和39年度)=== 大天守・東小天守・西小天守・乾小天守とイ・ロ・ハ・ニの各渡櫓などの解体修理が行われた。一般で言われている昭和の大修理は、この第二次修理を指している。1956年(昭和31年)より天守大修理に着手することとなる。特に天守においては、その全体に木材で足場を組み巨大な素屋根を掛けて解体・修復工事が行われた。姫路城より先に解体修理が行われた松本城で使われていた素屋根の丸太も再利用された。解体修理によって柱や桁などの構造物に書き込まれていた様々な墨書や文書、備前丸の御殿跡などの発見があり姫路城の研究に大きく役立てられた。基礎部分は工事前の調査で南東に44cm地盤沈下していると判明し、礎石のままでは天守の重量を支えきれないため礎石を撤去し、新たに十弁式定盤基礎という鉄筋コンクリート製の強固な基礎構造物が姫山の岩盤上に直接構築された。この時、羽柴秀吉が城主だった頃築かれた天守の礎石や石垣が地下から発見された。天守を解体した時、これを支えていた東西の「心柱」のうち、西の心柱が芯から腐って再利用不能であると判断され、ただちにこれに替わる巨木探しが始まった。兵庫県神崎郡市川町の笠形神社境内の檜が検討されたが、上部に曲がりがあり、また、根元にも腐っている疑いがあり保留になった。1959年(昭和34年)になってようやく岐阜県恵那郡付知町(現中津川市)の山中に最適な檜が発見されたが、これは切り出す途中に折れてしまい、その近くで発見されたもう1本は森林鉄道を用いて運搬する途中でそのあまりの長さゆえに折れてしまった。窮余の策として、折れた2本目の根本側と笠形神社の檜とを継ぎ合わせて使用されることとなった。実は修理以前の西心柱は元々二本継ぎで作られており、修理開始の段階ではその理由が判明しておらず、そのため分割なしの1本の柱を立てることが計画されたのであるが、交換部材が前述のアクシデントで2本継ぎとされることが決まり、実際に組み立て作業が行われる段階になって、これは構造上中央部で2分割しないと立ち上げ時に先に立てられた東心柱に干渉し、狭い作業空間内で正しく組み上げられないことが判明した。これらの檜は姫路市民総出で大手前通りを祝い引きされ、姫路城内へと運び込まれた。天守の修理に当たっては、他に重量低減のため特に工夫を加えて焼成された軽量瓦や、耐震補強のための金具類が新たに使用されている。一方で石垣などそのままで差し支えないと判断されたものはほとんど手を加えられていない。天守の修理は1964年(昭和39年)竣工(完了)した。天守の工事費は約5億3000万円であった。のべ25万人の人員と戦前修理分の費用を物価換算して戦後の費用と合計すれば、1964年当時の価格で約10億円に相当すると考えられている。 ===平成の修理=== 工事正式名称は「国宝姫路城大天守保存修理工事」で工事期間は2009年6月27日着工から2015年3月18日竣工。事業費は28億円(素屋根工事費 12億6千万円、補修工事費 15億4千万円)と見積もられている。施工は鹿島建設・神崎組・立建設JV。「昭和の大修理」により「50年は保つ」と言われていたが、大修理から45年が経過した時点で予想以上に漆喰や木材の劣化が進んでいたため、大天守の白漆喰の塗り替え・瓦の葺き替え・耐震補強を重点とした補修工事が進められている。漆喰はカビが原因で黒ずみが発生するため防カビ強化剤が塗布された。天守台入り口付近・上山里下段・清水門・車門・内京口門各所の石垣修復には竜山石が使われた。 2009年(平成21年)4月6日から保存修理を目的にした「平成の「姥が石」愛城募金」が行われている。 素屋根工事 ‐ 大天守を覆う工事作業用の8階建物の建設と解体工事。素屋根を設置する場所も史跡内であるため杭を打ち込むなどの工事は出来ず自重で固定・建っていた。また木造建築がある史跡内では火が使えないため溶接ではなくボルト締めで組み立てられていた。資材搬入や作業用足場、見学部屋などを設置していた。屋根修理 ‐ 瓦の全面葺き直し。瓦は検査をした上で使える物は再利用し、再利用ができない分は新しい瓦に取り替えられた。平瓦は全てステンレス鋼製釘で、丸瓦は3枚に1枚を銅線で瓦留めをして目地漆喰を塗り直された。壁面修理 ‐ 1‐4層は、表面の漆喰を塗り直し、軒揚・破風・懸魚は傷み具合によって上塗りまたは下地から修理。5層は下地の土壁から塗り直す全面修理。破風下の窓には鳩避けのピアノ線が張られた。構造補強 ‐ 柱・床に最小限度の耐震補強工事。昭和の大修理のような大規模解体修理ではないため、工期中も工事や安全に支障がない範囲で大天守内部と周辺の公開は続けられていた。大天守を覆う素屋根は徐々に設置・解体されるために工事の進み具合で見え方は異なった。2010年(平成22年)春頃までは大天守の外観を見ることができたが、2011年(平成23年)春頃からは大天守からの展望や外観の展望が完全に望めなくなっていた。また大修理のことを知らずに旅行で日本を訪れ、現地で大天守に登ることができないことを知り落胆する外国人観光客が後を絶たないとも報じられた。素屋根の撤去が進んだ2014年(平成26年)5月初旬には大天守の姿が見え始め、6月中旬にはほぼ全体が見えるようになっていた。 2009年 5月:鹿島建設・神崎組・立建設JVが16億2千万円で落札。 8月8日:起工式・安全祈願祭を開催。 10月9日:工事着工。 11月16日から工事完了まで搦手口からの入城ができなくなる。5月:鹿島建設・神崎組・立建設JVが16億2千万円で落札。8月8日:起工式・安全祈願祭を開催。10月9日:工事着工。11月16日から工事完了まで搦手口からの入城ができなくなる。2012年 4月7日:新調する大天守の鯱が姫路駅から三の丸広場まで祝曳された。奈良県の山本瓦工業で新調されたのは鯱4尾で、高さは約190cm、重量は約300kg。それぞれに播州一郎、次郎、三郎、四郎と名前が付けられた。一郎と次郎は大天守に据え付けられ三郎は2015年2月に姫路市に寄贈された。 6月:大天守最上層の屋根に新調した鯱2対が据え付けられた。 11月:大天守の瓦の葺き替えが終了したと22日に報道された。葺き替えの対象となった約8万枚(後に約7万5000枚に修正)のうちおよそ80%は再利用され、残りの20%程は奈良県の日本伝統瓦技術保存会によって新調され葺き替えられた。大天守の工事が完了し、これより素屋根の撤去作業を開始した。4月7日:新調する大天守の鯱が姫路駅から三の丸広場まで祝曳された。奈良県の山本瓦工業で新調されたのは鯱4尾で、高さは約190cm、重量は約300kg。それぞれに播州一郎、次郎、三郎、四郎と名前が付けられた。一郎と次郎は大天守に据え付けられ三郎は2015年2月に姫路市に寄贈された。6月:大天守最上層の屋根に新調した鯱2対が据え付けられた。11月:大天守の瓦の葺き替えが終了したと22日に報道された。葺き替えの対象となった約8万枚(後に約7万5000枚に修正)のうちおよそ80%は再利用され、残りの20%程は奈良県の日本伝統瓦技術保存会によって新調され葺き替えられた。大天守の工事が完了し、これより素屋根の撤去作業を開始した。2013年(平成25年)12月7日から2014年(平成26年)3月7日まで、上山里下段石垣の修理が行われた。石材の抜け落ち割れや石の隙間に入れた間詰石の脱落があるため、石材の補強と間詰石の補充が行われ、修理完了年の2月9日にはこの修理工事の現地説明会が行われた。2014年 10月8日:工事用素屋根の解体・撤去が終了。 10月31日:姫路市は再公開後の3月27日から5月10日までの期間で安全管理のために1日の入場者数を1万5千人までに限定すると発表した。開城閉城時間の変更や、整理券の配布や電光掲示板での告知が行われる予定。10月8日:工事用素屋根の解体・撤去が終了。10月31日:姫路市は再公開後の3月27日から5月10日までの期間で安全管理のために1日の入場者数を1万5千人までに限定すると発表した。開城閉城時間の変更や、整理券の配布や電光掲示板での告知が行われる予定。修理過程での発見 最上階北側にある詳細不明の家紋。 最上階で使用されないまま壁として塗り込められた窓枠の跡が東西南北それぞれ2箇所の合計8箇所あったことが判明している。窓枠の跡については「昭和の大修理」の際にも確認されていたと当時の記録に残っているが公表はされていなかった。 池田氏の家紋「揚羽蝶」が逆さになった瓦が発見され修理施設内で展示されていた。 3月26日:姫路城大天守保存修理完成記念式典が開かれブルーインパルスによる祝賀飛行も行われた。 3月27日:大天守の修理事業が完了し再公開が始まる。拡張現実(AR)機能を使っての城内解説やWi‐Fiの運用が開始される。修理完了後は入城者が殺到することが予想され、姫路市では3月27日から5月10日とお盆、秋の行楽期間は整理券を配布し大天守登城の人数を抑制する他に、入城時間の繰り上げや駐車場の整備などの対策が行われた。最上階北側にある詳細不明の家紋。最上階で使用されないまま壁として塗り込められた窓枠の跡が東西南北それぞれ2箇所の合計8箇所あったことが判明している。窓枠の跡については「昭和の大修理」の際にも確認されていたと当時の記録に残っているが公表はされていなかった。池田氏の家紋「揚羽蝶」が逆さになった瓦が発見され修理施設内で展示されていた。3月26日:姫路城大天守保存修理完成記念式典が開かれブルーインパルスによる祝賀飛行も行われた。3月27日:大天守の修理事業が完了し再公開が始まる。拡張現実(AR)機能を使っての城内解説やWi‐Fiの運用が開始される。修理完了後は入城者が殺到することが予想され、姫路市では3月27日から5月10日とお盆、秋の行楽期間は整理券を配布し大天守登城の人数を抑制する他に、入城時間の繰り上げや駐車場の整備などの対策が行われた。2016年(平成28年)1月7日、平成27年11月から平成29年3月(予定)まで行われている「リの一渡櫓」と「リの二渡櫓」の修理の見学ができるようになった。 ===天空の白鷺=== 工期中は「天空の白鷺」(英語表記:”Egret’s Eye View” at Himeji Castle/Special visitor facilities for the restration)と名付けられた大天守を覆っている素屋根の施設から大天守上層部の修復作業を見学できた。素屋根建物の南面と東面には大天守実物大の線画が描かれていた。8階建てだが一般利用者が入館できるのは1階・7階・8階となっていた。見学者用エレベーターが2基設置され、大天守方向はガラス張りになっているためエレベーターでの昇降の際に大天守南面の石垣・壁面・屋根の様子を見ることができた。2014年1月15日まで公開され、その後、素屋根の解体作業に取り掛かる。1階 ‐ 大天守石垣部分。東側は施設入口とエレベーターの待合室、西側は出口と修理全般に関する展示と映像上映。7階 ‐ 大天守5階(最上階)の壁と4層屋根部分。壁面修理の見学と壁面修理(漆喰など)に関する展示と映像上映、市街周辺を見渡せる展望窓。8階 ‐ 大天守5層目(最上層)の屋根部分。屋根修理の見学と屋根修理に関する展示と映像上映、市街周辺を見渡せる展望窓。2011年(平成23年)3月26日 ‐ 「天空の白鷺」一般公開を開始。同年5月17日 ‐ 入館者数10万人突破。同年10月2日 ‐ 30万人突破。2012年(平成24年)2月19日 ‐ 50万人突破。同年(平成24年)11月27日 ‐ 100万人突破2013年(平成25年)2月6日から2月9日 ‐ 最上部の工事作業エリア内(通常の天空の白鷺で見学できるより更に中)の見学が事前に応募した人数限定で行われた。同年3月2日から3月3日 ‐ 漆喰作業見学会と作業体験会が1階西側で行われた。同年7月2日から7月3日 ‐ 第2回保存修理工事エリア見学会(通常の天空の白鷺で見学できるより更に内部での見学)が事前に応募した人数限定で行われた。同年10月27日から10月29日 ‐ 第3回保存修理工事エリア見学会(通常の天空の白鷺で見学できるより更に内部での見学)が事前に応募した人数限定で行われた。過去2回の見学会の範囲に加えて7階部分の見学も行われた。2014年(平成26年)1月15日:公開終了。延べ入館者数は184万3406人だった。これ以後、工事用素屋根の解体が始まった。修復作業見学室に入るには、通常の入城料金(大人600円)とは別に上乗せ料金200円程度を徴収することを姫路市が検討していたが、工期中の入城料は大人400円・子供100円に減額され、見学希望者は減額された料金に見学施設の入場料(大人200円・子供100円)を加えることで決着した。 ==世界遺産登録・文化財指定== ===世界遺産=== 日本の世界遺産条約締約は1992年(平成4年)のことであり、姫路城はその年の10月1日に正式推薦された。世界遺産委員会の諮問機関である国際記念物遺跡会議 (ICOMOS) は推薦に先立つ同年9月と、推薦後の1993年(平成5年)4月と8月に現地調査を行なった(なお、これとは別に後述するオーセンティシティの評価のため、ICOMOS事務総長が同年5月に視察した)。その結果を踏まえ、同年10月に「登録」が勧告された。そこで評価されたのは、 木造建築物として、白漆喰の城壁を持つ優れた美と実用的機能を兼ね備えていること。明治以前の封建制度の象徴であること。日本の木造城郭建造物として最高のものであること。といった点であった。そして、同年12月の第17回世界遺産委員会(カルタヘナ)で、「法隆寺地域の仏教建造物」とともに日本初の世界文化遺産として正式登録された。 資産としての登録地域は、中曲輪より内側となっており、その範囲は特別史跡指定地域と重なっている。さらにその周囲が緩衝地域(バッファーゾーン)に指定されている。従来、緩衝地域の規制は緩やかなものであったが、1993年に中壕通り都市景観形成地区(都市景観条例による)が指定され、2008年には資産部分を含め、姫路城周辺風景形成地域の指定が行われた。2012年の第36回世界遺産委員会に際して、登録範囲の明確化が行われた。 ===登録基準=== この世界遺産は世界遺産登録基準における以下の基準を満たしたと見なされ、登録がなされた(以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準からの翻訳、引用である)。 (1) 人類の創造的才能を表現する傑作。 ユネスコ世界遺産センターによれば、この基準の適用理由は「姫路城は木造建築の傑作」であり、「実用的機能と優れた美的外観とを兼ね備えている」ことなどである。ユネスコ世界遺産センターによれば、この基準の適用理由は「姫路城は木造建築の傑作」であり、「実用的機能と優れた美的外観とを兼ね備えている」ことなどである。(4) 人類の歴史上重要な時代を例証する建築様式、建築物群、技術の集積または景観の優れた例。 同じくこちらの基準の適用理由は、「日本の木造城郭建築の最高点を示しており、重要な特徴を全て無傷で保存している」ことである。同じくこちらの基準の適用理由は、「日本の木造城郭建築の最高点を示しており、重要な特徴を全て無傷で保存している」ことである。なお、上述の通り、ICOMOSの勧告の時点では封建制の象徴という側面も評価されており、それによる基準 (3) の適用が勧告されていたが、正式登録では採用されなかった。 ===影響=== かつて、世界遺産登録に際してのオーセンティシティ(真正性、真実性)の評価はヴェネツィア憲章に基礎を置いていた。しかし、その概念はヨーロッパに多く見られる「石の文化」にはよく当てはまるが、解体修理を行う日本的な「木の文化」を正当に評価できない恐れがあった。日本の条約締約および姫路城・法隆寺の推薦・登録は、その再検討の必要性を世界遺産委員会に認識させることになったのである。それが翌年の世界文化遺産奈良コンファレンスの開催、およびそこで採択された「オーセンティシティに関する奈良ドキュメント」(真実性に関する奈良文書)に繋がった。これは、アジア、アフリカの文化遺産登録にとってきわめて重要な意義を持つことになった文書である。 なお、姫路市では世界遺産条約採択40周年記念事業の一環として、2012年に奈良ドキュメント見直しを視野に入れて、オーセンティシティと現実社会の関連を討議する国際会議「姫路会合」が開かれた。 ===国宝=== 以下の5件8棟が1951年(昭和26年)6月9日に文化財保護法に基づき国宝に指定されている。 大天守(だいてんしゅ)東小天守(ひがしこてんしゅ)西小天守(にしこてんしゅ)乾小天守(いぬいこてんしゅ)イ・ロ・ハ・ニの渡櫓 4棟(附指定:台所1棟)上記の天守と渡櫓計8棟は、1931年(昭和6年)1月19日、国宝保存法に基づき、当時の国宝(旧国宝、文化財保護法における「重要文化財」に相当)に指定され、同12月14日には渡櫓、門、塀等74棟も国宝(旧国宝)に指定された。その後、1950年(昭和25年)8月29日の文化財保護法施行に伴い「旧国宝」は「重要文化財」とみなされることとなった(文化財保護法附則第3条)。1951年(昭和26年)6月9日付けで、文化財保護法および国宝及び重要文化財指定基準(昭和26年5月10日文化財保護委員会告示第2号)に基づき、上記の大天守以下の5件(8棟)が改めて国宝(新国宝)に指定された。 ===重要文化財=== ====姫路城==== 重要文化財(建造物/城郭):1931年(昭和6年)12月14日指定(国宝保存法に基づく「旧国宝」指定)。イの渡櫓ロの渡櫓ハの渡櫓ニの渡櫓ホの櫓ヘの渡櫓トの櫓チの櫓リの一渡櫓リの二渡櫓折廻り櫓井郭櫓帯の櫓帯郭櫓太鼓櫓ニの櫓ロの櫓化粧櫓カの渡櫓ヌの櫓ヨの渡櫓ルの櫓タの渡櫓ヲの櫓レの渡櫓ワの櫓カの櫓菱の門いの門ろの門はの門にの門への門との一門との二門との四門ちの門りの門ぬの門水の一門水の二門備前門との四門東方土塀との四門西方土塀との二門東方土塀との一門東方土塀への門東方土塀への門西方土塀水の一門北方築地塀水の一門西方土塀ニの櫓南方土塀水の五門南方土塀イの渡櫓南方土塀:にの門東方上土塀にの門東方下土塀ロの櫓東方土塀ロの櫓西方土塀はの門東方土塀はの門西方土塀はの門南方土塀ろの門東方土塀ろの門西南方土塀化粧櫓南方土塀ワの櫓東方土塀カの櫓北方土塀菱の門西方土塀菱の門南方土塀菱の門東方土塀いの門東方土塀太鼓櫓南方土塀太鼓櫓北方土塀帯郭櫓北方土塀井郭櫓南方土塀トの櫓南方土塀計74棟重要文化財の「イの渡櫓」は、国宝の「イの渡櫓」とは別の建物である。