=黄砂= 黄砂(こうさ、おうさ、黄沙とも)とは、特に中国を中心とした東アジア内陸部の砂漠または乾燥地域の砂塵が、強風を伴う砂塵嵐(砂嵐)などによって上空に巻き上げられ、春を中心に東アジアなどの広範囲に飛散し、地上に降り注ぐ気象現象。あるいは、この現象で飛散した砂自体のことである。 ==概要== 気象現象としての黄砂は、砂塵の元になる土壌の状態、砂塵を運ぶ気流など、大地や大気の条件が整うと発生すると考えられている。発生の頻度には季節性があり、春はそういった条件が整いやすいことから頻繁に発生し、比較的遠くまで運ばれる傾向にある。ただ、春に頻度が極端に多いだけであり、それ以外の季節でも発生している。 黄砂は国境を跨ぐ範囲で被害を発生させ、しかもその程度や時期に地域差がある。発生地に近づくほど被害は大きくなり、田畑や人家が砂に覆われたり、周囲の見通し(視程)や日照を悪化させたり、交通に障害を与えたり、人間や家畜などが砂塵を吸い込んで健康に悪影響を与えたりするなど、多数の被害が発生する。海を隔てた日本でも、黄砂の季節になると建物や野外の洗濯物・車などが汚れるといった被害が報告されている。東アジア全体での経済的損失は、日本円に換算して毎年7000億円を超えるとされる。 発生地に近いほど、砂塵の濃度は濃く、大きな粒が多く、飛来する頻度も高い傾向にある。モンゴル、中国、韓国などでは住民の生活や経済活動に多大な支障が出る場合があり、黄砂への対策や黄砂の防止が社会的に重要となっている。近年は東アジア各国で、黄砂による被害が顕著になってきているとされており、一部の観測データもこれを裏付けている。これに加えて、環境問題への関心が高まっていることなどもあり、黄砂に対する社会的な関心も高まっている。 一方、黄砂が自然環境の中で重要な役割を果たしていることも指摘されている。飛来する黄砂は、洪水による氾濫堆積物や火砕物と並ぶ堆積物の1種であり、土地を肥やす効果がある。また黄砂には生物の生育に必要なミネラル分も含まれており、陸域だけではなく海域でもプランクトンの生育などに寄与している。 また、芸術の分野では、黄砂のもたらす独特の景観などが文化表現にも取り入れられており、黄砂のもたらす情景を詠った古代中国の漢詩が伝えられるなどその歴史は古い。黄砂が生活に深刻な被害を与えている地域もある一方で、影響が軽微であり珍しい自然現象・季節の風物詩などとされている地域もある。 「黄砂」という語でひとくくりにされているが、この語を気象学的に定義すると複数の現象が含まれている。発生地付近では黄砂の元となる「砂塵嵐」(砂嵐)、大気中を浮遊する黄砂は「エアロゾル粒子」であり、風の有無にかかわらず黄砂が空中に大量に浮遊・降下している状態は「風塵」や「煙霧」・「ちり煙霧」である。また、視程障害現象にも分類される。東アジア各国では、気象機関がそれぞれ「黄砂」の定義や強弱の基準を定めているが、いずれも少しずつ異なっている(後節参照)。 ==黄砂現象の詳説== ===発生地=== 代表的な発生地としては、西から タクラマカン砂漠(中国西部 新疆)ゴビ砂漠(中国北部 内モンゴル・甘粛・寧夏・陝西 ‐ モンゴル南部)黄土高原(中国中央部 内モンゴル・甘粛・陝西・山西)の3か所が挙げられる。面積は、これら3大発生地だけでも日本の国土面積の5倍(190万 km)以上と広い。これ以外にも、以下のリストのように、黄砂の発生が考えられている乾燥地帯がある。 サルイイシコトラウ砂漠(カザフスタン東部)グルバンテュンギュト(古爾班通古特)砂漠(新疆ウイグル自治区)クムタグ(庫姆塔格)砂漠(新疆ウイグル自治区 ‐ 甘粛省)…タクラマカン砂漠に隣接し、拡大により1つの砂漠に繋がりつつある。オルドス(鄂爾多斯)砂漠(中国内モンゴル自治区) ムウス(毛烏素)砂漠とクブチ(*92*布其)砂漠を含む。ムウス(毛烏素)砂漠とクブチ(*93*布其)砂漠を含む。バダインジャラン(巴丹吉林)砂漠(同上)トングリ(騰格里)砂漠(同上 ‐ 甘粛省)ウランプハ(烏蘭布和)砂漠(同上)ソニド(蘇尼特)盆地(同上)ホルチン(科爾沁)砂漠(同上)(参考:中国語版ウィキペディアの記事)フンサンダク(渾善達克)砂漠(同上)(参考:中国語版ウィキペディアの記事)ツァイダム(柴達木)砂漠(中国青海省)これらの地域はほとんどが東アジアだが、一部は中央アジアにも及んでいる。またこれ以外に、中国東北部(旧満州)、モンゴル北部、ロシアの一部なども発生源となっている可能性がある。 これらの発生地は、おおむね年間降水量が 500 mm を下回り、所によっては 100 mm 以下という乾燥地帯であるため、地表が砂で覆われている。また、乾燥地帯が発生地ということは分かっているものの、飛来する砂塵の分析結果から、発生地は砂漠のみであるとする説、砂漠以外の乾燥した地域であるとする説、その両方であるとする説の3つが唱えられている(下の項参照)。 ===発生=== 現在、黄砂の大部分は、発生地である乾燥地帯を襲う砂塵嵐により大気中に巻き上げられると考えられている。 砂塵嵐の発生の度合いは、年中乾燥した土地であればほぼ風だけで決まるが、降水のある土地では風に加えて、地形、表土の湿り具合、積雪や凍結の有無、植生(植物の繁茂)、土壌粒子の大きさ、地表の凹凸の粗さなど、地表面の様々な状態に左右される。土壌粒子の大きさに関しては、表土や岩石が温度変化を受けた時、特に凍結と融解を繰り返した時に、風化により砂粒の微細化が進む。 ある研究によれば、タクラマカン・ゴビ・黄土高原ともに上空 10 m の平均風速が 5 m/s を超えると、局所的に地面から砂塵が舞い上がり始める。これが激しいもの、つまり砂塵嵐に発達するときには、ゴビで10m/s、タクラマカン・黄土高原で6m/s以上の風が吹いているという研究結果がある。砂塵嵐によって砂が巻き上げられる高さは最大で上空 7 ― 8 km という報告があるが、観測装置が故障することがあるため推定である。また、強い低気圧が通過した前後などは砂塵嵐が多く発生し、黄砂の量も多くなる。 また降水量との関係で言うと、発生地で降水量が少ないほど黄砂の発生は多い傾向にある。降水量によって、土壌の乾燥状態、積雪や植物の有無といった地面の状態が変化するためである。 なお、砂塵嵐のことを中国語で沙塵暴(簡体字: 沙*94*暴、*95*音: sh*96*ch*97*nb*98*o シャーチェンパオ)といい、中国の市民の間では「黄砂」という言葉はほとんど使われず、「沙塵暴」をよく用いる。 沙塵暴は時に猛烈に発達することがあり、中国の気象当局は、瞬間風速 25 m/s 以上で視程が 50 m 以下の砂塵嵐を「黒風暴」(ウイグル語で *99**100**101**102* *103**104**105**106**107*、英字表記:qara boran、日本語音写:カラボラン、「黒い嵐」「大嵐」「台風」の意)または「黒風」と規定、俗に「黒い嵐」などと呼ばれている。黒風暴は、寒冷前線の通過時などで大気が不安定になったときに、ダウンバーストやガストフロントなどの局地的な突風をきっかけに発生する。水平方向の大きさは小さいもので 数百 m、大きいものは 100 km を超える。大きな渦を巻きながら移動し、これが押し寄せてくると、高さ数百mの「砂の壁」が迫ってくるように見える。「砂の壁」の中に入ると、急激に周りを飛ぶ砂の量が増え、(昼間であれば)次第に周囲が黄み・赤みを増しながら暗くなり、風も強まってくる。数十分ほど屋外は真っ暗となり、歩くことさえままならない状態となる一方、屋内に避難していても砂の進入によって日常生活が難しいほどになる。黒風暴の発生はごく稀ではあるが、近年では1993年5月5日に発生して甚大な被害を出した(後節で詳しく解説)。 また、周囲を山脈に囲まれたタクラマカン砂漠などの高低差が大きい発生地では、山谷風と呼ばれるほぼ毎日同じ時間帯に吹く強風が砂塵嵐を強める要因になっているとの指摘もある。ゴビや黄土高原からの黄砂は上空 1 ‐ 2 km でよく観測されるのに対し、周囲を6,000m級の山脈に囲まれるタクラマカンからの黄砂は上空 6 km 程度によく観測される傾向にあり、夏の「バックグラウンド黄砂」の主な発生源となっている。 ===移動=== 単に砂塵が舞い上がると言っても、砂塵の粒の大きさによってその動きは全く違う。粒の直径が約 1 mm 以上のものは回転運動、0.05 mm (50 μm) ― 1 mm くらいのものは躍動運動、約 0.05 mm 以下のものは浮遊運動をするといわれている(右図「砂塵の飛散と移動のメカニズム。」)。回転運動をする砂は発生地周辺のみに到達し、移動する砂丘を構成する。躍動運動をする砂は地面を飛び跳ねながら移動し、沙塵暴のほとんどを構成する。浮遊運動をする砂は風に乗って上空を移動し、遠くまで到達する。 浮遊運動をする砂の運動を詳しく見ると、砂塵嵐によって巻き上げられた後、日中暖まった空気が上昇することによって起きる上昇気流に乗って、上空 500 m ― 2 km 付近に上昇して移動する。発生地付近では、砂塵の濃度や粒子の大きさがバラバラで非常に複雑な分布であるが、離れるに従って高度 1 ― 2 km 付近に濃度が高い層ができる傾向にある。この付近の上空 500 m ― 2 km より下の大気は大気境界層といい、空気の流れが複雑な層である。これより上には自由大気という層があり、一部の粒子がこの層にまで上昇してくると、安定した速い気流に乗って遠くまで運ばれる。ただ、低気圧が発達しながら移動するなどして、激しい風によって空気がかき混ぜられた場合は、日本上空で最大 6 ― 7 km 程度と、もっと高い高度にも高濃度の層ができて遠くまで運ばれることもある。また、昼に発生して大気境界層を浮遊している砂塵は、夜になって大気境界層と自由大気の境界が下がってきてもそのまま同じ高度にとどまるため、一部は自由大気に入って遠くまで運ばれることになる。 東アジアや中央アジアなどの広い範囲には偏西風が吹いている。しかし、地上付近では偏西風の影響が少ないため、気圧配置によって砂塵は東以外の方向にも流される。しかし、高度が高くなると偏西風の影響が強くなるため、上空高くに舞い上がった黄砂は東寄りに流される。これにより砂塵は発生地の東側の地域への到達が多い傾向にある。 なお、日本へ到来する黄砂について、「ジェット気流に乗って大陸から日本へやってくる」と解説される例があるが、ジェット気流は主に高度 8 ‐ 13 km を吹いている風である一方で、上述のとおり黄砂は発生源から離れると高度 1 ‐ 2 km に濃度が高い層が出来る傾向にある。したがって、遠方まで輸送された黄砂の事例をみると、ジェット気流よりもかなり下層で輸送されていて、ジェット気流によって輸送されたとは見なせない事例もある。 ===落下=== こういった過程を経て粒の大きな砂から落下していく。北京では粒子の直径がおよそ 4 ― 20 μm、発生後 3 ― 4 日経って到達する日本では 4 μm 前後という調査結果がある。韓国気象庁の解説では、上空に舞い上がって運ばれる黄砂は、3割が発生地に、2割が発生地の周辺地域に、5割が日本・韓国や太平洋などの遠方に運ばれて落下・沈着するという。 そして、より近い発生地からの黄砂のほうが飛来の頻度が高い。例えば、朝鮮半島で観測される黄砂は多くが西方の黄土高原・ゴビ砂漠などで発生したもので、タクラマカン砂漠で発生したものは稀である。朝鮮半島とタクラマカン砂漠は 5,000 km 以上離れており、長距離運搬される条件が整った時にしか砂塵は到達しない。また、韓国に到達する黄砂の「発生から飛来までの経過日数」と「飛来時に黄砂が分布する平均高度」を調べた韓国気象庁の資料では、タクラマカン砂漠は経過日数4 ― 8日・高度 4 ― 8 km、中国北部の乾燥地帯は3 ― 5日・1―5 km、黄土高原は 2 ― 4日・1 ― 4 km、中国東北部は 1 ― 3日・1 ― 3 km などとなっている。 黄砂の年間発生量は年間2億―3億 t と推定され、対する降下量は北京で春には1ヵ月間に 1 km あたり 10 ‐ 20 t 程度、日本で1年間に 1 km あたり 1 ― 5 t と推定されている。ただしその量は、発生地の毎回の天候に左右される。なお、1998 ‐ 2000年のデータでは北京の乾性降下物(乾いたばいじん)のうち8割が黄砂を含む土壌性の粒子であった。また、日本における黄砂を含めたばいじんの総降下量は国内平均で1年間に 1km あたり 40 t 程度(1989年)とされ、黄砂はその1割程度にあたる。 ===季節変化=== 時期としては、春に最も多く発生する。降水量が少なく地面が乾燥する冬は、シベリア高気圧の影響で風があまり強くない穏やかな天候が続くうえ、ほとんどの乾燥地帯の表土は積雪に覆われてしまうため、黄砂が発生しにくい。春になると、表土を覆った積雪が融け、高気圧の勢力が弱まる代わりに偏西風が強まり、低気圧が発達しながら通過するなどして風が強い日が増えるため、黄砂の発生も増えると考えられている。春の中盤に入り暖かくなってくると植物が増え、夏になると雨も多くなるため、土壌が地面に固定されるようになって次第に黄砂の量は減り、秋に最少となる。 発生地側の新疆ウイグル自治区での砂塵嵐の日数を調べた統計では、最多の4月に年間の約 20% が集中し、3月から6月の4か月間に年間の約 70% が集中する。敦煌から河西回廊での砂塵嵐の日数を調べた統計では、春の3か月間に年間の5割弱が集中する。ただし、秋にも約1割の発生があり、年間を通して発生している。 一方、飛来地側の日本では、春に当たる2月から5月の4か月間に年間の約 90% が集中し、夏に当たる7月 ‐ 9月は全くと言っていいほど観測されない。ただし、これは地上での観測をもとにした統計であり、上空を通過する薄い黄砂は夏にも観測されている。 また近年、地上では視程も低下しないため黄砂として観測されない時に、自由大気(自由対流圏)と呼ばれる高層で薄い砂塵が観測されることが分かってきた。これは「バックグラウンド黄砂」と呼ばれている。普段地上でほとんど黄砂が観測されない夏や秋にも発生するほか、高山では酸性霧の中和に関与していることが解明されてきている。バックグラウンド黄砂の特徴として、発生地付近で砂塵嵐の発生が無く、砂塵を巻き上げて運ぶ低気圧さえ無い状態にも拘らず、発生することが挙げられる。また、バックグラウンド黄砂の成分の特徴として、通常ではCa(カルシウム)が主にCaSO4(硫酸カルシウム)の形で存在しているのに対して、バックグラウンド黄砂では主に CaCO3(炭酸カルシウム)の形で存在していることが挙げられる。これは、バックグラウンド黄砂が、地上から排出される大気汚染物質に含まれているSO4(硫酸イオン)とほとんど混ざっていないことを意味し、普通の黄砂とは異なる経路を通ってきていることを示している。 ===観測=== 東アジア各国で、気象機関が独自に定めた黄砂の定義や強度を運用している(後述)。例えば日本では「飛来してきた大陸性の土壌粒子が浮遊する現象」を黄砂として記録している。各国で定義は異なる。 なお、世界の気象観測の報告で用いる国際気象通報式SYNOPでは、黄砂そのものを直接表す表現はないが、天気の報告の中で黄砂に該当するものは以下の11種類である。 06.空中広くちりまたは砂が浮遊(風に巻き上げられたものではない)→07.風に巻き上げられたちりまたは砂→09.視程内または前1時間内の砂じんあらし→30.弱または並の砂じんあらし。前1時間内にうすくなった→31.弱または並の砂じんあらし。前1時間内変化なし→32.弱または並の砂じんあらし。前1時間内に濃くなった→33.強い砂じんあらし。前1時間内にうすくなった→34.強い砂じんあらし。前1時間内変化なし→35.強い砂じんあらし。前1時間内に濃くなった→98.観測時に雷電。砂じんあらしを伴う→国境を越えて移動することから、研究や予報には観測データの国際的な共有が重要だが、東アジア各国で黄砂対策協力が始まった当初、中国は情報提供に難色を示していた。2008年春から中国が情報提供を開始したことなどを受け、データを共有できるようになり、黄砂の予報の精度などが向上している。 視程、空の色などの目視観測と、視程、湿度や精密計器による機械観測が併用されている。研究や大気環境の監視(大気汚染の観測など)を目的とする精密な観測においては、目的に応じてさまざまな計測機器が使用されている。 LIDAR(レーザーレーダー) ‐ 各高度の黄砂の濃度を観測できる。常時無人観測が可能だが、雲がある場合や濃度が高い場合は観測できないことがある。日射計、放射計 ‐ 黄砂等の光学的な性質、粒子の大きさを観測できる。比濁計(ネフェロメーター)、吸光計 ‐ 黄砂等の光学的な性質を観測できる。パーティクルカウンター、質量濃度計 ‐ 黄砂等の質量、濃度、粒子の大きさを観測できる。飛行時間質量分析計 ‐ 黄砂等の化学的な性質を観測できる。視程距離計 ‐ 目視と異なり、定量的に視程を観測できる。以上は地上に設置する機器である。飛行機、ヘリコプター、気球、船舶を利用した観測、2,000m以上の高地(自由大気と呼ばれる大気の層で地面との摩擦が無いため、大気が他とは異なった流れになっている)での観測もある。黄砂粒子のサンプルを採取した分析なども行われている。このほか、広域的な観測ができる人工衛星のデータも利用されている。 ==黄砂の変化と歴史== ===地質調査による解析=== 古くは、日本では少なくとも7万年前以降の最終氷期には黄砂が飛来していたと考えられている。最終氷期の初期に当たる7万年前から6万年前頃の風送ダスト(風によって運ばれ、堆積した砂や塵のこと。黄砂もこれに含まれる)の堆積量は 10cm あたり 12g であった。完新世に当たる1万年前から現在までは同3―4gである。つまり、最終氷期初期は現在の3―4倍と、かなり多かったと推定されている。このほか、1万8000年前にも黄砂の堆積量が増えたというデータがある。 気候との関係については一般的認識とは逆の推定がされており、発生地域が寒冷期にあるときには、乾燥化が進む上、大気循環経路の変化により寒気の南下回数が増え、砂塵嵐の頻度が増えることから、黄砂が増加すると考えられる。逆に、温暖期にあるときは、湿潤化が進むことなどから、黄砂が減少すると考えられている。2千年紀(過去1000年)間の中国での塵の降下頻度の記録から、塵の降下頻度の増加が気温の上昇と逆相関関係にあるという研究があり、この説を裏付けている。 また、現在黄砂の発生源となっている黄土高原は、250万年前から始まり200万年前から増えた、風送ダストによってできたと考えられている。これら黄砂や風送ダストの量の変化は、気候変動や地殻変動によって、風や降水、地形などのパターンが変わったことによる。 また、日本の南西諸島にはクチャ(学術名島尻層泥岩)と呼ばれる厚さ約1,000mの泥岩層が分布しているが、この層には黄砂由来の粒子が含まれていると考えられている。島尻層泥岩は新第三紀、およそ2500万年前から200万年前頃の地層であり、この頃にも黄砂が飛来していた可能性を示唆している。 更に堆積物の分析結果から、最も古い時代では白亜紀後期にあたる約7000万年前から、黄砂が発生していたと考えられている。 ===文献への登場=== 中国では、紀元前 (BC) 1150年頃に「塵雨」と呼ばれていたことが分かっている。史料においてはこのほか、「雨土」「雨砂」「土霾」「黄霧」などの呼称があった。また、BC300年以後の黄砂の記録が残された書物もある。 朝鮮では、『三国史記』に、新羅時代の174年頃の記述として、「ウートゥ(雨土)」という表現が残っている。怒った神が雨や雪の代わりに降らせたものと信じられていた。644年頃には黄砂が混ざったと見られる赤い雪が降ったという記録も残っている。 日本では、『吾妻鏡』 文永3年2月1日(グレゴリオ暦1266年3月16日)付けで「晩に泥の混じる雨降る。希代の怪異なり。」と記される。さらにその件についてのコメントとして、天平14年(742年)に陸奥国で「丹雪」(赤い雪)が降ったとされることなどの古例を挙げ、泥の雨は初めてだがそういうことも起こりうるのだろうと述べられている。1477年には紅雪が降ったとの記録(『本朝年代紀』による)が残っている。江戸時代頃から、書物に「泥雨」「紅雪」「黄雪」などの黄砂に関する記述が見られるようになった。また、俳句の季語としては「霾(つちふる・ばい)」、「霾曇(よなぐもり)」、「霾風(ばいふう)」なども用いられている。 ===20世紀からの変動=== 近年は黄砂の発生が増加傾向にあるとの報道が多い。地球温暖化や砂漠化の進行を考える上で、黄砂の発生頻度の変化は重要な視点の1つとされているが、正確にその変化を捉えるためには長期的なデータが必要となる。主なデータを以下に挙げる。 タクラマカン砂漠以西を除く発生地では、強風の発生頻度の増加および積雪面積の減少に伴って黄砂の発生頻度が増えている。中国北西部では、1960年代から40年間は減少傾向で、特に1980年代から1990年代には大きく減少しているが、1970年代前後は各地で変化にばらつきがある。中国華北地方では1990年代までは減少の一途をたどっていたものの、2000年代に入って増加している。韓国では、過去約100年間のデータから、1930年代後半から1940年代前半にかけて、黄砂の発生頻度が1990年代後半以降と同程度かそれ以上であったこと、1940年代後半から1950年代頃までは減少傾向で、それ以降増加傾向であり、晩秋から早春にかけての発生頻度が増えている。日本の気象庁の観測では、1967年の観測開始以降、2002年に黄砂観測の日数・延べ日数が共に最多を記録したが、年ごとの変化が大きいため長期的な変化傾向ははっきりと判明していない。発生頻度の変化とは別に、激しい砂塵嵐や濃度の高い黄砂の増加が見られるとの研究もある。黄砂の強さや頻度は数年 ‐ 数十年単位で変動していることや、その変動は地域によって異なることが分かる。総じて、韓国では1950年代以降、中国では2000年代以降に増加傾向にあるといえる。 近年の数年 ‐ 数十年単位での変動は、降水量、積雪面積・積雪期間、砂塵嵐を発生させる暴風の発生頻度、黄砂の飛来経路などの天候パターンの変化や、自然起因の気候変動による砂漠化や土地の乾燥化によるところが大きいとされる。ただし、砂漠化や乾燥化については人為的な関与も指摘されており、特に2007年の時点で国土面積の 18%、約174万 km が砂漠と化している。中国の砂漠化の進行、その背景にある過剰な放牧や耕地拡大などの農業の問題、生活や経済の問題がその原因とされており、環境問題としてとらえられる場合もある。 中国政府や地方政府が農業政策を誤ったり、過放牧・過剰耕作を抑制できなかったことで土地の乾燥化に拍車をかけ、乾燥地域の拡大に繋がっているとの指摘もある。一方、黄砂の影響を受けている韓国や日本なども、木材や農産物(仮想水の輸入に伴い原産国の土地に負荷をかける)の輸入などを通して間接的に関わっているとの見方がある。 内モンゴル自治区などでは、過放牧や工業汚染によって乾燥化が進み、黄砂の新たな発生地になりつつあるといわれている。カザフスタンでは、アラル海の例を見ると分かるように、農業政策の失敗により地下水や湖水をくみ上げすぎるなどして、土地の乾燥化が進んだ。また、汚染された排水や廃棄物によって土壌が汚染され、植物が枯れて乾燥化を進めている例もある。 そのほかにも、地球温暖化により内陸部の降水量減少や気圧配置の変化が引き起こされ、それらが乾燥化や強風の増加をもたらして、黄砂の増加に関係しているとの考えもある。また、エルニーニョ現象と黄砂発生頻度の関連性も指摘されている。 ただし、黄砂や黄砂被害の変化と、その原因とされる自然環境の変化や人為的な要因については、まだ不明な点もある。また、黄砂とは別の問題である大気汚染などが、黄砂の悪影響を増大させている側面もある。 ===類似の現象=== 類似の現象としては、アフリカ・サハラ砂漠からの乾燥した高温風(リビア名ギブリ、イタリア名シロッコ)、ギニア湾岸からベルデ岬付近の地域で吹く乾燥した冷涼風ハルマッタン、スーダンの砂塵嵐ハブーブ、エジプトの乾燥した高温風ハムシンなどがあり、砂塵嵐を伴うことが多く、黄砂によく似ている。シロッコは砂塵の混じった赤い雨を降らせたり、地中海に広く分布する赤土テラロッサの起源になっていると考えられており、黄土と関連づけられる黄砂と類似している。これらは、砂に対して名称が付けられている黄砂と違って、風や砂塵嵐に対して付けられている名称である。 また、黄砂のような砂塵の大規模な発生地帯には、中央アジア(黄砂など)、アフリカ(ギブリ・シロッコなど)のほかに、北アメリカ、オーストラリアなどがある。 ==黄砂の形状と成分== ===形状=== 日本などの、発生地からある程度離れた地域に飛来する黄砂の粒子の大きさは、0.5 μm ― 5 μm くらいであり、粒径分布では 4 μm にピークがみられる。これはタバコの煙の粒子の直径 (0.2 ― 0.5 μm) より大きく、人間の赤血球の直径 (6 ― 8 μm) よりやや小さいくらいである。この大きさの粒は、地質学での砕屑物の分類においては、砂というよりも「泥」(シルト・粘土)にあたり、非常に小さい部類に入る。 中国で観測されるものは粒の大きいものが多く、日本で観測されるものは粒の小さいものが多い。1934年に中国から日本にかけて行われた調査では、粒の大きさは 1μm ― 500 μm のものが多かったという(光学顕微鏡による調査のため微小な粒子は観測できない点に注意)。1979年に名古屋で採取された黄砂の分析では、おおむね 1 μm ― 30 μm のものが多く 4 μm くらいの粒子が最も多かった。粒径分布は比較的広く観測されていることから、黄砂の大粒子は、粘土粒子同士が凝集したり、やや大きい鉱物の粒子に粘土粒子が付着したりしてできたもので、集合したものとしていないものが混ざって飛来してきているのではないか、と推定されている。 黄砂の色は、黄土色、黄褐色、赤褐色などに近い。空が黄砂に覆われた場合、粒径が小さい・濃度が低いときはミー散乱により白っぽく霞んで見え、粒径が大きい・濃度が高いときは太陽光が黄砂粒子を透過・屈折することで概ね黄褐色 ‐ 赤褐色に見える。 ===組成と成分=== ====主な組成==== 組成を見ると、主に石英、長石、雲母、緑泥石、カオリナイト、方解石(炭酸カルシウム)、石膏(硫酸カルシウム)、硫酸アンモニウムなどからなる。日本の普通の表土に比べるとカルシウムの含有率が高いことが特徴の1つである。なお、砂漠に多く黄土には無い石膏が含まれていることから、黄砂は砂漠由来であるとする見方があるが、石灰岩などの主成分である炭酸カルシウムが硫酸アンモニウムと反応して石膏となることが知られており、必ずしも砂漠由来であるとは限らないとする見方もある。2002年4月に黄砂の発生・飛来地域で行われたエアロゾルの成分分析では、カルシウム鉱物に占める石膏の割合が、東の地域にいくほど増加していた。 ===吸着成分=== 粒子の種類によって度合いは異なるものの、黄砂は空気中のさまざまな粒子を吸着する。北京など中国の主要都市では、黄砂が増加する冬季にエアロゾルの量が増加するためその多くが黄砂であると考えられているが、黄砂発生地の土壌・エアロゾルと中国主要都市のエアロゾルの成分を比較すると、後者のほうが硫酸イオンや硝酸イオン、重金属である鉛の濃度が高くなっていた。また実験により、黄砂の粒子が触媒となって、二酸化硫黄ガスが黄砂粒子の表面に吸着されて反応し硫酸イオンになることや、中国主要都市の大気に多く含まれる硫酸アンモニウムが、湿度が高いときに黄砂に吸着され、黄砂中のカルシウムがアンモニアと置換反応して硫酸カルシウム(石膏)になることも分かった。黄砂は上空を浮遊しながら次第に大気中のさまざまな粒子を吸着するため、その成分は発生する地域と通過する地域により異なると考えられている。中国・韓国・日本などの工業地帯を通過した黄砂は硫黄酸化物や窒素酸化物を吸着すると考えられているが、中国と日本の茨城県つくば市でそれぞれ採取された黄砂の成分調査によると、つくば市のものは二酸化窒素 (NO2) や硫酸水素 (HSO4) が増加しており、これを裏付けている。さらに、通過する地域や気象条件(汚染地域への停滞の様子など)によって、同じ地点で観測される黄砂においても、黄砂中の汚染成分の濃度が毎回変化し、汚染成分の多い黄砂と少ない黄砂の2パターンがあることも分かっている。 ===原子組成分析=== 2001年にアジアの黄砂発生源を3つに区分(中国西部・中国北部・黄土高原)して行われた黄砂の原子組成分析では、質量が多い順にケイ素が 24 ― 30%、カルシウムが 7 ― 12%、アルミニウムが 7%、鉄が 4 ― 6%、カリウムが 2 ‐ 3%、マグネシウムが 1 ― 3% ほどを占めた。このほか、微量のマンガン、チタン、リンなどが検出された。また、北京の浮遊粒子状物質 (PM10) 及び長崎県壱岐の黄砂の分子組成分析では、どちらも二酸化ケイ素 (SiO2) が最も多く、次いで酸化アルミニウム、酸化鉄、酸化カルシウムなどが多く検出されている。なお、北京では大気汚染物質であるカーボン(すす)が多く検出されたほか、壱岐では北京よりも二酸化ケイ素の割合が高かった。鳥取県衛生環境研究所の調査では、2005年4月に黄砂を含む大気中の成分を調べたところ、平均値に比べてヒ素が22倍、マンガンが13倍、クロムが7倍、ニッケルが3倍という高い数値を記録しており、黄砂の飛来時には大気の成分が通常とは異なることを示唆している。 ===ダイオキシン類=== 黄砂飛来時に大気中のダイオキシン類の濃度が増加するとの調査結果も出ている。台湾中央研究院環境変遷研究センターの調査では、大気中の濃度が通常時よりも 35% 増加するとの結果が出ている。釜慶大ダイオキシン研究センターが釜山で行った調査では、黄砂飛来時は粉塵中の濃度が通常の2.5倍(2001年)、人体への摂取量が通常時は約0.01pg‐TEQ/kg/日だが、黄砂の日は0.028―0.038pg‐TEQ/kg/日と2倍以上になる(2007年)、と報告されている。 ===細菌、カビ、病害=== 韓国農村振興庁が黄砂を採取して行った検査では、地域差があるものの、細菌の濃度が通常の大気の7―22倍、カビの濃度が15―26倍と高かった。黄砂が飛来するときに細菌やカビを吸着し、それが繁殖しやすい気温や湿度となるためではないかとされており、人間や家畜・作物への影響が懸念されている。また、韓国の研究チームが2003年、黄砂の飛来する前後に行った疫学調査では、尿の成分測定で多環芳香族炭化水素 (PAH) に属する発ガン性物質が平均で 25% 増加した。黄砂の後に麦の病害である黒さび病が増加することは日本で知られていたが、研究により同じく麦の病害である黄さび病の胞子も毎年黄砂とともに日本に飛来することが分かっている。また、採取した黄砂を培養液に入れるとカビ類、グラム陽性菌、酵母菌類などが検出されたとの研究報告がある。大気中を進むうちに、日光に含まれる紫外線によって、細菌の一部は死滅すると考えられているが、化学物質が分解されて有害なものになることも懸念されている。 ===放射性降下物に由来するセシウム137=== 「放射性降下物」、「核実験の一覧」、および「チェルノブイリ原子力発電所事故」も参照放射性物質の「セシウム137」は黄砂の砂塵に含まれて飛来する。中国北部の草原を調査した日本の文部科学省科研費「黄砂に含まれる放射性セシウムの起源推定」による平成19年度(2007年度)の研究成果によると、表面2cmの土壌が比較的高濃度のセシウム137いわゆる放射性物質に汚染されていた(地表2cmの表土1kgあたり5.5ベクレルから86ベクレル)。この調査地域では降水量が少ないためセシウム137が土壌の下方に浸透しづらく、さらに草原が表土の侵食を抑制するため、セシウム137が表土に高濃度の状態で残っていたのである。このセシウム137であるが、これは現行の核実験施設等ではなく、1980年代以前の地球規模の放射性降下物(大気圏内核実験・原子力事故等により発生)に由来するものであった(年間降水量とセシウム137の蓄積に正の相関があるために判明した)。 ==黄砂による影響== 黄砂によって、以下に挙げるようなさまざまな被害が確認されている。確認されている被害範囲は東アジアの広範囲に及ぶ。モンゴル、中国、韓国では、黄砂による被害は大きな社会問題となっている。日本では、これらの諸国に比べて被害は軽く、環境問題として取り上げられることが多い。 発生源から離れた地域に被害を及ぼす、国境を越えた環境問題の典型的な例の1つで、中国などの経済発展と密接に関連しており、政治的な対策が鍵を握るとの見方もあり、一部では ”yellow dust terrorism”(黄砂テロリズム)と呼ぶ向きもある。 また、黄砂の観測やモデルによる黄砂飛散の推定結果などから、東南アジアで発生した煤や一酸化炭素が日本に飛来してきていることも分かり、アジアの他の地域でも同様の越境汚染問題があることが分かってきている。 ===物理的・経済的被害=== 大気中の黄砂の濃度が比較的薄いならば、多少の黄味を帯びた霞が発生し、普段よりも視界が悪くなる程度である。被害は黄砂が少量の場合でも発生するが、量が多いほど被害が深刻になる。 黄砂が降り注ぎ積もることにより、建物の窓、洗濯物が汚れたり、農作物の生育不良を起こしたりといった、物理的被害が最も多い。ビニールハウスに積もると遮光障害を起こすことがある。 黄砂が雨雲や雪雲に入ると、吸着された黄砂が雨や雪の粒に混じって降ることがある。黄砂には非常に小さい粒子が含まれているので、雨と混じって泥状となり、建物や車などにべったりと付着することがあり、雨に混じらない黄砂のみが付着した場合に比べて汚れが落ちにくい。黄砂が雪に混じると、積雪が黄色や赤色に変色することもある。 黄砂は、大気汚染物質などと一緒に大気中に長くとどまり、周辺の雲の色を茶色く変色させ、農作物への被害が指摘されている褐色雲 (brown cloud) をつくる事もある。大規模な黄砂が発生したときは、気象衛星などの画像に写り込むことがある。気象衛星で初めて黄砂の移動が確認されたのは1979年である。 濃度が高い場合、視界が悪くなるために航空機の飛行や車の通行、鉄道の運行、人の歩行に障害を及ぼしたり、大気を覆うことによって気象観測を妨害したりする。また、地上波放送などの電波が乱反射し、受信障害や異常伝播を引き起こすこともある。中国や韓国では、黄砂の濃度が高い時には乗用車の速度規制が行われることがある。 精密機械や半導体の工場では、黄砂の微小粒子の侵入により不良品ができるなどの被害も発生する。速度規制や交通の混乱、健康被害などの諸被害によるものや、砂や塵の処理にかかる費用も含め、大きな経済的損失も生じる。 黒風暴のような発生地付近での砂塵嵐の場合には、砂も多く強風を伴うため、建物の倒壊・埋没、電柱の倒壊や電線の切断による停電なども起こる。黄砂の発生地である砂漠の一部では、砂塵嵐などによって砂丘が移動し、住居が砂に埋まったり、道路が通行不能になるなどして、住むことができなくなった村もあり、被害ははるかに深刻である。 また、黄砂は乾いていても簡単には落ちないうえ、泥のように固まりやすく、自動車の塗装やウィンドーを汚してしまう。一方で、乾いたときにワイパーやタオルで強く拭くと小さな傷を付けやすいため、修復不可能な傷を付ける原因となる。対策としては、なるべくこまめに洗い、水を使って洗うほうがよいとされる。 ===健康被害=== 細かい砂の粒子や、粒子に付着した物質、黄砂とともに飛来する化学物質などにより、さまざまな健康被害が生じる。ただし同じ汚染度でも、症状には個人差がある。 黄砂としてではなく、黄砂もその成分の1つである粒子状物質の濃度が高い状態での健康影響も多く報告されている。 ===疫学的報告=== 中国、韓国、台湾では呼吸器疾患や呼吸器感染症、心臓や脳の循環器疾患の増加と黄砂発生との相関が複数の論文で報告されている。また喘息、アレルギー性鼻炎などのアレルギー疾患のほか、結膜炎などの眼科症状の増加も報告されている。 1995年 ‐ 1998年の春に韓国で行われた疫学調査では、黄砂の飛来時に高齢者の死亡率が 2.2% 上昇したほか、呼吸器・循環器・眼科の入院率や通院率が上昇した。中国の新聞の報道によれば、砂塵の飛散時には肺の感染症・心臓血管の疾病・心筋梗塞・高血圧・脳卒中などの増加が見られるという。 日本での疫学的な調査結果は、2005年に環境省と海外環境協力センターの検討会が『黄砂問題検討会報告書』をまとめた当時はなかったが、その後いくつか報告されている。京都大学の金谷久美子と富山大学の研究グループは、2005‐2009年春季の富山県における入院患者の調査から、黄砂の後の1週間は小児喘息患者が発作により入院するリスクが1.8倍、小学生では3倍以上になったと報告している。国立環境研究所の調査でも同様の結果が出ている。九州大学の北園孝成らの研究グループは、福岡県における脳梗塞による救急搬送例の調査から、黄砂の日からの3日間は脳梗塞での搬送件数が7.5%増加、重症例に限ると5割以上増加したと報告している。 一方、上記のような調査の多くは黄砂以外の因子の影響が除去できていなかったり、統計学的に有意でないものが多いと指摘する文献もある。 ===毒性学的報告=== 黄砂の主成分である二酸化ケイ素や付着成分である微生物は、肺や鼻などで炎症を誘発しアレルギー反応を活発化させることが、複数の研究で報告されている。なおマウスでの実験による推定から、黄砂単独・抗原単独・黄砂と抗原の混合の3パターンを投与した実験では混合の方が遥かに強いアレルギー反応がみられたほか、同様に黄砂と花粉を投与した実験でも混合した方が症状が強く、黄砂だけよりも微生物や花粉などと混ざった状態の方がアレルギーの憎悪作用が強いという報告がある。 (清益ほか、2009年)の報告によると、黄砂との関連性が報告されている症状としては、咳、くしゃみ、鼻水などの呼吸器症状、肺炎や気管支炎の発症・増悪(の可能性)、目のかゆみや充血などの目の症状、皮膚の痒みや湿疹などの皮膚症状、発熱、心疾患への影響、またこれらと重複するが喘息や花粉症、アレルギー性結膜炎、アトピー性皮膚炎などのアレルギー症状悪化などがある。 ===対策=== 中国や韓国では、黄砂の濃度が高い場合に、マスク等の着用を奨励したり、外出を控えるよう促したりする情報が、公的機関によって発表されている。 俗説の域を出ないが、韓国では市民の間で「黄砂に含まれる有害物質排出を促進する」食べ物として、豚肉などが知られている。実際に、韓国では黄砂の時期に、豚肉や、サムギョプサルなどの豚肉料理の売り上げが伸びる。ただ、豚肉の不飽和脂肪酸が体内の重金属の排出を促すという研究が韓国食品開発研究院から発表されるなど肯定的な見方もある一方、効果は薄いという見方もある。 ===環境的な利益=== 砂や砂に付着した物質によって、土壌や海洋へミネラルが供給され、植物や植物プランクトンの生育を促進する作用もあり、黄砂に土壌を肥やす効果があることも指摘されている。黄砂の成分であるリン、鉄、アルミニウムなどが、海洋のプランクトンや、ハワイの森林の生育に関わっているとの研究結果もある。また、黄砂に含まれる炭酸カルシウムには中和作用があり、黄砂の飛来と雨が重なると、雨を中性・アルカリ性に変える。そのため、酸性雨の被害軽減にも寄与している。地力を失いやすい太平洋の古い火山島に養分を与えるプロセスの1つであり、黄砂の流れから遠い東太平洋ほど森林は失われやすいとの指摘もある。 黄砂が気候にもたらす影響は多数ある。黄砂の粒子が森林や海洋の上にあるときは太陽放射を遮蔽する日傘効果(冷却)、黄砂の粒子が氷雪や氷河の上にあるときは太陽光線を吸収して大気を暖める効果(加熱)、黄砂の粒子が雲核となって地球上の雲の分布を左右する効果(冷却・加熱)、黄砂に含まれる成分が植物やプランクトンに作用することで炭素循環に作用する効果などがあり、結果的にどう作用するかは現在はっきりと分かっておらず、気候モデルを用いた数値シミュレーションなどの研究が進められている。 ===天体の変色=== 上空を舞う黄砂によって、太陽や月などの見かけの色が変わることもある。太陽は銀色になったり、周りに青い光冠(光環)を伴って青色になったりする。また、月も青色になって青い光冠を伴うことがある。 こういった現象は滅多に目にすることができない珍しい現象であるが、中国北部を始め日本などでも観測例がある。 この変色現象は、黄砂の粒子が太陽光の一部を遮蔽して弱め、残りを散乱することで起きる。青の変色はおもにミー散乱によるものと考えられており、同様の原理で火星の地上で観望する夕焼けは青くなる。 ==対策== 黄砂による被害への対策は各地で行われている。発生地に近い地域では、降り積もる砂を建物内に入りにくくしたり、屋根などに砂が積もって重くならないような工夫などがされている。建物の窓を閉める、建物に入る前に衣服に付着した黄砂をはらう、黄砂の発生後は掃除を行うといった対策が挙げられる。 健康面での被害への対策として、黄砂が大量に降っている場合は、砂の微粒子を体内に取り込まないように、眼鏡やマスクを着用する、うがいや手洗い・洗顔を行う、外出を控えるといった処置をとることが挙げられる。 黄砂は少なくとも数万年前から発生しており、自然現象であって完全に防ぐことはできないという考え方もある。しかし、人為的な処置によって黄砂の量を減らすことはできるのではないかと考えられており、発生地の砂漠化の防止を中心とした対策が行われている。 ===砂漠化・乾燥化の防止=== 中国国内の砂漠化・乾燥化地域のほとんどが黄砂の発生源と考えられている。現在に至る過去数十年間、中国での砂漠化の主な原因は、過伐採、過放牧、過剰耕作、水利用の失敗などの人為的なものに加えて、自然な気候変動による乾燥化が重なったことだとされている。 砂漠化や乾燥化は、野焼きの他、干ばつなどによる軽度の水不足によって植物が枯死することから始まる。これを放置してしまうとどんどん深刻化していくが、この初期段階で防ぐことができれば、少ない労力で食い止めることが可能だと考えられ、初期対策は重要とされている。このためには水が必要となるが、もともと水不足であるため、限界がある。 さらに社会的な原因として、急激に増加する人口を養う必要性から、生産力や経済力を上げる必要があったため、中国北部や西部では、砂漠化しやすい土地でありながら、農耕や牧畜を従来の移動型から土地への負荷(水不足のリスク)が大きい定着型へと変えてしまったことが挙げられる。 タクラマカン砂漠がある新疆ウイグル自治区でも近年、過放牧によって草原が荒れて砂漠化が進行しているが、その理由は、タリム盆地周縁のオアシス人口の急激な人口増加によるとされ、なかでも漢族の急激な同地域における入植による人口増加が主な原因とされる。 砂漠より少し降水量が多い黄土高原などでは、もともと雨水だけに頼り、休耕地をつくって雨水を蓄えさせる(黄土や黄砂は粒子が細かく、表面張力によって粒子同士の隙間に水が蓄えられるため、実は保水性がある)伝統的な天水農法が行われていた。しかし、他地域と同様の人口増加によって、過剰耕作や灌漑による塩類集積などが発生して、乾燥化が進んでいると考えられている。 こういった背景から、現在のところ、砂漠化防止のため、砂漠緑化と農法の改良を中心とした対策が重要視されている。具体的には、適切な植林、効率の良い薪などの燃料の確保、家畜の管理、土壌浸食の防止、灌漑、水資源の有効利用、エネルギーの再利用、適切な土地利用や農法への転換、砂の移動防止などがあり、技術開発を進め、専門家が指導を行って、砂漠化防止活動を長期間持続できるようにする必要がある。 ただ、住民に負担を強いたり、生活自体を変えたりする対策が多く、砂漠化や乾燥化の防止は簡単に防ぐことができるものではない。中国の一人っ子政策などは人口抑制に大きな役割を果たしているが、それでも不十分であり、砂漠緑化をはじめとした地道な活動が、黄砂対策として必要であるとされている。また、日本・韓国といった発生地以外の国も協力可能であり、実際に各地で砂漠緑化や農業指導などが行われている。しかしながら、植林などの対策よりも乾燥化のほうが進行スピードが速く、黄砂対策は実効性を現しにくいという見方もある。 ===研究・国際的な活動=== また、各地で気象観測の一環として黄砂が観測されているが、観測点に偏りがあることに加え、気象観測だけでは黄砂現象の解明には不十分なため、より精密で計画的な観測が必要となる。これまでは、個人や小規模なグループによる研究が行われてきた。しかし、1990年代に黄砂現象の実態が詳しく分かるようになったことで、黄砂の実態把握には、数十年という長期間の監視体制を整える必要があることが次第に明らかになってきた。 現在市民向けに提供されている黄砂情報は以下のとおりである。 黄砂情報、黄砂に関する気象情報 ‐ 気象庁、気象研究所などによる。黄砂予報、注意情報(3段階) ‐ 韓国気象庁による。砂塵暴予報、警報 ‐ 中国気象局による。翌日までの短期間の予報しかできなかったため、中国科学院によって数値予報システムが開発され、運用が開始された。このほかにも、行政機関や研究機関による大規模なプロジェクトがある。 ADB/GEF黄砂対策プロジェクト ‐ UNEP・UNESCAP・UNCCD・ADB・中国・韓国・モンゴル・日本の8者が参加。黄砂対策プラン(リンク参照)を作成するなどの成果を上げている。黄砂実態解明調査 ‐ 環境省によるプロジェクト(リンク参照)。日中韓3カ国環境大臣会合 ‐ 黄砂問題に関する合意形成も行う。日中韓局長級会合による黄砂対策協議。国際ダストストームワークショップ ‐ 黄砂研究に関する国際的な会合。また、モンゴル・中国・韓国・日本各国の多数の大学、研究機関、行政機関が研究や観測に関わっている。複数の国家間で、観測機器や資金の援助、植林や農業指導などの協力も行われている。植林や農業指導については、NGOなどの民間団体が関わったプロジェクトもある。 ===問題点と今後の課題=== 対策が遅れている原因として、各国で黄砂の定義や分類(下の項参照)、黄砂に関する認識に相違点があることが指摘されている。例えば、黄砂による被害は、モンゴルでは砂による害、中国では砂塵嵐による害、韓国では気象現象、日本では大気汚染と、かなり異なった概念であると考えられている。 また、黄砂の主原因とされる砂漠化の原因、その責任の所在などが、科学的根拠をもとに明らかにされているとは言えない状況にある。発生国である中国やモンゴル、被害国である韓国や日本など、立場ごとに 地球温暖化による降水量減少が原因で、先進国を中心とした世界全体に責任がある。農業や治水面での不作為が原因で、現地の住民や政府・行政に責任がある。発生地ではない日韓も、黄砂に付着する大気汚染物質の発生源である自国企業関連の工場や、砂漠化につながる木材・農産品・畜産品の輸入などを通しても関わっており責任がある。といったさまざまな主張が対立している。 今後の課題としては、地表の水分量や植生の状態、作物の種類や分布、家畜の分布、地下水の取水状況などの継続した調査や、観測機器の整備、観測データの常時共有化、黄砂の定義や分類の統一、黄砂の予測技術の改良、対策の評価などが挙げられている。 ==各国の黄砂== 各言語での黄砂の名称は以下の通り。 日本(日本語) ‐ 「黄砂」、読みは「こうさ」。「おうさ」と読まれることもある(小学館国語辞典編集部『日本国語大辞典』第2版(小学館、2001年)の第2巻851頁には「おうさ(黄砂)」の項目が置かれており、「こうさ(黄砂)」の項目への参照項目となっている)。「黄沙」とも表記されるが頻度は低い。中国(中国語) ‐ 「黄沙」、「黄砂」、読みはいずれも「*108*音: hu*109*ngsh*110* ホワンシャー」。このほかに「亞洲粉塵」、「黄塵」、「黄河風」、「中國沙塵暴」といった別名がある。ただし、中国では、「黄沙」などの名称は主に研究者の間で用いられており、一般には日本語の「黄砂」に当たるような黄砂現象全体を表現する言葉がほとんど浸透していない。その代わりに(黄砂による)砂塵嵐のみを表す「沙*111*暴」(*112*音: sh*113*ch*114*nb*115*o シャーチェンパオ)などが用いられている。英語圏 ‐ 「China dust」、「Asian dust」、「Yellow dust」、「Yellow sand」、「Yellow wind」、「China dust storms」韓国・北朝鮮(朝鮮語) ‐ 「*116**117*」、「黄沙」、「黄砂」、読みはいずれも「ファンサ」。ベトナム(ベトナム語) ‐ 「Ho*118*ng sa(*119*砂)」、「b*120*o c*121*t v*122*ng」モンゴル(モンゴル語) ‐ 黄砂自体の名称ではないが、黄砂の元となる砂塵嵐のことを「トゥイリン」と呼ぶ。英語の名称は、学術分野では言語に差異に関わらず広く使用されている。このほか、歌や詩などに使われる霾(ばい、つちふる、bai)などの別名があるほか、「灰西」「赤霧」「山霧」「粉雨」といった地域的な呼び名もいくつか存在する。 ===中国・モンゴル=== 中国では、気象観測において黄砂は「砂塵天気」に含まれ、視程(水平視程)10 km 以内で風が弱い場合「浮塵」、風が強く視程 10 km ‐ 1 km の場合「揚沙」、風が強く視程 1 km 以下の場合「沙塵暴」とされている。沙塵暴はさらに3級(弱)、2級(中)、1級(強)、0級(特強)に分類される。特に、瞬間風速 25 m/s 以上で視程が 50 m 以下の0級(特強)沙塵暴は、「黒風」や「黒風暴」(カラブラン, Kara Bran)と呼ばれている。 東部でよく観測され、都市部では、最近の経済発展によるスモッグ(煙霧)との相乗効果で、視程がかなり悪くなることがある。北京や天津などは発生地とされる砂漠に近く、近年はたびたび大規模な黄砂に襲われている。 発生地から比較的離れた地域でも、黄砂による被害を度々受けている。2007年4月2日には、上海で 623 μg/m(マイクログラム毎立方メートル)と過去最大の量の黄砂を観測し、大気汚染指数が 500 と過去最悪の数値を観測した。大気汚染指数 (API) は二酸化硫黄と PM10 の濃度を基準にした中国独自の指標である。0 ‐ 500 の数値で表され、300以上が「重度」とされている。華北や東北地方では日常的に指数が 100 前後と高く、これまでに 500 を記録したことはあったが、上海で「重度」となったのは初めてのことだった。南方の台湾でも最高 500 μg/m 程度の黄砂が春を中心に観測される。 ただ、発生地周辺の中国内陸部やモンゴルでは、単なる黄砂の降下よりも砂塵嵐による被害の方が大きい。農作物に砂が積もることによる不作のほか、住居に砂が侵入したり、視界不良による事故などで死者が出ることもある。 これまでで最も大きな被害は、1993年5月5日に中国北西部(寧夏回族自治区、内モンゴルアラシャン盟、甘粛省)で発生した黒風暴によるものである。死者・行方不明者112人、負傷者386人、家畜・牛馬の死亡・行方不明約48万3千頭、4,600本の電柱が倒壊、被害を受けた耕地21万 ha、森林被害 18万 ha、経済損失66億円のほか、多くの道路や鉄道が埋没するという甚大な被害を出した。死者の多くは学校から帰宅途中の子供であった。この時、甘粛省で22.9 mg/m (22,900 μg/m) という記録的な黄砂の濃度を観測している。 中国の森林管理局によれば、黄砂の影響を受けている中国人は約4億人で、直接的な被害だけでも540億元(約840億円)に及ぶと言う。また別の推定では、1990年代の黄砂に伴う経済損失は年間15億元(Yang および Lu, 2001年)だとされている。 ===韓国=== 韓国では、黄砂はその程度により、強度0、強度1、強度2の3段階に分類されている。 強度0 ‐ 視界が多少混濁している状態。強度1 ‐ 空が混濁し、黄色い塵が物体表面に少し積もる状態。強度2 ‐ 空が黄褐色になって日光も弱まり、黄色い塵が物体表面に積もる状態。また韓国気象庁は、環境部所管の観測網から得られる PM10 濃度の1時間当たり平均値の予報を基に、規定の濃度が2時間以上続くと予想された場合に、3段階の警報体制をとっている。気象注意報・警報などと同様に、地域ごとに発令される。 黄砂情報 ‐ 300 μg/m 以上で、かつ情報提供が必要な場合。 高齢者・子供・呼吸器疾患患者の屋外での活動、幼稚園・小学校の屋外活動、一般市民の屋外での激しい運動をそれぞれ自粛するよう勧告。高齢者・子供・呼吸器疾患患者の屋外での活動、幼稚園・小学校の屋外活動、一般市民の屋外での激しい運動をそれぞれ自粛するよう勧告。黄砂注意報 ‐ 400 μg/m 以上。 一般市民の屋外での激しい運動を自粛するよう勧告。高齢者・子供・呼吸器疾患患者の屋外での活動、幼稚園・小学校の屋外活動をそれぞれ禁止するよう勧告。外出時に長袖の衣服を着て清潔を保つよう指導。一般市民の屋外での激しい運動を自粛するよう勧告。高齢者・子供・呼吸器疾患患者の屋外での活動、幼稚園・小学校の屋外活動をそれぞれ禁止するよう勧告。外出時に長袖の衣服を着て清潔を保つよう指導。黄砂警報 ‐ 800 μg/m 以上。 高齢者・子供・呼吸器疾患患者の外出禁止、一般市民の屋外活動禁止・外出自粛、室外での運動競技の中止・延期を勧告。幼稚園・小学校の屋外活動禁止、および授業短縮・休校などの措置を講じるよう勧告。外出時に長袖の衣服を着て保護めがね・マスクなどを使用して清潔を保つよう勧告。畜舎・家畜の保護措置、農産物・飼料の覆い、電子・精密機械に侵入する微粒子の遮蔽措置を指導。高齢者・子供・呼吸器疾患患者の外出禁止、一般市民の屋外活動禁止・外出自粛、室外での運動競技の中止・延期を勧告。幼稚園・小学校の屋外活動禁止、および授業短縮・休校などの措置を講じるよう勧告。外出時に長袖の衣服を着て保護めがね・マスクなどを使用して清潔を保つよう勧告。畜舎・家畜の保護措置、農産物・飼料の覆い、電子・精密機械に侵入する微粒子の遮蔽措置を指導。以上の基準は、黄砂被害の増加を受けて2007年2月10日に改正されたものである。 2002年3月21日 ‐ 22日の黄砂は記録的な被害をもたらした。ソウルではPM10の濃度が 2,266 μg/m を記録、幼稚園や高校5,000校余りが休校し航空機の欠航や精密機器工場の操業見合わせなどの影響が生じた。「1 ― 2 km ほどしか見通しもきかず、呼吸ですら困難なほどであった」と地元新聞は伝えている。2006年4月には 2,015 μg/m が観測され、空の便も韓国国内便6便が欠航している。 韓国気象庁によれば、韓国に飛来する黄砂は内モンゴル、ゴビ砂漠、黄土高原などを中心に発生し、発生からおよそ1日―8日かけて到達し、最も近い発生源である中国東北地方のものは最短半日で到達する。 韓国政府の推定によれば、黄砂の諸影響による同国での経済損失は、年間およそ3兆―5兆ウォンにも達するという。また別の推定(Kang, 2004年)によれば、黄砂による医療・福祉分野の被害額や黄砂への対策費用は、年間3640億ウォンだとされている。 ===北朝鮮=== 北朝鮮での黄砂の実態は、同国に関する情報が対外的にほとんど発表されていないため、あまり詳細には分かっていない。ただ、人体への影響、動植物や農作物への影響、工場などへの影響が発生したり、発生の可能性が指摘されたりしていることが、近隣諸国のメディアによって報道されている。 ===日本=== 日本では、気象庁により、黄砂とは大陸性の土壌粒子が飛来し浮遊している現象と定義されており、視程が10 km未満を判断の目安としているが、1989年4月以降は 10 km以上でも明らかに黄砂と分かる場合には黄砂として記録される。気象庁は2004年から黄砂に関する予報を開始した。黄砂の発生が予測される場合、都道府県単位で「黄砂に関する気象情報」を発表するほか、ホームページで黄砂の観測値や到達濃度予測を発表している。 2月から5月にかけてよく観測され、特に春先の4月に多く、夏に最小となる。西日本や日本海側で観測されることが多い。山脈を隔てて東側となる東日本や太平洋側、内陸部では観測数は少ないが、時々観測される。 日本における黄砂濃度の最高値は、黄砂以外も含む浮遊粒子状物質 (SPM) の参考値ではあるが、2002年に1時間値 0.79 mg/m (790 μg/m) という値が観測されている。これは環境基準の約4倍である。 1967年以降、日本での黄砂観測日数は平均20日程度であるが、2000年から2002年にかけては50日前後と大幅に増加した。日本で黄砂観測日数が増える年は、中国東北部で低気圧が発達しやすく、西風が強い傾向にある。日本で観測される黄砂は大気が霞み、微量の砂が積もる程度で、大きな被害はほとんど報告されないが、軽微な物理的被害や健康被害は報告されている。気象観測における天気としては煙霧またはちり煙霧に分類される。 ===その他=== 地上からの観測による情報は無いが、衛星画像による観測の解析から、ロシアの沿海州・樺太なども黄砂の通過ルートとなっていると考えられている。 遠くで観測された例では、アメリカ合衆国のハワイ州、アメリカ本土、カナダなどがある。 2001年4月上旬に発生した黄砂は、同月15日にソルトレイクシティ、18日にはカナダからアリゾナ州にかけてのロッキー山脈、19日には五大湖付近でそれぞれ観測され、20日にはカナダ沖大西洋上空に達した。 また、グリーンランドやアルプス山脈でも、黄砂由来のものと見られる砂や土壌粒子が観測されたとの報告がある。 数値モデルの推定と実測データを統合して解析したデータから、タクラマカン砂漠で発生した黄砂の半数が対流圏上部まで達して長期移動ルートに乗り、一部は北半球を一周して13日後には再びタクラマカン砂漠上空まで移動した、という研究結果もある。黄砂が地球を一周してしまうほど長距離運搬されていることが示唆され、これまで考えられていたよりも広範囲の環境に(良悪含めての)影響を与えている可能性があることが分かった。 ==黄砂と文化== 黄砂は、古くより詩、句、歌などの表現に取り入れられている。 春によく見られる春霞やそれが夜の月を霞ませる朧月夜には、黄砂が(全てではないが)影響している。「春霞」や、黄砂の古名である「霾」(つちふる)のほかに、「霾曇」(よなぐもり)、「霾晦」(よなぐもり)、「霾風」(ばいふう)、「霾天」(ばいてん)、「黄塵万丈」、「蒙古風」、「つちかぜ」、「つちぐもり」、「よなぼこり」、「胡沙」(こさ)など、黄砂に関する言葉は多数ある。現代では、「黄砂」自体も歌や句に用いられる。いずれも春の季語である。 古いものでは、殷の時代に用いられた甲骨文字に「霾」を含む記述が発見されており、現在で言う黄砂のことを示していたと解釈されている。 「巳入風磴霾雲端(すでに風磴<ふうとう>に入<い>りて雲端<うんたん>に霾<つちふ>る)」は、杜甫が七言律詩『鄭*123*馬宅宴洞中』の中で、雲の端から砂塵交じりの風が吹いてくる様を表したものだとされている。この節の「霾雲端」は松尾芭蕉が『奥の細道』でも引用しており、岩手の里から最上の庄へ行く途中の山中での心細さを表現するのに用いている。加藤楸邨、中村汀女、水原秋桜子、有馬朗人、富安風生なども黄砂や霾などを扱った俳句を残している。 「黄砂」や黄砂に関する言葉をタイトルにした作品も多数ある。 『霾』(詩集『春の岬』収録) 創元社 1939年 三好達治、1939年、詩集『黄砂哭く谷』 生田直親、1981年、小説 ISBN 978‐4‐19‐568808‐3『黄砂の刻』 伊藤桂一、1985年、詩集 ASIN B000J7MCI2『黄砂の冠を戴くもの‐アルドナの翼』 横手美智子、1994年、漫画 ISBN 978‐4‐8291‐2580‐9『黄砂と桜』 安西篤子、2001年、小説 ISBN 978‐4‐19‐861294‐8『黄砂に吹かれて』 工藤静香、1989年、CDシングル『オユンナII黄砂』 オユンナ、1992年、CDアルバム『黄砂』 楊興新、1995年、CDアルバム『火舞黄沙』 無綫電視、2006年、テレビドラマ =酵素= 酵素(こうそ、英: enzyme)とは、生体で起こる化学反応に対して触媒として機能する分子である。酵素によって触媒される反応を“酵素的”反応という。このことについて酵素の構造や反応機構を研究する古典的な学問領域が、酵素学 (こうそがく、英: enzymology)である。 多くの酵素は生体内で作り出されるタンパク質を基にして構成されている。したがって、生体内での生成や分布の特性、熱や pH によって変性して活性を失う(失活)といった特性などは、他のタンパク質と同様である。 古来から人類は発酵という形で酵素を利用してきた。今日では、酵素の利用は食品製造だけにとどまらず、化学工業製品の製造や日用品の機能向上、医療など広い分野に応用されている。医療では消化酵素を消化酵素剤として利用したり、疾患により増減する酵素量を検査することで診断に利用されている。またほとんどの医薬品は酵素作用を調節することで機能しているなど、酵素は医療に深くかかわっている。 生体を機関に例えると、核酸塩基配列が表すゲノムが設計図に相当するのに対して、生体内における酵素は組立て工具に相当する。酵素の特徴である作用する物質(基質)をえり好みする性質(基質特異性)と目的の反応だけを進行させる性質(反応選択性)などによって、生命維持に必要なさまざまな化学変化を起こさせるのである。 酵素は生物が物質を消化する段階から吸収・分布・代謝・排泄に至るまでのあらゆる過程(ADME)に関与しており、生体が物質を変化させて利用するのに欠かせない。したがって、酵素は生化学研究における一大分野であり、早い段階から研究対象になっている。 ==役割== 生体内での酵素の役割は、生命を構成する有機化合物や無機化合物を取り込み、必要な化学反応を引き起こすことにある。生命現象は多くの代謝経路を含み、それぞれの代謝経路は多段階の化学反応からなっている。 細胞内では、その中で起こるさまざまな化学反応を担当する形で多種多様な酵素がはたらいている。それぞれの酵素は自分の形に合った特定の原料化合物(基質)を外から取り込み、担当する化学反応を触媒し、生成物を外へと放出する。そして再び次の反応のために基質を取り込み、目的の物質を生成しつづける。 ここで放出された生成物は、別の化学反応を担当する酵素の作用を受けて、さらに別の生体物質へと代謝されていく。このような酵素の触媒反応の繰返しで必要な物質の生成や不必要な物質の分解が進行し、生命活動が維持されていく。 生体内では化学工業のプラントのように基質と生成物の容器が隔てられているわけではなく、さまざまな物質が渾然一体となって存在している。しかし、生命現象をつくる代謝経路でいろいろな化合物が無秩序に反応してしまっては生命活動は維持できない。 したがって酵素は、生体内の物質の中から作用するべき物を選び出さなければならない。また、反応で余分な物を作り出してしまうと周囲に悪影響を及ぼしかねないので、ある基質に対して起こす反応は決まっていなければならない。酵素は生体内の化学反応を秩序立てて進めるために、このように高度な基質選択性と反応選択性を持つ。 さらにアロステリズム、阻害などによって化学反応の進行を周りから制御される機構を備えた酵素もある。それらの選択性や制御性を持つことで、酵素は渾然とした細胞内で必要なときに必要な原料を選択し、目的の生成物だけを産生するのである。 このように、細胞よりも小さいスケールで組織的な作用をするのが酵素の役割である。人間が有史以前から利用していた発酵も細胞内外で起こる酵素反応によって行われる。 ==発見== 最初に発見された酵素はジアスターゼ(アミラーゼ)であり、1833年にA・パヤンとJ・F・ペルソ (Jean Francois Persoz) によるものである。彼らは麦芽の無細胞抽出液によるでんぷんの糖化を発見し、生命(細胞)が存在しなくても、発酵のプロセスの一部が進行することを初めて発見した。酵素の命名法の一部である語尾の「‐ase」はジアスターゼ(diastase)が由来となっている。 また、1836年にはT・シュワンによって、胃液中からタンパク質分解酵素のペプシンが発見・命名されている。この頃の酵素は生体から抽出されたまま、実体不明の因子として分離・発見されている。 「酵素 (enzyme)」という語は酵母の中 (in yeast) という意味のギリシア語の ”εν ζυμη”(en zymi) に由来し、1876年にドイツのウィルヘルム・キューネによって命名された 。 19世紀当時、ルイ・パスツールによって、生命は自然発生せず、生命がないところでは発酵(腐敗)現象が起こらないことが示されていた。したがって「有機物は生命の助けを借りなければ作ることができない」とする生気説が広く信じられており、酵素作用が生命から切り離すことができる化学反応(生化学反応)のひとつにすぎないということは画期的な発見であった。 しかし、酵素は生物から抽出するしか方法がなく、微生物と同様に加熱すると失活する性質を持っていたので、その現象は酵素が引き起こしているのか、それとも目に見えない生命(細胞)が混入して引き起こしているのかを区別することは困難であった。 したがって、酵素が生化学反応を起こすという考え方はすぐには受け入れられなかった。当時のヨーロッパの学会では、酵素の存在を否定するパスツールらの生気説派と酵素の存在を認めるユストゥス・フォン・リービッヒらの発酵素説派とに分かれて論争が続いた。 最終的には、1896年にエドゥアルト・ブフナーが酵母の無細胞抽出物を用いてアルコール発酵を達成したことによって生気説は完全に否定され、酵素の存在が認知された。 ===鍵と鍵穴説=== 上述したように、19世紀後半にはまだ酵素は生物から抽出される実体不明の因子と考えられていたが、酵素の性質に関する研究は進んだ。その研究の早い段階で、酵素の特徴として基質特異性と反応特異性が認識されていた。 これを概念モデルとして集大成したのが、1894年にドイツのエミール・フィッシャーが発表した鍵と鍵穴説である。これは、基質の形状と酵素のある部分の形状が鍵と鍵穴の関係にあり、形の似ていない物質は触媒されない、と酵素の特徴を概念的に表した説である。 現在でも酵素の反応素過程のモデルとして十分に通用する。ただし、フィッシャーはこのモデルの実体が何であるかについては科学的な実証を行っていない。 ===酵素の実体の発見=== 1926年にジェームズ・サムナーがナタマメウレアーゼの結晶化に成功し、初めて酵素の実体を発見した。サムナーは自らが発見した酵素ウレアーゼはタンパク質であると実験結果と共に提唱したが、当時サムナーが研究後進国の米国で研究していたこともあり、酵素の実体がタンパク質であるという事実はなかなか認められなかった。 その後、タンパク質からなる酵素の存在がジョン・ノースロップとウェンデル・スタンレーによって証明され、酵素の実体がタンパク質であるということが広く認められるようになった。 ===酵素と分子細胞生物学=== 20世紀後半になると、X線回折を初めとした生体分子の分離・分析技術が向上し、生命現象を分子の構造が引き起す機能として理解する分子生物学と、細胞内の現象を細胞小器官の機能とそれに関係する生体分子の挙動として理解する細胞生物学が成立した。これらの学問によってさらに酵素研究が進展する。すなわち、酵素の機能や性質が、酵素や酵素を形成するタンパク質の構造やそのコンホメーション変化によって説明付けられるようになった。 酵素の機能がタンパク質の構造に起因するものであれば、何らかの酵素に適した構造をもつものは酵素としての機能を発現しうると考えることができる。実際に、1986年にはトーマス・チェックらが、タンパク質以外で初めて酵素作用を示す物質(リボザイム)を発見している。 今日においては、この酵素の構造論と機能論に基づいて人工的な触媒作用を持つ超分子(人工酵素)を設計し開発する研究も進められている。 ==特性== 酵素は生体内での代謝経路のそれぞれの生化学反応を担当するために、有機化学で使用されるいわゆる触媒とは異なる基質特異性や反応特異性などの機能上の特性を持つ。 また、酵素はタンパク質をもとに構成されているので、他のタンパク質と同様に失活の特性、すなわち熱や pH によって変性し活性を失う特性を持つ。次に酵素に共通の特性である基質特異性、反応特異性、および失活について説明する。 ===基質特異性=== 酵素は作用する物質を選択する能力を持ち、その特性を基質特異性 (substrate specificity) と呼ぶ。 たとえば、あるペプチド分解酵素(ペプチターゼ)を作用させてタンパク質を分解する場合は、特定の部位のペプチド結合を加水分解するため、部位によっては基質として認識せずに全く作用しない。 一方、タンパク質を(酵素ではなく)酸・塩基触媒で加水分解する場合は、ペプチド結合の任意の箇所に作用する。また、ペプチド分解酵素はペプチド結合だけに反応し、他の結合(エステルやグリコシド結合)には作用しないが、酸・塩基触媒ならばペプチド結合も他の結合も区別することなく分解する。 この特性は酵素研究のごく初期から認識されており、鍵と鍵穴に喩えたモデルで説明されていた。20世紀中頃以降、X線結晶解析で酵素分子の立体構造が特定できるようになり、鍵穴の仕組みの手掛かりが入手できるようになった。 すなわち、酵素であるタンパク質の立体構造には様々な大きさや形状の窪みが存在し、それはタンパク質の一次配列(アミノ酸の配列順序)に応じて決定付けられている。前述の鍵穴はまさにタンパク質立体構造のくぼみ(クラフト)である。酵素は、くぼみに合った基質だけをくぼみの奥に存在する酵素の活性中心へ導くことで、酵素作用を発現する。 今日では、X線結晶解析によって立体構造を決定しなくても、過去の知見や計算機化学に基づき、タンパク質の一次配列情報やその設計図となる遺伝子の塩基配列情報から立体構造を予測することが可能になりつつある。さらに、生物界に存在しないタンパク質酵素を設計することも可能であるし、タンパク質以外の物質で同様な手法によって人工酵素を設計することも可能である。 生物界に存在する酵素に適合する基質を研究することで、逆に各種酵素の阻害剤を作ることも可能となる。すなわち、本来の基質よりも強く酵素の活性部位に結合する物質を設計することで、酵素の機能を阻害させる試みである。酵素や阻害剤が設計できるようになったことは、医薬品や分子生物学研究の発展に役立っている。 ===誘導適合=== 基質の結合した酵素は、それが結合していない酵素よりもエントロピーが減少していると考えられており、事実、基質を結合させた酵素はあらゆるストレス(熱や pH の変化など)に対して安定度が増すことが多い。これは酵素の立体構造に変化が起きているからであると考えられている。 すなわち、基質が結合すると酵素が触媒反応に適した形状に変化すると考えられている。そして酵素の立体構造変化に従い、基質の立体構造も変化し遷移状態へと向かう。すると、遷移状態に向かう反応の過程がエントロピーの減少とともに促進されることによって、反応の活性化エネルギーを低下させていると考えられている。これらの誘導的な化学反応を生じる考え方を誘導適合という。 誘導適合は基質特性を発現する上でも重要であるが、酵素活性発現とも関連し、アロステリック効果などを通じて酵素活性の制御とも関連している。 ===反応特異性=== 生体内ではある1つの基質に着目しても、作用する酵素が違えば生成物も変わってくる。通常、酵素は1つの化学反応しか触媒しない性質を持ち、これを酵素の反応特異性と呼ぶ。 酵素が反応特異性を持つので、消化酵素などいくつかの例外を除けば、通常1つの酵素は生体内の複雑な代謝経路の1か所だけを担当している。これは、生体を恒常的に維持するための重要な性質である。 まず、ある代謝経路が存在するかどうかは、その代謝経路を担当する固有の酵素が存在するかどうかに左右されるので、その酵素タンパク質を産生する遺伝子の発現によって制御できる。また、代謝産物の1つが過剰になった場合、その代謝経路を担当する固有の酵素の活性にフィードバック阻害が起こるので、過剰な生産が動的に制御される。 酵素はそれぞれに固有の基質と生化学反応を担当するが、同じ生体内でも組織や細胞の種類が異なると、別種の酵素が同じ基質の同じ生化学反応を担当する場合がある。このような関係の酵素を互いにアイソザイム (isozyme) と呼ぶ。 ===酵素作用の失活=== 酵素が役割を果たすとき、またはその活性を失う原因には、酵素を構成するタンパク質の立体構造(コンホメーション)が深く関与している。失活の原因となる要因としては、熱、pH、塩濃度、溶媒、他の酵素による作用などが知られている。 タンパク質は熱、pH、塩濃度、溶媒など置かれた条件の違いによって容易に立体構造を替えるが、条件が大きく変わると立体構造が不可逆的に大きく変わり、酵素の場合は失活することもある。したがって、酵素反応は至適温度・至適pH や水溶媒など条件が限定される。場合によっては、汚染した微生物が発生するペプチダーゼなどの消化酵素によってタンパク質の構造が失われて失活することもある。 ただし、生物の多様性は非常に広いので、好熱菌、好酸性菌、好アルカリ菌などのもつ酵素(イクストリーモザイム)のように極端な温度や pH に耐えうるとされるものや、有機溶媒中でも活性が保たれるものもあり、こうした酵素の工業利用が現実的になり始めている。 ==分類== 酵素の分類方法はいくつかあるが、ここでは酵素の所在による分類と、基質と酵素反応の種類(基質特異性と反応特異性の違い)による系統的分類を取り上げる。後者による分類は酵素の命名法と関連している。 ===所在による分類=== 酵素は生物体内における反応のすべてを起こしているといっても過言ではない。したがって、代謝反応の関与する生物体内であれば普遍的に存在している。酵素は、生体膜(細胞膜や細胞小器官の膜)に結合している膜酵素と、細胞質や細胞外に存在する可溶型酵素とに分類される。可溶型酵素のうち、細胞外に分泌される酵素を特に分泌型酵素と呼ぶ。 このような酵素の種類の違いは、酵素以外のタンパク質の種類の違い(膜タンパク質、分泌型タンパク質)と同様に、立体構造における疎水性側鎖と親水性側鎖の一次構造上の分布(タンパク質配列のモチーフ)の違いによる。他のタンパク質と同様に酵素も細胞内のリボゾームで生合成されるが、アミノ酸配列は遺伝子に依存するので、その構造は酵素の進化を反映している。遺伝的に近隣の酵素は類似のモチーフを持ち、酵素群のグループを形成する。 ===膜酵素=== 生体膜に存在する膜酵素はエネルギー保存や物質輸送に関与するものも多く、生体膜の機能を担う重要な酵素群(ATPアーゼ、ATP合成酵素、呼吸鎖複合体、バクテリオロドプシンなど)が多い。生体膜と酵素との位置関係によって3種類に大分できる: 埋没型 ‐ 生体膜に埋没しているタイプ(レセプタータンパクなど)貫通型 ‐ 生体膜を貫通しているタイプ(チャネル、トランスポーター、ATP合成酵素など)付着型 ‐ 生体膜に酵素の一部が付着しているタイプ(ヒドロゲナーゼなど)生体膜は内部が疎水性で外部が親水性なので(=脂質二重膜と呼ばれる)、膜酵素であるタンパク質の部分構造(側鎖)の性質も、膜に接しているところは疎水性が強くて膜脂質への親和性が極めて高く、膜から突出しているところは親水性が強くなっている。 ===可溶型酵素=== 細胞質に存在している酵素は、水に比較的よく溶ける。細胞質での代謝にはこの可溶性酵素が多く関わっている。可溶性酵素は、外部には親水性アミノ酸、内部には疎水性アミノ酸が集まって、球形の立体構造を採っている場合が多い。 酵素は細胞内で産生されるが、産生後に細胞外に分泌されるものもあり、分泌型酵素と呼ばれる。消化酵素が代表例であり、細胞外に存在する物質を取り込みやすいように消化するために分泌される。その形状は可溶性酵素と同じく球形をしている場合が多い。 生物に対して何らかの刺激(熱、pH、圧力などの変化)を与えると、その刺激に対してエキソサイトーシスと呼ばれる分泌形態で分泌型酵素を放出する現象が見られる場合がある。構造生物学の進歩において、最初に結晶化され立体構造が決定されていった酵素の多くは分泌型酵素であった。 ===系統的分類=== 酵素を反応特異性と基質特異性の違いによって分類すると、系統的な分類が可能となる。このような系統的分類を表す記号として、EC番号がある。 EC番号は ”EC”に続けた4個の番号 ”EC X.X.X.X”(Xは数字)によって表し、数字の左から右にかけて分類が細かくなっていく。EC番号では、まず反応特異性を、酸化還元反応、転移反応、加水分解反応、解離反応、異性化反応、ATP の補助を伴う合成の6つのグループに分類する。 EC 1.X.X.X ― 酸化還元酵素EC 2.X.X.X ― 転移酵素EC 3.X.X.X ― 加水分解酵素EC 4.X.X.X ― リアーゼEC 5.X.X.X ― 異性化酵素EC 6.X.X.X ― リガーゼさらに各グループで分類基準は異なるが、反応特異性と基質特異性との違いとで細分化していく。すべての酵素についてこの EC番号が割り振られており、現在約 3,000 種類ほどの反応が見つかっている。 またある活性を担う酵素が他の活性を持つことも多く、ATPアーゼなどは ATP加水分解反応のほかにタンパク質の加水分解反応への活性も持っている(EC番号、酸化還元酵素、転移酵素、加水分解酵素、リアーゼ、異性化酵素、リガーゼなどを参照)。 ===命名法=== 酵素の名前は国際生化学連合の酵素委員会によって命名され、同時に EC番号が与えられる。酵素の名称には「常用名」と「系統名」が付される。常用名と系統名の違いについて例を挙げながら説明する: (例)次の酵素は同一の酵素(EC番号=EC 1.1.1.1)系統名 ― アルコール:NAD オキシドレダクターゼ(酸化還元酵素) 基質分子の名称(複数の場合は併記)と反応の名称を連結して命名される。系統名における反応の名称には規制がある。基質分子の名称(複数の場合は併記)と反応の名称を連結して命名される。系統名における反応の名称には規制がある。常用名 ― アルコールデヒドロゲナーゼ(脱水素酵素) 系統名と同じ規則で命名されるが、基質の一部を省略して短縮されたりしている。また、命名規則に従わない酵素も多く、DNAポリメラーゼなどはその一つである。系統名と同じ規則で命名されるが、基質の一部を省略して短縮されたりしている。また、命名規則に従わない酵素も多く、DNAポリメラーゼなどはその一つである。古くに発見され命名された酵素については、上述の規則ではなく当時の名称がそのまま使用されている。 ペプシン、トリプシン、キモトリプシン、カタラーゼなどがこれに当たる。 ==構成== RNA を除いて、酵素はタンパク質から構成されるが、タンパク質だけで構成される場合もあれば、非タンパク質性の構成要素(補因子)を含む場合(複合タンパク質)もある。酵素が複合タンパク質の場合、補因子と結合していないと活性が発現しない。このとき、補因子と結合していないタンパク質をアポ酵素、アポ酵素と補因子とが結合した酵素をホロ酵素という。以下では、特に断らない限り、タンパク質以外の、金属を組み込んでいない有機化合物を単に有機化合物と呼称する。 補因子の例としては、無機イオン、有機化合物(補酵素)があり、金属含有有機化合物のこともある。いくつかのビタミンは補酵素であることが知られている。補因子は酵素との結合の強弱で分類されるが、その境界は曖昧である。 また、酵素を構成するタンパク質鎖(ペプチド鎖)は複数本であったり、複数種類であったりする場合がある。複数本のペプチド鎖から構成される場合、立体構造をもつそれぞれのペプチド鎖をサブユニットと呼ぶ。 ===補欠分子族=== 強固な結合や共有結合をしている補因子を補欠分子族(ほけつぶんしぞく、prosthetic group)という。補欠分子族は有機化合物のこともあるが、酵素から遊離しうる補因子を補欠分子族と区別して、補酵素と呼ぶ。 カタラーゼ、P450などの活性中心に存在するヘム鉄などが代表的な補欠分子族である。金属プロテアーゼの亜鉛イオンなど、直接タンパク質と結合していることもある。生体が要求する微量金属元素は、補欠分子族として酵素に組み込まれていることが多い。 ===補酵素=== 有機化合物の補因子を補酵素という。遊離しない場合は補欠分子族という。アポ酵素との結合が弱い、有機化合物の補欠分子族を補酵素とし、補酵素は補欠分子族の一種と捉える考えもある。とはいえ、たとえば、酵素と共有結合していても遊離しうるリポ酸が補酵素と区別されるなど、補酵素であるか補欠分子族であるかの基準は厳密ではない。 補酵素は、常時酵素の構造に組み込まれていないが、酵素反応が生じる際に基質と共存することが必要とされる。酵素活性のときに取り込まれ、ホロ酵素を生じさせる。したがって、酵素反応の進行によって基質とともに消費され、典型的な補欠分子族とは異なる。 酵素タンパク質が熱によって変性し失活するのに対して、補酵素は比較的耐熱性が高く、かつ透析によって酵素タンパク質から分離することが可能なので、補因子として早い時期からその存在が知られていた。1931年にはオットー・ワールブルクによって初めて補酵素が発見されている。ビタミンあるいはビタミンの代謝物に補酵素となるものが多い。 NAD、NADP、FMN、FAD、チアミン二リン酸、ピリドキサールリン酸、補酵素A、α‐リポ酸、葉酸などが代表的な補酵素であり、サプリメントとして健康食品に利用されるものも多い。 ===サブユニットとアイソザイム=== 酵素が複数のペプチド鎖(タンパク質鎖)から構成されることがある。その場合、各ペプチド鎖はそれぞれ固有の三次構造(立体構造)をとり、サブユニットと呼ばれる。サブユニット構成を酵素の四次構造と呼ぶこともある。 例えばヒトにおける乳酸デヒドロゲナーゼ (LDH; E.C. 1.1.1.27) は4つのサブユニットから構成される四量体だが、体内組織の位置によってサブユニット構成が異なることが知られている。この場合、サブユニットは心筋型 (H) と骨格筋型 (M) の2種類であり、そのいずれか4つが組み合わされて乳酸デヒドロゲナーゼが構成される(例えば H2 個と M2 個から構成される H2M2 など)。したがって5タイプの乳酸デヒドロゲナーゼが存在するが、これらは同じ基質で同じ生化学反応を担当するアイソザイムの関係にある。これを応用すると、例えば臨床検査で乳酸デヒドロゲナーゼのアイソザイムタイプを同定(電気泳動で同定できる)して、疾患が肝炎であるか心筋疾患であるかを識別することができる。 なお、ここに示した以外の要因(遺伝子変異による一次構造の変化など)によってアイソザイムとなることもある。 ===複合酵素=== 一連の代謝過程を担当する複数の酵素がクラスターを形成して複合酵素となることも多い。 代表例として脂肪酸合成系の複合酵素を示す。これらは [ACP]S‐アセチルトランスフェラーゼ (AT; E.C. 2.3.1.38)、マロニルトランスフェラーゼ (MT; E,C.2.3.1.39)、3‐オキソアシル‐ACPシンターゼI (KS)、3‐オキソアシル‐ACPレダクターゼ (KR; E.C. 1.1.1.100)、クロトニル‐ACPヒドラターゼ (DH; E.C. 4.2.1.58)、エノイル‐ACPレダクターゼ (ER; E.C. 1.3.1.10) の6種類の酵素がアシルキャリアタンパク質 (ACP) と共にクラスターとなって複合酵素を形成している。脂肪酸合成系はほとんどが複合酵素で、単独の酵素はアセチルCoAカルボギラーゼ (TE; E.C. 6.4.1.2) だけである。 ==生化学== ===酵素反応速度=== 日本工業規格に「酵素は選択的な触媒作用をもつタンパク質を主成分とする生体高分子物質」 (JIS K 3600‐1310) と定義されているように触媒として利用されるが、化学工業などで用いられる典型的な金属触媒とは反応の特性が異なる。 第一に酵素反応の場合、基質濃度[S]が高くなると反応速度が飽和する現象が見られる。酵素の場合、基質濃度を高く変えると、反応速度は飽和最大速度 Vmax へと至る双曲線を描く。一方、金属触媒の場合、反応初速度 [ν] は触媒濃度に依存せず基質濃度 [S] の一次式で決定される。 これは、酵素と金属触媒との粒子状態の違いによって説明できる。金属触媒の場合、触媒粒子の表面は金属原子で覆われており、無数の触媒部位が存在する。それに対して酵素の場合は、酵素分子が基質に比べて巨大な場合が多く、活性中心を多くても数ヶ所程度しかもたない。したがって、金属触媒に比べて、基質と触媒(酵素)とが衝突しても(活性中心に適合し)反応を起こす頻度が小さい。そして基質濃度が高まると、少ない酵素の活性中心を基質が取り合うようになるので、飽和現象が生じる。このように酵素反応では、酵素と基質が組み合った基質複合体を作る過程が反応速度を決める律速過程になっていると考えられる。 ===酵素反応の定式化=== 1913年、L・ミカエリスとM・メンテンは酵素によるショ糖の加水分解反応を測定し、「鍵と鍵穴」モデルと実験結果から酵素基質複合体モデルを導き出し、酵素反応を定式化した。このモデルによると、酵素は次のように示される。 すなわち、酵素反応は、酵素と基質が一時的に結びついて酵素基質複合体を形成する第1の過程と、酵素基質複合体が酵素と生産物とに分離する第2の過程とに分けられる。 極めて分子活性の高い酵素に炭酸脱水酵素があるが、この酵素は1秒当たり百万個の二酸化炭素を炭酸イオンに変化させる (kcat = 10 s)。 ===阻害様式と酵素反応速度=== 酵素の反応速度は、基質と構造の似た分子の存在や、後述のアロステリック効果によって影響を受ける(阻害される)。阻害作用の種類によって、酵素の反応速度の応答の様式(阻害様式)が変わる。そこで、反応速度や反応速度パラメータを解析して阻害様式を調べることで、逆にどのような阻害作用を受けているかを識別することができる。どのような阻害様式であるかを調べることによって、酵素がどのような調節作用を受けているか類推することができる。医薬品開発では、調節作用を研究することは、酵素作用を制御することによって症状を改善する新たな治療薬の開発に応用されている。 阻害様式は大きく分けると次のように分類される: 拮抗阻害(競争阻害)拮抗的ではない阻害 非拮抗阻害 不拮抗阻害非拮抗阻害不拮抗阻害混合型阻害 ===酵素反応の活性化エネルギー=== 一般に化学反応の進行する方向は化学ポテンシャルが小さくなる方向(エネルギーを消費する方向)に進行し、反応速度は反応の活性化エネルギーが高いか否かに大きく左右される(化学平衡や反応速度論を参照)。 酵素反応は触媒反応で、化学反応の一種なので、その性質は同様である。ただし、一般に触媒反応は化学反応の中でも活性化エネルギーが低いのが通常であるが、酵素反応の活性化エネルギーは特に低いものが多い。 一般に活性エネルギーが 15,000cal/mol から 10,000cal/mol に低下すると、反応速度定数はおよそ 4.5 × 10 倍になる。 ===反応機構モデル=== 酵素の基質特異性はなぜ発揮されるのか、活性化エネルギーをいかにして下げるのかなど、無機触媒や酸塩基触媒などと違う基本的特性を生み出す酵素反応の機構については、いまだ統一的な解答が得られたとはいえない。しかし今日では、構造生物学の発展や組み換えタンパク質作成による変異導入などのテクニックを用いることによって、その片鱗が明らかにされつつある。 タンパク質分解酵素セリンプロテアーゼを例にあげると、基質が酵素に結合することで反応系のエントロピーが減少する働き(エントロピー・トラップ)によって、酵素複合体を形成する。 結合した基質は、誘導適合によって活性中心に反応に適した状態で固定され生成物へと反応が進行する。ここでは、セリンプロテアーゼの一種であるキモトリプシンの例を示す。 His がプロトンを負に荷電した Asp に譲渡する。His が塩基となり、活性中心の Ser からプロトンを奪う。Ser が活性化されて(負に荷電して)基質を攻撃する。His がプロトンを基質に譲渡するAsp から His がプロトンを奪い 1. の状態に戻る。 ===遷移状態と抗体酵素=== 酵素反応において、酵素基質複合体から生成物へと変化する過程では、原子間の結合距離や角度などが変形した分子構造となる遷移状態や反応中間体を経由する。 言い換えると、化学反応がしやすい分子の形状が遷移状態であり、酵素は酵素基質複合体が誘導適合することでその状態を作り出している。遷移状態は活性ポテンシャルの高い状態に相当するので、少ないエネルギーで反応中間体の状態を乗り越えて生成物へと変化する。 遷移状態を作ることが酵素タンパクの主たる役割だとすれば、結合によって遷移状態を作り出すことができれば酵素になるとも考えられる。実際に酵素と同じように分子構造を識別し、その分子と結合する生体物質に抗体がある。1986年、アメリカのトラモンタノらは、酵素と同じ働きをするように意図して製造した抗体が意図どおりの酵素作用を示すことを発見し、抗体酵素 (abzyme) と名づけた。 超分子化合物によって、人工酵素を作り出す研究も成果を上げている。 ===酵素反応の調節機構=== 生体が酵素活性の大小を制御するには、酵素の量を制御する場合と、酵素の性質を変化させる場合とがある。それらは次のように分類される: 酵素タンパク質の合成量制御による酵素量の増大酵素タンパク質が他の生体分子と可逆的に作用することによる酵素活性の変化酵素タンパク質が修飾されることによる酵素活性の変化1.の調整は遺伝子の発現量の転写調節によって実現し、2.や3.については酵素の質的な変化であり、1.の転写制御より素早い応答を示す。 2.や3.の調節の例として「フィードバック阻害」が挙げられる。フィードバック阻害によって生産物が過剰になると酵素活性が低減し、生産物が減ると酵素活性は復元する。 ==酵素が働く条件== 大きく次の4つに分けられる。 最適pH最適温度基質の濃度酵素の濃度各酵素には最も活発に機能するpHがあり、これを最適pH(optimal pH)という。至適PHともいう。ほとんどの酵素は各環境の生理的pHで活動が最も激しくなる。例えばヒトの体内では通常最適pHは7付近であるが、胃液の中に含まれるペプシンの最適pHは1.5で、トリプシンの最適pHは約8で、アルギナーゼ(en:Arginase)の最適pHは9.5である。最適pHが酵素を最も安定化させるpHではないことに注意が必要である。 最適pHと同様に、酵素の活動がもっとも激しくなる温度が存在する。これを最適温度(optimal temperature)という。至適温度ともいう。ヒトの酵素の場合、通常は生理的温度である35℃から40℃付近とされる。最適pHと同様に、最適温度が酵素を最も安定化させる温度ではないことに注意が必要である。 酵素の機能は基質の濃度に依存する。基本的には、基質の濃度が上がるほど反応速度が上がるが、ある一定の濃度で飽和を迎える。さらに基質の濃度を増やすことで、逆に酵素の機能が著しく阻害されることもある。これら酵素と基質濃度の関係は、酵素や基質の種類によって様々である。 酵素の機能は酵素自体の濃度にも依存する。基本的には、酵素の濃度が上がるほど反応速度が上昇する。生体内での酵素濃度は、遺伝子の発現によって制御される。In vitroでは、酵素の溶解度に依存するが、濃度を高めすぎた結果沈殿した酵素は構造が破壊されている場合がほとんどであり、再び溶解させても機能を回復させることは難しい。 ==利用== 酵素は実生活の色々な場面で応用されている。1つは酵素自体を利用するもので、代表的な分野として食品加工業が挙げられる。もう1つは生体がもつ酵素を観測・制御するもので、代表的な分野として医療・製薬業が挙げられる。 ===食品=== 人間は有史以前から、保存食などを作り出すために発酵を利用してきた。たとえば、味噌や醤油、酒などの発酵食品の製造には、伝統的に麹や麦芽などの生物を利用してきた。 蒸米や蒸麦に種麹を与え、40時間ほどおくと麹菌が増殖し、米麹や麦麹となるが、こうした麹には各種の酵素、プロテアーゼ、アミラーゼ、リパーゼなどが蓄積される。発酵とは、これらの酵素が、食品中のタンパク質をペプチドやアミノ酸へと分解して旨味となり、炭水化物を乳酸菌や酵母が利用できる糖へと分解し甘味となり、独特の風味となっていく。 今日では、酵素の実体や機能の詳細が判明したので、発酵食品であっても生物を使わずに酵素自体を作用させて製造することもあり、酵素を使って食品の性質を意図したように変化させることが可能になっている。 酵素反応は、一般に流通している加工食品の多くにおいて製造工程中に利用されているほか、でん粉を原料とした各種糖類の製造にも用いられている。また、果汁の清澄化や苦味除去、肉の軟化といった品質改良や、リゾチームによる日持ち向上などにも用いられている。最初に発見された酵素であるジアスターゼはアミラーゼの一種であり、消化剤として用いられる。 以下に挙げるような分野で酵素が使われている。 糖類の製造 α‐アミラーゼ ‐ 水あめの製造 β‐アミラーゼ ‐ 麦芽糖の製造 グルコースイソメラーゼ ‐ 異性化糖(果糖)の製造 グルコアミラーゼ ‐ ブドウ糖の製造 トレハロース生成酵素とトレハロース遊離酵素 ‐ トレハロースの製造α‐アミラーゼ ‐ 水あめの製造β‐アミラーゼ ‐ 麦芽糖の製造グルコースイソメラーゼ ‐ 異性化糖(果糖)の製造グルコアミラーゼ ‐ ブドウ糖の製造トレハロース生成酵素とトレハロース遊離酵素 ‐ トレハロースの製造食肉・乳製品加工 パパイン ‐ 食肉の軟化 レンネット ‐ チーズの製造パパイン ‐ 食肉の軟化レンネット ‐ チーズの製造食品の改質 グルタミナーゼ ‐ L‐グルタミン酸への変換による味質向上 ペクチナーゼ ‐ 果汁・果実酒の清澄化 ヘミセルラーゼ ‐ パンの改質(澱粉とグルテンの相互作用によるパンの老化を低減する) 卵白リゾチーム ‐ 保存性の向上グルタミナーゼ ‐ L‐グルタミン酸への変換による味質向上ペクチナーゼ ‐ 果汁・果実酒の清澄化ヘミセルラーゼ ‐ パンの改質(澱粉とグルテンの相互作用によるパンの老化を低減する)卵白リゾチーム ‐ 保存性の向上これらの酵素は生物由来の天然物とされるので、食品関連法規で求められる原材料表示では省略されていることが多い。また、発酵食品を除く加工食品では、酵素は加工助剤として利用するので、製造工程中に失活または除去されて、完成した食品中には存在しない。したがって、これらの酵素は食品添加物とは異なる扱いになっている。 ===健康食品を標榜する製品=== パンクレアチンは牛や豚の膵臓から、キモトリプシンとトリプシン(牛)、パンクレリパーゼ(豚)は医薬品として、ブロメライン(パイナップル)やパパイン(パパイヤ)はタンパク質消化を助ける健康食品としてよく用いられる。酵素を含む消化酵素剤が、指定医薬部外品や第2類医薬品として販売されている。高峰譲吉が小麦の皮フスマから発酵培養させたデンプン分解酵素のタカヂアスターゼも、配合される酵素のひとつ。消化酵素剤が病院で処方されることもあり、体内の消化酵素不足による消化器症状や血流、皮膚症状を起こしている状態を改善することが目的である。消化酵素剤は膵臓の病気による酵素不足のために医療として用いられ有効である。 一方では、NIKKEI STYLEに掲載された近畿大学農学部准教授の有路昌彦の意見では、経口で酵素を摂取しても消化されるので効能が得られる科学的根拠はない。 ===日用品=== 今日では、洗剤や化粧品などの日用品に高い付加価値を付けるために酵素が利用される場合が多い。 たとえば洗濯の場合、汗しみや食べ物しみは石鹸だけでは落としにくい。単純な油しみと違って固形物であるタンパク質を含んでおり、しみ成分が固形分と絡まって衣類の繊維に強く接着しているので、界面活性剤だけで洗濯しても汚れを落としきれない。そこで、タンパク質を分解する酵素であるプロテアーゼを含んだ酵素入り洗剤が広く利用されている。 ただし、通常のプロテアーゼは石鹸が溶けたアルカリ性領域では作用しないので、アルカリ性領域で良好に作用する(至適pH を持つ)アルカリプロテアーゼが利用されている。 アルカリプロテアーゼは、1947年にオッテセン (M. Ottesen) らが好アルカリ菌から発見した。今日ではアルカリプロテアーゼは酵素入り洗剤用に大量生産されており、工業製品として生産されるプロテアーゼの60%以上を占めるようになっている。 プロテアーゼ以外には、衣類のセルロース繊維を部分的に分解して汚れが拡散しやすいようにするために、セルラーゼを添加している洗剤もある。 同じような例として、食器の洗剤に酵素であるプロテアーゼ(タンパク質汚れ)やリパーゼ(油汚れ)を添加することで汚れ落ちを増強したり、アミラーゼ(澱粉質の糊)を添加することで流水だけで洗浄する自動食器洗浄機でも汚れが落ちるように工夫している例が挙げられる。なお、洗剤用酵素の安全性はよく調べられており、環境中で容易かつ究極的に分解する。 化粧品への酵素の応用例としては、脱毛剤にケラチンを分解する酵素パパイン(プロテアーゼの一種)を添加することで、皮膚から突出したむだ毛を分解切断する例などがある。 歯磨きへの酵素の応用例として、歯垢に含まれるデキストランを分解する酵素デキストラナーゼを添加している製品がある。 ===医療=== 20世紀に入って増大した酵素に対する知見は、医療や治療薬に劇的な改革をもたらした。ヒトの体内で生じている代謝には酵素が関与しているので、酵素の存在量を測定する臨床検査によって疾病を診断することが可能になっている(サブユニットとアイソザイム節の乳酸デヒドロゲナーゼの例を参照)。 また酵素による調節〈ホメオスタシス〉の失調が病気の原因である場合は、酵素活性を抑制する治療薬によって症状を治療することができる。(例:高血圧におけるアンジオテンシン変換酵素阻害薬、糖尿病におけるインクレチン分解酵素を阻害する DPP4 阻害薬など。) 逆に、酵素が欠損する先天性の代謝異常疾患が知られているが、発病前に酵素の量を検査して、発症を抑える治療を行うことができる〈記事 遺伝子疾患に詳しい〉。(例:ゴーシェ病) ===工業利用の技術(固定化酵素)=== 製品には含まれなくても、食品工業から香料・医薬品原料などファインケミカルの分野まで多方面の食品原料や化成品の製造に酵素が利用されている。 たとえば、生体から抽出された酵素を工業化学で利用する際の技術として、酵素の固定化が一般化している。固定化とは、工業用酵素を土台となる物質(担体)に固定して用いる方法である。経済的に生産するためには、逆反応が起こらないように反応系から生成物を効率よく除去する必要がある。しかし、このとき同時に酵素も除去してしまうと、本来は再生・再利用可能な触媒である酵素も使い捨てになってしまう。固定化は、この問題を解決する方法である。 今日では、固定化酵素は、バイオリアクター技術として食品工業から香料・医薬品原料などファインケミカルの分野まで多方面の化成品の製造に利用されている。バイオリアクターは、ポンプで基質(原料)を注入すると同時に生成物を流出させる生産装置であり、酵素を担体とともに柱状の反応装置内に固定することによって、酵素のリサイクルの問題や連続生産による経済性の向上などの問題点を解決している。バイオリアクター用の酵素あるいは酵素を含む微生物の固定化には、紅藻類から単離される多糖類のκ‐カラギーナン(食品・化粧品のゲル化剤にも利用される)が汎用される。 世界で初めて固定化酵素を使った工業化に成功したのは千畑一郎、土佐哲也らであり、1967年に DEAE‐Sepadex担体に固定化したアミノアシラーゼ (E.C. 3.5.1.14) を使って、ラセミ体である N‐アシル‐DL‐アミノ酸の混合物から目的の L‐アミノ酸だけを不斉加水分解して光学活性なアミノ酸を得る方法を開発した。 ===バイオセンサー=== 酵素の基質特異性と反応性を利用して化学物質を検出するセンサーが実用化されている。これらは生体由来の機能を利用することからバイオセンサーと呼ばれ、1960年代に研究が始まり1976年にアメリカでグルコースセンサーが市販されて以来、医療診断や環境測定などの場面で用いられてきた。酵素を用いるバイオセンサーは特に酵素センサーと呼ばれる。 電気化学と酵素の化学が組み合わせられたグルコースセンサーでは、電極の上にグルコースオキシダーゼが固定化されている。検体中にグルコースが存在してグルコースオキシダーゼが作用すると酸化還元反応によって電極に電流が流れ、グルコースを定量することができる。糖尿病患者が自身の血糖値を調べるために用いる市販の血糖値測定器では、このグルコースセンサーが利用されている。 このほか、蛍光発光、水晶振動子、表面プラズモン共鳴などの原理と酵素とを組み合わせたバイオセンサーが研究されている。 ==生命の起源と酵素== 現存するすべての生物種において、酵素を含むすべてのタンパク質の設計図は DNA 上の遺伝情報であるゲノムに基づいている。一方、DNA 自身の複製や合成にも酵素を必要としている。つまり、酵素の存在は DNA の存在が前提であり、一方で DNA の存在は酵素の存在が前提であるから、ゲノムの起源において DNA の確立が先か酵素の確立が先かというパラドックスが存在していた。最近の研究では、このパラドックスについて、いまだ確証はないものの以下のように説明している。 1986年にアメリカのトーマス・チェックらによって発見されたリボザイムは、触媒作用を持つ RNA であり、次の3種類の反応を触媒することが知られている: 自分自身に作用して RNA を切断する。(グループ I, II, III イントロンの自己スプライシング)他の RNA に作用して RNA を切断する。(リボヌクレアーゼP)ペプチド結合の形成。(リボゾーム23S rRNA)特性1.および2.からは、RNA は自己複製していた段階の存在があるとも考えられる。また、特性3.からは、RNA が酵素の役割も担う場合があることがわかる。このことから、仮説ではあるが、現在のゲノムの発現機構(セントラルドグマと言い表される)が確立する前段階において、遺伝子と酵素との役割を同じ RNA が担っている RNAワールドという段階が存在したと考えられている。 なお、特性3.の例として挙げた 23S rRNA は、大腸菌のタンパク質を合成するリボゾーム内に存在する。大腸菌のリボゾームにおいては、アミノアシルtRNA から合成されるペプチドにアミノ酸を転位・結合させる酵素の活性中心の主役が、タンパク質ではなく 23S rRNA となっている。さらに、この場合の酵素作用(ペプチジルトランスフェラーゼ活性)は、23S rRNA のドメインV に依存することも判明している。 また、リボザイムが自己切断する際には鉛イオンが関与する例が判明している。このことから、RNA もタンパク質酵素の補因子と共通の仕組みを持っているという可能性が示唆されている。 RNAワールド説によると、ゲノムを保持する役割は DNA へ、酵素機能はタンパク質へと淘汰が進んで、RNAワールドが今日のセントラルドグマへと進化したと考えられている。その段階では、次のような RNA の特性が進化の要因として寄与したと推定されている。 遺伝子の保管庫が DNA ではなく RNA であったと仮定した場合、RNA には不利な特性がある。それは、リボース2’位の水酸基が存在するので、エステル交換によって環状ヌクレオシド(環状AMPなど)を形成してヌクレオチドが切断されやすいという性質である。これに対して DNA は、リボース2’位の水酸基を欠くので環状リン酸エステルを形成せず、RNA の場合より安定なヌクレオチドを形成する。 また、立体構造の多様性について考察すると、RNA の立体構造はタンパク質に比べて高次構造が単純になることが判明している。したがって、RNA から構成される酵素に比べ、タンパク質から構成される酵素の方が立体構造の多様性が大きく、基質特異性の面や遷移状態モデルを形成する上でより性能の良い酵素になると考えられる。 ==人工酵素== 分子構造が分子認識と遷移状態の形成に関与していることが判明して以来、酵素の構造を変化させることで人工的な酵素(人工酵素)を作り出す試みがなされている。そのアプローチ方法としては 酵素タンパク質の設計を変える方法超分子化合物を設計する方法が挙げられる。 前者は1980年代頃から試みられており、アミノ酸配列を変異させて酵素の特性がどのように変化するのか、試行錯誤的に研究がなされた。異種の生物間でゲノムを比較できるようになり、異なる生物に由来する同一酵素について共通性の高い部分とそうでない部分とが明確なったので、それを踏まえて配列を変化させるのである(いわゆるバイオテクノロジー技術の一環)。1990年代以降にはコンピュータの大幅な速度向上とデータの大容量化が進行し、実際のタンパク質を測定することなく、コンピュータシミュレーションによって一次配列からタンパク質の立体構造を設計し、物性を予測することができつつある。また、2000年代に入るとゲノムの完全解読が色々な生物種で完了し、遺伝子情報から分子生物学上の問題を解決しようとする試み(バイオインフォマティクス技術)がなされている。そして現在、バイオインフォマティクス情報からタンパク質機能を解明するプロテオミックス技術へと応用が展開されつつある。2008年には、計算科学的な手法によって設計された、実際にケンプ脱離の触媒として機能する酵素が報告されている。 後者の超分子化合物を設計する方法については、1980年代頃から、分子認識を行う超分子化合物(すなわち基質特異性をモデル化した化合物)の研究が開始された。当初は基質構造の細部までは認識できなかったので、分子の嵩高さを識別することから始められた。ただし早い時期から、他の分子と静電相互作用で結合する包摂化合物(シクロデキストリンやクラウンエーテルなど)は知られていた。そこで最初の人工酵素として、リング状の構造をもつシクロデキストリンに活性中心を模倣した側鎖構造を修飾することによって、中心空洞にはまり込む化合物に対してだけ反応する化学物質が設計された。今日では分子を認識すると蛍光を発するような超分子化合物も設計されている。 また、活性中心で生じている遷移状態を作り出す方法論は反応場理論として体系付けられている。反応場理論の1つの応用が、2001年にノーベル化学賞を受賞した野依良治やバリー・シャープレスらの不斉触媒として成果を挙げている。 ==代表的な酵素の一覧== 分類についてはEC番号を、酵素記事の総覧はCategory:酵素をご覧ください。代表的な酵素の一覧を示す。 消化・同化作用・異化作用・エネルギー代謝に関与する酵素 プロテアーゼ(タンパク質分解酵素) ペプシン、トリプシン ― タンパク質消化酵素 パパイン、ブロメライン ― 食物由来の消化酵素。 トロンビン ― 血液凝固系の酵素。 脂質分解酵素 リパーゼ ― 中性脂肪の消化。 リポ蛋白質リパーゼ ― 体内脂質輸送。 酸化酵素(オキシゲナーゼ) モノオキシゲナーゼ シトクロムP450 ― 薬物分解酵素。 ペルオキシダーゼ カタラーゼ ― 過酸化水素〈活性酸素の生成物の一つ〉の分解。 エネルギー代謝に関する酵素 ATP合成酵素 ― 呼吸鎖複合体におけるATP産生。 リブロース1,5‐ビスリン酸カルボキシラーゼ/オキシゲナーゼ 〈RubisCO〉― 炭酸固定〈光合成〉。プロテアーゼ(タンパク質分解酵素) ペプシン、トリプシン ― タンパク質消化酵素 パパイン、ブロメライン ― 食物由来の消化酵素。 トロンビン ― 血液凝固系の酵素。ペプシン、トリプシン ― タンパク質消化酵素パパイン、ブロメライン ― 食物由来の消化酵素。トロンビン ― 血液凝固系の酵素。脂質分解酵素 リパーゼ ― 中性脂肪の消化。 リポ蛋白質リパーゼ ― 体内脂質輸送。リパーゼ ― 中性脂肪の消化。 リポ蛋白質リパーゼ ― 体内脂質輸送。リポ蛋白質リパーゼ ― 体内脂質輸送。酸化酵素(オキシゲナーゼ) モノオキシゲナーゼ シトクロムP450 ― 薬物分解酵素。 ペルオキシダーゼ カタラーゼ ― 過酸化水素〈活性酸素の生成物の一つ〉の分解。モノオキシゲナーゼ シトクロムP450 ― 薬物分解酵素。シトクロムP450 ― 薬物分解酵素。ペルオキシダーゼ カタラーゼ ― 過酸化水素〈活性酸素の生成物の一つ〉の分解。カタラーゼ ― 過酸化水素〈活性酸素の生成物の一つ〉の分解。エネルギー代謝に関する酵素 ATP合成酵素 ― 呼吸鎖複合体におけるATP産生。 リブロース1,5‐ビスリン酸カルボキシラーゼ/オキシゲナーゼ 〈RubisCO〉― 炭酸固定〈光合成〉。ATP合成酵素 ― 呼吸鎖複合体におけるATP産生。リブロース1,5‐ビスリン酸カルボキシラーゼ/オキシゲナーゼ 〈RubisCO〉― 炭酸固定〈光合成〉。遺伝に関与する酵素 DNAポリメラーゼ ― DNAの複製・修復。 RNAポリメラーゼ ― m‐RNAへの転写。遺伝子の発現。 ヌクレアーゼ― DNA・m‐RNAの編集、核酸代謝。 制限酵素 ― 遺伝子工学。 アミノアシルtRNAシンセテース ― t‐RNAの合成。DNAポリメラーゼ ― DNAの複製・修復。RNAポリメラーゼ ― m‐RNAへの転写。遺伝子の発現。ヌクレアーゼ― DNA・m‐RNAの編集、核酸代謝。 制限酵素 ― 遺伝子工学。制限酵素 ― 遺伝子工学。アミノアシルtRNAシンセテース ― t‐RNAの合成。細胞内のシグナル伝達・分子修飾に関与する酵素 リン酸化酵素(キナーゼ)― シグナル化。 脱リン酸化酵素(フォスファターゼ)― 脱シグナル化。 グリコシルトランスフェラーゼ ― 糖鎖の修飾。 DNAメチラーゼ ― 遺伝子発現の制御。リン酸化酵素(キナーゼ)― シグナル化。脱リン酸化酵素(フォスファターゼ)― 脱シグナル化。グリコシルトランスフェラーゼ ― 糖鎖の修飾。DNAメチラーゼ ― 遺伝子発現の制御。 ==酵素に関する年表== 19世紀 1833年 フランスのアンセルム・パヤンとジャン・フランソワ・ペルソは、麦芽の抽出液からデンプンを分解して単糖(グルコース)にする物質を分離した。彼らはこの物質を「ジアスターゼ」(現在、フランス語で「酵素」を意味する)と名づけた。 1836年 ドイツのテオドール・シュワンは胃液が動物の肉を溶かす作用があることを発見し、胃液から原因物質を分離した。この物質は「ペプシン」と名づけられた。これは植物だけでなく動物にも同様の活性が存在することを証明したものである。 1857年 フランスのルイ・パスツールがアルコール発酵過程が微生物(当時は酵母の研究)活動に基づくものであると発表した。ただし、これは酵素という無生物が起こすものとはパスツールは証明しなかった。しかし、ドイツのユストゥス・フォン・リービッヒは微生物ではなく、細胞外の無生物因子(当時は「発酵素 (fermente)」という用語を用いた)が発酵に関与しているとして、この説を否定した。 1873年 スウェーデンのイェンス・ベルセリウスが「化学反応は触媒作用によって進行する」と言う概念を提唱した(この概念は酵素の概念が認められたからである)。 1878年 ドイツのウィルヘルム・キューネが酵母(ギリシャ語で ”zyme”)の内部(ギリシャ語で ”en”)で発酵が起きることを受けて「酵素 (en‐zyme)」という概念を提唱。 1894年 ドイツのエミール・フィッシャーが酵素の基質特異性を説明するために、酵素と基質の「鍵と鍵穴説」を発表した。 1894年 日本の高峰譲吉がタカジアスターゼを発見した。 1897年 ドイツのエドゥアルト・ブフナーが、酵母抽出液からアルコール発酵が起きることを証明した。1833年 フランスのアンセルム・パヤンとジャン・フランソワ・ペルソは、麦芽の抽出液からデンプンを分解して単糖(グルコース)にする物質を分離した。彼らはこの物質を「ジアスターゼ」(現在、フランス語で「酵素」を意味する)と名づけた。1836年 ドイツのテオドール・シュワンは胃液が動物の肉を溶かす作用があることを発見し、胃液から原因物質を分離した。この物質は「ペプシン」と名づけられた。これは植物だけでなく動物にも同様の活性が存在することを証明したものである。1857年 フランスのルイ・パスツールがアルコール発酵過程が微生物(当時は酵母の研究)活動に基づくものであると発表した。ただし、これは酵素という無生物が起こすものとはパスツールは証明しなかった。しかし、ドイツのユストゥス・フォン・リービッヒは微生物ではなく、細胞外の無生物因子(当時は「発酵素 (fermente)」という用語を用いた)が発酵に関与しているとして、この説を否定した。1873年 スウェーデンのイェンス・ベルセリウスが「化学反応は触媒作用によって進行する」と言う概念を提唱した(この概念は酵素の概念が認められたからである)。1878年 ドイツのウィルヘルム・キューネが酵母(ギリシャ語で ”zyme”)の内部(ギリシャ語で ”en”)で発酵が起きることを受けて「酵素 (en‐zyme)」という概念を提唱。1894年 ドイツのエミール・フィッシャーが酵素の基質特異性を説明するために、酵素と基質の「鍵と鍵穴説」を発表した。1894年 日本の高峰譲吉がタカジアスターゼを発見した。1897年 ドイツのエドゥアルト・ブフナーが、酵母抽出液からアルコール発酵が起きることを証明した。20世紀 1902年 イギリスのフェルディナント・ブラウンとフランスのアンリ・ルシャトリエは、スクラーゼの活性は酵素濃度に規定されることを観察し、反応の最中に基質と酵素は酵素基質複合体を作るという考えに至った(反応速度論の始まり)。 1907年 エドゥアルト・ブフナーが前述の功績を受けてノーベル化学賞を受賞。 1913年 ミカエリス、メンテンらがブラウンとルシャトリエの結果を受けて「ミカエリス・メンテン式」を発表。 1925年 G・E・ブリッグスとJ・B・S・ホールデンがミカエリス・メンテン式を発展させた「ブリッグス・ホールデンの速度論」を発表。 1926年 アメリカのジェームズ・サムナーがナタ豆から「ウレアーゼ」と呼ばれる酵素を結晶化して、酵素の本体がタンパク質であることを突き止めた(ただしこの実験は当時評価されなかった)。 1930年 アメリカのジョン・ノースロップがペプシン、トリプシン、キモトリプシンをタンパク質の結晶として抽出した。 1931年 ドイツのオットー・ワールブルクが、呼吸酵素の特性および作用機構の発見によってノーベル生理学・医学賞を受賞。 1945年 アメリカのジョージ・ウェルズ・ビードルとエドワード・ローリー・タータムは1つの遺伝子が1つの酵素に対応することを発表した(一遺伝子一酵素説)。 1946年 サムナーとノースロップは酵素の本体がタンパク質であることを証明し、ノーベル化学賞を受賞した。 1955年 サンガーらはインスリンの一次構造を決定した。 1955年 スウェーデンのヒューゴ・テオレルが、酸化酵素の研究によってノーベル生理学・医学賞を受賞。 1960年 アメリカのウィリアム・スタインとスタンフォード・ムーアによって、リボヌクレアーゼのアミノ酸配列が決定された。 1962年 ジョン・ケンドリューとマックス・ペルーツが、球状タンパク質の構造研究によってノーベル化学賞を受賞。 1965年 イギリスのデビッド・フィリップスはリゾチームと基質の複合体の立体構造を明らかにした(酵素として立体構造が決定されたのはこれが初めて)。 1965年 フランスのフランソワ・ジャコブ、アンドレ・ルウォフ、ジャック・モノーが、酵素およびウイルスの合成の遺伝的調節に関する研究によってノーベル生理学・医学賞を受賞。 1965年 高崎義幸らが、グルコースイソメラーゼを用いて異性化糖の製造法を発明。 1968年 H.O.Smith, K.W.ウィルコックスらが DNA の制限酵素を発見した。 1968年アメリカのジョー・マッコード、アーウィン・フリドビッチがフリーラジカルを排除する酵素、スーパーオキシドジスムターゼ(SOD)を発見。 1969年 アメリカのロバート・メリフィールドが、ペプチド固相合成法を用いて、化学的にリポヌクレアーゼを合成した。 1972年 スタインとムーアは酵素の一次構造決定によってノーベル化学賞を受賞。 1975年 オーストラリア のジョン・コーンフォースが、酵素による触媒反応の立体化学的研究によってノーベル化学賞を受賞。 1978年、アメリカのダニエル・ネーサンズ、ハミルトン・スミス、スイスのヴェルナー・アーバーが制限酵素の発見と分子遺伝学への応用によってノーベル生理学・医学賞を受賞。 1986年 アメリカのトーマス・チェックらによって触媒作用を有するRNAである「リボザイム」が発見された。これによって、触媒作用はタンパク質に依らないという概念ができた。更に生命の起源は RNA から始まったとする「RNAワールド仮説」の元になっている。 1986年 アメリカのトラモンタノらは抗体酵素 (abzyme) を発見した。 1989年 チェックらはリボザイムの発見によってノーベル化学賞を受賞した。 1992年、スイスのエドモンド・フィッシャー、アメリカのエドヴィン・クレープスが生体制御機構としての可逆的タンパク質リン酸化の発見によって(タンパク質キナーゼ) ノーベル生理学・医学賞を受賞。 1997年 アメリカのポール・ボイヤー、イギリスのジョン・E・ウォーカー が、アデノシン三リン酸 (ATP) の合成の基礎となる酵素機構の解明によって(ATPシンターゼ)、デンマークのイェンス・スコウがイオン輸送酵素、Na, K‐ATPアーゼの最初の発見によってノーベル化学賞を受賞。1902年 イギリスのフェルディナント・ブラウンとフランスのアンリ・ルシャトリエは、スクラーゼの活性は酵素濃度に規定されることを観察し、反応の最中に基質と酵素は酵素基質複合体を作るという考えに至った(反応速度論の始まり)。1907年 エドゥアルト・ブフナーが前述の功績を受けてノーベル化学賞を受賞。1913年 ミカエリス、メンテンらがブラウンとルシャトリエの結果を受けて「ミカエリス・メンテン式」を発表。1925年 G・E・ブリッグスとJ・B・S・ホールデンがミカエリス・メンテン式を発展させた「ブリッグス・ホールデンの速度論」を発表。1926年 アメリカのジェームズ・サムナーがナタ豆から「ウレアーゼ」と呼ばれる酵素を結晶化して、酵素の本体がタンパク質であることを突き止めた(ただしこの実験は当時評価されなかった)。1930年 アメリカのジョン・ノースロップがペプシン、トリプシン、キモトリプシンをタンパク質の結晶として抽出した。1931年 ドイツのオットー・ワールブルクが、呼吸酵素の特性および作用機構の発見によってノーベル生理学・医学賞を受賞。1945年 アメリカのジョージ・ウェルズ・ビードルとエドワード・ローリー・タータムは1つの遺伝子が1つの酵素に対応することを発表した(一遺伝子一酵素説)。1946年 サムナーとノースロップは酵素の本体がタンパク質であることを証明し、ノーベル化学賞を受賞した。1955年 サンガーらはインスリンの一次構造を決定した。1955年 スウェーデンのヒューゴ・テオレルが、酸化酵素の研究によってノーベル生理学・医学賞を受賞。1960年 アメリカのウィリアム・スタインとスタンフォード・ムーアによって、リボヌクレアーゼのアミノ酸配列が決定された。1962年 ジョン・ケンドリューとマックス・ペルーツが、球状タンパク質の構造研究によってノーベル化学賞を受賞。1965年 イギリスのデビッド・フィリップスはリゾチームと基質の複合体の立体構造を明らかにした(酵素として立体構造が決定されたのはこれが初めて)。1965年 フランスのフランソワ・ジャコブ、アンドレ・ルウォフ、ジャック・モノーが、酵素およびウイルスの合成の遺伝的調節に関する研究によってノーベル生理学・医学賞を受賞。1965年 高崎義幸らが、グルコースイソメラーゼを用いて異性化糖の製造法を発明。1968年 H.O.Smith, K.W.ウィルコックスらが DNA の制限酵素を発見した。1968年アメリカのジョー・マッコード、アーウィン・フリドビッチがフリーラジカルを排除する酵素、スーパーオキシドジスムターゼ(SOD)を発見。1969年 アメリカのロバート・メリフィールドが、ペプチド固相合成法を用いて、化学的にリポヌクレアーゼを合成した。1972年 スタインとムーアは酵素の一次構造決定によってノーベル化学賞を受賞。1975年 オーストラリア のジョン・コーンフォースが、酵素による触媒反応の立体化学的研究によってノーベル化学賞を受賞。1978年、アメリカのダニエル・ネーサンズ、ハミルトン・スミス、スイスのヴェルナー・アーバーが制限酵素の発見と分子遺伝学への応用によってノーベル生理学・医学賞を受賞。1986年 アメリカのトーマス・チェックらによって触媒作用を有するRNAである「リボザイム」が発見された。これによって、触媒作用はタンパク質に依らないという概念ができた。更に生命の起源は RNA から始まったとする「RNAワールド仮説」の元になっている。1986年 アメリカのトラモンタノらは抗体酵素 (abzyme) を発見した。1989年 チェックらはリボザイムの発見によってノーベル化学賞を受賞した。1992年、スイスのエドモンド・フィッシャー、アメリカのエドヴィン・クレープスが生体制御機構としての可逆的タンパク質リン酸化の発見によって(タンパク質キナーゼ) ノーベル生理学・医学賞を受賞。1997年 アメリカのポール・ボイヤー、イギリスのジョン・E・ウォーカー が、アデノシン三リン酸 (ATP) の合成の基礎となる酵素機構の解明によって(ATPシンターゼ)、デンマークのイェンス・スコウがイオン輸送酵素、Na, K‐ATPアーゼの最初の発見によってノーベル化学賞を受賞。 =藤山一郎= 藤山 一郎(ふじやま いちろう、1911年(明治44年)4月8日 ‐ 1993年(平成5年)8月21日)は、日本の歌手・声楽家・作曲家・指揮者。本名、増永 丈夫(ますなが たけお)。本名ではクラシック音楽の声楽家・バリトン歌手として活躍した。 東京音楽学校で培った正統な声楽技術・歌唱法・音楽理論と、ハイバリトンの音声を武器にテナーの国民的歌手・流行歌手として活躍。1930年代から1940年代にかけて『酒は涙か溜息か』・『丘を越えて』・『東京ラプソディ』・『青い山脈』・『長崎の鐘』など数多くのヒット曲を世に送った。理論・楽典に忠実に歌ったことから正格歌手と呼ばれ、その格調高い歌声は「楷書の歌」と評された。1992年(平成4年)、国民栄誉賞を受賞した。 東京府東京市日本橋区蛎殻町(現東京都中央区日本橋蛎殻町)出身。東京音楽学校(後の東京藝術大学音楽学部)を首席で卒業。 ==人物歴== ===幼少期・少年時代=== 藤山は1911年(明治44年)4月8日、東京府東京市日本橋区蛎殻町(後の東京都中央区日本橋蛎殻町)に、同区長谷川町(後の東京都中央区日本橋堀留町二丁目南部)のモスリン問屋・近江屋の三男(5人兄弟の末っ子)として生まれた。父の信三郎は近江屋の番頭で、母のゆうは店主の養女であった。 幼少期は、家業が順調であった上、母のゆうが株式投資の収益で日本橋区一帯に借家を建て多額の家賃収入を得ていたことから、経済的に大変恵まれた環境にあった。また、幼少期から音楽家としての資質を育むのに適した環境の下で育った。母のゆうは子供にピアノを習わせる教育方針を持っており、藤山も幼少期からピアノを習った。さらに通っていた幼稚園が終わると親戚の作曲家・山田源一郎(藤山の姉・恒子の夫は山田の甥)が創立した日本女子音楽学校(後の日本音楽学校)に足繁く通い、賛美歌を歌ったりピアノの弾き方、楽譜の読み方を教わった。 また、家族に連れられて隅田川を往復する蒸気船に乗って浅草に遊びに行き、物売りの口上や下町の歯切れの良い発音を耳にした。藤山曰く、後年発音の歯切れの良さが評価されたことには幼少期に浅草で経験したことの影響があった。 1918年(大正7年)春、慶應義塾幼稚舎に入学。この時期の藤山は楽譜を読みこなせるようになっており、学内外で童謡の公演に出演した。幼稚舎の音楽教師・江沢清太郎の紹介で童謡歌手となり、『春の野』(江沢清太郎作曲)などをレコードに吹き込んだこともある。ただし江沢は「童謡歌手は大成しない」という考えの持ち主で、その勧めにより在学中の一時期は歌をやめ、楽典・楽譜を読みピアノ・ヴァイオリンを修練することに専念した。学業成績を見ると、唱歌が6年間通して10点中9点以上でその他の教科もすべて7以上であった。 1924年(大正13年)春に慶應義塾普通部に進学した藤山は、同校の音楽教師を務めていた弘田龍太郎(東京音楽学校助教授)にピアノを習い課外授業に参加するなど音楽に励む傍ら、ラグビー部に入部して運動にも打ち込んだ。3・4年時には、1929年度の全国中等学校蹴球大会で優勝を経験している。この時期の藤山の学業成績を見ると、音楽と体育以外は悪く、卒業時の学内順位は52人中51人であった。 慶應普通部在籍時の1927年(昭和2年)、慶應の応援歌『若き血』がつくられたとき、早慶戦に向けて普通部に在学中の藤山が学生の歌唱指導にあたった。藤山は上級生でも歌えない者はしごいたため、早慶戦が終わった後、普通部の5年生に呼び出され、脅され殴られた。それ以来、藤山と『若き血』の付き合いは長い。 慶應義塾在籍中、藤山は福澤諭吉が説いた奉仕の精神を身につけた。このことは後にロータリークラブやボーイスカウトに協力し、福祉施設に慰問を行うことに繋がった。 ===東京音楽学校時代=== 慶應義塾普通部を卒業後の1929年(昭和4年)4月、当時日本で唯一の官立の音楽専門学校であった東京音楽学校予科声楽部(後の東京藝術大学音楽学部)に入学。当時は「歌舞音曲は婦女子のもの」という風潮が強く、声楽部に入学した学生の中で男は藤山一人であった。入学試験の口頭試問で音楽をやる理由を問われた藤山は「オペラ歌手を目指します」と答えた。 藤山は予科声楽科で30人中15番の成績を修め、本科に進学した。1931年(昭和6年)2月には「学友演奏会」(成績優秀者による演奏会。土曜演奏会とも)に出演し、歌劇『ファウスト』より「此の手を取り手よ」、歌劇『リゴレット』より「美しの乙女よ」の四重唱にバリトンで独唱するなど順風満帆の学生生活を送っていたが、音楽学校生活進学後間もなく世界恐慌の煽りを受けた昭和恐慌の影響で実家のモスリン問屋の経営が傾き、3万8000円の借金を抱え廃業した。藤山は家計を助けようと写譜のアルバイトを始めたが収入が少なく、レコードの吹き込みの仕事を始めるようになった。これは校外演奏を禁止した学則58条に違反する行為であったため、「藤山一郎」の変名を用いることにした。名前の由来は、上野のパン屋・「永藤」の息子で親友・永藤秀雄(慶応商工)の名を使って藤永にし、一郎と続け、「藤永一郎」としたが、本名である増永の「永」が入ることで正体がばれることを恐れた。そこで「富士山」なら日本一でいこうと「永」を「山」にして、芸名を藤山一郎にした。この変名はわずか5分のうちに生まれた。 藤山は1931年から1932年にかけておよそ40の曲を吹込んだ。代表曲は古賀政男が作曲し1931年9月に発売された『酒は涙か溜息か』で、100万枚を超える売り上げを記録した。塩沢実信によると、当時の日本にあった蓄音機は植民地であった台湾や朝鮮を含めおよそ20万台で、「狂乱に近い大ヒット」であった。この曲の吹き込みで藤山は、声量を抑え美しい共鳴の響きを活かし、声楽技術を正統に解釈したクルーン唱法を用い、電気吹き込み時代のマイクロフォンの特性を効果的に生かした歌唱によって憂鬱さとモダニズムが同居する世相を反映させようとする古賀の意図を実現させた。同じく1931年に発売された古賀作曲の『丘を越えて』もヒットした。『丘を越えて』はクルーン唱法ではなく、「マイクから相当離れた位置で、メリハリをつけて、あくまでもきれいにクリアーに、声量を落とさないで、しかも溢れさせないように歌う」歌唱表現で、古賀メロディーの青春を高らかに歌いあげている。『丘を越えて』のヒットによって藤山と古賀はスターダムにのし上がった。 歌のヒットと同時に藤山一郎という歌手への注目が巷間で高まり、世間の関心が集まるようにもなった。藤山は学校関係者に歌を聴かれて正体が発覚することを恐れ、アルバイト料が売上に関係なく1曲あたり15円と決められていたことからレコードが売れないよう願ってさえいた。古賀と関係の深かった明治大学マンドリン倶楽部の定期演奏会にゲスト出演した藤山は舞台の袖から姿を隠して歌い、観客が不満を訴える騒ぎとなったこともある。そんな中、東京音楽学校宛に「藤山一郎とは御校の増永丈夫である」という内容の投書が届き、学校当局は藤山を問い質した。藤山は「先生は作曲をするなどして学校の外で金を稼いでいるのに、生徒が学費のために内職するのを責めるのは不公平だ」と反発したためあわや退学処分ということになった。しかしハイバリトンの声楽家として藤山を評価していたクラウス・プリングスハイムが退学に反対し、慶應義塾普通部時代から藤山をよく知る弘田龍太郎・大塚淳・梁田貞も学業成績の優秀さやアルバイトで得た収入をすべて母親に渡していることを理由に擁護に回った結果、今後のレコード吹き込み禁止と停学1か月の処分に落ち着いた。しかも、その1か月は学校の冬休みに当たり、実質的な処分は科されなかった。なお、この時藤山はまだ吹き込みを行っていなかった『影を慕いて』を既に吹き込み済みであるとして学校にリストを提出し、発行を可能にした。停学が解除されると藤山はレコードの吹き込みを止め、学業に専念した。 1932年(昭和7年)、藤山は東京音楽学校奏楽堂で上演された学校オペラ『デア・ヤーザーガーDer Jasager(「はい」と言う者)』(クルト・ヴァイル作曲)の主役(テナーの少年役)を演じ(東京音楽学校は「風紀」を理由に舞台上演のオペラを禁止していたが、この上演のみ例外で舞台上演された)、日比谷公会堂でプリングスハイムの指揮でワーグナーのオペラ『ローエングリン』のソリストを務めている。ヴーハーペーニッヒ、マリアトールら外国人歌手と伍してのバリトン独唱は期待のホープとして注目された。 ===ビクターに入社=== 1933年(昭和8年)3月、藤山は東京音楽学校を首席で卒業した。『週刊音楽新聞』は卒業演奏における「歌劇『道化師』のアリア」「歌劇『密猟者(英語版)』より」の独唱を取り上げ、東京音楽学校始まって以来の声楽家になるのではないかと評した。藤山はレコード歌手になって実家の借金を返済したいという思いが強く、卒業直後にビクターに入社し、同社の専属歌手となった。ビクターは前年の春から藤山に接触し、毎月100円の学費援助を行っていた。『酒は涙か溜息か』などのヒット曲がコロムビアから発売された曲であったことから藤山はコロムビア入社も考えたが、停学となって以来長らく接触が途絶えた上、ようやく交渉を開始してからも藤山が求めた月給制を拒絶したため、月給100円に加え2%のレコード印税支払いを約束したビクター入社を決めた。だが、1933年3月、コロムビアから発売された『ローエングリン』には、藤山が本名増永丈夫で独唱者に名前を連ねている。藤山一郎のビクター入社の経緯について菊池清麿は、藤山のビクター入社は安藤兵部が獲得に動いたこと、当時ビクターには、橋本國彦、徳山*227*、四家文子ら東京音楽学校の先輩らが専属にいて、クラシックと大衆音楽の両立がしやすい雰囲気があったことを指摘している。ビクターに藤山を奪われる形となったコロムビアは、作曲家の佐々紅華と作詞家の時雨音羽をビクターから引き抜いた。 入社2年目までの藤山は東京音楽学校に研究科生として在籍してヴーハー・ペーニッヒの指導を受けており、作曲・編曲・吹き込みなどを行う傍ら学校やペーニッヒの自宅にも通った。1933年4月には読売新聞社主催の新人演奏会に東京音楽学校代表として出演し、同年6月18日には東京音楽学校の定期演奏会(日比谷公会堂)に出演している。クラウス・プリングスハイム指揮ベートーヴェンの『第九』をバリトン独唱。この時期の藤山は様々なジャンルの歌を歌っている。公演をみると1933年10月に日比谷公会堂で「藤山一郎・増永丈夫の会」を催し、藤山一郎としてジャズと流行歌を、増永丈夫としてクラシックを歌い、美しい響きで声量豊かに独唱する増永丈夫とマイクロフォンを効果的に利用したテナー藤山一郎を演じ分け、双方の分野の音楽的魅力を披露した。レコードをみると、流行歌以外にクラシック(ワーグナー、シューマン)やジャズのレコードも出している。 ビクター時代の藤山は『燃える御神火』(売上187,500枚)、『僕の青春』(売上100,500枚)などがヒットしたが音楽学校在校中に吹込んだ古賀メロディーほどの大ヒット曲には恵まれなかった。藤山はこの時期を振り返り、「私の出る幕はなかった」、「レコードの売り上げ枚数をもって至上命題とするプロ歌手の壁は厚かった」と述べている。ビクターのライバルコロムビアでかつて放ったヒットをしのぐことはできなかった。その一方、「官学出身者の厭味なアカデミズムを排し、下品な低俗趣味を避けたいとも考えていた。私はみんなが楽しめる音楽の紹介と、そのプレーヤーとして生きる」という思いのもと、「シューマンを歌う。欧米の名曲や民謡を歌う、そして、もちろん、流行歌も歌う」充実した日々であったと述べている。 ===テイチクへ移籍=== ビクターとの契約期間は3年で満了を迎えた。ビクターは藤山との再契約を望んだが、当時コロムビアからテイチクに移籍していた古賀政男はテイチクへの移籍を促した。藤山はテイチクのブランドイメージ(創業者が楠木正成に傾倒し、正成の銅像をレーベルマークにしたり正成にちなんだ芸名を歌手につけたりしていた)に抵抗を感じたものの、生家の経済的事情もあり、最終的には古賀と再びコンビを組むことの魅力が勝った。念のためビクターとの契約期間満了から1か月を置いてテイチクへ移籍した。契約金は1万円であった(ちなみに、同時期の内閣総理大臣の月給は800円)。 1936年(昭和11年)、古賀が作曲した『東京ラプソディ』が販売枚数35万枚のヒットとなった。これにより藤山はB面の『東京娘』とあわせて2万1000円の歌唱印税を手にし、学生時代から抱えていた生家の借金を完済することができた。PCLによって『東京ラプソディ』を主題歌にした同じタイトルの映画も制作され、藤山が主演した。『東京ラプソディ』と同じく古賀が作曲し1936年に発売された『男の純情』、翌年の『青い背広で』『青春日記』もヒットした。藤山はこの時期に歌った曲の中から印象に残る曲として、『東京ラプソディ』とともに『夜明けの唄』(大阪中央放送局が1936年に企画した、有名な詩人の作品に歌をつける企画。国民歌謡、国民合唱と呼ばれた)を挙げている。 1937年(昭和12年)に盧溝橋事件が起こったのをきっかけに国民精神総動員を打ち出した政府は、音楽業界に対し戦意を高揚させる曲の発売を奨励し、ユーモア・恋愛・感傷をテーマとした歌の発売を禁止する指示を出した。テイチクはこの方針に従い、藤山も『忠烈!大和魂』・『国家総動員』・『雪の進軍』・『駆けろ荒鷲』・『最後の血戦』・『歩兵の本領』・『愛国行進曲』・『山内中尉の母』といった戦意高揚のための曲を吹込むようになった。 テイチク時代の藤山一郎の人気は凄まじく、ポリドールの東海林太郎と並んで「団菊時代」を形成した。 テイチク時代の藤山はバリトンの声楽家というよりはテナー歌手としての流行歌に重点が置かれている。これについて当時、新聞記者だった音楽評論家の上山敬三は、「愛の古巣に帰ろう 男の純情などいう流行歌なんかやめちまえ、声がもったいない、クラシックに帰れ」と提言した。 ===コロムビアへ移籍=== 1939年(昭和14年)にテイチクとの契約期間が満了を迎えた。この時期には古賀とテイチクが方針の違いから対立しており、藤山は古賀とともにコロムビアへ移籍した。移籍後藤山は『上海夜曲』や服部良一との初のコンビによる『懐かしのボレロ』を吹き込みヒットさせた。1940年には古賀作曲の『なつかしの歌声』もヒットしたが、音楽観の違いから、藤山は古賀と距離を置くようになった。 声楽家としては1939年に「オール日本新人演奏会10周年記念演奏会」(日比谷公会堂)でヴェルディのアリアをバリトン独唱し、1940年にマンフレート・グルリット指揮のベートーヴェンの『第九』(NHKラジオ放送)をバリトン独唱しテノールの美しさを持つバリトン増永丈夫の健在ぶりを示した。増永丈夫の名義では松尾芭蕉の「荒海や佐渡に横たふ天河」という旅の叙情を主題にした国民歌謡『旅愁』の吹き込みを行っている。 ===南方慰問・捕虜生活=== 1941年(昭和16年)に太平洋戦争が開戦した。序盤は日本軍が優勢で、軍は新聞社に対し各地に駐屯する将兵に娯楽を与えるため慰問団の結成を要請した。読売新聞社が海軍の要請を受けて南方慰問団を結成すると、藤山はこれに参加した。藤山には音楽の先進国であるヨーロッパへ渡りたいという思いが強く、ヨーロッパ諸国の植民地であった場所へ行けばヨーロッパの文化に触れることができるかもしれないという思いと、祖国の役に立ちたいという思いからこれに加わった。当時日本軍は渡航直前の1943年(昭和18年)2月1日にガダルカナル島から撤退するなど、南方で苦戦を強いられていたが、藤山はそうした情報を正確に把握していなかった。藤山は後に、もし戦況を正確に把握できていたら南方慰問には出なかったであろうと述べている。 1943年2月、慰問団はボルネオ・ジャワ方面の海軍将兵慰問のため船で横浜港を出発。途中で寄港した高雄港では敵の潜水艦による魚雷攻撃を受け(かろうじて命中しなかった)、藤山は初めて戦局が内地で宣伝されているよりもはるかに緊迫したものであることを察知することになった。3月にボルネオ島(カリマンタン島)バリクパパンに到着。ボルネオ島のほかスラウェシ島・ティモール島など、周辺一帯を慰問に回った。藤山は持ち歌や軍歌の他、地元の民謡を歌った。海軍士官が作った詞に曲を付け、歌ったこともある(『サマリンダ小唄』)。藤山は7月に予定されていた慰問を終え、帰国した。 藤山は帰国後すぐに海軍より再度南方慰問の要請を受け、11月にスラウェシ島へ向けて出発した。藤山はヨーロッパの文化にさらに触れ、現地の民謡を採譜したいという気持ちから要請を承諾した。1回目の慰問での扱いは軍属で、藤山はこれに強い不満を覚えていたが、この時は月給1800円の海軍嘱託(奏任官5等・少佐待遇)としての派遣であった。 藤山の慰問団はスラウェシ島・ボルネオ島・小スンダ列島のバリ島・ロンボク島・スンバワ島・フローレス島・スンバ島・ティモール島などを巡った。このうちスンバ島は多数の敵機が飛び交う最前線の島で、慰問に訪れた芸能人は藤山ただ一人であった。なお、小スンダ列島を慰問するにあたり、軽装で着任するよう要請された藤山は、愛用していたイタリア・ダラッペ社製のアコーディオンをスラウェシ島に置いたまま出発したが、同島に戻ることなく敗戦を迎えたため手放す羽目になった。これ以降藤山はジャワ島スラバヤで購入したドイツ・ホーナー社製のアコーディオンを愛用することになる。 1945年(昭和20年)8月15日、藤山はジャワ島スラバヤをマディウンへ向かい移動する車中で日本の敗戦を知った。藤山は独立を宣言したばかりのインドネシア共和国の捕虜となり、ジャワ島中部・ナウイの刑務所に収容され、その後ソロ川中流部にあるマゲタンの刑務所へ移送された。1946年(昭和21年)、スカルノの命令によりマラン州プジョンの山村に移動した。そこには三菱財閥が運営していた農園があり、旧大日本帝国海軍の将兵が一帯を「鞍馬村」と名づけて自給自足の生活を送っていた。鞍馬村滞在中、藤山は休日になると海軍の兵士だった森田正四郎とともに各地の収容所を慰問して回った。鞍馬村での生活は数か月で終わりを告げた。太平洋戦争終結直後から行われていた独立戦争においてインドネシアとイギリスとの間に一時的な停戦協定が成立し、日本人捕虜を別の場所へ移送した後、帰国させることになったためである。藤山はリアウ諸島のレンパン島に移送された。この島で藤山はイギリス軍の用務員とされ、イギリス軍兵士の慰問をして過ごした。1946年7月15日、藤山は復員輸送艦に改装された航空母艦・葛城に乗って帰国の途についた。 ===帰国=== 1946年7月25日、葛城は広島県大竹港に到着した。東京の自宅に着いて間もなくNHKがインタビューにやって来るなど、藤山の帰国はニュースとなった。藤山は8月4日にNHKのラジオ番組『音楽玉手箱』に出演したのを皮切りに、早速日本での歌手活動を再開させた。1947年(昭和22年)に入ると、戦前派の歌手たちが本格的に復活の狼煙を上げた。藤山一郎もラジオ歌謡『三日月娘』、『音楽五人男』の主題歌・『夢淡き東京』、日本歌曲としても音楽的評価の高い『白鳥の歌』などをヒットさせた。 1949年(昭和24年)、永井隆の随想を元にした『長崎の鐘』がヒット。この歌を主題歌として映画『長崎の鐘』が制作された。永井隆と藤山の間には交流が生まれ、永井は藤山に以下の短歌(『新しき朝』)を送った。 新しき朝の光のさしそむる 荒野にひびけ長崎の鐘 藤山はこの短歌に曲をつけ、『長崎の鐘』を歌う際に続けて『新しき朝』を歌うようになった。藤山は永井の死から8か月後の1951年(昭和26年)1月3日に行われた『第1回NHK紅白歌合戦』に白組のキャプテンとして出場し、『長崎の鐘』を歌唱し白組トリおよび大トリを務めた。ちなみに藤山は1951年の第1回から1958年の第8回まで8年連続で出場するなど、歌手として計11回紅白に出場している。 1949年7月、東宝は石坂洋次郎の小説『青い山脈』を原作にした映画を公開した。この映画の主題歌として同じタイトルの『青い山脈』が作られ、藤山が奈良光枝とデュエットで歌った。『青い山脈』は映画・歌ともに大ヒットした。歌は長年にわたって世代を問わず支持され、発売から40年経った1989年にNHKが放映した『昭和の歌・心に残る200』においても第1位となっている。奈良光枝が1977年に死去すると、『青い山脈』は藤山の持ち歌となった。 ===国民的歌手・指揮者として活躍=== 1954年(昭和29年)、藤山はコロムビアの専属歌手をやめ、NHKの嘱託となった。その理由について藤山自身は「自らのクラシックとポピュラーの中間を行く音楽生活を充実させつつ、将来活躍できる新人に道を譲るのも悪くない」と考えたからだと述べているが、池井優によると、背景には、かねてから藤山がレコード会社の商業主義に対する疑問があり、さらに俳優が脚本を読んだ上で出演を決めるように希望する歌を歌いたいという気持ちもあった。1961年(昭和36年)には筑摩書房発行の『世界音楽全集』第13巻声楽(3)においてフォスター歌曲を独唱し、編曲も担当している。 1965年(昭和40年)、NHKの許可をとって出演した東京12チャンネル制作の『歌謡百年』がヒットした。『歌謡百年』はベテランの歌手が昔懐かしい歌を歌うというコンセプトの番組で、後に『なつかしの歌声』とタイトルを変え、なつかしの名曲ブームを巻き起こした。藤山は、クラシックの香りのするホームソングを主体にしていたが、1958年以降は紅白歌合戦にも数回を除いて歌手としてではなく指揮者として出演していたが、再び歌手として人気を集めるようになった。なお、紅白歌合戦には1950年の第1回から1992年の第43回まで、歌手または指揮者として連続出演した。 ===日本歌手協会会長を務める=== 1972年(昭和47年)10月、初代会長であった東海林太郎の死去に伴い、日本歌手協会会長に就任した。同協会は歌手の立場強化を掲げる任意団体であったが、藤山の会長就任を機に社団法人にすることが議論された。文化庁との折衝の結果、1975年(昭和50年)5月に協会は社団法人として認可された。社団法人となった日本歌手協会の立場は強化され、それまで作曲家と作詞家にしか支払われなかった著作権収入が著作隣接権として歌手にも支払われるようになった。藤山は1979年(昭和54年)5月まで会長を務め、以後は理事を務めた。藤山の死後、日本歌手協会はNHKと共催で追悼コンサートを開いた。 ===国民栄誉賞を受賞=== 1992年(平成4年)5月28日、藤山は国民栄誉賞を受賞した。受賞理由は「正当な音楽技術と知的解釈をもって、歌謡曲の詠唱に独自の境地を開拓した」、「長きに渡り、歌謡曲を通じて国民に希望と励ましを与え、美しい日本語の普及に貢献した」というものであった。スポーツ選手以外では初めて存命中に受賞した。 池井優によると、藤山の受賞を決定づけたのは1992年3月28日(土曜日)19:30から20:55までNHK総合で放送されたテレビ番組『幾多の丘を越えて ‐ 藤山一郎・80歳、青春の歌声』である。この番組を見た衆議院議員・島村宜伸が当時自由民主党の幹事長であった綿貫民輔に国民栄誉賞授与の話を持ちかけたことで政府が検討に入ることになった。また、NHKのアナウンサー出身の参議院議員でかつて古賀政男の国民栄誉賞受賞に尽力した高橋圭三も福田赳夫を通じて政府に働きかけを行った。 藤山は娘を通じて受賞を打診され、受諾した。当初授賞式は4月25日に予定されたがこの時藤山は坐骨神経痛を患い入院中で、退院後の5月28日に延期された。授賞式会場の首相官邸に車椅子に乗って現れた藤山は中に入ると車椅子から降りて杖をついて歩き、東京音楽学校時代の恩師クラウス・プリングスハイムの指揮で声楽家増永丈夫として日比谷公会堂で独唱したベートーヴェンの『歓喜の歌』を伴奏なしで歌った。数十年ぶりクラシック音楽の増永丈夫と大衆音楽の藤山一郎を披露した。なお、スポーツ選手を除く国民栄誉賞受賞者の中では最初の存命中の受賞となった。1996年に上野恩賜公園内に設置された「日本スポーツ文化賞栄誉広場」には国民栄誉賞受賞者の手形が展示されており、藤山のものもある。 なお藤山は国民栄誉賞以外にも勲三等瑞宝章(1982年春)、紫綬褒章(1973年)、日本赤十字社特別有功章(1952年)、NHK放送文化賞(1958年)、社会教育功労章(1959年)、日本レコード大賞特別賞(1974年)などを受賞(受章)している。 ===死去=== 藤山は1993年(平成5年)8月21日、急性心不全のため死去。同年8月14日(土曜日)19:30から21:30までNHK総合で放送された『第25回思い出のメロディー』が最後のメディア出演となった。死後、その功績から従四位に叙せられた。菊池清麿は藤山の生涯について、「芸術家としての人生が約束されながら、大衆音楽の世界で人気を博し国民栄誉賞を受賞するという稀有な人生だった」と評している。 藤山の遺品は遺族からNHKに寄贈され、NHK放送博物館の「藤山一郎作曲ルーム」に展示されている。NHK以外にも、埼玉県与野市の市歌「与野市民歌」を歌唱した縁で与野市にも遺族から遺品が寄贈され、その一部は与野市図書館(後のさいたま市立与野図書館)に展示されている。 藤山の墓は静岡県の冨士霊園にあり、墓碑には富士山の絵と漢字の「一」、ひらがなの「ろ」が刻まれており、合わせて「藤山一郎」と読むことができる。また、藤山が作曲した『ラジオ体操の歌』の楽譜(2小節分)と歌詞も刻まれている。 ===年表=== 1911年(明治44年)4月8日、東京市日本橋区蛎殻町(現・東京都中央区日本橋蛎殻町)に生まれる。1929年(昭和4年)4月、東京音楽学校予科声楽部に入学。1931年(昭和6年)7月、藤山一郎として音楽学校在校中、コロムビアからデビュー。1933年(昭和8年)3月、東京音楽学校本科声楽部を卒業、ビクターの専属歌手となる。1936年(昭和11年)、テイチクの専属歌手となる。1939年(昭和14年)、コロムビアの専属歌手となる。1940年(昭和15年)4月、結婚。1943年(昭和18年) 2月、南方への慰問団に参加。( ‐ 7月) 11月、再び南方への慰問団に参加。( ‐ 1945年8月)2月、南方への慰問団に参加。( ‐ 7月)11月、再び南方への慰問団に参加。( ‐ 1945年8月)1945年(昭和20年)8月 ‐ 1946年7月、インドネシアで捕虜生活を送る。1946年(昭和21年)7月25日、帰国。1952年(昭和27年)、日本赤十字社特別有功章を受賞。1954年(昭和29年)、コロムビア専属をやめ、NHKの嘱託になる。1958年(昭和33年)、NHK放送文化賞を受賞。1959年(昭和34年)、社会教育功労章を受章。1973年(昭和48年)、紫綬褒章を受章。1974年(昭和49年)、日本レコード大賞特別賞を受賞。1982年(昭和57年)、春の叙勲で勲三等瑞宝章を受章。1992年(平成4年)5月28日、国民栄誉賞を受賞。1993年(平成5年)8月21日、死去。 ==社会活動== 前述のように、藤山は慶應義塾在籍中に福沢諭吉が説いた奉仕の精神の影響から1950年代半ばから様々な社会活動を行うようになった。 ===ボーイスカウト=== 藤山は奉仕を重んじるボーイスカウトの精神に共鳴し、ボーイスカウト日本連盟の参与を務めた。1971年(昭和46年)、第13回世界ジャンボリーが日本(静岡県富士宮市)で開かれた際にはテーマソング『明るい道を』の作曲を行った。1988年(昭和63年)にスカウトソングを収録したカセットテープが制作された際には録音に立ち会い、自ら連盟歌『花は薫るよ』や、『光の路』など7曲を歌った。1992年(平成4年)、永年にわたる功績を称えられ、連盟から最高功労章である「きじ章」を贈呈された。藤山の葬儀の際には、ボーイスカウトのブレザーと、きじ章を身につけた写真が遺影に選ばれた。 ===ロータリークラブ=== 1958年(昭和33年)6月、藤山はロータリークラブ(東京西ロータリークラブ)に入会した。藤山は会員として精力的に活動し、例会に欠席したことがなかった。死の前日の1993年8月19日にも杖を持ち車椅子に乗って出席を果たしている。会の運営にも熱心で、1986年から1987年まで東京西ロータリークラブの会長を務めた。『東京西ロータリークラブの歌』をはじめ、ロータリークラブにまつわる歌の作曲や会員への歌唱指導も行った。 ==人物像・エピソード== 幼少期から短気で手が早かった。この性格が原因で前述のように幼稚園を転入させられ、慶應義塾普通部時代にも3週間寄宿舎暮らしを命じられた。この時、寂しさから身につけた編み物は藤山の特技の一つとなった。しかし晩年も藤山の気性の激しさは変わらず、タクシーの運転手と喧嘩し血だらけでスタジオに入ったこともある。車好きとして知られ、幼少期から自動車に親しんで育った。小学生4、5年生頃には生家のモスリン問屋にあった配達用の貨物自動車の車庫入れをし、オートバイの運転もマスターした。東京音楽学校在学中に自動車の運転免許を取得。流行歌手となってからも舞台への移動の際は自ら自動車を運転することが多かった。運転マナーも良好で、優良運転者として1972年に緑十字交通栄誉賞銅賞、1982年に緑十字交通栄誉賞銀賞を受賞した。一方で他人の運転マナーにも厳しく、割り込みした車を怒鳴りつけることもあった。所有車は終戦直後に乗ったダットサンを除き、すべて輸入車であった。なお、藤山は1949年7月に肝臓膿瘍(肝臓に膿が発生する病気)にかかり入院生活を送ったことがあるが、この時将来に不安を覚えた藤山は妻を社長にして「ミッキー・モータース」という洗車・整備・給油の店を副業としてオープンさせている。藤山が音大生だった時代は楽譜が貴重であり、学生は図書館から借りて写譜するのが一般的だった。そのため藤山は楽譜を乱暴に扱う者にも非常に厳しかった。戦争中、南方慰問から帰国した藤山が、作曲家・山田耕筰邸へ挨拶に行くと、山田が藤山の履いている南方で入手した靴を気に入って「僕にくれよ」と藤山と押し問答になった。藤山も断りきれず山田の靴と交換することで決着した。その話を藤山から聞いた音楽評論家の森一也が「あの靴はいつか見た靴」ですねと歌うと藤山も「ああ、そうだよ」と歌い返した(コンパクトディスク「山田耕筰の遺産4 歌曲編IV」COCA‐13174 のブックレット、森一也の解説より)。 ==歌唱論・歌手観== 藤山は、日本語の発音に厳しいことで知られた。言語学者の金田一春彦は有名な逸話として、紅白歌合戦で『蛍の光』が唄われる際に指揮者を務めた藤山が、歌い出しの部分を「アクセントに合わないフシがついている」という理由で自らは決して声を出して歌おうとしなかったことを挙げている(実際にはテレビ東京の『なつかしの歌声などの番組では歌唱している)。音名をイタリア式に発音する際も、「ラはlaで、レはre」だと厳密に発音を区別していた。金田一は、藤山の厳しさは言葉のアクセントに厳しい作曲家本居長世の家に出入りしていたことで培われたものだと推測している。 藤山はプロの歌手にとって重要なのは正式に声楽を習い基本的な発声を習得し、基本に忠実でしっかりとした発声により歌詞を明瞭に歌うことであり、技巧を凝らすのはその先の話であると述べている。楽典・音楽理論に忠実であることから、藤山一郎は「正格歌手」といわれた「二つのペルソナ‐生誕100年・藤山一郎と増永丈夫」(菊池清麿 『春秋』 2011.4 NO527)21頁 後輩歌手では伊藤久男、近江俊郎、岡本敦郎、布施明、尾崎紀世彦、由紀さおり、芹洋子、倍賞千恵子、アイ・ジョージなどを「ただクルーンするだけでなく、シングも出来る両刀使いだから」と言う理由で評価していた。 ==代表曲== 『春の野・山の祭』1921年(大正10年)『はんどん・何して遊ぼ』1921年(大正10年)『はね橋』1921年(大正10年)『日本アルプスの唄』1930年(昭和5年)『美しきスパニョール』1930年(昭和5年)『幼稚舎の歌』1930年(昭和5年)『慶應普通部の歌』1930年(昭和5年)『北太平洋横断飛行行進曲』1931年(昭和6年)『キャンプ小唄』1931年(昭和6年)『丘を越えて』1931年(昭和6年)『酒は涙か溜息か』1931年(昭和6年)『エンコの六』1931年(昭和6年)『スキーの唄』1932年(昭和7年)『影を慕いて』1932年(昭和7年)『鳩笛を吹く女の唄』1932年(昭和7年)『赤い花』1933年(昭和8年)『僕の青春』1933年(昭和8年)『燃える御神火』1933年(昭和8年)『想い出のギター』1933年(昭和8年)共唱 徳山*228*『名古屋まつり』1933年(昭和8年)『皇太子殿下御誕生奉祝歌』1934年(昭和9年)共唱 徳山*229*『チェリオ!』1934年(昭和9年)共唱 小林千代子『オシャカサン』1934年(昭和9年)作曲も担当『川原鳩なら』1934年(昭和9年)『いつも朗らか』1934年(昭和9年)共唱 市丸『蒼い月(ペールムーン)』1934年(昭和9年)『古戦場の秋』1934年(昭和9年)『躍る太陽』1935年(昭和10年)作曲も担当『恋の花束』1935年(昭和10年)『谷間の小屋』1935年(昭和10年)『永遠の誓い』1935年(昭和10年)『夜風』1936年(昭和10年)『慶應音頭』1936年(昭和11年)作曲も担当 共唱 徳山*230*『東京ラプソディ』1936年(昭和11年)『東京娘』1936年(昭和11年)『男の純情』1936年(昭和11年)『青春の謝肉祭』1936年(昭和11年)『回想譜』1937年(昭和12年)『青い背広で』1937年(昭和12年)『青春日記』1937年(昭和12年)『白虎隊』1937年(昭和12年)共唱(詩吟)鈴木吟亮『愛国行進曲』1937年(昭和12年)『山内中尉の母』1937年(昭和12年)『上海夜曲』1939年(昭和14年)『懐かしのボレロ』1939年(昭和14年)『紀元二千六百年』1940年(昭和15年)共唱 松平晃、伊藤久男、霧島昇、松原操、二葉あき子、渡辺はま子、香取みほ子『なつかしの歌声』1940年(昭和15年)共唱 二葉あき子『春よいづこ』1940年(昭和15年)共唱 二葉あき子『空の勇士』1940年(昭和15年)共唱 霧島昇、松原操、二葉あき子、渡辺はま子『燃ゆる大空』1940年(昭和15年)共唱 霧島昇『三色旗の下に』1940年(昭和15年)作曲も担当『興亜行進曲』1940年(昭和15年)共唱 伊藤久男、二葉あき子『出せ一億の底力』1941年(昭和16年)共唱 二葉あき子『崑崙越えて』1941年(昭和16年)『英国東洋艦隊潰滅』1941年(昭和16年)『海の進軍』1941年(昭和16年)共唱 伊藤久男、二葉あき子『大東亜決戦の歌』1942年(昭和17年)『翼の凱歌』1942年(昭和17年)共唱 霧島昇『青い牧場』1943年(昭和18年)共唱 奈良光枝『決戦の大空へ』1943年(昭和18年)『東京ルンバ』1946年(昭和21年)共唱 並木路子『ふるさとの馬車』1946年(昭和21年)『銀座セレナーデ』1946年(昭和21年)『赤き実』1947年(昭和22年)共唱 渡辺はま子『三日月娘』1947年(昭和22年)『夢淡き東京』1947年(昭和22年)『白鳥の歌』1947年(昭和22年)共唱 松田トシ『バラ咲く小径』1947年(昭和22年)『見たり聞いたりためしたり』1947年(昭和22年)共唱 並木路子『浅草の唄』1947年(昭和22年)『若人の歌』1947年(昭和22年)『みどりの歌』1948年(昭和23年)共唱 安西愛子『青い月の夜は』1948年(昭和23年)『ゆらりろの唄』1948年(昭和23年)『青い山脈』1949年(昭和24年)共唱 奈良光枝『長崎の鐘』1949年(昭和24年)『花の素顔』1949年(昭和24年)共唱 安藤まり子『山のかなたに』1950年(昭和25年)『長崎の雨』1951年(昭和26年)『ニコライの鐘』1952年(昭和27年)『霜夜の時計』1952年(昭和27年)作曲も担当『星かげのワルツ』1952年(昭和27年)作曲も担当 共唱 加藤礼子『海は生きている(海の歌)』1952年(昭和27年)『丘は花ざかり』1952年(昭和27年)『遠い花火』1952年(昭和27年)作曲も担当『オリンピックの歌』1952年(昭和27年)共唱 荒井恵子『ばら色の月』1953年(昭和28年)『みどりの雨』1953年(昭和28年)『ラジオ体操の歌』1956年(昭和31年)作曲も担当『波』1959年(昭和34年)作曲も担当『海をこえて友よきたれ』1963年(昭和38年)『娘が嫁に行くと云う』1972年(昭和47年)『わかい東京』1974年(昭和49年)『追憶』1974年(昭和49年)『若人の街』1974年(昭和49年)『さつきの歌』/『城愁』1981年(昭和56年)作曲も担当『ふるさとに歌う津軽岬』作曲も担当/『ギターが私の胸で』1981年(昭和56年)『ブンガワン・ソロ』/『ふるさとの雲』1981年(昭和56年)『爽やかに熱く』/『ブライダルベール』1982年(昭和57年)『飛鳥は逝ける』/『こけしの歌』1983年(昭和58年)作曲も担当『鎌倉抒情』/『鎌倉ソング』1988年(昭和63年)『故郷よ心も姿も美しく』1990年(平成2年)作曲も担当『お婆さんのお母さんの歌』1990年(平成2年)作曲も担当『走れ跳べ投げよ』1990年(平成2年)作曲も担当『心のとびら』1992年(平成3年)『赤坂宵待草』作曲も担当/『歓喜の歌』作詞も担当 ‐ 1992年(平成4年)『今日も幸せありがとう』1993年(平成5年)作曲も担当 ==主な作曲作品== 『ラジオ体操の歌』『シンガポール日本人学校校歌』『川越市立霞ヶ関小学校校歌』『川越市立霞ヶ関西小学校校歌』『川越市立霞ヶ関西中学校校歌』『朝霞市立朝霞第一小学校校歌』『朝霞市立朝霞第六小学校校歌』『新座市立新座中学校校歌』『志摩市立和具中学校校歌』『浜松市立蜆塚中学校校歌』『新座音頭』『駿台甲府高等学校校歌』『穎明館中学・高等学校校歌』『阪急ブレーブス応援歌』『西鉄ライオンズの歌』『お誕生日の歌』(パルナス製菓CMソング)『大日本印刷株式会社社歌』『松下電工株式会社社歌』(「パナソニック電工」へ社名変更された際、社歌は他曲に変更された。)『めぐろ・みんなの歌』(目黒区歌)『鐘紡われら』(クラシエホールディングス|カネボウ社歌、同社営業最終日に社員で斉唱している場面が報道された。)『お母さんのお顔』『広島県立広高等学校 生徒歌』『帯広大谷高等学校の歌』『全日本軟式野球連盟 連盟歌』『北海道鹿追高校校歌』 ==関連書籍== ===自伝=== 『私の履歴書』(「‐ 文化人14」に収録、日本経済新聞出版社、1984年)、ISBN 4532030846『歌声よひびけ南の空に』 光人社、1986年、ISBN 4769820283 『藤山一郎自伝 歌声よひびけ南の空に』 光人社NF文庫、1993年、ISBN 4769820283『藤山一郎自伝 歌声よひびけ南の空に』 光人社NF文庫、1993年、ISBN 4769820283 ===評伝=== 池井優『藤山一郎とその時代』新潮社、1997年(ISBN 4104179019)菊池清麿『藤山一郎 歌唱の精神』春秋社、1996年(ISBN 4393934350 C0073) ==ラジオ番組== 『愉快な仲間』 ‐ 民間情報教育局が主導して制作された、アメリカの『ビング・クロスビー・ショー』のコピー番組(NHK)。森繁久彌との共演。 ==コマーシャル== めいらくグループのコーヒー・紅茶のホワイトナー「スジャータ」(藤山は曲を合作し、歌を歌った)パルナス製菓 ‐ 「お誕生日の歌」 ‐ コロムビアの女性コーラスグループであったルナ・アルモニコとのデュエット ==NHK紅白歌合戦出場歴== 第1回(1951年1月3日、NHK東京放送会館第一スタジオ)『長崎の鐘』第2回(1952年1月3日、NHK東京放送会館第一スタジオ)『オリンピックの歌』第3回(1953年1月2日、NHK東京放送会館第一スタジオ)『東京ラプソディ』第4回(1953年12月31日、日本劇場)『丘は花ざかり』第5回(1954年12月31日、日比谷公会堂)『ケンタッキーの我が家』第6回(1955年12月31日、産経ホール)『ニコライの鐘』第7回(1956年12月31日、東京宝塚劇場)『あゝ牧場は緑』第8回(1957年12月31日、東京宝塚劇場)『ブンガワン・ソロ』第15回(1964年12月31日、東京宝塚劇場)『長崎の鐘』特別出演 第24回(1973年12月31日、NHKホール)『長崎の鐘』特別出演 第30回(1979年12月31日、NHKホール)『丘を越えて〜長崎の鐘〜青い山脈』第40回(1989年12月31日、NHKホール)『青い山脈』 ==関連項目== 岡本太郎 ‐ 慶應義塾幼稚舎の同級生。2人の交友関係は生涯にわたって続いた。平井康三郎 ‐ 東京音楽学校の同級生。長門美保 ‐ 東京音楽学校の同級生。中村淑子 ‐ 東京音楽学校の同級生。安部幸明 ‐ 東京音楽学校の同級生。松平晃 ‐ 東京音楽学校の後輩井深大 ‐ 藤山は映画『東京ラプソディ』の制作現場でPCLの録音技師をしていた井深と出会い、親交を深めた。藤山は後にソニーの社友となった。桜一平(現・我修院達也)‐1968年・前座歌手として起用東京放送管弦楽団鼻濁音ボーイスカウト スカウト運動 ボーイスカウト日本連盟 スカウトソングスカウト運動ボーイスカウト日本連盟スカウトソング ==参考文献== 池井優 『藤山一郎とその時代』 新潮社、1997年。ISBN 4104179019。小沢昭一 『小沢昭一的流行歌・昭和のこころ』 新潮社、2000年。ISBN 410408803X。 この項では「柳青める日 藤山一郎について……考える」(7‐37頁)を参照。 文庫版(新潮社、2003年、ISBN 4101313156)あり。この項では「柳青める日 藤山一郎について……考える」(7‐37頁)を参照。文庫版(新潮社、2003年、ISBN 4101313156)あり。菊池清麿 『藤山一郎歌唱の精神』 春秋社、1996年。ISBN 4393934350。菊池清麿 『日本流行歌変遷史 歌謡曲の誕生からJ・ポップの時代へ』 論創社、2008年。ISBN 4846004643。金田一春彦 『わが青春の記』 東京新聞出版局〈「この道」シリーズ〉、1994年。ISBN 4808305062。斎藤茂 『この人この歌 昭和の流行歌100選・おもしろ秘話』 広済堂出版、1996年。ISBN 4331505251。塩沢実信 『昭和のすたるじぃ流行歌 佐藤千夜子から美空ひばりへ』 第三文明社、1991年。ISBN 4476031722。藤山一郎 『歌い続けて』 音楽鑑賞教育振興会、1985年。ISBN 4871351076。藤山一郎 『藤山一郎自伝 歌声よひびけ南の空に』 光人社、1986年。ISBN 4769803001。『私の履歴書 文化人14』 日本経済新聞社、日本経済新聞出版社、1984年。ISBN 4532030846。“心に残るロータリアン 藤山一郎会員” (日本語). 東京西ロータリークラブ. 2009年6月5日閲覧。 =ハワイの歴史= ハワイの歴史(ハワイのれきし、英: history of Hawaii)では、50番目にアメリカ合衆国の州として登録されたハワイ州を構成する、ハワイ諸島における歴史を詳述する。 ==概要== 有史以前は太平洋を渡ってやってきたポリネシア人たちが持ち込んだ伝統を守りつつ生活を営んでいたが、1778年のジェームズ・クックによる「発見」以降、ハワイは近代化の波へ飲み込まれることとなる。島同士の内戦を経てハワイ王国という100年に及ぶ統一国家が確立し、欧米人との接触に伴って社会は急速に変容し始める。19世紀前半より宗教的基盤の確立と経済発展を求めた欧米入植者たちとその末裔は、次第に経済的安定を保障するための政治権力を欲するようになり、その影響は時代を経るにつれて強力なものとなっていった。サトウキビ農園とその交易による莫大な土地と富を手に入れた成功者たちは更なる産業発展を求めて安価な労働力を日本を中心とする様々な地域より大量に呼び込み、ハワイ社会は多くの人種が混合した複雑な文化を育んでいった。 白人勢力はやがてハワイ人国家を倒し、近代化の名の下に1900年にはアメリカ合衆国の領土として併合がなされた。さらに戦時下においては東西に台頭したアメリカと日本の確執の余波をまともに受け、太平洋上の重要な軍事拠点として開発が進む一方で、ハワイへ労働者としてやってきた大量の日本人移民は深刻な差別に曝された。現代は観光都市として発展を見せる一方で、開発による環境汚染、歴史遺構の破壊や人口増加による地価・物価の高騰、ハワイ人問題事務局が提唱しているハワイ人による自治権の獲得など、複数の問題を抱えている。ハワイは、その解決の糸口を模索しながら今日に至っている。 ==先史時代== ハワイの島々は火山の活動により海底から隆起して誕生したもので、北西部の古い島々は500万年前から100万年前、ハワイ島などの新しい島は約50万年前に形成された。 他の大陸と陸続きであったことはないため無人の島であり、ジェームズ・クックがハワイに到達する以前の先住民たちは、どこかから海を渡り、この地へやってきたことになる。ハワイは他の太平洋の島々の多くがそうであったように、19世紀にアメリカの宣教師がアルファベットを伝えるまで、文字を持たない文化を形成していたため、これらの問いに応える歴史文書は存在していないが、言語学的な推測、熔岩に描かれたカハキイ(ペトログリフ)などの研究から、最初にハワイへやってきたのはオーストロネシア語族のポリネシア人であると考えられており、マオリやタヒチ人と同じ起源にさかのぼることができる。その年代については諸説があり、遺跡の放射性炭素年代測定にもとづき紀元前500年前後から3世紀頃までと考えられている。 また、ハワイに伝わる神話クムリポからも考古学的な考察と検討が行われている。クムリポは伝記(クアウハウ)、お伽話(カアオ)、歴史伝承(モオレロ)といったジャンルの神話が歌や舞踏、チャントなどで代々の王家に伝承されたものであり、1700年頃に作られたものとされている。公式な発表としては1881年にカラカウアが公表したもの、1889年にリリウオカラニによって英訳されたものなどがある。クムリポでは創作された寓話を交えつつハワイ人の起源から13世紀前後の出来事までが語られている。 言語学的見地、歴史遺構や伝承神話などからの類推により、ポリネシア人はカタマランやアウトリガーカヌーを操り、マルキーズ諸島を経由してやってきたと見られ、さらに数世紀後900年ごろに、タヒチ島を中心とするソシエテ諸島からやってきたポリネシア系移民が定着したのが始まりとされている。なお、このポリネシア人たちの航海が本当に可能だったのかどうかについて、1976年から検証航海が行われた。ピウス・マウ・ピアイルグら17人の男女が乗り込んだ丸木舟「ホクレア号」は、マウイ島を出発し、31日目にタヒチに到着、1978年にはタヒチからマウイ島への航海も成功させ、ポリネシア人たちの太平洋の航海が不可能ではないことを証明した。 ただし、なぜ彼らが移動する必要があったのかについては、ハワイの神話やペトログリフを紐解いてみても遠方への航海や交流を暗示するものはあっても、その明確な記述は無く、それまで居住していた島が手狭になった、飢饉になった、他の島との戦で追放された、等の後年の歴史家による根拠の薄い仮説が打ち立てられているに過ぎない。 彼らはハワイ諸島へ定住するため、タヒチ島間を断続的に往復し、タロイモ、ココナッツ、バナナといった植物や、豚、犬、鶏といった動物をハワイ諸島へ運び込んだ。この「大航海」は14世紀頃まで続いた。フラをはじめとする古きハワイの文化も、この交流の過程でもたらされたと考えられている。 12世紀頃には族長(アリイ)による土地の支配と統制がはじまり、階級社会が誕生した。アリイを頂点とし、神官(カフナ)、職人や庶民(マカアイナナ)、奴隷(カウバ)が続いた。土地の支配はアフプアアと呼ばれる制度で規律され、山頂と海岸を結ぶ二本の線を土地の基本単位とし、境界線には豚(プアア)をかたどった像(アフ)が備えられた。 アリイはヘルメットを被り、羽編みのマントを身に付け、マナという特別な力を持つとされた。また、カウバは共同生活の規律を乱す犯罪者や他の土地の捕虜の階級で、顔に入墨を彫られ、他階級との交わりが禁じられていた。時にはカフナの行うまじないごとの生贄とされることもあった。 ==ハワイ王国== ===クックの再発見=== 1778年、イギリスの海洋探検家ジェームズ・クックによって、1月18日にオアフ島が、1月20日にカウアイ島が「発見」され、ワイメア・ベイにレゾリューション号、ディスカバリー号を投錨し、ヨーロッパ人としてハワイ諸島への初上陸を果たした。クックは、上官の海軍本部長サンドウィッチ伯爵の名から、サンドウィッチ諸島と命名した。しかし、クックがサンドウィッチ諸島と名づける以前より、現地ハワイ人の間では既にハワイという名称が定着していた。 突然の見たこともない大きな船の到来と、そこに佇む異様な衣を纏う乗組員に先住民は驚きおののいた。新しい海路の発見を目指す一行は同年2月に一旦ハワイを離れ、北西へと旅立った。その後、同年11月にハワイを再訪したクックは、マウイ島とオアフ島の船上調査後、1779年1月17日、ハワイ島ケアラケクア湾へ上陸した。ハワイ島の王であったカラニオプウはクックをロノの化身と錯誤し、ヘイアウの奥に鎮座する祭壇へ案内し、神と崇めた。クックは先住民に神と間違えられる事は何度も経験しており、先住民らが望みそうな振る舞いを演じてみせた。丁度マカヒキの期間であったので、先住民らにより豊穣の神ロノを讃えるその祭が執り行われ、クックらに酒池肉林のもてなしを行う。長い航海で女に飢えていた乗組員らは現地の若い先住民の女を侍らせ、約3週間宴に興じた。 2月4日、クック一行は必要な物資を積み込み、北洋へ漕ぎ出したが、カワイハイ沖で遭遇した暴風雨にレゾリューション号のメインマストが破損したため、2月11日、再度ハワイ島へ戻り修繕にあたろうとした。しかし、先住民らは「クックはあまりにも人間的な肉欲を持っている」「ロノ神の乗る船があのように傷つくものだろうか」といった疑念を持ち始める。先住民らが険悪な様相でディスカバリー号のボートを奪い取ろうとしたため、クックはカラニオプウを人質として拘束した。 この諍いは乱闘へ発展し、1779年2月14日、クックは4名の水兵と共に殺害されるに至った。ディスカバリー号を率いていたチャールズ・クラークは、大急ぎで船の修復を終え、イギリスへと舵を取った。クラークは同年8月に結核で死亡したため、その後はジョン・ゴアが指揮を取り、イギリスに帰還した。海軍本部、英国王立協会にクックの死、北方海路探索の失敗、そしてサンドウィッチ諸島の発見を報告し、欧米にその存在を知らしめた。 この頃のハワイ諸島には大族長(アリイ・ヌイ)による島単位での統治が行われていた。ハワイ島をカラニオプウが、それ以外の島をマウイ島の大族長カヘキリが支配していた。大族長は世襲制であったため、1782年にカラニオプウが没すると息子のキワラオが王位を継承した。軍隊の指揮で頭角を現しつつあったカラニオプウの甥にあたるカメハメハはこのとき戦争の神(クカイリモク)という称号を授かり、コハラおよびコナの領地を譲り受けた。これに立腹したキワラオはカメハメハに戦争をしかけたが、モクオハイの戦闘で負傷し、逆に1790年、カメハメハによるハワイ島統一が成された。 クックのハワイ諸島発見以降、交易を求める者や植民地主義の帝国からの来航が頻繁に発生していたが、カメハメハは、外交手腕に優れ、欧米列国の領土的野心を封じる先見性も持っていた。カメハメハはクックの後継者とも言えるジョージ・バンクーバーを懇意にし、1794年2月24日、ハワイにおけるイギリス人水兵の安全保障の見返りとして外国のハワイ侵略をイギリスが防衛する防衛援助協定を取り付けることに成功した。これを契機に、イギリスから仕入れた銃器を手に1795年2月、カメハメハはハワイ諸島統一に向けて動き出し、同年4月までにニイハウ島とカウアイ島を除くすべての島を制圧し、ハワイ王国を誕生させた。 1800年、残りの島の制圧を目指したが嵐や疫病の発生により不調に終わった。1810年、アメリカ人ウィンシップ兄弟の協力を得てカウアイ島大族長カウムアリイとの交渉を行い、カウムアリイの終身統治を条件としてカウアイ島およびニイハウ島の割譲に成功し、ハワイ諸島の統一を成し遂げた。 ===ハワイ王国の隆盛=== カメハメハが1819年5月8日に他界すると、長男のリホリホが王位を継承した。しかし、執政能力に不安を感じていたカメハメハは摂政(クヒナ・ヌイ)の地位を新設し、リホリホの義母にあたる妻のカアフマヌをその地位に充てた。カアフマヌは、リホリホの母であるケオプオラニと協力し12世紀以降続いていた禁令制度(カプ)の廃止を進めた。土着信仰として根付き、かつカフナたちの立場的優位性を築いてきたタブーを率先して破り、神および神官の存在を否定した。こうして古代宗教の神殿は破壊され、礼拝や生贄といった儀式も中止されることとなったが、階層構造により保たれていた秩序や規範も崩壊し、ハワイ王国は波乱の時代を迎えることとなった。 1820年3月31日、アメリカ海外伝道評議会が派遣した聖職者ハイラム・ビンガム、アーサー・サーストンらを乗せたタディアス号がニューイングランドよりコハラに到着した。彼らはそこで見たハワイ先住民たちの非道徳的な振舞いに衝撃を覚える。男はマロと呼ばれるふんどしのような帯のみを身につけ、女は草で作った腰みのだけを身に付け、フラダンスという扇情的な踊りを踊り、生まれた幼児を平気で間引く彼らの文化は、無知で、野蛮で、非人道的なものであると理解するに十分であった。こうした風紀と社会秩序の乱れを回復すべく、ビンガムを主導として宣教師らはプロテスタンティズムによる社会統制を試みた。こうしたアメリカ人宣教師らの影響は次第に教育、政治、経済の各分野へ広がっていった。 外交の発展により、ハワイ王国では貨幣経済が急速に浸透し、後払いによる外国製品の輸入を続けたため、みるみる負債が膨らんでいった。この状況を打破しようと、1823年11月23日、リホリホは王妃のカママルを連れ、貿易問題の解消を求めてイギリス・ロンドンへ赴いた。しかし一行は滞在先で麻疹に感染し、カママルは翌年7月8日に、リホリホは7月14日に他界してしまった。リホリホの死を受け、わずか10歳の弟、カウイケアオウリが翌1825年6月6日に大王に即位する。宣教師たちは実質的な実権を握る摂政カアフマヌに近づき、ハワイのキリスト教化をすすめることに成功した。 1827年、フランスよりカトリック教会の宣教師がハワイへ上陸したが、すでにプロテスタントが浸透しつつあったハワイでの他宗派の影響による混乱を危惧し、カアフマヌは退去を命じる。しかし1837年、再びカトリック司祭が来航したことから同年12月18日、ハワイでのカトリックの布教と信仰の禁止の命がカウイケアオウリより下された。この命は1839年に解除されたが、太平洋の他の諸島と違い、ハワイにおけるプロテスタントの影響は優勢であり続けた。プロテスタントの宣教師らはまずハワイ人に読み書きから教え始め、1822年にはアルファベットによるハワイ語が確立、1834年には太平洋地域で初となる新聞『カ・ラマ・ハワイ』(1834年6月、マウイ島)、『クム・ハワイ』(1834年10月、ホノルル)が発行され、1839年には聖書が出版された。徹底した文教政策が奏功し、ハワイ住民の教育水準は飛躍的な高まりを見せ、近代化が加速度的に進行した。しかしこれは同時にハワイの伝統的な文化の断絶を意味していた。 1832年、カアフマヌが没したため、摂政の後任としてカメハメハの娘にあたるキナウが就任した。ハワイ王国は西欧的社会の移入を押し進め、イギリスのマグナ・カルタを基に1839年に「権利宣言」を公布、翌1840年10月8日にハワイ憲法が公布され、立憲君主制が成立した。1845年には基本法によって行政府として王、摂政、内務、財務、教育指導、法務、外務の各職が置かれ、15名の世襲制議員と7名の代議員からなる立法議会が開かれた。しかし、なじみの浅い西欧文化に戸惑うハワイ人を他所に、ハワイに帰化した欧米の外国人がハワイ政府の要職に就く様子が見られるようになる。こうした土壌で、1852年にはハワイ新憲法が採択されることとなった。この新憲法にはエイブラハム・リンカーンが奴隷解放宣言を行うはるか前に奴隷制禁止条項が盛り込まれるなど、リベラルなものとなった。こうした西欧化はアフプアアを伝統とした土地制度にも及び、欧米的な土地私有の概念が取り込まれた。1848年には土地法が制定され、ハワイの土地は王領地、官有地、族長領地に分割された。しかし1850年、外国人による土地の私有が認められるようになると、対外債務を抱えていたハワイ政府は土地の売却で負債を補うようになり、1862年までの12年の間にハワイ諸島の約75%の土地が外国人の支配する土地となり、生活の基盤を失うこととなった。 1854年、カウイケアオウリの没後、1855年1月11日、摂政であったキナウの次男アレクサンダー・リホリホが王位に就いた。この頃の行政府内にはアメリカ系、イギリス系、先住ハワイ人という3つの対立したグループが形成されていた。前王が採択した一般成人男子の参政権獲得による王権の失墜を危惧したアレクサンダー・リホリホは兄のロト・カメハメハと協力し、貴族主義的な君主制の確立を目指した。イギリスの王制を高く評価していたアレクサンダー・リホリホは1860年、「ハワイアン改革カトリック教」という名のエピスコパルをハワイに設立し、イギリス本土よりトーマス・ステイリーをはじめとする英国国教会の聖職者を招聘した。この背景には息子アルバートを洗礼させ、イギリスのヴィクトリア女王を教母として立てることで列強諸国と対等の関係を築こうとした政治的思惑があったとされる。しかし、1862年に溺愛する息子を亡くし、そのショックから立ち直れぬまま翌1863年11月30日にアレクサンダー・リホリホ自身も死亡し、この目論見が未達に終わる。王位は即日兄のロト・カメハメハが継承した。 ロト・カメハメハは王権復古を目指して1864年8月20日に新憲法を公布した。親英の王が続いたことでハワイ王国がイギリスに傾斜することを危惧したアメリカ合衆国は、極秘裏にハワイ王国の併合計画を始めた。こうした中、次代の王位継承者を指名することなくロト・カメハメハが1872年に急逝する。王位決定権が議会に委ねられ、親米派のルナリロが1873年1月9日に即位した。ルナリロはアメリカ人を閣僚に据え、アメリカからの政治的、経済的援助を求める政策を執った。アメリカとの互恵条約締結を目的とし、交渉がなされたが、ルナリロが結核に罹り、そのまま没したため、王位は再び議会に委ねられることとなった。選挙の結果、カメハメハの有力な助言者カメエイアモク、ケイアウェアヘウルの子孫に当たるカラカウアが当選し、1874年2月13日に即位した。 カラカウアは前王の意思を継ぎ、1875年6月3日、米布互恵条約締結を成し遂げた。この条約によりハワイの全ての生産品は非課税でアメリカへの輸出が可能となったが、第4条として「ハワイのいかなる領土もアメリカ以外の他国に譲渡・貸与せず、特権も与えない」との文言が組み込まれ、ハワイのアメリカ傾倒へ拍車が掛かることとなった。有効期限を7年と定めていた最初の条約の期限が近づいた1883年、この条約は米や砂糖の生産業者などアメリカ国内において、合衆国の利益を損失するとして少なからぬ批判が噴出したが、上院議員ジョン・モーガンなどの帝国主義的拡張論者らにより、「その他の、より高次元な益がある」として反対勢力を押さえ込み、かねてよりモーガンが主張していた真珠湾の独占使用権を獲得することを条件として1887年11月に条約の更新がなされた。 1887年、野党議員ロリン・サーストンが中心となって急進的な改革を志向する秘密結社ハワイアンリーグが設立された。同年6月30日、ハワイアンリーグはハワイの白人市民義勇軍ホノルルライフルズと協力し、カラカウアに対して首相であったウォルター・ギブソンの退陣と新憲法の採択を要求した。これに対し有効な対策が取れなかったカラカウアは自ら組閣した内閣を解散した。その後、ホノルルライフルズらが起草した新憲法を半ば強引にカラカウアに承認させ、1887年7月6日に通称ベイオネット憲法が成立し、王権の弱体化はさらに進んだ。カラカウアは強大化するアメリカ系勢力を牽制しようと日本を盟主とする東洋諸国との同盟やベイオネット憲法の廃案を画策するなど王権の復古を試みたが、1891年1月20日、志を貫徹することなくサンフランシスコにて客死した。 1891年1月29日、後任としてカラカウアの妹に当たるリリウオカラニが王位に就いた。しかし、リリウオカラニの指名した閣僚が再三にわたりそれを拒否し、内閣が成立しない政治危機が続き、1892年11月8日、ようやく組閣のための閣僚承認がなされた。 リリウオカラニは山積する問題のうち、財政難打破の対策として宝くじやアヘンの売買を認可制度の下に許可するという法律を制定したが、この政策に対し、アメリカ系白人勢力から道徳的観点からの批判が噴出した。また、ベイオネット憲法に不満を募らせる王権派ハワイ人たちへの対策として1864年の憲法をバックグラウンドとした新憲法の制定を計画した。こうした動きに危機感を覚えたアメリカ公使ジョン・スティーブンスはロリン・サーストン、サンフォード・ドールらと接触し、ハワイの併合に対して、ハワイ王国の転覆と暫定政府の樹立という具体的な計画を始めた。 ===ハワイ王国の崩壊=== 1893年1月15日、サーストンらの呼びかけで前日結成された「公安委員会」を名乗る組織が、一般大衆に対し、ホノルルライフルズ部隊本部にて市民集会を開く旨の呼びかけを行った。これに対し王権派の閣僚は反逆罪の適用を検討したが、衝突を避けるよう主張するアメリカ系閣僚の声もあり、対抗する集会をイオラニ宮殿で行うことが決定された。目的はこの集会にてリリウオカラニによる「新憲法を公布しない」という声明を発表するものとし、これ以上の混乱を阻止しようというものであった。翌1月16日、ホノルルライフルズで開始された集会でサーストンは女王を糾弾し、自由の獲得を市民に訴えた。この動きに呼応し、スティーブンスは米国軍艦ボストン艦長ギルバート・ウィルツへ「ホノルルの非常事態を鑑み、アメリカ人の生命および財産の安全確保のため海兵隊の上陸を要請する」と通達した。同日午後5時、将校を含む武装した海兵隊164名がホノルル港へ上陸した。 1月17日、サンフォード・ドールは新政府樹立の準備のため、判事を辞任した。午後2時、政府庁舎に公安委員会一同が集結すると、ヘンリー・E・クーパーによりハワイ王国の終結及び暫定政府の樹立が宣言された。駆けつけたホノルルライフルズらによって政府庁舎および公文書館が占拠され、戒厳令が布かれた。ドールは暫定政府代表として各国の外交使節団およびリリウオカラニに対し、暫定政府の樹立を通達した。リリウオカラニはスティーブンスに対し特使を派遣し、アメリカが暫定政府を承認しないよう求めたが、スティーブンスは「暫定政府は承認され、アメリカはハワイ王国の存在を認めない」と回答した。これを受け、リリウオカラニはドールに対し、 ……(中略)…… 軍隊の衝突と、おそらく生命の喪失となることを何としても回避せんがため、米国政府が事実を提示されたうえで、アメリカの外交使節のとった行動を取り消して、ハワイ諸島の立憲君主としての権威の座に私を復位させる時が来るまで、私はこの抗議をもって、私の権限を放棄いたします。紀元1893年1月17日 R・リリウオカラニ との文書を送付した。暫定政府樹立宣言後、ドイツ、イタリア、ロシア、スペイン、スウェーデン、オランダ、デンマーク、ベルギー、メキシコ、ペルー、イギリス、日本、中国といった国々が暫定政府を事実上の政府として承認した。ハワイをアメリカの保護下に置くよう併合交渉を進めていた暫定政府に対し、2月1日、スティーブンスは米国公使としてその要求を承認し、ハワイ政府庁舎に星条旗が掲揚された。しかし、リリウオカラニの抵抗や、アメリカ国内における女王支持派、およびスティーブンスの取った強引な手法に対する世論の反発などで、すんなりと併合にこぎつけられずにいた。この事実を知ったグロバー・クリーブランド大統領は、スティーブンスの更迭を行い、アルバート・ウィリスを公使に任命した。ウィリスはクリーブランドの指示のもと、道徳的観点から暫定政府の取り消しとリリウオカラニの復位の道を模索した。1893年11月4日、ウィリスはリリウオカラニが軟禁されているホノルルへ赴き、国家を転覆させた反逆者の処遇をどのように希望するかを確認した。リリウオカラニは「法律上は死刑であるが、恩赦を認め、国外追放に止めるべきである」との認識を示したが、後日の新聞紙面上には「女王が暫定政府の死刑を求める」との文字が躍った。この捏造報道はその後訂正がなされ、ウィリスは12月20日、ドールに対し、「リリウオカラニを正式なハワイの統治者であることを認め、現地位と権力の全てから退くこと」というクリーブランドのメッセージを伝えた。 こうした状況からドールらは、クリーブランドの在任中の併合は不可能であると判断し、「過ちがあったのはアメリカ政府の機関であり、暫定政府とは無関係である。クリーブランド政権の要求は内政干渉に当たる」とした回答を12月23日に発表した。さらに、暫定政府を恒久的な政府として運営するため、ハワイ共和国と名を変え、1894年7月4日、憲法の発布と新しい国の誕生を宣言した。初代大統領はドールが継いだ。 1895年1月16日、王政復古を目指すハワイ人系の反乱があり、鎮圧に当たった政府軍に死亡者が出た。リリウオカラニはこの件に直接関与していなかったが、弾薬や銃器を隠し持っていたという理由で他の王族とともに反逆罪で逮捕された。こうしてリリウオカラニは王位請求を諦め、共和国への忠誠を誓い、一般市民として余生を送る旨の宣言書に署名した。 ==アメリカ合衆国ハワイ準州== 1898年1月のハバナで起きた暴動をきっかけとして、米西戦争が勃発する。この戦争は太平洋上のスペイン領土を巻き込み、そこに戦局を展開するための恒久的な補給地が必要であるとする世論が巻き起こる。アメリカはすでにハワイの真珠湾独占使用権を獲得していたが、これをより強固にするものとして俄然ハワイ併合派の声が大きくなった。そして7月7日、ウィリアム・マッキンリー大統領はハワイ併合のための決議案に署名し、ハワイの主権は正式にアメリカ合衆国へ移譲された。1900年4月、ハワイ領土併合法が公布され、同年6月にハワイ領土政府が設立された。要職にはハワイ共和国下の官僚が就くこととなり、初代ハワイ準州知事として、元ハワイ共和国大統領であったドールが就任した。その後1900年基本法と呼ばれる新法が布かれ、ハワイにもアメリカの諸法が適用されることとなった。 ===軍事拠点としてのハワイ=== アメリカ合衆国の併合により、既存の労働契約が無効化され、契約移民としてハワイに多数居着いていた日本人労働者がその過酷な労働契約から解放された。彼らは洪水のようにアメリカ本土への渡航をはじめ、1908年までに、3万人強の日本人がアメリカへ移住したとされている。こうした日本人移民が問題視され、アメリカでの排日移民運動へと繋がった。1907年に転航禁止令が布かれ、翌1908年には日米間で行政処置としてアメリカ行き日本人労働者の渡航制限を設ける日米紳士協約が交わされた。また、ハワイ本土においてストライキが法的に有効になったことを受け、これを挙行する労働者が増加した。 アメリカでの排日運動が活発化するにつれ、ハワイにおいても日本人に対する風当たりは日に日に厳しいものとなっていった。当時ハワイに住む2万人を超える日本人の子供たちのためにハワイでは150校以上の日本語学校が開設されていたが、国粋主義を吹き込んでいるとの批判がなされた。こうした日本人の生活形態や日本人労働者やその子供に対する批判は英字新聞によって頻繁に取り上げられ、日本人排斥論として世論を形成していった。こうした批判からくる不信感はやがて共産主義者の陰謀論などと結びつけて日本人に対する恐怖感や嫌悪感を市民に助長する結果となった。そんな中で、第一次世界大戦が終結し、生産の機械化や合理化が労働を奪い、アメリカに不況の波が押し寄せると、移民の数を制限しようとする動きが出てきた。1924年には移民数の上限を15万人に制限する法案が可決され、その割当数は北欧系に有利なものとされた。 1941年12月7日、日本軍による真珠湾攻撃が行われた。約8時間半後の午後4時半にはハワイ全土に戒厳令が布かれ、1944年10月24日に解除されるまで、多くの戦時規制がなされた。ハワイは重要な軍事拠点としてその役割を果たすこととなり、軍事基地の建設が加速し、太平洋戦遂行の本部としてイオラニ宮殿に軍事政府が新設された。裁判権も軍の管理下におかれ、逮捕令状無しでの拘束が認められた。住人には門限が設定され、身分証の携帯が義務付けられ、指紋登録が強制された。電話の盗聴が実施され、全ての出版物、手紙が検閲の対象となり、日本語によるラジオ放送などは即座に禁止された。 同時に、日系人に対する不信感はさらに高まり、1942年1月5日には徴兵年齢の日系2世男子は4C(敵性外人)に分類され、すでに徴兵・編入されていた日系兵士は解任・除隊させられた。日本語学校教師やジャーナリストなど、「特に危険」とされた1500人にも上る日本人・日系人が強制収容所へ送られた。ハワイ地方防衛軍として国防に従事していた日系2世シゲオ・ヨシダは防衛総司令官デロス・エモンズにアメリカに対する忠誠を誓う嘆願書を送付し、日系人による陸軍部隊である第442連隊戦闘団の前身となる大学勝利奉仕団 (V.V.V) を結成した。 また、当時人口約26万人だったハワイに、100万人とも言われる兵士と10万人近い新しい労働者たちがやってきた。軍需景気に沸くかたわら、男女比は著しく不均衡となり、アメリカ本土では1941年に兵士に対する売春行為が禁止されていたにもかかわらず、特例的に認可される程であった。こうした現象は地元の女性にとっては脅威となり、アメリカ人兵士によるレイプ犯罪は後を絶たなかった。 1942年6月、ミッドウェー海戦でアメリカ軍が勝利を掴み、日本軍によるハワイ侵攻の可能性が低減すると、1943年に灯火管制が解除され、1944年10月に戒厳令が解除された。翌年、第二次世界大戦が終結すると、ハワイでの日常に変化が見られるようになる。それまで白人に牛耳られていた政治・経済体制が、一時的にせよ権力を取り上げられたことで弱体化し、1946年に発生したストライキでは初めて労働者側が賃上げに成功した。また、アメリカ本土からやってきた兵士たちにとって、戦地へ赴くための一時の安息地として機能したハワイは彼らに「ハワイは身近な楽園」というイメージを広めた。これを契機として、戦争特需に代わるものとしてハワイは観光施設の拡充に着手し始め、後の観光都市としての第一歩を踏み出すようになる。 ===立州運動=== ハワイをアメリカの領土の一部から、明確な州として確立させようという動きは、ハワイ王国、カメハメハ3世時代から何度も持ち上がった意見であった。 1854年、親米派として知られるカメハメハ3世は、内部勢力や欧州列強の圧力からの保護を求め、ハワイ王国をアメリカの一州として併合するようアメリカ政府との交渉に乗り出した。しかし、次代のカメハメハ4世が親英であったことなどからうやむやのまま、カメハメハ3世死後、この話は立ち消えとなる。1900年のハワイ併合時にも議題としてハワイ立州案が挙げられ、サンフォード・ドールは知事就任演説でハワイの立州化について言及した。1903年、ハワイ領土議会は連邦議会に対し、ハワイ立州法案の審議を請願した。1919年にはハワイ選出の連邦議会代議員であったジョナ・クヒオがハワイ立州を訴え、連邦議会による立州に向けた調査が開始された。 そんな中、1931年9月、トーマス・マッシー中尉の夫人タリア・マッシーがハワイの地元の若者集団「カリヒ・ギャング」に暴行を受けたとして訴え、5人の若者が容疑者として逮捕された(マッシー事件)。タリア・マッシーはこの5人に間違いないと証言したが、弁護側が5人のマッシー夫人の証言とは矛盾する材料を証拠として提示したため、「陪審不一致」として5人の若者は無罪となった。この事件はアメリカ本土でセンセーショナルに報道がなされ、「ハワイの警察制度は古臭く、治安を維持する能力に欠ける」といった世論が形成された。マッシー中尉はこの結果を不服として、仲間と共に容疑者の一人ジョセフ・カハハワイを誘拐、拷問の末、殺害してしまう。陪審は加害者らを懲役10年の有罪としたが、世論はマッシー中尉の行為を「正当防衛」「名誉ある殺人」とし、ハワイの裁判過程に不満を評した。これを契機とし、連邦議会ではハワイの自治権剥奪などを盛り込んだ改正法案の提出がなされるなど、この事件はハワイ自治権の危機にまで発展し、ハワイ知事はマッシー中尉らを「禁固1時間」に減刑するに至った。 米国連邦議会の従属的な立場にあると痛感したハワイの指導者層は活発なロビー活動を行うようになる。1934年に選出された代議員サミュエル・キングによって1935年、立州法案が正式に提出され、ハワイ立州承認問題の調査委員会が組織された。1940年には立州に関する住民投票が行われ、有権者の3分の2以上が立州を望んでいることが判明した。こうした動きは第二次世界大戦により一時中断されるが、軍事政権下での抑圧とその解放を経験したハワイの市民は、アメリカ合衆国の国家の一員としての意識が高まり、戦後はさらに声高に立州運動が叫ばれるようになった。 ハワイ出身の代議員ジョセフ・ファーリントンの強い働きかけにより、また、ハリー・S・トルーマンの支持もあったことから、1946年連邦議会はハワイをアメリカ合衆国の正式な州とすべきかどうか、再度検討をはじめた。ファーリントンは翌年、ハワイ立州法案を連邦議会に提出したが、上院で廃案となり未達に終わった。しかし、これをきっかけとして立州化は共和党や民主党のマニフェストに組み込まれるなど、大きな動きを持つようになる。一方で立州化反対派は、ハワイを東西冷戦を背景とした共産主義者の活動拠点であると断じ、その分子をアメリカの政治経済の中に取り込むことは危険であるとした。 ==アメリカ合衆国ハワイ州== 1950年代に入ると公民権運動が活発化し、これに便乗する形で、ハワイおよびアラスカの立州化運動が行われ、1959年3月11日、連邦上院で賛成76、反対15で可決、連邦下院で賛成323、反対89で可決し、連邦議会はハワイ州昇格を承認した。ドワイト・D・アイゼンハワー大統領が1959年8月21日、宣言書調印を行い、正式にアメリカ合衆国の50番目の州に認められることとなった。「今や私たちは皆ハオレ」といった流行語が誕生するほど歓迎ムード一色となり、ハワイ市民は達成感と新たな期待に酔いしれた。 ===観光都市ハワイとしての発展=== 1959年に立州化して10年間で、ハワイはホテルやマンションの立ち並ぶ都会へと変貌するため、総額34億ドルにも上る建築が行われた。ディリンガムのハワイアン・ランド社による初の大型ショッピングモール、アラモアナショッピングセンターの開業、ジェット空路の連絡、貨物、旅客、車両を運搬する大型船舶のための埠頭の建築、陸上幹線道路や水道の整備など、リゾート観光開発とそれに伴うインフラの近代化が加速した。 1963年のアメリカ人に対するギャラップ調査「金銭的なことを考えずに休暇を過ごしてみたい場所」において、2位カリフォルニアに2倍近い差をつけた1位を獲得するなど、立州を契機として観光産業が繁栄し、アメリカ国内外を問わず、観光客の来州は着実に増加し、1967年12月28日、100万人目の観光客を記録した。 日本が旅行規制を解除した1964年、日本人観光客を見込んだハワイでは日本語表示の導入や従業員への日本語教育を本格的に導入する。1970年からはパッケージツアーが本格化し、日本資本がハワイには欠かせない収入源となるほどになった。 こうした日本の動きは投機面においても無視できない存在となる。日本の実業家小佐野賢治が1962年、ワイキキのモアナ・ホテルとプリンセス・カイウラ・ホテルを1940万ドルで買収したのを皮切りとして1972年までの10年間で50以上の日本の会社がハワイの不動産や企業を買収し、ハワイ支店を開設した。1974年にはハワイ州上院議員アンダーソンらが「日本の経済侵略」として警鐘を鳴らすなど、社会問題として取り上げられるようになった。1980年代に入ってもこの動きは加速の一途を辿り、川本源司郎や、川口勝弘といった日本人投資家の不動産買収の話題が紙面上で踊った。 「ジャパンマネー」に対する世論は非常に硬化し、ハワイ大学イースト・ウエスト・センターの研究者や経済評論家クライド・プレストウィッツなどが「ジャパンマネー」がハワイに与える影響やその問題を強く憂慮した。 また、高級リゾートホテルと並び、開発のシンボルとされたのがゴルフ場で、1992年時点で68のゴルフコースがあり、さらに当年、州政府に対して93件のゴルフ場開発の申請が出されるなど、ゴルフ場建設ラッシュとなった。しかし、ゴルフ場の開設は素朴で質素な生活を求める地元住民との摩擦を生み、問題となった。これに対しファシ市長は、公共設備開発使用料(インパクト・フィー)としてゴルフ場1件の開設につき1億ドルを支払うよう開発者側に求め、それを地元へ還元することで、摩擦の解消を図った。 1980年代の後半になると、日本の国内外での投機的不動産投資の影響により、土地・住宅価格の高騰が起こった。しかし、インフレを懸念した日本政府や日本銀行の締め付けにより、投資欲が減衰し、1989年10月、東京株式の暴落(バブル崩壊)が起こり、ハワイにおいても日本企業、日本人投資家からの投資が減退した。進行していた数々のホテルやゴルフ場の開発プロジェクトがその計画半ばにして頓挫し、棚上げされた。 1967年に砂糖・パイナップル産業の収入を超え、名実共にハワイ最大の産業となって右肩上がりを続けてきた観光業は、1991年に初めて前年比1.2%減という落ち込みを記録した。 ===文化の変容=== ジェームズ・ミッチェナーの小説『ハワイ』は、アメリカ全土で広く愛読されている小説で、映画化もなされた。こうした文学作品の中において、ハワイ先住民は前半の王朝史を彩る悲劇の主人公として描かれるが、近代化と共に姿を消し、ハワイの歴史として「封建社会の滅亡と近代の夜明け」といったステレオタイプに語られることが多い。これは英語教育をはじめとする同化政策による民族意識の希薄化、混血が進みハワイ先住民が消滅していっている事が原因と考えられるが、この状況に危機感を覚えた1970年代以降、黒人運動や文化的多元主義の広まりとともにハワイ先住民の復興運動がにわかに叫ばれるようになった。1974年、アメリカ先住民事業法が連邦議会を通過し、ハワイ先住民が正式にアメリカ先住民として認められるようになると、1978年、州政府はハワイ人問題事務局 (OHA) を設置し、ハワイ先住民が抱える問題への解決に注力するようになる。ハワイアン・ミュージック、フラ、パニオロなどのハワイの伝統芸術を復古させようとする動きのほか、ハワイの伝統ゲームコナネの普及、アフプアアやペトログリフのような先住民が築いた制度や史跡の研究と復活、ホクレア号によるハワイ先史時代の歴史の検証、食文化の復興によるハワイアン・パラドックスの解消など多方面に伝播して活発化され、ハワイアン・ルネッサンスとも呼ばれるようになった。 ==略年表== =三里塚闘争= 三里塚闘争(さんりづかとうそう)は、千葉県成田市の農村地区である三里塚とその近辺で発生し継続している、成田市・芝山町の地元住民および新左翼活動家らによる新東京国際空港(通称:成田空港、2004年4月1日以降の正式名称は成田国際空港)の建設または存続に反対する闘争(紛争)。成田闘争(なりたとうそう)とも呼ばれる。 ==概要== 三里塚闘争は、空港の建設地が現在の位置に決定するまでの経緯ならびに空港用地内外の民有地取得問題および騒音問題などにより空港建設に反発する地元住民らが革新政党指導の下で結成した「三里塚芝山連合空港反対同盟」による反対運動をその源流とする。反対運動はやがて開港を急ぐ日本政府による機動隊投入などの強硬策に対抗するため新左翼党派と合同することとなり、過激化した。「ボタンのかけ違い」と呼ばれる政府側と反対派のすれ違いの連続の結果、激しい闘争によって開港が当初予定より大幅に遅れただけではなく双方に死者を出す惨事となった。 開港後も過激派によるテロ・ゲリラ事件や強固な反対運動が継続し空港の拡張が停滞したため、一時は世界屈指の国際空港の地位にあった成田空港も各国間の空港開発競争の中で次第に劣勢となっていった。また、地域社会にも住民間の対立をはじめとする爪痕を残すなど現在に至るまで大きな影を落としている。さらに、この闘争は公共事業のあり方についても国内外で大きな波紋を呼んだ。 ==空港計画浮上前の三里塚周辺== ===御料牧場=== 千葉県の北部は『続日本紀』で「諸国ニ牧地ヲ定メ牛馬ヲ放ツヲ令ズ」とある700年(文武天皇4年)から続く馬の牧用地(牧)として知られており、源平合戦では東国の源氏に軍馬を供給していた。江戸時代には小金五牧および佐倉七牧が設けられ、軍馬の飼育生産が行われる。 20世紀に入り、殖産興業を推進していた明治政府は佐倉七牧の一つであった取香牧付近に近代牧畜による羊毛自給を目指して牧羊場を設けた。この牧羊場が後に宮内庁下総御料牧場(以下、御料牧場)となる。 三里塚の街は牧場関係の商売で潤い、八百屋・魚屋・仕立て屋といった商店は飛ぶ鳥を落とす勢いだったという。しばしば御料牧場を訪れる皇族も住民らにとっては身近で親しみを感じる存在だった。裕仁親王(後の昭和天皇)成婚を記念して植えられた竹の美林に隣接する御料牧場には春先になると遠方からも大勢が花見に訪れる日本有数の桜並木があり、三里塚は千葉県随一の景勝の地と言われた。 また、高村光太郎が『春駒』と題する「三里塚の春は大きいよ」から始まる詩で在りし日の御料牧場の様子を詠んでいる。「御料牧場を知らない奴は空港に反対する根拠がない」「本当のとこをいうと、(空港建設で)御料牧場がなくなるっていうんで、ここらの人はみんな気がおかしくなったのだ」と地元住民が後に語ったほど、御料牧場は近隣で生活を営む住民にとって物心両面で欠くことができない存在だった。 ===古村=== 下総台地が削られてできた谷地では谷津田と呼ばれる湿田で古くから農作が行われていた。そこで農業を営む江戸時代から続く集落は古村(こそん)と呼ばれ、強固な村落共同体が形成されていた。芝山の集落の多くがこの古村であり、成田側でも取香や駒井野がこれに該当する。 なお、駒井野には水野葉舟が居住しており、開墾の様子を「我はもよ野にみそきすと しもふさの あらまきに来て土を耕す」と謳っている。 この地は下総と上総の分水嶺に位置し、江戸時代は天領の代官の管轄区域の末端となっていたために強力な支配権が及ばず、権力に反抗的な風土が培われていたともいわれ、1914年には農民組合が組織されていた芝山町(当時は千代田村と二川村に分かれていた)では農村の階級支配に対し過去数々の争議が行われてきており、県内でも農民運動が最も盛んな地域だった。 ===開拓部落=== 第二次世界大戦敗戦直後の1946年に戦後開拓の一環として御料牧場の敷地のうち約1000町歩が農地として開放されたほか、県有林の一部だった土地が払い下げられたことで入植が始められた。天浪・木の根・東三里塚・古込・東峰など成田側の耕作地はこのときに開墾が始められたものが多く、入植者は「新窮民」と呼ばれる満州国からの引揚者(元満蒙開拓団員など)や沖縄戦による荒廃と米国による統治などにより帰郷ができなくなってしまった沖縄県出身者、長男でないために家督を継げない農家の子息などで占められていた。なお、払下げの価格は一反当り80円(ショートピース2缶相当)程度だった。 「新窮民」の多くはほとんど身一つでこの地で開墾を始めたため、その暮らしぶりは極めて貧しかった。「新窮民」らの開墾は困難を極め、昼間は古村での小作で収入を得て、その後は月明かりの下で鍬1本で開墾作業を行った。炊飯の頻度を最小限にして少しでも開墾に時間を充てるため、4日分の米をまとめて松葉などで炊き空気に触れて腐りやすい部分を削いで食べながら「オガミ」と呼ばれる電気や水道も通らない三角形の粗末な藁小屋で原始的な生活をしていた 。 農家としての生き残りをかけた土地争いも発生した入植地では、過酷な環境に耐えられなかった入植者が次々に脱落していった。結果としてこの地に残ったのは、脱落者から農地を買い取り生計を立てられるだけの規模を確保した者たちだった。 それ以前にも1923年に宮内省御料牧場の2000町歩が払い下げられるなどしており、天神峰・横堀・十余三など、明治・大正期に原野を開墾して成り立った部落もあった。それらの地区で行われた開墾の中でも特に古いものとしては、三井八郎右衛門ら富豪の出資によって設立された開墾会社によるもの(東京新田)がある。この開墾を行ったのは開墾会社に雇われていた明治維新によって職を失った下級武士・武家の奉公人・流浪の民などからなる「東京窮民」であり、台風での被害を受けるなどの困難に直面したため苦境に耐えかねて逃亡する者が相次いだ。開墾会社は業績不振で結局解散するが、この地に留まって開墾を続ける「東京窮民」や脱落した「東京窮民」から農地を取得した農民はその後小作料の上納と土地所有をめぐり地租改正で発行された地券を持つ東京の豪商と争い、長い裁判闘争を経て入植者の権利の保証を勝ち取った。そのため、この地域の農民には土地に対する執着が深く刻み込まれていた。 ==紛争発生の経緯== ===逼迫する航空需要=== 1960年代初頭、急速なジェット化による大量輸送時代の幕開けと高度経済成長によって日本の航空需要は急激に増大しており、旅客需要の伸びと航空機の発着回数の増加傾向がこのまま推移すれば、1970年頃に東京国際空港(通称:羽田空港)の能力が限界に達すると予想された。しかし、以下のような理由でその拡張性が見込めなかったため、羽田空港のC滑走路整備を進めていた当時の運輸省も羽田が将来の需要を賄うことについては超音速輸送機が今後主流になることも見すえて「その実現はほとんど不可能といわなければならない」という見解だった。 北西側部の大田区・品川区には人家密集地帯が存在し航空機騒音対策が困難であり、南西側には川崎市の石油コンビナート地帯が隣接しており、さらに南側は多摩川の河口に面しているため拡張できるのは東の東京湾沖合しかないこと。当時、東京港には船舶が殺到してパンク状態となっており、沖合への拡張は海上輸送に著しい支障をきたすこと。当時の港湾土木技術では、水深20メートルにある海床の埋め立てが困難だったこと。在日米軍が管理している専用航路・東京西部空域ほか軍用飛行場群が有する管制空域との兼ね合いなどがあり、航空機の出発経路の設定が著しい制約を受けること。建設上の制約で各滑走路を独立運用できるような配置にすることができず、滑走路当たりの処理能力が低下すること。そこで、政府(池田内閣)は来るべき国際化にともなう航空(空港)需要の増大に備え、羽田空港に代わる本格的な国際空港の建設計画の策定に着手し1962年11月16日に第2国際空港建設方針が閣議決定された。 ===新空港計画の策定と富里空港案=== ====新空港の青写真と航空審議会答申==== 1963年6月に運輸省が作成した冊子『新東京国際空港』(通称:青本)で示された「当初計画での新空港」は、超音速輸送機用の主滑走路(4,000メートル)2本、横風用済走路(3,600メートル)1本、国内線用滑走路(2,500メートル)2本を具備し、総敷地面積は約2,300ヘクタールと、当時の羽田空港(350ヘクタール)はおろか世界の主要空港(ヒースロー空港1,100ヘクタール、オルリー空港1,600ヘクタール、ニューヨーク国際空港〈現ジョン・F・ケネディ国際空港 〉2,000ヘクタール)と比較しても先進的なものだった。 「青本」が出されたのと同じ頃から建設地についても本格的な検討が進められ、候補地としては千葉県浦安沖、印旛沼・木更津沖、富里村(現富里市)・八街町(現八街市)付近、茨城県霞ヶ浦周辺、谷田部、白井などが挙げられた。 1963年12月11日に航空審議会が綾部健太郎運輸大臣に最も有力な3候補地について以下の通り答申し、富里村付近が候補地として最も適当であるとした。 浦安沖は公衆の利便の点では最も魅力的であるものの、羽田との管制上の関係や埋め立てにともなう造成経費が難点であり、気象条件についても臨海工業地帯の造成がさらに進んだ場合はスモッグによる障害が懸念される。霞ヶ浦周辺(稲敷台地または湖面)は航空自衛隊百里飛行場の影響がある。富里村付近は気象条件により滑走路の方向を弾力的に決定でき、地形・都心との距離の両面において霞ヶ浦沖よりも優れている。なおこのとき、航空審議会は「この際、中途半端な空港を作ることはかえって将来に禍根を残すことになるので、可能な限り能力の大きい空港とすることを基本的態度として考えるべきである」としている。また、航空審議会の答申の中では土地の取得問題について何ら言及はなかった。 ===建設省・党人派との対立=== それまで候補地の1つとなっていた木更津付近は羽田空港の進入出発経路の要衝となっているため、上記の航空審議会答申では「最も有力な3候補地」から除外されている。木更津案は建設省と河野一郎が推進していたものであり、特に河野は羽田空港を廃止してでも東京湾を埋め立てて新空港を建設するべきだと主張して譲らず、これに田中角栄蔵相や赤城宗徳農相も同調するなど答申後も攻防が続いた。 これは運輸省・建設省間の縄張り争いであるだけではなく自由民主党内の官僚派と党人派との駆け引きでもあり、さらにその背景には浚渫工事や土地売買を巡って暗躍する業者の存在が噂された。管制の面から下総台地こそが理想の立地であると考えながらも、政治力のない運輸省がこうした実力者の動向に気を遣うあまり地域住民の存在が蔑ろにされたとの指摘もある。 ===富里案の一時内定=== 1965年11月18日、佐藤栄作内閣は同年に実施されたボーリング調査の結果から霞ヶ浦は候補地として適当ではなかったとして関係閣僚懇談会で空港建設地を富里に内定し、橋本登美三郎官房長官が記者会見で「関係閣僚協で新空港を富里にすることに内定した。あす閣議決定する」と突如発表した。これについては、埋め立て案を強力に推していた河野の急死と内陸案に難色を示していた友納武人千葉県知事の病気療養による不在を奇貨としたのではないかとの指摘もある。 巨大な空港の面積は富里村の半分にも匹敵しており、空港周辺に展開されるであろう開発も考慮すれば、その実現は近代牧畜の発祥の地であるとともに末廣農場をはじめとする日本の農場経営のモデルケースとされてきた村がほとんど消滅することを意味していた。 当時は2019年現在と比べ航空機の利用は大衆に浸透しておらず騒音などの外部不経済の負担が大きい空港は単なる迷惑施設であるとしか世間は認識していなかったこともあり、すでに空港建設の候補地となっていた各地では反対運動が繰り広げられていた。富里村および八街町でも1963年には「富里・八街空港反対同盟」が結成されており、政府が迷走している間に革新政党が指導する反対運動が浸透していた。さらに突如として一方的に内定を突きつけられたことで地元農家らは「何が候補地として最適だ。地元の調査も挨拶もないうちに一方的に決められてたまるものか。ここは日本一の農耕地だ。農地はわれわれのいのちだ」と激怒した。 その結果、富里・八街の地元住民らはさらに激しい抗議活動を展開するようになっただけではなく政府発表まで根回しが全くなされなかった地方公共団体からも反発が出て、閣議決定はいったん取りやめとなった。千葉県には「富里に決定したら命をもらう」「ベトコン作戦で徹底的に戦う」などの脅迫まがいの電話や直談判が殺到した。 また、1960年代の日本は中央政府・地方自治体・住民の力関係が変化しつつある時期にあたっていたが、これまで地元の陳情・請願を受けて飛行場を造ることがほとんどだった運輸省当局は用地取得に関する地元住民との話し合いをどうするかも全く決めておらず、住民対策として「用地買収の条件」「代替地」「転業対策」「騒音対策」の4条件を提示して抗議してきた千葉県側に対しても「新東京国際空港公団法を次の国会に提出し、その公団に各省から人を出してもらって相談してもらう」とした。こうした「地元は政府の決めたことに従えばいい」と言わんばかりの運輸官僚の態度はさらに火に油を注ぐこととなった。なお、後述する1966年7月4日の閣議決定の前夜、農林事務次官に地元農民への対処について問われた運輸事務次官は「運輸省が飛行場をつくるときには上の方で一方的に決め、農民はそれに従うのが一般的原則である。これまでもこの方式で飛行場を建設してきたのであり、一度も問題になったことはない」と答えた。 ===三里塚・芝山の登場=== ====水面下の調整==== 富里空港反対派のデモ隊が千葉県庁に乱入するなど、翌1966年になっても反対運動は収束する気配を見せなかった。さらに同年の2月から3月にかけて大規模な航空事故が日本国内で相次いで発生(全日空羽田沖墜落事故・カナダ太平洋航空402便着陸失敗事故・英国海外航空機空中分解事故)。特にうち2件の事故は羽田空港の着陸援助能力の低さとの関連が指摘され、安全な航空施設の早急な整備が強く叫ばれるようになった。 これらを受けて空港建設地問題の決着を急ぐ佐藤栄作首相の下で、若狭得治運輸事務次官が友納千葉県知事と秘密裏に交渉を行った。これと並行して自民党政務調査会交通部会でも代替案の検討が進められ、川島正次郎自民党副総裁の斡旋などを経て、 空港の規模を大幅に縮小位置を約4キロメートル北東に移動させて国有地である下総御料牧場を建設地に充てる(なお、御料牧場は既に富里案での移転農家向けの代替地として検討されていた)という修正によって民有地を最小限に抑える三里塚案が浮上、水面下で調整がなされた。この三里塚案は羽田空港の存続を前提とした技術的な見地を重視する運輸省と「運輸省はじめ航空関係者は空ばかり見て、地に足がついていない」と批判してきていた「現実政治家」との妥協の産物であるともいえる。 なおこのとき、三里塚地区の貧しい開拓農民が相手であるなら「買い上げ価格を相当思い切ってやりさえすれば、空港建設は可能である」との思惑から古村を避けてなるべく開拓部落に収まるように空港のレイアウトを決めたと言われる。 一方、運輸省では富里案こそが理想の新空港の形であり、三里塚案は「つなぎ」「暫定案」であるとの認識が残っていた。すでに三里塚案での調整が政府と千葉県の間で進められていた1966年6月21日に中村寅太運輸相が「新空港は富里・八街以外にない」と記者会見で述べたうえ、空港建設にあたり設立予定の空港公団総裁に指名された成田努が7月12日に「地元農民の賛成があれば(政府案以上に)拡張したい」との談話を出し、地元からの不信感を招いている。 ===閣議決定と動揺する地域=== 中村運輸相が「富里・八街以外にない」と述べた翌日の6月22日に佐藤首相が三里塚・芝山地区での空港建設案について友納千葉県知事と協議し、その内容が報道された。3日後の6月25日、友納は成田市長の藤倉武男へこの協議内容を正式に伝達している。 今回は千葉県のトップとは調整が行われていたものの、地元住民の意見聴取はやはり行われておらず、現地には一言の相談もなく空港が押し付けられる形となった。結果、富里での空港建設を対岸の火事と思い、空港建設による経済的恩恵さえ期待していた三里塚・芝山地区の住民らも寝耳に水の状態で空港建設の内定を報道で知ると「一反歩もあるようなもの(航空機)が降りてくんだぞ。そんなもの降りてきたらどうすんだ」「戦争が起きたら爆弾が落とされる」「騒音で牛の乳が出なくなる」などと恐慌状態に陥り富里と同様に猛反発した。 革新政党にとっても三里塚への計画変更は意表を突かれるものであったが、巻き返しを図る日本共産党や日本社会党の指示を受けて、富里の反対運動を支援していた両党のオルグ団や反対派の富里住民らが直ちに現地に駆け付け、動揺する住民らに対して「富里と同じように闘えば、かならず空港を追い払うことができます」「俺らが勝ったんだから、あんたらも勝てる」と謳った。 切迫する航空需要を受けて開港を急ぐ佐藤内閣は、空港計画そのものへの交渉行為に応じぬまま、2週間後の7月4日に「新東京国際空港の位置および規模について」を閣議決定した。この時の決定内容は2017年までの成田国際空港の基本計画となっている。ただし、2018年3月13日に四者協議会(後述)が最終合意した機能強化案はこの範疇に含まれない。 新しい空港計画は運輸省が「21世紀にも耐えうる」と自画自賛した富里案の規模に比べ大幅に縮小されてはいたが、それでも空港建設用地は成田市・芝山町・大栄町・多古町に跨る1065ヘクタールもの広大なものであり、御料牧場等の面積は空港予定地の4割(国有地は243ヘクタール、公有地は152ヘクタール)に満たず、ここでも民有地(670ヘクタール、325戸)の取得が課題となり、用地交渉の対象者は千数百人に上った。 しかし、このとき日本政府は空港建設をまだ楽観視しており、あくまで「5年間で完成させるプロジェクトチーム」として各方面からの寄せ集めの人員で新東京国際空港公団を立ち上げている。後に一律に定められた補償額等の制約や激しい反対の中で、空港公団職員らは必死の用地買収交渉を行うこととなるが、省庁から出向してきた職員らの中には、横柄な態度で地権者に接して不評を買った者もおり「民間業者に任せれば(用地取得は)もっと早かったと思う」と振り返る空港公団OBもいる。 1966年12月12日に運輸省が空港公団に指示した基本計画では、1971年春に滑走路1本と西側半分の施設(一期地区)で開港することとし(工事を1970年度中完成)、残りの施設(二期地区)を1973年度末までに完成することを目標としていた。 ==開港までの紛争の経過== ===初期の三里塚闘争=== ====反対同盟の結成==== 1966年6月25日、成田市立三里塚小学校で「新空港説明会」が開催され、これに出席した友納千葉県知事は住民らに新空港建設への協力を要請した。しかし、空港建設用地と騒音地域の大部分を占める成田市および芝山町はほぼ空港建設反対一色となった。反対する地元住民らは富里村と同様に政府と対決することを決意し、富里の反対運動組織や現地に団結小屋を建てて常駐した革新政党オルグらの指導を受けながら各地区で反対運動団体を組織した。「三里塚空港反対同盟」が結成されたのは「新空港説明会」から僅か3日後の1966年6月28日のことである。 当時、戦後開拓で入植した農民らにとっては、住宅資金や営農資金の返済が終わって農業がようやく軌道に乗り始めており、これまでの労苦の成果が実りつつある時期に当たっていた。また食糧不足の東京に農作物を供給し復興を影で支えていたという自負もあり、自分たちを標的とした三里塚案に大いに自尊心を傷つけられた。兵役・開拓・空港と国に翻弄されてきた農民からは「三度目の赤紙だ」との声も上がった。したがって、彼らは降って湧いた空港建設計画をこれまでの努力を否定するものと捉え、政府側の期待に反して強く反発した。 他にも、古村を開発や騒音から守ろうとする芝山地区等の住民や、皇室ゆかりの御料牧場に強い思い入れを持つ戦前派ら、行政が推進していた東山地区営農改善計画(シルクコンビナート計画)に応じて養蚕用の桑の栽培を始めたばかりにも関わらず計画を反故にされ憤る農家等、さまざまな背景を持つ者が反対運動に合流した。 1966年7月から8月にかけて「三里塚空港反対同盟」および「芝山空港反対同盟」が合同し、「三里塚芝山連合空港反対同盟」(以下、反対同盟。)が結成された。 初期段階での反対同盟は、農民を中心に用地外も含め約1200戸・約1500人で構成された。各部落には独立性が認められていたが、反対同盟の下部組織として少年行動隊・青年行動隊・婦人行動隊・老人行動隊が組織されたことにより各世代間での横でのつながりが生まれ、反対派の世帯は一家総出で反対運動に臨んだ。 ===条件賛成派の動き、住民間の対立=== 閣議決定に前後して、反対派住民の転向を危惧した反対同盟の妨害などを受けながらも、県・運輸省・新たに設立された新東京国際空港公団(以下、空港公団)等により、空港の意義や移転補償内容について住民説明が行われた。 このとき県の「国際空港相談所」所長は、買い取りに応じない地権者への強制収用(土地収用法による行政代執行)の実施を匂わせつつも、 畑一反100万円(相場の4倍から5倍程度であり、当時の国家公務員初任給は2万円程度。)を基準として用地は高額で買い取り、現金で支払う買取額を代替地購入に充当すれば耕地面積を1.5倍に増やせるように調整する離農する地権者には廃止補償を出す家屋建て替えの費用は新築見合いで算出する騒音地域内の農耕地に対しては、国費で畑地灌漑施設を整備する(成田用水)等と説明をしており、「買い上げ価格を相当思い切ってやる」とする政府側の意向が反映された補償方針が示された。 また、閣議決定(「新東京国際空港位置決定に伴う施策について」)においても土地等の補償・代替地の確保・騒音対策・職業転換対策・インフラ整備等を県当局の要望に沿って行うことが掲げられていた。県の要望によって閣議決定の内容に地元との交渉条件が含まれるのは極めて異例な措置であった。 これを受けて、閣議決定後の数か月で地権者の8割が「条件次第によっては、国策に沿って移転もやむなし」とする条件賛成派に転向し、成田市議会。および芝山町議会もその年のうちに当初可決した反対決議を白紙撤回した。古村では部落の有力者の影響が強い傾向があり、特に成田側の駒井野・取香では有力者が条件賛成派に転じると部落全体も宗旨替えをした。 1968年4月6日には中曽根康弘運輸大臣および友納知事立ち会いのもと、空港公団と条件賛成派4団体との間で「用地売り渡しに関する覚書」が取り交わされ、空港公団は空港用地民有地の89%(597ヘクタール)を確保した。 事前に行われていた条件賛成派団体との交渉を経て、覚書では反当たりの買取価格が当初の説明よりもさらに上昇しており、畑:140万円、田:153万円、宅地:200万円、山林原野115万円となった。また、畑の代替地基準価格は90万円とされ、当初の説明内容に沿う形で代替地の耕作地の価格は買取額の2/3程度に抑えられたほか(他の地目でも同じ比率)、空港公団が用地提供者に対し転職・就職のあっせんを行い、希望者には空港内での営業権を与えることや、代替地を早急に造成し速やかに引き渡す努力をすること等が約された。 代替地は引き続き専業農家となることを希望する者には優先的に配分されたものの、兼業農家となることを希望する者も多く、希望者に対して必要な代替地自体が十分に確保できなかったために移転先の耕地面積が移転前よりも却って減少するなど、問題がないわけではなかった。とはいえ、相場以上の土地の買い取り価格をはじめとした補償が提示された結果、9割の地主が一定の理解を示し移転に応じる形となった。 用地買収に応じた者の心情として、小川プロダクションの取材で条件賛成派となった農民らが、 共産党や社会党に援農などで恩を着せられると反対運動から抜けるに抜けられなくなるが、このままいったら国や県の援助を得られず代替地もいいところをとられてしまう圧力を覚悟で声を上げたところ、実は条件賛成派になりたかったが近所手前のことで声を上げられなかったとする者が半数以上いた既に空港公団との売買に応じていても、反対運動がすごく、下手な口をきいたら殺されてしまうのでみんなに話せなかった来客があっても自分の塩梅を見に来たと思い、腹の底からじっくり安心して話ができなかった(疑心暗鬼で)ずいぶん辛い思いをした。この精神補償ももらいたいくらいだ自分は空港反対だが部落がそうなった以上は条件賛成派に入らなければ生活が成り立たない物価の上昇等も考えると条件賛成派になったのはうまくなかったな(売却を先延ばした方が土地を高く売れた)、という感じはあるものの、自分の身の振り方を考えた時には空港が来てよかったと思っている等とそれぞれの思いを語っている。なお、この取材記録は同プロダクションの映画作品には使われていない。 また、古村を中心とする地権者らが結成した条件賛成派団体である成田空港対策地権者会の会長は、「先祖伝来の貴重な土地を国家要請で売り渡さなければならない農民の気持ちは複雑だった。売った以上は立派な国際空港を一刻も早く作ってほしいと思った」と語っている。 移転を機に専業農家を辞めた元地権者らの多くは、空港公団の斡旋を受けるなどして警備業や店舗経営等の空港関連の業種に転職し、取得した代替地にも空港完成後の地価の値上がりが期待された。彼らにとっては新たな生活を営む上で新空港の早期開港が切実なものとなったが、闘争の長期化に伴う開港延期や開港後の空港拡張の停滞によって、さまざまな問題を抱え込むことになる。また、元地権者の中には空港公団職員や測量や代執行を行う空港公団のガードマンとなった者もおり、反対派として闘争を継続する親族や元隣人と対峙する事態も発生した。 条件賛成派に対する反対派の怨嗟は少なからずあり、上述の地権者会会長は反対派から連日嫌がらせを受けていたほか、支援学生が提案してきた条件賛成派との再共闘が反対派の会議で一蹴されたり、闘争で荒んだ反対派農家が条件賛成派農家の農作物を荒らすことなども起きた。反対同盟の資料では「佐藤内閣のお先棒かつぎ」「警察の犬」等の言葉を用いて条件賛成派が批判されている。闘争初期において反対派が多かった古村で条件賛成派農家への村八分が行われ、その農家が人権擁護局に訴えたこともあった。 もともとこの周辺の地域では「香取巡査、山武巡査」と呼ばれるほど警察官となる者が多く、子息が警察官に採用されることは誇られることであった。しかし、成田空港問題は状況を一変させ、反対派の憎悪はこれらの者にも向かった。当初は出身地を考慮せずに成田警備に出動させられたため、勤務中には身内に聞くに堪えない罵声を浴びせられ、私生活においても親の葬儀では誰も手伝いに現れない「村十分」の扱いを受けただけでなく「サツの犬が来た!」と竹槍で追い回され、多くの「山武巡査」がノイローゼに陥ったという。 ===測量クイ打ち阻止闘争と革新政党の離反=== 残りの民有地を有する、政府側の硬軟織り交ぜた働きかけを受けても反対同盟に留まった者達の決意は固く、更なる反対運動が続けられた。 反対派は百里飛行場への反対運動等を参考に、用地を細分化して空港用地買収交渉を困難にする目的で、革新政党主導の下で土地一坪を地権者や支援者が相互に売買して登記する「一坪運動」や立木一本一本を売買して表札を掲げる「立木トラスト」を展開した。一坪運動は1966年8月29日から始まり、用地内で33か所の2.1ヘクタールが共有地に充てられ、所有者は1300人余りに及んだ。これらの登記には日本社会党議員も名を連ねている。 当初より空港反対運動の組織・指導にかかわっていた革新政党であるが、反対同盟が1967年8月16日に「あらゆる民主勢力との共闘」として敵対する新左翼党派(反代々木派)の受け入れを表明したことで、共産党との関係に亀裂が生じ始めた。 8月21日に、友納知事が土地収用法に基づく空港公団による土地の立入調査が行われる旨を通知した。この間に反対同盟は陳情・デモ・署名運動・解職請求などのさまざまな抗議運動を行うが芳しい成果は上がらなかった。このころの反対派住民の中には自民党支持者も多く、自民党議員への陳情も行われたが、陳情後もそれらの議員が空港賛成の言動を継続したため、失望が広がった。 10月10日の早朝に、外郭測量用のクイを打つため、空港公団職員らが警視庁・千葉県警察・神奈川県警察の機動隊約1500人に守られながら空港建設予定地に現れる。これに対し反対派は進路上での座り込み等による阻止を試みたが、道路交通法違反等として警告を受けた後に機動隊に物理的に排除されてしまう(測量クイ打ち阻止闘争)。このとき、同盟員の先頭に立っていた共産党と民青の部隊は早々に座り込みをやめて隊列を離れ、労働歌「がんばろう」を歌いながら、機動隊と反対派住民らの衝突を傍観した。 同盟員は政府の横暴と共産党の「裏切り」に驚愕し、憤った。対して共産党は、同年11月14日に大橋武夫運輸大臣および空港公団総裁が反対同盟代表の戸村一作らと座談会を開いたことについて、「同盟の大方針に反するばかりでなく、同盟を一部の人々でひきまわす非民主的なやり方」と糾弾したうえ、その後も反対同盟幹部の寝返りの噂を流して主導権の取り戻しを図ったことで、反対同盟との対立は決定的となった。 一方、この日は1本でもクイを打ち込めれば成功と考えていた空港公団では、3本とも打ち込めた予想外の成果に「空港建設への突破口が開けた」と今後を楽観視した。しかしながら、それは長期に亘る苛烈な実力闘争の幕開けであった。政府の対応に激怒した反対同盟は、暴力を厭わない実力闘争に舵を切る決意を固めると同時に、12月15日に共産党の支援と介入を排除する声明を発表した。反対同盟の共産党に対する拒絶は、共産党を支持したり共産党員の家族がいる世帯に対する村八分が古村で行われるほど徹底していた。 社会党はその後もしばらく支援を続けていたが、闘争開始から3年程度で反対運動の隊列から消えていき、一坪共有運動に参加していた者も反対同盟に通告もしないまま土地を空港公団に売却した。 革新政党は反対運動を利用して党勢の拡大を図ったため、反対派住民らに不信感を持たれたとも分析されている。 ===新左翼党派の介入=== 折しも反対同盟が機動隊の威力を目の当たりにした1967年は、70年安保と連なる日本の学生運動が勃興しつつある時期と重なっていた。 革新政党の党利党略に絶望しつつも国家権力への対抗を模索する反対同盟は、測量クイ打ち阻止闘争と同時期に発生した羽田事件で機動隊と渡り合った学生ら(新左翼党派)に期待し、「支援団体は党派を問わず受け入れる」という姿勢を取った。一方、反国家権力闘争を掲げる新左翼各派にとっても、三里塚闘争はベトナム戦争反戦運動や佐藤内閣への反発の象徴的な対象として映り、双方の思惑が一致した。 翌1968年2月26日および3月10日には、成田市内で空港公団分室への突入を図った学生集団と機動隊との間で激しい衝突があり、それまで新左翼に懐疑的であったり暴力行使を懸念していた反対派住民らは、抗争力を発揮した学生らを自宅に招いて歓待した。このことや反対同盟代表の戸村一作が2月26日の衝突で機動隊に殴打されて負傷したことを切っ掛けに、反対同盟は武装闘争路線の新左翼である中核派・共産同・社青同解放派が主導する三派全学連の全面的な支援を受けることになった。現地では「全学連の健闘をたたえる」との横断幕が各所で張られ、「学生さんだけをなぐらせては……」「ワシがまず血祭りにあがる」と血気にはやる反対派住民らの熱狂ぶりは「おばさんや青年や老人たちの間では、農民の為に血を流してくれた闘う中核(派)が大もて」等と報じられた。 ただし、新左翼党派の中でも階級闘争至上主義の革マル派は三里塚闘争を「小ブルジョア農民の自己保身」と揶揄したほか、内ゲバや地元の食堂での無銭飲食など素行の悪さが目立ったため、1970年1月に反対同盟の幹部会で「現地闘争に主体的に参加せず、他派に対する誹謗のみを目的とした」として、運動から追放された。その後、革マル派は三里塚闘争への妨害活動を続けている。 反対同盟は新左翼各派の支援を受けつつ、座り込み・空港公団職員から強奪した調査用具の損壊・投石・バリケード構築・空港関係者への嫌がらせなど、さまざまな手段を用いて、空港公団や警察の機動隊を相手に実力で対抗した。 開港までの闘争では戸村代表の指導の下、共通の敵である政府に打撃を与えるため、現地に乗り込んだ新左翼各派の活動家らと古村・開拓部落の反対派住民らとが互いに協力又は利用し合いながら呉越同舟の形で活動を行っていった。 反対同盟は上記のとおりさまざまな新左翼党派を受け入れたことで武闘派の支援者を大動員して政府勢力と対抗することには成功した。しかしそれは後に、新左翼党派間の反目や、新左翼党派との関係性のあり方についての地元住民間の意見の相違を産み、反対同盟の分裂・闘争の泥沼化に繋がっていくこととなる。 ===闘争の激化、開港=== ====一期地区の収用==== 空港公団は移転補償費を算出するため、同意した条件賛成派の不動産に対して「百日調査」と呼ばれる調査を1968年4月20日から7月19日にかけて実施したが、これに新左翼党派だけでなく農民が空港公団職員や機動隊に対して角材をふるったりスクラムを組むなどして抵抗した。このときデモや乱闘で条件賛成派の家屋や畑が破壊されている。 また、1969年8月18日には御料牧場の閉場式が挙行されたが、反対同盟が乱入して抗議行動を起こしたうえ、青年行動隊が会場を破壊し、青年行動隊隊長が全国指名手配されている。 警察側でも、これらの動きに対して同年11月12日に反対同盟が工事用道路に座り込んでブルドーザーを阻止した際に戸村代表以下13名を逮捕するなど、断固とした措置をとるようになった。 これらの苛烈な闘争を前に、円満な用地取得は到底不可能と考えられ、空港公団は国家権力を用いた強制収用により残りの土地を入手しようとした。1970年には、収用委員会への強制収用申請に必要な土地調書および物件調書を作成するために、空港公団が土地収用法第35条に基づく未買収地への立入調査を実施した。反対派はこれに対して屎尿やクロルピクリンの投擲・投石・鎌・竹槍等で対抗した。当初機動隊は測量を行う空港公団職員の背後に控えていたが、空港公団職員が青年行動隊に竹槍で大怪我を負わされると前面に出てくるようになった。 更に反対派は、強制収用を困難なものにするため、空港公団に買収された土地での不法耕作や条件賛成派の畑からの窃盗で得た農作物を売って得た資金と旧御料牧場から盗み出した材木等を使い、強固な団結小屋である「砦」や地下要塞の構築にも乗り出した。 こうした反対闘争が高まる中、政府は一貫した非妥協の姿勢で建設計画を遂行し、「二、三日のうちに景観が一変してしまうほど」の急ピッチで工事が推し進められ、未買収地への収用手続きも並行して行われた。1971年2月22日から3月6日にかけて、取得が困難な団結小屋や一坪共有地などを対象に第一次行政代執行が実施され、反対同盟・支援党派と作業員・機動隊が衝突した。その後、反対派が立てこもる地下壕や「農民放送塔」が撤去された。なお、この年の8月には青年行動隊等によって日本幻野祭が開催され、多くの若者が現地を訪れている。 同年9月16日から再び建設予定地で第二次行政代執行がなされた。9月20日、この日は代執行をしないとの千葉県知事友納武人による前日の発表に反して、突如警察の機動隊と作業員らが現れ、庭で稲の脱穀をしていた小泉(大木)よねを排除して住居を撤去した。空港建設での行政代執行としては最初で最後となる民家への実施をもって、第二次行政代執行が終結した。この出来事は、権力の強制力によって生活の基盤を奪われることが現実のものになったとして、その後の反対闘争のシンボルとなる。 第二次行政代執行中に警備にあたっていた臨時編成の機動隊の3名が死亡(東峰十字路事件)した他、これらの激しい闘争では双方が多数の負傷者を出しており、同年10月1日には、青年行動隊の中心メンバーであった三ノ宮文男が「空港をこの地にもってきたものをにくむ。」「私は、もうこれ以上、たたかっていく気力を失いました。」などと記した遺書を残して自殺し、反対同盟内に衝撃が走った。 ===膠着期=== 1972年3月15日、反対同盟はA滑走路南端、アプローチエリア内の岩山地区に高さ60.6メートルの鉄塔(通称:岩山大鉄塔)を鳶職の協力のもと建設し、飛行検査を中止に追い込んだ。更に千葉港から航空燃料を空港に輸送するためのパイプライン建設が経由地での反対運動や技術的問題によって停滞し、代替としての鉄道輸送(暫定輸送)も自治体との調整が難航した。そのため、滑走路等施設の建設は進められたものの、開港自体は先延ばしが続いた。 反対同盟側も代執行阻止闘争での大量逮捕により打撃を受けており、反対同盟結成時に320戸あった用地内反対派農家は代執行前後には45戸、1976年には23戸にまで減少していた。 一方、この期間に戸村代表の第10回参議院議員通常選挙出馬や有機農業(ワンパック運動)の導入などの取り組みがあった。 ===妨害の中での開港=== 1977年1月11日、「さあ働こう内閣だ」と自称した福田赳夫内閣が閣議で年内開港を宣言し、1月17日には関係閣僚協議会が開かれて閣僚からは積極的発言が相次ぎ、福田首相も「年内開港を目指す。『有言実行』を唱える福田内閣が言った以上は実現しなければならない」と改めて決意を述べて大号令を発した。 同年1月19日には、航空機の飛行を敢然と拒む岩山大鉄塔を撤去するため、重機を運び込む道路の延長工事が始まるなど当局は早速空港建設に向けて動き出した。これに対して反対派も4月17日に闘争史上最大となる1万7500人を結集して「空港粉砕,鉄塔決戦勝利,仮処分粉砕全国総決起集会」を三里塚第一公園で開催した。 同年5月2日、空港公団は航空法第49条1項違反として、鉄塔撤去の仮処分申請を千葉地方裁判所に提出。5月4日千葉地裁は書面審理のみで仮処分を決定。5月6日午前3時ごろ、2,100人の機動隊が鉄塔周辺を制圧した。4時過ぎ現場に到着した北原鉱治事務局長に、千葉地裁執行官が鉄塔の検証終了と鉄塔の撤去を通告、反対派を周辺から排除し午前11時過ぎ鉄塔の撤去を完了。航空法違反部分だけでなく、鉄塔を根元から切断撤去した。 この日の午前5時ごろから反対派と機動隊の衝突が続き、5月8日には大規模な衝突が発生。「臨時野戦病院」前でスクラムを組んでいた支援者A(27歳)が頭部にガス弾の直撃を受けて意識不明の重体となり、2日後の5月10日死亡。Aの両親は「機動隊の催涙ガス弾が原因」として、政府と千葉県に約9,400万円の損害賠償を求めて提訴した(東山事件)。 5月9日には、これに対する報復と見られる襲撃により、警察官1名が死亡した(芝山町長宅前臨時派出所襲撃事件)。 上記のような過程を経て一期地区工事は推し進められ、滑走路1本の片肺ではあるものの新東京国際空港は翌1978年3月30日に漸く開港することとなった。しかし、政府の威信を賭けた開港を目前に控えた3月26日に、第四インターナショナル(略称:第四インター)、プロレタリア青年同盟、戦旗・共産主義者同盟等が空港を襲撃した。前日から地下に潜伏していた別働隊がこれに呼応して空港敷地内のマンホールから飛び出して、対応に追われる警備陣の隙をついて空港管理ビルに突入、更にビル内の管制塔を占拠して各種設備を破壊した(成田空港管制塔占拠事件)。このため開港は延期を余儀なくされ、政府は更なる警備強化を実施するとともに、いわゆる成田新法を制定するなどして秩序の回復を図った。 この開港遅れの期間中であった5月5日に、納車されたまま定期運用が無い状態だった京成電鉄のスカイライナー用車両が放火される事件が起きた(京成スカイライナー放火事件)。さらに5月19日にも京成本線で同時多発列車妨害事件、運輸省航空局専用ケーブルの切断事件を起こすなど、新左翼党派らによる闘争は先鋭化していった。 管制塔襲撃から2ヶ月後の5月20日、関連施設への襲撃、運航への妨害(妨害用の気球の浮揚・古タイヤの燃焼)、警察部隊との激しい衝突が行われる中で、新東京国際空港は漸く開港を果たした。このときの関係者の思いは、福永健司運輸大臣が式典で述べた「難産の子は健やかに育つ」との言葉に凝縮されている。この時点で未成の二期地区内には反対派農家17戸が残され、うち15戸が反対同盟で占められた。開港に前後して過激派によるゲリラ事件も頻発したが(18日から21日までの間に、反対派が空港周辺で使用した火炎瓶は約1,700本、押収された火炎瓶は約3,160本にのぼった)、翌21日に一番機が反対派が燃やす古タイヤの煙を掻い潜って空港に着陸すると、関係者からは拍手と歓声が沸き上がった。 ==開港後の動き== ===日本の表玄関となった成田=== 開港時点においてもなお反対運動が活発であったことから、来港者全員に対する検問が実施され、当時としては世界でも稀にみる警備体制が敷かれる空港としてスタートした新東京国際空港であったが、開港翌年の1979年には日本人出国者数が前年比14.6%増の403万8298人を記録し、初めて400万人を超える等、最新設備を具備した大型空港が開港したことで日本の国際化は大きく進展した。開港から10年目の節目である1988年度には成田の国際線日本人旅客数が1000万人の大台を突破している。 2002年に至るまで滑走路一本のみで運用されたとは言え、空港には世界各地から2階建ての超大型機ボーイング747が飛来し、限られた発着枠の配分を待つ乗り入れ希望の航空会社が引きも切らない状態が続いた。本邦社のみならずノースウエスト航空等の以遠権を行使するアメリカの航空会社が太平洋路線とアジア路線の結節点として成田をハブ空港にしたことから、成田は国際線の拠点として長らくアジアの中でも中心的な役割を果たしていった。 周辺地域には空港関連事業で働く多くの労働者とその家族が流入し、地元住民やその親族の多くも経済的に空港へ依存するようになったことや、自治体もその財政を空港によって得られる税収や交付金に頼るようになったため、反対運動に対する世間の関心が薄れていく中、反対派は地域においても「空港との共生・共栄」の声に押されて次第に孤立していくこととなる。 ===反対同盟の分裂と過激化する新左翼=== 「開港絶対阻止」をスローガンに活動を進めてきた反対運動は、空港開港により当初のスローガンを「空港廃港・二期工事阻止」に転換せざるをえなくなった。反対運動の中心人物であり精神的支柱でもあった戸村代表の病死とともに空港の存在が既成事実化するにつれ、条件闘争への転向者や反対同盟から離脱者が続出した。初期の反対運動を牽引していた地元農民らは次第に実力闘争から離れていき、反対同盟の支援者であったはずの新左翼党派が運動を掌握するようになり、ときには学生らに反対同盟員が糾弾され暴力を振るわれることも起きるようになった。 反対同盟幹部らは事態を危惧し、過激派等の攻撃から運営中の空港を守りながら強制収用を実施することは不可能と考える警備当局や空港公団関係者らからも二期地区の整備を絶望視する声があったことから、開港と前後して反対派と政府側との間で水面下での交渉が模索された。中には覚書の締結にまで漕ぎつけたものもあったが、情報漏洩により不成功に終わった。政府との交渉が新聞に暴露されると、話し合いを行っていた反対同盟幹部の家には連日新左翼の街宣車が押し掛けて早朝から日没まで大音量で”謀略”を罵り、交渉の是非や幹部の処遇を巡って紛糾した反対同盟は大混乱に陥った。 そのような中で、二期地区内の未買収地での一坪運動をさらに進める「一坪再共有化運動」を巡る反対派住民同士の対立に加えて、支援党派の主導権争いが目立つようになり、反対同盟は1983年3月8日に北原鉱治事務局長を中心とする「北原派」と熱田一行動隊長を代表とする「熱田派」とに分裂した。北原派は一坪再共有化運動に反対の立場であり、空港用地内の農家が多く、中核派、革労協、共産同戦旗派等が支援した。熱田派は一坪再共有化運動推進の立場であり、空港用地外の農家が多く、第四インター、戦旗・共産同、プロ青同等が支援した。北原派も熱田派も空港建設の見返り事業である成田用水を認めないこととしたため、用水受け入れを訴えていた用地外にある古村の農民の多くが「用水派」として反対同盟から離脱し、条件交渉に移った。1983年時点では、北原派が約30戸、熱田派が約70戸、用水派が約100戸であった。1987年9月4日には、北原派から支援党派の介入に反発する「小川派」が分離する。 一方で、開港後においても10.20成田現地闘争を始めとする新左翼活動家らによる暴動・破壊行為だけでなく、東鉄工業作業員宿舎放火殺人事件や千葉県収用委員会会長襲撃事件のような関係者を標的とした左翼テロが横行し、更には反対運動を断念して空港公団に土地を売却し移転した農家への放火等嫌がらせや新左翼党派間での内ゲバも発生した。成田が開港した1978年から2017年までに発生した成田関連のゲリラ事件は511件にも上り、この期間に全国で発生したゲリラ事件(919件)の半分以上を占める。 ===和解と現状=== 平成の到来と冷戦終結とともに、B滑走路を含む二期工事を進めたい政府と反対運動の風化を懸念した反対同盟熱田派のメンバーの間で話し合いの機運が生まれ、合意形成の場として成田空港問題シンポジウムおよび成田空港問題円卓会議が開催された。この中で「ボタンのかけ違い」と称して政府側と反対派のすれ違いがこれまで連続してきた経緯について議論がなされ、運輸省からは「空港の位置を決める前に、地元のコンセンサスづくりを十分にやらなかったのは私どもの努力不足であり、深く反省している」「空港づくりを急いだ結果、地域社会に混乱と深い傷を生じさせてしまった」、空港公団からは「地域のコンセンサスづくりについて二十数年前にもっとやるべきことがあった」とそれぞれ謝罪の言葉が述べられた。 それらを契機として、1995年(平成7年)に当時の内閣総理大臣・村山富市が行った反対同盟に対する謝罪をはじめ、政府・官僚・空港公団が過去の過ちを認めたことや、空港東側の住民への補償として芝山鉄道線の建設が約束されたことにより、木の根地区の地権者らが、集団移転に応じることとなった。 空港公団の民営化に伴い成田国際空港に空港名を改められた現在においても、当初B滑走路建設の予定地とされていた東峰地区の農家や一坪地主などの用地買収に応じていない地権者が若干名残っている状況である。空港公団の後身である成田国際空港株式会社(以下、空港会社)によると、2016年8月末の空港用地内の未買収地は、敷地内居住者2件1.7ヘクタール、敷地外居住者4件0.6ヘクタール、一般共有地3件0.5ヘクタール、一坪共有地2件0.1ヘクタールで、合計2.9ヘクタールとなっている。 現在の成田では、国・県・空港周辺市町・空港会社で構成される四者協議会や、空港対策協議会・騒音対策協議会・自治体連絡協議会など、話し合いと問題解決の仕組みが設けられているとされる。また、2011年6月23日に三里塚闘争を後世に伝えるための施設として空港会社が「成田空港 空と大地の歴史館」を開館している。対して、もはやごく僅かとなった反対同盟を他の地域に居住しながら未だ支援し、地域を犠牲にしてでも政治闘争や反権力闘争を続けようとする新左翼党派については、元反対派の地元住民らからも批判の声が上がっている。 世界有数の市場である首都圏を後背地に持つ成田空港は、処理能力のハンデを負いながらも、かつて世界屈指の国際旅客取扱量と世界一の国際貨物取扱量を誇る一大国際航空拠点であった。しかし、超大型空港の整備が各国で進められ、特に韓国が国家を挙げて日本の航空市場への攻勢をかける中で、富里での抵抗により規模を大幅に減じられた上に根強い反対運動により三里塚案での基本計画の完遂すらままならなかった成田空港の国際的な地位は相対的に低下していった。羽田空港の再国際化を経た2018年現在においても成田はなお日本国内において第1位の国際空港であり、またLCCの定着と増大する訪日外国人旅行の後押しもあってその取扱量は増加傾向を維持しているものの、2016年には成田空港の国際線旅客取扱量は第18位にまで世界順位を下げている。 ==三里塚闘争の公共政策への影響== 成田空港建設における日本国政府の失策と、それにより発生した三里塚闘争があまりにも悲惨な結果をもたらしたため、公共事業等を巡って紛争が起きている現場では、「合意形成の努力をしないまま力に頼って事業を進めれば力による抵抗を生む」「左翼の介入を許すと泥沼になる」という2つの自戒を込めて、『成田のようにならないようにしよう』が合言葉になった。 内陸に空港を建設したため、用地取得や騒音の問題が顕著に発生した成田で三里塚闘争による甚大な損失を招いた教訓から、以降日本国内の空港はそれらのハードルが低い海上や遠隔地で建設されることが多くなった。そのことは日本の空港の利便性低下やコストの増大をもたらしている。また、土地収用や代執行も慎重に実施されるようになり、日本の公共事業全般に少なからぬ影響を与えた。 上述の「成田空港 空と大地の歴史館」は、国家公務員総合職初任者や成田空港会社の新入社員の研修に組み込まれ、『第2の成田』を作らないために、教訓を生かす取り組みに用いられている。 一方、開発に反対する住民側においても実力闘争から住民投票などに闘い方を変える転機になったともいわれ、特に長期に亘る闘争を経て行われた成田空港問題シンポジウム・成田空港問題円卓会議は、それ以降の公共事業実施の際のモデルケースとされ、長良川河口堰の問題でも円卓会議方式が採用されたほか、八ッ場ダムの反対運動をしていた住民がシンポジウムを勉強しに訪れるなど、日本の全国各地で行われていた住民運動の参考事例とされた。 日本国外でも、管制塔占拠事件等は大きく報じられ、闘争の様子は映画や音楽等の作品でテーマとして用いられたほか、公共事業の失敗事例として大きな注目を浴びた。例えば西ドイツでは、成田と同時期に計画があったミュンヘンでの空港建設にあたって成田空港問題について徹底した研究分析が重ねられた。1969年に空港建設を決定していたバイエルン州政府は、20年の紆余曲折を経ながらも259回に及ぶ公聴会を開催するなど反対派を十分に説得した。その結果新しい空港は、空港周辺の環境との両立を図るため計画の一部縮小を経ながらも、着工から5年後の1992年5月にフランツ・ヨーゼフ・シュトラウス空港として供用を開始し、今日では欧州の空港の一角をなしている。 ==資料画像== =雨氷= 雨氷(うひょう)は、0℃以下でも凍っていない過冷却状態の雨(着氷性の雨)が、地面や木などの物体に付着することをきっかけに凍って形成される硬く透明な氷のこと。着氷現象の一種でもある。 ==概要== ===過冷却と凍結=== 水はふつう凝固点である0℃を下回ると凝固(凍結)し氷となる。しかし、ある条件下では0℃以下であっても凍結しないで液体のままを保つことがある。水を構成する分子が非常に安定しているときに起こるもので、これを過冷却状態という。自然界では、雲や霧を構成する水滴のように3 ‐ 数百μmの大きさでは‐20℃程度まで、雨粒のように数百μm ‐ 数mmの大きさでは‐4℃程度まで、過冷却のものが存在することが知られている。 雨粒がこのような過冷却状態にある雨を着氷性の雨(ちゃくひょうせいのあめ)という。なお、直径0.5mm以下の雨粒からなる雨を霧雨というが、同様に過冷却状態にある霧雨を着氷性の霧雨という。本項目ではこれ以降、特に注記がない場合は「着氷性の雨」には霧雨も含めることとする。過冷却状態の水に衝撃を与えると急速に凍結を始めて氷となるが、着氷性の雨も同様に樹木、地面、電線などの(0℃以下に冷えている)物体に触れた衝撃で凍結する。このようにしてできる付着氷が雨氷である。なお、雨よりも小さな水滴でできている霧の場合にも起こりうる。過冷却状態にある霧を着氷性の霧という。着氷性の霧は、後述のように風速や気温などの条件次第で付着の様子が変わるため、雨氷に限らず、粗氷(そひょう)、樹氷(じゅひょう)にもなる。 ===名称=== 日本では、近代には雨氷を表す言葉として”glazed frost”の訳に当たる「凝霜」が用いられていた。しかし、霜と混同して誤解を生むとされたことから、中国語の「*91*淞」をより平易にした「雨氷」が1915年(大正4年)から使用されるようになった。 英語では「上ぐすり(釉薬)」の意味があるGlaze, Glaze iceを雨氷を意味する語として用いる。また、航空の分野では航空機に付着する雨氷を特にClear iceと呼ぶことがある。また、着氷性の雨、霧雨、霧はそれぞれFreezing rain、Freezing drizzle、Freezing fogという。 ===雨氷の性状=== 雨氷は、物体表面に硬く滑らかで透明な氷の層を作る。同じ着氷現象の1種である樹氷や粗氷とは、色や性質により区別されている。樹氷は白色不透明、粗氷は半透明なのに対して、雨氷は透明である。また樹氷より粗氷の方が固いがどちらも手で触れば崩れる程度の硬さであるのに対して、雨氷は固く手で触った程度では崩れない。色や脆さの違いは、気泡の含有率に起因している。樹氷は小さな気泡をたくさん含むため白色で脆く、粗氷は樹氷よりは固いがそれでも気泡を多く含むため半透明を呈する。一方の雨氷は気泡の含有率が低いため透明であり、氷が形成されるとき水滴同士が融合しあうので表面が滑らかになる。雨氷の密度は約0.9であり、純粋な氷とほぼ同じである。 なお、0℃を僅かに超えた雨粒が0℃以下に冷えた物体に付着しても透明な氷ができ、雨氷と混同される場合がある。また、積雪が融解したあと再び凍結するなどして透明な氷ができることもある。これらは雨氷ではない。なお、再凍結によりできるもののうち、例えば細く地面に向かって垂れ下がるものは氷柱(つらら)、その逆に空に向かって伸びるものは氷筍(ひょうじゅん)という。 ===雨氷と似ているが異なる現象=== ===特徴=== 着氷性の雨が発生する条件として、地上気温は0℃から‐数℃の狭い範囲に限られ、後述のように上空に適度な厚みの逆転層が存在することが必要である。ごくありふれた現象である雨や雪と比べて、雨氷は目にする機会が少なく、発生頻度も低いため、珍しい気象現象とされている。 低地の平野部よりも、地形に起伏のある山地などのほうが発生しやすい。これは起伏により逆転層が形成されやすくなることなどが原因である。 雨氷が物体に大量に付着すると、樹木の枝が重くなりって折れ曲がったり、地面に氷の層を作って人の転倒や車両のスリップを引き起こすなど、被害を発生させることがある。一方、樹木などに付着した雨氷が美しい風景を作り出すという側面もある。着氷性の雨や霧は上空でも生じるが、これにより雨氷が航空機の翼などに付着して運行に重大な支障を引き起こす例がある。 ==形成過程== 着氷性の雨の形成には2通りある。1つは雪が融けて生じるもので、上空で生成された雪が落下する間に融ける「融解過程(melting process)」を経る。融解過程には、上空に逆転層が生じることが必要である。もう1つははじめから過冷却の状態にあるもので、始めから過冷却の水滴として雲の中で水滴が発達し、地上に達するものである。このプロセスは「過冷却の暖かい雨(supercooled warm rain process, SWRP)」と呼ばれている。 着氷性の霧の場合、はじめから過冷却の「過冷却の暖かい雨」である。 ===雪が融解して生じる着氷性の雨=== 通常、大気は上に行くほど気温が下がるが、例えば上空の高さごとに風向が異なり、上下の冷たい空気の層(冷気層)の間に暖かい空気の層(暖気層)が侵入すると、逆転層が発生する。逆転層発生の要因は他にも地形による寒気のブロックなどがある。 上下の冷気層が気温0℃以下、真ん中の暖気層が気温0℃以上のとき、上の冷気層の雲から雪が降ると、暖気層で融解して雨、冷気層で再冷却され着氷性の雨となる。 雪(固体)→加熱による融解→雨(液体)→冷却→着氷性の雨(過冷却の液体)ただし、前記のような逆転層があっても、必ずしも着氷性の雨にはならない。逆転層があっても、暖気層で雪が完全に融けないで雪となる場合もあれば、冷気層で凍結してしまい氷の粒が降る凍雨として観測される場合もあるからである。実際、着氷性の雨より凍雨の方が遥かに発生頻度は高い。 具体的に暖気層の厚さが何百mないし、気温が何℃というようなデータはいくつか報告されているが、事例によりまちまちで定性的ではない。 1956年3月19日 ‐ 20日に着氷性の雨により筑波山の山頂を含む標高700m以上の地域に雨氷が発生した例では、雪の結晶が最初に生成される雲頂(雲の最高部)高度6,000m、0℃以上の暖気層が3,000 ‐ 1,400m、0℃以下の冷気層が1,400 ‐ 800mであった。仮に雨粒の直径を1mm、落下速度を毎秒6mとすれば、暖気層で融解した雨粒はおよそ100秒かけて過冷却となり、標高700 ‐ 800mの地表に達して雨氷を生じさせる(植野、1961年)。アメリカのいくつかの都市で着氷性の雨発生時の大気構造を調べた調査では、暖気層は厚さ平均1,300m、暖気層気温の最高値は(地表からの)平均高度1,100m付近で約3.2℃、また冷気層は厚さ平均600m、冷気層気温の最低値は平均高度200m以下のことが多く約‐2.9℃、また地表気温の平均は約‐1℃であった。地点による差も大きいことが示された(Chris, 2002)。アメリカ・カナダで着氷性の雨の発生時の地上の気温を調べた研究では、約8割が1から‐5℃の間、約2割が‐5℃未満で、僅かに1℃以上の事例もあった。 ===「過冷却の暖かい雨」=== 雲や雨粒のような大きさや存在環境では過冷却の水滴が珍しくないことは既に述べた。例えば一般的に雲の中では、0℃から‐4℃程度では水滴のほとんどが過冷却であり、気温が低くなるにつれて少なくなるが、‐20℃程度までは過冷却の水滴が存在する。なお、実際にはこの種の雲はおおむね雲頂の気温が‐10℃より高いことが知られている。これが成長し、過冷却を保ったまま降って地上に達した場合、あるいは上空で航空機への着氷などとして観測されれば着氷性の雨になる。この種の着氷性の雨は水滴の直径が小さく、雨というよりも霧雨に分類されるものがほとんどである。 過冷却の水滴を含む雲は、山地などの地表に現れると着氷性の霧として観測される。 ===着氷性の霧=== 着氷性の霧は条件により、雨氷・樹氷・粗氷になる。3者の違いは気泡の含有率にあることは#概要の節で述べたが、これと相関性が高いのは付着成長していくときの気温と風速である。気温が高いほど、また風速が速いほど、気泡が少ない傾向にある。ある研究によれば気温‐2℃以上では風速に関係なくほとんどが雨氷になり、気温‐2℃から‐4℃の間では風速により雨氷と粗氷に分かれ、気温‐4℃以下ではほとんど雨氷は発生しない。 ===氷の形成=== 着氷性の雨や霧が物体に付着してから完全に凍結するまでには、多少の時間がかかる。この時間は、凍結に伴う潜熱放出による加熱、蒸発に伴う潜熱吸収による冷却などの熱のバランスに左右され、湿度・気温・風速などに相関性がある。凍結速度が遅いと、枝の表面などでは水の部分は重力により落下していくほか、氷の表面は濡れた状態である。 ’着氷性の雨(過冷却の液体)→物体表面に付着→冷却による凍結→’雨氷(固体)なお、雨氷の凍結を決定する熱的な収支バランスは、顕熱フラックスQs、潜熱フラックスQl、雨氷の凍結に必要な熱量Qfの3つの和により表され、木の枝など円柱表面における算出式は以下のようになる(Jones, 1996および、松下ら、2005年)。この値が負で値が大きいほど、凍結は速いと考えられる。 Qs=‐πhaΔT (W/m) …(haは大気の熱交換係数(W/(m・℃))、ΔTは大気と雨氷表面の温度差(℃))Ql=‐πLehvΔρv (W/m) …(Leは水の蒸発潜熱(J/kg)、hvは水蒸気の交換係数(m/s)、Δρvは水蒸気密度の差(kg/m))Qf=Lfw …(Lfは水の凍結潜熱(J/kg)、wは降水フラックス(kg/(m・s))気温と物体表面の温度が低いなどの条件が整うと、着氷性の雨は物体に付着してすぐに凍結し、次々と積もって厚い氷として成長していく。屋根や壁のような平面の物体では低い方へ広がりながら凍結していく。電線や木の枝のように細長い物体ではそれを取り巻くように凍結する。時には氷柱(つらら)のように滴りながら成長したり、風のある場合は風上や風下に偏って成長したりする。地面に積もる量としては、極度に激しい雨氷の場合、最大でおよそ4 ‐ 6インチ(10 ‐ 15cm)程度の厚さになった記録がある。 ==雨氷をもたらす天候== 着氷性の雨が降ったときの特徴として、低気圧や前線の通過といった総観スケールの気象状態、より小さなスケールの地形の影響などがある。 また目安として、気温分布図では0℃の等温線付近、降水分布図では雨と雪の境界付近、風向分布図では風向が急変するウインドシアの近傍にそれぞれ着氷性の雨が分布することが多く、分布域は前線に平行することが多い。分布域はふつう細長く幅は狭いが、北極に近い高緯度地方では、幅50km以上の広範囲にわたって着氷性の雨が降ることもある。また凍雨は着氷性の雨と似た条件で発生するため、似たような分布を示すことが多い。 ===総観スケールの気象=== 総観スケールの気象は地域により差異があるため一概には言えないが、いくつかの例を挙げる。 日本においては主に2つのパターンが多い。1つは海に面した平野部で、下層に北寄りの風による寒気の移流、中層に南寄りの風による暖気の移流があって、そこに逆転層が生じるパターン。もう1つは内陸の盆地で、弱風下で下層の盆地内に寒気が滞留していて(「冷気湖」という)、中層に南寄りの風による暖気の移流があって、そこに逆転層ができるパターンである。天気図で見ると、大局的には日本海と本州南岸の2つの低気圧が並んで東進する「二つ玉低気圧」の時に起こる場合が多い。また着氷性の雨の分布は、低気圧の東側にある温暖前線の寒気側から低気圧の周囲付近にかけての細長い地域となる場合が多い。 アメリカではいくつかのパターンがある。前線を伴った低気圧の北側(温暖前線や停滞前線の寒気側)で発生するパターン、大陸に張り出す高気圧の辺縁部(寒冷前線の寒気側)で発生するパターン、大陸を東進する低気圧と東海岸の高気圧との間で発生するパターン、アパラチア山脈による寒気のせき止め(cold air damming)により発生するパターンである。 ===地形=== 山地など起伏のある地形の場所では、斜面を空気が上昇すると空気かかき混ぜられて逆転層ができ、雨氷が発生することがある。一般的に、標高が高いほど雨氷が発生しやすい。例えば日本で雨氷被害の多い長野県では、雨氷の発生日数が標高に対応して分布するという報告がある。ただし、ある程度の高さを超えると逆に発生しにくくなることがある。これは逆転層のできやすい高さがあり、標高が高くなると逆に暖気層に覆われることが多くなるためとみられている。また、山の斜面沿いでは一時的に狭い範囲で逆転層が発生し、山の斜面のある高さの付近あるいは片側だけ、雨氷が発生した例もある。 一般的に起伏のある地形では樹氷や粗氷も発生しやすいが、例年のように樹氷が現れる場所で同様に雨氷が見られるかと言えばそうではない。雨氷は条件が非常に限定的なため、限られた狭い地域で偶発的に発生し、年々変動が大きい。 ==地域性・季節性== 広域的には、アメリカ、カナダ、ヨーロッパ、中国、日本など各地で発生例が報告されている。特にアメリカとカナダにまたがるセントローレンス川沿岸ではよく発生することが知られている。セントローレンス川沿岸に位置するモントリオールでは、年間約12 ‐ 17回、時間にして年間計約45 ‐ 65時間という頻度で雨氷が発生する。 アメリカで1948 ‐ 2000年の着氷性の雨の年間平均発生日数を調べた調査では、最多のアディロンダック山地南部で7日、ミズーリ州からペンシルベニア州までの帯状の地域及びアイオワ州・ミネソタ州西部で5日などとなっている。同様にカナダで1961 ‐ 1990年の着氷性の雨・霧雨の年間発生日数を調べた調査では、ニューブランズウィック州、ノバスコシア州、ニューファンドランド島東部で年間50日(着氷性の雨に限っても25日)などとなっている。 日本では、長野県で特に多く報告され多いところでは年平均2 ‐3回の発生がある。また、1989 ‐ 2003年に気象台や測候所のある都市の着氷性の雨・霧雨を調べた調査において、中部から東北にかけての山間部や東北と北海道の太平洋側平野部のいくつかの都市で4 ‐ 5年に1回程度の発生が報告されているほか、被害をもたらすレベルの雨氷は国内で10年に1件程度という調査がある。 時期については、研究報告のある北半球では、冬季に発生のピークがくる地域が多いが、北極に近く寒冷な地域の中には夏季にピークがくるところもある。 ==予測== 着氷性の雨の予測では、気温・湿度・風向風速の鉛直分布や面的な分布を通して、逆転層とそれに沿う着氷性の雨の出現域を解析することが行われる。これらのデータは気象レーダーや地上気象観測、高層気象観測などによって収集される。 また、着氷性の雨に伴い、気象レーダーで融解途中の雪や霙などが乱反射を起こすことによるブライトバンドと呼ばれるエコーが観測されることがある。ただし、着氷性の雨の前段階ではない雪や霙にも反応するため、ブライトバンドがあるから必ず着氷性の雨が降るというわけではないので注意を要する。 ===警報・注意報=== アメリカでは、着氷性の雨または着氷性の霧雨によって道路等の凍結で交通状況が悪くなることが予想される場合に「Winter Weather Advisory」、雨氷が1/4インチ(約6.3mm)以上積もることが予想される場合に「Ice Storm Warning」が、アメリカ海洋大気庁 (NOAA) の気象局 (NWS) によってそれぞれ発表され、警戒が呼びかけられる。カナダでは、7時間以上着氷性霧雨が降り続くことが予想される場合や大量の着氷性霧雨が降ることが予想される場合は「Special Weather Statement」に付随する注意情報または「Freezing Drizzle Warning」が、1 ‐ 4時間以上着氷性の雨が降り続くことが予想される場合や2mm以上雨氷が降り積もることが予想される場合は「Freezing Rain Warning」が、カナダ環境省の気象局 (MSC) によってそれぞれ発表される。 日本では、着氷全般(雨氷以外の霧氷・樹氷・粗氷・樹霜、融雪の再凍結なども対象としている)に注意を呼びかける着氷注意報というものがあり、雨氷の発生が予測される場合に出される注意報・警報等ではこれが最も重い。着氷注意報の発表基準は都道府県や地域によって異なり、(24時間降雪量などが基準になる)大雪警報発表時に気温が‐2 ‐ 2℃となる場合(大雪注意報まで含めたり、湿度90%以上という条件を付加したものもある)、大雪注意報発表時に気温が‐2℃以上となる場合、著しい着氷が予想される場合、気温0℃付近で並以上の雪が数時間以上降り続くと予想される場合、船への着氷のみを対象に発表する場合等がある。また、着雪注意報という類似の注意報があり、この基準のみを定めて着氷注意報の基準を定めていない所や、両方とも定めていない所もある。 ==雨氷による災害== 雨氷ができた後、気温が上昇するなどして氷が融けてしまえば大きな被害は発生しない。しかし、例えばカナダ・アメリカでは、着氷性の雨の約45%が1時間以内、約90%が5時間以内に終わってしまうという研究があり、長時間続くと被害が大きくなる。 雪や霧氷などに比べて雨氷は密度が高く、固い。雨氷による被害の主なものとして、樹木の被害、電力網への被害、交通の支障、人的被害等が挙げられる。北東部を中心に被害が多いアメリカでは、着氷性の雨を伴った天候をice storm(アイスストーム)と言うが、1949年から2000年までの間にアイスストームによる損害額は163億ドル(2000年時点)(Changnon,2003)に上るとされ、同国内の気象災害によるケガの20%がアイスストームによるものだという報告もある(Kochin,1997)。 ===山地での被害=== 雨氷は高山で発生することが多いため、山地で局地的に雨氷が発生し、樹木への被害をもたらす例が多数報告されている。雨氷が樹木にもたらす被害は、枝のみが折れる軽微なものもあるが、傾いたり、大きく曲がったり、地面に倒れこんだり、根ごと倒れたり、途中で折れたりといった深刻なものもあり、林業にとっては大きな打撃となる。 雪が樹木の上部や外部にのみ付着するのに対し、雨氷は樹木の枝葉1つ1つに氷がついて重くなるため、雪の半分程度の降水量で折れ曲がったり倒壊してしまう。ある調査では、樹木に付着する雨氷の重さは、平均で木の総重量の5 ‐ 16倍に達していたといい、15mの木に総重量4.5トンの雨氷が付着した例もある。日本における事例では、森林に被害を与える気象現象の中で雨氷は珍しい部類ではあるが、北海道、岩手、長野などで詳しい記録がある。なお、雨氷で森林被害が生じても氷が解けるとそれが雨氷が原因であったことがわからないこともあるため、報告されていないものもあると考えられている。北海道のカラマツ人工林で行われた被害調査では、同年齢の樹木の中で太く高いものが被害を受ける事例、逆に細く低いものが被害を受ける事例、また樹勢に関係なく被害を受ける事例があり、樹勢よりも風や付着の仕方などの気象条件の方が雨氷被害との相関性が高いと報告されている。 2016年1月末に長野県中部で発生した雨氷による倒木被害は標高800〜1100mの範囲に被害が集中していたが、このように雨氷による倒木被害が一定の標高に集中するのは、標高がより高い場所では雨粒が雪になり、標高がより低い場所の地表付近は気温が高く雨氷現象が起こらなくなるためという見方がある。 ===居住地での被害=== 市街で発生した場合は、特に被害が大きくなる。氷が電線に付着して電柱が倒壊し、氷の量が多い場合には送電線の鉄塔でさえ倒れることもある。鉄道の架線に付着した場合は、給電がストップして運行ができなくなるが、雨氷を取り除く作業は着雪などに比べて時間がかかり、運行再開は遅れがちになる。また、電線の一定の方向にだけ雨氷が付着すると、強風によりギャロッピング現象と呼ばれる振動現象を起こし、電線同士が接触するなどしてショートし、断線することがある。 雨氷が道路を覆うと、表面は硬く滑らかなため非常に滑りやすい状態となり、車はスリップし、歩行者も転倒しやすくなる。雨氷に覆われた道路の制動距離は、乾いている場合の10倍、雪に覆われている場合の2倍といわれている。雨氷は表面が滑らかで透明なうえ、雪が降るとすぐ覆い隠されてしまうため、道路が雨氷に覆われていることに気付かないことがある。また、気づいていても滑りやすいので、誤って怪我をしてしまうことが多い。戸外での移動に際しては、靴や車のタイヤのスリップ対策が必要になる。また、鉄道の線路や飛行場の滑走路も凍結した場合、交通網の深刻な停滞・麻痺を来たす。 また、特に雨氷の場合に留意しなければならないのが、停電に伴う影響である。雨氷は電線に付着して停電を起こしやすいため、ガスや電気の代わりとして暖房に火を使うことになる。それによって火災の危険性が高まり、締め切った室内で暖房器具や発電機を使うことで一酸化炭素中毒の危険性も高まる。1998年1月上旬に北米を襲ったアイスストームでは、多数の一酸化炭素中毒患者が出ている。 ===航空機への被害=== 地上に限らず、上空でも雨氷の付着被害が発生する。航空機に雨氷が付着すると、視界が悪くなったり、機体の重量や空気抵抗が増加したり、翼に付着して揚力を低下させたり、ジェットエンジンやプロペラに付着して出力を低下させたりして、航行に支障が生じることがある。その他の着氷も航行への支障の原因となるが、付着速度は雨氷が最も速く、氷が硬く取れにくいため、もっとも厄介な着氷とされる。現在では航空機の防氷システム(英語)が普及しており、中型機では主に防氷ブーツ、大型機では主にヒーターや空圧を利用した機構により着氷を防止したり、氷を除去(除氷)したりしている。 なお、航空機においては地表では凍雨として観測されていても上空では着氷性の雨という場合があり、予報の際には凍雨を含めて考える必要がある。 ==雨氷のもたらす景色と文化== 雨氷が物体に付着すると、独特の景色が現れる。木々に付着した雨氷は、透明な氷の層を形成し、光が当たるとガラスのように光り輝く。また、山の斜面に帯状の雨氷ができ、それが白く輝いて見えることがある。これらは観光や自然観賞の対象となり、寒い時期に見られる美しい景観として親しまれている。中国の廬山や黄山をはじめとして、山でよく見られる景観として捉えられている地域もあれば、平野部の居住地でも身近に見ることができる景観として捉えられている地域もある。雨氷は冬の季語となっている。 なお、古代日本では和名類聚抄にも記載されているように雹、霙あるいは氷雨(冷たい雨)の意味で「雨氷」という語が用いられたこともあるが、これは現在の用法とは直接の関係はないとされる。 着氷性の雨や雨氷をテーマとした文化作品や芸術作品を以下に挙げる。 『雨氷の朝』(詩) ‐ 尾崎喜八 『自註富士見高原詩集』、1969年、日本『Freezing rain』(歌) ‐ m.o.v.e アルバム『Deep Calm』、2004年、日本『Freezing Rain Freezin’』(歌) ‐ トロイ・グレゴリー(Troy Gregory)、2002年、アメリカ ==過去に起こった雨氷の例== 北米やヨーロッパでは、冬を中心に、低気圧の通過時に平野部でも雨氷が発生することがある。以下に顕著な被害を出した例を挙げる。 ===ヨーロッパ=== 1867年1月22日 ‐ イギリス ロンドンで雨氷が発生、道路が氷に覆われ滑って車や場所の往来ができなくなった。1875年1月1日 ‐ イギリス ロンドンで1967年と同じような雨氷が発生した。1879年1月22日 ‐ 24日 ‐ フランス パリで着氷性の雨により大規模な雨氷が発生。広い範囲で30時間にわたって降り続け、氷の厚さは20 ‐ 40mm、電線の氷の直径は38mmに達した。このとき気温は‐3℃程度、雨の温度が‐4から‐5℃くらいであったという。1905年11月18日 ‐ 19日 ‐ フランス アルザス=ロレーヌで広範囲にわたり雨氷、氷の厚さは10mmに達した。1996年1月23日 ‐ 24日 ‐ イギリス ウェールズからイングランド中南部にかけての地域で雨氷が発生、各地で停電や交通障害が発生した。 ===北アメリカ=== 1994年10月31日 ‐ アメリカ インディアナ州上空を飛行中のアメリカン・イーグル4184便が雨氷に遭遇し、着氷により操縦不能に。同州ローズローン近郊に墜落、乗客・乗員68名が死亡(アメリカン・イーグル航空4184便墜落事故)。1998年1月5日 ‐ 10日 ‐ カナダ南東部・アメリカ北東部の広範囲で雨氷(アイスストーム)が発生、特にセントローレンス川沿岸で数十mmの雨氷が降り積もった。停電により約400万人が影響を受け、46人が死亡、被害額は数十億ドルに達した。(North American ice storm of 1998) ===アジア=== ====日本==== 日本でも、雨氷の観測や、雨氷被害の報告が多数ある。山地で局地的に発生することが多いため、集落や都市部で見られることは少ない。以下に主な例を挙げる。 1902年1月8日 ‐ 関東地方のおよそ100km四方、東京を中心に東西は土浦から小田原、北は浦和に及ぶ非常に広い範囲で雨氷が発生、樹木や地面が氷に覆われ、電線に被害が出た。1914年3月7日 ‐ 北海道旭川や根室で深夜から昼頃にかけて着氷性の雨が降り雨氷が発生、旭川では厚さ10mm程度の雨氷が付着し、電線の切断や電柱の倒壊も発生した。1954年2月27日 ‐ 28日 ‐ 北海道上川支庁で南北約160kmにわたる範囲で雨氷、森林に被害が出た。1969年1月28日 ‐ 29日 ‐ 長野県の山間部でおよそ90km四方に渡って雨氷が発生、鉄道や電線、林業に被害を出した。1970年2月24日 ‐ 25日 ‐ 新潟県内陸部 ‐ 長野県南東部1980年3月22日 ‐ 23日 ‐ 長野県中部でおよそ70km四方にわたって雨氷が発生、鉄道や電線、林業に被害を出した1987年2月27日 ‐ 28日 ‐ 熊本県阿蘇地方の阿蘇外輪山東側で局地的な雨氷が発生、人工林の杉などが折れ曲がったりし、およそ1億6000万円相当の被害を出した。1989年1月24日 ‐ 宮城県仙台平野で雨氷が発生。1998年4月1日 ‐ 2日 ‐ 長野県中部で雨氷が発生、鉄道の運休、倒木による建物被害や1,000以上の停電、林業被害が生じた。2003年1月3日 ‐ 4日 ‐ 関東地方内陸部で雨氷が発生、朝から鉄道の不通や道路のスリップ多発など大きな影響が生じた。2016年1月29日 ‐ 2月5日 ‐ 長野県中部で雨氷が発生。松本市の扉温泉などで倒木により県道が塞がれ住民と温泉客が孤立した。また松本地域の山岳部を中心に、倒木による停電や通行止めが相次いだ。。 ===中国=== 中国でも、雨氷の観測や被害例が多数ある。南方では「下冰凌」「天凌」「牛皮凌」、北京地方では「地油子」といった俗称がある。以下に顕著な被害を出した例を挙げる。 1893年1月17日 ‐ 香港で雨氷が発生、草の表面には厚さ9mmの氷、電線には厚さ15mm・下方につららのように長さ70mmを超える氷が付着し、電線の切断も起きた。1914年11月2日 ‐ 3日 ‐ 奉天(瀋陽)で2日朝から3日朝まで着氷性の雨が降り雨氷が発生、地面の氷の厚さは10mm以上、電線の氷の直径は20mmを超え断線や電柱の倒壊、樹木の枝の折れ等が生じた。1972年2月末 ‐ 華中から華南にかけての非常に広い範囲で雨氷が発生、広州市、長沙市、南京市、昆明市、重慶市、成都市、貴陽市、北京市にかけて通信障害が発生し、多大な損失が出た。2008年1月後半 ‐ 記録的な寒波の影響で貴州省、安徽省、江西省、湖南省などで大雪や雨氷が発生し、停電やスリップによる交通事故が多数発生した。(2008年の中国雪害も参照) ==天気図・気象通報== ===国際気象通報式=== 国際気象通報式のSYNOPおよびSHIPにおいて天気の項では、 24.前1時間内に着氷性の雨または霧雨があった(しゅう雨性ではない)→56.弱い着氷性の霧雨→57.並または強い着氷性の霧雨→66.弱い着氷性の雨→67.並または強い着氷性の雨→の5種類が、着氷性の雨や着氷性の霧雨を表す。なお、霰、雹、砂塵嵐、雷などが同時にあればそれが優先され違う表記となる。 METARやTAFでは、「特性」の欄のFZが着氷性を表す。「降水現象」の欄の雨を表すRA、霧雨を表すDZ、また「視程障害現象」の欄の霧を表すFGとそれぞれ組み合わせて、例えば着氷性の雨であればFZRAと表記する。 ===日本式天気図・日本の国内気象通報式=== 日本国内の目視での「天気」観測における15種天気、国内気象通報の日本式天気図における21種天気では、いずれも着氷性の雨と普通の雨は区別されていない。前者では雨としか表現されない。後者では雨、霧雨、雨強しの3つのいずれかでしか表現されない。なおどちらも、雪や雷など他の現象が優先される。天気観測のうち現象判別機能のある現在天気計による自動観測点では、着氷性の雨と着氷性の霧雨を検出して記録する。なお、有人気象観測点では天気とは別に「大気現象」としては着氷性の雨、着氷性の霧雨のほか、雨氷も記録している。。 =少年保護手続= 少年保護手続(しょうねんほごてつづき)とは、日本における刑事司法制度の一つであり、家庭裁判所が少年法第2章の規定に従って非行少年の性格の矯正及び環境の調整に関する措置(同法1条参照)を行う手続をいう。 少年保護手続は、非行少年の再非行の抑止や更生を目的としており、決定までの過程として、「非行事実を家庭裁判所に送致・通告 ‐ 家庭裁判所調査官(以下「調査官」と略称する)等による調査 ‐ 調査結果をふまえた審判 ‐ 必要に応じて保護的措置あるいは保護処分を決定」という流れを経るのが通例である。 ==少年保護手続の特色== 少年保護手続は、非行少年に対して、刑法及び刑事訴訟法が定める通常の刑事司法手続に代えて適用される手続である。少年保護手続は、福祉的機能と司法的機能とを併せ持つ。 ===福祉的機能=== 福祉的機能とは、少年の健全な育成を期する(少年法1条)という機能である。すなわち、少年保護手続は、非行に陥った少年に教育・保護を加えてその将来の自力改善・更生を促すことを直接の目的としており、過去の非行に対する非難(責任非難)は、要保護性の一要素として位置付けられる(多数説)。 福祉的機能は、処遇選択に当たり非行事実の軽重よりも要保護性の大小を重視するという個別処遇主義、非行のある少年に対しては刑事処分以外の措置を優先するという保護優先主義、厳格な手続的規整を置かずに家庭裁判所の能動的・裁量的手続運営を許容するという職権主義、捜査機関に送致・不送致の裁量を与えないという全件送致主義を支える理念である。これらの主義は、刑事処分における応報主義、当事者主義、起訴便宜主義(刑事訴訟法246条但し書、248条)と対照をなす少年保護手続の特色である。 ===司法的機能=== 司法的機能とは、非行のある少年、すなわち、法秩序を破壊しあるいは破壊するおそれがある少年に対し、「法律の定める手続により」(憲法31条)、法秩序の回復・保全のために必要な措置を採るという機能である。換言すれば、少年保護手続は一方で法秩序の回復・維持による社会防衛を目的とする刑事政策の一環という側面を持ちつつ、他方で少年の適正な手続を受ける権利(手続的権利)を保障するという側面も持つ。この司法的機能は、前述した福祉的機能を補完する原理として位置付けられる。 司法的機能を強調する立場には、適正手続論と威嚇抑止論(いわゆる厳罰化論)という2つの系統がある。適正手続論とは、保護的措置が公権力による強制力を用いた(あるいは強制力を背景とした)働き掛けである以上は、特に非行事実を認定する際には少年に対する十分な告知(家庭裁判所の認定の説明)、聴聞(家庭裁判所の認定に対する少年の弁解の聴取)、合理的な範囲・限度・方法による証拠調べが必要であるし(従来からの適正手続論、最高裁昭和58 (1983) 年10月26日決定・刑集37巻8号1260頁(流山中央高等学校事件)参照)、逆に、少年の弁解を無批判に受け入れずに適切な認定資料に基づいて判断すべきでもある(最高裁平成17 (2005) 年3月30日決定・刑集59巻2号79頁参照)という立場である。これに対して、威嚇抑止論とは、罰則による威嚇が犯罪を抑止するのであり、少年保護手続による教育や保護は非行少年の甘やかしでしかないという立場である。威嚇抑止論は、少年保護手続の適用範囲縮小・廃止を唱える立法論であると同時に、不処分優先主義とすら評されるほど保護優先主義に忠実な運用の実情に対する批判でもある。 ==非行少年== 少年とは、20歳に満たない者をいう(少年法2条1項)。20歳という年齢設定の適否については、諸外国の動向(16歳から21歳程度まで幅があるが、18歳が大勢を占める。)や被害者感情、若年者の政治的権利の拡大といった問題意識をも背景に、議論がなされている。 非行少年とは、犯罪少年、触法少年及び虞犯少年の総称であり、「審判に付すべき少年」(同法3条見出し、6条1項など)ともいう。少年保護手続は、非行少年を主たる対象とする手続である。また、非行事実とは、犯罪少年の犯罪行為、触法少年の触法行為及び虞犯少年の虞犯事実の総称である(非行事実の認定については後述)。 家庭裁判所の新受人員でいえば、非行少年のほとんどを犯罪少年が占めており、虞犯少年がこれに続き、触法少年はまれである。これは、虞犯事由のある少年の大多数と触法少年のほとんどは、警察官・少年補導職員による補導や、児童相談所長による児童福祉法に基づく措置がなされるにとどまるからである。それだけに、虞犯少年として家庭裁判所に送致・通告される者は、補導等のいわば穏和な措置では非行性の深化を阻止することが困難とみられることが多いということになり、実際にも緊急の保護を要するとして観護措置がとられる比率が高い。また、触法少年として家庭裁判所に送致される少年は、非行事実が重大な場合か、緊急の保護が不可欠な場合が多い。 ===犯罪少年=== 犯罪少年とは、罪を犯した少年(少年法3条1項1号)をいう。 刑法学において「罪」(犯罪)とは、構成要件(刑罰法令が規定する、ある行為を犯罪と評価するための条件)に該当し、違法かつ有責な行為をいう。そこで、犯罪少年と評価するためには、その少年の行為が構成要件に該当し、違法でなければならない。しかし、その少年がその行為について有責であることまで要するかについては、裁判例や学説が分かれている。 他方、処罰阻却事由があったり、訴訟条件を欠いたり(東京家裁平成12 (2000) 年6月20日決定・家月52巻12号78頁)しても、犯罪少年と評価することができると解されている。 ===触法少年=== 触法少年とは、14歳に満たないで刑罰法令に触れる行為をした少年(少年法3条1項2号)をいう。触法少年と評価するための要件は、行為時の年齢を除けば犯罪少年と同一である。 年齢に下限の定めはないが、極端に低年齢の行為者には構成要件としての故意・過失や事理弁識能力(自己の行為の社会的意味を理解する能力)が認められないことから、実務上は10歳前後が限界とされているようである。事理弁識能力が問われるのは「意味も分からずにした行為を理由に処罰をしても、行為者の改善・更生には役立たないし、社会に対する示しにもならない」という考えに基づくものであり、刑法学の基本的概念である。 ===虞犯少年=== 虞犯少年とは、一定の不良行状(虞犯事由)があって、かつその性格または環境に照らして、罪を犯しまたは触法行為をするおそれ(虞犯性)がある少年(少年法3条1項3号)をいう。虞犯事由と虞犯性とをあわせて、虞犯事実という。 成人とは異なり少年については、犯罪行為をしていなくても保護的措置を採ったり保護処分に付することが可能とされている。これは、非行のある少年を早期に発見し、少年保護手続の枠組の中で更生を促し、それによって社会防衛を効果的に達成することを目的としている。しかし、虞犯事由は評価的・価値的な表現を多く用いて定義されているため(後述)、その存否は、判断者の価値観や事実評価に大きく左右される危険をはらむ。このため、虞犯少年を非行少年から外し、不良行為少年(少年警察活動規則2条6号)として補導(同規則13条、8条2項)や児童福祉法に基づく措置をとるに止めるべきであるとの立法論もある。 ===虞犯事由=== 虞犯事由とは、次に掲げる事由をいう(少年法3条1項3号イ〜ニ)。 ===イ)保護者の正当な監督に服しない性癖のあること。=== 家庭内暴力を繰り返す少年などがこれに当たる。「性癖」のあることが要件とされているので、例えば散発的な保護者への反抗は、虞犯事由には当たらない。 ===ロ)正当な理由がなく家庭に寄り付かない性癖のあること。=== 家出を繰り返す少年などがこれに当たる。「正当な理由がない」ことが要件とされているので、例えば遠方の大学に通うため下宿をすることは、虞犯事由には当たらない。 ===ハ)犯罪性のある人若しくは不道徳な人と交際し、またはいかがわしい場所に出入りすること。=== 多数の前科前歴を有する者と同棲する少年や、賭場で長期間アルバイトをする少年などが、これに当たる。 ===ニ)自己または他人の徳性を害する行為をする性癖のあること。=== 薬物の自己使用や18歳未満の援助交際などが、自己の徳性を害する行為に当たり、未検挙の万引を繰り返すことや学校内で教諭・生徒に対する暴力(校内暴力)を繰り返すことなどが、他人の徳性を害する行為に当たる。 ===虞犯性=== 虞犯事由があっても虞犯性がなければ、虞犯少年には当たらない。ある少年が犯罪行為や触法行為をする可能性を否定できないという程度では、虞犯性があるとはいえない。虞犯性があるというためには、少年の性格または環境に関する具体的事実から推し量って、犯罪行為や触法行為をなす可能性が相当高いといえる必要がある。 すなわち、単に保護者に反抗するとか、家出をしたまま帰宅しないというだけで、犯罪行為をなすおそれを窺わせるような事情が見当たらない少年を、少年法に基づいて少年鑑別所や少年院に収容することはできない。少年保護手続は躾を代行する制度ではないからである。 このほか、虞犯性を巡っては、少年がなすおそれのある犯罪行為や触法行為をどこまで特定する必要があるか、虞犯性と要保護性との関係といった問題が議論されている。また、虞犯事実と犯罪事実との関係についても議論されている。 ==係属== 事件の係属とは、裁判所が訴訟法に従って当該事件を審理する権限を有し、かつその義務を負う状態になることをいう。また、少年保護事件とは、少年保護手続による審判の対象となる出来事(社会的事象)をいい、大ざっぱにいえば、非行事実がこれに当たる。 家庭裁判所に少年保護事件が係属する場合は数多くあるが、その主なものを犯罪少年とその他の非行少年とに分けて説明する。 ===犯罪少年の係属=== 犯罪事実(犯罪少年)の捜査については、特別の定めがあるもののほかは一般の例による(同法40条、犯罪捜査規範202条参照)。主な相違点は、全件送致主義の採用と身柄拘束の制限である。 ===送致=== 少年の被疑事件について捜査した結果、犯罪の嫌疑があると思われるときは、司法警察員(その犯罪が法定刑に禁錮以上の刑(死刑、懲役または禁錮)を含まない場合に限る。法定刑にこれを含む場合は、検察官に送致する。)または検察官は、これを家庭裁判所に送致しなければならない(少年法41条本文、42条本文、犯罪捜査規範210条1項)。すなわち、捜査機関には微罪処分(刑事訴訟法246条但し書、犯罪捜査規範198条)や起訴猶予(刑事訴訟法248条)に相応する裁量がない。これを全件送致主義という(非行事実は軽微でも、要保護性の大きい事案が存在し得るからである。)。ただし、全件送致主義といっても、捜査の対象となった全ての事件を送致することを意味するのではなく、犯罪の嫌疑がない場合、嫌疑が不十分な場合、その他審判条件が不存在の場合は、ぐ犯送致をする場合を除いて、家庭裁判所に事件を送致することなく、検察官は不起訴処分をすることになるので、司法警察員が捜査した事件については微罪処分の要件を満たす場合その他法律上特別の定めがある場合を除いて、すべて検察官に送致しなければならないこととされている(刑訴法246条)とは意味合いが異なる。 検察官または司法警察員が事件を家庭裁判所に送致する場合において、書類、証拠物その他参考となる資料があるときは、併せて送付しなければならない(少年審判規則8条2項;伝聞法則の適用はない。)。すなわち、家庭裁判所は、事件が送致された当初から、送致官署が収集した資料(一件記録)全てを自ら検討して少年の弁解や保護環境上の問題点を把握し、観護措置の必要性の有無や審理計画を見立てることができる。このように初期段階から資料が充実していることが、少年保護手続における家庭裁判所の能動的・裁量的手続運営(職権主義)を支える重要な基盤ともなっており、刑事訴訟法が当事者主義を基調とし、起訴状一本主義(刑事訴訟法256条6項)を採用していることと対照をなしている。 もっとも、一定の軽微事件については、司法警察員及び検察官は、送致書のみを家庭裁判所に送付して事件を送致することが許されており(犯罪捜査規範214条)、これを実務上、簡易送致という。簡易送致事件については、社会調査を経ないで事案軽微による審判不開始の決定がなされる例が多い。 送致書には、少年の処遇に関する意見を付けることができる(同規則8条3項)。この意見は、社会調査を経ていない段階のものであるため、公判における求刑とは異なり、家庭裁判所の処遇決定への影響力は大きくない。 ===身柄拘束=== 少年の被疑者については、なるべく身柄の拘束を避けなければならない(犯罪捜査規範208条)。 少年の被疑事件において身柄の拘束が必要なときは、検察官は、所属の官公署の所在地を管轄する地方裁判所または簡易裁判所の裁判官に対して、勾留の請求に代え、観護の措置を請求することができる(少年法43条1項本文、2項、刑事訴訟規則299条本文)。これを勾留に代わる観護措置といい、少年保護事件が家庭裁判所に係属した後に採られることがある観護措置と区別する。勾留に代わる観護措置の効力は、その請求をした日から10日であり(同法44条3項)、勾留延長(刑事訴訟法208条)に対応する制度はない。 やむを得ない場合には、少年を勾留することができ(少年法43条3項、48条1項)、この場合には、少年鑑別所にこれを拘禁することができる(同法48条2項)。しかし、この「やむを得ない場合」を検察官や裁判官が安易に認め、さらに、勾留の場所を代用刑事施設とする例が多すぎるという批判が絶えない。 ===触法少年及び虞犯少年の係属=== 触法少年の存在は被害者や保護者が警察官に相談することで、虞犯少年の存在は学校や保護者が警察官や児童相談所に相談することで、それぞれ認知されることが多い。 警察官は、客観的な事情から合理的に判断して、触法少年であると疑うに足りる相当の理由のある者を発見した場合において、必要があると認めるときは、事件について調査をすることができる(少年法6条の2第1項)。警察官は、少年、保護者または参考人を呼び出し、質問することができるし(同法6条の4第1項)、押収、捜索、検証、鑑定の嘱託をすることができる(同法6条の5第1項。したがって、令状を請求することもできる。)。警察官は、被疑者が触法少年であることが明らかとなった場合において、保護者の適切な監護がないときは、児童福祉機関(児童相談所または福祉事務所)に通告する(犯罪捜査規範215条。触法行為が重大であるとき等には、児童相談所長への送致が義務づけられている。同法6条の6第1項)。 これに対して、警察官は、虞犯少年を認知しても、強制捜査によって事案を調査することはできず、任意の事情聴取等によることしかできない。警察官は、虞犯少年の年齢に応じて、児童福祉機関(14歳未満の虞犯少年)、児童福祉機関若しくは家庭裁判所(14歳以上18歳未満の虞犯少年)または家庭裁判所(18歳以上の虞犯少年)に送致・通告する(同法41条後段、同規範216条、210条1項)。 触法少年及び虞犯少年で14歳に満たない者については、都道府県知事または児童相談所長から送致を受けたときに限り、これを審判に付することができる(同法3条2項)。これらの触法少年や年少虞犯少年については、通告を受けまたは自ら認知した児童福祉機関が、児童福祉法に基づく措置をとるのか、家庭裁判所に送致するのかを判断する(児童福祉機関先議)。 ===管轄=== 少年保護事件の管轄は、少年の行為地、住所、居所または現在地による(少年法5条1項)。家庭裁判所は、保護の適正を期するため特に必要があると認めるときは、決定をもって、事件を他の管轄家庭裁判所に移送することができる(同条2項)。保護者の住所が管轄原因とされていないため、家出をしている少年に対する少年保護手続を保護者の住所から離れた地にある家庭裁判所が管轄せざるを得ないことも多い。実務上は、少年に保護者の住所への帰住意思があり、保護者に少年を受け入れる意思があるときは、保護者の住所が少年の住所(帰住先)であると解して、保護者の住所を管轄する家庭裁判所に事件を移送しているようである。 家庭裁判所は、事件がその管轄に属しないと認めるときは、決定をもって、これを管轄家庭裁判所に移送しなければならない(同条3項)。 ==保護者== 保護者とは、少年に対して法律上監護教育の義務ある者(親権者、未成年後見人など)及び少年を現に監護する者をいう(少年法2条2項)。このうち、前者の「少年に対して法律上監護教育の義務ある者」を法律上の保護者といい、後者の「少年を現に監護する者」を事実上の保護者という。 保護者には、付添人選任権(同法10条1項)、観護措置決定またはその更新決定に対する異議申立権(同法17条の2第1項本文)、審判出席権などを有し、少年の権利・利益を守るために少年保護手続に主体的に関わるという側面(主体的地位)がある。また、保護者には、家庭裁判所の調査や保護的措置(同法25条の2)の対象となるという側面(客体的地位)もある。 ==付添人== 少年及び保護者は、家庭裁判所の許可を受けて(弁護士を付添人に選任するには、許可を要しない。)、付添人を選任することができる(少年法10条1項)。保護者も、家庭裁判所の許可を受けて、付添人となることができる(同条2項)。 弁護士が付添人として選任される例が多いが、身近に弁護士がいない少年・保護者や、弁護士に報酬を支払うだけの経済的余裕がない少年・保護者のために、各地で種々の組織が支援活動をしている。例えば、各地で、家庭裁判所所属の調停委員らを中心とする篤志家が少年友の会と称する団体を組織しており、少年・保護者に付添人候補者として会員を紹介する事業を行っている。また、日本司法支援センターは、少年・保護者に弁護士を付添人候補者として紹介したり、報酬を立替払いする事業を行っている。保護者が被害者であったり、保護者に監護意欲が欠如していたりなどの特殊な事案については、家庭裁判所からの推薦依頼を受けて、弁護士を付添人候補者として推薦する場合もある。 各地の弁護士会は、家庭裁判所に対して、少なくとも全ての身柄事件について、日本司法支援センターに付添人の選任を依頼する運用を確立するよう要望しているが、このような要望の実現に消極的な家庭裁判所も多いようである。そこで、福岡県弁護士会が平成13(2001)年2月に全国に先駆けて当番付添人制度を創設し、平成16(2004)年10月1日には東京三会(東京弁護士会、第一東京弁護士会、第二東京弁護士会)も当番付添人制度を共同で創設した。 さらに、少年に弁護士である付添人がない場合において、家庭裁判所が弁護士である付添人(国選付添人)を付すことがある。具体的には、後述の検察官関与決定があったとき、被害者等による審判傍聴を許すに際し意見聴取をする場合は、特に少年及び保護者が不要である旨の意思を明示した場合を除いては、私選付添人がいない場合は必ず国選付添人を付さなければならず(同法22条の3第1項、同法22条の5第2項、第3項)、非行事実が死刑又は無期若しくは長期3年を超える懲役若しくは禁錮に当たる罪に関する事件犯罪少年または触法少年の身柄事件について、事案の内容、保護者の有無その他の事情を考慮し、審判の手続に弁護士である付添人が関与する必要があると認めるとき、国選付添人を付すことができる(同条2項)。 付添人は、記録閲覧権(少年審判規則7条2項)、追送書類等に関する通知を受ける権利(同規則29条の5、最高裁平成10(1998)年4月21日決定・刑集52巻3号209頁)、観護措置決定またはその更新決定に対する異議申立権(同法17条の2第1項)、審判出席権(同規則28条4項)、意見陳述権(同規則29条の2後段)、証拠調べの申出権(同規則29条の3)、少年本人質問権(同規則29条の4)、抗告権(同法32条)などの権限を有し、少年の意見を代弁し、正当な権利・利益を守る役割を果たすという意味では、公判における弁護人に類似するようにもみえる。しかし、付添人の役割は単なる代弁者に尽きるのではなく、少年や保護者に対しても的確な指導や働きかけを行い、「少年に対し自己の非行について内省を促す」(同法22条1項)という審判の目的の実現に協力することも、その重要な役割であるとされている。この意味で、付添人は、家庭裁判所と対立関係ではなく、協働関係にあると表現されることが多い。 ==被害者== 被害者とは、非行事実により害を被った者(刑事訴訟法230条参照)をいう。少年保護手続においては、当事者はあくまでも非行少年であり、被害者は当事者ではないが、その保護を図るため、いくつかの権利が認められている。なお、少年法上の「被害者等」とは、被害者又はその法定代理人若しくは被害者が死亡した場合若しくはその心身に重大な故障がある場合におけるその配偶者、直系の親族若しくは兄弟姉妹をさす(5条の2第1項括弧書き)。 ===記録の閲覧及び謄写=== 裁判所は、犯罪少年または触法少年の保護事件について、審判開始の決定があった後、当該保護事件の被害者等または被害者等から委託を受けた弁護士から、その保管する当該保護事件の記録(家庭裁判所が専ら当該少年の保護の必要性を判断するために収集したもの及び家庭裁判所調査官が家庭裁判所に当該少年の保護の必要性の判断に資するよう作成し又は収集したもの(いわゆる社会記録)を除く。)の閲覧または謄写の申出があるときは、閲覧又は謄写を求める理由が正当でないと認める場合及び少年の健全な育成に対する影響、事件の性質、調査又は審判の状況その他の事情を考慮して閲覧又は謄写をさせることが相当でないと認める場合を除き、その申出をした者にその記録の閲覧または謄写させるものとする(少年法5条の2第1項)。申出は、その申出に係る保護事件を終局させる決定が確定した後3年を経過するときはすることができない(2項)。 もっとも、閲覧または謄写をした者は、正当な理由がないのに閲覧または謄写により知り得た少年の氏名その他少年の身上に関する事項を漏らしてはならず、かつ、閲覧または謄写により知り得た事項をみだりに用いて、少年の健全な育成を妨げ、関係人の名誉若しくは生活の平穏を害し、または調査若しくは審判に支障を生じさせる行為をしてはならない(同条3項)。 ===意見の聴取=== 家庭裁判所は、犯罪少年または触法少年に係る保護事件の被害者等から、被害に関する心情その他の事件に関する意見の陳述の申出があるときは、自らこれを聴取し、または調査官に命じてこれを聴取させるものとされている(少年法9条の2本文)。もっとも、事件の性質、調査または審判の状況その他の事情を考慮して相当でないと認めるときは、意見の聴取をしなくてもよい(同条ただし書)。 聴取の結果は、処遇選択の際の考慮要素となるだけでなく、少年や保護者に対する保護的措置にも活用されることになる。 ===傍聴=== 家庭裁判所は、犯罪少年または触法少年(12歳に満たないで触法行為をした少年を除く)で次に掲げる事件(いずれも被害者を傷害した場合にあっては、これにより生命に重大な危険を生じさせたときに限る。)の被害者等から、審判期日における審判の傍聴の申出がある場合において、少年の年齢及び心身の状況、事件の性質、審判の状況その他の事情を考慮して、少年の健全な育成を妨げるおそれがなく相当と認めるときは、その申出をした者に対し、これを傍聴することを認めることができる(少年法22条の4第1項)。家庭裁判所は、触法少年に係る事件の被害者等に審判の傍聴を許すか否かを判断するに当たっては、触法少年が、一般に、精神的に特に未成熟であることを十分考慮しなければならない(2項)。 故意の犯罪行為により被害者を死傷させた罪(例 殺人罪、強姦致死傷罪、危険運転致死傷罪など)業務上(重)過失致死傷罪自動車運転死傷行為処罰法違反(発覚免脱罪、過失運転致死傷罪に限る)家庭裁判所は、審判の傍聴を許す場合において、傍聴するものの年齢、心身の状態その他の事情を考慮し、その者が、著しく不安又は緊張を覚えるおそれがあると認めるときは、その不安又は緊張を緩和するのに適当であり、かつ、審判を妨げ、又はこれに不当に影響を与えるおそれがないと認められる者を、傍聴するものに付き添わせることができる(3項)。 裁判長は、審判を傍聴する者及びこの者に付き添う者の座席の位置、審判を行う場所における裁判所職員の配置等を定めるに当たっては、少年の心身に及ぼす影響に配慮しなければならない(4項)。これを受けて、各裁判所では被害者等の傍聴を許す場合、広めの審判廷を用いたり、少年らと被害者の間の距離を工夫したりなどしている。 審判を傍聴するもの及びこの者に付き添う者については、5条の2第3項が準用され、正当な理由がないのに傍聴により知り得た少年の氏名その他少年の身上に関する事項を漏らしてはならず、かつ、傍聴により知り得た事項をみだりに用いて、少年の健全な育成を妨げ、関係人の名誉若しくは生活の平穏を害し、または調査若しくは審判に支障を生じさせる行為をしてはならない。 家庭裁判所は、被害者等の審判の傍聴を許すには、あらかじめ、弁護士である付添人の意見を聴かなければならない(22条の5第1項)。少年に弁護士である付添人がないときは、家庭裁判所は、少年及び保護者がこれを必要としない旨の意思を明示した場合を除いて、弁護士である付添人を付さなければならない(2項、3項)。 ===説明=== 家庭裁判所は、犯罪少年又は触法少年に係る事件の被害者等から申出がある場合において、少年の健全な育成を妨げるおそれがなく相当と認めるときは、その申出をした者に対し、審判期日における審判の状況を説明するものとする(22条の6第1項)。説明の申出は、その申出に係る事件を終局させる決定が確定した後3年を経過した場合はすることができない(2項)。 5条の2第3項の規定は、説明を受けた者について準用され、正当な理由がないのに説明により知り得た少年の氏名その他少年の身上に関する事項を漏らしてはならず、かつ、説明により知り得た事項をみだりに用いて、少年の健全な育成を妨げ、関係人の名誉若しくは生活の平穏を害し、または調査若しくは審判に支障を生じさせる行為をしてはならない。 ===通知=== 家庭裁判所は、犯罪少年または触法少年に係る保護事件を終局させる決定(後述の審判不開始の決定、不処分の決定、児童相談所長送致の決定、保護処分、検察官送致の決定をいう。)をした場合において、被害者等から申出があるときは、次の事項を通知するものとされている(少年法31条の2第1項柱書本文)。 少年及びその法定代理人の氏名及び住居決定の年月日、主文及び理由の要旨ただし、その通知をすることが少年の健全な育成を妨げるおそれがあり相当でないと認められるもの(少年の資質や家族関係、生育歴の詳細などが考えられる。)については、通知をしなくてもよい(同柱書ただし書)。 5条の2第3項の規定は、通知を受けた者について準用され、正当な理由がないのに通知により知り得た少年の氏名その他少年の身上に関する事項を漏らしてはならず、かつ、通知により知り得た事項をみだりに用いて、少年の健全な育成を妨げ、関係人の名誉若しくは生活の平穏を害し、または調査若しくは審判に支障を生じさせる行為をしてはならない。 ===被害者の権利に関する立法論=== 被害者は、審判期日において意見陳述をする場合を除き、審判の席に在席する機会はないが(後述)、立法論として、在席や少年や保護者に対する発問、処遇意見の陳述等を権利として認めることの妥当性が議論されている。 ==調査== ===調査の意義=== 家庭裁判所は、検察官、司法警察員、都道府県知事または児童相談所長から家庭裁判所の審判に付すべき少年事件の送致を受けたときは、事件について調査しなければならない(少年法8条1項後段)。通告(同法6条)または報告(同法7条)により、審判に付すべき少年があると思料するときも、同様である(同法8条1項前段)。 調査は、なるべく、少年、保護者または関係人の行状、経歴、素質、環境等について、医学、心理学、教育学、社会学その他の専門的智識(特に少年鑑別所の心身鑑別の結果)を利用して、これを行うように努めなければならない(同法9条)。具体的には、家庭及び保護者の関係、境遇、経歴、教育の程度及び状況、不良化の経過、性向、事件の関係、心身の状況等審判及び処遇上必要な事項の調査を行い(少年審判規則11条1項)、家族及び関係人の経歴、教育の程度、性向及び遺伝関係等についても、できる限り、調査を行うものとされている(同条2項)。 一定の軽微事件(簡易送致事件や、過失も結果も軽微な過失運転傷害罪保護事件など)を除けば、ほとんど全ての事件の調査は、調査官が家庭裁判所の命令(調査命令;同法8条2項)を受けて行っている。ただし、非行事実の存否や擬律判断(ある事実が、どのような法令の適用を受けるのかを判断することをいう。)といった法律上の問題点については、まず、家庭裁判所が自ら、あるいは家庭裁判所の命令を受けた裁判所書記官が調査を行う(後述のとおり、調査官も非行事実に関する調査をする)。 家庭裁判所は、調査のため、警察官、保護観察官、保護司、児童福祉司または児童委員に対して、必要な援助をさせることができる(援助依頼。同法16条1項)。実務上は、警察署長に対し、少年や保護者の所在の確認(呼出状の送達(同法11条1項、少年審判規則16条1項)などのため)を依頼したり、少年が捜査段階では述べなかったような弁解を調査や審判で述べ始めたような場合にその弁解の真否に関する証拠収集(補充捜査、最高裁平成2(1990)年10月24日決定・刑集44巻7号639頁)を依頼したりする例が多いようである。 また、家庭裁判所は、公務所、公私の団体、学校、病院その他に対して、必要な協力を求めることもできる(同法16条2項)。実務上は、保護観察継続中の少年について保護観察所長に成績照会をしたり、少年の在籍校やかつての在籍校に学校照会書を送付して少年の登校状況、成績の概要、行動傾向、保護者の状況等の報告を求めたりする例が多いようである。 さらに、各家庭裁判所本庁と大規模支部には、医務室技官(裁判所法61条1項)が置かれており、これに少年の心身の状況を診断させる例もある。 ===社会調査と保護的措置=== 要保護性とは、大ざっぱにいえば、少年の再非行に繋がるような性格的・環境的要因の存否・大小(再非行の危険性)をいう。調査官の調査(社会調査)は、要保護性の有無・程度の判断資料を収集することを目的としている。もっとも、非行事実は要保護性の判断資料としても重要な意味を持つから、社会調査においても非行事実に関する調査は当然行われる。 調査官は、前述のような事項の調査を行うが、調査技法の中心となるのは、少年及び保護者に対する面接(調査面接)である。調査官は、調査面接に先立ち、少年照会書や保護者照会書を少年や保護者に送付し、非行事実に誤りがないか、過去及び現在の生活状況、被害者に対する弁償や慰謝の措置の有無・内容などについて記載を求めるのが通例である。また、少年の心理検査(東大式エゴグラム (TEG)、ロールシャッハテスト、バウムテスト、文章完成法テスト (SCT) など)を実施することもある。調査官は、少年や保護者から得られた情報や、学校照会書から得られた情報、場合によっては医務室技官の報告なども総合しつつ、調査面接を通じて、少年の生育歴や非行化の経緯、現在の生活状況などを調査し、非行化の要因を探り出す。 調査官は、調査を通じて、単に聞き手に徹するのではなく、少年や保護者に対して、少年の非行化の要因を説明したり、訓戒、指導などの措置をとって、少年や保護者の自覚と非行化の要因の自発的除去を促すのが通例である(少年法25条の2後段参照)。例えば、両親が末弟にばかり目を掛けていると思い込み、両親の関心をひき、両親が自分にも愛情を持ってくれていることを実感したいがために、何度発覚しても万引を繰り返す少年がいたとする。このような場合、調査官は、例えば、少年と両親に日記の交換を指示し、少年に両親の愛情を理解させるよう試み、少年の心情の安定を図るわけである。保護的措置とは、このような、少年の非行化の要因を除去して要保護性を軽減・解消することを目指す措置をいう。 調査官は、調査の結果を書面で家庭裁判所に報告する(少年審判規則13条1項)。実務上、この書面を少年調査票と呼び、少年調査票には、意見(処遇意見)を付けなければならない(同条2項)。処遇意見においては、非行に対する制裁という観点よりも、むしろ再非行の抑止という観点が重視されており、要保護性が主要な考慮要素となっている。実務上、家庭裁判所は処遇意見どおりの判断をする例がほとんどであるといわれており、このような実態を「調査官裁判」として批判する見解もある。 ==観護措置== ===観護措置の意義=== 観護措置とは、少年の移動の自由を制限する旨の裁判、あるいはその裁判に基づいて少年の移動の自由を制限する(身柄を確保する)ことをいう。 観護措置には、調査官の観護に付す場合(1号観護措置)と少年鑑別所に送致する場合(2号観護措置)との2種類があるが、調査官の観護といっても、大ざっぱにいえば、無断で住居を離れないよう少年に約束させるだけであり、実際に少年の身柄を確保する効果が乏しい。それゆえ、実務上は、観護措置といえば少年鑑別所に送致することを意味している(本稿でも、「観護措置」というときは、特に断らない限り少年鑑別所に送致することを指している。)。観護措置がとられた事件を身柄事件(みがらじけん)という。 家庭裁判所は、審判を行うため必要があるときは、決定をもって、観護措置をとることができる(同条1項)。「審判を行うため必要があるとき」とはいかなる場合かについては、明文の規定はないが、(1)勾留の理由があるとき、(2)少年が緊急の保護を要するときまたは(3)少年を収容して心身鑑別を行う必要があるときを指すというのが、家庭裁判所に定着した実務である。ここにいう「緊急の保護」とは、少年の移動の自由を制限して、少年に生命、身体、情操の損傷をもたらす要因(児童虐待や児童福祉犯罪の被害、自傷・自殺企図など)や非行化をもたらす環境的要因から遮断し、少年の安全を確保し、その非行化の進展を食い止めることをいうと考えればよい。また、非行に対する単なる制裁として観護措置をとることは許されないが(通説)、落ち着いた生活環境の中で少年が内省を深めることができるかどうかを観察し、処遇選択の資料とするという趣旨であれば、ここにいう「緊急の保護」または「収容して心身鑑別を行う」ことに当たると考えられている。 ===観護措置の手続=== 観護措置は、事件が係属している間、いつでも採ることができる。司法警察員や検察官から身柄付きで送致された事件について、受理時に観護措置をとる場合が多いが(少年法17条2項後段参照)、その他にも、調査・審判の結果必要があると認めて観護措置をとる場合も少なくない。 観護措置決定手続は、勾留質問とほぼ同様である(少年審判規則19条の3)。裁判官が勾留に代わる観護措置(同法43条1項、17条1項1号、2号)をとった場合において、事件が家庭裁判所に送致されたときは、その措置は、観護措置とみなされる(同条6項、7項前段)。観護措置をとった旨は、速やかに保護者及び付添人のうち適当と認める者に通知しなければならない(同規則22条。同条には「それぞれ」とあるが、1人に通知すれば足りると解されている)。 少年鑑別所に収容する期間は、入所の日(勾留に代わる観護措置をとられている少年については、家庭裁判所への送致の日)も含めて2週間を超えることができないが、特に継続の必要があるときは、決定をもって、これを更新することができる(同法17条3項、4項本文、7項後段)。実務上は、少年鑑別所の鑑別に必要な期間(諸検査及び行動観察のために2週間程度、判定に1週間程度の、合計3週間程度)を確保するため、特に継続の必要があるとして、観護措置が更新されるのが通常である。 法定刑に禁錮以上の刑を含む罪を非行事実とする犯罪少年の事件について、その非行事実の認定に関し証人尋問、鑑定若しくは検証を行うことを決定したときまたはこれを行った場合において、その少年を収容しなければ審判に著しい支障が生じるおそれがあると認めるに足りる相当な理由があるときは、さらに2回を限度として(すなわち、合計8週間を限度として)、観護措置を更新することができる(同条4項ただし書)。 少年、その法定代理人または付添人は、観護措置またはその更新決定に対して、少年保護事件の係属する家庭裁判所に異議の申立てをすることができる(同法17条の2第1項、17条1項2号、3項ただし書)。家庭裁判所は、異議の申立てについて、原決定に関与した裁判官を除く合議体で決定をする(同法17条の2第3項)。異議の申立ては、審判に付すべき事由(非行事実)がないことを理由としてすることはできない(同条2項)。これは、非行事実の認定については専ら本案(本体の少年保護事件)を審理する裁判体(審理を担当する裁判官または合議体)の判断に委ねる趣旨であるが、少年の人権保障の観点からこの立法趣旨そのものを批判する見解も根強い(勾留に関する議論を参照)。 ===鑑別=== 少年鑑別所は、家庭裁判所の調査及び審判に資するため、医学、心理学、教育学、社会学その他の専門的知識に基づいて、少年の資質の鑑別を行う(少年院法16条)。具体的には、身体検査、知能検査、心理検査などの検査を実施すること、作文や役割演技(ロールプレイ)、運動などの課題を与えたときの少年の反応、保護者らとの面会や職員・調査官との面接の状況、日常の起臥寝食等を観察すること(行動観察)などを通じて少年の素質、経歴、環境及び人格並びにそれらの相互の関係を明らかにし(少年鑑別所処遇規則17条)、保護処分決定の資料となるべき事項や監護処遇の方針に関する事項等を判定する(同規則21条)。鑑別の結果は、鑑別結果通知書と呼ばれる書面にまとめられ、少年鑑別所内での判定会議を経た後、処遇意見を付して家庭裁判所に送付される(同規則22条参照)。 調査官の社会調査も少年鑑別所の鑑別も、少年の資質を調査する点では共通しているが、前者が生活環境内における少年の行動傾向を重視し、それゆえに少年の生活環境の調整をも視野にいれたものであるのに対して、後者は社会から切り離した一個の人間としての少年の行動傾向を重視する点に違いがあるといえよう。両者は、相互にその成果を活用しあうものとされている(少年法9条、同規則20条2項)。 鑑別の対象となる少年は観護措置をとられた者に限られないが、実務上は、観護措置をとられた少年がほとんどである。 ===面会及び通信=== 観護措置をとられた少年に面会することができるのは、近親者、保護者、付添人その他必要と認められた者に限られる(少年鑑別所処遇規則38条)。付添人以外の者との面会に当たっては、原則として、職員が立ち会う(同規則39条)。 通信の発受は、所内の規律に反しない限り許される(同規則40条)。 ==審判== 少年保護手続において審判とは、家庭裁判所が自ら少年の陳述を聴き、非行事実及び要保護性に関する心証を得るとともに、その心証に基づき、少年に対して保護的措置をとったり、保護処分に付すか否か及びいかなる保護処分に付すかを告知するという一連の手続をいう。 ===審判開始の決定=== 家庭裁判所は、調査の結果、審判に付することができず、または審判に付するのが相当でないと認めるときは、審判を開始しない旨の決定(審判不開始の決定)をしなければならない(少年法19条1項)。こうした審判不開始の理由がない事件については、審判を開始する旨の決定(審判開始の決定)がなされる(同法21条)。 後述する18条決定は、法文上は審判を経ずにすることができるが、実務上は審判を経てするのが通例である。そこで、18条決定が相当と認められる事件についても、審判開始の決定がなされることになる。 やはり後述する20条検送も、法文上は審判を経ずにすることができるが、実務上は、運転免許を保有する少年による大幅な最高速度違反(道路交通法118条1項1号、2項、22条1項)のように、悪質ではあるが非行事実も非行化の要因も単純な事案に限って、審判を経ずに検察官送致の決定がなされているようである。 ===審判に付することができないとき=== 実務上は、「審判に付することができないとき」には、審判条件不存在、非行なし、事実上審判不可能という3類型がある。 審判条件とは、審判の手続が適法であるための要件をいう。審判条件が存在しない場合としては、少年の死亡、少年が裁判権の免除を享有するとき(外交関係に関するウィーン条約37条1項、2項、31条1項前段等)、適法な送致・通告手続を欠くとき(司法警察員が法定刑に禁錮以上の刑を含む罪を非行事実とする犯罪少年の事件を家庭裁判所に直接送致したとき等)、一事不再理効(少年法46条1項、2項)に抵触するときなどが考えられる。 家庭裁判所は、事件がその管轄に属しないと認めるときは、決定をもって、これを管轄家庭裁判所に移送しなければならない(同法5条3項)し、犯罪事件の本人が20歳以上であるときは検察官送致の決定をしなければならない(同法19条2項)。したがって、これらの場合には、審判不開始の決定はなされない。 非行なしとは、少年に非行事実が認められない場合をいい、この場合には少年を審判に付することができないから(少年法1条、3条1項参照)、審判不開始の決定をなすことになる。これを実務上、非行なしによる審判不開始という。非行事実の認定については後述するが、審判を開始するために必要な非行事実の心証の程度は、保護処分をするために必要な程度よりも低く、「一件記録からは非行事実の存在は証明されているが、審判における少年の弁解や反証次第では覆る可能性も残る」という程度(蓋然的心証)で足りる。 事実上審判が不可能な場合としては、少年が所在不明のとき、審判能力を欠くときなどが考えられる。 少年が所在不明のときは、審判期日の呼出ができないから、審判不開始の決定をせざるを得ない。これを実務上、所在不明による審判不開始という。所在不明による審判不開始の決定には一事不再理効はないので、所在が判明すれば、調査官の報告(少年法7条1項)により改めて立件して、少年保護手続を開始することになる(再起)。 審判能力とは、少年保護手続の意味を理解する能力をいい、審判能力を欠く少年については、所在不明のときに準じて審判不開始の決定がなされる。 ===審判に付するのが相当でないとき=== 審判に付するのが相当でないときとは、審判を開いて家庭裁判所自ら少年に対して保護的措置を加えるまでもない場合である。これには、実務上、以下のような場合があるとされている。 保護的措置による審判不開始 調査官による保護的措置によって少年の再非行を抑止できると考えられる場合である。実務上、審判不開始の理由の圧倒的多数を占める。調査官による保護的措置によって少年の再非行を抑止できると考えられる場合である。実務上、審判不開始の理由の圧倒的多数を占める。別件保護中による審判不開始 少年が既に保護処分の執行を受けているため、既存の保護処分の枠組内で指導を強化すれば少年の再非行を抑止できると考えられる場合である。少年が既に保護処分の執行を受けているため、既存の保護処分の枠組内で指導を強化すれば少年の再非行を抑止できると考えられる場合である。事案軽微による審判不開始 非行事実が軽微である(前述した簡易送致事件等)ため、司法警察職員の取り調べ段階における訓戒・説諭によって少年の再非行を抑止できると考えられる場合である。非行事実が軽微である(前述した簡易送致事件等)ため、司法警察職員の取り調べ段階における訓戒・説諭によって少年の再非行を抑止できると考えられる場合である。 ===審判期日=== ====期日指定等==== 審判をするには、裁判長(単独事件の場合は、裁判官。以下同じ)が、審判期日を定める(少年審判規則25条1項)。審判期日には、少年及び保護者を呼び出さなければならない(同条2項)。また、家庭裁判所は、審判期日を付添人に通知しなければならない(同規則28条5項)。 審判は、家庭裁判所またはその支部において行うのが原則であるが(裁判所法61条1項)、裁判所外においても行うことができる(同条2項、少年審判規則27条)。少年院在院者に対する収容継続申請事件の審判は、当該少年院内で行われるのが通例である。 ===列席者等=== 審判の席には、裁判官及び裁判所書記官が、列席する(少年審判規則28条1項)。調査官は、裁判長の許可を得た場合を除き、審判の席に出席しなければならないが(同条2項)、実務上は、身柄事件や試験観察決定が予想される場合、試験観察中の場合を除けば、欠席の許可がなされる場合がほとんどのようである。 少年が審判期日に出頭しないときは、審判を行うことができない(同条3項)。付添人は、審判の席に出席することができる(同条4項)。 裁判長は、審判の席に、少年の親族、教員その他相当と認める者の在席を許すことができる(同規則29条)。ここにいう「相当」な者とは、少年の監護・指導に関与し、更生に協力する者をいうと解されている。実務上は、少年の在籍校の教諭や雇い主、補導委託先、祖父母・兄姉が多い。検察官や被害者(前述参照)は同条による在席許可の対象ではないと解するのが多数説・実務である。 家庭裁判所は、(1)故意の犯罪行為により被害者を死亡させた罪(殺人罪などの故意に被害者を死亡させた罪のほか、被害者の死亡を構成要件とする結果的加重犯も含むと解されている。)、(2)そのほか、法定刑の下限が2年以上の懲役または禁錮である罪を非行事実とする犯罪少年の事件において、その非行事実を認定するために必要があると認めるときは、決定をもって、審判に検察官を関与させることができる(検察官関与決定(けんさつかんかんよけってい))。検察官は、検察官関与決定があった事件において、その非行事実の認定に資するために必要な限度で(すなわち、要保護性の認定には関与しない)、審判の席に出席し、審判期日外における証拠調べの手続に立ち会うことができる(同規則30条の6第1項)。 ===審理の手続=== 審判は非公開で行われ(少年法22条2項)、裁判長が指揮する(同条3項)。審判は、懇切を旨として、和やかに行うとともに、非行のある少年に対し自己の非行について内省を促すものとしなければならない(同条1項)とされているが、ここにいう「懇切」、「和やか」というのは、少年に迎合せよという意味ではない。むやみに難解な言葉を用いたり、高圧的な叱責に終始するのではなく、少年の知的能力や内省の深まりに応じて、理解しやすい言葉を用い、自発的な内省を引き出すように努力しなければならないという意味である。 裁判長は、第1回の審判期日の冒頭において、供述を強いられることはないことを分かりやすく説明した上、審判に付すべき事由(非行事実)の要旨を告げ、これについて陳述する機会を与えなければならない(少年審判規則29条の2前段)。この場合において、少年に付添人があるときは、当該付添人に対し、審判に付すべき事由について陳述する機会を与えなければならない(同条後段)。 少年、保護者及び付添人は、家庭裁判所に対し、証拠調べの申出をすることができ(同規則29条の3)、付添人は、審判の席において、裁判長に告げて、少年に発問することができる(同規則29条の4;少年本人質問)。証人等に対しては、少年側も尋問することができる(同法14条2項、刑事訴訟法157条3項)と解されている。検察官関与決定があった事件については、検察官は、証拠調べの申出、証人等の尋問及び少年本人質問をすることができる(同規則30条の7、30条の8)。 少年、保護者及び付添人は、審判の席において、裁判長の許可を得て、意見を述べることができる(同規則30条)。裁判長は、適正な審判をするため必要があると認めるときは、発言を制止し、または少年以外の者を退席させる等相当の措置をとることができ(同規則31条1項)、少年の情操を害するものと認める状況が生じたときは、その状況の継続中、少年を退席させることができる(同条2項)。 ===非行事実の認定=== 非行事実のうち、犯罪事実、触法事実及び虞犯事由を認定するためには、合理的疑いを超える証明がなければならない。他方で、虞犯性を認定するためには、少年が将来犯罪行為または触法行為をする高度な可能性があることを裏付ける証拠の方がそのような可能性がないことを裏付ける証拠よりも有力であるという程度(証拠の優越(しょうこのゆうえつ))の証明があれば足りる。 任意性に疑いのある自白は証拠能力を有しない。違法収集証拠も排除されることがある。補強法則(憲法38条3項)は、犯罪事実、触法事実及び虞犯事由の認定には適用されるが、虞犯性の認定には適用されない。 他方、非行事実の認定は、自由な証明(刑事訴訟法296条〜310条所定の手続に従わない証明)によれば足り、伝聞法則の適用もないと解されている(送致の説明も参照)。また、犯罪事実や触法事実を認定できない場合であっても、関係証拠から十分心証を得られるときは、これを虞犯性を裏付ける事実として認定することは妨げられない。 ===要保護性の審理等=== 非行事実を認定できるときは、要保護性を審理することになる。要保護性を基礎づける事実については、前述した証拠法則を厳格に適用する必要はないと解されている。その認定に必要な心証も、証拠の優越の程度で足りる。 家庭裁判所は、少年に対し自己の非行について内省を促すよう働き掛ける(少年法22条1項、前述)ほか、必要があると認めるときは、保護者に対しても、少年の監護に関する責任を自覚させ、その非行を防止するため、審判において、自ら訓戒、指導その他の適当な措置を採ることができる(同法25条の2)。 ===集団審判=== 交通関係事件(過失運転致死傷罪、重過失致死傷(自転車運転中の著しい過失による人身傷害がその典型)、危険運転致死傷及び道路交通関係法規違反を非行事実とする少年保護事件)のうち、非行事実に争いがなく、かつ、比較的軽微なものについては、特定の日に集中して少年及び保護者を呼び出し、調査を行った上で、集団講習を受講させたり、集団審判を実施する運用も行われている。 ===試験観察=== 試験観察とは、保護処分の要否及び種類を決定するために、調査官が、相当期間、少年を観察することをいう(少年法25条1項)。少年を自宅に居住させて観察するものは、在宅試験観察(ざいたくしけんかんさつ)と呼ばれる。 試験観察は、家庭裁判所の側からみれば、要保護性の調査を補充・修正する機会を得るという機能を有するとともに、保護処分に付されるかもしれないという心理的強制を少年の自力更生の動機付けとして利用するという、プロベーションと同様の機能も有している。また、試験観察は、少年の側からみれば、調査官との交流を通して自らが抱える問題点に気づくきっかけともなる。この点に着目すれば、試験観察はケースワーク機能やカウンセリング機能を有するともいえる。 試験観察は、審判を開いて非行事実を認定した後、少年の面前で言い渡す(少年審判規則3条2項1号)のが通例である(試験観察決定に対して抗告をすることはできない。)。家庭裁判所は、試験観察とあわせて、次に掲げる措置をとることができる(同法25条2項)。 遵守事項を定めてその履行を命ずること。 実務上、家庭裁判所は「試験観察の期間中は調査官の指示に従うこと。」といった抽象的な遵守事項を定めるにとどめ、担当調査官が少年と協議して具体的な約束事項を定める例が多いようである。これは、調査官と少年が協議することで、約束事項を「具体的且つ明確に」定めることができるし、「少年をして自発的にこれを遵守しようとする心構を持たせ」やすくなる(同規則40条2項)からであろう。調査官が提案する約束事項として多いものには、少年は規則正しい生活をすること、少年及び保護者は家庭裁判所に定期的に出頭して生活状況を報告すること(少年に日記の作成を求めることが多い。)、といったものがある。実務上、家庭裁判所は「試験観察の期間中は調査官の指示に従うこと。」といった抽象的な遵守事項を定めるにとどめ、担当調査官が少年と協議して具体的な約束事項を定める例が多いようである。これは、調査官と少年が協議することで、約束事項を「具体的且つ明確に」定めることができるし、「少年をして自発的にこれを遵守しようとする心構を持たせ」やすくなる(同規則40条2項)からであろう。調査官が提案する約束事項として多いものには、少年は規則正しい生活をすること、少年及び保護者は家庭裁判所に定期的に出頭して生活状況を報告すること(少年に日記の作成を求めることが多い。)、といったものがある。条件を付けて保護者に引き渡すこと。 この場合には、保護者に対し、少年の保護監督について必要な条件を具体的に指示しなければならない(同条3項)。この場合には、保護者に対し、少年の保護監督について必要な条件を具体的に指示しなければならない(同条3項)。適当な施設、団体または個人に補導を委託すること。 この補導委託には、少年を委託先に居住させて行われる場合(身柄付補導委託)と、少年を自宅に居住させて行われる場合(在宅補導委託)とがある。 身柄付補導委託は、委託先である篤志家や社会福祉施設が少年の生活全般を観察・監督し、健全な生活習慣を身に付けさせることを主な目的としている。近年では、委託先となるべき施設等が漸減しており、各地の家庭裁判所は委託先の確保に苦心しているようである。在宅試験観察の場合と同様に、実務上は、観察の期間(同条1項後段)をあらかじめ定めないで、少年の行状に応じて弾力的に終了時期を決めているようである。 在宅補導委託は、少年に勤労やボランティア活動を体験させることによって自己の言動に対する責任感を養わせたり、少年と保護者に共同作業をさせることで親子関係の見直しを図らせたりすることなどを目的として行われる。また、少年を自動車学校等に補導委託し、交通法規を学習させる委託講習も行われている。この補導委託には、少年を委託先に居住させて行われる場合(身柄付補導委託)と、少年を自宅に居住させて行われる場合(在宅補導委託)とがある。身柄付補導委託は、委託先である篤志家や社会福祉施設が少年の生活全般を観察・監督し、健全な生活習慣を身に付けさせることを主な目的としている。近年では、委託先となるべき施設等が漸減しており、各地の家庭裁判所は委託先の確保に苦心しているようである。在宅試験観察の場合と同様に、実務上は、観察の期間(同条1項後段)をあらかじめ定めないで、少年の行状に応じて弾力的に終了時期を決めているようである。在宅補導委託は、少年に勤労やボランティア活動を体験させることによって自己の言動に対する責任感を養わせたり、少年と保護者に共同作業をさせることで親子関係の見直しを図らせたりすることなどを目的として行われる。また、少年を自動車学校等に補導委託し、交通法規を学習させる委託講習も行われている。調査官は、試験観察の結果を書面で家庭裁判所に報告し、意見を付けなければならない(同条5項、13条1項、2項)。家庭裁判所は、試験観察を通じて保護処分の要否及び種類の見通しが立てば、審判不開始(同規則24条の4、同法19条1項)、不処分、保護処分などの終局決定をすることになる。 ===保護処分以外の終局決定=== ====検察官送致の決定==== 検察官送致の決定とは、事件を管轄地方裁判所に対応する検察庁の検察官に送致する旨の決定をいう。検察官送致の決定は、年齢超過による検察官送致の決定(年超検送、19条検送)と少年法20条に基づく検察官送致の決定(20条検送)とに大別される。 家庭裁判所は、調査または審判の結果、本人が20歳以上であることが判明したときは、検察官送致の決定をしなければならない(少年法19条2項、23条3項)。本人が非行時に20歳に満たなくても、審判時までに20歳以上であれば、年超検送をしなければならない。 本人が20歳以上であるかどうかは、多くの場合、戸籍等の生年月日の記載から明らかとなるが、日本以外の、戸籍制度が完備されていない国の出身者などでは、自称の生年月日に基づき非行少年として家庭裁判所に送致したところ、後に20歳以上であると判明することもまれに起こり得る。 家庭裁判所は、法定刑に禁錮以上の刑を含む罪について、調査または審判の結果、その罪質及び情状に照らして刑事処分を相当と認めるときは、検察官送致の決定をしなければならない(少年法20条1項、23条1項)。この「刑事処分を相当」とすべき場合には、保護不能の場合と保護不適の場合とがあるといわれている。 保護不能とは、保護的措置や保護処分による非行化の要因の軽減・除去が不可能な場合である(要保護性の一要素である保護可能性を欠く場合と言い換えてもよい。)。犯罪少年として何度も保護的措置や保護処分を受けたのに犯罪行為を繰り返すような少年などが、保護不能による20条検送の対象となろう。 保護不適とは、保護的措置や保護処分による非行化の要因の軽減・除去は可能であっても、犯罪事実が凶悪・重大であり、少年自身も成人間近であるといったように、少年に刑事責任を自覚させるとともに、一般予防(同種の犯罪行為を企てる他の少年に対する警告。過激な表現ではあるが、「見せしめ」ともいえなくはない。)を図るという刑事政策的な見地から、刑事処分を科すべきと考えられる場合である(要保護性の一要素である保護相当性を欠く場合と言い換えてもよい。)。後述する罰金見込検送も、保護不適の場合に含めて考えることができる。 20条検送の決定に対しては、抗告をすることができない(特別抗告についての最高裁平成17(2005)年8月23日決定・刑集59巻6号720頁参照)。 家庭裁判所は、故意の犯罪行為により被害者を死亡させた罪の事件であって、その罪を犯したとき少年が16歳以上であったもの(原則検送事件)については、検察官送致の決定をしなければならない(少年法20条2項本文)。ただし、調査または審判の結果、犯行の動機及び態様、犯行後の情況、少年の性格、年齢、行状及び環境その他の事情を考慮し、刑事処分以外の措置を相当と認めるときは、この限りでない(同項ただし書、23条1項)。 同法20条2項の規定は、少年による重大犯罪が頻繁に報道され、保護優先主義に対する世論の批判が高まったのを受けて、平成12(2000)年の同法改正により設けられたものである。同改正の提案者によれば、同項ただし書は、望まない妊娠をした女子少年が、出産はしたものの、動揺の余り子を殺害した(産児殺、嬰児殺)とか、集団での暴行により被害者を死亡させた(傷害致死)少年が、参加の経緯が追随的で、実際にもわずかの暴行しか加えなかったといった事案に適用することが想定されている。 平成13(2001)年4月1日から平成18(2006)年3月31日までの運用状況をみると、同項の罪を非行事実とする犯罪少年のうち約39%が保護処分に付されている。殺人の事案で保護処分に付されたもの(約43%)は、産児殺若しくは親族殺または少年の精神状態に問題があるものが多く(大阪家裁平成16(2004)年3月18日決定(医療少年院送致)など。集計期間後の例として、奈良家裁平成18(2006)年10月26日決定(中等少年院送致)がある。)、傷害致死の事案で保護処分に付されたもの(約43%)は、共犯事案で参加の経緯が追随的なものが多い。他方、危険運転致死の事案で保護処分に付されたものは、全27人中2人のみである。 検察官送致の決定がなされると、観護措置は、裁判官のした勾留とみなされ(少年法45条4号前段、45条の2。少年審判規則24条の2も参照)、20条検送の場合には、少年または保護者が選任した弁護士である付添人は、弁護人とみなされる(同法45条6号)。 検察官送致後の捜査の手続は、一般の例による(同法40条)。ただし、勾留延長には一定の制限(同法45条4号後段、45条の2)がある。 20条検送の場合には、検察官は、公訴を提起するに足りる犯罪の嫌疑があると思料するときは、公訴を提起しなければならない(同法45条5号本文;起訴強制)。年超検送と20条検送との最大の相違は、この起訴強制が働くか否かにある。ただし、以下のいずれかの場合には、検察官は、事件を再度家庭裁判所に送致しなければならない(同号但し書)。 送致を受けた事件の一部について公訴を提起するに足りる犯罪の嫌疑がないこと。 家庭裁判所は、検察官送致をした複数の事件を全体として評価して刑事処分相当という判断をしたのであるから、そのうちの一部について公訴を提起するに足りる嫌疑がない以上、再度家庭裁判所に刑事処分相当か否かの判断をする機会を与えなければならないという趣旨である(多数説)。家庭裁判所は、検察官送致をした複数の事件を全体として評価して刑事処分相当という判断をしたのであるから、そのうちの一部について公訴を提起するに足りる嫌疑がない以上、再度家庭裁判所に刑事処分相当か否かの判断をする機会を与えなければならないという趣旨である(多数説)。犯罪の情状等に影響を及ぼすべき新たな事情を発見しまたは送致後の情況により、訴追を相当でないと思料するとき。 検察官送致の決定の前提となっていなかった事情・情況が明らかになったのであるから、検察官が再度家庭裁判所に刑事処分相当か否かの判断を求めることを認めるという趣旨である。検察官送致の決定の前提となっていなかった事情・情況が明らかになったのであるから、検察官が再度家庭裁判所に刑事処分相当か否かの判断を求めることを認めるという趣旨である。以上のほか、20条検送を受けた事件について、公訴を提起するに足りる犯罪の嫌疑及び訴訟条件はないが、犯罪の嫌疑または虞犯事実はあるという場合には、全件送致主義の原則どおり、検察官は、事件を家庭裁判所に送致しなければならない。 検察官送致の決定がなされた少年には、成人と同様の公判や略式手続を経て(少年法40条)、刑罰が科される。ただし、弁論・収容の分離等(同法49条)、科学調査主義(同法50条、9条、少年審判規則277条)などの特則がある。さらに、裁判所は、事実審理の結果、少年の被告人を保護処分に付するのが相当であると認めるときは、決定をもって、事件を家庭裁判所に移送しなければならない(同法55条)。この再移送の適否が、少年の公判事件での主たる争点となることが多い。 少年に対する処断刑の長期が3年以上の有期の懲役または禁錮となるときは、その処断刑の範囲内で長期と短期を定めたものを宣告刑とする(同法52条1項本文;不定期刑)。ただし、宣告刑の短期は5年、長期は10年を越えることはできず(同条2項)、処断刑の短期が5年を超えるときは、宣告刑の短期を5年に短縮する(同条1項但し書)。また、少年に対しては、労役場留置を言い渡すことができない(同法54条)。 罪を犯したとき18歳未満であった者に対しては、死刑をもって処断すべきときは無期刑を科し(同法51条1項)、無期刑をもって処断すべきときは、無期刑を科すか、10年以上15年以下の範囲で定期の有期刑を科すかを裁判所が選択することができる(同条2項)。 懲役または禁錮の言渡しを受けた少年に対する刑の執行については、収容の分離(同法56条1項、2項)、年少受刑者(同条3項)、仮釈放要件の緩和(同法58条)、仮釈放期間の終了要件の緩和(同法59条)及び法令上の資格回復時期の前倒し(同法60条)といった特則が置かれている。 ===児童相談所長送致等=== 家庭裁判所は、調査または審判の結果、児童福祉法の規定による措置を相当と認めるときは、決定をもって、事件を権限を有する都道府県知事または児童相談所長に送致しなければならない(少年法18条1項、23条1項)。これを実務上、児相送致、あるいは18条決定と呼んでいる。 18条決定には、強制的措置の許可(同法18条2項)を伴う場合と、これを伴わない場合(通常の18条決定)とがある。18条決定は、原則として18歳未満の少年を対象としており(児童福祉法4条柱書、31条2項参照)、実務上は、義務教育課程にある少年についてなされる例がほとんどである。また、18条決定は保護処分ではないから、強制的措置の許可を伴う場合であっても抗告はできないとされているが、抗告を認める見解も根強い。強制的措置そのものに関しては、強制的措置を行う主体である都道府県等を相手に、行政訴訟で争うことはできるものと解される。 なお、児童福祉法には、少年法18条1項に基づき家庭裁判所から送致を受けた児童に対してとるべき措置について、児童相談所長のとるべき措置に関する規定はあるが(児童福祉法26条1項)、都道府県知事のとるべき措置に関する規定はないので、通常の18条決定による送致先は児童相談所長に限られることになる。 ===不処分=== 家庭裁判所は、審判の結果、保護処分に付することができず、または保護処分に付する必要がないと認めるときは、保護処分に付さない旨の決定(不処分の決定)をする(同法23条2項)。 実務上は、「保護処分に付することができないとき」には、審判条件不存在、非行なし、事実上審判不可能という3類型がある。これらは、審判不開始の決定がなされる場合と同様であるから、その説明中の「審判不開始」を「不処分」と読み替えていただきたい。ただし、蓋然的心証が得られても合理的疑いを超える心証が得られなければ非行なしによる不処分の決定をなすべき点に注意が必要である。 実務上は、「保護処分に付するのが相当でないとき」には、保護的措置、別件保護中、事案軽微という3類型がある。 保護的措置による不処分とは、調査・審判を通じた保護的措置によって少年の再非行を抑止できると考えられる場合である。観護措置や身柄付補導委託を経る場合も含まれるので、安易に「口頭注意」と同視すべきではない。実務上、不処分の理由の圧倒的多数を占める。 別件保護中または事案軽微による不処分は、審判不開始の決定がなされる場合と同様であるから、その説明中の「審判不開始」を「不処分」と読み替えていただきたい。 ===保護処分=== 以上の場合に当たらない少年については、要保護性に応じた保護処分の決定がなされる(少年法24条1項)。保護処分には、保護観察所の保護観察に付すこと、児童自立支援施設または児童養護施設に送致すること、少年院に送致することという類型があるが、処遇の詳細については、上記各項目を参照されたい。 家庭裁判所が保護処分の決定を言い渡す場合には、少年及び保護者に対し、保護処分の趣旨を懇切に説明し、これを十分に理解させるようにしなければならない(少年審判規則35条1項)。 ===没取=== 家庭裁判所は、犯罪少年及び触法少年について、都道府県知事若しくは児童相談所長送致、審判不開始、不処分または保護処分の決定をする場合には、没取の決定をすることができる(少年法24条の2第1項)。 没取することができる物は没収と同様に考えればよい。なお、没取は全て任意的である(没取するかしないかは家庭裁判所の裁量に委ねられている)ことと、保護処分をしない場合でも没取をすることができることとが、没収との大きな違いである。 ===処遇勧告=== 保護処分の決定をした家庭裁判所は、必要があると認めるときは、少年の処遇に関し、保護観察所、児童自立支援施設、児童養護施設または少年院に勧告をすることができる(処遇勧告、少年審判規則38条2項)。 処遇勧告の中で実務上大きな意味を持つのが、少年院における収容教育課程の選択に関する処遇勧告と、保護観察所における保護観察の種別に関する処遇勧告である(詳細については、保護処分の項で引用した各項目を参照されたい。)。保護処分の執行機関には家庭裁判所の処遇勧告に従う法令上の義務はないが、通達により、少年院及び保護観察所は、原則として上記の各処遇勧告に従うものとされている。このため、殊に少年院送致の決定に一般短期処遇や特修短期処遇の処遇勧告が付されるかどうかは、少年や保護者にとって重大な関心事となっており、これらの処遇勧告が付されなかったことを理由として抗告がなされる事例も多い(もっとも、裁判例の多くは、短期処遇の処遇勧告が付されなかったことは抗告の理由とはならないとしつつも、職権で短期処遇の処遇勧告を付すべきかどうかを審理している。)。 ===終局決定の実情=== 司法統計により、交通関係事件を除くいわゆる一般事件の終局人員構成比をみると、審判不開始が50%強、不処分が30%前後、保護観察が15%前後、少年院送致が3%前後、検察官送致が1%強などとなっている。他方、交通関係事件の終局人員構成比を見ると、審判不開始が約30%、不処分が30%強、保護観察が約20%、検察官送致が10%強などとなっている。道路交通法違反保護事件での検察官送致は、少年保護事件における検察官送致件数全体の約90%を占めており、その多くは、罰金を見込んで行われるものである(罰金見込検送)。また、道路交通法違反保護事件においては、保護観察に付された少年の約80%は交通短期保護観察に付されている。 近年、少年院送致率の上昇が指摘されており、少年非行に対する厳しい世論をふまえて素行不良の少年に対する自覚を促すものという肯定的な評価がある一方で、家庭裁判所が保護的措置や社会内処遇の可能性の探求を怠り、安易に少年院送致を選択しているのではないかという批判も根強い(この批判は、試験観察の激減(平成2(1990)年の39,525件が平成18 (2006) 年には1,940件に減少した。)をも背景とする。)。 ==抗告== 保護処分の決定に対しては、少年、その法定代理人または付添人から、2週間以内に、抗告をすることができる。ただし、決定に影響を及ぼす法令の違反、重大な事実の誤認または処分の著しい不当を理由とするときに限る(少年法32条前段)。抗告をするには、申立書を原裁判所に差し出すのが原則である(少年審判規則43条1項)。抗告の申立書には、抗告の趣意(申立人が正当と考える決定の内容や、申立人の考えが正当である理由をいう)を簡潔に明示しなければならない(同条2項)。 検察官関与決定がなされた場合、検察官は保護処分に付さない決定または保護処分の決定に対し、事件の非行事実の認定に関し、決定に影響を及ぼす法令の違反または重大な事実の誤認があることを理由に、2週間以内に高等裁判所に抗告受理の申立てを行うことができ、原裁判所から申立書の送付を受けてから2週間以内に受理の決定がなされた場合は、抗告があったものとみなされる(同法32条の4)。 抗告裁判所(抗告の審理を担当する裁判体)は、抗告の趣意に含まれる事項に限り調査するが(同法32条の2第1項)、抗告の理由となる事由に関しては、職権で調査することもできる(同条2項)。抗告裁判所は、事実の取調べ(原裁判所が収集しなかった事実や証拠を自ら収集することをいう)をすることもできる(同法32条の3)。抗告裁判所は、抗告の手続がその規定に違反したとき、または抗告に理由がないときは、抗告を棄却する旨の決定をし(同法33条1項)、抗告に理由があるときは、原決定を取り消して、事件を原裁判所に差し戻し、または他の家庭裁判所に移送する旨の決定をする(同条2項)。 抗告裁判所による原決定の取消率は、極めて低い。事実の取調べがなされる例もほとんどない。これは、抗告裁判所が、家庭裁判所には調査官という少年保護に関する専門的知見を有する職員が配置されていること(調査官は、高等裁判所においては、少年保護事件に関する調査権限を有しない。裁判所法61条の2第2項)、調査・審判技法(ノウハウ)が蓄積されていること、調査・審判を通じて少年・保護者と直接接した上で心証を形成していることをふまえて、原裁判所の判断を尊重する傾向にあることに由来すると考えられるが、過度の原決定尊重傾向が抗告の救済制度としての実効性を著しく減殺しているとの批判もある。 抗告裁判所の決定に対して、最高裁判所に対して、少年側(少年、その法定代理人または付添人)からのみ、憲法違反や最高裁や高裁の判例違反を理由に2週間以内に再抗告することができる(35条)。検察官は再抗告ができない。原決定に少年法35条1項所定の事由が認められない場合でも,同法32条所定の事由があって、これを取り消さなければ著しく正義に反すると認められるときは,職権により原決定を取り消すことができると判例上されている(最決昭和58年9月5日)。 ==記事等の掲載の禁止== 家庭裁判所の審判に付された少年または少年のとき犯した罪により公訴を提起された者については、氏名、年齢、職業、住居、容貌等によりその者が当該事件の本人であることを推知することができるような記事または写真を新聞紙その他の出版物に掲載してはならない(少年法61条)。同条に違反するかどうかは、その記事等により、本人と面識等のない不特定多数の一般人がその者を当該事件の本人であると推知することができるかどうかを基準にして判断すべきである。 従前から、被害者や国民の知る権利を代行すると主張して、報道機関が本人の身上・経歴を取材・報道したり、匿名掲示板にこれらの情報が投稿された事例が多発している。その背景には、同条違反それ自体を処罰する規定が存在しないことや、日本国外に設置したサーバ上にこれらの情報を存置すれば法的責任を免れ得るとの認識があるとも指摘されている。これに対して、法務省人権擁護局が行政指導を行うことがある。さらに進んで、人権擁護法に基づく規制の対象とすべきであるとの議論もある。 ==関連項目== 準少年保護手続少年法制家庭内暴力 =ユナイテッド航空232便不時着事故= ユナイテッド航空232便不時着事故(ユナイテッドこうくう232びんふじちゃくじこ、英語: United Airlines Flight 232)は、1989年7月19日にユナイテッド航空の定期232便がアメリカ合衆国アイオワ州スーシティのスー・ゲートウェイ空港に緊急着陸を試み大破した航空事故である。 事故調査の結果、ファン・ディスク破砕の原因は、材料のチタン合金製造時における欠陥に起因することが判明した。この欠陥から疲労亀裂が成長し最終的に破断に至った。ファン・ディスクは定期検査を受けていたが亀裂は見逃されていた。整備における人的要因の考慮が不十分だったためと結論された。 事故機の状況は、さらに多くの犠牲者が出てもおかしくなかったため、184人が生存できたことは航空界を驚かせた。事故後のシミュレーター試験では、油圧系統が完全に機能喪失した場合に安全に着陸させることは困難という結論に至った。事故調査報告書は「あのような状況下でのユナイテッド航空の乗務員の対応は、高く称賛に値し、論理的予想をはるかに超える」と記し、本事故はクルー・リソース・マネジメントの成功例として知られることとなった。 事故機はマクドネル・ダグラス製DC‐10型機だった。ステープルトン国際空港からシカゴ・オヘア国際空港へ向けて飛行中に第2エンジンのファン・ディスクが破断し、設計上の保護水準を超えたエネルギーで破片が飛散した。これにより全ての油圧操縦系統が機能しなくなり操縦翼面を操作できなくなった。偶然、事故機にはDC‐10型機の機長資格を持つ訓練審査官が非番で搭乗しており正規の乗務員と協力して操縦にあたった。パイロット達は左右2基のエンジン推力の調整により操縦を試み、機体はスー・ゲートウェイ空港まで辿り着いたものの、着陸寸前に機体姿勢が崩れて右翼端から接地して横転しながら大破炎上した。待機していた消防救助隊が直ちに救出活動を開始し、乗客乗員296人の半数以上が救助されたが最終的に112人が死亡した。 ==事故当日のユナイテッド航空232便== ユナイテッド航空232便(以下、UAL232便と表記)は、アメリカ合衆国の国内定期旅客便であった。出発地はコロラド州デンバーのステープルトン国際空港、イリノイ州シカゴのシカゴ・オヘア国際空港を経由し、ペンシルベニア州フィラデルフィアのフィラデルフィア国際空港へ向かう路線だった。1989年7月19日の便には、乗客285人、乗員11人が搭乗していた。 使用機材は、マクドネル・ダグラス社のDC‐10‐10型機だった。DC‐10型機は左右の主翼下に1基ずつと、垂直尾翼の付け根に1基の計3基のターボファンエンジンを備えた旅客機である。機体記号は「N1819U」で1971年にユナイテッド航空へ納入された。当該便直前までの総飛行時間は43,401時間、飛行回数は16,997回だった。装備エンジンはゼネラル・エレクトリック (GE) 社のCF6‐6Dだった。同エンジンは、高バイパス比のターボファンエンジンで、円盤の周囲に多数の羽根を取り付けた「ファン」と呼ばれる部品を前方に備えている。 機長のアルフレッド・C・ヘインズ(英語版) (Alfred C. Haynes) は57歳で、1956年2月にユナイテッド航空に入社した。同航空での飛行時間は29,967時間で、そのうち7,190時間がDC‐10型機での飛行である。DC‐10とボーイング727の運航資格を保有し、1987年4月にDC‐10の機長の資格を取得していた。 副操縦士のウィリアム・R・レコーズ (William R. Records) は48歳で、1969年8月にナショナル航空に入社、その後パンアメリカン航空を経て1985年12月にユナイテッド航空への転職教育を完了した。レコーズの総飛行時間は約20,000時間で、DC‐10とロッキードL‐1011の運航資格を取得していた。ユナイテッド航空でDC‐10の副操縦士として665時間飛行していた。 航空機関士のダドリー・J・ドヴォラーク (Dudley J. Dvorak) は51歳で、1986年5月にユナイテッド航空に入社した。総飛行時間は15,000時間で、ユナイテッド航空入社後は航空機関士としてボーイング727で1,903時間、DC‐10で33時間飛行していた。 当該機には、DC‐10の機長の資格を持つデニス・E・フィッチ(英語版) (Dennis E. Fitch) も非番でファーストクラスに搭乗していた。フィッチは46歳で1968年1月にユナイテッド航空に入社した。同航空への入社前に、空軍州兵として1,400から1,500時間の飛行経験があった。DC‐10の飛行時間は2,987時間であり、そのうちで1943時間を航空機関士、965時間を副操縦士、79時間を機長として飛行していた。DC‐10の訓練審査官 (Training Check Airman; TCA) の資格も保有しており、ユナイテッド航空のフライト・トレーニング・センターに勤務していた。以降、彼のことをTCA機長と呼ぶ。 ==事故の経過== ===離陸からエンジン異常発生まで=== 中部夏時間14時09分、当該機はステープルトン国際空港を離陸した。副操縦士の操縦により、予定の巡航高度37,000フィート(約11,300メートル)まで平常通り上昇した。オートパイロットが作動され、指示対気速度270ノット(約時速500キロメートル)に飛行速度を維持するモードが使用された。飛行計画ではマッハ数0.83で巡航することになっていた。 離陸から約1時間7分後の15時16分10秒、大きな爆発音が発生し続いて機体が激しく振動し始めた。乗員はエンジン計器を点検し、尾部にある第2エンジンに異常が発生したと特定した。ただちにオートパイロットが解除され、機長の指示でエンジン停止時のチェックリストが開始された。リストの最初の項目はエンジン停止であったが、第2エンジンのスロットルが動かなくなっていた。次の項目は燃料の供給停止だったが、燃料レバーも動かなくなっていた。ここで航空機関士が防火バルブを閉じるよう提案し、ようやく第2エンジンを停止できた。異常発生からここまで約14秒だった。 さらにチェックリストを続ける中で、航空機関士は機体の3系統あるすべての油圧系統の圧力計と油量系がいずれもゼロを指していることに気づいた。副操縦士は、機体が右旋回で降下しており制御不能であると報告した。機長が操縦を交代して機体が操縦操作に反応しないことを確認した。機長は左翼にある第1エンジンの推力を減らし、機体は左右の水平を取り戻し始めた。機長は、風力駆動の発電機を展開した。この発電機から予備の油圧ポンプに給電される仕組みだったが、ポンプのスイッチを入れても油圧は回復しなかった。この時点で3系統ある油圧系統が全て機能しなくなっていた。事故後の調査で明らかになることだが、第2エンジンの破損により3系統あるすべての油圧配管が切断されたためであった。 15時20分、乗員はミネアポリスの航空路交通管制センター (Air Route Traffic Control Center) に無線連絡し、緊急援助と最も近い飛行場への進路誘導を要請した。この時、管制センターは、デモイン国際空港へ向かうことを提案した。デモインはアイオワ州の州都で、デンバーとシカゴを結ぶ線上にあたる。15時22分、管制官は乗員にUAL232便がスーシティの方角へ飛行していると知らせた。そして、管制官はスーシティに向かうか尋ね、乗員はそうすると回答した。UAL232便がスーシティのスー・ゲートウェイ空港に針路をとるよう、航空交通管制のレーダー誘導が始まった。 この間の15時21分、乗員は、ユナイテッド航空の運航管理部門にACARS(航空機と地上を結ぶ文字データを中心とした無線データ通信システム)でメッセージを送信した。そして無線交信を要請し、2分後に交信に成功した。15時25分、乗員は運航管理部門との交信において同航空の整備施設に直ちに繋いでほしいと要請し、同時に救難信号の「メーデー」を発信した。 ===TCA機長の登場=== 第2エンジンの異常発生時、客室では食事用トレーの片付け中だった。エンジンの爆発音があり、やがて機長による機内アナウンスが流れて、第2エンジンの停止が乗客に知らされた。先任客室乗務員がコックピットに呼ばれ、状況説明を受けて緊急着陸に備えるよう指示された。その際の緊迫した様子を彼女は「焼却炉のドアを開けて熱風が吹いてくるような感じ」だったと証言している。客室に戻った彼女は、乗客を刺激するのを避けるべく、客室乗務員を一か所に集めることはせず、一人ずつ状況説明をして緊急着陸に備えるよう伝えた。客室乗務員たちは動揺を隠し平静さを保つよう努め、乗客に緊急時の準備をさせた。 問題発生より約10分後の15時26分42秒から、コックピットボイスレコーダー (CVR) の録音が残っている。その時、スー・ゲートウェイ空港の管制官(以下、進入管制官と呼ぶ)と交信中で状況説明を行っていた。15時27分、サンフランシスコの整備施設と最初の交信が行われた。パイロットは整備施設に全油圧システムが停止して油量も失われた旨を伝え、支援を要請した。しかしこの後、事故機と整備施設の間で断続的に交信があったが、整備施設から乗員へ何か指示できることはなかった。 非番で搭乗していたTCA機長は、ユナイテッド航空の乗員訓練を信頼しており、当初は協力を申し出るのを遠慮していた。しかし、エンジン1基停止時の飛行手順と異なる飛行状況だったことや、先任客室乗務員から深刻な状況であることを聞き、手助けを申し出た。15時29分、先任客室乗務員がコックピットに入り、DC‐10型機のTCA機長が搭乗していること、そして彼が協力の意思があることを伝えた。機長は直ちにTCA機長をコックピットに招くよう指示をした。それから30秒も経たないうちに、TCA機長はコックピットに入った。TCA機長が到着した時、機長と副操縦士は精一杯の力で操縦桿を左に切っていたが、機体は右旋回をしていた。コックピット内は緊迫しており、機長が挨拶し乗員を紹介したが、その間、誰もTCA機長の方を向く余裕もなかった。 機長はTCA機長に状況を説明し機体の制御手段が全くないと伝えた。機長は、客室の窓から外部の損傷がないか、そして操縦翼面が操作に反応しているか確認するようTCA機長に依頼した。外観確認を終えたTCA機長はコックピットに戻り、内側エルロンは無傷だが僅かに上向きで固定されていたことと、スポイラーが下げ位置でロックされていることを報告した。主操縦翼面は動作していなかった。 機長は、TCA機長にエンジンのスロットルの制御を指示した。これにより、機長と副操縦士が他の操作や管制塔との通信などに専念できるようになった。