前者は本丸北側の腰曲輪にあり、後者は連立天守の一部である(ロの渡櫓・ハの渡櫓・ニの渡櫓についても同様)。以下の門は、門単独では重要文化財に指定されていない。また、「との三門」は現存しない。 ほの門(「イの渡櫓南方土塀」の付属) るの門(「いの門東方土塀」の付属) 水の三門(「ニの櫓南方土塀」の付属) 水の四門(「水の五門南方土塀」の付属) 水の五門(国宝の「ニの渡櫓」の一部)ほの門(「イの渡櫓南方土塀」の付属)るの門(「いの門東方土塀」の付属)水の三門(「ニの櫓南方土塀」の付属)水の四門(「水の五門南方土塀」の付属)水の五門(国宝の「ニの渡櫓」の一部) ===特別史跡=== ====姫路城跡==== 史蹟:1928年(昭和3年)9月20日指定(史蹟名勝天然紀念物保存法による)。特別史跡:1956年(昭和31年)11月26日指定(文化財保護法による)。 ===受賞歴・選出歴=== 文化財指定などとは異なるが、以下のように様々な観点からの賞の授与や評価がなされている。 2004年(平成16年)、「姫路城中濠沿い散策路」が整備され、第6回「人間サイズのまちづくり賞」を受賞。2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(59番)に選定された。2009年(平成21年)3月、ミシュランガイド(観光地)日本編において最高評価の3つ星に選定された。2012年(平成24年)9月、トリップアドバイザーの企画「バケットリスト」の「世界の名城25選」に選ばれた。2014年(平成26年)11月18日、「2014年アジア都市景観賞」を受賞。2015年(平成27年)1月16日、第8回国土交通省バリアフリー化推進功労者大臣表彰を受賞。「平成の修理」の見学施設や城内通路のバリアフリー化が評価された。城郭の受賞は初めて(受賞発表は前年12月25日)。2015年11月4日、「平成の修理」での展示・設計が評価されアジアデザイン賞2015の大賞(最高賞)と環境デザイン部門の金賞を受賞した。2016年(平成28年)1月21日:関西元気文化圏賞の大賞を受賞。このほか、平成の大修理中の2011年12月6日には、見学施設の実物大線画や国宝建築の修理を公開したことなどが評価され、第45回SDA賞の演出サイン部門サインデザイン優秀賞(日本サインデザイン協会)と、ディスプレイデザイン賞2011の企画・研究特別賞(日本ディスプレイデザイン協会)を受賞した。 ===姫路城が選ばれている百選=== 日本100名城平成百景美しい日本の歴史的風土100選人と自然が織りなす日本の風景百選日本さくら名所100選日本の歴史公園100選(姫路公園)日本遺産・百選 ==その他の城内施設== 姫路城管理事務所 ‐2000年に設置。姫路城防災センター ‐ 2001年に設置。自動火災報知設備・監視カメラなど管理システム。迎賓館 ‐ 1951年(昭和26年)建築、木造平屋瓦葺。和室2部屋、洋室1部屋、厨房などを備えている。姫路城見学資料室 ‐ 大手入城口近く。姫路城情報センター ‐ 大手前通り大手前公園近く。ひめじの黒田官兵衛 大河ドラマ館(2014年1月12日から2015年1月10日):『軍師官兵衛』の関連施設。約61万人の入館者数を記録した。 ==伝承== ===刑部明神(おさかべみょうじん)(長壁明神とも)=== 姫路城の守護神。もとは刑部氏の氏神であった。大天守最上階に祀られている他に、旧中曲輪の長壁神社や播磨国総社にも祀られている。輝政の時代には城内の八天堂に祀られていた。 ===長壁姫(おさかべひめ)=== 姫路城に隠れ住むといわれる日本の妖怪。様々な伝説がある。 ===開かずの間=== 大天守3階から4階へと続く階段の下にある小部屋。吉川英治の小説『宮本武蔵』内の光明蔵の章に武蔵が姫路城の天守に3年間幽閉され精神修養をしたという表現があるが、これは創作とされ本来は倉庫として使われていた可能性が高い。1912年(大正元年)に一般公開されて以来、非公開であったが大河ドラマ『武蔵 MUSASHI』が放送されるにあたり、2002年(平成14年)9月1日から2003年(平成15年)5月5日まで特別公開され武蔵の人形が置いてあった。小説での池田輝政との関わりも創作とされるが藩主の本多忠刻とは関わりがあったとされる。 ===にの門の十字紋瓦=== にの門の破風の上には十字架を描いた瓦があり、羽柴秀吉築城時にキリシタンであった黒田孝高を評価して作らせたものであるとされている。 ===姥が石(うばがいし)=== 羽柴秀吉が姫山に3層の天守を築城の折、城の石垣として使う石集めに苦労していた。城下で焼き餅を売っていた貧しい老婆がこれを知ると、石臼を秀吉に差し出した。秀吉は老婆の志に大変喜んだ。この話はたちまち評判となり、人々が競って石を寄進したという。石垣は孕み(脹らみ)や、これが悪化して崩落する事が恐れられているため、「姥=老女=孕まない(妊娠しない)」事にかけた言い伝え。実際に乾小天守北側の石垣には石臼が見られるが、この石垣は秀吉時代に構築されたものではない。他にも古代の石棺を石垣として使用している。「平成の修理」ではこの伝承を基に「平成の姥が石 愛城募金」を募っている。 ===棟梁桜井源兵衛の自害=== 築城後まもなく、城下に「お城が東南に傾いている」との噂が立った。奉行も噂を放置できなくなり、天主から下げ振りを降ろして測定したところ、実際に城が傾いていることが分かった。この事に責任を感じた棟梁の桜井源兵衛は、鑿をくわえて城から飛び降り自殺したという伝承がある。しかし史実にはそのような記述はなく、清水門そばにある石碑は源兵衛の墓だと伝わっていたが、この石碑は寛永元年に本多忠政が船場川を改修した際に建立された船場川改修の碑である。城が東南方向に傾いているのは古くからいわれていたことで「昭和の大修理」では実際に城が傾いていることが確認された。原因は軟弱な地盤の上に築城したため、礎石が構造物の重量で沈下したためであった。 ===播州皿屋敷=== 浄瑠璃などの元となったと言われるが、原型となった話は現在の姫路城ができる以前のものと言われる。本丸上山里内に「お菊井戸」が残る。皿屋敷・お菊神社を参照。 ===四神相応=== 姫路城の東に市川・西に山陽道・北に広峰山・南に播磨灘という配置から、それぞれに関わる四神の利益を得られる四神相応の地として見立てられることがあり、さらにそれが播磨ゆかりの陰陽師・道摩法師によって見出だされたという伝説がある。 ==姫路市本町68番地== 姫路城所在地の姫路市本町68番地は、高校・病院・美術館さらには県営住宅や民家をも含む総面積107.73haの面積を持ち、単独の番地(街区)としては(皇居のある)東京都千代田区千代田1番街区の約150haに次ぐ広さといわれる。本町68番地は内曲輪および中曲輪の範囲に相当し、明治・大正時代には陸軍歩兵第10連隊が配置されていた。姫路空襲でこの一体は焼け野原になり、中心市街地として開発された戦後になっても、番地は分割されずにそのまま残った。分割されなかったのは戦後の混乱に起因するという。1980年代以降、この一帯の整備および再開発事業が行われ、様々な文化施設・観光名所が立ち並ぶ一帯となっている。 ===周囲の文化施設・観光名所=== 兵庫県立歴史博物館 ‐ 姫路城など日本各地の城郭を紹介する展示室がある。姫路市立美術館 ‐ 当初は陸軍の建物で、後に姫路市役所。姫路城・好古園との共通入館券もある。日本城郭研究センター ‐ 姫路市立図書館(城内図書館)を併設。姫路市立動物園 ‐ 三の丸広場の東隣、出丸(御作事所)跡に設けられ、「お城の動物園」とも呼ばれる。姫路城西御屋敷跡庭園「好古園」 ‐ 名前は酒井家が設けた藩校「好古堂」に因む。姫路公園 ‐ 概ね中曲輪以内に相当する。市の催しやイベントなどにも利用されている。 家老屋敷跡公園 ‐ 土産物屋などが配置されている。 大手前公園 東御屋敷跡公園 城見台公園 シロトピア記念公園 ‐ 1989年(平成元年)、姫路市制100周年を記念して開かれたイベント「姫路百祭シロトピア」の記念公園。家老屋敷跡公園 ‐ 土産物屋などが配置されている。大手前公園東御屋敷跡公園城見台公園シロトピア記念公園 ‐ 1989年(平成元年)、姫路市制100周年を記念して開かれたイベント「姫路百祭シロトピア」の記念公園。以上は全て姫路市本町68番地の内である。本町68番地には他に姫路医療センター・姫路東高校・淳心学院・賢明女子学院・姫路聴覚特別支援学校など多数の施設が存在している(2009年までは姫路警察署も位置していたが市内市之郷に移転、同地は観光駐車場となった)。 姫路文学館男山(男山八幡宮・千姫天満宮・水尾神社)播磨国総社兵庫縣姫路護國神社姫路神社長壁神社十二所神社(お菊神社) ===姫路城十景=== 1994年(平成6年)3月、世界遺産登録を記念して公募・選定された姫路城が見える10箇所。「誰でも自由に行くことができ、お城を取り巻く方向にある」という観点から選ばれた。この他、選定後に新しく建てられたイーグレひめじの屋上からの眺めも人気がある。 シロトピア記念公園ふるさとの森景福寺公園名古山霊苑 高台公園手柄山中央公園緑の相談所広場姫路城 三の丸広場姫路市立美術館 前庭増位山 市道白国増位線ポケットパークJR姫路駅前 大手前通り男山配水池公園 ==整備計画== 他の城に先駆けて2003年から石垣の積み方や種類等の記録を取り、崩落の危険度や修復の資料としている。城郭の景観を江戸時代の物に近づけるためや、樹木の生長及び外来植物の繁殖による景観や文化財(特に石垣)・生態系への影響を考慮して、「樹木パトロール」を組織して樹木の伐採・剪定が計画され、下山里曲輪など城郭の一部区域では作業が進められている。姫山原生林で明治以降に植生した植種は原則伐採される。1969年と2010年の植生調査を比べると29種類増えており、外来種のシュロやトウネズミモチ、ニワウルシ、ニセアカシアなどブラックリストにある種も含まれている。姫路城管理事務所では、城内とその周辺に生えている樹木について、倒木の恐れがあると判断した物の伐採を2008年から開始し、さらに2014年には、大天守南側の石垣とその周辺の樹木についても独自基準で剪定した。ところが剪定の際、幹を残し枝のみを払うというやり方を取ったため、樹木が異様な形となり、市民から「美観を損なう」などのクレームが市に多数寄せられる事態となった。これを受け市文化財課は、管理事務所に対し伐採の中止を指示した。しかしこれは伐採計画の途中段階であって、一斉に根こそぎ伐採すると樹木の根の保持力がなくなり土の崩落の恐れがあるために樹木は残しつつ日当たりを良くして下草を充分に育成させてから伐採に移るための処置であると管理事務所は説明した。出丸(御作事所)跡にある市立動物園の移転が検討されている。三の丸御殿の復元に向けての測量・発掘各種調査や図面や写真などへの謝礼金を用意して資料の収集をしている。これに関連して現存しない城郭建築や城下町を再現したCGが製作され公開された。 ==管理上の諸問題== ===外来種による被害=== 堀の水棲生物や、姫山原生林・城内の植物の植生で外来種の増加により在来種への影響や石垣を浸食するなど文化財への悪影響が出ている。2016年5月、姫路城西側の中堀で特定外来生物のヌートリアが初めて発見されたが、水辺に穴を掘って巣を作る習性があることから、石垣の強度低下による崩落が懸念されており継続的に駆除されている。 ===禁止区域での釣り=== 堀での釣りは禁止されているにも関わらず釣りをしたり釣り糸などのゴミを放置する問題が起きている。 ===落書き=== 2009年までに、西の丸を中心とした城内に、人名などを掘り込む落書きが、100件以上発見された。いずれも、監視カメラからは死角となっていたという。姫路市では、落書きの上から着色して目立ちにくくする方法などを検討している。これらの落書きは、最終的には609ヵ所にも及ぶことが明らかとなり、姫路市では対策として、2010年4月以降、西の丸の「百間廊下」(重要文化財)への立入りについて、28部屋のうちの25室に柵とセンサーを設置し立入を禁止し、城内の監視カメラが増設された。周辺の世界遺産区域内の樹木に対しても、多数の同様な落書きが発見されていることが判明している。姫路市では、「樹木にまでは手が回らない」として、調査などは行わないとしているが、この姿勢に対しては、「落書きを容認しているのと同じだ」と批判、心配する意見が強い。 ===ドローンの使用と衝突=== 姫路城以外にも文化財や祭りなどで無人航空機(ドローン)を使った撮影が行われ問題視されている。姫路城では2015年5月3日に未成年の少年がドローンを飛行させ任意同行を求められる事があった。また同年9月19日の早朝、姫路城の大天守の6階部分に、無人航空機(ドローン)が衝突しドローンは5階の屋根に落下した。ドローンの衝突の影響で窓枠の水切りの銅板に数ヵ所の損傷が発見され兵庫県警察では文化財保護法違反容疑で捜査を行っていたが、翌日には男性が出頭した。また、2016年11月17日にも、大天守にドローンが衝突する事件があった。外国人観光客が操作していたものと見られている。 ==現地情報== 姫路市の姫路城管理事務所が置かれているが、外国人の来訪が多い(2016年度は約211万人のうち約36万5000人)こともあり、外国語を含めた観光客への案内やホームページ作成といった実際の運営は企業に委託されている。2017年12月時点では乃村工藝社が請け負っており、2018年3月以降は近畿日本ツーリスト(KNT)関西が担当する。 所在地 ‐ 姫路市本町68番地ライトアップ ‐ 毎日、日没から午前0時まで点灯している。季節や行事によって色が変わることもある。スタンプ ‐ 日本100名城のスタンプは管理事務所横に、世界遺産スタンプは大天守最上階に置いてある。 ===交通アクセス=== 西日本旅客鉄道(JR西日本):山陽新幹線・山陽本線・姫新線・播但線 姫路駅北口より徒歩約20分。山陽電気鉄道:本線 山陽姫路駅より徒歩約15分。神姫バス「姫路城大手門前」下車すぐ。12 ‐ 2月は土日・祝祭日、3 ‐ 11月は毎日、平日は30分に1本、土日・祝祭日は15分に1本神姫バスにより「姫路城ループバス」も運転される。有料公営駐車場が城周辺に5箇所合わせて約1,600台分、駅周辺に5箇所合わせて約1,100台分、有料公営駐輪場が駅から城の区域に3箇所合わせて自転車約2,900台分、単車約600台分ある。 ===開城時間・料金=== ====開城時間==== 通常:9時 ‐ 16時(17時閉城)、夏季:9時 ‐ 17時(18時閉城)休城日:12月29日、12月30日。 ===料金=== 大人:1,000円、子供(小学生から高校生):300円、団体(30人以上):一律2割引。 姫路市在住者は姫路市内在住の4歳から中学3年生に配布されるどんぐりカード、姫路市に住民票がある65歳以上に配布される高齢者福祉優待カードを提示すれば無料となる。 障害者手帳所持者は、本人と介助者1名が無料となる。車いす利用の場合は、本人と介助者3名までが無料となる。 平成の修理完了後の2015年3月27日から入城料が改定された。改定前は大人600円、子供(5歳から中学生)200円だった、団体は30人以上1割引、100人以上2割引、300人以上3割引だった。平成の修理工事期間中(2010年4月12日から2015年3月末)は大人400円、小人100円に減額され、修理見学施設に入るには大人200円・子供100円の追加料金が必要であった。 2015年7月の1か月間、平成の修理が完成したことを祝って、姫路市民は運転免許証や健康保険証など住所と名前が確認できるものを提示することで入城料が無料となった。姫路市在住者は姫路市内在住の4歳から中学3年生に配布されるどんぐりカード、姫路市に住民票がある65歳以上に配布される高齢者福祉優待カードを提示すれば無料となる。障害者手帳所持者は、本人と介助者1名が無料となる。車いす利用の場合は、本人と介助者3名までが無料となる。平成の修理完了後の2015年3月27日から入城料が改定された。改定前は大人600円、子供(5歳から中学生)200円だった、団体は30人以上1割引、100人以上2割引、300人以上3割引だった。平成の修理工事期間中(2010年4月12日から2015年3月末)は大人400円、小人100円に減額され、修理見学施設に入るには大人200円・子供100円の追加料金が必要であった。2015年7月の1か月間、平成の修理が完成したことを祝って、姫路市民は運転免許証や健康保険証など住所と名前が確認できるものを提示することで入城料が無料となった。割引共通券(姫路城と好古園、姫路城と博物館と美術館)や、姫路城と周辺施設の入場券をセットにし通常価格より割安の料金で姫路の観光ができる姫路観光パスポート(姫路城周遊コースと姫路城・書写山周遊コースの2種類)も販売されている。2016年(平成28年)2月1日から、クレジットカードでの入城券購入が可能となった。対応するのはVisaとマスターカード。 ===登城=== 入り口は正面登閣口と東門登閣口の2つある。城の東側にある姫山駐車場と城の北側にある城の北駐車場からは東門登閣口の方が近い。正面登閣口から大天守最上階へ登って下りてくる最短順路であれば約1時間、順路通りに回れば1時間半 ‐ 2時間を要する。城の搦め手(裏門)に当たる東門登閣口からの順路は急な上り坂と段差のある石段になっているが登閣口からの時間にすると約25分で大天守最上階まで行ける。混雑していない状況での時間の目安は、大手門から正面登閣口まで約10分、正面登閣口から備前丸まで10 ‐ 15分、東門登閣口から備前丸まで5 ‐ 10分、備前丸から大天守最上階まで約20分である。 天守入り口でスリッパと自分の履き物を入れる袋が無料で貸し出される。階段が急なため、スリッパでは登りにくい上に自分の履き物を入れた袋が邪魔になるため手荷物の多い人、子供や足腰に不安のある人は注意が必要である。 車椅子でも介助者数名が同伴し段差をなるべく避けるようにすれば本丸(備前丸)までは登城可能である。身体障害者補助犬(盲導犬・聴導犬・介助犬)は天守・櫓など建物内への同伴はできないが、それ以外の有料区域内への同伴は許可されている。 ===城内ガイド=== 姫路城シルバー観光ガイドと外国語ボランティアガイドが応対しており、三の丸広場北側にある姫路城管理事務所とJR姫路駅構内にある姫路市観光案内所(なびポート)で受け付けている。シルバーガイドは日本語のみで、ガイド1人2000円、1時間半 ‐ 2時間かけて案内する。拡声器を使わないので20名前後が定員となる。外国語ガイドは英語・中国語・韓国語に対応し無料となっている。外国語パンフレットは英語・フランス語・韓国語・中国語(北京語と台湾語)が配布されている。この他、ゴールデンウィークなど観光客が多い時期の土・日・祝祭日には殿様や姫様に扮した殿様ガイド(4代目)・姫様ガイドが登場する。 ===公衆便所=== 公衆便所は、登閣口より入った有料区域内には菱の門付近・西の丸東側中程・備前丸西側奥の3箇所、内曲輪無料区域には三の丸広場などに5箇所、設置されている。 ===通信=== 城内20箇所以上でのWi‐Fi接続利用が可能。 ===観光和船=== 2011年12月、「姫路藩和船建造委員会」発足。2012年3月17日から29日の間、観光用和船が試験運用され、好評だったため2013年(平成25年)の春を目標に和船の建造を開始。絵図や文献を元に地元の船大工やオクムラボートが木造(一部モーター)で復元し、「はりま」と命名された。全長は約9.5m、最大幅は約2.3m。船頭・ガイドを含め12人が乗船できる。2013年3月1日、水進式が行われ、同年3月16日から正式運行が開始された。内堀西部から南西部にかけて1日12便、1.5kmを30分かけて運行している。運行 ‐ 3月初めから11月末まで1日10便以上運行されているが繁忙期以外は平日の運航や便数が少なくなる。平成の修理後も運航される。料金 ‐ 大人1,000円、子供500円 ===イベント=== ====元日無料登閣(1月1日)==== 毎年、元日は入城無料とされるのが通例となっており開城・閉城時間が早くなる。平成22年までは初日の出を見るために早朝に大天守まで登れたが、とても混雑するため安全を考慮して廃止された。 ===姫路城下町マラソン大会(1月)=== 内曲輪を1.5km、2.5km、3km、5kmの部門別に分けて競争する。1992年から開催されている。 ===姫路城駅伝大会(2月)=== 内曲輪を5区間で競争する。2010年から開催されている。 ===しろの日(4月6日)=== 姫路市制100周年を記念した「ふるさと創生事業」を実施するため市民から公募し、1990年(平成2年)より行われている。普段は非公開となっている部分が春の特別公開として5月頃まで公開されるほか、多数のイベントが催される。姫路城内の桜の花が開花する頃であり、地域を代表する花見スポットとなる。制定以来、この日には城を含め指定の周辺施設が入場無料とされていた。しかし桜の開花時期とも重なり来場者数が増加、入場制限を行うなどしていたが安全管理を考慮し無料開放は2007年(平成19年)4月6日をもって終了した。 ===姫路城観桜会(4月上旬)=== 和太鼓・琴などの演奏や姉妹都市からの出展など。 ===姫路城夜桜会(4月上旬)=== 西の丸庭園で夜に開催。光の回廊や音楽コンサートなど。 ===千姫ぼたん祭り(4月下旬)=== 三の丸西(本城跡)で開催。「千姫様お輿入れ行列」や句会など。 ===姫路お城祭り(8月上旬)=== 姫路城薪能(三の丸広場)、「お城の女王」などによる大手前通りのパレードなど。 ===姫路城観月会(9月下旬)=== 筝曲・舞踊や月観測、地酒や月見団子の出店など。 ===姫路城菊花展(10月中旬から11月中旬にかけて)=== 1000点近い菊の展示。 ===秋の特別公開(11月上旬)=== 非公開部分を1週間ほど期間限定で公開。 ===姫路城世界文化遺産登録記念日(12月11日)=== 世界遺産登録日を記念して2008年(平成20年)制定された。上記の「しろの日」に替えて城と指定された周辺施設が入場無料となる。 ===年末年始=== 城内の松にこも巻きを施したり、巨大門松を飾る他、姫路城クリーン作戦と題された清掃事業が1976年(昭和51年)から毎年12月中旬に行われてきた。陸上自衛隊姫路駐屯地の隊員による訓練の一環で、車両やボートなども使って通常では清掃が困難な石垣や堀などを重点に清掃している。ただし、こも巻きについては逆効果であるなどの理由により、2015年から中止された。その他、定期的な大規模清掃や市民有志による月例清掃会など。 ===過去のイベント=== 1996年(平成8年)3月24日から8月25日まで、迎賓館で大河ドラマ『秀吉』に関する「秀吉と姫路展」が行われた。入場料は、大人(16歳以上)が200円、子供(5歳から15歳)が100円で、姫路城への登問者・身体障害者手帳・老人福祉手帳・療育手帳を提示した市民は無料だった。2015年(平成27年)5月3日・4日・5日に、大天守や櫓、石垣などにプロジェクションマッピングを映す行事が行われた。2015年9月17日から19日には備前丸でボローニャ市立劇場のオペラ公演「道化師」の公演が行われ吉田裕史が指揮を執った。2015年11月28日と11月29日に姫路城大手前公園で西日本では初めて人間将棋が開催された。出演棋士は、28日が東和男、神吉宏充、稲葉陽、船江恒平、村田智穂、長谷川優貴、29日が井上慶太、福崎文吾、久保利明、山崎隆之、若松政和、室谷由紀。11月28日は村田智穂=長谷川優貴の対戦で村田の勝利、11月29日は久保利明=山崎隆之の対戦で山崎の勝利となった。この他、対談や指導対局などが行われた。2016年11月5日・11月6日:「人間将棋 姫路の陣」が行われた。1日目は北村桂香と山口絵美菜、2日目は糸谷哲郎と稲葉陽が対戦した。2016年12月2日から12月11日まで姫路城ナイトアドベンチャー「煌めき=KIRAMEKI=」が行われた。普段は入れない夜間に入城でき城内各所でプロジェクションマッピング上映された。2017年5月20日:電王戦(佐藤天彦 対 コンピュータ将棋「Ponanza」)がチの櫓で行われた。2019年2月1日〜4日:世界遺産「姫路城」から朝日を見るツアーが行われた。 ===入城者数=== 1964年(昭和39年)度 ‐ 173万8000人(統計以降の歴代2位・「昭和の大修理」竣工年)2009年(平成21年)4月14日 ‐ 「昭和の大修理」以降の累計入城者数が4000万人を突破した。2015年(平成27年) ‐ 修理終了後に公開してからの入城者が7月には100万人を超え、9月には150万人を超えた。11月9日には200万人を超え、12月9日には入城者数が8か月で222万人を超え、年間221万人だった熊本城を抜き城郭入城者数の歴代1位になった。2015年(平成27年)度の入城者数は286万人を超えた。平成以降の年度別入城者数(概数) 1989年(平成元年)度 ‐ 119万7000人1990年(平成2年)度 ‐ 81万1000人1991年(平成3年)度 ‐ 87万1000人1992年(平成4年)度 ‐ 88万5000人1993年(平成5年)度 ‐ 101万9000人1994年(平成6年)度 ‐ 98万3000人1995年(平成7年)度 ‐ 69万5000人1996年(平成8年)度 ‐ 86万1000人1997年(平成9年)度 ‐ 71万6000人1998年(平成10年)度 ‐ 79万2000人1999年(平成11年)度 ‐ 71万3000人2000年(平成12年)度 ‐ 66万2000人2001年(平成13年)度 ‐ 70万8000人2002年(平成14年)度 ‐ 72万9000人2003年(平成15年)度 ‐ 81万4000人2004年(平成16年)度 ‐ 77万1000人2005年(平成17年)度 ‐ 77万8000人2006年(平成18年)度 ‐ 89万9000人2007年(平成19年)度 ‐ 102万3000人2008年(平成20年)度 ‐ 119万5000人2009年(平成21年)度 ‐ 156万1000人2010年(平成22年)度 ‐ 45万8000人(平成の修理着工)2011年(平成23年)度 ‐ 61万1000人2012年(平成24年)度 ‐ 71万1000人2015年(平成27年)度 ‐ 286万7100人2016年(平成28年)度 ‐ 211万2100人 ==登場作品== ===小説=== ====『天守物語』 1917年 泉鏡花==== 1955年に映画化。天守の中に秘められた異世界の住人達と、切腹を命じられた末にその中に入り込んだ若侍の物語。 ===『宮本武蔵』 1936年 吉川英治=== 暴れん坊であった新免武蔵(しんめん・たけぞう)は沢庵和尚の計らいにより、姫路城の天守内の一室に3年間幽閉され、ここで兵法書などの書物に接し教養を身につけた。成長した武蔵に池田輝政は「宮本武蔵」(みやもと・むさし)の名を与えた。 ===『黒田如水』 1943年 吉川英治=== 後年、豊臣秀吉の右腕として活躍した黒田孝高(如水)の若き日を描く。当時の周囲の勢力図や、いかにして秀吉の居城となったかを知ることができる。 ===『姫路城の切腹丸(古城物語)』 1961年 南條範夫=== 切腹丸と異名を残す帯郭櫓(おびくるわやぐら)の名の由来を「鷺城私記」によって再現したとする歴史ミステリー小説。 ===『播磨灘物語』 1973年 司馬遼太郎=== 播磨出身の戦国武将、黒田孝高(如水)の活躍を描く。毛利陣営と織田陣営の間で、せめぎ合いの地域となった播磨地域の当時の様子を描いている。姫路城がある姫山地域の城の様子も描写。 ===『姫路城物語・日本の名城』 1985年 松本幸子=== 姫路城に関係する女性たちの愛憎劇を描く。 ===漫画=== キン肉マン:「キン肉星王位争奪編」ではキン肉マンチームとキン肉マンゼブラチームの試合が姫路城で行われた。また、名古屋城とともに空中を飛び合体し関ヶ原に着地して関ヶ原格闘城として試合の舞台になった。姫路城リビングデッド(くらげバンチ・単行本は新潮社) ‐ 原作は漆原玖。江戸時代の姫路城を舞台に信長や信玄など死んだはずの武将が死人の兵隊を率いて姫路城に攻めてくるという物語。 ===絵画・写真・その他=== ====『城』 1955年、『門』 1967年:奥村土牛==== 『城』は昭和の大修理直前の大天守を、『門』は「はの門」を内側から描いている。『門』は当時78歳の高齢で夏の炎天下、長時間スケッチしたと言われている。 ===北村泰生(2012年死去)による写真集など=== 半世紀近く姫路城の写真を撮り続けた写真家。自身が手掛けた写真集やカレンダーの他、撮影した写真は書籍、情報誌、広報誌などにも採用された。 ===しらさぎ本丸ゴシック=== 姫路城(白鷺城)を連想させる丸ゴシック体。 ===楽曲=== 『白鷺の城』(1963年):村田英雄、作詞・星野哲郎、作曲・市川昭介。『姫路ブルース』(1968年):青山和子、作詞・作曲じょうみやけ『城下にて』(2013年):きいちろ、作詞・作曲きいちろ『姫路城と初デート』(2016年):井上涼 ===映像作品=== VRソフト『日本驚嘆百景 白亜の要塞〜姫路城〜』下記の他にも世界遺産関連の番組や姫路フィルムコミッションの活動によって、映画やドラマ、CMや子供向けの番組まで、多くの撮影が行われており、特に時代劇では東映京都撮影所や京都映画撮影所から場所が近いことから、彦根城とともにロケが頻繁に行われている。『暴れん坊将軍』、『水戸黄門』、『大奥』など、江戸城という設定で撮影されている場合が多い。1964年に公開された映画『モスラ対ゴジラ』では当初ゴジラが姫路城を破壊するシーンが撮影される予定であったが、劇中では名古屋城に変更されている。 ===映画=== 黒澤明の『乱(1985年)』の他に多くの作品がある。 ===『大阪夏の陣』 1937年=== 衣笠貞之助監督の時代劇映画。この撮影において城内で爆破シーンの撮影を行ったところ、「ろの門」が破損し飛散した石で死傷者を出す事故が起こっている。 ===『フランケンシュタイン対地底怪獣』 1965年=== フランケンシュタインが食べた家畜の骨をここに隠していた。 ===『007は二度死ぬ』 1967年=== ジェームズ・ボンドがヘリコプターより降り立ったのは三の丸広場である。なおこの撮影では、撮影中に城壁に手裏剣を投げつけて城壁の一部を破損させてしまう事故もあった。この事が原因で、姫路城は日本国外からのロケはお断りであると言われていたが、実際には撮影許可はされている。 ===『影武者』 1980年=== 武田信玄が狙撃されたとされる「野田城伝説」を引用。信玄を狙撃した兵士(鳥居三左衛門)から狙撃時の状況を聴くシーンで野田城の城内として撮影に使用された他、天守の外観は織田信長の居城として使用された。 ===『ラストサムライ』2003年=== 西御屋敷跡に整備された好古園で若き日の明治天皇が登場するシーンが撮影された。この他にも書写山圓教寺において撮影が行われた。 ===テレビ番組=== ===『日本沈没』 1974年 TBS系=== ♯1「飛び散る海」、♯4「海の崩れる時」の劇中、播磨灘地震に伴い大倒壊(この場合はミニチュア)。また主題歌・タイトルバック映像でも流用された(これは実物)。 ===『プロジェクトX〜挑戦者たち〜』 2001年 NHKドキュメンタリー番組=== 2001年(平成13年)9月11日放送分において「昭和の大修理」のエピソードが取り上げられた。この放送終了直後のNHKニュース10でアメリカ同時多発テロ事件のニュースが報じられた。 ===『武蔵 MUSASHI』 2003年 NHK大河ドラマ=== 吉川英治の『宮本武蔵』をドラマ化したもの。創作である可能性が高いが作品内の光明蔵の章に宮本武蔵が姫路城天守の小部屋に3年間幽閉されたという表現がある。 ===『世界遺産・姫路城白鷺(さぎ)の迷宮・400年の物語』 2004年 NHKハイビジョン特集=== 2004年(平成16年)6月14日、NHKデジタル衛星ハイビジョン にて初放送された。出演:中越典子 語り:中村梅雀 ==その他== ===姉妹・友好提携=== フランス・パリ近郊シャンティイ市にあるシャンティイ城と姫路城は、1989年に姉妹城提携を結んでいる。シャンティイ城はルネサンス期の壮麗な建築様式を代表する建築物として知られる。 また、ドイツ南部バイエルン州にあるノイシュヴァンシュタイン城と姫路城は、2015年に観光友好交流協定を結んでいる。 尚、姫路城と同じ国宝の松本城とは姉妹城提携はないが姫路市と松本市は姉妹都市提携を結んでいる。 ===ミニチュア姫路城=== 三重県伊勢市にある実物の1/23の鉄筋コンクリート製ミニチュア模型。 伊勢在住の男性が19年の歳月と土地代・材料費を含め約2000万円の私費を投じて自宅の庭に製作、2007年(平成19年)3月完成した。製作にあたっては、近くに他の建物がないことなどを考慮したうえで土地を選び、自ら姫路城に足を運び狭間の並びや階段の段数などを調査、姫路城から特別に許可を得た図面などを元に内曲輪の現存の建物は勿論、現存しない御殿や櫓など多くを再現している。実際の姫路城の石垣では野面積みや打ち込み接ぎが多く、この模型では全面的に切り込み接ぎで石垣が再現してあるなどの相違点はあるものの、姫路市立城郭研究室の学芸員の評価も高く、2007年(平成19年)6月1日、姫路市は製作者を「ひめじ観光大使」に任命している。見学料金・駐車料金は無料で年間数万人の見学者が訪れるほどになっているが私有地であるため、製作者はマナーなどの配慮を求めている。 この他、東武ワールドスクウェアにも1/25のミニチュアがある。市販されている模型には、1/150の木製模型(ウッディジョー)、プラモデルでは1/300(フジミ模型)や1/380、1/500、1/800(童友社)、その他ペーパークラフトなど多種販売されている。 ===イメージキャラクター=== しろまるひめ:姫路市制120周年、姫路城築城400周年、姫路港開港50周年を記念し公募で選出されたキャラクター。ジョー★ヒメジ:姫路の耐震化推進事業のキャラクター。鶴竜の化粧廻しに姫路城があしらわれている。 ===小惑星への命名=== 2010年09月30日、日本のアマチュア天文家の関勉が発見した2つの小惑星のうち1つに「白鷺城(Hakurojo、姫路城の別名)」と命名し国際天文学連合小惑星センターに登録された(小惑星番号29337)。もう1つは「Konjikido(金色堂)」と命名された。 ==発行物== 1964年4月20日、姫路城修理完成記念の切手が一種(10円)、発行された。平成24年、千円プレミアム銀貨が発行された。「平成の修理」終了後に記念切手が2種類、発行された。 =余部橋梁= 余部橋梁(あまるべきょうりょう)は、兵庫県美方郡香美町香住区(旧・城崎郡香住町)余部、西日本旅客鉄道(JR西日本)山陰本線鎧駅 ‐ 餘部駅間にある橋梁(単線鉄道橋)である。 新・旧両時代ともに、橋梁下には長谷川と国道178号が通じている。 最寄駅である餘部駅の裏山には展望所が設けられており、同駅ホームより小高い位置で日本海を背景に余部橋梁が一望可能なスポットであり、撮影ポイントとしても定番化していた。展望所は橋梁の架け替え工事に伴って2008年(平成20年)4月11日以降一時閉鎖されていたが、橋梁切替時期から供用再開を望む声が多く寄せられ、香美町の定例議会で提案が2010年9月に可決され、補修工事後2010年11月3日に供用が再開された。 新旧架け替え工事中からライブカメラが設置されており、新旧両橋梁工事の様子や列車通過の状況、余部地区の季節感がわかるようになっている。 余部橋梁は2代存在し、初代の旧橋梁は鋼製トレッスル橋で「余部鉄橋」の通称でも知られ、1912年(明治45年)3月1日に開通し、2010年(平成22年)7月16日夜に運用を終了した。2代目の現橋梁はエクストラドーズドPC橋で、2007年3月からの架け替え工事を経て、2010年8月12日に供用が始まった。 ==名称・表記== JR西日本による正式名称は旧橋梁・現橋梁ともに地名と同じ「余部」を使用した「余部橋梁」である。常用漢字に含まれない「梁」については、平仮名書き、漢字書きの双方が混在している。「余部橋りょう」の書き方は鉄道の現業機関において広く使われている表記で、鉄道建造物台帳に記載されており、旧橋梁の橋桁にも記載されていた。