スロットルは機長席と副操縦士席の間のペデスタル(中央制御卓)にある。TCA機長はペデスタルの後ろにひざまずいてスロットル・レバーの調整を担った。TCA機長はエンジン出力でピッチとロールを制御しようと試みた。機体は常に右旋回する傾向があったほか、安定したピッチ姿勢を維持するのが難しくなっていた。TCA機長は第1エンジン(左翼側)と第3エンジン(右翼側)の推力を対称にできないと考え、両手でそれぞれのレバーを操作した。 ===緊急着陸の決断と準備=== 15時32分、TCA機長が客室乗務員達はゆっくり準備をしていたと伝えた。これを受けて機長は不時着の可能性を示唆し、備えを急いだ方が良いと答えた。間もなく、機長はスー・ゲートウェイ空港の進入管制官に、油圧の作動液を失い昇降舵を制御できないこと、そして滑走路にたどり着けず不時着する可能性があることを伝えた。ユナイテッド航空の運航管理部門も直接スー・ゲートウェイ空港の管制塔に連絡し、緊急着陸、消火、救命に関する準備を要請していた。 15時34分、機長はスー・ゲートウェイ空港に着陸を試みる決断をした。航空機関士に、高揚力装置を使用せず着陸する場合の情報を求めた。さらに機長は、進入管制官に計器着陸装置の周波数、および滑走路の方向と長さを問い合わせた。管制官は周波数を回答し、UAL232便の現在地と進路、そして滑走路31の長さを伝えた。この時、UAL232便はスー・ゲートウェイ空港から北東約35マイル(約65km)の地点にいた。 15時35分、機長は航空機関士に急速投棄で燃料を放出するよう指示した。燃料は自動投棄の下限である33,500ポンド(約15トン)まで放出された。15時38分、パイロットの一人が「クリーン形態(高揚力装置と降着装置を格納した状態)の進入操作速度は200ノット(時速約370km)だろう」と発言した。副操縦士が、機長に200と185にバグ(速度計の縁にある可動式の目盛り)をセットするよう求めた。 15時40分、機長は先任客室乗務員に、客室は全員準備できているか尋ねた。機長は、この乗務員に油圧系統の喪失により機体をほとんど操縦できないことと、スーシティに向かっていることを伝えた。続けて、難しい着陸で結果がどうなるかわからない、そして脱出を成功させられるかもわからないとも述べた。機長は、着陸へ備える時になったら客室へ警報放送「ブレース、ブレース、ブレース」を流すと伝えた。「ブレース」とは、衝撃を低減するために体を前に折り曲げる不時着時の姿勢のことである。 15時41分、空港の進入管制官からUAL232便に、非常用設備は待機中だと連絡が入る。続いて、翼の損傷を目撃した客室乗務員がいると航空機関士が報告した。航空機関士は後部に確認に行くか尋ね、これを機長が許可した。航空機関士はコックピットを離れ約2分半後に戻った。彼は機体の尾部に損傷があると報告し、機長は「それこそ私が考えていたことだ」と言った。 15時48分、降着装置(ギア)が降ろされた。油圧が使えないため、重力を利用する予備 (alternate) の方法でギアが降ろされたとパイロット同士が会話している。15時49分、機長はパイロットたちに座席のベルトをしっかり締め、周囲を片付けるよう指示した。TCA機長は航空機関士席でベルトを締め、スロットルの操作を続けた。 ===最終進入まで=== 15時51分、管制官は、UAL232便が空港の北21マイル(約39キロメートル)の地点にいると知らせた。続けて、旋回を少し広げて経路を左へ向けることを求めた。これは、UAL232便が最終進入経路に入るためであり、当該機を市街地から遠ざけることもできるためであった。これに対し機長は、何であれ当該機を市街地から離して欲しいと応答した。数秒後、管制官はUAL232便に方位180度へ旋回するよう求めた。15時52分には進行方向右側に高さ約100メートル前後の障害物があると注意喚起した。続けて、管制官は、どの程度急な右旋回が可能か質問した。機長は、バンク角30度を試みていると答えたが、乗員の1人はそんな急バンクはできないと発言している。 15時55分ごろ、機長は「放送して彼らにあと4分と伝えよ」と指示。副操縦士が管制官に「あと3、4分で到着」と通信したが、機長はすぐに「放送、放送。乗客に伝えよ」と正した。これを受けて航空機関士が「あと4分で着陸」と機内放送した。 当初、進入管制官は滑走路31に着陸させようとしていた。「あと4分」と機内放送されたころ、UAL232便は、空港の北西約18マイル(約33キロメートル)の地点を飛行していた。機長は、ここから滑走路31に回り込むことは困難と判断し、ほぼ直線上に位置していた滑走路22への着陸を決めた。 15時57分から59分にかけて、UAL232便と管制塔との間では、概ね以下のような交信が行われた。 管制官「ユナイテッド232便、空港は12時の方向、13海里(約24キロメートル)」機長「OK、探している」機長「空港の標高は?」管制官「1,100フィート(約335メートル)」機長「ありがとう…、当機は降下を開始している」管制官「ユナイテッド232便、了解。空港は12時の方向、10海里(約19キロメートル)」管制官「ユナイテッド232便、もし空港までたどり着けなければ州間高速道路がある。空港の東端、南北に通っている、4車線だ」機長「たった今我々は道路を通過した。空港へ向おうとしている」機長「滑走路が見えた、滑走路が見えた、滑走路が見えた。間もなくだ。支援を感謝する」管制官「ユナイテッド232、風は360度(の方向)から11ノット、どの滑走路でも着陸を許可する」機長「(笑い声)了解(笑い声)。君は滑走路を指定して着陸させたいって言うのかい?」機長「OK、3本の滑走路を把握している。風の状況をもう一度」管制官「風は010度から11ノット。滑走路のうちの1本は閉鎖されているが、おそらく使えるだろう。北東から南西へ走っている」機長「我々は非常にうまく、この滑走路と一直線になっている…」管制官「ユナイテッド232便、一直線になっている滑走路は、滑走路22で閉鎖されている。使用可能にする。今、滑走路から機材を取り除いている。この滑走路と一列になっている」機長「滑走路の長さは?」管制官「6,600フィート(約2,012メートル)、機材を撤去中」管制官「滑走路の終端はオープンフィールド(開けた場所)だ」滑走路が目視できた直後、機長の指示で、コックピットから「あと2分」と機内放送がされた。そして、乗客に衝撃防止姿勢をとるよう客室乗務員が大声で呼びかけた。 ===着陸そして大破=== 15時59分時点におけるスー・ゲートウェイ空港の天候は、一部曇りで周囲には積雲があった。視程は15マイル(24キロメートル)、風は360度の方角から風速14ノット(約26キロメートル毎時)だった。 進入中、高揚力装置は格納されたままだった。TCA機長は、副操縦士の速度計と機外を見ながら、第1、第3エンジンのスロットルレバーを操作していた。TCA機長は、高揚力装置を使用しない進入の経験から、降下を制御するためには推力を用いる必要があることを知っていた。TCA機長の証言によると、彼は進入中にスロットルを一定にすることはなく、常に調整し続けた。15時59分44秒から8秒間、対地接近警報装置が、降下率が大きいことを警告した。 ここから着地までのコックピットボイスレコーダーの記録は概ね以下のとおりである。 15時59分58秒:機長「スロットルを閉じよ」16時00分01秒:TCA機長「いや、スロットルは引けない。そうしたら失敗する」4秒後:副操縦士「左、アル」「左スロットル」「左、左、左、左…」16時00分09秒:別の対地接近警報が鳴り始める続けて、副操縦士「曲がってる、曲がってる、曲がってる」16時00分16秒:衝撃音、そして記録終了着地までの20秒間、事故機は対気速度が215ノット(時速約398キロメートル)、降下率が毎分1620フィート(約494メートル)で飛行した。ピッチとロールの緩やかな振動が続いていたが、着地寸前に右主翼が急激に下がった。この時、地上100フィート(約30メートル)で、ほぼ同時に機首が下がり始めたと機長は証言している。機体は滑走路22の終端、センターラインのやや左側に着地した。右主翼の翼端が地面に接触し、続いて右エンジンと右主脚が接地した。右エンジンは接地してすぐ爆発炎上した。機体は滑走路右側に横滑りし、右主翼と機体尾部が分離した。残りの機体も火の車のように横転しながら分解、炎上しつつ滑走路17を横切って停止した。裏返しになった胴体中央部は、最初の着地点から3,700フィート(約1キロメートル)離れたトウモロコシ畑で停止した。機体は衝撃と火災で破壊された。 ===その時の様子=== 着陸時の様子について、TCA機長は後に次のように述べている: ものすごい衝撃で、推力レバーに置いた手が振り落とされ、まるで巨大な手で後ろから頭を突き飛ばされたようになって、無線機パネルに打ち付けられました。…(略)…窓が緑一面になったと思うやいなや、今度は明るい光が映りました。すぐにまた緑や茶色になり、熱と湿気が射し込み破片が落ちるのを感じました。その後は……、その後の壮絶さは口では言い表せません。 客室乗務員によると、不時着時の客室内は金属のきしむ音など激しい騒音が鳴り響き、照明が点滅しながら横滑りし、上下がひっくり返って止まったという。先任客室乗務員は「突風で畑の草がすべてなぎ倒されたみたいだった」と表現している。 男性乗客の1人は、その時の様子を次のように証言している: 最初の衝撃は通常の着陸に比べて少し大きいという程度だった。しかし2度目はとても激しく、座席のシートを突き抜けてしまうくらいの衝撃があり、凄まじい爆発があった。…(略)…座席から落ちてきた乗客数名とぶつかり、頭上の荷物棚からスーツケースが転がり落ちた。 また、1歳11か月の子供と搭乗していた母親は次のように語った: 息子が宙に投げ出され、私は夢中で息子のウエストを掴んで受け止めたの。飛行機が停止するまで息子は何度も頭をぶつけたわ。そして私の腕から抜け落ちそうになるたびに、ぐいっと引き戻したの。 機内には黒い煙が立ち込め、歩ける乗客乗員は上下逆さまになった天井を歩き、機体に空いた穴から脱出した。 ===救助活動=== スー・ゲートウェイ空港は軍民共用空港であり、消防救助隊 (Aircraft rescue and firefighting ARFF) を担当していたのは州兵だった。15時25分ごろ、消防救助隊に緊急事態の通報が入り、部隊の全車両5台が出動した。同空港は普段DC‐10型機が就航しておらず、同型機の緊急事態に必要な装備を有していなかった。15時34分に、同空港は最高レベルの緊急事態警報を発令し、ただちに地域緊急対応計画に従いスーシティ消防部の応援車両も加わったほか、スーシティと相互援助協定を結んでいた近隣自治体からの応援も集まった。この間、当該機は空港まで到達できず空港およそ5マイル(約9キロメートル)南に墜落する可能性があることが、管制塔から救助隊に対して伝えられていた。 15時47分、UAL232便は空港に向かっており滑走路31に着陸する見込みとの連絡が消防救助隊長に入った。消防救助隊は直ちに滑走路31に沿って配置についた。しかし15時59分になって、DC‐10型機は滑走路31ではなく滑走路22に着陸するだろうと管制塔から消防救助隊に連絡が入った。管制塔は消防救助隊に対し、数台の車両が進入経路沿いにいるので直ちに移動するよう指示をした。 車両の再配置が完了するより早くUAL232便は空港に到達し、前述の通り着陸を試みたが接地後に横転して分解・炎上した。搭乗者の一部は、衝撃で機外へ放り出された。機体の停止後は、自力で脱出できた人も多かったが、機内に閉じ込められた人も少なくなかった。 当該機の墜落後、消防救助隊の全車両は滑走路22と滑走路17の交点に急行した。隊長は素早く機体尾部を調査し、16時01分頃、全隊にトウモロコシ畑の機体中央部へ進むよう指示した。最初に現場に到着した車両は、胴体中央部分に向けて消火剤を散布した。16時04分ごろ、この車両は搭載していた水を使い果たしたが、後続の車両が到着して消火活動が続けられた。火は右主翼部で激しく機体内部に広がり、17時ごろまで火勢が強くなり続けた。墜落から2時間ほど火災を制圧できず、小さい火は夜まで続いた。 脱出した乗客は「他の乗客がトウモロコシの茎の間にいそうだ」と消防救助隊に伝えた。トウモロコシは約7フィート(約2メートル)の高さがあり、生存者は後に「高いトウモロコシの茎のため方向がわからなかった」と証言した。地代収入を見込んで空港の土地をトウモロコシ畑としてリースしていたが、このトウモロコシは、被害者の捜索・救助活動を困難にした。 救助活動に際しトリアージが実施され、救助された人たちは重傷度に応じて搬送された。34台の救急車と9機のヘリコプターが動員され、救助された人々が地元の病院へ搬送された。警察は空港と病院の間の主要高速道路を封鎖し、緊急車両の通行を優先させた。最初の搬送者は事故後16分で病院へ到着した。 現場の空港では、1987年10月に、被害者90人を想定した大規模な災害訓練が実施されており、本事故前月の1989年6月にも小規模な訓練が実施されていた。これらの経験は、現場や負傷者を受け入れた病院での救助活動に生かされた。救助活動は、後にアメリカ連邦航空局 (Federal Aviation Administration; FAA) により賞賛されたほどの水準だったが、機内に取り残され呼吸困難で亡くなった人も多かった。 ===被害状況=== 搭乗者296人のうち乗員1人と乗客110人が死亡した。死因は35パーセントが煙による窒息で、残りは衝撃による外傷だった。犠牲者の中には、右田・小杉・スティルカップリングの発見者である化学者・ジョン・ケネス・スティルがいた。生存者のうち、乗員6人と乗客41人が重傷を負った。重傷の乗客のうち1人は事故の怪我により31日後に亡くなった。残る乗員4人と乗客121人は軽傷で、無傷の乗客も13人いた。 コックピット部分は機体から分離して腰高ほどに潰れていたことから、生存者がいるとは思われず、救助隊も後回しにした。しかし、コックピット内の4人は全員生存していた。残骸の窓から航空機関士の手が出ているのが発見され、全員救助された。コックピットの救助活動にはフォークリフトも投入された。4人のパイロット達はそれぞれ、多数の骨折や打撲を伴う重傷だったが、幸いにも回復し全員乗務に復帰した。客室乗務員も1名が亡くなったが、助かった者は後に全員復職した。 ==事故調査== アメリカの国家運輸安全委員会 (National Transportation Safety Board; NTSB) を中心に事故調査が行われた。本事故の情報は、まだUAL232便が飛行しているうちにFAAとNTSBに伝わり、直ちに調査チームが編成された。調査官らが現場へ向かう飛行機を待っていたところ、テレビで事故機が横転炎上する様子が放映された。現場への移動中に生存者がいるという情報が入り、調査官は驚いたという。 事故機の右主翼は接地後すぐに分離したが、胴体中央部と左主翼はほぼ一体のまま滑走路17を横断した先にあった。機首部は接地後早い段階で分離し、滑走路17を横切る直前の場所に転がった。尾部の大部分は滑走路22、滑走路17そして付近の誘導路上にあった。 フライトデータレコーダーは損傷もなく回収に成功した。フライトデータレコーダーは不時着時まで正常に稼働しており、事故時のフライトを含む25時間分のデータが、概ね良好な状態で得られた。フライトデータレコーダーの記録から、第2エンジンが損傷したのは15時16分10秒だと分かった。 コックピットボイスレコーダーも、15時26分42秒から33分34秒間の音声を良好な状態で記録していた。 スー・ゲートウェイ空港への進入中に事故機の写真が撮影されており、事故調査のため分析された。 ===なぜ油圧系統が喪失したか=== 写真解析の結果、機体第2エンジンや機体尾部に損傷があったことが分かった。第2エンジン右側のファン・カウリング(ファンの覆い)とテイル・コーン(胴体の最後尾部分)が失われ、水平尾翼にも3か所の穴が開いていた。残りの機体尾部そして第2エンジンは、概ね損なわれずにスー・ゲートウェイ空港の事故現場で発見された。 尾部を復元、調査したところ、第2エンジンの第1段ファンとその付近の回転軸は、飛行中に分離したことが分かった。第2エンジンと尾部のうち飛行中に失われた部品は、後述のとおり、後日アイオワ州アルタ(英語版)付近で発見された。NTSBは、油圧喪失は以下のように起きたと結論付けた。まず、第2エンジンの第1段ファン・ディスクが破砕して分離した。これにより、エンジン回転部分の部品が強いエネルギーで飛散し、機体構造部分を貫通した。 事故機のエンジンは、ゼネラル・エレクトリック (GE) 社製のCF6‐6エンジンだった。このエンジンは、ターボファンエンジンであり、コア・エンジンのジェットでタービンを回す。タービンが回転することで、シャフトで接続された前方のファンが回転する。ファンは、円盤(ファン・ディスク)の周辺に羽根(ファン・ブレード)を多数並べた構造をしている。第1段ファン・ディスクは鍛造チタン合金製で、重量は370ポンド(約168キログラム)である。 ファンは直径も重量も大きいため、エンジンには、ファンが壊れた際に破片が飛び出すのを防ぐ「コンテインメント・リング」(封じ込めリング)が設けられている。前方のコンテインメント・リングは、ステンレス鋼製の円筒形で、直径が86インチ(約2.18メートル)、軸方向の長さが16インチ(約0.41メートル)である。このコンテインメント・リングは、ファン・ブレード1枚とその付随物の飛散に対処できるよう設計されていたが、本事故で飛散したのはブレード1枚ではなかった。 第1、第3油圧系統は、右の水平安定板内で油圧管が破断しており、破断面からはチタン合金が発見された。第1段ファン・ディスクやファン・ブレードを始め、一部のエンジン部品には、チタン合金が用いられていた。一方で、周辺の機体構造にはチタン合金は使用されていない。NTSBは、断面のチタン合金を分析し、第1、第3の油圧管は第2エンジンから飛散した破片で切断されたと特定した。 第2油圧系統の油圧ポンプは、第2エンジンのアクセサリー・セクション(補機部)にあった。そして、その位置はエンジンのファン・セクション直下だった。第2エンジンのアクセサリー・セクションおよび油圧配管を含む第2油圧系統の一部は、アイオワ州アルタ地区で発見された。したがって、第2エンジンのアクセサリー・セクション付近にあった第2油圧系統は、エンジン破損時に破壊されたと判断された。 エンジンが破損した直後、パイロット達は油圧3系統全てで作動液と圧力がゼロになったのを確認している。フライトデータレコーダーの記録では、破損の1分後には操縦翼面は油圧による動きがなくなっていた。油圧系統の破壊は、猛烈かつ突然だった。 ===ファン・ディスクの捜索=== 飛行中に落下した部品の捜索が行われた。アイオワ州アルタ周辺に事故機の部品が落下しており、胴体やテイル・コーン、エンジン部品などの発見情報が当地住民たちから集まった。しかし、ファン・ディスクそのものは、なかなか見つからなかった。現場周辺は一面のトウモロコシ畑で、事故発生時の7月には、トウモロコシは大人の背丈ほどまで成長していた。畑の中で周りを見通すことは困難だった。 50日ほどで刈り入れするので、いずれディスクも見つかるだろうと地元住民は予想したが、早急に回収したいNTSBは、様々な手段で捜索にあたった。落下予測範囲を計算で絞り込み、赤外線カメラを投入したり、ヘリコプターで上空から探索したりしたが、発見には至らなかった。エンジンを製造したGE社が賞金を出すと言いだすほどだった。結局、事故から3か月後に落下想定地域でトウモロコシを収穫していた農業従事者がディスクを発見した。この発見者は一躍有名人となり、マスコミに注目された。 ===なぜファン・ディスクが破断したか=== 発見されたのは大きな破片が2つで、それで問題のファン・ディスクのほぼ全体を占めていた。それぞれにファン・ブレードも付いていた。破断の原因調査のため、回収された破片は検査された。破片を組み合わせた結果、円周方向と半径方向に走る割れ目ができ、ディスクの外輪部の約三分の一が分離していた。 どこから破断が始まったかを調べるため、破面解析が行われた。割れ目は円周方向、半径方向とも典型的な過大応力により生じたと分かった。そしてこれらの亀裂は、事故前からディスク内に存在していた疲労亀裂から進展したことが判明した。金属学的調査の結果、材料内部に小さい空洞(キャビティ)が存在し、そこから疲労亀裂が始まっていた。キャビティは、ディスク表面から約0.86インチ(約2.2センチメートル)入ったところで、大きさは軸方向に0.055インチ(約1.4ミリメートル)、半径方向に0.015インチ(約0.4ミリメートル)だった。 破面解析、金属組織解析、そして分析化学的解析の結果、キャビティの周辺に窒化物「ハードアルファ」の混入(介在物欠陥)があったことが明らかになった。ハードアルファは非常に硬く脆いのが特徴で、これがチタン合金鍛造材内部に存在すると、早期の疲労損傷を引き起こす。 ファン・ディスクの製造工程は、大きく3ステップに分けられる。まず、チタン合金の鋳塊製造、次に鍛造、そして最終機械加工である。ハードアルファは、チタン合金の鋳塊製造時に形成されたものだった。NTSBは、キャビティが存在した部分も元々はハードアルファが占めていたと推定した。そして複数の可能性を調査検討した上で、キャビティが発生したのは、最終機械加工から表面処理等のためのショットピーニング工程までの間のどこかだと判断した。 エンジンが最大推力を発生させたとき、キャビティを起点に亀裂が生じ、荷重がかかるたびに亀裂は成長した。疲労亀裂が進展した領域では、かかる荷重が変動する度にビーチマークと呼ばれる縞模様が残ることがある。この事故では、その縞模様の数はファン・ディスクの離着陸回数とほぼ等しかった。このことは、ファン・ディスクの使用開始の早い段階から疲労亀裂が発生していたことを示している。 ===亀裂は見逃されていた=== 第2エンジンの第1段ファン・ディスクは、1971年9月にGE社の工場で製造され、翌年1月にマクドネル・ダグラス社に納品されて新造のDC10‐10型機に取り付けられた。エンジンは定期的にオーバーホールされ、整備記録によるとユナイテッド航空やGE社のマニュアルに従って検査されていた。このファン・ディスクが組み込まれたエンジンにおいて、オーバースピードやバードストライクの記録はなかった。事故までの17年間、このファン・ディスクは計6回の精密部品検査を受けていた。調査された全ての記録や使用履歴は、FAAが承認したユナイテッド航空の整備プログラムに従っていた。 6回の精密検査の際、ディスクは蛍光浸透探傷検査 (Fluorescent penetrant inspections; FPI)を受け、都度合格していた。蛍光浸透探傷検査は亀裂検査法の一つで、次のようにして亀裂などを検出する: 蛍光染色塗料を含む浸透液(低粘性のオイル)を検査面に塗布する亀裂があれば、毛細管現象によりオイルが浸透する表面の余剰浸透液を除去してから現像剤を塗ることで、亀裂中の浸透液を吸い上げる紫外線を照射すると、亀裂が蛍光として浮かび上がる最後の蛍光浸透探傷検査は1988年2月に実施されていた。GE社が行った破壊力学的解析では、最後の検査時点でディスク表面にほぼ0.5インチ(約13ミリメートル)の亀裂があったとされる。事故後の破断面の調査において、疲労亀裂部に変色が見つかっていた。その長さはディスク表面で0.5インチ弱だった。NTSBは、この変色は蛍光浸透探傷検査の過程で生じたものであり、最後の検査時の亀裂の大きさを示すものと判断した。そして、蛍光浸透探傷検査が適切に実施されていれば、高確率で発見できた亀裂だとしている。 ユナイテッド航空が検査で亀裂を見逃した原因として、NTSBは以下の点を指摘した: 蛍光浸透探傷検査の前処理において、ディスクはケーブルで吊り下げられるが、ケーブルの陰に隠れる部分などが目視できるように回転されていなかったケーブルがかかっている部分への現像材の適用が不適切で、亀裂指示が不明瞭だった当時の知見から本事故の亀裂発生部位は重要検査領域と考えられておらず、発見の機会を少なくした可能性があったユナイテッド航空は、ショットピーニング処理により、材料に亀裂を閉じる力が働き、浸透液が亀裂に浸透しなかったと主張した。しかし、破壊力学や金属学、非破壊検査の専門家らの検討により、12ミリメートル程度の亀裂であれば、ショットピーニング処理は発見確率にほとんど影響しないとの結論に至った。 ファン・ディスクは、GE社での製造時にも超音波探傷検査、マクロエッチ検査(腐食を用いた巨視的表面組織検査法)、そして蛍光浸透探傷検査を受けていた。しかし、これらの検査が実施されたのは、最終機械加工の前だった。事故調査報告書では、加工後にマクロエッチ検査を実施していれば、キャビティを発見できただろうと述べている。 ===シミュレーター試験=== NTSBは、本事故の過程を再現するシミュレーター試験を実施した。試験の目的は、油圧が働かない航空機を操縦して着陸させられるか、そしてそのような訓練がDC‐10型機のパイロットに有用かを確認することだった。 DC‐10型機のシミュレーターには、フライトデータレコーダーの記録をもとに事故機の空気力学的特性が設定された。そして、第2エンジンの破損と3系統全ての油圧喪失が再現された。試験には、DC‐10型機の操縦資格を持つ路線機長、訓練審査官、そしてメーカーのテストパイロットが参加した。参加者は事故機と同じ飛行を行うよう指示された。操縦手段は、左右エンジンの操作のみだった。 推力を左右非対称にすると、ロール姿勢が変化して飛行方位が変わった。推力を増減させると、限定的にピッチ姿勢が変化した。しかし、機体は重心まわりにピッチ軸で振動する傾向があり、どのような精度でも制御困難だった。主にピッチ姿勢によって飛行速度が決まってしまうため、速度も直接制御できなかった。従って、指定された場所に特定の速度で着陸するのは、極めて偶発的なことだった。シミュレーターを用いて本事故のような状況を訓練することは、事実上不可能だという結論に至った。ただし、シミュレーター試験で得られた知見はマクドネル・ダグラス社によってまとめられ、DC‐10型機の運航者に提供された。 ===事故原因=== NTSBは、1989年7月19日に事故調査報告書を発行した。報告書で結論付けられた事故原因の要約は以下のとおりである。 事故の原因は、ユナイテッド航空のエンジン整備施設で実施していた検査および品質管理手順において、人的要因の限界に対する考慮が不十分だったことである。そのため、ゼネラル・エレクトリック社が製造した第1段ファン・ディスクに内在していた金属学的欠陥に起因する疲労亀裂を発見できなかった。 その結果、第2エンジンのファン・ディスクが壊滅的に破断して破片が飛散した。そのエネルギーレベルは、設計上考慮されていた保護水準を超えており、DC‐10型機の飛行制御を担う3本の油圧系統の喪失に至った。 ==運航乗務員の対応== ===事故機の飛行特性と操縦=== 一定速度で水平飛行している時、飛行機に働く力は全て釣り合っている。前後方向では推力と抗力が、上下方向では揚力と重力がそれぞれ釣り合う。直進していれば、左右には力がかからない。基本的に操縦とは、操縦翼面を動かして機体の姿勢を変え、釣り合いの状態を変えることで、意図した飛行経路を実現することである。この際には、姿勢に応じた推力操作も必要となる。また、飛行中の飛行機は、風などの擾乱を受ける。これに対して姿勢や速度を修正するためにも、操縦翼面は用いられる。 DC‐10型機は、全ての操縦翼面を油圧で動かす設計であった。油圧を失った事故機は、あらゆる操縦翼面を操作できなくなった上、各舵面は必ずしも中立位置で固定されていなかった。異常発生後、事故機は右旋回で降下し始めた。パイロットは、左右エンジンの推力を非対称とすることで、機体の釣り合いをとった。 事故機は一応の釣り合いを保ったが、平衡状態の近傍で振動的な運動をしていた。上昇と下降は推力の増減により行われたが、変更できるのはあくまで平均的な経路であった。なぜなら事故機ではフゴイド運動と呼ばれる減衰しにくい振動が発生していたためである。フゴイド運動は、上昇と下降を繰り返す振動であり、1分程度の長い周期を持ち長周期モードとも呼ばれる。正常な飛行機であれば、操縦翼面により迎角(主翼と気流のなす角)を制御することで抑制できるが、油圧を失った事故機では、推力の微調整でフゴイド運動を抑える必要があった。 旋回の制御は、左右エンジン推力を非対称にすることで実現した。推力を非対称にすると、主翼の揚力が左右非対称になり、ロール運動を発生させられる。しかし、これも推力を変化させるため、その都度フゴイド運動が発生する。さらに、推力を左右非対称にするとダッチロールと呼ばれる振動も発生する。推力は操作しても実際に変化するまでに遅れがある。事故機は、推力操作から経路変化が現れるまでに20から40秒を要した。事故機を操縦するためには、さまざまな乱れの中で間隙を縫うように経路を定め、着地の20 ‐ 40秒前に必要な推力変化を予想しなければならなかった。 正常な着陸時には、高揚力装置を展開し、昇降舵で迎角を増大させて飛行速度を落とす。DC‐10型機の通常の着陸速度は、140 ‐ 150ノット(時速約259 ‐ 278キロメートル)であるが、迎角を変える手段を失った事故機は機首上げができず、平均215ノット(時速約398キロメートル)で着陸した。前述のように、機長は、早い段階でこのような着陸を想定し、高揚力装置を使用しない着陸データを航空機関士に求めていた。 ===クルー・リソース・マネジメント=== DC‐10型機の油圧系統は、冗長化の考え方で設計されていた。マクドネル・ダグラス社、ユナイテッド航空、そしてFAAは、油圧操縦系統が全て機能しなくなるような事態はまず起こらないと考えていた。したがって、そのような状況に備えた手順や訓練は用意されなかった。シミュレーター訓練が実施されていたのは、油圧3系統のうち2系統が喪失した状況までだった。本事故を経験したパイロット達は、全油圧を失った場合の訓練を受けていなかったが、2基のエンジンの操作によりスー・ゲートウェイ空港まで辿り着いた 296人のうち184人が生存できたことは、航空界を驚かせた。事故調査報告書では「安全な着陸は事実上不可能」と述べており、もっと多くの犠牲者が出てもおかしくない事故だった。 乗務員達の行動はクルー・リソース・マネジメント (CRM) の成功例として知られることになった。かつて、機長は機内の権威であり、いわゆる「偉い人」であると捉えられてきた。しかし、航空事故の歴史から「利用可能なあらゆる情報やアイディアを有効活用し、チームとしての総合力を発揮しよう」という考え方が生まれた。これがクルー・リソース・マネジメントの考え方であり、コックピット内の上下関係に関わらず、機長に対して自由に意見できる文化が育まれるようになった。ユナイテッド航空では、1980年からクルー・リソース・マネジメントが訓練に取り入れられていた。 事故機のパイロット達は、油圧操縦系統の異常に対処するため、適切なコミュニケーションを取っていた。パイロット達は、問題への対処手順、考えられる解決法、取るべき方策を話し合っていた。機長は、危機的状況の中でも時にジョークを交えコックピット内の良好な雰囲気作りに努めた。TCA機長が協力を申し出たことに対し、機長は速やかに、積極的に、そして適切に受け入れた。TCA機長は、約20分のスロットル操作を経て、乗務員達と適切なコミュニケーションをとり、推力で事故機を操縦するスキルを身につけていた。しばらくの間、TCA機長は床にひざまずいてスロットルを操作していたが、着陸に備えシートベルトを着ける必要があった。そこで機長はTCA機長に航空機関士席に座るよう指示を出した。航空機関士は座席を譲り、自分は補助席に移って業務を続けた。TCA機長は本来の乗務員ではなかったが、このままスロットル操作を任せた方が適切だと乗員たちは判断し、速やかに行動を取ったのだった。 事故調査報告書では、ユナイテッド航空で10年間実施されてきたクルー・リソース・マネジメント訓練の成果がこれら乗務員達の行動に反映されたとしている。シミュレーター試験の結果から、UAL232便のような状況を模した訓練は有効性がないという結論に至った。事故調査報告書は「あのような状況下でのユナイテッド航空の乗務員の対応は、高く称賛に値し、論理的予想をはるかに超える」と記している。 ==事故の教訓と対策== ===製造工程の改善=== ファン・ディスクの材料となったチタン合金の鋳塊は、消耗電極式真空アーク再溶解 (Vacuum Arc Remelting) という方法で製造された。この製造法を用いる場合、鋳塊中のハードアルファを少なくするために、溶解を繰り返す二重溶解や三重溶解が取られる。事故原因となったファン・ディスクは、その当時主流だった二重溶解で製造されたものだった。そして、皮肉にもこのファン・ディスクが製造された1年後(事故の約18年前)には、GE社は製造工程を改善し、より高品質となる三重溶解に切り替わっていた。 FAAは、旧工程で製造されたファン・ディスクに対し、超音波探傷検査の実施を指示した。この検査により、新たに2基のファン・ディスクに亀裂が発見され、新しいディスクに交換された。そして、GE社は検査マニュアルに超音波探傷検査を追加した。 ===油圧系統の設計変更=== 1989年9月15日、事故を受けてマクドネル・ダグラス社は、全てのDC‐10型機に対する設計変更を発表した。全ての油圧系統に遮断バルブを追加し、油圧低下を検出した際にバルブを閉じるようにした。これにより、本事故と同様の事象が発生した場合に、最小限の油圧と飛行制御を確保できるようにした。 ===エンジン制御による操縦の研究=== 前述のとおり、NTSBのシミュレーター試験により、全油圧を失った場合の操縦法を訓練するのは非現実的という結論に至った。アメリカ航空宇宙局 (NASA) は本事故を一つのきっかけとして、舵面を使用出来ない場合にコンピュータによるエンジンコントロールで航空機を操縦し、着陸させる方法を開発している。また、日本の三菱重工でも同様の研究が行われている。 ===乳幼児の安全性向上=== 事故機には、座席を使用しない(保護者の膝上に座っていた)乳幼児が4人いた。緊急着陸に備えて子供達は床に寝かせられ、客室乗務員が用意した枕や毛布でできるだけ衝撃を抑えるよう固定されたが、不時着時の衝撃で宙に投げ出された子供もいた。4人の子供のうち3人は助かったが、1名は火災の煙に巻かれ亡くなった。事故後の1990年5月、NTSBは、FAAに対して乳幼児の安全に関する勧告を発行した。本事故は、機内の乳幼児の安全性向上を進めるきっかけの一つとなった。 ==本事故の報道や記録作品== 事故機がスー・ゲートウェイ空港へ着陸を試み大破炎上する様子は、映像で撮影されテレビニュースで放映された。また、飛行中から救助活動を含めて事故の様子は、様々な写真に記録された。スーシティの地元紙である「スーシティジャーナル」は、事故後10日間に渡って多くの紙面を割き、これらの写真とともに事故を報道した。 救助活動中、アメリカ空軍大佐のデニス・ニールセン(英語版)が、事故機から救助された3歳児を抱きかかえている様子が写真に収められていた。この写真は、地元紙に掲載され本事故の象徴として扱われるようになった。そして、事故の救助活動に関わった全ての人に捧げる記念碑として、この写真をモチーフとした彫像が造られた。彫像は、スーシティのミズーリ川河畔にあるクリス・ラーセン・シティ・パーク内に建てられ、1994年6月5日に除幕式が執り行われた。 スーシティにある航空・交通機関に関する博物館「Mid America Museum of Aviation and Transportation」では、本事故に関する常設展示を2014年に始めた。事故機の飛行経路や交信記録、事故時の写真のほか、事故現場から回収された機長席なども展示されている。 本事故を主題とした映画やドキュメンタリー作品が制作されている。1992年のアメリカのテレビ映画『Crash Landing: The Rescue of Flight 232(邦題:レスキューズ/緊急着陸UA232)』で主題として描かれた。また、ナショナルジオグラフィックチャンネルの「メーデー!:航空機事故の真実と真相」の第9シーズン第14話『ユナイテッド航空232便 (SIOUX CITY FIREBALL)』、および「衝撃の瞬間」の第7話『スーシティー空港への不時着 (Crash Landing at Sioux City) 』でそれぞれ主題として取り上げられている。 =ワシントンD.C.= ワシントンD.C.(ワシントン・ディーシー、英: Washington, D.C.)は、アメリカ合衆国の首都である。 超大国の首都としては狭く人口もさほど多くないが、超大国の政府所在地として国際的に強大な政治的影響力を保持する世界都市であり、また金融センターとしても高い重要性を持つ。首都としての機能を果たすべく設計された、計画都市である。 同国東海岸、メリーランド州とヴァージニア州に挟まれたポトマック川河畔に位置する。 ==呼称== 法律上の正式名称は「コロンビア特別区」(コロンビアとくべつく、District of Columbia)でこの地が州には属さない、アメリカ合衆国議会直属の特別区であることを示している。 コロンビア特別領 (territory of Columbia) として1790年に創設され、1801年のコロンビア特別区自治法(旧)により地方自治権を持つコロンビア特別区となった。特別区内には自治権を持つ市や郡があり、その一つが首都たるワシントン市だった。しかし1871年のコロンビア特別区自治法(新)により特別区内の全ての自治体は特別区に統合された。 この歴史的な経緯から、かつての呼び名である Washington, District of Columbia がしばしば使われる。ただしこれは「コロンビア特別区のワシントン市」という意味の語句であり、かつての正式名称というわけではない。またそれゆえ、これを和訳する場合は(語順どおりにワシントン・コロンビア特別区ともするが)直訳はコロンビア特別区ワシントンとなる。 略してワシントンD.C.と呼び、米国ではWashington、The District、または単にD.C.とも通称する。日本語ではワシントン市、首都ワシントン、または単にワシントンと呼ぶことも多い。 ”D.C.” は ”District of Columbia”(コロンビア特別区)の頭文字で、南アメリカのコロンビア共和国と同様、クリストファー・コロンブスにちなんだ名である。日本語では、このワシントンD.C.のことは単に「ワシントン」と呼んでも、ワシントン州のことはワシントンD.C.との混同を避けるため常に「州」を付けて「ワシントン州」と呼ぶのが一般的である。 漢字による当て字は華盛頓で、華府と略す。 ==概要== ポトマック川の北岸に位置し、南西をバージニア州に、その他の方角をメリーランド州に接している。2010年度国勢調査による人口は601,723人で全米24位だが、労働時間帯には近郊からの通勤者により人口100万を超える。ワシントンD.C.を中心に、メリーランド州、バージニア州北部、ウェストバージニア州の最東部2郡を併せた地域を一般に「首都圏」または「メトロポリタン」と呼んでいるが、その人口は5,582,170人(2010年国勢調査)で、全米7位である。また、北東に約65キロメートルの地には人口620,961人(2010年国勢調査)を抱えるメリーランド州の最大都市ボルチモアが位置している。このボルチモアといわゆる首都圏を併せたワシントン・ボルチモア・北バージニア広域都市圏の人口は8,572,971人(2010年国勢調査)を数え、全米4位の規模である。 アメリカ合衆国憲法1条により、各州とは別に、恒久的な首都としての役割を果たすため連邦の管轄する区域が与えられている。アメリカ合衆国三権機関(大統領官邸(「ホワイトハウス」)、連邦議会(議会議事堂)、連邦最高裁判所)が所在し連邦機関が集まる他、多くの国の記念建造物や博物館(スミソニアン博物館など)も置かれている。 中心部には高さ169メートル(約555フィート)のワシントン記念塔がある。 同市のナショナル・モールにおける博物館群は質・量ともに世界でもトップクラスであり、観光資源にもなっている。ポトマック川の入り江であるタイダルベイスンの畔にある桜の木々は、アメリカ合衆国内で有数の桜の花見の名所となっており、毎年全米桜祭りが開催される。 172か国の大使館に加え、世界銀行、国際通貨基金 (IMF)、米州機構 (OAS)、米州開発銀行、汎アメリカ保健機関 (PAHO) の本部も置かれている。労働組合、ロビイスト、職業組合など、各種団体の本部もある。 連邦議会がワシントンD.C.における権限を有している。連邦議会に関してワシントンD.C.は、下院に本会議での投票権を持たない市代表(代議員)を選出しているものの、上院議員の議席は与えられていない。ワシントンD.C.が州であると仮定し他の州と比較すれば、面積ではロードアイランド州に後れて最下位、人口では最下位から2番目(最下位はワイオミング州)であるが、人口密度では1位、州民総生産では35位、また黒人の比率では1位であり、国全体のマジョリティ(非ヒスパニック系白人)とマイノリティとは反転している。 2011年現在、ワシントンD.C.においては死刑制度が廃止されている。アメリカのシンクタンクが2017年に発表した総合的な世界都市ランキングにおいて、世界17位の都市と評価されており、アメリカの都市ではニューヨーク、ロサンゼルス、シカゴ、サンフランシスコに次ぐ5位である。 ==歴史== アメリカ合衆国憲法第1条第8節第17項によって、連邦議会にアメリカ合衆国の首都を設立する権限が与えられた。同条によれば、「ある州が譲渡し、連邦議会が受諾することにより、合衆国政府の所在地としての地区(ただし10マイル四方を超えてはならない)」が認められた。ジェームズ・マディソンは、1788年1月23日の『ザ・フェデラリスト』第43篇で、合衆国の首都は、その持続と安全のため、各州からは別個のものとすべきだとして、連邦の管轄する区域の必要性を説明した。1783年には、フィラデルフィアに置かれていた連邦議会に対し、兵士らの暴動により攻撃が加えられたことも、合衆国政府が安全に配慮する必要性があることを強調することとなった。 憲法は新たな首都の場所を特定していなかったが、マディソン、トーマス・ジェファーソン及びアレクサンダー・ハミルトンの3人は、1790年、首都を南部に置くことを条件に、合衆国が州の発行した戦時負債を肩代わりするとの合意に達した(後に1790年協定として知られる)。 1790年7月16日、首都立地法により、新しい恒久的な首都がポトマック川河畔に置かれることになり、詳細はジョージ・ワシントン大統領により選定されることとなった。当初の形は、合衆国憲法により認められていた通り、一辺が10マイル (16 km) のダイヤモンド型で、100平方マイル (260 km) であった。新首都建設のためメリーランド州とバージニア州が領土の一部を割譲し、新しい「連邦の市」はそのうちポトマック川の北岸に建設されることとなった。もっとも、同じ100平方マイルの地区内にはすでに2つの独立した自治体(1749年に設立されたアレクサンドリア市と、1751年に設立されたジョージタウン市)があった。1791年9月9日、この連邦の市はジョージ・ワシントンに敬意を表してワシントン市と命名され、この100平方マイルの地区全体はコロンビア区 (Territory of Columbia) と名付けられた(コロンビアは、当時合衆国を指す詩的な名称として使われていた言葉である)。連邦議会は、1800年11月17日、ワシントンで最初の議会を開催した。 1801年のコロンビア特別区基本法 (The Organic Act) により、正式にコロンビア特別区が編制され、アレクサンドリア市、ジョージタウン市、ワシントン市を含む連邦の管轄地域全体が、連邦議会の排他的支配下に置かれた。さらに、特別区内で自治体に組み込まれていない領域は、二つの郡 (county) に組織された。すなわち、ポトマック川北岸のワシントン郡と南岸のアレクサンドリア郡である。同法制定後は、特別区内の市民はメリーランド州やバージニア州の住民ではなくなり、議会の代表権もなくなることとなった。 米英戦争の中、1814年8月24日から25日にかけて、イギリス軍がアメリカ軍によるヨーク(現在のトロント)焼き討ちの報復として首都を焼き討ちした。議会議事堂、財務省、ホワイトハウスはこの攻撃の中で焼かれ、破壊された。ほとんどの政府の建物は速やかに修復されたが、議事堂は大規模な建設工事が行われ、1868年になって初めて完成を見た。 1830年代、特別区の南にあるアレクサンドリア郡は、より内陸に位置しチェサピーク・オハイオ運河に面したジョージタウン港との厳しい競争などにより経済的に落ち込んでいた。当時、アレクサンドリアは奴隷貿易の主要な市場であったが、奴隷廃止論者が首都における奴隷制を終わらせようとしているとの噂が流れた。富をもたらす奴隷貿易ができなくなることを避ける目的もあって、1846年、アレクサンドリアのバージニア州への返還の可否について住民投票が行われ、可決された。同年7月9日、連邦議会は、特別区のうちポトマック川より南の領域(約100km)をバージニア州に返還することに同意した。この土地は現在はアーリントン郡に属し、アレクサンドリア市の一部をなす。この結果、ワシントンD.C.は頂点を北に向けた正方形のうち、南西部の川に区切られた区画を除いた形をなすことになった。なお、その4年後、1850年協定により、特別区内における奴隷貿易(奴隷制そのものではない)が禁止された。 ワシントンは、1861年の南北戦争勃発までは小さな町であった。南北戦争によって合衆国政府は大きく膨張し、それにより町の人口も著しく増大した。解放奴隷の大量の流入もこれに寄与した。1870年までに、特別区の人口は、13万2000人近くにまで増えた。しかし町の成長にもかかわらず、ワシントンの道路は未舗装であり、基本的な衛生設備もないなど、条件が非常に悪かったため、首都を別の場所に移転することを提案する連邦議会の議員もいた。 1871年のコロンビア特別区基本法 (District of Columbia Organic Act of 1871) により、連邦議会は特別区全体の新しい政府を創設し、ワシントン市、ジョージタウン市及びワシントン郡を一つの自治体に統合した。これをもって現在のワシントンD.C.が形作られ、この町が「ワシントン」と「コロンビア特別区」の両方の名前で知られているのはこのためである。同じ法律の中で、連邦議会は公共事業委員会を設立し、町の近代化に当たらせた。1873年、ユリシーズ・グラント大統領は、同委員会の最も有力なメンバーであるアレクサンダー・シェパードを新たに設置された知事職に任命した。その年、シェパードは2000万ドルを公共事業に費やし(2007年は3億5700万ドル)、ワシントンの近代化を行ったが、同時に財政を破綻させることにもなった。1874年、連邦議会はシェパードの知事職を廃止して直接統治を選んだ。更なる町の改修作業は、1901年に行われたマクミラン・プラン (McMillan Plan) を待たなければならなかった。 特別区の人口は、しばらくの間比較的安定していたが、1930年代の世界恐慌ではフランクリン・ルーズベルト大統領のニューディール政策立法により、ワシントンの官僚が増加した。第二次世界大戦で政府の活動は更に増大し、首都における政府職員の数も増加した。1950年までに、特別区の人口は80万2178人というピークに達した。 1961年、アメリカ合衆国憲法修正第23条により、ワシントンD.C.市民に初めて大統領選挙の選挙権が与えられた。コロンビア特別区全体に対して、人口の最も少ない州に与えられる、選挙人3人の定数が確保された。 公民権運動の指導者キング牧師が1968年4月4日に暗殺された後、特別区(主に北西地区のUストリート、14番ストリート、7番ストリート)で暴動が発生した。暴動は3日間続き、1万3000人以上の連邦軍とコロンビア特別区州兵がようやく鎮圧に成功した。多くの店やその他の建物が焼かれ、多くが1990年代後半に再建されるまで荒廃したままであった。 1973年、連邦議会はコロンビア特別区地方自治法 (Home Rule Act) を制定し、特別区に公選制の市長と議会を導入することとした。1974年、市長の公選が行われ、1975年、行政委員会委員長であった民主党のウォルター・ワシントン (Walter Washington) が特別区初めての公選の市長、かつ特別区初めての黒人の市長となった。 1979年、マリオン・バリー (Marion Barry) が市長に選ばれ、4年間の任期を3期連続で務めた。しかし麻薬の使用が噂され、3期目の任期半ばの1991年にはFBIのおとり捜査によりクラック・コカイン所持使用で現行犯逮捕され、公判で禁錮6か月の実刑判決を受けた。この不祥事でバリーは次の選挙には出馬しなかった。 1991年、次に市長となったシャロン・プラット・ケリー (Sharon Pratt Kelly) は、アメリカの大都市で初めて市長になった黒人女性である。1994年、ケリーの任期が満了すると、バリーが市長に返り咲いた。1998年、エール大学卒の弁護士、アンソニー・ウィリアムス (Anthony Williams) が市長に選ばれて2期務め、2007年1月からは2011年1月までアドリアン・フェンティ (Adrian Fenty) が市長を務めている。 2011年1月ビンセント・グレー (Vincent C. Gray) が第6代のワシントンD.C.政府の市長に就任し現在に至っている。 1995年までに、市は債務超過のため支払不能になりかけていた。これを受けて、連邦議会はコロンビア特別区財政管理委員会を設立し、市のすべての支出を監督させることとした。特別区は、2001年9月に財政管理権限を回復し、同委員会の活動は中止された。 2001年9月11日、テロリストがアメリカン航空77便をハイジャックし、ワシントンD.C.郊外のバージニア州アーリントンにある国防総省(ペンタゴン)に航空機を突入させた。ユナイテッド航空93便もホワイトハウスまたは連邦議会議事堂のいずれかを標的としていたが、同機はペンシルベニア州シャンクスヴィル近くで墜落した。ペンタゴンへの攻撃が行われた場所には、2008年9月11日、ペンタゴン記念館がオープンした。 ==地理== ===市域=== ワシントンD.C.は、全部で68.3平方マイル (177 km) の市域を有し、そのうち61.4平方マイル (159 km) が陸地、6.9平方マイル (18 km, 10.16%) が水面である。特別区は、当初100平方マイル (260 km) の面積を有していたが、1846年に南の一部をバージニア州に返還したため、この面積となっている。現在の市域は、メリーランド州から割譲された領域のみから成っている。そのため、ワシントンD.C.は南東・北東・北西をメリーランド州に、南西をバージニア州に囲まれている。特別区内には、三つの大きな天然の河川がある。ポトマック川、アナコスティア川、ロック・クリークである。アナコスティア川とロック・クリークはポトマック川の支流である。 合衆国首都設置法は、ワシントン大統領に、東はアナコスティア川の河口までの範囲で新しい首都の正確な位置を選ぶ権限を与えた。しかし、ワシントン大統領は、区の南端にアレクサンドリア市を含むようにするため、この連邦の領域の境界を南東に動かした。1791年、連邦議会はワシントン大統領の選んだ区域を認めるため、合衆国首都設置法を修正し、これによりバージニアから割譲された領域も含まれることとなった。この場所は、多くの利点を有していた。ポトマック川は特別区まで航行可能であり、船による交通が可能であった。また、アレクサンドリアとジョージタウンの既成の港は、市にとって重要な経済的な基盤を提供した。さらに、内陸の特別区は、北西部領土に近かった。1791年から1792年にかけて、アンドリュー・エリコットとベンジャミン・バネカーが特別区の境界を調査し、1マイルごとに境界石を設置した。その多くが今も残っている。 一般に伝えられるところとは異なり、ワシントンD.C.は沼地を埋め立てて建設されたわけではない。確かに二つの川とその他の小川に沿って湿地が広がっていたものの、特別区の領域のほとんどは農地と樹木に覆われた丘から成っていた。特別区内で、自然の状態で最も高い地点は、海抜125メートルのテンリータウンである。最も低い地点は海水面と同じポトマック川である。ワシントンD.C.の地理的な中心点は、北西地区の4番ストリートとLストリートの交差点付近に位置する。 ===自然=== アメリカ合衆国国立公園局は、ロック・クリーク公園、チェサピーク・オハイオ運河自然歴史公園、ナショナル・モール、セオドア・ルーズベルト島、アナコスティア公園など、ワシントンD.C.の自然生育地のほとんどを管理する。国立公園局による管理外の重要な自然生育地としては、農務省の管轄である国立森林公園があるのみである。ポトマック川の上流(ワシントンD.C.の北西)にはグレイト・フォールズ (Great Falls) がある。19世紀には、輸送船の交通がこの滝を迂回できるようにするため、ジョージタウンに端を発するチェサピーク・オハイオ運河が用いられた。 1965年、リンドン・ジョンソン大統領はポトマック川を「国の恥」と呼び、1966年の清流回復法 (the Clean Water Restoration Act) の必要性を訴える材料とした。現在では、この川は活気のある暖水漁業の場となっており、自然に繁殖したハクトウワシも川岸に戻った。高度に都市化した景観にもかかわらず、ワシントンD.C.は、都市における野生生物の管理、外来種の管理、都市流水の回復、都市流水における水エコロジーなどの研究の中心地となっている。国立公園局の都市エコロジーセンターは、この地域における専門的知見と応用科学を提供する場となっている。 ===気候=== ワシントンD.C.の気候は、ケッペンの気候区分によれば温暖湿潤気候 (Cfa) であり、これはアメリカの中部大西洋岸諸州のうち海域から離れた地域に典型的に見られる気候である。四季がはっきり分かれており、春と秋は温暖で湿度も低いのに対し、冬は低温が続き、1年に平均 420mm も降雪量がある。冬の最低気温は、12月中旬から2月中旬にかけては零下 1℃ (30°F) くらいになることが多い。まれではあるが、猛烈な吹雪が2、3年ごとにワシントンD.C.を襲い、最低気温は −15℃ を下回る。最も激しい嵐は、ノーイースターと呼ばれ、これはアメリカ東海岸全体に影響を及ぼすのが普通である。夏は高温多湿になる傾向があり、7月と8月の日中最高気温は平均 30℃ 前後(80°F台)である。夏には高温・多湿という組み合わせのため、激しい雷雨が非常に頻繁に発生し、場合によってはこの地域に竜巻を発生させることもある。 ハリケーン(熱帯低気圧)ないしそれが温帯低気圧化したものが、夏の終わりから初秋にかけてこの地域を通過することが時々ある。ワシントンD.C.は内陸に位置していることもあって、ハリケーンはここに来る頃には勢力が弱まっていることが多い。しかし、満潮・高潮・雨水が合わさることによって引き起こされるポトマック川の氾濫は、ジョージタウンやバージニア州アレクサンドリア近くにまで大規模な財産的被害をもたらすことが知られている。 記録されている史上最高気温は1930年7月20日と1918年8月6日の 41℃ (106°F) である。史上最低気温は1899年2月11日の零下 26.1℃ (−15°F) であり、これは1899年の記録的猛ふぶき (the Great Blizzard) の時のものである。32℃ (90°F) を超える日数は平均36.7日であり、氷点下になる夜は平均64.4日である。 ==町並み== ===都市設計=== ワシントンD.C.は計画都市である。ワシントン市の設計は、ピエール・シャルル・ランファンの労によるところが大きい。ランファンはフランス生まれの建築家・技師・都市設計家であり、当初、軍の技師としてラファイエットと共にアメリカ植民地に来た。1791年、ランファンはバロック様式を基に基本計画を作成した。これは、環状交差路から放射状に広い街路が伸びているものであり、開かれた空間と景観作りを最大限に重視したものであった。しかし、20世紀初頭には、開放された公園と壮麗な国の記念建造物というランファンの都市計画の構想は、スラム街や乱開発された建物によって損なわれてしまっていた。その中にはナショナル・モールの中の鉄道の駅もあった。1900年、連邦議会は、ジェームズ・マクミラン上院議員率いる両院合同協議会を設置し、ワシントンD.C.の儀礼の中心地の美化に当たらせた。マクミラン計画として知られるこの計画は1901年に仕上がり、その中には連邦議会議事堂の敷地やナショナル・モールの景観再整備、新しい連邦の建物・記念館の建設、スラム街の一掃、全市を横断する新しい公園のシステムの構築が含まれていた。委員会から任命された建築家たちは市の本来の設計には手を加えなかった。建築家たちのなすべきことは、ランファンの意図したデザインの壮大な仕上げをすることであると考えられた。 1899年に12階建てのカイロ・アパートメント・ビルが建設された後、連邦議会は建造物の高さを制限する法律 (the Heights of Buildings Act) を可決し、連邦議会議事堂より高い建物を建ててはならないと宣言した。この法律は1910年に改正され、建物の高さが、面する道路の幅員に20フィート (6.1m) を加えた長さを超えないよう規制された。今日、ワシントンD.C.の建物群のシルエットは低く広がっており、トーマス・ジェファーソンの、ワシントンD.C.を「低層で便利な」建物と「明るく風通しのよい」街路を備えた「アメリカのパリ」にしたいという願いに忠実である。その結果、ワシントン記念塔がずっとワシントンD.C.で最も高い建造物のままである。しかしながら、ワシントンD.C.の高さ制限は、同市で廉価な住宅が限られていることやスプロール現象による交通問題の発生の最大の原因であるとして、批判されている。ワシントンD.C.の高さ制限を逃れるため、ダウンタウンの近くとしては、ポトマック川の対岸にあるバージニア州ロズリンに高層の建物が建てられることが多い。 ===街路=== ワシントンD.C.は四つの地区 (quadrant) に不均等に割られている。北西地区 (Northwest)、北東地区 (Northeast)、南東地区 (Southeast)、南西地区 (Southwest) である。各地区の境界を画す軸は連邦議会議事堂から放射状に伸びている。すべての通りの名称には、地区名の省略形(NWなど)が付いており、その場所を明らかにしている。市内のほとんどの地域で、街路は碁盤目状に整備されており、東西方向の通りにはアルファベットで(例えばC Street SW)、南北方向の通りには数字で(例えば4th Street NW)名前が付けられている。環状交差路から放射状に伸びる街路には、主に各州の名前が付けられており、50州すべてが名称の中に含まれている。ワシントンD.C.の街路の中には、特に注目すべきものがある。ペンシルベニア大通り は、ホワイトハウスと連邦議会議事堂を繋いでおり、Kストリートには多くのロビー団体の事務所が入居している。ワシントンD.C.には172か国の外国の大使館があるが、そのうち57の大使館はマサチューセッツ通り (Massachusetts Avenue) の地区にあり、正式名称ではないが大使館通り (Embassy Row) として知られている。 ===建築=== ワシントンD.C.の建築物はバラエティに富んでいる。アメリカ建築家協会が選ぶ2007年の「アメリカ建築傑作選」では、10位までにランクされた建物のうち6つがワシントンD.C.にある。すなわち、ホワイトハウス、ワシントン大聖堂、トマス・ジェファーソン記念館、連邦議会議事堂、リンカーン記念館、ベトナム戦争戦没者慰霊碑である。これら6つの建築はすべて新古典主義、ジョージ王朝様式、ゴシック様式および近代建築のスタイルを反映しており、他のワシントンD.C.の主要な建物も同様である。特筆すべき例外としては、第二帝政様式によるアイゼンハワー行政府ビル(旧行政府ビル)やアメリカ議会図書館などがある。 ワシントンD.C.の中心市街を離れると、建築様式はさらに多様化する。「オールド・シティー」(ランファンによって設計された地域)では、歴史的建造物は主にアン女王様式、シャトーエスク様式、リチャードソン・ロマネスク様式、新ジョージア王朝様式、ボザール様式、また様々なビクトリア朝様式で設計されている。オールド・シティーでは19世紀からのロウハウス(長屋)が特に目立っており、連邦様式や後期ビクトリア朝様式に従うものが多い。ジョージタウンは、ワシントン市よりも先に建設されたため、この地域はワシントンD.C.の中でも最も古い建築物を誇る。ジョージタウンのオールド・ストーン・ハウスは1765年に建てられ、市内で最古の遺構となっている。もっとも、この地域における現在の住宅のほとんどは1870年代になって初めて建てられたもので、当時の後期ビクトリア朝様式を反映している。1789年に創立されたジョージタウン大学は、周囲の建物とはさらに一線を画しており、ロマネスク様式とゴシック・リヴァイヴァル建築が融合した建築が特徴である。 ==人口動態== 2010年の国勢調査によれば、ワシントンD.C.の居住者人口は601,723人で、2000年国勢調査の572,059人以来、増加傾向が続いている。これは50年来の減少傾向からの反転である。他方、労働時間帯には、近郊からの通勤により、ワシントンD.C.の人口は推計で71.8%膨らみ、日中人口は100万人を超えるとされている。周辺のメリーランド州やバージニア州の一部を含むワシントン首都圏は、2010年の国勢調査で約558万人の居住者を抱える。ボルチモア及びその近郊も併せたワシントン・ボルチモア・北バージニア広域都市圏は、2010年の国勢調査では850万人を超える居住者人口を抱えている。 以下にワシントンD.C.における1800年から2010年までの人口推移を表およびグラフで示す。 ===人口構成=== 2010年における人口の割合は、50.7%がアフリカ系アメリカ人(黒人)、38.5%がコーカサス系(白人)、9.1%がヒスパニック(人種は様々)、4.4%がその他(インディアン、アラスカ先住民、ハワイ先住民、南洋諸島先住民など)、3.5%がアジア系、2.9%が混血である。黒人はワシントンD.C.で最も多くを占めるものの、郊外へ去る者が多いため、その人口は一貫して減少傾向にある。同時に、ワシントンD.C.で昔から黒人の居住地域だった多くの場所が高級住宅化していることもあり、白人の人口は一貫して増加傾向にある。このことは、2000年と比べて、アフリカ系アメリカ人の人口が6.2%減少し、反対にコーカサス系は13.8%増加していることに表れている。移民の主な出身地としては、エルサルバドル、ベトナム、エチオピアなどがあり、エルサルバドル人はマウント・プレザント近辺に集まっている。 2000年の国勢調査によって、ワシントンD.C.の成人のうち推計3万3000人が自らをゲイ、レズビアンまたはバイセクシュアルだと考えていることが明らかになった。これは市の成人人口の8.1%に当たる。このようにLGBTの人口は相当大きく、また政治的風土もリベラルだが、連邦議会における反対論も原因して、同性結婚はワシントンD.C.の法律では認められていない。しかし、家庭内パートナーシップ法 (Domestic partnership law) によって、同性のカップルも、他の法域で認められているシビル・ユニオンと似た法的取り扱いを受けることができる。 2007年の報告によって、ワシントンD.C.の居住者の3分の1が機能的非識字(仕事や日常生活上の読み書き能力が不十分な状態)であることが分かった(全国における割合は5分の1)。英語に習熟していない移民もその一つの原因であると考えられている。2005年に行われた研究では、ワシントンD.C.の5歳以上の居住者のうち85.16%が家で英語のみを使用しており、8.78%がスペイン語を使用していることが分かった。フランス語がそれに次いで1.35%である。機能的文盲率の高さとは対照的に、ワシントンD.C.の居住者のうち45%が少なくとも4年制大学の学位を持っており、国内で4番目に高い割合である。 また、2000年のデータによると、半数以上の居住者が自分をキリスト教徒だと考えている。28%がカトリック、6.8%が南部バプテスト連盟、1.3%が正教会(ギリシャ正教)又は東方諸教会、21.8%が他のプロテスタント教派である。イスラム教徒は人口の10.6%、ユダヤ教徒は4.5%、26.8%は無宗教である。 ==インディアン部族== この地に先住したインディアン部族はコノイ族、デラウェア族、ナンチコーク族、ポウハタン族、ショーニー族、サスケハンナ族など。そのことごとくがアメリカ政府に虐殺され、19世紀には他州へと強制移住させられた。この地に残ったインディアン部族はすべて「絶滅部族」とみなされ、保留地 (Reservation) を没収されていて、部族単位では存在しないことになっている。 1944年にワシントンD.C.に結成された「アメリカインディアン国民会議 (National Congress of American Indians)」は、インディアン寄宿学校で白人同化教育を受けた、全米のインディアンたちによる初の本格的なロビー運動組織である。彼らは「大声でほえまくる赤い番犬」と呼ばれたが、活動自体は保守的で、AIM などとは違い、若い世代からは「白人寄り」と批判された。 2004年には、この地に全米のインディアン部族の文化展示を目的とした「国立アメリカ・インディアン博物館」が開設された。 ≪アメリカ連邦政府に公認要求中のインディアン部族≫ 「チェロキー・タスカローラ族・亀の島国家」※「亀の島」はインディアンが北米大陸を指す呼び名 ===インディアン・カジノ=== 現在のところ、ワシントンD.C.でインディアン部族が運営する「インディアン・カジノ」は一軒もない。同地ではインディアン部族は存在しないことになっており、今後も開設される望みは薄い。 ===内務省BIA=== ワシントンD.C.にはアメリカ内務省、BIA(インディアン管理局)がある。BIA は内務省の出先機関で、インディアン部族の公認権限を持ち、彼らに「連邦が保留した土地」(Reservation) を「与え」、その保留地に管理官を駐在させて部族政府の監視・管理を行う行政機関で、インディアンの生殺与奪権を握るアメリカ合衆国内のインディアン行政官庁の総元締めである。 1824年の発足以来、BIA はインディアンの権利を搾取する官僚組織として腐敗し続け、インディアンたちからは、「インディアンのバスティーユ監獄」と呼ばれた。1973年のラコタ・スー族の「ウーンデッド・ニー占拠」の際には腐敗したオグララ部族政府を援助し、部族政府によるスー族へのテロ弾圧を支援している。このBIA局長には20世紀になってからインディアンから選ばれるようになったが、官僚機構の中の傀儡、お飾りに過ぎず、しばしば部族会議との癒着などが批判されたのである。 ポーニー族出身のBIA副長官、ケビン・ガバー(1997年 ‐ 2001年まで就任)が、2世紀近くにわたる内務省BIAの対インディアン政策の犯罪性を認め、その施政を正式に民族浄化だとし、「歴史的謝罪」を行ったのは、ようやく21世紀を前にした、2000年になってからのことであった。 ===インディアンによる内務省BIA本部ビル占拠=== 1972年、全米最大のインディアン権利団体「アメリカインディアン運動 (AIM)」は、ワシントンD.C.にある「アメリカインディアン国民会議」の建物に対議院活動事務所の設置を企画し、ニューメキシコに本部を置く「全米インディアン若者会議 (National Indian Youth Council)」と合同で「破られた条約の旅 (Trail of Broken Treaties)」を決行した。 この「破られた条約の旅」は、10月末の大統領選の日に合わせてロサンゼルス、シアトル、サンフランシスコの三地点から自動車キャラバン隊が同時出発し、途中各地のインディアン保留地で文化交流を行うとともに参加者を募り、ワシントンD.C.まで行進するという平和的な非暴力要求デモだった。ミネソタ州セントポールで合流した一隊は、インディアンと連邦政府間の条約事項の尊重と権利の保護を20項目の条文にまとめ、10月3日、ワシントンD.C.に到着し、内務省BIA本部ビルへ向かった。彼らは内務省BIAに以下の20項目の要求を突きつけた。 1871年までにアメリカ連邦政府とインディアン部族が結んだ条約の回復。インディアンの独立国家のための新しい条約権限の設立。アメリカ連邦議会での、インディアン代表者の演説権。インディアンとの条約に対する連邦側の責任と違反のチェック。批准されていない条約を上院議案に提出する。すべてのインディアンと条約関係を結ぶ。アメリカ連邦政府が条約権限を違反したインディアン国家に対する救済。条約をきちんと解釈し、インディアンの権利を認定する。インディアンの結びつきを再建するための、共同の議会委員会の設置。アメリカ合衆国内の、インディアン部族から強奪した1億1000万エーカーの土地の返還。解消終了された権利の回復。州政府におけるインディアン国家の管轄権所有を廃止する。インディアン犯罪の連邦保護。BIA(インディアン管理局)の廃止。アメリカ連邦政府にインディアン関係の新しいオフィスを設立する。アメリカ合衆国とインディアン国家間の破られた憲法条約を修復するためのオフィスの新設。州政府が制限している、インディアン国家の交易品の商業規制、税負担の免除。インディアンの信教の自由と、文化的独立の保護。全国のインディアンに地方選択権による投票所を設立し、インディアン組織に対する政府規制を解除する。すべてのインディアンの人々のために、健康保険、住宅、仕事、経済発展、教育を再生する。しかし、内務省はこの「破られた条約の旅」への一切の援助を禁ずる通達を各官庁・団体に出し、これを無視する構えを採った。インディアンデモ隊はやむなく BIA本部へ押し掛け、ここにバリケードを張ってビル占拠を行った。彼らは20項目の要求を BIA に突きつけ、籠城・交渉は一か月続いた。インディアンたちは「我々はここを死守する。死ぬにはもってこいの日だ」と宣言、死を覚悟して顔を塗装して「死の歌(インディアンたちの辞世の歌)」を歌い、ビルを包囲した警官隊との睨み合いは全米に連日中継報道された。 アメリカ合衆国は大統領選を控え、強硬策を回避した。11月7日、リチャード・ニクソン大統領が再選され、内務省は20項目について検討することを条件に翌日の占拠解除を求める手打ちを行った。インディアンたちは帰路の経費6万4千ドルを要求、ニクソン大統領は選挙予算からこれを支出した。 AIM のデニス・バンクス、ラッセル・ミーンズらは BIAビル占拠中に、BIA とその傀儡である各地の保留地の部族政府との癒着、不正経理、横領を示す重要書類をごっそり持ち帰り、BIA を激怒させた。以後、内務省は反AIMキャンペーンを行いこれを攻撃した。 ===インディアンによる「ロンゲスト・ウォーク」=== 1977年、カーター政権で、アメリカ上下院はインディアン絶滅方針を強化し、「部族に対する連邦公認の打ち切り」、「保留地の縮小・解消」、「自治権の剥奪」などの重要法案が次々に議会小委員会に提出された。これに危機感を募らせた AIM のデニス・バンクスは、この絶滅政策に対抗する運動として、アルカトラズ島からワシントンD.C.までの命がけの徒歩横断行進を提唱、全米のインディアン・非インディアンに呼びかけ、大きな賛同と志願者を得た。これは「インディアン移住法」下での、涙の道などの19世紀の全米のインディアン部族に対する保留地強制移住を再現させる試みでもあった。 1978年2月11日、アルカトラズ島占拠事件の記念の地であるアルカトラズ島を起点に「第1回ロンゲスト・ウォーク(最長の徒歩)」は決行され、極寒と酷暑の中を徒歩で大陸横断すべく、インディアンとその賛同者の白人、黒人、アジア人、また豪州のアボリジニなど各国の先住民たちが一路ワシントンD.C.を目指した。インディアンたちは伝統の儀式でこの行進を鼓舞し、朝夕に欠かさずパイプによる精霊への祈りを捧げた。 1978年7月15日、5カ月かけた大陸徒歩横断ののち、4000人に膨れ上がった行進隊はついにワシントンD.C.に到着。このニュースは全米に報じられた。そしてこの非暴力抗議運動は、議会の反インディアン法案を黙らせたのである。以来「ロンゲスト・ウォーク」は毎年続けられている。 ==治安== 1990年代初頭に凶悪犯罪の波が訪れた時、ワシントンD.C.はアメリカの「殺人首都」 (murder capital) として知られ、殺人事件の発生数において、ルイジアナ州ニューオーリンズとしばしば肩を並べていた。謀殺(計画的殺人)の発生件数は1991年に482件だったが、1990年代を通じて犯罪の激しさは大幅に緩和した。2006年までに、市内における謀殺の件数は169件にまで減少した。窃盗や強盗など各種の財産犯も、同様の割合で減少した。 また、2012年は殺人件数が88件と減少し1961年以来最低の値であった。 そして、2015年まで増加し、2015年は162件と2012年の約1.8倍に増加したが、2016年以降は減少し、2017年は116件であった。人口比で見ると2017年は、16.7件(全米平均:5.3件)と全米平均より高く、州別で見るとプエルトリコに次いでワースト2である。 また、殺人事件被害者の8割前後が黒人男性であり、凶器も約8割が銃器を使用している。 多くの大都市と同様、犯罪の発生率が高いのは違法薬物やギャングと関係のある地域である。より富裕な地域のワシントンD.C.北西地区(高級住宅街のジョージタウンなど)では犯罪発生率は低いが、東に行くに従って増加する。コロンビア・ハイツやローガン・サークルのように、一時は凶悪犯罪がはびこったものの、ジェントリフィケーション(高級住宅化)の影響を受けて安全と活気を取り戻しつつある地域も多い。その結果、ワシントンD.C.における犯罪は、さらに東方、メリーランド州プリンスジョージ郡との境界を越えるところまで追い払われつつある。 特に危険なのは市南東部のアナコスティア地区 (Anacostia) である。ワシントンD.C.で起こる殺人の約3分の1はこのアナコスティア地区内で発生している。1950年代までは白人の中流階級の住宅地だったが、州間高速道路の発達により人口が郊外へ流出、住民層が大きく変わり、治安が著しく悪化した。現在、この地区の黒人人口率は92%に達する。また、市の北東部も治安の悪い地域である(右図参照)。市境を越え、メリーランド州側にも治安の良くないエリアが広がっている。 2008年6月26日、連邦最高裁判所は、ワシントンD.C.対ヘラー事件において、ワシントンD.C.が1976年に行った拳銃の所持禁止は、アメリカ合衆国憲法修正第2条で定められた銃所持の権利を侵すものだと判示した。もっとも、この判決は、どのような形での銃規制も一律に禁止するものではない。銃器の登録制を定める法律は依然有効で、ワシントンD.C.による殺傷能力の高い攻撃用武器の禁止も有効である。 治安機関として自治体警察ワシントンD.C.首都警察が置かれている。 ==経済== ワシントンD.C.では、経済が多角的に成長しつつあり、専門的職業やホワイトカラーのサービス業の割合が増加している。ワシントンD.C.の2007年における州民総生産は938億ドルで、これは50州と比較すると35位に位置付けられる。2008年3月の時点で、連邦政府がワシントンD.C.における雇用の27%を占めている。このために、ワシントンD.C.は全国的な経済の停滞の影響を受けていないと考えられている。連邦政府の活動は景気後退期においても継続するからである。もっとも、2007年1月時点で、ワシントン地域の連邦職員は、全米の連邦職員数の14%を占めるに過ぎない。法律事務所、独立契約就業者(インディペンデント・コントラクター。軍事関係と非軍事の双方がある)、非営利団体、ロビー団体、全国労働組合、職業団体といった多くの組織が、連邦政府に近接した場所を求めて、ワシントンD.C.内またはその近郊に本部を置いている。2008年5月現在、ワシントン首都圏の失業率は3.5%で、国内40の大都市圏の中で最も低い。これは、同時期の全国平均失業率の5.2%と比べても低い。 ワシントンD.C.では政府関連の産業、特に教育、金融、科学研究の分野が成長している。非政府関連としては、ジョージ・ワシントン大学、ジョージタウン大学、ワシントン病院センター、ハワード大学、連邦住宅抵当公庫が市内における雇用主体の上位5位である。ワシントンに本拠を置くフォーチュン1000企業(フォーチュン誌が選ぶ上位1000企業)は5社あり、そのうち2社はフォーチュン500にも入っている。ワシントンD.C.は、国際不動産投資においてはロンドン、ニューヨーク、パリに次ぐ先進的地位を得ている。2006年、「エクスパンション・マガジン」誌は、D.C.を国内で最もビジネスの拡大に適した10の地域の一つに挙げた。ワシントンは、商業オフィスの面積に関しては、ニューヨーク、シカゴに次いでアメリカで第3に大きい商業地域を有している。 ワシントンD.C.では、ジェントリフィケーション(高級住宅化)の努力が実りつつあり、特にローガン・サークル、ショー、コロンビアハイツ、Uストリート地帯、14番ストリート地帯の近隣で著しい。いくつかの地域では、1990年代末の地下鉄(メトロ)グリーンラインの敷設により開発が進んだ。地下鉄網によって、これらの地域は商業地域と結ばれた。2008年3月にコロンビアハイツにできた新しいショッピングモールは、ワシントンD.C.で40年ぶりの新しい大規模ショッピングセンターとなった。多くの都市と同様、ジェントリフィケーションはワシントンD.C.の経済を活性化させているが、その利益が均等に配分されているとはいえず、貧困層にとっては直接の救いになっていない。例えば、ワシントンD.C.の失業率は市の中で大きく異なっている。2008年5月において、北西地区北部の裕福な第3地区では失業率が1.7%だったのに対し、南東地区の貧しい第8地区では17.2%であった。2005年において、アメリカの50州と比較すると、ワシントンD.C.は1人当たり収入が高いものの、貧困率もまた高く、全住民における経済的格差を際立たせている。 ==金融== 2017年のイギリスのシンクタンクの調査によると、世界12位の金融センターであり、アメリカの都市では5位である。 ==文化== ===史跡・博物館=== ナショナル・モールは、ワシントンD.C.の中心にある、広大で開放されたエリアである。モールの中心にはワシントン記念塔がある。また、モールの中には、リフレクティング・プールの西端と東端にリンカーン記念館と第二次世界大戦記念碑があるほか、朝鮮戦争戦没者慰霊碑、ベトナム戦争戦没者慰霊碑、アルバート・アインシュタイン記念碑もある。国立公文書館には、アメリカ史にとって重要な何千もの文書が収蔵されており、その中にアメリカ独立宣言、アメリカ合衆国憲法、権利章典の原本も含まれている。 モールのすぐ南、タイダル・ベイスン(ポトマック川に隣接する池)は、桜並木で彩られている。この桜は日本から贈られたものである。タイダル・ベイスンの周りには、フランクリン・ルーズベルト記念公園、トマス・ジェファーソン記念館、D.C.戦争記念碑がある。 スミソニアン協会は、1846年に連邦議会によって創設された教育目的の基金で、ワシントンD.C.内にある国立の博物館・美術館のほとんどを管理している。アメリカ合衆国政府がスミソニアン協会に一部資金を提供しており、収蔵品を入場料無料で公開しているのはこのためである。スミソニアンの博物館の中でも最も来場者が多いのが、ナショナル・モール内にある国立自然史博物館である。このほかに、モール内にあるスミソニアンの博物館・美術館としては、国立航空宇宙博物館、国立アフリカ美術館、国立アメリカ歴史博物館、国立アメリカ・インディアン博物館、アーサー・M・サックラー・ギャラリー、フリーア美術館(サックラー・ギャラリーとフリーア・ギャラリーはいずれもアジアの美術・文化に焦点を当てている)、ハーシュホーン博物館と彫刻の庭、芸術産業館、スミソニアン協会本部(「キャッスル」とも呼ばれる)がある。 スミソニアン・アメリカ美術館(正式には国立アメリカ美術館、National Museum of American Art)と国立肖像画美術館 (National Portrait Gallery) は、ドナルド・レイノルズ・センターという、チャイナタウン近くの同じ建物に入っている。レイノルズ・センターは旧特許庁ビルとも呼ばれている。レンウィック・ギャラリー (Renwick Gallery) は、正式にはスミソニアン・アメリカ美術館の一部だが、ホワイトハウス近くの分館にある。その他のスミソニアン博物館・美術館としては、南東地区のアナコスティア博物館、ユニオン駅近くの国立郵便博物館、ウッドリー公園内の国立動物園がある。 ナショナル・ギャラリーは、ナショナル・モール内の連邦議会議事堂近くにあるが、スミソニアン協会のものではない。完全にアメリカ合衆国政府が所有しており、そのためこれも入場料が無料となっている。ギャラリーの西館では、19世紀のアメリカ、ヨーロッパ美術の収蔵品にスポットが当てられている。東館は、建築士のイオ・ミン・ペイによって設計されたもので、現代美術を取り扱っている。スミソニアン・アメリカ美術館と国立肖像画美術館はよくナショナル・ギャラリーと間違われるが、実際は完全に別の組織である。ジュディシャリー・スクエア近くのナショナル・ビルディング博物館 (National Building Museum) は連邦議会が創設したもので、その時々の特別展を行っている。 ワシントンD.C.には私設の美術館も多く、重要な収蔵品・展示品を一般に公開している。女性芸術美術館 (National Museum of Women in the Arts)、コーコラン・ギャラリー(Corcoran Gallery。ワシントンD.C.で最大の私設の美術館)、デュポン・サークルにあるフィリップス・コレクション(Phillips Collection。アメリカで最初の、現代美術を扱う美術館)などである。その他、ワシントンD.C.内の私設の博物館としては、ニュージアム (Newseum)、国際スパイ博物館 (International Spy Museum)、ナショナルジオグラフィック協会博物館、科学博物館 (Marian Koshland Science Museum) がある。ナショナル・モール近くのホロコースト記念博物館 (Holocaust Memorial Museum) では、ホロコーストに関する展示品、文書、工作物が保管されている。 ===舞台芸術・音楽=== ワシントンD.C.は、国内の芸術の中心地の一つである。ジョン・F・ケネディ・センターは、ワシントン・ナショナル交響楽団、ワシントン・ナショナル・オペラ (Washington National Opera)、ワシントン・バレエ (Washington Ballet) の本拠地である。毎年、舞台芸術の分野でアメリカの文化に大きく貢献した人に対し、ケネディ・センター名誉賞が与えられる。大統領とファーストレディが名誉賞の授賞式に出席するのが通例である。これは、ファーストレディがケネディ・センター理事会の名誉会長であるためである。 アリーナ・ステージ (Arena Stage) は、アメリカで最も早い時期にできた非営利の地方劇場の一つで、1シーズンに古典的作品や新しいアメリカ演劇などを取り上げた八つの舞台を上演する。シェークスピア劇場 (Shakespeare Theatre) は、1985年に設立された非営利の劇場で、その古典的演劇に対する再解釈や演出手法に対しては、評論家から「世界で最も素晴らしい三つのシェークスピア劇場のうちの一つ」と評価されている。 ワシントン北西地区のUストリート地帯は、「ワシントンのブラック・ブロードウェイ」として知られる。ボヘミアン・カバンズ(Bohemian Caverns、ナイトクラブ)やリンカーン・シアター (Lincoln Theatre) があり、そこではワシントン生まれのデューク・エリントン、ジョン・コルトレーン、マイルス・デイヴィスなど音楽史の伝説的人物が演奏していた。その他のジャズクラブとして、アダムズ・モーガンにあるマダムズ・オーガン (Madam’s Organ) やジョージタウンにあるブルース・アリーなどがあり、モダン・ブルースが演奏されている。 ワシントンD.C.には、ここで生まれたゴーゴー (Go‐go) と呼ばれる固有の音楽ジャンルがある。ファンクを受け継ぎ、駆り立てるようなパーカッションとR&Bの味わいが、ライブのセッションと激しいダンスのリズムを一体化させている。最も成功したミュージシャンが、D.C.のバンドを率いたチャック・ブラウン (Chuck Brown) で、彼は1979年のレコード”Bustin’ Loose”でゴーゴーを全国の注目の的とした。 ワシントンD.C.は、アメリカのインディーズ文化・音楽にとっても重要な中心地である。イアン・マッケイの作ったディスコード・レコードは、1980年代のパンク・ロックや、さらには1990年代のインディー・ロックが生まれる上で最も重要な役割を担ったインディーズ・レーベルの一つである。ワシントンのインディーズ・レーベルの歴史には、ティーンビート・レコード、ディスコード・レコード、シンプル・マシンズ、ESLミュージックなどが登場する。Uストリート近くのブラックキャット (The Black Cat) や9:30クラブ (9:30 Club) といった、現代のオルタナティブ・ミュージックやインディーズ音楽を演奏するナイトクラブの存在によって、大衆的な音楽は、より小規模でうち解けた雰囲気のクラブに持ち込まれている。1964年2月に渡米中のビートルズがコロシアムでコンサートを行った。その模様は撮影され、メンバーの帰国後に映画で上映され(関係者やビートルズがそれを知ったのはずいぶん経ってからだった)、後に「コンプリート・ビートルズ」や「ザ・ビートルズ・アンソロジー」やビートルズ関連の作品に使用されている。 ==マスメディア== ===新聞=== ワシントンD.C.は、国内そして国際メディアの一大中心地である。ワシントン・ポストは1877年に創刊され、ワシントンD.C.で最も歴史があり、かつ最も購読者が多いる日刊地方紙である。同紙で最も注目されるのは、国内・国際政治についての取材範囲の広さ、そしてウォーターゲート事件の暴露である。同紙――「ザ・ポスト」と広く呼ばれている――は、ずっと3つの版しか印刷していない。それぞれワシントンD.C.、メリーランド州、バージニア州向けのものである。広域の全国版はないにもかかわらず、同紙は2008年3月現在において国内の全日刊紙の中で6番目に多い発行部数を誇っている。ワシントン・ポスト社は、「エクスプレス」というフリーの通勤客向け日刊紙を発行しており、時事、スポーツ、エンターテイメントを短くまとめている。また同社はスペイン語紙 El Tiempo latino も発行している。国内で最大の発行部数を有する日刊紙であるUSAトゥデイは、本部をバージニア州マクリーン近郊に置いている。 そのほかの日刊地方紙としてワシントン・タイムズ、週刊のオルタナティブ紙としてワシントン・シティ・ペーパーの両紙も、ワシントン地域で相当数の読者を得ている。 また、地域や文化的なテーマに焦点を当てたコミュニティ紙、専門紙も多い。週刊のワシントン・ブレード紙とメトロ・ウィークリー紙は、LGBT に関する話題を取り上げたものである。ワシントン・インフォーマー紙とワシントン・アフロ・アメリカン紙は、黒人コミュニティにとっての関心事項にスポットを当てたものである。そのほか、カレント・ニューズペーパーが発行するいくつかの地区新聞がある。ヒル紙とロール・コール紙は、連邦議会と連邦政府に関する話題のみに的を絞ったものである。 ===放送=== ワシントン首都圏は、230万8290世帯(アメリカ人口の2.05%)を擁する、アメリカで9番目に大きなテレビのマーケットである。いくつかのメディア会社とケーブルテレビのチャンネルがワシントンD.C.に本社を置いている。C‐SPAN、ブラック・エンターテインメント・テレビジョン (BET)、ナショナルジオグラフィックチャンネル、スミソニアン・ネットワークス、XMサテライト・ラジオ、ナショナル・パブリック・ラジオ (NPR)、ディスカバリー・コミュニケーションズ社(メリーランド州シルバー・スプリングに所在)、公共放送サービス(PBS。バージニア州アーリントンに所在)などがある。アメリカ政府の国際ニュースサービス「ボイス・オブ・アメリカ」(VOA) は、本部を連邦議会議事堂近くの南西地区に置いている。同じくD.C.に本拠地を置くラジオ・ワンは、アメリカで最大のアフリカ系アメリカ人向けテレビ・ラジオの複合企業で、メディア界の大物キャシー・ヒューズによって設立された。 参照:ワシントンD.C.のラジオ放送局の一覧 ==スポーツ== ワシントンD.C.は、5つの大きなプロスポーツチームの本拠地となっている。バスケットボールのワシントン・ウィザーズ (NBA) とアイスホッケーのワシントン・キャピタルズ (NHL) は、いずれもチャイナタウンにあるベライゾン・センターでプレーしている。2008年にD.C.南東地区にオープンしたナショナルズ・パークは、ワシントン・ナショナルズ(メジャーリーグベースボール)の本拠地である。D.C. ユナイテッド(メジャーリーグサッカー)は、ロバート・F・ケネディ・メモリアル・スタジアムでプレーしている。フットボールのワシントン・レッドスキンズ (NFL) は、メリーランド州ランドーバーにあるフェデックスフィールドである。 ワシントン地域には、女子プロスポーツチームもたくさんある。バスケットボールのワシントン・ミスティクス (WNBA) はベライゾン・センターで、ソフトボールのワシントン・グローリー(ナショナル・プロ・ファストピッチ)はウェストフィールド・ハイスクール・スポーツ・コンプレックス(バージニア州フェアファクス郡)でそれぞれプレーしている。サッカーのワシントン・フリーダムは、2009年から始まった女子プロサッカーリーグ(アメリカ女子プロサッカー、アメリカ女子サッカーリーグ (WUSA) の後を継ぐ団体)で復活、2011年よりマジックジャックに改名し、フロリダ州に移転した。 そのほかにワシントンに本拠を置くプロ又はセミプロのチームとしては、次のものがある。 ワシントン・ベイホークス(メジャーリーグ・ラクロス):実際には本拠スタジアムはメリーランド州アナポリスの海軍海兵隊記念スタジアムだが、名前はワシントンを冠している。ワシントンD.C.スレイヤーズ(アメリカン・ナショナル・ラグビー・リーグ)ポトマック・マーベリックス(プロフェッショナル・インライン・ホッケー協会)ボルチモア・ワシントン・イーグルス(オージーフットボール)D.C.ディーバズ(女子ナショナル・フットボール協会)D.C.エクスプロージョン(マイナーリーグ・フットボール)ワシントン・ラグビー・フットボール・クラブ(ラグビー・スーパーリーグ)アメリカンフットボール、バスケットボール、野球、アイスホッケーという4大メジャースポーツリーグのチームがすべて揃っている都市はアメリカには13しかなく、ワシントンD.C.はそのうちの一つである。これにサッカーを加えると、すべて揃っているのはワシントンD.C.を含む8都市となる。ワシントンD.C.のスポーツチームは、総計すると11回のリーグでの優勝を手にしている。そのうち4回がD.C.ユナイテッドが勝ち取ったものである(メジャーリーグサッカー史上最多である)。またワシントン・レッドスキンズが3回、ワシントン・ベイホークスが2回、ワシントン・ウィザーズとワシントン・グローリーがそれぞれ1回である。 そのほか、ロック・クリーク公園にあるフィッツジェラルド・テニス・センターでは、レッグ・メイソン・テニス・クラシック (Legg Mason Tennis Classic) の大会が開催される。マリン・コープス・マラソン (Marine Corps Marathon) とナショナル・マラソン (National Marathon) の2つもワシントンで毎年開催される。また、ワシントン地域には、コムキャスト・スポーツネット (CSN) というスポーツ専門の地方テレビ局があり、メリーランド州ベセスダに本拠がある。プロテニスシティ・オープンも開催される。 ==観光== ナショナル・モールとその周辺には、多くの観光スポットが集中している。モール内にはワシントン記念塔、リンカーン記念館などのモニュメントがあり、その周辺にはスミソニアン博物館、ナショナル・ギャラリーを代表として、多数の博物館・美術館がある。また、モールの北側や、アメリカ合衆国議会議事堂、アメリカ合衆国最高裁判所などの政府機関も一般に公開されており、観光名所として人気がある。 モールを離れて北側のナショナル・ジオグラフィック協会などや、北西側のワシントン大聖堂なども、観光名所は集中していないものの、それぞれ独自の町並みを見せており、これらの地域を訪れる人も多い。さらにワシントンメトロで結ばれている近郊の街には、アーリントン国立墓地があるアーリントンや、オールド・タウンと呼ばれる古い町並みが残るアレクサンドリアなどがある。 モールを中心に、解説を交えながらこれらの観光名所を巡回する観光用バスが多数走っており、ツアーモービル、オールド・タウン・トロリー、グレイライン・レッド・トロリー、ダックツアーなどがある。また、ユニオン駅からはナショナル・モール、タイダルベイスン湖岸を巡回する路線バス特別区循環も運行されている。 ==政治== 一つの地方としてのワシントンD.C.ローカルの政治傾向はリベラルであり、民主党の支持が強い。 ===地方政府と地方政治=== アメリカ合衆国憲法1条8節17項は、合衆国の連邦議会に、ワシントンD.C.に対する最高の権限を与えている。1973年のコロンビア特別区地方自治法により、連邦議会の一定の権限が特別区のワシントンD.C.地方政府に委譲され、同政府は、ワシントンD.C.の首長であるコロンビア特別区長(現在は民主党のミューリエル・バウザー)と、条令制定権を有する地方議会のコロンビア特別区議会(定数13議席)によって運営されることとなった。もっとも、連邦議会は、コロンビア特別区議会の作った法律を審査・破棄し、またワシントンD.C.地方自治の問題について介入する権限を有している。8つの選挙区ごとに1人の市議会議員が選ばれ、これとは別に全域から議長を含む5人の議員が選ばれる。また、小地区ごとに、地区諮問委員会 (ANC) の37人の委員が選挙される。ANC は伝統的に多大な影響力を行使しており、市政府は ANC の助言に十分に配慮するのが通例である。 ワシントンD.C.市長とコロンビア特別区議会が予算を採択したとき、連邦議会はそれを変更する権限を有している。地方の所得税、売上税及び資産税が、市政府の部局や行政サービスに当てるための収入の大部分を占める。50州と同様、ワシントンD.C.は老齢者医療保険制度 (Medicare) のような連邦政府補助金プログラムからの資金を受けている。連邦議会は、このほかに市の経費の一部を補助するため、資金を直接交付しており、これは2007年度では3800万ドル(D.C.の予算の約0.5%)となっている。しかし、これらの資金提供とは別に、連邦政府が特別区裁判所(2008年で2億7200万ドルの予算)や、連邦公園警察のような連邦警察機構を運営しており、これらが市の治安の維持に貢献している。 歴史的には、市の地方政府は失策や浪費で悪名を得てきており、特にマリオン・バリー市長の時代はこれが顕著だった。1997年7月20日のワシントン・ポスト紙は、1面記事で、ワシントンD.C.の行政サービスは全国でもコストが最高で質は最低だと報じた。アンソニー・ウィリアムス市長の時代になって成功を見るようになり、都市の再生も進み、1990年代に財政の黒字化も実現し、それが今日まで続いている。2007年末に、捜査当局の調べで、租税・歳入事務所の複数の職員が、虚偽の税金還付の小切手を作出することにより、4400万ドル以上を詐取していたことが発覚した。このスキャンダルはフェンティ市政にとっての汚点となり、市民の信頼回復が最重要課題となっている。 ワシントンD.C.は、すべての連邦の休日 (Federal holiday) に従っている。そのほかに、1862年(奴隷解放宣言の9か月前)に奴隷解放補償法がエイブラハム・リンカーン大統領によって署名されたのを記念して、4月16日の奴隷解放記念日を祝日としている。この法律により、D.C.での奴隷制は終わりを迎え、およそ3100人の奴隷が解放された。 ===連邦政府と国政=== アメリカ合衆国大統領選挙の選挙人数は3人、議会の選挙区は定数1議席のコロンビア特別区全区選挙区である。 ===代表・課税問題=== ワシントンD.C.の市民は、連邦議会に投票権のある議員を送っていない。下院では、投票権のない代議員(準議員)1名がワシントンD.C.を代表しており、現在はエレナー・ホームズ・ノートン(民主党、コロンビア特別区全区選挙区選出)がこれを務めている。代議員は、下院で委員会に出席し、議論に参加し、法案を提出する権限はあるが、議場で投票に加わることができない。また上院には全く代表を送っていない。1961年までは大統領選挙への投票からも除外されていたが、アメリカ合衆国憲法修正第23条によって、D.C.にも選挙人団の中に3人の投票権が与えられた。プエルトリコやグアムのようなアメリカ合衆国の領域も下院に投票権のない代議員を送っている(ただし大統領選挙に参加はできない)が、両地域と異なり、ワシントンD.C.の市民はすべての連邦法と課税に服している。2007年度において、D.C.の住民と企業は204億ドルの連邦税を支払っており、これより少ない州は19州ある上、1人当たりの納税額では最大である。これに加え、公民権運動以前には南部で名ばかりの平等の下で選挙権を奪われていた黒人がD.C.の多数派であるため、当時のように間接的に黒人を投票から締め出す形になっている。 2005年の世論調査で、アメリカ人の78%が、コロンビア特別区の住民が連邦議会での代表について50州よりも低い地位しか与えられていないことを知らなかったと答えた。この問題についての認識を高めてもらおうとする運動がD.C.の官民挙げて行われている。1990年からはD.C.当局が2年ごとの連邦選挙に合わせて「影の議員」の選挙を行っており、D.C.公認の「影の上院議員」2名と「影の下院議員」1名(連邦に認められた、投票権なき代表とは別)が存在する。また2000年11月からは市の「代表なき課税(代表なくして課税なし)」という非公式のモットーを、ワシントンの車のナンバープレートに入れてアピールしている。このナンバープレートの登場時に退任直前であったビル・クリントン大統領(民主党)は、趣旨に賛同するとしてこれを大統領専用リムジンに装着した。しかし、ジョージ・W・ブッシュ新大統領(共和党)は、政治スローガンをナンバープレートに載せるべきではないとして、就任後すぐに大統領就任式記念のナンバープレートに取り替えてしまった。なおD.C.は民主党への支持が圧倒的に強固な土地柄である。 様々な世論調査によれば、アメリカ人の61%ないし82%が、D.C.は連邦議会での投票権付き代表を認められるべきだと考えている。にもかかわらず、D.C.に投票権付き代表を与えようとする試みは成功していない。その中には、D.C.州昇格運動もあり、またD.C.に上下両院選挙の投票権を付与する憲法修正案も提出されたが、いずれも成功を見ていない。1978年には州なみの上下両院議員の選出権を付与する改憲案が7年以内の批准を条件として連邦議会を通過したが、1985年までに批准した州は16州にとどまり、改憲に必要な3/4の州(38州)に遠く及ばず成立しなかった。 D.C.に投票権を与えることに対する反対論者は、アメリカ合衆国建国の父たちはD.C.の住民が連邦議会での投票権を持つことを全く意図していなかった、なぜなら憲法は代表は各州の出身でなければならないと明確に規定しているからだと主張する。また、D.C.を州に昇格させることに対する反対論者は、そのような運動は、州から切り離された国の首都という概念を破壊することになる、州とすることは一つの市に上院の代表権を与えることになり不公平であると主張する。 ==教育・医療== コロンビア特別区パブリックスクールズ (DCPS) が、市の公立学校システムを運営しており、これは167の学校と学習センターから成る。2007年度では、4万9076人の生徒が公立学校システムに登録されている。DCPS への登録は一貫して減少しており、次の年までに全登録生徒数が4万7700人にまで減少するだろうと市では予測している。DCPS は、インフラの面でも、生徒の成績の面でも、国内でコストが最も高い割に成果が最も乏しい学校システムの一つであることは否めない。市議会は、2007年に市の学校システムの大改革を行うに当たり、市長に対し公立学校についてのほぼ完全な権限を与えた。フェンティ市長が指名した DCPS の新しい最高責任者であるミシェル・リー長官 (Michelle Rhee) は、一部の学校を民間経営会社に委ねたり、校長を解任したり、教師を入れ替えたりするなど、徹底的な改革を行った。 公立学校システムの問題点から、公立のチャーター・スクールの登録数が、2001年以来、年々13%の割合で増加している。コロンビア特別区公立チャーター・スクール委員会は、市内の56校の公立チャーター・スクールを監督している。2007年秋の時点で、D.C.のチャーター・スクールには全部で2万1859人が登録している。ワシントンD.C.には、国内で最も有名な私立高校もいくつかある。多くの著名人やその子弟が、シドウェル・フレンズ校のような私立高校に通ってきた。チェルシー・クリントンもその一人で、父ビル・クリントンの大統領在職期間中、シドウェル校に通っていた。 ワシントンD.C.には、多くの著名な大学がある。ジョージタウン大学 (GU)、ジョージ・ワシントン大学 (GW)、アメリカン大学 (AU)、アメリカカトリック大学 (CUA)、ハワード大学 (Howard University)、ギャラデット大学 (Gallaudet University)、ジョンズ・ホプキンス大学高等国際関係大学院(SAIS) などがある。コーコラン美術デザイン大学 (Corcoran College of Art and Design) では専門的な美術の授業を行っているほか、他の高等教育機関でも、継続的教育、遠隔地教育、社会人向け教育を提供している。コロンビア特別区大学 (UDC) は国によるランドグラント大学で、どこの州にも属さないために州立大学というものを持たないこのワシントンD.C.において、公的な高等教育の機会を与えている。 ワシントンD.C.には、16の医療センターと病院があり、患者のケアと医学研究の全国的な中心地となっている。アメリカ国立衛生研究所はメリーランド州ベセスダの近くにある。ワシントン・ホスピタル・センター (WHC) は、D.C.で最大の敷地を持つ病院であ、私立病院としても、非営利病院としても最大である。WHC のすぐ隣には、国立子ども医療センター (Children’s National Medical Center) がある。同センターは、USニューズ&ワールド・レポート誌によれば、アメリカ国内で最も高いランクを与えられている小児科病院の一つである。ジョージタウン大学、ジョージ・ワシントン大学、ハワード大学など、多くの有名大学も、メディカル・スクールとその附属病院を設けている。ウォルター・リード軍医療センター (Walter Reed Army Medical Center) は、ワシントンD.C.北西地区にあり、現役・退役の軍人とその家族に対し医療サービスを提供している。 ==軍事== 連邦軍組織として、D.C.内に大規模な駐屯地などはないが、統合部隊である首都地域統合部隊司令部 (Joint Force Headquarters National Capital Region,JFHQ‐NCR) がワシントンD.C.およびその周辺の防衛を担っている。また、州兵としてコロンビア特別区州兵およびコロンビア特別区空軍州兵が編成されている。これら州兵は常に連邦政府の指揮下にある。 ==交通== ===鉄道・バス=== ワシントンD.C.は、国内でも最悪クラスの交通事情と混雑でよく引き合いに出される。2007年、ワシントンの自動車は年あたり60時間の間渋滞に巻き込まれており、これはロサンゼルスに次いで国内で最悪の交通事情と結び付いている。一方で、ワシントンの通勤者の37.7%が通勤に公共交通機関を利用しており、これも国内で2番目に高い割合である。 ワシントン首都圏交通局 (WMATA) は、市の地下鉄網であるメトロレール(「メトロ」と呼ばれることが多い)と、メトロバスを運営している。地下鉄とバス網は、ワシントンD.C.のほか、メリーランド州とバージニア州の近郊地域にもサービスを提供している。メトロレールが開業したのは1976年3月27日で、現在、駅の数は87、線路の全長は171.1kmである。2008年において、平日には平均すると1日のべ95万人が利用しており、メトロレールはニューヨーク市地下鉄に次いで全国で2番目に繁忙な地下鉄となっている。 WMATA では、2030年までに地下鉄の利用客は1日平均100万人になると見ている。輸送能力を拡張する必要があることから、220の車両を追加するとともに、繁忙駅の混雑を緩和するために迂回ルートを作るよう計画が更新された。この地域の人口増加を受け、メトロの路線を2つ新たに建設するという取り組みがよみがえった。それとともに、町と町を結ぶ新たなライトレール網も計画されている。最初の路面電車の路線は、2009年末にオープンする見通しである。ワシントンの周辺地域にも、ローカルなバス網がある。メリーランド州モンゴメリー郡にはライド・オンというバスが走っており、WMATA のサービスを補完している。メトロレール、メトロバスおよびその他のローカルな公共バスでは、「スマートリップ」(SmarTrip) という、繰り返しチャージ可能な乗車券(ICカード)が利用できる。 ユニオン駅は、アメリカでニューヨークのペンシルベニア駅(ペン・ステーション)に次いで2番目に賑わった鉄道駅であり、アムトラックのノースイースト・コリダーとアセラ・エクスプレスのターミナル駅となっている。メリーランド州のメリーランド・レール・コミューター (MARC) とバージニア州のバージニア・レールウェイ・エクスプレス (VRE) の通勤用電車、並びにメトロのレッド・ラインもユニオン駅に乗り入れている。都市間バスは、グレイハウンド、ピーターパン、ボルトバス、メガバス、その他多数のチャイナタウン・バスラインによって運行されている。 ===空港=== ワシントンD.C.へのアクセスには3つの大きな空港があり、1つがメリーランド州、他の2つがバージニア州にある。 ロナルド・レーガン・ワシントン・ナショナル空港は、D.C.の中心地からポトマック川を渡ってすぐの、バージニア州アーリントン郡にある。レーガン空港は、ワシントンエリアの中でメトロレールの駅がある唯一の空港である。D.C.に近接していることから、レーガン空港は、防空識別圏のために特別なセキュリティ警戒が要求されている上、追加的な騒音規制も課せられている。レーガン空港にはアメリカ合衆国税関・国境警備局がないので、カナダ線、カリブ海域諸島線など、プリクリアランス(搭乗前の入国審査、通関手続等)が許可されている航空機に限って国際線サービスを提供している。 主な国際線は、ワシントン・ダレス国際空港に発着する。ダレス空港はD.C.から42.3km西の、バージニア州フェアファクス郡とラウダウン郡にある。同空港はアメリカ合衆国東海岸におけるユナイテッド航空の主要なハブ空港として機能しており、日本へは全日空、ユナイテッド航空がそれぞれ成田への直行便を運航している。 ボルチモア・ワシントン国際空港はD.C.から51km北東、メリーランド州アン・アランデル郡にあり、サウスウエスト航空とエアトラン航空のハブ空港となっている。 ===高速道路=== ワシントンD.C.付近を通る主要な州間高速道路としては、次のものがある。 95号線カナダ国境のメイン州ハウルトンからメリーランド州ボルチモア市を経てワシントンD.C.都市圏東部 ‐ 南部を通過し、バージニア州都のリッチモンド市を経てフロリダ州マイアミ市に至る(ワシントンD.C.付近には支線として下記の二級州間高速道路がある)。 495号線:半径約16kmの、都市圏を通過する環状道路(都市圏東部 ‐ 南部は95号線と重複)。 295号線:市街中心部から南方に向かい495号線に合流する。 395号線:市街中心部から南西に向かい95号線に合流する。495号線:半径約16kmの、都市圏を通過する環状道路(都市圏東部 ‐ 南部は95号線と重複)。295号線:市街中心部から南方に向かい495号線に合流する。395号線:市街中心部から南西に向かい95号線に合流する。66号線市街中心部から西方に延びバージニア州フロント・ロイヤルに至る(国道66号線(ルート66)とは異なる)。270号線市街北部の495号線から分岐して北北西に伸び、メリーランド州フレデリックに至る。 ==姉妹都市== ワシントンD.C.には12の姉妹都市がある。パリは、その町(コミューン)の方針のために「パートナー都市」となっている。 アクラ(ガーナ) アテネ(ギリシャ共和国) バンコク(タイ王国) 北京(中華人民共和国) ブリュッセル(ベルギー王国) ダカール(セネガル共和国) パリ(フランス共和国) プレトリア(南アフリカ共和国) ソウル特別市(大韓民国) サンダーランド(イギリス)ブラザビル(コンゴ共和国 特別市) =白血病= 白血病(はっけつびょう、Leukemia)は、「血液のがん」ともいわれ、遺伝子変異を起こした造血細胞(白血病細胞)が骨髄で自律的に増殖して正常な造血を阻害し、多くは骨髄のみにとどまらず血液中にも白血病細胞があふれ出てくる血液疾患である。白血病細胞が造血の場である骨髄を占拠するために造血が阻害されて正常な血液細胞が減るため感染症や貧血、出血症状などの症状が出やすくなり、あるいは骨髄から血液中にあふれ出た白血病細胞がさまざまな臓器に浸潤(侵入)して障害することもある。治療は抗がん剤を中心とした化学療法と輸血や感染症対策などの支持療法に加え、難治例では骨髄移植や臍帯血移植などの造血幹細胞移植治療も行われる。大きくは急性骨髄性白血病 (AML)、急性リンパ性白血病 (ALL)、慢性骨髄性白血病 (CML)、慢性リンパ性白血病 (CLL) の4つに分けられる。 ==概要== 日本血液学会では 『白血病は遺伝子変異の結果、増殖や生存において優位性を獲得した造血細胞が骨髄で自律的に増殖するクローン性の疾患群である。白血病は分化能を失った幼若細胞が増加する急性白血病と、分化・成熟を伴いほぼ正常な形態を有する細胞が増殖する慢性白血病に分けられる。また分化の方向により骨髄性とリンパ性に大別される』 ―‐引用、日本血液学会、日本リンパ網内系学会編集、『造血器腫瘍取扱い規約』金原出版、2010年、p.2 としている。 白血病は病的な血液細胞(白血病細胞)が骨髄で自律的、つまりコントロールされることなく無秩序に増加する疾患である。骨髄は血液細胞を生み出す場であり、骨髄での白血病細胞の増加によって正常な造血細胞が造血の場を奪われることで正常な造血が困難になり、血液(末梢血)にも影響が及ぶ。あるいは骨髄から血液中にあふれ出た白血病細胞がさまざまな臓器に浸潤(侵入)して障害することもある。白血病患者の血液中では白血病細胞あるいは病的な白血球を含めると白血球総数は著明に増加することも、あるいは減少することもある。しかし、正常な白血球は減少し血小板や赤血球も多くの場合減少する。 白血病の症状として、正常な白血球が減ることで感染症(発熱)、赤血球が減少することで貧血になり貧血に伴う症状(倦怠感、動悸、めまい)、血小板が減少することで易出血症状などがよく見られ、また血液中にあふれ出た白血病細胞が皮膚や神経、各臓器に浸潤(侵入)してそれらにさまざまな異常が起きることもある。 治療は抗がん剤を中心とした化学療法によって白血病細胞の根絶を目指し、白血病の諸症状の緩和に輸血や造血因子投与や(抗菌薬やクリーンルームなどの)感染症対策などの支持療法に加え、難治例では骨髄移植などの造血幹細胞移植治療も行われる。 白血病は年に10万人あたりおよそ7人(2005年、日本)が発症する比較的少ないがんであるが、多くの悪性腫瘍(癌、肉腫)は高齢者が罹患し小児や青年層では極めてまれなのに対し、白血病は小児から高齢者まで広く発症するため、小児から青年層に限ればがんの中で比較的多いがんである。造血の場である骨髄で造血の元になっている細胞が変異したことによって起きるのが白血病であり、癌や肉腫のように固形の腫瘍を形成しないため、胃癌や大腸癌などのように外科手術の適応ではないが、その代わり抗がん剤などの化学療法には極めてよく反応する疾患である。19世紀にドイツの病理学者ルドルフ・ルートヴィヒ・カール・ウィルヒョー(ウィルヒョウ,フィルヒョウ)が白血病を初めて報告して Leukemia(白血病)と名付けたが、かつては白血病は治療が困難で、自覚症状が現れてからは急な経過をたどって死に至ったため、不治の病とのイメージを持たれてきた。また、白血病は現代においても現実に若年層での病死因の中で高い割合を占めることから、フィクションでは、かつての結核に代わって、癌と並び現代ではしばしば若い悲劇の主人公が罹患する設定になることが多い。しかし、1980年代以降、化学療法や、骨髄移植 (bone marrow transplantation; BMT)、末梢血造血幹細胞移植 (peripheral blood stem cell transplantation; PBSCT)、臍帯血移植 (cord blood transplantation; CBT) の進歩に伴って治療成績は改善されつつある。 一口に白血病と言っても、大きくは急性骨髄性白血病 (AML)、急性リンパ性白血病 (ALL)、慢性骨髄性白血病 (CML)、慢性リンパ性白血病 (CLL) の4つに分けられ、それぞれは様相の異なった白血病である。 急性白血病では増加している白血病細胞は幼若な血液細胞(芽球)に形態は似てはいるが、正常な分化・成熟能を失い異なったものとなる。慢性白血病では1系統以上の血液細胞が異常な増殖をするが、白血病細胞は分化能を失っておらず、幼若な血液細胞(芽球)から成熟した細胞まで広範な細胞増殖を見せる。急性白血病細胞は血液細胞の幼若細胞に似た形態を取り、多くの急性白血病では出現している白血病細胞に発現している特徴が白血球系幼若細胞に現れている特徴と共通点が多い細胞であるが、多くはないが赤血球系統や血小板系統の幼若細胞の特徴が発現した白血病細胞が現れるものもあり、それらも白血病である。血液細胞は分化の方向でリンパ球と骨髄系細胞に分けられるが、ほとんどの白血病細胞も少しであっても分化の方向付けがありリンパ性と骨髄性に分けることができる。 白血病における慢性と急性の意味は、他の疾患で言う急性・慢性の意味合いとは違う。急性白血病が慢性化したものが慢性白血病という訳ではなく、白血病細胞が幼若な形態のまま増加していく白血病を「急性白血病」、白血病細胞が成熟傾向を持ち一見正常な血液細胞になる白血病を「慢性白血病」という。白血病の歴史の中で一般に無治療の場合には白血病細胞が幼若な形態のまま増加していく白血病の方が死に至るまでの時間が短かったので「急性」と名付けられた。急性白血病が慢性化して慢性白血病になることはないが、逆に慢性白血病が変異を起こして急性白血病様の病態になることはある。 一般的に用いられる形容で、白血病を「血液の癌」と呼ぶが、この形容は誤りである。漢字で「癌」というのは「上皮組織の悪性腫瘍」を指し、上皮組織でなく結合組織である血液や血球には使えない。ただし、「血液のがん」という平仮名の表記は正解である。平仮名の「がん」は、「癌」や「肉腫」、血液悪性腫瘍も含めた広義的な意味で使われているからである。 悪性リンパ腫や骨髄異形成症候群といった類縁疾患は通常、白血病には含まれないが、悪性リンパ腫とリンパ性白血病の細胞は本質的には同一であるとされ、骨髄異形成症候群にも前白血病状態と位置付けられ進行して白血病化するものもあり、これら類縁疾患と白血病の境目は曖昧な面もある。 ==歴史と白血病の名の由来== ===歴史=== 19世紀半ば、ドイツの病理学者ルドルフ・ルートヴィヒ・カール・ウィルヒョー(ウィルヒョウ,フィルヒョウ)が巨大な脾腫を伴い、血液が白色がかって死亡した(今で言う慢性骨髄性白血病)患者を調べて報告したのが白血病の血液疾患としての最初の認知であるが、ウィルヒョーの報告ののち、白血病は経過が比較的ゆっくりなものを慢性白血病、早いものを急性白血病と分類され(現在の分類法とは違う)、1930年代には細胞科学的手法によってリンパ性と骨髄性に分類されるようになった。しかしウィルヒョーの報告からほぼ100年にわたって、白血病には有効な治療法はなく、急性白血病で数週から数か月、慢性白血病でも数か月から数年で死亡する死の病であった。第二次世界大戦後に登場した抗がん剤 6‐MP が白血病に適用され始めたが、抗がん剤の種類も知見も少なく、血小板輸血や抗生物質も乏しかった1960年代までは死の病である状況は変わらなかった。1960年代からは抗がん剤の種類・知見も増加して抗がん剤 Ara‐c とダウノルビシンの多剤併用療法が開発され、抗生物質もさまざま登場し、少しずつ白血病に立ち向かえるようになっていった。1960年代後半からは抗がん剤の多剤併用療法の改良によって白血病が治癒する例が増え始め、同時に抗生物質の充実、1970年代から始まった血小板輸血などの支持療法の進歩もあり、急性白血病患者の70‐80%は一旦は白血病細胞が見られなくなるようになったが、しかし、多剤併用療法のみでは再発は少なくなく、最終的には多剤併用療法のみでの治癒率は30‐40%程度で頭打ちになっている。その後1970年代から研究の始まった造血幹細胞移植が1990年代から本格的に適用され始め、化学療法だけでは長期生存は難しい難治例でも造血幹細胞移植で2‐6割の患者は長期生存が期待できるようになった。また急性前骨髄球性白血病 (AML‐M3) で画期的な治療法である分化誘導療法の発見、2001年には慢性骨髄性白血病 (CML) の分子標的薬グリベックの登場など、AML‐M3 や CML、予後が良い小児ALL などでは大半の患者が救われるようになってきている。 ===血の色と白血病の名の由来=== 白血病は、前述したウィルヒョーが見た死亡患者の血液が白っぽくなっていたので、ギリシャ語の白い (λε*135*κο*136*) と血 (α*137*μα) をラテン文字へ換字した (leukos) と (haima) から造語した leukemia(白血病)と名付けたといわれる。ウィルヒョーが見た患者では極端に白血球が増加し血液が白っぽくなっていたと考えられるが、実際に血液が真っ白になることはなく、白血病細胞が極端に増えた例で通常は濃い赤色である血液が赤から灰白赤色になるだけで、ほとんどの白血病患者では血液の色は赤いままである。血液の赤色は赤血球の色であるが、赤血球が完全になくなる前に人は死亡するので血液が完全に真っ白になるまで生存することはできない。 白血病によって貧血が強くなると血の色が薄くはなる。また同様に、赤白血病(FAB分類M6)でも血がピンクになるわけではない。一方、家族性リポ蛋白リパーゼ欠損症では血の中に中性脂肪が溜まり血が乳白色となるが、これは白血病とは呼ばない。 ちなみに健康人の血液を遠心分離すると下層には濃い赤色の赤血球、上層には黄色みかかった透明の血漿に分離するが、中間にはやや灰色がかった白い薄い層が現れる。白い層をなす血液細胞をギリシャ語由来の(白い)を意味する leuko と細胞を表す cyte を併せて Leukocyte:白血球と名付けられた。白血球の一つ一つは実際には無色半透明だが多く集まると光を乱反射して白く見える。白血病患者のほとんどでは白血球あるいは白血球同様に無色半透明な芽球が増加しているので血液を遠心分離すると中間の白い層の厚みは増加している。白い層の増加の程度が甚だしいと血液の色も変化する。 ==症状== 白血病の症状は急性白血病と慢性白血病では大きく違う。 急性白血病の症状としては、骨髄で白血病細胞が増加し満ちあふれるために正常な造血が阻害されて正常な血液細胞が減少し、正常な白血球の減少に伴い細菌などの感染症(発熱)、赤血球減少(貧血)に伴う症状(倦怠感、動悸、めまい)、血小板減少に伴う易出血症状(歯肉出血、鼻出血、皮下出血など)がよく見られ、ほかにも白血病細胞の浸潤による歯肉の腫脹や時には(とくに AML‐M3 では)大規模な出血もありうる。さらに白血病が進行し、各臓器への白血病細胞の浸潤があると、各臓器が傷害あるいは腫張し圧迫されてさまざまな症状がありうる。腫瘍熱、骨痛、歯肉腫脹、肝脾腫、リンパ節腫脹、皮膚病変などや、白血病細胞が中枢神経に浸潤すると頭痛や意識障害などの様々な神経症状も起こりうる。急性リンパ性白血病ではリンパ節・肝臓・脾臓の腫大や中枢神経症状はよく見られるが、AML では多くはない。 ただし、これらの諸症状は白血病に特有の症状ではなく、これらの症状を示す疾患は多い。故に症状だけで白血病を推定することは困難である。 慢性骨髄性白血病では罹患後しばらくは慢性期と呼ばれる状態が続き、特に症状が現れず健康診断などで白血球数の異常が指摘されて初めて受診することも多く、慢性期で自覚症状が現れる場合は脾腫による腹部膨満や微熱、倦怠感の場合が多い。ただし、慢性骨髄性白血病の自然経過では数年の後必ず、移行期と呼ばれる芽球増加の中間段階を経て急性転化を起こす。急性期では芽球が著増し急性白血病と同様の状態になる。 慢性リンパ性白血病では一般に進行がゆっくりで無症状のことも多く、やはり健康診断で白血球増加を指摘されて受診することが多いが、しかし80%の患者ではリンパ節の腫脹があり(痛みはないことが多い)他人からリンパ節腫脹を指摘されて受診することもある。リンパ節の腫れ以外に自覚症状がある場合には倦怠感、脾腫による腹部膨満や寝汗、発熱、皮膚病変などが見られる。慢性リンパ性白血病の低リスク群では無症状のまま無治療でも天寿を全うすることもあるが、病期が進行してくると貧血や血小板減少が進み、細菌や真菌などの日和見感染症や自己免疫疾患を伴うこともある。 ==検査== 白血病の検査では血液検査と骨髄検査が主になる。白血病の本体は骨髄にあり、白血病の状態を正確に把握するには骨髄検査が不可欠であるが骨髄検査は患者にとって負担の多い検査であり、患者への負担が少ない血液検査も重要になる。(骨髄と血液を川に例えると水源が骨髄で川の水が血液に相当する。水源の異常は川の水質や水量に影響を与える。川の水の状態から水源に異常があることはある程度推測することは出来るが、水源の状態や何が起きているのかを正確に把握するには水源そのものを調べるしかない。しかし水源まで行くことは苦痛を伴い労力が必要なので川の水の状態をこまめに点検し、必要に応じて水源の再点検も行うことが大事になる。) 血液検査(末梢血)で芽球を明らかに認めれば白血病の可能性は高い。末梢血で芽球が認められなくとも、白血球が著増していたり、あるいは赤血球と血小板が著しく減少し非血液疾患の可能性が見つからなければ、骨髄検査が必要になる(白血病では白血球は、著増していることもあれば正常あるいは減少していることもある。10万を超えるような場合以外は白血球数だけでは白血病かどうかは分からない)。骨髄で芽球の割合が著増していたり、極端な過形成であればやはり白血病の可能性は非常に高い。 急性白血病の骨髄では芽球の増加を認め、WHO分類では骨髄の有核細胞のなかでの芽球の割合が20%以上であれば急性白血病と定義するので骨髄検査を行わないと診断を確定できない。さらに骨髄内の有核細胞中の MPO陽性比率や非特異的エステラーゼ染色や免疫学的マーカー捜索によって急性白血病中の病型の診断を確定させる。CML や CLL でも骨髄でのそれぞれの特徴的な骨髄像の確認は重要であり、CML ではフィラデルフィア染色体の捜索を行う。 また、白血病細胞の中枢神経への浸潤の可能性や脾・肝臓腫、感染症などの白血病の症状を探るための諸検査(CT検査、脳脊髄液検査、細菌培養検査等)も行われる。 急性白血病細胞は多くの場合、白血球の幼若な細胞と類似した形態を取るため、芽球あるいは芽球様細胞と呼ばれる。血液細胞は大きくは、白血球、赤血球、血小板の3種の分けられるが、白血病細胞(芽球)は赤血球や血小板と違って有核であり、また赤血球と違い溶血剤に溶けず血小板とはサイズが違うので、正常な白血球ではないが自動血球計数器で分析する血液検査の血液分画(血液細胞の分類とカウント)の中では白血球の区分に入れられる(高性能な検査機や検査技師が行う目視検査では血液細胞の種類ごとに細かく分類ができる)。 急性白血病の血液検査ではヘモグロビンや血小板数は低下していることが多く、芽球が認められることが多い。血液中の有核細胞が多数の骨髄系芽球と少数の正常な白血球だけで中間の成熟段階の細胞を欠けば(白血病裂孔)急性骨髄性白血病の可能性が高く、リンパ芽球が多数現れていれば急性リンパ性白血病の可能性が高い。芽球から成熟した白血球まで含めた白血球総数は著明に増加していることが多いが、なかには正常あるいは減少していることもある。 慢性骨髄性白血病では、血液、骨髄の両方で芽球から成熟した細胞まで白血球の著明な増加があり血小板も増加していることが多く、慢性リンパ性白血病では成熟したリンパ球が著明に増加する。 急性白血病細胞は分化能を失い幼若な形態(芽球)のまま数を増やすので、骨髄は一様な細胞で埋め尽くされる。慢性白血病では細胞は分化能を失わずに、しかし正常なコントロールを失って自律的な過剰な増殖を行うので正常な骨髄に比べて各成熟段階の白血球系細胞が顕著に多くなる(過形成)。骨髄検査では各細胞を細かく分けてカウントし、とくに芽球の割合と形態が重要になる。赤芽球は通常では芽球には含まれないが、赤白血病 (AML‐M6) では白血病細胞の半数程度は赤芽球と同様の表面抗原を発現するため、赤白血病を疑われたときのみ、芽球に赤芽球を含める。 ==疫学== 世界のどの民族でも多い急性骨髄性白血病では世界平均の罹患率は10万人あたり年間2.5‐3人といわれ日本よりやや低くなっている。若い患者もいる白血病といえども高齢者ほど罹患率は高いので高齢人口割合が高くなると白血病の罹患率も高くなる。また慢性リンパ性白血病は欧米では急性骨髄性白血病と並んで多い白血病だがアジアでは少なく、成人T細胞白血病はカリブ海諸国、アフリカ中部大西洋沿岸諸国、及び日本で見られるなど地域・民族によって白血病発症の特性は違い、白血病全体ではアジア人よりも欧米人の方が罹患率は高い傾向があるなど、白血病の罹患率は民族や年齢、性別によってその内容は異なる。なお、その病気に罹ったら罹患、症状が出たら発症で、罹患と発症は異なるものだが、急性白血病の場合は罹患率と発症率には大きな差はない。 アメリカには多様な人種/民族が暮らしているので、国ごとに違う生活環境による影響を排除して人種/民族ごとの遺伝学的な白血病の特性がある程度推定できるので例を挙げる。 ===日本の白血病発症率=== 1997年の日本の統計では全白血病の発症率は年間に男性で10万人あたり7人、女性で10万人あたり4.8人、合計で年間に人口10万人あたり約6人程度と見られている。そのうち急性白血病が10万人あたり4人程度、急性白血病では大人で80%子供で20%が急性骨髄性白血病 (AML)、大人で20%子供で80%が急性リンパ性白血病 (ALL) で全体としては2/3が急性骨髄性白血病、1/3が急性リンパ性白血病といわれている。つまり ALL では小児が多く、AMLでは大多数が成人で発症年齢中央値が60歳である。慢性骨髄性白血病の発症率は10万人あたり1‐1.5人程度、慢性リンパ性白血病は白血病全体の1‐3%程度で少ないと見られている。しかし日本では少ない慢性リンパ性白血病は欧米では全白血病の20‐30%を占めている。また、小児全体では白血病の発症率は年間10万人あたり3人程度とされるが、小児では慢性白血病は少なく5%程度で、小児の急性白血病の80%はリンパ性であり、男児にやや多い。 高齢者人口が1997年より増えた2005年の日本の統計では高齢化によって白血病も増えており、2005年国立がん研究センターの統計では日本では年間9000人が白血病に罹患し、人口10万人あたり7.1人の罹患率となっている。そのうち男性が約5300人女性が約3700人で男性の10万人あたり罹患率は8.3人、女性では5.9人となっている。2005年の日本では67万6千人が新たにがんに侵され、人口10万人あたりでは年間529人のがん罹患率なので白血病は全がんの1.3%を占めている。地域別では九州・沖縄で白血病が多いがこれは地域特性のある成人T細胞白血病(後述)の発症率の差によるものである。 ==原因== 骨髄で極めて若い造血細胞の遺伝子に1つ以上の遺伝子異常が後天的に起きて白血病幹細胞が発生し、白血病幹細胞が数千億から1兆個もの白血病細胞を生み出して骨髄を占拠するようになると発症するものと考えられている。白血病幹細胞が発生してすぐに白血病の症状が出るわけではない。1個の白血病幹細胞はゆっくりと、しかし自律的に増加して(コントロールを受けない)多数の白血病細胞を生み出していき、その白血病細胞は不死化(細胞寿命の延長)しているので、やがて骨髄を白血病細胞が占拠し満ちあふれる。骨髄を白血病細胞に占拠され正常な造血細胞が締め出されて正常な造血が阻害され、また骨髄に収まりきれず血液中にあふれ出た白血病細胞が各臓器に浸潤して白血病の諸症状が起きる。 遺伝子異常が起きる原因として放射線被曝、ベンゼンやトルエン、抗がん剤など一部の化学物質、HTLVウイルスなどは発症のリスクファクターとされているが、しかしそれらが原因と推察できる白血病はごく一部に限られ、白血病のほとんどは原因は不明である。白血病は親から子への遺伝もしないし、成人T細胞白血病をわずかな例外とすればうつることもない。ほとんどの白血病はウイルスなどの病原体によるものではないが、例外的に2種類だけウイルスが関わっているものがある。一つは日本で同定された成人T細胞白血病で、レトロウイルスの一つ HTLV‐I の感染が原因であることが明らかになっている。もう一つは急性リンパ性白血病バーキット型(FAB分類 ALL L3)の中でアフリカなどのマラリア感染地域に多い風土病型といわれるタイプでEBウイルスとの関連が指摘されている。 細かく分類すると数十種類に及ぶ白血病では判明している遺伝子異常の数は多いが、すべての白血病に共通する遺伝子異常は見つかっていなく、多数ある白血病の病型のうち慢性骨髄性白血病や急性前骨髄球性白血病などいくつかの白血病では主となる遺伝子異常は判明しているが、大半の白血病では多くの遺伝子異常は見つかっていても共通で決定的な原因となる遺伝子異常は明らかでない。 白血病を含む「がん」は細胞の増殖・分化・生存に関わる重要な制御遺伝子に何らかの(染色体の転座、重複、部分あるいは全体の欠失、染色体上の遺伝子の点状変異など)異常が起こり、がん遺伝子の発現とがん抑制遺伝子の異常・抑制などいくつかの段階を踏んでがん化すると考えられている。一般に白血病をふくめて「がん」は一段階の遺伝子異常だけでは起こらず何段階かの遺伝子異常が積み重なってがん化するため若い人では少なく、異常が積み重なる時間を十分に経た高齢者で多い。遺伝子に変化が起きる原因としては活性酸素、ウイルス、放射線、化学物質などが考えられる。 がんを起こす遺伝子異常は染色体に活性酸素、ウイルス、放射線、化学物質などが作用することによって発生するが、細胞には遺伝子に生じた異常を修復する仕組みがあり、また修復しきれない致命的な異常が起きてしまったときはその細胞は死ぬが(アポトーシス)、修復が効かずしかしアポトーシスも免れるような変異を起こすことがある。そのような遺伝子変異を起こした細胞のほとんどはキラーT細胞やナチュラルキラー (NK) 細胞のような免疫系が正常細胞との表面抗原の違いを認識して破壊するが、遺伝子異常を起こした細胞のなかにキラーT細胞や NK細胞に認識される表面抗原の発現を変化させて免疫細胞による排除を免れるものがいる。そのような遺伝子異常を積み重ねたのががん細胞であり、数を増やしてがんを発症させる。造血細胞ががん化したものが白血病である。 白血病幹細胞を含むがん細胞は多段階の遺伝子異常を経て発生するが、がん細胞ではアポトーシス制御に異常が起き、アポトーシス抵抗性を獲得する。がん細胞の80‐90%はテロメアを伸長させるテロメラーゼが発現し、あるいはテロメラーゼが発現していないがんでもテロメラーゼの代替経路があり、それによってがん幹細胞は不死化し無限の増殖能を獲得する。 ==分類== 白血病における急性、慢性は一般的に用いる意味とは違っている。造血細胞が腫瘍化して分化能を失い見た目が幼若な血液細胞の形態の白血病細胞ばかりになる急性白血病、白血病細胞が分化能を保っているもの(つまり一見まともな白血球が作られているもの)を慢性白血病と呼ぶ(ただし、慢性白血病の白血病細胞は見た目は正常な白血球に見えてもその機能には異常が生じ本来の役目は十分には果たせないものが多い)。慢性白血病が急性化することはあっても、急性白血病が慢性白血病になることはない。 また、白血病細胞の性質が骨髄系の細胞かリンパ球系の細胞かによって骨髄性白血病、リンパ性白血病に分類する。このことから主として以下の4種類に分類される。 ===急性骨髄性白血病 (acute myelogenous leukemia; AML)=== 細胞の形態・性質を重視するFAB分類では M0 から M7 までの8タイプに分けられさらにいくつかの細分類がある。FAB分類は2011年現在も有用な分類ではあるが、遺伝子変異に関する知見など新しい知見により、 WHO によって新分類が策定されている。 特異的染色体相互転座を有する急性骨髄性白血病 染色体8;21転座を有する急性骨髄性白血病(または融合遺伝子 AML1/CBF‐α‐MTG8/ETO を有する)FAB分類の8;21転座を有する M2 急性前骨髄球性白血病(染色体15;17転座または融合遺伝子 PML/RARα を有する)FAB分類の M3 骨髄中異常好酸球増多を伴う急性骨髄性白血病(染色体16番逆位または16;16転座または融合遺伝子 CBFβ/MYH 11 を有する)FAB分類の M4Eo 染色体11q23異常を有する急性骨髄性白血病:FAB分類の11q23異常を有する M5。 多血球系異形成を伴う急性骨髄性白血病 骨髄異形成症候群から転化した急性骨髄性白血病 多血系異形成を伴う初発の急性骨髄性白血病 治療に関連した急性骨髄性白血病と骨髄異形成症候群 上記以外の急性骨髄性白血病特異的染色体相互転座を有する急性骨髄性白血病 染色体8;21転座を有する急性骨髄性白血病(または融合遺伝子 AML1/CBF‐α‐MTG8/ETO を有する)FAB分類の8;21転座を有する M2 急性前骨髄球性白血病(染色体15;17転座または融合遺伝子 PML/RARα を有する)FAB分類の M3 骨髄中異常好酸球増多を伴う急性骨髄性白血病(染色体16番逆位または16;16転座または融合遺伝子 CBFβ/MYH 11 を有する)FAB分類の M4Eo 染色体11q23異常を有する急性骨髄性白血病:FAB分類の11q23異常を有する M5。染色体8;21転座を有する急性骨髄性白血病(または融合遺伝子 AML1/CBF‐α‐MTG8/ETO を有する)FAB分類の8;21転座を有する M2急性前骨髄球性白血病(染色体15;17転座または融合遺伝子 PML/RARα を有する)FAB分類の M3骨髄中異常好酸球増多を伴う急性骨髄性白血病(染色体16番逆位または16;16転座または融合遺伝子 CBFβ/MYH 11 を有する)FAB分類の M4Eo染色体11q23異常を有する急性骨髄性白血病:FAB分類の11q23異常を有する M5。多血球系異形成を伴う急性骨髄性白血病 骨髄異形成症候群から転化した急性骨髄性白血病 多血系異形成を伴う初発の急性骨髄性白血病骨髄異形成症候群から転化した急性骨髄性白血病多血系異形成を伴う初発の急性骨髄性白血病治療に関連した急性骨髄性白血病と骨髄異形成症候群上記以外の急性骨髄性白血病 ===慢性骨髄性白血病 (chronic myelogenous leukemia; CML)=== 各白血病はさらに細かく細分されるが、慢性骨髄性白血病だけはほぼ単一の疾患概念となっている(原因となる染色体異常がフィラデルフィア染色体以外にはない)。フィラデルフィア染色体のない非定型慢性骨髄性白血病は別の疾患群に分類されている。 ===急性リンパ性白血病 (acute lymphoid leukemia; ALL)=== FAB分類では L1‐L3 までの分類になっていたが、現在では ALL に関してはFAB分類は有用ではない。近年、ALL とリンパ芽球性リンパ腫は本質的には同じ疾患で、同じ細胞が主に骨髄で増殖すれば ALL、増殖の場が主にリンパ節ならリンパ腫であり、同じ疾患の別の側面を見ているだけだとして WHO分類では ALL は急性白血病とは別にしてリンパ芽球性リンパ腫とともにリンパ系悪性腫瘍として括っている。しかしながら、症候的(症状や検査所見)ではリンパ腫と ALL は相違があり、むしろ AML とともに急性白血病として括ったほうが臨床的にはなじみやすい。WHO の ALL に含まれる急性リンパ性白血病は以下である。 前駆B細胞急性リンパ芽球性白血病(これは遺伝子異常によってさらに細分される) 前駆T細胞急性リンパ芽球性白血病( 〃 ) バーキット白血病前駆B細胞急性リンパ芽球性白血病(これは遺伝子異常によってさらに細分される)前駆T細胞急性リンパ芽球性白血病( 〃 )バーキット白血病 ===慢性リンパ性白血病 (chronic lymphoid leukemia; CLL)=== 慢性リンパ性白血病の分類に関してはかなり難しい。慢性リンパ性白血病には広義の慢性リンパ性白血病と狭義の慢性リンパ性白血病の定義があるが、狭義の慢性リンパ性白血病の細胞の増殖が末梢血・骨髄で主に行われる場合は CLL だが、同じ細胞が主にリンパ節で増殖するならば小リンパ球性リンパ腫とされ、狭義の慢性リンパ性白血病と小リンパ球性リンパ腫は本質的には同一の疾患が異なる側面を見せているに過ぎないとされる。また、リンパ腫の白血化とリンパ性白血病も非常に良く似ている。そのため WHO分類ではリンパ性白血病とリンパ腫の区別は取り払い、とくにリンパ腫との境目があいまいな成熟傾向をもつリンパ系白血病は WHO分類ではリンパ増殖性疾患として括っている。慢性リンパ性白血病は広義(FAB分類)にはB細胞性(狭義の慢性リンパ性白血病、B細胞前リンパ球性白血病、ヘアリーセル白血病、リンパ腫の白血病化、形質細胞白血病)とT細胞性(T細胞顆粒リンパ球性白血病、T細胞前リンパ球性白血病、成人T細胞白血病/リンパ腫、セザリー症候群)などを含んでいる。狭義の慢性リンパ性白血病は小型の CD5+ の表面抗原を持つ成熟Bリンパ球が末梢血と骨髄で自律的に増殖するリンパ性腫瘍とされている。これらはさらに生物学的な性質から細分される。 ただし、これら患者数の多い上記4つ以外にも極めて稀な急性混合性白血病や、類縁疾患と白血病の境にあり厳密には他の疾患グループに入れられている白血病(非定型慢性骨髄性白血病、慢性好中球性白血病や慢性骨髄単球性白血病、慢性好酸球性白血病、若年性骨髄単球性白血病、慢性好塩基球性白血病、肥満細胞性白血病、他、)などもあり、それらを含めると白血病の種類はきわめて多い。 ==治療法== 現在の白血病の治療の基本は化学療法(抗がん剤)である。白血病の治療では骨髄移植が知られているが、骨髄移植や臍帯血移植などの造血幹細胞移植療法は過酷な治療であり治療そのものが死亡原因になる治療関連死も少なくはない。また寛解に入っていない非寛解期に移植をしても失敗する可能性は高い。そのために白血病の診断が付いてもいきなり移植に入ることはなく、まずは抗がん剤による治療になり、その後は経過や予後不良因子によって移植の検討がされる。 ※寛解とは白血病細胞が減少し症状がなくなった状態、完全寛解とは白血病細胞が見つからなくなった状態である。完全寛解には顕微鏡観察で白血病細胞が見つからない血液学的寛解と顕微鏡観察より鋭敏な分子学的捜索で白血病細胞が見つからなくなった分子学的完全寛解がある。症状が出て AML と診断された時点では患者の体内には10個(一兆個)もの白血病細胞があるが、血液学的完全寛解では10個(10億個)以下、分子学的完全寛解では10個(100万個)以下になる。血液細胞の数は骨髄内の有核細胞だけでも数千億個はあるので100万個の白血病細胞といえど容易に見つかるものではない。 白血病細胞を免疫不全マウス(実験用に特別に作られた免疫のないハツカネズミ)に移植する実験ではたった1個の白血病細胞が白血病を引き起こすことが証明されている。実際にはたった1個で白血病を引き起こせる細胞は白血病幹細胞であるが、病的細胞を1個でも残すと再発の可能性は否定できないので急性白血病の治療では白血病細胞をすべて殺す (total cell kill) 必要があると考えられている。ただし、慢性白血病を中心に治癒を望まずに疾病を押さえつけていくことで生命予後と QOL (Quality of Life) の改善を図っていく方法も多い。 治療の結果、最も鋭敏な検査法でも白血病細胞が見つからない完全寛解になっても白血病が再発することがあるのは、骨髄の奥深くニッチ環境で休眠状態の白血病幹細胞が抗がん剤に耐えて生き延びるためである。再発した白血病細胞は抗がん剤治療をくぐり抜けてきた細胞であるため非常に治療抵抗性が強く通常量の抗がん剤療法、放射線とも効きにくいため命を落とす確率が高く、そのため再発した白血病あるいは経験的に再発が予想されるタイプの白血病では、最も強力な治療である骨髄移植や臍帯血移植などの造血幹細胞移植が適用となることが多い。 造血幹細胞移植では致死量をはるかに超えた大量の抗がん剤と放射線によって白血病幹細胞を含めて病的細胞を一気に根こそぎ死滅させることを目指す(前処置という)。しかし、この強力な前処置によって正常な造血細胞も死滅するので患者は造血能力を完全に失い、そのままでは患者は確実に死亡する。そのために HLA型の一致した健康人の正常な造血幹細胞を移植して健康な造血システムを再建してやる必要がある。白血病の移植では大半を占める同種(家族を含めた他人からの)移植では移植した免疫細胞(主としてリンパ球)による白血病細胞への攻撃(Ggraft versus leukemia effect:GVL効果)がある。同種移植には時には死につながる大きな副作用(GVHD)もあるが、代わりに万が一前処理後にも生き残った白血病細胞があってもGVL効果によって排除される事を期待できる。ただし、それでもなおかつ再発することはある。自家移植の場合は副作用GVHDは無いもののGVL効果は期待できず、白血病細胞の混入もありえるので再発率は同種移植に比べて高く、白血病の治療としては自家移植は少ない。前処置では患者の免疫を破壊して移植した造血幹細胞が拒絶されない働きもする。 しかし、通常の移植の前処置はあまりに強力な治療であるため、体力の乏しい患者や高齢者は治療に耐えられない。そのためミニ移植という手段もある。ミニ移植では前処置の抗がん剤投与や放射線治療はあまり強力にはしない。そのために白血病幹細胞は一部は生き残る可能性は高いが、GVL効果(移植した正常な造血による免疫とドナーリンパ球輸注によるドナー由来リンパ球の免疫によって残った白血病幹細胞が根絶されること)を期待する。ただし、ミニ移植でもかなり強力な治療には違いないので、すべての患者が適応になるわけではない。ミニ移植は通常の移植(フル移植)に比べて移植前処置が軽いということであり、ミニと言っても移植の規模が小さいということではなく、移植後の副作用も小さいわけでもない。ミニ移植では前処置の主たる目的は移植された造血幹細胞が拒絶されないようにすることになる。 ===急性骨髄性白血病の治療=== 現在の急性白血病の基本の治療法はtotal cell kill (TCL) と言って、最初に抗がん剤を使用して膨大な白血病細胞を減らして骨髄に正常な造血細胞が増殖できるスペースを与え(初回寛解導入療法)、その後の休薬期間に空いた骨髄で正常な造血細胞が増えるのを待ってから、さらに間歇的に抗がん剤を使用すること(地固めおよび強化療法・維持療法)を繰り返して最終的に白血病細胞の根絶を目指す治療を基本とする。 急性骨髄性白血病では最初の治療(寛解導入療法)として アントラサイクリン系抗がん剤(ダウノルビシンあるいはイダルビシン)3日間あるいは5日間 と抗がん剤シタラビン(キロサイド)7日間の併用療法が一般的である(急性前骨髄球性白血病 (AML‐M3) は例外である、AML‐M3 については後に記す)。これでほとんどの患者では寛解にもっていける。しかし、血液学的に白血病細胞が見られなくなっても白血病の大本である白血病幹細胞は隠れて存在し、そのままでは白血病が再発するので、寛解導入療法後一定期間たち正常な造血が回復してきたら、隠れた白血病幹細胞の根絶を目指す地固め療法を行う。地固め療法では アントラサイクリン, シタラビンに加え, 白血病細胞が薬剤耐性を持たないように違う種類の抗がん剤(エトポシドやビンカアルカロイド)を加えた併用化学療法を使ったり、シタラビンの大量療法を行い、通常は1クール4週間程度の地固め療法を3‐4回繰り返し白血病細胞の根絶を目指す。強化療法で白血病細胞の根絶ができたと期待できても万が一生き残っている白血病細胞があると再発する可能性があるので強化療法終了後(退院後)にも定期的に抗がん剤投与を行い万が一の可能性を押える維持療法を行うこともある。ただし日本では強化療法を十分に行うことにより維持療法は不要とする施設も多い。完全寛解の状態が5年続けば再発の可能性は低く治癒と見なしてよいとされている。 急性白血病では、急性前骨髄球性白血病 (AML‐M3) のみ治療法はまったく異なりオールトランスレチノイン酸 (ATRA) による分化誘導療法と抗がん剤の併用療法が用いられる。オールトランスレチノイン酸を与えると、分化障害を持っていた急性前骨髄球性白血病細胞は ATRA によって強制的に分化・誘導させられ、継続的に白血病を維持する能力を失ってしまうのである。この薬剤の登場により、M3 は AML の中で最も予後良好な群となった。ATRA単剤では再発が多いので ATRA と抗がん剤アントラサイクリンを併用した寛解導入・地固め・強化維持療法が行われ多くの患者が治癒している。ATRA治療後に急性前骨髄球性白血病 (AML‐M3) が再発してしまった場合には、機序は違うが、やはり細胞を分化誘導とアポトーシスに招く亜ヒ酸が著効することが知られている。 ===急性リンパ性白血病の治療=== 急性リンパ性白血病では白血病細胞はプレドニゾロンに良く反応し数を減らし、また AML に比べて使用できる薬剤は多いが、治療の基本的な考え方は急性骨髄性白血病と同じである。 急性リンパ性白血病の寛解導入(初回の治療)ではビンクリスチン(VCR 商品名オンコビン)とプレドニゾロン(プレドニン)及びアントラサイクリン系抗がん剤の組み合わせを基本とし、それにシクロホスファミド(エンドキサン)やL‐アスパラキナーゼ(ロイナーゼ)などを加えることもある。どのプロトコール(薬剤の組み合わせや各薬剤の投薬量・投薬スケジュール)が良いかは一概には言えず、標準治療は存在しない(上に挙げた薬剤でプレドニゾロンは抗がん剤ではない。ステロイドである)。 寛解導入後に行われる地固め療法も様々なプロトコールがあるが、寛解導入とは組み合わせを変えるのが基本となる。なるべく多種類の薬剤を使用したり、シタラビン(キロサイド)大量療法などがある。ALL では白血病細胞が中枢神経を侵しやすく、予防しないと中枢神経白血病になることがあり、放射線の頭蓋照射や抗がん剤メトトレキサートの髄注あるいはシタラビンなどの大量投与などを組み合わせて予防する。 小児ALL では化学療法だけで長期生存する確率が高いので第一寛解期で移植を検討することは少ないが、しかし、成人のALLでは再発率が高いのでAMLに比べると第一寛解期での移植を検討することは多い。 移植を行わない場合、ALLでは寛解導入療法と地固め療法を数コース行って完全寛解し一旦退院した後にも、定期的に化学療法(主に経口抗がん剤やプレドニゾロン)を行う維持療法を長く(2年程度)行う。 成人の Ph+ALL(フィラデルフィア染色体(Bcr‐Abl融合遺伝子)のある ALL)は、ALL の3‐4割を占めるが、かつては Ph+ALL は白血病の中でも最も難治な型の一つであった。しかし、2001年に登場したイマチニブ(グリベック)と化学療法の併用で治療成績は向上し、移植治療と併せると50%の患者は長期生存が期待できるようになってきている。 ===慢性骨髄性白血病の治療=== 慢性骨髄性白血病については従来はインターフェロンが一部には有効ではあったが、インターフェロンが効かない場合は移植治療以外には、単に延命を計るだけの治療しかなかった。しかし、2001年分子標的薬グリベックの登場で様相が一変した。グリベックは慢性骨髄性白血病細胞において遺伝子変異によって作られた異常な Bcr‐Abl融合タンパク(自己リン酸化して常に活性化しシグナル伝達を行う基質をリン酸化し、それはさらに下流の細胞の分裂を促す細胞内シグナル伝達系を活性化させていく酵素(チロシンキナーゼ)でこのため、白血病細胞は自律的に増殖する)が異常な細胞分裂を促すシグナルを伝達するのを阻害する薬で、活動している慢性骨髄性白血病細胞にのみに的を絞って攻撃し、正常な細胞は攻撃しないので副作用の少ない画期的な抗がん剤(分子標的薬)である。慢性骨髄性白血病の Bcr‐Abl遺伝子変異にも様々なサブタイプ(変異体)があり、中にはグリベックが効かない Bcr‐Abl変異体もあるが、同様な分子標的薬が次々に開発され、Bcr‐AblタンパクT315I変異体という治療抵抗性の強いサブタイプの1つを除いては慢性期の CML はほぼ押さえ込むことができるようになっている(ただし、分子標的薬は休眠している白血病幹細胞には届かないため、病気を抑えることはできても、治癒は必ずしも望めない)。慢性骨髄性白血病では急性白血病のような休薬期間はなくグリベックなどの分子標的薬を飲み続けることになる。グリベックなどの分子標的薬に治療抵抗性のある CML、あるいは治療の過程で治療抵抗性を持ってしまった CML では造血幹細胞移植が推奨される。また付加的な遺伝子異常が起きてしまい芽球が増加し始めた移行期の治療ではグリベックの増量や他の分子標的薬に変更したり、あるいは造血幹細胞移植も検討する。さらに芽球が増えて骨髄、末梢血中の芽球が30%以上になる急性期では、芽球がリンパ系ならば ALL に準じた治療に加えて分子標的薬を投与し、芽球が骨髄系ならば AML に準じた治療に加えて分子標的薬を投与するが、急性期に移行した場合には抗がん剤も分子標的薬も有効とも限らず移植医療を検討する。 ===慢性リンパ性白血病の治療=== 狭義の慢性リンパ性白血病は進行が緩慢で無治療でも天寿を全うすることができる患者も少なくなく病期によって治療手段が違い、リンパ球の増加のみで症状がなく安定している場合は治療によって生命予後が改善されるとは限らない。そのため状態がリンパ球の増加のみであるならば無治療で経過観察を行い、病期が進み、リンパ節腫大や脾肝腫、貧血、血小板減少などが現れてくると治療の対象になる。近年では狭義の慢性リンパ性白血病には進行がゆっくりで無治療でよい群と進行が早く治療の必要な群の2群があることが判明しつつあり、遺伝子研究が進んでいる。National Cancer Institute‐sponsored Working Group のガイドラインによれば、(1)6か月以内に10%以上の体重減少、強い倦怠感、盗汗、発熱などの症状、(2)貧血や血小板減少、(3)著しい脾腫、リンパ節腫大、(4)リンパ球数が2ヶ月の間に50%あるいは6か月で2倍の増加、以上の(1)‐(4)のどれかが認められた場合に治療を開始するとされている。治療は以前にはシクロフォスファミドが使われていたが、現在ではフルダラビン単剤、もしくはフルダラビンとシクロフォスファミドの併用が標準であり、リツキシマブの併用も有効性が認められている。ただし、治癒は望めず治療の目的は病勢のコントロールと生存期間の延長を図ることである。 ===抗がん剤の副作用と対策・支持療法=== 白血病の治療では主に抗がん剤を使う。白血病の多くは症状が厳しく急を要し難治なので治療も強いものにならざるをえず、白血病細胞が薬剤耐性を持たないようにするため抗がん剤は多剤を併用することが標準である。もともと白血病特に急性白血病では正常な血液細胞が減ることが多く、感染症、貧血症状、易出血傾向などが見られるが、抗がん剤では骨髄が抑制(造血細胞が抗がん剤で減少する)されるので感染症、貧血症状、易出血傾向はさらに悪化することが多い。そのために感染症対策や、赤血球や血小板の輸血、時には顆粒球コロニー刺激因子投与などは重要になる。抗がん剤の副作用はさまざまであるが、主なものを右に挙げた。急性骨髄性白血病の治療で用いられることが多いシタラビン(Ara‐C, キロサイド)では骨髄抑制、嘔気・嘔吐、下痢、脱毛、肝・腎機能障害などに加えてシタラビンの特徴として結膜炎や脳の障害が見られることがある。シタラビン大量療法ではステロイド点眼薬が必要になる。やはり急性骨髄性白血病で用いられることが多いアントラサイクリン系の抗がん剤では骨髄抑制、嘔気・嘔吐、脱毛などの他にアントラサイクリン系特有の心臓への毒性がある。急性リンパ性白血病で使われるビンクリスチン(オンコビン)では抗がん剤に共通する副作用の他に神経毒性、ひどい便秘や腸閉塞、低ナトリウム血症などの電解質異常(抗利尿ホルモン不適切分泌症候群) などがある。シクロフォスファミド(エンドキサン)では出血性膀胱炎が特有の副作用であり、大量の水分の補給で尿を増やし濃度を薄め早く薬剤を排出させることが必要になる。また、抗がん剤そのものの作用ではないが、治療開始初期には抗がん剤によって大量の白血病細胞が死ぬために白血病細胞の内容物が血液内に一気に放出され高尿酸血症や高カリウム血症、低カルシウム血症などが起き、それによって腎不全に陥ることがある。これを腫瘍崩壊症候群(急性腫瘍融解症候群)と言い、適切な対処をしないと死に至ることもある。また、抗がん剤の代謝、排出器官である肝臓と腎臓に障害があると毒性は一層顕著になるので、臓器に障害がある際には特に注意が必要である。 患者、特に女性患者にとって切実な副作用は脱毛であるが、抗がん剤治療が終れば髪は復活する。個人差はあるものの抗がん剤を使用したその日から脱毛が始めるのではなく抗がん剤を開始してから2‐3週間程度で脱毛は始まる。脱毛は頭髪だけでなく全身の毛でも起こりうるが、抗がん剤治療を終了して1‐2か月ほどで毛髪は再生し始め、約半年ほどで再生する。再び生えてきた毛髪は抗がん剤治療の前よりは少し細く、質も変わることもあるが2年ほどで髪質も元に戻る。 ===副作用への対策・支持療法=== 感染症対策。白血病では異常な白血球が増加することはあっても正常な白血球は減少している。さらに抗がん剤の投与で正常な白血球は一層減少するために、細菌や真菌に感染しやすい。そのため、発熱があったら感染症を疑って検査を行い、病原体にあった抗生物質や抗真菌剤を投与する。また、白血球数を増加させるために造血因子製剤(顆粒球コロニー刺激因子 G‐CSF)が投与されることがある。輸血。白血病や抗がん剤の副作用のために貧血や血小板減少による出血傾向が強くなったら赤血球の輸血や血小板の輸血が行われる。吐き気。抗がん剤治療の副作用である吐き気や嘔吐は最も苦痛の強い症状の一つといわれる。吐き気や嘔吐に対しては制吐剤が使われる。腎臓障害。腎臓に障害が発生すると薬剤の排出が遅れ抗がん剤の毒性が一層顕著になる。そのため腎臓障害があるときは減量が必要になる。また、腎臓を守るために飲水や輸液と利尿剤によって速やかに抗がん剤を排出させてやることが必要なこともある。また、シクロフォスファミドでは排出された抗がん剤が膀胱に炎症を起こすため、尿中の薬剤濃度を薄め、また速やかに排出できるように特に大量の水分の投与がされる。 ===将来の治療法=== 従来の治療法は白血病細胞をすべて殺す、押えつけることを念頭においていたが、白血病幹細胞の研究の進歩及び急性前骨髄性白血病での分化誘導療法の開発によって、治療の考え方が根本的に変わろうとしている。急性前骨髄性白血病での分化誘導療法では白血病幹細胞を含めて白血病細胞を強制的に分化させてしまう方法である。殺すのではなく、白血病細胞特有の性質を取り去ってしまおうとするのである。 現在は白血病幹細胞の研究が進み、白血病細胞の中で、わずかな白血病幹細胞のみが無限の増殖能を持ち、末端の白血病細胞は有限の増殖しかできないことが分かってきている。したがって白血病幹細胞さえ取り除くことができれば、末端の白血病細胞は残しても白血病はやがて治癒するものと考えられるようになっている。ただし、現在の技術では末端の白血病細胞よりも白血病幹細胞を取り除く方が難しいが、将来的には、今の total cell kill療法に代わって、白血病幹細胞に的を絞った治療法の開発が本命になっていくと考えられている。 ==白血病幹細胞== 急性白血病は自己複製能力を持つ造血幹細胞の遺伝子が変化し、正常な分化能の喪失と不死化(細胞寿命の延長)を得るか、前駆細胞に同様の遺伝子異常+自己複製能の再獲得があって発生する白血病幹細胞を基にすると考えられている。 血液細胞の大本である造血幹細胞は極めて少数で、それ故に貴重でありその多くは造血幹細胞ニッチで支持細胞に守られながら休眠している。造血幹細胞は造血が必要なときに目覚めさせられ、2つに分裂し、1つは元の幹細胞と同じ細胞であり(自己複製)再び眠りに付くが、もう1つは分化の道をたどり始めて前駆細胞となり(分化の道をたどり始めた細胞は自己複製能力はなくなる)盛んに分裂して数を増やしながら分化・成熟して極めてたくさんの血液細胞を生み出していく。急性白血病においても幹細胞と末端の細胞の関係は同様であると考えられている。正常な造血幹細胞もしくは前駆細胞の遺伝子に変化が起こり、細胞の分化能に異常が起き、また細胞に不死化(細胞寿命の延長)をもたらすものが白血病幹細胞である。正常な造血幹細胞はニッチの構成細胞や造血因子のコントロール下にあり自律的な増殖はしないが、白血病幹細胞は造血因子の有無に関係なく増殖(自律的増殖)する。ニッチにおいて正常な造血幹細胞はほとんどが休眠期(細胞周期のG0期)にあるが、白血病幹細胞においては(休眠期に入っている細胞も少なくないが)正常な造血幹細胞に比べて細胞分裂の活動期に入っている細胞の割合は高いと考えられている。 ヒトの白血病細胞を免疫不全マウスに移植する実験では、ほとんどの白血病細胞はマウスに白血病を引き起こすことはできないが、白血病細胞の中でごく少数の CD34+CD38‐細胞の一部はマウスにヒトの白血病を引き起こすことができることがわかっている。発現している抗原が CD34‐ または CD38+ の白血病細胞では細胞は有限の増殖しかできないが、CD34+CD38‐細胞の一部では長期にわたって白血病細胞を供給し続ける。この長期にわたって白血病状態を維持することのできる少数の CD34+CD38‐白血病細胞の一部がすべての白血病細胞の大本である白血病幹細胞であると考えられている。少数の正常な造血幹細胞が自分自身を保持しながら、極めてたくさんの血液細胞を生み出すのと同じに、白血病幹細胞も自分自身を保持しながら、極めてたくさんの白血病細胞を生み出していくのである。ただし、白血病幹細胞から生み出された細胞は決して正常な血液細胞になることはできずに増殖し、正常な造血を阻害するのである。急性白血病の中には正常な造血前駆細胞が遺伝子異常とともに自己複製能を再獲得して白血病幹細胞が発生するものもあると考えられている。最新の知見では急性白血病の幹細胞はむしろ、そのほとんどは造血前駆細胞が遺伝子変異(分化障害と細胞寿命の亢進・自己複製能の再獲得)を起こしたものと考えられている。 正常な造血細胞に遺伝子変異が起こり急性白血病幹細胞は発生するがその遺伝子変異は1段階ではなく、増殖・生存能の亢進をもたらす遺伝子変異と細胞の分化障害を起こす遺伝子変異など複数の段階にわたる遺伝子異常が重なって発症すると考えられている。細胞の増殖・生存能が亢進する変異はクラスI変異と呼ばれ、細胞の増殖や生存に関わるシグナル伝達の活性化‐増殖亢進、細胞寿命の亢進などが起き、これが前面に立つと骨髄増殖性腫瘍様の自律的増殖能を亢進する。クラスII変異とされる分化障害が先行すると骨髄異形成症候群様の細胞形態の異常が起き、急性白血病ではこのクラスI・クラスIIの変異の少なくとも2段階の遺伝子変異が必要である。このクラスI変異、クラスII変異の遺伝子異常の種類はそれぞれ多様で、なおかつ複数の変異が重複することもあり、さらに付加的な遺伝子異常もあり、白血病にきわめて多数のサブタイプがありそれぞれ性質が異なっているのも、遺伝子変異の多様性のためである。 慢性白血病でも造血幹細胞に遺伝子異常がおき、正常なコントロールを脱して異常な増殖をするが、慢性白血病では細胞の分化能は失われておらず成熟した多数の細胞を生み出す。慢性白血病幹細胞が生み出す血液細胞は一見正常な細胞と同様に見えるが、やはり細かく見ると正常な細胞とは必ずしも同じではない。 慢性骨髄性白血病 (CML) において、マウスの正常な造血幹細胞に CML の原因となる「がん遺伝子」BCR‐ABL融合遺伝子を導入するとマウスは CML を発症する。しかし、造血幹細胞から分化が進み、盛んな増殖能は持つが自己複製能は失った造血細胞に BCR‐ABL融合遺伝子を導入してもマウスは CML を発症しないことも分かっている。がん遺伝子 BCR‐ABL融合遺伝子は細胞の増殖能力の自律的亢進に関わるが、細胞の自己複製能を発現するものではないことが分かる。また、慢性骨髄性白血病が付加的な遺伝子異常を起こし急性転化した場合、2/3の患者では急性骨髄性白血病、1/3の患者では急性リンパ性白血病とどちらの系列にも進むことがあることからも、慢性骨髄性白血病の最初の遺伝子変異(BCR‐ABL融合遺伝子)が幹細胞レベルで起こっていることが分かる。CML幹細胞も造血幹細胞と同じくニッチ環境にあり、その多くは細胞活動が停止した休眠期(細胞周期G0期)にあると考えられている。イマチニブなどの Bcr‐Ablタンパクを標的にした分子標的薬は休眠している細胞には届かないと考えられている。 ==白血病細胞の分裂・増殖速度== 症状が出るまでに進行した白血病では短時間で末梢血の白血球や芽球の数が増加することが多く、白血病細胞は増殖が速い印象がある。しかし実際には白血病細胞は、正常な造血細胞に比べ細胞分裂(増殖)が早いわけではなく、むしろかなり遅い。正常な造血細胞と比べ慢性白血病細胞の分裂には2‐4倍の時間が掛かり、名に反して急性白血病細胞ではさらに細胞分裂には時間が掛かるのである。しかし、正常な造血細胞の細胞分裂の開始はコントロールを受け、造血細胞が増殖を始めても細胞はやがて分化・成熟して末梢血に移り役割を果たして寿命を迎え、また、過剰に作られた細胞はコントロールを受けてアポトーシスを迎えるので、健康人の正常な血液細胞は一定の数を保つのだが、白血病細胞はコントロールを受け付けることなく無際限に増殖し、また白血病細胞は不死化(細胞寿命の延長)しているので最終的には正常な細胞を圧倒して増殖する。 このようにして白血病細胞は正常な造血細胞を圧倒して骨髄を占拠し、さらには血液(末梢血)にもあふれ出てくる段階(通常、自覚症状が明らかに現れるところまでくると)になると骨髄での白血病細胞の数はすでに膨大なものになっているので、細胞1個の分裂時間は長くとも、末梢血内では短時間の内にみるみる白血病細胞の数が増えていくようになる。健康人の末梢血内の白血球総数は80‐300億個程度であるが、AMLでは自覚症状が現れ診断が付く頃には骨髄内の白血病細胞は1kg、数にして 10個(1兆個)にもなるので、その10%が末梢血にあふれ出ただけでも、正常な末梢血内の白血球数から考えるとそれは尋常な量ではない。 ==年齢による白血病の違い== ===小児白血病=== ====小児白血病の疫学==== 小児の白血病は欧米では年間小児10万人あたり4人、アジアではやや少なく日本では年間10万人に3人程度発症する。日本の小児科では年間700‐800人ほどの小児が白血病を発症し小児科で治療を受けている。小児白血病の発症率は成人全体の発症率の半分程度であるが男児にやや多い(男女比は=1.35)のは成人と同じである。小児白血病で特徴的なのは慢性白血病が少なく(5%程度)、ほとんどが急性白血病であり、その80%は急性リンパ性白血病 (ALL) である。成人では急性骨髄性白血病 (AML) が多いので成人と小児ではリンパ性:骨髄性の割合が逆転している。小児の白血病では AML は年齢を問わず発症しているが、ALL では2‐3歳の男子に発症が多い。 ===小児白血病の特徴=== 小児の急性リンパ性白血病は60‐80%が治癒し、小児白血病全体では成人の白血病より予後が良いとされているが、1歳未満の乳児と10歳以上の年長児ではあまり予後は良くない。白血病の原因となっている遺伝子変異の種類は多いが、年齢によってよく見られる遺伝子変異の種類は異なり、2‐9歳の小児では予後の良いタイプの遺伝子変異が多く、1歳未満の乳児を除くと年齢が低いほど予後が良いタイプの白血病の割合が多くなる傾向にある。ただし、小児白血病は予後が良いものが多いといっても重篤な疾患であることにかわりはない。小児の急性リンパ性白血病の染色体・遺伝子異常では高2倍体(染色体が50本以上に増加したもの)が20‐25%、TEL‐AML1融合遺伝子が15‐20%に見られ、この2つの染色体・遺伝子異常による白血病は予後が良い。逆に予後の悪い染色体・遺伝子異常(BCR‐ABL融合遺伝子(フィラデルフィア染色体Ph+)、あるいは MLL‐AF4融合遺伝子)は5%であり、中間群は5割弱である。小児の急性骨髄性白血病では大半は予後中間群であり40‐60%が長期生存・治癒している。人数的に小児白血病の大半を占める2‐4歳児の白血病には予後の良いタイプの ALL(高2倍体あるいはTEL‐AML1融合遺伝子)が多いが、全体の中では少数である年長児の白血病では予後の良いタイプの ALL の割合は少なくなり、10歳以上の白血病はハイリスク白血病と見なされる(ただし成人の ALL より悪いということではない)。しかし、なかには、2‐4歳児の白血病でも予後不良なタイプの白血病もあるので予後不良因子の見極めは重要である。1歳未満の乳児の白血病は小児白血病の5‐10%であり、MLL‐AF4融合遺伝子のある ALL が約半数に見られ、MLL‐AF4融合遺伝子のあるALLは極めて性質が悪く移植医療が強く推奨されている。 ===小児白血病の治療=== 小児の ALL の治療では寛解導入療法・聖域療法・強化療法・維持療法の4相の治療を行う。寛解導入療法ではプレドニゾロンとビングリスチン(商品名オンコビン)の2剤で寛解を目指す。ALL では中枢神経に白血病細胞が浸潤することが多く、中枢神経白血病の予防あるいは治療のために聖域療法としてメトトレキサートの髄注や大量投与、場合によっては頭蓋放射線照射などが行われる。残存している白血病細胞の根絶を目指す強化療法では多剤投与やシタラビン(キロサイド)大量投与などを行い、万が一生き残る可能性のある白血病細胞を押えるために維持療法として 6‐MP とメトトレキサートの内服を1‐2年ほど続ける。予後の悪いタイプや万が一再発してしまったときは移植医療を検討する。小児では体が小さいので細胞数の少ない臍帯血や小柄な女性の骨髄でも移植に十分な数の造血幹細胞が得られるので成人に比べるとドナーは得やすい。小児の AML の治療は ALL ほど成績は良くないが寛解導入はシタラビン(キロサイド)とアントラサイクリン系抗がん剤を用い、強化療法・維持療法で完全寛解を目指す。AMLでは中枢神経白血病は少ないので予防的な抗がん剤の髄注を行うことは少ない。なお、上に挙げた薬剤はプレドニゾロン以外は抗がん剤である。 ===ダウン症小児白血病=== ダウン症の小児では種々の血液異常が起きることが多いことが知られているが、白血病も非ダウン症児の15倍の発症率を示す。ダウン症の新生児では一時的に白血病に似た状態を呈することが多い。そのほとんどは数か月で自然治癒するが、一部のダウン症児は急性巨核芽球性白血病 (AML‐M7) を発症する。非ダウン児に比べると3歳未満のダウン症の小児では急性巨核芽球性白血病 (AML‐M7) になることは特異的に多い。3歳以降のダウン小児では発症率も傾向も非ダウン症小児と同じになる。 ===高齢者の白血病=== 子供や若者も発症する白血病だが、やはり高齢者の方が発症率は高い。60歳の白血病発症率は年間10万人あたり5人だが、80歳では年間10万人あたり17人の発症率になる。若年者では骨髄異形成症候群 (MDS) から移行した白血病は10%未満だが高齢者では24‐56%と高い。骨髄異形成症候群 (MDS) から移行した白血病は予後が悪い。また、MDS の既往のない高齢者の白血病では若年者の白血病に比べて予後良好因子の白血病は少なく予後不良因子を持つものが多く、なおかつ、高齢者では体力や回復力が衰えておりあまり強力な治療はできないことが多く治療は困難で、未だに高齢者に向けた標準的治療はない。55歳以上の高齢者では移植はできないが(ミニ移植は適応になる)60歳以下あるいは60‐64歳程度の比較的体力があると見られる患者では一般的な標準治療が選択されることが多く、逆に抗がん剤の強度を増した治療なども試みられていて効果があったとする報告も見られる。しかしそれ以上の年齢の白血病患者では抗がん剤の効果が少ないことが多く、逆に早期の治療関連死は増える。体力のない高齢者では治療関連死が多いため、強い抗がん剤では減薬して強度を低くし、あるいはハイドレアのような弱い抗がん剤による治療、または支持療法が行われることも多いが、いずれにしても高齢者の白血病では長期生存率は高くはない。しかし近年では強度を弱めた前処置による造血幹細胞移植が普及し知見が積み重なったことで従来は適応でなかった高齢者も移植の対象になりだしている。 ==その他の白血病== 典型的な白血病4分類 (AML, ALL, CML, CLL) 以外の白血病も存在する。細かく挙げると数が多いので特異的なものを一部紹介する。 ===二次性(治療関連)白血病=== 各種の癌や血液腫瘍の治療で抗がん剤や放射線治療を行った数年後に白血病や骨髄異形成症候群を発症する可能性が高くなることが知られている。治療関連白血病(抗がん剤や放射線によってもたらされた白血病)は急性骨髄性白血病がほとんどであり tAML という。治療関連の骨髄異形成症候群は tMDS というが MDS は前白血病状態とも位置付けられ tMDS は tAML に移行することが多く、tAML/tMDS と括られることもある。非ホジキンリンパ腫を抗がん剤で治療した後10年間で tAML/tMDS を発症する患者は5‐8%ほどと見られ、抗がん剤の量や期間、あるいは放射線治療の有無は tAML/tMDS 発症の重要な因子である(当然、多いほど、期間が長いほど危険である)。tAML/tMDS は自然発生した AML や MDS に比べ治療の成績が良くはなく、予後不良であることが知られている。tAML は化学治療で寛解に持っていっても早期に再発することが多く、造血幹細胞移植を積極的に検討する必要があるが、移植の成績も自然発生した AML に比べると良くはない。抗がん剤もアルキル化薬によって引き起こされた白血病の場合は薬剤の投与から白血病発症までの期間は5‐7年程度と長く、MDS の段階を経て急性骨髄性白血病になることが多く、予後は極めて悪い。同じ抗がん剤でもトポイソメラーゼII阻害薬によって引き起こされる白血病は薬剤の投与から白血病を発症するまでの期間は2‐3年でアルキル化薬による白血病よりは予後がまだしも良いが、やはり難治である。また治療関連の CML や ALL も tAML ほど多くはないが報告されている。治療関連の CML は tAML ほどには性質は悪くはないとされている。 ===成人T細胞白血病=== ほとんどの白血病はウイルスが原因ではなくうつることもないが、成人T細胞白血病は極めて例外的な白血病である。 成人T細胞白血病(Adult T‐cell leukemia 略称 ATL)はリンパ腫の病型を示すこともあり、成人T細胞白血病/リンパ腫 (Adult T‐cell leukemia/lymphoma) とも呼ばれることがある。日本に多く、1977年に日本人によって初めて報告された疾患であり日本で最も研究・解析が進んでいる。HTLV‐1 (Human T‐cell leukemia virus type‐1) ウイルスによる白血病で、病型は急性型、慢性型、リンパ腫型、くすぶり型と症状・病態の違う発現をする。HTLV‐1ウイルスの感染および成人T細胞白血病の発症は地域差があり、世界ではカリブ海諸国、アフリカ中部大西洋沿岸諸国、及び日本でみられ、特に西南日本、とりわけ南九州と西九州で多い。HTLV‐1ウイルスに感染してもほとんどの感染者は一生のあいだ白血病を発症することはなく、HTLV‐1ウイルス感染者のうち一生涯で白血病を発症する者は数%である。日本では100万人以上のキャリア(ウイルス保持者)がいるが、成人T細胞白血病の発症は年間600‐700人程度であり、出身別では九州出身者が7割を占める。ATL は日本の本州では年間人口10万人あたり0.2‐0.3人と稀な病型だが、九州では人口10万人あたり2‐3人で急性骨髄性白血病より若干多く、白血病の病型の中で最も多い。HTLV‐1ウイルスの感染ルートは輸血、性交による感染、母乳に限られ、現在では輸血用血液は検査されており、母子感染を別にすれば HTLV‐1ウイルス感染者が近くにいても HTLV‐1ウイルス感染者と性交さえしなければうつることはない。性交で感染するため、ウイルス感染率は年齢が上がるほど上昇し、とくに女性の感染率が上昇する。母子感染は人工ミルクに切り替えることで防げる。ウイルス感染から白血病発症まで極めて長い時間(数十年)掛かり、そのため乳児のときにウイルスに感染しても成人T細胞白血病を発症するのは成人になってからであり、日本においては成人T細胞白血病患者の平均年齢は61歳である。症状はさまざまであるがリンパ節腫脹、感染症による症状、皮膚病変などが多い。急性型では白血球が増加し平均で56000/μlになり、成人T細胞白血病の白血球は核に深い切れ込みが複数入って花のような核の特徴的な形状になり、花細胞やフラワーセルという。リンパ腫型では末梢血や骨髄での白血球増加は目立たず、リンパ節腫脹を特徴とする。慢性型とくすぶり型では大人しく、緩やかな経過をたどるためにすぐには治療を行わずに経過観察することが多い。急性型とリンパ腫型ではきわめて多種類の抗がん剤とプレドニゾロンを組み合わせる治療が行われる。若い(55歳以下)患者では骨髄移植などの造血幹細胞移植も検討される。 ===ヘアリーセル白血病=== ヘアリーセル白血病 (HCL) は分化の進んだBリンパ球性の白血病/リンパ増殖疾患で、その細胞は毛を生やしたような細い突起が多数あるきわめて特徴的な外観をしている。欧米では全白血病の2‐3%を占め、それほど珍しい白血病ではないが、アジアやアフリカでは極めて稀な病型である。男性に多く、患者の平均年齢は50‐55歳で中年以降に多い。脾腫と汎血球減少が多く見られ、血球が減るだけでなく免疫を司る細胞に異常が多く、通常の感染症だけでなく非定型抗酸菌やカリニ肺炎、真菌症等の免疫不全による日和見感染が多く、感染症が死亡原因で目立つ疾患であるが、悪性度は低く進行がゆっくりで経過観察で良い症例も多い。HCL は位相差顕微鏡で見ると白血病細胞が特異な形態を取るので診断はしやすい。治療はインターフェロンやプリンアナログが著効する。日本ではヘアリーセル白血病は極めて少ないが、日本のヘアリーセル白血病には日本型 (Japanese variant) というローカルな亜型が存在し、日本のヘアリーセル白血病患者のなかでは日本型が大半を占める。ヘアリーセル白血病日本型は患者の平均年齢が64.9歳と高く、普通の HCL が男性に圧倒的に多いのに比べ、日本型は女性にやや多く、白血球は増加していることが多い。日本型はインターフェロンの効き目も良くない。 ===系統不明な白血病=== 白血病は細胞の性質によって骨髄性とリンパ性に分けられるが、まれに白血病細胞の細胞系列のはっきりしない白血病(混合性白血病、あるいは急性未分化型白血病などの系統不明な白血病)がある。系統不明な白血病には、骨髄系白血病細胞とリンパ系白血病細胞それぞれの2系統の細胞集団が同時に現れるものと、1つの細胞に骨髄系リンパ系の両方の特徴が現れるもの、白血病細胞に一切の分化傾向が見られない急性未分化型白血病などがある。AML で最も未分化な最未分化型急性骨髄性白血病 (AML‐M0) でさえ骨髄系細胞の証である MPO は光学顕微鏡では認められないが電子顕微鏡レベルでは認められ他の手段でも骨髄系と判明するが、急性未分化型白血病の芽球では骨髄系の抗原の証である MPO が電子顕微鏡レベルでも陰性であり、他の手段でも骨髄系への分化傾向は認められず、なおかつリンパ系の抗原も一切発現していない。白血病細胞の分化が幹細胞に極めて近いところで止まってしまっている細胞であると考えられる。急性未分化白血病は幹細胞白血病とも呼ばれ、その白血病細胞の性質はほとんど幹細胞と同等の性質を持っている。逆に言えば急性未分化白血病以外の白血病(ほとんどすべてになる)の細胞はわずかではあり異常でもあるがいくらかは分化したところで分化が止まった細胞であり、またその分化の方向で細胞の性質もある程度違ってくる。これら系統不明な白血病は極めて稀であり、分かっていないことが多いが一般に予後不良といわれている。 ===低形成性白血病=== 白血病は骨髄で白血病細胞(芽球)が自律的に増加する疾患であるが、一部では例外的に芽球割合は増加し異形成は見られるが絶対数は減少することもある(低形成性白血病)。骨髄での芽球の絶対数が少ない低形成性白血病は白血病の定義からすると特異な病型であり FAB分類でも WHO分類でもカテゴリーになっていない、しかし、WHO分類では言及されている。骨髄の細胞密度が20%以下で芽球が20%以上かつ CD34陽性細胞が明らかであることでこの病型は定義されている。本来白血病とは正反対の疾患である再生不良性貧血に非常に似ているが再生不良性貧血と違って芽球の割合の増加が認められる。主に高齢者の AML で見られるが、強い治療はできずシタラビン少量療法がよいとされている。 ==白血病と類縁疾患の境== 白血病自体、単一の疾患ではなく、その原因遺伝子、病態には様々なものがある。さらに白血病の類縁疾患は数多くあり、その多くでは白血病と類縁疾患の境目は明瞭ではないため、以下に簡単に類縁疾患について記す。 骨髄異形成症候群 (MDS) は、多くでは貧血を伴う造血障害と細胞の異形成を特徴とする血液疾患であるが、MDS の一部では骨髄において芽球が増加していることがある。芽球が増加しているものは前白血病状態と位置付けられ、芽球比率が20%を超えると急性白血病と認知されるようになる。この前白血病状態の MDS の細胞では遺伝子異常によって細胞の分化障害が起こっていて芽球比率の増加が生じているが、これにさらに自律的増殖能力や不死化が加わると二次性の急性骨髄性白血病になると考えられている。 悪性リンパ腫は白血球の1種リンパ球が悪性腫瘍化してリンパ組織での腫瘍的異常増加をきたす疾患だが、リンパ系白血球が腫瘍化した細胞が骨髄で増加するリンパ系白血病の細胞と悪性リンパ腫の細胞に免疫学的形質や遺伝子異常に本質的な差はないとされている。悪性リンパ腫で腫瘍細胞が末梢血中に出現しさらに骨髄に腫瘍細胞が移動してそこで増殖を始めると、白血病の定義を満たしてしまい、白血病と言えてしまうこととなる。悪性リンパ腫と白血病が区別できなくなると非常に困るので、そのような病態を悪性リンパ腫の白血化と呼ぶこととなった。しかし、リンパ球にはリンパ節という増殖を行える器官があるため、非常に病態の解釈が難しい。骨髄でリンパ系の白血病細胞が発生して、白血病となり後にリンパ節に浸潤したのか、リンパ節で細胞に異常が起こりそれが白血化し骨髄浸潤をしたのか区別できなくなるのである。例えば慢性リンパ性白血病と小リンパ球性リンパ腫の細胞は本質的に同じものとされ、同じように急性リンパ性白血病である前駆B細胞リンパ芽球性白血病 (B‐ALL) と前駆B細胞リンパ芽球性リンパ腫 (B‐LBL) の細胞にも本質的な差はない。したがって免疫学的形質や遺伝子異常に基づく分類を重視する WHO ではリンパ性白血病とリンパ腫はリンパ系腫瘍としてくくり、リンパ系腫瘍のなかで腫瘍細胞の増殖の中心が骨髄にあり骨髄での芽球比率が25%以上なら急性リンパ性白血病、25%以下で増殖が主にリンパ節で行われるなら悪性リンパ腫とするに過ぎず、WHO はリンパ系腫瘍ではリンパ系白血病と悪性リンパ腫をあえて区別すべきものとはしていない。しかしながら症候的にはリンパ系白血病とリンパ腫では明確な差があり、リンパ性白血病と悪性リンパ腫を一括りにすることは臨床的には必ずしも受け入れられているわけではなく、むしろ急性リンパ性白血病は急性骨髄性白血病とともに急性白血病で括ったほうが臨床的にはなじみやすい。 多発性骨髄腫という骨髄でリンパ球系細胞の形質細胞が腫瘍化して増殖するのにもかかわらず、臨床症状からリンパ腫とも白血病とも区別されている疾患もある。正常であれば炎症の局所やリンパ節・扁桃・脾臓といったいわゆるリンパ組織に分布するBリンパ球が分化した形質細胞が腫瘍化したものであるが、不思議なことにリンパ組織ではなく骨髄および骨に積極的に浸潤する。リンパ腫という段階が生じているのかも不明である。 また、慢性骨髄性白血病などと同じ骨髄増殖性疾患に属する真性多血症や本態性血小板血症、骨髄線維症も主として増加している血球は白血球以外であるが、その本質は慢性骨髄性白血病などと同じく造血幹細胞レベルでの遺伝子異常による細胞の増殖能の自律的向上であると考えられ、一般的には白血病とはされないこれらも、広義には白血病の類として扱われることもある。 ==放射線と白血病== ===原子爆弾と白血病=== 広島大学原爆放射線医科学研究所・鎌田七男らの1978年の研究 (Kamada N,et al:Blood 51:843,1978) によると、造血幹細胞に生じた染色体の突然変異(フィラデルフィア染色体またはbcr‐abl遺伝子変異)によって1個の慢性骨髄性白血病の幹細胞が発生し、たった一つ発生した白血病幹細胞が6年後には、末梢血での白血球数が1万個/μl(基準値は3500‐9000程度)になるまで数を増やす。血液分画では好塩基球が増加し、好中球と、時には好酸球も増加する。白血球数が2万個/μlを超えると芽球も出現して慢性骨髄性白血病の状態が明白になる。 1945年、広島と長崎が原子爆弾で被爆したが、その放射線被曝者では5年後の1950年から10年後の1955年にかけて慢性骨髄性白血病の発生頻度が著明に増加した。被曝した放射線量が0.5Gy以上の放射線被曝者では通常の数十倍の慢性骨髄性白血病の発生が記録され、原爆の被爆から5‐10年後に発症はピークを迎え、その後には発症率は急激に低下し通常レベルになっている。 放射線影響研究所の調査では、全白血病では原爆被爆後6‐8年の間が発症率のピークとされる。放射線影響研究所の詳細なデータは1950年の国勢調査から始まり、それ以前には推計もはいるが被爆2年後から白血病は増え始めていると考えられている。放射線影響研究所が被爆者約5万人を1950年‐2000年までの50年間観察したところ、被爆者5万人×50年間の中で204人が白血病で死亡し、それは自然な白血病死亡率とくらべて46%の過剰発生であった。当然、被曝線量が多いほど白血病での死亡率は高く、1Gy以上の被曝者では約2700人中56人が放射線が原因の白血病で亡くなったと考えられ、0.005‐0.1Gyの被曝者約3万人では白血病での死亡は69人、その中で放射線被曝していなくても発症・死亡したであろう自然発生率を勘案して除去した過剰発生は4人とされている。被曝者の白血病は AML, ALL, CML で顕著であり、CLL は目立たない(放射線被曝量の単位については脚注を参照のこと)。 ===原爆による放射線被曝による白血病とがんの発生の違い=== 広島・長崎の被爆者の白血病と白血病以外の癌・悪性腫瘍では過剰発生の傾向は異なる。前述のように放射線影響研究所の調査では慢性白血病と急性白血病の合計である全白血病では被爆から6‐8年後がピークでその後は緩やかに発症率は下がっているが、白血病以外のがんの過剰発生は被爆後10年を経て目立つようになりその後も年々過剰発生は増え2010年現在でも過剰発生の状況は続いている。一つの理由として白血病では染色体の転座や逆位などでキメラ遺伝子が形成されて発生するものが多い。癌でも白血病でも一つの遺伝子異常だけではがん化はせず何段階かの遺伝子異常が重なってがん化するが(CML は例外である)白血病に多いキメラ遺伝子のような大きな遺伝子異常ではがん化に必要なステップは少なく、放射線被曝によって最初の大きな遺伝子異常(キメラ遺伝子)がおきると白血病発生に必要な残りの遺伝子異常は少なく、遺伝子異常が積み重なるために必要な時間は少ない。しかし、白血病以外のがんでは小さな遺伝子変異が数多く積み重なって発生するものが多いので放射線被曝によって遺伝子異常の First hit が生じてもそれに多くの遺伝子異常が積み重なる時間が必要なため、放射線被曝からがん発生まで長い時間が必要になると考えられる。 ===チェルノブイリ原発事故と白血病=== 国連によって設置された原子放射線の影響に関する国連科学委員会( United Nations Scientific Committee on the Effects of Atomic Radiation:略称 UNSCEAR)の2008年の報告では、チェルノブイリ原発事故において放射線汚染除去作業者(数十万人)のなかでの高線量被曝者では白血病発生が見られるとされている。また、チェルノブイリ汚染地域の一般住民では1986年の事故発生日から数週間以内に生産された牛乳を飲んだ子供たちに甲状腺がんが高率に発生していることは判明しているが、白血病に関してはチェルノブイリ汚染地域の一般住民に明らかな白血病発症率の増加の証拠は無いとしている。また、同じ報告書で原子放射線の影響に関する国連科学委員会は(高レベル被曝した作業員と1986年にチェルノブイリ地域の牛乳を飲んだ小児・青少年を除く)地域一般住民は放射線被曝による健康被害を心配する必要はないと結論付けている。 ===マヤーク核兵器生産炉周辺での白血病増加=== チェルノブイリ原発事故では作業員を除く地域住民には明らかな白血病の増加の証拠は見つかっていないが、1956年に停止されたロシアのマヤーク核兵器生産炉では作業員だけでなく周辺住民にも白血病の増加が観測されている。ロシアのマヤーク核兵器生産炉では核兵器用のプルトニウムを生産していたが、プルトニウム生産過程で生じたストロンチウム90が周辺環境に放出されている。チェルノブイリで主に問題になった放射性ヨウ素は甲状腺に溜まるために甲状腺がんが増加したが、マヤーク核兵器生産炉で放出されたストロンチウム90はカルシウムと化学的性質が類似するため骨に集まる性質があるので白血病の増加は予想されていた。マヤーク核兵器生産炉の作業員および周辺住民では1953‐2005年の間に93人が白血病になり、明らかに放射線被曝量が多いほど白血病リスクは高くなる。ストロンチウム90による過剰相対リスクERRは4.9/Gyで、つまり被曝量1Gyあたり白血病のリスクが5.9倍になっている。 (マヤーク核兵器生産炉事故についてはウラル核惨事を参照のこと) ===その他の放射線被曝と白血病=== 医療行為でも強直性脊椎炎患者で脊椎に放射線照射を受けた者、子宮頸癌に対しての放射線治療で骨髄に放射線を浴びた者では数年後に慢性骨髄性白血病の発症率が高くなっていることが報告されている。ただし、これらの放射線被曝量は日常生活ではありえない放射線量であり、これらの放射線が原因と思われる慢性骨髄性白血病は慢性骨髄性白血病患者全体の中では例外と言えるほど少なく、大半の慢性骨髄性白血病の発生原因は不明である。 航空会社国際線のパイロットや客室乗務員は地上に暮らす一般人よりも多くの自然放射線を浴びている。地上の一般人に比べ特に中性子線の被曝量が多い。その被曝量は年に3‐6mSv程度と推定されている。彼らの白血病リスクは増大しているとの報告もあるが、しかし症例が少なすぎて被曝線量と発症リスクの相関を示せるほどはっきりした事は判明していない(白血病は現役世代では10万人あたり年に数人程度の発症率である)。また第7染色体異常の発生例も報告されているが、やはり症例が少なすぎて被曝線量と発症リスクの相関は明らかではない。 アメリカ医学会での1944年と1950年の報告では放射線科医はそれ以外の診療科の医師に比べ白血病死亡率は10倍高く、イギリスでも放射線防御の意識が低かった1921年以前の放射線科医ではガンによる死亡率は明らかに高いことが報告されている。ただし、放射線防護対策が確立した1950年以降では放射線科医の白血病発症が多いと言うデータは無くなっている。 ==白血病患者への支援== 医療制度は各国でさまざまであるが、移植医療を支える骨髄バンクや臍帯血バンクは先進国を中心に世界約50カ国にあり、2012年現在世界的な骨髄ドナー検索システム (Bone Marrow Donors Worldwide :BMDW) が構築され、骨髄に関しては48カ国66の骨髄バンクが参加し登録ドナーは1875万人、臍帯血でも29カ国から43の臍帯血バンクが BMDW に参加し、登録された臍帯血のストックは51万本になっている。BMDWで検索された骨髄血や臍帯血の提供や品質管理などで国際間で協力する組織としては The World Marrow Donor Association (WMDA) があり、やや古いデータであるが2004年の世界の骨髄移植ではその1/3は国境を超えて提供されたものである。 ===日本における白血病患者に対する支援=== 白血病は厳しく難しい病気ではあるが、治療費助成のある特定疾患(いわゆる難病)には指定されていない。しかし18歳未満の小児白血病には小児慢性特定疾患治療研究事業によって保健福祉事務所あるいは保健所に必要書類を添えて申請すれば自治体による助成を受けられるので小児白血病の治療費の患者負担は大きくはない。さらに治療費の助成だけでなく小児白血病では所得制限などの条件があるが特別児童扶養手当や財団法人がんの子供を守る会 などの経済的支援を得られることもあり、あるいは企業によるCSR活動などもある。なので小児白血病では各種の制度を活用すれば保護者の経済的な負担は大きくはない。 成人の白血病の治療費は高額になるが日本の健康保険では高額療養費支給制度を利用できる。移植が必要な患者には骨髄バンクや各地に設けられた臍帯血バンクなどの準公的な組織が患者の移植の支援のために活動している。2011年末時点では骨髄バンクでは約40万人のドナー登録があり、臍帯血バンクでは3万本のストックがある。白血病患者が日本骨髄バンクを利用する際の患者負担金については前年度の所得税額が一定額以下の場合には一部もしくは全額が免除される仕組みもある。日本人は民族的に遺伝学的な均一性が高く、そのために日本人同士でHLA型が一致する確率が高く、2004年の数字では世界で750万人の骨髄ドナーがいる中で日本人の骨髄ドナーは18万6千人と少数であったにもかかわらず、2004年時点で移植の総件数でも、人口当たりの移植数でも日本は世界第2位であった(1位はアメリカである)。しかし、登録ドナーが40万人を超えた2012年現在でもすべての患者にドナーが見つかるわけではない。 ==動物の白血病== 白血病は人間ばかりでなく多くの哺乳類・鳥類が罹る。家畜やペットでは牛、馬、羊、山羊、豚、猫、犬、鶏などで見られる。家畜・ペットではリンパ性白血病が多くウイルス(レトロウイルス)感染によるものが多い。犬では人間と同じく AML, ALL, まれに CML, CLL が見られ、その多くでは原因は不明である。猫では AML の2/3、ALL のほとんどが猫白血病ウイルス (FeLV) によるものであり、MDS やリンパ腫も多く、それらも FeLV が原因である。犬でも猫でも人間と同様に化学療法(抗がん剤)治療が行われるが、ほとんどは4‐6ヶ月以内に死亡する。牛にも白血病はあり成牛型と散発型があり、成牛型はウイルスによるものであり、散発型は原因不明である。成牛型は牛白血病ウイルス (BLV) によるもので潜伏期間が長く成牛になってから発症する。牛ではウイルス蔓延を防ぐために病牛は治療はせず数週で死亡する。馬ではリンパ腫は散発的に見られるものの白血病は少ない。犬・猫では白血病やリンパ腫の治療に骨髄移植も試みられている。犬の骨髄移植ではGVHDが重く死亡例が多い。猫ではシクロスポリンなどの免疫抑制を行うと成功率は高く GVHD も軽めである。 =エナメル質= エナメル質(エナメルしつ、enamel)または琺瑯質(ほうろうしつ)は、歯の歯冠の最表層にある、生体で最も硬い硬組織である。モース硬度は6 ‐ 7を示す。このエナメル質と、象牙質、セメント質、歯髄で歯は構成される。通常目に見える部分がこのエナメル質であり、象牙質に支えられている。象牙質の支持がなければエナメル質は硬くてもろいため、容易に割れてしまう。重量比で96%は無機質で残りが水と有機質であり、色は明黄色からネズミ色がかった白色である。エナメル質の下に象牙質がない端の部分では、青みがかって見えることもある。半透明であるので、エナメル質の下にある象牙質や歯科修復材料の色が歯の外見に強く影響を与える。厚さは部位により異なり、多くの場合、切端部、咬合部で最も厚く(2.5mm以上)歯頸部(エナメル‐セメント境)で最も薄い。 ==構造== エナメル質の基本構造はエナメル小柱と呼ばれている。エナメル小柱は組織化されたパターンの中に多くの水酸燐灰石の結晶が入っている。断面は、頭を外側に、下を内側においた鍵穴のように見える。 エナメル小柱の中の水酸燐灰石の結晶の配置は非常に複雑となっている。エナメル質を作るエナメル芽細胞とトームス突起(英語: Tomes’ process) の両方が結晶のパターンに影響を与える。エナメル小柱頭部の結晶は小柱の長軸に完全に平行となっているが、尾部では方向が長軸とややずれる。 エナメル小柱の配置は内部構造よりも理解しやすい。エナメル小柱は歯に沿って列を作り、象牙質に垂直に配置されている。永久歯では、エナメル‐セメント境付近のエナメル小柱はわずかに歯根の方に傾く。象牙質の支持を受けないエナメル質は破折しやすいので、歯の保存修復においてエナメル質の走行を理解することは重要である。 エナメル小柱の周りはエナメル小柱間質として知られている。エナメル小柱間質はエナメル小柱と同じ構成を持っているが、結晶の方向が異なるので、組織学的に区別される。エナメル小柱間質とエナメル小柱の結晶が合う境界は、エナメル小柱鞘と呼ばれる。 顕微鏡でエナメル質の断面を見たときに見える縞をレチウス条と呼ぶ。トームス突起の直径の変化によって起こるこれらの縞は、木の年輪のようにエナメル質の成長を示す。レチウス条が表層に出た所に、周波条(英語: Perikymata) と呼ばれる浅い溝が見える。新産線は他の縞より暗く出生前後の境界を示す。また、反射光を用いて顕微鏡でエナメル質を見た際に現れる明帯と暗帯が交互に並ぶ領域を、ハンター・シュレーゲル条(英語: Hunter‐Schreger band) と呼ぶ。これは小柱の走行の変化により起こる光学的現象であり、光の方向が変わると明帯と暗帯は逆転する。 ===境界部=== 歯頸部にあるエナメル質とセメント質の境界をエナメル‐セメント境(セメント‐エナメル境とも)と呼び、これは解剖学的歯頸線と一致する。歯頸線は唇(頬)側および舌(口蓋)側では歯根側に凸弯し、近心側および遠心側では歯冠側に凸弯する。拡大して見た場合、滑らかな曲線ではなく、鋸歯のような複雑な形を示す。境界部でエナメル質とセメント質は約30%が移行的に連続するが、約60%はセメント質がエナメル質を覆い、約10%が連続せずに象牙質が露出している。エナメル質を覆っている部分のセメント質はセメント舌と呼ぶ。また、大臼歯では、歯頸部から歯根部にかけて球状のエナメル質塊が存在することがあり、これをエナメル滴と呼ぶ。 エナメル質と象牙質の境界をエナメル象牙境と呼ぶ。横断研磨標本において、同部を調べると、一定の間隔でエナメル小柱が蛇行、ねじれ弯曲などのために暗くなっている部分があり、これを エナメル叢(英語: Enamel tufts) と、エナメル象牙境からエナメル質表層まで向かう薄板状の構造を エナメル葉 と、象牙質側からの紡錘状の侵入物を エナメル紡錘 と呼び、これらの部分は石灰化度が低く有機物が多い。 ==構成成分== 重量比で96%は無機質で残りが水と有機質である。 無機質は大部分がリン酸カルシウムの結晶である。他に、炭酸塩やクエン酸塩(英語: Citrate)、乳酸塩のほか、フッ素、ナトリウム、クロム、マグネシウム、亜鉛、鉛、銅、鉄、スズ、コバルト、ストロンチウム、マンガン、アルミニウム、ケイ素、銀など、約40種類の微少元素が含まれる。微少元素の構成割合はエナメル質の深さ、加齢、地理的条件によって異なる。無機質が多いため、エナメル質は硬いが脆い。エナメル質と比較すると、象牙質は結晶化の程度が低く、硬さは低いが、脆さも低く、エナメル質を支えるのに必要であり、象牙質の支えのないエナメル質は容易に破折する。無機質の割合が高いために、組織学的研究のために標本を作る場合、通常の脱灰法では融解して形を留めず、光線顕微鏡の標本は通常切削標本である。 有機質について特徴的なこととして、象牙質や骨と異なり、エナメル質はコラーゲンを含まず、代わりにアメロゲニン、エナメリンなどのエナメルタンパクが含まれていることが挙げられる。これらの蛋白質の役割は完全には判明していないが、いくつかの機能の一つとして、エナメル質形成期の構造の形成を助けるという機能があると考えられており、アメロゲニン遺伝子の異常がエナメル質形成不全症を引き起こすことが分かっている。他に、脂質が有機質の半分を占めるほか、クエン酸・乳酸なども含まれている。 ==物性== エナメル質はモース硬度6 ‐ 7、ヌープ硬度300 ‐ 451、ビッカース硬さ408と高い硬度を示す。部位により硬度はかわり、切縁・咬頭側、表層側の硬度が高い。この代わりに脆い。 ==発生== エナメル質の形成は歯の発生の一過程である。発生途上の歯を顕微鏡で見たとき、エナメル器、歯堤(英語: Dental lamina)、歯乳頭などとして知られる細胞の集まりを確認することができる。一般的に歯の発生段階は、蕾状期、帽状期、鐘状期となる。エナメル質の形成は鐘状期の後期から行われる。 エナメル器より起こる内エナメル上皮がエナメル芽細胞となりこれが象牙質の形成開始後にエナメル質の形成を始める。人間のエナメル質は妊娠三 ‐ 四月の時から、切端、咬頭の側から順に、一日あたり4マイクロメートルずつ成長していく。エナメル芽細胞は口腔の上皮が落ち込んでできたものであり、このため、エナメル質は歯の他の組織(中胚葉性)と異なり、外胚葉性のものである。 全ての人間のプロセス同様、エナメル質の生成も複雑であるが、一般的に2つの段階に分けられる。分泌相と呼ばれる第一段階は、タンパク質や部分的に石灰化した有機質を含んでおり、有機質の分泌と成長の進行を行っている。成熟相と呼ばれる第二段階は厚さの成長が止まってから完全に成熟までの期間で、主にエナメル質の石灰化が進行する。 分泌相ではエナメル芽細胞は極性を持つ円柱状の細胞である。この細胞の粗面小胞体では、エナメルタンパクが周囲に産出し、エナメル質基質がアルカリフォスファターゼ酵素により部分的に石灰化するのに寄与している 。 この第一層が形成されると、エナメル芽細胞は象牙質から離れ、先端部にトームス突起が形成される。エナメル質の形成は隣接したエナメル芽細胞で続けられ、その結果トームス突起を保護するように、壁に囲まれたくぼみができる。また、トームス突起の縁でもエナメル質が形成され、くぼみの中にエナメル母体が析出する。 くぼみのエナメル母体は棒状になり、くぼみを囲む芽細胞の壁も最終的に棒同士を繋ぐエナメルになる。棒状のエナメル質と棒同士を繋ぐエナメル質は、カルシウム結晶の方向だけが異なる。 成熟相では、エナメル芽細胞がエナメルの形成に必要な物質を運ぶ。組織学的にいって最も注目すべきは、エナメル芽細胞が縦に筋を作り始めるという点である。これによって、エナメル芽細胞が分泌期のような増殖をやめて運搬機能を発揮し始めたということが分かる。ここで運搬される物質は、石灰化の最終段階に使われるタンパク質がほとんどである。主なものにアメロゲニン、アメロブラスチン、エナメリン、タフテリンなどがある。成熟期において、アメロゲニンとアメロブラスチンは使用された後に除去され、エナメリンとタフテリンだけが残る。 成熟期が終わり、歯が口腔内に萌出する前にエナメル芽細胞はなくなる。このため、エナメル質は体の多くの組織と異なり、う蝕や外傷などによるエナメル質の欠損の後、再生する手段がない。ただし、石灰化自体は唾液中に存在する過飽和のカルシウムとリン酸により萌出後も進行する。 エナメル質は非病理学的な過程に影響されることがある。喫煙やコーヒー、茶などに長期的に触れることにより変色する。エナメル質のみでなく象牙質もであるが、硬化していく。その結果、年をとるほど、歯の色が暗くなっていく。さらに、流動体の浸透性が低下し、酸に解けにくくなり、水分の含有量が減少する。 ===乳歯と永久歯におけるエナメル質の違い=== 乳歯、永久歯ともにエナメル質の結晶はハイドロキシアパタイト Ca10(PO4)6(OH)2 を最小単位として形成されるが、乳歯のエナメル質は永久歯のエナメル質と比較して結晶粒子が小さく、厚さが1/2でほぼ全体での厚さが等しく1 ‐ 2mmである。また含水量が多く(乳歯2.8%、永久歯2.3%)、硬度が低く、化学反応性が大きく、脱灰の影響を受けてのう蝕やフッ化物による歯質強化を受けやすい。 ==破壊== エナメル質は無機質が多く、人体で最も硬い組織であるが、いくつかの理由で失われる。 一つは脱灰であり、その最も大きな理由は砂糖の摂取によるう蝕である。 口腔内には多くの種類の細菌(口腔常在菌)が多数含まれており、砂糖の主成分であるスクロースが口腔内に広がった際、一部の口腔常在菌はスクロースに働き、乳酸を産生する。この乳酸が口腔内のpH を低下させることでう蝕が進行する。(詳細についてはう蝕の項目を参照) う蝕が進行し、エナメル質が、細菌の進入を防ぐことができなくなれば、エナメル質の下の象牙質も同様になる。象牙質はう蝕の進行がエナメル質より早く、健全なエナメル質を支持する象牙質がう蝕によって破壊された場合、エナメル質はその脆性のため、容易に歯から破折してしまう。 う蝕のみでなく、吐瀉物に含まれる酸や、工場で空気中に含まれる酸などにより脱灰される場合もあり、これを酸蝕症と呼ぶ。 脱灰で失われるのみでなく、物理的な力により破壊されることも多い。この中で最も知られるものは、歯ぎしり、噛みしめなどによる、エナメル質の破壊であり、非常に早く進行する。咬耗によるエナメル質の減少は正常であれば年間8マイクロメートルである。一般に誤解されていることとして、エナメル質がすりへる主要な原因は咀嚼によるものだということがある。しかし、現実には、歯は咀嚼中滅多に触れ合わない。さらに、正常な咬合であれば、歯根膜や咬合の配置により、生理学的に補われる。本当に破壊的な力は、歯ぎしりのような動作である。これは咬耗症として、エナメル質に復元不可能な損害をもたらす。このほかの破壊の原因として、摩耗症(英語: Abrasion (dental))(歯ブラシのような外的な力による物)、アブフラクション、外傷、中心結節などの歯の形態異常のほか、矯正治療によるブラケット除去時の亀裂などもある。破折の最も軽い状態である亀裂については、加齢とともに増加し、40歳代以降では95%に見られるという報告や、50歳代以降では全ての歯に見られたとの報告がある。 なお、エナメル質を形成するエナメル芽細胞は、歯の萌出時にはすでに存在しないため、一度失われたエナメル質が再生することはない。また、エナメル質には神経が存在しないため、破壊がエナメル質のみに限局している場合、疼痛を感じることもない。 ===予防=== エナメル質の脱灰の影響や毎日の砂糖の摂取への脅威は大きく、う蝕を予防することは歯の健康を維持し、良質な口腔衛生を保つ大切な方法である。ほとんどの国では、歯ブラシを一般的に使用し、エナメル質上の細菌や食物残渣を減らすことでう蝕を予防している。このほか、デンタルフロスなどを使用することもある。 フッ化物がエナメル質に取り込まれ、耐酸性が向上することでう蝕への抵抗を示す直接的な作用と、う蝕原因菌による解糖過程を抑制することで酸の産生を減少させ、脱灰エナメル質を修復し再石灰化する間接的な作用によりう蝕を予防することが分かっている。このため、水道水フッ化物添加、食塩へのフッ化物濃度調整、フッ化物配合歯磨剤、フッ化物歯面塗布、フッ化物洗口など、多くの手段が用いられる。このうち、特に水道水フッ化物添加は多くの面で非常に有効であるが、これについては、反対する人もあり、議論がなされている。 歯ぎしり、噛みしめ等によるエナメル質の破壊を防ぐ方法としては、マウスピースや薬物療法などが知られる。 また、近年では歯科用レーザーである Nd:YAGレーザーや炭酸ガスレーザー、Er:YAGレーザーとフッ化物歯面塗布を併用し、エナメル質の強化や耐酸性の強化を行う研究が進められている。 ===診断=== エナメル質の状態を診査し、治療の必要性を判断することは重要である。エナメル質のう蝕や物理的な力による破壊に対する診断に最も一般的な方法は視診であるが、確実な診断のために、問診・医療面接による把握や探針やデンタルフロスを用いた触診、咬翼法やオルソパントモグラフ(英語: Orthopantomogram)、歯科用コーンビームCTによるX線診断、光ファイバーを用いた透照診、ダイアグノデントなどのレーザーによる蛍光診断や電気抵抗値を測定する電気診などの方法が用いられる。 ===電気診=== 健全なエナメル質の電気抵抗は600kΩ以上であるが、エナメル質のう蝕が進行するに連れて電気抵抗が低下し、象牙質まで達すると250kΩ以下(小児では280kΩ以下)となる。この電気抵抗をカリエスメーターを使用して測定することで診断する。 ===レーザーによる蛍光診断=== ダイアグノデントやそれを改良したダイアグノデントペンは、波長655nmの半導体レーザーを利用してエナメル質などの歯質の蛍光強度を非侵襲的に測定することで健全なエナメル質とう蝕エナメル質を区別することができる。特にダイアグノデントペンは隣接面う蝕用のチップを持つことから同部のう蝕の検出に有効であるとされており、X線の被曝を可能な限り抑えたい小児歯科や、在宅診療や集団歯科検診などの幅広い分野での診断への利用が期待されている。 ==エナメル質への歯科処置== エナメル質を形成するエナメル芽細胞は、歯の萌出時にはすでに存在しないため、一度失われたエナメル質が再生することはない。このため、う蝕等でエナメル質を失った場合、修復治療を行う必要がある。(保存修復、コンポジットレジン修復法なども参照。) ===エナメル質の除去=== 歯の修復治療の大部分ではエナメル質の除去を行う。エナメル質のう蝕部位の除去のほか、象牙質や歯髄への通路を確保するため、またう蝕部位の除去後の修復、補綴のためにエナメル質の切削を行う。(保存修復・歯内治療・補綴治療なども参照。)また、脱灰が発生する前にエナメル質を除去することもある。歯の咬合面の溝の健康なエナメル質を除去し、それを歯科材料に取り替えるシーラントもある。これは将来のう蝕から保護するための予防処置で、7年にわたり、う蝕のリスクを55%低下させる。特に治療の必要がなくても、審美的な理由でエナメル質を除去することがある。歯の外見を良くするため、クラウンやラミネートベニヤを入れるためには歯を削る必要がある。象牙質に支持されていないエナメル質を残すと、エナメル質の破折を招くことがあるので、エナメル質の走行を覚え、それに基づきエナメル質を切削することが重要である。 ===エッチング=== 修復材料であるレジンを歯質に接着させるため、Buonocore は酸により歯を溶解させるエッチングを1955年に開発した。歯科修復物を歯に接着させる時、頻繁に使われる。これはコンポジットレジンやシーラントのようないくつかの修復物を長期的に持たせるために重要である。エナメル質中の無機質を溶解させ、エナメル質表面から約10マイクロメートルを除去し、5から50マイクロメートルの多孔質層を作る。この多孔質層にレジンが侵入し、硬化することで接着する。 エナメルに対するエッチングの影響は使用する酸の量、タイプおよびエナメルの現状などにより変化する。 エッチングによる形成には3パターンある。タイプ1はエナメル小柱が溶解されたパターン、タイプ2はエナメル小柱間質が溶解されたパターン、タイプ3はエナメル小柱があった証拠がなにも残っていないパターンである。タイプ1が最も好ましい物であり、タイプ3は最低である。これらのパターンに別れる理由はまだはっきりとは分かっていないが、エナメル質中の結晶の走行の違いによる物ではないかという説が最も一般的である。 ===エナメルボンドレジン=== エッチングによって作られた多孔質層であるが、従来型マクロフィラーレジンを填塞する際には、フィラーの大きさが小柱の大きさより大きいために同部に入ることができず十分な接着力を行えない可能性があり、これに対応するために前処理としてエッチングされたエナメル質に塗布させる液状のレジンが開発された。 ===歯のホワイトニング=== 着色や変色したエナメル質に対して、機械的動作や化学的方法を用い、歯を明るくするのが、ホワイトニングである。(詳細はホワイトニングの項目参照) 機械的動作としては、専門的機械的歯面清掃があるほか、歯磨剤はエナメル質に付着した汚れを緩やかに研磨する。有効な方法だが、歯自体の色を落とすことができない。 化学的な方法は、エナメルや象牙質を酸化させることで歯の色を本質的に変える。歯科診療所にて行われるオフィスブリーチと患者が自身で行うホームブリーチがある。過酸化水素、過酸化尿素、過ホウ酸ナトリウムなどの酸化剤が一般的に用いられる。pH を下げることは、脱灰によりう蝕となる危険がある。漂白後も、再石灰化環境にあるエナメル質は周囲の無機質イオンを取り込む可能性も示唆されているが、薬品を選ぶ際には注意し、リスクを評価する必要がある。 物理的動作と化学的方法の両方を用いる手段もある。たとえば、Microabrasion は最初に酸でエナメル質22 ‐ 27マイクロメートルを脱灰させ、次に研磨を行うことでエナメル質の表面的な着色を除去する。変色の部位が深いか、象牙質の中である場合、この方法は成功しない。 ==人種による違い== エナメル質の人種による比較を報告した研究は少ないが、日本人とタイ人のエナメル質を比較した研究では、元素構成の割合や組織構造が異なり、タイ人のほうが組織の構造が明確で硬度が高いことが報告されている。これは遺伝的なものではなく、環境的な要因による可能性が高いと考えられている。 ==エナメル質の異常== ===遺伝・染色体異常=== 様々なタイプのエナメル質形成不全症(英語: Amelogenesis imperfecta) がある。遺伝性のものは低形成型(I型)、低成熟型(II型)、低石灰化型(III型)、タウロドント併発性低形成/低成熟型(IV型)の4通りに、非遺伝性の先天的なものはエナメル質減形成とエナメル質石灰化不全に分けられる。最も一般的な低石灰化型は完全に石灰化していないもので、常染色体優性の遺伝疾患である。結果、エナメル質は咬耗症や摩耗症などで容易に損耗し、出てくる象牙質のために黄色く見える。低形成型はX染色体上のアメロゲニン遺伝子の異常で、正常なエナメル質がほとんど形成されず、低石灰化型と同じような症状となる。また、近年には Molar Incisor Hypomineralization (MIH) と呼ばれる第一大臼歯と切歯に限局して発生する原因不明のエナメル質形成不全の報告がなされている。 ===局所的な要因=== 乳歯の根尖性歯周炎によるターナー歯や外傷による障害などによる、後続永久歯のエナメル質の障害がある。 ===全身的な要因=== 低出生体重児への調査により、在胎月数が男では5.6から7.3か月、女では6.3から8.0か月で出生した場合に乳歯特に乳切歯のエナメル質形成不全や減形成が多いことが報告されている。 胎児赤芽球症(英語: erythroblastosis fetalis) によって引き起こされる慢性のビリルビン脳症は幼児に多数の症状が現れる疾病である。その一つとして、エナメル質形成不全とエナメル質の緑色の着色を引き起こすことがある。 造血性ポルフィリン症は体内でポルフィリンの沈着を引き起こす遺伝病である。この沈着がエナメル質でも発生し、赤い蛍光色となる。 フッ素症は斑状菌を発生させ、露出部からフッ化物が出る。 テトラサイクリン系抗生物質の妊婦への投与は胎児の形成中のエナメル質を黄色・黄褐色 ‐ 茶色に着色させる。このため、妊娠後半期の投与に注意が必要な薬であり、妊婦への投与は必要性がない限りは行われない。 グルテンアレルギーが引き金となって起こる自己免疫疾患であるセリアック病もまた、エナメル質の脱灰を引き起こす。 ==動物のエナメル質== 研究者達の調査により、人間と人間以外の哺乳類のエナメル質との間に違いはほとんどないということが示された。エナメル質の構造にほとんど違いはなく、エナメル器やエナメル芽細胞もヒトと同様に存在する。エナメル小柱の横断面は動物により六角形、円形、長円形などを示す。哺乳類間でのエナメル質の相違はわずかであるが重要である。形態、数、歯のタイプなどの点において確かな違いが存在する。 イヌは、唾液中のpHが8.0 ‐ 9.0と非常に高く、歯の脱灰を防ぎ再石灰化を促進させるので、人間に比べて虫歯になりにくい。その一方、歯牙破折はしばしば認められ、特にガム、骨、チュウトイなどが原因で裂肉歯にてエナメル質と象牙質が剥がれるように破折することが多い。外傷などにより歯が破折した時やう蝕になった場合、人間と同じように歯に修復物を詰めて治療することができる。この場合、全身麻酔下で一度に行う。人間の歯と似ているため、イヌのエナメル質もテトラサイクリンによって着色される。したがって、若いイヌにテトラサイクリンが処方される場合、その危険性を説明しなければならない。また、人間同様エナメル質形成不全が発生する可能性もある。ネズミは切歯の舌側面や臼歯の咬頭頂にはエナメル質を持たず、また、ウサギやモルモットでも切歯の舌側面にエナメル質が存在しない。ウマでは、エナメル質と象牙質がかみ合っているが、これは強さを高め、摩耗を減らす働きがある。 哺乳類以外で後生動物の中で歯にエナメル質を持つ生物としては、硬骨魚類、両生類、爬虫類が存在する(軟骨魚類はエナメロイド)。爬虫類や魚類の多くはエナメル質の構造が哺乳類と異なり、小柱構造を持たない類エナメル質と呼ばれることもある。また、エナメル質を持たないサワラやヒラメや、歯の発生において象牙質より先にエナメル質が作られる鯛のようなものも魚類の中に存在する。 =南硫黄島原生自然環境保全地域= 南硫黄島原生自然環境保全地域(みなみいおうとうげんせいしぜんかんきょうほぜんちいき)は、自然環境保全法に基づき1975年(昭和50年)5月17日に指定された日本の原生自然環境保全地域。南硫黄島(東京都小笠原村)全域が指定されており、これまで人間の影響が希薄であったことにより原生の自然が良く保たれている。原生自然環境保全地域の中では唯一全域が立入制限地区とされている。 ==南硫黄島の位置== 南硫黄島は東京から南南東約 1300 km の、北緯24度13.7分、東経141度27.7分に位置している。緯度的には台湾の中部にあたり、北回帰線のすぐ北側にある。南硫黄島の北約 60 km には、同じ火山列島に属する硫黄島があり、小笠原諸島の父島からは 330 km 離れている。また、南東約 540 km 先にはマリアナ諸島の北端にあるファラリョン・デ・パハロス島(ウラカス島)がある。 ==南硫黄島の地形と形成史== 南硫黄島は、ほぼ南北方向に延びる、全長約 1200 km 、幅約 400 km の島弧である伊豆小笠原弧の最南部に位置している。伊豆諸島や火山列島を構成する島々は、伊豆小笠原弧の火山フロントである七島‐硫黄島海嶺に属し、258万8000年前以降の第四紀に活動している火山であるが、南硫黄島もやはり第四紀に火山活動によって形成された火山島である。南硫黄島がいつ頃島として誕生したのかについてははっきりしていないが、採集された岩石の分析から地磁気の逆転が見られないため、数十万年より新しいと考えられている。 日本列島のように、かつて大陸と地続きであったが切り離された島を大陸島と呼ぶ。一方海洋底から火山活動によって誕生し、これまで大陸と一度も地続きとなったことがない島を海洋島ないし大洋島と呼ぶ。伊豆小笠原弧の火山フロントである七島‐硫黄島海嶺に属する南硫黄島は、典型的な大洋島である。 島の面積は 3.67 km で、周囲は約 7.5 km であるが、伊豆諸島と小笠原諸島の中で最高峰である 916 m の山が聳え、島の海岸線は湾や入江などの出入りがほとんど見られず、大小の岩に覆われた 5 m から 50 m の幅の浜辺があり、砂浜はほとんど見られない。そして浜辺の背後には数十 ‐ 200 m の海食崖が発達している。山体は平均斜度45度に達する急斜面で、侵食が進んでおらず火山体の原型を比較的良く留めている北西部が最も傾斜が緩やかであるが、その部分でも斜度30度に達する。また南硫黄島の地形の特徴としては、川や湖沼などの淡水系が全く見られないことも挙げられる。 南硫黄島を構成する岩石は玄武岩であり、体積比では溶岩流とアグルチネートが島のほとんどを占める。島の急斜面が保たれているのはこのアグルチネートによるもので、強く溶結されている。山頂部には直径約 150 m 、深さ 30 ‐ 40 m の東側に開析された火口がある。火口の東側は崩落しており噴火の記録はなく現在噴気活動も認められない。山体全体も東斜面が西斜面よりも侵食が進んでいる。また南硫黄島には確認されているだけで254本の岩脈が貫入している。 島の周囲の海域ではサンゴ礁の発達は悪く、海岸線に外洋の波浪が直接打ちつけるようになっている。南硫黄島周囲は水深 40 ‐ 50 m 付近までは緩やかな傾斜であるが、それ以深では急速に深度を増す。そして南硫黄島の北東約 5 km には、しばしば活発な火山活動が観測されている海底火山である福徳岡ノ場がある。 南硫黄島の誕生は数十万年前と考えられる。まず溶岩の流出を繰り返しながら小型の火山体が成長していった。短い噴火の休止期に続いて再び溶岩の流出などの火山活動が続き、今の南硫黄島山頂よりも少し東側に火山体が成長していった。その後現在の山頂部からの噴火が始まり現在の南硫黄島が形成された。その後、火山活動は南硫黄島の北東約 5 km の福徳岡の場に移り、活動が休止した南硫黄島では侵食活動によって現在の形となったと考えられる。 ==雲霧帯の形成== 難破船の乗組員以外、これまで人が定住することがなかった南硫黄島では気象観測が継続的に行われたことがない。南硫黄島に最も近接する硫黄島の気象データなどからは、南硫黄島では山頂部まで熱帯・亜熱帯常緑広葉樹林が成立すると考えられるが、実際には標高約 500 m 以上の島の上部では日常的な雲霧の発生に伴い雲霧帯が形成され、木の幹に多くの種子植物、シダ植物、コケ植物の着生が見られる雲霧林の形成が見られる。南硫黄島以外の小笠原諸島では、雲霧帯は標高が高い北硫黄島や母島の山頂部に見ることができる。南硫黄島の雲霧林には多くの希少植物が生育しており、これまで人の手が加わっていない熱帯・亜熱帯の雲霧林の状況を知ることができる。 ==南硫黄島と人間との関わり== 南硫黄島は、サンゴ礁の発達が悪い上に湾や入江がほとんど見られないため、外洋の波浪が海岸線に直接打ちつけており上陸自体が困難である。島自体も皇居ほどの大きさの島に916mという山が聳え、平均斜度45度という極めて険しい地形であり、また真水もほとんどないことから、人間が上陸した記録自体が少なく、これまで開発の手が入ることがなかった。 南硫黄島の発見は1543年、スペイン船サン・ファン号による火山列島発見時のこととされる。その後も北太平洋を航海する船によって目撃された記録が残っている。1885年(明治18年)末、函館を出航した松尾丸が遭難、漂流の結果、南硫黄島に漂着し、乗組員のうち3名が救助されるまでの約3年半、島で過ごしたことがまがりなりにも南硫黄島で生活したことが確実な唯一の記録である。また第二次世界大戦終了直後、アメリカ軍によって南硫黄島で1人の日本人が発見されたとの話が伝えられているが不確実である。 しかし南硫黄島を開発しようとする試みがこれまで全く行われなかったわけではない。1896年(明治29年)から北硫黄島の開拓を始めた石野平之丞は、火山列島を構成する北硫黄島、硫黄島、南硫黄島全てを調査した上で北硫黄島の開拓に乗り出したと伝えられており、また1917年(大正6年)には硫黄島の住民が南硫黄島に上陸し、サトウキビなどの栽培を試みた。しかし上陸自体が困難である上に、島自体の極めて険しい地形、そして真水が極めて乏しいという悪条件は、このような開発の試みを挫折させたと考えられる。 ===調査研究の経過=== 人間による開発の手が及ばず、手付かずの原始の自然が残された南硫黄島は、やがてその貴重な自然環境が注目されるようになった。1930年(昭和5年)に南硫黄島で採取され、小笠原営林署で栽培された植物が中井猛之進の手に渡ったことにより、南硫黄島の生物が最初に学会にもたらされることになった。そして1935年(昭和10年)10月、小笠原営林署による植物調査が実施され、標高約 700 m 付近まで調査を実施して多数の植物標本を持ち帰った。これが初めての南硫黄島の学術調査である。 翌1936年(昭和11年)3月、より本格的な植物調査が実施された。この時の調査では島の南西部から登頂を行って初めて島の最高点に到達し、海岸部から山頂部まで調査を行うことに成功した。調査では維管束植物89種を採集し、南硫黄島の植物相の特徴がとらえられるようになった。 1968年(昭和43年)6月の小笠原諸島の日本復帰後、人間の影響が極めて希薄で、自然環境の調査が進んでいない南硫黄島についての関心が高まっていった。まず1969年(昭和44年)7月には鳥類調査を目的として文部省の調査船が南硫黄島周辺を調査し、同月東京都建設局公園緑地部の調査船も調査のため南硫黄島を一周した。1972年(昭和47年)10月、南硫黄島は小笠原国立公園の区域に指定され、1972年11月には南硫黄島全体が天然記念物に指定された。さらに1975年(昭和50年)5月、環境庁によって人間による環境への影響が少なく原始の自然が残されている地域として、自然環境保全法に基づき原生自然環境保全地域に指定された。 1979年(昭和54年)4月には、地質調査所が南硫黄島の岩石採集を目的として上陸調査を行ったが、天候急変のために数時間で調査を切り上げざるを得なかった。1981年(昭和56年)6月には国土庁が岩石採集を目的とした調査を試みたが、高波のために上陸を断念した。1981年(昭和56年)6月、日本シダの会の調査員が上陸に成功し、130 m 付近まで登頂を行い、新たに13種の植物を採集した。 環境庁は原生自然環境保護地域に指定された5か所の総合的な学術調査を昭和55年度から実施した。その中で南硫黄島も、1982年(昭和57年)6月に総合的な学術調査が実施された。1936年以来46年ぶりに海岸部から山頂まで各種調査が実施され、これまで多くの謎に包まれていた南硫黄島の貴重な地形、地質、土壌、植物、動物などの自然環境が明らかになってきた。この時の調査結果を踏まえ、1983年(昭和58年)6月、南硫黄島全体が原生自然環境保護地域の立入制限地区に指定されることになった。 2007年(平成19年)6月、東京都環境局と首都大学東京の手によって25年ぶりの南硫黄島調査が行われた。これは小笠原諸島が世界遺産の自然遺産の候補地とされる中で、調査回数が少なくいまだ全貌が明らかとなっていない南硫黄島の自然環境についての調査を実施し、人間からの影響が極めて少ない海洋島である南硫黄島の生物多様性、生態系のあり方や生物進化の過程を知り、そして南硫黄島への外来生物の進入状況を把握することが小笠原諸島の世界遺産としての価値を証明するためにも必要と判断されたためであった。2007年の調査では1936年、1982年に続き3回目となる山頂までの総合調査が実施され、南硫黄島の自然環境について貴重な知見を得ることができた。また2007年の調査時は、人間からの影響が最小限に抑えられている南硫黄島への外来種の持ち込みを避けるために、島内に持ち込む荷物をクリーンルーム内で殺虫剤の燻蒸を行い、調査隊員の排泄物やゴミも全て持ち帰るなど、調査によって南硫黄島の自然環境に影響を与えぬよう万全の体制を取った。 2017年(平成29年)6月、東京都、首都大学東京、日本放送協会の合同による南硫黄島学術調査が実施された。立ち入り困難な場所も多いため、科学者らはロッククライミングの専門家から事前に指導を受け(調査にも同行)、マルチコプターによる空撮も使用された。この記録は2018年のNHKスペシャルで放送された。 南硫黄島でこれまで行われた本格的な学術調査は、1936年、1982年、2007年、2017年の4回にすぎず、4回とも山頂部までの調査が実施されたものの、全て島の南西部からほぼ同一コースを取って山頂を目指したため、海岸部を除くと島の南西部から山頂への登頂ルート周辺という島内のほぼ同一地域の調査に限られている。また戦後の1982年、2007年、2017年の調査とも、天候が比較的安定していて台風も少なく波が一番穏やかな季節とされる6月に実施されており、冬季に南硫黄島で繁殖活動を行っている可能性があるとされるアホウドリ類の調査が進んでいないなど、まだ南硫黄島の自然環境については調査が進んでいない部分が残されている。 ==植生の特徴== 南硫黄島の自然環境の中で最も研究が進んでいるのが植物に関する分野である。これは1982年の総合調査より前に、戦前の1935年、1936年、そして1981年には日本シダの会によって調査が行われた経緯があり、一番調査研究が長く行われていたことによる。これまでの南硫黄島での植物調査によって確認された維管束植物はシダ植物44種、双子葉植物59種、単子葉植物26種の計129種である。なお南硫黄島から裸子植物は確認されていない。 南硫黄島の植物の中で、最も共通種が多いのは小笠原群島と北硫黄島、南硫黄島で、ともに7割近くに達している。しかし南硫黄島には小笠原群島を飛び越え、伊豆諸島や日本本土、遠くアジア大陸との共通種もかなり見られる。そしてマリアナ諸島を始めとするミクロネシアは小笠原群島よりも南硫黄島の方が近いが、ミクロネシアと共通すると考えられる植物は南硫黄島よりも小笠原群島の方が多い。これはミクロネシアから小笠原群島に植物がやって来た頃、まだ南硫黄島を始めとする火山列島が誕生していなかった可能性が指摘されている。また距離的に遠いアジア大陸などからの植物は風によって運ばれてきた可能性がある。南硫黄島の植物相を構成する種の数は、島の広さと標高から推定される数字を下回っている。面積の割に種が少ないことは大洋島の特徴の一つであり、南硫黄島の場合誕生してからの期間が比較的短いことなども原因している可能性がある。しかし南硫黄島の植物の生物多様性は豊かであるとはいえないが、後述のように多くの絶滅危惧種が生育しており、特に山頂近くの雲霧帯には多くの希少種が見られる。 南硫黄島の植生は大きく分けて海岸部の乾生低木林帯、島の中腹を中心に広がる山地常緑広葉樹林帯、そして島の上部に見られる木生シダや草本植物群落の3つに分けられる。海岸部から標高 200 ‐ 300 m 付近までは断崖が多く、土壌に乏しい地域であり、保水性が悪いため土地は乾いていることが多い。このためセンダンやタコノキなどの群落が発達している。また、標高 200 ‐ 300 m 以上ではチギやオオバシロテツなどの常緑広葉樹林が広がっている。そして標高 400 m 以上ではコブガシ林が広がっているが、コブガシ林は海鳥たちの巣穴が集中している地域と重なるため、小さな植物が極めて少ないという特徴を持っている。さらに標高 500 m 以上の地域は雲霧林となり、コブガシの幹にはコケ植物、シダ植物、種子植物の着生が見られる。 標高 600 ‐ 700 m 以上は、火山列島固有種のエダウチムニンヘゴなどの木生シダの群落や、ガクアジサイ、ヒサカキの群落、さらには草本であるススキの群落などが見られる。特にエダウチムニンヘゴ群落は幹に多くの種子植物、シダ植物、コケ植物の着生が見られ、雲霧林としての特徴を良く示している。またガクアジサイ、ヒサカキ群落は北硫黄島、そして八丈島の八丈富士にも分布しているが、父島や母島などの小笠原群島では見られない。これは南硫黄島や北硫黄島のような高い山が小笠原群島にはないためガクアジサイやヒサカキの群落が発達せず、さらには小笠原群島ではなく、伊豆諸島、日本本土そしてアジア大陸との共通種が南硫黄島に見られる原因も島の標高の高さが原因であるとの説がある。 ===絶滅危惧種、準絶滅危惧種について=== 南硫黄島には23種の絶滅危惧種、準絶滅危惧種が記録されている。2007年の調査ではうち18種が確認されていて、ナガバコウラボシ、ホソバチケシダ、オオトキイヌビワ、ムニンカラスウリ、ムニンホオズキ、ナンカイシダの6種は南硫黄島の個体数が日本全国の個体数の5割を越えると見られている。特にホソバチケシシダは東ヒマラヤ、フィリピン、台湾に分布しているが、日本国内では屋久島と南硫黄島しか分布しておらず、しかも屋久島ではヤクシカの食害によって絶滅の危機に瀕しており、南硫黄島の群落は極めて貴重である。これら絶滅危惧種、準絶滅危惧種の大半が標高 750 m 以上の山頂近くで確認されている。うち 800 m 以上の地域では1982年、2007年の調査で比較的安定した個体数を保っている種が多かったが、700 m から 800 m にかけては2007年の調査では個体数が減少、消滅した絶滅危惧種、準絶滅危惧種が多いことが判明した。 また航空写真の比較や調査に参加した人への聞き取りなどから、1982年に比べて2007年は雲霧林が減少した可能性が指摘されている。雲霧林に多く生育する南硫黄島の絶滅危惧種、準絶滅危惧種は、地球温暖化などによる環境の変化によって発生する気候の変動などによって大きな打撃を蒙る可能性がある。 ===外来種の侵入=== 2007年の調査では、南硫黄島で7種の外来種と考えられる植物が確認された。これは南硫黄島で確認された維管束植物の 5.4% であり、他の小笠原諸島の島々に比べて著しく低い数字になっている。また外来種の分布状況は島内各地に散在していて、これもまた人間による撹乱を受けていないことを示している。しかし1982年には確認されていないシンクリノイガが南硫黄島の各所で生育しているのが確認された。シンクリノイガは小笠原群島では南島などで問題となっている外来種で、南硫黄島には鳥の羽毛に付着するなどして持ち込まれたと考えられている。人間の立ち入りが原則禁止となっている南硫黄島であるが、鳥などによって今後も外来植物が侵入する可能性がある。 ==哺乳類== 南硫黄島で生息が確認されている哺乳類は、オガサワラオオコウモリのみである。他に小型の翼手類やネズミ類の存在も想定されたが、1982年、2007年の調査ではオガサワラオオコウモリ以外の哺乳類の生息は確認されなかった。 ===南硫黄島のオガサワラオオコウモリ=== オガサワラオオコウモリは父島列島、母島列島、火山列島に生息する、翼を広げると約1mになる大型の翼手類で、かつては父島や母島で多数のオガサワラオオコウモリが生息していたが、戦後のアメリカ統治時代に食用としてグアム島に売られたり、農作物に被害を与えるために駆除されてしまったりしたため数が激減し、天然記念物と種の保存法により国内希少野生動植物種に指定されている。現在の生息数は南硫黄島以外では父島に100‐160頭、北硫黄島に数十頭、母島、硫黄島に少数の生息が確認されている。 南硫黄島では戦前にオガサワラオオコウモリの生息が確認されていたが、1982年の調査によって約100頭から数百頭の生息が推定され、他の島に生息する個体よりも全体の色彩が明るいこと、そして昼間に活動するという特徴が報告された。また南硫黄島のオガサワラオオコウモリは主にタコノキやコブガシの果実を食用としていることが確認されたが、アナドリの頭部を食べている場面も目撃されており、状況によっては肉食も行っている可能性が指摘された。 2007年の調査時も100‐300頭程度のオガサワラオオコウモリの生息が確認された。1982年の調査時と同じく昼間の活動が確認されたが、昼間の活動は食物探索の合間に休息をしている可能性があり、また夜間も活動していることが確認された。これまでオガサワラオオコウモリの生態について調査が行われた父島、母島、北硫黄島ではいずれも昼間の活動は確認されず、夜間の活動のみであった。南硫黄島のみ昼間にオガサワラオオコウモリの活動が行われる理由としては、猛禽類が生息しておらず昼間に活動しても捕食される恐れがないことと、慢性的な食物不足のために昼間も食物探索に当てねばならない等の理由が考えられる。 1982年の調査時にも指摘された、他の生息地域の個体よりも色が明るいという特徴は2007年の調査時も確認された。2007年に捕獲された個体を観察した結果、体毛の生え際は他の地域の個体の色と変わらないと見られるため、南硫黄島のオガサワラオオコウモリの特徴である昼間の活動や、急峻な地形のため日光を遮るものが少ないために紫外線等により後天的に色が変化した可能性が高いとされた。 2007年の調査時、オガサワラオオコウモリはタコノキの実の他にシマオオタニワタリとナンバンカラムシの葉を食用としていたことが確認された。これは2007年の調査直前に台風が南硫黄島付近を通過しており、その影響で著しい食物不足に陥っていた可能性があり、シマオオタニワタリとナンバンカラムシの葉は緊急的に利用していた可能性もある。また2007年の調査時に捕獲されたオガサワラオオコウモリ全てに著しい歯の磨耗が確認され、顎の噛む力も強かった。歯の著しい磨耗が台風通過直後の食糧不足に伴う一時的なものか、慢性的な食糧不足による持続的なものであるかは現在のところ不明である。 ===ネズミ類の不在=== 小笠原諸島の島々では、外来種としてクマネズミなどのネズミ類が進入し、生態系に悪影響を与えている。例えば北硫黄島で戦前繁殖が確認されていたオーストンウミツバメ、クロウミツバメ、セグロミズナギドリは、クマネズミの影響で北硫黄島では繁殖が行われなくなったものと推定されており、父島列島、母島列島、聟島列島にはほとんどの島にクマネズミが侵入し、植生や鳥類、陸産貝類などに被害を与えていることが明らかになっている。南硫黄島はこれまで人間が生態系に与えた影響が極めて小さかったと考えられているが、船の難破や開墾の試みなど人間との関わりが皆無であったわけではない。また、ネズミ類は短距離ならば海を泳いで分布を広げるとの報告もある。そのため、1982年、2007年の学術調査の際にネズミ類の生息の有無の調査が行われた。 1982年の調査時は、島内に設置したワナに全く捕獲されず、また島の南岸にあった難破船の生米が全くネズミ類の食害に遭っていなかったことが確認されたため、ネズミ類は生息していないものと判断された。2007年の調査時もワナの設置や食痕の調査を通じてネズミ類の存在について確認されたが、やはり生息していないものと考えられた。この結果は南硫黄島が人間からの影響がこれまで極めて小さかったことを物語っている。 ==鳥類== 1982年の調査時、南硫黄島ではオナガミズナギドリ、アナドリ、カツオドリ、アカオネッタイチョウ、シロハラミズナギドリ、クロウミツバメの6種の海鳥、そしてアカガシラカラスバト、ハシブトヒヨドリ、イソヒヨドリ、ハシナガウグイス、イオウジマメジロ、オガサワラカワラヒワの6種の陸鳥が繁殖ないし繁殖している可能性が高いとされた。2007年の調査ではセグロミズナギドリも繁殖している可能性が高いとされ、2017年の調査ではアカアシカツオドリの営巣が確認された。現在のところ海鳥8種、陸鳥6種が繁殖ないし繁殖を行っている可能性が高いとされている。うち海鳥であるセグロミズナギドリ、シロハラミズナギドリ、クロウミツバメ、アカオネッタイチョウ、陸鳥のアカガシラカラスバト、オガサワラカワラヒワは、2006年に改定されたレッドリストに記載されている。特にクロウミツバメは南硫黄島が現在確認されている全世界で唯一の繁殖地である。このように希少な海鳥、陸鳥が繁殖する南硫黄島を含む火山列島は重要野鳥生息地 (IBA) に指定されている。 南硫黄島の海岸部には、オナガミズナギドリ、アナドリ、カツオドリ、アカオネッタイチョウの営巣が確認されている。うちアカオネッタイチョウは日本国内ではこれまで北硫黄島、南鳥島、西之島で繁殖が確認されているが、いずれも10つがい程度の営巣で、数十つがい以上が営巣していると見られる南硫黄島は日本国内最大の繁殖地であると考えられる。 地面に穴を掘って営巣するシロハラミズナギドリ、クロウミツバメ、セグロミズナギドリは南硫黄島の標高 400 m 以上の、土壌の発達が良い場所を選んで営巣をしている。2007年の調査では、シロハラミズナギドリは標高 400 m から山頂付近まで、クロウミツバメは標高 700 m 以上、セグロミズナギドリは標高 800 m 以上で確認された。1982年の調査ではシロハラミズナギドリとクロウミツバメは標高 750 m を境に住み分けがなされているとされており、シロハラミズナギドリの営巣地が25年の間に拡大した可能性が指摘されている。 シロハラミズナギドリは北西ハワイ諸島と小笠原諸島のみで繁殖が確認されており、戦前には小笠原諸島の5つの島、戦後は南硫黄島と北之島で繁殖が確認されているが、1978年以降北之島で確実な繁殖が報告されておらず、南硫黄島の繁殖地は全世界的に見ても貴重である。2007年の調査によれば南硫黄島では推定数万‐数十万つがいに及ぶ多数のシロハラミズナギドリの繁殖が確認されている。セグロミズナギドリは2007年の調査でも繁殖の実態がはっきりせず、繁殖数も6000つがい程度ではないかとの推定がなされているのみであるが、他に確認されている繁殖地が父島列島の東島のみであり、南硫黄島の繁殖地はやはり貴重であると言える。そしてクロウミツバメは戦前、北硫黄島での繁殖が確認されているが戦後は繁殖が確認されていない。これはクマネズミによる食害の影響によるものと推定されている。そのため現在確認されているクロウミツバメの繁殖地は全世界で南硫黄島のみである。南硫黄島での繁殖つがいは数万‐10万程度と推定されているが、確認されている全世界で唯一の繁殖地である南硫黄島の重要性は極めて高い。 南硫黄島では生息する海鳥の数が極めて多く、海岸部から山頂にかけて多くの海鳥に埋め尽くされている。南硫黄島と比較的似た環境にあると考えられる北硫黄島との大きな違いの一つに、南硫黄島では土壌中に多くのリンが含まれていることが明らかになっている。これはかつて人が居住していた北硫黄島では、ネズミ類の捕食によって海鳥の数が激減してしまったのに対し、有史以来無人島である南硫黄島では、海鳥が多く生息する環境が保持されているため、鳥の糞や死骸からリンが供給され続けていると考えられる。そして豊富なリンに恵まれた土壌は、南硫黄島の植物相などの豊かな生物相を維持し続けるのに大きな役割を果たしていると見られる。 陸鳥類はハシブトヒヨドリ、ハシナガウグイス、イオウジマメジロが島内の広範囲に分布し、特にハシナガウグイス、イオウジマメジロの数が多い。オガサワラカワラヒワは絶滅危惧種*124*Bに指定されているが、標高 100 m 以下の低い場所に生息しており、個体数も多くないと考えられる。アカガシラカラスバトは小笠原群島全体でも生息数が数十羽程度と推定され、絶滅が危惧されている。南硫黄島では島の広い範囲で生息していて、数十羽の生息が推定されている貴重な生息地である。 1982年の調査時には、かつて硫黄島に分布していたが絶滅したマミジロクイナの生存の有無について注意が払われたが発見されなかった。また冬季に繁殖を行うアホウドリ類やオーストンウミツバメなどについては、1982年、2007年の調査とも6月に行われたため、現在のところ南硫黄島での繁殖状況は不明である。 2017年の調査では無人航空機により崖の上を調査したところにはアカアシカツオドリの集団繁殖が確認された。 ==爬虫類・両生類== 南硫黄島では、1982年と2007年の調査時にミナミトリシマヤモリとオガサワラトカゲの生息が確認された。他の爬虫類そして両生類の生息は確認されていない。特に両生類については絶海の孤島である南硫黄島にたどり着くこと自体が困難である上に、棲息に必須の淡水がほとんど存在しないためと考えられる。また父島などに外来種として侵入しているグリーンアノールなども現在のところ南硫黄島に侵入していないものと考えられる。 ミナミトリシマヤモリは日本国内では南鳥島に生息が確認されており、国外ではミクロネシアに分布している。オガサワラトカゲはアジア、太平洋、インド洋地域に広く分布するブートンヘビメトカゲの一亜種であるとされてきたが、最近の研究では独立種とされることもある。小笠原諸島に生息するオガサワラトカゲは、聟島列島、父島列島、母島列島の遺伝的変異が大きく、同じ火山列島である南硫黄島と北硫黄島の個体の遺伝的変異も確認される。そして南硫黄島の個体は父島列島、北硫黄島は母島列島の個体と遺伝的に近縁であるという興味深い事実が明らかになっている。 ==昆虫類などの特徴== 南硫黄島の昆虫については1982年と2007年の総合調査時に調査が行われた。特徴としてはまず南硫黄島の昆虫は広域に分布が見られる種が多いが、続いて小笠原諸島の固有種が多く見られ、残りの種がミクロネシア、日本本土、東南アジアなどからやってきたと考えられることが挙げられる。つまり南硫黄島の昆虫は広域に分布を広げている種と小笠原固有種が中心となって構成されていると見られている。また南硫黄島全体としては昆虫相は貧弱であり、ハエ類やトビカツオブシムシなどを除くと採集される昆虫も少ない。これは南硫黄島の歴史の浅さ、3.67 km という狭さ、そして淡水系が存在しないなどの制約によるものと考えられている。 また淡水系がないために蚊や水生昆虫などが見られないという点も特徴として挙げられる。そして大陸などから隔絶し、これまで一回も大陸と地続きとなったことがない大洋島である南硫黄島には、島に到達して分布を広げることが出来た昆虫に偏りがあったため、南硫黄島の昆虫相には一般的な昆虫相から見て非調和が見られる。これは大洋島の生態系では多かれ少なかれ見ることができる特徴の一つである。非調和の例としては、通常花粉の媒介を担っている昆虫はハチやハナバチ類が中心となっているが、ハチやハナバチが少ないため南硫黄島に分布している花を咲かせる被子植物の受粉は、メイガなど蛾の仲間などがその役割を担っている可能性が指摘されている。そして南硫黄島では活動的なアリ類がほとんど生息しておらず、またミミズ類も見られない、これらも大陸などから隔絶された海洋島が本来持つ生態系の特徴の一つとされる。 南硫黄島では肉食の哺乳類、爬虫類や大型の食肉昆虫、猛禽類が生息していないが、島内では数十万羽以上の海鳥が繁殖している。これら海鳥の排泄物や死骸などはハエ類やトビカツオブシムシによって分解され、直接の捕食者ではないもののハエ類やトビカツオブシムシが水鳥の捕食者の代行のような位置を占めていると考えられる。そのためハエ類やトビカツオブシムシは南硫黄島内で大発生が見られる。 また南硫黄島の固有属とされるミナミイオウヒメカタゾウムシなど、南硫黄島では後ろ羽根が退化している昆虫も見られる。これもやはり大洋島に生息する昆虫の中に見られる特徴であるが、南硫黄島定着後に後ろ羽根が退化して飛翔能力が失われた可能性と、もともと後ろ羽根が退化して飛翔能力が失われた昆虫が南硫黄島にもたらされ、分布を広げた可能性が指摘されている。なおミナミイオウヒメカタゾウムシ属については、小笠原群島に近縁であるが別属のオガサワラヒメカタゾウムシ属が広く分布しており、その関係性が注目されている。 2007年の調査では、南硫黄島では8種のアリ類が確認された。うちミナミイオウムネボソアリとイオウヨツボシオオアリの2種が新種として確認された。イオウヨツボシオオアリは台湾から中国にかけて近縁種が見られるが、ミナミイオウムネボソアリは東アジア方面には近縁種が見られず、祖先が南硫黄島近隣から漂着した種ではない可能性がある。 南硫黄島の昆虫相は全体としては貧弱であるが、2007年の調査では父島と母島では絶滅したものとされていたオガサワラハラナガハナアブが再発見されたり、採集された昆虫の中でまだ分類が明らかになっていない種があるなどまだその全貌が解明されていない。また新種と考えられるクモ類、ササラダニ類が採集されたり、世界でこれまで確認されていない陸棲のミズムシ亜目の一種が採集されているなど、南硫黄島の生物相にはまだ明らかになっていない面が残っていると考えられる。 ==南硫黄島の陸産貝類== 2007年の調査でその重要性が認識されたのが、カタツムリの仲間である南硫黄島の陸産貝類である。海洋島では陸産貝類が著しい適応放散を見せ、活発な種分化が生じることが判明している。しかし海洋島独自の陸産貝類は人為的な環境変化に脆弱で、これまで太平洋諸島では多くの陸産貝類が絶滅したことが知られている。小笠原群島でも豊かな陸産貝類が分布していることが知られているが、現在、人間による開発や外来種の影響によってその生育環境が危機に追いやられている。 これまで火山列島では北硫黄島と硫黄島で陸産貝類の調査が行われ、1982年の南硫黄島での調査結果と併せて6種類の陸産貝類が確認されていた。6種のうち火山列島固有種は北硫黄島の1種のみで、歴史が浅い火山列島の陸産貝類は小笠原群島の影響下にあると見られていた。しかし2007年の調査では9種が新たに確認され、うち4種は南硫黄島固有種と考えられ、かつて父島に生息していたが絶滅したものと考えられていたタマゴナリエリマキガイも再発見された。特に山頂部の雲霧帯の陸産貝類には高い種の多様性が認められた。 南硫黄島で確認された13種の陸産貝類の特徴としては、まず分類群の構成に偏りが見られた。そして 54% の種が小笠原群島と共通種であったが、伊豆諸島と共通種のものが 23% 、そして琉球列島との共通種も 15% 存在していた。小笠原群島には生息していないが伊豆諸島に同種ないし近縁種が生息している例も見られ、さらには比較的近隣にある北硫黄島との共通種は1種のみで、きわめて共通性が低いことも判明した。このように南硫黄島の陸産貝類は独自の生物多様性を持つ貴重な存在であることが明らかとなった。 2017年の調査では新たに3種の陸産貝類が確認された。うちリュウキュウノミガイ属の1種は新種であると見られている。 ==南硫黄島の生態系の特徴== 南硫黄島の生態系の特徴としては、まず人間の影響がこれまで極めて希薄であったことが挙げられる。このため外来種と見られる生物は、2007年の調査によれば維管束植物では7種で、これはこれまで南硫黄島で確認された全維管束植物の 5.4% に当たり、小笠原諸島内で比較的良く自然環境が保全されていると考えられている北硫黄島でも35種、21.0% の植物が外来種とされ、南硫黄島の数値が極めて低いことがわかる。また植物以外で外来種と考えられるのはワモンゴキブリとコワモンゴキブリの2種のゴキブリ類くらいであり、南硫黄島の自然環境がこれまで人間にほとんど撹乱されていないことがわかる。南硫黄島が人間によってほとんど撹乱を受けていないことは、1982年と2007年の調査時にネズミ類の生息が全く確認されず、南硫黄島にはネズミ類が生息していないことからもわかる。これは現在、小笠原諸島内では聟島諸島の北之島そして西之島以外にはネズミ類の生息が見られるとされ、生態系に悪影響をもたらしているが、南硫黄島ではこれまでネズミ類が存在しない状態が保たれている。 南硫黄島には淡水系が存在しないため、湿生植物、そして両生類やわずかな水溜りでも繁殖が可能である蚊が全くいないなど、水生動物が見られないという特徴が見られる。なお蚊の種類によっては海岸のタイドプールでも繁殖する種が存在するが、南硫黄島では海岸線は大小の礫で形成されており、タイドプールが存在しないことも蚊が生息しない原因となっている。 南硫黄島の生態系には、面積や標高の割に生態系を構成する種が少ない。島に到着する種は偶然に左右される面が大きいため、近隣の島に見られない種が存在したり、逆に近隣の島で見られる種が存在しなかったりする。また花粉媒介性の昆虫が少なく、肉食動物や大型の食肉昆虫などが見られないなど通常の生態系から見て非調和な現象が見られるなどといった特徴がある。これらは大洋島の生態系で見られる典型的な特徴であり、南硫黄島が典型的な大洋島であることを示している。 また1982年から2007年までの25年間の間に外来植物のシンクリノイガが分布を広げたり、島の雲霧林が減少した可能性があり、700 m から 800 m にかけては植生が変化した可能性が指摘されるなど、人の手が加わらない中でも生態系に変化が生じていることもわかる。 人間や外来種による撹乱に極めて脆弱である大洋島の中で、これまで人間の影響を受けることが極めて少なく、典型的な大洋島の環境がそのまま残されている南硫黄島は、多くの希少植物が生育する熱帯・亜熱帯性の雲霧林が存在し、クロウミツバメに代表される世界的に見ても希少な海鳥の繁殖地でもあり、今後とも人間の影響が加わらない状態で保護することを目的として、1975年5月には、自然環境保全法に基づき原生自然環境保全地域に指定され、さらに1983年6月、南硫黄島全体が原生自然環境保護地域の立入制限地区に指定されている。また、南硫黄島の自然保護体制は国際自然保護連合 (IUCN) の自然保護地域カテゴリーの厳正保護地域 (Ia) ならびに原生自然地域 (Ib) に分類されていて、国際基準的にも厳格な保護体制が認められている。 =ジアゼパム= ジアゼパム(英語: Diazepam)は、主に抗不安薬、抗けいれん薬、催眠鎮静薬として用いられる、ベンゾジアゼピン系の化合物である。筋弛緩作用もある。アルコールの離脱や、ベンゾジアゼピン離脱症候群の管理にも用いられる。ジアゼパムは、広く用いられる標準的なベンゾジアゼピン系の一つで、世界保健機関 (WHO) による必須医薬品の一覧に加えられている。また広く乱用される薬物であり、1971年の国際条約である向精神薬に関する条約のスケジュールIVに指定され、日本では処方箋医薬品の扱いである。処方・入手は医師の処方箋に限られる。(ジアゼパム錠) ジアゼパムによる有害事象としては、前向性健忘(特に高用量で)と鎮静、同時に、激昂やてんかん患者における発作の悪化といった奇異反応が挙げられる。またベンゾジアゼピン系はうつ病の原因となったり悪化させることがある。ジアゼパムも含め、ベンゾジアゼピンの長期的影響として耐性の形成、ベンゾジアゼピン依存症、減薬時のベンゾジアゼピン離脱症状がある。ベンゾジアゼピンの中止後の認知的な損失症状は、少なくとも6か月間持続する可能性があり、いくつかの損失症状の回復には、6か月以上必要な可能性があることが示されている。ジアゼパムには身体的依存の可能性があり、長期間にわたって使用すれば身体的依存による重篤な問題の原因となる。処方の慣行を改善するために各国政府に対して、緊急な行動が推奨されている。 化学的には、1,4‐ベンゾジアゼピン誘導体で、1950年代にレオ・スターンバックによって合成された。1960年代に広く用いられることとなった。日本での代替医薬品でない商品には、武田薬品工業のセルシンやアステラス製薬のホリゾンがあり、他に各種の後発医薬品が利用可能である。アメリカ合衆国での商品名としてValium、Seduxenなどがある。 ジアゼパムはてんかんや興奮の治療に用いられる。また、有痛性筋痙攣(いわゆる“こむらがえり”)などの筋痙攣の治療にはベンゾジアゼピン類の中で最も有用であるとされている。鎮静作用を生かし手術などの前投薬にも用いられる。アルコールやドラッグによる離脱症状の治療にも用いられる。 ==適応== ジアゼパムは以下のように、非常に広範な適応を持つ。 不安、パニック発作、興奮状態の治療(短期かつ初期段階)重度の不眠症の短期的治療手術前・手術後の鎮静破傷風(他の積極的な治療と併用する)疼痛を伴う筋疾患の補助療法脳卒中、多発性硬化症、脊髄損傷などを原因とする痙性麻痺(片麻痺、四肢麻痺)の補助療法(長期療法としてリハビリテーションと併用される)双極性障害の躁状態の初期管理(短期間に限る。リチウム、バルプロ酸などの第一選択薬と併用される)幻覚薬、および中枢神経興奮薬の過量摂取に対する補助療法アルコール、ベンゾジアゼピン、ならびに麻薬の離脱症状の緩和(医師による注意深い監視を要する)神経遮断薬(抗精神病薬)の、早期の錐体外路性副作用に対する補助療法数週間を越える服用後は、徐々に離脱することなく、急にジアゼパムを中止してはならない。ジアゼパムの離脱には数週間、時に数か月を要する。最初の50%は比較的急激に減量でき、次の25%はかなりゆっくり、最後の25%は極めて緩徐に減量する。これは、不快であったり、ときに重大な問題になる離脱症状を避けるためである。時に、50%の減量後に一時的な休薬が指示されることもある。 ===発作・けいれん=== てんかん重積状態の治療、ならびにそれ以外のてんかんの補助療法熱性けいれん ― 効果発現には数分かかる。効果がなければ小児科専門医への紹介が必要となる。熱性けいれんの発症予防 ― 複数回の熱性けいれんの既往がある小児、熱性けいれんはまだ1回しか起こしていないが家族歴濃厚なため反復の可能性が高い小児、てんかん患者のうち発熱に伴い痙攣のコントロールが不良になる患者などで適応がある。けいれん発作重積状態 ― 30分以内に停止させること。注射剤、痙攣が制御されるまで、ないし総量20mgまで(英語版ではもう少し総量を上に見ている。資料にもよる)。1、2分で効果が発現する。効果がなければフェニトイン(アレビアチン)などを追加する。正確には、ジアゼパムで稼いだ時間に次の治療法を考える形になる。 ===その他=== 獣医学的な用途にも用いられ、犬猫の短期間作用型鎮静・抗不安薬として大変有用である。犬猫の術前鎮静薬や、鎮静が許容できる場合での抗けいれん薬(短期・長期治療いずれも)としても使用される。例として、猫のけいれん発作重積状態を止めるためには、5mgの注腸、ないし緩徐な静注(必要により再投与)が用いられることがある。 ==禁忌== ジアゼパムの禁忌には以下のようなものがある。 ===絶対禁忌=== 重症筋無力症急性アルコール・睡眠薬・精神作動薬中毒運動失調重症呼吸不全急性閉塞隅角緑内障重症肝不全ベンゾジアゼピン類への過敏症、アレルギー ===慎重投与=== 小児、および青年期(18歳未満) ― 処方は、けいれんの治療、および周術期の鎮静を除いては通常指示されない。この世代への臨床投与データは不足している。(従って、不安、不眠などについては)精神療法を第一選択とすることが多い。アルコール乱用、および依存の既往を持つ患者:使用(処方)する場合、注意深くこれらの患者を観察する必要がある。低血圧、およびショック状態の患者への経静脈投与認知症のBPSD世界保健機関によれば、自殺企図や物質依存の既往がある場合にはこれらのリスクを増加しないか慎重に投与する必要があり、ベンゾジアゼピン系の処方は30日以内にすることが合理的である。よく知らない外来患者にベンゾジアゼピンを処方することは避ける。 ===妊娠=== アメリカ食品医薬品局 (FDA)による胎児危険度分類では、ジアゼパムはDに分類される。これは、胎児に対する明確なリスクがあることを意味する。ただし、注意が必要であるが、これはあくまでもリスクであり絶対禁忌ではない(この分類では、カテゴリー「X」が絶対禁忌である)。リスクとベネフィットを見比べての選択となる。 ==有害事象== ジアゼパムを含めて、ベンゾジアゼピン系の有害事象には、前向性健忘と混乱(特に高用量において)と鎮静がある。長期間のベンゾジアゼピン系の使用は、耐性やベンゾジアゼピン依存症、ベンゾジアゼピン離脱症候群に結び付いている。他のベンゾジアゼピン系のように、ジアゼパムは新しい情報の短期記憶および学習を損なう。ベンゾジアゼピンは前向性健忘症を引き起こす可能性があるが、逆行性健忘は発生しない。すなわちベンゾジアゼピン服用以前に学習した情報は失われない。ベンゾジアゼピンの認知障害については長期使用による耐性は形成されない。高齢者はベンゾジアゼピンによる認知を損なう作用に対して過敏である。ベンゾジアゼピン停止後の認知障害は少なくとも6か月続き、この障害が6か月後に軽減するか永久的かどうかは不明である。またベンゾジアゼピンはうつ病を悪化させる。 発作を管理するときなど、ジアゼパムの静脈内注射や輸液を繰り返すと、呼吸抑制・鎮静・血圧などの薬物毒性に繋がることがある。ジアゼパムを24時間以上点滴されたならば、耐性が形成される。鎮静・ベンゾジアゼピン依存症・乱用の可能性のため、ベンゾジアゼピンの使用は限定される。 ジアゼパムには、(他のベンゾジアゼピンと共通の)様々な副作用が存在する。特に頻繁なものは以下である。 傾眠傾向抑うつ、吐き気運動機能・協調運動障害(動揺性)めまい神経過敏順行性健忘(特に、高用量を服用した時)ジアゼパムの通常予想される作用と反対の反応、つまり、易興奮性、筋痙攣、そして(極端な場合)憤激や暴力が起きる可能性がある。これは「奇異反応」と呼ばれる。こうした反応があった場合、ただちにジアゼパムを中止しなければならない。こうした効果から、身体における耐性と精神的な依存が引き起こされうる。 長期間の投与例の30%以下には、「低用量依存」として知られるある種の薬物依存状態が引き起こされる。こうした患者はジアゼパムによって生じる「良い気分」を感じるために、用量を増加させることは必要としない。こうした患者の場合、離脱は困難を伴い、徐々に漸減する計画によってのみ離脱が達成されうる。 外来患者にジアゼパムを処方する場合、機械操作・車両の運転に支障をきたす可能性に常に留意する必要がある。こうした障害は、アルコール摂取によって悪化する。どちらの薬物も中枢神経系を抑制するからである。治療の経過中に、通常は鎮静効果への耐性が出現する。 まれに、白血球減少症、あるいは胆汁うっ滞性肝障害といった副作用が観察されることがある。 睡眠時無呼吸症候群を有する患者には、呼吸抑制作用によって呼吸停止と死を招く可能性がある。 ===耐性と依存性=== ジアゼパムは他のベンゾジアゼピンと同様に、薬物耐性、身体依存、依存症といった要因により、ベンゾジアゼピン離脱症候群が発生する可能性がある。離脱症状は、バルビツール酸系やアルコールによって起きるものに似ている。大量また長期間の投与は不快な離脱症候を発生させるリスクを高める。離脱症候は通常量や短時間の投与でも発生し、不眠や不安、より重篤な場合には、発作や精神病などに渡る症状となる。時に、離脱症候は既存の病状に似ているため誤診されることがある。ジアゼパムはその長い半減期のため強烈な離脱症候をもたらす。ベンゾジアゼピンによる治療は可能な限り短期間に止め、徐々に中断しなければならない。 治療によって耐性が形成される。例えば抗けいれん作用に対して耐性が形成されるため、一般的にベンゾジアゼピンはてんかんの長期的な管理には推奨されていない。「投与量の増加によって耐性(分量耐性)を乗り越えても、さらなる耐性が形成され副作用が増加する。」このベンゾジアゼピンの耐性形成の機序は、受容体部位の脱共役、遺伝子発現の変化、受容体部位の下方制御、GABA作用受容体部位の脱感作などが含まれる。約4週間以上にわたりベンゾジアゼピンを服用した人の約3分の1に依存が形成され、中止時に離脱症候が起きる。離脱症状の発生率の違いは、患者の状況によって異なる。たとえば長期的なベンゾジアゼピン服用者のランダムなサンプルにおいて、約50%では離脱症状が少ないか全くなく、残りの50%に離脱症状を認めることができる。選択的な患者集団では、ほぼ100%に近い割合で離脱症状を認める。反跳性不安や原症状よりもさらに重度の不安が、ジアゼパムやベンゾジアゼピンに共通の離脱症状である。ジアゼパムは、低容量で徐々に減量しても重篤な離脱症状の危険性があるため、可能な限りの低容量で、短期間の治療が推奨される。ジアゼパムを6週間以上投与すればベンゾジアゼピン離脱症候群によって、患者に薬物依存の状態を形成する重大なリスクがある。人間への耐性は、ジアゼパムの抗けいれん作用について頻繁に発生する。 ===依存症=== ジアゼパムの不適切または過剰な使用は、精神的依存/薬物依存症を形成する。 以下の集団に属する患者は、乱用の兆候や依存の形成がないかについて慎重に観察されるべきである。これらの兆候が少しでも見られたならば、治療は中止されなければならない。しかしながら、身体依存が形成されている場合は、重篤な離脱症状を避けるために徐々に中断しなければならない。これらの人々に対し、長期間の治療は推奨できない。 アルコールや薬物について乱用や依存の既往歴のある患者。ジアゼパムは飲酒の欲望を増加させる。ジアゼパムはまた飲酒量を増加させる。境界性パーソナリティ障害など、深刻なパーソナリティ障害を伴う患者感情の不安定な患者慢性痛や、その他の身体疾患を伴う患者ベンゾジアゼピンに対して精神的依存の疑いのある人に対しては、非常に緩やかに断薬しなければならない。まれながら、投与が長時間にわたっている場合、離脱症状が致命的となることがある。依存の形成が治療によるものか乱用によるものかを慎重に判断しなければならない。 ===過量摂取=== ジアゼパムを過量に摂取した人は、傾眠の傾向、意識の昏迷、昏睡、腱反射の減弱といった徴候を示す。ジアゼパムの過量摂取は救急医療的な状態であり、救急医療関係者による迅速な発見が必要である。この場合の拮抗薬はフルマゼニル(アネキセート)である。ジアゼパムの作用が消失するには数日かかり、フルマゼニルは短期間作用型の薬剤であるためフルマゼニルの連続投与が必要になることがある。必要に応じて、気管挿管と心肺機能の管理を行うべきである。人間の、経口摂取でのジアゼパムの致死量は500mgないしそれ以上と見積もられている。300mgを経口摂取した症例でも、睡眠時間の延長と連続した傾眠傾向だけで、重篤な合併症もなく回復してしまったこともある。ただし、ジアゼパムとアルコール、その他の中枢神経抑制薬の併用では場合により致命的となる。 ==作用機序== 動物では、ジアゼパムは大脳辺縁系、ならびに視床と視床下部に作用して鎮静作用をもたらす。作用は、特異的なベンゾジアゼピン受容体に結合することでもたらされる。この受容体結合部位をさらに詳述すると、γ‐アミノ酪酸(GABA)受容体のうち、GABAA受容体‐Clチャネル複合体のα部位という部分である。ここにジアゼパムが結合することで、GABAの作用が増強される。GABAの作用は抑制作用である。ジアゼパムは全身組織、ことに脂肪組織に再分布し、ベンゾジアゼピン受容体の誘導(発現増強)も引き起こす。人間では、鎮静作用に対する耐性は数週間以内に形成されるが、抗不安作用に対する耐性は誘導されない。なお、ロラゼパム、クロナゼパム、アルプラゾラムなどは、ジアゼパムよりも強い抗不安作用を持つが、これらの薬剤はジアゼパムよりもさらに強い依存のリスクを伴う。 実験的な知見としては、ロシュ社(スイス)の研究施設で、ラットの脳に手術を行い、大脳辺縁系に異常な変化を与えてきわめて神経質、かつよく跳ねるラットを作成し、こうしたラットに Librium、ないし Valium といったジアゼパム製剤を与えたところ、こうしたラットが正常に行動するとのことである。 ==薬物動態学== ジアゼパムは経口、経静脈、筋肉注射、坐剤(商品名「ダイアップ」―熱性けいれんなどで頻用される。後述)の各経路で投与できる。経口投与されると速やかに吸収されて作用を発現する。筋注での作用の発現は、はるかに遅く不安定である。ジアゼパムは脂溶性に富み、そのため血液脳関門 (BBB) を容易に通過する。肝臓で代謝され、二相性の半減期を示す。つまり、ジアゼパム自体の半減期は20―100時間であるが、その主な活性代謝産物であるデスメチルジアゼパムの半減期が2―5日である。ジアゼパムのその他の代謝産物としては、テマゼパム、ロラゼパムが挙げられる。ジアゼパムとその代謝産物は尿へ排泄される。 一般に摂取された薬物の半減期は、ある用量の薬物を1回投与したときに、血中薬物濃度がピークの値の半分になるのに要する時間、で計測されるが、英国のニューカッスル大学名誉教授の、C・アシュトン (Ashton)(精神薬理学)は、ジアゼパム自体の半減期として20―100時間、活性代謝物の半減期として36―200時間という値を公表している。 ===薬物相互作用=== ジアゼパムを他の薬剤と併用投与する場合、薬物相互作用の可能性に注意が必要とされる。とりわけバルビツール酸系、フェノチアジン、麻薬 (narcotics)、抗うつ薬といった、ジアゼパムの作用を強める薬剤には注意が必要である。 ジアゼパムは、アルコールや他の睡眠薬/鎮静薬(バルビツール酸系など)、オピエート、他の筋弛緩薬、特定の抗うつ薬、抗ヒスタミン鎮静薬、アヘン、抗精神病薬、抗痙攣剤(フェノバルビタール、フェニトイン、カルバマゼピンなど)を増強する。オピオイドの陶酔効果の増強は、精神的依存のリスク増加に繋がる。シメチジン(タガメット)、オメプラゾール(オメプラール、オメプラゾン)、ケトコナゾール(ニゾラール)、フルオキセチン(プロザック)はその排泄を遅延させ、作用時間を延長させる。ジスルフィラム(ノックビン)も同様の作用を持つかもしれない。したがって、長期投与ではジアゼパムの投与量を下げる必要がある。経口避妊薬(ピル)は、重要な活性代謝産物であるデスメチルジアゼパムの除去を遅延させる。シサプリド(アセナリン)はジアゼパムの吸収を促進し、その鎮静作用を増強するかもしれない。喫煙はジアゼパムの排泄を促進し、作用を減弱させうる。低用量テオフィリン(テオドール、テオロング)はジアゼパムの作用を阻害する。ジアゼパムは、パーキンソン病の治療におけるレボドパの作用を阻害することがある。ジアゼパムはまれに、フェニトイン(アレビアチン)の代謝を阻害し、その作用(と副作用)を増強する。 ==合成法== 1961年にレオ・スターンバックらのグループは以下の方法によるジアゼパムの合成を報告した。 p‐クロロアニリンに過剰量の塩化ベンゾイルを加えて、アミノ基をベンゾイル化し、そこに塩化亜鉛を添加して、そのまま連続的にフリーデル・クラフツ反応を行う。ここで反応物はもう1分子の p‐クロロアニリンが一つのカルボニル基とイミンを形成し、もう1つのカルボニル基とはアザアセタールを形成して6員環化合物になっている。硫酸‐酢酸‐水による反応で、この余計な p‐クロロアニリンを除去すると同時にアミノ基上のベンゾイル基を脱保護する。 続いてヒドロキシルアミン塩酸塩との反応でオキシムを得る。この際に得られるオキシムは主に (Z)‐体であるが、後の反応に必要なのは (E)‐体であるため、異性化を行う。ギ酸によりオキシム窒素をホルミル化すると、異性化が起こると同時にギ酸のカルボニル基がアミノ基とイミンを形成した6員環化合物が得られる。水酸化ナトリウムによりこのホルミル基を除去すると、(E)‐体のオキシムが得られる。 次にクロロ酢酸クロリドとのショッテン・バウマン反応によりアミノ基をクロロアセチル化する。さらに水酸化ナトリウム存在下で反応させると、オキシム窒素のクロロアセチル基への求核置換が起こり、ベンゾジアゼピン骨格が形成される。なお、スターンバックらはこの化合物の合成法について、同じ文献上でいくつかの別法も報告している。 ナトリウムメトキシドにより、アミド窒素上のプロトンを引き抜いた後に、ジメチル硫酸によりメチル化する。ラネーニッケル触媒を用いて1気圧の水素ガスにより N‐オキシドを還元すると、ジアゼパムが得られる。なお、メチル化と N‐オキシドの還元の順番は逆でも問題ない。 ==歴史== ジアゼパムは、母体となるベンゾジアゼピンの開発者でもあるレオ・スターンバックによって1950年代に開発された化合物である。スターンバックはこの功績により2005年、アメリカ発明者栄誉殿堂(英語版)に加えられている。ジアゼパムのCAS登録番号は439‐14‐5であり、IUPAC命名法では 7‐chloro‐1,3‐dihydro‐1‐methyl‐5‐phenyl‐2H‐1,4‐benzodiazepin‐2‐one となる。天然においても、ジャガイモやエストラゴンにはごく微量のジアゼパムやテマゼパム(英語版) が含まれている。 アメリカ合衆国において、1961年にジアゼパムが臨床応用されると、過量摂取による死亡事故が後を絶たなかったバルビツール酸系薬に対する、最良の代替物であることが、直ちに判明した。ジアゼパムはバルビツールのように明らかな副作用を示さなかったので、すぐに慢性的な不安に対する処方として普及した。1962年から1982年までのアメリカで、最も売れた薬剤はジアゼパムである。 現在では、かつてのようにジアゼパムには副作用がないとは考えられなくなっている。薬物乱用のリスクが認識され、アメリカでのジアゼパムの使用量は1980年から1990年代の間にほぼ半減した。一方で、すでに古典的な薬物であるジアゼパムは、近年でも一部の錐体外路疾患の補助療法、小児の不安の治療(小児に適応のある数少ない精神安定剤でもある)、そして痙性麻痺の補助療法などに適応を広げつつある。 2003年、ジアゼパムを患者に知らせずに投与すると、不安を軽減する効果が認められないという内容の論文がアメリカ心理学会の雑誌Prevention & Treatmentに掲載された。同論文では、ジアゼパムによる不安の軽減はプラセボ効果と推論されている。 ==逸話== ゲーム「メタルギアソリッド」には、狙撃時の手ぶれを少なくする効果で、ジアゼパムがアイテムとして登場する。「メタルギアソリッド インテグラル」および「メタルギアソリッド2 サンズオブリバティ」まではこの名称だったが、権利上の問題が発生したためか、メタルギアソリッド2 サブスタンス(サンズオブリバティの完全版)以降は『ペンタゼミン』という架空の名称に変更された。ローリング・ストーンズにはジアゼパム (Valium) に捧げられた曲『マザーズ・リトル・ヘルパー』があり、その中で ”little yellow pill”(小さな黄色い丸薬)として登場する。1975年、ニュージャージー州在住であったカレン・クィンランはアルコールとともにジアゼパムを摂取し、意識障害と呼吸停止をきたした。その後彼女は昏睡状態となり、遷延性意識障害と診断された。患者の家族は彼女の死ぬ権利を主張したが、彼女が入院していたカトリック系の病院はこれを認めなかった。このため法廷闘争となり、州の最高裁判所によって家族の主張を支持する判決が下された。そして彼女の人工呼吸器は取り外されたが、クィンランはなお9年間にわたって生き続けた。これは患者の自己決定権としての「死ぬ権利」が法的に認められた最初の事例であると考えられている。中島らもの自伝的作品「今夜全てのバーで」にはアルコール依存症で入院した主人公が不眠症になり、医者にジアゼパムの注射を要求する場面がある。映画「スペースボール」(1987年、メル・ブルックス監督)に登場するナルコレプシーを患ったValium王子(演:Jim J. Bullock)の名は、このジアゼパムの米国での商品名に由来している。なお、日本では「Valium」の名が全く知られていないため、字幕などでは「アクビ王子」に改名されている。 =横須賀海軍施設ドック= 横須賀海軍施設ドック(よこすかかいぐんしせつドック)は、神奈川県横須賀市の在日アメリカ海軍横須賀海軍施設内にあり、米海軍および海上自衛隊の艦艇修理に使用されている6基の乾ドックである。最古の1号ドックは横須賀造船所時代の明治4年(1871年)に完成しているが、現在もなお使用されている。最大の6号ドックは大和型戦艦の建造ならびに修理・改造を行うことを目的とし、昭和15年(1940年)に完成したドックであり、現在は米海軍空母の修理などに使用されている。また当記事ではドックの付帯設備であるクレーン、ポンプ室等についても必要に応じて説明を加えていく。 ==概要== 開国後、江戸幕府は西洋式の艦船の建造を開始し、また諸外国から艦船の購入を進めるようになった。そのような中で西洋式の艦船を建造し改修、修理する施設の必要性が高まっていった。江戸幕府は主にフランスの援助を仰ぎ、小栗忠順、レオン・ロッシュらが適所を検討した結果、現在の横須賀の地に慶応元年(1865年)に横須賀製鉄所(後の横須賀造船所)が開設された。そして艦船を改修、修理する横須賀製鉄所内の主要施設として、慶応3年(1867年)にドライドックの建設が開始された。現在の横須賀海軍施設1号ドックである。 大政奉還から王政復古の大号令に至る一連の流れにより江戸幕府が廃され、明治政府が成立するが、横須賀造船所の建設は幕府時代と同様に進められることになった。慶応3年(1867年)に建設が開始されていたドックは明治4年(1871年)に完成し、引き続き3号ドック、2号ドックが建設された。1号ドック、3号ドックの建設時まではレオンス・ヴェルニーなどフランス人技術者のもとでドック建設が進められていたが、2号ドックについては設計段階ではフランス人が携わったものの、実際の工事場面では横須賀造船所で技術を学んだ恒川柳作が総責任者となってドックを完成へと導いた。その後恒川は日本各地でドック建造に携わることになり、日本のドライドック建設の草分け的な存在となった。 横須賀造船所は組織改革などを経て、横須賀海軍工廠となり、日本の海軍力増強に伴い規模の拡大が進んだ。そのような中、明治38年(1905年)には軍艦の大型化に対応した4号ドックが完成し、さらに大正5年には第5号ドックが完成した。5号ドックは当時激しさを増していた列強の建艦競争の中、完成直後に延長工事が行われることになり、大正13年(1924年)に延長工事は完成した。なお4号ドックも昭和3年(1928年)に艦艇の大型化などに対応するために延長工事が開始され、翌昭和4年(1929年)に完成した。 日本は昭和9年(1934年)にワシントン海軍軍縮条約からの脱退を宣言し、昭和11年(1936年)にはロンドン海軍軍縮条約からも脱退し、その結果激しい海軍の軍拡競争が行われることになった。そのような中、昭和10年(1935年)に大和型戦艦の建造および改修、修理が可能な大規模なドックとして、6号ドックの建設が開始され、また昭和11年(1936年)には、明治初年に完成した1号ドックの延長工事が行われた。6号ドックは昭和15年(1940年)に完成し、6号ドックを使用して当初大和型戦艦の三番艦となる予定であった信濃が建造されたが、進水後呉海軍工廠へ回航される途中、米潜水艦アーチャーフィッシュの魚雷攻撃を受け沈没した。なお、4号ドックでは昭和18年(1943年)から昭和19年(1944年)にかけて再延長工事が行われ、1号から6号ドックは現在の規模となった。 終戦後、横須賀海軍工廠は連合軍に接収されることになり、1号から6号ドックもまた接収された。昭和22年(1947年)には米海軍艦船修理廠が発足し、各ドックではアメリカ海軍艦船の改修、修理が行われるようになった。特に横須賀が米第七艦隊の事実上の母港として空母の配備が開始されると、最大の6号ドックでは米空母の改修、修理が行われるようになった。平成末期の現在も、明治初年に完成した1号ドックを始めとする、戦前に造られたドライドックでは米海軍、海上自衛隊の艦船の改修、修理が行われ続けている。 ==ドライドック建設に至る経緯== ===鎖国の終焉と艦船修理需要の発生=== 嘉永6年(1853年)、ペリー艦隊が来航し、翌嘉永7年(1854年)には日米和親条約が締結され、日本の鎖国体制は終焉を迎えた。そのような中、江戸幕府は嘉永6年(1853年)9月、これまで禁止していた荷物船以外の大型船の建造を認めることとした。これは諸外国の船が相次いで日本へ来航する状況を踏まえ、軍艦の建造を可能とすることを狙ったものであった。早速幕府は浦賀にて鳳凰丸の建造を開始し、その後も艦船の建造を継続し、さらに欧米各国から艦船の購入を進めた。 幕府が艦船の建造と購入を進めていく中で、保有する艦船の修理を行う必要性が高まってきた。幕府が購入した艦船の多くが中古船であったうえ、慣れない西洋式の艦船の操船で、事故によって船が損傷することも多かったことが修理の必要性をより高めた。幕府はまず、湾が深くかつ水深もあるため、風待ちの港として利用されてきた浦賀に艦船の修理場所を設けた。しかし浦賀は狭い湾の周囲に山が迫っている上に、これまで港町として繁栄していたために広い土地が取れず、恒久的な艦船の修復場所としては適さないとの意見が出されるようになった。 そのような中、注目されるようになってきたのが横須賀と長浦であった。特に横須賀では万延元年(1860年)に座礁したアメリカ船の修理を行って以降、オランダ船やイギリス船の修理が行われており、港湾としての有用性が注目されるようになっていた。 幕府は安政2年(1855年)に長崎海軍伝習所を開き、文久元年(1861年)には長崎製鉄所となり、製鉄所、造船所に当たる設備を持つようになっていた。しかし長崎は江戸から遠い九州にあって外様大名の勢力に囲まれており、また設備的にも本格的なものにはほど遠く、江戸に近い場所で本格的な製鉄や造船の機能を備えた施設の建設が望まれるようになった。 文久2年(1862年)、幕府は長崎でオランダ人技師から江戸近辺で製鉄所の建設を開始するに当たり、アドバイスを受けた。オランダ人の技師からは、当時の長崎製鉄所の設備は貧弱であり大規模な船の建造や修復は出来ないこと、そしてフランスのトゥーロン、シェルブールなど、当時のヨーロッパ最先端の製鉄、造船施設のあらましについて説明を受けた。さらに江戸の周辺は水深が浅く、また河川からの砂の流入で砂底のため、製鉄所の建設には適さないとの意見を受けた。 同年、幕府は横浜から三浦半島付近を視察して製鉄所の適所を探す試みも行った。しかし文久2年8月21日(1862年9月14日)、生麦事件が発生し、幕府と諸外国との外交関係が緊迫する中、江戸に近い場所での製鉄所建設計画はいったん中断された。 ===横須賀製鉄所の建設開始とヴェルニーの登場=== いったん頓挫した江戸近くでの本格的な製鉄所建設計画であるが、元治元年(1864年)に入って動き出した。まず元治元年3月22日(1864年4月27日)、フランスの新しい公使としてレオン・ロッシュが着任した。ロッシュはイギリスが幕府から距離を置く立場を取るようになる中、逆に幕府へ接近する姿勢を見せた。また同年8月には小栗忠順が幕府の勘定奉行に再任され、同じ頃、フランス語が堪能である栗本鋤雲が目付に抜擢された。 当時幕府が諸外国から購入した艦船は中古船が多く、幕府はその修復に頭を悩ませていた。そこでフランス語が堪能な栗本に白羽の矢が立てられ、幕府が所有していた蒸気船翔鶴丸の修復についてフランスに依頼するように命じられた。栗本はロッシュと交渉したところ、日本側と接近する好機会と捉えたロッシュは、横浜港に停泊していたフランス艦隊に赴き、艦隊の司令官ジョレスに翔鶴丸修理の了承を取り付け、フランスの手によって修復作業が行われることになった。その結果2か月足らずで完璧な修理が行われ、勘定奉行の小栗らがフランスの技術を導入して製鉄所の建設を進めるきっかけとなった。 元治元年11月3日(1864年12月1日)、小栗は栗本とともにロッシュと面会した。小栗は日本独自の造船所建設への意欲を述べ、造船所建設に当たり技術指導を行える人材の紹介を依頼した。ロッシュはフランス艦隊司令官のジョレスと相談した上、翌日小栗に対し、フランスにあるような本格的な造船所や修船場の建設を勧め、本格的な造船所や修船場を建設するのならば最初に良い技師、機械を精選することが重要であることを指摘し、フランスがそのための協力を惜しまないこと、これまでナポレオン3世の命で上海にて5艘の船を建造したレオンス・ヴェルニーという造船技師が任務を終えて帰国するところなので、日本側からの正式要請があれば日本へ来るように斡旋することを回答した。ロッシュの提案に対する幕府の回答はすばやかった。元治元年11月10日(1864年12月8日)、ロッシュに対して製鉄所建設と船舶建造の経験を持つフランス士官の派遣を正式に依頼する文章を交付した。 元治元年11月26日(1864年12月24日)、フランス艦隊司令官ジョレスらフランス海軍の関係者、ロッシュ、小栗、栗本らは造船所の建設候補地の見分を行った。まず幕府が第一の候補地としていた長浦へ向かい、測量を実施したところ湾内に浅瀬があって大型艦船の航行に問題があることが判明した。続いて隣の横須賀へ向かい、湾内を測量してみたところ水深が深く、また地形的な立地条件がフランス最大の軍港の一つであったトゥーロンに類似していることから、横須賀を建設候補地とすることとした。そして元治元年12月2日(1864年12月30日)から翌元治2年(1865年)正月にかけて、幕府独自に横須賀の測量を実施した。 元治元年12月8日(1865年1月5日)、ロッシュは老中諏訪忠誠の屋敷で、諏訪と老中阿部正外、老中水野忠精の3名の老中と会見した。ロッシュは幕府の造船所建設計画に対し、多額の費用と長い期間がかかることを認めた上で、日本を強国にするための基礎となるものなので、必ず建設すべきであるとの意見を述べた。すると老中らからは必要性については十分に認識しているものの、破綻状態に近かった幕府の財政事情をロッシュに説明し、困難さを訴えた。当時の厳しい財政事情もあって造船所建設には反対意見も出されていたが、結局小栗らが押し切った。またこの時の会談で、ロッシュから先日推薦した造船技師ヴェルニーが近日中に来日することが伝えられ、ヴェルニーが来日したら幕府が所有する機械類について確認してもらい、足りない機械類はフランスで購入することを提案し、了承を得た。 ヴェルニーは元治2年(1865年)1月、上海から来日した。ヴェルニーは当時27歳の海軍の技術士官であった。彼はまず幕府が所有している機械類の確認と、造船所建設予定地である横須賀を視察した。ヴェルニーは横須賀を造船所建設の好適地と認め、幕府から依頼された造船所建設事業を引き受ける決心を固め、横須賀製鉄所建設の原案を作成した。建設原案の中で横須賀について、周囲が丘に囲まれた広くて波が静かであり、かつ水深が深く、船舶を泊めるに適した湾である上に、地質が粘土質であるため、山を削って海を埋め立てて、ドックや工場を建設するのに都合が良い場所であるとした上で、2基のドライドックの建設などを提案した。このヴェルニーの提案はほぼ認められ、元治2年1月29日(1865年2月25日)、幕府はロッシュに『製鉄所約定書』を交付し、フランス側と正式に横須賀製鉄所の建設に関する契約を取り交わした。そして元治2年2月4日(1865年3月1日)、ロッシュから幕府側に横須賀製鉄所の土木工事計画図が示された。計画図にはヴェルニーが提案した通り、2基のドライドックが計画されていた。ロッシュの示した土木工事計画図に基づき、元治2年3月12日(1865年4月7日)、横須賀製鉄所の建設用地約23.76ヘクタールが正式決定された。 元治元年(1865年)2月、ヴェルニーは製鉄所で使用する機械の購入や、製鉄所建設を担う技師を募集するためにいったんフランスへ帰国した。製鉄所建設の責任者であるヴェルニーの帰国中、アメリカが巻き返しを図った。慶応元年(1865年)8月、アメリカ公使館はフランスが推薦するドライドックではなく、浮きドックの採用を勧めてきたのである。結局万延元年遣米使節がアメリカで浮きドックを見学した際などで得られた、「浮きドックは耐用年数が短い」と言う知見を基に、アメリカ側の提案を拒絶することになった。 しかしドックの建設計画が進められていく中でヴェルニーにも迷いが生じた。ヴェルニーを悩ませたのはドックの耐震性の問題であった。ヴェルニーと幕府側はドックの耐震性の問題について協議していた。ヴェルニーは浮きドックは耐用年数や維持管理費用のことを考えると望ましくないとしたものの、建設費用がドライドックの約三分の二であり、しかも耐震性の問題を考慮すると必ずしも不利とは言えないのではないかと考えたのである。ヴェルニーはフランス海軍省にドック建設についての技術的な検討を依頼した。結局、当初の建設計画では浅瀬を埋め立てて建設する予定であったものを、丘を崩し、その上で更に地面を掘り込んで建設する計画に改められた。 ところで幕府側に浮きドック建設を勧めたアメリカ側はすぐには引き下がらなかった。その後も横須賀製鉄所のドライドック建設には長い日時を要するとして、製鉄所のドライドック建設と並行して近隣に別に浮きドックを設ける提案を行ったり、更には横須賀製鉄所近くにアメリカ商船の修理用のドライドック建設をほのめかしたりした。結局アメリカ側の要求を幕府側は最後まで認めることはなく、ヴェルニーを責任者とするフランスの支援を受けてドライドックが建設された。 ==1号ドックの建設== ===ヴェルニーの奔走=== わずか27歳にして一大プロジェクトを任されたヴェルニーは、フランスで横須賀製鉄所建設に必要となる機械と人材の確保に奔走した。ヴェルニーの前には一儲けをもくろむ機械を売り込もうとする商人や、技術者が大勢おしかけたというが、ヴェルニーは彼らを一切相手にすることなく自らの目で機械と技術者を選んでいった。当初若いヴェルニーに一大プロジェクトを任せることに不安を感じていた多くの幕府要人たちも、そのようなヴェルニーの姿に信頼感を深めていった。 ヴェルニーがフランスで横須賀製鉄所建設に必要となる機械と人材の確保に奔走する間、横須賀では製鉄所の建設工事が始まっていた。慶応元年9月27日(1865年11月15日)には横須賀製鉄所の鍬入式が挙行され、製鉄所建設予定地の整地が開始された。土木作業では経費節減のために人足寄場の人足を動員してみたが、土木作業の経験が全くない者が多かったため著しく作業効率が悪く、1年ほどで中止となった。なお後の明治政府も財政難のため改めて人足寄場の人足を動員する。そのような中、慶応2年(1866年)5月、ヴェルニーは日本に戻り、本格的に横須賀製鉄所建設事業に取り組むことになる。 ヴェルニーは横須賀製鉄所の中核施設となるドライドックの建設に際し、様々な点について検討し、決定していった。まずその立地である。1号、2号、3号ドックはそれぞれ隣接しているが、ドック建設時に小さな入江をいくつか埋め立てはしたものの、基本的に埋立地ではなく地山であり、特に2号ドックから3号ドックにかけては標高約45メートル程度の白仙山と呼ばれていた丘を切り崩している。続いて建設予定地の土質については、更新世に形成された、粘着度が強くかつ水を通しにくいシルトが固結した軟岩の土丹と呼ばれる種類の強固な土質であり、掘削が困難という欠点はあるものの、ドックの建設中に大規模な土留めを必要とせず、さらに建設後はほぼ全体が海水面下となるドック本体が生み出す浮力によって発生する不等沈下が起こりにくい、ドックの安定性、耐久性を保つには最高といえるものであった。1号ドックは1877年(明治10年)に渠口部が崩壊する事故が発生したものの、その後関東大震災時にも地盤の液状化現象などによる大きな破損を生じることはなく、これはドック建設場所の地盤の良さを示している。 さらにドライドックを建設するに当たり、考慮せねばならないのが風向きである。通常ドライドックは主に風が吹く向きに建設される。これは船舶が出入渠する際に横風が当たるのを防ぎ、船舶が入渠して排水が終わってから船体全体が乾くまでの時間をなるだけ短くして作業の効率化を図り、さらに作業中常に風が吹き込むようにして入渠した船舶とドックの床面や側面が常に乾いた状態にして、作業が進めやすい環境にする意味合いがある。そのため建設地での風向きを把握した上で、ドックの設計がなされることになる。 ヴェルニーがドライドック建設に際してとりわけ心を砕いたのが、ドライドックに用いる石の選定であった。ヴェルニーは慶応3年(1867年)の4月から5月にかけて、武蔵、相模、伊豆の各地の石材産地を回り、ドック建設に適した石材探しに奔走した。結局現在の神奈川県真鶴町から静岡県熱海市にかけて産する、安山岩質の本小松石が最適であると判断し、ドック建設に使用されることになった。 ===1号ドックの建設開始=== ヴェルニーがドックに使用する石材探しに奔走する直前の慶応3年(1867年)3月、第1号ドックが着工された。着工後の慶応3年10月14日(1867年11月9日)、大政奉還が行われ、続いて慶応3年12月9日(1868年1月3日)に王政復古が宣言され、徳川幕府が終焉し、新政府が樹立されることになった。慶応4年閏4月1日(1868年5月22日)には新政府の東久世通禧、鍋島直大、寺島宗則らが横須賀製鉄所に来所し、横須賀製鉄所の接収を行った。接収後、横須賀製鉄所事業の重要性を認識していた新政府は、これまでと変わることなく事業を推進していくようヴェルニーに通告した。 1号ドックの設計はヴェルニーとヴェルニーのもと建築課長を務めていたL.F.フロランが行ったものと考えられている。1号ドックは当初全長約115メートルの計画であったが、工事途中に設計が変更され、約9メートル長い全長約124メートルとなった。工事監督は当初ツーロンの造船所で働いていたペリコが務めていたが、能力的に問題があったようでわずか2か月で同じくツーロンの造船所で働いていたデュモンと交代した。なお施工は幕府海軍御用達であった橋本長左衛門らが請け負った。 1号ドックの工事は、まずドック予定地前の海を締切堤で仕切ることから始められた。続いて締切堤の内部の海水を抜き、ドック本体の掘削が開始された。ドック本体の掘削に続いてドックに石を組む作業が行われた。先述のように真鶴から熱海付近から運ばれた安山岩質の新小松石が石材として使用された。石材の購入代金は当時の金額で18370両であった。一般的に船の修復用のドックは船の建設用ドックよりも底の部分が厚く造られる。これは既に完成された船の方が建造中の船よりも重いことによる。船の修復用ドックとして建設された第1号ドックも、そのあたりの事情が考慮されて造られたと考えられるが、現在に至るまで現役で使用され続けているために石組みの具体的な方法や厚さなどはこれまで確認されていない。また1号ドックの石積みについては、東京大学生産技術研究所の調査によれば、西洋式の直方体の石材を隙間無く組む方式と、日本式の「間知積み」と呼ばれる城の石垣を組む際に行われた方式の折衷であったと推察されている。なお、1号ドック建設中の1867年(慶応3年)11月に、建設現場からナウマンゾウの下顎部分の化石が発見されている。 1号ドックが完成し、使用され続けてすでに百数十年が経過しているが、一部に風化、磨耗が認められるものの、ドックを形成している石材は全体として健全な状態が保たれており、ヴェルニーが選び抜いた石材の耐久性、耐水性の高さは明らかである。2013年に行われた1号ドックの石材の侵食状況についての調査によれば、最も侵食が進んだ石材でも侵食の深さは約10センチメートルであり、石材全体から見て約四分の一の深さであることが明らかとなった。この程度の侵食ではドックの強度的に大きな問題が発生するとは考えられない。 1号ドックで使用したセメントの購入代金は石材の約3倍の56000両に達しており、ドック本体建設総費用の約45パーセントにも及んだ、これは当時日本で生産が不可能であった、水中でも固まる性質があるポルトランドセメントを全量輸入したためと考えられる。またポルトランドセメント以外にも消石灰および火山灰からなるセメントも併用したとの説もある。セメントは掘削したドック断面に石組みを構築する際、裏込めとされた。つまりセメントは現在の基礎コンクリートないし捨てコンクリートと同様の役割と、掘削されたドックの壁面と石組みとの充填剤の役割を果たしていると考えられる。 ドック本体の石組みが完成するとドックの入り口部分の建設が行われた。そこまで工事が進んだ後に締切堤の撤去がなされる。締切堤の撤去後、船舶がドックに出入する際に支障とならぬよう、締切堤があった部分を中心としたドック入り口付近の海底を浚渫した。浚渫終了後、ドック入り口を閉じる扉船がドック入り口に設置され、完成となった。なお扉船の購入費用は29568両に及び、他の工事費用と比較するとかなりの高額であったことがわかる。 1号ドックは明治4年(1871年)1月、完成した。明治4年2月8日(1871年3月27日)には有栖川宮熾仁親王、伊達宗城らが出席して1号ドックの開業式が行われた。1号ドックの特徴としてはドックの底面が水平となっている点が挙げられる。一般的にドライドックは排水を効率的に行うために、ドックの奥から入り口に向かってゆるやかな坂をなすように建造される。1号ドックの底面が水平に施工された理由は、ドック底面を均一な勾配で傾斜をつけることが技術的に困難であったからと考えられる。しかしやはりドック底が水平であると作業上都合が悪かったようで、1号ドックに続いて建造された3号ドックの底面は勾配がつけられた。また現在のドックと比較してもうひとつ大きな差は、ドックの壁面が階段状をしている点が挙げられる。これはフランスの技術指導のもと建設された1号ドックは、フランスが好んで建設していたドックの壁面が階段状をしたタイプになったものと考えられる。階段式のドライドックは船底が平らでない船舶のドック入りに便利であり、そのような船舶はドック入り後、排水時に船体を両側から支持棒で固定する必要があり、支持棒の設置のためにドックの壁面が階段状に施工される必要があったためである。また施工上も階段式の方が容易であった。 1号ドック建設場所は地盤が良く湧水も少量であったと考えられ、土留めや止水壁を用いることなく工事が可能であったと考えられるが、例えば海を締切堤で仕切るような大規模な海上での工事は、これまで日本では行われた経験がないもので、やはり工事は困難であったと考えられる。またこのような大きな近代的な海洋土木工事を、幕末から明治初年という時期に初めて取り組むこと自体、工事を進めていく組織作りと運営、材料の輸送と搬入などにも大きな困難が伴ったと考えられる。1号ドックは完成後百数十年余り、これまで改修と補修は行われているものの、今なお現役で使用され続けている。これは財政が破綻状態であった幕末期にあえて建設が開始されたことを始め、数多くの大きな困難の中で建設された1号ドックであるが、ヴェルニーの選定した建設場所や石材の優秀さ、そして施工の確かさ、技術力の高さを示している。 なお、1号ドックの排水ポンプは2号ドックと兼用であり、ドックの石積み護岸の一部は補修等は行われているが、ドック建設当初の幕末から明治初年のものが残っている。 ==3号ドックの建設== 1号ドックの完成後まもなく、明治4年(1871年)5月には第3号ドックの建設が開始された。なお1号ドックが完成し、3号ドックが着工された明治4年(1871年)、横須賀製鉄所は横須賀造船所と改称された。 ヴェルニーは当初の横須賀製鉄所建設計画で2基のドライドック建設を予定していたが、少なくとも3号ドック建設開始時までには3基のドックを建設する計画となったものと想定される。当時ドライドックを建設する場合、大中小の3基を建設するのが常識であった。それは19世紀後半に成立した海軍の艦隊編成に理由があった。当時の海軍は戦艦を中心とした編成となり、補助艦船として巡洋艦、そして奇襲攻撃の際などに活躍する駆逐艦などで編成されるようになってきた。従ってその艦隊編成に合わせて、ドックも船体の大きさに合わせて大中小の3基を建設することが効率的であった。当初横須賀製鉄所で2基のみのドライドック建設計画が立てられた最大の理由は資金難であったと考えられる。また1号の建設が終了した後に3号、そして3号の建設が終わってから2号と、ドックの建設が順番に行われ同時進行されなかった理由も、やはり幕末から明治初期にかけての深刻な財政難に加え、労働力不足の影響も大きかったものと推察されている。 3号ドックは1号ドックの西側に建設されたが、両ドックの間がかなり開いており、そこに2号ドックが建設されることになる。これは明らかに3つのドックを並べて建設し、しかも最大のドックとなる2号ドックを3基のドックの中央とする計画が存在したものといえる。それは1号ドックと2号ドックの間と、2号ドックと3号ドックの間にポンプ室を設置して、最大のドックである2号ドックの船舶入渠時には、両方のポンプを同時に使用して効率的な排水を行う仕組みとするためであった。このような点から、3号ドック建設開始時には3基のドックを並べて建設する計画があったものと推定される。現状でも2号ドックのポンプ室は、1号との兼用のポンプが1号ドックとの間に、3号との兼用ポンプが3号ドックとの間に2つ設けられている。 3号ドックの設計者は1号ドックと同じく、ヴェルニーとL.F.フロランと考えられている。なお施工指導はL.F.フロランの弟であるV.C.フロランが行った。V.C.フロランは第3号ドックでの施工指導が評価され、3号ドックの完成直後に工事が開始された、長崎市の工部省長崎造船所1号ドックの設計を行うことになった。なお3号ドックは明治7年(1874年)1月に完成している。 V.C.フロランが設計を担った長崎造船所第1号ドックが明治12年(1879年)に完成するまで、日本にドライドックは横須賀の1号、3号ドックしかなかった。そのため多くの明治政府の軍艦修復を請け負うこととなったが、商船の修理も行っていた。当時ドックの修理需要は極めて高く、半年待ちとなることもあった。1号、3号ドックの後に2号ドックを建造することは、計画されていたことと考えられるとはいえ、1号、3号ドックの需要の高さも2号ドックの建造開始の理由となった。 3号ドックの工事では、1号ドックと異なりセメント代が低額となっている。これは1号ドックでは主に輸入品のポルトランドセメントを使用したものが、3号ドックでは石灰などを用いてセメントも現地生産を行ったものと考えられる。ドックに用いられた石材については、1号ドックと同じく真鶴から熱海周辺で採石された安山岩質の新小松石を用いている。また1号ドックよりも小型の全長約90メートルの3号ドック建造では、工事中の締切堤が1号ドック建造の際より簡略なものであり、またドック底や側面の厚さが1号ドックよりも小さいと推定されるなど、小型のドックであったことによる違いが見られる。 3号ドックの特徴としては、まず1号ドックでは行われなかったドック底面の傾斜がつけられたことが挙げられる。しかし今度は傾斜が急すぎたようで、次に建造された2号ドックでは3号ドックの底面につけられた傾斜の約半分となった。 続いてドック入り口部分に扉船を繋ぐ戸当りが2か所設けられたことが挙げられる。これはドックに入渠する船舶の大きさによって扉船の位置を変え、排水量を少なくして作業の効率化を図ったものと考えられている。そして扉船を繋げる戸当りが2か所あるドライドックは、3号ドックの後、各地に建設されるようになる。 また3号ドックでは、ドックの奥の部分が半円形をしており、また斜路が設けられていることも特徴として挙げられる。当時のドライドックはドックの奥の部分は半円形ないし尖頭アーチ形となっていた。これは船体の形状に合わせることによって無駄な空間を出来る限り少なくし、艦船のドック入りの際に必要とされる排水量を減らすことと、もしドック奥を矩形とした場合、ドック奥の部分と側面との間に角が出来ることになるが、石造のドックの場合、角を構築することが技術的に難しかったため、角が生じない半円形ないし尖頭アーチ形を採用したと考えられている。後年、ドライドックがコンクリートで建造されるようになると、半円形や尖頭アーチ形はコストがかかるためドック奥は矩形を採用するようになった。 またドック奥に斜路が設けられた理由は、クレーンなどの重機が発達していなかった19世紀後半、船舶修理に必要な資材を、ドック奥に設けられた斜路を滑らせてドック底に降ろすためである。1号ドックも当初はドック奥は半円形をしており、斜路も設けられていたが、昭和10年(1935年)から昭和11年(1936年)にかけて延長された際、コンクリート製となった延長部分の奥は矩形となり、クレーンが発達した昭和時代には斜路の必要性も無かったために斜路も設けられなかった。3号ドックは明治7年(1874年)の完成以降、風化した石材のコンクリートによる補修が行われたのみで大きな改修は行われておらず、ドック完成時の形のまま現在も用いられており、建設当時の姿を残しているドライドックとしては日本最古のものであり大変貴重といえる。 ドック付帯設備としては、現在の3号ドックポンプ室は2号ドックと兼用であり、現在の2号、3号兼用のポンプ室は昭和16年(1941年)竣工のものとの記録が残っている。 ==2号ドックの建設== 3号ドックが完成した後の明治8年(1875年)末、ヴェルニーは横須賀造船所の長を退任し、翌明治9年(1876年)、短期間顧問を務めた後、同年3月にはフランスへ帰国した。帰国前、ヴェルニーは報告書を提出しているが、その中で「東京湾を出入りする大型船の修理が可能である、大規模なドライドックを建設する必要性がある」との内容を記していた。折りしも明治政府は明治8年(1875年)から海軍力の増強計画を開始していた。また当時保有していた軍艦の多くが老朽艦であり、海軍の増強に伴い艦船の数も増加していた。そのため横須賀のドライドックの需要は増大していき、修理が追いつかない状態になっていた。 明治政府の財政難が原因で、待ち望まれた大型ドックの着工は遅れることになったが、明治11年(1878年)1月に横須賀造船所長中牟田倉之助から海軍大輔川村純義に提出された、財政難によって着工が先延ばしになっている3基目のドライドックを建設したい旨の上申書に基づき、2号ドックの着工が決定された。 建設が決定した2号ドックの設計は、フランス人建築課長のジュエットが担った。明治11年(1878年)5月1日、ジュエットは契約期間が満了したが、建設予定の2号ドックの設計に携わっていたため契約が延長された。ジュエットは明治13年(1881年)5月1日に契約満了となり、2号ドックの着工を前にして帰国することとなった。 ジゥエットの後任として2号ドックの建設を指揮したのは、ヴェルニーの発案によって横須賀製鉄所内に設けられた技術者養成施設である「黌舎」で、造船工学と土木工学を学んだ技術者の恒川柳作であった。1号、3号ドックはフランス人技術者を中心として建設が進められたものが、2号ドック建設時には設計こそフランス人技術者によってなされたが施工は日本人が担うこととなり、日本人が技術を着実に習得してきたことを示している。なお恒川は2号ドック建設終了後、呉鎮守府、佐世保鎮守府、舞鶴鎮守府へ異動していき、それぞれの地でドライドック建設に携わり、さらに横浜で横浜船渠の設計も行うなど、まさに日本のドライドック建設の草分け的な存在となった。このように横須賀でヴェルニーなどから学んだ技術は日本各地へと広まっていった。 2号ドックは明治13年(1880年)7月に着工された。建設予定地には白仙山と呼ばれた標高約45メートルの硬い土質の丘があり、まず丘を崩しその後にドック本体の開削が始められた。なお建設時に生じた残土は横須賀造船所の東側の埋め立てに利用され、約7000坪の埋立地が造成された。 工事記録によればドック建設の際、最も難航したのがドック予定地前の海を締切堤で仕切る工事であったという。海を締め切る堤を建設する工事は難工事であり、しかも1号ドック、3号ドックの時と異なり日本人のみで作業に取り掛からねばならなかった。排水ポンプ2基を作動させながら作業を進め、成功裏に工事が行われると多くの人から賞賛を受けたと伝えられる。 ドックに用いられる石材は、1号、3号ドックと同じく真鶴から熱海にかけて産する、安山岩質の新小松石が用いられた。なお明治8年(1875年)には日本国内にセメント工場が完成しており、2号ドックではイギリス産と並んで国産のポルトランドセメントが用いられた。また第3号ドックで用いられたと見られる、石灰などを原料としたセメントも用いられたと考えられる。 2号ドックは明治17年(1884年)7月21日に完成式が行われ、北白川宮能久親王、海軍卿川村純義らが参列した。2号ドックの全長は156.5メートルに達し、これは当時明治初期に日本で建設された最大規模のドライドックであり、東洋一の大きさであったと考えられる。 2号ドックは3号ドックと同じくドック床面に傾斜がつけられているが、傾斜は3号ドックの約半分となっている。またドック奥は半円形をしていて斜路が設けられている点も共通している。2号ドックの周囲には軌間1078ミリの線路が巡っている。この線路の用途は不明であるが、ドック建設時に石材運搬用に線路が敷設されたとの記録が残っているためその線路であるか、またはドック入りした船舶の修理用資材を運搬するために敷設された線路であると考えられている。 2号ドックの最大の特徴は、ドック中央部にも扉船を繋ぐ戸当りが構築され、ドックを2分割して60‐70メートル級の船舶2隻を同時にドック入りすることが可能な構造であったことである。このため2号ドックではドック前部と後部の2か所に排水口を設けていた。このような2分割して利用できる仕組みを備えたドライドックは、日本では第2号ドックしか作られなかったが、増大する船舶修理需要を満たすため、このような構造を採用したものと考えられている。しかし艦船の規模の大型化に伴い、明治30年(1897年)に改修工事が実施され、ドック中央部の戸当りが撤去されてドックを2分割で使用することは出来なくなり、通常の全長156.5メートルのドックとして使用されるようになった。 明治20年(1887年)までに完成した日本のドライドックは、横須賀造船所で建設されたドック以外に、工部省長崎造船所1号ドック、大阪鉄工所ドックがあったが、両ドックとも現在は既に存在せず、横須賀海軍施設に現存し、現役ドックとして稼動し続けている1号ドック、2号ドック、3号ドックは極めて貴重な土木遺産であり、東京大学生産技術研究所の村松貞次郎教授は、「もし他の自由な場所にあったら文句無く国の第一級史跡であり、文化財である」と高く評価した。 ==軍艦の大型化と4号ドックの建設== 2号ドックが完成した明治17年(1884年)12月には横須賀鎮守府が設立された。明治19年(1886年)4月には横須賀鎮守府に造船部が設置され、これまで民間の造船業が未発達であったこともあって、民間や外国籍の船舶も修理を請け負っていたものが、海軍艦船の造船、艤装そして修理をその目的とされるようになった。明治22年(1889年)5月には横須賀造船所は廃止され、横須賀鎮守府造船部に統合された。そして横須賀鎮守府造船部は明治30年(1897年)に横須賀海軍造船廠となり、明治36年(1903年)11月には横須賀海軍工廠となった。 日本海軍では海軍力の増強に伴い、軍艦の大型化が進んでいた。そのような中、横須賀海軍工廠第四船渠として4号ドックの建設が開始されることになった。新ドック建設予定地には旗山と呼ばれていた丘があったが、明治31年(1898年)10月から旗山を崩してその土砂で海の埋め立てを行い、ドック建設予定地の整地を行った。明治34年(1901年)3月には予定地の整地が完了し、同年11月、4号ドックは起工された。工事の施工管理は主任技師の井上親雄が行った。4号ドックは日露戦争終了後の明治38年(1905年)9月に完成し、横須賀海軍工廠では軍艦の大型化に対応した最初のドックとなった。 4号ドックは建設当初、ドック主体部についてはコンクリート造、ドック入り口部は石組みによる石造となっており、コンクリートと石造の併用であった。またこれまで建造されたドックと同じく、ドック奥には物資運搬用の斜路が設けられたが、昭和3年(1928年)から昭和4年(1929年)にかけてに行われたドック長を40.6メートル延長する改修の際、1号ドックと同じく斜路は撤去された。4号ドックは昭和18年(1943年)から昭和19年(1944年)に再延長工事が行われ、また平成17年(2005年)には、ドック入渠の際に船体とドック壁を保護することを目的とし、ドック入り口部分に防舷材の設置工事が行われ、防舷材が設置される部分の石組みが撤去された。なお当工事中に工事箇所の4号ドックの石組みとコンクリートについて調査が実施され、石組みは1号から3号ドックで推定されるのと同じく、西洋式の直方体の石材を隙間無く組む方式と、日本式の「間知積み」と呼ばれる城の石垣を組む際に行われた方式の折衷であったと考えられることと、石組みの裏込みはコンクリートによって行われていたことが明らかとなった。 4号ドックには艦船修理の材料や部品を搬入するためのクレーンが設置され、戦後の米海軍艦船修理廠でも使用され続けてきたが、設備の老朽化が進んだために徐々に撤去が行われた。4号ドックのクレーンは平成13年(2001年)に撤去され、新たなクレーンに交換された。なお5号、6号ドックにも戦前から使用され続けていたクレーンが存在したが、平成15年(2003年)までには全て撤去され、現在は新しいクレーンが使用されている。 ==5号ドックと建艦競争== 日露戦争後、日本は海軍の更なる充実を図ることとし、その中で軍艦の国産化を進めていくこととした。明治38年(1905年)5月には戦艦薩摩が起工され、翌年11月に進水した。そのような中、明治39年(1906年)、イギリス海軍はそれまでの戦艦を旧式化させる革命的な戦艦ドレッドノートを完成させた。ドレッドノートの誕生は各国の海軍関係者に強い衝撃を与え、建艦競争が開始されることとなった。日本海軍も明治41年(1908年)、戦艦河内と摂津の建造を開始し、建艦競争に加わっていった。 このような情勢下、日本海軍の艦船数は著しく増加し、また大型化した。明治38年(1905年)に完成した4号ドックに入らない艦船の建造も始まったため、明治44年(1911年)7月には5号ドックの建設が開始されることになった。工事主任は澄田勘作が務めた。5号ドック建設前も、4号ドックと同じく建設予定地にあった丘を全て崩し、近くの海を埋め立ててドック建設予定地の整地が行われた。5号ドックの建設時はドック前面の海の締切に単層鉄矢板が用いられたとの記録が残っている。 5号ドックは建設途中に設計変更が行われ、ドックの規模が拡大されたことが明らかになっている。また設計変更は一回だけでなく再度実施された可能性もある。なお5号ドックは4号ドックと同じく、コンクリートと石造の併用であった。そして5号ドックは大正5年(1916年)3月に完成したが、新艦山城の改修工事の早期実施を迫られたため、ドック完成直後には昼夜兼行の改修工事が実施されたとの記録が残っている。 大正6年(1917年)、日本海軍は長門型戦艦の長門を起工した。続いて大正7年(1918年)には、長門型戦艦の二番艦である陸奥の建造が開始された。このような中で完成間もない5号ドックは延長工事が実施されることとなった。5号ドックの延長工事は大正13年(1924年)10月に完成し、ドック長が約70メートル延長され、全長320メートルを越える規模となった。大和型戦艦が出現する以前、日本海軍の艦船で長さは空母赤城、幅は戦艦長門、そして喫水は戦艦扶桑が最大であったが、改修された5号ドックは呉海軍工廠の4号ドックとともに、それら三艦艇の修理改修に対応可能な大型ドックであった。 なお、4号ドックと5号ドックの間にあるポンプ室は、並列している4号、5号両ドックの排水を行っているが、ポンプ室の建物は大正5年(1916年)の5号ドック完成当時の建物をそのまま使用しており、鉄骨で柱や梁を構築した後に壁面に煉瓦を積み上げられた鉄骨煉瓦造の建造物である。現在横須賀海軍施設内に残る鉄骨煉瓦造の建造物は、4号ドックと5号ドックの間にあるポンプ室のみであり、貴重な建造物である。 ==6号ドックと空母信濃== ===6号ドックの建設=== 第一次世界大戦後も列強の建艦競争は激しさを増し、過重な海軍軍事費は各国の財政を圧迫するようになった。そのような中、大正10年(1921年)にワシントン海軍軍縮条約が締結され、日本の主力艦、航空母艦の保有量はアメリカの6割とされた。続いて昭和5年(1930年)にはロンドン海軍軍縮条約が締結され、主力艦以外の補助艦艇の保有量にも制限が加えられることになった。ワシントン海軍軍縮条約以降の海軍休日によって建艦競争は一段落した。日本海軍は艦艇の保有量に制限が加えられたことにより、既存の艦艇の補修・改良に奔走することとなった。また日本海軍のアメリカ、イギリスの二大海軍大国に対して艦艇の質の高さで対抗しようとした方針により、攻撃型艦艇に重武装をする傾向が強かったが、過重な武装は艦艇の欠陥となって現れ、横須賀海軍工廠のドライドックでは艦艇の補修や改良が相次ぎ、繁忙を極めた。そのような中、大型艦艇の修理に対応するために、4号ドックでは昭和3年(1928年)から昭和4年(1929年)にかけてドック長を40.6メートル延長する改修が行われた。 日本は昭和9年(1934年)12月、ワシントン海軍軍縮条約からの脱退を宣言し、昭和11年(1936年)1月15日にはロンドン海軍軍縮条約の改正を目指した第二次ロンドン海軍軍縮会議からも脱退し、昭和12年(1937年)以降いわゆる無条約時代となり、海軍休日は終焉した。このような情勢下で日本海軍は大幅な軍備増強を計画し、その中で排水量65000トンクラスの大和型戦艦の建造が決定された。大和型戦艦を建造するに当たり、当時世界屈指の大型ドックであった呉海軍工廠の4号ドックでは建造、修理等が可能であったが、他に大和型戦艦の建造、修理が可能なドックがなかったため、大和型戦艦の効率的な建造と完成後のドック入りの便宜を考慮した結果、昭和10年(1935年)7月に横須賀海軍工廠内で6号ドックの建設が開始されることとなった。6号ドックは海軍省建築局長の吉田直が管轄した海軍技術部門のほぼ総力を挙げたチームが、日本国内はもとより日本国外からも参考文献を収集し、設計を進めていった。 6号ドックは船の修理用に建造されたこれまでの1号から5号ドックとは異なり、呉海軍工廠で建造された戦艦大和、長崎造船所で建造された戦艦武蔵に次ぐ大和型戦艦の三番艦が建造される予定となり、まず造船用として建造されることになった。6号ドックは昭和10年(1935年)7月に起工された。まずドック入口付近の海は築堤鋼矢板によって締切られ、そしてドック建設予定地にあった牡蠣ヶ浦の丘陵を削岩爆破によって切り崩し、その後ドック本体部分の掘削に取り掛かった。当時150万立方メートルに及ぶ岩盤の掘削は未経験の大工事であり、スチームショベル、電動ショベルなどの機械を用い、6号ドック建設時に発生した大量の残土は周辺海域の埋め立てに用いられることとなり、スチームロコに牽引されたダンプカーによって運搬された。 ドック本体の掘削が終了後、ドック底面と側面でのコンクリート打ちが行われた。平成17年(2005年)の6号ドック修理時に行われた調査の結果、ドック底面に鉄筋が確認され、6号ドックは鉄筋コンクリート造であると推定された。またドック底面に二列の大理石が埋め込まれていることも確認された。6号ドックは丘陵地を切り崩した後に掘削されたので、地盤は非常に良好であり湧水は少量であり、ドック底部に設けられた排水溝から湧水を排水するようにして、水圧の影響が小さいためにドック底部、側面のコンクリート厚は1メートル以内となっている。ただ、ドック入口部は底部では水深20メートルに近い水圧がかかることを考慮して5メートル以上のコンクリート厚となっている。 また昭和13年(1938年)、ドック建設現場に20トンハンマーヘッドクレーン2基が設置され、続く昭和14年(1939年)には、60トンジブクレーンが設置され、工事が進むにつれて掘削場所が深くなったドック建設現場から出る建設発生土を地表に上げる作業などに使用された。そしてこれら4基のクレーンは6号ドック完成後、引き続き行われた空母信濃の建造に活躍することになった。 ===空母信濃の建造=== 6号ドックは昭和15年(1940年)5月4日に完成した。そしてドック完成と同時に戦艦信濃の起工式が行われた。6号ドックにはドック建設時に設けられた4基のクレーンの他に、新たに100トンジブクレーンが2基設置され、信濃の建設に用いられることになった。なお6号ドックに設置された6基のクレーンは、6号ドック本体とともに、戦後はアメリカ海軍艦船の補修、修理に活用されることになる。 しかし信濃の工事は横須賀海軍工廠内で進められていた空母の改造工事などに手間を取られ、遅れ気味となっていた。そして昭和16年(1941年)12月8日の第二次世界大戦の参戦後、軍令部は信濃の戦艦としての建設工事を中断し、6号ドックを空けて他の艦船の改修・修理に利用するために、6号ドック出渠が可能となる工事のみを進めるよう命令した。これはタラント空襲、真珠湾攻撃、マレー沖海戦など第二次世界大戦の前半に、戦艦の有用性に疑問が出される戦例が相次いだための方針変更であった。信濃は切断分解して他艦に資材を流用するには工事が進みすぎていたため、止むを得ない措置ではあったが、ドックを空けるためだけの工事を進めることとなった信濃の建造工事は、工事関係者の熱意も低下し、工事ははかばかしく進まなかった。 信濃の運命を大きく変えたのが昭和17年(1942年)のミッドウェー海戦で日本が敗北し、多くの空母を失ったことであった。多くの空母を失った日本海軍は早急に体制の立て直しに迫られ、その中で信濃は戦艦ではなく空母として建造されることが決まった。途中横須賀海軍工廠へ損傷艦の修理が殺到し、約3か月間建造の中断をしなければならない事態は発生したが、空母信濃はこれまでとは異なり急ピッチで建造が進められた。戦況が厳しさを増し物資不足が激しくなる中、文字通り横須賀海軍工廠の余力を全て投入して信濃の建造は進められ、昭和19年(1944年)11月19日、竣工した。 しかし信濃は実際にはまだ工事中状態であり、残りの部分の工事を進めるため、呉海軍工廠へ回送される途中、アメリカ海軍の潜水艦アーチャーフィッシュから魚雷攻撃を受け、昭和19年(1944年)11月29日、沈没した。 ==横須賀海軍施設とドライドック== 終戦後、昭和20年(1945年)8月30日、連合軍が横須賀に進駐し、横須賀の海軍関連施設は全て接収された。そして横須賀海軍工廠は多くの人員が解雇されたが、ドックなどの保守要員約150名はアメリカ海軍を中心とした進駐軍関連の業務を行うため、残留が命じられた。これは横須賀占領の主力を担ったアメリカ海軍は随時艦船修理を行ってはいたが、修理状態が十分なものではなかったので横須賀の基地機能を利用することにしたためであった。やがて復員引き揚げに用いられる艦船や、連合軍、その中でもアメリカ海軍の艦艇修理の仕事が増加していったため、旧海軍工廠の技術者が改めて再雇用されるようになった。そのような中、昭和22年(1947年)4月27日には米海軍艦船修理廠(SRF)が発足する。 昭和27年(1952年)4月28日、サンフランシスコ講和条約と日米安全保障条約が発効したことにより、連合国の占領軍から在日米軍としてアメリカ軍が駐留するようになった。その後横須賀海軍施設は米海軍の艦船修理を行う場所として、その重要性を増すようになった。ベトナム戦争時、横須賀海軍施設は米海軍のあらゆる艦船の補修、修理が可能であるハワイオアフ島のパールハーバー以西の唯一の施設であると評価された。 その後昭和45年(1970年)には、アメリカ側はいったん横須賀海軍施設からの事実上の撤退と佐世保への移転を検討し、日本側との交渉に入った。アメリカ側は横須賀海軍施設の6基のドック全てを日本側に返還し、民間ないし自衛隊が米海軍艦船修理廠(SRF)の業務を引き継ぎ、米海軍艦船の横須賀寄航時には米艦船の修理をそこで行うことを提案した。しかし日本側の受け入れ態勢が整わないため、空母の改修、修理が行うことが可能である6号ドックはしばらくアメリカ側が維持する方向で話が進められていた。アメリカがこのような提案をした理由としては、当時のアメリカの財政難があった。しかしまもなくアメリカの財政状況が好転を見せる中、これらの話は立ち消えとなり、昭和49年(1974年)10月2日には日米共同使用現地協定が締結され、1号、2号、3号ドックはアメリカ海軍と海上自衛隊、4号、5号ドックについてはアメリカ海軍と住友重機械工業との共同利用を行うこととなった、しかし住友重機械工業は3回ドックを使用したのみで共同使用から撤退し、現在まで米軍と海上自衛隊の共同利用が続けられている。 そして横須賀海軍施設を米空母の事実上の母港とする計画が進められるようになった。昭和48年(1973年)10月、空母ミッドウェイが横須賀に初入港し、以後横須賀を事実上の母港とした。その後平成3年(1991年)には空母インディペンデンス、平成10年(1998年)には空母キティホークが横須賀を母港とした。平成20年(2008年)からは原子力空母ジョージ・ワシントンが母港とした後、平成27年(2015年)から原子力空母ロナルド・レーガンが横須賀を母港とするようになり、横須賀海軍施設の機能は現在も維持され続けている。 横須賀海軍施設の6基のドライドックでは、海上自衛隊の艦船とともに空母を始めとする米海軍の艦船の補修、修理が行われており、平成13年(2001年)から平成15年(2003年)にかけて、4号、5号、6号ドックで戦前から使用され続けてきたクレーンが撤去され、新たなクレーンが設置されるなど、設備の更新や補修が継続して実施されている。横須賀造船所、横須賀海軍工廠からの伝統を引き継ぐ米海軍艦船修理廠(SRF)の技術力の高さはアメリカ海軍から高く評価されており、横須賀海軍施設ドックは米海軍の重要拠点である横須賀海軍基地の重要施設として使用され続けている。 ==影響== 横須賀製鉄所で慶応3年(1867年)に開始されたドライドックの建設は、まずヴェルニーらフランス人の指導の下行なわれたが、ドライドックの建設と同じ慶応3年(1867年)に横須賀製鉄所内に設けられた専門学校である「学舎」で土木工学、造船工学を学んだ恒川柳作は、フランス人ジュエットが設計を担当した2号ドックの建設指揮を引き継いで完成へと導いた。その後ドライドックの建設は日本人技術者のもとで進められるようになり、恒川は呉鎮守府、佐世保鎮守府、舞鶴鎮守府でドライドックの建設を指揮し、また東日本で最初の商船用のドライドックとなった横浜船渠2号ドックの建設を指揮した。恒川以外にもジュエットらの下でドライドックの設計、施工を学んだ杉浦栄次郎が浦賀船渠の建設に携わっており、幕末から明治前半期に行なわれた1号、2号、3号のドライドック建設は、その後日本各地で進められるようになったドライドック建設のまさに先駆的な存在である。 横須賀で始まった大規模なドライドック建設は、その後、呉、佐世保、舞鶴という鎮守府や、神戸や横浜、長崎などという貿易港へと広まっていった。海軍力や海運業の発展には修船を行うドックの整備が不可欠であり、明治半ば以降、日本が海運王国と呼ばれるまでに海運業の隆盛が見られるようになった背景には、横須賀の1号ドックで始まり日本全国へと広がっていったドライドックが大きく貢献している。 海軍力の増強に日本のドライドックが果たした役割を見ると、例えば日露戦争時に当時の日本海軍主力艦船の入渠が可能であったドライドックは13基あったがロシア海軍は3基に過ぎず、しかも3基のうち大連と旅順のドライドックは日本軍に占領されたため、最後までロシア海軍が使用可能であったドライドックはウラジオストックの1基のみとなってしまった。日本海海戦時、ドライドックで行き届いた整備が行われた艦船で臨んだ日本海軍に対し、ロシア海軍は整備が満足に行われていないバルチック艦隊で対抗せざるを得ず、これは明らかに日本海軍に有利に働いたと考えられる。 またドライドックの建設は大規模な土木工事を伴い、現存する各ドライドックは日本における岩盤掘削技術、排水技術、水中工事技術などという近代技術の習得、発展を示している。そして 明治4年(1871年)に開始された3号ドック建設では、ドック建造を担当していた工部省造船寮の造船頭であった平岡通義は、ドック建設用のポルトランドセメントの輸入代金が高額であることに驚き、工部省の化学技師であった宇都宮三郎にポルトランドセメントの国産化研究を命じ、更に工部大輔であった伊藤博文にセメント工場建設を建議した。その結果、翌明治5年(1872年)に東京の深川清澄町にセメント工場(後の深川セメント製造所)の建設が開始され、やがてポルトランドセメントの国産化が始まることになった。 そして1867年(慶応3年)7月、1号ドック建設に際して白仙山の丘を崩している最中に、横須賀製鉄所で働いていた植物学に詳しい医師、サヴァティエによってゾウの下顎部分の化石が発見された。ナウマンゾウの化石は中部更新統の横須賀層大津砂泥部層から発見されたと推定されている。この化石は1871年(明治4年)5月に、サヴァティエと親交があった田中芳男らが中心となって東京で開催した大学南校物産会に展示され、1881年(明治14年)、ハインリッヒ・エドムント・ナウマンが横須賀白仙山のゾウの化石などをまとめた論文を発表した。その後の研究によって、1号ドック建設時に発見された化石は独立種ナウマンゾウの化石であるとされた。 ==各ドックのデータ== 各ドックのデータについては参考文献間によって差が見られる、当記事では1号、2号、3号ドックについては昭和60年(1985年)から昭和62年(1987年)にかけて東大生産技術研究所が行った実測値、4号、5号、6号ドックについては横須賀市(2009)が採用しているともに現在の数値を記載し、必要に応じて他の文献の数値等を掲載することとする。 入渠可能艦船の項は、各資料から確認できる最大規模のものを記した。実際に各ドックに入渠した船舶の種類は多種多様で、横須賀海軍工廠会(1998)によれば、特に最小の3号ドックは雑役船の入渠が極めて多い。 =オスマン帝国= オスマン帝国(オスマンていこく、オスマントルコ語: *13**14**15**16**17* *18**19**20**21* *22**23**24**25**26**27**28*‎, ラテン文字転写: Devlet‐i *29*Aliyye‐i *30*Os*31*m*32*niyye)は、テュルク系(後のトルコ人)のオスマン家出身の君主(皇帝)を戴く多民族帝国。英語圏ではオットマン帝国 (Ottoman Empire) と表記される。15世紀には東ローマ帝国を滅ぼしてその首都であったコンスタンティノポリスを征服、この都市を自らの首都とした(オスマン帝国の首都となったこの都市は、やがてイスタンブールと通称されるようになる)。17世紀の最大版図は、東西はアゼルバイジャンからモロッコに至り、南北はイエメンからウクライナ、ハンガリー、チェコスロバキアに至る広大な領域に及んだ。 ==概要== アナトリア(小アジア)の片隅に生まれた小君侯国から発展したイスラム王朝であるオスマン朝は、やがて東ローマ帝国などの東ヨーロッパキリスト教諸国、マムルーク朝などの西アジア・北アフリカのイスラム教諸国を征服して地中海世界の過半を覆い尽くす世界帝国たるオスマン帝国へと発展した。 その出現は西欧キリスト教世界にとって「オスマンの衝撃」であり、15世紀から16世紀にかけてその影響は大きかった。宗教改革にも間接的ながら影響を及ぼし、神聖ローマ帝国のカール5世が持っていた西欧の統一とカトリック的世界帝国構築の夢を挫折させる主因となった。そして、「トルコの脅威」に脅かされた神聖ローマ帝国は「トルコ税」を新設、中世封建体制から絶対王政へ移行することになり、その促進剤としての役割を務めた。ピョートル1世がオスマン帝国を圧迫するようになると、神聖ローマがロマノフ朝を支援して前線を南下させた。 19世紀中ごろに英仏が地中海規模で版図分割を実現した。オスマン債務管理局が設置された世紀末から、ドイツ帝国が最後まで残っていた領土アナトリアを開発した。このような経緯から、オスマン帝国は中央同盟国として第一次世界大戦に参戦し敗れた。敗戦後の講和条約のセーブル条約は列強によるオスマン帝国の解体といえる内容だったために同条約に反対する勢力が、アンカラに共和国政府を樹立し、1922年にはオスマン家のスルタン制度の廃止を宣言、メフメト6世は亡命した。1923年には「アンカラ政府」が「トルコ共和国」の建国を宣言し、1924年にはオスマン家のカリフ制度の廃止も宣言。結果、アナトリアの国民国家トルコ共和国に取って代わられた(トルコ革命)。 ==国名== 英語でオスマン帝国を Ottoman Turks, Turkish Empire と呼んだことから、かつては「オスマントルコ」、「トルコ帝国」、「オスマントルコ帝国」、「オスマン朝トルコ帝国」とされることが多かったが、現在はオスマン帝国あるいは単にオスマン朝と表記するようになっており、オスマントルコという表記は使われなくなってきている。これは、君主(パーディシャー、スルタン)の出自はトルコ系で宮廷の言語もオスマン語と呼ばれるアラビア語やペルシア語の語彙を多く取り込んだトルコ語ではあったが、支配階層には民族・宗教の枠を越えて様々な出自の人々が登用されており、国内では多宗教・多民族が共存していたことから、単純にトルコ人の国家とは規定しがたいことを根拠としている。事実、オスマン帝国の内部の人々は滅亡の時まで決して自国を「トルコ帝国」とは称さず「オスマン家の崇高なる国家」「オスマン国家」などと称しており、オスマン帝国はトルコ民族の国家であると認識する者は帝国の最末期までついに現れなかった。つまり、帝国の実態からも正式な国号という観点からもオスマントルコという呼称は不適切であり、オスマン帝国をトルコと呼んだのは実は外部からの通称に過ぎない。 なお、オスマン帝国の後継国家であるトルコ共和国は正式な国号に初めて「トルコ」という言葉を採用したが、オスマン帝国を指すにあたっては「オスマン帝国」にあたる Osmanl*33* *34*mparatorlu*35*u や「オスマン国家」にあたる Osmanl*36* Devleti の表記を用いるのが一般的であり、オスマン朝トルコ帝国という言い方は現地トルコにおいても行われることはない。 ==歴史== オスマン帝国は、後世の歴史伝承において始祖オスマン1世がアナトリア(小アジア)西北部に勢力を確立し新政権の王位についたとされる1299年を建国年とするのが通例であり、帝制が廃止されてメフメト6世が廃位された1922年が滅亡年とされる。 もっとも、オスマン朝の初期時代については同時代の史料に乏しく、史実と伝説が渾然としているので、正確な建国年を特定することは難しい。 ===建国期=== 13世紀末に、東ローマ帝国とルーム・セルジューク朝の国境地帯(ウジ)であったアナトリア西北部ビレジク(英語版)にあらわれたトルコ人の遊牧部族長オスマン1世が率いた軍事的な集団がオスマン帝国の起源である。この集団の性格については、オスマンを指導者としたムスリム(イスラム教徒)のガーズィー(ジハードに従事する戦士)が集団を形成したとされる説が欧州では一般的であるが、遊牧民の集団であったとする説も根強く、未だに決着はされていない。彼らオスマン集団は、オスマン1世の父エルトゥグルルの時代にアナトリア西北部のソユットを中心に活動していたが、オスマンの時代に周辺のキリスト教徒やムスリムの小領主・軍事集団と同盟したり戦ったりしながら次第に領土を拡大し、のちにオスマン帝国へと発展するオスマン君侯国(トルコ語版)を築き上げた。 1326年頃、オスマンの後を継いだ子のオルハンは、即位と同じ頃に東ローマ帝国の地方都市プロウサ(現在のブルサ)を占領し、さらにマルマラ海を隔ててヨーロッパ大陸を臨むまでに領土を拡大、アナトリア最西北部を支配下とした上で東ローマ帝国首都コンスタンティノープルを対岸に臨むスクタリをも手中に収めた。ブルサは15世紀初頭までオスマン国家の行政の中心地となり、最初の首都としての機能を果たすことになる。 1346年、東ローマの共治皇帝ヨハネス6世カンタクゼノスは後継者争いが激化したため、娘テオドラをオルハンに嫁がせた上で同盟を結び、オスマンらをアナトリアより呼び寄せてダーダネルス海峡を渡らせてバルカン半島のトラキアに進出させた。これを切っ掛けにオスマンらはヨーロッパ側での領土拡大を開始(ビザンチン内戦 (1352年‐1357年)(英語版))、1354年3月2日にガリポリ一帯が地震に見舞われ、城壁が崩れたのに乗じて占領し(ガリポリ陥落(英語版))、橋頭堡とした。後にガリポリスはオスマン帝国海軍の本拠地となった。オルハンの時代、オスマン帝国はそれまでの辺境の武装集団から君侯国への組織化が行われた。 ===ヨーロッパ侵攻とイェニチェリの時代=== オルハンの子ムラト1世は、即位するとすぐにコンスタンティノープルとドナウ川流域とを結ぶ重要拠点アドリアノープル(現在のエディルネ)を占領、ここを第2首都とするとともに、デウシルメと呼ばれるキリスト教徒の子弟を強制徴発することによる人材登用制度のシステムを採用して常備歩兵軍イェニチェリを創設して国制を整えた。さらに戦いの中で降伏したキリスト教系騎士らを再登用して軍に組み込むことも行った。 1371年、マリツァ川の戦いでセルビア諸侯連合軍を撃破、東ローマ帝国や第二次ブルガリア帝国はオスマン帝国への臣従を余儀なくされ、1387年、テッサロニキも陥落、ライバルであったカラマン侯国も撃退した。1389年にコソヴォの戦いでセルビア王国を中心とするバルカン諸国・諸侯の連合軍を撃破したが、ムラト1世はセルビア人貴族ミロシュ・オビリチ(英語版)によって暗殺された。しかし、その息子バヤズィト1世が戦場で即位したため事なきを得た上にコソヴォの戦いでの勝利は事実上、バルカン半島の命運を決することになった。なお、バヤズィト1世は即位に際し兄弟を殺害している。以降、オスマン帝国では帝位争いの勝者が兄弟を殺害する慣習が確立され、これを兄弟殺しという。バヤズィト1世は報復としてセルビア侯ラザル・フレベリャノヴィチを始めとするセルビア人らの多くを処刑した。 1393年にはタルノヴォを占領、第二次ブルガリア帝国も瓦解した。しかし、オスマン帝国はそれだけにとどまらず、さらに1394年秋にはコンスタンティノープルを一時的に包囲した上でギリシャ遠征を行い、ペロポネソス半島までがオスマン帝国の占領下となった。これらオスマン帝国の拡大により、ブルガリア、セルビアは完全に臣従、バルカン半島におけるオスマン帝国支配の基礎が固まった。 さらにバヤズィト1世はペロポネソス半島、ボスニア、アルバニアまで侵略、ワラキアのミルチャ1世はオスマン帝国の宗主権を一時的に認めなければいけない状況にまで陥った上、コンスタンティノープルが数回にわたって攻撃されていた。この状況はヨーロッパを震撼させることになり、ハンガリー王ジギスムントを中心にフランス、ドイツの騎士団、バルカン半島の諸民族軍らが十字軍を結成、オスマン帝国を押し戻そうとした。 しかし、1396年、ブルガリア北部におけるニコポリスの戦いにおいて十字軍は撃破されたため、オスマン帝国はさらに領土を大きく広げた。しかし、1402年のアンカラの戦いでティムールに敗れバヤズィト1世が捕虜となったため、オスマン帝国は1413年まで、空位状態となり、さらにはアナトリアを含むオスマン帝国領がティムールの手中に収まることになった。 ===失地回復の時代=== バヤズィト亡き後のアナトリアは、オスマン朝成立以前のような、各君侯国が並立する状態となった。このため、東ローマ帝国はテッサロニキを回復、さらにアテネ公国も一時的ながらも平穏な日々を送ることができた。 バヤズィトの子メフメト1世は、1412年に帝国の再統合に成功して失地を回復し、その子ムラト2世は再び襲来した十字軍を破り、バルカンに安定した支配を広げた。こうして高まった国力を背景に1422年には再びコンスタンティノープルの包囲を開始、1430年にはテッサロニキ、ヨアニナを占領、1431年にはエペイロス全土がオスマン支配下となった。 しかし、バルカン半島の諸民族はこれに対抗、ハンガリーの英雄フニャディ・ヤーノシュはオスマン帝国軍を度々撃破し、アルバニアにおいてもアルバニアの英雄スカンデルベグが1468年に死去するまでオスマン帝国軍を押し戻し、アルバニアの独立を保持するなど活躍したが、後にフニャディは1444年のヴァルナの戦い、1448年のコソヴォの戦い(英語版)において敗北、モレア、アルバニア、ボスニア、ヘルツェゴヴィナを除くバルカン半島がオスマン帝国占領下となった。 それ以前、東ローマ帝国皇帝ヨハネス8世パレオロゴスは西ヨーロッパからの支援を受けるために1438年から1439年にかけてフィレンツェ公会議に出席、東西教会の合同決議に署名したが、結局、西ヨーロッパから援軍が向かうことはなかった。1445年から1446年、後に東ローマ帝国最後の皇帝となるコンスタンティノス11世がギリシャにおいて一時的に勢力を回復、ペロポネソス半島などを取り戻したが、オスマン帝国はこれに反撃、コリントス地峡のヘキサミリオン要塞を攻略してペロポネソス半島を再び占領したが、メフメト1世と次代ムラト2世の時代は失地回復に費やされることになった。 ===版図拡大の時代=== 1453年、ムラト2世の子メフメト2世は東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルを攻略し、ついに東ローマ帝国を滅ぼした(コンスタンティノープルの陥落)。コンスタンティノープルは以後オスマン帝国の首都となった。また、これ以後徐々にギリシャ語に由来するイスタンブールという呼称がコンスタンティノープルに代わって用いられるようになった。そして1460年、ミストラが陥落、ギリシャ全土がオスマン帝国領となり、オスマン帝国によるバルカン半島支配が確立した。 コンスタンティノープルの陥落後、メフメト2世はシャーリアに従うことを余儀なくされコンスタンティノープルには略奪の嵐が吹き荒れた。略奪の後、市内へ入ったメフメト2世はコンスタンティノープルの人々を臣民として保護することを宣言、さらに都市の再建を開始、モスク、病院、学校、水道、市場などを構築し、自らの宮廷をも建設してコンスタンティノープルの再建に努めた。 コンスタンティノープルの征服に反対した名門チャンダルル家出身の大宰相チャンダルル・ハリル・パシャ(英語版)を粛清し、メフメト2世は、スルタン権力の絶対化と国家制度の中央集権化の整備を推進したことにより、トルコ系の有力な一族らは影を潜めその代わりにセルビア人のマフムト・パシャ(英語版)、ギリシャ人のルム・メフムト・パシャ(英語版)のようにトルコ人以外の人々が重きを成すようになった。 コンスタンティノープルを征服した後も、メフメト2世の征服活動は継続された。バルカン半島方面では、ギリシャ、セルビア、アルバニア、ボスニアの征服を達成した。また、黒海沿岸に点在するジェノヴァの植民都市の占領、1460年にはペロポネソスのパレオゴロス系モレア専制公国を、1461年にはトレビゾンド帝国を征服東ローマ帝国の残党は全て消滅することになり、さらには、1475年のクリミア・ハン国を宗主権下に置くことに成功、ワラキア、モルダヴィアも後にオスマン帝国へ臣従することになる。 そしてメフメト2世はガリポリを中心に海軍の増強に着手、イスタンブールと改名されたコンスタンティノープルにも造船所を築いたため、オスマン帝国の海軍力は著しく飛躍した。そして、15世紀後半には、レスボス(1462年)、サモス(1475年)、タソス、レムノス、プサラ(それぞれ1479年)といったジェノヴァの支配下にあった島々を占領、このため、黒海北岸やエーゲ海の島々まで勢力を広げて黒海とエーゲ海を「オスマンの内海」とするに至った。一方、アナトリア半島方面では、白羊朝の英主ウズン・ハサンが東部アナトリア、アゼルバイジャンを基盤に勢力を拡大していたため、衝突は不可避となった。1473年、東部アナトリアのオトゥルクベリの戦い(英語版)でウズン・ハサンを破ったオスマン朝は中部アナトリアを支配下に置くことに成功した。 メフメト2世の後を継いだバヤズィト2世(1481年 ‐ 1512年)は、父とは異なり積極的な拡大政策を打ち出すことはなかった。その背景には宮廷内の帝位継承問題があった。バヤズィト2世の弟であるジェムは、ロドス島、フランス、イタリアへ逃亡し、常に、バヤズィトの反対勢力に祭り上げられる状態が続いていたからである。 ===オスマン帝国の最盛期=== バヤズィト2世の弱腰の姿勢を批判していたセリムが、セリム1世として、1512年に即位した。セリムの積極外交は、東部アナトリアとシリア・エジプトに向けられた。東部アナトリアでは白羊朝の後をサファヴィー朝が襲っていた。1514年、チャルディラーンの戦いでサファヴィー朝の野望を打ち砕くと、1517年にはオスマン・マムルーク戦争 (1516年 ‐ 1517年)(英語版)でエジプトのマムルーク朝を滅してイスラム世界における支配領域をアラブ人居住地域に拡大し、またマムルーク朝の持っていたイスラム教の二大聖地マッカ(メッカ)とマディーナ(メディナ)の保護権を掌握してスンナ派イスラム世界の盟主の地位を獲得した。このときセリム1世がマムルーク朝の庇護下にあったアッバース朝の末裔からカリフの称号を譲られ、スルタン=カリフ制を創設したとする伝説は19世紀の創作で史実ではないが、イスラム世界帝国としてのオスマン帝国がマムルーク朝の併呑によってひとつの到達点に達したことは確かである。 スレイマン1世(1520年 ‐ 1566年)の時代、オスマン帝国の国力はもっとも充実して軍事力で他国を圧倒するに至り、その領域は中央ヨーロッパ、北アフリカにまで広がった。 ===ペルシア湾・インド洋方面=== ポルトガル・マムルーク海戦(英語版)(1505年 ‐ 1517年)では、1507年にポルトガル海上帝国がホルムズ占領に成功。1509年にディーウでインド洋の制海権を巡るディーウ沖海戦でグジャラート・スルターン朝、マムルーク朝、カリカットの領主ザモリン、オスマン帝国の連合艦隊を破った。 ロバート・シャーリーに率いられたイングランド人冒険団によってペルシア軍が近代化され、1622年のホルムズ占領で、イングランド・ペルシア連合軍がホルムズ島を占領し、ペルシャ湾からポルトガルとスペインの貿易商人を追放するまでこの状態が続いた。 ===インドネシア方面=== 1569年、スレイマンはインドネシアのアチェ王国のスルタンであるアラウッディン・アルカハル(英語版)の要請に応じて艦隊を派遣した。このとき艦隊はマラッカ海峡まで行き、ジョホール王国・ポルトガル領マラッカ(英語版)へ攻勢をかけた。 ===エジプト・シリア・アラビア半島方面=== 東ではサファヴィー朝と激突、1514年にサファヴィー朝をアナトリアから駆逐すると、さらにはイラクのバグダードを奪い、南ではイエメンに出兵してアデンを征服した。 ポルトガル・マムルーク海戦(英語版)(1505年 ‐ 1517年)ではオスマンとエジプトは対ポルトガルの同盟国だったが、オスマン・マムルーク戦争(英語版)(1516年 ‐ 1517年)では、1516年のマルジュ・ダービクの戦い・en:Battle of Yaunis Khanと1517年のリダニヤの戦いでセリム1世によってマムルーク朝エジプトが征服され、エジプト・シリア・アラビア半島が属領となった。1522年、次代スレイマン1世の時にムスタファ・パシャ(トルコ語版)がエジプト州(英語版)(1517年―1805年)の二代目総督となったが、その配下となるカーシフ(地方総督)の大部分は依然としてマムルーク朝で軍人を務めた人物が就任していた。1523年にはそのマムルーク朝系のカーシフが反乱を起こし、さらに1524年には新たな州総督に就任していたアフメト・パシャ(英語版)が反乱を起こした。この反乱でアフメト・パシャはローマ教皇にまで援助を求めたが結局、アフメト・パシャはオスマン帝国の鎮圧軍が到着する以前に内部対立で殺害された。 この反乱を受けたスレイマン1世は大宰相イブラヒム・パシャを送り込んで支配体制の強化を図り、次の州総督に就任したスレイマン・パシャ(トルコ語版)はタフリール(徴税敢行、税目、人口などの調査)を実施して徴税面を強化した。さらにスレイマン・パシャは商業施設などを建設してワクフを設定、以後の総督らも積極的な建設活動や宗教的寄進を行い、マムルーク朝色の濃いままであった状況をオスマン帝国色に塗りなおした。 ===地中海・北アフリカ方面=== 1516年、オスマン帝国の皇子コルクト(トルコ語版、英語版)の公的支援を受けたバルバリア海賊のバルバロス・ウルージとバルバロス・ハイレッディン兄弟が、アルジェ占領 (1516年)(英語版)に成功。1517年にはザイヤーン朝の首都トレムセンに侵攻し、ウルージは戦死したもののトレムセン陥落 (1517年)(英語版)が成功、オスマン・アルジェリア(英語版)(1517年 ‐ 1830年)を設置。海上では、1522年のロドス包囲戦ではムスリムに対する海賊行為を行っていたロドス島の聖ヨハネ騎士団と戦ってこれを駆逐し、東地中海の制海権を握った。 1529年1月に宣戦布告し、5月にはアルジェ要塞(スペイン語版、英語版)を落としてアルジェ占領 (1529年)(英語版)に成功。10月にフォルメンテーラ島での戦いでスペイン船を駆逐(フォルメンテーラ島の戦い (1529年)(英語版))。 1534年にはチュニス征服 (1534年)(英語版)に成功。1535年にハフス朝とスペイン‐イタリア連合軍による奪還作戦でチュニスを失陥(チュニス征服 (1535年))。バルバロス・ハイレッディンは脱出の途上でマオー略奪(カタルーニャ語版、英語版)を行なった。 1536年、フランス・オスマン同盟(英語版)を密かに締結。1538年のプレヴェザの海戦でアルジェリアに至る地中海の制海権の掌握に成功した。1540年10月、アルボラン島の海戦(英語版)。1541年10月、カール5世が親征してアルジェ遠征 (1541年)(スペイン語版、英語版)を行い、キリスト教徒への海賊行為をやめさせた。1545年にバルバロッサが引退、1546年には後任にソコルル・メフメト・パシャを抜擢した。 1550年にトレムセンを占領し、ザイヤーン朝を滅亡させた。1551年にトリポリ包囲戦 (1551年)(英語版)に成功し、オスマン・トリポリタニア(英語版)(1551年 ‐ 1911年)を設置。 スレイマン1世は密かにヴァロワ朝フランス王のフランソワ1世と同盟していたため、イタリア戦争 (1551年 ‐ 1559年)(ポンツァ島の戦い (1552年)(英語版)、オスマン帝国のバレアレス諸島侵攻 (1558年)(英語版))に派兵して干渉戦争を実施した。 1555年にアルジェのサリフ・レイス(トルコ語版、英語版)がベジャイア占領(英語版)に成功。1556年のオラン包囲戦 (1556年)(英語版)では、オランが包囲されている間に、モロッコ人もトレムセンを包囲し返し、作戦は失敗に終わった。1560年5月にピヤーレ・パシャ(英語版)がチュニジア沖のジェルバ島で行なわれたジェルバの海戦で大勝。1565年、マルタ包囲戦 (1565年)でオスマン帝国が最初の敗北を喫し、大きな被害を出した。1566年9月6日にスレイマンが死去し、その死から5年後の1571年、レパントの海戦でオスマン艦隊はスペイン連合艦隊に大敗したものの、しばしば言われるようにここでオスマン帝国の勢力がヨーロッパ諸国に対して劣勢に転じたわけではなく、その国力は依然として強勢であり、また地中海の制海権が一朝にオスマン帝国の手から失われることはなかった。そして1571年に占領されたキプロスは単独でキプロス州を形成することになった。クルチ・アリ(トルコ語: K*37*l*38**39* Ali Pa*40*a)のオスマン帝国艦隊は敗戦から半年で同規模の艦隊を再建し、1573年にはキプロス島、翌1574年にチュニスを攻略し(チュニス征服 (1574年)(英語版))、ハフス朝を滅亡させた。オスマン・チュニス(英語版)(1574年 ‐ 1705年)を設置。17世紀にクレタ島が新たに占領されるとクレタ島も単独のクレタ州となった。 ===対ロシア戦=== ロシア・ツァーリ国のイヴァン4世は、1552年のカザン包囲戦(英語版)でカザン・ハン国を併合、1554年にアストラハン・ハン国を従属国化した。旧ジョチ・ウルス領のうち残っていたクリミア・ハン国とロシアとの対立が深まると、1568年にセリム二世及びソコルル・メフメト・パシャはアストラハン遠征(露土戦争 (1568年‐1570年))を起こした。この戦いで勝利したロシアによるアストラハン・ハン国支配が確定したものの、この戦いは長期にわたる露土戦争の初戦に過ぎなかった。この戦いでソコルル・メフメト・パシャは、ロシアだけでなくサファヴィー朝をも牽制する目的でヴォルガ・ドン運河の建設を試みたが失敗に終わった(実際に完成するのは1952年になってからである)。 ===ヨーロッパ方面(バルカン半島)=== 過去にオスマン帝国治下のバルカン半島はオスマン帝国の圧政に虐げられた暗黒時代という評価が主流であった。 しかし、これらの評価は19世紀にバルカン半島の各民族が独立を目指した際に政治的意味合いを込めて評価されたものであり、オスマン帝国支配が強まりつつあった16世紀はそれほど過酷なものではないという評価が定着しつつある。これらのことからオスマン帝国によるバルカン半島統治は16世紀末を境に前後の二つの時代に分けることができる。 オスマン帝国が勢力拡大を始めた時、第二次ブルガリア帝国はセルビア人の圧力により崩壊寸前であり、さらにそのセルビアもステファン・ドゥシャンが死去したことにより瓦解し始めていた。これらが表すように第4回十字軍により分裂崩壊していた東ローマ帝国亡き後、バルカン半島は互いに反目状態にあり、分裂状態であった上、オスマン帝国をバルカン半島へ初めて招いたのは内紛を続ける東ローマ帝国であった。このため、アンカラの戦いにおいて混乱を来したオスマン帝国への反撃もままならず、また、バルカン半島において大土地所有者の圧迫に悩まされていたバルカン半島の農民らはしばしばオスマン帝国の進出を歓迎してこれに呼応することもあった。 陸上においては、1521年のベオグラードの征服、1526年のモハーチの戦いにおけるハンガリー王国に対しての戦勝、1529年の第一次ウィーン包囲と続き、クロアチア、ダルマチア、スロベニアも略奪を受けることになった。 15世紀以降、ギリシャはオスマン帝国に併合されるにつれてルメリ州に編入されたが、1534年、地中海州が形成されたことにより、バルカン半島を中心とする地域がルメリ州、バルカン本土とエーゲ海の大部分が地中海州に属することになった。 オスマン家とハプスブルク家の対立構造が、ヨーロッパ外交に持ち込まれることとなった。その結果が、ハプスブルク家と対立していたフランスのフランソワ1世に対してのカピチュレーション付与となった。なお、スレイマンは同盟したフランスに対し、カピチュレーション(恩恵的待遇)を与えたが、カピチュレーションはフランス人に対してオスマン帝国領内での治外法権などを認めた。一方的な特権を認める不平等性はイスラム国際法の規定に基づいた合法的な恩典であり、カピチュレーションはまもなくイギリスをはじめ諸外国に認められることになった。しかし絶頂期のオスマン帝国の実力のほどを示すステータスであったカピチュレーションは、帝国が衰退へ向かいだした19世紀には、西欧諸国によるオスマン帝国への内政干渉の足がかりに過ぎなくなり、不平等条約として重くのしかかることになった。 スレイマンは、1566年9月にハンガリー遠征のシゲトヴァール包囲戦の最中に陣没し、ほろ苦いピュロスの勝利で終わった(1541年オスマン帝国領ハンガリーブディン・エヤレト(英語版)設置)。ソコルル・メフメト・パシャは、1571年にソコルル・メフメト・パシャ橋の建設をミマール・スィナンに開始させ、1577年に完成した。 ===軍事構造の転換=== スレイマンの治世はこのように輝かしい軍事的成功に彩られ、オスマン帝国の人々にとっては、建国以来オスマン帝国が形成してきた国制が完成の域に達し、制度上の破綻がなかった理想の時代として記憶された。しかし、スレイマンの治世はオスマン帝国の国制の転換期の始まりでもあった。象徴的には、スレイマン以降、君主が陣頭に立って出征することはなくなり、政治すらもほとんど大宰相(首相)が担うようになる。 オスマン帝国下の住民はアスカリとレアヤーの二つに分けられていた。アスカリはオスマン帝国の支配層であり、オスマン帝国の支配者層に属する者とその家族、従者で形成されており軍人、書記、法学者なども属していた。これに対してレアヤーは被支配層であり、農民、都市民などあらゆる正業に携わる人々が属していた。ただし、19世紀に入ると狭義的にオスマン帝国支配下のキリスト教系農民に対して用いられた例もある。 アスケリは免税、武装、騎乗の特権を有しており、レアヤーは納税の義務をおっていた。ただし、アスケリ層に属する人々が全てムスリムだったわけではなく、また、レアヤーも非ムスリムだけが属していたわけではない。そして、その中間的位置に属する人々も存在した。 オスマン帝国の全盛期を謳歌したスレイマン1世の時代ではあったが、同時期に、軍事構造の転換、すなわち、火砲での武装及び常備軍の必要性が求められる時代に変容していった。その結果、歩兵であるイェニ・チェリを核とする常備軍の重要性が増大した。しかし、イエニ・チェリという形で、常備軍が整備されることは裏を返せば、在地の騎士であるスィパーヒー層の没落とイェニ・チェリの政治勢力としての台頭を意味した。それに応じて、スィパーヒーに軍役と引き換えにひとつの税源からの徴税権を付与していた従来のティマール制(英語版)は消滅し、かわって徴税権を競売に付して購入者に請け負わせる徴税請負制(イルティザーム制(英語版))が財政の主流となる。従来このような変化はスレイマン以降の帝国の衰退としてとらえられたが、しかしむしろ帝国の政治・社会・経済の構造が世界的な趨勢に応じて大きく転換されたのだとの議論が現在では一般的である。制度の項で後述する高度な官僚機構は、むしろスレイマン後の17世紀になって発展を始めたのである。 ===帝国支配の混乱=== 繁栄の裏ではスレイマン時代に始まった宮廷の弛緩から危機が進んでいた。1578年にオスマン・サファヴィー戦争(英語版)が始まると、1579年にスレイマン時代から帝国を支えた大宰相ソコルル・メフメト・パシャがサファヴィー朝ペルシアの間者によって暗殺されてしまった。以来、宮廷に篭りきりになった君主に代わって政治を支えるべき大宰相は頻繁に交代し、さらに17世紀前半には、君主の母后たちが権勢をふるって政争を繰り返したため、政治が混乱した。しかも経済面では、16世紀末頃から新大陸産の銀の流入による物価の高騰(価格革命)や、トランシルバニアをめぐるハプスブルク家との紛争は1593年から13年間続くこととなった。また、イラク、アゼルバイジャン、ジョージアといった帝国の東部を形成する地方では、アッバース1世のもと、軍事を立て直したサファヴィー朝との対立が17世紀にはいると継続することとなった。中央ヨーロッパ及び帝国東部の領域を維持するために、軍事費が増大し、その結果、オスマン帝国の財政は慢性赤字化した。 極端なインフレーションは流通通貨の急速な不足を招き、銀の不足から従来の半分しか銀を含まない質の悪い銀通を改鋳するようになった。帝国内に流通すると深刻な信用不安を招き、イェニ・チェリたちの不満が蓄積し、1589年には、彼らの反乱が起こった。経済の混乱は17世紀まで続くこととなった。さらには、アナトリアでは、ジェラーリーと呼ばれる暴徒の反乱が頻発することとなり、オスマン帝国は東西に軍隊を裂いていたため、彼らを鎮圧する術を持たなかった。1608年を頂点に、ジェラーリーの反乱(英語版)は収束を迎えるが、その後、首都イスタンブールでは、スルタン継承の抗争が頻発することとなった。 そのような情勢の下で1645年に起こったヴェネツィア共和国とのクレタ戦争(英語版)で勝利したものの、1656年のダルダネスの戦い(英語版)でヴェネツィア艦隊による海上封鎖を招き、物流が滞って物価が高騰した首都は、暴動と反乱の危険にさらされた。この危機に際して大宰相に抜擢されたキョプリュリュ・メフメト・パシャ(英語版)は全権を掌握して事態を収拾したが4年で急逝、その死後は息子キョプリュリュ・アフメト・パシャが続いて大宰相となり、父の政策を継いで国勢の立て直しに尽力した。2代続いたキョプリュリュ家の政権は、当時オスマン帝国で成熟を迎えていた官僚機構を掌握、安定政権を築き上げることに成功する。先述したオスマン帝国の構造転換はキョプリュリュ期に安定し、一応の完成をみた。 キョプリュリュ家の執政期にオスマン帝国はクレタ島やウクライナにまで領土を拡大、さらにはヴェネツィアが失ったクレタ島の代わりに得たギリシャにおける各地域の大部分を手中に収めたため、スレイマン時代に勝る最大版図を達成したのである。 しかしキョプリュリュ・メフメト・パシャの婿カラ・ムスタファ・パシャは功名心から1683年に第二次ウィーン包囲を強行する。一時包囲を成功させるも、ポーランド王ヤン3世ソビエスキ率いる欧州諸国の援軍に敗れ、16年間の戦争状態に入る(大トルコ戦争)。 ===帝国支配の衰退=== 戦後、1699年に結ばれたカルロヴィッツ条約において、史上初めてオスマン帝国の領土は削減され、東欧の覇権はハプスブルク家のオーストリアに奪われた。1700年にはロシアとスウェーデンの間で起こった大北方戦争に巻き込まれ、スウェーデン王カール12世の逃亡を受け入れたオスマン帝国は、ピョートル1世の治下で国力の増大著しいロシア帝国との苦しい戦いを強いられた。ロシアとは、1711年のプルート川の戦いで有利な講和を結ぶことに成功するが、続く墺土戦争のために、1718年のパッサロヴィッツ条約でセルビアの重要拠点ベオグラードを失う。 このように、17世紀末から18世紀にかけては軍事的衰退が表面化したが、これを期に西欧技術・文化の吸収を図り、後期のトルコ・イスラム文化が成熟していった時代でもあった。中でもアフメト3世の大宰相ネフシェヒルリ・ダマト・イブラヒム・パシャ(トルコ語版)(在任1718年‐1730年)の執政時代に対外的には融和政策が取られ、泰平を謳歌する雰囲気の中で西方の文物が取り入れられて文化の円熟期を迎えた。この時代は西欧から逆輸入されたチューリップが装飾として流行したことから、チューリップ時代と呼ばれている。この時代、1722年に東方のイラン・ペルシアではアフガーン人の侵入を契機にサファヴィー朝が崩壊した。オスマントルコはペルシアの混乱に乗じて出兵する(オスマン・ペルシア戦争 (1722年‐1727年)(英語版))。しかし、ホラーサーンからナーディル・シャーが登場し、イラクとイラン高原における戦況がオスマン側に劣勢に動き始める(アフシャール戦役(英語版))と、浪費政治への不満を募らせていた人々はパトロナ・ハリル(英語版)とともにパトロナ・ハリルの乱(トルコ語版)を起こして君主と大宰相を交代させるに至り、チューリップ時代は終焉した。 やがて露土戦争 (1735年‐1739年)が終結し、その講和条約である1739年のニシュ条約とベオグラード条約が締結されて、ベオグラードを奪還。1747年にナーディル・シャーが没すると戦争は止み、オスマン帝国は平穏な18世紀中葉を迎える。この間に地方では、徴税請負制を背景に地方の徴税権を掌握したアーヤーンと呼ばれる地方名士が台頭して、彼らの手に支えられた緩やかな経済発展が進んではいた。しかし、産業革命が波及して、急速な近代化への道を歩み始めたヨーロッパ諸国との国力の差は決定的なものとなり、スレイマン1世時にヨーロッパ諸国に与えたカピチュレーションを利用して、ヨーロッパはオスマン領土への進出を始めたのであった。 ===近代化をめざす「瀕死の病人」=== 18世紀末に入ると、ロシア帝国の南下によってオスマン帝国の小康は破られた。