一方「余部橋梁」の書き方も、構造物設計事務所の作成する橋梁設計図面などで見られる。 第二次世界大戦前は正字体の「餘」を使用した「餘部橋梁」表記が一貫して用いられていた。 旧橋梁の別称・愛称は前述のように「余部鉄橋」で、これは古くから地元で使われており、使用される範囲も地元の観光パンフレットのほか、大半の地図でも記されるなど広範囲にわたって使用された。かつては「余部陸橋」や「余部高架橋」の表記・呼称も使用されていた。 新橋梁の別称・愛称は、正式名称に沿い便宜的に「新」を入れた形で「新余部橋梁」「余部新橋梁」「余部新橋」、あるいは一部の鉄道ファンにて「余部鉄橋」(余部の鉄道橋の略称と解釈)などが混在して使用されている。また、地元向けの愛称を地区住民を対象に募集中で、案が出そろうのを待って愛称を決める予定となっている。 隣接する駅「餘部駅」は地名の読みと同じ「あまるべ」であるが、同じ兵庫県内に姫新線の余部(よべ)駅があるため、それと区別するため漢字を変更し「餘部駅」の表記にしたものである。 前述の要因から表記の揺れがあり、戦前にも用いられた過去があって駅名と同じ文字を用いた表記の「餘部橋梁」や、別称・愛称と組み合わせた「餘部鉄橋」も、戦後から現在に至るまで一部で使用されている(「餘」と「余」の字体に関しては「新字体#既存の字との衝突」も参照)。 ==建設の背景== 余部橋梁の建設は、当時日本の国有鉄道網を管轄していた鉄道院が、日露戦争後に山陰本線の東側の区間を全通させるために、未開通のまま残されていた和田山駅 ‐ 米子駅間を建設する際に実施された。和田山側から建設を進めた山陰東線と、米子側から建設を進めた山陰西線があり、余部橋梁を含む山陰西線香住駅 ‐ 浜坂駅間の開通によって両者がつながり京都から米子、その先の出雲今市(現在の出雲市駅)までが開通することになった。 最後の区間となった香住 ‐ 浜坂間は、山が海に迫る地形で海岸沿いに線路を通すことは不可能であった。この区間にどのように線路を建設するかは関係した技師の間でも論争があり、米子出張所長の石丸重美は現行の案を主張し、福知山出張所長の最上慶二と橋梁技術者の古川晴一は内陸に迂回する案を主張した。石丸の案は、内陸案ではその当時の土木技術では難しい長大トンネルが必要になることを避けて、かつ最短経路を選択したもので、一方最上らの案は建設に困難が予想され、さらに建設後も海からの潮風で保守作業が困難となることが予想される長大鉄橋を回避しようとするものであった。これに対して上層部の判断により、石丸の主張する案を採用することになった。 香住駅の標高は 7.0 m, 浜坂駅の標高は 7.3 m とほぼ同じ高さにあるが、その間で山を越えなければならない。長大トンネルを避けるためには、できるだけ山に登って標高の高いところに短いトンネルを掘って抜ける必要がある。この付近では河川の多くが南側から北の日本海へ向かって流れているので、これらの川筋に沿って山に登ることはできなかった。しかし桃観峠(とうかんとうげ)では、東側に西川が流れ出して余部で海に注ぎ、西側に久斗川が流れ出して浜坂で海に注いでいた。そこで、これらの川筋を利用して桃観峠のできるだけ高い位置に登って、峠の下の標高約 80 m の地点に桃観トンネル(全長1,992 m)を建設することが考えられた。 香住からは最急 12.5 ‰ の勾配で登っていき、標高 39.5 m の位置に鎧駅がある。そこからは短いトンネルを連続して通り、余部橋梁を通って餘部駅が標高 43.9 m の位置にある。そこからは 15.2 ‰ のきつい勾配を登っていって、標高約 80 m の地点で桃観トンネルに入る。桃観トンネル内から久谷駅までは 15.2 ‰ で下り、標高 51.9 m の久谷駅を過ぎると 13 ‰ の下り勾配になり、浜坂が近づいてくるところで平坦となる。このように香住と浜坂の両方から桃観峠を頂点として登っていく線形を採用したため、その途中の余部に長谷川が形成する 300 m あまりの長く深い谷間があったとしても回避するわけにはいかず、この谷間を越えてどうしても線路を通す必要性が生じた。方法として橋梁を建設する案と築堤を建設する案が検討され、橋梁の建設費が約32万円と見積もられたのに対して、築堤の建設費は約70万円と見積もられた上に築堤を建設すると余部の集落全体が埋没してしまうことになることから、最終的に橋梁建設案が選定された。 ==鉄橋(1912年 ‐ 2010年)== ===旧橋梁概要=== 旧橋梁は1909年(明治42年)12月16日着工、1912年(明治45年)1月13日に完成し、同年3月1日に開通した。全長310.59 m(橋台面間長309.42 m)、下を流れる長谷川の河床からレール面までの高さ 41.45 m, 総工費331,536円。11基の橋脚、23連の橋桁を持つ鋼製トレッスル橋である。23連となるのは、各橋脚上に30フィート桁、各橋脚間に60フィート桁がそれぞれ架設されているためである。土木学会による技術評価では近代土木遺産のAランクに指定されていた。 その独特な構造と鮮やかな朱色がもたらす風景は、鉄道ファンのみならず、山陰地方を訪れる観光客にも人気があった。その一方、直近の地元住民は多くの落下物や騒音に悩まされてきた事例もあり、旧橋梁による負の一面も存在していた(後述)。 2010年(平成22年)7月16日午後9時50分頃「はまかぜ」5号の通過をもって営業運行を終了し、同日深夜に行なわれた同列車上り返却回送をもって車両運用をすべて終了した。翌7月17日から区間運休し、旧橋梁の解体撤去作業が開始され、新旧切替工事が8月11日まで行われ、2010年8月12日から新橋梁の供用が始まった。 鉄道用鉄橋の耐用年数は、減価償却資産の耐用年数等に関する省令(別表)によれば「構築物 | 鉄道業用又は軌道業用のもの | 橋りよう | 鉄骨造のもの | 四〇 年(40年)」 とされているが、旧橋梁はそれを上回って長期間耐用する結果を残した。鉄橋には特に厳しい地形や環境であったことから、地道な保守作業や適切な維持管理が継続されたこと、鉄橋構成各部位の精度が高く建設当時から晩年に至るまで狂いが生じていなかったこと、財政的負担(後述)などの事情もあり、結果的に完成から98年という長期にわたる運用実績を残した。完成当時は東洋一のトレッスル橋と謳われていたが、実際にはミャンマー北東部で1901年に建設された鋼材トレッスル橋ゴッティ鉄橋(英語版)「GOKTEIK」(日本名:ゴッティ / ゴクテイク、[1] 全長689m、高さ(最高地点)102m)が既に存在していた。しかし、日本国内では運用終了時まで最長のトレッスル橋であった。 一部橋脚・橋桁は保存され、展望台に整備されて活用されている(後述)。解体撤去で発生した鋼材は、歴史ある貴重な研究材料として、関西地方を中心とした数校の大学や鉄道総合技術研究所に提供され、金属や錆などの研究用途に利用された。また地元からの「餘部駅に余部鉄橋の記念になるものが欲しい」との要望に応えたJR西日本により、同駅のホームに元橋脚の一部鋼材を使用したベンチが置かれている。 ===橋梁形式の選定=== 橋梁建設案の選定後に橋梁形式が検討され、両側を築堤にして間をトラス橋で結ぶ案、全体をトラス橋にする案、プレスド拱橋にする案、カンティレバー式橋梁にする案、拱橋にする案、トレッスル橋にする案などが比較されて、トレッスル橋が選定された。 トレッスル橋案選定後にも米子出張所の岡村信三郎技師が、海に近い余部に鋼製の橋を架けると後々腐食対策で保守経費がかさむことを懸念して、日本国外の橋梁を勉強したり、母校の京都大学土木工学科教授に相談した結果、鉄筋コンクリート製のアーチ橋を建設することを上申した。この案は60フィート間隔で橋脚を建設して、その上にアーチ橋を架設するものであった。概算工事費は京大教授により46 ‐ 47万円と出たが、人件費・保守経費なども含めた総額で考えると最終的にはアーチ橋が一番安くなると試算されたことから、岡村はこの案を主張した。しかし、鉄道院建設部技術課長となっていた石丸重美からは「役人は新しいことをやるものではない」と諭され、岡村は納得できなかったが反対することもできず、さらに鉄筋コンクリート製の橋梁の建設経験が日本国内ではもとより、まだ世界的にも少ない時代であったことと、既に鋼製橋梁の材料を発注済であったことから、この案は却下された。 こうして、建設費が安くかつ早く建設することのできる鋼製トレッスル橋梁案を採用する計画を進めることになったが、当時の日本では高架橋式の経験に乏しく調査・検討の余地があるとして、最終的な判断は設計担当の古川晴一による日本国外出張の終了後となった。 後述のように、結果的に保守作業が頻繁に行われた要因から、鋼製トレッスル橋案を採用したことについて、後年の考察において意見が分かれている。批判的な意見の例として、交通地理学者の中川浩一は「信越本線の碓氷峠におけるアプト式鉄道の採用と並んで、後世に多額の保守経費を発生させた」と2000年代に見解を示し、同類の意見は川上幸義の『新日本鉄道史』などでも見られる。肯定的な意見の例として、網谷りょういちはその著書で当時のコンクリートの品質は低く、コンクリート橋で造っていたら現代まで残らなかっただろうと予想し、明治末期における路線および橋梁形式の選定としては大変適切であったとの見解を示している。 ===旧橋の設計=== 橋梁の設計を指名されたのは皮肉にも、長大橋梁を回避するために内陸案を主張した古川晴一であった。古川は当初支間40フィート (12.192 m) で16基の橋脚を建設する設計案を作成した。1907年(明治40年)7月から1年間にわたり古川は欧米に出張し、橋梁建設が技術的に可能なことを確認し、アメリカ合衆国のフィラデルフィアで橋梁設計技師のポール・ウォルフェル (Paul L. Walfel) と設計案を相談した結果、橋脚の数は16基から11基に削減、橋脚の上に30フィート (9.144 m) の桁を、橋脚間に60フィート (18.288 m) の桁を架ける形態に変更された。設計上の活荷重はクーパーE33(軸重 15 t の車軸配置1D形テンダー機関車重連を想定)であった。古川が日本に帰国後、最終的に鋼製トレッスル橋梁案の採用を決定した。 合計11基ある橋脚は、起点の京都側(東側)から順に第1号 ‐ 第11号と番号が振られている。ただし、この区間は山陰西線の一部として建設されたことから、建設中は山陰西線の起点米子側から数えられており、逆順の番号を振られていた。この記事では混乱を避けるために、一貫して開通以後の橋脚番号で説明する。橋脚のうち両端の第1号と第11号は山の斜面に掛かって短くなっており、残りの第2号から第10号までの9基の橋脚が余部の平地から建てられている。基礎から橋脚の上端までは 36.66 m あり、この上に 1.587 m の高さのある橋桁が載せられて、枕木やレールなどがさらに 0.37 m 入っている。余部を流れている長谷川の川底からレール面までは 41.45 m あり、一般に余部橋梁の高さとしてはこの値が知られている。第3号橋脚と第4号橋脚の間を長谷川が流れており、第4号橋脚と第5号橋脚の間を国道178号が通っていた。橋脚の主柱は幅15インチの溝形鋼を背中合わせに2本配置して、その間をカバープレートと綾材(レーシングバー)で結んだ構造になっている。線路直角方向の水平材は、幅10インチ(下3本)と8インチ(上3本)の溝形鋼を背中合わせに2本配置して綾材で結んでいる。線路平行方向の水平材は、3.5インチ×3インチの山形鋼4本を綾材で連結したもので、また斜材は同じ山形鋼2本を綾材で連結したものとなっている。全部で23連の橋桁が架けられ、全長は 310.59 m 、橋台面間長は 309.42 m となった。鋼材は合計 1,010 t 使われ、総建設費は331,536円であった。 ===旧橋の建設=== 橋梁建設に当たって、まず1909年(明治42年)3月から現地での地質調査が行われた。その後鉄道工業により同年12月16日から基礎工事が行われた。基礎工事には箱枠工法が用いられ、複雑な地層と埋没していた木や石により箱枠沈下には大きな困難が伴った。海岸に近いこともあり掘削すると水が噴出し、現場監督を務めた岡村信三郎は潜水服を着て基礎の状況を調べなければならない状況であった。5号と6号の橋脚間からは真水が吹き出したため、井戸にして集落に供用された。最下層にはコンクリートを打ち、その上に近くの村から切り出した石を積み上げて橋脚の基礎構造を造った。この石積みの基礎はその後の補強工事でコンクリートによる巻き立てが行われた。また、第9号・第10号橋脚については沼地であったため地盤が軟弱であり、長さ 5.5 m の松杭を主塔1つあたり25本、橋脚1つあたりで100本打ち込んで、その上にコンクリート基礎を築いている。基礎工事には1年7か月掛かり、1911年(明治44年)6月15日に完成した。基礎工事の費用は85,124円であった。 橋脚の鋼材 652.496 t およびアンカーボルト 12.72 t は、アメリカ合衆国のセイルブレーザが請け負ってアメリカン・ブリッジのペンコイド工場で製作された。九州の門司港に運ばれた橋脚は、汽船「弓張丸」に積み替えられて余部沖に運ばれ、1910年(明治43年)8月に陸揚げされた。1つでも部材を海に落としてしまうと再度アメリカからの取り寄せになってしまい、工期に大幅な遅れが生じてしまうことから、陸揚げ作業は慎重に行われ、無事に完了した。到着後、航海中に生じた錆を落とすなどの整備作業が実施された。リベットを打つための空気圧搾機の整備と合わせて実施されて、費用は834円であった。また事前に錆から鋼材を保護するためのペイント作業が行われ、橋脚4,375坪(約 14,463 m)、橋桁1,367坪(約 4,519 m)の塗装面積に対して下塗り2回、組み立て後の上塗り1回の塗装を行った。塗装の費用は13,440円であった。 橋脚の組立作業は鉄道院の直轄工事として行われ、下請けとして大阪の上州屋が鳶作業を請け負った。1911年(明治44年)5月から橋脚の組立作業が始まり、東側の第1号から順に、10月上旬までの約5か月間で組立作業が行われた。橋脚1基につき約2,300本の丸太を使った足場を高さ 45 m まで組み上げて、その上でトレッスルのリベット打ち作業が行われた。橋脚には約49,800本のリベットが使われている。足場の建設から解体まで、橋脚1基につき約40日かかり、同時に3基から5基程度の橋脚を並行して作業を行った。橋脚の材料費を含め、リベット打ち作業は含めずに総工費は132,828円であった。 橋桁については、ドイツのグーテホフヌングスヒュッテ (Gutehoffnungsh*166*tte) 製の輸入鋼材から石川島造船所(現在のIHI)によって製作され、1911年(明治44年)9月に神戸より工事列車により陸送された。本体が 305.59 t, 付属の橋側歩道 33.84 t, 高欄用ガス管 5.31 t であった。鎧駅の構内で約17,200本のリベットを打って組み立てが行われた。リベット打ちの費用は、橋脚のものと合わせて12,922円であった。10月下旬、11月下旬、12月下旬の3回に分けて、カンチレバー工法で橋桁の架設が行われた。橋脚間にも仮設の足場を設けて、足場の間にレールを渡し、これが橋桁の重量を支える形で架設作業を行った。橋脚上の橋桁は、橋脚最上段に仮設足場を設けて架設作業を行った。架設を終えた後、脇の歩行者用通路および欄干の取り付けを行い、枕木や軌道の敷設を実施した。橋桁の材料費を含めて、総工費は80,121円であった。 完成までには33万円を超える巨費と、延べ25万人を超える人員が投入された。大変危険な工事だったため、現場の工事を指揮した岡村信三郎技師には2万円もの保険が掛けられていた。この危険な作業のために人夫には高い賃金が支払われ、余部の村は架橋ブームに沸いた。架橋工事中には転落事故で2名が亡くなり、他に83名の負傷者が出た。また工事には、請負業者が連れてきた朝鮮人の人夫が参加していた。これは、明治32年勅令352号により中国人の日本国内での単純労働は禁止されていたのに対し、日朝修好条規により朝鮮人の単純労働は認められていたことの影響があり、慣習の違いなどの問題はあっても、食事さえたくさん与えればよく働くとして工事業者からは重宝がられていたという。工事中の殉職者および病没者の招魂碑が、久谷駅近くの八幡神社境内に建立されている。工事完了直前には、線路のバラスト敷設用の貨車が逸走して西側から橋を渡って事実上の「通り初め」をしてしまうという事故もあったが、既に工事資材が片付けられレールの締結も終えた時期であったので、橋の東側で停車して無事であった。 こうして1912年(明治45年)1月13日に工事が完成した。1月28日に初めての試運転列車が運転されたが、試運転がこの日に決められたのは、かつて修験道の経験のあった余部詰所の使用人の予言によるもので、天候の荒れがちな冬の山陰にもかかわらず、晴天の日に無事試運転を行うことができた。この試運転はC形タンク機関車の重連で行われ、1480形1484号(重量30.8英トン)と2100形2112号(重量 44.75英トン)が橋の上を速度を変えながら数回にわたって走行し、桁のたわみを測定した。3月1日に京都 ‐ 出雲今市(現出雲市)間の山陰本線が全通した。 ===開通の影響=== 山陰本線が開通するまで、山陰方面へは舞鶴と境を結ぶ鉄道連絡船が運航されており、最初にこの航路を開設した阪鶴鉄道から国有化に伴い鉄道院が引き継いで、直営で阪鶴丸と第二阪鶴丸が就航していた。しかし山陰本線開通に伴い、3月31日限りでこの航路は廃止となり、船は他の航路へ転属した。それまで船舶乗り継ぎで京都 ‐ 出雲今市間は24時間19分かかっていたが、開通後は直通列車で12時間49分に短縮され、ほぼ半減となった。また運賃も3等で4円61銭であったのが2円84銭と大きく低減された。それまで遅れていた日本海側の交通機関の整備の一大画期となり、当時の内閣総理大臣西園寺公望も開通式に際しての祝辞で「人文ト産業ト両ナガラ其ノ面目ヲ改メ(中略)山陰将来ノ殷盛期シテ待ツベキモノアラン」と述べている。 鉄道開通以前は山陰地方は境からの水運に大きく頼っていたが、山陰本線の開通と共に鉄道への転移が進み、折からの第一次世界大戦に伴う好況もあって、地域の産業と社会に大きな影響を与えた。