1768年に始まった露土戦争で敗北すると、1774年のキュチュク・カイナルジャ条約によって帝国は黒海の北岸を喪失し、1787年からの露土戦争にも再び敗れて、1792年のヤシ条約でロシアのクリミア半島の領有を認めざるを得なかった。改革の必要性を痛感したセリム3世は翌1793年、ヨーロッパの軍制を取り入れた新式陸軍「ニザーム・ジェディード」を創設するが、計画はイェニチェリの反対により頓挫し、廃位された。かつてオスマン帝国の軍事的成功を支えたイェニチェリは隊員の世襲化が進み、もはや既得権に固執するのみの旧式軍に過ぎなくなっていた。 この時代にはさらに、18世紀から成長を続けていたアーヤーンが地方政治の実権を握り、ギリシャ北部からアルバニアを支配したテペデレンリ・アリー・パシャのように半独立政権の主のように振舞うものも少なくない有様で、かつてオスマン帝国の発展を支えた強固な中央集権体制は無実化した。さらに1798年のナポレオン・ボナパルトのエジプト遠征をきっかけに、1806年にムハンマド・アリーがエジプトの実権を掌握した。一方、フランス革命から波及した民族独立と解放の機運はバルカンのキリスト教徒諸民族のナショナリズムを呼び覚まし、ギリシャ独立戦争(1821年 ‐ 1829年)によってギリシャ王国が独立を果たした。ムハンマド・アリーは、第一次エジプト・トルコ戦争(1831年 ‐ 1833年)と第二次エジプト・トルコ戦争(1839年 ‐ 1841年)を起こし、エジプトの世襲支配権を中央政府に認めさせ、事実上独立した。 これに加えて、バルカン半島への勢力拡大を目指すロシアとオーストリア、勢力均衡を狙うイギリスとフランスの思惑が重なり合い、19世紀のオスマン帝国を巡る国際関係は紆余曲折を経ていった。このオスマン帝国をめぐる国際問題を東方問題という。バルカンの諸民族は次々とオスマン帝国から自治、独立を獲得し、20世紀初頭にはオスマン帝国の勢力範囲はバルカンのごく一部とアナトリア、アラブ地域だけになる。オスマン帝国はこのような帝国内外からの挑戦に対して防戦にまわるしかなく、「ヨーロッパの瀕死の病人」と呼ばれる惨状を露呈した。 しかし、オスマン帝国はこれに対してただ手をこまねいていたわけではなかった。1808年に即位したマフムト2世はイェニチェリを廃止して軍の西欧化を推進し、外務・内務・財務3省を新設して中央政府を近代化させ、翻訳局を設置し留学生を西欧に派遣して人材を育成し、さらにアーヤーンを討伐して中央政府の支配の再確立を目指した。さらに1839年、アブデュルメジト1世は、改革派官僚ムスタファ・レシト・パシャの起草したギュルハネ勅令を発布して全面的な改革政治を開始することを宣言、行政から軍事、文化に至るまで西欧的体制への転向を図るタンジマートを始めた。タンジマートのもとでオスマン帝国は中央集権的な官僚機構と近代的な軍隊を確立し、西欧型国家への転換を進めていった。 1853年にはロシアとの間でクリミア戦争が起こるが、イギリスなどの加担によってきわどく勝利を収めた。このとき、イギリスなどに改革目標を示して支持を獲得する必要に迫られたオスマン帝国は、1856年に改革勅令を発布して非ムスリムの権利を認める改革をさらにすすめることを約束した。こうして第二段階に入ったタンジマートは宗教法(シャリーア)と西洋近代法の折衷を目指した新法典の制定、近代教育を行う学校の開設、国有地原則を改めて近代的土地私有制度を認める土地法の施行など、踏み込んだ改革が進められた。そして、カモンド家の支配するオスマン銀行が設立された。 改革と戦争の遂行は西欧列強からの多額の借款を必要とし、さらに貿易拡大から経済が西欧諸国への原材料輸出へ特化したために農業のモノカルチャー化が進んで、帝国は経済面から半植民地化していった。この結果、ヨーロッパ経済と農産品収穫量の影響を強く受けるようになった帝国財政は、1875年、西欧金融恐慌と農産物の不作が原因で破産した。 こうしてタンジマートは抜本的な改革を行えず挫折に終わったことが露呈され、新たな改革を要求された帝国は、1876年、大宰相ミドハト・パシャのもとでオスマン帝国憲法(通称ミドハト憲法)を公布した。憲法はオスマン帝国が西欧型の法治国家であることを宣言し、帝国議会の設置、ムスリムと非ムスリムのオスマン臣民としての完全な平等を定めた。 だが憲法発布から間もない1878年に、オスマン帝国はロシアとの露土戦争に完敗し、帝都イスタンブール西郊のサン・ステファノまでロシアの進軍を許した。専制体制復活を望むアブデュルハミト2世は、ロシアとはサン・ステファノ条約を結んで講和する一方で、非常事態を口実として憲法の施行を停止した。これ以降、アブデュルハミト2世による反動専制の時代がはじまる。一方でしかしオスマン債務管理局などを通じ帝国経済を掌握した諸外国による資本投下が進み、都市には西洋文化が浸透した。また西欧の工業製品と競合しない繊維工業などの分野で民族資本が育ち、専制に抵触しない範囲での新聞・雑誌の刊行が拡大されたことは、のちの憲政復活後の民主主義、民族主義の拡大を準備した。 ===世界大戦から滅亡への道=== アブデュルハミトが専制をしく影で、西欧式の近代教育を受けた青年将校や下級官吏らは専制による政治の停滞に危機感を強めていた。彼らは1889年に結成された「統一と進歩委員会」(通称「統一派」)をはじめとする青年トルコ人運動に参加し、憲法復活を求めて国外や地下組織で反政権運動を展開した。1891年には、時事新報記者の野田正太郎が日本人として初めてオスマン帝国に居住した。 1908年、サロニカ(現在のテッサロニキ)の統一派を中心とするマケドニア駐留軍の一部が蜂起して無血革命に成功、憲政を復活させた(青年トルコ革命)。彼らは1909年には保守派の反革命運動を鎮圧、1913年には自らクーデターを起こし、統一派の中核指導者タラート・パシャ、エンヴェル・パシャらを指導者とする統一派政権を確立した。統一派は次第にトルコ民族主義に傾斜していき、政権を獲得するとトルコ民族資本を保護する政策を取り、カピチュレーションの一方的な廃止を宣言した。 この間にも、サロニカを含むマケドニアとアルバニア、1911年には伊土戦争によりリビアが帝国から失われた。バルカンを喪失した統一派政権は汎スラヴ主義拡大の脅威に対抗するためドイツと同盟に関する密約を締結し、1914年に第一次世界大戦で同盟国側で参戦した。 この戦争でオスマン帝国はアラブ人に反乱を起こされ、ガリポリの戦いなどいくつかの重要な防衛線では勝利を収めるものの劣勢は覆すことができなかった。戦時中の利敵行為を予防する際に、アルメニア人虐殺が発生し、その後、トルコ政府も事件の存在自体は認めているが犠牲者数などをめぐって紛糾し、未解決の外交問題となっている。ムドロス休戦協定により帝国は1918年10月30日に降伏し、国土の大半はイギリス、フランスなどの連合国によって占領され、イスタンブール、ボスポラス海峡、ダーダネルス海峡は国際監視下へ、アナトリア半島もエーゲ海に隣接する地域はギリシャ統治下となった。そしてアナトリア東部においてもアルメニア人、クルド人らの独立国家構想が生まれたことにより、オスマン帝国領は事実上、アナトリアの中央部分のみとなった。 敗戦により統一派政府は瓦解、首謀者は亡命し、この機に皇帝メフメト6世は、専制政治の復活を狙って、連合国による帝国各地の占拠を許容した。さらに、連合国の支援を受けたギリシャ軍がイズミルに上陸、エーゲ海沿岸地域を占拠した。この帝国分割の危機に対し、アナトリアでは、一時期統一派に属しながら統一派と距離を置いていた大戦中の英雄ムスタファ・ケマルパシャを指導者として、トルコ人が多数を占める地域(アナトリアとバルカンの一部)の保全を求める運動が起こり、1920年4月、アンカラにトルコ大国民議会を組織して抵抗政府を結成したが、オスマン帝国政府はこれを反逆と断じた。 一方連合国は、1920年、講和条約としてセーヴル条約をメフメト6世は締結した。この条約はオスマン帝国領の大半を連合国に分割する内容であり、ギリシャにはイズミルを与えるものであった。結果として、トルコ人の更なる反発を招いた。ケマルを総司令官とするトルコ軍はアンカラに迫ったギリシャ軍に勝利し、翌年にはイズミルを奪還して、ギリシャとの間に休戦協定を結んだ。これを見た連合国はセーヴル条約に代わる新しい講和条約(ローザンヌ条約)の交渉を通告。講和会議に、メフメト6世のオスマン帝国政府とともに、ケマルのアンカラ政府を招請した。1922年、ケマルは、オスマン国家の二重政府の解消を名目として、これを機にパーディシャー(スルタン)とカリフの分離と、帝政の廃止を大国民議会に決議させた。廃帝メフメト6世はマルタへ亡命し、オスマン帝国政府は名実共に滅亡した(トルコ革命)。 翌1923年、大国民議会は共和制を宣言し、多民族帝国オスマン国家は新たにトルコ民族の国民国家トルコ共和国に取って代わられた。トルコ共和国は1924年、帝政の廃止後もオスマン家に残されていたカリフの地位を廃止、オスマン家の成員をトルコ国外に追放し、オスマン帝権は完全に消滅した。 ==制度== オスマン帝国の国家の仕組みについては、近代歴史学の中でさまざまな評価が行われている。ヨーロッパの歴史家たちがこの国家を典型な東方的専制帝国であるとみなす一方、オスマン帝国の歴史家たちはイスラムの伝統に基づく世界国家であるとみなしてきた。また19世紀末以降には、民族主義の高まりからトルコ民族主義的な立場が強調され、オスマン帝国の起源はトルコ系の遊牧民国家にあるという議論が盛んに行われた。 20世紀前半には、ヨーロッパにおける東ローマ帝国に対する関心の高まりから、オスマン帝国の国制と東ローマ帝国の国制の比較が行われた。ここにおいて東ローマ帝国滅亡から間もない時代にはオスマン帝国の君主がルーム(ローマ帝国)のカイセル(皇帝)と自称するケースがあったことなどの史実が掘り起こされたり、帝国がコンスタンティノープル総主教の任命権を通じて東方正教徒を支配したことが東ローマの皇帝教皇主義の延長とみなされる議論がなされ、オスマン帝国は東ローマ帝国の継続であるとする、ネオ・ビザンチン説もあらわれた。(カエサルを自称した皇帝はスレイマンなどほんの一握りだった) このようにこの帝国の国制の起源にはさまざまな要素の存在が考えられており、「古典オスマン体制」と呼ばれる最盛期のオスマン帝国が実現した精緻な制度を考える上で興味深い論議を提供している。 オスマン帝国の国制が独自に発展を遂げ始めたのはおおよそムラト1世の頃からと考えられている。帝国の拡大にともない次第に整備されてきた制度は、スレイマン1世の時代にほぼ完成し、皇帝を頂点に君主専制・中央集権を実現した国家体制に結実した。これを「古典オスマン体制」という。 ===軍制=== 軍制は、当初はムスリム・トルコ系の戦士、帰順したムスリム・トルコ系の戦士、元東ローマ帝国の軍人らを合わせた自由身分の騎兵を中心に構成され、さらにアッバース朝で発展していたマムルーク制度のオスマン帝国版の常備軍などが編成され、常備歩兵軍としてイェニチェリが組織化されたが、これらの組み合わせにより騎兵歩兵らによる複合部隊による戦術が可能となったため、オスマン軍の軍事力が著しく向上することになり、彼らはカプクル(「門の奴隷」の意)と呼ばれる常備軍団を形成した。カプクルの人材は主にキリスト教徒の子弟を徴集するデヴシルメ制度によって供給された。カプクル軍団の最精鋭である常備歩兵軍イェニチェリは、火器を扱うことから軍事革命の進んだ16世紀に重要性が増し、地方・中央の騎兵を駆逐して巨大な常備軍に発展する。ちなみにこの時代、欧州はまだ常備軍をほとんど持っていなかった。 オスマン帝国の主要海軍基地はガリポリスであったが、ここに投錨する艦隊の指揮官はガリポリスのサンジャクベイが平時には務めており、戦時に入ると海洋のベイレルベイであるカプタン・パシャが総指揮を執ることになっていた。 オスマン帝国は当初から海軍の重要性を考慮していたらしく、オスマン帝国初期に小アジアで活躍した「海のガーズィ」から帝国領土が拡大していく中、エーゲ海、地中海、黒海などに面する地域を併合した際にその地域の保有する艦艇を吸収して拡大していった。オスマン帝国が初めて造船所を建設した場所はカラミュルセル(英語版)であるが、のちにガリポリスを占領するとさらに規模の大きな造船所が作られたことにより、オスマン帝国はダーダルネス海峡の制海権を確保することができた。そのため、1399年にバヤズィト1世がコンスタンティノープルを包囲した際、東ローマ帝国救援に向かったフランス海軍を撃破している。ただし、1453年、コンスタンティノープルの占領に成功すると、コンスタンティノープルにさらに規模の大きな造船所が築かれたため、ガリポリスの造船所はその価値を下げることになった。 15世紀に入るとジェノヴァ、ヴェネツィアとの関係が悪化、これと交戦したが、16世紀になるとオスマン艦隊はエーゲ海、地中海、イオニア海、黒海、紅海、アラビア海、ペルシア湾、インド洋などへ進出、事実上、イスラーム世界の防衛者となり、キリスト教世界と戦った。 ===オスマン帝国の統治システム=== 帝国の領土は直轄州、独立採算州、従属国からなる。属国(クリミア・ハン国(クリム汗国)、ワラキア(エフラク)君侯国、モルダヴィア(ボーダン)君侯国、トランシルヴァニア(エルデル)君侯国、ドゥブロブニク(ラグーザ)共和国、モンテネグロ公国(公または主教の支配)、ヒジャーズなど)は君主の任免権を帝国中央が掌握しているのみで、原則として自治に委ねられていた。独立採算州(エジプトなど)は州知事(総督)など要職が中央から派遣される他は、現地の有力者に政治が任せられ、州行政の余剰金を中央政府に上納するだけであった。ヨーロッパ方面の領土において、ビザンツ帝国やブルガリア帝国時代の大貴族は没落したが、小貴族は存続を許されてオスマン帝国の制度へ組み込まれていった。 オスマン帝国が発展する過程として戦士集団から君侯国、帝国という道を歩んだが、戦士集団であった当初は遊牧民的移動集団であった。特に初期の首都であるソユット、ビレジク(英語版)、イェニシェヒル(ブルサ近郊)などは冬営地的性格が強く、首都と地方との明確な行政区分も存在しなかった。そして戦闘が始まればベイ(君主)、もしくはベイレルベイ(ベイたちのベイの意味で総司令官を指す)が指揮を取ったが、ベイレルベイはムラト1世の時代に臣下のララ・シャヒーンが任ぜられるまでは王子(君主の息子)が務めていた。ムラト1世の時代まで行政区分は不明確であったが、従来の通説では14世紀末、米林仁の説によれば15世紀初頭にアナトリア(アナドル)方面においてベイレルベイが任命されることによりベイレルベイが複数任命されることになった。その後、アナトリアを管轄するアナドル・ベイレルベイスィ(トルコ語版)配下のアナドルのベイレルベイリク(大軍管区の意味)とルメリを管轄するルメリ・ベイレルベイスィ(トルコ語版)配下のルメリのベイレルベイリクによって分割統治されるようになった。 この時点ではベイレルベイは「大軍管区長官」の性格をもち、ベイレルベイリクは「大軍管区」の性格をもっており、当初のベイレルベイは軍司令官の性格が強かった。しかし、次第に帝国化していくことにより、君主専制的、中央集権的体制への進化、さらに帝国の拡大によりベイレルベイ、ベイレルベイリクはそれぞれ地方行政官的性格をも併せ持つことにより、「大軍管区」も「州」の性格を、「大軍管区長官」も「総督」としての性格をそれぞれ併せ持つようになった。 ベイレルベイ(大軍管区長官)とベイレルベイリク(大軍管区)の下にはサンジャク(英語版)(小軍管区)、サンジャク・ベイ(小軍管区長)が置かれた。これは後に県、及び県長としての性格を持つようになるが、後にこれらベイレルベイリク(州)、サンジャク(県)はオスマン帝国の直轄地を形成することになった。なお、ベイレルベイリクは後にエヤレト(エヤレットという表記もある)、ヴィラエットと呼称が変化する。 さらにオスマン帝国領にはイスラーム法官(カーディー)らが管轄する裁判区としてガザ(イスラーム法官区)が設置されていた。県はいくつかのガザ(郡という表記もされる)で形成されていたが、イスラーム法官は県知事、州知事らの指揮命令に属しておらず、全体として相互補完、相互監視を行うシステムとなっていた。そしてその下にナーヒエ(郷)、さらにその下にキョイ(村)があった。 当初、地方行政区画としてはアナドル州とルメリ州のみであったが、ブダを中心とするブディン州、トゥムシュヴァルを中心にするトゥムシュヴァル州、サラエヴォを中心とするボスナ州が16世紀末までに設置され、それぞれその下にベイレルベイが設置された。 さらに16世紀に入ると統治地域が増加したことにより、専管水域も拡大した。そのため、海洋にもベイレルベイが設置され、カプタン・パシャ(大提督)が補任した。 中央では、皇帝を頂点とし、大宰相(サドラザム (en) )以下の宰相(ヴェズィール (en) )がこれを補佐し、彼らと軍人法官(カザスケル)、財務長官(デフテルダル(英語版))、国璽尚書(ニシャンジュ)から構成される御前会議(ディーヴァーヌ・ヒュマーユーン)が最高政策決定機関として機能した。17世紀に皇帝が政治の表舞台から退くと、大宰相が皇帝の代理人として全権を掌握するようになり、宮廷内の御前会議から大宰相の公邸である大宰相府(バーブ・アーリー)に政治の中枢は移る。同じ頃、宮廷内の御前会議事務局から発展した官僚機構が大宰相府の所管になり、名誉職化した国璽尚書に代わって実務のトップとなった書記官長(レイスルキュッターブ)、大宰相府の幹部である大宰相用人(サダーレト・ケトヒュダース)などを頂点とする高度な官僚機構が発展した。 中央政府の官僚機構は、軍人官僚(カプクル)と、法官官僚(ウラマー)と、書記官僚(キャーティプ)の3つの柱から成り立つ。軍人官僚のうちエリートは宮廷でスルタンに近侍する小姓や太刀持ちなどの役職を経て、イェニチェリの軍団長や県知事・州知事に採用され、キャリアの頂点に中央政府の宰相、大宰相があった。法官官僚は、メドレセ(宗教学校)でイスラム法を修めた者が担い手であり、郡行政を司り裁判を行うカーディーの他、メドレセ教授やムフティーの公職を与えられた。カーディーの頂点が軍人法官(カザスケル)であり、ムフティーの頂点がイスラムに関する事柄に関する帝国の最高権威たる「イスラムの長老」(シェイヒュルイスラーム)である。書記官僚は、書記局内の徒弟教育によって供給され、始めは数も少なく地位も低かったが、大宰相府のもとで官僚機構の発展した17世紀から18世紀に急速に拡大し、行政の要職に就任し宰相に至る者もあらわれるようになる。この他に、宦官を宮廷使役以外にも重用し、宦官出身の州知事や宰相も少なくない点もオスマン帝国の人的多様性を示す特徴と言える。 これらの制度は、19世紀以降の改革によって次第に西欧を真似た機構に改められていった。例えば、書記官長は外務大臣、大宰相用人は内務大臣に改組され、大宰相は御前会議を改めた閣議の長とされて事実上の内閣を率いる首相となった。 しかし、例えば西欧法が導入され、世俗法廷が開設されても一方ではシャリーア法廷がそのまま存続したように、イスラム国家としての伝統的・根幹的な制度は帝国の最末期まで廃止されることはなかった。帝国の起源がいずれにあったとしても、末期のオスマン帝国においては国家の根幹は常にイスラムに置かれていた。これらのイスラム国家的な制度に改革の手が入れられるのは、ようやく20世紀前半の統一派政権時代であり、その推進は帝国滅亡後のトルコ共和国による急速な世俗化改革をまたねばならなかった。 ===オスマン帝国の人々=== ====宗教面==== オスマン帝国が最大版図となった時、その支配下は自然的地理環境や生態的環境においても多様なものを含んでおり、さらに歴史的過去と文化的伝統も多様なものが存在した。 オスマン帝国南部であるアラブ圏ではムスリムが大部分であり、また、その宗教はオスマン帝国の支配イデオロギーであるスンナ派が中心を成していたが、イラク南部ではシーア派が多数存在しており、また、現在のレバノンに当たる地域にはドールーズ派が多数、存在していた。しかし、これだけにとどまらず、エジプトのコプト教徒、レバノン周辺のマロン派、シリア北部からイラク北部にはネストリウス派が少数、東方キリスト教諸宗派、正教徒、アルメニア教会派、カトリック、ユダヤ教徒などもこのアラブ圏で生活を営んでいた。 そしてアナトリアでは11世紀以降のイスラム化の結果、ムスリムが過半数を占めていたが、ビザンツ以来のギリシャ正教徒、アルメニア教会派も多数、存在しており、その他、キリスト教諸宗派も見られ、ユダヤ教徒らも少数存在した。しかし、15世紀にイベリア半島でユダヤ教徒排斥傾向が強まると、ユダヤ教徒らが多くアナトリアに移民した。 バルカン半島ではアナトリアからの流入、改宗によりムスリムとなる人々もいたが、キリスト教徒が大多数を占めており、正教徒が圧倒的多数であったがアドリア海沿岸ではカトリック教徒らが多数を占めていた。また、ムスリムとしてはトルコ系ムスリムとセルボ・クロアチア語を使用するボスニアのムスリム、そしてアルバニアのムスリムなどがムスリムとしての中心を成していた。 一方で1526年に占領されたハンガリー方面ではカトリックとプロテスタントの間で紛争が始まった時期であった。オスマン帝国はプロテスタント、カトリックどちらをも容認、対照的にハプスブルク帝国占領下であったフス派の本拠地、ボヘミアではプロテスタントが一掃されていた。 こうして西欧ではキリスト教一色となって少数のユダヤ人らが許容されていたに過ぎない状態であったのと対照的にオスマン帝国下ではイスラム教という大きな枠があるとはいえども多種の宗教が許容されていた。 ===民族=== オスマン帝国が抱え込んだものは宗教だけではなかった。その勢力範囲には同じ宗教を信仰してはいたものの各種民族が生活しており、また、言語も多種にわたった。 オスマン帝国元来の支配層はトルコ人であり、イスラム教徒であった。ただし、このトルコ人という概念も「トルコ語」を母語しているということだけではなく、従来の母語からトルコ語へ母語を変更したものも含まれていた。これはオスマン帝国における民族概念が生物学的なものではなく、文化的なものであったことを示している。 オスマン帝国の南部を占めるイラクからアルジェリアにかけてはアラビア語を母語として自らをアラブ人認識する人々が多数を占めていた。しかし、西方のマグリブ地域に向かうとベルベル語を母語とするベルベル人、そして北イラクから北シリアへ向かうとシリア語を母語としてネストリウス派を奉じるアッシリア人が少数であるが加わった。微妙な立場としてはコプト派でありながらコプト語を宗教用にしか用いず、日常にはアラビア語を用いていたコプト教徒らが存在する。 また、アナトリア東部から北イラク、北シリアにはスンナ派のクルド人らが存在しており、クルド語を母語としていた。 元東ローマ帝国領であったアナトリア、及びバルカン半島ではギリシャ語を母語として正教を奉じるギリシャ人らが多数を占めていた。ただし、アナトリア東部と都市部にはアルメニア語を母語としてアルメニア教会派であるアルメニア人らも生活を営んでいた。バルカン半島では民族、言語の分布はかなり複雑となっていた。各地にはオスマン帝国征服後に各地に散らばったトルコ人らが存在したが、それ以前、ルーマニア方面にはトルコ語を母語とするが正教徒であるペチェネク人らも存在した。 バルカン半島東部になるとブルガリア語を母語として正教を奉じるブルガリア人、西北部にはセルボ・クロアチア語を母語として正教徒である南スラブ系の人々、これらの人々は正教を奉じた人々らはセルビア人、カトリックを奉じた人々らはクロアチア人という意識をそれぞれ持っていた。しかし、ボスニア北部では母語としてセルボ・クロアチア語を使用しながらもムスリムとなった人々が存在しており、これらはセルビア人、クロアチア人からは「トゥルチン(トルコ人」と呼ばれた。 アルバニアではアルバニア語を母語とするアルバニア人らが存在したが、15世紀にその多くがイスラム教へ改宗した。ただし、全てではなく、中には正教、カトリックをそのまま奉じた人々も存在する。そしてオスマン帝国がハンガリー方面を占領するとハンガリー語を母語としてカトリックを中心に、プロテスタントを含んだハンガリー人々もこれに加わることになる。 その他、ユダヤ教を信じる人々が存在したが、母語はバラバラであり、ヘブライ語はすでに典礼用、学問用の言語と化していた。オスマン帝国南部ではアラビア語、北部では東ローマ帝国時代に移住した人々はギリシャ語、15世紀末にイベリア半島から移住した人々はラディーノ語、ハンガリー征服以後はイディッシュ語をそれぞれ母語とするユダヤ教徒らがオスマン帝国に加わることになる。ただし、彼らは母語こそちがえどもユダヤ教という枠の中でアイデンティティを保持しており、ムスリム側も宗教集団としてのユダヤ教徒(ヤフディー)として捉えていた。 ==ミッレト制とイスラム教以外への宗教政策== オスマン帝国は勢力を拡大すると共にイスラム教徒以外の人々をも支配することになった。その為の制度がミッレト制であり、サーサーン朝ペルシアなどで用いられていたものを採用した。この対象になったのはユダヤ教徒、アルメニア教会派、ギリシャ正教徒らであった。また、成立時より東ローマ帝国と接してきたオスマン帝国は教会をモスクに転用した例こそあれども、東ローマ帝国臣民を強制的にムスリム化させたという証拠は見られず、むしろ、15世紀初頭以来残されている資料から東ローマ帝国臣民をそのまま支配下に組み込んだことが知られている。 このミッレトに所属した人々は人頭税(ジズヤ)の貢納義務はあったが、各自ミッレトの長、ミッレト・バシュを中心に固有の宗教、法、生活習慣を保つことが許され、自治権が与えられた。 これらミッレト制はシャーリア上のズィンミー制に基づいていたと考えられており、過去には唯一神を奉じて啓示の書をもつキリスト教徒やユダヤ教徒などいわゆる「啓典の民」らはズィンマ(保護)を与えられたズィンミー(被保護民)としてシャーリアを破らない限りはその信仰、生活を保つことが許されていた。オスマン帝国はこれを受け継いでおり、元々東ローマ帝国と接してきた面から「正教を奉じ、ギリシャ語を母語とするローマ人にして正教徒」というアイデンティティの元、ムスリム優位という不平等を元にした共存であった。 このミッレト制は過去に語られた「オスマン帝国による圧政」を意味するのではなく、「オスマンの平和」いわゆる「パックス・オトマニカ」という面があったということを意味しており、20世紀以降激化している中東の紛争、90年代の西バルカンにおけるような民族紛争・宗教紛争もなく、オスマン帝国支配下の時代、平穏な時代であった。 ===ユダヤ教徒=== ユダヤ人のミッレトは東ローマ帝国時代からすでに存在したが、1453年にコンスタンティノープルがオスマン帝国領となると、そのミッレトは東ローマ帝国時代と同じ待遇で扱われることを認められ、公認のラビが監督することになった。オスマン帝国はユダヤ人ということで差別することがなかったため、オーストリア、ハンガリー、ポーランド、ボヘミア、スペインなどからの移民も別け隔てなく受け入れた。ただし、これら新規に流入したユダヤ人たちは纏まりを欠いたため、オスマン帝国がハカム・バシュを任命してこれら小集団と化したユダヤ人らを統括した。 なお、バヤズィト2世の時代にはユダヤ人らを厚遇するように命じた勅令を発布している。 ===アルメニア人=== アルメニア人らは合性論者が多かったため、東ローマ帝国時代から異端視される傾向が強かった。そのため、東ローマ皇帝によってカフカースからカッパドキア、キリキアへ移住させられ、小アルメニアを形成することになった。アルメニア本土はセルジューク軍、蒙古軍、ティムールなどの侵略を受けたが、小アルメニアはなんとか自立を保つことができた。その後、オスマン帝国の侵略を受けたが、小アルメニア、アルメニア本土はすぐにオスマン帝国領化することもなかった。しかし、メフメット2世の時代、アルメニア人らのミッレトが形成されたが、アルメニア本土がオスマン帝国領になるのは1514年のことであった。 ===ギリシャ正教徒=== ギリシャ正教徒のミッレトにはギリシャ人、ブルガリア人、セルビア人、ワラキア人らが所属した。彼らはバルカン半島の主要な民族であったために、メフメット2世がギリシャ正教総主教にゲンナデオス2世を任命してミッレト統括者にしたように重要視された。なお、ルメリ地方にミッレト制が導入されたのはメフメット2世以降であり、コンスタンティノープルが陥落するまでは導入されなかった。 なお、このミッレトには上記民族以外にもアラビア語を母語とするキリスト教徒、トルコ語を母語とするキリスト教徒(カラマンル)らも含まれることになり、キリスト教徒(正教徒)としての意識を持ってはいたが、それ以上に母語を元にした民族意識も二次的ながら存在していた。 しかし、オスマン帝国の首都がイスタンブールであったため、イスタンブールにあった全地総主教座を頂点とする正教会上層部がこの主導権を握ることになったため、ギリシャ系正教徒が中心をなし、ギリシャ系正教徒が著しく重きをなした。これに対して過去にステファン・ドゥシャンが帝国を築いたという輝かしい過去をもつセルビア系正教徒らは反感を持っており、1557年、ボスニア出身の元正教徒で大宰相となったソコルル・メフメト・パシャの尽力によりセルビア総主教座を回復したが、これはイスタンブールの総主教座の強い抗議により1766年に廃止された。この例を見るようにオスマン帝国支配下の正教徒社会の中ではギリシャ系の人々が強い影響力をもっていた。 イスタンブールの総主教を中心とする正教会はオスマン帝国内だけではなく、オスマン帝国外にも信仰上の影響力があった。コンスタンティノープル陥落以降、教育機関が消滅したが、イスタンブールの総主教座の元では聖職者養成学校が維持され、さらにアトス山の修道院も維持され、その宗教寄進もスルタンに承認されていた。 これらのことから教会の上位聖職者はギリシャ系が占めることになったが、これは非ギリシャ系正教徒らに対して「ギリシャ化」を促進しようとする傾向として現れた。18世紀になるとアルバニア系正教徒らがアルバニア語を用いて教育することをオスマン政府に要請したが、これはギリシャ系正教会の手によって握りつぶされ、ファナリオテスがエフラク、ボーダンの君侯になったことにより、ルーマニア系正教徒に対してギリシャ系の優位とそのギリシャ化を推進しようとした。 さらに法律の世界でも正教会が重要な位置を占めており、東ローマ時代には皇帝の権力の元、司法と民政を担っていたが、オスマン帝国支配となると裁判などにおいて当事者が正教徒同士である場合、正教会に委ねられることになった。そのため、ムスリムらの固有法がシャーリアであったのに対して、正教徒らはローマ法が固有の法であった。 ==文化== オスマン朝では、神学や哲学のような形而上の学問の分野では、当時のアラブ・イランのものを上回るものは表れなかったと言われるが、それ以外の分野では数多くの優れた作品や文化を残した。 ===建築=== イスラムの伝統様式を発展させ、オスマン建築と呼ばれる独特の様式を生み出した。モスクなどに現存する優れた作品が多く、17世紀に立てられたスルタンアフメット・モスク(ブルーモスク)がもっとも有名である。建築家はイスタンブールのスレイマニエ・モスクやエディルネのセリミエ・モスクを建てた16世紀前半のミマール・スィナンが代表的であるが、アルメニア人の建築家も数多く活躍した。宮殿では、伝統的建築のトプカプ宮殿や、バロック様式とオスマン様式を折衷させたドルマバフチェ宮殿が名高い。 ===陶芸=== 16 ‐ 17世紀のイズニクで、鮮やかな彩色陶器が生産された。この時代につくられたモスクや宮殿の壁を飾った色鮮やかな青色のイズニク・タイルは、現在の技術では再現できないという。18世紀以降は陶器生産の中心はキュタヒヤに移り、現在も美しい青色・緑色のタイルや皿が生産されている。 ===文学=== トルコ語にアラビア語・ペルシア語の語彙・語法をふんだんに取り入れて表現技法を発達させたオスマン語が生まれ、ディーワーン詩や散文の分野でペルシア文学の影響を受けた数多くの作品があらわされた。チューリップ時代の詩人ネディームはペルシア文学の模倣を脱したと評価されているが、その後は次第に形式化してゆく(トルコ文学の記事も参照)。 ===美術=== イスラム世界から受け継いだアラビア文字の書道が発展し、絵画は、中国絵画の技法を取り入れたミニアチュール(細密画)が伝わり、写本に多くの美しい挿絵が描かれた。ヨーロッパ絵画の影響を受けて遠近法や陰影の技法が取り入れられ、特にチューリップ時代の画家レヴニーは写本の挿絵に留まらない、少年や少女の一枚絵を書いた。 また、エーゲ海地方のウシャクでは絨毯の織物が有名である。 ===音楽=== アラブ音楽の影響を受けたリュート系統の弦楽器や笛を用いた繊細な宮廷音楽(オスマン古典音楽)と、チャルメラ・ラッパや太鼓の類によって構成された勇壮な軍楽(メフテル)とがオスマン帝国の遺産として受け継がれている(トルコ音楽の記事も参照)。 ===園芸=== チューリップ、ヒアシンス、アネモネ、ラナンキュラスなどが庭園で栽培され園芸植物化され、多くの品種を世に出した。 ===料理=== オスマン帝国の料理は、宮廷料理に向けて帝国全土から様々な料理や食材を持ち込んだ事で知られる。地中海の周辺で欧州、中東、アフリカの一部の料理にも影響を及ぼした。 ==オスマン帝国史を題材にした文芸作品== ===トルコ人の作家=== オルハン・パムク 『わたしの名は紅』藤原書店 ・・・2006年ノーベル文学賞を受賞した。トゥルグット・オザクマン(トルコ語版) 『トルコ狂乱』三一書房 ・・・ムスタファ・ケマル・アタテュルク(ケマル・パシャ)の伝記。映画化「Dersimiz: Atat*41*rk」オスマン・ネジミ・ギュルメン(英語版) 『改宗者クルチ・アリ』藤原書店 ・・・クルチ・アリの伝記 ===ユーゴスラビアの作家=== イヴォ・アンドリッチ 『ドリナの橋』・『ボスニア物語』・『サラエボの女』 ・・・東方問題をテーマにした小説。1961年ノーベル文学賞を受賞した。 ===オーストリアの作家=== フランツ・ヴェルフェル 『ムサ・ダの40日間(英語版)』 ・・・アルメニア人虐殺をテーマにした小説。 ===イギリス人の作家=== ジェイソン・グッドウィン 『イスタンブールの群狼』ハヤカワ・ミステリ文庫 ・・・イェニチェリをテーマにした小説ジェイソン・グッドウィン 『イスタンブールの毒蛇』ハヤカワ・ミステリ文庫 ・・・ギリシャ独立戦争をテーマにした小説 ===日本人の作家=== 塩野七生 『コンスタンティノープルの陥落』・『ロードス島攻防記』・『レパントの海戦』、各・新潮文庫(改版)陳舜臣 『イスタンブール 世界の都市の物語』 文藝春秋(1992年)、文春文庫(1998年)。「陳舜臣中国ライブラリー 26」で再刊(集英社, 2001年)夢枕獏 『シナン』中公文庫〈上・下〉 ・・・建築家ミマール・スィナンの伝記 =彗星= 彗星(すいせい、英語: comet)は、太陽系小天体のうち主に氷や塵などでできており、太陽に近づいて一時的な大気であるコマや、コマの物質が流出した尾(テイル)を生じるものを指す。 ==概要== 彗星は、尾が伸びた姿から日本語では箒星(ほうきぼし、彗星、帚星)とも呼ばれる。英語ではコメット (comet) と呼ばれる。天体写真が似るため流星と混同されがちであるが、天体観望における見かけの移動速度は大きく異なり、肉眼による彗星の見かけ移動は日周運動にほぼ等しいため、流星と違い尾を引いたまま天空に留まって見える。 彗星と小惑星とは、コマや尾の有無で形態的に区別するため、太陽から遠方にあるうちは、彗星は小惑星と区別が付かない。彗星は、太陽からおおよそ3 AU(天文単位)以内の距離に近づいてから、コマや尾が観測されることが多い。その位置は火星軌道と木星軌道のほぼ中間に当たる。 太陽に近づく周期(公転周期)は、約3年から数百万年以上まで大きな幅があり、中には2度と近づかないものもある。軌道による分類の節を参照のこと。 彗星が太陽に近づいた時に放出された塵は流星の元となる塵の供給源となっている。彗星の中には肉眼でもはっきり見えるほど明るくなるものもあり、不吉なことの前兆と考えられるなど、古くから人類の関心の的となってきた。いくつかの明るい彗星の出現の記録は、古文献などに残っている。古代ギリシアの時代から長い間、彗星は大気圏内の現象だと考えられてきたが、16世紀になって、宇宙空間にあることが証明された。彗星の性質などには未だに不明な点も多く、また近年は太陽系生成論の方面からも大きな関心が寄せられ、彗星の核に探査機が送り込まれるなど、研究・観測が活発に続けられている。 彗星には、発見報告順に最大3人まで発見者(個人またはチーム、プロジェクト)の名前が付けられる。彗星を熱心に捜索する「コメットハンター」と呼ばれる天文家もいるが、20世紀末以降は多くの彗星が自動捜索プロジェクトによって発見されるようになっている。 2006年8月にプラハで開かれた国際天文学連合 (IAU) 総会での決議により、彗星は小惑星とともに small solar system bodies (SSSB) のカテゴリーに包括することが決定された。これを受け、日本学術会議は2007年4月9日の対外報告(第一報告)において、2007年現在使われている「彗星」「小惑星」等の用語との関係については将来的に整理されることを前提とした上で、small solar system bodies の訳語として「太陽系小天体」の使用を推奨した。 ==物理的特徴== ===核=== 彗星の本体は核と呼ばれる。核は純粋な氷ではなく、岩石質および有機質の塵を含んでいる。このことから、彗星の核はよく「汚れた雪玉」に喩えられる。核の標準的な直径は1 ‐ 10km程度で、小さく暗いものでは数十m、非常に大きいものでは稀に50キロメートルほどに達する。質量は、大きさによってかなり異なってくるが、直径1km程度の彗星で数十億トン単位、10km程度の彗星で数兆トン単位であると考えられる。これは、地球の山1つ分ほどに相当する。自らの重力で球形になるには質量が足りないため、彗星の核は不規則な形をしている。 氷の構成成分を分子数で見ると、たとえばハレー彗星の場合、80%近くは水 (H2O) で、以下量の多い順に一酸化炭素 (CO)、二酸化炭素 (CO2)、アンモニア (NH3) 、メタン (CH4) と続き、微量成分としてメタノール (CH3OH)、シアン化水素 (HCN)、ホルムアルデヒド (CH2O)、エタノール (C2H5OH)、エタン (C2H6) などが含まれる。さらに鎖の長い炭化水素やアミノ酸などのより複雑な分子が含まれる可能性もある。双眼鏡や望遠鏡で見た時に青緑色に見えるのは、これらの微量成分が太陽光で解離してできる C2(炭素が2つ繋がったもの)や CN などのラジカルの輝線スペクトルが強いためである。2009年には、NASAの探査機スターダストによるミッションで回収された彗星の塵から、アミノ酸のグリシンが発見されたことが確認された。 塵の成分はケイ酸塩や有機物を始めとする炭素質である。ケイ酸塩は結晶質と非晶質の両方を含む。通常、ケイ酸塩が結晶化するには数百度の高温が必要であり、彗星は、低温でできる氷と高温でできるケイ酸塩結晶が混じり合っている点で珍しい。 彗星の核は、太陽系に存在する物体の中でも最も黒い天体である。探査機ジオットは1986年にハレー彗星の核に接近し、核の光のアルベド(反射能)が4%しかないことを発見した。また探査機ディープ・スペース1号も2001年にボレリー彗星に接近して観測を行い、核の表面のアルベドが2.4%から3%程度しかないことを発見した。これは、月やアスファルトの光のアルベドが7%なのと比較するとかなり小さい値である。複雑な有機化合物がこのような暗い表面を構成していると考えられている。太陽によって表面が熱せられると揮発性の化合物が、特に黒っぽい傾向のある長鎖の化合物を残して蒸発して飛び去ってしまい、石炭や原油のように黒くなる。彗星の表面が非常に黒いため、熱を吸収して外層のガスが流出する。 ===コマと尾=== 太陽から遠い所では、低温のため核は全て凍りついており、地球上から見てもただの恒星状の天体にしか見えない。しかし、彗星が太陽に近づいていくと、太陽から放射される熱によってその表面が蒸発し始める。それに伴って発生したガスや塵は、非常に大きく、極めて希薄な大気となって核の周りを球状に覆う。これはコマと呼ばれる(これは「髪」という意味であり、実際に古くは日本語訳されて「髪」と呼ばれることもあった)。コマの最外層は水素のガス雲となっており、水素コロナと呼ばれる。 そして、太陽からの放射圧と太陽風により、太陽と反対側の方向に尾が形成される。尾には、ダストテイル(塵の尾)という、塵や金属から構成された白っぽい尾と、イオンテイル(イオンの尾)またはプラズマテイルという、イオン化されたガスで構成される青っぽい尾がある。ダストテイルは曲線状となる。これには、核から放出された塵が独自の軌道で公転するようになり、徐々に核本体から遅れていくため、また、太陽の自転により太陽風が渦巻いていたり、太陽の光の圧力(光圧)の影響なども受けていたりするためなどの理由がある。2007年のマックノート彗星や歴史上の大彗星のいくつかでは、何本もに枝分かれしたダストテイルが扇状に広がって見えた。これに対し、イオンテイルは、ガスが塵より強く太陽風の影響を受け、太陽の引力よりも磁場に従って運動するため、太陽のほぼ反対側に直線状に伸びていく。ただし、太陽風の乱れによって、時には折れ曲がったりちぎれたりするなど、激しい変化を見せることもある。なお、地球が彗星の軌道面を通過するとき、彗星の曲がった塵の尾と地球との位置の関係で、尾の一部が見かけ上太陽の方向に伸びているように見えることがあり、アンチテイルと呼ばれる(アラン・ローラン彗星 (C/1956 R1) のアンチテイルは殊に有名である)。実際には太陽に向かって尾が伸びているわけではなく、あくまでも視覚上の錯覚である。アンチテイルの観測は太陽風の発見に大きく貢献した。 コマや尾は、核に比べて非常に規模が大きくなる。コマは水素コロナを含めると、時には太陽(直径約139万km)よりも大きくなることがある。また、尾も1天文単位以上の長さになることがある。1996年春に明るくなり、観測史上最も尾が長く伸びた百武彗星では、尾の実長は実に3.8天文単位(5億7000万km)にも達した。コマと尾はどちらも太陽に照らされ、太陽系の内側に入り込んでくると地球から肉眼で見えるようになることもある。塵は太陽の光を直接反射し、ガスはイオン化されるため明るく輝く。ほとんどの彗星は暗すぎて望遠鏡が無ければ見ることができないが、10年に数個ほどは、肉眼でも充分見えるほどに明るくなる。 1996年、百武彗星の観測から彗星がX線を放射していることが発見された。彗星がX線を放射していることはそれまで予測されていなかったため、この発見は研究者たちを驚かせた。このX線は彗星と太陽風との相互作用により生じると考えられている。イオンが急速に彗星の大気に突入すると、イオンと彗星の原子や分子が衝突する。この衝突により、イオンは1つか複数の電子を捕獲し、それがX線や遠紫外線の光子の放出に繋がると考えられている。 ==軌道による分類== 彗星は、太陽を焦点の一つとする楕円、放物線あるいは双曲線の軌道をとり、軌道によって分類される。離心率が1より小さい楕円軌道を持つ彗星は、太陽を周期的に周回するもので、周期彗星と呼ばれる。周期彗星が太陽の近くへ戻ってくることを、「回帰」という。離心率が1である放物線軌道、あるいは離心率が1より大きい双曲線軌道を持つ彗星は、二度と戻って来ないと考えられ、非周期彗星と呼ばれる。 ただ、惑星や近傍恒星の重力や、非重力効果により、実際の彗星の軌道は不安定である。特に、周期数百年以上の彗星の楕円軌道は、わずかな軌道の変化で周期が大きく変わるので、周期どおりに戻ってくるとは限らない。また、後述する通り、起源や特性からも、周期の長い周期彗星は非周期彗星に近い。このような理由により、彗星を、周期彗星と非周期彗星ではなく、公転周期200年未満の短周期彗星と、200年以上の長周期彗星に分けることが多い。その場合、「周期彗星」という言葉は、短周期彗星と長周期彗星の両方を指す場合もあるが、特に短周期彗星のみを指して用いられる場合もある。周期彗星、長周期彗星、非周期彗星の3つに分けることもある。 21世紀初頭では別の種類として、小惑星帯上にありながら彗星として活動する彗星が発見されており、メインベルト彗星と呼ばれている。これは小惑星と彗星の分類に見直しを迫ることになるかもしれない。他にも、特徴的な軌道を持つ彗星として、近日点が太陽に極めて近いサングレーザーがある(後述)。 ==軌道の特徴と起源== 短周期彗星はエッジワース・カイパーベルト、またはそれに隣接する散乱円盤天体を起源に持つと考えられ、ハレー彗星以外に大型の彗星は少ない。一方、長周期彗星の起源はオールトの雲にあると考えられ、大彗星になるものが多い。特に、以前の観測記録が無い大型の彗星は、太陽系の起源を知る上で重要な手掛かりとなると考えられている。 小惑星は比較的円に近い楕円軌道を描いているものが多いのに対して、彗星は非常に細長い楕円や放物線、双曲線の軌道をとるものが多い(軌道の離心率の値が大きい)。彗星がなぜ極端な楕円軌道になるような摂動を受けるのかを説明するために、様々な説が提唱されてきた。有名なものとして、銀河系の中の恒星が太陽の近くを通過したことにより、オールトの雲を含む太陽系外縁天体の軌道が掻き乱され、その一部が太陽へと落下してくるとする説や、ネメシスという太陽の連星、あるいは未知の惑星Xの存在を仮定して、その重力的影響によるものだとする説などがある。 1950年、天文学者のヤン・オールトは、長周期彗星の軌道計算を行い、遠日点が太陽から1万天文単位 ‐ 10万天文単位(約0.1光年 ‐ 1光年)の距離のものが多いことを発見した。そこでオールトは、小天体が多く集まるオールトの雲と呼ばれる領域が太陽系の最外縁部に存在するという仮説を提唱した。この仮説は広く受け入れられ、それ以後彗星はオールトの雲に起源を持つと考えられるようになった。オールトの雲に存在する天体は、時々お互いに重力的相互作用(摂動)を起こし、一部が太陽の引力に捉えられて極端な楕円軌道を描くようになり、太陽に非常に接近するようになる。 オールトの雲とエッジワース・カイパーベルトはいずれも、太陽系の形成と進化の過程において原始惑星系円盤で形成された微惑星、または微惑星が集まった原始惑星が残っていると考えられている領域である。太陽から3AU以遠では比較的凝固点の高い物質がすべて凍り、岩石質の物質の総量を上回るため、微惑星の主成分は氷になる。オールトの雲は、主として木星や土星が形成される付近の軌道にあった氷小天体が、形成後の木星や土星に弾き飛ばされたものと考えられ、太陽系を球殻状に取り巻いている。エッジワース・カイパーベルトは太陽系外縁部の氷小天体が惑星にまで成長できずに残ったものと考えられており、黄道面を取り巻くようにして環状に広がっている。したがって、オールト雲起源の彗星の方がエッジワース・カイパーベルト起源のものより形成温度が高いと考えられている。 2009年11月の時点までで、3,648個の彗星が知られており、そのうち約1,500個がクロイツ群の彗星、約400個が短周期彗星である。この数は増え続けているが、本当に存在するはずの彗星のうちのごく一部である。太陽系外部に存在する彗星の元になる天体はおよそ1兆個存在するかもしれない。地上から肉眼で見えるようになる彗星の数はおおまかには1年に1個程度だが、その大部分は暗く目立たない。歴史上、非常に明るく肉眼でもはっきり見え、多くの人に目撃されたような彗星は大彗星と呼ばれることがある。 彗星は質量が小さく、軌道が楕円であるため、周期的に巨大な惑星に接近し、その度に彗星の軌道は摂動を受け変わる。短周期彗星は、遠日点までの距離が、巨大な惑星の軌道半径と同じになるような強い傾向が見られる。これらはその惑星の名を取って木星族、土星族、天王星族、海王星族の彗星などと呼ばれる。その中でも、木星の軌道付近に遠日点を持つ木星族の彗星が特に多い。オールトの雲からやってきた彗星は、しばしば巨大な惑星に接近し、重力の強い影響を受ける。特に木星は、他の惑星を全て合計したより2倍以上大きな質量を持っているため、非常に大きな摂動を彗星に与える。なお、もし木星や土星のような巨大惑星がなければ、現実より多くの彗星が太陽系中心部に侵入し、一部は地球と衝突していただろう、という説がある(惑星の居住可能性#グッド・ジュピターも参照)。 また、重力的な相互作用により軌道が変わったため、過去数十年や数世紀の間に発見された周期彗星のうち、その彗星が将来どこに現れるか予測できるほど良く軌道が定まっていなかったいくつかが見失われている。しかし、時折、「新」彗星の過去の軌道を遡ることにより、古い「見失われた」彗星と同一だと判明することがある。その例として、テンペル・スイフト・LINEAR彗星 (11P) が挙げられる。この彗星は1869年に発見され、「テンペル・スイフト彗星」と命名されたが、木星の摂動により軌道が変わり、1908年以降見失われていた。しかし、2001年、LINEARが偶然発見した「LINEAR彗星」(C/2001 X3) が、発見後しばらくしてテンペル・スイフト彗星と同一の天体だと判明し、93年ぶりの再発見が認定されるとともに、名前がテンペル・スイフト・LINEAR彗星に変更されることとなった。 彗星の軌道に関する特徴の1つとして、軌道面の傾き(軌道傾斜角)が非常に大きいものが多いということが挙げられる。太陽系の惑星は、軌道傾斜角は概ね数度程度、大きくても10度以内に収まっている。また、小惑星も、20度から30度程度まで傾いているものは多いが、軌道傾斜角がある程度小さいものが多い傾向はある。短周期彗星も、惑星の摂動により軌道を変えられた影響もあって、軌道傾斜角が小さいものが大半を占める。しかし、長周期彗星は、黄道面とほとんど垂直な軌道を持ったもの(軌道傾斜角が90度前後)や、惑星や大半の彗星、小惑星と逆向きに公転しているもの(軌道傾斜角が180度であるとも見なせる)も多く、ほとんどランダムに空のどこからでも現れるように見える。これは、オールトの雲の分布が球殻状であると推定する根拠になっている。 ==彗星の明るさとその予測== 彗星の明るさ、すなわち光度は、恒星と同じように等級を単位として表される。しかし、彗星は恒星と違って核、コマ、尾などの構造があり、それぞれ明るさがあるため、全ての部分を含んだ明るさを全光度、核だけの明るさを核光度と呼び区別する。従って、コマや尾がほとんど発達していない状態の彗星では全光度と核光度は等しく、逆に大きく発達している場合は核光度より全光度のほうが明るくなることになる。彗星には、中心核が特に明るい、すなわち中央集光が強いものも、逆に特に明るい部分がなく非常に拡散しているものもある。 彗星の明るさを測定するには、近くにある恒星と比較することになる。コマや尾が発達していない恒星状の彗星では、変光星や小惑星の場合と同じように、比例法と光階法という方法を用いる。しかし、コマや尾が発達している場合、同じ明るさでも点光源と面光源では明るさが違って見えてくるため、単純に比較することはできない。このため、彗星の明るさを憶えてからピントをずらして基準星が同じ大きさに見えるようにし、明るさを比較するシジウィック法(Sidgwick法、S法)、わざとピントをずらし、彗星と比較星が同じ大きさに見えるようにしてから明るさを比較するボブロフニコフ法(Bobrovnikoff法、B法)、彗星が均一な明るさに見える程度にピントをずらしてから明るさと大きさを憶え、基準星が同じ大きさに見えるまでぼかしてから憶えた彗星の明るさと比較するモーリス法(Morris法、M法)などの方法が用いられる。核光度も、全光度と同様に測定する。測定された彗星の光度は、観測者の熟練の程度やその日の体調、観測器材の状態、観測状況、基準星の明るさの誤差など、様々な要因により、観測者によって0.5等級以上ばらつく場合がほとんどである。また、CCDカメラなどで写真を撮影し、近くの基準星を用いて専用ソフトで明るさを測定することもできる。肉眼で見た光度(眼視光度)と、写真で測定した光度(写真光度)は数等級ずれることもある。 彗星の光度を正確に予測するのは非常に難しい。小惑星などの天体は通常、地球までの距離(地心距離)と太陽までの距離(日心距離)の2乗に反比例して明るくなるが、彗星の場合は太陽に近づくと塵やガスが噴出し、コマができたり尾が伸びたりするため、太陽までの距離の5乗から、場合によっては10乗以上に反比例して明るくなっていく。彗星の光度の予測には、一般に以下のような式(光度式)が使用される。 m = m0 + 5 log Δ + k log rここで、m は彗星の光度である。 m0 は標準光度、または絶対光度と呼ばれ、彗星が太陽からも地球からも1天文単位の距離にある時の明るさを表す。 また、Δ は地心距離、r は日心距離をそれぞれ天文単位で表したものである。また、k は光度係数と呼ばれる値で、この値が大きいと光度変化は激しくなり、小さいと光度変化は穏やかになる。観測期間が長くなり観測データが多数集まってくると、専用ソフトウェア[1]などを用い、最小二乗法などの方法で標準光度と光度係数を求めることができる。 発見から間も無いなど、観測期間が短くデータも少ない場合は、光度係数を10と仮定して明るさを予測することが一般的である。標準光度は彗星の規模によって大きく違うが、光度係数は5.0から30程度の間に収まるものが大半である。しかし、核が分裂するなどの要因で活動が活発化し急激な増光(アウトバースト)が起こった場合は光度係数が100を越える場合もあるし、アウトバーストが終わるなどで活動が衰えた場合や核が崩壊して消滅していく場合などは、光度係数が大きく負の値を取る場合もある。ある1本の光度式に常によく当てはまる光度変化をする彗星もあるが、活動の規模が途中で変化すれば当てはまる標準光度や光度係数の値も変化する。しかし、いつどのように活動が変化するかを予測することは非常に難しい。何回か回帰している彗星は、以前の記録を基にある程度予測が可能だが、初出現の彗星についてはほぼ不可能である。また初出現の彗星は、しばらく観測しないとどんな光度式が当てはまるのかも分からない。彗星の光度予想が難しいと言われるのはこのような理由による。 ==彗星の崩壊と消失== ===太陽系からの離脱=== 彗星の軌道速度が速い場合、太陽系の内部に入ってきてそのまま太陽系の外部へ出て行く場合がある。大部分の非周期彗星がこの例に当たる。また、木星など太陽系内の他の天体による重力的摂動によって加速され、太陽系の外へ放出される場合もある。 ===揮発性物質の枯渇=== 太陽への接近を繰り返すうちに徐々に揮発性の成分が脱落していくが、崩壊・消失に至ることなく小惑星のようになる場合があり、これを彗星・小惑星遷移天体や枯渇彗星核と呼ぶ。そのような過程を経たと思われる天体や、その過渡期にある天体もいくつか見つかっている。小惑星は彗星とは起源が異なり、太陽系の外側ではなく内側で形成されたと考えられているが、ヴィルト第2彗星からのサンプルリターンにより得られたサンプルが小惑星のものと似ていたことから、21世紀初頭では彗星と小惑星の境界はやや曖昧になっている。 ===分裂と崩壊=== 最も早期に発見された周期彗星の1つであるビエラ彗星 (3D) は1846年の回帰時に2つに分裂し、次の回帰である1852年には双子の彗星となって現れたが、その後は2度と出現しなかった。その代わり、本来彗星が回帰するはずであった1872年と1885年に、1時間当たりの出現数が数万個にも達する壮大な流星雨が観測された。この流星群はアンドロメダ座流星群と呼ばれ、毎年11月5日前後に地球がビエラ彗星の軌道に突入するために起こる。21世紀初頭ではほとんど出現はないが、稀に突発的な1時間当たり数十個の出現が観測されることがある。ビエラ彗星以降も、太陽からの輻射熱や物理的作用により、分裂あるいは崩壊、消失した彗星は、多数観測されている。 彗星のさまざまな様相変化の予想は難しく、彗星核の崩壊や消失に関する理論的な研究はあまりなされていない。しかし、国立天文台の福島英雄らの観測・研究グループによれば、近日点通過前の彗星頭部の崩壊前に極めて特異なコマ形状を共通して示していることや、光度観測により色指数 (V‐I) の変化が特異であることが報告された(2003年春季天文学会)。実際には彗星の頭部がY字やT字型からおむすびのような形に変化していき、集光も薄れ消失するのだという。このモデルに合致した彗星としては、例えば、SWAN彗星 (C/2002 O6) が挙げられ、普通の彗星のコマと違い三角形の形状をしているという報告がなされた。また、ヘーニッヒ彗星 (C/2002 O4) も同様な消滅過程だと報告された。 ===衝突=== 彗星の中には、太陽に飛び込む、あるいは惑星やその他の天体に衝突するなど、より劇的な最後を迎えるものもある。彗星と惑星や衛星との衝突は太陽系の形成と進化の初期にはありふれた出来事だったと考えられている。たとえば地球の衛星である月の膨大なクレーターの一部は、彗星が衝突したことで形成されたと考えられている。 1993年に発見されたシューメーカー・レヴィ第9彗星は、1992年に木星に非常に接近した際にその重力に捕らえられ、木星の周りを回る軌道をとっていた。この接近で既に彗星の核は分裂し、少なくとも21個の破片に分かれていた。そして分裂した核は1994年7月16日から7月22日までに、相次いで木星の大気に突入、巨大な噴煙や衝突痕は地球からも観測された。2009年・2010年にも木星表面に彗星が衝突した痕跡らしきものが観測された。パリ天文台に残されているジョヴァンニ・カッシーニの観測記録によると、1690年にも木星に彗星が衝突した可能性が高い。さらに、2010年に土星と海王星の大気組成の分析が行われ、それぞれ約300年前と約200年前に彗星が衝突したことを示す結果が得られている。 地球にも約40億年前の後期重爆撃期には数多くの彗星や小惑星が衝突した。多くの科学者は、後期重爆撃期に地球に衝突した彗星によって、地球の海を満たしている膨大な量の水のほとんど、少なくともかなりの割合がもたらされたと考えている。しかし、その理論を疑う研究者もいる。彗星に含まれる有機分子を探すことで、彗星や隕石が生命の前駆物質、あるいは生命自体さえも運んできたのではないかと推測されてきた。 ==彗星の名前と符号== ===彗星の名前=== 彗星の名前は、過去2世紀に渡って、いくつかの異なる慣習に従って決められてきた。系統的な慣習が採用されていなかった時代には、彗星の命名は様々な方法によっていた。最初の周期彗星 (1P) であるハレー彗星は、彗星の軌道を決定したエドモンド・ハレーの名前から採られた。同じように、2番目の周期彗星 (2P) として知られているエンケ彗星は、最初の彗星の発見者ピエール・メシャンではなく、軌道を決定した天文学者であるヨハン・フランツ・エンケの名前が付けられている。クロンメリン彗星 (27P) も、同様に軌道計算をしたアンドリュー・クロンメリンの名が付けられている。 18世紀末から20世紀初頭の明るい彗星の中には、3月の大彗星 (Great March comet) などと名付けられたものもある。いくつかは単に大彗星 (Great comet) で区別が付かないので、「1811年の大彗星」(トルストイの『戦争と平和』に登場する彗星)などとも呼ばれる。 20世紀初頭、彗星の命名として、発見者の名前を付けるという慣習が一般的になった。これは現在まで続いている。彗星にはその彗星を独立発見した人の名前が先着順で3名まで付けられる。1990年代に入ると、人工衛星(IRAS や SOHOなど)や、国際規模の彗星および小惑星の掃天プロジェクトチーム(LINEAR、NEAT など)による彗星の発見が相次ぐようになり、数多くの彗星に、これらの自動捜索プロジェクト名が付くようになった。たとえば、IRAS・荒貴・オルコック彗星は、赤外線衛星IRASと、日本のアマチュア天文家の荒貴源一、イギリスのジョージ・オルコックによって、独立に発見された。現在では、自動捜索プロジェクト名でない彗星のほうが少ない。 同じ発見者が複数の彗星を発見しても、名前で区別はされない。だから、たとえば「SOHO彗星」という名前の彗星は1,000を超える。彗星を一意に示すには、後述する符号を使う必要がある。ただし、‐ 第1彗星、‐ 第2彗星、などを末尾につけて区別することもある。 また、過去に出現した彗星が再発見された場合、彗星自体の発見が公表された後に過去の彗星と同定された場合には過去の彗星の名に再発見者の名前が付けられることもある。例としては、バーナード・ボアッティーニ彗星 (206P = D/1892 T1 = P/2008 T3) などがある。なお、発見の公表前に過去の彗星と同定された場合には再発見者の名前は付かない。例としては、2008年に板垣公一と金田宏が再発見し、発見の公表前に同定されたジャコビニ彗星 (205P = D/1896 R2)(前述のようにジャコビニ彗星の名のある彗星は10個あり、そのうちの一つ)がある。 なお、キロン (95P/2060) など少数の彗星が、小惑星として発見され、小惑星の命名規則に基づいて命名された後に彗星であることが判明している。逆に見失われていた彗星が小惑星として再発見された例もあり、彗星としての名前のまま小惑星としても登録されている(彗星・小惑星遷移天体を参照)。 ===旧方式符号=== 1994年までの彗星の系統的な符号の付け方としては、まず最初にその彗星が発見された年と、その年内の発見順を示す文字からなる仮符号が与えられた。たとえばベネット彗星の仮符号は 1969i で、1969年の9番目に発見された彗星であることを意味する。彗星の軌道が確定すると、彗星には、近日点通過の年とローマ数字からなる確定符号が与えられた。ベネット彗星の確定符号は 1970 II となる。確定符号は、日本語に訳して、1970年第2彗星などとも呼んだ。確定符号が付くと、仮符号は使われなくなった。 彗星の発見数が増加してくると、この方法の運用に綻びが生じてきた。観測技術の進歩により1年の発見数が25を超え、仮符号に使うアルファベットが足りなくなり、また近日点通過から1年以上経って発見されるものも出てきて、確定符号の近日点通過順という原則も崩れてきた。そこで1994年に国際天文学連合は新しい命名方法を採用し、1995年から実施された。 ===新方式符号=== 符号は発見が報告された年、月、発見報告順を元にして付けられる。たとえば、ヘール・ボップ彗星の場合は「C/1995 O1」(シー/1995 オー1)と記載される。 最初の「C/」は「Comet」を意味し、発見報告直後の全ての彗星にはこの符号が付けられる。発見報告後の観測により、周期彗星(なお、本節に限り、「周期彗星」を「公転周期200年以下または複数の近日点通過が観測された彗星」と定義する)だと分かった場合、記号は「P/」(Periodic) に変更される。周期彗星でない場合は「C/」のままである。また、消滅した、または、長期間観測されない周期彗星には「D/」、軌道を求めることができなかった彗星には「X/」を付ける。2006年7月現在、「D/」が付いた彗星は24個、「X/」が付いた彗星は54個ある。「1995」は、発見が報告された年を表す。「O」は発見が報告された時期を表す。1月前半(15日まで)が「A」、1月後半(16日から)が「B」、というように、1年を24に分けて表す。ただし、「I」は「J」や「1」と紛らわしいので飛ばし、「Z」は使わない。この規則は、小惑星と共通である。「1」は、その時期の中での発見報告順を表す。ヘール・ボップ彗星は、1995年7月後半に発見が報告された最初の彗星であることが分かる。彗星が分裂した場合、「‐A」、「‐B」などが末尾に付けられる。2回目の回帰が観測された彗星、または遠日点でも観測できる彗星、あるいは4回の衝が観測されたケンタウルス族彗星には、「P/」(または「D/」)の前に公式通し番号が付けられる。たとえば、スパール彗星が回帰して2005年に再発見されたときの符号は「171P/2005 R3」で、同時に、最初の発見は「P/1998 W1」から「171P/1998 W1」に変更された(再発見には別の符号が付くことに注意)。複数回の発見を区別する必要がないときは、「171P/Spahr」と表現される。2010年9月現在、244P/Scotti まで番号が付けられている。1994年以前の彗星にも、新方式符号が遡って付けられる。たとえば、前述のベネット彗星の新方式符号は C/1969 Y1 となる。つまり、1994年以前の彗星は、符号が3つあるということになる。なお、従来は発見者が発見した順に「テンペル第1彗星」「ヴィルト第2彗星」というように番号(接尾数字)が付けられていた(接尾数字と、公式通し番号の順とは一致しない)が、1995年頭より新発見の彗星には接尾数字が付けられなくなり、2000年には過去の彗星からも接尾数字が廃止された。 ==彗星観測の歴史== ===古代の記録と信仰=== 望遠鏡が発明される以前、彗星は夜空の何も無いところから突然現れ、ゆっくりと消えていくように観測された。そのため流星群や日食と同様に君主の死や王朝の滅亡、天災、疫病といった事象を予告する凶兆と信じられ、果ては地球の住人に対する天からの攻撃であると解釈されることすらあり、人々はその出現を恐れた。 世界各地で古代より彗星についての記録が残っている。紀元前2320年のバビロニアや、『ギルガメシュ叙事詩』、『ヨハネの黙示録』、『エノク書』といった書物で「落ちる星」として言及されているが、これらは彗星もしくは火球について言及したものだと解釈されている。中国では特に多くの記録が残っており、紀元前よりハレー彗星の回帰が4度記録されている。紀元前1059年頃、殷代末期の甲骨文に彗星と思われる記述が残されているが、確実な最古と言える記録は紀元前613年の『春秋』に記されたものとされている。ほか紀元前240年、秦の始皇帝がハレー彗星を見たとする記録が『史記』に残されている。ヨーロッパでは彗星は気象現象の一種だと考えられていたため、古い記録は中国ほど多くはないが、有名な例として1066年、イングランドのハロルド2世が即位して間もない頃に「火の星」が現れ、従臣たちを怯えさせたことが記録されており、その直後にヘイスティングズの戦いが発生、王は戦死し国は征服された。日本では、684年のハレー彗星の回帰に関する記述が『日本書紀』にみられる。 ===観察と考察=== アリストテレスは、彼が著した最初の気象学の本『気象論』(Meteorologica)[2]で彗星に対する見解を示し、それが西洋の思想を2000年近くに渡って支配することになった。彼は、彗星は惑星であるか少なくとも惑星に関係する現象であるという、それまでの学者の説を否定し天文現象ではなく気象現象と考えた。その根拠は、惑星の動く範囲は黄道帯の中に限られるが、彗星は空のあらゆる所に現れるというものであった。その代わり、彼は彗星を大気の上層部で起こる現象だと捉え、そこは温度が高く、乾いた蒸気が集まり時々勢いよく炎が燃え上がるのだと考えた。彼はこの仕組みは彗星だけでなく、流星や、オーロラ、そして天の川の成因にさえなっていると考えた。 その後、この彗星に対する見方に反論する古代の学者が少数だがいた。ルキウス・アンナエウス・セネカは、彼の著書『自然研究』 (Quaestiones naturales) において、彗星は空を規則的に動き、風に邪魔されることがなく、大気中の現象よりは天体に典型的な運動をすることを述べていた。彼は他の惑星が黄道帯の外に現れることが無いことを認めつつも、天球上のものに関する人間の知識は限られているので、惑星のような物体が空のあらゆる所に現れる可能性を否定する理由はないとした。しかし、アリストテレスの立場のほうが影響力が大きく、彗星が地球の大気圏外にあるということが証明されたのは16世紀のことであった。 1577年に明るい彗星が現れ、数か月間肉眼で観察できた。デンマークの天文学者ティコ・ブラーエは、彗星に測定可能な視差が無いことを確かめるため、彗星の位置を自分で測定するとともに、遠く離れた場所の観測者にも測定させた。正確な測定をしたところ、その測定結果は、彗星が少なくとも月より4倍以上遠くにあるということを示していた。 18世紀にもなると、多くの天文学者たちが彗星の発見と研究を競ったが、中には彗星と紛らわしい天体があることも知られるようになった。1764年にロンドン王立協会の外国人会員なったフランスのシャルル・メシエは、自らも彗星の捜索を行う傍ら、彗星と紛らわしい天体が多いことに閉口していた。そこでメシエは彗星ではない天体のリストを作り始めた。これが天体カタログの『メシエカタログ』である。メシエ自身も1760年に最初の彗星を発見している (C/1760 B)。 ===軌道の研究=== 彗星が宇宙空間にあるということは証明されたが、彗星がどうやって空を移動しているのかという疑問は、その後、数世紀に渡って議論の中心になるように思われた。ヨハネス・ケプラーが1609年に、惑星の軌道は楕円軌道であると決着をつけた後でさえ、彼は惑星の運動を支配している法則(ケプラーの法則)が他の天体にも影響を与えていると信じるのを躊躇した。彼は彗星は惑星の間を直線軌道で運行していると信じていた。ガリレオ・ガリレイは、地動説を唱えたニコラウス・コペルニクスの擁護者であったにも拘らず、ティコによる彗星の視差の測定結果を受け入れず、彗星は地球大気の上層を直線状に動くというアリストテレスの考えを支持し続けた。ただし、ケプラーの師ミヒャエル・メストリンは彗星の軌道が直線からわずかにずれることを観測で確認しており、ケプラーも自身の説を発表するに当たって師のデータを改竄せずその理由について「地球の運動のため」との(誤った)考察を与えている。 ケプラーの惑星の運動の法則が彗星にも適用されるべきだ、と初めて提案したのはウィリアム・ローワーで、1610年のことであった。その後、数十年間、ピエール・プティ、ジョヴァンニ・ボレリ、アドリアン・オーズー、ロバート・フック、そしてジョヴァンニ・カッシーニなどを含む他の天文学者たちは、彗星は太陽の周りを曲線状の軌道、楕円軌道か放物線軌道を描いて運行しているという説を唱えたが、その一方、クリスティアーン・ホイヘンスやヨハネス・ヘヴェリウスは、彗星は直線運動をしているという説を支持した。 この問題は、1680年11月14日にゴットフリート・キルヒが発見したキルヒ彗星によって解決された。ヨーロッパの至る所で、天文学者たちはこの彗星の位置を観測し続けた。1687年、アイザック・ニュートンは彼の著書『自然哲学の数学的諸原理』(プリンキピア)において、万有引力の逆2乗の法則の影響下で運動する物体は、軌道の形が円錐曲線の一種になるということを証明し、天空における彗星の運動が放物線軌道とどのように適合するかを、1680年の彗星を例にして具体的に説明した。 1705年、エドモンド・ハレーは、1337年から1698年までの24個の彗星の出現に対して、ニュートンの手法を応用した。するとハレーは、1531年、1607年、1682年に現れた3つの彗星の軌道要素が、極めて似通っていることに気づいた。しかも、軌道要素の僅かな違いは、木星と土星による重力的な摂動によって説明することができた。彼はこの3つの彗星の出現は、同じ彗星が3回出現したものだと確信し、この彗星は1758年か1759年に再び戻ってくるだろうと予言した(ハレー以前に、ロバート・フックが既に1664年に出現した彗星と1618年の彗星を同定し、また同じころカッシーニも1577年、1665年、1680年の彗星は同じものではないかと推測していたが、これらはどちらも間違っていた)。ハレーが予言した彗星の戻ってくる期日は、後に3人のフランスの数学者によって改良された。アレクシス・クレロー、ジェローム・ラランド、ニコル=レーヌ・ルポートである。彼らは彗星の1759年の近日点通過日時を1か月以内の誤差で予言した。彗星は予言通りに回帰し、その彗星はハレー彗星として知られることとなった(公式な符号は 1P/Halley)。 短い周期を持ち、歴史上の記録に何度も登場するような彗星の中で、ハレー彗星はどの出現でも肉眼で見えるほどの明るさになったという点で特異である。ハレー彗星の出現の周期性が確立して以降、数多くの周期彗星が望遠鏡を使って発見されてきた。2番目に発見された周期彗星はエンケ彗星(公式な符号は 2P/Encke)である。1819年から1821年までの期間中、ドイツの数学者・物理学者のヨハン・フランツ・エンケは、1786年、1795年、1805年、1818年に観測された一連の彗星の出現から軌道を計算し、これらは同一の彗星であるという結論を下し、1822年の出現を予言するのに成功した。1900年までに、17個の彗星について1回以上の近日点通過が観測され、周期彗星として確認された。2010年までに、240個以上の彗星について周期彗星としての識別に成功しているが、そのうちのいくつかは消滅したり見失われたりしている。 ===物理的特徴の研究=== アイザック・ニュートンは、彗星を固く締まった頑丈な固体だとした。つまり非常に長い楕円軌道を描き、その軌道と方向がかなり自由な惑星の1種であって、その尾は、太陽熱で着火または加熱された頭部、つまり彗星の核から放出された非常に希薄な蒸気だと考えていたのである。また、ニュートンにとっては彗星は、惑星の水分と湿気を維持するために不可欠なものだと思われた。つまり、彗星の蒸気と放出ガスが凝縮したものから、植物が生まれ腐敗し乾燥した土になるために使われるすべての水分が再供給、補充されるとした。ニュートンは、すべての植物は液体から増え、それが腐敗して土になると考えていたためである。だとすると乾いた土の量は絶えず増加するので、その惑星の水分は絶えず供給されていない限り絶えず減っていき、遂には無くなるはずだと考えたのである。ニュートンは、われわれの空気の最も精妙で最上の部分を構成する、生命と全ての存在に絶対不可欠な精気が、彗星によってもたらされるのではないかと考えた。また、彼の推測によると、彗星は太陽に新しい燃料を補充していて、その発光体から全ての方向に絶えず送られる流れによって太陽の光を回復させているとした。 「巨いなる沸き立つ尾より振るえてはあまたの珠玉に潤いを甦らせるその長き楕円の風の吹くところ傾く太陽に新たな燃料を与える星界を照らすがため天空の火を養う」 18世紀以前に、彗星の物理的構造について正しい仮説を立てていた科学者もいた。1755年、イマヌエル・カントは、彗星は揮発性の物質で構成されていて、それが蒸発することが原因で近日点付近で彗星が明るくなるのだという仮説を立てた。1836年には、ドイツの数学者フリードリッヒ・ベッセルが、1835年のハレー彗星の回帰で蒸気の流れを観察したことから、彗星から蒸発した物質の反動は、彗星の軌道に大きな影響を与えるのに十分なほど大きい可能性があると指摘し、エンケ彗星の非重力的な運動はこの仕組みによるという説を唱えた。 しかし、彗星に関連した他の発見により、1世紀近くこれらの説はほとんど忘れ去られていた。1864年から1866年の期間中、イタリアの天文学者ジョヴァンニ・スキアパレッリはペルセウス座流星群の軌道を計算し、軌道の類似性から、スイフト・タットル彗星の塵がペルセウス座流星群の原因であるという仮説を立てた。彗星と流星群との関連は、1872年に劇的な形で示されることとなった。ビエラ彗星を原因とする、激しい流星群の活動が観察されたのである。ビエラ彗星は、1846年の回帰で2つに分裂したのが観察され、次の1852年の回帰以降は全く観測されなくなっていた彗星である。これを基にして、彗星は表面を覆う氷の層と、緩く堆積した小さな岩石のような物体から構成されているとする、彗星の構成の「砂利の堆積」モデルが現れた。 20世紀半ばまで、このモデルは数々の欠点に悩まされてきた。特に、僅かな氷しか含んでいない物体が、何回かの近日点通過を経た後も蒸気が蒸発することで明るく見え続けるということがなぜ可能なのかを説明できなかった。1950年、フレッド・ホイップルが、「彗星は氷と塵からなる」という『汚れた雪玉』を提唱した。岩石主体の天体に僅かに氷が混じっているのではなく、氷が主体の天体に塵や岩石が混じっているというのである。この「汚れた雪球」モデルはすぐに受け入れられた。 ===彗星探査機による観測=== アメリカ航空宇宙局 (NASA) の打ち上げたISEE‐3は、当初のミッションを終えた後にICEと改名されて地球の重力圏を離れ、1985年にジャコビニ・ツィナー彗星に接近し、彗星への近接探査を行った最初の宇宙探査機となった。翌1986年には、日本の宇宙科学研究所 (ISAS)、欧州宇宙機関 (ESA)、ソ連・東欧宇宙連合 (IKI) が打ち上げた計5機の探査機に ICE を加えた6機、通称ハレー艦隊が連携してハレー彗星の核を観測した。ESA のジオットが核を撮影したところ、蒸発する物質の流れが観測され、ハレー彗星は氷と塵の集まりであることが確かめられ、ホイップルの説が実証された。ジオットは1992年にもグリッグ・シェレルップ彗星に接近、観測を行った。 1998年に打ち上げられた NASA の工学実験探査機ディープ・スペース1号は、2001年7月21日にボレリー彗星の核に接近して詳細な写真を撮影し、ハレー彗星の特徴は他の彗星にも同様に当てはまることを立証した。 その後の宇宙飛行ミッションは、彗星を構成している物質についての詳細を明らかにすることを目標に進められている。1999年2月7日に打ち上げられた探査機スターダストは、2004年1月2日にはヴィルト第2彗星に接近して核を撮影するとともにコマの粒子を採取し、2006年1月15日に標本を入れたカプセルを地球に投下した。標本の分析により、彗星を構成する主要元素の構成比から、彗星は太陽や惑星などの原材料物質であることを示すとともに、高温下で形成されるカンラン石やなどが発見された。高温下で形成される物質は従来の説で彗星が生まれたとされる領域で形成されたとは考えにくく、太陽に近い場所で形成された物質が彗星が形成された太陽系外縁部まで運ばれてきた可能性や、従来の説よりも彗星が形成された場所が太陽に近い場所であった可能性など、彗星の形成理論の再構築が必要となる可能性がある。 2005年1月12日に打ち上げられた探査機ディープ・インパクトは、同年7月4日に、核内部の構造の研究のためにテンペル第1彗星にインパクターを衝突させた。この結果、短周期彗星であるテンペル第1彗星の成分は長周期彗星のものとほぼ同じであることが判明した。さらに、塵の量が氷よりも多かったことから、彗星の核は「汚れた雪玉」というよりも「凍った泥団子」である、と見られている。またテンペル第1彗星の内部物質からも、かつて高温下の条件を経験したと考えられる物質が検出されたため、ヴィルト第2彗星からの物質とともに彗星の形成理論や太陽系初期の状況を考える上で貴重な情報となった。 ===これまでに行われた近接探査=== ICE… (21P) ジャコビニ・ツィナー彗星、(1P) ハレー彗星さきがけ、すいせい、ベガ1号、ベガ2号… (1P) ハレー彗星ジオット… (1P) ハレー彗星、(26P) グリッグ・シェレルップ彗星ディープ・スペース1号… (19P) ボレリー彗星スターダスト… (81P) ヴィルト第2彗星ディープ・インパクト/エポキシ… (9P) テンペル第1彗星、(103P) ハートレー第2彗星スターダスト… (9P) テンペル第1彗星ロゼッタ… (67P) チュリュモフ・ゲラシメンコ彗星 ===実現しなかった近接探査=== さきがけ… (21P) ジャコビニ・ツィナー彗星ディープ・スペース1号… (107P/ 4015) ウィルソン・ハリントン彗星CONTOUR… (2P) エンケ彗星、(73P) シュワスマン・ワハマン第3彗星ロゼッタ… (46P) ワータネン彗星ディープ・インパクト… (85P) ボーティン彗星 ==彗星の探索と発見の歴史== 望遠鏡が無かった時代、彗星の発見は専ら肉眼によるものであった。1608年に望遠鏡が発明されると、それによって、肉眼では見えないような暗い彗星を発見することができるようになった。やがて、望遠鏡や双眼鏡を駆使して、彗星の捜索を精力的に行う、コメットハンター (comet hunter) と呼ばれる天文家が現れた。 後述のような自動探査プロジェクトが、電子機器の発達などによって、技術的に可能になった20世紀最末期に至るまで、彗星や小惑星の新発見はこうしたアマチュア天文家に深く依存していた。 ===主なコメットハンター=== 20世紀以降に活躍したものを挙げる。より詳細や過去のコメットハンターについては当該項目を参照のこと。 日本 本田実 ‐ 日本のコメットハンターの先駆け的存在 池谷薫 ‐ 1965年に大彗星になった池谷・関彗星の第一発見者 関勉 ‐ 池谷・関彗星の第二発見者 百武裕司 ‐ 1996年に大彗星になった百武彗星の発見者本田実 ‐ 日本のコメットハンターの先駆け的存在池谷薫 ‐ 1965年に大彗星になった池谷・関彗星の第一発見者関勉 ‐ 池谷・関彗星の第二発見者百武裕司 ‐ 1996年に大彗星になった百武彗星の発見者日本以外 ドナルド・マックホルツ (Donald Machholz) ‐ アメリカ ユージン・シューメーカー (Eugene Merle Shoemaker) とキャロライン・シューメーカー (Carolyn Spellman Shoemaker) 夫妻 ‐ アメリカ。小惑星を含め多数の発見記録がある。1994年のシューメーカー・レヴィ第9彗星は有名。 ウィリアム・ブラッドフィールド (William Bradfield) ‐ オーストラリア。彗星発見18個はアマチュアでは現役最高記録。 テリー・ラヴジョイ (en:Terry Lovejoy) ‐ オーストラリア。2011年に大彗星となったラヴジョイ彗星 (C/2011 W3)を発見。 ロバート・マックノート (Robert H. McNaught) ‐ オーストラリア。2007年に大彗星となったマックノート彗星 (C/2006 P1) を発見。彗星発見数は約50個[5]。ドナルド・マックホルツ (Donald Machholz) ‐ アメリカユージン・シューメーカー (Eugene Merle Shoemaker) とキャロライン・シューメーカー (Carolyn Spellman Shoemaker) 夫妻 ‐ アメリカ。小惑星を含め多数の発見記録がある。1994年のシューメーカー・レヴィ第9彗星は有名。ウィリアム・ブラッドフィールド (William Bradfield) ‐ オーストラリア。彗星発見18個はアマチュアでは現役最高記録。テリー・ラヴジョイ (en:Terry Lovejoy) ‐ オーストラリア。2011年に大彗星となったラヴジョイ彗星 (C/2011 W3)を発見。ロバート・マックノート (Robert H. McNaught) ‐ オーストラリア。2007年に大彗星となったマックノート彗星 (C/2006 P1) を発見。彗星発見数は約50個[5]。1990年代後半になると、このような状況に劇的な変化が生じた。LINEAR や NEAT などといった地球近傍小惑星の強力な自動捜索プロジェクトが相次いで始動し、冷却CCDカメラによって18等や20等などといった極めて暗い彗星が根こそぎ発見されるようになったのである。北半球で太陽から比較的離れた区域の空は自動捜索プロジェクトによってほとんどの彗星が発見されるようになり、アマチュア天文家などが彗星を発見することは非常に困難になった。また、1996年には太陽観測衛星 SOHO が観測を始め、その副産物として、クロイツ群に属する彗星が極めて多数発見されるようになった。 ===自動捜索プロジェクトなど=== 地球近傍天体捜索プロジェクトなど。以下のプロジェクト名の中には定訳が無いものもあるのに注意。 スペースウォッチ ‐ Spacewatch。アメリカのアリゾナ大学。1991年から2005年7月までに短周期彗星1個を含む11個の彗星を発見。地球近傍小惑星追跡 ‐ Near Earth Asteroid Tracking、NEAT、ニート。アメリカのジェット推進研究所。1995年12月から2005年7月までに3個の短周期彗星を含む45個以上の彗星を発見。SOHO ‐ Solar and Heliospheric Observatory、ソーホー。太陽観測衛星。1996年1月から2006年8月までに1,000個以上の彗星を発見。ローウェル天文台地球近傍天体捜索 ‐ Lowell Observatory Near‐Earth‐Object Search、LONEOS、ロニオスまたはロネオス。アメリカのローウェル天文台。1997年12月から2005年7月までに短周期彗星2個を含む15個の彗星を発見。リンカーン地球近傍小惑星探査 ‐ Lincoln Near‐Earth Asteroid Research、LINEAR、リニア。アメリカのリンカーン研究所。1998年1月から2005年7月までに7個の短周期彗星を含む150個以上の彗星を発見。カタリナ・スカイサーベイ ‐ Catalina Sky Survey、Catalina、カタリナ。アメリカのアリゾナ大学月惑星研究所。1999年から2005年7月までに14個の彗星を発見。バッターズ ‐ Bisei Asteroid Tracking Telescope for Rapid Survey、BATTeRS。岡山県の美星スペースガードセンター(日本スペースガード協会)。2001年に1個の彗星を発見。全天自動捜索システム ‐ All Sky Automated Survey、ASAS、エーザス。チリのラスカンパナス天文台。恒星の光度監視プロジェクト。2004年に1個の彗星を発見。サイディング・スプリングサーベイ ‐ オーストラリアのサイディング・スプリング天文台。ロバート・マックノートが参加している。2006年までに3つの短周期彗星を含む5個の彗星を発見。 ==大彗星== 毎年数百個の小彗星が太陽系の内側を通過していくが、そのうち世間一般の話題となるような彗星は極めて少数である。大体10年に1個前後、あまり夜空に関心が無い人でも気づくほど明るくなるような彗星が現れる。そのような彗星はよく大彗星と呼ばれる。 過去には、明るい彗星はしばしば一般市民にパニックやヒステリーを引き起こし、何か悪いことの前兆と考えられた。20世紀に入ってからも、ハレー彗星の1910年の回帰の際に、彗星が地球と太陽の間を通ることから「彗星の尾によって人類は滅亡する」というような風説が広まった。 この当時、すでにスペクトル分析によって(先述の通り)彗星の尾には猛毒の青酸が含まれていることが知られており、また天文学者でSF作家でもあったカミーユ・フラマリオンは、尾に含まれる水素が地球の大気中の酸素と結合して地上の人々が窒息死する可能性があると発表した。これらが世界各国の新聞で報道され、さらに尾鰭がついて一般人がパニックに陥ったと言われる。日本では、空気がなくなっても大丈夫なようにと、自転車のタイヤのチューブが高値でも飛ぶように売れ、貧しくて買えないものは水に頭を突っ込んで息を止める練習をするなどの騒動が起きたとされているが、世界の終わりを信じた人はごく一部だったと受け取れるような記録もある(いずれにせよ、実際には彗星の尾は地球の大気に影響を及ぼすにはあまりに希薄だった)。 その後も、1990年にはオウム真理教の麻原彰晃がオースチン彗星 (C/1989 X1) の地球接近によって天変地異が起ると予言して勢力拡大を図り、1997年のヘール・ボップ彗星 (C/1995 O1) の出現時にはカルト団体ヘヴンズ・ゲートが集団自殺事件を起こした。しかし、ほとんどの人にとっては、大彗星の出現は単に素晴らしい天体ショーである。 様々な要素により、彗星の明るさは予言から大きく外れるため、彗星が大彗星になるか否かを予言するのは難しいということはよく知られている。大まかに言うと、もし彗星の核が大きく活発で、太陽の近くを通る軌道で、最も明るいときに地球から見て太陽により不鮮明になっていなければ、大彗星になる可能性が高い。しかし1973年のコホーテク彗星 (C/1973 E1) は、これら全ての条件を満たしており、壮大な彗星になると期待されたにも関わらず、実際はあまり明るくならなかった。その3年後に現れたウェスト彗星 (C/1975 V1) は、ほとんど期待されていなかった(コホーテク彗星の予報が大きく外れた後だったため、科学者が予報をするのに慎重になっていた可能性もある)が、実際は非常に印象的な大彗星となった。 20世紀後半には大彗星が出現しない長い空白期間があったが、20世紀も終わりに近づいた頃、2つの彗星が相次いで大彗星となった。1996年に発見され明るくなった百武彗星 (C/1996 B2) と、1995年に発見され、1997年に最大光度となったヘール・ボップ彗星である。21世紀初頭には大彗星が、それも2個も同時に見ることができるというニュースが入った。2001年に発見されたNEAT彗星 (C/2001 Q4) と2002年に発見されたLINEAR彗星 (C/2002 T7) である。しかしどちらも最大光度は3等に留まり、大彗星とはならなかった。2006年に発見され、2007年1月に近日点を通過したマックノート彗星 (C/2006 P1) は予想を上回る増光を起こし、昼間でも見えるほどの大彗星となった。近日点通過後は南半球でのみ観測されたが、尾が大きく広がった印象的な姿を見せた。 ==変わった彗星== 知られている数千もの彗星の中には、とても変わったものもある。エンケ彗星は木星の内側から水星の内側にまで入る軌道を回っているし、シュワスマン・ワハマン第1彗星 (29P) は木星と土星の軌道の間に収まった軌道を回っている。土星と天王星の間を不安定な軌道で回っているキロンは、最初は小惑星に分類されていたが、後に希薄なコマが発見されたため、現在では彗星と小惑星の両方に分類されている。同様に、シューメーカー・レヴィ第2彗星 (137P) も小惑星1990 UL3として発見された。近日点、遠日点が共に小惑星帯内にある彗星も複数見つかっており、メインベルト彗星と呼ばれている。 上記のキロンやシューメーカー・レヴィ第2彗星のように、最初は小惑星として発見された天体が後に彗星だと判明する例が20世紀末以降は増えている。逆に、発見時はわずかながらコマや尾が観測されたが、後の回帰の際は尾が全く見られなくなっているアラン・リゴー彗星 (49P) やウィルソン・ハリントン彗星 (107P/4015)、彗星としての活動が観測されたことはまったくないが、流星群の母天体となっている小惑星ファエトンやオルヤトなどのような例もあり、これらは揮発成分を使い果たした枯渇彗星核だと見られている。その他の小惑星や、惑星の衛星の中にも、軌道や成分などから元は彗星だったと考えられるものがある。 彗星によっては、短時間の間に急激な増光(アウトバースト)を起こすことがある。特にホームズ彗星が2007年10月下旬に起こした大増光は印象深い。2日足らずの間に17等から2等級まで(約40万倍)明るくなり。肉眼でも”明るい星”として容易に見ることができた。その後、この増光で放出されたと思われるダストが球状に広がり、その直径は太陽よりも大きく広がった。ホームズ彗星は一時的に太陽系最大の天体となったのである。1986年に接近したハレー彗星も、後に突然増光が確認されている。これもアウトバーストが原因ではと言われている。 記録に残された物、残されていない物問わず、多くの彗星の核が分裂するのが観測されてきた。1846年の回帰の際に2つに分裂し、後に流星群だけを残して消滅したビエラ彗星(参照)が有名な例である。また、シュワスマン・ワハマン第3彗星 (73P) は1995年の回帰時に4個に分裂し、その後さらに分裂(いくつかは消滅)して2006年には30個以上の破片になっていた。この他にもウェスト彗星、池谷・関彗星、ブルックス第2彗星 (16P) 等、彗星核の分裂が観測された彗星は数多い。 崩壊・消滅した彗星としては、1994年7月に木星に衝突したシューメーカー・レヴィ第9彗星も有名である(参照)。 1908年のツングースカ大爆発はエンケ彗星の破片が地球に衝突したのではないかとする仮説がある。隕石の落下によって生じるクレーターが全く見られなかったことから、大気圏に突入した彗星の破片が上空で爆発、蒸発したことによって甚大な被害を及ぼしたのではという見方が現在では強まっている。 1979年、かつての大彗星から分裂したクロイツ群の彗星が太陽面に接近し、蒸発、雲散霧消する姿が太陽観測衛星P78‐1のコロナグラフ:SOLWIND(ソルウィンド)によって観測された。この彗星 (C/1979 Q1) は観測した天文学者らの名前からハワード・クーメン・ミッチェル彗星と命名されたが、同衛星がその後も彗星を発見したためソルウィンド第1彗星として広まる。このような事例は数多く起こっており、1995年に打ち上げられた太陽探査機SOHOは、毎年数十個の彗星が太陽に突入するのを観測している。十分に大きな彗星は、近日点通過後も生き延びるという予測があったが、初の事例となったのは2011年のラヴジョイ彗星 (C/2011 W3)である。 彗星自体が変わった性質を持っているものも多い。1961年に観測されたヒューメイソン彗星 (C/1961 R1) は、近日点が約2天文単位と遠かったため、それほど明るい彗星ではなかったが、観測ではダストの尾が殆ど見られず、大部分がイオンの尾で構成されていた事が判明している。また核の直径自体もおよそ30kmと、当時としてはかなり大きい部類に入る彗星でもあった。 ==有名な彗星・明るくなった彗星== ===周期彗星=== ハレー彗星 (1P) ‐ 周期約76年。エンケ彗星 (2P) ‐ 周期約3.3年で、周期彗星中最短。ホームズ彗星 (17P) ‐ 周期約6.9年。2007年に2等級台にまで大増光、肉眼でも見えた。池谷・張彗星 (153P) ‐ 周期約366年で、周期彗星中最長。 ===非周期彗星=== ドナティ彗星 (C/1858 L1) ‐ 1858年秋に明るくなり、尾が3本に分かれて見え、世界中で観測された。テバット彗星 ‐ 幅広い尾が発達し、1861年の大彗星とも呼ばれた。日本にも記録が残っている。1882年の大彗星 ‐ 太陽表面からわずか46万kmを通過、太陽のすぐ脇でも別の明るい天体として認識できるほど明るくなった。池谷・関彗星 (C/1965 S1) ‐ 1965年秋に明け方で長い尾が見られ、また太陽最接近時には−17等級に達した。ベネット彗星 (C/1969 Y1) ‐ 1970年3月に近日点を通過し、核が非常に明るく明け方の空で‐3等級に達した。コホーテク彗星 (C/1973 E1) ‐ 1974年初頭にマイナス等級になると期待されたが、地上からでは3等止まりだった。ウェスト彗星 (C/1975 V1) ‐ 1976年3月の明け方に見え、核が分裂したため尾が非常に明るくなった。IRAS・荒貴・オルコック彗星 (C/1983 H1) ‐ 1983年5月に、地球から0.0312天文単位の至近距離を通過した。シューメーカー・レヴィ第9彗星 (D/1993 F2) ‐ 1994年に木星に激突し、消滅。百武彗星 (C/1996 B2) ‐ 1996年3月に地球に0.102天文単位まで接近、0等になり尾が60度以上に伸びた。ヘール・ボップ彗星 (C/1995 O1) ‐ 1997年4月に−1等に達し、3等級以上だった時期が5か月間もあった。マックノート彗星 (C/2006 P1) ‐ 2007年1月に近日点通過。日本からは西の空の低い位置にあったためにすぐに見えなくなったがオーストラリア方面で世紀の大彗星となって現れた。−4等星にまでなり昼間でも肉眼で確認できたという。 ==関連ドキュメンタリー作品== 『NHKスペシャル 宇宙 未知への大紀行』 第一回『ふりそそぐ彗星が生命を育む』 ==フィクションの中の彗星== 彗星はSF作家や映画製作者には人気のある題材であるが、氷の天体と言うよりも燃えている天体のように誤って描写されることも多い。フィクションの中のハレー彗星については、「ハレー彗星」の項を、フィクションに登場する架空の彗星については「架空の惑星一覧#架空の彗星」を参照。 ジュール・ヴェルヌの『彗星飛行』(1877年)は、手ごろな彗星によって太陽系を旅行する、ビクトリア朝時代の想像による小説である。H・G・ウェルズの『彗星時代』(1905年)は、彗星の尾の蒸気がどのようにして世界中にユートピアのような社会を作り出すかを描いた物語である。トーベ・ヤンソンの『楽しいムーミン一家 ムーミン谷の彗星』は、ムーミンの世界が燃えるような彗星に驚く様子を描写している。アーサー・C・クラークの小説『2061年宇宙の旅』は、ハレー彗星への有人ミッションの物語が詳しく書かれている。グレゴリー・ベンフォードとデイヴィッド・ブリンの合作小説『彗星の核へ』(1987年)の中では、多国籍のチームがハレー彗星の核を掘り抜いて氷に囲まれた居住地を作る。笹本祐一の『星のパイロット2 彗星狩り』では、彗星を地球の衛星軌道に乗せて宇宙開発に必要な水資源を確保しようという計画と、その主導権を賭けて彗星への到達を競う宇宙船レースが描かれる。野尻抱介の『クレギオンシリーズ アンクスの海賊』では、木星型惑星が形成されなかったために太陽系よりはるかに多数の彗星が存在する星系を舞台に、零細(恒星間宇宙船1隻)運送業者の冒険が描かれる。また、彗星が地球へ衝突する(または衝突しそうになる)という状況を描いた作品も多数存在する。 ===小説=== カミーユ・フラマリオン『此世は如何にして終わるか』ラリー・ニーヴンとジェリー・パーネルの合作『悪魔のハンマー』グレゴリー・ベンフォードとウィリアム・ロツラーの合作『シヴァ神降臨』ビル・ネイピアの『天空の劫罰』アーサー・C・クラークの『神の鉄槌』岩倉政治の『空気のなくなる日』 ===映画=== 『メテオ』『アステロイド』『ディープ・インパクト』『フィッシュストーリー』 ===アニメ・特撮など=== 『君の名は。』 架空のティアマト彗星が1200年ぶりに地球に接近する中で、物語が展開されて行く。『スーパーマン』(アニメ、「磁気望遠鏡」)『ストラトス・フォー』『タイムパトロール隊オタスケマン』(最終回)『機動戦士ガンダム』・主人公のライバルであるシャア・アズナブルの通称が「赤い彗星」である『ウルトラマン』第25話「怪彗星ツイフォン」『ウルトラマンメビウス』第16話「宇宙の剣豪」『暴れん坊将軍IX』の「江戸壊滅の危機!すい星激突の恐怖」 =世界遺産= 世界遺産(せかいいさん、英語: World Heritage Site)は、1972年のユネスコ総会で採択された「世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約」(世界遺産条約)に基づいて世界遺産リスト(世界遺産一覧表)に登録された、文化財、景観、自然など、人類が共有すべき「顕著な普遍的価値」を持つ物件のことで、移動が不可能な不動産が対象となっている。なお、慣例的な用法として、その中の文化遺産を世界文化遺産、自然遺産を世界自然遺産と呼ぶことがある。 なお、世界遺産の制度では正式な文書は英語とフランス語で示され、日本語文献では英語が併記されることがしばしばある一方、フランス語が併記されることは普通ないため、以下では参照しやすさを考慮して、東京文化財研究所 2017などに依拠して、主たる用語には英語を併記しておく。 ==概要== 世界遺産は、「顕著な普遍的価値」を有する文化遺産や自然遺産などであり、1972年に成立した世界遺産条約に基づき、世界遺産リストに登録された物件を指す。世界遺産条約はユネスコ成立以前、20世紀初頭から段階的に形成されてきた国際的な文化財保護の流れと、国立公園制度を最初に確立したアメリカ合衆国などが主導してきた自然保護のための構想が一本化される形で成立したものである。 世界遺産は、政府間委員会である世界遺産委員会の審議を経て決定される。その際、諮問機関として、文化遺産については国際記念物遺跡会議 (ICOMOS) が、自然遺産については国際自然保護連合 (IUCN) がそれぞれ勧告を出し、両方の要素を備えた複合遺産の場合には、双方がそれぞれ勧告する。潜在的ないし顕在的に、保存にとって脅威となる状況に置かれている遺産は、危機遺産リストに登録され、国際的な協力を仰ぐことになる。それ以外の世界遺産も、定期報告を含む保全状況の確認が、登録後にも行われる。適切な保護活動が行われていないなど、世界遺産としての「顕著な普遍的価値」が失われたと判断された場合には、世界遺産リストから抹消されることもありうる。実際、2007年にはアラビアオリックスの保護区が初めて抹消された物件となった。 その一方で、世界遺産条約締約国は190か国を超え、2015年には世界遺産リスト登録物件が1,000件を超えた。世界遺産条約は最も成功した国際条約と呼ばれることもしばしばであるが、反面、その登録件数の増加に対しては、保護・管理といった本来の趣旨に照らして懸念を抱く専門家たちもいる。のみならず、専門家の勧告を覆す政治的決定の増加、都市開発と遺産保護の相克、過度の観光地化など、知名度が高くなったからこその問題も持ち上がっている。また、複数国で共有する「国境を越える世界遺産」は国際平和に貢献しうるものではあるが、領土問題や歴史認識が関わる審議では、国際的あるいは国内的に物議をかもすこともあり、武力衝突に繋がったことさえある(タイとカンボジアの国境紛争)。 世界遺産を守っていくためには教育や広報の重要性も指摘されており、ユネスコは若者を対象にした教材の開発や国際フォーラムの開催なども実施してきた。大学などの研究者には「世界遺産学」という学際的な学問を提唱する者たちもおり、大学・大学院によっては世界遺産に関する学科や専攻が設置されている場合があるほか、関連する講座が開講されている大学もある。 世界遺産は有形の不動産を対象としており、同じユネスコの遺産でも、無形文化遺産や世界の記憶(世界記憶遺産)とは異なる制度である。ただし、日本語の文献や報道では、これらがまとめて「ユネスコ三大遺産事業」などと呼ばれることもある。 ==歴史== ユネスコの第8代事務局長松浦晃一郎は2008年に世界遺産について叙述した際、1978年から1991年を「第一期」、1992年から2006年を「第二期」、2007年からを「第三期」と位置づけていた。以下ではこの区分に準じて、世界遺産の歴史を叙述する。 ===前史=== 国際的に文化遺産を保護しようという動きは、戦時における記念建造物などの毀損を禁じた1907年ハーグ条約から始まったとされる。その後、レーリッヒ条約(英語版)、アテネ憲章なども整備されたが、第一次世界大戦、第二次世界大戦では文化財にも多大な損害がもたらされた。 1945年に国際連合教育科学文化機関(ユネスコ)が設立されると、その憲章には、「世界の遺産である図書、芸術作品並びに歴史及び科学の記念物の保存及び保護を確保し、且つ、関係諸国民に対して必要な国際条約を勧告すること」(第1条・抜粋)と明記された。ユネスコは文化遺産保護の制度を整備していき、1951年には「記念物・芸術的歴史的遺産・考古学的発掘に関する国際委員会」が設立された。この委員会の勧告をもとに、ユネスコ総会での採択を踏まえて1959年に設立されたのが、文化財保存修復研究国際センター(英語版) (ICCROM) である。そして、国際委員会そのものは、1931年のアテネ憲章を発展的に継承したヴェネツィア憲章(1964年)を踏まえて、1965年に国際記念物遺跡会議 (ICOMOS) となった。 また、ユネスコが「1907年ハーグ条約」を発展させるために検討した結果を踏まえ、武力紛争の際の文化財の保護に関する条約、いわゆる「1954年ハーグ条約」が採択され、武力紛争の際にも文化財などに対する破壊行為を行うべきでないことが打ち出された。これ以降も、ユネスコは文化財保護に関する勧告や条約を次々と採択していった。 こうした流れの中で重要だったのが、ヌビア遺跡保存国際キャンペーンである。エジプト政府はナイル川流域でのアスワン・ハイ・ダム建設を1950年代から計画し始めていた。このダムが完成した場合、アブ・シンベル神殿をはじめとするヌビア遺跡が水没することが懸念され、それを受けて1960年から国際キャンペーンが展開されたのである。ヌビア遺跡救済は、ダム建設を決定したエジプト大統領ナセル自身がユネスコに要請したものであったが、スエズ運河国有化に対する欧米諸国の反発、アスワン・ハイ・ダム建設へのソ連の支援といった背景により、難航が予想された。しかし、フランス文化大臣アンドレ・マルローの名演説などもあって、50か国から、総事業費の半額に当たる約4,000万ドルの募金が集まり、日本からも28万ドルが寄せられた(日本政府が1万ドル、朝日新聞社が27万ドル)。成功裏に終わったこのキャンペーンは、その後も続く国際キャンペーンの嚆矢となり、続いて北イタリアの水害を受けてフィレンツェとヴェネツィアの文化財を保護するためのキャンペーンが1966年に行われた。そして、同じ年のユネスコ総会では、世界的価値を持つ文化遺産を保護するための枠組み作りを始めることが決議され、これが世界遺産条約に繋がる土台の一つとなった。これが「普遍的価値を有する記念工作物、建造物群及び遺跡の国際的保護のための条約」と称された案で、1970年のユネスコ総会にて、次回の総会(総会は2年に1回開催)で提出されることが決まった。なお、この案では、国際的な援助が要請される遺産のリストのみが想定されていた。それに対応するのは現在の世界遺産リスト全体ではなく、「危機にさらされている世界遺産リスト」のみといえる。 他方、1948年設立の国際自然保護連合 (IUCN) でも、アメリカ合衆国が主導する形で、主として自然遺産保護のための条約作りが進められていた。アメリカではホワイトハウス国際協力協議会自然資源委員会が1965年に「世界遺産トラスト」を提唱し、優れた自然を護る国際的な枠組みが模索されており、その具体化作業が IUCN を通じて行われていたのである。アメリカはイエローストーン国立公園設立(1872年)によって世界で最初に国立公園制度を確立した国であり、大統領リチャード・ニクソンは「環境に関する教書」(1971年)において、国立公園誕生100周年(1972年)を期して、世界遺産トラストを具体化することの意義を説いた。そうしてできたのが、「普遍的価値を有する自然地域と文化的場所の保存と保護のための世界遺産トラスト条約」と称された案で、こちらの案にもりこまれた「世界遺産登録簿」案が現在の世界遺産リストに繋がった。 ===世界遺産の成立=== 上述の2つの流れは、国際連合人間環境会議(1972年)に先立つ政府間専門会議でのユネスコ事務局長ルネ・マウ(英語版)の提案もあり、一本化されることで合意された。その結果、同年11月16日、パリで開催された第17回ユネスコ総会(議長萩原徹)にて、一本化された「世界の文化遺産および自然遺産の保護に関する条約」(世界遺産条約)が採択された。翌年アメリカ合衆国が最初に批准し、1975年9月17日に締約国が20か国に達した。これによって発効の要件を満たしたため、3か月後の12月17日に正式に発効した。 1976年11月には第1回世界遺産条約締約国会議が開かれた。締約国会議はユネスコ総会に合わせる形で(つまり2年に1回)開催され、世界遺産委員会の委員国選出や世界遺産基金への各国の分担金額の決定が行われる。その第1回会議で最初の世界遺産委員会の委員国が選出され、翌年には第1回世界遺産委員会が開催された。この委員会で採択されたのが、世界遺産登録の基準なども含む「世界遺産条約履行のための作業指針」(The Operational Guidelines for the Implementation of the World Heritage Convention, 以下「作業指針」と略記)であり、この「作業指針」はその後も改定を重ねることとなる。 そして、1978年の第2回世界遺産委員会で、エクアドルのガラパゴス諸島や西ドイツのアーヘン大聖堂など12件(自然遺産4、文化遺産8)が、最初の世界遺産リスト登録を果たした(いわゆる「世界遺産第1号」)。翌年の第3回世界遺産委員会では、世界遺産制度のきっかけとなったヌビア遺跡なども含む45件が登録され、一気に5件ずつ登録したエジプトとフランスが保有国数1位となった。この第3回世界遺産委員会は、最初の複合遺産(ティカル国立公園)が誕生した会合であるとともに、直近の大地震で大きな被害を受けたコトルの自然と文化歴史地域(ユーゴスラビア社会主義連邦共和国)が最初の危機遺産リスト記載物件になった会合でもある。その後は、1980年の第4回世界遺産委員会におけるワルシャワ歴史地区登録(後述)など、議論になる案件もあったものの、締約国、登録件数とも増加していった。 ===登録対象の拡大=== 世界遺産に関する業務の増大を踏まえ、1992年には、世界遺産の事務局に当たる世界遺産センターがユネスコ本部内に設置された。当初はユネスコの文化遺産部との棲み分けが十分になされていなかったが、のちに世界遺産センターは有形の文化遺産を、ユネスコ文化遺産部は主に無形の文化遺産を担当する形で業務分担された。 1992年は「作業指針」に文化的景観の概念が導入された年でもある。詳しくは後述するが、この概念は、より多様な文化遺産に世界遺産登録への道を開くものであり、登録件数の多い欧米と、それ以外の地域との間の、不均衡の是正にも寄与することが期待された。 1992年は日本が世界遺産条約を批准した年でもあり、先進国では最後にあたる125番目の締約国となった(同年の6月30日に受諾書を寄託、9月30日に発効)。日本の参加が他の国と比べて遅れた理由は、いくつか指摘されている。例えば、文化財保護法などの独自の保護関連法制が整っていて必要性が認識されづらかったこと、参加した場合の煩瑣な行政手続きや国内法の修正作業への懸念があったこと、重要性に対する認識が希薄な中で国会審議の優先順位が高くなかったこと、冷戦下でアメリカを刺激したくなかったこと、世界遺産基金の分担金拠出に関する議論が決着しなかったこと、省庁の縦割り行政の弊害があったことなどが挙げられている。 国内では紆余曲折あった日本の参加だが、参加してすぐに重要な議論を本格化させることになる。それは「木の文化をどう評価するか」ということである。日本の世界遺産のうち、最初の文化遺産は姫路城と法隆寺地域の仏教建造物である(いずれも1993年登録)。これらはいずれも解体修理の手法で現代に伝えられてきた建造物であり、基本的にそのような修理を必要としない「石の文化」の評価基準になじまない側面があったために議論となり、それが「真正性に関する奈良文書(英語版)」の成立に繋がった(後述参照)。これは、アジアやアフリカに多い木、日干し煉瓦、泥の建築物など、多様な世界遺産を増やすことに繋がり、世界遺産の歴史の中で重要な意義を持った。 ===抹消される事例の出現=== 世界遺産は毎年その件数が増えていく中で、上限に関する議論なども見られ始める(後述)。その一方で、登録物件から「顕著な普遍的価値」が失われた場合などには、その物件は世界遺産リストから抹消される規定が存在していたが、その様な事例は長らく存在していなかった。しかし、2007年の第31回世界遺産委員会でアラビアオリックスの保護区が初めて抹消され、続いて2009年の第33回世界遺産委員会ではドレスデン・エルベ渓谷が抹消された。松浦晃一郎は、最初の抹消事例が出た2007年以降を、保全や保護に対する重要性が一層増した時期と見なしている。 そのように様々な課題を抱える一方で、世界遺産の数は増加し続けている。産業遺産や文化の道など、比較的新しい文化遺産のカテゴリーも取り込みつつ、2010年にはハノイのタンロン皇城の中心区域(ベトナムの世界遺産)をもって世界遺産登録件数が900件を突破、2014年にはオカバンゴ・デルタ(ボツワナの世界遺産)の登録をもって1,000件を突破した。 2018年の第42回世界遺産委員会終了時点での条約締約国は193か国、世界遺産の登録数は1,092件(167か国)となっている。その締約国数、人気、知名度などから、しばしば国際条約の中でも最も成功した部類に数えられている。 ==登録対象== 登録される物件は不動産、つまり移動が不可能な土地や建造物に限られる。そのため、たとえば寺院が世界遺産になっている場合でも、中に安置されている仏像などの美術品(動産・可動文化財)は、通常は世界遺産登録対象とはならない。ただし、東大寺大仏のように移動が困難と認められる場合には、世界遺産登録対象となっている場合がある。逆に、将来的に動産になる可能性があると判断される場合、推薦時点で不動産であっても認められない(「作業指針」第48段落)。チェルヴェーテリとタルクイーニアのエトルリア墓地遺跡群(イタリア)の登録時には、優れた出土品の数々が収められた隣接する博物館を登録対象にするかどうかが議論になったが、世界遺産委員会はあくまでも不動産しか評価対象にしないとして、収蔵している出土品を理由とする形での博物館登録は認めなかった。このような対象の設定に対する限界が、のちの無形文化遺産の枠組みに繋がったが、この点は後述する。 世界遺産に登録されるためには、後述する世界遺産評価基準を少なくとも1つは満たし、その「顕著な普遍的価値」を証明できる「完全性」と「真正性」を備えていると、世界遺産委員会から判断される必要がある。その際、同一の歴史や文化に属する場合や、生物学的・地質学的特質などに類似性が見られる場合に、シリアル・プロパティーズ(Serial Properties, 関連性のある資産群)としてひとまとめに登録することが認められている(「作業指針」第137段落)。たとえば、フランス、インド、日本、アルゼンチンなど7か国の世界遺産であるル・コルビュジエの建築作品‐近代建築運動への顕著な貢献‐などはその例である。 また登録された後、将来にわたって継承していくために、推薦時点で国内法等によってすでに保護や管理の枠組みが策定されていることも必要である。日本の例でいえば、原爆ドームの世界遺産推薦に先立ち、文化財保護法が改正されて原爆ドームの史跡指定が可能になったことも、そうした点に合致させる必要があったためである。 ==分類== 世界遺産はその内容によって文化遺産、自然遺産、複合遺産の3種類に分けられている。なお、日本語文献ではしばしば無形文化遺産も単に「世界遺産」と呼ばれることがあるが、後述するように、そちらは世界遺産条約の対象ではなく、世界遺産委員会で扱われる「文化遺産」には含まれない。 また、内容的な区分以外にも、国際的な対応の優先度の高い「危機にさらされている世界遺産」(危機遺産)、2か国以上で保有する「国境を越える資産」、非公式な分類だが日本語圏では広く用いられる「負の世界遺産」などがある。 ===文化遺産=== 文化遺産 (cultural heritage) は世界遺産条約第1条に規定されており、記念工作物、建造物群、遺跡のうち、歴史上、芸術上あるいは学術上顕著な普遍的価値をもつものを対象としている。しばしば世界文化遺産と呼ばれる。 基本的なカテゴリーは上記の3種のままだが、それらに内包されるカテゴリーとして、上述のように1992年に文化的景観の概念が追加され、以降、産業遺産、文化の道など多様なカテゴリーが加わった。文化遺産は研究の深化とともに範囲が広がっており、それゆえICOMOSも、世界文化遺産の一覧は「開いた一覧」となる見通しを示している。 ===自然遺産=== 自然遺産 (natural heritage) は世界遺産条約第2条に規定されている。その定義では「無生物又は生物の生成物又は生成物群から成る特徴のある自然の地域であって、鑑賞上又は学術上顕著な普遍的価値を有するもの」「地質学的又は地形学的形成物及び脅威にさらされている動物又は植物の種の生息地又は自生地として区域が明確に定められている地域であって、学術上又は保存上顕著な普遍的価値を有するもの」「自然の風景地及び区域が明確に定められている自然の地域であって、学術上、保存上又は景観上顕著な普遍的価値を有するもの」が挙げられている。しばしば世界自然遺産と呼ばれる。 文化遺産の場合は、ICOMOS によるテーマ別研究によって多様な文化遺産の模索がなされてきたが、IUCNは少なくとも第39回世界遺産委員会(2015年)の時点では、財政事情から自然遺産のテーマ別研究はしていないことを明かしている。ただし、そもそも自然遺産は文化遺産と違い、その価値の評価は当初から安定していた。IUCNは1982年にはグローバル目録を作成し、自然遺産として登録が望まれる類型の網羅を終えていた。それゆえIUCNは自然遺産(および複合遺産)を「閉じた一覧」とすることを志向し、その限界は250から300と考えられている。 ===複合遺産=== 複合遺産 (mixed heritage) は文化と自然の両方について、顕著な普遍的価値を兼ね備えるものを対象としている。1979年には最初の複合遺産が登録されていたものの、世界遺産条約に直接的な規定はなく、作業指針でも長らく明記されてこなかった。しかし、2005年の改訂の際に「作業指針」第46段落で定義付けられた。 複合遺産には最初からそのように登録されたものだけでなく、自然遺産として登録されたものの文化的側面が追認されて複合遺産になったり、逆に文化遺産の自然的側面が追認されて複合遺産になる場合もある。後者に該当する例で最初に登録されたのはカンペチェ州カラクムルの古代マヤ都市と熱帯保護林(メキシコ、2014年拡大)だが、この審議が難航したことを踏まえて、諮問機関の情報交換のやり方などが変更された。 ===危機遺産=== 内容上の分類ではないが、後世に残すことが難しくなっているか、その強い懸念が存在する登録物件は、危機にさらされている世界遺産リスト(危機遺産リスト, List of World Heritage in Danger)に加えられ、別途保存や修復のための配慮がなされることになっている(世界遺産条約第11条4項および「作業指針」第177段落 ‐ 第191段落)。危機遺産については、世界遺産条約や「作業指針」でも詳しく規定されており、制度の中核的概念と位置づけられている。世界遺産リストへの推薦が各国政府しか行えないのに対し、危機遺産リストへの登録の場合は、きちんとした根拠が示されれば、個人や団体からの申請であっても受理、検討されることがある。 2013年にはシリア内戦などを理由にシリアの世界遺産が6件全て、2016年にはリビア内戦などを理由にリビアの世界遺産が5件全て登録されるなどし、2018年の第42回世界遺産委員会終了時点での危機遺産登録物件は54件となっている。しかし、保有国の中には、危機遺産登録を不名誉なものと捉えて強い抵抗を示す国もあり、危機遺産リストに登録されるべき場合であってさえも、容易に登録が実現しない現実がある。リストに正式登録された危機遺産以外に、そのような「かくれた危機遺産」の増加を懸念する意見もある(後述)。 ===国境を越える資産=== 世界遺産の中には、複数国にまたがる「国境を越える資産」(Transboundary properties) も存在する(「作業指針」第134段落)。その推薦書は保有国が共同で作成し、登録後の管理には共同で専用の機関を設置することが望ましいとされる。中には、カルパティア山脈とヨーロッパ各地の古代及び原生ブナ林(12か国)、シュトルーヴェの測地弧(10か国)のように多くの国々で保有されている例もある。 国境を越える資産は当初、自然遺産分野に多く見られたが、そうした制度の起源は世界遺産制度そのものよりも古く、ウォータートン・グレイシャー国際平和自然公園の設立に遡ると言われる(1932年設定、1995年には世界遺産リストにも登録)。国境を越える資産の存在は、国境を越えて協力することの大切さを伝え、保有国間の平和の構築にも資するとされるが、実際には国境を越えて価値が連続性を持つにもかかわらず、様々な事情を背景に別々に登録されている例がある。たとえば、イグアス (Igua*192*u) 国立公園(ブラジル)とイグアス (Iguaz*193*) 国立公園(アルゼンチン)、スンダルバンス国立公園(インド)とシュンドルボン(バングラデシュ)などがそうである。文化遺産だとサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路:カミノ・フランセスとスペイン北部の道(スペイン)とフランスのサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路などがそれに当たる。そうした例には高句麗の遺跡のように、歴史的・政治的背景に起因するものもある(後述)。 ===負の世界遺産=== 戦争、奴隷貿易、人種差別、文化浄化など、人類の歴史において繰り返してはならない出来事をとどめた遺跡なども、世界遺産リストに登録されている。これらは別名「負の世界遺産」(負の遺産)と呼ばれている。 ただし、世界遺産センターや ICOMOS によって公式に認められた分類ではない。そのため、何を負の遺産と見なすのかは論者によって異なるが、しばしば挙げられるのは広島市への原爆投下を伝える原爆ドーム、ホロコーストの物証であるアウシュビッツ=ビルケナウ(ポーランド)、奴隷貿易の拠点であったゴレ島(セネガル)、ネルソン・マンデラを含む反アパルトヘイト政治犯の収容所だったロベン島(南ア)の4件で、このほかに核実験に関わるビキニ環礁の核実験場(マーシャル諸島)や、ターリバーンによる文化浄化を被ったバーミヤン渓谷の文化的景観と古代遺跡群(アフガニスタン)なども、負の遺産とされることがある(負の遺産とされることがある他の例については、負の世界遺産参照)。 なお、これらの世界遺産登録では、単に悲劇的な出来事があったというだけでなく、それを繰り返すまいとする運動などが評価されることは珍しくない。たとえば、原爆ドームは、正式登録前から「負の遺産」と位置づける関連書籍もあったが、世界遺産登録に当たっての評価は、あくまでも原爆のない世界を目指す半世紀にわたる平和運動に焦点が当てられており、戦争や原爆の悲惨さ自体は中心を占めていない。 ==顕著な普遍的価値とその評価基準== すでに述べたように、世界遺産となるためには、「顕著な普遍的価値」(Outstanding Universal Value, 略号は OUV)を有している必要がある。しかし、世界遺産条約では「顕著な普遍的価値」自体を定義していない。「作業指針」第49段落には、国家の枠にとらわれずに、現在だけでなく将来の人類にとっても大きな価値を持つといった大まかな定義があるが、その証明のために要請されるのが、10項目からなる世界遺産登録基準のいずれか1つ以上を満たすことである。 以上は当初から変わらない条件だが、2005年の「作業指針」改定によって、OUV を構成する要素に保存管理が加わったため、OUVの証明には登録基準を満たすこと、完全性と真正性を満たすこと、保存管理が適切に行われていることの全ての証明が必要となった(「作業指針」第77・78段落)。 ===世界遺産登録基準=== 世界遺産登録基準は、当初、文化遺産基準 (1) ‐ (6) と自然遺産基準 (1) ‐ (4) に分けられていたが、2005年に2つの基準を統一することが決まり、2007年の第31回世界遺産委員会から適用されることになった。新基準の (1) ‐ (6) は旧文化遺産基準 (1) ‐ (6) に対応しており、新基準 (7)、(8)、(9)、(10) は順に旧自然遺産基準 (3)、(1)、(2)、(4) に対応している。このため、実質的には過去の物件に新基準を遡及して適用することが可能であり、現在の世界遺産センターの情報では、旧基準で登録された物件の登録基準も新基準で示している。 基準が統一された後も文化遺産と自然遺産の区分は存在し続けており、新基準 (1) ‐ (6) の適用された物件が文化遺産、新基準 (7) ‐ (10) の適用された物件が自然遺産、(1) ‐ (6) のうち1つ以上と (7) ‐ (10) のうち1つ以上の基準がそれぞれ適用された物件が複合遺産となっている。 登録基準(評価基準)の内容は以下の通りである(「作業指針」第77段落)(以下は世界遺産センター公式サイトに掲載された基準を翻訳の上、引用したものである)。 (1) 人類の創造的才能を表現する傑作。 この基準は、ユネスコが公刊しているマニュアルでは、天才に帰せられる基準ではなく、作者不明の考古遺跡などであっても適用できることが明記されている。また、かつては芸術的要素を持つことが盛り込まれていたが、現在の基準にはそれはなく、機能美を備えた産業遺産への適用も可能になっている。この基準は、ユネスコが公刊しているマニュアルでは、天才に帰せられる基準ではなく、作者不明の考古遺跡などであっても適用できることが明記されている。また、かつては芸術的要素を持つことが盛り込まれていたが、現在の基準にはそれはなく、機能美を備えた産業遺産への適用も可能になっている。(2) ある期間を通じてまたはある文化圏において、建築、技術、記念碑的芸術、都市計画、景観デザインの発展に関し、人類の価値の重要な交流を示すもの。 この基準のかつてのキーワードは一方向の伝播を想起させる「影響」だったが、「交流」に置き換えられている。また、建築や記念工作物を対象としていた当初の文言に、文化的景観のために「景観デザイン」が、産業遺産のために「技術」がそれぞれ追加されるなど、対象が拡大してきた。この基準のかつてのキーワードは一方向の伝播を想起させる「影響」だったが、「交流」に置き換えられている。また、建築や記念工作物を対象としていた当初の文言に、文化的景観のために「景観デザイン」が、産業遺産のために「技術」がそれぞれ追加されるなど、対象が拡大してきた。(3) 現存するまたは消滅した文化的伝統または文明の、唯一のまたは少なくとも稀な証拠。 この基準はもともと消滅した文明の証拠、すなわち考古遺跡を主な対象とする基準だった。しかし、文化的景観が導入された1990年代に順次改定され、「文化的伝統」や「現存する」といった文言が追加された。この基準はもともと消滅した文明の証拠、すなわち考古遺跡を主な対象とする基準だった。しかし、文化的景観が導入された1990年代に順次改定され、「文化的伝統」や「現存する」といった文言が追加された。(4) 人類の歴史上重要な時代を例証する建築様式、建築物群、技術の集積または景観の優れた例。 この基準は元々建築に重点が置かれた基準だったが、文化的景観のために「景観」が、産業遺産のために「技術の集積」が追加された。この基準は元々建築に重点が置かれた基準だったが、文化的景観のために「景観」が、産業遺産のために「技術の集積」が追加された。(5) ある文化(または複数の文化)を代表する伝統的集落、あるいは陸上ないし海上利用の際立った例。もしくは特に不可逆的な変化の中で存続が危ぶまれている人と環境の関わりあいの際立った例。 この基準はもともと伝統的な集落や建築様式を主な対象とするものだったが、文化的景観の導入を反映して「土地利用」に関する文言が追加され、のちには陸上だけでなく海上についても明記された。この基準はもともと伝統的な集落や建築様式を主な対象とするものだったが、文化的景観の導入を反映して「土地利用」に関する文言が追加され、のちには陸上だけでなく海上についても明記された。(6) 顕著で普遍的な意義を有する出来事、現存する伝統、思想、信仰または芸術的、文学的作品と直接にまたは明白に関連するもの(この基準は他の基準と組み合わせて用いるのが望ましいと世界遺産委員会は考えている)。 この基準はもともと「出来事、思想、信仰」との関連しか書かれていなかったが、文化的景観の導入に伴い「現存する伝統」「芸術的、文学的作品」が追加された。たとえば、ザルツブルク市街の歴史地区にこの基準が適用されている理由には、音楽家モーツァルトを輩出した都市であることなどが挙げられている。 その一方、いわゆる負の世界遺産には、この基準 (6) が単独適用されたものが多いとされる。しかし、この基準は原爆ドームの登録をめぐって紛糾した結果、単独適用が禁じられ、「ただし、極めて例外的な場合で、かつ他の基準と関連している場合のみ適用」という厳しい条件がついた時期があった。その厳しい文言は、3年後のロベン島の審議の際にかえって議論の紛糾を招き、上記のような緩和された条件に変更された。この基準はもともと「出来事、思想、信仰」との関連しか書かれていなかったが、文化的景観の導入に伴い「現存する伝統」「芸術的、文学的作品」が追加された。たとえば、ザルツブルク市街の歴史地区にこの基準が適用されている理由には、音楽家モーツァルトを輩出した都市であることなどが挙げられている。その一方、いわゆる負の世界遺産には、この基準 (6) が単独適用されたものが多いとされる。しかし、この基準は原爆ドームの登録をめぐって紛糾した結果、単独適用が禁じられ、「ただし、極めて例外的な場合で、かつ他の基準と関連している場合のみ適用」という厳しい条件がついた時期があった。その厳しい文言は、3年後のロベン島の審議の際にかえって議論の紛糾を招き、上記のような緩和された条件に変更された。(7) ひときわすぐれた自然美及び美的な重要性をもつ最高の自然現象または地域を含むもの。 「美しさ」は客観的な判定が難しいため、後述の基準 (10) が変更された1992年以降、諮問機関はこの基準単独での登録勧告をあまりしなくなっているとされる。また、ビャウォヴィエジャの森(ベラルーシ / ポーランド)のような例もある。それは1979年の登録以来、基準 (7) のみで登録されていたが、2014年の拡大にともない、 (7) を外して基準 (9)・(10) へと差し替えられたのである。 日本では、富士山の推薦に当たって、適用が検討された。結局、文化遺産の基準ではないとして推薦には盛り込まれなかったが、むしろ「美しさ」という基準を文化遺産の基準として捉える視点があってもよいはずだとする意見もある。そもそも、本来この条項は手付かずの自然のみを対象とする基準ではなく、文化的景観が導入される1992年までは、文化と自然の相互作用に触れたくだりが存在していた。「美しさ」は客観的な判定が難しいため、後述の基準 (10) が変更された1992年以降、諮問機関はこの基準単独での登録勧告をあまりしなくなっているとされる。また、ビャウォヴィエジャの森(ベラルーシ / ポーランド)のような例もある。それは1979年の登録以来、基準 (7) のみで登録されていたが、2014年の拡大にともない、 (7) を外して基準 (9)・(10) へと差し替えられたのである。日本では、富士山の推薦に当たって、適用が検討された。結局、文化遺産の基準ではないとして推薦には盛り込まれなかったが、むしろ「美しさ」という基準を文化遺産の基準として捉える視点があってもよいはずだとする意見もある。そもそも、本来この条項は手付かずの自然のみを対象とする基準ではなく、文化的景観が導入される1992年までは、文化と自然の相互作用に触れたくだりが存在していた。(8) 地球の歴史上の主要な段階を示す顕著な見本であるもの。これには生物の記録、地形の発達における重要な地学的進行過程、重要な地形的特性、自然地理的特性などが含まれる。 この基準に言う「生物の記録」とは化石のことで、カンブリア紀の化石産地である澄江の化石産地(中国)などが含まれるが、南アフリカの人類化石遺跡群などの化石人類関連の遺跡はこの基準ではなく、基準 (3) の対象となる。この基準に言う「生物の記録」とは化石のことで、カンブリア紀の化石産地である澄江の化石産地(中国)などが含まれるが、南アフリカの人類化石遺跡群などの化石人類関連の遺跡はこの基準ではなく、基準 (3) の対象となる。(9) 陸上、淡水、沿岸および海洋生態系と動植物群集の進化と発達において進行しつつある重要な生態学的、生物学的プロセスを示す顕著な見本であるもの。(10) 生物多様性の本来的保全にとって、もっとも重要かつ意義深い自然生息地を含んでいるもの。これには科学上または保全上の観点から、すぐれて普遍的価値を持つ絶滅の恐れのある種の生息地などが含まれる。 この基準はもともと絶滅危惧種の保護に力点が置かれた基準であり、「生物多様性」に関する文言は当初なかったが、1992年の生物多様性条約成立後に盛り込まれた。この基準はもともと絶滅危惧種の保護に力点が置かれた基準であり、「生物多様性」に関する文言は当初なかったが、1992年の生物多様性条約成立後に盛り込まれた。以上の基準の少なくとも1つ以上を満たしていると世界遺産委員会で認定されれば、世界遺産リストに登録される。多くの世界遺産では、複数の基準が適用されている。最多は泰山とタスマニア原生地域の7項目である。 ===完全性と真正性=== 前述の通り、世界遺産の「顕著な普遍的価値」には、完全性と真正性を満たしていることも必要となる。 ===完全性=== 完全性(Integrity)とは、その物件のOUVを証明するために必要な要素が、適切な保全管理の下で過不足なく揃っていることを指す(「作業指針」第78・87・88段落)。インテグリティ、全体性などとも呼ばれる。 一定の規模を確保することが求められる反面、価値の証明と関係のない要素が多く混じっても否定的に評価されるため、いたずらに範囲を拡大するよりも、個々の要素群に絞り、面ではなく点で捉える「関連性のある資産」とすることも含め、価値の証明に即して範囲を練ることが求められる。たとえば、富岡製糸場と絹産業遺産群では、当初10件の構成資産を擁する推薦物件だったが、絹産業の技術革新と国際交流という価値の証明に即した練り直しの結果、4件にまで絞られた経緯があり、絞込みが効果的だったとされている。 諮問機関は、範囲の設定に不足がある推薦の場合には範囲の再考を勧告するが、逆に余計な要素が含まれていると判断した場合には、特定の要素の除外を条件にした登録勧告を示すことがある。例えば、富士山‐信仰の対象と芸術の源泉の推薦では三保松原の除外が、「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群の推薦では新原・奴山古墳群などの除外が、それぞれ勧告された(いずれも逆転で登録)。他方、平泉―仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群―の推薦で除外が勧告された柳之御所遺跡は、委員会審議でも勧告通りに除外と決まった例である。 自然遺産・複合遺産の例では、ブルー・アンド・ジョン・クロウ・マウンテンズ(ジャマイカ)は、同名の国立公園の推薦時には絞り込みを勧告され、核心部分のみに限定した再推薦で登録された例であり、逆に大ヒマラヤ国立公園保存地域(インド)は、国立公園だけでは不足があるとして、隣接する自然保護区にまで拡大することで登録された例である。 ===真正性=== 真正性とは、特に文化遺産について、そのデザイン、材質、機能などが本来の価値を有していることなどを指す(「作業指針」第79段落 ‐ 第82段落)。真実性と訳されるほか、元々日本語に対応する概念がなかったとしてオーセンティシティとカタカナで表現される場合もある。 再建された建造物の歴史的価値は、1980年登録のワルシャワ歴史地区(ポーランド)で早くも問題になった。ワルシャワの町並みは第二次世界大戦で徹底的に破壊され、戦後に壁のひび割れなどまで再現されたといわれるほどの再建事業を経て、忠実に復元されたものだったからである。1979年、1980年と続けて議論が紛糾した結果、ワルシャワの登録と引き換えに、第二次大戦後に再建された他のヨーロッパ都市は登録対象としないことが決められた。「作業指針」にも、歴史地区の再建などは、例外的にしか認められないことが明記されている(第86段落)。もっとも、2005年登録のオーギュスト・ペレによって再建された都市ル・アーヴル(フランス)のように、戦前の面影を一新した鉄筋コンクリート造りの計画都市が登録された例はある。 その後、登録物件の偏りなどとの関連で「真正性」の問題がクローズアップされた。堅牢な石の建造物を主体とするヨーロッパの文化遺産と違い、木や土を主体とするアジアやアフリカの文化遺産は、保存の仕方が異なってくるからである。そこで、1994年に奈良市で開催された「世界遺産の真正性に関する国際会議」で採択された奈良文書において、真正性はそれぞれの文化的背景を考慮するものとし、木造建築などでは、建材が新しいものに取り替えられても、伝統的な工法・機能などが維持されていれば、真正性が認められることになった。この真正性の定義づけには日本も積極的に関わり、世界遺産制度史上における日本の特筆すべき貢献と評価されている。 ==登録範囲== 世界遺産の登録範囲 (Boundary) は、前述のように完全性をはじめとする「顕著な普遍的価値」(OUV) の証明のために必要な要素を、過不足なく含むことが求められる。範囲の設定は行政区分などに左右されるべきでないとされ、自然地形の特徴などに即していることが望ましいとされている。登録後にも範囲の変更は可能である。それについては後述を参照のこと。 世界遺産の登録に当たっては、登録物件の周囲に緩衝地帯 (Buffer zone) を設けることがしばしばである。ただし、それはOUVを有するとは認められていない地域で、世界遺産登録範囲ではない。かつては、世界遺産そのものの登録地域を核心地域 (Core zone) と呼んでいたが、核心地域と緩衝地帯がともに世界遺産登録地域であるかのように誤認されないために、2008年から世界遺産そのものの登録地域は資産 (property) と呼ばれ、緩衝地帯と明確に区別されるようになった。 ===緩衝地帯=== 緩衝地帯は、そのままカタカナでバッファー・ゾーンと表現されることもある。本来保護すべき範囲の外側に緩衝地帯を設定するという考え方は、自然保護に見られた概念を文化遺産にも拡大したものといえる。この範囲設定は、ユネスコの「人と生物圏計画(英語版)」で「核心地域」「緩衝地域」「移行地域」の3区分が存在していたことをモデルに、核心地域と緩衝地域の概念を導入したものである。なお、日本の省庁の場合、Buffer zone を世界遺産では「緩衝地帯」、生物圏保存地域(ユネスコエコパーク)では「緩衝地域」と訳し分けている。 緩衝地帯の役割は、資産の保護のために設定される区域で、法的あるいは慣例的に開発などは規制を受ける。例えばフランスの場合、歴史的記念建造物の周囲には一律(半径500 m)に規制が敷かれるが、世界遺産の場合、保護する範囲に機械的な線引きはなく、また資産全体に同じ範囲だけ設定しなければならないものではない。そもそも緩衝地帯は当初、方針文書に明記されておらず、ごく初期の世界遺産には設定されていなかった。1980年や1988年の「作業指針」で段階的に盛り込まれていったが、厳格な適用を求める方向で「作業指針」が改定されたのは2005年のことで、設定しない場合には理由の提示が必要となった。世界遺産の推薦に当たっては、原則として資産だけでなく緩衝地帯についても、規模や用途などを明記し、地図も提出する必要がある(「作業指針」第104段落)。 それ以降、第31回世界遺産委員会(2007年)で既に登録されている世界遺産7件に遡及的に設定されるなど、「軽微な変更」(後述)として緩衝地帯の遡及的な設定なども行われるようにもなっている。 その一方、生物圏保存地域と異なり、緩衝地帯の外側に移行地域が存在しないため、緩衝地帯のすぐ外側での開発などが問題視されることが出てきた。例えばロンドン塔の場合、超高層建築ザ・シャードが緩衝地帯の外に建てられたが、ロンドン市内で突出したその高さは、ロンドン塔の景観にも影響を及ぼしてしまっている。これは緩衝地帯の外であったため、世界遺産委員会では懸念は表明されたものの、それ以上の措置には踏み込まなかった。世界遺産委員会では、緩衝地帯の外でさえ、景観に影響を及ぼす場合には規制すべきという意見も出されるようになっている。その一方、都市の成長や開発に対する過度の抑制に繋がることを懸念する論者もいる。 前述のように、緩衝地帯は理由を明記すれば、設定しないことも許容される。許容されるための理由としては、資産そのものの保護範囲がもともと十分に広く設定されている場合や、大平原や地下など、資産の所在環境による条件を勘案して緩衝地帯の設定が無意味、あるいは不要などと判断される場合などがある。しかし、フォース橋(2015年登録)が保護範囲の十分の広さを理由に緩衝地帯を設定しなかったところ、その審議が紛糾した例などもあり、専門家からは緩衝地帯を設定しない推薦は例外的なものと見なされている。 ==世界遺産リスト登録手続きと登録後の保全== 世界遺産リスト登録に必要となる前提、審査の流れ、登録後の保全状況報告などは、「世界遺産条約履行のための作業指針」(「作業指針」)で規定されている。その登録までの流れを図示すると以下のようになる。 ===暫定リスト=== 暫定リストは、世界遺産登録に先立ち、各国がユネスコ世界遺産センターに提出するリストのことである。もともと文化遺産について、このリストに掲載されていないものを世界遺産委員会に登録推薦することは、原則として認められていなかったが、「作業指針」の2005年の改訂で、自然遺産についても義務付けられるようになった。ただし、バム地震(2003年)で壊滅的損壊を被ったバムとその文化的景観(イラン、2004年登録)のように、不測の事態によって緊急で登録する必要性が認められた場合には、「緊急登録推薦」に関する条項に従い、暫定リスト記載と推薦をほぼ同時に行うことが認められる場合がある(後述)。 暫定リストは、各国が1年から10年以内をめどに世界遺産委員会への登録申請を目指すもののリストであり、10年ごとに見直し、再提出することが望ましいとされる。ただし、10年間推薦しなかったら除去しなければならないというものではない。例えば、日本の場合、1992年から暫定リストに記載され続けていた物件のうち、古都鎌倉の寺院・神社ほかが最初に推薦されたのはおよそ20年後のことであり(結果は本審議前に取り下げ)、彦根城は一度も推薦されたことがない。 暫定リスト掲載物件は、世界遺産委員会がその「顕著な普遍的価値」 (OUV) を認めたものではなく、現在暫定リストに掲載されているものには、不登録勧告を受けて取り下げたものや、登録延期決議などを受けたものもある。ただし、世界遺産委員会で「不登録」(後述)と決議されたものを暫定リストに掲載し続けることは、原則として認められていない(「作業指針」第68段落)。 世界遺産委員会は、条約締結各国に対して、暫定リストへの掲載に当たっては、その遺産のOUVを厳格に吟味することや、保護活動が適正に行われていることを十分示すように求めている。また、委員会は、暫定リスト作成では、まだ登録されていないような種類の物件に光を当てることや、世界遺産を多く抱える国は極力暫定リストを絞り込むことなどを呼びかけており、後述の「登録物件の偏り」を是正するための一助とすることを企図している。 この暫定リストは、各国がOUVを持つと考える物件を加除できるリストである。それに対し、他国と争いのある物件などに関しては、世界遺産委員会の検証を踏まえるべきといった提案も出されているが、慎重な意見も出されている。第41回世界遺産委員会では、暫定リストが各国に独自に作成したリストであり、そこには世界遺産センターや委員会の意向は反映されていないと念押しされることになった 日本の場合、暫定リストへの記載は、文化庁、環境省、林野庁が担当するが、推薦にむけては上記3省庁に外務省、国土交通省、水産庁を加えた6省庁に、オブザーバーとしての文部科学省と農林水産省を加えた「世界遺産条約関係省庁連絡会議」を経る必要があった。同連絡会議はその後、参加する省庁が変更され、2017年時点では文化庁、環境省、林野庁、水産庁、外務省、国土交通省、経済産業省、宮内庁、内閣官房となっている。同連絡会議を経て正式決定された物件は、それを踏まえて閣議了承がなされる。 ===推薦=== 推薦書の提出は、原則として世界遺産条約締約国のみにしかできない。ゆえに、たとえば台湾は世界遺産候補地リストを独自に発表するなど世界遺産登録に前向きだが、世界遺産条約締約国ではなく、一つの中国を掲げる中華人民共和国も台湾の物件を推薦したことがないため、世界遺産委員会の審議対象になったことすらない。逆にバチカン市国は国際連合にもユネスコにも加盟していないが、世界遺産条約は締約しているため、国全体が世界遺産である。世界遺産条約締約国の保有でない例外は、エルサレムの旧市街とその城壁群のみである。これはエルサレム帰属をめぐる問題から、ヨルダンの申請で認められたが、ヨルダンの世界遺産ではなく、「エルサレム(ヨルダンによる申請)」と位置づけられている。このほか、現状の枠組みにおさまらない概念として、公海の世界遺産が模索されている。 推薦書に記載することが求められるのは、資産の登録範囲と内容、それがOUVを持つことの証明、脅威を与える要素などについてのモニタリングを含む保全関連の情報などの条項である。 正式推薦の締め切りは、審議予定の前年の2月1日だが、そのさらに前の年の9月30日までに草案を提出し、世界遺産センターから不備を指摘してもらった上で正式推薦書を提出することが認められている。草案の提出は任意だが、2月1日までに提出した正式推薦書に不備があった場合、諮問機関に回されずに翌年以降の再提出を求められる。 ===緊急登録推薦=== 緊急登録推薦の手続きは、その推薦物件がOUVを疑いなく保有する場合で、なおかつ重大な危険に直面しているなどの緊急を要する場合に、通常の手続きを飛び越えて推薦できることを指す(「作業指針」第161・162段落)。緊急登録推薦の場合は、暫定リスト記載と推薦を同時に行い、かつ最速で同じ年に登録することが可能となる。この手続きで登録された場合、危機遺産リストにも同時に登録されることになっている。 この手続きで登録された資産には、ダム工事による浸水の危険があったアッシュール(イラク)、大地震で被災したバムとその文化的景観(イラン)などがある。パレスチナの世界遺産の場合は、最初の物件から3件連続でこの規定が適用されたが、このような手法には議論がある(後述)。 ===諮問機関の勧告=== 上掲の図のように、自然遺産については国際自然保護連合(IUCN)、文化遺産については国際記念物遺跡会議(ICOMOS)が諮問機関として、現地調査を踏まえて事前審査を行う。そこでの勧告は、後述の世界遺産委員会の決議と同じく「登録」「情報照会」「登録延期」「不登録」の4種である。世界遺産委員会は後述するように勧告を踏まえて審査するが、「登録」以外の勧告が出た物件が逆転で登録されることもあれば、勧告よりも低い評価が下されることもある。 現地に派遣される諮問機関の調査官は1人であり、その調査も踏まえて複数名で勧告書が作成される。ICOMOSの調査では、日本の場合、アジア・太平洋地区(後述)の調査官が原則として派遣される。これは他地区の調査官が厳しい評価を下した場合に、無用の批判が出るのを避けるためといわれている。 ===アップストリーム・プロセス=== アップストリーム・プロセスとは、推薦手続きのなかで世界遺産センターや諮問機関と対話を重ね、登録に向けた諸問題の解消ないし低減に資するための手続きである(「作業指針」第122段落)。これは第32回世界遺産委員会で提案され、第34回世界遺産委員会での決議に基づき、第35回世界遺産委員会で試験的に導入する10件の対象が選定され、後にこのプロセスを活用してナミブ砂海(ナミビア)、サウジアラビアのハーイル地方の岩絵などが世界遺産リスト登録を果たした。反面、ヨルダンのペラ(英語版)のように、実施してみた結果、取り下げられた案件もある。アップストリーム・プロセスを全面導入するためには、費用の分担などの問題を解決する必要があるが、少なくとも推薦書作成の前に、諮問機関や世界遺産センターに助言を仰ぐことは推奨されるようになっている。第41回世界遺産委員会(2017年)で正式な導入が決まったものの、上述の制約により、翌年から2年間は年間10件のみを選定して実施することとなった。 なお、推薦書の提出後には、諮問機関と推薦国の接触は認められていなかったが、ラージャスターンの丘陵城塞群の評価を不満とした推薦国インドの提案をきっかけとして、その期間に諮問機関の特別助言ミッションが派遣されることも行われるようになった。また、第40回世界遺産委員会(2016年)審議分から、正式な勧告の前に諮問機関が「中間報告」を出すことになり、推薦の取り下げや推薦書の大幅改訂などの対応をとりやすくなった。日本の長崎の教会群とキリスト教関連遺産は、中間報告を踏まえて、大幅な再検討が必要との判断から取り下げられた例である(2018年に正式登録)。 ===ビューロー=== ビューロー (Bureau) は、世界遺産委員会の21か国の委員国のうち、議長、副議長(5人)、書記のみで行われる会議である。ビューロー会議などとも呼ばれる。2001年までは世界遺産委員会が12月開催だったが、その頃は半年ほど前と直前にビューローが開催されていた。特に半年前のビューローは、実質的に世界遺産の新規登録の可否を決定する場となっており、12月の委員会開催までに勧告を覆す余地はあったが、世界遺産委員会の場で覆されることはないのが普通だった。この当時のビューローの権威は高かった反面、21か国の委員国の中でも特に限られた国々に強い決定権が集まることへの批判もあった。そのため、世界遺産委員会が6・7月頃の開催となった2002年の4月に開催されたビューローを最後に、世界遺産登録の可否は、正規の委員会審議に一本化されることになった。 以降、ビューローは世界遺産委員会の会期中に、議事の調整や日程の管理など、限られた事項のみを扱うようになっている。 ===世界遺産委員会の決議=== 世界遺産委員会は、諮問機関の勧告を踏まえて推薦された物件について審査を行い、「登録」「情報照会」「登録延期」「不登録」のいずれかの決議を行う(「作業指針」第153‐164段落)。「登録」勧告が出された物件が、世界遺産委員会で覆されたことはほとんどない。例外的な事例は、後述の領土問題が絡む案件を除けば、遺跡の復元方法をめぐって委員国が反対したボルガル遺跡(ロシア。のちに正式登録)、地元との調整不足を理由に推薦国自らが先送りを提案したピマチオウィン・アキ(英語版)(カナダ。のちに正式登録)など、ごくわずかである。 世界遺産委員会には臨時委員会も存在するが、世界遺産は原則として正規の委員会でしか登録されない。第42回世界遺産委員会(2018年)終了時点で唯一の例外は、1981年の臨時委員会で登録されたエルサレムの旧市街とその城壁群のみである ===登録=== 「登録」(記載, inscribe)は、世界遺産リストへの登録を正式に認めるものである。「作業指針」の2005年の改定を踏まえ、2007年以降は正式に登録された場合、OUVの言明をしなければならなくなった。OUVの言明とは、A4版2枚の要約で、資産の概要、適用された登録基準、真正性、完全性、保存状況などがまとめられている。2007年以前に登録された資産は義務付けられていなかったが、それらについても順次、遡及的な言明が要請されることとなった。例えば、日本の場合は2014年に遡及的な言明が全て完了している。 ===情報照会=== 「情報照会」(refer) は一般的に顕著な普遍的価値の証明ができているものの、保存計画などの不備が指摘されている事例で決議され、期日までに該当する追加書類の提出を行えば、翌年の世界遺産委員会で再審査を受けることができる。ただし、3年以内の再推薦がない場合は、以降の推薦は新規推薦と同じ手続きが必要になる(「作業段落」第159段落)。 「情報照会」決議は、最速で翌年の再審議を可能にする。そのため、推薦国は、その年の登録が難しいという勧告を受けた場合、次善の策として望む決議であり、委員国への働きかけも顕著である。しかし、「情報照会」決議が出てしまうと、推薦書の大幅な書き換えは認められず、推薦範囲の変更なども出来ないため、安易な「情報照会」決議は、かえって正式な登録を遠ざける危険性があることも指摘されている。実際、インドのマジュリ島(英語版)は第30回世界遺産委員会では「登録延期」勧告を覆して「情報照会」決議とされたが、第32回世界遺産委員会の審議では「登録延期」決議とされ、かえって登録が遠のいてしまった。 ===登録延期=== 顕著な普遍的価値の証明などが不十分と見なされ、より踏み込んだ再検討が必要な場合は「登録延期」(記載延期, defer)と決議される。この場合、必要な書類の再提出を行った上で、諮問機関による再度の現地調査を受ける必要があるため、世界遺産委員会での再審査は、早くとも翌々年以降になる。 「登録延期」はしばしば不名誉なものと捉えられることがある。日本の場合、最初に「登録延期」決議が出たのは平泉―仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群―である。このとき、日本では「落選」「平泉ショック」などと報じられ、他の自治体の世界遺産登録に向けた動きにも影響を与えた。 「登録延期」決議は確かに「情報照会」決議よりも一段下と位置づけられる決議だが、専門家からは、むしろ時間をかけて価値の証明を深化させる機会を与えられたと解すべきで、不名誉なものではないとも指摘されている。なお、最初の「登録延期」決議から正式登録までに長期を要した遺産の例としては、30年を要したイングランドの湖水地方、35年以上を要したシドニー・オペラハウス などがある。 ===不登録=== 顕著な普遍的価値を認められなかった物件は、「不登録」(不記載, not iscribe)と決議される。「不登録」と決議された物件は、原則として再推薦することができない。ただし、新しい科学的知見が得られるなどした場合や、不登録となった時とは異なる登録基準からの価値を認められる場合には、推薦が可能である。 諮問機関の勧告の時点で「不登録」勧告が出されると、委員会での「不登録」決議を回避するために、審議取り下げの手続きがとられることもしばしばである。たとえば、2012年の第36回世界遺産委員会では、「不登録」勧告を受けた推薦資産は9件あったが、うち5件は委員会開催前に取り下げられた。「不登録」決議は、推薦国にとって何のメリットもないと考えられていたからである。しかし、第41回世界遺産委員会では「不登録」勧告を受けた資産の多くが取り下げず、審議に臨んだ5件のうち4件が「登録延期」ないし「情報照会」決議となった。この従来と異なる傾向は、2000年代半ばから増えるようになった諮問機関と推薦国との意見の対立を示すものとされる。 なお、世界遺産委員会などでの審議の結果、登録が見送られた物件を指して裏世界遺産と呼ぶことがある。もともとインターネット上の私的なウェブサイトで打ち出された概念であり、公式な呼称ではない。 ===モニタリング=== 世界遺産におけるモニタリング (Monitoring) とは、保全管理に関わる指標や影響を及ぼす要素を明示することで、推薦書に盛り込まなければならないものと、登録後に行われるものの2種類ある。ただし、これらは全く同じ用語を用いても、手続きとしては別個のものである。 推薦書におけるモニタリングの項目に不備があれば、「情報照会」勧告などが出される場合がある。 登録後のモニタリングには、定期報告とリアクティブ・モニタリングの2種類がある。定期報告 (Periodic Report) は6年ごとに全ての登録資産に対して実施するものであり、アジア・太平洋、アフリカなどの地域を単位として少しずつ時期をずらし、世界遺産としての価値の維持と保全状況、その他情報の更新などを確認する。第1期の定期報告は2000年から2006年に実施された。2008年から2012年に第2期の定期報告が全て終わり、2015年の第39回世界遺産委員会でとりまとめられた。 リアクティブ・モニタリング (Reactive Monitoring) は、定期報告とは別の手続きであり、定期報告が保有国による報告なのに対し、世界遺産が何らかの脅威に晒されていると判断された場合に、世界遺産センターないし諮問機関が行う。当然、抹消の可能性がある世界遺産や危機遺産リスト登録物件なども対象になる(第169 ‐ 170段落)。 しかし、リアクティブ・モニタリングは世界遺産委員会の決議を踏まえなければならず、保有国の協力も得ねばならないため、緊急の事態や保有国が非協力的な場合などには、十分に機能しない問題点を含む。 そこで新たに導入されたのが強化モニタリング体制 (Reinforced Monitoring Mechanism) である。これは、世界遺産委員会の決議なしに、ユネスコ事務局長の判断で現地調査を可能にする仕組みであり、2007年の第31回世界遺産委員会で導入された。これは、世界遺産委員会が開かれていない時期にも即応して、複数の報告書を提出できる仕組みであったが、2017年時点では正式な「作業指針」には盛り込まれていない。 もともとの原則では危機遺産登録物件のみとされており、実際、2007年に対象になったのはそうだったが、2008年にはマチュ・ピチュの歴史保護区など、危機遺産リスト外の物件も対象に含まれた。その辺りの時期には、危機遺産リストに登録する代わりに、強化モニタリング対象としたケースもあったとされている。 ==登録後の変更== ===名称=== 推薦する際の名称は、推薦国が英語とフランス語で付ける。諮問機関は、資産の特色をよりよく表すような改名を勧告する場合があり、推薦国自身がそれを踏まえて改名することもある。たとえば、「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」は当初の推薦名「明治日本の産業革命遺産 九州・山口と関連地域」を、ICOMOSの勧告を踏まえて改名したものである。逆に、平泉―仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群―の場合は「考古学的遺跡群」を外すことを勧告されたが、反対する日本の見解を世界遺産委員会も支持したため、推薦どおりの名称で登録された。 登録後にも名称の変更は可能であり、保有国の申請を世界遺産委員会が承認すれば認められる。ナチスの施設であることを明確にするために「アウシュヴィッツ強制収容所」が「アウシュヴィッツ=ビルケナウ ナチス・ドイツの強制絶滅収容所(1940‐1945)」に変更された例や、地元文化を尊重するためと推測されている英語「スケリッグ・マイケル」からゲール語「シュケリッグ・ヴィヒル」(アイルランド)への変更の例などを挙げることができる。 なお、英語・フランス語による世界遺産登録名には、公式の日本語訳は存在しない。日本ユネスコ協会連盟、世界遺産アカデミーなど、各団体がそれぞれの判断で日本語訳を付けている。結果、物件によっては文献ごとに表記の異なる場合が存在する。 ===軽微な変更=== 登録範囲の「軽微な変更」(minor modifications) とは、「顕著な普遍的価値」(OUV) に大きな影響を及ぼさない範囲の変更で、緩衝地帯の設定もこれに含まれる(「作業指針」第163段落及びAnnex 11)。原則として、理由説明の合理性などに問題がなければ、世界遺産委員会でも大きな議論なしに承認される。例えば、2016年に紀伊山地の霊場と参詣道へ闘鶏神社ほか22地点が追加されたのは「拡大」(extension) ではなく、「軽微な変更」である。 「軽微」な範囲を超えると認識される場合は、重大な変更として、いわゆる「拡大」登録の手続き(新規推薦と同じ)で審議されることになる。軽微か重大かの明確な線引きはなく、総合的に判断される。例えば、第34回世界遺産委員会では雲南の三江併流保護地域群(中国)をめぐって議論になった。この世界遺産の一部地域における登録前からの資源採掘活動が明らかになったことを受けて、保有する中国当局は採鉱地域(総面積約170 万ヘクタールのうち7万ヘクタールほどにあたる)を除外することなどを提案したのである。最終的に投票に持ち込まれた結果、3分の2の賛成を得て「軽微な変更」として承認されたが、翌年の世界遺産委員会では、採鉱などを理由とする変更は常に「重大な変更」として扱うことが決められた。 ===重大な変更=== 登録範囲の「重大な変更」(Significant modifications) とは、範囲を大幅に変更するのみでなく、OUVにも影響を及ぼす変更を指し、新規登録物件と同じ手続きが適用される。いわゆる「拡大登録」(拡張登録)がこれに当たるが、逆に縮小登録にも適用される。 「拡大登録」は、たとえば「ダージリン・ヒマラヤ鉄道」にニルギリ山岳鉄道などが加わって「インドの山岳鉄道群」に拡大された例などが該当する。ただし、1980年登録のバージェス頁岩が1984年新規登録のカナディアン・ロッキー山脈自然公園群に統合されたように、「拡大」という形式を取らない事例もある。また、こうした範囲変更に伴って、世界遺産登録基準が変更される場合もある。前述のビャウォヴィエジャの森もその例である。 逆に縮小になった最初の例はゲラティ修道院(ジョージア)である。もとはバグラティ大聖堂とともにグルジア王国時代の傑作として登録されていたが、大聖堂の再建工事により真正性が失われたと判断され、2017年にゲラティ修道院のみの登録へと切り替えられた。これは顕著な普遍的価値 (OUV) を失った要素を切り捨て、残る部分のOUVを保持するという新しい手法である。 ==抹消== 世界遺産は、登録時に存在していたOUVが失われたと判断された場合、もしくは条件付で登録された物件についてその後条件が満たされなかった場合に、リストから「抹消」(deletion) されることがある(「作業指針」第192‐198段落)。 初めて抹消されたのは、2007年のアラビアオリックスの保護区(オマーン)である。この物件は元々保護計画の不備を理由とするIUCNの「登録延期」勧告を覆して登録された経緯があったが、計画が整備されるどころか保護区の大幅な縮小などの致命的悪化が確認されたことや、オマーン政府が開発優先の姿勢を明示したことから、抹消が決まった。2009年にはドレスデン・エルベ渓谷(ドイツ)が抹消されている。これは、世界遺産委員会が「景観を損ねる」と判断した橋の建設が、警告にもかかわらず中止されず、住民投票を踏まえて継続されたことによる。また、上述のように、構成資産の一部を抹消して登録範囲を縮小する事例も登場している。 その一方、世界遺産条約採択40周年記念最終会合(2012年)では、参加した専門家たちからは、国際協力の本旨に照らせば、リストからの抹消は責任放棄にあたるという批判が提起された。 なお、抹消の条件は以上の通りであり、世界遺産条約からの脱退などの場合の扱いは明記されていない。ただし、専門家からは、脱退すれば各種手続きを取れず、世界遺産エンブレムすら使用できなくなるため、リストから抹消されずとも、世界遺産でなくなるに等しいと指摘されている。 ==課題と対応== ===登録国の偏り=== 第42回世界遺産委員会(2018年)終了時点で、世界遺産は1,092件登録されているが、その内訳は文化遺産845件、自然遺産209件、複合遺産38件である。一見して明らかな通り、文化遺産の登録数の方が圧倒的に多く、地域的には文化遺産の約半数を占めるヨーロッパの物件に偏っている(世界遺産条約締約国の一覧参照)。 また、イタリア(54件)、中国(53件)、スペイン(47件)、フランス・ドイツ(各44件)など非常に多くの物件が登録されている国がある一方で、世界遺産条約締約193か国中、1件も登録物件を持たない国が26か国ある(数字はいずれも第42回委員会終了時点)。西アジア史の専門家からは、西アジアの世界遺産が少ないことの一因は、文化財保護の思想自体がヨーロッパ由来のものであって西アジアにとっては新しい概念であること、言い換えると、制度設計そのものが欧米中心主義に根ざしていることなどを指摘する意見も出されている。 もともと世界遺産委員会の委員国に、地域の割り当ては設定されていなかった。ユネスコ本体の場合、執行委員に西欧・北米、東欧、中南米、アジア・太平洋、アフリカの5地域の割り当て枠があるのに対し、文化の衡平性に配慮するなどの理由で世界遺産委員会には21世紀初頭まで割り当て枠が存在しなかったのである。その結果、1999年の時点でわずか10か国が3度も委員国(任期6年)を務めていたのに対し、当時の締約国の6割に当たる95か国が一度も任命されたことがなく、前者にはイタリアをはじめとする世界遺産保有数の多い国がいくつも含まれていた。こうした問題点を踏まえ、「作業指針」および「締約国会議手続規則」が改定され、委員国は「自発的に」6年を4年に短縮すべきこと、再選までに最低6年を置くこと、「西欧・北米」「東欧」「ラテンアメリカ・カリブ海」「アラブ諸国」から各2か国、「アジア・太平洋」から3か国、「アフリカ」から4か国の最低割り当て枠を設定することなどが定められている。 世界遺産審議に当たっては、世界遺産を持たない(もしくは少ない)国の推薦を優先することとされるが、これが過剰に考慮されることへの批判もある。たとえば、セントルシア初の世界遺産「ピトン管理地域」(2004年)が諮問機関の厳しい評価を覆して逆転で登録された背景には、同国がそれまで世界遺産を持っていなかった事情が斟酌された可能性が指摘されている。これは例外ではなく、2011年の第35回世界遺産委員会では、ついに登録勧告された物件よりも逆転登録された物件が上回り、価値の証明や保護管理計画の不十分な物件を世界遺産に登録してしまうことは、諮問機関からも問題視される事態になった。この際に逆転を果たした物件は、アフリカ、アラブ、ラテンアメリカの物件が主だった。こうした傾向は、2002年に策定され、2007年に改訂された戦略的行動指針の中では、「信頼性」に関わる問題点とされている。そもそも現在の主権国家の国境線は、自然や文化の代表性に配慮して引かれているわけではないため、すべての条約締約国が各1件以上の世界遺産を持つことは、かえってリストに偏りをもたらす可能性もある。 このような世界遺産の地域格差とその是正策としての優先制、あるいは真正性・価値観の押しつけを「上から目線で、世界遺産はユネスコの覇権主義の道具と化し、ユネスコのための文化ヘゲモニーである」との辛辣な批判意見も噴出してきている。 ===経済格差=== 世界遺産は推薦にも多額の資金を必要とする。例えば、琉球王国のグスク及び関連遺産群の推薦には1億円以上掛かったと言われており、こうした費用は、場合によっては数十億かかることさえあるという。その内訳は、推薦書を実際に執筆する専門家の人件費、推薦書に添付する写真などを手がけるコンサルタント会社への委託料などで、推薦書の作成に向けた専門家会議の開催なども上乗せされることがある。 さらに、世界遺産の推薦書は英語かフランス語で書かれなければならないため、これらの言語を公用語としていない国の場合、それらの言語に堪能な専門家を手配する必要も生じる。たとえば、旧ソ連構成国だった3国(ウズベキスタン、カザフスタン、キルギス)の推薦だった西天山は、まさにそのような困難に直面し、世界遺産センターの支援を受けた。結果として、開発途上国はこうした費用を十分に負担できず、不備のある推薦書の提出によって正式な審議までたどり着けないことも起こる。西天山のように、世界遺産基金には途上国の推薦支援に回される分もあるが、それとて十分ではなく、支援が回ってこない国々も少なくない。こうした事態が、さらなる偏りを助長しているという指摘もある。 ===種類の偏り=== 前述のように、内容的には文化遺産のほうが圧倒的に多い。これは、前述のように自然遺産と違い、文化遺産は研究の深化に従って種類が増えていくという性質の違いのほかに、他の制度との関わりの違いを指摘されている。すなわち、自然遺産の場合、MAB計画、ラムサール条約など、世界的なリストアップや保護のための制度が多層的に整備されていて、その中の最上のものを世界自然遺産と出来るのに対し、文化遺産の場合には類似の仕組みがなく、世界遺産に集中してしまう傾向があるのだという。 そうした不均衡是正の試みとして、「世界遺産リストの代表性、均衡性、信用性のためのグローバル・ストラテジー」(the Global Strategy for a Representative, Balanced and Credible World Heritage List, 1994年)が打ち出され、文化的景観、産業遺産、20世紀遺産などを登録していくための比較研究の必要性が示された。2004年から具体的な作業が行われている「顕著な普遍的価値」の再定義や、暫定リスト作成時点で、偏りをなくすような適切な選択がなされるように働きかけていくことなどもその例である。 ===文化的景観=== 文化的景観は1992年に取り入れられた文化遺産の類型であり、人と自然がともに作り上げてきた景観を指す。これは、人が自然環境から制約を受ける中、そこから諸々の影響を受けつつ進化してきたことを示す文化遺産である(「作業指針」第47段落)。その中身は、庭園のように人間が設計した空間の中に自然を取り込んだ景観、棚田のように農林水産業をはじめとする人間の諸活動と有機的に結びついた景観、そして、自然の聖地のように人間が宗教上や芸術上の価値を付与してきた景観などに分けることができる。 世界遺産の中での文化的景観第1号は、自然遺産として登録された後、マオリの崇拝の対象となってきた文化的要素が認定されて複合遺産となったトンガリロ国立公園(ニュージーランド、1993年拡大)である。しかし、その起源となる議論は1981年から始まっており、その議論で重要な役割を果たした物件がイングランドの湖水地方であった。それは1987年と1990年にそれぞれ登録延期決議となったが、その検討は文化的景観の概念の確立の上で重要な役割を果たしたとされる(2017年に正式登録)。 イギリスの物件では、自然遺産セント・キルダ(1986年)の拡大も大いに議論を引き起こした。もともとICOMOSは文化的価値を最初から認めていたが、文化的景観の概念がなかった1986年当時は認められなかった。2005年の審議では複合遺産とすること自体は認められたものの、これを文化的景観と位置づけるか否かで紛糾した。出席していた専門家の中からは、委員国の中でもその辺りの基準が明確だったとは言いがたいという評価もあった。 ともあれ、文化的景観は広く受け入れられ、21世紀初頭の審議では世界遺産の推薦の主流とさえ言う者もあった。その一方、文化的景観概念の多用を受けて、ICOMOSはその価値をより厳しく判定するようになったと言われており、その登録範囲の完全性なども含め、厳格化の傾向を見せている。文化的景観の代表例の一つと国際的にも認識されていた富士山が、文化的景観として推薦・登録されなかった理由も、こうした傾向と無関係ではなかった。 ===産業遺産=== 産業遺産自体は、初期から登録されていた。いわゆる「世界遺産第1号」に含まれるヴィエリチカ岩塩坑も、産業遺産に分類されている。しかし、本格的な議論は1987年のニュー・ラナーク(イギリス)の推薦以降だといい、そのような類型を登録すべきかの議論が、翌年から開始された「グローバル研究」につながり、この研究がグローバル・ストラテジーに結びついた。「産業」は人類の営みと不可分の要素であり、世界のどの地域にも存在しうる点が、グローバル・ストラテジーに取り込まれる理由になったと考えられている。 その後、前述のように評価基準にも産業遺産の登録を想定した改訂が行われ、産業遺産の登録も増えた。しかし、フェルクリンゲン製鉄所(ドイツ、1994年登録)の審議の際には、そのような装飾性のない近代的工場を世界遺産に加えることについて、参加者から戸惑いの声も聞かれたという。なお、従来の産業遺産は産業革命、なかんずくイギリスのそれを中心に叙述されることが多かったが、世界遺産においては、古代ローマ帝国の金鉱山跡のラス・メドゥラス(スペイン)から、20世紀の水力発電所を含むリューカン=ノトデンの産業遺産(ノルウェー)などまで、より広い範囲で捉えられている。 ===20世紀遺産=== 20世紀遺産は、その名のとおり20世紀に建設された建造物などを対象とする文化遺産であり、一部には19世紀後半も対象とする。「近代遺産」(modern heritage) と呼ばれることもある。比較的初期の段階から、アントニ・ガウディの作品群(スペイン)のように審美的な観点から評価されて登録された物件もあったが、シドニー・オペラハウスが1981年に審議された際には、まだ十分に評価が定まっていなかったとされ、2007年の再審議でようやく登録された。 モダニズム建築の範疇で重要だったのが、ヴァイマル、デッサウ及びベルナウのバウハウスとその関連遺産群(ドイツ)の登録とされ、この登録を契機に、同種の建築の登録を促したと言われている。ただし、モダニズム建築の登録にしても、世界遺産が傑出した建築家個人を顕彰する場にならないように、という懸念は度々出されている。ブルノのトゥーゲントハット邸(ミース・ファン・デル・ローエ、チェコ)の審議しかり、ルイス・バラガン邸と仕事場(メキシコ)の審議しかり、ル・コルビュジエの建築と都市計画の最初の登録見送り時の審議しかりである。 なお、20世紀遺産とモダニズム建築はイコールではない。そのような思想はともすると、20世紀遺産をヨーロッパ中心主義に組み込んでしまう危険性があるとされ、ICOMOSもモダニズム建築に限定してはいない。モダニズム建築のための団体としてはすでにDOCOMOMOが存在するが、ICOMOSはモダニズム建築に限定されない「20世紀遺産国際学術委員会」を設置するなど、広い意味での20世紀遺産の登録を進めていこうとしている。 ===登録件数の増加と上限=== 世界遺産は発足当初、上限を100件程度とする案さえあったという。しかし、1981年の第5回世界遺産委員会の時点で既に110件に達し、この見通しの非現実性が明らかになるのに時間はかからなかった。そして、2015年の第39回世界遺産委員会では1,000件を超え、なおも増加している。上述のようなグローバル・ストラテジーは世界遺産を持たない国の割合を減少されるなどの点で一定の成果を挙げた一方で、もともと遺産を多く保有する国々も、推奨される類型の遺産の推薦を増やすようになった結果、絶対数の抑制には繋がっていない。 1,000件を超えた状況を踏まえて、世界遺産のブランド価値は損なわれたとする報道も見られたが、その世界遺産の登録数に上限は設けられていない(「作業指針」第58段落)。 かつては、一度の委員会で審議する件数も、一国当たりの推薦数にも制約が掛かっていなかった。ゆえに、1997年にナポリで開催された世界遺産委員会ではイタリアの世界遺産が10件も増えたし、第24回世界遺産委員会(ケアンズ、2000年)での推薦総数は72件、そのうち新規登録された物件は61件に達した。その委員会で設定された制約が「ケアンズ決議」である。これは各国の推薦上限を1件とし、審議総数を30件とした。この上限は第27回世界遺産委員会(パリ、2003年)で30件が40件へと修正され、第28回世界遺産委員会(蘇州、2004年)で「ケアンズ・蘇州決議」として修正された。この修正で、各国の上限は自然遺産を1件含む場合には2件まで可能とされ、審議総数は(再審議、拡大登録審議も含めて)45件となった。これはさらに2007年に修正され、文化遺産2件の推薦も許されるようになった。そのルールは4年で見直される規定だったため、2011年の第35回世界遺産委員会で文化遺産と自然遺産各1件(ただし、自然遺産は文化的景観で代替可能)となることが決まり、2014年の第38回世界遺産委員会から適用されることとなった。 さらに2020年の第44回世界遺産委員会からは、各国1件のみ、審議総数は35件とすることが決まっている。素案では25件とされていたが、審議を経て35件に修正された結果である。 ===審議の厳格化=== 初期の世界遺産は、誰が見ても納得できるような分かりやすい登録が多かった。たとえば、ギザの三大ピラミッド(1979年)、レオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』(1980年)、グレート・バリア・リーフ(1981年)、タージ・マハル(1983年)などが初期に登録されている。世界遺産委員会の議長を2度務めたことがあるクリスティーナ・キャメロン(英語版)は、初期の分かりやすい世界遺産を「偶像的な遺産」と呼んだ。しかし、そうした遺産の登録が進んでいくと、「顕著な普遍的価値」を認めにくい物件や価値を裏支えするストーリーを理解しづらい物件が増えているとも言われる。 世界遺産の勧告や審議が厳格化する傾向にあるとしばしば言われるが、「登録のされにくさ」は審議の厳格化に由来する可能性だけでなく、上記のような質的な変化に由来する可能性も指摘されている。また、日本の世界遺産登録物件の審議も2010年代になると厳しい勧告が増えていると言われるが、世界遺産条約参加当初の物件の時点で、日本が推薦理由としていた評価基準がしばしば退けられたことを理由に、昔から十分に厳しかったという指摘もある。 ===危機遺産登録への抵抗=== 危機遺産リストは、世界遺産の本来の意義からするならば、中核的機能を担うべきリストであるが、十分に機能していないという指摘がある。もちろん、危機遺産リストに登録された場合に得られる国際的支援などを期待し、保有国自身が進んで危機遺産登録を申請する事例や、諮問機関からの勧告を保有国が受け入れて、異論なく危機遺産登録が実現する事例もある。前者の例としては、開発の進行を食い止めるために国際世論の後ろ盾を求めたロス・カティオス国立公園(コロンビア)がある。この例では、危機遺産リスト登録を契機として、地元住民ら関係者がまとまっただけでなく、隣国パナマとの関係強化にも結びつき、持ち上がっていた開発計画も撤回されたことで、無事に危機遺産リストから除外された(第39回世界遺産委員会)。この例は、危機遺産の効果的活用例の一つと認識されている。後者の例としては、諮問機関の勧告を受け入れて、世界遺産になると同時に危機遺産リストにも登録されたナンマトル:東ミクロネシアの祭祀センター(ミクロネシア連邦)がある。この例では、世界遺産委員会の席上、危機遺産リスト入りを前向きに受け止める保有国の姿勢への称賛が寄せられた。 その一方で、保有国が強く反対する事態がしばしば起こるのも事実である。例えば、パナマ・ビエホとパナマ歴史地区は、歴史地区を囲む海上道路の建設に対し、世界遺産リストからの除去すらも視野に入れて、第36回世界遺産委員会で危機遺産リスト登録が勧告された。しかし、保有国が委員国に強く働きかけて回ったことで、危機遺産リスト入りが回避された。工事が撤回困難な状況まで進む中、翌年の委員会でも危機遺産リスト入りが勧告されていたが、保有国は登録範囲を見直すことを約束して回避する一方、約束が果たされない場合には世界遺産リストからの抹消が検討される旨を記載した決議には同意し、登録抹消のリスクを負ってでも危機遺産リスト入りを回避する姿勢を鮮明にした。 カトマンズの渓谷(ネパール)は2003年から2007年に危機遺産に登録されていたが、これも保有国が強く反対した例の一つである。都市化を理由として、1992年には危機遺産入りの可能性が取り沙汰されていたが、ネパール当局が強く反対したため、危機遺産リストには加えず、世界遺産委員会、世界遺産センターが協力しつつ事態の改善に努めていた。しかし、限界があったため、2003年に危機遺産リストに登録され、一応の改善が果たされたことから2007年に除去された。とはいえ、それでもなお課題の抜本的解決にはならなかったと認識されていた。そして、同遺産は2015年のネパール地震で被災した際に再び危機遺産リスト入りを提案された。この地震で、カトマンズの渓谷は深刻な被害を被り、王宮も含めて全半壊した建物も少なくなかったため、国際的な支援が必要な状況と認識されたのである。しかし、ネパール当局はまたも危機遺産リスト登録には反対し、1年の猶予を申し出て、正式に認められた。1年後の第40回世界遺産委員会でも諮問機関は危機遺産リスト登録を勧告する状況だったが、ネパール当局は更に1年の猶予を申し出て、これも認められた。そして第41回世界遺産委員会では、震災復興の中での再建にOUVを損なうものがあるという諮問機関の指摘もあったが、猶予を求めるネパールの申請がまたも認められた。 本来、危機遺産登録には保有国自身の同意は必要ではないとされているが、保有国の意向を無視して強硬に登録することは、世界遺産委員会では普通行われない。かわりに、危機遺産登録の意義を説き、罰などではないことを強調しているが、「世界遺産」ブランドの国際的知名度の向上などを背景として、抵抗感を持つ国々の意識を変革するのは、容易なことではないと見られている。このような抵抗から、本来ならば危機遺産登録されるべき「かくれた危機遺産」が、今後も増加していくことを懸念する意見もある。 ===都市の開発=== 世界遺産の登録は、景観や環境の保全が義務付けられるため、周辺の開発との間で摩擦が生じることがある。特に、都市内の歴史地区や建造物については、その周囲に建てられた新しい高層建築などによって、景観が損なわれることで議論が起こることがある。例えば、ケルン大聖堂(ドイツ)は登録時点で緩衝地帯設定が条件となっていたにもかかわらず、それが果たされなかった。その中で近隣の高層建築計画が持ち上がったことから2004年に危機遺産リストに加えられ、一時は世界遺産リストからの除去すら検討された。この事例が注目された理由は、開発による景観の損壊が危機遺産登録理由になった、最初の事例だったからである。この事例では、建設推進派と反対派でケルンを二分する議論になったが、緩衝地帯設定や高さ規制が導入されたので、2006年に危機遺産リストから除かれた。しかし、ケルンの議論は、今後同種の問題があちこちの歴史都市で起こりうることを危惧させるものだった。 実際、それ以降も、規制や計画修正などの対応がとられた事例には、エスファハーンのイマーム広場(イラン)、ポツダムとベルリンの宮殿群と公園群(ドイツ)、フェルテ/ノイジードル湖の文化的景観(ハンガリー/オーストリア)などがあり、他にも第32回世界遺産委員会ではサンクトペテルブルク歴史地区と関連建造物群(ロシア)やシェーンブルン宮殿と庭園群 (オーストリア)、第41回世界遺産委員会ではシャフリサブス歴史地区(ウズベキスタン)や海商都市リヴァプール(イギリス)などでも開発が問題となった。他方で、上述のドレスデン・エルベ渓谷のように、橋梁の建設による景観の破壊を理由として、世界遺産リストから抹消された例もある。 他方、景観をどう捉えるかという問題は一義的に確定させられるとは限らず、月の港ボルドー(フランス)で歴史的な旋回橋が取り壊され、代替橋が計画された際には、ICOMOSと世界遺産センターによる影響評価が正反対になり、世界遺産委員会の決議でも強い決定には至らなかった。また、エッフェル塔(パリのセーヌ河岸の構成資産)が建設当初は酷評されたことを例に挙げ、特定の時点の都市景観で固定することに疑問を呈する専門家も複数いる。 こうした開発の問題では、緩衝地帯内さらには緩衝地帯の外の開発すら問題となることがあり、上述のロンドン塔の事例もそうである。こうした問題に対して、以下のように歴史的都市景観に関するいくつかの宣言や取り決めが行われている。 ===歴史的都市景観=== ウィーン歴史地区(オーストリア)では、2001年の世界遺産リスト登録直後に、緩衝地帯での高層ビル建築計画が明らかになった。世界遺産委員会では、世界遺産リストからの抹消すらも議題となったが、ウィーン当局による計画修正によって、危機遺産リスト入りすらもしなかった。 このウィーンでは、2005年に開催された国際会議で「世界遺産と現代建築に関するウィーン覚書」が採択され、これを踏まえて同年の世界遺産条約締約国会議では「歴史的都市景観の保護に関する宣言」が採択された。この宣言では、都市の成長のための開発には、歴史的都市景観の保護も尊重されるべきことや、世界遺産としての顕著な普遍的価値が何よりも保護されるべきものであることが謳われている。それ以外にも歴史的都市景観に関する議論や宣言は複数出されており、2011年のユネスコ総会では、それらを踏まえた勧告も出された。 ただし、その勧告も踏まえて、翌年さっそく「セビリアの大聖堂、アルカサル、インディアス古文書館」(スペイン)の危機遺産リスト入りが議論された際には、登録時点で問題ないとされていた保護体制が、後から策定された概念によって危機遺産とされることの是非が問題となり、危機遺産リスト入りは回避された。他方、ウィーン覚書が採択されたウィーン歴史地区は、その後の開発計画によって2017年に危機遺産リスト入りし、世界遺産リストからの抹消も取り沙汰される事態になっている。 ===観光地化=== 世界遺産に登録されることは、周辺地域の観光産業に多大な影響がある。もともと文化遺産に対する観光地化の弊害については、世界遺産以前から問題視する意見はあり、ICOMOSでは「国際文化観光(英語版)憲章」(1976年)を発表し、文化遺産の保護を訴えていた。しかし、世界遺産を観光振興に結び付けようとする姿勢は根強く、その弊害も表出している。 例えば、白川郷・五箇山の合掌造り集落では、登録後に観光客数が激増した。白川郷の場合、登録直前の数年間には毎年60万人台で推移していた観光客数が、21世紀初めの数年間は140‐150万人台で推移している。このような事態に対し、自治体、村民、専門家たちが対応し、交通規制などの策定も行われるようになっているが、土産物屋などの観光客向けの施設の増加そのものにも否定的な意見は見られる。 こうした傾向は日本に限った話ではなく、例えば、麗江古城(中国)もしばしば急速な観光地化の例として挙がる。麗江古城はナシ族の伝統的街並みが保存され、町に張り巡らされた水路も伝統的な習俗と結びついてきた。しかし、世界遺産登録(1997年)の前後で、観光客数は約70万人(1995年)から約370万人(2006年)へと急増したが、商業目当ての漢民族の流入などにより、ナシ族の住民は約16,900人(1997年)から約6,000人(2005年)へと減少した。さらに、水道の普及により、ナシ族住民にとっても古城を流れる水との結びつきが薄れる中、伝統文化への理解が足りない観光客たちの心無い行動も重なり、水質が著しく悪化した。こうした観光地化の流れには、近代的な建て替えが進みつつあった中で有形の建造物群を守ったという面と、伝統的な生活風景を失わせたという面が存在する。 このように、急速な観光地化が、その地域の本来の姿の保全にとって、マイナスに作用することが起こりうる。世界遺産は保全が目的であり、観光開発を促進する趣旨ではないため、世界遺産登録によって観光上の開発が制限されている地域もあり、マッコーリー島(オーストラリア)のように観光客の立ち入りが禁止されている物件もある。観光地化が進んだ世界遺産の場合、一部ないし全部で入場制限などの規制が敷かれるようになった場合もある。たとえば、一部に人数や時間の制限をかけたマチュ・ピチュの歴史保護区(ペルー)やラサのポタラ宮の歴史的遺跡群(中国)、ピサの斜塔をガイド付きツアーに限定したピサのドゥオモ広場(イタリア)などを挙げることができる。 また、沖ノ島(「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群の構成資産)は元々宗教上の理由で女人禁制であったが、世界遺産登録を機に、神職以外の入島を全面禁止するという形でさらに厳格化し、観光地化とは一線を画する姿勢を鮮明にした。 その一方で、貧困にあえぐ国などでは観光を活性化させることで雇用を創出することが、結果的に世界遺産を守ることに繋がる場合もある。こうした問題に関連して、2001年の世界遺産委員会では、地域住民の経済利益と遺産の保護とを両立させるために、「世界遺産を守る持続可能な観光計画」の作成が始まった。 ===政治問題化=== ====ロビー活動==== 世界遺産への注目度が上がるにつれて、世界遺産委員会の規模も膨れ上がっている。審議に直接参加するのは委員国と諮問機関だけだが、オブザーバー参加が多いのである。第32回世界遺産委員会の際には、開催国カナダが、会場に参加者を収容しきれない可能性を警告するに至った。 こうした注目の高まりの中、各国が自国の世界遺産登録を目指すロビー活動が盛んになっている。前述したように、諮問機関の勧告が覆され、逆転登録が相次ぐようになっているが、その背景にも、そうしたロビー活動の過熱がある。 ビューローが登録物件を実質的に決めていた時は、ビューローから世界遺産委員会までの約半年間がロビー活動の時期だった。ビューローでの登録審査が廃止された際には、世界遺産委員会での決定に一元化することで、ロビー活動を抑制できるのではないかとも期待された。しかし、実際には、諮問機関の勧告が出てから世界遺産委員会が開催されるまでの約6週間に、激しいロビー活動が展開されている。 専門家が不備を指摘した物件が次々と逆転登録を果たす状況に対し、第35回世界遺産委員会(2011年)では、かえって締約国に対する「毒入りの贈り物」になる可能性があるとする警告が、IUCNから発せられた。IUCNはそれ以前からも、リストの信頼性低下に対する懸念を表明していた。 また、翌年の世界遺産条約採択40周年記念最終会合では、元世界遺産センター長のベルント・フォン・ドロステからも、世界遺産制度が専門家中心から外交官中心となることへの懸念が表明されており、第41回世界遺産委員会(2017年)では議長を務めたヤツェク・プルフラ(ポーランド語版)が、議論が政治的であることを戒める場面が度々あったという。 ===民族・領土問題=== 世界遺産は保有国が推薦する形を取るため、帰属問題の解決していない物件の推薦は、当該国同士の争いを生むことがある。たとえば、タイとカンボジアの国境に位置するプレアヴィヒア寺院はタイ外相との合意を踏まえてカンボジアの世界遺産として登録されたが、それはタイ国民の反発を招き、タイとカンボジアの国境紛争を招くこととなった。 アラブ諸国とイスラエルの間でも度々問題が持ち上がる。イスラエルは「ダンの三連アーチ門」を推薦しており、諮問機関からは「顕著な普遍的価値」を認められているが、国境近い立地による法的問題から、たびたび審議が延期されており、登録が先送りされている。 逆に、登録されているものの、されるたびに問題となるのがパレスチナの世界遺産である。パレスチナは世界遺産登録と領土の承認を結び付けていることから、世界遺産条約締約以降、積極的に推薦を行っているが、3件連続で緊急推薦登録の手続きが採られ、いずれも投票で決着するなど、審議のたびに紛糾している。特に3件目にあたるヘブロン(アル=ハリール)旧市街の登録は、イスラエルとアメリカ合衆国の強い反発を招き、両国がユネスコを脱退することに繋がった。ただし、アメリカはパレスチナがユネスコに加盟した時点で、国内法に基づいて世界遺産基金への拠出を停止しており、ユネスコもアメリカの投票権を停止している。このため、ユネスコ脱退表明が新たな実害をもたらす可能性は低いが、世界遺産基金の5分の1以上を占めるアメリカの分担金拠出停止が長引く中で、世界遺産基金の財源不足は深刻なものとなっている。 民族間の摩擦は何も国際的なものだけでなく、一国内でも起こりうる。中華人民共和国の世界遺産では、雲南の三江併流保護地域群の保護に当たり、保護区内で伝統的農牧業を営んでいたチベット・ビルマ語派の少数民族たち500世帯が、強制的に移住させられた。また、2017年の青海可可西里の登録に当たっても、地域のチベット系住民への支配強化の大義名分となることを懸念する報道が見られた。 ===歴史認識=== 国ごとに認識の異なる論点に関わると、世界遺産の登録に際して問題が起こることもある。例えば、高句麗が中国史なのか朝鮮史なのかという高句麗論争を投影し、高句麗の古墳群の登録は2年越しで紛糾した。まず、2003年の世界遺産委員会で北朝鮮国内の遺跡が単独審議された際に、中国にも同種の遺跡があることが指摘され、翌年に審議が先送りされた。その際の委員国に中国が含まれており、東北工程を進めていた中国が、北朝鮮の先行を嫌ったことも一因と推測されている。そして、翌年の審議では、将来的に統一されることが望ましい旨の決議とともに、高句麗前期の都城と古墳(中国)と高句麗古墳群(北朝鮮)が別個に登録されることとなったのである。この件では、中国は高句麗文化を中華文化の一部とする主張を繰り返したが、韓国はそうした主張に強く反発し、北朝鮮の支援に回った。 ほかにも、原爆ドームの登録に当たっては中国が反対、アメリカが棄権したが、中国は、日本が被害者の側面ばかりを強調して政治利用することへの懸念を理由として挙げていた。このような微妙な案件であったことから、日本側の要請によって、6月のビューローでは登録の可否が示されず、委員会審議直前の臨時ビューローに持ち越されるという経緯をたどった。 また、明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業の登録の際には、明治時代に限定されるとする日本側の主張に対し、日本統治時代の朝鮮人徴用と関連付けた韓国側が納得せず、当時のユネスコ事務局長イリナ・ボコヴァに陳情しただけでなく、慣例的に禁じ手とされている勧告前の諮問機関へのロビー活動まで展開した。最終的には日韓の協議も踏まえて登録されたが、その審議では各国の祝辞が省かれるなど、異例の手続きがとられた。 ==世界遺産の教育== 世界遺産条約では、教育や広報の重要性が定められている。 第二十七条1. 締約国は、あらゆる適用な手段を用いて、特に教育並びに広報事業計画を通じて、自国民が第一条及び第二条に規定する文化遺産及び自然遺産を評価し及び尊重することを強化するよう努める。2. 締約国は、文化遺産及び自然遺産を脅かす危険並びにこの条約に従って実施される活動を広く公衆に周知させることを約束する。 ― 世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約 ユネスコも若年層の啓発に積極的で、1994年からは「若者のための世界遺産教育プロジェクト」を開始している。このプロジェクトの一環で、世界遺産ユースフォーラムが開催され(第1回は1995年ベルゲン、第2回は1998年大阪市ほか日本各地)、アジア・太平洋などの地域単位でのユースフォーラムも順次開催されている。 また、各種教育機関でも世界遺産は教育に取り入れられており、後述するように、高等教育機関では「世界遺産学」も提唱されている。さらに、生涯学習という観点から、世界遺産を主題とするテレビ番組などの意義も指摘されている。そうした番組としては、例えば日本では、『探検ロマン世界遺産』(NHK)、『世界遺産』(TBS)などが、また、ドイツでは『世界の宝(ドイツ語版)』などが放送されてきた。世界遺産を扱うテレビ番組は、広報面での効果についても評価されている。 ===世界遺産学=== 世界遺産を専門に研究する学問は「世界遺産学」と呼ばれる。例えば、秋道智彌(総合地球環境学研究所教授)は、「世界遺産のもつ意義、遺産の普遍性と特異性、多様性などを明らかにする研究」と定義付けている。これはあくまでも定義の一例だが、いずれにしても、世界遺産学は人文科学・社会科学・自然科学を融合させ、地球規模で考究する学問となることが期待される。 日本では、1979年に日本初の文化財学科を設立した奈良大学が、古都奈良の文化財の世界遺産登録(1998年)を踏まえ、文学部内に世界遺産コースを設立した。大学院としては、筑波大学大学院が2004年に修士課程の「世界遺産専攻」、2006年に博士課程の「世界文化遺産学専攻」を設置している。 ほかに、大学通信教育としてサイバー大学が世界遺産学部を設置し、特定非営利活動法人の世界遺産アカデミーによる世界遺産検定などとも連携していた。しかし、これは2010年秋学期以降、新規学生の募集が停止された。 日本以外に、アジアでは北京大学(中国)で1998年以降、世界遺産講座が開講されており、そのテキストは市販もされている。ヨーロッパでは、ブランデンブルク工科大学(ドイツ)、バーミンガム大学(イギリス)、ユニバーシティ・カレッジ・ダブリン(アイルランド)、トリノ大学(イタリア)などに世界遺産専攻コースが設置されており、ブランデンブルク工科大学のカリキュラムは2年間、他は1年間である(2015年時点)。ブランデンブルク工科大学は、他にヘルワン大学(英語版)(エジプト)と共同での修士課程も設置している。 ==ユネスコの他の遺産== ユネスコの世界遺産、無形文化遺産、世界の記憶(世界記憶遺産)は、あわせてユネスコの「三大遺産事業」、「ユネスコ三大文化遺産事業」などと呼ばれることがある。 ===無形文化遺産=== 世界遺産条約の草案には無形文化財への言及もあったとされるが、成立・発効した世界遺産条約は不動産のみを対象としている。このため、地域ごとに多様な形態で存在する文化を包括的に保護するためには、無形の文化遺産を保護することも認識されるようになり、2003年のユネスコ総会で無形文化遺産の保護に関する条約(無形文化遺産条約)が採択された。もともと国際的に見ても、無形文化財や民俗文化財を対象とする保護法制が整備されている例は珍しく、無形文化遺産条約の成立以前には日本と韓国くらいにしかなかったといわれる。わけても日本の法制は、韓国の文化財保護法の制定に当たっても、大きな影響を与えた。こうした経緯から、先住民との関係や、文化的景観で無形もカバーできるとして反対意見が強かった西欧諸国を説得し、無形文化遺産条約を成立に導く上では、日本の貢献は非常に大きかったとされている。 世界遺産と無形文化遺産は別個のものであり、事務局も別である(前者はユネスコ世界遺産センター、後者はユネスコ文化局無形遺産課)。ただし、無形文化遺産の中には、たとえば 無形文化遺産「イフガオ族のフドゥフドゥ詠歌」と世界遺産「フィリピン・コルディリェーラの棚田群」無形文化遺産「エルチェの神秘劇(英語版)」と世界遺産「エルチェの椰子園」(スペイン)無形文化遺産「ジャマ・エル・フナ広場の文化的空間」と世界遺産「マラケシュの旧市街」(モロッコ)無形文化遺産「宗廟祭礼祭」と世界遺産「宗廟」(大韓民国)のように、世界遺産リスト登録物件との間に密接な結びつきがあり、有形と無形の「複合遺産」と捉えられるものもあることが指摘されている。 無形文化遺産は、もともと世界遺産のマイナス面を踏まえたうえで制度設計されており、当初の主眼は滅びかねない無形文化の保護にあった。ゆえに、その範疇にはない「フランス料理の美食術」の登録(2010年)は、専門家にも根強い反対意見が残るものであって、それ以降は、文化ナショナリズムや商業主義との結びつきなど、方向性の変質も指摘されるようになっている。 ===世界の記憶=== 世界の記憶は、日本では世界記憶遺産などとも呼ばれるが、世界遺産や無形文化遺産とは異なり、国際条約が存在しない。ユネスコが1992年に開始した事業であり、情報・コミュニケーションセクター(世界遺産や無形文化遺産は文化セクター)が担当する。真正性と国際的な重要性を基準として、有形の動産(記録物)を登録している。 その中には、 世界遺産「海印寺大蔵経板殿」に保管される「高麗大蔵経板と諸経板」世界遺産「バンスカー・シュチャヴニツァ歴史地区と近隣の工業建築物群」を補完する「バンスカー・シュチャヴニツァ鉱山庁の設計図と鉱山地図」世界遺産「ワルシャワ歴史地区」の再建事業を伝える「ワルシャワ再建局の記録文書」世界遺産「プランタン=モレトゥスの家屋・工房・博物館複合体」に所蔵される「オフィシーナ・プランティニアーナの商業文書」などのように、世界遺産と関わりのある記録も含まれている。 「世界の記憶」の登録も注目度が上がるに従い、国家間で認識の異なる物件の登録をめぐって大きな議論を引き起こしてきた。世界遺産などとちがい、審査を行うのは事務局長が任命した専門家委員会であり、審議内容は非公開である。この制度は中国の申請による南京事件の登録時に日本で強い反発を引き起こし、それを受けてユネスコが「世界の記憶」登録に関する制度改正を検討することに繋がった。このとき、日本の一部ではユネスコ分担金の支払いを停止すべきという強硬意見も出ており、韓国などが進めた従軍慰安婦の登録が見送られた際(2017年)には、それらの国から関連性を疑われた(ユネスコは分担金関連の圧力を否定)。 =ヨハネの手紙三= 『ヨハネの手紙三』(ヨハネのてがみさん)は新約聖書の正典を構成する27文書の一つで、公同書簡に分類される3通のヨハネ書簡の最後のものである。ガイオという人物に宛てて、他のキリスト教徒を受け入れ、親切にすることを説いたこの書簡は15節しかなく、旧約・新約聖書の中でも短さの点で一、二を争う。1世紀後半から2世紀初め頃に成立したと考えられているが、その短さや教理的要素の少なさもあって、キリスト教文献での直接的言及は3世紀まで見られず、正典と広く承認されるまでに時間を要した。 定評あるギリシア語校訂版のネストレ・アーラント28版での題名は ΙΩΑΝΝΟΥ ΕΠΙΣΤΟΛΗ ΤΡΙΤΗ である。『ヨハネの手紙三』という呼称は新共同訳聖書によるもので、カール・ギュツラフによる最初の日本語訳『約翰下書』以来、様々な題名で呼ばれてきた。何らかの団体によって訳された聖書(およびそれと訳名が一致する個人訳)での名称としては、『ヨハネの第三の書』(大正改訳)、『ヨハネの第三の手紙』(口語訳、バルバロ訳、フランシスコ会訳、岩波委員会訳)、『ヨハンネスの手紙 III』(共同訳)、『ヨハネの手紙 第三』(新改訳、塚本虎二訳)、『イオアンの第三書』(日本正教会訳)などがある。以下では便宜上、第三ヨハネ書ないし第三書と略す。ほか2つのヨハネ書簡の略し方もこれに準ずる。 ==概要== 公同書簡は本来、公同の教会に宛てて書かれたことからその名があるが、第三ヨハネ書は著者自らが「長老」と名乗り、ガイオという個人に宛ててこの手紙を書いている。便宜上は公同書簡に分類されるとはいえ、本文からはこの手紙が完全に個人的な手紙であることが読み取れる。「長老」は、地域内の信徒の家で営まれた小規模な「家の教会(英語版)」を巡回して福音を説いていた「兄弟たち」の歓待や支援をしているガイオを賞賛し、彼に対し、ある「家の教会」を取り仕切って「兄弟たち」を拒絶しているディオトレフェスには従わず、引き続き善を行うようにと激励している。 初期のキリスト教文献はこの書簡についての言及を何も含んでおらず、3世紀半ばになってようやく言及された。その背景には、この書簡が非常に短いこと、使徒の著作であると承認されるのに時間を要したこと、その内容が個人的であることなどがあったと考えられている。 伝承上は使徒ヨハネの著作とされるが、現代では少なからぬ論者が疑問視している。とはいえ、第三ヨハネ書の言葉遣いは他のヨハネ書簡や『ヨハネによる福音書』と共通するものを含んでおり、若干の異説はあるが、1世紀末頃から2世紀初頭に他の2書簡とともに同じ人物、あるいは少なくとも同じ共同体に属する構成員(たち)によって作成されたと考えられている。執筆地は未詳であるが、伝統的にはエフェソと想定されている。この書簡は現存最古の部類に属する新約聖書の写本の多くに見出され、大きな異文などは存在しない。 神学的内容は希薄とされ、新約聖書の中で重視されてきたとは言いがたいが、信徒同士が親切にしあうことの大切さや尊大に振舞うことへの戒めが説かれていると見なされており、教会制度の過渡期の様子を伝えているという歴史的側面からの評価もなされている。 ==著者== ヨハネ書簡と呼ばれる3通の書簡は、実際には著者名が一切書かれておらず、第三書の本文でも、著者は単に「長老」とだけ名乗っている。この著者問題は、他の2通のヨハネ書簡および『ヨハネによる福音書』の著者との関連で議論されてきた。全ての書簡が同一人物によるのか、また違う場合にはどれが同一人物によるのかなどについて様々な議論があり、確定していない。 とはいえ、少なからぬ専門家が3つの書簡全てを同一人物の作品と見る説を採っている。伝承通り3通全てを使徒ヨハネに帰するローマ・カトリックのフェデリコ・バルバロやフランシスコ会聖書研究所、福音派の『新聖書辞典』や『新実用聖書注解』は当然その立場であり、使徒ヨハネを著者とする伝承を受け入れていない聖書学者にも、『総説新約聖書』でヨハネ書簡を担当した中村和夫、上智学院の『新カトリック大事典』などでヨハネ書簡を担当した小林稔などのようにこの立場を採る者たちがいる。アンカー・バイブルでヨハネ書簡を担当したレイモンド・E・ブラウンは、「多くの学者」 (many scholars) が3書簡全てを同一著者に帰することに否定的であると述べつつ 、自分は3書簡全てを同一著者に帰すると述べていた。しかし、後には「多くの学者」が3書簡を同一の著者の作品と見ていると述べた。 使徒ヨハネと見ることに批判的な学者からは、もしも第三ヨハネ書が使徒ヨハネによって書かれたのだとすれば、ディオトレフェスが彼に反抗したこと(後述)は奇妙であるとされている。というのは、使徒たちは初期キリスト教会にあっては高く尊敬されていたからである。これに対して福音派の『新聖書辞典』では、使徒ヨハネの著書とする観点から、まさにヨハネの使徒権を否定したものとして、ディオトレフェスの振舞いが「暴挙」と位置づけられている。同様に福音派の『新聖書注解』では、ディオトレフェスの異常さこそが問題であって、彼の振る舞いが使徒ヨハネの著作であることを否定する根拠にはならないと主張されている。 さて、ヒエラポリスのパピアス(英語版)によって140年頃に書かれ、エウセビオスによって引用された断片からは、書簡の著者に関して使徒ヨハネとは別の可能性が指摘されている。その断片で長老ヨハネという人物について言及されているからだが、この人物について知られていることはパピアスの乏しい言及以外には何もないので、第三書の著者とこの詳細不明の人物と結びつける根拠は何もない。それでもヒエロニムスがこの「長老ヨハネ」を第二・第三ヨハネ書の著者と位置づけていたことで、近代以降にもこの見方を採る者たちがいる。その延長線で、中村和夫、NTD新約聖書註解シリーズでヨハネ書簡を担当したヨハネス・シュナイダー らのように、3書簡すべてを長老ヨハネの作品とする者もいる。 3書簡を執筆したのは使徒ヨハネその人かもしれないし、長老ヨハネのような他の人物かもしれないが、チャールズ・ドッドは「もしも我々がこれらの書簡の匿名の著者を…いくらか知られている人物と結び付けようとするなら、ほとんどうまくいかないものと思われる」と述べていた。 第一ヨハネ書を別人の作とし、第二書と第三書のみ同一人物に帰する見解もある。前述のように、古くはヒエロニムスがこの見解を紹介していたが、現代日本では『新約聖書略解』でヨハネ書簡を担当した宮内彰、『新共同訳新約聖書略解』で同書簡を担当した土戸清などがこの立場である。第二書と第三書には多くの類似点がある。どちらも当時の他人宛の手紙の様式で書かれており、著者は「プレスビュテロス」とだけ名乗っており、直訳では「老人」(elderly man) を意味する。そして、どちらの書簡も歓待と教会内の対立のテーマを扱っている。それらは長さの点でもきわめて類似しているが、おそらくそれはどちらもパピルス1枚に収まるようにしたためたことによるのだろう。 第三書は言語的には第二書とも、他のヨハネ文書とも似通っている。使われている99種の単語のうち、21種類は「…と…」や冠詞など、さして重要でない単語であり、有意義なのは残る78語である。そのうち23語は第一書にもヨハネ福音書にも登場しないが、その23語中4語は第三書に固有のものであり、1語は第二書とだけ共通し、2語は第二書と共通するが、他の新約正典にも見られるものである。ゆえに第三書の有意な単語の約30%は第一書にもヨハネ福音書にも登場しないが、同じ数字は第二書の場合では20%になる。これらの考察が示すのは、第二書が第三書よりも第一書と強く結びついているものの、第二書と第三書の間にも十分に密接な結びつきを見出せるということである。 しかしながら、第二書と第三書が同一の著者によるという見解に異議を唱える研究者も少数ながら存在し、ルドルフ・ブルトマンは第三書を元に第二書が別人の手で書かれたと主張していた。日本では田川建三がこの立場で、第二書と第三書の著者は文体からギリシア語の素養の差が明瞭(第三書が上)であり、内容からこれらの著者が対立的な関係にあったと推測している。第二書と第三書を対立的に捉える見解は、フェミニスト神学の聖書注解書でヨハネ書簡を担当したマーガレット・D・ヒュタフも示している。 使徒ヨハネ一人に帰する場合は勿論だが、それ以外の著者(たち)を想定する場合にも、それらが同一の思想的集団から発していると推測されることが普通で、その集団は「ヨハネ学派」、「ヨハネの教会」、「ヨハネ教団」、「ヨハネ共同体」等と仮称されている(以下では便宜上「ヨハネ共同体」と表記)。 ==執筆年代== 3通のヨハネ書簡はいずれもほとんど同じ時期に書き上げられたと見なされている。その時期は若干の異説もあるものの、おおむね1世紀末から2世紀初頭と見積もられている。たとえば、福音派の『新聖書辞典』では80年代末から90年代初頭に作成されたという見解が有力説として挙げられている。福音派の『新聖書注解』でも90年頃とされており、同じく福音派の尾山令仁も90年から91年頃としている。ローマ・カトリックの側ではフランシスコ会訳聖書がヨハネ福音書よりも少し先に成立したと考え、90年よりも少し前の時期を想定している。 これに対して、同じカトリックでもフェデリコ・バルバロは、ヨハネ福音書やヨハネの黙示録(バルバロは90年から96年と想定)よりも後の成立であろうと見なしていた。また、岩波委員会訳聖書でヨハネ書簡を担当し、それらを使徒ヨハネの作とは見なしていない大貫隆の場合、ポリュカルポスの言及なども勘案して110年前後としている。この見解は小林稔も踏襲している。 ブラウンは現存するヨハネ福音書が原著者の版に最終編集者が手を加えて成立させたという立場を採っており、その原著者の版(90年頃)の10年ほど後、しかし、最終編集者の版(おそらく100年を過ぎた頃)が出る前に3書簡が書かれたと想定した。『ハーパー聖書注解』でも「100年頃とするのが大方の見解」とされている。 フランスのクセジュ叢書で新約聖書を担当したレジス・ビュルネ(フランス語版)は90年から110年の間とし、土戸清もほぼ同じ期間を想定している。 ==執筆地== ヨハネ書簡には執筆地を示すものは何もないが、それらの初期の引用者であるポリュカルポス、パピアス、エイレナイオスらの作品が小アジアで書かれたことを考えるなら、ヨハネ書簡も小アジアで書かれたのだろうという程度の推測は成り立つ。それに対し、教会の伝承では、ヨハネ書簡の執筆地は小アジアの中でもエフェソと限定されており、ローマ・カトリックのバルバロ、フランシスコ会聖書研究所、福音派の『新聖書辞典』、尾山令仁などはいずれもそれを堅持している。 ==内容== 第三ヨハネ書は公同書簡に含められているが、ガイオという個人に宛てた純粋な私信であり、様式の面からも当時の一般的な私信とほとんど変わらない。そのため、「公同書簡」を言葉通りに公同の教会に宛てられた書簡と位置づける場合、第三ヨハネ書はこれに該当しない。この点については、第一・第二ヨハネ書とひとまとめに編纂されたことによる例外という推測や、公同書簡を7通にし、特別な数「7」に揃えるための数合わせという推測などがある。 他方、叢書 New Testament Theologyでヨハネ書簡を担当したジュディス・リュウ(英語版)たちは、公同書簡の本来の意味ではなく、より緩やかな定義、すなわち「後に、教会全体の命と生存にとってなくてはならないものであることがわかった」という観点からならば、そう呼びうるとしている。 新約正典に収められた書簡には、実際に出された手紙だったかどうかに疑問のある事例も見られるが、第三ヨハネ書が実際に出された手紙であることは疑われていない。これは聖書信仰の立場を採る福音派はもとより、リベラル派の立場でもそうである。リベラル派が疑う余地のない私信と見なしているのは、この第三ヨハネ書と、パウロ書簡に含まれる『フィレモンへの手紙』のみだが、フィレモン書よりも教会の問題に直結していることが指摘されている。完全な私信といえる本書全体の主題は、「兄弟たち」を受け入れること、また彼らへの援助を行うことについてである。第二ヨハネ書および第三ヨハネ書については、そのいずれかが第一ヨハネ書を送る際の添え状だったと推測する説もある。 ===構成=== 新約正典の中で節が最も少ないのは第二ヨハネ書だが、単語数で見れば、第三ヨハネ書が新約正典中で最短である。ブラウンはネストレ・アーラント21版に基づく算定として、短い順に第三書を219語、第二書を245語、『フィレモンへの手紙』を355語、『ユダの手紙』を457語としている(文字数は第二書が1126字、第三書が1105字)。ティンデル聖書注解でヨハネ書簡を担当したジョン・ストット、「インタープリテーション」シリーズでヨハネ書簡を担当したD・M・スミス、大貫隆のように、第二書、第三書をともに聖書中で最短の書と位置づける者もいる。 翻訳聖書や注解書の場合、しばしば訳者や注解者によって小見出しをつけられ、段落分けがされることがあるが、第三書は短い手紙なので、岩波委員会訳聖書、英語訳の改訂標準訳聖書 (RSV) ・新アメリカ聖書 (NAB)、仏語訳の La TOB (フランスの共同訳聖書)のように段落分けをしていない翻訳聖書もしばしばである。ここでは小見出しを付けているいくつかの例として、新共同訳聖書、バルバロ訳聖書、新改訳聖書第3版、英語訳の新改訂標準訳聖書(英語版)(NRSV)、仏語訳のエルサレム聖書を挙げておく(固有名詞の表記は出典どおり。最後の2つは以下の表では仮訳をつけている)。 ===要約=== 第三ヨハネ書の内容を要約すると以下の通りである。 この書簡はガイオという人物に向けて書かれた。「長老」はガイオに対し、旅する「兄弟たち」の集団への忠誠や歓待を褒める。「長老」はガイオに「兄弟たち」が旅を続けられるように支援することを求めた。 次に「長老」は、ディオトレフェスとの確執について叙述する。この人物は「長老」の権威を認めず、ガイオと違い、「長老」によって派遣された「兄弟たち」を歓迎しない。「長老」は、教会に向けて以前書き送った手紙が、ディオトレフェスによって握りつぶされたことに言及する。そして「長老」は、教会に赴いてディオトレフェスと対決するつもりであると語る。もっとも、この対立が何に起因するのかは直接的には語られていない。 その後、「長老」はデメトリオという人物に言及する。彼がどのような人物なのかは詳述されていないが、おそらくこの手紙で先に論じられていた宣教師集団の構成員で、第三ヨハネ書はガイオに対するデメトリオの紹介状だったとしばしば考えられている(異説については後述)。 「長老」は手紙を締めくくるのに先立ち、ガイオに向けて、他に語るべき多くのことがあり、近いうちに彼に会いに行くつもりであることを、第二ヨハネ書12節とほぼ同じ言葉遣いで述べている。締めくくりの言葉は当時の書簡に典型的な挨拶であり、ユダヤ教徒からキリスト教徒へと受け入れられた「平安が、あなたにあるように」という言葉が添えられている。 ===注解=== 第三書はヨハネ共同体の個人名に言及されている例外的な書簡である。しかし、短い手紙であり、その正確な背景は明らかではない。その分、個々の論点に関する推測は多様であり、以下での注解にしても全ての説を網羅できるものではないが、主として複数の専門家の手になる聖書注解書(単著あるいは叢書)のヨハネ書簡担当者の見解を中心にまとめている。 便宜上、日本語訳聖書のうち、比較的細かく分けられている新改訳聖書・フランシスコ会訳聖書の段落分けに従う。なお、以下での第三ヨハネ書および他の新約正典からの引用は個別に注記がない限り、著作権保護期間が切れている口語訳聖書(Wikisourceのページ)に依拠する。ただし、注解中での固有名詞表記は原則として新共同訳聖書に準拠する。 ===1節から4節=== 1 長老のわたしから、真実に愛している親愛なるガイオへ。2 愛する者よ。あなたのたましいがいつも恵まれていると同じく、あなたがすべてのことに恵まれ、またすこやかであるようにと、わたしは祈っている。3 兄弟たちがきて、あなたが真理に生きていることを、あかししてくれたので、ひじょうに喜んでいる。事実、あなたは真理のうちを歩いているのである。4 わたしの子供たちが真理のうちを歩いていることを聞く以上に、大きい喜びはない。 ― 第三ヨハネ書 1‐4節 1節で差出人と宛先が記載されている。この書き出しは第二ヨハネ書の書き出しと酷似しているが、祝福(祝*12*)を欠き、新約正典に収められた書簡の中で最も短いものである。これについて、当時の世俗的な手紙と比べれば珍しいものではないとするブラウンのような見解と、そうした手紙と比べてさえも短いとするシュナイダーのような見解がある。 第二書と第三書の差出人はともに「長老」と名乗っている。口語訳や新共同訳では「長老のわたし」と言葉が補われているが、「わたし」に対応する言葉は原文にない。福音派では、これもまた使徒ヨハネの書いた根拠の一つと見なされる。というのは、名前も示さずに単に「長老」と書いただけでその人物と権威を伝えられるような人物として、使徒ヨハネはいかにもふさわしいからである。使徒が長老と名乗る例は『ペトロの手紙一』にあり、これが傍証とされる。また、単に長老と名乗ったのは、使徒と名乗るよりも信徒との親密さを示すことになるからだという。 他方で、伝承を支持しない論者たちは、ここでの「長老」を名前の分からない人物としている。たとえば、編集史研究の開拓者の一人であるヴィリー・マルクスセン(ドイツ語版)は、「長老」が使徒ヨハネである可能性をはっきりと否定しつつ、「ヨハネ共同体」の一員によるものだろうとした。前述の#著者節も参照のこと。 この「長老」がどのような呼称なのかにも議論がある。ブルトマンは、この「長老」は職制名ではないだろうとしている。大貫隆も「家の教会」(後出の6節注解を参照)を統括する立場の精神的指導者であったろうと推測している。 宛名とされているガイオの詳細は不明である。ガイオの名は新約正典では他に3文書4か所に見られる。まずは『使徒言行録』19章29節で、アリスタルコとともにパウロの伝道旅行の途上で言及されている、キリスト教徒のガイオである。それに続く20章4節でも、パウロをトロアスで待っていた7人の同道者の1人として、「デルベのガイオ」の名がある。次に『コリントの信徒への手紙一』1章14節で言及されているガイオがいる。彼はコリントに住み、パウロから直接洗礼を受けた数少ない人物とされている。最後が『ローマの信徒への手紙』16章23節に登場するガイオで、パウロとその執筆地の教会全体が世話になっている人物として言及されている。しかし、ガイオは当時非常にありふれた名前であり、第三ヨハネ書に登場するガイオを、そのいずれかのガイオと同一視すべき根拠は何もないのである。中にはそれら他の登場箇所のガイオとは別人であると断言している文献もある。 ただし、少なくともガイオは富裕な人物だったようである。というのは、「長老」は、彼に何人かの「兄弟たち」を短期間歓待させることを不当な負担とは考えていなかったからである。 『使徒教憲(英語版)』(4世紀後半にシリアで成立) はガイオがペルガモンの司教になったと記録しているが、この記述を裏付けられる初期の史料は何もなく、真偽は定かではない。 2節では身体的な健康についても祈りが捧げられている。これは『新約聖書』の祈りの中でも他に例がなく、ガイオが健康を害していた可能性を指摘する者たちもいる。土戸清は、ここで「健康である」ことを意味する単語の新約聖書における登場箇所(ここ以外に11か所)のうち、教義や言葉の健全性を示す意味で使われているのは牧会書簡に集中しており(8か所)、残る登場箇所(『ルカによる福音書』3回)がいずれも身体的な健康の意味であることを、ガイオが病気だったとする推測に結びつく根拠として挙げている。 他方で、ブラウンらは健康云々をよくある言い回しとし、そこから病気だったといった推論は導くことに対して否定的見解を示している。ルドルフ・ブルトマンらも健康云々を常套句としつつ、「あなたのたましいがいつも恵まれていると同じく」という言葉の追加によって、身体的健康にとどまらない内面的な意味を包含する方向に挨拶の意味を変質させていると指摘した。 3節では、ガイオについて好意的な報告を受けていることに触れているが、ここを含めて「長老」がガイオとの直接的交流について明言している箇所はない。ブラウンは「長老」とガイオに面識はなかったのではないかと推測している。 それに対し、4節でガイオを「わたしの子供たち」に含めているらしいことから、ガイオを改宗させたのは「長老」だったのではないかと推測する説がある。ただし、この場合の「子供たち」は自分が改宗させたキリスト者のみに限定されていないとして、長老が改宗させたことに慎重な見方をするヨハネス・シュナイダーのような者もいる。 なお、4節は福音派の『エッセンシャル聖書辞典』では第三ヨハネ書の主題と位置づけられている。 ===5節から8節=== 5 愛する者よ。あなたが、兄弟たち、しかも旅先にある者につくしていることは、みな真実なわざである。6 彼らは、諸教会で、あなたの愛についてあかしをした。それらの人々を、神のみこころにかなうように送り出してくれたら、それは願わしいことである。7 彼らは、御名のために旅立った者であって、異邦人からは何も受けていない。8 それだから、わたしたちは、真理のための同労者となるように、こういう人々を助けねばならない。 ― 第三ヨハネ書 5‐8節 福音派のスタディ・バイブル(英語版)の一つである『BIBLE navi』では、5節が第三ヨハネ書の「中心聖句」とされている。 3節でも言及されていた「兄弟たち」が、5節から8節で詳しく述べられている。この「兄弟たち」は信仰上または伝道上の兄弟たちで、彼らは『マルコによる福音書』6章8節から9節のイエスの命じるところに従って、一切の資金を持たない旅に出ていた。 また旅のために、つえ一本のほかには何も持たないように、パンも、袋も、帯の中に銭も持たず、ただわらじをはくだけで、下着も二枚は着ないように命じられた。 ― マルコによる福音書 6章8‐9節 ここでいう「異邦人」は異教徒あるいは不信心者を指している。巡回伝道者は金目当てに伝道しているのではないと示すためにも異教徒たちから何も受け取るわけにはいかず、キリスト者の援助を必要としていた。ゆえに6節に言う「送り出す」には、経済的援助が含まれる。こうした巡回伝道者の様子は、使徒教父文書に含まれる『十二使徒の教訓』11、12章などでも扱われている。 主の名において来るものは皆、うけ入れなさい。(略)来た人が旅の途上にある人ならば、できる限りの援助をしなさい。しかしその人は、必要がある場合にも、二、三日以上あなたがたのところにとどまるべきではない。(略)もし彼がそのように行動することを望まないならば、その人はキリストで商売をする人である。このような人たちに注意しなさい。 ― 『十二使徒の教訓』12章、佐竹明訳 『十二使徒の教訓』における描写は、巡回伝道者から地域ごとの監督者へと教会の主導権が移りつつある時期と推測されており、第三ヨハネ書に描かれた対立も類似する過渡期を背景としている可能性がある。 なお、6節で「教会」(エクレーシア)への言及があるが、ヨハネ文書(ヨハネの黙示録を除く)で出てくる「教会」全3か所はいずれもこの書簡に含まれる。この「エクレーシア」は本来的には集会一般を指す語であり、この場合は冠詞がないので集会の意味で用いられていると見る者もいる。いずれにしても当時の「教会」は現在のような壮麗な建造物を備えたものではなく、共同体内の特定人物の家に開かれた「家の教会」を小単位とする地域的なまとまりであった。なお、第三ヨハネ書に女性の存在は明示されていないが、フェミニスト神学では他の書簡などからの類推によって、「家の教会」での歓待において女性が大きな役割を果たしたであろうことが指摘されている。 7節に登場する「御名」はイエスの御名、主の御名などと理解され、「御名のために」を「キリストのために」と釈義している文献もある。 8節では、巡回伝道者を助けることで、「真理のための同労者」になれることを示している。 ===9節から10節=== 9 わたしは少しばかり教会に書きおくっておいたが、みんなのかしらになりたがっているデオテレペスが、わたしたちを受けいれてくれない。10 だから、わたしがそちらへ行った時、彼のしわざを指摘しようと思う。彼は口ぎたなくわたしたちをののしり、そればかりか、兄弟たちを受けいれようともせず、受けいれようとする人たちを妨げて、教会から追い出している。 ― 第三ヨハネ書 9‐10節 長老と対立するディオトレフェス(デオテレペス)についてのくだりである。ここで言及される「教会」は、ガイオには既知のものだったようだが、彼はその構成員ではなかったらしい。そうでなければ、「長老」が彼にディオトレフェスの情報を教える必要がなかったはずだからである。また、ガイオが追放の対象になっていないらしいことから、ガイオは近隣の教会の人物と推測される。なお、その説の中では、ガイオをディオトレフェスと同格の「家の教会」の指導者と見なす者もいるが、その説に立つ場合、なぜ「長老」はディオトレフェスに送った(が、受け入れられなかった)手紙をガイオには送っていないのか(送っていたなら、書き送った事実の説明は必要ない)という点が問題となる。 ディオトレフェスは「みんなのかしらになりたがっている」とされる。この原語は「第一」と「好む」の合成語で、「一番上(頭・指導者)になることを好む(なりたがる)」ことを意味する。新約聖書でここにしか出てこないが、こういう姿勢は『マルコによる福音書』9章35節に反するものである。 そこで、イエスはすわって十二弟子を呼び、そして言われた、「だれでも一ばん先になろうと思うならば、一ばんあとになり、みんなに仕える者とならねばならない」 ― マルコによる福音書 9章35節 そのほか、ディオトレフェスの問題点は4点に整理されている。すなわち 彼が「口ぎたなくわたしたちをののし」ること。「わたしたちを受けいれてくれ」ず、「兄弟たちを受けいれようとも」しないこと。「受けいれようとする人たちを妨げて」いること。「受けいれようとする人たちを」「教会から追い出している」こと。「長老」とディオトレフェスの対立の原因は書簡中に明示されておらず、不明とする論者もいるが、論争は教理よりも教会内の主導権争いなどに根ざしていたようである。なぜなら、「長老」はディオトレフェスを批判しつつも、異端を説いたという非難はしていないからである。第一書、第二書では仮現論的な思想が異端として攻撃されていたが、ディオトレフェスがそうした思想をとっていたかどうかを本文から読み取るのは困難である。ブラウンは、描写されている振舞いは異端的とはいえないとしている。 また、ブラウンは、ディオトレフェスの側から対立を再構成している。ヨハネ共同体はグノーシス主義と近い側面を持っていたことから、正統派と異端寄りとの分裂があったことが、しばしば推測されている。それを踏まえると、長老と異端寄りの双方が巡回伝道者を派遣していたならば、各戸の「家の教会」にとっては、訪れた巡回伝道者がどちらの側なのかは実際に説教させるまで分からないはずである。ゆえにディオトレフェスは、余計な混乱を自分の「家の教会」に持ち込ませないようにするために一律に追い出したのではないかというのである。『ハーパー聖書注解』も同じ立場を採っており、小林稔もブラウンの説を紹介している。 エルンスト・ケーゼマンはディオトレフェスが正統であり、逆に「長老」は彼によって破門された人物であるという仮説を提示した。彼によると、「長老」はもともとディオトレフェスの教会において、職制としての長老の地位にあったが、異端と見なされてディオトレフェスから破門され、それを認めずに「長老」の称号を堅持している人物なのだという。しかし、この仮説はマルクスセン、ブルトマン、スミスなどからは空想的に過ぎるとして批判されている。 このほか、第三ヨハネ書の描く「愛」に批判的な聖書学者の上村静は、第二書で「この教を持たずにあなたがたのところに来る者があれば、その人を家に入れることも、あいさつすることもしてはいけない」(10節)と批判していた「長老」が、いざ自分の側が締め出されてしまったことから、自分を受け入れる者を「愛」「善」といった言葉で誉めそやすという狭量な行為に及んでいると解釈した。ゲルト・タイセン(英語版)も第二書での「愛」の扱いに宗教裁判に繋がる要素が含まれていることを指摘しつつ、そこで他人に向けてやるように命じていたことを自分がされてしまったことについて「当然の償い」と位置づけていた。逆に第二書と第三書の著者を別人と見る田川建三は、第二書で家に入れるな、挨拶するなと主張していた「長老」こそがディオトレフェスであり、第三書の著者である「長老」はそうした狭量な態度を批判し、皆で仲良くすべきことを説いていると解釈した。実際のところ、第二書と第三書の姿勢は矛盾しているようにも見えるが、この点について擁護するジョン・ストットは、誤った教えを持ち込む者に対する厳しさと、正しい教えを伝える者に対する義務という、歓待のあるべき姿勢を相互補完的に示したものと捉えていた。 なお、「長老」の「少しばかり教会に書き送った」手紙について、ほとんどの学者は、第三ヨハネ書が第二ヨハネ書で叙述された教説上の議論への引照を何ら含んでいないため、第二書のこととは捉えずに、勧告を記した先行する別の手紙に触れているのだと考えている。ただし、ジョン・ペインター(英語版)のように、第二ヨハネ書9節と第三ヨハネ書のもてなしのテーマが重なり合うことから、実際に第二ヨハネ書に言及していると主張する者もいないわけではない。 その書簡を握りつぶされた長老は、10節でディオトレフェスへの対決姿勢を示しているが、対抗手段が直接出向いて対決する以外に残されていなかった点でディオトレフェスの妨害行為は成功していたと、ジュディス・リュウは見なしている。他方、ここで破門などをちらつかせていないことについて、マルクスセンはむしろ「長老」が絆の断絶までには踏み切るつもりがなかった証拠であろうと解釈した。 ===11節から12節=== 11 愛する者よ。悪にならわないで、善にならいなさい。善を行う者は神から出た者であり、悪を行う者は神を見たことのない者である。12 デメテリオについては、あらゆる人も、また真理そのものも、証明している。わたしたちも証明している。そして、あなたが知っているとおり、わたしたちの証明は真実である。 ― 第三ヨハネ書 11‐12節 「長老」は11節でガイオへ善と悪とを対比して勧告している。この指図は、第一ヨハネ書のいくつかの節を思わせるものとされている。論者によって挙げられている箇所は少々異なるが、参考例として第一書4章7節から8節を引用しておく。 7愛する者たちよ。わたしたちは互に愛し合おうではないか。愛は、神から出たものなのである。すべて愛する者は、神から生れた者であって、神を知っている。8愛さない者は、神を知らない。神は愛である。 ― 第一ヨハネ書 4章7‐8節 11節前半の「悪にならわないで、善にならいなさい」はヨハネ文書以外からの格言などの引用の可能性とヨハネ共同体の伝統に則っている可能性の双方が指摘されているが、いずれにしてもこの文脈での「悪」は、一般論ではなくディオトレフェスのやり方を指している。 12節ではデメトリオ(デメテリオ)に唐突に言及されている。この人物については、第三ヨハネ書をガイオの許に持参した人物と推測されることがしばしばである。『コリントの信徒への手紙二』3章1節、『ローマの信徒への手紙』16章1‐2節、『コロサイの信徒への手紙』4章7‐8節などに明らかなように、初代教会においてこのような紹介状はごく普通のことだった。ただし、デメトリオを手紙の持参者とする説については、『新実用聖書注解』でヨハネ書簡を担当した村上宣道のように、あくまでも推測として慎重な見方を示す者もいる。同様にデメトリオへの言及の理由を不明としている論者には、シュナイダー、中村和夫、岩隈直などがいる。 いずれにしても、「長老」はここでデメトリオについて証している。ここでの「真理そのもの」はしばしばイエス・キリストの隠喩と考えられている。改革派教会牧師の田中剛二は「真理そのもの」が証しているというのは、信仰の告白を行うだけでなく、それが日々の実践と結びついており、デメトリオの振舞いを見れば立派なキリスト者であることが分かるということとした(同様の見解は『新聖書注解』にも見出せる)。田中は、そうした点をパウロ書簡に見られる、自分の行動が推薦状であるとする考え方と結び付けている。 その「真理そのもの」に「あらゆる人」「わたしたち」を加えた三重の証によって、「長老」はデメトリオが信頼できる人物であることを示している。「証する」はヨハネ福音書や第一書では重要な概念のひとつであり、ここでの三重の証言の重さを指摘する者もいる。また、このようにあえて三重の証を与えていることから、ガイオがデメトリオを知らなかったと推定されている。 なお、デメトリオは 『使徒教憲』によると、ヨハネによってフィラデルフィア(現アンマン)の司教に任じられたとされている。しかし、この伝聞は必ずしも信頼性が高い情報とは見なされていない。また、『使徒言行録』においてパウロを激しく批判した銀細工職人のデメトリオと同一視し、彼が回心したという可能性を指摘する者もいるが、その説を紹介した田中剛二は、事実ならば興味深いとしつつも、全くの憶測に過ぎないと指摘している。 ===13節から15節=== 13 あなたに書きおくりたいことはたくさんあるが、墨と筆とで書くことはすまい。14 すぐにでもあなたに会って、直接はなし合いたいものである。15 平安が、あなたにあるように。友人たちから、あなたによろしく。友人たちひとりびとりに、よろしく。 ― 第三ヨハネ書 13‐15節 13・14節は第二ヨハネ書12節に類似する。 あなたがたに書きおくることはたくさんあるが、紙と墨とで書くことはすまい。むしろ、あなたがたのところに行き、直接はなし合って、共に喜びに満ちあふれたいものである ― 第二ヨハネ書12節 「筆と墨」も「紙と墨」も、細かい表現の違いはあれどもどちらも手紙を書くことを表現している。筆(ペン)として原語で使われているのは葦を意味する語であり、古代においては筆記具として使われた。墨(インク)として原語で使われているのは「黒い」という形容詞の中性形で、古代のインクには、煤に樹脂をもとにした液体を混ぜたものが使われていたことによる。 宮内彰は「すぐにでも」という表現について、事態が差し迫っていたことの表れではないかとした。また、バルバロは、直接会えることに対する喜びが表明されていないことは、ここまでに述べた悲観的な情勢を反映していると見なした。他方でブラウンは、これらの節のような定型的な表現から特定性の高い情報を汲み取ろうとすることに慎重な姿勢を示している。 15節の「あなた方に平安があるように」は当時のユダヤ人の挨拶で、ヘブライ語法の投影も指摘されている。これはキリスト教徒たちも使ったが、キリスト教徒同士の場合は独特の含意がこめられる。新約聖書中でも『ガラテヤの信徒への手紙』6章16節、『ペトロの手紙一』5章14節などにも類似の挨拶は見出される。また、『ヨハネによる福音書』20章19節、21節、26節にも類似の挨拶が使われており、それらの登場箇所ではイエスの発言にこの挨拶が含まれている。 挨拶における「友人たち」という表現は新約聖書にはそれほど見られない。ジョン・ウェスレーは「兄弟たち」のほうが親しみの度合いが強く、そちらの表現に飲み込まれていったとした。他方、ジョン・ストットはここでいう「友人たち」が「兄弟たち」に比べて親密さの度合いが劣っていると見るべきではないと注記した。福音派の『新聖書注解』でも区別の必要性は認められていない。 ==正典化== 第三ヨハネ書は純粋に個人宛の手紙ではあったが、新約聖書の正典に収録され、現在に伝えられている。第三書のような簡略で個人的な手紙が今に伝えられていることについては、そこに神意を見出そうとするヘンリー・H・ハーレイ(英語版)のような聖職者もいた。レイモンド・ブラウンは一つの可能性として、「長老」がディオトレフェスに拒絶された代わりに、ガイオに新たな「家の教会」を開かせたのではないかとしている。つまり、そのガイオの「家の教会」においては、この手紙は重要な価値を持っていたはずであり、それゆえに伝承されたのではないかというのである。 いずれにせよ、すでに「執筆年代」の節で述べたことと重なるが、ヨハネ書簡のうちで最も早くに言及されたのは第一書で、ポリュカルポスによる言及は一連のヨハネ書簡の推定成立年代の下限としても利用されている。それに対し、第三ヨハネ書への言及はそれからも長い間見られない。たとえば、エイレナイオスはその『異端駁論(英語版)』(180年頃)において、第一書と第二書から引用しているが、第一書と第二書を区別していないし、第三書は引用していない。また、いわゆる『ムラトリ正典目録』(2世紀末から3世紀初頭)では、ヨハネ書簡は「2通」とされている。(ただしこれはヨハネ書簡に二回言及してるうちの二回目で「2通」と述べているので、併せて3通であるという解釈もある。) 具体的にどの書簡かは明言されておらず、これを第三書への初期の言及と見なすバルバロのような論者もいなかったわけではないが、一般には第一書と第二書を指し、第三書は言及されていないものと受け止められている。 第三書が3世紀以前に引用されていたことは確認されていない。西方系では3世紀に入っても、ノウァティアヌス、キプリアヌスらは第三書に言及していない。他方、東方系ではオリゲネス、エウセビオスらが真作あるいは公認書として第一書に言及する一方、「疑わしい書」として第二書・第三書に言及している。 第三ヨハネ書を含む現在の27文書が新約正典とされたのは、アレクサンドリアのアタナシオスの『第三十九復活祭書簡』(367年)が最初とされている。この決定はヒッポ会議(393年)、カルタゴ会議(397年)などで追認された。第三書の短さは、その言及が他の正典文書よりも遅れたことを説明する一因である。つまり、初期のキリスト教著述家たちには、単にそこから引用する理由がなかったというだけかもしれないのである。言及の遅れに関しては、他にも私信という側面の強さや使徒の著作であるとなかなか承認されなかったことなどの影響が挙げられている。 いずれにせよ、現存する最古の部類に属するギリシア語のいわゆる「大文字写本」の中でも、一部破損の見られる写本で断片しか残されていないものの、シナイ写本、アレクサンドリア写本、バチカン写本はヨハネ書簡を3通全て収録している。写本は様々だが、それらの間に有意な異文は存在せず、本来の原文を確定させる上での困難はほとんどない。 他方、シリアの教会では第三書の承認が遅れ、5世紀以降になった。5世紀初頭に新約部分が成立したシリア語訳聖書(ペシタ訳)には、ヨハネ書簡は第一書しか含まれていない。それに対し、508年に成立したシリア語訳、フィロクセノス訳(英語版)には3書簡全てが含まれ、616年の改訂版(ハルケル訳(英語版))でも踏襲された。 中世ヨーロッパにおいては、正典として受容された後も、第一ヨハネ書に比べ、第二書・第三書は低い評価が与えられることがあった。宗教改革期には、マルティン・ルターが新約聖書の文書を3つに分類し、第一書に『ローマの信徒への手紙』などとともに最高の評価を与えたのに対し、第二書・第三書はそれより劣る評価になった。ジャン・カルヴァンは公同書簡の注解では、第二書と第三書を割愛した。これは当時の慣例に従ったものとされている。 ==意義== 現代においても、第三ヨハネ書を積極的に評価する意見ばかりではない。岩波新書で聖書の入門書をものした小塩力は、第二・第三ヨハネ書などについて「信仰思想的な価値は、少しく落ちると見るべき」という理由で内容紹介を割愛した。また、第二・第三ヨハネ書を主題とする研究をまとめたジュディス・リュウは、大学院生時代にそれらを主題としていることを述べると、しばしば何故なのかと驚かれたものだと述懐した。 他方、文章に明記されていることから教訓を導くとすれば、「信者たちは互いに親切にし合うべき」ことを説いた可能性が指摘されている。また、ディオトレフェスの尊大な振舞いや利己心から、自らの内面への戒めを読み取ることの大事さを説く者や教会からそのような者が現れて分裂を引き起こさないように絶えず気をつけるべきことを説く者もおり、福音派の『新聖書辞典』では、教会に対するいつの時代にも普遍的な警告を発している書とされている。 ただし、第三ヨハネ書はそこに反映されている神学を議論するには短すぎるものであり、ジュディス・リュウは「教理的な内容を欠いている」と位置づけた。新約正典中で「イエス」も「キリスト」も直接的に出てこないのは本書が唯一である。それでも、短い中に「真理」が頻出することなどを、他のヨハネ文書の神学とも共通する点と見なす者たちはいる。ほか、「愛」を引き合いに出すことも共通点として挙げられる。 別の角度からの評価もなされている。日本でも1930年代には、神学的にはあまり価値がないが、それよりも歴史的にその意義の大きさが認められるようになっているという位置付けが見られた。つまり、巡回伝道者の影響が大きかった時期から、地域ごとの教会に定着した監督者の影響力が強くなっていく時期の過渡的な様子を伝えているということである。キリスト新聞社の『新共同訳聖書辞典』(1995年)も、第三書の価値を2世紀初頭小アジアの教会の状況を伝えていることに見出しており、小林稔も第三書に教会制度の過渡期における葛藤あるいは緊張を見出している。 ジュディス・リュウは、現代では初代教会の発展史の観点から第二・第三ヨハネ書の「復権」が果たされているとした。そして、その発展史の解明は同時に、同じ共同体から発したと考えられるヨハネ福音書や第一ヨハネ書の神学思想の理解を深めることにも寄与するものと位置づけている。 =市川雷蔵 (8代目)= 八代目 市川 雷蔵(はちだいめ いちかわ らいぞう、1931年(昭和6年)8月29日 ‐ 1969年(昭和44年)7月17日)は、歌舞伎役者・日本の俳優。出生名は亀崎 章雄(かめざき あきお)。後に本名を竹内 嘉男(たけうち よしお)、さらに太田 吉哉(おおた よしや)に改名した。身長170cm。 ==概要== 生後6か月のときに三代目市川九團次の養子となり、15歳のとき市川莚蔵を名乗って歌舞伎役者として初舞台を踏む。1951年(昭和26年)に三代目市川壽海の養子となり八代目市川雷蔵を襲名。1954年(昭和29年)に映画俳優に転身。1959年(昭和34年)の映画『炎上』での演技が評価され、キネマ旬報主演男優賞受賞、ブルーリボン賞主演男優賞などを受賞。1960年代には勝新太郎とともに大映の二枚看板(カツライス)として活躍した。ファンから「雷(らい)さま」と親しまれた。1968年(昭和43年)6月に直腸癌を患っていることがわかり、手術を受けるが肝臓に転移、翌年7月17日に死去した。 ==生涯== ===誕生・三代目市川九團次の養子となる(1931年8月 ‐ 1933年)=== 市川雷蔵は1931年(昭和6年)8月29日、京都府京都市中京区西木屋町神屋町で誕生した。出生時の名は亀崎 章雄といった。生後6か月の時に伯父で歌舞伎役者の三代目市川九團次の養子となり、本名を竹内 嘉男と改名した。 映画評論家の田山力哉によると、雷蔵が養子に出された経緯は次のとおりである。雷蔵の父は母が雷蔵を妊娠中に陸軍幹部候補生として奈良に移り、母は父の生家に留まった。しかし母は父の親族のいじめに遭い、母は父に助けを求めたが無視されたため、たまりかねて実家に戻って雷蔵を出産。その時までに両親の仲は決裂しており、母は1人で雷蔵を育てるつもりだったが、間もなく父の義兄にあたる三代目九團次が雷蔵を養子として引き取ると申し出た。母ははじめこの申し出を断ったが最終的に同意、雷蔵は九團次の養子となった。雷蔵自身が九團次の養子であることを知ったのは16歳の時、実母との対面を果たしたのは30歳を過ぎてからのことだった。 ===歌舞伎役者となる(1934年 ‐ 1949年5月)=== 三代目九團次の養子となってからおよそ2年が過ぎた1934年、雷蔵は京都から大阪へ移った。九團次は幼少期の雷蔵に歌舞伎役者の修行をさせなかったが、1946年、3年生の時に大阪府立天王寺中学校 (現在の大阪府立天王寺高等学校) を退学して歌舞伎役者になる道を選んだ。 1946年11月、15歳の時に大阪歌舞伎座で催された東西合同大歌舞伎の『中山七里』の娘おはなで市川 莚蔵(いちかわ えんぞう、養父・三代目市川九團次の前名)を二代目として名乗り初舞台を踏んだ。初舞台から2年余りが経った1949年5月には嵐鯉昇(後の八代目嵐吉三郎、映画俳優・北上弥太郎)や二代目中村太郎らとともに若手による勉強会「つくし会」を立ち上げ、稽古に励んだ。しかし養父の九團次は京都市会議員の子で、歌舞伎役者に憧れて二代目市川左團次に弟子入りした、門弟あがりの役者だった。権門の出ではない九團次は上方歌舞伎における脇役専門の役者に過ぎず、雷蔵はその息子であることに苦しみ続けることになる。 ===三代目市川壽海の養子となる(1949年6月 ‐ 1951年6月)=== 1949年に雷蔵が「つくし会」を立ち上げたのと同じ時期に、演出家の武智鉄二は筋の良い若手歌舞伎役者を起用して、後に「武智歌舞伎」と呼ばれるようになる正統派歌舞伎を上演するようになった。「つくし会」が武智歌舞伎に参加したことがきっかけで雷蔵を知った武智は、雷蔵の役者としての資質を高く評価したが、九團次の子のままでは権門が幅を利かせる梨園では日の目を見ずに埋もれてしまうことを案じた。そこで武智は、四半世紀もその名が絶えていた上方歌舞伎の大名跡「中村雀右衛門」を継がせようと考えたが、雷蔵が梨園の権門の出でないことを嫌った三代目中村雀右衛門の未亡人に断られてしまう。 その後武智は、子がなかった三代目市川壽海が雷蔵を養子にしたいという意向を持っていることを知る。1950年12月、三代目市川壽海は「つくし会」に審査員として立ち会い、『修禅寺物語』の源頼家を演じた雷蔵に高評価を与えていた。壽海は仕立職人の息子という歌舞伎とは無縁の出自を抱えながら、苦労の末に戦中から戦後にかけての関西歌舞伎で急成長をとげ、この頃までには関西歌舞伎俳優協会会長の要職を担う重鎮となっていた。さらに七代目團十郎と九代目團十郎が俳名に使っていた「壽海」を名跡として名乗ることを許され、加えて「成田屋」と「壽海老」という、通常ならば市川宗家の者が使用する屋号と定紋を許されてもいた。そこで武智は関係者に働きかけ、この養子縁組を取りまとめることに成功する。壽海は雷蔵に、自身と同じような市川宗家ゆかりの由緒ある名跡である「市川新蔵」を継がせたいと願ったが、これには当時東京で市川宗家の番頭格としてこれを代表する立場にあった二代目市川猿之助が「どこの馬の骨とも知れない役者に新蔵の名跡はやれない」と猛反対、交渉の結果「市川雷蔵」の名跡を継ぐことで決着した。養子縁組は1951年4月に成立。同年6月には大阪歌舞伎座で雷蔵襲名披露が行われた。なお、映画監督の池広一夫によると三代目市川壽海について、雷蔵の実父ではないかという噂があったという。 養子縁組を受けて、雷蔵は現在の本名・太田 吉哉に改名した。この名前は姓名判断に凝っていた雷蔵が自ら決めたものだった。ちなみに大映京都撮影所所長だった鈴木晰也によると雷蔵は周囲にも盛んに改名を勧め、大映の関係者の中には雷蔵の勧めで改名した者が20〜30人はいたという。後に結婚する永田雅子も、もとは恭子という名前だったが雷蔵の勧めで雅子に改名している。 ===映画俳優に転身(1951年7月 ‐ 1957年)=== 1951年に壽海の養子となった雷蔵だったが、若いうちから大役を与えないという壽海の方針もあって、さして良い役は与えられず、楽屋には大部屋があてがわれるという扱いを受けた。そんな中、雷蔵は1954年に大映所属の映画俳優に転身した。 動機について雷蔵自身は日和見的・試験的に映画に出てみようと思ったと述べているが、田山力哉によると雷蔵は以前から自分に対する処遇に強い不満を感じていたところ、1954年に大阪歌舞伎座で催された六月大歌舞伎『高野聖』において、台詞がひとつもない白痴の役が割り当てられたことに憤激し、梨園と縁を切ることを決意、かねてから雷蔵を時代劇のスターとして売り出そうとしていた大映の誘いに応じ、映画俳優に転身したという。なお映画俳優転身後に雷蔵がつとめた歌舞伎は1964年1月、前年に落成したばかりの日生劇場で上演された武智鉄二演出『勧進帳』の富樫左衛門のみである。雷蔵はこの時「歌舞伎は年を取ってからでないとだめだが、映画は年を取ったらだめ。若い間、映画で稼いで、年を取ったら歌舞伎をやろうと思っているんです」と語っている。映画俳優になることを決めた後、雷蔵は映画館に足繁く通って東映の時代劇スター中村錦之助の演技を研究した。 雷蔵は1954年8月25日公開の『花の白虎隊』で映画俳優としてデビューした。権門の出ではない雷蔵の出自は歌舞伎界では出世の妨げとなったが、関西歌舞伎の重鎮・市川壽海の子である雷蔵は映画界では貴種として扱われた。大映の経営陣は雷蔵を長谷川一夫に続くスターとして売り出す意向を持っており、デビュー作の『花の白虎隊』の後5作目の『潮来出島 美男剣法』(1954年12月22日公開)、6作目の『次男坊鴉』(1955年1月29日公開)と立て続けに主役に抜擢した。 デビュー2年目の1955年、雷蔵は『新・平家物語』(1955年9月21日公開)の平清盛役でスターとして注目を集めるようになった。雷蔵の映画を16本監督した田中徳三は、当初雷蔵の俳優としての大成は難しいと感じていたが、『新・平家物語』で印象が一変したと述べている。また雷蔵の映画を16本監督した池広一夫は、それまで長谷川一夫の亜流のようなことをやっていたのが、じわじわと役者根性が出てきたと評している。映画評論家の佐藤忠男は、『新・平家物語』を境に「長谷川一夫の後を追うように、もっぱらやさ男の美男の侍ややくざを演じた」雷蔵が、「通俗的なチャンバラ映画だけではなく、しばしば格調の高い悲劇も鮮やかに演じるすぐれた俳優になっていった」と評している。雷蔵は足腰が弱く、立ち回りの時にふらつく癖があった。元大映企画部長の土田正義によると、立ち回りに不安のある雷蔵に「天下を制した青年清盛」を演じさせるのは大変な冒険だったという。雷蔵も自身の足腰の弱さを自覚しており、同志社大学相撲部へ通い四股を踏むなど様々な鍛錬を行ったが改善されず、撮影時にスタッフは足腰の弱さが画面に表れないよう配慮する必要があった。雷蔵の映画を18本監督した三隅研次によると、雷蔵は自らの肉体的な弱さに対し強い嫌悪感を持っていたが、ある時期を境にそうした肉体的欠陥を受けいれた上で、それを乗り越えようとする姿勢をとるようになったという。『新・平家物語』を境に雷蔵は、年間10本以上の映画に出演し休日返上で撮影を行う多忙な日々を送るようになった。 ===トップスターとなる (1958年 ‐ 1968年5月)=== 1958年(昭和33年)、市川崑は『炎上』(同年8月19日公開。原作は三島由紀夫の小説『金閣寺』)の主役に雷蔵を抜擢した。市川によると、はじめは川口浩を起用しようとしたが、大映社長の永田雅一に反対され、そこで直感的に雷蔵を指名したという。この役は吃音症に劣等感を持つ暗い学生僧で、大映社内にはそれまで二枚目の役ばかりを演じてきた雷蔵の起用を疑問視したり反対する意見もあったが、「俳優市川雷蔵を大成させる一つの跳躍台としたい」という決意で臨んだ雷蔵はこの役を好演した。市川は雷蔵の演技を「百点満点つけていいと思います。もう何もいうことないですよ」と評した。『炎上』での演技はしばしば、雷蔵自身の生い立ちが反映していると評される。市川崑は「役を通じて何か自分というものを表出しようとしている」「演技を通り越した何か…(中略)…彼がそれまで背負ってきた、人にはいえないような人生の何かしらの表情」があったと評している。田中徳三は雷蔵の複雑な生い立ち、心の地の部分のようなものが出、役と重なり合っていたと評している。池広一夫は、生い立ちにまつわる「人生の隠された部分」、「地の部分」というべきものを演技に出せる雷蔵だからこそできた表現と評している。なお、大映企画部だった辻久一が雷蔵自身の生い立ちが『炎上』での演技に影響しているのではないかと問うたところ、雷蔵はこれを否定しなかった。『炎上』での演技は世間でも高く評価され、キネマ旬報主演男優賞、ブルーリボン賞男優主演賞などを受賞。雷蔵はトップスターとしての地位を確立した。 1963年(昭和38年)に始まった『眠狂四郎』シリーズは、雷蔵の晩年を代表するシリーズとなった。田中徳三によると、雷蔵は当初主人公・眠狂四郎を演じることに苦戦した。雷蔵自身も1作目の『眠狂四郎殺法帖』(1963年(昭和38年)11月2日公開)について、「狂四郎という人物を特徴づけている虚無的なものが全然出ていない」と述べ、失敗作だったことを認めているものの、4作目の『眠狂四郎女妖剣』(1964年(昭和39年)10月17日公開)で虚無感、ダンディズム、ニヒリズムを表現する役作りに成功した。『眠狂四郎』シリーズにおける雷蔵の演技について勝新太郎は、「眠狂四郎をやる時にかぎり、鼻の下がちょっと長くなるのね。死相を出すというのかな。人間、死ぬ時の顔だね、あれは」「立ち回りなんかも、雷ちゃん、顔で斬ってたね。剣で斬らないで顔で斬ってた」と述懐、「雷ちゃんは、眠狂四郎を殺陣でもセリフでもなく、顔でやっていたんだとおれは思うよ」と評している。池広一夫は「何も言わないで、表情もなしで、ただ歩いている姿だけで、背負っている過去みたいなものを表現した」と評している。『眠狂四郎多情剣』の監督を務めた井上昭は、雷蔵以外にも眠狂四郎を演じた役者はいるが、精神性において雷蔵にはかなわなかったと述べている。雷蔵が主演したシリーズの作品数は12本に及び、雷蔵が主演した作品の中で最も多いものとなった。 池広一夫によると、雷蔵は俳優としてキャリアを重ねるにつれ、監督として映画製作に携わることを希望するようになっていったという。池広は雷蔵に対し、監督ではなくプロデューサーとして題材、脚本家、監督、出演者をすべて決める方がよいとアドバイスした。1968年(昭和43年)1月、雷蔵は「今まで見たこともない新しい演劇をこしらえたい」という決意の下、劇団「テアトロ鏑矢」を設立しプロデューサーとしての活動を始めようとしたが、その直後に病に冒され(下述)、劇団が活動することはなかった。雷蔵の作品14本の脚本を担当した星川清司によると、雷蔵は星川と三隅研次に「映画というのはそう長くないかもしれないなあ。いつか3人で芝居をやろう。新しい仕事をやってみよう」、「黙阿弥の作品を現代的な目でとらえてやってみようよ」と語ったこともあったという。 ===晩年・37歳で早世(1968年6月 ‐ 1969年7月17日)=== 1968年(昭和43年)6月、雷蔵は『関の弥太っぺ』の撮影中に下血に見舞われ、入院した。検査の結果直腸癌であることが判明したが、本人には知らされなかった。8月10日に手術を受け退院したが、家族は医師から「半年余りの間に再発する」という宣告を受けた。雷蔵は生まれつき胃腸が弱く、1961年(昭和36年)にも『沓掛時次郎』の撮影後に下血に見舞われており、病院で精密検査を受けた結果、「直腸に傷がある」という診断を受けたことがあった。また、1964年(昭和39年)1月に日生劇場で『勧進帳』をつとめた際には武智鉄二に対し、「下痢に悩まされている」と告白している。 退院後、雷蔵は『眠狂四郎悪女狩り』(1969年1月11日公開)『博徒一代 血祭り不動』(1969年(昭和44年)2月12日公開)の撮影を行ったが、体力の衰えが激しく、立ち回りの場面は吹き替えの役者が演じた。1969年(昭和44年)2月に体調不良を訴え再入院。2度目の手術を受けた雷蔵は、スープも喉を通らなくなるほど衰弱していたが、『あゝ海軍』で海軍士官の役を演じることに意欲を見せ、関係者と打ち合わせを行っていた。しかし復帰がクランクインに間に合わず、大映は代役に二代目中村吉右衛門を立てて撮影することを決定。そのことを新聞を読んで知って以来、雷蔵は仕事の話を一切しなくなったという。7月17日、肝臓癌のため死去。37歳没だった。葬儀は7月23日に大田区の池上本門寺で行われた。戒名は「大雲院雷蔵法眼日浄居士」。墓所もかつては同寺にあったが、現在は久遠寺(山梨県南巨摩郡身延町)に移転している。 死の間際、雷蔵は混濁した意識の中で自分の死に顔を誰にも見せないよう何度も懇願したといわれているが、妻の太田雅子はこれを否定し、「雷蔵は最後まで復帰をあきらめておらず、遺言は一切なかった」と述べている。死後、雷蔵の顔には白布が二重に巻かれ、火葬されるまで解かれることはなかった。雅子によると、本人の「痩せてしまった姿を誰にも見せたくない」という遺志から、死に顔を見たのは養父の壽海と社長の永田だけであったという。 最後の出演作品となったのは『博徒一代 血祭り不動』(1969年(昭和44年)2月12日公開)で、当時人気を博していた東映の任侠路線を明らかに意識した作品だった。雷蔵は「鶴田浩二の二番煎じをやらすんかい」と出演を渋ったが、土田正義が「次はやりたい作品に出演させる」と説得し、出演が決まった経緯があった。しかし、土田は後年に本人が乗り気でなかった作品が遺作になったことについて、後悔の念を述べている。死から2年後の1971年(昭和46年)に大映は倒産したが、星川清司は「雷蔵の死は、大映の倒産を象徴する出来事だった」と回顧している。 ===死後(1969年7月17日 ‐ )=== 死から5年後の1974年、ファンクラブ「朗雷会」が発足、2019年現在も活動を続けている。大映京都撮影所で製作部長を務めた松原正樹によると、雷蔵のファン層はその演技や人間性に惹かれたと思われるインテリの女性が多いところに特徴があり、「キャーキャーとさわぐようなタイプなど見当たらなかった」という。また京都では、雷蔵の命日にあたる7月17日に行われる「市川雷蔵映画祭」で主演作品を上映することが夏の恒例行事となっている。2009年12月から2011年5月まで雷蔵の出演作品を上映する『没後40年特別企画 大雷蔵祭』が開催された。 2000年に発表された『キネマ旬報』の「20世紀の映画スター・男優編」で日本男優の6位、同号の「読者が選んだ20世紀の映画スター男優」では第7位になった。2014年発表の『キネマ旬報』による『オールタイム・ベスト 日本映画男優・女優』では日本男優3位となった。 なお、市川雷蔵の名跡に関しては、十一代目市川海老蔵が2014年9月に自身のブログにて預かっていることを示唆していることから、八代目没後に遺族から市川宗家に返上されたものと見られる。 ==家族== 1962年(昭和37年)に永田雅一の養女・雅子と結婚。3人の子供を儲けている。雅子は雷蔵から「表には一切出ないように」と言われており、死後も夫について語って欲しいという依頼を断り続けていたが、死後40年を経た2009年(平成21年)、『文藝春秋』2009年(平成21年)5月特別号に回想記「夫・市川雷蔵へ四十年目の恋文」を発表している。 ==受賞歴== 『雷蔵、雷蔵を語る』、巻末の年譜による。 1959年(昭和34年)1月 『炎上』でキネマ旬報主演男優賞1959年(昭和34年)2月 『炎上』『弁天小僧』でブルーリボン主演男優賞、NHK映画最優秀主演男優賞1959年(昭和34年)9月 『炎上』の演技により、イタリアの映画誌『シネマ・ヌオボ』で最優秀男優賞1964年(昭和39年)11月 『剣』で京都市民映画祭主演男優賞1967年(昭和42年)2月 『華岡青洲の妻』でNHK映画最優秀男優賞、キネマ旬報主演男優賞1968年(昭和43年)11月 『華岡青洲の妻』で京都市民映画祭主演男優賞1969年(昭和44年)11月 京都市民映画祭マキノ省三賞 ==評価== ===演技=== 脚本家の八尋不二は雷蔵の人柄について、「誰に対しても、おごらず、たかぶらず、常に礼儀正しかった」と評しており、その性格が芸風にも反映されていたとしている。八尋は、「数ある時代劇の俳優の中にも、もう彼のように、折り目の正しい、いい意味での、本当の武士らしい武士になりきれるものは一人もいない」と述べている。 池広一夫は、雷蔵の生い立ちが役者としての雷蔵に「非情の影」を落とし、その結果人生の影の部分、地の部分が出ていた。しかも単に出すのではなく噛みしめて出していたと評している。雷蔵の出演作品で最も多く監督を務めた森一生は、雷蔵は自身が抱える「誰にもいっていない人間的な苦しみ」に耐え、芝居に昇華させていたと述べている。森が映画評論家の山根貞男によるインタビューを受けた際、2人は雷蔵に「さわやかな悲しさがある」という見解で一致した。山根はこの言葉の意味を「悲劇を演じることが多いのですが、ただ暗くゆううつというのではなく、どこかにスカッとした面があります。悲しみとさわやかさの両方を備えた役者というのは雷蔵以外にはいません」と解説している。 佐藤忠男は雷蔵の演技について、時代劇、現代劇を問わず、「どんなにみじめな役でも、どんなに滑稽な役でも、それを格調高く演じることによって作品に気品を与えた」と評している。評論家の川本三郎は雷蔵の演技の良さについて、「ここにいながらここにいない」ともいうべき「濁世にあっていつもまなざしを遠くへと向けている透明感」にあると評し、この透明感ゆえに「取りようによってはキザなセリフが、そうはならない」と述べている。 鈴木晰也は、雷蔵と同じように武智歌舞伎から映画俳優に転身したが、大成せずに結局歌舞伎の舞台に戻った二代目中村扇雀や七代目大谷友右衛門を引き合いに出して、梨園で子役時代を経験しなかった雷蔵が歌舞伎に染りきらなかったことが映画で成功した大きな要因だったと分析している。 2014年に映画関係者や文化人を対象にしたキネマ旬報のアンケートでは、好きな日本映画男優の第3位に選ばれている。 ===容姿=== 雷蔵には普段は地味で目立たない容姿だが、撮影時にメークをすると一変するという特徴があった。多くの映画関係者がこの特徴に言及している。 市川崑は、雷蔵の本質は「硬質かつ素朴」で、通常のスターが特定のキャラクターを通すのに対し、持前の素朴さが「メーキャップでどうにでも変わる」ところに特徴があったと評している。井上昭は、メークを施すと普段の姿とはまったく違って美しく見えたといい、また「『え、これが!?』というぐらい、メークでパッと変わる」とも述べている。田中徳三は、「手応えのない温和さと、清潔な雰囲気を持ったこの人は、仕事になると凛然と肩を上げて、着実で重厚な、そして絢爛たる演技者に変貌した。これは素顔を知っている私には、目をみひらくような驚きであった」と評している。 井上昭によると、デビュー時に雷蔵は勝新太郎や花柳武始とともに長谷川一夫からメークの指導を受けた。他の2人は、教わった通りにメークをしていたのに対し、雷蔵だけは自己流を通す部分が多かったという。井上は、目張りや眉毛のメークに雷蔵の独自性が表れていると分析している。さらに井上によると、雷蔵は主要なメークを自身の手で行い、その様子を人に見せようとはしなかったという。井上は、雷蔵にとってメークは役柄に没頭していくプロセスであったため、他人には見られたくなかったのだと推測している。親交の深かった者の多くが語るところでは、メーキャップが天才的に上手で、洋装でメガネを掛けた地味な銀行員然たる普段の雷蔵と、カメラの前の雷蔵とはまるで別人であったため、私生活の雷蔵と街ですれ違っても、その質素さからスター雷蔵だと気づく者は、ファンはもとより業界関係者にもほとんどいなかった。 『好色一代男』の脚本を書いた白坂依志夫は、普段は商社マンのようだが「スクリーンに登場すると、驚くべき変貌を遂げ、明るさのなかに、虚無と一抹の郷愁をたたえた雄々しく、美しい青年スタア」に変貌を遂げると評している。井上昭は、雷蔵が主演した作品のポスターには後姿の雷蔵が顔だけ振り向いている構図のものが多いが、これは後姿にこそ雷蔵の持つ虚無的な魅力が出ると多くの監督が感じていたためだと述べている。 ==勝新太郎との比較== 雷蔵は脇役専門の役者・三代目市川九團次の子で、かつては二代目市川莚蔵といった。勝新太郎は長唄三味線方・杵屋勝東治の子で、かつては二代目杵屋勝丸といった。その雷蔵と勝が大映と専属契約を結んだのはともに1954年で、ふたりは同期入社だった。1931年生まれの同い年で、歌舞伎に早々と見切りをつけ、映画という新天地を選んだ点で、このふたりは良く似た境遇にあった。 前述のように大映の経営陣は雷蔵を長谷川一夫に続くスターとして売り出す意向を持っており、「スムーズに軌道に乗った」。一方田中徳三によると、デビュー当初の勝は「長谷川一夫さんの二番煎じのような」白塗りの二枚目を演じていたが、監督も配役も一流のものとはいえず、長らくヒット作に恵まれなかった。 勝が興行収入や話題において雷蔵を凌ぐほどの活躍を見せるようになったのは、1960年代に入って主演した『悪名』シリーズや『座頭市』シリーズがヒットしてからのことであった。鈴木晰成は、勝は「70〜80本撮って何ひとつ当たらん状態が続いた後、『悪名』でようやく使いものになった」と述懐している。また田中徳三によると、1960年の『不知火検校』で野心的な悪僧を演じて絶賛されるまでは勝の出演作は客入りが悪く、映画館主からはなぜあの俳優ばかりを使うのかという苦情が寄せられるほどだったという。1959年当時の状況について勝は、「番付が違う。雷ちゃんはもうすぐ大関、横綱になるのが分かってたわけだから。おれのほうは、三役になれるかなれないかというところ」と振り返っている。 「勝」と「雷」を掛け合わせて「カツライス」と呼ばれるまでになった大映の「二枚看板」市川雷蔵と勝新太郎は、その容姿や芸風が大きく異なることから比較の対象とされることが多く、2人はライバル関係にあると一般には思われていた。しかし「勝っちゃん」「雷ちゃん」とお互いを呼び合う2人の仲は、関係者によると決して悪いものではなく、むしろ親しい関係にあったという。そもそも雷蔵は、勝の妻である中村玉緒とは、玉緒の父が関西歌舞伎の二代目中村鴈治郎という関係もあって、彼女が幼少時から親交があった。 作家の村松友視は、「大きい役とは縁がなく、門閥と因襲にしばられる歌舞伎界で、悶々とした日々をすごし」た雷蔵と、歌舞伎界において裏方である長唄三味線の出身である勝には、ともに「一種のコンプレックスが、解決すべき重大な問題としてあった」のであって、「同じようなエネルギー源となる要因」を持っていたのだと指摘している。 ===俳優としての比較=== 雷蔵は台本が完成するまでは作品について色々と意見を言う性格で、「ゴテ雷」と呼ばれた。ただし一度納得すると不平や愚痴を言うことはなく、撮影に入ってから意見を言うこともなかった。一方、勝は台本の段階では何も言わず、撮影現場で意見をするタイプで、台本とは全く違う演技をしてスタッフを困らせることもしばしばあった。井上昭によると、雷蔵は監督の演出方法に合わせて役を演じることができた。そのため、たとえば同じ眠狂四郎でも監督が違うと匂いや味が違うのだと述べている。一方勝の場合は、監督が違っても「座頭市だったら、全部、勝ちゃんの座頭市」になると述べている。鈴木晰也も同様の意見を述べている。村松友視は、勝は「何をやっても勝新太郎のイメージ」になるタイプの俳優で、長谷川一夫や片岡千恵蔵らとともに日本の映画スターの本流に属するのに対して、雷蔵は役柄に応じて多彩に演じ分ける、日本の映画スターの中では異色の存在であったと分析している。両者の主演作品で監督した田中徳三は、両者の殺陣を比較して、雷蔵については「腰から下がきまらない点はあるが、それでも十分にリアルな立ち回りもできる人」と概ね肯定的な評価を与えている一方で、「勝ちゃんが巧すぎる」として勝に軍配を上げている。 ===人物像の比較=== 池広一夫によると、勝は嫌いな相手に対しても「一応調子を合わせる」ことができたが、雷蔵の場合は「嫌いな人は徹底的に嫌う」タイプで、面と向かって「顔も見たくない」という態度をとったという。池広によると、雷蔵が特に嫌ったのは仕事がいい加減な人間だった。大映映画の多くで美術監督をつとめた西岡善信は、映画関係者との人付き合い方について、勝が俳優と飲みに行くタイプだったのに対し、雷蔵は裏方と交流するタイプだったという。田中徳三も、雷蔵はスタッフの面倒見がよく、しばしば自宅へ招いたり一緒に食事をするなどしていたと述べている。星川清司によると、雷蔵は「ネオンのけばけばしい店や有名な料亭」を好まず、「ごくふつうの料亭で格式ばらずに」、「真正直に映画論や人生論をたたかわした」。雷蔵の『眠狂四郎炎情剣』と勝の『座頭市二段斬り』をほぼ同時期に手がけた撮影監督の森田富士郎は、両者の性格について、雷蔵は真面目、勝は破れかぶれな性格だったと述べている。 ==出演作品== これまでに確認されている雷蔵の出演作品は159本である。 市川雷蔵の年度別出演作品 ===1954年=== ===1955年=== ===1956年=== ===1957年=== ===1958年=== ===1959年=== ===1960年=== ===1961年=== ===1962年=== ===1963年=== ===1964年=== ===1965年=== ===1966年=== ===1967年=== ===1968年=== ===1969年=== ===未完=== =陪審制= 陪審制(ばいしんせい、英: Jury system)は、刑事訴訟や民事訴訟の審理に際して、民間から無作為で選ばれた陪審員(ばいしんいん)によって構成される(裁判官を含まない)合議体が評議によって事実認定を行う司法制度である。 現在は主に、アメリカ合衆国やイギリスをはじめとするコモン・ロー(英米法)諸国で運用されている。日本でも、1928年(昭和3年)から1943年(昭和18年)まで行われていた。なお、2009年に開始された日本の裁判員制度は、厳密な意味では陪審制とは異なるものである。 陪審員の人数は6〜 12名である場合が多く、その合議体を「陪審」という。陪審は、刑事事件では原則として被告人の有罪・無罪について、民事事件では被告の責任の有無や損害賠償額等について判断する。 ==概要== ===構成=== 陪審には、刑事事件で被疑者を起訴するか否かを陪審員が決定する大陪審(だいばいしん、grand jury、起訴陪審とも)と、陪審員が刑事訴訟や民事訴訟の審理に参加する小陪審(しょうばいしん、petit jury、審理陪審とも)がある。大陪審・小陪審の名称は、大陪審の方が小陪審よりも構成人数が多いことによる(伝統的に、大陪審は23人、小陪審は12人)。一般に陪審という場合は小陪審のことを指す(以下、#歴史の項を除いては、小陪審のみについて記述する)。 陪審員(上記のとおり伝統的には12人だが詳細は各国の項参照)は、一般市民から無作為で選ばれ、刑事事件や民事事件の審理に立ち会った後、陪審員のみで評議を行い、結論である評決を下す(→#審理手続及び各国の項参照)。同様に一般市民が裁判に参加する制度として、参審制や、日本で実施されている裁判員制度があるが、陪審制は、裁判官が評議に加わらず、陪審員のみで事実認定と法の適用を行う点でこれらと異なる(→#類似の制度)。 陪審制は、イギリスで古くから発展し、アメリカ合衆国等に受け継がれたものである(→#歴史)。 アメリカでは、連邦や各州の憲法で刑事陪審及び民事陪審が保障されており(→#アメリカの刑事陪審、#アメリカの民事陪審)、全事件数から見れば一部であるとはいえ、年に9万件以上の陪審審理が行われている(→#統計)。イギリスでも、刑事陪審が行われているが、現在、民事陪審はほとんど行われていない(→#イギリスの陪審制)。その他、オーストラリア、カナダ、韓国、デンマーク、ニュージーランド、ロシア等で陪審制が行われている(→#その他の国における現行の陪審制)。 日本でも戦前、1928年(昭和3年)から刑事陪審が実施されたが、1943年(昭和18年)に施行停止にされたまま現在に至っている(→#日本の陪審制)。 ===審理手続=== 現在陪審制が実施されている主な国であるアメリカ(連邦、各州)及びイギリス(イングランド、ウェールズ)における一般的な陪審審理の手続は、以下のとおりである。 陪審員の数は、伝統的には12人であるが、法域(国や州)によって、これより少ない人数としているところもある。陪審員は、一般市民の中から無作為で選任され、宣誓の後、法廷の中に設けられた陪審員席に着席して審理(トライアル)に立ち会う。 陪審員の参加する審理においては、裁判官は法廷を主催して訴訟指揮(異議の裁定など)を行い、陪審員が偏見を与えられたり、不適切な証拠が法廷に持ち込まれたりすることを防ぐ。そして、裁判官は、審理が終わった段階で、陪審員に、どのような法が適用されるべきかという詳細な説示 (instruction, charge) を行う。陪審は、法廷に提出された証拠と、裁判官の説示を踏まえ、事実認定とその事実に対する法の適用の双方について密室で評議した上で、評決 (verdict) を答申する。民事陪審では、例えば被告の責任の有無だけでなく損害賠償額についても評決を答申する。刑事事件では、陪審が有罪・無罪を答申し、有罪の場合の量刑については裁判官が決定するのが原則である。評決は、伝統的に全員一致であることが必要であるが、現在では、法域によって特別多数決(11対1や10対2など)を認めるところもある。陪審員の意見が分かれ、全員一致や特別多数決の条件を満たさない場合は評決不能 (hung jury) となり、新たな陪審の選任から裁判をすべてやり直す必要がある法域が多い。 評決が出た場合、裁判官は、その評決に従って判決を下す。ただし、陪審員の判断が証拠を無視した著しく不適切なものであると判断したときに、裁判官が、陪審員の判断によらず判決を下すことができる場合がある(後述#アメリカの民事陪審における「法律問題としての判決」など)。 ==類似の制度== ===参審制=== 陪審員だけが事実認定を行う陪審制と異なり、職業裁判官と民間人(参審員)がともに審理・評議を行う制度を参審制(さんしんせい)と呼ぶ。主にヨーロッパの大陸諸国で採用されている。参審員は、事件ごとに選ばれる陪審員と異なり、任期制である。 ===裁判員制度=== 日本で2009年(平成21年)5月21日から施行された裁判員制度は、原則として一般市民から選ばれた裁判員6名と職業裁判官3名による合議体により、一定の重大な刑事事件の審理を行い、事実認定及び量刑を判断するものであり、参審制に近い制度である。ただし、裁判員が事件ごとに選ばれる点では参審制と異なる。 ==歴史== ===イングランドにおける生成・発展=== 陪審の起源は、少なくとも9世紀初頭のフランク王国で、国王の権利を確認するために地域の重要な者に証言させた制度 (Frankish Inquest) に遡ることができる。カール大帝の息子、ルートヴィヒ1世が、829年に、国王の権利について判断する際、その地方で最も優れた、最も信頼できる人物12人に宣誓の上陳述させるという制度を設けた。この制度がノルマン・コンクエスト(11世紀)を経てイングランドに伝えられたとされる。なお、こうして大陸からもたらされた制度とは別に、997年ころアングロ・サクソンの王エゼルレッド2世が、12人の騎士に、聖物に対して「いかなる無実の者も訴追することなく、いかなる有罪の者を隠すことはない」との宣誓をさせることとした法律にも、陪審の一つの起源を遡ることができるという説がある。 いずれにしても、現代の陪審制の形成については、12世紀のイングランド王ヘンリー2世の設けた制度と、1215年のマグナ・カルタが大きく寄与したという点で多くの歴史家が一致している。ヘンリー2世は、司法制度に対する国王の支配を及ぼすために陪審を利用したと言われる。ヘンリー2世は、土地と相続の争いを解決するためにアサイズ (assize) という訴訟類型を設けた。そこでは、自由かつ法律上の資格のある男性12人が集められ、宣誓の下、誰が真の所有者ないし相続人であるかについて自らの知識を述べた。これは今日の民事陪審の原型といえる。ヘンリー2世は、刑事裁判でも、1166年のクラレンドン勅令において、後の大陪審に当たる訴追陪審を創設し、法律上の資格のある男たちに、宣誓の下、犯罪について疑わしい人物を誰か知らないか報告させた。当時、こうして訴追された者は神明裁判にかけられていた。 1215年のマグナ・カルタでは、同輩から成る陪審の判決によるのでなければ処罰されないという権利が宣言された(39条)。これは、貴族が王権を制限するためにジョン王に認めさせたものであった。同じ年、第4ラテラン公会議で、教皇インノケンティウス3世が、聖職者の神明裁判への参加を禁じたことにより、神明裁判を行うことが難しくなったこともあって、それに代わるものとして陪審による審理が広がっていった。 そのころの陪審の役割は、まだ、証人として自らの知識を述べるというものであった。証拠に基づいて事実認定を行うという現代的役割を担うようになったのは、14世紀ないし15世紀になってからである。もっとも、その後も、17世紀ころまでは、陪審員は法廷に現れた証拠のほかに個人的な知識に基づいて評決を下すことができ、その点で中立性は強く要求されていなかった。 また、初期の陪審制においては、陪審員が、有罪評決を答申するまで監禁されるということも行われていた。星室裁判所では、有罪評決を出すことを拒んだ陪審員に対し、土地や財産を没収して処罰したことが知られている。このような伝統からの転換点となったのが、1670年のブシェル事件 (Bushel’s Case) であった。クエーカーであったウィリアム・ペンとウィリアム・ミードが集会煽動罪で訴追された際、有罪評決を出すことを拒んだ12人の陪審員は、食べ物や水も与えられずに2晩監禁され、それでも無罪評決を撤回しなかったため、罰金を納めるまでの間懲役刑に処せられた。ブシェルをはじめとする4人の陪審員は罰金を納めることを拒否し、ヘイビアス・コーパスの訴えを提起したところ、高等法院王座部の首席判事は、陪審は事実の認定について他からの干渉を受けないという画期的な判断をしてブシェルらを釈放した。 こうして、17世紀ころには、陪審は被告人にとって、苛酷な刑罰からの防護壁という重要な位置付けを与えられるようになった。古くからのイングランドの刑罰は、重罪事件で有罪になればほとんどが死刑に処せられていたが、中世から18世紀にかけての裁判記録には、陪審員が多くの重罪事件の被告人を無罪としたり、烙印や鞭打ち程度で済む、より軽い罪としたりしたことが記されている。 ===アメリカにおける継受=== アメリカも、植民地時代からイギリスの陪審制を継受し、13邦ともに憲法で陪審制を保障していた。アメリカ植民地では、陪審制は、当初は重要な地位を占めていたわけではないが、18世紀半ばにイギリスの支配に対する批判が高まってくるにつれて、本国の圧制に抵抗する手段としての役割を果たすようになった。植民地においては、イギリス国王の任命した検察官が訴追を行い、国王が任命した裁判官が裁判を主宰していた中、陪審だけが同じ植民地人から構成されていたからである。1735年には、ニューヨーク植民地の総督に対する批判的記事により文書煽動罪で起訴された新聞出版業者のジョン・ピーター・ゼンガーに、事実関係に争いがなかったにもかかわらず、ニューヨークの陪審が無罪評決を下した。また、イギリスは、植民地の貿易を支配するため、植民地を出入りする商品はイギリスの船舶で運ばなければならないなどとする航海条例に基づく取締りを行ったが、陪審はしばしば無罪評決を出した。これに対し、イギリスは陪審審理を用いない特別裁判所を設置したが、これに対する不満も、アメリカ独立戦争に向かう一つの要因となった。アメリカ独立宣言でも、イギリス国王が「多くの事件で、陪審による審理の利益を奪ったこと」を非難している。 1788年に発効したアメリカ合衆国憲法では、刑事陪審が保障された(3条2節3項)。このとき民事陪審の保障が入らなかったのは、陪審が地元の訴訟当事者に有利に判断しがちであるということが懸念されたためであるが、民事陪審の保障に対する州の要求は強く、1791年の憲法修正条項(権利章典)で刑事陪審及び民事陪審の権利が保障された(修正6条、7条)。同時に、大陪審も保障された(修正5条)。 当初は、陪審員になることができるのは十分な資力のある白人男性に限られていたが、1868年に憲法修正14条が批准された後、連邦最高裁は陪審員の資格を白人男性に限る州法は修正14条の平等保護条項に違反するとして、人種による差別を禁止した。ただ、その後も、陪審員選任の過程で黒人が排除されるという実態は根強く残った。女性も、1920年に選挙権が付与されたものの、男性と平等の条件で陪審員を務めることができるようになったのは1975年になってからであった。 ==陪審制をめぐる議論== ===陪審制の意義=== 陪審制には、以下のような意義があると考えられている。 ===市民の常識や価値観の反映=== 例えば、民事事件における被告の責任の有無や損害賠償額についての判断、刑事事件における「正当防衛」や「合理的疑い」といった法概念の適用に際して、陪審は社会の感覚を示すことができると指摘されている。 ===権力や体制に対する抑制機能=== 前述のとおり、歴史的に、陪審制は権力の濫用に対する防護壁としての位置付けが与えられてきた。アメリカの連邦最高裁も、後述の判決(ダンカン判決)の中で、刑事陪審の意義について、「被告人に、同輩によって構成される陪審による審理を受ける権利を与えることは、被告人に、不正な、あるいは熱心すぎる検察官や、(検察官に)迎合的な、あるいは偏った、あるいは常識外れの裁判官に対する貴重な防護壁を与えることとなる」と説明している。後述の#陪審による法の無視も、このような役割の最も顕著な例として位置付ける見方がある。 ===参加型民主主義(英語版)=== アメリカでは、陪審制は民主主義の実現にとって重要であると考えられている。アレクシス・ド・トクヴィルは、著書『アメリカの民主政治』で、陪審制を人民による統治を確立するための重要な方法と位置付けている。 ===市民に対する教育的効果=== 陪審制は、参加した市民に対し司法制度について学ぶ機会を与えるだけでなく、陪審審理を題材としたテレビ番組や映画などを通して、一般市民の司法制度への理解を広める効果があると指摘されている。 ===裁判の迅速化=== 陪審制の副次的効果として、集中審理により短期間で結論を出すことになり、裁判の長期化が避けられるという利点がある。 ===陪審制に対する批判=== 一方、陪審制に対しては、陪審の事実認定能力・法適用能力に対する疑問や、陪審制にかかるコストの面から、次のような批判がある。 ===明らかに間違った判決=== アメリカで泥棒が侵入した家で転倒し怪我をしたが、侵入された被害者に対し賠償を請求し勝訴した。このような訴訟が受け付けられる時点で完全に常軌を逸しているとの批判が起こり、陪審員の判断力や判決の質のばらつきに疑問が出された。裁判官だけならこのように意味不明の判決は出にくい。 ===陪審員の持つ偏見=== 陪審審理は、陪審員の感情や偏見に左右されやすく、地域感情や歴史的経緯などの点で「よそ者」、「嫌われ者」が不利になることも否定できないとの批判がある。このような批判に対し、特に無意識の潜在的な偏見については、一概に裁判官よりも陪審の方が偏見にさらされやすいとはいえないとの指摘もされている。なお、1966年に発表された大規模な調査では、裁判官に対し、陪審の判断について自分であればどのように判断したかを回答してもらったところ、裁判官と陪審の判断が一致する率は、刑事・民事事件ともに75%を超えていた。意見が分かれる場合には、刑事事件では陪審の方が無罪に傾く傾向が見られたが、民事事件では有意な傾向は見られなかった。この結果については、意見が分かれるのは事実認定が難しく裁判官でも判断が微妙な事件ではないか、また陪審の方が「合理的疑いを超える証明」について高い要求をしているからではないかといった指摘がされている。 ===法適用能力に対する疑問=== 法律の適用(当てはめ)は、法律家こそが最も訓練を受けている分野であるにもかかわらず、それを陪審員に任せてしまうことには問題があるとの指摘がある。例えば、不法行為の領域では、過失の有無の判断に当たって、事故を防止するための費用と、防止策によって得られる便益(事故によって発生し得る損失や、事故が発生する確率)とを比較すべきであるにもかかわらず、陪審員はそれを理解できず、個人対企業の不法行為訴訟では、原告の被害と被告の富裕さに突き動かされて、陪審員はあらゆる原告の被害を補償してあげようとしてしまうと批判されている。 ===裁判のパフォーマンス化=== 弁護士は、陪審員の同情を引いたり心証を良くしたりするために、しばしば劇的な弁論を行うため、弁護士のパフォーマンスではないかとの批判もされている。もっとも、パフォーマンスといっても必ずしもテレビドラマや映画のような派手な振る舞いと同じものではなく、論理的かつ理解しやすい形で弁論を組み立て、陪審員を説得する技術が重視されているのではないかとの指摘もされている。また、実証的研究に基づくと、陪審の判断が弁護士の巧拙によって左右されたと考えられるのは多くとも0.25%程度であるとの指摘がされている。 ===陪審審理にかかるコスト=== 陪審員に対して支払われる日当・交通費だけでなく、陪審員の召喚・選任手続から審理・評決に至るまでの過程で少なからぬコストがかかる。評決不能などで再審理を行わなければならない場合には、当事者の負担も大きい。また、陪審員の側でも、仕事や学業に影響が出るというデメリットがある。アメリカでは、陪審制に対する様々な批判があるが、陪審制へのアメリカ市民の信頼度は、弁護士、裁判官、連邦議会、連邦最高裁判所に対する信頼度よりも高く、陪審制の廃止論は強くない。 イギリスでは、自由と民主主義の守り手、市民の常識の反映といった陪審制の意義を擁護する意見がある一方で、民衆に多大な負担を課しながら「熟練した」犯罪者らに制度をうまく利用する機会を与えるだけの、高コストで時代遅れのものになっているとか、陪審制自体はよいとしても複雑な事件やデリケートな事件には向かないといった批判も強く、費用と時間の観点から、20世紀を通じて陪審の適用範囲及び権限は大きく縮小された。 ===陪審による法の無視=== 陪審が事実認定と法の適用を行う際、その前提となる法は裁判官の説示に従うこととされている。しかし、陪審の評決は、結論のみを示し、そこに至る理由を示さない一般評決が原則であるため(ただし#アメリカの民事陪審では個別評決もある)、陪審が故意に法を無視した評決を下すことが事実上可能である。これを陪審による法の無視(法の無効化とも訳す。jury nullification)という。典型的なのが、被告人の有罪を立証する証拠が十分あるにもかかわらず、その行為を処罰する法自体が正義に反すると陪審が考えた場合に、無罪の評決を出すような場合である。例えば、前記のジョン・ピーター・ゼンガー事件、禁酒法時代にアルコール規制法違反で訴追された被告人に無罪評決が多く出された例、黒人や公民権運動の関係者に対する殺害等で訴追された白人至上主義者に、全員白人の陪審が無罪評決を出した例などが挙げられている。 陪審による法の無視は、民事・刑事いずれでも起こり得るが、特に刑事事件で陪審が十分な証拠にもかかわらず無罪評決を下した場合、英米法では二重の危険の禁止により検察官の上訴は許されないので、上級審が法適用の誤りを理由に再審理を命じるなどして訂正する手段がない。 陪審による法の無視については、法律問題への陪審による不当な介入であり、当然許されないという否定的な見方と、民間人の価値観を反映することも法の健全な発展・改革にとって意味があるという肯定的な見方がある。中には、陪審には悪法を無視する権限があるとして、積極的にこれを呼びかける団体もある。 アメリカの連邦最高裁の判決には、「陪審は、過酷な法を執行することを拒否することにより、より高次の正義を与えることもできる」という、陪審による法の無視を想定した表現もある。一方、連邦控訴裁判所の判決には、「陪審による法の無視は、説示された法を適用するという陪審員の宣誓に違反するものである」として、法の支配の観点から、陪審による法の無視は望ましくなく、陪審員が証拠の有無にかかわらず無罪としようとしていることが分かった場合には裁判官はその陪審員を解任できるとの判断を示したものがある。少なくとも、陪審が法を無視することができるということを、裁判官が説示の際に述べるのは不適当であるという考え方が一般的である。 ===陪審と報道=== 陪審員が個人の知識をもとに裁判を行っていた古くの陪審とは異なり、現代の陪審は法廷に現れた証拠のみによって判断しなければならず、中立公平性が強く要求される。しかし、審理(トライアル)前や審理中の報道によって将来の陪審員又は現在の陪審員に偏見が与えられると公平な審理が妨げられるので、報道による陪審への影響をいかに防ぐかが問題となる。 イギリス(イングランド、ウェールズ)では、評決が下されるまでの間、事件に関する報道を厳しく制限することにより、陪審への影響の防止を図っている。すなわち、制定法やコモン・ローにより、マスメディアの事件報道に対し、重い罰金(場合によっては拘禁)などの制裁を伴う強い規制を課している。審理前には、関係者の名前や予備審問の日時・場所のような最低限の情報しか報道してはならない。予備審問等は一般に公開されているものの、その内容を広く伝えることは規則によって禁じられている。審理が始まった後も、報道は手続を正確に伝えるものでなければならず、現在又は将来の手続(まだ審理が始まっていない別件の手続も含む)に害を及ぼすようなものであってはならない。これらに違反した場合は法廷侮辱罪による処罰の対象となり(実際上、処罰されるのは審理に深刻な影響を与える実質的な危険がある場合に限られている)、時々、法廷侮辱罪による処罰が行われる例がある。スコットランド、アイルランドも概ね同様の規制を敷いており、オーストラリア、ニュージーランド、カナダでは、これより緩やかな規制をしている。 これに対し、アメリカでは、報道の自由(憲法修正1条)の観点から、マスメディアに対する報道規制には、厳しい憲法上の制約が課せられている。もちろん、アメリカでもマスメディアによる陪審員への影響は問題となり、連邦最高裁は、関係者から事件に関する様々な情報がマスメディアに流された事案で、被告人の公平な審理を受けるというデュー・プロセスの権利が侵害されていると判断し、裁判官は適切な措置を取るべきであったとした。しかし、連邦最高裁は、1976年のネブラスカプレス事件判決で、マスメディアに対する報道禁止は表現に対する事前規制であることから、厳格な審査基準で合憲性が審査されるとしている。したがって、このような報道禁止が憲法上許されることはほとんど考えられないとされる。また、被告人の前科や、まだ証拠能力を認められていない被告人の自白などを報道することに刑事罰を科す事後規制も、厳格な審査基準で審査される。さらに、報道による将来の陪審員に対する影響を防ぐために予備審問等のトライアル前手続を非公開にすることも、限られた場合にしか認められない。予備審問手続へのアクセスには憲法修正1条の権利が及ぶためである。 したがって、アメリカでは、報道による偏見の流布を防ぐための方法としては、弁護士や検察官のマスメディアに対する発言を制限する法曹倫理規定が大きな役割を果たしている。ほとんどの州では、アメリカ法律家協会 (ABA) が作成した法曹倫理模範規定の三つのバージョンのいずれかを採用している。これは、記者会見やインタビューなど、弁護士の法廷外でのメディアに対する発言を規制するものであり、これに違反すると懲戒処分を受けることとなる。連邦司法省でも、検察官を含む職員を対象に同様のルールを定めている。 また、偏見を及ぼすような報道がされた場合に、陪審に偏見を持ち込まないため、次のような手段が用意されている。 ===法廷地の変更=== 報道による影響を受けていない地域へ事件を移送するもの。もっとも、小さい州などでは報道の影響が州全体に広まってしまい意味がない場合もある。 ===陪審員候補者団の変更=== 一部の州では、法廷地はそのままで、陪審員候補者団を他の地域から選ぶことができる制度が設けられているところもある。 ===延期続行=== 報道の影響が一時的で、一定期間内に収束すると思われる場合には、訴訟手続を延期続行することもあり得る。 ===陪審員の選任過程における審査=== 陪審員の選任過程における予備尋問と、それに基づく忌避の手続は、報道による影響を受け公平な裁判ができない陪審員候補者を取り除くための重要な役割を果たしている。 ===陪審員の報道等への接触禁止=== 陪審員は、選任された後は、評決に至るまで、事件に関する報道を見聞きしないよう求められる。 ===陪審員の隔離=== 評議が1日で終了しない場合、報道が過熱しているような一部の刑事事件では、陪審員が隔離され、ホテルへの宿泊や他者との接触の禁止を命じられることもある。事実審理(トライアル)の期間中を通じて隔離されることはほとんどないが、評議中に隔離されることは場合によってあり得る。なお、O・J・シンプソン事件では陪審は8か月半の間隔離されたが、これは極めて例外的な場合である。 ===評議の秘密=== アメリカでは、アメリカ合衆国憲法修正第1条により、審理前の報道が自由に行われるのと同様、審理後に陪審員が評議の内容を話すのも自由であり、評議の体験談をタブロイド紙、出版社、テレビ局などに売る者さえいる。このため、注目を集める事件などでは、内幕話を売ろうという思惑によって陪審員の行動がゆがめられてしまったり、記者が陪審員らに強引に取材をしたりするという問題もある。一部の裁判所では、例外的に、報道機関に対し、陪審員からの取材内容についての規制を課すこともあるが、陪審員自身に対する規制を課すことはほとんど行われない。 一方、イングランド、ウェールズ、北アイルランド、カナダでは、陪審員が評議の内容を明らかにすることは禁止されている。イングランド・ウェールズでは1981年法廷侮辱罪法8条により評議内容を聞き出したり漏らしたりする行為を罰する明文規定を設けたが、これに対しては陪審制についての学術的研究の妨げになっているとの声もある。オーストラリアでは、報道機関が審理終了後に陪審員に接近する行為は法廷侮辱罪で処罰されるが、陪審員個人が自分から無償で話をすることは許されている。ニュージーランドでも、判例法により、報道機関が陪審員にインタビューをする行為は法廷侮辱罪で処罰される。 ===英米法に与えた影響=== 陪審制は、イギリスにおいてコモン・ロー(英米法)とともに長年発展してきたことから、陪審制がコモン・ローに与えた影響は大きい。主に手続面では、次のような点が指摘されている。 陪審員にも分かるように、法が極端に難しくなることが防がれた。陪審員の負担軽減のため、集中審理が行われるようになった。後述のサマリ・ジャッジメントのように、陪審審理を不必要に行わないために争点を絞り込む手続が発達した。集中審理における不意打ちを防止するため、証拠開示(ディスカバリー)の手続が発達した。陪審員に訴えかけるため、法廷における尋問等の技術が発達した。伝聞証拠禁止の原則のように、陪審員が判断を誤らないための証拠法が発達した。また、契約法の分野でも、次のような点で陪審制の影響が指摘されている。 一定の種類の契約には書面と債務者の署名がなければ裁判上の救済が与えられないという詐欺防止法は、17世紀のイギリスで、偽証によって陪審をだます訴訟詐欺を防ぐために制定されたとされる。契約の内容については契約書の内容によって立証すべきで、それ以外の証拠(口頭の約束等)は排除されるという 口頭証拠排除法則 は、契約から時間が経ってからの当事者(特に経済的弱者の側)の供述を、陪審が安易に受け入れてしまいやすいため、それを防ぐために形成されたとの説がある。さらに、刑事法の分野でも、陪審審理が面倒でコストがかかるものになったことが、司法取引が発達した一つの要因として挙げられることがある。 ==アメリカの陪審制== ===アメリカの刑事陪審=== ====刑事陪審の保障==== アメリカ合衆国では、重罪で訴追された者は、陪審による審理を受ける憲法上の権利を有する。すなわち、アメリカ合衆国憲法3条では、「すべての犯罪の審理(トライアル)は陪審によって行われる。審理はその犯罪が行われた州で行われる。」と規定されており、さらに修正6条では「すべての犯罪の訴追において、被告人は、犯罪の行われた州及び地区の公平な陪審による、迅速かつ公開の審理を受ける権利を有する。」と規定している。これらの規定は、直接的には連邦の裁判所に適用されるものだが、修正14条1節のデュー・プロセス(適正手続)に陪審制の保障も含まれることによって州にも適用されるとするのが連邦最高裁の判例である(ダンカン対ルイジアナ州事件)。 合衆国憲法上は、軽微な犯罪については陪審審理の権利はないとされ(ダンカン判決)、自由刑の上限が6か月を超えるか否かが基準とされている。すなわち、上限が6か月以下の自由刑に当たる罪の場合には、陪審審理は合衆国憲法上要求されておらず、そのような事件では各州が陪審審理を許すか否かを選択できる。 合衆国憲法とは別に、ほとんどの州の憲法でも、刑事陪審の権利を保障している。 なお、連邦最高裁は、被告人は、有罪か無罪かの点だけでなく、制定法や量刑ガイドラインが原則的に設けている上限を超えて被告人の刑を加重するための事実についても、陪審審理を受ける権利を有していると判断した。 ===陪審審理の放棄=== アメリカの刑事事件の大多数は、陪審の評決ではなく、司法取引によって決着している。すなわち、被告人がアレインメント(罪状認否手続)で有罪の答弁 (plea of guilty) をする代わりに、検察官は起訴する罪の数を減らす、軽い罪で起訴する、裁判所に対し軽い刑を求めるといった取引が行われる。被告人が有罪の答弁をした場合は、トライアル(陪審又は裁判官による事実審理)の権利も放棄されるため、裁判官が量刑を決め判決を下すだけである。多くの州で、一審に起訴された重罪 (felony) のうちトライアルに持ち込まれるのは10%足らずである(#統計の項も参照)。また、トライアルが行われる場合でも、被告人が陪審審理を放棄すると、裁判官による審理 (bench trial) が行われる。 ただし、合衆国憲法上、被告人が陪審審理を放棄できる(裁判官による審理を要求できる)という無条件の権利は与えられておらず、連邦裁判所では検察側の同意と裁判所の承認があった場合のみ、被告人は陪審審理を放棄できる。州でも、陪審審理の放棄を無条件で認めているところは少なく、裁判所若しくは検察官の同意、又はその両方を必要としているところが多い。 ===陪審員の人数及び選任手続=== 陪審員の人数は、連邦裁判所では原則として12人であるが、当事者双方が合意したときはそれより少ない構成とすることができる。州によっては、12人より少ない人数としているところもあり、また被告人に12人未満の構成を選択することを認める州もある。合衆国憲法上、6人にまで減らした構成も許されるとされるが、重罪事件で5人の構成とすることは被告人の陪審審理を受ける権利を侵害するもので、違憲であるとされた。 連邦裁判所では、陪審員の選任方法は連邦制定法によって定められている。まず、有権者名簿その他の名簿をもとに、陪審員抽選器を用いて陪審員候補者が無作為に必要な数だけ抽出され、その候補者らには、陪審員の資格があるかを判断するための書類 (juror qualification form) が送られる。(1) 18歳以上でその管轄地域に1年以上居住しているアメリカ市民ではない場合、(2) 英語の読み書きができない場合、(3) 英語を話せない場合、(4) 精神的・身体的疾患のため陪審員の任務を行うことができない場合、(5) 係属中の刑事事件又は重罪の前科がある場合は欠格事由となり、裁判官が欠格事由の有無を判断する。欠格事由がない者は、辞退が認められる場合を除き、有資格者となり、その中から必要な時期に陪審員候補者が選ばれ、召喚状 (summons) が発付される。多くの州でも同様の手続をとっている。 こうして集められた陪審員候補者団 (venire) の中から陪審員を選ぶ際には、裁判官又は当事者(検察官・弁護人)から陪審員候補者に対する尋問が行われる。これを予備尋問(voir dire:ヴワー・ディア)という。その結果をもとに、各当事者は、陪審員候補者が偏見を持っているおそれがあるとして理由付き忌避 (challenge for cause) の申立てをすることができる。これには人数の制限はないが、裁判官が申立てに根拠ありと認めた場合に限り、その陪審員候補者は除外される。また、各当事者は、一定の数に限り理由なし忌避 (peremptory challenge) を求めることができる。州裁判所でも、おおむね同様の手続であるが、実際の選任手続のあり方は州によって異なる。 ===評議及び評決=== 裁判官は、審理が終わった段階で、陪審に対する説示を行う。説示の中では、(1) 適用すべき実体法、(2) どちらが立証責任を負うかや、立証責任が果たされるに必要な証拠の程度などの証拠法の原則、(3) 評決に達するための手続について説明される。その後、陪審は法廷から評議室(陪審員室)に下がり、非公開で評議を行う。裁判官、訴訟当事者を含め、陪審員以外の者は誰も評議の内容を見聞きすることはできない。評議は複数日にわたることもある。その結果、評決に達した場合は、法廷に戻り、陪審員長又は書記官が評決を読み上げる。 連邦及び各州(6州を除く)では、陪審の有罪又は無罪の評決には全員の一致が必要である。評決が成立しない場合は評決不能 (hung jury) となり、再度トライアルをやり直さなければならない。合衆国憲法上は、12人の陪審員のうち10人の多数決による評決を認める州法も合憲とされたが、6人の構成の場合には全員一致の評決でなければならず、5人の多数決による評決は違憲であるとされた。 刑事事件では、個々の事実についての認定を示す個別評決 (special verdict) はどの法域でも行われておらず、有罪か無罪かの結論を示す一般評決 (general verdict) である。 陪審から、評決に達することができないとの報告を受けた場合、裁判官は、場合によって再評議を命じたり再考を促す追加説示をしたりすることもできるが、最終的には評決不能 (hung jury) による審理無効 (mistrial) となり、新たな陪審の選任からの再審理 (retrial) を行うこととなる。 ===評決後の手続=== 陪審が有罪の評決をした場合、裁判官は量刑を行い、判決を言い渡す。陪審は有罪又は無罪の判断を行い、有罪の場合の量刑は裁判官が判断するのが原則であるが、州によっては、特に死刑事件など一部の事件で、陪審が死刑適用の当否や刑期についての意見を述べることができるなど、陪審の判断が量刑を決定ないし左右することがある。 有罪の評決の場合、裁判官が被告人の申立てに基づき、必要な票数が満たされているかを調べるため、個々の陪審員に対し評決に賛同しているか否かを確認すること (polling) が可能である。 陪審の無罪の評決を裁判官が覆すことは許されないが、陪審が有罪の評決をした場合に、裁判官が被告人の申立てに基づき無罪判決 (judgment of acquittal) を下すことは許されている。 ===アメリカの民事陪審=== ====民事陪審の保障==== 民事事件で陪審審理を受ける権利は、アメリカ合衆国憲法修正7条で保障されている。すなわち、「コモン・ロー上の訴訟において、訴額が20ドルを超えるときは、陪審による裁判を受ける権利は維持 (preserve) されなければならない。陪審によって認定された事実は、コモン・ローの準則によるほか、合衆国のいずれの裁判所においても再審理されることはない。」と定められている。 修正7条は、陪審審理を受ける権利を新たに創設するものではなく、1791年(修正7条を含む権利章典が批准された年)の時点のコモン・ローにおいて存在した陪審審理を受ける権利を維持するものである。ここで、コモン・ローとは、アメリカがその時点でイギリスから受け継いだ法制度を意味する。1791年当時のイギリスでは、訴訟はコモン・ローの訴訟とエクイティ(衡平法)の訴訟に分かれていた。コモン・ローの訴訟においては陪審審理を受ける権利が認められていたが、エクイティの訴訟では認められていなかった。1938年に制定された連邦民事訴訟規則2条は、「民事訴訟という一つの訴訟形式のみがある」と規定しており、コモン・ローの訴訟とエクイティの訴訟の区別がなくなったが、今日でも、1791年当時コモン・ロー上のものであった訴訟には陪審審理を受ける権利が認められ、同じくエクイティ上のものであった訴訟には陪審審理を受ける権利がない。もっとも、連邦民事訴訟規則によれば、裁判所が裁量で陪審を用いることが許されている。 ある制定法に基づく訴訟がコモン・ロー上のものかエクイティ上のものかを判断するには、(1) まず、その訴訟と、18世紀当時、コモン・ローとエクイティが一緒になる前のイギリスの法廷で起こされていた訴訟とを比較して、どちらの類型とより類似するかを判断する必要がある。(2) 次に、求められている救済方法を審査し、その性質上コモン・ロー上のものであるかエクイティ上のものであるかを判断する必要がある。救済方法が、金銭賠償だけである場合には純粋にコモン・ロー上のものであり、陪審の権利が認められる。差止命令、契約解除、特定履行のような非金銭的救済はエクイティ上のものであるから、陪審ではなく裁判官の判断に委ねられる。連邦最高裁は、エクイティとコモン・ロー双方の請求がされているときは、コモン・ロー上の請求について陪審審理を受ける権利は存続し、裁判官がエクイティ上の請求について判断する前にコモン・ロー上の請求について陪審による判断を受けなければならないと判断した。 刑事陪審と異なり、修正14条のデュー・プロセス条項の内容には含まれないと解されているため、民事事件で陪審審理を受ける合衆国憲法上の権利は、州には及ばない。もっとも、コロラド州を除く49州において、州憲法で民事陪審の権利が保障されており、同州においても憲法上の保障ではないものの民事陪審が実施されている。 ===陪審審理の要求=== 連邦裁判所の民事事件では、刑事陪審と異なり、いずれかの当事者の要求があった場合に限り陪審審理 (jury trial) が行われる。一方の当事者が陪審審理を要求した場合、相手方は陪審審理を望まなくても拒否できず陪審審理が採用される。陪審審理を要求するためには、最後の訴答書面が送達されてから10日以内に陪審審理を要求する旨の書面を相手方に送達し、その後相当の期間内にこれを裁判所に提出しなければならず、この手続を行わない場合は陪審審理を受ける権利を放棄したものとして扱われる。その場合は裁判官による審理 (bench trial) が行われる。もっとも、事実審理(トライアル)前に訴えが却下される場合があるほか、裁判官は、当事者の申立てにより、重要な事実についての真の争いがないと判断する場合には、トライアルを行うまでもなく、サマリ・ジャッジメントという判決で一審手続を終局させることができ、これらの場合は当然陪審審理は行われない。またトライアル前に和解が成立して事件が終局することも多い(#統計の項も参照)。 イギリス以来の伝統に従い、アメリカの民事陪審も、12人の陪審員で構成されるのが原則である。しかし、連邦裁判所における6人制の民事陪審も、憲法修正7条には違反しないとされた。連邦地裁では、トライアル開始時の陪審員の人数は、6名以上12名以下の範囲で裁判所が必要と考える人数とされ、トライアルの途中で欠員が出た場合、6名以上残っていれば補充しなくても評決をすることができる。また、当事者が合意した場合は5名以下になっても評決をすることができる。州裁判所でも、場合によって、6名(あるいは5名以下)の陪審を認めているところが多い。 民事陪審における陪審員の選任手続は、前述の刑事陪審とおおむね同様である。連邦裁判所では、理由付き忌避のほかに、各当事者は3名ずつの理由なし忌避を行使することができる。 審理が終わってからの説示から評議への流れは前述の刑事陪審と同様である。 ただし、連邦裁判所の場合、裁判官は、当事者の申立てに基づき、合理的な陪審であれば相手方に有利な判断をするだけの証拠はないであろうと判断するときは、陪審に評議を求める前に法律問題としての判決 (judgment as a matter of law) を下して一審手続を終局させることができる。 それ以外の場合、裁判官は、陪審に対して評議の上評決を答申するよう求めるが、その際には、原告勝訴か被告勝訴か、また原告勝訴の場合は救済内容(賠償額等)についての結論だけを答申する一般評決 (general verdict) を求めるのが一般的である。しかし、裁判所は、各争点についての結論をそれぞれ答申する個別評決 (special verdict) を求めることもできる。 陪審の評決は全員一致であることが求められるのが普通であるが、連邦裁判所では、当事者が合意した場合は全員一致でなくても評決をすることができる。州裁判所でも、場合によって、全員一致を要求しないところが多い。 裁判官は、評決に従って判決を下すのが原則である。しかし、裁判官は、評決後であっても、当事者の再度の申立てに基づき、合理的な陪審であれば相手方に有利な判断をするだけの証拠はないであろうと判断する場合には、法律問題としての判決によって、評決と異なる結論を下すことができる。また、法律問題としての判決を下さない場合でも、評決について証拠上余りにも疑問があるときは、裁判官は、当事者の申立て又は職権により、再審理 (new trial) を命じることができる。前述のサマリ・ジャッジメントや、法律問題としての判決は、裁判官が陪審をコントロールするための手段として重要な意味を持つという意見がある。 ===統計=== アメリカの刑事事件では、多くが司法取引で解決され、また取り下げられる事件も多いため、トライアル(陪審又は裁判官による事実審理)が開かれる割合はわずかである。また、民事事件でも、事件の大多数が和解等で終わるため、トライアルに至る事件は少なく、その中でも陪審によるトライアルが行われるのは少数である 連邦地方裁判所と、州の一般管轄を有する裁判所(地方裁判所に相当)における刑事・民事の各新受件数及び陪審トライアルの件数をそれぞれ合計すると、次のようになっている(1999年のデータ)。 さらに、近年、トライアル(特に陪審トライアル)の減少が指摘されている。連邦地方裁判所におけるトライアルの件数と、その新受件数に対する割合は次のようになっており、陪審トライアルは件数、割合ともに減少傾向にあることが窺われる。 同様に、州裁判所でも陪審トライアルは減少傾向にある。州裁判所を対象とした調査によれば、刑事事件(23州のデータ)では、1976件から2002年までの間に、既済件数が急増する一方、陪審・裁判官ともにトライアル件数は減少し、うち重罪事件(13州のデータ)について見ると、1976年には既済件数に対するトライアルの件数の割合が約9%(陪審5.2%、裁判官3.7%)であったのに対し、2002年には約3%(陪審2.2%、裁判官1.0%)まで減少していた。民事事件(22州のデータ)でも、事件数の増加に対しトライアルは減少し、うち一般事件(10州のデータ)について見ると、1992年に既済件数に対するトライアルの件数の割合が約6%(陪審1.8%、裁判官4.3%)であったのに対し、2002年には約5.6%(陪審1.3%、裁判官4.3%)となっている。 それでも、推計によれば、毎年約500万人のアメリカ人が陪審員候補者として裁判所に出頭し、うち約100万人が陪審員に選任されている。1999年に行われたアメリカ人1800人を対象とした調査では、24%が陪審員を経験したことがあると答えた。別の2004年の調査では、47%が陪審員を経験したことがあると答え、また多くが陪審制について肯定的な見方をしていることが分かった。 ==イギリスの陪審制== ===イングランド及びウェールズ=== イングランド及びウェールズは、陪審制を生んだ土地であるにもかかわらず、アメリカと異なり陪審の権利を保障した成文憲法がないこともあり、次第に、時間と費用がかかりすぎるという考え方から、陪審審理が制限されていった。19世紀半ば以降、特に民事陪審は衰退していき、詐欺、名誉毀損、悪意訴追・誣告、不法監禁というごく一部の事件に対象が限定されることになった。刑事陪審でも、19世紀から20世紀にかけ、陪審審理が行われない治安判事裁判所の管轄できる事件の範囲が徐々に拡大するにつれ、実質的に陪審審理は限定されるようになったと指摘されている。 イングランド及びウェールズでは、陪審員は18歳から69歳までの、有権者登録がされている市民から無作為に選ばれ、毎年約20万人が陪審員を務めている。 ===刑事陪審=== 刑事事件のうち、一定の重大な事件である正式起訴犯罪 (indictable‐only offence) は治安判事裁判所における予備審問の後に必ず国王裁判所に送られ、選択的起訴犯罪 (offence triable either way) は治安判事により正式起訴手続相当と判断された場合は国王裁判所に送致される。治安判事が略式起訴手続相当として自らの裁判所で裁判することを決定した場合でも、被告人は国王裁判所における陪審審理を選択する権利がある。こうして国王裁判所に送られた事件は、陪審により審理される。略式起訴犯罪 (summary offence) については、治安判事が裁判を行い、陪審審理は行われない。 ただし、2003年刑事司法法 (Criminal Justice Act 2003) により、国王裁判所でも陪審審理が行われない二つの例外が設けられた。一つは重大又は複雑な詐欺事件について、審理にかかる期間や複雑性から陪審審理の負担が大きいと判断した場合には、裁判官が陪審なしの審理を命じることができるとするものである(ただし高等法院首席判事の承認が必要)。この規定は立法過程で大きな論争を招いたため、議会両院が認めるまで施行されないこととされており、2008年現在、政府の努力にもかかわらず、この規定の施行の目処は立っていない。 もう一つは、陪審に対する干渉(買収、威迫等)が疑われる事件で、陪審なしの審理を許すものである。これは、陪審に対する干渉について「現実的かつ差し迫った危険」を示す証拠があり、警察による保護をもってしても、干渉が行われる十分な可能性があり、かつ陪審なしの審理が正義にかなう場合に許される。同規定は2006年7月24日に施行され、最初に適用されたのは2008年2月であった。 このほか、2004年ドメスティック・バイオレンス処罰及び被害者法 (en) 17条から20条には、ドメスティック・バイオレンスで訴追された被告人について、一部の訴因だけをサンプルとして陪審で審理し、有罪の場合には残りの訴因を裁判官のみで審理するという規定が設けられた。これらの規定は2007年1月8日に施行された。 また、被告人が、答弁で、前に同一犯罪で裁判を受け有罪判決又は無罪判決を受けたことを理由として一事不再理の申立てをした場合も、裁判官はその問題を陪審なしで判断する。 現在、刑事事件の事実審理(トライアル)の大多数は法曹資格のない治安判事により行われており、陪審審理が行われるのは1%ないし2%程度にすぎない。1997年の時点で、約186万人の被告人が治安判事裁判所で裁判を受けるのに対し、国王裁判所で裁判を受けるのは約9万1300人(正式起訴犯罪はその19%)で、そのうち無罪の答弁をして陪審審理を受けるのは67%である。陪審審理を受けた者のうち、無罪の評決を受けるのは40%である。 ===検死陪審=== 検死官は、(1) 刑務所又は警察の留置場で人が死亡した場合、(2) 警察官の職務執行に際し人が死亡した場合、(3) 労働における健康と安全等に関する法律 (en) に当てはまる死亡の場合、又は(4)人の死亡が公衆の健康若しくは安全に影響を及ぼす場合には、死因審問のため、陪審を召喚しなければならない。 2004年、イングランド・ウェールズにおける死者51万4000人のうち、2万8300件について死因審問が行われ、そのうち570件が陪審によって行われた。 ===民事陪審=== 1846年までは、イングランド及びウェールズではすべてのコモン・ロー上の民事事件は陪審によって審理されていた。しかし、1846年の法律で州裁判所 (County Court) が新設され、そこでは当事者が希望した場合で、5ポンドを超える事件に限って陪審審理が行われることとされた。すると、州裁判所で陪審審理を要求する当事者は実際には少なかった。この新しい制度が成功をもって受け止められたことに加え、裁判官の清廉さと法制度の専門化が次第に認識されるようになったこともあって、1854年のコモン・ロー手続法 (Common Law Procedure Act) で、高等法院王座部における訴訟当事者が裁判官1名のみの審理を選べることとされた際も、大きな抵抗なく受け入れられた。その後の80年間に、民事事件における陪審審理の利用は着実に減っていった。1883年には、最高法院規則で、陪審による証拠調べが不便であるなど一定の場合に、裁判官の裁量により陪審審理を行わないことが認められた。 1933年の司法運営(雑則)法6条は、高等法院王座部における陪審審理の権利を次の事件に対して保障する一方、その他の事件については、高等法院王座部で審理されるいかなる訴訟も、裁判所又は裁判官の裁量により、陪審で審理するか陪審なしで審理するかを命じることができるとした。 詐欺文書による名誉毀損口頭による名誉毀損悪意訴追・誣告不法監禁誘惑婚約破棄この法律は、事実上、上記の限られた事件を除き、イングランド及びウェールズにおける民事陪審に終わりを告げるものであった。 1966年の控訴院の判決で、デニング裁判官は、人身傷害の事件は損害の算定に技術的な専門知識と経験が必要であるため陪審審理にふさわしくないとの判断を示した。その当時、既に、当事者が人身傷害の事件で陪審審理を求めることはほとんどなかったものの、民事事件の多くを占める人身傷害の事件で陪審審理が否定されたことは、民事陪審の終焉を決定的にした。ロンドン地下鉄で発生したキングズ・クロスの火災 (en) についての1990年の訴訟では、訴訟当事者が陪審審理を求めたが、事件の技術的な性格を理由に拒否された。 1981年最高法院法 (Supreme Court Act 1981) 69条は、1933年法6条を改め、高等法院における民事陪審の適用範囲を更に狭めた。すなわち、陪審審理を行わなければならない事件を、詐欺、名誉毀損、悪意訴追・誣告、不法監禁の事件に限り、かつ、これらの事件においても、トライアルに書面や金銭の計算や科学的調査、あるいは現場の調査が必要で、陪審により行うには不都合であると裁判所が考える場合には、陪審審理を行わないことができるとされた。 今日、イングランドとウェールズにおける民事事件のトライアルのうち、陪審によるものは1%未満であり、その多くが名誉毀損事件である。 ===陪審員の数と評決=== 何らかの理由で陪審員が解任された場合も、最少人数の陪審員が残っている限りトライアルを続行することができる。裁判官は、陪審に対し全員一致の評決を求めるべきであり、何があっても、2時間10分が経過するまでは、多数決が可能であることを述べてはならない。これはもともと2時間であったが、陪審に、評議室に下がってから落ち着くための時間を与えるために延長された。 ===スコットランド=== スコットランドの刑事事件は、(1) 最高法院 (High Court of Justiciary)、(2) 州裁判所 (Sheriff Court) の正式手続 (solemn procedure)、(3) 同じく州裁判所の略式手続 (summary procedure)、又は (4) 簡易裁判所 (District Court) のいずれかに起訴され、審理される。このうち最高法院と州裁判所の正式手続では陪審審理が行われるが、他の二つでは裁判官による審理が行われる。殺人罪と強姦罪(その他ごく限られた犯罪)は最高法院に専属的管轄があるので、陪審審理が保障されている。その他の事件は、検察官の選択により、最高法院(量刑に制限なし)、州裁判所の正式手続(選択できる量刑の上限が自由刑3年)、同じく州裁判所の略式手続(量刑の上限が3か月)又は簡易裁判所(量刑の上限が60日)に起訴される。被告人には正式手続と略式手続の選択権はない。 スコットランドの刑事陪審の、イングランドなど他の法域と比べた場合の特殊性は、次の3点にある。 陪審員の人数が15人である。これは16世紀末までに確立した伝統である。評決は、8対7の単純多数決で行う。そのため、評決不能 (hung jury) は生じない。ただし、審理の途中で陪審員が病気等で欠けた場合、12人以上残っていれば審理を続行することができるが、その場合でも有罪評決を答申するためには8人の賛成が必要であり、その賛成が得られなければ無罪評決となる。有罪 (guilty)・無罪 (not guilty) の評決のほかに「証明なし」(not proven) という特殊な評決が認められている。証明なしは無罪評決と効果に違いはないが、「無罪」が、被告人が罪を犯していないということ(無実)を積極的に宣言するものと考えられているのに対し、「証明なし」は被告人の有罪が結果的に証明されなかったということを意味するにすぎないと考えられており、証明なしの評決はしばしば出されている。一方、スコットランドの民事陪審は、1815年にイングランドから移入されたもので、陪審員の人数や評決に必要な数、評決の種類などはイングランドと同様である。民事陪審が行われるのは最高民事裁判所 (Court of Session) における一定の類型の事件に限られ、当事者の希望による。対象となるのは、人身傷害(死に至った場合を含む)に対する損害賠償の訴え、名誉毀損の訴え、過失又は準過失の不法行為に基づく訴え、(現在は実際には行われていないが)一定の根拠に基づく減額の訴えである(1988年法11節)。陪審審理の期日が指定されるのは年に200件程度であり、そのうち実際に期日が実施されるのは年に50件程度である。陪審審理が必要な事件では、エディンバラ及びロージアン(イースト、ウェスト、ミッド)に居住する者の中から36人の陪審員候補者が召喚され、その中から12人の陪審員が選ばれる。評決は全員一致又は多数決で行われる。 ===北アイルランド=== 北アイルランドでは、陪審裁判の役割はおおむねイングランド、ウェールズと同じである。もっとも、テロリストであるとされる者の犯行については、1973年から、陪審裁判ではなく裁判官のみの裁判所(ディプロック・コート、en)で行われた。これはアイルランド独立戦争の間に陪審に対する脅迫が多く行われたことによる。安全面の改善に伴い、ディプロック・コートは2007年7月に廃止されることとなった。 ==その他の国における現行の陪審制== 陪審制は、アメリカ・イギリス以外にも、イギリスの旧植民地などを中心に、世界の多くの国にある。2000年の時点で、次の国・地域に陪審制があることが報告されている。ただし、これらの中には、特に民事陪審については、制度ないし規定としてはあっても、実際には全く、あるいはほとんど用いられていない国・地域もある(その場合、民・刑の符号に[ ]を付す)。 ヨーロッパ イギリス(刑・民)、アイルランド(刑・民)、マン島(刑・民)、ジャージー島(刑)、オーストリア(刑)、ベルギー(刑)、デンマーク(刑)、ノルウェー(刑)、スイス([刑])、ロシア(刑)、スペイン(刑)イギリス(刑・民)、アイルランド(刑・民)、マン島(刑・民)、ジャージー島(刑)、オーストリア(刑)、ベルギー(刑)、デンマーク(刑)、ノルウェー(刑)、スイス([刑])、ロシア(刑)、スペイン(刑)アフリカ ガーナ(刑)、マラウイ(刑・[民])、セントヘレナ([刑])、ジブラルタル(刑)ガーナ(刑)、マラウイ(刑・[民])、セントヘレナ([刑])、ジブラルタル(刑)アジア及び南太平洋 オーストラリア(刑)、ニュージーランド(刑・[民])、スリランカ(刑)、トンガ(刑・[民])、クック諸島(刑)、マーシャル諸島(刑)、アメリカ領サモア(刑)、グアム(刑・民)、北マリアナ諸島(刑・民)オーストラリア(刑)、ニュージーランド(刑・[民])、スリランカ(刑)、トンガ(刑・[民])、クック諸島(刑)、マーシャル諸島(刑)、アメリカ領サモア(刑)、グアム(刑・民)、北マリアナ諸島(刑・民)北米、カリブ海 アメリカ合衆国(刑・民)、カナダ(刑・民)、アンギラ(刑・[民])、トルトラ島(刑)、ドミニカ国(刑)、モントセラト(刑・[民])、アンティグア・バーブーダ(刑)、セントルシア(刑)、セントビンセント・グレナディーン(刑・[民])、グレナダ(刑)、ヴァージン諸島(刑・民)、バミューダ諸島(刑・民)、ケイマン諸島(刑・[民])、タークス・カイコス諸島(刑・民)、バハマ(刑)、バルバドス(刑)、セントクリストファー・ネイビス(刑・[民])、ジャマイカ(刑・[民])、トリニダード島(刑)、プエルトリコ(刑・民)アメリカ合衆国(刑・民)、カナダ(刑・民)、アンギラ(刑・[民])、トルトラ島(刑)、ドミニカ国(刑)、モントセラト(刑・[民])、アンティグア・バーブーダ(刑)、セントルシア(刑)、セントビンセント・グレナディーン(刑・[民])、グレナダ(刑)、ヴァージン諸島(刑・民)、バミューダ諸島(刑・民)、ケイマン諸島(刑・[民])、タークス・カイコス諸島(刑・民)、バハマ(刑)、バルバドス(刑)、セントクリストファー・ネイビス(刑・[民])、ジャマイカ(刑・[民])、トリニダード島(刑)、プエルトリコ(刑・民)南米・中米 ガイアナ(刑)、ベリーズ(刑・[民])、パナマ(刑)、ニカラグア(刑)、ブラジル(刑)、ベネズエラ([刑])ガイアナ(刑)、ベリーズ(刑・[民])、パナマ(刑)、ニカラグア(刑)、ブラジル(刑)、ベネズエラ([刑])以下、各国における現行の陪審制の例を挙げる。 ===オーストラリア=== オーストラリアには、イギリス植民地時代の19世紀に陪審制がもたらされた。オーストラリアの刑事事件の大多数を占める、州(又は領域)の犯罪については、正式起訴犯罪 (indictable offence) と略式起訴犯罪 (summary offence) に分かれる。正式起訴犯罪が州の最上級裁判所(最高裁判所)又は中級裁判所(地方裁判所や郡裁判所)に正式起訴(国王の名による起訴)された場合は、12人で構成される陪審の審理を受ける。ある犯罪が正式起訴犯罪であるか略式起訴犯罪であるかは立法によって決められるが(明示的に定められていない場合は、通常、刑の上限が1年の自由刑を超える場合に正式起訴犯罪となる)、正式起訴犯罪であっても、事案の軽重、被疑者の希望、検察官や治安判事の意見等を考慮して、治安判事裁判所に略式起訴されることもある。この場合は陪審審理は行われない。ニューサウスウェールズ州、南オーストラリア州、西オーストラリア州、オーストラリア首都特別地域では、正式起訴された被告人でも単独裁判官による審理を選択することができることとされている。近年、略式起訴される割合が増加しており、陪審審理は減少しつつある。次に、連邦の犯罪(例えば禁止薬物の輸入など)については、1901年に制定されたオーストラリア連邦憲法において、正式起訴された場合の陪審審理が保障されている。もっとも、どの犯罪を正式起訴犯罪とするかは連邦議会の裁量に委ねられており、どれほど重い罪であっても、略式起訴犯罪としたり、選択的正式起訴犯罪として個々の事件ごとに決めさせたりすることも可能であると解釈されている。正式起訴がされた場合には、被告人には陪審審理を放棄する権利はないとするのが判例である。 ===カナダ=== カナダでは、イギリスの植民地時代の18世紀半ばに陪審制が導入された。1892年に制定された刑法典において、重大事件について陪審審理を受ける権利が承認された。1982年に制定された成文憲法 (Charter of Rights and Freedoms) でも、一定の重大な犯罪について陪審審理の権利が保障された。ただし、多くの選択的正式起訴犯罪については、検察官 (Crown attorney) が陪審審理を回避することができ、陪審審理が行われない事件が増えている。 ===韓国=== 韓国では、2008年から、重大犯罪のうち被告人が希望した事件を対象に、陪審制に参審制を組み合わせた国民参与裁判制度を実施している。陪審員のみで評議を行い、原則として全員一致で評決を行うが、意見が分かれた場合は裁判官と協議の上、多数決で評決を行う点、裁判官は陪審の評決と異なる判決を言い渡すことができる(その場合は判決書に理由を記載する)点など、伝統的な陪審制とは異なる特徴がある。 ===デンマーク=== デンマークでは、陪審制と参審制が併用されており、重大事件は裁判官3名と陪審員12名の陪審制で審理されるのに対し、軽罪事件のうち自白事件は裁判官1名で、否認事件は裁判官1名と参審員2名の参審制で審理が行われる。 ===ニュージーランド=== ニュージーランドは、植民地時代の1841年の立法によってイギリスから陪審制を継受した。現在、ニュージーランドでは、成文憲法ではなくコモン・ローの慣習と1990年の権利章典法 (Bill of Rights Act) に基づいて陪審制が行われている。最高刑が14年以上の自由刑である犯罪については陪審審理が必要であり、最高刑が3か月を超える自由刑の犯罪については被告人が陪審審理を選ぶ権利が与えられている。ただし、警察官に対する暴行罪など、一定の犯罪については陪審審理が除外されている。民事事件では、上級裁判所 (High Court) において、負債の返済請求や金銭賠償請求など一定の事件について一方当事者が陪審審理を要求することができる。しかし、陪審審理を受ける絶対的な権利があるわけではなく、難しい法律問題を含む場合か、書面、計算関係の証拠調べが長引いたり、科学的・技術的・ビジネス的・専門的な難しい問題を含んでいたりして陪審で行うには不便な場合には、裁判官のみの審理を命じることができる。現在では民事陪審が行われるのは年に1件か2件程度である。 ===ノルウェー=== ノルウェーでも、デンマークと同様、陪審制と参審制が併用されている。1審の地方裁判所では裁判官制又は参審制で行われ、2審の高等裁判所では、法定刑が6年以上の否認事件が裁判官3名と陪審員10名の陪審制で裁かれるが、それ以外の事件は参審制又は裁判官制で裁かれる。 ===ロシア=== ロシアでは、1864年にアレクサンドル2世により陪審制が導入されたが1917年に廃止され、人民参審制が行われていた。1993年に一部地域で陪審制が復活した後、2003年に全地区へ拡大するとともに、参審制は廃止された。 ==日本の陪審制== 日本に陪審制が紹介されたのは幕末から明治初年にかけてであり、当初”jury”の訳語としては「立会ノモノ」(福沢諭吉『西洋事情』1866年)、「断士」・「誓士」(津田真道『泰西国法論』1868年)、「陪坐聴審」(柳河春三訳『知環啓蒙』1864年)、「陪審(たちあひ)」(中村正直『共和政治』1873年)などが用いられていた。ボアソナードが刑法草案・治罪法草案に「陪審」を用いたことなどから「陪審(ばいしん)」が定着した。 明治憲法では陪審制は採用されなかったが、1928年(昭和3年)から1943年(昭和18年)までの間、後述のとおり陪審法の下に刑事事件で陪審制が行われた。1943年(昭和18年)以来、同法は施行停止されている。 また、戦後のアメリカ統治下であった沖縄県でも、1963年(昭和38年)から1972年(昭和47年)までの間、アメリカ民政府裁判所において、陪審制が実施されていた。 ===昭和初期の陪審制=== ====沿革==== 明治憲法制定に当たって日本が参照したプロイセン王国法には陪審制の規定があり、当初は日本でも陪審制の憲法での明文化が議論されていたが、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文らの海外使節団は、帰国後の報告書(1871年)で、陪審制を日本で実施することは難しく、かつ「不用」であるとした。結果的に、明治憲法では陪審制は採用されなかった。 1909年(明治42年)の第26回帝国議会において、立憲政友会議員から「陪審制度設立ニ関スル建議案」が提出され、衆議院を通過したが、このときは陪審制は成立を見なかった。 その後、大正デモクラシー運動が高揚する中、1918年(大正7年)に原敬内閣が成立すると、原は陪審制度導入に着手し、司法省に置かれた陪審法調査委員会において法案が起草された。しかし、美濃部達吉や枢密院は、裁判官の資格を持たない者の裁判関与を認める陪審制は明治憲法24条に違反するなどと主張して、陪審の評決が裁判官を拘束しないこととするなどの大幅な修正を求めた。結局、原内閣を継いだ高橋是清内閣がこれらの修正を受け入れ、1923年(大正12年)の第46回帝国議会において陪審法(大正12年4月18日法律第50号。以下条数のみを記載する。)が成立し、1928年(昭和3年)10月1日から施行された。 ===対象事件=== 法定刑が死刑又は無期懲役・無期禁錮に当たる刑事事件については原則として陪審の評議に付すこととされ(2条、法定陪審事件)、長期3年を超える有期懲役・禁錮に当たる事件で、地方裁判所の管轄に属するものについては、被告人が請求したときには陪審の評議に付すこととされた(3条、請求陪審事件)。この請求陪審は、日本独自の制度であった。 もっとも、被告人が公判又は公判準備において公訴事実を認めた場合は、陪審の評議に付することはできないとされた(7条)。また、被告人は、法定陪審事件であっても陪審を辞退することができ、請求陪審事件でいったん陪審を請求した後でも検察官の陳述の前であれば請求を取り下げることができた(6条)。 なお、法定陪審事件・請求陪審事件の要件を具備する場合でも、(1) 大審院の特別権限に属する罪、(2) 皇室に対する罪、内乱に関する罪、外患に関する罪、国交に関する罪、騒擾の罪、(3) 治安維持法の罪、(4) 軍機保護法、陸軍刑法又は海軍刑法の罪その他軍機に関し犯した罪、(5) 法令によって行う公選に関し犯した罪については、陪審裁判の対象としないこととされた(4条、陪審不適事件)。 ===陪審員=== 陪審員は12人で(29条)、陪審員の資格としては、30歳以上の男子で、直接国税3円以上を納めており、読み書きができるなどの要件を満たしていることが必要であった(12条)。ほかに、引き続き2年間以上同一市町村に住居すること。ただし、禁治産者、準禁治産者、破産者で復権を得ない者、聾者、唖者、盲者、懲役、6年以上の禁錮、旧刑法の重罪の刑または重禁錮の処せられた者は陪審員にはなれない。 ===陪審裁判の手続=== 陪審事件については、公判前に公判準備期日の手続が行われ(35条)、被告人を尋問した上(42条)、証人尋問等の証拠調べの決定が行われた(43条)。この時点で被告人が事実に間違いない旨陳述すれば、陪審は中止され、通常の審理に移行した(51条、7条)。 公判期日には陪審員候補者名簿から抽選で選ばれた36人の陪審員を呼び出した(27条、57条)。その中から検察官と被告人は理由なく忌避することができ(64条、65条4項)、忌避されなかった者の中から12人が陪審員となった(67条)。 その後、公判手続が行われ、裁判長による陪審員の心得の諭告(ゆこく)、陪審員の宣誓(69条)、検察官による被告事件の陳述、被告人尋問、証拠調べ、論告・弁論(76条)、裁判長の陪審に対する説示、犯罪構成事実の有無についての問い(77条)と進行した。陪審は、裁判長から「問書」を受け取ると、評議室に入り(81条、82条)、評議の上、「然り」又は「然らず」との答申をすることとされた(88条)。犯罪構成事実を肯定するには陪審員の過半数の意見によることが必要であった(91条)。評議が終わるまでは、裁判長の許可がなければ評議室から出たり他人と話をしたりすることができず、公判が数日にまたがる場合は裁判所に設置された陪審員宿舎に宿泊しなければならなかった(83条、84条)。 裁判所は、陪審の有罪の答申を採択する場合には、情状に関する事実の尋問・証拠調べ、第2次の論告・弁論(96条)を経た上、法令を適用して有罪の言渡しをし(97条2項)、無罪の答申を採択する場合には無罪の言渡しをする(同条3項)。しかし、裁判所は、陪審の答申を不当と認めるときは、他の陪審の評議に付すること(陪審の更新)ができた(95条)。 陪審の答申を採択して事実の判断をした判決に対しては、控訴をすることはできなかった(101条)。なお、大審院への上告はできた(102条)。 ===陪審制の停止=== 多額の陪審費用が被告人の負担とされることが多かったこと、陪審を選択した場合は控訴によって事実認定を争うことはできなかったことなどから、被告人が法定陪審事件で陪審を辞退したり、請求陪審事件でいったん陪審を請求しても請求を取り下げる例が多かった。裁判官が陪審員の答申に拘束されないこと(陪審の更新)も、陪審制の意義を骨抜きにするものであった。1928年(昭和3年)から1942年(昭和17年)までの間に、法定陪審事件2万5097件のうち、実際に陪審に付されたのは448件、請求陪審事件で請求があった43件のうち、実際に陪審に付されたのは12件であった。1941年(昭和16年)と1942年(昭和17年)には、陪審審理は1件ずつしか行われなかった。 また、第二次世界大戦が激化するにつれ、市町村では徴兵業務の負担が重くなり、陪審員名簿の作成が難しくなってきたことから、市町村から陪審制停止の要望が出された。こうして、1943年(昭和18年)4月1日に陪審法ノ停止ニ関スル法律<によって陪審制が停止されることになった。同法は附則3項において「今次ノ戦争終了後再施行スル」と規定していたが、再施行されないまま今日に至っている。 この制度によって484件が陪審に付され(うち24件は陪審の更新によるもので、実質事件数は460件)、うち81件に無罪判決が出た。 ===復活論と裁判員制度=== 終戦後、占領軍は日本における陪審制の復活を強くは主張せず、1947年(昭和22年)4月16日公布の裁判所法(同年5月3日施行)では、別に法律で刑事事件の陪審制を設けることを妨げないと規定されるにとどまった(同法3条3項)。 1999年(平成11年)7月に設置された司法制度改革審議会で国民の司法参加が取り上げられることとなり、陪審制に関する議論が急浮上したが、同審議会の最終意見書で、職業裁判官と市民が共に評議・評決を行う、参審制に近い裁判員制度の採用が決まった。 ===アメリカ統治下にあった沖縄県での陪審制=== 当時の沖縄県では、高等弁務官を長とするアメリカ民政府と、その下に置かれた琉球政府があった。1963年3月8日、「アメリカ民政府刑事裁判所」(1958年7月21日布告第8号)及び「刑法並びに訴訟手続法典」(1955年3月16日布令第144号)が改正され、アメリカ民政府裁判所における刑事裁判について、大陪審と小陪審が導入された。また、1964年5月21日、「アメリカ民政府民事裁判所」(1958年7月21日布告第9号)が改正され、アメリカ民政府裁判所における民事裁判について陪審制が導入された。以後、刑事・民事の陪審制が1972年の施政権返還まで行われた。 これは、在住のアメリカ人やアメリカ人弁護士からの陪審裁判への要求があったためであるとされる。もっとも、純粋にアメリカ人だけが関与する制度ではなく、(1) 陪審員の資格としてはアメリカ国籍を要求せず、単に「三月間琉球列島内に居住した者」とされていたことから、琉球住民を含め居住者の全てが陪審員として参加することができた(ただし英語の読み書きのできない者は除かれた)。また、(2) 刑事・民事事件ともに、当事者がアメリカ人の事件に限定せず、「高等弁務官が合衆国の安全、財産または利害に影響を及ぼすと認める(特に)重大な事件」についてはアメリカ民政府裁判所の裁判権が及んでいたことから、居住の者が当事者の事件も陪審による審理を受けることができた。 制度の概要は次のとおりである。 ===大陪審=== アメリカ民政府高等裁判所において、重罪(死刑又は1年を超える懲役に当たる罪)については大陪審による正式起訴(インダイトメント)を受ける権利が保障された。被疑者が権利を放棄した場合は、検察官による簡易起訴が行われた。大陪審は6名以上9名以下で構成された。 ===刑事(小)陪審=== アメリカ民政府高等裁判所において、微罪以外のすべての犯罪について小陪審による裁判を受ける権利が保障された。被告人が罪状認否手続で無罪答弁等をした場合は原則として陪審審理が行われるが、被告人が権利を放棄した場合は裁判官による審理が行われた。刑事・民事とも小陪審は12名で構成された(これに加え予備員も選任された)。評決は有罪か否かの一般評決であり、全員一致であることを要した。無罪評決に対しては二重の危険の禁止から上訴できず、有罪評決に対しては、手続的瑕疵や法律違反についての上訴が許されていた。 ===民事陪審=== 民事陪審は、アメリカ民政府民事裁判所において行われた。この制度により1963年から1972年までの間に行われた陪審裁判は、刑事・民事合わせておよそ10件程度と推定されている(この間の全事件数は103件(刑事89件、民事14件)であった)。 =池上競馬場= 池上競馬場(いけがみけいばじょう Ikegami Racecourse)は、1906年(明治39年)から1910年(明治43年)まで東京府荏原郡池上村の南方に存在した1周1マイルの競馬場。設置・運営者は東京競馬会。 ==概略== 池上競馬場は、東京・池上に、明治時代末期の1906年(明治39年)から1910年(明治43年)までの5年間だけ開設された、1周1マイルの競馬場である。池上競馬場の位置は現在の大田区池上6〜8丁目あたり(池上駅の南方の一帯)になる。池上競馬場では日本人の手によるはじめての馬券が発売され、日本競馬の新しい時代である馬券黙許時代を切り開いた競馬場である。 所有者並びに運営者は東京競馬会であった。東京競馬会は加納久宜と補佐役の安田伊左衛門が中心となって1906年に設立され、池上競馬場は政府と陸軍の支援を受けて開場した。政府は後続の競馬場の模範たるべく、また賭博の弊害を生まぬよう、さらに池上競馬場を上品な競馬場にすべく、観客は紳士・淑女に限るとし、入場料を高額にさせ、東京競馬会は池上競馬場に玉座や高級料理店などを設置した。 競馬は毎年春と秋の2シーズンに各4日間、1日に9〜12レースほどが行われた。競走馬は雑種か馬種を特定できない内国産馬(日本国内で生まれた馬)とサラブレッド系が中心の豪州(オーストラリア)産馬(いわゆる濠サラ)が主体で騎手は東京競馬会が免許を発行した騎手で主に日本人が務めた。池上競馬場以外の競馬場所属馬も出場し、一般レースのほかに初期には軍馬と軍人によるレースも行われている。 池上競馬場は大盛況で東京競馬会は高収益を上げたが、池上競馬場の盛況をみて日本各地に競馬場が乱立して混乱を招いた。1908年(明治41年)に馬券は再禁止され、馬券の売り上げ収入が無くなった日本の競馬、は政府の補助金によって運営される補助金競馬時代に移り、1910年(明治43年)東京競馬会を含む東京周辺の競馬4団体が合同して目黒競馬場に集合し、池上競馬場は廃止された。 ==池上競馬場が企画された背景== ===明治39年までの日本の競馬の概要=== 明治初期の日本では、横浜の外国人居留地で盛んに競馬が行われ(横浜競馬場)、神戸外国人居留地でも競馬は行われていた(神戸居留地競馬)。また、日本人の手による競馬も東京の招魂社競馬や三田、戸山、上野のほか札幌、函館、鹿児島など地方でも行われていた。とくに1884年(明治17年)に開設された上野不忍池競馬は、国家的祭典とも屋外の鹿鳴館とも位置付けられるものであった。しかし、当時の日本では馬は非合法で、売ることはできず、経営難の為に1892年(明治25年)に上野不忍池競馬は閉鎖された。上野に限らず、日本人による競馬場は厳しい経営状況であった。東京では競馬場は1898年(明治31年)までにすべて閉鎖され、地方でも函館、札幌などで有志の努力によって細々と競馬が行われていただけだった。 1906年(明治39年)までの日本の競馬では、横浜競馬場でのみ馬券は発売されていたが、それは1899年(明治32年)までは治外法権によって、それ以降も既得権益と外交上の配慮によって馬券発売が黙許されていたことによる。ちなみに、横浜競馬を主催する日本レースクラブの会長はイギリス大使の兼任で、日本レースクラブの主力はイギリス人であったため、当時世界最強国だったイギリスの感情を損ねることや、1902年(明治35年)に結ばれた日英同盟に影響を及ぼすことを政府は恐れた。 横浜競馬場以外の日本の競馬がすべて経営難に陥り、東京では競馬が全滅したのと比較して、経営も安定し順調に開催を続ける横浜競馬場の事例を見れば、競馬の開催・維持に馬券発売による利益確保が必須であることは誰の目にも明らかになっていた。 ===日露戦争と馬政=== 自動車が本格的に普及するまでの軍隊では騎兵、大砲曳馬、輜重車曳馬と馬は重要な戦力だったが、日清戦争、義和団の乱、日露戦争と日本軍が大陸に進出するたびに、日本馬の体格の貧弱さと性質の悪さが露呈した。諸外国の軍人からは「日本軍は馬のようなものに乗っている。」「日本軍の馬は家畜ではなく野獣である。」と馬鹿にされ、日本軍自身も日本馬の体格の貧弱さと性質の悪さに頭を抱えた。特に日本にとっての大戦である日露戦争で、日本の馬の劣悪さは国運さえ揺るがしかねないものと認識された。 日露戦争中の1904年(明治37年)4月、明治天皇は諸官に馬匹の改良を命じた。すぐさま馬政を統括する馬政局の設置計画が進み、馬政の諸計画がなされ、1906年(明治39年)6月には馬政局は設置され馬政30年計画が推し進められた。その過程で競馬が注目される。 良質な洋種馬と繁殖牝馬を輸入し良馬を量産する動機付けには、軍馬の需要だけでは足りなかったのである。良い馬を量産するには馬産農家の意欲が必要、馬産農家に意欲を出させるには良馬の価格を上げ馬産で儲かることが必要、良馬の価格を上げるには高く買う者が必要、良馬を高く買える者を作るのは馬券発売を伴い利益が望める競馬が最適という論理である。実際に当時の馬産地青森・岩手・宮城での馬の平均価格は池上競馬以前の1905年(明治38年)には1頭が35〜42円だったのに対し、馬券黙許時代の最盛期の明治41年には60〜78円に上昇し、馬券再禁止後の補助金競馬時代の1909年(明治42年)には39〜70円になっている。 農商務省、陸軍、宮内省を中心に馬券発売許可への意識が醸成されていく。1905年(明治38年)秋には馬券黙許の方針は内定していたと言われている。その背景には横浜競馬場ですでに馬券が「黙許」されていた前例も影響している。 ===司法・内務省の抵抗=== 馬匹の改良を命じた明治天皇の馬政勅諚を錦の御旗に、農商務省、陸軍、宮内省は馬券発売を伴う競馬の開催に突き進むが、馬券の賭博性を問題にする司法・内務省はそれに抵抗した。 東京競馬会の馬券発売に対して黙許の言質を与える1905年(明治38年)12月の「競馬賭事に関する農商務、陸軍、内務、司法四大臣合議書」に内務、司法両次官が注文を付ける。それは「競馬に関する凡ての賭博行為は、黙許することは得ざるは勿論なれど、単に馬匹の速度力量技能その他に関する知識の優劣を争う為め、其確保手段として多少の金銭等を賭する如きは刑法に所謂賭戯賭奕の行為にあらざるものと信ぜらるるを以て、其趣意を内達すること差支えなし」という付箋として反映された。それはつまり、「馬券は馬匹改良の目的のために馬匹鑑定技術向上の手段として認めるのであって、馬券が節度を越えて賭博行為となったらいつでも馬券を再禁止できる」というレトリックを盛り込んだのである。実際、発売された馬券は甚だしく賭博性を発揮し、わずか2年余りで馬券は再禁止されてしまった。 馬券を売りたい勢力と、賭博を何が何でも禁止したい勢力の微妙な折り合いの上に、馬券は公認ではなく黙許されることになった。また、横浜競馬場を馬券黙許の前例とした馬券推進側に対して、司法側は過去の不平等条約・治外法権の好ましくない残滓である横浜競馬場の特別扱いも、他の競馬を同格にすることで特別扱いではなくなるとの思惑も絡んでいたと考えられている。実際に1908年(明治41年)の馬券の再禁止は横浜競馬場も含まれ、横浜競馬場は不平等条約・治外法権以来の既得権益を失った。 ==子爵加納久宣== 農商務省、陸軍、宮内省を中心に醸成された馬券発売黙許の雰囲気のなかで子爵加納久宜がそれを実現させ、加納と陸軍から派遣されてきた安田伊左衛門らを中心に池上競馬場が開場された。安田は後に日本競馬界の父と呼ばれる存在になり、現在も東京競馬場で行われる重賞競走安田記念にその名を残している。 加納久宜は元上総一宮藩主で、全国農事会会長やかつて競馬が盛んで馬産地だった鹿児島の知事を経験していた。加納は鹿児島県知事時代に鹿児島競馬を盛り上げ、鹿児島県の馬産を振興させた実績を持つ。その経験から加納は馬匹の改良には競馬が最善の手段であるとの信念を持っていた。信念に基づき加納はすでに1904年(明治37年)ごろから東京での競馬開催を政府に熱心に働きかけている。加納は最初は馬匹改良の趣旨に賛同する会員から一人500円づつ会費を集めて競馬を催す計画だったが、当時の500円は大金であったため、馬匹改良の趣旨に賛同する者でさえ出資には躊躇した。そのため、加納は馬券発売を願い出、会員からは利益が出たら配当するということで、一口500円の出資を募り、競馬場の開設費を集めた。 日露戦争を機に高まった馬匹改良の声を受け、また政府内でも馬券黙許の雰囲気が高まる中で、加納が計画する東京競馬会は政府から内意を受けた。内意は「政府は賭金(馬券)を黙許する方針であること」と「全国に8か所の競馬場を設置する計画で、東京に置く競馬場はその模範たるべし」、そのためには「多少の金銭援助も行う」とのことであった。この内意は1905年(明治38年)12月である。この内意を東京競馬会が受けたのは加納の熱意の賜物であるとされている。 ==東京競馬会の設立== 加納は競馬場地を東京からほど近く、当時競馬が盛んだった横浜からも通える池上に決め、競馬運営団体名を東京競馬会と定めた。競馬の開催を1906年(明治39年)2月公表し、政府は同年4月これを許可する。 池上競馬場を運営する東京競馬会の設立趣意書では、発起人は加納久宜、賛同者は元陸軍中将で男爵の大蔵平三、外務大臣等を歴任し東京競馬会の設立直前には大蔵大臣だった曽禰荒助、明治天皇の侍従で馬政に大きくかかわった藤波言忠、農商務省農務局長だった酒匂常明、諸大臣を歴任し、東京競馬会の設立直前には農商務大臣を務め後に総理大臣になる清浦奎吾となっており、東京競馬会は陸軍・農商務省・宮内省ら政府の支援の元に設立されたことが伺える。 東京競馬会会長にはそのまま加納が就任し、他の理事は東京府知事尾崎行雄、安田伊左衛門、松平容大、木村利右衛門、森謙吾、千家尊福、石井千太郎、山県勇三郎や、S・アイザックスなど日本レースクラブの外国人達が務めた(東京府知事尾崎行雄はすぐに理事を園田実徳に交代した)。 加納を陸軍から派遣された安田が補佐し競馬場建設は進んでいく。 コースの設計やルール、馬券規則、競馬番組の作成、施設の維持管理などは先行する横浜競馬場に倣った。池上競馬場に続く日本の競馬場も多くは横浜を模範としたので、現在も中央競馬には横浜競馬場と同じく右回りの競馬場が多い。ことに池上競馬場は横浜競馬場の影響を強く受けている。 ==土地と馬の用意== 池上の競馬場予定地一帯では池上本門寺が大地主であった。このため加納らは池上本門寺と交渉し、競馬場予定地一帯を1反歩(991.736平方メートル)あたり1石(米約150キログラム)の借地料で30年の借用契約を結び、また池上本門寺以外の地主や農家の中で土地の借用に応じない者に対しては本門寺から交渉させてこれを買収した。しかし後日、池上本門寺の土地として東京競馬会が借り受けた土地の中に個人所有地が未買収のまま残っていることが発覚し、トラブルになりかけている。このことは1910年(明治43年)、東京競馬会が池上を引き払って目黒に統一される一因ともなっている。池上本門寺前から競馬場までは専用道路を設け、また大森から池上本門寺前までの道路(現在の池上通り)は東京府が改修している。 また、1905年(明治38年)までの日本では横浜競馬場以外では函館や馬産地などで細々との競馬が行われていただけなので競走馬の数が少なかった。また、政府が馬券発売を伴った競馬場新設を認めたのは馬匹改良と馬産奨励の為である。このため、競馬場を運営する競馬会は毎年一定数のクジ引き新馬の購入が義務とされた。池上競馬場を運営する東京競馬会は1906年(明治39年)秋に17,249円で新馬を41頭購入したのを始め、毎期新馬を購入し、クジ引きで会員に配布している。会員に販売する際、内国産馬では抽籤馬購入代金の3割を東京競馬会が補助し会員が馬を購入しやすくしている(豪州産馬の購入にあたっては補助があったとの記載はない。)。 東京競馬会では、池上競馬場の発足前に、競走に慣れた自前の馬を揃えようとした。大江によれば、東京競馬会では池上競馬場発足前に52頭の馬を持ち、1906年(明治39年)11月の日本レースクラブの横浜競馬場秋場所に多数の馬を出場させている。日本レースクラブの方でも池上開場へのご祝儀として、横浜競馬場のレースとして東京競馬場抽籤内国馬競走番組などを行っていた。いわば東京競馬会は池上競馬の予行演習を横浜競馬場で行い、日本レースクラブも積極的に協力したのである。その後も日本レースクラブは池上競馬場運営に諸々の協力をしている。その後東京競馬会は日本レースクラブのレースに賞金を寄付している。 東京競馬会抽籤馬購入数は以下のようになっている。このほかに競馬会会員の任意購入(呼馬)があり、日本レースクラブの会員も持ち馬を池上に出場させている。 JRAは池上競馬初日までに東京競馬会は豪州馬16頭、内国産馬36頭計52頭を購入した。東京競馬会の1906年度(明治39年度)事業概況報告書では、抽籤馬購入数を豪州馬10頭、内国産馬31頭の計41頭としているが、その差については不明である。 これら池上競馬場の競走馬の馬種についてはほとんどは不明である。内国産抽籤新馬のみは馬種の記載があるがすべて雑種馬である。 池上競馬場以外の競馬場に所属する馬も出場した。たとえば池上競馬場内国産1マイルのコースレコードを持つシノリ(サラ系)、1と1/8マイルの記録を持つハナゾノ(トロッター系)は目黒所属など。 騎手は東京競馬会として登録免状を与えた37名が務めた。目黒などほかの競馬場所属馬の騎手はそれぞれの厩舎の騎手が務めている。 ==池上競馬場の施設== 1906年(明治39年)4月に競馬場設置の許可を得た東京競馬会は、直ちに池上競馬場の建設に取り掛かり、1906年(明治39年)11月完成した。 池上競馬場は水田地帯に作ったので、走路の内外を掘って出た土をコース上に盛って日々ローラーを引いて均し固めて走路を整備した。掘った跡は濠になる。内濠は幅7間(約12.7メートル)、外濠は幅2間(3.6メートル)である。 走路はコース長1マイル(1609メートル)、幅18間半(約33.6メートル)で総工費は13万5千円(1906年(明治39年)の日本の国家予算は約5億円)主な建築物は玉座や皇族席、特別会員席、1等観覧席を設けた1号館と2等観覧席の2号館。厩舎は13棟で収容能力は180頭、観客席は1等2等合わせて6000人ほどの収容人数だったという。 建物は開場後にも増築され、1908年(明治41年)には馬見所は1〜3号館、厩舎21棟になっている。開場時はパドックは設けられていなかったともいうが、鞍場と称する出場準備所で馬を観察することはできた。1908年(明治41年)5月に馬政局長官通達で下見所(パドック)の設置が必須となり、出走前の牽運動が義務になった。加納は明治天皇の臨席を予定してメインスタンドである1号館に玉座を設けた。 東側の1号館は1階が208坪(約688m平方メートル)、2階は197坪(約651平方メートル)、3階は111坪(約367m平方メートル)、3階中央が玉座、3階左右は特別席、2階が1等席及び新聞記者席、1階には飲食店や事務所が入る。西側2号館は二等客の馬見所で階下は284坪(約939m平方メートル)、2階2等席は145坪(約479m平方メートル)。設計は東京美術学校教授の古宇田實で、土台はコンクリート。建物は石材や鉄骨も下層の一部に使われているが主に木造である。2号館の西に建てられた3号館も二等席である。走路は開場時には土のコースだったが、1907年(明治40年)秋場所からはコースには芝も植えられた。 馬券売り場(ガラ場)は2号館1階に設けられ、2号館1階東半分は1等席(1号館)の客用の馬券売り場、2号館1階西半分は2等席(2号館)用の馬券売り場である。いずれの売り場でも、銀行の窓口のような窓口が内外両側に30〜40も並び、アナ馬券売り場は外側、ガラ馬券売り場は内側に並んでいた(馬券の種類は後の馬券節を参照)。 飲食店も場内に出店した。飲食店は1号館1階に中央亭、華族会館といずれも高級料理屋が出店し、2号館の域内にもテントを張り花月花壇や八幡楼、ビアホール(恵比寿、札幌、東京)などが出店した。中央亭は洋食を出し、華族会館は料理もビールも1品40銭だったという。2号館側の花月花壇の弁当は1円。当時、巡査の月給が15円、映画館の入場料は15銭の時代である。場内の飲食店は質は良いがあまりに高価なため新聞にも苦言を呈された。場外ではあるが競馬場からほど近い池上本門寺の門前町に軒を並べる露店や飲食店も競馬場の客でにぎわったという。場外ではあるが外柵の東北側に貸桟敷も設けている。 ==池上競馬場の開場== 池上競馬場は11月24日に開催を迎えた。鉄道は競馬に合わせて臨時列車を走らせ、満員の観客席には女性客も2〜3割を占めたという。場内では音楽隊が演奏した。 池上競馬の初開催には東伏見宮の御使や陸軍の将官たちが姿を見せ、2日目にも多数の顕官が訪れ、3日目は天皇の名代で伏見宮、4日目には北白川宮、久邇宮、東久邇宮、朝香宮の各宮のほか寺内正毅陸軍大臣、松岡康毅農商務大臣、アメリカ大使など多数の来賓があった。 馬券発売を伴う大規模な競馬場を運営する経験を持っていたのは横浜競馬場を運営する日本レースクラブだけだったので、東京競馬会/池上競馬場では日本レースクラブの支援を受けた。池上競馬場の審判や検量、発馬、検定などの競走役員はそれぞれの係ごとに横浜競馬場から駆けつけてきた外国人担当者が1‐2人ずつ加わり指導している。横浜で経験を積んでいた外国人は厳密公平であったという。スターターのトレドウェーは発馬やり直しの「カムバック」の叫び声で人気を集め「カムバック先生」とあだ名されたという。 馬場は1906年(明治39年)秋の初開催から1907年(明治40年)春と臨時場所では土、スタートはスターターが振る赤旗を合図だったが、1907年(明治40年)秋の開催からは芝を植え、または発馬機も取り付けた。発馬機がついたので、「カムバック先生」とあだ名されたスターターのトレドウェーの「カムバック」の叫び声も聞かれなくなったとのこと。 池上の初回開催では、競馬場運営を知っている日本人が少なく、門番や馬券の発売事務まで日本レースクラブの外国人の手を借りている。1日に最大12レースで数万枚の馬券を扱う為に100人近くの人を雇い、馬券業務を請け負った外国人は手数料として純益の3割を取ったという。 池上競馬場の時代は池上線も目蒲線もバスもタクシーもまだなかった時代であり、池上競馬場までの交通は大森駅からの人力車が主だった。大森駅から池上競馬場までの人力車の協定料金は20〜25銭だったが、人力車は十分な台数がそろわず、人力車に乗れず仕方なく大森駅から池上競馬場までの3キロあまりを歩いた者も多数いたとのこと。貴顕貴婦人には東京から馬車を仕立てた者もいたが、馬車を用意せず大森駅から人力車を予定した子爵、伯爵でも人力車に乗れずに歩いたという。池上競馬開業を好意的に書いている当日の新聞も観客の交通の便については苦言を呈した。 競馬は予想以上の人気で東京競馬会の役員や係員も忙しく、会長の加納も忙しく働き、会長自ら観客の紛失品の世話まで行ったという。安田伊左衛門は馬場取締役(進行役)を務めたが、横浜競馬場に倣って赤い服を着させられた。明治の男で軍人だった安田は真っ赤な服を着ることを恥ずかしがり大変に困惑したが、競馬が始まってみるとあまりの忙しさに恥ずかしさも忘れたという。 池上競馬場は横浜競馬場を模範とし、後に続く東京周辺の新設競馬場は池上を模範とし、さらに東京以外の競馬場は東京周辺の競馬場を模範とした。 ===入場券=== 馬券発売にあたり政府および東京競馬会が心配したのは馬券=賭博によって風紀が乱れガラが悪い空間が生まれることである。そのため池上競馬場では競馬を上品な場にするために観客を選別しようと入場料・馬券を高額にした。ドレスコード(服装が乱れている者は入場させない方策)も設けた。ことに一等席では正装を求めた。イラストで観客が皆、正装しているのはそのためである。合わせて係員の服装にも気を配らせた。15歳未満の子供は入場を禁止した。池上競馬場では当初の入場料は1等席が3円、2等席を2円とし、馬券も1枚5円からにした(1909年(明治42年)の映画館の入場料が15銭の時代である)。しかし馬券の賭博性が問題になり、政府はさらに観客の選別を進めようと1908年(明治41年)2月、すべての競馬場で1等入場料を5円、2等入場料を3円に値上げさせ、1枚5円だったアナ馬券も1枚10円に値上げを命じた。しかしながら結局は風紀は乱れいかがわしい空間が生まれてしまい、馬券は再禁止されてしまった。 ==池上競馬場のレース== 記念すべき池上競馬場の第一回開催は1906年(明治39年)11月24日、25日と12月1日、2日の4日間で最初から馬券を発売してレースは行われた。