まず出雲大社詣りや温泉での湯治などで東京や大阪から山陰地方への訪問客が増加するようになった。地元での産業も、1913年(大正2年)元旦の鳥取県内の新聞によれば、鳥取県から移出される貨物は、製紙原料が4倍、材木が3倍、綿布が2倍、和紙が1.3倍と大きく増加した。また当時ようやく鳥取県で導入が始まったところであった二十世紀梨の生産も、栽培面積が一挙に5倍に増加し、繭の増産のための桑畑も1.5倍に増加した。因伯牛のような特産牛の生産も増加し、大都市の市場をにらんで農林水産物の商品化が進んでいった。一方で大都市に対する安価な労働力の供給源ともなり、鉄道開通後は人口の増加率が鈍るようになった。京阪神で作られた商品の市場ともなっていったことから、『鳥取県史』では、第一次産業を主体とした後進的な県としての性格を強めることになったと記している。 ===保守作業=== 三方を山に囲まれ一方は海岸から近いという厳しい地形と、冬季は季節風や吹雪が吹き付ける環境であることから、完成3年後には早くも塗装作業が必要となり、5年後からは腐食した部品の交換が始められた。常時保守(塗装による腐食防止と劣化した小部品の交換などの補修)が必要であったため1917年(大正6年)から1965年(昭和40年)まで「鉄橋守」「橋守」「橋守工」と呼称される工事工手が常駐して維持管理を行っていた。この作業は『繕いケレン』(つくろいケレン)と呼ばれた。ケレンはクリーンがなまったものではないかとされている。鉄橋守は合計5人で、最初の2人は橋の塗料を供給した日本ペイントの社員が国鉄に雇われたもので、後の3人は地元余部からの採用であった。 第8号橋脚と第9号橋脚の間、鉄橋直下にはかつて橋守が詰めて作業用具などを保管する橋守詰所が置かれていた。また東側の東下谷トンネル入口には見張番所の小屋が存在していた。 錆を防ぐために用いられる塗装は年月とともに劣化し、塗膜に開いた穴から水分や塩分が侵入して鋼材を腐食するとともに、さらに塗膜の劣化を進行させる。繕いケレンではこうした塗膜の異常を早期発見し、その周辺の塗膜をトンカチ、スクレイパー、ウェスなどの工具で取り除いた上で、塗装をやり直すことで鋼材の腐食を防止していた。 しかし、第二次世界大戦中は資材不足や混乱した状況から保守が不十分となり老朽化が進んだ。終戦とともに、備蓄されていた錆止めペイントが一度に1,000缶支給され、橋守のみならず本区からの応援担当者もかけつけて、どうにか橋の腐食進行を食い止めた。 1950年代中盤から1970年代中盤にかけて計3次にわたる大規模修繕長期計画が実施された。まず1957年度(昭和32年度)から1964年度(昭和39年度)まで第1次5か年計画が実施され、線路方向水平材と副垂直材の取り替え410本を実施した。1963年度(昭和38年度)からは第2次5か年計画を実施し、斜材の山形鋼取り替えを行った。さらに1964年度(昭和39年度)からは線路直角方向水平部材の取り替えも始められた。 1968年度(昭和43年度)から第3次修繕8か年計画が開始され、水平材と斜材の全交換が1976年(昭和51年)までかけて実施された。2次部材はすべて交換され、建設当初からの部品が残されているのは橋桁と、橋脚の主塔(垂直方向で桁を支えている柱)のみとなった。この取り替えにより、それまで溝形鋼や山形鋼で構成されていた水平材と斜材は、H形鋼に変更された。また塗料も防錆効果の高いものへの切り替えが進められ、当初の油性のものから塩基性クロム酸鉛やフタル酸樹脂塗料、さらには塩化ゴム系の塗料へと進歩してきた。 鉄橋守が置かれなくなった後も、潮風が吹きつける橋脚には防錆処理をするため4 ‐ 5年に1度の周期で塗装作業が行われてきた。鉄道塗装(後に建設塗装工業と改称)が請け負って、1チーム20人ほどの作業班を作って、春から秋にかけての時期に足場・上下移動式足場・作業用ゴンドラなどを使用して塗装作業が繰り返されてきた。 こうした保守作業の結果、橋梁架け替えの検討に際して行われた健全性調査では、もっとも重要な主脚で断面欠損が最大で 12.5 % に留まり、基礎の状況も良好で、健全な状態であることが確認されていた。阪神・淡路大震災後の耐震基準に対しても、アンカーボルトの増設で満たすことができると判断されていた。 この厳しい環境を逆に利用し、鉄道総合技術研究所(鉄道総研)・JR西日本・日本鉄鋼連盟橋梁用鋼材研究会の共同研究で鋼材暴露試験が2003年から3年間にわたり行われ、旧橋梁の各部にワッペン試験片が貼り付けられ経過観察された。 保守経費の負担について、晩年は支柱・リベットが著しく腐食している(特に第4号橋脚)など橋梁構成部品の劣化が進行しており、2006年時点において年単位で約2300万円の修繕費が必要と余部鉄橋利活用検討会で試算されていた。 ===災害・戦争の影響=== 1927年(昭和2年)の北丹後地震では、余部橋梁の西側の築堤区間が崩壊し、また橋脚の一部が沈下するなどの被害を受けて、しばらくの間山陰本線が不通となった。 第二次世界大戦に際しては、資材不足で保守が滞るようになったが、一方で山陰本線の重要地点とみなされ、敵の攻撃に対する警戒が行われた。このために、1944年(昭和19年)に陸軍が付近に監視哨を設置した。この監視哨に通信線を引くために電力が必要とされ、それまで桃観トンネルの工事のために設置された小規模な水力発電からのわずかの電力のみであった余部の村に、香住からの送電線が引かれて、戦時中にもかかわらず電化されるという副産物を生んだ。また1945年(昭和20年)になると、当時管轄していた運輸通信省大阪鉄道局から大鉄工業福知山支店に対して、鉄橋を敵の攻撃から守るための対策の検討依頼が行われた。鉄橋に迷彩を施し常緑樹を被せることで敵の目からカモフラージュするとともに、橋脚下部にコンクリートを巻き付けて補強する対策が検討された。列車通過時の振動によりコンクリートを打つ工事が難しいという問題の対策を検討しているときに終戦となり、こうした対策は実施されずに終わった。 ===餘部駅の設置=== 完成当時は餘部駅が存在していなかったため、近隣住民は最寄の鎧駅まで列車の合間を縫って橋梁・トンネル・線路を歩いて向かっていた。特に余部村が香住町に合併してその一部となると、それまで余部にあった香住中学校の分校が本校に統合されてしまい、余部の中学生は毎日線路を歩いて通学しなければならないことになった。 1955年(昭和30年)から繰り返し陳情をした結果、1959年(昭和34年)1月に駅設置が決定された。駅までの道とプラットホームを造る材料とするため、地元の子どもたちが海岸から石を運び上げる作業を手伝った。1959年4月16日に餘部駅が橋のすぐ西隣に開業した。当初は通学時間帯のみの停車で、普通列車でもほとんどは通過していた。次第に停車列車は増えていき、1978年(昭和53年)10月のダイヤ改正で夜行列車以外の普通列車が全停車となり、1985年(昭和60年)3月のダイヤ改正で夜行普通列車が廃止となったことにより、普通列車すべてが停車する駅となっている。 ===1960年代における橋梁に関する議論と結論=== 長年にわたり地道な保守作業が行われてきたが、老朽化の進む橋梁をこのまま利用し続けてよいのか検討作業も行われた。現在線で補強改良する案とルート変更案を比較し、橋梁案も9種類を作って比較検討を行った。その結果補強には1億5500万円から2億6600万円、別線には3億8800万円から5億1800万円かかると試算されたが、1965年(昭和40年)11月に、補強することでさらに30年以上の使用に耐えるとの結論が出され、補強改良案が採用された。 ===余部鉄橋列車転落事故=== 1986年(昭和61年)12月28日13時25分頃、香住駅より浜坂駅へ回送中の客車列車(DD51形1187号機とお座敷列車「みやび」7両の計8両編成)が日本海からの最大風速約 33 m/s の突風にあおられ、客車の全車両が台車の一部を残して、橋梁中央部付近より転落した。転落した客車は橋梁の真下にあった水産加工工場と民家を直撃し、工場が全壊、民家が半壊した。回送列車であったため乗客はいなかったが、工場の従業員だった主婦5名と列車に乗務中の車掌1名の計6名が死亡、客車内にいた日本食堂の車内販売員3名と工場の従業員3名の計6名が重傷を負った。なお、重量のある機関車が転落を免れたことと、民家の住民が留守だったことで、機関士と民家の住民は無事だった。しかし事故後、機関士の上司は責任を感じて自殺した。 この橋梁からの列車の転落は、橋の完成以来初めての惨事だった。国鉄の記録では、事故の時点で風による脱線は全国で16件あり、そのうち鉄橋からの転落は3件あったが、鉄橋からの転落で死傷者が発生したのは、1899年(明治32年)10月7日に日本鉄道(現在の東北本線)矢板駅 ‐ 野崎駅間箒川橋梁からの客車の転落で20人が死亡45人が負傷した箒川鉄橋列車転落事故以来87年ぶりのことであった。 風速 25 m/s 以上を示す警報装置が事前に2回作動していたが、1回目の警報では指令室が香住駅に問い合わせたところ、風速 20 m/s 前後で異常なしと報告を受けたため、その時間帯に列車がなかったこともあり様子を見ることにした。2回目の警報が作動した際には、列車に停止を指示する特殊信号機を作動させてももう列車を止めるためには間に合わないという理由で、列車を停止させなかった。こうした理由により、強風の吹く鉄橋に列車が進入する結果となった。 事故後、のべ344人の作業員を投入して枕木220本とレール 175 m の取り替えを行い、事故の遺族からの運転再開容認を12月31日10時30分に取り付けて、15時9分に事故後の最初の列車が鉄橋を通過した。 1987年(昭和62年)2月9日に松本嘉司東京大学教授を委員長として「余部事故技術調査委員会」が発足し、国鉄分割民営化後の1988年(昭和63年)2月5日に調査報告書がまとめられた。調査では、橋に取り付けられていた2台の風速計のうち1台が故障しており、もう1台も精度が落ちていたことが判明した。また風速計による警報が出た後に、指令員の判断を介して列車に停止の指示をする仕組みであったことも問題視され、自動的に停止の指示を出せる仕組みにするべきであるとした。報告書では当時の最大瞬間風速を 35 ‐ 45 m/s と推定し、車両の転覆限界風速は約 32 m/s であったと推定している。これらにより、車両転覆の直接の原因は転覆限界風速を超える横風によるものと結論づけられた。 一方、当時吹いていた風速 33 m/s では計算上客車が転覆することはなく、また橋の上のレールが風の向きとは逆に海側に曲がっていたことを指摘して、事故の本当の原因は客車に対する直接の風圧ではないとの主張もある。それによれば、昭和40年代の補強工事で縦横の剛性比の考慮を欠いたまま水平方向の部材のみを強化してバランスを崩し、また橋脚の基礎をコンクリートで巻き立てたために主塔の撓み量が減少して、風によるフラッター現象を起こしやすくなっていたとする。そして、当時の強風によりフラッター現象を起こしていた橋に列車が進入した結果、機関車が蛇行動を起こしてレールの歪みを生じ、両端の客車に比べて軽かった中央付近の客車が脱線して、両端の客車を引きずるように転落に至ったのが本当の事故原因であるとしている。この主張は他の書籍などでも紹介されることがあるが、指令員の責任を追及した刑事裁判でも、事故の調査報告書でも一切触れられていない。 1988年(昭和63年)5月から運行基準が見直され、風速 20 m/s 以上で香住駅 ‐ 浜坂駅間の列車運行を停止し、バス代行とするよう規制を強化することになった。列車を停止させなかった責任を問われた福知山指令室の指令長および指令員計3名に対しては、1993年(平成5年)、禁錮2年から2年6か月の執行猶予付き有罪判決が出され、確定した。 1988年(昭和63年)10月23日に事故現場に慰霊碑が建立された。また事故後毎年12月28日には法要が営まれてきたが、2010年(平成22年)が25回忌の節目となったことと、新橋への切り替えが行われたことから、同年12月28日に遺族会により行われた合同法要が最後となった。 ===鉄橋に関する負の部分=== 旧橋梁が影響を及ぼした負の部分も存在した。 橋梁直下の地元住民は、列車通過時の騒音のほか、様々な落下物・飛来物に悩まされていた。例としてボルト・ナット・リベット・鉄粉などの鉄道部品、雨水・つらら・氷の塊・雪庇、ガラス・空き缶、さらに自殺者もおり、また降ってくる線路・鉄橋の錆が車を傷めるなどの不安や苦労を抱えたまま生活していた。鉄橋には一時期まで小物の落下防止の金網はなく、対策用の転落防止柵も低かった。 列車の運行に関しても、冬場に列車が鉄橋を渡る際、開いていた窓から突風が吹き込み、閉じていた窓ガラスが内側から割れて落下する事例が何度もあったり、前述の列車転落事故やそれによる風速規制強化により、定時性が大きく低下して鉄道輸送の不安定さが目立つようになった(後述)。 橋を架け替えるにしても、その後の鉄橋について、橋脚・橋桁の残し方によって構造的な不安があること、新・旧橋梁が並列に建設された場合における風や振動による悪影響の発生、後世にわたる高額な維持管理費の負担などの可能性があると懸念された。 これらの要因から、地元住民の中には鉄橋を「負の遺産」と考える者もおり、橋梁直下にある浜自治会の意向としては「新橋梁への架け替え」と「旧橋梁の全面撤去」を希望する意見に傾倒していた時期もあった。 ===保存の議論と進展=== 列車転落事故後に風速規制が強化されたことから運休や遅延が相次ぐようになり、その対策として防風柵の設置が検討されたが長期的な安全性を考慮して架け替え案が採用されることになった(詳細は後述)。架け替え後の旧橋梁の処遇については、近代土木遺産としての価値があることや、余部橋梁の雄姿と事故の教訓を何らかの形で後世に伝えていくことが求められ、架け替え前の段階から、一部を取り壊さずに残す構想や、記念館を建設する案が出され、地元自治体などでつくる余部鉄橋利活用検討会が設けられ議題となっていた。 地元住民の中には旧橋梁を保存することについては否定的な見解を持つ人、観光客のモラル低下や列車転落事故の記憶から「静かにしておいてほしい」と考えている人、安全面の不安から保存に反対している人もいた。その一方で、同じ余部地区住民でも橋梁から少し離れた場所では「昔からある風景がなくなるのは寂しい」と惜別の声も上がっていた。 橋脚保存について、現位置での望ましい残し方を4パターンに絞って様々な観点から検討された結果、兵庫県は2009年(平成21年)3月に餘部駅寄りの3本の橋脚・桁を残すパターンを採用すると発表。さらにその部分を利用して鉄橋展望台「空の駅」として保存活用することや、地域資源の特性に応じた5つのゾーンを設定し、鉄橋記念施設・道の駅・自由広場・水辺公園・散策路などを整備して余部鉄橋の物語を継承していくことや、地域活性化を図る方針を併せて発表した。この「空の駅」は、2013年5月3日から供用開始された。空の駅に関しては空の駅、観光資源としての側面も参照。 ===空の駅=== 新橋梁に切り替えたのち、旧余部橋梁を保存すべきかどうかについては議論のあるところであったが、検討の結果維持費や落下物の危険性などが少ない、餘部駅側の橋脚3本を残す方針が決定された。これが兵庫県が主体となって整備した展望施設「余部鉄橋「空の駅」」である。全体が残された橋脚3本の他に、一部の橋脚を低層部だけ残す構造となった。撤去された橋脚部材の一部で文鎮が作られ、土産物屋などで販売されている。 展望施設は、「余部鉄橋の物語を継承する空間整備」を基本方針として設計された。腐食箇所などを調査の上で必要な補修を行い、レベル2の地震動にまで耐えうる設計とした。展望施設部分は幅 3 m, 奥行き 68 m で、海側にベンチを設置し、また床板の2か所にガラス窓を設置して下を覗けるようにした。展望施設先端部のフェンスの向こうに、14 m だけ旧軌道をそのまま残した部分がある。展望施設へのアプローチは、餘部駅プラットホームの裏側に、旧橋梁時代のレールや枕木をそのまま残した構造である。橋脚の下部には付随する公園施設が整備されている。 設計はオリエンタルコンサルタンツが2011年2月から9月にかけて実施した。工事は2012年3月から2013年4月までかけて、総工費5億5000万円をかけて株本建設工業が施工した。展望施設は2013年5月3日に供用開始された。 ==コンクリート橋(2010年 ‐ )== ===現橋梁概要=== 現橋梁は2007年3月29日着工、2010年8月11日に切り替え工事が完成し、同年8月12日に開通した。総事業費は30億円。架設位置は旧橋梁よりも約 7 m 南側(内陸側)で、これに伴い、餘部駅のホーム位置が従来線路の南側にあったものが北側に変更された。橋梁の構造はプレストレスト・コンクリート製のエクストラドーズド形式を用いており、上部は桁上高さ 5 m の主塔から張られた斜材が桁を吊っており、下部は橋脚4基と橋台2基で構成。旧橋梁時代に問題視されていた部分において、高さ 1.7 m の透明アクリル製防風壁を整備して風速 30 m/s まで運行可能となったことで定時性確保・向上を図り、コンクリート製となり橋梁上にバラストも敷かれたため騒音も大きく軽減され、落下物に関しては20年確率での積雪量を想定した貯雪スペースを設けた構造にして橋下への落雪を防止するなどの各種対策が施されている。 デザインは「直線で構成されたシンプルな美しさ」「風景にとけ込む透明感」が魅力的な部分であり、旧橋梁のイメージを取り入れて薄い橋桁にするなど、スレンダーで直線的なイメージを継承するように設計された。 ===架け替えの議論と進展=== 余部橋梁の架け替えは1960年代に検討され、結論として旧橋梁の補強改良案が採用されたことで、以降は保守・補強作業に留まっていた(前述)。 列車転落事故後は風速規制を 25 m/s から 20 m/s に強化したことで運休や遅延がたびたび発生し、1994年 ‐ 2003年にかけての年間平均値で、列車抑止120回、運休84本、特に冬季に発生し、沿線地域の通勤・通学や経済活動に大きな影響が出ていたことから、これらの不具合解消を目的として1991年(平成3年)3月に鳥取県や兵庫県をはじめとする地元自治体などで組織する「余部鉄橋対策協議会」(会長・井戸敏三兵庫県知事)が設立され、取り組みを開始した。対策案としてバイパス新線建設が検討されたが、既設駅移転や事業費が多額となる面から見送られた。別案として旧橋梁への防風壁設置が1994年(平成6年)3月から検討され、風洞実験などから補強した防風壁は強風に対応可能であることが確認されたが、旧橋梁の老朽化もあって長期的に安全性を確実に担保することが難しいことから見送られ、JR西日本側から地元に対して2001年(平成13年)11月22日に新橋梁の建設が提案された。 2002年(平成14年)7月25日に開かれた余部鉄橋対策協議会の臨時総会で、地元側は架け替え推進の方針を決定した。同年12月に「余部鉄橋定時性確保のための新橋梁検討会」(座長: 松本勝京都大学教授)を設置して、大学教授、JR西日本、鉄道総研、地元の関係者などが新橋梁に対しての各種案件の検討を行った。その結果として経済性が高く運休期間が比較的短期で済む「PCラーメン橋」案で評価がまとめられた提言書が2003年(平成15年)9月1日に兵庫県知事に向けて提出された。 新橋梁の構造設計は、ジェイアール西日本コンサルタンツが担当した。その検討の結果、PCラーメン橋では桁高が大きくなることが判明し、余部鉄橋対策協議会での検討も受けて、2005年(平成17年)3月に最終的に採用された構造形式は「エクストラドーズドPC橋」(エクストラドーズド5径間連続PC箱桁)となった。 鳥取県議会は寝台特急「出雲」が2006年(平成18年)に廃止されたことに関連して、橋梁架け替えへの資金提供をやめる可能性も表明していたが、結果的に3億2000万円の助成を行った。 総事業費約30億円のうち、2割の6億円をJR西日本が負担し、残りの24億円のうち鳥取県側は4.8億円、兵庫県側は19.2億円を負担した。 ===新橋の設計=== 新橋梁は、PC5径間連続エクストラドーズド箱桁橋として設計された。新橋梁の架設位置は、レール中心面間隔で旧橋梁よりも約7m南側(内陸側)となった。京都方(東側)にはトンネルがあり、一方幡生方(西側)には餘部駅が存在しており、これを考慮した平面線形が採用されている。東側ではS字にカーブする橋桁を挿入して既設のトンネルへと接続する一方、西側では山を削って線路を敷設するスペースを確保し、これに伴い餘部駅ホームが従来線路の南側にあったものが北側に変更された。平面線形としては、京都方から半径300mのS字カーブ(左カーブ‐右カーブ)で既設橋より約7m南側に出て、その後は直線で、最後に半径2,500mの右カーブがある。一方縦断線形は水平である。設計上の活荷重はEA‐17である。 下部構造は橋脚4基と橋台2基で構成され、旧橋梁と同様に起点の京都側から第1号 ‐ 第4号の橋脚番号が付けられている。このうち第1号から第3号の橋脚の太さが 4 m, 第4号が 3 m である。また支間は橋台から第1号の間が 50.1 m, 第1号 ‐ 第2号と第2号 ‐ 第3号が 82.5 m, 第3号 ‐ 第4号が 55.0 m, 第4号と橋台の間が 34.1 m となっている。この支間の配置は、第1号と第2号の間を長谷川および国道178号が通ること、既設橋梁の橋脚を避けて新しい橋脚を建設する必要があること、上部工張り出し架設のバランスなどを考慮して決定された。橋脚の高さは第4号の 33.67 m から第1号の 36.0 m までばらつきがあり、また地下に最大 23.0 m におよぶ杭を打ち込んで基礎としている。橋脚の下部3分の1ほどについては、下から見上げたときの視覚的不安を解消するために末広がりの構造となっている。余部橋梁は橋脚の高さが比較的高く、地震で損傷したときの修復工事に難があることから、特に高い耐震性を確保するように設計されている。 上部構造は、高さ 3.5 m の一定高さの桁橋となっている。これはデザインコンセプトとして「旧橋梁のイメージを継承する橋」としたことから、スレンダーなデザインとするために採用されたものである。またこのコンセプトから、主塔の高さも 3.5 m と低く抑える設計を当初は検討していたが、地元からの「よりシンボリックにするため、主塔を高くしたい」という要望があり、主塔とケーブルの保守管理性も考慮のうえで 5.0 m の高さとなった。 橋の上に敷設する軌道は、長大スパンのPC橋でクリープや乾燥収縮による桁そりの変化量が大きいことから、保守性を考慮してバラスト軌道を採用している。これにより騒音も軽減された。またPC橋であり軌道の間が空いていないことから、軌道間から吹き上げる風の列車への影響がなくなると共に、列車からの落下物が地上に到達することもなくなった。風対策として高さ 1.7 m の防風壁が整備されて風速 30 m/s まで運行可能とし、眺望を確保するため材質は透明アクリル板を用いた。余部地区は降雪が多く、橋梁にも積雪対策が必要とされたが、水による融雪方式では地上から高さ 40 m の橋上まで水をポンプアップする設備が必要となりその保守などに手がかかることから、経済性にすぐれる貯雪方式が採用された。20年確率での積雪量 116 cm を想定して軌道脇に貯雪スペースが設けられており、橋の下への落雪を防いでいる。また、将来的に電化される場合にも対応できる構造とされている。 設計を担当したジェイアール西日本コンサルタンツの当時の技師長・北後征雄は、大腸癌で入院し、部下が持ってくる設計図面に病床で目を通して責任者としての署名を続けたものの、新橋梁の工事半ばの2008年(平成20年)6月10日に亡くなった。 新橋梁を建設するために必要な土地の買収に着手したところ、付近の土地が法務局の備付地図(公図)と現況が一致しなくなっている地図混乱地域であることが判明した。これは1893年(明治26年)、1918年(大正7年)、1990年(平成2年)の3回に渡り地域で大きな水害があって地形が変動したことや、復旧作業に際して元と異なる形状にしてしまったこと、法定手続きによらず土地の売買や改良工事が行われてきたことなどが原因であった。このため公共工事に際しても登記を行うことができず、現存する町道が公図に記載されていないといった事態を招いていた。そこでこの機会に集団和解による解決を図ることになり、JR西日本が中心となって地権者や抵当権者などとの交渉を1年7か月にわたって進め、114筆合計約 30,000 m の土地について合意の上で公図を作成しなおした。特に遠隔地の抵当権者との交渉に際しては、余部橋梁の架け替え工事に伴うものであることを説明することで協力を得やすくなり、橋梁の知名度の高さに助けられた格好になった。 ===新橋の建設=== 新橋の工事名は「山陰線鎧・餘部間余部橋りょう改築他工事」で、清水建設と錢高組の特定建設共同企業体(特定JV)が担当した。2007年(平成19年)3月29日に本工事(準備工)に着手、5月27日には、JR関係者、井戸敏三兵庫県知事、周辺自治体の首長、余部鉄橋列車転落事故の遺族などが出席して架け替え工事の起工式が開かれた。 橋脚に関する工事は長谷川周辺の1号橋脚、国道と町道の間の2号橋脚、町道と餘部駅の間の3号・4号橋脚の3つのエリアに分けて進められた。これに伴って長谷川には2本の工事用桟橋が設置された。 2007年(平成19年)11月から橋脚の基礎工事に着手した。1号 ‐ 3号の橋脚は場所打ち杭という形式で施工されたのに対して、4号の橋脚は斜面上にあり既設橋脚への影響が懸念されたことから、当初予定の場所打ち杭形式を取りやめて、竹割り土留め工法による大口径深礎杭形式に変更された。橋脚の鉄筋の組み立ては、地上で組み立てたものを架設するノップキャリイ工法が採用された。海岸から近く鉄筋の腐食が懸念されることから、特に1号・2号橋脚では 200 mm のコンクリートのかぶりを確保する設計とされていたが、ひび割れの抑制が困難であることが分かり、PET繊維を混入してひび割れを抑制する対策を行った。1号橋脚と起点側橋台については、切り替え工事までの間その上でS字の橋桁を構築し支えておく必要があることから、桁を本設置する位置より南側に仮設の橋脚と橋台を構築した。1号橋脚の仮設部分については、直径 1 m のプレストレスト高強度コンクリートパイル(PHC杭)の柱を4本立てて支えている。2008年(平成20年)後半になると橋脚が立ち上がり、タワークレーンによる作業が本格化した。 2009年(平成21年)春から桁の工事に入った。橋桁は、移動作業車を使って橋脚上部から両側にバランスをとりながら張り出していく工法で施工された。既設橋梁の桁と移動作業車の離隔は最小で 30 cm 程度しかなく、強風下でも接触することのないよう細心の注意が払われた。両側から施工されてきた橋桁の閉合が完了すると、移動作業車を吊り下げて解体する必要があるが、橋桁の施工中にエクストラドーズド橋の斜材の施工が進んでいたために橋脚の地点まで戻すことはできず、既設橋梁の橋脚の張り出しや下部の国道・町道などの位置を考慮して、反対側の桁まで移動してから降ろすなどの対処が必要となった。この際に、2号橋脚から1号橋脚へ向けて施工した移動作業車は、1号橋脚側のS字の橋桁との間のまだ閉合されていない隙間にレールを渡すなどして反対側に乗り移っている。主塔の高さは 5 m で、1.8 m の高さに打継目があり、その上にサドル架台が載せられている。斜材ケーブルはPC鋼より線に防錆油を塗布してポリエチレン被覆したものが使われ、橋桁の張り出し作業と並行して架設・緊張作業が行われた。 工事は天候に恵まれ順調に進んだため予定よりも工期が短縮され、当初の完工予定(2010年9月中)より1か月程度前倒して新旧橋梁の切り替え工事が実施された。2010年7月17日から区間運休した上で、旧橋梁の起点側を一部撤去し、新橋梁の橋桁を横移動(7月20日)・回転(7月23日)させて架設する「橋桁移動旋回工法」を実施した。これは日本国内初の工法で、移動される桁は全長約 93 m, 重量約 3,800 t で、平行移動に際しては 1,500 kN 油圧ジャッキ(オックスジャッキ製)を橋台に1台、1号橋脚に4台設置し、4.0 m 平行移動させた。その後、1号橋脚上に鋼製のストッパを落とし込んで回転軸として、橋台上の油圧ジャッキの位置を回転位置に移して、反時計回りに5.2度(橋台上で 4.6 m に相当)回転させて所定の位置に橋桁を据えた。8月上旬には接続部分にて設計上発生していた隙間をコンクリートで埋める工事、防風壁設置工事、最後にレール敷設や電気設備工事が行われ、同年8月11日に切り替え工事が完成した。 橋桁移動旋回工法に関しては世界初とされる大規模実証実験が事前に行われた。2009年11月24日に清水建設技術研究所の実験棟にて同社やJR西日本の関係者らが参加して、新コンクリート橋の橋桁に使われている鋼材を1/10サイズで再現して水平移動・回転・加圧など本番さながらの条件で実施され、安全性など想定通りの結果が確認された。 2010年8月12日早朝、ディーゼル機関車による試運転列車が最初に新橋梁を渡り、定期列車の初運行は午前6時半過ぎの始発列車で、同列車には地元住民約120人が乗車して新橋梁を通過し開通を祝った。同日開かれた完成記念式典では兵庫・鳥取両県知事や地元選出国会議員、地元自治体の首長などが出席して、列車転落事故の犠牲者に対する黙祷を行い、また橋完成の祝辞を述べた。また地元の住民により、新橋の高さと同じ 41.5 m の長さの餅作りやくす玉割り、宝船行列などの行事が行われた。 新橋の供用開始により風速の規制値が 30 m/s に緩和されて後、2010年12月9日に初めて風速が 31.5 m/s に達して運行見合わせが発生した。しかし、供用開始してからこの日までに、従来の規制値である 20 m/s を超えたのは16日あったことから、架け替えにより運行の安定化に効果があったと評価されている。 新余部橋梁は、2010年度土木学会田中賞作品賞を受賞した。この他にも、プレストレストコンクリート技術協会作品賞、日本コンクリート工学会賞作品賞、エンジニアリング功労者賞などを受けている。 ===その他=== 香美町によると、このコンクリート橋にキイロスズメバチの巣と思わしき物体がある、とのことである。香美町では、展望台までの道に「決して威嚇しないでください」との看板を立てて、観光客が蜂に刺されないように注意喚起を行っている。 ==年表== 1909年 3月:旧橋梁のための地質調査開始 12月16日:旧橋梁着工、基礎工事に着手する3月:旧橋梁のための地質調査開始12月16日:旧橋梁着工、基礎工事に着手する1910年8月:旧橋梁用資材の陸揚げ作業を余部浜で実施1911年 5月:トレッスル組み立て開始 6月15日:旧橋梁基礎工事完成 9月:橋桁資材が陸送で鎧駅に到着 10月:橋桁の架設作業を開始5月:トレッスル組み立て開始6月15日:旧橋梁基礎工事完成9月:橋桁資材が陸送で鎧駅に到着10月:橋桁の架設作業を開始1912年 1月13日:旧橋梁完成 1月28日:試運転実施 3月1日:山陰本線開通、旧橋梁供用開始1月13日:旧橋梁完成1月28日:試運転実施3月1日:山陰本線開通、旧橋梁供用開始1917年:最初の橋守が任命される1957年:旧橋梁修繕の第1次5か年計画開始(1964年度まで)1959年4月16日:橋の脇に餘部駅開業1963年:旧橋梁修繕の第2次5か年計画開始1965年11月:旧橋梁の補強改良案採用決定1968年:旧橋梁修繕の第3次8か年計画開始。1976年までかけて水平材と斜材の全交換を実施1986年12月28日:余部鉄橋列車転落事故が発生し、6名死亡6名負傷1988年 5月:余部橋梁における風速規制を 25 m/s から 20 m/s に強化 10月23日:事故現場に慰霊碑設置5月:余部橋梁における風速規制を 25 m/s から 20 m/s に強化10月23日:事故現場に慰霊碑設置1991年3月:余部鉄橋対策協議会設立2001年11月22日:JR西日本により、コンクリート橋への架け替えが提案される2002年 7月25日:餘部鉄橋対策協議会総会で、新橋設置で取り組む方針を決議 12月:余部鉄橋定時性確保のための新橋梁検討会設置7月25日:餘部鉄橋対策協議会総会で、新橋設置で取り組む方針を決議12月:余部鉄橋定時性確保のための新橋梁検討会設置2003年9月1日:PCラーメン橋案でまとめられた提言書が兵庫県知事に提出される2004年:快速「あまるべロマン」を運転開始。春休み・ゴールデンウィーク・夏休みなど観光シーズンを中心に2004年から2008年にかけて運転2005年3月:当初提案のPCラーメン橋案に代えて、エクストラドーズドPC橋採用決定2006年 3月:兵庫県、鳥取県などの沿線自治体とJR西日本とで、架け替えに関する基本協定が結ばれる 10月21日:架け替えを記念してJR西日本は急行「あまるべ」(キハ58系4両)を姫路駅 ‐ 浜坂駅間で運転。同日香美町香住区中央公民館で「全国鉄橋サミット」開催 10月22日:香美町香住区中央公民館で鉄橋工学の集いを開催3月:兵庫県、鳥取県などの沿線自治体とJR西日本とで、架け替えに関する基本協定が結ばれる10月21日:架け替えを記念してJR西日本は急行「あまるべ」(キハ58系4両)を姫路駅 ‐ 浜坂駅間で運転。同日香美町香住区中央公民館で「全国鉄橋サミット」開催10月22日:香美町香住区中央公民館で鉄橋工学の集いを開催2007年 3月24日 ‐ 4月1日:イベント列車「想い出のあまるべ」(DD51形+12系4両)を豊岡駅 ‐ 浜坂駅間で運転 3月29日:新橋架替工事着手 5月27日:起工記念式典開催 8月17日・18日:余部橋梁ライトアップ実施 11月:新橋梁の詳細設計完了。橋脚の基礎工事に着手3月24日 ‐ 4月1日:イベント列車「想い出のあまるべ」(DD51形+12系4両)を豊岡駅 ‐ 浜坂駅間で運転3月29日:新橋架替工事着手5月27日:起工記念式典開催8月17日・18日:余部橋梁ライトアップ実施11月:新橋梁の詳細設計完了。橋脚の基礎工事に着手2008年 4月11日:余部橋梁展望台閉鎖 9月:新橋工事に支障するために伐採予定であった餘部駅脇のサクラが、新橋の橋脚付近に移植される4月11日:余部橋梁展望台閉鎖9月:新橋工事に支障するために伐採予定であった餘部駅脇のサクラが、新橋の橋脚付近に移植される2009年3月:余部鉄橋利活用基本計画を決定2010年 7月16日:旧橋の供用最終日 7月17日:新旧切り替え工事着手 8月11日:新旧切り替え工事完成 8月12日:新橋供用開始 8月12日・13日:新橋ライトアップ実施 11月3日:余部橋梁展望台利用再開 12月28日:余部鉄橋列車転落事故遺族会による最終合同法要(25回忌)7月16日:旧橋の供用最終日7月17日:新旧切り替え工事着手8月11日:新旧切り替え工事完成8月12日:新橋供用開始8月12日・13日:新橋ライトアップ実施11月3日:余部橋梁展望台利用再開12月28日:余部鉄橋列車転落事故遺族会による最終合同法要(25回忌)2013年5月3日:旧橋梁を生かした「余部鉄橋「空の駅」」オープン。 ==観光資源としての側面== 余部橋梁は前述したように、土木学会近代土木遺産Aランクとして評価されており、観光資源としての側面も有していた。とはいえ、架け替え決定以前はそれほど観光客が多いというわけではなかった。しかし2005年に架け替えが正式決定されると観光客は急増した。香美町の統計による余部橋梁の見学客数は、2004年は1万3000人、2005年は8万3000人、2006年は29万人と急激に増加している。ところが実際に架け替え工事が始まった2007年には20万9000人と減少に転じた。こうした事情の背景には、まだ新橋の工事中であるにもかかわらず鉄橋が既に架け替わったものと誤解していた人が多かったためと推測されている。 余部橋梁を見学に来る人は、鉄道ファン、ドライブ・ツーリング客、ツアー客の3つに大きく分類される。鉄道ファンは、余部橋梁そのものが目的地となっており、広く全国から来訪するほか余部で宿泊をすることもあり、地元に落とす金が大きいが、架け替え完了後の動向が不明確である。ドライブ・ツーリング客は特に強い目的があって訪れたわけではないが、架け替え後も周辺の観光資源の開発次第では来訪が望めると分析されている。ツアー客は他の目的地へ向かう途中で立ち寄るという程度であり、滞在時間も写真を撮る程度の長さである。