それ以降も1907年(明治40年)の春・秋と臨時開催、1908年(明治41年)の春の5回馬券発売を伴う競馬を行う。池上競馬では各シーズン、2週連続各土日の計4日間ずつ開催した(馬券黙許時代の競馬場は横浜競馬場に倣ってどこも年2回のシーズン。各シーズン4日開催)。 馬券が再禁止された1908年(明治41年)秋は予定通り開催できずに競馬としては遅い時期の12月に3日間と短縮されて開催されている。1909年(明治42年)春の池上競馬は開催されず、1908年(明治41年)秋と1909年(明治42年)秋には馬券発売は無しで開催され、競馬会の重役は報酬を辞退している。 1906年(明治39年)当時、横浜競馬場以外では函館などで細々と競馬が行われていただけなので、池上競馬場が発足してすぐには質の高い競走馬を十分に確保出来ず池上競馬の競走馬の質は極めて雑多だったという。番組編成も不慣れなため適切な番組が組めたとも言えず、競走は番狂わせが多く、横浜と比較して高配当のレースが多かったという。馬券売り上げを増やすために1日に9〜10レースも組み、そのため馬は不足し多くの馬が連日出走した。 池上競馬開設をバックアップした陸軍は、競馬場開設前に試乗してコースの出来上がりを確かめ、池上競馬に軍馬・騎兵将校を参加させている。陸軍は優秀な騎砲兵科士官を選び軍服姿も凛々しく勇ましい競馬を行ったという。競馬に出場した部隊は軍馬補充部、近衛騎兵連隊、騎兵第一連隊、騎兵第十三連隊、野戦砲兵第十三連隊、騎兵学校などである。軍馬・軍人は一般の競走に参加した訳ではなく、軍馬・軍人の競走が番外レースとして組まれている。 軍馬・軍人のレースでは賞金は出さず、そのかわり勝利者には鎖付金時計や三つ組の金盃などが贈られた。2位の者にも金時計や金盃など、3位の者にも金盃や銀盃などが贈られている。陸軍大臣が寄贈した刀剣が賞品に出されることもあった。賞金は出ないものの隊や自分の名誉がかかっているので参加した将校も真剣であったという。 軍馬のレースは1場所ごとに4レース(臨時場所では3レース)行い、毎日1レースで、参加する部隊の関係者も私服で大勢訪れ自分の隊の出場馬を応援している。一般レースと同じく馬券も発売されたという。しかしながら、競馬の賭博性が如実になっていくにつれ、軍内部でも競馬への批判の声が出てきたところに、近衛騎兵連隊と騎兵第一連隊のあいだで競走の勝敗についてトラブルが発生した。それを機に軍人が騎乗する軍馬の競馬は廃止された。 池上競馬場のレースでは距離は短いものでは5/8マイル(約1000メートル)から長いレースでは1と1/2マイル(約2400メートル)で行われ、平均すると1907年(明治40年)秋では1マイル弱、1907年(明治40年)秋からは1マイルを若干上回っている。1908年(明治41年)1月には馬政局から新馬戦と未勝利戦は3/4マイル以上、新馬戦優勝戦とそれ以外では1マイル以上の距離にするように指示があった 池上競馬場では馬主には馬主服を登録させ、騎手は馬主服の着用を義務とした。馬主服登録は現代の日本中央競馬会と同じである。 臨時は東京勧業博覧会記念競馬 記念すべき開場初日の第一レースは豪州産新馬の競走で13頭立て、距離は3/4マイル(約1,200メートル)1等賞金350円で行われ勝ち時計は1分32秒62である。初日の人気レースは第4競走の内国産馬のレースで7頭立てで行われ距離は3/4マイル1着賞金は400円勝ち時計は1分35秒47である(当時公務員の初任給が50円、巡査の月給が15円、酒一升が60銭だった時代である)。 斤量(負担重量)の単位はポンド。 ==馬券== 池上競馬場の初回開催では馬券の発売には枚数、金額、払い戻し額には一切制限がくわえられなかったという 池上競馬場の初開催・1906年(明治39年)秋場所では、横浜競馬場とおなじく馬券は「ガラ」と「アナ」の2種類が発売された。 ガラは正式にはロッタリー方式、あるいはスィープステークス方式馬券と言い、馬券を買った時点では自分の馬券がどの馬の物かわからない馬券である。馬券購入後にくじ引きで自分の馬券の番号に対応する馬が決まるのである。つまり、宝くじと馬券を合わせたような馬券と言われる。ガラは馬を研究・検討して買う馬券ではなく運任せであるので政府が認めた馬匹改良の手段あるいは馬匹の鑑定投票という趣旨からはまったく外れる馬券である。しかもきわめて射幸性・賭博性が高いとして池上競馬場の初回開催一回のみで以後は禁止されてしまう。これは池上ばかりでなくすでにガラ馬券が繰り返し発売されていた横浜でも禁止となる。ガラ馬券は1枚10円で発売された。もう一つは「アナ」と呼ばれたパリミュチュエル方式で現代の馬券と同じ方式である。ただし現代の馬券のように連勝式や複勝式はなく単勝式のみである。アナ馬券は最初1枚5円で発売され後に1枚10円に値上げされた。アナ馬券は競馬黙許時代の全競馬場で採用されていた馬券である。 馬券発売に際し政府が恐れたのは馬券の賭博性である。そのため胡乱な者を排除しようと入場料を高額にし、馬券も高額にして、さらに服装もきちんとしているものしか入場させないようにして誰もがおいそれとは参加できない方策を取った。ガラ馬券は1枚10円、アナ馬券は1枚5円だが当時公務員の初任給が50円、巡査の月給が15円、酒一升が60銭だった時代である。それでも大阪から来たというある観客は3000円もの馬券を買い、また兜町から来た団体は1人当たり300‐500円も使うこともあったという。 庶民には馬券は高価だったが、しかし、庶民から少額ずつ集めて代表して馬券を購入する宰取という商売が現れた。宰取の手数料は1割である。宰取は事前に馬や騎手を調べておいて情報提供し、庶民はその情報で賭ける馬を決めた。長屋住まいの女房や商家の手代なども宰取の客になった。宰取によるノミ行為も行われていたという。そうして金持ちばかりでなく庶民にも競馬は広まっていった。 池上競馬場の初日、1906年(明治39年)秋の第一日目は招待客約1500人、一等客240人、2等客750人とその後の池上競馬からするとやや少な目の観客数でのスタートだったが、それでもアナ馬券が13,362枚売れ売り上げは66,810円、ガラ馬券は4,980枚で49,800円売り、合計で116,790円の売り上げだった。売り上げに対して主催者取り分は1割なので、初日1日で東京競馬会は馬券から11,679円の利益とその他にも入場料収入があった計算になる。1906年(明治39年)秋場所4日間では新聞報道では85万円、安田伊左衛門の回想では96万円の馬券売り上げだったといい、賞金18,880円など経費を差し引いても大きな利益が出たという。 その後の開催では売り上げはますます増え、1908年(明治41年)春場所では4日間の開催で202万円あまりの馬券を売り、単純計算で東京競馬会には20万円以上の粗利益が入り、他に入場料収入も2万円以上あった。競馬賞金4万円余りや経費を引いても、4日間の開催1場所だけで池上競馬場の総工費13万5千円に見合う利益が出たものと思われる。 #日本中央競馬会1967のp. 126には池上競馬初開催の4日間で売上700〜800万、倶楽部の収入は7〜80万とあるが明らかに桁の間違い。同じ書のp. 188では96万円となっており、また当時のマスコミも85万円、安田伊左衛門の文章でも96万円となっている。 ==明治天皇と池上競馬場== 明治天皇は馬に関心が深く、また1904年(明治37年)の馬政勅諚が池上競馬や馬券発売黙許のきっかけとなったが、池上競馬場にも明治天皇は関心を持っている。加納は天皇の来場を期待して馬見所には玉座を設けた。明治天皇自身の池上競馬観覧こそはなかったものの名代を派遣されて池上競馬の様子を聞き、また毎回皇族を派遣している。 明治天皇は競馬の目的は馬の見た目の美しさを求めるものではなく、馬の速力など馬の能力の優劣を競うべしとの考えで、池上競馬の成績表(タイム・斤量などの比較データ)を取り寄せた。1906年(明治39年)11月、加納は宮内大臣に「御賞典」の下賜を要望した。天皇は池上競馬場の初開催から御賞典を下賜している。天皇の御賞典は池上競馬場と横浜競馬場では各開催シーズンごとに下賜され、帝室御賞典競走と名付けられたこの競走は後の天皇賞へとつながっていった。 ===帝室御賞典競走=== 今日の天皇賞の前身にあたる帝室御賞典競走は池上競馬場では1906年(明治39年)秋、1907年(明治40年)春、秋、1908年(明治41年)春、秋、1909年(明治42年)秋に行われ、それぞれ距離は1マイル(1609メートル)内国産馬限定のレースとして行われた(横浜競馬場や他の競馬場でも帝室御賞典競走は行われている)。 池上での初となる1906年(明治39年)秋3日目の帝室御賞典競走は内国産馬第1レースで7頭立て。1着は12歳の雑種*247*馬のカツラ(馬主槙田吉一郎)が勝ち、天皇下賜の銀製花盛鉢と賞金400円を得た。1マイルの勝ち時計は2分7秒35。 1907年(明治40年)春の池上競馬帝室御賞典競走は3日目の内国産馬第2レースで6歳牡馬のハナゾノ(馬主園田実徳)が1分56秒63で勝利し、同年の秋2日目第8競走5頭立てではホウエン(馬主園田実徳)が2分04秒の時計で勝利し、御賞典を獲得、1908年(明治41年)春の池上競馬帝室御賞典競走は2日目の内国産馬第1レースで7歳牡馬のスイテン(馬主安田伊左衛門)が1分52秒71で勝った。1908年(明治41年)秋は2日目内国産馬第1レースが帝室御賞典競走で勝ち馬はフクゾノ、時計は1分58秒48。1909年(明治42年)秋は2日目に行われ、ウラカワが勝っている。(明治の馬名は漢字で表記されることもあったが、ここではカタカナで統一した) ※本節では、馬の年齢の表記に関して「旧表記(2000年以前の表記方法)」により記述している。このため本節で「7歳」といった場合、2001年以降の表記では「6歳」に相当する。詳しくは馬齢#日本における馬齢表記を参照。 ==馬券黙許時代== 1905年(明治38年)12月の東京競馬会への馬券黙許の内達によ、り1906年(明治39年)11月馬券発売を伴った第一回池上競馬が開催されるが、これより先、1906年(明治39年)4月、馬券発売に肯定的な雰囲気が醸成されるなかで関八州地区主催で上野不忍池で関八州競馬大会が開催された(非公認の競馬である)。この時点では馬券は黙許されておらず、関八州競馬大会では公式には馬券は発売されていないが、実際には闇での賭けは盛んにおこなわれていたという。また、関八州競馬大会が行われた上野には庶民が多く詰めかけ大変な盛況だったという。 このほかにも闇で競馬を行う者が日本各地で続出し、これを見て1906年(明治39年)10月と12月、馬政局は[許可された法人にあらざる競馬会の取締通達]を発し、馬券発売黙許する公益法人の規則を明治39年12月10日閣令第十号で定めた。 政府が定めた馬券発売を黙許される公益法人の認可要件として競馬開催に必要な建物と1マイル以上の専用の馬場を持つこと、毎年2回以上競馬を行い、競走馬は明け4歳以上とし、競馬会は毎年新馬を購入することと剰余金の一部を馬産奨励に使うことを義務とした、馬券は横浜で既に採用されている方法(ガラ・アナ)以外の馬券は禁止する、などとされた。 池上競馬場を運営する東京競馬会に馬券発売を伴う競馬の開催が許可されたのを見て、川崎でも競馬会設立の動きがあり、1906年(明治39年)9月には川崎競馬場を予定する京浜競馬倶楽部も許可を受けた。 明治39年12月10日閣令第十号での馬券黙許法人の規定や、1906年(明治39年)10月および12月の馬政局長官の「許可された法人以外の馬券禁止通達」(裏返せば許可された法人の馬券発売黙許)および池上競馬第一回の成功を見て、全国に公益法人設立の動きが加速する。 池上競馬を見て馬券発売を伴う競馬が利益の上がることだと明らかになり、全国で1907年(明治40年)初めで70以上、1908年(明治41年)初めまでに200以上もの団体が競馬開催を目的とした法人許可申請を出す。 先行して馬券発売を黙許された横浜、池上に加え、池上に続いて許可を得た川崎、既に競馬場施設を持っていた函館、さらには目黒、板橋、札幌、新潟、松戸、藤枝、京都、鳴尾(鳴尾東浜)、関西(鳴尾西浜)、小倉、宮崎の各地の競馬会が競馬法人設立許可を得て競馬場を新設した。馬券黙許時代にはこれら15の競馬場が許可を得た。 開催順としては 1906年(明治39年)秋に横浜、池上、1907年(明治40年)春に川崎、松戸、1907年(明治40年)秋に目黒、函館、関西(鳴尾西浜)、宮崎、1908年(明治41年)春に札幌、板橋、鳴尾(鳴尾東浜)、京都、小倉、新潟で競馬は開催された。(藤枝は開設が馬券再禁止後になってしまったので馬券発売を伴う競馬は行っていない)。 横浜と池上以外の13か所の競馬場はトンネル会社を作って利益確保に奔走した。公益法人である競馬会は表向きは利益を自由にできないので、何々馬匹改良会社と言った名称の競馬場所有会社をつくり、競馬実施にあたって高額な競馬場賃借料を払うという形で自由に処分できる利益を得たわけである。もちろん各地の競馬会と何々馬匹改良会社と言った名称の競馬場所有会社の役員は重複している。池上競馬場を運営する東京競馬会と横浜競馬場を運営する日本レース倶楽部は後続の競馬場が金儲けに走り秩序が乱されていることに懸念し当局に厳しい取り締まりを求めた。 ==混乱と馬券の禁止== 明治の日本では一切の賭博は禁止され、わずかに横浜でのみ例外的に馬券が売られている状況で、一気に全国で無制限の馬券を伴う競馬が開催され出したのである。それまでは非合法なものでしかなかった賭博を公然と行えるようになった日本人は一気に賭博の「興奮と熱狂」につつまれていった。仕事を放りだして競馬場に通い詰める者が続出し、身の丈を超えて多額の馬券を買って破産し娘を売る者、店の金に手を付ける者、泥棒に及ぶ者、競馬で財産を失って首を吊る者が現れた。 競馬場側も金儲けに走り、粗雑な運営でクレームが続出し観客が暴れる騒動が頻発する。審判や発馬なども不手際が多く観客の騒ぎになることもあり、競走で八百長すら行われ、それを嗅ぎ取った観客がやはり暴れる、といった騒ぎが続出した。特に営利目的が露骨で粗末な設備と運営が行われた松戸競馬場では競馬場側が配当をごまかすなどの不正な行為を行い、抗議する観客のクレームをやくざを雇って封殺するなどということにまで及んだ。鳴尾では競馬会の内紛や詐欺などが発覚した。そもそも競馬場の許可自体にも贈収賄の噂すら立った。各競馬場の模範たるべしと期待された池上競馬場でも払い戻しにおける紛争が起きている。政府は場当たり的に様々な規制を行うが効果なく、大手新聞を始めマスコミは一斉に競馬を攻撃し、マスコミの攻撃は競馬場のみならず馬券を黙許した政府にも及んだ。加納や一部の政治家・官僚は馬匹改良のために馬券を伴う競馬開催は必要だと訴えるが馬券への世論の風当たりは強く、1908年(明治41年)10月、政府は馬券を禁止した。 ==馬券禁止後の池上競馬== 馬券の禁止に東京競馬会を含む各地の競馬会は動揺し開催を延期した。延期して開催された池上競馬場の1908年(明治41年)秋場所は競馬としては遅い時期の12月18,19,20に3日間と日程も短縮して行われた。馬券を発売しない競馬は観客からそっぽを向かれ、秋場所初日は1等入場券が5枚、2等入場券が7枚しか売れず、招待客を入れても競馬場は閑古鳥が鳴いた。馬券収入が無くなったので賞金額も前場所の42,000円余りから2500円へと激減した。 馬券が禁止された直後の1908年(明治41年)秋の池上競馬には、政府から補助金が25,000円が出された、他、各地の競馬会にも補助金は出されたが、競馬の運営に25,000円程度では到底足りる金額ではなかった。そのため全国の競馬関係者は一斉に馬券復活運動に立ち上がる。補助金による競馬ではなく馬券を売る競馬を求める各競馬会は明治42年春場所は開催しなかった。国会が開かれていた東京に全国から競馬関係者が集合し、政府に馬券復活の請願活動を行う。この運動は激しくついに1909年(明治42年)春の衆議院では議員立法で提出された馬券を認める法案が通過した。しかし、政府と貴族院の抵抗は強く貴族院の反対によって結局は馬券禁止は覆ることはなかった。この後の日本競馬は政府の補助金によって行われる補助金競馬時代に移行する(馬券発売が認められるのは1923年(大正12年)の競馬法成立を待たなければならなかった)。 1909年(明治42年)春の開催をあきらめて行った馬券復活運動は実らず、補助金競馬時代に移行した同年秋に3日間開催したのが、結果的には池上競馬場の最終回となった。 ==池上競馬場の閉鎖== 競馬が世論の指弾の的になり、政府は馬券を禁止するだけではなく、同一地方に複数の競馬団体や利益の抜け穴となるトンネル会社の存在を認めない方針をとった。 1909年(明治42年)春、政府は東京競馬会(池上)、日本競馬会(目黒)、京浜競馬倶楽部(川崎)、東京ジョッケー倶楽部(板橋)、総武競馬会(松戸)の5者を呼び合同を促した。総武競馬会(松戸)のみはこれに従わなかったが、総武競馬会を除く4つの競馬会は1909年(明治42年)に合同する仮契約を結んだ。合同して新設される東京競馬倶楽部は各競馬会の資産を総額160万円あまりで購入し、政府は東京競馬倶楽部に20年間毎年8万円あまりの補助金を交付することに決めた。 東京競馬会(池上)、日本競馬会(目黒)、京浜競馬倶楽部(川崎)、東京ジョッケー倶楽部(板橋)の4つが合同して出来た東京競馬倶楽部は、1910年(明治43年)6月、地形や交通の便から目黒競馬場を使用することに決め、池上競馬場は廃止された。 池上競馬場の造成に伴って周辺の道路の拡幅など交通の整備も行われた。池上競馬場閉鎖後の跡地一帯はのちに分譲され、現在は住宅地となっている。その分譲地の一角には競馬場にちなんで「徳持ポニー公園」が設けられており、その敷地にはかつての池上競馬場についてのモニュメントが設置されている。 ==資料と研究== 東京競馬会からの申請書、報告書、決算書類、政府や関係団体から東京競馬会に当てた許可書、命令書や照会、各種の手紙、関係法令、池上競馬場に関する新聞報道など東京競馬会と池上競馬場に関する資料は東京競馬会及び東京競馬倶楽部史1941が掲載している。日本競馬史1967も一部資料は掲載している。池上競馬場が切り開いた馬券黙許時代の政治的・文化的な面からの研究には、立川1991などがある。 =サンドマン (ヴァーティゴ)= 『サンドマン』(原題: The Sandman)とはDCコミックスから刊行されたニール・ゲイマン原作のコミックブックシリーズ(1989―1996年、全75号)。コミックの読者層以外にもファンを持つカルト的なヒット作となり、新しい刊行形態であったグラフィックノベルの普及の一翼を担った。批評家からの評価も高く、1991年にはシリーズ中の1号が世界幻想文学大賞最優秀短編賞を受賞した。 ==概要== 創刊時のペンシラー(鉛筆画の下絵)はサム・キース(英語版)が、インカー(ペン入れ)はマイク・ドリンゲンバーグ(英語版)が担当したが、後に多くの作画家が制作に参加した。シリーズを通じてレタリングはトッド・クライン(英語版)、表紙画はデイヴ・マッキーン(英語版)による。オリジナルシリーズは月刊コミックブックとして1989年から1996年にかけて全75号が発行され、第47号からはDC社の新インプリントヴァーティゴ(英語版)に移籍して主力タイトルとなった。後に全10巻のペーパーバック単行本、箱入りハードカバー、注釈入り版などが販売されているほか、完結後20年以上にわたってスピンオフ作品の刊行が続いている。1998年には日本語版単行本の刊行が始まったが、原書第3巻までで途絶した。 永遠不滅の存在であった主人公ドリームは人間の虜囚となり、それによって自らの中に生じた変化と向き合う中で、生き方を変えるか死かの選択を迫られる。本作は初め典型的なダーク・ホラーとして始まったが、後に古今の神話の要素を取り入れて精緻に構成されたファンタジーとなり、最終的にドリームを悲劇の主人公(英語版)として結末を迎える。ドリーム(夢)はエンドレス(終わりなき者)と呼ばれる7体の兄弟姉妹の一人で、ほかにはデス(死)、ディザイア(欲望)などがいる。これら形而上的概念が擬人化されたキャラクターのほか、神話や歴史上の人物がDCコミックスの設定世界で物語を展開する。 本作は批評家から高く評価され、『マウス』『ウォッチメン』『バットマン: ダークナイト・リターンズ』と並んで、一般書と同列に『ニューヨーク・タイムズ』のベストセラーリストに載せられたわずかなグラフィックノベル(長編コミック本)の一つとなった。『エンターテインメント・ウィークリー』誌が「1983―2008年の書籍100選」リストに挙げたグラフィックノベル5冊に入り、第46位を占めた。コミック作品として初めて世界幻想文学大賞を受賞したことは話題を呼んだ。ノーマン・メイラーは本作を「知識人のためのコミック・ストリップ」と呼んだ。本作で筆名を上げた作者ニール・ゲイマンは小説や映像作品の脚本などにも活躍の場を広げた。 本作の映画化やテレビドラマ化の企画は1990年代から複数存在したが、どれも立ち消えになっていた。2013年、ワーナー・ブラザースはヴァーティゴ原作映画の公開予定リストに本作を載せた。ストーリー原案としてデヴィッド・S・ゴイヤー、主演・監督としてジョゼフ・ゴードン=レヴィットの名が挙げられた。その後脚本にエリック・ハイセラーが迎えられ、2016年3月5日にはゴードン=レヴィットが降板したと伝えられた。 ==あらすじ== 主人公ドリームは夢が具現化した存在で、モルフェウスなど多くの異名を持つ。ドリームはエンドレスと呼ばれる7体の兄弟姉妹の一人で、上に兄デスティニーと姉デスがおり、下には弟ディストラクション、弟/妹ディザイア、妹ディスペア、妹ディリリウムがいる。彼らは概念や現象が人格を取ったもので、宇宙全体にわたってその現象を管理する義務を負っており、自らの支配する領域では強大な力を持つ。神と同一視されることもあるが、人間が信仰する神々よりも早く、世界そのものと同じ時期に生まれたとされる。 物語の冒頭で、ドリームは魔術教団によって70年にわたり囚われの身となった。刊行時の現代に至って脱出を果たしたドリームは幽閉者に復讐し、荒れ果てた夢の王国の再建に取り掛かる。かつてのドリームは古代神のような厳格さを備え、自他の感情に関心を持たず、自尊心のため冷酷に振る舞うこともあったが、長年の幽閉から得た教訓により変わり始める。しかし、彼のように数10億年にわたって存在してきた者にとって、新しい生き方を身につけるのはとてつもない難事であった。ドリームはかつての恋人を地獄に落としたことや、エンドレスの存在意義に疑問を抱いて出奔した弟を傍観したことなど、過去に犯した過ちを償おうとする。しかしその中で、長年にわたって背を向けてきた息子オルフェウスを安楽死させることを余儀なくされる。打ちのめされたドリームは、彼を罰しようとする復讐の女神エリーニュスに自身の命を差し出す。そして、彼が後継者に選んだ、より慈しみ深い存在がドリームの新しい人格となる。 物語は主にドリームが支配する夢の王国ドリーミングおよび「目覚めた者の世界」を舞台として展開され、折に触れて地獄、妖精国、アスガルド、またほかのエンドレスの領域が描かれる。本作は公式にDCユニバース(DCコミックス社のシェアード・ワールド)内の物語とされているが、その主流であるスーパーヒーロー・キャラクターは初期の数巻を除けばほとんど登場しない。メインストーリーは現代の出来事として書かれているが、歴史上の人物や出来事を扱った短編エピソードも数多い。短編 Men of Good Fortune はその一例で、数世紀にわたるイングランドの変遷が描かれており、ウィリアム・シェイクスピアなどが登場する。 ==各巻の内容== 第3、6、8巻は1号完結の短編を集めたものである。それ以外の巻にはそれぞれ一つの長編ストーリーが収録されているが、途中でテーマを要約・補足するための短編が挿入される構成が多い。 ===第1巻: プレリュード&ノクターン=== 第1―7号は More Than Rubies という長編ストーリーを構成している。各号はそれぞれ趣向の異なるホラーストーリーとして書かれており、第1号 Sleep of the Just は古典的なイングリッシュ・ホラー、第2号 Imperfect Hosts はDC社やECコミックスのホラーシリーズの伝統に沿ったもの、第4号 A Hope in Hell はパルプ雑誌『アンノウン』風の物語である。第6号 24 Hours は短編ホラーストーリーとして評価が高く、DCコミックスによって自社のホラーコミックのオールタイムベスト1に挙げられている。作者ゲイマンはこの号をシリーズ中のホラー要素の極北と位置づけており、平凡な人々が理不尽な破滅を迎える様子を描くことで、それ以降の号で予定調和的な展開を予想させないようにする意図があったと語っている。 第8号 The Sound of Her Wings はエピローグとなる独立した物語で、エンドレスの兄弟姉妹の二人目であるデスが登場した。読者の多くはこの号をシリーズの転機と考えており、以降物語の焦点はドリーム個人に移っていく。担当編集者カレン・バーガーによれば、この号でシリーズが様式的な冒険物から飛躍したというだけでなく、技巧的な作家であったゲイマンが初めてエモーショナルな核を表現したという。ゲイマン自身は作家としてのオリジナリティが初めて形になったのがこの号だと述べている。 シリーズのペンシラーはこの巻の半ばでサム・キースからマイク・ドリンゲンバーグに交代した。 ===More Than Rubies=== 1916年、魔術師ロデリック・バージェスは永遠の命を得るため死の化身デスを捕えようとするが、誤ってその弟ドリームを捕らえてしまう。ロデリックは取引を持ちかけるが、ドリームは言葉を交わすことなく幽閉されたまま70余年にわたって機会を待ち続ける。彼の不在により夢の領域は乱れ、地上では覚めない眠りに陥る者が続出する。やがて牢番のうたた寝に乗じて牢獄を抜け出したドリームは、ロデリックの後を継いでいたアレックス・バージェスを永遠の悪夢に落とす。ドリームはドリーミング(夢の領域)の朽ちかけた居城に帰還し、カインとアベルの兄弟や忠実な司書ルシエンに迎えられる。彼は三人の魔女を召喚し、幽閉中に奪われた力の象徴物(砂袋、ヘルメット、ルビー)の在りかを訪ねる。乙女・母・老婆の三人はそれぞれ一つずつ手掛かりを明かすと、「運命に感謝は不要だ」と嘲笑しながら去る。ドリームは手初めに悪魔祓いジョン・コンスタンティンの元恋人から砂袋を取り戻し、次に地獄へ向かう。地獄ではかつての恋人ナダの牢獄に行き合わせるが、救いを求める懇願を退けて歩み去る。そしてルシファーら地獄の公子たちの立ち会いの元、ヘルメットを入手した悪魔コロンゾンに機知の戦いを挑む。ヘルメットを奪い返すことには成功するが、地獄の権威を貶める発言を行ったためルシファーの遺恨を買う結果になる。最後に訪ねたヒーローチームのジャスティス・リーグからは、彼らの敵ドクター・デスティニー(ジョン・ディー)がルビーを所持していたことが判明する。ちょうどそのころ、ディーは収監されていたアーカム・アサイラムから脱走していた。ディーは1軒のダイナーに入り、居合わせた人々の現実をルビーの力でねじ曲げて弄ぶ。24時間が経過した後、ディー以外に動いている者はいなかった。ドリームはディーからルビーを取り戻そうとする。人々の夢を戦場とした戦いの中、ディーはドリームを消滅させるため彼の魂が封じられたルビーを砕く。しかしそれは封じられていた力の全てをドリームに返すことになった。満足したドリームはディーに慈悲をかけてアーカムに送り返した。三人の魔女は第9巻で「慈愛深い者たち(カインドリー・ワンズ)」として決定的な役割を果たす。ナダのエピソードの前日譚は次巻で、その結末は第4巻で語られる。 ===The Sound of Her Wings=== 当面の目的を失ったドリームは公園で鳩に餌をやりながら思いに耽る。そこに姉のデスが現れ、一人でふさぎ込むドリームを元気づけようとするが、しまいに叱りつけて自らの日々の務めに帯同させる。人種、年齢、境遇を問わず、そのとき死を迎えたすべての人間のもとを、デスは旧知の友人のように訪れる。死者たちを別の世界に送る翼の羽ばたきを聞きながら、ドリームは心の重りが取れていくのを感じ、エンドレスの義務を思い出す。 ===第2巻: ドールズハウス=== 収録号の大部分は長編 The Doll’s House を構成している。プロローグとなる第9号 Tales in the Sand、および第13号 Men of Good Fortune は過去の時代を舞台とした短編である。中世イングランドを舞台とする第13号の作画は、歴史ファンであるマイケル・ズリ(英語版)によって行われた。 正ペンシラーのドリンゲンバーグが締め切りを破りがちだったため、第12号はクリス・バチャロ(英語版)が代役を務めた。バチャロはこれがメジャーデビュー作であり、後にデスのスピンオフシリーズを描いて脚光を浴びた。 ===Tales in the Sand=== アフリカの砂漠の只中、成人の儀式に臨んだ少年は部族の男に語り継がれてきた物語を聞く。はるか昔、英明な女王ナダは旅の若者に恋をし、夢の国まで追っていった。ドリームもまた、自らのために世界の垣根を越えて来たナダに心を奪われる。しかしナダは相手の正体に気づくと、禁忌を恐れて逃れようとするが、結局ドリームの手に落ちる。その結果部族に災厄が降りかかり、ナダは身を投げる。プライドを傷つけられたドリームは彼女を地獄に落とす。 ===The Doll’s House=== ドリームの弟/妹である両性具有のディザイアは、双子の妹ディスペアに「夢の渦」が発生したことを伝える。二人はドリームへの陰謀を企んでおり、ナダの一件は失敗した試みの一つだった。一方ドリーミングでは、ドリームが臣下から4体の夢が逃亡したという報告を聞く。その様子を地上人ローズ・ウォーカーは夢に見ていた。ローズの祖母ユニティは、ドリームの幽閉に影響されて人生の大半を眠りの中で過ごした女性だった。ドリームはローズが「夢の渦」であると気づき、逃亡した夢たちが彼女に引き寄せられると予測して監視下に置く。ローズは失踪した幼い弟ジェドを探すためアメリカに渡る。滞在した下宿には個性的な住民がそろっていた。その中の一人、「アマチュアの遍歴騎士」を自称するギルバートはジェドの捜索に同行する。ジェドの精神には脱走した悪夢であるブルートとグロブが住みついていた。彼らは死者ヘクター・ホールの魂にサンドマンの名を与え、自分が子供の夢を守るヒーローだと信じ込ませて利用していた。その妻リタ・ホールもまた、身重のまま何年も夫とともに夢の中で暮らしていた。ドリームはローズを媒介としてジェドの精神に侵入し、逃亡者を罰するとともにヘクターの幽霊を消滅させる。そしてリタに対し、胎内の子をいずれ召し上げると宣言する。ジェドの足取りを追っていたローズとギルバートは、投宿したホテルで連続殺人者のコンベンションに出会う。逃亡した悪夢の1体、コリント人は彼らの名誉ゲストだった。ドリームはローズを救い、コリント人を破壊するとともに、連続殺人者たちに彼らがどれほど卑俗な存在かを思い知らせる。ジェドはコリント人の元から救い出される。下宿に戻ったローズが眠りにつくと、夢の渦の活動が本格化し、彼女を中心として住人の夢が混じり合い始める。ドリームは夢の領域を守るためローズを殺さなければならないと告げる。ギルバートは4体目の夢「水夫の楽園」の正体を現して抗弁するが無駄に終わる。しかし、ローズの祖母ユニティが孫娘に代わって渦を身に宿し、そのまま自然死を迎えて渦を消滅させる。事態が沈静化した後で、ドリームはディザイアを詰問する。その昔、眠りの中にあったユニティを妊娠させたのはディザイアであった。すなわちローズはドリームの親族に当たり、その血を流していれば掟によってドリーム自身が破滅するはずだった。人間をゲームの手駒とみなすディザイアに対し、ドリームは警告を与える。彼らエンドレスこそが、人間の意識によって操られる人形なのだと。ローズの隣人として登場した夫婦の一人、バービーは第5巻の主人公となる。リタの子は第9巻で重要な役を果たす。 ===Men of Good Fortune=== 1389年のイングランドが物語の発端となる。デスによって夢の国から連れ出されたドリームはパブに入り、死すべき運命の人間たちの会話に耳を傾ける。客の一人ホブ・ガドリングは飲み仲間に対し、自分は永遠に死ぬつもりがないと言い放つ。興をそそられたドリームはホブの願いを叶え、それ以降100年ごとに同じパブで落ち合ってグラスを交わす約束をする。 ===第3巻: ドリームカントリー=== 独立した短編4篇からなる。第1話 Calliope にはホラーコミックの作画で名高いケリー・ジョーンズ(英語版)が「ユニバーサル・ホラー風」のアートを提供した。第2話 A Dream of a Thousand Cats は猫が主役となる物語で、引き続きジョーンズが作画を担当した。第3話 A Midsummer Night’s Dream(『夏の夜の夢』)はドリームがウィリアム・シェイクスピアに表題の戯曲を書かせたというストーリーで、シリーズ最高傑作と呼ばれることもあり、1991年に世界幻想文学大賞(短編賞)を受賞した。作画を手掛けたチャールズ・ヴェス(英語版)はファンタジーやおとぎ話のジャンルを得意としており、『夏の夜の夢』の戯曲本に挿絵を描いたこともあった。第4話 Fa*201*ade はシリーズの中でもやや例外的なエピソードで、通常のDCユニバースに所属するヒーローキャラクターにスポットが当てられている。ペンシラーはオリジナル作品『ディスタント・ソイル(英語版)』で知られるコリーン・ドラン(英語版)である。この巻は収録号が少ないため、第1話 Calliope のスクリプトも併せて収録された。 ===Calliope=== 作家として行き詰っていたリチャード・マドックは、老齢の作家からギリシアの女神ムーサの一柱であるカリオペを譲り受け、自宅に監禁してレイプすることで霊感を得る。カリオペは三位一体の母神メレテー、ムネーメー、アオイデーを呼び出して救いを求めるが、女神たちにその力はない。一縷の望みとして、かつてカリオペとの間に子をもうけたオネイロス(ドリーム)の名が挙げられ、彼と憎み合う関係になっていたカリオペは絶望する。やがて長年の幽閉から逃れたドリームが救出に現れ、かつての冷厳さを知っていたカリオペを驚かせる。ドリームはマドックに無限のアイディアを与えて狂気に追いやった。「カリオペ」のプロットは刊行後2―30年経つと非常に一般的なものとなった。ウェブメディア「ストレンジ・ホライズン」は類型的なプロットを列挙する記事の中で「創作者がミューズと出会って霊感を得る。多くはミューズを監禁する」というものを挙げた。作者ニール・ゲイマンはこの記事に言及し、「カリオペ」の執筆以前に同様の物語を読んだ記憶はなく、自作がミームの源流となった可能性があると述べている。 ===A Dream of a Thousand Cats=== そのシャム猫は昔、産んだ子猫たちを飼い主に殺された。彼女は苦悶の中で眠りにつき、「夢の猫(ドリーム)」から幻視を授かる。今とは異なる現実において、猫は巨大な体躯を持ち、矮小な人間たちを支配していた。しかし、現実を形作っているのは夢だと説く予見者が人間の中に現れ、夢を通じて猫の世界を人間の世界と入れ替えたのだった。そこでシャム猫は伝道の旅を始め、猫たちに説く。ほんの千匹の猫があるべき現実を夢に見たならば、世界はそれに従うだろうと。聞き手の猫の多くは物語をただ楽しんだが、白い子猫は心からそれを信じた。 ===A Midsummer Night’s Dream=== 1593年、ウィリアム・シェイクスピアの一座はドリームの依頼により新作『夏の夜の夢』の野外公演を行う。地上絵の巨人(英語版)が開いた扉から現れたのは、妖精国から招待された観客たちだった。その中には劇に登場するティターニア、オーベロン、ロビン・グッドフェロー(パック)らもいた。観衆は劇を大いに楽しみ、パックも賛辞を漏らす。それは実際に起きたことではないが、にもかかわらず現実の真の反映なのだと。パックは自身を演じる役者を眠らせて代わりに舞台に上がる。一方、インド人の取り替え子を演じていたシェイクスピアの息子ハムネット(英語版)はティターニアに魅入られるが、舞台のことしか頭にない父親はそれを見過ごす。ドリームがシェイクスピアにこの戯曲を依頼したのは、かつて地上に住んでいた妖精たちが物語を豊かにしてくれたことへの礼として、人間の間に彼らの記憶を残そうとしたためだった。終幕が近づき、妖精たちが地上に留まれる時間も尽きていく。しかしパックは去ることを拒み、『夏の夜の夢』の結びの台詞を口にしながら闇の中に消える。ハムネットは早世したことが伝えられる。シェイクスピアは前巻の短編 Men of Good Fortune でドリームと出会った。シリーズ最終話ではもう一つの戯曲『テンペスト』が題材となる。ロビン・グッドフェローは第9巻で再登場する。 ===Fa*202*ade=== レイニーはかつてスーパーヒーローだったが、体の化学組成を変える能力が制御できなくなって引退し、異様な姿を恥じて引きこもっている。旧友から食事に誘われたレイニーは、醜い素顔を隠すため鉱物質の顔面を作り出して出かけるが、それが剥がれ落ちてしまい、アパートに逃げ帰る。通りがかったデスは古い仮面を捨てるようレイニーを諭すが、彼女は死を望み、自らの不死身の能力を嘆く。根負けしたデスは明かす。宿敵アペプに対抗するため、レイニーを含む多くの人間に変身の力を授けた太陽神ラーは、実際には数千年前にすでに戦いを終えていた。しかし神話は「夢の国」に残り、人々を縛り続けるのだという。デスの勧めに従い、レイニーは沈みゆく太陽に向けて解放を願う。 ===第4巻: シーズン・オブ・ミスツ=== タイトルはジョン・キーツの詩「秋に寄せて (To Autumn)」の書き出しの一句である。この巻は2004年にアングレーム国際漫画祭で最優秀シナリオ賞を受賞した。 実在の神話が全面的に使われた長編 Season of Mists の前後にプロローグとエピローグが置かれ、幕間劇としてイギリスのボーディングスクールを舞台にした短編が挟まれている。本シリーズはホラーとして始まったが、この巻の前後からファンタジー色が強くなっていき、主人公ドリームのキャラクターも複雑さを増して、ストーリー的にも絶頂期を迎えたと評されている。 メインストーリーの作画はケリー・ジョーンズが、プロローグとエピローグはドリンゲンバーグが、幕間劇はマット・ワグナー(英語版)が担当した。「神々や悪魔や天使、混沌の王女や謎の段ボール箱」が入り乱れる奔放なストーリーはジョーンズの画風に合わせて構想されたものである。現代世界における神話のテーマは、後に小説『アメリカン・ゴッズ(英語版)』へと発展した。 ===Season of Mists=== エンドレスの長兄デスティニーが招集した家族会議の席上で、ディザイアはドリームが過去の恋人ナダを地獄に落としたことを話題に出し、狭量を嘲笑う。デスの諌めもあり、ドリームは過ちを認めてナダを救い出そうと考える。彼は強大な力を持つルシファーと戦いになることを恐れつつ、臣下や友人に後を託して旅立つ。しかし地獄はもぬけの殻だった。訝るドリームに対し、ルシファーは地獄の支配者としての役割に倦み疲れたと語る。悪魔や罰を求める亡者は全て放逐され、地獄の門は閉鎖される。そして門の鍵はドリームに託される。その重荷を負わせることがルシファーの意趣返しだった。ルシファー退位の報せを受けた神々はドリーミングに集まり、地獄の所有権を巡ってドリームと交渉する。オーディンは地獄を領地に加えようと考え、奸智に長けたロキを伴って訪れる。エジプトや日本の神々もそれぞれの思惑を持って現れ、「秩序」と「混沌」も謎めいた意図のもとに使節を送ってくる。行き場を無くした地獄の公子アザゼルはナダを人質に鍵を要求する。妖精国からの使者クルラカンは贈り物として美しい妹ヌアラを差し出す。ドリームはヌアラから魅惑の魔法を取り去り、本来の貧相な姿で城に奉公させる。ドリームは地獄を創造者の手に返すべきだと結論を下し、オブザーバーとして派遣されていた天使たちに鍵を渡す。さらにアザゼルを打ち破ってナダを救い出す。一万年の責め苦から解放されたナダは怒りを爆発させ、ドリームは動揺しながら許しを請う。ナダは彼の元には留まらず、定命の存在として転生することを望んだ。神々は帰途に就く。ロキは地底の獄に連れ戻されるところであったが、ドリームの助けを得て逃亡する。地上ではビーチに寝そべったルシファーが見事な日没を眺め、不承不承ながら神の御業を賞賛する。一方地獄では、地獄の管理者の役に付いた天使たちのもと、罪深き死者の更生プログラムが整備され、死者たちを嘆かせる。プロローグではエンドレスが一堂に会する様子が初めて描かれ、末妹ディリリウム(錯乱)が初登場する。唯一顔を見せないディストラクションは第7巻で物語の焦点となる。妖精クルラカンとその妹ヌアラはシリーズ後半に多くの出番を持つ。ロキのエピソードは第9巻に続く。 ===In Which the Dead Return; and Charles Rowland Concludes His Education=== 地獄の閉鎖により地上は亡者で溢れかえる。伝統的な英国のボーディングスクールでただ一人休暇を過ごしていたローランドは、死んだ生徒や教師とともに学校生活を送ることを強いられ、いじめによって命を落とす。しかし、死者たちの対処に追われるデスはローランドを連れ去らなかった。彼は幽霊となり、友人となったもう一人の幽霊ともに、暴力と懲罰が渦巻く地獄の戯画を後にして広い世界に旅立つ。 ===第5巻: ゲーム・オブ・ユー=== 内容は単一の長編。登場人物の多くが女性で、ジェンダーと社会的な疎外、また成長とアイデンティティの確立のテーマが扱われている。当時のコミックとしては珍しくトランスジェンダーや同性愛者のキャラクターが使われており、拒否反応を示すファンもいた。ほかの主流メディアに視野を広げても、まだこれらのテーマが一般化していない時代だった。それらのマイノリティの描写に関しては批判もある(#批判)。ゲイマンは「ファンダムとは何かということと、なぜ人がファンタジーを求めるか」についての物語であり、ファンの神経を逆なでする面があると述べている。主人公のドリームがほとんど登場しないこともあり、この巻はシリーズで最も不人気だったという。 主に作画を担当したショーン・マクマナス(英語版)は、アラン・ムーア原作の『スワンプシング』誌で『ポゴ(英語版)』のパロディを描き、童話的なファンタジーとリアリスティックなホラーを両立させる手腕を見せたことで起用された。 ===A Game of You=== かつてバービーは毎夜のようにファンタジー世界で王女となる夢を見ていたが、夫ケンと離婚した今では夢を見ることがなくなっていた。しかし、親友のトランスジェンダー女性ワンダとともに外出したバービーの前に夢での忠実な家臣が現れ、謎の敵「カッコー」を倒すよう懇願しながら息絶える。その夜バービーは眠りの中で名前のない国に帰還し、喋る動物たちを供として旅立つ。現実世界ではバービーのアパートがカッコーに服従する男性によって襲われる。しかし隣人の一人テサリーは躊躇を見せず男を殺害する。古代から生きる魔女であったテサリーは月降ろし(英語版)の儀式を行って夢への道を開き、ほかの隣人女性とともにカッコーを倒しに向かう。ワンダは彼らとともに月の道を通ることができず、アパートに置き去りにされる。バービーは逃避行の中で密告され、カッコーの下へ引き立てられる。その姿は子供のころのバービーとそっくりだった。助けに現れたテサリー達も愛らしい姿に油断して催眠にかけられる。カッコーは少女の空想に寄生する生き物だった。かつて想像力豊かな子供だったバービーは、夢の領域の離れ小島に打ち捨てられていた国を見つけ、自分がお姫様となれる場所を作り上げた。カッコーはそこに忍び込んで成長を遂げ、今や巣立ちを切望していた。カッコーに操られたバービーは夢の終わりを宣言する。古い契約に従ってモルフェウス(ドリーム)が現れ、国とその住人を砂に返していく。テサリーはカッコーへの報復を望むが、ドリームから短慮を戒められる。バービーはただ自身と友人たちを現実に送り返すよう願い、カッコーが歓喜とともに飛び去るのを見送る。現実世界ではテサリーが月を動かした余波で大嵐が発生していた。ワンダはアパートの崩落で命を落とし、保守的な家族によって男性として葬られる。バービーは墓碑に記された出生名をこっそり「ワンダ」に書き換えながら、どんな平凡な人間にも心の中に秘密の世界があるのだと語りかける。この号で登場したテサリーは第9巻でドリームに降りかかる運命の一端を担う。 ===第6巻: フェーブル&リフレクション=== 1話完結型の短編集で、収録作の一部は後の展開の伏線となっている。特に The Song of Orpheus はメインストーリーの核心を占めている。同作は初め単発号『サンドマン・スペシャル』で発表された。短編のうち4編は Distant Mirrors の名がつけられた連作で、いずれも「王であることの意味」をテーマとしており、題名は月の名から取られている。また3編の短編は Convergence の名でまとめられており、いずれも異なる時代、異なる文化の登場人物が互いに物語を語る形を取っている。劇中劇のテーマは第8巻で再び扱われる。そのほか、宣伝用の特別誌『ヴァーティゴ・プレビュー』第1号に収録された掌編 Fear of Falling が収録されている。 ===Fear of Falling=== 新作の上演を控えた舞台演出家はその結果を恐れ、高い岩山の頂に立つ夢を見る。そこから飛び降りれば、途中で目を覚ますことができなければ本当の死が待っている。しかしドリームは第3の道があると教えて彼を突き落す。 ===Distant Mirrors ― Three Septembers and a January=== 1859年9月、事業に失敗して全てを失ったジョシュア・ノートンは絶望の淵にあった。エンドレスのディスペアは兄ドリームにゲームを持ちかける。ノートンをドリームの領域に引き込み、妹たち(ディスペア・ディザイア・ディリリウム)の手に渡さずにいられるか? ドリームはノートンに一つの夢を与えた。ノートンは新聞社に即位宣言を送りつけると、無一文ながら皇帝として振舞い始め、サンフランシスコの名物男として愛されるようになる。ディリリウムはノートンが自らの狂気の支配を逃れていることを認める。「あの人は気が狂ってるけど … だから正気でいられるの」ディザイアは伴侶となる女性を餌にして誘惑するが、はねつけられる。やがてノートンは雨の道端で行き倒れるが、デスが彼を迎えるときまで、ディスペアは彼に触れることができなかった。本作で屈辱を味わわされたディザイアは、ドリームに親族の血を流させることを誓う。これが前後の巻の出来事につながっている。 タイトルは当時製作中だった映画 Four Weddings and a Funeral(フォー・ウェディング)から取られたもので、作中で描かれた4つのシーンを意味している。本作で屈辱を味わわされたディザイアは、ドリームに親族の血を流させることを誓う。これが前後の巻の出来事につながっている。タイトルは当時製作中だった映画 Four Weddings and a Funeral(フォー・ウェディング)から取られたもので、作中で描かれた4つのシーンを意味している。 ===Distant Mirrors ― Thermidor=== 1794年、イギリス貴族ジョハンナ・コンスタンティンはドリームから「家庭の事情」に関する依頼を受ける。彼女は熟練の間諜でもあり、かつてドリームの知己を得ていた。コンスタンティンは第一共和政下のフランスに潜入し、首だけとなって生き続けるドリームの息子オルフェウスを救い出すが、サン=ジュストによって捕縛される。尋問に現れたロベスピエールは理性のみに基づく社会の建設を目指しており、生首をデカダンスと迷信の産物として破壊しようとする。コンスタンティンはオルフェウスの歌によって彼らを無力化して脱出する。その翌日、テルミドールの9日にロベスピエールは失脚する。生首はナクソス島の僧侶に返還された。 ===Convergence ― The Hunt=== 東欧風の森で暮らす「一族」(狼男)の若者ワシーリーは、行き倒れたジプシーから珍奇な行商品を手に入れる。その中には公爵の末娘の肖像画が入ったロケットがあった。ワシーリーは公爵の城を目指して旅立ち、魔女バーバ・ヤーガやドリームに貴重な品々を渡す代わりに姫君の寝室まで送り届けてもらう。彼は絵の通り美しい姫君を見つめ、寝ぼけまなこで名を問う彼女にロケットを返すと、そのまま踵を返した。年月を経て、ワシーリーは森で一族の精悍な女性と出会い、長い狩りの末に優しく組み伏せて睦み合う。老いたワシーリーから物語を聞かされた孫娘は憤慨する。古いおとぎ話にかこつけて、一族以外の男性との交際を禁じられるのは我慢ならなかった。しかし物語の真の教訓は、夢の女性を目の当たりにした彼の胸の内だった。 ===Distant Mirrors ― August=== AD7年、老齢のローマ皇帝アウグストゥスは乞食に身をやつして道端に座り、扮装の師である侏儒の役者ルキウスに自らの人生を物語る。アウグストゥスが若年のころに大叔父ユリウス・カエサルから虐待を受け、彼への憎悪を抱えていたことが明かされる。自身も残虐な行為に手を染めつつローマの統治者の座についたアウグストゥスは、二通りの予言の存在を知る。一つの予言では、ローマ帝国の支配は地球の隅々に及び、一万年間続く。別の予言では数百年後に帝国は滅ぶ。彼はドリームの啓示に従い、一介の乞食となることでローマの神々の(特に神格化されたカエサルの)目を逃れ、自らの死後にローマ帝国が衰退するよう画策するのだった。 ===Convergence ― Soft Places=== マルコ・ポーロは元帝国を目指す旅の途上、ロプ砂漠で道に迷う。彼が踏み込んだのは、現実とドリーミングの狭間にあり、時間が可塑性を持つ「柔らかな場所」だった。そこで彼は未来に知り合うはずのルスティケロ・ダ・ピサとともにさまよい、人格を持った夢の風景である「水夫の楽園」の焚火に行き合う。水夫の楽園はポーロを始めとする探検家が未踏破地を埋めていくことで「柔らかな場所」が失われると非難する。二人と別れたポーロは別の時代のドリームによって現実に送り返される。本作は最終巻に収められた短編 Exiles と関連がある。 ===The Song of Orpheus=== この巻の中心となる作品。物語の大筋はギリシアのオルフェウス神話に基づくが、本シリーズのキャラクターが取り入れられている。オネイロス(ドリーム)とカリオペの息子オルフェウスは、叔父オレスロス(ディストラクション)の助言により伯母テレウテ(デス)から不死の命を授かり、死んだ花嫁エウリュディケーを救出するため冥界に向かう。ドリームはこの探索行に何の助力も与えず、ただ運命を受け入れるよう強いたため、息子から絶縁されることになった。オルフェウスは救出に失敗し、後にマイナデスによって五体を引き裂かれ、首だけになって生き続ける。死を与えてくれるよう願う息子に対し、ドリームは冷たく「お前の生死はお前だけのものだ」と告げる。彼は首を僧侶の一団に託し、二度と息子と会わないことを誓った。 ===Convergence ― The Parliament of Rooks=== 「ドールズハウス」で妊娠中だったリタ・ホールから生まれたばかりのダニエル・ホールが主役となる。ドリーミングの住人であるカインとアベルの兄弟にイヴを加えた3人は、迷い込んだ赤ん坊のダニエルに物語を聞かせることにする。カインはミヤマガラスの群れが執り行う「議会」の謎について語り、イヴは自らを含めたアダムの3人の妻について語る。アベルは自分たちが語り部としてドリーミングに住みついた事情をおとぎ話として語る。アベルが口を滑らせて謎の答を明かしてしまったため、カインは激怒し、いつものように兄弟殺しを再現し始める。本作のペンシラー、ジル・トンプソンが日本のキャラクターを参考に描いた子供版のデスとドリームは人気となり、スピンオフシリーズが出された。 ===Distant Mirrors ― Ramadan=== カリフのハールーン・アッ=ラシードが治めるバグダードは数々の驚異に満ち、輝かしい繁栄を誇っていた。しかしカリフはこの世の無常を知っており、自らの都市がいつか滅びて忘れられることを恐れるあまり、夢の王(ドリーム)にバグダードを売り渡し、その代わり現在の完璧さを永遠に保つよう願った。カリフははるかに色褪せた市街で目を覚ます。取引のことは彼の記憶から消えており、ドリームが抱えるガラス瓶の中のミニチュア都市に心を惹かれながら去っていく。老人はそこで物語を止める。伝説のバグダードは物語の中に封じられ、それゆえに永遠となったのだった。戦火を受けて瓦礫の山となった現代のバグダードにおいて、聞き手の少年は空腹を忘れて目を輝かせる。ゲイマンが書くコミックブックのスクリプトは、コマ割りやコマごとの構図、背景、色の指示までを含む詳細なものである。しかしこの号では、古典小説の翻案を得意としていた作画家P・クレイグ・ラッセル(英語版)の希望により、散文の物語形式で書かれた。この号はオリジナルシリーズの中で最大の販売部数(25万部)を記録し、ファンや批評家からも高い評価を受けた。 ===第7巻: ブリーフ・ライヴズ=== 単行本の題辞は17世紀の書物『名士小伝 (Brief Lives)』からの引用である。ピーター・ストラウブが書いた序文は単行本の巻末に掲載された。ゲイマンは短い序文でその経緯を説明している。シリーズのターニングポイントとなる長編で、物語はここから結末に向けて加速し始め、序盤のエピソードをつなげる大きな構図が明らかになっていく。 この巻のペンシラーに起用されたジル・トンプソン(英語版)は『ワンダーウーマン』を描いていた若手アーティストで、現実的で生き生きとしたキャラクター造形は高く評価されている。ディリリウムの独特な仕草や表情はトンプソン自身が投影されたものである。幼児のようにとりとめのないおしゃべりを続けるディリリウムと、謹厳で無表情なドリームの旅はロード・コメディに例えられる。 ===Brief Lives=== 錯乱した心のままに人間界を彷徨っていたディリリウムはディザイアに保護される。ディリリウムは300年前に出奔した兄ディストラクションを懐かしむ。かつてディライト(喜び)であった彼女が現在の姿に変化したとき、兄が支えてくれたのだった。彼女は兄を探しに行こうとするが、ほかのきょうだいは同行を拒む。唯一ドリームは、人間女性との新しい恋に破れたばかりで、気晴らしとして妹とともに地上を旅しようと考える。二人は手掛かりを求めて、失踪以前にディストラクションと交友のあった神や長命人を訪ねて回る。しかし彼らはそれぞれ不審な事故によって命を落とし、あるいは危険を感知して存在を消し、あるいは激情にかられて自滅する。自らの行動が災厄を引き起こしていると気づいたドリームは旅を中止するが、ディリリウムを落胆させたことで姉デスから叱責を受け、また死者への責任もあって探索を続ける決意をする。そのドリームに長兄デスティニーは残酷な真実を告げる。ディストラクションの居場所を告げられる唯一の託宣者は、首だけとなって祀られているオルフェウスだった。ドリームは二度と会わないと誓った息子の下に赴く。ディストラクションは犬のバルナバスとともに二人を迎える。彼は孤島の住処で下手な詩作や絵画に日々を費やしていた。道中で出会った災厄は、追跡者を断念させるための自動システムによるものだった。かつてディストラクションは啓蒙時代の人間社会を観察して理性の世界の到来を予見し、エンドレスの責任を放棄して新しいものに道を譲った。彼はドリームに対して変わらないままでいられるものはないと告げ、ディリリウムのお守り役としてバルナバスを残して星々の世界に去っていく。ドリームは再びオルフェウスを訪れ、その願い通り長すぎた生を終わらせる。彼に肉親の血を流させるというディザイアの誓いはここに果たされた。ドリーミングに戻ったドリームは、旅を始める前とはどこか異なっていた。ドリームと息子オルフェウスの関係は前巻で説明される。冒頭でドリームの下を去る恋人は直接描かれず、それまでの経緯も語られないが、その正体は第9巻で明かされる。 ===第8巻: ワールズ・エンド=== 独立した短編が主体だが、メインストーリーの展開を予兆するシーンが含まれている。それらの物語は旅籠に集まった登場人物たちが酒の席で語り合ったもので、チョーサーの『カンタベリー物語』と似た枠物語の形式になっている。そのため各話は語りと絵の両面で独自のスタイルを持っており、旅籠を舞台とした短いシークエンスが間をつないでいる。旅籠のシーンの作画は英国のベテラン作画家ブライアン・タルボット(英語版)による。 冒頭部は主人公ブラント・タッカーの一人称で語られる。彼は自動車旅行の途中で事故に遭い、「世界の果て、滞在無料」と書かれた奇妙な旅籠に入る。旅籠は一種の避難所であり、何らかの重大な出来事の余波として「実在性の嵐」が吹き荒れる間、いくつもの世界を渡る旅人たちが身を休めるための施設だった。物語を語り合っていた滞在者たちはやがて、夜空に屹立する巨人たちの葬列を見る。最後尾のデスは悲し気な視線を送る。その後タッカーは自分の世界に帰り、バーの主人にこの物語を語る。 ===A Tale of Two Cities=== 物語の主人公は、深夜の地下鉄でドリームと乗り合わせたのをきっかけに、住み慣れた都市とは異なる奇妙な街並みに迷い込む。帰路を探すうちに出会った老人は、そこは都市そのものが見る夢の中だという。自己の存在が失われる恐怖に駆られながら現実に帰り着いた彼は、都市を離れて小さな村に移り住み、物語の語り手に自らの体験を伝えた。登場人物が人知を超えた真実を知る物語で、作者ゲイマンはH・P・ラヴクラフトの影響を認めている。枠線で囲まれたコマの中に吹き出しで文章を書くという通常のコミックの様式ではなく、散文で書かれたナレーションの合間にイラストレーションを挟む構成を取っている。作画のアレック・スティーヴンスは自作でドイツ表現主義を意識したアプローチを取っており、ゲイマンはそのスタイルで描くよう依頼した。 ===Cluracan’s Tale=== 第4巻で登場した大胆不敵な妖精の使節クルラカンが語る冒険活劇。クルラカンは妖精の女王マブ(英語版)によって都市アウレリアンに派遣され、その地で開かれる都市国家の首脳会談をかく乱する任務に就く。彼は会談の最中、衝動的に真実を言い当てる妖精の本性により、アウレリアンの支配者の罪を暴き出してしまう。投獄された彼は妹ヌアラの夢を見る。ヌアラは主君モルフェウス(ドリーム)に嘆願して彼を牢獄から脱出させる。クルラカンは妖精の力によってアウレリアンの住民を扇動し、支配者を倒す。 ===Hob’s Leviathan=== 海に取りつかれ、ジムという名の少年に扮して船員となった少女が語る、未踏の海が持つ不可解な謎と、人々が持つ秘密についての物語。第2巻の短編 Men of Good Fortune で不老不死となったホブ・ガドリングが登場する。20世紀初頭、リバプールに向かう商船に乗り組んでいたジムは旅客のホブと親しくなる。航海中にインド人の密航者が発見されるが、ホブの厚意で同乗が認められる。密航者はインドの王についての昔話を語る。その王はたった一つ手に入れた生命の果実を妻に贈るが裏切られ、絶望のあまり自ら果実を口にして不死となり、地位を捨てて世界を放浪しているのだという。航海も終わりに近づいたころ、恐るべき大きさのリヴァイアサンが現れ、偉容を誇示して姿を消す。ジムは興奮してこの体験について語り合おうとするが、共に目撃したはずの水夫たちやホブは敢えて語ろうとしない。後にジムは密航者とホブの会話を盗み聞き、二人が数百年間生きてきたことを知る。ホブもジムの秘密を察していた。しかし、彼らにはそれぞれの秘密を口外するつもりはなかった。 ===The Golden Boy=== リチャード・ニクソンの次にプレズ・リカード(英語版)がアメリカ大統領となった平行世界の物語である。「プレジデント」にちなんでプレズと名付けられた男の子は、幼いころから神童として知られ、政治家として将来を嘱望されるようになる。19歳にして大統領選で圧倒的な勝利を収めたプレズはすぐに華々しい政治的業績を上げ、理想の実現に力を尽くす。しかし、伝説的な政治的黒幕であるボス・スマイリーがプレズを誘惑しようとする。プレズは抗うが、凶弾によって婚約者を失ったことで痛手を受ける。任期を終えたプレズは故郷に隠棲し、若くして死ぬ。死後の世界を支配していたボス・スマイリーは隷属を強いる。しかしドリームがプレズを救い出し、平行世界のアメリカを巡り歩いて理想を伝道する機会を与えた。この物語を語ったアジア系の人物は、世界から世界へと旅しながらプレズの後を追い、その言葉を伝えているのだという。プレズはDCコミックスが1973年に発刊し、4号で打ち切ったコミックシリーズ Prez: First Teen President の主人公であった。スマイリーフェイスのモチーフが登場するのは『ウォッチメン』へのオマージュと見られる。 ===Cerements=== リサージと呼ばれるネクロポリスの住人ペトリファクスが語り手だが、物語中で別の語り手が物語を始めるという重層的な構造となっている。リサージは他の世界から送られてくる死者のために多様な葬儀が執り行われる都市であった。ペトリファクスは葬儀人としての徒弟修業について話し始め、鳥葬の場でほかの者から聞いた物語を口伝えに語る。一人目の徒弟が語ったのは死刑囚が死刑執行人の役を担う国の話だった。二人目の徒弟は旅の途中でリサージに立ち寄ったディストラクションから聞いた話を語る。はるか昔、ディスペアの最初の人格が死んだときに存在していたネクロポリスは、典礼通りの葬儀を行おうとしなかったため崩壊させられたという。三番目の親方は女師匠から伝えられた体験談を語る。リサージの地下墓地の奥深くに、エンドレスの葬儀に使われる経帷子 (cerement) を収めた部屋があるというのだった。語られる内容は最終巻で起きる出来事と密接なかかわりがある。 ===第9巻: カインドリー・ワンズ=== この巻でシリーズは悲劇的なカタストロフィを迎える。初めにプロローグとして、プロモーション用のアンソロジー誌 Vertigo Jam 第1号に掲載された10ページの掌編 The Castle でドリーミングの主な住人が紹介される。残りを占める長編「カインドリー・ワンズ」は、コミックブック13号にわたるシリーズ最大のボリュームを持ち、構成は複雑である。ドリームを宿命の主人公の位置に置いたギリシア悲劇として書かれ、三相一体の魔女がコロスの役を務める。過去の巻で展開されたストーリーが引き継がれており、人間界に解き放たれたトリックスターであるロキとロビン・グッドフェローが物語の発端を作る。ドリームを愛する妖精ヌアラ、夫と息子の復讐を求めるリタ・ホール、恋人関係にあったが破局した魔女テサリーらはそれぞれ乙女・母・老婆の役割に擬せられ、それぞれ三人の魔女/復讐の女神エリーニュスに加担してドリームに破滅をもたらす。そのほかにもシリーズに登場した多くのキャラクターがサブプロットを展開する。 ほかの巻や一般的なコミックブックのようにリアリスティックではなく、表現主義風の様式化されたタッチで描かれている。メインの作画家マーク・ヘンペル(英語版)は、アメリカン・コミックで主流のスーパーヒーロー作品とは作風が異なっており、DC社のオルタナティヴ系インプリントであるピラニア・プレス(英語版)で精神病院の収容者を主人公にした作品『グレゴリー』を書いていた。 ===The Castle=== 夜半過ぎに悪夢から覚めた男は、次の夢を恐れつつ眠りに引き込まれる。彼は巨大な本棚が林立する図書館で司書ルシエンに迎えられ、ドリームの城を案内されながら、夢見る者のために物語を準備しているドリーミングの住人たちに引き合わせられる。 ===The Kindly Ones=== 夢の中で胎児期を過ごした幼児ダニエル・ホールが母リタの下からさらわれる。その犯人はロキとロビン・グッドフェローだった。しかしリタはドリームが息子を殺したと信じ、狂乱の中で復讐を誓う。リタの精神は現実世界を離れ、神話のゴルゴーン姉妹に迎え入れられてメドゥーサの役割を帯びる。抜け殻となった体を魔女テサリーがドリームの干渉から守る間に、リタは旅を続けてついに復讐の女神エリーニュスと一体化する。彼らは肉親を手にかけた者に復讐する権利を持っており、息子オルフェウスを殺したドリームは正当な獲物だった。エリーニュスは無敵の力でドリーミングを蹂躙する。掟に縛られたドリームの性格や、彼を救おうとする妖精ヌアラの行動が足枷となり、エリーニュスに対抗する手段がなくなる。ドリームは長い煩悶の末に運命を受け入れる。ドリームは姉デスとともに峻嶮な山の峰に立ち、最後の会話を交わす。この成り行きはドリームが待ち望んでいたことでもあった。デスは彼の手を取り、別の世界に送り出す。リタには知る由もなかったが、ダニエルはロキらの下から救い出され、ドリーミングで保護されていた。ドリームの遺志により、ダニエルは新しいドリームへと変貌を遂げた。 ===第10巻: ウェイク=== 表題の ”wake” には「目覚める」のほか「通夜」や「航跡」の意味がある。巻頭にはジェームズ・エルロイ・フレッカーの詩 The Bridge of Fire が載せられている。この巻の前半、第70―72号ではモルフェウスと呼ばれていたドリームの通夜と葬儀が描かれ、最後に ”You”(読者)が目覚めることで物語の本編が完結する。続く第73号は通夜のエピローグであるとともに、第2巻以来モルフェウスと友情を育んできたホブ・ガドリングの物語の締めくくりにもなっている。残る第74, 75号はどちらも作中の過去を舞台にした短編である。 第70―73号ではペン入れは行われず、マイケル・ズリによる鉛筆画のみで印刷された。ズリの精細な絵が用いられたのは前巻のミニマリズムと対照させる意図があった。逆に第74号にはペンシラーがおらず、インクだけで描かれた。アーティストのジョン・J・ミュースは原稿に直接色紙や布地を貼り付けて彩色を行った。 ===The Wake=== 兄弟の死を知らされた5人のエンドレスはネクロポリス・リサージに集まる。彼らは地下墓地の深奥に使者を送り、葬儀のための経帷子を受け取らせる。一方、元は幼子ダニエルであった新しいドリームは自らの葬儀に参加することが許されず、ドリーミングの再創造に専念する。モルフェウスと呼ばれていたドリームの部下であった大烏のマシューは主と最期を共にすることができなかったことを悔い、新しいドリームを拒絶する。その夜、ドリーミングで通夜が開かれる。「夢で訪れた者と招かれた者、祝う者と悼む者」、シリーズに登場してきたキャラクターの大半が集い、死者の記憶を語り合う。翌日の告別式では、列席者が順に弔辞を述べ、夢の王の生と死を振り返っていく。最後にデスが別れを告げる。わずかな門衛とともに居城に残っていたドリームはディストラクションの短い訪問を受ける。また自身の仇ともいえるリタ・ホールや、かつて自身を幽閉したアレックス・バージェスと面会し、保護を与えて送り出す。葬儀を経たマシューは気持ちに折り合いをつけ、新しいドリームの肩に止まって助言を申し出る。二人はエンドレスの兄弟姉妹との初顔合わせに臨む。 ===An Epilogue, Sunday Mourning=== 不老不死のホブ・ガドリングはガールフレンドのグウェンに誘われてルネサンス・フェア(英語版)(歴史上のヨーロッパを再現する祭)に赴く。その時代を実際に生きてきたホブには上辺だけの真似事でしかないが、それでもなお過去に捨ててきた人生の記憶を呼び覚まされる。喧騒を逃れて古ぼけた小屋に入ると、彼を追ってデスが現れる。ホブは通夜の夢が本当の出来事だったことを察する。はるか昔にドリーム(モルフェウス)と交わした約束は、ホブが心からそう望むまで死が訪れることはないというものだった。デスは弟に代わってホブの意思を確かめる。ホブにとって生と死の意味は600年前ほど明快ではなくなっていた。彼は思いを言葉にしながらゆっくりと考え、まだその日ではないと答える。ホブは夢の中でディストラクションを伴ったドリームと再会し、談笑しながら日没を歩く。やがて目を覚まし、グウェンとともに帰途につく。 ===Exiles=== 中国皇帝の相談役として栄華を極めた老人は、息子が白蓮教の反乱に関わったことで流刑に処せられる。帝国の最果てを目指して砂漠を渡る途中、老人は供とはぐれ、時間が可塑性を持つ「柔らかな場所」に迷い込む。彼はオルフェウスを死なせた直後のドリーム(モルフェウス)と出会い、息子を失った心情を分かち合う。老人は再び「柔らかな場所」を歩み出し、難所を越える。その先には新たなドリーム(ダニエル)がいた。彼はかつての自分の運命から学んだ教訓に従って、時の狭間に閉じ込められていた人間たちを解放していく。自分に仕えよという申し出を丁重に断った老人は、終の棲家となるであろう流刑地に向かいながら、ローマ兵の放浪者が呟いた一句を繰り返す。「万物は変転す、何物も去り行かず (Omnia mutantur, nihil interit)」本作は第6巻の短編 Soft Places と舞台を共有している。ラテン語の句は『変身物語』から引かれたもので、本作のテーマを総括するものと見られる。 ===The Tempest=== かつて、野心に溢れた若者だったウィリアム・シェイクスピアは、ドリーム(モルフェウス)のために戯曲を書く代わりに才能を引き出してもらう契約を交わした。晩年の彼は、故郷ストラトフォードに置き去りにしてきた妻子のもとに戻り、生涯最後の戯曲『テンペスト』を書き上げる。この作品はドリームが自分自身のために依頼したものだった。シェイクスピアはドリームの居城で契約の満了を祝いながら、創作に捧げた一生を少なからぬ後悔とともに省みる。彼が「安っぽい大団円」と自嘲する『テンペスト』の結末をドリームは愛でる。彼が望んだのは、自身の欠陥によって主人公が破滅する高尚な悲劇ではなく、書物と魔術を捨てて自らの国から解き放たれる王の物語だった。自室で一人目を覚ましたシェイクスピアは、書き残していた『テンペスト』の最後の口上に取り掛かり、観客に赦しと解放を乞う主人公に自らとドリームを重ね合わせる。「今や魔法はすべて消え失せ、私自身のささやかな力が残るのみです。…」。このエピソードは A Midsummer Night’s Dream の直後に構想されていたが、ゲイマンは『テンペスト』が物語とその終わりについて語っていることに気づき、シリーズ最終号に充てた。 ==登場人物== ドリーム(モルフェウス)(Dream (Morpheus)、夢)主人公。夢と物語の王であり、同時にその具現化とされる。自らの王国であるドリーミングに住み、人々の夢や創造活動を監督したり、夢を通じて啓示や神託を与えている。過去にはまったく他者への思いやりを持っていなかったが、『サンドマン』の作中では全編を通して過去の冷酷な行いを償おうとする。姿は見るものによって変わり、文化によって異なった名で呼ばれている。多くの作中人物からはモルフェウスと呼ばれるが、古代ギリシアではオネイロスとして、古代のアフリカではカイックル (Kai’ckul)として知られていた。「サンドマン」と作中で直接呼ばれることはほとんどない。多くの場面において、長身で青白い肌、乱れた黒髪の男性として描かれる。着用する黒い外套の裾では炎が踊っている。目には影が湛えられ、その奥から小さな光が放たれている。死んだ神の頭蓋骨と脊椎から作られたヘルメットは力の象徴の一つ。外見的モデルとされるのは、20代当時の作者ニール・ゲイマン、ザ・キュアーのフロントマンロバート・スミス、バレエダンサーのファルフ・ルジマートフ、バウハウスのフロントマンピーター・マーフィーである。 ===エンドレス=== デスティニー(Destiny、運命)全身がローブで覆われた盲目の男性。鎖で手首につながれた大きな書物には、過去、現在、未来の事物の全てが記録されている。役目と責任にとらわれており、自らの庭園からほとんど出ることはない。エンドレスの中で唯一『サンドマン』シリーズ以前から存在していた。初出は『ウィアード・ミステリー・ツアー』(1972年)である。 デス(Death、死)外見はゴス系の若い女性。くつろいだ服装と率直な言動を好む。思慮分別のある性格で、ドリームに助言や叱責を与える。あらゆる生物の生誕と死の瞬間に立ち会う役目を持っている。限りある命を持つ者たちへの共感を忘れないように、100年ごとに1日だけ、生者として地上に降り立って死を経験する。作者ゲイマンはデスに歌手のニコのような冷たい美貌を与えるつもりだったが、実際に採用されたデザインは、作画のマイク・ドリンゲンバーグが「知り合った中で一番人好きのする女性」と呼ぶ友人シナモン・ハドリーをモデルにして描いたものだった。ドリーム(ダニエル)(Dream (Daniel)、夢)死んだドリーム(モルフェウス)の後継者。外見的には全身白一色となり、ルビーの代わりにエメラルドのイーグルストーンを着用する。かつては人間の幼児ダニエル・ホールだった。ドリームとしての記憶を残しているが、生まれたばかりの存在でもあり、自らの境遇に戸惑っている。モルフェウスと比べて純真で温和な性格。ディストラクション(Destruction、破壊)赤毛の豪快な巨漢。破壊のエンドレスとして変化と変容を司っていたが、300年前にその責任を放棄したため、きょうだいたちからはディストラクションではなく「放蕩者」「兄」と呼ばれる。冗談好きな人間味のある性格で、かつてはきょうだい間のムードメーカーだった。芸術全般に情熱を持っているが才能はなく、相棒の犬バルナバスから辛辣な批評を受けている。外見のイメージは俳優のブライアン・ブレスド。ディザイア(Desire、欲望)情欲・欲望の具現化。人間が求めるものすべてを象徴する存在であるため、男性でも女性でもある。非情な一面があり、ドリームに対して昔からライバル意識を抱いている。双子の妹ディスペアとは近しい。自身の身体を模した「スレショルド」という領域に住む。外見のイメージはパトリック・ナゲル(英語版)のイラストレーションと中性的な歌手アニー・レノックス。ディスペア(Despair、絶望)初代: 一人目のディスペアは作中の過去において殺害された。シリーズ本編では直接描かれることはなかったが、後のスピンオフ作品『エンドレス・ナイツ』に登場した。二代目: 人間の魂に絶望を注ぎ込む存在。背の低い太った女性で、灰色がかった肌と乱杭歯の持ち主。常に全裸。冷たく言葉少なだが、態度に知性をにじませる。鉤で自らの体を切り裂く癖がある。多くの窓が浮かぶ自らの領域から、人間たちの絶望を観察している。ディストラクションを慕っている。ディリリウム(Delirium、錯乱)少女の姿を持ち、感情の揺らぎに合わせて大きく外見を変える。狂気の具現化であり、常に脈絡のないことを話し続けているが、時に深い洞察を見せることがある。かつてはディライト(Delight、喜び)という存在だったが、何らかの事件で傷を受けた結果現在の役目に変わった。作者がボディピアスの専門誌で見かけた少女が着想の元となった。 ===神話上の存在=== 三人の魔女 (The Three Witches)乙女、母、老婆の三人からなり、それぞれシンシア、ミルドレッド、モルドレッドの名を持つ。多くの神話に見られる三相女神と同一の存在だとされるが(ヘカテー、ノルニル、モイライ、モリガン …)、エンドレスと同じく特定のパンテオンに所属する神ではない。シリーズの随所に様々な役割で姿を見せる。第4巻では「灰色の女たち(グライアイ)」として現れて予言を伝え、第9巻では復讐の女神エリーニュスとして決定的な役割を果たす。 ===ギリシア神話=== 文芸の女神ムーサの一柱であるカリオペはドリーム(オネイロス)と情熱的に愛し合っていたが、二人の息子オルフェウスの運命を巡って口論した結果、一切の関係を断たれる。オルフェウスは竪琴と歌の名手で、父に似た夢想家といわれる。冥界から妻を救い出すことに失敗した後に、首だけの姿となって現代までひっそりと生き続ける。 ===北欧神話=== 第4巻において、「万物の父」オーディンはラグナロク後に移り住むため地獄を手に入れようと考え、地獄の鍵を入手したドリームと交渉する。雷神トールは粗野で傲岸だが父オーディンには忠実。邪悪なロキは普段は蛇毒の刑罰を受けている(ロキの捕縛)。 ===エジプト神話=== 「ナイル・デルタの死者の王」アヌビスは第4巻で地獄を求める一柱である。猫の女神バストは近年信者を失って窮乏している。往時のバストはドリームと親しかったが、恋仲にはならずに終わった。 ===日本神話=== 信仰の廃れた時代にあっても、マリリン・モンローや自由の女神など、外来の文化的アイコンを神の列に加えることで繁栄を保っている一族。スサノオはイザナミが治める死の国の領土を広げるため、言い値で地獄を買い取ろうと申し出る。 ===メソポタミア神話=== 愛の女神イシュタルはかつてエンドレスのディストラクションの恋人だった。現在では人間として暮らしながら、ストリップダンサーとして男性からわずかな崇拝を得ることで命を保っている。 ===悪魔=== 堕天使の長であったルシファー (Lucifer) は一般の悪魔とは一線を画す強大な存在である。第4巻で地獄の支配を放棄してからは、ロサンゼルスでナイトクラブを経営し、そのピアニストを自ら務めている。ルシファーは以前からDC世界に存在していたが本作で設定が改められ、19歳のデヴィッド・ボウイのイメージで、狡猾であると同時に天使の優美さを備えるキャラクターとされた。マジキーン (Mazikeen) は顔の半分が崩れて肉や骨が露出している悪魔で、ルシファーを愛し付き従う。地獄の大公アザゼルとベルゼブブは一時ルシファーとともに地獄に三頭政治を布いた。地獄の公爵コロンゾンは人間の魔術師との取引によりドリームのヘルメットを入手し、取り戻そうとするドリームと闘った。 ===天使=== レミエル (Remiel) とデュマ (Duma) はプレゼンス(英語版)(DC世界におけるアブラハムの神)からルシファーに代わって地獄の管理者となるよう命じられる。それは堕天使となることを意味しており、レミエルは葛藤するが、決して言葉を発しないデュマは抗弁することなく使命を受け入れる。 ===妖精国 (Faerie)=== オーベロン (Auberon) 王とティターニア (Titania) 女王が治める異世界の国。かつて妖精たちは人間に交じって暮らしていたが、14世紀前後に地上を去った。ティターニアは過去にドリームと深い関係にあった。ホブゴブリンの宮廷道化師ロビン・グッドフェロー(パック)は表面的には王家に従順だが、残虐性を秘めており妖精たちから恐れられている。王家の使節クルラカン (Cluracan) の妹ヌアラ (Nuala) は内気だが心根の良い少女で、ドリーミングの城で下働きを務めるうち、ドリームに報われない恋をする。 ===ドリーミングの住人=== ルシエン (Lucien)ドリームに仕える取り澄ました男性。本業は城の司書で、彼の図書室には過去に書かれた、あるいは夢想されるだけで書かれなかった全ての書物が収められている。マシュー (Matthew Cable)死後に大烏となった元人間。腹心としてドリームに仕える。カインとアベル (Cain and Abel)ドリーミングの住人で、聖書に伝えられる最初の殺人の物語のモデルとされる兄弟。二人はそれぞれの住居(「謎の家」および「秘密の家」と呼ばれる)を訪れるものにホラーストーリーを聞かせる。サディスティックな兄カインはおどおどした弟アベルを常習的に殺害する。イヴ (Eve)マシューとともにドリーミングの洞窟に住む女性。コリント人 (Corinthian)ドリームが創造した凶暴な悪夢。両目の代わりに歯をむき出した二つの口を持ち、動物・人・神の区別なく、生き物を殺して目を抜き取ることに執着している。水夫の楽園 (Fiddler’s Green)人格を持った夢の中の風景だが、ギルバートと名乗って人間の姿を取ることがある。G・K・チェスタトンがモデルとされる。人間ローズ・ウォーカーと知り合い、親しくなる。マーヴ・パンプキンヘッド (Merv Pumpkinhead)カボチャ頭のかかしで、ドリーミングの雑用係。夢の舞台装置を製作するのが主な役目。 ===人間=== 現代人 ロデリック・バージェス (Roderick Burgess)アレイスター・クロウリーのライバルを自認する魔術師。秘術の儀式によってドリームを捕らえ、不死の命を要求する。しかし交渉を拒まれたまま年月が過ぎ、愛人や弟子に離反され、失意の中で老衰死する。アレックス・バージェス (Alexander Burgess)父ロデリックからオカルトに関する一切を受け継ぐ。自らも老いを迎えたころ、規律のゆるみによってドリームの脱走を許す。それ以来数年にわたって悪夢に閉じ込められていたが、ドリームの新しい人格(ダニエル)によって許しを受け、安らかな晩年を過ごす。ローズ・ウォーカー (Rose Walker)第2巻の主人公で「夢の渦」となった若い女性。眠り病にかかった女性ユニティ・キンケイドとエンドレスのディザイアの血を引いている。第9巻では自らのルーツを探そうとする。ジェド・ウォーカー (Jed Walker)両親が離婚して以来、生き別れになっていたローズの弟。引き取られた家庭で虐待を受けていた。ジェドの救いは夢の中だけだったが、悪夢ブルートとグロブがジェドの夢に住み着き、偽のサンドマンを主とする「ドリーム・ドーム」に変えてしまった。『サンドマン』旧シリーズでは主人公サンドマンの助手役だった。ヒッポリタ・ホール (Hippolyta Hall)リタと呼ばれる。実母ヘレナは復讐の女神の一柱ティーシポネーを呼び起こし、その宿主として超能力を得たスーパーヒロインだった。母からフューリー(英語版)の名とパワーを受け継いだリタはヒーロー活動に身を投じ、同僚のヘクター・ホールと結婚した。戦死したヘクターの魂とともにジェド・ウォーカーの夢の中で暮らしていたが、ドリームによってその生活を壊され、恨みを抱く。ヘクターとの子をドリームに奪われることを恐れる。バービー (Barbie) ===周囲から軽く扱われがちなブロンド女性。第2巻でローズ・ウォーカーの隣人として夫ケンとともに登場したときには、人工的に感じられるほど普通の印象を与える夫婦だった。しかし、「夢の渦」が二人の夢をつなぎ合わせてしまった結果、夫と内的世界が断絶していることに気づき離婚する。その後バービーは第5巻の主人公となり、夢とアイデンティティを巡る冒険を行う。 バービーの隣人 テサリーは一見生真面目な女性だが、正体は魔女である(後述)。トランスジェンダー女性ワンダは面倒見のいい性格でバービーの親友。手術を恐れているため性器は男性のままである。フォックスグローブ (Foxglove) とヘイゼルはレズビアンのカップルで、スピンオフ作品『デス―ハイ・コスト・オブ・リビング』にも登場し、『デス―タイム・オブ・ユア・ライフ』では主役を務めた。=== ===バービーの隣人=== テサリーは一見生真面目な女性だが、正体は魔女である(後述)。トランスジェンダー女性ワンダは面倒見のいい性格でバービーの親友。手術を恐れているため性器は男性のままである。フォックスグローブ (Foxglove) とヘイゼルはレズビアンのカップルで、スピンオフ作品『デス―ハイ・コスト・オブ・リビング』にも登場し、『デス―タイム・オブ・ユア・ライフ』では主役を務めた。長命人、過去の時代の人間 ナダ (Nada)はるか昔、アフリカの肥沃な土地でガラスの都市を治めていた美しく賢明な女王。伝説の中では彼女の部族が最初の人類だといわれる。ドリームに恋をした結果、1万年にわたって地獄に落とされる。結局は彼と和解するが、すべての記憶を失って香港の新生児に転生することを選ぶ。ホブ・ガドリング (Hob Gadling)14世紀のイングランドに生まれた意志の強い男性。ドリームによって不老不死の身にしてもらい、その代わり100年毎に彼に心境を語る約束をする。ドリームとはやがて対等な友人となる。奴隷貿易で財をなすが、現在ではその非道を理解しており、罪の意識を持っている。外見のモデルはイアン・アンダーソン。ウィリアム・シェイクスピア (William Shakespeare)友人の劇作家キット・マーロウの才能を羨み、後世に残る傑作を書くためなら悪魔とでも取引すると話していたのをドリームに聞きつけられる。ドリームとの契約により、詩人としての才能を引き出してもらう代わり、その注文に従って夢を題材にした戯曲を2編書くことになる(第3巻、第10巻参照)。テサリー (Thessaly)眼鏡をかけた小柄な若い女性に見えるが、正体は数千年の寿命を持つテッサリアの魔女である。ラリッサとも名乗る。実際的な性格で、古代の気風を持ち続けており、敵対者を殺すことに躊躇しない。第5巻でドリームと言い争うが、後に求愛を受ける。しかし彼の関心が薄れたと感じてその元を去る。第9巻では三人の魔女と取引し、寿命を延ばしてもらうのと引き換えにドリームと敵対する。 ===シリーズ外のDCキャラクター=== ====第1巻==== 悪魔払いジョン・コンスタンティンはドリームの持ち物だった砂袋を偶然入手した。コンスタンティンと同棲していた麻薬常用者の女性は砂袋を持ち逃げし、それを用いて幻覚にふけっていた。エトリガン・ザ・デーモン(英語版)は悪魔と円卓の騎士が合体して生まれたダークヒーローで、地獄を訪れたドリームの案内役を務めた。ドクター・デスティニー(英語版)(ジョン・ディー)は夢を操る能力で初期の『ジャスティス・リーグ・オブ・アメリカ』を苦しめたスーパーヴィランである。本作では、ドリームを捕らえた魔術師ロデリック・バージェスの愛人がディーを生み、ドリームのルビーをディーに与えたとされた。ミスター・ミラクル(英語版)とマーシャン・マンハンター(英語版)はいずれもジャスティス・リーグに所属する異星人ヒーローで、ドリームにディーについての情報を伝える。バットマンの旧敵スケアクロウは犯罪者専門の精神病院アーカム・アサイラムでディーと知り合う。 ===第3巻=== Fa*203*ade の主人公ユレーニア・ブラックウェル(レイニー)、別名エレメントガール(英語版)は、パートナーのメタモルフォ(英語版)と同じく、太陽神ラーの宝珠に触れて元素転換の能力を身に着けたスーパーヒロインである。1967年から翌年まで『メタモルフォ』誌に登場していた。同誌の終刊後もメタモルフォは「アウトサイダーズ」などのチーム誌で活躍を続けたが、エレメントガールはそのまま忘れられていた。 ===第10巻=== ドリーム(モルフェウス)の通夜において、列席したクラーク・ケント(スーパーマン)、バットマン、マーシャン・マンハンターがよく見る奇妙な夢について話し合うシーンがある。夢の内容は古い時代の実際のストーリーから取られたものである。当初の案では、ケントはこのシーンでジャケットの裾からスーパーマンのマントがはみ出すのを気にしていた。作者はいかにもケントが見そうな夢だと考えたのだが、DC社からキャラクターにそぐわないとして却下されたという。またここで描かれるバットマンは本人が夢で見た自己像であり、現実よりも恐ろしげな容貌である。トレンチコートをトレードマークとする3人のキャラクター、ジョン・コンスタンティン、ドクター・オカルト(英語版)、ファントム・ストレンジャー(英語版)が会話するシーンや、ダークサイドがカメオ出演するコマもある。 ==制作背景== ===誕生=== 27歳の新進コミックライター(原作者)だったニール・ゲイマンが1988年にDCコミックスに対して『サンドマン(英語版)』(1974―76年)のリメイクを提案し、その結果生まれたのが本作である。当時のDC社は1985年の『クライシス・オン・インフィニット・アース』で刊行物全ての設定をリセットした直後で、旧作を現代風な物語として語り直すことに力を入れており、スーパーマンを始めとする多くのキャラクターが新世代の作家によって再創造された。『サンドマン』旧シリーズは眠りの妖精(ザントマン)が主人公のヒーロー物で、ジャック・カービーなどにより7号が刊行されたが、人気は得られなかった。 もともとゲイマンは、DCデビュー作として企画されていたリメイク版『ブラック・オーキッド(英語版)』(1988年)にカービー版のサンドマンを登場させるつもりだったが、先に他誌で使われていたため実現しなかった。しかしゲイマンは、夢の住人であるサンドマンには真の形がなく、見る者によって姿を変えるというアイディアに魅了されており、それに基づいた新シリーズを構想し始め、DCの編集者カレン・バーガー(英語版)に伝えた。 芸術志向の作品だった『ブラック・オーキッド』をDC社は高く評価し、上質な装丁で刊行することにした。しかし主人公キャラクターの知名度が低く、制作者も全く無名であることは不安材料だった。そこでDC社は、『ブラック・オーキッド』を出す前に、ゲイマンを別の作品でアメリカ読者にお目見えさせようとした。ゲイマンはカレン・バーガーから新しい月刊シリーズを書くよう求められ、候補の一つとして『サンドマン』新シリーズを提案された。ゲイマンはその際の会話を以下のように述べている。 私はこう答えた。「え … ああ。やるよ、ぜひとも。でも条件があるんだろう?」「一つだけ。新しい『サンドマン』を書いてほしいの。名前は変えないで。あとは任せるから」 ゲイマンはありがちなホラーやヒーロー物を書くつもりはなく、関心の赴くままどのようにでも物語を展開させられるような主人公を選んだ。神話のモルフェウスをヒントにして作り出された新たなサンドマン(作中ではドリームもしくはモルフェウスと呼ばれる)は「夢の王」「物語の君主」とされる超常的な存在であった。ゲイマンはドリームがこれまでDCユニバースに現れなかった理由を「囚われていたから」と決め、以下のような初期イメージを元にキャラクターを発展させた。 男性、若い、青白い、裸、小さな独房の中で、自分を虜にしている者たちが死に絶えるのを待っている … 恐ろしく痩せ、長い黒髪、奇妙な目。 ドリームの服装は、日本のデザインに関する本で見かけた着物の柄と、ゲイマン自身が好む黒一色のファッションを組み合わせたものである。 ゲイマンは最初の長編ストーリーの梗概を作成し、友人の画家デイヴ・マッキーンとレイ・ボールチに渡してキャラクタースケッチを描かせ、DC社のバーガーやディック・ジョルダノから認可を得た。無名の作者によるホラーシリーズを手掛けたがる作画家は少なかったためペンシラーの選定は難航したが、画風が独特でイラストレーション風の絵が描ける新人としてサム・キース(英語版)が選ばれた。インカーとしてはマイク・ドリンゲンバーグ(英語版)が、カラーリスト(英語版)としてはロビー・ブッシュが契約を結んだ。レタラーのトッド・クライン(英語版)、カバーアーティストのデイヴ・マッキーンらはシリーズを通して貢献を続けた。 『サンドマン』第1号は1988年11月29日に発売された(発行日表示1989年1月)。 ===オリジナルシリーズ=== ゲイマンは初期の数号について、彼自身も作画スタッフも経験不足だったため「ぎこちない出来」になったと述べた。ペンシラーを務めていたサム・キースは、特に自身の作画の評価が低かったと語っている。キースによれば、漫画的な馬鹿馬鹿しさを好む作風が周りと噛み合っておらず、単純に画力も不足していた。第3号の時点で辞意を明らかにしたキースを引き留めるため、ゲイマンは第4号にキースの長所が活きるようなシーンを設けた。その一つは無数の悪魔が地獄の地平を埋め尽くしている見開きページだった。手間のかかる構図の作画をキースは楽しみ、ペンシラーの職域を越えてペン入れまで行った。しかし、結局は次の号でシリーズを離れ、「ビートルズに入ってしまったジミ・ヘンドリックスみたいな気分だ」という言葉を残した。 第6号からは、当初インカーだったドリンゲンバーグがペンシラーに転向し、後任のインカーにはマルコム・ジョーンズIII世が迎えられた。完璧主義のドリンゲンバーグは仕事が遅かったため二つ目の長編ストーリーの完結(第16号)とともにレギュラーを外れ、以降はそれぞれのストーリーに合わせて作画家が選ばれるようになった。しかし、憂愁な雰囲気と色気を感じさせるドリンゲンバーグの画風はシリーズのヴィジュアル面を方向付けた。キャラクターがホラーコミック調にディフォルメされていたサム・キースと比べて、新しい絵柄はゲイマンのストーリーが持つ密やかなエロティシズムを際立たせていた。ドリンゲンバーグが第8号(1989年8月)において、ドリームの姉である死の化身デス(英語版)をデザインしたことは特筆すべきである。大鎌を携えた骸骨という西欧の伝統的な死神とは全く異なり、ゴス風の快活な女性として描かれたデスはシリーズの中でも屈指の人気キャラクターとなり、コミックの歴史に刻まれた。ゲイマンは2014年のインタビューで、本作が独自の作品に脱皮することができたのはドリンゲンバーグの作画があってのことだったと述べている。ドリンゲンバーグ自身は本作の作画について、読者の想像力に訴えるため幻想的な描写を抑えめにしたことや、論理の飛躍 (visual non‐sequitur) を用いて注意を引き付ける手法について語っている。 このころには『サンドマン』はDC社のカルトヒット作となっていた。メインストリーム・コミックの読者層とは異なる女性や年長者のファンも多く、それまでコミックと無縁だった者もいた。コミック史家レス・ダニエルズは本作を「驚くべき傑作」と呼び、「ファンタジーやホラー、アイロニックなユーモアを混ぜ合わせた作風はコミックブックにこれまでなかったものだ」と指摘した。コミック原作者でDCの重役でもあったポール・レヴィッツは次のような所見を述べている。 『サンドマン』はグラフィックノベルのシリーズとして初めて規格外の成功を収めた作品だった。コミックを読まなかった層、特に大学生女子に興味を抱かせ、コミック読者に変えたのだ。ゲイマン自身も本作で文化的なアイコンとなった。 ゲイマンは早くから物語の結末とともにシリーズを終了させようと考えていた。しかしシリーズの権利を所有するDC社が人気作を終わらせたがらないのは明白だった。ゲイマンは長年にわたって直接間接に意思を伝え続け、DC社との絶縁をちらつかせることもした。DC側はゲイマンを降板させて別の作者にシリーズを継続させることもできたが、結局は彼の意向に従った。このような作家主義的な措置はコミック界でほとんど前例がなかった。シリーズが完結した年にゲイマンは以下のように語っている。 サンドマンをあと5号続けることは可能だったろうか? そりゃもちろん可能だ。ではそうしたら、私は幸せな気分で鏡の中の自分を見ることができただろうか? それは無理だ。終わりにする時だった。物語は語り切ったのだし、愛が残っているうちに離れるべきなんだ。 主人公ドリームは第69号(1995年6月)で死を迎え、人間の幼児ダニエルが後継者となる。第70―72号ではドリームの葬儀が行われ、第73号ではそのエピローグが書かれた。さらに作中の過去を舞台にした2編の物語が書かれたところでシリーズは完結した。最終号となった第75号は1996年3月に発行された。 ===売れ行き=== 当初、ゲイマンは本作が1年後に全12号で打ち切られる可能性を想定していた。最初のストーリーラインが第1‐8号で構成されたのはそのためだった。仮に打ち切りになったとしても、最終号でストーリーの区切りをつけるのは避け、残りの4号に短編エピソードを入れて余韻を残せば、後に復刊されるかもしれないと考えたのだった。シリーズ第1号はマッキーンによる印象的な表紙や宣伝の効果もあって8万部という良好な売れ行きを示したが、第4号までに4万部に落ち込んだ。しかし第5号からは毎号数100部ずつ上昇していった。第8号はDC社内での前評判が高く、コミック専門店に対して無償のコミックブックを配布するなど大々的な販促活動が行われた。この号は実際にホラータイトルとして抜きんでた成功を収めたため、ゲイマンは安心してシリーズ全体の詳細な構想を立てはじめた。シリーズはここでDC社の人気キャラクターをあまりゲスト出演させない方向に舵を切ったため、いくらかの読者を失うことになったが、巻を追うごとにそれ以上に新しい読者が入ってきた。 1980年代から90年代にかけてのアメリカン・コミック界では、閉鎖的なファン層に支えられた危うい好況が続いており、コレクター向けの限定版コミックで発行数を水増しすることが常態化していた。この状況は1994年に破綻を迎え、コミック専門店や小出版社の廃業が相次ぎ、発行数が全体に急低下した。しかし、本シリーズはその影響をほとんど受けず、毎号10万部前後を維持したため、月刊タイトルの売上ランキングにおいて70位台から25位まで上昇した。最終号はランキング1位を占めた。年間発行数は最大で120万部に達した。 ===DCユニバースとのつながり=== 夢の領域の住人として初期に登場したキャラクターの多くは、DC社のホラーシリーズでナレーター役を務めていたキャラクターだった。「最初の物語の殺害者と犠牲者」であるカインとアベルの兄弟はそれぞれ『ハウス・オブ・ミステリー(英語版)』、『ハウス・オブ・シークレッツ(英語版)』のナレーターだった。城の司書ルシエンは『テールズ・オブ・ゴースト・キャッスル(英語版)』から取られた。夢の国の洞窟に住むイヴ(アダムの妻)は『プロップ!(英語版)』誌に登場していたが、マダム・ザナドゥ(英語版)のイメージも取り込まれている。プロット上重要な役割を持つ三人の魔女もまたホラーシリーズ『ウィッチング・アワー(英語版)』から取られた。これらは歴史の中に埋もれた平板なキャラクターだったが、本シリーズで奥行きが与えられたことで、ヴァーティゴ作品にたびたび顔を出すようになった。 シリーズ初期にはDC社の「成人読者向け」タイトルとのクロスオーバーが行われた。『サガ・オブ・スワンプシング』第2シリーズ第84号(1989年3月)では、長年の登場人物であったマシュー・ケーブルが命を落とし、ドリームによって夢の大烏に変えられて『サンドマン』のキャラクターとなった。『ヘルブレイザー(英語版)』第19号ではドリームが同誌の主人公ジョン・コンスタンティンと出会う。『サンドマン』第3号(1989年3月)では逆にコンスタンティンがゲスト出演を行った。 第4号(1989年4月)ではアラン・ムーアが『スワンプシング』誌で書いた地獄がストーリーに取り入れられ、ルシファー、ベルゼブブ、アザゼルの3人を頂点とする地獄の位階が導入された。翌月の第5号(1989年5月)では、ドリームがDC世界のヒーローチーム、ジャスティスリーグ・インターナショナルを訪問した。 これ以降もDCキャラクターが登場することはあったが、多くは1、2話のゲストに止まり、本編プロットとDCの主流世界が深く関与することはなかった(後述するフューリーは例外である)。 ===旧サンドマンとの関わり=== シリーズのタイトル『サンドマン』は主人公の異名の一つだが、本シリーズ以前からDC世界にはサンドマンという名のスーパーヒーローが複数存在した。ゲイマンはそれらを自らの物語に取り込み、主人公ドリームと関係づけた。 1940年代に活躍した初代サンドマン(英語版)(ウェスリー・ドッズ)はガスマスクと催眠ガス銃を武器として犯罪と戦うありきたりなヒーローだった。本シリーズでは、ドリームが幽閉されていた時期にドッズはその魂の一部を受け取り、霊感を受けてヒーロー活動を始めたとされた。後年にはこの解釈に基づいたドッズを主人公とするスピンオフ作品も発刊された。ドリームがガスマスクに似たヘルメットを着用するのは、初代サンドマンへのオマージュと思われる。 二代目となるジャック・カービー期『サンドマン』(1974―1976年)はスーパーヒーローのような衣装をまとっているが、本物の眠りの妖精であった。カービー版シリーズが短期で終わってからしばらくして、コミック原作者ロイ・トーマス(英語版)は二代目サンドマンの設定を変更し、その正体は夢の次元に閉じ込められた人間ギャレット・サンフォードだとした(1983年)。トーマスは続いて自作『インフィニティ・インク(英語版)』第50号(1988年5月)でヘクター・ホール(英語版)というヒーローにサンドマン(三代目)の名を受け継がせた。 ゲイマンは本シリーズ第11―12号(1989年12月‐1990年1月)で設定の変更を行い、二代目・三代目のサンドマンは手下の悪夢ブルートとグロブに操られていたことにした。2体の悪夢はドリームの支配から逃れて、偽のサンドマンを戴く自分たちの王国を作ろうとしたのだった。しかし2体はドリームによって罰され、ヘクター・ホールは消滅させられる。ホールはスーパーヒロインのフューリー(英語版)(本シリーズでは本名のリタ・ホールで呼ばれる)と結婚していた。夫を失ったリタは後の巻で再登場し、遺児ダニエルとともに大きなプロット上の役割を担うことになる。 フューリーは元々ギリシア神話に由来するキャラクターで、超人的な力は女神ティーシポネーに与えられたものだった。本作ではティーシポネーを始めとする三相一体の女神エリーニュスもまた重要な役割を演じた。エリーニュスは作中で婉曲に ”the Kindly Ones”(慈愛深い者たち)という名で呼ばれるが、これはアイスキュロスの『オレステイア』三部作で彼らが与えられた「エウメニデス」という名の英訳である。 ==作風とテーマ== ===主題=== 作者ゲイマンはシリーズ全体を一文で「変わり得ない者は死ぬしかないと学んだ夢の王は、自らの運命を選ぶ」と表現したことがある。「変わるか、死か」、あるいは「変化・変容・自己と世界の再創造」のテーマは、当時のゲイマンがメンターとしたクライヴ・バーカー(『血の本(英語版)』)やアラン・ムーア(『ミラクルマン(英語版)』、『Vフォー・ヴェンデッタ』など)にも共通していた。批評家ヒラリー・ゴールドスタインによれば、主人公ドリームが闘う相手は強大な怪物などではなく「自分自身のエゴ」であり、それが本作を悲劇にしている。コミック研究団体セクワート(英語版)のスチュアート・ウォレンは「成熟して別の何かになること、成長とともに責任を引き受けること、進んで変化を受け入れる度量を持つこと」が主題だとした。コミック弁護基金のチャールズ・ブラウンスタインは「人生に対する信念を見つけようとしている若者のための物語」と呼んだ。 夢と物語の主題もまた本作の大きな部分を占めている。作者ゲイマンは「夢」の意味として、眠りの中で見る夢、希望としての夢、そして「世界に意味を見出すため、我々が自分自身に信じさせる物語」としての夢を挙げた。ヒラリー・ゴールドスタインは本作を「夢を見る行為ではなく、むしろ夢という概念についての」コミックブックと呼んだ。マーク・バクストンは本作を「物語という業と、潜在意識の本質への愛情あふれるトリビュート」とした。デイヴ・イツコフは『ニューヨーク・タイムズ』で本作を評して「夢は物語作家にとっての究極の自由を表している。伝統的なナラティブのルールが適用されない舞台設定であるにとどまらず、野心的で才気あふれる作者にとってはルールを完全に書き変えることが許される空間なのだ」と書いた。文学者フランク・マコーネルは、超越的な存在だったドリームが人間的なものへと変化するストーリーを近代文学の勃興についての寓話と捉え、「壮大なメタフィクションであり、物語についての物語にほかならない」と述べた。 作家スティーヴ・エリクソンは本作を「迷宮のように入り組み、眩暈がするほど複線的である … 全てのページを地面に並べて鳥の視点から見下ろしたくなる」と表現しつつ、全編を通じて喪失の感覚が語られていることを指摘した。シンガーソングライターのトーリ・エイモスは、本作は現代の神話として読まれており、全一性がテーマにあると述べた。 ===ジャンルと構成=== 本シリーズは数号にわたる長編ストーリーや一号完結の短編からなる。それらの題材は多様だが、単発のエピソードの羅列ではなく全体として一つの物語となっている。一般的な月刊コミックブックでは、作中の時間の流れはあいまいで、物語は基本的にいつまでも続く。しかし本作では現実と並行して年月が経過していることが全編を通して明示されており、不可逆な事象の積み重ねによって物語の結末を導く意図があるとされる。構成は緻密で、一つ一つのコマに至るまではっきりした意図のもとに配置されてストーリーを展開している。『トランスメトロポリタン(英語版)』や『Y:THE LAST MAN(英語版)』など、後にヴァーティゴから刊行された作品の多くは本作にならって、最初のストーリーが結末に向けた伏線になっているという周到な構成を採用した。 本作はダーク・ファンタジー(ホラー)のジャンルに分類されるが、背景はどちらかというと現代的である。批評家マーク・バクストンは本作を「名手の手による物語で、大人が読むダーク・ファンタジーの潮流を作った」と評し、それ以前のファンタジー・ジャンルでは小説やコミックを含めて同種の作品はなかったと述べた。本作はまた業界の制約にとらわれず、アーバン・ファンタジー(英語版)、エピック・ファンタジー、史劇、スーパーヒーローのような多様なジャンルを縦横に利用している。 初期のエピソードでは、『サンドマン』の神話体系はDCユニバースの一部であり、数多くのDCキャラクターが直接間接に登場していた。しかしシリーズが進むにつれ、他誌とのストーリー上の関連性は弱められていった。その理由の一つは創作上の自由を確保するためである。シリーズの連載中、ほかのタイトルのストーリー展開に足並みを合わせるよう求められたゲイマンは、編集者カレン・バーガーと激しく衝突することがあった。コミック原作者のグラント・モリソン(英語版)は本作を評して、「スーパーヒーロー・コミックという当初の立脚点を逸脱して […] ファンタジーやホラーと文学の交差する地点に、新しいジャンルを確立することになった」と述べている。 作者ゲイマンは、シリーズの長編ストーリーラインに「男性的」なものと「女性的」なものを交互に配置したと述べている。男性主人公ドリームが困難な状況に挑む「プレリュード&ノクターン」や「シーズン・オブ・ミスツ」は男性的なストーリーであり、人間女性のキャラクターを中心に置いて人間関係やアイデンティティのテーマを扱った「ドールズハウス」や「ゲーム・オブ・ユー」は女性的なストーリーだとされた。 ===レタリング=== シリーズの正レタラーを務めたトッド・クライン(英語版)はアメリカのコミック界きっての名手と認められており、代表作となった本作のレタリングで連続3回のアイズナー賞、3回のハーベイ賞を受賞している。クラインによると、ゲイマンは本作の主要登場人物それぞれに固有の字体と吹き出しの形をデザインするよう要求した。主人公ドリームには夢の移ろいやすい性質を表すため不定形の吹き出しが使われ、黒地に白の文字が入れられた。狂気の具現化であるディリリウムの吹き出しには虹色のグラデーションが用いられ、文は波打っており、字体や文字サイズは一定しない。中世ファンタジー世界を舞台にした「ゲーム・オブ・ユー」ではカリグラフィーの技法が使われた。最終号 Tempest では、主役となるシェイクスピアの直筆(英語版)を模して字体が作られた。クラインが本作のために作り出したスタイルは30種に及ぶ。デジタル化以前の時代であり、これらのレタリングはほぼ全て手作業で行われた。 ===カバーアート=== デイヴ・マッキーン(英語版)のカバーアートはファインアートや現代デザインを取り入れた際立ったもので、シリーズの顔となった。作家スティーヴ・エリクソンは「信じられないほど不気味な、イドに苛まされた表紙」と評した。当時、コミックの表紙には必ず主人公キャラクターを描くのが通例だったが、マッキーンは編集のバーガーを説き伏せ、作品のテーマを題材とした表紙画を制作した。マッキーンは本作の思索的なストーリーに合わせて「少しシュルレアルで、物憂げで、内省的な」イメージを覗かせる窓枠として表紙を機能させようとしたと述べている。初期の号では、絵具で描かれた絵と、彫刻やオブジェを並べた棚をコラージュした写真が多く用いられた。1994年にマッキーンがMacintoshのコンピュータを導入してからはPhotoshopも使用され始めた。マッキーンは本シリーズで全号の表紙を制作し、スピンオフ誌『ドリーミング』でも続投した。1998年には本シリーズの表紙画集が Dustcovers: The Collected Sandman Covers のタイトルで刊行された。 ==社会的評価== ===受賞=== 『サンドマン』第19号 A Midsummer Night’s Dream は1991年に世界幻想文学大賞最優秀短編賞を受賞した。コミックブックとしては異例の受賞であり、その直後に規定が変更されてコミック作品は短編賞の対象外とされた。アメリカのコミック界で権威あるアイズナー賞はオリジナルシリーズだけで20回近く受賞している。内訳は継続シリーズ部門3回、短編部門1回、ライター部門4回(ニール・ゲイマン)、レタリング部門7回(トッド・クライン)、ペンシラー/インカー部門2回(チャールズ・ヴェスとP・クレイグ・ラッセル)などである。またハーベイ賞は継続シリーズ部門1回、ライター部門2回を受賞している。スピンオフ『夢の狩人』は2000年にヒューゴー賞の関連書籍部門にノミネートされた。『夢の狩人』と『エンドレス・ナイツ』はそれぞれ1999年と2003年にブラム・ストーカー賞のイラストレーテッド・ナラティブ部門を受賞した。「シーズン・オブ・ミスツ」は2004年にアングレーム国際漫画祭最優秀シナリオ賞を受賞した。本編シリーズの前日譚であるミニシリーズ『サンドマン: オーバーチュア』は2016年にヒューゴー賞グラフィック・ストーリー部門を受賞した。 ===コミックブック業界への影響=== 本作は、子供向けのポップなメディアであったアメリカン・コミックスに新たな文学的な感覚を持ち込んだ作品の一つだと認められている。1950年代以来、アメリカのメジャーなコミック出版社はコミックス倫理規定の影響で子供向けのスーパーヒーロー作品を中心に刊行しており、多様で現代的なジャンルを扱う土壌がなかった。80年代に至ってコミックス倫理規定の影響力が弱まり、『バットマン: ダークナイト・リターンズ』、『ウォッチメン』など、形式やテーマの面で新しい地平を開く傑作が登場してコミックの文化的地位を高めた。しかしそれらは、露骨な暴力描写やシニシズムを主軸とする亜流作品をも生んだ(当時流行した作風は ”grim and gritty”「暗くざらついた」と呼ばれた)。ストーリーをシリアスに見せるために女性への暴力を使ったり、女性を性的対象として描写する傾向がいっそう強くなったのもこの時期だった。そんな中で登場した『サンドマン』はストーリーテリングの精妙さで抜きんでており、女性や一般読者にアピールする作風でコミックの読者層を広げたと評価されている。当時コミック読者の大多数は男性だったと言われるが、本作のファンは男女比が拮抗していた。また多様性や多文化主義のテーマを早くから扱っていたいう点でも影響は大きかった。批評家ターシャ・ロビンソンは「創造的で生彩に富み、気品を備え、そして大いに野心的な物語であるが、それでもなお細部のディテールと瞬間を美しくとらえている」と述べ、「現代コミックの基礎を作った」と評した。 スティーヴン・キング、ピーター・ストラウブ、クライヴ・バーカーら、幻想文学やホラー小説の大家が序文を寄せたグラフィックノベル(単行本)はコミックの枠を越えた読者層を獲得し、メインカルチャーに受け入れられた。作者ゲイマンの創作の原点であったSF作家、サミュエル・R・ディレイニー、ハーラン・エリスン、ロジャー・ゼラズニイらは『サンドマン』の愛読者となった。作者ゲイマンは一種のカルチャー・ヒーローにのし上がり、積極的に多くのインタビューを受けて、文学寄りのコミックのスポークスパーソン的な立場になった。作家ノーマン・メイラーは「これは知識人のためのコミック・ストリップだ。そろそろこういう作品が出てもいいころだ」と評した。メイラーの言葉は第4巻の単行本表紙に載せられ、本作が読書界に受け入れられるのに貢献した。ピューリッツァー賞フィクション部門の選考委員であったフランク・マコーネルは、ゲイマンに国籍の問題がなければ(英国人には受賞資格がない)文学界の反発があったとしても全力で推しただろうと発言している。本作を題材にした論文集・研究書・解説書も刊行された。コミック研究についてのオープンアクセスジャーナル ImageTexT が出したニール・ゲイマン特集号では、ゲイマンの「間テクスト性指向、文学と歴史への深く幅広い言及、コミックおよび短編・長編小説作家としての明白な力量」に研究対象として高い価値があるとされた。 『サンドマン』はDCコミックス社の成人向けラインであるヴァーティゴ(英語版)を開拓した作品の一つでもある。はじめにその流れを作ったのは、1983年に『サガ・オブ・スワンプシング』誌の原作に起用された英国人アラン・ムーアだった。ムーアはアメリカン・コミックの枠にとらわれず、時代遅れのモンスター物だった同誌に抒情的な文章と鋭い社会批判を持ち込んだ。担当編集者カレン・バーガーは「知的で洗練された、文学性を持つコミックはそれが初めてだった」という。バーガーはDC社の英国担当となり、ムーアの後に続く英国人原作者を次々に発掘して頭角を現した。その中には『サンドマン』のニール・ゲイマンのほか、『アニマルマン(英語版)』のグラント・モリソン(英語版)、『ヘルブレイザー』のジェイミー・デラーノ(英語版)などがいる。これらの原作者は「ブリティッシュ・インヴェイジョン」と呼ばれた。『サンドマン』などの人気を背景として、バーガーは1993年に作家性の強い作品を集めた新レーベル・ヴァーティゴを立ち上げ、女性を含む成人読者を対象に洗練された作品を送り出した。ジャンルとしてはファンタジーやホラーが主体で、ゲームを通じたこれらのジャンルの人気や、ゴス・エモなどのサブカルチャーの隆盛に後押しされて人気を得た。本作は『スワンプシング』や『ヘルブレイザー』と並んで看板タイトルとなり、「『サンドマン』はヴァーティゴと同義だ」の評価を得た。 ヴァーティゴは月刊コミックブック(標準32ページの冊子)をグラフィックノベル(単行本)として書籍化することにも意欲的であり、そこでも本作が主力商品となった。『サンドマン』が刊行されていた1990年代は、ダイレクト・マーケットを通じたコミック専門店の売り上げが低迷し、一般書店で売られるグラフィックノベルが台頭してきた時期だった。初期の本シリーズは月刊誌以外の形で刊行される予定がなかったため、数か月にわたる長編ストーリーでは、各エピソードの最初でそれとなく前号の要約を行うような配慮が必要だった。しかし後半の号はまとまった書籍として一気に読まれることを想定して書かれるようになった。月刊シリーズ終了後も本作はグラフィックノベルのシリーズとして書店に並び続け、新しい刊行形態の普及に貢献したとされる。 ===ゴスカルチャーとの関わり=== 本作はゴスカルチャーの一部となったコミック作品として『ザ・クロウ』などとともに名が挙げられる。ダークな雰囲気を持ち、内向的なファンタジーである本作はゴスの間で好まれた。制作チームが初めから意図していたわけではなかったが、登場人物のドリームやデスはゴスとみなされることが多い。特にマイク・ドリンゲンバーグがデザインしたデスは、蒼白な肌、黒一色の服装、ホルスの目のタトゥー、アンクのペンダントなどゴスカルチャーと親和性の高い要素を多く含み、美や知性と人格の強さを感じさせる描写と相まって、コミックファンではないゴスにも受け入れられた。デスのモデルとなった女性シナモン・ハドリーは、ウェブメディアpost‐punk.comによる訃報記事の中でゴスファッションへの影響を高く評価された。 ===批判=== 第5巻「ゲーム・オブ・ユー」はマイノリティの扱いに関して批判を受けることがある。登場人物のワンダは男性として生まれ、女性としての自己認識を持つトランスジェンダーである。ワンダは作中で家族や隣人から女性性を否定されるだけでなく、肉体的に男性であることが理由で魔女の儀式に参加できず、それが遠因となって命を落とす。死後の魂は生まれつきの女性の姿で描かれる。トランスセクシュアルの作家レイチェル・ポラック(英語版)は、このストーリーが作者ゲイマンのトランスジェンダーに対する不寛容を示すものだと批判した。メディア学の研究誌『シネマ・ジャーナル』では、メインストリーム・コミックで初めて本物のトランスジェンダーが扱われたことに一定の評価が与えられながらも、神霊を通じて提示されるジェンダー観が西欧的な価値観に縛られていることが批判された。 またアフリカ系の作家サミュエル・R・ディレイニーはこの巻の序文において、ワンダと同時に死んだキャラクターが作中唯一の黒人だったことを指摘した。ディレイニーによれば、読者の同情を引くため被抑圧者のキャラクターを死なせる展開は現実の支配的イデオロギーに沿ったもので、ファンタジー世界に組み込まれた「自然力」がそれを正当化しているのは問題があるという。ただし、ディレイニーは『サンドマン』に充溢するアイロニーと繊細さがそのような政治的パターンを相対化しているとも述べている。 これらの批判に対しては作者や批評家からの反論もある。作者ゲイマンによれば、物語中の「自然力」がワンダの女性性を認めなかったとしても、それは単に一つの視点を提示しているに過ぎず、彼自身は性自認に関するワンダの立場を支持しているという。トランスセクシュアルの作家ケイトリン・R・キアナン(英語版)はポラックに一部同意しながら、作品全体としてはワンダを肯定的、共感的に描いていると評した。批評家デイヴィッド・ブラットマンは、作中で動物キャラクターや悪役の白人男性も殺されていることを批判者たちが無視していると指摘した。また、ワンダは「作中で唯一、高潔で英雄的、かつ勇敢で善良な行いをするキャラクター」として描かれており、だからこそ悲劇には彼女の死が必要なのだと擁護した。 他方では、このようなテーマをコミックで表現することそのものに対する批判も存在した。キリスト教原理主義団体であるアメリカ家族協会(英語版)は本作の不買を表明し、版元ヴァーティゴに謝罪を求めた。また本作は、「ヤングアダルト対象書籍としては不適切」「家族の価値を損なう」「不快感を与える言葉遣い」のような理由により、複数のアメリカの図書館で規制の対象となってきた。2015年には、クラフトン・ヒルズ・カレッジ(英語版)の英語コースで「ドールズハウス」を含むグラフィックノベルが取り上げられたことに対し、ポルノグラフィを読むよう強制されたという抗議が学生から寄せられた。 ==単行本== 本シリーズは初め、カラー32ページの月刊誌として刊行された。広告などを除くと各話は通例24ページだが、例外が8号ある。 当時、アメリカのコミック界では月刊コミックブックを再録した単行本(グラフィックノベル)はそれほど一般的ではなく、本作も単行本化される計画はなかった。しかし1989年に『ローリング・ストーン』誌で取り上げられて注目を集めた際に、同時期に刊行中だった二つ目の長編ストーリー「ドールズハウス」(第9―16号)の単行本化が急きょ企画された。タイトルは単に『サンドマン』とされた。デスが初登場した第8号 The Sound of Her Wings は一つ目の長編のエピローグにあたるが、特に人気が高かったため巻頭に掲載された。この売り上げが好調だったため、「ドールズハウス」を含む最初の3巻が別々のタイトルで刊行され、それらを集めた『サンドマン』ボックスセットが発売された。このとき第8号は第1巻「プレリュード&ノクターン」(第1―8号)の巻末に移された。最終的には月刊シリーズ全号が単行本化された。 ===サンドマン・ライブラリー版=== トレードペーパーバック全10巻。1999年時点で英国での発行数が25万部、米国では100万部以上とされる。2003年時点では19か国、13言語で翻訳出版され、全世界で700万部が発行されていた。2007年には発行数は1000万部を超えていた。 2010年からは、後述のアブソルート版で新しく彩色されたアートを用いた New Edition(新版)の刊行が始まった。 ===アブソルート版=== DC社の愛蔵版シリーズ「アブソルート・エディション」の一つ。2006年11月に刊行された第1巻は99ドルの値段が付いた革装箱入りの豪華な本で、添付された冊子には、オリジナルシリーズの概要、DCコミックス社長による新しい序文、新しい後記、A Midsummer Night’s Dream(第19号)の下描き・草稿などが収められていた。初期の号の多くは大幅に修正・再彩色が施されている。DC社は新版刊行のプロモーションとしてコミックブック第1号を再版した。 ===アノテーテッド版=== 本作には多様な文芸、聖書やオカルト、実在の人物からの引用やパスティーシュが含まれており、それらを詳解した注釈付きの版が発売された。注釈作業はホームズやドラキュラの注釈本で知られるレスリー・S・クリンガーがスクリプト原本を元に行った。 アノテーテッド(注釈)版第1巻は2012年1月に12×12インチの白黒本として刊行された。注釈はページ毎・コマ毎に行われ、ゲイマンのスクリプトからの抜書きが載せられたほか、歴史・神話・DC世界に対して幅広く行われている引用が解説された。アノテーテッド版第1巻は2012年にブラム・ストーカー賞最優秀ノンフィクション賞にノミネートされた。 ===オムニバス版=== 2013年には『サンドマン』シリーズ25周年を記念して、重厚なハードカバー本「サンドマン・オムニバス」が発売された。ゲイマンのサインが入った箱入り銀箔押し装丁の特別版も発売された。 ===日本語版=== 1998年から翌年にかけて、海法紀光と柳下毅一郎の翻訳により、原書の第3巻までが5冊に分けられて刊行された(柳下が「ドールズハウス」を、海法が他3冊を翻訳)。1999年にはスピンオフ作品『デス―ハイ・コスト・オブ・リビング』が、2000年には夢枕獏と小野耕世の翻訳により『夢の狩人―The sandman』が刊行された。版元はいずれもインターブックスである。 2012年の『S‐Fマガジン』に掲載された日本語版の短評では、「アメコミの枠を超えた幻想的な世界像と、スタイリッシュな語りの魅力で人気を博し … アメコミ、グラフィックノベルに再度光の当たっている今こそ、全巻の刊行を期待する」とされた。 ==スピンオフ作品など== en:List of The Sandman spinoffsも参照のこと。 ===ゲイマンによるスピンオフ=== ゲイマンは本編の刊行中にデスを中心とするミニシリーズを2編書いている。1993年3月から5月にかけて刊行された『デス―ハイ・コスト・オブ・リビング』では、デスが命の有限性について学ぶため1世紀ごとに人間としての生を生きるという寓話が語られた。同作はDCの成人読者向けインプリントであるヴァーティゴから最初に刊行されたタイトルだった。1996年に出された続編『デス―タイム・オブ・ユア・ライフ』では、デスは背景に引っ込み、本編第5巻で登場したレズビアンのカップル、フォックスグローブとヘイゼルの関係が物語の中心となった。 1993年末に行われたヴァーティゴのクロスオーバーイベント The Children’s Crusade では、本作第4巻の短編で登場した幽霊の少年たちを主役とするタイトル The Dead Boy Detectives が描かれた。その後、同タイトルは別の原作者の手によって数回にわたって刊行された。 1998年から2000年にかけて3号が刊行されたヴァーティゴの年刊アンソロジー Vertigo: Winter’s Edge にはエンドレスを主役とする短編が掲載されていた。The Flowers of Romance(1998年)では、欲望の生き物であるサテュロスの生き残りがディザイアに最後の願いをする。A Winter’s Tale(1999年)では、デスが酷薄な死の運び手から現在のような共感的なキャラクターに変わった経緯が語られる。How They Met Themselves(2000年)では、芸術家の夫に裏切られた女性が毒をあおり、こと切れるまでの短い間に、ディザイアから真に愛していた相手を知る機会を与えられる。 1999年、ゲイマンは天野喜孝のイラストレーションで中編小説 The Sandman: The Dream Hunters を書いた(邦題『夢の狩人―The sandman』)。日本の山奥に住む僧侶を化かそうとするうち恋に落ちた狐の物語で、『サンドマン』シリーズの短編でよくあるようにドリームは脇役となる。同書の後書きでは実在する民話が下敷きになったと書かれたが、出典とされた『日本昔話』(英子セオドラ尾崎による英訳)には該当する物語は存在しない。ゲイマンはあからさまな嘘として書いた文章がうまく伝わらなかったと述べている。本作は後にP・クレイグ・ラッセルの作画でコミック化され、全4号のミニシリーズとしてヴァーティゴから刊行された(2009年1―4月)。 2003年、ドリーム(モルフェウス)と兄弟姉妹を主人公とする7篇の物語を集めた『エンドレス・ナイツ (The Sandman: Endless Nights)』が出版された。物語の時代設定は様々だが、本編完結後の出来事を描いたものもあった。作画は作品ごとに異なるアーティストが担当した。同書は『ニューヨーク・タイムズ』ベストセラーリストのハードカバー部門に名を連ねた最初のグラフィックノベルだった。 『サンドマン』の刊行25周年には本編の前日譚『オーバーチュア (The Sandman: Overture)』が書かれ、J・H・ウィリアムズIII世の作画で全6号のリミテッドシリーズとして刊行された。これまで漠然としか語られていなかった本編開始以前のドリーム(モルフェウス)の冒険を描いたもので、それによって彼が疲弊していたことが、本作冒頭で人間の魔術に捕らわれてしまった原因だとされた。第1号の発行は2013年10月30日であった。制作者へのインタビューとオリジナルイラストレーションが収録された特別版が各号について刊行された。『オーバーチュア』は2016年にヒューゴー賞の最優秀グラフィック・ストーリー部門を受賞した。 ===ゲイマン以外によるスピンオフ=== 本編完結直後の1996年に発刊された『ドリーミング(英語版)』は本作とキャラクターや舞台設定を共有しているが、ゲイマンはドリームやほかのエンドレスについては自由に使用する許可を与えなかった。『ドリーミング』は60号で終了した。1997年からは「サンドマン・プレゼンツ」のタイトルの下、『サンドマン』の登場人物を主人公とした単発作品の刊行が始まった。そのうちの一作、『サンドマン・プレゼンツ: ルシファー』(1999年)から発展した定期シリーズ『ルシファー(英語版)』は2000年から全75号が発行され、テレビドラマ(『LUCIFER/ルシファー』)にもなった。 1996年、ゲイマンとエド・クレイマーの編集により短編小説のアンソロジー『ブック・オブ・ドリームス (The Sandman: Book of Dreams)』が刊行された。著者にはコリン・グリーンランド、トーリ・エイモス、スザンナ・クラークらが名を連ねた。 原作者兼作画家のジル・トンプソン(英語版)は『サンドマン』のキャラクターを使ったコミック作品を何冊か描いている。日本マンガのスタイルで描かれた Death: At Death’s Door は本編第4巻「シーズン・オブ・ミスツ」と並行して起きた出来事を描く作品で、2003年にDCコミックのベストセラーの一つとなった。The Little Endless Storybook はエンドレスたちを子供として描いた児童書である。2010年にはその続編 Delirium’s Party: A Little Endless Storybook が出された。 2018年8月からDCユニバース内の「サンドマン」関連タイトルを集めた新ライン『サンドマン・ユニバース (The Sandman Universe)』の刊行が開始された。 ===他の作品とのクロスオーバー=== ゲイマンは1995年にマット・ワグナーと共著で単巻作品『サンドマン・ミッドナイトシアター(英語版)』を書いた。同作は初代サンドマン(ウェスリー・ドッズ)を主人公とするシリーズ『サンドマン・ミステリーシアター(英語版)』のスピンオフで、ドリームとドッズの短い邂逅が描かれている。2001年、ドリームは『グリーンアロー』(第3シリーズ第9号)の回想シーンに登場した。これは本作で語られた70年の幽閉の間に起きた出来事である。本作完結後のドリーム(ダニエル)はグラント・モリソン原作期の『JLA』(1998年、第22―23号)に登場したほか、『JSA』(2005年、第80号)において両親リタ・ホールとヘクターを保護する姿が描かれている。 人気キャラクターのデスは他誌へのカメオ出演も多かったが、1990年の『キャプテン・アトム』誌(第42―43号)では本シリーズの設定と矛盾する役割を与えられた。これを受けて、DC社がエンドレスのキャラクターを使うときにはゲイマンの許可が必要だという取り決めがなされた。2010年に『アクション・コミックス』(第894号)でスーパーマンの宿敵レックス・ルーサーが死んだときには、ゲイマンの執筆協力の下でデスが登場した。 2017年に始まったDC社の大型クロスオーバー『バットマン・メタル(英語版)』では、2011年の世界再編イベント『New 52(英語版)』以来DC世界と交わってこなかったドリーム(ダニエル)が、スーパーヒーローたちに宇宙創成の物語を明かすという大きな役割を持って登場した。メインライターのスコット・スナイダーは、思い入れのあるドリームの使用許可をニール・ゲイマンから与えられたことを「掛け値なしに人生で最高の出来事の一つ」と述べた。 ===オマージュ作品=== トーリ・エイモスの楽曲 Tear in Your Hand(1992年のアルバム『リトル・アースクウェイクス』収録)の歌詞には、「ニール(ゲイマン)」と「夢の王」に触れた個所がある。後にエイモスとゲイマンは親交を持つようになった。本作の登場人物ディリリウムのキャラクターは部分的にエイモスからヒントを得ていると言われる。2006年にはゲイマン作品を題材にしたトリビュート・アルバム Where’s Neil When You Need Him? が制作され、エイモスもエンドレスのディザイアにインスパイアされた楽曲 Sister Named Desire を提供した。 ==メディア展開== ===映画=== 1990年代の後半から、DCの親会社であるワーナー・ブラザースは本作の映画化を繰り返し試み続けた。1996年には『パルプ・フィクション』の原案で知られるロジャー・エイヴァリーが監督に指名された。パイレーツ・オブ・カリビアンの脚本家テッド・エリオットとテリー・ロッシオがスクリプト初稿を書き、エイヴァリーとともに改稿した。この時点では、映画版のストーリーは「プレリュード&ノクターン」と「ドールズハウス」が元になっていた。しかしエイヴァリーはエグゼクティブ・プロデューサーのジョン・ピーターズ(映画『バットマン』や製作中止になった Superman Lives で知られる)と意見が衝突して解任された。ゲイマンによると、エイヴァリーが夢のシーンのヴィジュアルをヤン・シュヴァンクマイエルのアニメーション『アリス』に似せようとしたことが不評だったという。企画は続行したが、脚本は何度も改稿された。この時期、主人公ドリームは悪と闘う一般的なスーパーヒーローのように描かれる方針だったと伝えられている。ゲイマンはワーナーから最後に送られた脚本を「それまで見た『サンドマン』スクリプトの中で最悪だったし、それどころか私が読んだあらゆるスクリプトの中で最悪だった」と評した。ウェブサイト Ain’t It Cool News は1998年時点の脚本草稿を入手し、酷評した。 2013年12月、デヴィッド・S・ゴイヤーが脚本の責任者、ジョセフ・ゴードン=レヴィットが主演兼監督、ニール・ゲイマンがエグゼクティブ・プロデューサーを務める映画版の企画が進行中だと報じられた。脚本執筆にはジャック・ソーンが任じられた。2014年10月16日、ゲイマンは、同作の映画はワーナー・ブラザースによるDC関連映画の公開予定リストに載っていないというファンからの質問に答えて、ヴァーティゴ関連映画は別の扱いだと答えた。オンラインメディアDeadline.comのインタビューで、ゴイヤーは脚本の出来に満足していると述べた。また同サイトはニュー・ライン・シネマが配給を行うことを報じた。2015年10月、ゴイヤーは、ジャック・ソーンの手による前述の脚本を改訂するために新しい脚本家がスタッフ入りしたことを明かし、翌年から製作が開始される予定だと述べた。2016年3月に『ハリウッド・リポーター』はエリック・ハイセラーが脚本の改稿を行うことを報じた。その翌日、ゴードン=レヴィットはニュー・ライン社とクリエイティブ面で意見が衝突したことを理由に監督を降板したことを告知した。2016年11月9日にio9が伝えたところでは、ハイセラーは脚本の草稿を提出したものの、同作はHBOのドラマシリーズにするべきだと発言して製作から身を引いた。 ===テレビ=== 映画版の企画が難航したため、DC社はテレビシリーズ化に目を転じた。親会社ワーナー・ブラザースと離れてケーブルチャンネルHBOと組んだ企画は実現に至らなかった。このときの製作にはジェームズ・マンゴールドが関わっていた。2010年9月にはワーナー・ブラザース・テレビジョンがテレビシリーズ製作権の取得に動き、『スーパーナチュラル』原案のエリック・クリプキが製作者候補に挙げられた。2011年3月、ニール・ゲイマンはブログでDCとともにクリプキの製作方針を検討したことを伝えたが、結局クリプキはテレビシリーズの企画から外れたと報じられた。 ===『LUCIFER/ルシファー』=== DCとフォックスは2014年に『サンドマン』のキャラクターであるルシファーを前面に出したテレビシリーズを企画した。Lucifer(邦題『LUCIFER/ルシファー』)第1話はFoxネットワークを通じて2016年1月25日に放映された。同シリーズは原作からルシファーの基本設定を引き継いでいるが、内容的にはオリジナル性が強く、ドリームも登場しない。Foxによる放映は視聴率が振わなかったため第3シーズンで打ち切られたが、2019年からNetflixが代わって第4シーズンを配信することが決定した。 ==クレジット== 発行日以外のデータは Bender 1999, pp. 264‐270 による。 ==関連項目== サンドマン (曖昧さ回避)en:Sandman: 24 Hour Diner ファンによる映像作品。第6号 24 Hours を元にしている。 =フランク王国= フランク王国(フランクおうこく、フランス語: Royaumes francs、ドイツ語: Fr*45*nkisches Reich)は、5世紀後半にゲルマン人の部族、フランク人によって建てられた王国。カール1世(大帝)の時代(8世紀後半から9世紀前半)には、現在のフランス・イタリア北部・ドイツ西部・オランダ・ベルギー・ルクセンブルク・スイス・オーストリアおよびスロベニアに相当する地域を支配し、イベリア半島とイタリア半島南部、ブリテン諸島を除く西ヨーロッパのほぼ全域に勢力を及ぼした。カール1世以降のフランク王国は、しばしば「フランク帝国」「カロリング帝国」などとも呼ばれる。 フランク王国はメロヴィング朝とカロリング朝と言う二つの王朝によって統治された。その領土は、成立時より王族による分割相続が行われていたため、国内は恒常的に複数の地域(分王国)に分裂しており、統一されている期間は寧ろ例外であった。ルートヴィヒ1世(敬虔王、ルイ1世とも)の死後の843年に結ばれたヴェルダン条約による分割が最後の分割となり、フランク王国は東・中・西の3王国に分割された。その後、西フランクはフランス王国、東フランクは神聖ローマ帝国の母体となり、中フランクはイタリア王国を形成した。 このようにフランク王国は政治的枠組み、宗教など多くの面において中世ヨーロッパ社会の原型を構築した。 この王国はキリスト教を受容し、その国家運営は教会の聖職者たちが多くを担った。また、歴代の王はローマ・カトリック教会と密接な関係を構築し、即位の際には教皇によって聖別された。これらのことから、西ヨーロッパにおけるキリスト教の普及とキリスト教文化の発展に重要な役割を果たした。 ==歴史== ===フランク族の登場と移住=== フランク族の名前は西暦3世紀半ばに初めて史料に登場する。記録に残る「フランク(francus または franci)」という言葉の最も古い用例は241年頃の歴史的事実を踏まえたとされるローマ行軍歌においてである。これは4世紀に書かれた『皇帝列伝』に収録されて現代に伝わっている。ローマ人はライン川中流域に居住するゲルマン人たちを一括して「フランク人」と呼んでいた。3世紀から4世紀にかけて、カマーウィー族(英語版)、ブルクテリ族、カットゥアリー族(英語版)、サリー族、アムシヴァリー族(英語版)、トゥヴァンテース族(英語版)が、ローマ側の史料において「フランク人」と呼ばれている。この呼称はあくまでローマ人側からの呼称であり、この名前で呼ばれたゲルマン人の諸部族が実際に同族意識を持っていたかどうかは不明である。ローマ帝国の国境地帯にこれらの諸部族が居住していたことが、彼らを共通の政治的状況に置き、そのことが彼ら自身とローマ人の意識において共族意識を育んだかもしれない。 ローマ帝国国境地帯に居住した彼ら「フランク人」たちは、その都度従士団を組織して隣接するゲルマン諸部族や、ローマ帝国の属州で略奪を行っていた。一方でその勇猛と武力を買われ、ローマ側によって兵士や将軍として「フランク人」が雇われるようになった。そのような「フランク人」の一人クラウディウス・シルウァヌス(英語版)は355年にコロニア・アグリッピナ(英語版)(現、ケルン)で皇帝(アウグストゥス)を僭称している。また、メロバウドゥス(英語版)や、フラウィウス・バウト(英語版)のように西ローマ帝国において執政官職(コンスル)に就任するフランク人も現れた。バウトの甥にあたるテウドメール(英語版)は「フランク人の王(rex Francorum)」という称号を帯びた最初の人物であり、マロバウデス(英語版)というフランク人はローマ軍の将軍を務めた後、「フランク人の王」になり378年のアレマン族との戦いを勝利に導いたとされる。また、バウトの娘はコンスタンティノープルの宮廷で教育を受け、東ローマ皇帝アルカディウスの妃となった。このように4世紀後半には東西両帝国の政界でフランク人のめざましい活躍があった。 一方、ライン川流域のフランク系諸部族は離合集散を経てサリー・フランク人とライン・フランク人(リプアリー・フランク人)という二つの集団に収斂していった。ライン・フランク人たちは380年代に、ゲンノバウド(英語版)、マルコメール(英語版)、スンノ(英語版)という三人の指導者の下、ライン川を越えてローマ領に侵入し周辺を荒らしまわった。当時西ローマ帝国で権勢を極めていたアルボガスト(英語版)は(彼はバウトの息子であり自身もフランク人であったが)侵入したフランク諸部族を殲滅するように主張し迎撃を主導した。ローマ軍との戦闘の後、フランク族、アレマン族の小王たちとエウゲニウス帝との間に和約が結ばれたとされる。406年にはライン・フランク人たちはローマの同盟軍としてヴァンダル族、スエヴィ族、アラン族の侵入に対応した。更に遅くとも5世紀の半ばにはライン・フランク人たちは一人の王を戴く国制を確立していたと考えられる。彼らの勢力範囲はケルンを中心とし、ライン川下流域(ニーダーライン(英語版))からライン川中流域のマインツにまで広がり、モーゼル川流域もその支配下にあった。 ライン川下流域に勢力を持ったサリー・フランク人は、358年にブラバント北部のトクサンドリア地方(英語版)への移住をローマ帝国から認められ、国境警備の任にあたるようになった。サリー・フランク人の間でも、少なくとも5世紀半ば以降には権力の集中がなされたと考えられる。彼らはクロディオ(英語版)王の指揮下でアラス付近まで侵入し、フン族の侵入やヴァレンティアヌス3世の死による混乱に乗じてカンブレーも占領、ソンム川の流域まで達した。そしてサリー・フランク人たちもまたローマの同盟軍となる許可を得た。 このようにゲルマン諸部族をローマの同盟軍(フォエドゥス foedus)としてローマ領内に居住地を与える政策がしばしば取られ、それによって西ローマ帝国領の各地にゲルマン系諸部族の「王国」が構築された。フランク王国もその一つであり、他にトゥールーズ(トロサ)を中心とするガリア南部からイベリア半島にかけては西ゴート王国が、ウォルマティア(ヴォルムス)の周囲にはブルグント王国が形成された。また、ガリア北西部にはサクソン人が海上から移住した他、ケルト系のブルトン人がブルターニュ半島に移住を進めつつあった。 ===メロヴィング朝=== ====メロヴィング朝の成立==== サリー・フランク人たちはローマ文化から多大な影響を受けていた。そのことは1653年にトゥルネーで発見されたキルデリク1世(キルデリクス)王の墓の副葬品によって確かめられている。ランス司教のレミギウスの書簡によれば、キルデリク1世は第2ベルギカ属州を統治し、司教や諸都市に指示を与えていたとされる。この時期のサリー・フランク人は、西ローマ皇帝マヨリアヌスによりガリア軍司令官に任命されていたアエギディウス(英語版)と密接な関係を築いた。ガリアで最大の勢力を築いていた西ゴート族とアエギディウスが戦った時、キルデリク1世はアエギディウスの同盟軍として戦った。このキルデリク1世がメロヴィング朝の最初の「歴史的な」王である。メロヴィングという名は、キルデリク1世の父親とされるメロヴィク(メロヴィクス)に由来し、「メロヴィクの子孫」という意味である。 キルデリク1世の息子がクロヴィス1世である。クロヴィス1世は466年頃に生まれ、481/482年に父キルデリク1世の死を受けて「フランク人の王」の地位を継いだ。クロヴィス1世が王位を継承した時、北ガリアではキルデリク1世の同盟者であったガリア軍司令官アエギディウスの息子シアグリウスが「ローマ人の王」と呼ばれ、カンブレー地方からロワール川までの支配権を抑えていた。クロヴィス1世は父親同士が最後まで崩さなかった友好関係を破棄し、北ガリアの覇権を巡ってシアグリウスと争った。486年にソワソンの戦いでクロヴィス1世がシアグリウスを打ち破り、ロワール川流域までフランク族の支配が広がった。その後クロヴィス1世は周辺諸部族との戦いに次々と勝利を収めていく。491年にライン地方でテューリンゲン族(英語版)を撃破して服属させ、496年にスイス地方でアレマン人に勝利した。トゥールのグレゴリウスの伝えるところによれば、この間にブルグント王グンドバト(英語版)の娘クロティルダと結婚した。彼女はカトリック教徒であり、その教化と対アレマン戦での奇跡的な勝機の出現に啓示を得たクロヴィス1世は従士3000人とともにランス大司教のレミギウスによってカトリックの洗礼を受けたとされる。 クロヴィス1世は更に507年、ライン・フランク人とブルグント族の支援を受け、ヴイエの戦い(英語版)でガリア最大の勢力であった西ゴート王国に勝利をおさめ、その王アラリック2世を戦死させた。西ゴートを支援する東ゴート王国の介入のために地中海へ到達することは叶わなかったものの、これによりガリア南部(ガリア・アクィタニア)から西ゴートの勢力を駆逐し、イベリア半島へと追いやった。クロヴィス1世の勢力の急激な拡張はフランク族の他の王たちとの間に軋轢を生んだ。この段階においてもクロヴィス1世はフランク族の唯一の王であったわけではなかった。クロヴィス1世以外のフランク族の王についての情報は乏しいが、カンブレーを中心とするラグナカール(英語版)、支配地域不明のカラリク(英語版)、ケルンを中心とするシギベルト跛王(英語版)などのフランク王の名が伝えられている。西ゴートをガリアから駆逐した後、クロヴィス1世は策略によってこれらの王国を奪い取り、ついに唯一のフランク人の王となった。その時期は508年以降であると考えられている。このため、後にクロヴィス1世は「フランク王国の初代の王」と記録されている。 また、西ゴート戦からの凱旋の後、東ローマ皇帝アナスタシウス1世から西ローマの執政官職(コンスル)への任命状が届けられた。この称号はもはや単なる名誉職に過ぎなかったが、クロヴィス1世の王国が東ローマ皇帝(この時点では唯一のローマ皇帝である)から正式に承認され、フランク王国によるガリア支配がローマの名の下に正当なものであることを意味した。クロヴィス1世はコンスルを自身の正式な称号に付け加えることはなかったが、この事実はガリアに多数住むローマ系住民に強くアピールするものであった。彼は特にローマ系住民の多いガリア南部の支配を確実なものにするためにこの称号を利用したように思われる。 ===分王国=== クロヴィス1世は511年、パリにあるシテ島の宮廷で歿した。フランク族では分割相続の習慣があった。そのため、クロヴィス1世の死後その王国はテウデリク1世(ランス)、クロドメール(オルレアン)、キルデベルト1世(パリ)、クロタール1世(ソワソン)の4人によって分割された。クロヴィス1世の息子たちはフランク王国の領土を更に拡大し、フランクは旧西ローマ帝国領内に成立したゲルマン諸国家の覇者となった。テウデリク1世とクロタール1世はサクソン人(ザクセン人)の支援を得てエルベ川からマイン川至る地域に勢力を持っていたテューリンゲン人の王国を滅ぼし、サクソン人との間で分割した。キルデベルト1世は533年にピレネー山脈に到達し、537年にはプロヴァンスを征服した。彼らは524年と534年には二度にわたる遠征によってブルグント王国を滅ぼし、支配下に置いた。そしてアレマンネンとバイエルンへも勢力拡張が行われたが、ランゴバルド族に阻まれてイタリアへの勢力拡張は成らなかった。 クロヴィス1世の息子たちの王国を、その死後に相続する可能性があった相続人は排除された。524年にクロドメールが死亡すると、彼の息子たちは暴力によって除かれ、その遺領はキルデベルト1世とクロタール1世によって分割された。テウデリク1世は534年に歿し、その領土は息子のテウデベルト1世(英語版)に継承された。そのテウデベルト1世も555年に死亡し、キルデベルト1世も558年に死亡すると、クロヴィス1世の息子の中で唯一人生き残っていたクロタール1世が全フランクの王となり王国は再統一された。しかしクロタール1世はサクソン人やテューリンゲン人の蜂起や、息子であるフラム(英語版)の反乱に忙殺され、それ以上の勢力拡大はできなかった。彼が561年に死亡すると、フランク王国は当然のこととしてクロタール1世の息子たちによって再び分割された。長兄シギベルト1世(英語版)はランスの王国を継承した。この分王国の首都はやがてランスからメスへと移動し、分王国はアウストラシア(東王国)と呼ばれるようになった。次男グントラム(英語版)はオルレアンの王国を継承した。この王国には旧ブルグント王国領が含まれ、その統治に便利なシャロン=シュル=ソーヌへ首都が移された。第三子カリベルト1世(英語版)はパリの王国を、末子キルペリク1世はフランク族の故地を含むベルギー地方を継承した。567年には早くもカリベルトが死亡したため、パリの王国は残る3人によって分割され、その首都パリは一種の中立都市となった。これによってキルペリク1世の王国は大西洋沿岸全域を含むようになり、ネウストリア(西王国)と呼ばれるようになった。また、グントラムの分王国はブルグンディアと呼ばれるようになった。575年、ネウストリア王キルペリク1世の妻フレデグンドが刺客を放ちアウストラシア王シギベルト1世を暗殺すると、シギベルト1世の息子、キルデベルト2世(英語版)とその母ブルンヒルドがアウストラシア王位を継承し、三勢力の間で同盟と離反を繰り返す激しい権力闘争が始まった。この争いの中で、フランク王国を構成する三つの分王国の枠組みが形成されていき、旧ローマ世界の枠組みは徐々に喪失していった。 ===王家の争い=== 版図という意味ではクロタール1世の死亡時がメロヴィング朝で最大の時期であり、以後これを上回る支配地を持つことはなかった。アウストラシア王シギベルト1世は西ゴート王国の王女ブルンヒルドと結婚した。この繋がりに脅威を感じたキルペリク1世は元の妻を退け、自らも西ゴートの王女でブルンヒルドの姉妹であるガルスヴィンタ(英語版)と結婚した。しかしキルペリク1世の愛妾フレデグンドはガルスヴィンタを殺害し、自らが王妃の地位に上ったと伝えられている。このため、恐らくブルンヒルドの強い意向の下、シギベルト1世はキルペリク1世と対立するようになった。これに対してネウストリア王妃となったフレデグンドとキルペリク1世はシギベルト1世の暗殺という対応で応えた。 ブルンヒルドとシギベルト1世の廷臣たちは残された幼い王子キルデベルト2世(英語版)をアウストラシア王に選出したが、外国出身の王妃の立場は不安定であった。彼女はやむなくブルグンディア分王国の王グントラムに支援を求めた。息子がいなかったグントラムは要請に応じキルデベルト2世を養子とした。更に、584年にはキルペリク1世も暗殺された。彼もまた、幼い王子クロタール2世を遺したのみであり、フレデグンドもまたグントラムに後見を求め、クロタール2世はグントラムの庇護下に入った。この結果二人の甥を後見することとなったブルグンディア王グントラムは587年に仲介者としてアンドロ条約(英語版)を締結させた。この条約によって、不透明であった領土上の問題が解決された。また、争いの発端となった王妃ガルスヴィンタ殺害事件の後に残された彼女の持参財を、姉妹であるブルンヒルドが相続することも定められた。また、グントラムの後継者は養子となったキルデベルト2世であることも決定された。 南ガリアではクロタール1世の遺児を自称するグンドワルドゥス(英語版)が王位を主張して勢力を拡大した。コンスタンティノープルからやってきた彼は、東ローマ帝国の支配をこの地に及ぼすための使者ではないかという見方が広まり、そのことがボルドー司教ベルトラムヌス(英語版)を始めた多数の有力者が彼の陣営に馳せ参じる原因となった。結局この僭称者はグントラムが派遣した軍隊によってサン=ベルトラン=ド=コマンジュ(英語版)で討たれた。 592年にグントラムが死亡すると、キルデベルト2世がアウストラシアとブルグンディアを相続し、フランク王国の大部分を支配することとなった。一方クロタール2世はネウストリアを継承した。ところが早くも596年にキルデベルト2世が死去すると、その息子テウデベルト2世(英語版)がアウストラシアを、テウデリク2世(英語版)がブルグンディアを継承した。当初は祖母ブルンヒルドの監督下に置かれたが、兄弟は不和となり、612年にテウデリク2世はテウデベルト2世を攻めてこれを打ち滅ぼした。この兄弟の争いはネウストリア王クロタール2世に漁夫の利を与えた。アウストラシアの廷臣であったアルヌルフ(英語版)とピピンは、テウデリク2世に対抗するためにクロタール2世の支援を求め、これに応じたクロタール2世の攻撃によって613年にテウデリク2世とその息子たちは殺害された。クロタール2世はその年、老王妃ブルンヒルドも捕らえて処刑した。これによってフランク王国は半世紀ぶりにただ一人の王、クロタール2世の下に統治されることになった。 ===クロタール2世とダゴベルト1世=== クロタール2世はただ一人の王となったが、半世紀にもわたる分裂を通じてアウストラシア、ネウストリア、ブルグンディアという枠組みにそった政治的伝統が確立されており、クロタール2世がネウストリアを軸にして一元的な王国として統合するのは困難であった。614年、秩序を再編するためにパリで三つの王国の司教、有力者を集めた集会を開かれた。クロタール2世の勝利には、アウストラシアやブルグンディアの貴族勢力が重要な役割を果たしており、彼らの意向を無視することは政治的な冒険であった。このためアウストラシアとブルグンディアの貴族たちがそれぞれの分王国を宮宰によって自律的に統治することを主張した時、クロタール2世はこれを拒否することはできなかった。貴族たちが国王大権を認める代わりに、王は貴族や教会の特権を承認した。各分王国の国王の役人は、それぞれの分王国の在地の人間から登用されることが定められ、彼らの不正や横領については自らの財産によって責任を負うことも定められた。この決定は歴史上「パリ勅令(英語版)」の名で知られている。これはしばしば貴族側の地域的利害に対する王権の屈服を示す証拠として歴史学者から取り扱われるが、少なくてもクロタール2世の時代には王権は貴族層を掣肘する実力を有していたと考えられ、むしろ各分王国(特に勝者であるネウストリア)の貴族が無分別に他の分王国に勢力を拡張するのを防止する処置として当初は構築されたものとされる。クロタール2世の貴族に対する強力な指導力を示す出来事として、ブルグンディアの宮宰ワルカナリウス2世(英語版)が626年に死去した際、その息子が地位を継承することを阻止するために即座に介入を行い、門閥の形成を阻止したことがあげられる。この事件の後、ブルグンディアは地位的特性は維持したものの、政治的にはネウストリアと一体化し、ネウストリア=ブルグンディア分王国としてその歴史を歩むことになる。 しかし、パリを拠点に全王国を統治したクロタール2世は独自の王の擁立を主張するアウストラシア貴族層の要求に折れ、623年に20歳頃の息子ダゴベルト1世をアウストラシア王として送り出した。アウストラシアの政界で権力を握ったのは宮宰のピピン1世(大ピピン)とメス司教アルヌルフであった。当時のアウストラシアの脅威はバイエルンのクロドアルド(Chrodoald)であったが、ピピン1世とアルヌルフはダゴベルト1世を巧みに操りバイエルンの脅威を除くことに成功した。だが、ダゴベルト1世は単なる傀儡で終わる人物ではなかった。629年にクロタール2世が死去すると、ダゴベルト1世はアウストラシア貴族の支持を得てネウストリア=ブルグンディア分王国をただちに掌握した。そして自身の宮宰であるピピン1世がネウストリアでも勢力を振るうのを避けるため、ネウストリアの宮宰としてアエガ(英語版)という人物を登用し、ブルグントの貴族には自前の軍隊を編成することを承認して慰撫した。 ダゴベルト1世はまたフランク王国の拡大と国境地帯の安定にも意欲を見せた。異母弟のカリベルト2世(英語版)にトゥールーズを首都とするノヴェンポプラニア(英語版)を与え、バスク人に対抗させた。カリベルトはバスク人を討ち南の国境を安定させたが程なくして死亡した。また、ブルターニュ地方ではブルトン人の王聖ユディカエル(英語版)を威圧して服属を約させ、ライン川下流域ではフリース人からユトレヒトとドレスタット(英語版)の要塞を奪った。フランク人の冒険商人サモ(英語版)がボヘミアに組織したヴェンド人の国家に対する大規模な遠征も631年に行われたが、この遠征はさしたる成果を上げることなく終わった。633年には、ダゴベルト1世の長子シギベルト3世(英語版)がアウストラシア王として擁立された。 ダゴベルト1世はキリスト教会とも密接な関係を築いた。パリ北部にあるサン=ドニ修道院(現サン=ドニ大聖堂)へ広大な土地と流通税免除特権、および大市での取引税収入を付与する特権賦与状が発行され、この後サン=ドニ修道院はフランク王国と後のフランス王国の王室の埋葬修道院として機能するようになった。また、ダゴベルト1世の宮廷で教育を受けた高級官職者たちはその死後に一斉に宮廷生活を離れ聖界へ身を投じ司教や修道院長として活躍した。異教の風習が根強く残るネウストリアの沿岸地方で伝道が行われるとともに、教区の組織化や修道院の建設が熱烈に行われた。7世紀の間に北ガリアの田園地帯だけで180あまりの修道院が建設されたが、そのほとんどはダゴベルト1世の宮廷の廷臣たちによって、あるいは彼らの影響下において建設された。 ===宮宰の政治=== 639年にダゴベルト1世が病没した時、その息子クロヴィス2世はまだ5歳であった。アウストラシアではダゴベルト1世の生前からシギベルト3世が王として君臨していたのに対し、ネウストリア=ブルグンディア分王国ではダゴベルト1世の未亡人ナンティルド(英語版)と宮宰アエガが実権を握った。アエガの死後にはネウストリア北西地方の有力家門出身のエルキアノルド(英語版)が宮宰職を引き継ぎ、権勢を振るった。エルキアノルドはダゴベルト1世の母ベルテトルド(英語版)の縁戚であり、自分の娘をイングランドのケント王に嫁がせるとともに、自分が所有するアングロ・サクソン人の家内奴隷バルティルド(英語版)をクロヴィス2世の王妃とした。これによってエルキアノルドは終始ネウストリアの宮廷で強力な発言権を維持することができた。エルキアノルドの周囲を取り巻く状況が強く英仏海峡地帯の色彩を帯びていることは、この時代に海峡地方の商業的、政治的結びつきが深化していたことを示すと考えられている。 クロヴィス2世も657年に死去すると次の王クロタール3世も幼くして即位し、寡婦となったバルティルドが摂政となった。かつての主人であったエルキアノルドも658年に死去すると、彼女は中央集権的な体制を構築しようと目論見、また修道院への強い共感から、修道院を司教権力から免属させることを試みた。このバルティルドの政策により、ブルグントの自立を画策していた幾人かの司教が殺害されるとともに、修道院は司教の監督下から自由となり資産管理を独自に行うことができるようになった。このことは後の大規模領主としての修道院誕生の制度的起源となった。バルティルドは更に中央集権の進展を期待してネウストリア宮廷の行政部出身のエブロインを宮宰に任命した。しかしクロタール3世が成長して親政を始めるとバルティルドと対立するようになり、結局エブロインによってバルティルドは修道院に押し込められ終生をそこで過ごすことになった。このエブロインは非貴族層の出身でありネウストリアの貴族層とたびたび対立した。エブロインは中央集権を目指すバルティルドの政策は引き継ぎ、国王権力を強化するとともに分離主義的なブルグンディアの動きに対抗した。クロタール3世が672年に死去すると、ネウストリア貴族と協議することなく最も若い王子であるテウデリク3世を王位につけることを画策した。これにはオータン司教レウデガリウスを中心に激しい反対の声が上がり、エブロインはとらえられてリュクスイユ修道院(英語版)に幽閉されることとなった。しかし隙を見て脱出したエブロインは政権を取り戻し、レウデガリウスを斥けてテウデリク3世とともに再びネウストリアの支配権を握った。 一方のアウストラシアでは前述のシギベルト3世が王位にあったが、政治の実権は対立党派を退けて宮宰となったグリモアルド1世が掌握していた。彼はピピン1世の息子である。グリモアルド1世は絶大な権力を振るい、王に嫡子がいなかったことを利用して自分と同名の息子グリモアルドをシギベルト3世の養子とし、キルデベルト(養子王)と改名させた。だが、間もなくシギベルト3世に息子ダゴベルト2世(英語版)が誕生したため、656年にシギベルト3世が死去すると当然の如く王位継承に問題が発生した。グリモアルドはダゴベルト2世をアイルランドの修道院に追放し、自らの息子キルデベルトを王位につけることに成功した。だが、この王位の簒奪を批判したネウストリア王クロタール3世がアウストラシアを急襲し、662年にグリモアルド1世はとらえられ殺害された。こうしてアウストラシア王位にはクロタール3世の兄弟キルデリク2世が据えられたが、彼もまた675年にネウストリア貴族の一派によって暗殺された。次いでアイルランドの修道院からダゴベルト2世が呼び戻されアウストラシア王となったが、彼も679年に暗殺の憂き目にあった。ダゴベルト2世暗殺の実行者とされるヨハネスはネウストリアの宮宰エブロインの手のものであったとされており、このような暗殺劇はエブロインがネウストリアを中心としたフランク王国の完全な統合を目指していたことを示すと考えられる。 この一連の混乱によってネウストリア=ブルグンディア王のテウデリク3世が存命している唯一のメロヴィング家の王となった。更にエブロインはテウデリク3世への服属を要求してアウストラシアへ軍を進め、680年、アウストラシアで権力を手中にしていたピピン2世(中ピピン)とマルティヌスの軍を撃破した。しかし間もなくエブロインも彼に恨みを持つネウストリアの貴族エルメンフレドゥス(Ermenfredus)によって暗殺された。 エブロインの死後、ネウストリアの宮宰になったのがワラトー(英語版)である。ワラトーは就任後すぐにピピン2世と和平を結んだが、これに反対するワラトーの息子ギスルマール(英語版)は父を追放し、ピピン2世との戦いを再開した。ギスルマールはこの戦いの中で戦死し、再びワラトーが宮宰職に返り咲いた。ワラトーの死後、その妻であるアンスフレディス(フランス語版)が長老として大きな発言権を保持するようになった。アンスフレディスの意向により彼女の娘婿のベルカリウスがネウストリアの宮宰となった。アウストラシアにおいてピピン一門が宮宰職を事実上世襲したように、ネウストリアにおいてもこの職は門閥的支配の道具となっていた。この状況はネウストリア貴族の間に強い不満を醸成させた。その代表がランス司教レオルス(英語版)であり、彼の扇動によりピピン2世は大量の従士軍を動員してネウストリアに進軍した。テルトリーの戦いでピピン2世率いるアウストラシア軍が勝利した後、ピピン2世は唯一のフランク王として君臨していたテウデリク3世を手中に収め、王国のただ一人の宮宰となった。 ===カロリング家の台頭=== ピピン2世が714年に歿した時、その妻プレクトルードの間にはドロゴ(英語版)とグリモアルド2世という二人の息子がいたが既に死没していた。また内縁関係にあったアルパイダ(英語版)との間に息子カール(カール・マルテル)が生まれた。実権を握ったプレクトルードは、グリモアルドの子供で自身の孫にあたるテウドアルドを後継者に選び、カールを幽閉した。しかしこの人事にネウストリア貴族たちは従わず、同じネウストリア人であるラガンフリドを自分たちの宮宰に選出した。ラガンフリドはプレクトルードが派遣したアウストラシア軍を撃破しキルデリク2世の息子ダニエルを修道院から引っ張り出してキルペリク2世としてネウストリア王に擁立した。 この敗北によってアウストラシアが混乱に陥ると、その隙をついてカールが脱出しアウストラシア軍の敗残兵を糾合してネウストリア軍への対応を引き継いだ。716年、カールはマルメディの戦いでネウストリア軍を撃破し、翌年にはヴァンシーの戦い(英語版)でも勝利した。更に719年、バスク人などと手を結んだラガンフリドに対しサンリスとソワソンの間でカールが勝利をおさめた。カールはその後ライン地方を掌握し、732年にはイベリア半島から北上してきたアブドゥル・ラフマーン・アル・ガーフィキー(英語版)率いるイスラーム軍をトゥール・ポワティエ間の戦いで撃破して以後のイスラーム勢力のヨーロッパでの拡張を抑えることに成功した。 カールは735年以降にはほとんど毎年のようにガリア南部のミディ地方やプロヴァンス地方に遠征を行った。この遠征による破壊と惨禍はイスラームによるそれを遥かに凌駕するものであり、未だ古代的な名残を留めていた南部社会の転換期を画する程のものであった。このことから彼の行動は神が振り下ろした鉄槌(マルテル)とされるようになり、彼は「カール・マルテル」の名で後世に知られることになった。737年には当時フランク王の座にあったテウデリク4世が死去したが、その後王位は空位のまま放置された。もはや実質的なフランク王国の支配者がメロヴィング家の王ではないことは誰の目にも明らかであった。 739年には、ランゴバルド族の侵攻に窮したローマ教皇グレゴリウス3世がカール・マルテルに救援を求めてきた。カール・マルテルはランゴバルド王リウトプランド(英語版)と同盟を結んでいたためこの時の救援は行われなかったが、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)の実質的な保護を喪失しつつあったローマ教皇庁はこの頃からフランク王国の庇護を求め始める。 ===カロリング朝=== ====カロリング朝の成立==== フランク王国の事実上の支配者として内外から認識される存在となっていたカール・マルテルは741年に死去した。この時点でカール・マルテルには正妻クロドトルード(英語版)との間にカールマンとピピン3世(小ピピン)、内縁関係にあったバイエルン王女スワナヒルド(英語版)との間にグリフォ(英語版)という息子がいた。死の直前、カール・マルテルはフランク的伝統に則り、王国を三分割してそれぞれの息子に分与しようとしたが、クロドトルードの二人の息子、カールマンとピピン3世は共謀してグリフォを捕らえ、ヌフシャトー(ルクセンブルク)に幽閉してグリフォの相続分を二人で分割した。結果、カールマンの支配地はルーアン、セーヌ川、パリ、ソワソンを結ぶ線の西側全域となり、ピピン3世の持ち分はアウストラシアとなった。彼らは協力して空位となっていたフランク王位にキルペリク2世の息子キルデリク3世を擁立し、自分たちの支配権の正統性を根拠づけた。 747年、突如カールマンが俗世を放棄してイタリアのモンテ・カッシーノ修道院に隠棲するという事件が発生した。また、恩赦によって釈放されたグリフォは結局ザクセンとバイエルンの協力を得て反乱を起こした。この反乱は747年のザクセン遠征と、翌748年のバイエルン遠征によって鎮圧された。この結果、事実上フランク王国の単独の支配者(宮宰)となったピピン3世はメロヴィング家の王を廃して自ら王位に就くことを画策するようになった。ネウストリア貴族などの強い抵抗が予想されたため、ピピン3世はローマ・カトリック教会の権威を求め、教皇ザカリアスに協力が要請された。ローマ教会側でも政治的庇護者を必要としていたことから、この内諾が得られると、751年にソワソンで「フランク人」が招集されその場でフランク王に推戴され、また神によって王に選ばれたことを示す塗油の儀式が教皇特使ボニファティウスによって行われた。この国王塗油の儀式はまた、カロリング家がメロヴィング家の「神聖な」血統に基づく権威に勝る新たな権威を教会に求めたことを意味した。このためピピン3世の祝聖は西ヨーロッパにおけるキリスト教的王権観の発展にとって画期的意義を持つものとなった。メロヴィング家の最後の王、キルデリク3世は剃髪の上でサン=ベルタン修道院(英語版)に、その息子テウデリクがサン=ヴァンドリーユ修道院(英語版)に、それぞれ幽閉され二度と歴史の舞台に立つことはなかった。こうしてカロリング(カール・マルテルの子孫)の王朝が成立した。 ===ピピンの寄進=== ピピン3世の即位を通じて神と人の仲保者キリストの代理人としての国王、教会の保護者としての国王の職務が強調されるようになった。ピピン3世は教会会議を開催し、教会に土地を付与して保護し、司教を教区の最高の長とし、大司教区を設置した。754年、教皇ステファヌス3世は更なるランゴバルド王国からの攻撃に対抗するためビザンツ帝国(東ローマ帝国)の支援を求めたが何ら有効な支援が得られず、代わりにフランク王国へと赴いた。ピピンはローマ・カトリック教会の厚意に報い、教皇とともにイタリア遠征を行ってランゴバルド王国の王アイストゥルフ(アストルフォ)に宗主権を認めさせるとともに、彼がビザンツ帝国から奪ったラヴェンナの総督府とその周囲の都市をローマ教皇へ返還させた。ピピン3世が帰国するとアイストゥルフは再度ローマを攻撃したため、756年に再びフランク軍がランゴバルドを攻撃し、その占領地を奪回した。アイストゥルフは降伏し、ランゴバルド王国はその王領地の3分の1を引き渡し、かつてメロヴィング朝時代に課せられていた貢納が復活されることになり、フランク国王の全権委任者の手を経て占領地をローマ教皇へ「返還」することを余儀なくされた。ピピン3世はこの時、都市ローマの宗主権と奪還したラヴェンナ総督府領やチェゼーナ、リミニ、ペサロ、サン・マリノ、モンテフェルトロ(英語版)、ウルビーノなどの都市を教皇に寄進した。これが歴史上「ピピンの寄進」(ピピンの贈与)と呼ばれるものであり、これによってローマ教皇領の基礎が形成されることになった。ビザンツ帝国からの急使がピピン3世を訪れラヴェンナ総督府領は帝国の領土であるという抗議を行ったが、ピピン3世は自身が聖ペトロへの敬愛と自らの罪の赦しのために戦いに従事しているのであり、それによって得られたものは聖ペトロのものとなるべきだと主張して反論した。 また、ピピン3世はイタリアの他にも国境地帯へ軍を派遣して各地を制圧した。752年からは西ゴート王国滅亡後も西ゴート人が現地で勢力を持っていたセプティマニアの支配に取り掛かり、759年には最後に残った都市ナルボンヌの在地西ゴート人勢力に対し引き続き西ゴート法を適用することを保証してこれを支配下においた。これによってフランク王国は初めてガリア全土を支配下に置いた。また当時名目上フランク王国領ではあったものの事実上独立勢力化していたアキテーヌの大公ワイファリウス(英語版)を攻撃した。アキテーヌの制圧はてこずり、結局768年にワイファリウスが暗殺されるまで続いた。 ===カール大帝(シャルルマーニュ)=== ピピン3世は768年に歿し、その息子カール1世(シャルル、大帝)とカールマン1世が即位した。カール1世がアウストラシア中枢部、ネウストリア沿岸部、アキテーヌの西半を、カールマン1世はブルゴーニュ(ブルグンディア)、アレマンネン、ラングドック、プロヴァンスを分割して継承した。『フレデガリウス年代記』によればこの分割相続は、ピピン3世の死の数日前に聖俗の貴族との相談で決まったという。だが両者の不仲はすぐに深まり、既に翌769年には対立は決定的なものとなっていた。更にカール1世の長子ピピンが先天性障害を持って生まれ王位継承資格に不安が広がった一方、カールマン1世は770年に生まれた自分の長子に同じピピンの名を与えた。カール1世と同じように息子に祖父ピピンの名を与えた行為は、カールマン1世が自身の息子の方が真の王位継承者であると宣言するに等しい行為であった。最終的にカール1世の分王国がカールマン1世の分王国に併合される可能性が生じたことでカール1世の威信は傷つき政治的に劣位に立たされた。この事態に両者の母ベルトラーダが和解を目指して奔走し、双方の勢力バランスを取るべくカール1世とランゴバルドの王女との縁談を進め成立させた。この縁談の話が漏れると、カールマン1世はローマ教皇(ローマ教会はランゴバルドとフランクの分王国の王の間に同盟関係が構築されるのを脅威と考えた)との同盟を志向したが、ベルトラーダは強い政治力を発揮しローマ教皇がカールマン1世と結びつくのを阻止した この結果771年春にはローマ教皇座の反ランゴバルド勢力が決定を不服として蜂起したが、ランゴバルド王はローマに向かって進軍して圧力をかけた。結局反乱は鎮圧されたが、カールマン1世は問題を解決するためにランゴバルド王国とローマを支配下に置くべく出兵を計画した。全面的な戦争は時間の問題であったが、771年12月4日カールマン1世が急死したことで両者の対立は解決され、カール1世が単独の王として君臨することとなった。カールマン1世の王妃ゲルベルガと息子たちは僅かな数の家臣と共にランゴバルド王国へ亡命した。 カール1世はその統治期間のほとんどを戦争に明け暮れて過ごした。まず単独の王となる前の769年に、暗殺されたアキテーヌの大公ワイファリウスの息子フノルドゥス2世(フランス語版)が再び反乱を起こしたため、これを鎮圧した。773年から774年にかけて、故カールマン1世の妻ゲルベルガと子供を保護していたランゴバルド王国を追討するためイタリアに遠征が行われた。そして首都パヴィアを陥落させてランゴバルド王国を制圧し、ローマ市に入場した。カール1世は自ら「ランゴバルド人の王」となり、かつて父ピピン3世がローマ教皇と交わした約束を更新したが、その履行には関心を払わずローマ教皇ハドリアヌス1世はカールに対して不信の念を募らせた。776年にはパンノニアのフリアウル、778年にはピレネー山脈を越えてイベリア半島への遠征が行われ、イタリア北部に侵入したアヴァール人とも戦闘が行われた。776年にはまた、ランゴバルド人の反乱を抑えるため再びイタリア遠征が実施された。781年にもローマへの遠征が行われ、更に787年にはバイエルン大公タシロ3世(英語版)を降し、カプアも制圧した。791年と796年にはアヴァール人の根拠地を攻撃し、アヴァールのハーンの宮殿を略奪して膨大な戦利品を獲得した。 また、即位以来30年余り続けられていたザクセン人の征服も、804年についに成し遂げられた。 こうしてフランク王国の領土をかつてない規模で拡大する一方で、カール1世はローマ教皇庁に対しても教義の面でも権威の面でも自らの方が上位者であることを知らしめた。カール1世は、787年の第2回ニカイア公会議において、ローマとコンスタンティノープルがともに聖像破壊論争(イコノクラスム)を解決しようとした後、信仰の問題についても教皇に譲るつもりがないことを示すため、この成果を無に帰す意図をもって794年にフランクフルトで教会会議を開催した(フランクフルト教会会議(英語版))。この会議において教皇使節は発言を撤回せざるを得ず、カール1世が教皇ハドリアヌス1世を廃位してフランク人高位聖職者に挿げ替えるつもりであるという噂まで流れた。795年にハドリアヌス1世が死去した後、ローマ教皇庁はフランク王国に従順であると考えられたレオ3世を新たな教皇に選んだ。彼はその在位を通してフランクからの支援に依存することになった。 ===皇帝戴冠=== 教皇レオ3世により、800年のクリスマスの日、ローマのサン・ピエトロ寺院(聖ペトロ大聖堂)でカール1世は皇帝に戴冠された。この皇帝戴冠は寧ろローマ教皇庁側の主導によって行われたと当時の記録は記すが、その理由については現在でははっきりわからない。この戴冠に際して皇帝号は「いとも清らかなるカルルス・アウグストゥス、神によって戴冠されたる、偉大にして平和を愛する皇帝、ローマ帝国を統べ、かつ神の恩寵によりフランク人とランゴバルド人の王たる者」となり、皇帝権は神によって忖度された制度として捉えられた。それをフランク、ランゴバルドの王が皇帝として保持することとなり、同時にキリスト教世界の支配者として定義付けられた。 カール1世は、西ローマ皇帝戴冠を記念して発行したコインに完全にローマ式の自分の姿を刻ませ、自らの印璽もコンスタンティヌス大帝のそれを模倣したものを用いた。印璽の裏側には「ローマ帝権の革新(renovatio imperii)」と刻ませ、古代ローマの様式を規範とする強い意志を見せている。また、カール1世の治世にはローマの建築や古典ラテン語の再興と、それを基礎とした文学活動の隆盛が見られた。このような文化的潮流はカロリング朝ルネサンスと呼ばれ、中世ヨーロッパ文化に多大な影響を遺した。ビザンツ帝国はカール1世の皇帝位を断固として認めなかったが、806年のヴェネツィアでの武力衝突の後、812年の和平の場で、カール1世が「フランク人の皇帝」であることを承認した。 カール1世の即位の後、カロリング朝ルネサンスを代表する知識人の一人アルクィンがカールの支配領域を「キリスト教帝国(Imperium Christianum)」と呼んだように、(カロリング朝の)帝国とキリスト教世界が一体視され、皇帝戴冠をもって「西ローマ帝国の復活」と見做す理解が一般化した。カール1世は優れた指導力の下、統治制度を整備し、その治世は後世の諸国家にとって常に回顧すべき模範となった。 ===帝国の分割=== カール1世のカロリング帝国はその領内の諸民族が一つのキリスト教世界を構成し、宗教や文化において一体であるとする共属意識をもたらしたが、最終的にはカール1世の強烈な個性と政治力によって維持されたのであり、個々人の関係を中心とする属人性を越えた一体的な法規や制度に基づく統治機構を備えるわけではなかった。統治機構においては国家と同一的な存在となった教会組織網が重大な役割を果たしたが、教会組織も聖職者たちの人的結合に未だその基礎をおいていた。カール1世もまた、フランクの伝統的な分割相続に備え、自分の息子たちを各地に配置した。806年の王国分割令(ドイツ語版)によって、既にイタリア(ランゴバルド)分王国の王となっていたピピンと、アキテーヌの分国王となっていたルートヴィヒ1世(ルイ)の支配を確認するとともに、長男小カール(英語版)にはアーヘンの王宮を含むフランキアの相続を保証することとし、それぞれの境界を定めた。これは兄弟間での協力による王国の統一というフランク王国の伝統的原理を踏襲したもので、嫡男としての小カールの優越を保証するものではなかった。 だが実際には、810年にイタリア王ピピンが、811年に小カールが相次いで歿したため、814年にカール1世が死去した時にはルートヴィヒ1世(ルイ敬虔帝)が唯一の後継者となった。ルートヴィヒ1世の綽名「敬虔な(Pius)」は彼の宗教生活への傾斜から来ている。彼は宮廷から華美を一掃した。評判の悪い姉妹たちを追放し、アーヘンから品行の悪い男女を締め出すことまでしている。また、父カール1世に仕えていた宮廷人に変えて、アキテーヌ時代からの側近を登用した。更に、アニアーヌ(英語版)修道院の院長で、厳格な戒律の適用による修道生活の改革運動をしていたアニアーヌのベネディクト(英語版)を政治顧問とした。 ルートヴィヒ1世は814年に宮廷の木造アーチの一部が崩れ、それに巻き込まれて負傷するという事故が起きた時、これを自己の生命が近いうちに終わるという不吉な予兆と見て、同年のうちに帝国の相続を定めて布告することを決定した。これによって発せられたのが帝国分割令(ドイツ語版)(帝国整序令)と呼ばれる有名な布告であり、この布告によって長子ロタール1世(ロータル1世)はただちに共治帝となり、次男ピピン1世(英語版)はアキテーヌ王、末子ルートヴィヒ2世はバイエルンを相続することとなった。ルートヴィヒ1世の死後は、兄弟たちは長男ロタール1世に服属すべきことも定められた。イタリア王ピピンの庶子ベルンハルトはこの決定に不満を持ち、818年に反旗を翻したが鎮圧され、イタリアはロタール1世の直轄地となった。こうして早期に継承に関する取り決めがなされたが、バイエルンの名門ヴェルフェン家の出身でルートヴィヒ1世の王妃の一人であったユーディト・フォン・アルトドルフがシャルル2世(カール2世)を生むと、彼女は自分の息子にも領土の分配を要求した。これは、統一帝国の理念の下、ロタール1世の単独支配を主張する帝国貴族団とヴェルフェン家の対立を誘発した。また、ロタール1世の独裁を警戒するピピンとルートヴィヒ2世の思惑も絡み、複雑な権力闘争が繰り広げられることとなった。 緊迫した状況の中で、長兄のロタール1世が最初の動きを起こした。ロタール1世は830年、ブルターニュ遠征の失敗による混乱に乗じて父ルートヴィヒ1世を追放し、帝位を奪った。しかし、ピピンとルートヴィヒ2世はこれに反対してルートヴィヒ1世を復帰させた。更に833年にも同様の試みが行われ、834年にまたもルートヴィヒ1世が復位するなど、ロタール1世と兄弟たちとの争いは一種の膠着状態となった。この争いのさなか、シャルル2世の成人(15歳)が近づきつつあった。母親のユーディトはロタール1世と結び、837年に、フリーセン地方からミューズ川までの地域とブルグンディア(ブルゴーニュ)をシャルル2世に相続させることをルートヴィヒ1世に認めさせた。翌年にはアキテーヌのピピンが死亡しその息子であるアキテーヌのピピン2世の相続権は無視されるかと思われたが、現地のアキテーヌ人たちはアキテーヌのピピン2世を支持した。 バイエルンを拠点に勢力を拡大したルートヴィヒ2世は、ルートヴィヒ1世がシャルル2世に約束した地域のうち、ライン川右岸のほぼ全域の支配権を主張して譲らず、840年に反乱を起こした。この反乱を鎮圧に向かったルートヴィヒ1世は、フランクフルト近郊で急死した。 ===ヴェルダン条約=== ルートヴィヒ1世の死を受けて、イタリアを支配していたロタール1世はローマ教皇グレゴリウス4世やアキテーヌ王ピピン2世と結ぶ一方、ルートヴィヒ2世とシャルル2世が同盟を組んでこれに対応した。841年、同時代の記録においてフランク王国史上最大の戦いとされるフォントノワの戦いで、ルートヴィヒ2世とシャルル2世が勝利し、ロタール1世は逃亡した。 ルートヴィヒ2世とシャルル2世はロタール1世を追撃する最中、ストラスブールで互いの言語でロタール1世との個別取引を行わないとする宣誓を互いの家臣団の前で行った(ストラスブールの誓い)。この宣誓の言葉はシャルル2世の家臣ニタルト(英語版)(ニタール)の残した書物に記されて現存しており、ルートヴィヒ2世によるシャルル2世の家臣団への宣誓の呼びかけはフランス語(古期ロマンス語)が文字記録として残された最古の例である。敗走するロタール1世は、弟たちに対抗するためにヴァイキングやザクセン人、異教徒であるスラブ人との同盟も厭わなかった。争いの激化が互いの利益を損なうことを懸念した三者は、842年、ブルゴーニュのマコンで会談し、和平を結んだ。この和平の席で、帝国の分割が改めて合意され、3人の王が40名ずつ有力な家臣を出して新たな分割線を決定するための委員会が設けられた。この結果、843年にヴェルダン条約が締結され、分割線が最終承認された。 ヴェルダン条約の結果、帝国の東部をルートヴィヒ2世(東フランク王国)、西部をシャルル2世(西フランク王国)、両王国の中間部分とイタリアを皇帝たるロタール1世(中フランク王国)がそれぞれ領有することが決定し、国王宮廷がそれぞれに割り振られた。この分割は「妥当な分割」を目指して司教管区、修道院、伯領、国家領、国王宮廷、封臣に与えられている封地、所領の数などを考慮して決定された。しかしその結果、各分王国の所領は(特にロタール1世の中フランク王国について)極めて人工的な、まとまりの無い地域の寄せ集めとなり、統治は困難を極めた。 ===中フランク王国の分解=== ヴェルダン条約締結の後、3人の王はそれぞれの領地に戻ったが、必要に応じて協議をするために定期的に参集することが取り決められていた。この体制は「兄弟支配体制」と呼ばれている。844年に最初の会合が持たれ、帝国の一体性が確認され相互の協調が確認されたが、この体制は短期間しか維持されなかった。皇帝ロタール1世は850年に、伝統的な帝国の宮廷であったアーヘンではなくローマで、ローマ教皇に息子であるルートヴィヒ2世(ロドヴィコ2世)の皇帝戴冠を執り行わせた。このことは、皇帝戴冠を行う「正しい場所」を巡る論争を引き起こした。更に855年、ロタール1世の死に際し、中フランク王国はその息子たちによって更に細かく分割された。長男のルートヴィヒ2世(ロドヴィコ2世)が皇帝位とイタリアを、次男ロタール2世がフリースラントからジュラ山脈までを(この地方は後にこのロタール2世の名にちなんでロタリンギア(ロートリンゲン)と呼ばれるようになる)、三男のシャルルがブルゴーニュ南部とプロヴァンスを相続した。 プロヴァンス王となったシャルルはまだ幼年でありしかも病弱であったので、実権はヴィエンヌ伯ジラール・ド・ルシヨンが掌握した。彼はロタール2世と相談し、もしシャルルが相続人を遺さず死んだ時はシャルルの王国をロタール2世の王国に併合することを構想した。だが実際にシャルルが後継者の無いまま863年に死亡すると、皇帝兼イタリア王ルートヴィヒ2世(ロドヴィコ2世)がプロヴァンスの継承権を主張し、結局プロヴァンス王国はロタール2世とルートヴィヒ2世(ロドヴィコ2世)の間で分割されることとなった。 ロタール2世のロートリンゲン(ロレーヌ)王国でも相続の問題が発生した。ロタール2世は妻のテウトベルガ(英語版)との間に後継者が生まれなかったことから、愛人のヴァルトラーダ(フランス語版)と結婚することで庶子であるユーグ(英語版)を後継者にしようとしたが、この結婚を巡ってローマ教皇庁、東西フランク王国を巻き込む政争が発生した。東フランク王ルートヴィヒ2世と西フランク王シャルル2世はこれに乗じ、共謀してロタール2世の王国を分割することを約した。結局ロタール2世はヴァルトラーダとの結婚を果たせず、正式の後継者を持てないまま869年に死去した。この時点で、東フランク王ルートヴィヒ2世は重病の床にあり、皇帝ルートヴィヒ2世(ロドヴィコ2世)はイタリアでイスラーム軍との戦いに忙殺されており、漁夫の利を得た西フランク王シャルル2世がロートリンゲン(ロレーヌ)王国を手中に収めた。 ===最後の統一=== 東フランク王ルートヴィヒ2世も865年に自分の死後の分割相続について定めた。彼の王国もまた中フランク王国と同じように息子たちによって分割相続されることとなり、カールマンにバイエルンとスラブ人やランゴバルド人との境界地に設けられた辺境区が、ルートヴィヒ3世にオストフランケン(東フランキア)、テューリンゲン、ザクセンが、カール3世にアレマンネン(英語版)とラエティア・クリエンシス(英語版)が割り当てられた。 この東フランク王ルートヴィヒ2世が、その軍事力を背景にロートリンゲンの継承権を主張したため、西フランク王シャルル2世は譲歩し、メルセン条約によってロートリンゲン(ロレーヌ)は両者間で分割された。この条約の結果、中フランク王国はイタリアを残して消滅し、現代のドイツ、フランス、イタリアの国境の原型が形成された。 875年、皇帝兼イタリア王ルートヴィヒ2世(ロドヴィコ2世)も後継者を遺さず死亡すると、シャルル2世はこの機を逃さず教皇ヨハンネス8世に接近し、イタリア王国の支配と皇帝の地位を手中に収めた。更に続けて東フランクでルートヴィヒ2世が死去(876年)すると、西フランク王シャルル2世はフランク王国の再度の統一を実現しようと東フランクへ軍をすすめた。しかし、ルートヴィヒ2世の息子、ルートヴィヒ3世は残り二人の兄弟とともに連合軍を組織し、アンデルナハの戦い(英語版)で西フランク軍を壊滅させた。統一の試みは失敗し、翌年シャルル2世はサヴォワで病没した。 その後東フランクでは主導権を握っていたルートヴィヒ3世とカールマンが相次いで死去し、残っていたカール3世(肥満王)が予想外の幸運により東フランク全体の王となった。カール3世は更に、皇帝の地位とイタリア王位も手にした。更なる幸運が、カール3世に西フランク王位を齎した。西フランク王国でシャルル2世の王位を継いだのは短命のルイ2世(ルートヴィヒ2世)であり、その息子であるルイ3世(ルートヴィヒ3世)とカルロマン2世(カールマン2世)も短期間に事故死した。短期間に王が何人も交代する不安定な状況の中、実権を握った修道院長ゴズラン(Gozlan)は、西フランク王位をカール3世に委ねた。名目的かつ一時的ではあったものの、これによってカール3世はフランク王国にただ一人の王として君臨する最後の人物となった。 ===ドイツ・フランス・イタリア=== 単独の王となったカール3世であったが、能力が伴わず887年に東フランクのカールマンの庶子アルヌルフによって廃位され、翌年には死去した。彼の退位と死はカロリング朝の一画期を記すものであった。カール3世の死後、東フランクではアルヌルフによってカロリング家の支配が維持されたが、彼は西フランクの有力者から西フランク王位を薦められた際にはこれを拒否した。今や東フランクの王は完全にその地に地盤を張っており、西フランクの王位に興味を示さなかった。この結果西フランクではノルマン人の侵入を撃退して声望を高めていたロベール家のパリ伯ウードが888年に王に推戴された。これによってはじめてカロリング家以外から王が誕生することとなった。ウードの家系からはやがてフランス王位に登るカペー家が登場することになる。イタリアでは女系でカロリング家と血縁関係を持つフリウーリ公ベレンガーリオ1世(ベレンガル1世)が諸侯の一部の支持を得てトリエントでイタリア王に選出された。 こうしてカロリング家によって建設された帝国と王朝は四分五裂の状態となった。しかし、弱体化しつつも帝国の栄光は残り、正当なカロリング朝の後継者として東フランクのカロリング家の宗主権はイタリアのスポレート公を除き全ての分国から認められていた。血統的正当性を持たない西フランク王ウードは、東フランク王アルヌルフの宗主権を受け入れざるを得ず、後継者にはカロリング家のかつての王ルイ2世の息子シャルル3世(単純王)を指名しなければならなかった。またイタリア王ベレンガーリオ1世も、軍事的圧力の下、アルヌルフからイタリア王位の承認を得なければならなかった。 ===西フランク(フランス)=== ロベール家のウードが王位を得た後も、正統な王家はカロリング家であるという意識は強力であり、ウードの後継者はシャルル3世(単純王)となった。シャルル3世は領内に侵入してきていたノルマン人との間にサン=クレール=シュール=エプト条約を結んで情勢を安定させるとともに、911年にロートリンゲン(ロレーヌ)の内紛によってその王位を獲得した。しかし、ロートリンゲン問題への傾注は貴族層の反発を招き、922年に大規模な反乱を引き起こした。この反乱は鎮圧されたものの、シャルル3世は人望を喪失しペロンヌ城(英語版)にその死まで幽閉されることとなった。この結果、西フランク王位はブルゴーニュのリシャール判官公ラウルに委ねられたが、936年に彼が後継者を遺さず死ぬと、カロリング家の復活が模索され、シャルル3世の息子ルイ4世が擁立された。この後、987年にユーグ・カペーが即位するまで、カロリング家の王による統治が継続された。 ===東フランク(ドイツ)=== ドイツ人王と称せられるルートヴィヒ2世の治世(840‐876年)から、アルヌルフが死ぬ899年までの期間、ごく短期間を除き東フランクではカロリング家の一人の王による統治が持続した。その領域内には多数の部族、民族が居住していたが、王家と親族関係を築いた聖俗の貴族が王家の委託を受けて統治する複数の分国からなる国家へと成長していた。その領域は後世に「ドイツ」と呼ばれる地域にほぼ合致し、単一の「ドイツ」民族への共属意識もこの時期に芽生えることから、歴史学上この王国は東フランク=初期ドイツ王国と呼ばれる。アルヌルフは教皇庁の強い求めに応じてイタリアへ派兵し、896年にはローマ教皇フォルモススによって皇帝に戴冠された。しかしその主要な関心は西フランク王位の拒否からもわかる通り、東フランク内の分国に対する統制力の維持にあり、基本方針としてはイタリアに対し不介入で臨んだ。彼は将来に備え、嫡出子優先の継承制度を整えたが、後継者となったルートヴィヒ4世は900年に即位した時7歳であり、王家の親族による合議で運営されるようになった。911年にこのルートヴィヒ4世が死去すると、カロリング王家の男系が断絶した。西フランク王シャルル3世の擁立を目指す動きも不発に終わり、コンラート家のコンラート1世が国王に推戴された。 ===イタリア=== フリウーリ公ベレンガーリオ1世(ベレンガル1世)の王位就任以降をイタリア史では「独立イタリア王国」の時代と呼ぶ。これはカール3世の死によってフランク王国からイタリアが独立した888年を始まりとし、オットー1世によって神聖ローマ帝国に取り込まれる962年までを言う。女系でカロリング家と血縁を持ったベレンガーリオ1世に対し、同じく女系でこの王家と繋がりを持つスポレート公グイードが挑戦を挑み、勝利を収めた。グイードはパヴィアでイタリア王に即位し、891年にはローマで皇帝戴冠を行った。グイードの皇帝位はその息子ランベルトに継承され、ベレンガーリオ1世とランベルト双方から圧力を受けたローマ教皇フォルモススは東フランク王アルヌルフに救援を求めた。この結果896年にアルヌルフはベレンガーリオ1世とランベルトの抵抗を排してローマを占領し、そこで皇帝に戴冠された。これは東フランク王によるイタリア政局介入の端緒となった。アルヌルフとランベルトが相次いで死去すると、ベレンガーリオ1世は899年に改めてイタリア王となった。しかし、ベレンガーリオ1世に反対するイタリアの諸侯の一部は、やはり女系でカロリング家の血を引くプロヴァンス王ルイ3世を担ぎ出して900年にイタリア国王に即位させ、901年には皇帝戴冠が行われた。ベレンガーリオ1世は905年にルイを打ち破り、915年には教皇による皇帝戴冠を行った。イタリア諸侯はなおも高地ブルグントの王ルドルフ2世を担ぎ出してベレンガーリオ1世に対抗した。ベレンガーリオ1世は923年に敗れ去り、翌年家臣によって暗殺された。これによって神聖ローマ帝国に組み込まれるまで、イタリアでは皇帝の称号を持つ人物はいなくなった。 ==制度== ===王権=== ====初期王権==== フランクの王権概念がどのようにして成立したかについては、数多くの研究者によって多様な見解が述べられてきた。フランク族を含むゲルマンの王権を考える場合、伝統的に「神聖王権」と「軍隊王権」と言う二つの概念が特にドイツの学会において中心的な概念として捕らえられている。神聖王権とは特定の王家の血統の神聖性、時に神に連なる系譜によってその所属者が部族に繁栄をもたらす特殊な力を持っていたと考えられていたことにより王位の正統性が認識されていたとするものであり、一方の軍隊王権は、王の軍事指導者・将軍としての性質を重要視し、戦争における勝利を齎せるものが王として認められたとするものである。 フランク族の王として権力を確立したメロヴィング家が実際にどのような経緯を経て王者として認められるに至ったかについては史料的制約によりわかっていない。ただ、クロヴィス1世の時代には既にメロヴィング家の出身者だけが王となれることが彼の部族では自明のこととなっていた。メロヴィング王家を象徴するものに、王族にだけ認められた長髪がある。メロヴィング家の王家は青年期に達した男子に施される「最初の断髪」を免れ、長髪を保持していた。また、キルデリク2世の息子ダニエルの即位時には彼の髪の毛が十分に伸びるのを待った上でキルペリク2世として王とされていることも長髪が王の象徴であったことを示す。このような王の長髪はかつては上述のゲルマン的「神聖王権」説と結びつけられて解釈されていたが、今日ではそのような見解を取る学者は僅かにしかいない。五十嵐修は、メロヴィング家の王の長髪について、アレマン人が髪を赤く染め、ザクセン人が前頭部の髪の毛を剃ったように、ゲルマン人に一般的に見られる部族への帰属を示す外見上の表現の一種に過ぎないものとしている。 同様に五十嵐修はフランク人の王権を大枠として「軍隊王権」として捕らえている。フランク人の王は伝統的なゲルマン的な王権と言うよりも、西ローマ帝国の混乱に多様な形でフランク人たちが関わる中で、戦時における指揮官・指導者たちがその成功によって部族民から王として認められたものであるとされる。キルデリク1世は、極めてローマ的な姿を描いた遺物を残しているのみならず、印璽を用いていた。当時のゲルマン人たちは文字を持たなかったことから、この印璽はローマ系住民への命令やローマの将軍との交渉において必要なものであったと考えられる。これらのことからフランクの王は、彼等を軍事力として必要とした西ローマ帝国との関与の中で、ローマ帝国の内部において形成されたものであると考えられる。 ===キリスト教と王権=== フランク王国はクロヴィス1世による征服の結果、その領内にゲルマン人のみならず多様な人々を抱える多民族国家として成立した。このような国家を運営する上で大きな役割を果たしたのがクロヴィス1世のカトリック改宗である。彼が改宗を決断した経緯や時期についてはなお論争があるものの、その改宗がフランク王国の安定に大きく寄与したことは疑いがない。フランク族による征服が行われる以前、既にローマ領ガリアにはローマ帝国の行政管区を枠組みとしてキリスト教の教会組織が編成されていた。このような教会組織は、クロヴィス1世の改宗を通じてフランク王国の国家機構に組み込まれていくこととなった。キリスト教はフランク人と既にカトリック化の進んでいたローマ人貴族との間の関係を良好に保つ効果を持ち、共通の信仰を通じて国家を統合する重要な役割も果たした。 メロヴィング朝からカロリング朝への交代においては、血統的正統性に勝る権威としてキリスト教の権威、ローマ・カトリック教会の権威が利用されたことから、キリスト教の重要性は更に増大した。ローマ教皇庁の国王塗油によるカロリング朝の初代ピピン3世の即位は、単なる王朝の交代のみならず、フランク王権とローマ教皇権の結合、そしてキリスト教の教会イデオロギーによる王権の正統性確立という二つの意味で、ヨーロッパ中世社会の確立における決定的転換点であった。カロリング朝の王は「神の恩寵による王」となり、キリスト教世界の「平和」を保証することを自らの任務とするようになった。このようなカロリング朝の王権イデオロギーは単なる理念に留まらず、実際の行動においても神への敬虔さの現れとして実行され、カール大帝はザクセンの征服においてキリスト教への改宗か、さもなくば死かと言う基本姿勢で臨み、激しい殺戮の末にこれを征服した。 カロリング朝期においては、王はキリスト教の聖王として行動し、その道徳律に従って統治することを余儀なくされる一方、王は教会領を流用し、司教や修道院長を任命し、彼等を王国集会に出席させるなど、教会組織そのものが「国家化」された。 ===王宮=== フランク王国は、現代的な意味で「首都」と呼びうるような都市を持っていなかった。中央権力の意思決定の場として存在したのは「王宮」であり、この言葉は王とその廷臣たち、統治集団が滞在し、権力の行使が行われた建物の総体を指していた。王の座として511年にパリ、オルレアン、ソワソン、ランスが選ばれ、クロヴィス1世の息子たちの分王国の中心地となった。その後アウストラシア、ネウストリア、ブルグンディアの3つの分王国が成立すると、オルレアンの王宮はシャロンに、ランスのそれはメスにとって代わられた。これらの都市の中で、特にパリはその歴史的、政治的、戦略的重要性によって傑出した地位を占めていた。 しかしフランクの国王は戦争や国内情勢に応じて、また物資の補給や狩猟の必要に応じて、宮廷集団とともに王の所領を移動した。6世紀には都市の中心にある「王の座」と、そこからおよそ一日の旅程に位置する一つか二つの農村所領において権力が行使された。7世紀に入ると王たちは都市に滞在するのをやめ、郊外や農村の王宮から統治した。クロタール2世とダゴベルト1世の時代にはパリの郊外にあるクリシーが、次いでコンピエーニュが「王の座」としてパリに取って代わった。7世紀には王宮は非常に魅力的な場所であり、多くの人々が王に目を掛けてもらうために、または王宮で「養育してもらう」ために集まって来た。このような貴族の若者たちの間で、ダゴベルト1世は成長した。 組織としての王宮は、王の命令を直接受けて執行する側近団や、文書局のような行政実務を担当する役人、王家の家政を担当する臣下たち、家令として活動する宮宰、技術者や知識人として抱えられた外国人など多様な人々から成った。元来このような組織体系を持たなかったフランク王国は、クロヴィス1世が北ガリアを征服した際、それまで機能していたパリの政庁を接収する形で行政実務を担う役人団を整えたと考えられている。しかし、ローマ帝国期の整備された組織に比べ、フランク王国の行政機構は極めて貧弱であり、国王文書局や王宮裁判所を除けば中央行政府の組織は非常に小規模なものであった。 王宮の主要な役人には以下のようなものがあった。 内膳役(dapifer, infertor) 宮廷全体を取り仕切り、食事の提供を担当していた。元来は最高位の官職であった。献酌役(pincerna, princeps pincernarum) 飲み物の準備を担当していた。納戸役(comerarius, cubicularius) 王の居室と衣服を管理するとともに、王宮の収支と財宝を管理した。厩役(marescalcus) 王の厩舎を管理し、宮廷の移動の際には宿営の手配もした。「厩伯(comes stabuli)」と言う称号でも呼ばれ、カロリング朝時代にはしばしば軍司令官も担当した。宮中伯(comes palatii) 裁判に携わる職であり、王の不在時には宮廷裁判を主宰した。通常複数名がこの職に任じられていた。王領地管理人(Domestikus) ローマ時代の制度を引き継いだものであると推定され、名前の通り王領地管理の最高責任者であった。カロリング朝時代までには置かれなくなった。俗人書記 (Referendare) 同じくローマ時代の制度を引き継いだものと推定され、王の書記局を取り仕切り、王の印璽を管理し、証書への署名を担当した。俗人書記はカロリング朝時代には置かれなくなり、宮廷の聖職者がその仕事を担当するようになった。宮宰(maior domus)元来は家政の長であり使用人の監督にあたる職であったが、次第に宮廷全体の管理を行うようになった。後に従士団(Antrustionen)の指揮をするようになり、更に王領地管理人が任命されなくなるとその職務も引き継いだ。この結果絶大な権力を振るうようになり、メロヴィング朝末期には世襲化して事実上の王国の支配者となった。カロリング朝時代にはこの職は置かれなくなった。 ===伯=== 伯はフランク王国の地方統治において重要な役割を果たした存在である。伯(英:Count、独:Graf、仏:Comte)と訳される役職にはコメス(comes)とグラフィオ(Grafio)があった。両者はその制度的起源を異にするが、次第に権限上の差異が曖昧となり、ほとんど同一の地位となった。 コメスはローマから継承した諸制度の中でも最も重要な役割を果たした存在である。フランク王国の未熟な統治機構の下では、王を中心とした中央権力が隈なく全土を統治するのは不可能であり、均質な支配をその領土内全土に及ぼすことはできていなかった。王が支配者であったにしても、実際に住民を統率し、司法、行政、軍事上の権限を行使するのは各地の伯管区を支配した都市伯(コメス・キウィタス comes civitas)と呼ばれる伯であった。 行政単位としてのキウィタスの構造は良く分かっていないが、広義には都市とその周辺の農村領域も含む地方を、狭義には中心たる都市その物を指したと考えられる。その領域は当初はローマの属州行政単位を継承したものであった。伯に任じられる人々の由来は多様であり、メロヴィング朝時代には、ガロ・ローマ系人口の大きかったガリア中部、南部ではローマ帝国時代に支配的地位を有していたセナトール貴族層を中心とするローマ人有力者がそのまま伯としてフランク王国に仕えることになる場合が多かったと見られている。またこの地域では教会の司教が伯職を占める場合があった。プロヴァンスやアキテーヌ(アクィタニア)等、フランク王国中核部から離れた遠隔地では、在地の有力者の中から伯を自称する者が現れる場合もあり、王によってその地位は追認された。このような場合、伯権力は形式上王の臣下と言う立ち位置を取ったにせよ、極めて自律性の強い政治勢力であった。場合によっては王から任命された伯が現地の反対によって追い返される場合すらあった。 フランク王国の中枢部であったライン川とセーヌ川の間の地域、およびローマ時代の属州行政機構が存在しなかったフランク王国の東部では、コメス(comes)ではなく、フランク王の家産官僚的性格が濃厚なグラフィオ(Grafio)がその支配権を行使した。7世紀までにこのグラフィオの権限が強化・整備されると、コメスとグラフィオの職権・権限内容はほとんど同じ物となり、位階上の同一化が進んだ。それでも両語は使用され続けたが、単に地方ごとの慣用が残ったものと見られている。 このような伯(comes, Grafio)を中核とした支配体制はドイツ史学界の用語を用いてグラーフシャフト(ドイツ語版)制(伯管区制)と呼ばれている。19世紀までの古典学説では、王国全土に張り巡らされた画一的なグラーフシャフト制度によって一元的に支配されたという考え方が通説であった。その後20世紀の研究によって、上述の通り、フランク王国内の統治組織が地域的、時代的に大きな差異があったことや、属人性に強く依存したものが明らかとなった。現代でもグラーフシャフトはフランク王国の中核的制度と位置付けられているが、それはある意味では実際の組織そのものではなく、地域的・時代的差異を無視した「学問的概念」であるとも言え、その実態を巡っては長く議論が行われている。 ===大公=== フランクの地方支配において伯と並び重要な存在として大公(太公、dux)がいた。「アレマン人の大公」や「バイエルン人の大公」と呼ばれるこれらの大公は、形式上はフランク王国の官職位であり、フランク王により任免が行われた。この地位は大公(dux)と言う称号が完全に一般化するまではしばしば侯(marchio)とも呼ばれた。彼らは軍指揮官として王国軍の一翼を担うとともに、特定地域における行政上の権限を掌握していた。支配地域の全ての伯の上位に立つこの大公がどのような存在であるかについては長い議論が行われている。統一的な国家体制が存在しなかったフランク王国の他の地位と同じく、大公(dux)の性質も時代的、地域的な差異が大きい物であったと考えられている。 ラテン語の史料に表れる大公(dux)位を、ゲルマン古来の部族の中から現れた固有の命令権者(ヘリツォーゴ、Herizogo, 独:Herzog)とするか、またはフランク王国による支配のためにメロヴィング朝の王によって任命された官職保有者として現れたものとするかについては長い議論が行われている。前者の見解を支持する研究者によれば、部族的軍隊王権に基盤を置いた「大公」の支配領域はフランク王国によって征服された後も、「国家内国家」的な性格を喪失しなかったとされる。しかし、現代の研究ではこのような「大公」位を各部族による自生的制度と見なす見解は否定的にとらえられている。これらの大公位は、例えばアレマン人の領域ではクロヴィス1世による征服の後、旧来の王(rex)に代わって大公(dux)が任命されており、バイエルン大公もまたテウデベルト1世によるザルツブルクおよびイン川上流一帯の軍事的制圧直後に歴史に登場するためである。 しかし、どのような起源を持つにせよ、またフランク王権に従属していたにせよ、バイエルンやアレマンネンの大公はその支配域内において地元の部族的な紐帯に支えられ強大な権限を保有することになった。大公は領内において国王を代表し、伯権力の上に立つと共に、最高位の軍指揮官であり、裁判官であり、教会の長であった。またバイエルンのアギロルフィング家のようなこれを世襲する一族は、法律上も貴族層からも卓越した存在として扱われ、大公領を分割相続することができた。この意味において大公領における大公の存在は「王」そのものであり、同時代史料の中にはバイエルン大公を王(rex)と呼んでいる物も存在する。大公はフランク王に対する軍役と貢納を果たす以外は、独自の内政・外交政策を推し進めることも可能であり、これ故にフランク王と衝突も繰り返した。彼らは極めて曖昧な誓約によってかろうじてフランク王と結びついていたに過ぎなかった。このため、フランク王の側では例えばカール1世によるバイエルン大公タシロ3世(英語版)の廃位のように、大公権力の掣肘が常に試みられた。 ==軍事== ===武装=== 初期のフランク人の戦士たちが使用していた装備は、それらが副葬品として埋葬された当時の墓の発掘によって伺い知ることができる。1959年にテウデベルト1世時代の男児の墓が発見された。この男児は王族または貴族門閥に属したと考えられており、成人に達してから用いるべき武装の一式が副葬されていた。肉体には冑(かぶと)と楯(たて)を身に着け、武器としてはスクラマサクス(片刃長剣)、スパータ(両刃長剣)、アンゴ(英語版)(逆鉤付投槍)、長槍、フランキスカ(投擲斧)、矢が埋葬されていた。このうちフランク族に特有の武器として特に著名なものが投擲用の斧であるフランキスカであり、メロヴィング朝時代の北フランスからラインラントにかけてのフランク人の墓から発見される。プロコピオスの記録によれば、539年にイタリアに侵攻したテウデベルト1世の軍勢の歩兵たちは楯と刀剣の他、このフランキスカを装備していた。アンゴと呼ばれる逆鉤の付いた槍もフランク族特有の武器であり、投擲・白兵兼用の武器としてフランク兵が装備していたと伝えられる。フランキスカやアンゴは7世紀初頭には使用されなくなっていき、墓からは出土しなくなる。変わって7世紀以降の一般的な副葬武器の類型は、楯、スパータ(長剣)、長槍、そしてサクスと呼ばれる片刃の幅広剣であり、特にサクスは長剣に比べ多数の出土例がある。 上記のような考古学的発見から、7世紀(600年頃)前後を境にフランク人の武装がフランキスカやアンゴのような遠近両用の武器から、サクス等、片刃で幅広の刀剣類を主軸としたものに変化していることが知られ、この時期に軍事技術ないし戦術上の変化があったものと考えられる。また同時期より、小勒、鐙、鞍などの馬具が副葬された戦士墓が見られるようになり、異なった社会層出身の戦士の存在が推測できるという。 カロリング朝期にはこうした馬具の導入によって騎馬技術が発達し、大規模な騎兵隊が組織されたと一般に考えられている。9世紀初頭のサン=カンタン修道院(フランス語版)への動員命令の際、騎兵1騎が装備すべき武装として、盾、槍、剣、短剣、弓と矢、および箙、そして鉋や錐等の一般工具類とそれを乗せるための荷馬車などが要求されている。この時期のフランク騎兵が装備した弓は、当時に描かれた図像史料等から中央アジアに起源を持つ短弓と同種のものであったとされている。また槍は肩に抱えたまま突撃したり、投槍として使用されるなどしていた。これらのことから、当時の騎兵の武装と戦術は、中央アジアの遊牧民の用いたものと同じ系譜に属する物であったと考えられている。こうした戦術はフランク王国の時代が終了した後の12世紀以降、次第にヨーロッパ独自の様式に発展していくこととなる。 ===メロヴィング朝時代のフランク軍=== フランク族がローマ領ガリアで勢力を拡張した5世紀後半には、ローマの正規軍(ローマ軍団)は既にガリアには存在せず、従ってフランク軍とローマ軍団の戦闘は発生しなかった。当時のガリアでは実戦能力、治安維持能力を喪失したローマ軍に代わり、ガロ・ローマ系のセナトール貴族が私兵を集め、武装従士団を組織して割拠していた。また、各地の皇帝領、国家領に雑多なゲルマン部族から集められた屯田兵(ラエティ laeti)が配置されていた。彼らは重要な街道や軍事用倉庫の守備、国境線の要塞の防衛の見返りとしてローマ領内に居住を認められた人々であった。このようなラエティたちは、ローマ帝国が実効支配能力を喪失していくなかで、新たに権力を手中にしたフランク王国や西ゴート王国のようなゲルマン系王朝、或いはシアグリウスのようなローマ人の現地支配者たちに服属し、その軍事力の一端を担うようになった。 ガロ・ローマ系の有力者の多くはフランク族が侵入するより前にガリア南部に移動していたが、北部に残った者たちは短期間の抵抗の後、クロヴィス1世に臣従し従来の地位と財産の安堵を受けたと想定されている。このガリア北部のローマ系有力者や将兵は南部ガリアの征服の際にはフランク軍の一部として都城の攻撃に投入された。各地のラエティたちもまた、クロヴィス1世の勢力拡大に伴って彼に服属していき、フランク軍に組み込まれた。クロヴィス1世の息子たちも、その勢力拡大に伴い父と同じように各地のセナトール貴族やラエティを傘下に収めていった。 こうして形成されていったメロヴィング期のフランク軍は、主に以下の三つのファクターで構成されたと考えられている。 第一に王の側近として「従士(trustis)」の中から選抜した武装集団「プエリ(pueri)」「武者(armati)」が組織された。彼らは純然たるフランク王の手勢であり最も信頼のおける精鋭であった。第二にフランク系、およびガロ・ローマ系有力者の従士団があった。彼らは財産や所領を保証してもらう見返りとして忠誠と軍事奉仕を誓った人々であり、その支持は王国の安定上極めて重要であった。第三に元々はローマの国境守備兵力として居住を認められたゲルマン系諸部族やその他の異民族からなるラエティの兵力があった。彼らはローマ時代のキウィタスや城塞(カストラ)、皇帝領に駐屯しており、メロヴィング朝は新たな征服地にもローマ時代のラエティと同じような軍事植民を継続した。それらの地域は「ケンテナ (centena)」と称された。フランク王国にはローマ帝国時代の正式な徴兵制度は継承されなかった。また、ローマ、ギリシア時代以来の重装歩兵を中核とする戦術も引き継がれなかった。 ===カロリング朝の軍制改革と騎兵制の確立=== メロヴィング朝とカロリング朝の交代期には、一般的な通説として軍制改革が行われフランク軍の性質が大きく変化したとされている。通説を打ち立てたH.ブルンナーによれば、カール・マルテルがトゥール・ポワティエ間の戦いにおいてイスラームの騎兵軍の潜在的破壊力を見抜き、これを参考にフランク王国に重装騎兵軍を創出し、それを社会・経済的に維持するための諸策が封建制の確立に繋がったとされている。この説によれば、カール・マルテルはこの新しい軍事力を維持するために6世紀から7世紀にかけて著しく拡大した教会領に手を付け、その領土の接収や司教・修道院長に自身の信頼できる俗人家臣を任命し、更にその領地を軍馬の飼育と馬役を担う従士たちに封地として分与させた。メロヴィング期には歩兵主体であったフランク軍では8世紀半ば以降、騎兵が際立って強化されることとなった。9世紀にはパリ伯ウードがアクィタニア(アキテーヌ)地方とその周辺から10,000騎の騎兵と6,000人の歩兵を招集し、921年にはロベール1世がネウストリアとアクィタニアから40,000騎の騎兵を招集するまでになるなど、カール・マルテルの軍制改革に端を発した騎兵制は完成の域に達したとされる。このような軍制改革論には批判があるが、なお通説としての地位を維持している。 ===カロリング朝期の聖界軍事力の確立=== メロヴィング朝末期の若干の勅令や教会会議録によれば、当時の聖職者は軍事司教として軍に同行したが、武器の携帯や戦闘行為は禁じられていた。メロヴィング朝末期には宮宰カール・マルテルが教会領を接収し、高位聖職者の地位に自身の従士たちをつけた結果、カロリング朝の成立以後、教会は王権の支配権下に置かれることとなった。更にカール1世(大帝)は779年にヘリスタル勅令を発し、王命によらない聖界独自の所領貸出を認め、高位聖職者が教会に奉仕する封臣を独自に要することを許可した。この勅令の発布後、カール1世は新たに教会領を恩貸地として受領した聖界独自の封臣も軍に動員するようになった。司教および修道院長は聖界封臣の主君として兵士とともに出陣し、また王国の集会に出席することが要求されるようになった。森義信は「この結果教会は『国家意思実現の一手段とされ(F. プリンツ)』、その軍事奉仕も『制度化』され国家化したとされるにいたった」と述べる。 このような聖職者の軍事的偏向にはアルクィン等、聖界の重鎮らが批判の声を上げたが、カール・マルテル以来の人事任用によって、この時代の聖職者はその大半がフランク王国の貴族層に社会的系譜を持っており、彼らはその一員として軍事的素養が豊かであり好戦的傾向が強かった。彼等を信頼できる軍事力として組み込んだカロリング朝時代のフランク王国は、その軍事力を支える経済的基盤を教会や修道院に保証するために、かつて没収した教会領の一部を返還したり、国庫領や王領地の下賜を盛んに行うようになった。更に司教や修道院長は、国制上のあらゆる分野で国王の信任を受けて活動するようになった。 カロリング朝では更に聖界軍事力を創出・維持するために、軍事罰令金の徴収権や徴兵権等、従来は伯や国王役人に属した権限の一部を修道院長に移管するとともに、司教・修道院長は伯などの世俗領主と同様、武装された従士に取り囲まれていることが望ましいと規定され、出軍命令が下った時には封臣を率いて参戦することが義務づけられるようになった。こうして教会や修道院には領地の一部を常に恩貸地として封臣に分与し、その見返りとして彼らの軍事奉仕を受けることで、王の動員指示に即応できる体制を維持することが求められることとなった。 ==社会・経済== フランク王国時代(西欧中世初期)の経済や流通、社会、都市と農村についての研究は多岐にわたる蓄積がある。しかし、時間的には5世紀に渡り、西ヨーロッパのほぼ全域を占めたフランク王国の社会経済について、一般的な説明は困難である。西欧中世史研究者の丹下栄は、流通・都市・社会分野において西欧社会のすべてを視野にいれた総合的叙述を行うのは研究史の現状からして不可能であると述べる。そのためここではフランク時代の社会・経済について一般的に研究される各種テーマについて以下に述べる。 ===農村=== ====メロヴィング期の農村==== フランク王国ではパンとワインを中心にするローマ時代の食習慣が継承された。その原料となる小麦とブドウの生産は、ローマ時代のガリアでは、平野部に散在するウィラを中心に奴隷労働によって行われた(ラティフンディウム)。ここでは耕地を二分して地力回復のために一年毎に休耕を繰り返す二圃制とよばれる輪作が一般的に行われていた。他にブドウ畑と放牧地が畑とは別の場所にあった。一方、フランク人をはじめとするゲルマン人達も農耕の伝統を持っていたが、その技術は未発達であり、狩猟採集、そして牧畜が未熟な農業を補っていた。ゲルマン人の食生活において、牧畜はローマ社会におけるより遥かに重要であり、ブタ、ウシ、チーズ、バターなどの畜産品は、ゲルマン人の必要カロリーの3分の2近くをまかなっていたとする説もある。フランク王国時代、この二つの生産様式がまじりあい、次第に中世ヨーロッパの農業スタイルを形成していくことになる。 既に3世紀からガリアの人口は減少傾向にあったが、5世紀に始まった小氷期による気候の寒冷化や治安の悪化、政治情勢の混乱、更には疫病によってメロヴィング時代初期には人口減少が加速し、6世紀後半には人口は底辺に達した。7世紀には人口は回復し始め特にガリア北部でゆっくりとだが人口は増加した。 この時期のメロヴィング期の農村の状況については、無論地域的な多様性があったが、考古学的調査によって一般的な仮説を用意できる程に理解されるようになっている。当時の一般農民の家財道具は一般に非常に貧弱であり、鉄製農具はほとんど見つかっていない。住居その物も数本の柱で造られた3メートル×4メートルほどの狭い小屋であり、これが30件ほど点在するようなものが、一般的な集落の形態であった。このような集落の在り方は、古代に比べ農村に対する貴族の影響力が弱かったことを表していると見られる。 ローマ時代には都市の需要を満たすために大規模に実施されていたラティフンディウム制は衰退し、より狭域で完結する農村経済がとって代わった。需要の減少は耕作地の縮小をもたらした。ヨーロッパで最も森林が広がったのが500年頃であることが、花粉と樹幹の分析によってわかっている。 ローマ時代から続くウィラのあるものは放棄され、あるものは6世紀後半まで定住が維持されたが、その場合でも居住面積の縮小、設備機能の変化が見られる。明らかにウィラが結びついていた経済システムの変容がその衰退を招いていたと考えられる。古代の石造のウィラは、木造のそれに代えられたが、王や有力者の権威を表す記号として、都市に居住することと同じくウィラでの居住は有効であった。このようなウィラは30メートル以上の長さを持つ、大広間を備えた主人の家と、それに従う人々の小さな家々、家畜小屋、穀物庫、貯蔵施設などからなった。 ===カロリング期の農村=== カロリング期に入ると、気候の安定と国王や修道院による大所領の形成と共に農村は大きく発展した。8世紀から9世紀にかけて、1000ヘクタール以上の規模におよぶような所領が発展し、その経営のために領地や収支を列挙する台帳(所領明細帳)が作成され、当時の農村経営を現代に伝えている。修道院所領に代表される大所領は領主直営地と農民保有地によって構成され、農民は第一に家屋と菜園、第二に農耕地(農民保有地)、第三に飼料の刈り取り地や、牧草地、放牧地や森林などからなる共同利用地の用益権の三要素を経営の基本単位として自立した経営体を形成していた。この三要素はフーフェ(独:Hufe)、或いはマンス(仏:Manse)と呼ばれ、基本経営単位として農民一世帯ごとに設定されていた。このフーフェ(マンス)は領主が賦課税を行う単位でもあった。ただし均一な単位としては成立しておらず、その大きさは地域によりまちまちであった。 カロリング時代の所領経営では、農民の身分や課税内容は一様ではなく、村落共同体と呼べるような農村組織もまだ存在していなかった。その代わり、所領の枠組みの中で、領主直営地と農民保有地に関わる労働が、フーフェ(マンス)を保有する農民によって担われており、この意味で所領が農民生活の社会的単位を構成していたと言える。このような領主制のありかたは古典荘園制と呼ばれる場合が多い。 実際に「古典荘園制」下にある農村の例として、パリの北東20キロメートルにあるヴィリエ・ル・セック(フランス語版)とバイエ・アン・フランス(フランス語版)で当時の遺跡が発掘されている。この二つの集落はカロリング期の典型的な集落であると考えられ、当時の大所領の一つであるサン=ドニ修道院に所属していた。長さ12.5メートル、幅5〜6メートルの長方形の母屋と、縦横数メートル程度の高床式、或いは竪穴式の付属建造物が2,3棟あるまとまりが複数散在していたことが確認されており、それぞれが一つのフーフェ(マンス)を構成していたと推定されている。 栽培植物はメロヴィング期には僅かな麦類のみだったのに対し、カロリング期には各種の麦類の他、ソラマメ、エンドウマメ、ニンジンなどの野菜類や、リンゴ、ブドウなどの果樹、工芸用の亜麻など、多角的な農業が行われていたことが確認されている。家畜はウシ、ブタ、ヒツジ、ヤギ、ウマの順で多く発見され、時代と共にウシとウマの比率が上昇し、ブタが減少している。特に8世紀を境にウマは倍増しており、農耕や運搬にウマが使用されるようになったことを反映していると考えられる。 ===交易と流通=== ゲルマン人の侵入と各種の社会混乱の中で西ローマ帝国が崩壊した後も、地中海を中心とするローマ世界が解体したわけではない。メロヴィング朝時代のフランク王国においても、地中海交易はかつてのローマ時代から継続して活発に行われ、王国中枢であったガリア北部へも継続して地中海交易による物資がもたらされていた。この分野における研究で20世紀半ばに一時代を期したアンリ・ピレンヌは、サン=ドニ修道院やコルビー修道院(英語版)がプロヴァンスの都市マルセイユなど、地中海沿岸の流通税徴収所から物資の供給を受けていたことを例証としてあげている。ここで集められた物資の中にはパピルスや胡椒、そして各種の奢侈品など、いわゆる東方物資が数多く含まれていた。 こうした交易活動は上でも触れた流通税に関する記録から知る事ができる。中世ヨーロッパの全期間を通じ、流通税は物資の流通と権力構造を映す鏡であり続けた。流通税はポルトリウム(portorium)またはテロネウム(teloneum)と呼ばれる帝政ローマ時代の制度に源流を持ち、商品の通過と取引に課税される間接税であった。メロヴィング朝時代にはこの流通税はローマ時代とほとんど変わらない運用がされていたとされ、王国の役人が管理する流通税徴収所で徴収され国庫に納められた。この流通税は王国の財政上極めて重要であり、これを統括する役人は伯と同格とされた。一方で流通税徴収所には物品の一時保管所が付属し、輸出入品の一時保管機能が提供されるなど、交易活動に必要な機能の一部を提供していた。従って単純に国家が交易活動から利益を徴収するための存在であったとのみ見ることはできない。 流通税徴収所と並び流通構造に大きな意味を持っていたのがキウィタスである。これはローマ時代、更にはそれ以前のケルト時代からの伝統を引き継ぐもので、一種の行政単位であった。帝政ローマ時代にはキウィタスの中心地には司教座が置かれ、地域の中心としての役割を果たすようになった。キウィタスでは市が開かれ、財貨の交換が極めて日常的に行われていたことが、トゥールのグレゴリウスなどによって記録されている。 ローマ世界の延長線上にある側面が色濃いとされるメロヴィング朝時代の流通構造は、7世紀に入るとカロリング期に向けて緩やかな構造変化を開始した。大きな影響を持ったのは、ガリア北部に数多く建設された修道院が次第に経済力を強め、生産と流通の拠点として現れてくること、金本位制が衰退し銀貨が急速に普及すること、地中海交易の重要性が相対的に低下すること、そして北海・バルト海方面での交易活動の活発化であった。特に北海・バルト海方面での交易活動は、ワイン、穀物、毛織物、金属製品や武具などの生活要因が大半を占め、地中海交易に特徴的な奢侈品が存在しないことが特徴であり、交易主体の多様化を示している。 カロリング期にはこの構造的変化は更に加速し、流通構造は重層的な姿を示すようになった。地中海交易はメロヴィング期に引き続き途絶えていないことが、流通税徴収所に関する記録から明らかになっている。また、カントヴィク(英語版)、ドレスタット(英語版)を拠点とした北海・バルト海交易はフランク王国にとって第一級の意味を持つものに成長した。サン=ドニの年市にはアングロ・サクソン人やフリーセン人の商人が集まり、各種の商品を取引した。そして、修道院に代表される聖界領主が経済力を強めるとともにフランク王から流通税免除特権を獲得し、更に領民の労働賦役による物資運搬によって市場との結びつきを恒常化していった。こうした流通構造の重層的構造は、地域経済、そして中世盛期以降の発達した国際的流通の基礎的条件の一つとなっていった。 ===通貨=== 西ローマ帝国の終焉の後も、フランク王国の支配地の大部分は程度の差はあれ貨幣経済に依拠していた。フランク王国ではローマの幣制が継続していたが、6世紀には自ら造幣を行うようになった。当初は東ローマ帝国の金貨の模造を行っていたが、次第に王名入りの金貨を発行させるようになった。確認できる最も古い王名入り金貨は、テウデベルト1世(在位:533年‐547年)が造らせたものである。また、ローマ時代のソリドゥス金貨の3分の1の重量であるトリエンス貨の造幣が優勢となり、ローマ幣制からの緩やかな離脱が起きた。 フランク王権は長らく造幣権を独占することができず、こうした貨幣は各地の造幣人(monetarii)に委託されて王や有力者の名の下で製造されており、造幣人と造幣地が刻まれていた。しかし、各地の造幣人の都合によって貨幣の重量や品質がまちまちであった上、金の供給源に乏しかったことから、メロヴィング期を通じて金貨の質は低下し続けた。市場におけるフランクの貨幣の信用は低く、決済手段としては極めて品質が安定していた東ローマ帝国の貨幣(ノミスマ)を用いるか、貨幣を融解したり、純地金を秤ったりして行うことが広く行われた。また、次第に金貨の流通は下火となり銀貨による決済が広がっていった。7世紀後半にはフランク王国でデナリウス銀貨が発行されたが、品位が悪かったことから、イングランドの諸王国で発行されたシャット銀貨(初期デナリウス銀貨)による支払が行われ、フランク王国とイングランドで急速に普及した。 こうした状況に対し、カロリング朝は通貨体制の構築に力を注いだ。このことはカロリング朝の諸王が熱心に幣制改革を行っていることから確認できる。ピピン3世は即位直後の754年に貨幣の重量改革を行い、金貨造幣を停止して銀貨のデナリウスのみを発行することに決め、銀貨の標準重量を上積みした。また、12デナリウスが1ソリドゥス(金貨)、20ソリドゥスが1リブラと言う上位の計算貨幣の単位も設定された。この関係はその後の西欧諸国の通貨体制の基本として受け継がれていく。さらにカール1世(大帝)はデナリウス銀貨の重量を更に上積みする幣制改革を実施した。これの理由については、東方の金の高値に対する対策や新たな銀鉱の開発が行われたこと。冬の飢饉による穀物価格高騰に対する購買力の強化などの説がある。794年のフランクフルト公会議では、この新デナリウス(novi denarii)の普遍的な受け入れが命じられ、その後も繰り返された。しかし新デナリウス貨は小額の取引に向かず、市場ではデナリウス貨幣を勝手に半分にするなどの行為が横行したため、少額貨幣の需要に応えるべくデナリウスの半分の価値のオボルス貨も発行された。更に品質を維持するため造幣権の独占が試みられ、貨幣の私鋳を厳しく禁止するとともに、805年には造幣を宮廷に限定することが定められた。カール1世の幣制改革は、北海貿易の隆盛を背景に、同時期に行われたブリテン島のマーシア王国のそれと並行して行われており、この時期にフランク王国とイングランドではほぼ共通の幣制が整えられた(デナリウス=ペンス、ソリドゥス=シリング、リブラ=ポンド)。 このような金貨の造幣停止と銀貨の普及は、かつては遠隔地交易の衰退と自然経済への退歩を示すものとされてきたが、近年においては当時のフランク王国で交易活動の衰退は認められず、農業生産もむしろ拡大傾向にあったと考えれており、この現象は生産力上昇を背景として広範な生産者が貨幣経済に参与したことによるものと考えられている。 ==文化== ===言語=== 古代ローマ社会は非常に高い識字文化を誇っていた事が知られている。ローマ期の文学作品は質・量ともに豊かであり、また文字媒体の使用は少数の知識人によるものではなく、広く一般民衆に普及していた。文字が読めない者でも、代筆者に依頼して遺言状などを作成してもらう慣行があったことも分かっており、文字化の理念が社会全般に広く浸透していたことが知られている。この状況はガリアにおいても同様であり、他のローマ領と同じく都市には当局から給与を支払われて子供たちに読み書き計算の初歩を教える教師(litteratores)がおり、一種の都市の学校と言うべきものが存在した。 一方、フランク王国を建国したフランク人たちは、クロヴィス1世によるガリア征服とフランク王国の成立の当時、インド・ヨーロッパ語族ゲルマン語派の一派であるフランク語を母語としていたが、この言語が筆記に使用されることはなかった。6世紀初頭に編纂されたサリー・フランク人の部族法典である『サリカ法典』には書面による売買契約や諸証についての規定がほとんどなく、一定の身振りや仕草を伴った口頭での契約や証明法、象徴物を用いた法律行為が採用されており、フランク人一般が当時まだ文字文化に親しんでいなかったことを示している。このような状況はカロリング朝期にも変わることなく、法律行為は文字なしに行われるものの比重が大きかった。メロヴィング朝時代には王たちは自筆の署名を行っており俗人の間でも一定の識字能力を持つものはいたが、王宮から発信される指令や情報の伝達文書は必ず朗唱され、口上の形態をとったものと想定されている。 しかし、このことはガロ・ローマ系住民のローマ帝政後期以来の伝統的な文書使用の慣行に根本的な変化はもたらさなかった。フランク王国はその中枢を置いたガリアにおけるローマ帝国の行政機構を一部引き継いだため、王国運営上必要となる文書業務はガロ・ローマ系の知識階級やキリスト教聖職者に委ねられ、ゲルマン古来の慣習法の成文化も彼らの手によって行われた。このため、文書の行政・司法上の言語にはラテン語が使用され、王国はその建国初期段階から二重言語の状態にあった。 セーヌ川以南のガリア南部では、6、7世紀にも土地の売買や譲渡、奴隷の開放、債務などほとんどの法律行為に際して文書が作成されていたことが、こうした文書を作成するための範例集成の存在によって想定されている。 各地の地方中心都市(キウィタス)はローマ期の地方行政を継承し、それは機能し続けていたし、学校もメロヴィング朝初期には存続しており、教育組織が「蛮族による破壊」を被った証拠は無い。地方行政機能存続状況にはもちろん地域差があった。フランク族の移動時にガロ・ローマ系住民の多くが移動し、またフランク族の移住者が多かったガリア北部、セーヌ川以北の地域ではキウィタスの機能は相当に後退していたと推定されている。しかし、文書行政が消滅したわけではなく、この地域では低下した都市行政機能を補うために国王文書局によってプラキタ(裁定)文書が多数発行された。この国王文書局が発行する文書は、研究によって概ねローマ帝政期の属州役人文書の系譜に連なるものであることが明らかになっており、全体としてフランク王国がローマ帝政期の文書行政を広範に継承していることが知られている。 また、ローマ期より社会の中枢を占めたガリア・セナトール貴族と呼ばれる階層や、その階層の出身者を多数含むキリスト教会の聖職者によって、ラテン語の文学的伝統が維持された。メロヴィング朝期においても既にラテン語の文語と口語(俗ラテン語)の乖離は大きなものとなりつつあったが、発音の近似性により未だコミュニケーションが成立していた。 こうした状況はカロリング期になると俄かに変化した。カール大帝期以降のカロリング・ルネサンスと呼ばれる文化運動は古典志向の「純粋なラテン語」を希求し、ブリテン島のヨーク出身の修道士アルクィン(アルクィヌス)によってラテン語の発音の矯正や正書法の整備が行われた。これは「卑俗化した」ラテン語を純化し、一連の改革と勧奨運動によって正しいラテン語を復旧させようとしたものであった。また、正確なラテン語を通じた正しいキリスト教の理解を求める運動でもあり、言語改革を通じて王国の統治を円滑化しようとする試みでもあったが、文語と口語の距離を一段と乖離させることとなり、メロヴィング朝期には文字文化の一端を担っていた俗人貴族階層もまた識字層から離脱していくこととなったうえ、教会の聖職者や聖職者出身の政府関係者が使用する書き言葉は民衆には全く理解できないものとなった。この結果ラテン語はカロリング朝時代には聖職者や国家行政を司る者が占有する媒介言語となった。 公用語としてのラテン語が聖職者階層(フランク王国時代には同時に統治機構の役人でもあり、領主でもある)にのみ使用される言語となっていく一方、キリスト教の教化を各地で推し進めるために各地の民族語による教義の流布や説教が進められた。794年のフランクフルト教会会議(英語版)では、ラテン語やギリシア語、ヘブライ語に限らず、あらゆる言語が神を崇拝する言語であることが決議された。カール大帝が813年に招集した教会会議では、司教たちの説教が民衆に理解できるように各地の固有の言葉をもってなされるべきとされ、「わかりやすく翻訳」することが決議されている。こうしてラテン語の宗教文書の現地語への翻訳が促され、王国の東側では9世紀以降高地ドイツ語による宗教文学も誕生した。一方西側でも9世紀には初の古フランス語(ロマンス語)の文書であるストラスブールの宣誓が現れるに至り、少なくても北フランスではこの言語が共通語となっていた。 こうしてフランク王国時代には、ほとんど聖職者のみからなるラテン語の知識階層と、様々な現地語を使用するラテン語非識字層からなる西ヨーロッパ中世世界の言語的二重構造が形成された。 ===メロヴィング期の文学=== ====書簡集と歴史書==== フランク族は自らの言語による文学を残さなかったが、フランク王国時代のガリアではラテン語の著作活動はなお継続していた。ローマ期以来の文学活動の継続としてまず挙げられるのが、ローマ期の知識階級が一種の文学活動として行っていた書簡の交換であり、これはメロヴィング朝時代も継続していることがデシデリウス(英語版)の書簡集や、アウストラシアでまとめられた『アウストラシア書簡集』等によってわかる。 また、メロヴィング期のラテン語著作家によって多くの歴史書が著述された。その代表的な人物としてトゥールのグレゴリウスがいる。彼は6世紀後半の教養ある社会の完璧な代表者であると見なされ、フランク王国の歴史を記した『歴史十書』を記述したことで名高い。この歴史十書は初期フランク史を知る上での基本文献である。また、『歴史十書』に続く歴史叙述としてとしてジュネーヴ近辺の著者によって作成されたと推定される『フレデガリウス年代記』や、『フランク史書(英語版)』が作成された。 ===聖人伝=== メロヴィング期の象徴的な、そして最も発展した文学ジャンルはキリスト教の聖人伝である。聖人伝はメロヴィング朝時代の文学活動において量的に最大の部分を占めている。こうした聖人伝を多数残す原動力となったのが文学活動における教会・修道院の重要性の増大であった。7世紀半ばまでには古代以来の都市の公的な学校が順次消滅する一方、6世紀頃からキリスト教の司祭を育成するための司教区学校が、古代の学校の伝統とは独立的にガリア全域に広がっていった。これは古代の学校で十分に施すことができない宗教的、聖職者的教育を施すために教会が独自に用意した教育機構であった。 また、修道院においても文筆活動が活発化した。修道院には元々書写室が備わり、古典やキリスト教の教父たちの著作、そして聖書や典礼文書の筆写が行われていたが、聖コルンバヌスの影響下で創設された、ガリア北部やブルグンディアの修道院には特に整備された書写室が常に設けられ、筆写作業は修道院の手労働の重要な要素になっていった。聖人伝の多くはこうした修道院で作成された。この時代には「著者」と言う概念は成立しておらず、文書を書写する人が「こうした方が良い」と考えればその都度変更が加えられたながら書写された。 当時の重要な作品としてあげられるのが669年以降にニヴェル(英語版)で書かれた『聖女ゲルトルーディス(英語版)伝』、ルペーで書かれた『聖アイユル伝』、688年以前にフォントネルで書かれた『聖ヴァンドリル(英語版、フランス語版)伝』、670年頃にルミルモン(英語版)で書かれた『聖アメ(英語版)伝』、707年以前にランで書かれた『聖女サラベルジュ伝』などである。 ===メロヴィング朝末期=== メロヴィング朝末期の8世紀前半は、こうした修道院における文学活動とは裏腹に、古代以来の学校が姿を消し貴族層も次第に識字能力を喪失していった。初期中世フランス史の研究者ミシェル・ソは「ここで言っておかなければならないのは、文化的レベルが最も低下したのが、とくに八世紀前半だということである。」と述べる。古代から継承した文化の中心地であった南部ガリアは8世紀前半にイスラームの襲撃を受け、更に反撃に出た宮宰カール・マルテルのフランク軍によって再征服される中で甚大な被害を被った。文化の中心となるべき都市は姿を消し、フランク王国の支配を安定させるために送り込まれていた軍隊を率いていたのは「肩書は貴族だが、証書の下部欄にも、署名の代わりに十字の印を書くことしかできない、無教養な男たち」(ミシェル・ソ)であった。教会の司教職も単なる収入源として戦士たちに与えられ、司牧の役割を果たすことはできなくなった。 このため、メロヴィング朝末期のガリアでは文盲は一般的となり、俗人貴族層も聖職者たちも全く無学な状態となった。それ故に、この時代はガリアにおいて文化史的に重大な転換期となっている。このような中で芸術・文学的伝統を維持し続けたのが上記のような多数の聖人伝を残し続けた修道院であり、カロリング朝時代の「文化のルネサンス」へと繋がる文化的潮流は専ら修道士によって担われることになった。 ===カロリング・ルネサンス=== カロリング朝期、特にカール1世(大帝)の治世において、今日一般にカロリング・ルネサンスと呼ばれる古典古代の文芸復興の潮流があった。カール1世個人がどの程度教養を身に着けていたかは、カール1世の伝記を残したアインハルト(エジナール)が書き残したことしか知られていない。それによればカール1世はラテン語を理解したが、文字は使えなかった。 カール1世はその活発な軍事活動によって3度ローマへと赴いた(774年、781年、786年)。このことはカロリング・ルネサンスの重要な基盤となった。即ち、イタリアとローマへの行軍を通じて、ファルドゥルフ(フランス語版)、アクィレーリアのパウリヌス(英語版)、そして何よりも当時パルマにいたアングロ・サクソン人助祭アルクィン(アルクィヌス)や文法学者・歴史学者であるパウルス・ディアコヌスといった知識人がフランクの宮廷に招聘された。アルクィンはこの後カール1世の文化政策を主導する中心人物となる。更にヒスパニアからイスラームの支配を逃れてやってきたテオドルフ(英語版)や、アイルランド人ドゥンガル(英語版) らもフランク宮廷に到来した。 また、ローマ教皇から『ディオニュシオ=ハドリアーナ法令集(ドイツ語版)(Collectio canonum Dionysio‐Hadriana)』と呼ばれる膨大なローマ教会法集が贈られ、これがフランク教会法の基盤となった。キリスト教帝国の王として、カール1世は人々が神の御心にかなって救いに到達するためには祈りの言葉を正しく唱える必要があると考え、ピピン3世時代にメッツ(メス)のクロデガングが始めていたローマを手本とする典礼の統一化を推進した。このため十分な能力を持った聖職者の養成が必要となり、教育の質的向上を図る訓令や法令が繰り返し発布された。カール1世の周囲には学者たちが集まって一つの「宮廷」が形成され、アルクィンはこれを古代ギリシアのアカデメイアになぞらえた。アーヘンの宮廷には図書館が建設されサッルスティウス、キケロ、クラウディアヌス(英語版)など、キリスト教以前のラテン語古典作品が並べられた。814年にカール1世が死んだ時点で実現していたことは極僅かであったが、ルートヴィヒ1世(敬虔帝)はカール1世の文化政策を引き継いだ。 上記のような知識人たちの努力と政策的な支援の結果、9世紀には膨大な文筆活動が行われた。これを通じてカロリング・ルネサンスが文化史に残した特筆すべき遺産は「文法」と「文字」である。カロリング朝期の学者たちは文法的に正しいラテン語を追い求めた。「文法的に正しいラテン語」とは古代末期に明確化された古典ラテン語の文法規範にかなうラテン語を指し、特に帝政ローマ末期の文法学者ドナトゥスの文法書が広く拠り所とされた。学者たちはドナトゥスの文法書を基準にメロヴィング朝時代から伝わる写本の校訂を行い、「野卑な」「劣悪な」言葉を排除していった。アルクィンやテオドルフも同様の思考から、ラテン語訳聖書の修正を行い、聖人伝や教父の説教も同じく見直しがされた。これによって中世ラテン語の規範が確立され、学者たちの書き言葉とコミュニケーションの共通言語としてヨーロッパ中世を通じて使用されることになった。 文字において特筆すべきことはカロリング小文字体(カロリーナ小文字)の発明である。カロリング小文字では読みやすさを重視し、単語と単語の間に空白を置き、合字を避ける、などして筆写時の誤読を避ける事が意図された。この文字は神の言葉を正しく伝えるためには完璧で誤解の余地のないやり方で筆写されているべきであるという宗教的信念に応える技術的手段として存在した。このような信念は書籍の装飾にも反映されて行き、書物の体裁とメッセージは一体であり、美麗な書体と装飾がメッセージの価値を高めるとされた。こうして企画化され、豪華に装飾され、時には金字で綴られた大型の福音書が作成されるようになった。 これらの結果、カロリング朝時代の何十年かの間に膨大な著作、筆写が行われ、現代でも当時の写本が8,000点余り残っている。これは当時作成されたものの極一部分にすぎないと考えられている。 ===後世への影響=== 正しいラテン語の制定は、正しくない(田野風の)ラテン語が、ラテン語の変種(俗ラテン語)ではなく「別種の言語」と定義される切っ掛けとなった。中世ラテン語の確立の後、ラテン語からこれらの「田野風のラテン語」への「翻訳」が問題となるようになり、ここをロマンス語とラテン語の分岐点とする考え方が、ラテン語学者やロマンス語学者によって概ね認められている。 カロリング朝時代に整備された教育機構(基本的には修道院の学校と司教座学校)はフランク王国の解体以後も11世紀から13世紀まで残った。その数は増大し、文字の使用される範囲も拡大するとともに、非ラテン語の文書も作成されるようになっていった。非ラテン語の「土着語」は言語の種類が何であれ、文法的な考察に値しない「劣った言語」と見なされた。しかし、こうした学校で学んだ書字生たちは、10世紀には土着語(ロマンス語)による文学作品を残すようになり、12世紀には俗人世界が影響力を増大した結果、特に貴族たちの要望によって非キリスト教的な土着語の作品が残されるようになった。トルバドゥールと呼ばれる詩人たちによってオック語で作成された『愛の歌』や、カール1世の甥であるとされるローランを称えるオイル語の『ローランの歌』などが代表的である。 また、カロリング・ルネサンスによって作成されたカロリング小文字は、フランク王国の終焉の後次第に使用されなくなったが、簡素で読みやすく形体も単純であったため、16世紀に初期のユマニスト(人文主義者)の印刷者たちが印刷用の書式に採用した。従ってこの書体は後のアルファベットの印刷書体と明らかな関連を持っており、現代でもなじみ深いものとなっている。 ===建築=== フランク王国時代の世俗建築は城塞などを含めてほとんどが木製であり、現存するものはない。石造で造られた宗教建築や宮殿の一部のみが今日に伝わる。宗教建築でも、メロヴィング朝時代の建造物の現存例はほとんど無く、ポワティエの洗礼堂、デュヌの地下墓室、サン=ポール=ド=ジュアール(フランス語版)の地下納骨堂、メッスのサン=ピエール=オ=ノナンの内陣仕切りなどが僅かに残されているに過ぎない。これらの遺構は、その構成・装飾が古代の宗教建築にかなり忠実であったことを証明している。 ===カロリング・ルネサンス期の建築=== カロリング朝期になると、カール1世以来のカロリング・ルネサンスの潮流の中で建築活動も活発化した。古代ローマの建築に関心を持ったカール1世は、ローマやラヴェンナにあった聖堂や住居から建築資材や美術品を運び出し、晩年の住処としたアーヘンに持ち込んだ。これらを用いて門楼、謁見用大広間、宮廷礼拝堂、学校、浴堂、軍事設備などを備えた壮麗な宮殿が建設された。この宮殿はローマ時代にトリーアに建設されたコンスタンティヌス1世(大帝)のアウラ・パラティナを参考にしたともいわれ、当時の詩人は「われらの時代は古典文明に変容した。革新された黄金のローマがこの世に再生した」と謳っている。この宮殿の中で現存するのは宮廷礼拝堂のみであるが、直径14.5メートル、高さ30.6メートルのドームを戴く八角堂の集中式プランのこの礼拝堂は、規模でこそ同時代のビザンツや古代のローマ建築に及ばないものの、その装飾は古代の唐草文様や柱頭装飾が精巧にコピーされており、技術的な確かさは「ルネサンス美術」その物と評される。 また、この宮廷礼拝堂に代表されるフランク時代(カロリング時代)の教会建築は典礼の作法との関係から「西構え(ドイツ語版)(英:Westwork、独:Westwerk、仏:Massif occidental」と呼ばれる新機軸が採用された。これは教会を西向きに建て、建物の西側部分には多層建造物が建てられるものであった。殉教者の聖遺物を安置し、玄関広間も兼ねる1階。大アーチを持った広間になっていて、救世主の祭壇が設けられた2階。聖歌隊席のある3階から成り、各部分は二つの階段塔で結ばれた。反対側の東部分には内陣が設けられ、使徒たちが祀られた。この構成はカロリング時代の教会モニュメントの特徴を為すとともに、「西構え」の多層建築は後世のロマネスク建築やゴシック建築の教会に特徴的な、左右に塔を備えたファサードの原型となった。同じくロマネスク建築とゴシック建築に共通する後陣も、その直接的な起源をこのカロリング朝の教会建築に持っている。アーヘンの宮廷礼拝堂の「西構え」は後世の改築時に失われてしまったが、コルヴァイの修道院聖堂のものが現存し、その姿を見ることができる。 古代ローマから受け継がれた聖堂建築のスタイルには、集中式の他にバシリカ式のものがあった。量的にはアーヘンの宮廷礼拝堂のような集中式プランの建築は少数派であり、専らバシリカ式の方が王国の各地に普及した。バシリカ式の普及は、カロリング朝時代の聖遺物(聖人の遺体の一部)信仰の普及を原動力とするもので、聖遺物はイタリアから様々な方法でフランク領内へ持ち込まれた。イタリアで確立していた聖遺物を祀る建築様式としてのバシリカは聖遺物と共に北上し普及した。重要な作例としてはサン=ドニ大聖堂やケルン大聖堂が挙げられる(いずれも当時の姿では現存していない)。 ===軍事施設=== ほとんど恒常的に戦争が行われていた結果、フランク王国では各地に要塞、或いは要塞線が築かれた。だが、王国の中心部では重要な築城の痕跡はほとんど残されていない。今日確認することができるのはローマ時代の城塞都市の修復の跡であり、カオール(630年に修復)、オータン(660年に修復)、ストラスブール(722年に修復)などでローマ時代の市壁が再建された。カオールで再建された城壁はモルタルを使用せず、弓兵による側面射撃を行うための塔が設置された。 ===音楽=== フランク王国のカロリング・ルネサンス期は、ヨーロッパの音楽史において始めて具体的な姿が確認できるようになる時代である。ヨーロッパの音楽は古代ギリシアにその根源を持つ。英語で音楽を意味するmusicと言う単語はギリシア語のムーシケー(μουσικη ムーサの枝)に由来する。しかし、技術的には古代ギリシアの音楽は中世のヨーロッパに伝わることはなく、フランク王国で確立されたヨーロッパ音楽はキリスト教の歌唱にその源流を持つ。 カロリング・ルネサンスの主導的人物であったアルクィンは宮廷学校にローマ式の自由学芸七科を導入した。下級三科と上級四科に分類されたこの自由学芸のうち、上級四科の一つは音楽であった。後世の音楽に絶大な影響を与えたのが東ゴート王国に執政官として仕えた学者ボエティウスが記した『音楽教程』(De institutione musica)や、その後継者であるカッシオドルスの『綱要』(Institutions)であり、これらはハーモニーを支配する数比を考察する数比論、思弁的音楽論であり、教養学として中世を通して学ばれることになる。ただし現存する最古のフランク王国の楽譜(同時にヨーロッパ最古の楽譜)であるグレゴリオ聖歌はハーモニーの無い単旋律の歌である。 カール1世は旧来のガリア式典礼や、スペイン辺境領で行われていたモサラベ典礼等を廃し、ローマ式典礼の統一普及を推し進めた。各種の典礼はそれぞれ独自の聖歌を持っていたが、これを期に一部の例外を除いて典礼音楽も統一されていった。このローマ式典礼のための聖歌がグレゴリオ聖歌であった。那須輝彦はその意味で「グレゴリオ聖歌はローマ聖歌と呼ぶのが正確である」と述べている。ただし、古ローマ聖歌と呼ばれるローマに残された楽譜の写本は、フランク王国領内で発見される写本とは同じローマ典礼用でありながら旋律が全く異なる。従って一般にグレゴリオ聖歌として知られる旋律は、カール1世によってローマの聖歌がフランク王国に伝搬していく中で、フランク人の嗜好に合わせて改変された後の姿であると考えられている。ローマ式典礼は9世紀から10世紀にかけて式文の体系が整い、それに合わせて膨大なグレゴリオ聖歌のレパートリーが整えられていった。中世ヨーロッパの音楽は、大部分がこのグレゴリオ聖歌を元に展開していくこととなる。 また、これらを伝えるために楽譜の記法も整備された。9世紀にはフランク人音楽家はメロディを書き留めるための記号体系を作り出し始めていた。まず(恐らくビザンツ帝国から導入された)歌詞の上に違う色のインクで点や線を記すネウマ譜と呼ばれる表記法があった。初期のネウマ譜はメロディが上がるか下がるかだけしかわからず、音程を示さなかったのであくまで補助的なものでしかなかったが、数世代後には音程を表せる数本の線を用いた楽譜が登場し始めた。最も重要な理論家はベネディクト会の修道士フクバルドゥス(英語版)(フクバルド)とグイード・ダレッツォ(アレッツォのグイード)で、特にグイードは間隔を置いた平行線を用いて音程を表す記譜法を生み出し、同時代人に深い感銘を与えた。 ===金属工芸=== フランク族を含むゲルマン人たちはローマ帝国時代から金属工芸を得意とし、高い技術水準を誇っていた。フランクの美術はこうしたゲルマン古来の美術と、ローマの影響の中で形成されていった。フランク族にまつわる美術工芸品の中で確実に年代(482年以前)がわかる最古の物は1653年に現在のベルギー領内にあるトゥルネで発見されたクロヴィス1世の父キルデリク1世の墓の副葬品であり、既にフランク族の美術がゲルマン美術とローマの双方から影響を受けていることを示している。この副葬品のうち、当時のフランク族の芸術動向を示す代表作と言えるのが、キルデリク1世の儀式用短剣の装飾金具であり、クロワゾネと呼ばれる象嵌細工で飾られ、当時の高い技術を示している。また、サン=ドニ大聖堂の敷地で発見されたクロタール1世王妃アルネグンダ(英語版)(アレグンデ)の墓でもベルトの飾り金具、ピン、円形ブローチなどの金工品が発見されている。これらの作品はメロヴィング朝初期の美術様式の発展を知る上で、制作年代が確かな基準作として重要視されている。 キリスト教の拡大と普及はこうした金属工芸にも影響を及ぼした。アレマンネンで発見された7世紀後半の裕福な女性の墓で発見されたフィブラは、クロワゾネ技法で金メッキされた銀で作成されており、その銘にはキリスト教のインスピレーションが見られる。キリスト教の礼拝は多数の典礼用具の制作を要求した。そのための技術と霊感の源は世俗的な物品にも影響を与えずにはおかなかった。王の納戸役(宝物管理人)であり金銀細工師であった聖エリギウス(英語版)は、サン=ドニ修道院のための十字架の他、メロヴィング家の王のための玉座や奢侈品を作っていた。 ==史料== 『フランク史』(歴史十書、歴史十巻とも): Libri Historiarum Xトゥール司教グレゴリウスによって書かれた、天地創造から591年までの時期を取り扱った歴史書。日本語では『フランク史』『歴史十巻』『歴史十書』などと呼ばれる。初期フランク王国史の基本史料であり、本書が無ければメロヴィング朝史についての情報はほとんど無いと言って良い。 『歴史十巻(フランク史)*46*』 兼岩正夫訳、東海大学出版会、1975年6月。ISBN 978‐4‐486‐00297‐0。 『歴史十巻(フランク史)*47*』 兼岩正夫訳、東海大学出版会、1977年6月。ISBN 978‐4‐486‐00387‐8。 『フランク史 ‐ 一〇巻の歴史』 杉本正俊訳、新評論 、2007年9月。ISBN 978‐4‐7948‐0745‐8。『歴史十巻(フランク史)*48*』 兼岩正夫訳、東海大学出版会、1975年6月。ISBN 978‐4‐486‐00297‐0。『歴史十巻(フランク史)*49*』 兼岩正夫訳、東海大学出版会、1977年6月。ISBN 978‐4‐486‐00387‐8。『フランク史 ‐ 一〇巻の歴史』 杉本正俊訳、新評論 、2007年9月。ISBN 978‐4‐7948‐0745‐8。『フレデガリウス年代記』: (英)Chronicle of Fredegar天地創造から7世紀半ば、バージョンによっては768年までの出来事を扱った年代記。後世の挿入を含む。グレゴリウスの作品と重複する時代はほとんどグレゴリウスの圧縮版であるが、591年以降のメロヴィング朝についてのほとんど唯一の政治史の情報源である。16世紀に著者名がフレデガリウスであるとされたが、実際の著者は不明であり写本によって構成も異なる。 J. M. Wallace‐Hadrill (1981‐4). Fourth Book of the Chronicle of Fredegar With Its Continuations. Praeger Pub Text. ISBN 978‐0‐31322741‐7. J. M. Wallace‐Hadrill (1981‐4). Fourth Book of the Chronicle of Fredegar With Its Continuations. Praeger Pub Text. ISBN 978‐0‐31322741‐7. 『フランク史書(英語版)』: Liber Historiae Francorumフランク族の起源から727年までを取り扱った歴史書。著者不明。メロヴィング朝についての歴史史料は『歴史十巻(フランク史)』『フレデガリウス年代記』そして本書の3つでほぼ全てである。グレゴリウスの作品との重複時代はやはりその圧縮版であるが、7世紀後半から8世紀初頭にかけての記述は著者が直接見聞きした同時代史であり貴重な情報を含む。 橋本龍幸 (2012‐09). “フランク史書 Liber Historiae Francorum (訳注)”. 人間文化 : 愛知学院大学人間文化研究所紀要 (東洋英和女学院大学) 27. NAID 40019440946. http://kiyou.lib.agu.ac.jp/pdf/kiyou_02F/02__27F/02__27_132.pdf 2018年3月閲覧。.  (一部のみ) Bernard S. Bachrach (1973‐6). Liber Historiae Francorum. Coronado Pr. ISBN 978‐0‐87291058‐4. 橋本龍幸 (2012‐09). “フランク史書 Liber Historiae Francorum (訳注)”. 人間文化 : 愛知学院大学人間文化研究所紀要 (東洋英和女学院大学) 27. NAID 40019440946. http://kiyou.lib.agu.ac.jp/pdf/kiyou_02F/02__27F/02__27_132.pdf 2018年3月閲覧。.  (一部のみ)Bernard S. Bachrach (1973‐6). Liber Historiae Francorum. Coronado Pr. ISBN 978‐0‐87291058‐4. 『カロルス大帝業績録集成』: Curpus Gesta Karoli(Vita Karoli Magni、Gesta Karoli Magni Imperatoris、およびAnnales Regni Francorum)カール1世に仕えたマイン川地方出身の貴族、アインハルトが記したカール1世の伝記。著者がアーヘンの宮廷に出入りしていたことや、その教養の確かさなどからカール1世時代についての重要な記録となっている。アインハルトが記した『カロルス大帝伝』(Vita Karoli Magni)と、吃音者ノトケルス著とされる著者不明の『カロルス大帝業績録』(Gesta Karoli Magni Imperatoris)は12世紀以降の写本では二書一組でしばしば筆写された。更に重要な写本ではアインハルト補筆とされる『フランキア王国年代誌』(Annales Regni Francorum)と三書一組にされ、『カロルス大帝業績録集成』(Curpus Gesta Karoli)として伝わっている。 『カロルス大帝伝』 國原吉之助訳、筑摩書房、1988年3月。ISBN 978‐4‐480‐83591‐8。『カロルス大帝伝』 國原吉之助訳、筑摩書房、1988年3月。ISBN 978‐4‐480‐83591‐8。『ニタルトの歴史四巻』: Historiarum libri IIIIルートヴィヒ1世(ルイ1世、敬虔帝)の後の兄弟たちによる争いとその後のヴェルダン条約によるフランク王国分割について記録した同時代史。著者ニタルト(ニタール)はこの争いの中でシャルル2世(禿頭王)に組し、重要な臣下の一人として働いた。彼はシャルル2世から紛争についての確実な記録を依頼され、その結果が『ニタルトの歴史四巻』として残された。ニタルトが戦死したことで中途で終わっているが、中世ヨーロッパ史の重要史料である。 『カロリング帝国の統一と分割 ‐ ニタルトの歴史四巻 ‐』 岩村清太訳、知泉書館、2016年7月。ISBN 978‐4‐86285‐235‐9。『カロリング帝国の統一と分割 ‐ ニタルトの歴史四巻 ‐』 岩村清太訳、知泉書館、2016年7月。ISBN 978‐4‐86285‐235‐9。『ザクセン人の事績』: Res gestae saxonicaeコルヴァイの修道士ヴィドゥキントによって書かれたオットー朝前期のドイツ=東フランク王国の基本史料の1つ。ヴィドゥキントは「我々の君侯たちの事績」「私の身分と私の民族」の歴史を叙述することを企図した。10世紀後半当時における歴史の「記憶」をよく伝える史料とみなされる。 『ザクセン人の事績』 三佐川亮宏訳、知泉書館、2017年4月。ISBN 978‐4‐86285‐256‐4。『ザクセン人の事績』 三佐川亮宏訳、知泉書館、2017年4月。ISBN 978‐4‐86285‐256‐4。『ランゴバルド史』: Historia Langobardorumランゴバルド人貴族・聖職者であったパウルス・ディアコヌスがランゴバルド史についてまとめた歴史書。780年代後半から790年代前半にかけて書かれたとみられる。フランク王国との交渉についての情報を含む。 『ランゴバルドの歴史』 日向太郎訳、知泉書館、2016年12月。ISBN 978‐4‐86285‐245‐8。『ランゴバルドの歴史』 日向太郎訳、知泉書館、2016年12月。ISBN 978‐4‐86285‐245‐8。 =チンドン屋= チンドン屋(チンドンや)は、チンドン太鼓と呼ばれる楽器を鳴らすなどして人目を集め、その地域の商品や店舗などの宣伝を行う日本の請負広告業である。 披露目屋・広目屋(ひろめや)・東西屋(とうざいや)と呼ぶ地域もある。 ==概要== 締太鼓と鉦(当たり鉦)を組み合わせたチンドン太鼓などの演奏、および諸芸や奇抜な衣装・仮装によって街を廻りながら、依頼者の指定した地域・店舗へ人を呼び込む。 また集客した上で宣伝の口上やビラまきなどで商品の購入を促す。 街を廻りながら行う宣伝を「街廻り」、移動せず店頭で行う宣伝を「居つき」という。 3人から5人ほどの編成が一般的で、チンドン太鼓、楽士、ゴロス(大太鼓)を中心に、旗持、ビラまきらが加わる。 チンドン太鼓は、事業主である親方が担当することが多く、口上も兼任する。 楽士は、クラリネット、サックスなどの管楽器で旋律を演奏する。 特定の親方と雇用関係を結ばず、フリーで活動する楽士も多い。 旗持は、幟を持ち、先頭を歩く役割で、「ビラまき」は、チラシ、ティッシュなどを配布し、「背負いビラ」と呼ばれる店名やサービス内容が書かれたポスターのようなものを各人が背中に背負い、あるいはチンドン太鼓の前に取りつける。 関西では幟ではなくプラカードを持つことが多く、ビラまきを「チラシ配り」と呼ぶ。 店舗の近隣を巡る「街廻り」の仕事を基本とするが、大規模店舗や催し物の会場内を廻ることや、店の前やステージなどでの演奏を依頼されることもある。 仕事の始めと終わりや、雨天時などに、留まって演奏することを「居付き」と言う。 宣伝活動を営利で行う点で、路上において芸を演じる大道芸人とは明確に区別される。宣伝の仕事を元請けで行う、つまりクライアントから直接仕事を請け負う業者を親方といい、屋号をもつ。一方、元請けで仕事を行わない業者はフリーと呼ばれる。 日本国外からは、日本におけるストリートミュージックの例として取り上げられる場合もある。 積極的に宣伝行為をすること、派手な衣装で人目を引く行為・人物への比喩として「チンドン屋」が用いられることも多い。 ==語義・語源== 当たり鉦と太鼓を組み合わせて一人で歩きながら演奏出来るようにした一種のドラムセットをチンドンまたはチンドン太鼓と呼び、チンドン太鼓を用いて路上で宣伝する職業を「チンドン屋」または単に「チンドン」と称する。 「チンドン」は、鉦の「チン」という音と胴太鼓の「ドン」という音を組み合わせた擬音から成立したと考えられるが、十分な用例が確認されておらず、語の成立過程は明らかではない。 「チンドン屋」という言葉は、1878年(明治11年)12月11日の『郵便報知新聞』見出し「チンドン屋よろしく大道飴売」や、1889年(明治22年)10月6日の『東京日日新聞』見出し「条約改正論戦、チンドン屋総出の形」などに見られるように、明治初期から存在したが、用例が少なく、その語が意味する対象は明らかではない。 現代(21世紀)のチンドン屋に繋がるものとして「チンドン屋」の呼称が普及しはじめたのは、大正末から昭和初期と考えられ、確認できる用例は、1930年(昭和5年)頃からある。 当初は、単独で華美な衣装を身につけ、口上を行うことに対して「チンドン屋」の呼称が用いられており、必ずしも三味線、管楽器の演奏を伴わない形態であったと推察される 。 チンドン屋を指して、披露目屋・広目屋という表現が用いられることがある。 披露目屋は、開店披露の仕事をすることが多かったため、あるいは芝居の口上に由来するとされる。 広目屋は、広告宣伝、装飾、興行などを手掛けた秋田柳吉が起こした会社の名で、依頼に応じて楽隊を派遣したことで楽隊広告の代名詞として用いられるようになった。 関西では東西屋という表現が用いられることがある。 東西屋は、大阪の勇亀(いさみかめ)が芝居の口上である「東西、東西(とざい、とうざい)」を流用して寄席の宣伝請負を行ったことから広まった。 現代(21世紀)、これらの語を使い分ける場合は、広目屋は楽隊の存在を重視し、東西屋は口上を主体とする意味合いを含む。 この呼称は明治期から用いられ、昭和初期にチンドン屋へと変化したと思われるが、歴史的経緯については、次節を参照のこと。 ==歴史== チンドン屋の起源については、諸説あるが 、 本節では、街頭宣伝業である東西屋・広目屋の始まりから記述する。 ===チンドン屋前史=== ====江戸末期から明治初期:ルーツとしての飴売と大道芸==== 楽器を用いたり口上を述べたりして物を売り歩く職業としては、江戸中期より「飴売」という存在があり、 文久年間には日本橋の薬店の店主が緋ビロードの巾着を下げ、赤い頭巾をかぶって市中を歩き広告をしたという記録があるが 、 これは自身の売り物を宣伝するためであり、広告請負であるチンドン屋とは異なる。 また、芝居小屋では鳴物の囃子が客寄せのために使われていた。 本項では、東西屋の祖として「飴勝」という飴売と、大道芸の「紅かん」という江戸期の人物から始める。 飴勝は、大坂・千日前の法善寺を拠点として、弘化期に活動していた飴売で、その口上の見事さから寄席の宣伝を請け負うようになった。 短い法被に大きな笠脚袢にわらじという出立で、竹製の鳴物、拍子木を用い、「今日は松屋町の何々亭…」と呼び込みを行ったとされる。 飴勝の仕事を引き継いだ勇亀(いさみかめ)が、明治10年代に芝居の口上である「東西、東西(とざい、とうざい)」を用いて寄席の宣伝を行っていたことから、1880 ‐ 81年頃に東西屋と呼ばれるようになった。 やがて、東西屋は街頭宣伝業の一般名詞へと転じた。 勇亀のほかには、豆友という東西屋が知られていた。 豆友は1891年に他界、弟が跡を継いで二代目を名乗り、初代の長男と次女を伴って活動を始めるが、1893年に感電死した。 紅かんは、安政期から明治初期にかけて活動していた大道芸人で、仁輪加の百眼を付け、大黒傘を背負い、「七輪の金網を打鉦に小太鼓を腰に柳のどう(胴)に竹の棹に天神はお玉という三味線」で演奏し、下町で人気を得ていたとされる。 大正期にも通称、紅屋の勘ちゃんという男がいて、両手に三味線、腰に小さな太鼓をくくりつけて、バチで三味線と太鼓を一緒に鳴らして街を歩いたことがヒントとなってチンドンが作られたという。 「紅かん」と「紅勘」の繋がりは明らかではないが、演奏芸の様態としては、チンドンの原型と言えるだろう。 ===東西屋と広目屋=== 明治20年代になると、大阪では、丹波屋九里丸(息子が漫談家で売った花月亭九里丸)、さつまやいも助が中心的な存在となり、 東京では秋田柳吉の広目屋が楽隊広告を始める。1874年に木村屋が売り出したアンパンは文明開化の象徴的食べ物として明治天皇のお墨付きを得、初めて宣伝用にチンドン屋を用いたとされている。 丹波屋九里丸は、1887年頃から豆や栗を売りはじめ、売り声が評判となり、東西屋に転じた。九里丸は東西屋開業前から囃子方を加え、開業後は自身が拍子木、相棒に太鼓を叩かせて街を歩いた。 柏屋開店の仕事の際に、松に羽衣をあしらった長襦袢を纏い、忠臣蔵になぞらえた音曲入りの口上が評判となり、人気を博した。 他方、広目屋は、大阪出身の秋田柳吉が上京した1888年に八重洲で起業した会社の屋号で、仮名垣魯文の命名による。 広目屋は広告代理店、装飾宣伝業の先駆けとなるほか、新聞を発行したり、活動写真や川上音二郎の芝居など興行全般に手を広げた。 その一環として、宣伝のための楽隊を組織したため、楽隊を用いた路上広告を一般に広目屋と呼ぶようになった。 西洋楽器による街頭演奏は、軍楽隊による行事・式典での演奏の他、1887年前後から民間にも興り、明治20年に結成された東京市中音楽隊が最初の民間吹奏楽団とされるが、1885年のチェリネ曲馬団の来日など外国の楽隊の宣伝演奏、1886年に喇叭を用いた用品店の広告などの例がある。 楽隊は軍歌の流行や出征軍人を送る機会の増大のため日清戦争を境に流行し、以後、活動写真やサーカスの巡業、煙草や歯磨きなどの大規模な楽隊広告が行われ、地方にも楽隊広告は広まっていった。1911年にライオン歯磨を宣伝した小林商店は、100本以上の幟を掲げて東海・北陸地方へ広告隊を送り出している。 楽隊広告は、1889年、広目屋がキリンビールの宣伝を請け負い、大阪・中之島のホテル自由亭の音楽隊を派遣したのをきっかけに大阪でも取り入れられるようになる。 1890年には九里丸も「滑稽鳴り物入り路傍広告業」と称して古い着物を軍服風に仕立て直し、喇叭、太鼓、鉦などを用いて宣伝を行うようになった。 九里丸は、日清戦争では「大日本大勝栗」と幟を立てて栗型のカンパンを売り、売上の一部を軍資金として寄付、 1899年には半井桃水の新聞小説『根上がり松』を片岡我当が芝居化する際に、無償で宣伝するかわりに譲り受けた羽織を纏って10人の囃子を引き連れて仁輪加を演じるなどして評判を呼んだ。 広目屋の秋田の誘いに応じて上京し、広告行列の中で忠臣蔵を披露したこともある。 また一方で、広目屋から独立した福徳組の高坂金次郎は、大阪で人気があった浪花囃子を取り入れ、東囃子を編成した。 九里丸が鳴物・楽隊の導入を進める一方で、先達となる勇亀は太鼓や楽隊には否定的であり、また九里丸と並び称されたさつま屋いも助も、三味線、太鼓を鳴らすにとどまり、口上を重んじる東西屋の流れも存在した。 ===チンドン屋成立以後=== ====大正期の低迷と戦前・昭和期の繁栄==== 株の暴落、広告取締法の施行などで、大規模な広告楽隊・広告行列は明治40年代に入って低迷し、かわって新聞・雑誌などの広告が盛んとなり、大正期には飛行機を使った宣伝やネオンサインも登場した。この事から、明治末から大正期にかけてを「暗黒期」とする意見もある。 代表的な娯楽となった活動写真では、映画館が楽士を抱えてオーケストラや和洋合奏団を結成し、呼び込みのための楽隊を雇った。 活動写真や芝居、サーカスの巡業では、楽隊が先頭を切って登場し、また宣伝のために街を廻った。 大正初め頃に囃子隊を結成して、寄席などで演奏しつつ、宣伝業を手掛ける者が現れ、 1917年には「一人で太鼓と鐘を叩いて背に広告の旗を立てて囃し立てて居る広告や」があったという記録がある。 ひとりで複数の打楽器を演奏するためにチンドン太鼓が考案されたのは大正中期だとされる。 遅くとも1925年には鉦・太鼓・銅鑼を組み合わせ、花柄の衣装を纏った「東西屋」が存在したことが写真によって明らかとなっている。 チンドン太鼓は、1937年頃に大阪にも登場した。 大正期のチンドン屋は口上を主体とし、寄席の芸人からの流入、また、その周辺に位置した三味線弾きによって形成され、 関東大震災後には物売業からの流入があったと推察される。 この時期には、旗持が独特の踊りをしながら歩くこともあった。 やや遅れて、衰退に向かったジンタの管楽器奏者を加えた形態が大正末頃から増え始め、トーキーの登場を機に失職した映画館楽士が流入し、管楽器入り編成が定着する。 この他、紙芝居や村芝居などからの流入があり 、 前者はゴロス、後者は鬘などの導入に繋がったと思われる。 こうした転身者、とりわけ役者や芸人からの転身者はチンドン屋として生計を立てることに執着せず、他に条件のよい職業があれば廃業しても構わないと考えており、芸への執着が希薄であった。したがってこの時期のチンドン屋がみせたパフォーマンスは素人芸の水準にとどまる場合も多かったとされる。 文明開化の時代においては、東京の商店主が西洋音楽と軍楽隊退役者を結び付け、小さなブラスバンド「市中音楽隊」を作り(「楽隊」、「ジンタ」とも呼ばれた)、運動会など祭事の宣伝を行いはじめた。当時は芸術としての音楽に重きを置いたものであったが、これに目を付けた秋田柳吉が、本格的な宣伝業者に高めていった。 戦前の全盛期は1933年から38年頃とされる。 1936年、鳩山一郎(戦後、内閣総理大臣)とテキ屋出身の市議会議員倉持忠助が選挙における票の取りまとめに利用しようとチンドン屋の組合(帝都音楽囃子広告業組合)を作ったが、その会員数は3000人に及んだという。 1941年になると、チンドン屋および各種大道芸は禁止された。 ===戦後復興期の流行と高度経済成長期の衰退=== 戦後の復興の中で、チンドン屋は勢いを取り戻した。 大規模な広告展開が困難な状況であった中で、少人数・小規模で小回りが利くチンドン屋の営業形態が時代に合っていたこと、 陽気な音楽や派手な衣装が求められたことなどが理由として挙げられる。 特に関東ではパチンコ店からの仕事が多かった。 1950年にはチンドン屋人口は2500人に及んだとされる。 昭和20年代後半には、もともと忙しい時期が異なるために人的交流があったサーカス関係者や、 映画におされて芝居小屋が縮小したため、旅役者もチンドン界に流入した。 チンドンのコンクールも開催されるようになった。 東京の新橋で1950年に行われたのが最初で、昭和30年代には、東京都内、前橋、沼津、姫路、伊勢、函館、彦根など、全国各地でチンドンコンクールが開催された。 多くのコンクールは継続しなかったが、1955年に始まった富山での「全国チンドンコンクール(1965年に全日本チンドンコンクールに改称)」は、現在(2016年)まで継続して開催されている(2011年は東日本大震災のため中止)。このコンクールは、全体を統括する組織がない中で、業界を「緩やかにつなぐ」役割を果たしている。 前年に富山産業大博覧会を終え、一時的に消費が冷え込んだ地元商店街の活性化と、観光客を招くため富山の宣伝を企図して、富山市と富山商工会議所が主催の「桜まつり」の催しとして始まり、42のチンドン屋が参加、平日昼間に行われたパレードには8万人が集まった。 「全日本チンドンコンクール」の記録では、1955年の第1回に42団体が参加、以後団体数は50前後を推移するが1972年から下降を始め、1981年には18団体まで減少する。 近年より素人チンドンコンクールも始まり、そこからプロのチンドンマンに転進するものもみられる。 現在プロ部門では30組前後の団体が出場している。 1960年半ば頃からは、テレビの普及などもあり、チンドン屋は「古くさい」ものとなってしまう。 さらに昭和30年代頃からスピーカーを通した宣伝広告が音響上の脅威となり、加えて自動車の交通量が増加し商店街や横丁をも通行するようになったことで、都市においてチンドン屋が活動できる空間は狭まった。 昭和40年頃から衰退を見せはじめ、1971年の石油ショック以後急激に数を減らし、数百人程度にまで落ち込んだが、 仕事自体は減っていなかったという証言も多い。 ===大阪のちんどん通信社と『東京チンドン』=== 1989年の昭和天皇崩御による自粛ムードは、ほぼ1年間チンドン屋の営業を不可能にさせたという。 しかし、1980年代後半から、「古くさいもの」「懐かしいもの」ではないチンドン屋へのアプローチが始まった。 ちんどん通信社は、ニューオリンズジャズ経験者である林幸治郎が立命館大学卒業後、大阪市西成区の老舗・青空総合宣伝社(現・青空宣伝社)で3年間の修業を経て、1984年に同僚の赤江真理子と開業したチンドン屋。1995年には法人化して有限会社東西屋となったが、商号(?)としての「ちんどん通信社」はそのまま残っている。林はチンドン屋としての営業のみならず、チンドン史研究やチンドン稼業をしたためた著書を出版するなど精力的に活動している。 東京では、じゃがたらなどで活動していた篠田昌已、A‐musikやルナパーク・アンサンブルで活動していた大熊ワタルらが、高田宣伝社で楽士としてチンドン演奏をはじめ、記録として『東京チンドンVol.1』を録音した。篠田はコンポステラを結成し、音楽家としてチンドンで奏でられる音楽を取り入れる試みを続けるが、1992年に急逝する。大熊は、ソウル・フラワー・ユニオン(ソウル・フラワー・モノノケ・サミット)と共に震災後の神戸などでも活動し、雑誌などでもチンドンに関する記事を執筆している。また、ソウル・フラワー・モノノケ・サミットによる、チンドン・アレンジのライヴ活動やCDリリース(『アジール・チンドン』『レヴェラーズ・チンドン』『デラシネ・チンドン』)が、若年層にチンドンを広めることにもなった。 これら新世代の活動はチンドンの存在を若い世代に伝え、既存業者の高齢化と相まって、チンドン業界へ若い人材が参入する流れが生まれた。2001年に全国のチンドン屋の数は150人ほどとされる。商店の宣伝が主要な仕事とはいえ、大企業のキャンペーンや町おこしのイベント、結婚式など、賑やかな雰囲気作りのために呼ばれることも増え、特に若手とされるチンドン屋はパフォーマンスを営業案内に含めることも多い。CDを発売する例も増えてきている。 2000年に、林と東京の高田洋介はちんどん博覧会を始めた。富山のチンドン・コンクールによってチンドン屋業界の交流はあるが、組織化がなされていないことの打開を企図したもので、林らによるとその趣旨は若手が中心となって実験的なパフォーマンスを行ったり、チンドン屋の存在を世間にアピールすることにある。年に1回のペースで東京、大阪、福岡、東京と会場を移し、数年の間をおいて2007年にも東京で開催されている。 ==広告としての位置づけ== チンドン屋は路上で行われる音声広告であり、歩く野立て看板もしくはポスター・POP広告であり、広告請負業でもある。 音声広告は、売り声・かけ声および鳴物などの使用による広告の総称で、中世の行商人や大原女にさかのぼる。 江戸中期にはさまざまな工夫がこらされるようになり、文化・文政期の引札には口上が記録されることが多くなり、明和6年の引札には「トウザイトウザイ」の表現も現れる。こうした口上は、歌舞伎にも取り上げられた。 売声だけでなく、派手な衣装で歌や踊りを披露し、鉦やチャルメラで個性を出した。 飴売がその声を売り物として東西屋となり、依頼を受けて楽器演奏を行う民間吹奏楽隊と結びついてチンドン屋の母体となったと言える。広目屋の秋田と東西屋の九里丸は実際に交流があり、大規模な楽隊広告では口上役と楽隊をそれぞれに依頼し、共同作業を行った。 屋外広告は明治10年代から活発化の兆候を見せており、 東西屋、広目屋の系譜に連ならない音声広告としては、明治19年の日本橋中嶋座の正月公演「大鼓曲獅子」(おおつづみまがりじし)の錦絵に太鼓を抱えて西洋菓子の宣伝をする姿が描かれているものがあり、大正期には一人で喇叭を吹き太鼓を鳴らして宣伝をするオイチニの薬売などがあった。 明治初期の広告手段は、引札が中心で、1877年頃から新聞広告が増加する。 当初時事新聞専業の広告代理店として三世社らが起こり、1884年に複数の新聞を手掛ける代理店業に広目屋も参入した。 規模は異なるにしても、ほぼ並行して広告を請負う事業がはじまっていることになる。 明治後半の楽隊広告は大規模化し、楽士の派遣業も成立したが、昭和期に至るまで口上を主体とする宣伝業は個人での事業が中心であった。 引札や新聞広告のほか、昭和に入って野外広告板、アドバルーンやネオン管によるビルなどの広告が登場し、チンドン屋は地域密着型になっていったとされる。 古くは、九里丸が質屋の宣伝を請け負った際に大通りではなく路地を回って成功した例があり、小規模な業務形態で限定的な地域での宣伝については対費用効果が高かったことは戦後の復興の中で最盛期を迎えた理由の一つである。 類似した広告請負の形態としては、ジンタ(ヂンタ)、サンドウィッチマンがある。 ジンタは広告楽隊、特に映画やサーカスの呼び込みの楽隊を指し、大正期から隠語として存在し昭和初期から徳川夢声が漫談などで用いるようになって広まった。 徳川や堀内敬三は、5人程度の規模の楽隊を指すものとしてこの語を用い、その衰退を嘆くが、ジンタの演奏家がチンドン屋に流入し、管楽器を含むチンドン屋が普及する時期とジンタの語が広まった時期が重なるため、両者が同一視されることもあった。加太こうじによると、明治末から大正にかけてまではチンドン屋からの依頼で小編成の楽隊、つまりジンタが演奏を行うことがあった。そうした関係は楽士がサイレント映画の伴奏を行うようになって解消したが、映画がトーキーへ移行すると、職にあぶれた楽士たちが再びチンドン屋と手を組み、あるいはチンドン屋を開業するようになった。 サンドウィッチマンは、明治19年に既に現れ、戦後も週刊誌を賑わせた。 音楽や口上を伴わず特別な技能を必要としない点で異なるが、街頭宣伝ということで共通する。 ==チンドン屋の芸== ===口上=== 宣伝すべき内容を伝える役割として重視され、親方が担うことが多い。飴売ほか物売を祖とすることに加え、昭和初期には活動写真館の弁士、芝居役者なども流入したため、様々なスタイルが混じり合っている。 ===化粧と衣装=== 支度と呼ぶ。多くは白塗で、カツラを着けた和装、着帽での洋装いずれにしても華美な衣装を纏う。初期は化粧をせず、これは寄席芸人出身者がチンドンに流れてきたためと考えられる。村芝居やサーカス出身者が多くチンドン屋業界に流入したことは歴史の節でも述べたが、カツラの着用は、東京では戦前からあったが、関西では戦後に青空宣伝社がはじめた。 。 和装の場合は、歌舞伎、大衆演劇の役どころを模し、洋装の場合はピエロに扮することが多いが、アニメなどのキャラクターを取り入れたり、着ぐるみを用いることもある。チンドンコンクールなどでは、大がかりな扮装も見られ、象や戦車などを張りぼてで作った例もある。 ===寸劇=== 路上で寸劇を演じることもあり、昭和30年代頃には、10人ほどでチャンバラの立ち回りをすることもあった。この他、成人の人形を前に抱え、背負われた子供を演じつつ人形を操作する「人形振り」など、独自の芸を持つ者もいる。 ==チンドン屋の音楽== ===編成と楽器=== 編成は、チンドン太鼓、楽士を基本として、3人から5人の編成で、ゴロス(大太鼓)、旗持を伴うことも多い。 ===チンドン太鼓=== チンドン太鼓は、下座音楽で用いられていた楽器である鉦(当たり鉦)、締太鼓、大胴を組み合わせて作られ、身体に垂直となる向きで上に鉦と締太鼓、下に大胴を木枠にはめ込み、上部に傘、前部には屋号を書いた札を立てる形が一般的。 締太鼓、鉦、大胴のサイズは小さめで、とくに締太鼓はチンドン屋以外は用いないといわれるほど小さい。 ひもを肩にかけ、身体の前面にチンドン太鼓を固定する。 東京では、山の手のチンドン屋は締太鼓を大胴の下に地面に平行な向きで固定していたのに対し、下町では剣劇を行いながら歩くことが多く、締太鼓を上部に置くことになった。 昭和初期までは銅鑼を用いることもあった。 大胴と締太鼓を叩く際にはバチ、鉦を叩くには先端に鹿の角を付けた撞木を用いる。 リズムは細かく、囃子に歩調のリズムが合成されて生じたものと考えられる。 ===ゴロス(大太鼓)=== ゴロスは、フランス語の大太鼓”grosse caisse”からの転。ドラムと呼ぶチンドン屋もいる。フランス式を採用していた帝国陸軍の軍楽隊の退役者が、映画館などで楽士となり、この語が広まったと推察される。 ゴロスは、紙芝居でも話の合の手として用いられており、戦後、紙芝居からチンドン屋へ転業する際に持ち込まれたという意見がある。 チンドン屋のゴロス演奏に特徴的な点としては、左右で用いるバチの大きさが異なることが挙げられる。三つ打「ドン・ドン・ドン・(休)」、七つ打「ドン・ドン・ドン・ドン・ドン・ドン・ドン・(休)」といった単純なリズムを繰り返すことが多い。 ===楽士=== 主に旋律を担当する。メロディを崩して演奏することが多い。 楽器としては、昭和初期あるいは戦前期から戦後間もなくにかけては三味線を使うこともあったが、戦後音量の大きなゴロスが普及すると、音量が小さい上に技量を要することが難点となり、さらにマンボなど洋楽リズムの流行に伴い昭和30年代はじめまでに衰退し、 次第に管楽器がほとんどを占めるようになった。 クラリネット、サックスが用いられることが多く、トランペットあるいはコルネットも用いられたが、次第に減少している。 楽士は特定の親方に属する雇用関係を結ぶこともあったが、依頼に応じて編成の大きさを変える必要性もあり、仕事の都度依頼されたり派遣されたりする形をとることも多い。 フリーの楽士は「出方」と呼ばれる。 明治期より演奏家の派遣業が存在し、臨時の要に応じて映画館、サーカスや宣伝を請け負い、見習いは宣伝の町廻りをした。サーカスとチンドンの間を行き来する楽士もいた。 昭和初期にはトーキーの登場によって映画館を追われた演奏家、戦後はサーカスから転身してきた演奏家が、楽士としてチンドン業界に流入したと言われている。 1990年代以降は、ジャズやロックのミュージシャンが楽士となることも多い。 ===レパートリー=== レパートリーの元は、下座音楽、軍歌・行進曲、映画館などの和洋合奏、歌謡曲などがある。 客を寄せるための演奏であるから、後になってチンドン屋の演奏以外では耳にする機会が少なくなった曲もあるが、その時代時代に広く知られた曲が取り込まれる。 無声映画や寄席太鼓でも親しまれた「四丁目」「タケス(竹に雀)」 など歌舞伎下座音楽から借用したもの、「軍艦マーチ」「天然の美」(美しき天然)など国産の軍歌・行進曲などから採られたものは定番曲として演奏され続けている 。 これらも取り入れられた時代には耳馴染みのある音楽であった。 戦後になると、いわゆる歌謡曲が演奏されるようになる 。 下座音楽は、歌舞伎や寄席の舞台で、御簾や衝立の陰で演奏されるもので、季節や場所の雰囲気を出したり、効果音を発したり、劇中の馬子唄や獅子舞などの伴奏をする。 長唄を中心とするが、清元、義太夫のほか、端唄や新内、神楽、念仏など必要なものは取り入れ、また奇抜な試みも行われていた。 当初、寄席の囃子は上方にのみ存在したが、大正期に東京の睦会が取り入れ、定着した。 また、大衆演劇にも採用された。 「四丁目」「竹に雀(タケス)」「米洗い」などは、下座音楽からチンドン屋のレパートリーとなった。 下座音楽の祭礼囃子は、細いバチで叩くことで軽快さを出し、三味線と合わせる際にリズムが強調された。 演奏の初めに鳴らされる「打ち出し」は、出囃子から借用されたもの。 軍歌は、日清戦争時に流行し、民間吹奏楽団の主要なレパートリーとなった。 軍楽隊の田中穂積作曲による「天然の美」は、サーカスの楽隊のレパートリーとして知られ、チンドン屋のレパートリーともなっている。 海軍軍楽隊の瀬戸口藤吉が作曲した行進曲「軍艦」は、「軍艦マーチ」として景気付けのために用いられ、特に戦後パチンコ店の宣伝に用いられ一般化した。 このほか、「ドンドレミ」など、由来が不明の行進曲もチンドン屋のレパートリーとして残っている。 「天然の美」や「軍艦マーチ」は、映画館の呼び込みに用いられたが、館内では伴奏のための楽団があった。 大正末から流行する時代劇では、ピアノやサックスなどの洋楽器に三味線や囃子方が加わる和洋合奏という編成が主流になった。 無声映画時代には下座音楽が流用されたが、トーキー以降は、映画会社とレコード会社が提携して新曲を作るようになる。 チャンバラの流行もあり、三味線音楽の延長にある流行歌が多く生まれ、和洋の楽器が混在する編成で伴奏された。 「名月赤城山」や「無法松の一生」「野崎小唄」などは、和洋合奏による映画の伴奏からチンドン屋のレパートリーとなったと思われる。 歌謡曲は、時代時代に応じて選曲され、曲としての知名度や曲調のほか、テンポ、旋律などによって適不適があると考えられる。 ==主な文献、資料など== ===「チンドン屋」が現れる文学作品=== チンドン屋についての記録が少ないことから、文学作品に現れる楽隊、東西屋、広目屋、チンドン屋の描写も資料として扱われる。 代表的なものしては、創作作品として、永井荷風「燈火の巷」(1903)、室生犀星「チンドン世界」(1934)、江戸川乱歩「陰獣」(1928)、武田麟太郎「ひろめ屋の道」(1935)、幸田文「ちんどんや」(1954)、梅崎春生「幻化」(1965)、黒岩重吾「朝のない夜」(発表年不明)、平岩弓枝「チンドン屋の娘」(1982)、奈良裕明『チン・ドン・ジャン』(1990)、エッセイとして田中小実昌「あのこはチンドン屋の娘だった」(1979)、渋沢龍彦「チンドン屋のこと」(1981)などがある。 この他、林芙美子「ちんどんやのおじさん」など、子供向けの作品も多い。 軍国美談にも「チンドン屋」が登場する作品がある。 なお、林芙美子の作品を多数映画化したことでも知られる映画監督の成瀬巳喜男は、自身の作品で何度もチンドン屋を登場させた。 物語への介入はほとんどなく、その多くはBGMとしての扱いも兼ねているが、成瀬自身が強いこだわりを持って登場させていたという。 ===チンドン屋の研究=== チンドン屋についての考察は、紙芝居出身で『思想の科学』に参画した加太こうじが1980年にまとめた『下町の民俗学』『東京の原像』が早く、以後チンドン屋のイメージを形成したと言える。 加太は、紙芝居屋時代の体験を基にチンドン屋の様態を記述した。 次いで、ルポライターの朝倉喬司が1983年に『ミュージック・マガジン』の連載「日本の芸能一〇〇年」でチンドン屋を取り上げる。 朝倉は、チンドンを大道芸の流れとして捉え、テキ屋との関わりなども意識しながら、チンドン屋の親方・楽士に取材をした。 広告プランナー出身の堀江誠二による『チンドン屋始末記』は、新書ながら飴勝から戦後までのチンドン屋の歴史を概観した最初の本である。 林幸次郎『ぼくたちのちんどん屋日記』『ちんどん屋です。』は、チンドン屋稼業に飛び込んだ体験を記し、またチンドン史や現代におけるチンドン屋の役割などについて考察を続けている。 音楽学者の細川周平は、西洋音楽の輸入と土着化という音楽的な視点でチンドン屋を捉える試みを続けている。 音楽家の大熊亘(ワタル)は、チンドン楽士としての活動のなかで得た情報をまとめ、執筆も行っている。 =利根川= 利根川(とねがわ)は、大水上山を水源として関東地方を北から東へ流れ、太平洋に注ぐ河川。河川法に基づく政令により1965年(昭和40年)に指定された一級水系である利根川水系の本流である一級河川。筑後川(筑紫次郎)・吉野川(四国三郎)とともに日本三大暴れ川のひとつと言われ、「坂東太郎(ばんどうたろう)」の異名を持つ。河川の規模としては日本最大級で、東京都を始めとする首都圏の水源として日本国内の経済活動上で重要な役割を果たしている、日本を代表する河川の一つである。日本三大河川。 ==地理== 群馬県利根郡みなかみ町にある三国山脈の一つ、大水上山(標高1,840m)にその源を発する。前橋市・高崎市付近まではおおむね南へと流れ、伊勢崎市・本庄市付近で烏川に合流後は、東に流路の向きを変えて群馬県・埼玉県境を流れる。江戸川を分流させた後はおおむね茨城県と千葉県の県境を流れ、茨城県神栖市と千葉県銚子市の境において太平洋(鹿島灘)へと注ぐ。江戸時代以前は大落(おおおとし)古利根川が本流の下流路で東京湾に注いだが、度重なる河川改修によって現在の流路となっている(後述)。流路延長は約322kmで信濃川に次いで日本第2位、流域面積は約1万6840kmで日本第1位であり、日本屈指の大河川といってよい。流域は神奈川県を除く関東地方一都五県のほか、烏川流域の一部が長野県佐久市にも架かっている。 利根川における上流・中流・下流の区分については、おおむね下記の区間に分けられる。 上流:水源の大水上山から群馬県伊勢崎市八斗島(やったじま)まで中流:伊勢崎市八斗島から千葉県野田市関宿の江戸川分流点まで下流:江戸川分流点から河口まで(流路を東へ変える)利根川の水源は大水上山である、という詳細が明らかとなったのは1954年(昭和29年)に群馬県山岳連盟所属の「奥利根水源調査登山隊」30名が行った、水源までの遡行調査による。水源に関する史料としては室町時代に著された源義経一代記である『義経記』が初出で、同書では現在のみなかみ町藤原付近を水源と記している。大水上山の名称が初出したのは、それより後の1640年代に成立した『正保国絵図』においてである。しかし、利根川の源流については江戸時代後期に入ると天保七年(1835年)に成立した『江戸名所図会』や安政五年(1858年)に成立した『利根川図志』において異説が出されるなど、長らく不明となっていた。明治以降本格的な調査が開始され、1894年(明治27年)と1926年(大正15年/昭和元年)と二度の探検を経て1954年に水源が確定する。さらに1975年(昭和50年)には群馬県による利根川源流域の総合学術調査が実施され、より詳細な実態が解明された。 利根川の出発点は大水上山北東斜面、標高1,800m付近にある三角形の雪渓末端である。源流部は険しい峡谷を形成し、大小の沢を集めた後奥利根湖へと注ぎ込む。矢木沢、須田貝、藤原ダム通過後は南西に流路を変え、水上温泉付近で水上峡・諏訪峡を形成しながら南へ流れる。みなかみ町月夜野で赤谷川と、沼田市で片品川と合流した辺りでは沼田盆地を形成、両岸では河岸段丘が発達している。沼田市から渋川市境に掛けては綾戸渓谷と呼ばれる渓谷を形成して蛇行、渋川市内で吾妻(あがつま)川を併せると次第に川幅を広げ、前橋市街を縦貫した後、前橋市と高崎市の市境を形成する。群馬県西毛地域を流域とする烏川を合流すると流路を東へ向け、伊勢崎市八斗島へ至る。 中流域に入ると利根川の川幅は急激に広くなり、群馬県佐波郡玉村町付近で約500m、埼玉県熊谷市妻沼付近では約900mにも及ぶ。途中の利根大堰で河水は武蔵水路などによって荒川へ分流する。そのあと間もなく渡良瀬川を合流して茨城県猿島郡五霞町内を貫流した後、茨城・千葉県境を流れる。下流域においては野田市関宿で江戸川を、千葉県柏市で利根運河をそれぞれ分流するが対岸の茨城県守谷市で鬼怒川、取手市と北相馬郡利根町の境で小貝川が合流する。香取市付近では一旦千葉県内を流れるがその後利根川河口堰付近で再度県境を形成し、常陸利根川と黒部川を左右より併せる。ここからは平均して900mから1kmの広大な川幅を形成し、神栖市・銚子市境において太平洋へと注ぐ。下流域には日本第二位の面積を有する霞ヶ浦を始め北浦、印旛沼、牛久沼、手賀沼など多くの天然湖沼が含まれる。 ==自然== 利根川流域の自然は、上流・中流・下流において様相が大きく異なることが多い。本節では利根川流域における自然環境について詳述する。ただし水質については別掲して後述する。 ===気候・水文=== 利根川流域の気候は関東平野が東日本気候区に属しているため、おおむね温暖湿潤の気候である。しかし流域面積が広大なこともあって上流・中流・下流が一律に温暖湿潤という訳ではなく、季節により相違が見られる。 降水量は年平均で 1,300mm と、日本の年平均降水量 1,700 mm に比較すると少ない。 上流部は三国山脈などの高山地帯があり、冬季は雪が多く寒さが厳しい。1955年(昭和30年)から2002年(平成14年)の間における平均累積積雪量は大水上山源流部で16m、矢木沢ダム付近で10 ‐ 14m、みなかみ町付近や片品川上流部などでは2 ‐ 10mとなっており、最上流部は関東地方でも屈指の豪雪地帯であるが少雨地帯でもある。しかしこの積雪が春季には融雪して利根川水系8ダムに注ぎ、首都圏の重要な水源となる。中流部については夏季は太平洋高気圧の影響で晴天が多いがその分暑さも厳しい。2007年(平成19年)8月16日に熊谷市で記録した40.9℃は、同日記録した岐阜県多治見市ともに日本最高気温記録となった。また群馬県や栃木県では雷雨が多くなるのも特徴である。一方冬季には北西の乾燥した季節風が強く吹き、群馬ではこれを「上州のからっ風」・「赤城おろし」・「榛名おろし」とも呼ぶ。下流部においては黒潮の影響もあり温暖であり中流部のような猛暑も少ないが、冬季には曇りの日が比較的多い。降水量については中・下流部は夏季や秋の台風シーズンにその極期を迎える。 ただし利根川の年平均降水量は観測が開始された1900年(明治33年)以降一貫して減少傾向が続いており、平成に入ると多雨の年と少雨の年の降水量の差が顕著になっている。 利根川の年間流出量は約91.5億t、年平均の流量は埼玉県久喜市栗橋の観測地点で毎秒290.43mで、いずれも日本第5位である。 ===地形・地質=== 利根川流域の地質についてであるが、上流部では火山活動などによる地質形成が主体で、中・下流部の平野部については沖積平野が主体となっている。利根川最上流部の奥利根周辺は古第三紀の花崗岩類が多く占め、比較的堅固な地質となっている。それ以外の山地については主に新第三紀の堆積岩が占め、関東山地、八溝山地、足尾山地は中生代から古生代に掛けて形成されたチャートや砂岩、粘板岩などの堆積岩が主体となっている。烏川流域、特に神流(かんな)川一帯は三波川(さんばがわ)変成帯と呼ばれる地質であり、神流川の三波石峡や支流の三波川では三波石と呼ばれる緑色の結晶片岩が多く見られる。群馬県、栃木県を流れる支流の上流部の多くは多くの火山が存在し、これらの噴火活動による火山砕屑物層や風化した花崗岩、安山岩、凝灰岩などが地質の多くを占めている。このことから地すべりや土石流に伴う被害も多い(後述)。 中・下流部に広がる丘陵地帯や洪積台地は第四紀に形成され、古東京湾により堆積した砂や泥が主体の固結度の低い下総層群と呼ばれる海成地層などが主体である。この地層の上に関東ローム層が覆う。沖積低地は更新世の末期より完新世に掛けて形成された厚い沖積層が主体で、現在の東京湾沿岸部などでは最大で60mから80mもの厚みになる。これら洪積台地・沖積低地では第四紀に関東山地など関東平野を囲む周辺山地の隆起運動が活発になり、相対的に平野中央部が沈降する関東造盆地運動が本格化することで低地には上流から流れてきた土砂が沖積層に堆積。その後沈降していた平野中央部が隆起に転じたことから今度はそこに土砂が堆積し、現在の台地・低地となった。こうして形成された山地や台地が現在利根川および利根川水系の分水界を形成する。分水界は群馬・新潟県境の三国山脈や群馬・栃木・福島県境の帝釈山脈、および茨城県から栃木県にかけて広がる八溝山地が北側、群馬・長野・埼玉県境の関東山地が西側に位置し、これらの山地の南麓および東麓に降った雨が最終的に利根川へと注ぐ。 三国山脈は太平洋と日本海の分水嶺であり、ここを境とし南麓は利根川本流を始め大小の沢の水源となるが北麓は魚野川、中津川などの信濃川水系となる。男体山や日光白根山、尾瀬などが属する帝釈山脈は南麓、東麓に降った雨はそれぞれ鬼怒川、片品川として利根川へ合流するが、北西麓の一部では尾瀬沼が水源である只見川が流出し、阿賀野川に合流する阿賀野川水系の一部となっている。八溝山塊、鷲子山塊、鶏足山塊、筑波山塊を包括する八溝山地およびそれに連なる栃木県宇都宮市付近の台地、および茨城県中南部に分布する常総台地は南部については渡良瀬川や鬼怒川、小貝川さらに霞ヶ浦に注ぐ河川群として最終的に利根川へと合流するが、北部については箒川、荒川、涸沼川などの那珂川水系として別途太平洋へと注ぐ。 関東山地北部、および浅間山や妙義山、荒船山といった群馬県、埼玉県西部に存在する山地は概ね東麓は吾妻川、烏川、小山川として利根川に注ぐが、埼玉県内の南麓は荒川水系の河川として荒川に合流し東京湾に注ぐ。また西麓は信濃川水系の小河川として信濃川(千曲川)に合流する。そして埼玉県北部の台地は第三紀より始まった地殻変動が、第四紀における海進期の影響で形成された古東京湾によって一旦海底となるがその後の海退期や赤城山、榛名山の発達、利根川・荒川上流より運搬された土砂の堆積などによって次第に台地が形成されたものである。この台地は加須市、幸手市、久喜市一帯で標高が低くなっており、この一帯に集まった水は利根川もしくは中川に注ぐ。一方南側は最終的に荒川へと合流するが、江戸時代以降の河川改修によりその様相は変化している。 ===地下資源=== 利根川流域における地下資源としては金、銀、銅、マンガン、鉄といった金属資源や石灰石、硫黄、天然ガスなどの非金属資源が存在する。金属資源のうち特に銅については1973年(昭和48年)まで操業されていた足尾銅山が著名で、一時期は日本全国の銅産出量の40%強におよぶシェアを誇っていた。その他では金・銀が利根川本流上流や鬼怒川上流の一部、マンガンは渡良瀬川流域、鉄は吾妻川上流域の一部に分布している。 一方非金属資源としては硫黄が吾妻川上流域、石灰石が烏川流域で採掘される。また石材として栃木県の大谷石や群馬県の三波石が特産として知られ、塀や高級庭石として利用されている。なお天然ガスについては利根川下流域一帯および江戸川下流域の千葉県北中部・東京都東部一帯が南関東ガス田として知られ、多くのガス田が存在した。1956年(昭和31年)以降天然ガス採掘が江戸川下流の東京都江東区、千葉県市川市・船橋市で活発となったが、工業用水道用途としての地下水過剰取水と相まって天然ガス採掘によりこの地域で地盤沈下が深刻化した。このため東京・千葉の両都県当局は当地の業者よりガス採掘権を1972年(昭和47年)に買い上げ、採掘を禁止したことで地盤沈下は収束に向かった。このため現在は天然ガス採掘は行われていない。 ===植生・昆虫=== 利根川の植生についても、上流と中・下流域では様相が異なる。上流では山岳地帯が広がるが尾瀬や浅間山北麓では高山植物が多く自生、尾瀬や日光戦場ヶ原ではミズゴケやツルコケモモなどからなる高層湿原が存在する。また標高1,600m以上の高山地帯では常緑針葉樹林であるオオシラビソやコメツガ、標高700 ‐ 800m付近ではブナやミズナラなどの樹木が自生している。しかし渡良瀬川源流部の足尾山地については、足尾銅山の煙害(後述)によって植生が高度に破壊されている。 一方中流では常緑広葉樹林であるヤブツバキ・アカガシ・シイなどが従来自生していたが田地・宅地開発などによりその自生数は減少し、スギ・ヒノキなどの植林された樹木が多い。また河川敷ではヨシやススキのほか、スギナ・イヌタデ・カナムグラ・カヤツリグサなどが自生。下流部になるとコガマ・マコモなど多様な植物が自生する。ヨシの群落は中流から下流にかけての湖沼・湿地帯に見られるが特に渡良瀬遊水地には大規模なヨシ群落があり、日本で唯一当地で自生しているハタケテンツキを始めミズアオイ・フジバカマなど絶滅危惧種が自生している。利根川流域に存在する植物種の総数は2002年の国土交通省調査により666種が確認されている。藻類では水質が貧栄養である上流部では少なく、中流・下流に入るとケイソウ類が主に分布。特に中流部ではチャヅツケイソウが広範囲に分布している。霞ヶ浦では水質の悪化により夏季にはミクロキスティスなどの異常繁茂によるアオコの大発生が問題化した。外来種としては中流にはセイタカアワダチソウやブタクサが多く繁茂。下流にはアレチウリ、オオフサモ、ボタンウキクサが繁茂しているがこの三種は在来固有種への影響が大きいことから特定外来生物による生態系等に係る被害の防止に関する法律(外来生物法)により環境省から特定外来生物に指定され、河川管理者である国土交通省などが駆除を行っている。 昆虫については同じ2002年調査で節足動物であるクモを含めて975種が生息しており、内訳は甲虫類が397種、チョウ類が170種、カメムシ類が125種、クモ類が84種の順となっている。分布については上流部の高山地帯にミヤマシロチョウ・ミヤマモンキチョウ・エルタテハやオゼイトトンボ・オオルリボシヤンマなどの山地・高山に分布する昆虫が生息している。一方中流部・下流部では一般的に見られる昆虫類のほか、湿地に限局的に生息するヒヌマイトトンボ・ベニイトトンボなどの種が見られる。生息する昆虫類の中には国蝶であるオオムラサキのほかムスジイトトンボなどの貴重な種が存在する。 ===動物=== 動物については上流域にツキノワグマ、ニホンザル、ニホンジカといった大型種が生息するが、中流域や下流域では大型種は宅地・農地開発によって存在せず、キツネやタヌキ、ノウサギ、ニホンイタチ、アズマモグラなどが生息する。1994年の調査では哺乳類12種以上、爬虫類5種、両生類4種の生息が確認されているが、流域が高度に開発されていることもあり他の一級水系と比べると生物多様性に乏しい。上流域には局地的ではあるがハコネサンショウウオも生息する。外来種としてはヌートリアやマスクラット、ウシガエルが生息するが何れも特定外来生物に指定されている。特にマスクラットは江戸川・中川下流域にほぼ限定して生息しているが、その鋭い前歯による行動は堤防などの河川施設に重大な被害を及ぼすことがヨーロッパで確認されており、個体数の増加は江戸川の治水に影響を与える可能性がある。 鳥類については植物や昆虫同様上流域と中・下流域で生息する種類が異なる。上流域にはオオワシ・イヌワシ・クマタカといった猛禽類やイワヒバリ、ホシガラスといった高山性の鳥類が生息。矢木沢ダムや藤原ダムといった利根川上流のダムにおいても飛来が確認されている。このほか渓流などでカワセミやサンショウクイなども確認できる。中流部以降ではスズメやカラス、ホオジロなどのごくありふれた鳥類のほかヨシ群生地などでカイツブリなどが見られる。渡り鳥としてはオオハクチョウやコハクチョウが霞ヶ浦に飛来するほか、渡良瀬遊水地や渡良瀬川合流部付近は自然植生が豊富なこともありサシバ、チュウヒ、ノスリ、ホオアカなどの猛禽類やカモ、シギ、チドリ類が飛来、または定住する。一方外来種としては2003年(平成15年)に取手市において特定外来生物であるソウシチョウの1個体が確認されている。利根川流域に生息・飛来する鳥類は136種を数える。 ===魚類・水生生物=== 魚類については8目13科43種が確認されており、上流ではイワナ・ヤマメ・カジカが主に、中流ではオイカワ・コイ・ギンブナ・モツゴ・ウナギなどが生息し、絶滅危惧種のゼニタナゴも一部に生息する。また下流ではボラやスズキ、ハゼ、カタクチイワシなどが遡上し、河口部ではクロダイやカレイといった海洋性の魚類も生息している。利根川においては固有種としてソウギョやハクレンといった中国よりの移入種が生息し、毎年夏になると国道4号利根川橋付近において産卵のために勢い良く飛び跳ねる姿を確認することができる。 回遊魚としてはアユやサケが代表的で、サケについては利根川は太平洋側に注ぐ河川としてはサケ遡上の南限とされている。回遊魚については江戸時代以降の用水路建設、また戦後の利根特定地域総合開発計画などでダムや堰が利根川流域に多く建設されたことから(後述)、一時これら回遊魚の遡上が大幅に減少した。特に河口から154km上流にある利根大堰はこれら回遊魚の遡上を大きく阻害する要因であった。このため堰を管理する水資源開発公団(現独立行政法人水資源機構)は1983年(昭和58年)からサケの遡上調査を開始するとともに1995年(平成7年)からは2年掛けて魚道の新設と改築を実施。また2005年には環境保護団体の要望を受け、アユの遡上・降下期に堰のゲートを開く運用が試験的に開始された。こうした官民の協力もあって利根大堰地点でのサケ・アユの遡上数は経年的に増加している。その一方で利根川河口堰については完成以後ヤマトシジミの生息に多大な影響を与えたなど環境保護団体から指摘を受けている。一方特定外来生物として日本各地で問題となっているブラックバスやブルーギルは利根川流域についても河口堰上流の全域に広範な生息が確認され、チャネルキャットフィッシュも生息域が拡大している。また世界の侵略的外来種ワースト100にも選ばれ、メダカを捕食するカダヤシの生息が確認された。 水生・底生生物については177種が確認されているが、その主なものはトビケラやカワゲラ、カゲロウ類で主に上流・中流域に多く生息している。一方下流域は河床(川底)が砂質・泥質主体となるので水生生物類の生息は少なくなり、代わりにヒメタニシ・サカマキガイ・ゴカイ・イトミミズなどが多く生息するようになる。利根川下流域は山梨県甲府盆地や福岡県・佐賀県の筑後川下流域などとともに日本住血吸虫症の発生地として知られ、中間宿主であるミヤイリガイが生息していたが、1973年に虫卵排出患者とミヤイリガイの棲息が報告されたのを最後に新たな疾患の発生および貝の棲息は確認されていない。代わりに特定外来生物で大量斃死(へいし)すると水質汚濁をひき起こすカワヒバリガイが我孫子市・印西市の利根川流域や霞ヶ浦で新たに確認されており、北総東部用水など利根川下流域農業用水施設の通水・揚水障害といった被害が増加している。 利根川水系は内水面漁獲量では日本全国の総漁獲量に占める割合が約30%と、水系としては日本最大の漁場でありかつ首都圏という大消費地に近い。このため漁業協同組合の数も多く、流域一都五県で81組合が存在し第1種・第2種・第5種漁業免許を取得している。 ==名称== 利根川の名称は、『万葉集』巻第十四に収載されている「東歌」のうち「上野国の歌」にある以下の和歌が文献上の初出である。 刀祢河泊乃 可波世毛思良受 多太和多里 奈美尓安布能須 安敞流伎美可母(利根川の 川瀬も知らず ただ渡り 波にあふのす 逢へる君かも) ― 『万葉集』巻第十四、東歌「上野国の歌」 この和歌の冒頭にある「刀祢河泊」がすなわち利根川のことである。意味は「利根川の浅瀬の場所もよく考えないで真っ直ぐに渡ってしまい、突然波しぶきに当たるように、ばったりお逢いしたあなたです」と解され、庶民女性による寄物陳思の表現様式を採る相聞歌である。これについて犬養孝は自著『万葉の旅(中)』において、上野国の歌でありかつ人が渡河できる程度の川幅であることから、歌に詠まれた利根川の位置は現在の沼田市から渋川市にかけてではないかと推定している。 和歌に見える「刀祢」について、これまで様々な説が提唱されたが何れも定説となっておらず、真の意味は未だに不明である。主な説としては利根郡から来た説、水源地の辺りには尖った峰、すなわち「尖き峰(ときみね)」が多くそれが簡略転化したという説、水源である大水上山の別称が「刀嶺岳」・「刀祢岳」・「刀根岳」・「大刀嶺岳」と呼ばれ、それに由来する説、「等禰直(とねのあたい)」あるいは「椎根津彦(しいねつひこ、とねつひこ)」という神の名に由来する説などがある。さらに語源をたどるとアイヌ語に行き着くとされるが、そのアイヌ語の解釈も諸説ある。一例として「巨大な谷」を意味する「トンナイ」、「沼や湖のように広くて大きい河川」という意味などがある。 一方、利根川の別称である「坂東太郎」については、足柄峠と碓氷峠を境としてそれより東の諸国を総称する「坂東」を流れる日本最大の河川であることから名づけられた。ちなみに同様の別称を付けられた河川としては九州地方最大の河川である筑後川が「筑紫次郎」、四国地方最大の河川である吉野川が「四国三郎」と呼ばれるほか、中国地方最大の河川である江の川が「中国太郎」と呼ばれることがある。なお現在利根川は源流から河口まで一貫して「利根川」の名称が用いられており、信濃川や淀川、筑後川などのように所在地によって河川名が異なることはない。 ==利根川水系== 利根川の流域面積は約1万6840kmであり、比較すると広さは四国地方の面積の80%に相当する。この流域面積内を流れ最終的に利根川へと合流、あるいは分流する河川は全て利根川水系に属する。水系内を流れ最終的に利根川に合流する支流の数は815河川に上り、淀川水系の964河川、信濃川水系の880河川に次ぐ日本第3位の支流数である。流域自治体は首都である東京都を始め茨城県、栃木県、群馬県、埼玉県、千葉県および長野県の一都六県211市区町村にまたがり、流域内には日本の人口の10%に相当する約1200万人が生活している。 ===本流と流域自治体=== 利根川本流は大水上山の水源から太平洋の河口まで流路延長322kmの長さを有するが、この間通過する自治体は群馬県、埼玉県、茨城県、千葉県の四県、25市14町1村に及ぶ。本流の管理については1896年(明治29年)に旧河川法の制定に伴い、翌1897年(明治30年)9月11日付内務省告示第59号において管理指定河川区域が定められた。戦後1964年(昭和39年)の河川法改訂に伴い一級河川・二級河川の河川等級が導入されたことにより、翌1965年3月24日付建設省(国土交通省)政令で旧河川法下で定められた管理指定河川区域がそのまま一級河川の区域として指定された。現在、河川法の上で一級河川に指定されている利根川の本流は、 上流端:群馬県利根郡みなかみ町大字藤原地先(大水上山山麓水源)下流端:茨城県神栖市波崎新港(左岸)および千葉県銚子市川口町(右岸)の河口までとなっており、利根川本流は水源から河口まで一貫して一級河川の指定を受けている。このうち現在国土交通省が直轄で管理を行う「指定外区間」は、 上流端:群馬県伊勢崎市大字柴崎(左岸)と群馬県佐波郡玉村町大字小泉(右岸)となり、茨城県取手市と千葉県我孫子市を跨ぐ大利根橋を境に上流側を国土交通省関東地方整備局利根川上流河川事務所が、下流側を利根川下流河川事務所が分割して管理している。一方指定外区間の上流端より上流域の利根川は河川法第9条第2項に基づく「指定区間」として、国土交通省が群馬県知事に管理を委任している。このため高崎市以北を流れる利根川は群馬県が河川管理を行うが、矢木沢ダム湖上流端より藤原ダム直下流に至る区間に限り、国土交通省が直轄管理を行う。 ===支流・分流と流域自治体=== 先述の通り利根川水系には支流が815河川存在するが、利根川に直接合流する一次支流には他の一級水系やその本流に匹敵する大河川が多い。支流で流路延長が最も長いのは鬼怒川の約176.7kmであり、他の一級水系本流と比較すると同じ関東地方を流れる荒川(173km)に匹敵する。また流域面積が最も広大なのは渡良瀬川の約2,601.9kmで、この面積は筑後川水系(2,863km)や岡山県・広島県を流域とする高梁川水系(2,670km)、富山県・岐阜県を流域とする神通川水系(2,720km)に匹敵する。流路延長では鬼怒川のほか渡良瀬川と小貝川が100kmを超え、流域面積では渡良瀬川のほか吾妻川、烏川、鬼怒川、小貝川、常陸利根川が1,000kmを超える広さを有する。また利根川より分流する河川(派川)として千葉県野田市関宿で利根川本流より分流する江戸川、千葉県柏市で利根川本流より分流し江戸川に合流する利根運河がある。 なお、埼玉県、茨城県と東京都を流域とする中川であるが、利根川には合流せず荒川と並走する形で東京湾へと注ぐため、荒川水系と誤解され易いが、1964年の河川法改訂時における建設省河川審議会管理部会の見解によれば、中川は利根川の分流である江戸川の分流・旧江戸川に合流する新中川放水路が分流しているため、水系の定義である「本流より分流し直接海に流入する派川と、その派川に流入する支流の全ては同一水系に所属する」という建前から、河川法改訂後利根川水系が一級河川に指定される際に利根川水系に属する決定が下された。したがって、中川とその支流は利根川水系の河川であり、荒川水系ではない。また河川法改訂時に支流の名称も幾つか変更されており、従来常陸川・北利根川と呼ばれた河川は一括して常陸利根川と名称が統一され、江戸川については江戸川放水路を本流とし旧江戸川は分流(派川)扱いになり、新中川放水路は新中川の名称になっている。 その他の一次支流・分流 ‐ 奈良沢川、楢俣川、宝川、湯檜曽川、赤谷川、薄根川、広瀬川、小山川、早川、利根運河、飯沼川、手賀川、黒部川など ===湖沼=== 利根川水系は一級水系の中では天然の湖沼が多く存在し、その中には日本第二位の面積を有する霞ヶ浦がある。湖沼の分布については下流に多く存在するが、これについては1910年(明治43年)に吉田東伍が著した『利根治水論考』においてその成り立ちについて論じられている。同書によれば1000年代の利根川下流域は縄文時代からの内海が残って湾入しており(香取海)、霞ヶ浦、北浦、外浪逆(そとなさか)浦とも繋がっていた。その後鬼怒川や小貝川より運搬された土砂の堆積、江戸時代の河川改修と新田開発に伴う干拓などで香取海の縮小が加速し、現在の河道になったと論じている。湖の成因として霞ヶ浦、北浦、外浪逆浦は海跡湖に、その他下流域にある印旛沼、手賀沼、牛久沼、菅生(すごう)沼は何れも堰止湖に分類される。例外は古利根沼で、利根川の河川改修により旧流路が河川より分離・残存して誕生した湖沼である。なおかつて存在した湖沼としては見沼代用水建設に伴い干拓された見沼(後述)や黒沼、笠原沼、渡良瀬遊水地建設に際し渡良瀬川・巴波(うずは)川の河道となり消滅した赤麻沼、および1941年(昭和16年)から1950年(昭和25年)に実施された干拓により消滅した内浪逆浦などがある。 上流域に存在する天然湖沼はその多くが火山活動に伴って形成されたものである。中禅寺湖は男体山の噴火活動による溶岩流によって大谷(だいや)川が堰き止められて形成され、榛名湖や赤城大沼は榛名山、赤城山の火山湖である。例外は栃木県日光市にある西ノ湖であり、元々中禅寺湖の一部だったのが分離して単独の湖を形成したものである。一方、同じ上流部には戦後盛んになった利根川水系の河川開発(後述)により多くのダムが建設され、それに伴い人造湖も多く誕生した。これら人造湖の中で最大の規模を有するのが利根川本流に建設された矢木沢ダムの人造湖・奥利根湖であり、その総貯水容量は2億430万mで関東地方最大、貯水池面積は570ヘクタールと外浪逆浦に匹敵する。このほか中・下流部には日本最大級の遊水池である渡良瀬遊水地を始め、利根川本流の田中・菅生・稲戸井調節池、小貝川の母子島遊水池といった遊水池が存在する。 なお、霞ヶ浦は1961年(昭和36年)に制定された水資源開発促進法に基づき「湖沼水位調節施設」として常陸川水門を利用し多目的ダム化する霞ヶ浦開発事業が実施され、印旛沼は1947年(昭和21年)より開始された印旛沼開発事業によって1969年(昭和44年)北部調整池と西部調整池に分割された。何れも首都圏の治水と利水を目的に天然湖沼を利用する河川総合開発事業であった。このほか中禅寺湖は流出口に栃木県によって1959年(昭和34年)中禅寺ダムが建設され中禅寺湖の治水と華厳滝の水量調節、および水力発電能力の増強が図られるなど天然湖沼の開発が盛んに行われたのも利根川水系の天然湖沼における特徴である。 その他の天然湖沼 ‐ 菅沼、大尻沼、城沼、昭和沼、黒浜沼、原市沼、古利根沼、神之池など ==利根川開発史== 利根川は「暴れ川」として流域に幾度となく大きな被害を与え、洪水の度に流路が複雑に変遷する河川であった。その一方で関東地方の母なる川として多くの恵みをもたらす河川でもあり、時の為政者たちは利根川とその支流を治水・利水の面でいかに制御して行くか様々な試みを行った。ここでは利根川本流の治水・利水を中心とした河川開発史について時系列で詳述するが、一部利根川水系の河川開発についても記載する。なお水運、水力発電に関する歴史については、別項目にて後述する。 ===先史時代=== 先史時代の利根川の中下流(熊谷市付近で荒川との合流後)は約5000年前頃までは南に向かい現在の荒川の流路を通り、縄文海進時には川越市近辺まで湾入した東京湾へ注いだ(なお渡良瀬川の河道に対しては板倉町近辺まで湾入した)。3000年前頃からは関東造盆地運動などの影響で館林市から桶川市までつながっていた台地を幾筋か堀割るように削りながら流路を次第に東の加須市・渡良瀬川下流流域方向へ変えた。中世には利根川下流は現在の大落古利根川の流路を通るようになり、渡良瀬川(太日川)と合流もしくは並行し南流して東京湾へ注いだ。なお荒川は次第に利根川と並行した河道をとり合流点を下流へ移動させ、現在の元荒川の流路となった。 利根川流域に人が住むようになったのは旧石器時代の頃と見られ、河岸段丘や台地の末端部に居を構えて狩猟生活を行っていたことが群馬県の岩宿遺跡などで確認されている。縄文時代の生活の痕跡は貝塚の分布によって示され、縄文前期には北は赤城山南麓・西麓や埼玉県さいたま市、元荒川流域に多く分布しているが、後期に入ると海退の影響でより下流に生活範囲が広がり、現在の千葉県千葉市、市川市、松戸市などに縄文後期の貝塚が多く見られる。弥生時代に入り稲作文化が関東地方にも伝わると、利根川の肥沃な土壌が稲作文化を発達させ次第に定住生活へと移行した。 3世紀後半の古墳時代に入ると現在の栃木県・群馬県両域に当たる毛野地方を中心に前方後円墳が多く造られ、埼玉県のさきたま古墳群を含め利根川流域に強力な勢力が存在していたことが推定されている。しかし当時は治水という概念は存在せず、肥沃な土壌をもたらす利根川は定住は始めた住民に洪水によって大きな被害ももたらしていた。 ===中世以前=== 江戸時代よりも前の利根川は、現在のように銚子市で太平洋に注ぐ形態を取っていなかった。当時は埼玉県羽生市上川俣で東と南の二股に分かれた後、南への分流(会の川)は南東に流路を取り、加須市川口で合流後再び本流となり現在の大落古利根川の流路をたどり荒川(現在の元荒川)などを合わせ、江戸湾(東京湾)へと注いだ。また当時「太日川」という名称であった渡良瀬川は独立した河川として、現在の江戸川の流路を取りながら利根川と並走するように江戸湾へ流れた。鬼怒川は同じく独立した河川として小貝川を併せ、香取海に注ぐ形態だった。利根川の本流は1457年(康正3年/長禄元年)に太田資長(道灌)が現在の埼玉県春日部市から草加市を経て江戸湾に注ぐ河川を本流に定めたとされている。また上流部のうち前橋市付近では現在よりも東側、すなわち広瀬川の流路をたどり、現在の伊勢崎市付近で烏川と合流していたが1543年(天文12年)の洪水によって現在の流路が定まった。このように複雑な流路を形成していた利根川は洪水により頻繁に流路が変わり、流域は度重なる水害に襲われていた。記録に残る最も古い洪水の記録は、奈良時代の758年(天平宝字2年)における鬼怒川の洪水で、「毛野(鬼怒)川氾濫して二千余頃の良田を荒廃に帰せしめ・・・」と被害が記されている。 利根川流域において初めて治水事業が実施されたのは768年(神護景雲2年)、鬼怒川筋での流路付け替えである。一方利水については645年の大化の改新後施行された班田収授法で条里制が利根川流域にも実施されたのが初見であり、群馬県高崎市や太田市、茨城県南部、埼玉県北部にその遺構が確認されている。中世利根川流域の河川開発に積極的だったのは鎌倉幕府で、将軍だった源頼朝は1194年(建久5年)には利根川では初となる堤防の建設を武蔵国で施工した。続いて1199年(建久10年/正治元年)4月、頼朝は東国の地頭に対して農業用水を開発して開墾を行う命令を下した。その後も幕府による利根川の開発は続けられ、1207年(建永2年)3月幕府は北条時房に武蔵国の開発を命じている。治水事業についても1232年(寛喜4年/貞永元年)には執権北条泰時の命により現在の埼玉県熊谷市に柿沼堤が、1253年(建長5年)には執権北条時頼の命により現在の茨城県猿島郡五霞町付近、下総国下河辺に堤防が築かれている。これにより鎌倉時代の田地は平安時代に比べ約1万6000町歩も多い6万6710町歩となったことが『拾芥抄』に記されており、流域の農地開発は大いに進展した。 室町時代の利根川流域は鎌倉公方の支配下にあったが政情は不安定で度々戦乱が勃発。治水・利水事業では見るべきものがなかった。戦国時代に入り利根川流域は伊豆国より勢力を伸ばした後北条氏により支配されたが、4代目当主北条氏政の代である1576年(天正4年)に長さ900mの権現堂堤が権現堂川に建設されている。安土桃山時代に移り天下統一に向けて活発な軍事行動を繰り広げていた豊臣秀吉は、臣従の姿勢を見せない後北条氏に対し1590年(天正18年)小田原征伐を起こすが、この際石田三成らに対して武蔵国忍城を水攻めにするよう命令した。6月三成は雨季で増水している利根川・荒川の河水を堤防で堰き止め、忍城を水没させて降伏・開城させる方針を採った。しかし地形上の影響で城内を浸水させることはできず、却って堤防が決壊し豊臣軍に大勢の犠牲者を出した。結局忍城は7月16日、後北条氏の本拠である小田原城開城後に降伏することになる。この時三成によって築造された堤防を石田堤と呼び、自然堤防などを利用した全長28kmの堤防を一週間で築き上げている。ただしこの堤防は軍事的側面で建設されたもので、利根川の治水には何ら関係がない。 ===江戸前期の河川事業=== 後北条氏の滅亡後、その旧領は徳川家康に与えられ家康は江戸に本拠を定めた。家康は領国経営を直ちに開始するが利根川水系の河川改修も積極的に取り組んだ。最初に行われた事業は1594年(文禄3年)、忍城主であった家康の四男松平忠吉が行った会の川締切である。これは現在の羽生市付近で二股に分流していた利根川のうち南流する会の川を締切り、東方向に流路を一本化して渡良瀬川(太日川)に連結するものである。翌1595年(文禄4年)には徳川四天王の一人で上野館林城主であった榊原康政が、利根川左岸に総延長33km、高さ4.5 ‐ 6m、天端(てんば)幅5.5 ‐ 9.1mという堤防を建設した。これを文禄堤と呼び利根川における最初の本格的な大規模堤防である。このほか同時期には中条堤も築かれている。これら利根川水系における河川事業は関ヶ原の戦いで家康が覇権を握り、1603年(慶長8年)家康が将軍となり江戸幕府を開いた後は三河譜代である家臣・伊奈忠次を祖とする伊奈氏が中心的役割を果たしていく。忠次が手掛けた事業としては1604年(慶長9年)烏川を取水元とし利根川沿いに開削した総延長20kmに及ぶ備前渠用水や上野総社藩主・秋元長朝が開発した天狗岩用水下流に開削した代官堀などがある。忠次の系統は代官頭、後に関東郡代として12代伊奈忠尊までの間利根川水系の河川開発に携わるが、最大の事業として知られるのが利根川東遷事業である。 利根川東遷事業は江戸湾を河口としていた利根川を東へ付け替え、現在の銚子市を新たな河口とする江戸時代最大級の治水事業であり、現在の利根川水系の基礎となった。事業の範囲または目的については東遷事業に関する明確な史料が存在せず、後世の研究者が様々な説や見解を挙げている。開始時期については1594年の会の川締切を挙げるものが多く栗原良輔、佐藤俊郎、本間清利が支持している。終了時期については本間の1698年(元禄11年)完了説が最も早く、根岸門蔵は1871年(明治4年)、河田羆は1890年(明治23年)の利根運河開通を以って完了としている。従って利根川東遷事業の明確な事業年数については不詳である。しかし目的についてはおおむね以下の見解でコンセンサスが得られている。 幕府本拠である江戸、および利根川流域の水害対策としての治水目的利根川流域の新田開発促進街道や水運整備による流通路確保(後述)仙台藩伊達氏を仮想敵国として江戸城防衛のため大外堀に利根川を利用する軍事目的利根川東遷事業の主要な事業としてはまず1621年(元和7年)から1654年(承応3年)まで3回にわたる赤堀川開削がある。これは現在東北新幹線利根川橋梁が渡河する付近の茨城県古河市・五霞町間を開削し、1621年に伊奈忠治によって行われた利根川と渡良瀬川の連結事業である新川通開削と連携して利根川の河水を東へ付け替える事業である。続いて1629年(寛永6年)からはそれまで利根川の支流であった荒川がそれまでの入間川水系に付け替えられ(支川であった和田吉野川へ接続され)独立した荒川水系となり、これを「荒川の西遷」と呼ぶ。切り離された旧下流路は元荒川となって現在に至る。1635年(寛永12年)から1644年(寛永21年/正保元年)に掛けては江戸川の開削が実施され、これにより関宿から分流する現在の江戸川の姿が形成された。さらに関宿より下流の鬼怒川・小貝川などの改修も行われ、1629年にそれまで鬼怒川に合流していた小貝川を独立した河川として分離。翌1630年(寛永7年)には小貝川下流を付け替えている。そして1662年(寛文2年)から1666年(寛文6年)に掛けて利根川と霞ヶ浦を連結する新利根川が開削され江戸時代前半期における治水事業は一応の区切りが付いた。 江戸幕府における利根川を主に置いた河川行政は当初は伊奈氏が中心的役割を果たしている。東遷事業が最盛期を迎えていた1642年(寛永19年)3代将軍・徳川家光は伊奈忠治に対し堤防修築の総指揮を命じ、伊奈氏の河川行政に対する権限が強化された。しかし5代将軍・徳川綱吉の治世では伊奈氏は関東郡代に任じられたものの勘定奉行の管轄下に置かれ、相対的に権限は低下した。それでも伊奈氏の河川事業への関わりは強く、4代・伊奈忠克は葛西用水路を1660年(万治3年)に開削している。また小貝川流域においては伊奈忠治により1630年(寛永7年)に岡堰、5代・伊奈忠常によって1667年(寛文7年)豊田堰の原型となる堰が建設され、1722年(享保7年)完成の福岡堰と共に「関東三大堰」と総称されている。伊奈氏による河川工法は「伊奈流(関東流)」と呼ばれた。 ===江戸後期の河川事業=== 見沼代用水の項目も参照。1716年(正徳6年/享保元年)紀伊藩主であった徳川吉宗が8代将軍となった。吉宗は享保の改革を推進するがその中で質素倹約と共に新田開発による年貢増徴により、厳しい幕府の財政建て直しを志向する。利根川の河川開発においては勘定吟味役として紀伊藩士であった井沢為永(弥惣兵衛)が60歳という高齢でありながら登用された。為永が実施した利根川水系の河川開発として著名なのが見沼代用水の開削である。 利根川中流の武蔵国北部・中部における農業用水の水源としては1604年開削の備前渠用水があるが、それ以前より見沼という沼を灌漑用水源として利用していた。見沼は伊奈忠治により寛永年間に現在のさいたま市緑区に八丁堤という締切堤が建設されてダム化し、「見沼溜井」として1660年開削の葛西用水路と共に重要な水源となっていた。しかし新田開発が進むに連れ灌漑用水の需要増により見沼溜井の供給量とのバランスが崩壊し、享保年間には用水不足が深刻化していた。このため吉宗は為永に対し1725年(享保10年)9月、「見沼に代わる用水路」すなわち見沼代用水の開削と見沼の干拓を指示。現在の行田市に取水口を設け2万9500間の用水を開削、星川を経由しさらに用水は東縁と西縁に分かれ旧見沼溜井の両縁に沿って南下する。1728年(享保13年)に用水は完成し303村の田畑1万2571町、石高換算で約14万9136石の農地が灌漑の恩恵を受けることとなった。また見沼代用水を利用して1731年(享保16年)見沼通船堀が開削され、用水は水運にも利用される多目的用水路へと変化した。なお通船堀に設けられた閘門はパナマ運河と同じ方式で舟を運行させるが、同形式としては日本最古の閘門である。 また上野国内では現在の邑楽郡千代田町と明和町にまたがる利根加用水が建設された。1839年(天保10年)同地31村の名主が連名で利根川からの取水による用水開削を幕府に嘆願したのが始まりで、用水不足に悩む同地に対し利根川から谷田川に至る長さ700間の用水路が整備された。ところが落差不足で十分に通水できず、1846年(弘化3年)と1855年(安政2年)の二度にわたり用水路の改築が実施された。 幕府による新田開発は次第に利根川下流域にも拡大するが、湖沼の干拓による新田開発も企図された。主なものとして手賀沼干拓と印旛沼干拓がある。手賀沼の場合は1636年(寛永13年)に干拓用排水路である弁天堀が開削され、1661年(万治4年/寛文元年)に本格的な干拓計画が着手されたが挫折。1671年(寛文11年)に海野屋作兵衛の手により最初の干拓が成功し新田234町歩が開発された。しかし1676年(延宝4年)以降1729年(享保14年)、1739年(元文4年)の干拓計画は何れも洪水により挫折。1785年(天明5年)の幕府による大規模干拓事業も完成の間もなく利根川の大洪水で大きな被害を受けるなど満足な結果は得られなかった。一方印旛沼干拓は1724年(享保9年)、染谷源右衛門が幕府より6,000両を借用して開始したが資金不足で失敗。続く1783年(安永10年/天明元年)には老中・田沼意次が、1840年(天保11年)には老中・水野忠邦が天保の改革の一環として印旛沼開発計画に着手したが、何れも計画立案した本人が失脚して中止され、結局実施されなかった。利根川下流域の干拓で唯一成功したのが十六島開発で、現在の香取市(旧佐原市)周辺の十六島と呼ばれる砂州地帯の新田開発であるが、常陸国江戸崎城主だった常陸土岐氏の遺臣団が1590年より徳川家康の許可を得て上之島村を開拓したのを皮切りに、1640年(寛永17年)の磯山村開拓まで14村が開拓された。 一方治水については1728年に徳川吉宗が井沢為永に江戸川の開削と庄内古川の分離工事を命じたほか、1742年(寛保2年)8月の利根川大水害後の復旧事業として寛保の御手伝普請が同年10月より着手され、長州藩・熊本藩・津藩など西国10藩に対し幕命による河川工事が行われた。この事業は木曽三川における薩摩藩の宝暦治水同様、外様大名の経済力を削ぐための大名統制策の一環でもあった。しかし1783年(天明3年)7月に発生した浅間山大噴火は火砕流が吾妻川に流入して泥流となり利根川、さらには江戸川にまで押し寄せ河床の著しい上昇や堤防などの河川施設破壊によって洪水の危険性が増大した。この対策として堤防修築や川底の掘削、さらに1654年以来となる赤堀川の再掘削が1843年(天保14年)頃に実施され、江戸川の河水流入を制限するために「棒出し」と呼ばれる水制が同じく天保年間に建設されている。なお、享保以降の幕府内における河川行政は勘定吟味役に井沢為永が重用されたほか、「普請役」や「四川奉行」の改廃を経て河川行政は勘定奉行5名による分担任務となった。とはいえ普請を行うには関東郡代伊奈氏の決裁が必要とされ、伊奈氏の影響力はまだ高かった。しかし12代伊奈忠尊の時1792年(寛保4年)不行跡を理由に改易され、家康以来河川事業に深く関わった伊奈氏はその表舞台から消え以後幕末に至るまで勘定奉行支配下の「四川用水方普請役」が差配していく。 江戸時代を通じ利根川東遷事業や浅間山噴火対策など幕府の治水事業により利根川の膨大な河水は渡良瀬川などと共にかつての香取海方面へと流下することとなった。これにより江戸を含めた武蔵国方面では水害の危険性が減少し、新田開発による石高の増加が著しくなった。さらに舟運・海運航路が整備され経済の大動脈として利根川が活用されるなどの効果をもたらした。反面利根川の水面よりも標高が低い霞ヶ浦など下流低地において逆に水害の危険を増幅させ、明治以降の利根川治水事業を困難にしたという副作用が生じている。 ===利根川改修計画と増補計画=== 1868年(明治元年)に明治政府が誕生し、行政機構は大きな変化を遂げた。河川行政については数多の変遷を経て1874年(明治7年)に内務省が終戦後まで管掌することになり、利根川には1875年(明治8年)6月16日内務省土木寮利根川出張所が設置された。この出張所が現在の国土交通省関東地方整備局の発祥となる。また1896年には旧河川法が公布され、利根川は同法の適用を受ける河川に指定された。以後、内務省主導による利根川の治水事業が進められていく。 政府はオランダ式治水工法を日本各地の河川に導入するためファン・ドールンを招き1872年(明治5年)に利根川の測量調査などを進めたが、具体化されたのは1886年(明治19年)にローウェンホルスト・ムルデルによって立案された利根川改修計画である。これは現在の群馬県佐波郡玉村町から利根川河口までを対象に治水上の要所に堤防を築いて水害に対処するほか、利根運河を開削して水運の便を改良することが骨子であった。この時初めて利根川の計画高水流量が算出され、毎秒3,750mに定められた。計画は第1期から第3期まで3分割で進められ、この間1890年(明治23年)には利根運河が完成した。 しかし1910年(明治43年)8月、関東地方を二つの台風が連続して襲来しそれに伴う前線の活発化によって利根川は当時最悪の洪水をもたらした。この「明治43年8月洪水」は死者769名を出す大災害となり、利根川は中流部において北は現在の前橋市・みどり市、西は富岡市から東は野田市、南は川越市に至る広範囲が浸水し関東平野中央部が一つの巨大な湖になった。この水害を機に先の利根川改修計画は同年改訂され計画高水流量は毎秒5,570mに上方修正された。この時事業計画に上ったのが渡良瀬遊水地であり、当時深刻化していた足尾鉱毒事件の鉱毒問題解決に治水目的を付加させるとして正式な事業となった。このほか堤防や護岸建設、横利根閘門(1921年)・印旛水門(1922年)・小野川水門(1923年)の新設、利根川下流の新河道開削(1889年 ‐ 1922年)、権現堂川の利根川との締切(1926年)が本流域で施工され、江戸川では分流部に関宿水門と関宿高水路(1927年)を建設して利根川からの分流量を調節するほか、下流部では江戸川放水路を開削(1920年)し流下能力を増強させた。これら一連の利根川改修計画は江戸川放水路の補修が完了した1930年(昭和5年)に一応の完成を見た。この間1923年(大正12年)の関東大震災により利根川中流部で堤防の損壊が116箇所発生し、その復旧も行われている。 利根川改修計画が完成した後も利根川の洪水は度々発生し1935年(昭和10年)9月と1938年(昭和13年)6月 ‐ 7月、1941年(昭和16年)7月には改修計画で定めた計画高水流量をはるかに上回る洪水が記録された。特に1938年の洪水は利根川下流部で浸水被害が深刻となり、往時の香取海が再現されたかの浸水範囲となった。事態を重視した内務省は改修計画に替わる新しい利根川の治水計画策定を検討、荒川放水路建設の総指揮を執った内務省内務技監青山士(あきら)を委員長とする「利根川治水専門委員会」を設立。計画高水流量を一挙に毎秒1万mに改める利根川改修増補計画が1938年に第73回帝国議会で承認され、翌1939年(昭和14年)より着手された。この計画における主要事業は渡良瀬遊水地の洪水調節池化と、利根川放水路の建設にある。それまでの渡良瀬遊水地は洪水時に自然に貯留する性格のものであったが、遊水地周囲を堤防で囲み洪水時にはより多くの河水を貯水する調整池に改良する計画とした。一方利根川放水路計画は現在の千葉県我孫子市布佐(JR布佐駅付近)を起点として印旛沼西端を通過し、現在の千葉市花見川区検見川町と海浜幕張間付近で東京湾に至る総延長27kmの放水路を建設し、利根川下流の水位を2m減少させるほか手賀沼・印旛沼の治水と干拓、利根運河に代わる大規模運河としての利用、さらに掘削残土を埋立地に利用して工業地帯を造成するという多目的の放水路計画である。このほか田中・菅生調節池(利根川)の新規遊水池計画、小貝川付替計画、利根運河の放水路化、利根川中流部の堤防強化が事業内容に盛り込まれた。 計画はまず緊急な対応が迫られていた昭和10年9月洪水の被害地周辺部の堤防強化を優先、利根川応急増補工事として1937年(昭和12年)に前倒しで開始された。渡良瀬遊水地は堤防建設を開始。利根運河は利根運河株式会社から内務省が運河を買収して利根川からの締切と掘削工事を開始、小貝川では岡堰の可動堰化工事などが開始されたが利根川放水路については用地買収が遅々として進まず、その上太平洋戦争の激化により予算・資材・人員不足が深刻化。増補計画は一時中断した状態で終戦を迎えた。このため利根川の治水は不完全な状態となり治水安全上の不安が憂慮されたが、それは戦後直ちに現実のものとなる。 ===利根特定地域総合開発計画=== ダム事業に関する詳細は利根川水系8ダム、総合開発全体の流れについては河川総合開発事業をそれぞれ参照。1947年(昭和22年)9月、利根川流域をカスリーン台風が襲った。過去に例を見ない記録的な豪雨は戦前・戦中の乱伐による山林荒廃と相まって利根川流域に致命的な被害を与えた。特に利根川は現在の埼玉県加須市、旧大利根町付近で堤防が決壊し濁流は埼玉県のみならず東京都葛飾区・江戸川区にまで達した。また烏川流域、渡良瀬川流域はほぼ全域が浸水し利根川中流部はまたもや一面湖となった。死者・行方不明者は日本全国で1,910名であったが利根川流域だけで1,100名が死亡している。当時の日本は治水事業の停滞と森林の乱伐による荒廃により各地で水害が頻発。人的・経済的被害は膨大なものとなっていた。水害の続発が敗戦で疲弊した日本経済にさらなる悪影響を及ぼすことを懸念した内閣経済安定本部は、内務省解体後河川行政を継承した建設省に対し新たな河川改修計画の作成を命じた。これが河川改訂改修計画であり、日本の主要10水系を対象に治水・砂防の総合的対策が検討された。この中で利根川は従来の利根川改修増補計画をさらに改定した利根川改訂改修計画が1949年(昭和24年)に策定されたが、この際に導入されたのがダムによる治水対策である。 既に利根川水系では1926年、鬼怒川支流の男鹿川に五十里(いかり)ダムを建設する計画が立てられていたが、地質の問題や戦争などがあり事業は中断していた。しかしカスリーン台風の被害を受けて利根川の計画高水流量は毎秒1万7000mに上方修正され、内毎秒1万4000mを堤防、渡良瀬・田中・菅生・稲戸井の四遊水池および利根川放水路にて調節し、残り毎秒3,000mを上流のダム群で調節する方針が採られた。この時利根川上流域では19箇所のダム建設候補地が検討されたが、最終的に決定を見たのは藤原・沼田(利根川)、相俣(赤谷川)、薗原(片品川)、八ッ場(吾妻川)、坂原(神流川。下久保ダムの前身)の6ダム計画であった。また鬼怒川では五十里ダムに加え川俣ダム(鬼怒川)が、渡良瀬川では草木ダムの前身にあたる神戸ダム(渡良瀬川)が計画される。これらのダム計画は1956年(昭和31年)の五十里ダムを皮切りに藤原(1957年)、相俣(1959年)の各ダムが完成し、ダム事業は進展を見る。一方下流部においては新規に霞ヶ浦放水路(常陸利根川)、小貝川付替、利根川河口導流堤、行徳可動堰(江戸川)などの計画が立てられた。 この当時治水に並ぶ喫緊の課題としては極端な食糧と電力の不足があり、これを解決させるために1926年東京帝国大学教授だった物部長穂が提唱した河水統制という概念が戦前より内務省によって河水統制計画として錦川などで始まり、戦後テネシー川流域開発公社(TVA)を模範とした河川総合開発事業として治水のほか水力発電、灌漑などを目的に積極的に進められていた。こうした河川開発を強力かつ広範囲に実施すべく1950年(昭和25年)、当時の第3次吉田内閣は国土総合開発法を制定し日本の22地域を対象とした特定地域総合開発計画を推進。利根川水系も対象地域に指定され翌1951年(昭和26年)12月に利根特定地域総合開発計画が閣議決定された。これ以降利根川の河川事業は利根川水系全体にわたり、治水・利水の両面を目的とした総合開発計画に移行する。 利根川水系における河川総合開発は1936年に当時の東京市が主体となって実施した江戸川河水統制事業が最初であり、江戸川水閘門を利用して新規用水を確保するものであった。続いて群馬県が水力発電を主目的として利根川最上流部にダムを建設する群馬県利根川河水統制計画を1937年に着手、これに1940年東京市による東京市第三次水道拡張事業の水源として共同参加したが、戦争により実現には至らなかった。戦後利根川改訂改修計画の策定で治水事業が先行したが、利根特定地域総合開発計画の立案により大規模河川総合開発へと発展した。同計画は改訂改修計画の治水・砂防事業に加え計画ダム群の多目的ダム化、尾瀬原ダム(只見川)から片品川への導水(尾瀬分水)を含む水力発電計画、印旛沼・手賀沼干拓、両総用水建設(1970年)、および国道4号、国道6号などの道路網整備を包括した大規模事業であり、この計画において現在首都・東京の最大の水源である矢木沢ダム(利根川)が初登場する。 なおこの頃利根川の治水や利水について様々な案が提唱された。その一例として日本共産党書記長であった徳田球一による案がある。徳田は1949年に『利根川水系の綜合改革 ‐ 社会主義建設の礎石』という冊子を発表。その中で利根川の惨状は封建徳川と帝国主義天皇制の責任であると断じた上で利根川放水路・霞ヶ浦放水路・小貝川付替による下流部治水に加え、江戸川・古利根川・元荒川を大拡張し運河として利用、さらに埼玉県本庄市から東京都立川市まで利根川と荒川・多摩川を連結する大運河を設けて水運と灌漑、上水道・工業用水道に利用。房総半島では利根川と房総半島の小河川を繋ぐ運河を千葉県茂原市まで建設して積極的な干拓を図るとした。また山間部には多数のダムを積極的に建設するほかソビエト連邦より大量の木材を輸入して植林を図ることも重要であると論じた。費用については独占資本家や大ヤミ業者から8000億円を徴収することで賄えるとも述べている。この案は建設省によって採用されたものではないが、後年徳田の構想に近似した形で武蔵水路や房総導水路が建設されている。 ===利根川水系水資源開発基本計画=== 利根特定地域総合開発計画が進められていた当時の日本は朝鮮戦争に伴う特需景気以降経済成長が著しく、高度経済成長に突き進み始める時代だった。経済成長は急激な工業用水道需要の増大を招いたほか、人口も東京を中心に増加が顕著となり上水道需要も次第にひっ迫するに至った。1957年(昭和32年)には東京都の水源として小河内ダムが多摩川に完成するも、需要はさらに増加し遂には1964年(昭和39年)東京砂漠と呼ばれる東京都大渇水が起きる。また農業技術の進歩は耕地拡大を加速させ農業用水の不足を招き、こうした状況下で1958年(昭和33年)利根川下流域を中心とした昭和33年塩害が発生。農地への被害が甚大となった。こうした理由もあり豊富な水量を持つ利根川水系の水利用が緊急の課題となる。 1961年水資源開発促進法が制定され翌1962年(昭和37年)水資源開発公団、現在の独立行政法人水資源機構が発足。利根川と淀川を対象とした水資源広域総合開発が開始された。公団は利根川水系水資源開発基本計画を策定して水系の水資源総合開発に着手した。まず矢木沢ダム(1967年)と下久保ダム(1968年)を水源とし中流部に利根大堰を建設(1969年)、利根導水路(武蔵水路・朝霞水路)建設により利根川と荒川を連結して東京都水道局の朝霞浄水場へ導水して東京都への水需要を満たす方針とした。これら施設のほか公団は利根川下流に利根川河口堰(1971年)を建設し塩害防止と首都圏の水供給を強化するほか、上流部には群馬用水を建設(1969年)し赤城山・榛名山麓の新規開墾を促進させ、中流部では見沼代用水や埼玉用水路の整備による関東中央部の灌漑強化、印旛沼開発による印旛沼干拓(1968年)、房総導水路(1997年)による房総半島中南部への利水を次々と実施した。さらに日本第二の湖沼である霞ヶ浦も首都圏の水がめとすべく常陸川水門(1963年)を利用してダム化する霞ヶ浦総合開発事業も実施(1996年)。草木ダム(1976年)、奈良俣ダム(楢俣川。1991年)なども完成し首都・東京を中心とした首都圏の治水・利水が強化された。なお利根導水路により利根川水系と荒川水系が連結されたことで、両水系を一体化した総合開発が不可欠になったことから1974年(昭和49年)に利根川・荒川水系水資源開発基本計画と改組された。 利根川は1964年の河川法改訂により一級河川に指定され、以後建設省を中心とした治水事業が継続して実施された。1965年(昭和40年)治水の新指針となる利根川水系工事実施基本計画が策定され、以降数度に及ぶ改定が行われ現在は毎秒2万2000mを基本高水流量として改修を行っている。この間渡良瀬遊水地の調節池化が1997年に完成、さらに遊水地内に貯水池を設けて多目的ダム化する渡良瀬貯水池が1989年(平成元年)完成し治水・利水が強化された。田中調節池(1965年)、菅生調節池(1960年)といった遊水池も完成。ダムでは薗原ダム(1965年)、川俣ダム(1965年)、川治ダム(鬼怒川。1983年)が完成し首都圏の治水・利水に供されている。また内水氾濫の防止、新規用水の確保と水質汚濁が顕著だった手賀沼の水質改善を目的に利根川と江戸川を結ぶ多目的人工河川(流況調整河川)である利根川広域導水事業・北千葉導水路(2000年)が建設された。なおこの事業において利根運河が野田緊急暫定導水路として1978年(昭和53年)に復活している。さらに中川、大落古利根川などの洪水を江戸川に流下させるため2007年(平成18年)には世界最大級の地下河川である首都圏外郭放水路が完成している。 利根川および利根川水系は連綿と続いた治水・利水事業により首都圏および京浜工業地帯・京葉工業地域・鹿島臨海工業地帯などの水源・電力資源として利用され、日本の経済活動上・国民生活上極めて重要な河川として大きな位置を占めている。しかし利根川の治水安全度は100 ‐ 200年に一度の洪水に対処するための整備を行っているがヨーロッパの河川、例えば人口密度が比較的近いライン川の1,250 ‐ 10,000年と比較して低い。また利水については利根川から取水する利水総量毎秒123mのうち、25%に当たる毎秒33m分は利根川の流量が豊富な時にしか取水が許されない豊水暫定水利権での取水となっており、気候変動に伴う降水量の減少で利根川水系8ダムからの用水補給量も20%減少している。こうした治水・利水上の問題を解決するため現在利根川水系河川整備計画の策定が国土交通省により進められているが、その前段階として利根川水系河川整備基本方針が示されている。この方針では堤防・護岸整備や既存の河川施設を維持・整備するほか、八ッ場ダム、湯西川ダム(湯西川)、南摩ダム(南摩川)などの多目的ダム事業、稲戸井調節池(利根川)の掘削・越流堤改築そして利根川放水路の施工を盛り込んでいる。 ===開発と地域摩擦=== 足尾鉱毒事件、沼田ダム計画、八ッ場ダム、中止したダム事業の項目も参照。利根川の河川開発により、流域住民は恩恵を受けた一方で開発に伴う様々な犠牲や、流域住民間さらには自治体間の対立など問題が生じた。 現在の埼玉県熊谷市付近に1592年(天正20年)建設が開始された中条堤は、従来からあった自然堤防を増築するなどして形成された堤防である。この堤防はいくつかの堤防と連携し洪水の際は堤防上流部に貯水を行い、その後水位が低下するとともに自然に利根川へと流出する遊水池の役割も果たす機能を有する。その洪水調節量は毎秒4,000mと現在の利根川上流ダム群に匹敵する処理能力を持ち、容量を超えた分は越流堤を介して忍方面へ流す。このため堤防を境として上流部の上郷地区、下流の下郷地区では堤防の運用について利害が相反し常に対立していた。すなわち上郷地区では中条堤の高さをできるだけ低くして洪水の被害を避けたいとする一方、下郷地区では逆に高くして洪水被害を避けようと考えたため、堤防決壊後の修復では激しく対立した。江戸時代には幕府の絶対的統制下で両地区合同の中条堤組合が作られ、対立は最小限に食い止められたが明治に入り中央の統制力が弱まると、中条堤に替わる新堤防建設を求める上郷と堤の維持・強化を求める下郷が激しく対立。遂には警官隊と住民の衝突や埼玉県知事の不信任決議が埼玉県議会で採択されるなどの事態に発展した。最終的に内務省が利根川改修計画の一環として今日見られる連続堤防方式での治水計画による改修を行ったことにより事態は収拾されたが、高度な治水機能を有していた中条堤の機能はこれにより損なわれた。また利根川改修増補計画以降挙げられていた小貝川付替計画は、新河道のルートとなる北相馬郡布川町(現在の利根町)を中心に猛烈な反対が起こり、1953年(昭和28年)11月には取材に来ていた朝日新聞・読売新聞・毎日新聞などの記者団が大勢の地元住民によって暴行・監禁される事件も発生。最終的に1980年(昭和55年)の治水計画改訂時に付替計画は廃止され、堤防補強を行うことになった。 一方ダムや遊水池建設に伴う住民移転などの犠牲も河川事業の拡大に伴い増加した。渡良瀬遊水地は当初治水に加え足尾鉱毒事件の鉱毒対策として計画されたが、建設予定地に擬された栃木県下都賀郡谷中村(現在の栃木市)の約300世帯を移転させる事態となり、田中正造らの反対運動も起こったが結局土地収用法による強制執行などの手段も駆使した結果村民は各所へ散り、谷中村は廃村となった。また戦後の利根川改定改修計画で計画された藤原ダムでは建設省が地元住民の了解を得ずに工事を開始したことに水没住民が態度を硬化、群馬県の仲裁や新しく赴任したダム工事事務所長の誠意ある態度により軟化するまで激しい反対闘争をひき起こした。片品川の薗原ダムでも老神温泉が一部水没するなどしたため反対運動が激化、当時蜂の巣城紛争として日本全国に知れ渡った松原(筑後川)・下筌ダム(津江川)反対闘争と並び「東の薗原、西の松原・下筌」と表現された。さらに吾妻川の八ッ場ダムでは川原湯温泉水没に地元が猛反発し1952年(昭和27年)の計画発表から現在に至るまで約60年経っても完成できない状況となっている。そして利根川上流ダム群の中核に模されていた沼田ダム計画は、水没世帯数2,200世帯という類例のない規模となることから水没予定地の沼田市のみならず群馬県も反対。1972年(昭和47年)第1次田中角栄内閣により計画は断念された。こうした水没地域への生活保護対策として1973年(昭和48年)水源地域対策特別措置法が施行され、川治ダムなどが指定対象となり補償金かさ上げや地域開発などが行われたほか下流受益地の都県からの拠出金により財団法人利根川・荒川水源地域対策基金が1976年に設立され、水没地域に対する助成が行われている。 他方で広域河川開発に伴う受益地同士による利害対立も顕在化した。利根川改修増補計画で登場した利根川放水路計画はカスリーン台風の被害が深刻だった東京都と埼玉県が強く推進したのに対し、手賀沼や印旛沼などの開発に支障を来たすことを懸念した千葉県との間で意見の相違があり、用地買収や莫大な事業費捻出問題もあり事業は進展しなかった。そのうち放水路建設予定地は宅地化や農地化が高度になされて放水路の建設は極めて困難となり、現在まで未着工となっている。また尾瀬原ダムより利根川水系へ分水する尾瀬分水計画はダム計画自体の環境破壊に対する厚生省(現在の厚生労働省)、文部省(現在の文部科学省)、日本自然保護協会の反対に加えて只見川および合流先である阿賀野川の慣行水利権を持つ福島県と新潟県が分水に反発。分水を求める東京都など一都五県と激しく対立し福島・新潟県側には他の東北五県が加担して尾瀬分水は関東地方対東北地方の政治問題に発展した。この問題は1996年(平成8年)に事業者である東京電力が尾瀬の水利権を放棄したことで終息する。 1990年代以降は環境保護や公共事業に対する厳しい日本国民の視線もあり、ダム事業を始めとする河川開発も批判の対象となった。こうした中で第2次橋本内閣による大規模公共事業縮小や第1次小泉内閣の「骨太の方針」により利根川水系でも戸倉ダム計画(片品川)など多くのダム事業が中止された。そして2009年(平成21年)の第45回衆議院議員総選挙で大勝した民主党はマニフェストに「八ッ場ダム中止」を盛り込み、発足した鳩山由紀夫内閣の国土交通大臣・前原誠司は八ッ場ダム中止だけでなく計画・建設中の国土交通省直轄ダム事業の凍結を発表した。しかしこの方針に下流受益地である東京都など一都五県の知事のみならずダム建設予定地である吾妻郡長野原町や川原湯温泉組合が猛反発し、民主党政権と対立する状況になっている。また高規格堤防(スーパー堤防)について2010年(平成22年)の事業仕分けで廃止が決定されたが、これに石原慎太郎東京都知事が「必要」と異論を唱えている。 2008年(平成20年)に内閣府中央防災会議が発表した資料によれば、カスリーン台風と同じ洪水被害が発生した場合最悪で死者は最大3,800人、罹災者数は160万人に上ると推測している。このため河川工学の専門家からは「八ッ場ダムなどの治水公共事業は必要」とする意見も多い。他方で市民団体が八ッ場ダムなどの事業負担金差し止め訴訟を起こし、係争している。河川事業に対する多様な意見や政府の方針転換などもあり、日本最大級の河川における治水・利水事業は岐路を迎えている。 ==河川施設== 利根川および利根川水系では奈良時代より治水事業が開始され、江戸時代より本格的な利水事業が始まっているが水害は繰り返し流域を襲い、その被害額も次第に顕著なものとなっていた。東京が首都に定められて以降治水安全度の向上や人口増加、工業地帯拡張による水道需要・電力需要の増大、および新田開発や干拓による農地拡大を背景に利根川水系全体を見通した河川開発が求められるようになった。カスリーン台風以後利根川水系は多目的ダムを中心とした河川総合開発事業が展開され、現在利根川水系は日本の国民生活・経済活動上において重要な役割を担っている。本項目では利根川および利根川水系におけるダム、堰、遊水池、水路(放水路、用水路、導水路)、水力発電事業および砂防事業について記述する。 ===ダム・堰=== 記録上、完成年代が判明している利根川水系における最初の堰は1630年完成の岡堰(小貝川)、ダムでは1912年完成の黒部ダム(鬼怒川)と逆川ダム(逆川)の水力発電用ダム群である。洪水調節目的のダムとしては1926年に当時の内務省が鬼怒川改修計画の一環として計画した五十里ダム(男鹿川)が最初であるが、終戦まで着工は見送られた。戦後カスリーン台風を受けて策定された一連の河川総合開発事業によって利根川水系には藤原ダム(利根川)を皮切りに多数のダム・堰が建設・改築され、首都圏の治水・利水に供している。建設中のダムは2019年完成予定の八ッ場ダム(吾妻川)、完成予定が定まっていない南摩ダム(南摩川)がある。 ダムの高さでは奈良俣ダム(楢俣川)、総貯水容量では矢木沢ダム(利根川)が最大。なお丸沼ダム(大滝川)は日本で6基しかないバットレスダムの中では最大規模であり、国の重要文化財に指定されている。なお利根川水系に建設されたダムのうち、首都圏への利水目的を有するダム群については特に利根川水系8ダムあるいは利根川上流8ダムと呼ばれる(下表参照)。これら利根川水系8ダムより供給された水は荒川を経て東京都水道局朝霞浄水場へ給水されるが、朝霞浄水場と東村山浄水場間を結ぶ導水管により、多摩川水系の小河内ダム、山口貯水池(狭山湖)、村山貯水池(多摩湖)との間で水を相互融通して夏季や緊急時に対応している。 2009年の民主党政権誕生を受けて実施された国土交通省管轄のダム事業見直しによって、八ッ場・南摩の両ダムを始め多くのダムが事業再検証対象となり、、倉渕ダム(烏川)など幾つかのダム事業が中止となった。また1990年代以降の公共事業政策見直しに伴い、利根川水系では戸倉ダム(片品川)、川古ダム(赤谷川)、平川ダム(泙川)、栗原川ダム(栗原川)などの大ダム計画をはじめ多くのダム事業が中止された。またこれとは別に「日本最大の多目的ダム計画」であった沼田ダム計画(利根川)や、只見川から片品川へ流域変更して分水する「尾瀬分水」の中核であった尾瀬原ダム計画(只見川)など物議を醸して最終的に中止された事業も存在した。 ===遊水池・水門=== 利根川水系における遊水池としては1919年(大正8年)完成の渡良瀬遊水地(渡良瀬川)が最初である。完成当時の渡良瀬遊水地は自然調節型の遊水池であったが、利根川改修増補計画で洪水調節池として改修が始まり、現在の第一・第二・第三調節池に拡張が完了したのは1997年と約80年にわたる事業であった。利根川本流には増補計画により田中調節池と菅生調節池という2つの遊水池が完成し、現在は稲戸井調節池が拡張事業を行っている。また小貝川は流域が平地主体でダム建設の適地がなく、洪水調節施設は存在しなかったが1986年(昭和61年)の水害で茨城県下館市(現・筑西市)などが浸水被害を受けたため、1990年に流域初となる洪水調節施設・母子島(はこじま)遊水池が建設された。利根川水系には大規模な遊水池が建設中のものを含めて5箇所存在し、一級水系では随一である。 一方水門は明治時代以降の利根川改修計画において、利根川本流の洪水が支流や湖沼に逆流するのを防止するため建設されたものが多いが、当時は水運が盛んだったこともあり通行を妨げないための閘門も多く備えられていた。現存する日本最古の閘門・見沼通船堀閘門や国の重要文化財に指定されている横利根閘門(横利根川)といった土木史的に貴重なものもある。戦後は河川総合開発の観点で常陸川水門(常陸利根川)といった湖沼の水位を調整し治水のほか利水にも役立てる多目的の水門が建設されている。 ===放水路・分水路=== 利根川は江戸時代の利根川東遷事業以降河川の付替えが活発に実施されたが、河水を安全に流下させたり、平野部を流れる支流や分流の内水氾濫を防ぐ目的で放水路や分水路の建設も積極的に実施された。1920年に江戸川放水路が開削されたのを皮切りに、主に江戸川・中川流域を中心にした放水路の建設が進められた。 特に中川については平地主体でありダム建設の適地がないこと、下流に比べ上流域の流域面積が広く洪水の際には東京都内を中心に浸水被害の危険性が高く、カスリーン台風や狩野川台風(1958年)で大きな被害を受けていることもあり放水路による治水対策が堤防建設と共に図られた。1933年に東京都と埼玉県が中川・綾瀬川・芝川三川総合改修増補計画に基づいて中川、綾瀬川、芝川(荒川水系)に放水路を建設する計画を立て、戦争による中断を挟み1962年に中川と芝川の事業を完成させた。この時に開削されたのが中川と旧江戸川を繋ぐ新中川放水路(新中川)である。その後も内水氾濫防止を目的に中川と江戸川を連結する放水路整備が進められ、三郷・幸手・綾瀬川放水路さらには世界最大級の地下河川である首都圏外郭放水路が建設されており、中川流域には5本の放水路が存在している。また利根川水系の各支流に合流する中小河川において、各自治体による河川改修による放水路が建設されている。 一方利根川本流に計画されている利根川放水路は1938年の利根川改修増補計画で我孫子市から印旛沼を経由し検見川を結ぶ昭和放水路計画として初登場し、以後利根川改訂改修計画・利根特定地域総合開発計画でも採用されたが莫大な事業費と流域の都市化による補償問題の難航が予想されることで手付かずとなり、長らく「幻の計画」であった。この間印旛沼の治水を目的に印旛放水路が建設されているが、利根川水系河川整備基本方針によって長門川・印旛放水路を拡幅し、印旛沼を洪水調節池に利用する形で利根川下流の治水を図る新放水路計画として再度事業化の方向性が示されている。なお、霞ヶ浦から与田浦・外浪逆浦を経由して鹿島灘へ洪水を放流する霞ヶ浦放水路計画が増補計画や改訂改修計画で立案されたが、河口の維持や財政確保の困難さにより計画は中止され、常陸利根川の河道拡幅が代替事業として実施されている。 ===用水路・導水路=== 利根川水系における用水路事業は、1526年(永正18年/大永元年)に長野業正が拡張した烏川の長野堰用水が記録上の初見となる。江戸時代には関東郡代伊奈氏や井沢為永といった幕臣により備前渠用水、葛西用水路、見沼代用水などの大規模農業用水路が整備され、新田が飛躍的に開発された。戦後の食糧増産体制や農業技術の進歩による耕地拡大で農業用水不足が顕在化し、対策として両総用水や大利根用水、さらに利根川上流ダム群を水源とする房総導水路などが建設された。また従来からある農業用水路の合理化・取水口の統廃合も行われ(合口)、埼玉用水路・邑楽用水路・坂東大堰用水などの合口用水路も整備された。地域における重要な水道施設である用水路のいくつかは、疏水百選に認定されている。 一方導水路としては武蔵水路が荒川との間を連結する形で建設され東京都に水道を供給するほか、治水・利水・手賀沼浄化を目的とした北千葉導水路が利根川・江戸川間を連結している。北千葉導水路建設に先立ち利根運河が「野田緊急暫定導水路」として代替役割を担う形で1978年に復活、北千葉導水路完成後も地域の憩いの場として整備されている。ただし利根川と霞ヶ浦、そして那珂川を連結して霞ヶ浦の浄化と首都圏への新規利水を目的に建設中の霞ヶ浦導水事業は、那珂川の水質悪化を懸念する栃木県・茨城県那珂川漁業協同組合が事業差し止め訴訟を起こすなど頑強な反対運動を起こしており、事業は進捗していない。 ===水力発電事業=== 水力発電、揚水発電、電力会社管理ダム#東京電力の項目も参照。利根川および利根川水系における水力発電事業は、日本の水力発電史とともに歩んでいる。日本最初の水力発電所は、1888年(明治21年)に宮城県の宮城紡績会社が運転を開始した自家発電用の三居沢発電所であるが、2年後の1890年(明治23年)8月に下野麻紡績が運転を開始した自家発電用の所野発電所(15kW。廃止)が、利根川水系最初の水力発電所となる。同年12月には足尾銅山自家発電用の間藤発電所(廃止)が運転を開始。続いて日本初の商業用水力発電所である京都府の蹴上発電所運転開始(1891年)から2年後の1893年(明治26年)には商業用としては利根川水系初となる日光発電所が日光電力の手で運転を開始した。日光発電所は現在東京電力日光第二発電所として110年以上経た今日も稼働しており、利根川水系において現役で運転している水力発電所としては最古のものである。 大正以降における利根川水系の水力発電事業は、日清・日露戦争以降の電力需要急増により日本各地で電力会社が乱立する中で他地域と同様に多くの電力会社が設立され、競争や合併を繰り返していく。この中で鬼怒川水力電気は鬼怒川上流部での電力開発に取り組み、1912年日本初の発電専用のコンクリートダムである黒部ダムを鬼怒川本流に建設、下滝発電所(現・鬼怒川発電所)が稼働する。群馬県内では東京電燈や関東水力電気などが利根川水系の水力発電開発を進め、当時としては屈指の出力である6万6000kWの佐久発電所などが運転を開始する。しかし1939年(昭和14年)電力管理法制定により日本発送電が、1941年配電統制令発令により関東配電が発足すると、各電力会社は戦時体制の下強制的に合併させられ水力開発は一時的に停滞する。 戦後1951年に利根特定地域総合開発計画が策定され利根川水系は多目的ダムに付随した水力発電所が建設されるが、同年電気事業再編成令で日本発送電が分割・民営化され、関東配電と合併する形で東京電力が発足。戦前より計画された奥利根・鬼怒川上流の電力開発を進めた。高度経済成長期に入り火力発電が主力となると、これを補完するため揚水発電が注目され1965年には利根川最上流部に混合揚水発電である矢木沢発電所の運転が開始される。1982年(昭和57年)には利根川水系初の100万kW級揚水発電所・玉原発電所が完成。1988年(昭和63年)には鬼怒川流域に今市発電所の運転が開始され、2005年には信濃川水系も利用する神流川発電所の運転が一部開始された。神流川発電所は全面稼動すれば282万kWと日本最大の水力発電所となる。新規に計画されている水力発電所としては八ッ場ダムの目的に水力発電が2008年に追加され、出力1万1400kWの水力発電所が計画されているがダム事業見直し(前述)で事業は進捗しておらず、ダム反対派からはその効果を疑問視されている。 現在利根川水系で最大の水力発電所は出力120万kWの玉原発電所である。事業者としては東京電力のほか公営企業の群馬県企業局と栃木県企業局がある。特に多目的ダムの水力発電事業に参加しており、八ッ場ダムの水力発電事業は群馬県企業局が事業者である。民間企業では日本カーリットが同社群馬工場への送電を目的として利根川筋に広桃発電所を有するほか、足尾銅山間瀬原動所以来大谷川・渡良瀬川流域で水力発電事業を展開していた古河グループ系列・古河電気工業の子会社である古河日光発電が、関連企業への送電などを目的とする水力発電所を有している。特殊な所では日光二社一寺(日光東照宮、日光二荒山神社、日光山輪王寺)の自家発電用として二社一寺協同組合が管理する滝尾発電所が存在する。なお水力発電所の所在には流域偏在があり、利根川本流・吾妻川・片品川・渡良瀬川・鬼怒川流域に多く存在する一方、烏川流域は神流川を除く(烏川・鏑川・碓氷川)と少ない。また流域が平地主体の江戸川・中川および常陸利根川流域には水力発電所が存在しないが、小貝川については霞ヶ浦用水の南椎尾調整池と小貝川間を結ぶ導水管の落差を利用したマイクロ水力発電として出力110kWの小貝川発電所が水資源機構によって2011年(平成23年)筑西市において運用を開始した。 ===砂防事業=== 利根川流域では浅間山、赤城山、榛名山、男体山など多くの火山が存在し、これらが活発な火山活動を繰り返すことで火山灰などの堆積物や風化しやすい花崗岩、安山岩などの地質を形成している。また褶曲(しゅうきょく)や断層などが複雑に入り組み、河川による侵食もあって堅固とはいえない状態である。このため崩壊、禿しょ(とくしょ。はげ山のこと)地、滑落崖地の増大といった山地の荒廃が進んでおり、利根川水系では谷川岳周辺、男体山・赤城山・足尾、浅間・草津白根一帯が「重荒廃地域」に、日光・上信越、多野・秩父地域が「一般荒廃地域」として国土交通省砂防部より指定されている。 利根川流域の土砂災害で顕著なものとしては1783年(天明3年)の浅間山大噴火による吾妻川火山泥流災害(死者1,500人以上)、1910年の明治43年8月洪水による吾妻川・烏川流域の土石流災害(死者212人)、1935年(昭和10年)9月の烏川土石流災害(死者51人)、カスリーン台風による赤城山土石流災害(死者420人)が挙げられる。また渡良瀬川流域では足尾銅山から排出される亜硫酸ガスによる煙害や鉱石巻上げの動力源として薪炭を使用するための森林乱伐、さらに1887年(明治20年)4月8日の松木大火によって源流部は草木が全く生育しない禿しょ地になっていた。このため洪水による土砂被害は著しく現在の渡良瀬遊水地付近にあった赤麻沼は堆砂が激しくなった。日光の大谷川流域では稲荷川を中心とした男体山系の崩壊が著しく、1902年(明治35年)には足尾台風による大谷川・稲荷川の土砂災害や洪水で死者156人を出し、日光東照宮の神橋が流失した。以後も大雨による土砂災害が反復して襲ったほか、1949年(昭和24年)12月には直下型の今市地震が発生し思川上流域で425箇所におよぶ土砂崩落が発生した。そして鬼怒川上流部では現在の五十里ダム上流部に当たる海尻付近で1683年(天和3年)10月20日に発生した南会津地震により、男鹿川右岸の葛老山が380万mに及ぶ量の地滑りを起こし、高さ70mの天然ダムが誕生。ダムは40年にわたり男鹿川を堰き止めその総貯水容量は6400万mと現在の五十里ダムよりも大きい貯水池を形成し、付近の五十里集落が水没する被害を出したほか1723年(享保8年)9月9日集中豪雨によってダムが決壊、現在の宇都宮市にまで濁流が押し寄せる被害を与えている。 こうした土砂災害を防ぐべく、明治時代より国主導による砂防事業が利根川流域でも実施された。記録上では1882年(明治12年)に内務省土木寮利根川出張所が榛名山で行ったのが初出だが、1897年(明治30年)3月砂防法が施行されると本格的な事業となった。その端緒となったのが栃木県営で実施された日光の稲荷川砂防事業が1899年(明治32年)より3年間継続実施され、巨石積の砂防ダムが建設されている。しかし1902年(明治35年)の台風で砂防ダムはことごとく破壊され、日露戦争もあって中断を余儀なくされた。1919年(大正8年)には同じ稲荷川で利根川水系初となるコンクリート製の砂防ダム、稲荷川第二砂防ダムが建設された。また1937年(昭和12年)には日向砂防ダムが完成するが、戦後2度にわたるかさ上げを行い高さ46m、計画貯砂量150万mの巨大砂防ダムとなった。また大谷川本流には床固工54基に及ぶ大谷川中流流路工を1971年(昭和46年)に建設。蛇行した流路の直線化も行い大谷川下流の土砂災害を防いでいる。さらに男体山には大薙山腹工を建設し男体山東南斜面の地滑りを防ぐ工事を行っている。 足尾銅山周辺の渡良瀬川上流域では足尾鉱毒事件の社会問題化もあり政府は古河鉱業に対し鉱毒予防命令を出し、1897年(明治30年)から9ヵ年にわたる土砂災害防止対策を行わせた。しかし植林は全て失敗し禿しょ地は改善されない傾向が続き根本的な砂防対策が求められ、1936年(昭和11年)足尾砂防ダム計画が立案された。高さ37m、計画貯砂量500万mという日本最大級の砂防ダム計画は1950年(昭和25年)に着工され、1967年(昭和42年)に完成する。この他烏川、神流川、片品川、赤城山渓流などで国土交通省や流域自治体による砂防事業が継続的に実施されている。これにより大規模な土砂災害は減少したものの、足尾銅山の煙害などによる渡良瀬川上流の植生は未だ完全な回復を見ていない。 ==水質== 利根川水系の水質は、河川と湖沼で傾向に違いが見られている。また吾妻川といった自然由来の水質汚染もかつては問題とされていた。以下水質の動向について河川と湖沼を分けて詳述する。 ===河川の水質=== 吾妻川中和事業についての詳細は品木ダムを参照。利根川水系の河川における水質について、利根川本流は久喜市栗橋における計測で2009年(平成21年)の平均値で生物化学的酸素要求量 (BOD) が1.3mg/lとおおむね良好な水質が保たれている。主要な支流では烏川、渡良瀬川、鬼怒川、小貝川、江戸川では利根川同様水質はおおむね良好な数値を維持しているが、都市部を流れる支流については水質が良いとは言いがたい。 特に中川と支流の綾瀬川については高度経済成長に伴う流域の都市化で、生活排水が流入。下水道整備も未熟だったこともあって急速に水質汚濁が進行した。両河川のBOD平均値は1989年(平成元年)時点において中川は7.3mg/l、綾瀬川に至っては17.8mg/lと「ドブ川」の体であり国土交通省が毎年発表する一級河川の水質現況においてワーストランキングで綾瀬川は1980年(昭和55年)から実に15年間「日本一汚い川」に名を連ねる不名誉な状況が継続していた。このため埼玉県などの流域自治体において中川・綾瀬川浄化のための諸施策を講じた結果水質は著しく改善。2009年段階のBOD平均値は中川で3.0mg/l、綾瀬川で3.8mg/lと水質改善度は最も高かった。しかしワーストランキングからの脱却は果たせず、日本の主要な国土交通省管理(指定区間外)の一級河川165河川中で綾瀬川は日本一、中川は日本第2位の汚い川に位置している。 利根川水系全体を俯瞰した場合、BOD平均値が最も低い「清流」は神流川である。一方最も汚染が激しいのは足利市を流れる渡良瀬川の支流、松田川の下流部でBOD平均値は15.0mg/lと都道府県管理(指定区間)を含む一級河川の中では日本一の汚染度であり、江戸川支流の真間川に注ぐ春木川 (10mg/l) と国分川 (9.2mg/l) はそれぞれワースト3位と4位の汚染度となっている。なお、足尾鉱毒事件による重金属汚染が問題化した渡良瀬川については現在も継続的な水質調査が実施され、特に首都圏の水がめである草木ダムについては管理者の水資源機構が灌漑期(夏季)には毎日、非灌漑期(冬季)には毎週厳重な水質監視を続けている。銅、砒素や鉛などを始めとする人体に影響を与える可能性のある化学物質については、銚子市を流れる高田川が化学肥料などの影響で硝酸性窒素の値が環境基準値を超過した以外は利根川水系で問題となる指標は検出されていない。しかし2011年(平成23年)の東日本大震災に伴う東京電力福島第一原子力発電所事故による放射性物質の拡散で江戸川から取水している金町浄水場などから放射性ヨウ素が乳児摂取許容量を一時超過、さらに印旛郡栄町の利根川河川敷においてセシウムが基準値を上回る計測値が検出されている。 一方自然環境が原因の水質汚染も存在した。群馬県を流れる利根川の支流・吾妻川は流域に草津温泉・万座温泉や硫黄鉱山が存在し、この一帯を水源に持つ万座川や白砂川といった吾妻川支流は河水の酸性度が高かった。特に白砂川支流の湯川は草津白根山を水源とすることからpHは平均1.8と希塩酸や希硫酸並の酸性度であった。こうした酸性河川が吾妻川に流入するため吾妻川の酸性度も高く、鉄釘は10日でほぼ溶解、コンクリートは30日で30%近く減量するなど河川工作物への影響も大きかった。魚類は全く生息せず、農業用水にも不適で合流後の利根川の水質悪化も招き、「死の川」と形容されていた。このため群馬県は世界初の河川中和事業である吾妻川中和事業を1961年(昭和36年)より開始、湯川などに中和工場を建設して石灰を投入し下流の品木ダムで中和する対策を講じた。これにより吾妻川の酸性度は改善され、魚類も生息する河川へと蘇った。中和事業は現在国土交通省による直轄事業となり、老朽化した施設の改築や万座ダムなどの万座川中和を含めた吾妻川上流総合開発事業が計画されているが、民主党鳩山由紀夫内閣によるダム事業見直しに伴い同事業は見直し対象となっている。 なお、利根大堰から取水される武蔵水路は荒川へと導水されるが、この利根川の河水を利用した隅田川の水質改善も行われた。1961年(昭和36年)当時の隅田川はBODが38mg/lと水質汚濁が激しくメタンガスも湧出する河川だったが、利根大堰建設における目的の一つとして隅田川浄化が挙げられ、利根川上流ダム群より利根大堰、武蔵水路を経由し秋ヶ瀬取水堰(荒川)で朝霞水路に導水された利根川の河水は新河岸川へ放流され、隅田川に導かれる。同時に下水道整備も実施されたことで隅田川のBODは1975年(昭和50年)には環境基準を下回り、2002年(平成14年)には4.9mg/lにまで改善された。これにより1961年(昭和36年)に中断した早慶レガッタの隅田川開催が1978年(昭和53年)に復活するなど、隅田川の水質改善には利根川が大きく関わっている。 ===湖沼の水質=== 湖沼については化学的酸素要求量 (COD) で水質が主に計測されるが、鬼怒川流域の中禅寺湖や湯ノ湖、および奥利根湖などを始めとする利根川水系の人造湖に関してはおおむね良好な水質であるのに対し、下流の湖沼については水質汚濁が顕著で河川よりも深刻となっている。 霞ヶ浦を始めとする利根川下流部の湖沼は、河川の水質汚濁同様高度経済成長に伴う都市化と下水道整備の遅れによる生活排水や畜産、農業関連の排水が処理されずに流入し、河川と異なり水域内に長期間滞留することで水質汚濁が遷延化した。2009年の環境省調査では北浦が宮城県の伊豆沼と共に汚染度ワースト1となったほか、10位までに霞ヶ浦・常陸利根川(同率3位)、手賀沼・印旛沼(同率5位)、牛久沼(7位)が入り、ワースト10の中に利根川水系の湖沼が6箇所も入るという不名誉な状態となっている。こうした水質汚濁により霞ヶ浦では特産のワカサギ漁が衰退するなど漁業資源にも深刻な影響を与えた。 このため河川浄化の取り組みが国や地方自治体によって進められている。特に手賀沼については清浄な利根川の河水を導水して水質改善を図るため1972年(昭和47年)より利根川広域導水事業が治水・利水目的を含めた河川総合開発事業として実施され、1978年(昭和53年)に野田緊急暫定導水路(利根運河)、2000年(平成12年)に北千葉導水路が完成。手賀沼に毎秒10mを導水することで水質改善を図った。また1984年(昭和59年)には水質汚濁防止法を湖沼に特化した湖沼水質保全特別措置法(湖沼法)が制定され日本の11湖沼が指定。利根川水系では北浦・常陸利根川を含む霞ヶ浦、手賀沼および印旛沼の3湖沼が指定、水質汚濁防止の施策や規制が流域自治体で採られている。こうした施策により手賀沼の水質は2003年(平成15年)以降7年連続で水質が日本一改善された湖沼となり、導水路の効果は実証されたがその他の湖沼においては改善に乏しい状態が続いている。このため国土交通省では関東一の清流である那珂川の河水を霞ヶ浦に導水して水質改善を図る霞ヶ浦導水事業を施工しているが、栃木・茨城両県の那珂川漁業協同組合が那珂川の水質悪化を理由に反対している(前述)。 ==交通== 利根川流域における交通手段は奈良時代から江戸時代に掛けては水運を主とした水上交通網が発達していたが、明治時代以降道路・鉄道による陸上交通網が整備されるのに伴って水運は衰退。現在は流域を縦横に道路網・鉄道網が高度に発達しており、交通・物流の面からも利根川流域は幾つもの要衝を抱える重要な位置を占めている。以下水運、道路、鉄道の利根川流域における発達について述べる。 ===水運=== 利根運河の項目も参照利根川における水運の歴史は835年(承和2年)6月29日の太政官符において、利根川旧河道である現在の隅田川に常設の渡船が存在し物流を行っていたことが確認されるほか、『万葉集』巻十四・三三八四番の和歌にも帆掛舟による水運が行われていたことを示唆する文言が記されている。鎌倉時代から室町時代に掛けて関東地方に貨幣経済が浸透すると市場が発展、関東各地の特産品が水運を利用して京都方面へ流通しており、『旧大禰宜家文書』・『香取文書』により1372年(応安5年)から1419年(応永26年)に掛けて8箇所の水路関所が設置され、商船から津料を徴収していた。戦国時代に入ると後北条氏が関東に勢力を伸ばすが、当時軍事・水運の要衝であった関宿城を巡る攻防が繰り広げられる。関宿城は3代当主・北条氏康が『喜連川文書』において「一国を獲るに等しい」と評価した要衝であり、城主の簗田晴助・持助父子と争った末1572年(天正2年)氏康の跡を継いだ北条氏政が落城させ、付近一帯を直接の支配下に置いた。以後利根川水系の水運は後北条氏の支配下となり、氏政の弟である北条氏照による判物で航路の拡大が見て取れる。 江戸時代に入ると、幕府は後北条氏の整備した水運航路を整備・拡大する一方で江戸防衛の観点から利根川への架橋を禁止し、代わりに渡船の設置を行った。しかしこの渡船についても1616年(元和2年)8月の御触書で幕府指定の「定船場」と呼ばれる渡船場以外での渡船を厳禁とした。この時定められた定船場は上野国白井渡から下総国神崎までの15箇所である。一方で利根川を物流の大動脈として利用するための整備が利根川東遷事業と連携して幕府によって実施され、1671年(寛文11年)河村瑞賢による東廻り航路整備を機に利根川は江戸への廻米には欠かせない航路となり、東遷事業以降東北・北関東諸藩の廻米が本格化した。水戸藩では3代藩主・徳川綱條が1706年(宝永3年)松波勘十郎良利を登用、松波は涸沼と北浦を連結して那珂湊から直接利根川への水運を図る勘十郎堀を着工したが、激しい農民一揆が起こり勘十郎堀は未完に終わっている。また見沼代用水を利用した見沼通船堀が1731年開削され、利根川中流の物流が強化された。 この廻米を輸送・備蓄するための拠点として河岸の整備も同時に行われた。1599年(慶長4年)に伊奈忠次が権現堂河岸を設けたのを皮切りに、水運遡行の上流端で中山道と連絡する上野国倉賀野河岸(高崎市)から河口の飯沼河岸(銚子市)まで利根川本流・支流の各所におびただしい数の河岸が設けられ、銚子や足尾などから高瀬舟で各河岸へ年貢米や足尾銅山の銅、特産物が輸送された。河岸の発展に伴い荷の積み下ろしを生業とする河岸問屋が成立し、そこに旅籠など様々な店舗が開業して人口が増加し一つの町が形成された。例えば下総国境河岸(猿島郡境町)では1785年(天明5年)時点で409戸、1,851人が暮らしている。しかし河岸の多くは市場構造や商品流通構造の変化、さらに河川が運搬する土砂による航行の支障などがあり盛衰を繰り返し、荷物の運搬を巡る河岸間の紛争も続発。最終的に水戸街道に近く那珂川水運で運搬された荷物の運搬に至便な下総国布施河岸(我孫子市)が1724年(享保8年)に幕府評定所の裁決で公認ルートとして認可され、鬼怒川・利根川下流の物流を独占して繁栄した。 明治に入っても引き続き利根川の水運は活発で、1871年(明治4年)には汽船が就航。内国通運(現日本通運)の通運丸など数十隻の汽船が利根川を航行した。こうした中1878年(明治11年)に内務卿・大久保利通は北上川から東京湾を結ぶ内陸運河構想を『一般殖産及華士族授産ノ儀ニ付伺』として太政大臣・三条実美に建議した。この構想では印旛沼を利用した運河建設が提案されていたが紀尾井坂の変で大久保が暗殺された後、茨城県令・人見寧が1884年(明治17年)5月に『茨城県五工事起業提言』を太政官に提出。大久保の印旛沼運河に替わる運河として利根運河の建設を提案した。これに対し千葉県は当初反対したが、当時利根川改修計画を進めていた内務卿・山田顕義が予定地視察後に運河建設をヨハニス・デ・レーケ、後に改修計画立案の中心となるローウェンホルスト・ムルデルに命じると賛成に転じ、1888年(明治21年)運河工事が開始された。1890年に完成した利根運河の開通で東京 ‐ 鬼怒川・銚子間航路は従来の関宿経由に比べ38kmの航路短縮と、3日の行程を1日に短縮する効果があり利用船舶は激増。翌1891年には1日平均103隻、年間3万7594隻が航行している。運営には利根運河株式会社が設立され、運河の管理を行っていた。 しかし鉄道や道路整備といった陸上交通網の発達(後述)は次第に水運自体を衰退させ、利根運河も1935年には1日平均20隻以下にまで利用船舶が落ち込み、1941年7月洪水で堤防が決壊し運河自体の使用が不能になった。河川管理者の内務省は利根川改修増補計画の一環として利根運河の放水路化を計画し、利根運河株式会社から運河を買収するが放水路計画自体が頓挫し、運河は1978年に野田暫定緊急導水路として復活するまで事実上廃川となった。また汽船も1939年末までに全廃され、渡船も最盛期の1884年には利根川に89箇所、江戸川に28箇所の渡船場があったがモータリゼーションの発達で次第にその姿を消していく。現在も運航している渡船は伊勢崎市の島村渡船(伊勢崎市営)、熊谷市と邑楽郡千代田町を結ぶ赤岩渡船(埼玉県道・群馬県道83号熊谷館林線)、取手市の小堀の渡しなどわずかしかない。また江戸川には伊藤左千夫の小説『野菊の墓』や映画『男はつらいよ』、細川たかしの演歌などで知られ松戸市と葛飾区を結ぶ矢切の渡しが、潮来市・香取市では水郷巡りとして観光用の船が運航している。 ===道路=== 利根川流域の道路交通については、後北条氏が本拠である相模国小田原城と関東各地の主要な支城を結ぶ軍事的交通網の整備を進めたのが発祥となる。その後江戸幕府は江戸日本橋を起点とする五街道の整備を進め、利根川流域では奥州街道、日光道中、中山道が整備された。またこれとは別に水戸街道、佐倉街道が利根川流域において整備されている。奥州街道、日光道中、水戸街道については利根川を渡河するが、利根川への木造橋梁の架橋は禁止されていた。このため舟橋が設けられたがこれも期間限定的で、史料上確認されているのは『慶長記』に記された1600年(慶長5年)の栗橋における舟橋と、『房川御船場図』に記された将軍の日光社参拝で臨時に架橋された1843年(天保14年)の栗橋における舟橋程度しかない。橋梁の代わりに設けられたのが幕府公認の定船場15箇所で(前述)、その後流通の発達に伴い河岸の整備が進み、河岸より荷揚げされた荷物を運搬するための街道整備が行われた。 明治に入り道路交通網の整備が進むが、利根川に本格的な道路橋が架橋されたのは1885年(明治18年)の前橋市街の利根橋であり 、続いて前橋と渋川を結ぶ坂東橋が1901年(明治34年)に完成している。中流部では1922年(大正11年)に木造として熊谷・太田間に架橋された刀水橋があり、1924年(大正13年)には栗橋・古河間に利根川橋が架橋され、以後坂東大橋(1926年)、大利根橋(1930年)、上武大橋(1934年)が相次いで架橋された。こうした道路橋の建設により従来利根川の主要な交通手段であった水運は陸上交通へと取って代わり、水運は衰退していく。開通当初は砂利道であったが、利根特定地域総合開発計画において旧奥州街道・日光道中である国道4号や旧水戸街道である国道6号の整備も盛り込まれたことで、道路幅員の拡張や舗装といった道路整備が行われ北関東と南関東を結ぶ重要な道路交通網として利用されている。利根川本流に架かる道路橋の上流端は矢木沢ダム直下にある東京電力の管理用の橋(名称不明)、下流端は河口の直上流にある国道124号銚子大橋である。 利根川流域には国道4号、国道6号を始め国道14号(千葉街道)、国道16号、国道17号、国道18号(中山道)、国道50号、国道51号、国道119号(日光街道)、国道120号(沼田街道)、国道121号(日光例幣使街道)、国道122号(会津西街道)などの国道を始め、おびただしい数の県道が縦横無尽に走行している。また高速道路網整備により、利根川本流には上流より関越自動車道、北関東自動車道、東北自動車道、常磐自動車道、東関東自動車道が、支流には上信越自動車道が渡河しており関東と東北・北陸地方を結ぶ重要な交通網となっている。しかし交通量の増加に伴って主要な橋梁では交通渋滞が多く発生、対策として群馬大橋、新上武大橋、新利根川橋などのバイパス道路や下総利根大橋有料道路などの有料道路橋の整備が行われている。 このほか利根川には自転車専用道路も存在する。特に中流部から下流部にかけては堤防上の管理用道路を利用したサイクリングコースが自治体などにより整備されている。一例としては行田市から加須市までの間、総延長16.7kmに及ぶ利根サイクリングコースがあり、2箇所のサイクリングセンターで自転車の無料貸し出しも行われており多くの市民が利用する。対岸には渡良瀬川から利根川に沿って整備された自転車道路、茨城県道503号古河坂東自転車道線がある。県道の自転車専用道路は珍しい。 ===鉄道=== 1872年(明治5年)の新橋駅 ‐ 横浜駅間における鉄道開業以降、関東地方では急速に鉄道網の整備が進められた。1880年(明治14年)には日本初の私鉄である日本鉄道が発足。1883年(明治16年)に上野駅 ‐ 熊谷駅間を開通させたのを皮切りに翌1884年には高崎駅 ‐ 前橋駅間が、1891年(明治24年)には日本鉄道奥州線(現・東北本線)、1895年(明治28年)には日本鉄道土浦線(現・常磐線)が田端駅 ‐ 土浦駅間で開通した。こうした鉄道網発達に伴い利根川にも鉄道橋梁が建設され、1885年(明治18年)に利根川初の橋梁である東北本線利根川橋梁が完成、続いて1896年(明治29年)には常磐線利根川橋梁が完成した。 日本鉄道による東北本線の建設に際しては、利根川の架橋工事の問題が沿線の開発と並んで問題となった。大宮から分岐して宇都宮へ向かう実際に採用された案(甲線)と、熊谷から分岐して館林・佐野・栃木を経て宇都宮へ向かう案(乙線)が提案され、栃木県では県南部の開発をにらんで乙線を推進し、甲線は栗橋において利根川に長大な架橋を必要として工事が難しいことを訴えて運動を行った。しかし、両者を比較測量した結果、乙線では甲線に比べて新設する区間は5マイル(8km)短いが、大宮 ‐ 熊谷間21マイル(33.6km)が加算されて全体としては遠回りになること、甲線は利根川に長大架橋が必要なものの大きな橋はそれ1箇所で他は工事が難しくないのに対して、乙線は多数の橋梁を必要として結果的に建設費が高く、また架橋の完成まで甲線は船で連絡して仮営業できるが乙線は鉄道が多くの区間に分断されて仮営業が難しいこと、全体の工期が甲線の方が短いことなどから甲線がよいと結論し、利根川橋梁の建設に繋がった。 日本鉄道による利根川流域の鉄道網整備は他社を刺激し、以後続々と鉄道の敷設が進む。1894年に総武鉄道(現・総武本線)、1897年(明治30年)に成田鉄道(現・成田線)、1903年(明治36年)に東武鉄道伊勢崎線の利根川橋梁が完成し3年後の1906年(明治39年)羽生駅 ‐ 川俣駅間が開通。1911年(明治44年)に千葉県営鉄道野田線(現・東武野田線)、1916年(大正5年)には流山軽便鉄道(現・流鉄)がそれぞれ運行を開始した。こうした鉄道網の整備は道路網の整備と並行して進められており、陸上交通網が発達することで水運から輸送の座を奪った。特に千葉県営鉄道野田線と流山軽便鉄道の開通はそれまで水運を利用していた野田の醤油、流山のみりん製造業が鉄道輸送に切り替えたことで水運業者は大打撃を受け、後に利根運河が廃止される一因にもなった。また1889年に開通した両毛線は沿線の栃木県足利市や群馬県桐生市の織物業輸送に利用され、鬼怒川方面からの流通が水運から離れたことも水運衰退の要因となっている。 利根川流域の鉄道網は戦後に入ると東京への通勤に利用するための鉄道網整備が進められ、複線化や複数の鉄道会社による相互乗り入れなどによる路線拡充が行われたほか、新規路線の整備も進められ2005年の首都圏新都市鉄道つくばエクスプレス開通まで多くの鉄道路線が整備された。利根川における橋梁で最も新しいのがつくばエクスプレス利根川橋梁である。現在利根川本流を渡河する鉄道路線は上流から上越線、両毛線、東武伊勢崎線、東武日光線、東北本線、東北新幹線、つくばエクスプレス、常磐線、鹿島線があり、流域内には東日本旅客鉄道の上越新幹線、北陸新幹線、信越本線、吾妻線、高崎線、八高線、武蔵野線、日光線、水戸線、総武本線、成田線、京葉線が走行し、私鉄では先述の東武鉄道、流鉄のほか京成電鉄、新京成電鉄、東葉高速鉄道、北総鉄道、銚子電鉄、秩父鉄道、上信電鉄、上毛電鉄、わたらせ渓谷鐵道、真岡鐵道、野岩鉄道、関東鉄道、鹿島臨海鉄道といった私鉄各社の本線・支線が縦横に走行している。また地下鉄では都営新宿線、東西線が江戸川下流域を走行する。これらの鉄道路線は特に利根川以南の路線で年間の利用旅客数が多く、カスリーン台風のような大水害が発生すれば首都圏の鉄道網が大規模に寸断される危険性がある。 鉄道に関しては河川開発による路線変更例がある。草木ダムでは当時の国鉄足尾線(現・わたらせ渓谷鐵道)の一部区間が水没するため、事業者の水資源開発公団と国鉄の間で特殊補償交渉が行われた。最大の問題点はダムによって水没する草木駅の存廃であったが、結果的にダム湖右岸部に草木トンネルを建設し神戸駅 ‐ 沢入駅間を繋ぐことになり、草木駅は廃止された。吾妻線に関しては八ッ場ダムの建設により路線の一部が水没するため、岩島駅 ‐ 長野原草津口駅で線路付け替え工事が行われ川原湯温泉駅は移転した。また沼田ダム計画の折には上越線の一部区間と沼田駅、岩本駅が水没するためダム湖沿いに新路線と新沼田駅の建設が予定されていたが、1972年にダム計画が中止となるに及んでこれらの路線変更計画も白紙となった。上越新幹線は関越自動車道とともに沼田市街地を大きく迂回しているが、これは沼田ダム建設が念頭にあったという新潟大学名誉教授(河川工学)の大熊孝による指摘がある。 なお、利根川上流域に当たる群馬県と新潟県、長野県境は勾配が急なため、鉄道の敷設に関し特別な対策が取られていた。上越線上りでは湯檜曽川沿岸を走る土合駅 ‐ 湯檜曽駅間にループ線が設けられている。一方信越本線では碓氷川沿岸を走る横川駅 ‐ 軽井沢駅間にアプト式ラックレールを用いたラック式鉄道を1893年(明治26年)より日本で唯一採用していたが、1963年に廃止されている。 ==観光== 利根川流域には自然公園が多く存在し、その中に山、湿原、峡谷、滝、湖沼などの景勝地や温泉が存在する。また多くの文化財や観光地も存在する。これらの多くは先述した道路網や鉄道網の発達で首都圏からの交通アクセスも至便であることから、多くの観光客が訪問する。また河川施設や河川自体についても地域の観光資源や身近なレクリェーションスポットとして多くの市民に利用されている。 自然公園としては三国山脈、浅間山、草津白根山などを含んだ上信越高原国立公園、日光・鬼怒川を始めとした日光国立公園、至仏山・片品川源流の尾瀬国立公園といった国立公園、妙義山・荒船山を中心とした妙義荒船佐久高原国定公園や筑波山・霞ヶ浦・水郷一帯を中心とした水郷筑波国定公園の国定公園のほか、多くの県立自然公園が存在する。こうした自然公園内には多くの景勝地が存在するが、国の名勝や日本の滝百選、日本百名山に選定されたものも多い。国の名勝に指定されたものとして華厳滝と中禅寺湖、三波石峡(神流川)、吾妻峡(吾妻川)、吹割の滝(片品川)などが、日本の滝百選には華厳の滝・吹割の滝のほか霧降の滝、常布の滝、不動滝が、日本百名山には至仏山、谷川岳、平ヶ岳、巻機山、男体山、日光白根山、皇海山、武尊山、赤城山、草津白根山、四阿山、浅間山、筑波山が選定。国の天然記念物には十六島ホタルエビ発生地(千葉県)、三波石峡・三波川のサクラと吹割の滝(群馬県)などが指定され、浅間山熔岩樹型は国の特別天然記念物に指定されている。この他の景勝地としては湿原では戦場ヶ原、鬼怒沼湿原、玉原湿原など、峡谷では照葉峡・諏訪峡・綾戸渓谷(利根川)、高津戸峡(渡良瀬川)、龍王峡と瀬戸合峡(鬼怒川)など、湖沼では霞ヶ浦や中禅寺湖、榛名湖などがある。 利根川流域には温泉が多く湧出し、関東地方に存在する主要な温泉地の多くは利根川流域内に存在する。この中には伊香保温泉、草津温泉、鬼怒川温泉といった日本で知名度の高い温泉郷が存在するほか、宝川温泉、水上温泉、四万温泉、猿ヶ京温泉、万座温泉、老神温泉、川原湯温泉、川治温泉、湯西川温泉など多数の温泉がある。霧積温泉は映画『人間の証明』の舞台にもなった。しかし川原湯温泉については八ッ場ダム建設に伴い現在の温泉は完成後に水没することから、現在代替の源泉と温泉地整備が図られているが進捗は遅れている。また矢木沢ダム建設により湯の花温泉が水没。猿ヶ京温泉や老神温泉は相俣ダム・薗原ダム建設に伴って一部の旅館が移転し、温泉街の整備が行われた。景勝地・温泉以外の観光地としては草木湖畔のみどり市立富弘美術館、碓氷峠鉄道文化むら、日光江戸村、東武ワールドスクウェア、牛久大仏などがある。また夏には花火大会が流域の各所で行われ、冬には利根川上流域や鬼怒川上流域において多くのスキー場が営業する。 利根川流域にある文化財としてはユネスコの世界遺産に登録されている日光東照宮などの日光の社寺を始め、国の史跡・重要文化財として丸沼ダム、碓氷第三橋梁などの碓氷鉄道施設遺産群(群馬県)、足尾銅山跡(栃木県)、横利根閘門(茨城県)、伊能忠敬旧宅(千葉県)が、特別史跡として日光杉並木街道、大谷磨崖仏、常陸国分寺跡・常陸国分尼寺跡などがある。県の史跡としては埼玉県が最多で見沼通船堀遺跡・鷲宮神社寛保治水碑・栗橋関所跡・川俣関所跡・石田堤・忍城・伊奈忠次墓などがあり、この他田中正造旧宅・二宮尊徳墓(栃木県)、榊原康政画像と墓など4箇所(群馬県)、熊沢蕃山墓(茨城県)がある。 なお、河川開発により建設されたダムや河川敷についてであるが、ダムは矢木沢・奈良俣・相俣・下久保・草木の各ダム湖が所在自治体の推薦によりダム湖百選に財団法人ダム水源地環境整備センターより選定されている。川治ダムでは観光用の日本初国産水陸両用バスの運行が開始され鬼怒川地域の新たな観光スポットとなったほか、毎年夏に矢木沢・奈良俣両ダムの試験放流が実施され多くの観光客が訪れるなど観光資源として活用されている。また利根川中流・下流部の河川敷は広大であることから多くの流域住民が散歩やスポーツ、サイクリングなどに利用しており、ゴルフ場も多く存在する。利根川水系河川整備計画策定に当たり流域住民に行ったアンケートによれば河川敷の利用について様々な意見が出されたが、ラジコン飛行機の使用については愛好家が河川敷に専用の場所を設けるよう要望する一方でそれに反対する住民もいるほか、イヌの散歩による糞に対する苦情や水上オートバイ利用に対する苦情も多く出されており、河川をレクリェーションの場として整備する方針を掲げている国土交通省は対応に苦慮している。 ==民俗== 利根川流域の民俗は、当然ながら水に関するものが多い。古くより暴れ川として洪水の被害を多くもたらした利根川の流域住民は、自己防衛として水塚と呼ばれる洪水を避けるための家屋を建てている。この家屋は利根川中流部の群馬県館林市・邑楽郡、栃木県足利市・栃木市、茨城県古河市、埼玉県加須市に集中して築造された。水塚は納屋や母屋よりも高い位置に造られ、『板倉町史』によれば概ね3 ‐ 5mの盛土上に建てられている。これは谷田川堤防の高さとほぼ同一であり、非常用の備蓄食糧や農作業に必要な農具などを格納し洪水時には仏壇を避難させた。また揚舟と呼ばれる小舟を軒下に吊るし、非常時には物資輸送や避難民救助に使用した。この水塚は木曽川の水屋と同様の水防システムであり、加須市を中心に輪中も存在していた。これらはカスリーン台風の際にも有効に機能している。 水害より流域を守るため水神に捧げる人身御供も行われていた。一例として埼玉県幸手市には「順禮(じゅんれい)供養塔」が建立されているが、これは利根川の洪水で堤防決壊寸前の所に偶然通りかかった母子連れの巡礼者が人柱として自ら川に入水し、洪水と堤防決壊を抑えた。このため住民がこの母子を供養し水防の守護神として祀るために建立したという伝承である。利根川上流域や鬼怒川下流域では「川の流れは3尺流れれば水神様が清める」という信仰が伝わっており、湧水や沢、堰付近に水神を祀る水神宮が存在し、正月には供物を捧げたほか群馬県利根郡では「お茶祭り」という祭礼も行われた。弘法大師・空海の伝説も各所に残り、「弘法清水」・「弘法井戸」と呼ばれる湧水や井戸が利根川流域にも広く分布している。群馬県邑楽郡板倉町にある雷電神社は雷を呼んで雨乞いをする習慣の中で、雷神を祀っている。 水神信仰に関連して河童の伝説も利根川流域には伝わる。河童は利根川が流域の農業・漁業資源をもたらすことからその恩恵対象として信仰される一方で、洪水という災害を招く意味での妖怪という両面の意味で表現されている。流域に伝わる伝承の多くは人間に悪戯を働くため住民に捕らえられ、謝罪する際のお詫びとして農作業の手伝いをしたり河童秘伝の薬法を伝授するという内容であり、河童の薬法を基にした家伝薬が伝わっているという。また『望海毎談』という書物には「子っこ」という河童が居て、毎年その居を変えるが河童が居るところには災いが多いと記している。牛久沼にも河童の伝説は多く、牛久沼畔で暮らした日本画家の小川芋銭は1938年に『河童百図』という河童の画集を発表している。 利根川流域に伝わる民俗芸能は自然を背景として農業を主とした生産活動に深く関連する。最も多く分布するのが獅子舞で、三匹一組の三匹獅子舞が大きな特徴である。悪霊退散の祈願や収穫感謝の祝いとして上流部・中流部を中心に多く行われ、埼玉県は日本一の獅子舞王国とされている。発展形として獅子の代わりに水神である龍を用い龍頭舞とする地域もある。年頭には御歩射(おびしゃ)という弓で的を射てその年の豊作・凶作を占う神事が千葉・茨城県境の利根川下流部一帯で行われていたほか、村祭りでは神楽や囃子が行われた。また農作業や織物、さらには堤防建設の際に歌われる「作業歌」も民俗芸能として伝わっている。 ==関連する人物== 源頼朝 ‐ 鎌倉幕府初代将軍。為政者として初めて利根川の堤防整備を行う。北条氏政 ‐ 後北条氏第四代当主。関宿城を獲得し利根川の水運を掌握。権現堂堤を建設する。松平忠吉 ‐ 徳川家康四男。武蔵国忍城主時代に利根川東遷事業の端緒である会の川締切を行う。榊原康政 ‐ 徳川家康家臣で徳川四天王の一人。利根川本流の本格的な堤防となる文禄堤を建設する。伊奈忠次 ‐ 徳川家康家臣。備前渠用水を始め利根川の治水・利水事業に深く関わる。忠次以降12代伊奈忠尊まで続く関東郡代・伊奈氏の初代。井沢為永 ‐ 通称弥惣兵衛。享保の改革で徳川吉宗により勘定吟味役に取り立てられ、見沼代用水を建設する。田沼意次 ‐ 江戸幕府老中。印旛沼の干拓と放水路事業を計画し実行に移すが、反対派により失脚。水野忠邦 ‐ 江戸幕府老中。天保の改革において印旛沼干拓と放水路事業を計画するが、反対派により失脚。ローウェンホルスト・ムルデル ‐ 近代利根川治水事業の創始者。利根川の計画高水流量を初めて算出。利根運河建設の総指揮を執る。大須賀庸之助 ‐ 衆議院議員。利根川治水事業に尽力するも、故郷の香取郡を分割する千葉・茨城両県の県境変更計画に反対する。田中正造 ‐ 衆議院議員。足尾鉱毒事件を告発。渡良瀬遊水地建設に反対する。徳田球一 ‐ 衆議院議員・日本共産党書記長。『利根川水系の綜合改革』を著し利根川総合開発の私案を発表。房総導水路・武蔵水路構想を最初に発案。松永安左エ門 ‐ 東邦電力社長・産業計画会議議長。「電力の鬼」と呼ばれた実業家。日本最大の多目的ダム計画・沼田ダム計画を立案。前原誠司 ‐ 衆議院議員。鳩山由紀夫内閣の国土交通大臣時代に八ッ場ダム事業中止を決断するが、流域自治体・水没予定地住民の反発を招く。 ==利根川を由来とする名称== TONE ‐ 同社の社名及び工具ブランド「TONE(トネ)」はこの川が名称の由来となっている。日本の軍艦・自衛艦で3代に渡り使用されている名称でもある。 利根 (防護巡洋艦) ‐ 帝国海軍の防護巡洋艦。1910年就役。 利根 (重巡洋艦) ‐ 帝国海軍の利根型重巡洋艦の1番艦。1938年就役。 とね (護衛艦) ‐ 海上自衛隊のあぶくま型護衛艦の6番艦。1993年就役。利根 (防護巡洋艦) ‐ 帝国海軍の防護巡洋艦。1910年就役。利根 (重巡洋艦) ‐ 帝国海軍の利根型重巡洋艦の1番艦。1938年就役。とね (護衛艦) ‐ 海上自衛隊のあぶくま型護衛艦の6番艦。1993年就役。 =北越急行ほくほく線= ほくほく線(ほくほくせん)は、新潟県南魚沼市の六日町駅を起点とし、新潟県上越市の犀潟駅(さいがたえき)までを結ぶ、北越急行が運営する鉄道路線である。 また、開業時から一部の特急「はくたか」で日本の狭軌在来線最高速度となる140 km/h運転が行われ、1998年(平成10年)12月からは150 km/h運転が、2002年(平成14年)3月以降はさらに高速となる160 km/h運転が開始された。2015年(平成27年)3月14日に特急「はくたか」の運行を終了した後、最高速度160 km/hで運行する列車はなくなったため、現在の線内の最高速度は130 km/hとなり、営業列車はHK100形の性能から最高速度110 km/hで運転されている。一方で「はくたか」に代わる速達列車として、越後湯沢 ‐ 直江津間を1時間弱で結び、乗車券だけで乗れる列車としては表定速度で日本最速の「超快速スノーラビット」の運転を行っている。 北陸方面への短絡線の役割を有する日本国有鉄道(国鉄)の予定線「北越北線」として1968年(昭和43年)に着工され、紆余曲折の末、北越急行によって1997年(平成9年)3月22日より営業を開始した。開業以来、上越新幹線と連絡する列車の運行が行われており、2015年(平成27年)3月14日の北陸新幹線の長野駅 ‐ 金沢駅間延伸開業までは、首都圏と北陸を結ぶメインルートとして特急「はくたか」が同線を経由して運転された。 ==歴史== ===鉄道誘致活動の始まり=== ほくほく線の中間付近にあたる松代村(まつだいむら。現十日町市の一部)では、1920年(大正9年)4月15日に松代自動車株式会社が設立されて、バスやトラックの運行を開始した。この会社は1932年(昭和7年)に売却されて頸城自動車となる。しかし、この時代には道路の除雪体制がまったく整っておらず、その整備が本格化する1960年(昭和35年)頃までは、道路交通が5月上旬まで完全に不能となり各集落が孤立状態となるのが常であった。ほくほく線建設が進められていた1980年代になってもなお、十日町と松代を結ぶ国道253号の薬師峠は毎年雪で不通となり、直線距離で13キロメートル(km)のところを、柏崎・直江津を通る120 kmもの迂回をしなければ行き来ができなかった。冬には道路交通がまったく役に立たなくなるために、鉄道の重要性・必要性を痛感していた地元の関係者は、1931年(昭和6年)に当地を訪れた朝日新聞の記者が「この不便な山間地を開くには鉄道を貫通させなくては」と発言したことに刺激され、民間中心の鉄道誘致運動が開始された。その口火を切ったのは、松代自動車の設立者の柳常次であった。 既に1916年(大正5年)5月4日には、頸城鉄道(くびきてつどう)が新黒井 ‐ 浦川原間を全通させていた。当初はこの頸城鉄道とつなぎ松代まで伸ばす形での「東頸城縦貫鉄道」の建設請願を1932年(昭和7年)8月に国会へ提出した。この時点では松代から信越本線(直江津)側へ結ぶだけの鉄道で、十日町や六日町と結ぶという構想は(急峻な地形のために実現が困難と判断されたのか)なかった。その後さらに発展的な構想として、北陸地方と東京を結ぶ「上越西線」という構想となり、魚沼三郡や東頸城郡の町村長が六日町 ‐ 直江津間に鉄道を敷設する陳情書を国会に提出した。1938年(昭和13年)4月になると時勢から軍事用の役割が付加されて、軍都と呼ばれた高田を起点とする「北越鉄道」の構想が打ち出され、国防にも役立つという位置づけとされた。1937年(昭和12年)8月から9月にかけて、鉄道省による路線測量と経済調査が実施され、路線案の比較検討が行われるとともに、地元による国会への請願が繰り返された。 この時点までは、路線の北側は直江津案と高田案の2案があったが、南側については六日町で統一されていた。しかし1940年(昭和15年)になり、南側を越後湯沢駅とする案が持ち上がった。これはスキーをしに松之山温泉に来ていた鉄道省の技師が、越後湯沢と直江津を結ぶ経路の方が有力であるかのように話したことが発端であるとされるが、真偽ははっきりしていない。この年の10月から11月にかけて越後湯沢案に基づく路線の経済調査が実施され、両案の資料が揃うことになった。1942年(昭和17年)から両案の誘致活動が繰り広げられたが、第二次世界大戦中でもありこの時点ではそこまで厳しい対立ではなかった。1944年(昭和19年)には、国鉄信濃川発電所のある千手町(川西町を経て2005年の合併で十日町市の一部)と十日町を結ぶ工事用の軽便鉄道を延長する形で松代までを結ぶ路線の建設が決まり、工事予算1800万円が計上されたが、翌年の敗戦により計画は中止された。 ===「南北戦争」からルートの決着まで=== 第二次世界大戦後は、高田と結ぶ軍事路線という動きは消滅し、佐渡航路ならびに北陸本線との連絡という観点から直江津起点とすることで決着して、直江津と上越線を結ぶ鉄道とすることになった。1950年(昭和25年)9月3日に、北陸上越連絡鉄道(上越西線)期成同盟会の発会式が高田市(1971年の合併により上越市の一部)で行われ、戦後の鉄道建設運動が開始された。しかしルートの一本化はできず、起点は直江津とされたものの終点は六日町と越後湯沢の双方の案が会則に併記される形となった。以降、「北越北線」(ほくえつほくせん)案と「北越南線」(ほくえつなんせん)案の間で14年に渡る鉄道誘致合戦「南北戦争」が勃発することになった。 北線案の利点は、新潟県内の主要都市を結び産業開発や経済面で優れ、採算性に優れること、地すべり地帯がなく防災上有利であることであり、これに対して南線案の利点は首都圏から直江津までの距離を短縮することができること、勾配を北線の25パーミルに対して20パーミルに抑えられ輸送力を大きくできること、苗場や高倉の森林および地下資源、三国、清津の温泉の開発ができることであるとされた。 この当時、国鉄の新線は1922年(大正11年)に制定された鉄道敷設法に基づいて建設されており、新線を建設するには法律を改正して鉄道敷設法別表に路線経路を記載する必要があった。そして別表への記載は、諮問機関である鉄道建設審議会の検討を経て決定されることになっていた。日本の国政レベルでは、南北両案の一本化ができさえすればいつでも審議会で了承されるというところまで議論が進んでいた。しかし一本化ができないままに1953年(昭和28年)2月の第9回鉄道建設審議会が開催され、両案の対立が激しくて審議会でも決断を下しかね、「経過地に関する地元の意見の不一致並びに現地調査の不十分」を理由に審議未了・保留となった。こうした事情もあり、両線の一本化を図るために期成同盟会では、前年に新潟県知事の岡田正平に経過地の裁定を一任することを決議していた。岡田は、新潟県七市長会および商工会議所連合会に諮問して、北線案が妥当との答申を受け、8月に北線案採択の裁定を下した。しかしこの裁定を説明するために9月に開催された期成同盟会総会を南線側がボイコットするという事態となって、さらに時間が空費されることになった。 その後も両派の争いは続いたが、1962年(昭和37年)に事態は動いた。この頃、南線案の予定通過地である松之山町の中心部で地すべり災害が発生しており鉄道の通過ルートとしてふさわしくないとされたことと、道路交通の発達でそれほど鉄道にこだわる必要がなくなったことなどから、一方の路線が採択された際にはもう一方の路線側から鉄道へ連絡する道路を整備するということを条件に、国鉄に裁定を一任することになった。1962年(昭和37年)4月22日に鉄道建設審議会が上越西線を予定線に採択することを決定し、5月12日に鉄道敷設法1条別表第55ノ3に「新潟県直江津より松代附近を経て六日町に至る鉄道及松代附近より分岐して湯沢に至る鉄道」が追加されて、南北両案が鉄道予定線となった。 1962年(昭和37年)7月から、国鉄では人口分布や産業構成などの経済調査を新潟県に依頼して実施した。地元でも、従来の上越西線期成同盟会を発展的に解消して新たに北越線連合期成同盟会を1963年(昭和38年)6月27日に発足させ、工事線への昇格に向けて積極的な運動を行った。1964年(昭和39年)4月22日に運輸大臣は北越北線を調査線に指示し、続いて9月28日には工事線に格上げした上で、南線は北線によって効用を満たし得るとの判断から、調査線から南線を削除した。こうして北越北線が正式に採択され、南北戦争は終結することになった。なおちょうどこの頃、1964年(昭和39年)3月に日本鉄道建設公団(鉄道公団、以下公団と略す)が設立され、国鉄の新線建設事業は公団が引き継ぐことになって、北越北線も公団に引き継がれた。 北越北線が調査線となって以降、詳細なルートの検討が進められた。地元は北越北線に旅客輸送を期待したが、国鉄から見れば首都圏と北陸地方を短絡する有力な貨物線であり、上越線と信越本線との間の方向転換・機関車交換作業を廃止し輸送時間を短縮することを狙っていた。そのため重量1,000トンの貨物列車の運転を想定した貨物輸送が路線選定の要となり、当初は六日町駅と黒井駅を可能な限り直線的に結ぶルートが考えられていた。これにより十日町では飯山線と直交するルート案となり、飯山線の十日町駅とは別に北越北線の十日町駅を約1,300メートル離れた位置に設け、地下駅とする案もあった。しかしこれには地元からの強烈な反発があり、実際の経路は飯山線十日町駅に乗り入れるクランク状のものとなった。また東頸城地方では、安塚、大島、室野(松代町西部)を経由する南側に膨らんだ路線を要望されて決着に時間を要したが、最終的にほぼ原案通りとなった。ところが、国鉄側と最終的に詰める段階になり、直江津駅構内の貨物ヤード(操車場)が処理能力の限界を迎えていたことから、黒井駅の犀潟駅寄りに新たな操車場を建設する構想が持ち上がった。これにより北越北線の乗り入れは操車場に支障しない犀潟駅とならざるを得ず、旧頸城鉄道沿線から経路が外れて頸城村の中心地(2005年の合併以降の上越市頸城区百間町付近)も通らないことになった。浦川原 ‐ 犀潟間は、後の工事凍結時点で未着工であり、黒井の操車場計画が結局実現しなかったこともあって、工事再開時に新たな路線問題となりかけたが、最終的に六日町と犀潟を結ぶ経路で確定した。 ===国鉄新線としての建設=== 1964年(昭和39年)9月28日に運輸大臣が定めた基本計画では、北越北線は起点を直江津市、終点を南魚沼郡六日町とし、単線非電化で、線路等級は乙線とされていた。これを基に工事実施計画の指示が行われた。設計にあたっては、日本有数の豪雪地帯を通ることから雪崩や地すべりの起こらないような場所を選んでルートの設定を行い、将来的に貨物列車や急行列車の運行を行う優等線とすることを考えて勾配や曲線を少なくするようにした。 公団の発足当時、工事線に指定されていた路線は全国で47路線あり、その総延長は約2,000キロメートル、総工費は約2000億円とされ、年間約100億円程度の公団の予算では実現にかなりの時間がかかるのは確実な状況であった。北越北線も、鉄道建設審議会で「速やかに着工」という意見が添えられた路線に含まれていなかった。しかし当時の地元国会議員らの熱心な取り組みもあって、比較的早く着工に漕ぎ着けることができた。 まず六日町 ‐ 十日町間について、1968年(昭和43年)3月28日に工事実施計画が認可され、8月14日に着工となった。この区間を先に着工したのは、松代と浦川原の間でのルートの決着が付いていなかったためである。 基本計画とは逆に起点は六日町、終点は十日町で、途中停車場は西六日町(魚沼丘陵駅)、赤倉信号場、津池(美佐島駅)と仮称されていた(カッコ内は開業時の駅名)。最小曲線半径は400メートル、最急勾配は14パーミル、1メートルあたりの重量が40キログラム(kg)である40kgレールを使用し、橋梁の設計活荷重はKS‐16、概算工事費は50億1800万円とされた。 続いて1972年(昭和47年)10月11日に十日町 ‐ 犀潟間の工事実施計画が認可され、1973年(昭和48年)3月24日に着工された。この区間の途中停車場は薬師峠信号場、松代(まつだい駅)、儀明信号場、頸城大島(ほくほく大島駅)、沢田(虫川大杉駅)、増田(くびき駅)と仮称されていた(カッコ内は開業時の駅名)。最小曲線半径は1,000メートル、最急勾配は14パーミル、40kgレールを使うが長大トンネル内は50kgレールとし、橋梁の設計活荷重はKS‐16、概算工事費は239億3400万円となった。1979年度完成を予定していた。 停車場の配線についても貨物列車の運行を前提とした計画になっており、単式ホームとされた西六日町、津池の両停車場以外のすべての停車場で列車交換が可能で、貨物列車相互の行き違いを想定してすべての交換可能駅で1,000トン貨物列車に対応した有効長460メートルを確保していた。在来線併設の六日町、十日町、犀潟を除くすべての停車場に、上下線とも安全側線を設置して、上下列車の待避線への同時進入を可能とすることになっていた。六日町、十日町、松代の各停車場については、機関車牽引の10両編成を想定してプラットホームの有効長を240メートルとし、これ以外の停車場については電車列車の6両編成を想定した140メートルとしていた。 その後、国鉄新潟鉄道管理局からの防雪設備の完備や保守の軽減化への要望があり、さらに運輸省の通達で工事実施計画に含めるべき事項が加えられたこともあり、1978年(昭和53年)7月20日に工事実施計画が変更された。これにより十日町 ‐ 犀潟間の工事実施計画について、犀潟駅への取り付けの変更が行われ、最小曲線半径が1,000メートルから600メートルとなり、50kgレールの使用とスラブ軌道の採用、電化対応設備を設けることが記載された。十日町 ‐ 犀潟間の工事予算は511億8600万円に改定され、完成予定期日は1983年(昭和58年)に延長されることになった。 この頃、全国新幹線鉄道整備法により全国的な新幹線ネットワークの整備計画が進められており、東京と北陸地方を結ぶ新幹線として北陸新幹線の基本計画が1972年(昭和47年)に制定されていた。北陸新幹線は北越北線と重複する高速鉄道計画となったが、高度経済成長の時期でもありそれほど問題視はされず、また北陸新幹線が旅客輸送、北越北線が貨物輸送と役割分担することも考えられていた。しかし1973年(昭和48年)に第一次オイルショックに見舞われると、北陸新幹線の建設は延期されることになった。 北越北線はその間も工事が続けられていたが、全国各地にある鉄道新線のうちの1か所として配分される建設予算に限りがあったことや、トンネル工事が難航していたことで建設工事が遅れていた。そうしているうちに国鉄の経営悪化が進み、その対策として1980年(昭和55年)に日本国有鉄道経営再建促進特別措置法(国鉄再建法)の施行により鉄道新線の工事は凍結されることになった。国鉄再建法での工事続行基準は、推定輸送密度が4,000人/日以上とされていたが、北越北線の推定輸送密度は1,600人/日であった。この時点で用地取得は73パーセント、路盤工事は58パーセントまで進捗しており、工事費はこの時点での総額見込み794億円に対して415億円が投じられていたが、1982年(昭和57年)3月に完成済み施設に対する保安工事が完了すると、建設工事は全面ストップした。 ===第三セクター方式での建設再開=== 国鉄再建法では、建設が中断された地方鉄道新線について、地元が第三セクター会社を設立して引き受けることが可能であると定めていた。岩手県の三陸鉄道のように、早々にこの方針で動き出して、第三セクターでの開業を果たした鉄道もあった。しかし北越北線については、鉄道の経営への不安があったことに加えて、新潟県出身の田中角栄元首相が「北越北線だけは特別に貨物幹線としてやらせる」と発言していたことなどもあり、沿線自治体は第三セクター化に興味を示さなかった。だが結局北越北線が国鉄新線として工事再開されることはなかった。 1983年(昭和58年)6月22日に東京で開催された北越北線建設促進期成同盟会総会に突然田中角栄が出席し、それまでの国鉄での建設再開の考えを撤回した上で、第三セクターでの引き受け案を持ち出した。この提案は突然のことであり、沿線自治体の関係者を困惑させた。当時の君健男新潟県知事は第三セクター化に慎重であったが、期成同盟会会長の諸里正典十日町市長は田中元首相の動きに呼応して第三セクター化を目指し、独断で国や公団との接触を開始した。沿線の他の市町村は、こうした諸里市長の独断専行に不満を持っていたとされる。 「プロの国鉄がやってもダメなものを、素人の県や市町村がうまくやれるはずがない」として慎重であった君知事は、第三者のコンサルタントを入れて経営分析を行わせ、また第三セクター化は越後湯沢 ‐ 六日町間と犀潟 ‐ 直江津間での国鉄への乗り入れを行うことを条件としてつけた。コンサルタントも、秋田内陸縦貫鉄道秋田内陸線に対して「永久に黒字転換する見込みがない」と厳しい診断を下した会社に依頼した。ところが新潟県の予想に反し、コンサルタントは「5年で単年度黒字、10年で累積黒字」との報告書を出し、また国鉄も直通運転を了承した。こうして梯子を外された格好となった新潟県は、第三セクター化推進の方針に転換することになった。裏側では、田中元首相の政治力を背景に諸里市長が立ち回り、君知事を政治的に追い込んだ、と伝えられている。こうして1984年(昭和59年)8月30日に北越急行株式会社が設立され、1985年(昭和60年)2月1日に鉄道事業の免許を取得し、3月16日に工事が再開された。 第三セクター鉄道として建設を再開するにあたり、建設計画が修正された。気動車による1両または2両編成程度を想定、最大で4両編成とし、旅客輸送のみに限定することになった。これにより全体にプラットホームと待避線の有効長が短縮され、頸城大島駅(ほくほく大島駅)の交換設備は省略されることとなった。また、上下列車の待避線への同時進入を考慮しないこととして安全側線も省略された。JR線と接続する六日町・十日町・犀潟の駅配線は大幅に変更され、特に十日町は飯山線との平面交差から立体交差に修正された。橋梁の設計活荷重については、国鉄時代にはKS‐16荷重を想定していたが、旅客のみに改められたこともあり、第三セクター化以降に建設される場所についてはKS‐12荷重を採用することになった。また新座(しんざ)、顕聖寺(うらがわら)、大池(大池いこいの森)の各駅が要望駅として追加になった(いずれも当時の仮称でカッコ内は開業時の駅名)。 建設において最大のネックとなったのは路線のほぼ中央にある鍋立山トンネルであった。鍋立山トンネルは工事中断時点で中央部に645メートルの未掘削区間が残されており、1986年(昭和61年)2月24日に掘削が再開されたが、極度の膨張性地山のため、当初の中央導坑先進工法(先に中央部の導坑を掘削する工法)では強大な土圧により支柱が座屈するなどの問題を生じた。続いてトンネルボーリングマシン(TBM)を導入したが、これも掘削中に土圧により発進地点より手前まで押し戻されてしまう事態となった。その後、薬液の注入や、最終的には手掘りも実施するなど、実に29の工法が駆使された。1992年(平成4年)10月29日にようやく先進導坑が貫通し、1995年(平成7年)3月7日に掘削完了、11月7日に竣工となり、これにより開業のめどが立つことになった。結果的にこの区間には10年余りの歳月と146億円の工費が投入されることとなり、のちにほくほく線の開業を左右したのは政治でも採算上の数値でもなく、鍋立山トンネルの工事であったと評された。 ===高速化の決定=== 工事再開後も、鍋立山トンネル等の工事難航に伴い、開業も当初予定より遅れが生じていた。そのような中、1988年(昭和63年)になり、北越北線を高速化してスーパー特急を走らせる計画が運輸省から打ち出された。当時北陸新幹線は整備新幹線問題の関係で計画凍結は解除されたものの着工されておらず、1988年(昭和63年)のいわゆる「運輸省案」では長野以南の建設を優先し、高崎 ‐ 軽井沢間のみフル規格、軽井沢 ‐ 長野間はミニ新幹線、糸魚川 ‐ 魚津間、高岡 ‐ 金沢間については構造物を新幹線と同じ規格で建設し、線路を在来線と同じ軌間にするスーパー特急方式とする計画が提案されているに過ぎなかった。 北越北線はこの時点で路盤は完成していたが、軌道敷設は行われておらず、もともと優等列車の運転を想定して高い規格で建設されていたこともあり、翌1989年(平成元年)5月31日に高速化・電化に伴う工事実施計画の変更が申請され、路線の軌道は、最高速度200 km/hも視野に入れた高規格路線での建設が開始された。 これにより、JRと直通の特急列車を走らせることとなり、高速化事業に要するとされた310億円は、建設に当たっていた公団の地方新線工事費から70億円、幹線鉄道活性化事業費補助金が42億円、北越急行出資金が40億円、JR東日本の負担金が158億円とされた。JR東日本の負担分は、北越北線の利用権という無形財産取得名目として実施された。 配線についても変更が行われ、当初計画では、六日町駅では北越急行専用プラットホームよりも高崎方でJRとの線路の接続を行うことになっていたが、専用プラットホームで発着する普通列車とは別に、越後湯沢からの特急列車が北越北線に直接進入できるようにする渡り線が追加されることになった。十日町駅では、JR線を乗り越した後に地上に降りてプラットホームを設ける計画であったが、プラットホーム前後に生じる急勾配と急曲線を解消するために高架上にプラットホームを設置することになった。犀潟駅では、高架でJR線を乗り越した後に海側に北越急行専用プラットホームを設ける計画であったが、信越本線の上下線の間に降りてJR線に乗り入れる構造に改めた。 設備面では、高速化の制約となる分岐器の通過速度制限を緩和するために、一線スルーにする改良を実施した。軌道を強化するため、スラブ軌道区間を延長し、レールも一部を50kgレールから60kgレールに変更し、道床厚の増大や枕木の追加を実施した。特急列車の最大10両編成に対応するようにプラットホームや交換駅の待避線有効長が再び延長された。信号設備は、高速進行現示のできる信号機を設置し、また自動列車停止装置 (ATS) をATS‐P形とし、安全側線は省略されたままとした。このほか、ホーム柵の設置、雪害対策の強化、騒音防止などの措置が採られた。 最終的に総工費は、地方新線建設費として1026億円、高規格化255億円の合計1281億円となった。工事期間中、死者は10名、負傷者は54名であった。 この間、開業の5年前の1992年(平成4年)に路線の正式名称が「ほくほく線」に決定した。これは、北越急行と沿線自治体が沿線住民を対象に実施したアンケートから、「温かいイメージで親しみやすく、呼びやすい」という理由で選ばれたものである。異例の早い時期の路線名決定は、工事再開後もトンネル工事の遅延と高規格化工事で開業が遅れた結果である。 試運転は施設が完成した1996年(平成8年)9月から開始されたが、狭軌での160km/h運転や狭小・単線・長大トンネルでの高速走行などは前例・基準が存在しなかったため、ほくほく線を用いた諸試験が北越急行のほか、鉄道技術研究所、鉄道建設公団、運輸省、JR東日本、JR西日本によって実施され、同年10月7日からは681系2000番台による160km/h運転試験が開始された。結果は比較的良好ではあり特段の問題は見られず、監督官庁から設計最高速度160km/hの認可を付与された。しかし、後述するように単線トンネルでの気圧変動が車体に及ぼすダメージが経年とともに顕在化する恐れがあったため、北越急行自らの判断でさらなる技術的な検討を待ってから実際の160 km/h運転を開始することにとし、当初の特急列車の最高速度は140 km/hとされた。 ===開業・さらなる高速化=== 以上の経緯を経てほくほく線は、1997年(平成9年)3月22日に開業し、同時に、上越新幹線と越後湯沢駅で接続して首都圏と北陸地方を結ぶ特急「はくたか」が、ほくほく線経由で運転を開始した。ほくほく線が開業する以前は、首都圏と北陸地方を結ぶ手段は東海道新幹線で米原を経由するルートが一般的であったが、ほくほく線が開業してからは上越新幹線と「はくたか」を乗り継ぐルートのほうが有利になる範囲が拡大された。上越新幹線と越後湯沢で接続しての東京と金沢の間の最速所要時間は3時間43分となり、長岡経由に比べて15分短縮された。なお、ほくほく線開業後、まつだい駅から松之山温泉を訪れる行楽客が増えたという。加えて、沿線では、開業により沿線地域では高校へ自宅からの通学が可能となり、進学時にほくほく線沿線の高校を選ばせたり、高校進学を機にほくほく線沿線に引っ越す事例さえ見られた。上越線が不通になると越後湯沢と六日町のタクシー利用が増加する事例もみられるようになった。 その後、後述するように最高速度について段階的な検証を行い、1998年(平成10年)12月8日から「はくたか」が150 km/h運転を開始したが、この時にはダイヤ改正は行わず、運転上の余裕時分の確保にあてられた。続いて2002年(平成14年)3月23日から当初の予定通りの160 km/h運転が開始され、ほくほく線内においては140 km/hでの運行当時と比較して1分30秒の所要時間短縮が実現した。加えて車両面も高速化が進み、160km/h運転開始時にJR西日本の485系が160km/h対応車の681系と交代し、2005年(平成17年)3月1日には、北越急行が160km/h対応車の683系8000番台を投入したことで、JR東日本の485系が撤退し、以後定期特急列車はすべて160km/h運転対応の車両となった。 ほくほく線は「雪対策」の節で後述するように周囲の路線と比べ比較的安定的な運用を行っているが、2000年代には度々自然災害に見舞われている。特に2004年(平成16年)10月23日の新潟県中越地震では発生後全線で運転を見合わせ、10月26日より被害の少なかった犀潟 ‐ まつだい間で普通列車に限った臨時ダイヤによる運転を再開し、11月2日に全線で運転を再開した。当初は速度制限つきの運転で、12月17日から160 km/h運転を再開している。また、2005年(平成17年)2月11日より上越線が全面復旧する3月24日までの間、週末を中心にのべ13日にわたって急行「能登」がほくほく線を経由して運転された。2007年(平成19年)7月16日に発生した新潟県中越沖地震では、特急「はくたか」が終日運休となり、翌17日から運転を再開した。 一方、ほくほく線の高規格化が行われるきっかけとなった整備新幹線計画問題については、ほくほく線開業のおよそ半年後の1997年(平成9年)10月1日に北陸新幹線高崎 ‐ 長野間が開業したが、この時点では上越新幹線・ほくほく線経由が北陸地方への最速ルートであることから、開業まで運転されていた特急「白山」のような長野駅から北陸地方への接続列車は定期運転されず、「長野(行)新幹線」という愛称が付けられる一因となった。しかし、長野以北についても翌1998年(平成10年)3月12日に長野 ‐ 上越(仮称)間、2001年(平成13年)4月25日に上越(仮称) ‐ 富山間、2005年(平成17年)4月27日に富山 ‐ 金沢 ‐ 白山総合車両基地(仮称)間の工事計画がフル規格で認可され、順次着手されるなど、計画が見直されるたびにフル規格での建設が進められていった。 当時、ほくほく線を運営する北越急行は10日間しか営業していなかった初年度を除いて毎年数億円の黒字となっており。2001年度の営業係数は73.0パーセントと、第三セクター鉄道の中では経営状態は良好であったが、全体の9割が特急による収益で、普通列車の収益は全体の1割にも満たなかった。このため、北陸新幹線開業に備えて、利益を赤字補填用に蓄えることとした。先述のJR東日本の485系を683系8000番台の自社による投入で置き換えたことも、JR東日本側の事情のほか、全便高速化による運用効率向上によるサービスアップ・増収や、JR東日本への車両使用料の支払いを無くし、逆に従来3社で相殺していたJR東日本・西日本線の走行時の車両使用料収入を得るという目的もあった。こうして、最終的には2013年(平成25年)3月31日時点で約92億円の剰余金を持った状態でほくほく線は2015年3月14日の北陸新幹線長野 ‐ 金沢間開業を迎えることとなった。 ===北陸新幹線金沢延伸開業以降=== 2015年(平成27年)3月14日の北陸新幹線の金沢開業後は、特急「はくたか」の廃止により、ほくほく線は地域輸送を主とする路線として再出発を切ることになった。このため、同日より国土交通省運輸局への申請最高運転速度を130km/hに引き下げ、設備についても順次スリム化・使用停止・撤去が行われている。 その後、北越急行は2015年度決算で最高速度引き下げなどによる施設の評価損等により前年度の11億円の黒字から11億円の最終赤字に転落、その後も6億円前後の最終赤字で推移している。しかし北越急行では2012年(平成24年)時点で「はくたか」利用者の22パーセントから25パーセントが直江津駅(アクセスには北陸新幹線でも上越妙高駅からの乗り換えを要する)で乗降していることや、沿線の十日町を中心に東京や金沢と相互のビジネス需要が見込まれることから、「ほくほく線経由の需要も残るのではないか」とし、事業を当面継続することは可能であるという見通しを持った。 運行面では特急の廃止により普通列車の時分短縮が実現した。加えて「ほくほく線全体の速さと便利さをアピール」する「快速を超える列車」として、前年の2014年(平成26年)から越後湯沢 ‐ 直江津間を1時間で結ぶ「超快速列車」の運行を計画し、2015年(平成27年)3月14日のダイヤ改正で「スノーラビット」の愛称で運転開始した。この超快速は日本国内において乗車券だけで乗れる列車としては、2016年現在表定速度が最も高い列車であり、特に直江津駅からは、上越妙高駅乗り換えの北陸新幹線経由と所要時間で遜色がなく、かつ運賃+特急料金が1,000円以上安いことをセールスポイントとし、北陸新幹線との対抗馬、線内における「はくたか」の後継としての側面も名実ともに強く意識されている。一方で、超快速列車の越後湯沢発1本と折り返しの普通列車越後湯沢行きを同日信越本線を転換して開業したえちごトキめき鉄道妙高はねうまライン新井駅まで直通させることで、沿線から高田駅・上越妙高駅へのアクセスを高めているなど、北陸新幹線と協力する一面もある。 また、新たな収入源として、2016年(平成28年)には普通列車の六日町駅 ‐ うらがわら駅間にて宅配便の荷物を輸送する、いわゆる「貨客混載」を行うことで佐川急便と合意し、試運転(トライアル)ののち、2017年4月18日より夜間の普通列車1往復で、本格的な運用が開始されている。これは、先述のように並行道路である国道253号の道路状況が峠越えの連続や冬季の積雪で依然劣悪であり、場合によっては高速道を用いて長岡経由で輸送せざるを得ないなど、営業所間の輸送に支障が生じる場合があるためで、普通列車として使用しているHK100形車両に佐川急便のカーゴ台車を固定可能とする改造を行い、運用している。 2018年5月29日、北越急行は同年12月1日より普通運賃と通勤定期運賃を10%値上げする変更認可申請を国土交通省北陸信越運輸局に行ったことを発表した。また、トイレ付き車両を当初の計画よりも前倒しで導入することを検討していることも発表された。 2018年12月1日、「永続的に鉄道を走らせていく」ため運賃改定が実施された。普通運賃と通勤定期が10%値上げされたが、通学定期は据え置かれ、中学生用定期が新設された。 ===年表=== 1931年(昭和6年)8月 ‐ 地元の関係者が国会に請願書を提出し、鉄道敷設運動が始まる。1940年(昭和15年) ‐ 越後湯沢と結ぶ北越南線構想が持ち上がる。1944年(昭和19年) ‐ 信濃川発電所工事線を延長する形で松代と結ぶ路線の建設が決まるが、後に敗戦により計画中止。1950年(昭和25年)9月3日 ‐ 北陸上越連絡鉄道(上越西線)期成同盟会発会式。1953年(昭和28年) 2月 ‐ 第9回鉄道建設審議会で地元意見の不一致を理由として審議未了・保留。 8月 ‐ 新潟県知事裁定により北越北線採択。 9月 ‐ 期成同盟会総会を南線側がボイコット。2月 ‐ 第9回鉄道建設審議会で地元意見の不一致を理由として審議未了・保留。8月 ‐ 新潟県知事裁定により北越北線採択。9月 ‐ 期成同盟会総会を南線側がボイコット。1961年(昭和36年)2月23日 ‐ 南北両派が一本化で協力推進する協約を締結。1962年(昭和37年) 4月22日 ‐ 鉄道建設審議会が上越西線(北越北線)を予定線に採択。 5月12日 ‐ 鉄道敷設法第1条別表第55ノ3号により、予定路線に編入。4月22日 ‐ 鉄道建設審議会が上越西線(北越北線)を予定線に採択。5月12日 ‐ 鉄道敷設法第1条別表第55ノ3号により、予定路線に編入。1964年(昭和39年) 4月22日 ‐ 運輸大臣により、北越北線を調査線に指示。 9月28日 ‐ 工事線に昇格、運輸大臣が路線の基本計画を定め、日本鉄道建設公団(鉄道公団)に対して工事実施計画の指示。4月22日 ‐ 運輸大臣により、北越北線を調査線に指示。9月28日 ‐ 工事線に昇格、運輸大臣が路線の基本計画を定め、日本鉄道建設公団(鉄道公団)に対して工事実施計画の指示。1968年(昭和43年) 3月28日 ‐ 六日町 ‐ 十日町間工事実施計画認可。 8月14日 ‐ 六日町 ‐ 十日町間着工。3月28日 ‐ 六日町 ‐ 十日町間工事実施計画認可。8月14日 ‐ 六日町 ‐ 十日町間着工。1972年(昭和47年)10月11日 ‐ 十日町 ‐ 犀潟間工事実施計画認可。1973年(昭和48年)3月24日 ‐ 十日町 ‐ 犀潟間着工。1978年(昭和53年)7月20日 ‐ 停車場有効長の延伸、スラブ軌道の採用、電化準備工事などを含めた工事実施計画変更。1980年(昭和55年)12月27日 ‐ 日本国有鉄道経営再建促進特別措置法(国鉄再建法)施行により工事凍結。1982年(昭和57年)3月 ‐ 完成済み施設の保安工事完了、工事全面停止。1983年(昭和58年)6月22日 ‐ 北越北線建設促進期成同盟会総会において、田中角栄元首相から第三セクター化の構想が提示される。1984年(昭和59年) 3月1日 ‐ 第三セクター設立準備会設立。 8月27日 ‐ 北越急行創立総会を新潟市で開催。 8月30日 ‐ 北越急行株式会社設立登記。 11月8日 ‐ 国鉄再建法第14条第1項に基づく国鉄新線の告示。3月1日 ‐ 第三セクター設立準備会設立。8月27日 ‐ 北越急行創立総会を新潟市で開催。8月30日 ‐ 北越急行株式会社設立登記。11月8日 ‐ 国鉄再建法第14条第1項に基づく国鉄新線の告示。1985年(昭和60年) 2月1日 ‐ 北越急行が地方鉄道業の免許を受ける。 2月25日 ‐ 運輸大臣により鉄道公団へ工事実施計画の指示。 3月16日 ‐ 鉄道公団により工事再開。2月1日 ‐ 北越急行が地方鉄道業の免許を受ける。2月25日 ‐ 運輸大臣により鉄道公団へ工事実施計画の指示。3月16日 ‐ 鉄道公団により工事再開。1988年(昭和63年)8月 ‐ 運輸省が「整備新幹線運輸省規格案」を発表、北陸新幹線と連携した幹線鉄道とするための、北越急行の電化・高規格化を提唱。1989年(平成元年) 3月28日 ‐ JR東日本と北越急行の間で北越北線高規格化に関する基本協定を締結。 5月31日 ‐ 北越急行、事業基本計画の変更申請、最高速度を95 km/hから130 km/hへ、動力方式を内燃から電気へ、別途160 km/h対応で基礎的施設の工事を行っておくことを表明。 7月31日 ‐ 運輸大臣が鉄道公団に対して工事実施計画の変更指示。 10月2日 ‐ 高規格化対応工事に着手。3月28日 ‐ JR東日本と北越急行の間で北越北線高規格化に関する基本協定を締結。5月31日 ‐ 北越急行、事業基本計画の変更申請、最高速度を95 km/hから130 km/hへ、動力方式を内燃から電気へ、別途160 km/h対応で基礎的施設の工事を行っておくことを表明。7月31日 ‐ 運輸大臣が鉄道公団に対して工事実施計画の変更指示。10月2日 ‐ 高規格化対応工事に着手。1996年(平成8年) 4月15日 ‐ まつだい駅構内にてレール締結式。 9月19日 ‐ HK100形初入線。速度35km/h。 9月28日 ‐ 681系2000番台初入線。段階的に速度を上昇。 10月7日 ‐ 681系による160km/h走行試験を開始。4月15日 ‐ まつだい駅構内にてレール締結式。9月19日 ‐ HK100形初入線。速度35km/h。9月28日 ‐ 681系2000番台初入線。段階的に速度を上昇。10月7日 ‐ 681系による160km/h走行試験を開始。1997年(平成9年)3月22日 ‐ ほくほく線開業。特急「はくたか」運転開始。1998年(平成10年)12月8日 ‐ 「はくたか」を150 km/hにスピードアップ。2002年(平成14年)3月23日 ‐ 「はくたか」を160 km/hにスピードアップ。2004年(平成16年) 10月23日 ‐ 新潟県中越地震発生、全線で運休となる。 10月26日 ‐ 犀潟 ‐ まつだい間で運転再開。 11月2日 ‐ 全線で運転を再開。10月23日 ‐ 新潟県中越地震発生、全線で運休となる。10月26日 ‐ 犀潟 ‐ まつだい間で運転再開。11月2日 ‐ 全線で運転を再開。2007年(平成19年)7月16日 ‐ 新潟県中越沖地震発生、「はくたか」の運転を1日休止。2015年(平成27年) 3月14日 ‐ 北陸新幹線 長野 ‐ 金沢間の開業に伴い、特急「はくたか」廃止。最高速度160km/h運転を終了し、国土交通省への申請最高運転速度を130km/hへ引き下げ。超快速列車「スノーラビット」運転開始およびえちごトキめき鉄道への乗入れ開始。 11月7日 ‐ イベント列車として犀潟 ‐ 六日町間を約4時間かけて走る「超低速スノータートル」を運行、先着順での受付のためわずか30分で完売した。3月14日 ‐ 北陸新幹線 長野 ‐ 金沢間の開業に伴い、特急「はくたか」廃止。最高速度160km/h運転を終了し、国土交通省への申請最高運転速度を130km/hへ引き下げ。超快速列車「スノーラビット」運転開始およびえちごトキめき鉄道への乗入れ開始。11月7日 ‐ イベント列車として犀潟 ‐ 六日町間を約4時間かけて走る「超低速スノータートル」を運行、先着順での受付のためわずか30分で完売した。2016年(平成28年) 8月28日 ‐ イベント列車「超低速スノータートル」第2弾を運行。今回以降先着順から抽選に変更、競争率3倍。 11月8日 ‐ 佐川急便と連携した貨客混載列車の試運転を報道各社に公開。8月28日 ‐ イベント列車「超低速スノータートル」第2弾を運行。今回以降先着順から抽選に変更、競争率3倍。11月8日 ‐ 佐川急便と連携した貨客混載列車の試運転を報道各社に公開。2017年(平成29年)4月18日 ‐ 夜間の普通列車1往復の六日町 ‐ うらがわら間で佐川急便との貨客混載を開始。2018年(平成30年)12月1日 ‐ 普通運賃と通勤定期運賃を改定し10%値上げ。 ==施設== 先述のように、ほくほく線は数回の工事計画の変更を経て、全線単線、直流1500V電化で建設されている。しかし、高速運転を実施し、1日の間に数十センチの積雪があるほどの豪雪地帯を通過するため、各種の対策が施されている。 ===最高速度160 km/hへの対応=== 開業当時の線内最高速度は160 km/hで、これは新幹線を除く鉄道では京成電鉄 成田空港線(成田スカイアクセス線)の「スカイライナー」とともに日本では最速、狭軌では単独の国内最速であった。このため、後述のように各種設備はそれに対応して設計された。 160 km/hに設定された背景には、国鉄時代に湖西線で行われた高速走行試験の目標が160 km/hであったことや、「新幹線の在来線の軌間の比率を考えると、200 km/hに対して160 km/hとなる」という考えもあったことが挙げられる。「140 km/hでも十分」という意見もあったが、関係者や技術者の多くは「絶対に在来線鉄道の将来に役立つ」と協力を惜しまなかったという。 1947年に定められた鉄道運転規則に基づき、どんな場合でもブレーキ開始から走行600 m以内に停止できること(600m条項)が、在来線では必須とされてきた。2009年現在でも、新幹線以外の鉄道ではこの停止距離が標準的な要求となっている。ほくほく線の車両も600 m以内での停止要求は実現できていないが、ほくほく線は後述する原則踏切を排した完全立体の線路、ATS‐P形式の自動列車停止装置、GG信号等が導入され、特例措置として160 km/h走行が認められた。 しかし、1996年から開始された開業前の試運転の際には、高速走行時の車内で予想以上の気圧変動が発生しており、気密構造でなかった681系を使用した試運転で窓の接着部分には指が入るほどの隙間ができてしまったことすらあった。これらの現象は、ほくほく線のトンネルが単線断面であり、かつトンネル断面が複雑であることが要因であり、ほくほく線で高速運転を行う特急形車両については、客室扉が閉じた際に車体に圧着させるなどの対策を施した簡易気密構造の車両に限定されることになった。その後の半年にわたる試運転で安全性は立証されたものの、万全を期して、開業当初の最高速度は140 km/hとした。その2年後に行われた特急形車両の重要部検査時には、車両の構体に亀裂などがないかを微細に確認した上で、1998年12月8日から150 km/h運転を開始した。さらに2年後に行われた全般検査時にも構体に対して同様の確認を行い、2000年11月21日には160 km/h運転の試運転を行った上で問題がないことを確認、2002年3月23日から160 km/h運転が開始されている。 ただし、通常ダイヤであれば155 km/h程度で定時運行が可能で、160 km/hは列車が遅延した際の余裕と考えられていた。また、最高速度である160 km/hで走行できる区間は、勾配などの影響から下り列車(犀潟方面行き)が赤倉・鍋立山・霧ヶ岳の各トンネル内とくびき駅から犀潟駅までの高架橋区間、上り列車(六日町方面行き)では薬師峠トンネル内となっている。さらに、気圧変動の緩和のため、ATS‐Pによってトンネル進入時に130 km/hに速度を落とし、進入後のトンネル内で160 km/hまで加速させている。 北陸新幹線開業後の2015年3月14日以降は特急列車の160km/h運転を終了し、国土交通省運輸局への申請最高運転速度を160km/hから引き下げている。なお、営業列車は基本的に110km/hで運転する普通列車のみとなったが、E491系検測車や485系などのJR車両を運転するため、申請最高運転速度は130km/hとしている。なお、160km/h運転に関わる技術は成田スカイアクセス線へ継承されており、日本鉄道運転協会から北越急行に対して、160 km/hによる運転の実績と京成電鉄への技術承継を評価する「東記念賞」が授与されている。 ===構造物=== 建設中数度に渡り工事実施計画の変更が行われたが、最終的に最小曲線半径は400メートル、最急勾配は33パーミルとなっている。半径の小さな曲線はすべて、JR線と接続する六日町・十日町・犀潟の駅付近に位置し、それ以外の区間では半径800メートル以上である。もっとも曲線のきつい半径400メートルのカーブは犀潟駅の1か所のみで、制限速度は80 km/hである。高規格化にあたって、緩和曲線長の延伸などの改良が行われている。 踏切は、始終端の六日町駅・犀潟駅構内の2か所のみであり、線区の中間にはまったく踏切が存在しない。この2か所の踏切では、前後に存在する曲線や分岐器に伴う速度制限により、列車の通過速度が130 km/h以下に抑えられることから、他の線区の踏切と同等であるとして、特段の保安措置は採られていない。 ===軌道=== 軌条(レール)は1メートルあたりの重さが60 kgである60kgレールが大半を占め、一部の区間では50 kgレールも使用している。2009年現在では、在来線では50kgレールが一般的で60 kgレールの採用は少ない。60 kgレールは新幹線と同じレールで、その重さにより高速走行の衝撃に耐えることができ、車両の高速走行の安定化に貢献している。 軌道は、トンネル内や高架橋など全線の約7割でスラブ軌道が採用され、軌道の強化と保守の低減が図られている。このスラブ軌道には「枠型スラブ」と称するコンクリート使用量が少ないものが採用されており、その後東北新幹線・北陸新幹線の延伸部分でも採用された。 築堤など約2割の区間はバラスト軌道を用いたが、築堤上にアスファルトを敷き雨水浸水対策をしたうえで軌道を敷設している。このほか、事情に応じて合成まくらぎ直結軌道、弾性まくらぎ直結軌道、鋼直結軌道、パネル軌道などの区間もある。住宅の多い地域では、バラスト軌道とコンクリート枕木の組み合わせを採用し、騒音低減を図るなどの配慮が行われている。 本線上において高速走行の列車が通過する場所にある分岐器12組はノーズ可動クロッシングとしたが、これは開業時点では、新幹線以外の日本の鉄道ではほくほく線を含めても20組程度しか導入されていなかった特殊な分岐器である。十日町駅構内については、駅前後の曲線で速度制限を受けることによって130 km/h以下の速度での通過となるため、ノーズ可動クロッシングを使用していない。また、交換設備はすべて1線スルー方式で、直進側を通過する際には最高速度のままで通過可能である。 ===トンネル=== 魚沼丘陵と東頸城丘陵を横断する線形からトンネルが14か所と多く、すべてのトンネルの長さを合計すると40,342メートルとなり、これは路線長59,468メートルの67.8パーセントに相当する。他の構造種別は、土路盤が9,679メートルで16.3パーセント(うち切取1,042メートル、盛土8,637メートル)、橋梁が9,447メートルで15.9パーセントである。後述のように単線であることに加えて、非電化を前提として建設が開始されたため、通常の複線電化されたトンネルと比較してトンネル断面積が小さいことが特徴である。 全長が3,000メートルを超えるトンネルについて、起点側から順に以下に示す。 ===赤倉トンネル=== 魚沼丘陵 ‐ しんざ間に位置する全長10,471.5メートルのトンネルで、トンネル内に赤倉信号場と美佐島駅が存在する。国鉄・JR以外の日本の鉄道用として開通した山岳トンネルではもっとも長い。東工区4,281.5メートル、中工区4,140.0メートル、西工区2,050.0メートルの3つの工区に分割して施工され、東工区および中工区では膨張性地圧と大量の湧水により工事が難航した。トンネル内で上越新幹線の塩沢トンネルと立体交差となっており、交差部でのトンネル間隔は1メートルもない条件で、先に赤倉トンネルが施工されたことから塩沢トンネル施工前に赤倉トンネルに補強工事を行っている。1969年(昭和44年)から1974年(昭和49年)にかけて建設され、工事凍結時点では既に完成済みであった。 ===薬師峠トンネル=== 十日町 ‐ まつだい間に位置する全長6,199.17メートルのトンネルで、トンネル内に薬師峠信号場が存在する。東工区3,647メートル、西工区2,522メートルに分割されて施工され、西工区では地質に恵まれ順調に掘削できたものの、東工区は大規模な異常出水に直面したほか、国鉄信濃川発電所用の水路トンネル2本との立体交差があり、特別な対応が求められた。1973年(昭和48年)から1979年(昭和54年)にかけて建設され、工事凍結時点では既に完成済みであった。 ===鍋立山トンネル=== まつだい ‐ ほくほく大島間に位置する全長9,116.5メートル(スノーシェッド13メートルを含めて9,129.5メートル)のトンネルで、トンネル内に儀明信号場が存在する。東工区1,750.5メートル、中工区3,387.0メートル、西工区3,979.0メートルに分割して施工され、東工区は予定通りの工期で完成したが、西工区の後半(トンネル中央側)と中工区は膨張性地山と可燃性ガスの湧出により苦しめられた。1973年(昭和48年)に着工したが、1982年(昭和57年)の工事凍結時点で645メートルが未掘削で残されており、工事再開後も日本のトンネル工事史上未曽有とされる困難を極める工事となった。最終的に1995年(平成7年)に完成し、途中の中断期間を含めると21年11か月を要した。 ===霧ヶ岳トンネル=== ほくほく大島 ‐ 虫川大杉間に位置する全長3,726.98メートル(スノーシェッド6メートルを含めて3,732.98メートル)のトンネルである。東工区1,826メートル(入口側の六夜沢橋梁を含む)、西工区1,828メートル、出口側開削区間140メートルの3工区に分割して施工された。地質に恵まれた工事であったが、西工区は建設中に工事凍結を迎え、東工区は工事再開後の着工となった。1978年(昭和53年)から1992年(平成4年)にかけて建設された。 ===第一飯室トンネル=== うらがわら ‐ 大池いこいの森間に位置する全長3,287メートルのトンネルである。東工区1,610メートル、西工区1,672メートルに分割して施工され、一部崩壊性地山に遭遇して難渋したが全体的には順調な進行で、工事再開後の1988年(昭和63年)に着工し1991年(平成3年)までかけて建設された。 ===橋梁・高架橋=== 全線で橋梁が28か所、高架橋が35か所、架道橋が69か所、線路橋が3か所、溝橋が2か所ある。 構想当初から首都圏と北陸を結ぶ優等列車や貨物列車の運転が考えられていたためKS‐16荷重を採用していた。しかし国鉄再建法に伴う工事中断とその後の第三セクター方式での建設再開に際して、旅客専用線として計画を改めており、重い機関車の入線は不可能となっている。第三セクター化後に建設された区間の活荷重はKS‐12荷重を採用している。ただし雪かき車の通行は想定されており、設計に際してDD14形・DD53形の両ロータリー式雪かき車の重量が考慮され、荷重試験や軌道検測車による検測ではDD51形が入線している。 高架橋の中に雪が溜まらないようにする対策として、くびき付近では線路と側壁の間が吹き抜けとなっている「開床式高架橋」を採用しているほか、周囲が田園地帯の区間の高架橋には、そもそも側壁自体が設けられていない。一方、しんざ駅と十日町駅の間の高架橋では、赤倉トンネルの湧水をそのまま線路脇に流して融雪している。 最長の橋梁は、十日町 ‐ 薬師峠信号場間にある信濃川橋梁で、全長406.73メートルである。橋脚や橋台は国鉄線として施工されたためKS‐16荷重で設計されているが、橋桁は第三セクター化されてからの施工のためKS‐12荷重となっている。1径間68メートルの3径間連続トラスを2連用いた橋梁となっている。 ===駅・信号場=== 列車の行き違いを行う交換設備は、起終点を除くと十日町・まつだい・虫川大杉・くびきの4駅と、赤倉・薬師峠・儀明の3信号場にあり、すべて10両編成同士の列車交換が可能である。駅数は両端の六日町駅・犀潟駅を含めて12駅で、自社管理の駅員配置駅は十日町駅だけで、起点・終点駅である六日町駅・犀潟駅と十日町駅以外は、すべて無人駅である。特急の停車しない駅のプラットホームは、虫川大杉駅の1番線のみ9両分の長さで、ほかはすべて2両分のみである。また、信号場は3か所ともトンネル内にある。トンネル内の信号場は、国鉄新線としての建設時に貨物列車の運行を計画していたことから、有効長460メートルを実現するために、複線断面となっている延長が680メートルに達しているが、実際の待避線有効長は240メートルとなっている。当初計画では制限速度45km/hの振り分け分岐器を使用することになっていたが、そのままでは一線スルー構造を実現できないことから、半径3,000mのSカーブとすることによって対処している。 「はくたか」・快速が停車しない駅では列車が高速で通過して危険であることから、地上駅についてはホームへの入口にはスイングゲートを装備し、列車に乗降する時以外はホームに入らないようにとの注意書きがなされた。地下駅の美佐島駅は、特急が140 km/hでトンネルに進入した場合、トンネル内を吹き抜ける風は、風速25メートルにも及び、通過列車が接近した場合に風圧によって飛ばされる危険が高いことなどから、二重の防風扉を装備し、客扱い時以外はホームを封鎖する。無人駅ながらホーム部分は常に監視カメラによって管理されており、列車到着後2分以内にホームから出る必要がある。このため、列車が発着した後もホームに残っているとアナウンスで注意される。 車両基地は六日町駅に隣接しており、2両編成×3編成が収容可能な収容庫と検修庫に分かれている。なお、後述する雪対策の観点から、冬季は屋外での車両留置は行わず、すべて留置用の収容庫か検修庫を利用する。このため、車両洗浄機や洗浄台も収容庫内に設けられている。 ===閉塞方式=== 閉塞方式は単線自動閉塞式である。列車集中制御装置 (CTC) とプログラム式進路制御 (PRC) を併用し、進路設定の上で支障となる要因がなくなると30秒で進路を設定できる。 開業当初は列車密度および最高速度の問題と160km/h運転の可否(GG信号の点灯不点灯)を手前から判断する必要から、出発信号機8機と閉塞信号機22機を使用して閉塞区間を比較的短区間で設定しており、本線の1閉塞区間の平均の距離は1,566メートルであった。 2015年3月14日以降は特急列車の160km/h運転を終了し、加えて列車の設定本数が半減したため、本線にある閉塞信号機はJR線と接続する六日町 ‐ 赤倉信号場間とくびき ‐ 犀潟間の各1か所を除いて使用停止とし、それ以外の区間では列車の交換施設がある駅または信号場の間に設置されていた複数の閉塞区間を統合して1つの閉塞区間とした。なお、使用停止となった閉塞信号機は2016年度中にすべて撤去されているが、長大トンネル内での走行位置を運転士が判断できるようにする必要性から、従来閉塞信号機が合った個所に黄色い丸の反射板と数字による「地点標識」を順次新設しており、地点標識での確認喚呼を新たに設けている。 ===保安装置=== 保安装置(自動列車停止装置)はATS‐P形を採用している。 当初、運輸省では高速運転に際して、新幹線と同様に自動列車制御装置 (ATC) の導入を求めていたが、導入コストの問題のほか、各地からの臨時列車の乗り入れが車種の制限なく行えるようにするため、ATS‐P形の導入となった。このATS‐P形の全面導入により、ほくほく線の交換駅では安全側線を廃止し、交換列車同士の同時進入についても本線側55 km/h・分岐側45 km/hに制限速度が緩和されている。 また、2015年3月13日以前は130 km/h以上での走行を許可する「高速進行現示」として主信号機では緑2灯の点灯、中継信号機では縦に6灯の点灯をもって、高速進行現示とする「GG信号」が導入されていた。このGG信号は、ATS‐P形のトランスポンダ車上子を搭載した車両に限って現示されたもので、トランスポンダ車上子搭載車が信号機を通過する数十秒前にG信号(進行現示)からの変換によりGG信号が現示される。GG信号は中3灯を空けて点灯することにより視認性を向上している。このGG信号の導入により、それまでの緑1灯の点灯となる進行現示(G信号)は130 km/hの制限信号となった。また、GG信号を表示する出発信号機の下にはオレンジ色の速度標識が掲出されたが、これは制限速度ではなく、当該区間の許容速度を示す標識であった。 なお、申請最高運転速度を130 km/hへ引き下げた2015年3月14日以降は、5灯式信号機についても3現示のみの点灯となり、速度標識も順次撤去されている。 ===電力設備=== 160 km/h走行を考えれば電流を小さくできる交流電化の方が有利な面が多いが、トンネルが内燃動車の運転を前提として建設されたために断面が小さく、直流電化に比べて高い電圧を使用する交流電化に必要な絶縁離隔確保ができないことや、前後のJR線が直流電化であることから、やむなく直流電化が採用されている。架線引きとめについては完成済みのトンネル天井を一部壊したほか、建設時期によるトンネル断面の変化点を利用して対応した。 架線支持方式は、高速走行時にも電車が安定して給電を受けられるように、地上区間では新幹線と同様のコンパウンドカテナリ方式を使用しているが、もともと非電化路線として建設されたため断面積の小さいトンネル内では、上下寸法の小さいツインシンプルカテナリ方式を採用しており、さらに吊架には長幹碍子という特殊な碍子を使用している。 変電所は、おおむね10 km間隔で六日町・津池・十日町・松代・大島・浦川原・大潟の7か所に設置されており、総出力は33000kWとしている。これは総延長が約60kmの鉄道路線としては異例の重装備であるが、「はくたか」運行終了に伴い設備のスリム化を図るため、津池変電所を廃止、大島・大潟の変電所からの受電を止めることで、使用する変電所を4か所に削減する予定としている。また沿線が有数の豪雪地帯であるため、一部を除いて変圧器などの重電部品は建屋に収納する対策が施されている。 ===雪対策=== 前述の通り、路線長の68パーセントがトンネルであるが、残る地上区間については先述したほかにも数々の雪対策が施されている。これら対策を開業当初から施したことにより、ほくほく線は接続するJRの路線が不通になった時でも運休することはほとんどなく、雪対策で不備をきたしたことも皆無に近い。 ===消雪溝=== 車両が排雪した後も線路脇に雪の壁を作らないようにするための装備。六日町駅構内に設けられており、線路脇に溝を作って地下水を流す。なお六日町では地下水汲み上げによる地盤沈下が激しく、地下水の利用には制限があるため、使用後の水は循環使用される。 ===パネル式融雪装置=== 車両が排雪した後も線路脇に雪の壁を作らないようにするための装備。地下水によって加温した不凍液をパネルの中に循環させるもので、民家や施設が周囲にあって除雪の際に投雪ができない場所に設けられている。六日町駅構内では地下水は循環利用であるが、関越自動車道を跨ぐ場所では取水制限がないため地下水は循環利用していない。 ===融雪ピット=== 六日町駅構内の踏切脇に設けられており、レールの間の枕木上にFRP製のトレーを置き、地下水を流すことによって列車に押された線路内の雪の量を減らす。これによって線路から踏切内へ持ち込まれる雪が少なくなる。前述の取水制限があるため、使用後の水は循環使用されている。 ===スプリンクラー=== 六日町の車両基地構内、十日町駅構内などに設けられている。六日町では地下水を利用するが、前述の取水制限があるため使用後の水は循環使用されているほか、車両基地内も路盤をアスファルト舗装とし、その上にバラストを敷いた強化路盤としている。十日町駅手前の飯山線を跨ぐ部分は赤倉トンネルの湧水を、十日町駅構内では薬師峠トンネルの湧水を利用しており、使用後の水は十日町の市街地道路の融雪に利用された後、信濃川へ放流されている。 ===熱風ヒーター=== 地下水脈が全くないため地下水を利用する手段が採れず、水利権の関係で川の水も利用できないまつだい駅構内の分岐器に装備される。ボイラーで摂氏100度まで加温された温風をダクトで分岐器に導くもので、温風噴射口では摂氏40度程度の温風となる。なお、松代地区では道路の融雪も水が利用できず、ロードヒーティングが主体である。 ===温水ジェット噴射装置=== 分岐器の可動部分で雪氷が詰まることによって、分岐器の不転換を引き起こすことがある。無人駅がほとんどのほくほく線では、直ちに人力で対応することは難しいため、不転換の分岐器があった場合には温水を噴射して氷雪を溶かす方法を採用した。この装置は運行指令所から遠隔操作され、噴射口からは摂氏25度の温水が60秒間噴射される。この装置は、ほくほく線の本線上にあるすべての分岐器に装備されている。降雪のないトンネル内の信号場にも設置されているのは、通過車両から落下する可能性のある雪や氷を考慮したためである。 ===除雪機械(モーターカー)=== JRから譲受した旧式の排雪用のモーターカー1台のほか、ほくほく線開業時に新造した2台が用意されている。新造したモーターカーは、犀潟寄りに雪を両脇に押し出すラッセルヘッド、六日町寄りに線路脇の雪の壁を崩した上で投雪するロータリーヘッドを装備しているほか、架線に付着している霜や雪を除去するためにパンタグラフを装備している。冬期中は、これらのモーターカーで夜間時に除雪作業を行っている。このような地上側での雪対策の装備について、定期点検を含めた総経費は年間約1億円である。 地上側の設備に加え、線内列車に使用されるHK100形電車のスノープロウの先端部分は櫛の歯のような形状にしている。これは2本のレールの間の雪が圧雪状態の塊になると脱線事故の原因になりかねないため、この先端部分で雪をほぐし、圧雪状態にならないようにするためである。さらに、前述の運行体制の一環として、大雪であっても列車の運行を行うことによって、線路上への積雪を最小限に抑えている。北越急行では、「最大の除雪手段は、列車を走らせ続けること」としている。 ==運行形態== 開業当初から、越後湯沢駅での上越新幹線との連絡を最優先にしたダイヤ設定が行われ、特急廃止後の2015年3月14日以降は、普通列車を主体とした地域密着型のダイヤとしている。定期全列車がワンマン運転である。 正式な起点は六日町駅であり、六日町駅から犀潟駅へ向かう列車が下り、逆方向を上りとしているが、列車番号は犀潟駅から六日町駅へ向かう列車が通常下り列車を表す奇数、逆方向が通常上り列車を表す偶数となっている。これは、特急「はくたか」がJR西日本主体の列車であったことから、北陸本線に合わせたためであり、「はくたか」廃止後もそのままである。本記事では、以下路線の起点に則って上り・下りを表記する。 ===普通列車=== 2017年3月4日現在定期列車としては16往復が運転されている。そのうち、上り1本は時刻表上は別列車だが、えちごトキめき鉄道妙高はねうまライン新井駅から直通する。 一部列車は日曜日を中心に後述の「ゆめぞら」の限定運用となっており、トンネル走行時に映像上映が行われている。詳しい運行状況は北越急行の公式サイトで確認することができる。 JR線内へ乗り入れる列車はJR線内で通過運転を行っており、上越線の上越国際スキー場前駅(冬期のみ)と塩沢駅に一部列車が停車するが、上越線の石打駅・大沢駅は全列車通過する。信越本線の黒井駅は2015年3月13日までは全列車通過していたが翌14日のダイヤ改正に伴って一部列車が停車となった。大半の列車が通過となる理由として、短い編成でワンマン運転を行うほくほく線の列車では、JR線内での突発的な需要に応じ切れないことが挙げられていた。朝の上り1本は大池いこいの森駅を通過する。 2015年3月14日のダイヤ改正で特急「はくたか」が全廃されたことに伴い、特急列車優先による待ち合わせが解消されたことから、普通列車の所要時間は1列車あたり10分程度短縮された。 ===快速列車=== 2017年3月4日現在、越後湯沢 ‐ 直江津間に下り2本・上り3本運転されている。(停車駅は「駅一覧」の節を参照。) ===超快速「スノーラビット」=== 特急廃止後の2015年3月14日のダイヤ改正で新設された。2017年3月4日現在、越後湯沢 ‐ 直江津間に1.5往復(上り1本、下り2本)が設定され、下り列車1本については直江津駅から列車番号を変え、普通列車としてえちごトキめき鉄道妙高はねうまライン新井駅まで直通する(停車駅は「駅一覧」の節を参照。)。 途中十日町駅のみ停車の最速列車は越後湯沢駅から直江津駅までの84.2kmを57分で走破し、妙高はねうまライン乗り入れ部分を除くと、表定速度は88.6km/h、ほくほく線内に限れば99.2km/hに達する。これは485系使用便の「はくたか」を上回っており、日本国内において乗車券だけで乗れる列車としては、2016年現在表定速度が最も高い列車である。 ===超低速「スノータートル」=== 2015年11月7日以降半定期的に運行されているイベント列車。普通列車でも50分程度で走破する線内を約4時間(第1回の場合、犀潟駅10:44→六日町駅着14:48)かけて走行する。 「ウサギといえばカメだよね」という北越急行社内での冗談から、超快速の対極に位置する列車として生まれ、難工事で知られる鍋立山トンネルを10km/h以下の低速で通過するほか、トンネル内の信号場では列車が通過しない側の乗降用ドアと貫通扉を開け、離合時に発生する10m/sの風を体験する試みも行われた。 初回運行時は『全車指定席の臨時列車』(運賃と指定席料金のみで乗車可能)として運行されたが、2016年8月28日の第2回運行以降、北越急行が旅行業登録を行い『団体列車』(食事付き)として運行されている。 ===乗務員について=== ほくほく線内の列車に乗務する乗務員は、全列車とも、JR東日本の区間も含めて北越急行の運転士が担当する。ただし2015年3月13日まで運行されていた特急列車では、境界駅の犀潟駅・六日町駅に停車しない関係で(六日町駅は一部の列車が停車)2012年時点では運転士・車掌ともにJR東日本直江津運輸区が担当していた。なお、開業当初から2004年3月ダイヤ改正まではJR西日本の車掌もほくほく線区間を乗務することがあった。 ===列車の乗降方法=== ワンマン運転のため、駅員が配置されている越後湯沢駅・塩沢駅・六日町駅・十日町駅・犀潟駅・直江津駅ではすべてのドアが開き乗降が可能だが、これらの駅以外の駅で乗降する場合は、2両編成で運転される普通・快速列車の2両目のドアは開けず、1両目の後部のドアより乗車し、1両目の前部のドアより降車する後乗り前降り方式を取っている。 ===運行管理=== ほくほく線の運行管理は、六日町駅に隣接した運転指令所により行われている。 開業当初からJR東日本新潟支社の運転指令との連携が行われていたが、当初はJR西日本の区間での遅れ情報がJR東日本を通じて提供されるシステムであったため、ダイヤの乱れが大きい場合には情報の遅れが生じ、ひどいときには越後湯沢行きの列車の遅れ状況が直江津に到着しないと判明しなかったことすらあった。このため、他社線での遅れ状況を把握するためのディスプレイが運転指令所に設置され、JR西日本エリアも含めた運行状況をリアルタイムで把握できるようになった。2012年にPRCの更新が行われた際には、ほくほく線各駅にアニメーションで全線の列車の位置や遅れ状況などを表示する列車運転状況表示装置が設置された。 また、運転通告(運転指令員から運転士に対しての指示)についても、JRなどで行われている運転通告券による方式は無人駅の多いほくほく線では困難であるため、無線伝達をもって運転通告としている。このため、全線にわたって漏洩同軸ケーブル (LCX) が敷設され、列車がほくほく線内のどの位置にいても運転指令所との通信が明瞭に行える。 ほくほく線区間の特急の運転士は前述の通りJRの乗務員が担当していたが、ほくほく線内では一切の指揮系統は北越急行の運転指令によるものとなっていた。一方北越急行の運転士が担当する普通列車のJR東日本区間への乗り入れ先では、JR東日本の指揮下となる。 ===過去の運行状況=== 1997年3月22日のほくほく線開業から北陸新幹線長野駅 ‐ 金沢駅間開業前日の2015年3月13日までは上越新幹線と接続して北陸方面を結ぶ特急列車と、地域内利用を主眼とした普通列車という運行形態が取られていた。 1999年時点では特急「はくたか」は10往復運行されており、「はくたか」同士のすれ違いは56回中24回がほくほく線内で行われていた。また、ほくほく線内のみを運転する普通列車は、数駅ごとに特急列車の待避や交換待ちなどで長時間停車する列車が多かった。1999年の時点では、通過駅のない普通列車で最も短い所要時間が直江津駅から六日町駅までで49分45秒なのに対して、最長の所要時間を要する列車では六日町駅から直江津駅までに1時間24分かかっていた。なお開業当初の快速は虫川大杉駅を通過していた。 ==利用状況== ほくほく線の沿線は大きく南魚沼地域(南魚沼市のうち旧六日町)・中魚沼地域(十日町市の旧市域)・東頸地域(十日町市のうち旧松代町)・平野部(上越市のうち旧町村部にあたる大島区・浦川原区・頸城区・大潟区)の4地域に分けられる。それぞれの地域はもともと丘陵地帯によって隔てられていたため、平常時の流動はほくほく線のルートとは平野部以外は一致していない。東頸地域はもともとの交通事情が悪かったため、ほくほく線の開業に伴い利便性が向上したものの、ほくほく線の沿線は最も過疎化と高齢化が進んでいる地域で、マイカー保有率も1.5人に1台の割合で、かつ、2008年の新潟県内公立高校普通科の学区撤廃まで学区も異なっていたため、当初より線内需要や地域を越えた広域流動需要は厳しいと見られていた。 こうした事情もあり、ほくほく線開業と同時に公共交通体系の再構築が行われた。北越急行に出資するバス事業者である頸城自動車は、1996年10月に東頸地区自治体との共同出資による東頸バスの営業を開始し、ほくほく線の開業後は各駅前に乗り入れる路線を設定した。また、同様に北越急行に出資するバス事業者の越後交通は、ほくほく線の列車と競合する越後湯沢 ‐ 十日町の路線バスを減便している。 峠越えとなるために自動車でも1時間程度の所要時間を要していた越後湯沢 ‐ 十日町が、開業により普通列車でも30分台で結ばれるようになるなどの時短効果に加え、前述した雪対策によって安定した輸送を目指したことが評価されたこともあり、現実の線内利用者数も、開業当初に年間65万人程度であったものが2012年には110万人に増加している。ただし、通学定期の利用者数は2012年がピークとなり、翌年には5%減となっている。 特急が運行していた2011年(平成22年)度の輸送密度は約7,780人/日であるが、これは旧国鉄路線から転換あるいは建設中の新線を継承した第三セクター鉄道では愛知環状鉄道線に次いで2番目に高いものであった。2006年(平成18年)度から2010年(平成22年)度までは輸送密度が8,000人/日以上であり、これも愛知環状鉄道線とこの路線の2路線のみであった。 ===輸送実績=== ほくほく線の輸送実績を下表に記す。表中、輸送人員の単位は万人。輸送人員は年度での値。表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。鉄道統計年報各年度版より作成。 ===収入実績=== ほくほく線の収入実績を下表に記す。表中、収入の単位は千円。数値は年度での値。表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。鉄道統計年報各年度版より作成。 ==車両== ===現在の使用車両=== ====自社車両==== ほくほく線内の普通列車は、特急列車「はくたか」への影響を最小限とするため、ローカル線の普通列車としては高速の部類に入る最高速度110 km/hと、優れた加速性能(3.0km/h/s)が要求された。 ===HK100形=== 線内の普通列車として開業時より運用される車両で、開業時点ではイベント兼用車2両含む9両を製造。1999年に1両、2003年にイベント車2両が増備された。イベント車4両は「ゆめぞら」と称し、トンネルが多くあまり景色が見られないという路線特徴を逆手に取り、トンネル走行時に車内にて映像が上映される。2003年に増備された100番台「ゆめぞら」のみ片運転台の2両編成で、それ以外は両運転台の車両である。 ===過去の特急列車の使用車両=== 2015年3月13日まで運行された特急「はくたか」については、北越急行の保有車両とJR東日本・西日本が保有する車両が使用された。 1997年の開業当初は、特急「はくたか」の経由する各社の営業キロを按分することによって、JR西日本・北越急行・JR東日本が7:2:1の比率で車両を運用しており、JR西日本では681系と485系、北越急行は681系、JR東日本は485系を使用していた。 その後、2002年のダイヤ改正ではJR西日本の485系は681系に置き換えられ、485系を運用するのはJR東日本だけとなった。485系の限定運用は全体の運行効率を引き下げることになっていた上、681系とのサービス格差が乗客からも指摘されるようになったため、北越急行とJR東日本の協議により、JR東日本の485系は北越急行の新造した683系によって置き換えられることになった。 いずれも特急「はくたか」で運用された。北越急行保有の特急形車両は、JR西日本の保有する車両と同一形式として製造した。これは、車両選定の段階で160 km/hの高速走行を考慮して設計されていたのがJR西日本の681系しかなかったこと、全くの新形式を製造することは会社の体力的に無理があったことが理由として挙げられている。その一方、他社からの乗り入れのみでなく自社の車両を保有することになったのは、各社間協議で「大規模な相互直通運転を行うには各社が初期の設備投資をするのが絶対条件」とされていたこと、過去に経験のない高速運転を実施するために長期にわたる試験が必要となったが、JR西日本の車両を長期間借用するのは困難であったことが理由として挙げられる。 北越急行所属車については、独自の赤主体の塗装、「スノーラビットエクスプレス」(Snow Rabbit Express)という車両愛称を持ち、車体には「SRE」とユキウサギのロゴマークが施されていた。運用も当初は区別されていたが、2002年3月ダイヤ改正以降はJR車との共通運用となっていた。 2015年3月14日の北陸新幹線開業後は全車両が同日付でJR西日本に譲渡され、主に「しらさぎ」「能登かがり火」「ダイナスター」で運用されている。塗装も同年6月初めまでに順次「しらさぎ」用の塗装デザインへ変更された。 ===681系2000番台=== JR西日本の681系電車と同一仕様の車両で6両+3両編成を各2編成製造。整備・検査などはすべてJR西日本に委託され、車両自体もJR西日本の金沢総合車両所に常駐とされていた。北越急行の681系は川崎重工業製であるが、一部車両は委託製造として近畿車輛と新潟鐵工所が製造した。 ===683系8000番台=== JR西日本の683系0番台をベースに、681系と一部仕様を合わせた車両で、2005年にJR東日本担当分の車両を置き換える形で6両+3両編成を各1編成製造。簡易気密構造を有し、電動車のキャリパ式ディスクブレーキ化が行われている点が他の683系との差異である。北越急行の683系は構体と電装品を川崎重工業で製造し、最終組み立てを新潟トランシスで行った。 ===JR東日本からの乗り入れ車両=== ===485系3000番台=== 開業時から乗り入れ。2005年のダイヤ改正で北越急行683系8000番台に置き換えられた。 ===JR西日本からの乗り入れ車両=== ===485系=== 開業時から乗り入れ。2002年のダイヤ改正でJR西日本の681系に置き換えられた。 ===489系=== 臨時便や485系・681系の代走として特急「はくたか」で乗り入れることがあったほか、急行「能登」が新潟県中越地震の影響により臨時にほくほく線経由で運行された際に乗り入れたことがある。 ===681系0番台=== 開業時から乗り入れ。車両愛称は「ホワイトウイング」。先述の通り、開業当初は北越急行車と運用を区別したが、2002年3月のダイヤ改正以降は共通運用となっていた。2015年3月のダイヤ改正に前後して、同年6月初めまでに一部を除き「しらさぎ」用の塗装デザインへ変更・転用された。 ===683系=== 特急「サンダーバード」用の4000番台が、ダイヤ乱れなどの際に運用上の都合で681系の運用に入ることがあった。高速運転には対応しておらず最高速度は130 km/hとなるが、新幹線の接続に影響が出るほどの大幅な遅れにはならなかった。 ===臨時列車等=== 以下、「はくたか」以外で乗り入れ実績のある、あるいは予定されている車両である。 ===115系=== 臨時列車として高崎車両センター所属車が乗り入れた実績がある。 ===E129系=== 2018年(平成30年)2月16日 ‐ 17日の「第69回十日町雪まつり」開催に伴う臨時列車として乗り入れた。なお営業運転以外では、2017年(平成29年)12月15日に六日町駅 ‐ まつだい駅間で試運転が行われている。 ===485系300・1000番台=== ATS‐Pを搭載するT18編成などが臨時列車として乗り入れた。 ===485系 ジョイフルトレイン=== 首都圏地区に所属するお座敷列車や新潟車両センター所属のNO.DO.KAが臨時列車として乗り入れた。 ===E653系1000番台=== 臨時列車として乗り入れ実績がある。 ===HB‐E300系(「リゾートビューふるさと」)=== 2013年11月16・17日に臨時列車「ほくほくぐるり一周号」として入線した。 ===E491系(East i‐E)=== 総合検測車。 ===583系=== 冬季に「シュプール号」で乗り入れた。 ===えちごトキめき鉄道からの乗り入れ車両=== ===ET122形基本番台=== ほくほく線開業20周年企画の一環として、2017年9月10日に「ほくほくSAKE Lovers号」として基本番台のうち、イベント対応車「3市の花号」(ET122‐8)が乗り入れた。なお、運行に備え2017年8月から当路線での訓練運転が数度行われている。 ===ET122形1000番台(「えちごトキめきリゾート雪月花」)=== 2018年9月7日に特別運行「大地の芸術祭・里山紀行」として乗り入れ予定。 ==データ== ===路線データ=== 管轄(事業種別): 北越急行(第一種鉄道事業者)路線距離(営業キロ): 59.5 km軌間: 1,067 mm駅数(起終点を含む): 12最高速度: 130 km/h ただし、定期列車は全て最高速度110 km/hで運行している。 2015年3月13日までは国土交通省運輸局への申請最高速度は160km/h(当時京成成田空港線と共に営業在来線日本国内最速)、但し、薬師峠信号場 ‐ まつだい間、虫川大杉 ‐ くびき間は140 km/h。ただし、定期列車は全て最高速度110 km/hで運行している。2015年3月13日までは国土交通省運輸局への申請最高速度は160km/h(当時京成成田空港線と共に営業在来線日本国内最速)、但し、薬師峠信号場 ‐ まつだい間、虫川大杉 ‐ くびき間は140 km/h。複線区間: なし(全線単線)電化区間: 全線(直流1,500 V)最小曲線半径: 400 m最急勾配: 33 パーミル設計活荷重: KS‐16(国鉄時代に完成した区間)、KS‐12(第三セクター化後に完成した区間)最長トンネル: 赤倉トンネル(10,472 m、魚沼丘陵 ‐ しんざ間。トンネル内に赤倉信号場と美佐島駅があり、開業当時は地下鉄・JR線以外では日本最長の鉄道トンネルだった)閉塞方式: 単線自動閉塞式保安装置: ATS‐P運転指令所: 六日町指令所 ===駅一覧=== 全線新潟県内に所在。便宜上、ほくほく線の列車が直通するJR上越線・信越本線の区間も合わせて記載する。なおJRの普通列車は上越国際スキー場前駅を除き下表のJRの駅すべてに停車する。 ===凡例=== 停車駅 … ●:全列車停車、|:全列車通過、*:一部の列車が停車、※:夏季・冬季のみ一部の列車が停車、△:一部の列車が通過線路 … *191*:複線区間、◇:単線区間(列車交換可能)、|:単線区間(列車交換不可)、∨:ここより下は単線、∧:ここより下は複線 =ハンセン病= ハンセン病(ハンセンびょう、Hansen’s disease, Leprosy)は、抗酸菌の一種であるらい菌 (Mycobacterium leprae) の皮膚のマクロファージ内寄生および末梢神経細胞内寄生によって引き起こされる感染症である。 感染経路は、らい菌の経鼻・経気道よりのものが主であるが、他系統も存在する(感染経路の項にて後述)。らい菌の感染力は非常に低く、治療法も確立した現状では、重篤な後遺症を残すことや感染源になることは無いものの、適切な治療を受けない・受けられない場合、皮膚に重度の病変が生じ、他者へ感染することもある。 2007年の統計では、世界におけるハンセン病の新規患者総数は、年間約25万人である。一方、日本の新規患者数は年間で0〜1人に抑制され、現在では極めて稀な疾病となっている。 病名は、1873年にらい菌を発見したノルウェーの医師、アルマウェル・ハンセンに由来する。かつての日本では「癩(らい)」、「癩病」、「らい病」とも呼ばれていたが、それらを差別的に感じる人も多く、歴史的な文脈以外での使用は避けられるのが一般的である。その理由は、「医療や病気への理解が乏しい時代に、その外見や感染への恐怖心などから、患者への過剰な差別が生じた時に使われた呼称である」ためで、それに関連する映画なども作成されている。 ==呼称== ハンセン病は古くから世界の各地に存在していた病気で、多くの古文書や宗教にハンセン病を思わせる記述が残されている。ただし、古文書に登場するleprosy、癩病と呼ばれたものはハンセン病以外の病気も含む可能性があることや、歴史的経緯からみると医学用語ではなく宗教的要素も加わった言葉であること、また聖書の翻訳に見られるように混乱を引き起こすように訳された結果を考慮すると、ハンセン病と同義にならない。古文書でのleprosyやレプラの記述の意味を確認することは容易でなく、ハンセン病の起源、歴史の研究を難しくする要因となっている。 日本では「癩(らい)病」、「ハンセン病」の両方の呼称がある。上述したとおり、公的な場での前者の使用は忌避される傾向がある。近代以前の「癩(病)」は一つの独立した「ハンセン病」という疾患以外の病気も含む概念であり、断りを併記して使用されることがある。 英語圏では leprosy, Hansen’s disease の両方が使用される。患者は leper(らい者)とも呼ばれるが、1953年に開催された第6回国際らい会議では、患者は leprosy patient と呼ぶことが推奨された。 従来、らい療養所は「レプロサリウム、Leprosarium」と呼ばれたが、「サナトリウム、sanatorium」の方がより一般的である。 以下に、ハンセン病の主な別称を概観する。 ===西洋における呼称と和訳=== 英語の「leprosy」や近代西洋語の同等の語、また日本語の「レプラ」は、古代ギリシア語で 「λ*138*πρα (lepr*139*)」、ないしはその借用語であるラテン語の「lepra」に由来するが、その語史は次のように辿ることができる。「λ*140*πο*141* (lepos) 皮・鱗」→「λεπερ*142**143* (leperos) 皮・鱗を持った〜」→「λεπρ*144**145* (lepros) 鱗状の〜、かさぶた状の〜、レプラの〜」→ その女性形「λ*146*πρα (lepr*147*)」。この語の意味を巡っては議論が絶えない。少なくとも古代ギリシアにおいては、語源に見えるように「皮膚が鱗状・かさぶた状になる症状群」を指し、乾癬や湿疹など幅広い皮膚疾患がこの名で呼ばれていた。ハンセン病の症状を含んでいたかどうかについては諸説ある。紀元前5〜4世紀の古い使用例として、ヘロドトス『歴史』〈1巻138節〉、アリストファネス『アカルナイの人々』〈724行〉などがあり、またヒポクラテス集成の中では『予知論 II』〈43章〉などがある。 紀元前3世紀頃()、七十人訳聖書(ギリシア語訳の旧約聖書)では、皮膚上の「*148**149**150**151**152**153**154* ツァーラアト」(レビ記13‐14章 他)に対し、”λ*155*πρα の訳語を与えている。ヘブル語の「ツァーラアト」もまた、具体的にどういった病気を指していたのかは特定困難であるが、レビ記13章の記述では「体毛や皮膚の白変、肉がくぼんだりくずれたりする、そして患部が広がっていく。」というような症例が人間に対してのツァーラアトで、これ以外に無生物(布・皮革など、他に14章にも「家屋」に対する説明もある。)に対するツァーラアトの例もあり、こちらは「赤や緑の染みが放置すると拡大していったり、洗濯してもおちない。」といった症例になっている。 いのちのことば社の発行する『新改訳聖書』第三版では「ツァラアト」と日本語に翻訳した。元来、旧約聖書の原典に用いられたとみられるヘブル語であるが、原典がギリシヤ語である新約聖書での日本語訳版もこれに統一されている。 日本聖書協会の発行する『口語訳聖書』のうち、2002年版以降のもの、および『新共同訳聖書』では、別の語に訳し直して対応している。旧約聖書『レビ記』13章の無生物に対するものは衣服につくカビと解釈して「悪性のかび」などとしたが、ほかは、ほぼすべて「重い皮膚病」とした。 国立療養所長島愛生園長島曙教会牧師大嶋得雄らは、この「重い皮膚病」を不適訳で、真実・愛・真心のある訳でないものであって聖書が差別 偏見を与えるものとなり、社会に悪影響を及ぼすとして不買を求めている。 キリスト教会以外では、ものみの塔聖書冊子協会の発行する『新世界訳聖書』がすべて「らい病」「らい病人」などとしているが、その「マタイによる書」のみ分冊としたものは『マタイによる福音書』のように日本聖書協会を意識して改題され、「重い皮膚病」などに改められている。 アリストテレスが「サテュリア」と呼んだものは、ハンセン病であったかもしれない。また、エフェソスのルフス(英語版)によれば、ギリシアの医者エラシストラトス(英語版)の弟子ストラトンが「カコキミア(英語版)」と呼んだものは「象皮病」(後述)であったというが、いずれの場合もはっきりしない。 やや時代を下り、紀元前1世紀ころから、ギリシア語ないしはラテン語で「象 *156*λεφα*157* , elephas」 または「象皮病 *158*λεφαντ*159*ασι*160* , elephantiasis」 と呼ばれていたものは、おそらくハンセン病であったと考えられている。 この病気は全身を冒すため、骨も悪くなるといわれている。身体の表面にさまざまな斑点や腫瘍ができ、それらの赤い色が徐々に黒褐色に変わっていく。皮膚の表面が均一的ではなく、厚かったり、薄かったり、硬かったり、柔らかかったりし、あたかも何かの鱗のように粗くなり、身体がしぼんでくるが、顔やふくらはぎや足首が腫れてくる。病気が古くなってくると手や足の指が腫瘍で隠れてしまうほどになる。熱が出ると、そうしたひどい状態の病人は容易に死へと追いやられてしまう。 ― ケルスス 『医学論』 第3巻25章より、 ===日本の古い呼称=== 奈良時代に成立した『日本書紀』、「令義解」 には、それぞれ「白癩(びゃくらい・しらはたけ)」という言葉が出ており、現在のハンセン病ではないかとされている。「令義解」には「悪疾所謂白癩、此病有虫食五臓。或眉睫堕落或鼻柱崩壊、或語声嘶変或支節解落也、亦能注染於傍人。故不可与人同床也。」と極めて具体的な症状が書かれており、これが解釈の根拠になっている。この解釈が正しいとすると、これが世界最古の感染症に関する記述となる。ただし、ハンセン病以外の皮膚病を含んでいるという可能性も指摘されている。 鎌倉時代になると、漢語由来の「癩(らい)」や「癩病」が使われるようになった。 江戸時代になると、やまとことばで「乞食」を意味する「かったい(かたい)」という言葉も使用されるようになった。この言葉は、一般には江戸時代まで使われたが、第二次世界大戦後まで使用された地域もあった。方言としては「ドス」、「ナリ」、「クサレ」、「ヤブ」、「クンキャ」などの蔑称も使用された。 昭和時代に入ると、ドイツ語またはラテン語である「lepra(レプラ)」の言い換え語として、片仮名表記のレプラという言葉も使用された。「レプラ」は島木健作や織田作之助の作品などに散見される。また、日本癩学会が発行する機関誌名にも使用された。 ===Hansen’s disease(ハンセン病)への改称=== 1873年にアルマウェル・ハンセンがらい菌を発見したことにより、「Hansen’s disease, HD」という名称が使われるようになった。1931年のマニラの国際会議における発言をきっかけとして、アメリカ合衆国のカーヴィル療養所入所者が発行している「The Star」誌(1941年創刊)を中心に活動が行われた。1946年にスタンレー・スタインがらい諮問委員会に提言したが受け入れられず、1952年にアメリカ医師会が「leprosy」を「Hansen’s disease」に変更することで改名が実現した。 日本でも、療養所入所者を中心に「癩病」から「ハンゼン氏病」への改名の動きが現れた。当初の名称が「ハンゼン氏病」と濁音表記になっているのはドイツ語訳の影響である。1953年(昭和28年)2月1日に「全国国立癩療養所患者協議会(全癩患協)」は「全国国立ハンゼン氏病療養所患者協議会(全患協)」に改称した。しかし厚生省はその後も「癩」を平仮名の「らい」に変更するのみにとどまり、専門学会も「日本らい学会」と呼ばれ「らい」が使用され続けた。その一方で、大阪皮膚病研究会や、那覇や宮古島のハンセン病外来施設である皮膚科診療所などでは、「らい病」の使用は忌避された。1959年(昭和34年)に全患協はより一般的な英語読みの「ハンセン氏病」に改称し、さらに1983年(昭和58年)には、「氏」を削除して「ハンセン病」へと改称した。1996年(平成8年)のらい予防法廃止後は、官民ともに「ハンセン病」が正式な用語となり、「日本らい学会」も「日本ハンセン病学会」に改称された。 東洋医学では、元来、「大風(麻風)」や「癘風」(れいふう) とも呼ばれていたが、アルマウェル・ハンセン(漢生)の名を取った「漢生病」が一般的な呼称となった。2008年には台湾でも名称を「漢生病」とすることが法的に定められた。 ==ハンセン病の原因== ===らい菌について=== らい菌のヒト以外の自然感染例には、3種のサル(チンパンジー、カニクイザル、スーティーマンガベイ)とココノオビアルマジロがある。アルマジロは正常体温が30〜35℃と低体温であり、らい菌に対し極めて高い感受性があるとされている。 1971年にらい菌に対する感受性があることが明らかになって以降、ココノオビアルマジロはハンセン病の研究に用いられてきたが、1976年、突然変異により胸腺を欠いて免疫機能不全に陥ったヌードマウスに感染・発症することが明らかになり、現在の研究は主に当該マウスで行われるようになった。 ===感染源=== 感染源は、菌を大量に排出するハンセン病患者(特に多菌型、LL型)である。ただし、ハンセン病治療薬の1つであるリファンピシンで治療されている患者は感染源にはならない。 昆虫、特に蝿にらい菌が感染して、ヒトにベクター感染することもあるため、昆虫も感染源になり得るという報告がある。ゴキブリによる結核菌の移動実験により証明されたという報告もあるが、否定的な意見も多い。 その他、ルイジアナ、アーカンソー、ミシシッピ、テキサスの低地のココノオビアルマジロかららい菌が検出されており、アルマジロから人間に感染するルートの検討 や、自然界、特に川などに存在するらい菌が経鼻感染にて感染するルートの検討 もある。 ===感染経路=== 感染は、未治療のらい菌保有者(特に菌を大量に排出する多菌型、LL型患者)の鼻汁や組織浸出液を感染源とするルートが主流となっている。ヌードマウスに菌のスプレーを与えた動物実験により確認された。飛沫感染 (droplet infection) とも呼ばれる。 また、経鼻・経気道感染とは別に接触感染のルートも存在する。傷のある皮膚(英: abraded skin)経由説と呼ばれ、刺青部や外傷部に癩の病巣ができる病例より証明されている。1884年にアーニング(Eduard Arning, 細菌学者ナイセル (Albert Neisser) の弟子)が、ハワイ王国でキアヌ (Keanu) という死刑囚に癩腫を右前腕に移植するという人体実験の成功でも証明された。 前述したとおり、その他の感染経路として昆虫からのベクター感染のルートの検討もあるが、否定的な意見も多く証明されていない。 ===伝染力=== たとえ菌を大量に排出するハンセン病患者(特にLL型)と接触しても、高頻度に感染が成立する訳ではない。濃密な感染環境下に置かれる等の特殊な条件が必要であり、感染力は非常に低い。らい菌と接触する人の95%は、自然免疫で感染・発症を防御できるためである。感染時期は小児が多く、大人から大人への感染及び発病は、極めて稀である。 患者から医療関係者への伝染に関しては、一般的に「医療関係者に伝染発病した事実はない」と言われている。ただし、流行地で幼児期を過ごした人であれば発病する可能性がゼロではないこと、実際に患者に接触して感染した医師や神父(ダミアン神父など)も存在することを考慮する必要がある。 ===潜伏期間=== 感染してから発症するまでの潜伏期間は長く、3〜5年とされているが、10年から数十年に及ぶ例もある。 ===らい菌発見の経緯=== 1869年、ノルウェーのアルマウェル・ハンセンはハンセン病患者の癩結節の中に大きな塊状のものがあることを顕微鏡で発見し、1873年2月28日に細菌によく似た小さな桿状の物体を発見した。1873年、オスロで「眼の癩性疾患」と題した発表の中でハンセンが癩菌をスケッチした図を残した。ただし当時は染色法もなく、らい菌の形態を正確に描いたものではなかった。その後、1874年オスロのクリスチャニア医学会で「癩の発生原因について」と題した講演とノルウェーの医学雑誌上での発表を行った。1875年には英国の医学雑誌へ再掲載し、英文で初めて発表を行った。 1879年、ドイツの細菌学者であるアルベルト・ナイサーは、ハンセンから標本を分与されたらい菌の染色に成功し、らい菌の正確な形態を明らかにした。追随してハンセンも1880年に発表を行った。 ちなみに、らい菌を最初にスケッチしたハンセンと、初めて染色に成功してらい菌の形態を明らかにしたナイサーは「らい菌の発見者」であると共に主張し論争が起こった。その後、ハンセンがらい菌を1873年に発見したということで決着した。 ==疫学== 人獣共通感染症でも知られるが、自然動物ではヒト、霊長類(マンガベイモンキー)とココノオビアルマジロ以外に感染した例はない。以下、ヒトの感染状況について説明する。 ===世界=== 2008年初頭の登録患者数(治療中の患者)は218,605人、2007年の新規患者数(年間罹患者数)は258,133人である。登録患者数は一定の治療を終えた患者は治癒の有無に問わず、登録から除外されている。そのため年次報告の性質上、年内に治療が完了すると登録者から除外されるため、新規患者数(年間罹患者数)は登録患者数を上回る。MB型では1年でなく2年以上で治療しているので例外がある。また注意点としては、ハンセン病と診断されて適切に治療している人数のみをカウントしているため、ハンセン病と診断されず、治療されていない患者も相当数存在すると思われる。 表1に地域別の2008年初頭の登録患者数、2001‐2007年の新規患者数の動向を示した。新規患者数は年々、明確に減少していることが分かる。2005年と前年とを比較すると110,000件余 (27%) 減少している。表2には2007年の国家別新規患者数で患者数が1,000人以上の国家を降順にリストアップした。2007年現在、インドで新規患者数が最も多くなっている。 WHOによるハンセン病制圧の定義は、1991年5月に開催された第44回世界保健総会で決定され、人口100万人以上の国で、登録患者数が人口1万人あたり1人を下回る(有病率が1.0を下回る)こととされた。この定義を遵守すると日本では1970年前後に制圧を達成している。2005年初頭はインド・ブラジル・コンゴ民主共和国・アンゴラ・モザンビーク・ネパール・タンザニア・中央アフリカの9カ国が未制圧国であったが、2006年初頭にインド・アンゴラ・中央アフリカが、2007年初頭にマダガスカルとタンザニアが、2007年末にコンゴ民主共和国とモザンビークが制圧を達成した。現在の未制圧国はブラジル・ネパールと、新たに加わった東ティモールの3カ国となっている。東ティモールは以前より有病率が1.0を超えていたものの、人口100万人未満であったために定義より除外されていた。しかし2008年、人口100万人を突破したことにより加わった。 表3には未制圧国のブラジル・ネパール・東ティモール、最近まで未制圧国であったモザンビーク・コンゴ民主共和国・タンザニア・マダガスカル・インドの登録患者数と新規患者数の最近の動向をまとめた。 ハンセン病は全世界に見られるが、分布は一様でなく、度々、流行も生じる。代表的なものとしては、1850〜1920年のノルウェー・1920年代のナウル島・1980年代のカピンガマランギ島での流行がある。流行の原因について多種多様な検討も行われている が、実際には明確になっていない。 男女比に関しては、全世界を通じて男性が女性より多い。男性は小児期から活動的であり、感染しやすいと言われているが、明確には原因が分かっていない。ただし日本の全国の療養所では、一般的に男性の方が女性より寿命が短いために男女比はほとんど同じまたは逆転している。 貧困層と富裕層の比較に関しては、インドの調査によると、貧困層に発症率が高い。ハンセン病患者は、亜鉛、カルシウム、マグネシウムが正常の人に比べて著しく低値であった。 ===日本=== 表4は1996‐2007年までの日本国内の新規患者数である。日本で発見された日本人の新規患者数に関しては減少傾向を示し2005年にはじめてゼロになった。よって日本で発見された新規患者は、外国で過ごしたことがある在日外国人がほとんどである。 在日外国人の中ではブラジル出身者と東南アジア出身者がほとんどである。 一方、登録患者数は日本では1997年(平成9年)以降、公表されていない。日本国内の療養所入所者数は2008年現在2717人であるが、再発や治癒遅延でハンセン病の治療をしている人はごくわずかである。 WHOに定義されるように「診断されて適切に一定期間治療を行いその後は患者登録から除外される」という観点で日本の登録患者数を推定すると、新規患者数と同程度である数名となる。しかし、日本では菌をゼロにするまで治療を行う治療基準が設けられており、WHOが規定している治療期間より大幅に治療が長期化しているケースや、一旦治癒したが菌検査で少しでも陽性がみられれば治療を行うというケースも考えられるため、実際に治療を行っている患者数に関してはWHOで定義している登録患者数に比べるとかなり多いと推定される。しかし実際のところは、治療を行っている患者数に関する統計を行っていないので詳細は不明である。 病型別では、昭和前半の統計ではあるが、日本では多菌型が多く癩性禿頭症や失明が多かった。光田健輔によると1911年に公立療養所第一区府県立全生病院(現、国立療養所多磨全生園)では58.63%に禿頭症がみられた。沖縄県や東南アジアの様な流行地では症状は一般的に軽いといわれている。 ==分類== ハンセン病の分類に関しては様々な分類法がある。一般的な病型分類は、WHOのMB型・PB型分類法であり、この分類が望ましい。以前は、1962年提唱のRidley & Joplingの分類法が一般的に使用された。 ===WHO治療指針の病型分類法=== WHOは、多剤併用療法による治療方針決定上の簡便な病型分類として、MB型(多菌型、multibacillary)とPB型(少菌型、paucilbacillary)の2分類を採用している。MB型はおおむねLL型、BL型、BB型および一部のBT型に相当する。一方、PB型はおおむねI群、TT型および大部分のBT型に相当する。菌スメア検査のBI (bacterial index)(菌指数)と皮疹(皮膚の発疹)の数によって分けられる。BIについては検査の項を参照。 MB型(多菌型):BI陽性・皮疹6個以上PB型(少菌型):BI陰性・皮疹5個以下 ===Ridley & Joplingの分類法=== 1962年に提唱された分類法である。分類の方法は、らい菌に対する生体の細胞性免疫の強弱に基づいている。LL型(らい腫型、lepromatous type)、TT型(類結核型、tuberculoid type)、B群(境界群、boderline group)、I群(未定型群、indeterminate group)に分け、さらにB群はLL型に近いBL型 (borderline lepromatous type)、TT型に近いBT型 (borderline tuberculoid type)、中間のBB型 (mid‐borderline type) と、1群5型に分類した。 ==症状== 症状は主に末梢神経障害と皮膚症状である。らい菌の至適温度は30 ‐ 33℃であるため、温度の高い肝臓や脾臓、腎臓等の臓器に病変が生じても症状は見られない。病状が進むと、末梢神経障害に由来する変形や眼症状などの合併症状を生じる。しかし、早期診断・早期治療を行えば、このような重篤な合併症状に至る例はない。 ===一次症状=== 前述したように末梢神経障害と皮膚症状が重要である。神経の症状としては神経障害だけでなく末梢神経の肥厚(触診で触れることができる)も出現するためまとめて記載した。前述したRidley & Joplingの分類法に基づき症状の出方が異なるため、それに準じて解説を加える。なお、末梢神経の炎症の結果生じる感覚障害、痺れ、運動麻痺については内部リンクも参照のこと。 LL型(らい腫型) 皮膚症状 皮疹の形状は斑状・結節・丘疹が出現する。出現する発疹によって丘疹型、結節型、瀰漫浸潤型に分類することもあるが、実際にはそれらが混在していることが多い。疼痛や痒みなどの自覚症状は通常はない。表面が脂ぎって滑らかな感じがあり、左右対称性に発疹が分布し、境界は不明瞭であるという特徴がある。 神経障害 知覚障害は軽度である。神経の肥厚は全身に出現するものの発症初期には不明確である。 TT型(類結核型) 皮膚症状 多様な発疹が出現する。孤立性の隆起性紅斑が特徴的である。発疹の分布は非対称的でLL型に比べると皮疹の数は少ない。境界は明瞭で比較的単純な弧を描いているのも特徴である。また、その部分の皮膚の構造は破壊されて発汗障害をきたしたり毛が脱落するとともに、皮疹に一致して明瞭な知覚障害を生じる。 神経障害 皮疹に一致した知覚障害が特徴的で早期より出現する。神経の肥厚も早期より起こるが限局して生じる。LL型のように全身・左右対称には生じない。知覚障害は島状に分布し、通常の神経の走行に一致しないことが多い。 B群(境界群) LL型・TT型の移行群の総称であり、様々な発疹や神経障害を生じる。 I群(未定型群) 前述した如く、発病初期でまだ病型が決定できない時期に相当する。その後LL型・TT型・B群の特徴的な発疹・神経障害に変化していく。この段階では病理検査でもハンセン病特有の特徴も示さず、ハンセン病の重要所見である神経障害も明確でない。 皮膚症状 境界不明瞭で平坦な淡紅色斑が2 ‐ 3個出現する。 神経障害 知覚障害はほとんどない。あっても軽度である。神経肥厚はまだみられない。 ===二次症状=== ハンセン病神経障害を生じるために、二次的に様々な症状が出現する。たとえば眼症状、神経因性疼痛、脱毛、変形、うら傷などの皮膚疾患、筋萎縮・運動障害等が知られている。 眼症状 顔面神経麻痺による兎眼(開眼のままになる)、三叉神経麻痺による角膜の知覚障害が原因で、角膜が障害されやすくなり角膜炎を併発し失明する人もいる。また、鼻粘膜が障害され、涙管閉塞をきたすこともしばしば起こり、逆行性感染による頑固な結膜炎も起こすことがある。そのため、常に点眼剤を必要とする人も多い。 神経因性疼痛 ハンセン病では神経障害・機能不全のため、様々な神経痛が生じ神経因性疼痛とも呼ばれる。多くは突然、電撃痛とも呼ばれる強い痛みに襲われる。神経痛の症状もさまざまで、俗称だる神経痛(だるいからくる)などもある。ネパールでは’Jhum‐Jhum’と表現されている。また、触刺激によって誘発される疼痛アロディニア(知覚過敏)という病態もある。ある特定の部位を触ったり冷覚・温覚刺激を与えたりすると出現する疼痛のため奇妙である。非ステロイド性抗炎症薬も使われるが効果が低いため、適宜、抗うつ薬や抗けいれん薬、麻薬系鎮痛薬もよく使われる。 脱毛 LL型では眉毛なども脱毛し治癒後も再生しない。以前日本では頭髪の脱毛もみられ、動脈に沿って毛が残存するのが特徴とされた。 変形 ハンセン病における変形は、治療が行われず進行していく種々の病変の結果と、神経の麻痺、感覚がないことによる外傷の積み重ねなどによる。 顔 顔面神経麻痺による症状が多い。LL型では軟骨が侵され鞍鼻(鼻根部が陥没した状態)・耳の変形を生じることもある。なお鞍鼻は梅毒でもみられることがあるので、誤診の例もあった。 四肢 尺骨神経や正中神経麻痺により鷲手・猿手を生じる。廃用や外傷によって四肢の萎縮や欠損も生じる。レントゲン検査を行うと骨の萎縮も観察される。指に関しても末節・中節・基節などで萎縮や欠損がみられる。四肢の切断端には度々、瘢痕癌が生じ、特にタイでの発症例が多いとの報告がある。変形に対してはしばしば手術療法が行われる。四肢の先端が冷たくなる。 うら傷 うら傷は足底を中心に出現する慢性の難治性潰瘍である。正式名称は皮膚穿孔症である。なお、先天性無痛覚症や糖尿病性神経障害においても同様のうら傷を呈するため、ハンセン病においても、感覚消失が主役を演じると思われる。難治性の慢性創傷であるため、その部位から有棘細胞癌という皮膚腫瘍が出現することもある。 その他の皮膚疾患 末梢神経障害は自律神経障害も生じるため皮膚からの発汗作用が障害され乾皮症を誘発する。皮膚の防御力の減退、血管等に見られる神経反射作用が消失により炎症の治癒機転の障害を引き起こす。知覚障害のため外傷・熱傷に侵されやすく、症状の訴えがないため治療開始が遅れることもある。傷ができやすい上になかなか治りにくいため、十分なケアが必要である。 筋萎縮・運動障害 四肢の萎縮により様々な運動障害を生じ、患者の生活レベルを低下させる。咽頭部の運動障害は誤飲や嚥下障害を誘発するため、誤嚥性肺炎にも注意する。 ===らい反応=== らい反応とはハンセン病の治療過程において起こる急激な反応である。これらの急性反応は1型らい反応と2型らい反応とに大別される。ハンセン病においては菌自体の働きが遅いため一般には慢性的な経過を辿ることが多いが、このらい反応は神経障害(後遺症)を伴うため、直ちに適切な対応を要する。 1型らい反応 BB・BT・TT型の治療開始後に生じる反応で機序はIV型アレルギーとされている。境界反応 (borderline reaction) またはリバーサル反応 (Reversal reaction) とも呼ばれる。急に皮膚の発赤が増強したり腫れたりする症状や末梢神経障害の急激な増悪反応を生じる。入院加療の上、ステロイド大量投与(内服)を行う。 2型らい反応 LL型・BL型で治療開始から約半年後に生じる急激な反応で機序はIII型アレルギーとされている。この際に生じる皮疹をらい性結節性紅斑 (ENL, Erythema nodosum leprosum) と呼ぶ。また、通称熱こぶとも呼ぶ。皮膚に有痛性の結節を生じるのが特徴で40度前後の発熱や関節痛を伴う。治療を行った際に大量に菌が死滅し、それに対して強い免疫反応(III型アレルギー)を起こすメカニズムが考えられている。サリドマイドやステロイド療法で治療を行う。ちなみにらい性結節性紅斑 (ENL) の命名者は村田茂助である(1912年)。 ===社会的要因による合併症=== ====精神疾患==== ハンセン病患者や回復者に関しては、社会的差別などの問題や、療養所という閉鎖された場所での長期生活の不安などで不安症・自殺願望・うつ病・人格障害などの精神疾患を生じることがある。日本の療養所内のデータであるが、平均年齢79歳、385名中うつ病は48名 (12.5%) であるという報告もある。アメリカの報告では、器質的変化、統合失調症、うつ病が記載されているが、カーヴィルに入所した46%がうつであるとのコメントもある。 ==診断・検査== ===プライマリ検査=== ハンセン病と診断する際の最初の検査は、皮膚スメア検査と末梢知覚検査である。 ===皮膚スメア検査=== 皮膚を垂直に切開し、組織の塗抹をスライドガラスに置いてチール・ニールセン染色 (Ziehl‐Neelsen stain) によって菌数を調べる検査である。チール・ニールセン染色は抗酸菌染色の一つの方法でらい菌を赤色に染める。皮膚を切開するため痛覚が正常な部位では疼痛を伴うため、麻酔をしてから検査を行う。菌数の表記には菌指数 (BI:bacterial index) が用いられる。BIはMB型・PB型の分類や治療方針において重要である。なお、以前は形態指数 (MI: morphological index) を測定して菌の総合的な力を見る方法もあったが、2011年現在行われていない。 ===末梢知覚検査=== 末梢知覚検査はハンセン病を診断する上で重要な検査である。触覚や振動覚は保たれることも多いので、虫ピンなど太めの注射針を刺す痛覚検査、冷水・温水を入れた試験管を当てる温冷覚検査が合わせて行われる。痛覚検査は意思の疎通が困難である乳幼児・高齢者では分かりにくいことがある。温冷覚検査は閉眼し当てたことを被検者に分からないようにすると検出の精度が向上する。 ===WHOの基準=== 診断確定のために、WHOでは知覚障害を伴う皮疹、知覚障害を伴う末梢神経の肥厚、スメア検査が陽性のうち、一つ以上があてはまることとしている。日本では知覚障害に伴う皮疹、末梢神経の肥厚・運動障害、病理組織検査、らい菌の検出の4点を重視している。 知覚障害に伴う皮疹 多菌型では検出率が低いので注意する。T型の皮疹に一致した神経障害の検出は非常に有用。 末梢神経の肥厚・運動障害 尺骨、橈骨、腓骨、大耳介神経などを触診で触れると肥厚が分かる。知覚障害だけでなく運動障害も伴うことも多いため、歩行や各種の運動の状態を調べることも重要である。 病理組織検査 発疹の一部の組織を採取し、標本 にして顕微鏡でみる検査。Ridley & Joplingの分類に基づき病型分類される。 らい腫型(L型)では、らい菌が多数検出できるがリンパ球の浸潤は少ない。組織球性肉芽腫で組織球の泡沫状変化が特徴的である。 類結核型(T型)では、らい菌は検出されない。類上皮細胞肉芽腫が特徴的である。またリンパ球の強い浸潤像がみられ、リンパ球が末梢神経の周囲に入ることは、他の疾患ではみられないので有用な鑑別点になる。 らい菌の検出 検出には皮膚スメア検査、病理組織から検出する方法(前二者は説明済みなので上記参照のこと)、PCR (Polymerase Chain Reaction) から検出する方法の3点が挙げられる。遺伝子増幅法であるPCRを用いたらい菌の検出は、らい菌の持つ熱ショックタンパク質の内、他の抗酸菌と交差しない部位のDNA配列を検出するもので、培養のできないらい菌を迅速に検出する方法として重要である。 ===その他の検査=== ====らい菌抗体の検出==== 最近、らい菌特異的抗原の一つであるフェノール糖脂質 (PGL‐1, phenolic glycolipid I) に対する抗体を血液検査で測定する方法が行われるようになった。L型で陽性であるが、T型では全く検出されない。 ===レプロミンテスト=== らい結節から得られた抽出物、レプロミンを皮内に注射して反応を見る検査である。この検査は、結核のツベルクリン反応に似ている。らい菌に対する細胞性免疫反応をみる検査で、T型と正常人で陽性、L型で陰性となる。現在では行なわれていない。 ===らい菌に対する薬剤耐性検査=== らい菌の遺伝子解析から、ジアフェニルスルホン (DDS)、リファンピシン (RFP)、キノロン剤への耐性は特定遺伝子の突然変異であることが判明し、遺伝子変異の検査により薬剤耐性が早く分かるようになった。 ===鑑別診断=== ハンセン病の鑑別診断としては、病理組織学的に肉芽腫形成をする疾患であるサルコイドーシス、全身性エリテマトーデス (SLE)、皮膚エリテマトーデス (DLE)、環状肉芽腫、尋常性狼瘡(皮膚結核)、非結核性抗酸菌症 などを用いる。また、神経障害として鑑別を要する疾患にはアロディニア(全身性無感覚症)がありハンセン病の症状に似ているので、この鑑別も重要である。 ==予防と治療== ===予防=== ハンセン病に有効なワクチンは開発されておらず、ハンセン病の発症を予防することは困難とされている。インドを中心にワクチン療法として結核の予防に使用されるBCGが使われ有効であるという報告も出されているが、報告によって有効率のばらつき(20〜80%強)が大きく一般的な方法とされていない。また、ハンセン病の危険に高確率に曝露されやすい子供たちを中心にDDSを予防的に内服する試み (chemoprophylaxis) が、1968年の第9回らい国際会議で有効であるとされ、一時行われていたこともあった。 ===治療概論=== ハンセン病について、医学的に確立している知見は、以下の通りである。 ハンセン病は遺伝しない。ハンセン病は伝染病ではあるが、その感染力は弱く、感染してもごく稀にしか発病しない。たとえ発病しても、初期の状態であれば、経口の特効薬で通院治療によって完治できる。 ===治療目的=== ===WHOでは以下の3点を重視して治療を行う。 殺菌と感染源対策 治療薬を用いてらい菌を殺し、活動を弱める。また、その活動性病変を抑えることによって、他人への感染を防止する。 障害予防 ハンセン病に罹患すると、らい菌の生体免疫反応によっていろいろな障害を引き起こす。そのため、適切な治療を行い、できる限りの障害を予防することが重要である。これを、障害予防 (POD : prevention of disability) という。ハンセン病罹患中に生じるらい反応の治療もこれに当たる。ハンセン病において最も後遺症などの問題となる末梢神経障害は著しくQOL(生活の質)を低下させるためのみならず、偏見差別にも結びつくので、早期発見・早期治療を行う必要がある。 合併症と後遺症の予防と治療 ハンセン病に起因した神経障害による後遺症に対して、2次的に悪化させないようにすることが必要である。もし不幸にして障害が起こってしまった時には、それを少しでも軽くなるよう努め、手術を用いてでも機能の回復を図るといった取り組みが行われる。これを障害悪化予防 (POWD: prevention of worsening disability) と呼ぶ。不適切な治療の結果や、当時、治療薬が十分に確保されていないために入所している患者が多い日本では特に重要視されている治療である。=== ===殺菌と感染源対策=== 治療薬を用いてらい菌を殺し、活動を弱める。また、その活動性病変を抑えることによって、他人への感染を防止する。 ===障害予防=== ハンセン病に罹患すると、らい菌の生体免疫反応によっていろいろな障害を引き起こす。そのため、適切な治療を行い、できる限りの障害を予防することが重要である。これを、障害予防 (POD : prevention of disability) という。ハンセン病罹患中に生じるらい反応の治療もこれに当たる。ハンセン病において最も後遺症などの問題となる末梢神経障害は著しくQOL(生活の質)を低下させるためのみならず、偏見差別にも結びつくので、早期発見・早期治療を行う必要がある。 ===合併症と後遺症の予防と治療=== ハンセン病に起因した神経障害による後遺症に対して、2次的に悪化させないようにすることが必要である。もし不幸にして障害が起こってしまった時には、それを少しでも軽くなるよう努め、手術を用いてでも機能の回復を図るといった取り組みが行われる。これを障害悪化予防 (POWD: prevention of worsening disability) と呼ぶ。不適切な治療の結果や、当時、治療薬が十分に確保されていないために入所している患者が多い日本では特に重要視されている治療である。 ===殺菌と感染源対策の治療=== ジアフェニルスルホン (DDS)(レクチゾール*161*・プロトゲン*162*)、クロファジミン (CLF)(ランプレン*163*、B663)、リファンピシン (RFP)(リマクタン*164*・リファジン*165*など)の3種を併用する多剤併用療法 (MDT, Multi‐drug therapy) が治療の主体である。これは薬剤耐性菌を予防するためであり、結核など他の感染症でも選択されることがある方式である。なお、WHOでは菌数による病型分類を採用しており、MB(multibacillary, 多菌型)とPB(paucibacillary, 少菌型)の2種類に分けて投与量・治療期間を決定する(MBのほとんどはL型・B群、PBのほとんどはT型・I群に相当する)。最近では、オフロキサシン (OFLX)、レボフロキサシン(LVFX)、クラリスロマイシン (CAM)、ミノサイクリン (MINO) なども有効であることが分かり、薬剤耐性検査を施行した上で上記基本治療薬が使用できない症例などに併用されることもある。なお、日本における保険適応薬は,、DDSやクロファジミン、リファンピシン、オフロキサシンである。 ===障害・後遺症の予防と治療=== らい反応など強い反応が生じた場合は、通常の治療に加えて次のような治療も必要となる。1型らい反応に対しては大量のステロイド、2型らい反応にはサリドマイドまたはステロイドを使用する。変形に対しては、形成外科の発展と共に手術療法も行われるようになった。種々の変形、眼瞼下垂、脱毛などである。眉毛の脱毛に対しては血管を付けて毛髪の皮弁を移動したり、血管を付けずにまとめて移植したり、また別に1本植え(田植え)という方法がある。しかし、毛が生着しても不自然な感じが残る場合が多い。2014年より日本でもビマトプロスト外用剤(グラッシュビスタ外用液剤、塩野義製薬販売)が用いることができる。急性の神経炎に対しては、ステロイドの投与などの治療により回復する場合も多い。手術療法としては神経減圧術がある。知覚麻痺による熱傷や外傷は通常の治療法に準じる。ただし神経障害に起因する易感染性や瘢痕形成が生じるため、通常の場合より治療が困難であることに注意する必要がある。知覚がない状態でも熱傷や外傷が起こらないような日常生活の改善を行ったり、装具などを使い外傷の予防、本人への十分な注意喚起を行う。また、関節拘縮も必発するため、継続的なリハビリテーションに取り組むことも肝要である。うら傷発生の予防に関して足浴を行う施設が多い。これは国内・国外ともに行われており、療養所によっては大きい足浴場がある。日本国外の療養所では大きい洗面器の様な壺を使っているところもある。ただし、神経痛のあるハンセン病の場合、暖まった後、冷える際に神経痛が増幅することに注意が必要である。 ===治療基準=== ====WHOの治療基準==== 皮膚スメア検査と皮疹の数で得られた結果をもとに多菌型 (MB) と少菌型 (PB) と単一病変少菌型 (SLPB) に分けて治療を行う。多菌型はスメア検査で陽性・皮疹6個以上である(LL, BLとBBに相当)。少菌型はスメア検査で陰性・皮疹5個以下である(TT、一切のBT、I群に相当)。WHOの基準ではMBで1年間、PBで6か月間の治療を終了した時点で菌検査の有無を問わず完治とする。また、患者としても除外される。 MDTで使用される治療薬はパックとなっており、ブリスターパック (blister‐pack) と呼ばれる。大人用と小児用(10歳〜14歳)、MB型用とPB型用の4種類に色分けされている。どの日にその薬剤を内服すればよいか、裏に日付が記載されている。日本では販売されていない。 1年間、下記3剤で治療する。 リファンピシン (RFP) 600 mg、月1回(面前服用)ジアミノジフェニルスルホン (DDS) 100 mg、毎日服用クロファジミン (CLF) 300 mg、月1回(面前服用)・また月1回以外の日は50mg、毎日服用リファンピシン (RFP) 450 mg、月1回(面前服用)ジアフェニルスルホン (DDS) 50 mg、毎日服用クロファジミン (CLF) 150 mg、月1回(面前服用)・また月1回以外の日は50mg、隔日服用6か月間、下記2剤で治療する。 ジアフェニルスルホン (DDS) 100 mg、毎日服用オフロキサシン (OFLX) 400 mg、月1回(面前服用)ミノサイクリン (MINO) 100 mg、月1回(面前服用) ===日本の治療基準=== 日本でも適切な治療法ということでWHOの基準を採用しているが、治療後の状態について言及しており、MB型なら菌陰性化するまで、PB型なら活動病変が消失するまでは完治とせず治療を継続とする。日本の保険適応薬剤はDDS, RFP, CLF, OFLXである。小児の発症例はほとんどないので基準として設置していないが内服量はWHOに準じる。SLPB(皮疹が1個のみ)の患者は日本ではPBとして治療する。 リファンピシン (RFP) 600 mg、月1回ジアノジフェニルスルホン (DDS) 100 mg、毎日服用クロファジミン (CLF) 300 mg、月1回・また月1回以外の日は50mg、毎日服用WHOのMB治療法に準じて1年間、下記3剤で治療する。治療終了時、菌の陰性化(すなわちBI0)しなければ、さらに1年間追加する。 WHOのPB治療法に準じて半年間、下記2剤で治療する。半年経っても活動病変がある場合はDDSまたはCLFを継続し、活動病変がみられなくなるまで治療を継続する。 ===治療法の歴史=== ====大風子油による治療==== 大風子油(だいふうしゆ)は、イイギリ科 Hydnocarpus 属(APG植物分類体系ではアカリア科に移動)に属する何種類かの植物の種子である大風子 (Hydnocarpus Anthelmintica) の種皮を除いてから圧搾して得た脂肪油である。搾油直後には白色の軟膏様の性状を示し無味無臭であるが、次第に黄色に変化して特有の臭いと焼きつくような味を生じる。大風子油にはヒドノカルプス酸とチョールムーグラ酸という不飽和環状脂肪酸が含まれており、その成分がらい菌の成長阻害作用を生じる。 もともとは古代より東南アジアやインドの民間療法として行われていた治療法であった。中国には明の時代に伝わり1578年の「本草綱目」にハンセン病の治療薬として漢方の処方が記載されている。日本でも江戸時代頃から用いられた。19世紀末にはヨーロッパでも使用されるようになった。1920年代にオーストラリアの植物学者ヨゼフ・F・ロックにより再発見され、全世界で一般的に使用されるようになった。 1917年にはイギリスの医師・ロジャース卿によって大風子油からジノカルピン (Gynocarpin) 脂肪酸を製剤化し、内服薬・注射薬が作られた。その後、1920年にヒギロカルプス酸ナトリウム製剤(内服薬・注射薬)が作られた。これらは「アレポール」と呼ばれ、イギリスの植民地であるインド・ビルマを中心に使われた。その後、種々の改良が行われた。アメリカ薬局法には、内服療法では消化器障害の副作用を生じるための注射薬として記載された。 大風子油の注射の欠点は注射部位に結節や瘢痕を残すことであった。効果が乏しく無効という意見も多かったが、大風子油で治療をしない場合に比べれば効果はゼロではないとした報告があることと、他に有効な薬剤が存在しなかったために、大風子油による治療は多くの国で行われた。その後、1943年のプロミンが有効であるという報告以降は、大風子油による治療は徐々に行われなくなった。 ===プロミンの発見と改良=== プロミンは、DDSにブドウ糖と亜硫酸水素塩を縮合させて水溶性にした化合物である。体内ではDDSとなり、それが有効成分として働く。プロミンはアメリカのパーク・デイビス(英語版)社の商品であったが、毒性が強く注射製剤のみの使用に限られるという欠点があった。 プロミンは、1941年にアメリカのガイ・ヘンリー・ファジェットによってハンセン病患者に使用された。本来は結核治療薬として開発されたが、アメリカ・ルイジアナ州のカーヴィル療養所に入所しているハンセン病患者に実験的に投与したところ、効果があることがわかった。そこで1943年に症例数22、改善15、不変6、悪化1という画期的な報告を写真付きでアメリカの医学雑誌に発表した。プロミンはその後、国際的にも非常に効果のある特効薬であることが確認され、ハンセン病治療がこの時を境に劇的に変化した。原著 の表を示す。 その後、DDSがプロミンと同様の効果があることが分かった。さらにこれはプロミンの欠点を改善する形で経口投与が可能となり、この治療薬がその後は主役になった。DDS成分の薬品は現在ではレクチゾールの商品名で販売されており、ハンセン病のみならず、多くの疾患でも使用されている。 ===リファンピシンの使用=== らい菌と結核菌は近縁関係にあるため、結核菌に有効である薬はハンセン病にも試用された。そのうちリファンピシンに関しては、最初に試用したのは Opromolla DV, Lima Lde S, Caprara G. で、1965年のことであった。 リファンピシンは、ハンセン病の原因菌であるらい菌に対して殺菌的に作用することが後に分かった。高坂健二および森竜男らが、感染させたヌードマウスにリファンピシンを投与すると数日後に感染性を失うことを証明した。 ===WHO治療基準の変遷=== 多剤併用療法 (MDT) は、前述したDDSに加え、クロファジミン (CLF) とリファンピシンの3種を併用する治療法であり、耐性菌の発生を予防するためにWHOが1981年に勧告し治療基準に組み込まれた。同年の最初の治療基準では多菌型と少菌型に区分されていたが、多菌型と少菌型の区分の定義は1997年の改訂版で使用されているものとは異なっており、また治療方針に関しても菌をゼロにするまで徹底的に治療を行う基準であった。その後、1987年、1993年、1997年に改定が加えられた。SLPB(単一病変少菌型)は1997年の改定で新たに治療基準に追加された。 ===民間療法=== ====入浴と熱を加える治療法など==== 光明皇后のらい患者湯浴み伝説もあるが、ハンセン病患者に入浴させることは普通の考えであろう。日本においては、草津温泉がハンセン病に有効と言われ多くの患者が集まった。後藤昌文・後藤昌直父子 はハンセン病の入浴療法を考案しハワイの国王の要請でハワイまで行き指導して回った。ダミアン神父も習ったという。しかし、ハンセン病には有効でなかったため、この治療法は普及しなかった。全生病院では、 風呂場外科、という言葉もある。初代看護婦であった石渡婦長は、光田健輔と相談して、船のようなものに下に車が付いていて、寝ながら入浴できるものを風呂場に持ち込んできてそれに患者を入れて体を洗ったという。一方、アメリカ本土ではらい菌が熱に弱いことを利用した治療法の開発が試みられたが、雑誌The Starによるともう少しで焼肉になるほどの高温だったという。また部分的に四肢などに用いられるパラフィン浴も行われたところもあるが、温度管理の失敗で大きな火傷を起こすこともあったため療養所によっては行われなかった。ハンセン病と入浴にまつわる話として、フランス革命のジャコバン党の幹部のマラーはハンセン病を患いそのための入浴治療中に殺されたといわれている絵は有名である。1986年当時の入浴に関する資料では、習慣として介護人が重装備をした上で行われていたとある。 ===瀉血療法=== 「瀉血」とは、血液を抜く治療法のことである。瀉血ははぶ咬傷など色々な疾患にも使われていた治療法である。ハンセン病への応用はらい菌に汚染された悪血を排出することを目的とした。元々は古代中国の医書「黄帝内経」には患部の腫れた所から瀉血する治療法の記載や、日本の近世医書にも多数の記載があったが、この治療法が普及したのは18世紀以降からである。開始時期は明確でないが日本では江戸時代または明治時代頃から行われた。名称として乱切・瀉血療法と呼ばれる。一般的には背部 に行われた。非医師や家族により施行されたこともあった。実施年齢は子供が多く都市部で15.1%、離島では50%近くが行われた。実施年齢については乳幼児59.1%、幼児期27.8%、新生時期2.0%であった。背部では細い瘢痕、頭部では小さい脱毛が残る。日本での治療法は次の通りである。 柄つき剃刀を使用し出血させる。 芭蕉の芯で拭き出血を増大させる。火吹き竹で出血を増大させることもあるため「ブーブー」とも呼ばれた。 泡盛で消毒する。柄つき剃刀を使用し出血させる。芭蕉の芯で拭き出血を増大させる。火吹き竹で出血を増大させることもあるため「ブーブー」とも呼ばれた。泡盛で消毒する。 ===ぶちぬき=== 日本では、自分の踝(くるぶし)の上に灸をすえ皮膚に穴を開ける民間療法があった。「ぶちぬき」とも呼ばれている。多数の灸をする民間治療も、草津温泉などにあった。 ===脳髄食=== 過去に朝鮮の民間療法では、生の脳が特効薬であるという迷信があった。これにより、児童の脳味噌が食べられるという京城府竹添町幼児生首事件が発生している。 ==予後== ===再発=== MDT(多剤併用療法)後のハンセン病の再発率は0.01 ‐ 3.3/100人/年とされている。再発の原因は、薬剤に抵抗性を持つが活動していなかった菌の再活性化、薬剤耐性菌の増殖等が挙げられるが、患者個々の原因については特定できないことが多い。 ===余命および死亡原因=== ハンセン病は適切に治療を行えば治癒する疾患であり、後遺症にまで進展するケースは少ないため、余命に関する統計はない。 プロミン発見以前は適切な治療法が存在しなかったため後遺症に至るケースも多く、後遺症を含めた余命を考慮すると、若干低くなる。ハンセン病の神経障害が原因で生じる喉頭機能障害は、呼吸困難を誘発するため主な死亡原因であった。 日本では療養所内の食糧事情の問題の影響など社会的事情から、感染症が療養所内で流行するなど、余命の低下が1945年(昭和20年)をピークにみられた。死亡原因としては、日本国内やその頃統治していた韓国では結核が、沖縄ではマラリアが最大であった。2009年の報告では、それによると菊池恵楓園では平均年齢86.7歳の71名の死亡原因は肺炎21名、悪性腫瘍20名、循環器疾患9名、脳血管疾患5名、呼吸不全(肺炎を除く)5名という統計 があり、これはハンセン病以外の人の死亡統計の分布とあまり相違ない。 ==社会的側面== ハンセン病に関しては、感染性の問題や差別・隔離の問題などが世界各地で起きている。日本でもらい予防法違憲国家賠償訴訟などの社会問題に発展した。その他日本での詳細については、日本のハンセン病問題に詳しく述べる。 ===差別の由来=== ハンセン病患者に対する差別には、いろいろな要因がある。 外見上の特徴から、日本では伝統的な穢れ思想を背景に持つ有史以来の宗教観に基づく、神仏により断罪された、あるいは前世の罪業の因果を受けた者の罹る病と誤認・誤解されていた(「天刑病」とも呼ばれた)。「ハンセン病は、感染元がらい菌保有者との継続的かつ高頻度に渡る濃厚な接触が原因であるという特徴がある」ことから、幼児に対する性的虐待や近親相姦などを連想させ、誤解・偏見が助長された。「非常に潜伏期が長いため感染症とは考えにくい」「政府自らが優生学政策を掲げた」ことから、「遺伝病」であるとの誤認・誤解が広まった。鼻の軟骨炎のために鞍鼻(あんび)や鼻の欠損を生じるが、同じ症状を呈する梅毒と同じと信じられた時期があった。ハンセン病に罹患したダミアン神父もまた、女たらしなどという非難があったのは、梅毒とらい病が同じであると誤解されていたからである。 ===ハンセン病コロニー=== 歴史的にはハンセン病は治らない病気で視覚的な変形や身体障害が影響し伝染性の強いものであると誤認・解されていたため、ハンセン病患者は多くの社会から強制的に排除された。そのため一つの場所に救済を求めてハンセン病患者が自主的に集まったり、ハンセン病患者が強制的に1箇所に集められることによって、ハンセン病コロニーができた。この中にはハンセン病療養所として治療のための施設が作られたところもある。多くのコロニーは社会から断絶した島や僻地にあることが多い。ハワイのモロカイ島やノルウェーの国立病院などの例がある。 キリスト教に則って運営されたハンセン病者施設は、聖書の中のラザロの寓話から「ラザーハウス」(lazar house) と呼ばれる。 ===世界のコロニー=== 長期に存在した有名なコロニーはハワイモロカイ島のカラウパパ、トリニダード・トバゴのチャカチャカレ、クレタのスピナロンガ、フィリッピンのクリオンがある。 ===カラウパパ=== モロカイ島のカラウパパでは、ダミアン神父が定住し奉仕した後、医師が住むようになり療養所となった。 ===スピナロンガ=== 政府が1903年に隔離の島と指定した際、トルコ系の住民が去り、患者棄民の島となり悲惨な状態となった。食料、水は届けられたが、医師は最後まで定住しなかった。その後患者として、また若いリーダーとして神父ジョゼフ・パヴラキス (Joseph Pavlakis) が来島し、彼は人々をいくつかのグループに分けた(家を修繕するグループなど)。教会や、ダンスホールや、劇場などもできた。当然、らいに対する誤解偏見はなかった。最後に神父を含み30名が1957年にギリシアに帰還した。 ===クリオン=== フィリッピンの島のコロニー兼療養所で1906年に創立された。一時は5000人以上の患者が集まった時もあった。第2次大戦の影響で、マニラで鋳造された貨幣が使えず、現地で紙幣が作られ使用された。2006年には100周年を迎えイベントが行われた。 ===台湾=== 1929年、楽生療養院が日本が台湾を植民地としていた際に、日本政府によって設立された。台湾で最初の公立ハンセン病療養所で台北郊外に位置。同院は開設当初は病舎3棟、入所者100人と小規模なものだったが、ハンセン病患者への強制隔離政策で1969年には病舎61棟、入所者1050人の大型施設に発展した。1994年に台北メトロの車両基地の建設予定地に選ばれたことをきっかけに、療養施設の歴史的価値や入所者の人権問題などが一般市民にも広く認識されるようになり、2009年には楽生院が当時の台北県(現・新北市)政府から文化的景観と歴史的建造物に指定され、行政院長(首相)も過去にあった患者への差別について謝罪を行った。 ===韓国=== 1916年、小鹿島更生園が開設された。日本政府は小鹿島更生園及び楽生院の入所者に対して補償金を支払っている。 ===日本の療養所=== 日本では明治時代にハンセン病患者の救済が行われ、療養所が建てられた。日本では、1889年にテストウィード神父が静岡県御殿場市神山に神山復生病院を設立したのが最初の療養所であり、その後各地に私立療養所が建てられた。公立療養所(都道府県連合)に関しては、1907年に設置の法律ができ、その2年後に全国に設置された。その後、多くの私立療養所は閉鎖されていった。1930 ‐ 1940年頃になると、国による一括統治・強制隔離政策を推進することや、患者数に比例して各県から予算を決定する会議が毎年大変であったことなどの理由により、公立療養所(都道府県連合)は国に移管され国立となった。2013年1月現在、13の国立療養所と1の私立療養所 が現存している。ハンセン病は回復しているが過去の強制隔離政策により入所させられた人のうち、後遺症が残っており介助を必要としている人と、社会における生活基盤の喪失と家族との関係絶縁が原因で入所継続が必要な人の施設となっている。 なお、国立ハンセン病療養所の一つである国立駿河療養所は、1942年にハンセン病傷痍軍人療養所として建てられたものである。これは日本で初めてであった。神山復生病院と同様、静岡県御殿場市神山にあるが場所は離れている。1945年に現在の名前に改称し、厚生省(現在の厚生労働省)の所管となった。 ===ハンセン病療養所で使われていた特殊通貨=== 20世紀前半を中心に、世界各地のハンセン病療養所やコロニーにおいて、菌を伝染させないためや患者を隔離するためとして、通貨(主に貨幣)が発行された。特殊紙幣/貨幣は様々な国で使用された。最も早い発行は1901年で、当時ハンセン病患者が多かったコロンビアでは感染を防御する目的で療養所のみで使用される特殊貨幣が政府により鋳造された。マレーシアでは、ゴードン・アレクサンダー・リリー (Gordon Alexander Ryrie) が特殊貨幣 を発行した。日本、韓国でも特殊貨幣が作られ、療養所内で使用されていた時期があった。不祥事などが発覚し廃止されたが、紙幣を検査して菌が付着していないので廃止した国もある。 ===偽名・仮名の使用=== ハンセン病患者が偽名(仮名)を使用することは多い。この偽名使用に関してはアメリカのみならず、日本でも普通にみられる。国立ハンセン病療養所の一つである邑久光明園で1998年に行われた調査によると、「実名使用」は200名・「仮名」は127名・「不明」は6名であった。また、仮名を使用する理由としては「家族に被害が及ぶのを防ぐため」が85名と最も多く、「以前から使っている名前だから」10名・「皆そうしている」10名・「勧められて」7名・その他10 名(不明を除く)と続いた。らい予防法廃止(1996年)以前は非常に多かったが、廃止を機会に実名に戻った人も多い。 ===伝説・民話=== 中国の広東省、福建省および台湾においては、ハンセン病に罹患した男性が女性と性行為を行い、伝染させると自分のハンセン病は治ると信じられていた。また、逆も信じられていた。この迷信に基づく悲話、艶話は多い。福建省の風習に患者が死亡すると別に墓を作り、しかも、亀甲墓の入り口を閉じ、「開かん墓」とする風習があり、沖縄県今帰仁にもそれがある。 ==歴史== ===起源=== 世界の各地域から採取されたらい菌を遺伝子解析し比較した研究によると、らい菌は東アフリカで誕生したと見られている。 なお、らい菌が発見される以前は似たような症状の病気を混同することも多く、古い時代の報告例では現在のハンセン病に当たるのかはっきりしないものもあるので注意が必要である。 一例として『描かれた病』(リチャード・バーネット)では写真普及以前に使用されていた医学書の精密画について「痂皮形成らい病」と「結核様らい」と書かれている症例について、「(現在の視点からでは)魚鱗癬の可能性が高い」と指摘している他、結核(皮膚結核)もハンセン病との区別が難しかったとしている。 ハンセン病に関する最古の記述は、紀元前2400年のエジプトの古文書、医書としては紀元前1500年頃のインドの『チャラカ・サンヒター』や『スシュルタ・サンヒター』 である。その他にも、ペルシアでは紀元前6世紀に、中国では『論語』に、あるいはギリシアでは紀元後1 ‐ 2世紀の医師の記述にハンセン病の症状の記述がある。日本のハンセン病に関する最古の記述は720年頃、日本書紀に残っている。 中世鎌倉遺跡である由比ヶ浜南遺跡の発掘調査で、ハンセン病による変病骨が発見されている。 江戸時代後期の遺跡と見られる青森県畑内遺跡第26号土坑墓から出土した古病理学的にハンセン病と診断される人骨の上顎から、らい菌のDNAが検出された。この人骨は東北大学総合学術博物館に所蔵されている。 ===中世ヨーロッパでの流行=== 西ヨーロッパには中世初期に侵入したと考えられており、300年頃からヨーロッパでハンセン病が蔓延した。十字軍による移動 や民族大移動によりハンセン病は拡大し、11世紀・12世紀にハンセン病の流行がピークとなった。 1096年にはじまった十字軍は、パレスチナ・エルサレム地域のハンセン病がヨーロッパに蔓延するきっかけとなった。罹患した兵士のためにエルサレムのラザレット(lazaretto:ハンセン病患者専用の収容所・らい院) が作られ、患者救済が行われた。その後、ヨーロッパ各地にもハンセン病が蔓延してきたため、フランスやドイツなどにもラザレットが作られた。ラザレットでは、ハンセン病を「ミゼル・ズフト」(貧しき不幸な病)と称して救済が行われたが、当時のローマ教会は旧約聖書に基づき、「ツァーラアト」の措置として「死のミサ」や「模擬葬儀」など祭儀的な厳しい措置が行われることも多かった。また、外出時には自分が患者であることを分かるような服装を強制され、公衆の場に出ることは制限された。旧約聖書レビ記13 ‐ 14章には患者と思しき人物を一時的に隔離して祭司が経過を観察する法があるが、これには感染していなかった場合や治癒した場合の復権の規定も含まれており、不治の病であるかのような誤解に基づく種々の差別とは一線を画している。中世において行われていたのは公衆衛生上の隔離ではなく「風俗規制」による社会的隔離のための患者隔離政策が行われた。具体的には「現社会からの追放」「市民権・相続権の剥奪」「結婚の禁止、家族との分離、離婚の許可」「就業禁止、退職の促進」「立ち入り禁止などの行動規制」などの制裁措置がとられた。一方で兵役、納税、裁判出頭の義務は免除されていたが、それは公民としての存在が否定されていたことを意味する。そのため、ハンセン病患者に対する偏見・差別が拡大した。社会的隔離政策の勅令としてはカール大帝が有名で、その後出現した法治国家でも「患者隔離法」や「患者取締令」によりらい院に強制収容された。 13世紀には新約聖書に範をとった「救らい事業」が行われた。ローマ教会に対抗し、1209年に組織されたフランシスコ会はアッシジに「らい村」を建設した。そこでは、一つの共同自治社会が形成され、「死のミサ」や「仮装埋葬」などの儀式もなく、また外出も自由にできた。新約聖書の「マタイ伝」16章に出ているイエス・キリストの教えと行動に則った病者への「労わり」に基づく救済活動であった。また、キリストによるハンセン病患者の治療は奇跡として扱われ、ハンガリーの聖女エリーザベトによる救済 などや、十字軍時代のパレスチナに設置されたらい院でのラザロ看護騎士団 の患者救済にも影響を及ぼした。フランシスコ会は日本の安土桃山時代にも伝来し、日本のハンセン病患者の救済も行われた。 14世紀頃になるとヨーロッパではハンセン病患者は次第に減少した。1348年の黒死病(ペスト)の大流行でラザレットの収容者が一掃されることもあり、ヨーロッパ各地のらい院は次々に閉鎖された。 ===世界への拡大=== 16世紀にはヨーロッパやアフリカからアメリカ大陸にハンセン病がもたらされた。そして18世紀には北米、19世紀後半には太平洋諸国に広がった。 19世紀にハワイで激しい流行がみられた。政府は棄民政策をとり、モロカイ島に患者を隔離・定住させた。1873年にハワイで布教をしていたダミアン神父がモロカイ島に定住し奉仕を開始した。 1850年から1920年にかけて、ノルウェーにハンセン病が流行した。戦争による飢饉が引き金となり、人口の多い地方より漁村や農村で流行した。1885年に世界で初めて衛生立法に基づく強制隔離政策が行われた。これは、1897年にドイツで開かれた第1回国際らい会議で発表され、強制隔離政策が評価された。ただし、患者全員を国立病院に隔離する前に流行は終結した。 1920年代にナウル島と1980年代にカピンガマランギ島で3割の住民に感染発病を示すほどの流行がみられた。この様なハワイと同様な激烈な流行については、感染症に対する処女地では弱い感染症進入でも流行が発生するという考えがあり、外的物質に対する免疫能がない(自然免疫能)とも考えられるが、しかし十分な説明はなされていない。 ===近代のハンセン病政策の動向=== 1897年、ドイツで開かれた第1回国際らい会議でノルウェーの事例が発表され強制隔離政策が推奨された。ただし、日本の隔離政策とは異なり警察による取締りではなく、医師の判断に基づいた強制隔離であった。1909年にノルウェーで第2回国際らい学会が開催され、強制隔離政策による対策の重要性が再確認されるとともに、早期にハンセン病患者から子供を引き離すことが推奨された。 1907年、フィリピン(米国統治下)では、元来、強制隔離政策を行っていたが、大風子油(当時の治療薬)による施設治療を行い、菌が陰性化した患者は社会復帰させるという開放制度に転換した(パロールシステム)。患者の意志ではなく、多くの伝染病患者に対し施設収容・治療の効率化することが目的であったが、この開放制度は世界で初めての試みで画期的な政策であった。この政策は、1923年にストラスブルクで開かれた第3回国際らい学会によって発表されたが、退所後の再発は非常に高いことなどが明らかになり、開放制度や大風子油治療の効果については否定された。一方で小児に伝染しやすいことから「産児は母から引き離すこと」「らい患者は伝染させる職業にはつくべきでない」などの公衆衛生的に必要な隔離ための方法が決議された。 1931年、国際連盟は「らい公衆衛生の原理」と題する著作を発刊し、ハンセン病の早期患者に対しては施設隔離を行わず、外来診療所で大風子油による治療を行うのが望ましいとされ、政策として初めて「治療対策」「脱施設隔離」が打ち出された。ただしその一方で重症の伝染性の強い患者は施設に強制的に隔離する重要性も再確認されている。1938年にカイロで開催された第4回国際らい学会では、その影響を受けて疫病地の大風子油による施設治療政策は認められた。 1941年にはアメリカのファジェットにより新薬であるプロミンが使用 され、これにより大風子油からプロミンと治療方法が変化しハンセン病は治る病気となった。その後は、隔離政策は徐々に衰退し外来診療が重視されていくことになる。 ===各国の状況=== 日本では世界的な動向と逆行するかのように、1931年に強制隔離政策(感染の拡大を防ぐため全患者を療養所に強制的に入所させる政策)が開始された。 1942年頃のアメリカでは、テキサス・ルイジアナ・フロリダの州法において、医師の診断を条件にカーヴィルの療養所へのハンセン病患者の収容が行われた。この療養所は1894年に開所され、1942年当時アメリカ本土に2500人存在したハンセン病患者のうち1371名が入所していた。 ==著名な研究者・治療者== ===ガイ・ヘンリィ・ファジェット (Guy Henry Faget)=== ガイ・ヘンリィ・ファジェットは、アメリカ合衆国カーヴィル療養所の病院長 (director, 1940‐1947) で、プロミンのハンセン病に対する有効性 を発見した。1947年に心臓病で亡くなり、没後の1958年に東京の国際らい学会と、1984年のカーヴィル百年祭でも表彰された。なお、The Starの初代編集長によると、健康を害したあと事故で亡くなったことを示唆している。 ===小笠原登(おがさわらのぼる)=== 小笠原登は、ハンセン病の伝染力の弱さからハンセン病体質病説を主張。光田健輔らが唱える患者の強制隔離に反対するも、当時(昭和初期)の学会では否定された。 ===ヒラリー・ロス修道女 (Sister Hilary Ross)=== アメリカ合衆国カーヴィル療養所の薬剤師、検査技師、研究生化学者 (research biochemist)、Fagetとの共著を含め、46編の論文を書いた。特にスルホン剤の尿中、血中濃度を測定し、使用法の決定、その他広くハンセン病学に貢献し、色々な学会に出席し、1958年にはダミアン・ダットン (Damien‐Dutton) 賞、プレジデント・メダル(President’s Medal, 女性では初)を与えられた。患者にも慕われ、「カーヴィルの奇蹟」のベティ・マーティン (Betty Martin) に検査技術を教えた。 ===光田健輔(みつだけんすけ)=== 光田健輔は、ハンセン病と非ハンセン病を区別する目的で、殺菌したらい菌を抗原とした研究を行った。しかし、それは「L型」と「T型・正常」を区別する「光田反応」として完成した。光田反応はレプロミン反応とも呼ばれ、ハンセン病の複雑な病型を理解する上で重要な反応である。実際には、光田の愛弟子である林文雄が完成した。太田正雄は、この反応をバンコクの学会で知りこのような論文が埋もれているのは惜しいと、国際雑誌を立ち上げた際に林の文献をその1号に掲載した。光田は1961年にダミアン・ダットン賞を受賞した。 ===村田茂助(むらたもすけ)=== 村田茂助は、ハンセン病の反応で有名な癩性結節性紅斑 Erythema nodosum leprosum ENL(俗に熱コブ)を世界に先駆けて研究、命名した。全生園の外科医師で、光田健輔と同時代の研究家、彼との共著もある。しかし早く開業に転じた。 ===石館守三(いしだてもりぞう)=== 石館守三 (1901‐1996) はハンセン病治療薬であるプロミンの合成を日本で初めて成功した。東京大学医学部薬学科で研究した。 ===ウイリアム・ジョップリング (William H Jopling)=== ウイリアム・ジョップリングは、ハンセン病の分類で有名である。ロンドン大学卒。戦前はハンセン病にも興味があったようであるがアフリカで内科・産婦人科をやり、戦時中は軍医であった。戦後の1947年、36歳の時にロンドンに帰り、大学院で熱帯医学を専攻した。その後、1950年に戦後ロンドン郊外の古城に作られたハンセン病病院「ジョーダン (Jordan) 病院」の住み込み院長となり、そこで病理医のリドリー (Ridley) と共にRidley‐Jopling分類を完成した。1962年にはらい反応も研究した。ジョップリングのエピソードとして「1950年代の初めにErythema nodosum leprosumの命名者が知りたくて尋ねて回り、東京からの客人によりそれは村田茂助であると分かった」ということがある。ジョップリングは、彼が独力で書いた教科書Handbook of Leprosyでも有名で、この教科書は5版を数える。その他、Leprosy stigmaについての論文やThe Starに書かれた自叙伝も有名である。 ===柳駿=== 柳駿 (Joon Lew) は、大韓民国のハンセン病指導者で延世大学名誉教授。医学生の時に、徘徊するらい病患者にショックを受け、京城帝国大学、九州大学細菌学教室、カリフォルニア大学でハンセン病を学んだ。医師になり、最初に勤務したのは小鹿島更生園であった。1947年らい浮浪者の団体のボスを集め、物乞いを止めようと、希望村という運動を始めた。朝鮮戦争前には16もの希望村ができた。希望村運動は中央政府により新しい定着村運動となった。その他、柳駿医科学研究所理事長になり、ハンセン病関係の種々の役職を歴任した。毎年開催される日本ハンセン病学会にも出席する。 ===ケイト・マーズデン (Kate Marsden)=== イギリスの看護婦、冒険家、旅人。1859生、1931年没。父親はロンドンの弁護士。8人兄弟の末っ子。たいへんおてんばであったという。父親が若死したので病院の見習看護婦になった。当時彼女はブルガリアの戦争に行く志願をしている。トルコと戦争をしたロシア人を介護したようであるが、これに関する資料は不確実である。イギリスに帰り正規の看護婦になり、婦長になる。ハンセン病のハワイの療養所に勤務したいと申し出、断られている。インドに行こうと考えていた時、ロシア赤十字から先の戦争で看護に功績があったと招待を受けた。彼女はロンドンの宮殿で皇太子妃に拝謁、ロシアの女帝に親書を書いてもらい、旅に出る。エルサレム、コンスタンチノープル、現在のトビリシに赴く。1890年11月。モスクワに到着。大主教やトルストイ伯爵夫人の支援を取り付ける。北東シベリアを目指したが、バイカル湖近くのイルクーツクで支援委員会を作った(イルクーツクらい療養所を創設したようである)。その後の活躍も述べられているが、このプロジェクトに協力した人もいる。この旅行が真実であったのか、批判もある。 ===アシュミード=== アシュミード( Ashmead, Albert Sydney Junior) (1850.4.4 ‐ 1911.2.20) はアメリカの医師で、1874年から1875年にかけ、東京府病院 (1874 ‐ 1881) で医学を教えた。当時の日本のハンセン病に興味を覚え、研究を始めた。1876年帰米。1897年のベルリン国際らい会議を強く推進した一人であった。彼はその会議に出席はしなかったが、強力な移民禁止、隔離論者であった。その会議はハンセン病隔離政策への潮流をつくった。 ===ハンナ・リデル=== ハンセン病専門病院の設立や治療体制の確立に貢献するなど日本のハンセン病史に名を刻んだ。 ==著名な患者== エルサレム王ボードゥアン4世(1161年 ‐ 1185年) 幼少の頃に発病した。しかし、13歳で即位して以来24歳で没するまで、勢力を増大させていたサラーフッディーンを向こうに回して自ら戦場に出て戦い続け、存命中エルサレム王国の独立を守った。幼少の頃に発病した。しかし、13歳で即位して以来24歳で没するまで、勢力を増大させていたサラーフッディーンを向こうに回して自ら戦場に出て戦い続け、存命中エルサレム王国の独立を守った。スコットランド王ロバート1世(1274年 ‐ 1329年) 第一次スコットランド独立戦争でイングランド王エドワード2世を破ってスコットランドをイングランドの支配から解放し、空位となっていたスコットランドの王位に就いた。晩年の1329年に発病し、同年没した。第一次スコットランド独立戦争でイングランド王エドワード2世を破ってスコットランドをイングランドの支配から解放し、空位となっていたスコットランドの王位に就いた。晩年の1329年に発病し、同年没した。朝鮮世祖王(1417年 ‐ 1468年) 第4代国王世宗の次男。兄の文宗の死後、甥の端宗が11歳で即位すると、幼い王を補佐する役割を担うが、端宗に退位を強要して1455年に自ら即位した。晩年に身体の皮膚が徐々にハンセン病に侵されるようになり、1468年に次男の海陽大君(睿宗)に王位を譲る形で上王となったが、その翌日に薨去した。第4代国王世宗の次男。兄の文宗の死後、甥の端宗が11歳で即位すると、幼い王を補佐する役割を担うが、端宗に退位を強要して1455年に自ら即位した。晩年に身体の皮膚が徐々にハンセン病に侵されるようになり、1468年に次男の海陽大君(睿宗)に王位を譲る形で上王となったが、その翌日に薨去した。大谷吉継(1559年 ‐ 1600年) 日本の戦国時代後期、豊臣秀吉配下の武将。賤ヶ岳の戦いでは七本槍に匹敵する武功を挙げた。業病 を患っており、顔が爛れていたと伝わっているため、おそらくはハンセン病に罹患していたと考えられている。石田三成と固い友情で結ばれていたと言われ、関ヶ原の戦いでは東軍有利と思いつつも、三成との友情に報いるために西軍について闘い、最後は自刃して果てた。 ある時開かれた茶会において、招かれた豊臣家諸将は茶碗に入った茶を、1口ずつ飲んで次の者へと渡して回し飲みを始めた。この時、吉継が口をつけた茶碗は誰もが嫌い、後の者たちは病気の感染を恐れて飲むふりをするだけであったが、石田三成だけは普段と変わりなくその茶を飲んだ(一説には吉継が飲む際に顔から膿が茶碗に落ちたが、三成はその膿ごと茶を飲み干したとされる。また三成でなく豊臣秀吉であるという話もある)。この逸話は本郷和人によると、典拠が不明の信憑性の乏しい逸話で、江戸時代に遡ることが難しく、明治時代のジャーナリストであった福本日南が1911年に刊行した『英雄論』では、三成ではなく秀吉の話として載っている。日本の戦国時代後期、豊臣秀吉配下の武将。賤ヶ岳の戦いでは七本槍に匹敵する武功を挙げた。業病 を患っており、顔が爛れていたと伝わっているため、おそらくはハンセン病に罹患していたと考えられている。石田三成と固い友情で結ばれていたと言われ、関ヶ原の戦いでは東軍有利と思いつつも、三成との友情に報いるために西軍について闘い、最後は自刃して果てた。ある時開かれた茶会において、招かれた豊臣家諸将は茶碗に入った茶を、1口ずつ飲んで次の者へと渡して回し飲みを始めた。この時、吉継が口をつけた茶碗は誰もが嫌い、後の者たちは病気の感染を恐れて飲むふりをするだけであったが、石田三成だけは普段と変わりなくその茶を飲んだ(一説には吉継が飲む際に顔から膿が茶碗に落ちたが、三成はその膿ごと茶を飲み干したとされる。また三成でなく豊臣秀吉であるという話もある)。この逸話は本郷和人によると、典拠が不明の信憑性の乏しい逸話で、江戸時代に遡ることが難しく、明治時代のジャーナリストであった福本日南が1911年に刊行した『英雄論』では、三成ではなく秀吉の話として載っている。ダミアン神父(1840年 ‐ 1889年) ベルギー人のカトリック司祭。ハワイ王国のモロカイ島でハンセン病患者たちのケアに生涯をささげ、自らもハンセン病で命を落とした。 1873年、許可を得てモロカイ島に渡り、ハンセン病患者の救済に尽力した。神父の活動は世界に報じられ、やがて救癩の使徒と呼ばれるようになった。1884年12月にダミアン神父はハンセン病(LL型)を発病した。このとき、癩菌発見に関わった細菌学者ナイセルの弟子の一人で当時ハワイでハンセン病の研究中だったアーニングがダミアン神父を診察した。当時はハンセン病に対する医学知識が乏しく、多くの医師が梅毒とハンセン病の区別がつかないばかりか、「梅毒はハンセン病の第4期」と考えていた学者さえいるほどであった。このためダミアン神父のハンセン病罹患の原因を「患者の女性と関係を持ったこと」であるという中傷さえ行われた。その後、ダミアン神父の発症原因については多くの研究が行われたが、そのうちの一人であるジョプリングは、ダミアン神父が発病したのは患者の世話などで癩菌に対する露出が濃厚であったことと、体質的に発病しやすいタイプであったと考えられると発表している。 カトリック教会はダミアン神父を1995年に福者、2009年に聖者に列した。ベルギー人のカトリック司祭。ハワイ王国のモロカイ島でハンセン病患者たちのケアに生涯をささげ、自らもハンセン病で命を落とした。1873年、許可を得てモロカイ島に渡り、ハンセン病患者の救済に尽力した。神父の活動は世界に報じられ、やがて救癩の使徒と呼ばれるようになった。1884年12月にダミアン神父はハンセン病(LL型)を発病した。このとき、癩菌発見に関わった細菌学者ナイセルの弟子の一人で当時ハワイでハンセン病の研究中だったアーニングがダミアン神父を診察した。当時はハンセン病に対する医学知識が乏しく、多くの医師が梅毒とハンセン病の区別がつかないばかりか、「梅毒はハンセン病の第4期」と考えていた学者さえいるほどであった。このためダミアン神父のハンセン病罹患の原因を「患者の女性と関係を持ったこと」であるという中傷さえ行われた。その後、ダミアン神父の発症原因については多くの研究が行われたが、そのうちの一人であるジョプリングは、ダミアン神父が発病したのは患者の世話などで癩菌に対する露出が濃厚であったことと、体質的に発病しやすいタイプであったと考えられると発表している。カトリック教会はダミアン神父を1995年に福者、2009年に聖者に列した。明石海人(1901年 ‐ 1939年) 静岡県沼津市出身で、ハンセン病を患いながらも短歌を発表した歌人である。ハンセン病発症前は小学校教師をしていた。ハンセン病の後遺症で失明や発声障害(神経障害のため喉頭機能障害になり、気管切開を受けた際に発声障害となった)なども併発した。腸結核のため長島愛生園で没した。没年の1939年にはベストセラー歌集『白描』 を発刊する。静岡県沼津市出身で、ハンセン病を患いながらも短歌を発表した歌人である。ハンセン病発症前は小学校教師をしていた。ハンセン病の後遺症で失明や発声障害(神経障害のため喉頭機能障害になり、気管切開を受けた際に発声障害となった)なども併発した。腸結核のため長島愛生園で没した。没年の1939年にはベストセラー歌集『白描』 を発刊する。村越化石(1922年 ‐ 2014年) 静岡県藤枝市生まれの俳人。15歳で治療のために離郷、1941年から群馬県草津町の国立療養所栗生楽泉園で暮らす。失明した後も、妻や職員の手を借りて句作を続けた。静岡県藤枝市生まれの俳人。15歳で治療のために離郷、1941年から群馬県草津町の国立療養所栗生楽泉園で暮らす。失明した後も、妻や職員の手を借りて句作を続けた。ヨゼフ・パヴラキス ハンセン病を発病して、1903年に遺棄の島と指定されたギリシャ王国のクレタ島東部に位置するスピナロンガ島に送られた神父である。スピナロンガ島はハンセン病の患者が次々に送られて悲惨な状態となっていたが、パヴラキスは患者を集めて建物班を作るなど組織化し、水の確保、および住宅・ダンスホール・劇場などの建設に尽力した。ギリシア政府は1954年に隔離を止め、ハンセン病の新規患者はアテネで治療することとなったため、1957年にアテネに帰還した。ハンセン病を発病して、1903年に遺棄の島と指定されたギリシャ王国のクレタ島東部に位置するスピナロンガ島に送られた神父である。スピナロンガ島はハンセン病の患者が次々に送られて悲惨な状態となっていたが、パヴラキスは患者を集めて建物班を作るなど組織化し、水の確保、および住宅・ダンスホール・劇場などの建設に尽力した。ギリシア政府は1954年に隔離を止め、ハンセン病の新規患者はアテネで治療することとなったため、1957年にアテネに帰還した。北条民雄(1914年 ‐ 1937年) 自身のハンセン病体験に基づく私小説『いのちの初夜』で文學界賞を受賞。自身のハンセン病体験に基づく私小説『いのちの初夜』で文學界賞を受賞。 ==雑誌== ハンセン病に関連する雑誌は国際的には、以下に紹介する雑誌『The Star』が有名である(2011年現在、廃刊)。療養所職員、専門家などにより、啓発記事、解説記事なども多く、大いに参考とすべき資料が多数掲載されている。一方、日本では療養所ごとに機関紙(療養所、自治会、また別の団体による発行)がある。日本の機関紙は各療養所の出来事を中心とした記事や入所者の随筆や文学の掲載の場になっており、雑誌『The Star』ほど専門性の高い記事はほとんど掲載されないが、その存在は入所者に生きがいを与えている。日本の療養所ごとに発行している雑誌については日本のハンセン病問題#日本の療養所内の「ハンセン病療養所の雑誌」を参照のこと。また学術的、国際的には英国の発行によるLeprosy Reviewが発行されている。 ===雑誌『The Star』=== 患者により編集、発行されたハンセン病に関する啓発雑誌である。米国の療養所カーヴィルで、盲目の編集長スタンリー・スタイン (Stanley Stein) が1941年に創刊、2001年に廃刊した。A4版で年6回発行。医師、看護師、技術者からの投稿が多いのが特徴で、患者に役に立つ記事も多く掲載されている。その中には専門誌に掲載されるような高度なハンセン病の総説論文も含まれている。裏表紙にも専門家によるハンセン病の簡単な解説がある。「ハンセン病の歴史」「ハンセン病の疫学」「ダミアン神父」「中世のらい患者」「MDT」「ハンセン病と妊娠」「代理貨幣」「ジョップリング博士の自叙伝」「菊池恵楓園の紹介」「ソ連のイルクーツク癩療養所(日本人投稿)」「ハンセン病のリハビリテーションのやり方」「スピナロンガ島」「神経細胞内のライ菌の電子顕微鏡写真」「日本のらい予防法が廃止される」などが今までに掲載された。患者からの投稿もあり、興味深い記事も多く含まれている。否定的な意味を含む「leprosy」という用語の使用は避けられたが投稿者の意向が強ければ使用も可能とされていた。愛生園図書館(歴史館)、国立ハンセン病資料館に相当数保存されている。 ===雑誌『Leprosy Review』=== 英国のLEPRA Health in Actionより年に4回発行されている。ハンセン病の理解とコントロールに資することを目的としている。研究の総ての面の原著、ハンセン病の教育関連の資料を発行し、ハンセン病に携わっている人々、および患者の役に立つことを目指している。 ==団体・学会== ハンセン病に関する研究の発展や各地で生じるハンセン病に関する諸問題への対処を目的として、様々な団体・学会が存在する。以下に代表的な機関を掲載した。 ===団体=== ====世界救らい団体連合==== 世界救らい団体連合 (ILEP, International Federation of Anti‐Leprosy Associations) は、各国保健省やその国で活動する他のNGOとの協力下で、医療従事者に対する技術向上トレーニング、患者の発見・治療とその後のリハビリテーション、さらには新治療法の開発などの研究活動を行う団体である。1966年に創立されたが当初はヨーロッパ救らい団体連合 (ELEP) として設立し1975年に世界救らい団体連合 (ILEP) と名称を変更した。ILEPにはヨーロッパ、アメリカ、日本の14団体が加入している。ILEP加入団体の活動はハンセン病問題のあるほぼ全ての国で実施されており、特徴として患者・回復者と直接接して活動する、すなわち草の根レベルの活動にある。 ===IDEA=== IDEA (International Association for Integration, Dignity and Economic Advancement) は、ハンセン病回復者の団体である。会長はDr. P. K. Gopal。積極的に国際的活動を行っている。 ===笹川記念保健協力財団=== 笹川記念保健協力財団は、日本財団(財団法人日本船舶振興会)の一つでハンセン病制圧事業のみならずエイズ対策などの活動を行っている団体である。笹川良一の三男である笹川陽平がWHOハンセン病制圧特別大使を務め、ハンセン病の制圧、ハンセン病患者の人権問題に取組んでいる。2006年にはインドのハンセン病回復者とその家族が自立して暮らすための支援を行う「ササカワ・インド・ハンセン病財団」を設立するなど積極的な活動を行っている。この団体は、笹川良一(1899年‐1995年)を会長として1974年に創設された。笹川良一は日本財団創設時より国内外のハンセン病問題に関心があり積極的に活動を行っていた。 ===学会=== ====国際ハンセン病学会==== 国際ハンセン病学会(英: International Leprosy Association)はハンセン病対策に関する情報の発信、ハンセン病対策キャンペーンに対する支援、ハンセン病に関わる他団体との連携を目的とした学会である。1897年に国際らい会議がベルリンで開催され、これが後に第1回国際ハンセン病学会となった。当時は根本的な治療法が確立されていないため、隔離以外に対策のない疾患であると結論づけている。日本からは土肥慶三(皮膚科医)と北里柴三郎(細菌学)が出席した。化学療法の進歩に伴って、次々と重要な決定がこの学会を通じて出された。約5年おきに学会が開かれが、インド開催時は世界ハンセン病ディで行われるので5年毎ではない。International Journal of Leprosy (Quaterly) という学会誌の発行も行っていた。 ===日本ハンセン病学会=== 日本ハンセン病学会(英: Japanese Leprosy Association)は、ハンセン病に関する研究、会員相互の知識の交換を図る目的で設立された日本医学会分科会の一つである。1927年に「日本癩(らい)学会」として設立された。その後、「日本らい学会」を経て、「日本ハンセン病学会」の名称になった。日本ハンセン病学会は、ハンセン病医学の発展、すなわち病因の解明、診断、治療に貢献するのみならず、ハンセン病医療を向上させ、その成果を臨床や社会へ反映させ、さらに患者の福祉の向上や人権を尊重した医療の確立に向け活動を行っている。年1回の総会を行うとともに、日本ハンセン病学会雑誌を年3回発行。雑誌はインターネットで公開されている。 ==研究室・資料館== ===国立ハンセン病資料館=== 国立ハンセン病資料館は、東京都東村山市にあるハンセン病に関連する資料を扱う資料館・博物館である。元々は高松宮記念ハンセン病資料館として、藤楓協会創立40周年記念事業で作られた。ハンセン病療養所、入所者の実情をよく示し、らい予防法廃止への原動力となった。資料館に関する資料として「高松宮記念ハンセン病資料館10周年記念誌」(2004年)がある。2007年4月にリニューアルし、国立ハンセン病資料館として開館し、現在に至る。 ===国立感染症研究所ハンセン病研究センター=== 国立感染症研究所ハンセン病研究センターは、東京都東村山市にあるハンセン病の予防および治療に関する調査研究を行う機関である。2011年現在、感染制御部がある。当初はらい予防法の結果、国立らい研究所として発足した(1955年7月1日)。熊本分室もあったが1957年8月1日廃止された。1997年1月1日に国立衛生予防研究所の一部となり、4月1日より国立感染症研究所ハンセン病研究センターとなる。多くの基礎研究が行われ優れた結果を出した。安部正英は、非常に敏感なFTA‐ABSを開発し、らい菌の感染について、多くの知見をもたらした。ハンセン病医学夏季大学(旧称らい夏季大学)を毎年一週間主宰し関心のある人々へ教育し、また外国の研究者への指導などに貢献した。 ===大阪皮膚病研究会=== 1929年7月4日、大阪の匿名の篤志家より、元大阪医科大学教授櫻根孝之進に3万円、次いで10万円の寄付があり、同教授らが創立した研究会である。「皮膚病」とあるが、ハンセン病専門の研究会である。1930年4月に専門誌「レプラ」を創刊、1931年に研究所を建設しここでは、高坂健二、森竜男、伊藤利根太郎などが活躍し、リファンピシン投与により感染源にならないことを発見するなどの業績を上げた。1932年に施設は大阪帝国大学に寄付され、1934年に財団法人化した。1953年に櫻根賞(後の日本ハンセン病学会賞)を発足させるなど活動を続けたが、使命を終えたとして2003年に解散した。 ===草津町立温泉図書館=== 草津町立温泉図書館は、群馬県吾妻郡草津町にある公立図書館である。町内に国立療養所栗生楽泉園があることから、ハンセン病療養所に関する資料(栗生楽泉園に関する資料や入所者の出版物など)の収集を行っている。2015年(平成27年)時点で500冊ほど所蔵しており、日本の図書館の中では最大級の蔵書数である。 ==ダミアン・ダットン賞== 1944年にアメリカのニューヨークに設立されたハンセン病制圧のための非営利組織「ダミアン・ダットン協会」(Damien‐Dutton Society For Leprosy Aid) は1953年にダミアン・ダットン賞 (en:Damien‐Dutton Award) は、を創設した。賞名の由来はダミアン神父と神父に仕えたジョゼフ・ダットンである。毎年ハンセン病治療に業績を上げた個人、団体に賞を授与する。 初代の受賞者は米国ルイジアナ州カービルの国立ハンセン病療養所で権利擁護運動を続けた患者のスタンレー・スタインであった。これまでの受賞者の中には「世界ハンセン病ディ」を提唱したジョン・F・ケネディ元米国大統領、障害を持つ世界中の貧しいハンセン病患者や貧しい人々のために活動したマザー・テレサらがいる。日本人または日本の団体の受賞歴は、1961年に光田健輔、1976年に義江義雄、2002年に湯浅洋、2008年に日本財団(笹川陽平会長)と笹川記念保健協力財団(日野原重明会長)がある。 一方、ハンセン病研究やハンセン病問題に対して大きな役割を果たしたファジェット、リドリー、ジョップリング、全療協などは受賞していない。この点から、やや恣意的な部分が多いという批判がある。 ==記念日== ===世界ハンセン病デイ=== フランスの社会運動家であるラウル・フォレロー(Raoul Follereauが、Epiphany (公現祭―キリスト生誕の際に東方の3博士がBethlehemを訪れたのを記念する1月6日の祭日)ローマ字を入れる)が提唱した、毎年1月最終日曜日の「世界ハンセン病の日」には、世界各地でこの日を記念したハンセン病の活動が行われている。この日を選定した理由はEpiphanyから3回目の日曜日には、ミサで主がらい 患者を癒した、という聖書が読まれる日である。最初の世界ハンセン病ディは1954年1月31日で36万のカトリック神父と数百万の信者が参加した。 ===ハンセン病を正しく理解する週間(日本)=== 「ハンセン病を正しく理解する週間」は、救らい事業に尽くした貞明皇后の誕生日である6月25日を含む1週間に設定されている。ハンセン病患者あるいは回復者に対して差別や偏見のない社会を推進する目的である。元々は1931年に「癩予防ディ」と呼ばれ、ハンセン病患者の救済を名目に無癩県運動と強制隔離政策を奨める、日本国政府のキャンペーンであった。1951年に貞明皇后が崩御したのに伴い「救らいの日」に、1963年に「らいを正しく理解する週間」に、1964年に「ハンセン病を正しく理解する週間」に改称した。 ==その他== 乳幼児期に感染し、約30年の潜伏期間を経て発症したと見られる雌のチンパンジーの病例が報告されている。このチンパンジーは獅子様顔貌を呈しハンセン病と診断され多剤療法で完治した。 =10.8決戦= 10.8決戦(じってんはちけっせん)は、1994年10月8日に日本の愛知県名古屋市中川区のナゴヤ球場で行われた、日本野球機構セントラル・リーグ(以下「セ・リーグ」)の中日ドラゴンズ(以下「中日」と表記)対読売ジャイアンツ(以下「巨人」)第26回戦を指す通称である。 日本プロ野球史上初めて「リーグ戦(公式戦・レギュラーシーズン)最終戦時の勝率が同率首位で並んだチーム同士の直接対決」という優勝決定戦であり、巨人が勝利しリーグ優勝を果たした。後述するように、日本社会の広い範囲から注目された事象である。 ==「決戦」に至る経緯== ===最終戦の日程決定=== この節の記載内容詳細については、1994年の野球#ペナントレースを参照 1994年当時、セ・リーグ公式戦は各チーム26回戦総当りの130試合制で行われていた。 同年の巨人は序盤から首位を快走していたが、8月25日から9月3日にかけて8連敗を喫するなどして勢いを落とす。対照的に中日は、優勝経験のある星野仙一を翌季から監督へ復帰させるプランが球団内部で台頭していたことから、前年2位で迎えた同年もAクラス(リーグ6球団中、上位3位以内)を維持していたシーズン中にもかかわらず、当時の監督である高木守道に「来季の契約をしない」旨を内示していた。この件が却って監督・選手ともに「最後の花道を優勝で飾ろう」と一丸となって巻き返しに出た。9月18日から10月2日にかけては9連勝を記録し、試合終了時間の関係で「単独首位」の形となったこともあるなど、巨人を猛然と追い上げた。なお、同監督の去就については#高木監督留任決定を参照。 巨人と中日は9月27日と28日にナゴヤ球場でこのシーズン最後の対戦が組まれていたが、27日の試合は日本列島に接近していた台風の影響による悪天候で中止となり、予備日となっていた29日に順延となったが、その29日も今度は台風本体が東海地方に接近してまたも中止となり、結局同リーグは翌30日に29日に中止された両チームの第26回戦を10月8日(土曜日)に組み込むことを含めた「追加日程」を発表し、ここに「10.8」の試合が日程上登場したことから、この事象が始まった。なお、この時点で巨人と中日は66勝59敗0分(残り5試合)で並んでいた。 ===10月6日の試合=== 上記の追加日程発表後、巨人は3勝、中日は2勝1敗で10月6日を迎えた。巨人が明治神宮野球場でヤクルトスワローズ(以下、「ヤクルト」)と、中日がナゴヤ球場で阪神タイガースとそれぞれシーズン129試合目を戦ったが、試合前時点では巨人が1ゲーム差の首位で、巨人の勝利・中日の敗北で巨人の優勝決定となる状況にあった。 ===中日(対阪神)=== 先発投手・山本昌の19勝目となる好投もあり、10‐2と快勝。中日の大量リードのまま終盤にさしかかった際、下記のヤクルト対巨人の試合経過について、球場内に報じられる前にラジオ等で状況を把握した観客を中心におおいに沸き上がったという。 ===巨人(対ヤクルト)=== 「先発三本柱」のうち斎藤雅樹を先発、槙原寛己をリリーフに起用したが、7回に槙原が秦真司に3点本塁打を浴びるなどヤクルトに4得点を許し、6‐2と逆転負け。エース・岡林洋一を先発に立てたヤクルト側には「痛くもない腹を探られたくない」という事情もあった。同チーム選手会長であった秦は「(4日は)中日に勝ったのに、巨人に4連敗では野球ファンに申し訳ない。(中略)あとは8日に両チームに頑張ってもらうだけです」とコメントを残している。 ===試合終了時点での状況=== 6日の試合が終了した時点で巨人・中日の両チームはともに129試合を消化し、勝敗数が69勝60敗で並んだ。両チームともに残り試合は10月8日の直接対決のみとなり、この試合に勝利したチームがセ・リーグ優勝を決定することになった。同率で並んだ2チームがレギュラーシーズン最終戦で直接対戦してリーグ優勝・日本シリーズ出場権を決めるケースはプロ野球史上初の出来事であり、現在もレギュラーシーズン公式戦(クライマックスシリーズなどのプレーオフは除く)でこのような状況は発生していない。当時の規則では引き分け再試合制を採用していたため、この試合が引き分けに終わった場合は再度の直接対決によってリーグ優勝を決定することになっていた。 10月6日の試合が終了した時点でのセ・リーグの順位は以下の通り。首位から最下位までが8.5ゲーム差に収まっている(前後の年との比較)。 ==10.8決戦== ===試合直前=== ホームチームで「追いついた」側の中日は監督の高木以下、当日も変わらず「ここまできたら勝つ」というように、普段通りの姿勢で臨むことを決めていた。 ビジターチームで「追いつかれた」側の巨人は、球場入りを控えた当日昼に宿舎にて行ったミーティングが、監督(当時)の長嶋茂雄が選手に対して「俺たちは勝つ」を連呼するという異例のものであった。さらに、中日の先発が予想された今中慎二を同シーズン唯一攻略した試合のビデオを前日に名古屋入りしてから繰り返し見せ、選手たちにイメージを植え付けた(今中は、同季ここまでの対巨人戦が5勝2敗1セーブポイント・防御率2.45、地元の対巨人戦では11連勝中であり「巨人キラー」と呼ばれた)。チーム内の雰囲気について松井秀喜は後年「覚えているのは僕から見て、落合さんや原さんの方が、もの凄く張り詰めた空気を持っていたことですね。(中略)(ミーティング後)みんな、凄く高揚してバスに乗り込んだんです」と述べている。なお、松井が述べた球場に行くバスに乗り込む際は、報道陣やファンが多く集まり、「(人並みを)かきわけるようにして」という状態であった。 長嶋が「国民的行事」と呼んだ試合の盛り上がりは、取材に訪れた報道陣の多さや警備の厳重さにも表れた。報道陣について今中は後年、見覚えのない顔が多く、報道陣そのものの多さに驚いたこと、さらにその接し方も取材という感じではなく、「『頑張ってね、応援してるから』まるで一人のファンのように、話しかけられる」と述べている。球審を務めた小林毅二も、後年に報道陣の多さについて述べている。警備体制は過去の事例 を踏まえ、巨人が試合に勝った場合等の中日ファンの乱入に備えた厳重なものであった。 両チームが試合前練習を終えたグラウンドでは、試合開始までの間に9月の月間MVPに選出された大豊泰昭、山本昌の表彰が行われ、18:00の試合開始となった。 ===当時の報道=== ここでは、主に中日・巨人・試合放送したテレビ局と系列が異なる機関による当時の報道から、当時の社会的注目を中心に掲載(以下同名の段落について同じ)。次のものからも、試合そのものはもとより球場内外の整理・警戒(警備、市中関係の状況を参照)、選手たち等への注目が報じられている。なお、広島県で1994年アジア競技大会が開催中でのことであった。 ===日本経済新聞=== 1994年10月7日付の紙面によると「6日のヤクルト戦直後、長嶋監督は『130試合で決着だ。こんな試合ができる選手は幸せですよ』とコメントした」とあるが、この記事をまとめた記者は「監督ほどの英雄ぞろいでない選手たちは『幸せ』な気持ちで決戦に臨めるだろうか」と述べた。翌日付の紙面では、1面コラム「春秋」で「巨人と中日。(中略)(大リーグがストライキ中である)熱心な米国の野球ファンもうならせる堂々たる試合を見せてほしい」と述べ、日本のプロ野球にとどまらない社会的注目の対象であるようなことを述べた。同日付の日経スポーツ面は「栄光かゼロかきょう大一番」という見出しで「客観的に見れば中日が有利と言えそうだ」とした。なお、この記事は「槙原を先発で起用し、勝負どころで桑田を救援で使った方が得策といえよう」とも述べている。同日付の日経(夕刊)では「DG決戦 待ち切れない ナゴヤ球場異例の11時開門」と球場周辺に人が密集して危険な状況にあったため繰上げて開門したという社会事象、場内整理の大変さとして報じた。 ===毎日新聞=== 10月8日付の夕刊は「DG決戦ナゴヤ燃ゆ」との見出しで、「入場券を手に入れられなかったファンは、道路に立つダフ屋に、必死に声を掛けていた」「署員百十人が夜通しで(繁華街等の)警戒にあたる」など、やはり社会事象、警備等の問題として報じた。 ===朝日新聞=== 10月8日付の同紙は、総合面で「まなざし熱い舞台裏」と、監督・球場・テレビ局・関連セールの状況を報じた。試合を放送するフジテレビジョンの関係者が過去のプロ野球での最高視聴率を「一気に更新したい」と意気込んでいる旨の内容もある。 ===地方紙=== 例えば山形新聞においては、10月8日付の1面コラム「談話室」が「特別なファンでなくとも注目せざるを得ない」と述べて、1973年の巨人と阪神の優勝争いと関連づけた話を記載し、同日付夕刊が1面コラム「口笛」で「(前略)徹夜いとわぬ長蛇のファン。見ごたえある試合をどうぞ」と述べるなど関心の高さが見られた。 ===スポーツ紙=== 日刊スポーツ(ニッカン)、スポーツニッポン(スポニチ)ともに、10月8日付のトップは数面にわたってこの試合についての記事で占められていた。1973年阪神対巨人の最終決戦に関連づけて、同年当時の関係者として、ニッカンは1面で川上哲治(1973年当時 巨人監督)の、スポニチは2面で森祇晶(同 巨人選手、1994年当時の西武監督)、田淵幸一(1973年当時 阪神選手)のコメントを掲載した。 ===試合経過=== ====序盤==== 中日の先発投手は、上記の巨人側、さらに上記引用10月8日付日経などの新聞の多くが「今中先発」を前提に分析・予想していたが、それが的中する形となった。巨人は槙原が先発した。 1回裏に中日は先頭打者の清水雅治が右中間に二塁打を放つが、続く小森哲也が送りバントを試みるも空振りし、その際に二塁走者の清水が飛び出して巨人の捕手・村田真一の送球でタッチアウト(記録は盗塁死)。その後小森が右前安打、3番の立浪和義が死球で一死一・二塁とチャンスを作るが、4番の大豊が二塁ゴロ併殺で無得点となった。大豊の打球はマウンドの槙原の横を速い球足で抜けるいわゆる「ピッチャー返し」の打球だったが、二塁ベース寄りに守っていた巨人の二塁手・元木大介がこれを正面で捕球し併殺とした。プルヒッターである大豊の打席時に一・二塁間を詰めて守るチームが多い中で敢えて二塁ベース寄りの位置で守った元木を当日のテレビ中継の解説をしていた達川光男と鈴木孝政は激賞した。この日実況を担当した吉村功(東海テレビアナウンサー)は後に著書の中で「中日の1回裏の攻撃がすべてのような気がする」と語っている。 2回表に巨人が落合博満のソロ本塁打と槙原の内野ゴロの間の三塁走者生還で2点を先制したが、その裏に中日は槙原に対して、4連続安打と外野手ダン・グラッデンの失策により同点に追いついた。巨人は、これを受けて投手を斎藤に交代。この時、地元・中日ファンの多いスタンドは総立ちとなった。斎藤はさらに続く無死走者一、二塁というピンチを今中のバント失敗(三塁封殺、記録は投手ゴロ)、一塁走者中村武志の走塁死(アウトカウントを間違えたという等で切り抜け、その後も変化球を低めに集めて打たせてとる投球で5回を1失点に抑えた。なお、ここで中村を刺す牽制球を投じた捕手の村田は前記の通り1回裏も小森のバントの動きで飛び出してしまった二塁走者清水を送球でアウトとし、ピンチ脱出に貢献している。 3回表、巨人は松井のバントで二塁に送った走者を落合の適時打で還して1点を勝ち越した。今中は、味方が同点に追いついた直後に落合にこの適時打を打たれたショックが点差、イニングにかかわらず大きかった旨を述べている。なお、落合は3回裏に立浪のゴロを捕球の際に足を滑らせ、この回終了後負傷退場している。さらに巨人は、4回表に村田、ヘンリー・コトーの本塁打で2点を追加し、3点の点差をつけた。今中は4回裏の打順で代打を送られ降板した。 中日の試合ぶりについて、原辰徳は「(試合が始まり)『これはいつものドラゴンズじゃないな』とすぐにわかった。彼らもプレッシャーを感じていたんですね」と、川相昌弘も「試合前、笑顔も見られた中日ナインでしたが、いざ試合が始まってみると緊張に縛られていたのはドラゴンズのほうでした」と振り返っている。10月12日付東京新聞(中日系列)19面12版のコラム「デスク発」は「ミスがあれだけ出れば大試合には勝てない」と評した。 ===中盤・終盤=== 5回表に巨人は松井の本塁打で1点を追加。これに対し中日は6回裏に彦野利勝の適時打で1点を返し、3点差のまま試合は終盤に入った。 巨人は7回裏から桑田真澄を投入した。8回裏、中日は先頭打者の立浪が一塁にヘッドスライディングして出塁(内野安打)したものの、左肩を脱臼して負傷退場し(球団史上の位置づけ等、立浪が負傷退場した時の球場内の雰囲気について、チームも走者を2人塁上に置いて「本塁打が出れば同点」という場面を作ったが無得点に終わった。9回表、巨人は先頭打者川相のバックスクリーン前への打球が本塁打と認められず、三塁打となり長嶋監督が抗議する場面があったが、すぐに切り上げ、結局追加点はなかった。 ===優勝決定=== 9回裏二死後、小森が空振り三振に倒れて中日最後の打者となって、6 ‐ 3で巨人の勝利で試合終了、リーグ優勝が決定した。ニッカンによると、時刻は21時22分35秒であった(中断があったため、試合時間は3時間14分)。巨人側は、プロ野球の優勝決定に際してよく見られるように、マウンド付近で監督の長嶋を胴上げした後、グラウンドをまわった。 中日側は、2006年刊行の『中日ドラゴンズ70年史』で、「この史上初の歴史的ゲームに参加する喜びに選手たちは燃え、全国のファンは堪能した」と位置づけている。なお、同書p.128「巨人戦名勝負編」にはこの試合については掲載されていない。 ===両チームの投手起用について=== 当時巨人の「先発三本柱」と称された3人は、前述10月6日の試合で斎藤が先発で6イニング、槙原が0イニングを投げ、残る桑田は5日の試合に先発登板して8イニングを投げていた。このうち斎藤、桑田については後述のように8日の時点で疲労が残っており、巨人の投手起用に注目が集まったが、巨人は「先発三本柱」を槙原 ‐ 斎藤 ‐ 桑田の順で継投させる総力戦で臨んだ。これに対し中日は今中降板後、山本昌ら投手陣の「切り札」を温存する起用法をとった。落合は著書『プロフェッショナル』の中でこれを「意気込みの違い」と評しているが、山本昌は「(控え投手には)源治さんも佐藤もいる(注:佐藤は登板した)」「僕も(ブルペンで投球練習もしたし)投げたくなかったわけじゃありません」と述べている。 なお、中日側から見た巨人の投手起用について、シーズンオフに中日の選手たちの話を聞いた山際淳司は「ドラゴンズ側にとっての問題は、どこで桑田が登板するか、ということだった。ドラゴンズの選手たちにいわせると、抑えの切り札として、桑田が最後にマウンドに上がってくるのがいやだった、という。(中略)点差はともあれ、ゲーム終盤の、集中力を要求される場面で桑田が本来の力を発揮したとき、攻めづらくなる……。」というエピソードを記している。 前述のように斎藤は中1日、桑田は中2日での登板となった。登板を告げられた時の心境について斎藤は「中1日だったし、出番はないと思っていたけど、ブルペンで(中略)コーチが『おい、斎藤』と。思わず聞こえないフリをした」と述べている。桑田は試合前夜、長嶋監督から呼び出され、「しびれるところで、いくぞ」といわれていたという。5日の前回登板時(先発)は、チームの指示で8日に備えるため、完封のかかった9回を回避、降板していた。ただ、桑田は、後日、「(登板の準備は十分であったが、狭いナゴヤ球場等の条件下で)正直にいうと、怖かった。(中略)体は、疲れでバリバリ」と述べている。 ===スコア=== s:10.8決戦のとおり、両チームとも、シーズン終了時のチーム打率、チーム防御率は同程度であり、双方のチーム力の近接が見られる。 巨 : 槙原(1回0/3)、斎藤(5回)、桑田(3回)中 : 今中(4回)、山田(0回0/3)、佐藤(3回)、野中(2回)勝: 斎藤(14勝8敗)  敗: 今中(13勝9敗3S)  S: 桑田(14勝11敗1S)  本:  巨 ― 落合15号ソロ(今中)、村田真10号ソロ(今中)、コトー18号ソロ(今中)、松井20号ソロ(山田)審判:球審…小林毅、塁審…井上・福井・山本試合時間:3時間14分(中断:8分) ===出場選手=== ===球場内の雰囲気=== この試合での、両チームベンチ内の雰囲気について、両チームの先発投手であった今中と槙原は以下のように述べている。 (今中)あの試合は、かえってグラウンドに立っていない選手の方が元気がよかった気がします。(槙原)自分自身はふがいない投球だったのに泣けたってのが不思議ですね。(中略)一緒にやっているチームメイトに感動しました。球場全体の雰囲気について糸井重里は、後日、松井との対談で次「お客さんが緊張してたもんね。(中略)ワーワー騒いでいるんだけど、時々ピタッと止まる(笑)」と述べている。球場で観戦していた当時オリックス・ブルーウェーブのイチローは、「こんなすごい雰囲気で試合できるなんて、うらやましい。一野球ファンとして、のめり込んで見ました」と述べた。なおイチローは、地元・愛知県の球団である中日の応援のために巨人側とされる三塁側で観戦したが、その存在に気付いた中日ファンから代打出場を迫られ、記者席に「退避」した。関係者の著書では、「異様」という言葉が、今中『悔いはあります。』、桑田『桑田真澄という生き方』、川相『明日への送りバント』に用いられている。 ===関係者等のコメント=== 落合については、同年に中日から巨人に移籍したもので、毎日新聞が再三にわたり「真価が問われる」と述べていたことにもあらわれるような状況にあったため、「泣くまいと思っていたが、(自然に涙が出てしまった)」というコメントを出した。なお、東京新聞(10月12日付東京新聞19面12版)は、「あの史上初の最終決戦。彼の真骨頂を見た」と評した。落合は、後年、自著『プロフェッショナル』 (p.268) で、自分の信念として、次のとおり述べている。 ペナントレースにしろタイトル争いにしろ、僅かでも数字が高い者を勝者とする場合は、リードしている方が絶対に有利である。(中略)精神的な重圧は、明らかに追う者の方がきついと言える。ならば、リードしている者は精神的に余裕を持って戦える(中略)はずだ。ペナントレースにしろタイトル争いにしろ、僅かでも数字が高い者を勝者とする場合は、リードしている方が絶対に有利である。(中略)精神的な重圧は、明らかに追う者の方がきついと言える。ならば、リードしている者は精神的に余裕を持って戦える(中略)はずだ。原は、2007年刊行の『巨人軍5000勝の記憶』で、この時点の巨人監督としてのメッセージの中で、この試合について「正直、あの心境は二度と味わいたくないですね。(中略)巨人軍5000勝という枠を超えた、最も印象に残る、しかし二度と経験したくはない1勝でした」と述べている (p.6 ‐ ) 。大豊は中日の四番打者として、「(巨人の四番打者であった)落合さんはホームランとタイムリーという試合の流れを決める働きをした。自分は1回の併殺打で全てが終わり1本のヒットも打つことが出来なかった。(中略)4番の差で負けた。それだけではないと思いますが、4番打者の差が一つの大きな敗因だった」と振り返っている中日で8回から2イニングを投げた野中徹博は、この登板を、プロ野球生活一番の思い出、と述べている。球審を務めた小林は、のちに「球審は当時の審判部役員の推薦により決まり、すごくうれしかった。あの日は球場入りすると異様な雰囲気。マスコミも日本各地から集まった感じ。しかし、試合が始まると思ったほど緊張しなかったし、試合終了後、川島廣守セ・リーグ会長(当時)が審判員や記録員を食事に連れて行ってくれた」「大事な試合を無事にこなせたという充実感でいっぱいでした」と述べている。一方で、「特別なゲームだからと言って、何かしないといけないというわけではない」「両チーム、ファンと同じ温度でいては、冷静な判定は決してできませんから」と、審判のあり方についても述べている。先にパシフィック・リーグの優勝・1994年の日本シリーズ出場を決定し、この試合の勝者と日本一を争うこととなっていた西武ライオンズ監督(当時)の森祇晶は、「並大抵の相手じゃない」等の内容のコメントをし、それにかかる報道の中には、「(長嶋監督)その人を意識してもらした言葉のように感じられる」としたものもあった。ちなみにこの試合、森祇晶本人は来ていなかったが、当時西武のヘッドコーチであった森繁和をはじめ、西武のチーム関係者も大挙してナゴヤ球場へ観戦に訪れていた。 ===両チームの監督=== 対戦両チームの監督だった2人は、後年、次のとおり述べている。 (高木)屈辱の一戦だった。ああいう試合は特別。今まで通りやればいいと思ってしまった。経験が足りなかった。巨人は主力投手をすべて使った。私は(山田、野中を使い)山本昌、郭も使い切れなかった。悔いが残ります。(長嶋)監督として一番印象に残る試合と言われれば、この10.8以外にない。1ゲームを勝った負けたで1年の優劣が決まる。これほど過酷な試合はない。敗者になれば地獄へ落とされる怖さがあった。 ===警備、市中関係の状況=== 前述のように球場内の警戒態勢は厳重で、試合終了直後は、外野フェンスに向けて平行して警備員が並ぶ光景が放映されたような状態で、当時の新聞記事の中には、試合終了後グラウンドになだれ込むファンがいなかったことを特筆しているものも複数ある。球場側の警備担当者は、「無事終わってホッとしています。試合前は胃がチクチクしていたんですよ。(ファンの乱闘などの)トラブルもなくて良かったです」と述べた。巨人側は、上記胴上げ等の後も無事に、宿舎に用意された祝勝会場に向かった。 前述のように球場周辺の繁華街では、愛知県警の警官110人が夜通しで警戒にあたったが、特段の騒動は起こらなかった。野球中継用のテレビ5台が設置された松坂屋本店には試合終了時約2000人のファンが集まっており、同店は、用意した約2500本の缶ビールと樽酒を”涙酒”としてファンにふるまった。 なお、JR東海・東海道線尾頭橋駅の翌年3月16日開業により、廃止が決まっていた臨時駅・ナゴヤ球場正門前駅は、この試合日が最終営業日であった。 ===試合中継=== 試合は東海テレビ(フジテレビ系列の中日主管試合の担当局)とフジテレビの共同制作で日本全国のフジテレビ系列各局(一部地域を除く)において18時30分(実際は18時から放送されていた前番組のFNNスーパータイム土曜版)よりテレビで生中継され、土曜日のナイターということもあり、関東地区での視聴率(ビデオリサーチ調べ)はプロ野球中継史上最高の48.8%を記録。瞬間最高視聴率も67%を記録した。前記の通り解説は達川光男と鈴木孝政。実況は東海テレビアナウンサーの吉村功が務めた。吉村は中止となった9月27日と29日の実況も担当する予定であったといい、結果的にはスライドで担当することとなった。 当初、東海テレビは10月6日から9日まで同局主催で行われるゴルフトーナメントの東海クラシックの中継に人員を割くため、10月8日の試合は録画中継で対応する予定であったが、この試合に勝ったチームが優勝という状況となった10月6日の夕方に急遽生中継が決定。吉村は東海クラシックでは10月8日の3日目と9日の最終日の実況を担当する予定であったが、3日目の実況を後輩の植木圭一と交代して「10.8決戦」の実況に臨んだ。ただ、最終日の実況は当初の予定通り吉村が担当したため、吉村は野球とゴルフの両方の実況準備の為、生中継が決まった6日から2日間ほとんど睡眠がとれず、また8日の午前中も東海クラシックの会場である三好カントリー倶楽部で取材をした後で14時過ぎにナゴヤ球場に入ったという。さらに吉村は「10.8決戦」の実況を終えた後も名古屋市内のホテルで翌日の東海クラシックの実況の準備をしていたが、そのホテルが巨人の名古屋遠征時の定宿のホテルであったため、祝勝会の様子を見に降りていくとそこで落合と遭遇。吉村の部屋の番号を聞いた落合は祝勝会終了後に吉村の部屋を訪れて30分ほど2人で飲んだといい、その去り際に「勝ってよかった。もし、負けていたら俺は巨人を辞めるつもりだった。勝って本当に良かった。明日頑張って。」と言い残したという。 この中継に対応するため、フジテレビでは、当初この時間に放送する予定だった『幽☆遊☆白書』#101を10月15日、『平成教育委員会・北野先生も知らぬ(秘)奥の手下克上スペシャル!!』を10月29日の放送とした。 中部テレコミュニケーションは、東海ラジオ放送による当時の実況(アナウンサー:犬飼俊久)をインターネットで配信している。 ==試合直後== 中日側は、「ほとんどの選手が、試合の直後は一種の空白感に襲われ、3日くらいしてから、痛烈に悔しさがこみあげてきたという」ほどであった。 ===当時の報道=== 下記の記事はすべて翌日、10月9日付の記事 ===日本経済新聞=== 社会面で「球場警備に総勢千人を繰り出す厳戒体制のなか(中略)最後の打者となった小森内野手が三振に倒れると、ナゴヤ球場は異様なムードに包まれた」「試合中は、三塁側にも中日ファンが詰め掛け(以下略)」と当日の警備体制、社会的な雰囲気を報じた。 ===毎日新聞=== 社会面で「興奮頂点『ナゴヤ』が揺れた」との見出しで、著名人(薬師寺保栄他)、一般のファンの声を幾つも紹介した。また、「『常勝・巨人軍』がよみがえったのではないことを多くの人は知っている」と述べている。 ===朝日新聞=== 社会面で、他の一般紙に比べて小さい扱いながら「130試合目、敵地で歓喜」などと報じた。また、スポーツ面では、イチローの観戦も報じたほかに(イチローの所属チーム(オリックス・ブルーウェーブ)の10月9日の試合予定もある)、「レベルの低さが熱セ招く」「中日が逆転優勝すると思ったんだけどな」などと論じた。 ===地方紙=== 地方紙でも、山形新聞は社会面で、「苦しみぬいた末の優勝に涙の巨人ファン」等、巨人ファンの喜ぶ様子を中心に、松坂屋本店で用意されたくす玉も割られることなく、祝勝用の樽酒の一部を涙酒として振る舞われた様子も報じた。 ===スポーツ紙=== スポーツ紙は、ニッカン、スポニチなど、試合経過・結果を詳細に報じたことはもとより、球場やそのまわりの状況についても報じた。ニッカンは「厳戒ナゴヤにトラブルなし」という小見出しで無事に試合が終わったことを特筆した。 ===同率最終戦での最下位決定戦=== 10月6日の試合の通り、10月4日の中日戦、6日の巨人戦に勝ったヤクルトは8日の広島東洋カープ戦にも勝利し、横浜ベイスターズと同率5位(同率最下位)となった。これによりヤクルトと横浜が最下位を確定する最終直接対戦に臨んだ。この試合は10.8決戦と同様に、9月30日にセ・リーグから発表された「追加日程」に含まれていたもので、同年のリーグ公式戦最終試合でもあった。 10月9日に神宮球場で行われたヤクルト対横浜戦はヤクルトが2‐1でサヨナラ勝ち。これによりヤクルトは阪神と並んで同率4位となり、横浜の最下位が確定した。なお、優勝した巨人と最下位横浜のゲーム差は9.0であった。 ===高木監督留任決定=== 監督の去就について、中日は最終戦の日程決定のとおりの事情があったが、中日スポーツの1面に高木監督の続投決定が掲載され、この試合終了までの時点までには、球団側は高木の慰留に努める旨表明していた。ただ、一度は球団側が解任を通告した経緯もあり、辞意が固い旨報じられていた。なお、巨人についても、試合結果を報じる10月9日付ニッカンが長嶋の留任が確定的となった旨を書くなど、試合直前の時点では流動的な要素があった。 高木は、上記ニッカン等でも報じられた予定のとおりに10月11日に球団側にシーズンの報告を行った際にオーナー(当時)の加藤巳一郎らからあらためて慰留を受け、13日に同オーナーとあらためて面会して留任が決まった。高木は、その間に選手会長(当時)の川又米利に電話する等して選手側の気持ちも確認したという。 ==その後== ここでは、その後にあった、この試合に関連する事項について記す。 ===「10.8決戦」という言葉=== 「10.8決戦」という言葉は、本項目で引用している10月8日 ‐ 9日付の新聞にはほとんど見られない。試合後しばらくして刊行された週刊ベースボール1994年11月14日号(小森哲也を顕著な形で取り上げた記事)に使用例が見られるが、定着したと言える状態になった時期は必ずしも明確ではない。2004年に発行された『プロ野球70年史』「歴史編」p.620以下でも「10.8決戦」という言葉が複数回用いられている。 『中日ドラゴンズ70年史』では、「『10.8』決戦」と表記され、ベースボールマガジン2009年3月号では「10.8」とされている。また『ありがとうナゴヤ球場』(中日新聞社、1996年)には「10.8大決戦」と記している。関係者の著書を見ると、「10.8決戦」という言葉が、桑田『桑田真澄という生き方』(1995年)、落合『プロフェッショナル』(1999年)で使用されている。一方、今中『悔いはあります。』(2002年)は「”10.8”」と表記している。 一方で、『巨人軍5000勝の記憶』、川相『明日への送りバント』では、特に名称をつけていない。 ===「10.8決戦」と結びつけて報じられた試合=== ====2008年の「10.8」==== 2008年10月8日に東京ドームで行われた巨人対阪神第24回戦は、両チームとも81勝56敗3分(残り3試合)で同率首位の状態での最終戦であり、勝った方にマジックナンバーが点灯することになっていたことから、14年前の一戦にちなんで「10.8決戦」と取り上げる報道が複数見られた。1994年当時の関係者等の中で、この時点で巨人の打撃コーチであった村田真一は、「幸せなことだよ。また、こうした優勝争いを体験できるっていうのは」と述べた。この試合では、巨人が3 ‐ 1で勝利し、マジック「2」が点灯。10月10日に巨人がヤクルトに勝利、阪神が横浜に敗れたため巨人の優勝が決定した。 2008年10月9日付河北新報は、上記2008年の試合について、「巨人にとって10月8日は(中略)記念日だ。『10.8』を選手として戦った原監督は、その日にマジックナンバー『2』を点灯させた」と報じた。さらに、その記事を東北楽天ゴールデンイーグルスに関するコラムと隣り合わせにし、そこでは、「”前身”の近鉄の最終戦の話をしたい。(中略)1988年の『10.19の悲劇』」とし、10.19と並ぶ記事配列とした。 ===2012年のクライマックスシリーズ=== 2012年10月22日に行われた、クライマックスシリーズ・セ ファイナルステージ第6戦(東京ドーム)は、巨人と中日が最終戦で日本シリーズ出場を賭けて対戦したこと、10.8決戦に選手として出場した原が監督を務める巨人と、10.8決戦当時の監督で、2012年シーズンから再び指揮を執る高木が監督を務める中日の対決であったことなどの状況から、試合前・試合後のスポーツ紙や翌日の一般紙などで10.8決戦を絡めた報道が複数見られた。 試合は、2回裏に3点先制した巨人が、5回無失点で抑えた先発投手D.J.ホールトンからの中継ぎに、第4戦での先発以来中1日での登板となった澤村拓一を投入するという10.8決戦での斎藤と共通点のある継投策を見せ、4対2で巨人が勝利。巨人が日本シリーズ進出を決め、高木はまたも決戦で「敗軍の将」となった。 ===「最高の試合」第1位=== 2010年8月9日、日本野球機構が12球団の選手・監督・コーチら計858人からプロ野球の歴史を彩った「最高の試合」と「名勝負・名場面」についてアンケートを募集したところ「最高の試合」部門で第1位に選ばれた。 =ヘリコバクター・ピロリ= ヘリコバクター・ピロリ (Helicobacter pylori) とは、ヒトなどの胃に生息するらせん型のグラム陰性微好気性細菌である。単にピロリ菌(ピロリきん)と呼ばれることもある。ヘリコバクテル・ピロリと表記されることもある。1983年にオーストラリアのロビン・ウォレンとバリー・マーシャルにより発見された。 ヘリコバクター・ピロリの感染は、慢性胃炎、胃潰瘍や十二指腸潰瘍のみならず、胃癌や MALTリンパ腫やびまん性大細胞型B細胞性リンパ腫などの発生に繋がることが報告されているほか、特発性血小板減少性紫斑病、小児の鉄欠乏性貧血、慢性蕁麻疹などの胃外性疾患の原因となることが明らかとなっている。細菌の中でヒト悪性腫瘍の原因となり得ることが明らかになっている病原体のひとつである。ピロリ菌検査で陰性でも胃炎など胃疾患が続く場合は、ヘリコバクター・ハイルマニイの感染が疑われることがある。 世界人口の50%以上は、消化器にピロリ菌が感染している。とりわけ先進国よりも開発途上国のほうが感染率が高い。 胃の内部は胃液に含まれる塩酸によって強酸性であるため、従来は細菌が生息できない環境だと考えられていた。しかし、ヘリコバクター・ピロリはウレアーゼと呼ばれる酵素を産生しており、この酵素で胃粘液中の尿素をアンモニアと二酸化炭素に分解し、生じたアンモニアで、局所的に胃酸を中和することによって胃へ定着(感染)している。この菌の発見により動物の胃に適応して生息する細菌が存在することが明らかにされた。 ==細菌学的特徴== ===形態・培養=== グラム陰性で、直径約0.5μm、長さ2.5‐5μm。2‐3回ねじれたらせん菌の形状を持ち、顕微鏡下ではS字状、あるいはカモメ状と呼ばれる曲がりくねった形態として観察される。長軸の両端(極)に、それぞれ4‐8本の鞭毛(極鞭毛とよばれる)を持ち、この鞭毛の回転運動によって、溶液内や粘液中を遊泳して移動することが可能である。微好気性で栄養要求性も厳しいため、分離や培養が難しい部類の細菌であり、酸素濃度5%、二酸化炭素濃度5‐10%の雰囲気で専用の培地を用いることで培養可能となる。 ヘリコバクター・ピロリは自然環境においては動物の胃内だけで増殖可能であり、それ以外の場所では、生きたらせん菌の形では長時間生残することはできない。しかし、患者の胃生検組織あるいは糞便中からcoccoid form 呼ばれる球菌様の形態に変化したものが分離されることがある。Coccoid formは一種の VNC状態だと考えられており、この形態では増殖はできないものの、一部のcoccoid formが再びヒトの体内に入って蘇生する可能性が示唆されているため、この性状も本菌の感染に関与しているのではないかという説も提唱されている。 ===胃内への定着=== ヘリコバクター・ピロリはヒトおよびサル、ネコ、ブタ、イヌの胃内に感染することが明らかになっている。また、さまざまな動物の胃にもそれぞれ、他のヘリコバクター属細菌が定着している。ヘリコバクター・ピロリは、中性と酸性領域の2つの至適pHを持つウレアーゼを産生し、この酵素が本菌の胃内への定着と病原性に大きく関与している(下記に詳述)。ヘリコバクター属は2007年の時点で30種に分類されているが、ピロリに類似したウレアーゼを持つH. mustelaeやH. felisなどは動物の胃内に定着可能であり、一方、ウレアーゼを持たないものや酸性条件下では働かないウレアーゼを産生するものは、胃内には定着せずに腸内に寄生している。 ==疫学== ===感染率=== 従前は世界中ほとんど全ての人が保菌していたが、先進工業国では衛生管理の徹底によって、この菌を持たない人が増えてきている。2005年現在、世界人口の40‐50%程度がヘリコバクター・ピロリの保菌者だと考えられている。日本は1992年の時点で20歳代の感染率は25%程度と低率であるが、40歳以上では7割を超えており発展途上国並に高い。日本のこの極端な二相性には、戦後急速に進んだ生活環境の改善が背景にあるものと考えられている。ABO式血液型と潰瘍発症率には差があり 消化管潰瘍O型はA型B型よりも1.5倍から2倍高いと報告されているが、これはヘリコバクター・ピロリが粘膜に取り付く際に作用するレセプターが血液型O抗原であるためと説明されている。 ===感染経路=== 本菌の感染経路は不明であるが、胃内に定着することから経口感染すると考えられており、口‐口および糞‐口感染が想定されている。保菌している親との小児期の濃密な接触(離乳食の口移しなど)、あるいは糞便に汚染された水・食品を介した感染経路が有力視されている。飼いネコやハエによる媒介感染、上部消化管内視鏡を通じた医原性感染の可能性も考えられるが、どの程度強く関与しているかの統一見解は得られていない。 ==病原因子== ヘリコバクター・ピロリには多くの病原因子が存在する。特にウレアーゼは本菌の胃内定着に必須であるとともに、走化性や粘膜傷害にも大きく関与する。これ以外にも、本菌に特異的な外毒素(菌体外に分泌される毒素)である細胞空胞化毒素 (VacA; Vacuolating toxin A) や、ムチナーゼやプロテアーゼなどの分泌酵素群が、粘膜および胃上皮細胞の傷害に直接関与すると考えられている。またグラム陰性菌の最外殻に存在するリポ多糖などによって起きる、好中球などの遊走によっても炎症が引き起こされる。また本菌は線毛に類似したIV型分泌装置と呼ばれる構造を有しており、これによって宿主細胞に直接注入されるエフェクター分子(CagAなど)は宿主細胞のIL‐8産生を誘導して炎症反応を惹起するほか、アクチン再構築や細胞増殖の亢進、アポトーシスの阻害など多様な反応を引き起こし、これが癌の発生に繋がるとも考えられている。このほか、鞭毛は本菌が感染部位となる胃粘膜に遊泳して到達するために、また外膜タンパク質の一種は本菌が上皮細胞に接着するために必要であることが知られている。 これらの病原因子はすべて本菌による感染や胃粘膜傷害に関与するが、このうち本菌に特異的なVacAやCagAについて研究が進んでいる。その結果、同じヘリコバクター・ピロリでも、VacAやCagAを持つ菌株と持たない菌株が存在することが明らかになった。これらを持つ菌株は毒性が強く、これらの強毒株こそが慢性胃炎や消化器潰瘍、胃がんの本当の病原体で、弱毒株の方はあまり害のない一種の常在菌なのでないか、という仮説も提唱されている。 ===ウレアーゼ=== ヘリコバクター・ピロリの持つウレアーゼは細胞の表層部に局在しており、中性および酸性領域の2種類の至適pHを持つため、胃内部の酸性条件下でも尿素からのアンモニア産生が可能である。ウレアーゼによって作られたアンモニアは局所的に胃液を中和するため、その部分にヘリコバクター・ピロリが定着可能となって感染が成立する。アンモニアはまた、ヘリコバクター・ピロリに対して走化性因子としても作用し、胃内にいる他のヘリコバクター・ピロリが鞭毛により遊泳して感染部位に集合しやすくなる。さらに細菌感染に対して動員された白血球が産生する過酸化水素と、その過酸化水素からさらに生成する活性酸素や次亜塩素酸がアンモニアと反応すると、モノクロラミンなどの組織障害性が強いフリーラジカルが生成されて、胃粘膜傷害がさらに進行する。 ===CagA=== ヘリコバクター・ピロリのゲノム中には、「cag pathogenicity island (cag PAI)」と呼ばれる領域があり、IV型分泌装置関連遺伝子など30種余りの遺伝子がこの領域に含まれている。英語: Cytoxin‐associatedgene Aantigen (CagA)はこの領域に含まれる遺伝子の一つ、cagA遺伝子 (cytotoxin‐associated gene A) から産生されるタンパク質である。cagA遺伝子を持つピロリ菌株に感染した場合、持たない菌株の感染よりも消化性潰瘍や胃癌になるリスクが高い。東アジア型の菌株の大半がcagA遺伝子を持つ一方で、西洋型菌のCagA保有率は50%程度であり、胃癌発生率の地域差と相関している。 胃の粘膜に取り付いたヘリコバクター・ピロリは、IV型分泌装置を通してCagA蛋白を細胞内に注入する。注入されたCagAは宿主細胞内でリン酸化を受け、これまでに少なくとも細胞分裂と細胞接着に影響を及ぼすことが分かっている。 ==病原性== ヘリコバクター・ピロリは、ヒトの萎縮性胃炎、胃潰瘍、十二指腸潰瘍などの炎症性の疾患、胃癌やMALTリンパ腫(粘膜関連リンパ組織に生じるBリンパ腫。MALT:Mucosa‐Associated‐Lymphoid‐Tissue)、びまん性大細胞型B細胞性リンパ腫などのがんの発症と密接に関連した病原細菌である。国際がん研究機関が発表している IARC発がん性リスク一覧では、グループI(発がん性がある)に分類されている。ただし疾患が現れるのは、保菌者の約3割程度であり、残りの7割の人は持続感染しながらも症状が現れない健康保菌者(無症候キャリア)だと言われている。 また反対に、人体におけるヘリコバクター・ピロリの存在メリットについての研究もなされており、小児ぜんそく、アレルギー性鼻炎、皮膚アレルギーなどの疾患リスクがヘリコバクター・ピロリの感染者の方が低いと言う報告もある。 ===胃、十二指腸=== ヘリコバクター・ピロリが、宿主であるヒトの胃に感染した場合、それが初感染のときには急性の胃炎や下痢を起こす。ほとんどの場合はそのまま菌が排除されることなく胃内に定着し、宿主の終生にわたって持続感染を起こす。持続感染したヒトでは萎縮性胃炎・胃潰瘍・十二指腸潰瘍のリスクが上昇する。 胃の表面では粘膜上皮細胞を1 mm程度の厚さで粘液層が覆っており、これが胃液に含まれる胃酸や、ペプシンなどのタンパク質分解酵素から上皮細胞を守る役割を担っている。胃内に侵入したヘリコバクター・ピロリは、鞭毛を使ってこの粘液層内部に泳いで移動し、菌体の表層にあるリポ多糖や外膜タンパク質などの分子の働きによって上皮細胞の表面に付着する。この粘液層の内部もまた酸性度の高い環境であるため、通常の細菌はそこに定着することはできないが、ヘリコバクター・ピロリの持つウレアーゼは粘液中の尿素を二酸化炭素とアンモニアに分解し、生じたアンモニアが粘液中の胃酸を中和することで酸による殺菌を免れる。殺菌を逃れた菌は粘液層で増殖する。また尿素から生じたアンモニアなどは尿素やヘミンなどの生体分子とともに、走化性因子として周囲の菌を呼び寄せ、粘液下層にヘリコバクター・ピロリの感染巣が形成される。この感染巣の部分で、ヘリコバクター・ピロリが作るさまざまな分解酵素の働きによって粘液層が破壊され、粘膜による保護を失った上皮細胞が傷害されて炎症が起きる。また菌が分泌する VacA などの毒素や IV型分泌装置で上皮細胞に注入するCagAなどのエフェクター分子による上皮細胞の直接的な傷害や、細菌の感染に対して動員された好中球などの白血球による組織傷害なども加わって、炎症を増悪させる。 またこれらの炎症性疾患が慢性化すると、胃癌や、MALTリンパ腫、びまん性大細胞型B細胞性リンパ腫が発生するリスクも上昇する。炎症に続いて起こる組織修復が繰り返されることによって、細胞がん化のリスクが上昇することが、癌の発生原因の一つであると考えられている。また、ヘリコバクター・ピロリが産生するCagAなどの病原因子が、宿主細胞増殖を促進したり、アポトーシスを抑制することで、宿主細胞のがん化に関与している可能性も指摘されている。 ヘリコバクター・ピロリ菌の陽性者では、陰性者と比較して胃癌の発生のリスクは5倍となる。さらに、胃の萎縮の程度が進むと胃癌リスクも上昇し、ヘリコバクター・ピロリ菌感染陽性でかつ、萎縮性胃炎ありのグループでは、陰性で萎縮なしのグループと比較して胃癌の発生リスクは10倍となっている。 ヘリコバクター・ピロリ感染症とビタミンB12欠乏症の直接的な関連があり,除菌により血清ビタミンB12値が正常化することが知られている。 ===食道=== 胃炎治療のために除菌治療を行った人の一部で逆流性食道炎の発生や、それに伴う食道がんのリスクが増加する可能性が報告されている。しかし、多施設二重盲検無作為コントロール試験による最近の調査ではリスク増加が否定されるなど、この現象についてはまだ一致した見解が得られていない。 胃内にヘリコバクター・ピロリを持たない人や除菌治療を行った人では、胃酸の分泌が過剰となって胃内の酸性度が増し、逆流した胃液が食道組織を傷害して、一過性の逆流性食道炎やバレット食道を生じることがある。バレット食道は食道腺癌の前段階の病変として現れることも知られている。ただし、この逆流性食道炎は一過性のもので、生涯にわたって増悪するかどうかについては否定的な専門家が多い。また除菌時にみられるバレット食道の多くは病変が短いタイプのもの (SSBE; Short Segment Barrett Esophagus) であり、このタイプの発生と食道腺癌発生のリスクについても統一した見解は得られていない。 食道に対する知見から、ヘリコバクター・ピロリの持続感染は、胃がんとは逆に、食道がんのリスクを低下させているのではないかという考えも提唱された。本菌はもともと宿主と共生関係にある常在細菌の一種であり、胃酸分泌のコントロールによって食道の疾患予防に貢献していると考えている研究者も存在する。人間の胃内のpH調整機構そのものが、本来常在細菌であったヘリコバクター・ピロリによる胃酸中和の存在を前提とした形で進化を遂げているのだと主張している。 ==検査== ヘリコバクター・ピロリ感染の有無の診断には下記の検査法のいずれかを用いる(複数であればさらに精度が高くなる)。他の一般的な細菌感染症の場合と同様な、 病原体そのものの存在を検出する。その病原体の感染によって患者の血液中に産生された抗体の量を測定する。本菌に独特な検査方法として、本菌が有するウレアーゼの酵素活性を測定する。が利用されている。日本ヘリコバクター学会のガイドラインでも、これらの診断法が採用されている。 ===一般検査=== ====尿素呼気テスト (urea breath test, UBT)==== C‐尿素を含んだ検査薬を内服し、服用前後で呼気に含まれる C‐二酸化炭素の量を比較する。本菌に感染していると、そのウレアーゼによって胃内で尿素がアンモニアと二酸化炭素に分解されて、呼気中の二酸化炭素における Cの含有量が、非感染時より大きく増加するため、間接的な診断ができる。検査薬服用の20分後の C‐二酸化炭素の上昇が2.4パーミル以上の場合に、本菌による感染があるものとするなどの基準値が設けられている。通常、除菌治療の効果判定の目的に施行されている場合が多い。 ===血中・尿中抗H. pylori IgG抗体検査=== ヘリコバクター・ピロリが感染すると、本菌に対する抗体が患者の血液中に産生される。血液や尿を用いてこの抗体の量を測定し、ヘリコバクター・ピロリ抗体(血清Hp抗体)が高値であれば本菌に感染していることが認められ、ヘリコバクター・ピロリ感染の有無を検索するスクリーニング検査として現在最も一般的な方法。尿を検体とする場合は判定が迅速で20分程度で判定が可能である。しかし、除菌後の抗体価低下には時間が掛かるため除菌後すぐでは偽陽性が出やすい。閾値である10U/mLに近い陰性例(抗体価が3U/mL≦かつ<10U/mL)には、2割弱の偽陰性感染者が含まれることが明らかになってきており、日本ヘリコバクター学会が注意喚起を行っている。 ===便中H. pylori抗原検査=== 診断や研究用途に作られたヘリコバクター・ピロリに対する抗体を用いた抗原抗体反応による検査。この抗体が、生きた菌だけでなく死菌なども抗原(H. pylori抗原)として認識し、特異的に反応することを利用し、糞便中H. pylori抗原の有無を判定する。非侵襲的に本菌の存在を判定できるという長所がある。 ===内視鏡生検検査=== ====迅速ウレアーゼ試験 (rapid urease test, RUT)==== 尿素とpH指示薬が混入された検査試薬内に、内視鏡的に採取した胃粘膜生検組織を入れる。胃生検組織中にヘリコバクター・ピロリが存在する場合には、本菌が有するウレアーゼにより尿素が分解されてアンモニアが生じる。これに伴う検査薬のpHの上昇の有無を、pH指示薬の色調変化で確認する。この検査によって本菌の存在が間接的に診断できる。 ===組織鏡検法=== 組織切片をHE(ヘマトキシリン‐エオジン)染色あるいはギムザ染色により染色し、顕微鏡で観察する。直接観察することによりヘリコバクター・ピロリの存在を診断できる。また、培養不能でウレアーゼ活性ももたないcoccoid form(球状菌)の状態でも診断できるという長所がある。 ===培養法=== 胃生検切片からの菌の分離培養によって、ヘリコバクター・ピロリの存在を確認する。この検査法の長所は菌株を純培養し入手できる点であり、この菌株を薬剤感受性 (MIC) 測定や遺伝子診断など他の検査に利用することができる。欠点は、本菌は増殖速度が遅いために培養には3日から7日を要するため、この検査法をとると時間が掛かる点である。 ===リスク診断=== ABC 分類とは血清Hp抗体と血清ペプシノゲン法の併用によるリスク評価法で、2種類の検査結果を組合せにより4種類の分類が行われることから、ABCD分類あるいは ABC分類と呼ばれる。なお、検診ではないので ABC検診とは呼ばない。 注記: C と D を同一に扱い C とすれば ABC 分類となる。 A < B < C < D (高リスク) ==治療== 日本において、1995年に日本消化器病学会治験検討委員会より除菌ガイドラインが発表され、2000年に日本ヘリコバクター学会より「ヘリコバクター・ピロリ感染の診断と治療のガイドライン」が発表された。 日本におけるヘリコバクター・ピロリの除菌療法の保険適用は、2000年11月に「胃潰瘍」と「十二指腸潰瘍」が対象となり、「2010年6月に胃MALTリンパ腫」、「特発性血小板減少性紫斑病」、「早期胃癌ESD」に拡大された。2011年2月11日に参議院に提出された「胃がんと ヘリコバクターピロリとの関連を踏まえたがん対策に関する質問主意書」に対して、政府は同2月18日の答弁書において国際がん研究機関(IARC:INTERNATIONAL AGENCY FOR RESEARCH ON CANCER)の見解を受け入れる形で胃がんの原因をピロリ菌と認め、その後、慢性胃炎の段階まで適応拡大の機運が高まる。2013年1月に厚生労働省の専門部会により、除菌によって胃炎が改善するとの研究結果が確認されたことを受け、翌月2013年2月には、胃潰瘍の前段階である「慢性胃炎」すなわち「ヘリコバクター・ピロリ感染胃炎」に適応を拡大した上で保険適用とされた。しかし、除菌療法が成功しても胃がんを発症する事例もある。 ===除菌療法の変遷=== ヘリコバクター・ピロリの除菌は、発見と同時に始まっており、分離培養に初めて成功したマーシャルは、ただちに除菌治療に有効な薬剤の検討を開始している。初期にはビスマス製剤による除菌が試みられたが、単剤では効果が低かったため、アモキシシリンやチニダゾールといった抗生物質を組み合わせた2剤併用、さらにはメトロニダゾールを加えた抗生物質3剤による方法が開発された。この方法は古典的3剤併用療法と呼ばれ、改良を加えながら高い除菌率を得ることに成功したが、一方で副作用の問題が残された。 初期のビスマス製剤を軸にした除菌療法は、抗生物質の種類を増やし、効果の上昇を狙ったものだった。抗生物質の活性は一般的にpH中性環境で最も高いため、プロトンポンプ阻害薬 (PPI) などの酸分泌抑制薬を併用し、胃内環境を中性に近づける試みが行われた。この方法は一過性の胃酸過多による副作用を抑えられるという利点もあり、その後クラリスロマイシンの併用を加え、90%超という除菌率を達成した。これが新3剤併用療法であり、1週間という短期間の服用で高い効果を得られることから、現在の除菌療法のスタンダードとなっている。 ===日本における除菌療法の実態=== 現在、日本で認可されている保険診療の対象となっている除菌療法は、カリウムイオン競合型アシッドブロッカー(P‐CAB)またはプロトンポンプ阻害薬 (PPI) と抗生物質2剤(アモキシシリン (AMPC) + クラリスロマイシン (CAM))を組み合わせた「(P‐CAB or PPI) + AMPC + CAM」の3剤併用療法で、3剤を7日間服用する。当初はプロトンポンプ阻害薬としてランソプラゾールのみが指定されていたが、オメプラゾールとラベプラゾール、ボノプラザンも順次保険診療の対象となった。この方法による除菌の成功率は80%程度とされてきたが、近年クラリスロマイシン耐性菌株が増え、除菌率が70%程度まで低下してきているとの報告もある。ボノプラザン併用療法では、胃内pHをより高く維持できるため、一次除菌 92.6%, 二次除菌 98.0%と既存PPIに比べ高率に除菌できた。クラリスロマイシン耐性菌株に対しては、ヨーグルトを併用し除菌の成功率が向上したとの報告がある。クラリスロマイシンは呼吸器感染症の治療に用いられることから、小児の耐性菌保有も見られる。 前述の一次除菌療法にて除菌が失敗した場合、クラリスロマイシンをメトロニダゾール (MNZ) に変更し「(P‐CAB or PPI) + AMPC + MNZ」の3剤併用療法による二次除菌療法まで保険適応となっている。 一次除菌と二次除菌の間の期間については、一次除菌と二次除菌の期間の違いによる除菌成功率の違いは報告されていないため、早く二次除菌を行おうとして一次除菌の結果判定を急ぐと、偽陰性や偽陽性が多くなり、不成功者を成功者と、成功者を不成功者などと判断してしまう恐れがある。除菌終了から1年以上たった検査で陰性であったものが数年後に陽性になった場合は再感染を考えるが、再感染は稀であるため、基本的に除菌不成功者として二次除菌を行う。 また、二次除菌療法でも除菌が失敗した場合、三次除菌療法がいくつか提唱されており、「(P‐CAB or PPI) + AMPC + MNZ」の倍量投与・倍期間投与等や、またシタフロキサシン (STFX)、レボフロキサシン (LVFX) 等を組み合わせた「(P‐CAB or PPI) + AMPC + STFX」「(P‐CAB or PPI) + AMPC + LVFX」の3剤併用療法等が行われたりするが、これらは保険診療の適応にはならない。 小児に対する治療は、除菌後の再感染のリスクを考慮して除菌対象年齢を5歳以上としている。しかし、蛋白漏出性胃症や消化性潰瘍を反復するなど除菌治療が必要と判断された場合では5歳未満でも除菌治療が行われている。ただし、除菌治療に関する添付文書では「小児等への投与:小児等に対する安全性は確立されていない(使用経験が少ない)」となっており、治療が必要な場合には保護者に充分な説明を行い同意を得る必要がある。原則として年齢上限は定められていない。 ===除菌療法の禁忌と副作用=== ペニシリン抗生物質に対する過敏症や薬物相互作用に留意する必要がある。クラリスロマイシンに対しては片頭痛薬のエルゴタミン含有製剤、痛風薬のコルヒチンなどは併用禁忌である。二次除菌療法に用いるメトロニダゾールは、アルコールとの相互作用によって腹痛や嘔吐を起こす。 除菌療法により生じる主な副作用(有害事象)は、 下痢、軟便希に、味覚障害や薬疹 ===参考画像=== ==研究事例== ===N‐アセチルL‐システイン=== 臨床試験にてアミノ酸であるN‐アセチルL‐システイン(別称:アセチルシステイン、またはNAC)の摂取により、ピロリ菌が不活性化されることが判明した。結果的に胃がんにも効果的という事が証明された。サプリメントとして使用されているため長年脚光を浴びなかったが、NACは基本的なアミノ酸であり、不足時に摂取すると、全臓器、人体機能、免疫システムの全体的な向上が確認されている。NACの摂取によって、近年の臨床試験により、症状が大幅に改善または完治する病気は非常に多岐に渡ることが判明してきたため、現在も様々な臨床試験が行われている。現在行われている試験についても、シンプルかつ明快、基本的な作用メカニズムから、非常に良い結果が期待されている。また、過大な処方をしない限り、重度の副作用はほぼないのも特徴である。マウスのテストでは、人体換算で20000mg/日を投与するとアレルギー症状を発生した例があるが、通常はその1/7程度が最大の処方量であり、問題はないと考えられる。通常量で発生する一番頻度の高い副作用は、空腹時に摂取した際に発生する多少の腹部の不快感である。 ===食品による菌の抑制=== 近年、食品によるピロリ菌の抑制効果が確認されている。発芽3日目のブロッコリーの新芽(スプラウト)を2か月間継続して食べた感染者において、胃の中に住むピロリ菌が減少したとの報告がされている。メカニズムはブロッコリー内に含まれているNアセチルLシステインの結合物質によりNアセチルLシステインと同じくピロリ菌の不活性化を行うと考えられている。。ブロッコリーの新芽に含まれるスルフォラファンも有効成分の一つと考えられている。また、梅に含まれるシリンガレシノールというリグナンの一種もピロリ菌の増殖抑制や胃粘膜への感染防御に有効であることが発見された。 このほか、緑茶、緑茶カテキンやココア、コーヒー、わさび、ショウガ、ニンニク、キムチ、ヨーグルト、キャベツ、カリフラワー、ブロッコリーなどのアブラナ科の野菜に含まれるイソチオシアネート類などでも抑制が報告されている。さらに、ニュージーランド特産の蜂蜜であるマヌカハニーも、ピロリ菌駆除力を持つことが報告されている。 ただし、これら多くの食品による抑制効果は限られた調査対象や動物実験を基にしたものがほとんどである。また、特定の食品だけを過剰に摂取することは(たとえピロリ菌に対しては効果があったとしても)、全身の健康にとって良くないことは容易に想像できる。ヘリコバクター・ピロリ関連疾患の現実的かつ実践的な予防対策として、広範囲な疫学調査に基づき広く受け入れられているのは野菜と果物の摂取、および減塩である。 ==歴史== ===略年表=== 1874年 ‐ ドイツのG. B*127*ttcherとM. Letulleがヒトの胃内らせん菌を発見。1892年 ‐ イタリアのトリノ大学のジュリオ・ビツォツェロが、イヌの胃内にらせん菌を発見。1899年 ‐ ポーランドのヤギェウォ大学のヴァレリー・ジョヴォルスキーがヒトの胃内に生息する細菌を発見し「Vibrio rugula」と命名。1919年 ‐ 日本の北里研究所の小林六造(後に慶應義塾大学医学部教授)と葛西克哉が、胃酸の強いネコから採った菌をウサギに移植した結果、胃潰瘍が起きたと発表した。また、除菌・殺菌で症状が改善することも確かめた。1954年 ‐ アメリカの病理学者エディ・パルマーが、ヒトの胃の生検1100例の結果で胃内に細菌は認められなかったと報告。1983年 ‐ オーストラリアの西オーストラリア大学のロビン・ウォレンとバリー・マーシャルによる再発見と培養法の確立。1994年 ‐ 国際がん研究機関 (IARC) が胃がんの病原体であることを発表。1997年 ‐ 全塩基配列決定。2005年 ‐ ウォレンとマーシャルがノーベル生理学・医学賞を受賞。 ===「胃の中の細菌」を巡る論争=== 1874年、ドイツの研究者がヒトの胃に存在しているらせん状の細菌を発見し顕微鏡で観察したのがヘリコバクターの最初の報告であると言われているが、詳細な記録は残っていない。残っている最初の正式な記録は、1892年に、イタリアの研究者ジュリオ・ビツォツェロ (Giulio Bizzozero) がイヌの胃内の酸性環境で生息する細菌について著したものである。その後、1899年、ポーランドの研究者ヴァレリ・ヤヴォルスキ (Walery Jaworski) がヒトの胃からグラム陰性桿菌とともにらせん菌を見いだし、彼はこの菌をVibrio rugulaと名付け、胃疾患との関連について、ポーランド語で書かれた著書の中で提唱した。 その後20世紀に入って、1906年にはKrienitzらが胃癌患者の胃粘膜にらせん菌がいることを、1920年代にはLuckらが胃粘膜に(ヘリコバクター・ピロリに由来する)ウレアーゼの酵素活性があることを、1940年には、FreedbergとBarronが胃の切除標本の約3分の1にらせん菌が存在することを、相次いで報告し、「胃の中の細菌」の存在と胃疾患との関連に対する医学研究者らの関心が徐々に高まっていった。 しかし、この説に対して異を唱える研究者も多く存在した。19世紀当時、細菌学はロベルト・コッホらの活躍によって隆盛を極めていたが、当時行われていた培養法では、この「胃の中の細菌」を分離培養できず、生きた菌の存在を直接証明できなかったためである。また細菌学の黎明期にはコレラ菌やチフス菌など、多くの消化管感染症の原因菌が研究されたが、胃は胃酸による殺菌作用によって、これらの細菌感染に対する防御機構としての役割を果たすと考えられており、このこともしばしば反対派の論拠として挙げられた。胃で全ての菌が死滅するわけではないものの、そこは生命にとって劣悪な環境であり、細菌は生息できないと考えられていたのである。 そして1954年、アメリカの病理学者で消化器病学の大家であった、エディ・パルマー (Eddy D Palmer) が、1000を超える胃の生検標本について検討した結果、らせん菌が発見できなかったと報告し、Freedberg らの報告は誤りであると主張した。この報告によって、それまで報告されてきたらせん菌は、何らかの雑菌混入によるものだったのではないかという考えが主流になり、一部の医学研究者を除いて、「胃の中の細菌」に対する研究者の関心は薄れていった。 ===ヘリコバクター・ピロリの発見=== 1983年、オーストラリアのロビン・ウォレンとバリー・マーシャルがヒトの胃からの、らせん状の菌を培養することに成功した。この発見には、Skirrowらが1977年に確立したカンピロバクターの微好気培養技術が基盤となっている。カンピロバクターは感染性の下痢の原因となるらせん菌であり、微好気性(低濃度の酸素と、二酸化炭素を必要とする)かつ栄養要求性の厳しい細菌の一種であるため、特殊な培地と培養法が必要である。マーシャルらはその培養法を応用して、慢性活動性胃炎の患者の胃内、幽門付近かららせん菌を分離することに成功した。 この成功の影には一つの偶然があったと伝えられている。カンピロバクター培養法を導入したマーシャルらであったが、それでも目的の菌の培養には失敗が続いた。しかし1982年4月のイースターのとき、マーシャルの実験助手が休暇をとったため、マーシャルは通常は数日で終わらせる培養を、5日間そのまま放ったらかしで続けることにした。そして休暇が終わったとき、培地上に細菌のコロニーができていることに気づき、これが本菌の発見に繋がった。後に判明したことだが、ヘリコバクター・ピロリは増殖速度が遅く、培養には長時間を必要とする細菌であった。 光学顕微鏡で観察した形態の類似性と微好気性であることが共通していたため、この菌はカンピロバクターの1種と考えられ、Campylobacter pyloridis(campylo‐; 湾曲した、カーブした、bacter; 細菌、pylorus; 幽門)と命名された。ただし、この名称はラテン語の文法上誤りであったため、1987年にCampylobacter pyloriに改名された。その後、電子顕微鏡下での微小構造の違いや遺伝子の類似性から、1989年にカンピロバクターとは別のグループとして、新たにヘリコバクター属が設けられ、Helicobacter pylori(helico‐; らせん状の)に名称変更された。また、同様の方法でヒト以外にもフェレット、サル、ネコ、チーターなどの動物の胃からも同様の菌が分離されてヘリコバクター属に分類された。 ===病原性の証明=== 発見された当時、慢性胃炎や胃潰瘍はもっぱらストレスだけが原因であるという説が主流であったが、マーシャルらは本菌がこれらの疾患の病原体であるという仮説を提唱した。これらの疾患の慢性化と胃がんの発生が関連することが当時すでに知られていたため、この仮説は本菌ががんの発生に関与する可能性を示唆するものとしても注目されたが、当初は疑いの目を持って迎えられた。 そこでマーシャルは培養したヘリコバクター・ピロリを自ら飲むという、自飲実験を行った。その結果、マーシャルは急性胃炎を発症し、コッホの原則の一つを満たすことが証明された。ただしマーシャルの胃炎はこの後、治療を行うことなく自然に治癒したため、急性胃炎以外の胃疾患との関連については証明されなかった。一方、彼とは別に、ニュージーランドの医学研究者、アーサー・モリスもまた同様の自飲実験を行った。その結果、マーシャルと同様に急性胃炎を発症しただけでなく、モリスの場合は慢性胃炎への進行が認められた。これらの結果から、ヘリコバクター・ピロリが急性および慢性胃炎の原因になることが証明された。この後、疫学的な研究から、これらの疾患の慢性患者の多くから本菌が分離されることや、本菌の除菌治療が再発防止に有効であることも明らかになった。 胃癌との関連については、ヒト以外の動物を用いた数多くの実験にも関わらず証明ができないままであったが、疫学調査の結果から明らかになっていった。そして1994年には国際がん研究機関 (IARC) が発行している IARC発がん性リスク一覧に、グループ1(発がん性がある)の発がん物質として記載された。その後、日本から有用な成果が相次いで報告された。1996年に平山らは、ヘリコバクター・ピロリがスナネズミの胃に感染し、ヒトと同様の慢性胃炎、消化性潰瘍を形成することを発見した。1998年には、渡辺らが長期間飼育したピロリ菌感染スナネズミに胃がんが発生したことを報告し、コッホの原則に基づく最初の証明とされた。この年にはさらに立松らによって、発がん物質投与とピロリ菌感染を組み合わせた、より効率の高い動物胃癌モデルが確立されている。 2001年にはピロリ感染者では胃癌が発症するものの、非感染者では全く発症しなかったと日本から報告された。 一方、ヘリコバクター・ピロリの除菌が広く行われだした頃から、この治療を行った患者に食道炎や食道がんの発生が多いことが報告されており、本菌は胃に対して悪影響をおよぼす傍ら、食道に対してはむしろ疾患を防御している可能性が議論されている(後述)。 ===その後の展開=== 医学的な重要性から、ヘリコバクター・ピロリの研究は精力的に進められ、1997年にはゲノム解読が完了した。この結果から、胃内定着の機構や発がんのメカニズムについての研究がさらに進められている。 2005年には、ヘリコバクター・ピロリの発見の功績によって、ロビン・ウォレンとバリー・マーシャルに対してノーベル生理学・医学賞が授与された。 ==人類学への応用== ピロリ菌の系統から現生人類拡散史に迫る研究も存在する。以下にピロリ菌の亜系とその分布を示す。(段落下げが分布の系統) hpAfrica2 アフリカ型2 アフリカhpAfrica1‐hpSahul‐hpAsia2 アフリカ・サフル・アジア型 hpAfrica アフリカ型1 アフリカ hpSahul サフル型 hpSahul ニューギニア型 ニューギニア hpSahul オーストラリア型 オーストラリア hpAsia2‐hspEAsia 中央アジア・東アジア型 hpAsia2 中央アジア型 中央アジア hspAmerica‐hspEasia アメリカ・東アジア型 hspAmerica アメリカ型 hspAmerica 北アメリカ型 北アメリカ hspAmerica 南アメリカ型 南アメリカ hspEAsia‐hspMaori 東アジア・台湾型 hspEAsia 東アジア型 東アジア、日本列島、東南アジア hspMaori 台湾・太平洋型 hspMaori 台湾型 台湾 hspMaori 太平洋型 オセアニアhpAfrica アフリカ型1 アフリカhpSahul サフル型 hpSahul ニューギニア型 ニューギニア hpSahul オーストラリア型 オーストラリアhpSahul ニューギニア型 ニューギニアhpSahul オーストラリア型 オーストラリアhpAsia2‐hspEAsia 中央アジア・東アジア型 hpAsia2 中央アジア型 中央アジア hspAmerica‐hspEasia アメリカ・東アジア型 hspAmerica アメリカ型 hspAmerica 北アメリカ型 北アメリカ hspAmerica 南アメリカ型 南アメリカ hspEAsia‐hspMaori 東アジア・台湾型 hspEAsia 東アジア型 東アジア、日本列島、東南アジア hspMaori 台湾・太平洋型 hspMaori 台湾型 台湾 hspMaori 太平洋型 オセアニアhpAsia2 中央アジア型 中央アジアhspAmerica‐hspEasia アメリカ・東アジア型 hspAmerica アメリカ型 hspAmerica 北アメリカ型 北アメリカ hspAmerica 南アメリカ型 南アメリカ hspEAsia‐hspMaori 東アジア・台湾型 hspEAsia 東アジア型 東アジア、日本列島、東南アジア hspMaori 台湾・太平洋型 hspMaori 台湾型 台湾 hspMaori 太平洋型 オセアニアhspAmerica アメリカ型 hspAmerica 北アメリカ型 北アメリカ hspAmerica 南アメリカ型 南アメリカhspAmerica 北アメリカ型 北アメリカ hspAmerica 南アメリカ型 南アメリカhspEAsia‐hspMaori 東アジア・台湾型 hspEAsia 東アジア型 東アジア、日本列島、東南アジア hspMaori 台湾・太平洋型 hspMaori 台湾型 台湾 hspMaori 太平洋型 オセアニアhspEAsia 東アジア型 東アジア、日本列島、東南アジアhspMaori 台湾・太平洋型 hspMaori 台湾型 台湾 hspMaori 太平洋型 オセアニアhspMaori 台湾型 台湾hspMaori 太平洋型 オセアニアこの系統樹により、崎谷満は、東アジアのヒト集団がイラン付近からアルタイ山脈付近を経由した北ルートで到達したことが明確に示されたとしている。 =神戸外国人居留地= 神戸外国人居留地(こうべがいこくじんきょりゅうち)は、安政五カ国条約に基づき、1868年1月1日(慶応3年12月7日)から1899年(明治32年)7月16日までの間、兵庫津の約3.5 km東に位置する神戸村(後の兵庫県神戸市中央区)に設けられた外国人居留地である。神戸居留地ともいう。 ※本記事においては必要に応じて居留地周辺の一定の区域(雑居地・遊歩区域)や居留地返還後についても記述する。 東を(旧)生田川(後のフラワーロード)、西を鯉川(後の鯉川筋)、南を海、北を西国街道(後の花時計線)に囲まれた広さ約7万8,000坪(約258,000平方メートル)の区域が合理的な都市計画に基づいて開発され、「東洋における居留地としてもっともよく設計されている」と評された。一定の行政権・財政権などの治外法権が認められ、居留外国人を中心に組織された自治機構によって運営された。運営は円滑に行われ、日本側と外国側との関係もおおむね良好であったと評価されている。貿易の拠点、西洋文化の入り口として栄え、周辺地域に経済的・文化的影響を与えた。 ==歴史== ===兵庫開港=== 1858年7月29日(安政5年6月19日)、江戸幕府はアメリカとの間に日米修好通商条約を締結した。江戸幕府は同条約第6条において日本におけるアメリカの領事裁判権を認め、第3条において1863年1月1日(文久2年11月12日)に兵庫(兵庫津。かつての大輪田泊)を条約港として開港し、外国人の居住・経済活動のために貸与する一定の地域(外国人居留地)を設けることを約した。江戸幕府は間もなくオランダ・ロシア・イギリス・フランスとも同様の内容の条約(安政五カ国条約)を締結したが、これらの条約に関する勅許が得られず、諸外国と交渉を行った結果、兵庫開港の期日を5年遅らせ、1868年1月1日(慶応3年12月7日)とした。朝廷側は御所のある京都に近い兵庫を開港することに難色を示し、1865年12月22日(慶応元年11月5日)に安政五カ国条約についての勅許を与えた後も許そうとせず、延期された開港予定日を約半年後に控えた1867年6月26日(慶応3年5月24日)になってようやく勅許が与えられた。 江戸幕府は勅許を得る前から兵庫開港に向けた交渉を諸外国と行っており、1867年5月16日(慶応3年4月13日)にイギリス・アメリカ・フランスとの間に「兵庫港並大坂に於て外国人居留地を定むる取極」(兵庫大阪規定書)を締結した。同取極第1条には「日本政府において条約済の各国人兵庫に居留地を神戸町(神戸村)と生田川との間に取極め…」と規定され、兵庫津の約3.5km東に位置する神戸村に居留地が設けられることになった。そしてそれに伴い、神戸村の海岸に建設される新たな港が外国に開放されることになった(新たな港は1892年(明治25年)に勅令により神戸港と名付けられた)。 「兵庫開港」において、兵庫津ではなく後の神戸港が開放されることになった理由・経緯を示す資料は存在しないが、複数の推測がなされている。楠本利夫『増補 国際都市神戸の系譜』は、江戸幕府側が外国人を敬遠する住民感情を考慮し、衝突が起こらないようにとの配慮から、すでに港として栄え(兵庫津は当時大坂の外港として機能し、取引の盛んな港であった)往来の激しい兵庫津の開放を避けたと推測している。また、『新修神戸市史 歴史編3』および『増補 国際都市神戸の系譜』は、人口の多い兵庫津周辺よりも神戸村のほうが用地の確保が容易であり、1865年(元治2年)に閉鎖された神戸海軍操練所の施設を活用できたためと推測している。さらに『増補 国際都市神戸の系譜』は、1865年11月(慶応元年9月/10月)に兵庫津付近の海域を測量したイギリス公使ハリー・パークスの随行員が「兵庫の旧市内からやや離れたところにある」居留地の予定地について「十分な水深もあり、天然の優れた投錨地となっている小さな湾に面している」と評価した記録を残していることを取り上げ、「兵庫の旧市内からやや離れたところにある予定地」とは神戸村を指しており、外国側も兵庫津より神戸村のほうが開港場に適しているという認識を持っていたと推測している。なお、神戸港の港域は1892年(明治25年)に拡大され、兵庫津を含むようになった。 居留地の具体的な設置場所は神戸村内の、東は(旧)生田川(後のフラワーロード)、西は鯉川(後の鯉川筋)、南は海と、三方を川と海で囲まれた(北は西国街道(後の花時計線)に接していた)、広さ約7万8,000坪(約258,000平方メートル)の土地に決まった。『新修神戸市史』はこの選定について、「外国人と日本人との接触を極力回避しようとした幕府の配慮がうかがえる」としている。 ===居留地の造成と運営=== 江戸幕府は柴田剛中を兵庫奉行に任命して居留地と港の造成に当たらせた。柴田は神戸村に着任すると直ちに造成の指揮を執ったが、開港日である1868年1月1日(慶応3年12月7日)までに完成したのは運上所(税関)の施設と3か所の埠頭、3棟の倉庫のみであった。この時期は江戸幕府から明治政府への政権移行期に当たり、1867年11月9日(慶応3年10月14日)には大政奉還が行われた。 当初、兵庫開港に関する事務は引き続き江戸幕府が担当することとされたが、開港から2日後の1月3日(慶応3年12月9日)に王政復古の大号令が発令され、同月27日(慶応4年1月3日)に起こった鳥羽・伏見の戦いで江戸幕府軍が敗れ徳川慶喜が大阪城から江戸へ退却すると柴田剛中も江戸へ引き上げ、工事は中断を余儀なくされた。残る工事は明治政府の下で行われ、道路や溝渠の工事が終わり南北8本・東西5本の街路からなる碁盤の目状の区画が完成したのは1872年(明治4年/5年)頃のことである。 外国人による土地所有を認めない方針を採る明治政府は、居留地内の土地を永代借地(無期限の借地。事実上の所有)として外国人に貸与することとし、被貸与者は競売によって決定された。永代借地権は居留地返還後も、1942年(昭和17年)まで存続した(後述)。競売代金の約半分は政府側が収納し、残りは自治行政を行うための最高議決機関として政府が認めた居留地会議の運営費として積み立てられた。居留地住民による自治行政は居留地が廃止されるまで続いた。約30年にわたり居留地は円滑に運営され、日本側と外国側との関係も概ね良好であったと評価されている。ただし日本人は居留地内での居住が禁止され、立ち入りも制限された。 なお居留地造成の遅れを受け、明治政府は区域を東は(旧)生田川、西は宇治川、南は居留地南の海岸、北は山辺(山麓)と限定した上で、外国人が居留地外に居住することを認めた。この区域を雑居地といい、居留地返還まで存続した(詳細については後述)。 ===居留地および周辺の発展=== 開港後居留地は合理的な都市計画の下で整備され、前述のように1872年(明治4年/5年)頃には道路や溝渠の工事が完了し、土地の競売も1873年(明治6年)2月7日までに終わった。居留地の都市計画は、「神戸は東洋における居留地としてもっともよく設計されている」と評された(1871年4月17日付の英字新聞「The Far East」)。一方、周辺地域は必ずしも計画的に開発されたわけではなかった。居留地の東北には外国人が経営する工場が、西には会社や銀行が開設され、北西には清国人街が形成されるといった具合にある程度傾向を帯びながらも、居留地の発展とともに周辺地域の人口が増加し、雑然と市街地が形成されていった。市街地の規模は、1890年代初めには兵庫津周辺と一続きとなるまでに拡大し、居留地が置かれた神戸村の人口は開港当時約3600人であったが、周辺の村との合併を経て1889年(明治22年)に神戸市が誕生した際には約13万4700人にまで増加した。なお居留外国人数は1871年(明治3年/4年)の時点で400人余り(イギリス・ドイツ・フランス・オランダ・清の5か国)であったが、1890年には2,000人を超えている(#居留外国人数を参照)。 開港当初は設備が貧弱で、自然海岸に近かった兵庫(神戸)港の整備も進められた。1868年4月から7月(明治元年4月から5月)にかけて(旧)生田川・宇治川間の海岸に改めて4つの埠頭が建設され、さらに明治4年(1871年/1872年)に防波護岸・埠頭拡張の工事が行われた。また、1871年4月29日(明治4年3月10日)から同年7月26日(明治4年6月9日)にかけて行われた(旧)生田川の付け替え工事(後述)は、居留地周辺の水害を防ぐだけでなく、港の中心部への土砂の流入を防ぐ効果ももたらした。後に「天然の良港」と呼ばれる神戸港の基盤はこうして整えられていった。なお、神戸港が日本有数の国際貿易港として飛躍するきっかけになったと評価されている大規模な修築事業(第一期修築工事)は、居留地返還後の1907年(明治39年)に決定し、翌1908年(明治40年)に起工した。 ===返還=== 明治政府は、江戸幕府が締結した安政五カ国条約の改正を目指す中で欧化主義政策を採った。その一環として東京の鹿鳴館では舞踏会が盛んに催されたが、神戸でも盛んに開催された。そんな中、1887年(明治20年)には「神戸未曾有の大夜会」と称し、大阪府と兵庫県の知事主催による舞踏会が神戸レガッタアンドアスレチッククラブ(KRAC。後述)の体育館で催された。 1894年(明治27年)、明治政府はイギリスとの間に日英通商航海条約を締結し、領事裁判権の撤廃と外国人居留地の返還を実現した。政府はその後同じ内容の条約をアメリカ、フランスなど14ヵ国と締結した。これら一連の条約は1899年(明治32年)7月17日に発効し、同日をもって神戸外国人居留地は日本側に返還された。これにより居留地は神戸市へ編入され、外国人に認められていた行政権と財政権は解消し、日本人が自由に立ち入り、居住することが可能となった。居留地内にあった警察隊(居留地会議によって組織)は廃止され、消防隊(居留地住民が自主的に組織)は消防組として神戸市へ移管された。返還に際して日本側は、行事局(後述)局長を兵庫県および神戸市の嘱託職員とし、行事局のあった場所に市の派出所を置く、治外法権撤廃に伴う紛争防止のために外国人が相談委員会(後に神戸国際委員会と改称)を設置することを認めるなど、外国人に対し一定の配慮をした。 ===永代借地権を巡る紛争=== 前述のように、外国人による土地所有を認めない方針をとる明治政府は、居留地内の土地を永代借地(無期限の借地。事実上の所有)として外国人に貸与した。永代借地権は居留地返還後も存続したが、返還後日本側は永代借地の上に建つ家屋に課税する方針を打ち出した。これに対し外国側はすでに地税が徴収されているにもかかわらずさらに家屋への課税を行うことは二重課税にあたり不当であると反発し、1902年(明治35年)に日本政府が常設仲裁裁判所に提訴する事態に発展した。この提訴は1905年(明治38年)に日本側の申し立てが棄却される結果に終わり、日本側は永代借地上の家屋には一切の課税ができないことになった。 税の徴収が不可能となった神戸市は1933年(昭和8年)より永代借地権撤廃に向けて行動を開始し、1936年(昭和11年)9月に同様の問題を抱えていた横浜市、長崎市とともに協議会を発足させると、両市と協力して外国側との折衝を行った。その結果1937年(昭和12年)3月に、1942年(昭和17年)4月1日をもって永代借地権を消滅させ土地所有権に切り替え、その代わり切り替え後5年間は地税を免除することで合意が成立した。 条約上の居留地返還は1899年(明治32年)7月17日であるが、居留地の完全な消滅、居留地の歴史の終焉は永代借地権が解消された1942年(昭和17年)4月1日であるとされる。 ===返還後=== 返還された居留地(旧居留地)には大正から昭和初期にかけて日本の商社や銀行が多く進出し、ビジネス街として発展した。一方、外国商館は第一次世界大戦を境に衰退を見せた。とりわけ大戦において日本と敵対したドイツ人所有の不動産は強制的に日本人に売却され、旧居留地においてもドイツ系商社が日系商社にとって代わられた。1931年(昭和6年)の時点で、外国人が永代借地する旧居留地内の区画は126区画中47区画にまで減少した。 第二次世界大戦期の1945年6月に神戸大空襲によって7割の区画が破壊されると、終戦後も復興はなかなか進まず、加えて昭和30年代に東京への本社機能移転や神戸市における都心の東進化が生じたことで、旧居留地の経済的な位置付けは低下した。しかし昭和50年代に入り旧居留地内に残された近代洋風建築物や歴史的景観が再評価されるようになると、そうした要素を活用した店舗が新たに開設され、旧居留地はビジネス街とショッピング街の機能を併せ持つ区域として活況を呈するようになった。 【目次へ移動する】 ==自治と治外法権== 明治政府は1868年8月7日(慶応4年6月19日)に成立した「大阪兵庫外国人居留地約定書」において、外国人に対して居留地における一定の行政権と財政権を認めた。具体的には居留地内のインフラ整備・治安維持を中心とする自治行政を行うための最高議決機関として居留地会議を創設し、その運営費用には居留地の競売代金の一部と地税・警察税(地税と警察税の徴収は居留地側が行うことができた)を充てることを認めた。居留地住民による自治行政は居留地が廃止されるまで続いた(なお、長崎や横浜の居留地にも当初は自治権があったが、途中で放棄されている)。また、各国政府は神戸外国人居留地周辺に領事館を開設し、自国の経済的利益と国民を保護し領事裁判権を行使する領事を置いた。 最高議決機関である居留地会議は、各国の領事と兵庫県知事、選挙によって選ばれた居留地の住民代表(行事)3名によって構成された。居留地会議議長は領事の代表が務めることが多かった。居留地会議の会議は英語で行われ、議事録は新聞で公表された。居留地会議の執行機関として行事局が設置された。行事局には3名の委員がおり、行事局長によって統括された。初代の局長は C・H・コブデンで、後任のヘルマン・トロチックが1872年(明治4年/5年)から居留地返還まで局長を務めた。トロチックは1874年(明治7年)4月に居留地警察署が設置されるとその署長を兼務した。重要案件については居留地会議の下に設けられた委員会において検討され、その報告を基に居留地会議が決定を下すというプロセスが採られた。 外国人による自治が認められたことで、居留地内において立ち入りや警察権の行使など日本側の権利・権限は制限された。また、日本と欧米諸国との間で結ばれた不平等条約によって領事裁判権が認められ、条約の適用対象となる居留外国人が当事者である法的紛争については外国領事による裁判が行われた(自治権については属地主義が採られ居留地内にのみ及んだのに対し、領事裁判権については属人主義が採られ、居留地外の紛争にも及んだ。もっとも実際には、外国人が居留地外においても居留地内と同様の治外法権を主張し、日本側とトラブルに発展することもあった)。 ===自治と治外法権を巡る問題=== ====日本人の居住・立ち入りについて==== 日本人は居留地内での居住が禁止され、開港当初は居留地への立ち入り自体も禁じられていたが、1869年(明治元年/2年)以降は鑑札を所持する者については許可された。なお、居留地内で活動した警察組織には数人の日本人が警察官として所属していた。 ===警察権を巡る問題=== 前述の「大阪兵庫外国人居留地約定書」では警察目的の税(警察税)の徴収が認められていたため、外国側は警察権について、居留地会議に帰属すると考えていた。しかし兵庫県は県に警察権が帰属するという見解を取っていた。この見解の相違が原因で1871年7月2日(明治4年5月15日)、「女王対ウォータース事件」と呼ばれる事件が起こった。 1871年7月2日(明治4年5月15日)、兵庫県所属の警察官が居留地内にいた女性を売春婦と疑い、警察詰所に連行した。取り調べの結果女性は居留地在住のイギリス人ウォータースの使用人であると判明して釈放されたが、これに怒ったウォータースは翌3日(明治4年5月16日)、使用人を連行したと思しき警察官2名を屋敷内に監禁した。この事件は領事裁判権に基づきイギリス領事A・J・ガワーが裁くこととなったが、判決においてガワーは、日本の警察官は居留地内で警察権を行使することはできず、身柄の拘束はもちろんパトロールを行う権限もないのであって、ウォータースの警察官に対する公務執行妨害罪は成立しない(単に私人に対する逮捕・監禁罪が成立するに過ぎない)という判断を示した。この判決によって、居留地内においては、行事局を統括する行事局長指揮下の居留地警察のみが警察権を行使することができるということが明確になった。兵庫県は1899年(明治32年)の返還まで居留地内において警察権を行使することができなかった。 ===ノルマントン号事件の査問会および予審=== 1886年(明治19年)に起こったノルマントン号事件に関する査問会および予審は、神戸外国人居留地において領事裁判権が行使された有名な事件の一つに挙げられる。10月24日、横浜居留地の汽船会社が所有する貨物船ノルマントン号が和歌山県沖で沈没し、貨物と共に輸送していた日本人の乗客25名全員が死亡する事件が起こった。この事件では11名のイギリス人乗組員が救命ボートに乗って助かったにもかかわらず日本人の乗客が全員死亡したことについて、船長をはじめとする乗組員が救助を怠ったのではないかという疑念が向けられた。安政五カ国条約によってイギリスに認められていた領事裁判権に基づき、事件に関する査問会が11月1日から5日にかけて神戸外国人居留地で行われ、イギリス領事ジェームス・トループは乗組員に過失なしとする判断を下した。この判断を不服とした兵庫県知事内海忠勝は船長を殺人罪で告訴し、告訴を受けて11月20日に同じく神戸外国人居留地で行われた予審と12月8日に横浜で行われた公判ではともに船長に対し有罪判決が下された。ノルマントン号事件の査問会で乗組員に過失なしと判断されたことで、日本国内では領事裁判権に対する疑問や批判が巻き起こり、反英感情が高まった。この査問会は、日本人と外国人との関係がうまくいっていたとされる神戸外国人居留地の歴史における「影の部分」と評される。 【目次へ移動する】 ==街並== 兵庫の開港は横浜や長崎より約9年遅れてのものであったため、神戸外国人居留地では両居留地における造成・設計の経験を活かした合理的な都市計画を立てることができた。1871年4月17日付の英字新聞「The Far East」は、「神戸は東洋における居留地としてもっともよく設計されている」と評した。 完成した居留地の街並みは、以下のような特徴を持っていた。 前述のように東を(旧)生田川(後のフラワーロード)、西を鯉川(後の鯉川筋)、南を海と、三方を川と海に囲まれていた。ただし東西の川については1870年代に付け替えおよび暗渠化の工事が行われた(後述)。南北8本、東西5本の道路によって22の街区に分けられ、さらにそれぞれが区画化され全体で126の区画によって構成されていた。一区画当たりの面積は200‐300坪で、居留地全体の面積は道路を除くと4万9645坪(約164,115平方メートル)あった(1885年(明治18年)末のデータ)。道路は、車道と歩道が区別されていた。南北を走る道路には排水を海に流すための下水道が埋設されていた。下水管には楔型のレンガを漆喰で固めて円筒状にしたものが用いられた。通りには街路樹や街灯が設置され、車道と歩道が区別されていた。電線は地下配線され、電柱は建てられなかった。南側の海岸沿いの通り(海岸通)には芝生と松並木が植えられ、プロムナードとして整備された。 ===ガス灯=== 1874年(明治7年)11月、居留地内の複数の商社が出資して設立したブラウン商会(大阪瓦斯の前身の一つ)が居留地へのガスの供給(兵庫県初)を行うようになり、居留地内にはそれまで使用されていた石油灯に替わってガス灯が設置されるようになった。居留地時代に設置されていたガス灯94基のうち、2基が旧ハッサム住宅前に、1基が愛知県の博物館明治村に設置されている。また、神戸市立博物館と大丸神戸店の周囲には復元されたガス灯が設置されている。 なお、神戸区では1888年(明治21年)11月から電気の供給が開始され、市街地には電灯が設置されるようになったが、ガス灯が設置されていた居留地ではブラウン商会を中心に反対論が張られ、電気供給および電灯設置は遅れた。また、電気供給が開始されるにあたって居留地側は電線が空中を横切るのは美観を損ねると主張し、電線は地下に配線されることになった。居留地返還後も旧居留地では電線は地下配線され、通りに電柱が建てられることはなかった。 ===建築様式=== 初期に建てられた建築物の多くは古典主義の色彩を帯びていた。15番館(旧居留地十五番館)はその典型とされ、2階立てで2階にオーダーを配したベランダが配置された。古典主義は、19世紀中頃の東アジア居留地において圧倒的な主流を占める建築様式であった。 明治20年代に入ると、イギリスの建築家アレクサンダー・ネルソン・ハンセルの活躍によって建築物のデザインの流行に変化が現れた。ハンセルはゴシック・リヴァイヴァル建築の考えに基づき、煉瓦をむき出しにしたデザインを好んで採用した。ハンセルは神戸外国人居留地において神戸倶楽部を皮切りに香港上海銀行、チャータード銀行、ジャーディン・マセソン商会、ドイツ総領事館、デラカンプ商会など数多くの建築物の設計を手掛けた。 擬洋風建築が多く建てられた横浜外国人居留地と異なり、神戸外国人居留地における建築はすべて外国人建築家の主導の下で行われ、建築主はほとんどが外資系企業であった。一方明治30年代に入ると、工部大学校造家学科(後の東京大学工学部建築学科)出身の辰野金吾、曽禰達蔵、河合浩蔵や、エコール・サントラル・パリへ留学し建築学を学んだ山口半六といった日本人建築家たちが、神戸において日本の官公庁および企業を建築主とする建築物の設計を多く手掛けるようになった。辰野らのように工部大学校造家学科においてイギリスの建築家ジョサイア・コンドルの指導を受けた建築家や、山口のように日本国外で建築学を学んだ建築家は、明治期の日本建築界発展の素地を作ったと評価されているが、これら日本人建築家と居留地で活動した外国人建築家は、建築主の違いから活動範囲において明確に一線を画し、関わりは希薄であったとされる。 ===宿泊施設(ホテル)=== 神戸外国人居留地で最も早く開業した宿泊施設はグローブホテル1868年(慶応4年/明治元年)開業。営業終了の時期およびホテルの位置は不明)で、その後もいくつかの宿泊施設が開業した。その中で最も有名なものはオリエンタルホテルで、遅くとも1870年8月3日(明治3年7月7日)には79番地で営業を開始していたことが確認されている。オリエンタルホテルには後述のように、社交クラブであるユニオンクラブの事務所が1870年(明治3年)に、さらにユニオンクラブと入れ替わる形でクラブコンコルディアの事務所が1881年(明治14年)頃に置かれ、同年9月23日(8月28日)には後述のスポーツクラブ、神戸レガッタアンドアスレチッククラブ (KRAC) の設立総会が開かれた。オリエンタルホテルは1888年(明治21年)頃に80番地を買収して本館を移したが、その頃責任者を務めていたフランス人の料理人ルイ・ビゴの作った料理が評判を呼んだ。居留地返還後もオリエンタルホテルは営業地を移しつつ業務を継続、1995年(平成7年)に発生した阪神・淡路大震災により建物が倒壊し営業を停止したが2010年(平成22年)3月3日に再開した。 ===東西の川の工事=== 前述のように開港当初居留地の東端には(旧)生田川が、西端には鯉川が流れていたが、(旧)生田川は堤防が低く、しばしば居留地内に水害をもたらし、鯉川は交通の妨げになると外国人からの評判が悪かった。 明治政府は生田川について、1871年4月29日(明治4年3月10日)から同年7月26日(明治4年6月9日)にかけて川の流れを東へ移す付け替え工事を行い、上流にある布引の滝からまっすぐ小野浜まで南下する新たな生田川(新生田川)が作られた。旧生田川の河川敷は埋め立てられ、道路(フラワーロード)や日本人と外国人が共同利用するグラウンド(内外人公園。後の東遊園地。詳細については後述)が造成された。右岸の堤防の一部はそのまま小山のように残され、異人山と呼ばれるようになった。異人山があった場所には後に神戸市役所が建てられた。埋立地の一部には工事を請け負った加納宗七の名に因んで「加納町」という地名が付けられた。なお、この工事には居留地の設計に当たったジョン・ウィリアム・ハートも関与した。 鯉川については、居留地側から兵庫県および明治政府に対し、工事費用の半分を負担するから川に蓋をしてほしいという要望が出され、1874年(明治7年)10月から1875年(明治8年)1月にかけて工事が行われた。その後1909年(明治42年)になって鯉川はコンクリートで覆われた完全な暗渠となった。さらにその後暗渠の上に道路(鯉川筋)が敷設された。 【目次へ移動する】 ==雑居地・遊歩区域== 居留外国人は居留地外の一定の区域にも居住し、移動した。以下詳述する。 ===雑居地=== 前述のように1868年1月1日(慶応3年12月7日)の開港日の時点ではごくわずかな土地と設備が造成されたに過ぎなかった。明治政府は江戸幕府が諸外国と結んだ条約・取り決めを継承すると宣言していたが、江戸幕府は前述の1867年5月16日(慶応3年4月13日)締結「兵庫港並大坂に於て外国人居留地を定むる取極」(兵庫大阪規定書)において、居留地が手狭になった場合は居留地を拡張するか日本人が外国人に家屋を貸すことを認めていた。そのことから明治政府は1868年3月30日(慶応4年3月7日)、東は(旧)生田川、西は宇治川、南は居留地南の海岸、北は山辺(山麓)と区域を限った上で、外国人が居住することを認め、居住に際して借地、借家、家屋の購入および普請を行うことも認めた。この区域を雑居地と呼ぶ。雑居地の土地についてはごく初期を除いて外国人に対する永代借地権が認められず、期限(はじめは5年に設定されたが、のちに25年に延長された)を定めた借地のみが認められた。雑居地は居留地の工事の遅れを受けて暫定的に設けられたものであったが、居留地の全区画が完成しても収容しきれないほどに居住者が増加したため、廃止した場合に居留地の拡張を要求されることを恐れた明治政府は居留地返還まで雑居地を存続させた。雑居地の面積は道路を除くと2万6756坪(約88,449平方メートル)であった(1885年(明治18年)末のデータ)。 清国人は、開港当初は母国が日本と条約を結んでいなかったため居留地に住むことができず、雑居地に居住した(1871年9月13日(明治4年7月29日)に日清修好条規が締結されて以降は、居留地内に居住することが可能になった)。その影響から居留地西側の雑居地には清国人街が形成された。日清修好条規締結後、居留地と周辺の雑居地に居住する清国人は増加していった。清国人は後述のように清国人は外国商館を通じて行われた貿易において「買弁」と呼ばれる仲立人を務めたほか、清国とのパイプを利用して同国向けのマッチの輸出において大きな枠割を果たした。 雑居地であった地域には外国人が居住していた住宅が多く残されており、「異人館」として観光の対象となっている。また南京町の中華街は、居留地時代に清国人街が形成された居留地西側の地域に存在する。雑居地において日本人が外国人を身近に接しながら暮らし、「生活レベルでの国際交流」が行われたことは、日本人と外国人が共生する「多民族・多文化共生都市」としての神戸市の原型を形成したと評価されている。 ===遊歩区域=== 安政五カ国条約では居留外国人の行動範囲を規制する条項が盛り込まれ、居留外国人が移動可能な区域(遊歩区域)は兵庫県庁を基点とする10里以内の区域に限られることになった。1869年(明治元年/2年)、兵庫県は遊歩区域を具体化するべく「外国人遊歩規定」を定め、「10里以内」を路程にして10里以内と解釈し、東は川辺郡の小戸村・栄根村・平井村・中島村、西は印南郡の曽根村・阿弥陀村、南は海、北は川辺郡の大原野村、多紀郡の川原村・宿村・八上下村・犬飼村、多可郡の田高村・明楽寺村・横尾村を境界とした。しかし解釈を巡って外国側から「10里とは路程にして10里ではなく直径10里を意味する」と異議が出た結果、北と西の境界は川辺郡・印南郡・多紀郡・多可郡全域に変更された。遊歩区域外は「内地」と呼ばれ、居留外国人は保養と学術を目的とする場合に限って内地へ出ることが許され、その際には兵庫県庁発行の旅行免状を携帯することが義務付けられた。しかし実際には居留外国人が行楽などの目的で無断で内地へ足を伸ばすことも多く、しばしば兵庫県を悩ませた。なお、1899年(明治32年)の居留地返還と同時に外国人が日本国内に自由に居住・外出すること(内地雑居)が認められるようになった。 【目次へ移動する】 ==貿易== 兵庫港(神戸港)では開港直後から盛んに貿易が行われた。初期の貿易は日本人商人が納入した商品を外国人商人が輸出し、外国人商人が輸入した商品を日本人商人が購入するという方法で行われた。外国人は居留地外で輸出品を買ったり輸入品を売ることができず、一方日本人には開港当初、直接海外の貿易業者と取引を行うノウハウがなかったためである。このような、外国人商人を介した貿易を居留地貿易、または商館貿易という。外国人商人への商品納入や外国人商人からの商品購入を希望する日本人商人(前者を売込商、後者を引取商と呼んだ)は、日本人の番頭や「買弁」と呼ばれる清国人の仲立人を介して商談を行った。外国人商人側の人間の多くは高圧的・横暴で、他国との貿易に不慣れで海外情勢に疎い日本人が不利な取引慣行を押しつけられたり、買い叩きや値段のつり上げに遭うケースも多々あった。 しかし次第に日本の商人や商社が直接貿易業務を行うようになり、外国人商人の力は衰退していった。神戸港の貿易量に占める外国人商人が取り扱う貿易量の割合は当初100%であったが、居留地返還直前の1897年(明治30年)には65%に減少しており、さらに返還後の1907年(明治40年)には50%、1911年(明治44年)には40%に減少した。居留地返還後は外国人商人が旧居留地から撤退し、旧居留地内での事務所開設が可能となった日本の商社にとって代わられるようになった。1931年(昭和6年)の時点で、外国人が永代借地する旧居留地内の区画は126区画中47区画にまで減少した。 主要な輸出品は茶・米穀・マッチである。このうち茶については、初期は京都の茶が輸出され、次第に西日本一帯で生産された茶が集められ、輸出される仕組みが完成した。米穀は、後述のように神戸からの輸出米がロンドンの穀物市場における標準米となるほど輸出量が多かった。マッチは1870年代後半に神戸において本格的な製造が始まり、同時に海外への輸出が始まった。神戸港からのマッチの輸出額は明治10年代後半以降急速に増加し、全国のマッチ輸出額の9割以上を占めるまでに発展した。輸出先は当初は中国が中心であったがやがてオーストラリアやヨーロッパ・アメリカ大陸にまで拡大した。 一方、主な輸入品は金巾・綿ビロードなどの木綿類や毛織物であった。1896年(明治29年)には神戸市に住む高橋信治が14番地にあったリネル商会を通じてキネトスコープを輸入し、日本初の映画(活動写真)の公開を行っている。居留地返還直前の1894年(明治27年)以降明治を通じ、神戸港からの輸入額は日本の港の中で最も多かった。 【目次へ移動する】 ==文化== ===食文化=== ====ラムネ==== 神戸外国人居留地はラムネ発祥の地と言われることがある。アレキサンダー・キャメロン・シムが経営するシム商会が、1884年(明治17年)頃に「18番」と呼ばれる(シム商会が居留地18番地にあったことに因む)ラムネの製造・販売を始めたが、「日本清涼飲料水工業発達史」には「神戸の A.Cシム商会が日本で最初のラムネだろう」と記されている。シムがラムネを売り出した当時、日本ではコレラが流行しており、1886年(明治19年)に横浜毎日新聞が「ガスを含有した飲料で感染が防げる」と報道したのをきっかけに売れ行きが伸び、当時の新聞報道(『大阪日報』)によるとシムのラムネは「払い底になった」。 ===牛肉=== 兵庫開港以前、横浜居留地の商人が購入した丹波・丹後・但馬産の牛肉は外国人の間で高い評価を得ていた。そのため開港後、外国人は盛んにそれらの牛肉を求めたが、当時の日本では牛肉を食べる習慣がなく、計画的に牛肉を供給する仕組みはなかった。そこで外国人は自ら屠畜場や肉屋を開設した。初めにこれを実行したのは後述の実業家エドワード・チャールズ・キルビーで、詳しい時期は不明であるが旧生田川の東に屠畜場を借り、海岸通に肉屋を開設して牛肉の販売を行った。また、1868年(慶応4年/明治元年)にはテボールという名のイギリス人が旧生田川沿いに屠畜場を開設したという記録がある。1871年(明治3年/4年)に日本人が牛肉の供給に携わるようになり、1875年(明治8年)以降はほとんど日本人によって独占された(外国人は1894年(明治27年)に食肉業から完全に撤退した)。 居留地周辺では開港後間もない頃から、日本人が業として牛肉を取り扱い、食するようになった。1869年(明治元年/2年)に神戸元町で開業した肉なべ専門店「関門月下亭」は神戸最古の日本人経営の牛肉料理屋とされる。神戸最古の日本人経営の牛肉店は1871年(明治4年/6年)開店した大井肉店と本神戸肉森谷商店といわれる。大井肉店創業者の岸田伊之助は牛肉の味噌漬けや佃煮など西洋にはない独自の調理法を考案した。1870年代の終わりには鈴木清が醤油と砂糖で味付けした牛肉の缶詰を開発し、全国的なヒット商品となった。 ===洋菓子=== 洋菓子は開港後、居留外国人や旅行者向けに作られるようになった。1882年(明治15年)に雑居地の元町3丁目で創業した二宮盛神堂が、神戸初の洋菓子店とされる。さらに同年刊行された『豪商神兵湊の魁』には、相生橋の三国堂が洋菓子店として紹介されている。1897年(明治30年)、吉川市三が東京南鍋町の風月堂からのれん分けを許され元町に創業した神戸風月堂は、神戸初の本格的な洋菓子店とされ、開店当初からカステラ、ワッフル、シュークリーム、キャンディー、チョコレートといった洋菓子が販売されていた。 ===キリスト教=== 明治政府は江戸幕府によるキリスト教禁制を踏襲し、1873年(明治6年)2月24日にキリスト教禁制の高札を撤去するまでの間キリスト教を禁じた。しかし安政五カ国条約により外国人には信教の自由が認められたため、居留地内では開港当初から宣教師により盛んに宗教活動が行われた。 1868年8月9日(慶応4年6月21日)、パリ外国宣教会の宣教師ピエール・ムニクウが西国街道(後の元町通)沿いの仮礼拝所において毎週日曜日にカトリックの定期的な礼拝を執り行うようになった。翌1869年3月(明治2年1月/2月)、ムニクウは37番地に司祭館を建設し、毎週日曜日に定期的な礼拝を執り行うようになった。ただし居留外国人にはプロテスタントを信仰する者が多く、参加者はそれほど多くなかったとされる。続けてムニクウは37番地に礼拝堂を建設し、翌1870年4月17日(明治3年3月17日)に献堂式が行われた。この礼拝堂は1923年(大正12年)に中山手通1丁目に移設され(中山手教会)、カトリック神戸中央教会のルーツの一つとなっている。 1870年5月22日(明治3年4月22日)、アメリカン・ボードの宣教師ダニエル・クロスビー・グリーンが18番地でプロテスタントの定期的な礼拝を執り行うようになった。グリーンは教会の建設運動を行い、1872年(明治4年/5年)、48番地に教会(ユニオン教会。1928年(昭和3年)葺合区生田町4丁目に移転(旧神戸ユニオン教会)。)が完成した。ユニオン教会では1876年(明治9年)から1898年(明治31年)にかけて聖公会の礼拝も行われた。 聖公会の礼拝は1873年(明治6年)から行われるようになった。前述のように1876年(明治9年)から1898年(明治31年)にかけては48番地のユニオン教会で礼拝が行われ、1898年(明治31年)に下山手通3丁目にオール・セインツ教会が完成した後は同教会で行われるようになった。オール・セインツ教会は太平洋戦争中に焼失し、再建されることはなかった。 ===音楽=== 海岸沿いの通りや内外人公園(後の東遊園地)、神戸レガッタアンドアスレチッククラブ(KRAC。後述)の体育館、西町公園では様々な音楽活動が行われた。活動の主体としては各国の軍楽隊や私設の音楽隊、プロおよびアマチュアの演奏家が挙げられ、演奏会のほか舞踏会、スポーツ大会などで演奏を行った。KRAC は体育館の運営費用を賄うため、年1回ないし3回、演劇と併せてコンサートを催した。 ===スポーツ=== ====居留外国人が行ったスポーツ==== 居留外国人は様々なスポーツを行った。多くはスポーツ組織(クラブ)の下で行われ、中でも神戸レガッタアンドアスレチッククラブ (KRAC) の下で行われたスポーツは多岐にわたる。 ===スポーツ組織=== 1869年3月1日(明治2年1月19日)、神戸外国人居留地初のスポーツ組織であるヒョウゴ・レース・クラブ(HRC。後にヒョーゴ・オーサカ・レースクラブ (HORC) と改称。以下 HORC と表記)が発足した。HORC は同年生田神社と旧生田川の間の土地に常設の競馬場を建設し、定期的に競馬を開催するようになった。HORC は日本レース・倶楽部と人馬の交流を行うなど活発に活動したが、その後財政状態が悪化し、借地料支払い不能に陥って競馬場を失い1877年(明治10年)11月に解散した。 イギリス人の居留民が多かった神戸外国人居留地では、同国の伝統的なスポーツであるクリケットの愛好家が開港当初から盛んに活動していた。1870年1月19日(明治3年12月18日)、前年10月16日(明治2年9月12日)にイギリス軍人のチームを相手に試合を行った居留外国人チームの主力メンバーが中心となり、兵庫クリケットクラブ (HCC) が設立された(翌1871年(明治3年/4年)に神戸クリケットクラブ (KCC) と改称。以下 KCC と表記)。KCC は長らくグラウンドやメンバーの確保に苦しみ目立った活動を行うことができずにいたが、1877年(明治10年)5月に内外人公園(後の東遊園地)が完成して以降は活動が活発となり、同公園内で毎週のように試合を行った。1893年(明治26年)以降は野球の試合も行うようになった。KCC は第二次世界大戦期まで存続した。 神戸レガッタアンドアスレチッククラブ (KRAC) は、1870年9月23日(明治3年8月28日)にアレキサンダー・キャメロン・シムの提唱により発足したスポーツクラブである。KRAC は発足当初から居留地東部にグラウンドを確保し、発足から3か月後の1870年12月(明治3年閏10月/11月)にボートハウスと体育館を、1871年6月(明治4年4月/5月)に水泳場を完成させるなど順調に活動を開始した。KRAC の会員が競技するスポーツはレガッタ・陸上競技・ラグビー・テニス・水泳・水球・ライフル射撃など多岐にわたった。1871年(明治3年/4年)、KRAC は横浜居留地において横浜ボート・クラブ、日本ローイング・クラブとレガッタの対抗戦を行った。これがきっかけとなって神戸と横浜のスポーツクラブとの間で定期的にレガッタ・陸上競技・クリケット・フットボール(ラグビー・サッカー)などの対抗戦(インポートマッチ)が開催されるようになった。インポートマッチは第二次世界大戦中の一時期を除き、居留地返還後も続けられている。 KRAC の体育館は会員以外にも開放され、KRAC のクラブハウスとしてだけではなく、居留地内の市民ホールとしても機能した。この体育館は劇場としても使用され、「体育館劇場」、「居留地劇場」などと呼ばれた。KRAC は単なるスポーツ組織ではなく、スポーツを通じて居留外国人の親睦を深めるという役割を果たし、ボランティア活動などの社会活動を行った。 ===内外人公園=== 開港直後の1868年(明治元年)クリスマスに、区画整理が遅れていた居留地東北部に設けられた馬場で競馬が催された。この開催を契機に競馬の他にクリケット・陸上競技などのスポーツが同地で行われるようになった。ただし居留外国人にとってこれはあくまでも区画整備が完了するまでの仮のグランドであり、スポーツを行うことができる正式なグラウンド設置を求める声が上がった。居留外国人には日本政府がグラウンドの設置を保証しているという認識があり、1871年4月29日(明治4年3月10日)から同年7月26日(明治4年6月9日)にかけて行われた旧生田川の付け替え工事に伴って居留地東側に広大な土地が出現すると、居留外国人の間ではその土地を利用してグラウンドが設置されると噂されるようになった。 1872年2月(明治4年12月/明治5年1月)、居留外国人の一部が独断で土地の一部に棒杭を打ち込んで所有権を主張するという行動に出た。日本政府はこの行動に反発したが、交渉の結果1874年(明治7年)11月、外国人と日本人が共同利用する公園という形でグラウンドの設置を認めた。建設費と維持費は外国人側の負担となったが、開港から約10年をかけて居留外国人はグラウンドを手に入れることができた。公園は1877年(明治10年)5月に完成し、内外人公園と名付けられた。 内外人公園のグラウンドは芝生のグラウンドであった。内外人公園で居留外国人がラグビー・テニスなどに興じている姿を日本人が目にしたことは、それらの競技が周辺に普及するきっかけとなったと評価されている。内外人公園は1899年(明治32年)の居留地撤廃に伴って日本に返還され、神戸市が管理する公園(加納町遊園地、1922年(大正11年)に東遊園地と改称)となった。公園が持つスポーツを行うためのグラウンドとしての機能は居留地返還後も、1962年(昭和37年)に磯上公園(神戸市中央区八幡通)に移されるまで約90年にわたって維持された。 ===外字新聞=== 神戸外国人居留地で最初に発行された外字新聞は、A・T・ワトキンスが創刊した「ヒョーゴ・アンド・オーサカ・ヘラルド」で、第1号の発行は1868年1月4日(慶応3年12月10日)である。続いて同年4月23日(慶応3年4月1日)には「ヒョーゴ・アンド・オーサカ・ヘラルド」で植字工をしていたフィロメーノ・ブラガによって「ヒョーゴ・ニュース」が創刊された。やがて「ヒョーゴ・アンド・オーサカ・ヘラルド」は購読料の安い「ヒョーゴ・ニュース」に押され数年のうちに廃刊となった。 1888年(明治21年)に入り A・W・クイントンにより「コーベ・ヘラルド」が、1891年(明治24年)10月2日にはロバート・ヤングにより「コーベ・クロニクル」が創刊された。「コーベ・クロニクル」では後述のように小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が社説を執筆したこともある。居留地返還直後の1899年(明治32年)、「コーベ・クロニクル」は「ヒョーゴ・イヴニング・ニュース」と改称していた「ヒョーゴ・ニュース」を買収して社名を「ジャパン・クロニクル」に改め、神戸のみならず日本において最大の発行部数を記録する外字新聞に成長した。 「コーベ・ヘラルド」は1926年(大正15年/昭和元年)に「コーベ・ヘラルド・オーサカ・ガゼット」と改称したがその後まもなく廃刊した。「ジャパン・クロニクル」は太平洋戦争中の1942年(昭和17年)(昭和17年)1月に廃刊した。 ===社交クラブ=== 神戸外国人居留地には2つの社交クラブが存在した。一つは1868年(慶応4年/明治元年)にドイツ人の居留民が設立したクラブコンコルディアである。クラブコンコルディアはドイツ人のみが入会できる社交クラブであったが、居留地の東端に建設した施設の維持費を賄うためにドイツ人以外の入会も認めるようになり、オランダ人・ノルウェー人・スウェーデン人などが入会した。もう一つは1869年5月5日(明治2年3月24日)にアメリカ人とイギリス人が中心となって設立されたユニオンクラブ(インターナショナルクラブともいう。後の神戸外国倶楽部)である。ユニオンクラブにはアメリカ人・イギリス人のほかフランス人・イタリア人などが入会した。ユニオンクラブは居留地内の建物(初めは31番地、次いで32番地、79番地(オリエンタルホテルの地下。1870年(明治3年))に本拠を置いて活動した。ドイツ帝国成立後、クラブコンコルディア内部でドイツ人会員と非ドイツ人会員との対立が生じ、非ドイツ人会員が大量に脱会する事態となった。資金難に陥ったクラブコンコルディアは施設をユニオンクラブに売却し、1881年(明治4年)頃、ユニオンクラブと入れ替わりに79番地のオリエンタルホテル地下に本拠を移した。第一次世界大戦が勃発するまでの間、2つのクラブの関係は良好で、1890年代にオリエンタルホテルが火災により焼失した際にはクラブコンコルディアの会員がユニオンクラブの施設を利用できるよう、ユニオンクラブが配慮を示している。ユニオンクラブ(神戸外国倶楽部)は居留地返還後も活動を続けている。 ===関帝廟=== 関帝廟は華僑・華人にとって商売繁盛や家内安全を祈願する場であり、精神的な拠り所である。清国人は雑居地内の2箇所に関帝廟を建立した。1つは1888年(明治21年)、清国人の有力者藍卓峰、鄭萬高、麦少彭らが大阪府河内郡布施村の廃寺、慈眼山長楽寺を移設する形で中山手通7丁目に建立したものである。長楽寺の本尊は十一面観世音菩薩であったが、移設に伴い関帝、天后聖母などが合祀された。この関帝廟は居留地返還後の1945年(昭和20年)6月に空襲により焼失したが、1947年(昭和22年)に再建され、台湾から輸入された関帝像が設置された。もう1つは同じく1888年(明治21年)に加納町2丁目に建立されたもので、同じく1945年(昭和20年)6月に空襲により焼失し、再建されることはなかった。なお、中山手通6丁目にあった中華会館 にも関帝像が安置されており、中華会館は関帝廟と呼ばれていた。 再建された関帝廟では毎年旧暦7月14日から16日にかけて水陸普度勝会(盂蘭盆)がとり行われており、1997年(平成9年)10月に神戸市の地域無形民俗文化財(第一号)に認定された。 【目次へ移動する】 ==医療== 居留外国人は開港当初から居留地の衛生状態の悪さを強く問題視していた。チフスに罹る者が多く、さらに天然痘やコレラの蔓延が懸念された。1869年(明治2年)5月には兵庫県が宇治野村(後の神戸市中央区下山手通2丁目)に日本人だけでなく外国人も受け入れる病院として兵庫県病院(神戸病院。後の神戸大学医学部附属病院)を開院させたが、1年あまりで医療レベルの低さが喧伝されるようになり、外国人の間からは自前の病院設立を求める声が高まった。 外国人側は日本人と共同利用する病院の設置を模索したが兵庫県側の反応は芳しくなく、1871年2月(明治4年1月)になって寄付金を基に単独で兵庫国際病院(神戸万国病院。後の神戸海星病院)を設立することを決めた。1872年7月(明治5年5月/6月)に兵庫国際病院の医事監督に就任したジョン・カッティング・ベリーは外国人だけでなく日本人も診察する方針を採った。設立当初の兵庫国際病院は生田神社近くの民家を借りたものであったが設備面の不備を指摘する声が上がり、1874年(明治7年)に新たな病院が山本通1丁目に建設された。 【目次へ移動する】 ==居留外国人== ===居留外国人数=== 居留地(後述の雑居地を含む)に居留した外国人の人数は以下の通りである(国籍別)。 ===主な居留外国人=== ====実業家==== アレキサンダー・キャメロン・シムは1870年(明治2年/3年)に神戸に移住し、薬剤師として居留地内の薬局(レウェリン商会)に勤務した後、居留地18番にシム商会を設立した。シムは前述のように日本初ともいわれるラムネを製造・販売し、神戸レガッタアンドアスレチッククラブ (KRAC) の設立を提唱した人物であるが、その他にも居留地内で住民が自主的に結成した消防隊の隊長を勤め、防災活動に力を注いだことでも知られる。シムは自宅近くの公園(西町公園)に設けられた火の見櫓に登り、見張りをした。就寝時も出動に備えて消防服とヘルメット、手斧を枕元に置き、消防隊長を務めた間、シムが出動しなかった火事はほとんどなかったと伝えられている。居留地返還に伴って消防隊が消防組として神戸市へ移管された後、シムは消防組名誉顧問に就任し、特別に消防組を指揮する権限が与えられた。シムは居留地会議の副議長も務め、居留地返還時に行われた返還式に病気の居留地会議議長に代わって出席し、引継目録と引継書への調印・署名を行っている。 トーマス・ブレーク・グラバーが設立したグラバー商会に勤めていたアーサー・ヘスケス・グルームは1868年(慶応4年/明治元年)、支店開設のため神戸を訪れた。グルームは1871年(明治3年/4年)、グラバー商会の同僚ハイマンと共同で居留地101番にモーリヤン・ハイマン商会を設立し、日本茶の輸出とセイロンティーの輸入を手掛けた。グルーム1895年(明治28年)に息子の名義で六甲山の山頂に借りた土地に別荘を建てると、さらに同山の土地を別荘地として外国人に分譲し、同山開発の礎を築いた。グルームはスポーツマンとしても知られ、前述の神戸クリケットクラブと神戸レガッタアンドアスレチッククラブの設立に関与した。グルームが1901年(明治34年)に六甲山に開設した4ホールのプライベートゴルフコースは日本初のゴルフコースであり、居留地返還後の1903年(明治36年)に会員制のゴルフ場(神戸ゴルフ倶楽部)に発展した。1897年(明治30年)から1916年(大正5年)にかけて前述のオリエンタルホテルを経営する会社の社長を務めたこともある。 エドワード・チャールズ・キルビーは開港直後にキルビー商会を設立し、機械や雑貨の輸入業を営んだ。1869年(明治元年/2年)、キルビーはイギリス人2名と共同経営で小野浜鉄工所を設立し、さらに単独で小野浜造船所を設立、造船業を営んだ。小野浜造船所は1882年(明治15年)に日本初の鉄製蒸気船である「第一太湖丸」(琵琶湖の鉄道連絡船)を建造するなど神戸における造船業の発展に大きく貢献したがその後経営難に陥り、キルビーは1884年(明治17年)に自殺した。 キルビー商会に勤務していたエドワード・ハズレット・ハンターは同商会から独立後の1874年(明治7年)、居留地29番館にハンター商会を設立し、貿易業を営んだ。さらにハンターは1879年(明治12年)に大阪の材木商・門田三郎兵衛の協力を得て大阪安治川の河口に大阪鉄工所(日立造船の前身)を設立し、造船業にも進出した。ハンターは1883年(明治16年)に当時の技術では困難といわれた木造乾ドックの建造に成功し、大阪鉄工所を関西を代表する造船所に成長させることに成功した。ハンターは多角経営によって事業を軌道に乗せた。1882年(明治15年)に日本政府がとったデフレ政策の影響で大阪造船所の経営が行き詰まった際には精米の輸出事業によって得た収益で窮状を凌いだが、この時ハンターが外国に輸出した精米は年間1万トンを超え、ロンドンの穀物市場では神戸からの輸入米が価格形成における標準米となった。晩年のハンターは事業を息子の範多龍太郎に譲り、居留外国人による不平等条約の改正に賛成する決議のとりまとめに尽力するなど、日本人と外国人の交流の深化に努めた。 トーマスとジョンのウォルシュ兄弟は開港直後に神戸に移住し、ウォルシュ商会(後にウォルシュ・ホール商会に改名)を設立して貿易業を営んだ。ウォルシュ・ホール商会は当時の欧米で製紙の材料にされていた木綿を日本で買いつけて輸出する事業を手掛けた。当時木綿は石灰で固めて輸出されていたが、輸送中に木綿に含まれる水分と化学反応を起こして発熱・発火する事故が多発していた。そこでウォルシュ・ホール商会は木綿をパルプ状にして輸送することを発案し、大きな収益を得た。さらにウォルシュ兄弟は三宮に製紙工場(神戸製紙所。三菱製紙の前身)を建設して製紙業も手掛けた。 ===著作家=== 小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は1894年(明治27年)から1896年(明治29年)までの間、神戸外国人居留地で活動した。小泉はバジル・ホール・チェンバレンの紹介で居留地内にあった新聞社コーベ・クロニクル(後のジャパン・クロニクル)に就職し、4か月にわたり同紙の社説において評論活動を行った。小泉が日本への帰化を決意したのは神戸在住時のことである。1896年(明治29年)、小泉は東京帝国大学で教鞭をとるため神戸を去り東京へ移住した。 ヴェンセスラウ・デ・モラエスは1899年(明治32年)、居留地内に設けられたポルトガルの副領事館に初代副領事として赴任(まもなく領事館の初代領事に昇進)し、1913年(大正2年)まで神戸に居住した。モラエスは1901年(明治34年)から日本に関する随筆をポルトガルの新聞「コメルシオ・ド・ポルト」に連載した。 ===キリスト教宣教師=== 神戸外国人居留地を訪れたキリスト教宣教師は、布教のみならず教育・医療・福祉の分野でも活躍した。 南メソジスト教会の宣教師ジェームス・ウィリアム・ランバスとウォルター・ラッセル・ランバスの父子は1886年(明治19年)秋に居留地47番館の自宅を開放して英語と聖書の講義所を開設し、「パルモア学院」と名付けた。パルモア学院は英会話学校のパルモア学院専門学校へと発展し、同学院女子部は啓明学院の前身となった。さらにジェームスは広島女学校(後の広島女学院大学)保母師範科(聖和大学の前身の一つ)の設立に関与し、ウォルターは1889年(明治22年)に関西学院を設立した。またジェームスの妻メアリー・イザベラ・ランバスは、1888年(明治21年)に神戸婦人伝道学校(後のランバス記念伝道女学校。前述した広島女学校保母師範科と共に聖和大学の前身の一つ)を設立したことで知られる。 前述のアメリカン・ボードに所属する女性宣教師、イライザ・タルカットとジュリア・ダッドレーは女子教育の向上に努め、1875年(明治8年)、諏訪山の麓に兵庫県初の女学校(通称「神戸ホーム」。神戸女学院大学の前身)を創設した。さらにダッドレーは1880年(明治13年)に神戸女子伝道学校(後の神戸女子神学校。前述した広島女学校保母師範科、神戸婦人伝道学校と共に聖和大学の前身の一つ)を設立した。 アメリカン・ボードの宣教師ジョン・カッティング・ベリーは前述のように兵庫国際病院(神戸万国病院。後の神戸海星病院)の医事監督を務めたほか、兵庫県病院(神戸病院。後の神戸大学医学部附属病院)の支配頭に就任し、神戸・姫路・三田で精力的に医療活動を行った。1873年(明治6年)1月には神戸病院において兵庫県史上初の人体解剖を行っている。ベリーは1877年(明治10年)に神戸の監獄でコレラが大流行した際に兵庫県の要請を受けて監獄内に立ち入り、監獄内の不衛生な環境や囚人に対する非人道的な扱いを目にした。ベリーは兵庫県知事に監獄制度の改善を訴え、複数の宣教師がベリーに続いて監獄を視察し、制度改善案を日本政府に提出した。 幼きイエズス会の修道女フィロメナ・バレンティン・アントニンは、1890年(明治23年)頃から居留地41番地の女子教育院で孤児の世話をした。アントニンの活動は太平洋戦争終結後まで続き、生涯に世話をした孤児は数百人に上った。 ===居留外国人の墓地=== 居留外国人のための墓地は初め、江戸幕府によって小野浜新田(後の神戸市中央区浜辺通6丁目)に用意された。墓地の管理は居留地会議行事局が行い、返還後は神戸市へ移管された。 居留地返還後の1899年(明治32年)、神戸市は小野浜外国人墓地が飽和状態になったことへの対策として、葺合村春日野(後の神戸市灘区篭池通4丁目)に墓地を増設した(春日野外国人墓地)。しかし同墓地もやがて飽和状態となり、神戸市は中央区にある再度山で墓地の建設を開始した。この新たな墓地(神戸市立外国人墓地)は第二次世界大戦による中断を挟んで1952年(昭和27年)に完成し、まず同年に小野浜新田の墓地が、次いで1961年(昭和36年)に春日野の墓地が移転された。 【目次へ移動する】 ==周辺地域に与えた影響== 神戸外国人居留地は貿易の拠点、西洋文化の入り口として栄え、周辺地域に経済的・文化的影響を与えた。 開港前、周辺地域における交易の中心は兵庫津であり、兵庫津を中心に市街地が形成されていた。しかし兵庫開港によって居留地周辺の経済活動が活発となり、新たな市街地が形成されていった。そして1890年代初めには居留地周辺と兵庫津周辺の市街地は一続きの市街地を形成するようになった。なお前述のように、兵庫開港においては兵庫津ではなく神戸村の海岸に建設された新たな港が外国に開放されたが、この港は1892年(明治25年)に勅令により神戸港とされ、さらに同年神戸港の港域は拡大され兵庫津を含むようになった。 文化面ではまず食生活への影響が挙げられる。前述のように神戸外国人居留地周辺では1869年(明治元年/2年)に日本人経営の牛肉料理屋「関門月下亭」が開店し1871年(明治3年/4年)に日本人経営の牛肉店である大井肉店と森谷商店が開店するなど、開港後間もない頃から日本人が業として牛肉を取り扱い、食するようになった。同じ時期に牛乳やパンを食する習慣も広まった。建築の面では1873年(明治6年)に兵庫県が居留地近辺の市街地について洋風のデザインを採用するよう奨励する政策を打ち出し、居留地返還後に実際に建築物の洋風化が進むようになった。スポーツの面では前述のように、内外人公園で居留外国人がラグビー・テニスなどに興じている姿を日本人が目にしたことでそれらの競技が周辺に普及するきっかけが生まれたと評価されている。宗教の面ではキリスト教徒が増加した。福原遊郭は、居留地の造成にあたった柴田剛中が「開港によって軍艦や商船が渡来し、水夫その他の軽輩のものが出入りするので遊女屋がなくては不取締である」と外国人向けの遊郭の建設を上申したことにより、1868年(慶応4年/明治元年)に雑居地の外側に当たる宇治川の河口に設置され、1870年(明治2年/3年)に一帯が鉄道の停車場建設用地に選定されたことを受け湊川堤の東、西国街道の北(新福原)に移転した。福原遊郭は外国人の顧客を抱え、遊郭内には和洋折衷の建物も存在した。 神戸外国人居留地が存在したことで神戸市はモダンでハイカラ、エキゾチックな雰囲気をもち、ベンチャー精神に富んだ、外国人に対し受容的な都市として発展したと評価されている。さらに前述のように、雑居地において日本人が外国人を身近に接しながら暮らし、「生活レベルでの国際交流」が行われたことは、日本人と外国人が共生する「多民族・多文化共生都市」としての神戸市の原型を形成したと評価されている。 【目次へ移動する】 ==他の外国人居留地との比較== 居留地の面積(居住面積)を比較すると、横浜・長崎に次ぐ3番目で、横浜の約1/7、長崎の約1/2ほどである。ただし厳密には横浜は2つ(横浜(関内)・山手)、長崎は8つ(大浦・下松・梅ヶ崎・出島・新地・広馬場・東山手・南山手)の居留地の集まりである。横浜については横浜(関内)(129374坪)・山手(218823坪)ともに単独でも神戸の面積を上回っているが、長崎については最も広い南山手(44140坪)でも単独では神戸を下回る。雑居地の面積(居住面積)は横浜・築地に次ぐ3番目である。 神戸では居留地が雑居地よりも広いが、築地と函館では逆に雑居地が居留地よりも広い。その要因としてはまず築地の場合、そもそも居留地が通商・貿易のための居住地であるところ、近在する貿易拠点である横浜ではなく築地に敢えて住もうとする商人が少なかった上に、勤務地に近い雑居地に住みたいという外交官やお雇い外国人が数多くいたことが挙げられる。また、函館では居留地に設定された土地の条件が悪かったためにほとんどの居留外国人が雑居地に居住した。 居留外国人数を見ると、居留地の面積が神戸よりも広い横浜は1893年(明治26年)の時点で4946人、長崎は明治元年(1868/1869年)の時点で938人、居留地が返還された1899年の時点では1711人である。築地は神戸に次ぐ規模を持ち、雑居地の面積では神戸を上回っていたが、居留地および雑居地の外における不正居住が横行し、居留地および雑居地における外国人数は1871年(明治4年)9月の時点で72人、1877年(明治10年)の時点で97人にとどまった。 神戸と横浜は、共に明治における対外的な窓口として発展した。しかし神戸では日本側と外国側との関係が概ね良好であったと評価されているのに対し、横浜では日本人商人が不平等な商慣行に抗議して外国商人との取引をボイコットする騒動(内外商紛議)が毎年のように発生するなど、日本人と外国人の関係が最も険悪であったとされる。このような差が生じた要因としては、神戸では開港が横浜よりも8年あまり遅れたため、その間に日本で活動する悪質な外国商人が淘汰され、さらに日本人と外国人が互いについて理解を深める時間が得られたという「後発者のメリット」が指摘されている。 一方、開港場が決まった経緯では神戸と横浜の間に共通点がある。前述のように江戸幕府は安政五カ国条約において取り決めた「兵庫開港」について、兵庫津ではなく後の神戸港を外国に開放した。横浜居留地に関しても同様の動きがあり、江戸幕府は「神奈川開港」について神奈川宿ではなく当時寒村であった横浜村を開放した。「兵庫開港」では外交上のトラブルは生じなかったが、「神奈川開港」では江戸幕府が神奈川宿の開放を強く求める外国側を押し切って横浜村の整備を進め、結果的に横浜村近辺のほうが神奈川宿近辺よりも水深が深く港に適した地理的条件を備えていることが判明したため外国側が江戸幕府の決定を追認したという経緯がある。 【目次へ移動する】 ==ギャラリー== =ノストラダムス= ミシェル・ノストラダムス(Michel Nostradamus、1503年12月14日 ‐ 1566年7月2日)は、ルネサンス期フランスの医師、占星術師、詩人。また料理研究の著作も著している。日本では「ノストラダムスの大予言」の名で知られる詩集を著した。彼の予言は、現在に至るまで多くの信奉者を生み出し、様々な論争を引き起こしてきた。 本名はミシェル・ド・ノートルダム (Michel de Nostredame) で、これはフランス語による。よく知られるノストラダムスの名は、姓をラテン語風に綴ったものである。しばしば、「ミシェル・ド・ノストラダムス」と表記されることもあるが、後述するように適切なものではない。 ==概要== ノストラダムスは改宗ユダヤ人を先祖とし、1503年にプロヴァンスで生まれ、おそらくアヴィニョン大学で教養科目を、モンペリエ大学では医学を、それぞれ学んだ。南仏でのペスト流行時には積極的に治療にあたり、後年にその時の経験などを踏まえて『化粧品とジャム論』などを著した。 他方で、1550年頃から占星術師としての執筆活動も始め、代表作『ミシェル・ノストラダムス師の予言集』などを著し、当時大いにもてはやされた。王妃カトリーヌ・ド・メディシスら王族や有力者たちの中にも彼の予言を賛嘆する者が現れ、1564年には、国王シャルル9世より「常任侍医兼顧問」に任命された。その2年後、病気により62歳で没した。 彼の作品で特によく知られているのが、『ミシェル・ノストラダムス師の予言集』である(『諸世紀』という名称も流布しているが、適切なものではない)。そこに収められた四行詩形式の予言は非常に難解であったため、後世様々に解釈され、その「的中例」が広く喧伝されてきた。あわせてノストラダムス自身の生涯にも多くの伝説が積み重ねられてゆき、結果として、信奉者たちにより「大予言者ノストラダムス」として祭り上げられることとなった(「ノストラダムス現象」も参照のこと)。 長らくこれに対する学術的検証はほとんど行われてこなかったが、現在では伝説を極力排除した彼の生涯や、彼自身の予言観や未来観を形成する上で強い影響を与えたと考えられる文典の存在なども、徐々に明らかとなりつつある。そうした知見を踏まえる形で、ルネサンス期の一人の人文主義者としてのノストラダムス像の形成や、彼の作品への文学的再評価などが、目下着実に行われつつある。 ==出自== ノストラダムスの父方の先祖は、14世紀末以降、アヴィニョンで商業を営んでいた。父方の祖父が善良王ルネに仕えた医師・占星術師であったとする説は、ノストラダムスの弟や長男ら親族による誇張であり、父方の祖父も実際には商人であった。ピエール=ジョゼフ・ド・エーツによる18世紀の伝記などでは、ノストラダムスの先祖を更に遡れば、失われた十支族のイッサカル族に辿り着くとされているが、これもまた根拠を持たない。 父方の曾祖父ダヴァン・ド・カルカソンヌと祖父クレカは、15世紀半ばにユダヤ教からキリスト教に改宗した。改宗後、クレカはピエール・ド・ノートルダムと改名し、三度目の妻の姓をもとにペイロ・ド・サント=マリーとも名乗った。ノートルダムもサント=マリーも聖母マリアを意味する。祖父は改名後、ノートルダム姓をより多く用い、それが息子や孫(ノストラダムス)にも受け継がれた。 ピエールの息子でノストラダムスの父にあたるジョーム・ド・ノートルダムも、当初はアヴィニョンの商人であったが、サン=レミ=ド=プロヴァンス(当記事では以下サン=レミと略記)の住民レニエールと結婚した後、サン=レミに居を移した。 ノストラダムスはユダヤ人とされることもあるが、上記の通り、父方の祖父の代に改宗が行われている。また、父方の祖母ブランシュもキリスト教徒である。 母方については不明な点も多いが、曾祖父がキリスト教徒であったことは確かである。母レニエールもキリスト教徒であったと推測されているので、ノストラダムスはユダヤ人の定義には当てはまらない。 一部には、彼の一族は表向きキリスト教徒であったに過ぎず、実際にはユダヤ教の信仰を捨てていなかったと主張する者や、彼の一族がユダヤ教の秘儀に通暁していたなどとする者もいるが、これらは史料的な裏付けを持たない。少なくともノストラダムス本人は、公刊された文献等では王党派カトリック信徒の姿勢を示しており、著書の一つである『1562年向けの暦』もピウス4世に捧げられたものである。また、秘書を務めたこともあるジャン=エメ・ド・シャヴィニーも、ノストラダムスは生前熱心なカトリック信徒で、それと異なる信仰を強く非難していたと述べていた。 他方で、ルター派の顧客などと交わしていた私信の中では、プロテスタントに好意的な姿勢を示していたことも明らかになっている。ジェイムズ・ランディのように、カトリック信徒としての姿勢はあくまで表面的なもので、実際にはプロテスタントであったと見なす者もいるが、むしろ相手の立場に応じて言葉を使い分けていた可能性を指摘する者もいる。また、かつて渡辺一夫は、ノストラダムスのキリスト教信仰が、正統や異端に拘泥しない「超異端」の立場であった可能性を示唆していた。 ==生涯== 下掲の関連年表も参照。 ===少年時代および遊学期=== ノストラダムスは、1503年12月14日木曜日に、当時まだフランス王領に編入されて間もなかったプロヴァンス地方のサン=レミで生まれた。幼少期には母方の曾祖父ジャン・ド・サン=レミが教育係を務め、ノストラダムスに医学、数学、天文学ないし西洋占星術(加えて、ギリシャ語、ラテン語、カバラなどを含めることもある)の手ほどきをしたとも言われるが、ジャンは1504年頃に没していた可能性が高いため、彼が直接教育を施したとは考えられない。父方ないし母方の祖父が教育係とされることもあるが、どちらも15世紀中に没しているので問題外である(これらは公文書類で確認できる)。結局のところ、彼が幼い頃に誰からどのような教育を受けていたかは、未だ明らかにはなっていない。 ノストラダムスは、15歳前後(1518年頃)にアヴィニョン大学に入学し、在学中に自由七科を学んだようである。この点は、実証的な伝記研究でもほぼ確実視されているものの、史料的な裏付けはなく、入学時期もはっきりしていない。在学中には、学友たちの前で、コペルニクスの『天球の回転について』の内容を20年以上先取りするかの如くに正確な地動説概念を語るなど、諸学問、特に天体の知識の卓抜さで知られていたとする「伝説」はあるが、これも裏付けとなる史料はなく、むしろノストラダムスの宇宙観は、本来の地動説と対置されるプトレマイオス的なものとも指摘されている。 このアヴィニョン大学在学は、1520年に中断を余儀なくされたと推測されている。当時のペスト流行の影響で、アヴィニョン大学をはじめとする南仏の大学の講義が休講とされたからである。このことは、1521年から1529年まで各地を遍歴し、薬草の採取や関連する知識の収集につとめたと、後に本人が語ったこととも矛盾しない。他方で、ノストラダムスがこの遍歴に先立ってモンペリエ大学医学部で医師の資格を取得したとする説もあるが、現在では虚構の可能性が高いと考えられている。この説は、後にノストラダムスの秘書となったジャン=エメ・ド・シャヴィニーによるものだが、史料による確認が取れず、ノストラダムス自身が後の私信で、医学と判断占星術の研究歴を1521年頃から起算していることとも整合していないためである。史料的に裏付けられる同大学入学はこの遍歴の後である。 ===モンペリエとアジャンでの日々=== 1521年からの約8年にわたる遍歴を経て、ノストラダムスは1529年10月23日にモンペリエ大学医学部に入学した。この時点で、薬剤師の資格は取得していたようであり、その後研究を重ねて医学博士号を取得したとされる。ただし、その記録は確認されておらず、むしろ当時の学生出納簿にはノストラダムスの名を抹消した形跡があり、この傍には在学中に医師たちを悪く言ったかどで告発された旨の記述がある 。この点、はっきりと大学から除籍されたと位置づける者もいる。また、当時の正式な薬剤師登用に求められた条件(数年間に及ぶ徒弟修業期間や同業者組合内での試験)を、ノストラダムスが満たしていた形跡が見られないことから、入学前に薬剤師資格を所持していたこと自体を疑問視する者もいる。 この頃の「伝説」としては、博士号取得後に請われて同大学の教授として教鞭を執ったが、あたかも未来を先取りするかのような先進的な治療法のせいで、同僚の保守的な教授たちとの間で大きな軋轢が生まれ、わずか1年で辞職したというものがある。しかし、それは17世紀以降に言われるようになったに過ぎず、それを裏付ける史料は確認されていないどころか、上記のように博士号取得に至る過程自体もはっきりしていない。 従来博士号を取得したとされてきたこの時期の前後に、エラスムスに比肩しうる学者として知られていた、アジャンのジュール・セザール・スカリジェの招きを受けたこともあり、ノストラダムスはアジャンへと移住した。彼はアジャンで開業医として医業に携わる傍ら、博識のスカリジェから多くを学んだらしい。また1531年には、アジャンのアンリエット・ダンコスという女性と結婚したことが、1990年代に発見された結婚契約書から窺える。この発見によって、従来謎であった最初の妻の名前も明らかとなったが、慎重な見方をする論者もいる。実際のところ、この頃既にアジャンにいたのだとすれば、モンペリエで3年間研究して博士号を取得したとされた通説との間に、齟齬を来すこととなる。 結婚契約書の真偽はなお検討の余地があるとしても、アジャン滞在中に最初の結婚をし、子供をもうけたことは、確実視されている。しかし、1534年頃に妻子ともに亡くなったようである。この死因にはペストが有力視されているが、実際のところは不明である。その後、持参金などを巡って妻の実家から訴訟を起こされたという話もあるが、これも定かではない。 同じ頃には、元来気難しい性格であったスカリジェとの仲も険悪なものになっていった。さらには、1538年春にトゥールーズの異端審問官から召喚を受けたようである。その理由は「聖人を冒涜した」事を問題視されたという程度にしか分かっていない。怠惰な姿勢で聖母マリア像を作っていた職人に、そんなやり方では悪魔の像が出来てしまうと注意したところ、逆に聖母を悪魔呼ばわりした人物とされてしまったという説もあるが、これはトルネ=シャヴィニーらが19世紀になって言い出した話のようである。このほか、アジャンのプロテスタント医師サラザンが召喚された際に、交流のあったノストラダムスにも累が及んだとする説もある。 こうした諸状況の悪化によってノストラダムスは再度の遍歴を決心したとされるが、上述の通り裏付けとなる史料に乏しく詳細は不明である。ひとまず、妻子と死別したらしいこと、少なくともそれが一因となって旅に出たらしいことは確実視されている。実際、1530年代後半以降、彼の足取りは一時的に途絶える。この頃の伝説としては、オルヴァル修道院(フランス語版)に立ち寄って予言を書き残したというものがあり、19世紀に出現した偽書「オリヴァリウスの予言」や「オルヴァルの予言」と結びつけられることもあるが、資料的な裏付けを持たない。 ===医師としての活動=== 長い放浪を続けたノストラダムスは、1544年にマルセイユの医師ルイ・セールに師事したとされ、翌年には3人の囚人の診察をした記録がある。 そして、1546年に同じ南仏の都市エクスでペストが流行した時には、治療のために同市へと赴いた。これについてノストラダムス自身は、エクスの議会 (senat) と現地住民からペストの根絶を要請されたと語っている。そして、エクスの古文書館には、1546年6月にノストラダムスに契約金を支払ったことが記載された、エクス市の出納係ポール・ボナンの会計簿と、その際のノストラダムスの契約書が残されている。 伝説では、この時ノストラダムスは、鼠がペストを媒介することに気付き、直ちに鼠退治を命じたという。また、伝統的な治療法である瀉血を否定し、かわりにアルコール消毒や熱湯消毒を先取りするかのように、酒や熱湯で市中の住居や通りなどを清め、更にはキリスト教では忌避されていた火葬すらも指示したとされる。 しかし、後年ノストラダムス自身が『化粧品とジャム論』で述懐しているこの時の様子に、当時の医学知識の範囲を超えるようなものはなく、むしろ瀉血を試みた形跡すらある。患者の隔離をはじめとする初歩的な公衆衛生上の方策を取っていた可能性は指摘されているが、それは当時として一般的に行われていたことで、決してノストラダムスに固有のものではない。 『化粧品とジャム論』には、その時に用いた治療薬の処方箋も載せられているが、イトスギのおがくずや、磨り潰したバラ、丁子などを原料とするその薬の効能は強く疑問視されている。また、それらの原料には中世から用いられていた伝統的なものがいくつも含まれている。結局のところ、彼の医療活動とペスト沈静化との因果関係は不明瞭なままである。現時点で確実に言えるのは、当時は医師達も尻込みする傾向の強かったペストの流行地に、自ら果敢に乗り込んで治療に尽力した人物ということだけであり、その実効性を評価しうるだけの材料には乏しい。なお、ノストラダムスが何度もペスト流行地に赴いていたにもかかわらず、自身がペストで命を落とすことがなかった理由としては、免疫が出来ていた可能性も指摘されている。 その後ノストラダムスは、プロヴァンス州サロン・ド・クロー(現サロン=ド=プロヴァンス、以下「サロン」と略記)に落ち着き、1547年11月11日にこの地で未亡人のアンヌ・ポンサルドと再婚した。ノストラダムスは終生この街で過ごすことになるが、1年程度の旅行で家を空けることは何度かあった。最初の旅行は、再婚後間もない頃のイタリア旅行であり、処方箋などからはヴェネツィア、ジェノヴァ、サヴォーナなどを回ったらしいことが窺える。 この旅行中の出来事としては、以下のような「伝説」が有名である。ノストラダムスはこの旅行中、ある修道士たちの一団に出会った時に、そのうちの一人の前で恭しく跪いた上で、その相手が将来ローマ教皇となることを示唆したために、周囲の失笑を買った。しかし、その修道士フェリーチェ・ペレッティは、ノストラダムスの死から20年程のちにシクストゥス5世として即位し、ようやく彼の予言の正しさが証明されたのだという。この出会いにも裏付けはなく、後世の創作とされており、フラウィウス・ヨセフスの『ユダヤ古代誌』の二番煎じという指摘もある。 ===予言者としての成功=== 1550年代に入ると、ノストラダムスはサロンの名士として、公共の泉の碑銘を起草したり、クラポンヌ運河の開削事業に出資したりするようになる。こうした活動と並行して、翌1年間を予言した暦書(アルマナック)の刊行を始めるなど、予言者としての著述活動も本格化させていく。暦書は大変な評判となり、ノストラダムスは、より先の未来を視野に入れた著作『予言集』の執筆に着手する。1555年5月に初版が出された『ミシェル・ノストラダムス師の予言集』は、4巻の途中までしかない不完全なもの(完全版は全10巻)ではあったが、大きな反響を呼び起こしたとされている。 そのわずか2か月ほど後に当たる1555年7月に、国王アンリ2世とカトリーヌ・ド・メディシスからの招待を受けた。『予言集』の評判が王宮に届いたことが一因とされることが多いが、暦書の評判に基づくものであって、『予言集』はそもそも関係がなかったという指摘もある。 翌月に王宮で行われた謁見は成功裏に終わったようだが、その会見内容は不明である。翌年にノストラダムスが書いたものをもとに、むしろ会見では予言能力を疑われるような不手際があったのではないかという指摘もある。カトリーヌはそれとは別に、ノストラダムスを個人的に呼んで自身の子供たちの未来を占わせたとされ、四人の御子息はみな王になるという答えを得たという。四男エルキュールが早世したことでこれは外れたが、「御子息から四人の王が生まれる」という予言だったとする説もある。この場合、三男アンリはフランス王となる前にポーランド王となっていたため、正確な予言だったことになる。しかし、後にヴェネツィア大使ジョヴァンニ・ミキエリが1561年にまとめた報告書などでは、宮廷ではノストラダムスの「王子たちがみな王になる」という予言の噂が広まっていたとあり、「四人の王が生まれる」という予言は確認が取れていない。この件に限らず、カトリーヌとの対話は色々取り沙汰されるが、後出の唯一の例外を除いては、対話の内容を伝える史料は存在していない。 1557年には『ガレノスの釈義』(後述)を出版した。ノストラダムスは医師としての活動を縮小していたようだが、1559年の処方箋も現存している。 1559年6月30日、アンリ2世の妹マルグリットと娘エリザベートがそれぞれ結婚することを祝う宴に際して行われた馬上槍試合で、アンリ2世は対戦相手のモンゴムリ伯の槍が右目に刺さって致命傷を負い、7月10日に没した。現代では、しばしばこれがノストラダムスの予言通りであったとして大いに話題になったとされるが、現在的中例として有名な詩が取り沙汰されたのは、実際には17世紀に入ってからのことであった。なお、ノストラダムスは、1556年1月13日付けで国王と王妃への献呈文をそれぞれしたため、1557年向けの暦書に収録したが、このうちカトリーヌ宛ての献辞では、1559年を「世界的な平和(la paix universelle)」の年と予言していた。 ===晩年=== アンリ2世亡き後に王位に就いたフランソワ2世は病弱で、早くも1560年後半の宮廷では、ノストラダムスの予言を引用しつつ、王が年内に没すると噂されていたという。実際にフランソワ2世はこの年のうちに没し、ノストラダムスの名声は更に高まったようである。このエピソードは、ヴェネツィア大使ミケーレ・スリャーノやトスカナ大使ニッコロ・トルナブオーニらの外交書簡にも記載があるので、史実だったと考えられる。ただし、この噂話についても、かなり尾ひれがついていたという指摘はある。 なお、この頃のノストラダムス本人は、王侯貴族などの有力者を相手に占星術師として相談に乗っていたことが、現存する往復書簡からは明らかになっている。事実、1564年に依頼されて作成した、神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世の子ルドルフのホロスコープも現存している。 こうした予言に対しては、前出のカトリーヌのように心酔していた有力者もいた。彼女の場合、ノストラダムスを世界一の狡猾漢呼ばわりしているスペイン大使ドン・フランセス・デ・アルバの本国宛の書簡にも、その心酔ぶりを揶揄しているくだりを見いだすことができる。しかし他方で、ノストラダムス自身の往復書簡の中では、顧客や出版業者から、予言の曖昧さや冗長さにしばしば苦情も出されていたことが明らかになっている。 ときに、フランソワ2世の後を継いだ弟の国王シャルル9世は、フランス各地をまわる大巡幸の一環として、1564年10月17日に母后カトリーヌともどもサロンの街を訪れた。 ノストラダムスは国王親子とサロンのランペリ城(フランス語版)で会見をした。カトリーヌがモンモランシー公に宛てた書簡で言及しているおかげで、この時の会見内容は例外的に伝わっている。それによればノストラダムスは、モンモランシー公が90歳まで生きること、そしてシャルルも同じだけ長生きすることを予言したという(前者は3年後に公が75歳で没したことで外れ、後者はシャルルが10年後に23歳で没したことで外れた)。他方、ノストラダムスは、国王よりもむしろ随行していた少年に関心を示し、国王親子のいないところで、その少年がいずれフランスの王になると予言し、周囲を当惑させたというエピソードもある。この少年はナヴァル家のアンリで、のちにアンリ4世としてフランス王位に就くことになった。このエピソードが史実かどうかは定かでないが、パリ市民ピエール・ド・レトワルの日記(1589年)にも見出すことができる。 さて、大巡幸中のシャルル9世は、その後アルルに逗留した折にノストラダムスを呼び出し、彼に「常任侍医兼顧問」の称号を下賜したようである。なお、これは名誉上のものであり、ノストラダムスが宮廷に出仕したわけではない。また、彼が国王から何らかの称号を賜ったのは、これが唯一である。後にノストラダムスの伝記を書いた秘書のジャン=エメ・ド・シャヴィニーが「アンリ2世、フランソワ2世、シャルル9世の顧問兼医師」と誇張して紹介していたこともあり、あたかもノストラダムスが一定時期宮廷に出仕していたかの如くに書かれることもあるが、事実に反する。 その後のノストラダムスは、痛風もしくはリウマチと思われる症状に苦しめられていたようであり、1565年12月13日付の私信では、リウマチの症状のせいで21日も眠れないと述べている。ただし、後述する『王太后への書簡』が1566年12月22日付なので、少なくともその時点では、手紙を書ける程度に症状が改善していたと推測されている。 そして1566年6月には死期を悟ったのか、公証人を呼んで遺言書を作成した。7月1日夜には秘書シャヴィニーに、「夜明けに生きている私を見ることはないだろう」と語ったとされる。ノストラダムスは予兆詩で、自身がベッドと長椅子との間で死ぬことを予言しており、翌朝予言通りにベッドと長椅子の間で倒れているのを発見されたというエピソードが有名である。しかし、ノストラダムスの死と予兆詩を最初に結びつけたシャヴィニーは、彼がベッドと長椅子の間で倒れていたなどとは述べておらず、死んだノストラダムスを最初に確認したとされる長男セザールもそのようなことは語っていない。そもそも、当該の予兆詩は出版当時の文献が残っておらず、同年のイタリア語訳版との対照をもとに、現在知られている詩篇が大幅に改竄されている可能性まで指摘されている。 ===墓=== ノストラダムスは遺言書において、サロン市のフランシスコ会修道院付属聖堂の中でも、大扉と祭壇の間の壁面に葬られることを希望した。1582年に妻アンヌが亡くなった時にも、同じ場所に葬られたという。当時、教会などの建物に埋葬されることは珍しくはなかったが、他人から踏まれる床に葬られることで自身の謙譲さを示すという立場をとらなかったため、壁が選ばれたと指摘されている。当時、ノストラダムスは立った姿勢で葬られたという説もあるが、ノストラダムスの遺言書などにはそのような指示はなく、現在確認できる根拠からそれを裏付けることは出来ない。 その後、フランス革命最中の1793年頃に墓は暴かれた。暴いたのはマルセイユ連盟兵で、当時、ノストラダムスの墓を暴くと不幸が訪れるという、ある種の都市伝説が存在していたことについて、好奇心から詮索しようとしたのだという。伝説ではノストラダムスの遺骸の首には、墓暴きのあった年の書かれたメダルが掛けられていたなどと言われるが、史実としての裏付はない。この種の伝説の原型は、17世紀には既に登場していたという指摘もある。また、それから半世紀と経たないうちに、暴いた者がエクスの暴動に巻き込まれ、死体が街灯に吊るされたという話が出回るようになったが、実態は不明である。 その後、19世紀初頭に当時のサロン市長のダヴィドが中心となって、ノストラダムスの遺骨が集められたが、あまり多くは集められなかったらしい。その後遺骨は市内のサン=ローラン参事会管理聖堂 (La Coll*1*giale Saint‐Laurent) の聖処女礼拝堂に改葬された。なお、ノストラダムスの遺言書でフランシスコ会修道院付属聖堂を埋葬場所に指定した箇所は、当初サン=ローラン参事会管理教会のノートルダム礼拝堂と書いた後で訂正されたものだった。 現在もその礼拝堂は残っており、ノストラダムスの骨は壁の奥の壺に収められているというが、それが本当にノストラダムスの骨なのかどうか、疑問視する見解もある。 ==著作== ノストラダムスは私信をラテン語で執筆しているので、当然ラテン語に通じていたはずだが、ドイツ語訳された瓦版を除けば著作は全てフランス語であり、ラテン語で執筆したものはない。 ===『オルス・アポロ』=== ホラポロのヒエログリフに関する著書を翻訳した1540年代の手稿。1967年に再発見され、翌年公刊された。当時数多く作成されたホラポロの訳書の一つだが、韻文形式で訳すという他に例のない手法を取り入れているため、ホラポロの研究者からも注目されたことがある。 ===暦書類=== 1550年向けから1567年向けまで、1551年向けを除き毎年刊行された翌年1年間を予測した著書。韜晦的な内容ではあったが、非常によく売れたようであり、英語版やイタリア語版、偽版やその外国語訳版なども出版された。占星術師ノストラダムスの存命中の名声は主としてこの一連の著作によって確立され、アントワーヌ・クイヤール、ローラン・ヴィデルといった同時代者の批判者たちも主著『予言集』よりも、こちらに対して主たる攻撃の矛先を向けた。また、ノストラダムスには弟子を名乗る偽者や同姓を名乗る偽者たちも現れたが、彼らが主に出版したのも、暦書の便乗・模倣本であった。 ===『3月10日の7時から8時の間にフランス・サロンの町で多くの人に目撃された恐るべき驚異の光景』(1554年)=== 1554年3月10日に目撃された天体現象(彗星もしくは流星)について、プロヴァンス総督のタンド伯クロード・ド・サヴォワに報告した書簡である(1554年3月19日付)。ドイツの出版業者ヨアヒム・ヘラーによってドイツ語訳された片面1枚刷りの瓦版で、1921年にグスタフ・ヘルマンという人物が近代以降では初めて言及した。オリジナルのフランス語またはラテン語の書簡は未発見だが、特に偽作を疑われてはいない。1555年頃に出版されたが現存していない『1555年向けの暦』などにオリジナルが収録されていて、それがドイツ語訳されたのではないかという仮説もある。その内容は、銀色の火花を散らして空を突っ切っていったという松明のような炎(これは彗星の類と考えられている)について、エクス=アン=プロヴァンスやサン=シャマで取材を行なった結果も踏まえて分析し、プロヴァンス地方に襲い掛かる災厄の凶兆を見出すものとなっている。 ===『化粧品とジャム論』(初版1555年)=== 医師・料理研究家としての著作。2部構成になっており、前半で様々な薬品類の処方を説明し、後半で菓子類のレシピを紹介している。後半はフランス人による最初のジャムの製法指南書とされる。第一部の媚薬の製法は早々と削除されたものの、1572年までに少なくとも7版を数え、他にドイツ語訳版も3版刊行される人気作となった。第8章はノストラダムスがエクスでペストの治療に当たったときの記録であり、治療に使ったという丸薬の処方なども掲載されているが、前述の通りその効用は疑問視されている。 ===『ミシェル・ノストラダムス師の予言集』(初版1555年)=== 3797年までの予言を収めたと称する、ノストラダムスの主著。現在「ノストラダムスの予言」として引用される詩句・散文は、基本的にこの著作のものであり、有名な「恐怖の大王」もこの作品に登場する。本来は「百詩篇集」と呼ばれる四行詩と散文体の序文からなる著書であり、死後2年目までに全10巻が揃った。生前の版が確認されていない第8巻以降には、偽作説も唱えられている。17世紀に「予兆詩集」「六行詩集」が追加されたが、前者は本来暦書類に収録されていた別系統の詩群であり、後者は偽作の疑いが強く、信奉者にすら扱いに慎重な者たちがいる。 ===『ガレノスの釈義』(初版1557年)=== 正確には『メノドトゥスによる人文科学研究ならびに医学研究への勧告に関するC. ガレノスの釈義』(Paraphrase de C. Galen, sur L’exhortation de Menodote, aux *2*tudes des bonnes Arts, m*3*mement M*4*dicine)。ガレノスの著書をギリシア語原典を参照しつつラテン語版から忠実にフランス語訳したと主張している文献だが、実際にはかなり自由な訳になっている。この文献はデジデリウス・エラスムスが1526年に忠実なラテン語訳を刊行しているが、それと比べると優雅さや正確性の点で劣るとされている。これも医師としての著作と言えるが、内容的には、医学的というより哲学的であるとも指摘されている。リヨンの出版業者アントワーヌ・デュ・ローヌによって1557年に出版され、1558年に再版された。 ===『プロヴァンス州サロン・ド・クローのミシェル・ノストラダムス師による王太后への書簡』(1566年)=== 王太后(国王の母后)、すなわちカトリーヌ・ド・メディシスに捧げられた1565年12月22日付の書簡である。八つ折版で8ページからなるが、うち1ページは扉、2ページ分は白紙、ノンブルのない最終ページは紋章の図版があるだけなので、本文は実質的に4ページ分しかない。しかもそれが大きな活字で綴られているため、内容的にはかなり薄く、単著として刊行されたとはいえ、分量的には暦書類に掲載されていた有力者への献辞と大差がない。内容は前半で、近く開かれる会議についての見通しが語られ、紆余曲折はあっても最終的には誰もが納得する形で、フランスの平和につながると請け合っている。後半では、国王(シャルル9世)が17歳になる年に幸運な出来事が起こりそうなので、その正確な予言のために星位図を送って欲しいという依頼である。ピエール・ブランダムールはこれについて、1566年6月27日の国王誕生日を見据えたものだとした。この手紙に対してカトリーヌがどのように反応したのかは分かっていない。カトリーヌの書簡は19世紀にまとめて出版されているが、その中にもこれへの返書が含まれていないからである。文面からは王家の幸福を願うノストラダムスの真摯な姿勢が読み取れるとする評価もある。 ===『プロヴァンスにおける宗教戦争初期の歴史』(執筆時期未詳)=== シャヴィニーが言及しているほか、ノストラダムス自身が私信の中でその要約版の手稿について言及している。ただし、現存していないため、具体的な内容は不明である。 ===『息子セザールに宛てた未来のキリストの代理者に関するミシェル・ノストラダムスの予言』=== 「ノストラダムスの予言絵画」「ノストラダムスの失われた書」などと呼ばれる画集で、20世紀の終わりごろに発見されて話題になった。しかし、その内容の多くは中世から近世にかけて流布した教皇預言書の焼き直しにすぎず、実証的に見た場合、本物の可能性は全くない。 ===著作閲覧=== Nostradamus, Michel (1555) (French), Excellent & Moult Utile Opuscule *5* tous necessaire..., Antoine Volant, http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k79259s/f2.image .(『若干の魅力的な処方についての知識を得たいと思う全ての人々にとって優良かつ大変有益な二部構成の小論集』 通称:化粧品とジャム論)Nostradamus, Michel (1555) (French), Les Propheties de M. Michel Nostradamus, Mac*6* Bohnomme, http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k700592 . 1555, 1557, 1568 他(ミシェル・ノストラダムス師の予言集), ===筆名について=== ミシェル・ド・ノートルダムが本格的な著述活動に入るのは1550年頃からであり、ミシェル・ノストラダムスというラテン語風の表記をまじえた筆名を用いるのはこの頃以降のことであったとみなされている。公刊されたものとして現在確認できる最古のものは、1555年向けの暦書の表紙に書かれているものである(公刊されたものに限らなければ、現存最古は手稿『オルス・アポロ』に書かれた署名である)。 日本語文献の中には学生時代から用いていたとするものもあるが、史料的に裏付けることができない。学生時代の自署としては、モンペリエ大学入学時の入学宣誓書が現存するが、そこでは、ミカレトゥス・デ・ノストラ・ドミナ (Michaletus de Nostra Domina) という正式なラテン語表記が採られている(ただし、このミカレトゥスは、ミシェルを愛称化した上でラテン語表記したものである)。 また、日本では、ミ(ッ)シェル・ド・ノストラダムスという表記もしばしば見られるが、「ノストラダムス」の前に「ド」を付けるこのような表記は、ノストラダムス本人の著作には見られない。本来これは、同時代の偽者の一人であるノストラダムス2世が用いたものであった。ゆえに、不正確な表記ではあるのだが、同時代人にとっても紛らわしいものであったらしく、ノストラダムスの実弟ジャンの著書(1575年)や秘書シャヴィニーの著書(1596年)でも、「ミシェル・ド・ノストラダムス」と書かれてしまっている(この種の誤用の現在確認できる最古のものは、1556年10月14日付で暦書に与えられた特認の文面である)。 ==学術的な検証== ノストラダムスを大予言者と位置づける立場からの「ノストラダムス現象」の広まりに比べて、歴史学、文学、書誌学といった領域からの研究は長い間非常に限定的なものでしかなかった。しかし、20世紀半ば以降、主として英語文献と仏語文献では、専門的な研究も着実に蓄積されてきている。 ノストラダムス本人や先祖の伝記については、20世紀半ばにエドガール・ルロワやウジェーヌ・レーが古記録を丹念に調査し、実証度を飛躍的に高めた。この結果、伝説的な要素はかなりの程度排除できるようになった。レーはノストラダムスの往復書簡についても抄録の形ながら紹介を行い、この面でも実証的な伝記の形成に貢献した。また、ルロワも古文書での実証だけでなく、地元サン=レミの精神科医という利点を活かし、ノストラダムスの詩篇には、幼年期の記憶、すなわちサン=レミの景色や近隣のグラヌムの遺跡と一致するモチーフが存在することを初めて指摘した。 書誌研究の分野では、ミシェル・ショマラとロベール・ブナズラが、1989年と1990年に相次いで記念碑的な書誌研究を発表している。前者の研究対象は18世紀までの文献ではあるが、フランス語文献に留まらず英語、イタリア語、ドイツ語、オランダ語などの文献も幅広く網羅した労作である。後者の研究は基本的にフランス語文献に限定されたものであるが、対象時期は1989年までと幅広く、また重要な文献については詳細な分析を付加している。いずれも書誌研究として高く評価されている。 『予言集』の原文校訂および分析に関しては、多少粗い形とはいえ包括的な分析を行ったエドガー・レオニの先駆的研究(1961年)のほか、『予言集』初版収録分を主たる対象とするものであるが、ピエール・ブランダムール(1993年、1996年)、アンナ・カールステット(2005年)などの研究がある。ブランダムールは、予言詩のモチーフに、ルーサや『ミラビリス・リベル』といった同時代の予言的言説や様々な西洋古典からの借用が含まれていることを指摘したほか、同時代の事件や風聞に題材を採ったと思われる詩があることを示すなど、16世紀フランス史の文脈から手堅い研究を展開した(後述)。他方、カールステットは、モチーフの分析もさることながら、モーリス・セーヴら同時代の詩人との文体の比較を丁寧に行うことで、内容分析に比べて十分な蓄積がなされてこなかった文体論研究の分野にも貢献している。 ==予言の典拠== ここでは、彼が『予言集』、暦書類、顧客への私信などで予言を行う際に、何に基づいていたのかを、現在までの研究で明らかになっている範囲で扱う。なお、暦書類や私信よりも『予言集』の方が研究の蓄積が大きいため、例示は『予言集』のものが多くなる。この点については有名な予言詩の例も参照のこと。 ===占星術について=== ノストラダムスは、『予言集』や暦書類での予言の基礎を、判断占星術(Astrologie judiciaire, 星位をもとにして未来を占うこと)に置いていると主張していた。しかし、彼の占星術は、ローラン・ヴィデルのような同時代の占星術師からは、星位図の作成に誤りがいくつもあることなどを、強く批判された。 また、彼の占星術のオリジナリティには疑問が呈されている。少なくとも、リシャール・ルーサの『諸時代の状態と変転の書』(1550年)が主要な参照元であったことは確実である。これは、同書からほとんどそのまま引用している箇所が少なくないことからも明らかである。さらに、彼が顧客向けに手ずから作成した出生星位図にしても、既に公刊されていた他の占星術師の星位図などを下敷きにしたものであり、自身で全ての星位の計算を行っていたわけではないらしい。同様の例は『予言集』第二序文でも指摘されており、キュプリアヌス・レオウィティウスの星位計算をそのまま転用している箇所が指摘されている。 なお、文献の性質上、暦書については星位やその影響に関する叙述が多いものの、『予言集』では、占星術的な言及はそれほど多くない。正編とされる「百詩篇集」942篇の四行詩の中では、およそ41回言及されているに過ぎない。 ===歴史関連の参考文献=== 実証的な研究の蓄積は、『予言集』や暦書類といった彼の予言作品が、古代の終末論的預言(主たる基盤は聖書)を敷衍したものであると示唆している。彼は、これに、前兆に関する記録や過去の歴史的事件などを加味した上で、星位の比較も一助として、未来を投影したのである。 例えば、彼の予言には「空での戦闘」や「太陽が2つ現れる」といった記述がある。信奉者は、それらを現代ないし近未来の戦争や核爆発の描写と解釈するが、こうした現象は、当時の「驚異」(prodige) としてはありふれた言説であった(当時の人々がそれらをありうる、または実際に見聞したと認識していたことと、実際にそれらが起こったかは当然別問題である)。当時の人々はそうした「驚異」を何らかの変事の前兆と捉えていたのであり、ノストラダムスの予言には、当時の風聞やユリウス・オブセクエンスの『驚異の書』に基づく形で、そうした「驚異」が多く反映されている。 また、彼の予言に反映されている歴史的題材の分かりやすい例としては、スッラ、マリウス、ネロ、ハンニバルといった古代の人名が織り込まれている詩や散文の存在を挙げることができる。こうした歴史関係の叙述にあたっては、ティトゥス・リウィウス、スエトニウス、プルタルコスら古代の歴史家たち、及びヴィルアルドゥアンやフロワサールら中世の年代記作家たちの作品が参照されている。このことは、それらからの引用句を容易に同定できることから明らかである。 ===予言関連の参考文献=== ノストラダムスの予言は、独自に組み上げられたものだけではなく、先行する予言関連の著書からの借用も含まれていることが指摘されている。そうした彼の予言的な参考文献の中で最も重要なものは、疑いなく『ミラビリス・リベル』(1522年に出された編者不明の予言集)である。同書にはジロラモ・サヴォナローラの『天啓大要』の抜粋が含まれており、『予言集』第一序文には、そこからの引用が少なくない。 『ミラビリス・リベル』は1520年代に6版を重ねたが、その影響は持続しなかった。一因としては、ラテン語で書かれた第一部の分量が多く、かつ読み辛い古書体で印刷されていたことや、難解な省略が多かったことなどが挙げられる。ノストラダムスは、この書を最初にフランス語で敷衍した一人と言うことができ、一説には『ミラビリス・リベル』を出典とするノストラダムスの四行詩は137篇に上るとも言われている。 さらに異なる引用元として、クリニトゥスの『栄えある学識について』を挙げることができる。ここには、ミカエル・プセルロスの『悪魔論』や、4世紀の新プラトン主義者ヤンブリコスがカルデアやアッシリアの魔術について纏めた『エジプト秘儀論』からの抜粋を含んでいる。『栄えある学識について』をそのままフランス語に訳して転用した箇所や、ノストラダムスなりに敷衍した箇所は、第一序文の中でいくつも指摘することができる。また、「百詩篇集」の最初の2篇が、『エジプト秘儀論』の翻案と言うことはつとに知られていた。かつてはマルシリオ・フィチーノ訳の『エジプト秘儀論』などから直接借用したとされていたが、現在では否定されている。 ===他の参考文献=== ノストラダムスは、第一序文で、自身の神秘学系の蔵書を焼却したと語っている。これが事実だとしても、火にくべられた書物が何であったかは特定されていない。とはいえ、彼の蔵書の追跡調査も、1980年代以降行われており、その結果、彼の蔵書には、スコットランドの神学者ヨハネス・ドゥンス・スコトゥス、イスラム世界の占星術師アルカビティウス、パドヴァ大学の医学者コンファロニエリらの著書や、トマス・モアの『ユートピア』が含まれていたことが明らかになっている。 こうした出典の研究が進んだことで、かつて言われていたように、ノストラダムスが予言の際に何らかの魔術的な儀式を行ったり、トランス状態に陥ったりしたかどうかは疑問視されている。「百詩篇集」の最初の2篇には儀式的なことが書かれているが、既に見たように、これは他の文献からの翻案であり、本人の行動と一致するとは限らない。また、顧客向けの私信に儀式を行ったように書いているものもあるが、顧客に対して説得力を増すために誇張した可能性もある。 他方で、それをもって彼の詩が「予言詩」(「預言詩」)でない、と言い切ることには慎重さが求められる。当時の詩人にとって「詩を作ること」と「預言をすること」とが近しいものと捉えられていた点には、留意が必要だからである。そして、カールステットはまさにこの点において、ノストラダムスがプレイヤード派に影響を及ぼした可能性をも示唆している。 ==ノストラダムスの肖像== ノストラダムスの肖像は、冒頭にも掲げた息子セザールによる肖像画をはじめ、絵画、版画、『予言集』の挿し絵などで数多く描かれており、彫像なども複数存在している。しかし、同時代の肖像画として知られているのは、後述するピエール・ヴェリオのものが唯一である。 文章による風貌の証言としては、秘書だったシャヴィニーのものがある。 彼の身長は平均よりも少し低かったが、身体は頑強にして壮健で、逞しかった。大きく開けた額、真っ直ぐで一様な鼻、灰色の瞳をそなえており、眼差しは穏やかだったが、怒ったときには燃えているようだった。厳格だが陽気な風貌だったので、厳格さの中に深い人間味が込められているようだった。老齢になってまでも頬の血色は良く、あごひげは濃くて長かった。晩年を除くならば、健康状態は良好で快活だったし、諸感覚はすべて鋭敏で欠陥がなかった。精神に関しては、活発で良質なものを持っており、彼が望むことは全て軽々と理解できた。判断は緻密で、記憶力には驚くほど恵まれていた。無口な性格のため、熟慮しつつもほとんど口を開かなかったが、時と場合に応じて良く喋った。残りの点としては、彼は用心深く、迅速・性急で、怒りやすかったが、仕事には忍耐強かった。彼は4、5時間しか眠らなかった。言論の自由を愛して称賛し、陽気な性格で冗談が好きだったので、笑いながら辛辣なことも言った。 以下にノストラダムスをかたどった主な絵画、彫刻などとその概説を掲げる。 私は真理を語り、虚言を語らない。それは天からの賜りものゆえ、語り手は神であって、私ことノストラダムスではないのだ。Vera loquor, nac falsa loquor, sed munere coeliQui loquitur DEUS est, non ego NOSTRADAMUSと書かれている。この二行詩はもともと匿名の解釈書『ミシェル・ノストラダムス師の真の四行詩集の解明』(1656年)に掲載されていたもので、その著者は二行詩が自作のものであると示していた。この版画は、1668年パリ版をはじめ、17世紀から18世紀初頭の複数の『予言集』の版で模倣された。 ここで神は我が口をお使いになる、汝に真実を告げるために。もしも我が予言が汝の心を動かすなら、神へと感謝なさるがよい。この四行詩は、上記の1668年版に掲載されていたラテン語のフレーズに触発されたものという説もある。四行詩の上には小さくドーデ (Daudet) と署名があり、この版画の作者と考えられている。この肖像画は同時代のバルタザール・ギノーの解釈書などに転用された。 ==関連年表== 以下では、裏付けの取れるものを中心にとりあげた。『予言集』関連の詳細はミシェル・ノストラダムス師の予言集などを参照のこと。ノストラダムス・ブームなどの詳細はノストラダムス現象を参照のこと。 ===ノストラダムスの存命中の関連年表=== 1503年12月14日(木曜日) ‐ 誕生。1518年頃 ? ‐ アヴィニョン大学で自由七科を学んだとされる。1520年 ‐ 学業を中断したと推測されている。1521年 ‐ 各地を遍歴し、薬草の採取や関連する知識の収集につとめる(‐ 1529年)。1529年10月23日 ‐ モンペリエ大学医学部に入学。1531年 ‐ アジャンでアンリエット・ダンコス(Henriette d’Encosse)と最初の結婚。1530年代後半 ? ‐ 最初の妻と子どもをペストで失う。以降放浪したとされる。1545年前後 ? ‐ 手稿『オルス・アポロ』を執筆。1546年 ‐ エクス=アン=プロヴァンスでペストの治療に当たる。1547年 ‐ サロン・ド・クローに転居。以降、定住。1547年11月11日 ‐ アンヌ・ポンサルド(Anne Ponsarde)と再婚。1549年頃 ‐ 1550年向けの暦書類を刊行する。以降、1551年向けを除き、1567年向けまで毎年刊行される。この一連の刊行物の中で初めて「ノストラダムス」の名を用いたとされる。1551年頃 ‐ 長女マドレーヌ誕生。1553年11月 ‐ 翌年向けの暦書類について粗雑な版を組んだ業者とトラブルになる。1553年12月18日 ‐ 長男セザール誕生。1554年 ‐ 『3月10日の7時から8時の間にフランス・サロンの町で多くの人に目撃された恐るべき驚異の光景』がニュルンベルクで出版される。1555年 ‐ 『化粧品とジャム論』の初版を刊行する。1555年5月4日 ‐ 『ミシェル・ノストラダムス師の予言集』の初版を刊行する。1555年8月 ‐ 国王アンリ2世と王妃カトリーヌ・ド・メディシスに謁見。1556年頃 ‐ 次男シャルル誕生。1556年 ‐ アントワーヌ・クイヤールが『ル・パヴィヨン・レ・ロリ殿の予言集』を刊行する。これは『予言集』のパロディであり、最初の風刺文書である。1557年 ‐ 『ガレノスの釈義』初版を刊行する(翌年には再版される)。1557年9月6日 ‐ 『予言集』の増補版を刊行する。1557年11月3日 ‐ 三男アンドレ誕生。1557年11月3日 ‐ 『予言集』増補版の粗雑なコピーが刊行される。1557年頃 ‐ イタリア語訳版の暦書が刊行される。初のイタリア語訳版。1557年 ‐ 『ノストラダムスに対するエルキュール・ル・フランソワ殿の最初の反論』が刊行される。この頃からノストラダムスを非難する文書が複数刊行される。1558年 ‐ 『予言集』の完全版が出されたという説もある。1558年 ‐ 『エルキュール・ル・フランソワ殿の最初の反論』が再版される(タイトルが「モンストラダムスに対する」になる)。同じ年にジャン・ド・ラ・ダグニエール、ローラン・ヴィデルらも中傷文書を刊行した。1559年 ‐ 英訳版の暦書類が刊行される。初の英訳版。1559年7月10日 ‐ アンリ2世が没する。ノストラダムスはこれを予言していたとされるが、彼の生前に喧伝されていた詩(百詩篇第3巻55番)は、現在結び付けられている詩(百詩篇第1巻35番)とは別の詩である。1559年12月15日 ‐ 次女アンヌ誕生。1560年 ‐ ロンサールが『ギヨーム・デ・ゾーテルへのエレジー』においてノストラダムスの名を詩に織り込む。1561年 ‐ 夏ごろ、ジャン・ド・シュヴィニー(のちのジャン=エメ・ド・シャヴィニー)を秘書として雇う。1561年 ‐ 三女ディアーヌ誕生。1561年頃 ‐ パリで『予言集』の海賊版が刊行される。この版を刊行した業者バルブ・ルニョーは、前後する時期に、暦書の偽版2種類と海賊版と思しき版1種類も刊行している。1563年頃 ‐ この頃から「ミシェル・ド・ノストラダムス (Michel de Nostrdamus, Mi. de Nostradamus)」と名乗る偽者が著作を発表し始める。1564年10月17日 ‐ フランス全土を巡幸していた国王シャルル9世と母后カトリーヌ・ド・メディシスがサロンを訪れ、ノストラダムスと会見。ノストラダムスはアルルで、「常任侍医兼顧問」(Conseiller et Medecin ordinaire au Roy) の称号を受けたとされる。1566年 ‐ 『王太后への書簡』を刊行する。1566年 ‐ オランダ語訳版の暦書が刊行される。初の、そして唯一のオランダ語訳版。1566年6月17日 ‐ 公証人を呼んで遺言書を口述(6月30日に追補)。1566年7月1日 ‐ 秘書シュヴィニー(シャヴィニー)がノストラダムスの就寝前に最期の言葉を交わしたとされる。1566年7月2日未明 ‐ 長男セザールによってノストラダムスの死が確認される。 ===没後の関連年表=== 1568年 ‐ 現存最古の『予言集』完全版が刊行される。1570年頃 ‐ この頃から偽者アントワーヌ・クレスパン・ノストラダムスが著作を発表し始める。1572年 ‐ ドイツ語訳版の『化粧品とジャム論』が刊行される。この版は1573年と1589年にも再版された。1589年 ‐ シャヴィニーが手稿『ミシェル・ド・ノートルダム師の散文体の予兆集成』を作成。これにより、暦書類の内容がかなりの程度保存された。1590年 ‐ アントウェルペンで『予言集』が出版される。フランス以外で刊行された初めての版(対訳等はなし)。1594年 ‐ シャヴィニーが『フランスのヤヌスの第一の顔』を出版する。これは、ノストラダムス予言の最初の解釈本に当たる。また、冒頭の伝記は最初の伝記といえるが、誤りが少なくない。1605年 ‐ 1605年版『予言集』が刊行される。「予兆集」「六行詩集」が初めて組み込まれた版。1614年 ‐ 長男セザールが『プロヴァンスの歴史と年代記』を出版する。父ノストラダムスにも言及しており伝記的証言として重要だが、明らかな粉飾も含む。1649年頃 ‐ フロンドの乱の影響で、ジュール・マザランを貶めるための偽の詩篇を加えた偽「1568年リヨン版」『予言集』が刊行される。この時期は、ノストラダムスを主題とするマザリナードも多く刊行された。1672年 ‐ テオフィル・ド・ガランシエールによる英訳と解釈が収録された『予言集』が出版される。初の翻訳された版。1789年 ‐ フランス革命が始まる。それから10年ほどの間に10種以上の『予言集』の版と夥しい数の関連パンフレットが刊行された。なお、『予言集』の中には10篇ほどの詩を偽の詩に差し替えた版もあった。1791年 ‐ ノストラダムスの墓が荒らされる。その後、遺骨の一部が集められ、サロン市のサン=ローラン参事会聖堂聖処女礼拝堂の壁の中に安置し直された。1813年7月 ‐ 新たな墓所に墓碑が飾られる。現存する墓碑はこの時のものである。1859年 ‐ サン=レミに現存する「ノストラダムスの泉」が作られる。手がけたのは彫刻家アンブロワーズ・リオタールである。1939年 ‐ 第二次世界大戦。ナチスは自陣営に都合のよい解釈を載せたパンフレットを各国語に訳して配布した。また、フランス占領時に、いくつかの解釈書を発禁処分にしたという。このほか、特にアメリカでは、ノストラダムス関連書の刊行点数が増えた。1966年12月 ‐ パリのオークションに『1562年向けの暦書』の異本の手稿が現れる(暦書類で存在が知られている唯一の手稿)。現在の所有者は未詳である。1967年 ‐ フランス国立図書館で手稿『オルス・アポロ』が発見される。1973年11月 ‐ 五島勉の『ノストラダムスの大予言』が刊行される。刊行から3か月余りで公称100万部を突破するベストセラーとなり、日本における最初のノストラダムスブームが起きる。1980年 ‐ フランスでジャン=シャルル・ド・フォンブリュヌが『歴史家にして予言者ノストラダムス』を刊行する。フランスでベストセラーになり、他国語版も相次いで出版された。1982年9月 ‐ ウィーンのオーストリア国立図書館で『予言集』初版が発見される。初版本は1931年6月17日のオークションで現れたのを最後に所在不明となっていた。1983年 ‐ フランスでノストラダムス協会が創設される。1983年6月 ‐ ブダペストの国立セーチェーニ図書館に『予言集』1557年11月3日版が所蔵されていたことが確認される。1983年7月 ‐ アルビ市立図書館でも『予言集』初版が発見される。1991年 ‐ 日本では湾岸戦争にあわせ、ノストラダムス関連書が急増し、その年のベストセラーランキングに登場するものも出た。1992年 ‐ サロン市にノストラダムス記念館 (Le Mus*7*e de ”La Maison de Nostradamus”) が開設される。これは、彼が晩年を過ごした家を改築したものである(ただし、建物自体は1909年の地震 (南フランス)(フランス語版)で大きな被害を受けたため、当時の建物そのままではない)。設立当初は私設だったが、1997年からは公立博物館となっている。1996年 ‐ オランダのユトレヒト大学図書館で1557年版の『予言集』が確認される(2006年現在で現存はこの一例のみである)。1999年 ‐ 日本ではノストラダムス関連書が急増し、関連商品なども(単なるジョークも含め)多く発売された。ただし、1999年を境に日本のノストラダムス関連書はほぼゼロと言ってよい水準に落ち込む(2001年を除く)。これは、アメリカ、フランス、ドイツなどと比べて落差が最も顕著である。2001年 ‐ アメリカ同時多発テロ事件。アメリカ、フランス、日本などでこれに便乗した解釈本が何冊も出された。また、インターネット上でノストラダムスの詩と称する偽物が出回った。2003年 ‐ ノストラダムスの生誕500周年。サロン=ド=プロヴァンスでは記念の展覧会が開催された。これに合わせて、サロン市の市長が序文を寄せる形でカタログが出版された。2010年9月 ‐ パリのオークションに1561年ニコラ・ビュフェ未亡人版『予言集』が現れる。従来は存在そのものが想定されていなかった版であり、現時点で確認されている範囲では、海賊版の流れを汲む最古の版である。 =佐久間ダム= 佐久間ダム(さくまダム)は、静岡県浜松市天竜区佐久間町と愛知県北設楽郡豊根村にまたがる一級河川・天竜川本流中流部に建設されたダムである。 電源開発 (J‐POWER) が管理する高さ155.5メートルの重力式コンクリートダム。日本第9位の高さと第8位の総貯水容量を有する日本屈指の巨大ダムであり、戦後日本の土木技術史の原点となった日本のダムの歴史に刻まれる事業である。佐久間発電所と新豊根発電所により最大147万5000キロワットを発電する水力発電を主目的とし、副次的に豊川用水の水源にもなっているほか、2004年(平成16年)より洪水調節目的を付加して多目的ダムとするダム再開発事業が国土交通省によって進められている。ダムによって形成された人造湖は佐久間湖と命名され、ダム湖百選に選定されたほか天竜奥三河国定公園に指定されており、地域の主要な観光地になっている。 ==地理== ダムのある天竜川は諏訪湖を水源とし、木曽山脈と赤石山脈の間を縫うようにして南に流れる。上流より泰阜(やすおか)ダム、平岡ダムが建設されており、佐久間ダムはその下流に建設された。ダムは天竜川が大きく蛇行する大千瀬川との合流点の直上流部、静岡県と愛知県の県境に建設されている。ダムが建設された当時の所在地は磐田郡佐久間村であったが、ダム完成直後昭和の大合併で佐久間町となり、平成の大合併によって浜松市に編入、政令指定都市となったことから現在は天竜区となっている。高さ100メートル以上のダムがある政令指定都市は浜松市のほか札幌市(豊平峡・定山渓ダム)と静岡市(畑薙第一・井川ダム)がある。 なお、佐久間湖を含めた場合には静岡県・愛知県のほか長野県下伊那郡天龍村にも掛かっており、3県にまたがるダムも日本では稀少である。 ==沿革== 天竜川は赤石・木曽の両山脈に挟まれ、夏季の多雨と冬季の降雪によって年間を通じて水量は豊富であり、かつ中流部の長野県飯田市から静岡県浜松市天竜区、旧天竜市付近に至る約80キロメートル区間は天竜峡などを始めとして険阻な峡谷を刻む急流となる。このため水力発電を行う上で理想的な河川であることから、大正時代より水力発電開発の構想が持たれていた。 ===天竜川の水力発電開発=== 最初に水力発電所が建設されたのは、福澤桃介が設立した天竜川電力による大久保ダム・大久保発電所(出力1,500キロワット)であり、1927年(昭和2年)に完成した。続いて南向ダム・南向発電所(2万4100キロワット)が1929年(昭和4年)、泰阜ダム・泰阜発電所(5万2500キロワット)が1937年(昭和12年)にそれぞれ完成、天竜川の水力発電事業は加速してゆく。 しかし、1939年(昭和14年)、国家による電力統制を目論む軍部の意向で、第1次近衛内閣が電力管理法を施行したのに伴い、日本発送電が発足。天竜川の水力発電所を逐次接収しながら、1940年(昭和15年)より、当時としては天竜川最大規模のダムであった平岡ダムと平岡発電所(4万1000キロワット)の建設を開始するが、太平洋戦争の激化に伴い中断を余儀なくされた。 戦時中は民需への電力供給が制限されていたが、敗戦後その制限が解かれ、一挙に電力需要は増大した。しかし発電所や変電所などの送電施設は、空襲による破壊や酷使による設備故障で従前の発電能力を発揮できず、また新規開発事業の中断もあって電力供給が著しく衰微した。このため電力需給のバランスが崩壊し、日本は極端な電力不足に陥り、頻繁に停電が起こった。 天竜川では日本発送電により平岡発電所の建設が再開されていたが、1948年(昭和23年)に日本発送電が過度経済力集中排除法の対象に指定され、1951年(昭和26年)にはポツダム政令に基づく電気事業再編成令により9電力会社に分割・民営化され、天竜川水系の発電用水利権と水力発電所の一切は中部電力に移譲された。しかし中部電力を含む9電力会社は発足間もないため経営基盤が弱く、電力不足を根本的に解消するだけの大規模な電力開発を行うだけの余裕がなかった。 ===大ダム構想=== このため当時経済政策全般を管掌していた経済安定本部は、慢性的な電力不足による停電が及ぼす産業復興阻害や治安悪化を懸念し、当時課題であった水害頻発と食糧不足にも対応するため、戦前物部長穂が提案した河川総合開発事業を軸にした河川開発で治水と電力・食糧供給の改善を図ろうとした。天竜川流域では長野県が林虎雄知事(当時)により支流の三峰(みぶ)川で治水と発電を目的とした三峰川総合開発事業を1949年(昭和24年)より着手し、下流では農林省(のちの農林水産省)により三方原台地や愛知県渥美半島への灌漑を目的とした土地改良事業を計画するなど、多方面にわたる開発が企図されていた。第3次吉田内閣はこのような河川を利用した大規模地域開発を推進するため1951年(昭和26年)に国土総合開発法を施行し、全国22地域を対象にした「特定地域総合開発計画」を発足させた。天竜川水系もこの22地域に選ばれ、治水と灌漑、そして水力発電開発を軸とした天竜東三河特定地域総合開発計画が1954年(昭和29年)6月11日に閣議決定された。この計画は天竜川上流部には美和ダム・高遠ダム(三峰川)を建設して治水・発電及び伊那盆地への灌漑を行い、中流部では大規模な発電用ダムを建設して大出力の水力発電を行う一方で、ダムを水源として豊川用水や三方原用水などを通じ静岡県西部と愛知県東部の灌漑を行うことが骨子であった。 このため天竜川中流部に大規模なダムを建設する必要が生まれ、白羽の矢が立ったのがダム地点である佐久間地点である。この地点は両岸が険しい断崖でV字谷を形成し、地質も良好であったため大規模ダム建設には理想的な地点であった。既に1921年(大正10年)より当時の名古屋電灯が水利権を獲得し、同社を吸収した東邦電力や日本発送電が継承して調査を行い、戦後は中部電力が東京電力と共同で開発計画を立てていたが何れも陽の目を見なかった。佐久間地点が着手に至らなかった原因には、以下の理由がある。 ダム地点の両岸は絶壁に近い断崖で川舟以外に到達できる手段がなく、トロッコやもっこを利用していた当時の土木技術では施工が不可能だったこと。天竜川の流量は特に春季から夏季にかけての流量が膨大である。ダム本体を建設する前段階として川の流れを現場から迂回させる仮排水路トンネルを建設するが、天竜川の洪水期流量に対応できる大口径のトンネル工事を非洪水期(秋季 ‐ 冬季)の短期間に完成させることが当時の土木技術では困難であり、仮に洪水が襲来すれば再建にかなりの時間を要すること。川底に堆積した砂利堆積物が深さ25メートルにも及び、1の要因もあって掘削・除去するのが困難であること。日本発送電分割・民営化後に誕生したばかりの電力会社は経営基盤が脆弱(ぜいじゃく)で、単独で佐久間地点にダムを建設だけの資金調達に耐えられないこと。以上の理由、すなわち土木技術的な問題とそれを支える資金面の問題が複合し、これを解決しない限り佐久間地点のダム建設は不可能であったことから、何れの事業者も結局構想のままで終わっていた。 ===電源開発への移管=== しかし電力不足解消と天竜東三河特定地域総合開発計画の根幹として佐久間地点のダム建設計画は避けて通ることが出来なかった。このため政府は1952年(昭和27年)に発足した特殊法人である電源開発に天竜川中流部の水力発電開発を委ねる。その根拠となったのが同年7月31日に施行された電源開発促進法の第3章第13条である。この条目では 只見川その他の河川等に係る大規模な又は実施の困難な電源開発国土の総合的な開発、利用及び保全に関し特に考慮を要する北上川その他の河川等に係る電源開発電力の地域的な需給を調整する等のために特に必要な、火力、原子力又は球磨川その他の河川等に係る電源開発の何れかに合致した地点を電源開発が開発すると定めている。同法に基づき只見特定地域総合開発計画や北上特定地域総合開発計画、吉野熊野特定地域総合開発計画に電源開発は電気事業者として参入するが、天竜川中流部・佐久間地点もこの1と2に該当するため電源開発の開発対象地域となり天竜東三河特定地域総合開発計画に参入、発電用水利権を中部電力より移管した上で同年10月20日、会社が発足してわずか1ヵ月後に佐久間ダム・佐久間発電所の建設を正式に発表した。 ==補償== 佐久間ダムは田子倉ダム(只見川)・御母衣ダム(庄川)と共に電源開発発足当初から主要な計画として進められた。だが、計画通りダムが建設されると上流の平岡ダムの直下流まで水没範囲が広がる。この付近は山あいのわずかな平地を利用して集落が点在しておりダムによって248戸が直接水没、工事用用地建設により48戸が移転、合計で296戸が移転を余儀なくされる。また宅地76ヘクタール、農地446ヘクタール、山林4,408ヘクタールが水没するという大規模補償事案となった。しかも水没物件が多い上に静岡県だけではなく愛知県豊根村・富山村、長野県天龍村と三県にまたがる広範囲な水没地域となることから、補償交渉は難航が予想された。 ===補償交渉の経過=== 1953年(昭和28年)1月電源開発は元南満州鉄道副総裁で、当時は電源開発補償担当理事の平島敏夫を本部長とする「佐久間補償推進本部」を設置。補償交渉の下地となる補償基準の作成に取り掛かった。だが、水没住民の抵抗のみならず慣行水利権の問題から、静岡・愛知・長野三県の当局者はダム建設に対し冷淡な姿勢を取り、積極的な協力体制を見せなかった。また、ダム建設に伴い天竜川沿いを走る国鉄飯田線の約18キロメートル区間や豊根発電所が水没するほか、林業が盛んであったことでいかだ流しによる流木が途絶する。このため住民への補償のほか鉄道補償、発電補償、流筏(りゅうばつ)補償も山積し、平島以下補償推進本部の所属員は「血の小便を流す」ほどの苦難であったと伝えられている。政府は同年5月、電源開発に伴う水没その他による損失補償要綱を閣議決定し、発電用ダム建設に伴う補償対策について電力行政を所管する通商産業省(のちの経済産業省)が援護する施策を採った。 翌1954年(昭和29年)1月より、まとめられた補償基準を元に住民との補償交渉が始まった。水没住民はダム建設の重要性を知っていたことから「銀座一等地並みの地価で補償しろ、そうでなければよそでダムを造れ」というように難題を持ちかけた。父祖伝来の土地が水没する瀬戸際であることから、住民も真剣勝負であった。これに対し平島は概ね住民の要求に沿った補償を行う姿勢を採った。 まず佐久間村、豊根村、富山村、天龍村の各町村にそれぞれ対策委員会を設置して団体交渉を行い、個人交渉による不透明な補償を排して透明性の高い交渉を基本とした。その上で家屋補償では建築技師に1軒ごとの測量と製図、家屋の材料を吟味させて補償価格を決定。農地と山林については作柄に応じて坪単価・用材別単価で価格を算定した。また流筏業者を始め、ダム建設によって転業や廃業を余儀なくされる住民には推進本部に所属する社員が木目細やかな対応を行い、就職先斡旋や生活設計相談に応じた。さらに公共補償については学校、道路、橋梁などの公共物の新築・移築・増築を全て電源開発が請負い、当時の額で17億円を投じてインフラストラクチャー整備を行った。 この佐久間ダムにおける電源開発の補償姿勢は同時期の田子倉ダム補償事件と同様に高額な補償額での妥結を主としており、河川行政を担当し多目的ダム建設を各地で進めていた建設省(のちの国土交通省)は、補償額高騰による事業費の圧迫を嫌う立場から特に異議を唱えた。当時の建設省による水没補償に対する姿勢は、例えば1953年に建設された石淵ダム(胆沢川)における水没住民への態度が1963年(昭和38年)に科学技術庁(現在の文部科学省)発行の『石淵貯水池の水没補償における実態調査報告』において、「国益を強調し自らの立場を高める権威主義と強制収用をちらつかせる強圧的態度を貫き、水没住民を思い遣る態度は全く見られない」と厳しく批判されており、同時期施工中だった藤原ダム(利根川)や鎧畑ダム(玉川)などでも住民との軋轢が生じた。だが電源開発は建設省の異議に対し「補償交渉は一片のペーパープラン通りには進まない」として住民本位の補償交渉を進めた。 電源開発の補償に対する姿勢は当時総裁であった高碕達之助の強い意志によるもので、御母衣ダムにおける「幸福の覚書」や荘川桜の移植などダム・発電所建設における基本方針となり、1968年(昭和43年)に施工された九頭竜ダム(九頭竜川)において「補償交渉が完了するまではダム工事には着手しない」という「九頭竜補償方式」が確立された。一方国による水没住民への明確な補償指針が示されるのは、蜂の巣城紛争を経た1973年(昭和48年)の水源地域対策特別措置法を待たなければならなかった。 ===補償交渉の妥結=== 国鉄飯田線付替については飯田線#佐久間ダム建設に伴う路線変更を参照 住民本位の補償交渉を行った電源開発の姿勢は次第に住民の態度を軟化させ、同年11月に富山村の141世帯との補償交渉が妥結したのを皮切りに、1955年(昭和30年)には296世帯全ての補償交渉が妥結した。漁業補償や流筏補償も妥結。飯田線については従来天竜川沿いを走っていた路線を佐久間駅から峰トンネルで国道152号(秋葉街道)沿いに大きく迂回させ、水窪町(静岡県浜松市天竜区水窪)中心部を経て大原トンネルで再度天竜川沿いに戻し、大嵐(おおぞれ)駅に通じる代替路線を整備した。新しい飯田線は1953年12月から1955年11月までの約2年間を掛け、佐久間ダム総工事費の6分の1にあたる60億円を投じて付替え工事を終了した。豊根発電所については発電所建屋と取水口を移設した上で運転を継続したが、1972年(昭和47年)に廃止され代替施設として新豊根発電所が建設されている。住民の一部は新天地を求め、電源開発が斡旋した愛知県豊橋市の代替地に41戸が集団移転した。ダムは1956年(昭和31年)10月完成したが、296戸の住民の犠牲の上に高度経済成長の礎が築かれたことも事実である。 ダム完成の翌1957年(昭和32年)10月28日、昭和天皇・香淳皇后が佐久間ダムに行幸した。この際天皇・皇后は御製・御歌を認めたがその内容はダム建設に関連して苦労を重ねた水没住民・事業者など全ての関係者を労わる内容のものであった。佐久間ダムの建設は地元佐久間村を始め周辺地域に対し、父祖伝来の土地を沈めるという痛みを与えたが一方で公共施設や道路整備、補償や政府の自治体財政支援による経済効果をもたらした。この一連の状況はユネスコ日本国内委員会の要請で日本人文科学会が編集した『佐久間ダム ‐ 近代技術の社会的影響』という報告書で詳述された。さらにダム完成の半年後、佐久間村は浦川町、山香村、城西村と合併して新制佐久間町となったが、この合併も佐久間ダムの建設が間接的な影響を及ぼしている。 ==施工== 佐久間ダム・発電所の構想は先述の通り1921年名古屋電灯が最初に発案したが、当初は現在の佐久間湖区域を三分割して佐久間・山室・小汲発電所を建設する計画であり、佐久間発電所の出力も3万5000キロワットと小規模であった。大ダム計画に変化したのは1947年(昭和22年)に日本発送電東海支店が発表したダム案からであり、この時には高さ140メートル、出力42万キロワットの計画に上方修正されている。そして電源開発による正式な開発が決定した段階で高さ160メートル、出力36万キロワットとなり、後に高さを4.5メートル低くした現在の規模となった。それでもこの規模は当時工事中ではあるが日本一の高さであった栃木県の五十里ダム(男鹿川)の112メートルを一挙に43.5メートルも上回り、当時としては世界第7位、日本最大の高さを有する巨大ダム計画となった。従来の工法では少なくとも完成までには10年は必要とされたが、当時の日本は高度経済成長にひた走る時期であり、電力需要は急上昇の一途をたどっていた。従って電力開発は国家の至上命令でもあり、当時の電源開発は昭和30年度財政投融資において国鉄の約240億円、日本電信電話公社の約75億円、郵政事業特別会計や日本航空の約10億円に比べ約269億円が融資されており、佐久間ダムは一刻も早い完成を求められた。 ===国際入札の導入=== 総裁であった高碕達之助は大規模な重機を駆使した近代化工法の採用が、ダム建設を最短で終わらせる唯一の策と考えた。日本におけるダム技術は庄川の小牧ダムにおいて近代的なコンクリート打設工法が導入されていたが、大型重機運用の導入はまだ緒についたばかりだった。日本においては木曽川の丸山ダムにおいて日本国産油圧ショベルとダンプカーによる大型重機の機械化工法が導入されていたが、日本人の操作技術が未熟だったため故障が続出。導入した重機の稼働率は半分程度であった。このため高碕は当時最先端の土木技術を有していたアメリカ合衆国に活路を見出そうとした。1952年11月に渡米した高碕は当時建設されていたパインフラットダム(英語版)を視察する。アメリカ陸軍工兵司令部が施工していた高さ130メートル、総貯水容量約12億3300万立方メートルの巨大ダムであるが、ダム本体規模が佐久間ダムと同程度でありながら重機が整然と動いており、これを佐久間の参考とした。その後日本興業銀行の保証を得てバンク・オブ・アメリカから3年期限・無担保で総額900万ドルの借款を得た。その資金援助を背景に、アメリカの土木業者・コンサルタントと提携しアメリカ製大型重機を使用する条件を以って国際入札を翌1953年(昭和28年)1月に発表した。この結果最も入札額が安く、かつ先に視察したパインフラットダムで使用されていた重機をそのまま移送して使用するという条件提示をしたアトキンソン社・間組・熊谷組連合が落札し、ダム本体工事を間組、発電所工事を熊谷組が担当することになった。 一方、佐久間発電所で使用される水車発電機についても高碕は国際入札を導入した。発電所で使用される水車発電機は9万6000キロワットの出力を有する水車と9万3000キロボルトアンペアの出力を有する発電機を各4台導入する計画であり、何れも当時最大規模の設備だったことから日本国内の電機メーカーはその行方を注視していた。しかし高碕が国際入札を導入すると発表したところ、電機業界は外資導入に強く反発。さらには政府や与党である自由党も反対した。当時の内閣総理大臣であった吉田茂は高碕に国際入札を中止するよう圧力を掛けたが、高碕は総裁就任時に吉田と交わした「会社の方針に政府は介入しない」という約束を盾にこれを突っぱね、入札を行った。参加したのは日立製作所・東芝・三菱電機・電業社機械製作所・三菱重工の国内企業連合、富士電機・シーメンス連合、ゼネラル・エレクトリック社などの外資連合の三つであったが、最終的に社内見積りよりも入札額が安い国内企業連合が落札した。 この国際入札について当時参議院議員・電源開発顧問で、後に民社党委員長となった佐々木良作は高碕の態度について「談合を避けて真剣に入札させるには、毒(外資)を以って毒(談合)を制する以外にない。しかし日本が勝つ。賭けてもいい」という趣旨の話をしたと証言している。事業費が国民の税金である以上、経費圧縮は必要であり、企業家精神は特殊法人であっても不可欠という高碕の強い信念がうかがえる。また日本の河川開発の見本であったテネシー川流域開発公社(TVA)の創始者、デビッド・リリエンソールは1953年の自著『TVA ‐ 総合開発の歴史的実験』において「(TVAは)民間企業の融通性と独創力を併存させた特殊法人」と力説しており、高碕の目指す電源開発の企業像もTVAと軌を一にしていた。だが一連の国際入札問題が尾を引き、高碕は第5次吉田内閣によって電源開発総裁職を1954年7月19日に更迭させられた。なお高碕はダム完成式典において、第3次鳩山内閣の経済企画庁長官として出席している。 ===工事の進行=== 入札を含む工事の開始は、水没住民に配慮し佐久間補償対策本部による補償交渉が開始されたのを見計らって着手された。まず大型重機や建設用資材を運搬するための工事用道路の建設に着手した。ダム現場のすぐ近く、約3キロメートルのところに国鉄飯田線中部天竜駅があり、遠方からの運搬は鉄道輸送で賄えたが工事現場は先に述べた通り両岸が絶壁に近い峡谷であるため、右岸の川沿いと左岸の山中に道路を敷設する計画が取られた。しかし一刻も早く工事に着手する必要があったことから、道路が完成するまでは大型重機を川舟に乗せて工事現場まで輸送する策が取られた。幅員6.5メートル、全長3キロメートルの道路が完成したことで、重機やコンクリートなどの資材運搬はきわめて円滑に行われるようになり、工期の短縮に貢献する。この工事用道路のうち左岸部の道路は佐久間ダム連絡道路として現在でも利用されているが、右岸の道路は廃道となりダム直下流にある飛龍橋にその痕跡を留めているのみである。 道路完成後天竜川の流路を変更する仮排水路トンネル工事が1953年12月より開始されたが、融雪や大雨による洪水被害を回避するために翌年3月までの完成が必須だった。春季以降にずれ込めば最大で毎秒数千立方メートルの鉄砲水が工事現場を襲い、現場復旧に時間が掛かり工期が遅れるためである。しかしアメリカから導入されたガードナー・デンバー社製ドリルジャンボなどの大型重機は1日最大掘削量872立方メートルという当時世界第二位のトンネル掘削となり、ユークリッド社製の大型ダンプカーとキャタピラー製のブルドーザーによる土砂運搬もあいまって予定通り翌1954年3月には完了した。天竜川の河水はトンネルを通って工事現場下流に迂回され、水が無くなった工事現場では川底の深さ25メートルにも及ぶ膨大な砂利堆積物をビサイラス・エリー社製の大型油圧ショベルなどで掘削・運搬。堅い基礎地盤が露出したことでダム本体のコンクリート打設が1955年(昭和30年)1月より開始された。このコンクリート打設もウィスコ社製の高速度ケーブルクレーンやコンクリート運搬車などの大型重機が威力を発揮し、1日のコンクリート打設量5,180立方メートルは当時の世界記録として、日本国外の雑誌にも紹介された。 コンクリート打設中の1955年12月には貯水が開始され、翌1956年(昭和31年)4月23日には佐久間発電所で23万キロワットの一部運転が開始された。7月にはダムの放流による巨大なエネルギーを相殺するため減勢工に建設される副ダムが完成した。この副ダムは高さ30メートルであり、独立したダムとして認められている神奈川県の宮ヶ瀬副ダム(中津川)に匹敵する規模の大きさである。そして同年9月、5門からなるゲートが閉じられてダムは完成。佐久間発電所も出力35万キロワットの全面運転を開始した。巨大なダムでありながら工事に着手して、わずか3年という短期間で完成しているが、その原動力となったドリルジャンボは佐久間ダムにおいて日本で初めて導入され、また日本国外製の大型ダンプカーやブルドーザー、油圧ショベルなどといった重機を始めとした土木の最新技術が日本人技術者に伝えられ、以後急速に日本国内で普及した。 ===栄光と犠牲=== 佐久間ダムの建設は日本の土木史において「金字塔」と称えられる。その理由はダムを始めとする大型土木構造物の近代的機械化工法を確立したこと、この後建設される奥只見ダム(只見川)や宮ヶ瀬ダム(中津川)などの大規模コンクリートダムや九頭竜ダム、徳山ダム(揖斐川)など大規模ロックフィルダム建設の基盤となったこと、また土木技術や電気設備技術において発展途上だった日本企業に影響を与え、日本国外に日本の技術の優位性を示す契機になったことなどである。先の水車発電機国際入札に反対した当時の日立製作所社長・倉田主税も「(入札で)赤字は出したがその後色々勉強をし、技術にも自信が持てた。それが日本国外への輸出につながったので、安い授業料だった」旨の述懐をしている。 またダムの完成は敗戦の影響を引きずっていた日本国民の注目を浴びた。一例として岩波映画製作所製作・高村武次監督によるダム建設の記録映画『佐久間ダム』がある。当初は単なる記録映画だったが、佐々木良作が大蔵省に映画制作を交渉したところ却下されたため劇場公開用に変更したという経緯がある。音楽を芥川也寸志、解説を芥川比呂志兄弟が担当したこの映画は三部作として劇場公開されたが、観客動員数が第一部300万人、第二部250万人、第三部25万人と三部作合計で575万人を動員する大ヒットを記録。上映終了後も各地の学校や企業などから貸し出し依頼が殺到した。また当時の郵政省は佐久間ダムの完成を記念して1956年10月15日の完成式に合わせて「佐久間ダム竣工(しゅんこう)記念」切手を発行。折からの切手ブームもあって多くの売り上げがあった。ダム完成を記念して発行された記念切手は、佐久間ダムのほかは小河内ダム(多摩川)しかない。佐久間ダムは文学や芸術の世界にも影響を与え、井上靖はダム工事現場を題材とした小説『満ちて来る潮』を発表。絵画では小山敬三が『佐久間ダム』を発表し、利根山光人は映画『佐久間ダム』の影響を受け実際にダム工事現場の飯場に住み込んで絵を描いている。 しかしこうした栄光の一方で、ダム建設中における労働災害が原因で96名の労務者が殉職している。要因としては豪雨や台風による天竜川の洪水や、険阻な峡谷が建設現場だったことによる転落や落石などであるが、最も問題になったのは安全意識の欠如であった。佐久間ダムより以前の土木工事現場では、本来着用が必須である保安帽、すなわち頭部を守るヘルメットがほとんど着用されていなかった。佐久間ダムにおいても保安帽を被る労務者は皆無に等しく、これが死亡事故増加を助長し国会でも問題になった。これを受けて安全対策向上の指導がアトキンソン社の技術者により繰り返され、労務者全員が保安帽を着用するに至った。工事現場における安全管理対策の先鞭となったのも、佐久間ダムであった。高度経済成長を支えるという大義の下で天竜川に命を落とした96名の冥福を祈るため、PR館であるさくま電力舘の傍には慰霊碑が建立されている。 ==目的== 佐久間ダムの目的は水力発電であり、佐久間発電所・新豊根発電所により合計147万5000キロワットを生み出すが、副次的に灌漑や上水道・工業用水道の供給も行う。正式な目的は水力発電しかないが、天竜東三河特定地域総合開発計画の根幹事業でもあり、事実上多目的ダムとして利用されている。以下、目的について詳述する。 ===佐久間発電所=== ダムと同時に運転を開始した佐久間発電所は、最大出力が35万キロワットと日本において揚水発電を除いた一般水力発電の中では、奥只見発電所の56万キロワット、田子倉発電所の40万キロワットに次いで日本第3位の出力を有する。この出力は完成時において、東京電力の総出力の14パーセント、中部電力の23パーセントに相当するものであり、当時如何に巨大な水力発電所であったかが分かる。また年間発生電力量は年によって差はあるが平均して約13億キロワット時であり、この記録は運転開始以降破られていない日本一の電力量である。その要因は天竜川の豊富な水量と湖から発電所まで133メートルもある高落差である。佐久間発電所で生み出された電力は中部電力と東京電力に送電されるが、中部電力へは佐久間発電所から愛知県春日井市にある春日井変電所まで、東京電力へは同じく佐久間発電所から東京都町田市にある西東京変電所まで超高圧送電線で送電され、それぞれの電力会社へ供給される。供給比率は中部電力が年間6億3500万キロワット時、東京電力が年間5億7245万キロワット時で両者折半という配分になった。佐久間発電所は送電線を通じて東の奥只見・田子倉両発電所、西の御母衣発電所と連結されており、夏季の電力消費ピーク時など電力需要が急増する際に連携することで不測の事態に対処している。 一方佐久間発電所で利用された水は放流量が多く、そのままでは不均衡な流量となって下流に様々な影響を及ぼす。このため佐久間発電所の下流に逆調整池を建設して、放流された水を逆調整池で貯水し、河川流量が均等になるよう水量を調節して放流することで下流への影響を抑えることとした。この目的で建設されたのが秋葉ダムであり、旧龍山村に高さ89メートルの重力式コンクリートダムを建設。佐久間発電所の放流水逆調整を行うほか秋葉第一・第二・第三発電所を建設して水力発電を行う。この秋葉ダム完成によって、天竜東三河特定地域総合開発計画における水力発電事業は一応の区切りを付けたが、引き続き佐久間ダムを有効利用した水力発電計画が進められた。1968年(昭和43年)には支流水窪(みさくぼ)川に合流する戸中川に水窪ダムが電源開発により完成したが、水窪ダムは水窪発電所を介し佐久間ダムとの間に導水路を設け、発電所で発電した後の水を佐久間ダムに供給する。これにより佐久間・秋葉第一・秋葉第二発電所の年間電力発生量を1億2300万キロワット時増強させる。その後も天竜川本流の電力開発はオイルショックを機に国産再生可能エネルギーである水力発電の見直しにより再開され、船明(ふなぎら)発電所と船明ダムが本流最下流部のダム・発電所として1977年(昭和52年)建設された他、1982年(昭和57年)には、佐久間発電所と秋葉ダム間の残った落差を有効利用するために佐久間第二発電所が運転を開始し、出力32,000キロワットの発電を行うなど天竜川の膨大な水量と落差を余すことなく利用している。 なお天竜川流域はちょうど周波数が50ヘルツと60ヘルツに分かれる境界線付近にあり、首都圏と中京圏に電力を供給するためには各地域に応じた周波数の変換が必要となる。佐久間発電所の4台ある発電機は、首都圏・名古屋圏どちらにも分量を変えて送電できるように全て50/60ヘルツ兼用となっているが、1965年(昭和40年)に佐久間周波数変換所が建設されて周波数の変換が容易となり、電力事業の広域運営が可能となった。 ===新豊根発電所=== 一方、新豊根発電所は佐久間ダム建設後1962年(昭和37年)より電源開発促進法に基づき、計画された。建設当時は火力発電が主体となっており、これらとの連携を図り易い揚水発電が注目されていた時期であった。同発電所は佐久間ダムを下部調整池として利用し、上部調整池は佐久間ダム直下流で天竜川に合流する大千瀬川の支流、大入(おおにゅう)川に新豊根ダムを建設、そして中間に発電所を建設し、双方の貯水池を利用することで最大112万5000キロワットを発電する。ダムと発電所は1973年(昭和48年)に完成したがこれに伴い、佐久間ダム建設によって取水口が水没するために発電所建屋と取水口を移転して運転を継続していた豊根発電所が、新豊根ダム建設に伴い取水ダムと取水口が水没するために廃止されている。なお、新豊根ダムは当初電源開発により発電専用ダムとして計画されたが、1968年(昭和43年)の台風10号と翌1969年(昭和44年)の佐久間町浦川を中心とした2年連続の大災害を機に愛知県が治水目的で事業に加わり、さらに建設省に事業が移管され以後建設省(国土交通省)と電源開発が共同管理する多目的ダムとして完成・運用されている。 ===利水=== 佐久間ダムの水は発電に利用される一方で、正式な目的ではないものの天竜東三河特定地域総合開発計画に基づき1949年より農林省が施工を開始した豊川用水の水源として利用されており、慢性的な水不足に悩む豊橋市、豊川市及び渥美半島などへの農地灌漑、上水道・工業用水道供給を行う。 すなわち、佐久間ダム右岸に取水口を設け、佐久間導水路として天竜川水系と豊川水系を結ぶ流域変更を行い、豊川の支流である宇連(うれ)川にダムの水を放流する。放流された水は宇連川本流に建設された宇連ダムと、宇連川支流の大島川に建設された大島ダムの水と共に下流にある大野頭首工より取水され、豊川用水となる。用水は東西に分かれ、東部幹線水路は静岡県西部や豊橋市、渥美半島まで延伸、西部幹線水路は蒲郡市まで延伸して灌漑や上水道、工業用水道に利用される。またこれとは別に豊川本流にある牟呂松原頭首工より取水された水は牟呂用水・松原用水として豊橋市の水需要に供されている。豊川用水は愛知用水公団・水資源開発公団の管理を経て独立行政法人水資源機構が管理を行う。佐久間ダムは5月6日から9月20日の農繁期限定で、かつ年間総取水量が5000万立方メートルを超えない範囲で水を豊川水系に導水している。 なお、佐久間ダムの逆調整池として建設された秋葉ダムは、天竜東三河特定地域総合開発計画の主要事業でもある三方原用水の水源として、船明ダムは国営天竜川下流用水事業の根幹事業である天竜川下流用水の水源としてそれぞれ利用されており、浜松市をはじめ静岡県西部地域の農業用水・上水道・工業用水道を供給する。水力発電を主目的として建設された佐久間ダム・秋葉ダム・船明ダムではあるが、静岡県西部・愛知県東部の水がめとしても重要な役割を担っている。 ==治水と再開発== 佐久間ダムによって誕生した佐久間湖は全長33キロメートル、総貯水容量3億2684万8000立方メートルとダム同様日本屈指の規模を持つ人造湖である。莫大な貯水容量は「暴れ川」である天竜川の治水にも重要な役割を果たす。 ===治水に対する責務=== 天竜川は古くは701年(大宝元年)に上流の高遠地域で、下流では奈良時代の715年(霊亀3年)に大洪水を起こした記録があり、古くから洪水の被害が絶えない河川であった。しかし天竜川は戦後経済安定本部の諮問機関である治水調査会が示した河川改訂改修計画の対象10水系には当時たまたま大水害がなかったため選ばれず、かつ大正時代以降天竜川本流には発電専用ダムが階段式に建設され、大規模ダム建設の適地が工事難易度の高い佐久間地点程度しか残っていなかったため、利根川・淀川のような多目的ダムによる広域治水計画は検討されず堤防整備を細々と行っていた。治水目的を有するダムは支流三峰川に美和ダムが1959年(昭和34年)完成したのが最初であり、その後も支流を中心に建設省または長野県により多目的ダムが建設されたが、天竜川本流には治水目的を有するダムが今もって建設されていない。発電専用である佐久間ダムはその規模の大きさから発電や利水のみならず、佐久間湖の莫大な貯水量を利用した洪水調節の期待も持たされていた。これはダム計画が発表された後に電源開発が作成した『佐久間発電所計画概要』の中にも、建設の有利な条件として明記されている。1964年(昭和39年)には河川法が改訂されてダムに対する様々な基準や規則が定められたのを機に、発電・灌漑・水道専用のいわゆる利水ダムについても河川管理者である国や地方自治体が河川を一貫して管理するという法改正の趣旨の下、治水に対する責務を明確化させる必要が生じた。佐久間ダムは先に述べたとおり天竜川水系最大のダムであり、地域に及ぼす影響は大きい。特に洪水時の放流操作は下流への水害防止という観点から重要で課題であった 佐久間ダムの治水目的に関して、明確な指標が出されたのはまず1965年(昭和40年)2月11日に出された河川法施行令(政令第14号)がある。同政令第1章第23条では利水ダムの洪水調節対策としてダム・人造湖の規模に応じ第一号から第三号までに分類され、それぞれに応じた洪水調節対策が定められた。佐久間ダムについては指定基準である「洪水吐ゲートを有し、ダム湖の湛水区域が11キロメートル以上(佐久間ダムは33キロメートル)のもの」、すなわち第1号に該当するため施行令第24条に基づき、ダムを建設する前の河川機能を維持しなければならないと同時に、放流に伴う増加流量を調節するための貯水容量を設けなければならないとされた。さらに翌1966年(昭和41年)5月17日には、当時の建設省河川局長が出した通達・建河発第一七八号における利水ダムの分類で、第一類ダムの指定を受けた。 第一類ダムとは「設置に伴い通常時に比べて洪水流下速度の増大などが発生し下流の洪水流量が著しく増加するダムで、結果発生する水害を防止するために増加流量を調節することができると認められる容量をダム湖に確保することで、洪水に対処する必要があるダム」のことを指す。河川法施行令・河川局長通達の規定は何れも、換言すれば大規模な利水ダムについては多目的ダムや治水ダムの治水容量に類似した空き容量を持たせて、洪水の際には可能な限り洪水を空き容量に貯留して流入量をそのまま放流しないよう放流量のピークを遅らせて水害の発生を防ぐというダムのことであり、放流操作において治水目的を有するダムと同様の細かい操作規定作成が要求された。河川法施行令と河川局長通達の違いは対象となるダムが名指しで指定されたか否かであり、通達には第一類から第三類まで指定ダム名が記載されている。ちなみに第一類に指定されたダムには巨大なものが多く、天竜川では水窪ダムが第一類に指定されたほか中部地方では御母衣ダムを始め奈川渡・水殿(犀川)、高瀬(高瀬川)、畑薙第一・井川(大井川)、牧尾(王滝川)といったダムが指定されている。この政令と通達により佐久間ダムは利水ダムでありながら治水に対しても責務を負うことになったが、多目的ダムや治水ダムのように明確な洪水調節目的を持たされている訳ではない。 ===佐久間ダム再開発事業=== こうして佐久間ダムは事実上多目的ダムとして天竜川の治水・利水の要になった。しかし天竜川の治水において大きな問題になっているのがダム湖の堆砂(たいさ)である。天竜川に注ぐ中央アルプス・南アルプスを水源とする支流は中央構造線近辺の脆い岩質を流れており、絶えず大量の土砂を排出している。ダムがない頃の天竜川はこれら大量の土砂がそのまま遠州灘に到達し、中田島砂丘などを形成した。しかし天竜川にダムが階段状に建設されたことで流砂連続性が途絶。ダムには大量の土砂が堆積していった。特に深刻なのが泰阜・平岡の両ダムで堆砂率はそれぞれ80パーセントを超えている。1961年(昭和36年)の三六災害では飯田市など天竜峡より上流部が深刻な浸水被害を受けたが、その原因に挙げられたのが泰阜ダムの堆砂だった。また佐久間ダムについても堆砂が進行しており、無策で放置すれば巨大な貯水池といえど埋没する危険性がある。また下流に砂が運搬されなくなったことで遠州灘の海岸侵食が進行、中田島砂丘の面積縮小や付近のマツ林が枯死する被害が発生している。 こうした問題を解決するため、佐久間湖の浚渫(しゅんせつ)実施やスラリー輸送による堆砂対策が検討されたが、天竜川を管理する国土交通省中部地方整備局はより効率的な堆砂対策として2003年(平成15年)より天竜川ダム再編事業に着手した。具体的には今まで利水専用だった佐久間ダムに正式に洪水調節目的を持たせて多目的ダムとし、天竜川水系に建設された他の国土交通省直轄ダムである美和ダム、小渋ダム(小渋川)、新豊根ダムと連携することで天竜川下流の治水を強化するとともに、佐久間ダムの堆砂を除去して下流に流すことで佐久間湖の貯水容量確保と遠州灘の海岸侵食を防止するという流砂連続性の改善を目的とする。以上の目的を踏まえ2004年(平成16年)より根幹事業である佐久間ダム再開発事業が着手された。土砂排出の方法として既に美和ダムや小渋ダムでも着手されているバイパストンネルによる堆砂除去が検討されているが、今後下流の秋葉・船明ダムとの連携を含め事業をどのように進めるかが検討されており、完成時期は未定である。しかし2009年(平成21年)に民主党政権の前原誠司国土交通大臣が決定した未完成ダム事業の見直しに、佐久間ダム再開発を含む天竜川ダム再編事業は対象とされていない。なお直下流の天竜区佐久間町はバイパストンネル建設に反対している。 ==観光== ダムと佐久間湖は天竜奥三河国定公園に指定され、佐久間湖は2005年(平成17年)に旧佐久間町の推薦で財団法人ダム水源地環境整備センターが選ぶダム湖百選に選ばれた。遠州地域の主要な観光地の一つで、展望台からは巨大なダムの姿が一望できるほか、佐久間湖では新緑や紅葉が楽しめる。1997年(平成7年)3月リニューアルオープンした「さくま電力舘」では佐久間ダムの歴史や最新のバーチャルゲームをはじめ、体験しながら電気の科学を学ぶことができる。入場閲覧は無料である。また毎年10月の最終日曜日には「佐久間ダムまつり」が開催される。天候にもよるが丁度紅葉の始まりの頃でもあり、景色も良く見ごろである。佐久間ダムまつりではダム湖で竜神の舞の演舞が行われ、ダム堤内に入ることもできる。佐久間湖ではアユやニジマスが釣れるが、漁業権は佐久間ダム漁業協同組合が管理しているため、釣る際には入漁券の購入が必要である。 アクセスとしては公共交通機関ではJR東海飯田線・中部天竜駅が最寄の駅となる。中部天竜駅からは佐久間ダムまつり時には無料シャトルバスが運行されるが、それ以外の時は公共交通機関はない。そのため約2.5キロメートルの徒歩かタクシーになるが、タクシーは現在では旧佐久間町にないため旧水窪町から呼ぶことになり、呼ぶだけで相当の時間と料金を要する。徒歩でも歩道や誘導標識はあるため、行くことは十分可能である。またかつては静岡県道288号大嵐佐久間線を歩くと、放流写真の様にダムがそびえ立つ姿を見ることができた。現在は悪路・未整備、かつ落石多発の危険性が高く通行止めであり、柵で閉鎖されている。 自動車では、佐久間ダムの天端(てんば)を通る長野県道・愛知県道・静岡県道1号飯田富山佐久間線を利用することになる。3県を通過する珍しい県道として知られるこの道路だが、生活道路や移動経路としてはほとんど利用されておらず、新豊根発電所近傍までダム湖から採取した砂を運搬するダンプトラックが頻繁に通るのみである。東京・静岡・大阪・名古屋方面からは、新東名高速道路浜松いなさジャンクションから三遠南信自動車道に入り、終点鳳来峡インターチェンジから国道151号を経由して県道1号にアクセスできる。一方長野県方面からは、国道151号・国道418号経由で下伊那郡天龍村に入り、そこから県道1号を走るルートがあるが、当該区間の県道1号は30km以上にわたって延々続く山中のワインディングロード、途中に集落といえば豊根村富山地区(旧富山村)があるのみという険しいルートである。 =昭和28年西日本水害= 昭和28年西日本水害(しょうわ28ねんにしにほんすいがい)は、1953年(昭和28年)6月25日から6月29日にかけて九州地方北部(福岡県・佐賀県・熊本県・大分県)を中心に発生した、梅雨前線を原因とする集中豪雨による水害である。 この水害により、筑後川など九州北部の河川における治水対策が根本から改められることになり、現在においても基本高水流量の基準となっている。 この九州北部を襲った水害には、気象庁による明確な災害名が付けられておらず、熊本県では「白川大水害」または「6.26水害」、北九州市では「北九州大水害」など、地域によって様々な呼称が用いられているほか、諸文献によっても災害名称が異なっているが、本記事名は土木学会西部支部の調査報告書に準拠し、「昭和28年西日本水害」と呼称する。なお、本文中の自治体名は、1953年当時の自治体名(括弧内は現在の自治体名)を用いる。 阿蘇山・英彦山を中心に総降水量が1,000mmを超える記録的な豪雨により、九州最大の河川である筑後川を始め白川など、九州北部を流れる河川がほぼ全て氾濫、流域に戦後最悪となる水害をひき起こし死者・行方不明者1,001名、浸水家屋45万棟、被災者数約100万人という大災害となった。 ==原因== 昭和28年西日本水害が九州北部地域に甚大な被害をもたらした原因として、集中豪雨が発生し易い梅雨末期の気象要因、阿蘇山の噴火活動による地質的な要因、および九州北部を流れる河川流域の地形的な要因などがあり、それらが複合して被害を大きくしている。 ===気象要因=== 1953年6月当時の九州地方の気象概況は、梅雨前線が一旦九州北中部に停滞し、上旬には福岡市や長崎県で、中旬には熊本県で大雨を降らせたが、その後奄美大島付近まで一旦南下し、奄美大島と屋久島の間を上下するという状態であった。一方フィリピンのルソン島付近にあった太平洋高気圧が次第に勢力を強くして梅雨前線を押し上げ、6月21日には対馬海峡付近に達した。ところが今度は、中国大陸より移動性高気圧が九州方面へと張り出し、再度梅雨前線は南下して屋久島まで戻ったものの、再度太平洋高気圧に押されて北上した。こうして南北から高気圧によって押された梅雨前線は、阿蘇山付近に6月23日頃より停滞、そこに高気圧から吹く湿った暖かい空気が梅雨前線に流れ込むことによって前線が刺激され、さらに例年屋久島付近を通過するはずの低気圧が、この時は朝鮮半島・対馬海峡付近を次々通過。こうした気象条件が重なり、九州北部地域に未曾有の大雨をもたらした。 この梅雨前線は、6月から7月に掛けて、九州地方北部のほか、東は静岡県静岡市から紀伊半島・中国地方・四国地方など広範囲にわたって大雨を降らせており、特に紀伊半島では和歌山県西牟婁郡串本町(現在の串本町は東牟婁郡所属)の潮岬で338.7mmを記録 する豪雨となったが、この後7月17日 ‐ 18日に掛けて再度集中豪雨が発生。死者・行方不明者1,046名を数える集中豪雨として、戦後最悪の人的被害をもたらした紀州大水害(南紀豪雨)となった。また白川流域でも7月中旬に再度集中豪雨が発生し、新たな災害をひき起こしている(後述)。1953年の梅雨は5月下旬に入梅し、7月20日頃に梅雨明けする例年よりも長い梅雨の期間であり、しかも期間中、死者・行方不明者が2,000名を超える大きな被害を西日本各地にもたらしており、特異な気象状況であった。 ===降水量=== 昭和28年西日本水害では、阿蘇山麓や英彦山麓、脊振山地などの九州北部山間部で記録的な豪雨をもたらした。6月25日の降り始めからの総降水量は、熊本県鹿本郡山鹿町(山鹿市)で1,455.3mmを記録したのを始め、筑後川本流上流域(杖立川・大山川)で900‐1,000mm、支流玖珠川流域や阿蘇山、大分川上流域、矢部川上流域で800‐900mm、北九州や背振山地で500‐600mmと猛烈な豪雨を記録している。また一日降水量も山鹿町の528mmを皮切りに福岡市、佐賀市、熊本市などで300‐400mmを超え、時間雨量も福岡県小倉市(北九州市小倉北区・小倉南区)で101mm、熊本県阿蘇郡小国町宮原で90.2mmなどと短時間・長時間問わず記録的な豪雨となった。豪雨のピークは25日‐26日頃は福岡県筑後地方・熊本県・大分県などが中心で、その後徐々に北へと移動し、28日‐29日頃には北九州が豪雨のピークとなっている。また降雨分布も、河川の上流・中流・下流を問わず、流域の広範囲にわたって豪雨が降り注いでいる。 (注)括弧内は記録日。太字は各々の最大降雨記録。 ===地質・地形要因=== 上記の気象要因に加え、地質や地形、植生といった要因も豪雨被害が拡大する要因となった。新第三紀から第四紀に掛けて活発だった阿蘇山の火山活動により、福岡県南東部・大分県南部と西部・熊本県北西部一帯は、おおむね変朽安山岩や阿蘇熔岩を主体とする地質を形成しており、これらの地質は透水性に乏しかった。さらに戦中・戦後に山間部は森林を乱伐していたこともあり、森林の保水力は極端に低下しており、降った雨は通常の森林に比べ土壌に浸透せず、地表を流下して河川に注ぐ形となった。その上、阿蘇山が同年4月27日に噴火を起こして、降灰量516万トンにもおよぶ大量の火山灰が堆積、それが豪雨によって雨水と共に地表を流れ、土石流となった。 また地形的要因も洪水被害を増幅させた。すなわち日本の河川の特徴でもあるが、九州北部の河川は概ね河川勾配が急であり、河川は急流を形成して上流から下流へと流下するため、下流の水位は急激に上昇し易い。これに加えて九州北部を流れる河川の幾つかは、流域面積が中流・下流域に比べて上流域の面積割合が広大であり、その割合は白川水系で約80パーセント、筑後川水系で70パーセント を占める。こうした地質・地形特性を有する河川の上流地域に広範囲かつ持続的な豪雨が降り注ぎ、大量の降雨が膨大な水量を伴う洪水となって、短時間に下流地域へ一挙に押し寄せたこと、また先述したが、6月上旬から中旬に掛けて北部九州で豪雨があり、地盤が緩んでいたところにそれを上回る記録的な豪雨が追い討ちを掛けたことが、被害を大きくした。 ==被害状況== ===総計=== この集中豪雨は特に福岡県・佐賀県・熊本県・大分県において被害が甚大で、死者759名・行方不明者242名などの人的被害のほか、全半壊家屋3万5000棟以上、床上・床下浸水は実に45万棟以上に及ぶ過去最悪の被害であり、その被害総額は当時の金額で約2217億円となり、現在の金額に換算すると約1兆5628億円にも達する。当時は1949年(昭和24年)のジュディス台風や1950年(昭和25年)のジェーン台風による被害がまだ記憶に新しく、台風被害からの復旧に一段落ち付いた頃再度被害を受けた地域も多かった。当時の国家地方警察福岡警察管区本部が発表した被害内容は下表の通りである。 特色としては平野部、山間部の別を問わず大きな被害を与えたことであり、福岡市を始め佐賀市、熊本市、大分市といった県庁所在地のほか門司市・小倉市(北九州市)、久留米市など地方の主要都市にも多大な被害を与えている。また九州随一の大河である筑後川水系を始め遠賀川水系、矢部川水系、大分川水系、大野川水系、菊池川水系、白川水系など、九州北部の河川は大小問わず全て氾濫し、堤防決壊や橋梁・道路流失などを招き、これ以前より営々と行われてきた治水事業は水泡に帰した。以下では、各県における被害状況を詳述する。 ===熊本県=== 最も被害が大きかったのは熊本県である。降り始めからの雨量は鹿本郡山鹿町(山鹿市)で、この豪雨では最大の1,455.3mmを記録したほか、阿蘇郡小国町宮原で1,002.6mm、阿蘇郡黒川村(阿蘇市)で888.4mmを記録するなど、過去最悪の豪雨災害となった。この豪雨で熊本市・玉名市・菊池郡・阿蘇郡など県北部を中心に甚大な被害が発生している。県内の被害の特徴としては、後述する阿蘇山の火山灰を原因とする土砂災害や、家屋被害において床下浸水を上回る床上浸水の多さが挙げられる。 なお、当時の被災状況については、後に熊本県が県政ニュースとして映像を残しており、こちら(ただし凄惨な場面が含まれているので閲覧注意)で視聴可能である。 ===白川大水害=== 県都・熊本市では、市内を流れる白川が氾濫した。白川上流部では、阿蘇郡黒川村で5日間の雨量が888.4mmを記録するなど、阿蘇地域一帯で猛烈な豪雨となった。白川水系流域面積の80%を占める阿蘇地域は、阿蘇熔岩を主体とする岩盤の上に「ヨナ」と呼ばれる火山灰を多く含む土壌が堆積していた。 鹿児島県大隅半島のシラス台地と同様に、豪雨が降ると容易に崩壊する土壌であったため、阿蘇地域は1952年(昭和27年)に特殊土壌地帯災害防除及び振興臨時措置法(特土法)の規定する特殊土壌地帯に指定されていた。こうした土壌が堆積していた阿蘇地域で、4月27日に阿蘇山が噴火して大量の火山灰が堆積、そこに大量の豪雨が降り注いだことで、大量の火山灰や「ヨナ」が土石流となって、広大な白川上流域から黒川合流点より下流の河川勾配が急な峡谷を一挙に下り、下流の熊本市内に流入した。さらに熊本市内の白川は天井川となっていて、熊本市役所庁舎をはじめ、熊本市中心部は白川の水面よりも低い位置に存在していた。こうした複合的な要因が、熊本市内の被害を増幅させる結果をもたらした。 熊本市では、京町や健軍といった高台を除く全市の70%が浸水し、熊本市中心部では平均で水深が2.5‐3.0mに達した。また白川の橋梁は17箇所市内に架けられていたが、国道3号長六橋と大甲橋を除いて残らず流失し、上流・中流部でも七障子橋・代宮橋・赤瀬橋以外はことごとく流失した。特に子飼橋では、至近距離にあった避難所で避難していた住民約40名が橋もろとも白川に流され、死亡した。 熊本市内は噴火した阿蘇山の火山灰が混ざった大量の泥や「ヨナ」で市街地などが埋まり、その総量は実に600万トンにも及び、熊本城の堀の一部を廃土で埋めることになった。また養老院が倒壊して52名が一度に圧死する など、土砂災害による要因が死者を増加させている。 熊本市の被害額は約173億円(現在の金額で約1219億円)にもおよぶ壊滅的被害となった。また上流の阿蘇郡長陽村(南阿蘇村)などでも、土石流によって家屋や道路、鉄道への被害が大きく孤立した村落も発生、白川上流部のいわゆる「南郷谷」と呼ばれる阿蘇山カルデラ南部では、土石流によって運ばれた巨大な岩石が一帯を覆い尽くし、死者・行方不明者が66名を数えた。熊本県では、この白川流域で甚大な被害をもたらした今回の水害を、特に白川大水害または6.26水害と呼ぶ。 なお白川では、この水害の半月後、7月16日から17日にかけても集中豪雨があり、仮橋を架けたばかりの国道266号代継橋や明午橋、白川橋、泰平橋が再び流失したほか、床上・床下浸水の被害を受けている。またこの水害を契機に建築された白川沿いの住宅が、その後の白川治水事業を困難にする要因ともなった。 ===菊池・小国=== 菊池川流域では、山鹿の1,455.3mmをはじめ、菊池郡菊池村立門(菊池市)で830.2mm、菊池郡隈府町(菊池市)で599.4mmなど、猛烈な雨が流域を襲った。特に山鹿では、6月25日に1日雨量としても最大となる528mmを記録したほか、26日には418.5mm、27日には282mmという猛烈な雨となっている。このため、菊池川本流や支流の迫間川、合志川などが氾濫、菊池川の水位は最大で9mにも達した。 玉名市、菊池村、隈府町、山鹿町などが浸水被害を受け、菊池川流域では死者7名、全半壊家屋572棟、浸水家屋1万5335棟に上った。 筑後川上流部の熊本県流域でも猛烈な豪雨が降ったことにより、筑後川(杖立川)の水位が、6月26日10時に九州電力杖立取水堰地点で警戒水位を7m以上上回る12.50mに達した。これにより、川沿いにある杖立温泉では、全ての連絡手段が不通となり孤立、旅館などが流失・損壊するなど大きな被害となった。 ===福岡県=== 熊本県に次いで被害が大きかったのは福岡県である。特に筑紫平野(筑後川・矢部川流域)、北九州(門司・小倉)、福岡市内の被害が深刻であった。福岡県では人的被害もさることながら、家屋への被害が他県に比べて群を抜いている。 ===筑後川流域=== 筑後川では、上流部の大分県日田郡上津江村(日田市上津江町)上野田にある建設省 の観測所で5日間の総降水量が1,148.5mmに達したのを始め、熊本県阿蘇郡小国町宮原で1,002.6mm・時間雨量90.2mm、小国町小国で994.6mmなど本流(大山川)流域で平均900mm、支流の玖珠川流域で平均700‐800mmの豪雨が降り注いだ。このため筑後川の水位は、6月25日22時に治水基準点である久留米市瀬の下観測所で警戒水位の5.14mを超え、以後一時間毎に60cm上昇。日田市では計画高水位 を6月26日14時の時点で過去最悪の水位を突破した。6月26日以降、筑後川の水位は8mから9mの水位まで上昇し、堤防天端すれすれの状態が6月27日まで続き、警戒水位を下回る平常の水位に戻ったのは、7月2日以降になってからであった。 本流および支流・玖珠川の膨大な濁流は、日田郡夜明村(日田市)から浮羽郡浮羽町(うきは市)・朝倉郡杷木町(朝倉市)間の夜明峡谷に集まり、一挙に筑紫平野に流入した。この地点には、当時九州電力が水力発電専用ダムである夜明ダムを建設中であったが、濁流は夜明ダム堤体に激突。九州電力は水門を全開して濁流からダムを守ろうとしたが、濁流はダム両岸をえぐるように流れ、25日夜半から翌26日午前中にダムは左岸の発電所取水口と右岸の国道386号から決壊、ダム本体に据付けられた水門も3門吹き飛んだ。その後濁流は、1674年(延宝2年)に建設された大石堰に激突し、ここで堤防を決壊させ、浮羽町役場を始め、町内全てを水没させた。 堤防を決壊させた濁流は浮羽郡各所に流入、支流の巨瀬川の洪水と合流し巨瀬川の堤防を決壊させ、さらに吉井町・船越村・江南村(うきは市)の筑後川堤防も相次いで決壊した。田主丸町(久留米市)では橋梁がことごとく流失、町内は水深1m以上の浸水となった。原鶴温泉街も完全に水没し筑後川南岸は一面が海のようになったと伝えられている。筑後川北岸の朝倉郡でも甘木町・蜷城村・朝倉村・大福村(朝倉市)で堤防決壊が多発してほぼ全ての地域が浸水。三井郡では、小郡町(小郡市)などを除き完全に外部との交通が遮断され、数日間陸の孤島と化した。 久留米市では、東櫛原町など数箇所で堤防が決壊し、東・西・北の三方向から一挙に市内に濁流が流れ込んだ。東櫛原町の堤防では、決壊の一時間前より堤防上を洪水が越流し始めたが、その様子はあたかも滝のようであった。決壊した堤防から流出した水は久留米市内に押し寄せ、国鉄久留米駅、久留米大学医学部附属病院など久留米市中心部をことごとく水没させ、市内の80%が浸水した。水位は市内中心部の明治通りにある旭屋デパート(後の久留米井筒屋)前で約1m、最も深い場所では約3mに達した。道路も国道3号久留米大橋、国道264号豆津橋をはじめ、小森野橋、宮ノ陣橋、両筑橋、恵蘇宿橋、原鶴大橋が流失または損壊し、国道3号は佐賀県三養基(みやき)郡鳥栖町(鳥栖市)と久留米間が完全に不通となった。 筑後川流域における被害は、死者147人を出した のを始め、堤防決壊・崩落84箇所、護岸崩壊38箇所、道路損壊1,889箇所、橋梁流失948箇所などに及び、家屋の被害も下表に示す通りとなった。被災者数は54万4060人に及び、被害総額は約32億8700万円(現在の金額で約231億7000万円)にも上った。浸水した区域は筑紫平野のほぼ全域であり、東は夜明ダム直下、西は佐賀市の嘉瀬川堤防、南は矢部川堤防、北は筑紫野市の宝満川流域にまで及び、さながら有明海が内陸山沿いまで海域を拡大したかの様相を呈した。1890年(明治22年)の洪水、1921年(大正10年)の洪水と並んで、この水害は「筑後川三大洪水」とも呼ばれている。 ===矢部川流域=== 矢部川流域でも上流部を中心に豪雨が降り、八女郡矢部村(八女市)で5日間に934.2mmの総降水量を観測したのを始め、黒木町(八女市)で609.5mm、星野村(八女市)で667.8mm、辺春村(八女市)で666mm、福島町(八女市)で613.6mm、柳川市で496.2mmなど流域は降り始めからの平均が700mm近くに達した。このため、矢部川本流は、国道209号船小屋橋の道路が冠水するほどの水位となったほか、支流の星野川、笠原川、辺春川などが軒並み氾濫し、各所でがけ崩れや橋梁、家屋、田畑の流失を招いた。特に橋梁については、支流の田代川と鹿子生川で全ての橋梁が流失したほか、黒木町で合流する笠原川でも、最上流部の大年橋・振々橋・左手上橋以外はことごとく流失している。また矢部川本流についても、特に支流との合流点付近にある橋梁が流失している。 こうした濁流は福島町や羽犬塚町(筑後市)、三潴(みずま)郡に押し寄せ、甚大な被害を与えた。特に山門(やまと)郡瀬高町(みやま市)では全町が水没、三潴郡や柳川市といった下流部では、筑後川の支流である花宗川の濁流と矢部川の濁流が合流して大川町(大川市)や柳川市に流入、被害をさらに拡大させた。三潴郡内では、筑後川・矢部川の洪水が合流したことで、郡内にある家屋の98%が浸水するなど被害は凄まじく、「全郡水没」状態となった。死者は2人であったが、ほぼ全郡が床上・床下浸水の被害を受け、被災者数は12万4132名にも上った。矢部川流域全体では、死者29人、床上浸水10,138棟、床下浸水15,896棟に及んだ。 ===北九州・筑豊=== 北九州市は当時門司市(門司区)、小倉市(小倉北区・小倉南区)、八幡市(八幡東区・八幡西区)などに分かれていたが、ほぼ全域で豪雨が降り注いだ。降り始めからの雨量は門司で646.1mm、小倉で544mm、八幡で501mmなどの記録的な豪雨となった。特に小倉市では、本水害において最大となる時間雨量101mmを記録する猛烈な雨を記録した。筑豊地方でも、田川郡添田町で687.4mm、英彦山で632.8mm、直方市で571.2mm、飯塚市で534.8mmとなり、この地域を流れる遠賀川水系、紫川水系、今川水系などが氾濫した。 特に被害が顕著だったのは門司市街地である。降水量646.1mmを記録する豪雨は現在新関門トンネルが通過している戸の上山を始めとした風師・戸の上山系へと降り注ぎ、山腹崩壊という形で、門司市街や門司港周辺へと土石流やがけ崩れとなって押し寄せた。その崩落箇所は600箇所にも及び、北九州地域における豪雨死者の大半を出す結果になった。隣接する小倉市街地では、紫川や板櫃川など中小河川の氾濫によって市内の広範囲が浸水、市内の80%が浸水し井筒屋小倉本店前でも、腰まで水に浸かる水位となった。紫川流域は、上流部は現在のます渕ダム付近および日田彦山線呼野駅付近から、下流は河口に至るまでほぼ全て浸水した。門司・小倉・八幡3市における被害の合計は死者183名、全壊家屋3,812棟、浸水家屋7万9123棟に及び、現在に至るまで過去最悪の豪雨被害となった。北九州市では今回の水害を、特に北九州大水害と呼んでいる。 また遠賀川水系でも、遠賀川本流や支流の彦山川・福地川・犬鳴川などが氾濫し、流域の飯塚市や田川市、田川郡などで浸水被害を及ぼした。遠賀川は遠賀郡植木町(直方市)で堤防決壊を起こし、下流の農地や人家を水没させた。上流部の田川地方では、当時多くの炭鉱があり、ボタ山も多数存在したが、豪雨によるボタ山崩壊で、大量のボタが遠賀川やその支流に流入、河床(川底)の上昇を来たして堤防決壊や越流を助長した。遠賀川流域では、堤防決壊・損壊138か所、橋梁11か所が流失し、9か所が損壊している。豊前地域でも河川の氾濫による被害が多く、京都(みやこ)郡では今川や祓(はらい)川などの氾濫で堤防が決壊。築上郡では山国川を始め、城井川や佐井川の氾濫で死者1名、負傷者274名、全壊家屋2棟、半壊家屋10棟、床上浸水306棟、床下浸水1,810棟という大きな被害を受けている。 ===福岡市=== 九州地方最大の都市である福岡市でも、豪雨被害は深刻であった。市内では6月4日 ‐ 6月7日に掛けても総雨量300mmを超える豪雨を記録しており、これに追い討ちを掛けるように、5日間で621.4mmの猛烈な豪雨が降り注いだ。このため那珂川や御笠川、室見川、樋井川、十郎川、須恵川など、市内を流れる中小河川がことごとく氾濫。福岡市内の大部分が浸水した。 浸水範囲は、福岡市最大の繁華街である中洲や天神を始め、現在の福岡市中央区渡辺通・警固・薬院・大濠、早良区城西町など福岡市中心部のほとんどであり、警固地区ではがけ崩れによる土砂災害も発生した。隣接する糟屋郡でも、多々良川水系が全て氾濫、多々良川本流や支流の猪野川、久原川、長谷川など各所で、堤防決壊や堤防がない場所での洪水流入で、浸水被害や農地流失が相次いだ。糸島郡前原町(糸島市)でも、町内を流れる瑞梅寺川の氾濫で、町内の大部分が浸水している。 福岡市内では、全壊家屋11棟、半壊家屋59棟、床上浸水5,735棟、床下浸水2万1900棟の大きな被害を受けており、人口密集地を中心に被害が集中していることから、被災者数も11万3789名と多数に上った。 ===佐賀県=== 佐賀県では、神埼郡三瀬村(佐賀市)で711.4mm、鳥栖町(鳥栖市)で665.2mm、神埼郡神埼町(神埼市)で633.7mm、佐賀市で587.1mmなどとなった。これにより、嘉瀬川・松浦川など背振山地を水源とする河川が軒並み氾濫したほか、筑後川の洪水が支流に逆流することで、堤防決壊などの被害が拡大した。 逆流した筑後川の洪水は、支流の上流から流れ来る洪水と衝突して堤防を越流、6月26日に鳥栖町を流れる大木川の堤防が決壊した。その後宝満川に逆流した筑後川の濁流が宝満川支流の安良川に逆流、築堤以来300年にわたり流域を水害から守った成富茂安の千栗(ちりく)堤防を決壊させ、三養基郡北茂安村(みやき町)を水没させた。筑後川の濁流はそのまま南西へと押し寄せ、三養基郡や神埼郡をことごとく呑み込んだ。特に被害が甚大だったのは神埼郡三田川村(吉野ヶ里町)で、筑後川支流の田手川と城原(じょうばる)川が決壊したが、上流から流れ来る大量の土砂が流域の家屋や田畑を一挙に押し流した。 この濁流はさらに蓮池町(佐賀市)に流れ込み、筑後川の逆流した洪水と合流して西へ押し寄せ、佐賀郡東川副村(佐賀市)を経て、遂に佐賀市内に流入した。そして佐賀郡南川副町(川副町)に達して海岸堤防でせき止められた。 また嘉瀬川は天井川で河床が佐賀平野よりも高く、かつ複雑な流路だったことから、鍋島村(佐賀市)で堤防が決壊、濁流は佐賀市内に流入したが、同時に東より筑後川本流や田手川・城原川の濁流が押し寄せ、両者が佐賀市近辺で合流することにより、浸水被害を倍化させた。 最終的に、有明海の海岸堤防を人工的に破壊するなどして濁流を排水することにより、浸水は収束したが、水が完全に引くまで1か月以上掛かった地域もあった。唐津市を流れる松浦川でも。源流部である天山山麓で豪雨となり、特に支流の厳木(きゅうらぎ)川が氾濫して、浸水被害が多発している。 ===大分県=== 大分県でも、降り始めからの総雨量が、日田郡上津江村(日田市)で1,148.5mmという猛烈な豪雨を記録したのをはじめ、玖珠郡森町(玖珠町)で835.5mm、由布院町(由布市)で818mm、長湯温泉で738.4mm、竹田市で718.9mm、大分市で713.3mm、日田市で705.6mm と筑後川上流・大分川上流・大野川上流域で記録的な豪雨をもたらした。このため、大分県内においても、被害は著しいものになった。 大分市では、市内を流れる大分川が氾濫。堤防が各所で決壊し市内に濁流が押し寄せた。国道197号の舞鶴橋も流失し、市内だけで9,317棟が浸水、大分市街地もほとんど浸水した。特に舞鶴橋右岸の大分市津留(今津留・東津留)地区が、橋梁流失による県道の寸断で交通が完全に寸断され、500世帯が孤立した。またこの地区には大分県立大分商業高等学校など高等学校2校、中学校1校があり、通学にも影響を与え、仮の橋を大分川に架けることにより、大分市内への交通がようやく再開した。 大分川流域だけで被害は死者・行方不明者84名、負傷者524名、家屋流失1,008棟、家屋全半壊2,998棟、床上浸水8,165棟、床下浸水30,417棟に上った。大野川流域でも、特に竹田市を流れる支流の玉来川と稲葉川、また大野川下流や平井川でも堤防決壊や浸水の被害が続発し、県南部の祖母山や傾山でも山腹の崩落が多発している。 また日田市・日田郡・玖珠郡では、筑後川本流と支流の玖珠川が氾濫、濁流は日田市内へ流れ込み、市内の通りを激流となって押し寄せ、筑後川(三隈川)に架かる銭淵橋が吹き飛ばされたのをはじめ、完成したばかりである国道210号三隈大橋以外の全てが流失・破壊された。日田市は日田盆地にあるが、この地は筑後川と玖珠川・花月川が一斉に合流する土地で、かつ下流に夜明峡谷があるため、河水の流下能力が乏しく、洪水の際には峡谷がダム化して行き場を失った河水が上流の日田市内へと逆流。このため市内は洪水が「貯水」された格好になり、全市が平均1‐2mの深さで浸水した。これに輪をかけて三隈大橋に上流から流れ来る大量の流木がせき止められてダム化し、浸水被害に拍車をかけた。玖珠川合流点より上流部の筑後川(大山川)流域や玖珠川上流部でも、水位が軒並み10mを超え、河道が変わるほどの濁流となり、農地や家屋の流失が深刻であった。玖珠川では、川に架かる18の橋梁中11橋梁が流失した。これにより国道210号、国道212号、国道386号および久大本線(後述)は完全に不通、通信線や送電線も寸断されたことで、日田市や玖珠郡は一時完全に孤立した。日田市では死者17名、被災者数3万7000人に及んだ。 ===インフラ被害=== この水害では、道路や橋梁のほか、鉄道・港湾・水力発電所といったインフラストラクチャーへの被害も深刻であった。特に鉄道の被害は甚大であり、北部九州の鉄道網は完全に麻痺し、一時は本州との連絡が途絶している。福岡県内や大分県内では7月上旬から8月上旬、熊本県内では8月上旬までダイヤが大幅に乱れた。 また、九州北部および山口県にある港湾施設にも大きな被害が生じている。水力発電所も、土石流や浸水によって発電が停止するなど大打撃を受けた。道路・橋梁被害は各県の被害状況に先述しているので、以下は鉄道・港湾・発電所といったインフラストラクチャーに対する被害について詳述する。 ===鉄道=== 関門鉄道トンネル水没についての詳細は「関門トンネル (山陽本線)#西日本水害による水没事故」を参照国鉄は、北部九州の各路線が甚大な被害を受けている。鹿児島本線は遠賀川の堤防決壊によって遠賀川駅周辺が完全に水没したほか、肥前旭駅と鳥栖駅間が筑後川の洪水で1.7m浸水。さらに、矢部川橋梁が流失し線路が宙づりになるなど 数か所にわたり不通となった。さらに関門鉄道トンネルが、門司市内の豪雨により氾濫した大川や田畑川の洪水が、6月28日午前11時頃よりトンネル内に流入し、完全に水没。本州・九州間の連絡は完全に途絶し、旅客は下関駅で立ち往生したり、海路九州に向かわなければならなかった。復旧作業は矢部川橋梁の復旧に時間を費やしたものの、7月4日には福岡県内の路線が復旧するが、関門鉄道トンネルについては備品のポンプが故障するなど難航した。このため国鉄は、日本各地の支店よりポンプを集めたほか、新潟県の信濃川工事事務所など各地の建設省工事事務所、三井鉱山、宇部興産、さらにはアメリカ軍の協力により66台の大型ポンプを使用し、7月14日に下り線で単線開通させたのを皮切りに7月21日までには平常運転に戻すことができた。 このほか福岡県内では筑豊本線の筑前垣生駅と筑前植木駅間、および芦屋線が遠賀川の洪水により駅舎・線路が浸水し、7月8日まで不通となり、日田彦山線では、南小倉駅と城野駅間が紫川の氾濫で水没し小倉駅も浸水した。矢部線では星野川橋梁が流失し不通となった。 久大本線はこの水害における被害が最も深刻で、全線が壊滅的な打撃を受けた。福岡県内では筑後川の洪水によりほぼ全線が浸水。大分県内では夜明ダム右岸決壊に伴い線路も同時に流失したほか、玖珠川沿いの豊後三芳駅 ‐ 豊後中川駅間に架かる第1玖珠川橋梁と九酔峡下流に位置する引治駅 ‐ 豊後中村駅間の鳴子川橋梁が完全に流失、天ヶ瀬駅 ‐ 北山田駅間の第8・第9・第10玖珠川橋梁も損壊した。大分川流域では南由布駅 ‐ 湯平駅間の第6由布川橋梁が流失し第4・第5由布川橋梁が損壊。さらに向之原駅 ‐ 賀来駅間でも大分川の増水で線路が冠水し、各所で寸断された。このため復旧に時間を費やし完全に復旧するのは、1か月以上経過した8月8日になってからであった。日豊本線も各所で浸水などの被害が生じ、復旧は7月2日まで掛かった。 長崎本線では、佐賀駅と鍋島駅間で冠水により6月30日まで不通。佐世保線は大町駅と武雄温泉駅間で六角川の河水が逆流して線路が冠水、34時間にわたって不通となった。唐津線や筑肥線では松浦川の洪水で山本駅を中心に1.5m浸水し、7月1日まで不通。そして松浦線では今福駅と調川駅、今福駅と浦ノ崎駅間でそれぞれ大規模な地滑りが発生し、九州各地の被害路線では最も遅い8月9日になってようやく復旧に至った。熊本県内では豊肥本線の水前寺駅と竜田口駅間 に架かる第2白川橋梁が流失、高森線では立野駅と長陽駅間にある戸下トンネルががけ崩れで埋没し、それぞれ8月6日、8月4日まで復旧がずれ込んだ。この間長陽方面は、道路損壊もあって完全に孤立した状態に陥っている。 私鉄では西日本鉄道大牟田線の筑後川橋梁が、上流から流れ来る大量の流木や濁流によって、流失までは至らなかったものの大きく蛇行するように曲がり不通となったほか、甘木線が宮の陣橋の損壊により不通となった。また熊本市内では、熊本市電が白川の氾濫による大量の火山灰を含む濁流で熊本市電春竹線が代継橋もろとも流失するなど全線が被害を受けたほか、熊本電気鉄道では菊池川橋梁が流失するなどの被害を受けている。 なお、この水害の直前に小説家で鉄道旅行が趣味であった内田百*78*は、九州を鉄道で旅行中だったが、水害で関門鉄道トンネルが水没する直前に九州を脱出した。この模様は後に『雷九州阿房列車』として執筆・発刊されたが、本書には友人からの手紙による白川大水害の状況が記されているほか、九州各地の鉄道が水害によって不通になって行く様子も記されている。 ===港湾=== 港湾の被害は、大別すると、港湾内に上流からの土砂が堆積する被害と、港湾施設自体の被害があったが、今回の水害では圧倒的に土砂流入による港湾埋没被害が多発した。 特に福岡県内では、大規模な土砂崩れが多発した旧門司市内の門司港をはじめ、矢部川の洪水による大牟田港、福岡市内の河川の洪水による博多港の被害が深刻であった。 このほか佐賀県では唐津港や呼子港、長崎県では長崎港、佐世保港および五島列島の各港湾、大分県では大分港や臼杵港、山口県では下関港や宇部港、小野田港といった港湾が被害を受けている。 港湾被害額は福岡県が最大であり当時の額として約3億3800万円、佐賀県が約1億675万円、長崎県が約8411万円、大分県が約6447万円、山口県が約5976万円、熊本県が約2208万円などとなっている。 ===水力発電所=== この水害では、九州北部の主要な河川がことごとく氾濫した。特に上流部では大量の降雨によって記録的な豪雨となり、土石流などを含め多大な被害を被っている。山間部に建設される水力発電所についても大きな被害を受けた。 発電所を管理していたのは主に九州電力であるが、当時の九州電力は1951年(昭和26年)にポツダム政令に基づく電気事業再編成令で日本発送電が9電力会社に分割・民営化され、日本発送電九州支店と九州配電を統合する形で発足したばかりであった。このため経営基盤は脆弱(ぜいじゃく)であり、水害に伴う被害は発足したばかりの会社にとって大打撃となった。水力発電施設の被害額は当時の額で約5億3820万円(現在の金額で約37億9400万円)に上る。また、1937年(昭和12年)から1938年(昭和13年)に阪神タイガースの前身である大阪タイガースで外野手として活躍し、当時は九州電力小倉支店変電課社員として勤務していた玉井栄が、この災害において感電死している。 最も被害が大きかったのは、一般への被害も顕著であった筑後川水系と白川水系である。 筑後川水系では、中流部に建設中だった夜明ダムが濁流により両岸より決壊し、発電所施設や放流用ゲートも流失したことは先に述べた通りであるが、支流の玖珠川流域にある水力発電所群も大きな被害を受けている。最上流部にある町田第一発電所では、取水元であるアースダムの地蔵原ダムが堤体より越流し、あわや決壊事故となる状態であったほか、沈砂池が濁流に含まれる岩石により破壊された。また当時筑後川水系最大の水力発電所であった女子畑発電所では、取水堰が損傷したほか、沈砂池や導水路が濁流により破壊・流失し、湯山発電所でも、取水堰の一部が40mにわたって破損した。これにより、玖珠川流域の全水力発電所は6月26日から運転不能に陥り、復旧に日時を要した。 白川水系ではさらに発電所施設への損害が大きく、阿蘇山の火山灰を含む大量の土石流により、黒川第一・第二・第三および白川第一発電所が甚大な被害を受けた。黒川第一発電所では取水堰の余水吐きが完全に破壊され、発電所建屋内部にまで土石流が侵入し発電用水車などが被害を受けた。黒川第二発電所では取水口が破壊。黒川第三発電所では取水堰が半壊し、発電所建屋内部も損壊した。白川第一発電所も取水堰の一部が損壊している。 このほか嘉瀬川水系では、川上川第一・第二・第五発電所が、沈砂池のごみ流入防止用スクリーンに大量の流木や土砂が閉塞して6月26日以降運転不能となったほか、大分川・大野川水系でも、発電所の損害で6月26日以降発電ができない状態に陥った。菊池川水系でも、本流にある菊池川第一から第五までの発電所が、やはり取水口や放水口の土砂閉塞による被害を受けている。 ==被災者の実態== 1947年(昭和22年)のカスリーン台風や1948年(昭和23年)のアイオン台風に匹敵する被害をもたらしたこの水害に対する政府の動きであるが、被災地は電話線が寸断され電話による通話が困難であり、災害状況は無線または電報を通じ、建設省九州地方建設局から建設省近畿地方建設局を経由して建設省本省へと現地の情報が送られた。 建設省から現地の被害が重大なものであると報告を得た当時の第5次吉田内閣は、直ちに大野伴睦国務大臣を本部長とする「西日本水害総合対策本部」を福岡市の福岡県庁に設置、緒方竹虎副総理、戸塚九一郎建設大臣、山県勝見厚生大臣、保利茂農林大臣などの閣僚を現地に派遣したほか、発足したばかりの保安隊に災害派遣を命令、駐留アメリカ軍にも救援を依頼して救助活動や救援活動を行った。この水害の後、政府は福岡・佐賀・熊本の被災者2,000名を対象に7月30日から8月7日までの間、「西日本水害に関する世論調査」を行った。水害における被災者の行動や被害実態、救助活動や支援活動に関する被災者の実態を調査する内容であったが、被災直後における被災者の実態や考えを垣間見ることができる。 まず水害を何で知ったかという質問であるが、回答者の55.4パーセント(以下「%」で記す)が「突然やってきた」と答えており、この水害が予測の付かなかったものであると認識していた。「自らの経験で予測できた」と答えた被災者が19.7%と次に多く、ラジオなどで知ったと答えたのは19.1%と少なかった。一方その後の水害情報の入手元についてはラジオが55.7%と最も多く、新聞が38.1%と続いており、予報よりもその後の被災情報にラジオ・新聞といった報道を活用していた。因みにデマが飛ぶということはほとんどなかったようである。 被災後の食糧・物資に関してであるが、食糧調達については「自分で凌いだ」・「他人の援助を受けた」という答えが最も多く、拮抗していた。被災者は何らかの方法で食糧を確保していたようだが、「食事がなかった」と答える被災者が18%いた一方で「困らなかった」と答える被災者も18.5%おり、被災地によって状況が分かれている。しかし飲料水については食糧に比べ困窮する割合が高く、全体の44%が雨水や他人から水をもらうことで何とか凌いでいた。災害後の物価に関しての質問では野菜類や米、麦の価格が高くなっていると答えた被災者が多く、道路・鉄道といった陸路が洪水による寸断によって、発生した交通麻痺や水害による農地流失が影響していることが考えられる。 政府の救援対策については「十分」24.9%、「不十分」21.7%、「よくわからない」45.8%と被災者の意識は様々であった。被災者間で最も評価されたのは食糧の無料配給で39.2%が評価している。食糧配給については1日目 ‐ 2日目に行われたと回答した被災者が50.3%に上り、被災直後より比較的速やかな食糧配給が行われたことも評価につながっている。また救援物資について37.9%の被災者が毛布・寝具、衣料が最も役立ったと答えた。保安隊による災害派遣については、65.1%の被災者が「有難かった」・「役立った」と答えており、肯定的な意見が多かった。そして今後政府に求める被災対策としては、被災した商工業者に対する融資などの金融支援や税金の減免措置を求める声が多く、生活再建に対する被災者の不安がにじみ出ている。 なお、この水害は防ぐことができたかという質問に対し、被災者の38.4%が「天災だから防ぎようがない」と答えており、「護岸整備や治水で防ぐことができた」と答えた26.1%を上回っている。。 ==対策== この水害は、過去営々と積み上げてきた治水事業を根本から覆す災害であった。1953年は水害の当たり年であり、7月には紀州大水害(7月17日 ‐ 18日、死者・行方不明者1,046名)、8月には「集中豪雨」という言葉が初めて使用された南山城豪雨(8月14日 ‐ 15日、死者105名)、そして9月には淀川や由良川に過去最悪の洪水をもたらした台風13号が襲い死者・行方不明者478名と、毎月のように日本各地で大水害が発生した。このため1953年の水害総被害額は、昭和28年度の一般会計予算1兆172億円 に比してほぼ半額に当たる約5941億円となり、2004年時点物価に換算した実質水害被害額に直すと、およそ3兆2401億円に達し、水害被害額としては、戦前戦後を通じて昭和時代最悪となった。また実質水害被害額を実質国民所得で割った被害率で見ても10.17%と、1948年に次ぐ高い数値になった 。戦後の日本は台風や豪雨による甚大な人的被害を伴う水害が毎年頻発していたが、その原因は森林の乱伐と治水対策の不備であった。 内閣経済安定本部は、水害の続発による被害額の増大が日本経済の復興に影響を及ぼすことに懸念を抱いていた。そこでテネシー川流域開発公社 (TVA) 方式で治水を行い、併せて農地灌漑や水力発電を組み合わせることで河川開発を行い、日本経済の復興に資するとした河川総合開発事業を、日本各地の河川で企画していた。一方河川行政を司る建設省は北上川、江合川・鳴瀬川、利根川、木曽川、淀川、吉野川と筑後川の主要8河川でダムを中心とした治水計画である「河川改訂改修計画」を1949年(昭和24年)に立案しており、同年に「筑後川改訂改修計画」が立案されていたが今回の水害を機に再検討が行われた。そして河川総合開発事業と組み合わせて治水と利水を同時に行える多目的ダムを建設する方針に切り替え、併せて大規模な河川改修を行うこととした。また福岡・大分両県も多目的ダムの建設に乗り出した。 筑後川水系では、1949年の筑後川改訂改修計画において、筑後川支流の玖珠川と津江川に治水ダムを建設する計画を立てていたが、水害を受けて1957年(昭和32年)に「筑後川水系治水基本計画」を発表。上流部では筑後川本流、玖珠川、津江川、城原川に多目的ダムを建設し洪水調節を行うほか、中流部には堰と放水路、下流では大規模な堤防決壊を起こした久留米市東櫛原の大規模堤防建設、そして流域全体の堤防修繕や支流への洪水逆流を防ぐための水門建設などを柱とした大規模治水事業を計画した。この結果建設されたのが松原ダム(筑後川)と下筌(しもうけ)ダム(津江川)、島内可動堰(筑後川)、大石・原鶴・千年分水路、そして久留米市東櫛原大規模引堤事業である。福岡県も支流の改修を進め、広川防災ダム(広川)、山神ダム(山口川)や藤波ダム(巨瀬川)を完成させた。さらに水資源需要の増大もあり、総合開発計画として筑後大堰(筑後川)や寺内ダム(佐田川)、大山ダム(赤石川)が建設され、小石原川ダム(小石原川)が施工中である。 矢部川水系では、本流に日向神(ひゅうがみ)ダムが福岡県最大級の多目的ダムとして建設され、遠賀川水系では、北九州特定地域総合開発計画の一環として力丸ダム(八木山川)が建設されたのを皮切りに、陣屋ダム(中元寺川)や犬鳴ダム(犬鳴川)そして遠賀川河口堰(遠賀川)が建設されたほか、遠賀川本流の堤防整備が強化された。大分川水系では支流の芹川に芹川ダムが建設され、七瀬川に大分川ダムが施工中。 菊池川水系では、支流の迫間川に竜門ダムが建設された。熊本市に致命的な被害をもたらした白川では、熊本市内を中心とした河川改修を進める傍ら、白川・黒川合流点直下流の白川本流に洪水調節専用の穴あきダムである立野ダム を施工して、阿蘇外輪山より来る洪水を貯水するほか、支流黒川に内牧遊水池など8か所の遊水池群の整備を進め、2か所が完成している。 松浦川水系では、最大の被害をもたらした厳木川に厳木ダムが、嘉瀬川では佐賀県最大規模の嘉瀬川ダムが本流にそれぞれ完成している。このほか中小河川の改修やダム建設が、那珂川水系や多々良川水系、御笠川水系、今川水系などで進められている。下の画像は水害を機に建設されたダムの一部である。 こうした治水事業の整備により、これらの河川では複数県をまたぐ広範囲の浸水被害や、堤防決壊による多数の家屋・橋梁・鉄道流失を伴うような大規模水害は、60年近く発生しなかった。河川事業の整備は洪水の危険性を減らしたが、反面ダム事業では、松原・下筌ダム建設に端を発する12年にわたる反対運動・蜂の巣城紛争に見られる治水対策の遂行による住民の新たな犠牲というものも生じたほか、公共事業に対する風当たりの強さにより、玖珠川の猪牟田(ししむた)ダム、大野川本流の大野川ダムと支流平井川の矢田ダム が中止され、七瀬川の大分川ダムと小石原川の小石原川ダム、城原川の城原川ダム、そして白川の立野ダムは民主党政権の前原誠司国土交通大臣(当時)が進めたダム事業継続の再検証により事業が凍結、大分川・小石原川・立野の3ダムはその後事業が再開されたものの、城原川ダムは凍結状態が続いている。 治水事業が停滞する中、2009年(平成21年)にはこの災害の降水量に匹敵する集中豪雨、平成21年7月中国・九州北部豪雨が発生した。昭和28年西日本水害のような大河川での大規模な堤防決壊などは起きなかったが、ダムではカバーし辛い都市・中小河川での水害や土石流やがけ崩れにより、多数の死者を出す惨事をもたらした。さらに2012年(平成24年)7月には平成24年7月九州北部豪雨が発生。阿蘇市で本水害に匹敵する降水量を記録したほか、本水害とほぼ同じ地域で集中豪雨が発生し筑後川流域が広範囲に浸水したのを始め、矢部川では堤防が決壊、白川では熊本市内が浸水し山国川では過去最悪の洪水量を記録するなど、多くの死者を伴う大きな被害が発生。本水害以来となる、複数県に跨る広範囲かつ堤防決壊を伴う河川の氾濫を招いた。九州北部の大河川における治水事業は、本水害以降最大の課題を突きつけられている。 =ディートリヒ・ブクステフーデ= ディートリヒ・ブクステフーデ(ディーテリヒ・ブクステフーデ、ドイツ語: Dieterich (Dietrich) Buxtehude [*205*di*206*t*207**208**209**210* b*211*kst*212**213*hu*214*d*215*], デンマーク語: Diderik (Diderich) Buxtehude [*216*di*217**218**219**220*k buksd*221**222*hu*223**224**225*], 1637年頃 ‐ 1707年5月9日)は、17世紀の北ドイツおよびバルト海沿岸地域、プロイセンを代表する作曲家・オルガニストである。声楽作品においては、バロック期ドイツの教会カンタータの形成に貢献する一方、オルガン音楽においては、ヤン・ピーテルスゾーン・スウェーリンクに端を発する北ドイツ・オルガン楽派の最大の巨匠であり、その即興的・主情的な作風はスティルス・ファンタスティクス(ドイツ語版、英語版)(幻想様式)の典型とされている。 ==生涯== ===一族の系譜=== ブクステフーデの家系は、北ドイツ・エルベ河畔の都市ブクステフーデに由来し、13世紀から14世紀には、ハンブルク、リューベック等のバルト海沿岸の諸都市に一族の名が現れるようになる。当時のバルト海沿岸地域は、ハンザ同盟によって経済的に密接な関係を有し、同一の文化圏を形成していた。人々の移動も活発で、ブクステフーデの祖先も16世紀初頭にはホルシュタイン公国のオルデスロー(現ドイツ、バート・オルデスロー(ドイツ語版))に移住している。 祖父ディートリヒ・ブクステフーデ(生年不詳 ‐ 1624年頃)は、1565年から1590年までオルデスローの市長を務める。父ヨハネス・ブクステフーデ(1602年 ‐ 1674年)はこの地でオルガニストとして活動した後、1632年から1633年頃にスコーネ地方のヘルシンボリ(当時はデンマーク領)に家族とともに移り、当地の聖マリア教会のオルガニストに就任する。さらに、1641年にはズント海峡を越えて、デンマーク・ヘルセンゲアの聖オーラウス教会のオルガニストとなっている。 ===デンマーク時代(1637年 ‐ 1668年)=== ブクステフーデの出生に関する記録はほとんど残されていない。1707年7月、『バルト海の新しい読み物(Nova literaria Maris Balthici)』誌に掲載されたブクステフーデの死亡記事は、「彼はデンマークを祖国とし、そこから当地にやってきて、およそ70年の生涯を終えた」と伝えるのみである。したがって、ブクステフーデは、1637年頃に父ヨハネスが活躍していたヘルシンボリで生まれたものと考えられている。ブクステフーデが幼年期に受けた教育についても推測の域を出ない。おそらく父からオルガン等の音楽の手解きを受け、ヘルセンゲアのラテン語学校に通ったと考えられる。ブクステフーデがドイツ語に加えて、デンマーク語も使用していたことは、ヘルセンゲア時代の日付の残る3通の手紙の存在から明らかである。 1658年、ブクステフーデはかつて父が在職したヘルシンボリの聖マリア教会のオルガニストに就任する。当時、デンマークとスウェーデンはバルト海の覇権をめぐって激しく争っており、1658年2月のロスキレ条約において、デンマークはヘルシンボリを含むスコーネ地方をスウェーデンに割譲する。ヘルシンボリは、この間、実際の戦闘に巻き込まれることはなかったが、両国への兵力の拠出と戦争に伴う経済の混乱によって大きく疲弊する。ブクステフーデの声楽作品には、三十年戦争の戦禍に苦しめられた17世紀ドイツの民衆に特有な心情が少なからず反映されているが、ブクステフーデ自身もまた青年期にこうした戦争体験を共有している。一方、1662年、聖マリア教会のオルガンの修理がなされた際に、すでにヘルシンボリを離れていたブクステフーデに鑑定が依頼されたことは、当時すでにブクステフーデがオルガンの専門家として認められていたことを示している。 1660年、ブクステフーデはクラウス・デンゲルの後任として、ヘルセンゲアの聖マリア教会のオルガニストに就任する。ヘルセンゲアは、ズント海峡という交通の要衝に位置し、古くから経済的にも文化的にも栄えた町である。コペンハーゲンはここから真南に約45キロメートルと近く、ブクステフーデも1666年2月12日にコペンハーゲンを訪問している。デンマーク王クリスチャン4世は宮廷音楽の発展に努め、続くフレデリク3世の時代には、イタリアやフランス音楽の新たな動向を吸収し、ヨーロッパでも有数の宮廷楽団が編成されていた。当時の宮廷楽長カスパル・フェルスターは、ローマでジャコモ・カリッシミに師事し、イタリアの音楽様式を北方に伝えた仲介者であり、ブクステフーデの声楽作品における直截的な感情表現には、フェルスターの影響が認められる。また、スウェーデンの宮廷音楽家であり、ブクステフーデの作品の収集家として重要なグスタフ・デューベンとの関係も、この時期に始まったとされている。 ===リューベックのオルガニスト(1668年 ‐ 1707年)=== 1667年11月5日、リューベックの聖母マリア教会(英語版)のオルガニストであるフランツ・トゥンダーが死去し、1668年4月11日、ブクステフーデがその後任に選出される。3段鍵盤、54ストップを備える聖母マリア教会の大オルガンは銘器の誉れ高く、同教会のオルガニストは北ドイツの音楽家にとって最も重要な地位の1つとされていた。1668年7月23日にはリューベックの市民権を得て、同年8月3日、トゥンダーの娘アンナ・マルガレーテと結婚する。この婚姻が就職の条件であったかどうかは不明であるが、当時としては珍しいものではなかった。 リューベックは、ハンザ同盟の盟主として隆盛を極めた都市である。1226年に神聖ローマ帝国直属の自由都市となり、商人による自治が営まれていた。ブクステフーデが在職した聖母マリア教会は商人教会であり、商人にとって礼拝の場であるとともに、会議を開催したり、重要書類を作成・保管する機関としても重要な役割を担っていた。ブクステフーデは、オルガニストと同時に、教会の書記・財務管理を責務とするヴェルクマイスター(Werkmeister)に任命される。この職務には俸給が別途与えられ、一般にオルガニストが兼任するものとされていた。ブクステフーデは、教会における物資の調達、給与の支払、帳簿の作成等、ヴェルクマイスターの任務を忠実に果たす。その仕事は膨大な骨の折れるものであったが、ブクステフーデは、こうした仕事を通して市の有力者との関係を築くこととなる。 一方、17世紀後半は、衰退しつつあったハンザ同盟が終焉を迎えた時でもあった。1669年のハンザ会議には9都市のみが参加し、事実上、最後の総会となる。リューベックの経済的不振はブクステフーデの音楽活動にも影響を及ぼし、ブクステフーデの俸給は生涯を通じてトゥンダー時代のままに据え置かれた。また、聖母マリア教会のオルガンは故障が多く、ブクステフーデは繰り返し当局に修理を要求したにもかかわらず、十分な修理は行われなかった。 聖母マリア教会のオルガニストとしての職務は、毎朝の主要礼拝と日曜日など祝日の午後とその前日の夕方の礼拝時に、会衆によるコラールや聖歌隊の演奏を先導し、聖餐式の前後に音楽を演奏する程度であった。ブクステフーデが音楽家としての手腕を発揮したのは、むしろ前任のトゥンダー時代に始まったアーベントムジーク(夕べの音楽、Abendmusik)においてである。ブクステフーデはこの演奏会の規模を拡大し、合唱や管弦楽を含む大編成の作品を上演するとともに、開催日時も三位一体節の最後の2回の日曜日と待降節の第2‐4日曜日の午後4時からに変更した。アーベントムジークは入場無料ということもあって高い人気を博し、ブクステフーデの名声はリューベックを超えて広まる。アーベントムジークの経済的負担は決して軽いものではなかったが、誠実なブクステフーデは市の有力者の理解と支援を得ることができた。市長ペーター・ハインリヒ・テスドルプフは、後年「亡きブクステフーデが私に天国のような憧れを予感させてくれた。彼は聖マリア教会におけるアーベントムジークに大いに力を尽くした」と語っている。 ブクステフーデは、大きな旅行をすることもなく、約40年にわたって聖母マリア教会の職務を全うした。旅行の確実な記録は、ハンブルクの聖ニコラウス教会に設置されたアルプ・シュニットガー作のオルガンを鑑定するために、1687年に当地を訪問したことのみである。しかしながら、ブクステフーデは、ヨハン・アダム・ラインケン、ヨハン・タイレ、クリストフ・ベルンハルト、マティアス・ヴェックマン、ヨハン・パッヘルベル等、当時のドイツの主要な音楽家と関係をもっていた。ヨハネス・フォールハウトの『家庭音楽のひとこま(Hausliche Musikszene)』(1674年)には、ブクステフーデ、ラインケン、タイレと思われる3人の音楽家の交流が描かれている。また、タイレが1673年に出版した『ミサ曲集第1巻』や、パッヘルベルが1699年に出版した『アポロンのヘクサコルド(Hexachordum Apollinis)』は、ブクステフーデに献呈されたものである。一方、ブクステフーデに師事した音楽家としては、後にフーズム市教会オルガニストとなるニコラウス・ブルーンスが有名である。 ブクステフーデが晩年に作曲した2曲のアーベントムジークは、その規模の大きさにおいて際立っている。1705年の神聖ローマ皇帝レオポルト1世の死を悼み、新皇帝ヨーゼフ1世の即位を祝うこれらの作品は今日消失しているが、丁重に印刷されたフォリオ版のリブレットからは、帝国自由都市リューベックの威信を賭けた一大イベントであったことが偲ばれる。ブクステフーデは、これと前後して、後継者捜しに苦心するようになる。1703年8月17日には、ヨハン・マッテゾンとゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルをハンブルクから迎えるが、2人は30歳に近いブクステフーデの娘との結婚が後任の条件であることを知ると、興味を失ってハンブルクに帰ってしまう。また、1705年11月にアルンシュタットから訪問したヨハン・ゼバスティアン・バッハも、情熱的なブクステフーデのオルガン演奏に強く魅了され、無断で休暇を延長してリューベックに滞在したが、ついに任地として選ぶことはなかった。結局、ブクステフーデは弟子のヨハン・クリスティアン・シーファーデッカーを後任に推挙し、当局に受け容れられる。 1707年5月9日、ブクステフーデは死去し、5月16日に聖母マリア教会で父ヨハネスと早逝した4人の娘の傍らに埋葬される。「まこと気高く、大いなる誉れに満ち、世にあまねく知られた」(ヨハン・カスパル・ウーリヒによる追悼詩)と謳われたオルガニストの最期であった。 ==作風== ===声楽曲=== ブクステフーデの現存する約120曲の声楽曲は、婚礼用の8曲等を除いてすべてプロテスタント教会のための宗教曲である。これらの作品は今日カンタータと呼ばれることも多いが、当時、宗教曲に対してカンタータという呼称が用いられることはなく、独立した複数の楽章から構成される声楽曲という現代における定義に合致する作品も少ない。ブクステフーデの声楽曲において採用された歌詞の形式は、聖書等の散文詩、ドイツ語コラール、その他の有節詩に分類することができ、それに応じて基本的な楽曲構成を声楽コンチェルト、コラール楽曲、アリアに分けて考えることが一般的である。 声楽コンチェルトは、イタリアのコンチェルタート様式に由来し、歌詞のフレーズにあわせて分割されたモティーフを単声または多声の歌唱声部と器楽声部が協奏する。また、アリアの多くは、リトルネッロ、声楽リフレインを伴った有節変奏形式であり、BuxWV57, 62, 70のようにオスティナート・バスによるものも存在する。一方、当時イタリアで確立されていたダ・カーポ・アリアは全く見られず、歌詞のデクラメーションに即したシンプルな旋律は、むしろ初期バロック・イタリアにおけるクラウディオ・モンテヴェルディやジャコモ・カリッシミに近い。単一の歌詞による楽曲においても、分節化されてカンタータへと向かう傾向が認められるが、複数の歌詞を組み合わせた楽曲では、明確なカンタータ形式によるものが約30曲存在する。その大半は声楽コンチェルトとアリアを組み合わせた作品であり、聖書の言葉がその主観的で詩的な省察と結びつけられ、深い共感を込めて描かれている。 ブクステフーデのアリアには、BuxWV59, 74, 80, 90のように、ヨハン・シェフラー(アンゲルス・ジレージウス)、ヨハン・ヴィルヘルム・ペーターゼン等の神秘主義者、敬虔主義者やその影響を受けた詩人の歌詞が少なからず存在する。また、クレルヴォーのベルナルドゥス等の中世神秘主義の流れを汲む瞑想的な歌詞も、BuxWV56, 57, 75等の作品で採用されている。直接的な体験を通して神との合一を求める中世神秘主義は、バロック時代の思想の底流として生き続け、日常生活における霊的体験を重視するルター派敬虔主義の成立にも大きな影響を及ぼす。30年戦争の悲惨な経験を通して、この世を涙の谷ととらえ、来世に憧れのまなざしを向ける17世紀ドイツの民衆の心情には、こうした神秘主義的思潮が広く浸透していた。十字架上のイエスの苦しみをわが身のものとして受けとめ、花婿に擬えたイエスとの結婚を通して魂の救済を希求するこれらの作品は、ブクステフーデのシンプルな旋律法とも相まって、ブクステフーデの声楽曲のなかでもとりわけ強いインパクトをもっている。 ブクステフーデの管弦楽書法は、17世紀ドイツの伝統に根ざすものであり、18世紀の標準的なオーケストラ編成とは大きく異なっている。声楽曲における特徴は中声部の充実と多様性にあり、ブクステフーデは楽曲ごとにヴィオラ、ヴィオラ・ダ・ブラッチョ、ヴィオレッタ、ヴィオラ・ダ・ガンバ等、多様な楽器を組み合わせている。とくにヴィオラ・ダ・ガンバは、BuxWV32, 64のように高度な技巧を伴った独奏楽器としても使用しており、ヴィオラ・ダ・ガンバに対する愛好と当時の演奏水準の高さを窺わせる。また、管楽器についても、低音リード楽器として、ファゴットではなく、時代遅れの楽器となっていたボンバルド(バス・ショーム)を使用するなど、古風な楽器編成を採用したものがある。 婚礼用の世俗歌曲は、大半がリューベック市の有力者から作曲を依頼されたものであるが、1680年のスウェーデン王カール11世とデンマーク王女ウルリカ・エレオノーラの結婚式のための作品(BuxWV119)も含まれる。BuxWV121の印刷譜は1942年のイギリス軍によるリューベック空襲の際に焼失し、現在は1913年にアンドレ・ピロが出版した著書に収録されたインチピットが残るのみである。その他の声楽曲としては、古様式によるミサ・ブレヴィス(BuxWV114)や厳格対位法にもとづくカノン等がある。対位法の技巧を凝らしたこれらの作品は1670年代に集中的に作曲されており、「対位法の父」と称されたヨハン・タイレ等との交流を反映するものと考えられている。 ブクステフーデの作品のうち、アーベントムジークで演奏されたものとして確証のある楽曲は、今日全く現存しない。わずかに1678年の『子羊の婚礼(Die Hochzeit des Lammes)』(BuxWV128)と、1705年の『悲しみの城砦(Castrum doloris)』(BuxWV134)、『栄誉の神殿(Templum honoris)』(BuxWV135)の3曲のリブレットが残されているほか、1732年にグスタフ・デューベンの息子がウプサラ大学に寄贈したコレクションのなかに作者不詳の作品として伝承された『最後の審判(Das j*226*ngste Gericht)』(BuxWV Anh.3)が1683年に演奏されたアーベントムジークであろうと推測されている。 ===鍵盤楽曲=== ブクステフーデのオルガン作品は、自由曲、コラール編曲ともに約40曲が現存する。自由曲の多くは、即興的なプレリュードと対位法的なフーガを含んでいるが、「前奏曲とフーガ」と通称されるように、一対のプレリュードとフーガから構成される作品は少ない。典型的な楽曲構成は、北ドイツ・オルガン・トッカータといわれる5部形式であり、冒頭部‐第1フーガ‐間奏部‐第2フーガ‐終結部といった展開を示す。BuxWV137, 148のように後続するフーガに代えてオスティナート形式が導入されることもある。自由な部分は即興的な性格が強く、とくに冒頭部は入念に展開され、技巧的なパッセージや大胆な和声進行等を伴って、リズム、テンポ、拍子のさまざまな対比が試みられる。リューベックの聖母マリア教会のオルガンは足鍵盤のストップ数が最も多く、ブクステフーデのオルガン作品においても低声部は重要な役割が与えられており、BuxWV137, 143のように足鍵盤の技巧的なソロで開始する楽曲も存在する。また、フーガでは二重対位法やストレッタが多用され、足鍵盤が独立した声部を担当してテクスチュアに厚みが加えられている。その他の自由曲としては、3曲のオスティナート楽曲や足鍵盤をもたないカンツォーナ等がある。ニ短調のパッサカリア(BuxWV161)は、後にヨハネス・ブラームスが関心を寄せたことでも知られており、足鍵盤をもたない自由曲は、チェンバロによる演奏も可能である。 一方、オルガンのためのコラール編曲は、コラール前奏曲、コラール変奏曲、コラール幻想曲に分類される。コラール編曲の大半を占めるコラール前奏曲は、会衆によるコラールの前奏として用いられたものであり、コラール旋律が豊かに装飾されて上声部に置かれ、他の3声部が手鍵盤と足鍵盤に分けて伴奏される。また、コラール幻想曲においては、声楽コンチェルトの作曲技法が応用され、コラールの各フレーズが即興的に大きく展開されており、滔々と流れるファンタジーのうちに、ブクステフーデの敬虔な信仰心を感じさせる。 ブクステフーデのオルガン作品に見られる即興性は、17世紀北ドイツにおけるスティルス・ファンタスティクス(幻想様式、stylus fantasticus)の典型とされる。スティルス・ファンタスティクスとは、ヨハン・ゴットフリート・ヴァルターが1732年に出版した『音楽事典(Musicalisches Lexicon)』によれば、あらゆる制約から解放された様式であり、ヨハン・マッテゾンは、『完全なる楽長(Der vollkommene Capellmeister)』(1739年)において、ブクステフーデの前奏曲(BuxWV152)をスティルス・ファンタスティクスの実例として挙げている。リューベックでブクステフーデの演奏を目の当たりにしたバッハは、中部ドイツのアルンシュタットでその成果を試したものの、礼拝時のオルガン演奏に奇妙な変奏や多くの耳慣れない音を混入させたとして教会当局から強く叱責されたが、このことは北ドイツの音楽風土の特異性とともに、ブクステフーデの音楽の自由な性格をもよく示している。 この他、チェンバロまたはクラヴィコードのための作品として、21曲の組曲と6曲の変奏曲が現存する。マッテゾンが『完全なる楽長』で言及した7つの惑星の性質を模した組曲(BuxWV251)は今日消失している。一方、ニ短調の組曲(BuxWV deest)は、1710年にアムステルダムで出版された作者不詳の組曲のなかから、2004年にピーター・ディルクセンによって発見されたものである。これらの組曲はいずれもアルマンド、クーラント、サラバンド、ジーグという舞曲の標準的な配列を基本とし、スティル・ブリゼが頻繁に用いられる。また、カプリッチョーサにもとづく32の変奏曲(BuxWV250)をはじめとする世俗的変奏曲では、鍵盤楽器による多様な変奏技法が追求されている。 ===室内楽曲=== ブクステフーデの室内楽曲は、出版されたいずれも7曲からなるヴァイオリン、ヴィオラ・ダ・ガンバと通奏低音のためのソナタ集作品1(1694年)、作品2(1696年)のほか、手稿譜として残された6曲のソナタが現存する。1684年に出版されたとされる2‐3つのヴァイオリン、ヴィオラ・ダ・ガンバ、通奏低音のためのソナタ集(BuxWV274)は今日消失している。出版された2つの作品集は、体系的な調性プランにもとづき、1セットとして編纂されたものと考えられるが、楽章編成は楽曲ごとに異なり極めて多様である。いずれの楽曲においてもヴィオラ・ダ・ガンバに重要な役割が与えられており、通奏低音の旋律のディヴィジョンを行うほか、対位法的な楽章では独立した声部を演奏して、ヴァイオリンと対等に掛け合う。また、手稿譜として残された作品のなかには、ヴィオラ・ダ・ガンバ、ヴィオローネと通奏低音といった特殊な編成によるソナタ(BuxWV267)も存在する。 ブクステフーデの室内楽曲は、イギリスやドイツにおける即興的なヴィオラ・ダ・ガンバ演奏の伝統に属する。マッテゾンは、『登竜門への基礎(Grundlage einer Ehrenpforte)』(1740年)で、1666年にクリストフ・ベルンハルトの自宅で開催された演奏会について言及し、ヴァイオリンやヴィオラ・ダ・ガンバの名手達がカスパル・フェルスターの4声のソナタをスティルス・ファンタスティクスの技法にしたがって即興演奏する様子を描いているが、ブクステフーデの室内楽曲の緩徐楽章において、即興的なソロのエピソードが声部ごとに受け渡されていく箇所等には、こうした情景を彷彿させるものがある。 ==受容史== 17世紀の伝統に根ざしたブクステフーデの音楽は、社会構造が大きく変革する18世紀になると急速に忘れ去られていく。ブクステフーデが再び注目されるのは、19世紀のバッハ研究の進展においてである。1873年に初めてバッハの評伝を著したフィリップ・シュピッタは、バッハの先達としてのブクステフーデのオルガン作品について詳しく論じる。また、1889年には、カール・シュティールがスウェーデンのウプサラ大学の古文書からグスタフ・デューベンが収集したブクステフーデの声楽曲を大量に発見し、声楽曲に対する関心が高まる。 1960年代と1970年代における古楽演奏の復興とともに、ブクステフーデの作品も一般に広く演奏されるようになる。今日では、ブクステフーデの代表作である『我らがイエスの四肢(Membra Jesu nostri)』(BuxWV75)は10種類以上の録音がなされており、室内楽の分野でも、ムジカ・アンティクヮ・ケルンによる先駆的な演奏等を通して注目され、すでに全曲が録音されている。 2007年はブクステフーデの生誕370年かつ没後300年を記念する年である。リューベックでは年間を通してブクステフーデに因んだコンサートやシンポジウム等が開催され、全市を挙げて記念年を祝う。また、オランダの指揮者・鍵盤奏者であるトン・コープマンは2006年から5年をかけてブクステフーデ作品の全曲録音を行うことが予定されている。 ==作品一覧== ブクステフーデの作品目録は、ゲオルク・カールシュテットの『ディートリヒ・ブクステフーデの音楽作品の主題体系的目録』(1974年)による。曲種別にブクステフーデ作品番号(略号:BuxWV)が付されており、同一曲種内では、声楽曲およびオルガン・コラールは表題のアルファベット順、オルガン自由曲、鍵盤組曲等は調性順となっている。 ===宗教声楽曲=== ===世俗声楽曲=== ===消失した声楽曲(アーベントムジークを含む。)=== ===オルガン自由曲=== ===オルガン・コラール=== ===クラヴィーア曲=== ===室内楽曲=== ===補遺(疑作・偽作)=== =エアバスA340= エアバスA340 (Airbus A340) は、ヨーロッパの企業連合であるエアバス・インダストリー社(後のエアバス社)が開発・製造した、ワイドボディの4発ジェット旅客機。 A340シリーズの中で、A340‐200/‐300は最初に開発されたA340の第1世代である。A340‐200は航続力を優先した短胴型、A340‐300は収容力を優先した長胴型で、それぞれルフトハンザドイツ航空とエールフランスによって1993年に初就航した。その後、長距離路線に進出しつつあった双発機に対抗するため、A340の第2世代としてA340‐500/‐600が開発された。収容力増強型のA340‐600は登場時点で世界最大の全長を持つ旅客機となり、2002年にヴァージン・アトランティック航空によって初就航した。航続力増強型のA340‐500は登場時において世界最長の航続距離性能を持つ航空機となり、エミレーツ航空によって2003年に初就航した。2004年にはシンガポール航空がA340‐500を用いてシンガポール ‐ ニューヨーク直行便を開設し、民間航空路線として世界最長距離を記録した。その後、エアバスは新しい長距離機としてA350XWBを開発し、2011年にA340の生産終了を発表した。A340シリーズ全体での生産数は377機であった。A340は欧州やアジア・中東地域の航空会社を中心に運航され、ボーイング747ほどの収容力を必要としない長距離路線を中心に就航している。2014年10月現在までに、A340に関して5件の機体損失事故が発生しているが、死亡事故は起きていない。 本項では以下、エアバス製旅客機およびボーイング製旅客機については社名を省略して英数字のみで表記する。例えば、「エアバスA300」であれば「A300」、「ボーイング747」であれば「747」とする。 A340は、長距離路線向けの大型機として開発された。エアバスA300由来の胴体を延長したワイドボディ機で、低翼に配置された主翼下に4発のターボファンエンジンを装備する。尾翼は低翼配置、降着装置は前輪配置で主翼間に中央脚を持つ仕様もある。A340シリーズには4つのモデルA340‐200、A340‐300、A340‐500、A340‐600が存在する。機体寸法や性能は各形式によるが、巡航速度はマッハ0.82から0.83で、全長は59.40から75.36メートル、全幅は60.30から63.45メートル、最大離陸重量は253.5から380トン、座席数は240席から440席程度である。A340は双発のエアバスA330と同時に正式開発が決定され、エンジン関係を除いて両機は最大限共通化された。A340はエアバスが開発した最初の4発機となったほか、4発機と双発機の同時並行的な開発は、航空技術史上において希少な取り組みとなった。また、A340ではフライ・バイ・ワイヤシステムやグラスコックピットが導入され、操縦系統が共通化されたエアバス機との間で相互乗員資格が認められている。 ==沿革== ===開発の背景=== 米国の航空機メーカーに対抗するため、欧州の航空機メーカーは1970年12月に企業連合「エアバス・インダストリー」を設立した。エアバスは最初の製品であるワイドボディ機、A300の販売を軌道に乗せると、1978年に2番目の製品として短中距離向けのワイドボディ機であるA310の開発を開始した。A310は検討段階では「A300B10」と呼ばれていたが、当時、次期製品の候補としてA300B9(以下、B9)、A300B11(以下、B11)とそれぞれ呼ばれた機体案も考えられていた。B9案は、A300の胴体延長版となる双発の中距離機で、ダグラスDC‐10やロッキードL‐1011の市場に食い込むことを狙い、B11案は、短めの胴体に新設計の主翼を組み合わせてエンジンを4発とする長距離型で、707やダグラスDC‐8の後継機需要を狙っていた。しかし、当時のエアバスには、複数の機種を同時開発できるだけの資金や人員がなく、B10案がA310と命名され正式開発が開始された一方で、B9やB11案は無期限に延期された。 1980年になってエアバスは、「SA」 (Single Aisle) と名付けられた単通路機(ナローボディ機)の研究を行っていることを明らかにした。同時に、ワイドボディ機の計画名には2通路を意味する「TA」 (Twin Aisle) が付けられ、B9案はTA9、B11案はTA11と名前を変えた。1982年のファーンボロー国際航空ショーの場で、TA9、TA11、そして新たに追加されたTA12の開発構想が発表された。TA9、TA11、TA12案は何度か変更が加えられたが、おおむね以下のようなものであった。 TA9 ‐ A300の胴体を延長して320席を超える座席数を持つ中距離双発機。TA11 ‐ TA9より短い胴体で座席数は230席程度、10,000キロメートル以上の航続力を持つ長距離4発機。TA12 ‐ TA11と同じ胴体長・座席数で、TA11より航続距離が短いが、エンジンを双発とした長距離機。しかし、この頃、第2次石油危機と景気後退により民間航空機市場は縮小していた。エアバスは、1984年3月にSA計画をA320と名付けて正式開発を開始した一方で、TA計画の開発決定を先送りした。1980年代の中頃にはTA12案が取り下げられたが、TA9とTA11案には改良が加えられ、A320と共通のフライ・バイ・ワイヤシステムを導入し、A320同様にサイドスティック方式の操縦席を搭載する計画となった。 エアバス内部では、双発機のTA9と4発機のTA11のどちらを先に開発するか議論が重ねられた。離陸重量などの条件が同等だと仮定した場合、双発機には4発機よりも強力なエンジンを装備する必要がある。また、エンジンの信頼性が低かった時代に作られた規制により、双発機はエンジン1基が停止した場合に60分以内に着陸可能な飛行場があるルートしか飛行できず、代替飛行場の少ない中長距離の洋上路線では3発機や4発機が用いられていた。 他方、双発機と比較した4発機のデメリットとして、機体のシステムが複雑で整備に手間がかかり、運用コストが高くつくことがあげられる。エンジンの信頼性や性能が向上してきたことで、低コストの双発機を洋上路線で運航したいという企業のニーズが高まっており、1985年には、ETOPSと呼ばれる双発機の長距離運航を認める要件が策定されていた。ただし、当時のETOPSでは航路設定や運航の自由度がまだ限られていたほか、認証を得るために時間も要した。この当時、北米の航空会社はコスト面で有利な双発機を好んだ一方、長距離洋上路線を抱えるアジアの航空会社は双発機のような制約の無い4発機を必要とし、欧州の航空会社の意見は両者に二分されていた。 航空業界の意見が双発機と4発機に分かれていた中で、エアバスはTA9とTA11を同時開発する方向へ舵を切った。総開発費を抑制するため、両機の構成要素は最大限共通化するよう設計が進められた(設計過程の詳細は後述)。2機を同時開発する目処が立ち、1986年1月にエアバスはTA9とTA11をそれぞれA330、A340と命名した。なお、この両機の名称は、元々は逆であった。エアバスはTA11を先に開発する予定であり、A320に続く新型機ということでTA11をA330、そしてTA9をA340としていた。しかし、4発機がA3”3”0で双発機がA3”4”0では、顧客が両機を取り違えるという問題が指摘され、4発機がA340に変更された。 最初にA340の発注の意向を示したのはルフトハンザドイツ航空で、1987年1月のことであった。その後、米国のノースウェスト航空もA340の発注を決め、1987年6月までに合計10社の航空会社からA340に89機、A330に41機の注文が集まっていた。開発を進めるのに十分な受注の見込みが立ったことで、エアバスはパリ航空ショーを控えた1987年6月5日、A340とA330の正式開発を決定した。両機は姉妹機として同時に開発が決定されたが、市場調査の結果を踏まえ、A340の開発作業を先行させることになった。 ===設計の過程=== A340とA330は同一の胴体断面を持ち、尾翼を含めて尾部も共通、主翼もエンジン取付部以外は構造的に同じで空力学的に全く同じであるほか、システムやコックピットもエンジン関係を除いて共通化された。4発機と双発機の同時並行的な開発というのは航空技術史上において希少な取り組みとなった。特に、後退翼にパイロンを介してエンジンを装備する大型機で、双発機と4発機で同じ主翼を用いるというのは、前例が無かった。ここで時間を少し巻き戻して、A340の設計過程を詳しく見てみる。 A340がまだTA11と呼ばれていた頃から機体案には何度か修正が加えられており、1985年の段階で長胴型と短胴型の2種類が提案されていた。長胴型は座席数が280で航続距離が10,000キロメートル(5,400海里)、短胴型は座席数を240に減らして航続距離を12,000キロメートル(6,500海里)に延ばすという案であった。2種類の胴体案は、短胴型のA340‐200と長胴型のA340‐300として具体化された。最終的な仕様は以下のように決まったほか、姉妹機のA330の胴体長はA340‐300と同一とされた。 A340‐200: 胴体長が58.57メートル、3クラス編成での標準座席数は261席。A340‐300: 胴体長が62.84メートル、3クラス編成の標準座席数は295席。A340の胴体断面には、A300、A310と引き継がれてきたワイドボディ機の断面が用いられた。このため、座席配置などはA300と同様で、内装設計はA310のものが基本的に用いられた。LD‐3航空貨物コンテナを左右に並べて搭載できる床下貨物室もA300と同様とされた。 A340の主翼は完全に新設計となり、空力設計はブリティッシュ・エアロスペース(以下、BAe)社が担当した。空力的特性はA310の主翼のものを引き継ぎつつ、長距離飛行に適するよう修正が加えられた。A340とA330で最大離陸重量が同一だと仮定すると、4発機でエンジンの重量が分散されるA340の方が主翼の付け根にかかる負荷が小さくなり、強度的な余裕が生まれる。そこで、長距離向けで燃料を多く必要とするA340にのみ胴体内に燃料タンクが増設されたほか、重量増加に備えた降着装置の増設も行われ、A340とA330で主翼に必要な強度がほぼ等しくされた。A340/A330は主翼下にパイロンを介してエンジンを装備する方式であり、エンジンとそのカウリングの重量、位置、空力特性などが主翼の構造や空力形状の設定に深く影響するため、共通化には高い技術が求められた。エアバスは、コンピュータを用いた強度計算・空力設計と風洞実験を組み合わせることで翼型、翼厚比、取付角などを緻密に検討し、エンジン取付部を除いてA340とA330の主翼は実質的に共通化された。そのほか、設計当初から主翼の翼端には燃費性能を向上させるウィングレットが備えられた。A340の主翼の平面形は、A300と比べて翼幅、後退角、アスペクト比のいずれもが拡大された。主翼の後退角はこれまでのエアバス機で最も大きい30度となった。 A340とA330では尾翼も共通化された。垂直尾翼はA310のものがほぼ流用され、生産の共通性が維持された。水平尾翼は新規設計となり、一次構造部材にも炭素繊維強化プラスチック (CFRP) が取り入れられた。A310と同様に水平安定板内には燃料タンクが設けられ、主翼や尾翼のタンク間で燃料を移動させて機体の重心位置を制御するシステムが採用された。 機体の大型化・重量増加に合わせて降着装置を強化するため、主脚が新たに設計され大型化したほか、胴体中央部に2輪式の中央脚がオプションで用意された。前脚については、主脚と比べて負荷が小さいため、製造の共通性やコスト抑制の観点などからA310のものが流用された。中央脚以外の降着装置はA340とA330とで共通化された。 A340のエンジンには、英米日独伊5か国のエンジンメーカーによる国際合弁会社のインターナショナル・エアロ・エンジンズ(以下、IAE)社がV2500「スーパーファン」を提案していた。スーパーファンは、A320で採用されていたV2500エンジンのコアを用いつつ、減速ギアを介した大型ファンの駆動といった新技術の導入により非常に大きなバイパス比を実現し、燃費性能を15ないし20%も向上させるという画期的なエンジン構想であった。ただ、スーパーファン計画がIAE社から発表されたのは1986年7月で、型式名がA340と決まった段階では、試作機どころかモックアップすら存在しなかった。開発が始められたばかりのスーパーファンの採用を不安視する意見もあったが、ルフトハンザドイツ航空やノースウェスト航空などA340の発注を決めた航空会社は、その性能に期待をかけていた。しかし、心配されたとおり技術的課題を解決できず開発は行き詰まり、IAE社は1987年4月にスーパーファン構想の無期限延期を発表した。スーパーファンの開発が事実上打ち切られたことから、A340のエンジンは、A320で採用されていたもう1つのエンジンであるCFMインターナショナル(以下、CFMI)社のCFM56‐5シリーズ1種類に絞られた。 A340の操縦系統には、エアバスがA320で実用化したシステムの発展形が用いられた。このシステムでは全ての操縦翼面にフライ・バイ・ワイヤ方式が導入され、A340はフライ・バイ・ワイヤ方式を用いた史上初のワイドボディ機となった。このシステムは基本的にA320のものと同じだが、A340の機体構造や性能に合わせた飛行特性が調整や改良が行われた。コックピットもA320と基本的な設計は同じで、6面のブラウン管ディスプレイに各種情報を表示するいわゆるグラスコックピットであり、従来の操縦桿の代わりにサイドスティックを用いるのもA320と同様である。A340のコックピット配置は、エンジンのスロットルレバーを除いてA330のものと事実上共通化された。 エンジンの数とそれに伴う非常時の対処以外、A340とA330の操縦操作は基本的に同じであり、相互乗員資格(Cross Crew Qualification, 以下CCQ)と呼ばれる資格制度が認められた。これは、いずれかの機種の操縦資格を持つ操縦士は、短期間の訓練でもう一方の操縦資格を得られるという制度で、特にA340からA330への転換訓練は1日とされた。また、コックピットの配置が基本的に同じA320ファミリーとの間でもCCQが適用された。 ===生産と試験=== A340とA330の開発作業では、試作機の製造もA340が先行した。A340の生産はそれまでのエアバス機と同様に国際分業体制がとられ、参加各国でパーツを分担して製造し、最終組み立てはフランスのトゥールーズで行われた。トゥールーズには新たな大型機A340/A330を組み立てるための施設が新設され、最終組み立て工程の一部にはロボットが導入された。生産においてもA340/A330の共通性は極めて高く、同一ライン上で両機の組み立てが行われた。 A340の1号機はA340‐300であり、1991年10月4日にトゥールーズで完成披露式典が行われ、その年の12月25日に初飛行した。A340‐200の初号機となったのは通算4号機で、初飛行は1992年4月1日であった。 飛行試験にはA340‐300が4機、A340‐200が2機の計6機が投入された。飛行試験ではいくつかの問題が見つかり、設計の修正が行われた。高速性を確認する試験では、計画値よりも大きな抵抗があることがわかった。原因調査によって主翼付け根側の第1スラットが関係することが判明し、このスラットの翼弦長を増やすことで解決が図られた。このため、主翼前縁はエンジンパイロンの取付部と内側のスラット部にわずかな段差がついた。また、飛行試験の1つである緩降下試験では、主翼でバフェットと呼ばれる振動が想定より強く表れ、目標速度としていたマッハ0.93に到達できなかった。原因を解析したところ、外側エンジンのパイロンで気流が乱れることでこの振動が発生し、主翼のねじれ変形が事前の想定よりも大きかったことで症状が悪化していることが分かった。この問題を解決するために、パイロン付近の主翼下面に気流を整える突起が追加され、後に最終的な対策として主翼のねじれ特性を改善するよう設計が変更された。 問題への対処を行いつつ試験は進められ、1992年12月22日に欧州の合同航空当局(Joint Aviation Authorities、以下JAA)からA340‐200、‐300の両型式に対する最初の型式証明が交付された。翌1993年2月2日に、A340‐200の初引き渡しがルフトハンザ航空に対して行われた。続いて同月26日には、A340‐300の初引き渡しがエールフランスに行われ、このときの機体はエアバスの生産機としてちょうど1,000機目でもあった。また、この年の5月27日には、米国の連邦航空局(Federal Aviation Administration、以下FAA)の型式証明も取得した。 ===就航開始=== A340‐200の初就航は1993年3月15日、ルフトハンザ航空のフランクフルト ‐ ニューヨーク線であった。同月29日には、エールフランスによって、パリとワシントンD.C.を結ぶ路線でA340‐300が初就航した。 1990年代には、A340の納入はおおむね年に20機から30機というペースで進められた。A340の運航会社は欧州の航空会社を中心に広がり、747ほどの収容力を必要としない長距離路線を中心に投入された。1995年7月までに欧州では、エールフランス、ルフトハンザ航空、オーストリア航空、TAP ポルトガル航空、トルコ航空、ヴァージン・アトランティック航空がA340を導入していた。 アジアで最初にA340を導入したのはエア・ランカ(後のスリランカ航空)で、キャセイパシフィック航空がそれに続いた。日本の航空会社では、1990年に全日本空輸が5機を発注していたが、1995年1月に機体の受領を2000年以降に延期することが発表され、最終的に注文はキャンセルされた。 米国では、1992年にノースウェスト航空が経営状況の悪化によりA340の発注をキャンセルしており、その後もA340を導入する航空会社は現れなかった。その他の地域では、1995年7月までにモーリシャス航空、クウェート航空、バーレーンのガルフ・エア、そしてエア・カナダがA340を導入していた。 エアバスは、A340‐200/‐300ともに最大離陸重量の段階的な引き上げを行い、航続力の向上が図られた。一方、A340のエンジン推力は最大でも151キロニュートンで、当時ライバルとされたマクドネル・ダグラスMD‐11などと比べると余剰推力が小さく、上昇性能が劣っていた。A340の巡航速度はマッハ0.82でありマッハ0.85以上の巡航速度を持つ747やMD‐11と比べて遅く、A340が就航するような長距離路線では、速度の遅さにより所要時間に大きな差がついた。また、これら複数の機種が混在して運航されている路線では、A340が747やMD‐11に追いつかれるケースが頻発し、航空会社からクレームが続出したことで、巡航速度に応じて飛行ルートを分離する措置がとられた。 ===第2世代の開発=== 姉妹機のA330は、A340から約1年遅れて1992年11月に初飛行に成功し、1993年10月に型式証明を取得して1994年1月に初就航していた。長距離は4発機、短中距離は双発機という棲み分けを提示したエアバスだが、航空会社はより航続距離が長い双発機を求めるようになっていた。1995年6月には、ボーイングによって開発された新型の双発ワイドボディ機777が路線就航を開始した。777は双発ながら優れた航続性能を持ち、A340‐200に匹敵する14,000キロメートルという航続力を持つ発展型の登場も予定されていた。1995年11月にはエアバスも双発のA330の胴体を短縮して軽量化し、その分燃料搭載量を増やすことで航続性能の向上を図るA330‐200の開発を決定した。また、ETOPS制度の拡充により双発機の運航可能範囲が拡大し、双発機がA340の市場を侵食しつつあった。このような状況で、エアバスは777に対抗でき、747初期型の後継需要も狙える機体として、A340の一層の大型化・長距離化を検討し、1996年4月に本格的な研究作業を開始した。詳細設計を続けたエアバスは、超長距離型のA340‐500ならびに長胴型のA340‐600を開発することを決断し、1997年6月15日にパリ航空ショーにおいて正式発表した。第2世代となる2モデルの機体案は以下の通りであった。 A340‐500: A340‐300と同等の収容力で、A340‐200以上の航続距離を持たせる。A340‐600: A340‐300と同等の航続力を維持しつつ、客席数を3割程度増加させる。この新型機計画に対し、まず、ヴァージン・アトランティック航空がA340‐600、エア・カナダがA340‐500/‐600両機種を発注する意向を示し、続いてエジプト航空とルフトハンザ航空もA340‐600の発注を決めた。これら4社がローンチカスタマーとなり、エアバスは、1997年12月8日に正式にA340‐500/‐600を開発することを決定した。2モデル同時の開発決定であったが、開発作業はA340‐600を先行させ、A340‐500は半年遅れで作業を行うこととされた。 A340‐500/‐600(以下、第2世代と呼ぶ)では、胴体の延長、主翼と尾翼の大型化、エンジンの変更、降着装置の強化などが行われた。A340第2世代の胴体は、A340‐200/‐300(以下、第1世代)と同じ断面が使用された。胴体長は、A340‐300と比べてA340‐500では3.2メートル、A340‐600では10.6メートル延長された。A340‐600の全長は75.36メートルで、世界で最も全長の大きい旅客機となった。 主翼は全くの新設計ではなく、第1世代の主翼に対して追加構造体を挟み込むことで翼弦方向を拡大する方法が取られた。また、翼端部分の延長とウィングレットの見直しも行われた。これらの主翼の変更によって翼面積が約1.2倍に拡大、翼幅が3.15メートルに延び、後退角が31.1度に増えたほか、アスペクト比と翼厚比が減少した。胴体の延長にともない垂直尾翼と水平尾翼も大型化された。 主翼の大型化にともない主翼内の燃料タンク容量が拡大したほか、超長距離型のA340‐500では胴体内にもタンクが増設された。機体全体での燃料容量はA340‐300比でA340‐500が52パーセント、A340‐600が38パーセント増大した。最大離陸重量も引き上げられ、A340‐500は標準航続距離が16,057キロメートル(8,670海里)に達し、世界最長の航続距離性能を持つ航空機となった。 エンジンは、推力の大きいロールス・ロイス(以下、R‐R)社のトレント500(英語版)シリーズに置き換えられた。A340‐500/‐600はエアバスの旅客機として、初めてR‐R社のエンジンのみを装備する機種となった。主翼の変更やエンジン推力の増加によって飛行性能が向上し、巡航速度はマッハ0.83に引き上げられたほか、上昇性能も向上した。 重量増大に対応するため、中央脚が標準装備になり4輪式に変更された。同時に機体の軽量化のため、構造部材の一部に新しいアルミニウム合金が導入されたほか、複合材料の採用範囲が一段と拡大され、後部圧力隔壁や胴体の縦通材にもCFRPが採用された。コックピットは第1世代と全く同じレイアウトだが、ディスプレイがブラウン管から液晶ディスプレイに変更され、これはA340‐200/‐300にもフィードバックされた。胴体の延長に合わせ、操縦系統のソフトウェアに若干の修正が加えられた。 客室の設計は基本的にA340‐200/‐300と同じだが、オーバーヘッド・ビン(座席上の荷物棚)が改良され、容積を拡大しつつ圧迫感の低減が図られた。胴体の延長に伴い貨物室も大きくなり、標準仕様でのLD‐3コンテナの収容数はA340‐500が30個、A340‐600が42個となった。また、そこまでの貨物収容力を必要としない航空会社向けに、床下に配置できる旅客用の化粧室区画や乗務員の休憩用区画といったモジュールも開発された。 A340第2世代の製造と試験はA340‐600が先行し、2001年4月23日にA340‐600の1号機が初飛行した。A340‐600の1号機と2号機は開発試験と型式証明取得のための試験に使用され、3号機は完全な旅客用設備を備えて、客室関係の試験や寒冷地試験、路線実証試験などに充てられた。A340‐600の試験が始まると、ペイロードや航続距離性能が計画値に達しないという問題が明るみに出た。問題の主な原因は、機体重量が設計時の想定を上回っていたためであり、特にBAEシステムズ社が設計・製造を担当した主翼に起因するとされた。この問題は、開発途中から指摘されていたものの、主翼の空力性能の向上によって相殺されると期待され、製造・試験が開始されていた。結局、主翼の構造などを見直すことで重量の軽減が行われ、一時的に開発機の製造が当初計画よりも1か月遅れることになったが、問題の解決とともにスケジュールも見直され、エアバスでは影響は最小限で抑えられたとしている。また、A340‐600の初期の飛行試験では、乱気流の中を飛行すると胴体前方の乗り心地が悪くなる問題が指摘されていたが、後に、振動を抑制するようコンピュータが自動的にエルロンや方向舵を操作するように改良が行われた。A340‐600は2002年5月21日にJAAの型式証明を取得、同年7月26日にヴァージン・アトランティック航空に対して最初の納入が行われた。 A340‐500の1号機は、A340‐600の証明が交付される前の2002年2月11日に初飛行した。A340‐500の型式証明のための試験には、当初は2機を用いる予定であったが、先行していたA340‐600の試験が順調に進んだことと、A340‐500/‐600の共通性が認められたことから、実際に試験に使用されたのは1号機のみだった。A340‐500の試験は同型式に固有の項目を中心に行われ、A340‐600の証明取得から約半年後の2002年12月3日にJAAから型式証明が交付された。A340‐500の初引き渡しは2003年の始めにエア・カナダに対して行う予定であったが、エア・カナダの経営状態の悪化により延期され、結果的に最初の納入は、2003年10月23日にエミレーツ航空に対して行われた。 ===第2世代の就航開始=== 2002年8月1日、ヴァージン・アトランティック航空のロンドン ‐ ニューヨーク線でA340‐600の路線就航が開始され、続いて同社のロンドン ‐ 東京線にも投入された。A340‐600の運航者第一号となったヴァージン・アトランティック航空では新型機の導入初期に特有の様々な問題にみまわれ、運航を開始した年から翌2003年にかけての出発信頼度は十分な水準に達しなかった。エアバスやR‐R社は、燃料供給システムやエンジン関係、ギャレー設備、客室のエンターテインメントシステムなどの問題解決に取り組んだ。エアバスはサポート体制の拡充にも努め、ヴァージン・アトランティック航空に派遣していた技術サポートチームの刷新も行われた。A340‐600の2社目以降への引き渡しまではかなり時間があったこともあり、その後の運航会社では問題は軽減された。A340‐600はA340‐200/‐300を運航していた航空会社を中心に受注を集め、主に、747で運航していた長距離路線の増強や機材置き換えといった形で投入された。 A340‐500の路線就航は2003年10月、最初の機体を受領したエミレーツ航空によって開始され、同年12月1日には、同社はA340‐500を用いて飛行時間14時間というドバイ ‐ シドニー間の直行便を開設した。2004年には、シンガポール航空がA340‐500を用いてシンガポール ‐ ロサンゼルス直行便、シンガポール ‐ ニューヨーク直行便を相次いで新設した。両路線は開設時において、民間航空の直行便として世界最長の路線距離を記録し、特に、シンガポールからニューヨークへ向かう便は距離が約16,600キロメートル、所要時間が19時間近くに及んだ。 2005年の前半までに、A340‐500/‐600は欧州、中東、アジア、アフリカそして北米の合わせて9の航空会社で導入されたほか政府専用機としても採用され、運用数は58機になった。エアバスは、運航会社から寄せられた前述の問題への対応のほか、各部の設計にも修正を加えており、翼胴フェアリング(翼と胴体の表面を滑らかに繋ぐ覆い)の改良などが行われた。また、最大離陸重量の引き上げによって航続力の向上も図られ、A340‐500の航続距離は16,668キロメートル(9,000海里)にまで延びた。 ===その後の展開=== 収容力・航続力ともに第1世代を上回るA340‐500/‐600の生産・引き渡しが本格化すると、A340の発注は第2世代機に集中した。第1世代のなかでもA340‐200には注文が集まらず、第2世代の開発決定と重なる1997年12月に初飛行した機体を最後に同モデルの生産は途絶えていた。A340‐300は第2世代の登場後も生産・納入が続いたが、2008年9月に初飛行した機体が最終生産機となった。2000年代の前半から中盤にかけて、A340はシリーズ全体で毎年おおむね20機以上の納入を続けたが、2007年以降は納入数が10機台に落ち込んだ。 ボーイングは、双発機777の航続力を強化した発展型として777‐300ERと777‐200LRを相次いで開発し、それぞれ2004年5月、2006年3月に路線就航を開始していた。777‐300ERは3クラス編成での座席数が381席、航続距離が14,490キロメートルでA340‐600に匹敵する収容力と航続力を持っていた。777‐200LRについては航続距離が17,395キロメートルとA340‐500を上回り、A340‐500は世界最長の航続距離性能というタイトルを失った。ETOPSの段階的な改訂により双発機の運航可能範囲は拡大を続け、世界中どの路線でも双発機による運航が可能とまで言われる状況となった。また、改訂議論の過程ではエンジンの信頼性や性能が向上したことで、代替飛行場まで飛行時間の上限を決定する要素として、医療設備や消火装置といった装備品が重視されるようになった。FAAは2007年に新ルールを発表し、それまで代替飛行場までの飛行時間に規制がなかった3発機や4発機に対しても消火設備や酸素供給装備などをもとに制限を行うことが決まった。 エアバスはA340‐600の純貨物型の提案も行ったが、発注を得られず計画は棚上げされた。また、2005年には、エアバスが開発を検討中だったA350(A350XWBとなる前の機体案)の設計を取り入れると同時に新型エンジンを採用して性能の向上させたA340の発展型の研究を行っていることが報じられた。その後、エアバスはA350の開発計画を一新することになり、2006年12月1日に新型の双発機A350 XWBファミリーの開発を正式に決定した。最新技術を取り入れて運航経済性を向上させたA350 XWBの計画が発表されると、なかでもA350‐1000は収容力や航続力がA340とほぼ匹敵することから、顧客の興味はA340から離れていった。エミレーツ航空やヴァージン・アトランティック航空など、納入待ちのA340について注文をキャンセルする航空会社も現れた。2011年11月10日、エアバスはA340の全タイプについて受注を打ち切り生産を終了すると発表した。満を持して開発されたA340第2世代だが、販売数はエアバスが期待したほど伸びず、A340‐500が34機、A340‐600が97機の計131機にとどまった。A340シリーズ全体での生産数は377機で、後から登場した777の1/3程度であった。 2013年には、エアバスもA340‐600の運航経済性が777‐300ERと比べて劣っていることを認めており、4,000海里(7,400キロメートル)の路線を飛行した場合、A340‐600の方が燃料消費量が12パーセント多くなるとしている。A340は結果的に燃費性能に優れた競合機に敗れた形になったが、A340とA330の開発は、エアバスがボーイングとの全面的な競争に突入するきっかけの一つとなっていた。A340の開発において、姉妹機のA330だけでなく小型双発機のA320とも各種システムを共通化するという製品戦略をとったことで、エアバスは開発費を数機種で分散させ、全くの新規開発となり開発のコストやリスクが高かった小型のA320にも先進的なフライ・バイ・ワイヤシステムや完全なグラスコックピットを導入できた。エアバスは1988年にA320、1993年にA340、A330、A321と相次いで新型機の納入を開始し、短距離向け小型機から長距離向け大型機までを製品ラインナップに持つ旅客機メーカーとなった。1980年代前半まで民間航空機市場におけるエアバスのシェアは、納入機数で20パーセントに届くか届かないかだったが、1999年に初めて受注機数でエアバスがボーイングを上回り、2003年には受注機数・納入機数ともにエアバスが世界首位の座に立った。リージョナル機を除く民間航空機分野はエアバスとボーイングの寡占状態となり、エアバスはボーイングと互角の競争をなすまでに成長した。 ==機体の特徴== ===形状・構造=== A340は、客室内に通路を2本もつワイドボディ機で、片持ち式の主翼を低翼位置に配した単葉機であり、主翼下にターボファンエンジンを4発備える。水平尾翼は低翼に配置され、胴体尾部には補助動力装置としてガスタービンエンジンが内蔵されている。降着装置は前輪式配置であり、仕様によっては中央脚を備える。第1世代となるA340‐200/‐300は、姉妹機のA330との共通性を最大化するように設計された。後に開発された第2世代となるA340‐500/‐600では、胴体の延長、主翼や尾翼の拡大、エンジンの変更などの改良が行われた。 A340の胴体断面には、A300で開発された直径5.64メートル(222インチ)の真円断面の設計がそのまま用いられ、胴体長を延ばすことで収容力が増やされた。A340で最も胴体が短いのはA340‐200で全長は59.4メートルである。型式名の数字が大きくなるほど胴体長も長くなり、最も胴体が長いA340‐600は全長が75.36メートルと747‐8が完成するまでは世界で最も全長の大きいジェット旅客機であった。長い胴体を持つA340‐500/‐600では、地上でのタキシング時の操縦に注意を要することから、パイロットの操縦を支援するため、垂直安定板の頂部にカメラが設置され操縦席のディスプレイに画像を表示する機能が追加された。 A340の主翼は、テーパーがついた後退翼で翼端にウィングレットを有する。翼平面形の主なパラメータは表1の通りで、第1世代(A340‐200/‐300)と第2世代(A340‐500/‐600)とでサイズが異なる。747‐200と比べると、ほぼ同じ翼幅で翼面積は3分の2程度であり、アスペクト比が大きい翼である。 主翼の翼型は、基本的に前半部が厚く後半部は薄いが、胴体側の付け根から翼端まで連続的に変化している。特に、外翼では後半部が大きくえぐれたような形をしており、これはリア・ローディングと呼ばれる翼の後半でも揚力を発生させられる翼型の工夫である。第1世代の主翼について最大翼厚を翼弦長で割った翼厚比を見ると、連続的に細かく変化しており、翼の付け根の15.25パーセントが最大で、内翼部と外翼部の境では11.27パーセント、外翼部の端で9.86パーセント、ウィングレット部で10.60パーセント、平均で12.8パーセントである。これらの主翼の特徴は、主翼内の燃料タンク容積を最大化する設計だと推定されている。 第2世代の主翼は全くの新設計というわけではなく、第1世代の主翼構造の前桁と前縁との間にテーパーがついた追加構造体を差し挟むことで翼弦方向が拡大された。また、第2世代の主翼では、翼端側が延長されたほか、ウィングレットがわずかに大型化され取付角も変更されている。主翼の拡大により、翼内の燃料タンク容積が第1世代と比べて38パーセント増えている。 主翼の動翼は、高揚力装置、エルロン、スポイラーで構成され、両世代の間で寸法などに違いはあるものの枚数や配置は同じである。高揚力装置の配置は、前縁にスラットが7枚、後縁にフラップが2枚である。スラットは翼端に向かってテーパーが付けられているほか、胴体側の1枚と残りの6枚とで駆動系が分けられている。フラップは1枚式で比較的簡素なファウラー型フラップである。エルロンは後縁の翼端側にのみ2分割されたものが配置され、内舷側には高速用エルロンを持たない。フライ・バイ・ワイヤの導入によってエルロンは、本来の役割に加えて離着陸時にはフラップの役割、着陸後はグラウンドスポイラーの役割も果たすように制御される。スポイラーは6枚はあり、エアブレーキとグラウンドスポイラーとしての役割を持つほか、外側の5枚はロール操縦にも用いられる。 尾翼についても第1世代と第2世代では異なり、第2世代では大型化されている。第1世代の水平尾翼はA340/A330用に新規設計されたもので、可動式の水平安定板と1枚の昇降舵で構成され、翼幅は19.4メートルである。第1世代の垂直尾翼はA310のものに若干の補強が加えられたが、生産治具は同じものが用いられた。垂直安定板と1枚の方向舵で構成され、高さは8.3メートルである。小型のA310と同じ垂直尾翼は大型機のA340では相対的に小さいことになり、エンジンが1基停止して左右の推力のバランスが崩れた際に、それを打ち消すだけのモーメントを方向舵で発生させるのに若干の時間を要することになる。エアバスでは、操縦システムでこれに対応しており、エンジンが停止した場合に主翼のスポイラーやエルロンを自動的に制御してモーメントを調整する機能が搭載されている。第2世代の水平尾翼は、再設計されて第1世代よりも面積が拡大され、翼幅は22.39メートルである。第2世代の垂直尾翼は、A330‐200用に開発された尾翼の高さを0.5メートル短縮したものが用いられ、第1世代のものより0.5メートル高い。水平尾翼の方向舵と垂直尾翼の昇降舵は、第2世代でもそれぞれ1枚式である。 両世代ともに水平安定板の内部には燃料タンクが設けられ、主翼タンクとの間で燃料を移動させ、機体の重心位置を制御するシステムが搭載されている。このシステムはA310で実用化されたものと同様のもので、機体姿勢を維持する際に発生するトリム抗力を抑制することができる。 降着装置は機首部に前脚、左右主翼の付け根に主脚が配置されているほか、仕様によって胴体中央部に中央脚を備える。A340シリーズ全体で共通して主脚は4輪ボギー式で内側への引き込み式、前脚は2輪式で前方に格納される。前脚はA300/A310の設計がそのまま用いられた。主脚はA340/A330用に新規設計されたもので、機体の大型化に対応して脚柱が延長されている。このため、地上では前脚より主脚が高くなり、やや機首が下がった姿勢を取る。中央脚は、A340‐200/‐300ではオプションであり2輪式で後方へ引き込まれる。重量が増加したA340‐500/‐600では中央脚は標準装備となり、4輪式に強化され、引き込み方向が前方に変わった。また、この中央脚には機体の動きに合わせて受動的に向きを変えるように操向機能が追加された。主脚と第2世代の中央脚にはアンチスキッド機能付きのカーボンディスクブレーキが装備されている。 胴体が長い機体では、胴体後部が地面に接触しないよう、離陸時の引き起こし角に制限があるが、引き起こし角は大きい方が離陸性能が向上する。そこで、エアバスではロッキング・ボギーと呼ぶ主脚を開発し、A340/A330で採用した。この方式は、ボギー式の車輪とストラットの組み合わせにより主脚前側の車輪だけを持ち上げて可能な限り後ろ側の車輪を滑走路に接地させるものであり、これにより機体引き起こし角を大きくとれるようになった。ロッキング・ボギー主脚での引き起こしでは、接地している後輪が支点となり大きな荷重がかかるが、一方で引き起こし角が大きくなることで主翼の揚力も大きくなるため、実際に車輪にかかる負担は増大しないとエアバスは述べている。 レーダーや通信機器といった電装品、座席やギャレーなどの内装品、そしてエンジンを除いたA340の構造材料の構成は、重量比で金属が80パーセント、複合材料が18パーセント、その他の材料が残り2パーセントである。金属の中で使用比率が最も高いのはアルミニウム合金で全体の67パーセント、続いて鉄鋼が7パーセント、チタン合金が6パーセントである(重量比)。A340の第2世代では、胴体外板や配管に新しいアルミニウム合金が採用されたほか、複合材料の使用部位が拡大されている。A340に使用されている複合材料には、炭素繊維強化プラスチック (CFRP)、アラミド繊維強化プラスチック (AFRP)、ガラス繊維強化プラスチック (GFRP)があげられ、主な使用部位は以下のとおりである(†はA340‐500/‐600から追加された使用部位)。 CFRP: 翼胴フェアリング、主翼動翼、トラックレールのフェアリング、ウィングレット、エンジンのカウリング、方向舵、昇降舵、垂直安定板、水平安定板、降着装置の格納扉、後部圧力隔壁、胴体の縦通材AFRP: 機首のレドームGFRP: 垂直安定板の前縁と固定部後縁また、スーパープラスチック成形と拡散接着とそれぞれ呼ばれる2つの新技術が機体製造工程の一部に採用された。 ===飛行システム=== A340のコックピットはシリーズ全体で共通のレイアウトであり、運航に必要な操縦士は機長と副操縦士の2名である。このレイアウトはA320で開発されたものを踏襲しており、姉妹機のA330とはエンジンのスロットルレバーを除いて実質的に同一である。操縦席の正面には操縦桿が無く、各操縦席の窓側にあるサイドスティックによってピッチとロールの操縦を行う。前面には6面のカラーディスプレイが配置され、いわゆるグラスコックピット化されている。このディスプレイには、A340‐200/‐300の登場時はブラウン管が用いられたが、A340‐500/‐600の開発時に液晶ディスプレイ (LCD) に置き換えられ、後にA340‐200/‐300でもLCDに変更された。 A340の操縦系統は、A320のフライ・バイ・ワイヤ操縦システムを基本にA340の機体に合わせた変更や改良を加えたものである。このシステムでは、操縦士がサイドスティックやラダーペダルを操作した情報は飛行制御コンピュータに入力される。飛行制御コンピュータが計算した指令値は電気信号によって各動翼へ伝えられ、油圧アクチュエータによって動翼が駆動される。パイロットによる操縦中であっても、コンピュータは機体にかかる荷重や速度が許容値を超えたり、失速したりしないよう計算した上で各動翼を制御する。A340には5台の飛行制御コンピュータが搭載され、このうち3台がプライマリー・コンピュータ、残り2台がセカンダリー・コンピュータと分けられている。プライマリー・コンピュータとセカンダリー・コンピュータは異なるハードウェアロジックを持つためソフトウェアも別々であり、高い冗長性を持つようシステムが設計されている。また、水平安定板と方向舵についてはバックアップとして機械式の操縦系統も備えている。 A340シリーズの操縦資格は全型式を通して共通であり機種転換訓練は必要無い。コックピットレイアウトやシステムが共通化されているエアバス機では相互乗員資格(CCQ)制度が設定されており、A340/A330の姉妹機をはじめ小型のA320から大型のA380まで、いずれかの機種の操縦資格を持つ操縦士は、短期間の転換訓練で他機種の資格を取得できる。CCQによる転換訓練の期間は、A340からA330では1日、A330からA340では3日間であるほか、A320ファミリーからA340へは9日間、A340からA320へは8日間とされている。A340からA330への訓練期間に対し、A330からA340への訓練期間が長いのは、双発機から4発機のシステムへの転換となり学習することが多くなるためとされている。 ===客室・貨物室=== A340は、A300と同じ胴体断面を用いたため、座席の配列などは基本的にA300と同じである。客室の扉配置は左右対称で、乗降用ドアは客室最前部、最後部、主翼の前方部に1組ずつである。非常口は、A340‐200/‐300/‐500では主翼後方の左右1か所ずつ、A340‐600ではそれに加えて主翼上にも左右1か所ずつ配置されている。 客室内には通路が2本配置され、標準的なエコノミークラスの座席配置は2‐4‐2の8アブレストで、間隔を詰めて3‐3‐3の9アブレストにすることも可能である。座席配置、ギャレーそして化粧室の配置は、航空会社の要望に応じて柔軟に配置や仕様をとることができる。エアバスが呈示している座席例では、ファーストクラスが2‐2‐2の6アブレスト、ビジネスクラスが2‐3‐2の7であるが、スイス インターナショナル エアラインズやタイ国際航空のようにファーストクラスにフルフラットシートを導入して1‐2‐1の4アブレストとする航空会社や、ビジネスクラスを2‐2‐2の6アブレストとする航空会社もある。その他、シンガポール航空が世界最長路線に用いたA340‐500では、エコノミークラスを廃止して全席ビジネスクラスとして運航された。A340は長距離線用の機材として導入する航空会社が多かったことから、3クラスの座席配置を採用する事例が目立った。その一方で、ビジネスクラスの高級化を進めて、エコノミーとビジネスの2クラス構成で運航する航空会社も珍しくなくなった。2クラス化を進めている航空会社では、ビジネスとエコノミーの中間となるプレミアム・エコノミーを追加して実質3クラス構成として運航している航空会社も多くなっている。 A340第1世代の客室内装は基本的にA310の設計が用いられ、左右と中央の座席上にはオーバーヘッド・ビンが配置されている。室内空間に目新しさは無かったが、新しいエア・コンディショナーが装備されて、室内の静粛性が向上されている。第2世代でも基本的な座席配置などは変わらないが、内装が改良されてLED照明や新しい座席用エンターテインメント・システムが採用されたり、容積を拡大しつつ圧迫感を抑えたオーバーヘッド・ビンが使用されたりしている。中央列のオーバーヘッド・ビンは固定式の標準品のほか、ピボット式で開閉時のみ下がってくるタイプも選択可能なほか、ファーストクラスやビジネスクラスでは、中央列にはビンを設置せず天井高を高くとることも可能である。 床下の貨物室は、主翼を挟んで前後2区画に分かれており、いずれもLD‐3航空貨物コンテナを2個並列に搭載可能である。さらに最後部には、ばら積み貨物用の区画が設けられている。貨物室の扉は右舷にあり、コンテナを搭載可能な前方・後方貨物室には外開き式の大型扉、ばら積み貨物室には内開き式の小型の扉が設けられている。 エアバスでは、コンテナ規格に形状を合わせて床下貨物室に搭載できる追加中央タンク(ACT)というものを開発しており、A340‐200/‐300ではACTを装備可能な仕様も設定された。A340‐500/‐600ではACTの設定はなくなったが、床下貨物室に旅客用の化粧室、乗員用の休憩室のほかギャレーなどを設置可能にするモジュールが用意されている。これらのモジュールを採用することでメインデッキの空間に余裕が生まれ、座席数を増やしたり、ラウンジなどを設置することが可能となる。 ===A330との関係=== 「沿革」節で述べたとおり、A340の第1世代とA330(A330‐300)は姉妹機として同時に正式開発が決定され、両機の構成要素は最大限共通化された。両機の間では胴体断面は同一で、尾部も尾翼を含めて共通である。主翼もエンジン取付部以外は構造的に同じで空力学的に全く同じである。A330のエンジンはA340での内翼側のエンジン(第2、第3エンジン)にあたる位置に取り付けられている。エンジン取り付け部の主翼前縁にはスラットがなく固定の前縁となり、A340では片側2か所、A330では1か所が固定部となる。また、降着装置も中央脚を除いてA340とA330で同一である。操縦系統やコックピットも基本的に共通で、違いはエンジンに関する部分であり、A340ではエンジンのスロットル・レバーの数が4本、A330では2本である。 A340とA330の各型式で比較をすると、A340‐300とA330‐300では胴体長まで同じであり、違いはエンジンの数に関連するものだけである。A340‐200とA330‐200はともに短胴型として開発されたが、胴体の長さはA330‐200の方が短く、全長はA340‐200が59.40メートルでA330‐200が58.82メートルである。また、A330‐200では垂直尾翼の高さが拡大されている点も異なる。A340の第2世代では主翼や尾翼が拡大されて胴体長も延長しており、第1世代よりはA330との共通点は少なくなった。 エアバスは、4発機のA340を長距離路線向け、双発機のA330を短中距離路線向けと位置付けていた。実際、A340‐200とA340‐300の最初の就航路線は、ドイツやフランスと米国を結ぶ大西洋横断路線であり、A330が最初に就航したのはフランスの国内線であった。その後、航続距離延長型のA330‐200が開発されたほか、ETOPSによるA330の運航可能範囲が段階的に拡大されており、A330も長距離路線に就航するようになっている。A340とA330はともに、引き渡し開始後も最大離陸重量を引き上げたオプションが開発されており段階的に航続力や収容力が向上しているが、2004年時点の資料をもとに標準座席数と航続距離について比較すると、13,000キロメートル程度を境に短距離がA330、長距離がA340となっている。 ==シリーズ構成== 出典:EASA 2012, pp. 4, 6, 11, 13, 26, 19, 21CFMI: CFMインターナショナル、R‐R: ロールス・ロイスA340シリーズはA340‐200、‐300、‐500、‐600の4型式で構成される。第1世代となるA340‐200とA340‐300は1987年に開発が正式に開始され、それぞれ1993年に路線就航を開始した。第2世代のA340‐500とA340‐600は1997年に正式な開発が開始され、A340‐600が2002年、A340‐500が2003年に初就航した。A340には貨物型は存在しないが、ビジネス機仕様が全型式に用意されている。 A340のエンジンは、第1世代がCFMI社のCFM56‐5シリーズ、第2世代がR‐R社のトレント500シリーズのみであるが、それぞれのエンジンの中に細かい型式があり、表2のとおり装備エンジンに対応してA340の型式名の下2桁が割り当てられている。 ===A340‐200=== A340‐200は、A340‐300と同時に開発されたA340の第1世代で、1993年にルフトハンザ航空によって路線就航が開始された。A340シリーズの中では最も短い胴体を持ち、標準的な座席数は3クラス構成で240から260席程度で、床下貨物室にはLD‐3コンテナを26個まで搭載できる。エンジンは、CFMI社のCFM56‐5Cシリーズを装備する。A340‐200の設計当初、最大離陸重量は253.5トンであったが、すぐに260トンが標準仕様となり、標準航続距離は13,399キロメートルとされた。 その後、床下貨物室にACTを3個搭載して燃料容量を増やし、最大離陸重量を275トンまで引き上げた仕様が作られ、1997年12月19日に初飛行した。この275トン仕様は8,000海里(14,816キロメートル)の航続距離性能を有し、それにちなんでA340‐8000と呼ばれた。エアバスでは、A340‐200の標準仕様をA340‐8000仕様として、長距離路線の開設を検討していた航空会社に売り込みをかけたが受注につながらず、この仕様で生産されたのは1機のみであった。航空会社からの発注は、A340‐200よりも収容力の大きいA340‐300に集中し、加えて航続力・収容力ともにA340‐200を上回るA340‐500/‐600が開発されるとA340‐200の受注は途絶え、合計28機で生産を終えた。 ===A340‐300=== A340‐300はA340‐200と同時に開発が開始され、A340シリーズの中で最初に機体が完成した型式である。1993年、エールフランスによって初就航した。A340‐300はA340第1世代の中では長胴型と位置付けられ、双発の姉妹機であるA330‐300と同じ胴体長を持つ。標準座席数は3クラス構成で295席、床下貨物室に搭載できるLD‐3コンテナの数は32個である。エンジンは、A340‐200と同じくCFM56‐5Cシリーズを装備する。標準仕様の最大離陸重量については、A340‐200と同様、当初は253.5トンで後に260トンに増やされた。A340‐300では表3のように最大離陸重量と標準航続距離を拡大したオプションも開発され、275トン仕様では床下貨物室へACTを1個装備して燃料容量が増やされた。 さらに後に、最大離陸重量を276.5トンに引き上げるとともに、エンジンをCFM56‐5C4/Pに置き換えた「A340‐300増強型」が開発された。A340‐300増強型でもACTが用意されたが、離陸重量の増加分を搭載燃料の増加ではなく、貨物搭載量や客席数の増加に割り当てることも可能とされた。A340‐500/‐600が開発された後もA340‐300増強型の販売が続けられたが、次第に受注がなくなり、2008年9月17日に初飛行した機体を最後に、計218機で生産を終えた。 ===A340‐500=== A340‐500はA340の第2世代としてA340‐600と同時に開発が決定され、A340シリーズで最長の航続力を持つ長距離型である。2003年にエミレーツ航空によって初就航した。胴体長はA340‐300との比較で3.2メートル延長されたほか、主翼や尾翼が大型化された。標準的な客席数は3クラス構成で313席となり、前方と後方の床下貨物室に搭載できるLD‐3コンテナの数は計30個である。装備するエンジンはR‐R社のトレント500シリーズである。 主翼の大型化による主翼内の燃料タンク容量の拡大に加え、胴体内にもタンクが増設されたことで、機体全体での燃料容量はA340‐300の約1.5倍に増加した。一方で、追加燃料タンクACTの設定はなくなった。最大離陸重量は、標準仕様が当初の368トンから372トンに拡大された。さらにオプションで380トン仕様が用意され、最終的には380トン仕様が標準型となった。標準航続距離は、当初は16,020キロメートル(8,650海里)で、380トン仕様の登場で16,668キロメートル(9,000海里)に延びた。A340‐500は、777‐200LRが登場するまで、世界最長の航続距離性能を持つ航空機であった。 長時間飛行を売りにしているA340‐500では、できるだけ緊急着陸を回避できるように対策が施された。医療センターと直接やり取りできる医療設備が搭載され、除細動器の使用訓練を受けた乗員が乗務するようにされた。また、貨物室に監視カメラが備えられ、火災報知器の作動時に誤作動なのか実際に火災が発生しているかを確認できるようになっている。そのほか、世界最長路線で運航されたシンガポール航空のA340‐500では、着陸可能な飛行場が限られるルートを飛行することから、飛行中に乗客が死亡するという万一の事態に備えて遺体を安置する専用区画を備えていた。通常、飛行中に乗客が死亡した場合、横一列の座席を用いて遺体の尊厳を保つよう安置することになるが、この専用区画は、適切な座席スペースを確保できない場合に備えた設備であった。 A340‐500の引き渡しは2004年から2012年まで行われた。エアバスが期待したほどには需要がなく、総販売数は34機であった。このうち5機はコーポレート/エグゼクティブ仕様で生産された。 ===A340‐600=== A340シリーズで最長の胴体を持ち、2011年に初飛行した747‐8が登場するまでは世界で最も全長の大きい旅客機だった。2002年にヴァージン・アトランティック航空により路線就航が開始された。標準的な客席数は2クラス構成で419席、3クラス構成で380席である。前後の床下貨物室に搭載できるLD‐3コンテナの数は42個である。エンジンは、A340‐500と同じくR‐R社のトレント500シリーズを装備する。 第2世代の中で始めに開発され、A340‐500と同じ主翼、尾翼を持つ。A340‐500と同じ主翼を用いるため燃料タンク容量が増加したが、胴体内のタンクはA340‐500よりも小さく、機体全体での燃料容量はA340‐500より約1割少ない。また、A340‐500と同じく、追加タンクACTの設定もなくなった。最大離陸重量は、標準仕様が当初の365トンから368トンに引き上げられた。さらに、A340‐500と同様に380トンのオプションが設定され、これが最終的に標準型とされた。離陸重量の増加に合わせ、表4のように標準の航続距離も拡大された。 A340‐600の引き渡しは2002年から2010年まで行われた。A340‐600もエアバスが期待したほどには市場に受け入れられず、総生産数は97機であった。このうちビジネス機仕様で生産されたものが2機あった。 ==運用の状況・特徴== A340の運航機数は、納入が始まった1993年以来増え続けたが、2000年代の後半をピークに減少に転じている。2017年7月現在、176機のA340が民間航空路線に就航している。欧州やアジア・中東地域の航空会社による運用機数が多く、アフリカや南米の航空会社でも導入されているが、北米の航空会社による運航はない。 A340の運用数が最大の航空会社は、ルフトハンザ航空グループである。グループ会社のルフトハンザ・シティーラインを含めて36機を運用している。その他の主な運用者(括弧内は運用機数)は欧州ではイベリア航空 (17)、エールフランス (9)、スカンジナビア航空 (8)、スイス インターナショナル エアラインズ (7)、ヴァージン・アトランティック航空 (7)、アフリカでは南アフリカ航空 (17)、モーリシャス航空 (6)、アジア・中東地域ではマーハーン航空 (10)、エティハド航空 (6)、南米ではアルゼンチン航空 (5) である。北米地域では、エア・カナダがA340‐300とA340‐500を運航していたが、2009年までに手放している。米国のノースウェスト航空による発注があったもののキャンセルされ、その後も生産終了までA340を導入する航空会社はなかった。日本の航空会社に関しては、1990年に全日本空輸が5機のA340を発注したものの最終的にキャンセルされ、その後も生産終了まで日本の航空会社による導入はなかった。 A340は747ほどの収容力を必要としない長距離路線を中心に就航した。特に、2004年にシンガポール航空がA340‐500を使用して開設したシンガポール ‐ ニューヨーク線は世界最長の直行路線となったが、後に同社がA380とA350 XWBを追加発注した際に同社のA340‐500全てをエアバスが引き取ることとなったため、同路線は2013年11月に休止された。 このほか、A340は要人輸送機や民間のVIP機運航会社などでも採用された。要人輸送機としてはフランス空軍、ドイツ空軍やサウジアラビア政府で用いられたが、2015年末には運用がなくなっている。 ===受注・納入数=== A340は総計377機が生産・納入された。 ==主な事故・事件== 2017年10月現在までに、A340に関して以下の5件の機体損失事故が発生しているが、死亡者の出た事故は起きていない。 1994年1月20日、パリのシャルル・ド・ゴール国際空港にて、整備を受けていたエールフランスのA340‐200から火災が発生し、全損した。2001年7月24日、スリランカのバンダラナイケ国際空港が武装勢力タミル・イーラム解放のトラによる襲撃を受け、駐機中だったスリランカ航空の2機のA330‐200と1機のA340‐300が破壊された。また同じく駐機中だった1機のA340‐300と2機のA320も損害を受けた(バンダラナイケ国際空港襲撃事件)。2005年8月2日、エールフランスのA340‐300が、雷雨の中、トロント・ピアソン国際空港へ着陸を試みたところ、滑走路をオーバーランして大破炎上した。乗客297名と乗員12名のうち、乗員2名と乗客20名が重傷を負ったが、死亡者はなかった(エールフランス358便事故)。2007年11月9日、イベリア航空のA340‐600が、エクアドルのマリスカル・スクレ国際空港(旧空港)への着陸時に降着装置のタイヤが破裂し、滑走路からオーバーランした。機体は左に傾いて損傷し、左翼の2基のエンジンが地面に接触した。乗客・乗員333人は全員救出され、重傷者はいなかった。機体は修理が困難と判断され、解体された。2007年11月15日、トゥールーズ・ブラニャック空港にあるエアバスの施設にて、エティハド航空に納入する予定であったA340‐600の新造機に対してエンジンテストを実施していたところ、機体が動き出してコンクリート壁に衝突し、職員5名が負傷した。 ==主要諸元== 出典:特に記載のないものは、A340‐200/‐300は(青木 2014, p. 101)、A340‐500/‐600は(青木 2014, p. 104)による。†1 タイプA非常口を装備する場合。†2 前方、後方貨物室にLD‐3貨物コンテナを搭載した場合の有効容積。†3 標準海面高度、国際標準大気における値。 =みどり荘事件= みどり荘事件(みどりそうじけん)は、1981年(昭和56年)6月、大分県大分市で発生した強姦・殺人事件である。大分女子短大生殺人事件とも呼ばれる。隣室の男性が逮捕・起訴され、第一審で無期懲役の有罪判決が言い渡されたものの、控訴審で逆転無罪が言い渡され確定した。控訴審の判決理由では被告人以外の真犯人の存在が示唆されたが、1996年(平成8年)6月28日に公訴時効が成立し、未解決事件となった。 日本で初めて裁判所の職権でDNA鑑定が採用された事件、当番弁護士制度創設のきっかけになった事件、また、被疑者や家族に対する報道被害事件としても知られている。 ==概要== 1981年(昭和56年)6月27日から28日にかけての深夜、大分県大分市のアパート「みどり荘」で女子短大生(当時18歳)が殺害された。血液型B型の血液を含む血液型A型の唾液が検出され、被害者の血液型はA型であることから、この血液は犯人のものと推定された。 事件から約半年後の1982年(昭和57年)1月14日に、血液型B型だった隣室の輿掛良一(当時25歳)が被疑者として逮捕された。輿掛は捜査段階や公判の初期において被害者の部屋にいたことを自白していたが、裁判途中から供述を翻して無実を主張。しかし、1989年(平成元年)3月の第1審判決では、自白と科学警察研究所(科警研)の毛髪鑑定などから無期懲役の有罪判決が出された。 控訴審では、科警研の毛髪鑑定や福岡高等裁判所が職権で採用したDNA型鑑定といった犯行現場で採取された体毛と輿掛の体毛が一致するとした鑑定結果などについて多くの批判や矛盾が指摘され、1994年(平成6年)8月に日本の殺人事件では異例の保釈がなされた。1995年(平成7年)6月30日には無罪判決が出され、同年7月13日に福岡高等検察庁が上告を断念し、7月14日に確定した。事件発生から14年が経過していた。 控訴審の判決理由では、輿掛以外の真犯人の存在が示唆されている。無罪判決から殺人罪の公訴時効成立(当時は15年)まで約1年あったが、捜査機関である大分県警察は再捜査を行わず、1996年(平成8年)6月28日に時効が成立した。 ==事件発生== 事件現場となったのは、大分県大分市六坊町(現六坊南町)にあった2階建てアパート「みどり荘」である。大分県立芸術短期大学(現大分県立芸術文化短期大学)のすぐ北にあり、同短大の学生をはじめ若い女性が多く住んでいた。間取りは、西側にある玄関のドアを開けると狭いタタキと3畳ほどの台所、その奥が東向きに窓のある6畳の和室で、玄関を入って左右に風呂とトイレであった。各階4室の計8室(101・102・103・105・201・202・203・205)があり、南側(1号室側)に金属製の外階段がついていた。被害者の女性は203号室に住む同短大1年の女子学生で、同短大2年の姉とともに暮らしていた。 1981年(昭和56年)6月27日、姉妹は、所属する短大の音楽サークルと大分工業大学(現日本文理大学)の学生とのジョイントコンサートに参加し、終了後の打ち上げにも揃って参加した。22時30分ころに1次会が終わり姉は2次会へと向かったが、被害者は「お風呂に入りたい」という理由で断った。ほかの女学生も含めた3人と一緒に男子学生に送ってもらい、みどり荘近くの交差点で「すぐそこだから」と23時15分ころに彼らと別れている。男子学生は残りの女学生を送ったあと、23時30分ころに2次会に合流した。 事件は、被害者が帰宅後、入浴のために風呂のガスに火をつけた直後に発生したと思われる。日付が変わる前後、みどり荘や付近の住民は、「誰か助けてえ」という女性の悲鳴と、それに続いてドタンバタンという物が倒れたり誰かが誰かを追い回すような音を聞いている。しばらくすると普通の会話の声で「教えて」「どうして」などという言葉が聞こえたが、その後再びドスンドスンという音が続いたという。 一方、姉が参加していた打ち上げの2次会は、被害者らを送っていった男子学生が戻ってほどなくお開きとなった。姉は自室に泊めるつもりだった友人女性と一緒に男子学生らにみどり荘まで送ってもらい、6月28日0時30分過ぎに男子学生らと別れた。階段を上がり、ドアの鍵を開けようとしたが、203号室の鍵はかかっていなかった。ドアを開けると台所と6畳間の電気はついたままであり、煌々とした明かりの下で台所に横たわる妹を見つけた。上半身はTシャツを着ていたが胸までまくられ、下半身は裸、首にはオーバーオールが巻きつけられ、口からわずかに舌を出している顔を見て、すぐに姉は妹が死んでいることを理解した。姉と友人女性は警察に連絡してもらおうと送ってくれた男子学生らを探しに戻ったが見当たらなかったため、近くに住む別の男子学生のアパートを訪ねて事情を説明し、この男子学生が近くの公衆電話から0時51分に警察に通報した。 ==捜査== ===初動捜査=== 6月28日1時ころに一人の巡査がいち早く現場に到着した。巡査は遺体を確認したあと、両隣の住民の話を聞こうとドアを叩いたが、205号室は電気も消えており、202号室は電気はついていたものの誰も出てこなかった。その後、みどり荘前の空き地を捜索していたところ、202号室の窓から男に「なにしよるか!」と声をかけられた。巡査は202号室に向かい、男に203号室で殺人事件が発生したことを伝え、何か物音を聞かなかったか聞いたが、男の返答は「酒を飲んで寝ていて何も聞いていない」とのことであった。 事件現場となった203号室の現場検証では、室内に犯人と被害者が争った跡は見られたが、金品を物色したような形跡はなかった。また、室内に土足の跡もなかった。遺体の膣内と陰毛から精液が採取され、陰毛に付着していた精液は血液型B型の人物のものと判明した。6畳間からは経血のついた下着(被害者は生理中だった)と、乳白色に薄紅色が混じった液体が発見され、この液体は血液型B型の血液を含む血液型A型の人物の唾液であった。被害者の血液型はA型であり、被害者が加害者に噛みついて吐き出したものと推測された。そのほか室内から人毛と姉妹以外の指紋が多数採取された。検死の結果、死因は、手で首を圧迫したあと被害者のオーバーオールで首を絞めつけて絞殺した窒息死と確認された。 夜が明けると聞き込み調査の範囲が広げられ、近隣住民からの証言が得られた。201号室の住民は、「22時ころベッドに入ったが、隣の202号室から大きなステレオの音がして寝付けなかった。しばらくして小さくなったので寝付いたが、アパートのどこかの部屋から聞こえるドタンバタンという音で目を覚まし、そして、バターンという人が倒れるような音を聞いた。その合間に女性の声が聞こえ、小さな声だったが『どうして、どうして』と言っているのは聞こえた」という話をした。みどり荘から空き地を挟んだ東側に住む住民も、「23時ころに床についてからしばらくして、『どうして』『教えて』といった女性の声を聞いた。その後、みどり荘2階からドタンバタンという音が2、3回聞こえた」という旨を証言した。 また、事件現場である203号室の北隣の205号室の住民からは、より詳しい証言が得られている。彼女によれば、「当日は23時40分ころ、部屋の電気をつけたまま眠りにつき、どれくらい経ったころか分からないが、『きゃー』『誰か助けてぇー』という女性の悲鳴で目が覚めた。物が倒れるような音も聞こえた。どこかの部屋に痴漢でも入ったのかと思い、隣室の203号室の人に聞いてみようとパジャマのまま部屋を出て203号室のドアをノックしたところ、中から女性の悲鳴が聞こえたので、驚いて慌てて自室に戻り、頭からタオルケットをかぶってベッドに入った。『ううっ』という声も聞こえてきたので不安になったが、そのあとは普通に話す声が聞こえてきたので、ふざけていたんだろうと安心して、トイレに行って再びベッドに入った。しかし、しばらくするとドスンドスンという音とともに『神様お許しください』と泣き叫ぶ声が1、2分にわたって10回程度繰り返し聞こえた。そして、再び静かになったが、しばらくして押入れの方からカタカタという音が聞こえてきたので怖ろしくなり、実家に帰ろうと着替えて部屋を飛び出した。その際、木のツッカケを履いていたので、金属製の外階段はカンカンと甲高い音を立てた。短大の前の公衆電話から実家に連絡し、続けてタクシーを呼んで実家に帰った。タクシーに乗ったのは0時40分ころ、最初に女性の悲鳴を聞いて目を覚ましたのは、それより15分か20分くらい前だと思う」ということであった。 こうした情報からは、犯人は、深夜に被害者を訪ねても部屋に入れてもらえる程度の面識がある人物と思われた。6月29日の大分合同新聞も、犯人が土足で侵入した形跡がないことやドアの鍵が壊されていないことなどから「顔見知りの犯行か」と報じた。しかし、容疑者として捜査線上に浮上したのは、こうした犯人像とは異なる人物であった。 ===被疑者=== 被疑者として浮上したのは、事件現場の隣室202号室に住む輿掛良一であった。 輿掛は1956年(昭和31年)5月9日、大分県大野郡大野町(現豊後大野市)に生まれた。実家は農家であった。第4子として生まれた長男であったため可愛がられて育ち、幼いころは明るく活発な子どもであったという。しかし、小学校4年生の時に父が糖尿病となって入退院を繰り返すようになると生活は一変し、中学に入ると、母が父の看病のために大分市に移ったため、姉の2人との3人暮らしとなった。中学校2年生の2学期からは不登校となり、その際に自閉精神病質と診断されて投薬治療を受けている。翌年、母親と大分市内のアパートに一緒に住むようになって大分市立王子中学校に転校。1年遅れで中学を卒業して大分電波高等学校(現大分国際情報高等学校)に進むと、同校で知り合った友人とバイクを乗り回すようになった。高校時代には恋人もできている。高校もさらに1年遅れで卒業したあとは航空自衛隊に入隊し、初期教育が終わると1977年(昭和52年)8月に築城基地に配属された。新入隊員としてただ一人銃剣道の基地代表の一人に選ばれた輿掛は、先輩から特に目を掛けられて世話になっている。しかし、1980年(昭和55年)1月13日、飲酒運転で車が大破するほどの事故を起こし、輿掛自身は鎖骨の骨折で済んだが、自衛隊は退職せざるをえなかった。 その後、いくつか職を転々としたあと実家に戻り、同年10月1日から市内のホテルに飲料部のウェイターとして働き始めた。なお、同年9月には父が亡くなっている。高校時代からの恋人とすでに別れていた輿掛は、同じホテルの洋食店で働く恋人ができた。相手は高校を卒業したばかりの19歳で、彼女は、身長170センチ・体重65キロでのっそりとしたところのあるパンチパーマの輿掛のことを「おっさん」と呼んでいた。この新しい恋人の女友達が、偶然にも輿掛の高校時代からの友人の交際相手で、2人はアパートを借りて同棲していた。新しい恋人に「私たちも一緒に暮らしたい」とせがまれた輿掛は、1981年(昭和56年)4月20日からみどり荘の202号室で同棲を始めた。二人の交際・同棲は、双方の親も公認の仲であった。 事件のあった前日の1982年(昭和57年)6月26日は輿掛も恋人も早番勤務で、15時に勤務が終わって友人も含めて3人でパチンコに行ったあと、友人宅や喫茶店に寄って深夜に帰宅し、セックスをして寝た。翌6月27日は二人とも休みで、昼ころに一度起きてセックスをして再び眠り、15時ころに起床している。恋人が一緒に夕食の買い出しに行こうと誘ったのを輿掛が断ったことを発端に口論となり、恋人が以前から不満であった生活費のことで言い争いになったあげくに、恋人は実家に帰ると言って部屋を飛び出して行ってしまった。口喧嘩はしょっちゅうの二人ではあったが、部屋を出て行ったのは二人が同棲してから初めてのことであった。 事件当夜、輿掛は恋人が出て行った部屋に一人でいた。そして、事件現場の北隣の205号室の住民だけでなく、201号室や空き地を挟んだ住宅の住民も大きな音を聞いているにも関わらず、南隣の202号室の輿掛が「酒を飲んで寝ていて何も聞いていない」というのは不自然であった。さらに、事件の数日後には、102号室の住民が「ドタンバタンという音がしなくなったあとで、201号室か202号室の風呂で水を流す音を聞いた」という内容を証言している。 ===任意の取り調べ=== 事件直後に駆け付けた巡査に対して「酒を飲んで寝ていて何も聞いていない」と答えた輿掛は、その直後、騒ぎに気付いて顔を出した201号室の住民に殺人事件があったことを伝えている。そして、輿掛は巡査の許可を得て公衆電話に行き、恋人の実家に電話を掛けた。電話に出たのは恋人の母親であったが、恋人はすでに寝ているとのことだったので、恋人の母親に事件のことを伝えて電話を切った。また、みどり荘に戻る途中で新聞社の記者からの取材を受けている。 その後、部屋に戻った輿掛を、大分県警察本部捜査一課強行犯特捜係長のT警部補が訪ねて任意同行を求めた。これに応じた輿掛は、4時30分ころから6時30分ころまで大分警察署(現大分中央警察署)で事情聴取を受けた。輿掛の供述によれば、恋人が部屋を出て行ったあとは、「肉とキャベツ、ウイスキーを買いに行って肉野菜炒めを作り、これをつまみにナイターを見ながらビール1本とウイスキーを飲んだ。ウイスキーは水割りにしてボトルの1/3ほどを飲んだ」「そのまま寝てしまい、気付くとナイターは終わっていたので、ステレオで長渕剛のレコードをいつもより大きな音でかけた」「聞きながらまた寝てしまい、次に気付くとレコードは終わっており、テレビは映画をやっていて、酒場やドイツの軍人が螺旋階段を下りてくる場面だった」ということであった。事情聴取の最後に、体に傷がないか入念に調べられ、T警部補は輿掛の首と胸、左手甲の傷を見咎め、何の傷か問いただした。輿掛の答えは、首の傷については覚えがなく「虫に刺されて引っ掻いたのかもしれない」、胸と左手甲の傷については「仕事中にビールラックを運ぶ時についた傷だと思う」というものであった。帰宅した輿掛は、心配しておにぎりを手に駆け付けた恋人に昨夜からのことを説明し、早出勤務を13時の定時出勤に変更してもらい、ひと眠りして職場に出勤した。夕方には職場をT警部補が訪れ、改めて輿掛の傷を確認したほか、恋人から実家に帰った経緯、他の同僚から仕事中の怪我について話を聞いている。 T警部補は、翌々日の6月30日にも再度任意の事情聴取を行った。この日の聴取は10時から22時に及び、午前中にポリグラフ検査を行い、毛髪4本を任意提出させた。この事情聴取を受けて、大分合同新聞はこの日の夕刊で、匿名ではあったが「重要参考人を呼ぶ‐若い会社員を追及」と報道した。この報道によって、輿掛は勤務先から「一応預かりだから」と辞職願を書かされた上で、休職扱いとなって自宅待機を命じられている。 その後も、7月11日・7月12日・7月15日とT警部補による任意の事情聴取が続けられたが、輿掛は「酒を飲んで寝ていたので何も覚えていない」と繰り返すだけだった。7月11日の事情聴取では左手甲の写真撮影と当日着ていた下着等の任意提出、7月15日には毛髪10本を任意提出させている。しかし、次いで7月末ころに行った事情聴取の場で輿掛がこれ以上の聴取に応じることを拒否したため、これ以降、任意の取り調べができなくなってしまった。それでも9月14日には、身体検査令状と鑑定処分許可状に基づいて陰毛10本を提出させるなど輿掛への捜査は続いていた。しかし、逮捕に結びつくような直接的な証拠を得ることはできなかった。なお、事件後、輿掛と恋人は同棲を解消してそれぞれ親元に戻り、7月11日にはみどり荘の部屋を引き払っているが、二人の交際は続いていた。 ===逮捕=== 大分市内では、同年12月に連続放火事件が発生。また、同年10月に発生した銀行から500万円が強奪された強盗事件も未解決のままであった。市民・マスコミの警察に対する視線は厳しく、みどり荘事件の解決には警察の威信がかかっていた。そんな中の12月11日、輿掛が同僚4人とともにタクシー運転手に暴行するという事件が発生した。輿掛は8月1日に勤務に復帰していたが、当日は輿掛の勤めるホテルのボーナス支給日で、5人は酒に酔った状態であった。警察はその場で輿掛だけを暴行容疑で逮捕した。あからさまな別件逮捕ではあったが、輿掛が任意の取り調べを拒否する以上、警察としては何とか身柄を確保したかったのだと思われる。ところが事件の翌朝、輿掛の職場の労働組合が依頼した大分合同法律事務所の古田邦夫弁護士が介入。示談書や嘆願書を取りまとめ、「酔っていて覚えていない」としぶる輿掛を「認めれば出られるから」と説得して、輿掛は罰金2万円の略式命令で1週間で釈放された。しかし、輿掛には「弁護士は自分の話を聞いてくれない」という不満だけが残った。 12月28日、科警研から待ちに待った報告が大分県警に届いた。毛髪鑑定の結果、被害者の部屋に残されていた体毛のうちの3本が輿掛のものと同一であるというものであった。ようやく物証を手に入れた警察は、輿掛逮捕に向けて動く。年が明けて1982年(昭和57年)1月14日、大分合同新聞は、朝刊1面で「“隣室の男”逮捕へ 体毛、血液型が一致 大分署が断定」「事件直後、新しい傷」と報じた。 この日、午前中自動車教習所にいた輿掛に、恋人から「おっさんが逮捕されると新聞に出ている」と電話が入った。「支配人が連絡するように言っている」ということであったので連絡して支配人室に出向くと、再度預かりとして退職届を書かされて自宅待機を命じられた。輿掛は、記事を見た母親が心配していると思い急いで自宅に帰ったが、母親は不在であった。同日12時50分、輿掛は、心配して自宅を訪ねてきた高校時代からの友人と自宅にいたところを、T警部補によって逮捕された。新聞記事を見て集まっていた多くの報道陣や野次馬が見守る中、輿掛は大分警察署に連行された。その日の大分合同新聞の夕刊は、「ホテル従業員逮捕、執念……7カ月ぶりに」「ムッツリした犯人・輿掛」という見出しと、連行される輿掛の写真を大きく掲載した。 警察は、逮捕当日から、T警部補と大分警察署刑事一課第一強行犯係長のH警部補を中心に2つのチームを作って交替で輿掛を追及した。逮捕当初は逮捕前と同様「酒を飲んで寝ていたので何も覚えていない」と容疑を否認していた輿掛も、厳しい取り調べの前に1月18日午前に至ってついに自白した。大分警察署長の発表を受けて、1月22日の大分合同新聞朝刊には「輿掛やっと自供」「『私に間違いない 恋人とけんか…カッと』良心ゆさぶる説得で…」の見出しの下、「21日までに輿掛は『私がやったのに間違いありません。遺族や市民の方に迷惑をかけて申し訳ありません』と全面的に自供した」「『恋人とケンカし、彼女がアパートを飛び出したのでムシャクシャして酒を飲んでいた。そこへ(被害者名)さんが帰ってきたので……』と供述しており、犯行は発作的なものであったとみられている」という記事が載った。 輿掛は、1月30日から3月10日まで市内の仲宗根精神病院で精神鑑定を受けた。鑑定では、まず、分裂病または分裂病質についての検査を行ったが、結果は「正常」であった。次に、異常酩酊の可能性を確認するために事件当夜と同量の酒量を与える飲酒実験が4回行われたが、結果は寝てしまってなかなか起きないというだけの通常酩酊であった。さらに、夢遊病についての観察も行われたが、それも確認できなかった。最後に、心因性健忘を疑い、麻酔面接が試みられたが、健忘の兆候も認められなかった。これらから「内向的かつ消極的」で「犯行時に心因性ショックが見られたことから推測されるように」「心的ストレスに対する抵抗力が弱く、危機的状況において容易に心的破綻に陥る傾向にある」ものの「精神障害や健忘は存在しない」との鑑定結果を得た上で、輿掛は3月15日に強姦致死・殺人の罪で起訴された。 ===起訴前弁護=== 1981年(昭和56年)12月の輿掛の暴行事件の弁護を担当した古田邦夫弁護士は、その後も輿掛のことが気になっていた。暴行事件については、もともとは輿掛の勤務するホテルの労働組合から依頼を受けた事務所の先輩弁護士の都合で代わって対応しただけのものではあったが、みどり荘事件を追及するための別件逮捕と感じた古田弁護士は、違法捜査を止めるためにとにかく輿掛を早く釈放させることを優先して1週間での釈放を実現していた。その際に輿掛から、みどり荘事件ついて「やっていない」と聞いていただけに、輿掛逮捕の報道に接して「別件とはいえ一度弁護をした者として会いに行くべきではないか」と考えていた。逮捕の翌々日の1982年(昭和57年)1月16日、古田弁護士は、まだ本人からも家族からも依頼されていなかったが、「弁護人となろうとする者」として自白前の輿掛と面会した。そこでも再度「やっていない」という輿掛の言葉を確認し、金銭面から「うん」と言わない輿掛に、とりあえず弁護人選任届を書くだけ書かせて、その日の面会を終えた。 当時の古田弁護士は登録2年目で、否認している輿掛の刑事弁護を一人で担う自信はなかった。事務所で相談したところ「外部の弁護士と組んだ方が良い」という結論になり、1月18日に改めて外部の先輩弁護士とともに輿掛と接見した。しかし、その場で輿掛から出たのは、家族との面会と引き換えに「たった今、隣の部屋にいたと認めた」という言葉であった。先輩弁護士には否認事件として協力を依頼した手前もあって、古田弁護士は接見を短く切り上げ、二人で弁護にあたるという話も立ち消えになった。古田弁護士は、1月20日・1月22日にも輿掛と接見したが、否認事件でなくなった以上、家族の経済的な負担を考えても国選弁護にしたほうが良いのではないかと考え始めていた。 1月23日、大分地方裁判所の弁護士控室で、古田弁護士は徳田靖之弁護士から声を掛けられた。徳田弁護士は、古田弁護士の小・中・高校の8年先輩にあたり、司法修習生時代から親しくしていた。みどり荘事件について聞かれた古田弁護士は、率直に国選弁護にすべきか悩んでいると答えた。しかし、徳田弁護士の考えは違った。被疑者は自閉症との報道もあり、事件の経緯からは異常酩酊の可能性もあるので、責任能力の有無で争うことになる可能性もあり、起訴前の弁護活動を続けるべきだ、というものであった。そして徳田弁護士は、自分が一緒に弁護人になっても良い、と申し出た。こうして二人は1月25日に輿掛の長姉に会って着手金を受け取り、正式に家族の依頼による輿掛の弁護人となった。しかし、徳田弁護士が起訴前に輿掛と接見したのは1月27日と1月29日の2回だけだった。 前述の通り、輿掛は1月30日から3月10日まで精神鑑定のために鑑定留置に出された。これには、異常酩酊による心神喪失ないし心神耗弱を推定していた弁護側としても異論はなかった。鑑定結果は「精神障害や健忘は存在しない」であったが、3月10日に接見した古田弁護士は、鑑定から戻った輿掛から驚くべき話を聞く。「注射をされて尋問された」というのである。古田弁護士は直ちに徳田弁護士に相談して「鑑定留置先で自白誘導剤が使われた可能性があり、その影響が残っている状況下での取り調べは問題があるから至急留置場所を拘置所に移すように」と大分地裁に上申した。これが認められ、3月13日に輿掛は大分警察署内の留置場から拘置所に移送された。 ==第一審== ===罪状認否=== 大分地裁における初公判の期日は1982年(昭和57年)4月26日に決まり、その約10日前に弁護団に対して関係書類の開示が行われた。この時初めて輿掛の供述調書を見た弁護団は、驚き困惑した。新聞報道等では「全面自供」と報じられていたにもかかわらず、輿掛の供述は、「気付いたら203号室で被害者の遺体のそばに立っていた」、侵入経路や犯行状況は一切覚えていないが「自分が犯人に違いない」というとても「自白」とは呼べないようなものであった。 弁護団は、この中で精神鑑定書に記された麻酔面接に注目した。麻酔面接で用いられたのは、ナチスが自白剤として使用したことで知られているイソミタールであった。輿掛は、3月6日にイソミタール10%溶液5ccを注射されて医師の面接を受け、この麻酔下の面接で、「物音に気付いて隣の部屋に行ったら被害者が倒れていた」「玄関の明かりはついておらず、和室の明かりはついていた。被害者は台所に倒れており、首には何か白いものが巻かれていて、顔は白い布のようなもので覆われていた。下半身は裸だったんじゃないかと思う。寝ているならセックスしようと被害者の下半身を触ったが、死んでいるのに気付いて慌てて自室に帰った」という内容を話した。そして、2日後に行われた麻酔の影響のない通常の面接でも概ねこれを認めている(ただし、これについては鑑定後の警察官の取り調べに対して「そのような覚えはない」と否定している)。これが事実であるとすると、犯行状況を覚えていないという輿掛の供述はもっともであったし、現場から輿掛の体毛が発見されたことも説明がつく。弁護団は、イソミタール面接での輿掛の供述を軸に、強姦・殺人については証拠がないとして無罪を求める弁護方針を立てた。 初公判を翌々日に控えた4月24日、古田・徳田両弁護士は輿掛と接見し、徳田弁護士は輿掛に「君は酒を飲んで寝ていて記憶がないということなのでベストを尽くして弁護するが、審理の中で君が犯人だと明らかになった時には潔く極刑に服してほしい」ということを伝えた。輿掛は、「その時は覚悟しています」と答えた。 4月26日、大分地裁で第1回公判が開かれた。輿掛は罪状認否で「被害者の部屋にいたことは覚えているのですが、自分がやったという記憶がありませんので、はっきり分かりません」と述べ、弁護団も意見陳述で「被告人に犯行当時の記憶がないということであり、検察官請求予定の証拠では本件の証明は不十分と思料されますし、有罪とは言えないと考えます」と主張した。この罪状認否について、続く第2回公判で、近藤道夫裁判長から改めて「被害者の部屋に『行った』ことを覚えているのか、『いた』ことを覚えているのかどちらですか」という質問をされ、輿掛は「『いた』ことと、すぐ自分の部屋に帰ったことは覚えている」旨を答えた。 ===検察側立証=== 第2回公判は1982年(昭和57年)6月7日に行われた。前述の近藤裁判長から輿掛への質問に続いて検察側の立証に入り、翌1983年(昭和58年)1月13日の第10回公判までをかけて、みどり荘の住民や捜査にあたった警察官、鑑定にあたった科警研や大分県警科学捜査研究所の技官などの証人尋問が行われた。 102号室の住民は、第3回公判で、事件直後に202号室の風呂で水を流す音を聞いたと証言した。その証言は細部に及び、「2階からドタンバタンという音を聞いた。それは、男が女を追い掛け回すような音だった。そのあと静かになったので、2階に神経を集中していたが、ドアや窓、人が歩くような音は聞こえなかった」「15分から20分くらいして、201号室か202号室の風呂で水を流す音を3回くらい聞いた。それは、人が中腰になって水をかぶっているような音だった」「水音は201号室か202号室か分からなかったが、その後、実験してもらった結果、202号室からだったことが分かった」というものであった。 一方、201号室の住民は、事件直後に廊下で顔を合わせた際に輿掛から「こんばんは」と声を掛けられて殺人事件が起こったことを知らされているが、第3回公判で、その時の輿掛の様子について、起きたばかりのようだったものの特に変わった様子はなかったと話した。また、輿掛から「何しよるか!」と声を掛けられて事情を聞いた巡査も、第4回公判で、輿掛は落ち着いた普通の態度だったと証言した。 第4回・第5回公判では取り調べにあたったT警部補が証言に立ち、事件直後の最初の事情聴取で確認した輿掛の首と手の傷について、「その夜についた新しい傷だと判断した」「傷について輿掛は嘘をついていると感じ、犯人ではないかと思った」と証言したものの、「それでは何故その場で写真を撮らず、捜査報告書に記載しなかったのか」という弁護側の反対尋問に対して説得力のある答えを返すことができなかった。なお、輿掛は、最初の事情聴取で傷を確認された際、T警部補はそれぞれについて「古い傷だな」と言い、それは同席していた捜査員も聞いているはずであると主張している。 続く第6回公判には、同棲していた当時の恋人が証人として呼ばれた。彼女は、輿掛の逮捕当日に検事の前で「事件直後に電話を受けた母は、輿掛は焦った様子だったと言っていた。新聞で事件の内容を読み、輿掛が犯人ではないかと疑いを持った。心配になっておにぎりを持ってみどり荘に行くと、輿掛の首や手に見たことのない傷があり、ひっかき傷のような首の傷には血がにじんでいた。輿掛の言うことは信用できないと思った」という供述をしたとされていた。しかし、公判では、弁護側の「犯人ではないかと疑っている相手におにぎりなんか作らないでしょう?」という質問に恋人は「そうです」と答え、供述調書の内容についても「本当は違います」とはっきりと否定した。なお、輿掛と恋人は事件後も輿掛の逮捕まで交際を続けており、事件のあった1981年(昭和56年)の大晦日には恋人の母に「泊まっていきなさい」と言われて恋人の実家に泊まり、また、逮捕の前日も二人で友人宅に泊まっている。 さらに、第8回公判では、毛髪鑑定を行った科警研の技官に対する証人尋問が行われ、弁護側によって毛髪鑑定は個人識別の手段としては決定的ではないこと、基準もあいまいで判断は鑑定者に委ねられていることなどが指摘された。 検察側の立証は第10回公判での被害者の姉とともに遺体を発見した友人への証人尋問で終了したが、輿掛による犯行であると十分に立証されたとは言えない状況であった。逆に、弁護側はここまでの審理に手ごたえを感じていた。第10回公判で引き続き行われた弁護側の冒頭陳述では、これまでの審理で明らかになった犯人像と輿掛は結びつかないこと、事件直後の輿掛の態度や行動も犯人のものとは思えないこと、また「対照しうる指紋、掌紋、足跡もない」と指摘して、はっきりと無罪を主張した。そして、翌第11回公判では、それまで同意・不同意の意見を留保していた輿掛の供述調書の証拠採用についてすべて不同意とし、供述調書は「身体的・精神的疲労と体毛遺留等の誤導によるもの」であり「犯行当時の記憶がない中で記憶に基づかずに、自己が犯行を犯したと推定あるいは想像したものにすぎない」として「自白」の任意性を争う姿勢を示した。これによって、次回第12回公判では輿掛に対する被告人尋問が行われることになった。古田弁護士によると、このころの輿掛は、何か一人で悶々と思い悩んでいる様子であったという。 ===「自白」の撤回=== ====第12回・第13回公判==== 被告人尋問が行われる第12回公判の前日の1983年(昭和58年)3月9日、打合わせのために接見した古田弁護士に対して、輿掛は「実は、事件のあった時間は寝ていて、隣の部屋にいた記憶はない」と、これまでの「隣の部屋にいたことは覚えている」という供述とは異なる話を始めた。古田弁護士としては半信半疑ではあったが、輿掛が強く主張するため、そこまで言うのであればと公判ではその通り話させることにした。しかし、当時、徳田弁護士は医療事故に関する訴訟を複数抱えて多忙であったため、このような弁護方針の大幅な変更について弁護団で打ち合わせをする時間も取れないまま公判を迎えることとなった。 3月10日の第12回公判では、古田弁護士が質問に立ち、輿掛の逮捕された時の状況から不利益供述に至るまでの経緯を質していった。そして古田弁護士の「酒を飲んでいて眠ってしまって事件の時間帯の自分の記憶はないというのが本当のところなんですね」という最後の質問に対して、輿掛ははっきりと「はい」と答えた。裁判長は驚いたように顔を上げたが、この回答に驚いたのは徳田弁護士も同じであった。輿掛に隣の部屋にいたという記憶はあるということは、イソミタール面接での供述を軸に無罪を求めるという弁護方針の大前提であったことに加えて、第1回・第2回公判で輿掛自身が裁判長に対しても認めたことであり、ここで急に供述が変わることは裁判官に不信感を抱かせることになるのではないかと徳田弁護士は怖れた。 徳田弁護士は、古田弁護士の質問が終わったあとに裁判長から「何かありませんか」と促されて質問に立った。裁判官に弁護団内の不一致を悟られないよう別の質問から入り、そのあとでさりげなく話を移して「この裁判の一番初めにも言ったように、あなたが覚えている範囲では、気がついたら隣の部屋にいて、自分の足元に女の人が横たわっていたということは覚えていたわけですね」と質問した。輿掛はしばし返答をためらったあとに、小さく「はい」と答えた。徳田弁護士は畳み掛けるように「そうですね」と確認したが、輿掛はゆっくりと頷いただけだった。徳田弁護士はさらに「隣の部屋に立っていたという、そこは覚えていたわけでしょう」と問いつめたが、輿掛の返答は「はっきりわからんかったです」であった。この回答に徳田弁護士は慌てて「この法廷でも認めているから、そういう記憶はあったわけでしょう」と声を荒らげて質問し、輿掛も「はい」と答えた。このやりとりで、徳田弁護士としては何とかイソミタール面接での供述に戻した形となった。 同年4月21日の第13回公判は、輿掛に対する検察側の反対尋問であったが、多忙の徳田弁護士が古田弁護士や輿掛と打合わせできたのは、公判直前の裁判所内でのわずか15分だけであった。その場も「記憶の通りに話せばいい」とありきたりなアドバイスを与えただけで終わった。第13回公判では、検察側は当然輿掛の供述の変遷を追及したが、輿掛は第13回公判でははっきりと「隣の部屋にいた記憶はない」と不利益供述を完全に撤回し、以降、一貫して無実を主張するようになる。弁護団としても、これ以降、捜査段階から公判初期の輿掛の不利益供述は「偽計による虚偽自白」であるとして無罪を求める弁護方針に転換した。これに対して、検察側は直ちに取り調べにあたったT・H両警部補を証人として申請した。 ===「自白」に至る経緯=== 第12回・第13回公判やその後に語った輿掛の言葉によれば、不利益供述に至る過程は以下のようなものであった。ちなみに、逮捕から「自白」に至るまでの取り調べおよび食事の状況は下表の通りであった。 逮捕当日、窓側の席に座らされ、換気のためと称して窓を開けられて1月の寒風にさらされる状態で取り調べを受け、風邪をひいてしまった。薬が欲しいと言ったが拒絶され、医者にも診せてもらえず、長時間の取り調べが連日続いた。台所に横たわる被害者の遺体の写真を見せられ、「お前がこうしたんだ」「どうやって入って、どうやって殺したんだ」と追及されたこともあった。何度「酒を飲んで寝ていた」と言っても取り合ってもらえず、自衛隊時代の飲酒運転での事故や年末の暴行事件などを例に出されて「自衛隊時代の先輩にも話を聞いたが、輿掛は酔っ払うと分からなくなると言っていた」「高校時代の恋人も、酒を飲んで首を絞められるようにセックスされたが輿掛は翌日覚えていなかったことがあったと言っている」「新聞に載っている以外に203号室からはお前の指紋も毛髪も出ている」「お前は酔っ払って覚えていないだけで隣の部屋へ行っているのは間違いないんだ」などと言われ、次第に自分でもそうなのかもしれないと思うようになっていった。 さらに、風邪で食欲もなく意識も朦朧とする中で、「家族もどうなっているかわからんぞ」と言われ、逮捕当日に母親に会えないまま連行されたことや連行時に押し寄せる報道陣に恐怖を感じたことを思い出し、家族のことが心配になった。1月18日の朝、家族に会わせてほしいと涙ながらに懇願すると、「分かった。しかし、お前の言うことを聞いてやるから、お前もこっちの言うことを聞け」と言われた。そしてまた「どうやって入って、どうやって殺したんだ」と聞かれて答えられずにいると、「じゃあ、どうやって出たんだ」と聞かれ、とっさに「玄関から出た」と答えてしまった。その発言をもとに「玄関から出て部屋に戻った」「自分がやったことは間違いありません」という供述調書を作られて署名・指印させられた。その日の午後に母と長姉との面会を許され、医師の診察を受けて薬をもらえた。 裁判が始まり、T警部補らが「新しい傷だった」など嘘ばかり言うので腹が立ったが、そのたびに弁護人の席に目をやると、いつも手前側に座る徳田弁護士と目が合って頷いてくれるので、「先生たちは分かってくれている」とだんだんと信頼できるようになった。また、T警部補らの証言の矛盾や科警研の毛髪鑑定のあいまいさを追及する両弁護士を頼もしく感じるようになった。そして、第10回公判で徳田弁護士は、警察があったと言った指紋もないという。指紋も毛髪も出ていると言われていたが、そうではないとすると、警察に騙されて行ったような気になっていただけで、やはり本当は隣の部屋には行っていなかったんだと思うようになった。ただ、裁判の初めに「隣の部屋にいた記憶はある」と言ってしまったので、今さらそうではないと言ってもいいのだろうかとしばらく悩んだ。そして、第12回の公判の前に古田弁護士に自分としての事実を話した。しかし公判では、いつも温厚な徳田弁護士にいつもと違う強い口調で「隣の部屋にいたことは覚えているんでしょう?」と問われたため困惑したものの、徳田先生には何か考えがあってのことだろうと思ったので「はい」と答えた。しかし、第13回公判の前に両弁護士から「記憶の通り話せばいい」と言われたので、第13回公判からは自信を持って記憶の通りを話すことにした。 ===任意性・信用性に関する審理=== T・H両警部補に対する証人尋問は、1983年(昭和58年)6月20日の第14回公判と同年7月4日の第15回公判で行われた。T警部補によれば、「自白」した当日1982年(昭和57年)1月18日の取り調べの状況は、「取り調べを始めて1時間ほど経ったとき、輿掛が母や姉に会いたいと言い出した。それに対して、分かったが、自分の覚えていることを話しなさいと応じ、何度もどこから入ったのか追及したが、輿掛は何も答えなかった。しかし、どこから出たのかと聞くと、玄関から出たと答えた。記憶にあるのは台所に立っていたところからで、それ以前のことは覚えていないということだった。そして、玄関から出て自分の部屋に帰って風呂場で顔を洗ったところまで話すと、母に合わせて欲しいと涙を流し声をあげて泣き始めた」ということであった。また、指紋については、事件現場からは輿掛の指紋は検出されていないこと、そして、指紋の件は取り調べの中で輿掛に何も告げていないと証言した。 1983年(昭和58年)7月21日の第16回公判には、風邪を引いた輿掛を診察した医師が証人に呼ばれ、診察したのが輿掛の「自白」前か後かが争われた。輿掛によれば、「自白」した後の1982年(昭和57年)1月18日の午後に初めて医師に診察されたということであったが、医師は「自白」前の同年1月15日に診察したと証言し、カルテにも1月15日の21時30分に診察・投薬と記載されていた。しかし、H警部補が作成した報告書では、この日は21時35分まで取り調べを行い、そのあとに診察を依頼したとされており、また、留置人出入簿には21時35分入房と記載されていた。 1983年(昭和58年)9月1日の第17回公判では、弁護側が「自白」当時の輿掛の心身の状態を立証するとして、「自白」直後に面会した輿掛の母と長姉を出廷させた。その時の輿掛の様子について、母は「色はまっ黒というか、あんな色はないです。目はギョロギョロして、私たちがものを言っても口をパクパクさせるだけで言葉にはならなくて、涙をボロボロ流すだけでした。ほおはこけて亡霊みたいでした」と述べ、長姉は「げっそりして疲れ果てて、私達に言うんですが、声にならなくて、あっあっという感じで、もういいわと言ったらただ泣くだけで、私達も涙がポロポロ出てきまして何も言えなかったです」と証言した。 その後、イソミタール面接を行った医師に対する尋問や3回を重ねた被告人質問などを挟んで、翌1984年(昭和59年)12月17日の第23回公判には、第3回公判で証言した102号室の住民が再び呼ばれた。ここでは弁護側は、「2階の水音を聞いただけで人が中腰で水をかぶっている音だと分かったということ」「風呂の水音を聞いたというのと同じ時間帯の205号室の住民が木のツッカケで外階段を下りるカンカンという大きな音を聞いていないこと」など、102号室の住民の証言の不自然な点を指摘した。 ===検察側補充立証=== 1985年(昭和60年)1月21日の第24回公判から同年8月26日の第29回公判にかけて、検察側は大量の証拠を追加で申請して補充立証を求めた。検察側の補充立証の柱は、主に、102号室の住民が聞いた水音について、イソミタール面接について、輿掛の傷について、の3点であった。 検察は、裁判所の許可を得た上で同年1月14日に密かに検証実験を行っていた。この検証で、202号室の風呂で水を流す音が102号室の住民に聞こえることを確認し、調書を証拠として申請した。弁護側は、検証のためとはいえ起訴後の強制捜査は違法であり証拠能力はないと主張したが、裁判所はこの検証調書を証拠として採用した。 また、「行っただけで殺していない」というイソミタール面接での輿掛の供述については、同年12月9日の第31回公判に精神科医で責任能力についての権威とされる東京医科歯科大学の中田修教授を証人として招いた。鑑定書自体にも「麻酔下の発言の信用性は疑問視され、今日ではほとんど用いられないようである」「今回の発言は、自分の犯行を否認するために最近思いついた創作である可能性は否定できない」と記載されているが、中田教授も、本人が強く言いたくないと思っていることは言わないこともあるとしてイソミタール面接での供述には信用性がないと証言した。 輿掛の首や左手甲の傷については、同年1月10日に検察が独自に九州大学の牧角三郎名誉教授に鑑定を依頼し、8月26日の第29回公判に鑑定書を提出した。10月7日の第30回公判に出廷した牧角名誉教授は、検察側の主尋問に対して「T警部補が確認した輿掛の首の傷は発赤反応であり、6人に繰り返し何度も実験した結果、これは受傷後2時間から3時間以内に見られるものである」として、犯行時に被害者の爪によって生成された可能性があるという内容を証言した。しかし、弁護側の反対尋問で、T警部補が傷を確認したのは事件発生の翌朝6月28日4時30分ころから6時30分ころまでの事情聴取の終わりころであり、鑑定書通りその2時間か3時間前にできた傷であるとすると、輿掛の傷は6月28日0時前後とされる犯行時刻にできた傷ではないことになると指摘されると、牧角名誉教授は絶句し、慌てて「個人差がある」と言葉を濁した。 さらに、1986年(昭和61年)4月21日の第33回公判では、T警部補が作成した捜査本部事件情報報告書を証拠として提出した。これは捜査員から捜査本部にあてた内部報告であり、そこには、事件直後の事情聴取の際に確認した左手甲の傷について「この傷は赤身が出て表面は薄く幕〔ママ〕でおおわれている」と書き込みがされていた。T警部補を証人として行われた同年6月30日の第37回公判で、弁護側は、事件後4年も経って急にこのような文書が出てきたこと、このような重要な内容が正式な捜査報告書に記載されていないことなど、この報告書の不自然さを指摘した。しかし、裁判所は、同年7月28日の第39回公判において、署名も捺印もないメモ程度に過ぎないとする弁護側の強硬な反対を押し切って、この報告書を証拠として採用した。 弁護側は、裁判所のこうした検察寄りの訴訟指揮に対して不信感を募らせていった。 ===結審=== 大分地裁での第1審は、1987年(昭和62年)7月13日の第44回公判での被告人質問をもって証拠調べを終えた。検察の論告求刑は、同年9月14日の第45回公判で行われることに決まったが、検察側の準備が間に合わず、12月24日の第46回公判に大幅に延期された。 検察は、論告で「被害者が一人で帰宅したことを察知するとともに、日頃かわいい女の子と思っていた被害者が廊下に出て風呂の口火に点火する物音などを聞き、性的想像をたくましくしてますます性的衝動を強め、それを抑制できないまま本件強姦の犯行に及んだものと認められる」として極悪非道な犯行と断じ、また、輿掛の公判での対応も「狡猾な態度に終始した」として、無期懲役を求刑した。 弁護側は、翌1988年(昭和63年)2月1日の第47回公判で最終弁論を行い、科警研の毛髪鑑定は信用性に欠けること、捜査段階での「自白」は過酷な取り調べで心身ともに疲弊していた輿掛に対して指紋や体毛が出ているといった虚偽の事実を告げた上で家族との面会と引き換えに強制された虚偽自白であり任意性・信用性がないこと、102号室の住民の証言は202号室の風呂で水を使う音を聞いたとしながら205号室の住民がトイレの水を流す音や周囲の誰もが聞いている木のツッカケで外階段を下りるカンカンという大きな音を聞いていないなど不自然であること、被害者が犯人に噛みついて吐き出したと思われる血液の混じった唾液があったにもかかわらず輿掛にはそのような咬傷がなかったこと、巡査に自分から声を掛けたり201号室の住民に事件のことを伝えるなど犯人と思えない行動をとっていること、被害者は生理中であったにもかかわらず輿掛の衣類等から被害者の血液が発見されていないことなど、検察側の主張に反論して無罪を主張した。 これをもって第1審は結審し、判決は同年4月25日に言い渡されることが決まった。閉廷後、弁護団のもとには弁護側の最終弁論を傍聴していた全国紙の記者が複数集まり、口々に「無罪になりますね」と声をかけた。 ===審理再開=== 1988年(昭和63年)4月25日に予定されていた判決言い渡しは、直前になって6月27日に延期となった。そして迎えた6月27日の第48回公判でも判決は下されず、職権により審理を再開し、輿掛が事件当夜テレビで見たという映画のビデオ検証が行われることが決まった。ただし、輿掛のこの供述については、のちに「他のテレビで見た場面と混同していたことも考えられますから、もしかしたら私の間違いかもしれません」と言ったとする供述調書も作成されている。 8月22日の第49回公判でビデオ検証が行われた。輿掛が見たという映画は、事件当夜の1981年(昭和56年)6月26日23時50分ころからテレビ大分が放映した『荒鷲の要塞』であった。検証の結果、輿掛が覚えていると言った「酒場やドイツの軍人が螺旋階段を下りてくる場面」は、日が替わった6月27日0時12分23秒から同13分36秒の間に放映されていたことが確認された。 ビデオ検証が終わると、裁判所は改めて証拠調べの終了を宣言し、同年9月26日の第50回公判で検察側論告、10月24日の第51回公判で弁護側最終弁論が行われることになった。弁護側は再度の最終弁論で、ビデオ検証の結果を、この場面は最初のクライマックスといえる場面で「他のテレビで見た場面と混同」することはありえず、輿掛は犯行時間に自室にいたこと、すなわち輿掛が犯人ではないことを示すものであると主張した。判決は翌1989年(昭和64年)3月9日に言い渡されることになった。 ===一審判決=== 1989年(平成元年)3月8日、判決公判を前に古田・徳田両弁護士は輿掛と接見し、「良い結果が出てもはしゃがないように、また悪い結果が出ても取り乱さないように」と告げた。これまでの公判の審理から無罪判決を確信していた輿掛は、「先生たちは万が一のことも思ってくれている」と受け止めた。弁護団も無罪判決に自信を持っていたが、裁判を通じて一貫して検察寄りだったと感じる裁判所の訴訟指揮から一抹の不安も感じていた。公判の直前、大分地裁の弁護士控室で、判決後の記者会見について「無罪判決のコメントは用意したが、有罪判決であった場合は自信がない」という古田弁護士に対して、徳田弁護士は「無罪のときは古田弁護士がやればいい。有罪の場合には僕がやろう」と応じた。 3月9日13時30分、第52回となる判決公判が開廷。寺坂博裁判長が言い渡した判決の主文は「被告人を無期懲役に処する」であった。寺坂裁判長は、判決理由の中で、有罪認定の柱として輿掛の「自白」や科警研の毛髪鑑定などを挙げ、審理で争点となった点については以下のように判じた。 ===毛髪鑑定=== 輿掛の逮捕の決め手となった科警研の毛髪鑑定について、弁護側は毛髪鑑定では決定的な個人識別はできず判定基準もあいまいであると指摘して必ずしも科学的とはいえないと主張したが、判決は、「本件遺留陰毛と被告人の陰毛とは、毛先端の形状、色調、長さ、毛幹部の太さ、髄質の形状などほぼすべての特徴点で類似しているし、本件形態学的検査は、多岐にわたる項目について、豊かな経験と高度の専門的知識を有する毛髪鑑定者が、肉眼ばかりでなく顕微鏡まで使って入念に検査している」として、その信用性を肯定した。 ===「自白」の任意性・信用性=== 弁護側は、捜査段階での「自白」には疲弊した輿掛に虚偽の事実を告げ家族との面会と引き換えに強制されたもので任意性がないと主張したが、判決は、「捜査官が母親らに会えるようにしてやるから記憶にあることを全部話すようにと説得したことが被告人に与える心理的な影響は通常の場合より大きかった」と認めつつも、「この点を充分に考慮しても前記の任意性の判断の結論には影響がない」として任意性を認め、風邪を引いた輿掛を医師に診察させたのが「自白」の前か後かについても、「カルテか、甲一四一号証または留置人出入簿のどれかの時間の記載に正確性を欠くものがあると考えられ、そうすれば右の矛盾は十分に説明がつくもので、その故に被告人が同日夜(医師名)医師の診察を受けた事実を否定してしまわなければならないものではない」として弁護側の主張を退けた。信用性についても、弁護側は、犯行についての供述がなく秘密の暴露も迫真性もないと主張したが、判決は、「一方で不利益供述に及びながら他方で本件の犯行と直接的に結びついてしまうような事柄を具体的に供述することを避けようとする態度がうかがわれるから、被告人の供述に具体性や迫真性がないことは被告人の供述の信用性を認めるについて大きな妨げにはならない」と弁護側の主張を退けた上で、「公判になってからも第一回公判の被告事件に対する陳述の際に自分が被害者を殺害したことは記憶がないのではっきりしないが、二〇三号室に立っていたことは覚えている旨述べ、第二回公判において更に念を押して裁判長から右の陳述の趣旨を釈明された際にも同旨の供述をし、第一二回公判でも供述が幾分不明確になってはいるものの結局二〇三号室にいたことを認めて」いるとして信用性を認めた。また、第13回公判以降の「自白」の撤回については、「弁護人は被告人の供述が第一三回公判以後変遷したのは、被告人が第一〇回公判の弁護人の『指紋、掌紋、足跡については対照し得るものは検出されず、毛髪についても被告人のものと特定し得るものは一本も検出されていない』との冒頭陳述を聞いたことが動機となっていると主張するが、そうだとすると冒頭陳述後の第一二回公判廷までの公判でそれまでの供述を覆さなかったのが理解できない」とし、「第一三回公判ではそれを否定しながらも、一方でそれまで認めていたのはそう思えばいたような気にもなっていたからであるなどと不明確な供述もしているので、これらの事情も捜査段階における被告人の不利益供述の信用性を裏付けるに足るものである」と認定した。 ===首・左手甲の傷=== 事件後に見られたとされる輿掛の傷について、弁護側は、事件直後の写真がなく新しい傷だったか古い傷だったか判断できない、警察が写真を撮らなかったことは保存すべき証拠がなかったということであると主張したが、判決は、T警部補が最も慎重かつ綿密に観察しているとして同警部補の証言を採用し、首の傷については牧角鑑定から犯行時に被害者が抵抗したことで生じた傷の可能性が高いと判断した。また、左手甲の傷についても、「先端が約二ミリメートル大」のものによる傷でありビールラックではこのような傷は生じず爪によって生じた可能性が最も高いとした鑑定結果をもとに、この傷も犯行時に被害者の抵抗によって生じた可能性が強いと判断した。 ===102号室の住民の供述=== 102号室の住民が犯行時間直後に202号室の風呂で水を流す音を聞いたという証言については、「後日判明し、知りえた事実や想像を事件当時の自己の見聞事実・記憶に付け加えて供述する傾向にあることがうかがわれるので、その供述を全面的には信用しにくい」としつつも、「(102号室の住民)が聞いたという水の音が本件犯行に及んだ被告人が自分の身体を洗う音であったとすれば、犯行の直後であると考えるのが自然であり、右のカンカンという音と近接した時間帯であると思われるから、一方の音を聞いて、かなり大きかったと思われる他方の音を聞いていないというのは、確かに不自然の感を免れない。しかしながら、人の注意力が一方だけに片寄ってしまって事後的に考えると当然気付いているはずの物事の生起に気付いていなかったということは日常よく経験するところであり、それが説明の余地のないほど不自然なことであるとまでは言えない」としてその証言を採用した。 ===被告人が犯人とすると不自然な事象=== 事件現場に被害者が加害者に噛みついて吐き出したと思われる血液の混じった唾液が残されているにもかかわらず輿掛の身体に咬傷がなかったことについて、「被害者が犯人の身体に生じた損傷から出た血液を必死に抵抗して犯人ともつれているうちに何かのはずみで口にすることもあり、それを唾液とともに吐き出した可能性も否定できないし、被害者が犯人に噛みついたものとしても、本件の犯行直後に捜査官が咬傷の存在を意識し被告人の身体全体を綿密に検査したことはないのであるから被告人の身体から咬傷が発見されていないからといってそれが絶対になかったということはでき」ないと判断した。また、巡査に自分から声を掛けたり201号室の住民に事件のことを伝えるなど犯人とは思えない行動をとっていることについては、「部屋には電灯をつけたままにしてあるのに返事をしなかったことから疑惑を持たれることをおそれ、この上は自分の方から声をかけた方がよいと考えたことも、犯人のとる行為として絶対に考えられないとまでは言い切れない。また、(201号室の住民)に自分の方から先に挨拶したり、事件のことを話したりしたのも、それと同様に自分が犯人として疑われないための行動と考えることも出来ないわけではない」「犯人であれば自室に逃げ帰った後電灯もテレビも消して眠っていることを装う方が自然であることは弁護人主張のとおりであるけれども、それまでつけていた電灯などを犯行直後に消したのを見られれば自己に嫌疑の目が向けられると考えることも一面の犯罪者心理であろうと考えられるから、この点も被告人が本件の犯人であるとするについて決定的に矛盾する事実であると言うことはできない」とした。さらに、被害者は生理中であったにもかかわらず輿掛の衣類等から被害者の血液が発見されていないことについても、「本件の犯行後(輿掛の当時の恋人)が実家から帰ってくるまでの間に被告人が自室に一人でいた時間は相当あり」「被害者が発見された直後に(輿掛の当時の恋人)の実家へ電話を掛けるために外出するなどしているものであるから、被告人が血液のついた下着などを処分する余裕は十分あったと認められ、いずれの主張も被告人を犯人とする場合に説明不可能な事情ではない」として弁護側の主張を退けた。そして「被告人の強制捜査段階及び第一回、第二回、第一二回公判における二〇三号室に立っていたとの供述が信用できるもので、それによれば被告人は本件犯行のあったすぐ後に被害者が倒れていた二〇三号室の板の間に立っており、その後二〇二号室に戻り、風呂場で身体を洗い、テレビを見ていたことが認められる」「他に被告人が二〇三号室へ赴く合理的な理由があったことは伺えないから、それにより被告人が本件の犯人である可能性が高い」と認定し、「未だ遺族に対し、何らの慰謝の措置を講じていないことや、犯行を否認し犯行に対する反省悔悟の情を示していないこと」をあげて「無期懲役に処することはやむを得ない」と結論づけた。 判決後、大分地裁の面会室で輿掛との面会を終えた両弁護士は大分地裁の弁護士控室で記者会見に臨んだ。記者会見で徳田弁護士は、「被告人が無実であることを示す数々の証拠に目をつぶった不当な判決である」と述べ、記者団からの「どんな証拠があるというのですか」という質問に「いくらでもあります。私達の弁論要旨を読んで下さい」と声を荒げた。 輿掛と弁護団はただちに福岡高裁に控訴した。 ==控訴審== ===弁護団の拡充=== 一審判決後の記者会見を終えた古田・徳田両弁護士に、安東正美弁護士が「よかったら私も手伝わせてほしい」と声をかけた。安東弁護士は、かつて大分合同法律事務所に所属していたことから古田弁護士の先輩にあたり、また、徳田弁護士とも以前ともに訴訟にあたった経験があり旧知の間柄であった。敗訴に落ち込んでいた両弁護士は、大喜びでこの申し入れを受け入れた。裁判資料を取り寄せた安東弁護士は、読み込むほどに一審判決が不当なものであると確信していった。3弁護士はさらに多くの弁護士に弁護団への参加を呼び掛けていくことで一致したが、私選弁護人とはいえ報酬は全く期待できないこともあり、また、弁護団の団結を重視したことから、気心の知れた弁護士に一人ひとり裁判資料を手渡して声をかける形をとった。大分合同法律事務所の所属弁護士やOB、一緒に仕事をしたことのある弁護士を中心に声を掛けていき、控訴趣意書提出までに柴田圭一・西山巌両弁護士が加わって5名の弁護団となり、さらに岡村正淳・鈴木宗嚴・千野博之、福岡の岩田務各弁護士が参加して、控訴審第3回公判(1990年(平成2年)9月17日)ころまでに9名となった。その後も荷宮由信・岡村邦彦・須賀陽二・工藤隆各弁護士が参加して、最終的にみどり荘事件の弁護団は13名となっている。 弁護団は一審判決を再検討し、自白の任意性、102号室の住民の証言、輿掛の身体に咬傷がなかったこと、輿掛の衣類から被害者の血液の跡が見つかっていないこと、輿掛の首や左手甲の傷、毛髪鑑定の信用性などについての一審判決の判断を批判し、さらに、犯行時間に205号室の住民が203号室から「神様、お許しください」という声を聞いているが輿掛にはそうした信仰はないこと、『荒鷲の要塞』の酒場の場面が輿掛のアリバイを証明していることなどを、輿掛が犯人ではないことを示す証拠として指摘する控訴趣意書をまとめた。最終的に200頁に及んだ控訴趣意書は、提出期限の前日に完成し、提出期限の1989年(平成元年)11月30日に、福岡高裁に直接持参して提出された。 ===科警研毛髪鑑定批判=== ====再鑑定依頼==== 福岡高裁における控訴審第1回公判は、1990年(平成2年)3月14日に開かれた。控訴審で弁護側は、「自白」の任意性・信用性、科警研の毛髪鑑定、輿掛の首・左手甲の傷の3点を中心に一審判決を覆す立証を試みた。5月28日の控訴審第2回公判では早くも被告人質問を行い、同年12月17日の控訴審第5回公判までをかけて「自白」当時の取り調べ状況や家族との面会と引き換えに「自白」に応じた過程などを質問して、捜査の違法性と「自白」が強要されたものであることを明らかにしていった。 「自白」の任意性の審理と並行して、弁護団は科警研の毛髪鑑定の信用性の問題に取り組んだ。同年7月28日、岩田弁護士から弁護団に、福井女子中学生殺人事件でも吉村悟弁護士が中心になって科警研の毛髪鑑定の信用性を争っているという情報がもたらされた。両事件の毛髪鑑定は、鑑定時期こそ6年の開きがあったものの、鑑定人も同じで、鑑定手法も全く同じ「形態学的検査」「血液型検査」「分析化学的検査」の3つからなるものであった。弁護団は早速吉村弁護士を知っていた西山弁護士を通じて資料を取り寄せ、たまたま9月21日に大分地裁に出廷する予定があった吉村弁護士を招いて勉強会を行った。吉村弁護士は、毛髪鑑定に関する国内外の大量の文献を示し、形態学的検査で個人識別が可能と考えているのは科警研だけであること、分析化学的検査では同一人でもデータの変動が大きく(個人内変動性)他人間でもあまり違いがないこと(個人間恒常性)を指摘して、科警研の毛髪鑑定が信頼できないものであると説明した。同年11月16日・17日と翌1991年(平成3年)1月7日の弁護団会議でも吉村弁護士から直接助言を受け、吉村弁護士の「弁護側として科警研の鑑定結果を覆す再鑑定を行ったほうが良い」という助言をもとに、弁護団は岩田弁護士が作成した「元素分析批判」「形態学的検査批判」という科警研の毛髪鑑定の矛盾点を指摘する2つの文書を手に再鑑定を依頼する専門家を探していった。とはいえ、科警研が鑑定した毛髪は鑑定の過程で全量を費消しており、再鑑定は科警研の鑑定データを基に分析し直すという形をとるよりほかなかった。 1990年(平成2年)11月19日、岩田弁護士は九州大学医学部法医学教室の永田武明教授を訪問し、科警研の鑑定書と「元素分析批判」を持参して意見を求めた。永田教授は「元素分析批判の指摘は正しいと思う」と述べたが、「自分は毒物を専門とする法医学者であり、この内容であれば科学評論家か数理統計学者がふさわしい」という意見を示して再鑑定については固辞した。岩田弁護士はその足で大学の同級生であった九州大学工学部の香田徹助教授を訪ねて適任者を尋ねたところ、数理統計学の世界的権威として九州大学理学部の柳川堯助教授を紹介された。そのころ、徳田弁護士も別ルートで再鑑定を引き受けてくれる専門家をあたっていた。徳田弁護士は、11月20日、中学校の同級生で野球部ではバッテリーを組んだ間柄の九州大学工学部の立居場光生教授を訪ね、やはり科警研の鑑定書と「元素分析批判」を持参して適任者を尋ねると、同じく柳川助教授が適任であろうとの返答を得た。 同年11月26日、徳田弁護士と岩田弁護士は、科警研の鑑定書と「元素分析批判」「形態学的検査批判」を持って柳川助教授を訪ねて意見を求めた。柳川助教授は、その場で科警研の毛髪鑑定の杜撰さを指摘し、12月には「統計的鑑定法」、翌1991年(平成3年)1月には「元素分析スペクトルパターンによる鑑定批判」と題する意見書を作成して弁護団に送付した。弁護団は意を強くし、1991年(平成3年)1月31日の第6回公判後に古田・徳田・安東・鈴木・西山・岩田・千野の7弁護士が柳川助教授に再鑑定を依頼した。柳川助教授は意見書は書いても再鑑定までするつもりはなかったようであったが、弁護団の懇願を受けて再鑑定を受諾した。 これとは別に、第6回公判で弁護団は被害者の首に巻かれたオーバーオールに付着していた体毛の鑑定を要求し、鑑定の結果、オーバーオールに付いていた体毛は血液型O型のものであることが判明した。さらに、遺体の司法解剖の鑑定書に何かが剥がされた形跡を発見して鑑定人に問い合わせたところ、当初の鑑定書には被害者の膣内に残されていた精液はA型またはO型であると記された付属説明文書が添付されていたことが分かった。被害者の陰毛に付着していた精液は輿掛と同じB型のものであったため、弁護団は複数犯による犯行を強く疑うようになっていった。 ===柳川鑑定=== 柳川助教授の再鑑定書は1991年(平成3年)5月17日に完成した。鑑定書は、統計的鑑定法の考え方についての総論と、この観点から具体的に科警研の毛髪鑑定の誤りを指摘する各論部分からなり、結論として「あらゆる点において、本件において採用された毛髪鑑定法は、信頼性ある科学的根拠をもった鑑定とはいえない」と断言するものであった。弁護団は、この再鑑定書を5月23日の控訴審第8回公判に証拠として申請し、6月25日の第9回公判では柳川助教授の証人尋問が行われた。 柳川助教授は鑑定書と証言で、まず、被告人の毛髪のサンプルが少なすぎて被告人の毛髪の特徴自体が明確になっていないこと、科警研の形態学検査は鑑定人の経験に依存しており科学的とは言えないことを指摘した。 分析化学的検査としての元素分析については、事件現場で採取された毛髪と被害者・被害者の姉・輿掛の毛髪の塩素・カリウム・カルシウムの含有量を比較して輿掛と同程度であったと鑑定したものであるが、各人のデータには幅があり、しかも被害者の姉と輿掛の数値は大部分が重なっていることを示し、本来、この重なりあった部分は「鑑定不可能領域」であり、事件現場で採取された毛髪の数値がこの領域にあれば被害者の姉のものとも輿掛のものとも判定できないものであると主張した。それにもかかわらず、科警研の毛髪鑑定で事件現場で採取された毛髪のデータが輿掛のデータと一致したと判断しているのは失当であり、そもそも人の毛髪はほとんどの人で元素含有量のデータは大部分が重なるものであるから3人の毛髪だけと比較しても全く意味がないと指摘した。形態学検査も含めて、科警研の毛髪鑑定は、事件現場で採取された毛髪と被害者・被害者の姉・輿掛の3人の毛髪としか比較しておらず、事件現場で採取された毛髪が3人以外のものである可能性を全く考慮していないとし、これは、3人の中に犯人がいるという前提に立たなければ有効ではなく、方法論からしてすでに致命的欠陥を抱えた、結論ありきの鑑定であると非難した。そして、最終的に、科警研の毛髪鑑定は「科学の名に値しない」と切って捨てた。 これに対して検察側は、7月24日付で科警研で毛髪鑑定を実施した科警研の技官の反論書を提出し、8月1日の第10回公判では柳川助教授に対する反対尋問を行ったが、反論書は柳川教授の指摘に正面から答えるものではなく、検事による反対尋問も的外れな質問を繰り返しては前田一昭裁判長からたびたび注意を受けるありさまであった。 ===法廷外の支援=== ====『夢遊裁判』==== 1991年(平成3年)2月、ノンフィクション作家の小林道雄は、互いの親類の結婚により縁続きとなる者から、甥が熱心に支援しているというみどり荘事件の資料を受け取った。この甥は、輿掛の自衛隊時代の銃剣道部の先輩で、自衛隊退職後は東亜国内航空の整備士として羽田整備工場に勤務していた。彼は、輿掛の逮捕当時、警察からの電話で自衛隊時代の様子を聞かれて輿掛が自衛隊を退職することになった飲酒運転事故のことを話したが、輿掛をよく知る彼は、輿掛が殺人事件の被疑者となっていることについては「彼は絶対にそんなことをする人間ではない。何かの間違いではないか」という話をしていた。その後、控訴審の審理が始まってから、弁護団は輿掛から「T警部補に、自衛隊時代の先輩にも話を聞いたが輿掛は酔っ払うと分からなくなると言っていたと追及された」という話を聞き、安東弁護士が彼に確認の電話を入れた。彼は、自分の話の一部が切り取られ、言っていないことを捏造されて輿掛の追及に利用されたことに憤り、以後、輿掛の無実を信じて積極的に活動していた。 直接彼から事件と裁判の詳細を聞き興味を持った小林は、大分で弁護団と会い、控訴審第7回公判以降の裁判をたびたび傍聴し、輿掛とも面会するなど取材を重ねた。弁護団は、輿掛の逮捕前後のマスコミの報道姿勢に対する不信感からジャーナリストの肩書を持つ小林を警戒感をもって迎えたが、丁寧な取材を通じて積み上げた事実を基に判断しようとする小林の取材手法に触れる中で徐々に信頼関係が形成されていった。一方の小林は、初めて会ったときの自然体の対応や庶民的な飲み屋に通う姿から、初対面で弁護団に好印象を持ったと記している。それでも小林は、当初、事件については予断を持つまいと努めていたが、弁護団から渡された一審判決を読んで、少なくとも刑事裁判の大原則である「疑わしきは被告人の利益に」に反すると感じ、また、取材を通じて輿掛の無実を信じるようになっていった。 1991年(平成3年)10月、小林は月刊誌『現代』誌上で「女子大生暴行殺人事件‐ある『夢遊裁判』の記録」を発表し、事件の問題点を世に問うた。この反響は大きく、みどり荘事件は社会的な注目を集めるようになっていった。 その後、小林は、後述するDNA鑑定の鑑定結果を待っていた控訴審第17回公判ころまでをまとめた『夢遊裁判 ―なぜ「自白」したのか―』を1993年(平成5年)6月に出版し、1996年(平成8年)12月には裁判終了後までの内容を大幅に加筆・改題したものが『<冤罪>のつくり方 ―大分・女子短大生殺人事件―』として文庫化された。 ===救援会=== 控訴審が始まってから弁護団は、広く事件の真実を伝え一審判決の不当性を訴える必要性を感じていた。1991年(平成3年)11月29日の弁護団会議で、正当な判決を求める人々を組織して世論の力で外から裁判所を包囲する方針を確認し、安東弁護士を中心に救援会設立に向けて動き出した。翌1992年(平成4年)1月26日に「みどり荘事件を考える会」を開催することを決め、1991年(平成3年)12月27日には、県内で様々な問題に取り組む約40名に、『現代』に載った小林の「夢遊裁判」を同封して参加を呼び掛ける文書を発送した。 1992年(平成4年)1月26日、大分市の大分文化会館で「みどり荘事件を考える会」が開催された。事前の弁護団の心配をよそに、準備していた席はすぐに埋まったため急遽追加の椅子を持ち込み、最終的に約50名が参加する大盛況となった。「考える会」では、一審判決や「自白」、科警研の毛髪鑑定、輿掛の傷などの問題点を、休憩なしで約4時間、弁護士が交替しながら熱く語った。そして、3月9日の次回控訴審第13回公判で、直接輿掛を見て、その語る声を聞いて、輿掛の人柄を確認してほしいと傍聴を呼び掛けた。その控訴審第13回公判には、それまでほとんど傍聴者のいなかった法廷に十数名の傍聴者が集まり、輿掛の被告人質問を見守った。こうした人たちを中心に救援会の結成に向けた準備会を重ね、同年5月17日には市内中心街で結成集会への参加を呼び掛けるビラ1,000枚を配った。呼びかけ人には57名が名を連ねた。 同年5月24日、大分市の大分県労働福祉会館で、真相報告会と救援会結成の集会が行われ、180名余りが参加した。「考える会」と同じく各弁護士が事件と裁判の概要と問題点を語り、鈴木弁護士は「いけにえの論理にマスコミが加担」と題して当時のマスコミの報道姿勢を批判した。参加者の一人、ホテル時代の輿掛の同僚は、マスコミの報道を信じて輿掛を犯人にしてしまったと自らを責め、年月がたって世間からいろいろと言われることも少なくなった中であえて姿を見せた輿掛の家族の気持ちを慮る言葉を涙ながらに語って、参加者の感動を呼んだ。救援会は「輿掛さんの冤罪を晴らし、警察の代用監獄をなくす会」(略称みどり荘救援会)と命名された。 みどり荘救援会は、安東弁護士を事務局長として、主に次のような活動を行っていった。 ===会報の発行=== みどり荘救援会結成を報告した第1号から控訴審判決が確定した約5か月後の第20号まで、『無罪』と題する会報を発行した。会報は結成総会や公判傍聴に参加できなかった会員にその内容を伝え、新たな会員の獲得や次回公判の傍聴を勧誘する役割を果たした。 ===真相報告会の開催=== みどり荘救援会は、会員のつてを頼りに真相報告会を開催した。結成3か月後の同年8月には佐伯市で100名、日田市で180名を集めるなど大分県内各地で報告会を繰り返し、1994年(平成6年)6月28日には初めて福岡市で開催するなど、最終的に約50回を数える報告会を実施して支援の輪を広げていった。 ===裁判の傍聴=== 前述の通り、弁護団はみどり荘救援会結成前の第13回公判の傍聴を呼び掛け、十数名が傍聴した。傍聴活動の目的は、支援者が裁判を見て輿掛が無実かどうか自分自身で判断することと、大勢の支援者で傍聴席を埋めて輿掛を励ますことであった。『夢遊裁判』を著したノンフィクション作家の小林は著書の中で、それまで閑散としていた傍聴席に十数名が入っただけで、法廷の雰囲気が一変したと記している。みどり荘救援会結成後の第14回公判からは、救援会がマイクロバスを準備しての傍聴活動が始まったが、回を追うごとに傍聴希望者が増え、すぐにマイクロバスから大型バスに変わった。行きのバスの車内では必ず同行する安東弁護士からこれまでの裁判の推移と当日の公判での弁護側の意図が説明され、帰りの車内では弁護士から当日の公判の解説を聞き、参加者にはビールが配られて一人ひとりが感想を述べ合った。みどり荘救援会は、結成後1週間で190名の会員が集まり、同年末には400名を超えた。そして、控訴審判決直前に開かれた1995年(平成7年)5月27日の第4回総会時点で、会員数は621名を数えている。 ===DNA鑑定=== ====委嘱==== 弁護側が柳川鑑定書を提出した1991年(平成3年)5月23日の第8回公判終了後、前田裁判長は弁護団と検察を呼び出し、犯行現場に遺留されていた毛髪と被害者の膣内から採取された精液をDNA鑑定にかけることを打診した。この日の毎日新聞朝刊の1面には、「DNAで犯罪捜査」の見出しで「警察庁が五月二二日に、DNA鑑定について、鑑定方法などを統一したうえで制度として犯罪捜査に導入することを決めた。この鑑定制度の導入により、わずかな血痕、体液、皮膚片から個人の特定が可能となり、日本の犯罪捜査は指紋制度の発足(一九一一年)以来の大転換となる」とする記事が掲載されていた。科警研の毛髪鑑定の信用性を崩しかけていた弁護団はこの申し入れに困惑し、弁護団会議では喧々諤々の議論が交わされた。当時、DNA鑑定は100万人に一人の確率で個人識別が可能などとマスコミで報道されていたが、まだまだ未知の領域でありDNA鑑定の科学的信頼性には強い疑問が残る、すでに無実の立証は尽くされており不要であるなどとして、弁護団は当初DNA鑑定には否定的であった。しかし、8月1日の第10回公判後にも再度裁判所からDNA鑑定を行いたい意向が示され、最終的に弁護団も、膣内から採取された精液が輿掛のものではないとする鑑定結果が出れば無罪が明らかになること、無罪を争いながらDNA鑑定に反対することは弁護団も不安を持っていると受け取られかねないこと、打ち合わせの場で陪席裁判官から「DNA鑑定がなくても自白がある」との発言があったことから裁判所側がこの段階で無罪の心証を持っているとは言えないこと、さらに、裁判所の強い意向を考えると受け入れざるをえないとして、DNA鑑定の実施に同意した。こうして、有罪にするにしろ無罪にするにしろ確かな証拠が欲しい裁判所、科警研鑑定が崩された検察、しぶしぶ受け入れた弁護団と、三者三様の思惑を抱きつつ、10月31日の第12回公判で日本で初めての裁判所の職権によるDNA鑑定が行われることが決まった。 鑑定は、DNA多型研究会(現日本DNA多型学会)運営委員長の筑波大学三澤省吾教授に依頼することになり、同年11月14日、同大社会医学系長室で鑑定人尋問が行われDNA鑑定が委嘱された。鑑定事項は、被害者の膣内容物を採取したガーゼ片に輿掛の血液から抽出するDNAと同一のDNA型を有するものが存在するか、事件現場から採取された毛髪に輿掛の血液から抽出するDNAと同一のDNA型を有する毛髪が存在するかの2点であった。三澤教授からは、同大の原田勝二助教授を鑑定補助者にしたいと申し出があり、認められた。また、鑑定対象と同程度の古い毛髪を使用しての予備実験に約6か月、その後、実際の試料を用いた鑑定にさらに約6か月かかるため、鑑定結果が出るのは約1年後の翌年10月になる見込みであること、鑑定過程で試料は全量費消される旨の説明があった。尋問に立ち会った古田・徳田・安東・西山の4弁護士は、後日検証が可能なように、試料は全量費消せず一部を残しておくこと、実験ノートを作成して実験データ等の鑑定経過を記録に残し提出できるようにしておくことの2点を要求し、三澤教授も了承した。 ===鑑定待ちの間の審理=== DNA鑑定が委嘱されその結果を待つ間、弁護側は「自白」の任意性・信用性を焦点に再度被告人質問を行った。ここで弁護側は、一審での輿掛と弁護人の信頼関係についてと、「自白」の変遷についてを明らかにしようとした。一審判決が輿掛の「自白」の信用性を認める最大の拠り所としたのは、通常虚偽や強制された自白の撤回は公判の早い段階でなされるものであるのに、輿掛は一審第12回公判まで不利益供述を維持した点であった。実際には一審第2回公判以降は輿掛に発言の機会はなく、次に発言した一審第12回公判で「自白」は撤回していたが、徳田弁護士の誘導尋問によって一審第1回・第2回の供述に引き戻されていた。弁護団は、一審第1回・第2回公判で不利益供述をしたのは弁護人との間に信頼関係が築けていなかったためであり、第12回公判で徳田弁護士の誘導尋問に乗って「事件現場にいたことは覚えている」旨を認めたのは逆に信頼関係が生まれていたからだということを明らかにしようとしていた。一審の古田・徳田両弁護人は一審での弁護活動を自己批判する供述録取録を提出し、1992年(平成4年)3月9日の第13回公判では輿掛の口から「一審での不利益供述の維持は弁護人に問題があった」ことを引き出そうとした。特に一審第12回公判で強引に供述を引き戻した徳田弁護士は、事前に輿掛と何度も打ち合わせを行い、「そんなことは言えません」という輿掛に対して、「僕があのような質問をしなければ有罪認定の理由に使われることもなかった」「君は僕を憎まなければならない」「お前があんなことを言ったせいで有罪にされたんだという思いを込めて言わなかったら伝わらない」と繰り返し説得した。しかし、公判では輿掛から弁護人を批判するような言葉は出てこなかった。公判後、輿掛は「先生たちの質問に充分に答えられず、申し訳なかったと思っています」と手紙に書いたが、輿掛の性格をよく知る徳田弁護士は「やっぱり駄目でしたね」と静かに笑っただけであった。 続く同年6月17日の第14回公判で、弁護団は「捜査段階における被告人の不利益供述の変遷と信用性に関する弁護人の意見書」と題する意見書を提出し、9月7日の第15回公判にかけて輿掛の「自白」の変遷について被告人質問が行われた。この中で弁護団は、輿掛の「自白」が重要な点あるいは記憶違いとは考えにくい点で変遷しており、しかもその理由が全く説明されていないことを指摘した。例えば、事件現場の203号室から自室に戻る際、当初は裸足であったとはっきり述べていたにもかかわらず、裸足だったと思う、裸足だった気がすると変わっている。また、当初の自室に入る際に鍵を使ってドアを開けたと思うとの供述も、「鍵をしてあったかどうかがはっきりしません」という供述を経て、最終的に「鍵を開けて入った記憶はありません」と変遷している。弁護団は、これらは輿掛にとって何の意味もないことであるが、警察が当初輿掛は窓伝いに203号室に侵入したと想定していたと仮定すると意味のある変遷になると主張した。すなわち、窓伝いに侵入したとすると裸足で行動したはずであり、事件当日買い物から帰った時に部屋の鍵を閉めた輿掛は犯行後に鍵を開けて自室に戻ったはずである。しかし、窓伝いに侵入したとする仮説が物理的に不可能なことが判明すると、裸足で行動したり、犯行後に戻ってくる自室のドアに鍵をかけてから203号室に行き犯行に及んだとすることは逆に極めて不自然となってしまうため、当初の供述を変更する必要が生じたと考えることができる。弁護側は、こうした供述の変遷は、輿掛の「自白」が警察によって強制ないし誘導によるものである何よりの証拠であると主張した。 同年11月25日の第16回公判には、事件直後に輿掛に取材した新聞社の記者が出廷した。輿掛は、事件直後に当時の恋人の実家に電話を掛けた後に新聞社の記者から取材を受けたと話していたが、どこの新聞社の誰であるのかは分かっていなかった。しかし偶然にもこの年の4月にその記者が別件で徳田弁護士に手紙を出し、その中で事件直後の輿掛に取材をしたことが触れられていたことから、事件直後に取材したのがこの朝日新聞社の記者であることが分かったのであった。この記者は当時の取材メモも残しており、記憶とこのメモをもとに事件直後の輿掛の様子を証言した。この記者によれば、「みどり荘に到着したのは1時15分ころで、すでに規制線が張られていた。公衆電話で話していた輿掛を見つけて電話が終わるのを待って声をかけた。輿掛は質問にはすべて答え、特に不審な様子は感じなかった。輿掛は上下ジャージであったが、ジャージの下に何かを持っている様子もなかった。取材後はまっすぐみどり荘に帰って行った」ということであった。また、後に輿掛が重要参考人として捜査対象になっていることを知った際には「非常に意外で何か自分は人を見る目がないのかなと思いました」と述べている。弁護側は、この証言によって、電話を掛けるために外出した際に血液等の付着した下着などを処分する余裕があったとした一審判決の認定の誤りを立証できたと考えた。 一方、DNA鑑定の結果はなかなか提出されなかった。当初は鑑定書の提出は1992年(平成4年)10月ころを目途とされていたが、同年9月の裁判所の問い合わせに対して三澤教授は12月末になると回答した。しかし、年が明けても提出されず、1993年(平成5年)2月4日の第17回公判では新たに着任した金澤英一裁判長から「鑑定書の提出は4月上旬になる」と報告され、この公判以降鑑定結果待ちとなって審理は完全にストップした。 ===鑑定結果=== 三澤教授からの鑑定書は、1993年(平成5年)8月12日に福岡高裁に提出された。三澤教授によるDNA鑑定は、対象試料からACTP2 (ACTBP2)と呼ばれるマイクロサテライトの部位をPCR法で増幅させ、そのGAAAの4塩基の反復回数でDNA型を判定するというものであった。これは、マイクロサテライトをDNA鑑定に用いた日本で初めての例となった。鑑定結果は、被害者の膣内容物が含まれたガーゼ片からは被害者と同一のDNA型しか検出されなかったが、事件現場から採取された毛髪のうちの1本(符号16‐1、台紙番号10、毛髪番号1)から、輿掛と同一のDNA型が検出されたというものであった。鑑定書によれば、血縁関係にない全くの他人が同一のDNA型となる確率は0.088%とされていた。 鑑定結果に驚いた弁護団は同日中に鑑定書を入手すると直ちに内容の精査に入ったが、読めば読むほど鑑定書に多くの問題があることが明らかになった。鑑定書には「鑑定には平成三年一一月一四日から平成五年八月一〇日までの六三六日を要した」と記されているにもかかわらず鑑定書の作成日付が「平成五年七月三一日」と記されていることをはじめ、鑑定データからは11/23型となるべき輿掛のDNA型が16/36型とされているなど、基本的な点や重要な点に多くの誤りが見つかった。全26ページ(本文9ページ、註・図等17ページ)の鑑定書中で、弁護団が発見した誤りは53か所に及んだ。また、膣内容物からは被害者のDNA型しか検出されなかったが、鑑定書には「この結果は、膣内容物中に精子が付着していなかった事を積極的に裏付けるものではない。勿論、輿掛良一の精子由来のDNAが膣内容物に存在しないという結論も導き出せない」と記述され、これは鑑定人が予断をもって鑑定にあたったことを感じさせるに十分であった。さらに、0.088%という確率を導いたデータベースのサンプル数は65と少なすぎて信頼性に疑問があることに加え、添付された表から計算すると正しくは0.178%であった。なお、弁護団は鑑定書が届いて1週間後の8月19日の時点ですでに鑑定結果が誤りであることを示す決定的な証拠をつかんでいたが、輿掛と弁護団のほかにはごく一部の者にしか知らせずに切り札として温存し、当面は鑑定書の矛盾や問題点を正面から追及していくこととした。 9月21日、鑑定結果を受けての裁判所・弁護団・検察三者の打ち合わせがもたれた。「この事件はDNAで決まりでしょう。いまさら、弁護団は何をされるのですか」という金澤裁判長に対して、弁護側はいくつかの誤りを示して鑑定の杜撰さを指摘し、三澤教授の尋問を求めた。裁判所側は三澤教授の多忙を理由に筑波大学での出張尋問を提案したが、弁護側は裁判公開の原則を盾に公判での尋問を譲らず、福岡高裁で鑑定人尋問が行われることになった。この打合わせの翌々日の9月23日、福岡高裁に三澤教授から鑑定書に対する訂正書が届き、32か所が訂正された。刑事事件の鑑定書でこれだけの箇所が訂正されるというのは前代未聞であった。また、訂正書の作成日付は9月20日付、消印は9月22日であった。 ===鑑定人尋問=== 1993年(平成5年)12月9日の第19回公判から、三澤教授に対する鑑定人尋問が行われた。三澤教授は、鑑定書の作成日付については「秘書のワープロミス」と弁明したが、鑑定資料の番号の誤りについてや、鑑定試料と同程度の古い試料を用いた予備実験をいつからいつまで行ったのか、実際の鑑定試料を用いた鑑定はいつ始めたのかなどについては「実験に関与していないので分からない」と答えた。また、弁護側の「基礎データに基づいて鑑定文が書かれるはずであるのに、基礎データと鑑定文が食い違っているということは、データの改竄や作り直しがあったのではないか」との追及に対しては「基本ルールに従った」「結論に間違いはない」と繰り返し、金澤裁判長からも「質問の意味が分かっていない」と諌められた。そして、弁護側は鑑定前の尋問で約束していた実験データ等の提出を求めた。三澤教授はこれに応じ、この公判に前後してX線写真のフィルムや測定データ等を提出した。 翌1994年(平成6年)1月26日の第20回公判でも三澤教授に対する鑑定人尋問が行われたが、この日の公判でも弁護側からの質問に三澤教授は「それは原田助教授がやった」と繰り返すばかりだった。この日の尋問では、三澤教授は鑑定作業や鑑定書作成に全く関与しておらず原田助教授に任せきりにしていたこと、実際に鑑定資料を使って鑑定作業を始めたのは鑑定書を提出した1993年(平成5年)5月であったことが明らかになった。 三澤教授に対するDNA鑑定の委嘱は1991年(平成3年)11月14日に行われたが、そこから鑑定書提出までの経緯は、後に判明したものも含めると以下のようなものであった。 三澤教授らは、鑑定を引き受けた段階で、10年前の古い試料からDNA鑑定を行う具体的な方法を知らなかった。1992年(平成4年)春まで、鑑定試料と同程度の古い試料を用いてGSTπやアポBといったマイクロサテライトで鑑定を試みたが、結果は判定不能であった。たまたまそのころイギリスの科学雑誌『ヌクレィック・アシッズ・リサーチ』にACTP2というマイクロサテライトを紹介している記事を見つけ、三澤教授らはこれを用いた鑑定を試みることにする。同年末ころから実験を始め、茨城県内の70名の血液からデータベースを作成して1993年(平成5年)4月の日本法医学会で「血痕・毛根試料からの個人識別に有効なVNTR(高変異反復配列)の検出」と題して報告し、異論が出なかったことから学会で承認された形となった。学会後の1993年(平成5年)5月から、鑑定資料を用いた鑑定作業を始め、当初は判定不能であったが7月ころから判定可能となって原田助教授によって鑑定書が作成された。三澤教授は、原田助教授から完成した鑑定書を受け取って、30分から1時間程度目を通して記名・押印して提出した。 このような経緯であったにもかかわらず、いまだACTP2を用いた実験を行う前の1992年(平成4年)9月に裁判所からの照会に対して12月中に鑑定書を提出できると回答し、鑑定資料を使った鑑定作業に入る前の1993年(平成5年)2月にも4月上旬に提出すると回答するなど、三澤教授らは裁判所や弁護団に対して虚偽の報告を繰り返していたのであった。 4月20日の第21回公判でも引き続き三澤教授に対する鑑定人尋問が行われた。ここではデータベースの信用性が問われたが三澤教授はまともに回答できず、法廷には傍聴していた統計応用学者で元明治大学教授の木下信男の高笑いが響いた。木下元教授は閉廷後に三澤教授のことを「集団遺伝学についてまったく無知」と語ったが、三澤教授は金澤裁判長からも公判中に理解不足を指摘されている。 また、この日の公判で、検察側・弁護側双方が三澤教授の鑑定書に対する意見書を提出した。検察側は、原田助教授を鑑定補助者として実験を行わせることは鑑定を委嘱する際に弁護人も了承していると主張したが、弁護側は、宣誓のうえで鑑定を引き受けたのはあくまで三澤教授であり、原田助教授を鑑定補助者とすることが認められているとはいっても限度があるとして鑑定書は真正に作成されたとはいえず証拠能力がないと主張し、多忙や人員不足、鑑定に必要なアイソトープを扱う免許がないなどとして原田助教授に丸投げした三澤教授は鑑定人としての自覚や資格に欠けると厳しく指摘した。さらに、弁護側は意見書の中で、これまで隠してきた毛髪の長さの問題を初めて指摘した。 ===長さの問題=== 弁護団が指摘した毛髪の長さの問題とは、輿掛と同一のDNA型が検出されたとする「符号16‐1、台紙番号10、毛髪番号1」の毛髪が15.6cmの長さがあったという点である。事件当時の輿掛の髪型はパンチパーマで、当時警察に任意提出した毛髪は最も長いものでも7cmであり、一目見て輿掛のものではないと分かるものであった。実際、この「符号16‐1、台紙番号10、毛髪番号1」は事件当日の1981年(昭和56年)6月28日に被害者の部屋の和室の押入れ前で採取されたもので、大分県警の科捜研から警察庁の科警研に毛髪鑑定に出す際にも、長さや形状から被害者または被害者の姉のものと判断されて対象から除かれたものであった。それでも検察側は、たまたま長いものがあったのではないかと主張した。 1994年(平成6年)6月6日の第22回公判では、実際に鑑定にあたった原田助教授に対する尋問が行われた。原田助教授は、検察側の主尋問に対して、鑑定書でいう「同一の型」とは「類似性が高い」という意味であると証言した。弁護団は、「同一の型」と「類似性が高い」では全く意味が違うと驚いたが、鑑定の信用性が揺らいできたと感じて軌道修正を図ったものととらえた。この日の弁護側の質問では、原田助教授に対してACTP2法でのDNA型の分類方法を繰り返し確認した。ACTP2法はGAAAの4塩基の繰り返し回数で判定するものであるので理論上は4塩基ごとに分類すれば良いはずであるのに、三澤鑑定では1塩基ごとで分類していたためである。しかし、実際にはACTP2に3塩基や5塩基の不規則なものもあることが分かったため1塩基単位の分類とされており、原田助教授は、この分類方法では1塩基でも違えば他人であること、また、総塩基数が同じであっても3塩基や5塩基のものも含めて結果として同一になっている可能性があり、その場合も他人であることを認めた。 7月4日の第23回公判には、事件当時の輿掛の髪の長さを立証するために弁護側の申請した3名の証人が出廷した。一人目は、輿掛の長姉であった。長姉は事件の約10か月前に執り行われた輿掛の父の葬儀の様子を写真に撮っており、そこには、短髪の輿掛が写っていた。長姉は、写真は父の葬儀の時のものであり、その前日に「喪主だからきちんとしなければいけない」と言って輿掛を散髪に行かせたと証言した。二人目に証言に立ったのは事件当時輿掛の行きつけの理容店で輿掛を担当していた理容師で、葬儀の時の写真を見て髪型は角刈りで長い部分でも1cm以下であると証言した上で、人の髪は1か月に約1cm伸びること、事件前に輿掛はおおむね月に1度来店してパンチパーマをかけていたこと、事件後の1981年(昭和56年)7月11日に撮影された輿掛の髪型もパンチパーマであることなどを証言した。最後に証言した大分県理容美容職業訓練協会の副会長も、葬儀の時の輿掛の髪型は角刈りで長くても1cm、人の髪は1か月に約9mmから1cm伸びるとし、パンチパーマをかけた髪は長くても5cmであり、事件後の輿掛の写真は幾分伸びているが5〜8cmの長さであり、またパンチパーマは時間の経過とともに緩むことはあってもストレートになることはないと証言した。これらの証言から、輿掛の父の葬儀から事件当日までは約10か月であり、その間一度も散髪をしなかったとしても11から12cmにしかならず、また、事件当時の輿掛はパンチパーマでどんなに伸びていたとしても10cmを超えることはないことから、DNA鑑定で輿掛と同一のDNA型が検出されたとする15.6cmの毛髪は輿掛のものではありえないことが立証された。 ===保釈=== DNA鑑定で輿掛と同一のDNA型が検出されたとする毛髪が輿掛のものではありえないことが明らかになった第23回公判直後の1994年(平成6年)7月7日、弁護団は福岡高裁に対して輿掛の保釈を請求した。保釈請求書では、輿掛の身柄拘束が12年6か月に及んでいること、逮捕や一審有罪の決め手となった科警研の毛髪鑑定はすでに「科学の名に値しない」と否定されたこと、検察側の立証は終了しており罪証隠滅の恐れはないこと、輿掛は潔白を主張する場として公判に積極的に関わっており、また、無罪を確信しているため逃亡の恐れも全くないことなどを理由として挙げた。 7月11日、福岡高裁第一刑事部は保釈許可を決定。これに対して検察側は、一審で無期懲役が言い渡された重大事件であること、控訴審での審理でも輿掛を犯人とする証拠が増大しており罪証隠滅の恐れもあること、一審・控訴審の審理経過からして勾留が不当に長期にわたっているとは言えないことなどから、保釈許可決定には裁量権の逸脱があり違法として直ちに異議を申し立て、同高裁第二刑事部で審理されることになった。弁護側は、一審の審理の長期化は検察側の大量の補充立証が原因であり、控訴審の審理の長期化も裁判所の職権でDNA鑑定を採用したことによるもので、輿掛には何らの責任もないのであるから長期の勾留を甘受すべきいわれはないと反論した。 8月1日9時50分、福岡高裁第二刑事部は検察の異議申立の棄却を決定。決定では、そもそも犯人と輿掛を結び付ける直接証拠自体が乏しい上に検察側の立証はすでに終了しており現在争いになっている13年余り前の輿掛の髪の長さについて罪証隠滅は考えにくいとし、弁護人全員の身柄引き受け書が提出されており輿掛にしてみれば簡単には出せない300万円が保証金とされているとして逃亡の恐れも薄いとし、12年6か月以上拘束が続いていることも考慮すると、保釈許可は裁量権を逸脱して違法とは言えないとした。検察は特別抗告を断念し、輿掛は同日保釈された。 殺人事件で一審で無期懲役判決を受けた被告人が保釈されるのは日本ではきわめて稀である。当日の夕刊は、この異例の保釈を大きく取り上げた。その日の夕方に大分に戻った輿掛は、18時から大分県労働福祉会館で開催された「保釈歓迎・完全無罪をめざす集会」に参加した。会場には、急な呼びかけにもかかわらず350名の支援者が集まった。 ===「破綻」=== 1994年(平成6年)11月16日、第24回公判で病気入院中の金澤裁判長から永松昭次郎裁判長に交代し、12月19日の第25回公判では、再度原田助教授を呼び、尋問が行われた。弁護側は、前回の尋問での原田助教授の「1塩基でも違えば他人」という証言を前提に、実際の鑑定におけるDNA型の判定方法を中心に質した。 三澤教授の鑑定方法は、試料からACTP2と呼ばれるGAAAの4塩基の繰り返しからなるマイクロサテライトを抽出し、PCR法で増幅して電気泳動にかけ、その移動距離で塩基数を計測するというものであったが、電気泳動はその時々の条件によって結果が異なるため、100塩基単位のラダーマーカーと呼ばれる既知の塩基数の試料を同時に電気泳動にかけることで、それとの比較から対象試料の塩基数を計算して求める。原田助教授によれば、電気泳動の結果を撮影したX線フィルムを拡大コピーしたものにトレーシングペーパーをあて、泳動結果を示すバンドの中心に鉛筆で線を引いて泳動距離を測定したということであった。1塩基の違いは、元のX線フィルムで約0.33mm、拡大したもので約0.5mmにあたる。しかし、輿掛の血液のDNAのバンドの幅は約8mm(24塩基分)、輿掛と同一のDNA型が検出されたとする毛髪のバンドの幅は約2mm(6塩基分)あった。原田助教授らの測定方法は、それぞれのバンドのだいたい真ん中と思われるあたりに目測で線を引いて、その距離を1mm単位の目盛の普通の物差しで測るというものであった。このやり方では、それぞれのバンドのどこに線を引くかで数塩基程度の誤差は容易に生じうるし、引かれた線も基準の線と平行ではなく、どこを測るかによって計測結果が変わってしまう。実際、鑑定書の元となったデータには、輿掛の血液と輿掛と同一のDNA型が検出されたとする毛髪の各バンドをそれぞれ3回測った測定データがあったが、同じバンドを測ったはずのその値は、測定の都度異なっていた。弁護団は、一塩基単位で正確な計測が求められるにもかかわらずこのような測定技術しか持っていなかったことから、「本鑑定は破綻しているのではないか」と追及した。これに対して原田助教授は、「当時としては、できる限りの技術を使った」としつつも、「今の研究成果からみると、未熟」で、「明らかに先生のおっしゃるとおり」「破綻していると言っても差し支えない」と答えた。その瞬間、傍聴席からはどよめきが上がり、裁判官は驚いた表情を浮かべた。 さらに、弁護側は「同一の電気泳動パターンが検出された(図3参照)」として鑑定書に添付された電気泳動写真(図3)について追及した。図3では輿掛の血液のDNAバンドがレーン1に、輿掛と同一のDNA型が検出されたとする毛髪のDNAバンドがレーン2にあり、同じ位置にバンドが現れているように見える。弁護団が鑑定書を入手した際に、鑑定書を渡して意見を求めた新潟大学の山内春夫教授は「図3の被告人のバンドと現場遺留毛髪のバンドは同一であるように見える」と言い、九州大学の柳川教授も「鑑定書にミスが多いことをいくら強調しても、図3の実験データが崩れない限り三澤鑑定を否定できない」という感想を述べていたものである。しかし、鑑定書の後から提出された元々のX線フィルムを確認すると、これは別々の機会に電気泳動にかけられたもののX線フィルムを合成したもので、それぞれの電気泳動ではラダーマーカーの泳動距離自体が異なっており本来比較できるようなものではなかった。弁護団は「合成したことはどこにも書いていない」「同一の機会に行われた電気泳動の写真であると誤解するのではないか」と追及したが、原田助教授は、「あくまでわかりやすくするために参考として付けただけ」として、図3は「何の測定データにも根拠にもなっていない」と答えた。そして、最後に、弁護側から再度「類似」の意味を問われた原田助教授は、ひょっとしたら同じかもしれないし違うかもしれないという意味であると答えた。 原田助教授の尋問が終わると、永松裁判長は弁護団と検察を別室に呼び、弁護側が請求していた傷についてと検察側が請求していた毛髪についての証人申請を取り下げるよう求めた。弁護側・検察側ともにこれを受け入れ、この日の公判をもって控訴審の証拠調べを終えた。 ===最終弁論=== 1995年(平成7年)2月24日、第26回公判が開かれ、13時30分に弁護側の最終弁論が始まった。弁論は「本件事件の特徴と真犯人像」から始まり、捜査段階や第一審での輿掛の不利益供述の任意性と信用性、102号室の住民の水音に関する証言の信用性、輿掛の身体にあった傷の評価、科警研の毛髪鑑定、三澤教授によるDNA鑑定の証拠能力や信用性などについて、安東・徳田・千野・鈴木・荷宮・古田・岡村邦彦の各弁護士が順に弁護側の主張を述べていった。 弁論の結びとなる「結語」は徳田弁護士が行った。徳田弁護士は、第一審から弁護についた者として自ら担当を願い出て、誰にも相談することなく一人で「結語」を書き上げていた。その内容は、自らの第一審での弁護活動を痛烈に自己批判するものであった。  原審第一回公判が開かれたのは、昭和五十七年四月二十六日である。既に十三年の歳月が経過した。 その第一回公判調書には、本件公訴事実に対する弁護人の意見が次のように記載されている。「被告人に犯行当時の記憶がないということであり、検察官請求予定の証拠では、本件の証明は不十分と思料されますし、有罪とは言えないと考えます。」 本弁論のため、本件各証拠の再検討を進める過程で原審弁護人らが何度この意見陳述を悔悟と苦渋をもって読み返したことであろうか。 これほどの重大事件の第一回公判期日を迎えながら、私達には深い霧の中を彷徨うが如き戸惑いがあった。その戸惑いは、被告人の供述調書を開示され、その異様さに直面した時から始まった。 ここには、新聞報道で全面自供と伝えられていたその「かけら」も認められなかった。「犯人は自分に違いない」との結論だけが強調され、何一つとして具体的な犯行状況が語られていないばかりか、何の脈絡もなく突然「気がついたら二〇三号室にいた」との供述に始まる調書は、私達の理解をはるかに超えていた。 被告人がその不利益供述に至る過程で、三日間以上にわたって絶食状態であったことを私達は知らなかった。 その故に、その被告人に対し連日十時間以上の取調べがなされたことの過酷さを私達は理解できていなかった。 指紋が犯行現場に遺留されていた等という虚偽の事実が突きつけられ、「科学の名に値しない」毛髪鑑定結果の告知とともに被告人をがんじがらめに呪縛していたことを私達は予想だにしていなかった。 母に合わせてくれと泣き崩れる被告人に対し、卑劣にもその「特別措置」の代償として、このような不利益供述が強制されたのだということを私達は知るよしもなかった。 弁護人として、恥ずべきことに、私達は供述調書へのその疑問を、被告人との会話の中で、被告人との人間関係を樹立する過程で解きほぐしていく努力を全面的に怠ってしまった。報道されたところの被告人は「自閉症」との先入観が、私達自らの許し難い偏見の故に私達からその努力を萎えさせてしまったのである。 その結果として、私達は、被告人との接見の確保を怠り、原審の審理を迎えるにあたって、被告人に対し、その強制された思い込みが虚偽であることに気付かせる契機を与えることができなかった。 被告人が、原審公判廷で「被害者の部屋にいたことは覚えている」との不利益供述を維持した責任の一半はまさしく私達にある。原審第十二回公判における被告人に対する強引な誘導尋問を含めて、私達は、自らの弁護人としての基本姿勢の誤りを何度か責め苛んできた。 本弁論における被告人の不利益供述の任意性に関する分析は、その苦渋と悔悟と謝罪の所産である。 ― みどり荘事件弁護団 「控訴審弁論要旨」 そして、裁判所に対して、科警研の毛髪鑑定や三澤教授によるDNA鑑定といった「科学を装った非科学的鑑定」を厳しく明確に批判した上での完全無罪判決を求めて弁論を締めくくった。徳田弁護士が弁論を終えると、2時間にわたる弁護側の最終弁論を静かに聞いていた傍聴席から大きな拍手が沸き起こった。永松裁判長は、「静かにしなさい」と拍手を制止した。そして、「こんな立派な弁論に対して失礼でしょう」と付け加えた。 続いて検察側の最終弁論が行われたが、傍聴していたノンフィクション作家の小林道雄によれば、「弁護側が論破した問題点に対して、聞くべき反論はいささかもなかった」。 この公判で控訴審は結審し、判決公判は6月30日と指定された。 ===控訴審判決=== 1995年(平成7年)6月30日、福岡高裁で判決公判となる控訴審第27回公判が行われた。14時に開廷し、永松裁判長が「主文。原判決を破棄する。被告人は無罪」と逆転無罪となる判決を読み上げると、満席の傍聴席から大きなどよめきと拍手、そして被告人の長姉の咽び泣く声が法廷に響き渡った。永松裁判長は「静かに」とそれらを制した後、判決理由を朗読した。 判決理由では、輿掛の首と手の傷についての検討から始め、争点となった点について以下の通り次々と弁護側の主張を認めていった。 ===首・左手甲の傷=== まず、輿掛の頚部の傷について、一審判決では「被告人の傷の状態を最も慎重に綿密に観察しているのは、本件犯行直後被告人から事情聴取をしたT警察官であるとして、Tの証言を高く評価して」いたが、控訴審判決では、「Tは、被告人の傷を観察してから一年以上も経過した後に証言している」こと、「観察当時に損傷状態を写真に撮影するとか、損傷状態の見聞結果を詳細に図示するなど、確たる記録を残す措置をとっておらず、主として本人の記憶のみに基づいて証言していること」、「証言時より記憶が新しいはずの捜査段階においては、検察官に対し、右のようには供述せず、頚部の細長い傷はみみずばれみたいな状態であった旨供述していること」などから、「T証言の信用性については疑問の余地がある」とした。また、牧角名誉教授の鑑定によれば、輿掛の頚部の傷は発赤反応であり「発赤反応は皮膚刺激から遅くとも二時間から三時間の経過によって消褪する」のであるから、輿掛の頚部の傷は「むしろ、本件犯行の犯行時間帯に生成されたものではない可能性の方が大きい」などとし、「虫に刺されて引っ掻いたかもしれないという被告人の弁解も、一概には否定できない」として、「被告人の頚部の損傷は本件犯行の際の被害者の抵抗によって生成された可能性が高いとした原判決の判断は、疑問であり、是認することができない」として一審判決の判断を退けた。また、左手甲の傷についても、一審判決では、ビールラックではこのような傷は生じず爪によって生じた可能性が高いとする鑑定結果から、「ビールラックを移動中に傷つけたかもしれない」という輿掛の弁解を排して被害者の抵抗によって生じた可能性が高いと判断したが、控訴審判決では、「縦横ともニないし三ミリメートルのごま粒ほどの小さい傷であることを考慮すると、日常生活の中で気付かないうちに負傷することもあり得ないわけではなく」、「被告人の弁解は、ビールラックで打った時にできたのではないかという推測の説明であり、ビールラックで傷つけたという記憶に基づいたものではない」としたうえで、「古いビールラックになると、その表面にささくれや凹凸が生じていることもあり、その部分と左手甲との接触によって負傷する可能性も全くないとはいえない」ことや、鑑定も「被告人が負傷したかもしれないという時に扱ったビールラックを使用せず、他のビールラックを使用して実施した」ものであることなどから、「本件犯行の際の被害者の抵抗によって生成された可能性が強いとした原判決の判断は、根拠に乏しく、是認することができない」として、これも一審判決の判断を退けた。事件現場から採取された陰毛について、一審判決は、科警研の毛髪鑑定を「信用性があると評価した上、被告人の陰毛である可能性の高い陰毛がニ〇三号室に落ちていたと判断し、被告人と本件犯行とを結びつける重要な状況証拠の一つとしている」が、控訴審判決では、控訴審で提出された複数の文献は「いずれも、体毛鑑定によって個人識別ができるとすることには消極的」であり、科警研の鑑定人の一人も形態学的特徴や分析化学的特徴から断定的な識別は困難であることを認めていることから、科警研の毛髪鑑定では「本件遺留陰毛と被告人の陰毛とは『類似する』という程度の域を出ない」とし、「体毛鑑定は、個人識別の方法として絶対確実とはいえず」「体毛鑑定の結果を重要な決め手とすることは危険であって許されない」と断じた。事件現場から採取された毛髪から輿掛と同一のDNA型が検出されたとする三澤教授によるDNA鑑定については、「長さ一五・六センチメートルもあるような本件遺留毛髪が被告人の毛髪であるとは到底考えられず」、実際の鑑定にあたった原田助教授も「現時点のレベルからみると、三澤鑑定書の鑑定結果は破綻していると言っても差し支えない旨自ら認めて」おり、「三澤鑑定書には、その信用性を是認することができず」「三澤鑑定書をもって、被告人と本件犯行とを結び付ける証拠とすることはできないと言わざるを得ない」として排した。 ===「自白」の任意性・信用性=== 捜査段階での不利益供述について、一審判決では、捜査員が母親に会わせることと引き換えになされた「約束による自供」にあたるとしたものの、任意性・信用性には影響がないとし、「倒れている被害者の側に立っていた」などの供述を事実と認定して、輿掛が犯人である決め手の一つとしていた。控訴審判決では、まず、全体的な供述内容を、「被告人が被害者を殺したことは間違いないとしながら、犯行の動機はもとより、ニ〇三号室への侵入経路、強姦及び殺人の犯罪行為そのものに関しては、全く記憶がないという不自然なものである」と指摘し、一方で「倒れている被害者の状況に関する供述内容は」「あたかも死体発見当時の被害者の状況を撮影した実況見分調書の写真を見ながら供述しているかのようである。一読して、被告人の実体験に基づく供述であるか甚だ疑問である」とした。また、「捜査官が、被告人が母親らの身の上を心配し、会いたがっていることを利用して、母親らと面会させる約束をし、実際に面会させたことの代償として不利益供述がなされたことは疑う余地がない」と認定し、「任意性を認めることには躊躇せざるを得ない」とした。さらに、「捜査官が、被告人に対し、『お前の体毛がニ〇三号室にあったという鑑定が出ている。』と決めつけて追及したこと」を「体毛鑑定の結果も、単に本件現場に遺留されていた体毛が被告人の体毛に類似するというにすぎず、被告人以外の者の体毛である可能性もあるわけであるから、本件体毛鑑定の結果をもって、被告人の体毛がニ〇三号室にあったと決めつけて追及することは許されない」と捜査手法を厳しく批判し、「取り調べにおいて、被告人が心理的強制を受け、その結果虚偽の不利益供述を誘発された恐れが濃厚であるから、その任意性には疑いがあると言わざるを得ない」として輿掛の不利益供述の任意性を否定した。不利益供述の信用性について、一審判決は、102号室の住民の水音に関する証言が輿掛の「ニ〇三号室からニ〇ニ号室に戻り、風呂場で足を洗い、それから顔を洗った」とする供述と一致することなどから輿掛の供述の信用性を認めたが、控訴審判決では102号室の住民の証言について「一方において、二階の騒ぎは、男の人が女の人を追い掛け回しているような感じの音であった旨、微に入り細に入った情景を証言していること、他方において、前記のとおり、二階で水を流す音は、風呂場の音よりトイレの音の方がはっきり分かるとしながら、ニ〇三号室の騒ぎがおさまった直後二〇五号室でトイレの水を流しているのに、その水音には気づかなかった旨、不自然な証言をもしていることを併せ考えると」「(102号室の住民)は、事件の内容を知った上で、想像をも交えながら、あたかもすべてを経験して知っているかのように証言しているのではないかという疑いが濃厚であり、ひいては、全体的に真実を証言しているのか疑わしい点が多いといわざるを得ない」などとして102号室の住民の証言自体の信用性を否定し、この証言をもとに「被告人の供述に信用性を認めることはできないものと言わざるを得ない」と判示した。そして、一審での不利益供述の維持については、「発熱して約三日間も食事がとれない状況下において深夜まで取調べがなされ、被告人の体毛が被害者方にあったと執拗に追及されて、被告人の自閉的内向的性格から心的破綻に陥り、記憶がないのは飲酒の結果であるかもしれないと考えるようになり、ついには『被害者方にいた。』と思い込むようになって、その旨の不利益供述をするに至ったものである」と確認した上で、「原審公判廷において不利益供述をするまでの間、被告人と弁護人との間に十分な打合せがなされなかったこと、そのため、不利益供述をするに至った動機、原因が前記のとおりであったにもかかわらず、これに対する吟味が十分にはなされず、その思い込みから解放される手段も講じられず、その機会もなかったこと、そして、被告人にとっては、弁護人らより捜査官であるTらの方が自分のために便宜を図ってくれているという印象が強かったことが認められるので、被告人としては、捜査段階と原審公判廷との間に質的な差異がなく、公判廷における供述であるからといって、その供述の信用性に影響を与えるほどの状況の変化はなかったものと認められる」「また、弁護人においても、被害者方にあった体毛が被告人に由来するかどうか、証拠に対する検討が必ずしも十分には行われていなかったこともあって、有罪ではないかとの心証を抱いており、そのため、原審第一ニ回公判期日においては、誘導によって、被告人の原審第一回及び第二回公判期日における不利益供述を肯定する旨の供述を引き出しているほどである」として、「公判廷における不利益供述であるからといって」「安易にその信用性を認めることには躊躇せざるを得ない」とした。これらから、控訴審判決は、輿掛の不利益供述について「被告人が犯人であることの有力な決め手の一つであるとした原判決の判断は、是認することができない」として一審判決の判断を退けた。 ===輿掛が物音などに気付かなかった点=== 控訴審判決は、近隣住民が聞いている203号室からの物音などに気づかなかったと話していたことが輿掛が犯人と疑われるきっかけの一つとなったとし、この点についても考察した。控訴審判決では、「ニ〇三号室の近隣居住者らは、本件犯行当時のニ〇三号室の物音や騒ぎに気づいているのであるから、隣室にいた被告人がこれに気づかなかったというのは、一応不自然なことのようにも思われる」としつつも、「被告人は、テレビの音量を大きくしたまま、うつらうつらしたり寝入ったりしていたというのであるから、そうであるとすれば、気づかなかったということも十分考えられるところである」とした。また、輿掛が事件当夜23時前ころまで大音量でかけていたステレオの音を、近隣住民の多くが聞いているにもかかわらず102号室の住民はうたた寝していて気づかなかったと証言していることをあげ、「被告人が本件犯行当時ニ〇ニ号室にいながら二〇三号室の物音や騒ぎに気づかなかったとしても、このことをもって、被告人が犯人ではないかとの疑いを抱かせるほど不自然なこととは思われない」と判断した。そして、控訴審判決は最後に「被告人が犯人でないことを示唆する事柄について」という章を立て、より踏み込んだ判断を下した。 ===被告人が犯人でないことを示唆する事柄について=== 近隣住民が「どうして」「教えて」という声を聞いていることや、「犯人は、深夜であるのに、ニ〇三号室に何らのいざこざもなしに入り得たようにうかがえる」ことから、「犯人は、被害者と親しく、かつ、信頼関係のある者ではなかろうかと強く推測される」と判示し、さらに、輿掛が警察官に「何しよるか」と声をかけたことや、この警察官や201号室の住民、新聞記者と言葉を交わした際も不審な様子はなく落ち着いた態度で対応していたことを、「強姦や殺人といった凶悪な犯罪を犯した直後の犯人の言動としては通常考え難い」とした。控訴審判決は、単なる無罪判決にとどまらず別の真犯人の存在を示唆する完全無罪判決であった。後に弁護団はこの判決を「望み得る最高の判決」と評した。 永松裁判長が判決言い渡しを終えると、法廷は再び大きな拍手と歓声に包まれた。その中から、退廷しようとする永松裁判長の背中に向けて傍聴席からひときわ大きな声が上がった。「裁判長! 私はあなたを尊敬します!」 永松裁判長は一瞬その歩を止めたが、振り返ることなく法廷を後にした。 無罪判決後、福岡県弁護士会館で記者会見と報告集会が開かれた。その後、輿掛と弁護団、支援者はすぐに大分に向かい、判決当日の19時30分から大分県労働福祉会館でも報告集会が行われた。大分での報告集会には250名超が参加して、輿掛の完全無罪判決を祝った。 ==裁判後== ===時効成立=== 1995年(平成7年)6月30日の福岡高裁の無罪判決を受けて大分県警は、「裁判の当事者ではない」として記者会見は行わず、刑事部長が「捜査は適切に行われたと確信している」とする談話を発表した。判決内容が警察の捜査を批判している点については、「詳しく判決文を読まないとわからない」とだけ述べた。 上告期限を翌日に控えた7月13日、福岡高等検察庁は上告を断念し、輿掛の無罪が確定した。会見した福岡高検の次席検事は、捜査も起訴も理解できるとしながらも、「控訴審のように証拠評価されても仕方のない面もある。最高検とも協議した結果、記録の積み重ねで勝負する最高裁で二審判決を覆すのは、法律上不可能と判断した」と上告断念の理由を説明し、「争点となった輿掛さんの不利益供述(自白)が、不完全な形にとどまり、不明な点が多く、『自白』ととらえるべきではなかった。欲を言えばもっと完全な捜査をしてほしかった」と述べた。検察がこのように警察を批判するのは異例である。大分県警も無罪確定を受けて刑事部長がコメントを発表したが、「警察としては捜査を尽くした。現時点では捜査すべき事柄はないと考える」として再捜査は行わない意向を明らかにしたうえで、「二審無罪の判決を謙虚に受け止め、今後の捜査に生かしたい」と述べるにとどまった。また、輿掛に対する謝罪の意思を問われると、「捜査は法律にのっとって行われたので、必要はないと考える。被害者のご家族には、精一杯捜査を行ったことをご理解いただきたい」と答えた。 12月6日、救援会の会員で大分県議会議員になっていた久原和弘が、県議会一般質問で大分県警本部長に対して輿掛や被害者家族への謝罪の意思の有無を問うた。「高裁判決が厳しく指摘した杜撰かつ非科学的な捜査によって、輿掛さんは一生の一番輝かしい時期に鉄格子のなかに閉じ込められ、かけがえのない青春を無残にも奪われました。この間の本人と家族の苦労を思えば言葉もありません」「さらに、まだ時効まで一年近くあるというのに、警察当局は”県警としての捜査は尽くした。現時点で捜査すべき事柄はない“と述べています。かけがえのない我が子を無残にも奪われ、その無念の思いを、輿掛さんを犯人と信じ、憎むことでいやしてこられた被害者のご遺族のお気持ちを考えると、この談話には何とも言えぬやりきれなさを覚えます。この輿掛さんと被害者のご遺族に対しては、心からの謝罪と償いの意思表示が不可欠と思いますが、県警本部長のご見解をうかがいたい」と質す久原議員に対して、竹花豊本部長は、「適法かつ慎重にできる限りの捜査を行って検挙、送致した」と謝罪の必要はないとの考えを示し、報道を引用する形で、福岡高検次席検事も「捜査は適正で起訴も正しかったと、その談話の中で述べている」として、「高裁判決の内容については捜査機関として謙虚に受けとめ」「今後の捜査に生かしてまいりたい」と答弁した。 1996年(平成8年)6月28日0時、みどり荘事件は公訴時効を迎えた。大分県警は「市民からの新しい情報提供はなかった」などとする刑事部長の談話を発表した。これに対して輿掛は、「情報収集の努力をせずに、そういうことを言うのはおかしい」と批判した。また、同志社大学教授の浅野健一も、「捜査当局は時効ぎりぎりまで精一杯の捜査を展開することで、公務員としての遺族への責任を果たすべき」と批判した。 ===被告人のその後=== 1995年(平成7年)8月3日、大分市内のホテルで「輿掛さんの完全無罪を祝い、新スタートを励ます会」が開催され、120名余りが参加した。13年間を拘置所で過ごした輿掛は、太陽の下で体を動かして働きたいと自動車の運転免許を取得し、11月1日からは大分県特殊技能センターでフォークリフト・移動式クレーン・車両系建設機械など7つの特殊免許を取得して、1996年(平成8年)4月1日に大分市内の石材会社に就職した。1999年(平成11年)、不況の影響で石材会社からリストラにあったが、その後は自らダンプを購入し、ダンプ運転手として働いた。 輿掛は、仕事のかたわらボランティア活動や労働組合運動にも積極的に関わった。みどり荘事件をきっかけに大分県で始まった当番弁護士制度を支える「当番弁護士制度を支援する市民の会・大分」、弁護団の弁護士が関わっていた労働組合「大分ふれあいユニオン」、「HIV患者を支える会」や「ハンセン病国家賠償訴訟を支える会」などで活動し、大分ふれあいユニオンでは書記次長、ハンセン病国家賠償訴訟を支える会では事務局長を務めた。 1996年(平成8年)5月26日、輿掛の社会復帰を見届けた救援会は総会を開き、当番弁護士制度を支える「当番弁護士制度を支援する市民の会・大分」に発展させることを決めて解散した。弁護団は、1997年(平成9年)に、みどり荘事件の弁護活動をまとめた『完全無罪へ13年の軌跡‐みどり荘事件弁護の記録』を出版した。 ==評価・影響== ===裁判自体に対する評価=== ノンフィクション作家の小林道雄は、著書の中で一審判決を評して「裁判官は法廷の雛壇に目を開けて座ってはいただろう。だが、その目ははたして覚めていたのかどうか」と述べて『夢遊裁判』と名付けた。この言葉は、みどり荘事件の裁判を表す言葉として広く人口に膾炙した。 弁護団の安東弁護士は、控訴審判決を「望み得る最高の判決」と評価したが、小林は「私としてもそうは思う」としつつ、控訴審判決の中の二つの点は受け入れがたいとしている。一点目は、控訴審判決が輿掛の不利益供述の任意性を否定する論拠の一つとして、輿掛が「心的ストレスに対する抵抗力が弱く、危機的状況において容易に心的破綻に陥る傾向がある」と指摘した点である。小林によれば、代用監獄で厳しい取り調べが行われれば誰でも容易に虚偽自白に追い込まれかねないのであって輿掛の心理特性が原因ではないとし、また、控訴審判決が採用した輿掛の心的特性は起訴前の精神鑑定が「犯行時に心因性ショックが見られたことから推測されるように」として認定したものであり不当なものであると指摘している。この点については、心理学者の浜田寿美男も「真っ白無罪の『最高の判決』に一点、汚点が染みているよう」と述べている。二点目は、一審での輿掛の不利益供述の維持について、輿掛と弁護団が意思疎通が不十分で「不利益供述に対する吟味が十分になされず、その思い込みから解放される手段も講じられ」なかったとした点である。弁護団が控訴審で痛烈な自己批判を展開した成果ではあっても、一審の無期懲役判決は「あまりにも愚かな一審裁判官の質にあった」のであって、弁護団の責任であったかのような表現には抵抗があるとしている。 また、久留米大学准教授の森尾亮らは、一審判決の事実認定は警察や検察の立てたストーリーを事実に基づかずに「あり得べからざることではない」と単に主観的に同意しただけのものに過ぎないと批判し、一審判決が有罪の根拠とした事実認定を否定した控訴審判決をすぐれた判決として高く評価している。ただし、控訴審がその判決を下すまでに6年3か月を要していること、203号室に輿掛の指紋がなかったことに触れていないことを控訴審の問題として指摘している。 ===DNA鑑定に関する批判=== みどり荘事件は、裁判所の職権でDNA鑑定が実施された日本で最初の裁判となった。鑑定人である三澤教授らは、10年以上前の試料の分析方法としてDNA鑑定の中でも最先端といえるマイクロサテライトを用いたACTP2法を採用した。それまで日本ではACTP2法によるDNA鑑定が行われたことはなく、マイクロサテライトを用いたDNA鑑定自体が日本では初めてであった。 この鑑定は控訴審判決で信用性を否定されたが、弁護団などは、それ以前の問題として、こうした発展途上の技術を刑事鑑定に用いたことを批判している。すなわち、被告人の運命を左右する刑事鑑定においては、仮説と実験を繰り返す科学研究とは違って間違いは絶対に許されないのであるから、鑑定の基礎となる理論が専門家の間で広く承認されており、かつ、鑑定手段も技術的に確立されたものである必要があり、未成熟な先進的な技術を採用することは許されないとする批判である。この点について一橋大学の村井敏邦教授は、「刑事裁判は実験場ではない。むしろ、そのような実験場とはもっともほど遠いところにあるべきものであり、最も保守的な場であることにこそ意味があるとさえいえる」と述べている。弁護団は、三澤教授らの鑑定に対する姿勢を「科学研究と刑事鑑定の違いをわきまえないもの」「犯罪の成否を左右するという、鑑定人としての社会的責任を自覚してなかった」と批判している。 また、みどり荘事件では、弁護団が鑑定人に鑑定資料を提出させることで、鑑定の経過や手法を検証することができた。もしそうでなかったなら、DNA鑑定の結果をもって科学の名のもとに冤罪が継続する可能性があった。このことから、こうした先進的な科学技術を刑事裁判で採用する際には、鑑定結果を盲信するのではなく、具体的な鑑定経過の資料を開示させて、裁判に関わる法律家が信頼性を自ら判断できるようにすることが必要であると指摘されている。 ===報道に対する批判=== 1981年(昭和56年)6月30日に輿掛が2回目の事情聴取を受けて以降、マスメディアは輿掛を重要参考人として犯人視する報道を続けた。支援者らによれば、こうした報道は地元紙の大分合同新聞が最もひどかったという。大分合同新聞は、6月30日の夕刊で「重要参考人を呼ぶ‐若い会社員を追及」という見出しで「Aに対する二十九日までの事情聴取の中でも、Aの主張するアリバイには確固とした裏付けがなく、捜査本部ではAの追及に全力を挙げている」と報じたのに始まり、7月9日には「捜査難航‐乏しい物証‐交友関係者はシロ?」として「捜査本部では、すでに重要参考人として事情を訊いた大分市内の若い会社員を依然マークして身辺捜査を続ける」とする記事を載せ、7月30日には「捜査に焦りの色も」と題して「捜査開始当初から捜査本部が強い疑惑を捨てていない人物が大分市内の会社員Aだ」とし、隣室にいながら物音を聞いていないと主張していることや新しい傷があったことなど「多くの不審点が浮かんでおり、身辺捜査を通じて出てきた関連情報からも疑惑は消えていない」と報じた。さらに、9月27日には「詰めの捜査へ‐消去法で絞り込む」という見出しで捜査本部長である藤波重喜大分署長のインタビューを載せ、この中で輿掛について聞かれた藤波署長は、「特定の人物については逮捕もしていないのにどうこう言うことはできない」としつつも「これまでリストアップした中に犯人が必ずいる」と語っている。 逮捕当日の1982年(昭和57年)1月14日には、大分合同新聞の朝刊に「”隣室の男”逮捕へ」の大見出しの下、「女子短大生殺人事件 体毛、血液型が一致 大分県警が断定」「事件直後、新しい傷」に続き、小さく「本人は否認のまま」という見出しが紙面に踊った。記事では、202号室で他の女性と同棲していた「大分市内の会社員A」の逮捕令状を請求と報じていた。その日の夕刊では、手錠をかけて連行される輿掛の写真を大きく載せて「ホテル従業員逮捕」「執念……7カ月ぶりに‐ムッツリした犯人・輿掛」と報じ、翌15日の朝刊では、「けさから本格追及‐短大生殺しの輿掛 いぜん否認続ける」の見出しで「是が非でも輿掛を自供に追い込む構え」「輿掛はふだんはおとなしいが、酒を飲むと狂暴になるタイプ」などと報じた。そして、1月22日の朝刊では、輿掛の「自供」を発表する藤波署長の写真を載せ、「輿掛やっと自供」「『私に間違いない 恋人とけんか……カッと』」「良心ゆさぶる説得で……」の見出しの下、「事件直後の捜査本部による数回の取調べに対して、ふてぶてしいほどに犯行を否認し続けた輿掛も、捜査本部の長期にわたる執念の捜査によって得た体毛の鑑定結果やその他多くの状況証拠の前に屈した」「二一日までに輿掛は『私がやったのに間違いありません。遺族や市民の方に迷惑をかけて申し訳ありません』と犯行を全面的に自供した」「この自供により、難事件といわれた女子短大生殺人事件は七カ月ぶりに一気に全面解決へ向かう」と報じた。また、犯行の動機として、輿掛が「恋人とケンカし、彼女がアパートを飛び出したのでムシャクシャして酒を飲んでいた。そこへ(被害者名)が帰ってきたので……」と供述しているとされたが、そのような供述調書は存在しない。 逮捕までは匿名ではあったが、狭い地域社会では誰のことかは周知のことであり、輿掛はもとより親類までが報道被害を受けた。輿掛によれば、報道後、母親はパートや銭湯にも行きづらくなり、逮捕後は長姉の元に引き取られたが、その姉たちも嫁ぎ先で肩身の狭い思いをし、うち一人は離婚している。珍しい姓であったため「輿掛」の名前では仕事につけず、嫌がらせ電話が絶えないため電話番号を変えて電話帳にも載せないようにしたという。 当時のマスコミのこうした報道姿勢に対して、弁護団は、推定無罪の原則を尊重する姿勢に欠け、自白偏重の捜査など権力の行き過ぎをチェックするマスコミの使命は全く見いだせないとし、これらの記事を読んだ近隣住民などの証言や裁判官の心証に大きな影響を与えることになったと批判している。ノンフィクション作家の小林道雄も、こうした警察発表を垂れ流すだけの報道は裁判官に予断を生じさせることになり、起訴状一本主義は有名無実と化すとし、「輿掛さんを犯人にしたのは、警察・検察・一審裁判所の三者であり、それに加えてマスコミが輿掛さんを抹殺しようとした。この四者すべてが謝罪していない」「この四者の中でマスコミはいち早く謝罪し、他の三者にも謝罪するように迫るべきだ」と主張している。 1995年(平成7年)6月30日の無罪判決を受けて、大分合同新聞は翌日の朝刊で「DNA鑑定の信用性否定」「『別に真犯人』を示唆」と報じ、「『科学鑑定』に警鐘 自白偏重にも反省促す」とする解説記事を掲載した。他社も、「現代型冤罪」「自白偏重主義」「危険な予断捜査」「真犯人像を示す」などと警察を批判する記事を掲載した。西日本新聞は、時効成立前日の1996年(平成8年)6月27日から5日間、当時の報道姿勢に対する自戒を込めた「時効 それぞれの15年」という記事を連載した。しかし、当時の報道について輿掛に謝罪した報道機関はなかった。みどり荘事件の報道を検証した同志社大学教授の浅野健一らによるアンケートでは、報道各社は輿掛に謝罪しない理由として「謝罪の要求を受けていない」などとした。しかし、輿掛や弁護団などは、「自分に非があるとわかっているのなら、こちらから謝罪の要求をしなくとも自主的に謝るのが常識だ」として、自発的謝罪を求めている。また、大分合同新聞は「輿掛さん本人がいったん自白した」ことを謝罪しない理由の一つとしたが、これに対して浅野教授らは、公判記録から輿掛の供述が「自白」とは呼べないことは明白であると批判している。 弁護団は、報道機関に対して、輿掛が無実であったことを根気強く報道し、読者の誤解を解くよう努力する責任があると主張している。浅野教授らも、地方の事件では地元のメディアの影響力が大きくそれだけ責任も重いとして、大分合同新聞が率先して謝罪と検証を行って輿掛や家族の社会復帰を支援するのが地元メディアの役割であると提言している。浅野教授は、著書の中で「みどり荘事件報道の検証を怠り、報道改革に努力しないマスコミ人はジャーナリストの名に値しない」と述べている。 ===当番弁護士制度の創設=== 徳田弁護士は、みどり荘事件での起訴前からの弁護活動に大きな悔いを抱いていた。それは、「もし、逮捕直後からついていて連日の接見を必ず確保していたら、あんな自白は絶対になかった」「輿掛さんとの意思疎通がうまく行かず、報道に影響されて、弁護団も輿掛さんが現場にいたのは間違いないと思ってしまった。逮捕直後の弁護活動がいかに重要かを再認識させられた」という反省であった。 このみどり荘事件の反省に立って、徳田弁護士は「起訴前弁護はあらゆるケースに必要ですが、否認事件には特に徹底的に保障されなければならない」「なんとしてでも自分たちが先頭に立って当番弁護士制度をやり抜かなければ」との決意のもと当番弁護士制度の発足に奔走し、1990年(平成2年)9月14日、大分県弁護士会が日本で初めての当番弁護士制度「起訴前弁護人推薦制度」をスタートさせた。 =熊野三山本願所= 熊野三山本願所(くまのさんざんほんがんじょ)は、15世紀末以降における熊野三山(熊野本宮、熊野新宮、熊野那智)の造営・修造のための勧進を担った組織の総称である。 それらに替わる財源を確保し、熊野三山の造営・修造に寄与したのが、15世紀後半以降に成立した熊野三山本願所で、類似する他の寺社の本願所と比べて際立って規模が大きく、一山ごとに独自の性格を持っていた(→#熊野三山本願所の成立)。熊野三山本願所は、各地に送り出した一部の熊野山伏・熊野比丘尼が募った勧進奉加を熊野へ送り届けさせること、また、熊野への巡礼者からの散銭を得ることを通じて財源を調達し、堂舎の建立・再興・修復を行う造営役としての役目を果たした。近世初期には新宮を首座として熊野本願九ヶ寺と称する本願仲間を形成し、連携して職務の遂行にあたった(→#活動と組織)。 15世紀後半以降、本願所は造営・修造を担う組織として機能していたが、熊野三山では本来衆徒が独占していた社寺の縁起や仏事・神事といった社役にも深く関与する様になり、三山の運営に大きな役割を担うようになっていった。しかしながら、他の寺社と同じく本願と社家の間には緊張関係があった。17世紀以降には、造営・修造と社役との聖俗両面における本願の役割を否定し、社内における主導権を奪い返そうとする社家と、一山に於ける地位を守ろうとする本願との間で相論が繰り返された。18世紀半ばには、近世以降の社家の経済的再建と江戸幕府・紀州藩の宗教統制を背景にした社家の反撃により、本願の退勢は決定付けられるに至った。しかしながら、単なる造営役を越えて年中行事や祈祷に関する役目を担っていた本願を、社家は完全に排除することは出来ず、明治の神仏分離まで存続した(→#衰退と終焉)。 熊野三山を含めて、日本に於ける古代から中世前半にかけての寺社の造営は、寺社領経営のような恒常的財源、幕府や朝廷などからの一時的な造営料所の寄進、あるいは公権力からの臨時の保護によって行われていた。しかしながら、熊野三山では、これらの財源はすべて15世紀半ばまでに実効性を失った(→#前史)。 ==前史== 本願所が成立する以前、中世における熊野三山の財源とされたのは、熊野山(本宮・新宮)・那智山へ寄進された三山経営そのものにかかわる各々の荘園、熊野御僧供米、造営料国・造営料所などであった。熊野へ寄進された荘園の早い例は11世紀末に遡ると見られ、その事例として応徳3年(1086年)11月13日付けの「内侍藤原氏施入状案」に見られる紀伊国比呂庄と宮前庄の事例、次いで白河院が寛冶4年(1090年)1月21日に「紀伊国二ヵ郡五ヵ所合百余町」を寄進した事例があげられる(『中右記』・『百錬抄』)。これ以後、熊野別当・修理別当・在庁・三綱・熊野所司を始めとする熊野三山の執行機関が常陸国から日向国に至るまでの30ヵ所余りの荘園の執行実務に携わり、14世紀中頃まで熊野三山経営の中核を担っていたと考えられている。 12世紀初め、白河院は三山経営と神社造営のため、元永元年(1119年)に紀伊国・阿波国・讃岐国・伊予国・土佐国の5ヵ国から封戸50烟を熊野山に施入した(『中右記』元永元年9月11日条)が、大冶2年(1127年)に「熊野本宮御封十烟」の代わりに紀伊国「牟婁郡芳益村見作田伍町」の所当官物が便宜補填され、これがのちに荘園に転化したと推定されている。 なお、造営料国の寄進の早い例は12世紀末から13世紀初めにかけてと見られ、13世紀初めには熊野三山検校であった長厳に阿波国が寄進されている(『頼資卿熊野詣記』建仁2年〈1202年〉)。承元3年(1209年)に新宮・本宮が火災に見舞われた際には、再建のためにやはり阿波国が宛てられたが、阿波国はこの時期を下ると見られなくなる。 13世紀半ば以降、越前国(文永2年〈1265年〉)、伯耆国(正応2年〈1289年〉)などの例が見られるが、頻繁に史料中に現れるのが遠江国と安房国である。遠江の早い例では、正元元年(1259年)に美濃国とともに那智の造営料国に宛てられた。一方で安房はもっぱら新宮の史料にのみ現れ、仁治2年(1241年)の『百錬抄』所掲の例や13世紀末にさかのぼる例(「伏見天皇綸旨」〈1291年 ‐ 1296年頃〉所掲)が見られる。遠江と安房はしばしばセットで造営料国に宛てられ、「後光厳天皇綸旨」(文和3年〈1354年〉)やその翌年付の鎌倉幕府の御教書にその名が見られる。 しかしながら、こうした造営料国・造営料所に依拠した造営・修造は15世紀に終わりを迎える。承久の乱(承久3年〈1221年〉)以降、新たに地頭となった御家人の支配が各地の荘園に及ぶようになったほか、14世紀半ば以降、各種の史料に「遠江国国衙職」「安房国々衙職」といった表現が増え始めることに見られるように、造営料国が国衙職の得分に矮小化していった様子が窺われる。室町時代から戦国時代にかけては在地土豪の支配下に荘園が収められたことで、各荘園からの熊野への年貢は一部の上分米をおさめるのみになったが、それさえも滞りがちとなった。新宮では徳治2年(1307年)に社殿を焼失したため、造営料国に宛てられた土佐国からの収入により再建を図ろうとしたが、妨害を受けたために充分な収入を得られなかった。新宮は、後光厳天皇の綸旨を得て足利義詮に徴収を委ねなければならなかったが、その実施には困難を伴った。貞和元年(1345年)には、那智尊勝院領のあった伊豆国の荘園からの年貢が11年にわたって未達であったため、熊野三山検校によりあらためて安堵されなければならなかった。 こうして造営・修造の財源として機能しえなくなった造営料国・造営料所にかわり、三山の造営・修造の財源とされたのが、棟別銭や段米・段銭であった。棟別銭徴収の早い例は、貞治5年(1366年)頃に播磨国松原荘(石清水八幡社領)などで新宮造営のために徴収された例が見られるほか、『熊野年代記』には三山造営のための「諸国棟別」(応永33年〈1426年〉)、那智造営のための京・和泉・河内での徴収(文明10年〈1478年〉)といった例がある。段米・段銭では、14世紀前半に段米が和泉・美濃などで確認され、次いで15世紀前半からは段銭が見られるようになる。国段銭と安房国衙職をもって新宮遷宮に宛てる旨の応永26年(1419年)の室町将軍家御教書を初例とし、永享5年(1433年)には新宮造営料として紀伊国から段銭を徴収するようにとの御教書が発され、紀伊のほか丹波や伊豆に宛て課されていた。これら15世紀前半から中葉にかけての段銭は造営料国に入れ替わるように出現し、造営料国は史料上確認することが出来なくなる。 だが、こうした棟別や段銭による財源の実効性は室町幕府を頂点とする守護体制の実力に依存していたため、室町幕府の支配が弛緩してゆく15世紀半ばにはほとんど依拠しえなくなる。この時期にも存続した造営料所として、新宮に属した紀伊国高家荘があるが、15世紀半ば以降、畠山家の内紛に巻き込まれるかたちで繰り返し濫妨に見舞われて、ほとんど不知行であったと見られ、延徳元年(1489年)には、新宮の神官らが紀伊国内の所領が有名無実化したと窮状を幕府に訴えている。以上のように、15世紀初までに造営料国を、15世紀後半までに室町幕府支配を背景とした公的保護を失った熊野三山は、以後の造営・修造のための財源を他に求めなければならなくなったのである。 ==熊野三山本願所の成立== ===熊野三山本願所=== ここまで見てきた熊野三山を含めて、古代から中世前半にかけての寺社の造営は、寺社領経営のような恒常的財源、幕府や朝廷などからの一時的な造営料所の寄進、あるいは公権力からの臨時の保護によって行われるものであった。しかし、鎌倉時代初期の東大寺造営に功績のあった重源のように、臨時かつ応急の処置とはいえ、財源の調達から造営・修造の実施に至る一切を、勧進聖が全面的請負事業として掌握する例が見られた。さらに、戦乱のような社会的混乱によってこうした公権力からの財源が機能し得なくなるにつれ、本来は寺社の外部の存在である勧進聖の請負による勧進活動を恒常的な形で寺社内に組み込もうとする寺社の要請、あるいは守護大名や戦国大名といった在地勢力の権力や権威を前提として、勧進聖たちが造営・修造の実績と勧進を通じて獲得した既得権とに基づいて成立させた組織が本願所で、15世紀末から各地の寺社に見られるようになる。しかし、寺院内に確たる地歩を築くことを目指した本願と、本願に正式な構成員としての地位を認めようとせず、経済的な役割のみに押しとどめようとした寺社との間には緊張関係があり、近世の幕藩体制下での寺社財政の再建と安定が進むにつれ、寺社の側からの圧迫にさらされて衰退・廃絶する本願所も少なくなかった。 熊野三山もまたそうした例に漏れず、15世紀後半以降に勧進聖の活動に財源が求められ始め、15世紀末以降に本願所が成立する。熊野三山本願所は各地の本願所の中でもとりわけ規模が大きく、三山のそれぞれに独立した本願所があった。熊野の本願所には庵主(あんじゅ)という独自の呼び方があった。新宮庵主は霊光庵の名でも知られ、末社神倉社にはさらに独自の本願があり、神倉本願と呼ばれた。また、那智庵主は7ヶ寺もの大規模な本願所からなり、穀屋(こくや)と総称された。 前述のように造営料国や棟別・段銭といった公権力を背景とした財源が15世紀後半以降に失われてゆくにつれ、以下に詳述するように、入れ替わるように勧進活動が現われて活発化し、その帰結として15世紀末以降に新宮や那智で本願所が組織されてゆく。こうした過程は、各地の寺社本願所と異なるものではなく、熊野三山本願所も共通の性格をそなえていたと言えるだろう。また、同じ本願所とはいえ、新宮は飯道寺梅本院という当山方大先達寺院から庵主を迎える、天台宗比叡山末寺に連なるといった権威を背景として発展したのに対し、那智は西国三十三所巡礼の参詣霊場として、貴庶の勧進と参詣者の散銭を募ることに活動の軸を置き、その性格は一様ではなかった。 ===新宮=== 新宮の本願所の開創を伝える史料のなかには、15世紀よりも前の時期、早いものでは8世紀初めに萌芽を求めるもの(『熊野年代記』など)もあるが、そうした史料は総じて信頼性を欠き、偽作の可能性も指摘されている。新宮庵主の活動年代を確認しうる信頼できる史料は、新宮造営のための勧進に赴く十穀聖覚賢なる人物に対する援助を管領細川勝元が依頼する趣意が記された文書で、15世紀前半と推定されるものである。この文書における十穀聖覚賢の勧進事業がひとつの画期となって、15世紀後半からは、熊野三山の勧進による造営の事例が大幅に増え始める。それだけでなく、この時期以降の新宮の本願に関する記述は、それ以前に比べてはるかに具体性に富んだものとなってゆくだけでなく、庵主が社頭修造を本願たる自己の職分として意識し、活動する様子が伝わってくる。 15世紀後半から16世紀初頭にかけての時期に新宮本願所の萌芽を求めるのは、新宮の末社である神倉社における本願の活動を併せて考えると蓋然性を増す。神倉本願の活動の最も早い時期の例として知られるのは、南北朝時代の動乱による荒廃からの復興・再建を目指して行われた、妙心寺の妙順尼による勧進活動である。妙順尼による勧進は延徳元年(1489年)より始まり、弟子の祐珍とともに諸国を巡って奉加を募り、大永年間(1521年 ‐ 1528年)から享禄4年(1531年)にかけて再興を成し遂げた功績により、天文元年には本願職が改めて許されている。 こうして成立した新宮庵主は、近江国の飯道寺から庵主を迎えるようになる16世紀半ばに組織として大きな転機を迎える。飯道寺、特に梅本院・岩本院のふたつの坊は、当山派修験正大先達三六カ寺に数えられ、諸国の当山派山伏を支配した有力寺院で、天文18年(1549年)に飯道寺水元坊の善成坊祐盛が本願となっていたのを早い例として、永禄9年(1566年)の梅本院大先達行鎮の入寺以来、17世紀初頭まで梅本院から庵主が迎えられるようになる。梅本院出身の庵主は新宮庵主の事業力を充実させ、新宮庵主を修験寺院として発展させていった。その後、元禄15年(1702年)、行弁庵主が「不如法」により勘当されたことによって梅本院出身の庵主は途絶え、天台僧によって庵主は担われるようになった。享保5年2月に入寺した良純は、輪王寺宮の許しにより金剛院号を永代の寺号とすることを認められただけでなく、享保10年には比叡山僧綱職に補任されたことにより、新宮庵主は比叡山末寺の天台宗寺院となった。 以上のように、新宮庵主は社家が造営・修造の財源を確保しえなくなる15世紀半ばより活動をはじめ、以後勧進聖による勧進と造営が恒常化してゆき、15世紀末頃に本願所としての組織を整えた。そして、16世紀以降、梅本院出身の庵主を迎えて以降、組織を確立・発展させ、18世紀初に梅本院庵主が途絶えた後は比叡山末の天台宗寺院として存続した。 ===那智=== 前述のように那智には7ヶ所の本願所があり、七本願・七ツ穀屋などと呼ばれる(「表2 那智七本願」参照)。一つの社寺にこれほどの本願所が伴う例はほかになく、大きな特徴となっているが、現存するのは妙法山阿弥陀寺と補陀洛寺(補陀洛山寺)の2ヶ所に過ぎない。このように大規模な本願所が成立する背景には、西国三十三所の隆盛や那智参詣曼荼羅に象徴される多数の参詣者と、そこでの多量の散銭があると見られる。 那智山周辺では早くより勧進聖の活動があったと見られ、正平24年(1369年)銘の那智飛瀧権現の鉄塔に「勧進沙門弘俊」の名が確認される(『紀伊続風土記』)ほか、応永34年(1427年)の足利義満の側室北野殿による熊野参詣記『熊野詣日記』には、浜ノ宮の橋本で「橋勧進の尼」の所持する阿弥陀名号に勧進結縁したことが記されている。また、永正18年に高野山西塔の勧進にあたった真覚という勧進聖は那智において十穀断の修行をおこなった十穀聖であったといい、各地の参詣者を熊野へ引率する先達の中にも、14世紀後半以降には既に勧進聖がいた事が知られている。 以下、個別に見てゆくが、総じて言えば那智庵主が成立し始めるのは、15世紀末のことである。その後、勧進活動の活発化とともに本願所の間での分掌と独立が進み、16世紀には七本願とされる本願所全てが揃い、七本願を総称する「七ツ穀屋」という表現が慶長8年(1603年)に初見される。こうした那智の本願所の伸張において重要なのは、西国三十三所の隆盛である。御前庵主が初見される永享年間の頃には、西国三十三所に貴賎の巡礼者が多数見られるとされており、そうした巡礼者の増加とそこからの散銭・奉加が重要性を増したことに応じて、勧進聖たちは本願所を組織し、いっそう多くの巡礼者を招きいれようとした。那智参詣の隆盛を物語るものとしてしばしば引き合いに出される「那智参詣曼荼羅」の作成に本願所が関与していると考えられているが、そうした隆盛は本願所によって作り出されたものであった。 ===御前庵主=== 御前庵主は、那智本社13社殿のうち主祭神結神、瀧宮を含む上五社宮ほかを分掌する。史料上の初出は、近年の研究によれば永享11年(1439年)にさかのぼると見られ、仁王門の関銭を質に借銭をする旨を記した借用状がある。弘治3年(1557年)の勧進帳は、庵主良厳とその弟子が貴賎に「六十万数札」を勧進賦算するとしたもので、熊野と時宗との結びつきを示すものとして早くから注目されてきた。 ===瀧庵主=== 瀧本の諸堂を分掌する瀧庵主の成立については、それを建武年間(1334年 ‐ 1336年)の妙音上人なる人物にもとめる史料や、15世紀半ばとする史料(那智瀧上不動堂本尊銘)があるが、いずれも伝説的性格のもの、もしくは本願による偽作と判断されている。瀧本の造営として早い時期のものでは、永正元年(1504年)に千手堂の勧進を行った勧進聖に関する記録があり、瀧庵主の成立はこの時期以降のことと考えられている。 ===那智阿弥=== 如意輪堂(那智山青岸渡寺)の修造にあたった那智阿弥の成立については、室町時代初期までさかのぼるとする説が知られる。しかしながら、その場合、草創期の人物として弁阿上人を比定することになる。弁阿上人とは、花山法皇を西国三十三所の祖とする伝承に深いかかわりを持つ伝説的人物であることから、室町時代初期の成立を史実と解するには困難である。本願としての活動を確認しうる早い時期の史料は、熊野那智大社に伝来する文亀3年(1503年)2月吉日付の屋敷売券で、那智の御師・尊勝院重済の所有していた屋敷を、巡礼のための宿として那智阿弥が買い取ろうとしたものである。 那智阿弥が修造にあたっていた那智山青岸渡寺は、那智山の中心的寺院であるだけでなく、西国三十三所巡礼の一番札所であって、三十三所の隆盛とともに多くの聖や参詣者からなる巡礼を迎え入れていた。青岸渡寺を第一番とし、谷汲山華厳寺を第三十三番とする順序が史料上に初見され・かつ固定化されてゆくのは、勧進聖の活動が定着する15世紀中頃のことであるだけでなく、この時期には一部の修行僧や修験者らのものだった西国三十三所巡礼が、庶民のあいだにも定着していった。こうした西国三十三所巡礼の確立に大きな役割を果たしたのは、三十三所の各寺院の勧進聖たちであり、那智においては那智阿弥であった。那智阿弥は三十三所の勧進聖たちを組織化するとともに、巡礼宿をはじめとする巡礼のための施設整備に努めることにより、より多くの庶民巡礼を招き入れ、いっそう多くの奉加・散銭を獲得することを目指した。 しかし、そうした働きにもかかわらず、尊勝院重済はこの売券において売却に抵抗感を示している。これは、本願に対して社家が抱く身分的優越感の表れと解されるだけでなく、近世以降の社家と本願の底流にあったものを示していると言えよう。 ===補陀洛寺=== 補陀洛寺は浜宮王子の神宮寺であるが、本願所となった経緯や時期は明らかではなく、補陀洛寺蔵の工芸品や仏像の銘から16世紀初頭から半ばにかけて、本願をつとめた聖の名が確認されるにとどまっている。 ===妙法山阿弥陀寺=== 那智山奥之院とも称される妙法山阿弥陀寺は本願として名を挙げられるものの、その経緯は不詳である。五来重・豊島修といった民俗学者により、法燈国師覚心の再興により浄土信仰の寺として再興された際、勧進聖を束ねる本願寺院として組織されたとする説もあるが、史料的裏付けを欠いており確実ではない。 ===理性院=== 理性院は旧くは行屋坊とも呼ばれたと見えるが、初見は17世紀初頭をさかのぼることはなく、御前庵主の機能分担の結果として生じたものと見られる。 ===大禅院=== 大禅院は17世紀半ばに春禅(善)坊と称していたものが改称したものと云われ(『熊野年代記』)、その後、16世紀末から17世紀前半にかけての史料にその名が見えるが、それらの史料からは瀧庵主に属したとも那智阿弥に属したとも解釈でき、来歴は定かではない。いずれにせよ、瀧庵主、那智阿弥および御前庵主より遅れて成立したと見られる。 ===本宮=== 熊野本宮は熊野川の氾濫による水害に繰り返し見舞われたために古文書・古記録の類が損なわれ、研究対象として中心になるのは新宮と那智である。また、熊野本宮の本願所は17世紀の史料によれば既に廃絶して久しいとあり、その実態はほとんど不明である。わずかな史料から知れるところによれば、14世紀中ごろの本宮では、勧進尼阿宗や千貫比丘尼といった比丘尼をはじめとする勧進聖が湯峯東光寺を拠点として活動していたと見られるが、それ以降継続されなかったと見られる。この他、年代は定かではないが、少なくとも16世紀までには本宮庵主が社人とともに古い由緒をもつものとして、衆徒の組織の中に位置づけられていたと考えられている。 ==活動と組織== 15世紀後半以降に成立した後の熊野三山本願所は、回国遊行して各地で勧進奉加を募り、願物を熊野へ送り届ける一部の熊野山伏・熊野比丘尼を統率して造営・修造のための財源を確保するだけでなく、寺社の建立・再興・修復から、燈明・供花といった寺社の年中行事への関与(後述)など、三山の運営にそれぞれに深く関与した。勧進活動の範囲は、関東・東海・中国・九州と全国的な広がりを持ち、その対象も庶民に「一紙半銭」を求めるようなものから、戦国大名や朝廷を対象としたものまで、貴庶の幅広い層にわたるものだった。 ===那智庵主の活動=== 那智では文明10年(1478年)と長享2年(1488年)に造営修復を行った記録(『熊野年代記』)があり、いずれの場合にも勧進聖が造営修復の財源調達に関わったことが知られている。前者は、京・和泉・河内に諸国棟別銭の課役を賦課するとした足利義尚の御教書にもとづき、庵主が徴収にめぐったものと考えられている。後者は、栄唱比丘尼なる者が那智山の東西両座の一札を携えて奉加を募ったというが、この比丘尼が那智七本願に属したか否かは定かではない。この他、十穀聖による勧進の事例があり、文明16年(1484年)、天文11年(1542年)の例が知られており、こうした勧進聖が那智に定着していたことが分かる。 那智の勧進の方法として指摘することができるものに、絵解き唱導、勧進札賦算のほか、西国三十三所霊場の霊験・縁起を唱導し、一般庶民を霊場巡礼に導くといったものが挙げられる。 絵解き唱導は、「那智参詣曼荼羅」「熊野観心十界曼荼羅(地獄絵)」などと呼ばれる絵画を携えて回国遊行し、各地の聴衆に対して絵画を当意即妙な語りによって説き明かすものである。絵解き唱導を担った熊野比丘尼たちは牛王宝印を文庫に入れて諸国を巡り、熊野観心十界曼荼羅によって地獄・極楽の絵解き唱導を行い、那智参詣曼荼羅により熊野権現信仰と熊野参詣の霊験を説いた。那智参詣曼荼羅の作例の年代から推定して、こうした絵解き唱導が行われたのは、中世末の室町時代から戦国期以降のことと考えられている。 勧進札賦算は、勧進札とくに名号札の賦算に勧進結縁させるもので、足利義満の側室北野殿が熊野詣をした折に先達をつとめた住心院僧正実意の記した『熊野詣日記』に、那智浜の補陀洛寺に到着した一行が橋勧進の尼の持っていた阿弥陀名号札に勧進結縁したとの記事が見られるほか、弘治年間(1555年 ‐ 1557年)に御前庵主が行った那智の再興においても同じく名号札の賦算という方法が用いられている。六十万枚の賦算に貴庶を勧進結縁せしめるとした弘治年間の勧進の具体的な内容は明らかになっていないが、同様に貴庶から広く勧進賦算を募った明応5年(1496年)の闘鶏神社の勧進願文や享禄4年(1531年)の神倉社再興の勧進願文が、いずれも勧進結縁による現当二世(現世安穏・極楽往生)の利益を説いていることから、同様に現当二世の熊野信仰を勧め、衆庶もそうした信仰に即して奉加に応じたと見られる。こうした名号札賦算という活動は、室町時代における那智七本願の勧進聖が時宗化していたことを示している。同じく室町時代の高野山においても、高野聖が時宗化を遂げていたことが知られており、こうした大霊場の時宗化は熊野のみに見られるものではなかった。熊野と時宗との関係は、開祖一遍のいわゆる熊野成道(文永11年〈1274年〉)以来のもので、それ以降の時宗聖においては六字名号札の賦算と説経節『小栗判官』唱導による熊野詣勧進を重んじた。そうした勧進形態の始まりは明確ではないが、湯峯にある一遍上人爪書名号碑(正平20年〈1365年〉、ただし偽作)の存在などから、南北朝期には熊野本宮の勧進事業を独占していたと推定されている。このように、室町時代の那智本願の勧進聖たちは、本来は時宗の勧進形態であった念仏賦算を取り入れていたのである。 ===新宮庵主の活動=== 新宮における本願として比較的詳しく知られているのは、末社神倉社の本願たる神倉本願である。中世の神倉社を支配したのは熊野新宮に属する清僧で、その下に神倉本願がおかれ、両者を合わせて神倉聖と称した。神倉本願は首座たる妙心寺のほか、華厳院(金蔵坊)、宝積院、三学院を含む10の院坊からなり、妙心寺は鎌倉時代に法燈国師覚心により確立されたと見られている。法燈国師は臨済宗法燈派の開祖であるとともに、高野聖の一派たる萱堂聖としても知られることから、法燈国師の影響下で妙心寺は勧進活動にあたる比丘尼たちを統率する寺院になったと考えられ、その後、室町時代の妙順尼の名が中興として伝えられている(妙心寺文書)。 妙順尼の名が見えるのは、大永年間(1521年 ‐ 1528年)から享禄4年(1531年)にかけて神倉再興勧進にまつわる史料上においてのことで、神倉権現の霊験を説いて諸旦越に「一紙半銭」の勧進奉加を求め、結縁すれば現当二世の利益のあることを唱導したとされる。こうした点から、妙順尼による中興とは妙順尼ら神倉本願の職能、すなわち「神倉修理」(『妙心寺由緒』)における功績を顕彰したものであろう。 神倉神社は戦国時代から近世初期にかけてたびたび災害に見舞われ、神倉本願として妙心寺は、再興を目的とする勧進活動を繰り返し行った。天正16年(1588年)、豊臣秀長配下の兵による放火で神倉社が焼失した際の再興勧進では、妙心寺の祐心尼が、金蔵坊祐信(当山派)および熊野新宮の楽浄坊行満(本山派)の2人の修験者の協力を得て西国・九州9ヶ国に勧進に赴いている。このとき、特に毛利輝元が勧進を引き受けたと見られる形跡がある点で注目される。毛利氏と熊野の関係は元就の代からのもので、元就からの社参の書状や新宮本願の熊野比丘尼が領国において自由に活動することを認めた書状もある。類例として、今川義元より弘治2年(1556年)に新宮に贈られた御教書があり、分国内での門別勧進に許可を与えている。こうした例から、戦国時代から幕藩体制下において、寺社本願所の勧進活動が、分国の領主や藩主の許可なくしては不可能であったことが示されている。 この他、新宮において特徴的なものとして、船の渡銭がある。新宮は熊野川の河口に鎮座し、伊勢路を経てやって来た参詣者が渡る熊野川河口の成川の渡しや、熊野本宮から川を下ってきた参詣者が上陸する尾鞆渡といった要衝において渡銭を徴収していた。中世後期の寺社本願所の勧進活動においてこうした関銭や渡銭の徴収が大きな役割を果たしていたことは広く知られているところであり、新宮庵主による渡銭徴収はそうした系譜の中に位置づけることができる。 ===熊野本願九ヶ寺の組織と統制=== 勧進活動においては、多くの場合、庶民から「一紙半銭」を募るのが常であるから、より多くの人々に働きかけることが出来るか否かが成否の鍵を握ることになる。そのために、本願所は勧進に携わる勧進者を配下に多数抱え、彼らを各地に送り出し勧進奉加を募るとともに、願物を本願所へ運送させた。熊野三山本願所では、この役目を熊野願職(くまのがんしき)と称し、その担い手たる熊野山伏・熊野比丘尼が本願所の配下に属した。願職は諸国回遊し、勧進奉加を募ることを職務とするが、中には地方に定住した者も現れた。だが、本願所との関係は切れることはなく、願物を引き続き熊野に送り続けた。地方定住した者たちはその地において弟子をとり、その弟子たちがやがて願職に従事するようになる。そうした弟子たちは師匠の筋目の本寺から山伏の院号や比丘尼の大姉号の免許を与えられた。