当初から主たる目的地ではないこともあり、余部道路の開通(2010年12月12日)などもあって今後の見通しはやはり不明確である。 地元では、鉄橋を目当てに訪れていた観光客が架け替え後に減少することに危機感を抱いている。そこで兵庫県と地元では「余部鉄橋利活用検討会」を作って架け替え後に旧橋梁をどのように生かすかについての検討を行ってきた。その結果、旧橋梁のうち西側の橋脚と橋桁の一部を残して「余部鉄橋「空の駅」」と称する展望台とし、また道の駅を建設して余部橋梁の記念施設とする方向となった。さらに地元の住民も自主的に「明日の余部を創る会」を結成して、架け替え後の余部地区の観光振興について検討を重ね、「空の駅」「道の駅」といったハードの整備に合わせて、周辺の地形を活用したウォーキング会を開催したり、道の駅で販売する特産品の開発を行ったりという取り組みが進められている。 ==アクセス== 山陰本線餘部駅下車。山陰本線香住駅から全但バス余部行きで「あまるべ浜」バス停下車。 ==その他== 1911年(明治44年)、「鉄道唱歌」に倣って作成された「山陰鉄道唱歌」(作詞:岩田勝市、作曲:田村虎蔵)では、十一番から十二番にかけて以下のように歌っている。 一一、(一部略) 西へ向へば餘部の 大鐵橋にかゝるなり一二、山より山にかけ渡す み空の虹か棧(かけはし)か 百有餘尺の中空に 雲をつらぬく鐵の橋 ― 「山陰鉄道唱歌」(作詞:岩田勝市、作曲:田村虎蔵) ==ギャラリー== ===旧橋=== ===新橋着工以降=== =蜂蜜= 蜂蜜(はちみつ)とは、ミツバチが花の蜜を採集し、巣の中で加工、貯蔵したものをいう。約8割の糖分と約2割の水分によって構成され、ビタミンとミネラル類などの栄養素をわずかに含む。味や色は蜜源植物によって様々である。 本来はミツバチの食料であるが、しばしば他の生物が採集して食料としている。人類も「蜂蜜の歴史は人類の歴史」ということわざがあるように、古来、食用や薬用など様々な用途に用いている。人類は初め、野生のミツバチの巣から蜂蜜を採集していたが、やがてミツバチを飼育して採集すること(養蜂)を身に付けた。人類による蜂蜜の生産量は、世界全体で年間約120万tと推定される。 ==採集== ===ミツバチによる花の蜜の採集=== 蜂蜜のもととなる花の蜜は、メスのミツバチによって採集される。採集された花の蜜はショ糖液、つまり水分を含んだスクロース(ショ糖)の状態で胃の前部にある蜜嚢(蜜胃)と呼ばれる器官に貯えられる。蜜嚢が花の蜜で満たされるとミツバチは巣へ戻る。 一般には、ミツバチが採集した花の蜜のことを蜂蜜と呼ぶと考えられがちであるが、花の蜜が巣の中で加工、貯蔵されたものが蜂蜜であり、両者の性質には物理的、化学的な違いがある。まず、花の蜜は蜂蜜よりも糖濃度が低い。一般に花の蜜の糖度はミツバチが採集した段階で40%未満であるが、巣に持ち帰られた後で水分の発散が行われる結果、蜂蜜の糖度は80%前後に上昇する。また、水分を発散させるための作業の一つとして、ミツバチは巣の中で口器を使って蜜を膜状に引き延ばすが、この際ミツバチの唾液に含まれる酵素(インベルターゼ、転化酵素)が蜜に混入し、その作用によって蜜の中のスクロースがグルコース(ブドウ糖)とフルクトース(果糖)に分解される。 また、本来は花の蜜に含まれない物質がミツバチの口器から混入する。一例としてコリンが挙げられる。コリンはミツバチの咽頭腺から分泌されるローヤルゼリーに含まれる物質であり、ミツバチが花の蜜の水分の発散と並行して同じく口器を用いて咽頭腺から分泌されたローヤルゼリーを女王蜂の幼虫に与える作業を行うため、ローヤルゼリー中のコリンが蜂蜜に混入すると考えられる。 ちなみに、中国の明代の薬学書『本草綱目』は臭腐神奇という霊的な作用によって大便から蜂蜜が生成されると説いており、この説は同じく明代の産業技術書『天工開物』や日本の江戸時代の類書『和漢三才図会』に受け継がれた。日本ではこの説に対し、江戸時代の本草学者貝原益軒が蜂蜜は花の蜜から作られると反論した。日本初の養蜂書『家蜂畜養記』の著者久世敦行も同様に反論を行った。 ===人による蜂蜜の採集=== エバ・クレーン(英語版)の研究によれば、1万年前にはすでに人類による採蜜が始まっていた。人類は当初、野生のミツバチの巣から蜂蜜を採集していた。1919年に、スペインのアラニア洞窟(英語版)で発見された新石器時代の岩壁彫刻は人類と蜂蜜の関係を示す最古の資料とされ、片手に籠状の容器を持って縄梯子を登って天然の洞穴に近づき、蜂蜜の採集を試みる人物が描かれている。この壁画では洞穴とミツバチが非常に大きく描かれており、古代人の蜂蜜への関心の高さとミツバチに対する恐怖の大きさを表していると解釈することができる。 やがて人類は養蜂、すなわちミツバチを飼育して蜂蜜を得る方法を身に付けた。エジプトではおよそ5000年前に粘土製の管状の巣箱を用いた養蜂が始められ、巣箱を移動させながら蜜を採集させること(転地養蜂)も行われた。ギリシア神話には養蜂の神アリスタイオスが登場する。 養蜂は、閉鎖空間の中に巣を作るというミツバチの習性を利用し、内側をくり抜いた丸太や土管、わら縄製のスケップ、木製の桶などを用いて行われる。かつては巣を切り取り、押し潰して蜜を搾り取る方法が採用されていたが、これはミツバチに大きなダメージを与えるものであった。現代的な養蜂では木製の枠の中に巣を作らせ、蜜が貯まると遠心分離器にかける方法が採用されている。遠心分離器による採蜜法は1865年に、オーストリアのフルシュカによって考案された。遠心分離機の活用によってミツバチ一群あたりの蜂蜜の採集量はおよそ5倍ないし10倍に増加した。 採集した蜂蜜には微量の花粉や巣の破片が含まれている。市場に流通している蜂蜜の多くは、それらを濾過した後で容器に詰められているが、濾過には限界があり、若干の不純物が残留する。 蜂は基本的に植物由来の蜜を集めるが、天候不良などによって蜜の収集が捗らない場合は、様々な糖を集める習性がある。ゴミ箱の空き缶からジュースの飲み残しを集めたり、食品工場の廃棄物を集めたりといった事例が知られ、その場合は材料に由来した色彩の蜜となる。例えばチョコレート工場やマラスキーノ・チェリー工場からの廃棄物を集めた蜂によって、赤色や青色の着色剤入りのカラフルな蜜ができることがあるが、こういった蜜は商品価値がなく、養蜂家の悩みの種となる。 ==成分と性質== ===成分=== 蜜源植物と採集季節によって変動するが、約72%の糖分と約21%の水分によって構成され、微量の栄養素など(ビタミン、ミネラル、アミノ酸、有機酸、酵素、色素、香気物質)も含まれる。有効成分が蜂蜜の中で果たす働きについては未解明な点も多い。ビタミン、ミネラル、アミノ酸の多くは花粉に由来する。 糖分のほとんどはグルコース(ブドウ糖)とフルクトース(果糖)で、少量のオリゴ糖とスクロース(ショ糖)、さらにデキストリンも含まれる。 保存性の高さは高糖度とpH3.7 程度の酸性と酵素によって生成される過酸化水素によって与えられ、グルコースとフルクトースが主成分であることから、蜂蜜は消化の必要なしに、手早くエネルギーを得ることができる。グルコースとフルクトースの比率を比較すると、フルクトースの方が若干多い傾向にある。グルコースとフルクトースはともに単糖であり、摂取後体内でそれ以上消化・分解する必要がなく、短時間で体内に吸収される。さらにフルクトースの吸収速度がグルコースのおよそ半分であることから、吸収によって血糖濃度が急激に変動することはない。 スクロースは蜜蜂に採集される花の蜜の主成分であり、巣の中で蜂蜜に転化しなかったものである。標準的な蜂蜜に占めるスクロースやデキストリンの割合はせいぜい1ないし3%まで、5%を超える蜂蜜については分解が十分に進んでいないか、純粋ではない、つまり蜂蜜以外のものが混入していることを疑う必要がある。デキストリンは、人工的に作られたグルコースや水飴に大量に含まれる。ただし甘露蜜は一般にデキストリンが10%前後含まれる。 ミネラルの一つである鉄にはタンニンと化学反応を起こして黒くなるという性質がある。そのため、紅茶の中に蜂蜜を入れて黒く変色するかどうかで蜂蜜が純粋かどうかを判別することができるといわれることがある。しかし蜂蜜には金属を溶解させる性質があり、鉄を含む金属製の容器に貯蔵された場合、蜂蜜に溶け込んだ容器の鉄分がタンニンと反応を起こすため、確実な方法とはいえない。 ビタミンのうち約9割は活性型で少量の摂取で効果が見込める上、きわめて安定しており、果物と比べ貯蔵中の減少率が非常に少ない。ビタミンの含有量は蜜源植物によって大きく異なり、また脱臭脱色をすると大幅に、場合によってはほとんど全て失われてしまう。 酵素のうちインベルターゼ(転化酵素)は、前述のようにスクロースをグルコースとフルクトースに分解する働きを持ち、ミツバチが採集した花の蜜を蜂蜜に変化させる役割を担う。スクロースの分解が十分に進んでいない蜂蜜を採集した場合、インベルターゼの働きによって貯蔵中に分解が進む。インベルターゼは熱によって機能を失う。そのため、分解が十分に進んでいない蜂蜜を加熱して水分を除去した場合、濃度を見ると標準的な蜂蜜だがショ糖の含有量が不自然に多い製品が出来上がってしまう。グルコースオキシダーゼは、グルコースから有機酸(グルコン酸)を作り出す。ジアスターゼはデンプンをデキストリンやマルトース(麦芽糖)に分解する働きをもつ。ドイツやオランダ、スイスの一部ではジアスターゼの含有量が少ない蜂蜜を、人為的な加工がされている可能性があるとして低く評価する傾向がある。しかしジアスターゼの含有量は蜜源植物の種類によって異なる面もあり、さらに長期間貯蔵中すると減少する。アメリカの専門家の多くはジアスターゼの含有量に基づく品質の評価に否定的である。 ===性質=== ====結晶化==== 蜂蜜には、低温中で粒状の結晶ができ白く固まる性質があるが、これはグルコースの性質によるものである。ただし低温であればあるほど結晶化しやすいというわけではなく、結晶化しやすいのは摂氏5度ないし14度弱であり、摂氏マイナス18度弱以下になるとほとんど結晶化しなくなるといわれている。グルコースを多く含む蜂蜜ほど早く結晶化し、グルコースの含有量が少なくフルクトースを多く含む蜂蜜は結晶化しにくい。また、結晶化が早いと結晶のきめが細かくなる傾向がある。どのように結晶化していくかは、蜂蜜の比重によって異なる。比重の小さい蜂蜜の場合、液体状の蜂蜜より比重の大きい結晶が底に沈殿するため、底の方から結晶化するかのような印象を与える。比重の大きい蜂蜜の場合、液体状の蜂蜜と結晶の比重の差がほとんど同じであるため、蜂蜜全体が結晶化していく。加熱することで結晶は溶けるが、加熱し過ぎると色が濃くなったり風味が若干変化するなどの影響が生じる。結晶を経た蜂蜜は再び結晶しにくいが溶け残った結晶がある場合、しばらくするとそこを核として再び結晶化が進行する。結晶ができない蜂蜜は純粋ではないといわれることがある。これは多くの蜂蜜について妥当な判別法であるが、アカシアを蜜源とするものなど一部には純粋であってもなかなか結晶ができない蜂蜜もある。結晶を見て蜂蜜に砂糖が混入していると勘違いされることがある。 ===水素イオン指数=== 蜂蜜の水素イオン指数(pH)は、3.2から4.9(平均 3.7)と弱酸性であるが、酵素によって生成された有機酸を含むためである。しかしながら、食品が身体に与える影響の観点からは、蜂蜜はアルカリ性食品である。これは蜂蜜に含まれるカルシウム、マグネシウム、カリウム、ナトリウムがアルカリ性を示すミネラルであり、さらに有機酸が体液をアルカリ性に変える働きをもつからである。水素イオン指数は弱酸性であるが、蜂蜜を摂取する際には酸味が感じられない傾向にある。これはグルコースおよびフルクトースの甘みが強く、かつ有機酸の7割を占めるグルコン酸の酸味がまろやかなためである。 ===カロリー=== 蜂蜜の標準カロリーは、100gあたり約294kcal、または356kcalで、鶏卵の約2.5倍、牛乳の約6倍に相当する。 ===甘味度=== 蜂蜜の甘味度は、採集された花の種類によって若干差があるものの、同重量のスクロースとほぼ同じとされる。蜂蜜はフルクトースを多く含むが、フルクトースには甘味度が低温で高く、高温で低くなるという特徴がある。 ===風味=== 蜂蜜は甘さとともに、独特の風味を持つ。これは蜂蜜に含まれるビタミン、ミネラル、アミノ酸、有機酸、酵素などの微量成分に由来する。風味は蜜源植物の種類によっても異なる。 ===浸透圧=== 蜂蜜は浸透性が高いことで知られるが、これはグルコースとフルクトースの浸透性がともに高いからである。 ==利用法== ===食用=== 蜂蜜と人類の関わりは古く、英語には「蜂蜜の歴史は人類の歴史」ということわざがある。蜂蜜は、人類が初めて使用した甘味料といわれており、イングランド南部では紀元前2500年頃に壺型の土器に蜂蜜が入れられていた痕跡が発見されている。 人類は当初、巣房(ミツバチの巣を構成する六角形の小部屋)ごと食べる形で蜂蜜を摂取した。古代エジプトで蜂蜜は、イナゴマメ(キャロブ)と並び主要な甘味料であった。蜂蜜が人々の食生活に広く浸透し始めたのは古代ギリシャ時代のことで、ギリシア神話には巣に入った蜂蜜が供される場面が登場する。古代ギリシャでは多くの文芸作品、さらにはプラトン、アリストテレスといった哲学者の著作にも蜂蜜が登場する。アリストテレスの記述をもとにした試算では、当時のアッティカの自由市民1人あたりの消費量は20世紀後半の日本の国民1人あたりの消費量をはるかに上回っている。それに応じて養蜂も盛んに行われ、プルタルコスの『対比列伝』には、政治家ソロンが活躍した時代に養蜂場間の距離規制(300プース以上離さなくてはならない)に関する法律が制定されたという話題が登場する。 また蜂蜜を使った保存食も古来より、世界中で利用されてきた。現在でもジャム・プレザーブはもちろんのこと、レモンやゆずなどの果物、生姜などの野菜をそのまま蜂蜜漬けにしたものなどが日常的に食卓を彩っている。その他蜂蜜を固めて作ったのど飴や、蜂蜜ドリンクなど、さまざまな加工食品が製造されているほか、さらに最近では、東ヨーロッパの保存食を発祥とし、モデルなど健康意識の高い層に人気の栄養食・ナッツの蜂蜜漬けも日本国内で製造・販売されはじめている。 ===調味料=== 紀元前15世紀、トトメス3世時代のエジプトの遺跡の壁画には、養蜂とともに蜂蜜入りのパン菓子を作る様子が描かれている。約300年後のラムセス3世の墓の壁画にも同様の絵が描かれており、菓子の種類が増えていることが読み取れる。 エジプトのパン菓子はギリシャに伝わった。古代アテナイの喜劇作家アリストパネスの作品『アカルナイの人々』(紀元前425年発表)の中には蜂蜜入りのパンが登場する。紀元前200年頃にはギリシャ産の蜂蜜を使って72種類のパン菓子が作られていたといわれる。パンと菓子の分化も進んでいった。当時蜂蜜は大変高価で、キュレネの遺跡からは土地の権利と引き換えに蜂蜜を手に入れた入植者について記述された碑文が出土している。製菓、製パンにおいて蜂蜜は、甘みを加えるだけでなく酵母増殖を促進する機能も有している。その後、蜂蜜を使ったパンや菓子はローマ、さらにヨーロッパ全土へと広まった。古代ローマにおいて蜂蜜はパン以外の料理にも用いられた。ローマの美食家マルクス・ガウィウス・アピキウスの著書『アピキウスの料理書』に収録されているレシピは西洋料理の起源とされるが、500点中170点ほどが蜂蜜を使用した料理に関するものである。 東洋においては中国の戦国時代、楚辞『招魂』の中に「*180**181*蜜餌」という名の蜂蜜を用いた菓子が登場する。「*182**183*」は餅米粉と小麦粉、蜂蜜を混ぜて揚げた菓子を指し、「餌」はキビを臼でついて作った餅を指すことから、これはきび団子風の餅に蜂蜜をかけたもの、または餅に蜂蜜を混ぜて作ったものと推測される。「*184**185*」という語は紀元前2世紀の墳墓、馬王堆漢墓の副葬品の竹簡にも登場する。「*186**187*」の語は日本にも伝わり、平安時代中期発行の『和名類聚抄』に登場する。ただしここでは製法について「蜜と米を和し煮詰めて作る」と紹介されており、内容が変化している。ちなみに『和名類聚抄』において本来の「*188**189*」は、「環餅」(まがり)として紹介されている。 魚料理に用いると、魚の臭みを減らす働きをする。これは蜂蜜に含まれる酸が魚の臭みの原因であるアミンの揮発性をなくすためである。煮魚や照り焼きを作る際に味噌や醤油に蜂蜜を混ぜると、香りの良さが向上する。これは蜂蜜の香り自体が魚の臭いを覆うだけでなく、蜂蜜に含まれるグルコースとフルクトースが魚のタンパク質や味噌・醤油のアミノ酸とアミノカルボニル反応と呼ばれる反応を起こし、それによって生じた香り成分がアミンと結合し、魚臭さを打ち消すことによる。 肉料理に用いると、浸透性の高さによって肉の組織に浸透し、過熱による肉の収縮・硬化を防ぐ。また、蜂蜜に含まれる有機酸は肉の保水性を高め、肉を軟化させる。さらにグルコースとフルクトースが熱によって短時間でカラメル化するため、肉の表面が固められ、内部に水分やうまみを閉じ込めることができる。 炊飯の際に蜂蜜を加えると、グルコースとフルクトースが米の内部に浸透し保水性を高め、さらに加熱されたアミラーゼが米に含まれるデンプンをブドウ糖に転化することで味を高める効果をもたらす。 そのほか、調味料としての蜂蜜はリンゴ、レンコン、ゴボウなどの褐色変化を防ぐ、イースト菌の発酵を促進するといった効果をもたらす。 果実酒で使用したり、砂糖の代用としても利用される。 ===蜂蜜酒=== 蜂蜜と水が混ざった液体(蜂蜜水)の糖分が発酵すると、アルコールへと変化する。その結果、出来上がるのが蜂蜜酒で、人類最古の酒とされる。蜂蜜には耐糖性の酵母が含まれており、発酵しやすく、水で割って温かいところに置くだけで蜂蜜酒を作ることができる。蜂蜜酒は古代のヨーロッパ、とりわけ北欧で愛飲され、人々の暮しと密接に関わっていた。北欧神話には蜂蜜酒が度々登場する。古代ギリシャ人はワインを飲むようになる前は蜂蜜酒を愛飲しており、ギリシア神話に登場する豊穣とブドウ酒と酩酊の神ディオニューソスはもとは蜂蜜酒の神であったといわれている。