また、毎年のこととして「年籠」と称して熊野で山籠させ、願物や護符(牛玉宝印・御影札)の売上から上納をさせるのと引き換えに、願職の免許を改授したことに見られるように、熊野山伏・熊野比丘尼たちに願職の職権を与奪することを通じて、本願所は支配を及ぼしていた。例えば、寛文12年(1672年)付の「定書」には、華美な姿や派手な衣装、化粧を禁じ、熊野山伏・熊野比丘尼が師匠や大姉の許可なく還俗した場合は穿鑿を遂げることなどといった禁止事項を挙げ、違反した者は師・弟子とも熊野願職を停止するとしている。この史料は、熊野本願所が熊野山伏・熊野比丘尼を明確な支配関係の下に置いていたことの証左ではあるが、同時に、『東海道名所記』(万治2年〈1659年〉以降刊)に「戒をやぶり絵ときをもしらず歌をかんようす」と評されたように、風俗や規律の弛緩、悪習の蔓延が見られ、零落して歌比丘尼や遊女になる者も存在した。 このように熊野三山の本願所とその支配下にある諸国の熊野山伏・熊野比丘尼からなる集団を「熊野方」と称した。既述のように勧進としての熊野願職は熊野三山の本願所の体制下で保証されていたが、他方で修験としての立場では当山派の支配体制下に置かれていた。もとより熊野三山の本願庵主の内実は修験山伏であり、前述のように盛期の新宮庵主は飯道寺梅本院という当山派正大先達寺院から入寺していたし、那智の穀屋も、梅本院先達同行の袈裟筋として大峯入峯を果たして免状を得た山伏を願職として諸国に送り出していた。こうした事情から、当山派は熊野方を別派のひとつとして位置付けており、当山派別派の修験集団としての熊野方と、熊野三山本願所の配下の願職とは切り離して見ることは、多くの場合不可能である。 近世初期頃には、熊野三山本願所は、熊野本願九ヶ寺と称する本願仲間を形成し、連携して本願職の遂行にあたっていた。九ヶ寺の組織化の経緯は定かではないが、史料中にある「熊野三山中」との記述などを手掛かりに、16世紀末から17世紀初頭と考えられている。九ヶ寺においては、三山庵主と称された本宮庵主・新宮庵主および那智御前庵主が、それぞれの一山の本願所を統括し、三山の頂点に新宮庵主が立っていた。 新宮庵主を特徴付けるのはその強力な権限であり、さまざまな免許権や得分を有していた。例えば、そのことを証する史料として広く知られる正徳5年(1715年)の史料には、第2条に新宮庵主には本宮や那智を越える古法があるとしてその優位性が記され、次いで第3条では本願の職をつとめる山伏・比丘尼に熊野先達号を与えられるのはただ新宮のみであって、本宮や那智は先達号を与えないことを承知しているとある他、大姉号や院号の願出に対して新宮の名で出すことを許し、奉納銀を新宮が受納する旨などが述べられている。熊野先達号とは、本来、本山派・当山派の教団の管轄下に付与されてきたものだが、新宮庵主が独自に山伏・比丘尼に熊野先達号を許していたことをこの史料は示している。 ==衰退と終焉== ===社役と本願=== 15世紀末以降、各地の寺社において成立した本願所であるが、本来寺社の外部の存在であった勧進聖たちによる組織である本願所と寺社との間には緊張関係や対立が生じることが多く、本願所が存続しうるためには、単に寺社内における造営・修造および勧進に関する機能を掌握するだけでなく、社寺の縁起や仏事・神事といった社役にどれだけ関与できるか否かが重要であったと指摘されている。 熊野三山本願所の場合、17世紀中頃よりしばしば本願と社家の間に相論が繰り返され、最終的に延享元年(1744年)の江戸幕府による裁許において本願が敗訴し、年中行事や社役・社法から排除されたという経緯が明らかにされている。しかしながら、延享の裁許より前に、熊野三山の本願が造営以外でいかなる機能を果たしていたかについて言及した研究は少ない。17世紀中頃に廃絶した本宮はさておき、新宮と那智については、相論の過程で作成された史料が多数あり、本願が担ったとされる社役を知る手がかりとなっている。その中でもよく知られた、新宮・那智の連署で紀州藩奉行所に提出された「熊野三山本願所九ヶ寺社役行事之覚」(貞享4年〈1687年〉)には、「新宮社役」「那智社役」として新宮・那智のそれぞれの本願が勤めたとされる社役について述べられている。この史料の分析に基づき、太田直之は、社役として次の3点を指摘している。 祈祷に関すること年中行事など社内の諸行事に関すること経済的な得分に関すること従来の研究で主に注目されてきたのは第3の経済的な得分に関する部分である。前述のように、熊野山伏・熊野比丘尼を熊野願職として配下に収めることにより各地からの勧進奉加を集めたほか、新宮において見られたように渡銭を徴収し、さらに社頭において参詣者がもたらす諸散銭を徴収する権利を有した。諸散銭に対する権利は、以下に見て行くような近世以降の退勢にあってもなお認められていた。その他、本願は諸堂の鍵の管理を掌握しており、諸堂舎の鍵の管理は、その堂舎を分掌する本願に委ねられていた。こうした経済的得分は、熊野三山の本願がそれぞれの一山において活動を行う上での基礎であった。 ===年中行事=== 「熊野三山本願所九ヶ寺社役行事之覚」には、「新宮社役」として遷宮を行うときの「灑水加持」が挙げられている。灑水とは、加持祈祷を加えた香水または酒水をそそいで清めをおこなう、密教的な修法である。「新宮社役」によれば、新宮での灑水は、遷宮に伴う神体動座に際して、二重の垣と幕で隔てられた神幸の道から内陣までの範囲で行い、もっぱら禰宜と本願のみが関与できるものであった。「那智社役」によれば、内陣の灑水を務めるのは御前庵主と瀧庵主であり、それ以外にも儀式の進行にあたって本願が大きな役割を果たしていた。しかしながら、各地の神社本願所では、内陣・外陣に近づくことはそもそも社家の特権とされ、まして本願が灑水に関与することはあり得なかった。その意味で、社家の中での本願の地位の確立にあたって、内陣にまで近侍して灑水を行い得たことは大きな意味を持っていたと考えられる。 次に挙げられるのが「釿始」である。釿始は本来は建築を始めるにあたって日時の勘文が出される儀式で、後に年始の年中行事としても行われるようになった。「新宮社役」によれば、本願は神官と対等の存在として神前の「御白砂」にて儀式を主催したとされている。釿始において本願が中心的な役割を果たしているのは、本願の職分である造営(建築)にまさに関わる儀式であるからと見られている。 これらの他、年中行事において要となる祭礼においても本願は役割を持っていた。新宮例大祭における神馬渡御式の神馬の養育や、祭礼で使う神輿・祭具の修復は本願の担当だった。また、那智例大祭で使われる扇神輿は御前庵主と社家の共同のもので、祭礼の中で扇神輿を清めるための火も御前庵主が出すものだった。以上に見られるように、熊野の本願所は年中行事に深く関与し、社家と対等あるいはそれ以上の役割を果たすことによって、単なる造営役を越える存在感を発揮していたのである。 ===祈祷=== 社家の最も重要な社会的機能である祈祷においても、本願は深く関与していた。新宮庵主の屋敷に設けられた護摩堂では庵主独自の祈祷活動が行われており、しかもその祈祷の力は個別の檀那の息災を越えて、「天下安全之御祈祷」をするべき公的な性格を負ったものと認識されていた。 また、牛玉宝印の頒布について、新宮・那智の本願は強い権限を有していた。牛玉宝印の伝来例としては那智のものが最も多いが、新宮庵主も独自に牛玉宝印を各地の貴紳に送っただけでなく、配下の熊野願職にも牛玉宝印を頒布する権利が委ねられていた。同様に、那智においても本願が頒布の権利を独占していた。それだけでなく、新宮庵主は、牛玉宝印加持、すなわち牛玉宝印の調製をも担っていた。牛玉宝印加持とは、牛玉宝印の版木を刷ることと牛玉宝印の「実体」である朱印を押すことを指しており、これを行い得たのであれば、調製から頒布までを一貫して本願が行い得たことを示していると言えよう。 これらの他の祈祷について、社家側の史料と本願側の史料を照合してみると、本願は社家の祈祷のうち、年中に行われる代表的なもののほとんどの部分に関わろうとしていたことが分かっている。その具体的な関わり方はさまざまで、社家の祈祷に参加したり、社家と同内容の祈祷を独自に行ったりと一様でないが、社内における宗教的な役割を積極的に担おうとしていた。 ===社家との相論=== しかしながら、社家側の史料では、祈祷はことごとく社家の役割であるとし、本願の役割は否定されている。これは、近世になって経済的再建を果たしつつあった社家の反撃により、本願の地位が否定され、社内の地位から排除されていった動きと関連するものである。 近世に入ってからの熊野三山本願所に生じた大きな変化としてまず指摘されるのは、新宮庵主と当山派修験道の大寺院である飯道寺梅本院との兼帯に関して出された、延宝3年(1675年)の幕府の覚書である。従来の研究は、この覚書を本願と修験道との兼帯の禁止と捉え、修験道からの離脱を強いられたことにより、熊野山伏・熊野比丘尼への統制と願物の徴収が滞り、本願の衰退の契機となったと考えてきた。しかしながら、延宝の覚書の第二条にあるように、幕府が本来問題としたのは本願所住職と熊野先達としての梅本院住職との兼帯であって、修験道を禁止したわけではない。むしろ、元禄9年(1696年)の幕府覚書が明言する通り、本願が配下の山伏・比丘尼を支配する力は何ら否定されていないばかりか、兼帯禁止の後も新宮庵主は熊野先達号と比丘尼大姉号の免許権を維持し続けていた。こうした点から、延宝3年の覚書が本願の衰退にどの程度の影響をもったのかは、議論の余地がある。 本願の本来の職分である造営役についても変化が見られる。近世社寺の勧進活動は幕府の許可制になっていたが、熊野三山の本願もその例外ではなかった。例えば享保6年(1721年)には幕府より新宮・那智に対し勧進許可が出されているが、本願所史料には勧進許可状は伝わっていない。このことから、幕府は社家に造営を統轄させたと考えられているが、これは造営・修造に関する一切を本願が掌握してきた近世以前のありかたとは大きく相違する。また、同じ享保6年には造営の運営に関し、社家と本願の間で相論が生じている。本願は、造営に関する会合から本願を排除しようとしたとして社家を訴え、幕府寺社奉行所は、本願の実績を踏まえて、社家と本願が共同で造営に当たるよう仲裁したが、社家はあくまで本願を社家の下位にあるものとして扱った上で会合への参加を認めた。この後、元文元年(1736年)に幕府からの寄付三千両を元手とする貸付事業で造営料を捻出することになり、さらにその運用が紀州藩と社家に掌握されたことにより、造営の主役としての本願の役割は完全に後退することになった。 前述のように、社家側の認識によれば、本願はあくまで造営役に過ぎない。そのため、早い時期のものでは寛文年間(1661年 ‐ 1672年)頃から、年中行事と祈祷に関する本願の役割を低めようとする社家の側からの反撃が見られるものの、なかなか成果を見なかった。17世紀半ば以降、社家は本願排除の動きをいっそう活発化させたが、その背景にあったと見られるのは、紀州藩主徳川頼宣の神道重視の政策である。徳川頼宣は、吉川神道を主唱した吉川惟足を紀伊に招請(寛文3年〈1663年〉)して藩内での神仏分離を進めただけでなく、惟足を熊野三山に派遣し、年中行事について指導するよう命じている。その具体的内容は明らかになっていないが、同様に惟足を招請した会津藩主の保科正之が神仏分離と寺院の抑圧を進めたことに見られるように、社家が本願を排除する上での思想の確立に大きな意義をもったであろうことは想像に難くない。 本願が寺社内において地位を確立する基礎であった造営・修造および勧進という経済的役割を社家は奪っただけでなく、思想面や政策面においても幕府や藩からの後ろ盾を得て、本願を排除する動きはいっそう活発化してゆく。 ===延享の裁許とその後の本願=== 延享の裁許は、延享元年(1744年)に幕府寺社奉行より新宮・那智に宛てて出された裁許である。延享の裁許では、社家と本願の関係が明確化された。それによれば、本願の地位は社家の地位よりも軽いものであり、社中といった場合も本願は含まれず、本願は社家の支配を受けなければならないとされた。のみならず、本願が色衣を着用することが禁止されたことにより、可視的な身分表象においても両者の違いを示されるようになった。また、祈祷に関しても、新宮における灑水は社法であるがゆえに社家の指示のもとで行うものとされ、牛玉宝印加持についてももっぱら社家の役目であるとさだめられた。こうした裁許により、本願は社家一同に連なり、単に造営役のみにとどまるものではないとする、本願の主張は明確に否定されたのである。さらに、本願の本来の職分である造営においても、造営願は社家の役と明記され、前述の幕府の寄付金三千両の貸付運用をもって造営料を捻出するという決定により、一切の関与が禁じられた。 裁許の最後には、社内の一切の年中行事と祈祷に本願の関与を認めないとした社法格式を一山中として長く守るよう明記された。ここでの「社法格式」とは、新宮社家(延宝7年〈1679年〉)および那智社家(延享元年〈1744年〉以前)が作成し、幕府に提出したもので、いずれにも延享元年4月に寺社奉行の山名豊就以下4名が「山中永守此旨」と記して署判を加えた奥書のあるものを指している。すなわち、もっぱら社家の側の主張する秩序に沿った社法格式こそが幕府公認として随うべきものと定められたのである。延享の裁許において、17世紀中頃から続く社家による本願排斥が全面的に認められる形で、社家と本願の相論は終焉を迎えた。中世後期以来、本願としての功を礎に社内での地位を高め、社家と同等の存在たることを目指した熊野三山本願所の主張は、完全に却下されたのである。 加えて、早くに廃絶した本宮はさておくとしても、那智では延享の裁許に先立つ元禄年間(1688年 ‐ 1703年)頃から享保年間(1716年 ‐ 1735年)にかけて無住化が進み、延享元年(1744年)には瀧庵主、大禅院、理性院、阿弥陀寺は無住、補陀洛寺は御前庵主の兼帯となっていた。明治の神仏分離による廃寺まで住職が確認できるのは御前庵主、那智阿弥、補陀洛寺の3ヶ寺に過ぎず、神倉本願においては、延宝の覚書で本願を退いた華厳院・宝積院・三学院のうち、華厳院・宝積院は宝暦年間(1751年 ‐ 1764年)までに断絶し、残る三学院も近い時期に廃絶したと見られる。 こうした退勢にも拘わらず、熊野三山の本願所は、明治の神仏分離まで廃絶することはなかった。というのも、新宮の灑水や釿始では延享の裁許以後も、依然として本願が一定の役割を演じ続けていたとみられ、牛王宝印の頒布に関しても「公儀御用之牛王」(幕府公用の牛王宝印)の献上は引き続き本願によって行われ、逆に社家が取って代わろうとする動きは幕府に認められなかった。すなわち、社役・社法から本願を排除し、社中の主導権のほぼ一切を奪ったにもかかわらず、社家は本願の役目を消し去ることは出来なかったのである。このように社役・社法に深く関与しえたが故に、熊野の本願はたとえ主役としての地位を奪われたとしても、なおも社内から追放されることなく、存続し続けることができたのである。 =小田急3000形電車 (初代)= 小田急3000形電車(おだきゅう3000がたでんしゃ)は、1957年から1992年まで小田急電鉄において運用された特急用車両(ロマンスカー)である。 本項では、大井川鉄道(当時)に譲渡された車両についても本項目で記述する。また、本形式3000形は「SE車」、3100形は「NSE車」、7000形は「LSE車」、10000形は「HiSE車」、20000形は「RSE車」、50000形は「VSE車」、60000形は「MSE車」、鉄道省・運輸通信省・運輸省および日本国有鉄道が運営していた国有鉄道事業は「国鉄」、鉄道技術研究所は「研究所」、箱根登山鉄道箱根湯本駅へ乗り入れる特急列車については「箱根特急」と表記する。また、小田急が編成表記の際に「新宿寄り先頭車両の車両番号(新宿方の車号)×両数」という表記を使用していることに倣い、特定の編成を表記する際には「3011×8」「3021×5」のように表記する。 新宿と小田原を60分で結ぶことを目指した「画期的な軽量高性能新特急車」として計画され、 開発に際して日本国有鉄道(国鉄)の鉄道技術研究所より技術協力が得られたことから、日本の鉄道車両において初の導入となる新技術がいくつか盛り込まれた車両であり、それらの中には国鉄の新幹線に発展的に引き継がれた技術も存在し、「新幹線のルーツ」や「超高速鉄道のパイオニア」ともいわれている。 ”Super Express” (略して「SE」)という愛称が設定されたが、「SE」という略称には ”Super Electric car” という意味も含ませている。 ==概要== 東京急行電鉄(大東急)から分離発足した小田急では「新宿と小田原を60分で結ぶ」という将来目標を設定し、軽量・高性能な車両の開発が進められていた。折りしも国鉄の研究所では航空技術を鉄道に応用した超高速車両の研究が行われていたが、この構想に小田急が着目し、小田急と国鉄の共同開発として開発が開始された車両である。 登場した1957年に行われた東海道本線での高速試験において、当時の狭軌鉄道における世界最高速度記録となる145km/hを樹立、その後の国鉄の電車特急開発にデータを提供した。また、本形式の登場がきっかけとなって鉄道友の会ではブルーリボン賞の制度が創設され、1958年には第1回ブルーリボン賞を授与された。 当初は8両連接車として登場したが、1968年以降は御殿場線乗り入れのため編成を5両連接車に短縮し、 ”Short Super Express” (略して「SSE」)とも称されるようになった。1991年に20000形(RSE車)が登場するまで運用され、1992年に全車両が廃車となった。 ==登場の経緯== ===小田急の目標=== 1948年6月1日に小田急が大東急から分離発足した際に取締役兼運輸担当として就任した山本利三郎は、学生時代にその存在を知って以来連接車に関心を抱き、スペインで開発された連接車であるタルゴの存在を知ってからは「あれを電車でやれないか」と考えていたという。国鉄東京鉄道局に在籍していた1935年には、業務研究資料で「関節式新電車ニ就イテ」と題する構想を出した。これは、「関節車(連接車)を導入することで騒音・動揺・乗り心地を改善した上で、先頭部を流線形にし、駆動方式も吊り掛け駆動方式から改良して騒音を低減した高速電車を東京と沼津の間で走らせる」という内容であった。この発想は当時の国鉄ではまったく受け入れられなかったが、山本はその後も連接車の導入に関心を持ちつづけ、1948年冬には当時まだ新入社員であった生方良雄とともに、当時既に連接車として運用されていた西日本鉄道500形の構造や保守について視察した。 一方、分離発足後の小田急では、戦争で疲弊した輸送施設の復旧と改善を主目的として設置された輸送改善委員会が、「新宿と小田原を60分で結ぶ」という将来目標を設定した。この目標値は、戦前に阪和電気鉄道が阪和天王寺と東和歌山の間61.2kmを45分で結び、表定速度は81.6km/hに達していたことを意識したもので、この表定速度であれば、新宿と小田原の間82.8km(当時)は60分で走破できると考えたのである。大阪出身である山本は、日ごろから阪和電気鉄道を引き合いに出していたという。この目標は、単に阪和電気鉄道の記録を破ることを目的にしていたわけではなく、速度向上によって車両の回転率を高めることによって経営効率の向上を図ることも目的としていた。 当時は「高速走行のためには大出力の主電動機を使用して、粘着性能を稼ぐために車体も重く頑丈にする」ということが常識とされていた。しかし、この時の小田急の経営基盤はまだ脆弱で、スピードアップを目的として施設全般に多額の投資を行うことはできなかった。また、当時導入された国鉄モハ63形の改造車である1800形の乗り心地が悪く、保線部門から「線路を壊す車両」として嫌われたという事実もあった。このため、軌道や変電所などの投資を極力抑える一方で、車両の高速性能を向上するという方針が立てられた。この方針に従い、軽量・高性能な車両の開発が進められることとなり、研究や試験などを繰り返していた。 1954年に登場した2100形では車体の軽量化が実現、駆動方式についても同年に登場した2200形ではカルダン駆動方式が実用化された。また、この年の9月11日には新型特急車両の開発が正式に決定した。 ===小田急と国鉄の共同開発へ=== この頃、国鉄でも高速車両の研究を進めていた。1946年には山本の友人である島秀雄が、日本海軍航空技術廠にいた三木忠直や松平精などを研究所に招き、「高速台車振動研究会」を設立して研究を行った。航空技術廠から研究所に移った研究者たちは航空機の技術を導入した鉄道の高速化を研究し、台車の振動問題については、松平の研究によって解決策が見出されつつあった。 それまでの研究所は、開発よりは試験を行うことが多い研究機関であったが、1949年9月に大塚誠之が所長として着任すると、大塚は研究者に自由な研究を奨励し、研究成果の発表も積極的に行うように指導した。また、外部からの研究受託や設計も積極的に受けるようにした。 この方針を受けて、1953年9月に三木が発表した研究成果の内容は「軽量で低重心の流線形車両であれば、狭軌においても最高160km/h・平均125km/hで走行が可能で、東京と大阪を4時間45分で結ぶことも可能である」というものであった。ただし、この時の想定では、突起物を全て車体内部に取り込むという徹底的な空力設計を採用する一方で、電車方式(動力分散方式)ではなく1,200馬力の電気機関車牽引による7両編成の客車列車(動力集中方式)とする構想であった。 この構想は、国鉄本社から「これは本社が考えるべきことである」と批判を受けたが、運輸省は逆に「研究補助金を出すので申請するように」と通告した。そこで、日本鉄道車両工業協会で研究を受託するために「超高速車両委員会」が発足した。研究を重ねた後の1954年9月には「全長100.9mの7両連接車、自重113.3t、電動機出力は110kWが8台、定員224名、最高速度は150km/h」を目標にした車両構想が打ち出された。 山本はこの研究発表に着目し、1954年10月19日に研究所に対して「特急車両として世界的水準を抜くものにしたい」と、新型特急車両の企画・設計全般について技術指導を依頼した。 小田急と国鉄は東京と小田原の間で旅客数を争うライバル関係にあり、現実に国鉄の80系電車運行に対して小田急が反対していた経緯もあるので、この依頼は非常識にさえ見えた。しかし、この当時、島は桜木町事故の後に国鉄を退職していたものの、腹心の部下だった者を通じた影響力を行使できる立場にあった。国鉄内部でも当時既に高速電車の計画はあったが、大組織の国鉄ではなかなか理解が得られなかった。島は「私鉄が導入して成功すれば、国鉄も高速電車の導入に踏み切るだろう」と考えた。また、研究所側でも「小田急の構想に乗ることで研究成果の確認が可能になる」と考えた。研究所では小田急の要請に全面的に応じることとし、1954年10月25日から研究所が小田急の研究を受託するという形式で新型特急車両の共同開発が開始された。 ===基本構想=== 基本構想の策定を行う研究会は、1954年11月から1955年1月までに合計8回行われた。1955年1月25日には基本構想が策定されたが、この時点では小田急の最長編成は17m車4両編成であったことから、全長70mの5両連接車という内容であった。1955年1月16日には共同設計者として日本車輌製造・川崎車輛(当時)・近畿車輛・東洋電機製造・東京芝浦電気(当時)・三菱電機が参画し、研究所の指導の下に具体的な設計に入った。小田急では創業当時から電装品は三菱電機、台車は住友金属工業の製品を採用しており、特に三菱グループとは主力取引銀行としての関係もあったが、新型特急車両の設計参画メーカーの決定に際しては純粋に技術的見地から決定され、どうしても優劣がつけがたく決定できない場合に限って、過去の小田急との取引を考慮して決定した。 山本は「1gでも軽い部品を採用する」と公言し、1mあたりの重量を1tとすることを目標として、軽量車両で安全に走行するための条件が徹底的に追及されたほか、将来の格下げを考えずにあくまで特急専用として考えられた。さらに、「特急車は10年もすれば陳腐化する」「丈夫に長く使える車両と考えるから鉄道車両の進歩が遅れる」という山本の考えにより、耐用年数は10年と考えることになった。 前頭部の形状の決定に際して、東京大学航空研究所の風洞を使用して、日本の鉄道車両設計の歴史上初めてとなる本格的な風洞実験が行われたほか、ディスクブレーキの試験も行われた。また、高速運転に伴って踏切事故などを防止するために補助警報器(特殊警笛)の現車試験なども行われた。 また、前述の通り、連接車に強い関心を抱いていた山本の主張によって、新型特急車両には連接構造が採用されることになった。三木は連接車に賛成していたが、研究所では保守上の不便を心配していたという。しかし、山本は「保守・整備は小田急が考えればいい話」と主張し、連接車導入と決まった。この時期の経堂工場は、17.5m車の4両編成すらもまとめて入庫できるような設備ではなかったので、小田急社内でも連接車の整備については「経堂工場で整備できるか自信が持てない」という意見があったという。 ===開発の停滞と再開=== これと並行して、小田急の社内での意見をまとめた上で設計に反映させるため、社内に車両委員会が設置された。 しかし、それまでの小田急の車両からは飛躍的に突出した構想であったことから、社内の意見をまとめるのに難航した。運転席を低くしたために運転部門からは「踏切事故の際に運転士の危険度が高い」「運転台からの見通しが悪すぎる」という意見が、また客室床面が低いために営業部門からは「座席の乗客がホームから見下ろされるためサービス上問題」という意見があったという。必死に説得を続けたものの、「そんな突拍子もない車両は使えない」という運転部門からの反発は大きく、ついに1955年秋には検討を一時棚上げするという事態になった。 ところが、半年後の1956年3月、新宿から貨物線経由で小田原や伊豆方面に向かう準急列車「天城」の運行が国鉄から発表された。この列車の運行によって、小田急の観光輸送への大きな影響が予想されたため、社内は「これに対抗しうる画期的な新特急車の製作を急ぐべし」との意見に統一され、開発は再開された。 1956年5月には仕様が決定し、同年6月末から製作が開始されることになった。当初は前述の通り全長70mの5両連接車で計画されていたが、1957年5月から小田急で全長105mの6両編成による運転が開始されることになっていたため、1956年5月7日に全長108mの8両連接車に計画が変更された。経験・実績に乏しい方式だったにもかかわらず8両連接車を採用したのは、当時としては大英断であったと評されている。運転台を2階に上げて展望席を設置する案や、二等車等の優等車両を設ける案もあったが、最終的にはこれらの案は採用されなかった。 車両の調達に際しては、小田急・日本車輌製造・川崎車輛・住友信託銀行の4社で車両信託制度という新しい制度が設けられた。これはアメリカ合衆国のフィラデルフィアプランと呼ばれる制度に倣ったもので、新型特急車両は日本で初めて車両信託制度が適用された車両となった。 こうして、「画期的な軽量高性能新特急車」として登場したのがSE車である。 ==車両概説== 本節では、登場当時の仕様を基本として、増備途上での変更点を個別に記述する。更新による変更については沿革で後述する。 SE車は8両連接の固定編成で、先頭車が制御電動車、中間車は全て電動車で、形式はいずれもデハ3000形である。編成については、巻末の編成表を参照のこと。なお、閑散期には5両連接車としての運用も可能で、この場合は1・2・3・7・8号車の5両か、1・2・6・7・8号車の5両のいずれかとなるが、5両連接車とした場合は3両目が両側とも電動機を装着しない付随台車となる。ただし、ほとんど編成短縮の機会がないことから、回路の簡略化を図るため、1959年3月に製造された編成(3031×8)では永久8両連接の回路設定とした。それまでの日本の連接車では車体数に関わらず1編成単位で1つの車両番号であったが、SE車では車体ごとに車両番号を附番している。 ===車体=== 車体については、日本車輌・川崎車輛が担当することになり、研究所側は三木が主任担当者となった。 先頭車は車体長15,750mm・全長15,950mm、中間車は車体長12,300mm・全長12,700mmで、車体幅は2,800mmである。 ===構体=== それまでの特急車両では、格下げを考慮して車体の強度を定員の250%の荷重として計算していたが、SE車では将来の格下げは考えず、定員の130%として荷重を計算した上で航空機の技術を取り入れ、各部にわたって徹底的な軽量化を図った。 車体構造は強度部材の軽量化のために張殻構造とし、車体外板はそれまでの車両よりも半分近い厚さ1.2mmの耐蝕鋼板を採用し、バックリング防止のため125mm間隔でリブを入れることによって強度を補う構造とした。この耐蝕鋼板は日本鋼管に開発を依頼したもので、銅とリンを加えたものである。当初計画では車体に軽合金を使用する予定であったが、車両メーカー側で軽合金車両の製造経験がなかったことと、価格が高いという理由により鋼板を使用している。 車体断面は下部を半径4,000mmの緩いカーブで絞り込み、側面上部を4度の傾斜角で内傾させた形状とすることで、横風に対する安定度を確保し、風圧の影響を減少させることを図った。低重心化のため台車間の床面を低くし、軌条上面から床面までの寸法は、台車の上では1,000mmで車体中央部では875mmとなった。台枠部は航空機の主翼構造を応用し、それまでの鉄道車両には存在した中梁を廃した上で、波板が縦方向の圧縮強度も担うようにしたほか、横方向の梁には航空機と同様に重量軽減孔を開けることで軽量化を図った。床板にも航空機の技術を応用し、ハニカム構造が採用された。 こうした工夫の結果、構体重量は従来車が1mあたり500kgだったものが、SE車では1mあたり370kgにまで軽量化され、2300形が全長70mの4両編成で135t(1mあたり1.93t)であったのに対して、SE車では全長108mの8両連接車でありながら147t(1mあたり1.36t)と、大幅な軽量化を実現した。 なお、製造時にはそれまでの鉄道車両ではあまり行われていなかった荷重試験が行われ、構体の175箇所に対してねじれや圧縮などの力を加えた測定が行われた。荷重試験については、島も「国鉄車両の車体構造の設計に役立った」と評価しており、これ以後は国鉄・私鉄を問わず、新設計の車両では必ず荷重試験が行われるようになった。 ===先頭部=== 先頭部の形状は流線形で、模型を作成した上で風洞実験を繰り返し、さらにその結果を基にしてモックアップ(実物大模型)を作成した上で細部に検討を加えて決定された。これにより、形状抵抗係数は国鉄80系電車の0.64に対して、SE車では0.25にまで減少した。本来はもう少し上部を絞り込めば空気抵抗が減少するところだったが、当時の日本のガラス製造技術では円錐曲面のガラスが製造できず、円筒曲面ガラスを使用することを前提とした形状になった。 前照灯は日本の鉄道車両では初めてシールドビームが採用されたが、当時はまだ鉄道車両用のシールドビームが開発されていなかったため、自動車用の24V仕様のものを使用した。前照灯の配置は空気抵抗から流線形の頂点に配置するようにしたことと、左右に分けた場合には「1灯が故障した時に列車の位置が分からなくなる」という理由によって、2灯を前面中央部に並べた。また、対向する列車の運転士にとっては眩し過ぎることから、運転席には足踏み式減光スイッチを設けている。先頭部には異常時に使用する格納式簡易連結器が収納された。 また、先頭下部には車両が空力的に浮き上がらないように、排障器も兼ねたスカートが設置された。3031×8では正面のスカートの開口部が楕円形から真円形に変更されたのが外観上の識別点である。 ===その他車体構造=== 側面客用扉は車体断面に合わせた高さ1,770mm・幅800mmの手動式内開き戸を中間車に1箇所ずつ配置した。扉を内開き戸にしたのは車体を極力平滑にするためで、当時まだプラグドアという発想はなく、航空機と同様の扉を採用すると却って重量が嵩むことから、この構造が採用された。側面窓は700mm四方の1段上昇窓を、窓柱の幅を300mmとして配置した。乗務員室の扉は高さ1,400mm・幅600mmである。車両間の貫通路は車内の見通しを良くする目的で広幅とし、仕切り扉は一切設けていない。 屋根はファンデリアの外気取り入れ口を設けた二重構造とし、先頭車の最前部には補助警報器のスピーカーを内蔵させた。 塗装デザインについては、「それまでの車両と同じ色で」という意見もあったが、「まったく新しい電車なのだから新しい色にすべきだ」と決まり、小田急の宣伝ポスター作成を手がけたこともある縁で、二紀会の宮永岳彦が色彩設計を担当、バーミリオンオレンジを基調にホワイト・グレーの帯が入る、警戒色となるような明るい色とした。このデザインは、その後NSE車・LSE車にも継承され、バーミリオンオレンジについてはVSE車とMSE車にも継承された。 ===内装=== 車体の節で記述したように車体中央部を低床化しているが、台車上と車両中央部の床の高さの差は客室両端部の通路に傾斜をつけて解決した。座席については、回転式クロスシートを採用し、シートピッチ1,000mmで配置した。この座席は、DC‐4型旅客機の座席を参考にし、ねじの頭を削るなど細かいところまで重量軽減にこだわった。軽量化を優先したためリクライニング機構の導入は見送られたものの、それまでの同種の座席の重量が60kgだったところを33kgにまで軽量化した。座席の回転方法は座席下のペダルを踏み込んでから回転させる方式である。ただし、車端部の座席はスペースに余裕がないことから回転しない。床に段差があることから、段差の上段になる座席では床面から座面の上面までを340mmに、それ以外の座席では床面から座面の上面までを400mmとして、着座位置を極力揃えるようにしている。窓の下には各座席ごとに引き出して使用する折畳みテーブルを設置した。 室内の配色は、天井を白、壁面は明るい色のデコラ張りとして、窓上カーテンキセ上部に赤い帯を入れた。座席は濃い青色の表地を採用した。 3号車の新宿寄り海側出入台脇と6号車の小田原寄り海側出入台脇には喫茶カウンター(売店)を設置した。2号車の新宿寄り海側出入台脇と7号車の小田原寄り海側出入台脇には男女共用和式トイレ・化粧室を配置した。喫茶カウンター・トイレとも、通路を挟んだ反対側は通常の座席である。 客室と乗務員室の仕切り扉は両ヒンジ式で、左右どちら側にでも開けるようにした。これは、乗務員から緊急時の脱出について意見があったためで、運転士が使用する際には乗務員室側から見て左ヒンジ、車掌が使用する際には右ヒンジとして開閉できるようにした。 ===主要機器=== 床下機器配置は、重心の低下を図ったため、それまでの車両での機器配置とは大きく異なるものになった。 ===速度制御機器=== 主電動機と駆動装置は既に中空軸平行カルダン駆動方式で実績のある東洋電機製造が、制御装置は電機メーカー各社の設計入札を行った結果超多段制御方式では最軽量となった東京芝浦電気(東芝)が、制動装置(ブレーキ)は小田急において採用実績のある三菱電機が、それぞれ担当した。 主電動機は出力100kW(端子電圧375V・定格回転数1,800rpm・最弱界磁率50%)の直流直巻補極付電動機である東洋電機製造のTDK806/1‐A形で、定格速度が高く、高速域からの発電制動を十分に作用させることが可能な特徴を有する。箱根登山線での上り勾配低速運転に対応するため、冷却方式は強制通風式となっている。駆動装置は中空軸平行カルダン駆動方式の東洋電機製造製DND143‐SH9921形である。歯数比は78:21=3.71とした。主電動機の最大回転数は4,320rpmで、東洋電機製造では「理論上は4,300rpmで180km/hの速度が可能である」と述べている。 主制御器は、発電制動付電動カム軸式抵抗制御装置であるMM‐50A形で、2・5・7号車に搭載された。特急車両であることから起動回数が少なく、起動時の損失以上に回路の簡略化が図れることから、直並列制御は行わずに抵抗制御及び界磁制御を行う仕様で、1台で4つの主電動機の制御を行い(1C4M)、主回路接続は4つの電動機を全て直列に接続する方式(永久4S)である。また、全ての主制御器を直列に接続することにより、これを1台の制御器とみなした上で、その「みなし制御器」により12個の主電動機の制御をおこなうことも可能である。制御段数は力行が抵抗制御14段・界磁制御3段、制動は全界磁抵抗制御による14段であるが、起動時のショックを防ぐために「捨てノッチ」と呼ばれる低速段が5段設定された。軌条面との空間を確保するため、通常はレールと並行に機器を配置するところを枕木と並行に配置し、台枠横梁の間に機器箱を押し上げた状態で搭載している。 ブレーキは、電空併用のHSC‐D形電磁直通ブレーキで、ブレーキ初速125km/hから600m以内に停車することが可能である。ブレーキ装置についても軽量化が図られ、通常は電動車と付随車の平均で800kgとなるところ、SE車では500kgに抑えている。基礎ブレーキ装置は電動台車がクラスプ式(両抱え式)踏面ブレーキ、付随台車ではシングルディスク式ディスクブレーキである。ディスクブレーキについては研究所から「最高運転速度を上げるためにはディスクブレーキを使うべし」と強い主張があったために採用されたが、これも航空機で採用されていた技術からのもので、ディスクブレーキは日本の鉄道車両では初の採用事例である。なお、設計段階では空力ブレーキも検討されていたが、150km/h以下では効果が少ないため採用には至っていない。 主抵抗器は特殊リボン抵抗体を使用した強制通風式とした。 ===台車=== 曲線の多い小田急線の軌道条件から、「曲線通過を容易にできる」「オーバーハング部分をなくした上で乗り心地を改善できる」「車体支持間隔の短縮により車体剛性を確保できる」「台車配置が平均化されることによって軌道への負担が軽減される」という利点を考慮し、各車体の連結部直下に台車の回転を支える心皿を置く、連接構造が採用された。このため台車数は1編成8車体で9台、5車体で6台となっている。 通常のボギー車では台車と車体を結ぶ配線の接続の端子として「つなぎ箱」と呼ばれる機器を車体側に設けているが、SE車では「つなぎ箱」を台車側に設置し、台車と車体を結ぶ配線の接続だけではなく、車両間の引き通し線もこの「つなぎ箱」を経由することとした。この後、NSE車・LSE車・HiSE車・VSE車でも連接構造が採用され、小田急の特急車両の大きな特徴となった。 台車そのものは、振動特性の研究結果から円筒案内式(シュリーレン)台車が松平より推奨された。このため、軽量化を目的としてこの方式を採用することになり、開発元のスイス車両エレベーター製造(SWS)社と技術提携しシュリーレン台車の設計製造を行っていた近畿車輛が設計製造を担当することとなった。 近畿車輛のシュリーレン台車は、本形式の設計時点では1954年に近畿日本鉄道大阪線向けWNドライブ試作車のモ1450形モ1451用KD6・モ1452用KD7、それに同名古屋線向け直角カルダン試作車のモニ6211用KD8の3種が試作された後、同じ1954年に製作された西日本鉄道のカルダン駆動試験車である100形モ103・モ106用KD9および奈良電気鉄道の特急車であるデハボ1200形用KD10を皮切りに、親会社の近畿日本鉄道をはじめ近畿車輛が車両を納品していた私鉄各社への納入が開始されたばかりであった。 本形式に採用された台車は、KD17(電動台車。軸距2,200mm)とKD18(付随台車。軸距2,000mm)の2種で、いずれも車輪径840mm、枕ばねをコイルばねとする金属ばね台車である。これらは各台車の重量を3t台に収めることを目標として設計された。保守が容易で磨耗部分が少ないシュリーレン台車の特徴を生かし、6つに分けられた溶接鋼板の組み立てによる箱型とするなどの設計の工夫によりKD17は3.8t、KD18は3.6tに重量を抑えた。また、SE車では定員の130%として荷重を計算したことからばね定数を低く設定し、各ばねを柔らかくすることが可能になった。なお、各台車の荷重は心皿と左右の側受でそれぞれ50パーセントずつ負担する3点支持方式が採用されている。また、付随台車であるKD18は編成の連接部3箇所に装着されている。 しかし、このKD17・KD18は揺れ枕を吊り下げるスイングハンガー(吊りリンク)が短いため左右剛性が硬く、また揺動周期も短くなるため高速域での左右振動性能に難があったという。この時期の近畿車輛製シュリーレン台車は短リンク式と称する、揺れ枕の横動を許容するためにスイングハンガーをリンク長の短いユニバーサルリンク(自在吊りリンク)とした機構を1956年設計の近畿日本鉄道800系用KD12で採用しており、本形式の装着するKD17・KD18もこれに準じる。もっとも、この設計は翌1958年に設計された名古屋線用特急車の近畿日本鉄道6431系が装着したKD28・KD28Aで横動を重視して吊りリンク長を長くした長リンク式が実用化され、さらに枕ばねにベローズ式空気ばねの採用が開始されたことで飛躍的な揺動特性の改善が実現したため、極めて短期間で著しく陳腐化する結果となった。 ===空調装置=== 空調装置は、実車完成までに解決できなかった問題である。 当時、既に他の鉄道事業者においては冷房装置が搭載された車両は存在したが、冷凍機を使用した本格的な冷房は重量の問題で搭載が難しいという理由により、研究所からは氷式冷房装置が提案された。これは車両に氷を大量に積載した上で、客室内の空気を通すことで熱交換するものであったが、業者に確認してみると小田原で大量の氷を確保することは困難であったことから、設計に至らなかった。また、車両側面からパイプで新鮮な外気を取り入れる方法も検討されたが、車体表面近くでは相対的な速度が小さく、パイプを伸ばせば車両限界に抵触するため、これも実現しなかった。 開発に携わった山村秀幸(元小田急電鉄副社長)は最後まで冷房搭載にこだわっていたが、結局、重量面の問題もあり、冷房装置の搭載は座席定員を削減しなければ実現できないと判断され、運転時間が短いこともあって、直径16インチのファンデリアを先頭車に6台・中間車に5台設置することになった。 ===補助警報装置=== 補助警報音については、「警報装置としての条件を満足させる」という運輸省の要求と、「騒音公害にならないように」と要求する警視庁の要望を両立させるため、小田急沿線在住の音楽家である黛敏郎にも相談、音響心理学研究所の指導を得た上でビブラフォンの音色とし、2km付近まで達する音量とした。補助警報音を発する装置は、乗務員室内に設けられた再生装置によってエンドレステープを再生し、屋根上に設置した指向性の強いスピーカーから放送する仕組みである。しかし、営業運行後にエンドレステープが伸びたり切れてしまうことが多かったため、NSE車以降はトランジスタ発振器に変更された。 この補助警報音は、SE車が「オルゴール電車」と呼ばれる由来となった。その後、RSE車まで警笛とは別に補助警報装置が搭載された。その後、VSE車では警笛と共用のミュージックホーンとして復活している。 ===その他機器=== 乗務員室は前後方向に2,450mmとなっており、計器板から客室との仕切りの間は1,570mmである。前面計器板上には、万一の事故で正面ガラスが割れた際に運転士を守るために防弾ガラスを設置した。また、前面下のスカートの開口部からダクトを通じて乗務員室内に外気を導入する構造とした。 集電装置(パンタグラフ)についても、「重くて丈夫なもので、ばねをたくさんつけて架線に圧着させる」という考えがそれまでの常識であったが、研究所の「パンタグラフは軽くなくてはいけない。追従性を増すにはばねを柔らかくすることで解決可能」という意見により軽量化が図られた。パンタグラフは付加抵抗が20%増にもなるため、境界層の厚くなる列車の中央部に近づけた結果、2号車の屋根上新宿側車端部と7号車の屋根上小田原側車端部に、高速運転時の追従性を向上させた東洋電機製造PT42‐K菱枠パンタグラフを各1基ずつ設置した。 補助電源装置については、二相交流6kVA・直流35kWの複流式電動発電機 (MG) であるCLG‐314形と、三相交流18kVAのMGであるCLG‐315形をそれぞれ2台ずつ採用、両先頭車に各1台ずつ搭載した。 電動空気圧縮機 (CP) は、低床化に対応したM‐20‐D形を採用、1・3・6・8号車に搭載した。 ==沿革== ===運用開始=== 1957年5月20日に日本車輌製造製の3001×8が入線、同年6月上旬には日本車輌製造製の3021×8が入線した。同年6月から小田急線内での試運転を開始し、小田急線内では127km/hという速度を記録したが、曲線の多い小田急線の軌道条件ではこれが限界であった。このため、小田急と研究所は「これ以上の高速性能の確認は軌道条件が優れている国鉄の路線上での走行試験によって行う以外に方法はない」という意見で一致していた。なお、ディスクブレーキの容量不足によってディスクに熱亀裂の発生が認められたことから、ディスクブレーキの最大圧力を制限する措置がとられている。 また、SE車の完成後にスペインから日本へタルゴの売込みがあり、小田急にも訪れた。この時、小田急側では売り込みにきた担当者をSE車に乗せて歓迎した。商談は成立しなかったが、6月26日・27日に行われた展示会の席上では、当時研究所長だった篠原武司が「タルゴの開発に携わったホセ・ルイス・オリオールが『実際に乗ってみて150km/hは大丈夫だ』という感想を述べた」と発言している。また、この時の雑誌ではSE車に対して「日本製タルゴ」という表現も使用された。 「電車といえば四角い箱」であった時代において、SE車は鉄道ファンだけではなく一般利用者からも注目を集めた。同年7月6日から箱根特急においてSE車の営業運行が開始されたが、そのすぐ後に夏休みを迎えたこともあり、前評判を聞いた利用者が殺到し、連日満席となる好成績となった。箱根湯本駅前には「祝 超特急車運転開始」という歓迎アーチが立てられた。 ただ、狭い経堂工場には8両連接車のSE車が全て同時に入場することはできなかった。連接車は車体を持ち上げないと連結部を切り離しできないため、経堂工場の構内留置線にリフティングジャッキが設置された。さらに、通常のボギー車であれば車内床に設置された点検蓋を開くことで台車と車体を結ぶ配線の接続や分離を行うことが可能であるが、SE車では配線の切り離しにも、その前に床下に潜り込んでの作業を強いられた。低床構造のため床下が狭く、床下作業は困難で、主電動機の送風ダクトに至っては手探りでボルトを脱着する有様であった。ようやく分解された編成は、経堂工場の構内に分散して留め置かれていたという。隣接する経堂検車区でも、SE車の検査のためにピット線を延長することとなったが、延長された部分は庫外である上に曲線にかかっていた。また、制御装置の点検も車両側面から行うことは出来ず、床下に潜り込まなければ目視点検さえ出来なかった。 ===狭軌世界最高速度記録=== ====国鉄線上での試験==== 折りしも研究所ではこの年の5月30日に研究所創立50周年を記念して「東京 ‐ 大阪間3時間への可能性」という講演会を開いていたが、この講演は大きな反響を呼び、新聞・雑誌などでも取り上げられていた。既に、国鉄では後に新幹線となる高速電車列車開発に向けた動きが始まっていたのである。しかも、この講演会で三木が発表した内容は、車体に関してはSE車とほぼ同様の考え方であった。 山本はこの年の7月2日に、国鉄に技師長として復職していた島に対して、試験で収集されたデータを小田急と国鉄の双方で利用することを条件として、「東海道本線を貸してもらえないだろうか」とSE車の国鉄線上での高速試験を申し入れていた。これに対して、島は「国鉄の方から要求して試験することにしたい」と、SE車の国鉄線上での高速試験を快諾した。試験の本来の目的は基本データの収集であったが、「高速電車列車開発につながるものであればなんでも利用したい」と島は考えたのである。島は国鉄側の責任者として副技師長の石原米彦を指名、石原は「絶対に145km/h以上出さないこと」を条件に受諾した。 この決定には、国鉄部内でも「国鉄が私鉄の車両を借りて高速試験をするとは何事だ」「ライバル路線の私鉄電車を国鉄線で試験するなど論外」といった反対意見が出た。当時の国鉄部内には客車を機関車が牽引する機関車列車方式(動力集中方式)に対する「信仰」が根強く残っていたが、分散動力方式の支持者からも「国鉄の面子が立たない」という反対意見が多かった。最終的には「国鉄が試験車両を作るまで待てない」と押し切るしかなかったという。 一方、SE車は日本で初めての信託車両であり、最終所有者は支払いが終了するまでは住友信託銀行であったため、「80系電車のように試験中に燃えてしまったらどうするのか」という声も上がった。また、国鉄線内で事故が発生した場合の責任所在などの問題もあった。それらの問題を解決し、1957年9月に小田急社長の安藤楢六と国鉄総裁の十河信二との間で、SE車の貸借について契約が行われ、高速試験そのものに保険を掛けることで決着した。 こうして、私鉄の車両が国鉄線上で高速試験を行うという、日本の鉄道史上で初めてとなる国鉄・私鉄合同の試験が行われることになった。試験の交渉窓口担当者として、山本が陣頭指揮にあたることになった。 ===記録達成=== 試験では輪重・車輪横圧・振動・走行抵抗・集電装置の離線・制動距離・風圧・ディスクブレーキの温度・電力消費量などの測定が行われることとなり、測定機器は国鉄で使用している最新の機器が使用された。風圧分布測定を行うためにSE車の正面10数箇所に1mm径の穴を開け、そこからゴム管でマノメータに接続した。また、車体表面の風圧については屋根に節型ピトー管を設置した。また、架線の状態監視には国鉄の走行試験では初めて工業用テレビが使用された。試験区間は、この当時に保線関係の新技術をテストする「モデル線」として整備されていた藤沢から平塚までの下り線を使用することになった。辻堂駅構内には渡り線の分岐器が存在したが、輪重抜けの危険を考慮して試験前に撤去された。 川崎車輛製の3011×8は同年8月8日に小田急線に入線したが、すぐには営業運行には入らず、1957年9月19日に小田原から自力走行で東海道本線に入線し、翌日の9月20日から試験が開始された。初日は藤沢と平塚の間で日中に試験が行われ、9月21日からは大船と平塚の間で深夜に速度試験が行われた。試験では、最初は95km/hで走行し、その後5km/hずつ速度を高くしていった。9月24日深夜には小田急線内での最高速度記録を超える130km/hを記録、さらに9月26日午前3時34分30秒には、当時の狭軌鉄道における世界最高速度である143km/hを記録した。この時には報道関係者も同乗しており、朝日新聞や毎日新聞では9月26日の夕刊で「東京と大阪を結ぶ特急電車計画の見通しがついた」と報道している。 しかし、SE車の設計最高速度は145km/hであり、試験の関係者は「一度は最高速度を出したい」と考えた。このため、翌日の9月27日からは、試験の区間をさらに長い直線区間があり、緩い下り勾配となっている函南と沼津の間に移し、日中に試験が行われた。この日は午前11時ごろから同区間を2往復試験走行した後に最高速度試験が開始された。函南を午後1時50分に発車したSE車は三島を100km/hで通過した後も加速を続け、午後1時57分に145km/hに達した。この瞬間に、9月26日の記録を上回る、狭軌鉄道における世界最高速度記録が達成された。この時、沼津で停止できなかった場合に備えて次の原まで線路を空けており、沼津では停止時に車両の横揺れがあってもプラットホームに接触しないように縁石を一部撤去していたが、いずれも杞憂に終わっている。 なお、9月26日までの走行試験のデータを検討した結果「150km/h程度までは問題ない」という結論に達していたことから、150km/hまで速度を上げようという意見もあったが、石原の「日本の動力分散化の成否に関わっている問題であり、何か故障が起きたら困る。ここまで行けば十分成功」という考えにより、150km/hでの走行試験は実施されずに終わっている。 ===新幹線開発へ=== この高速試験で得られたデータは、それまでの研究データの正確さを裏付けるものとなった。車輪横圧はそれまでの車両では4tだったのに対して最大でも2.5tという結果となり、脱線係数も小さかったために速度向上の余地が相当にあると判断された。日本で初の採用事例となったディスクブレーキについては、145km/hから停止までのブレーキの距離は1,000mを超えていたものの、ブレーキ圧力を上げれば短縮可能と報告された。一方、集電装置の離線率が高くなることについては今後の課題とされた。これらのデータは、その後の車両・軌道・架線などの設計や保守に役立った。 SE車の試験によって、三木の研究成果である「東京と大阪間を4時間半で結ぶ」という可能性は立証され、「東海道本線を広軌や標準軌の別線にすれば最高速度250km/hも可能」との裏付けが作られた。島は後年、この試験については「国鉄内部に対するプロパガンダであった」と述べており、国鉄側の責任者だった石原も、この試験について「将来は新幹線のようなものを電車でできると思い、これの成否のもとになると考えていた」と述べ、この高速試験が新幹線計画への布石だったことを認めている。また、車体設計に携わった三木も、後年「飛行機の設計をいかに鉄道に応用するかを研究し、まずSE車を設計、それから新幹線の設計に取り組んだ」と述べ、SE車が新幹線の先駆けとなった存在であることを認めている。 国鉄内部で設置されていた「電車化調査委員会」において、SE車の速度試験と、翌月に行われた90系電車(後の101系電車)による速度試験の結果を踏まえ、「軽量車両を使用することで、これまでの機関車牽引の特急では実現が困難だった高速サービスが可能」という検討結果がまとめられた。これを受けて、1957年11月12日に東京と大阪の間に電車特急を走らせることが決定した。この電車特急のために20系電車(後の151系→181系電車)の設計が開始され、1959年には完成した151系を使用して新幹線開発のための速度試験とデータ収集が行われることになり、その速度試験では、SE車の記録をさらに更新する163km/hの速度記録が打ち立てられた。 その後、新幹線の開発は本格化し、1963年には新幹線のモデル線区間で256km/hの速度記録が樹立された。三木は、そのモデル線区間での記録について「SE車の試験を元にした計算の通り」としている。 こうした経緯もあり、SE車は「新幹線のルーツ」や「超高速鉄道のパイオニア」とも言われるようになった。 ===波及効果=== 小田急においては、世界最高速度記録がマスコミで大きく取り上げられたこともあり、特急ロマンスカーの利用者数は急増することになった。 また、鉄道友の会ではSE車の世界最高速度記録を契機として、1958年より優秀な車両を表彰する制度としてブルーリボン賞を創設したが、当時の鉄道友の会理事会がSE車を高く評価していたため、SE車に対しては会員投票によることなく、理事会の決定において第1回ブルーリボン賞が授与された。 ===NSE車登場前後=== 速度試験は9月28日で終了し、3011×8は小田急線内に戻り、10月1日から箱根特急の運用に投入された。これによって、1700形は一般車に改造されることになった。 1958年7月19日、3021×8が走行中にデハ3026の台車からディスクブレーキが脱落する不具合が発生、この後8月7日までは編成を短縮した3021×5として運行した。同年8月には全編成に対して付随車の車軸に設置されたディスクブレーキをツインディスク式に改造し、あわせて台車のばねも交換された。 1959年2月12日には増備車として3031×8が入線し、同年2月28日から運行を開始した。3031×8の導入によって、箱根特急は全てSE車で運用することが可能となり、箱根特急のスピードアップが行われた。このため、2300形は準特急車に格下げされることになった。また、SE車はこの年から夏季に運行される江ノ島線の特急にも運用されるようになったほか、特殊急行「納涼ビール電車」にもSE車が使用された。この時期、3031×8については座席の表地を茶色系のチェック模様に変更していたが、1962年に他車と同様の青色系の表地に戻した。また、この時期に座席の背ずり形状などの改修が行われた。 一方、1958年以降には他の鉄道事業者で冷房装備の特急形電車の製造が行われていたことから、1961年にはSE車の冷房設置が計画された。車体が軽量構造であることから屋根上への冷房搭載工事は大改造となるため、床置き式の冷房装置を搭載することになり、1962年2月から設置工事が行われた。搭載する冷房装置は冷凍能力9,000kcal/hのCBU‐381形が採用され、1両に2台ずつ搭載し、冷房の設置箇所の側面にはよろい戸状の外気取入口が設けられた。設置に際しては各車両とも2脚ずつ座席が撤去されたが、この時に撤去する座席はトイレ前や売店前・出入り口脇など、乗客に好まれない座席を優先した。この改造に伴い、各車両とも定員が4名減少し、編成定員は316名となった。冷房装置の新設に伴い、3号車と6号車に出力60kVAのCLG‐326形電動発電機 (MG) が増設された。 なお、1961年にはシュリーレン台車を2400形(HE車)に振り替え、SE車には住友金属工業で新しく新造した台車を装着するという案もあり、実際に試験も行われているが、実現には至っていない。 1963年には集電装置の摺り板がカーボンからブロイメットに変更された。また、1966年には列車無線が新設された。 1963年にNSE車が登場し、その後1967年に箱根特急が全てNSE車で運用できるようになると、SE車は江ノ島線の特急「えのしま」や、1966年6月に新設された途中駅停車の特急「さがみ」に運用されるようになった。 ===編成短縮=== 1968年に御殿場線が電化されることにともなって、1955年からキハ5000形気動車により運行していた御殿場線直通の特別準急を電車に置き換えることになった。新型電車を製造する案もあったが、SE車を改造の上御殿場線直通列車に使用することにした。SE車は耐用年数を10年として製造された車両で、1968年の時点で既に10年を超えていたことから小田急の社内では反対の声があがったものの、当時は国鉄の組合闘争の激しかった時期で「NSE車が乗り入れてくれば反対する」という噂も聞こえ、国鉄側も過敏になっていたことから、在来車の改造で対応することにした。しかし、4編成では「えのしま」「さがみ」に加えて御殿場線直通の列車に使用するには編成数が不足するため、輸送力の適正化も考えて5両連接車×6編成に組み換えることとした。 改造内容は、まず8両連接車の編成から3両を外した5両連接車を4編成組成し、外した中間車を改造して5両連接車を2編成組成した。不足する先頭車4両は中間車に同一形態の運転台を新設した。台車の全数は電動台車24台・付随台車12台で変更されていないが、編成中間の3号車は両端とも付随台車となる車両となるため、新形式のサハ3000形となった。御殿場線の連続勾配区間に対応させるため、歯数比を80:19=4.21に変更し、これによって低下する高速性能を補うために弱め界磁を3段から4段に変更、最弱界磁率を50%から40%に変更した。また、全ての台車について車輪径を840mmから860mmに変更した。先頭形状は、愛称表示器をNSE車と同様の形態に変更し、前照灯は愛称表示器の両側に移設した。また、連結器設置がSE車の国鉄線へ乗り入れの条件とされたため、前面の連結器を電気連結器付密着連結器に変更し、着脱式の連結器覆いを設置した。トイレ・化粧室は2号車に、喫茶カウンターは3号車に位置を揃えた上、喫茶カウンターの面積を拡大した。保安装置については、国鉄のATS‐S形を設置し、先頭部に信号炎管を新設した。冷房装置については屋根上設置に変更、冷凍能力4,000kcal/hのCU‐11形集約分散式冷房装置を先頭車に6台・中間車に5台設置した。外部塗装デザインについても、NSEに準じたグレー部分の多い塗り分けに変更された。 これらの改造は日本車輌製造蕨工場で行われたが、この組成変更で32両中22両が改番され、余剰となった2両は廃車となった。 こうして、1968年7月1日からSE車は連絡準急行(1968年10月以降は連絡急行)「あさぎり」としても運用されるようになり、編成が短くなったことから ”Short Super Express” (略して「SSE車」)とも称されるようになった。この年にはOM‐ATS装置が設置された。また、1972年には保安ブレーキ装置の設置が、1973年には列車無線装置の更新が行われた。 その後、SE車は「さがみ」「えのしま」「あさぎり」を中心に運用された。NSE車の検査時にはSE車が箱根特急の運用に入り、また、多客時には2編成を連結した「重連運転」が行われることもあった。2編成を連結した場合、1号車から5号車が2両ずつになってしまうため、編成全体を「A号車」「B号車」と呼んで区別した。1977年から1980年にかけて内装が更新された。 しかし、1970年代に入り、もともと耐用年数を10年として製造されたSE車は老朽化が進んできたことから、1976年からはSE車の後継車として新型特急車両の研究が開始され、1980年にはLSE車が登場した。LSE車の導入によって、NSE車が検査入場した場合にSE車を箱根特急に使用することによる輸送力不足は解消された。 ===大井川鉄道への譲渡=== その後、LSE車の増備が進んだことから1983年3月に3001×5が廃車された。廃車された3001×5は動態保存車両として大井川鉄道(当時)に譲渡されることになった。 1983年4月15日付で大井川鉄道の車両として竣工、電動車の記号が「デハ」から「モハ」に改められた以外はほぼそのままの状態で、1983年8月よりロマンス急行「おおいがわ」として運行を開始した。車内では緑茶のサービスも行われたが、蒸気機関車牽引列車のSL急行ほどの集客ができず、1987年7月のダイヤ改正以降は運用から外れて休車となった。その後まったく利用されないまま、1992年3月に廃車となり、1993年4月に解体された。 ===運用終了まで=== 一方、小田急に残ったSE車も既に車齢25年を超えており、継続使用に反対する社内意見もあり、LSE車によって「あさぎり」に運用されているSE車を置き換える案もあった。しかし、これも当時の国鉄側の現場の反応などを考慮して、仕方なく継続使用することになった。 このため、1984年から3011×5を除く4編成に対して車体修理が行われた。外観上の変化は、側面窓を高さ650mm×幅680mmの固定窓に変更し、連接部の外幌をLSE車と同様のウレタン芯形とした点である。また、屋根上のクーラーキセを強化プラスチック (FRP) 製に変更した。室内については、一部の車両について座席表地をLSE車に準じたオレンジとイエローのツートーンとしたほか、化粧板は木目調から皮絞り模様に、天井板は白系のクロス模様に変更された。また、客用扉に電動ロック装置が設置された。 この時に車体修理対象から外れた3011×5については、他の4編成の更新が終了した後は後は運用には入らずに経堂検車区に留置された後、1987年3月27日付で廃車された。この編成は狭軌世界最高速度記録を樹立した車両であったことから、廃車後もしばらくは海老名検車区で保管されていたが、車両増備に伴う留置線不足などの理由により1989年5月に大野工場で解体され、保存には至らなかった。 残った4編成については、その後「あさぎり」を中心に使用されていたが、1987年に導入されたHiSE車が増備されたため、1989年7月15日からはSE車の定期運用は「あさぎり」だけとなった。 これより少し遡る1988年7月、小田急から東海旅客鉄道(JR東海)に対して、車齢30年を超えたSE車の置き換えを申し入れた。これをきっかけとして両社の間で相互直通運転に関する協議が進められることになった。この中で、2社がそれぞれ新型車両を導入した上で相互直通運転に変更することとなり、ようやくSE車の置き換えの方向性が見いだされた。 1990年年末にRSE車が入線し、1991年に入ってからは通常の愛称板ではなく「さよなら運転」のタイトルが入った愛称板も用意された。本格的な特急車両が格下げされずに運用から外れるのは小田急では事実上初めての事例であり、多くの鉄道ファンが沿線で撮影する姿が見られた。定期運用最終日である1991年3月15日の「あさぎり8号」は重連運用となり、SE車の定期運用最後の列車となる「あさぎり8号」の到着を見届けるため、新宿駅には多くの鉄道ファンが集まった。 定期運用から離脱した後もしばらくは波動輸送用として残されていたが、1992年3月にさよなら運転が行われた後に全車両が廃車となった。さよなら運転がおこなわれた3月8日は、くしくも同日に新幹線初の大幅モデルチェンジである300系の試乗会もあり、新旧の節目と報じられた。 耐用年数を10年として設計された車両であったが、山本の意志に反して35年弱もの長期間にわたって運用されたのである。 ==保存車両== 当初は保存の計画はなかったが、日本の電車の発達史における一大エポックメーカーとして、また産業考古学上も重要なものと認められ、保存の価値が十分にあると認識されたことから、役員会により1編成を永久保存することが決定した。 保存されることになったのは3021×5の編成で、新宿側の先頭部分を原型に復元し、デハ3021・デハ3022は塗装も変更された。1993年3月に復元が完了し、同年3月16日に海老名検車区へ輸送され、同年3月20日に保存用の車庫に収容された。この保存用の車庫は、構内の配置上から軌道敷設が出来ない遊休地があったことからこれを活用することになり、1億円の予算で新設された。収容時には一時的に待避線から仮設線路を接続し、関係者が人力でSE車を押して収容した。 2019年度中に車両基地のスペース確保の観点から中間車両2両が解体される予定である。 通常は非公開であるが、「ファミリー鉄道展」等のイベントで展示されることがある。2007年10月のファミリー鉄道展では、保存以来初めて屋外展示が行われた。 また、テレビ等で特別に公開されることがある。 このほか、1992年11月10日には大野工場の構内にSE車のモニュメントが設置された。 ==編成表== ===凡例 === Mc …制御電動車、M …電動車、T…付随車、CON…制御装置、MG…電動発電機、CP…電動空気圧縮機、PT…集電装置乗 …乗務員室、喫…喫茶コーナー、WC…トイレ・化粧室 ===8両連接車時代=== ===5両連接車時代=== =深海魚= 深海魚(しんかいぎょ、英: Deep sea fish)は、深海に生息する魚類の総称。一般に、水深200mより深い海域に住む魚類を深海魚と呼んでいる。ただし、成長の過程で生息深度を変える種類や、餌を求めて日常的に大きな垂直移動を行う魚類も多く、「深海魚」という用語に明確な定義が存在するわけではない。 ==概要== およそ15,800種が知られる海水魚のうち、少なくとも2,000種以上が深海魚に該当すると見積もられている。これらは海底付近で暮らす底生性深海魚と、海底から離れ中層を漂って生活する遊泳性(漂泳性)深海魚の2タイプに大きく分けられ、それぞれに含まれる種数はほぼ同数と考えられている。底生性および遊泳性深海魚の生活様式はそれぞれまったく異なり、また進化上の系統分類をよく反映していることから、深海魚の進化・生態を理解するために両者を区分して考えることは重要である。 太陽光の届かない深海には光合成を行う植物(海草・海藻や植物プランクトン)が存在しないため、深海における食物連鎖の基礎を支えるのは浅海の動植物である。浅海で消費されなかった生物の遺骸や排泄物は、マリンスノーとなって沈降し、最終的に深海に降り積もる。これらの沈み行く有機物はオキアミやクラゲなど浮遊性の深海生物に消費されるほか、深海底に堆積した後は貝類やナマコ、クモヒトデなどの底生生物のエネルギー源として利用される。彼ら自身は(深海魚を含む)さらに大型の深海生物によって捕食され、深海での食物連鎖を形成する。 深海は極度に高い水圧と低水温に阻まれた暗黒の海域である。また、利用可能な総エネルギーは浅海で生産されるうちのごく一部に過ぎない。深海魚はこの極限とも言える環境に適応するため、浅海の魚類には見られない特殊な身体構造および生活様式を獲得している。地表面の7割を覆う海の平均水深は約3,800mに達し、200m以深の深海は体積比で実に93%を占める。地球で最大の生物圏を構成する深海の環境と、そこに広がる生物多様性を理解する上で、深海魚研究の果たす役割は大きい。 ==研究史== ===深海生物の存在=== 深海はその過酷な環境と広大な範囲のため、浅海と比べて観察・研究が困難であり、生物が存在するかどうかは長く不明であった。イギリスの博物学者であるエドワード・フォーブスは、1839年に行った調査船による観測結果を元に、「深海(300ファゾム=水深548m以深)には生物が存在しない」という「深海無生物説」を提唱した。しかし、その後の底引き網や海底ケーブルを用いた各国の調査により、深海から相次いで生物が採取され、この説はすぐに否定されることになる。 深海生物の存在を決定的に証明したのは、1872年から1876年にかけて行われた英国海軍のチャレンジャー号による大規模な世界一周探検航海である。この航海がもたらした膨大な海洋学的研究成果をきっかけとして、各国の海洋調査は本格化し、深海魚研究の歴史も幕を開けた。 ===深海探査艇の登場=== 生身の人間が直接大深度に潜行することはできないため、深海探査には常に困難が付きまとう。漁網中に混獲されたり、海岸に打ち上げられたりした深海魚も時として貴重な標本となったが、彼らが実際に生きている姿(生息環境や生態)を伝える情報は損なわれていることが多かった。19世紀後半以降、ワイヤーロープや底引き網の改良により大深度からの標本採取が可能になったものの、深海魚を直接観察することは依然容易ではなかった。兵器としての潜水艦は第一次世界大戦時には既に実用化されていた一方で、学術目的での潜水機器開発は遅れていたのである。 1928年、有人の潜水球(バチスフェア)が開発され、ようやく深海魚の観察が可能になった。バチスフェアは無動力ではあったが、深度923mまでの潜水に成功している。そして1948年、オーギュスト・ピカールにより自前の動力を有した深海探査艇、バチスカーフが建造された。バチスカーフは複数の後継機が作られ、深海魚の生態観察や大深度での標本採集に強力な手段を提供した。20世紀後半から現代にかけては、日本のしんかい6500、ロシアのミール、フランスのノティールおよびアメリカのアルビン号などによる調査を通じ、深海魚の生活様式・環境への適応についての情報が蓄積されつつある。 ===世界最深の魚類=== 1960年、バチスカーフの後継機の一つであるアメリカのトリエステ号が、当時既に世界最深地点として知られていたマリアナ海溝のチャレンジャー海淵を目指して有人潜航を行った。乗船していたジャック・ピカール(オーギュストの息子)は、到達した最深地点(水深10,900m前後)で「シタビラメに似たカレイの一種」を目撃したと報告した。一方、日本の無人探査艇「かいこう」が1998年に行った調査では、同地点で魚類を確認することはできなかった。21世紀初頭時点では、ピカールによる「目撃報告」は疑問視され、ナマコの一種を見間違えたのではないかと考える研究者もいる。 日本のNHKが、海洋研究開発機構(JAMSTEC)のチャレンジャー海淵調査について2017年8月27日放映したテレビ番組「DEEP OCEAN超深海/地球最深(フルデプス)への挑戦」によると、チャレンジャー海淵の底ではナマコ類やエビ類は撮影されたものの、魚類は写っていなかった。 確かな科学的裏付けを持つ例として、これまでに最も深い場所から採集された深海魚はアシロ科(アシロ目)のヨミノアシロ (Abyssobrotula galatheae) である。デンマークの調査隊がプエルトリコ海溝の水深8,372mから本種を引き揚げたのは1952年のことで、学名には当時の調査船ガラテア (Galathea) 号の名前が冠されている。他に、クサウオ科(カサゴ目)のシンカイクサウオおよびアシロ科のソコボウズが7,000m以深で観察されている。 海洋研究開発機構(JAMSTEC)の調査船「かいれい」の機器が2017年5月、マリアナ海溝の水深8178mにおいてシンカイクサウオの採餌行動の撮影に成功した。2017年8月時点で、これが生きた魚類の映像の最深記録である。 ===捕獲技術の進展=== 深海魚が獲得した低水温・高圧力環境への適応能力を解析するためには、できるだけサンプルを生きたまま捕獲し、地上の研究施設で長期間飼育できることが望ましい。捕食や産卵のために浅海に移動する種類は、通常のアクアリウム設備でもある程度の飼育が可能であるが、実際の生育環境における振る舞いが再現される保証はない。 しかし、深海魚を生体のまま捕獲することには実際上の多くの困難がある。最も重要な問題は浮上に伴う急激な減圧と海水温の上昇であり、多くの場合深海魚に対して致死的なダメージを与えることになる。また、強すぎる環境光や捕獲そのものによるストレスが、視覚や生理調節機能に影響を及ぼす可能性もある。 深海探査技術の発展とともに捕獲機器の開発・改良も進み、1970年代には低水温維持機能が備えられるようになった。1979年に報告された高圧維持水槽は1980年代にかけて改良が重ねられ、ソコダラなど浮き袋が発達した底生性深海魚の生体捕獲を可能としたが、長期的な飼育維持は依然として困難な状況が続いていた。 2000年代初頭に日本の海洋研究開発機構 (JAMSTEC) によって開発された「ディープアクアリウム」は、深海魚の捕獲と高圧下での飼育を単独で行うための装置である。中心部分となる水槽は高圧に耐えるため球形をしており、200気圧の水槽内圧を維持できる。深海探査艇に搭載したディープアクアリウムで深海魚を捕獲した後は、水槽内部の高圧環境を維持したまま地上に運搬、飼育を行うことが可能である。水交換や給餌も減圧を起こすことなく可能で、深海生物研究の新たな手段として期待されている。 ===深海魚研究の課題=== 深海の生物学的環境は表層における海流や季節性変化、陸地からの物質供給に大きく依存しており、深海魚の生態を海洋環境と結び付けて理解するためには広範囲かつ経時的な調査が求められる。また、底引き網による乱獲がタラ類など大陸棚周辺に生息する一部の食用種を激減させていることが報告されており、漁業上重要な深海魚の資源調査の必要性が指摘されている。 しかし、特殊な探査艇・採集機器を使用する深海魚の調査は多大なコストを要し、大規模で長期間にわたる生態調査のデータは非常に乏しいのが現状である。個々の種類を詳細に調べる手段の進歩とは対照的に、全体的な生態調査という面では依然立ち遅れている。トロール網のわずかな改良がまったく異なる漁獲結果を導くこともあり、統一的なサンプリング手段の確立が望まれている。 ==深海魚の分布== ===水平分布=== 海洋は大陸棚の縁を境として、陸に近い沿岸域と、陸から遠く離れた外洋に水平区分される。深海には光合成を行う植物のような基礎生産者が存在せず、深海生物のエネルギー源となる有機物は主に浅海と陸地から供給される。このため、一般的に深海魚(および他の深海生物)は陸に近い海域ほど多く、外洋に出るほど少なくなる。また、熱帯域の外洋では対流が起きないため表層の生物が少なく、利用可能な堆積物に乏しい荒涼とした海底が広がることもある。 海底地形の特徴はそれぞれの地域によって異なり、底生性深海魚の分布に大きな影響を与える。一方で、深海中層の環境は比較的安定し均質であるため、遊泳性深海魚は広範囲な分布域を持つ種類が多い。三大洋(太平洋・インド洋・大西洋)すべてに分布する深海魚も少なくなく、汎存種(汎世界種)と呼ばれる。遊泳性深海魚の生物群系は主に気候や大陸・島嶼地形の影響を受けながらおよそ20に分類され、これは他の生物群と比較して著しく少ない区分数である。ハダカイワシやムネエソ類など、大陸棚に沿った分布域を示す遊泳性深海魚を、「pseudoceanic(偽外洋性)」と特に区別して呼ぶこともある。 ===鉛直分布=== 海を深さによって鉛直方向に区分した場合、表層・中深層・漸深層・深海層・超深海層に分けられる。この区分は、漂泳区分帯と呼ばれることもある。一般に、中深層以深に主たる生息水深を持つ魚類が深海魚として扱われる。 ===中深層=== 中深層(水深200‐1,000m)には、光合成を行うには不充分ながらも、わずかに日光が届く。主要な温度躍層(水温が急激に変化する層)のほとんどがこの領域に存在し、その下には物理的に安定で変化の少ない深海独特の環境が広がっている。 中深層の遊泳性深海魚はこれまでに約750種類が知られ、ワニトカゲギス目に属するヨコエソ科・ムネエソ科・ワニトカゲギス科魚類と、ハダカイワシ目のハダカイワシ科魚類が種類と数の両面で卓越している。これらのグループは極圏の海を含めた全世界の海洋に広く分布し、その生物量は莫大である。特にオニハダカ属(ヨコエソ科)の仲間は、地球上の脊椎動物として最大の個体数を持つと考えられている。 底生魚としては軟骨魚類であるギンザメ目・ツノザメ目の仲間に加え、ソコダラ科・チゴダラ科(タラ目)、アシロ科(アシロ目)およびトカゲギス科(ソトイワシ目)が支配的である。他にもチョウチンハダカ科(ヒメ目)、クズアナゴ科(ウナギ目)や、ゲンゲ科(スズキ目)など、深海の中では比較的多様な魚種が観察される領域である。 底生性深海魚の生息範囲は水深よりも海底地形に強く影響され、漸深層にまたがって分布する種類も多い。深海性の底生魚は、中深層と漸深層以深を合わせて1,000種以上が記載されている。 ===漸深層=== 漸深層(水深1,000‐3,000m)は光の届かない暗黒の世界である。水温は2‐5℃で安定している一方、生物が利用できる有機物の量は表層の5%にも満たず、深度とともに急速に減少してゆく。漸深層の遊泳性深海魚には、少なくとも200種が含まれる。種数の上ではチョウチンアンコウの仲間が優勢であり、他にはクジラウオ科(クジラウオ目)・セキトリイワシ科(ニギス目)やフウセンウナギ目の魚類およびオニハダカ属の一部が生息する。ソコダラとトカゲギス類はこの領域でも数の多い底生性深海魚で、他にはホラアナゴ科(ウナギ目)、アカグツ科(アンコウ目)などが分布する。 ===深海層=== 深海層(水深3,000‐6,000m)になると水温は1‐2℃程度にまで下がり、ほとんど変化しなくなる。300気圧を超える水圧は、生物の細胞活動に影響を与える。遊泳性深海魚はほとんど姿を消し、アシロ科・クサウオ科・ソコダラ科の底生魚が見られるのみである。 ===超深海層=== 超深海層(6,000m以深)は海溝の深部に限られ、全海底面積の2%に満たない。水圧が600気圧を超えるこの海域に暮らす深海魚は、深海層と同様にソコダラ科、クサウオ科およびアシロ科に属するごく一部の底生魚しか知られていない。 ==身体構造== 深海には太陽の光がほとんど届かないほか、高水圧、低水温、低酸素濃度、利用できる有機物が少ないなど、生物にとって過酷な条件が揃っている。深海生物に共通して見られる高水圧への適応として、細胞膜の流動性および圧力に対する酵素の感受性が低下していることが挙げられる。以下には、深海魚が持つ特殊な身体構造について記す。 ===骨格・筋肉=== 魚類の身体中に含まれるタンパク質や骨格の比重は、通常は海水より大きい。浅海魚は遊泳に伴う揚力や浮き袋への吸気で浮力を得ているが、利用可能なエネルギーに乏しい深海では、深海魚は極力遊泳せずに浮力を確保する必要がある。多くの深海魚では骨・軟骨および筋肉など体内の高密度組織が減少しており、代わりに低比重の水分と脂肪分を多量に含んでいる。腹鰭とその支持骨格、あるいは頭部の骨格を退縮させたものや、鱗・棘条を持たない種類も多く、軽量化に向けた一つの手段と見られている。 ===浮き袋=== 浮き袋(鰾)は浅海魚が浮力を得る一般的な手段であるが、深海では極度の高水圧のため、通常のガス交換による浮き袋の機能には期待できない。高水圧と急激な圧力変化に耐えるため、深海魚には浮き袋の壁を頑丈なグアニン結晶で覆う、あるいは内容物を気体ではなく脂肪やワックスに置換するなどの適応が見られる。特にハダカイワシ類のように、餌を求めて深海と浅海を往復する習性を持つ深海魚は、毎日数百気圧に及ぶ圧力変化を受けることになる。彼らは遊泳性深海魚の中では比較的発達した浮き袋を持ち、奇網(ガス交換に寄与する微細な血管網)は浅海魚に比べ非常に長く、一部の種類では中身を脂肪で満たしている。 深度が大きくなるに従って、高水圧に逆らいガス交換(特に分泌)を行うことへの負担も増大する。中深層遊泳性の深海魚(浅海への移動を行わないグループ)では浮き袋は一般に退化的であり、さらに深度を増した漸深層では浮き袋をもたない種類が多い。一方で底生性魚類は、海底付近からあまり離れず急激な圧力変化を受けないためか、大深度でもよく発達した浮き袋を持つ場合がある。 ===眼球=== 透明度にもよるが、水深1,000m程度まではかろうじて太陽光が届くため、この領域に住む深海魚には体に対して非常に大きな眼球を持つものがいる。さらにデメエソ科・ムネエソ科・ヨコエソ科魚類など少なくとも11科の深海魚は、眼を管状に変形させた管状眼を持つ。深海に達する光は散乱と屈折のため、太陽の位置に関係なく常に真上から降り注ぎ、日没まで光量の変化も少ない。ボウエンギョ科など一部の例外を除き、ほとんどの管状眼は真上を向いており、海面方向からの光に対応している。 なお、同様に暗黒条件下の洞穴生物では、深海魚とは対照的に眼が退化した例が多い。深海魚の場合、洞穴とは異なりわずかながら光が差し込むこと、種によっては浅海への移動があること、発光生物が多いことが影響していると考えられる。 1,000m以深の漸深層は光がまったく届かない暗黒の世界で、この領域には落ち窪んだ小さな眼を持つ深海魚が多い。ソコオクメウオ科のように目が皮膚の中に埋もれてしまったもの、チョウチンハダカのように板状の網膜しか残っていない深海魚もいるが、光を検出する機能は依然として残されており、退化ではなく特殊化と捉える方がより適切と考えられている。漸深層においてまばらに明滅する生物発光を捉えるためには、先細りの小さな眼球の方が適しているという報告もある。これらの眼は通常の眼よりも空間分解能に優れ、20‐30m程度離れた場所の発光を捉えるのに適しているとされる。遊泳力の低い深海魚にとって、視野を比較的狭い範囲に限定することは、エネルギー効率の面で合理的である。 ===消化器=== 魚食性の遊泳性深海魚には、体のサイズと比較してかなり大きな口や歯を備えたものが多い。並外れた大きな口の持ち主として、フウセンウナギ目に属するフウセンウナギ・フクロウナギの仲間が特に知られている。彼らは一見すると頭が異常に大きいように見えるが頭蓋骨は小さく、大きな口は極端に発達した顎の骨に支えられている。フウセンウナギが鋭い歯を持ち大型の獲物を飲み込むのに対し、フクロウナギの顎には歯がほとんどなく、小型の魚やプランクトンをかき集めて食べている。 発達した歯列もまた魚食性深海魚の特徴であり、オニキンメ(オニキンメ科)など鋭い牙状の歯を持つものもいる。ワニトカゲギス・チョウチンアンコウ類の一部には、内側に折れ曲がった歯を持つものがあり、捕えた獲物を逃しにくい構造になっている。 チョウチンアンコウ類やクロボウズギス科の魚など、食道や胃を大きく拡張させることのできる深海魚もいる。オニボウズギスは自分の何倍もある獲物を飲み込むことが可能で、腹部を異常に膨らませた状態で捕獲されることがある。また、メラニンなどの色素沈着によって、黒色化した腸管を持つ深海魚も珍しくない。発光生物を捕食した際に、消化管を透過した光が外敵を誘引することを回避しているものと見られる。 継続的な捕食を行うことが難しい深海の環境では、エネルギーを効率的に蓄えることが課題となる。肝臓は深海魚にとって重要なエネルギー貯蔵器官であり、シンカイエソ科などは非常に大きく脂質に富む肝臓を備えている。ヨロイダラ(ソコダラ科)の肝臓もまた脂質・グリコーゲンを豊富に含み、およそ180日間は餌がとれなくとも生命を維持できると推定されている。 脂質は海水よりも比重が小さいため、肝臓に多量に脂肪分を蓄えることは浮力の確保にも貢献する。アイザメ科・カラスザメ科(ツノザメ目)など、浮き袋を持たない深海性の軟骨魚類には、ときに体重の25%にも及ぶ巨大な肝臓を持つものがある。 ===体色=== 深海の中では比較的明るい中深層に住む魚類では、体表面の銀化による擬態が見られる。ムネエソの仲間は厚さ数ミリの平べったい体を持ち、表面はアルミホイルのような光沢のある銀色を呈している。彼らの体表面にはグアニンによる微小な反射性結晶が何層にもわたり規則的に並んでおり、鏡のように光を反射して捕食者に自らの姿を認識されないようにしている。ムネエソ類の一部は夜間には反射効率を低下させ、生物発光の反射による発見の危険性を減らすことができる。 水深600m付近から、深海魚の体色は銀白色から鉛色へと急速に変化し、1,000mの漸深層に達するとほぼ均一に暗色となる。クジラウオ類の多くは鮮やかな赤い体色をしているが、青い波長の光しか届かない深海においては、黒色同様ほとんど目立たないと考えられる。 ===誘引突起・擬餌状体=== アンコウ目魚類の背鰭の第1棘条は釣竿状に変形しており、誘引突起(イリシウム)と呼ばれる。誘引突起の先端にある房状に膨化した部分を擬餌状体(エスカ)と呼び、アンコウ類は擬餌状体を餌のように動かして獲物をおびき寄せる。漸深層遊泳性のチョウチンアンコウ上科の仲間では、擬餌状体が共生発光器官として機能することも多い。また、オニアンコウ科の深海魚は複雑に分岐した顎鬚のような構造を持ち、やはり餌の誘引に用いると考えられている。 ==発光== 生物発光は発光基質(ルシフェリン)と発光酵素(ルシフェラーゼ)の化学反応によって起こる発光現象で、多くの深海生物が持つ重要な特徴の一つである。深海魚も例外ではなく、大西洋北東部における調査では、500m以深に住む深海魚の7割、個体数にして9割以上が発光するとされる。深海魚による生物発光には、発光バクテリアを体内に住まわせることによる共生発光と、自身が発光基質を作り出す自力発光とがある。発光器官の位置は眼の周囲・鰭や口ヒゲの末端・腹部・尾部・肛門周囲などさまざまで、数や形態とともに重要な分類形質として利用される。 ===共生発光=== このタイプの発光を行うのは比較的少数の深海生物であり、遊泳性の深海魚ではチョウチンアンコウとニギス目の一部、底生性魚類ではソコダラ科・チゴダラ科の仲間が代表的である。このうちチョウチンアンコウ類を除く3グループの発光器は消化管から連続して発達しており、腸内細菌叢で維持された発光バクテリア(主に Photobacterium phosphoreum)が持続的に補給されていると見られる。発光器の数は少なく、通常1‐2個である。 チョウチンアンコウ類の発光器官は擬餌状体に位置し、消化管とは連続していない。彼らの「提灯」を光らせる発光バクテリアがどこから来ているのかは不明である。ビブリオ属の細菌であることは判明しているものの、2001年時点で人工培養には成功していない。 ===自力発光=== 深海魚を含めた多くの深海生物は、自分自身で産生したルシフェリンを利用する自力発光を行う。一般に発光器の数は多く、数百から数千に達することもある。発光器の開口部にレンズやフィルター状の構造を伴う場合もあり、光量や照射方向、発光色の調節に役立っている。 深海に届く光は緑や青の波長に限られるため、多くの深海魚の目は青い光だけを感知できるようになっているが、ワニトカゲギス科に属するホテイエソ亜科およびホウキボシエソ亜科の魚類には、例外的に赤い光を認識できるものがいる。彼らは発光器を覆う特殊なフィルターを使い、自身で赤い光を発することも可能である。獲物や他の捕食者に認識できない赤色光を使うことは、捕食や繁殖を行う上で有利に働くと思われる。 ===発光の機能=== ====カウンターイルミネーション==== 深海といえども、水深1,000m程度まではごくわずかに光が差し込む。そのため、日中に下から海面を見上げたとき、上部にいる生物の影が浮かび上がることになる。腹部に発光器を配置し、降り注ぐ光と同じレベルに輝度を調節すれば、このシルエットを消すことが可能になる。これをカウンターイルミネーションと呼び、中深層遊泳性の深海魚のほとんどがこの方法を利用している。完全に暗黒の領域となる1,000m以深ではカウンターイルミネーションの効果が期待できないためか、漸深層の深海魚には腹部の発光器はあまり見られない。 ===捕食=== 餌となる生き物を照らし出すことが、生物発光の捕食における基本用途であり、多くの深海魚がこの種の発光を行う。ほとんどのワニトカゲギス科魚類は眼の直下、あるいは後部に大型の発光器を備えており、彼らの視界を明るく照らしている。一方、餌を誘引するための発光を行う深海魚も多い。チョウチンアンコウ類は擬餌状体の先端で共生発光を行って獲物を誘引するほか、オニアンコウ科のように複雑に分岐した顎髭のような自力発光器官を持つものもいる。また、ムネエソ属やクロボウズギス属などいくつかのグループは、口の中に発光器官を持つ。 ===コミュニケーション=== 浅い海に暮らす魚が群れを作るために集合する際には、視覚に加えて反射光が利用されている。深海魚もこれに似て、生物発光を集団の維持に用いていると考えられている。中深層で群れを成すハダカイワシ類は、カウンターイルミネーションのための腹部の発光器の他に、頭部や尾部にも発光器をもっている。発光器のサイズ・位置・数は雄と雌で異なる性的二形を示し、両性のコミュニケーションに使用されている可能性がある。ワニトカゲギス類の眼後発光器も、雌よりも雄のほうが大きいことが多い。 ===防衛=== ワニトカゲギス科に属する一部の深海魚は、防御的な強い閃光を発することができる。非常に明るい光を出すことによって、捕食者を気絶させることさえある。ハナメイワシ科(ニギス目)の魚は鰓(えら)の下から発光液を分泌し、捕食者の目を引きつけるダミーの役割を果たすと考えられている。 ==生態== 深海魚の生態には、過酷な深海の環境に適応した独特の様式が数多く見られる。深海の生物密度は浅海と比べて極端に低く、個体を維持するための捕食行動を効率よく行うこと、それと同時に余分なエネルギー消費を最低限に抑えることが求められる。また、生息範囲と個体数の問題から、深海では雄と雌との繁殖の機会が非常に少ない。こうした条件下で確実に繁殖・成長を行う戦略を立てることは、種としての存続を図るためには必須の適応である。 ===食性=== 深海魚の捕食シーンを観察することは容易でないため、彼らが何を食べて生きているのかという問題は胃内容物を直接調べるか、身体構造・寄生虫などの間接的な情報から推測されることが多い。大深度から引き揚げられた深海魚は浮き袋の膨張・反転により、消化管内容物が漏出していることがしばしばある。また、大型の捕食魚は餌をとる頻度がかなり低いと見られ、胃の中が空っぽというケースが大半である。 このように、直接的な胃内容物の情報は限定的であることも多いが、胃内に残る生物以外の堆積物から、深海魚の食性をある程度推測することは可能である。ある深海魚の胃から砂粒が見つかるなら、その魚は直接あるいは間接的に砂泥中の生物を利用していることが分かるし、逆に堆積物がまったくないならば、これらの生物への依存度が低いと考えられる。同じソコギス亜目に属する底生魚であるトカゲギス科・ソコギス科がこのような関係にあり、系統的に近い両グループの食性が大きく異なっていることが分かる。 ある種の寄生虫が持つ厳密な種特異性(特定の中間宿主・終宿主のみに感染すること)もまた、深海魚の食性を調べるために利用されている。一部のソコダラ類に感染している寄生虫から、彼らがその中間宿主であるヨコエビ(端脚類)やアミ類を食べていることや、ソコガンギエイ属の1種(Bathyraja richardsoni)がヨロイダラを捕食していることなどが推測されている。 小型の遊泳性深海魚には動物プランクトン(特に甲殻類)を主食とするものが最も多い。クラゲ(刺胞動物)・サルパ(尾索動物)類は深海で比較的豊富に存在する生物群であるが、これらのゼラチン質生物を主食とする深海魚は少なく、セキトリイワシ科・デメニギス科およびソコイワシ科(いずれもニギス目)などごく一部に限られる。栄養価の低さから避けられているのか、速やかに消化されてしまい単に胃内容物として認識されないためかは不明である。クラゲ類を専食する深海魚の口腔および食道は厚い結合組織に覆われており、刺胞毒による傷害から身を守っている。中 ‐ 大型の遊泳性深海魚はワニトカゲギス類をはじめとして魚食性の種類が多く、数の豊富なハダカイワシ類が重要な餌生物となっている。 海底に沈降した大型生物の死骸もまた、深海生物の重要な食料となる。無顎類に所属するヌタウナギ科の仲間や、ホラアナゴ科のコンゴウアナゴは、こうした遺骸を専食する腐肉食性の深海魚である。死体に集まるヨコエビ類を狙うことで間接的に生物遺骸を利用するものも多く、ソコオクメウオ科(アシロ目)やクサウオ科、ゲンゲ科の一部(コンニャクハダカゲンゲ属)などが知られている。こうした腐肉利用性の深海魚の体は一様にゼラチン状でぶよぶよしており、摂食時以外はほとんど動かず静止するか、海底直上を流れに任せ漂っている。彼らの身体組成と低い運動性は、大型遺骸の沈降という予測不能かつ低頻度な捕食機会に対するエネルギー的適応と見られている。 ===日周鉛直移動=== 昼間は深海に住む魚が、夜間に餌を求めて浅海に移動することを日周鉛直移動(英:diel vertical migration)と呼び、中深層遊泳性の深海魚に多く見られる特徴である。深海魚に限らず、ヤムシやカイアシ類などの動物プランクトン、サクラエビなど多くの深海生物が日周鉛直移動を行う。日周鉛直移動を行う深海魚は比較的発達した浮き袋を持ち、一部の種類では鉛直移動に伴う水圧の変化に対応するため、空気の代わりに脂肪を蓄えるなどの適応が見られる。 主に中深層に生息するハダカイワシ類は日周鉛直移動を行う深海魚の代表的存在で、水深1,000mまでに分布する多くの種類が、夜間は海面に向かって移動する。深海での生息範囲と、浮上して餌をあさる水深は種類ごとに異なっており、互いに競合しないよう住み分けを行っている。この住み分けは「鉛直移動の梯子(ladder of migrations)」とも呼ばれ、浅海の有機物を速やかに深海に運搬する重要なメカニズムとして機能している。 底生性深海魚の胃内容物からもしばしば遊泳性魚類が見出されることから、これらの深海魚も中層に餌を求めて鉛直移動を行うと考える研究者もいる。遊泳性魚類の方が海底に接近している可能性も指摘されているが、実際にソコダラ科の1種 (Coryphaenoides rupestris) が、海底から離れた中層トロール網によって多数漁獲された例がある。 ===繁殖行動=== 繁殖行動の適応はソコダラなど活発に泳ぐ底生魚よりも、チョウチンハダカのような待ち伏せ型の底生性深海魚および中層を遊泳する深海魚に顕著に認められる。タラ目やソコギス科など一部の深海魚の繁殖活動には明瞭な季節性があり、これらの仲間は浅海の生物生産が盛んな時期に合わせて産卵を行う。一般に遊泳性深海魚は小型で大量の卵を産み、底生性魚類の卵は大型だが数が少ない傾向がある。 ===雌雄同体・性転換=== 雌雄同体であれば、2匹が出会いさえすれば繁殖が可能となる。両性の生殖腺を維持する必要があるため、エネルギー面の負担は大きくなるが、個体密度の低い深海魚にとってはメリットが大きい。ヒメ目に所属するフデエソ科・ミズウオ科・チョウチンハダカ科・シンカイエソ科の深海魚はいずれも雌雄同体である。同じくヒメ目のアオメエソ科では、深海性の種類は雌雄同体であるのに対し、浅海種は両性に分かれる。 性転換をする魚類は浅海魚からも知られているが、深海魚にも同様の繁殖様式が見られる。浅海魚では雌から雄に性転換する雌性先熟が多いのに対し、深海魚ではオニハダカ属やヨコエソ属など、雄から雌に性転換をする雄性先熟がしばしば見られる。主に中深層に生息するヨコエソ属の魚類は生後1年目まではすべて雄だが、概ね2年目までには雌に性転換をする。 このような雄性先熟は、浅海魚ではクマノミなどに見られる。雄が縄張りやハーレムを形成する魚種では、雄が大型化する雌性先熟が有利であるが、個体群密度が非常に小さい深海においてはこのような行動様式を取ることは難しい。一般に精子よりも卵を作る方が多くのエネルギーを必要とする(雌の方が性成熟が遅い)ことから、深海魚にとっては雄性先熟による繁殖が有利になると考えられている。 ===矮雄=== 矮雄(わいゆう)とは雌に比べて極端に小さな雄のことで、特にチョウチンアンコウ上科に多く見られる。チョウチンアンコウ類の雄は、雌の3分の1から13分の1程度にしか成長しない。ミツクリエナガチョウチンアンコウ科・オニアンコウ科など少なくとも4科の矮雄は雌に寄生する習性を持ち、当初は自由生活を送っている雄は、雌を見つけると腹部に食いつき一体化する。雄はその後、栄養を雌の皮膚から伸びた血管を通じて得るようになる。自力で泳ぐ必要がないため雄の眼や鰭は次第に退縮する一方、生殖に必要な精巣の機能は保持されている。雌と矮雄の結合が、互いの性成熟を達成するための必要条件になっている場合もある。 矮雄を持つ他の深海魚としては、ミツマタヤリウオ属とオニハダカ属の一部(ワニトカゲギス目)、およびクジラウオ科の仲間が知られ、いずれも雌への寄生はしない。ミツマタヤリウオ (Idiacanthus antrostomus) は50cmほどに成長する雌に対して雄は5cm程度にしかならず、歯と消化器官は貧弱で自力で餌をとることはほとんどできない。眼下発光器と精巣は発達していることから、普段はエネルギー消費を抑えて浮遊しており、発光で雌を呼び寄せるものと考えられる。 このように雌ではなく雄が小型化するのは、上述の性転換の場合と同様で、繁殖には雌の方が多大なエネルギーを要することが理由となっている。矮雄は雌を求めて比較的長い距離を遊泳する必要があるため、持久力の高いいわゆる赤身の筋繊維が発達している。また、ほとんどの矮雄は雌よりも発達した高精度の嗅覚と、わずかな光を鋭敏に捉える視覚を持ち、雌の位置を特定するために役立てている。 ===成長=== 生物は成熟するまでに、多くのエネルギーを必要とする。深海では充分な食料を得ることが難しいため、深海魚は浅い海で幼生時代を過ごすことがしばしばある。スケトウダラのように浅い海で産卵するものと、チョウチンハダカのように深い海で産卵し、自然に浮上するに任せるものがある。 表層で成長する深海魚の仔稚魚は、外敵に見つかりにくい透明な体を持つなど、成熟後の姿とは似ても似つかぬ特異な形態をとることがしばしばある。チョウチンハダカやミツマタヤリウオの仲間の仔魚は、鰭や眼球など体の一部を細長い突起のように伸ばしている。また、ワニトカゲギス科・ハダカイワシ科の一部の仔魚は腸管を体外に露出させ、体長の数倍に及ぶ長い腸をぶら下げて遊泳する。このように体の一部を伸ばした形態は浮遊生活への適応と見られ、体表面積を拡大させ浮力を高める効果を持つ。また、露出した消化管は腸の表面積を広げ、大きな獲物を消化吸収できるようにするなどの意味があると見られている。 浅海で成長した深海魚は変態を行って成魚とほぼ同じ姿の稚魚となり、本来の生息場所である深海へと移動する。寒冷で餌の少ない環境で過ごす深海魚の成長速度は遅く、特に底生魚では寿命も長いと考えられている。深海魚の年齢は他の魚類と同じく、耳石や鱗に刻まれた同心円状の模様によって推定できる。しかし、成長周期の季節的変化に乏しい深海魚の耳石に明瞭な年輪が形成されることはまれで、年齢推定はごく微小な日周輪によって行われる。 ミナミシンカイエソ(シンカイエソ科)やセキトリイワシ科の1種 (Conocara macropterum) は小型の稚魚と大型の成魚のみが突出して多く、両者の中間にあたるサイズが非常に少ないという二峰性の体長分布を示す。これらの魚類は稚魚期に何らかの原因による選択的捕食を受け、この時期を生き延びたものだけが急速な成長を遂げるものと見られる。 ===遊泳行動=== 中層で生活する遊泳性深海魚は、エネルギー消費を抑えるためかあまり活発に動き回らないものが多い。中深層に分布する小型の被捕食魚であるハダカイワシやオニハダカの仲間には、普段は立ち泳ぎをするような姿勢でじっとしているものがいる。これは自分の影をできるだけ小さくすることで、捕食者に見つかりにくくする効果があると考えられている。 中深層に多いワニトカゲギス類、および漸深層に幅広く分布するチョウチンアンコウ類は、遊泳性の待ち伏せ型 (float‐and‐wait) 捕食魚の代表である。後者はシダアンコウ科など一部を除いて丸みを帯びた球状の体型をしており、浮力の維持には向いているが素早い遊泳には適していない。彼らの筋肉はいわゆる白身であり、瞬発力に優れるものの持久力はほとんどない。積極的に餌を探す狩猟採集型 (active foraging) の遊泳性深海魚としては、ミズウオ科・クロボウズギス科などが知られる。 底生性の深海魚には、ナガヅエエソ(チョウチンハダカ科)やアカグツ(アカグツ科)、あるいはノロゲンゲ(ゲンゲ科)のように海底と物理的接触を持ち、静止して餌を待つもの (benthic fish) と、ソコダラ・アシロ・トカゲギス・ホラアナゴ・サメ類など活発に泳ぎまわり餌を探すもの (benthopelagic fish) がいる。 待ち伏せ型 (sit‐and‐wait) の底生魚は一般に筋組織の発達した体格を持ち、浮き袋を欠くことが多い。魚食性の種類は長い歯の並ぶ大きな口と眼を備える一方、プランクトン食性の魚類の眼は退化的であることが多い。砂地の海底で腹鰭や胸鰭を使って体を支え、近くにきた獲物を瞬間的な動作で捕え丸呑みにする。シンカイエソなど体比重の大きい底生性深海魚は、海底から50cm以上離れることはまれと考えられている。大型の獲物を捕食する待ち伏せ型深海魚は、その大きな眼を効率的に利用できる大陸斜面上部から中部にかけて分布することが多い。 活発に泳ぎ餌を探す狩猟採集型は、底生性深海魚としてはより一般的な行動様式であり、ソコダラ科・アシロ科などは種類も数も豊富で、あらゆる深度で観察される。彼らはよく発達した機能的な浮き袋と基底の長い背鰭・臀鰭を持ち、海底すれすれをホバリングするように泳ぐことが可能となっている。視覚への依存は概して低く、獲物の探索は嗅覚と側線が主に利用されている。 リュウグウノツカイのような深海魚が海岸に打ち上げられたり、浅い海域で漁獲・目撃されたりすると「地震の前兆ではないか」と騒がれることがある。東海大学の織原義明特任准教授らの研究チームが1992年から2011年3月11日にかけての深海魚目撃情報101件と、この期間に起きたマグニチュード6以上の地震161件(内陸地震や震源の深さが100km以上を除く)を照合した結果、時期・場所の一致は少なく、地震予知による防災・減災には役立たないとする見解を2017年にまとめた。 ==深海魚の利用== 日常生活とは縁遠い印象がある深海魚だが、食用とされる種類は多い。アンコウ・タチウオ・ムツ・キンメダイ・スケトウダラ・オヒョウ・ハタハタなどは、いずれも水深数百mの深海域に生息する。漁獲対象となる有用種はツノザメ目・エイ目・タラ目・キンメダイ目・カレイ目・スズキ目など、ほとんどの場合底生性の深海魚である。海底付近を活発に遊泳する捕食魚は、その運動量を支えるための筋肉を発達させているのに対し、中層を漂泳する深海魚は高圧下で浮力を確保するために体全体を水っぽくしたり、過剰な脂肪を蓄えたりしていることが多い。ミズウオは体長1mを超える中深層遊泳性の大型深海魚で、煮ると肉が溶けて無くなることからその名が付けられた。 前述の通り、遊泳性深海魚は体内に脂質を蓄えていることが多いが、中には油脂分としてワックスを含むものがある。人体ではワックスを消化できないため、これらの魚肉を多量に摂取すると下痢や腹痛の原因となる。ワックス分が特に多いクロタチカマス科のバラムツとアブラソコムツは、日本では食品衛生法によって販売が禁止されている。ハダカイワシ類の中でも、日周鉛直移動を行わない一部の種類は体内にワックスを蓄えている。 ===新たな水産資源として=== トロール網による底引き網漁では、目当ての高級魚と共に大量の深海魚が水揚げされることも多い。練製品として利用される一部の底生魚(ソコダラ類など)を除き、従来は市場価値が無いことから廃棄されていた深海魚も、近年は地産地消の一環として各地で食用化が進められている。 例えば、駿河湾北東部は海岸近くから急激に深くなるため、ここに面する静岡県沼津市の沼津港や戸田(へだ)漁港などには様々な深海魚が水揚げされる。このため沼津市では沼津港深海水族館が開設されたり、伊豆市などを含む西伊豆地方で深海魚料理をアピールしたりと、観光資源としても活用されている。食用となる身が少ない種類もあるが、戸田漁港の飲食店主によると、全体としては脂が乗って、ふっくらとした食感の深海魚が多いという。 1970年代以降、新たな漁業資源として利用可能な深海魚の探索が、日本の調査船によって活発に進められている。水産庁が1977〜79年にかけて北洋トロール船による深海資源調査を実施したほか、海洋水産資源開発センター(現:水産総合研究センター)の調査船「深海丸」は1970年から20年にわたって世界各地の深海漁場開発を行った。これらの調査の結果見出されたメルルーサ・マジェランアイナメなど多くの有用魚種が、輸入食用魚として一般に利用されるようになっている。しんかい2000などの潜水調査船もまた、キチジ・ハタハタなど深海性水産魚種の資源量調査や生態解明に携わっている。 以上のようなトロール船調査によって開発された深海魚の多くは底生魚である。一方で、中層に莫大な資源量を持つハダカイワシ類もまた、世界的な食料需要の増大を支えるエネルギー源として注目されている。ハダカイワシの仲間は過剰脂質のため食用には向かないと考えられてきたが、多くの種類では一般的な食用魚種と変わらない脂質組成を持つことが報告されている。中深層遊泳性深海魚の総生物量は少なくとも9.5億トンに上ると見積もられており、これらの豊富な未利用資源を活用する方法が探られている。 ===乱獲による減少=== 深海魚の資源開発と利用が進められる一方で、深海漁業の大規模化に伴う乱獲が大きな問題となっている。著しい低水温に曝される深海魚の成長は一般的に遅く、特に底生性の中・大型種ではその傾向が顕著である。雌雄の接触が少なく繁殖機会が限られるという問題もあり、資源回復量を上回る勢いでの乱獲は、最悪の場合には絶滅の危機をもたらす。2006年には大西洋北西部におけるタラ類の急速な減少が報告され、国際連合食糧農業機関 (FAO) は漁業国に対し資源保護に向けた適切な管理を求めている。 ==深海魚の進化と系統== 魚類の深海への進出が始まったのはいつ頃か、はっきりしたことは分かっていない。深海は極めて安定した環境であり、少なくとも真骨類の著しい多様化が起きた中生代白亜紀より前には、既に魚類は深海の住人になっていたと見られている。古生代石炭紀後期(約3億年前)の地層から出土したヌタウナギ科の唯一の化石種 (Myxinikela siroka) は、多くの点で現生種と変わらない形態を有していたが、その眼球は現存するヌタウナギ類とは異なる機能的なものであった。深海への適応がどのように進んだのかを知るためには、化石記録に基づく経時的な解析が必要となるが、これまでに知られる深海魚の化石は非常に乏しい。 現生の深海魚の大半を占めるのは条鰭綱に属する魚類、とりわけ真骨類の仲間である。真骨類の中でも原始的なグループが多いという特徴があり、特に中層遊泳性の深海魚ではその傾向がはっきりと認められる。より進化の進んだ高位群であるスズキ目は、現代の浅海で最も繁栄するグループであるが、含まれる深海魚の割合は著しく少ない。 このように、早期に出現したグループに深海魚が多く、比較的新しい群には少ない理由として、浅海での生存競争に後れをとった古い魚類が逃げ込んだ、いわば「安息の地」が深海であったためと考えられてきた。しかしこの説は1950年代に否定され、以降深海魚は進化系統的に大きく2つの世代(一次性 ancient および二次性深海魚 secondary)に分けて考えられるようになっている。 一次性深海魚は外洋性深海魚とも呼ばれ、ワニトカゲギス目・ハダカイワシ目など遊泳性深海魚が主に含まれる。彼らは出現初期から深海に進出し、管状眼・発光器など浅海魚からかけ離れた特異な形態、および日周鉛直移動など独自の生態を、非常に長い時間を掛けて特化させたと見られている。 二次性深海魚は陸棚性深海魚の別名を持ち、タラ目・アシロ目など底生魚が所属する。彼らは初期の進化を浅海の海底で経験した後、一次性深海魚よりも遅れて深海底に進出するようになったと考えられている。このため、二次性深海魚が所属する分類群には浅い海で暮らす魚類も多く含まれるほか、形態的にも浅海魚と極端な変化が見られないことがしばしばある。 以下のリストは、魚類(無顎類・肉鰭類を含める)の生物分類の中から、深海魚を中心に構成される科を系統順位に従って配列したものである。分類方法はNelson(2006)の体系に基づいている。 ===無顎類=== 現生はヌタウナギ目・ヤツメウナギ目の2目のみで、後者は主に淡水産。 ヌタウナギ目(旧メクラウナギ目)Myxiniformes およそ70種を含む。砂泥底で生活し、深海の腐肉食者として重要な位置を占める。 ヌタウナギ科 Myxinidae ‐ ヌタウナギ・ホソヌタウナギヌタウナギ科 Myxinidae ‐ ヌタウナギ・ホソヌタウナギ ===軟骨魚類=== 軟骨魚類にはいわゆるサメ・エイおよびギンザメの仲間が所属し、底生性の深海魚が多く含まれる。 ギンザメ目 Chimaeriformes 約30種のすべてが深海の底部で生活する。強靭な顎を持ち、貝類・甲殻類など硬い殻を持つ埋在動物を捕食する。 ゾウギンザメ科 Callorhinchidae テングギンザメ科 Rhinochimaeridae ギンザメ科 Chimaeridae ‐ ギンザメゾウギンザメ科 Callorhinchidaeテングギンザメ科 Rhinochimaeridaeギンザメ科 Chimaeridae ‐ ギンザメネズミザメ目 Lamniformes 表層から深海にかけて広い生活範囲を持つ種類が多く、純粋な深海性魚類は少ない。 ミツクリザメ科 Mitsukurinidae ‐ ミツクリザメ メガマウス科 Megachasmidae ‐ メガマウスミツクリザメ科 Mitsukurinidae ‐ ミツクリザメメガマウス科 Megachasmidae ‐ メガマウスメジロザメ目 Carcharhiniformes サメ類として最大のグループであり、多くは浅海で生活しているが、トラザメ科の一部の属(ヘラザメ属・ナヌカザメ属・ナガサキトラザメ属・ヤモリザメ属)に深海魚が含まれる。多くは大陸棚で暮らす底生魚で、ほとんど泳がない。 トラザメ科 Scyliorhinidaeトラザメ科 Scyliorhinidaeカグラザメ目 Hexanchiformes 含まれる5種すべてが中深層の海底付近に住む深海魚。 ラブカ科 Chlamydoselachidae ‐ ラブカ カグラザメ科 Hexanchidae ‐ カグラザメラブカ科 Chlamydoselachidae ‐ ラブカカグラザメ科 Hexanchidae ‐ カグラザメキクザメ目 Echinorhiniformes 以前はツノザメ目に含まれていたグループ。所属する2種はいずれも底生性深海魚。 キクザメ科 Echinorhinidaeキクザメ科 Echinorhinidaeツノザメ目 Squaliformes 約100種の大半が深海底生性。アイザメ科には6,000m以深からの採取記録もあるが、その信頼性は疑問視されている。 ツノザメ科 Squalidae ‐ アブラツノザメ アイザメ科 Centrophoridae カラスザメ科 Etmopteridae ‐ フジクジラ オロシザメ科 Oxynotidae ‐ オロシザメ ヨロイザメ科 Dalatiidae ‐ ダルマザメ オンデンザメ科 Somniosidae ‐ オンデンザメツノザメ科 Squalidae ‐ アブラツノザメアイザメ科 Centrophoridaeカラスザメ科 Etmopteridae ‐ フジクジラオロシザメ科 Oxynotidae ‐ オロシザメヨロイザメ科 Dalatiidae ‐ ダルマザメオンデンザメ科 Somniosidae ‐ オンデンザメトビエイ目 Myliobatiformes 多くは大陸棚から大陸斜面にかけて住む底生魚で、分布範囲は浅海から深海まで多岐にわたる。 ムツエラエイ科 Hexatrygonidae ウスエイ科 Plesiobatidaeムツエラエイ科 Hexatrygonidaeウスエイ科 Plesiobatidae ===条鰭類=== 条鰭綱には現生の硬骨魚類のほとんどが含まれ、所属する約40目のうち半数は深海への適応が見られる。 ソトイワシ目 Albuliformes ソコギス亜目の大多数が底生性深海魚。ソコギス科の仲間は深海性の表在動物(イソギンチャク・クモヒトデ・ウミユリ・ウニなど)を選択的に捕食する。 トカゲギス科 Halosauridae ‐ トカゲギス ソコギス科 Notacanthidae ‐ ソコギストカゲギス科 Halosauridae ‐ トカゲギスソコギス科 Notacanthidae ‐ ソコギスウナギ目 Anguilliformes 主としてアナゴ亜目に深海魚が多数含まれる。シギウナギ科・ノコバウナギ科は中層遊泳性、その他のグループは底生性。 ホラアナゴ科 Synaphobranchidae ‐ イラコアナゴ・コンゴウアナゴ フサアナゴ科 Colocongridae ‐ バケフサアナゴ ヘラアナゴ科 Derichthyidae シギウナギ科 Nemichthyidae ‐ シギウナギ クズアナゴ科 Nettastomatidae ノコバウナギ科 Serrivomeridaeホラアナゴ科 Synaphobranchidae ‐ イラコアナゴ・コンゴウアナゴフサアナゴ科 Colocongridae ‐ バケフサアナゴヘラアナゴ科 Derichthyidaeシギウナギ科 Nemichthyidae ‐ シギウナギクズアナゴ科 Nettastomatidaeノコバウナギ科 Serrivomeridaeフウセンウナギ目 Saccopharyngiformes 所属する28種のすべてが深海魚で、中深層から漸深層を漂泳する。 ヤバネウナギ科 Cyematidae フウセンウナギ科 Saccopharyngidae ‐ フウセンウナギ フクロウナギ科 Eurypharyngidae ‐ フクロウナギ タンガクウナギ科 Monognathidaeヤバネウナギ科 Cyematidaeフウセンウナギ科 Saccopharyngidae ‐ フウセンウナギフクロウナギ科 Eurypharyngidae ‐ フクロウナギタンガクウナギ科 Monognathidaeニギス目 Argentiniformes かつてキュウリウオ目に所属していた一群。約200種のほとんどが中深層漂泳性の深海魚で、一部に底生魚も含まれる。 ニギス科 Argentinidae ‐ニギス デメニギス科 Opisthoproctidae ‐ デメニギス ソコイワシ科 Microstomatidae ハナメイワシ科 Platytroctidae ‐ハナメイワシ Bathylaconidae 科 セキトリイワシ科 Alepocephalidae ‐ セキトリイワシニギス科 Argentinidae ‐ニギスデメニギス科 Opisthoproctidae ‐ デメニギスソコイワシ科 Microstomatidaeハナメイワシ科 Platytroctidae ‐ハナメイワシBathylaconidae 科セキトリイワシ科 Alepocephalidae ‐ セキトリイワシワニトカゲギス目 Stomiiformes 所属する約400種のほぼ全種が中深層遊泳性。個体数が極めて多量で、発光器官を持つ種類も多い。 ユメハダカ科 Diplophidae ヨコエソ科 Gonostomatidae ‐ オニハダカ ムネエソ科 Sternoptychidae ‐ ホウネンエソ ギンハダカ科 Photichthyidae ワニトカゲギス科 Stomiidae ‐ ホウライエソ・オオクチホシエソ・ミツマタヤリウオユメハダカ科 Diplophidaeヨコエソ科 Gonostomatidae ‐ オニハダカムネエソ科 Sternoptychidae ‐ ホウネンエソギンハダカ科 Photichthyidaeワニトカゲギス科 Stomiidae ‐ ホウライエソ・オオクチホシエソ・ミツマタヤリウオシャチブリ目 Ateleopodiformes 12種が含まれ、すべて底生性。 シャチブリ科 Ateleopodidae ‐ シャチブリシャチブリ科 Ateleopodidae ‐ シャチブリヒメ目 Aulopiformes チョウチンハダカなどの底生性魚類と、ミズウオなど遊泳性深海魚をともに含む。雌雄同体の魚類が多数含まれることが特徴。 チョウチンハダカ科 Ipnopidae ‐ ナガヅエエソ・イトヒキイワシ フデエソ科 Notosudidae Bathysauropsidae 科 デメエソ科 Scopelarchidae ヤリエソ科 Evermannellidae ミズウオ科 Alepisauridae ‐ ミズウオ ハダカエソ科 Paralepididae シンカイエソ科 Bathysauridae ‐シンカイエソ ボウエンギョ科 Giganturidae ‐ ボウエンギョチョウチンハダカ科 Ipnopidae ‐ ナガヅエエソ・イトヒキイワシフデエソ科 NotosudidaeBathysauropsidae 科デメエソ科 Scopelarchidaeヤリエソ科 Evermannellidaeミズウオ科 Alepisauridae ‐ ミズウオハダカエソ科 Paralepididaeシンカイエソ科 Bathysauridae ‐シンカイエソボウエンギョ科 Giganturidae ‐ ボウエンギョハダカイワシ目 Myctophiformes およそ250種が所属し、ワニトカゲギス目魚類と並ぶ中深層遊泳性深海魚の代表的存在。ほぼすべての仲間が発光器を有する。極海を含めた全世界の海洋に分布し、その総生物量は莫大である。 ソトオリイワシ科 Neoscopelidae ハダカイワシ科 Myctophidae ‐ ハダカイワシソトオリイワシ科 Neoscopelidaeハダカイワシ科 Myctophidae ‐ ハダカイワシアカマンボウ目 Lampriformes 約20種の大半が深海性で、稀な種類が多い。 クサアジ科 Veliferidae ‐クサアジ アカマンボウ科 Lampridae ‐ アカマンボウ ステューレポルス科 Stylephoridae ‐ ステューレポルス アカナマダ科 Lophotidae ‐ アカナマダ ラディイケパルス科 Radiicephalidae フリソデウオ科 Trachipteridae ‐ フリソデウオ リュウグウノツカイ科 Regalecidae ‐ リュウグウノツカイクサアジ科 Veliferidae ‐クサアジアカマンボウ科 Lampridae ‐ アカマンボウステューレポルス科 Stylephoridae ‐ ステューレポルスアカナマダ科 Lophotidae ‐ アカナマダラディイケパルス科 Radiicephalidaeフリソデウオ科 Trachipteridae ‐ フリソデウオリュウグウノツカイ科 Regalecidae ‐ リュウグウノツカイギンメダイ目 Polymixiiformes 10種のみを含む小さなグループで、全種が中深層底部に生息する。 ギンメダイ科 Polymixiidae ‐ ギンメダイギンメダイ科 Polymixiidae ‐ ギンメダイタラ目 Gadiformes 所属する500種超の多くが深海魚。ソコダラ・チゴダラの仲間は中深層から深海層に幅広く分布する底生性魚類で、種類・個体数ともに多い。 ウナギダラ科 Muraenolepididae アシナガダラ科 Euclichthyidae ソコダラ科 Macrouridae ‐ ヨロイダラ・シンカイヨロイダラ チゴダラ科 Moridae ‐チゴダラ メルルーサ科 Merlucciidae ‐ メルルーサ・シルバーヘイク タラ科 Gadidae ‐ スケトウダラウナギダラ科 Muraenolepididaeアシナガダラ科 Euclichthyidaeソコダラ科 Macrouridae ‐ ヨロイダラ・シンカイヨロイダラチゴダラ科 Moridae ‐チゴダラメルルーサ科 Merlucciidae ‐ メルルーサ・シルバーヘイクタラ科 Gadidae ‐ スケトウダラアシロ目 Ophidiiformes アシロ科の魚類はソコダラ類と同様、数の多い重要な底生性深海魚である。 アシロ科 Ophidiidae ‐ ソコボウズ・ヨミノアシロ ソコオクメウオ科 Aphyonidaeアシロ科 Ophidiidae ‐ ソコボウズ・ヨミノアシロソコオクメウオ科 Aphyonidaeアンコウ目 Lophiiformes 記載される300種余りのほとんどが深海で生活する。チョウチンアンコウ上科の仲間は、漸深層遊泳性の深海魚として代表的な存在である。他のグループは底生性。 アンコウ科 Lophiidae ‐ アンコウ・キアンコウ フサアンコウ科 Chaunacidae アカグツ科 Ogcocephalidae ‐アカグツ ヒレナガチョウチンアンコウ科 Caulophrynidae キバアンコウ科 Neoceratiidae クロアンコウ科 Melanocetidae チョウチンアンコウ科 Himantolophidae ‐ チョウチンアンコウ フタツザオチョウチンアンコウ科 Diceratiidae ラクダアンコウ科 Oneirodidae タウマティクテュス科 Thaumatichthyidae ザラアンコウ科 Centrophrynidae ミツクリエナガチョウチンアンコウ科 Ceratiidae ‐ ミツクリエナガチョウチンアンコウ シダアンコウ科 Gigantactinidae オニアンコウ科 Linophrynidae ‐ オニアンコウアンコウ科 Lophiidae ‐ アンコウ・キアンコウフサアンコウ科 Chaunacidaeアカグツ科 Ogcocephalidae ‐アカグツヒレナガチョウチンアンコウ科 Caulophrynidaeキバアンコウ科 Neoceratiidaeクロアンコウ科 Melanocetidaeチョウチンアンコウ科 Himantolophidae ‐ チョウチンアンコウフタツザオチョウチンアンコウ科 Diceratiidaeラクダアンコウ科 Oneirodidaeタウマティクテュス科 Thaumatichthyidaeザラアンコウ科 Centrophrynidaeミツクリエナガチョウチンアンコウ科 Ceratiidae ‐ ミツクリエナガチョウチンアンコウシダアンコウ科 Gigantactinidaeオニアンコウ科 Linophrynidae ‐ オニアンコウクジラウオ目(カンムリキンメダイ目)Stephanoberyciformes 体型や体色に特色が多く、他の目との区別が容易な一群。中深層〜漸深層で遊泳生活をし、特にクジラウオ科魚類は1,800m以深で支配的な存在である。 カブトウオ科 Melamphaidae ‐ カブトウオ カンムリキンメダイ科 Stephanoberycidae ヒースピドベーリュクス科 Hispidoberycidae フシギウオ科 Gibberichthyidae ‐ フシギウオ アンコウイワシ科 Rondeletiidae アカクジラウオダマシ科 Barbourisiidae クジラウオ科 Cetomimidae ‐ クジラウオ トクビレイワシ科 Mirapinnidae ソコクジラウオ科 Megalomycteridaeカブトウオ科 Melamphaidae ‐ カブトウオカンムリキンメダイ科 Stephanoberycidaeヒースピドベーリュクス科 Hispidoberycidaeフシギウオ科 Gibberichthyidae ‐ フシギウオアンコウイワシ科 Rondeletiidaeアカクジラウオダマシ科 Barbourisiidaeクジラウオ科 Cetomimidae ‐ クジラウオ トクビレイワシ科 Mirapinnidae ソコクジラウオ科 Megalomycteridaeトクビレイワシ科 Mirapinnidaeソコクジラウオ科 Megalomycteridaeキンメダイ目 Beryciformes サンゴ礁域から深海まで幅広い分布域を持つ。オニキンメ類は漸深層遊泳性で、ヒウチダイ・キンメダイの仲間は底生性。 オニキンメ科 Anoplogastridae ‐ オニキンメ ナカムラギンメ科 Diretmidae ヒウチダイ科 Trachichthyidae キンメダイ科 Berycidae ‐ キンメダイオニキンメ科 Anoplogastridae ‐ オニキンメナカムラギンメ科 Diretmidaeヒウチダイ科 Trachichthyidaeキンメダイ科 Berycidae ‐ キンメダイマトウダイ目 Zeiformes 所属する30種余りの多くは大陸棚から大陸斜面にかけて生息する底生性深海魚で、分布範囲の広い種類が多い。 オオメマトウダイ科 Oreosomatidae ベニマトウダイ科 Parazenidae ソコマトウダイ科 Zeniontidae ヒシマトウダイ科 Grammicolepididaeオオメマトウダイ科 Oreosomatidaeベニマトウダイ科 Parazenidaeソコマトウダイ科 Zeniontidaeヒシマトウダイ科 Grammicolepididaeカサゴ目 Scorpaeniformes 多くは広い分布域を持ち、深海に特化した科は少ない。クサウオ科には海溝深部に生息する超深海種が含まれる。 キホウボウ科 Peristediidae アカゴチ科 Bembridae ギンダラ科 Anoplopomatidae ‐ ギンダラ・アブラボウズ トリカジカ科 Ereuniidae クサウオ科 Liparidae ‐ シンカイクサウオキホウボウ科 Peristediidaeアカゴチ科 Bembridaeギンダラ科 Anoplopomatidae ‐ ギンダラ・アブラボウズトリカジカ科 Ereuniidaeクサウオ科 Liparidae ‐ シンカイクサウオスズキ目 Perciformes 現代の浅海でもっとも繁栄し、最大の魚種(約1万種)を誇るグループである。深海魚も多数含まれるが、カサゴ目同様に科レベルでの深海への適応例は少ない。北部大西洋における試算では、スズキ目魚類は遊泳性深海魚の6%、底生性深海魚の9%を占めるに過ぎない。200種以上を含むゲンゲ科は北半球の深海底に広く分布する重要な底生魚で、濃密な群れを形成することもある。 イシナギ科 Polyprionidae ヤセムツ科 Epigonidae ヤエギス科 Caristiidae ソコニシン科 Bathyclupeidae ゲンゲ科 Zoarcidae アルテディドラコ科 Artedidraconidae クロボウズギス科 Chiasmodontidae ‐ オニボウズギス イレズミコンニャクアジ科 Icosteidae ‐ イレズミコンニャクアジ ムカシクロタチ科 Scombrolabracidae クロタチカマス科 Gempylidae ‐ バラムツ・アブラソコムツ オオメメダイ科 Ariommatidae ヒシダイ科 Caproidaeイシナギ科 Polyprionidaeヤセムツ科 Epigonidaeヤエギス科 Caristiidaeソコニシン科 Bathyclupeidaeゲンゲ科 Zoarcidaeアルテディドラコ科 Artedidraconidaeクロボウズギス科 Chiasmodontidae ‐ オニボウズギスイレズミコンニャクアジ科 Icosteidae ‐ イレズミコンニャクアジムカシクロタチ科 Scombrolabracidaeクロタチカマス科 Gempylidae ‐ バラムツ・アブラソコムツオオメメダイ科 Ariommatidaeヒシダイ科 Caproidaeカレイ目 Pleuronectiformes 上記2目と同じく、多くの科は浅海種・深海種を満遍なく含む。ウシノシタ科に所属する2亜科のうち、アズマガレイ亜科は深海性である。 カワラガレイ科 Poecilopsettidae ベロガレイ科 Samaridaeカワラガレイ科 Poecilopsettidaeベロガレイ科 Samaridaeフグ目 Tetraodontiformes 浅海魚が多いが、ベニカワムキ科の約20種は底生性の深海魚である。 ベニカワムキ科 Triacanthodidaeベニカワムキ科 Triacanthodidae ===肉鰭類=== 肉鰭綱に属し、四肢動物の祖先と考えられている一群。現生種を含むのはハイギョ類とシーラカンス類のみ。 シーラカンス目 Coelacanthiformes 生きている化石とも呼ばれ、現生種は2種。 シーラカンス科 Latimeriidae ‐ シーラカンスシーラカンス科 Latimeriidae ‐ シーラカンス =ディシディア ファイナルファンタジー= 『ディシディア ファイナルファンタジー』(DISSIDIA FINAL FANTASY、略称: DFFなど)は、スクウェア・エニックスより2008年12月18日に発売されたPlayStation Portable (PSP) 専用のアクションゲームである。 ストーリー展開は光と闇の双方の神々によって異世界から召喚されたシリーズキャラクターたちが、両陣営に分かれて戦うものとなっており、初代『FF』から『FFX』までの10作品の登場キャラクターが両陣営に1名ずつ配され、『FFXI』と『FFXII』からも隠しキャラクターとして1名ずつ登場する。この総勢22名が操作可能なプレイヤーキャラクターである。物語は光の陣営の10人の戦士がクリスタルの力に導かれ、カオスを倒すまでを描いている。 2009年11月1日にはバージョンアップ版である『ディシディア ファイナルファンタジー ユニバーサルチューニング』が発売された。またディシディアシリーズ第2弾として『ディシディア デュオデシム ファイナルファンタジー』が2010年9月に発表、2011年3月3日に発売されている。 本作の日本国内の販売実績は、発売週(初動)で約50万本、累積で約95.4万本に達している。初動50万本および2009年2月2日時点の累計84.7万本は、日本国内のPSPソフトの初動および累計で共に第3位(当時)の記録となる。 開発は「キングダム ハーツ シリーズ」などを手掛けた野村哲也を中心とするチームが行っており、「ファイナルファンタジーシリーズ」(以下『FF』)に登場した歴代のキャラクターを操作し、1対1で戦う3Dのアクションゲームとして作品の垣根を越えたクロスオーバー作品として、シリーズ誕生20周年を記念して制作された。PSPのアドホックモードや PlayStation 3(PS3) を介したネットワーク通信機能であるアドホック・パーティーを用いた対戦が可能である他、すれちがい通信を利用してゴーストと呼ばれる「キャラクターAI」を交換できる機能が盛り込まれた。これにより見知らぬプレイヤーとの対戦が可能となっている。 ==ジャンルと名称== 元々のシリーズがRPGであることからARPGと対戦アクションゲームを足したイメージで開発されており、キャラクターの成長要素に比重が置かれているところが通常の対戦ゲームと異なる点である。RPGである従来シリーズとは一線を画した作品であり、そうした点を強調する意味も込めてジャンル名には「プログレッシブアクション」という名称が用いられた。 タイトルに付けられた「ディシディア」とは、ラテン語やギリシア語で「異説」などを意味する中性名詞dissidiumの複数(主格/対格)形である。その名が示すとおり、世界観は本作オリジナルのものとなっており、舞台は本作のオリジナルキャラクターである調和の神「コスモス」と混沌の神「カオス」が、幾千年も争い続けてきた世界とされる。 ==ゲーム内容== 戦闘部分は「キングダム ハーツ シリーズ」(以下『KH』)の発展型であり、ボタン操作1つで壁や柱を自在に駆け上がることができ、3Dを生かした360度の空間を使った空中アクションが可能となる。コスモス陣営に属するプレイヤーキャラクターには、思い入れのあるファンも多いため「好きなのに扱えない」といったことが起きないように操作を比較的容易に設定しており、反対にカオス陣営はコスモス陣営以上に強い個性をつけており、「玄人好み」のクセの強い操作性のキャラクターが多い。各キャラクターは戦闘で経験値を稼ぎ、レベルが上がるごとに成長し、レベル100まで育てることができる。さらに装備やアビリティを変更することにより、各キャラクターの能力値や特性をカスタマイズできる。 本作のメインモードとなるストーリーモードも通常の対戦ゲームと異なり物語性の強いものとなっている。ストーリーモードでは、コスモス側のキャラクターごとに別々のシナリオが用意され、訪れる場所や出会う仲間や敵、難易度なども異なる。ステージは神が登場人物を動かす「神目線」のイメージで開発されており、チェスの盤面のようにマスで区切られたフィールドを基盤とする。盤上には宝箱やポーションなどが配置されており、キャラクターによって盤面のデザインや構成も異なる。移動は自身のキャラクターの形を模した駒を進める形式で行い、敵の駒と隣接するとエンカウントで戦闘、ボスの駒などが待つ目的地まで到達するとステージクリアとなる。なおカオス側にはストーリーモードはないが、コスモス側のストーリー中でその動向が語られている。真のエンディングに到達するには、全キャラクターのシナリオをクリアする必要がある。 開発元が意図した本作のターゲット層は「FFシリーズのファン」および「対戦アクションファン」であり、試算した平均プレイ時間は、ストーリークリアまでが40時間、やり込み要素を加えると100時間以上である。ゲームをクリアすると、隠しキャラクターが登場する2つのシナリオと、最高難易度のシナリオ「INWARD CHAOS」が新たに使用できるようになる。また「デュエルコロシアム」「レポート」と呼ばれる2つの機能が開放される。デュエルコロシアムとは、ストーリーモード、クイックバトル、通信モードに続く、本作の4つめのモードであり、カードゲームの形式で場に出されたカードを選択し、カードに描かれた敵と次々に対戦していく。レポートは、BGMなどを聴くことができる「ミュージアム」の中に出現するテキストデータである。「コスモスレポート」「カオスレポート」の2種類から成り、それぞれ10種類、合計20種類のレポートで構成される。 その他、本作では対戦の経過をメモリースティックに録画し、さらにその映像を編集することができる。編集ではカメラアングルなども詳細に設定でき、通常戦闘では見られないような角度での再生も可能である。 ===戦闘システム=== 戦闘は1対1の対戦となり、攻撃によって相手のHPをゼロにした時点で勝利となる。戦闘ではシンプルなボタン操作で様々な攻撃技を容易に発動でき、技の種類はHPにダメージを与える「HP攻撃」と、ブレイブポイントを奪い取る「ブレイブ攻撃」の2つに大別される。ブレイブポイントとは「攻撃の威力」を現す値であり、本作の戦闘で重要な役割を果たす。これは固定値ではなく「ブレイブ攻撃」のヒットによって増減し、「HP攻撃」を当てることによって溜めたポイントを全て消費して、その分のダメージを敵のHPに与えることができる。敵のブレイブポイントを0以下にすると相手はBREAK(ブレイク)状態となり、バトルマップにプールされたブレイブポイント(マップブレイブ)が自キャラクターにボーナス加算され、攻撃力が著しく上昇する。このためBREAK状態からのHP攻撃は相手に大ダメージを与えることが可能であり、ブレイブポイントの奪い合いが勝敗の決め手となる。ブレイブポイントを上手に活用することで、レベルの低いキャラクターが、高いキャラクターに勝利することも可能となる。 敵を攻撃すると得られる「EXフォース」と、戦闘ステージに現れる「EXコア」を集めることで、「EXゲージ」と呼ばれる値が溜まっていく。このEXゲージが満たされると「EXモード」が発動可能になり、発動することでキャラクターごとに固有の変身やクラスチェンジなどを行う。変身中は体力が少しずつ回復するほか、能力値の上昇など各キャラクターごとに設定された様々なプラス効果を得られ、外見の印象も大幅に変化する。またEXモード中にHP攻撃をヒットさせると画面上にコマンドが表示され、それを入力することにより強力な超必殺技である「EXバースト」が発動する。EXバーストは各キャラクターごとに固有の技が用意され、原作で馴染みのある特徴的なものが多い。また、「EXバースト」が成功すると同時に「EXモード」は解除される。 1キャラにつき1種類のみ装備できる「召喚石」を使用することで、召喚獣を1戦闘につき原則1度のみ召喚できる。使用方法は召喚獣によって、条件を満たしたときに自動的に発動か手動での二通りがあり、効果は各召喚獣によって違うが、基本的にブレイブポイントに作用し、HPに直接打撃を与えるような効果はない。50種類以上の召喚獣が登場する。 戦闘はストーリーに沿って敵と戦っていく「ストーリーモード」の他に、戦闘のみを行う「クイックバトル」、通信対戦が可能な「通信モード」などでも行える。クイックバトルなどで育てたキャラクターのレベルは、ストーリーモードでも引き継がれる。シリーズファンの主体がアクションに不慣れなRPGユーザーであることも考慮し、RPGのように「たたかう」などのコマンドを選ぶだけでオートで戦闘がなされる「コマンドバトル」の機能も盛り込まれている。 ===カスタマイズ要素=== レベル制を採用し、キャラクターを育てるRPG的な点に比重が置かれた本作では、様々なカスタマイズ要素が用意されている。装備品は4種類(武器・手防具・頭防具・体防具)のアイテムと、最高10個まで装備可能なアクセサリに分類される。この他、基本的に1戦につき1回だけ使用可能な召喚石も装備できる。また、攻撃や各種サポート、移動能力のアップなどを提供するアビリティの付け替えも行える。アビリティの装備にはキャパシティポイント(以下CP)と呼ばれるパラメーターが必要となる。アビリティはレベルが上がると覚え、装備したアビリティには戦闘で得られるアビリティポイント(以下AP)が蓄積される。APが一定量に達するとそのアビリティを「マスター」し装備に必要なCPが軽減される他、マスターしたアビリティから派生アビリティが発生することがある。なお攻撃アビリティは、攻撃の種類(ブレイブ攻撃とHP攻撃)および自分の位置(地上と空中)による4種類のカテゴリのそれぞれにパッド入力方向による3つのスロットがあり、計12個まで装備できる。 戦闘中に一定条件を満たすとアクセサリが生成される「バトルライズ」や、戦闘回数などの特定条件をこなす「ミッション」が存在する。これらを達成することでレアアイテムやレアアイテムとトレードするための素材が入手できる。また、各キャラクターには「アナザーフォーム」と呼ばれる衣装などが異なる別モデルが存在する(いわゆる2Pモデルに当たる)。こうしたアナザーフォームや戦闘BGMは、戦闘で得られるプレイポイント(以下PP)を貯めてゲーム内の「PPカタログ」で購入していく。アナザーフォームは通常は同キャラクター戦での相手側のカラーとして登場するが、購入することで自ら選択できるようになる。 クリア後に解放されるデュエルコロシアムでは、戦闘に勝利するとカードの強さに見合ったメダルを得られ、メダルはレアアイテムやレアアイテムを作る素材との交換が可能である。本作は「レベル100まで育ててからが本番である」と開発者が語るとおり、最強の装備を揃えるなどのカスタマイズ要素が楽しめる。特にストーリーモードの存在しないカオス陣営のキャラクターについては、このモードで育てることが推奨されている。なお、このモードや最難度の「INWARD CHAOS」では育成できるキャラクターの最大レベル100を超えた最高130レベルの敵も登場する。 ===通信モード=== 通信対戦は、PSPの無線LAN機能を利用したアドホックモードに加え、PS3を介してネットワーク経由で見知らぬ人と対戦が可能なアドホック・パーティーにも対応している。通信モードで重要なのが「フレンドカード」と呼ばれる機能である。フレンドカードには、メッセージの他に、ゴーストと呼ばれる自身のプレイ方法を学習した「キャラクターAI」と、プレイヤーアイコンを登録できる。プレイヤーアイコンは、シリーズファンに馴染みの画が250種類以上用意されている。通信モードでは、オンラインロビーに入ることで自動的にロビーにいる相手とフレンドカードが交換され、対戦したい相手のフレンドカードを選び、対戦を申し込む。戦闘前にハンディやルールなどを決めることも可能である。一度交換したフレンドカードは通信を切っても最大50枚まで保存され、非通信時でも交換したフレンドカードに付加された相手のゴーストとの「擬似対戦」を自由に行うことができる。フレンドカードは、PSPのすれちがい通信を使っても交換が可能である。また、通信対戦では人から人へ渡っていくアーティファクトと呼ばれるアイテムを稀に入手できる。このアイテムは名前を変更できるリネーム機能があり、リネームする際に特殊効果が変化することがある。多くの人を渡り歩いたアイテムほど優秀な特殊効果が得られやすく、これまでの所持者とリネームの遍歴も確認することができる。 ==物語の構造== ===登場人物=== プレイヤーキャラクターは総勢22名であり、『FFI』から『FFX』までの10作品から2名ずつ、隠しプレイヤーキャラクターとして『FFXI』と『FFXII』から各1名ずつ登場する。なお、『FFXIII』以降の作品は、『DDFF』発売当時は未発売だったため登場しない。基本的にプレイヤーキャラクターは、調和の神「コスモス」と混沌の神「カオス」のどちらかの陣営に属する。原則、コスモス陣営は原作の主人公、カオス陣営は主人公と因縁がある人物(主に原作のボスキャラクター)で構成される。ストーリーモードが存在するのはコスモス陣営のみであり、カオス陣営は前述の「PPカタログ」でキャラクターを購入することでクイックモードなどで使用できるようになる。 キャラクターの性格や設定は原作とほぼ同一であるが、出生やキャラクター同士の関係などの細かな点については本作オリジナルの調整が加えられている。 ===世界観=== ゲームの舞台は、秩序の神コスモスと混沌の神カオスと呼ばれる光と闇の二神が、幾千年も戦い続けてきた世界と設定されている。これは『FF』シリーズの根本的な世界観を崩さず、原作のキャラクターたちが戦う理由としてもわかりやすい点から採用された。各キャラクターたちは、別の次元から神々によって召喚されており、また世界そのものも同様に別次元から引き寄せられた要素の集合体とされる。そのため、戦闘マップも各原作のラストダンジョンを中心に、馴染みの深い場所が再現されている。 ゲームを進めていくと、この世界は、秩序と混沌を戦わせることによって、カオスが生まれながらに持っていた混沌の力を育て、カオスという究極の兵器を生み出すために「大いなる意志」によって創られた世界であったことが明かされる。片方の神が破れると「大いなる意志」 と契約を交わした「神竜」が全てを巻き戻し、神々や戦士たちは蘇り、また戦いを繰り返すことで力を増していく。その輪廻を何千年も続けてきたのが、今の世界であると物語の終盤で示される。 ===ストーリー=== 「最初からクライマックス」の雰囲気を出すため、物語はコスモスがカオスに敗れ、コスモス側が窮地に陥った場面から始まる。コスモスは世界を救う為の鍵として、クリスタルを手に入れるようにと僅かに生き残ったコスモス側の10人の戦士に促す。10個のクリスタルを集めることで、世界を救う希望が生まれるとのコスモスの言葉を信じ、各キャラクターたちはクリスタルを探すために行動を開始する。各キャラクターの個別シナリオは、各々がクリスタルを手に入れるまでを描く。仲間と共に行動する者、単独行動を取る者など、オムニバス形式で並行して物語は進行していく。各キャラクターたちは、それぞれの心に迷いや悩みを抱えており、それを劇中で克服し、シナリオの最後で同一原作のカオス陣営の戦士と戦い勝利することでクリスタルを手に入れていく。 10人のシナリオを全て終えると、カオスとの戦いが待つ共通シナリオが出現する。このシナリオの冒頭でコスモスは死を迎える。それは、これまでのような神竜の力によってすぐに復活する「仮初めの死」ではなく「完全なる死」であった。クリスタルの正体は僅かに残ったコスモスの調和の力そのものであり、それを手放したことによりコスモスが完全なる死を迎えたのだと知った戦士たちは、コスモスに託されたクリスタルにカオス打倒を誓う。コスモスの完全なる死は、カオス陣営にも異変を生じさせる。対となる存在の神コスモスを失ったカオスは、その哀しみと虚しさから、己もろとも世界を滅ぼすことを決意する。カオスと対峙したコスモスの戦士たちは、最終決戦に挑み、勝利する。平和になった世界を見届けると、コスモスの戦士たちは、それぞれの世界へと戻っていく。最後に残った『FFI』の主人公ウォーリア・オブ・ライトが、クリスタルを手に遠くに見える城へと向かって歩いていくシーンで、本作はエンディングを迎える。このシーンは、FFシリーズの第1作である『FFI』のオープニングシーンと同じ構図であり、本作の最後の場面が『FFI』の世界であり、物語の始まりであることを示している。 ==開発== 本作は野村哲也が企画、立案を行っており、クリエイティブプロデューサーとして「一歩引いた立場で」ゲーム全体のプロデュースやサポート役も務めている。野村には2001年からPS2用に考えていた対戦ゲームの企画があり、スクウェア・エニックスがFFシリーズ20周年記念作品として「お祭り」的な要素のある作品を検討していた中で、この野村が温めていたアイデアと、若手スタッフの「新しいことをしたい」という意見とが結びつき、本企画が誕生した。キャラクターが集まって戦うというコンセプトはもともと『KH』で使うつもりだったが、ディズニーキャラクター同士が戦うのは良くないと判断があり、企画が『KH』から『FF』へとシフトした経緯がある。対応機種は、画面分割をせずに3D対戦ができるという点からPSPが採用された。 企画は2005年秋にまとまり、プロジェクトとして始動したのが2006年1月頃となる。開発期間はおおよそ2年。開発は当初の想定よりも長くかかり、発売は20周年ぎりぎり(正確には21周年当日)の2008年12月18日となった(FC版『FF1』と同じ発売日)。 開発チームは、『KHII』の戦闘シーンを担当したスタッフを主軸に構成される。開発前半期にコンセプトディレクターとしてチームの取りまとめを担った塩川洋介は過去に『KH』などを担当していた。プランニングディレクターとしてバトル全般のディレクションをした高橋光則は『KH』、『KH2』ではボス戦などを任されていた。シネマティクスムービークリエイティブディレクターとしてムービー全般のディレクションを行った野末武志は過去に『FFVII AC』、『KH』などに関わった。メインプログラマーの池田隆児は過去に『KH』などを担当している。 本作の開発には「若手スタッフにチャンスを作ろう」という意図があったことも関係して、若手スタッフが多いのも特徴。ゲーム全体のディレクションは『すばらしきこのせかい』でプランニングディレクターを担った荒川健がシニアディレクターとして担当した。そして、そんなチームに開発をまかせつつ、プレッシャーをあたえる役を担うのが本作の最年長スタッフとなるプロデューサーの北瀬佳範である。 スタッフにはいちユーザーとしてFFをプレイしていた思い入れが強い世代が多く、その結果として原作をリスペクトした「深いネタ」が多く盛り込まれることになったという。中でもヘルプメッセージは、歴代のキャラクターたちが当時の画像と共にそのキャラクターの口調で説明する形式という非常に凝ったものとなっている。制作にあたっては、統一感を図るため歴代FFを全てプレイし直している。原作内で情報が少ない『FFIII』以前のボスキャラクターについては、ファンサイトなどを調べ、ファンの思い入れを崩さないように配慮されている。原作の忠実な再現にもこだわり、ソフトの対象年齢が上がることを知りつつも野村の判断により『FFVI』の衣装を身に着けていないトランス状態のティナを登場させた。こうした原作をリスペクトする開発様式については、ディズニーという原作がある『KH』シリーズのスタッフが主軸であったことがプラスに働いたという。 キャラクターデザインは、これまでのシリーズ作品の多くでキャラクターデザインなどを手掛けてきた天野喜孝の原作発売当時の原画と、ゲーム中に登場する絵を融合させ、新たに全キャラクターを野村哲也が描き起こした。天野喜孝はサントラのパッケージなどにも使用されたコスモス陣営とカオス陣営の「メインビジュアル」のイラストレーションを担当している。声優については、既存作品で日本語ボイスがあるキャラクターは、一部の例外を除き、原則同一声優が続投している。この他、日本語版のナレーションには俳優の菅原文太が起用された。 ===音楽=== メインコンポーザーとして石元丈晴、アレンジャーとして関戸剛、鈴木光人らが加わり、スクウェア・エニックスの現役スタッフが担当している。本作のコンセプトに合わせ、『FFI』から『FFXII』までの歴代シリーズの曲が万遍なく使用されているのが特徴であり、エンディングでは野村の発案により、10作品のBGMのメドレーが使用された。TVCM(30秒)では「あの音が流れてきたら、うれしくないわけないだろ?」とのコピーが使用され、懐かしいBGMを聴くことができる点も本作の売りの1つとしている。オリジナルサウンドトラックでは、新規楽曲18曲に加え、本作で使用された歴代のシリーズの人気楽曲(アレンジ25曲、原作オリジナル11曲)が収録されている。また、本作の新楽曲として、カナダ出身の6人組のロックバンド「ユア・フェイバリット・エネミーズ」(以下YFE)が歌う英語歌詞による挿入歌『Cosmos』『Chaos』が使用された。作曲は石元、作詞はYFEのヴォーカリストであるアレックス・フォスターが担当している。男女のツインボーカルである点がYFEの起用要因であり、コスモスをイメージした『Cosmos』は女性ボーカルがメイン、ラスボス戦で使用されるカオスをイメージした『Chaos』は男性ボーカルがメインとなっている。なお、ゲーム内では、サントラ収録曲以外の原作曲も多数収録されており、そうした楽曲は、前述のゲーム内の「PPカタログ」で開放することで、BGMとして使用可能となる。 ==販売== ===プロモーション=== ====オリジナル版(日本語版)==== ===発売前=== 本作について最初の発表がなされたのは2007年5月である。作品タイトルやロゴのみを記したティザーサイトが8日に開設され、12日、13日に開催された「スクウェア・エニックスパーティ2007」においてプロモーション映像と共に作品ジャンルやゲーム概要が明らかにされた。9月の「東京ゲームショウ2007」では映像のみの出展であったが、12月22日、23日に開催された「ジャンプフェスタ2008」は一般ユーザー向けの初の試遊の場となり、46台の大量の試遊台が設置された。翌2008年6月に公式サイトが正式稼動。9月には発売日が公表され、併せてオリジナルデザインのPSP‐3000同梱版の存在が明らかになった。10月の「東京ゲームショウ2008」では、神々2名と両陣営20名のキャラクターが出展映像の中で出揃い、11月の『FFXI』の公式ファンイベントにおいて『FFXI』からの隠しキャラクター、発売直前の12月15日にテレビ番組で放映された最終トレーラーで『FFXII』からの隠しキャラクターが公開された。雑誌広告やポスターなどで使用されたキャッチフレーズは「またお前と戦う時が来るとはな。」である。発売前のプロモーションでは「長年培ったFFファンのイメージを壊さない」ことを念頭に置き、FFの世界観とRPG的要素を前面に出す戦略をとった。テレビCMは、発売月である12月に入ると、サントリーとのコラボレーション商品である缶飲料『ディシディアファイナルファンタジーポーション』の15秒CM『乾杯』篇が、ゲームに先駆けて12月2日よりスタート。追って11日よりゲーム自体の15秒CMも始まり、SCE枠で『FF』から『FFV』までのキャラクターが登場するCM、スクウェアエニックス枠で『FFVI』から『FFX』のキャラクターが登場するCMが流され始めた。18日の発売日を迎えると、SCE制作の30秒CM『あの、あの、あの篇』も放映開始となった。 ===発売後=== 発売後は、従来のFFシリーズのような広告宣伝費をかけ大量のCMを流す類のプロモーションではなく、インターネットによるユーザーの口コミを活用する戦略を採用した。本作にはユーザーがインターネット上に手軽に動画を公開できるよう意図したリプレイ機能がある。ユーザーがサイトに動画をあげてくれることによりコストをかけずに宣伝ができることを見込んでおり、公認はしないもののYouTubeやニコニコ動画などの動画投稿サイトへの投稿も制限しないとしている。さらに通信機能によって自力では困難なアイテムなどの入手ができる機能を持たせたことが功を奏し、ソーシャル・ネットワーキング・サービスなどでのオフ会も盛んに行われている。発売日の翌日には、スクウェア・エニックスの無料会員制サイト内にある3D仮想空間サービス「メンバーズ バーチャルワールド」のリニューアルに合わせてディシディアFFの特設サイトが開設され、プレイ動画の公開が行えるようになり、投稿コンテストなどの企画も実施された。また、本来は通信モードで用いるフレンドカードには、通信用途とは別の隠し機能があり、フレンドカードのメッセージ欄にパスワードを入力することで、予めゲーム内に組み込まれたレアアイテムやフレンドカードを出現させることができる。こうしたパスワードは各種雑誌やインターネットを通じて、発売直後から約三か月後の2009年4月まで、計16回に分けて段階的に公開された。これは、中古ソフトの流通を防ぐことを狙いとしていたが、同一機種のアクションゲームである『モンスターハンターポータブル 2nd G』などと比べ中古流通量は多いとも言われる。 ===他言語版=== 「E3」が2007年からイベント規模を大幅に縮小したことを受けて、野村の意向により2007年、2008年共にE3での初出映像などは作成されず、情報公開は日本語版が発売されるまでの期間は日本国内を優先して行われていた。北米向けの公式サイトは日本語版が発売された2008年12月18日当日に開設され、欧州向けのプロモートは2009年5月から本格化した。同月14日には、ソニー・コンピュータエンタテインメント・アメリカ(SCEA)からPSP‐3000他同梱版の存在と共に、北米版の発売日が公表され、6月に開催された北米最大級のゲーム見本市「E3 2009」は北米市場向けの試遊の場となり、同時に北米向けの新たなもトレーラーも公開された。欧州版の公式サイトは同月29日に開設され、英・独・西・仏・伊・露の6か国語対応となっている。また同日には、北米向けに北瀬佳範名義で「DISSIDIA FINAL FANTASY Developer Blog」が開設され、開発スタッフによる開発秘話の掲載がスタートした。発売直前の同年8月にドイツのケルンで開催された欧州最大のゲーム見本市「Gamescom 2009」は、欧州市場向けの試遊の場となった。 ===発売=== 日本ではスクウェア・エニックスより2008年12月18日に発売された。なお本作は、FFシリーズ初のCEROレーティング「C」(15歳以上対象)の作品となる。これはティナがトランス(幻獣化)した際のビジュアルが理由とされる。 売れ行きが好調であったため、当初は続編について期待する声も聞かれていたが、野村は構想はあるものの「現時点では続編の予定はない」とインタビューに答えていた。 2009年11月1日には『ディシディア ファイナルファンタジー ユニバーサルチューニング』が発売された。これは北米と欧州で発売されたバージョンをベースとしており、変更点としてはキャラクターの性能の調整や新たな技の追加の他、新モード「アーケードモード」やデュエルコロシアムの最高難易度コースといった、更なるやり込み要素の追加などが挙げられる。オリジナル版からセーブデータを引き継ぐこともでき、その場合は4種類の引き継ぎパターンの中から選択することとなる。なお、音声は全編英語であるが、オプションでバトル時のみ日本語音声に切り替えることが可能。 2010年9月には、ディシディアシリーズ第2弾として『ディシディア デュオデシム ファイナルファンタジー』が2011年に発売されることが発表された。シリーズ上は続編であるが、物語上では本作で断片的に語られた「12回目の戦い」を描いている。本作に登場するキャラクターに加え、新たなキャラクターが多数参戦し、また新システムも追加されている。 2010年9月16日より、PlayStation Storeにおいてオリジナル版のダウンロード配信が開始された。 ==作品の反響== ===評価=== 発売前の評価として、2008年10月の「東京ゲームショウ2008」に出展された未発売作品を対象とした、日本ゲーム大賞2008「フューチャー部門」において、受賞作品の1つに選出された。また各種雑誌レビューにおいては、『週刊ファミ通』のクロスレビューにおいて10、9、9、8の36点と採点され、35点以上のソフトが対象となる「プラチナ殿堂」入りとなった。『電撃PlayStation』では、90、95、85、85の355点と採点され、また同誌のBUYERS GUIDEにおいてはS,A,B,C,D,Eの6段階でのA評価とされた。『ゲーマガ』では、「FF20周年」「対戦アクション」「キャラ育成」「懐かしBGM」に興味がある人に推薦できるとしている。 発売後の評価では、『ファミ通PSP+PS3』では50時間ほどプレイした後でのレビューとして、「『FF』度」「シナリオ」「操作性」「爽快感」「やり込み度」の5項目について5点満点の5点と評価している。GAME Watchでは、FFファン向けのソフトである点は否定できないとしたものの「満足度の高い良作」であるとレビューしている。発売から3箇月間のユーザーの得票を集計した『週刊ファミ通』のユーザーズアイでは、147票が集まり平均は9.05点となった(4点以下:1票、5‐7点:11票、8点以上:135票)。また、2008年発売のソフトを対象にファンの投票を参考にして審査を行う『FAMITSU AWARDS 2008』において、「優秀賞」11作品の中の1つに選出された。 ===売上=== 2008年クリスマス直前週(12月15‐21日)に発売された本作は、発売日には朝から長蛇の列が出来る店も見られた。初動(発売週の売上)は約50万本に達し、週間ランキングで1位となった(「エンターブレイン」発表:503,723本)(「アスキー総合研究所」発表:496,178本)(「メディアクリエイト」発表:489,000本)。発売当時の日本国内のPSPソフトの初動としては、モンスターハンターシリーズの『MHP2G』『MHP2』に続く歴代3位の売上であった。初動が好調だった理由として、メディアクリエイトでは『FF』シリーズの「ファンに対する訴求力が強かったことが要因」であると分析している。 また、発売月である2008年12月の月間ランキングで1位、翌2009年1月の月間ランキングでも連続1位となった(エンターブレイン発表)。2008年の年間ランキングでは、エンターブレイン集計で12位(集計期間:2007年12月31日から2008年12月28日)、アスキー総研集計においては発売から4日間の売り上げで16位(集計期間:2007年12月31日から2008年12月21日)にランクインとなった。 アメリカでは2009年8月に発売され、NPDグループの調査では発売月に13万本を売り上げたと記録されている。2010年9月時点での全世界累計出荷本数は180万本を突破している。 ==ソフトの種類と関連商品== ===ソフトの種類=== ====ディシディア ファイナルファンタジー==== 2008年12月18日発売。廉価版2010年9月16日発売。規格番号:ULJM‐05262。レーティング:CERO:C(15才以上対象)。発売元:スクウェア・エニックス(Square Enix Co., Ltd.)日本国内向けに発売された通常版。パッケージは、白地にコスモスとカオスが描かれたタイトルロゴがあしらわれている。 ===ディシディア ファイナルファンタジー ‐FF 20th Anniversary Limited‐=== 2008年12月18日発売。規格番号:ULJM‐05405。オリジナルデザインのPSP‐3000をゲームに同梱した日本国内向けの限定版。PSPの本体色はパール・ホワイトを採用。表面の右ボタン下には20周年の記念ロゴ、背面にはディシディアFFのロゴであるコスモスとカオスのイラストが描かれている。同梱ソフトのパッケージも天野喜孝のイラストを使用した限定仕様である。ソフト本体は通常版(ULJM‐05262)と同一。 ===ディシディア ファイナルファンタジー(北米版)=== 2009年8月25日発売。レーティング:ESRB:T(13歳以上対象)。発売元:スクウェア・エニックス(北米)(Square Enix, Inc.)北米向けの通常版。パッケージには野村哲也のイラストが使用され、コスモス陣営のキャラクターが描かれた表面をめくると裏にはカオス陣営が描かれており、好みに合わせて入れ替え可能なダブルジャケットとなる。また、GameStop(en:GameStop)のみの特典パッケージとして、天野喜孝のイラストを使用したコスモスジャケットとカオスジャケットも存在する。 ===ディシディア ファイナルファンタジー ‐Limited Edition Entertainment Pack‐(北米版)=== 2009年8月25日発売。PSP‐3000他をゲームとセットにした北米向けの同梱版。PSPの本体色はミスティック・シルバー(PSP‐3000MS)であり、オリジナルデザインではなく通常仕様である。PSPの他に『ファイナルファンタジーVII アドベントチルドレン』のUMD版(PSP用)と、2GBのメモリースティック PRO Duoも同梱されている。ソフト本体は北米向け通常版と同一。GameStopのみでの販売となる。 ===ディシディア ファイナルファンタジー(欧州版)=== 2009年9月4日発売。レーティング:PEGI:12+(12歳以上対象)、 ドイツのみUSK:12(12歳未満提供禁止)。発売元:スクウェア・エニックス(欧州)(Square Enix, Ltd.)ヨーロッパ向けの通常版。パッケージイラストは北米通常版と同一。 ===ディシディア ファイナルファンタジー ‐Limited Collector’s Edition(欧州版)=== 2009年9月4日発売。付属品がセットになったヨーロッパ向けの版。白地にコスモスとカオスが描かれたタイトルロゴがあしらわれたデザインの箱に、各種の付属品が同梱されている。同梱品は、石元のライナーノーツ付きのミニサウンドトラックCD、CGイラストなどが収められた48ページのハードカバーのアートブック、BradyGames編集の32ページのフルカラーのガイドブック、コスモス陣営とカオス陣営のCGがそれぞれ描かれた2枚のリトグラフプリント等である。 ===ディシディア ファイナルファンタジー(豪州版)=== 2009年9月3日発売。レーティング:OFLC:PG(Parental Guidance)。発売元:ユービーアイソフト(UBISOFT)オーストラリア向けの通常版。パッケージイラストは、北米通常版と同一。 ===ディシディア ファイナルファンタジー Collector’s Edition(豪州版)=== 2009年9月3日発売。付属品がセットになったオーストラリア向けの版。パッケージイラストや同梱内容は欧州版と同一。 ===ディシディア ファイナルファンタジー PSP3000 Bundle(豪州版)=== PSP‐3000他をゲームとセットにしたオーストラリア向けの同梱版。PSPの本体色は北米版と同一のミスティック・シルバーであり、この他に白の合皮ケース、PSPに貼ることが可能な2枚のステッカーが同梱されている。 ===ディシディア ファイナルファンタジー ユニバーサルチューニング=== 2009年11月1日発売。廉価版2010年9月16日発売。北米版や欧州版(以下「海外版」)を日本国内向けにアレンジした版。UMD版とダウンロード版の2種類がある。 ===コラボレーション商品他=== ====ディシディアファイナルファンタジーポーション==== 2008年12月9日発売。FFシリーズに登場するアイテム「ポーション」の名を冠した、缶入りの清涼飲料水。350ml缶。ゲームの発売に先駆け、サントリーより数量限定で発売。奇数作品の登場人物が描かれた白い缶(コスモス)はグレープフルーツ味、偶数作品の黒い缶(カオス)はマスカット味である。両缶ともに8種類、計16種類のデザイン缶が存在する。飲料部門の発売週の新製品売上ランキングでは、カオス缶が4位、コスモス缶が5位にランクインした。なお、この2種類を混ぜ合わせると無色透明になる。このことを指しているか定かではないが、サントリーのホームページには「コスモスとカオスが交わるとき、何かが起るかも…?」との示唆が記載されている。 ===ディシディアファイナルファンタジートレーディングアーツ=== 2009年2月発売。スクウェア・エニックスマーチャンダイジング事業部から発売された、登場キャラクターのトレーディングフィギュア。全高10cm代、彩色済みPVC(硬質樹脂)モデル。vol.1は、コスモス陣営のキャラクター5種(ウォーリア・オブ・ライト、クラウド、スコール、ジタン、ティーダ)。 ===DISSIDIA FINAL FANTASY×PORTER×PS Pictogram=== SCEJから発売されたPSP用ケース。SCEJのブランドである「PS Pictogram」と、吉田カバンのブランド「PORTER」とのコラボレーション商品であり、野村が監修を行っている。カラーは黒、素材は高密度ナイロンツイルを使用。正面に模様上のキャラクターのシルエットがプリントされている(品番:SCZX‐93291)。 ===書籍類=== ====ディシディア ファイナルファンタジー アルティマニアα==== 2008年12月4日発売。(ISBN 978‐4‐7575‐2466‐8)ゲームの発売に先駆けて出版されたAB版(大型サイズ)の基礎知識本。編集スタジオベントスタッフ、出版スクウェア・エニックス。 ===ディシディア ファイナルファンタジー Destiny Hero’s Guide=== 2008年12月18日発売。(ISBN 978‐4‐08‐779489‐2)ソフトと同時発売のVジャンプブックスの基礎攻略本。 ===ディシディア ファイナルファンタジー ポストカードブック=== 2008年12月18日発売。(ISBN 978‐4‐7575‐2463‐7)本ゲームのイラストを集めたポストカード集。天野喜孝や野村哲也のキャラクターイラストなどを収録。 ===ディシディア ファイナルファンタジー アルティマニア=== 2009年1月29日発売。(ISBN 978‐4‐7575‐2488‐0)ゲーム発売の一か月後以降に発売された完全攻略本。編集スタジオベントスタッフ、出版スクウェア・エニックス。 ===ピアノソロ 中・上級 ディシディア ファイナルファンタジー(楽譜)=== 2009年4月24日発売。(ISBN 978‐4‐636‐84471‐9)ピアノ用の公式楽譜集。ヤマハミュージックメディアより発売。全18曲収録、楽譜の他にカラーページ付きで56ページ。 ===音楽CD=== ====ディシディアファイナルファンタジーオリジナルサウンドトラック==== 2008年12月24日発売。本ゲームのオリジナルサウンドトラック。CD2枚組で、歴代のシリーズで使用された楽曲の他、石元丈晴、関戸剛、鈴木光人、土橋稔らによる新規の楽曲・アレンジ曲も収録。初回限定盤(Limited Edition)は天野喜孝のイラストを使用したパッケージ付きである。同日発売の通常盤は、パッケージが異なるのみで、CDの収録内容は同一である。 =レゲエ= レゲエ(Reggae 英語発音: [*242*r*243**244*e*245*])は、狭義においては1960年代後半ジャマイカで発祥し、1980年代前半まで流行したポピュラー音楽である。広義においてはジャマイカで成立したポピュラー音楽全般のことをいう。4分の4拍子の第2・第4拍目をカッティング奏法で刻むギター、各小節の3拍目にアクセントが置かれるドラム、うねるようなベースラインを奏でるベースなどの音楽的特徴を持つ。 狭義のレゲエは直接的には同じくジャマイカのポピュラー音楽であるスカやロックステディから発展したが、ジャマイカのフォーク音楽であるメントや、アメリカ合衆国のリズム・アンド・ブルース、トリニダード・トバゴ発祥のカリプソ、ラスタファリアンの音楽であるナイヤビンギ、コンゴ発祥のクミナ (Kumina) や西アフリカ発祥のジョンカヌー (Jonkanoo)、さらにはマーチなど多様な音楽の影響を受け成立した。 ==呼称について== 「レゲエ (reggae)」と言う呼称の語源には諸説あるが、「ぼろ、ぼろ布、または口げんか、口論」という意味を表すジャマイカ英語のスラング、パトワ語で「レゲレゲ (”rege‐rege”)」が転じたものという説が有力である。 語源にはいくつかの異説がある。歌手のデリック・モーガンは以下のように述べている。 また、「都合のいい女」を意味するジャマイカ・クレオール語(パトワ)のスラング「ストレゲエ (”streggae”)」をクランシー・エクルズが略語化したという説もある。 1968年に史上初めて「レゲエ」という語をタイトルに取り入れた楽曲「ドゥ・ザ・レゲエ (en)」を発表したメイタルズのリーダー、トゥーツ・ヒバートは以下のように語っている。 また、ボブ・マーリーはレゲエの語源は「王の音楽」を意味するスペイン語であると主張していた。さらに、「王のために (to the king)」を意味するラテン語「regis」に由来するとする説もある。 ==音楽的特徴== 狭義におけるレゲエのアンサンブル、およびレゲエバンドにおいて使用される楽器は、ドラムセット、ベース、ギター、キーボード、パーカッション、そしてトロンボーン・サキソフォーン・トランペットによって構成されるホーンセクションである。 最も特徴的な演奏様式はドラムとベースによるリズム隊によって形作られる特有のグルーヴを中心に、リズムギターやキーボードが第2、第4拍目にアクセントを置きオフビートを刻むものである。これはクラーベをリズムの基本にするドミニカ共和国のメレンゲやマルティニークのズーク、セントルシアのビギン (en)などの近隣のカリブ海地域の音楽とは全く異なる演奏様式である。 レゲエのリズムはしばしばレギュラービートとシャッフルビートを同居させ、ポリリズムを形成する。BPMは72から92の間であることが多く、音数は少ないものの隙間でグルーヴを感じさせるように演奏される。またレゲエのリズムのことをジャマイカ英語で「リディム」と言い、しばしば曲名だけではなくリディム自体にも名前がついている。 1970年代におけるボブ・マーリーの世界的ヒットなどを経て、レゲエの演奏様式はヨーロッパ、アフリカ、アジアなど世界中の様々なポピュラー音楽でも演奏されるようになった。また、ジャズ、ロック、ヒップホップなど異なるジャンルとのクロスオーバーやレゲエ風アレンジも多く見られる。 ===楽器と奏法=== ====ドラムス==== 標準的なドラムセットが使用されることが多い。スネアドラムはしばしばティンバレスのような非常に高い音にチューニングされ、演奏ではリム・ショットが多用される。また、ロックやポップスなどと異なりシンバルを使ったフィルインはあまり用いられず、ハイハットを叩く際はアクセントをつけず平板なビートを刻むことが多い。 レゲエにおけるドラムビートは、「ワンドロップ (One Drop)」、「ロッカーズ (Rockers)」、「ステッパーズ (Steppers)」などに分類することができる。 ===ワンドロップ=== 1拍目にアクセントがなく、3拍目のみがスネアドラムのリムショットとバスドラムによって強調される。カールトン・バレットが開発したとされるこのリズムは、レゲエを特徴づける要素の一つである。代表的楽曲はボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズの「ワン・ドロップ (One Drop)」など。 ===フライング・シンバル=== ワンドロップのドラムに、通常はギターやキーボードが強調する2拍目、4拍目をハイハットのオープンショットによって強調する奏法。1974年にカールトン・サンタ・デイヴィス (en) が開発し、1975年まで流行した。代表曲はジョニー・クラーク (en)「ムーブ・アウト・オブ・バビロン (Move Out of Babylon)」など。 ===ロッカーズ=== ルーディメンツを下敷きにしたマーチングバンド風のフレーズをスネアドラムで叩く。その戦闘的にも聞こえるビートから「ミリタント・ビート」とも呼ばれている。スライ・ダンバーによって開発された。代表的楽曲はマイティ・ダイアモンズ「アイ・ニード・ア・ルーフ (I Need A Roof)」(1976年)など。 ===ステッパーズ=== スライ・ダンバーが開発した4拍子の4拍すべてに固い4つ打ちのバスドラムを打つリズムである。代表的楽曲はボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズ「エクソダス」など。この曲でカールトン・バレットは、4分の4拍子を刻む4つ打ちのバスドラムに8分の6拍子を刻むハイハットの3連打を絡めている。 ===ベース=== 標準的なエレキベースが使用されるが、極端に重低音を強調した音にチューニングされる。 レゲエにおいてベースはうねるようなベースラインを繰り返し、転調も少ない。 ===ギター=== 標準的なエレキギターが使われることが多いが、アコースティックギターが使用されることもある。 レゲエにおいてギターはカッティング奏法で2拍目・4拍目のオフビートを強調することが多い。カッティング奏法といってもファンクのように空ピックを多用することはなく、所々で空ピックや実音で引っ掛けるフレーズでスイングを演出する。バンドによってはカッティング奏法を担当するリズムギターとブルース風やロック風のメロディやリフの演奏を担当するリードギターの二本を用意することもある。 ===パーカッション=== パーカッションとしては、ボンゴ、カウベル、シェイカー、ビンギ・ドラム、ギロ、クラベス等が使用される。1990年代以降ではAKAI MPC等のサンプラーが使用されることもある。 ===ボーカル=== レゲエには多彩なボーカルスタイルが存在する。ソロ・シンガー、ボーカル・デュオ、ボーカル・トリオ、ディージェイ、シンガーとディージェイのデュオ、ディージェイ同士のデュオなどである。 なお、レゲエ特有の歌唱法としてはディージェイによるトースティング、ディージェイとシンガーの中間的歌唱法であるシングジェイ (en) がある。 ===レゲエの歌詞=== レゲエは「レベル・ミュージック(rebel music、反抗の音楽)」であるといわれる。その理由はレゲエの歌詞はしばしば社会、政治、物質主義、植民地主義などへの批判や反抗を主題とするからである。これはジャマイカ国民の90%以上が黒人奴隷またはマルーンの子孫であることにより醸成された疎外感や抵抗の歴史、ラスタファリ運動とキリスト教バプティスト派の宗教的影響が大きい。しかし、全てのレゲエ・アーティストがラスタファリアンというわけではなく、全てのレゲエの歌詞が反抗的というわけではない。ジャマイカの伝統音楽であるメントと同様のコミカルな歌詞や、フォークロアや諺に基づく説話的歌詞、ゲットーの貧しい暮らしへの嘆き、男女の愛、人生の機微、音楽への陶酔、新しいダンスの方法など、レゲエにおける歌詞の主題は多岐に亘る。 以下、他のポピュラー音楽に比べて特に独自性の高い、レゲエの歌詞の主題について補足する。 ===ラスタファリ運動=== 特にラスタファリアンのレゲエ・アーティストは、エチオピア帝国最後の皇帝ハイレ・セラシエ1世を「ジャー(現人神)」と、ジャマイカのジャーナリスト・企業家のマーカス・ガーベイを預言者と考え、アフリカ回帰 (en) を主義とする宗教的運動であるラスタファリズムを、しばしば作品の主題とする。アーティストは自らを戦士やライオン、イスラエル民族になぞらえ、「バビロンと戦いこれを打ち破り、ザイオンに帰還する」などと原理主義的に描写する。 ラスタファリアンでないアーティストもしばしば(黒人の)人種的プライドを誇ったり、反転した価値観を訴える。 ===大麻=== ラスタファリ運動がジャマイカで流行した1960年代末以降、大麻はレゲエの歌詞の中で頻繁に取り上げられる主題の一つである。ジャマイカにおける大麻は19世紀半ば以降プランテーションでの人手不足を補うため導入されたインド系移民によってもたらされた。ジャマイカでは大麻は「ガンジャ」や「ハーブ」などと呼称され、「ガンジャ・チューン (ganja tune)」などと称される大麻による効能や瞑想、または大麻が非合法とされているが故の苦難をテーマとした楽曲が多く発表されている。最も古いガンジャ・チューンは1966年のドン・ドラモンドによる器楽曲「クール・スモーク (Cool Smoke)」などである。ウェイラーズ『キャッチ・ア・ファイア』(1972年)のマーリーがガンジャのジョイントをくゆらすジャケットや、ピーター・トッシュ『解禁せよ (en)』(1976年)などの作品群のヒットによって、レゲエと大麻の結びつきはジャマイカ以外の国々においても有名なものとなった。しかし一方で、ジャマイカには1913年より施行された危険薬物法 (Dangerous Drugs Act) があり、大麻の所持、売買、喫煙にはそれぞれに応じた罰金刑、懲役刑が科されている。トッシュ、ブジュ・バントン、ニンジャマンらレゲエアーティストもこの法律を根拠に科刑された経験がある。 ===ホモフォビア=== 特に1990年代以降のダンスホールレゲエ楽曲を中心に、レゲエの歌詞にはしばしば異性愛を尊重し、同性愛者などの「性的逸脱者」を「バティボーイ (en:Batty boy)」などと呼び、激しく批判するホモフォビア的内容のものがある。これら同性愛者批判はジャマイカ国民の大多数を占める保守的キリスト教信者やラスタファリアンが持つ信仰に基づく性倫理観の影響や、植民地時代が長らく続いたことによる母系社会化と相対的な男性の地位低下等のジャマイカ特有の社会的、歴史的事情の影響がある。また、ジャマイカでは法律 Offences Against the Person Act 第76条、79条によって男性間の性交をはじめとする「性的逸脱」が違法とされており、違反者には10年以下の禁固刑が課せられている(その一方、女性間の同性愛行為に対する直接な法的言及はない)。 1990年代以降、ブジュ・バントン、エレファント・マン、ビーニ・マン、シズラ、ケイプルトン (en) らがイギリスに本部を置くアウトレイジ! (en) 等の同性愛団体・人権団体から差別的発言について抗議を受けていたが、2007年には上記のアーティストに加えT.O.K (en)、バウンティ・キラー (en)、ヴァイブス・カーテル (en) らが、アウトレイジ!らが起こしたキャンペーン「Stop Murder Music」との交渉により、今後は同性愛嫌悪を助長する歌詞を歌う事を止め、同性愛者に対する暴力に反対するとの合意書「レゲエ特別配慮規定 (Reggae Compassionate Act)」に署名、その調印書類が同性愛人権活動家のピーター・タッチェル (en) の公式サイトで公開されるなど、一時は両者間が歩み寄りの一歩を踏み出したかのように見られた。しかし、ブジュ・バントンとビーニ・マンは直後にこの署名を否定し、同性愛団体・人権団体との対立が再燃。両団体の抗議により、2人の欧米ライブツアーは幾度も抗議活動に見舞われたり、中止に追い込まれる等、表現の自由と人権問題の狭間を揺れ動く、依然根の深い問題となっている。 一方、2012年7月にレズビアンであることをカミングアウトしたダイアナ・キングは自身の公式Facebookで発表した声明文において、「正直に話すと、オープンに認めることはずっと怖くてできなかった。私のキャリアや家族、愛する人たちにどんなネガティブな影響を与えるか、分からなかったから」、「私がずっと抱いていた深い恐怖、それはジャマイカの人たちが長年のホモフォビアによって私を受け入れないということ。」、「私のような人たちを毎日のように迫害し、打ちのめし、牢獄に入れ、強姦し、殺してきたという不快な現実を、私はこれまでずっと、あまりにも多く見てきた。ただ自分自身であろうとする人たちを、あるいは、ただそうと疑われただけの人たちを」と語り、このように同性愛者に差別的なジャマイカにおける政治的/文化的土壌を批判している。 ===非一貫性/意識の二重性=== レゲエの歌詞には「ルードボーイ」、「ラガマフィン」、「ギャングスタ」、「バッドマン (en)」など不良や悪漢を意味する語がしばしば現れる。ルードボーイとラスタは必ずしも対立する概念ではなく、実際には多くのアーティストがルードボーイであり同時にラスタでもあるが、そのような非一貫性はレゲエの歌詞に頻出する主題の一つである。 例えばジミー・クリフの楽曲「ザ・ハーダー・ゼイ・カム (en)」では、曲の前半で生ある内の救済を希求しながら、後半ではむしろ死による救済を願う内容になっている。また、ボブ・マーリーはあらゆる人種間の平和を願う「ワン・ラヴ/ピープル・ゲット・レディ」と同じ黒人であってもラスタファリアンでないものを非難する「クレイジー・ボールドヘッド (Crazy Baldhead)」という相反する内容の楽曲を発表している。 しかしながら、アフリカン・ディアスポラと植民地時代の奴隷経験によって培われたこの非一貫性、二重性は必ずしも(特にジャマイカの)レゲエアーティストの中で矛盾として受け取られておらず、レゲエの歌詞の特徴の一つとなっている。 ===サウンド・チューン=== 後述するように、ジャマイカの音楽はサウンド・システムでダブ・プレートというそのサウンド・システム独自のレコードをかけ、互いに競い合う文化がある。そのため自分のサウンドを称えたり、相手のサウンドをけなしたりする曲が古くはレゲエ以前の時代からリリースされていた。そのような曲のことを「サウンド・チューン (sound tune)」、または「サウンド・アンセム (sound anthem)」と呼ぶ。 最古のサウンド・チューンはプリンス・バスターによる「Three Against One」や「The King, The Duke And The Sir」(ともに1963年発表のスカ楽曲)である。しかし、それ以前から各サウンドシステムはアメリカ合衆国産のレコードをサウンド・チューンとしてプレイしていた。例えばコクソン・ドッドのサー・コクソンズ・ダウンビート (Sir Coxsone’s Downbeat)は、アメリカ合衆国のリズムアンドブルースグループ、ウィリス・ジャクソン楽団が1951年に発表した「レイター・フォー・ザ・ゲイター (Later For the ’Gator)」を「コクソン・ホップ (Coxsone Hop)」と勝手に改名した上で島内で独占的にプレイし、1950年代の間人気を博していた。 ===言語=== 特にジャマイカでは、レゲエの歌詞はジャマイカの公用語である英語ではなく、ジャマイカ・クレオール語(パトワ)で歌唱されることが多い。これについて、ダブポエットのオク・オヌオラ (en) は「パトワとレゲエは同じリディムを持っている。人々のリディムだ。英語をレゲエのビートに乗せたとしても上手くいかない。そのときはリディムが変わってしまうだろう」と発言している。日本のNAHKIや、ドイツのジェントルマン、イタリアのアルボロジー (en) ら、ジャマイカ出身やジャマイカ系でないアーティストがパトワで歌唱するケースも少なくない。一方で、パトワは英語を母語としている者にとっても聴き取りが難しいため、シャギーなどはジャマイカ人であっても、国際的市場を意識し主に英語で歌唱している。また、しばしば「アイヤリック (Iyaric)」などと呼称されるラスタファリアン特有の語彙が使用される。 ==歴史== 本節では広義のレゲエ、即ちジャマイカのポピュラー音楽の歴史について記述する。 ===1930年代まで=== 1930年代までのジャマイカではジャマイカのフォーク音楽であるメント、カリプソやアメリカ合衆国のリズムアンドブルース、ジャズ、ビーバップが親しまれていた。 ===サウンド・システムの誕生=== ジャマイカではDJが前述のような音楽をサウンド・システムと呼ばれる、移動式で巨大なスピーカーを積み上げた音響施設でプレイし、路上や屋内で楽むことが1940年代以降ポピュラーになっていった。サウンド・システムは当時のキングストンの人々にとって娯楽の中心であり、出会いの場であり、情報交換の場であり、商売の場でもあった。 1950年代に入ると後述するようにキングストン市内にもレコーディングスタジオが開設されはじめる。以後ジャマイカ産のR&Bやジャズをプレイできるようになった各サウンド・システムはダブ・プレートを量産し、互いに激しく競い合うようになった。特に1952年に稼動開始したデューク・リードのトロージャン (Trojan) と、1954年に稼動開始したコクソン・ドッドのサー・コクソンズ・ダウンビートはライバルとして1970年代までジャマイカ音楽を牽引する存在となった。 これらのサウンド・システムとそこに集まる観衆の音楽的嗜好は、スカ誕生からダンスホールレゲエ期に亘る全てのジャマイカ音楽の変遷、流行に影響を与えている。また、その後サウンド・システム文化はジャマイカからの移民によってイギリス、アメリカをはじめ海外にも持ち込まれていった。1967年にニューヨーク市ブロンクス区へ移住したジャマイカ人DJのクール・ハークは当地でハーキュローズというサウンド・システムを立ち上げ、ヒップホップ音楽の誕生に大きな影響を与えた。 ===レコーディングスタジオとレーベルの開設=== 1951年にスタンレー・モッタ (Stanley Motta) がジャマイカ国内初のレコーディングスタジオMRS (Motta’s Recording Studio) を、1957年にはケン・クーリ (Ken Khouri) が後にタフ・ゴング・スタジオとなるフェデラル・レコーディング・スタジオ (Federal Recording Studio) を設立した。1958年には後にジャマイカ首相となるエドワード・シアガのWIRLが、1959年にはデューク・リードのトレジャー・アイルとクリス・ブラックウェルのアイランド・レコードが、さらに1963年にはコクソン・ドッドのスタジオ・ワンが創業を開始すると、その後ジャマイカには録音スタジオとレコードレーベルが次々に誕生していった。 ===ラジオ局の開局=== 1939年、ハム技師ジョン・グライナン (John Grinan) は政府の認可を受けジャマイカ初のラジオ放送局VP5PZを開局した。VP5PZは第二次世界大戦勃発を受け、戦時放送局ZQIへと引き継がれた。終戦後、政府は民営放送を認可し1950年にはJBC (en) が、1951年にはRJR (Radio Jamaica and the Re‐diffusion Network) が開局した。これらのラジオ局はサウンドシステムと同様にジャマイカのポピュラー音楽の発展を側面から支援したが、レゲエを専門的に放送するラジオ局は1990年のIRIE FMの開局を待たねばならなかった。 ===ジャマイカ独立‐スカの誕生=== ジャマイカは1959年に自治権を獲得し、1962年には英連邦王国として独立を果たした。これを機にジャマイカのミュージシャンが自らのアイデンティティを象徴する音を模索し始めたことや、サウンドシステムやプロデューサー間の競争が激化したことによって生まれた音楽がスカであった。スカは、カリプソ、メント等の従来のジャマイカ音楽に、ジャズやリズム・アンド・ブルースなどのアメリカ合衆国の音楽が融合し誕生した。ウォーキングベース (en) がリズムをリードする点、ホーンセクションが主旋律を担当することが多い点などはジャズと類似しているが、ビートがジャズのようにシャッフルせず、1小節の2拍目と4拍目にイーブンにアクセントを置くアップテンポな裏打ちのリズムはスカ特有のものである。スカ誕生によってジャマイカ音楽は新たな時代を迎え、ヒッグス・アンド・ウィルソンが1959年に発表した「マニー・オー (Manny Oh)」は2万5千枚を超える売上を記録し、ジャマイカの音楽産業における最初のヒット曲となった。また 、同年プリンス・バスターがプロデュースしたフォークス・ブラザーズ (en)「オー・キャロライナ (en)」はカウント・オジーによるナイヤビンギドラムを取り入れており、ラスタファリ運動の精神をジャマイカ音楽に反映させた最初の楽曲であった。 また、中国系ジャマイカ人 (en) のバイロン・リー (en) が映画『007 ドクター・ノオ』(1962年公開)に出演したことなどをきっかけに、スカはジャマイカの上流階級や海外にも徐々に認知を広げていった。 1964年には当時のジャマイカで最も有名なスタジオミュージシャンであったドン・ドラモンド、ジャッキー・ミットゥらによってスカタライツが結成され。また同年にミリー・スモール (en) の歌った「マイ・ボーイ・ロリポップ (en)」は全世界で600万枚を売り上げる国際的ヒット曲となり、スカ人気は頂点に達した。しかし、そのわずか二年後の1966年後半にはスカ人気は終焉することとなる。 ===ロックステディの誕生=== 1966年に発表されたホープトン・ルイス (en) による「テイク・イット・イージー (Take It Easy)」やアルトン・エリス「ロック・ステディ (Rock Steady)」などの楽曲を端緒にジャマイカではスカに代わりロックステディが流行する。 ロックステディはスカよりも遥かにゆっくりとした新しいリズムワンドロップを強調するドラム、シンコペーション感覚のあるメロディアスなベースラインと、甘く滑らかなサウンドを特徴とする。ロックステディのテンポがスカよりも遥かにスローダウンした理由は、単なる音楽的流行の変化という説と、1966年の夏にジャマイカを襲った激しい熱波によって、人々がアップテンポなスカではダンスすることが出来なくなったためという説、さらにスカタライツのメンバーであったドン・ドラモンドが起こした殺人事件を機にスカへのバッシングが行われたためという説がある。 このロックステディ期にはインプレッションズなどのソウル・ミュージックに影響を受けウェイラーズ、ヘプトーンズ、テクニクス、パラゴンズ などのトリオによるコーラスグループが流行した。さらにジャマイカ国内の社会状況の悪化などの影響からデリック・モーガン「タファー・ザン・タフ (Tougher Than Tough)」やプリンス・バスター「ジャッジ・ドレッド (Judge Dread)」などのルードボーイを主題とした歌詞が流行した。 ===ヴァージョンの発明=== このロックステディ期には「パート2・スタイル (part 2 style)」などと称される「同一のリディムを複数の楽曲で使いまわす」というジャマイカ音楽特有の手法が発明された。リディムの使いまわしは1967年末、スパニッシュタウンのルディーズ (Ruddy’s the Supreme Ruler of Sound) というサウンド・システムが偶然ボーカルを入れ忘れたパラゴンズの「オン・ザ・ビーチ (On the Beach)」のダブプレートをプレイしたところ、観衆に熱狂を持って受け入れられたことをその起源とする。 以来、リディムを使いまわす事による経済性の高さも相俟って、ジャマイカ産シングルレコードのB面には「ヴァージョン」と呼ばれるA面の曲のカラオケを入れることが流行し、一般化した。 ===レゲエの誕生=== ロックステディの流行も短命に終わり、1968年にはレゲエが取って代わった。前述の通り「レゲエ」という言葉が最初に用いられた曲はメイタルズ「ドゥ・ザ・レゲエ」であるが、最初にレゲエの音楽的特徴が取り入れられた楽曲ははっきりしていない。メント風のリズミカルなギターにブールーやクミナ風のパーカッションを取り入れたリー・ペリー「ピープル・ファニー・ボーイ (People Funny Boy)」や、電子オルガンとディレイのかかったギターが特徴のラリー・マーシャル (en)「ナニー・ゴート (Nanny Goat)」、レスター・スターリン (en)「バンガラン (Bangarang)」、パイオニアーズ(en)「ロング・ショット (Long Shot)」、エリック・モンティ・モリス (en)「セイ・ホワット・ユア・セイイング (Say What You’re Saying)」などの1967年から1968年に発表された作品群はロックステディからレゲエへの変化が顕著に現れている。 ゆったりしたワンドロップ・リズムこそロックステディ期と同一だったものの、シンコペーションのある裏打ちを刻むギター・オルガンと、ベースラインの対比よりによってそれ以前のジャマイカ音楽とは異なるレゲエ特有のアンサンブルが完成した。この変化について1962年から1968年までジャマイカで活動したトリニダード・トバゴ出身のギタリストリン・テイトは「ロックステディはコモンタイム、レゲエはカットタイム (en)。フレージングが全く違う」と証言している。 この変化の要因としてはリン・テイト、リコ・ロドリゲス、ローレル・エイトキン (en)、ジャッキー・ミットゥらスカ、ロックステディ期に活動したミュージシャン達が国外に移住したことや、各種エフェクターや録音機器の進歩と、それに伴うリー・ペリー、キング・タビー、バニー・リーら新興プロデューサー達の台頭があった。遂に自前のスタジオを持つことがなかったバニー・リーをはじめ、彼らの多くは楽曲制作において一層経済性を重視したため、コストのかかるホーンセクションの出番はスカ時代より減っていった。 同時に歌詞の内容もアビシニアンズ「サタ・マサガナ (en)」やエチオピアンズ「エブリシング・クラッシュ (Everything Crash)」をはじめとする黒人としての誇りや社会問題について歌うものが多くなっていったが、その背景には1966年のハイレ・セラシエ1世ジャマイカ訪問や西インド諸島大学に在籍したガイアナ人講師のウォルター・ロドニー (en) らの活動によってよりさらに勢力を増しつつあったラスタファリ運動や、同年独立を記念しジャマイカ政府によって創始された「フェスティバル・ソング・コンテスト」(en)による文化的ナショナリズムの高揚、さらにジャマイカ労働党による経済政策の失策による景気・治安の悪化や、アメリカ合衆国で高まりを見せつつあった公民権運動やネイション・オブ・イスラムの流行などの様々な要因があった。 ===ディージェイ・スタイルの確立=== サウンドシステムのDJは1960年代中期までは所属サウンドシステムで選曲をしながらイントロや間奏部分で曲紹介をするだけの存在であったが、ヴァージョンが発明された1960年代後期以降は、ヴァージョンに乗せたトースティングを歌手のようにレコーディングし、作品として発表するようになった。この手法を使い、1970年、U・ロイはデューク・リードのプロデュースにより「ウェイク・ザ・タウン (en)」(アルトン・エリス「ガール・アイヴ・ガット・ア・デート」のヴァージョンを使用)、「ルール・ザ・ネイション」(テクニークス「Love is Not a Gamble」のヴァージョンを使用)、「ウェア・ユー・トゥー・ザ・ボール」(パラゴンズの同名楽曲のヴァージョンを使用)の3曲を立て続けにリリース。従来の曲紹介や合いの手的なトースティングではなく、ディージェイとしてのメッセージを前面に押し出したこの3曲はサウンド・システムの観衆を熱狂させただけでなく、JBCとRJR両ラジオ局のヒットチャートの上位3曲を独占した。 U・ロイに続いてデニス・アルカポーン、I・ロイ (en)、ビッグ・ユーツ (en)、ディリンジャーといったディージェイが登場し、ディージェイによるトースティングはレゲエ特有のボーカルスタイルとして定着していった。 ===ダブの発明=== 1968年頃、レコーディング・エンジニアのキング・タビーは楽曲から「ヴァージョン」を作るだけではなく、原曲に極端なディレイやリヴァーブなどのエフェクトをかけ、ミキシングを施すことによって、アブストラクトなサウンドを生み出すダブという技法を発明した。ダブはリミックスやマッシュアップなど後年発明されていった音楽技法にも影響を与え、特にヒップホップ、ハウスなどのクラブミュージックに広く取り入れられた。タビーおよびタビーが発明したダブについて、クラブミュージックDJでありミュージシャンのノーマン・クックは「1980年代以降のダンス・ミュージックやクラブ・ミュージックのほとんどすべては、キング・タビーの影響下にあると言ってもいい」と証言している。 ===ルーツロックレゲエの隆盛=== 1972年にはジミー・クリフ主演映画『ザ・ハーダー・ゼイ・カム』が公開され、翌1973年にはボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズがメジャーデビューした。1974年にはエリック・クラプトンがボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズの「アイ・ショット・ザ・シェリフ」をカバーし、レゲエ楽曲としては初めてBillboard Hot 100チャート1位を獲得した。これらの出来事を期にレゲエは西インド諸島とイギリス以外の諸国にも認知と人気を拡大した。特にボブ・マーリーは第三世界出身の歌手として最も大きな商業的成功を収め、多くの国々の音楽家に影響を与えた。 1972年頃より、バーニング・スピア、カルチャー、ピーター・トッシュ、バニー・ウェイラー、オーガスタス・パブロらはロッカーズやステッパーズの重厚なリディムにラスタファリのメッセージを乗せた楽曲を多く発表した。これらのレゲエを特にルーツロックレゲエ、またはルーツレゲエと呼ぶ。その一方で、クリフ、デニス・ブラウン、グレゴリー・アイザックスらはルーツロックレゲエだけではなく欧米のポップ・ミュージックのカバーや多くのラブソングを発表していた。 ===ダンスホールレゲエの誕生と発展=== 1970年代後半に入ってもルーツ・ロック・レゲエの作品が次々と発表された。しかし、ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズやジミー・クリフ、ブラック・ウフル、スライ・アンド・ロビーらの世界的ヒットは彼らの海外公演を増やすと同時に、ジャマイカ国内での活動を減らす結果に繋がった。その音楽的空白を埋めるように登場したのが1978年に結成されたルーツ・ラディックス・バンド (en) であり、同年ユーツ・プロモーションを設立したシンガーのシュガー・マイノットであり、1980年ヴォルケイノ・レーベルを設立したヘンリー・ジュンジョ・ローズ (en) らダンスホールレゲエ期を代表する新興プロデューサー達であった。 また、人民国家党の失政により政治、経済がさらに混乱すると、ジャマイカではルーツ・ロック・レゲエの硬派なメッセージへの失望感が広がった。さらに1981年5月にはボブ・マーリーが死去。そうした状況はレゲエからラスタファリズム色を薄れさせ、イエローマンらのディージェイによる「スラックネス (en)」と呼ばれる下ネタを中心とした歌詞や「ガントーク (gun talk)」と呼ばれる自分の銃や力を誇示する歌詞を流行させた。ダンスホールレゲエ(単にダンスホールとも呼称される)の誕生である。 ===コンピュータライズド革命=== 1974年にボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズが発表した「ノー・ウーマン、ノー・クライ (No Woman, No Cry)」や「ソー・ジャー・セイ (So Jah Seh)」には先駆的にドラムマシンが使用されていたが、その他のパートは従来どおりのバンド演奏で録音されていた。 1984年に発表されたホレス・ファーガソン「センシ・アディクト (Sensi Addict)」やシュガー・マイノット「ハーブマン・ハスリング (Herbman Hustling)」などの楽曲は完全にデジタル楽器によって伴奏されていた。 翌1985年にキング・ジャミーがプロデュースしたウェイン・スミス (en) の「アンダー・ミ・スレン・テン (Under Mi Sleng Teng)」はカシオトーンMT‐40に出荷時から組み込まれていたドラムパターンで簡単に製作されたにも関わらず大きなヒットとなった。そのため、キング・タビーもすぐに打ち込みの技法を取り入れ「テンポ (Tempo)」リディムを制作しジャミーズに対抗した。これ以後、ダンスホールレゲエは急速にドラムマシンやシンセサイザーを取り入れ、エレクトリック・ミュージック化していった。この音楽的革新は「コンピュータライズド」や、「コンピューター・リディム」などと呼ばれた。ダンスホールレゲエは、ドラムマシンの導入と聴衆のニーズにこたえる形で曲のテンポも徐々に上昇し、それまでのレゲエとは全く異なる音楽と進化していった。 その後もキング・ジャミーをはじめ、元ルーツ・ラディックスのスティーリィ&クリーヴィ (en) や、ボビー・デジタル・ディクソン (en)といったプロデューサー達がコンピュータライズドのリディムトラックを大量生産し、ニンジャマン、シャバ・ランクス (en)、スーパーキャット、バウンティ・キラー (en)、ビーニ・マンなど多くのDJによるヒット曲を生んでいった。これら80年代半ばから2000年代まで流行した、打ち込みによる高速ダンスホールレゲエは特にラガと称される。ラガおよびダンスホールレゲエはそれまでのレゲエと全く異なる独自のサウンドへと進化したため、www.reggae‐vibes.comなどではレゲエチャートとダンスホールチャートがそれぞれ設けられている。 また、1985年にはグラミー賞にベスト・レゲエ・レコーディング部門が設けられ、ブラック・ウフル『アンセム (Anthem)』が第一回受賞作品となった。 ===1990年代以降=== 1990年代中頃、ラスタファリアンの歌手ガーネット・シルクの事故死などをきっかけとしてラスタファリ運動とルーツレゲエが再び脚光を浴び、ルチアーノ (en)、ケイプルトン、シズラ等のアーティストが登場した。また、メジャーレイザーなどのテクノやエレクトロニカ系アーティストのよる新たなレゲエの解釈や、ジャマイカのダンスホールとイギリスのニュールーツとの交流、ダミアン・マーリーらによるヒップホップとのクロスオーバーなど新たな動きが現れた。2000年代前半にはダンスホール系ディージェイのショーン・ポールが国際的に成功した。 ===イギリスでの受容と発展=== ====移民第一世代によるレゲエ==== 1948年、イギリス政府は第二次世界大戦戦後復興のため国籍法を改正し、ジャマイカなど植民地の国民にイギリスの市民権を付与したうえ、積極的に移民として受け入れた。そのため、ジャマイカからイギリスへの移民は最も多かった1961年には年間3万9千人を数え、1971年に移民法が、1981年に国籍法がそれぞれ改定され移民が制限されるまで増え続けた。この移民の中にはミュージシャンやサウンドマンも存在し、1960年前後には小規模ながらもサウンド・システムが出現した。1964年にはノッティング・ヒルで第一回ノッティング・ヒル・カーニバル (en) が開催され、レゲエ、カリプソをはじめとするカリブ海の音楽はサウンド・システム文化とともにその知名度と人気を拡大していった。 ===在英レーベルによるレゲエのポピュラー化=== ユダヤ系アメリカ人のエミール・E・シャリットは、1960年にブルービート・レコーズ (en) を立ち上げ、ジャマイカ産のリズム・アンド・ブルースやスカをリリースした。これを端緒として、イギリスにはカリブ海の音楽を取り扱うインディペンデント・レーベルが続々と設立された。中でもクリス・ブラックウェルが1962年8月のジャマイカ独立を機にジャマイカからイギリスに移転させたアイランド・レコードは、1964年、ミリー・スモールの「マイ・ボーイ・ロリポップ」を全世界で600万枚売ることに成功した。 さらに1967年、ブラックウェルはデューク・リードのトレジャー・アイルと契約し、トロージャン・レコード (en) を設立する。このレーベルはジャマイカ音楽をイギリスへ配給し続けた。同レーベルからの楽曲群はとりわけモッズ、スキンヘッズたち若者に支持され、デイヴ・アンド・アンセル・コリンズの「ダブル・バレル (en)」は1971年5月1日から2週間UKシングルチャート1位を獲得するヒットとなり、また、ハリー・J・オールスターズ (en) の「リキデイター (en)」はウルヴァーハンプトン・ワンダラーズFCを皮切りに、ウェスト・ブロムウィッチ・アルビオンFC、チェルシーFCの応援歌に採用されていった。これらの楽曲群はスキンヘッド・レゲエと呼ばれ、その後の2トーン・ムーブメントに大きな影響を与えた。 アイランド・レコードは1972年にジミークリフ主演映画『ザ・ハーダー・ゼイ・カム』のサントラ盤を、1973年4月13日にはボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズのメジャーデビューアルバム『キャッチ・ア・ファイア』をリリースする。1977年に同グループがリリースした『エクソダス』は同社初のゴールドディスクとなった。 その他のイギリスの代表的なレーベルにはパマ(en、1967年設立、1978年にジェットスターへと社名変更、2006年倒産)、グリーンスリーヴス(en、1975年設立、2008年VPレコーズに吸収合併)がある。 ===イギリス独自のレゲエの発展=== 1970年代中頃から、ジャマイカ移民二世を中心にしたイギリスの人々はイギリス独自のレゲエを模索し始めた。ルーツ色の濃いアスワドやスティール・パルス (en)、白人のアリ・キャンベル (en) がリード・ボーカルを務めるUB40などはその代表格である。また同時期に結成されたバンド、マトゥンビ (en) のデニス・ボーヴェルはイギリスにおけるレゲエとダブのみならず、ジャネット・ケイ (en) らをプロデュースしラヴァーズ・ロックというジャンルを開拓した。またボーヴェルはスリッツやトンプソン・ツインズをもプロデュースし、パンク・ロックやニュー・ウェイヴシーンにおいても重要な存在となった。スリッツのマネージャーであったドン・レッツに影響を受けたザ・クラッシュや、ポリス、シンプリー・レッドといったロックバンドもレゲエを取り入れた楽曲を多く発表した。 1978年、詩人のリントン・クエシ・ジョンソンはボーヴェルのプロデュースによりアルバム『ドレッド・ビート・アン・ブラッド (en)』をリリースする。以来ジョンソンはレゲエの伴奏に合わせて詩の朗読をするダブ・ポエトリーと呼ばれるジャンルの第一人者となった。 1970年代初頭よりイギリスでサウンド・システムを経営していたジャー・シャカは1980年代に入り本国ジャマイカがダンスホール全盛となる中で、コンピュータライズドによるルーツレゲエを表現した。このようなスタイルはニュールーツと呼ばれる。1981年にはマッド・プロフェッサーがアリワ・レーベルを立ち上げ、デジタルな音作りでラヴァーズロックとニュールーツ界に独自の地位を築いた。そうしたデジタル化したレゲエはニュー・ウェイヴやテクノ、ハウスといったクラブ系音楽にも影響を与えた。1990年代にはマッシヴ・アタックなどがレゲエとヒップホップ、ハウス、テクノを融合させトリップホップというフュージョンジャンルを生みだしたほか、レベルMC (en) などはレゲエのベースラインに高速のブレイクビーツを乗せたジャングルというフュージョンジャンルを生んだ。さらに2000年代には2ステップにダブの要素を加えたダブ・ステップ (en) というジャンルが生まれた。 ===レゲエにおける女性アーティスト=== ジャマイカの女性歌手による最初のヒット曲は1964年のミリー「マイボーイ・ロリポップ」であった。男女の恋愛を主題とした歌が流行した1960年代後半のロックステディ期にはドーン・ペン (en)、マーシャ・グリフィス (en)、フィリス・ディロン (en) ホーテンス・エリス (en) など多くの女性歌手がデビューしただけでなく、1965年にゲイ・フィート (Gay Feet) とハイ・ノート (High Note) レーベルを設立したソニア・ポッティンジャー (en) はプロデューサーとして1985年まで活動を続けた。しかし、思想的・政治的な主題が流行した1970年代のルーツレゲエ期に活躍した女性アーティストはボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズのバック・コーラスとして活動したアイ・スリーズ (en)、ディージェイ・デュオのアルシェア&ダナ (en) ら少数であり、スラックネスなどのきわどい表現が流行した1980年代以降のダンスホール期においても女性アーティストが比較的少ない傾向は続いた。この理由としては主題の影響と共に、ジャマイカの教育には大きな男女逆格差があることにより、女性は音楽業界ではなく行政機関や民間会社の職に就くことが多いことや、伝統的にジャマイカの音楽業界は男性中心的であることなどが挙げられる。 しかし、前述の通り、1970年代後半にイギリスで生まれたレゲエのサブジャンルラヴァーズ・ロックはジャネット・ケイ (en)、キャロル・トンプソン (en)、ルイーザ・マーク (en)、 J・C・ロッジ (en) ら女性歌手が中心となって発展した。 1990年代以降のジャマイカではレディ・ソウ (en)、パトラ (en)、ダイアナ・キング、ターニャ・スティーブンス (en) など、ディージェイと歌の両方をこなす女性アーティストが活躍した。また、ポップスターとして知られるグウェン・ステファニーやリアーナ、M.I.A.はレゲエやダンスホールを取り入れた音楽を多数発表している。なお、ラスタファリアンの女性アーティストはリタ・マーリー、シスター・キャロル(en)、クイーン・アイフリカ (en) などの例があるものの、極少数である。 ==世界各国への拡散と受容== ===ヨーロッパ=== 前述の通りイギリスでは1960年代よりレゲエがポピュラーな存在になっていったが、1980年代以降はその他の欧州各国でもポピュラー化していった。ポーランドでは共産主義政権下の1980年代前半よりダーブ (en)、イズリアル (en) らが活動を開始し、ポーリッシュレゲエ (en) シーンが確立している。イタリアではサッド・サウンドシステム (en)、ピチュラ・フレスカ (en)、アルマメグレッタ (en) B・R・スタイラーズ (en) らが活動している。ドイツではジェントルマンやパトリス (en)、シード(Seeed)などが活動している。シードのメンバーでもあるペーター・フォックスが2008年に発表したアルバム『Stadtaffe』はドイツ国内で100万枚、EU全体で110万枚を売り上げるヒット作となり、フォックスは2009年のドイツエアプレイチャートにおいてレディ・ガガ、P!nkと共に最も成功したアーティストとして挙げられた。ジェントルマンが2004年に発表したアルバム『コンフィデンス (Confidence)』はドイツとオーストリアのヒットチャートで1位を獲得した他、トルコ人歌手のムスタファ・サンダルと共演した楽曲「Isyankar」がドイツとオーストリアのヒットチャートでトップ10に入るヒットとなった。 欧州各国のその他のレゲエアーティストとしては、スウェーデンのルートヴァルタ (en)、 スヴェンスカ・アシャデミエン (en)、オランダのトワイライト・サーカス (en) らが有名である。スペイン系フランス人ミュージシャンのマヌ・チャオもレゲエを取り入れた楽曲を多く制作している。 ===中近東=== 1985年、イスラエルのテルアビブに「ソウェト (Soweto)」というクラブがオープンすると、ジャマイカ系イギリス人のサウンドマン、ラス・マイケルが招聘され、人気を博した。マイケルの影響でアミル (Amir)、チュル (Chulu)、シルヴァー・ドン(Silver Don) といったレゲエミュージシャンと幾つかのサウンドシステムが活動を開始した。ソウェトは1997年に閉店したが、2000年代もバンドのハティクヴァ6 (en) などが活動している。ユダヤ系アメリカ人レゲエ歌手のマティスヤフもしばしばヘブライ語で歌唱している。 レバノンではベイルートやジュニエを中心に1990年代にアフリカからの出稼ぎ労働者によってレゲエが紹介され、1996年にはルーディ (Rudy) が同国初のレゲエミュージシャンとして活動を開始した。2000年代以降はジャミット・ザ・バンド (Jammit The Band) や、ラスタ・ベイルート (Rasta Beirut) が人気である。 ===カリブ海・中米=== 1970年代にはパナマでスペイン語レゲエ (en) が誕生し、ラテンアメリカ諸国やスペイン語話者の多い国々に広がっていった。1990年代前半のプエルトリコではスペイン語レゲエとサルサやヒップホップなどの音楽が混交し、レゲトンというジャンルが生まれた。レゲトンは2004年頃、ダディー・ヤンキー「Gasolina」、ニーナ・スカイ (en)「Move Ya Body」、ノリ (en)「Oye Mi Canto」などのヒットによってその知名度を拡大させた。 その他のカリブ海地域出身のレゲエアーティストとしてはマルティニークのカリ (en)、グアドループのアドミラル・T (en)、アメリカ領ヴァージン諸島のミッドナイト (en) やプレッシャー (Pressure) らがいる。 ===南米=== ブラジルでは1970年代よりサンバとルーツレゲエがクロスオーバーしたサンバヘギ (en) というフュージョンジャンルが生まれた。1979年にはジルベルト・ジルがボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズ「No Woman No Cry」のポルトガル語カバー「N*246*o Chore Mais」をヒットさせた。 バイーア州のオロドゥン (en) は1980年代以降各地のカーニバルで演奏している他、10枚以上のサンバヘギのアルバムを発表している。 ===北米=== アメリカ合衆国において最もレゲエが盛んな地域は1960年代後半よりジャマイカ人が多く移民したニューヨーク市である。ジャマイカ移民は前述の通りニューヨーク市にサウンドシステムを文化を伝え、ヒップホップ音楽の誕生に影響を与えた。1990年代前半にはディージェイのジャマルスキーやマッド・ライオン (en) がヒップホップ・グループのブギーダウン・プロダクションズに参加するなどレゲエアーティストとヒップホップアーティストが積極的に交流した結果、ラガ・ヒップホップというフュージョンジャンルが誕生した。他にもバッド・ブレインズ、フージーズ、ノー・ダウト、マティスヤフ、グラウンデーション (en) 、マイケル・フランティ (en) といったミュージシャンがレゲエとヒップホップやロック、ジャズとのクロスオーバーを試みている。一方で伝統的なルーツレゲエの分野ではビッグ・マウンテンなどが活動している。カナダではトロントにジャマイカ人移民居住地域があり、スノー、リリアン・アレン (en) などが活動している。 ===アフリカ=== アフリカ諸国ではレゲエは広く受け入れられており、アフリカ諸国出身のミュージシャンによるレゲエのことをアフリカンレゲエ (en) と呼ぶ。ナイジェリアではマジェック・ファシェック (en) らが1970年代より活動しており、ナイジェリアン・レゲエ (en) シーンが確立している。南アフリカ共和国出身のラッキー・デューベは通算25枚のアルバムを発表しているほか、南アフリカのポピュラー音楽ンパカンガ (en) とレゲエとのクロスオーバーを試みている。コートジボワールではアルファ・ブロンディやティケン・ジャー・ファコリー (en) などが活動している。マスカリン諸島では当地の伝統音楽セガ (en) とレゲエがクロスオーバーし、セゲエ (en) というフュージョンジャンルが生まれた。 ===オセアニア=== オーストラリアではジャマイカからの移民を受け入れていたため、1960年代後半よりレゲエとサウンドシステムが存在していた。1970年代後半からはノー・フィックスド・アドレス (en) やカラード・ストーン (en) などが活動している。ニュージーランドでは1970年代後半よりハーブス (en) などが活動している他、2000年代はファット・フレディーズ・ドロップ (en) などが人気があり、レゲエは人気の高いジャンルの一つとなっている。また、ハワイでは1980年代からハワイアン・ミュージックとレゲエがクロスオーバーしたジャワイアンというフュージョンジャンルが生まれた。 ===アジア=== アジアでレゲエが盛んな地域は日本とフィリピンである。フィリピンでは特にヴィサヤ地方のセブやドゥマゲテでレゲエ人気が高く、1970年代後半よりココジャム (Cocojam) やジュニア・キラト (en) といったバンドがセブアノ語(ヴィサヤ語)やワライ語で歌い、活動している。フィリピン人によるレゲエは「ピノイ・レゲエ (en)」 と呼ばれている。 1990年代前半にインド系イギリス人のディージェイ、アパッチ・インディアン (en) はダンスホール・レゲエとバングラ・ビートを融合させ、バングラガ (en) というジャンルを開拓した。大韓民国ではレゲエは退廃的な音楽とされ視聴が禁止されていたが、1992年に視聴解禁されると同時にUB40「好きにならずにいられない」がヒットした。以後レゲエバンドのドクターレゲエや、ストーニー・スカンク、レゲエを取り入れたポップグループのルーラ (en) が登場した。 インドネシアのラス・ムハマド (Ras Muhamad) は2008年に「Musik Reggae Ini」をヒットさせ、AMI Awards(en)を受賞した。 スリランカでは、2000年から活動を開始したロハンタ・レゲエ (Rohantha Reggae) がレゲエの第一人者である。ロハンタ・レゲエは2007年に同国出身歌手として初めてアメリカ合衆国のレーベルから作品をリリースした。 ===日本=== 日本では1970年代後半からフラワー・トラベリン・バンドやペッカー、豊田勇造、上田正樹らがレゲエを取り入れた音楽を制作していた。1979年にボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズが来日公演を行ったことをきっかけにレゲエ人気が高まり、1980年にはペッカーがアルバム『ペッカー・パワー』、『インスタント・ラスタ』を、豊田がアルバム『血を越えて愛し合えたら』をそれぞれジャマイカで制作し発表した。1982年には元フラワー・トラベリン・バンドのジョー山中がウェイラーズバンドと共作したアルバム『レゲエ・バイブレーション1』を発表し、ダブ・バンドのMUTE BEATが活動を開始した。1984年にはディージェイのランキンタクシーが活動を開始し、PJ&クールランニングスは日本のレゲエアーティストとして初めてメジャーデビューした。1985年にはスカバンドの東京スカパラダイスオーケストラも活動を開始した。2001年には三木道三のシングル「Lifetime Respect」が、2006年にはMEGARYU『我流旋風』と湘南乃風『湘南乃風〜Riders High〜』の2枚のアルバムがオリコンチャート1位を記録した。日本のレゲエは「ジャパニーズレゲエ (en)」または「J‐レゲエ」、「ジャパレゲ」と呼称されている。 ==主なレゲエフェス== 世界各地で様々なレゲエフェスティバルや大規模コンサートが開催されている。 ===ジャマイカ=== レゲエ・サンスプラッシュ(英語版)( ジャマイカ)レゲエ・サンフェス(英語版)( ジャマイカ)スティング ( ジャマイカ)レベル・サルート ( ジャマイカ) ===ヨーロッパ=== ノッティングヒル・カーニバル(英語版) ( イングランド)サマージャム(英語版) ( ドイツ)ロトトム・サンスプラッシュ(イタリア語版) ( イタリア)ソカ・レゲエ・リバースプラッシュ(英語版) ( スロベニア)ウプサラ・レゲエ・フェスティバル(英語版) ( スウェーデン) ===北米=== ジャズ・レゲエ・フェスティバル(英語版) ( アメリカ合衆国)レゲエ・オン・ザ・リバー(英語版) ( アメリカ合衆国)モントリオール・インターナショナル・レゲエ・フェスティバル(英語版) ( カナダ) ===アジア・オセアニア=== 横浜レゲエ祭 ( 日本)セブ・レゲエ・フェスティバル(英語版) ( フィリピン)ラガマフィン音楽祭(英語版) ( オーストラリア ,  ニュージーランド) ==教育・研究== 西インド諸島大学モナ校人文教育学部カリブ学科には1993年よりレゲエ研究室が設けられている。アメリカ合衆国バーモント州のバーモント大学では2004年よりアルフレッド・C・スナイダー (Alfred C. Snider) 教授による「レゲエの修辞学 (Rhetoric of Reggae Music)」という講座が行われている。 ===文化的評価=== 2018年、ジャマイカのレゲエがユネスコの無形文化遺産に登録された。 ==レゲエを題材とした作品== 音楽作品については膨大なリストになるため本節では割愛する。書籍については参考文献も参照。 ===映画=== 『ハーダー・ゼイ・カム』(1972年公開、 ジャマイカ、ペリー・ヘンゼル (en) 監督)『ロッカーズ』(1978年公開、 ジャマイカ、セオドロス・バファルコス監督)『Cool Runnings: The Reggae Movie』(1983年公開、 アメリカ合衆国、ロバート・マッジ (en) 監督)『ラフン・タフ 〜永遠のリディムの創造者たち〜』(2006年公開、 日本、石井“EC”志津男監督) ==よくある誤解== ドレッドロックスやラスタカラーの配色は本来レゲエではなくラスタファリ運動のシンボルである。ジャマイカでは1970年代前半以降、ディージェイがレコーディングアーティスト化したため、「ディージェイ (DJ, Deejay)」といえば「トースティングをする者」のことを表すようになり、選曲者のことを「セレクター (selector)」というようになった。またジョグリンスタイルが流行した1990年代前半以降は「セレクターのかける曲を紹介する者」のことを「MC」というようになった。ヒップホップ音楽ではラップする者をMCと、選曲者をDJというため、両ジャンル間ではしばしば用語の混同が起こる。 =信玄公旗掛松事件= 信玄公旗掛松事件(しんげんこうはたかけまつじけん)は、1914年(大正3年)12月に一本の老松が蒸気機関車の影響で枯れたことから、所有者の清水倫茂(しみずりんも) が1917年(大正6年)に国を相手取り起こした損害賠償請求事件である。 国家賠償法成立以前の、大正年間(1910年代 ‐ 1920年代)に起きた当訴訟事件は、鉄道事業という公共性の高いものであっても、「他人の権利を侵略・侵害することは法の認許するところではない、松樹を枯死させたことは、権利の内容を超えた権利の行為である。」、すなわち「権利の濫用」に当たると司法によって判断され、第一審の甲府地方裁判所、第二審の東京控訴院に続いて、上告審の大審院(第二民事部)に至るまで、原告である清水倫茂が被告である国に勝訴した歴史的裁判であった(大判大正8年3月3日民録25輯356頁)。 これは近代日本の民事裁判判決において、権利の濫用の法理が実質的に初めて採用された民事訴訟案件であり、加害者の権利行使の不法性(違法性)について重要な判断が示されるなど、その後の末川博、我妻栄、青山道夫ら、日本の法学者による「権利濫用論」研究の契機となった、日本国内の法曹界では著名な判例である。 この松樹は武田信玄が軍旗を立て掛けたという伝承・由来のある「信玄公旗掛松」と呼ばれていた老松で、国鉄(現JR東日本)中央本線日野春駅(山梨県北杜市長坂町富岡)駅構内に隣接した線路脇に生育していたが、老松の所有者(地権者)であった清水倫茂は、蒸気機関車の煤煙、蒸気、振動などにより枯死してしまったとして、一個人として国(鉄道院)を相手取り訴訟を起こした。 ==事件の背景としての地理関係== ===七里岩台地と日野春原野=== 信玄公旗掛松(しんげんこうはたかけまつ)と呼ばれた老松がかつて生育していた所在地は、山梨県旧北巨摩郡日野春村字富岡26番地(現、山梨県北杜市長坂町富岡)、今日のJR東日本中央本線日野春駅構内南東側の線路脇である。 日野春村の立地する八ヶ岳南麓一帯は近世において、逸見路(へみじ)、信州往還(甲州街道原路)、棒道など、甲府盆地と信州諏訪地方を結ぶ複数の街道が通過していた交通の要所であり、これらの街道のうち日野春村は信州往還(2015年現在の山梨県道、通称「七里岩ライン」に相当)の道筋にあたる。 日野春(ひのはる)付近は、八ヶ岳泥流と呼ばれる火山泥流によって形成された七里岩台地の上面にあたり、かつては別名、日野春原野(ひのっぱらげんや)とも呼ばれた雑木林が広がる原野であり、台地上という地形のため古来より水利の便が悪く、開発の遅れていた一帯であった。明治初年頃より徐々に開拓が始まり、1873年(明治6年)に山梨県令藤村紫朗 による「日野春開拓計画」が策定され、翌明治7年、日野春新墾地移住規則が通達された。こうして募集された移住者により日野春付近の原野は開墾され開発された。日野春駅の所在する字名富岡とは、県の開拓指導の責任者であった富岡敬明から名付けられた地名である。 当地を通過する中央本線は、釜無川と塩川支流の鳩川に挟まれた七里岩台地の尾根上を、複数のスイッチバック により最大25パーミル の急勾配で登る経路で敷設されており、信玄公旗掛松は日野春原野のほぼ中央、七里岩台地分水嶺のちょうど真上、標高約600メートルに生育していた。 ===信玄公旗掛松=== 信玄公旗掛松は、高さ約15メートル、木の周り約7メートルにおよぶ巨木であり、別名「信玄公旗挙松」、「信玄公旗立松」、「甲斐の一本松」などとも呼ばれた老松であった。ただ、武田信玄の時代よりも後世のものであることが、後述する裁判過程で国側の鑑定により明らかにされた。 しかしながら、見晴らしの良い丘の上に立つこの一本松は、古来から名の知れた名木であることに変わりはなく、甲斐源氏の祖である逸見清光(源清光)が、ここに物見櫓を置き、戦が始まると、松に軍旗が立てられ農民兵を集めたという伝承が残されており、武田信玄もまた、この松樹に「孫子の旗」を立て掛け目印とし、周辺の家臣、農民兵を集めたという話が、天明年間(1781年 ‐ 1789年)に著された加賀美遠清の『甲陽随筆』に見られるなど、古くからこの地域の人々にとって代々親しまれた名木であった。 山梨県内には信玄堤や信玄の棒道、信玄の隠し湯など、到るところに武田信玄ゆかりとされるものが残されており、この老松もそうしたものの一つであった。 このような由緒ある古木、名木に隣接した位置に鉄道を敷設するようなことは、自然保護、文化財保護等の理解が浸透した現代の感覚からすると考え難いことである。しかし現実に、信玄公旗掛松の根元から至近距離にレールが敷かれたことによって本訴訟事件は発生した。 日本では人的記念物の保存については古くから関心が高く、1871年(明治4年)5月23日に公布された太政官布告の古器旧物保存方に続いて、1897年(明治30年)には古社寺保存法の公布があったが、これらはいずれも神社仏閣等の人的記念物を対象としたものであり、植物、動物、地質・鉱物など、自然環境を対象とした文化遺産に関する保護制度は一元化されていなかった。1919年(大正8年)になり史蹟名勝天然紀念物保存法が制定されたことによって、初めて日本に天然記念物という概念が成立した。信玄公旗掛松が枯死したのは、その5年前の1914年(大正3年)年末のことであった。 ==事件の背景としての鉄道事業== 1872年(明治5年)に新橋駅 ― 横浜駅間が開業されたのを皮切りに、日本の各地では鉄道の建設が急速に発展していった。当初、政府主導で始まった鉄道事業は、民間による鉄道会社設立敷設の動きが、企業家を中心として始まった。当時鉄道は、企業家が競って投資の対象とするほど、将来の発展が約束された魅力的な産業でもあった。 中央本線の敷設については、東京から立川方面へ鉄道を敷設する民間会社甲武鉄道が1886年(明治19年)に設立され、3年後の1889年(明治22年)4月11日に、新宿駅 ― 立川駅の区間で開業し、同じ年の8月11日に八王子駅まで延伸された。この甲武鉄道は甲州財閥と呼ばれる山梨県出身の実業家、雨宮敬次郎と若尾逸平を中心として設立されたもので、社名の甲武鉄道とは甲州(現:山梨県)と武州(現:東京都)を結ぶことを目的としたものであった。 一方で、これら私設鉄道(私鉄)の計画が日本全国で過熱気味になり、中には投機目的の誇大な計画が増えるなど問題化し始めた。この流れを受けて、幹線鉄道はなるべく国が主体となって設けるべきとの方針を国は取るようになる。そして1892年(明治25年)に制定された鉄道敷設法へ、1906年(明治39年)の鉄道国有法公布へと、私鉄国有論は台頭していった。鉄道敷設を取り巻くこのような流れの中、甲武鉄道として八王子まで開業していた中央本線は、八王子から西は国が主体となって建設する方針が取られた。1896年(明治29年)、八王子駅 ― 塩尻駅(現:長野県塩尻市)間の工事が開始され、難工事の末貫通した笹子トンネル等の完成により、1903年(明治36年)6月11日に甲府駅まで、同年12月15日に韮崎駅まで開通し、韮崎から県境を越えた富士見(現、長野県諏訪郡富士見町)までの区間は1904年(明治37年)12月21日に開通した。信玄公旗掛松事件で問題となった日野春駅は、この「韮崎 ― 富士見」の区間に所在する。次いで1906年(明治39年)10月1日、国は甲武鉄道(新宿 ‐ 八王子)を買収し、八王子から西の国有鉄道と一体化され、今日の中央東線の原型となった。 ===「国は悪をなさず」という認識=== 当初、国有鉄道は逓信省が管理していたが、1907年(明治40年)4月1日に逓信省から帝国鉄道庁が独立し、翌1908年(明治41年)12月5日に後藤新平を初代総裁として鉄道院が発足した。その後1920年(大正9年)に鉄道省が設立されるまでの約13年間、国の鉄道は鉄道院により管理運営が行われた。信玄公旗掛松事件はこの鉄道院時代に起きた事件であった。 前述したように中央本線の開設は、国が主体となり建設が行われたものである。そして開設の背景には日清・日露の両戦を通じて、鉄道輸送の重要性を認識し、幹線鉄道の国有化を推進した軍部の思惑、要請が大きかったと言われている。 このように鉄道院時代の日本における鉄道の役割は、国家目的の遂行、しかも国防上の目的という考え方が背景にあり、一般の人々にとって鉄道は国のもの、「国は悪をなさず」という考え方が強かった。たとえば、1909年(明治42年)、中央本線沿線の武蔵野市(当時の東京府北多摩郡武蔵野村)で蒸気機関車の火の粉によるボヤが生じ、被害者が鉄道院に補償を求めたところ、鉄道院はこれを全く受け付けなかったという。また、事故も頻発していたようで汽車をもじって「人ひき車」と揶揄されるほど、被害も生じたというが、これらの賠償問題がどのようにして処理されていたのか記録が残されておらず、被害者の救済がどのように行われたのか不明であるが、今日で言う無過失責任に近い処理が行われたと考えられている。いずれにしても「国の権威を背景にした鉄道院」、「国は悪をなさず」という世間一般の鉄道に対する認識が、信玄公旗掛松事件の生じた背景に控えていたと言える。 ==裁判の経過== 信玄公旗掛松事件は煤煙によって被った被害をめぐる煙害事件であり、今日で言う公害問題に属する事件である。それに加えて「権利濫用」の法理が日本で初めて実質的に法廷で取り上げられた点や、その3年前(1916年)の大阪アルカリ事件に続いて、権利者による権利行使が「不法行為」に該当し責任を問えるのか争われた点に、信玄公旗掛松事件の特筆性がある。そのため日本国内の法学部等における民法講義で、権利濫用の古典的事例として採り上げられる ほど、日本の法曹界では著名な事件である。だが、社会一般的にはあまり知られた事件ではない。たとえば1969年(昭和44年)から1974年(昭和49年)にかけて、当時の国鉄が編纂した『日本国有鉄道百年史』という全19巻にもおよぶ詳細な書物の中でも、わずかに他の公害問題の箇所にこの事件が引用されているだけである。この点について法学者である川井健一橋大学名誉教授は、「国鉄当局にとってこの事件は、さほどとるに足りない事件であったのかも知れない」、との見解を示している。このように敗訴した立場である当時の国側(鉄道院)の観点に立った資料は極めて少ない。 本記事では、中立的観点に立った法学者、郷土史家ら識者が、現存する「裁判記録正本」、「関連原文書」、「新聞記事」等を、検証、考察し、まとめ上げた複数の二次資料文献を出典とした。なお、当事件の判決文記録には、活字になった『民事判決録』(民集)等が存在する が、以下、本記事中に引用した判決文および裁判に関連する各種文書は、本記事末尾の参考文献節に提示した二次資料に記載されたものを、一部省略改変の上、適宜引用した。 当訴訟の経過は非常に込み入っており、以下に示す時系列順に合計8つの判決・決定が存在する。 ===(1) 甲府地判大正7 (1918)・1・31 判例集未登載=== 中間判決。原告の請求原因を正当とする。中間判決。原告の請求原因を正当とする。 ===(2) 東京控判大正7 (1918)・6・4 判例集未登載=== (1)の控訴審。闕席判決により控訴棄却。甲府地裁に差戻し。(1)の控訴審。闕席判決により控訴棄却。甲府地裁に差戻し。 ===(3) 東京控判大正7 (1918)・7・26 新聞1461号18頁=== (2)に対する故障申立て。(2)判決を維持。(2)に対する故障申立て。(2)判決を維持。 ===(4) 大判大正8 (1919)・3・3 民録25輯356頁=== 上告棄却(この判決が、いわゆる「信玄公旗掛松事件」と呼ばれる判例である)。上告棄却(この判決が、いわゆる「信玄公旗掛松事件」と呼ばれる判例である)。 ===(5) 甲府地判大正10 (1921)・2・15 判例集未登載=== 被告に金499円(うち50円は慰謝料)の支払いを命ずる。被告に金499円(うち50円は慰謝料)の支払いを命ずる。 ===(6) 東京控判大正11 (1922)・4・11 判例集未登載=== (5)の控訴審。被告に金72円60銭(うち50円は慰謝料)の支払いを命ずる。(5)の控訴審。被告に金72円60銭(うち50円は慰謝料)の支払いを命ずる。 ===(7) 東京控判大正13(1924)・12・25 判例集未登載=== (6)に対する更正申立。賠償額・訴訟費用負担割合に関する更正申立を却下。(6)に対する更正申立。賠償額・訴訟費用負担割合に関する更正申立を却下。 ===(8) 甲府地決大正14(1925)・9・28 判例集未登載=== 訴訟費用額(241円71銭2厘5毛。原告が9割を負担)を決定。訴訟費用額(241円71銭2厘5毛。原告が9割を負担)を決定。上記のうち、(1)から(4)までが「責任の有無」に関するもの、(5)から(7)までが「賠償額算定」に関するもの、(8)は「訴訟費用額」に関するものである。このうち(1).(3).(4)が、後の権利濫用論に影響を与えた重要なものである((2)は理由を欠く)。したがって以下、本記事中に全文引用する判決文は、責任の有無を争った一審の甲府地方裁判所判決から大審院判決((1)から(4))までのみとし、甲府地方裁判所に差し戻された後の賠償額算定、訴訟費用額決定に関する判決文((5)から(8))の全文引用は割愛した。これら原文はすべて縦書きである。また、裁判関連各文書原文中の記述には、数値等の一部に矛盾するものや、誤記、誤植と思われるものがあり、それらについては該当部に原文ママの注釈を加えた。なお、以下の事実(信玄公旗掛松の枯死)につき当事者間に争いはない。 この節では、枯死原因の発端となった、当地に中央本線を敷設し日野春駅を建設する計画が具体化した1902年(明治35年)5月から、当事件の裁判がすべて終結する1925年(大正14年)9月までの、約23年間におよぶ経緯を時系列に沿って記述する。 ===提訴に至るまでの経緯=== 信玄公旗掛松の所有者であった清水倫茂が、国(鉄道院)を相手取り訴訟に踏み切ったのは、1917年(大正6年)1月の甲府地方裁判所への提訴であった。しかし、この提訴に至るまでの過程には、清水が国、鉄道院に対し、信玄公旗掛松への保全保護対策を行うよう要望する陳情を再三にわたり訴え続けたにもかかわらず、それが受け入れられず、ついに老松が枯死してしまったという経緯が背景にあった。 ===事件の発端=== 当訴訟事件の当事者(原告)であった清水倫茂は、山梨県北巨摩郡甲村(かぶとむら、現:北杜市高根町下黒沢)の旧家である清水家、清水啓造の長男として、元治元年12月7日 (旧暦)(グレゴリオ暦1865年1月4日)に生まれ、父啓造から1888年(明治21年)7月に家督を相続した後、1893年(明治26年)12月に、甲村の村会議員に初当選し、2年後には甲村の助役になる。清水倫茂は曲がったことを嫌い、自分の思うことは自由に行うという、いわゆる熱血漢タイプの人物であったと言われており、周囲を引っ張っていく親分肌的な行動力により地域社会で頭角を現し、1898年(明治31年)4月に33歳という若さで甲村の村長に就任し、さらに1903年(明治36年)9月には北巨摩郡の郡会議員に当選するなど、言わば地元の有力者、かつ実力者、かつ資産家であった。大正期に一個人として国を相手に訴訟を起こすことができたのも、清水が裁判費用を捻出できるだけの資産家であったからでもあり、事件発生当時には、合資会社甲斐銀行の取締役頭取を務め、甲村にある自宅において「甲斐銀行日野春支店」を開業していた。 甲村は信玄公旗掛松の生育する日野春村富岡から見て、すぐ北東に隣接した位置に当たる。甲村の清水にとって日野春村は隣村である。しかし中央本線敷設が計画された一帯は、先祖代々清水家の土地であり、1902年(明治35年)当時は清水倫茂の所有地であった。つまり、そこに生育していた信玄公旗掛松は、清水倫茂が所有権を持つ個人所有物であった。 東京方面から甲府駅まで着工されていた中央本線を、信州諏訪塩尻方面へ延伸する計画は、数年前からルートの検討が行われていたが、日野春村を含む周辺8か村による「停車場位置請願書」提出などの誘致活動が行われ、日野春村字富岡に停車場が設置されることが1896年(明治29年)に内定し、1902年(明治35年)に正式決定された。 日野春駅設置決定を知った近隣の人々は喜び、これを歓迎した。その一方で地権者であった清水倫茂は、鉄道院が作成した詳細な計画図面を見て驚いた。その図面によると、信玄公旗掛松の根元から西側にわずか一間(約1.8メートル)足らずという至近距離に、停車場と線路が敷設される計画であったからである。 ===鉄道院への上申書提出=== 20世紀初頭の当時、多くの日本人にとって鉄道、蒸気機関車は未知なる乗り物であり、文明開化の象徴として捉えられる一方で、機関車から排出される煤煙による悪影響を懸念する声もあった。計画図を見た清水もまた、蒸気機関車の煤煙による信玄公旗掛松への影響を危惧する。計画図通りに敷設されると、松樹から張り出した10数本の枝は、線路上に覆い被さるような形になり、蒸気機関車から噴出する煤煙を枝葉が直接被ることは明らかであった。また、根元の至近距離に敷設するとなると、施工に伴い老松の根元付近を掘り返したり、盛り土を施す等の工事が予想され、土中にある松樹の根を損傷する恐れもあった。清水は信玄公旗掛松の衰弱や枯死を恐れ、鉄道を敷設するのは松樹から離れた位置に変更してもらえないかと、1902年(明治35年)5月6日付で、「鉄道作業局八王子出張所長」古川阪治郎宛に「上申書」を提出した。 鉄道作業局八王子出張所長 古川阪治郎殿 右奉上申候儀ハ拙者所有地タル同郡日野春村字富岡第貮百拾六番郡村宅地四畝九歩内ニアル老松即チ甲斐ノ一本松(一名ヲ信玄旗立松トモ云フ、此所以ハ甲斐国史並ニ古書歴史等ニ明瞭ナル古蹟ナリ)ノ根株ヨリ僅々一尺余リヲ隔リ候ノミニテ鉄道線路敷地ト相成リ候ニ付テハ、該老松大枝十数本凡ソ五間以上線路内ヘ繁茂シ、且ツ大根等モ数本地上ヘ現出致シ居リ候ニ付キ、工事ノ際取土又ハ置土等ノ事ハ工事上当然ノ儀ニ有之候。果シテ然ラバ終ニ枯死スルノ恐レアルヲ以テ、該老松ヲ永遠ニ維持スル為メ根株ヨリ大凡貮間以上線路ノ変更相成リ度、若又変更ノ儀相成リ兼候ハヾ別紙図面ノ通リ測量ノ際、老松ヲ除却スル為メ特ニ線路ニ屈曲有之、現ニ前後ノ黒杭ヨリ見透ス時ハ老松線路内エ入ルヲ以テ相当代価ニテ買収相成リ度、実地御調査ノ上、何分ノ御詮議相仰せギ度此段及上申候也。 ― 上申書、清水倫茂、明治35年(1902年)5月6日 しかし、この要求は「鉄道事務掛長・北巨摩郡長 松下賢之進」から「甲村長代理・助役 小尾濱吉」へ宛てた、同年6月23日付文書(鉄第四八二号ノ一)をもって却下された。 甲村長代理助役 小尾濱吉殿 貴村清水倫茂ヨリ別紙之通リ上申書差出候ニ付、其筋ヘ進達候処右ハ最初設計ノ際、該老松ニ支障ヲ与ヘザル様特ニ線路ヲ迂回シタル次第ニシテ、施工上松樹ヘ影響ヲ及ボスガ如キハ万無之旨ヲ以テ、書面却下相成候条其旨御示論ノ上別紙反面返戻方御取計相成度。 ― 鉄第四八二号ノ一、鉄道事務掛長・北巨摩郡長 松下賢之進、明治35年(1902年)6月23日 この返答によれば、鉄道院としても老松への影響は特に配慮しており、老松に影響を与えぬよう迂回するなど、最初から考えて設計したのであり、また、施工工事により老松に害が及ぶようなことは無い、という内容であった。なお、この文書の宛先が清水ではなく、「甲村助役小尾濱吉」宛となっているのは、甲村村長が他ならぬ当事者の清水倫茂であったためであると考えられている。 上申書が却下された清水は、自らの訴えを袖にされたことを不当に思い、「本当に支障がないのであるならば、今後は松の枝、一枝たりとも伐採することは承知致しかねる」として、改めて線路経路の変更を強く求め、同年8月5日付で古川阪治郎宛に再度上申書を提出し、さらに三度目の上申書を9月5日付けで提出する。しかし、清水の訴えは解決されることのないまま、当初の計画通り工事は着工された。 ===信玄公旗掛松の枯死=== 実際に工事が開始されると、清水が危惧していた通り、線路上に覆い被さる形になった信玄公旗掛松の枝葉が、機関車運行の障害になることが分った。鉄道を通すためには枝葉を除去しなければならず、鉄道院からの1903年(明治36年)12月3日付の申し出による補償料「金弐拾円也(20円)」で清水は止む無くこれを了承し、信玄公旗掛松の枝葉10数本が枝打ちされた。なお、この「請書」は清水倫茂の先代(父)である清水啓造名義で作成されているが詳しい経緯は不明である。 こうして1904年(明治37年)12月21日、中央本線の韮崎駅から富士見駅までの区間が開通したのと同時に日野春駅は開業した。なお、2014年現在の同区間には合計6駅が存在するが、開業当初は日野春駅と小淵沢駅の2駅しか設けられていなかった。また、日野春駅の設置された場所は、韮崎方面から七里岩台地、八ヶ岳南麓へと登り詰める急勾配区間の中間点にあたり、蒸気機関車の給水を行うための給水塔が設けられた。蒸気機関車時代、すべての下り列車が給水のために停車する 日野春駅は、旅客の取り扱いだけではない運行上の重要な役割を担っていた。 駅が開業したことにより、近隣の人々の暮らしは便利になった一方で、日野春駅まで登ってきた蒸気機関車の熱い蒸気や多量の煤煙は当然、信玄公旗掛松に噴き付けられた。設置された給水塔は松樹の近くにあり、煙を吐き続ける機関車が松樹の傍で給水のため長時間停車し、機関車の振動にさらされ続けるなど悪条件も重なった。さらに、1911年(明治44年)には、駅構内に鉄道の待避線が新たに引かれ、これに伴いレールと松樹の距離は更に狭まってしまう。開業当初に約4間(約7メートル)であった信玄公旗掛松の根元とレールとの実距離は、1間(約1.8メートル)未満となってしまったのである。これに追い討ちをかけるように同年9月18日未明、日野春駅構内で転轍手の不注意による貨物列車の脱線事故が発生し、脱線した機関車が信玄公旗掛松に激突、松樹の大枝が数本折れてしまう。ただでさえ煤煙や蒸気、振動により衰弱していた老松にとって、この脱線衝突事故によるダメージは大きく、この事故に対し鉄道院は慰謝料として15円を清水に支払っている。 これ以上の老松へのダメージは、取り返しのつかない最悪の結果を招きかねず、清水は2ヵ月後の同年11月、蒸気や煤煙と松樹とを隔てる「ガス防除設備」設置を要求する上申書を、時の鉄道院総裁原敬宛に提出した。 帝国鉄道院総裁 原敬殿 ……(前略)松樹ノ根株ヨリ僅ニ一尺ヲ隔リタルノミニテ鉄道敷地ノ相成、現ニ老松ノ枝下ニ線路ヲ布設致シ候故、目下松枝ハ瓦斯ノ為メ(否ナ火ノ為メ)ニ焼枯シタル大枝数本有之、特ニ本年九月拾八日機関車転覆ノ際、該老松ノ大枝数本折損シ、障害物除却シタルヲ幸ヒ今回老松ノ根元僅ニ一尺ヲ隔リタル所ハ線路ヲ増設スルニ当リテハ今後数年ヲ経ズシテ老松ノ焼枯セル事ハ明瞭ニ有之候間、老松保存上必要ニ付キ、此際実地御検査ノ上相当ノ瓦斯除建設相成度別紙参考書相添ヘ此段及上申候也。 ― 瓦斯除建設ニ付上申書、山梨県北巨摩郡甲村十六番戸 啓造相続人 清水倫茂、明治44年(1911年)11月 当時の鉄道院総裁である原敬は、後に第19代内閣総理大臣となる人物である。これまでの出張所長宛への訴えと異なり、組織のトップである鉄道院総裁へ直接訴えた上申書は、「衰弱した老松を何とか守って頂けないだろうか」、「実際に現地へ御足労願い、枯死の危機に瀕する老松を直接御覧頂けないだろうか」、という、清水の切実な懇願であった。 しかし、この要求も履行されることはなく、日野春駅開業からちょうど10年を経過した1914年(大正3年)12月、ついに信玄公旗掛松は枯死してしまう。先祖代々同地の地主として信玄公旗掛松を大切に守り続けてきた清水の落胆は察するに余りあるものであった。翌1915年(大正4年)12月10日付の『甲斐新聞』は、「名木の枯死」として清水倫茂が取り組んできた経緯を報じている。 ===鉄道院への直接損害賠償請求=== 1916年(大正5年)4月15日、清水倫茂は添田壽一鉄道院総裁(当時)宛に「松樹枯死ニ付賠償請求書」を提出し、賠償料2,000円と慰藉料として1,000円の、合計3,000円の損害賠償を直接要求した。この請求で清水は「去ル明治四十四年十一月中別紙第五号証写ノ如ク瓦斯除ヶ建設ヲ上申候モ御採用ニ至ラズ、遂ニ昨大正四年末に全ク枯死セリ」と訴えている。 鉄道員総裁 添田壽一殿 見積計算書 一、金弐千円也 但松枝弐百八拾五把七分 壱把金七円ノ見積リ 右鉄道敷設ノ際松枝伐採見積リ三把賠償金弐拾円也 明治四十四年九月十八日機関車脱線ノ際松枝折傷見積リ弐把賠償金拾五円、合計三拾五円、五把ニ対スル賠償金、壱把平均七円也。右之割合ヲ以テ頭書ノ金額。 一、金壱千円也 但松樹枯死ニ対スル慰藉料 合計金参千円也 ……(後略) ― 松樹枯死ニ付賠償請求書、山梨県北巨摩郡甲村十六番戸 清水倫茂、大正5年(1916年)4月15日 清水が松樹本体の賠償金算定額を2,000円としたのは、明治36年の鉄道敷設時に伐採された松枝3把の賠償金20円、明治44年の貨物列車脱線事故時の賠償金2把に対して15円、計5把に対する賠償金の合計が35円であったことが根拠にあった。 この直接賠償請求に対し鉄道院からは、総官房文書課長名義による同年6月20日付「官文第402号」として、次の拒否返答があった。 清水倫茂殿 客月十五日御請求ニ係ル山梨県北巨摩郡日野春村字富岡第二十六番地所在松樹枯死ニ付損害賠償ノ件ハ非常ニ気之毒、御来意ニ応ジ難ク候間、不悪御了知被下度候。 ― 官文第402号、鉄道院総裁官房文書課長、大正5年(1916年)6月20日 鉄道院からのこの拒否回答をもって、清水倫茂は「信玄公旗掛松事件」と後に呼ばれることになる歴史的訴訟へ踏み出していくこととなった。 ===甲府地方裁判所への提訴=== ====弁護士・藤巻嘉一郎==== 清水倫茂は訴訟代理人に弁護士藤巻嘉一郎(ふじまき かいちろう) を立て、1917年(大正6年)1月6日、国(鉄道院)に対する損害賠償請求を甲府地方裁判所に提訴した。 藤巻嘉一郎は1872年(明治5年)7月2日、日野春村にほど近い北巨摩郡清哲村(現山梨県韮崎市清哲町)に出生し、同じ村の藤巻貞長の養女ためと結婚し藤巻家を継いだ。1896年(明治29年)7月に司法省指定の明治法律学校を卒業し、同年11月に判検事登用試験に合格すると、12月には司法官補佐に任命され、検事代理として岐阜区裁判所に赴任した。その後、岐阜県内数ヶ所の裁判所で判事を務め、1900年(明治33年)12月に、生まれ故郷である山梨に戻り、甲府地方裁判所の判事に赴任した。その後、1908年(明治41年)1月に弁護士業を独立開業し、甲府地方裁判所検事局の弁護士名簿に登録され、1914年(大正3年)4月には甲府弁護士会の会長に選出されていた。 藤巻の出身校である明治法律学校は今日の明治大学の前身校であり、当時の日本では和仏法律学校(現法政大学)と並ぶフランス法を主体とした法律学校であった。したがって、明治法律学校出身の藤巻はフランスの「権利濫用論」を学んでいたものと考えられている。ただし、当時のフランスにおける民法では、権利濫用に関する直接的な規定は設けられておらず、あくまでも考え方として権利濫用の理論、法理が発展していた。藤巻は当時の日本では法理論として未確定であった権利濫用論を信玄公旗掛松事件の弁護で推し進めた。この裁判を勝訴に導いた要因のひとつは、藤巻がフランスにおける権利濫用論を身に付けていたことが大きく影響したと考えられている が、真偽を確認することはできない。しかし、大審院判決に携った柳川勝二判事がフランス法に造詣の深い裁判官であったという指摘もあり、信玄公旗掛松事件の権利濫用論をフランス法と結びつけることは可能かもしれないと、東京大学大学院法学政治学研究科教授の大村敦志は述べている。 ===提訴をとりまく報道と口頭弁論=== この頃になると、一連の騒動は地元新聞各社によって取り上げられ、詳細に報じられ始めていた。1916年(大正5年)4月26日付山梨日日新聞では、『名松枯死の損害要求、鉄道院総裁に対して』として採り上げられ、論説(社説)では世界の事例を引用し解説した。続く4月28日付記事では『旗立松の損害は果たして取れるものか?』とする見出しで、匿名弁護士による論述が紹介され、5月4日付の記事では「賠償の責任なし」とする鉄道院側の意見が紹介された。また、山梨毎日新聞4月28日付記事では『前例の無い興味ある問題、松樹の損害賠償』の見出しで、「東京に於ける某法律家は本件は未だ前例の無い問題である」と語ったことを伝え、「欧米に於いても盛んに論争されて居るが我国では未だ大審院の判例が無い」、として権利濫用の問題にも言及している。 このように、実際に提訴が行われる半年ほど前から、地元では社会問題、法律問題として報道されており、人々の関心と注目を集めていた中での提訴であった。清水倫茂が甲府地方裁判所に提訴した翌日の、1917年(大正6年)1月7日付山梨日日新聞では『名松枯死の損害賠償訴訟、鉄道院で却下されて裁判所へ』の見出しで以下のように報じられている。 名松枯死の損害賠償訴訟、鉄道院で却下されて裁判所へ ……(前略)鉄道院にては右名松の枯死たるは自然の作用にて鉄道の為に非ずとの見解にて、右請求を拒絶したるを以って今回清水氏は法廷に於いて之を争ふ事と為し、昨夕藤巻弁護士を代理人として松の代金千二百円、慰藉料として三百円、合計千五百円を請求すべく後藤鉄道院総裁を相手取り甲府区裁判所へ提出したり。 ― 山梨日日新聞 大正6年1月7日 清水倫茂による提訴の要点は 老松が枯れたのは鉄道院に責任があるので、鉄道院は賠償金の内、金1,200円と慰藉料300円の計1,500円を原告へ支払い、かつ訴訟費用は鉄道院が支払うこと、この3点の要求であった。 対する鉄道院側は、 「汽車を運転する上において石炭を使用し、その結果煤煙が噴出するのはあくまで営業権の行使の結果であり不法行為ではない。従って国には賠償する責任はない。老松の枯死は自然の作用である」このように述べ、鉄道院に過失責任は無いと主張した。 第一回口頭弁論は2月6日午前11時より、甲府地方裁判所民事部において開廷した。口頭弁論の詳細な内容については、調書等の存在が確認できず不明である。ただ、翌2月7日付の山梨日日新聞では、「東裁判長係り木村・栗山両判事陪席にて、原告代理人としては藤巻弁護士、被告代理人としては本院より参事中原東氏出廷したるが、問題が問題だけに甲府運輸事務所より工富所長・植原・石岡・竹村各書記他十余名傍聴に来れるは人目を惹きたりし。斯て裁判長より一応事実調べありて後、原告側より証拠申請の為め延期を求め許可となり、結局来る二月二十四日開廷と決定して閉廷」と、報じられている。また、同紙面では鉄道院の主張として、「右松は煤煙の為め枯死したるものに非ずして熊蜂が巣を作りし為め枯死するに至れるなりと云ひ居れりと云」と、被告側の主張も取り上げている。続く2月24日に行われた第二回口頭弁論では、現場検証と鑑定人依頼が裁判官によって決定された。 前年の清水による鉄道院への直接損害賠償の請求額3,000円から、本提訴での賠償請求額が半額の1,500円になっているのは、訴訟代理人である弁護士、藤巻嘉一郎による意図、意向によるものと考えられている。この老松の来歴、算定額について藤巻は苦慮しており、提訴後の1月23日付藤巻嘉一郎の清水倫茂宛書状では、「賠償請求訴状ニ記載セル歴史上ノ事蹟ハ漠トシテ拠所不確定ニ有之候ニ付テハ、本訴上事蹟ノ立証必要ト存候間至急調査御依頼願度」と述べており、さらに「新聞社其他有志ヨリ事蹟ヲ訊ネラルゝガ訴訟代理人タル小生ニ於テハ目下調中ト伝ヒ居苦致シ候」とも記述している。また、同年4月19日付の藤巻から清水へ宛てた書状では「鉄道院ニ係ル事件ニ付、来ル四月二十九日本件松樹附近ニ於テ証拠調致申候趣キ通知致候間、同日九時近ク同所ヘ御出向キ相成候様」と連絡するなど、松樹の枯死に対する損害賠償、しかも相手は国と言う前例の無い訴訟に、藤巻は弁護士として試行錯誤を続けていた。 ===鉄道院からの松枝剪除要求の逆提訴=== 甲府地方裁判所では、三浦伊八郎、土居藤平を鑑定人として、日野春駅構内枯死現場の検証作業に着手し、原告被告双方の主張する事実関係の鑑定が進められた。また、同年5月に鉄道院総裁後藤新平は、同院参事、中原東吉、岩瀬脩吉を代理人として、原告清水倫茂を相手取り、「樹枝剪除請求」の逆提訴を甲府地方裁判所に行った。同年5月13日付山梨日日新聞では、鉄道院側の主張を次のように伝えている。 ……(前略)松樹の枝が隣接せる原告所有の鉄道用地との境界線を越へて繁伸し鉄道線路の直上に及べるが右樹は日を追て朽廃し終には原告所有の用地に落下することあるやも計り難く鉄道用地利用上危険少なからずを以って速やかに剪除すべし。 ― 山梨日日新聞 大正6年5月13日 「枯死したまま放置されている松樹を速やかに除去せよ」とした、この鉄道院側の逆提訴には、原告側の推し進める「権利濫用論」に対して、ならば鉄道敷地への松枝越境も鉄道院に対する「権利」を侵害している、という主張によって、裁判を有利に進めようとする意味と、逆に提訴することによって清水倫茂に心理的圧迫を加えるという意味があったと考えられているが、この逆提訴の経過および結果は不明である。 ===甲府地方裁判所の判決=== 甲府地方裁判所民事部において、原告勝訴の判決が下されたのは、翌1918年(大正7年)1月31日であった。判決は裁判長東亀五郎、判事大庭良平・高橋方雄によって行われた。ただし、ここでの勝訴は、老松枯死の原因が鉄道院側にあるとする訴訟原因についてのみであって、損害賠償額の具体的な算定については、後日の判決に持ち越された。したがって甲府地方裁判所でのこの判決は中間判決にあたる。 以下、甲府地方裁判所による中間判決の全文を示す。なお、原文は縦書きであることに留意。引用準拠著作権法第13条。 中間判決 原告 山梨県北巨摩郡甲村平民農 清水倫茂 右訴訟代理人弁護士 藤巻嘉一郎 被告 国 右法定代理人 鉄道院総裁男爵 後藤新平 右指定代表者 鉄道院参事 中原東吉 同 同書記 岩瀬修治 右当事者間ノ大正六年(ワ)第一号損害賠償請求事件ニ付、当裁判所ハ弁論ヲ請求ノ原因ノミニ制限シテ中間採決ヲ為スコト左ノ如シ。 主文 原告ノ本訴請求ノ原因ハ正当ナリ。 事実 原告訴訟代理人ハ一定ノ申立トシテ、被告ハ原告ニ対シ金壱千五百円ヲ支払フベシ。訴訟費用ハ被告ノ負担トストノ判決ヲ求メ、請求原因トシテ原告所有ノ北巨摩郡日野春村字富岡第二十六番原野内ニ一千有余年ヲ経過セル老大松樹アリテ、尚今後幾百年ノ生ヲ保有スベキカ予メ測リ難キ生気ヲ有シタルモノナリ。元来此地ハ古来日野原ト称シ、北巨摩郡ノ中央高地ニ位シ、四方十数里ヲ展望シ得ベク、従テ往昔ヨリ甲斐ノ地ニ干戈ヲ動カス者ノ為メニハ実ニ枢要ノ地タリシナリ。今之ヲ史蹟ニ微スタルニ建久年中逸見源太清光谷戸城ニ居ヲ占ムルヤ、右松樹上ニ物見櫓ヲ設ケタリシ以来、甲斐源氏武田家祖先ハ逸見武川ノ郷兵ヲ徴スルニ当リ必ズ此松樹ヲ目標トシ、此地ヲ集散所ト定メ、機山公信玄ニ至リテハ、其松樹上ニ旗ヲ掲ゲ以テ常ニ軍事及軍略上ノ指揮ヲ為シ来リタリ。又治承年中武田太郎義信ハ、信州ノ地ニ出征若クハ凱旋ノ場合ニハ、又必ズ該樹上ニ旗ヲ掲ゲテ甲斐全国ニ知ラシムル第一目標ニ使用シタルガ如キハ、其著シキモノニ属シ、今尚甲斐ノ一本松若クハ旗掛松ト称シ口碑ニ嘖々タリ、原告ハ此名木所在地ヲ所有シ、老松ヲ保護シ以テ永遠ニ之ガ生育維持ヲ図ルハ、一家ハ勿論寧ロ峡中ノ為メノ責務トシ、又栄誉トスル処ナリシナリ、然ルニ去ル明治三十五、六年頃中央鉄道ヲ敷設スルニ当リ、右松樹生立地ハ日野春停車場線路敷設ニ要用地タリシモ、政府ハ名木保存ノ趣意ヲ以テ松樹ヲ去ル約四間余ノ西ヘ屈曲セシメテ線路ヲ敷設スルニ至レリ。而シテ尓後其既設線路ノ東方ヘ複線ヲ敷設スルニ当リ、右松樹ノ根株ヲ西ニ距ル一間未満ノ個所ニ複線ヲ敷設シタルヲ以テ、原告ハ松樹ノ保存到底覚束ナキヲ認メ相当買上ヲ為スカ、若クハ枯死ニ対スル相当設備ヲ要求シタルニ、被告ハ飽迄モ枯死ノ憂慮ナシト堅ク主張シ原告ノ要求ヲ排斥シタリ。斯クテ日時ヲ経過スルニ従ヒ、汽車ノ煤烟ト震動ニ依リ直接ニ其生育ヲ妨ゲ漸次凋衰スルニ至リ、大正三年十二月ニハ全ク枯死スルニ至リタリ。右ハ複線路敷設ノ結果当然免ガル丶コト能ハザルベキコトハ予期シ得ベキニ拘ラズ、之ヲ予期セズシテ枯死セシムルニ至リタルハ、全ク被告ノ故意若クハ過失ニ基クモノナリル〔ママ〕ヲ以テ、原告ハ之ニ因リテ生ジタル損害ノ賠償ヲ求ムルモノナリト延ベ、立証トシテ甲第一号証ノ一、二及甲第二号証ヲ提出シ、検証及鑑定ヲ申立、乙第一号証乃至三号証ニ付キ不知ヲ以テ答ヘタリ。 被告ノ指定代表者ハ一定ノ申立トシテ原告ノ請求ハ之ヲ棄却ス。訴訟費用ハ原告ノ負担トストノ判決ヲ求メ、答弁トシテ原告主張ノ松樹枯死シタル事実及ビ明治三十五六年頃本件松樹ヲ距ル四間余ノ西ニ線路ヲ屈曲セシメテ敷設シ、其後又松樹ノ西側一間未満ノ個所ヘ複線路ヲ敷設シタル事実ハ之ヲ認ムルモ、線路ノ屈曲ハ松樹保存ノ為ニアラズ、又該松樹ガ原告主張ノ如キ歴史的関係ヲ有スルコト及ビ枯死ノ原因ガ鉄道ノ煤煙ニ因リタルモノトノ事実ハ之ヲ否認ス。又右線路敷設ノ当時原告ヨリ松樹買上ノ交渉ヲ受ケタルコトアルモ、枯死ニ対スル相当設備ノ要求アリシコトナシ。更ニ所有権者ハ法律ノ保護スル範囲内ニ於テノミ其所有物ヲ使用収益処分スルコトヲ得。原告ガ此松樹ヲ枯死セシメザルガ為メニ、被告ニ本件ノ如キ請求ヲ為シ得ベキ権利ナシト抗弁ヲナシ、立証トシテ乙第一号証乃至三号証ヲ提出シ、甲第一号証ノ一、二ハ成立ノミヲ認メ甲第二号証ハ不知ヲ以テ答ヘ鑑定ノ申立ヲ為シタリ。 理由 中央線鉄道日野春停車場ノ構内ニ明治四十四年回避線(原告ノ所謂複線)ノ敷設セラレタルコト、及ビ右回避線ニ沿フタル原告所有ノ北巨摩郡日野春村字富岡二十六番地原野内ニ生立セル老大松樹ガ右回避線ノ敷設後ニ於テ枯死シタルコトハ当事者間ニ争ナキ所ニシテ、原告訴訟代理人ハ枯死ノ原因ヲ一ニ回避線ノ敷設ニ帰スト雖モ、当裁判所ノ格証ノ結果及ビ鑑定人三浦伊八郎、土井藤平ノ鑑定ニ依ルトキハ、単ニ回避線ノ敷設ノ為メノミニアラズシテ、本線ニ於ケル汽車ノ通行モ亦多大ノ素因ヲ為セルモノト認ムベシ。然レドモ其何レノ線路ニ於ケル汽車ノ運転タルトヲ問ハズ、其機関車ヨリ噴出セル煤煙ノ害毒ニ因リテ本件松樹ヲ枯死スルニ至ラシメタルモノナルコトハ、前示鑑定人ノ鑑定ニ依リ明白ナルヲ以テ、松樹ニ煤煙ヲ被ラシメタルコトニ付キ、被告国ノ使用者ニ故意又ハ過失アルニ於テハ、其使用人タル被告ニ於テ別ニ免責ノ事由ヲ主張セザル限リ、之ニ因リテ原告ニ被ラシメタル損害ヲ賠償スベキ責務アリト為サヾルベカラズ。依テ之ヲ案ズルニ権利行為トシテ不法行為ノ責任ヲ除却スベキ場合ハ、権利特有ノ効力ニ基キ其内容ヲ超過セザル様更ニ限ルベク、苟モ其内容ヲ超逸スルコトアルニ於テハ其権利行為トシテ不法行為ノ責任ヲ免レザルモノトス。本件ノ場合ニ於テ被告ガ鉄道線路上ニ汽車ヲ運転スルコトハ固ヨリ其権利ニシテ煤煙ノ発散亦必然ノ結果ナリト雖モ、之ニ因リテ他人ノ権利ヲ侵害スルコトハ法ノ認許セザル所ナレバ、松樹ヲ枯死セシメタルコトハ則チ権利ノ内容ヲ超逸シタル其権利行為ナリト為サヾルベカラズ。而シテ煤煙ガ樹木ヲ枯死セシムルコトハ予見シ得ベキモノナレバ、被告ガ本件松樹ノ近傍ニ於テ汽車ノ運転ヲ為スニ付テハ、該松樹ノ生存ヲ維持スベキ相当ノ施設ヲ為スコトヲ要スベキニ拘ラズ、何等防止ノ装置ヲ為サズシテ徒ラニ枯死ニ委シタルコトハ、当該職責アル被告ノ使用者ニ過失アルコト勿論ナルヲ以テ、被告ハ原告ニ対シ之レニ因リテ生ジタル損害ヲ賠償スベキ義務アルモノト認ム。依テ原告ノ請求原因ヲ正当ナリトシ主文ノ如ク判決シタリ。 甲府地方裁判所民事部 裁判長判事 東亀五郎 判事 大庭良平・高橋方雄 主文は、「原告ノ本訴請求ノ原因ハ正当ナリ」、として原告清水の訴えを認めたものであった。 続く理由は要約すると、煤煙が樹木を枯死させることは予見できたことで、松樹の近くで汽車を走らせるためには、松樹の生存を維持する相当の施設を要すべきであるのに、保全の措置をとらず枯死させたることは鉄道院側に過失があることは当然であり、これによって生じた損害を賠償する義務があることを認める。よって原告の請求の原因は正当である。また、鉄道線路に汽車を走らせる事は鉄道事業者の正当な権利であり、その権利行使に伴う煤煙の発散は必然の結果であるとは言えども、これによって他人の権利を侵害することは法の認許するところではない。老松を枯死させたことは、権利の内容を超えた権利の行為である、とするものであった。 判決翌日の山梨日日新聞(同年2月1日付)では、『旗掛松事件の中間判決』・『原告有利の判決』として大きく取り上げられ、「原告の請求は理由ありと認むとの中間判決あり、更に損害の程度其他については追って原被双方よりの立証に依って裁判を進行し賠償金額を決定する筈」と、前例の無い論点が争われた判決を報じた。 本判決文で注目されたのは、理由中にある、 「…他人ノ権利ヲ侵害スルコトハ法ノ認許セザル所ナレバ、松樹ヲ枯死セシメタルコトハ則チ権利ノ内容ヲ超逸シタル其権利行為ナリ…」、 の文節であった。 ここでは直接的に「権利濫用」とは表現されていない。だが、「枯死させたことは権利の内容を超逸した権利行為である」とした、この第一審判決理由が、この後続いていく控訴審判決全体に影響を与えていくこととなった。 甲府地方裁判所での敗訴判決を受けた国(鉄道院)は、即座に控訴へ踏み切り、東京控訴院(現在の東京高等裁判所)への上告手続きに入った。 ===東京控訴院での判決=== ====鉄道院による控訴==== 甲府地方裁判所での敗訴判決を受けた鉄道院は、1918年(大正7年)3月25日付で東京控訴院院長・富谷鉄太郎宛に控訴状を提出した。控訴代表者は後藤新平鉄道院総裁(当時)、指定代表者は中原東吉・岩瀬脩二。被控訴人は清水倫茂、弁護士は藤巻嘉一郎であった。 控訴状 控訴人 国 右代表者 鉄道院総裁 男爵 後藤新平 東京市麹町区永楽町所在 鉄道院総裁官房文書課勤務 右指定代表者 中原東吉 同所勤務 同 岩瀬脩治 山梨県北巨摩郡甲村 被控訴人 清水倫茂 損害賠償請求事件ノ控訴 ……(中略)右判決ハ大正七年一月三十一日言渡ヲ受ケ、控訴人ハ同年二月二十八日其送達ヲ受ケタルモノニ有之候。 提訴ヲ為スノ陳述及不服ノ程度 原判決ハ全部不服ニ付控訴申立候。 一定申立 原判決ヲ棄却ス。 被控訴人ノ請求ハ之ヲ棄却ス、訴訟費用ハ第一、ニ審共被控訴人ノ負担トスト御判決相成度候。 事由 原判決摘示ノ事実ト同一ニ候。 証拠方法 口頭弁論ノ際必要ニ応ジ提出可仕候。 付属書類 指定書 壱通 右控訴申立候成。 大正七年五月廿五日 右控訴人指定代表者 中原東吉・岩瀬脩治 東京控訴院長判事法学博士 富谷鉄太郎殿 東京控訴院での裁判の過程で、原告清水と弁護士藤巻は、鉄道院に対して強く示談を求めていった。同年5月10日の口頭弁論期日に先立つ、5月7日付の「弁護士藤巻嘉一郎法律事務所」より清水倫茂に宛てた書状では、口頭弁論期日に都合上出席不可能との清水からの連絡に対して、「寧ロ来ル十日ハ変更セズ開廷致シテハ如何ニ候ヤ、示談ノ成ル成ラザルハ別問題ニシテ、事件ハ相当ニ進行シタル方宜ロシカリト存候。右御照会申上候。」と、勝訴判決を予測した内容であった。 5月10日の口頭弁論に清水は都合により欠席したため、訴訟代理人藤巻弁護士だけの出廷であった。翌5月11日付の藤巻から清水への書状では次のように書かれている。「拝呈 先便ヲ以テ申入候貴殿対鉄道院ノ松訴訟事件ニ付、昨十日ノ口頭弁論ニ際シテ貴殿方ヨリ何レノ御通知ニモ接セズニ付、当所先生ニ於テハ昨日東京ニ出張致シ相手方ト共ニ出廷致シ候。相手方ニテハ示談ノ模様等ハ更ニ無之、堂々事件ヲ進行スル有様、為ニ当方ハ立証準備ノ為続行ヲ申立テ候……」。通信機器の発達していなかった当時では、このように郵便を利用した文書によって裁判経過の報告が行われていた。 ===控訴判決=== 二審にあたる東京控訴院民事第一部での判決は、同年6月14日に行われた。この時は、控訴人である鉄道院側欠席のままの「闕席判決」(欠席裁判)であった。 判事は裁判長、岩本勇次郎の他に、矢部克己・沼義雄が担当した。 闕席判決 東京控訴院大正七年(ネ)第一二二号 注意、氏名役職等は省略した。 右当事者間ノ大正七年(ネ)第一二二号損害賠償請求控訴事件ニ付控訴人ハ合式ノ呼出ヲ受ケタルニ拘ラズ、大正七年六月十四日午前九時ノ本件口頭弁論期日ニ出頭セズ、被控訴人ハ右期日ニ出頭シ、闕席判決ヲ以テ控訴ヲ棄却セラレタキ旨申立テタリ。当院ハ民事訴訟法第四百二十八条、第七十七条ノ規定ニ依リ左ノ如ク判決ヲ為ス 主文 本件控訴ハ之ヲ棄却ス。訴訟費用ハ控訴人ノ負担トス。 このように、控訴人(鉄道院側)の欠席のため、「事実」と「理由」の説明はなく、「主文」だけが言い渡された。なぜ鉄道院が出廷しなかったのか、その理由は不明である。 この6月14日の欠席判決に対し、控訴人から故障の申立が行われ、東京控訴院は同年7月26日、この欠席判決を維持し、故障申立後の訴訟費用を控訴人の負担とした上で、本案件を甲府地方裁判所に差し戻す判決を下した。この判決は、一審判決と比較して理由付けが詳細であり、特に「理由」の中で明確に「権利の濫用」と明記され、これを問題としている点が注目される。 7月26日の控訴判決は、東京控訴院民事第一部で、裁判・長神谷健夫、判事・矢部克巳と下田錦四郎により開廷し、「事実」と「理由」の説明が行われ、判決文の前文では次のような説明がされた。 汽車と煙害予防の責任 汽車が煙害予防の為相当なる設備を為さず為に煙筒より噴出したる石炭の煤煙の害毒作用に因り沿道の樹木を枯死せしめたるときは、権利侵害は之を予見せざりしことに付き其行為者に過失ありしものとす。 「理由」で述べられた要点は、次の点であった。 右の松樹は控訴人が鉄道本線竝に復線上に於て運転したる汽車の煙筒より噴出したる石炭の煤煙の有毒作用に因りて枯死するに至りたるものなることを認むるを得…煙害予防の為め相当なる設備を為さゞりしとの被控訴人の主張は控訴人の争はざる所なるが故に本件の権利侵害は之を予見せざりしことに付き其行為者に過失あるものと認むるを相当とす…汽車運転の際故意又は過失に因り特に煙害予防の方法を施さずして煤烟に困りて他人の権利を侵害したるときは其行為は法律に於て認めたる範囲内に於て権利を行使したるものと認め難く却て権利の濫用にして違法の行為なりと為すを正当とするが故に…東京控訴院での判決は、一審の甲府地方裁判所への差し戻し、つまり国(鉄道院)側の敗訴であった。 以下、東京控訴院での控訴棄却判決の全文を示す。原文は縦書きであることに留意。引用準拠著作権法第13条。 東京控訴院判決 控訴人 国 右指定代表者 中原東吉・岩瀬修治 山梨県北巨摩郡甲村被控訴人 清水倫茂 右訴訟代理人弁護士 藤巻嘉一郎 右当事者間の大正七年(ネ)第一二二号損害賠償請求控訴事件に付き判決を為すこと左の如し 主文 事件に付き大正七年六月十四日当院が言渡したる闕席判決を維持す故障申立後の訴訟費用は控訴人の負担とす本件を甲府地方裁判所に差戻す事実 控訴代表者は主文表示の闕席判決に対し故障の申立を為したり、控訴代表者は原判決を廃棄す被控訴人の請求は之を棄却す訴訟費用は第一、二審共被控訴人の負担とすとの判決を求むる旨申立て被控訴代理人は控訴棄却の判決を求めたり、当事者雙方の事実上の供述は訴訟代表者に於て控訴人は鉄道敷地たる土地の通常の使用方法を越えて其土地を使用したるものに非ざるを以て被控訴人に損害を生じたりとするも被控訴人は賠償請求権を有せずと釈明したる外原判決の事実摘示と同一なるに因り*77*に之を引用す、証拠として被控訴代理人は甲第一号証の一、二及第二号証を提出し原審検証調書の記載原審鑑定人三浦伊八郎山田彦一土井藤平の各鑑定を援用し控訴代表者は原審検証調書の記載原審鑑定人山田彦一土井藤平の各鑑定を援用し甲第一号証の成立を認め第二号証は不知と述べたり 故障は適法なり、被控訴人所有の山梨県北巨摩郡日野春村字第二十六番地原野内に松樹の生立し居りたること、及控訴人が国有鉄道中央線敷設の際右松樹の西約四間余を距て鉄道本線を敷設し其後又該松樹の西一間未満を距て復線を敷設したること竝右復線敷設後松樹が枯死したることは孰れも当事者間に争なき所とす、而して原審鑑定人土井藤平三浦伊八郎の右鑑定を参酌すれば右の松樹は控訴人が鉄道本線竝に復線上に於て運転したる汽車の煙筒より噴出したる石炭の煤煙の有毒作用に因りて枯死するに至りたるものなることを認むるを得此認定に反する原審鑑定人山田彦一の鑑定は之を採用せず、然らば前記鉄道路上に於て控訴人の汽車より煤煙を噴出せしめたる行為が原因となり右の松樹を枯死せしめ之に対する被控訴人の所有権を侵害したるものなるを以て若し其侵害が故意又は過失に出でたる違法の行為なるに於ては控訴人は被控訴人に対し之に因りて生じたる損害を賠償すべき義務あること明かなりとす、仍て之を案ずるに右の権利侵害が行為者の故意に因つて為されたることを認め得べき証拠なし然れども石炭の煤煙が樹木に害を及ぼすべきことをは世上実例に乏しからざる所なるを以て鉄道運送に従事する者に在りては機関車より噴出したる煤煙が樹木に害を及ぼすべきことを知らざる筈なく若し之を知らずして煙害予防の為め特に相当なる方法を施さゞりしとせば是れ其事業より生ずる結果に対する注意を不当に怠りたるものと認むるに足るのみならず、本件に於て控訴人が前記の松樹に対する煙害予防の為め相当なる設備を為さゞりしとの被控訴人の主張は控訴人の争はざる所なるが故に本件の権利侵害は之を予見せざりしことに付き其行為者に過失あるものと認むるを相当とす而して控訴人の如く鉄道運送経営者に在りては汽車の運転を為すことは権利の行使なりと認め得ざるに非ざるも此故を以て汽車運転の際濫に他人の権利を侵害し得べき理由なく従つて汽車運転の際故意又は過失に因り特に煙害予防の方法を施さずして煤烟に困りて他人の権利を侵害したるときは其行為は法律に於て認めたる範囲内に於て権利を行使したるものと認め難く却て権利の濫用にして違法の行為なりと為すを正当とするが故に、控訴人の事業に従事する者が煙害予防の為め特に相当なる方法を行はずして松樹を枯死せしめたる以上は其行為の過失に出でたる違法の行為なること明かなりとす、控訴人は通常の使用方法を越えて鉄道敷地を使用したるに非ざるを以て賠償の責任なき旨主張すれども本件の如く他人の樹木に極めて接近して鉄道線路を敷設する場合に於ては樹木に対する煙害予防の為め特に相当なる方法を施設することを要するは当然のことなるを以て斯る方法を行はずして松樹を枯死せしめたるが特に異常に非ざりしとするも其行為が過失に出でたる違法の行為に非ずと為すに足らず、然らば控訴人は被控訴人に対し右松樹の枯死に因りて生じたる損害を賠償する責任あるを以て被控訴人の本件請求は其原因正当なりと仍て控訴を理由なしと認め民事訴訟法第四百二十四条第七十七条第四百二十二条第四号を適用し尚新弁論に基く判決なるを以て同法第四十八条第二百六十一条に則り主文の如く判決す 東京控訴院民事第一部 裁判長判事 神谷健夫 判事 矢部克巳・下田錦四郎 東京控訴院での差戻し判決を受けた国(鉄道院)は、約2カ月後の同年9月25日に大審院へ上告の手続きを行った。 国(鉄道院)側による上告の要点は以下の2点であった。 原審(甲府地方裁判所判決)は、相当なる設備を施していないとするが、具体的に何をすべきかを述べていない。鉄道の運転は被告(鉄道院)の権利行使であり、その必要の限度を超えない限りは、たまたま沿線の樹木を枯らしても権利濫用による違法とはならない。老松枯死の責任をめぐって、一個人が国を相手に争うという前例の無い訴訟は、ついに大審院での審判に持ち越されることになった。 ===大審院での勝訴=== 鉄道院は、1918年(大正7年)9月25日、上告代表者を中村是公鉄道院総裁(当時)、指定代表者を中原東吉・岩瀬脩二として、大審院へ上告を行った。被上告人は清水倫茂、弁護士は藤巻嘉一郎であった。 大審院での最初の言い渡し予定日がいつだったのかは明らかでない。しかし、判決言い渡し期日が再三にわたって変更、延期されたことから、大審院内部において簡単に結論が出せず、政府からの圧力や、担当判事たちの意見に違いがあったのではないかと考えられている。再三にわたる言渡し期日延期を知らせる清水倫茂宛ての手紙や通知書が、今日でも北杜市立郷土資料館に保管され展示されている。たとえば大正8年2月5日付、弁護士・藤巻嘉一郎法律事務所からの清水倫茂に宛てた書状では、「鉄道院ノ件は大審院言渡ノ儀ハ、来ル10日(2月10日)ニ延期ノ通知之有候間、然可御承知相成度候」とあり、また、翌2月6日付の「大審控訴院詰所・弁護士大平恵吉」から清水倫茂に宛てた通知書には、「間合ノ件過刻打電ノ通リ言渡延期ニ相成候。多分来ル10日ニ言渡可有之カト被存候、延期ノ件ハ其節直ニ藤巻氏ヘ通知致置」と通知されている。しかし、次に送られてきた弁護士・大平恵吉による清水倫茂への書状には、「拝呈 本日言渡アルベキ筈ノ七(オ)八九八号事件、本日又々延期ニ相成候。言渡アリ次第御通知可申御座候。」とあり、この2月10日に判決言い渡しはなかったことが分る。2月13日付の藤巻嘉一郎弁護士事務所から清水倫茂宛ての書状では、「拝啓 兼テ鉄道院事件ハ又々延期ノ通知之有、言渡期日ヲ来2月17日ト決定通知之有候間御通知申上候。」とあり、2月17日付の大平恵吉による清水倫茂宛ての書状では、「言渡期日ハ未定ナリ」と書かれている。 このように判決の言渡し期日が二転三転したが、1919年(大正8年)3月3日、大審院での判決が下された。これが信玄公旗掛松事件と呼ばれる著名な判決である。 以下、大審院判決正本の全文を示す。原文は縦書きである。引用準拠著作権法第13条。 損害賠償ノ件 大正七年(オ)第八百九十八号 大正八年三月三日第二民事部判決 判決要旨 一、権利ノ行使ト雖モ法律ニ於テ認メラレタル適当ノ範囲内ニ於テ之ヲ為スコトヲ要スルモノナレハ権利ヲ行使スル場合ニ於テ故意又ハ過失ニ因リ其適当ナル範囲ヲ超越シ失当ナル方法ヲ用ヒタルカ為メ他人ノ権利ヲ侵害シタルトキハ侵害ノ程度ニ於テ不法行為成立スルモノトス(判旨第二点)一、権利ノ行使カ社会観念上被害者ニ於テ忍容スヘカラサルモノト一般ニ認メラルル程度ヲ超エタルトキハ権利行使ノ適当ナル範囲ニ非サルヲ以テ不法行為ト為ルモノト解スルヲ相当トス(同上)一、汽車ヲ運転スルニ当リテ石炭ヲ燃焼スルノ必要上煤煙ヲ附近ニ飛散セシムルハ鉄道業者トシテノ権利行使ニ当然伴フヘキモノニシテ蒸汽鉄道カ交通上欠クヘカラサルモノトシテ認メラルル以上ハ沿道ノ住民ハ共同生活ノ必要上之ヲ忍容スヘキモノトス従テ之カ為メ住民ニ害ヲ及ホスコトアルモ不法ニ権利ヲ侵害シタルニ非サレハ不法行為成立セサルモノトス(同上)一、係争松樹カ鉄道沿線ニ散在スル樹木ヨリモ甚シク煤煙ノ害ヲ被ムルヘキ位置ニ在リテ且其害ヲ予防スヘキ方法アルニモ拘ハラス鉄道業者カ煤煙予防ノ方法ヲ施サス煙害ノ生スルニ任セ之ヲ枯死セシメタルハ社会観念上一般忍容スヘキモノト認メラルル範囲ヲ超越シタルモノニシテ権利行使ニ関スル適当ナル方法ヲ行ハサルモノト解スルヲ相当トス(同上)上告人 国 右代表者鉄道院総裁 中村是公 指定代表者 中原東吉・岩瀬脩治 被上告人 清水倫茂 訴訟代理人 藤巻嘉一郎 右当事者間ノ損害賠償請求事件ニ付東京控訴院カ大正七年七月二十六日言渡シタル判決ニ対シ上告人ヨリ全部破毀ヲ求ムル申立ヲ為シ被上告人ハ上告棄却ノ申立ヲ為シタリ 主文 本件上告ハ之ヲ棄却ス 上告費用ハ上告人ノ負担トス 上告論旨第一点ハ原判決ハ本件松樹ノ枯死カ上告人ノ過失ニ依ル違法行為ナリトシ其理由ヲ説明シテ「然レトモ石炭ノ煤煙カ樹木ニ害ヲ及ホスコトハ世上実例ニ乏シカラサル所ナルヲ以テ鉄道運送ニ従事スル者ニアリテハ機関車ヨリ噴出シタル煤煙カ樹木ニ害ヲ及ホスヘキコトヲ知ラサル筈ナク若シ之ヲ知ラスシテ煙害予防ノ為メ特ニ相当ナル方法ヲ施ササリシトセハ是レ事業ヨリ生スル結果ニ対スル注意ヲ不当ニ怠リタルモノト認ムルニ足ル(中略)故ニ本件ノ権利侵害ハ之ヲ予見セサリシコトニ付キ其行為者ニ過失アルモノト認ムルヲ相当トス」又「控訴人ノ事業ニ従事スル者カ煙害予防ノ為特ニ相当ナル方法ヲ行ハスシテ松樹ヲ枯死セシメタル以上ハ其行為ノ過失ニ出テタル違法ノ行為ナルコト明カナリトス」又「樹木ニ対スル煙害予防ノ為メ特ニ相当ナル方法ヲ施設スルコトヲ要スルコトヲ要スルハ当然ノコトナルヲ以テ斯ル方法ヲ行ハスシテ松樹ヲ枯死セシメタル以上ハ(中略)其行為カ過失ニ出テタル違法ノ行為ニ非スニ足ラス」ト判示シタリ然レトモ本件ニ於テ上告人ニ過失アリトナスニハ松樹ノ枯死スルコトヲ防止シ得ヘクシテ不注意ニモ該防止手段ヲ講セサリシ事実ノ認定アルコトヲ必要トスルニ不拘原判決ニハ此点ニ付何等判断スル所ナク単ニ「特ニ相当ナル方法ヲ施設セス云云」トナスハ裁判ニ理由ヲ付セサルカ又ハ理由不備ノ違法アリ所謂「特ニ相当ナル方法」トハ何ヲ指示シ何ヲ要求スルモノナリヤ鉄道沿線到ル所人畜耕作物及樹木ノ生息セサルニシ之等凡テノ煙害ヲ防止スル為メ有効ノ施設ヲ為シ得ヘシト為スカ如キハ一ノ想像ニ非スンハ机上ノ空論ニシテ事実上能クシ得ヘキコトニ非ス現時社会ノ一般思想ハ一定ノ軌道上ニ蒸汽列車ノ運転ヲ為ス一般運送経営者ニ対シ斯ノ如キ施設ヲ為スヲ実際上不能ノコトトシ之カ要求ヲ為ササルモノト信ス不能ナル施設ヲ為ササルヲ以テ過失ナリトスヘカラサルハ勿論ナルヲ以テ原判決ハ破毀ヲ免レサルモノト信スト云フニ在リ 然レトモ原判決ニ引用シアル第一審判決事実摘示及ヒ原審口頭弁論調書ニ掲ケアル弁論ノ全趣旨ニ依レハ被上告人ノ害ヲ被リタリト主張スル本件松樹ハ日野春停車場ノ南方ニ接シ鉄道線路ヲ距ル僅ニ一間未満ノ地点ニアリタル事実ノ争ヒナカリシコト明ニシテ其他同樹ノ形状ニ付キ争ヒアリシ形跡アルコトナク又原院ノ損害認定ノ資料トシテ採用シタル鑑定人土井藤平ノ鑑定書ニハ「本件ノ松樹ニ付キ考フルニ其生立地停車場ニ近ク且線路ノ分岐点ニ接近シ一線ヨリ他線ニ汽車ノ入レ換ヲ為ス時ノ如キ数分時ニ渉リ汽鑵車ノ該分岐点ニ停車スルコト少カラスシテ単ニ鉄道ニ接近シテ生立スル樹木カ疾走中ノ汽車ヨリ煤煙ノ為メニ受クル損害ノ程度トハ多大ノ差異アリ」ト記載アリ同ク鑑定人三浦伊八郎ノ鑑定書ニハ「鉄道線路ニ最モ近ク且枝条ヲ其方向ニ張リ恰モ汽車ノ煙筒ヲ被フカ如キ枝葉ヲ有セル老齢ニシテ云云特ニ停車場附近ニシテ比較的多ク煤煙ニ曝露スヘキ松樹ハ附近鉄道沿線ノ他ノ樹木ヨリモ一層大ナル影響ヲ被リ其生存期間ヲ短縮セシモノト考ヘ得ヘシ」ト記載アリテ原院ハ此等ノ事実ヲ判断ノ資料ニ供シタルモノト推知シ得ヘキヲ以テ原院ハ本件松樹カ停車場ニ接近シ鉄道線路ヨリ僅ニ一間未満ノ地点ニ生立シ其枝条ハ線路ノ方向ニ張リ常ニ汽鑵車ノ多大ナル煤煙に暴露セラレタル為メ枯死ノ害ヲ被リタリト認定シタルモノト謂フヘシ故ニ本件ノ松樹ハ汽車ノ通過スヘキ山間僻陬ノ地若クハ沿道田畑等ニ生立スル樹木ト同一視スヘキモノニアラス従テ之ニ対シ本件ノ如ク甚シク煤煙ニ暴露サレサルヘキ相当ノ方法ヲ行ヒ得サルモノト云フヘカラス其方法トシテハ或ハ煤煙ヲ遮断スヘキ障壁ヲ設クルカ或ハ線路ヲ数間ノ彼方ニ遠クル等ニ因テ之ヲ避ケ得ヘシ原判決ニ相当ナル方法トアルハ之レノ謂ナリト解スルニ難カラス然ラハ原判決ニ於テ上告人カ煙害予防ノ為メ相当ナル設備ヲ為ササリシハ其注意ヲ怠リタルモノニシテ過失アルモノト認ムル旨ヲ判示シタルハ不法ニアラス上告人カ本件ノ松樹ヲ以テ鉄道沿線到ル所ニ散在スル樹木ト同一ニ論シ原判決ヲ攻撃スルハ原判旨ニ副ハサルモノニシテ採ルニ足ラス 上告論旨第二点ハ原判決ハ右松樹ノ枯死ハ上告人ノ違法ノ行為ニ基クモノト判定シテ曰ク「而シテ控訴人ノ如ク鉄道運送経営者ニ在リテハ汽車ノ運転ヲ為スコトハ権利ノ行使ナリト認メ得サルニ此故ヲ以テ汽車運転ノ際濫ニ他人ノ権利ヲ侵害シ得ヘキ理由ナク従テ汽車運転ノ際故意又ハ過失ニ因リ特ニ煙害予防ノ方法ヲ施サスシテ煤煙ニ因リテ他人ノ権利ヲ侵害シタルトキハ其行為ハ法律ニ於テ認メタル範囲内ニ於テ権利ヲ行使シタルモノト認メ難ク却テ権利ノ濫用ニシテ違法ノ行為ナリト為スヲ正当トス」ト然レトモ右判決ノ認ムルカ如ク上告人カ運送経営者トシテ一定ノ軌道上ニ蒸気列車ヲ運転スルコトヲ上告人ノ一ノ権利行為ナルトスルトキハ該権利ヲ最モ適切ニシテ且ツ通常ノ方法ニ依リ行使シ且ツ其権利行使カ必要ノ限度ヲ踰超セサル場合偶々之ニ伴ヒ沿線松樹ノ枯死ナル事実アルモ尚之ヲ以テ権利ノ濫用ニシテ違法ノ行為ナリト為スハ原判決ノ法律解釈上ノ誤謬ニシテ究リ法則ヲ不当ニ適用シタルモノナリ違法ノ行為ナリヤ否ヤハ畢竟一般的社会見解ニ依リ決スヘキ問題ニシテ客観的ニ実害ヲ生シタル事実アリ且原因行為アルモ該結果ヨリシテ直ニ該原因行為ヲ目シテ違法行為ト為スヘキニ非ス蒸気列車ノ運転ニ際シ其噴出スル煤煙ノ及ホス毒害固ヨリ決シテ軽微ナラサル場合アラム然レトモ其運転方法タルヤ特ニ劣悪ナル石炭ヲ使用セルニ非ス煤煙ノ飛散ヲ激甚ナラシムル設備ヲ為シタルニ非ス蒸気列車運転ノ性質上及慣習上認容セラレタル現代普通ノ方法ニ於テ運転シタルノ行為ニ何等ノ違法性ヲ有スルコトアリヤコレヲシモ以テ違法ノ行為ナリトシ実際上殆ント不可能ナル防煙施設ヲ為スヲ要ストスルカ如キハ法律ノ解釈ヲ誤リ上告人ニ不当ノ責務ヲ課スルモノナリ(松本烝治著私法論文集第二巻煤煙ニ因ル相隣者間ノ権利侵害「第一、」独民法第九〇六条、瑞西民法第六八四条参照)ト云フニ在リ 然レトモ権利ノ行使ト雖モ法律ニ於テ認メラレタル適当ノ範囲内ニ於テ之ヲ為スコトヲ要スルモノナレハ権利ヲ行使スル場合ニ於テ故意又ハ過失ニ因リ其適当ナル範囲ヲ超越シ失当ナル方法ヲ行ヒタルカ為メ他人ノ権利ヲ侵害シタルトキハ侵害ノ程度ニ於テ不法行為成立スルコトハ当院判例認ムル所ナリ(大正五年(オ)第七百十八号大正六年一月二十二日言渡当院判決参照)然ラハ其適当ナル範囲トハ如何凡ソ社会的共同生活ヲ為ス者ノ間ニ於テハ一人ノ行為カ他人ニ不利益ヲ及ホスコトアルハ免ルヘカラサル所ニシテ此場合ニ於テ常ニ権利ノ侵害アルモノト為スヘカラス其他人ハ共同生活ノ必要上之ヲ認容セサルヘカラサルナリ然レトモ其行為カ社会観念上被害者ニ於テ認容スヘカラサルモノト一般ニ認メラルル程度ヲ超エタルトキハ権利行使ノ適当ナル範囲ニアルモノト云フコトヲ得サルヲ以テ不法行為ト為ルモノト解スルヲ相当トス抑モ汽車ノ運転ハ音響及ヒ震動ヲ近傍ニ伝ヘ又之ヲ運転スルニ当リテハ石炭ヲ燃焼スルノ必要上煤煙ヲ附近ニ飛散セシムルハ已ムヲ得サル所ニシテ注意シテ汽車ヲ操縦シ石炭ヲ燃焼スルモ避クヘカラサル所ナレハ鉄道業者トシテノ権利ノ行使ニ当然伴フヘキモノト謂フヘク蒸気鉄道カ交通上欠クヘカラサルモノトシテ認メラルル以上ハ沿道ノ住民ハ共同生活ノ必要上之ヲ認容セサルヘカラス即チ此等ハ権利行使ノ適当ナル範囲ニ属スルヲ以テ住民ニ害ヲ及ホスコトアルモ不法ニ権利ヲ侵害シタルニアラサレハ不法行為成立セス従テ汽車進行中附近ノ草木等ニ普通飛散スヘキ煤煙に因リ害ヲ被ラシムルモ被害者ハ其賠償ヲ請求スルコトヲ得サルモノトス然レトモ若シ汽車ノ運転ニ際シ権利行使ノ適当ナル範囲ヲ超越シテ失当ナル方法ヲ行ヒ害ヲ及ホシタルトキハ不法ナル権利侵害トナルヲ以テ賠償ノ責ヲ免カルルコトヲ得サルナリ原院ノ認メタル事実ニ依レハ本件松樹ハ停車場ニ接近シ鉄道線路ヨリ僅ニ一間未満ノ地点ニ生立シ其枝条ハ線路ノ方向ニ張リ常ニ汽鑵車ノ多大ナル煤煙ニ暴露セラレタル為メ枯死ノ害ヲ被リタルモノニシテ其煤煙ヲ防クヘキ設備ヲ為シ得ラレサルニアラサルコト第一点ニ説示シタルカ如クナルヲ以テ彼ノ鉄道沿線ノ到ル所ニ散在スル樹木カ普通ニ汽鑵車ヨリ吐出スル煤煙ノ害ヲ被ムリタルト同一ニ論スルコトヲ得サルモノトス即チ本件松樹ハ鉄道沿線ニ散在スル樹木ヨリモ甚シク煤煙ノ害ヲ被ムルヘキ位置ニアリテ且ツ其害ヲ予防スヘキ方法ナキニアラサルモノナレハ上告人カ煤煙予防ノ方法ヲ施サスシテ煙害ノ生スルニ任セ該松樹ヲ枯死セシメタルハ其営業タル汽車運転ノ結果ナリトハ云ヘ社会観念上一般ニ忍容スヘキモノト認メラルル範囲ヲ超越シタルモノト謂フヘク権利行使ニ関スル適当ナル方法ヲ行ヒタルニアラサルモノト解スルヲ相当トス故ニ原院カ上告人ノ本件松樹ニ煙害ヲ被ラシメタルハ権利行使ノ範囲ニアラスト判断シ過失ニ因リ之ヲ為シタルヲ以テ不法行為成立スル旨ヲ判示シタルハ相当ナリ上告人カ沿道到ル所ニ散在スル樹木ト同一視シテ原判決ヲ攻撃スルハ原判決ニ副ハサルモノニシテ採スニ足ラス 以上説明ノ如ク本件上告ハ其理由ナキヲ以テ民事訴訟法第四百五十二条第七十七条ニ依リ主文ノ如ク判決ス 裁判長判事 馬場愿治 判事 柳川勝二・鈴木英太郎・鬼沢蔵之助・成道斎次郎 判決は東京控訴院判決と同様、上告棄却、すなわち原告清水倫茂の勝訴であった。この大審院判決が後の法曹界に与えた主な影響は以下の点であった。 第一に、不法行為の成立について「行為者の故意または過失の存在を要件」とし、国(鉄道院)が防止施設を施さなかったこと、すなわち障壁を設ける、あるいは線路を隔てる等の措置を講じなかったことに過失があったとした点。 第二に、権利行使の適当な範囲を超えたか否かについて、その判断に社会観念を導入し、本件の権利行使(松樹の至近距離で鉄道運送を行ったこと)は、適当な範囲を逸脱したものであると認定し、被害者を救済する考え方を重視した点である。第一に、不法行為の成立について「行為者の故意または過失の存在を要件」とし、国(鉄道院)が防止施設を施さなかったこと、すなわち障壁を設ける、あるいは線路を隔てる等の措置を講じなかったことに過失があったとした点。第二に、権利行使の適当な範囲を超えたか否かについて、その判断に社会観念を導入し、本件の権利行使(松樹の至近距離で鉄道運送を行ったこと)は、適当な範囲を逸脱したものであると認定し、被害者を救済する考え方を重視した点である。鉄道の「公共性」は重要なことではあるものの、当事件松樹と一般樹木とを区別することによって、信玄公旗掛松が「著しく煤煙の害を被り」、かつ「予防すべき方法がなかったわけではない」とし、鉄道院の行為を権利行為の範囲内にはないとしたのである。判旨は理由の最後で「鉄道院が沿道到る所に散在する樹木と同一視して原判決を攻撃するは原判決に副はざるものにして採るに足らず」との結論を述べており、まさにこの点が判断の分かれ目になったものと考えられている。 このように、権利者は悪をなさず、国は悪をなさずという、当時の国家権力が非常に強く、軍部の発言権も強かった時代に、むしろ鉄道事業、国家権力に不利な判決が下されたのである。この点で信玄公旗掛松事件は、新しい判例法の転換を見せた事件であった。 ===信玄公旗掛松への賠償額決定=== 枯死に対する「過失の有無」、それによる「損害賠償の算定」は、第一審の甲府地方裁判所での判決から別個のものとして審議が進められていた。大審院判決に到るまでの審議は、あくまでも松樹の枯死に対する「過失の有無」を争ったものであって、具体的な「損害賠償額の算定」についての審議は行われなかった。この節では、信玄公旗掛松枯死に対する損害賠償額決定についての審議過程から当裁判が終結するまでの流れを解説する。 ===示談交渉と鑑定人による樹齢鑑定=== 大審院での上告棄却により、信玄公旗掛松の枯死に対する鉄道院の過失が確定し、裁判の争点は賠償金、損害額の算定に関する審議に移行した。大審院判決から2か月後の1919年(大正8年)5月19日に甲府地方裁判所で賠償金額決定訴訟が開廷された。 法廷では当初から示談を中心に審議が進められた。開廷2日目の5月20日に、吉田裁判長により示談が勧告され、原告被告ともこれを一旦受諾したが、裁判長によって提示された500円の示談金を原告清水は承諾したのに対し、被告鉄道院は300円なら応ずるとして拒んでしまう。結局示談交渉は不調のまま、同年10月に不成立に終わっている。10月16日付けの山梨県内各新聞は「裁判長の顔を潰した鉄道院」と報じている。 1919年(大正8年)10月16日付、山梨県内主要新聞での報道は次の通り。 「吉田裁判長より鉄道院金五百円を提供して円満解決をしては如何んとの条件にては五百円は高し三百円なら応ずべしとの事」、『山梨民報』「示談不調」、「裁判長の顔を潰した鉄道院」、『山梨毎日新聞』「裁判長は被告鉄道院は金五百円を原告に支払ふべき旨の条件を提示し原告は承認したるも被告側は最高幹部会議の結果五百円は高額に失すとて之を拒否」、『山梨日日新聞』500円という示談金に鉄道院側が応じなかった背景には、信玄公旗掛松の樹木としての査定価値基準にあった。大審院での敗訴が決定した後、鉄道院側は植物学者ら複数の生物学識者による信玄公旗掛松の樹齢鑑定を行っていた。1920年(大正9年)に入ると、当時の新聞は鉄道院側の樹齢鑑定を次の見出しで複数回報じている。 「再鑑定の旗掛松」、「今度は鉄道院から申請」、『山梨毎日新聞』1月23日付「旗掛松鑑定、来る九日現場にて」、『山梨日日新聞』3月7日付「旗掛松事件樹齢鑑定、武田時代の物に非ずと鉄道側主張」、『山梨日日新聞』3月27日付「樹齢鑑定は三浦林学士」、『山梨毎日新聞』4月2日付「又鑑定の旗掛松、更に原告の申請」、『山梨毎日新聞』8月1日付「旗掛松事件、松平技師に鑑定を命ず」、『山梨毎日新聞』12月23日付このように、鉄道院側は老松の樹齢について何度も鑑定を繰り返していた。鑑定人の中には森林学者として知られる三浦伊八郎、松平東美彦ら、著名な植物学者が含まれている。 このような経緯を経て、1921年(大正10年)2月15日、信玄公旗掛松の枯死に対する賠償額決定裁判の判決が甲府地方裁判所で言い渡された。この甲府地方裁判所の判決は、裁判長横田貞祐、判事中島奨、高崎長一郎によるものであった。 ここでは判決文全文は割愛し、主文、および理由の一部を抜粋して引用する。 甲府地判大正10(1921)・2・15 判決 右当事者間ノ大正六年(ワ)第一号損害賠償請求事件ニ付、請求原因正当ナリトノ中間判決確定シタルヲ以テ更ニ数額ニ付当裁判所ハ判決スル事如左 主文 被告ハ原告ニ対シ金四百九十九円ヲ支払フベシ。 原告其余ノ請求ハ之ヲ棄却ス。 当審ノ訴訟費用ハ之ヲ十分シ其一ヲ原告其九ヲ被告ノ負担トス。 賠償額決定判決文中の事実、および理由で述べられた要点は、 …古来ノ口碑ニ依レバ機山公信玄ガ其松樹上ニ於テ…と、信玄公所縁の伝承により地域の人々にとって特別な存在であった松樹であったことを認めつつも、…鑑定人三浦伊八郎及松平東美彦ノ各鑑定ニ依レバ右松樹枯死当時ノ年齢ガ約百六十年ニシテ、信玄時代(松樹枯死当時ヨリ約三百六、七十年前)ノモノニアラザル事明ナルヲ以テ…と、松樹の樹齢鑑定結果に基づき、枯死した時点での信玄公旗掛松の樹齢は約160年であると証明し、この老松が武田信玄の時代のものでなかったことを、賠償額算定の基準にしたことであった。信玄公旗掛松が地域の人々にとっても、清水倫茂にとっても、先祖代々信玄公ゆかりの伝承とともに大切に扱われてきた松樹であったことに疑いはなかった。その一方で、損害賠償額算定の根拠として考えるならば、「伝承としての松樹の評価額」ではなく、樹齢鑑定に拠る評価という当時としては最先端の科学的検証により、「事実としての松樹の評価額」を主張した鉄道院側(国)の要求が認められた形になった。 当初清水が求めた松樹代金1,200円、慰藉料300円、合計1,500円の損害賠償請求は、信玄時代のものではなかったことを理由に、一般の材木(薪材)としての価格で計算した449円とされ、慰藉料として50円を加えた、合計499円が賠償額とされた。これは示談過程で清水が同意していた500円とほぼ同等額であり、かつ訴訟費用の1割を原告清水、9割を被告鉄道院とする負担判決は、原告清水にとって不服はなかった。 ところが、鉄道院はこの賠償額499円を不服として再度、東京控訴院へ控訴を行った。 ===裁判の終結=== 損害賠償額をめぐり控訴された東京控訴院での判決は、1922年(大正11年)4月11日に行われたが、実に珍妙 かつ、不可解な 判決であった。この東京控訴院判決は、同院民事第二部、裁判長三橋久美、判事水口吉蔵、竹田音次郎によるものであった。 ここでは判決文全文は割愛し、主文の一部を抜粋して引用する。 東京控判大正11(1922)・4・11判決 右当事者間ノ大正十年(ネ)第三一五号損害賠償請求ノ数額ニ関スル控訴事件ニ付キ当院ハ判決スルコト左ノ如シ 主文 原判決中原告其余ノ請求ハ之ヲ棄却ストアル部分並ニ訴訟費用ノ負担ヲ原告ニ命シタル部分ヲ除キ其他ヲ左ノ如ク変更ス 控訴人ハ被控訴人ニ対シ金七十二円六十銭ヲ支払フヘシ 被控訴人ノ其余ノ請求ハ之ヲ棄却ス 訴訟費用ハ第一、二審ヲ通シ之ヲ十分シ其一ヲ控訴人ノ負担トシ其九ヲ被控訴人ノ負担トス。 つまり、賠償額が499円(内訳、松樹449円、慰藉料50円)から、72円60銭(内訳、松樹22円60銭、慰藉料50円)に減額され、なおかつ訴訟費用の負担割合が原告清水9割、被告鉄道院1割という、一審判決とは全く逆になってしまったのである。 慰謝料については一審同様50円とされた。松樹に対する賠償金を22円60銭とした根拠は、「理由」での説明にあった鑑定人剣持元次郎の鑑定によるもので、松樹の損害を薪材としての価格で算定したのは一審と同様であった。しかし、損害算定の時点を一審判決が口頭弁論における鑑定当時の1920年(大正9年)3月としていたのを変更し、損害発生当時、つまり信玄公旗掛松が枯死した1914年(大正3年)12月を損害算定基準時とした上に、一審では枯死していない材木としての価格を損害としたが、二審では枯死していないものを123円25銭、枯死したものを100円65銭と評価し、その差額を損害であるとした。その結果、一審では449円であった松樹損害算定額が、22円60銭と大幅に減額されたのである。これは今日も大いに争われる損害賠償算定基準時の問題でもある。さらに、訴訟費用負担割合については、判決主文中に「原判決中……訴訟費用ノ負担ヲ原告ニ命シタル部分ヲ除キ其他」を変更する、と書かれているのにもかかわらず、訴訟費用負担割合が一審判決と逆になっているなど、この東京控訴院での賠償金額決定二審判決には疑問点や問題点があると、今日では複数の法学者、識者によって指摘されている。 このように松樹の評価が伝承的価値としてではなく、材木・薪材としての評価の問題として扱われ、信玄公云々の部分に関しては慰藉料50円として処理された。これに対し、たとえこの老松が信玄公時代からのものでなくとも、人々は代々固く信じてきた事実を重視し、もう少し高額の慰藉料を認めてもよかったのではないかという意見もある。賠償額、裁判費用負担割合だけを考えると、原告の清水は実質的に勝訴したのかどうかわからないほどであり、被告の鉄道院(国)は、結果的には名を捨て実をとったとも言える。 判決を受けた当事者の清水倫茂も、賠償総額の72円60銭はともかく、訴訟費用を9割まで負担させられた点は腑に落ちず、「これは誤記ではないか」と東京控訴院に更正の「申立」を行った。しかし、東京控訴院は1924年(大正13年)12月25日、この申立を却下した。 ここで清水倫茂は、訴訟行為を断念する。 翌1925年(大正14年)9月28日、甲府地方裁判所において、訴訟費用額241円71銭2厘5毛。原告(清水)が9割を負担とする決定が行われ、長期間に及んだ信玄公旗掛松事件の裁判はすべて終結した。 ==権利濫用論に与えた影響== ===末川論文=== 「権利濫用」の概念は、19世紀後半にフランスで判例法として確立された。日本国内では明治期に牧野英一・富井政章らによって日本に導入され、前述したように明治法律学校(現明治大学)や、和仏法律学校(現法政大学)などの私立法律大学において、信玄公旗掛松事件の弁護士を務めた藤巻嘉一郎をはじめ、法学を志す多くの日本人がその概念を学んだ。しかしながら「権利濫用」の概念は当時の明治民法では触れられておらず、当然ながら現実の裁判において「権利濫用」が援用される事例は信玄公旗掛松事件以前にはなかった。 信玄公旗掛松事件が1919年(大正8年)3月に、原告勝訴として大審院で結審すると、判決に触発された末川博は同年8月に『権利の濫用に関する一考察 ‐煤烟の隣地に及ぼす影響と権利行使の範囲 ‐ 』(『法学論叢』第一巻六号、1919年8月。のち、末川博『権利侵害と権利濫用』岩波書店、1970年7月に収録。)と題する論文を執筆する。末川博は後に立命館大学名誉総長となる日本を代表する著名な法学者であるが、この論文を書いたのは京都帝国大学大学院法科に在籍中のことであり、この論文は末川の処女論文でもあった。 この論文で末川は、ローマ法、スイス民法、ドイツ民法、イギリス法を検討しつつ、 今、我民法上の規定に付きて考ふるに、此点に関しては、何等の明文存すること無し判例の採れる見解に対して、賛意を表するものなりと雖も、その賛意を表するに先ちて、一応、所謂権利の濫用なる観念に付きて、考察する必要あるを感ずこのように述べ、社会観念上の秩序、公序良俗等と権利行使の範囲とを検討し、信玄公旗掛松事件の大審院判決は「頗(すこぶ)る当を得たるものなりと云はざるべからず」と高く評価した。 末川博はこの論文研究を端緒として「権利濫用論」の研究を生涯にわたって続け、「権利侵害から違法性へ」というテーゼを立て、不法行為法の再構築をすべきとの学説を唱えた。やがてそれは我妻栄、青山道夫ら、多くの法学者へと波及していくこととなり、明治民法の下では全く触れられていなかった「権利濫用論」が、現行の日本国憲法第12条、および現行の民法1条基本原則3項において、「権利の濫用は、これを許さない。」と規定され、第709条、第834条それぞれの条文中に「権利濫用」が明文化されることに至った。 信玄公旗掛松事件判決後、権利濫用の概念が独立して問題となった著名な事件として、宇奈月温泉事件(1935年・大判昭和10・10・5民集14巻1965頁)、板付空港事件(1965年・最判昭和40・3・9民集19巻2号233頁)へと続いていった。 末川博は1977年(昭和52年)2月16日に亡くなった。その翌日2月17日付朝日新聞夕刊の「今日の話題」における論説では以下のように紹介されている。 ……民法学者としての末川さんの業績は、権利濫用論の禁止を理論化し、集大成してきたことである。 有名な大審院判権に「信玄公旗掛松事件」というのがある。武田信玄ゆかりの名木が、国鉄の汽車のバイ煙のために枯れたというので、松の所有者が国を相手どって損害賠償の訴えを起こした。 今日の公害訴訟のはじめだが、大正八年、大審院は原告の主張を認めて、国の敗訴を言い渡した。 この判決が、終生のテーマとして「権利の乱用」を選ばせるきっかけだった、と末川さん自身が書いている。が、同時にそれはまた末川さんの生きざまの投影でもあった。 権利の主張も、節度とけじめが伴わなければならない、というのが末川さんの持論であったようだ。…… ― 今日の話題 ‐ひとすじの道‐ 『朝日新聞』 1977年2月17日夕刊 ===判例・事例としての意味=== 信玄公旗掛松事件は日本国内の法曹界で著名な判例ではある。しかし、今日の民法講義等で使用される教科書類では、内田貴『民法II』(東京大学出版会2007年)、大村敦志『基本民法II』(有斐閣2007年)などで、受忍限度論の登場に至る過度的なものとして取り上げられているに過ぎず、いわゆる先例判例として法学部の講義等で取り上げられる機会は少なくなっている。その理由を2007年の窪田充見『不法行為法』では次のように説明している。 今日では……権利の行使であるが、適当な範囲を逸脱しているから権利の濫用であり、不法行為になると説明する必要は無い。……それでは、なぜ信玄公旗掛松事件は、権利の濫用として取り上げられたのだろう。この背景には、『自己の権利を行使する者は何人も害するものではない』というローマ法に由来する考え方があったとされる。つまり、この法諺(ほうげん)を前提として、鉄道の運行というものを権利行使と考えるところから出発すれば、不法行為責任を認めるためには、権利の濫用という、もうひとつの概念が必要とされたのである。しかしながら、……今日では、こうした問題について、そのような説明はしていない。それは、『自己の権利を行使する者は何人も害するものではない』という前提自体が、もはや共有されていないからである。……このように考えてくると、信玄公旗掛松事件におけるようなタイプの権利濫用の禁止の法理は、それが克服すべき前提(つまり、『自己の権利を行使する者は何人も害するものではない』という考え方)が失われた今日では、すでにその意味を失っているとみてよい。 ― 『不法行為法』 窪田充見 (2007) pp.59‐60 今日、信玄公旗掛松事件判例は、権利行使の違法性を強調するために「権利濫用論」が引き合いに出されたものと位置づけられており、現実の裁判では実例の意味として機能しておらず、実質的な判例の意味を失っていると考えられている。しかし、この判例以前には「国による権利は絶対である」という社会風潮が存在していたということ、それが信玄公旗掛松事件を通じて克服されたという歴史的事実に意味があり、明治・大正期の国家や地域社会、さらに当時の法学者と外国法理の関わりの一例を示すなど、近代日本法理の歴史を理解する上で重要な事例と位置づけられている。 ==信玄公旗掛松碑== 日野春駅前広場の南東側の一角には、仙台石で造られた高さ約4メートルの石碑、「信玄公旗掛松碑」が建てられている。これは枯死の原因が、国側の不法行為、権利の濫用であると、大審院で認められ勝訴したことを記念して、清水倫茂本人により建てられたものである。建設費用は建設当時(昭和8年)の価格で148円であった。石碑の裏面には、次の文字が刻まれている。 ===信玄公旗掛松碑=== === 明治三拾六年敷設中央線之鉄条去樹僅間余常吹付煤烟及水蒸気尚以震動為之使樹齢短縮法之所認也這般碑建樹跡伝後世 大正十一年五月三十日 従六位弁護士藤巻嘉一郎撰 古屋邦英書 所有者甲村清水倫茂建之 石工当村古屋政義=== ===明治三拾六年敷設中央線之鉄条去樹僅間余常吹付煤烟及水蒸気尚以震動為之使樹齢短縮法之所認也這般碑建樹跡伝後世=== 大正十一年五月三十日従六位弁護士藤巻嘉一郎撰 古屋邦英書所有者甲村清水倫茂建之 石工当村古屋政義 ===現代訳=== 明治36年に敷かれた中央本線の線路は、松樹からわずかしか離れておらず、常に、煙や水蒸気が吹き付け、そのうえに振動が加わった。そのために松樹の寿命が短くなったことは、法の認めたところである。このことを松樹の跡に碑を建てて、後世に伝える。石碑の建立計画は、大審院判決により清水が勝訴した1919年(大正8年)頃から始まった。 石碑の文面には大正11年(1922年)5月30日と記されているが、これは弁護士藤巻嘉一郎によって書かれた撰文の日付である。実際に石碑が建立されたのは、1933年(昭和8年)4月28日に、清水倫茂が日野春警察署に石碑建設許可を願い出て、翌月5月15日に許可が下りた1933年(昭和8年)のことであった。 清水倫茂は石碑の建立から3年後の1936年(昭和11年)に亡くなり、ともに闘った弁護士藤巻嘉一郎は1946年(昭和21年)に亡くなった。 大審院勝訴後の示談過程で持ち上がった石碑建立の経緯について、当時の新聞記事は清水倫茂の発言を引用し、次のように報じている。 原告清水氏は元来が鉄道院より金を取らんとするが目的にあらざれば…、たとえ松樹は枯死してその形影を止めさるに至るも後世まで旗掛け松の歴史をつたえんとの希望にて損害賠償としてその建設方を示談の条件として鉄道院に交渉した。 ― 大正8年6月2日、山梨毎日新聞。 清水倫茂にしてみれば、賠償金を受け取ることよりも、法によって「松樹枯死の責任」が鉄道院側(国)にあったと、公に認められたことのほうが嬉しかったのである。 この石碑は、枯死した信玄公旗掛松の株跡に建立されたものであったが、1969年(昭和44年)の中央本線複線化工事に際し、石碑が複線化予定用地にかかってしまったため、当時の国鉄により国鉄自らの経費によって丁重に現在地に移設された。国鉄当局の考え方が信玄公旗掛松事件当時の鉄道院時代とは全く変わっていることがわかる。 1964年(昭和39年)に甲府駅から上諏訪駅までが電化され給水の必要もなくなった今日の中央本線では、日野春駅に停車する列車は各駅停車のみとなり、同駅に立ち寄る人も少なくなった。しかし、今後もこの石碑は日本裁判史上記念すべきモニュメントとしての役割を果たし続けるであろうと、民法学者の川井健は述べている。 ==年表== =福岡県西方沖地震= 福岡県西方沖地震(ふくおかけんせいほうおきじしん)は、2005年(平成17年)3月20日午前10時53分に福岡県北西沖の玄界灘で発生した気象庁マグニチュード7.0(Mw 6.7)、最大震度6弱の地震である。震源に近い福岡市西区の玄界島で住宅の半数が全壊する被害となったのをはじめ、同区能古島、西浦、宮浦、東区志賀島などの沿岸地区で大きな被害となった。福岡市および志摩町・前原市(現・糸島市)と周辺市町村を中心に被害が発生した。死者1名、負傷者約1,200名、住家全壊約140棟。福岡市付近では有史以来最も大きな地震となった。 ==名称== 気象庁はこの地震の命名を行っておらず、報道発表では「福岡県西方沖の地震」と呼称した。福岡県及び福岡市のほか、主要マスメディアでは朝日新聞、NHKが「福岡県西方沖地震」を使用している一方、西日本新聞と読売新聞は「福岡沖地震」、毎日新聞は「福岡沖玄界地震」をそれぞれ使用している。 ==地震のメカニズム== 地震が発生したのは、2005年(平成17年)3月20日の日曜日、祝日・春分の日であり、3連休の中日だった。発生時刻は10時53分40.3秒(日本時間)、震源は福岡県北西沖(発生当時の震央地名は「福岡県西方沖」)の、震源の深さは9km。博多湾口に近い玄界灘の離島である玄界島(福岡市西区玄界島)から北西に約8km、糸島半島北端の西浦崎(福岡市西区西浦)から北北西に約9kmの地点にあたる。 気象庁によると地震の規模は、地震波の振幅に比例する気象庁マグニチュード(Mj)で7.0、断層破壊の規模に比例するモーメントマグニチュード(Mw)で6.7だった。 地殻を構成する大陸プレート(ユーラシアプレートあるいはアムールプレート)内で発生した地震、いわゆる内陸地殻内地震である。発震機構は東西方向に圧力軸を持つ横ずれ断層型で、断層面は地面に対して垂直であり、余震分布から北西‐南東方向に延びる左横ずれ断層と考えられている。 この地震を起こした震源断層は、政府の地震調査委員会により「福岡県北西沖の断層」と仮称されている。ただし、地震発生当時はこの断層の存在は知られていなかった。 地震による震源断層のすべり量は資料により開きがあるが、気象研究所によると最大約1.7m、西村らによると最大約1.9m、浅野らによると最大約3mなどと推定されている。 福岡管区気象台の解析では、震源から約30km離れた福岡市早良区の地震計において、地震発生約7秒後の10時53分47秒に初期微動が始まり4秒後に主要動が到達、20秒程度続いた。これらから地震を引き起こした断層破壊の継続時間は十数秒間と推定され、この規模の地震としては比較的短かった。 余震域は、志賀島付近を南東端としてそこから北西方向に約30kmにわたって分布した。ただし北西端付近と南東端付近の2箇所は断層の走行がやや屈曲している。また、メインの余震域の東側の少し離れたところ、海の中道付近には本震から時間を置いて1日後の3月21日から活動が活発化した小さな余震域がある。この小さな余震域は石堂‐海の中道断層の位置と一致している。 ===周辺における過去の地震と地質=== 福岡県北西沖の海域の地震活動はこれまで低調であり、前例となる地震活動の記録がほとんどなかった。地震以前に刊行された地質学の文献においても、別府島原地溝帯より北側の北部九州は比較的地質が安定しており「たまに小さな地震が起こるくらい」とする記述もみられた。麻生渡福岡県知事(当時)も地震当日に「福岡は大地震がないと言われてきただけに、大きな衝撃だ」と語っている。地震当日に会見を行った気象庁の山本雅博地震津波監視課長(当時)は「非常に珍しいところで起きた」とした一方、「百年単位では大規模地震の発生はなかったが、千年単位では繰り返していたのかもしれない」ともコメントしている。 福岡市や糸島半島付近の陸地を見ても、過去最大の地震は1898年8月の糸島地震(M6.0, M5.8)、次いで1929年8月の博多湾付近の地震(M5.1)、1930年2月の雷山付近の地震(M5.0)が知られているのみで、古文書によるものを含めてもM7級の地震は前例がなく、福岡市および糸島半島付近では有史以来最大の地震となった。またこの地震で、震度の記録が整備された1926年以降、福岡県内と佐賀県内で初めて震度5以上の揺れを観測した。 また、やや範囲を広げて福岡県、佐賀県および長崎県壱岐地方を見ると、1700年の壱岐・対馬付近の地震(M7)や679年筑紫地震(M6.5 ‐ 7.5)などが知られており、この地震は約300年ぶりの規模となった。それでも、北部九州の日本海側(玄界灘沿い)は日本の中でも相対的に地震活動が低く、時としてM7程度の地震が発生するものとされ、同じ北部九州でも豊後水道ではM7.5程度の地震の例があるのとは対照的となっている。また九州地方で震度6弱以上を観測する地震としては、1997年5月の鹿児島県北西部地震以来となった。 この地震の震源域に既に知られている活断層はなかった。地震後の海底探査などでも、震源域付近の海底に活断層の証拠となる段差は発見されていない。横ずれ断層では段差が生じにくく、さらに海底であることが発見を難しくしていると考えられている。しかし震源域(余震域)から10kmほど北東には、この地震の余震分布と同じ北西‐南東方向に延びる長さ数kmの海底活断層が2か所存在することが知られていた。また、福岡県北部には同じく北西‐南東方向に延びる活断層が複数あり、福岡市中心部を縦断する警固断層もその1つである。 特にこの地震の余震域はほぼ警固断層の延長線上にあり、地震後にその関連性が調査されることとなった。2007年の地震調査委員会の評価では、この地震の震源域は警固断層そのものではないと断定したが、「警固断層帯」として一括りにし、確率は低いが2つの断層が連動して地震を起こす可能性に含みを持たせている。 ===余震=== 2005年6月末までの3カ月余りの間に、震度1以上の余震は375回発生している。最大震度別の内訳は震度5強が1回、震度4は7回、震度3が23回、震度2が118回、震度1が226回。ただし、3月21日18時までは震度計がなかった玄界島の震度を反映していない。またマグニチュード (M) で見ると、同じ期間でM3以上の余震は265回発生しており、内訳はM3クラスが236回、M4クラスが24回、M5クラスが5回となっている。 本震発生後、気象庁によると最大で震度5弱程度、所によっては震度5強の余震が発生する可能性があるとして注意を呼び掛けた。24日には震度4程度の可能性に変更された。 本震から丸1か月後の4月20日6時11分には、M5.8、最大震度5強の最大余震が発生した。発震機構は東西方向に圧力軸を持つ横ずれ断層型で、本震と同じ型である。本震と同じ程度の強い揺れとなった地域もあり、この余震でも人的・物的被害が生じている。 本震からの時間経過とともに余震が減衰傾向にある中、余震域の南東側で特徴的な活動が発生した。余震域南東側の志賀島付近では、本震後にまとまった余震活動が発生し一時的に4月上旬から中旬にかけて地震が比較的少ない状態となった後、4月20日にM5.8・震度5強の最大余震が発生する経過をたどった。一方、一連の余震域から10kmほど東側に離れた海の中道付近でも、本震翌日の3月21日からまとまった余震活動が発生したが、4月中旬から活動が低下している。 ==地殻変動== 国土地理院はGPS観測を行っている電子基準点の位置について地震の前後で比較を行った。「福岡」(福岡市東区志賀島)で南西に約17cm 、「前原」(糸島市前原)で南に9cm、「古賀」(古賀市)で西に6cmの変位をそれぞれ観測した。また、三角点についても再測量を行い、玄界島で南に約38cmの変位を観測したのを始め、東区の一部を除いた福岡市と前原、志摩など震源域の南西側では、沿岸を中心に南に10cm前後の変位を観測した。一方、新宮や相島など震源域の北東側では、西方向の変位を観測した。 ==観測・推定された揺れ== ===本震=== この地震最大の震度6弱を観測したのは4地点で、福岡県内では福岡市東区東浜、中央区舞鶴、前原市(現糸島市)前原西の3地点、佐賀県内ではみやき町北茂安の1地点。福岡県内の3地点は震央から約30kmであるのに対し、佐賀県みやき町は震央から60kmとやや離れている。また、福岡県福岡地方の広い範囲と筑後地方・筑豊地方の一部、佐賀県と長崎県壱岐の一部で震度5強となった。福岡県、佐賀県および長崎県北部と壱岐・対馬、大分県北部はほとんどが震度4以上となり、このほか熊本県、長崎県、山口県、島根県でも複数の地点で震度4を観測している。 これら観測値と同様に気象庁の推計震度分布図によれば、博多湾沿岸の広い範囲と、筑後川流域、唐津湾沿岸のそれぞれ一部で推定震度5強、所によっては推定震度6弱の地域が分布している。また、福岡平野から筑紫山地西部にかけての地域と筑紫平野の全域に推定震度5弱の地域が分布している。 また、九州と四国・中国地方のほとんどの地点で有感(震度1以上)となり、近畿地方・中部地方の平野部や沿岸部でも有感となった。最も震源から遠い地点では東京都板橋区と神奈川県綾瀬市で震度1を観測した。 このように本州方面では震央から500km以遠でも有感となった一方で、南方面では鹿児島県の本土で有感の地点があった(指宿市が有感最南)が、震央から300kmの種子島以南の奄美諸島・沖縄県では無感(震度1未満)となった。これは九州南部の火山地帯で”Lg波”と呼ばれる地震波が大きく減衰する影響によるものと考えられている。 地震波形の解析により、九州や本州の構造盆地で長周期地震動の増幅が発生していたことが分かっている。長周期成分の周期には幅があるが、福岡県・佐賀県の筑紫平野では約5秒周期、熊本県の人吉盆地では約3秒周期の地震動がピークを示した。 震源に近い玄界島には、3月20日の本震の時点では震度計が置かれていなかった。本震における玄界島の震度はいくつかの推定が発表されているが、幅がある。地震学者の武村雅之は余震のデータを基に推定で震度6弱(5.9)とする試算結果を発表している。筑波大学の境有紀の話によれば住宅被害の多くが地盤崩壊や崖崩れを伴い建物自体が地震動で大きく破壊されたとは考えづらいものの、屋根瓦の被害率が高い状況などから震度6強相当ではないかとHP上で発表している。東京大学地震研究所の三宅弘恵らの研究チームは余震の観測記録を基に本震の地震動をシミュレーションし、推定で震度7(6.5)に達した可能性があるという試算結果を発表している。気象庁は玄界島の被害程度の調査を行っており、山本雅博地震津波監視課長(当時)は記者会見で「調査結果を総合的に見ると震度6弱程度ではないか」とコメントしている。なお、気象庁は地震機動観測班を派遣して玄界島漁村センター(福岡市西区玄界島)に震度計を設置し、3月21日18時から観測を開始した。 日本以外では、韓国でもソウルを始め広範囲で揺れを観測した。アメリカ地質調査所(USGS)の記録によれば釜山、慶州、巨済で改正メルカリ震度階級震度4を観測した。また、中国の上海では、地元紙『新民晩報』の報道によるとビルの高層階では体感で分かるほどの揺れが感じられ、食器が音をたてたり電灯が揺れるなどして2分ほど揺れが続いたところもあったほか、上海市地震局でも揺れを観測した。 ===4月20日の余震=== 震源は志賀島付近で本震よりも九州本土に近かったため、所によっては本震を上回る震度を観測した。博多区や南区では本震の震度5弱を上回り震度5強となっている。福岡県と佐賀県の広い範囲と、大分県、熊本県、山口県、長崎県壱岐の一部で震度4、九州北部と中国地方・四国地方の一部で震度3、震度1以上を観測した地点は九州から近畿地方に及んだ。 ==津波注意報の発表== 日本の気象庁は、地震から4分後の10時57分、福岡県日本海沿岸(玄界灘沿い)と長崎県壱岐・対馬に津波注意報を発表したが、12時に解除した。津波は観測されなかった。海域の浅い地震ではあったが横ずれ断層だったため、津波は発生しなかった。 ただし福岡市では、屋外スピーカーで放送を行う同報系の防災行政無線が整備されていなかったため、広く避難を呼び掛けることはできなかった。その後市は、同報系ではないが防災拠点との通信を確保する地域防災無線を拡充し、避難所である市内の全小学校に整備している。 韓国でも大韓民国気象庁が地震から27分後の11時20分、南海岸、東海岸、済州島に津波注意報を発表したが、津波は観測されず12時過ぎに解除した。一方、気象庁が津波注意報を各自治体に知らせるFAXが、日曜日であるにも関わらず職員の常駐していない部署に送信されるというミスも発生した。 ==被害と復旧== (参考文献:「主な災害の概要:福岡県西方沖地震」国土交通省九州地方整備局:) ===被害の概要と負傷・救急医療=== 住宅被害や負傷者の大半は福岡県内で発生しており、特に福岡市が大きな割合を占めた。負傷者の8割、全壊・半壊棟数の9割、一部損壊の5割が福岡市となっている。ただ、福岡市内では全区で人的・物的被害が生じたものの、被害は限られた地域に集中し、その他では散発的な被害が見られた。 住宅の全半壊を伴うような被害が目立ったのは、福岡市西区の玄界島や能古島、同じく西区北西端の西浦地区・宮浦地区、東区の志賀島など、沿岸の漁村・農村地域だった。特に、玄界島では住宅の半数が全壊するなど大きな被害となり、約1か月間にわたって全島避難を行った。また、福岡市街地の中でも一部地域、中央区の警固断層東縁でマンションや古いビルの半壊・一部損壊が集中的に発生した。 ライフラインや交通などの都市機能にも被害は生じたが、概ね半日から2日間程度で復旧している。 福岡市消防局のまとめによると、福岡市内で地震に伴う傷病により救急搬送された人数は地震当日の3月20日に87人、翌3月21日に6人など、4月6日までの18日間で計109人となっている。なお、このうち地震当日に玄界島から6人がヘリコプターで災害拠点病院である九州医療センターまたは済生会福岡総合病院に搬送されているほか、翌日以降の搬送人数には熱傷患者の転院による搬送なども含まれる。受傷要因別の内訳は、転倒による負傷が31人 (28%)、鍋等の転倒による熱傷が19人 (17%)、落下物による負傷が同じく19人 (17%)、建物等の倒壊による負傷が12人 (11%) などとなっている。また、年齢別では60代以上が約6割を占めた。 唯一の直接死者となった70代女性は、博多区吉塚の自宅付近にて清掃作業を終えて近所の住民と談話中、倒壊したブロック塀の下敷きとなり出血性ショックなどが原因で死亡した。このほか、福岡市で80代女性、筑紫野市で50代男性がそれぞれ飛んできた瓦で頭を打つなどして重体となった。 福岡市消防局では地震直後から119番通報が殺到し、11時30分までの40分間に約700件を超えた。建物被害への対応、救急・救助、ガス漏れなど、地震による消防車両の出動台数は延べ台数で735台に上った。福岡市内の各消防団も避難誘導や崖崩れへの対応など174件の活動を行っている。 通報が殺到して救急車の配車指示が充分とはいえなかったことに加えて、通信規制により病院間の連絡が困難となり、さらに災害時優先電話のトラブル(後述)により救急から病院への連絡にも支障が生じたため、救急患者を近くの病院から順次飛び込みで搬送する事態が発生した。唯一の死者となった女性についても、こうした背景により手当てが遅れた可能性が指摘された。後に対策として、福岡県の救急医療情報システムの活用促進、通信支障や人手不足を前提とした受け入れ体制の分散化などのほか、福岡市医師会で携帯メールとウェブを活用した連絡システムを導入するなどしている。 なお、4月20日朝の余震でも人的・物的被害が出ている。福岡市を中心として福岡県と佐賀県で合わせて58人の負傷者が出たほか、新たに200棟以上の住宅で一部損壊の被害が発生した。 ===被害額=== 福岡県のまとめでは、県が管轄する公共施設や農産品などの被害総額は314億9702万8000円となっている。そのうち、公共土木施設が約195億円と6割を占め、公立文教施設が約15億円、農林業・水産業施設が約3億1千万円、産業別被害では商工業が約56億円、水産業が約18億円、林業が約4億4千万円、農業が約1億円などとなっている。 福岡市のまとめでは、市が管轄する公共施設などの被害額は208億3000万円で、うち87億6千万円(国負担分を含む)が海岸や港湾施設、80億円が漁港施設と海沿いの被害が大半を占め、次いで道路の被害額が多い(2008年3月31日時点)。 また、福岡市周辺の企業が加入する福岡商工会議所の調べでは、回答のあった1,507事業所で、建物、設備、商品などを中心に被害額は合計約33億6千万円に上った(2005年4月13日時点)。一方で、一部の工場でプラントの一時停止などがあったものの、製造業や金融業などに大きな被害はなかったことが報じられている。 その一方観光業では、能古島で観光客数が一時的に例年の2割にまで減少するなど、風評被害も発生した。 佐賀県内の被害総額は2005年6月時点の概算で3億4255万円、長崎県内の被害総額は2005年4月中旬の時点で壱岐市を中心に計2億200万円となっている。 日本地震再保険の調べによると、この地震における地震保険の支払総額は2008年3月末時点の実績で231億円となっており、加入率の差などから単純比較はできないが、1995年の阪神・淡路大震災の約3分の1、2004年に発生した新潟県中越地震の1.5倍にあたる。なお内訳として、3月20日の本震における支払が168億円、4月20日の余震における支払が63億円となっている。また最大余震前の2005年4月4日時点の見込だが、県別では福岡県が圧倒的に多く1万6千件余り(玄界島は含まず)、次いで佐賀県の310件余り、また長崎県・熊本県・大分県・山口県でも合わせて240件余りの支払が見込まれていた。 ===建物・施設=== 玄界島、能古島、糸島半島北端の西浦地区・宮浦地区、東区の志賀島など、沿岸の集落で住宅被害が目立った。特に、玄界島では住宅の全壊率が5割に達した。志賀島北部の勝馬地区でも、玄界島に匹敵する被害となった。能古島では2人が負傷し、住宅1棟が一部損壊の被害を受けた。また、震源から東側の玄界灘にある大島(当時大島村、現宗像市)では、住宅8棟が一部損壊の被害を受けた。玄界島では仮設住宅200戸が建設され、島全体を区画整理した上で住宅の復興事業が行われた。また、志賀島で16戸、西区北崎で11戸、能古島で3戸、それぞれ仮設住宅が建設されている。 玄界島や志賀島などで被害が大きかった背景には、震源に近かったことに加えて、急傾斜地に建つ住宅が多いという土地条件が影響していたと見られている。実際に、切土・盛土の造成地付近の建物で大きな被害が見られた。ただし、屋根の被害を中心として古い木造住宅で被害が目立つ一方、比較的新しい住宅では被害が軽い傾向にあった。この背景として、木造住宅において耐震性確保のために必要な壁の量を定める建築基準が1950年から1981年にかけて次第に厳しく改正されてきており、古い住宅では壁の量が少なかったであろうことが考えられている。 福岡市中心部の長浜・舞鶴・博多駅前・百道浜周辺の中高層ビルを対象に行われたアンケート調査によると、回答のあった約300棟のうち半数前後で棚から物が落下したり、天井・内壁の剥離や亀裂があった。また約4割で家具類の転倒やエレベーターの停止、約3割でテレビや電子レンジなどの重量物の落下があった。さらに、約1割の建物でガラスの破損や停電・断水などいずれかのライフラインの支障、また扉の開閉が困難になる事例が発生している。オフィスのうち約15%の建物では、業務の停止が発生したという。また、建物内ではより高い階ほど、棚の転倒や重量物の落下の割合が高かった。 福岡市中心部の天神では、商業施設の外壁の一部剥落や看板の落下などの被害があり、臨時休業する店舗が相次いで発生した。一方、地上付近と高層階で揺れ方に差があり、天神地下街では地震後も営業を続けたが、津波注意報の発表を受けて11時半過ぎに営業中止を決めた。このことから、特に同じ組織内で低層階と高層階の両方を有するところでは、気象庁が発表する震度情報に合わせて組織内で対応を一律に決めることが、場合によっては適切ではない可能性も指摘されている。また天神では4月20日の余震でも、地震が通勤時間帯を直撃し出社が遅れる例があったことなどから、開店を数時間遅らせる店が相次いだ。 他方、臨時休業を決めた施設の多くは客を外に避難誘導したため、数少ない広場に人が多く集まった。例えば警固公園では、一時は100m四方ほどの広場が周りを見回せないほどの人で溢れたといい、ただ1つの公衆トイレに長い列ができる事態も発生した。福岡市役所前の広場にも数千人が集まり、携帯電話で連絡を取ろうとする人が目立ったという。しかし、交通機関の多くが早期に再開したことから、帰宅困難者問題が深刻化することはなかった。 福岡市内ではエレベーターへの閉じ込めが20件発生し、消防や管理会社により29人が救助された。また同じく福岡市内でドアの閉塞による建物への閉じ込めが17件発生し、自力で脱出したものを除くと消防により8人が救助されている。 ブロック塀の崩落・倒壊も相次ぎ、福岡市中心部で行われた調査では全体の4%が倒壊した。補強用の鉄筋や基礎の構造などに欠陥のある塀が倒壊しており、特に無補強のレンガ塀は3割以上が倒壊した。また、老朽化により鉄筋が腐食したりひび割れが生じた古い塀で倒壊が多かった。さらに、地域別では警固断層付近やその東側で倒壊が多く、南北方向に倒壊したものが多かったという。 福岡市を中心にマンションの損壊も発生し、新耐震基準に基づいて設計されたものでも壁のひび割れなどの被害が見られた。福岡市ではマンション9棟が半壊、約100棟が一部損壊の被害となった。 そのような中、マンション共有部分の地震保険未加入による問題や、住民の被害感覚に比べて地震保険の査定基準が厳しいという問題も発生した。当時の福岡県のマンションは共有部分の地震保険加入率が2割と低く、自力再建を余儀なくされたところが多かったのである。対策として福岡市、春日市、筑紫野市などが共有部分の修復のための借入金について、利子補給を行う制度を創設している。一方で、地震保険に加入していた場合でも、被害の査定はあくまで構造耐力上主要な部分である柱や壁などを対象としているため、非構造壁や廊下などに亀裂があって被害を受けているように見受けられても、支払対象にならない場合があった。 能古島では、地震により裏手の山から10トンを超える巨岩が落下し住宅を直撃した。住宅は損壊したが、住人は揺れの直後に外に避難していて無事だった。 4月20日の余震では、玄界島で半壊状態だった住宅が全壊したほか、須恵町で火災が1件発生した。 被災した建物に対する応急危険度判定は3月28日までに2,959件実施され、460件が「危険」、1,023件が「要注意」と判定されている。なお、4月20日の余震後にも新たに81件実施されている。また、法面や擁壁に近い建物に対する被災宅地危険度判定は3月28日までに380件(うち169件が玄界島)実施され、160件が「危険」、123件が「要注意」と判定されている。 長崎県内では、壱岐市で2人が負傷し住宅1棟が全壊したほか、対馬市でも住宅1棟が一部破損の被害を受けた。 佐賀県内でも、住宅の壁にひびが入ったり学校の窓ガラスが割れる被害があった。特に有田焼は組合加盟社の4分の1にあたる約60社で揺れによる落下被害が発生し、地震対策を行っていなかったところもあり、約4000万円近くの被害が出た。 玄海原子力発電所では、震度4相当の揺れを観測したが自動停止の基準には満たず、異常もなかったため通常運転を継続した。 韓国では、大きな揺れが感じられた釜山でデパートの客が避難する騒ぎとなったり、エレベーターの停止が発生したりしている。また地震によるものかは不明だが、慶尚南道の統営市で地震直後に火災が発生し木造店舗1棟が全焼した。 ===玄界島の全島避難と復興=== 震源に近い福岡市西区の玄界島では、倒壊した住宅から女性が救出されるなど重傷10人、軽傷9人の合わせて19人の負傷者が出た。また、当時の住家総数214棟のうち、半数にあたる107棟が全壊、46棟が半壊、61棟が一部損壊と建造物の大半が大きな被害を受けた。 離島において被災率が高い状況では、多くの住民が島内で避難生活を続けることに困難が予想され、余震による被害拡大の恐れもあった。こうした理由などから、自治会や漁協などの主導で、地震から約5時間後の16時に全島避難を決定し、自治会長など約10人を残して、住民約700人の大半が当日夜までに福岡市本土に避難した。海路の避難にあたっては福岡市有客船や福岡市消防局の消防艇、海上保安庁(第七管区)の巡視艇などが搬送を担い、陸上では消防の輸送車や民間からの借り上げバスなどが搬送を担った。主要避難先となった中央区の九電記念体育館では当日夜までに約430人が避難し、その後避難生活を送った。 玄界島では、南側に住宅が集中しているが平坦地が少ないため、石積みやコンクリートの擁壁で住宅裏の斜面を覆い、その前に住宅が建つ形式が多かった。後の調査では、古い木造住宅の倒壊や屋根の被害が目立った上、擁壁の崩壊により重ねて被害を受けた住宅も多くみられた。一方で、比較的新しい住宅では斜面にあってもほとんど被害を受けない例が見られた。単純な石積み擁壁では高さ1m程度のものでも崩壊が見られたが、コンクリートで間を埋めた石積みのものは高さ1.5m程度までは亀裂程度に留まっており、さらにコンクリートブロックでは高さ5m程度までは亀裂程度に留まったという結果が報告されている。 福岡県知事は、発生当日に自衛隊の災害派遣を要請した。当日から4月25日までの約1か月間、延べ約4,100人(最大時約310人規模)が動員され、玄界島住民の避難支援や避難先での給水・給食活動、医療活動、半壊家屋へのビニールシート展開等の活動を行った。ビニールシート展開は、地震2日後の3月22日に予想された大雨に備えるもの(22日には大雨警報が発表された)で、3月21日から自衛隊と警察・消防が協力して作業を行った。 避難生活が長期化する中、避難所で風邪やインフルエンザが流行して一時50人以上が入院又は福祉施設に入所する事態も発生した。 避難の長期化が見込まれたことから、仮設住宅が建設された。建設地の選定にあたっては、コミュニティ維持のため集団での入居を希望する意見、生活基盤である漁港の近くに住みたいという意見がある一方で、島の平坦地に空き地が少なく島に全ての仮設住宅を建てることはできないという問題が生じた。全て福岡市本土に建てる案もあったが、島が無人の期間が長期化することへの懸念から、島と本土に分けて建設することとなった。地震から1か月後の4月24日には博多漁港に隣接する福岡市本土・中央区の公園「かもめ広場」に100戸、翌4月25日には玄界島に100戸、合わせて200戸が完成し、195世帯517人(入居当初)が入居した。 その後島の復興計画が決定し、戸建て住宅50戸、市営住宅65戸、県営住宅50戸の計165戸を道路や公園などと同時に整備することとなった。かもめ広場の仮設住宅からは、2007年3月末に78世帯、2008年3月25日に残りの世帯が帰島した。戸建て住宅への入居者は、2008年3月から5月にかけて仮設住宅から転居を行った。一方、復興事業完了後の2008年2月末の時点の人口は571人となり、地震前に比べて2割減少した。 復興事業の総事業費は71億円で、国庫補助を受ける小規模住宅地区改良事業から半分程度を拠出し、約1割は土地建物の販売益と市の一般財源が充てられた。そして残りの約4割を市債(玄界島復興事業債)で賄っている。 玄界島の漁協では地震後、「元気バイ!!玄界」を合言葉としロゴマーク化した合言葉をデザインしたユニフォームを作成したり、出荷時に玄界島の水産物に「元気バイ!!玄界」のステッカーを貼ったりするなどしてPR活動を行った。 玄界島では、地震当時は昼食前だったため多くの家庭でガスを使っていたものの住民は避難する前にガスを消す冷静な対応をとった。これには、昼間は男性が漁に出て女性中心となるため婦人消防隊が組織されていたことが功を奏したという見方もある。また、消防や警察が常駐していないにも拘らず、死者も火災も出さず、普段から密な付き合いのご近所同士で所在を確認し取り残された高齢者を助ける光景が見られた。これらは強い地域コミュニティの効果だと考えられ、後の東日本大震災における東北沿岸の津波被災地でも参考にされるなどしている。その一方、玄界島では住宅・道路がきれいに復興整備されたことで、逆にご近所同士のつながりが希薄になった面もあると報じられており、以前はほとんどなかった高齢者の孤独死が発生したり、数人相乗りで出かけていた漁に単独で出ることが増えて島の消防団を担う漁師同士の結束が懸念されたりと、復興の難しさも露呈している。 ===窓ガラス=== 福岡市中心部のビル街では、一部のビルの窓ガラスが割れ地上に降り注いだ。この様子は映像として残されており、テレビ放送もされた。特に、中央区天神の福岡ビル(1961年・昭和36年完成)では、全体の3割にあたる約440枚の窓ガラスが割れて落下し、建物沿いの歩道を歩いていた2人が負傷した。割れたガラスはほとんどが”はめごろし”で、網入りガラスは破損しても落下はしておらず、また地震動による建物の層間変形が集中したとみられる4階から6階の破損率が高かった。 その後の調査により、窓枠と窓ガラスの間のシーリング材に揺れを吸収しにくい硬化性の素材を用いる、古い工法が採られていたことが原因と判明した。古い工法は1978年(昭和53年)の宮城県沖地震で被害が多発したことから、同年改正・1979年4月施行の建設省告示で禁止され、それ以降の施工ではシリコンなどの軟質素材が使用されている。 これを受けて国土交通省は3月23日、全国の自治体に対し、1978年以前施行の3階建て以上で中心市街地の避難道路などに面する建築物を調査し改修などを指導するよう通知を出した。その後、2006年3月までに約3万6千棟で調査が行われ約1,300棟で不適格が判明、うち改修済みは2006年3月時点で511棟だったが、2013年9月には914棟まで改善している。 なお、都心部であるにも関わらず負傷者2人に留まった背景として、渡辺通り沿いに地下街とビルとの連絡通路が発達した天神では地下を移動する人が多く、2月に天神地下街が延伸開業していて通行人がそちらに流れる傾向が更に強まっていたタイミングが幸いしたことや、この付近はビジネス街でありもともと休日は人通りが多くなかったことなども挙げられている。 ===警固断層沿いの被害集中地域=== 福岡市中心部では地域により被害に差が見られた。福岡市中心部の建物被害は大名、薬院、今泉、警固、舞鶴の各地区を中心とする狭い地域に集中した。これらは後述のように、いずれも警固断層のすぐ東側の地域である。壁の亀裂や剥離、扉の変形などの被害が報告されており、外見上は一部外壁の剥離程度であっても内部の壁にはせん断破壊に伴う亀裂が入った建物があった。中には、扉が変形して避難が難しくなったために隣人の助けを借りて窓から脱出したというケースもあった。一方で1kmほど離れた天神のビル街では比較的被害が軽微となった。 また一部では、建造物の倒壊の恐れがあるとして周辺の住民に避難勧告が出された。中央区大名、舞鶴、博多区下呉服町、千代の4カ所で、対象は合計51世帯87人に及んだが、4月上旬までに解除されている。なお、4月20日の余震でも外壁の崩落が相次いで発生している。 本震による表面最大加速度を見ると、天神5丁目にあるK‐NET福岡観測点では南北277gal、東西239galであったのに対し、大名2丁目の観測点では南北489gal、東西310galと、地震動が大きかったと考えられる。 この違いの原因として、警固断層沿いの地下構造の影響が指摘されている。福岡市を縦断する警固断層を境に、西側は地盤の柔らかい堆積層が20m程と薄い一方、東側は50m程と厚く警固断層の東縁では100m程度となっている。堆積層の厚い地域では、表層地盤増幅率が高く地震の揺れが増幅されるほか、基盤の深さに変化のある不整形構造の境界部では地震動が増幅されることが知られている。断層東側の堆積層の厚い地域は幅約500m程度あって、被害が大きかった地域と重なっており、地震後の地質調査でも影響を裏付ける結果が報告されている。また、福岡市の南部や春日市でも建物被害が多く報告されている地域があるが、同様に堆積層の厚い地域だった。 ===港湾・液状化=== 博多湾沿岸では、埋め立て地を中心に液状化現象による砂や泥の噴出、側方流動による段差、地割れや舗装の亀裂、沈下などが相次いで発生した。博多港でも、岸壁や護岸の亀裂や沈下が広い範囲で発生した。一部で岸壁が使用できなくなったが、他の岸壁に振り替えるなどして港湾機能を確保した。港湾施設は2005年夏から2007年2月にかけて復旧工事が行われ、完了している。福岡市内の8つの漁港も被害を受け、岸壁は延べ6km以上が破損した。 糸島半島や新宮町でも液状化による噴砂が確認されている。 長崎県では、壱岐市の印通寺港で岸壁が破損したほか八幡浦漁港の防波堤が破損するなどしている。 佐賀県でも玄界灘沿岸の唐津市呼子町と鎮西町で岸壁に亀裂が入る被害があった。唐津市神集島では、漁港沿いの道路で液状化によると見られる陥没が生じたほか、岸壁や鳥居に亀裂が入る被害があった。 ===文化財・博物館=== 福岡市内や周辺市町村で寺社などの文化財にも大きな被害が相次いだ。文部科学省のまとめでは、文化財等の被害件数は国宝1件、重要文化財19件、史跡および名称17件の合わせて37件となっている。大分県宇佐市の国宝宇佐神宮では、壁に数箇所亀裂が生じる被害があった。 福岡市や近郊の博物館等でも、施設被害とともに地震対策が不充分だった展示品や収蔵品の転倒・落下の被害が見られた。 震源に近い水族館「マリンワールド海の中道」では、来場者約800人のうち1名が避難時に怪我をしたが、職員や展示生物に直接の被害はなく、また液状化により外構の沈下が生じたものの建物本体に大きな損傷はなかった。だが配管の損傷や電気系統の故障などにより、イルカやアシカの水槽で水位が急激に低下、魚類を展示する14の水槽でも水質管理ができなくなりそれぞれ別の水槽へ避難させる事態となった。また、動物たちも地震がトラウマとなり、地震直後は、獣舎から出てこなかったり、ショーの最中に怯えて逃げ帰ってしまったりすることがあったという。一方、休館が長期化すれば経営への影響や被災地イメージの定着による風評被害が生じる懸念などから、応急での復旧を行った上で2日後の3月22日に一部展示を除いて営業を再開し、本格的な復旧は営業と並行する形で行った。 ===生活への影響=== 上水道は、福岡県内で玄界島、志賀島勝馬地区、博多区、中央区、宗像市などの延べ446戸、佐賀県内で川副町、千代田町などの延べ199戸、大分県内で日田市と中津市の延べ204戸、合わせて849戸で一時断水が発生した。このうち中津市では、国道212号の歩道で埋設水道管が破裂し、約150トンが漏水した。 福岡市では、沿岸部や中央区を中心として継ぎ手の破損などによる配水管からの漏水が31件、給水管からの漏水が101件、消火栓などからの漏水が30件発生した。地震直後には推定で最大5万トンの漏水があったが、5月5日までに流量は平常に戻っている。下水道でも、処理施設や送水施設、水路などに被害があったが、年内にすべて復旧している。 九州電力管内では、本震直後、電柱が傾いて混線・断線したことにより福岡市と大野城市の合わせて約2,600戸で約2時間の停電が発生した。一方、4月20日の余震では、福岡市西区と南区の変電所で地震を感知した安全装置が作動し、福岡市、前原市、大野城市と那珂川町の約22,000戸で約5分間の停電が発生したほか、中央区で約100戸が40分間停電した。 福岡市や北九州市を中心に都市ガスを供給する西部ガスの報告では、本震の際に166件、4月20日の余震の際に58件のガス漏れが発生し、2日以内に復旧している。また福岡県内のLPガス供給家庭では、本震の際に40件、4月20日の余震の際に13件のガス漏れが発生し、当日中に復旧している。いずれも、ガス漏れによる火災は発生しなかった。阪神・淡路大震災後、震度5程度の揺れを検知して自動で供給を停止するマイコンメーターの設置が都市ガスで義務付けられ、LPガスでも推奨されており福岡県の普及率が99%に達していたことなどが、ガス漏れ火災の発生を防いだと考えられている。 福岡市西区西浦や東区香住ヶ丘では、崖崩れの危険性があるとして合わせて17世帯36人に避難勧告が発令され、対策工事の着工を受けて4月上旬に解除されている。また、4月20日の余震では福岡市中央区で、崖崩れの危険性があるとして2世帯3人に避難勧告が発令され、5月に解除されている。 地震により公共施設などに自主避難した人は、福岡市で最大2,800人となったのを始め、福岡県と佐賀県で合わせて最大3,000人を数えた。4月20日の余震でも、福岡市を中心に新たに211人が一時的に自主避難した。 地震により発生した罹災ごみは、福岡市において2008年3月までに約102,597tに上った。 ===通信・情報=== 本震後、NTT西日本の固定電話では、数時間に渡り通話規制が行われ災害用伝言ダイヤルが設置された。福岡・佐賀・長崎の3県への発信は約4時間にわたり規制が行われたほか、災害用伝言ダイヤルの利用者件数は3月25日までに8万4000件を数えた。携帯電話においては、通話規制は夜まで続き、輻輳の影響もあり通話は繋がりにくい状態だった中、Eメールやウェブは規制を受けず、各社の災害伝言板サービスも含め、効果を発揮した。NTTドコモ九州では、地震直後に通信量が通常の休日の20倍に達したため75%の通話規制が行われ、徐々に緩和しつつ、午後11時ごろまで続けられた。NTTドコモ、au・ツーカー (KDDI) の両社も携帯電話向け災害用伝言ダイヤルを設置し、それぞれ3万8000件、8,600件の利用があった。 メールやウェブについては、普及率は低かったが、携帯電話よりもパソコンの方が繋がりやすい傾向があった。 一方、官公庁やライフライン関係事業者の携帯電話に災害時でも回線を確保する災害時優先電話において、通話規制を行う装置が故障するトラブルが発生し、12時40分ごろまでの約2時間にわたって一般の電話と同じく繋がりにくい状態となった。契約件数は九州全体で2,130件、福岡県で約1,100件に上る。 佐賀県唐津市では、地下の電話線損傷により一時約300世帯で電話が不通となった。 地震後行われたアンケートでも地震当日に困ったこととして最も多く挙げられたのが携帯電話の不通で、回答者の7割を占めた。次いで挙げられたのも家族との連絡不通、固定電話の不通であった。一方、地震直後に情報を入手した経路としては、NHKのテレビ放送が7割、民放のテレビが5割、家族やご近所との会話が2割、インターネット(パソコン)が1割強などという結果が出ている。 この地震では、災害時の通信や情報収集の手段としてEメールやウェブを利用する傾向が強くなり、同様の都市型震災でもFAXが多く利用された1995年の阪神・淡路大震災当時と比べて大きな変化が見られた。 ===交通=== 福岡市内では、海沿いを中心として道路の陥没・隆起が153か所、志賀島や玄界島、西区北崎を中心として道路沿いの法面崩壊が19か所発生し、43か所で全面通行止め、10か所で片側通行となった。ほとんどの地域では迂回路が確保され1か月程度で復旧したが、志賀島の周回道路は全面復旧まで1年半掛かった。海に面した断崖であったことや、続く余震や雨でも崩落が続いて4月には本震直後の3倍に拡大し二次災害が懸念されたことなどが、復旧が遅れる原因となった。 地震後九州の広範囲で鉄道の運行がストップした。西日本鉄道の2路線や北九州モノレールでは一時運転を見合わせた。福岡市営地下鉄では地震発生と同時に運行中の22本を停止させ、駅間で停止した2路線の9本は徐行で最寄りの駅へと移動し乗客を避難させた。しかし、開業1か月半後だった七隈線では、運行管理システムの電源ケーブルに他の機器が乗り上げショートし、列車の位置表示や運行制御ができなくなるトラブルがあった。30分経過後も復旧のめどが立たず、駅間で停止した七隈線の5本の乗客は徒歩で最寄りの駅まで避難することとなった。その後福岡市営地下鉄では、電源系統を増やす対策を行っている。全線再開は17時過ぎで、約8万6千人に影響が出た。 九州旅客鉄道(JR九州)は九州新幹線を除き全線で運転を見合わせ、管内の列車30本が立ち往生した。博多駅へ向かう特急かもめ・みどりの1本ではほぼ満員の状態で1時間余りにわたって乗客が閉じ込められた。西日本旅客鉄道(JR西日本)の山陽新幹線のぞみの1本がトンネル内で停止し乗客400人が4時間半にわたって閉じ込められ、携帯電話が通じないトンネル内で車内の電話機に長い列ができる事態も発生した。新幹線は53本が運休となり、約4万8千人に影響が出た。全線再開したのは18時過ぎとなった。JR九州・JR西日本は地震後、地震時の対応マニュアルの見直しを行った。 4月20日の余震でも、福岡県・佐賀県周辺の鉄道各線で一時運行見合わせが発生し、数時間缶詰になる乗客も出た。 高速道路では、本震と4月20日の余震で、それぞれ福岡県・佐賀県周辺の3区間で一時通行止めが発生した。また、福岡都市高速、福岡前原道路、北九州都市高速等の有料道路でも一時通行止めが発生し、特に福岡都市高速では一部で橋梁の支承に破損があったものの、翌日明朝までに復旧した。高速道路の通行止めの影響で、天神と九州各地の間で運行する西鉄高速バスも運休が発生し、再開は15時頃となった。 福岡空港では安全確認のため地震後約30分にわたって離着陸を停止し、計10便の約1,500人に影響が出た。 ===報道=== 福岡のテレビ・ラジオ NHK福岡 発生時 番組宣伝 10時56分頃 震度速報10時58分頃 市町村別震度情報と津波注意報発表 ショッパーズ福岡専門店街(現 ノース天神及びミーナ天神)屋上カメラの映像で福岡ビルからガラスが落下11時頃 博多湾や福岡空港の定点カメラ、博多駅と天神の空撮映像、被害状況、余震情報12時頃 津波注意報解除12時30分頃 気象庁記者会見 玄界島の空撮で家屋倒壊や地割れが多数見られ、島民が高台に避難するKBC 九州朝日放送#福岡県西方沖地震当時の放送体制を参照 RKBテレビ 発生時番組「世界ウルルン滞在記」(再) 中国・標高800mの洞窟家族 10時56分 文字スーパー3回(11時06分 TBSで地震特番)11時15分 上記の特番に飛び乗り「九州北部で震度6弱」放送11時30分 JNNニュース11時45分 RKBでは「アッコにおまかせ!」休止、以降16時まで地震特番放送RKBラジオ 発生時番組「サンデースイングライフ」 10時53分 ヤフージャパンドーム開催(現 ヤフオク!ドーム)「国際らん博覧会」スナッピーレポート中に地震発生、軋む音や悲鳴が聞こえるためマイクをスタジオに戻してマニュアルを読み上げ11時 地震特番開始11時30分 「南こうせつの夢のかよひ路」休止、以降16時まで地震特番継続TNC 発生時番組「笑っていいとも!増刊号」中居・タモリの激うまラーメン作り等 TVQ 発生時番組「元祖!でぶや」(再)(秘)黒豚デブビビンバ 13時14分 カットイン 定時ニュース拡大(7分)17時15分 ローカルニュース17時20分 博多港中央埠頭より中継(TXNネット)17時24分 ローカルニュース(5分)FBS 発生時 「いつみても波瀾万丈」(ゲスト 桂三枝)終了後、CM中 Love FM 発生時「Jump Start Sunday」終了後、CM中 10時53分 地震発生 40秒放送中断10時55分 テレマートラジオショッピング11時 「Air Stage」地震発生を日本語と英語で放送11時05分 特番開始 日本語と英語による地震情報を随時放送14時40分 韓国語による地震情報15時 通常編成に戻る 随時日本語と英語で地震情報15時30分 中国語による地震情報18時30分 韓国語、ポルトガル語、スペイン語による地震情報20時50分 英語、タガログ語、インドネシア語、タイ語、フランス語による地震情報cross fm 発生時番組「COUNTDOWN KYUSHU HOT 100」(ナビゲーター 内堀富美)天神きらめき通りスタジオより生放送中 FM福岡 発生時「MAZDA SUPER SUNDAY」終了後、CM中 ==犯罪== 本震以降、避難により留守になった住宅を狙った空き巣や、係員を装い電気や水道の点検などと偽って部屋に上がり込む手口の窃盗事件が発生し、3月23日には福岡県警が注意を呼び掛けた。地震に乗じた詐欺の被害も発生している。 ==ボランティア・義援金・復興支援活動== 福岡市において地震翌日に災害ボランティアセンターが設置され、ボランティアの取りまとめが行われた。2005年5月末までに、被害が大きかった地域や避難所を中心に、一般のボランティア延べ3,254人が、住宅内の片付けやがれきの撤去、炊き出しや話し相手、ペットの世話などを通じた避難生活支援を行った。また、被災住宅の診断や相談、避難所での整体やマッサージ、散髪や洗髪、心のケア、ペットの相談などを通じ、専門団体や企業などのボランティア延べ1,000人近くも活動を行った。 福岡県、日本赤十字社福岡県支部、福岡県共同募金会などが取りまとめ元となり、「福岡県西方沖地震災害義援金」として5月末までの2か月余りにわたって募金を募った。2007年3月時点で福岡市には7億1千万円余りが配分された。 今上天皇・皇后両名は、福岡県に見舞金を贈った。皇太子徳仁親王は、10月30日に仮設住宅のある福岡市中央区のかもめ広場を訪問した。天皇・皇后両名も、地震から2年半後の2007年10月29日から10月30日にかけて、かもめ広場と玄界島を訪問した。 福岡市を拠点とするプロ野球チームの福岡ソフトバンクホークスは、地震後初となる3月26日の公式戦でファンが復興を祈るメッセージを掲げ、ソフトバンクグループと選手・監督・コーチなどから計2000万円の義援金寄付を行うことを発表したほか、チャリティーオークションを行ったり、ヤフードーム(当時)に募金箱を設置して来場者から義援金を集めたりしている。また、「鷹」つながりの縁から被災した玄界島の小鷹神社の再建を支援するチャリティ試合を開催し、チケット代の一部を寄付した。 2005年5月の博多どんたく期間を中心に、玄界島などへの復興支援に対する感謝を伝え、一方で福岡市全体としては地震の影響が顕著ではないことをPRするため、行政と民間の協力で”元気バイ!!玄界”および”元気バイ!!ふくおか”キャンペーンが行われた。玄界島の物産展や玄界島住民のどんたくへのパレード参加などが行われている。 玄界島の玄界小学校では、2005年度・2006年度にNPO団体のボランティアによる劇や合唱の曲提供や指導支援が行われた。その一環として、福岡県出身のシンガーソングライター野田かつひこは2007年に復興応援歌「僕のふるさと玄界島」を制作し、CDを島に寄贈した。 玄界島自治会と東区和白東の和太鼓団体などが協力して、玄界島の住民へ和太鼓の指導が行われ、2006年10月に島の和太鼓団体「玄界太鼓」が発足し復興の助力となった。 ==行政の主な対応== 日本政府は、地震発生から7分後首相官邸に対策室を設置、15時過ぎに政府調査団を福岡県に派遣、20時に第1回目の関係省庁連絡会議を開催。3月24日に村田吉隆防災担当大臣が、3月26日に小泉純一郎内閣総理大臣が、それぞれ被災地を訪問した。 一方、野党各党も情報収集を行い、3月21日に民主党の鳩山由紀夫らは福岡市内への応援演説の予定を変更して玄界島など被災地を訪問した。こうした動きの速さは1か月後の衆議院福岡2区補欠選挙を意識したものだとの報道もあった。なお、補欠選挙は当初の予定通り4月24日に執行された。 緊急消防援助隊として、いずれも当日、熊本県の消防ヘリが情報収集活動を行ったほか、大阪市の消防ヘリが人員輸送を行った。また、警察の広域緊急援助隊として、熊本県、山口県、広島県から福岡県へ、長崎県から佐賀県へ、合わせて延べ183人・車両45台が派遣され、情報収集や人員輸送などを行った。 被害の集中した福岡市では被災者に対して、住宅・宅地関連、見舞金・資金貸付、就学関連、中小企業関連、農林漁業者関連、税などの費用負担減免関連、ほか各項目の支援策を発表し実施している。特に、玄界島のような大規模復興事業を行わなかったものの被害が大きかった志賀島の3地区では、一部損壊以上の世帯に対して補修に最大150万円、建替に最大300万円を市が助成したほか、玄界島で自主再建を行う世帯にも同様の支援を行った。また、福岡市、福岡県ともに、半壊以上の世帯、全治1か月以上の負傷者に対して、それぞれ数万円の災害見舞金を支給している。 地震直後の行政職員の参集に関して、福岡県では自動呼出しにより比較的スムーズとなったのに対し、福岡市や福岡県内の各市町では通話規制により困難となったところがあった。また、防災計画に地震対策がなく対応が不充分だった自治体もあった。その後、福岡市は2008年8月から携帯電話のメールを利用した自動参集システムを導入している。 ===法的措置=== 災害救助法適用 : 福岡市(3月20日発表)被災者生活再建支援法適用 : 福岡県全県(4月18日発表。3月31日に福岡市のみへの適用を発表していたが、拡大)激甚災害法(局地激甚災害):適用なし ==教訓とその後の防災== この地震により被害を受けた地域では、防災意識の高まりがみられた。地震後福岡市民を対象に行われたアンケートによると、このような大地震が起こると「思っていた」のは2.9%に過ぎず、「全く思っていなかった」が約6割、「あまり思っていなかった」が約3割と総じて否定的であったが、将来再び発生する可能性については起こると「思っている」が2割、「ある程度思っている」が6割弱を占め、「全く思っていない」は1.4%となった。 別のアンケートによると、福岡県では家具の転倒防止率が地震前約6%だったが、地震後約29%に上昇し東京とほぼ同じ水準となった。また、高いところに物を置かない対策をとる人は、地震前の約14%から地震後約48%と大きく上昇した。 福岡市は地震後、地域防災計画に盛り込んでいた警固断層の地震に対する施策を拡充し、福岡県は警固断層を含め県内の他の断層についても2006年度と2011年度の2回にわたって地震想定の見直しを行った。 福岡市は、今後も警固断層で地震が予想されることから警固断層周辺の地域で高さ20m以上の建物を新築する場合、耐震基準における地域系数を建設省告示の0.8(福岡県)から1.0に引き上げることを求める条例を2008年10月から施行した。ただし、あくまで努力義務のため、2015年1月までに対象となった177棟のうち条例に従ったのは約3割である。 また、福岡市は2005年12月の市議会決議でこの地震が発生した3月20日を毎年「市民防災の日」とすることを定め、講演会や訓練などを行って防災の啓発を図っている。 なお、地震調査委員会は警固断層帯の評価文において、福岡県北西沖にはこの地震を引き起こした断層と同様、調査が困難な横ずれ成分の未知の海底活断層が存在する可能性があり、同様に未知の断層で地震が発生する可能性もあることに留意すべきと記している。 ===警固断層帯=== 政府の地震調査委員会は2007年3月19日に、警固断層帯の長期評価を発表した。福岡県西方沖地震の震源域である福岡市沖玄界灘から志賀島付近に至る断層は「福岡県北西沖の断層」、筑紫野市付近から春日市、福岡市中心部を経て博多湾を縦断し志賀島の南東沖に至る断層は「警固断層」とされた。2つの区間はそれぞれ別に活動すると考えられるが、遠い将来において同時に活動する可能性も否定できないとし、両者をまとめて「警固断層帯」とした。警固断層については、次の地震の規模はM7.2程度と考えられ、30年以内の地震発生確率は「最大で6%」と、日本の主な活断層の中では高いグループに属すると評価された。 なお、福岡県西方沖地震の発震機構は東西方向に圧力軸を持つ北西‐南東の横ずれ断層であり、警固断層はその南東側延長に位置する関係上、地震によるずれは警固断層に掛かる応力を増大させる可能性が指摘されている。このため、警固断層の地震発生確率は上記の値よりも大きい可能性も指摘されている。 ===都市型震災=== 日本の100万都市あるいは政令指定都市におけるマグニチュード7クラスの地震としては、神戸市を直撃した1995年の兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)以来となった。 しかし、阪神・淡路大震災とは異なり震源域が福岡市中心部から離れた沖合だったこと、火災がほとんど発生しなかったこと、阪神・淡路大震災を契機に建物や生活基盤の耐震化が行われていたことなどから、被害の程度は小さかった。また、神戸市では木造住宅や低層の建物が揺れやすい周期1 ‐ 2秒程度の地震動(キラーパルス)が大きく全壊10万棟を超える甚大な被害となったのに対し、福岡県西方沖地震では地震動が全体的に神戸より小さく最も大きな成分が1秒未満の短周期であったことから、福岡市中心部の建物被害は一部損壊を中心とするに留まったと考えられている。 この地震では、通話規制が行われた電話に比べて、メールやウェブは比較的スムーズに利用できた。その経験から、地震の際の連絡や情報収集の手段としてメールやウェブを利用する動きが広がった。地震から1か月半後の2005年5月から福岡市の「防災メール」システムが地震・津波にも対応したほか、3か月後の2005年6月には福岡県の「防災メール・まもるくん」システムが開始している。 =地方病 (日本住血吸虫症)= 本項で解説する地方病(ちほうびょう)は日本住血吸虫症(にほんじゅうけつきゅうちゅうしょう)の山梨県における呼称であり、長い間その原因が明らかにならず、住民らに多大な被害を与えた感染症である。ここではその克服・撲滅に至る歴史について説明する。 病名および原虫に日本の国名が冠されているのは、疾患の原因となる病原体(日本住血吸虫)の生体が、世界で最初に日本国内(現:山梨県甲府市)で発見されたことによるものであって、日本固有の疾患というわけではない。日本住血吸虫症は中国、フィリピン、インドネシアの3カ国を中心に年間数千人から数万人規模の新規感染患者が発生しており、世界保健機関 (英語: World Health Organization、略称:WHO)などによって2018年現在もさまざまな対策が行われている。 日本国内における日本住血吸虫症の流行地は水系毎に大きく分けて次の6地域だった。 