ローマ時代には各家庭が常備薬として蜂蜜酒を置いた。「ハネムーン」という言葉は、夫婦が新婚の1か月間を蜂蜜酒を飲みながら過ごすという古代ゲルマン民族の風習が起源であるともいわれている。ビールやワインの登場後も蜂蜜酒はヨーロッパにおいて地酒として愛飲された。 古代ローマの文献には次のような蜂蜜酒の製造法が記録されている。 酒は水とハチ蜜だけでもつくれる。そのためには天水を5年間貯えておくのがよいとされている。もっと練達の人々は、降って間もない雨水を用いる。すなわち、それを3分の1量に煮詰め、古いハチ蜜1に水3の割合で加え、その混合物をシリウス星が昇った後、40日間天日に曝しておく。 ― 清水2003、9‐10頁。 蜂蜜酒の発酵について人類は当初、蜂蜜に含まれる野生酵母に頼っていたが、発酵の早さや発酵の結果得られる風味を調整する技法を身に付けていった。 オラウス・マグヌスの著書『北方民族文化誌』には、中世の北欧における、「生ビール風蜂蜜酒」というべき蜂蜜酒の製法として次のようなものが記されている。 上等のハチミツ1に対し水4を用意する。鍋に半量の水を取ってハチミツを混ぜ入れ、リンネルをかぶせた杓子で泡を少しずつ除きながら煮立てる。次に別の鍋に残りの水を入れ、リンネル袋に入れたホップの花を煮立て、半分量まで煮詰めて、苦みを出す。木製の容器に両方を移して混合して厚い布で覆いをし、ぬるくなってからビールの沈殿物あるいはパン種を加える。翌日この混合液をリンネルの布で漉して別の容器に移し、蓋をして保存する。8日目、あるいは緊急の場合にはそれよりも以前に飲んでも大丈夫である。しかしその飲み物は古くなればなるほど純粋でうまく体にも良いものになる。 ― 清水2003、9‐10頁。 ===薬用=== 蜂蜜については、人類の長年にわたる経験をもとに、古来様々な薬効が謳われてきた。旧約聖書には、「心地良い言葉は、蜂蜜のように魂に甘く、身体を健やかにする」ということわざが登場する。この言葉から、人類が早くから蜂蜜の健康上の効能について認識していたことが窺える。 古代エジプトの医学書エーベルス・パピルスおよびエドウィン・スミス・パピルスには内用薬および外用薬(軟膏剤、湿布薬、坐薬)への蜂蜜の活用が描かれている。『旧約聖書』の「サムエル記・上」には疲労と空腹により目のかすみを覚えたヨナタンが蜂蜜を食べて回復する逸話が登場する。 古代ギリシャでは医学者のヒポクラテスが炎症や潰瘍、吹き出物などに対する蜂蜜の治癒効果を称賛している。古代ローマの皇帝ネロの侍医アンドロマコスは、蜂蜜を使った膏薬テリアカを考案した。テリアカは狂犬病に罹った犬や毒蛇に噛まれた際の、さらにはペストの治療薬として用いられた。テリアカの存在は奈良時代に日本へ伝えられ、江戸時代になってオランダ人によって現物が持ち込まれた。 中国の本草書『神農本草経』(成立は後漢から三国時代の頃)には「石蜜」と呼ばれる野生の蜂蜜の効用について、「心腹の邪気による病を治し、驚きやすい神経不安の病やてんかんの発作をしずめる。五臓の心臓・肝臓・肺臓・腎臓・脾臓を安らかにし、諸不足に気を益し、中を補い、痛みを止め、解毒し多くの病を除き、あらゆる薬とよく調和する。これを長く服用すれば、志を強くし、身体の動きが軽くなり、飢えることもなく、老いることもない」と記されており、中国最古の処方集である『五十二病方』(戦国時代)には蜂蜜を用いた利尿剤の処方が記されている。明代の薬学書『本草綱目』には「十二臓腑ノ病ニ宜シカラズトイフモノナシ」と、あらゆる疾病に対し有効な万能薬と記述されている。同書には張仲景による医学書『傷寒論』を引用する形で、蜂蜜を使った外用薬(坐薬)の作り方も登場する。 日本の医学書『大同類聚方』には「須波知乃阿免」(すばちのあめ)が見え、巣蜂とはハチの巣のことである。ただし旧暦8月に土の中から掘り出して採るとしており、ハナバチの仲間ではマルハナバチが巣を土の中に作る。 漢方薬では生薬の粉末を蜂蜜で練って丸剤(丸薬)をつくる。例として八味地黄丸がある。江戸時代の医師栗本昌蔵は、著書の中で丸薬を作る際の蜂蜜の使い方について解説している。 ===薬効とその科学的根拠=== 古来謳われてきた薬効について科学的な検証を行ったところ、ある程度の信憑性が確認されている。 蜂蜜は古来、外科的な治療に用いられてきた。古代ローマの軍隊では、蜂蜜に浸した包帯を使って傷の治療を行っていた。蜂蜜は無毒で非アレルギー性で、傷にくっつくことはなく、痛みを与えず、心を落ち着かせ、殺菌スペクトルは広域で、抗生物質の耐性菌にも有効であり、かつ耐性菌を生まない。元となる花の種類は効果に差を生じさせないようである。創傷(けが)に有効性を示した研究は少なくなく、火傷では流水後、火傷に直接つけるかガーゼに浸潤させたり、また閉塞性のドレッシング材にて覆ってもいい。交換頻度は、滲出液によってハチミツが薄まる速度に応じて行う。 蜂蜜には強い殺菌力のあることが確認されており、チフス菌は48時間以内に、パラチフス菌は24時間、赤痢菌は10時間で死滅する。また、皮膚の移植片を清浄で希釈や加工のされていない蜂蜜の中に入れたところ、12週間保存することに成功したという報告がある。蜂蜜の殺菌力の根拠についてカナダのロックヘッドは、浸透圧が高いことと、水素イオン指数が3.2ないし4.9で弱酸性であることを挙げている。蜂蜜の持つ高い糖分は細菌から水分を奪って増殖を抑える効果をもたらし、3.2ないし4.9という水素イオン指数は細菌の繁殖に向いていない。しかしながらポーランドのイズデブスカによって、蜂蜜に水を混ぜて濃度を10分の1に薄めても殺菌力を発揮することが確認され、ロックヘッドの主張と両立しないことが明らかとなった。アメリカのベックは、皮膚のただれた箇所に蜂蜜を塗って包帯を巻くとリンパが分泌され、それにより殺菌消毒の効果が得られると主張している。前述のように蜂蜜に含まれる酵素グルコースオキシターゼは、グルコースから有機酸(グルコン酸)を作り出すが、その過程で生じる過酸化水素には殺菌作用がある。人類は古くから蜂蜜がもつ殺菌力に気付いていたと考えられ、防腐剤として活用した。 蜂蜜は古来瀉下薬として用いられ、同時に下痢にも効くとされてきた。蜂蜜に含まれるグルコン酸には腸内のビフィズス菌を増やす効能があり、これが便秘に効く理由と考えられる。フランスの医学者ドマードは、悪性の下痢を発症し極度の栄養失調状態にある生後8か月の乳児に水と蜂蜜だけを8日間、続けてヤギの乳と水を1:2の割合で混ぜたものを与えたところ、健康状態を完全に回復させることに成功したと報告している。これは、蜂蜜のもつ殺菌作用によって腸内環境が改善されたためと考えられている。 古代エジプトの医学書中には盲目の馬の目を塩を混ぜた蜂蜜で3日間洗ったところ目が見えるようになったという記述が登場する。また、マヤ文明ではハリナシバチが作った蜂蜜を眼病の治療に用いていた。その後、蜂蜜が白内障の治療に有効であることが科学的に明らかとなった。インドでは20世紀半ばにおいて、蜂蜜が眼病の特効薬といわれていた。 欧米には「ハチミツがガンに効くという漠然とした”信仰”に近いもの」が根強く存在する。1952年に西ドイツのアントンらが19000人あまりを対象に職業別の悪性腫瘍発症率を調べたところ、ほとんどの職業において1000人中2人の割合であったところ、養蜂業の従事者については1000人中0.36人の割合であった。この結果からは養蜂業従事者の生活習慣の中に悪性腫瘍を抑制する要因があることが読み取れるが、それを蜂蜜の摂取に求める見解がある。フランスのアヴァスらは、動物実験によってハチミツに悪性腫瘍を抑制する作用があることを確認している。また、前述のように蜂蜜には生成の過程でローヤルゼリーに含まれる物質が混入すると考えられているが、カナダのタウンゼンドらはローヤルゼリーの中に悪性腫瘍を抑制する物質(10‐ヒドロキシデセン酸)を発見している。 二日酔いには蜂蜜入りの冷たい水が有効であるとされる。蜂蜜に含まれるフルクトースは肝臓がもつアルコール分解機能を強化する効果をもち、さらにコリンやパントテン酸にも肝臓の機能を高める作用がある。デンマークの医師ラーセンは、泥酔者に蜂蜜を飲ませたところ、短時間で酔いから覚めたと報告している。また、ルーマニアのスタンボリューは124人の肝臓病患者が蜂蜜を摂取することにより全快したと報告している。 古代ローマの詩人オウィディウスは『恋愛術(恋の技法)』の中で、精力剤としてヒュメトス産の蜂蜜を挙げている。蜂蜜の精力増強作用について、19世紀の科学者は懐疑的であったが、20世紀に入りイタリアのセロナは0.9gの蜂蜜中に20国際単位の発情物質が含まれると発表した。 蜂蜜には血圧を下げる効能があるといわれてきた。蜂蜜にはカリウムが多く含まれるが、食塩を過剰に摂取した際にカリウムを摂取すると血圧を下げることができる。また、蜂蜜に含まれるコリンには高血圧の原因となるコレステロールを除去する効果がある。 古代エジプトや中国の文献には、蜂蜜の駆虫作用に関する記述がみられ、甘草と小麦粉、蜂蜜から作った漢方薬「甘草粉蜜糖」は駆虫薬として知られる。1952年(昭和27年)に日本の岐阜県岐阜市にある小学校で実験が行われ、蜂蜜を飲んだ小学生の便からは回虫の卵がなくなるという結果が得られた。蜂蜜に含まれるどの成分が駆虫作用をもたらすかについては明らかになっていない。 その他に、鎮静作用が認められ、咳止め、鎮痛剤、神経痛およびリウマチ、消化性潰瘍、糖尿病に対する効能が謳われている。 ===化粧品=== 蜂蜜は、古代エジプト・ギリシャの時代から化粧品に用いられ、クレオパトラ7世は蜂蜜を用いて化粧をし、古代ローマの皇帝ネロの妻は蜂蜜とロバの乳を混ぜたローションを使っていたと伝えられている。蜂蜜を用いたもっとも有名な化粧品の一つとして、パックが挙げられる。蜂蜜の糖分には肌を整える働きがあり、ビタミンB1には皮膚の血行をよくし、新陳代謝を高める作用がある。 ===芳香剤=== 蜂蜜は古来、芳香剤として利用されてきた。古代エジプトには蜂蜜と没薬、松脂、ワインに浸した菖蒲やシナモンを混ぜて作られたキフィー(英語版)と呼ばれる煉香があった。古代の中国にも蜂蜜を用いた煉香があった。平安時代の日本にも蜂蜜を使った香があり、『源氏物語』「鈴虫」の冒頭には「荷葉の方をあはせたる名香、蜜をかくしほろろげて、たき匂はしたる」という記述が登場する。小一条院皇后の女房であった人物は、蜂蜜を用いた香には虫が湧くという記録を残している。香の中には飴のようになめて使うものもあり、服用を続けると顔を洗った水や抱いた子供にまで匂いが移ったとされる。タバコの中には香りの調整に蜂蜜を使用しているものもある。 ==蜂蜜の種類== ===蜜源植物による分類=== 蜜源となりうる花が複数ある場合、複数の花の蜜が混じった蜂蜜ができるのではないかと考えられがちである。しかし、ミツバチには一つの花から蜜を採集すると、可能な限り他の花の蜜を採集しないという性質がある(訪花の一定性)。さらに蜜蜂にはミツバチのダンスと呼ばれる8の字に飛び回る行動によって仲間に蜜源を知らせる習性があるが、豊富な蜜源については激しく飛び回って知らせる一方、貧弱な蜜源についてはほとんど、時にはまったく教えようとしない。このような理由から、現実には(厳密にはわずかな混入は避けられないが)ほぼ純粋に一つの花から蜜を採集して作られた蜂蜜を採集することが可能である。蜂蜜は主要な蜜源植物によってレンゲ蜜、アカシア蜜などと分類され、蜜源植物が複数ある場合には「百花蜜」と呼ばれる。人間の手で蜜がブレンドされた場合も百花蜜という。 蜂蜜の風味や色は、蜜源となった花の種類によって異なる。同じ種類の花から作られた蜂蜜でも地域によって(主に採蜜法の違いから)品質が異なる。国や地域によって好みが分かれる蜂蜜もあり、たとえばソバ蜜は日本で敬遠される一方、フランスではジンジャーブレッドの原料として重宝されている。同様にセイヨウボダイジュ(シナノキ科)の蜂蜜はドイツやロシアでは最高級品とされるが、日本ではレンゲやアカシア、トチノキ、さらにはドイツではあまりに評価が低くミツバチの餌にされているナタネの蜂蜜よりも格が落ちる。養蜂家の渡辺孝は、香りの強い蜂蜜が日本では敬遠され、ヨーロッパでは好まれる傾向があると指摘する。中国では荊条(ニンジンボク、華北産が有名)、棗(ナツメ、華北)、槐樹(エンジュ、東北)、椴樹(ダンジュ、長白山)、*190*枝(レイシ、華南)の花から採れた蜂蜜を「五大名蜜」と呼び、広く食されている。 なお、一部ではミツバチが採蜜のために訪れるとは考えにくい花(スズランなど)や、開花時期の関係から採蜜が不可能な花(ウメなど)の名前を冠する蜂蜜が販売されていることもあり、注意を要する。 ===蜂蜜の色による分類=== アメリカ合衆国では、蜂蜜の色を基準にした分類法も存在する。ただし色が同じ蜂蜜の味が同じとは限らず、蜜源植物が同じであっても貯蔵される巣の状態によって色が異なる。 ===物質の状態による分類=== 採集された蜂蜜は液体であるが、これを固体の状態にした蜂蜜も存在する。具体的には粉末にしたもの、飴玉状のものがある。 ===甘露蜜=== アブラムシが食物の植物篩管液に過剰に含まれる糖分を分離して排泄した甘露をミツバチが採集したものを甘露蜜という。これは厳密には蜂蜜の定義に当てはまらないものであるが、ドイツでモミなどの針葉樹に寄生するアブラムシに由来する甘露蜜がモミのハチミツ(Tannenhonig)として最高級品の扱いを受けるなど、ゲルマン諸国で人気が高い。 ==安全性== ===乳児ボツリヌス症=== 小児科学者の詫摩武人は、臨床実験の結果、蜂蜜を与えられた乳幼児には、砂糖を与えられた乳幼児と比べて発育がよく、下痢などの疾病の発症率が低下する、赤血球数および血色素量が増加するなど複数の好ましい現象が確認されたと報告している。その他にも蜂蜜が乳幼児の発育の好ましい結果をもたらすという報告が多くされている。ギリシア神話には、ゼウスやその子ディオニューソスが蜂蜜と羊の乳を与えられて育つ逸話が登場する。 しかしながら、蜂蜜の中には、芽胞を形成し活動を休止したボツリヌス菌が含まれている場合がある。通常は摂取しても、そのまま体外に排出されるが、乳児が摂取すると(芽胞の発芽を妨げる腸内細菌叢が備わっていないため)体内で発芽して毒素を出し、中毒症状『乳児ボツリヌス症』を引き起こし、最悪の場合、死亡することがあるため、警戒を要する。 芽胞は、高温高圧による滅菌処理(120℃で4分以上)の加熱で不活性化されるが、蜂蜜においては酵素が変質するので、この処理は不向きである。日本では1987年(昭和62年)に厚生省が「1歳未満の乳児には与えてはならない」旨の通達を出している。同省の調査によると、およそ5%の蜂蜜からボツリヌス菌の芽胞が発見された。 なお、ボツリヌス菌による健康被害を防止するため、日本国内の販売商品には「1歳未満の乳児には与えないようにしてください」との注意書きがラベルに表記されている。注意書きの冒頭が「蜂蜜は生ものですので」と始まることもあるが、単に煮沸すればよいものではなく、常圧で沸騰させることでは芽胞を死滅させることはできない。 2017年3月30日、離乳食として与えられた蜂蜜が原因による乳児ボツリヌス症により、生後6か月の男児が死亡した(同年4月7日、東京都による発表)。 ===有毒蜜源植物=== 専門の蜂蜜採集業者によるハチミツでの中毒報告例は極めて希であるが、蜜源植物として意図しない有毒植物からの蜜が混入していることがあり食中毒事例が報告されている。例えばトリカブト、レンゲツツジ、ホツツジの花粉や蜜は有毒である。ニュージーランド産ではドクウツギ科の低木 Coriaria arboreaが問題になるほか、世界的にはツツジ科植物の有毒性は古くから知られ、紀元前4世紀のギリシャの軍人・著述家のクセノフォンは兵士たちがツツジ属植物やハナヒリノキの蜜に由来する蜂蜜を食べ中毒症状を起こした様子を記録している。古代ローマ時代にもグナエウス・ポンペイウス率いる軍勢が敵の策略にはまり、ツツジに由来する蜂蜜を食べて中毒症状を起こしたところを襲われ兵士が殺害されたという話がある。 ==生産量== 世界全体での蜂蜜の生産量は年間で推定約120万tである。1990年代の主要な国および地域別の生産量は中国が20万t強、旧ソ連地域が20万t弱、アメリカが10万t前後で、これら3地域の生産量が全体の半分近くを占めていた。しかしながら、ソ連崩壊後の内戦などの影響によってタジキスタンでは蜂蜜生産量が1/12にまで激減するなど、旧ソ連地域での蜂蜜生産量は減少している。2009年には蜂蜜生産量上位20か国に見られる旧ソ連地域の国はウクライナとロシアのみであり、その生産量は合わせて13万tほどである。また、アメリカでは2006年以降起こっている蜂群崩壊症候群によってミツバチが大量に死滅して養蜂業が多大な影響を受けており、2009年の生産量は世界5位の6万5000tにまで落ち込んでいる。一方で中国はソ連崩壊以降生産量世界1位でありつづけ、2009年には1990年のおよそ2倍となる40万7000tを生産している。アルゼンチンは1990年頃までは4万t程度の生産量であったが、パンパ周辺地域などへ養蜂地域が拡大されたことなどにより生産量が増加し、2005年以降は世界2位の生産量となっている。 ==参考文献== 大塚敬節 『漢方医学』 創元社〈創元医学新書A10〉、1956年。ISBN 4‐422‐41110‐1。佐々木正己 『養蜂の科学』 サイエンスハウ〈昆虫利用科学シリーズ5〉、1994年3月。ISBN 4‐915572‐66‐8。清水美智子 『はちみつ物語 食文化と料理法』 真珠書院、2003年6月。ISBN 4‐88009‐216‐9。角田公次 『ミツバチ 飼育・生産の実際と蜜源植物』 農山漁村文化協会〈新特産シリーズ〉、1997年3月。ISBN 4‐540‐96116‐0。原淳 『ハチミツの話』 六興出版、1988年9月。ISBN 4‐8453‐6038‐1。渡辺孝 『ハチミツの百科』 真珠書院、2003年1月、新装版。ISBN 4‐88009‐215‐0。『ハチミツと代替医療 医療現場での可能性を探る』 パメラ・マン、リチャード・ジョーンズ(編)、松香光夫(監訳)、榎本ひとみ・中村桂子・渡辺京子(訳)、フレグランスジャーナル社、2002年10月。ISBN 4‐89479‐059‐9。