当疾患の正式名称は日本住血吸虫症 (Schistosomiasis japonica)、ICD‐10 (B65.2)であるが、山梨県では官民双方広く一般的に地方病と呼ばれている。原因解明への模索開始から終息宣言に至るまで100年以上の歳月を要するなど、罹患者や地域住民を始め研究者や郷土医たちによる地方病対策の歴史は、山梨県の近代医療の歴史でもある。 この項目では甲府盆地における地方病撲滅の経緯を記述する。筑後川流域での根絶までの経緯は筑後川#日本住血吸虫症の撲滅を参照。全体の時系列は#年表も参照のこと。 日本国内では以上の6地域にのみかつて存在した風土病であり、上記のうち、甲府盆地底部一帯、広島片山地区、筑後川中下流域の3地域が日本住血吸虫症の流行地として特に知られていた。中でも甲府盆地底部一帯は日本国内最大の罹病地帯(以下、有病地と記述する)であり、この病気の原因究明開始から原虫の発見、治療、予防、防圧、終息宣言に至る歴史の中心的地域であった。 日本国内では、1978年(昭和53年)に山梨県内で発生した新感染者の確認を最後に、それ以降の新たな感染者は発生しておらず、1996年(平成8年)の山梨県における終息宣言をもって日本国内での日本住血吸虫症は撲滅されている。日本は住血吸虫症を撲滅、制圧した世界唯一の国である。 日本住血吸虫症とは住血吸虫科に分類される寄生虫である日本住血吸虫(にほんじゅうけつきゅうちゅう)の寄生によって発症する寄生虫病であり、ヒトを含む哺乳類全般の血管内部に寄生感染する人獣共通感染症でもある。日本住血吸虫はミヤイリガイ(宮入貝、別名:カタヤマガイ)という淡水産巻貝を中間宿主とし、河水に入った哺乳類の皮膚より吸虫の幼虫(セルカリア)が寄生、寄生された宿主は皮膚炎を初発症状として高熱や消化器症状といった急性症状を呈した後に、成虫へと成長した吸虫が肝門脈内部に巣食い慢性化、成虫は宿主の血管内部で生殖産卵を行い、多数寄生して重症化すると肝硬変による黄疸や腹水を発症し、最終的に死に至る。病原体である日本住血吸虫については日本住血吸虫を、住血吸虫症全般の病理については住血吸虫症を参照のこと。 ==甲府盆地の奇病== ===水腫脹満=== この疾患がいつから山梨県で「地方病」と呼ばれるようになったのかを明確に記したものはない。しかし明治20年代の初め頃には、甲府盆地の地元開業医の間で「地方病」と称し始めていたことが各種資料文献などによって確認することができる。 医学的に「日本住血吸虫症」と呼ばれるようになったのは、病原寄生虫が発見され、病気の原因が寄生虫によるものであると解明されてからのことである。しかし山梨県内では病原解明後も今日に至るまで、「地方病」という言葉は一般市民はもとより行政機関等においても使用され続け定着しており、一般的には風土病を指す「地方病」という言葉は「日本住血吸虫症」を指す代名詞と化している。 腹部が大きく膨らむ特徴的な症状から古くは、水腫脹満(すいしゅちょうまん)、はらっぱり、などと呼ばれていた「地方病」は、以下に示す史料文献中の記述により、少なくとも近世段階にはすでに甲府盆地で流行していたものと考えられている。 近世初頭に原本が成立した全五十九品(章)からなる兵書である『甲陽軍鑑』品第五十七の文中に、武田家臣の小幡豊後守昌盛が重病のため武田勝頼のもとへ暇乞いに来る場面があり、この中に積聚の脹満(しゃくじゅのちょうまん)と書かれた記述がある。積聚(しゃくじゅ)とは腹部の異常を指す東洋医学用語であり、脹満(ちょうまん)とは腹部だけが膨らんだ状態を意味している。積聚の脹満とはつまり、腹部の病気によって腹が膨らんだ状態を描写したものである。さらに、籠輿(かご)に乗って主君である勝頼の下へ出向いているのは、この時すでに昌盛が歩くことすらできなくなっていたからであると考えられ、これらの記述内容は典型的な地方病の疾患症状に当てはまる。 甲陽軍鑑、品第五十七 …次に、小幡豊後守善光寺前にて土屋惣蔵を奏者に憑(たのみ)、御目見仕、 豊後、巳の年(1581年・天正9年)霜月より煩(わずらい)、 積聚の脹満 なれ共、籠輿に乗今生の御暇乞と申。 勝頼公御涙を流され、か様に時節到来の時、其方なども病中是非に及ばず候と御下さるゝ……豊後、巳の年(1581年・天正9年)霜月より煩(わずらい)、 積聚の脹満 なれ共、籠輿に乗今生の御暇乞と申。 勝頼公御涙を流され、か様に時節到来の時、其方なども病中是非に及ばず候と御下さるゝ……積聚の脹満 なれ共、籠輿に乗今生の御暇乞と申。 勝頼公御涙を流され、か様に時節到来の時、其方なども病中是非に及ばず候と御下さるゝ……勝頼公御涙を流され、か様に時節到来の時、其方なども病中是非に及ばず候と御下さるゝ……これは、天目山の戦い直前の天正10年3月3日(ユリウス暦では1582年3月26日、現在のグレゴリオ暦に換算すると1582年4月5日)、勝頼一行が新府城を捨て岩殿城へ向かう途中で立ち寄った、甲斐善光寺門前での出来事を記したものであり、小幡豊後守昌盛はこの3日後に亡くなっている。この『甲陽軍鑑』のくだりが地方病を記録した最古の文献であると考えられている。 その後、江戸時代中期の元禄年間(1700年頃)に「水腫脹満」の薬と称した民間療法薬が作られていた伝承が残されており、明治期にはそれを由来とした通養散と呼ばれる薬が竜王村界隈(現:甲斐市竜王)で販売されていた。また、江戸時代後期の文化8年(1811年)には、甲府盆地南西部に位置する市川大門在住の医師、橋本伯寿によって著された医学書『翻訳断毒論』において、「甲斐の中郡(なかごおり)には水腫多く」と当時の様子が記されている。 地方病に罹患した患者の多くが初期症状として発熱、下痢を発症するが、初期症状だけの軽症で治まるものもいた。しかし感染が重なり慢性になった重症の場合、時間の経過とともに手足が痩せ細り、皮膚は黄色く変色し、やがて腹水により腹部が大きく膨れ、介護なしでは動けなくなり死亡した。 今日の医学的見地に当てはめると、肝臓などの臓器に寄生虫(日本住血吸虫)の虫卵が蓄積されることによる肝不全から肝硬変を経て、罹患者の血管内部で次々に産卵される虫卵が静脈に詰まって塞栓を起こすことにより、逃げ場を失った血流が集中する門脈の血圧が異常上昇する。その結果門脈圧亢進症が進行、それに伴い腹部静脈の怒張(メデューサの頭, caput Medusae)および腹腔への血漿流出による腹水貯留を起こし、最終的に食道静脈瘤の破裂といった致命的な事態に至る。これら種々の合併症が直接の死因である。また、肝硬変から肝臓がんへ進行するケースも多く、さらに肝臓など腹部の臓器だけでなく、血流に乗った虫卵が脳へ蓄積する場合もあり、片麻痺、失語症、けいれんなどの重篤な脳疾患を引き起こすこともあった。 甲斐国(現:山梨県)の人々は、腹水が溜まり太鼓腹になったら最後、回復せず確実に死ぬことを、幼い頃から見たり聞いたりしていた。また、発症するのは貧しい農民ばかりで、富裕層に罹患する者がほとんどなかったことから、多くの患者が医者に掛かることなく死亡したものと推察されている。地方病の感染メカニズムを知識として知ることのできる現代の視点から見れば、農民ばかりが罹患した理由も明らかである。しかし、近代医学知識のなかった時代の人々にとっては原因不明の奇病であり、小作農民の生業病、甲府盆地に生まれた人間の宿命とまで言われていた。 やがて幕末の頃になると、甲府盆地の人々の間でこの奇病に因んだことわざが生まれた。 水腫脹満 茶碗のかけらこの病に罹ると、割れた茶碗同様二度と元の状態に戻らず、役に立たない廃人になり世を去る、という意味である。夏細りに寒痩せ、たまに太れば脹満普段の暮らしは貧しく痩せ細っているが、太るとすれば脹満に罹った時だけ、という意味である。また、発症者の多発する地区がある程度偏っていたことから、流行地へ嫁ぐ娘の心情を嘆く俗謡のようなものが幕末文久年間の頃から歌われ始めた。 *128* 嫁にはいやよ野牛島(やごしま)は、能蔵池葭水(のうぞういけあしみず)飲むつらさよ(地図)*129* 竜地(りゅうじ)、団子(だんご)へ嫁に行くなら、棺桶を背負って行け(地図)*130* 中の割(なかのわり)に嫁へ行くなら、買ってやるぞや経帷子に棺桶(地図)このような悲しい口碑や民謡が、かつての甲府盆地の有病地に残されている。 寄生虫の存在すら知り得ない当時の人々にとって、この奇病の原因はもちろん、なぜ特定の地域にばかり発症者が多発するのか、全てが謎であった。 ===宮沢村と大師村からの離村=== 1874年(明治7年)11月30日、甲府盆地の南西端に程近い宮沢村と大師村(現:南アルプス市甲西工業団地付近、地図)2村の戸長を兼ねていた西川藤三郎は、両村の計49戸の世帯主を招集し離村についての提案を行った。同村付近は甲府盆地でも最も標高の低い低湿帯に位置しており、水腫脹満、すなわち地方病の蔓延地であった。当時この奇病の原因は解明されてはいなかったが、標高の高い高台の村々ではこの病気がほとんど発生していないことを農民たちは知っており、このままでは村は全滅してしまうと感じたため、農民たちは離村という苦渋の決断をした。 明治維新からまだ間もないこの頃は、居住地を捨てるなどということが許されない封建制度から抜け出せない時代であり、一村移転などという住民運動は当然認められなかった。しかし、身近な人々が次々に奇病に苦しみ死んでいく凄惨な状況に村人の離村への決意は固く、離村陳情書を毎年根気強く提出し続けた。明治新政府に村人の願いが通じ、村の移転が聞き入れられたのは30数年も経過した明治末年のことであった。 日本国内において、地方病に限らず風土病を理由に村ごと移転したのは、この1例以降は起きていない。発症頻度の差こそあれ地方病は甲府盆地の隅々に蔓延しており、甲府盆地に暮らす農民の多くは正体が分からず目に見えない地方病の恐怖に脅えながら暮らしていた。 ==病因解明期== 原因不明の奇病であった地方病も、明治中期から大正初期にかけて虫卵の発見、病原体(日本住血吸虫)の発見、感染経路の解明、中間宿主(ミヤイリガイ)の発見へと、病気の原因となるメカニズムが比較的短期間に解明されていった。これらが全て日本人の手によって解明されたことは特筆すべきことであるとする見解がある。 ===原因解明へ向けた取り組み=== ====解明への端緒==== 1881年(明治14年)8月27日、この奇病の原因解明への端緒となる嘆願書が提出された。東山梨郡春日居村(現:笛吹市)の戸長である田中武平太により、当時の山梨県令藤村紫朗宛に提出された嘆願書の『水腫脹満に関する御指揮願い』であった。同村では古くから地方病が流行していたが、戸数約60戸ある村の東西(両端)に病気はなく、中央部に当たる小松地区(地図)だけに病気があることから、発生地域を示した村の略図を添えて病気の原因調査を依頼する請願を提出した。「原因は皆目判らず。水だろうか、土だろうか、それとも身体に原因があるのだろうか。嗚呼悲しきかな、困苦見るを忍びず。」と書かれたこの嘆願書は、村人の悲痛な叫びであった。 1884年(明治17年)、県の派遣した医師により小松地区の患者の診察、および飲料水(井戸水)などの住環境を含む調査が行われたが、病気の原因は不明であった。1887年(明治20年)になり、長町耕平県病院長と医員が当時一般化したばかりの糞便検査を行い、その結果ある虫卵を発見、一種の鉤虫であろうと推察したが、これが何の卵なのかはもちろん、当疾患との関連性もこの段階では分からなかった。 また同時期の1886年(明治19年)、同地の徴兵検査を担当した軍医石井良斉は、中巨摩郡および北巨摩郡の特定の有病地の村から来た、20歳前後の徴兵年齢の青年の大半が、身長が140センチ強ほどの子供程度しかなく、腹部は腹水により膨れあがり手足は痩せ細り、顔面は蒼白であることを知った。明らかに何らかの栄養障害があるものと思われ、これほど深刻な発育不良が特定の地区に集団発生していることは、日本各地を調査してきた石井軍医にとっても驚くべきことであった。時代は日清戦争直前で富国強兵は国策であり、兵役に適さない健康不良者の多発はきわめて重大な問題とみなされた。石井の報告を受けた軍部は事態を重く見て、藤村紫朗山梨県知事に対し、原因解明を行うよう強く要求した。知事も軍の意向は深刻に受け止めざるを得ず、以後行政は地方病対策に本腰を入れることになる。 ===杉山なかの献体=== 石和(現:笛吹市)在住の医師である吉岡順作は、この奇病に関心を持ち、患者を詳細に診察し、近代西洋医学的な究明を試みた最初期の医師である。この病気は発病初期に腹痛を伴う血便、黄疸があり、やがて肝硬変を起こし、最終的に腹水がたまる臨床症状から考えると、肝臓や脾臓に疾患の原因があることは明らかであった。しかし、酒を飲まない小児であっても発病するので、アルコール性肝硬変とも異なっていた。 吉岡は患者の発生する地域分布図(地図)を作成したところ、笛吹川の支流流域の水路に沿った形で罹患者が分布していることが分かった。その上、病気のある地区では、川遊びをする子供たちに対して「きれいだからといってホタルを捕ると、腹が太鼓のように膨れて死んでしまう」、「セキレイを捕まえると腹が膨れて死ぬ」などの戒めタブー、迷信が残っていた。 これらのことから吉岡は、この奇病と河川、あるいは水そのものが何らかの形で関係しているであろうことを突き止めた。しかしそれでも病気の原因は分からなかった。万策尽きた吉岡はついに、死亡した患者を病理解剖して、病変を直接確かめるしかないと決断する。しかし当時の人々にとって解剖はおろか、手術によって開腹することですら世にも恐ろしいことと思われており、普段は威勢のよい男性でも、死後とはいえ自分の体を解剖されることには極度に脅えたといわれている。実際に山梨県では明治中期の当時において解剖事例は皆無であった。 1897年(明治30年)5月下旬、1人の末期状態の女性患者が献体を申し出た。甲府と石和の間にある水田地帯の西山梨郡清田村(現:甲府市向町)在住の農婦、杉山なか(当時54歳)である。なかは40歳を過ぎた頃から体調に異変を来たし、地方病特有の病状が進行し、50歳を過ぎると典型的な水腫症状を起こした。穿刺による腹水除去が吉岡医師によって数回試みられたが効果がなく、やがて手の施しようのない状態に陥った。 なかは「順作先生、私の腹の中にある地方病は何が原因なのでしょうか」と尋ねたが、原因が分からない吉岡は「肝臓に原因があることは間違いないのだが、詳しいことは開腹して肝臓を直接確かめるしかないのです」と答えるしかなかった。 吉岡の献身的な治療に信頼を寄せていたなかは、なぜ甲州の民ばかりこのようなむごい病に苦しまなければならないのかと病を恨みつつも、この病気の原因究明に役立ててほしいと、自ら死後の解剖を希望することを家族に告げる。最初は驚いた家族であったが、なかの切実な気持ちを汲んで同意し吉岡に伝えた。当時としては生前に患者が自ら解剖を申し出ることはめったにないことであり、あまりのことに涙した吉岡であったが、家族と共に彼女の願いを聞き取り文章にし、1897年(明治30年)5月30日付けで県病院(現:山梨県立中央病院)宛に『死体解剖御願(おんねがい)』を親族の署名とともに提出した。献体の申し出を受けた県病院第6代院長下平用彩と県医師会は驚きながらも杉山家を訪ね、命を救えなかった医療の貧困を直接なかに詫び、涙ながらに何度も感謝の言葉をなかに伝えた。 なかは解剖願いを提出した6日後の6月5日に亡くなり、遺言通り翌6月6日午後2時より、県病院長下平用彩医師執刀の下、杉山家の菩提寺である盛岩寺(せいがんじ、現:甲府市向町、地図)の境内で、吉岡ら4名の助手を従え解剖が行われた。 今日でいう篤志献体であるこの解剖は、地方病患者のという以前に、山梨県下では初の事例となる病理解剖であったため、甲府近隣から57名もの医師、開業医が参加した。この様子は、翌々日の6月8日付山梨日日新聞の紙面において、東山梨東八代医師会会員総代吉岡順作本人による長文の弔辞とともに報じられている。 遺体から肝臓、胆管、脾臓、腸の一部が摘出されアルコール漬けにされ、参加した医師たちは肥大した肝臓の表面に白い斑点が多数点在するのを確認した。通常の肝硬変と異なり肝臓の表面には白色を帯びた繊維様のものが付着し、肥大化した門脈には多数の結塞部位が認められた。この門脈の肥大化にこそ、この疾患の原因解明への手掛かりがあった。 盛岩寺の屋外解剖に参加した医師の中に、後年この奇病の原因解明に大きな役割を果たすこととなる、若き日の三神三朗医師がいた。 ===解明に向けた機運=== 中巨摩郡大鎌田村二日市場(現:甲府市大里町)で内科を開業していた三神三朗は、済生学舎(後の日本医科大学)を卒業後、山梨へ帰郷し開業したばかりで、この解剖の当時24歳であった。三神内科(地図)のある大鎌田村は甲府盆地底部のほぼ中央に位置する地方病有病地の一つでもあり、三神内科では、老衰以外の患者の死因はほとんどがこの奇病だった。 三神は県病院の病理技師から「杉山なかの肝臓には変形した虫卵の固まりを中心とする多数の結節が出来ており、同様の虫卵と結節は腸粘膜にも認められ、虫卵の大きさは従来から知られている寄生虫の十二指腸虫卵(鉤虫)より明らかに大きい」と知らされ、この奇病はまだ知られていない新種の寄生虫が大きく関与していることを確信した。当時は高価であったドイツからの輸入品である顕微鏡を自費で購入すると、三神は罹患した複数患者の便を集め、いくつかの便から今までに見たことのない大型の虫卵を見つけ、「肝臓脾臓肥大に就て」の題で1900年(明治33年)発行の『山梨県医師会会報第3号』に報告した。同会報には杉山なかの解剖を執刀した下平用彩医師、さらに軍医石井良斉による同疾患に関する報告もされたことから、俄然この奇病の原因解明に向けた機運が高まり、県医学界の重要研究課題となっていった。 複数の患者から見つかった虫卵により寄生虫病である可能性が高くなり、1902年(明治35年)4月15日、山梨県医学会は県内外の研究者を県病院に招いて、『山梨県に於ける一種の肝脾肥大の原因に就て』と題した討論会を開いた。 当時の日本では寄生虫に関する研究は始まったばかりであったが、佐賀県下の筑後川流域で同様の疾患を研究していた長崎医科大学教授の栗本東明ら、日本各地より寄生虫疾患に取り組む病理学研究者が参加した。三神は罹患者の便から発見した新しい虫卵の発表を行い、この虫卵を産む母虫こそ地方病の原因ではないかと主張した。しかし、肝臓組織内部で見つかった虫卵と、消化器官を通じて排泄される便中にある虫卵との同一性を指摘され、両者を関連付ける直接的な証拠を持っていなかったため返答に窮した。 討論会では杉山なかの解剖以降に行われた数例の解剖所見も発表され、肝臓組織内に問題の虫卵が樹状に並んでいたことから、虫卵の母虫は恐らく肝臓内で産卵したのであろうという意見や、従来から知られている肝臓ジストマではないかという意見もあった。さらに、特定の地域にのみ流行する特性から寄生虫病ではなく、狭い地域で繰り返された婚姻による遺伝子疾患の類ではないかという、この疾患の当事者にとっては到底受け入れ難い誹謗とも取れる意見まで出てしまい、結局この討論会では、肝臓や脾臓の肥大原因と、正体不明の寄生虫の虫卵によるこの疾患との因果関係についての意見一致には至らなかった。 この討論会の参加者の中に、後に三神と共にこの寄生虫病の病原である日本住血吸虫を発見する桂田富士郎がいた。 ===日本住血吸虫の発見=== ====桂田富士郎と三神三朗==== 桂田富士郎は加賀国大聖寺藩(現:石川県加賀市)出身の病理学者で、岡山医学専門学校(現:岡山大学医学部)教授の当時35歳であった。また、桂田は当時岡山県南西部で流行していた、別の寄生虫病(肝臓ジストマ)の研究者でもあった。 1904年(明治37年)春、前述した山梨での討論会で三神と意気投合した桂田は岡山から山梨の三神宅へ赴き、両名による甲府盆地各所の罹患者の診察および糞便検査が行われ、数名の便から三神が以前に発見した新種と思われる虫卵を再確認した。また、県病院より提供された杉山なか等3名の病理標本を顕微鏡の倍率を上げ改めて詳細に検証し、大きさや形状から判断して、これら3例の肝臓にある虫卵も糞便検査で見つかった卵と同一であると確信した。 桂田は正体不明のこの虫卵に蓋(ふた、卵蓋)がないことに着目した。ドイツ留学で培った鑑識を得ていた桂田は、肝臓ジストマや肺ジストマなど多くの吸虫類の虫卵には蓋があるのに対して、蓋のない吸虫類はアフリカ、中近東に広く分布するビルハルツ住血吸虫ぐらいしか知られておらず、蓋のないこの虫卵はビルハルツ住血吸虫卵と形態的に似ていると気付く。 ただしこの当時、ビルハルツ住血吸虫は、患者の血尿中から虫卵が見つかったことから成虫が膀胱周囲の静脈に寄生することは確認されていたものの、原因となる感染経路や生活環などは全く解明されておらず、ヨーロッパの寄生虫学者らにより病因研究が進められていた解明の過度期であった。 桂田はまた、虫卵に蓋のある肝臓ジストマ等の吸虫類はオスメスの区分がなく自己生殖する雌雄同体であるのに対し、蓋のないビルハルツ住血吸虫にはオスメスの区分があることから、甲府で確認されたこの正体不明の寄生虫卵を産む親虫は、オスメスの区分がある雌雄異体であると予想した。 これらのことに加え、桂田と三神は、この疾患の患者に下剤を使用すると虫卵が多く見つかること、また下剤を使っても卵のみで寄生虫本体が排出されないことから、この寄生虫が胆管や腸などの消化器官に寄生する従来のタイプではなく、消化器官に関係する他の臓器や器官、たとえば血管内部に寄生するタイプではないかと考え、腸管と肝臓を結ぶ血管である肝門脈を疑った。もし罹患者の肝門脈の中からこの卵を産む新種の寄生虫本体を見つけることができれば、解決への大きな前進になると考えた。 ===ネコから見つかった新種の寄生虫=== この奇病、日本住血吸虫症はヒトだけではなく他の哺乳類にも発症する。そのため甲府盆地の各所では、農耕で使うウシなどの家畜や野良犬など、哺乳動物の腹部が大きく膨らんでいる姿が多数見られた。 このことから桂田と三神は、腹部が腫れた同疾患の疑いが濃い、「姫」と名付けられていた三神家の飼いネコ(雌)を解剖することにした。1904年(明治37年)4月9日、三神の診療所でネコは解剖されたが、多忙な桂田は岡山医大での予定が詰まっており、緻密な作業を要する詳細な検証は時間的に不可能であったため、摘出した肝臓と腸を一旦アルコール液に保存して岡山の研究室へ持ち帰った。 1か月半後の同年5月26日、ようやく時間のできた桂田は、アルコール液に保存しておいたネコの肝門脈内から約1センチほどの新種の寄生虫(死骸)を見つけた。しかし欠損部分があるなど不完全であり、何よりも生きた虫体を確認することだと、桂田は生体での確認を行うための検証に必要な器具を持参し、7月下旬に再度、甲府の三神を訪ねた。 桂田から再解剖を行う旨の連絡を受けていた三神は、前回の解剖時と同様のネコを用意しており、両名は門脈に狙いを定め解剖を行った。予想は的中し、ネコの肝門脈内から、オス24匹、メス8匹、そのうち雌雄抱合しているもの5対の、合計32体の生きた虫体を発見した。1904年(明治37年)7月30日のことで、後に桂田によって、日本住血吸虫(学名:Schistosoma japonicum)と名付けられる、この奇病の病原寄生虫発見の瞬間である。 桂田は慎重を期して、解剖したネコの肝臓と腸壁にあった虫卵、さらに新寄生虫の雌の卵巣内部で作られる虫卵が、杉山なか等の病理標本にある卵と全く同じ虫卵であることを確認し、この新寄生虫と地方病との因果関係を立証した。翌月8月13日の官報6337号に新寄生虫発見の報告を行い、同様にドイツ語でも論文を発表し、この寄生虫が血管内に住み日本で発見されたことから、新種として Schistosomum japonicum 日本住血吸虫と命名した(のちに Schistosoma japonicum と改名)。 なお、翌年の1905年に検疫官としてシンガポールに赴任中であったイギリス人医師のカットーが、コレラにより死亡した罹患者(現在の中国福建省出身者)の遺体から同じ寄生虫を発見しカットー吸虫と命名したが、前年の桂田のドイツ語論文報告が先であり、命名法の規則によって桂田が第一発見者であると世界の医学界で追認されている。新寄生虫発見の偉業、第一発見者という栄誉は、三神の理解と協力なくしてはなし得ず、桂田は論文の中で三神三朗に対し最大級の賛辞の言葉を記している。 日本住血吸虫は、腸から肝臓へ血液を送る肝門脈の中で宿主の赤血球を栄養源とし、雄が雌を抱きかかえた状態で寄生し、雌は門脈の中で産卵する。血管中(血液の中)に産まれたはずの卵が消化器系を経由し糞便の中に出てくる理由は、腸管近くの腸間膜血管に運ばれた卵がタンパク質分解酵素を放出することによって周囲の腸壁を溶解し、卵ごと腸内に落ちるからである。その一方で血流に乗った虫卵は肝臓に蓄積され、同様に放出されたタンパク質分解酵素により肝臓内に結節が形成され繊維化し、やがて長期間にわたる虫卵の蓄積で肝硬変を発症する。 このように日本住血吸虫は、腸内や胆管などの消化器官に寄生して産卵する従来から知られていた他の寄生虫とは全く異なる寄生様式を持っていることが、その後の検証により解明された。 虫体の発見によってこの奇病が寄生虫病であると確定はしたが、成虫の体長が1センチから2センチほどある日本住血吸虫のヒトへの感染経路、しかも消化器系ではなく血管内に寄生する生態メカニズム(生活史)の解明が次の課題であった。 ===感染経路の解明と中間宿主の特定=== ====泥かぶれ==== 寄生虫病であることが確定した後、ヒトへの感染経路の解明が進められた。感染経路には2つの仮説があり、一つは飲料水からの経口感染説、もう一つが皮膚からの経皮感染説であった。甲府盆地では前述した「能蔵池葭(葦)水飲むつらさよ」と民謡に歌われたように、飲料水から罹ると信じられていた地域がある一方で、皮膚からの感染を疑う農民も少なからずいた。有病地では水田や川に入ると足や手などが赤くかぶれることがあり、地域ではこれを泥かぶれと呼び、この奇病を発症する者は必ず泥かぶれを経て罹患することを、農民たちは経験的に知っていた。 しかし、感染源が飲み水だとしても人は水を飲まなければ生きてゆけず、皮膚からの感染だとしても農民に「田んぼに入るな」というのは仕事を奪うことと同じである。農業を辞めたくても転職することが難しい、職業選択の自由など実質的にない時代であり、他に収入源のない小作農民は、奇病の感染を恐れつつも半ば諦観を持って水田での労働に就くという、いわば命懸けの米作りを強いられていた。 東八代郡祝村(現:甲州市勝沼町)出身で東京帝国大学医学部卒の内科医局員であった土屋岩保(つちや いわお)は、1905年(明治38年)7月に甲府盆地各所で哺乳動物の調査を行った。 土屋は解剖したイヌやネコの門脈内にのみ多数の日本住血吸虫の成虫を見出し、門脈以外の血管には見られなかったことから、「もし経皮感染するのであれば門脈以外の血管にもいるはずであり、門脈のみに日本住血吸虫がいるのは、飲料水や食物を通じて原因となる寄生虫卵や幼虫が口から入り、胃に入る前の食道や咽頭などの内壁から進入して門脈に至るからではないか」と、経口感染説を主張した。 土屋の意見には多くの医学者、研究者が賛同した。黄熱病やマラリアなど蚊に刺されることによって発病する感染症、寄生虫病を除けば、当時の寄生虫学において知られていた感染経路は、十二指腸虫などのようにほとんどが飲食物を介して経口感染するものばかりであった。 この寄生虫学会内の既成概念のようなものも、土屋の主張を支持することに働いた。 ===感染経路の研究=== 確証はないものの経口感染説が広がり始め、甲府盆地の有病地では川や用水の水をそのまま飲むことを固く禁じ、飲料水の煮沸が義務付けられた。しかしそれにもかかわらず新たな感染者が次々に発生する状況に変化がないことから、経口感染説は間違っているのではないかとの疑問が出始めた。有病地の住民をはじめ行政関係者からも、飲み水からなのか、皮膚からなのか、はっきりさせてほしいとの声が大きくなり、2人の研究者による動物実験が1909年(明治42年)6月に行われた。 日本住血吸虫の発見者である桂田富士郎は、岡山医専の長谷川恒治と共に、岡山県小田郡大江村西代地区(現:岡山県井原市高屋)の有病地水田において、イヌとネコを用いた実験を行い、京都帝国大学医学部教授の藤浪鑑は、金沢医専の中村八太郎および片山地方の開業医吉田龍蔵の協力の下、広島県深安郡川南村片山地区(現:広島県福山市神辺町片山)の有病地水田において、4グループに分けた17頭のウシを使った実験を行い、感染経路の論争決着に臨んだ。 藤浪は土屋と同じく経口感染説の支持派であり、今回の実験では乙、丁グループに感染が起こるはずで、経皮感染を想定した甲グループに感染が起きるはずがないと絶対的な自信を持っていた。ところが実験の結果は藤浪の予想に反したものだった。経皮感染を予防した丙、乙グループは全く感染しておらず、経口感染を予防した甲グループが全頭感染していたのである(どちらの感染も許した丁グループは、当然であるが感染していた)。同様に桂田の行った動物実験でも、経皮感染を示す結果であった。 また、京都帝国大学皮膚科の松浦有志太郎により、片山地方の水田から採取した水に自分の腕を浸すという自らの体を使った決死の感染実験が行われた。松浦も経口感染を信じていた研究者の一人であり、かつ皮膚科としての見識から経皮感染説には疑問を持っていた。松浦は有病地滞在中、飲食物は全て煮沸したものしか口にせず、皮膚にかぶれが起きるのか慎重に経過を見守ったが、2回に及ぶ自己感染実験では感染は成立しなかった。ところが3度目の自己感染実験で松浦はついに感染してしまう。 松浦は藤浪らの動物実験とほぼ同時期の1909年6月下旬、皮膚にかぶれが起こると農民から聞いた水田で、右足には何も付けず、左足にゴム製のゲートルを着用した状態で有病地水田を数時間歩くと、何も付けなかった右足側にのみ、足の甲から水に浸かっていた膝にかけて、かゆみを伴う赤い斑点が発症した。翌日にかぶれは引いたが、実験から約1ヵ月後、京都の研究室へ戻っていた松浦は体調の異変を感じ、まさかと思いつつ自ら検便を行うと自分の血便の中に日本住血吸虫の虫卵を確認し、その後しばらくの間、虫卵の排出が続いた。幸い10月に入ると松浦の体調は落ち着き、それ以上の病状悪化は進まなかったが、結果的に経皮感染の検証を裏付けるものであった。 3人の実験結果を知った他の医師や研究者はにわかには信じられず半信半疑であった。寄生虫が皮膚を介して感染するなど、当時の医学界の常識では考えられないことであった。経口感染を主張した土屋岩保も自説を曲げられず、桂田や藤浪と同様に65頭ものイヌをグループ分けした追実験を、1910年(明治43年)8月、西山梨郡甲運村(現:甲府市横根町)を流れる十郎川(地図)で行った。 経口感染を信じて疑わなかった土屋であったが、自らの主張とは正反対の藤浪や桂田の実験と同様の結果になり、経皮感染を認めざるを得ず、「地方病の感染は皮膚からである」と山梨県知事に報告し、学会内の意見も経皮感染に統一された。 農民たちが泥かぶれと呼んでいた皮膚のかぶれは、日本住血吸虫の幼生(次節で解説するセルカリア)が、終宿主である哺乳類の皮膚を食い破って侵入する際に起きる炎症であり、今日ではセルカリア皮膚炎 (Cercarial dermatitis)、ICD‐10 (B65.3)と呼ばれているものである。 ヒトへの感染ルートが飲食物経由ではなく、水を介した皮膚経由であることが判明したことは、その後の感染予防対策の困難さを予見させるものであった。経口感染であるなら飲食物の煮沸によってある程度は感染予防が可能であるが、肉眼で見る限り汚濁もなく清潔に見える、小川や水田(水系全般)などの自然水を介した経皮感染となれば簡単な話ではない。健康な皮膚であっても感染罹患する日本住血吸虫症の予防対策は困難なものであり、後述するように病気の撲滅には長い年月を要することになった。 ===中間宿主の研究=== 感染は皮膚からであることが明らかになった。しかし、土屋は別の新たな疑問に悩んでいた。それは人間や動物など終宿主の糞便から出た日本住血吸虫の卵は孵化した後、水中でどのように発育して幼虫となって人間や動物の皮膚に再び潜り込んで行くのかという謎であった。 土屋は便中の日本住血吸虫虫卵から孵化させた仔虫(ミラシジウムと呼ばれる)を泳がせた水に、ネコやネズミの足を30分ほど浸して感染するのか経過を見たが、10日を過ぎても1か月を過ぎてもネコやネズミの様子に変化は無く糞便中にも虫卵は見られなかった。孵化直後のミラシジウムには感染能力がないのかもしれないと考え、次に孵化6時間後のミラシジウムを浸してみたが今度も感染は起こらなかった。それどころか孵化後時間が経過するごとにミラシジウムは死んでいき、48時間以内には全て死滅していた。流れのある水中や太陽光のある屋外での検証、孵化後の経過時間を細かくずらすなど、さまざまな実験を繰り返したが結果は同じであった。このように、虫卵から孵化した直後の仔虫ミラシジウムはそのままでは哺乳動物に感染せず、2日以内に死滅することが判明した。 考え抜いた土屋は、「ミラシジウムは自然界にいる動植物の何らかを中間宿主としている。中間宿主の体内で人間の体へ感染するのに適した体へ成長するのだ」との結論に達する。 山梨県医師会会長喜多島豊三郎により1909年(明治42年)に設立された山梨地方病研究部の専任技師になっていた土屋は、1911年(明治44年)3月任期を終え東京帝国大学教授として迎えられ、後任者として東京帝国大学伝染病研究所から宮川米次が就任した。宮川は土屋の提唱した中間宿主の必要性に真っ先に賛同した人物でもあり、桂田や藤浪、三神らも中間宿主の存在に同調していた。 地方病研究部の専任技師となった宮川は早速新たな検証実験に着手する。実験の目的は哺乳動物に感染した直後の日本住血吸虫の幼虫(幼生)の形態がどのようなものであるのかを把握することだった。有病地の一つ中巨摩郡池田村(現:甲府市新田町)を流れる貢川(くがわ、地図)を実験地に選び、非流行地である東京から大量のウサギとイヌを運んできて実験地河川の水に浸した。後日、実験動物の股静脈から採血した血液の中に、ミラシジウムとは形態的に異なる幼虫を宮川は確認した。それは吸虫類において成虫になる1つ前の段階、寄生虫学用語でセルカリアと呼ばれているものだった。 この検証により、便中の虫卵から孵化した段階の幼生(ミラシジウム)と皮膚から感染する段階の幼生(セルカリア)とでは、形態、形状が異なることが判明し、日本住血吸虫が成虫に至る過程には中間宿主が必要であることが確定した。 ===ミヤイリガイ(宮入貝)の発見=== 中間宿主探しが始まった。北巨摩郡塩崎村(現:甲斐市双葉地区)出身で新潟医科大学の川村麟也をはじめ、複数の研究者により有病地に生息するさまざまな生物が採取され検証が繰り返された。1912年(明治45年)5月、山梨県医師会地方病研究部は、西山梨郡住吉村(現:甲府市住吉)に中間宿主研究用の試験池を設置し、続いて翌6月には、中巨摩郡西条村(現:中巨摩郡昭和町)の開業医杉浦健造の自宅兼診療所敷地内に感染試験に用いる試験田が設置され、杉浦による各種実験や考察が行われた。 杉浦は、地方病発症地の用水路に広く分布する巻貝カワニナが中間宿主ではないかと考えた。杉山なかの解剖に携わった吉岡順作もカワニナが中間宿主であろうと考え、土屋岩保に実験協力を仰いだ。両名はカワニナを入れた水槽の中でミラシジウムを孵化させるなどの実験を繰り返したが、立証には至らなかった。 日本住血吸虫の中間宿主が立証確定されたのは翌年の1913年(大正2年)夏のことである。九州帝国大学の宮入慶之助と助手の鈴木稔が、佐賀県三養基郡基里村酒井地区(現:鳥栖市酒井東町)で発見した、体長8ミリほどの淡水産巻貝での立証であった。 宮入と鈴木は酒井地区の住民から水に浸かると確実に感染することから、「有毒溝渠」と呼ばれ恐れられていた溝渠(用水路)で小さな巻貝を見つけ、同地の民家の1室を借り受け約1か月間にわたり泊まりつつ実証を重ねた。そして、虫卵から孵化させたミラシジウムが巻貝の体内に侵入し、母スポロシストから娘スポロシストへと巻貝の体内で変態、分裂を続け、最終的にセルカリアとなって巻貝の体内から水中に出てくることを確認し、経過記録とともに論文にまとめ上げた。 この結果は同年9月、当時の週刊医学雑誌である東京医事新誌(第1836号)に『日本住血吸虫の発育に関する追加』という論文名で報告され、同疾患に取り組む当時の医師や研究者たちを驚愕させた。 ここで問題だったのは、種の特定であった。この貝の正体が分からなければ、日本全国に分布するものなのか、あるいは日本住血吸虫症の発症地だけに生息するものなのかが分からない。複数の研究者、学者が論文に記載されたモノクロ写真を見てカワニナを疑い、宮入自身もカワニナの亜種ではないかと思いつつ、九州帝国大学理学部に同定を依頼した。その結果、カワニナであれば螺層(巻貝の螺旋の数)は4つでなければならないのに、問題の貝は螺層が7から9つであることから、各国の論文はもとより大英博物館が発行する世界の貝の最新分類表にも記載されていない、新種の貝であることが分かった。 この貝は Robson によって新属新種として Katayama nosophra と命名された。しかしそれ以前に記載されていた中国産の巻貝 Oncomelania hupensisが同じ属のものであることが後に判明し、Oncomelania nosophora に変更された。現在では O. hupensis の一亜種 O. hupensis nosophora と見なされることもある。 日本における和名は、備後国(現:広島県東部)の漢方医である藤井好直(ふじい こうちょく)が江戸時代後期の1847年(弘化4年)に当疾患の症状を書き記した『片山記』に敬意を表して、カタヤマガイと呼んではどうかと発見者である宮入は提案した。 また、翌年調査のため山梨県を訪れた宮入により、佐賀で発見されたものと同じ巻貝が甲府盆地の有病地域でも多数確認され、山梨の地方病関係者は宮入博士の功績を称えて、この貝をミヤイリガイ(宮入貝)と呼ぶようになり、カタヤマガイ・ミヤイリガイの2つの和名・通称が用いられるようになった。特に山梨県ではミヤイリガイの呼称が広く用いられるようになり、今日に至るまで使用され続けている。また、岡山県高屋川流域の有病地ではナナマキガイという方言で呼ばれていた。 中間宿主がミヤイリガイであると特定されたことの意義はきわめて大きかった。日本住血吸虫が成長過程において、ミヤイリガイ以外には寄生(中間宿主)できないのなら、もし仮にミヤイリガイを絶滅させることができれば日本住血吸虫の生活環を絶つことができるため、理論上この奇病の新たな発生もコントロールできるはずである。逆に考えれば、ミヤイリガイが生息しない地域には本疾患は存在しないことになる。長い間謎であったこの奇病が特定の地域にのみ流行する理由も同時に明らかになった。 またこの発見は、日本国外の寄生虫学者にも多大な影響を与えた。2年後の1915年(大正4年)にビルハルツ住血吸虫の中間宿主がモノアラガイの一種であることがエジプトで証明され、さらに同年にはマンソン住血吸虫の中間宿主がヒラマキガイ科の巻貝であることが判明するなど、ミヤイリガイの発見は、ヒトに感染する吸虫類の中間宿主の多くが淡水産巻き貝類を中心にする軟体動物であるという、現代の寄生虫学の礎となるものであり、世界の住血吸虫研究にとって大きな意味を持っていた。 ==病気撲滅期== ミヤイリガイの発見によって、長らく人々を悩ませていた地方病の原因、メカニズムは全て解明され、地方病撲滅への活動が始まった。比較的短期間に解明された病因に対し、病気の撲滅には非常に長い期間を要した。研究者、地域住民をはじめとする人々が一丸となって、治療法の開発、感染源対策、啓蒙活動、そしてミヤイリガイ撲滅活動など、さまざまな対策を試行錯誤しながら同時に進めていった。この節では各対策ごとに時系列を記述する。 ===治療薬と感染診断法の開発=== ====困難な治療==== 病原体(日本住血吸虫)の発見と感染経路の解明、そして中間宿主(ミヤイリガイ)の確定は、地方病の予防という観点から見れば非常に大きな成果であった。しかしその一方で、すでに罹患してしまった患者に対する治療は困難を極めた。日本住血吸虫は血管内に寄生するタイプの寄生虫であり、消化器官に寄生するギョウチュウなどの寄生虫を体外に排出するだけの虫下しでは駆除することはできないためである。 研究者たちは、血管内部の寄生虫を駆除するためのさまざまな研究を始めた。東京帝大伝染病研究所へ戻っていた宮川米次は、1918年(大正7年)から1923年(大正12年)頃にかけて、製薬会社萬有製薬との共同研究により酒石酸アンチモンなどの化合による駆虫薬、スチブナール (Stibnal:sodium‐antimony‐tartrate) を開発し、宮川、土屋両氏の勧めもあって、山梨の三神三朗に治療実験の依頼がされた。 三神による300人以上の患者を対象にした臨床試験の結果、門脈内に寄生した日本住血吸虫の卵巣機能を破壊し、卵を産めなくさせることによって、罹病者の便から虫卵を消失させる効果が実証され1923年(大正12年)12月に実用化された。しかしこの治療は、技術的に難しい20数回もの静脈注射を必要とする困難な治療であった。その上、半金属系であるアンチモンによる副作用として、体中の関節の激しい痛み、悪心、嘔吐が起きるなど、患者の肉体的負担も大きかった。 約半世紀後の1970年代にドイツの製薬メーカーバイエルが副作用を低減した飲み薬である錠剤の新薬プラジカンテルを開発するまで、スチブナールは唯一の地方病治療薬であった。しかし、スチブナールもプラジカンテルも、体内の日本住血吸虫を殺傷するための薬であり、すでに罹患者の臓器に蓄積されてしまった卵殻を除去するものではない。すなわち地方病の治療は対症療法止まりで、完治させるものにはなり得なかった。 ===診断精度向上の努力=== 経皮感染によって体内に侵入したセルカリアは、成虫(日本住血吸虫)に成長するまでは卵を産むことはなく、罹患者に自覚症状がない場合も多い。よって大部分の患者は血便や腹水がたまるなど症状が悪化してから医療機関へ出向くことが多かった。早い段階で発見できなければ治療はより難しくなる。新薬であるスチブナールも、理想をいえば卵を産めない性成熟する前の段階で使用してこそ効果が大きいのである。それが難しくても、できるだけ虫卵の蓄積が少ないうちに治療を開始することが肝要であり、感染の早期発見、すなわち早期診断が重要であった。当初、地方病の感染検査も他の寄生虫病と同様、糞便検査によって診断が行われていたが、日本住血吸虫の寄生場所は血管である門脈内であり、腸管近くへ現れる頻度が極端に少なかったことから、少量の糞便を直接ガラス板に塗り、顕微鏡で観察して虫卵の有無を判定する従来からの直接塗抹法では検出感度が低く、感染を見逃してしまうことも多かった。 山梨県の地方病研究所では第二次大戦後、後述するアメリカ軍の研究部隊が提唱し共同開発した皮内反応(寄生虫本体から作った抗原を用いた検査法)による検査法を導入し、各種の集卵法やミラシジウム孵化法(ツベルクリン反応に代表される抗原抗体反応を用いた診断法)が研究され、MIFC(merthiolate iodine formalbehyde concentration = 遠心沈殿法)による検査法を確立した。これにより虫卵検出率は格段に改善された。甲府盆地で行われた住民糞便検査において、直接塗抹法で調べた時に0.1%であったのが、MIFC法では2.7%と検出精度が向上した。また、AMSIII(硫酸ソーダ・塩酸・トライトン・エーテル法)も検出感度が高いことが分かり、あらかじめ被検集団に対して皮内反応を行うことによって検便検査対象者のスクリーニングが可能となった。こうして寄生虫体成分を抗原とする皮内反応という画期的な検査法による集団検診が行われ、地方病感染者の早期発見、早期治療への福音となった。 ===罹患者数の推移=== 1910年(明治43年)から翌年にかけ、山梨県医師会が主体となって健康診断および臨床検査が行われ、甲府盆地全体における地方病の発生状況、罹患者の実数が初めて統計的、医学的に調査された。この健康診断は主に肝臓、脾臓の肥大、腹水の有無など臨床症状に主眼点をおいたもので、調査対象は甲府盆地の有病地と想定された45市町村の住民総計69,157名である。そのうち明らかに地方病罹患者と診断された患者数は7,884名で、平均罹患率は11.4%であった。 1911年(明治44年)の甲府盆地における郡部別日本住血吸虫症検診成績表を下記に示すが、患者数(総合計)と肝臓、脾臓肥大・腹水患者の人員合計数が一致しないのは、肝臓、脾臓肥大患者中に日本住血吸虫症とは確実に診断できないものが含まれているためである。 初めて行われたこの調査により、罹患率の高い地域に偏りがあることも分かった。罹患率が異常に高かったのは、竜地、団子へ嫁に行くなら…、と歌われた登美村(とみむら)の55%という驚異的な数値をはじめ、中の割に嫁へ行くなら…、と歌われた旭村の35%、および大草村の34%、嫁にはいやよ野牛島は…、と歌われた御影村(みかげむら)の40%など、古くから人々の間で歌われていた特定の地域での流行を実証するものであった。また、塩山、勝沼(現:甲州市)など甲府盆地の最東部では病気が一切なく、春日居、石和へと盆地を西へ向かうにつれ徐々に病気が現れ、甲府を過ぎた甲府盆地中央部の西側から一気に罹患率が上がり、特に韮崎から下流の釜無川両岸地域の罹患率が高いことも改めて実証された。この甲府盆地内での西高東低ともいえる有病地の偏りは流行末期まで続いた。その後も住民の感染調査、診断は定期的に行われ、当初は虫卵検査により、昭和30年代中盤からは皮内反応検査によって行われた。 以下に流行末期20年間にわたる市町村別患者数を示すが、これは山梨県内の各医療機関において地方病と診断された各年度ごとの患者実数で、新規感染者の数ではない。また、昭和30年代以降の流行末期には腹水がたまる等の重症患者はまれになり、同40年代になると罹患者に感染したセルカリア匹数も少数になり、便中に虫卵を見つけることが困難になったため、より精密な皮内検査等によって罹患者の確認が行われた。1973年(昭和48年)から患者数が一旦増加しているのはそのためである。 ===感染防止への啓蒙=== ====俺は地方病博士だ==== 地方病は、ミヤイリガイの生息する河川や水路などで直接水に触れることによってセルカリアに感染し罹患する。よって、水田耕作に従事する農民は感染の危険性が常時付きまとっていることになる。しかし、仕事ではない不要不急な子供たちの川遊びなどによる感染は、正しく指導することで防ぐことが可能なため、子供たちへの啓蒙対策が急務となった。小さい頃に罹患すればその後の成長に大きな影響を与えるため、細心の注意が必要であると、自ら小学校2校の校医を務めるようになっていた三神三朗も山梨地方病研究部に申し入れた。 しかし、中間宿主を経て変態する日本住血吸虫のライフサイクルを子供たちに理解させることは容易ではなかった。複雑な感染メカニズムを文字や文章のみで理解することは難しいため、子供たちにも理解しやすい周知方法を検討・模索した山梨地方病研究部は1917年(大正6年)、『俺は地方病博士だ(日本住血吸虫病の話)』と題した、当時としては画期的なイラストを多用した全16ページに及ぶ多色刷りの予防冊子を2万部作成し、有病地の小学生に無償で配布した。ミヤイリガイの発見により日本住血吸虫の生態が解明されてから僅か3年半後であったことを考えても、当時の関係者が児童への感染防止をいかに重視していたのかが分かる。 冊子の内容は、地方病が水中の病原虫(セルカリア)を介して皮膚から感染する病気であること、この病原虫がミヤイリガイという小さな巻貝に潜んでいるため、川で遊ぶのは非常に危険であることを、子供にも理解できるように分かりやすく解説したものであった。また、小学生の興味を引くために3人の登場人物を配しストーリー性を持たせた、絵本のような内容であった。地方病研究部は各校校長以下、全教員に授業で読み聞かせるように義務付け、感想文などを書かせる指導を行い啓蒙に努めた。 特にセルカリアの活動が活発になる夏場の河川での水泳は厳しく禁止されたが、大正時代の郊外有病地の一般家庭では風呂はおろか上水道すらないのが当たり前であり、日本有数の酷暑地帯である甲府盆地の夏季では、子供たちの河川での行水を完全に制限することは難しかった。このため、有病地の小中学校のプール設置が県の補助事業として優先的に進められるなど、引き続き子供たちへの感染防止の徹底が図られた。 ===感染源対策=== 日本住血吸虫の中間宿主はミヤイリガイ唯一固種であるが、最終的な終宿主はヒトを含む哺乳類全般である。終宿主の糞便に含まれる虫卵から孵化した幼虫(ミラシジウム)が水中のミヤイリガイに接触することにより感染源となる。 したがって、堆肥として使用していたヒトの糞便の場合、一定期間貯留し虫卵を腐熟させ殺滅させることが感染源を絶つ有効な手段であったため、糞便を貯留するための改良型便所の設置が奨励された。山梨県では1929年(昭和4年)より改良型便所の設置に助成費を出し、1943年(昭和18年)には普及徹底を呼び掛けるなど、ヒトの糞便からの感染対策は一定の効果を上げた。しかし、家畜や野良犬、野良猫など動物の糞便を特定の場所に貯留することなどできるはずがない。苦肉の策として1942年(昭和17年)より山梨県知事となった多湖實夫により、農耕で使うウシやウマにおむつを履かせるという試みが行われた。多湖知事の熱意により考案されたおむつは、官名糞受袋と名付けられた布製のものであったが、効果はほとんどなかった。 このように、排泄場所をコントロールできない保虫動物に対する対策は困難なもので、1933年(昭和8年)にウシ、ウマ、ヤギなどの家畜動物の糞便検査と健康管理が寄生虫病予防法細則により義務付けられ、農耕で使う家畜を感染率の高いウシから感染感受性の低いウマへと変えることが積極的に行われた。同時に、田畑での家畜の糞便はできる限り収集して肥溜めに集めるようにした。また、野糞は厳禁とされ、特に子供たちに遵守するよう学校で指導させた。 1943年(昭和18年)11月3日には、家畜への感染を究明するために、東京高等獣医学校(後の東京獣医畜産大学)の調査団が西山梨郡山城村(現:甲府市上今井町)に本部を設置し調査を始めた。また、ノネズミなどの野生動物は計画的に捕殺され、イヌやネコなどの愛玩動物の管理監視体制が強化された。 農民への感染防止策として、農作業時にはできるだけ脚絆、腕袋の着用を行うよう指導し、セルカリアとの接触を極力回避する努力も試みられた。 ===郷土医杉浦健造と三郎父子=== 中巨摩郡西条村(現:中巨摩郡昭和町)の杉浦健造医師、健造の娘婿である三郎の父子医師は、代々同村で開業医として地方病患者の治療に当たってきた郷土医である。2人は献身的な治療を行うと同時に、この疾患に対する予防の知識を通じた啓蒙活動を住民に行い続けた。 しかし、一向に減らない地方病に感染防止の難しさを感じ、この奇病を根本的に根絶するには中間宿主であるミヤイリガイの撲滅しかないと考え、ミヤイリガイの天敵であるホタルの幼虫を増やすための餌となるカワニナや、捕食動物としてのアヒルなどを飼育する施設を自宅を兼ねた医院敷地内に作り、また共に闘う他の医師たちへ金銭的な援助を行うなど、私財を投じてミヤイリガイ撲滅への活動を始めた。 やがてそれは官民一体による地方病撲滅運動に発展し、1925年(大正14年)に『山梨地方病撲滅期成組合』が結成され、終息宣言を迎える71年後までの長期間にわたり山梨県民一丸となって進められた。 1933年(昭和8年)に健造が亡くなると、その遺志は娘婿である三郎によって引き継がれ、1947年(昭和22年)10月14日から2日間の日程で山梨県を行幸した昭和天皇の地方病有病地視察は三郎が案内を務めた。中巨摩郡玉幡村(地図、現:甲斐市)で視察は行われ、当時の甲府盆地における地方病の状況説明、顕微鏡を使った虫卵やセルカリアの観察、ミヤイリガイの生息状況の観察などが行われた。 その後も三郎は、水田作業従事者に対する経皮感染を予防低減するための塗り薬を製薬会社と共同開発したり、後述する住血吸虫感染調査のために甲府盆地を訪れたアメリカ進駐軍関係者らと意見交換等を行った。さらに1949年(昭和24年)に創設された「山梨県立医学研究所」(後の山梨県衛生環境研究所)の初代地方病部長に就任し、行政、医療関係等、各方面との調整役を務めるなど、戦後の地方病撲滅運動において大きな役割を果たした。 杉浦三郎は1977年(昭和52年)10月16日に亡くなり、杉浦醫院は閉院された。杉浦三郎は往診に出向いた外出先で倒れそのまま他界したため、後継者のいなかった同医院は、内装、各種薬品、器具等が往診に出掛けたそのままの状態で保管され続けた。2010年(平成22年)に杉浦家の土地・建物は昭和町により購入され、同家より全ての収蔵品の寄贈を受けた。昭和町では、地方病の研究・治療に生涯をかけた健造、三郎両医師の業績、病気に立ち向かった先人達の足跡を後世に伝承していくために建物を整備し、『昭和町 風土伝承館杉浦醫院』(地図)として同年11月16日に設立公開した。 杉浦三郎だけでなく、この病気の解明や治療に取り組んできた他の郷土医や研究者は、地方病終息を見届けることなく太平洋戦争終戦の前後に相次いで亡くなっている。1944年(昭和19年)9月3日に吉岡順作が亡くなり(享年81)、1946年(昭和21年)4月5日に桂田富士郎(享年79)が、奇しくも翌日の4月6日に宮入慶之助(享年81)がこの世を去った。 三神三朗は晩年、自身の生涯にわたる研究の出発点となった、甲府市向町の盛岩寺にある杉山なかの墓参に足繁く通い、なかの墓前に無言のまま長時間頭を下げていたという。また、一生現役郷土開業医を貫き、亡くなる1週間前まで地方病患者の手を握り脈拍を確かめていた。意識のなくなる直前に長女礼子に紙と筆を用意させると、床の中から仰向けのまま、「川中で 手を洗いけり 月澄みぬ」と、辞世の句を記した。川で手を洗うという、ほかの場所であれば当たり前の何気ない日常を、命尽きる最期の瞬間まで夢見た三神三朗は、地方病のない甲府盆地の未来を後進に託し、1957年(昭和32年)3月13日、85歳でこの世を去った。 ===ミヤイリガイ撲滅への挑戦=== ====有病地の指定と解除==== 日本住血吸虫の中間宿主がミヤイリガイであると解明されたことにより、ミヤイリガイの生息エリアが、そのまま地方病の流行エリアと完全に一致することが分かった。したがって、ミヤイリガイが生息する場所とは地方病の流行地、すなわち有病地ということになる。 山梨県では、1933年(昭和8年)9月25日告示の「寄生虫予防法施行細則第2条ニ依ル日本住血吸虫病ノ有病地域指定」により、甲府盆地の10,023ヘクタールが地方病有病地として初めて公に指定された。しかしその後の調査により、2年後の1935年(昭和10年)には19,635.5ヘクタールというより広い範囲が有病地に指定された。 当初はミヤイリガイが多く生息していた水田のみが指定されたのではないかと推察されているが、いずれにしても対策以前には20,000ヘクタール近い有病地が存在していた。しかし、後述するミヤイリガイ撲滅事業により有病地指定面積は徐々に減少し、1960年・1961年・1974年の3回にわたり有病地の指定は順次解除され、1977年(昭和52年)には11,764.1ヘクタールと、当初の指定面積の約半分まで減少した。 最終的に1994年(平成6年)4月18日の山梨県告示第263号をもって、有病地の指定はすべて解除されている。 右に示す地図は1970年代の甲府盆地におけるミヤイリガイ生息地(有病地)の略図で、ミヤイリガイ生息密度を3段階で表している。 希薄地(黄色)、1平方メートルあたりのミヤイリガイ生息19匹以下中間地(橙色)、1平方メートルあたりのミヤイリガイ生息20匹から30匹未満濃厚地(赤色)、1平方メートルあたりのミヤイリガイ生息30匹以上この地図からも分かるように、地方病は甲府盆地の西側で猛威を振るっていた。盆地東部の笛吹川沿岸から甲府市中心部を南北に流れる荒川 (山梨県)に挟まれたエリア(現・笛吹市から甲府市東部)が最も生息密度は低く、荒川の右岸エリア(西側)から生息密度が高くなり、盆地最西部の釜無川両岸一帯が最も生息密度の高いエリアであった。 大正期には、甲府盆地各地の有病地水田において、少ない所でも1平方メートルあたり100匹は採取でき、ひどい場所になるとミヤイリガイが何層にも重なり、竹ぼうきで掃いてちりとりに集められるほどであった。また、ミヤイリガイは日当たりの悪い草屋根の上にまで登り生息し、最もひどい地域になると炊事場の窓枠にまでびっしりとミヤイリガイが群がっていたという。このようにミヤイリガイは水陸両生かつ行動範囲が広く、水中だけに生息するとは限らなかった。つまり、水中でミラシジウムに感染したミヤイリガイが、陸上に上がった際に露などの水滴に触れれば、その水滴中にセルカリアが泳ぎ出すこともあり得たのである。 大正末期から昭和初期にかけ、新たな言葉、ことわざが再び甲府盆地の人々の口から出始めた。 朝露踏んでも 地方病ミヤイリガイの生息濃厚地域では、草むらを素足で歩いただけで感染してしまう恐ろしさに、農民はなすすべもなかった。 ===地域住民の殺貝活動=== ミヤイリガイが中間宿主であると解明されてから、「地方病の撲滅はすなわちミヤイリガイの撲滅である」と、人々の間で共通認識となり意識されるようになっていった。 ミヤイリガイ発見の翌年1914年(大正3年)には早くも土屋岩保により、中巨摩郡国母村小河原(現:甲府市上小河原町、地図)の溝渠で硫酸を使った殺貝(さつばい)実験が行われ、土に埋める埋没法や火力による殺貝などが実験されたが、労力や経費に見合った効果のある決定的な殺貝方法はなかなか見つけられなかった。 そんな中、地域住民によるミヤイリガイの拾い集めが始まった。「ミヤイリガイをなくせば地方病はなくなる」と聞いた農民が、自発的に行動を始めたのである。それは、女性や幼い子供たちをも動員し、箸を使って米粒ほどの小さなミヤイリガイを1匹ずつ御椀に集めていくという、気の遠くなるような涙ぐましいものであった。農民たちへの努力に応えるべく、県により採取量1合に対し50銭が給付され、1合を増すごとに10銭の奨励金が交付された。 この活動は1917年(大正6年)から8年間にわたって実施され、8年間で「38石5斗8升0合7勺」(米俵にすると約96俵分)ものミヤイリガイが採取されたが、ミヤイリガイは繁殖力が強く、1か所だけで目に見えるミヤイリガイを駆除しても、それは文字通り焼け石に水であり、さらなる有効な撲滅法の出現が待望された。たとえ1匹でもミヤイリガイが残っていれば、感染を絶つことはできない。1匹から4匹のミラシジウムがミヤイリガイに侵入して変態分裂を続け、わずか1匹のミヤイリガイから最終的に数千匹ものセルカリアが生まれるのである。 ミヤイリガイ殺貝に新たな動きが起きたのは、内務官僚出身の本間利雄が山梨県知事に就任した1924年(大正13年)であった。本間の前任地は広島県で、前職は広島県警察部の部長であったが、それ以前にも広島県職員の一人として、深安郡川南村片山地区の有病地(片山有病地)におけるミヤイリガイ撲滅事業に関わっており、現地で行われた石灰散布による殺貝効果を熟知していた。 石灰を利用した殺貝方法は、経皮感染の解明者でもあり、広島における日本住血吸虫症研究の第一人者になっていた京都帝国大学の藤浪鑑によって考案された。藤浪は大学の研究室でミヤイリガイを飼育し、さまざまな薬剤の検討を行った結果、生石灰が条件を満たす殺貝剤になると判断した。 生石灰(酸化カルシウム)は水によく溶ける粉末の物質である。有病地の水の量を100とした場合、生石灰を1から2の割合、すなわち1 ‐ 2%にすれば、生石灰がミヤイリガイの体表面を覆って貝の体内に入り込み、神経系統を麻痺させ呼吸困難に陥らせることによって、24時間以内に90%以上のミヤイリガイを殺せることが分かった。しかも石灰は日本国内で産出、精製、製造されており、他の薬剤等と比較して価格的にも安価であった。 片山有病地では、1918年(大正7年)から4年間にわたり生石灰合計1995トンを使用した殺貝活動が行われ、片山有病地ではミヤイリガイの姿がほとんど見られなくなるという目覚しい効果を得た。その経験から、本間は山梨での石灰散布に意欲を見せ、藤浪鑑を甲府へ呼び寄せると、山梨県内の研究者と共に石灰散布の可能性を探ったが、広島と山梨での大きな違いは有病地の面積であった。 甲府盆地の有病地面積は片山有病地の面積の16倍強である。石灰散布作業が並大抵ではないことは、広大な甲府盆地の有病地を目の当たりにした藤浪自身も「尋常なことではない」と痛感していた。 しかし、それでも行動を始めなければ何も変わらないと、山梨県では1925年(大正14年)に生石灰の散布が決定され、前述したように同年2月10日に『山梨地方病予防撲滅期成会』が組織され発足した。1924年(大正13年)から1928年(昭和3年)にわたる5年間の地方病撲滅対策費用166,379円のうち、約8割に当たる131,943円が寄附金であったことからも、住民の地方病撲滅への願いの強さが分かる。 こうして行政と地域住民によるミヤイリガイ撲滅活動は終息宣言が出されるまで70年以上継続されていくことになり、生石灰から石灰窒素の散布へ、アセチレンバーナーによる生息域への火炎放射、アヒルなど天敵を使った捕食、後述する PCP による殺貝、用水路のコンクリート化など、あらゆる手段を駆使してミヤイリガイ撲滅、地方病の根絶という最終目標に向け、親から子へ、子から孫へと世代を越え引き継がれていった。 ===殺貝剤PCPの開発=== 太平洋戦争末期の1944年(昭和19年)10月から翌年4月にかけて、フィリピン中部のヴィサヤ諸島にあるレイテ島パロ地区 (Palo) で約1,700名ものアメリカ軍兵士に高熱や下痢が集団で発症した。当初マラリアを疑った米軍軍医は糞便検査の末、兵士らが罹患した病気の正体が日本で発見された日本住血吸虫症であることを突き止めた。当時のアメリカにおける保健衛生体制は知識、予算の面で世界最先端のものであり、事前の感染症対策を用意周到徹底していると自負していたアメリカにとってレイテ島での日本住血吸虫症感染は不覚であった。 このフィリピンでの経験によりアメリカは甲府盆地で流行する地方病に大きな関心を持ち、日本占領下の1947年(昭和22年)10月、米軍熱帯病委員会委員であるジョージ・ハンター (George W Hanter) 博士を中心にした GHQ による衛生部隊を山梨県に投入し、甲府駅構内に客車を改造した臨時の研究所を作り、山梨県内の研究者と共に地方病の調査研究を行った。その際、山梨県が1917年(大正6年)に作成した『俺は地方病博士だ』を見た米軍医療関係者は、その出来栄えと啓蒙を含めた内容の分かりやすさに感嘆していたという。 同研究所はキャンプ座間(神奈川県座間市)内に米軍が設けた米陸軍第406総合医学研究所(略称 406MGL)の出先機関であり、甲府駅構内の研究施設では殺貝に使用するための薬品テストが行われた。米軍が持ち込んださまざまな薬品の中から有機塩素化合物であるサントブライト(ペンタクロロフェノール)に有効な殺貝効果があったことから、同一成分で日本国内で精製することが可能な、殺傷効果の高い殺貝剤、ペンタクロロフェノールナトリウム(略称Na‐PCP、日化辞番号:J809E)の開発に成功する。同研究所では患者の治療も同時に行われ、住民から『寄生虫列車』、『病院列車』などと呼ばれ山梨県民に親しまれ、同研究所での日米共同研究はその後9年間続いた。 PCP による殺貝は主に農民を主体とする地域住民により人海戦術で行われ一定の効果を上げたが、1965年(昭和40年)10月に、中巨摩郡昭和町の養殖池に薬剤が流入し、観賞用のニシキゴイ7000匹が死ぬ事故が起きるなど、川魚や農作物への有害性が問題になった。 環境への配慮から毒性を弱めた殺貝剤として、当時東北地方で「殺ユリミミズ剤」として使用されていたユリミン (BAB、日化辞番号:J3.051A、3,5‐Dibromo‐4‐hydroxy‐4’‐nitroazobenzene) を粒状に改良したものが、1968年(昭和43年)から PCP にとって変わり実用化された。ところが実用化直後にユリミン製造メーカーの原料不足により製造中止を余儀なくされてしまう。山梨県衛生公害研究所の梶原徳昭、薬袋(みない)勝らが中心となり、PCP、ユリミンに代わる殺貝剤の調査検討が行われ、1976年(昭和51年)からはフェブロールジクロロ・ブロモフェノール・ナトリウム塩 (phebrol:Sodium2‐5dichloro‐4‐bromophenol)、通称 B2 が使用されるようになった。 1960年(昭和35年)から1987年(昭和62年)までの27年間に、Na‐PCP 328トン、ユリミン 175トン、B2(粒剤)87トン、B2(液剤)87キロリットルが、殺貝剤として甲府盆地のミヤイリガイ生息地(有病地)に散布された。 ===甲府盆地の水路のコンクリート化=== 1936年(昭和11年)、甲府盆地のミヤイリガイ生態観察を行った生物学者の岩田正俊は、ミヤイリガイが水田や水路周辺などの流れの緩やかな場所に生息する特性から、用水路をコンクリート化し直線化することによって流速を早め、生息しにくい環境を作ることの有効性を唱えたが、昭和初期当時のセメントは高価なものであり、甲府盆地の全ての用水路をコンクリートで覆うという提案はコストの面から実現するのが困難な提案であった。 しかし、宮入慶之助の門下である九州大学の岡部浩洋と岩田繁男が、筑後川流域の同疾患流行地である佐賀県旭村でミヤイリガイの産卵孵化実験を行い、コンクリート用水路での産卵孵化率が極端に低いことなどが確認され、溝渠のコンクリート化が目覚ましい効果を発揮することが実証された。 また、国立予防衛生研究所の当時の寄生虫部長であった小宮義孝による各機関への積極的なコンクリート化への提唱、働きかけなどにより、山梨県では県職員の佐々木孝を中心に用水路のコンクリート化が、中巨摩郡飯野村(現:南アルプス市飯野)で1948年(昭和23年)から試験的に始まった。 最初のコンクリート化はわずか814メートルの試験的なものであったが、翌1949年(昭和24年)8月に効果を調べると、コンクリート化しても一定の流れがなければ、土砂や枯葉が堆積してミヤイリガイが生息し繁殖してしまうことが確認され、コンクリート化試験報告書には、施工後も溝渠の清掃等、定期的なメンテナンスが必要であると報告されている。 しかしながら、コンクリート化された溝渠(一定の流量と流速のある)がミヤイリガイの生息に適さないことも明らかであった。 用水路のコンクリート化による利点として考えられたのは、 コンクリートで固めることによって、それまで生息していたミヤイリガイを埋没することができる。コンクリート化することによって、流速が毎秒2尺(約61センチ)あれば、産卵された卵が水草などに固定されず流されて貝の繁殖が不可能となる。仮にコンクリート水路で生息しても、発見が容易になり的確に消毒殺貝できる。などである。 また、1950年(昭和25年)に実験現場で行われた実地検分により、コンクリート化された用水路の水流が流速1メートル以上あればミヤイリガイが100%流出することが判明し、厚生省を通じて寄生虫病予防法に「溝渠のコンクリート化条文」が盛り込まれ、県の予算を超えた国庫補助によるコンクリート化事業が1956年(昭和31年)より本格的に開始された。 なお、当時行政区域外であったため工事ができず、コンクリート化工事のネックとなっていた国鉄用地内(中央本線および身延線)溝渠のコンクリート化の実現は、運輸政務次官を経験し、後に第9代自由民主党副総裁となる、旧白根町(現:南アルプス市下今諏訪)出身の金丸信が、縦割り行政の垣根を越えた各方面へ働きかけた政治力の結果である。 こうして、甲府盆地を網の目状に流れる水路は大小問わず全てコンクリートで塗り固められた。コンクリート化に投入された予算は1979年(昭和54年)の段階で70億円に及び、1985年(昭和60年)には累計総額100億円を突破する、莫大な費用を注ぎ込んだ事業であった。 なお、撲滅事業が終了した1996年(平成8年)の時点で、地方病対策のためにコンクリート化された甲府盆地の用水路の総延長は、北海道函館市から沖縄県那覇市間の直線距離に相当する、2,109キロメートル(2,109,716メートル)に達している。 ==終息宣言== ===新規感染者の減少=== 水路のコンクリート化と同時進行で行われた地域住民による地道な殺貝、消毒などの取り組みによる効果は、新規感染患者の減少という目に見えた形で現れた。 ===流行末期の甲府盆地における日本住血吸虫卵陽性率とミヤイリガイ感染率の推移=== 山梨県日本住血吸虫流行地における検査成績 ‐ 国立感染症研究所感染症情報センターIASRデータから引用一部改変(1961年‐1980年)。注:1992年までの検査データがあるが、1981年以降の感染率は、被験者・ミヤイリガイ、いずれも全て0%で推移しているのでここでは省略する。 ===感染者減少の複合要因=== 保卵者数は最盛期であった1944年(昭和19年)の6,590人をピークに減少に転じ、1960年代から70年代初頭にかけ急激に減少した。これにはコンクリート化と新薬による殺貝だけでなく、いくつかの複合的な要因が考えられている。 ただしそれらの要因は、地方病対策だけのために意図的に行われたものではない。高度経済成長期における日本のさまざまな生活環境の激変や都市化が殺貝剤散布や水路のコンクリート化などと相乗効果となり、結果として日本住血吸虫の撲滅へ寄与したと考えられている。 第1の要因として、戦後の甲府盆地における産業転換に伴う土地利用の変化が挙げられる。古くから稲作が中心であった甲府盆地中西部の農業形態は、モモやサクランボ、ブドウなどの果樹栽培へ転換され、長期間にわたって水を張った状態を必要とする水田が減り、ミヤイリガイの生息地を結果的に狭め追いやった。これは有病地の特に釜無川右岸地域一帯と甲府市東部から旧石和町南部にかけての一帯で顕著であった。甲府盆地中央部においても高度経済成長に伴う宅地開発(県営玉川団地(地図)、甲府リバーサイドタウン(地図)等)や、大規模な工業団地(国母工業団地(地図)、釜無工業団地(地図)等)の造成により次々に水田は姿を消していった。第2の要因として、農耕の機械化が挙げられる。水田が減ったことに加えて機械化が進んだことにより、農作業用の家畜はほとんど姿を消し、ウシなどの感染家畜の糞便に含まれる虫卵が激減した。肥料に関しても、堆肥などの自給肥料から化学肥料などのいわゆる金肥に転換され、虫卵が感染源となることが物理的に回避されるようになった。第3の要因として、一般家庭で使用されていた合成洗剤の排水によるセルカリアへの殺傷効果が挙げられる。昭和40年代当時はまだ合成洗剤の規制や制限が行政から指導されておらず、また下水道の普及も遅れていた甲府盆地では、合成洗剤を含んだ排水はいわば垂れ流し状態であった。本来であれば非難される垂れ流しも、こと日本住血吸虫に対しては怪我の功名ともいえる。実際に、久留米大学教授の塘普(つつみひろし)が1982年(昭和57年)に行った実験によると、一般家庭で使われる濃度0.14‐0.25%の合成洗剤溶液にセルカリアを投じると5分以内に全て死滅し、さらに溶液を100倍に薄め同様に試しても、セルカリアは24時間以内に全て死滅することが実証されている。 ===土地利用・農業形態の転換=== これらの中で、果樹栽培への転換は甲府盆地の農業形態を大きく変え、今日見られるような果樹園が広がる甲府盆地特有の景観を決定付けた。 山梨県では1952年(昭和27年)に、当時需要が高まっていた養蚕の拡大化を図り、山間地の棚田を中心に水田を桑畑に変えていき、最盛期には4万戸もの農家が養蚕業を営むようになった。しかし、直後の1958年(昭和33年)には生産過剰となり繭の価格は下落の一途をたどることとなる。 この対応策として山梨県は、米や養蚕に変わる新たな県のブランドとしての農作物を検討した結果、ブドウやモモなどの果樹栽培に意見が集約された。甲府盆地は大消費地の京浜地区に近接し、国道20号の新笹子トンネル開通などにより、輸送手段も格段に向上し始めていた。もともと甲府盆地の寒暖の差がある気候条件は、盆地東部の勝沼地区周辺で江戸時代から栽培されていた甲州ブドウに代表されるように果樹栽培に適した気候であった。地方病撲滅協力会と地方病撲滅対策促進委員会も水田から果樹園への転換推進を後押しした。 この果樹栽培転換は甲府盆地全体の農民に強い影響を与えた。先祖代々稲作を続けてきた土地ではあったが、同じく先祖代々苦しめられてきた地方病と決別するためなら反対する者などいなかった。1960年(昭和35年)の甲府盆地における果樹生産額は当時の価格で49億5千万円、これは山梨県全体の農業生産額の20%であり、全国水準の6.3%を大きく上回っていた。その後も甲府盆地の土地利用転換は加速度的に進み、ワイン製造やブドウ狩りなどの観光地化が進んでいった。やがて新規感染者と考えられる低年齢者の保卵者数の割合が低下し、1966年(昭和41年)以降の調査では保卵者の大部分が35歳以上で占められるようになった。 ===115年目の終息宣言=== 甲府盆地では、1978年(昭和53年)に韮崎市内で発生した1名の急性日本住血吸虫症感染の確認を最後に、これ以降の新たな感染者の発生は確認されなくなった。ミヤイリガイも撲滅こそされていないものの、セルカリアに感染・寄生された個体は同時期以降には発見されなくなり、ヒト以外の哺乳動物の感染も1983年(昭和58年)のノネズミでの感染確認を最後に発見されなくなった。 1985年(昭和60年)には、虫卵抗原に対する抗体陽性者(皮内反応検査)の平均年齢が60.6歳に達するなど、保卵者数の低下および抗体陽性者の年齢構成の高齢化から、甲府盆地における日本住血吸虫症(地方病)の流行は、1980年代前半頃に終息したものと今日では考えられている。その後の1990年(平成2年)から3年間に及ぶ、甲府盆地の小中高生児童生徒4,249名を対象にした ELISA (Enzyme‐Linked Immuno Sorbent Assay) 検査法による集団検診でも、感染者は一人もおらず全員陰性であった。 こうした経緯を経て、山梨県知事の諮問機関である山梨地方病撲滅対策促進委員会(刑部源太郎会長)は、「新たな感染による地方病患者が1978年以降発生していない」こと、「感染したミヤイリガイが1977年以降発見確認されていない」ことなどを根拠に、1995年(平成7年)11月15日、「山梨地方病の流行は終息し安全である」旨の中間報告書を同県知事に提出し、翌年2月13日の山梨県議会において、「ミヤイリガイは依然生息するものの、再流行の原因となる可能性はほとんどない」、と答申・議決され、当時の山梨県知事天野建は地方病終息宣言を行った。 宣言 先般、山梨県地方病撲滅対策促進委員会から「本県における地方病は、現時点では既に流行は終息しており安全と考えられる。」との答申をいただいたことを受け、 ここに本県における地方病(日本住血吸虫病)の流行が終息したことを宣言いたします。 ― 平成八年二月十九日 山梨県知事 天野 建 1881年(明治14年)8月27日の旧春日居村からの嘆願に始まった地方病問題は、1996年(平成8年)2月19日、実に115年目にして終息を迎えた。 ただし、これは日本住血吸虫の撲滅であって、中間宿主であるミヤイリガイが山梨県内で完全に撲滅されたわけではない。可能性は低いものの、中間宿主であるミヤイリガイが存在する限り起こり得る、輸入ペットや外国人保卵者など輸入感染による再流行(再興感染症)の危険性も指摘されている。山梨県では2010年現在もミヤイリガイの生息調査や監視活動が、住民や行政から受託した民間企業などによって定期的に行われている。さらには小中高生を対象とした地方病の集団検診も引き続き行われている。また、終息宣言の1996年からは、山梨県衛生公害研究所により、甲府盆地西部に残ったミヤイリガイ生息地において GPS による定点観測が行われ、GISソフトを使用したリスクマップの作成や詳細な生息地データの作成調査が継続的に行われている。また、ミヤイリガイは千葉県小櫃川流域でも生息が確認されており、1986年(昭和61年)の千葉大学医学部による実態調査によって同流域の一部地域でかつて日本住血吸虫症が流行していたことが確認された。 なお、2014年現在も日本国内の複数の大学や研究施設などでミヤイリガイは産地別に飼育されており、日本国内の自然界では撲滅された日本住血吸虫の本体も、厳重な管理の下、ミヤイリガイと終宿主役となる哺乳実験動物と共に飼育され、人為的に生活環が再現継続され累代飼育されている。これは万一の再流行に備え、前述した皮内反応診断に必要な抗原を製造するために、日本住血吸虫の本体が不可欠だからである。 こうして、古くから謎に包まれていた地方病(日本住血吸虫症)は多くの医師・研究者の努力により病原の解明、感染メカニズムの解明が行われ、世代を超えた多くの人々の努力により日本国内での日本住血吸虫症は制圧・撲滅された。しかしその一方で、なぜミヤイリガイが甲府盆地をはじめとする限られた地域にのみ生息していたのかという疑問は解明されていない。生物学、遺伝学、地質学、気象学、地理学など、あらゆる観点からの研究が行われているが、依然として大きな謎のままである。 ==地方病対策の負の側面== ===昭和町のゲンジボタル=== 昭和町では、ミヤイリガイ駆除で使われた殺貝剤や鎌田川流域など河川のコンクリート化、さらに先述した高度経済成長による土地開発や汚水の垂れ流しにより、ミヤイリガイとよく似た形態・生態であるカワニナが減り、それを幼虫期の餌とするゲンジボタルも、その個体数と生息地を減らしていった。また、火炎放射器がミヤイリガイと一緒くたにホタルの蛹を焼く、ということも原因の一つにあった。 鎌田川のゲンジボタル発生地(地図)は1930年(昭和5年)に国の天然記念物に指定されていたが、個体数の減少により、1976年(昭和51年)に指定解除された。当時の昭和町民はミヤイリガイを減らすとホタルも減る、と認識していたが、地方病撲滅のため、天然記念物指定解除を受け入れるばかりだった。 姿を消したと思われたホタルであったが、1987年(昭和62年)、昭和町内の川で突然大発生し、翌1988年にはホタル復活をめざす有志により『昭和町源氏ホタル愛護会』が結成され、会員らの自宅にホタルの飼育場を設け、生息環境の保全のため河川清掃などの活動が続けられている。さらに昭和町内に約4,000ヶ所ある下水道のマンホールのフタにはホタルがデザインされるなど、町を挙げてゲンジボタルの保全活動が行われている。また、昭和町風土伝承館となっている杉浦醫院内の池には、ホタルが生息できるようにしている。 また2012年現在、釜無川や笛吹川の流域では、小学生など児童が参加するホタルの勉強会や幼虫放流会が行われている。 ===臼井沼=== 旧田富町(現中央市)の釜無川左岸沿いには、臼井沼(うすいぬま地図)と呼ばれる約18ヘクタールの湿地帯があった。臼井沼は、野鳥の生息地として山梨県民に知られていたが、埋め立てられた。 これは、当時の田富町民が総決起大会を開き、「地方病撲滅のためには、ミヤイリガイ繁殖の温床となっている沼を埋め立てるしかない」と決議したためである。圃場整備された水田や畑地等、他のミヤイリガイ生息地と異なり、道もなく雑草の生い茂る臼井沼中央部へは人間が近付くことが困難であったため、臼井沼での効率的な殺貝は難しかったのである。甲府盆地各所で殺貝対策の著しい効果が現れ始めていた1970年代も、臼井沼ではミヤイリガイが大量に繁殖を続けていた。実際に、山梨県衛生公害研究所の調査による臼井沼で捕獲したノネズミのうち、地方病に感染していた個体数は、1971年(昭和46年)では13匹中8匹 (61.5%)、1975年(昭和50年)も73匹中24匹 (32.9%) という高い感染率であった。 臼井沼周辺住民や町議らが中心となり当時の田富町議会でも審議が繰り返され、1976年(昭和51年)3月、田富町は、山梨県議会議長宛に臼井沼埋立ての請願書を提出した。この動きに対して野鳥保護団体は「渡り鳥の中継地として貴重」と反論し、同年4月に「臼井沼の開発について考えましょう」と題した、埋立て反対趣旨を書いたパンフレットを作成し田富町全戸に配布した。また、ミヤイリガイについてはコンクリート溝渠による防除に留め、沼の埋立ては避けるべきだと当時の山梨県知事田辺国男に陳情している。 一方、田富町を含む山梨県下の市町村で構成される山梨地方病撲滅協力会は、臼井沼の全面埋め立ての必要性を訴える陳情書を同年5月21日に田辺知事に提出した。翌々日の5月23日には臼井沼現地において住民200人以上、その他関係者らが参加し「田富町地方病撲滅町民総決起大会」が開催され、会場の各所には「一に健康、二に埋立て」、「鳥より人間優先」などのプラカードが多数立てられ、埋立て賛成派反対派らの間で緊張した状況となった。同じ日に日本鳥学会の集会が山梨大学で開催され、臼井沼を永久に保存する決議案が採択されるなど、1976年の3月から5月にかけ臼井沼の埋立てをめぐり関係者の間であわただしい状況が続いた。 対応を迫られた行政側(山梨県)が出した結論は臼井沼の埋め立てであった。同年6月22日の定例県議会で田辺国男知事は「県としては地元民の悲願にこたえ、地方病撲滅のためには埋め立て以外にないと考える」と答弁し、29日の本議会で野党各党会派による採択反対討論などがあったものの、起立採択の結果、自民党などの賛成多数で原案通り、埋め立てることが確定した。 その後、最終的に臼井沼は富士観光開発が分譲住宅地として開発し、甲府リバーサイドタウンとなった。また、臼井沼北部は県の主導により、甲府市中心部にあった連雀(れんじゃく)問屋街の卸売業者を移転集約させた山梨県流通センターになった。 ==日本住血吸虫症撲滅の影響と評価== 冒頭で記述した通り、山梨県で地方病と呼ばれた日本住血吸虫症は限定的とはいえ日本国内の他地域でも流行が見られたが、日本国内ではいずれも20世紀終盤に制圧・撲滅され、終息している。しかし、アジア各地では2017年現在も日本住血吸虫症に苦しめられている地域があり、住血吸虫症全般を含めると開発途上国を中心とした世界各地に感染流行地がある。 ===地方病撲滅に至る日本国内有病地間での動向=== 山梨・広島・福岡・佐賀など日本国内各地における日本住血吸虫症対策は、研究者間や医師間のレベルでは各種論文をはじめとする学術的観点から地域を越えた交流があり、解明期当初より活発な意見交換などが行われ、当疾患の原因解明に大きく寄与したことは前述した通りである。しかしその一方で、主に地域農民により行われた殺貝作業など、現場の住民同士の意見交換が重要な民間レベルでの交流は戦前まではほとんど行われず、それぞれの地域ごと対策がとられていた。民間レベルでは通信、移動、情報の発信といったインフラは貧弱な時代であった。 山梨で「地方病」、広島で「片山病」、福岡で「マンプクリン」と、離れた場所でそれぞれ別の名前で呼ばれ、さらに中国では「シーチチュン(血吸虫病)」と呼ばれていた奇病が実は同じ病気であったと解明されたのは、研究者の努力もさることながら、情報伝達技術・交通機関の発達といったインフラ整備によって多くの人間が情報を共有できるようになったことも大きな要因である。 戦後の混乱も落ち着いた1953年(昭和28年)12月、山梨、佐賀、福岡、広島、岡山の5県知事が日本住血吸虫症の有病地知事会を結成し、研究成果の交換などを申し合わせ、1960年(昭和35年)各県有病地の市町村長、行政関係者が初めて一堂に会し、当時の韮崎市長浅川彦六を初代会長とする日住病全国有病地対策協議会を発足させた。 第1回の会合は甲府市の舞鶴会館で行われ、各県が毎年持ち回りで協議会を開き、有病地の視察、対策や国への要望事項の取りまとめなど、互いに励まし助け合っていくことを誓った。 この第1回会合視察の際に、果樹園に転換された甲府盆地の土地利用を見た福岡県の職員は感心すると同時に、乳牛を放牧している久留米市長門石町内の筑後川河川敷を思い出し、もしやと思い福岡へ戻った。河川敷を調べると案の定大量のミヤイリガイを発見、しかもその半数以上がセルカリアに感染していることが判明した。結局この河川敷は1965年(昭和40年)までに、ゴルフ場やテニスコートなどに土地改良され、筑後川流域でのミヤイリガイは完全に絶滅された。福岡の関係者にとって、甲府盆地での土地利用視察が福岡における本疾患撲滅に繋がるエポックメイキングな出来事であった。 日住病全国有病地対策協議会は発足以来、関係各省庁への積極的な陳情を行い、寄生虫病予防法改正(水路コンクリート補助事業の期間延長)をはじめとする撲滅活動推進を果たし、各地の対策事業が落ち着いた1982年(昭和57年)5月27日、甲府古名屋ホテルで開催された第23回大会において解散が宣言され、その活動を終えた。 ===日本国外への波及=== 日本国内の日本住血吸虫症が撲滅された今日もなお、アジア各地では本疾患に苦しめられている地域がある。日本国内における日本住血吸虫症研究および撲滅活動が、アジア各地の本疾患流行地に与えた影響は大きい。 ===中国=== 日中国交正常化以前の1955年(昭和30年)11月4日、東京大学附属伝染病研究所(現・東京大学医科学研究所)助教授の佐々学(さっさ まなぶ)は、日本人医師20数名から構成された訪中医学団のメンバーの1人として北京を訪れ、中国側の医療関係者および要人と会談を行った。 会談の冒頭、建国したばかりの中華人民共和国政務院総理であった周恩来から、「本日、私は日本からお越しの皆様に、どうしてもお聞きしたいのです。その病気はシーチチュン(血吸虫病)といい、中国人民の健康を損なっている最大の敵であります。今回の会談はそれを力点に置きたいと思います」と話題が発せられ、訪中メンバーの中で寄生虫疾患を担当していた佐々は驚いた。周恩来が口にした血吸虫病とは日本住血吸虫症のことであった。また、周恩来は「発見者の名前をとってミヤイリガイ」、「この貝が中間宿主です」など、寄生虫学者でもなければ返答できないような会話を佐々とこなし、同席した日本の医師団を驚かせた。一国を代表する政治家が日本で解明された寄生虫病の経緯を調べ上げ詳細に把握しているのは、それほどまでにこの病気が中国にとって深刻なものであることの証左でもあった。 佐々は会談直後、周恩来の計らいにより、北京医学院教授の鍾恵潤を案内役に紹介され、訪中医学団一行と一旦別れ、中国政府要人用の特別車両が連結された列車により10日間の日程で、江蘇省、湖北省、浙江省、広東省、福建省といった日本住血吸虫症流行地の視察を中国側の関係者と行った。その後、国交正常化を待たずして、日本の関係者による中国でのミヤイリガイ殺貝やスチブナールによる治療、用水路のコンクリート化実験などの援助、技術提供など、日中間での意見交換、協力関係は続いていくことになった。 ===フィリピン=== アジアでのもう一つの日本住血吸虫症流行地フィリピンでは、ビサヤ諸島の貧困層を中心に蔓延している。2016年現在ではスチブナールに代わり有効な駆虫薬となっているプラジカンテルの投与を、貧しさゆえに受けられない罹患者に対し、政府開発援助 (ODA)、非政府組織 (NGO)、国際協力機構 (JICA) などの機関、組織を通じて日本人医師が治療および現地医師への指導に当たっている。 その一人である市立甲府病院の林正高は、フィリピンでの日本住血吸虫症治療に使用するプラジカンテル代金(1人当たりの薬代、日本円に換算して約700円)、1口700円の募金活動を始めた。1987年(昭和62年)12月に「地方病に挑む会」として市立甲府病院内に発足したこの活動は、発起人の1人である大岡昇平が、中央公論の1988年(昭和63年)1月号に執筆寄稿した『日本住血吸虫 ‐ レイテ戦記・補遺』の執筆代金全額が募金の第1号になるなど注目が集まり、1口700円とはいえ、発足から15年間で約8919万円もの浄財が集まった。この病気に代々苦しめられてきた甲府盆地の人々は、今なおこの病に苦しんでいる人がフィリピンに多数いることを知ると、自らの過去を重ね合わせたのである。 満州出身で長野県諏訪市で育ち信州大学医学部を卒業した林が、1964年(昭和39年)に新人医師として初研修に訪れた地が偶然にも甲府であった。何の予備知識も持たないまま、そこで初めて出会った地方病患者に衝撃を受け戸惑いながらも、以後この病を自らのライフワークと決め、甲府に自宅を購入し移住してまで闘い続けた林は、募金振り込み用紙の通信欄に寄せられた暖かいメッセージを読み感慨を深くした。 フィリピン国内の日本住血吸虫症有病地における罹患率は、1981年の10.4%から1995年には約5%と半減させることに成功し、当時のフィリピン共和国厚生大臣、ジェイム・Z・ガルベズ‐タン (Jaime Galvez‐Tan)より「地方病に挑む会」代表の林は感謝状を受け、2009年(平成21年)にはノバルティス地域医療賞を受賞している。 ===後世へ語り継ぐ撲滅の歴史=== 住血吸虫症は日本住血吸虫症以外にも、インドシナ半島のメコン住血吸虫症、アフリカ大陸および中南米一帯のビルハルツ住血吸虫症や、マンソン住血吸虫症など、世界各地に数種存在する。今日ではこれらの住血吸虫症でも、画期的な駆虫薬プラジカンテルによる治療が普及したことによって、生命に関わるような重篤な患者は減少しつつある。 しかしながら、2015年のWHOの報告によれば、住血吸虫症の流行国は78カ国、そのうち感染リスクの高い国は52カ国に及ぶ。推定感染者数は約2億6100万人に達し、2014年には全世界で4000万人が住血吸虫症の治療を受けたと報告されている。特に、サハラ砂漠以南のアフリカ諸国では、2015年現在も年間推計2万人から20万人が住血吸虫症により死亡したと推計されている。 山梨県で終息宣言が出された2年後の1998年(平成10年)5月に、イギリスのバーミンガムで行われたバーミンガム・サミット(主要国首脳会議)の席上で、橋本龍太郎首相(当時)は、世界規模で寄生虫対策を実施する必要性を訴えた『21世紀に向けての国際寄生虫戦略 ‐ The Global Parasite Control for the 21st Century』と題する報告書を各国首脳に提示した。橋本イニシアティブ (Global parasite control initiative of Japan (Hashimoto Initiative))と呼ばれるこの報告書は、アメリカコロラド州デンバーで前年に開催されたデンバー・サミットのG8会議において、世界規模で寄生虫対策を行う重要性を橋本が指摘し、対策が具体化したものであり、デンバー・サミット後、橋本の指示を受けた日本の厚生省は、辻守康杏林大学医学部教授を委員長とした「国際寄生虫対策検討会」を組織した。 橋本イニシアティブが出された後、日本の寄生虫学研究者や医師らの多くが寄生虫疾患対策のために世界各地へ出向き、その対策や治療、中間宿主貝撲滅活動などが継続的に行われている。また、日本国内においても住血吸虫症の治療に関する研究が継続的に行われており、プラジカンテル等の駆虫薬を用いた感染後の治療に主眼点をおいていた従来の治療法に代わる新たな試みとして、ヒト宿主との相互作用に直接関与し、ヒトの免疫応答に重要な機能を果たしている可能性がある日本住血吸虫本体(膜表面)および分泌性のタンパクの同定に長崎大学熱帯医学研究所が2014年(平成26年)に成功し、これらを遺伝コードする遺伝子族が特定されるなど、日本住血吸虫症に対する予防ワクチンの開発研究が進められている。 日本が世界の寄生虫対策の舵取り、イニシアティブをとる理由は、日本がさまざまな苦難を乗り越え、日本住血吸虫症ばかりでなく、数々の寄生虫病を制圧してきた経験を持つ公衆衛生先進国だからである。 以下、寄生虫学者である石井明自治医科大学名誉教授が2005年に記した、「日本における住血吸虫研究の流れ」より引用する。 日本住血吸虫症は住血吸虫感染症の中で最も重症である。日本住血吸虫を発見した後に、その感染経路、中間宿主貝を発見したのは住血吸虫感染の中で日本が最初である。住血吸虫症が制圧されたのは日本が世界で最初である。住血吸虫症は世界の寄生虫感染の中でも重要な位置を占めている。したがって日本が日本住血吸虫症を制圧したことは誇るべき先駆的で歴史的な事実となった。これには日本の研究が大きな役割を果たしたことを記録しなければならない。研究論文は莫大な数に上がっている。日本語で書かれたものが多いので必ずしも世界に十分に知られているとは言えないが、それらの成果がもたらした結果が日本住血吸虫症の制圧に至ったことを明記する必要がある。 ― 日本における住血吸虫研究の流れ。2005年 石井明 世界には日本住血吸虫症だけでなく、さまざまな住血吸虫症があるが、日本は日本住血吸虫症のメカニズムを世界で初めて解明しただけでなく、撲滅・制圧を成し遂げた世界唯一の国である。その中心的役割を担った山梨県では、2005年(平成17年)に開館した山梨県立博物館の常設展示に「地方病」に関するコーナーが設けられ、中巨摩郡昭和町では、旧杉浦医院の建物を利用した地方病資料館(風土伝承館杉浦醫院)が2010年(平成22年)に開館した。 また、山梨県内の小中学校で使用される道徳教育教科書に「地方病」撲滅の経緯が記載され、2012年(平成24年)より総合的な学習の時間を利用した「地方病」に関する授業学習が一部の小学校で行われ、さらにNHK教育テレビで放送された小学校4年生向けの番組NHK for Schoolで取り上げられるなど、地方病撲滅に至る経緯や得られた経験を、後世に伝えようという活動が行われ始めている。 ==年表== 感染メカニズムが解明された1913年(大正2年)までの出来事はほぼ時系列通りに記述した。だが、それ以降は「感染予防対策」・「治療・診断法開発」・「ミヤイリガイ撲滅運動」など、複数の対策が同時に進行していったため、これらを時系列通りに記述すると煩雑になるので、「#ミヤイリガイ(宮入貝)の発見」節以降から「#甲府盆地の水路のコンクリート化」節までは、個別の対策ごとに経緯を記述した。ここでは年表形式で地方病の歴史を記す。 =0.999...= 数学における循環十進小数 0.999…(省略記号 の前の 9 の個数は多少増減させて 0.99999… のようにも書く。あるいは他にも 0.9, 0.(9), 0..9 など多様な表記がある)は、実数として数の「イチ」であると示すことができる。言葉を変えれば、記号 ”0.999…” と ”1” は同じ数を表している。これが等しいことの証明は、実数論の展開、背景にある仮定、歴史的文脈、対象となる聞き手などに合ったレベルで、各種段階の数学的厳密性(英語版)が相応に考慮された、多様な定式化がある。 0.999… と 1 の等価性は、実数の体系(これは解析学ではもっとも一般的に用いられる体系である)に 0 でない無限小が存在しないことと深く関係している。一方、超実数の体系のように 0 でない無限小を含む別の数体系もある。そのような体系の大半は、標準的な解釈のもとで式 0.999… の値は 1 に等しくなるが、一部の体系においては記号 ”0.999…” に別の解釈を与えて 1 よりも無限小だけ小さいようにすることができる。 等式 0.999… = 1 は数学者に長く受け入れられ、一般の数学教育の一部であったにも拘らず、これを十分直観に反する(英語版)ものと見做して、疑念や拒絶反応を示す学徒もいる。このような懐疑論は、「この等式を彼らに納得させることがいかに難しいか」が数学教育の様々な研究の主題となることに正当性を与える程度に当たり前に存在している。 任意の 0 でない有限小数(を末尾に無限個の 0 を付けて無限小数と見たもの)は、それと値が等しい、末尾に無限個の 9 が連なる双子の表示(例えば 8.32 と8.31999…)を持つ。ふつうは有限小数表示が好まれることで、それが一意的な表示であるとの誤解に繋がり易い。同じ現象は、任意の別の底に関する位取り記数法や、あるいは同様の実数の表示法でも発生する。 ==代数的な証明== 0.999… という実数を明確にとらえるには、やはり小数点以下の位がすべて 9 であることを利用する。位取り記数法で表された有限小数における”位ごとの操作(四則演算)”が無限小数の各位についても一斉にできる、と見なすと、0.999… = 1 を初等的に導くことができる。 ===分数による証明=== 1/3 を小数表示すると、小数点以下の位はすべて 3 であることを利用する。1/3 は 1 ÷ 3 の商であり、割り算の筆算により、循環小数 0.333… となる。ここで 3 は無限に続く。この小数点以下の各位は 3 倍するといずれも 9 となることから、有限小数のときと同様に各位への一斉な掛け算ができるとみなせば、無限小数 0.333… を 3 倍すると0.999… に等しい。一方、1/3 × 3 = 1 である。したがって 0.999… = 1 である。同様な別証明として、1/9 = 0.111… の両辺に 9 を掛けることでもできる。 ===位取り記数法の性質を利用した証明=== 十進法表示の有限小数に 10 を掛けると、数字は変化することなく、小数点が1つ右に移動する。このことが無限小数に対しても成り立つと見なせば、0.999… × 10 = 9.999… であり、これはもとの数に比べて 9 大きい。引き算が位ごとに扱えることが無限小数に対しても成り立つと見なせば、9.999… − 0.999… = 9.000… である。ところが、小数点以下に無数に続く 0 は数を変化させないので、この差はまさしく 9 に等しい。問題の小数 0.999… を c と置くと、10c − c = 9 であり、この方程式を解くと、c = 1 が得られ、証明が完了する。つまり、導出は以下のようになる。 この位取り記数法の性質を利用した証明は他の有限小数(0.25 と 0.24999… など)にも適用できる。 ===無数の位ごとの操作の正当性=== 以上の2つの証明で用いた、無数の桁に対する位ごとの操作(つまり、掛け算や引き算)を一斉に行う(つまり…の部分に行う)ことは、その正当性が直ちに明らかというわけではない。有限小数に関しては、この過程は実数の計算法則にのみ依存している。この操作が無限小数にも適用できることを証明するためには、次節に述べる実解析の手法を必要とする。 日本の数学教育においては、高校数学の数学Iで循環小数の足し算・引き算・10倍が公理として採用されているため、上記の代数的な操作は高校数学の範囲内では正しい証明とされる。 ==解析的な証明== 0.999… という小数点以下の位に無数の 9 を加えていくという定義自体が解析的である。これが 1 に等しいことを厳密に証明するには、実解析の手法を必要とする。0.999… という無限小数を正確にとらえるには、小数部分の位が無数に並ぶことを明確に定義し直すことが必要となる。 ===差に着目した証明=== 0.999… が 1 に等しいことを証明するには、それらの差が 0 であることを証明すればよい。その分、無数に並ぶ 9 についての定義はぼやけるが、初等的かつ解析的に導くことができる。 (証明) この証明では、最後に であることを証明抜きで用いている。これを証明するためには、実解析における実数の連続性(アルキメデスの性質)が必要となる。 ===無数の位の定義の再考=== 0.999…、一般には無限小数(小数点以下に無数に位が並ぶ実数)の明確な定義を議論し直すために、定式化する。0.999… を考えるのに、整数部分は1桁だけ考えれば十分であり、負の数は考えなくてよいので、考察するべき小数表示は の形である。小数部分は整数部分と違って有限の桁数に制限されない。これは基数 10 の位取り記数法であるから、例えば b1 の単位は b2 の単位の 10 倍、b3 の単位は b2 の単位の 1/10 倍である。 ===級数の計算=== 小数展開の一般的な定義としては、おそらく級数(無限数列の和)として定義することである。つまり と表される。 ここで、0.999… の小数部分の計算には等比級数の公式: を適用することが可能である。 0.999… は、上式の左辺で初項 a = 9/10, 公比 r = 1/10 としたものであるから、この公式より と簡単に問題を解決することができる。この証明は早くて1770年のレオンハルト・オイラーによる Elements of Algebra において(実際には 9.999… = 10 の証明として)見られる。 等比級数の公式自体はオイラー以前の成果であるが、18世紀まではその導出がいずれも項別演算を証明なしで行われていた。1811年になってやっと、Bonnycastle の教科書 An Introduction to Algebra で等比級数に関する議論を行うことで 0.999… に関する項別操作を正当化している。 19世紀には、それまでの自由すぎる無限和の計算に対する反動として、「級数はその部分和の極限として定義される」という、現在の数学でも用いられている定義が生み出された。このころの証明に基づいた微積分学や解析学の入門書においては、関連する定理を証明することによりこの等比級数もはっきりと計算されている。 数列 {xn} において、番号 n を限りなく進ませると距離 |xn − x| が 0 に近づくときに、数列 {xn} の極限が x であると定義される。等式 0.999… = 1 自身は以下のように極限として表すことにより証明される。 ===区間縮小法と上限=== 無限小数の小数部分を級数として直接計算する前述の導出に対して、それとは別に、もう一つの方法は、無限小数が取らない値の範囲を排除していくという方法である。 実数 x は閉区間 [0, 10](すなわち 0 以上 10 以下)に属するとし、この区間 [0, 10] を一の位ごとの 10 個の区間 [0, 1], [1, 2], [2, 3], ..., [9, 10] に分割(端点のみで重なる)する。実数 x はこのうちの少なくとも1つに属し、その区間の下限、例えば x が区間 [1, 2] に属するときには ”1” を記録する。次に、属している区間 [1, 2] を小数第一位ごとに [1, 1.1], [1.1, 1.2], ..., [1.8, 1.9], [1.9, 2] に分割し、x が属する区間の下限を記録する、という操作を繰り返すと b0, b1, b2, b3, ... から決まる区間の減少列が生み出される。この数列から と表現される。 この記録の仕方により、実数 1 は最初に [0, 1] に属するかそれとも [1, 2] に属するかにより 1 = 1.000… と 1 = 0.999… の2通りの表示が得られることになる。このそれぞれの小数記録表示が表す実数が等しいことを証明するには、直接的には極限を用いてなされるが、順序の議論を続ける別の構成方法もある。 直接的な方法としては区間縮小法が挙げられる。この原理によれば、閉区間の減少列が与えられ、その幅が 0 に収束するとき、それらの区間の共通部分はただ1つの実数からなる1点集合であることが、実数の連続性より証明される。したがって x = b0.b1b2b3… は [b0, b0 + 1], [b0.b1, b0.b1 + 0.1], ... のすべてに属する唯一の実数であると定義される。したがって 0.999… は [0, 1], [0.9, 1], [0.99, 1], ... のすべてに属する唯一の実数である。一方、実数 1 はこれらすべての区間に属するので 0.999… = 1 となる。 区間縮小法は、実数の連続性のうちのより直観的であると思われる上限の存在に基づいている。この事実を直接用いると、b0.b1b2b3… を近似値の集合 {b0, b0.b1, b0.b1b2, …} の上限として定義することができる。増加列の上限の存在定理は実数の連続性として区間縮小法と同値であることが示せるので、再び 0.999… = 1 を得る。トム・アポストルは次のように結論付けた。 「実数が異なる2つの小数表示を持つ可能性があるという事実は、単に、実数からなる異なる2つの集合の上限・下限が等しくなる可能性があるという事実の裏返しに過ぎない。」 ==実数の構成== 公理的集合論を用いて、実数の集合を有理数の集合上で組み立てられた(英語版)ある種の構造として明示的に定義する方法はいくつか存在する。まず、自然数とは、ものを数えるときに用いる番号のことであり、0 から始めて 0, 1, 2, ... と、+1 ずつ添加していくことにより得られる。自然数を拡張して整数全体を得るには、各自然数の反数を添加すればよい。さらにそれらの商を添加すると、有理数全体が得られる。これらの数体系には、加減乗除という四則演算が付随しており、さらに、任意の2数を比較しての大小関係(どちらが大きいか、小さいか、等しいか)という順序をも備えている。 有理数から実数への拡張は(自然数から整数や有理数への拡張と比べて)大きな飛躍である。この拡張の方法は、少なくとも2つの手法がよく知られている。ともに1872年に発表された有理数の切断によるものとコーシー列によるものである。これらの実数の構成法により 0.999… = 1 を証明している実解析の教科書は見られない。現代数学では、解析学的に実数を構成し、それが数の公理を満たすかどうかに注意が払われる。公理による解析的手法により 0.999… = 1 を証明することになるからである。しかしながら、実数の構成をより適切に、論理的に行うことにより、0.999… = 1 の証明はもっと直接的になされる (self‐contained) と主張する人もいる。 ===デデキント切断による構成=== デデキント切断のアプローチでは、任意の実数 x は、「x より小さい有理数全体からなる無限集合」と定義される。この考え方では、実数 1 は「1 より小さいすべての有理数の集合」となる。 正の数でのデデキント切断は、その小数展開により得られる。小数表示を適当な位までで切って得られる有理数を使い、それより小さい有理数全体の和集合を作ればいいのである。この方法で実数 0.999… というものが何であるかを考えるなら、r < 0, r < 0.9, r < 0.99, ...(つまり、ある自然数 n に対して、r < 1 − (1/10) を満たす有理数 r すべてが作る集合として定義されるということになる。0.999… より小さい有理数すべては 1 より小さいので、これは実数 1 の元に含まれる。一方、実数 1 の元となる任意の有理数 (b ≧ 1) を考えると、 となるため、a/b は 0.999… の元になっている。よって、0.999… と 1 とは全く同じ有理数をすべて元として含み、これらは集合として等しい。つまり 0.999… = 1 であるというわけである。 デデキント切断による実数の定義は、1872年にリヒャルト・デーデキントによって初めて発表された。上記の、実数をそれぞれの小数展開に帰着させる方法は、フレッド・リッチマン (Fred Richman) によって雑誌Mathematics Magazine に投稿された ”Is 0.999… = 1?” という解説論文による説明である。この論文は大学の数学教師とその生徒向けに書かれている。リッチマンは、有理数の任意の稠密な部分集合における切断を考えても同様な結果をもたらすことを指摘している。その中で彼は、分母が 10 の冪である分数全体の成す稠密部分集合を用いて、0.999… = 1 の証明をより直接的に与えている。また、x < 1 となる x は切断を有するが、x ≦ 1 となる x は切断をもたないことも指摘し、「これは 0.999… と 1 が異なってしまうことを排除するものである。……実数の伝統的な定義の中に、等式 0.999… = 1 は最初から組み込まれている」と評した。リッチマンは、この手順に修正を加えることで、0.999… ≠ 1 となる別の構造を導いている。 ===コーシー列による構成=== 実数を構成するもう一つの方法は、実数の切断に比べれば間接的にではあるがやはり有理数の順序を用いるものである。まず、2つの有理数 x と y に対して、距離 d(x, y) を絶対値 |x − y| で定義する(z の絶対値 |z| とは z と −z の小さくない方と定義され、非負である)。そして実数全体というものを、この距離 d に関する有理数のコーシー列全体を以下で定義する同値類で割ったものとして定義するのである(実数の完備性も参照のこと)。ここで、有理数列(つまり自然数から有理数への写像){xn} がコーシー列であるとは、 任意の正の数 ε に対して、番号 N が存在し、N より大きいすべての m, n に対して |xm − xn| < εが成り立つ(つまり、番号が十分先なら2項間の距離が限りなく小さくなる)ことと定義される。 2つのコーシー列 {xn} と {yn} が同値であることを、xn − yn が 0 に収束することと定める。小数 b0.b1b2b3… に対して、各位以降を順に切り捨てていくことにより得られる数列は有理数のコーシー列を定めるので、このコーシー列が、この小数展開の表している実数の真の値と定められることになる。 この性質より 0.999… = 1 を証明するためにしなければならないことは、有理数のコーシー列 が同値である、すなわち が 0 に収束することを証明することである。 この極限は単純で、数列の極限の定義により示される。こうして、やはり 0.999… = 1 が示されたことになる。 コーシー列による実数の定義は、最初に(いずれも)1872年にエドゥアルト・ハイネとゲオルク・カントールにより独立に発表された。0.999… = 1 の証明を含む、小数展開による上記のアプローチは1970年にグリフィス (Griffiths) とヒルトン (Hilton) の書いた教科書 A comprehensive textbook of classical mathematics: A contemporary interpretation (「古典数学に関する総合教科書:現代的解釈」)に従っている。この教科書は、よく知られた概念について、現代の観点から再検討することを主眼に書かれている。 ==他の数体系での振る舞い== 実数は標準的な数体系であるが、”0.999…” という無数桁の表記がある実数を表すだろうと、我々は自然に考えている。ウィリアム・ティモシー・ガワーズは Mathematics: A Very Short Introduction で、等式 0.999… = 1 を結論することも同様に『慣習』であると述べている。すなわち、 「しかしながら、それは決して恣意的な慣習ではない。なぜなら、それを受け入れなければ、一風変わった新しい対象を発明するか、または算術のよく知られた規則のいくつかを諦めるかのどちらかが強制されるからである。」標準的な数体系である実数体に対して、通常と異なる方法で数を構成し、0.999… という表記が意味を持つ、実数とは別の数体系を定義することができる。そのような数体系においては本項冒頭辺りの節で示した証明などはその体系における記述として解釈し直さなければならず、またそういった体系において(上記の証明が正しいとする根拠を失ったり、誤りであると示されたりして)0.999… と 1 とが同一の対象を表すものでない可能性が見出されることもある。そうは言っても、多くの数体系は(実数の体系を代替するような独立した対象としてではなく)実数の体系の拡張となるものであって、故にそこでは 0.999… = 1 も引き続き成立することとなる。しかしそういった体系においてさえも、(”0.999…” と表示される数が意味を持つ場合には)0.999… がどのように振る舞うかということだけではなく関連する現象の振る舞いに対して考えるために、代替の数体系を考察するということは意味のあることであるといえる。つまり、ある現象が実数体系における場合とは異なる振る舞いをするのであれば、その体系に組み込まれた前提条件は、実数体系のそれの少なくとも一つを壊したものになっていなければならない(以下に挙げるような体系が、実数におけるどのような現象や条件を否定するのかという観点に立って説明することができる)。 ===無限小を含む体系=== 0.999… = 1 のいくつかの証明は、通常の実数がアルキメデス順序体であること、すなわち、”0 でない無限小は存在しない” ことに依存している。特に、差 1 − 0.999… は任意の正の有理数よりも小さいはずであるから、それは(0 か)無限小でなければならないが、実数の体系には 0 でない無限小は無いので、差は 0、つまり二つの値は等しいことが結論付けられる。それでも、実数の非アルキメデス的代替となりうる様々な体系を含む、数学的に一貫した順序代数系(英語版)は存在する。 ===超実数=== 超準解析によって、無限小(およびその逆数)の完全な系列を含んだ数体系が提供される。ライトストーン(英語版)は区間 (0, 1) に属する超実数 (hyper*79*real number) に対する小数展開を考えた。ライトストーンは、拡張実数に超自然数で添字付けられた数字列 が対応することを示した。ライトストーンは 0.999… について直接扱ったわけではない、彼は移行原理(英語版) の帰結として実数 /3 が 0.333…;…333… で表されることを示した。故に 0.999…;…999… = 1 である。ここで言う意味での小数展開が必ずしも数を表すとは限らないことに注意すべきである。特に ”0.333…;…000…” や ”0.999…;…000…” は何の数とも対応しない。 数 0.999… の標準的な定義は 0.9, 0.99, 0.999, … なる数列の極限というものだが、それと異なる定義として例えばテレンス・タオが超極限 (ultralimit) と呼ぶ数列 0.9, 0.99, 0.999, … の超冪構成(英語版)に関する同値類 [(0.9, 0.99, 0.999, …)] は 1 より無限小だけ小さい。より一般に、階数 H の無限大超自然数の位置に最後の 9 がくる超実数 uH = 0.999…;…999000…, はより厳密な不等式 uH < 1 を満足する。これに応じて、「無限個の 9 のあとに 0 が続く」ことの別解釈を と理解することができる。このように解釈した ”0.999…” は 1 に「無限に近い」。イアン・スチュアートはこの解釈を、「0.999… は 1 よりも『ほんの少しだけ小さい』」という直観を厳密に正当化する「全く合理的な」方法として特徴づけた。Katz & Katz (2010b) に基づき、R. Ely (2010) もまた学徒のもつ「0.999… < 1 という考えを実数に対する誤った直観とする仮定に疑問を呈し、むしろそれを「超準的」直観と解釈した方が解析学の習得において価値があるのではないかとした。Jose Benardete は自身の著書 Infinity: An essay in metaphysics において、過度に制限された数体系に話を限定する限り、数学以前の自然な直観のいくらかは言い表すことができないのだと主張した。 The intelligibility of the continuum has been found―many times over―to require that the domain of real numbers be enlarged to include infinitesimals. This enlarged domain may be styled the domain of continuum numbers. It will now be evident that .9999… does not equal 1 but falls infinitesimally short of it. I think that .9999… should indeed be admitted as a number … though not as a real number.(訳: 連続体の明確な理解には、実数の領域を無限小を含むように拡大することが必要だと(何度も繰り返し)見出されてきた。この拡大された領域は、連続体数の領域の形を取るだろう。今や 0.9999… が 1 に等しくなく、それよりも無限小だけ小さいことは明らかだ。私は 0.9999… は「実」数としてではないけれども「数」として実際に許されるべきと思う。) ===超現実数・ゲーム=== 前項と特に関連して、組合せゲーム理論(英語版)における同様の実数代替体系として、”無限二色ハッケンブッシュゲーム (infinite Blue‐Red Hackenbush)” を考えることができる。1974年に、エルウィン・バールカンプ (Elwyn Berlekamp) はデータ圧縮のアイディアに刺激されてハッケンブッシュ文字列と実数の2進展開の関係について述べた。例えば、”ハッケンブッシュ文字列 (Hackenbush string)” LRRLRLRL… の値は 0.010101… = 1/3 である。しかしながら、文字列 LRLLL…(0.111… に対応する)の値は 1 に比べてごくわずかだけ小さい。 これらの2数(LRLLL… と 1)の差は超現実数 1/ω(ω は最小の超限順序数(英語版))である。これに関連するゲームは LRRRR… すなわち 0.000… である。 ===減法の再考=== 別の方法は、引き算はいつでもできるわけではなくて「1 − 0.999… は存在しない」としてしまうことである。加法をもつが減法をもたない数学的構造には、可換半群、可換モノイド、半環 などが含まれる。リッチマンは 0.999… < 1 となるようにデザインされた、そのような2つの構造を考えた。 まず、リッチマンは負でない”十進数”を文字通り小数展開となるように定義する。彼は辞書式順序と加法を定義した。ここでは 0.999… < 1 であることに注意する。なぜなら単に、一の位において 0 < 1 となるからである。しかし、どんな「無限小数」x に対しても 0.999… + x = 1 + x である。だから、”十進数”に特徴的なこととして、一つは加法が必ずしも打ち消し合わないということであり、もう一つは 1/3 に対応する”十進数”は存在しないということである。乗法を定義すると、”十進数”は正値全順序可換半環をなす。 乗法を定義する際、リッチマンはまた、”cut D” と呼ばれる別の構造を定義する。これは小数の切断の集合である。通常この定義は実数を導くが、彼は小数 d に対して、切断 (−∞, d) と ”principal cut” (−∞, d] の両方を許す。その結果、実数たちは小数と「不安定な状態で共存する (living uneasily together with)」ことになる。したがって、再び 0.999… < 1 を得る。”cut D” には正の無限小は存在しないが、”一種の負の無限小” 0 が存在する。0 には小数展開は存在しない。彼は 0.999… = 1 + 0 であると結論したが、一方、方程式 ”0.999… + x = 1” は解をもたない。 ===p‐進数=== 1 − 0.999… は何になるかと尋ねると、しばしば ”0.000…1” が発明される。これに意味を持せることができるか否かは別として、0.999… の ”最後の 9” に 1 を足すことで次々に繰り上がり、すべての 9 が 0 に変わって、一の位に 1 が残るという意図は直観的には明白である。この考えは、(他にも理由はあるが)0.999… には ”最後の 9” がないので失当であるが、『最後の9』を持つ無限文字列を持つ体系というのは存在する。 p‐進数は整数論が研究対象とする数体系である。実数と全く同様に、p‐進数はコーシー列を経由して有理数の完備化として作ることができる。ただしこの構成には、0 は 1 よりも p に近く、p にはもっと近いという、(実数の構成のときとは)異なる距離を用いる。p‐進数は p が素数のとき体をなし、p が素数でないとき(10 はこの場合である)でも環をなす。したがって、p‐進数に足し算や掛け算のような計算を実行することができ、無限小は存在しない。 p‐進数には小数展開の類似を考えることができ、位が左へ進む(実数の小数展開とは逆に、右へは有限桁しか進めない)。10‐進展開 …999 を考える。一の位に 1 を加えることができるが、すると 0 だけが残されて繰り上がりが続き、その結果 1 + …999 = …000 = 0 となる。すなわち、…999 = −1 である。もう一つの導出方法は等比級数を用いる。”…999” の意味をもつ等比級数は実数においては収束しないが、10‐進数では収束し、よく知られた公式を再び用いることができて となる(前述の等比級数と比較せよ)。3番目の導出方法はある中学1年生によって発明された。その生徒は教師が 0.999… = 1 を極限を用いて行った議論に疑いをもったが、上記の 10 を掛ける証明を反対の方向へ用いてみようとした。すると、x = …999 ならば 10x = …990 であるから、10x = x − 9 であり、再び x = −1 となる。 最後の拡張として、0.999… = 1(実数における等式)と …999 = −1(10‐進数における等式)であるから、「盲目的に記号を偽弄することを恥じなければ (by blind faith and unabashed juggling of symbols)」2つの等式の両辺を加えて …999.999… = 0 を得る。この等式はもはや 10‐進数としても通常の小数展開としても意味をもたないが、よく知られた体系、すなわち実数を表現するために、左方への循環も許す「二重十進」(double‐decimals) の理論を誰かが開発すれば、一転してこの等式も意味をもち正しくなる。 ==一般化== 等式 0.999… = 1 の証明は直ちに2つの方法で一般化される。最初に、まさにその特別な場合において考えられたように、すべての 0 でない有限小数(すなわち、後ろに 0 が限りなく続く)は 9 が後ろにずっと続く別表現をもっている。例えば、0.24999… は 0.25 に等しい。これらは等しい。 次に、0.999… = 1 に相当する結果を他の基数にも適用することができる。例えば 2 を基数とする(二進法)と 0.111… = 1 であり、3 を基数とする(三進法)と 0.222… = 1 である。実解析の教科書は 0.999… = 1 の例を飛ばして、これらの一般化のうちの一つか両方を最初から紹介する傾向がある。 1 の別表現は、非整数を基数としても現れる。例えば、黄金比を基数とすると、2つの標準的表示は 1.000… と 0.101010… であるが、他にも 0.11, 0.1011, 0.101011 のように隣接する ”1” を含む無数の表現がある。一般的に、1 と 2 の間のほとんどすべての q に対し、”非可算無限” の 『1 の q‐進表現』が存在する。他方で、(1 より大きい自然数を含めた)なお”非可算無限”の q が 1 の q‐進表現を(自明な 1.000… を除いて)ただ一つしかもたない。この結果は1990年ごろに ポール・エルデシュ (Paul Erd*80*s)、ミクローシュ・ホルヴァート (Miklos Horv*81*th)、イストヴァン・ヨー (Istv*82*n Jo*83*) によって最初に述べられた。1998年に Vilmos Komornik とパオラ・ロレティ (Paola Loreti) はこのような最小の基数として q = 1.787231650… を決定した。この基数においては、1 = 0.11010011001011010010110011010011… であり、この数はトゥエ・モース列 (Thue―Morse sequence) を与える。これは循環しない。 さらに変則的な規則に基づく記数法 (the most general positional numeral systems) においても 0.999 = 1 に相当する結果が得られる。これらもまた多様な表現をもつので、ある意味で扱いはさらに困難である。例えば、 平衡三進法 (balanced ternary system) においては、1/2 = 0.111… = 1.111…階乗進法 (factoradic system) においては、1 = 1.000… = 0.1234…マルコ・ペトカイゼク (Marko Petkov*84*ek) は、そのように一つの数が複数の方法で表せるということは位取り記数法を用いることの必然的な結果であると述べ、すべての実数を扱う任意の位取り記数法において複数の表現をもつ実数の集合はつねに稠密であることを証明した。彼はこの証明を「一般位相空間に関する初級の教育的な練習問題」と呼んだ。それは、位取り記数法の値の集合を Stone空間と見ること、その実数表現が連続関数によって与えられることに気づくことを、その証明が含んでいるからである。 ==応用例== 1 の別表現としての 0.999… に関する一つの応用が初等整数論に見られる。1802年にグッドウィン (H. Goodwin) は、ある種の素数を分母とする分数では、循環小数表示したときに 9 が現れることを発表した。例えば、 1/7 = 0.142857142857…, 142 + 857 = 9991/73 = 0.0136986301369863…, 0136 + 9863 = 9999と書かれている。 ミディ (E. Midy) は1836年にこのような分数に関する一般的な結果を証明して、現在はミディの定理と呼ばれている。その論文は曖昧であり、彼の証明が直接 0.999… を含むかどうか定かではない。しかし、レーヴィット (W. G. Leavitt) による少なくとも一つの現代的な証明ではそれが含まれている。もし、0.b1b2b3… という形の小数が正の整数であることを証明できれば、それは 0.999… に他ならず、それがこの定理において 9 たちが出現する原因となる。この方向への研究は 最大公約数、剰余計算、フェルマー素数、群の元の位数、平方剰余の相互法則などの概念に動機付けを与える。 実解析では、3進法での類似表現 0.222… = 1 は最も単純なフラクタルの一つ、カントール三進集合 (the middle‐thirds Cantor set) の特徴づけに重要な役割を果たしている。 単位区間 [0, 1] の点は、3進法で 0 と 2 のみを用いて表現される場合に限りカントール集合に属するという。小数第 n 位の数字は、この構成における第 n 段階の点の位置に反映する。例えば、点 2/3 は通常の 0.2 または 0.2000… として表現される。なぜなら、それは最初の欠損部分の右側に位置し、それ以後のすべての欠損部分の左に位置するからである。また、点 1/3 は 0.1 ではなく 0.0222… として表現される。なぜなら、それは最初の欠損部分の左側に位置し、それ以後のすべての欠損部分の右側に位置するからである。 9 の繰り返しはカントールのもう一つの仕事にさえも現れる。彼が1891年に対角線論法を適用して単位区間 [0, 1] の非可算性の適切な証明を与えたことを考慮しなければならない。このような証明ではある2つの実数が小数表現において異なることを言明することが必要とされる。したがって、0.2 と 0.1999… のような組を避けなければならない。簡単な方法においては、すべての数を無限小数で表すが、それに対する方法では 9 が最後に連続することを排斥する。カントール独自の議論に近いといえる証明の変形では実際に2進表現を用いており、3進表現を2進表現に変えることによりカントール集合の非可算性を同様に証明することができる。 ==典型的な誤解とその原因== 数学を学ぶ生徒はしばしば 0.999… と 1 が等しいことを理解できない。極限の概念や無限小の性質が日常の感覚と大きく異なっていることがその理由とされる。その共通の要因として次のようなものがある。 生徒は「十進法以外の数字表記が存在しない」「一つの数はただ一通りの小数で表すことができるはずだ」と思い込んでいる場合が多い。表示が異なる2つの小数が等しいことが分かると、それが逆説であるように見える。見かけ上よく知られた数 1 の登場でその感がさらに強くなる。”0.999…”(または同様の表現)を、多いけれども有限の個数の ”9” の列(おそらく可変であり特定できない長さ)として解釈する生徒もいる。たとえ生徒が ”9” の無限個の列であることを受け入れたとしても、まだ最後の ”9” が「無限の彼方に」あると期待しているのかもしれない。直観やあいまいな教え方により、生徒は数列の極限を、一つの決まった値ではなくある種の無限操作と考えるようになる。それは数列の各項はその極限に達する必要はないからである。生徒が数列とその極限の違いを受け入れても、彼らは ”0.999…” を極限ではなく数列を意味するものと読む可能性がある。これらの考えは、通常の実数を扱う文脈においては誤っている。しかしながら、通常と異なる場面で適用するために発明された、もしくは、0.999… を理解するのに有益な反例としての、より精巧な数の体系構造においては、それらの考えの多くが部分的に正しいことが示される。 これらの要因の多くはデイヴィッド・トール (David Tall) 教授により発見された。教授は、自らが遭遇した大学生の誤解のいくつかについて、それを生徒に抱かせる原因となった指導法と認識の特徴を研究している。非常に多くの生徒がなぜ最初はこの等式を受け入れないのかを調べるために生徒を面接して、次のようなことを発見した。 「生徒は 0.999… を、決まった値ではなく 1 に限りなく近づく数列として理解し続けようとする。その原因は『先生は小数点以下の桁数がいくつあるかをはっきりと教えていなかった』という指導法の欠陥、または『0.999… は 1 より小さい数の中で、存在しうる、1 に最も近い小数である』という認識である。」初等的な証明の中で 0.333… = 1/3 の両辺を3倍する方法は、0.999… = 1 であることを容認できない生徒に受け入れさせるための、最も有効な手段であるかのように見える。しかしながら、第1の等式を信じることと、第2の等式を信じないことの矛盾に直面すると、今度は第1の等式を疑い始める者も現れるし(後述も参照)、または単に不満を抱くだけの生徒もいる。これより簡潔で有効な説明方法もなかなかない。厳密な定義を十分適用する能力のある生徒が、0.999… を含めてさらに進んだ数学の結果に驚いたとしても、なお直観的な想像に頼ってしまうことがある。例えば、ある解析学を学ぶ生徒は 0.333… = 1/3 であることを上限の定義を用いて証明することができるが、その後もなお、昔の筆算の理解に基づいて 0.999… < 1 であると主張した。別の生徒は、1/3 = 0.333… であることを証明することができるが、分数による証明に直面して「論理」が数学の計算を征服していると主張する。 ジョセフ・メイザー (Joseph Mazur) は別の才能豊かな微積分学の生徒について語る。その生徒は「私が授業で言ったことにはほとんどすべて異議を唱えるが、自分の使っている計算機には決して異議を唱えない」。さらに、23 の平方根を計算することも含めて、数学をするのに必要なのは 9 桁(程度)だと信じるようになった。その生徒は 9.999… = 10 であるという極限の議論に相変わらず不愉快な感じを抱いていたが、それは「乱暴な推測をする、無限概念の成長過程 (wildly imagined infinite growing process)」と呼ばれる。 エド・デュビンスキー (Ed Dubinsky) による数学学習の理論 (APOS theory) の一部分として、デュビンスキーとその共同研究者 (2005) は、0.999… を「1 から無限に小さい距離だけ離れている数を表す有限で不確定の文字列」であると思う生徒は「無限小数の構成過程の完全な概念がまだ形成されていない」と述べた。たとえ 0.999… の構成過程の完全な概念を身につけた生徒であっても、まだその過程を(すでに持っている ”1” の概念と同様の)一つの「対象」としてとらえ直すことができずに、0.999… という一つの過程と 1 という数の存在を矛盾するものととらえるかもしれない。デュビンスキーらはまた、「一つの対象としてとらえ直す」というこの精神的能力が、1/3 それ自体を数と見なしたり、自然数の集合それ自身を一つの対象として取り扱ったりすることと関係していると考えている。 ==メディアでの議論== インターネットの登場に伴い、0.999… = 1 に関する論争は教育現場だけでなく、ニュースグループや電子掲示板など、普段はあまり数学に関係のない場所でも話題となることがある。ニュースグループ sci.math では、0.999… に関する議論は「流行のスポーツ」であり、それは FAQ で回答された問題の一つである。その FAQ は 1/3 を用いる方法、10倍する方法、極限を用いる方法を簡潔に扱い、さらには同様にコーシー列にも言及している。 アメリカの新聞 Chicago Reader のコラム The Straight Dope の2003年版では、誤った概念に関して言及しつつ、1/3 や極限を通して 0.999… について次のように議論している。 「我々の中の類人猿的要素が、『0.999… は実際に数 を表しているのではなく、過程 を表している。一つの数を見つけるために我々はその過程を途中で断ち切らなければならない。その時点において 0.999… = 1 という概念は崩壊する。』と言って依然として抵抗している。ナンセンスだ!」The Straight Dope は「他の掲示板…ほとんどがビデオゲーム」から独立した専用の掲示板で議論を載せている。同様の調子で、0.999… の問題は、アメリカのゲーム開発会社ブリザード・エンターテイメントの Battle.net フォーラムで最初の7年間にとても一般的な話題であることが分かったため、社長の Mike Morhaime は2004年4月1日の記者会見で 0.999… = 1 であると発表した。 「我々はこの問題に対しきっぱりと決着をつけることに大変興奮しています。我々は 0.999… が 1 に等しいのか等しくないのかについての、心痛や心配に立ち会ってきました。ここに次の証明を提示し、我々の顧客に対して、最終的に断固としてこの問題に対処できることを嬉しく思います。」続くプレスリリースで、極限に基づくものと 10 を掛けるものの2つの証明を提供している。 ==関連する問題== ゼノンのパラドックス、とりわけアキレウスと亀のパラドックスは、見かけ上のパラドックス 0.999… = 1 を連想させる。アキレウスのパラドックスは数学的にモデル化され、0.999… と同じように等比数列を用いて解決される。しかしながら、この数学的な取り扱いがゼノンが探求していた潜在的な形而上の問題に対処しているかどうかは明らかでない。ただし、無限和の値(ここでは有限小数の無限和としての無限小数)は、部分和の極限(限りなく近づいていくが、決して到達しない点)によって定義されているので、この方法では、パラドックスを解決したことにはならない、という論議がある(総和、循環小数、循環論法を参照)。この点に留意すれば、0.999… = 1 であると言う帰結は、極限によって無限小数の値を定義した結果であり、必ずしも自明なことではない(その意味では前述の「第1の等式を信じることと、第2の等式を信じないことの矛盾に直面すると、今度は第1の等式を疑い始める」という態度は、一定の数学的なセンスのある姿勢だと見ることもできる)。そもそも無限に存在する値を全て足し合わせることができるのか、と言う問いは未解決であり(現代数学では定義として処理されている。公理的集合論を参照)、0.999… = 1 やゼノンのパラドックスと言った話題がそのことを想起させてくれる恰好の題材であることは確かであろう。0 による除算は 0.999… のいくつかの一般的な議論に見られるが、それもまた論争を引き起こす。多くの著者が 0.999… を定義することを選択する一方で、実数の現代的な取り扱いでは 0 による除算は定義されない。というのは、それが通常の実数の範囲では意味を与えられないからである。しかしながら、0 による除算は複素解析など他の体系では定義されている。複素解析では、拡張された複素平面(リーマン球面)は無限遠点をもつ。ここで、1/0 を無限大であると定義することには意味がある。また、実際その結果は奥深く、工学や物理学にも応用できる。何人かの著名な数学者は、どの数体系も発達するずっと前からそのような定義を論じていた。冗長な数表記の類例として負の 0 が挙げられる 。実数などの数体系においては、”0” は加法に関する単位元を意味し、正の数でも負の数でもない。通常 ”−0” は加法に関する 0 の逆元を表すと解釈されるため、−0 = 0 でなければならない。それにもかかわらず、いくつかの科学的な応用では、正と負の 0 を分けて用いる。これはいくつかのコンピュータの数体系(例えば符号付数値表現、1 の補数表現、IEEE 754 で定義されたような浮動小数点表示)でもそうである。IEEE の浮動小数点数の場合は、負の 0 は、与えられた正確な数値を表すには(絶対値が)小さすぎるが、それでもなお負の数である値を表している。したがって、IEEE 浮動点数表示における「負の 0」は本来の意味で”負の 0” ではない。 ==関連項目== 循環小数十進法1/3 六進法:1/3が0.2となって割り切れる。 十二進法:1/3が0.4となって割り切れる。六進法:1/3が0.2となって割り切れる。十二進法:1/3が0.4となって割り切れる。超準解析実数実数の連続性コーシー列デデキント切断1/2 + 1/4 + 1/8 + 1/16 + …: 0.999… と同じく、1 に等しい数式。 =赤血球= 赤血球(せっけっきゅう、英: Red blood cell あるいは Erythrocyte)は血液細胞の1種であり、酸素を運ぶ役割を持つ。 本項目では特にことわりのない限り、ヒトの赤血球について解説する。 ==概要== 赤血球は血液細胞の一つで色は赤く血液循環によって体中を回り、肺から得た酸素を取り込み、体の隅々の細胞に運び供給する役割を担い、また同様に二酸化炭素の排出も行う。赤血球の内部には鉄を含む赤いタンパク質ヘモグロビンが充満しており、赤血球はヘモグロビンに酸素を取り込む。大きさは直径が7‐8μm、厚さが2μm強ほどの両面中央が凹んだ円盤状であり、数は血液1μLあたり成人男性で420‐554万個、成人女性で384‐488万個程度で血液の体積のおよそ4‐5割程度が赤血球の体積である。標準的な体格の成人であれば全身におよそ3.5‐5リットルの血液があるため、体内の赤血球の総数はおよそ20兆個であり、これは全身の細胞数約60兆個の1/3である。体内の細胞にくまなく酸素を供給するために膨大な数の赤血球が存在する。骨髄では毎日2000億個弱程度の赤血球が作られているが、その寿命は約120日で、120日の間におよそ20‐30万回に渡って体を循環して酸素を供給し、古くなると脾臓や肝臓などのマクロファージに捕捉され分解される。赤血球は体の隅々の細胞にまで酸素を供給するため、柔らかく非常に変形能力に富み、自分の直径の半分以下の径の狭い毛細血管にも入り込み通過することができる。 赤血球は成熟する最終段階で細胞核やミトコンドリア・リボゾームなどの細胞内器官を遺棄する。酸素の運搬には不要な細胞核や酸素を消費するミトコンドリアを捨て去り、乾燥重量の約9割がヘモグロビンである赤血球はいわばヘモグロビンを閉じ込めた柔軟な袋であり、ヘモグロビンによる酸素運搬に特化した細胞といえる。ミトコンドリアを持たないため、細胞の活動に必要なエネルギーは嫌気性解糖系と呼ばれる酵素によって糖(グルコース)を分解して得る。 ==構造と機能== 赤血球の役割は酸素と二酸化炭素の運搬であり、その構造は表面の赤血球膜と内部の細胞質に分けられるが、赤血球細胞膜を通して酸素と二酸化炭素が交換され、細胞質のヘモグロビンと酵素の働きで酸素と二酸化炭素は輸送される。 通常の細胞が持つ核などの細胞内器官を捨て去っているため、細胞質は水とヘモグロビンで容積のほとんどを占め、それ以外は解糖系やペントースリン酸経路に関わる酵素、炭酸脱水酵素、グルコース、炭酸、Na, Ca, K, Cl などのイオンなどわずかであり、正常な赤血球の細胞質には顕微鏡観察で目に付く構造はない。 形状は両面中央が凹んだ円盤状であるが、それは同じ体積の球に比べ表面積が30‐40%大きく、その大きな表面積のため酸素・二酸化炭素の交換が球状の場合よりも有利であると考えられている。また赤血球は毛細血管では折り曲げられたり変形したりして通過するが、球に比べて両面が凹んだ円盤状だと体積に比べ表面の赤血球細胞膜に余裕があるため、変形のひずみの力に対して細胞膜にかかる力が小さくなると考えられている。 成熟した赤血球は、通常の細胞が持つ核やミトコンドリア、リボゾーム、ゴルジ体、小胞体などを捨て去り、酸素の輸送に特化した細胞であるので、細胞の運動能やタンパク質・脂質の合成能を持たず、通常の細胞のようには多くのエネルギーを必要としない(そのために酸素を消費してエネルギーの産出を担うミトコンドリアを捨て去ることができる)。しかし、赤血球でも ATP を用いての陽イオンの輸送や細胞膜やヘモグロビンなどの各タンパク質の維持のために(通常の細胞よりは少ないものの)エネルギーを必要とする。エネルギーはグルコースを分解することで得られるが、グルコースの90%は嫌気性解糖系と呼ばれる多数の酵素による ATP合成経路であるエムデン‐マイヤーホフ経路によって消費され ATP を産出する。この ATP は Na や K などの陽イオンの輸送や膜タンパクのリン酸化、解糖系自身の維持などに使われる。残りのグルコース10%は NADPH を産出するためにペントースリン酸経路を経由することで消費される。NADPH はヘモグロビンなどの各タンパク質が酸化されることを防ぎ、保護する。 ===ヘモグロビンと酸素・二酸化炭素輸送=== ヘモグロビンは赤血球細胞質の主要な構成物質であり、肺から全身へ酸素を運搬する役割を担っているタンパク質である。 ヘモグロビンはポルフィリン核に鉄を持つ4つのヘムと4つのグロビンからなり、ヘムは中心に1つの鉄原子を持ち、酸素1分子を結合することができるので、ヘモグロビン1分子で4個の酸素分子と結合することができる。標準的な体格の成人が持つ赤血球に含まれるヘモグロビンの総量は約750g であり、1gのヘモグロビンは酸素 1.39mL と結合することができるので、総量としておよそ 1L の酸素と結合することができる。 赤血球の幼若な段階である赤芽球には豊富なミトコンドリアやポリリボソームが存在し、それらによって赤芽球は盛んにヘモグロビンの合成を行い、細胞が成熟するにつれて細胞質はヘモグロビンで充填されていくが、赤血球成熟の最終段階でミトコンドリアやポリリボソームが抜け落ち、成熟し完成した赤血球ではもはやヘモグロビンの合成は行われない。 赤芽球のミトコンドリアではヘムの骨格を成すポルフィリン環が作られ、ポルフィリン環に鉄原子が組み込まれてヘムが作られる。一方、mRNA に複数のリボソームが連結したポリリボソームはアミノ酸を組み立ててたんぱく質であるグロビンを作る。 ミトコンドリアが作ったヘムとポリリボソームが作ったグロビンが細胞質内で出会い、ヘモグロビンになる。 成熟した赤血球は骨髄から血管内に移動し、血液循環によって肺から組織・組織から肺を巡る。組織内では細胞の活動により二酸化炭素が発生し血漿や組織液に溶け込んでいるが、細胞膜を通して二酸化炭素は赤血球内に取り込まれる。赤血球内で二酸化炭素 (CO2) と水 (H2O) は炭酸脱水酵素によって重炭酸イオン (HCO3) と水素イオン (H) になり、水素イオンが増加することにより酸性が強くなった赤血球内では、酸素とヘモグロビンが結びついたオキシヘモグロビンから酸素分子が遊離し、細胞膜を通って体細胞に酸素が供給される(ボーア効果)。酸素を放出したヘモグロビンは水素イオンと結びついて赤血球内が極端に酸性に傾くのを防ぐ。 血液中の二酸化炭素のほとんどは赤血球内に取り込まれ、二酸化炭素の約70%は赤血球内の炭酸脱水酵素によって重炭酸イオンに変換され、重炭酸イオンの多くはバンド3 (band 3) と呼ばれる赤血球膜を縦貫する膜輸送たんぱく質によって塩素イオンと交換に赤血球外に出され血漿に溶け込んで肺に循環する。二酸化炭素の15‐20%は酸素を放出したヘモグロビンに結びつきカルバミノヘモグロビンとして赤血球により肺に運ばれ、約10%はそのまま血漿に溶け込んで肺に循環する。 人の場合だと肺では酸素分圧はほぼ 100mmHg であり二酸化炭素はほとんどないので赤血球の酸素飽和度はほぼ100%になる。酸素を含んだ赤血球は組織に循環するが、組織内の酸素分圧は組織によって違い、一般的な組織内では 40mmHg、活動中の筋肉内では 20mmHg 程度になる。酸素分圧の差でも赤血球は酸素を放出するが二酸化炭素が存在せず酸素分圧の差のみであると、赤血球は持っている酸素の内 10‐30% 程度しか赤血球外へ放出できない。しかし組織内に二酸化炭素が発生していると二酸化炭素が炭酸に変換されることで pH が低下し、pH の低下によっておきるボーア効果で赤血球は大半の酸素を放出することができるようになる(右上図も参照のこと)。 酸素に富み二酸化炭素の少ない肺では、赤血球は逆の行程で重炭酸イオンを二酸化炭素に戻して吐き出し、酸素を取り込む。つまり、二酸化炭素の少ない肺では赤血球内の二酸化炭素が出て行くが、赤血球内の二酸化炭素濃度が下がると炭酸脱水酵素は組織内のときとは逆に水素イオンと重炭酸イオン (HCO3) から二酸化炭素 (CO2) と水を生成して、赤血球内の細胞質の pH は上昇する。また赤血球内の重炭酸イオンが減少したことで赤血球外の重炭酸イオンが塩素イオンと交換で取り込まれ、二酸化炭素に変換されて再び放出される。pH が上昇した赤血球内では酸素を取り込みやすくなり、もともと酸素に富んだ肺組織内であるのでヘモグロビンはいっぱいに酸素を取り込む。酸素飽和度が上がった赤血球は、再び末端の組織細胞に酸素を運搬する。 過剰な酸素は細胞を傷つけるが、赤血球に酸素を取り込み末端組織内で酸素を吐き出す過程では二酸化炭素の存在によって酸素が供給されるので、二酸化炭素の濃度が濃い(一般に活動の盛んな細胞ほど二酸化炭素の排出が多い)ほど赤血球が供給する酸素の量が増えてくるので酸素を必要とする細胞に必要とする適量の酸素を供給することができる。この点が液体に酸素を溶かし込んで供給するシステムとの大きな違いである。 ===ヘモグロビンの酸素親和性の調節=== ヘモグロビンの酸素親和性の調節では前述のように血液循環で肺と組織を巡る間で H の作用(pH の変化)によるボーア効果によって酸素の親和性が変化し赤血球は二酸化炭素の少ない肺では酸素を取り込みやすく、二酸化炭素が発生している組織内では酸素を放出しやすくなる。だが、ヘモグロビンの酸素親和性の調節には pH の変化だけでなく 2,3‐BPG(2,3‐ビスホスホグリセリン酸あるいは 2,3‐DPG 2,3‐ジホスホグリセリン酸とも表記する)も関わる。 精製したヘモグロビンは赤血球中のヘモグロビンよりも酸素親和性が高い。赤血球には 2,3‐BPG が含まれるが 2,3‐BPG はヘモグロビンの酸素親和性を弱める。人が空気の薄い高山に行くと酸素不足状態に陥るが、1日ほどで相当に適応することができる。高地に行き低酸素状態になると数時間ほどで血液中の 2,3‐BPG濃度が上昇し酸素親和性が低下する。酸素親和性の低下は肺でよりも組織内での効果が大きく、そのため組織内での酸素放出量を増やすことができる。人では高地適応の例だけではなく、貧血や心不全・呼吸不全などによる低酸素血症でも、2,3‐BPG濃度を上昇させて血液の低酸素状態に対してある程度の対応を行うことができる。 胎児の赤血球に含まれるヘモグロビンFは成人のヘモグロビン(ヘモグロビンA)よりも 2,3‐BPG に対する結合が弱く、そのため酸素親和性が高い。これは胎盤内で母親側から酸素を受け取らなければならないために、胎児のヘモグロビンは母親のヘモグロビンよりも高い酸素親和性が必要なためである。 ===赤血球細胞膜=== 赤血球は自分の直径の半分以下の径の微小な毛細血管にも入り込まなければならないので非常に柔軟な変形能力を持ち、また120日間の寿命の間、絶えず循環し繰り返しの変形に耐える安定性が求められる。その赤血球を構成している赤血球細胞膜は、主にリン脂質が隙間なく並んだ層が二重の層を形成している膜脂質二重層と、鎖状のタンパク質が網状に連結され細胞膜を裏打ちして支持している膜骨格、脂質二重層と膜骨格の連結し保持する膜縦貫タンパク質やアンカータンパク、細胞膜を貫通し物質の細胞内外の交換の役割を果たすポンプ・キャリア・チャネルと呼ばれる膜縦貫タンパク質や情報のやり取りのためのレセプター、表面を産毛のように覆い細胞間の情報伝達や、他の細胞との接着・分離にも関係する糖鎖などからなっている。 ===膜脂質二重層=== 親水性のリン酸部分の頭部に疎水性である脂肪酸が2本の尾部が付いたのがリン脂質分子である。赤血球の内外は主に水で満たされているのでリン脂質分子は頭部を外側に、水に反発する尾部を内側に厚さが 3.5‐5.6nm程度の厚さの二重層を自発的に作って並ぶ(右の各図で丸い頭に2本足で描かれているのがリン脂質分子で、それが無数に並んでいるのが二重層である)。二重層の両外側は親水性なので膜全体は赤血球内外の環境になじみ、内側には疎水性の脂肪酸が充満しているので細胞の内外をしっかり遮断することができる、単位時間、単位面積あたりに透過する水分子の数は少ない。このリン脂質二重層は電気的に中性で極めて小さな分子、例えば酸素分子や二酸化炭素分子は通すが、極性を持つ水分子は通りにくく、大きな分子やイオンは通ることができない。 リン脂質分子同士の結合は緩いので、各リン脂質分子はリン脂質二重層の中を横方向に自由に移動することができ、細胞の変形や細胞分裂などでも2重層構造が破けることはない、さらに血漿中のリン脂質分子が脂質二重層に入り込んだり、逆に血漿中に抜け出ることも可能である。また脂質2重層を貫通している膜縦貫タンパクやレセプターなども膜脂質二重層上を移動することができる(膜骨格にアンカーされているものは膜骨格の自由度の範囲内で動ける)、実際、マウスとヒトの細胞を融合させる実験では細胞膜上の分子は移動しマウス由来の分子とヒト由来の分子が混ざり合うことが確認されている。 このリン脂質分子はリン酸の先に付いた分子によりホスファチジルコリン (PC)、スフィンゴミエリン (SM)、ホスファチジルエタノールアミン (PE)、ホスファチジルセリン (PS) などがあり、赤血球の膜脂質二重層では PC が21%、PS と PE が併せて29%、SM が21%、コレステロールが26%、他が数%で構成される。 並んだリン脂質分子の間にコレステロールが入り込むと分子が動ける自由度は低下し、膜は硬くなり柔軟性が弱くなる。膜脂質二重層の多くの部分ではコレステロールは多くはないのでリン脂質分子は比較的自由に動けるが、次に解説する膜脂質ラフト部分ではリン脂質の間に入り込んだコレステロールが非常に多くなる。 これらの PC や PS, PE, SM などは二重層の外側(血漿側)と内側(細胞質側)で分布にムラがあり、外側には PC, SM と糖脂質が多く、内側には PE, PS が多く非対称分布を成している。リン脂質分子の膜の表裏間の移動(フリップフロップ)は3種類の酵素が関わっており、flippase は PE、PS を膜の外側(血漿側)から内側(細胞質側)に移動させ、floppase はすべての脂質分子を内側から外側に移動させ、scramblase はすべての分子を両方向に混同する。これらの酵素の働きによって膜内外のリン脂質の非対称分布がなされていると考えられている。非対称分布の一つの理由として、主なリン脂質の中で PS は陰性荷電を持ち、細胞質内のタンパク質が持つ陽性荷電と相互作用しやすいことが細胞膜の機能に好都合であるからだと考えられている。 リン脂質二重層膜上には他の部分より少し厚さが厚く少し硬い脂質二重層上を移動することができる領域があり、海に浮かぶ筏に例えられ脂質ラフト (Lipid Raft) と呼ばれている。ラフト部分ではリン脂質は主にスフィンゴミエリン (SM) で構成され、SM分子の間にコレステロール分子が非常に多く入り込んで分子間の結合を強化している。スフィンゴミエリンの脂肪酸部分は PC や PS, PE より長いのでラフトは若干厚さを増し、コレステロールが分子間結合を強化するので硬くなる。ラフトでは SM とコレステロールの他に、膜縦貫タンパクやレセプター、糖脂質なども多く存在している。多くの積荷を積んだ筏のようなイメージでラフトと通称されているが、通常の脂質二重層もラフトも、どちらもリン脂質を主要構成分子にしている点は海上に浮かぶ筏とは違う。ラフトの直径は数十nm 程度で赤血球膜状には多数あり、タンパク質や糖鎖など多種の分子を多く載せているラフトは赤血球の機能に大きく関わっている部分だと考えられている。 ===膜骨格=== α鎖スペクトリン (Spectrin) と β鎖スペクトリンが連結した一本の線状のタンパク質が並んで2本絡まった長さ 200nm のひも状のタンパク質(α鎖2本β鎖2本の4量体スペクトリン)が、4.1タンパク (Band4.1) やアクチン (Actin) などのタンパク質によって連結され網状になり脂質二重層に接するように存在するのが膜骨格である。スペクトリンは収縮性に富み、伸びきると4量体で 200nm の長さが普段はスプリングのように40nm程度に収縮し、その収縮したスペクトリンが網状に連結された膜骨格はアンキリン (Ankyrin) や4.1タンパクによって膜縦貫タンパク質・バンド3タンパク (Band3) やグリコフォリン (Glycophorin) に結合され脂質二重層にぶら下がるように接している。 この膜骨格は赤血球が狭い毛細血管に入り込むときに変形するとスプリングが伸びたような状態で赤血球の変形に対応し毛細血管をくぐり抜けた後には収縮して赤血球の形を保つ。この脂質二重層の細胞膜を膜骨格が裏打ち補強している構造が赤血球膜の柔軟性と安定性をもたらしている。 ===表面タンパク=== 赤血球の役割は酸素や二酸化炭素の輸送であり、そのために赤血球膜では酸素 (O2) と二酸化炭素 (CO2)、重炭酸イオン (HCO3) の交換が重要であり、また細胞の維持に必要なグルコースや各イオンなどの交換も重要である。 赤血球膜縦貫タンパク質であるバンド3は一つの赤血球に120万個あり赤血球膜縦貫タンパク質では最も多いが、赤血球膜に適度な間隔をおいて存在し、脂質二重層と膜骨格のアンカーの役とともに重炭酸イオンと塩素イオンの交換や一部の有機物の輸送を行っている。グルコースやナトリウムイオン、カリウムイオン、カルシウムイオンなどはその他の赤血球膜縦貫タンパク質によって輸送され、酸素分子や二酸化炭素分子などの電気的に中性で小さな分子は脂質二重層を直接通過する。 (adenosine triphosphatase) (anion exchange protein) (glucose transporter) (aquaporin) 上記以外にも多くのトランスポーターやレセプターが赤血球膜にはあることが報告されている。 また、これらの赤血球膜縦貫タンパク質は血液型抗原にも関係している。一例では AB型はバンド3 とバンド4.5タンパクの赤血球膜外構造である糖鎖構造が抗原になっている。 また、物質輸送には関わらないが、赤血球膜状には膜貫通タンパク質であるグリコホリンが100万個ほど存在する。赤血球膜上ではバンド3についで多いタンパク質であるが、グリコホリンの細胞質側は膜骨格に連結されアンカーの役を果たし、赤血球外面に出た部分には大量の糖鎖を有している。糖鎖の先端にはシアル酸があり、シアル酸は COOH基を持つために陰性荷電しているので同じく陰性荷電している赤血球同士や血管内皮細胞との接着を防いだり、同じく陰性荷電している細菌の侵入を防ぐ働きを持っている。 ※バンド4.1 や 4.5 などは名称は似ているが、電気泳動分析のバンド番号であり、分子量による命名であって、それぞれは異なるタンパク質である。 ==生成と破壊== ===生成=== 造血幹細胞から分化し始めた幼若な血液細胞は盛んに分裂して数を増やしながら少しずつ分化を進めていく。最終的に赤血球に分化・成熟する場合は造血幹細胞、骨髄系幹細胞(骨髄系前駆細胞)、赤芽球・巨核球系前駆細胞、前期赤芽球系前駆細胞 (BFU‐E)、後期赤芽球系前駆細胞 (CFU‐E)、前赤芽球、好塩基性赤芽球、多染性赤芽球、正染性赤芽球、(網赤血球)、赤血球と成熟していく。 骨髄系幹細胞(骨髄系前駆細胞)、赤芽球・巨核球系前駆細胞、前期赤芽球系前駆細胞 (BFU‐E)、後期赤芽球系前駆細胞 (CFU‐E) などの前駆細胞の段階では、細胞は非常に活発に細胞分裂して数を増やすが、顕微鏡による形態観察では赤血球系との判別は困難である。 前赤芽球の段階から形態的にも赤血球への分化の方向がはっきりしてくる。赤血球系と判別できるようになった前赤芽球から多染性赤芽球までの細胞も前駆細胞ほど盛んではないが細胞分裂能を持ち、1つの前赤芽球は多染性赤芽球の段階までに3‐4回細胞分裂を起して8‐16個の細胞に増える。 前赤芽球は直径が 20‐25μm で前の段階の前駆細胞より大きくなり、赤血球への分化・成熟の段階で一番大きい細胞であり、顕微鏡観察で赤血球への分化の方向が明らかな最初の段階の細胞であり、核構造は繊細で、細胞質は塩基性が強く、リボゾームが多い。 好塩基性赤芽球では大きさは前赤芽球より小さくなり(この後の段階でさらに小さくなり続ける)16‐18μm ほどであり、前赤芽球ほどではないが細胞質は塩基性であり、核構造はやや粗くなる。 多染性赤芽球ではヘモグロビンの合成が開始され、ヘモグロビン量が増えるにつれ細胞質の塩基性は弱くなり、細胞はさらに小さくなり、核構造は凝縮しさらに粗くなる。この段階でも弱いながらも細胞分裂能を残している。 正染性赤芽球では細胞分裂能は失われ細胞核は凝縮し細胞質は赤血球に近くなる。直径は 10‐15μm でやがて細胞核が脱落して赤血球に成熟する。 これらの幼若な段階の細胞、造血幹細胞、前駆細胞、赤芽球は骨髄にのみ存在する。骨髄にはバリアがあり、幼若な血液細胞は骨髄から出ることができず、脱核して赤血球になって初めて血液中に出ることができるため、通常は末梢血では有核の赤芽球は観察されない。 正染性赤芽球から核が脱したばかりの若い赤血球では、まだリボゾームが残っており、ニューメチレンブルーによる超生体染色を行うとタンパク質と RNA の複合体であるリボソームがその他の細胞内小器官を巻き込みながら網状に凝集し、凝集したリボソームの RNA が青く染まり、顕微鏡観察では網状に見えるので網赤血球と呼ぶ。網赤血球の段階でも 10%‐30% ほどのヘモグロビンが合成される。網赤血球は骨髄内に2日ほど留まり、その後血液中に移動して1‐2日ほどでリボソームやミトコンドリアが抜け落ちて成熟し完成した赤血球になる。通常、網赤血球は赤血球の 0.5‐1.5% 程度であるが、造血が盛んになると若い出来立ての赤血球である網赤血球の割合が増え、骨髄での造血機能が衰えると網赤血球の割合が減る。 赤血球は骨髄で造血幹細胞から作られるが、その分化・成熟には骨髄においてマクロファージが大きく関わっている。骨髄において、赤血球の幼若な段階である赤芽球はマクロファージを中心にその回りを取り囲むように数個から数十個が集団で寄り集まっている。中心に存在するマクロファージは赤芽球に接し、ヘモグロビンの合成に不可欠な鉄や細胞の生育に必要な物質を供給し、成熟をコントロールし、また脱核させた核の処理や、不要になった赤血球細胞の除去にも関与している。この、骨髄内においてマクロファージを中心に赤芽球が集まり、赤血球の形成に関わっている細胞集団を赤芽球島もしくは赤芽球小島という。 ===胎児における造血=== 以上で説明しているのは出生後のヒトの造血であるが、胎児の造血は出生後とは様相が違う。まずは胎生15‐18日頃に卵黄嚢において一次造血が始まり胚型赤血球が産出される。胚型赤血球は胎生4週以降血液循環を行って酸素を運搬する。一次造血で産出される胚型赤血球は胎生5‐6週頃から始まる二次造血による胎児型赤血球および成体型(出生後の)赤血球とは大きく異なる。胎生初期に卵黄嚢で作られる胚型赤血球は胎児型赤血球および成体型赤血球と比べて4‐5倍の大きさがあり、成熟しても脱核はせず有核である。形態的には赤芽球に似るが、胚型赤血球のヘモグロビンは胎児型ヘモグロビンとも出生後の赤血球のヘモグロビンとも違うものである。この胚型赤血球は胎生10週頃には消滅する。ヒトでは胎生5‐6週目辺りから肝臓での造血が始まる。この肝臓で始まる造血で生み出される赤血球は成人の赤血球と同じ造血幹細胞から産出され、同じ大きさ・構造であり、赤血球の細胞核は脱核する。この胎児型赤血球はヘモグロビンこそ主として胎児型ヘモグロビンで成体型とは違うものの出生後の造血に直接繋がるものであってこれを二次造血という。肝臓での造血は3‐6ヶ月頃は造血の中心であり、胎生6‐7ヶ月で肝臓での造血はピークに達する。また脾臓での造血も加わる。これらの肝臓・脾臓での造血はピークを迎えた後に減少し出生時には終了する。骨髄での造血は胎生4ヶ月頃から始まり徐々にその役割を増していく。6‐7ヶ月以降は骨髄が造血の中心となり出生時には唯一の造血器官となる。胎児の赤血球では妊娠のごく初期には胚型ヘモグロビンを含むが、まもなく胎児の赤血球は胎児型ヘモグロビン (HbF) を含むようになる。妊娠期間の大部分では胎児の赤血球のヘモグロビンは胎児型ヘモグロビン (HbF) が大半を占め、成体型ヘモグロビン (HbA) はわずかであるが、出生が近づいていくにつれ成体型ヘモグロビン (HbA) は急激に割合を増していく。妊娠中期にはヘモグロビンのほとんどを占めていた HbF は、出生時にはヘモグロビンの60‐80%になり、あるいは別の資料では妊娠末期の臍帯血のヘモグロビンでは平均で83%が HbF であるとされるが、出生後には急激に HbA に置き換わっていき、生後6ヶ月では HbF は3%程度まで減り、成人のヘモグロビンでは HbA が97%、HbA2 が2%、HbF は1%以下の割合になる。HbF は HbA より高い酸素親和性を持ち、胎内での低い酸素濃度下での酸素運搬に適している(HbA は酸素濃度の高い環境(肺呼吸)での酸素運搬に適している)。 ===エリスロポエチン=== 骨髄では1日あたり2000億個弱の赤血球を生み出すが、骨髄にはこれの3‐5倍の赤血球産出能力があり、貧血などで低酸素状態になると赤血球の産出は盛んになる。造血幹細胞から赤血球などの血液細胞の分化・増殖には40種類以上の因子が関わるが、とくに赤血球の増殖にはエリスロポエチン (EPO) が大きく関わる。エリスロポエチンは分子量約34kDa の糖蛋白質であり主に腎臓(一部は肝臓)で産出される。貧血や慢性の肺疾患、空気の薄い高地での生活などで慢性の低酸素状態になると腎臓ではエリスロポエチンを盛んに産出するようになる。赤血球の造成の途中の段階である CFU‐E(後期赤血球系前駆細胞)は非常にエリスロポエチンの感受性が高くエリスロポエチンを受け取ると細胞分裂能を高め、赤血球の数的増加に結びつく。やがて赤血球の数量が増え、貧血などの低酸素状態が改善されると腎臓ではエリスロポエチンの産出が減少し、したがって骨髄での赤血球産出も落ち着くようになる。しかし慢性腎不全などで腎臓の機能が低下している患者では EPO の産出が減り、貧血になっても赤血球の産出が亢進されず貧血が改善されない。 ===破壊=== 赤血球は血液中で約120日働くと老化し、老化した赤血球は脾臓でマクロファージに捕捉・貪食され分解される。分解された赤血球の構成材のアミノ酸の多くや鉄は回収され再利用されるが、ヘムの分解代謝物であるビリルビンは胆汁もしくは尿として排出される。 赤血球が老化すると嫌気性解糖系のエネルギー産出が衰え、そのために細胞膜上の Na, K ATPaseタンパク質や Ca ATPaseタンパク質が働かなくなりイオンバランスが崩れるため細胞質は水分が減少し赤血球の変形能も衰えてくる。すると老化赤血球は脾臓や肝臓・骨髄の血管内に張り巡らされている網内系と呼ばれる血管内腔を覆う細網細胞と付随する細網線維による網目構造状の組織につかまるが、そこには老化赤血球を捕捉・貪食するマクロファージが待ち構えている。 赤血球の細胞膜に存在する膜縦貫タンパク質であるバンド3 は若い赤血球では間隔を空けて存在し、バンド3 から赤血球表面に露出している糖鎖には、それに対応する自然抗体(抗バンド3IgG抗体)が存在するが、この自然抗体はバンド3 の糖鎖が十分な間隔を置いている場合(単独の糖鎖)には親和性が低く結合することができない。しかし、赤血球が老化してくるとヘモグロビンの酸化物(この酸化物は、ヘムに酸素を取り入れたオキシヘモグロビンではない)が増え、ヘモグロビン酸化物はバンド3 の細胞質側に結合する。さらにバンド3に結合したヘモグロビンの酸化物はお互いに架橋し、バンド3 を凝集させる。バンド3 が凝集すると細胞表面の糖鎖も凝集し、凝集した糖鎖は抗バンド3IgG抗体との親和性が高いので抗体が結合することができるようになる。脾臓には抗バンド3IgG抗体に対するレセプターを持つマクロファージが存在し、凝集糖鎖に抗バンド3IgG抗体が結合した老化赤血球はマクロファージに容易に認識・捕捉されるようになる。このような過程で老化した赤血球は取り除かれると考えられている。 また、若い赤血球では脂質2重層を構成するリン脂質であるホスファチジルセリン (PS) は2重層では赤血球膜内面・細胞質側に多く存在するが、赤血球が老化し嫌気性解糖系のエネルギー産出が衰えてくるとホスファチジルセリンを膜内面側に移動させていた酵素flippase の働きも衰えホスファチジルセリンは膜表面に多く現れる。この赤血球膜外面側表面に多く現れたホスファチジルセリンもマクロファージによる貪食の標的になると考えられている。 ==赤血球と臨床== ===赤血球に関する基準値=== 赤血球に関する一般的な項目の基準値を挙げる。 赤血球数 男性420‐554万個/μL 女性384‐488万個/μLヘモグロビン濃度 (Hb) 男性13.8‐16.6g/dL 女性11.3‐15.5g/dL(基準下限値を下回ると貧血とされる)ヘマトクリット(Ht:赤血球容積率)男性40.2‐49.4% 女性34.4‐45.6%(血液の濃さであり、貧血で数字は小さくなる)MCV(赤血球1個の容積)76‐96fL(赤血球の大きさであり、ヘマトクリット÷赤血球数で求められる。鉄欠乏性貧血では小さくなる)MCH (en)(赤血球1個あたりのヘモグロビン量)27‐35pg(ヘモグロビン濃度÷赤血球数で求められる)MCHC (en)(赤血球容積に対するヘモグロビン量)29.7‐34.7g/dL(ヘモグロビン濃度÷ヘマトクリットで求められる)比重 1.090‐1.120 (血漿の比重は1.024‐1.030なので、試験管の中で長時間放置、あるいは遠心分離を行うと下に沈殿する)HbA1c(グリコヘモグロビン)4.3%‐5.8%(ヘモグロビンにグルコース(血糖)が結び付いたものであり糖尿病で高値になる) ===血液型=== 赤血球の表面には250種以上の表面抗原があるが、A/B型抗原はその代表的な抗原である。赤血球の表面にA抗原があるとA型、B抗原があるとB型、AとB、両方の抗原があるとAB型、両抗原がないとO型とする。逆に血漿中には各抗原に反応する抗体があり、通常A型の血漿中には抗B抗体があり、B型の血漿中には抗A抗体があり、AB型の血漿中には抗A抗体も抗B抗体のどちらもなし、O型の血漿には抗A抗体と抗B抗体両方が存在する(血漿中の抗体を調べることで血液型を判定することを裏試験ともいう)。 表面抗原に、それぞれ対応する抗体が反応すると赤血球は凝集してしまう。 ===重要な栄養素=== 他の細胞と同様に、赤血球は、水やタンパク質あるいは脂質といった物質から構成されている。一方で一部の微量な栄養素が、赤血球を生成する上で重要な役目を担っているとされる。特に体内で合成することのできない鉄、ビタミンB12、および葉酸は臨床上重要な栄養素とされる。 成人の体内には 3‐4g の鉄があるがその2/3はヘモグロビンの構成材として赤血球中にあり、古くなった赤血球は脾臓や肝臓で壊されるが、その際に鉄は回収され、失われるのは1日あたり数mg に過ぎない。しかし、出血などで鉄を多く失うとヘモグロビンの合成に必要な鉄分が不足し、赤血球は小型の物になる(小球性貧血)。 ビタミンB12 はコバルトを含むビタミンの総称で、ある種のバクテリアしか生産することはできないが、食物連鎖によって動物は十分な量の B12 を体内に持っており、ヒトも肉類、魚類、乳製品などの動物性食品を食することで B12 を取り入れるので普通の状態では体内に数年分の量の B12 を貯えている。B12 は食物ではタンパク質と結び付いているが、胃酸によってタンパク質から遊離し、胃壁から分泌される内因子 (IF) と B12 とが膵液の作用によって結び付くことで B12 は回腸から吸収されるようになる。したがって胃の切除者、萎縮性胃炎での内因子分泌障害(悪性貧血)などで内因子が不足したり、あるいは腸の吸収障害、あるいは極端な菜食主義者などでは数年ののちに B12 は不足する。B12 が不足すると細胞の DNA の合成が障害されて、赤血球系造血では巨赤芽球(その名の通り巨大な赤芽球)が産生され、それは正常な赤血球に分化できないため無効造血となり巨赤芽球性貧血に陥る。 葉酸はレバー、緑黄色野菜、果物などに含まれている水溶性ビタミンであるが、B12 と共に働いて赤血球の成熟に関わる。通常では葉酸は食物から酵素の働きで空腸から吸収され、体内に数か月分の量が貯えられているが、何らかの理由で不足すると B12 の不足と同様に赤血球は DNA の合成が阻害され、正常な成熟ができずに巨赤芽球性貧血になる。 ===赤血球の変形=== ====浸透圧による変形==== 赤血球は外部からの力が掛からずとも、様々な要因で変形することがある。赤血球膜には水分を効率的に輸送する輸送タンパク質アクアポリンがあり、浸透圧の低い、例えば真水に赤血球を入れると赤血球は水を吸収して膨らみ、赤血球膜が膨張の圧力に耐えられなくなると終いには破裂する(溶血)。逆に濃い塩水中などでは赤血球は水分を失う。人の生理食塩水(等張液)は0.9%だが、正常な赤血球は食塩水では濃度0.5%が溶血するかしないかのギリギリの濃度である。0.48‐0.5%で溶血し始め、0.4‐0.42%で50%が溶血し、0.33‐0.35%ですべて溶血する。遺伝性球状赤血球症などのように赤血球膜に異常があり脆弱であると、膨張に耐える力が弱いためにより容易に溶血する。 ===疾患による変形=== ウニ状赤血球またはコンペイトウの様な形状の有棘赤血球は解糖系酵素異常症や尿毒症、血清βリポ蛋白欠乏血症、肝機能障害、便秘や下痢など腸の異常時などに現れ、涙滴状の赤血球は骨髄線維症や癌の骨転移で現れる。各種の溶血性疾患などでは粉々にされ破片となった破砕赤血球が見られ、ある種の遺伝性の貧血病で鎌状赤血球が見られる。赤血球が破裂したり、膜異常などで赤血球が壊れることを溶血と言い、大量に溶血すると貧血を招くばかりでなく、赤血球の内部に高濃度に存在していたカリウムが放出されて一時的に高カリウム血症になる。元々高カリウム血症の者が大量の溶血を起こすと高カリウム状態が高度になり徐脈や不整脈など心臓の異常が出現し最悪死に到る。さらにヘモグロビンが分解される過程で生じるビリルビンによって高ビリルビン血症となり黄疸を生じ、特に出生時低体重児では生命の危険を伴うことがある。 ===赤血球に影響が現れる主な疾患=== 赤血球に影響が現れる疾患は無数にあるが、その中で成書において赤血球系の疾患として取り上げられた主なものを記す。 汎血球減少性疾患再生不良性貧血、骨髄異形成症候群、急性白血病など主に赤血球数もしくはヘモグロビン量が減少する疾患赤芽球癆、腎性貧血、巨赤芽球性貧血、鉄欠乏性貧血、無トランスフェリン血症、鉄芽球性貧血、自己免疫性溶血性貧血、鎌状赤血球症、サラセミア、発作性夜間ヘモグロビン尿症、脾機能亢進症など赤血球数が増加する病気(多血症)真性多血症など色素代謝異常ポルフィリン症、メトヘモグロビン血症など ==赤血球とレオロジー== 血液の粘稠性(ねばりけ)は、血液中の細胞成分によって規定される。中でも細胞成分の大部分を占める赤血球は、血液の物性を決定する因子として重要である。一般に流体の物性を定量化する学問領域をレオロジーと呼び、血流に関するものは特にヘモレオロジーと称される。この節ではヘモレオロジーのうち、赤血球に関する議論を概説する。 赤血球は生体では血管という管の中を血漿という流体に乗って流れ、その形状と柔軟性で肺や組織内の毛細血管を通過し循環しているが、血漿の浸透圧の低下や赤血球細胞膜の変質、薬剤の影響、各種疾患などで、赤血球形状がコンペイトウ形や球状に変形すると赤血球の変形能が低下して毛細血管を通過しにくくなり、あるいは赤血球が流れにくくなるため血液粘度が上昇し血圧が上昇したり血栓を起こしやすくなったりする。また逆に浸透圧の上昇や薬剤の影響、各種疾患などで形状が扁平や奇形形状などの形態変化を起こしても赤血球の変形能は低下する。 また、赤血球表面はシアル酸で覆われ陰性荷電しているため、赤血球同士は陰性荷電同士が反発し合うので赤血球同士が接着することは通常はない。しかし、血管内の低ずり応力領域内では高分子化合物の影響により血液粘度が上昇し、赤血球がコインを積み重ねたような状態(連銭形成、rouleau formation)になることがある。 ずり応力とは流体力学・ストークスの関係式で説明される力で、円筒管内を流れる流体の速度は管壁近傍では遅く、円筒管中央では早く、またその流速度の変化率は管壁に近いほど大きい。このとき生じる速度差によって生じる力がずり応力である。したがって、流れの遅い血管、あるいは血管の中央付近では赤血球に掛かるずり応力は小さくなり、血管壁付近や血流の早い血管内ではずり応力が大きくなる。ずり応力が小さいと赤血球は集合しやすく、しかし、一旦集合した赤血球もずり応力が大きくなると分離する。 上記で説明されたようにずり応力 τ は血流が遅いほど、あるいは血管の中心に近いほど小さい。 ずり応力が小さくなると赤血球が集合し連銭形成する機序は正確には分かっていないが、血漿中のトリグリセリド(中性脂肪)、フィブリノーゲン、免疫グロブリン(特に IgM)、その他高分子タンパク質が多いと赤血球は集合しやすい。中でも多発性骨髄腫・原発性マクログロブリン血症などで作られる病的な高分子タンパク質は特に赤血球を集合させることが知られている。また、赤血球の変形能が低下していても集合しやすい。血漿中の高分子が多く赤血球の集合の程度が大きいと、血液の粘度が増し血液の流れが滞ってずり応力が小さくなることもあり、するとさらに赤血球が集合してますます血液粘度が上昇するという悪循環に陥ることがある。 血液の粘稠性はその人の健康の指標となるとされ、一般に粘稠性が低く流動性が高いほうが好ましいとされる。このことは2000年頃からマスコミでたびたび取り上げられ、いわゆる血液サラサラとしてブームにもなった。一方でこの分野は研究途上の段階にあり、上述のような異常タンパク質の徴候を除けば、血液サラサラに関する臨床的な意義は明らかになっておらず、日本ヘモレオロジー学会においても共通の見解は未だ得られていない。近年ではこのブームを利用した悪質な業者によって高額な商品を売りつけられるといった事例がいくつか報告されており、国民生活センターは注意を呼びかけている。 ==ヒト以外の赤血球== ===脊椎動物=== わずかな例外(ノトテニア亜目コオリウオ科)を除き、脊椎動物は赤血球を持っている。 哺乳類の成熟した赤血球はヒトの赤血球に似ていて無核であり、色は赤くヘモグロビンに富み、丸い円盤状である(ラクダ科のみ楕円の円盤であるが、ラクダ科の赤血球もヒトと同様に無核である)。ヒトの赤血球と他の哺乳類の赤血球は構造やヘモグロビン濃度はほぼ同じで基本的には大きさと寿命が違うのみである。マウスの赤血球はヒトの赤血球の半分程度の大きさであるが、代わりに血液 1μL あたりの赤血球数はおよそ2倍である。哺乳類のなかではヒトの赤血球は比較的大きく、ほとんどの哺乳類では赤血球はヒトのものより小さめであるが、赤血球が小さいものほど代わりに赤血球の数は多く赤血球容積率はどの哺乳類でも35‐50%前後とあまり変わらない。ゾウの赤血球(直径 9‐10μm)はヒトの赤血球 (7‐8μm) より大きいが、ヒトより体の大きいウシやウマの赤血球はマウスの赤血球と大きさはあまり変わらなく数は多く、ヤギの赤血球ではヒトの赤血球の1/5程度の体積しかないなど動物種によって様々である。哺乳類の赤血球の寿命はマウスの20‐30日からネコの68日、ヤギの125日、ウマの140‐150日と広範であるが、どちらかというと体の大きい者の赤血球は寿命が長い傾向がある。 哺乳類以外の脊椎動物(鳥類、爬虫類、魚類、両生類)の赤血球は楕円で有核であるが、その細胞質はやはりヘモグロビンで充満し色は赤い。 鳥類の赤血球はヒトの赤血球よりやや大きく、細胞も核も楕円であるがその形状は滑らかであり、数はやや少ないが大きな差はない。鳥類の赤血球のヘモグロビン濃度は濃く、また赤血球容積率も35‐55%と鳥類の赤血球は形と核の有無以外は哺乳類と大差はない。ただし、鳥類のヘモグロビンは哺乳類のものとグロビンの構造が異なり、酸素解離曲線が哺乳類より右方変異しており筋肉などの組織内で酸素を遊離しやすくなっている。鳥類の赤血球の寿命は短く1か月前後である。鳥類の赤血球造血もエリスロポエチンに反応し、その成熟過程は核が脱核しないこと以外はヒトの赤血球の成熟過程に似ている。 魚類の赤血球もヒトのものより数は少なくやや大きい。両生類の赤血球はとても大きく数は少ない。爬虫類は両生類と鳥類の間にある爬虫類、両生類、魚類の赤血球も細胞質にはヘモグロビンがあり赤いが、哺乳類や鳥類に比べて両生類と魚類の赤血球細胞質のヘモグロビン濃度は薄く MCHC はコイで 20.5g/dL、カエルで 26‐28g/dL 程度であり、また爬虫類や両生類、魚類の赤血球細胞核はいびつなことが多い。 造血の場は哺乳類と鳥類では主に骨髄、魚類では主に腎臓、両生類では脾臓である。爬虫類は種によってさまざまである。 ===無脊椎動物=== 無脊椎動物ではある程度の体の大きさを持っているものは白血球に相当する細胞を持っているが、赤血球を持っているものは極めて少なく例外的な存在とも言える。その赤血球を持つ例外的な無脊椎動物はアカガイやシャミセンガイ、ホウキムシ、ホシムシなどすべて海棲であり、特に種類が多い昆虫類を含め陸上の無脊椎動物には赤血球を持つものはいない。その無脊椎動物の赤血球は脊椎動物の赤血球とはずいぶん異なる面が多く、その一つの特徴は核の他に何らかの顆粒が細胞質にあることであり、またそれ以外にも種によっては以下のような特徴がある。 シロナマコの赤血球は数本の突起があり、核以外にも目立って大きい数個の顆粒がある。ユムシやアカガイの赤血球では顆粒の数は数十個に及ぶ。タマキガイの赤血球には複数の核がある。星口動物(ホシムシ)の赤血球には数個の六面体の結晶が存在する。ホシムシ類の赤血球にはヘムエリスリン、それ以外にはヘモグロビンが存在する。 これらのわずかな例外を除くほとんどの無脊椎動物は赤血球を持たない。無脊椎動物の多数を占める赤血球を持たない者の血液ではヘモグロビン、エリスロクルオリン、ヘムエリスリンやヘモシアニンなどの血色素が直接血漿に溶け込んで循環し酸素供給している。血が赤くない軟体類や節足動物などの動物の多くではヘモグロビンではなく銅を用いたヘモシアニンで酸素を運ぶため血液は青みがかかっている。 このように様々な動物が赤血球を持ち無脊椎動物の中にも赤血球を持つものがおよそ100種類程度いるが、無脊椎動物の赤血球は種によって様々であり、いずれの赤血球も脊椎動物の赤血球とは異なる点が多い。無脊椎動物の赤血球は同時に白血球としての機能を持つものが多く、その細胞質でも血色素は顆粒内にある。赤血球を持つ無脊椎動物は様々な門に点々と分かれて存在し、例えば同じ二枚貝の仲間でも赤貝は赤血球を持ち他の二枚貝の多くは赤血球を持っていないなどであり、さらに無脊椎動物の中で進化の上では脊椎動物に近いホヤ類には赤血球を持つものはおらず、またホヤ類に次いで脊椎動物に近い棘皮動物にも赤血球を持つものはほとんどいない。これに比べて脊椎動物の赤血球には白血球の機能はなく細胞質には均質にヘモグロビンが満ちている。これらのことなどから脊椎動物の赤血球と無脊椎動物の赤血球には進化の上での繋がりのある可能性は低いと考えられている。 無脊椎動物の血色素は様々であるが、脊椎動物の血色素は皆ヘモグロビンであり、脊椎動物で最も下等な無顎類の造血は発生学的には卵黄嚢に近い腸管粘膜下で行われ、どの脊椎動物でも受精卵から発生したばかりでは卵黄嚢で造血が行われその後に造血の場を変えていくので、脊椎動物の赤血球は脊椎動物の登場と共に現れ進化してより洗練されて行ったのだという可能性がある。最も進化した哺乳類において、赤血球も酸素運搬には不要な核を捨てて酸素輸送に特化するなどさらに進化をした可能性があり、酸素運搬の観点からは哺乳類の赤血球が最も進化し、比較的下等なものほど酸素運搬には非効率的なものが多いので進化が遅れていると思われるが、それ以上の赤血球の進化については確実なことは分かっていない。 ==赤血球の発見と研究史== 赤血球の発見は顕微鏡の発明によってもたらされた。古代から凸レンズを使えば物を拡大して見られることは知られていたが、1590年代にヤンセン父子によって二枚のレンズを使った現代の顕微鏡の祖となる最初の複式顕微鏡が発明された。しかし、この17世紀中の複式顕微鏡は収差が大きく性能が低く、17世紀中はレンズが一枚の単式顕微鏡が性能を上げ大きな成果を上げていた。 1658年、オランダのスワンメルダムはその単式顕微鏡でカエルの赤血球を初めて観察し、さらに1660年にマルピーギが毛細血管の血球の循環を観察した。これらの観察はラフなものであったが、1674年レーヴェンフックは単レンズの単式顕微鏡としては最高度の性能の顕微鏡を自作し、ヒトの赤血球を観察して大きさが 8.5μm の円盤状であると報告している。またレーヴェンフックは、哺乳類の赤血球は円盤状であるが哺乳類以外の動物の赤血球は卵型であることも発見している。 その後、1747年にメンギニが赤血球は鉄を含むことを磁石を用いて発見し、1774年プリーストリーは赤血球が酸素に反応することを観察し、1780年ラヴォアジエとラプラスは赤血球が酸素を運搬することを明らかにしている。 1825年ライヘルトによって結晶化に成功したヘモグロビンは、1865年 ホッペ=ザイラーによって研究されている。ABO型の血液型は1900年に ラントシュタイナーによって発見されたが、当初ラントシュタイナーは A, B, C の3型に分類し1901年の発表論文では A, B, O の3分類、1902年に共同研究者らと現在の A, B, O, AB型に分類し直している。1904年デンマークの ボーアは赤血球の酸素の結合と遊離と二酸化炭素の関係を調べて酸素解離曲線を示し、二酸化炭素の存在によって赤血球のヘモグロビンと酸素の結合し易さが変化することを発見した(ボーア効果)。 1933年ロートンらが赤血球内に炭酸脱水酵素を発見し、1948年 サンガーとポーターはヘモグロビンの構造研究の開始し、1961年ペルーツはヘモグロビンの立体構造を解析した。 1967年チャヌタンは赤血球に含まれる DPG(2,3‐ビスホスホグリセリン酸)の量の変化によっても酸素解離曲線が移動することを発見した。 赤血球を真水に入れると溶血し細胞膜が得られるので、細胞膜の存在自体は早くから知られていたが、当初は赤血球細胞膜については何も理解されていなかった。1935年ダブソンらは細胞膜のリン脂質二重層構造を提唱し、1966年シンガーとニコルソンによって現在の知られている膜構造の流動モザイクモデルの基本モデルが提案されるようになった。さらに1970年代以降電子顕微鏡の発達で赤血球膜の微細構造は次々に明らかになっている。 ==人工赤血球== 大怪我などで大量に出血すると人は生命の危険があり、緊急に輸血を行わないとならないが、血液はいつどこでも十分な量を確保できるとは限らない。そのため、救急用に人工赤血球の開発の必要は昔から指摘されていた。古くは欧米にてヘモグロビンを加工したものを血液に流せないか研究が進められていたが、剥き出しのヘモグロビンの毒性を除去することは困難であり、1製品が南アフリカで承認されたものの安全性と有用性に疑問が持たれ主要国では実用化の目途は立っていない。そのため、現在ではヘモグロビンを内包した小胞体の開発が行われている。 リン脂質分子は自発的に二重層、あるいはリポソーム、ミセルの形状に並ぶので、リポソームの内側にヘモグロビンを封入すれば酸素運搬能力を持たせることができ、またヘモグロビンの毒性も閉じ込めることができる。 2010年現在では赤血球の数十分の一の大きさ(直径数百ナノメートル程度)のリポソーム内に(輸血に使用されなかった廃棄血液から抽出した)ヘモグロビンを封入したヘモグロビン小胞体が動物実験で短期的には効果を認められるところまで開発が進んでいる。 =貴族 (中国)= 中国史における貴族は、魏晋南北朝時代から唐末期(220年 ‐ 907年)にまで存在した血統を基幹として政治的権力を占有した存在を指す。後漢の豪族を前身とし、魏において施行された九品官人法により貴族層が形成された。北朝ではこれに鮮卑や匈奴といった北族遊牧民系統の族長層が加わり、その系譜を汲む隋・唐でもこの両方の系統の貴族が社会の支配層の主要部を形成した。中国史学では、貴族が社会の主導権を握っていた体制を貴族制と呼ぶ 貴族という用語は日本の歴史学界で使われる用語であり、当時の貴族による自称は士・士大夫・士族であった。これに倣い中国の歴史学界では士族の語が使われる。ただし、日本の学界における貴族制の理解と、封建地主制を前提とした中国の学界における士族制または門閥制の理解には相違があり、現状では完全に同義の用語というわけではない。 この項目では特に注記の無い限り、宮崎市定『九品官人法の研究』をもとに記述する。 貴族は政治面では人事権を握って上級官職を独占することで強い権力を維持し、その地位を子弟に受け継がせた。このことにより官職の高下が血統により決定されるようになり、門地二品・士族と呼ばれる層を形成した。一方、文化面では王羲之・謝霊運などを輩出し、六朝から唐中期までの文化の担い手となった。隋代に導入された科挙により新しい科挙官僚が政界に進出してくるようになると貴族はこれと激しい権力争いを繰り広げるが、最終的に唐滅亡時の混乱の中で貴族勢力は完全に瓦解した。 ==歴史== ===前史(‐220)=== 周代の族的集団を基盤とする都市国家社会においては士・大夫と呼ばれる族集団の族長層である支配者階層があり、族集団の祭祀を主催し軍事の枢要を占めて、その下の庶(民衆)とは隔絶する存在であった。この両階層を総称した士大夫という呼称は、後世に儒教が周代を理想時代としたこともあり、後世の支配者層により自らの雅称として盛んに使われた。この項で述べる漢代の豪族・魏晋南北朝の貴族ともに自称は士族・士大夫であり、当時において貴族という呼称は使われていない。 前漢中期より、各地方において経済的な実力を持った者たちが当地の農村を半支配下に置いて、豪族と呼ばれる層を作った。武帝によって導入された郷挙里選により、豪族たちは一族の子弟を官僚として中央に送り出すようになった。中央で官職を得た豪族たちは次第にその階層を固定化して貴族へと変化しだした。 ===魏・西晋(220‐316)=== 220年、魏文帝により、九品官人法が施行された。九品官人法はまず漢代の官職を九段階の官品に分ける。そして中正という役職が地方の輿論を基に人物の判定を行い、その人物が最終的にどの官品まで上るべきかを裁定する。これを郷品と言う。官品と郷品はいずれも一品から九品までの等級からなり、中正がある人物が二品官になり得る才能があると判定すればその人物の郷品は二品となった。郷品として判定された等級の官品にすぐさま任官するわけではなく、通常初めて任官するときは郷品の4品下の官品の官から始まる。この初めの官を起家官と呼ぶ。 この制度は本来は漢魏の交代の際に、漢代の官位制の腐敗を除きつつ漢の官僚機構を魏のそれに統合し、才能優先で人材登用をするためのものであった。しかし豪族たちが郷品を決める中正およびその後の昇進を決める尚書吏部を掌握し、人事権は事実上豪族たちの手に握られるようになった。そうすると中央で権力を握った豪族たちの地位はそのまま子孫に受け継がれるようになった。こうなると官職は個人の才能ではなく、血統により決定されることになり、地位の固定化が進み、豪族の貴族化が促進された。 魏において司馬懿が権力を奪取する際に州大中正が導入されたことで、更にこの傾向は進んだ。それまで中正は州の下の行政区分である郡と県にのみ置かれていたが、州に中正が置かれたことにより、中央の大官たちの意向が中正の選任に強く反映されるようになり、貴族層の固定化が一層進むようになった。 中正は地方の輿論をもとに郷品を下す。そのため、貴族の子弟たちは自分の存在をアピールするために社交界で名を売ろうとした。このような猟官活動は明帝の時に一時弾圧されることもあったが、その傾向は改まらなかった。竹林の七賢に代表されるような清談や、また『世説新語』に登場する「ブタを人の乳で育てた」などといった奢侈もまた名を売るための手段であった。 実際に就く官職においても貴族とそうでない者とでは差別された。これを清濁の別という。例えば郷品二品の者が起家として就く職と郷品六品の者が最終的に到達する職とでは同じ六品官であっても対等ではない。門地二品の者たちが起家として就任する秘書郎・著作佐郎など実際に行う仕事は少なく意見を述べることができる官は清官と呼ばれて好まれ、一方で細々とした雑務が多い職・軍職・郷品六品が最後に到達する官職は濁官とされ嫌われた。また同じ官品でも要職か、閑職かによっても差異が生じた。このような「俗世間の雑事にはとらわれず、高見を世間に問う」というスタイルは清談と通ずるものであり、そのような人物を理想とする貴族の好みが強く反映されたものである。地方官は清濁の別の外に置かれ、その地方の重要性如何によって価値が決まったが、概して中央で出世が見込める人物は地方官への就任を好まなかった。 ===東晋・宋・斉(316‐502)=== 魏はその後、西晋に禅譲を行い、さらに西晋もまた36年という短い統一期間の後に匈奴の漢(前趙)により一旦滅亡し、皇族の司馬睿が江南に逃れて東晋を立てた。この時、貴族たちは司馬睿と共に南遷する者とそのまま華北に残った者に分かれた。 司馬睿を迎え入れ東晋政権を安定させるのに尽力したのは主に現地の土着豪族である。しかし東晋が安定すると政権の枢要な地位に就いたのは彼ら現地の豪族ではなく、司馬睿と共に南渡した華北の貴族たちであった。その代表は、王導・王羲之ら琅邪王氏、謝安・謝霊運らの陳郡謝氏である。現地の豪族たちは二流貴族として差別を受け、この不満から一部の者が反乱を起こすこともあったが、大勢としては東晋政権に従うことで地位を保つ道を選んだ。北来貴族・南人貴族ともに華北の混乱が江南にまで及び、貴族としての地位が完膚なきまでに破壊されることを最も恐れていたので、東晋政権が崩れることを望まなかったのである。 その後、曲がりなりにも安定政権を築いた東晋であったが、その権力基盤は脆弱であり、貴族たちの歓心を買い、離反を防ぐために官職をばら撒くことを行った。郷品のうち、一品は皇族や大官の子などだけが得られる特別のものであってまず与えられることはない。そして西晋代には郷品二品もまた貴重であり、大抵は郷品三品から始まっていた。しかしばら撒きにより名門であれば郷品二品が珍しくなくなり、次第に郷品二品と三品以下との間にはっきりとした線が引かれるようになる。郷品二品の家は門地二品と呼ばれ、三品以下の家は寒門・寒士と呼ばれる。また庶民が任官して昇進しても寒士より更に低い所で壁に当たることになる。これら庶民出身の官吏は寒人と呼ぶ。 東晋の初めごろはこれら北からの亡命者が増えることはそれだけ労働力を増やすことになり、大いに歓迎された。これら亡命者たちは元の本籍地で戸籍に登録され、亡命後の定着地の戸籍には登録されなかった。これを白籍という(反対に現地で登録される戸籍を黄籍という)。そのためこれら亡命者たちは亡命後の定着地に対しては何ら義務を負わず、単に権利のみを有していた。しかし東晋がある程度安定すると亡命者たちも持てはやされることもなくなり、現地の戸籍に登録して税を徴収するべきであるとの意見が強くなった。これが桓温などの実力者の元で実行された土断である。 東晋において政権を握ったのは王導・謝安などの甲族(門地二品)であったが、それに対して東晋の守りの要である北府・西府両軍の武力を背景として桓温・桓玄が台頭し、桓氏の簒奪失敗の後に劉裕(武帝)が新たに宋を建てた。 劉裕の後を継いだ文帝の時代は、華北が北魏の統一戦の時代でその干渉を免れたこともあり、長い平和が続いた。これを当時の元号元嘉を取って元嘉の治と呼ばれ、この時代が貴族制の全盛時代とされる。 一方で劉裕は生まれた時に危うく間引きされそうになったというエピソードが示すように、一応貴族に分類されるもののかなりの末流であり、軍功によりのし上がり皇帝にまで上り詰めたものである。以後の斉・陳の始祖(梁は斉の宗族)もまた劉裕と同じく軍功により上り詰めた軍人である。 これら軍人皇帝は自らの手足として寒門・寒士層を重用するようになる。門地二品層は皇帝の意向を無視することが多く、また意欲にも能力にも乏しい者が多かったためである。これにより寒門・寒人層の台頭が目立つようになるが、実際の権力を握っても寒門・寒士たちに対する門地二品層の身分的差別は厳しいものがあった。例えば蕭道成(斉の高帝)の寵愛を受けた紀僧真は貴族との交流を求めたが、貴族から拒否されている。 宋から禅譲を受けた斉では高帝・武帝の一時的な安定の後は皇族が地位を巡って殺しあう暗黒時代となった。そのため23年という短い期間で斉は滅亡し、蕭衍(武帝)により梁が建てられた。 ===梁・陳(502‐589)=== 武帝は貴族的な教養を身につけた一流の文化人でもあり、即位初年以来、官制改革に並々ならぬ意を用いた。 508年(天監七年)には官制に対して大幅な再編を行った。まずそれまでの九品のうち、おおよそ七品以下の官職(門地二品が就くことのない役職)を流外官として切り捨て、それまでの六品以上を十八班に分ける(品とは逆に十八が最高で一が最低)。十八班はそれぞれ、十八班が正一品・十七班が従一品・十六班が正二品に対応し、ここまでが旧来の一品に相当する。以下、これと同じように対応していき、三班が従八品・二班が正九品・一班が従九品に対応し、旧来の六品に対応する。 この流内十八班・流外七班の制度は九品制度の中で六品と七品以下との隔絶という実態と制度を合致させ、貴族と寒門との間の区別をはっきりとさせるためのものであった。また班内の官職においても清官と濁官の区別がはっきりとされている。 武帝は侯景の起こした叛乱により餓死に追い込まれ、梁の繁栄は一朝に消えた。内乱状態の中で朝廷の地方に対する統制力は衰え、それに代わってそれまでは見下されてきた在地の豪族たちが軍閥勢力として割拠するようになった。その軍閥たちをなだめすかしながら陳霸先が陳を建て、内乱は一応の収束を迎えた。 貴族制も内乱の終息と共に再び形成されたが、貴族制の受けた打撃は大きかった。戦功を挙げた武将たちには官職を与えねばならず、それにより貴族の勢力が大きく減退したことなどが原因である。官職を得た武将たちはその官職を子孫に受け継がせたいと望むようになるが、従来の門地による官職決定ではそれは叶わない。朝廷はこれに対する懐柔策として、高位官僚の子を官僚として登用する任子制を採るようになる。 陳は北周および隋の強い圧迫を受け、589年に滅ぼされたが、六朝貴族制の精華といえる陳の貴族制は隋・唐に大きな影響を及ぼすことになった。その一方で、梁から陳にかけては商業活動の活発化が目覚ましい時期であり、これらにより財を蓄えた新興商人・地主層の官界への進出が目立つようになった。これら新興商人・地主層は後代の科挙官僚の主な供給源であり、貴族制崩壊への第一歩であった。 ===北朝(316‐589)=== 五胡の侵入の際に華北に居残った漢人貴族たちは概ねその地位を脅かされることはなかった。彼らが地方で持っている影響力が、王朝の安定のために必要とされたのである。しかし南朝とは違い、漢人貴族たちは中央には余り出仕せず、自らの根拠地に近い地方の地方官になることを望んだ。戦乱の中での不安定な中央政権に魅力を感じなかったからであろう。 しかし北魏により華北が統一され、ある程度の安定政権ができると、次第に漢人貴族たちも中央へと進出し始め、太武帝の時には山東随一の名門とされる清河崔氏の崔浩が司徒に登った。崔浩は漢人たちを大いに起用して北朝においても南朝を模した貴族制を作ろうとするが、鮮卑人たちの反発を買い誅殺された。この事件により漢人貴族の勢力は一時後退した。 一方、尚武を是とする鮮卑の間でも漢人たちの影響により貴族的なものが浸透するようになった。部族制をとる鮮卑にとって貴い血筋とは各部族の族長級の者たちであり、また戦乱の中で軍功を挙げた功臣たちであった。これらの者たちが自分の地位を子孫に受け継がせたいと望むのは自然なことであり、最も望ましいのは地位・財産・領土などをそのまま受け継がせる封建制であったが、中央集権を望む皇帝側からはそれを認めづらく、地位と名分のみを受け継がせる貴族制が折衷案として選ばれたのである。 六代孝文帝の時に馮太后の摂政の元で三長制・均田制などの導入により部族制の解体が図られた。その後の孝文帝親政時の大幅な官制改革(493年の前令・495年の中令・499年の後令)、漢人・鮮卑の中での貴族の格付けが為され、既に孝文帝以前より漢人・鮮卑の間での通婚も行われるようにもなっており、北朝においても貴族制が成立した。 しかし急激な漢化への反発から六鎮の乱が起こり、北魏は分裂して東魏→北斉、西魏→北周へと分裂することになる。この二つの国は貴族制に対する態度も対照的であった。北斉はほぼ北魏の貴族制をそのまま受け継ぎ、更にそれを発展させる方向へと進んだ。一方で新興商人・地主層の台頭、金の力により官位を手に入れる現象が目立ってくる。 一方、北周においてはそれまでの九品を九命(品とは逆に正九命が最高)とし、その下に九秩を設けた。そして清濁の別を廃止し、昇進には功績のみが参考にされた。北斉との戦いが続く中においては功績といえば軍功であり、官職に就く者はほとんどが鮮卑出身の軍人となった。その中で漢人貴族層は排撃された。鮮卑の尚武政策への復古である。西魏・北周で採用された府兵制における軍制の要職である柱国・大将軍の系譜は関隴集団を形成した。 ===隋・唐(589‐907)=== 北周から禅譲を受けた隋であったが、その制度は斉制を継ぎ、貴族制もまた受け継いだ。 595年(開皇十五年)に中正が廃止され、開皇年間(581年‐600年)中には科挙制度が確立された。これと平行して任子制もまた行われており、この頃では貴族は任子によって官界に入り、科挙に応じることはまずなかった。 隋から初唐においては旧斉に属する清河崔氏などの山東貴族が最高であり、その次が関隴集団らの鮮卑系貴族、その次が琅邪王氏など南朝において長い伝統を誇る北来貴族、その下に置かれるのが呉郡陸氏など江南を本貫とする南人貴族であった。 唐皇帝李氏は関隴系であるが、それでもなお山東系の家格が上であるという意識は強く残っていた。太宗は貞観六年(632年)に家格を書物にまとめることを命じ、これによりできたのが『貞観氏族志』である。初め、山東貴族である博陵崔氏の崔民幹が一等とされ、唐李氏は三等に格付けされた。これに怒った太宗は作り直しを命じ、李氏を一等に、長孫氏らの唐の外戚を二等に、山東貴族らを三等に付けた。 このように、初唐では山東系を強く抑圧した形で関隴系が主導権を握っていた。この状態を大きく崩したのが武則天である。武則天自身も関隴系の出身であるが、本流からは遠く、女性の身で権力を握ることへの反発もあり、関隴集団の助力は受け難かった。そこで武則天は自らの手足として科挙官僚を積極的に登用し、関隴系の権力を切り崩しにかかった。これにより関隴系の勢力は減退せざるを得なくなり、それに代わって山東系とこの時代における貨幣経済の伸張に伴って勢力を伸ばしてきた新興地主勢力とが官界を二分するようになり、関隴系の存在は小さなものとなった。 武則天後の玄宗は再び関隴集団を登用する反動政治を行うが、玄宗自身の退嬰とそれによって起きた安史の乱により頓挫した。安史の乱の大動乱の後、地方には藩鎮勢力が割拠するようになる。各地の藩鎮勢力はその幕下に優秀な人材を集めるために辟召を行った。 貴族層は官僚の出処進退を司る尚書吏部を支配下に置いており、科挙官僚を中央から排斥していた。そのような人物がこの藩鎮の辟召を受けることとなる。その代表としては韓愈が挙げられる。憲宗期より関隴系の牛僧孺・李宗閔らと山東系の李徳裕らの争いが勃発するが(牛李の党争)、その中で両派は自派の勢力を拡大するために盛んに辟召を行い、その結果として新興勢力の進出はますます促進された。 さらに唐末の戦乱の中で、貴族勢力は壊滅的な打撃を受けた。後に唐を滅ぼして後梁を建てる朱全忠は、905年に配下李振から「かつて貴族たちは自ら清流と自称していた。こいつらを黄河に沈めて、濁流としてしまいましょう。」という進言を聞き、その通りに実行した(白馬の禍)。この事件の時点で貴族勢力は完全に壊滅したと考えられる。 北宋以降は、科挙官僚たちが完全に主導権を握り、「士大夫」と呼ばれる新しい支配層を形成した。 ==貴族制の構造== ===政治=== ====人事制度==== 貴族が政治権力を世襲するためにはまず人事権が重要である。 九品官人法においては中正が郷邑の輿論に基づいてその人物がどの程度の才能を持つか、将来的にどの官まで登るべきかの郷品を定め、実際に官に就く際にはその四品下の官品から始められ、これを起家官と呼ぶ。そして官途に就いた後の昇進は尚書吏部により決められ、中正の属する司徒府と尚書吏部が人事担当の二大部署である。しかし20歳の青年を見てこの人物にどれくらいの才能があるか、最終的にどの地位まで登るかなどを見極めることなど不可能であり、自然、判断の基準は門地に置かれることになる。この状態が長く続き、二品以上の郷品は特定の家が独占し、それ以下とは隔絶した存在となった。これを門地二品と呼ぶ。 中正はその門地にふさわしい郷品を定めて吏部に提出するわけであるが、門地はそう簡単に変動するものではなく、また起家した後の官歴は全て吏部に保管される。故に一旦郷品を定めてしまえばその家に関する限り、それ以降中正の仕事はなくなる。そのため東晋代にはもはや中正制度は形骸化し、中央人事は吏部の独占するところとなり、中正は時折それに異議を唱えるだけになっていた。宮崎はこのことから九品制度と中正制度があたかも不可分であるかのような九品中正法という呼び名は相応しくなく、九品官人法とすべきであるとしている。この場合は中正制度はあくまで九品官人制度の中に包含されるものに過ぎない。一方、地方官の任命については中正の権力は長く保たれ、それが中央吏部の元に統合されるのは後のことである。 地方官に対する権限も失い、完全に形骸化した中正は隋文帝の時に廃止され、それに代わって後述の選挙制度が大幅に拡充され、科挙制度となった。 中正制度と平行して、漢代以来の選挙制(秀才・孝廉)・辟召制・任子制もまた行われていた。選挙制は地方官により推薦された人物(秀才・孝廉)に中央において試験を受けさせ、その成績に応じて三等に分類するもので、宮崎はこの成績による分類のそれぞれを仮に甲・乙・丙と名付けている。丙はさらに丙上、丙下に分類され得る。受験者はこの成績によって任官(九品官人法以降は試験の内容に応じて郷品を与える)する。 しかし選挙制で与えられる郷品は名目的には最高(甲)で二品を与えることになっていたのであるが、実際にはほとんどが郷品四品であり、また仮に二品が与えられたとしても吏部の方でこれをなかなか任官させず、昇進についても差別されていた。そのため名門の子弟であれば秀才・孝廉に挙げられたとしてもそれを迷惑がって拒否することも多く、選挙制は概ね寒門・寒人層が応ずることになった。これに対して、梁武帝は門地二品の場合、通常20歳で任官(起家)し、寒門の場合は30歳で任官するものであったが、これを一律30歳での任官(後に25歳に緩和)とした上で、試験を受けて通過した者には年齢制限なしで任官できるという餌を付けることで名門子弟にも試験を受けさせるようにした。この制度は試験制度の不備や寒門に対する差別待遇等、あくまで貴族主義に拠って立つものであったが、貴族は門地故にでなく貴族的教養によって貴いのだという武帝の信念によるものであり、貴族層に居ながらにして任官するのではなく試験を通過して任官することを名誉と認識させたという点で成功を収めた。これは後代の科挙制度に通底する精神に依るものであった。 辟召制は自らの府を構える大官あるいは刺史・太守など地方長官が自らの幕僚として登用する制度である。府とは大官が自ら構える独立の官衙のことで三公及び上級将軍に許された。将軍には方面軍の長官としての都督の職が付随していたが、この都督が西晋代になると行政をも司るようになり、実質州の上に立つ地方の最高行政官となった。都督が構える府を軍府と呼ぶ。概ね地方官は濁として嫌われた役職であるが、辟召した人物が有力者であった場合はその人物との強い繋がりができることは大きな魅力であり、つまらぬ中央の職よりもむしろ好まれた。その後、隋文帝時に辟召は廃止され、地方官も全て中央の任命するところとなったが、唐安史の乱以降に再び藩鎮による辟召が復活した。この場合は貴族勢力に対する新興地主勢力が官職を得る場となった。 任子制(資蔭)は高位の官の子を官として採用する制度である。この制度は前漢初期から行われており、九品官人法の中でも王・諸侯・三公の子にその権利が与えられていた。これが陳では武将を懐柔するためにそれ以下の位にまで拡大された。陳代に明文化された任子制は貴族とは異なる成り上がり者でさえ、その子供を上級官吏に任官させることが可能になった上、貴族でも出世競争に敗れた家はこの恩恵にあずかることができなかったため、むしろ貴族制度の中から異質な要素を生み出すような役割を果たした。しかし、唐代にはその社会的役割も変化した。唐の選挙は突き詰めれば科挙と任子制の併用であったが、科挙が官僚制度を代表し、任子は貴族制度を代表するものとなった。 ===官品制度=== 漢代においては、官職の等級はその俸禄で表された。上から万石・中二千石・二千石などとあった。それが九品官人法の施行と共に九品制度へと移行、その後の梁武帝の改革により十八班制へと変化した。既述の通り、十八班制はそれまでの九品のうち、七品以下を切り捨て、六品以上を九品の正従に再編、上から一品正が十八班、一品従が十七班、最後に九品従が一班と対応している。一方で北魏の前令における官品は九品をそれぞれ正従に分け、更にそれを上中下に分ける。後令では四品以下を上下に分ける。 門地二品の者は起家官として六品官が与えられ、郷品六品の者は最終的に六品官へと登る。しかし同じ六品であってもその間には差異が設けられるようになった。これを清濁の別という。門地二品の起家官として最も好まれたのが秘書郎・著作佐郎などの文書管理関連の役職、その次に好まれたのが尚書左丞・尚書郎など実際の政務において重要な地位(これを清要官と呼ぶ)がある。これらが清官の代表で、濁官の代表としては法律関係の職・太学博士等の教育関係の職・軍事職などがあった。地方官は一応清濁の別の外に置かれた。これは地方の重要性如何によって要職とも閑職ともなり得るという性質によるものである。重要な地方の外官は高い収入が見込める職でもあった。だが一般的傾向として中央で出世が見込める人材は地方官としての赴任を好まなかった。 自らの就く職が清か濁かは当時の人々にとって非常な関心事であり、濁官を任命された場合にはこれを断ることも多く、また起家として良い清官が得られない場合、最初は一段下の七品官に任官し、その後に六品の清官に就くということも行われた。このように清官に執着する理由は、本人の出世・名誉ももちろんであるが、一旦濁官に就いてしまえばその履歴は吏部に永久に保管されることになり、それは一門の不名誉となったからである。いかなる官職で起家し、どのようなキャリアで出世可能かということが貴族家系としての格を定義するようになったため、濁官など品格の劣る官職に就任することは一門の格を下げる行為であった。また、清官としての起家であっても、自らの家格に釣り合う出世街道にある官職でなければそれを拒否することも行われた。 周代に大夫および士の支配者階層と庶と呼ばれる被支配階層が存在した。「刑は大夫に上らず、礼は庶人に下らず」(『礼記』)の語が示すように、士と庶の間には明確な差別があり、隔絶した存在であった。 九品官人法では官僚を九品に分けるが、これだけで膨大な国家維持のための業務を全てこなせるわけではなく、九品の下に庶民が就く官職があった。これを流外官と呼ぶ。流外官に就くには郷品は必要ないが、長年の勤務と共に位が上がり最終的に品内の官職に就くこともでき、この時には改めて郷品が下されることになり、このようにして郷品を得た庶民を寒人と呼ぶ。 ただし同じ九品内ではあっても寒人が就く役職は元から郷品を得ている貴族層が就く役職とは厳密に区別されており、一種の特殊な官僚区域を形成することになった。これを勲位・勲品と呼び、勲位二品(官品六品)から勲位六品(流外官)までに分けられる。 この体制が固まるにつれ、門地二品が就かない役職つまり官品七品以下の役職は軽く見られるようになり、梁武帝の改革時に全てが流外へとはじき出されることになった。梁制では流外は七班に分けられる。 しかし貴族層は代を重ねるごとに『顔氏家訓』に現れるような無能・無気力の輩と成り果て、要職に就いてもその職務を全うできないことが多くなった。それに代わって実際に職務を行ったのがこれら要職の補佐に付いている寒門・寒人出身の者たちであり、彼らは社会的地位は低くても実際に持つ権力には無視できないものがあった。また貴族に嫌われた軍職も多くが寒門・寒人層の就く役職であり、平和なときはともかく、一旦乱が起きれば兵力を背景にして大きな権力を握った。それに加え、寒人層の出身である大商人・大地主層は梁から陳にかけての貨幣経済の発達の中で財力を伸ばし、それに伴ってその権力も大きくなっていった。 これらの要素により、陳代には寒人層の持つ権力はとても無視できない状態になり、貴族が政治権力を独占する貴族制は陳代には完全に形骸化していたと考えられる。 ===社会・経済=== 貴族が社会・経済的にどういう存在であったかについては貴族制研究における主要論点である。これに関しては貴族制理解・川勝義雄・矢野主税の節を参照。 ===家格=== 門地二品の成立とともに、郷品三品以下の貴族たちとの格差が激しくなり、この間に太い線が引かれることになった。西晋の終わりごろには、上級貴族(門地二品)・下級貴族・上級庶民(官職に就く庶民)・下級庶民という区分ができ上がることになる。上から甲門・次門・後門・三五門などと呼ばれる。 貴族社会において家格の上下は非常に重要である。婚姻も基本的に同格の間でしか認められず、下の家格との婚姻は自らの家格を下げることになるので、その際には下の家から相応の財物が対価として与えられるのが常であった。また母親の出身家格が低い場合には、その子はたとえ長男であっても嫡子にはなれず、冷遇を強いられることになる。 唐太宗は貞観六年(632年)に家格を書物にまとめることを命じ、これによりできたのが『貞観氏族志』である。初め、山東貴族である博陵崔氏の崔民幹が一等とされ、唐李氏は三等に格付けされた。これに怒った太宗は作り直しを命じ、李氏を一等に、独狐氏らの唐の外戚を二等に、山東貴族らを三等に付けた。これは当時において李氏ら関隴集団が山東貴族に比べて低く見られていたことを示し、また本来国家による容喙を許さないはずの家格が国家によりある程度コントロールされるようになったということを示し、貴族勢力の退嬰を示す。 ===文化=== 六朝貴族にとって修めるべき教養としてしばしば挙げられるものが、儒仏道の三教、玄儒文史の四学である。 後漢代に行われていた今文学は、五経のうち一つを専門的に学ぶ学問である。これと対照的に、六朝貴族にはこの三教・四学を均等に修めることが理想とされた。 ただし、これら三教・四学が貴族たちの心の奥深い所までに届いていたかは疑問が残る。もちろん熱心な信者や求道者も多く存在したが、その一方でこれらをあくまで表層的な「遊び」あるいは「スタイル」として捉えていた貴族も多かった。特に玄学においてはその傾向が強いとされる。もし玄学の基幹となった老荘思想、特に荘子の思想を実践しようとしていたならば後述のように不老長生を求める理由はないはずである。 ===三教=== 後漢代は儒教一尊の時代であった。道教は後漢末頃から教団が形成され始め、太平道・五斗米道の二教団があり、仏教は後漢初期ごろに既に伝来していた。しかし道教・仏教ともに、後漢の滅亡まではあくまで民間の間に広まったに過ぎず、貴族層には広がりを見せていなかった。それが東晋代に大きく勢力を伸ばし、三教と呼ばれるまでになった。 魏晋南北朝にこの二教が勢力を伸ばすことになった理由は、一つはこの時代が戦乱の時代であり、人心不安定な時期であったということである。そしてもう一つは儒教の衰退である。 選挙制の中で最も重要視された孝廉もまた儒教的な君子を求めるものであり、その影響から人目に付くように孝行を行い、そのことによって仕官の道を得ようとする偽善的な人間が増えるようになった。これに対する批判者が漢末の孔融・禰衡、晋の阮籍・*42*康らである。彼らは人前でいきなり裸になる、母の喪中に妾を近づけるなど儒教のモラルから大きく逸脱した行為を行うことで偽君子たちを痛烈に皮肉った。 さらにそれに加え、儒教自身が持つ弱点がこの時代に明らかになった。儒教では「未知生。焉知死」(未だ生を知らず。いずくんぞ死を知らんや。)の言葉が示すように、死後の世界というものについては関心を持たない。あくまで重要なのは現実の政治である。しかし八王の乱から永嘉の乱へと続く過酷な状況の中では誰であれ否応なしに死に向き合わなくてはならないが、その答えを儒教は与えてくれなかった。 その答えを与えたのが仏教と道教である。仏教の教義の中では三世報応(輪廻)が、道教では金丹などの不老長生の法がそれまでの有限の命から無限の命の世界を開くことになった。特に仏教には熱心な信者も多く見られ、梁の武帝のように皇帝の身でありながら捨身して「三宝の奴」となってしまった例も見られる。 ===四学=== 前述したように後漢は儒教一尊の時代であり、学といえば儒学のことであって、文学・史学もこの時代には儒学に内包されたものであった。それが晋代に玄学が誕生、さらに文学・史学が独立し、貴族の基礎教養となった。宋文帝時にそれぞれ儒学館・玄学館・文学館・史学館が設立されたことはこのことを示す好例であろう。 玄学は老荘を基にするが、老荘とイコールではなくその思想の中に『易経』を含む場合があり、また極めて稀ではあるが仏教思想を含むことがある。魏の王弼・何晏により創始される。その後、六朝の間に発展を遂げ、梁代に最盛期を迎えたと評される。しかし玄学と儒学とは六朝の間に互いに歩み寄りを行い、最後には融合していき、玄学は隋唐においてはその形跡を見ることができない。 文学においては、魏の文帝の「文学は経国の大業にして、不朽の盛事なり」(『典論』論文)が、中国において初めて文学の価値を宣揚した発言として注目される。代表的な文学及び文学者としては、魏の建安の七子や曹植、西晋の潘岳・陸機らに代表される大康文学、東晋の孫綽らの玄言詩、宋の謝霊運・顔延之・鮑照ら元嘉三大家、南斉の竟陵王蕭子良の西邸サロンに集った沈約・謝*43*ら竟陵八友などが挙げられる。梁の武帝時代は六朝文学の最盛期とされ、昭明太子とそのサロンに集まった文学者の協力によって編まれた詞華集『文選』と、少し遅れて簡文帝の命を受けて徐陵が編集したとされる詩集『玉台新詠』が、この時代を代表する詩文集として挙げられる。これら文学作品の特徴としては、一般に実用性よりも美を重視する傾向が挙げられ、魏から晋にかけてその傾向は進行し、南朝においてそれが頂点に達する。詩の分野では、先述の竟陵八友の1人である沈約が四声八病説を唱え、音韻と形式の美を重視する永明体を確立し、梁・陳の時代に宮体詩へと発展した。散文の分野では、駢文(四六駢儷体)と呼ばれる典故と形式を重視した美文的な文体が流行した。なお東晋から南北朝時代において、文学活動の中心は東晋及び南朝にあり、非漢民族政権である北朝の文学はその模倣に過ぎないとする見方が一般的である。 史学においては『後漢書』・『宋書』・『南斉書』・『魏書』が編纂され、いずれも当時を代表する文学者の手によるものである。これ以外に『十六国春秋』・『洛陽伽藍記』など、いわゆる二十四史に含まれない野史も大量に著された。しかし史学においても華美な文章が好まれる傾向は変わらず、簡潔にして要を得た『史記』・『漢書』には及ばないとの評価が一般的である。 ==研究== ===概説=== 貴族制研究は日本の中国史学界の魏晋南北朝研究において最も多くの研究が集まっている分野であり、全時代を通しても最も多い分野の一つである。 それほどに多くの研究が集まった理由としては、まず貴族制研究が魏晋南北朝・隋唐という700年近くに及ぶ長い期間、及び当時の社会の多くの部分を覆う広い範囲を扱っていることがある。また、貴族制研究により、魏晋南北朝がいかなる時代であったかを理解するということが、時代区分論争に直結する重要な議題であったことが挙げられる。 時代区分論争では、後漢の滅亡と共に古代が終わり魏晋南北朝からを中世とする立場と、漢・魏晋南北朝・隋唐を古代とし、宋代からを中世とする立場に分かれる。前者が京都学派・後者が東京学派の立場として大きな間違いはない。すなわち後漢から魏晋にかけて社会がどれだけ変質したかが、時代区分の目安となるのである。 日本における貴族制研究は、内藤湖南に始まり、岡崎文夫により体系付けられ、宮崎市定によって大成された。その後、谷川道雄・川勝義雄・越智重明・矢野主税らによる論争の時代に入った。その論争が不明瞭なままに終焉を迎えた後は停滞の時代に入るが、2000年代中盤より渡邉義浩・川合安らにより再び活性化の兆しが見られる、と概ね総括できる。 ===研究史=== ====前史==== 日本における六朝貴族制研究は内藤湖南に始まった。内藤はいわゆる京都学派の祖であり、魏晋南北朝から隋唐を貴族制の時代と位置づけた。内藤は貴族制を皇帝権をも内包するものと捉えており、後の川勝・谷川の貴族制理解に繋がるものである。 内藤の後を受けて貴族制研究を体系付けたのが岡崎文夫である。岡崎は貴族制の時代を階層が連なる社会として捉え、甲門・次門・後門・三五門などの階層を想定する、後の越智の「族門制論」に繋がるものと言える。 また『六朝史研究 政治社会編』に収められている宮川尚志の一連の研究は官品と郷品(郷品という言葉は使われないが)の関係など多くの示唆に富み、宮崎の研究の先駆となった。 ===九品官人法の研究=== 1956年、宮崎市定の大著『九品官人法の研究』が発表された。宮崎の研究は主に法制的な面から貴族制を研究し、郷品と官品の関係・門地二品など2007年現在に至るまで通説の大部分がこれに拠る。この後の論争の時代に与えた影響も非常に大きく、越智重明・矢野主税の両者は宮崎の研究に刺激を受けて貴族制研究に参入し、貴族制理解に反対の立場をとる越智・川勝双方が宮崎の研究を引用して自説の補強ないし相手への批判に使用しているところにもその影響の大きさが窺われる。 ===論争の時代=== 『九品官人法の研究』以前の1950年に川勝義雄は貴族の淵源を後漢末、党錮の禁の際の清流勢力に求める論考を発表。それに対する増淵龍夫の批判を踏まえ、更に谷川道雄による「共同体論」と自らの考えを合流させ、領主化傾向を持つ豪族に対して農民たちの信望を集めた清流豪族が領主化を押し留め、これが貴族へと繋がるとした。またそれに加えて曹操勢力の内部構造を考察し、当時一般に存在した門生・故吏関係が中世封建制的な人間関係であるとし、貴族制の中に中世との関連性を見出そうとした(詳しくは#川勝義雄を参照)。 川勝と真っ向から対立したのが矢野主税である。矢野は1958年から始まる一連の論考の中で、川勝説を厳しく批判し、魏晋の中心勢力は党錮の清流勢力の系譜ではなく、曹操勢力に密着していた系譜であることを論証する。更に魏晋以降の官僚勢力がその生活の糧を俸給に求めざるを得ない存在であるとした。矢野はこれを寄生官僚と名づけ、この後の貴族層も基本的にはこの寄生官僚であるとした(詳しくは#矢野主税を参照)。 寄生官僚論に対する批判はまず越智重明から起こった。越智は矢野が当時頻繁に使われる「貧」という語を官僚層の貧困の証としていることを批判し、「貧」は貴族層の持つ余分な財産は持たず他人に分け与えるべきであるという経済的モラルを表したものであるとした。しかし越智は寄生官僚論自体に反対しているわけではなく、当時の官僚層および貴族層に対する皇帝権の強さを強調し、貴族層は高級官職に就いている間に郷党からは遊離していき、最終的には寄生官僚化するしかないとする。越智は最終的に貴族の家格が皇帝権によって厳格に定められるとする族門制論へと到達する(詳しくは#越智重明を参照)。 論争の時代において一つの画期となったのが、1966年に谷川道雄によってなされたそれまでの研究の総括と提言である。その言葉については貴族制理解を参照のこと。この後の論争は貴族の存立基盤が皇帝権にあるのかあるいは地方共同体にあるのかという論点に搾られることになる。 この三者のうち、川勝と矢野は互いに激しい批判を繰り返し、10を超える応酬が繰り広げられた。越智は論争自体には積極的には関わろうとせず、史料を渉猟して自説の補強に努めた。それぞれの研究成果は川勝1982、矢野1976、越智1982にまとめられている。 川勝は1984年に死去し、論争は決着を見ないままに終わりを告げた。長い間の論争にも拘らず、川勝・矢野共にその立場は論争が始まる前と終わった後であまり変化が見受けられない。これに関して中村圭爾はこう述べる。「つまり、川勝・矢野はその方法や視角において、最後まで共通の地平に立つことは出来なかった。(中略)かれらの対立の根底はここにあるのであり、さらにいえばその深層に貴族制とはいかなるものかという概念の分裂がある。」 この問題意識のもとに、中村は、川勝の共同体論・矢野の寄生官僚制論を、どちらも貴族制を理解するために必要な「視点」であり、どちから片方を欠いて貴族制を語るようなことはなされるべきではないとした。つまり越智・矢野・川勝・谷川らの研究はそれぞれ貴族という存在の異なる面に光を当てるものであり、そこから現れた像が表面上は矛盾して見えてもそれを内包するのが貴族という存在であるということである。ここにおいて論争は一旦振り出しに戻ることになる。 ===停滞から再活性化=== しかし中村の研究以後はその他の分野と同様実証的な研究に重点が置かれ、貴族制全体をどう理解するかの目立った研究成果はなくなる。 長い停滞の時代が続いたが21世紀になってから新展開を迎えた。その中心となるのが渡邉義浩・川合安である。 渡邉は貴族が貴族たる所以を「皇帝権からの自律性」であるとし、その自律性を支えるものは「文化の占有」であるとする。そして「文化の占有」を行う貴族の淵源を後漢代の「名声を基にし、必ずしも地域社会との関係性を持たない『名士』」に求める。 川合は通説で言われているような家格が整然と厳格に定まったものではなくある程度流動的なものであり、宮崎の「門地二品」・越智の「族門制」論などに表れるような整然とした階層構造は当時には存在していなかったとする。 渡邉は貴族を貴族たらしめているものを皇帝権や共同体ではなく、貴族の内部に求めるべきではないかと述べている。その言葉どおり、かつての時代区分論争を前提としていた論争から一歩離れて別の視覚を見出していくのがこれからの課題といえるだろう。 ===貴族制理解=== 日本における貴族制理解には、概ね二つの大きな流れがある。 一つは内藤が示した「既に君主となれば貴族階級中の一の機關たる事を免るゝ事が出來ない。即ち君主は貴族階級の共有物で、その政治は貴族の特權を認めた上に實行し得るのであつて、一人で絶對の權力を有することは出來ない。」という言葉に最も端的に顕れている。つまり貴族制全盛の時代にあっては貴族制が政治のみならず社会・経済・文化全てを覆っており、皇帝すら貴族制の中の一機関に過ぎず、貴族の都合によって左右される存在であったとするものである。 もう一つは貴族をあくまで政治的存在と見るものである。この考えでは貴族制の外に皇帝や兵戸・武将などがあり、貴族は強力な権力を持ちはしても、あくまでこれらと並立する存在でしかない、とするものである。 前者を採るのは内藤湖南・川勝義雄・谷川道雄らであり、後者を採るのは岡崎文夫・越智重明・矢野主税らである。 前者の考え方を採る場合、一つの疑問が浮かび上がる。貴族制が皇帝すら包括するものであり、貴族は皇帝権に拠らず貴族であるのならば、何故貴族は皇帝の僕たる官僚になっているのかである。この点を指摘したのが谷川のこの言葉である。 「当時の支配層が国家権力の存在によって初めて成立し得ているという意味で官僚的であるのか、それとも、支配層は国家権力の存在を前提とせずにそれ自身として支配者であるが、ただその存在形態において官僚的性格を帯びるのかという問題に帰着する」前者を採るのが越智・矢野であり、後者が川勝・谷川である。 矢野は貴族の生活の糧は俸禄にあり、官僚であることによりその生活を支えているとする。また越智は貴族の身分制が国家の制度の中に組み込まれているとする。両者とも皇帝の存在が貴族の存在に不可欠であると考える。 川勝・谷川の考えにおいては貴族は皇帝・国家に対して自律性を持ち、王朝はその地位を官職を与えることにより承認する承認機関に過ぎないとする。では貴族の自律性を支えるものは何であろうか。川勝・谷川においてはそれは郷党との関係であり、郷党からの支持こそが貴族に支配者としての地位を保証すると考える。 ===研究者ごとの内容=== ====川勝義雄==== 川勝の貴族制研究は清流豪族・門生故吏関係の二つに集約される。どちらの論にしても川勝の基本的姿勢は、この魏晋南北朝時代に中世封建的なものを見出そうとするものである。貴族の系譜については、「本来ならば中国史においても封建領主が登場するはずであったが、豪族の自己規定によりこれが阻まれ、中国史における文人貴族の形が登場した」と考え、門生故吏については、これが中世封建的な報恩関係であるとする。 この豪族共同体は谷川との共同でなされた論である。 まず後漢代に豪族が中心になり、郷邑(村落)をまとめてある程度の秩序を保つ豪族共同体が存在した。しかし後漢末期になると豪族の中に露骨な領主化傾向、つまり中央の宦官政府と結託して郷邑や農民たちを支配下に置いて勢力を拡大しようとする者があり、これらの豪族同士の抗争により郷邑の秩序は崩壊の危機にあった。 それに対して豪族の中にもそのような民衆の要望を汲み取り、自らの領主化傾向を自己規定して郷邑の保護者であろうとする姿勢を保つ者がいた。これが清流勢力であり、彼らは互いの交友関係の中で郷論(郷里の輿論)を形成する。本来郷挙里選ではこの郷論に基づいて人物が推挙されるはずであるが、それを宦官政府は無視した。そこで清流勢力は三君八俊などの自分たちの中での人物評価を行い、宦官政府とは別に互いの間の人間関係網を作っていった。これを川勝は「郷論関節の重層構造」と呼んでいる。 これに対しての濁流勢力すなわち領主化傾向の強い豪族とそれに結びついた宦官政府からの弾圧が党錮の禁であった。これにより清流勢力の抵抗が頓挫した後、民衆は今度は太平道にその拠り所を求め、濁流勢力に対する民衆の抵抗運動が即ち黄巾の乱となって噴出した。黄巾の乱により打撃を受けた後漢政府は統治能力を失い、そのことにより清流勢力とその系譜を組む文人貴族によって秩序の再建がなされた。これが曹操政権である。川勝義雄の『魏晋南北朝』によれば、清流勢力に有徳な知識人だと認められた名士や清流派知識人が曹操の元に集まり、武将や豪族を抑えて大きな権力を握り、魏公国が出来た時は(文官系の)要職を占有した。以降、魏や西晋や六朝の貴族は彼ら名士や清流派知識人を中心に生まれていった。 門生とはかつて誰かの門下に入って学問を学んだ関係のことである。故吏とはかつて辟召を受けて上司と部下の関係になったことである。しかし六朝時代にはこの二つは質が低下して「奴僕と変わる所がない」存在として従来認識されていた。 これに対して川勝は門生故吏共に、当時の社会において相当な社会的地位を持った人物も多数含まれており、これを一括して「奴僕と変わる所がない」とするのはおかしい。下層の門生故吏は別としても、一般的にはこれらは自由民と自由民との間で結ばれた人間関係である、とした。 ===越智重明=== 越智の族門制論は、六朝時代に上級士人(郷品一・二品)・下級士人(三‐五品)・上級庶民(六‐九品)・下級庶民層が形成されており、上から甲門・次門・後門・三五門と名づけた。甲門・次門などの階層区分は元々は岡崎によって為されたものであるが、岡崎がこれらを自然に形成されたものとするのに対して、越智はこの階層が「国家制度に組み込まれた存在」であるとするのが大きな違いである。甲門は通常20歳‐24歳で任官の権利を得て、官品六品の秘書郎や著作佐郎などの最高の清官から起家する。次門は25歳‐29歳で奉朝請・太学博士・王国常侍・王国侍郎などの濁官で起家し、後門は30歳で、流外官から起家する。 越智は貴族たちの郷論を尊重し、それを皇帝側が政権の中に組み込んだ結果生まれたのがこの族門制であるとする。つまり越智は、当時の貴族勢力が官職の最高位を独占し、ある程度の自律性を持っていたことは確かであるが、それと同時に皇帝権が確固として存在しており、貴族たちに統制を利かせようとしていたことを主張するのである。 ===矢野主税=== 矢野は川勝が主張する「清流勢力の子孫が曹操政権の中核となり、それが貴族へと発展した」という説を再検討し、清流勢力の子孫たちは西晋においては没落したものが多く、西晋において有力貴族となっているのはむしろ曹操に密着して権力を得るに至った者の子孫たちであったと結論した。 それに加え、当時の官僚たちがかなりの高位に登った者たちでも貧窮している例が多いことなどを論拠に、当時の官僚たちは郷里との関係を断ち切られ、首都での生活が主になっており、その財政基盤は俸禄による所が大きかった。つまりこれら貴族と呼ばれる存在は政府・皇帝に寄生する存在であり、皇帝無しでは存在しえない存在であった。矢野のこの論を寄生官僚論と呼ぶ。 矢野の考える寄生官僚では川勝・谷川らの言う貴族の自律性は望むべくもなく、皇帝の統制力が貴族に対して強く存在していたと考える。 ===渡邉義浩=== 渡邉は貴族の淵源となったのが豪族ではなく「名士」であるとする。 「名士」は豪族の出身であることが多いが、庶民や貧しい者たちも「名士」になりうる。「名士」になるために必要なのは他の「名士」に「名士」であると認められることであり、認められるために必要なものは郷論の中での文化的名声である。「名士」は互いに連絡を取り合い、親交を結ぶことで「名士」グループを作る。代表的なグループとしては荀*44*を代表とする潁川グループ、孔融を代表とする北海グループ、諸葛亮を代表とする荊州グループなどがある。これらグループは三国政権に協力し、その中で勢力を張り、自らの地位を固めていった。 これら「名士」が政権の中で確固たる地位を確立し、やがて貴族へと変化していった。貴族が貴族たる所以は大土地所有でも官僚たる地位でもなく、三教・四学という文化的価値を独占しているという点にあり、このことが豪族層からの支持を生み、地方郷党に対する間接的な支配力及び皇帝からの自律性を生む。 渡邉の考えは川勝・谷川の影響が強い。しかし川勝・谷川が「本来ならば封建領主化するはずであった豪族が自らの自己規定により貴族となった」とするように封建領主化するのが「本来」という考えは未だ大土地所有を貴族の条件とする呪縛から完全に解き放たれていないと批判し、大土地所有とは完全に無関係な文化的価値こそが貴族が貴族たる所以であるとする。 ===川合安=== 川合は宮崎の「門地二品」・越智の「族門制」にそれぞれ疑問を投げかける。 門地二品については、宮崎は郷品二品以上が門地二品であり、この階層に属する者は自動的に高い官職を得られ、逆にこの層に属しない者はたとえどんなに才能があろうともこの層に編入することは不可能であったとする。しかし川合は門地二品という言葉は郷品二品の中で上層を示す言葉であり、郷品二品が門地二品に独占されたものではないとした。族門制に付いては20歳前後で起家する甲門、30歳前後で起家する後門という階層には大体分かれていたことは認められるが、越智の言うような次門層は当時に存在していないとした。 そして「父祖の家格によって自動的に官職の高下が決定される」というこれまでの通説的貴族制理解に対して疑問を投げかける。 川合は当時の起家について最も参考とされたのは父・祖父の官職であり、それに親類縁者の家格などを考慮に入れて、起家が決定された。仮に父が早世したなどの理由で低い官職で終わった場合にはその子たちは低い起家官を割り付けられることになる。逆に功績を挙げて一気に昇進した者の子には高い起家官が約束される(但しそれら成り上がりに対する反発から昇進は難しい面もあったと思われる)。したがってその家に生まれただけで高官を約束されるような体制は六朝時代には最後まで存在せず、下からの成り上がりや上からの没落も存在するように当時の貴族社会はある程度流動的なものであり、門閥と呼べるような何代にもわたって高官を出す家は存在したが、それはあくまで結果であるとした。 渡邉の「名士」論が今までの研究を踏まえた上で新しい視角を見出していこうとするものであるのに対して、川合の研究は今までの研究を全て大胆に見直そうとするものである。 ===日本以外での研究=== 貴族という概念でこの時代を捉えるのは内藤湖南によって始められたものであり、日本以外ではそのような捉え方はほとんどされていない。 まず欧米では関隴集団に関する研究はあるもののこの時代の貴族全体に関する研究はない。 中国では貴族の語に代わって士族の言葉が使われる。前述したように日本では貴族は必ずしも大土地所有者ではないという点で一致しているが、中国ではこれとは逆に士族とは大土地所有者であり、地主であり、封建領主であるとする。これは自明の理であると考えられており、貴族という存在がいかなる存在であるかということを問う日本の研究とは全く異なっている。 =テンポイント= テンポイントは、日本中央競馬会に登録されていた競走馬である。トウショウボーイとグリーングラスを加えた3頭はTTGと総称される。 1975年度優駿賞最優秀3歳牡馬、1977年度年度代表馬および最優秀5歳以上牡馬。1990年に中央競馬の顕彰馬に選出。主戦騎手は鹿戸明。 ※馬齢は旧表記に統一する。 1975年8月に競走馬としてデビュー。関西のクラシック候補として注目を集め、額の流星と栗毛の馬体の美しさから「流星の貴公子」と呼ばれた。クラシックでは無冠に終わったが、5歳時に天皇賞(春)と有馬記念(第22回有馬記念)を優勝した。後者のレースでトウショウボーイと繰り広げたマッチレース(2頭にグリーングラスを加えたTTGの三つ巴の戦いとして取り上げられることもある)は競馬史に残る名勝負のひとつといわれる。1978年1月に国外遠征に向けての壮行レース(第25回日本経済新春杯)中に骨折し、43日間におよぶ治療の末に死亡した。 ==生涯== ===誕生・デビュー前=== テンポイントは1973年4月に北海道早来町の吉田牧場で生まれた。父のコントライトは吉田牧場が日本へ輸入しシンジケートを組んだ種牡馬で、母のワカクモは桜花賞優勝馬であった。吉田牧場の吉田重雄は、この交配には「当時海のものとも山のものともわからないコントライトという種馬を、僕が中心になりシンジケートをつくって入れたんで、これを成功させなくちゃならない。そのためには、いい肌馬を当てて、いい子馬を生んでもらわなくては」という思惑があったと述べている。吉田牧場の吉田晴雄によると、生まれたばかりのテンポイントはどっしりとして「文句なしの特級」といえる体つきをしていた。テンポイントはまもなく馬主の高田久成によって1500万円で購入され、栗東トレーニングセンターにある小川佐助厩舎で管理されることが決まった。購入前に吉田牧場で見たテンポイントについて小川は、身体全体がバネ仕掛けで動くような動きをしていたと述べている。 吉田牧場の関係者によると、幼少期のテンポイントは精神・知能の面では人に逆らわない利口さをもち、常にワカクモに付いて回る甘え性でもあった。身体面では追い運動(馬に騎乗した人が仔馬を追いたてることでさせる運動)をさせた時の走りが非常に速かった反面ひ弱さを抱え、2歳時に前脚の膝の骨を痛めるなどあまり丈夫ではなかった。幼少期のテンポイントには栄養補給のためミルクが与えられた。テンポイントはこれを好んで飲み、後に1978年の闘病中には吉田牧場の勧めで毎日牛乳が与えられた。 ===競走生活=== ====3歳時(1975年)==== テンポイントは1975年3月に小川厩舎に入厩した。8月17日、函館競馬場の新馬戦でデビュー。3日前に行われた調教で優れた動きを見せたことが評価され、50%近い単勝支持率を集め1番人気に支持された。レースでは好スタートから序盤で先頭に立つとそのまま逃げ2着馬に10馬身の着差をつけてゴールし、優勝した。走破タイムは函館競馬場芝1000mのコースレコードを0.5秒更新するものであった。この時のレース内容からテンポイントは「クラシック候補」という評価を受けるようになった。 新馬戦の後、調教師の小川は年内の出走予定を2回と決めた。2戦目には当初10月の条件戦りんどう特別が予定されたが発熱したため11月の条件戦もみじ賞に変更となった。もみじ賞でテンポイントは2着馬に9馬身の着差をつけて優勝した。 続いて当時の関西の3歳王者決定戦・阪神3歳ステークスに出走。テンポイントは単勝支持率が50%を超える1番人気に支持された。レースでは第3コーナーを過ぎたあたりからハミがかからず3番手から6番手まで後退し(この傾向はその後のレースでもみられた。詳しくは#レース中に見せた特徴を参照)、勝利が危ぶまれる場面もあったが、第4コーナーで前方への進出を開始。直線の半ばで先頭に立つとそのまま他の馬を引き離してゴール。2着馬に7馬身差を付け、同じ日に行われた古馬のオープン競走よりも速い走破タイムを記録して優勝した。テンポイントは3戦3勝で1975年のシーズンを終え、この年の優駿賞最優秀3歳牡馬に選出された。 ===4歳時(1976年)=== 阪神3歳ステークスを優勝したことで、テンポイントは名実ともに関西のクラシック候補として認識されるようになった。調教師の小川は東京優駿(日本ダービー)に備え早めに東京競馬場のコースを経験させるためにテンポイントを東京競馬場で行われる東京4歳ステークスに出走させ、その後中山競馬場に滞在して皐月賞に臨む計画を立てた。テンポイントの管理や調教は主戦騎手の鹿戸明と厩務員の山田に任されることになった。 1976年の初戦となった東京4歳ステークスでは直線の坂を登った地点で先頭に立ち優勝したが、それまでと異なり2着のクライムカイザーとは半馬身差の接戦となった。続く皐月賞トライアルのスプリングステークスでも優勝したが2着馬とはクビ差の接戦であった。この結果を受けて関東の競馬関係者からは「テンポイントは怪物ではない」という声も上がるようになった。鹿戸によるとスプリングステークスでのテンポイントは体重を十分に絞り切れておらず、鹿戸と山田は調教の様子を見に来た小川から叱責を受けた。 関東では苦戦が続いたものの、5戦5勝という成績でクラシック一冠目の皐月賞に臨むことになった。しかし厩務員の労働組合による春闘の影響でテンポイントの調整に狂いが生じた。この年の春闘はベースアップを巡り労働組合側と日本調教師会とが激しく対立し、厩務員側のストライキによって皐月賞施行予定日である4月18日の競馬開催が中止となる可能性が出た。テンポイント陣営はストライキは行われないと予想しレース施行予定日の3日前に強い負荷をかける調教を行ったが、予想に反してストライキが行われ、皐月賞の施行は1週間後25日に順延された。その後組合と調教師会の団体交渉は長期化し、25日の開催も危ぶまれるようになった。陣営は今度は再度順延になると予想した上で24日に強い負荷をかける調教を行ったが、調教を行った数時間後にクラシックだけは開催することで合意が形成され、ふたたび予想が裏目に出る結果となった。これらの調整の狂いによってテンポイントには疲労が蓄積し、苛立ちを見せるようになった。その結果レースでは1番人気に支持されたものの、同じく無敗で臨んでいたトウショウボーイに5馬身差をつけられ2着に敗れた。 次走は年初から目標としていた東京優駿となった。テンポイントは2番人気に支持されたものの、厩務員の山田によると競走生活においてもっとも体調が悪かった。山田は勝つことを「すっかり諦めて、かえって気楽でした」と当時を振り返っている。レースでは第3コーナーから思うように加速することができず、7着に敗れた。レース後に左前脚の剥離骨折が判明し、治療のため休養に入った。なお、5月9日に主戦騎手の鹿戸明が京都競馬場でのレース中に落馬して骨盤を骨折して騎乗が不可能となったため東京優駿では武邦彦が騎乗した。鹿戸がテンポイントに騎乗しなかったのはこのレースだけである。 骨折は程度は軽く7月頃には治り、陣営はクラシック最終戦・菊花賞へ向けて調整を続けた。菊花賞のトライアルレースであった神戸新聞杯と京都新聞杯には間に合わず、復帰初戦には京都大賞典が選ばれた。テンポイントの調整は調教師の小川がレース前に「やっと出走にこぎつけた」とコメントしたように万全ではなく、人気は6番人気と低かったが優勝馬と0.1秒差の3着に健闘した。菊花賞では単枠指定されたトウショウボーイとクライムカイザーに次ぐ3番人気に支持された。このレースで鹿戸はトウショウボーイをマークする形でレースを進め、最後の直線でトウショウボーイを交わして先頭に立った。トウショウボーイにはそのまま先着したが内ラチ沿いを伸びてきた12番人気のグリーングラスに交わされ、2馬身半差の2着に終わった。なお、当時グリーングラスの勝利はフロック視されたが、のちに同馬はTTGの一角を形成する実力馬とみなされるようになった 菊花賞の後、陣営は有馬記念への出走を決めた。レースでテンポイントは5、6番手を進んだが第3コーナーから第4コーナーにかけて馬群の中で前方へ進出するための進路を失い、一度加速を緩め外へ進路をとった後に再度加速したものの直線で先頭に立ったトウショウボーイとの差は詰まらず、1馬身半差の2着に敗れた。 ===5歳時(1977年)=== 菊花賞、有馬記念と続けて2着に敗れたテンポイントは一部から「悲運の貴公子」と呼ばれるようになった。陣営は天皇賞(春)優勝を目標に据え、同レースの前に2回出走させる予定を立てた。 テンポイントは京都記念(春)、鳴尾記念をともに着差はクビ差ながら連勝し、天皇賞(春)では1番人気に支持された。レースでは序盤は5、6番手でレースを進め、第4コーナーで先頭に立つとそのままゴールし、初の八大競走制覇を果たした。前年の有馬記念のレース後、鹿戸は「なにかひとつ、テンポイントに大きなレースを勝たせてやりたかった。それが心残りだ。しかし、来年になれば、きっと……」とコメントしたが、この言葉は現実のものとなった。 天皇賞(春)優勝後、陣営は宝塚記念への出走を決めた。同レースには持病の深管骨瘤で天皇賞(春)に出走しなかったトウショウボーイも出走を決めていた。トウショウボーイは前年の有馬記念以来5か月のブランクがあり調教の動きが思わしくなく、厩務員が「気合いが全然足りない」とコメントしていたことから人気を落とし、テンポイントが1番人気に支持された。しかしレースでは逃げたトウショウボーイを2番手から追走したものの最後まで交わすことができず、2着に敗れた。トウショウボーイに騎乗した武邦彦は、「出走頭数が少なくハイレベルの馬が2、3頭に絞られたレースでは先に行った方が有利」という鉄則に従った騎乗をしたと、鹿戸は「相手をトウショウボーイだけに絞りきれなかった。ずっと後ろの馬がいつ来るか警戒していて、トウショウボーイに逃げきられてしまった」、「ぼくのミスです」とそれぞれこのレースを振り返っている。この敗戦により「テンポイントは永久にトウショウボーイには勝てないだろう」 という声が上がるようになった。(レースに関する詳細については第18回宝塚記念を参照) 宝塚記念出走後、テンポイントはアメリカで行われるワシントンD.C.インターナショナルへの招待を受けたが陣営はトウショウボーイを倒して日本一の競走馬になるべく、招待を辞退して年末の有馬記念を目標とした。小川と 鹿戸は調教時に鞍に5kgの鉛をつけ、それまでよりも強い負荷のかかる方法で鍛錬を行うようになった。厩務員の山田によるとこれが功を奏し、9月に入ってテンポイントは腰に筋肉がつき、筋骨隆々の馬体になった。これによりトウショウボーイに劣る部分がなくなり、「これなら勝てる」という感触を得たと山田は振り返っている。 夏期休養後の京都大賞典で63kgの斤量を背負いながら2着に8馬身の差をつけて逃げきり、続くオープンも逃げ切って優勝。有馬記念では1番人気に支持された。レースではスタート直後からテンポイントとトウショウボーイが後続を大きく引き離し、マッチレースのような展開でレースを進めた。鹿戸は宝塚記念の敗北を踏まえて「少しでも前に行かなければ勝てない」という考えに至っていたが、スタート直後に先頭に立ったトウショウボーイを交わそうとレースを進めるうちに引くに引けない展開にはまりこんだ。途中で鹿戸は「これで負けたら騎手をやめなけりゃいかんな」と覚悟を決めた。阿部珠樹は向こう正面に入っても競り合いを続ける2頭を見て、「共倒れになるかもしれない」と感じたという。それでも鹿戸は、1周目の直線でトウショウボーイの内にテンポイントを誘導できたことで「活路が見出せた」と振り返っている。鹿戸によると、トウショウボーイに騎乗していた武邦彦は自身の騎乗馬の内側に入ろうとする馬の進路を締める戦法を得意としていたが、このレースではの締め方が完全ではなかった。抜きつ抜かれつの展開は最後の直線まで続き、激しい競り合いの末テンポイントが優勝。トウショウボーイと対戦したレースで初めて優勝を果たした。このレースは中央競馬史上最高の名勝負のひとつとされる。渡辺敬一郎はこのレースを、「昭和52年。……極端なことを言えば、2頭の競走生命のすべてが暮れの有馬記念に収斂されていったと言っても過言ではない」と評している。(レースに関する詳細については第22回有馬記念を参照) この年、テンポイントは1956年のメイヂヒカリ以来史上2頭目の満票で年度代表馬に選出された。 ===6歳時(1978年)=== 年が明け、テンポイント陣営は海外遠征を行うと発表。2月に遠征における本拠地であるイギリスへ向けて出発することになった。 発表後、関西圏のファンから遠征の前にテンポイントの姿を見たいという要望が馬主の高田や調教師の小川に多数寄せられるようになった。これを受けて小川は壮行レースとして1月22日の日本経済新春杯に出走させることを主張した。高田は重い斤量を課されることへの懸念から内心出走させたくなかったものの判断を小川に委ねた。小川は67kg以上のハンデキャップを課された場合出走を取り消す予定であったが、発表された斤量は66.5kgであったため出走を決定した。一方、馬主の高田、主戦騎手の鹿戸、吉田牧場の吉田重雄は66.5kgの斤量に懸念を抱いた。レースでは向こう正面半ばまで先頭を進み、そこからエリモジョージやビクトリアシチーに競りかけられたものの斤量を苦にしている様子はなく、鹿戸は「楽勝だ」と感じていた。しかし第4コーナーに差し掛かったところで左後肢を骨折し競走を中止した。骨折の瞬間、鹿戸明は「後ろから引っぱられて沈みこむよう」な感覚に襲われたという。(レースの詳細については第25回日本経済新春杯を参照) 骨折の程度は折れた骨(第3中足骨)が皮膚から突き出す(開放骨折)という重度のもので、日本中央競馬会の獣医師は安楽死を勧めたが、高田が了承するのを1日保留している間に同会にはテンポイントの助命を嘆願する電話が数千件寄せられ、電話回線がパンクする寸前になった。これを受けて同会は成功の確率を数%と認識しつつテンポイントの手術を行うことを決定した。 テンポイントの骨折は大きく報道され、一般紙でも1月23日付の朝日新聞の朝刊が三面トップ6段抜きで扱った。テンポイントの闘病中もスポーツ新聞では症状が詳細に報じられ、連日厩舎にはファンから千羽鶴や人参などが届けられた。 ===手術・闘病生活=== 日本中央競馬会はテンポイントの手術と治療のために33名の獣医師からなる医師団を結成し、1月23日に手術を行った。手術の内容はテンポイントに麻酔をかけて左後脚を切開し、特殊合金製のボルトを使って折れた骨を繋ぎ合わせた後でジュラルミン製のギプスで固定するという内容のものだった。手術は一応成功したと思われ、2月12日に医師団は「もう命は大丈夫。生きる見通しが強くなった」と発言した。しかし実際にはテンポイントが体重をかけた際にボルトが曲がり、折れた骨がずれたままギプスで固定されてしまっていた。 2月13日に患部が腐敗して骨が露出しているのが確認され、同月下旬には右後脚に蹄葉炎を発症して鼻血を出すようになるなど症状は悪化の一途をたどった。3月3日には事実上治療が断念され、医師団はそれまで行われていた馬体を吊り上げて脚に体重がかからないようにする措置を中止し、テンポイントを横たわらせた。 3月5日午前8時40分、テンポイントは蹄葉炎により死亡した。安楽死は最後まで行われず、自然死であった。骨折前に500kg近くあった馬体重は死亡時には400kgとも350kgとも300kgを切るとも推測されるまでに減少し、馬主の高田が大きな犬と思うほどに痩せ衰えた。 その死はNHKが昼のニュース番組でトップニュースとして扱い、また当日のフジテレビの競馬中継では阪神競馬場のスタジオ(関西テレビ)と結んで、杉本清と志摩直人が画面に登場、テンポイントの死亡について語るコーナーを設けるなど、マスコミでも大きく報じられた。 ===死後=== ====葬儀・埋葬==== 3月7日、栗東トレーニングセンターでテンポイントの葬儀が営まれた。調教師の小川は自らの手でテンポイントを火葬しようと考えたが、滋賀県の条例で競走馬の死体を焼却することが禁止されていたため、テンポイントは冷凍されて北海道へ移送され、吉田牧場に土葬された。吉田重雄の頼みで獣医師が装着されたままになっていた左後脚のギプスを外すと異臭が立ち込め、「飛節から下の部分がグニャグニャに腐っていた」という。 3月10日に吉田牧場でもテンポイントの葬儀が営まれ、競馬関係者やファンなど約400人が参列した。2つの葬儀は競走馬として日本初、人間以外では1935年の忠犬ハチ公以来2例目のものとされる。吉田牧場の敷地内には馬主の高田が建立したテンポイントの墓があり、多くのファンが献花に訪れている。その周りには父のコントライトや近親馬の墓がある。 ===テンポイントの死を扱った作品の発表=== 競馬に造詣の深かった作家寺山修司は『さらば、テンポイント』という詩を記してその死を悼んだ。 テンポイントの死によって趣旨が変更されて発表された作品もある。テンポイントが日本経済新春杯に出走する2日前、詩人の志摩直人は自らの詩を添えたテンポイントの写真集を出版する企画を立てていた。テンポイントの死を受けて企画は追悼写真集に変更され、『テンポイント 栄光の記録』というタイトルで発売された。また、関西テレビはテンポイントの海外遠征が決定を受けて、遠征の様子を追いかけるドキュメンタリー番組の制作を決定していた。しかし日本経済新春杯の事故で番組の内容は闘病生活の様子を伝えるものに変更された。制作されたドキュメンタリー(『風花に散った流星 ‐ テンポイント物語』)は1978年5月に放送され、後にビデオ化(『もし朝が来たら ‐ テンポイント物語』)された。 ===死の影響=== テンポイントの骨折、闘病、死は日本の競馬界に多くの問題を提起した。具体的には安楽死の是非、厳冬期に競馬を施行することの是非、重い斤量を課すことの是非などである。テンポイントを安楽死させなかったことは馬主の高田夫妻が「生あるものを安楽死させることは忍びない」と考えたからであったが、「結果はテンポイントを苦しくさせただけではなかったか」という批判も起こった。 テンポイントの骨折事故を受けて、日本中央競馬会ではハンデキャップ競走等の負担重量について再検討がなされ、過度に重い斤量を課す風潮が改められた。 ===顕彰馬に選出=== テンポイントは1990年に顕彰馬に選定された。選出の理由は、数字には出てこない部分で日本の競馬に大きな貢献があったというものである。1984年に初めて顕彰馬が選定された際には種牡馬実績がなく、競走実績だけをみれば他にも選ばれる馬がいるという理由で選に漏れたが、発表後テンポイントが含まれていないことについて多くの抗議が寄せられた。顕彰馬選考委員会のメンバーだった石川喬司によると、「なぜあの馬が入っていないんだ」という趣旨の抗議の中で最も多かったのはテンポイントについてのものであった。 ==競走成績== タイム欄のRはレコード勝ちを示す。着差は「秒」表記。太字の競走は八大競走。上記「競走成績」の内容は、netkeiba.com「テンポイントの競走成績」に基づく。 ==エピソード== ===トウショウボーイとの対戦=== テンポイントはトウショウボーイと6回にわたって対戦し、両馬は競馬ファンおよび競馬関係者によって互いの好敵手であると見なされた(TTGの中でもとりわけトウショウボーイとテンポイントのライバル関係をTTと呼ぶ)。テンポイントの関係者はトウショウボーイのデビュー戦を見てすでにその能力の高さを認識していた。テンポイントはトウショウボーイとの対戦成績が悪く(通算6回の対戦で2勝4敗)、最後の対戦となった第22回有馬記念までトウショウボーイが出走したレースで1着になったことがなかった。小川と主戦騎手の鹿戸はトウショウボーイを負かすことを強く意識し、前述のように第18回宝塚記念で敗れた後は調教時に鞍に5kgの鉛をつけ、それまでよりも強い負荷のかかる方法で鍛錬を行い、テンポイントを筋骨隆々の馬体に仕上げた。一方、トウショウボーイの管理調教師であった保田隆芳も、引退が決まったトウショウボーイにテンポイントを負かして花道を飾らせたいと第22回有馬記念出走を決定した。保田は、菊花賞でテンポイントに風格が備わったのを感じて以来テンポイントに対し「敵はこれだな」という「本当のライバル意識」を持つようになり、2回目の有馬記念では相手にテンポイントしか浮かばなくなっていたと振り返っている。 騎手の起用について2頭の陣営は対照的であった。トウショウボーイ陣営が4歳時に東京優駿・札幌記念と連敗した後、それまで同馬に騎乗していた池上昌弘を降板させ福永洋一や武邦彦といったトップジョッキーを起用したのに対し、テンポイント陣営はテンポイントが敗戦を繰り返した時期にも鹿戸明を降板させることはなく、鹿戸は骨折で騎乗できなかった東京優駿以外のすべてのレースで騎乗した。鹿戸はテンポイントの主戦騎手を勤めたおかげで名前が売れてジョッキーとして一人前になったとし、「僕をずっと乗せてくれた小川先生と高田オーナーには頭が上がりませんね」と述べている。 トウショウボーイは第22回有馬記念を最後に競走馬を引退して種牡馬となり、1992年に死亡した。死因はテンポイントと同じ蹄葉炎であった。 ===小川による坂路コース建設の訴え=== 小川は1976年にテンポイントを関東に遠征させた際、日本中央競馬会に獣医から「関東のコースにはゴール前に坂がある。関西にはない坂(当時、阪神競馬場の直線コースには坂がなかった)を走って馬が腰を悪くすることがあるから気をつけるように」と忠告を受けた。実際にテンポイントは東京4歳ステークスで腰を痛めた。小川は東京優駿で7着に敗れた後、新聞記者を集めて「関西馬が関東馬に負けるのは競馬場にも栗東トレーニングセンターにも坂がないからだ 」とコメントし、栗東トレーニングセンターに上り勾配をつけるよう働きかけてくれと涙ながらに訴えた。この発言を受けて同年秋に栗東トレーニングセンター内の調教コースの一つ(Eコース)に勾配がつけられたほか、坂路コースを建設する気運が高まり、1985年に完成した。1990年代になると中央競馬では1970年代とは逆に「西高東低」の構図が定着し、その原因のひとつに美浦トレーニングセンターに坂路コースがないことが挙げられるようになった。このことについて競馬評論家の大川慶次郎は、「関西の時代を作る源となったのは、小川調教師とテンポイントだった」と評した。 ===杉本清による実況=== 関西テレビのアナウンサー(当時)で競馬実況を主に担当していた杉本清は、阪神3歳ステークスにおいて「見てくれこの脚!これが関西の期待テンポイントだ!」という実況を行った。テンポイントへの個人的な肩入れを実況するスタイル(自らの主観を実況に反映させていたことは杉本自身も認めている)は競馬ファンに強い印象を残した。杉本はテンポイントについて「テンポイントがいたから今の杉本清がある」と述べている。ポリドール・レコードは杉本に注目し、杉本を歌手としてテンポイントの音楽レコード制作を企画した。しかし杉本の歌唱力が低かったために歌い手は新人歌手の菖蒲正則に変更された(杉本はB面『テンポイント物語』のナレーションをすることになった)。このレコードは 1976年に『君よ走れ‐テンポイント賛歌‐』というタイトルで発売された。 なお、テンポイント生涯最後のレースとなった1978年の日経新春杯で関西テレビの実況を担当していたのも杉本で、異変の直後は「ああっと、テンポイントちょっとおかしいぞ、あっとテンポイントおかしい、おかしいおかしい!」「これはどうしたことか、これはどうしたことか、故障か、故障か!テンポイントは競走を中止した感じ、これはえらいこと、これはえらいことになりました」とその衝撃の大きさを伝え、鹿戸が下馬して故障が確定した後は「なんとしても無事でと、なんとしても無事でと願っていた、願っていたお客さんの気持ち、もう‥通じません」「なんともこれはまた、テンポイント故障だ。なんとも言葉がありません…」と無念に満ちた言葉を残した。 ==特徴・評価== ===身体面に関する特徴・評価=== テンポイントは額から真っ直ぐに伸びた流星と美しい栗毛の馬体を持つことで知られる。テンポイントの栗毛は日光を浴びるととくに美しさを増し、「日の光に煌めいて黄金色に見える」といわれた。競馬関係者の中にもテンポイントの馬体の美しさを評価する声は多い。厩務員の山田はテンポイントの流星が常に見えるように決してメンコを装着させなかった。 体力面では若い頃は華奢で脆弱な面があり、デビュー前はしばしば腹痛や発熱を発症し、デビュー後もレースに出走すると1週間ほど食欲が落ちてなかなか疲労が取れなかった。しかしデビュー後徐々にたくましさを増し、デビュー戦で456kgだった馬体重は第22回有馬記念出走時には498kgに増加した。 テンポイントの一番の長所について、吉田牧場の吉田晴雄は心肺機能の高さであるとしている(一般的な競走馬の一分間の心拍数は27だが、テンポイントは18だった)。主戦騎手の鹿戸は背中が柔らかかったことと皮膚が非常に薄かったことを挙げている。 ===知能・精神面に関する特徴・評価=== 吉田牧場の関係者と調教師の小川、厩務員の山田は、同馬の利口さを指摘している。気性面ではレースで強い闘争心を発揮した半面、普段はおとなしい気性の持ち主だった。テンポイントはレース終盤に苦しくなるとよれてまっすぐに走れなくなる癖があった。鹿戸によると、これはテンポイントが脚に慢性的な骨膜炎を抱えていたことが原因だった。 ===レースぶりに関する特徴・評価=== テンポイントはスタートが得意で、出遅れたことが一度もなかった。主戦騎手の鹿戸によるとテンポイントは反射神経が抜群によく、たとえ発馬機内で横を向いていてもゲートが開くとすぐに反応してスタートすることができた。一方で前述のようにレース中第3コーナーから第4コーナーにかけて後退する癖があったが、厩務員の山田によるとこれはテンポイントの走る時の完歩が大きかった(一般的な競走馬が200m走るのに30完歩以上かかるのに対し25完歩で走ることができた)ため、レース終盤にペースが速くなると追走しにくくなるからだとしている。 テンポイントの主戦騎手であった鹿戸とトウショウボーイの管理調教師であった保田隆芳はともに、テンポイントの競走馬としての最大の特徴はレースで見せる勝負強さ、闘争心にあったと指摘している。 ===人気=== テンポイントの人気は高く、天皇賞(春)を優勝し初めて八大競走に勝った時には観客席から手拍子と口笛が鳴った。これはそれまでの中央競馬にはなかった現象であった。また、前述のように第22回有馬記念優勝後や日本経済新春杯で骨折した際にはそれぞれ関西のレースでテンポイントの姿を見たいという要望と助命嘆願が関係者のもとに数多く寄せられた。闘病中のテンポイントに届けられた千羽鶴は5万羽にのぼった。レースにおける人気をみると、テンポイントは出走した18レースのうち14レースで単勝式馬券の1番人気に支持された。1977年の天皇賞(春)では単枠指定制度の適用を受けている。 ===投票における評価=== 競馬ファンからは、1980年に日本中央競馬会がカレンダーを製作するにあたり実施した“アイドルホース”の投票で第1位に選ばれた。また、2000年に実施された「20世紀の名馬大投票」では第14位に支持されている(第1位はナリタブライアン)。競馬関係者からは、雑誌「Number」(1999年10月号)が競馬関係者を対象に行った「ホースメンが選ぶ20世紀最強馬」で第7位に(第1位はシンザン)、競馬関係者に著名人を含めたアンケートでは雑誌『優駿(増刊号TURF)』が1991年に行ったアンケートの「最強馬部門」で第8位(第1位はシンボリルドルフ)、「思い出の馬部門」で第1位に選出されている。 ===競走馬名および愛称・呼称=== 馬名の由来は、当時新聞の本文活字が 8ポイントであったことから、10ポイントの活字で報道されるような馬になって欲しいという願いを込めてと名付けられたものである。当初はボクシングのテンカウントが由来だと誤解されていた。 テンポイントは前述の額の流星と美しい栗毛の馬体から「流星の貴公子」の愛称で呼ばれた。また祖母のクモワカが馬伝染性貧血と診断され殺処分されかけたことから「亡霊の孫」と呼ばれることもあった。 ==血統== 父のコントライト、母のワカクモについてはそれぞれの項目を参照。ファミリーラインは下総御料牧場の基礎輸入牝馬の一頭である星若 (Ima Baby) を起点とする由緒あるもので、3代母・月丘(エレギヤラトマス)は帝室御賞典など13勝を挙げた。 祖母・クモワカと母ワカクモはともに競走馬として11勝を挙げた。テンポイントの勝利数も11であった事実から、11勝はクモワカの一族にまつわる特異な数字として語られることがある。 ===血統表=== ===近親=== 全弟 ‐ キングスポイント(中山大障害(春)、中山大障害(秋)、阪神障害ステークス(秋)優勝、阪神障害ステークス(春)2勝。1982年優駿賞最優秀障害馬)甥 ‐ ワカオライデン(朝日チャレンジカップ、白山大賞典、東海菊花賞、名古屋大賞典優勝)姉オキワカの孫 ‐ フジヤマケンザン(香港国際カップ、中山記念、金鯱賞、中日新聞杯優勝)祖母丘高(クモワカ)の曽孫 ‐ ダイアナソロン (桜花賞、サファイヤステークス優勝)3代母月丘(エレギヤラトマス)の曽孫 ‐ テイトオー(東京優駿優勝) ==関連作品== 書籍 志摩直人『テンポイント 栄光の記録』 駸々堂、1978年 吉川良、今井寿恵『テンポイント』中央競馬ピーアール・センター、1991年 山田雅人『我が流星の貴公子テンポイント』ゼスト、1997年 山田雅人『証言集テンポイントの思い出』 アスベクト、1998年 平岡泰博『流星の貴公子 テンポイントの生涯』集英社新書、2005年志摩直人『テンポイント 栄光の記録』 駸々堂、1978年吉川良、今井寿恵『テンポイント』中央競馬ピーアール・センター、1991年山田雅人『我が流星の貴公子テンポイント』ゼスト、1997年山田雅人『証言集テンポイントの思い出』 アスベクト、1998年平岡泰博『流星の貴公子 テンポイントの生涯』集英社新書、2005年映像 『不滅の名馬テンポイント』(VHSビデオ ポニーキャニオン、1983年) 『もし朝が来たら ‐ テンポイント物語』(VHSビデオ ソニー・ミュージックエンタテインメント、1991年) 『トウショウボーイ・テンポイント・グリーングラス』(VHSビデオ ソニー・ミュージックエンタテインメント、1992年) 『悲運の貴公子テンポイント』(VHSビデオ ポニーキャニオン、1992年)『不滅の名馬テンポイント』(VHSビデオ ポニーキャニオン、1983年)『もし朝が来たら ‐ テンポイント物語』(VHSビデオ ソニー・ミュージックエンタテインメント、1991年)『トウショウボーイ・テンポイント・グリーングラス』(VHSビデオ ソニー・ミュージックエンタテインメント、1992年)『悲運の貴公子テンポイント』(VHSビデオ ポニーキャニオン、1992年)音楽 菖蒲正則、杉本清『君よ走れ ‐テンポイント讃歌‐/テンポイント物語』(LPレコード)(作詞:村井愛人、作曲:筒井理、編曲:京健輔、歌:菖蒲芳則(君よ走れ ‐テンポイント讃歌‐)/詩:志摩直人、朗読:杉本清(テンポイント物語)) ポリドール・レコード、1976年 伊勢功一『泣くなテンポイント/走れテンポイント』(LPレコード) キングレコード、1978年 デューク・エイセス『あゝテンポイント』(LPレコード)東芝EMI、1978年菖蒲正則、杉本清『君よ走れ ‐テンポイント讃歌‐/テンポイント物語』(LPレコード)(作詞:村井愛人、作曲:筒井理、編曲:京健輔、歌:菖蒲芳則(君よ走れ ‐テンポイント讃歌‐)/詩:志摩直人、朗読:杉本清(テンポイント物語)) ポリドール・レコード、1976年伊勢功一『泣くなテンポイント/走れテンポイント』(LPレコード) キングレコード、1978年デューク・エイセス『あゝテンポイント』(LPレコード)東芝EMI、1978年 =ナリタブライアン= ナリタブライアン(Narita Brian、1991年5月3日 ‐ 1998年9月27日)は、日本の競走馬・種牡馬。中央競馬史上5頭目の三冠馬。「シャドーロールの怪物」と呼ばれた。 半兄に1993年のJRA賞年度代表馬ビワハヤヒデがいる。1997年日本中央競馬会 (JRA) の顕彰馬に選出。 ※馬齢は旧表記に統一する。 1993年8月にデビュー。同年11月から1995年3月にかけてクラシック三冠を含むGI5連勝、10連続連対を達成し、1993年JRA賞最優秀3歳牡馬、1994年JRA賞年度代表馬および最優秀4歳牡馬に選出された。1995年春に故障(股関節炎)を発症したあとはその後遺症から低迷し、6戦して重賞を1勝するにとどまった(GI は5戦して未勝利)が、第44回阪神大賞典におけるマヤノトップガンとのマッチレースや短距離戦である第26回高松宮杯への出走によってファンの話題を集めた。第26回高松宮杯出走後に発症した屈腱炎が原因となって1996年10月に競走馬を引退した。競走馬を引退したあとは種牡馬となったが、1998年9月に胃破裂を発症し、安楽死の措置がとられた。 ==生涯== ===誕生・デビュー前=== ナリタブライアンは1991年5月3日、北海道新冠町にある早田牧場新冠支場で誕生した。同牧場の経営者早田光一郎や場長の太田三重によると、誕生後しばらくはこれといって目立つ馬ではなかったが、次第にその身体能力が鍛錬にあたった牧場スタッフによって高く評価されるようになった。1992年10月以降資生園早田牧場新冠支場で行われた初期調教において調教を担当した其浦三義は、バネや背中の柔らかさ、敏捷性において半兄のビワハヤヒデをはるかに超える素質を感じたと述べている。また早田によると、初期調教が行われていた時期に複数の馬に牧場内の坂を上り下りさせる運動をさせたころ、1頭だけ全く呼吸が乱れなかった。一方で調教中に水たまりに驚いて騎乗者を振り落とすなど臆病な気性もみせた。ナリタブライアンは庭先取引によって山路秀則に購入され、中央競馬の調教師大久保正陽の厩舎で管理されることが決定した。早田によるとナリタブライアンの馬主が山路に、調教師が大久保に決定した経緯は以下の通りである。まず家畜取引商工藤清正の仲介により大久保に紹介され、大久保が山路に購入を打診。山路と大久保が資生園早田牧場を訪れ購入が決定した。大久保は後に「ビワハヤヒデの活躍が早ければナリタブライアンは自分のところにはやってこなかった」と述懐している。取引価格は山路によれば「2400万か2500万」円から「100万くらい」値引きしてもらった額であったという。 ===競走馬時代=== ====3歳(1993年)==== ナリタブライアンは1993年5月13日に日本中央競馬会 (JRA) の馬体検査を受け合格。同年5月19日、栗東トレーニングセンターの大久保正陽厩舎に入厩した。主戦騎手は南井克巳に決定した。その経緯について南井は、大久保に「君はダービーを勝ったことがあるか?」と問われ、ないと答えたところ「じゃあウチの馬に乗ってダービーを勝ってくれないか」と持ちかけられたと述べている。ただし大久保はこうしたやり取りがあったことを否定している。ナリタブライアンに初めて騎乗した南井は、次のような思いを抱いたという。 そうなんだ……何というか、跨いだ瞬間から、あっ、これ、これは、これまでの馬とは違うなって感じだった。追い切りで15‐15からあとの速いキャンターにギア・チェンジするとき、グググッと重心を下げて加速してくる。体の前半分がグンと落ちて、そのあとでギューンと前へ動く。あっ、この感触、今までに一度だけ体験したことがある。そうだ。オグリキャップに追い切りで乗った時と同じだ。ウワァ、すごいって感じだった。 ― 木村2000、102頁。 8月15日、ナリタブライアンは函館競馬場の新馬戦で競走馬としてデビューした。「ビワハヤヒデの弟」として注目を集め2番人気に支持されたが2着に敗れ、中1週で再び同競馬場の新馬戦に出走して初勝利を挙げた。その後3戦目の重賞函館3歳ステークスと5戦目の重賞デイリー杯3歳ステークスではそれぞれ6着と3着に敗れたものの、4戦目のきんもくせい特別と6戦目の京都3歳ステークスを優秀な走破タイム(前者は当時の福島競馬場芝1700mにおける3歳馬レコードに0.1秒差、後者は京都競馬場芝1800mにおける従来の3歳馬のレコードを1.1秒更新)で優勝した。1番人気に支持されたGI朝日杯3歳ステークスでは序盤に馬群の中ほどにつけ第3コーナーで前方へ進出を開始する走りを見せ優勝。GI初優勝を達成し、同年のJRA賞最優秀3歳牡馬に選ばれた。 デビュー後まもなく、ナリタブライアンには気性面で2つの問題が現れた。1つは常にテンションが高く、特にレースが近づくとそれを察知し一層興奮する傾向があったことである。この問題に対処するために、大久保はローテーションの間隔を詰めて多くのレースに出走させることによって同馬のエネルギーを発散させ興奮を和らげようとした(3歳時にデビューからの4か月間に7回レースに出走したことのほか、4歳時にスプリングステークスに出走したことおよび6歳時に高松宮杯に出走したことにもそうした意図が関係していた)。ただしこの傾向は栗東トレーニングセンター内においてのみ表れた症状であり、後にナリタブライアンが股関節炎を発症し早田牧場で休養していたときはおとなしく、様子を見るために訪れた大久保が「牧場ではこんなに穏やかで優しい目をしているのか」と言ったほどであった。 2つ目の問題は生来臆病な性格であったために疾走中に自分の影を怖がり、レースにおいて走りに集中することができなかったことである。この問題は同馬にシャドーロールを装着して下方の視界を遮ることによって解決され、初めてシャドーロールが装着された京都3歳ステークス以降のレースでは競馬評論家の大川慶次郎が「精神力のサラブレッド」と評するほどの優れた集中力を発揮するようになった。 もっともシャドーロール装着以前からナリタブライアンの関係者は同馬の素質を高く評価しており、大久保や南井は同馬が敗れたレースにおいてもその素質を賞賛するコメントを残した(ナリタブライアンの関係者による評価を参照)。 ===4歳(1994年)=== 4歳となったナリタブライアンの緒戦には、東京優駿(日本ダービー)を見据え東京競馬場のコースを経験させておこうという大久保の意向により、1994年2月14日の共同通信杯4歳ステークスが選ばれた。レースでは馬群の中ほどに控え、最後の直線入り口で早くも先頭に並びかけるとそのまま抜け出して優勝した。なお前日には兄のビワハヤヒデが京都記念を優勝しており、兄弟による連日の重賞制覇となった(共同通信杯4歳ステークスは本来京都記念と同じ日に行われる予定であったが、積雪によって施行日が1日順延したため、兄弟による同日重賞制覇とはならなかった)。 共同通信杯の後、大久保はクラシック第一戦の皐月賞に向けスプリングステークスを経由して出走することを決定。この出走は前述のように気性面の問題に対処するためのものであった。レースでは第3コーナーで最後方からまくりをかけ優勝した。この時点で中央競馬クラシック三冠の可能性が取りざたされるようになり、皐月賞では圧倒的な1番人気に支持された。同レースではゴール前200mの地点から抜け出すと、中山競馬場芝2000mのコースレコードを破る走破タイムで優勝し、5連勝を達成するとともにクラシック一冠を獲得した。(スプリングステークスおよび皐月賞に関する詳細については第54回皐月賞を参照) 続く東京優駿では皐月賞の内容がファンによって高く評価され、1番人気に支持された。同レースでは直線の長い東京競馬場でありながら、まくりをかけながらも出走馬の中で最も速い上がりを繰り出して優勝。クラシック二冠を達成した。レース後、野平祐二はナリタブライアンを自身が管理したシンボリルドルフと比較し、「これからいろいろあるだろうが、現時点ではブライアンが上かな」と評した(ただし野平は股関節炎を発症した後のナリタブライアンのレースを見て、「ルドルフを超えたかな、と思った時もありました」「あらためて、シンボリルドルフという馬の真価が、わかるような気がします」と評価を改めている)。(レースに関する詳細については第61回東京優駿を参照) 東京優駿の後、夏場は札幌・函館の両競馬場において調整された。これは避暑を行うとともに厩舎スタッフが直接調整を行うための措置であった。通常、出走予定のない競走馬に両競馬場内の馬房が与えられることはないが、ナリタブライアンの実績が考慮され、特例で許可された。9月4日の昼休みには函館競馬場内のパドックにおいてファンへの披露が行われた。北海道に滞在中、ナリタブライアンは大久保が「一時は菊花賞を回避することも考えた」と振り返るほど体調を崩し、調整に大幅な遅れが生じた。 ナリタブライアンの秋緒戦には菊花賞トライアル競走の京都新聞杯が選択された。ナリタブライアンは単勝支持率77.8%、単勝オッズ1.0倍の圧倒的1番人気に支持されたが、北海道から栗東トレーニングセンターへ戻った後、それほど強い調教が課されていなかったことから体調面を懸念する声もあり、「ナリタブライアンが負けるとすればこのレース」とも言われた。レースでは最後の直線で一時先頭に立つも内から伸びてきたスターマンに競り負けて2着に敗れ、懸念が的中する形となった。そして迎えた菊花賞では、京都新聞杯出走後ナリタブライアンの体調は上向いたと判断され、クラシック三冠達成への期待も相まって単勝オッズ1.7倍の1番人気に支持された。レースでは、早めに抜け出すと後続を突き放し、芝状態は稍重だったにも関わらず兄ビワハヤヒデが前年にマークしたレースレコードを更新する走破タイムで優勝し、日本競馬史上5頭目となるクラシック三冠を達成した。菊花賞でのナリタブライアンのレースぶりについて武豊は、「まず2000メートルの競馬を走って勝って、そのまま別のメンバーと1000メートルの競馬をやってブッちぎったようなもの」と評している。(京都新聞杯および菊花賞に関する詳細については第55回菊花賞を参照)。 古馬との初対戦となった有馬記念では単勝オッズ1.2倍(2番人気のネーハイシーザーは12.3倍)の圧倒的な1番人気に支持された。レースでは4コーナーで早くも先頭に立つと、そのまま突き抜けて優勝(レースに関する詳細については第39回有馬記念を参照)。1994年の通算成績を7戦6勝・GI4勝とし、同年のJRA賞年度代表馬及び最優秀4歳牡馬に選ばれた。年度代表馬選考において、投票総数172票のうち171票を獲得して選出されたが、1票のみノースフライトに投票されたため満票は逃した。最優秀4歳牡馬については、満票で選出された。年間総収得賞金は、史上最高額となる7億1280万2000円であった。 野平祐二が第54回皐月賞を「大人と子供の戦い」、東京優駿を「1頭だけ別次元」と評したように、ナリタブライアンはクラシック3冠の序盤において既に同世代の競走馬を能力的に大きく凌ぐ存在として認識された。そのため1994年上半期の古馬中長距離路線において3戦3勝、GI2勝の成績を収めた兄ビワハヤヒデを最大のライバルとみなし、兄弟対決に期待するムードが高まった。ビワハヤヒデの管理調教師であった浜田光正は、ナリタブライアンが皐月賞、ビワハヤヒデが天皇賞(春)を優勝した時点で「弟があんな強い勝ち方をするんだから兄の面目にかけても負けられない。年度代表馬の座を賭けることになるだろう」というコメントを出している。一方、2頭の生産者である早田光一郎は、ナリタブライアンが皐月賞を勝った時点で「ビワハヤヒデよりも上」と評価していた。また武豊はビワハヤヒデが宝塚記念で圧勝した直後に「ナリタブライアンなら、もっとすごい勝ち方をしていたはず。現時点でもナリタブライアンの方が上。あの馬の強さはケタ違い」と語っている。 ビワハヤヒデ陣営は後半シーズン開始前にジャパンカップ不出走を表明したため、有馬記念における兄弟対決実現に期待が集まったが、ビワハヤヒデは天皇賞(秋)において発症した故障により引退を余儀なくされ、対決は実現しなかった。 兄弟の比較について、野平祐二は「中距離では互角、長距離では心身両面の柔軟性に優れるナリタブライアンにやや分がある」と述べている。血統評論家の久米裕は2頭について「血統構成上は甲乙つけがたい」とした上で、1600m‐2000mではビワハヤヒデが有利、2400mでは互角、3000‐3200mではナリタブライアンが有利と述べている。競馬評論家の大川慶次郎は有馬記念における対決が実現していた場合の結果について、「ビワハヤヒデが有馬記念に出ていたら勝っていたんじゃないか」と予想している。 ===5歳(1995年)=== 有馬記念後は放牧に出さず栗東トレーニングセンター内の厩舎で調整を行い、天皇賞(春)優勝を目指した。緒戦の候補には阪神大賞典および大阪杯が挙がったが、「休み明けはゆったりしたペースの中で走らせたい」という大久保の意向により、長距離戦である阪神大賞典(3月12日施行)が選ばれた。阪神大震災に伴う影響で京都で行われた同レースにおいてナリタブライアンは生涯最速の上がり(3ハロン33.9秒)を繰り出し、直線で抜け出すと独走で優勝した。しかしレースから11日後の3月23日、腰に疲労が蓄積しているとの診断を受けた。厩舎スタッフは軽めの運動をさせつつ天皇賞(春)出走を目指したが、4月7日に右股関節炎(全治2か月)を発症していることが判明。天皇賞(春)への出走は断念された。 ナリタブライアンは約1か月間厩舎で静養したのち早田牧場新冠支場で療養生活を送り、7月上旬から2か月にわたって函館競馬場内において調整が行われた。この時軽い運動しか行われなかったため、マスコミによって体調不安が指摘された。この時期に函館競馬場でナリタブライアンを見た岡部幸雄は、「もうカムバックは難しいだろうなぁと思った」と述べている。9月に栗東トレーニングセンターに戻った後も約1か月間は負荷の強い調教が積極的に課されることはなく、体調不安や調教不足を指摘する声は根強かったが大久保は天皇賞(秋)への出走を決定。1番人気に支持されたがレース終盤に失速し12着に敗れた(なお同レース出走に関する大久保への批判については調教師とマスコミとの対立を参照)。その後ジャパンカップ・有馬記念に出走したがそれぞれ6、4着に敗れた。 なお、主戦騎手の南井は10月14日(天皇賞(秋)の2週間前)にレース中の落馬により右足関節脱臼骨折(全治4か月)を負い騎乗が不可能となったため、天皇賞(秋)では的場均が、ジャパンカップ、有馬記念および翌年の阪神大賞典では武豊が騎乗した。 前述のように阪神大賞典出走後の4月7日、ナリタブライアンは右股関節炎を発症していることが判明した。故障を発症する2か月前の1995年2月、関西テレビ・フジテレビ系列で放送されていた視聴者参加型オークション番組『とんねるずのハンマープライス』に、関係者から提供されたナリタブライアンのたてがみ数十本が出品され、44万円で落札された。競馬社会では現役競走馬の馬のたてがみを切ることは縁起が悪いというジンクスが存在するが、実際に出品から2ヵ月後の同年4月にナリタブライアンは故障を発症した。大久保は後にそのジンクスを念頭において、「ナリタブライアンが走らなくなったのはたてがみをとられてからだ」とコメントした。 復帰後のナリタブライアンの体調については、万全ではないという判断が多くなされた。大川慶次郎は天皇賞(秋)の後、厩舎において同馬を見た際の印象として「整体が狂っている、それもかなり重症ではないか」、「肉がまったくなく、全盛期を100とすれば60か70」と評価した。大川は、ナリタブライアンの体調が引退するまでに故障前の状態に戻ることは無かったと述べている。岡部幸雄は天皇賞(秋)出走時の状態について「全然、覇気がなかった」と評している。また、ジャパンカップにおいてランドに騎乗したマイケル・ロバーツは「私の記憶している全盛期のナリタブライアンではなかった」とコメントした。天皇賞(秋)から有馬記念にかけてのレース振りについて、的場均と武豊はともに「途中まではいい感じだったが、直線で止まってしまった」とコメントした。 ===6歳(1996年)=== 1996年の緒戦には前年と同じく阪神大賞典が選択された。レースでは前年の年度代表馬マヤノトップガンをマッチレースの末に下し、同レース連覇を果たすとともに1年ぶりの勝利を挙げた。なお、この第44回阪神大賞典はしばしば日本競馬史上の名勝負のひとつに挙げられる一方、そのことを真っ向から否定する意見もある(レースに関する詳細については第44回阪神大賞典を参照)。 阪神大賞典を勝利したことによってナリタブライアンの復活が印象づけられ、復帰した南井が騎乗した天皇賞(春)では1番人気に支持されたが、レースではサクラローレルに差されて2着に敗れた。大久保はこのレースにおける南井の騎乗法(折り合いを欠いたナリタブライアンを第3コーナーでスパートさせた)を「武豊が乗ったらあんなふうに掛かっただろうか」と非難した(レースに関する詳細については第113回天皇賞を参照)。 天皇賞(春)の後、陣営は宝塚記念優勝を目標に据えた。ここで大久保は宝塚記念の前に一度レースに出走させる方針を立て、芝スプリント戦のGI・高松宮杯に出走させることを決定した。中長距離の実績馬がスプリント戦に出走するのは極めて異例のことであったためこの出走は話題を呼んだ。また、騎手は南井から武豊に変更された。レースでは終盤に追い上げるも4着に敗れた。このレースで賞金を加算したことでナリタブライアンの通算獲得賞金は10億2691万6000円となり、史上初めてドル換算で1000万ドル($10 million)以上の賞金を獲得し、メジロマックイーンを抜いて歴代1位(当時)となった(レースに関する詳細については第26回高松宮杯を、同レース出走に関する大久保への批判については調教師とマスコミとの対立を参照)。 高松宮杯から約1か月後の6月19日、ナリタブライアンは右前脚に屈腱炎を発症したと診断された。ナリタブライアンは同月28日に函館競馬場、8月には早田牧場新冠支場へ移送され、治療が行われた。大久保はナリタブライアンの復帰に強い意欲を見せていたが、9月に日刊スポーツがナリタブライアンの引退が決定したと報道。さらに読売新聞の取材に対して山路が引退を認めた。橋本全弘によると、この時期に大久保を除く関係者の間で引退に向けた話し合いが行われており、種牡馬となった際のシンジケート株の予約が開始されるなど引退へ向けた動きが起こっていた。10月7日に大久保と山路、工藤の3者による話し合いが行われ、正式に引退が決定した。なお、大久保は引退が決まった後もナリタブライアンを走らせることへの未練を口にしている。 11月9日には京都競馬場で、11月16日には東京競馬場で引退式が行われた。関東と関西2か所で引退式が行われた競走馬はシンザン、スーパークリーク、オグリキャップに続きJRA史上4頭目であった。1997年には史上24頭目の顕彰馬に選出された。 ===競走成績=== タイム欄のRはレコード勝ちを示す。上記「競走成績」の内容は、netkeiba.com「ナリタブライアンの競走成績」に基づく。 ===引退後=== ====種牡馬となる==== 1997年に生まれ故郷である新冠町のCBスタッド(早田牧場の傘下)で種牡馬となり、内国産馬として史上最高額となる20億7000万円のシンジケート(1株3450万円×60株)が組まれた。1997年には81頭、1998年には106頭の繁殖牝馬と交配された。交配相手にはアラホウトクやファイトガリバーといった牝馬クラシックホース、アグサン(ビワハイジの母)やモミジダンサー(マーベラスサンデーの母)など繁殖実績の高い輸入馬、スカーレットブーケといった国内外の良血繁殖牝馬が集められた。 ===胃破裂により死亡=== 1998年6月17日に疝痛を起こし、三石家畜診療センターで診察を受けた結果腸閉塞を発症していることが判明した。緊急の開腹手術が行われ一旦は快方に向かったが、9月26日午後に再び疝痛を起こした。三石家畜診療センターに運び込まれた際にはすでに胃破裂を発症しており、開腹手術を行ったものの手遅れであった。9月27日に安楽死の措置がとられた。 早田光一郎によれば、ナリタブライアンは疝痛を起こした日の昼までは、ちょうどスタッドを訪れていた山路秀則と早田を前に、機嫌良さそうな様子を見せていた。夜になって突然疝痛の症状が現れた後も、診療センターに付き添ったスタッド場長の佐々木功は「すぐに帰れる」と踏んでいたが、夜が明けても疝痛は治まらず、開腹した際に腸捻転と胃破裂が発見された。このとき佐々木は獣医師から「どうにもならない」と告げられたという。佐々木は「我慢強い馬で頑張り屋だから、痛くても無理をしていたのかもしれない」と語っている。なお、ナリタブライアンの馬房には監視カメラも設置されており、夜には佐々木自ら見回りも行っていた。 ===死後=== ナリタブライアンは9月27日にCBスタッドの敷地内に埋葬された。同年10月2日には追悼式が行われ関係者・ファンおよそ500人が参列した。 死後、1999年9月に栗東トレーニングセンター内にナリタブライアンの馬像が建立された。命日にあたる2000年9月27日にナリタブライアン記念館が開館した(2008年9月30日閉館)。中央競馬クラシック三冠達成から10年後の2004年10月、JRAゴールデンジュビリーキャンペーンの「名馬メモリアル競走」の一環として「ナリタブライアンメモリアル」が同年の菊花賞施行日に京都競馬場にて施行された(優勝馬ハットトリック)。 ===種牡馬としてのナリタブライアン=== ナリタブライアンは2世代に渡り産駒を残しており、死亡から2年後の2000年に1世代目が、翌2001年に2世代目がデビューした。しかし、重賞を勝つ馬は出なかった(重賞ではマイネヴィータ・ダイタクフラッグが記録した2着、GIでは2002年皐月賞でダイタクフラッグが記録した4着が最高着順)。また、1頭も後継種牡馬を残す事が出来なかった。 牝馬は多数繁殖入りしており、2005年5月24日に道営でインスパイアローズが孫として初勝利した。2010年にはオールアズワンが札幌2歳ステークスで母父として初めて重賞制覇した。孫は海外でも限定的ながら活躍しており、2010年2月24日にはGolden Diveがゴスフォードで勝利したのを始め、重賞でもPerignonが2016年のライトフィンガーズステークスを勝利している。このほかHollyweirdがオーストラリアの重賞で3着に入っている。 ===種牡馬成績=== 産駒数/種付け数: 151/186頭 ===主な産駒=== マイネヴィータ ‐ 札幌2歳ステークス2着、フラワーカップ2着、阪神ジュベナイルフィリーズ5着ダイタクフラッグ ‐ 毎日杯2着、皐月賞4着(クラシック三冠競走すべてに出走した唯一の産駒)ブライアンズレター ‐ 中央競馬36戦7勝(松籟ステークス、御堂筋ステークスなど)、地方競馬7戦5勝。中央競馬の古馬オープンクラスに進んだ唯一の産駒。また、産駒の中央競馬での最後の勝利を挙げている(2006/02/25 阪神10R)。ちなみに、最初に種付けされた産駒(出産は最初ではない)である。 ===母の父としての主な産駒=== Perignon(G2ライトフィンガーズS、3着‐Glフライトステークス)オールアズワン(札幌2歳ステークス)マイネルハニー(チャレンジカップ)Hollyweird(3着‐G3サラブレッドクラブS)フィオーレハーバー(菊水賞、園田ジュニアカップ、園田ユースカップ)マルヨスーパーラブ(オッズパーク・ファンセレクションin笠松)メジャーサイレンス(桃花賞)Confident(5勝) ==評価・特徴== ===身体面に関する特徴・評価=== 前述のように、ナリタブライアンの初期調教を担当した其浦三義は、バネや背中の柔らかさ、敏捷性において半兄のビワハヤヒデをはるかに超える素質を感じたと述べている。競走馬時代に主治医を務めていた獣医師の富岡義雄は、筋肉の柔らかさを特徴として挙げている。 岡田繁幸はナリタブライアンを「20年に一頭の馬体と筋肉の持ち主」と評している。吉川良によると第55回菊花賞の前日、岡田は吉川に対し「ナリタブライアンは理想の馬だな。ああいう馬を作りたくて苦労してるわけさ。馬体のバランスも、筋肉の質も、走り方も、すべて理想にかなってる」と語ったという。 ナリタブライアンの装蹄を担当していた山口勝之によると、ナリタブライアンの4つの蹄は大きさがほぼ同じ(一般にサラブレッドの蹄は前脚のものよりも後脚のもののほうが小さい。)で、装着した蹄鉄が4つとも同じように擦り減っていったという(通常は減り方が蹄によって異なる)。山口は、4つの蹄の大きさが同じなのは身体のバランスがとれている証だと述べている。なお5歳時に右股関節炎を発症した後、函館競馬場で山口が蹄を見ると、右後脚の蹄だけが他の3つよりも小さくなっていたという。山口は、股関節炎の痛みを庇ってそうなったのだろうと推測している。蹄は2か月ほどで元に戻ったという。 ===精神面に関する特徴・評価=== 前述のように、ナリタブライアンは興奮しやすく、かつ臆病な気性の持ち主であった。陣営は前者についてはローテーションの間隔を詰めて多くのレースに出走させ、同馬のエネルギーを発散させることによって、後者についてはシャドーロールを装着して下方の視界を遮ることによって(疾走中に自分の影を怖がることがないよう)解決を図った。なお大川慶次郎によると、ナリタブライアンは競走馬生活の途中で精神的に成長しシャドーロールを装着しなくとも走りに集中できるようになったが、その時にはシャドーロールがナリタブライアンのトレードマークになっていたという。主戦騎手の南井も、1995年初めに受けたインタビューで「シャドーロールをとっても問題ないと思う」、「(シャドーロールは)今ではマスコットがわりのようなもの」と述べている。ナリタブライアンは4歳の春から、調教の際にはシャドーロールを外していた。大久保は皐月賞後に、レースでシャドーロールをつけ続けたのは「縁かつぎ」と「識別しやすい」ためと答えている。シャドーロールはナリタブライアンの代名詞的存在となり、同馬は「シャドーロールの怪物」と称された。 ===レーススタイルに関する特徴・評価=== 主戦騎手の南井は、ナリタブライアンの競走馬としての長所を「いい脚を長く使えること」と評している。レースでは優れた集中力を発揮し、「他をぶっちぎって勝つ」と称された。 ===競走能力に関する評価=== ナリタブライアンの関係者はデビュー前からナリタブライアンに高い素質を感じていた。デビュー戦の直前期に調教で騎乗した南井は、加速の仕方がオグリキャップと似ていたことから「これは走る」という感触を得ていた。また、調教助手の村田光雄は、初めて調教のために騎乗した時に「これはモノが違うかもしれない」と感じた。ただしマスコミに対しては高評価を与えた馬ほど走らないというジンクスを意識して「ビワハヤヒデと比べるのはかわいそう」などと控え目なコメントを出し続けた。 デビュー後も関係者は高い評価を与え続けた。南井はデビュー戦で2着に敗れたにもかかわらず、「この馬はすごい」と評した。その後も南井はナリタブライアンに高い評価を与え続け、東京優駿優勝後には「今まで乗った馬の中で一番強いんじゃないか」とコメントした。大久保はデビュー戦の後、「この馬は強い。モノが違う」と絶賛し、早田に対し初勝利を挙げた2戦目のレース後に「この馬は、兄を超えますよ」、函館3歳ステークスでは6着に敗れたにもかかわらず「凄い馬ですね。間違いなく大物になります。」と語った。さらにスプリングステークスを優勝した際「ダービーを勝てそうか」と問われ、「まあいけるんじゃないの」と答えた。きんもくせい特別で騎乗した清水英次は「(清水が騎乗したことのある)ナリタタイシンの今頃よりも乗りやすい。とにかく器が違う。」と評した。また騎手を引退した後に、自身が騎乗した中でトウメイと並んで最も賢い競走馬だったと評した。武豊は他の競走馬に騎乗してブライアンと対戦した際の感想として、「全然勝てる気がしない。ナリタブライアンに負けても仕方がないと納得してしまう」とコメントしている。 その他の競馬関係者による評価を見ると、オリビエ・ペリエは「印象に残る馬」の1頭としてナリタブライアンを挙げ、「この馬の競馬ぶりは本当に衝撃的だった」、「全盛時の走りは世界クラスだった」と述べている。前述のように野平祐二は東京優駿のレース後、自身が管理したシンボリルドルフと比較して「これからいろいろあるだろうが、現時点ではブライアンが上かな」と評したが、股関節炎を発症した後のナリタブライアンのレースを見て、「ルドルフを超えたかな、と思った時もありました」「あらためて、シンボリルドルフという馬の真価が、わかるような気がします」と評価を改めている。 ===競走馬名および愛称・呼称=== 競走馬名「ナリタブライアン」の由来は、馬主の山路秀則が大久保正陽厩舎への預託馬に使用していた冠名「ナリタ」に父ブライアンズタイムの馬名の一部「ブライアン」を加えたものである。 愛称・呼称については、「ブライアン」が一般的で、ナリブーとも呼ばれた。厩務員の村田光雄は「ブー」と呼んでいた。また、前述にように気性改善のために装着したシャドーロールが代名詞的存在となったことから「シャドーロールの怪物」とも呼ばれた。クラシック三冠を含むかつての八大競走を4勝していることから「四冠馬」とも称される。 ===投票・フリーハンデにおける評価=== 競馬ファンによる投票での評価をみると、2000年にJRAが行った「20世紀の名馬大投票」において37,798票を獲得し、1位となった。現役時代には東京優駿で、当時としてはハイセイコーの66.6%に次いで同レース史上2番目に高い61.8%の単勝支持率を集めた。また、同レース単勝馬券の配当額120円はシンボリルドルフの130円を下回り、当時としては同レース史上最低のものであった。 競馬関係者による投票での評価をみると、雑誌「Number」(「Number PLUS」1999年10月号)が競馬関係者を対象に行った「ホースメンが選ぶ20世紀最強馬」で3位となった(1位はシンザン)。 全日本フリーハンデでは、三冠を達成した1994年に129ポイントを獲得している。これはシンボリルドルフの128ポイントを上回り、日本の4歳馬としては当時史上最高の評価である。 ==ローテーションを巡る批判== ナリタブライアンのローテーションの組み方を巡っては、しばしばマスコミによる批判の対象となった。調教師の大久保はそうした報道やマスコミの報道姿勢に反発し、取材拒否をするなど、両者の関係は必ずしも良好とはいえなかった。 ===3歳時のローテーションに関して=== レースに出走させ過ぎであるという批判はナリタブライアンが競走馬として頭角を現すようになった当初から根強く、たとえば岡部幸雄は5歳時に故障を発症したのは3歳時のキツいローテーションのツケであると述べている。一方、大久保は「レースに出走させることによって競走馬を強くする」という持論によってローテーションを正当化している。また早田は前述の気性面の問題を解消するための措置であったと大久保を擁護した。なお、ナリタブライアンは出走レース数(21戦)と敗戦数(9敗)が、歴代の牡馬クラシック三冠達成馬の中ではオルフェーヴルと並んで最も多く、三冠を達成するまでの間に4敗を喫している(2011年に三冠を獲得したオルフェーヴルも達成までに4敗を喫している)。 ===天皇賞(秋)出走に関して=== 前述のように体調不安や調教の不足が指摘されていたにもかかわらず大久保が出走を決断して大敗したため、出走を批判するマスコミが多かった。特に大川慶次郎は、「『あれほどの馬を状態が悪いのに使ってくるわけがない』と信じていたが間違いは調教師自身の見識にあった」「あれだけの馬を調教代わりにレースに使うのは間違いである」と大久保を強く批判し、その後のジャパンカップと有馬記念を含め5歳秋における一連の出走について「関係者はよってたかってナリタブライアンをただの平凡な馬に蹴落とそうとしているのではないか」という思いを抱いたと述べている。また岡部幸雄は出走に関して、「ああいう使い方だとミソをつけてしまう」、「あれだけ強かった馬の価値をただの馬に下げてしまう」、「結局、日本人の感覚って、そんなもの」と批判した。 これに対し大久保は「レースに出走させることによって競走馬を鍛えるという信念に基づく出走であった」、「調教の動きがよかったので出走させた」、「天皇賞(秋)に出走したことによりジャパンカップと有馬記念では成績は上昇しているので間違いだったとは思わない」としている。なお大久保は天皇賞(秋)の直後からジャパンカップ直前期までの間、ナリタブライアンの体調に関するコメントを出さないことにより限定的な取材拒否を行った。 ===高松宮杯出走に関して=== 高松宮杯出走に関してはレースの前後を通じ、ナリタブライアンの距離適性の面から出走を疑問視ないし批判するマスコミが多かった。 大久保は出走を決断した理由について、当初「ブライアンは股関節炎の心理的な後遺症で長い距離を走らせると嫌がるようなそぶりを見せていた。そのために短距離戦を選んだ」と語っていた。しかし後にはそれを否定し、天皇賞(春)ではナリタブライアンは思い切り走っていたとし、むしろ「本当に強い馬は距離やコース形態を問わず勝てるはずだ」という信念が強く反映された出走であったとしている。さらに、世間をあっといわせたかった(ちなみにレース後、大久保は「盛り上がったでしょう」とコメントしている)、中京競馬場には一度も出走させていなかったためファンサービスの意味合いもあったとしている。これに対し大川は「本当に強い馬は距離に関係なく勝てるはずだ」という思想は競馬番組の距離体系が整備されていなかった昔の考えであり、ひどい時代錯誤だと批判した。藤野広一郎は、「ひとのエゴによって悲しきピエロにまで貶められた偉大な馬のプライドは、いったい、誰によって償われるのか」と非難した。 なお、高松宮杯では前述のように、南井から武豊への騎手の乗り替わりが行われた。その理由について大久保は当初、「天皇賞で2着に負けたから交代したわけじゃない」「ブライアンが元気なうちにお礼として武豊に騎乗してもらおうと思って」と説明していたが、橋本全弘は南井が降板させられたのだとしている。この騎手交代について大川慶次郎は、「南井ほどの、しかもナリタブライアンと一対のパートナーであった騎手を一度の騎乗ミスを理由にないがしろにすることは許されるものではない」という主旨の批判をした。 ==血統構成== ナリタブライアンの両親(父ブライアンズタイム、母パシフィカス)は、ともに同馬の生産者である早田光一郎が輸入したサラブレッドである(輸入の詳細な経緯についてはそれぞれの項目を参照)。 早田は生産した馬が種牡馬や繁殖牝馬となった際に近親交配を避けやすいという理由からアウトブリードの交配を好み、ナリタブライアンについて両親がともに血統表を5代遡ってもインブリードを持たず、かつ互いを交配させて誕生する馬もまた血統表を5代遡ってもインブリードを持たないという認識のもとに交配がなされた。早田は、ナリタブライアンがデビュー当初数多くのレースに出走できた丈夫さをアウトブリードによるものとしている。木村幸治は、早田が同じ年(1989年)にノーザンダンサーを祖先に持たないという理由でブライアンズタイムを、ノーザンダンサーの産駒であるという理由でパシフィカスを購入した事実について、「この男の意図が、ナリタブライアンという馬の誕生をもたらしたことだけは明らかである。決して偶然ではなく―」と述べている。 ナリタブライアンは母パシフィカスの第5仔に当たる。 ===血統表=== 血統表及びその見方については競走馬の血統#血統表を参照。 ===近親=== 半兄 ビワハヤヒデ ‐ 菊花賞、天皇賞(春)、宝塚記念全弟 ビワタケヒデ ‐ ラジオたんぱ賞従妹 ファレノプシス ‐ 桜花賞、秋華賞、エリザベス女王杯従弟 キズナ ‐ 東京優駿祖母 パシフィックプリンセス ‐ デラウェアオークス等曾祖母 フィジー ‐ コロネーションステークス =京王6000系電車= 京王6000系電車(けいおう6000けいでんしゃ)は、京王電鉄京王線用の通勤形電車である。1972年(昭和47年)から1991年(平成3年)に304両が製造され、2011年(平成23年)まで運用された。都営地下鉄新宿線への乗り入れを前提に設計され、京王で初めて20 m級の車体を採用した。京王線全線・都営地下鉄新宿線で運用されたのち、1998年(平成10年)から2011年(平成23年)にかけて事業用車に改造された3両と静態保存された1両を除いて廃車・解体された。事業用車に改造された3両は2016年(平成28年)4月に廃車されている。 本稿では京王線上で東側を「新宿寄り」、西側を「京王八王子寄り」と表現する。編成単位で表記する必要がある場合は新宿寄り先頭車の車両番号で代表し、6731編成の様に表現する。京王では京王八王子寄りを1号車として車両に号車番号を表示しているが、本稿では各種文献に倣って新宿寄りを左側として編成表を表記し、文中たとえば「2両目」と記述されている場合は新宿寄りから2両目であることを示す。 ==概要== ===登場に至る経緯=== 三多摩地区開発による沿線人口の増加、相模原線延伸による多摩ニュータウン乗り入れ、都営地下鉄10号線(後の都営地下鉄新宿線、以下、新宿線と表記する)乗入構想により、京王線の利用客増加が見込まれ、相当数の車両を準備する必要に迫られるなか、製造費用、保守費用を抑えた新型車両として6000系が構想された。新宿線建設に際してはすでに1号線(後の浅草線)を1,435 mm軌間で開業させていた東京都は京成電鉄と1号線との乗り入れにあたり京成電鉄の路線を1,372 mmから1,435 mmに改軌させた事例や、1,372 mm軌間の特殊性から運輸省(当時、2001年から国土交通省)と共に京王にも改軌を求めたが、改軌工事中の輸送力確保が困難なことを理由に改軌しないことで決着している。 ===車両の特徴=== 6000系は京王線初の車両全長20 m・両開扉・4扉車となり、最大幅2,844 mmの初代5000系と同じ室内幅2,600 mmを新宿線乗入で規定された最大幅2,800 mmで実現するための設計上の工夫が施され、6両編成で5000系7両編成に匹敵する収容力をもつものとされた。床面の車体幅が5000系の2,700 mmから2,780 mmに拡幅されたことと併せ、20 m車の導入に際して曲線上のホームとの干渉が発生するためホームの修正などの準備が行われたが、車両設計認可には時間を要した。 6000系では京王で初めて電気指令式ブレーキを採用し、主幹制御器がブレーキハンドルと一体化されたワンハンドルマスコンが採用された。 1962年(昭和37年)には井の頭線用に3000系がオールステンレス車体で就役していたが、6000系は5000系に続いて普通鋼車体とされ、アイボリー色の車体の窓下にえんじ色の帯が巻かれた。製造当時の法令に従い、6000系は A‐A基準 を満足するよう設計されている。 先頭車は全車東急車輛製造(以下、東急)製、中間車は25両が東急製、7両が日立製作所(以下、日立)製であるほかは日本車輌製造(以下、日車)製である。 ===略史=== 1972年に入線した6両編成6本は5000系とほぼ同一の制御装置を採用した抵抗制御となったが、1973年製造車から界磁チョッパ制御に変更されている。当初は5000系が特急用、6000系は急行用と位置付けられ、性能もそれに見合うものとされた。 1975年から既存の編成に新造車を組み込む形で8両編成化が開始され、平日の特急にも運用されるようになった。6両編成で製造された12編成すべてが新造車を組み込んで8両編成となったが、製造時に想定されていた電動車と非電動車の比率(MT比)1:1ではなく、5両が電動車、3両が非電動車 (5M3T) となり、界磁チョッパ制御の6編成は8両固定編成、抵抗制御の6編成は高尾山口行きと京王八王子行きに分割される休日の特急運用にも充当できるよう5両+3両の編成となった。これ以降は8両編成での製造が基本となった。 1980年に開始された新宿線乗り入れでは、故障した編成を後続編成が押して33.3‰の坂を登れる性能が求められたことから、電動車を1両増やした6M2T編成とする必要があり、中間付随車の電動車化が一部編成で行われ、新宿線用保安装置搭載などと併せて新宿線乗入対応とされた編成全車を車両番号の下2桁が31または81から始まる番号(30番台)に改番、以降は乗入対応編成と京王線専用編成が並行して製造された。 1981年からは朝ラッシュ時の一部列車を10両編成で運転するため、増結用の2両編成が製造されたが、8両編成同様新宿線乗入対応と京王線専用で番号が区分されている。 1984年に6000系の車体をステンレス化したものと位置付けられる後継の7000系が登場した後も相模原線延伸に伴う新宿線乗入運用本数の増加や10両編成運転の拡大に伴って製造が継続され、1990年まで4扉車の製造が続いたのち、1991年にラッシュ時の混雑緩和のため片側5扉とされた5両編成4本が製造されたのを最後に19年にわたった製造が終了した。 1970年代後半の改番以降5+3両編成が車両番号下2桁01 (51) から附番された0番台、京王線専用編成の8両編成と2両編成が同10 (60) からの10番台、20番台が5扉車、乗入対応編成の8両編成と2両編成が30番台となった。 1998年から抵抗制御車を先行して廃車が始まり、2001年からは界磁チョッパ制御車、新宿線乗入対応車の廃車も始まったが、当時新宿線用ATCの耐雑音性が低く、VVVFインバータ制御車両が乗り入れできなかったことから、9000系で置き換えた経年の短い京王線専用の8両編成を新宿線乗入対応に改造することで経年が長い乗入対応編成の一部が廃車された。 2000年には朝ラッシュ時の混雑が長編成化などの施策で緩和されてきたことから5扉車2編成が4扉に改造され、2002年10月に全編成の帯色がえんじ色から8000系と同じ京王レッドと京王ブルーに変更されている。 2006年に新宿線の信号装置が更新され、VVVFインバータ制御車の乗入が可能となったことから、9000系に新宿線乗入対応編成が登場、6000系の廃車が加速した。2009年に6000系は新宿線乗り入れ運用から離脱、2010年までに8両編成が全車廃車された。9000系の増結用や競馬場線用として使用されていたワンマン運転対応の2両編成と、動物園線用の同じくワンマン運転対応の5扉車4両編成が2011年まで残存したが、2両編成が同年1月に、4両編成が3月に7000系に置き換えられて全車が旅客運用を終了した。 3両が2004年に事業用車に改造されたほか、1両が若葉台工場に保管ののち、2013年より京王れーるランドで静態保存され、別の2両の運転台部分が同じく京王れーるランドに展示されているが、それ以外はいずれも解体処分された。 ==京王の車両史での位置づけ== 6000系は5000系の全長18 mに対し、京王線の建築限界を修正した上で、京王線用として初めて全長20 mの車体を採用した。6000系以降の7000系・8000系・9000系・新5000系は6000系同様20 m車体となったが、7000系以降はステンレス車体となったため、6000系は京王線用として20 m級車体を採用した唯一の普通鋼製車両である。6000系で床面(台枠上面)の幅が5000系の最大2,700 mmから2,780 mmに拡げられたため、ホームの改修が行われ、5000系以前の車両については出入口の踏段を拡幅する工事が施工された。 最初の6編成の制御方式は5000系とほぼ同一の部品を採用した抵抗制御だったが、これ以外はすべて界磁チョッパ制御となり、7000系にもほぼ同じ方式が継承された。電気指令ブレーキとT形のワンハンドルマスコンは改良を加えながら6000系以降の京王線用車両に採用されている。 5000系では多種多様の台車が使用されたが、6000系ではほぼ同一形態の2種類の台車に統一され、基本構造は7000系、最終製造車を除く8000系まで継承された。 6000系は製造時から全車が冷房装置装備となり、初期の先頭車は集約分散式冷房装置を採用したが、途中から全車集中式冷房装置に統一され、以降新5000系に至るまで京王線では集約分散式の採用はない。 6000系304両の製造期間である1972年4月から1991年3月の間に7000系132両と併せて436両が製造され、井の頭線からの転用車20両、2600系15両、2000系・2010系・2700系合計103両、5000系17両、5100系24両の179両が廃車された。京王線の車両数は257両増加したことになり、この間にいわゆるグリーン車と、吊り掛け式駆動車が全廃された。 6000系304両の廃車は1998年1月から2011年3月にかけて行われ、この間に8000系40両、9000系264両の合計304両が製造された。6000系を代替したのはすべてVVVFインバータ制御、ステンレス車体の車両であり、6000系の全廃により京王線の営業車から普通鋼製の電車が消滅した。6000系の廃車と並行して6000系とほぼ同じ制御装置を採用していた7000系のVVVF化改造工事が進められたが、この工事完了による京王線からの界磁チョッパ制御車消滅は6000系全廃後の2012年となった。 ==外観== 新宿線乗り入れに対応するため、京王として初の20 m車体、1,300 mm幅両開き片側4扉の車体を採用した。最大幅2,844 mmの5000系と同じ室内幅2,600 mmを新宿線乗入協定で定められた最大幅2,800 mmで実現するため、側窓を1枚下降式として壁厚さを薄くする手法が取られた。車体外幅は同寸法で車体をステンレス化する場合にコルゲートを追加できるよう2,780 mmとなり、5000系に続いてアイボリー色の車体の窓下にえんじ色の帯が巻かれた。窓上にも赤帯をまくことが登場前には検討されたが、実現しなかった。従来の車両に取り付けられていた社紋の代わりに京王帝都電鉄を表すKTRのプレートが取り付けられた。 平面を中心とした凹凸や曲面の少ない外観となり、客室屋根高さを高く取るため屋根も平面に近くなった。側窓はサッシ付き一枚下降式で、床面から1,300 mmまで窓が下がる。戸袋窓が設けられ、戸袋窓にもサッシが付いた。サッシの角が角ばっているのは少しでも視界を広く取りたいためとされている。客用ドアは体格向上に併せ、5000系の高さ1,800 mmから1,850 mmに変更された。 戸閉表示、非常通報、ブレーキ不緩解の3つの表示灯は車体中央部窓上にまとめて設置され、表示灯群の両側に種別と行先の表示装置が設けられた。 先頭部には地下線走行時の非常脱出や、複数編成間を貫通幌でつなぐ目的で中央部に幅600 mmの貫通扉が設けられ。貫通扉を中心に緩やかに後退角がついた折妻構成とされた。最初の3編成は貫通幌の座がなかったが、後に追加されている。4編成目以降は幌の座を備えて新造された。登場直後は5000系同様正面貫通路両側でえんじ帯が徐々に細くなっていたが、すぐに一定幅に変更された。貫通路上に行先、正面右側窓上に種別表示を備え、正面左窓上は運行番号表示用とされたため、前照灯は正面窓下に設置された。窓上表示装置の両脇に尾灯と列車種別識別用の表示灯兼用の角型の灯具が設けられ、夜間に表示灯が際立つよう表示幕類は黒地とされ、各表示装置の周りが黒く塗られた。登場当初は装置ごとに黒色部が3分割されていたが、すぐに一体に塗装された。車掌室窓部にリレー類を納める箱を設置したため、正面向かって左側の窓の天地寸法が運転席側より小さくなり、バランスをとるため窓下に車号板が取り付けられた。 1992年ごろに先頭車正面床下にスカートが取り付けられ、2002年に帯色が京王レッドと京王ブルーに変更されているが、それ以外に外観の印象を変えるような大きな改造は行われなかった。 ==内装== 座席はロングシートで、褐色のモケットが貼られた。壁色は5000系に続いてアイボリー系となった。天井の冷風ダクトの枕木方向の幅を広げることで天地を薄くでき、天井高さは床面上2,210 mmとなった。車内照度確保のため、室内灯は乗客により近くなるよう冷風ダクトに取り付けられた他、天井には先頭車9台、中間車10台のラインデリアが埋め込まれた。座席端のアームレストは着座客のアームレストとしても、立客が寄りかかる場所としても両者が不快になることなく利用できるよう工夫されている。冷暖房効果向上などを目的として全中間連結部に引戸が設けられている。 ==乗務員室== 京王の車両で初めてワンハンドル式主幹制御器を採用した。押して制動か、引いて制動か、の議論が設計時にあり、先に登場していた東急8000系に倣って押して制動する方式が採用された。運転士前面に配置する計器類は速度計と圧力計、一部のスイッチ類などの最低限とされ、電流計・電圧計などは添乗する係員から見やすいよう乗務員室側開戸の上に設けられた。ATC設置に備えて、速度計外側には車内信号が表示できるスペースが設けられた。乗務員室中央部を貫通路として使用する場合、運転室・車掌室が仕切れるような構造となっていた。ワイパーは乗用車用を流用した電動式となった。 ==主要機器== ===走行関係装置=== 1972年製の6編成は抵抗制御を採用、5000系最終製造車とほぼ同様の日立製主制御装置MMC‐HTB‐20J(直列11段、並列7段、弱め界磁6段)、主電動機として直流直巻電動機・日立製HS‐834Crb、東洋電機製造(以下、東洋)製TDK‐8520A(出力150 kW、端子電圧375 V、定格電流450 A、回転数1,450 rpm)が搭載された。5両編成・6両編成でデハ6000形単独で使用される場合は永久直列制御とされ、発電ブレーキが使用できなかった。 1973年以降は主回路を界磁チョッパ制御に変更するとともに回生ブレーキも採用し、主制御装置は日立製MMC‐HTR‐20B(直列14段、並列11段)、主電動機は直流複巻電動機・日立製HS‐835GrbまたはHS‐835Jrb、東洋製TDK‐8525AまたはTDK‐8526A(150 kW、端子電圧375 V、定格電流445 A、分巻界磁電流28.3 A、回転数1,500 rpm)となった。抵抗制御車同様、デハ6000形単独で使用される場合は永久直列制御とされたが、回生ブレーキは使用できた。当初からユニットを組まない電動車として計画されたデハ6400形にはスペースの制約から他形式と異なる機器が採用され、主制御装置も日立製MMC‐HTR‐10C(永久直列14段)となった。5000系では日立製主電動機の数が多かったが、6000系では東洋製が主力となった。 駆動装置はTD平行カルダン駆動が採用され、抵抗制御車の歯車比は85:14、界磁チョッパ制御車の歯車比は85:16である。後年7000系と共通のWN駆動装置に交換されたものがある。 制動装置は日本エヤーブレーキ製全電気指令式電磁直通ブレーキ (HRD‐1) が採用された。 5000系では数多くの種類の台車が採用されたが、6000系以降の各形式では統一された形態のものとなった。台車は車体直結式空気ばね、ペデスタル方式軸箱支持 の東急製TS‐809動力台車、TS‐810付随台車が採用された。界磁チョッパ制御車の台車は回生ブレーキ使用に対応してTS‐809Aに形式変更されている。TS‐809の軸距は2,200 mm、TS‐810は2,100 mmで、全台車両抱式の踏面ブレーキを装備する。サハ6550形は電装を考慮していたため全車電動車用TS‐809系を装備し、クハ6801 ‐ クハ6806はサハ6551 ‐ サハ6556から転用されたTS‐809改台車を装備していた。デハ6456は落成当初、軸箱支持方式をシェブロン式とした試作台車TS‐901を装着していたが、1年程度でTS‐809Aに交換されている。 ===補機類=== 集電装置として、東洋製PT‐4201形パンタグラフがデハ6000形・デハ6400形・デハ6450形の全車に、2両編成ではクハ6750形のそれぞれ京王八王子寄りに搭載されたほか、一部のデハ6050形にも搭載された。 6000系では4種類の容量の5種類の補助電源装置が使用された。1972年製のサハ6550形と1973年製のデハ6050形・サハ6550形には容量130 kVAのHG544Er電動発電機 (MG)、1972年製のデハ6050形には容量75 kVAのHG584Er電動発電機、それ以外の4扉車には容量130 kVAのTDK3344ブラシレス電動発電機 (BL‐MG) が搭載された。HG854Erは1972年製造車の5+3両編成化時にデハ6450形に移設され、同時にクハ6751 ‐ クハ6756に井の頭線用3000系から転用されたTDK362/1‐B電動発電機(容量7 kVA)が搭載された。のちにHG544Erの大半がTDK3344に載せ替えられている。5扉車にはSVA‐130‐477SIV(容量110 kVA)が採用された。1983年ごろにデハ6261に試験的にSIVが搭載された。 電動空気圧縮機は、2両編成を除いて、毎分吐出容量2,130リットルのHB‐2000および1987年以降の製造車では性能は同一で小型低騒音のHS‐20Dが、3・5両編成用のクハ6700形とデハ6050形、サハ6550形全車に各1台が搭載された。2両編成では床下スペースの制約から、井の頭線から転用された毎分吐出容量1,120リットルのC‐1000を採用し、デハ6400形に搭載された。 ===冷房装置=== 1972年製造の制御車には集約分散式能力9.3 kW (8,000 kcal/h) の東芝製冷房装置が4台搭載された。1973年から1976年製造の制御車は同じ冷房装置5台を搭載することが可能な構造となったが4台のみが搭載され、中央の1台分にはカバーだけが載せられた。1973年から1976年製造の制御車には1986年、5台目の冷房装置が搭載されている。1972年製の中間車と、これを8両編成化するために製造されたデハ6450形には日立製集中式34.9 kW (30,000 kcal/h) の冷房装置1台が搭載されたが、1991年に集中式46.5 kW (40,000 kcal/h) のものに載せ替えられている。それ以外の4扉車は全車集中式46.5 kWの冷房装置を搭載し、5扉車のみ48.8 kW (42,000 kcal/h) とされた。冷房装置の寿命は15年程度であるため、途中何回か載せ替えが行われ、型式が異なるものに変えられたもの、3000系や5000系と交換したものなどがある。能力46.5 kWのものを搭載していた車両の大半が48.8 kWのものに交換されている。 ==形式構成== 6000系は以下の形式で構成される。各形式とも一部の例外を除いて固定編成中で下2桁は同番号または同番号+50となっている。ここでは1991年の製造終了時までを述べる。「デ」は制御電動車及び電動車を、「ク」は制御車を、「サ」は付随車を、「ハ」は普通座席車を指す略号であり、形式名の前のカタカナ2文字はこれらを組み合わせたものである。各車の製造年時は項末の表を参照のこと。 ===デハ6000形=== 主制御装置、パンタグラフを搭載する中間電動車である。パンタグラフは京王八王子寄りに1基が搭載されている。3両編成の2両目、5両編成と6両編成の2両目と4両目、初期の8両編成の3・5・6両目、それ以外の8両編成の2・4・6両目に組み込まれた。初期の8両編成を除き編成位置により新宿寄りから順に百の位が0・1・2に附番され、3両編成用は百の位が4となったが、下記の制御電動車デハ6400形とは別形式である。デハ6050形とユニットを組んで使用されることが基本だが、5両編成の4両目と乗入用を除く8両編成の4両目、初期の6両編成の4両目と初期の8両編成の5両目に組み込まれた6100番台の車両はデハ6000形単独で使用された。デハ6001 ‐ デハ6006・デハ6101 ‐ デハ6106の12両が抵抗制御で、それ以外の車両が界磁チョッパ制御である。1972年から1991年にかけて95両が製造された。1976年に6両編成の8両編成化に伴ってサハ6550形サハ6551 ‐ サハ6556が電装されてデハ6401 ‐ デハ6406となった。一部車両は編成全体の新宿線乗入対応改造に併せて改番されている。 ===デハ6050形=== デハ6000形とユニットを組む 電動空気圧縮機、京王八王子寄り屋根上にパンタグラフを搭載する中間電動車である。6100番台には初期と最末期の一部を除きパンタグラフは設置されなかった。百の位はユニットを組むデハ6000形と同一で、初期の6両編成と5両編成の3両目、初期の8両編成の4・7両目、それ以外の京王線用8両編成の3・7両目、乗入対応8両編成の3・5・7両目に組み込まれた。デハ6051 ‐ デハ6056の6両が抵抗制御で、それ以外の車両が界磁チョッパ制御である。8両編成の7両目に組み込まれた車両以外には電動発電機が搭載された。1972年から1991年にかけて67両が製造された。乗入対応のため1979年にサハ6557 ‐ サハ6559・サハ6564 ‐ サハ6569が電装されてデハ6181 ‐ デハ6189に改番されている。一部車両は編成全体の新宿線乗入対応改造に併せて改番されている。 ===デハ6400形=== 2両編成で新宿寄りに連結される制御電動車で、主制御装置、電動空気圧縮機、京王八王子寄りにパンタグラフを搭載する。1981年から1989年にかけて18両が製造された。デハ6401 ‐ デハ6406はデハ6000形に属する中間電動車であり、デハ6400形ではない。 ===デハ6450形=== 3両編成で京王八王子寄りに連結される制御電動車で、補助電源装置、パンタグラフを搭載する。パンタグラフは他車種同様京王八王子寄りに搭載されたため、運転台側にパンタグラフがある。1976年、1977年に7両が製造された。 ===サハ6550形=== 電動空気圧縮機付きの付随車で、初期の6両編成の5両目と初期の8両編成の2両目、京王線用8両編成の5両目に組み込まれる。1972年から1983年にかけて22両が製造された。1976年に8両編成化のため6両がデハ6000形に、1977年 ‐ 1978年に乗入対応のため6両がデハ6050形に改造されている。電動車化が想定されていたため、屋根上にパンタグラフ取付用の台、客室床に主電動機点検蓋があり、電動車用TS‐809系台車を装備している。 ===クハ6700形=== 新宿寄り制御車である。3・5両編成用には電動空気圧縮機が搭載された。3両編成用は百の位が8。1972年から1991年にかけて42両が製造された。一部車両は新宿線乗入対応改造に併せて改番されている。 ===クハ6750形=== 京王八王子寄り制御車である。2両編成用は百の位が8。1972年から1991年にかけて53両が製造された。2両編成用は京王八王子寄りにパンタグラフ1基を搭載している。一部車両は新宿線乗入対応改造に併せて改番されている。 ===注記=== (II) と付記されている車両は同じ番号を付けた2代目の車両であることを指す。以下同じ。 ==歴史== 6000系の製造ごとの仕様の変化、改造、改番などを時系列にまとめる。複数の年にまたがった事例でも、同一の仕様、改造であればひとつの項にまとめた。 ===6両編成=== 6000系として最初に製造されたグループであり、1972年に製造された6編成36両のグループだけが抵抗制御となった。登場時は前面表示装置付近の塗り分けや、貫通路両脇のえんじ帯の処理が後に見られるものと異なっていた。先頭部貫通幌を取り付けるための台座もなかったが、すぐに取り付けられている。全車1972年5月に竣工し、先頭車とサハ6550形が東急製、デハ6053 ‐ デハ6056が日立製、それ以外の中間車が日車製である。登場時はサハ6556にもパンタグラフが設置されていたが、1か月ほどで撤去されている。 6000系36両の代替として井の頭線から転用されていたデハ1700形デハ1701 ‐ デハ1707・クハ1710形クハ1711・デハ1710形デハ1712 ‐ デハ1715・サハ1200形サハ1202の13両が廃車された。 凡例 Tc …制御車 M …中間電動車 Mc …制御電動車 T …付随車 CON …主制御装置 MG …補助電源装置(電動発電機) BMG …補助電源装置(ブラシレス電動発電機) SIV …補助電源装置(静止型インバータ) 補助電源装置の右の数字は容量、単位kVA CP …電動空気圧縮機 PT …集電装置(京王八王子寄り)以下同じ。Tc …制御車M …中間電動車Mc …制御電動車T …付随車CON …主制御装置MG …補助電源装置(電動発電機)BMG …補助電源装置(ブラシレス電動発電機)SIV …補助電源装置(静止型インバータ) 補助電源装置の右の数字は容量、単位kVA補助電源装置の右の数字は容量、単位kVACP …電動空気圧縮機PT …集電装置(京王八王子寄り)以下同じ。1973年に入籍した車両から主制御装置が界磁チョッパ制御となった。先頭車には5個目の冷房装置を搭載できるよう準備が行われ、カバーだけが設置された。中間車の冷房装置能力が34.9 kWから46.5 kWに増強されている。先頭車とデハ6050形が東急製、デハ6010 ‐ デハ6012が日立製、それ以外が日車製である。6000系で日立製の車両はデハ6053 ‐ デハ6056、デハ6010 ‐ デハ6012の7両のみである。最初の3編成が1973年12月、残りの3編成が1974年3月に竣工している。このときの製造車から先頭車に新宿線用無線アンテナ設置用の台が設けられ、以降乗入対応・非対応、パンタグラフ有無に関わらずすべての先頭車にこの台が設けられた。 この36両の入線に先立つ1973年10月にクハ1200形クハ1203・デハ1400形デハ1401・デハ1403・デハ1800形デハ1801の4両が、次いで1974年2月にクハ1200形クハ1204・デハ1400形デハ1402・デハ1800形デハ1802・デハ1803の4両が廃車され、井の頭線からの転用車が一掃された。 ===6両編成の8両編成化=== 界磁チョッパ制御の6両6編成を8両編成化するために中間電動車12両が日車で製造された。新造された車両には6200番台の番号が付与されている。当時は検車設備が6両編成までしか対応できなかったため、2両と6両に容易に分割できるよう、5両目に組み込まれていたサハ6550形を2両目に移動し、新造した車両が3両目と4両目に組み込まれた。6100番台のデハ6000形と6000番台の電動車ユニットの位置が併せて入れ替えられている。3両目から7両目の5両に連続してパンタグラフが設置される編成構成となった。新造車は1975年1月に落成し、高幡不動に搬入されていたが、一部駅でホーム延伸が間に合わなったため、1975年10月ごろまで冷房装置を取り付けない状態で高幡不動に留置された。つつじヶ丘駅のホーム延伸は8両編成運転に間に合わず、ラッシュに通勤急行などで6000系8両編成が運用される際は一部車両のドアを閉め切る措置が取られた。 ===注記=== 形式に括弧がない車両が今回の製造車。以下同じ。8両編成化された6000系は平日の特急にも運用されたが、分割・併合が行われるオフシーズン休日の特急には依然5000系が運用されていた。これを6000系で置き換えることを目的に、6両編成で残っていた抵抗制御車に1976年5月に東急で新造された先頭車2両を組み込んで5両編成・3両編成各6編成が組成された。登場直後は新宿寄りに3両編成、京王八王子寄りに5両編成を連結していたが、1977年に特急に運用される直前に逆に組み替えられた。 組み込みにあたってはサハ6550形が6両編成から抜かれ、電装の上デハ6000形に改番、新造されたデハ6450形とユニットを組み、新造されたクハ6700形(6800番台)と併せて3両編成を組んだ。サハ6550形の台車は新造されたクハ6700形(6800番台)に改造の上流用(TS‐809改台車)、サハ6550形の電動空気圧縮機は新たに5両編成となった既存編成の新宿寄り先頭車クハ6700形に移設、サハ6550形の75 kVA電動発電機はデハ6450形に移設され、5両編成のデハ6050形には新製された130 kVAの電動発電機が搭載された。5両編成のクハ6750形には井の頭線から転用された7 kVAの電動発電機が搭載された。サハ6550形の電装工事は京王重機整備北野工場に車両を陸送して実施された。デハ6450形の冷房装置は集中式とされ、ユニットを組むサハ6550形改造のデハ6000形に併せ、容量は34.9 kWとなった。 分割運転時の誤乗防止のため、3両編成のつり手は緑色、5両編成は白とされた。5両編成は平日日中にグリーン車とともに 各駅停車にも運用された。 6000系には先頭部助手席側窓下と側面窓上にナンバープレートが設けられており、1974年以前の製造車の前面はアイボリー地に黒文字、側面は紺地にステンレス文字だったが、1976年製造車から側面はアイボリー地にステンレス文字になった。このとき投入された車両の代替として1977年3月に2600系3両2編成が廃車された。 括弧内は旧番号。以下同じ。デハ6450形と電装されたデハ6000形は回生ブレーキ付き界磁チョッパ制御となり、発電ブレーキ付き抵抗制御車の5両編成と併結運転されるため、回生ブレーキ車と発電ブレーキ車の併結試運転が1976年5月15日に下記の編成で事前に行われている。 ===1977年製造車=== 1977年には5両+3両の8両編成1本と8両編成2本が製造された。このときから先頭車の冷房装置が集中式に、補助電源装置がブラシレスMGに変更された。8両編成は6707編成 ‐ 6712編成とは編成構成が変更され、サハ6550形は5両目となり、後の京王線車両と同様電動車ユニットの車両番号の百の位は新宿寄りから順に0・1・2となっている。先頭車は東急製、中間車は日車製である。代替として1977年12月に2600系3両3編成、2700系2両1編成とデハ2701の計12両が廃車され、2600系が消滅した。 ===新宿線乗入準備の8両編成=== 1980年3月の都営新宿線乗入開始に備え、乗入対応として電動車を1両増やして6両とした8両3編成が1978年8月から9月にかけて製造された。5両目に組み込まれたデハ6050形(6100番台)のパンタグラフは登場まもなく降下され、後に撤去された。 同時期に6707編成 ‐ 6709編成・6714編成・6715編成の乗入対応改造が行われているが、乗入改造はサハ6550形を電装してデハ6050形とすること、両先頭車にATCを搭載することが中心で、この改造の間遊休化する編成中のその他車両を有効活用するため、クハ6719・クハ6769・サハ6569の3両も今回の新造車と同時に製造され、対象各編成の改造期間中、中間車を順次組み込んで運用された。デハ6217・デハ6218と先頭車全車が東急製、それ以外の車両が日車製である。 1978年10月に京王新線が開業したが、乗入相手である新宿線開業までの1年半、相模原線からの通勤快速・快速に加え、笹塚 ‐ 新線新宿間の折り返し運転が行われた。 ===新宿線乗入対応工事=== 1979年7月から11月にかけて6707編成 ‐ 6709編成・6714編成 ‐ 6718編成に新宿線乗入対応工事が施行され、30番台に改番された。6707編成 ‐ 6709編成は編成内の車両順位が6714編成以降と同一に変更され、6100番台と6200番台のデハ6000形の番号が入れ替えられている。6707編成 ‐ 6709編成・6714編成・6715編成には先頭車への新宿線用自動列車制御装置 (ATC) と新宿線用列車無線装置搭載、屋根上への列車無線アンテナ設置、とサハ6550形の電装が、6716編成 ‐ 6718編成は先頭車へのATC・新宿線用列車無線搭載が行われた。ATCは先頭車の床下に搭載された。サハ6550形改造のデハ6050形にはパンタグラフが設置されなかった。新宿線内では運転台に新宿線用のマスコンキーを挿入することで起動加速度が京王線内の2.5 km/h/sから3.3 km/h/sに切り換わる。 1980年3月から都営新宿線への乗入が始まったが、岩本町より東は6両編成までしか対応していなかったため当初京王車の乗入は岩本町までとなり、後に大島まで、本八幡までにホーム延伸、新宿線延伸に併せて乗入区間が拡大された。 ===1979年製造車=== 新宿線乗入対応としてATCと新宿線用無線を新製時から搭載し、30番台に区分された8両2編成が製造された。前年に製造されていたクハ6719・クハ6769・サハ6569と組んで8両編成を構成する中間車5両も同時に製造され、この編成も乗入対応編成とされたため、サハ6569はデハ6189に、両先頭車もクハ6739・クハ6789に改造、改番された。デハ6190・デハ6191と先頭車全車が東急製、それ以外の車両が日車製である。6740編成の両先頭車であるクハ6740・クハ6790の先頭部ナンバープレートは試験的に紺地にアイボリー文字となっていた。のちにナンバープレートの書体が変更されるまでこのままで使用された。 この21両の代替として、1979年11月と12月に2700系2両3編成と4両1編成の合計10両が廃車されている。 ===6713編成・6813編成の改番=== 1980年1月に30番台に改造された空き番号を埋める形で6713編成・6813編成がそれぞれ6707編成・6807編成に改番された。 クハ6707・デハ6007・デハ6057・デハ6107・クハ6757は2代目。京王新線への乗り入れや、混雑時に立ち席スペースを増やす目的で5 + 3編成の中間部の先頭車に1978年ごろに貫通幌が設置され、一部列車で貫通幌が使用された。 ===1980年以降製造の京王線専用8両編成=== 1980年に3編成、1981年・1983年に各2編成、合計7編成京王線専用の8両編成が製造された。いずれの編成も新宿線乗入対応の30番台に改造・改番されて空いた番号を埋める形で附番され、サハ6550形の一部と6719編成の一部を除き2代目の車両番号となった。 6718編成・6719編成にはATC取付用のステーが設けられ、客用ドア下部の靴擦りがステンレス無塗装となった。デハ6265 ‐ デハ6267と先頭車全車が東急製、それ以外が日車製である。1982年製造の6716編成以降は屋根の絶縁処理が変更され、ビニール張りから絶縁塗装(塗り屋根)に変更された。 この56両が製造される間、1981年2月に2700系6両、2010系の中間に挟まれていたサハ2500形・サハ2550形各5両の計16両が、1981年12月に2000系4両、2700系8両、2010系の中間に挟まれていたサハ2500形・サハ2550形各2両の計16両が、1983年10月に2010系12両が廃車され、2700系・2000系が形式消滅した。 サハ6563・デハ6213・デハ6263・サハ6566・サハ6567・サハ6568・デハ6019・デハ6069・デハ6119・デハ6219・デハ6269以外は2代目。 ===2両編成=== 1981年9月から始まった朝ラッシュ時新宿線乗入運用の一部10両編成化用として2両編成が製造された。全車東急製である。 デハ6400形とクハ6750形で構成され、使用電力増と回生ブレーキ使用に対応するためクハ6750形の京王八王子寄にもパンタグラフが搭載された。限られた床下スペースに必要な機器を搭載するため、主制御装置の小型化、空気圧縮機の小型化、ATS受信機、空制部品の一部を客室内椅子下に配置するなどの工夫がほどこされた。デハ6400形には新宿線用ATC装置を搭載するスペースが取れなかったため、新宿線乗入運用に入る際はクハ6750形が先頭となるよう、8両編成の京王八王子寄りに連結された。デハ6400形の先頭部には貫通幌が備えられ、乗入運用時には8両編成と幌で貫通された。 10両編成運転は準備の整った相模原線から新宿線に乗り入れる系統から先に実施されたため、新宿線乗入対応の30番台が先行して製造されたが、東京都との調整の遅れから就役が遅れ、当初は競馬場線に2両編成で使用された。1982年10月から京王線系統の10両編成運転も開始されたため、新宿線用ATCを搭載しない京王線専用の10番台も製造された。 2両編成では運転台直後の客室に車内灯が増設されている。 6436編成・6437編成は京王線専用、乗入対応用共通の予備車(兼用車)とされ、両者の運用に入った。1984年から後継となる7000系の製造が始まっているが、10両編成運用の増加により、6000系2両編成が継続して製造された。 1982年製造の6410編成・6436編成以降は塗り屋根に変更されたほか、1983年以降製造の6436編成・6413編成以降は客用ドアの靴擦りがステンレス化された。京王線内運用時は新宿寄りに連結され、連結・解放時間短縮のため京王線専用編成のクハ6750形には自動連結解放装置が設けられた。 新宿線乗入運用では2両編成のデハ6400形に貫通幌を設置、8両編成のクハ6700形との間が貫通幌でつながれ、その着脱にいずれにせよ時間を要することから、兼用車以外の30番台には自動連結解放装置は設置されなかった。 デハ6413は2代目。 ===1980年代の諸改造=== 分割・併合作業の容易化のため、一部の先頭車に自動連結解放装置が設置された。クハ6755とクハ6805に1981年に設置されて試験ののち、1982年ごろに京王線専用の8両編成の新宿寄り先頭車クハ6700形に、1983年ごろに残りの5 + 3編成のクハ6750形とクハ6700形(6800番台)に同装置が設置された。5+3編成の新宿寄り先頭車クハ6700形(6700番台)にも次いで1982年ごろに、5+3編成の編成順位が3 + 5に変更されたため、デハ6450形にも1992年ごろに同装置が設置されている。30番台は分割・併合時に貫通幌を使用し、その脱着にいずれにせよ時間を要するため、自動連結解放装置は設けられなかった。 1981年から1982年にかけて他の8両編成と編成構成が異なっていた6710編成 ‐ 6712編成を他編成に併せるための組み替えが行われた。6100番台と6200番台のデハ6000形の間で車両番号の振替が行われた。 1981年から1982年にかけて百の位0のデハ6050形のパンタグラフが使用停止とされたのち、1983年から1985年にかけて撤去され、井の頭線に転用された。 1986年に1973年製造のクハ6731 ‐ クハ6733・クハ6710 ‐ クハ6712・クハ6781 ‐ クハ6783・クハ6760 ‐ クハ6762に冷房装置が1台増設された。これらの車両には5台目の冷房装置を設置できるよう製造時から空の冷房装置カバーが1台設けられており、この中に冷房装置が搭載されている。 1986年から2両 + 5両 + 3両の10両編成運転が始まり、5両編成が抵抗制御車の場合は編成中に3種類の制御段数の車両が含まれることになるため、前後動を抑えるため0番台先頭車の連結器緩衝器が改良型に変更され、以降の新造車にも取り入れられた。 製造から15年 ‐ 20年経過した時点で経年により劣化した部位の更新工事が順次行われている。大半の車両で屋根が塗り屋根となり、1992年以降に内装を張り替えた車両は車内壁色が8000系と同じ大理石模様に変更されている。 ===1987年以降製造の乗入対応8両編成=== 相模原線の南大沢、橋本延伸に伴う乗入運用の増加に対応し、30番台8両編成1988年・1989年・1990年に各1編成製造された。デハ6092・デハ6292・デハ6094と先頭車が東急製、それ以外が日車製である。この3編成は空気圧縮機が低騒音形のHS‐20Dに変更されている。1989年11月に京王グループの新しいシンボルマークが制定され、4扉車の最終製造となった6744編成では側面の社章がKTRからKEIOに変更され、既存車も順次同様に変更されている。6743編成と6744編成では2両編成同様運転台直後の客室に車内灯が増設されている。 ===5扉車=== 京王線では1972年から朝ラッシュ時1時間あたり最大30本の列車を運転しており、増発余力がなかったため以降は車両の大型化、長編成化により輸送力の増強をはかってきた。1990年代初頭には朝ラッシュ時の30本の列車のうち各駅停車15本が8両編成、急行・通勤快速15本が10両編成となったが、各駅停車の全列車10両編成化は1996年3月まで待たねばならなかった。列車自体の輸送力増加に加え、混雑の分散、停車時分の短縮のため駅階段の増設、閉そく区間の列車追い込みをスムーズにするための信号改良やホームの交互使用などの施策を併せて行ってきた中、ホームの交互使用が出来ない千歳烏山駅と明大前駅での乗降時間短縮を目的として、客用扉を片側5か所とした5両4編成が1991年に製造された。5扉車の導入により、明大前駅の停車時分は62.5秒から54.5秒に短縮されたとされている。18 m級車体の車両では5扉車を採用した事例が他にもあるが、20 m級車体で5扉は4扉車と扉位置がずれることもあり、6000系5扉車が唯一の事例である。 5扉車では車両番号の下2桁が21 (71) から附番されている。車両重量を増やすことなく車体強度を保つため、京王の車両として初めて戸袋窓が廃止された。戸袋窓廃止による採光面積の縮小を少しでも補うため、扉間の窓はサッシなしとされた。外板の腐食対策のため、車体下部の構造と窓から流れ込む雨水の処理方法が変更されている。主要機器は従来の6000系と同様とされたが、補助電源装置は静止型インバータとされ、冷房装置も換気機能を付加したものに変更された。4扉車では車体中央部に種別・行先表示装置、車側灯がまとめて設置されていたが、5扉車では設置できるスペースがないため、1つずつ扉間の窓上に設置された。これまで京王の車両は車両番号に独特の角ばった書体を採用していたが、5扉車では一般的な欧文書体に変更され、以降の新造車すべてに採用されるとともに6000系・7000系の既存車も順次新書体に変更されている。5扉車は混雑の激しい編成中央部に連結するため、2両 + 5両 + 3両の編成で朝ラッシュ時は運用され、ラッシュ以降は3両または2両編成を切り離した7両または8両編成で各駅停車に運用された。両先頭車に自動連結解放装置が設置されている。 ===スカート設置=== 1992年から順次先頭部床下にスカートが設置された。通常の運用で先頭に出ない30番台2両編成のデハ6400形、10番台2両編成のクハ6750形はデハ6436・デハ6437を除いてスカートが設置されなかった。 ===2両編成の乗入対応改造=== 京王線専用の2両編成のうち、6418編成 ‐ 6420編成が1993年から1996年にかけて乗入対応に改造され、30番台に改番された。この3編成は京王線専用編成時代にスカートを設置し、後に乗入対応に改造されたため、両方の先頭車にスカートがある。 ===抵抗制御車の廃車と変則編成=== 1998年から6000系の廃車が始まった。1998年には6701編成(3月)・6702編成(2月)・6704編成(1月)の5両3編成、6801編成(3月)・6802編成(2月)・6804編成(1月)の3両3編成の合計24両が廃車された。代替として8000系8両3編成が新造されている。 抵抗制御車の廃車を先行させるため、6803編成・6806編成の3両編成2本から抜き取られた車両と抵抗制御車の電動車デハ6053を電装解除した付随車で5両編成が1999年3月に組成された。デハ6053は電装解除され、サハ6553となった。デハ6456のパンタグラフは後に撤去されている。残ったクハ6806は1999年1月に、6703編成のデハ6053を除く4両と6803編成のデハ6453は1999年2月に廃車されている。1999年にはほかに6705編成(2月)・6706編成(1月)の5両2編成も廃車され、計16両が廃車された。代替として8000系8両2編成が製造されている。1998年・1999年で抵抗制御車が全廃された。廃車時に発生した部品のうち、抵抗制御車の主制御装置は上毛電鉄700型に、運転台機器は松本電鉄3000系をそれぞれ井の頭線3000系から改造する際に利用された。 サハ6553は2代目。隣に連結されたデハ6403の電装前の番号が初代サハ6553である。 ===5扉車の4扉化及び編成組替=== 登場時から座席数が少ないことが問題視されていたことに加え、長編成化などにより混雑が緩和されてきたこと、乗車扉位置の異なる車両の運用に苦情もあったことなどから、これら問題の解決を目的に5扉車のうち2編成が4扉に改造された。 両端の扉を存置してその他側面部を全面的に改造、中央扉を撤去し、その両側の扉を移設して4扉とした。改造にあたっては車体が歪まないよう片側ずつ施工されたと言われている。種別と行先表示装置は他の4扉車同様車体中央に移設された。戸袋窓は引き続き設けられず、採光確保のため窓が増設されたが、京王線用車両として初の固定窓となった。 当初は他の5両編成と共通に運用されたが、この2本だけが5両編成となったのちはこの2編成を連結した10両編成として運用された。5扉で残った2編成は6両編成と4両編成に組み替えられ、それぞれ相模原線と動物園線の区間運用に使用された。デハ6072にはパンタグラフが設置された。 ===追加の乗入対応工事と廃車進行=== 初期に製造された30番台を置き換えるため、後期製造の車両を新宿線乗入対応に改造する工事が行われた。6748編成・6749編成は正面の運行番号表示器がLED式になっている。これらの追加改造車に置き換えられ、6731編成が2001年11月に、6732編成が2002年10月に、6733編成が2003年10月にそれぞれ廃車されている。 2001年には6731編成の他に6710編成が12月、6711編成が1月、1999年に組成された暫定6803編成と6805編成が2月に廃車され、計32両が廃車された。6711編成は界磁チョッパ車初の廃車、6731編成は30番台で初の廃車である。2002年には6732編成のほか、6712編成が1月に廃車され、計16両が廃車となった。2003年の6733編成の廃車により、分散冷房装置搭載車が消滅している。この56両の代替のため、2000年から2003年にかけて9000系56両が製造されている。 ===1990年代末以降の諸改造=== 中間連結面間に転落防止の外幌を設ける工事が1997年から2001年にかけて施工されている。 競馬場線用として1999年7月に6416編成と6417編成に、動物園線用として2000年10月に6722編成にワンマン化対応改造が行われた。助手席側運転台には客室と通話できる電話機が設けられた。6722編成には同時にTama Zoo Trainのラッピングがほどこされた。 2000年に登場した9000系には6000系・7000系と連結可能な読替装置が搭載されたため、9000系8両編成に6000系2両編成が連結されて運用されることもあった。6000系と7000系は併結可能だったが、2010年8月22日の6717編成の廃車回送時に7423編成を橋本寄りに連結して運転した事例があるのみである。 2002年10月に全編成の帯色がえんじから8000系と同じ京王レッドと京王ブルーに変更されている。 6721編成の6両編成化以降もデハ6000形デハ6122はM1車として使用されてきたが、M2車デハ6050形デハ6171に改造された。デハ6171は通常パンタグラフを搭載しないM2車であるが、パンタグラフはM1車当時のまま存置された。 2005年ごろに一部の車両のパンタグラフが東洋製PT‐7110シングルアーム形に換装されている。2009年にデワ600形のパンタグラフもシングルアーム形に換装された。 ===事業用車デワ600形への改造と0番台の消滅=== 1995年から事業用車として運用されていた5000系電動貨車の代替としてデハ6107・デハ6407・デハ6457が2004年10月にデワ600形電動貨車に改造された。デハ6107は新宿寄りドアから前を切断し、クハ6707の運転台を取り付けた。デワ600形の詳細は後述する。デワ600形に改造されなかったクハ6707・デハ6007・デハ6057・クハ6757・クハ6807の5両が7月に廃車され、デハ6450形が形式消滅、0番台が消滅した。 6707編成・6807編成の代替として9000系8両が2004年に製造された。 ===2007年以降の廃車=== 2005年に9000系新宿線乗入対応車が登場して以降、6000系の廃車が加速している。 2007年 2005年・2006年には9000系10両5編成が製造され、6737編成(2月)・6746編成(3月)の8両2編成、6721編成の6両1編成(6月)、6431編成(3月)の2両1編成、合計24両が廃車された。このうち6721編成のクハ6721は同年8月に南大沢駅付近の保線車両基地で脱線救出訓練に使用されたのち、解体された。2005年・2006年には9000系10両5編成が製造され、6737編成(2月)・6746編成(3月)の8両2編成、6721編成の6両1編成(6月)、6431編成(3月)の2両1編成、合計24両が廃車された。このうち6721編成のクハ6721は同年8月に南大沢駅付近の保線車両基地で脱線救出訓練に使用されたのち、解体された。2008年 2008年には9000系10両9編成が製造され、6000系30番台が大量に廃車された。6734編成(7月)・6735編成(5月)・6736編成(3月)・6738編成(2月)・6739編成(3月)・6743編成(4月)・6744編成(10月)・6748編成(8月)・6749編成(11月)の8両9編成と6433編成(4月)・6434編成(5月)・6435編成(5月)・6436編成(10月)・6437編成(11月)・6439編成(8月)の2両6編成の合計84両が廃車された。2008年には9000系10両9編成が製造され、6000系30番台が大量に廃車された。6734編成(7月)・6735編成(5月)・6736編成(3月)・6738編成(2月)・6739編成(3月)・6743編成(4月)・6744編成(10月)・6748編成(8月)・6749編成(11月)の8両9編成と6433編成(4月)・6434編成(5月)・6435編成(5月)・6436編成(10月)・6437編成(11月)・6439編成(8月)の2両6編成の合計84両が廃車された。2009年 9000系10両編成の製造が続き、2009年も6編成が製造された。6000系は6713編成(7月)・6714編成(8月)・6740編成(4月)・6741編成(5月)・6742編成(6月)の8両5編成、6723編成(9月)・6724編成(9月)の5両2編成、6432編成(4月)・6438編成(6月)・6440編成(5月)の2両3編成の56両が廃車された。2009年6月で都営新宿線乗入から離脱し、30番台が全廃された。9000系10両編成の製造が続き、2009年も6編成が製造された。6000系は6713編成(7月)・6714編成(8月)・6740編成(4月)・6741編成(5月)・6742編成(6月)の8両5編成、6723編成(9月)・6724編成(9月)の5両2編成、6432編成(4月)・6438編成(6月)・6440編成(5月)の2両3編成の56両が廃車された。2009年6月で都営新宿線乗入から離脱し、30番台が全廃された。 ===復刻塗装と6000系の全廃=== 2009年11月に6000系として最後に定期検査に入場した6416編成を1972年の登場時に近い塗装に復元し、廃車までこの塗装で運用された。帯色がえんじとなったほか、社名表記がKEIOからKTRに戻されている。2010年以降も残存した車両の廃車が継続した。 2010年 2010年は新車の導入はなかったが、6715編成(1月)・6717編成(8月)の8両2編成、6410編成(4月)・6413編成(4月)・6414編成(4月)・6415編成(4月)の2両4編成、合計24両が廃車され、8両編成が消滅した。2010年は新車の導入はなかったが、6715編成(1月)・6717編成(8月)の8両2編成、6410編成(4月)・6413編成(4月)・6414編成(4月)・6415編成(4月)の2両4編成、合計24両が廃車され、8両編成が消滅した。2011年 2011年も新車の導入はなかったが、6411編成(2月)・6412編成(2月)・6416編成(2月)・6417編成(2月)の2両4編成、6722編成(3月)の4両1編成、合計12両が廃車され、6000系が全廃された。2011年も新車の導入はなかったが、6411編成(2月)・6412編成(2月)・6416編成(2月)・6417編成(2月)の2両4編成、6722編成(3月)の4両1編成、合計12両が廃車され、6000系が全廃された。 ==デワ600形== 1995年から事業用車として運用されていた5000系電動貨車の代替としてデハ6107・デハ6407・デハ6457が2004年10月にデワ600形電動貨車に改造された。デハ6107はデワ601に改造されたが、1両単独での運転が可能な様、新宿寄りドアから前を切断し、クハ6707の運転台を取り付けるとともに自走に必要なすべての機器が搭載された。京王八王子寄りには構内運転用の簡易運転台が設けられた。空気圧縮機と主制御装置を床下に、ブレーキ制御装置、空気タンク、電動発電機が車内に搭載された。高圧機器が車内に搭載されたため、換気のため窓の一部が鎧戸とされた。デハ6407はデワ621となり、新宿寄りに簡易運転台が設けられた。ATS車上子を床下に搭載するため、一部の空気タンクが車内に搭載され、ATS装置本体も車内に搭載された。デハ6457を改造したデワ631には電動空気圧縮機を搭載するため、ブレーキ制御装置、一部の空気タンクが車内に移設された。デワ601の両側とデワ621の京王八王子寄連結器は棒連結器から密着連結器に交換されるとともにデワ601とデワ621の間に挟まれる貨車に電源を供給できるよう電気連結器が設けられた。車体塗装はグレーに変更され、夜間作業の視認性を高めるため正側面に赤白斜めのラインが入れられ、正面の白ラインは反射テープとなった。 チキ290形又はクヤ900形をデワ601とデワ621の間に挟んで使用されるほか、相模原線がATC化されたのちはATC非設置の6000系が若葉台検車区・若葉台工場に入出庫する際のけん引車としても使用された。 デヤ901・902形に置き換えられ、2016年4月に廃車された。 ==保存車== デハ6438が廃車後若葉台検車区で保管された後、2013年4月に多摩動物公園駅付近に移動、2013年10月から京王れーるランドで静態保存されているほか、クハ6722とクハ6772の運転台部分が同所に展示されている。 ==運用== ===1970年代=== 6000系は急行用として6両編成で製造されたため、当初は5000系が7両編成で特急、6000系は6両編成で急行に運用された。1975年に6000系の8両編成が登場、平日の特急にも運用されるようになったが、一部駅ではホーム延伸が間に合わず、ラッシュに通勤急行などで6000系8両編成が運用される際は一部車両のドアを閉め切る措置が取られた。 オフシーズン休日の特急は高幡不動で京王八王子方面と高尾山口方面で分割される運転形態だったため、5000系が引き続き充当されていたが、一部の6000系の5両+3両編成化により6000系がオフシーズン休日の特急にも運用されるようになり、オンシーズン時には8両編成で「高尾」「陣馬」などのヘッドマーク付き列車などにも運用された。5両編成は平日日中にグリーン車とともに 各駅停車にも運用された。 1978年に京王新線が開業したが、乗入相手である新宿線開業までの1年半、相模原線からの通勤快速・快速に加え、笹塚 ‐ 新線新宿間の折り返し運転が行われた。 ===1980年代=== 1980年3月から都営新宿線への乗入が始まったが、岩本町より東は6両編成までしか対応していなかったため当初京王車の乗入は岩本町までとなり、1987年12月に大島まで、1989年3月に本八幡までにホーム延伸、新宿線延伸に併せて乗入区間が拡大された。1981年9月からは朝ラッシュ時の乗入運用の一部が10両編成化され、2007年9月に京王車両で運用される列車は終日10両編成での運転となった。乗入開始当初から10両編成化までの間、乗入距離精算のため6000系が新宿線内を折り返す運用が1運用設定されていた。 朝ラッシュ時の相模原線から調布以東に直通する列車(相模原線系統)は京王八王子・高尾山口から調布以東に直通する系統(京王本線)の1時間当たり10本に対して半分の5本だったため、京王本線より先に輸送力が限界に達すると予想されたこと、京王線新宿駅と府中以西各駅の10両編成対応に時間を要したことから京王本線よりも先行して相模原線 ‐ 新宿線乗入系統の10両編成化が実施された。東京都交通局は新宿線を6両編成対応で開業させた直後に8両・10両対応への延伸を行うこととなったが、東京都も開発に関連している多摩ニュータウンの輸送力確保が目的であることから協力的だったと言われている。 京王線新宿駅の10両編成対応が完了した1982年11月から京王本線 ‐ 京王線新宿駅系統も10両編成化されたが、乗入系統とは2両編成の連結位置が異なっていた。30番台の2両編成は当初日中の運用がなく、全車若葉台で待機していた。 ===1990年代=== 8000系の登場により特急が10両編成化され、6000系は特急運用の任を下りたが、1992年から相模原線で8両編成の特急が運転されるようになったためこれに6000系が充当された。同時にシーズンダイヤの午後に高幡不動で高尾山口行き5両と多摩動物公園行き5両に分割・併合する急行が運転されるようになり、これに6000系が充当された。多摩動物公園発の編成は高幡不動到着後いったん京王八王子側に引き上げられ、高尾山口発の編成と連結された。 相模原線特急は8000系8両編成に順次置き換えられ、2001年に分割急行は廃止されている。5扉車は混雑の激しい編成中央部に連結するため、2両+5両+3両の編成で朝ラッシュ時は運用され、ラッシュ以降は3両または2両編成を切り離した7両または8両編成で各駅停車に運用された。 競馬場線が1999年に、動物園線が2000年にワンマン化されて以降はワンマン対応の6000系専用編成が使用された。 ===2000年代から全廃まで=== 廃車進行により徐々に運用の範囲を狭めていったが、都営新宿線のATCは耐雑音性が低く、VVVFインバータ制御車が乗り入れられなかったことから、ATC更新まで6000系が乗入用に専用された。2007年(平成19年)9月に新宿線乗入運用がすべて10両編成となって以降30番台は8両+2両の実質的な固定編成として運用された。 新宿線のATC更新後は急速に廃車が進行し、2009年(平成21年)6月に乗入運用から離脱、2010年(平成22年)8月に8両編成が全廃された。 5扉車改造の4扉車は当初他の5両編成と共通に運用されたが、他の5両編成が廃車されたのちは2本組み合わせた10両編成で使用された。5扉車6両編成は相模原線内折り返しの各駅停車に運用され、5扉車4両編成はにワンマン化改造・ラッピングがほどこされたうえ、動物園線で運用された。競馬場線と動物園線のワンマン運転対応車が最後に残り、競馬場線用は2011年(平成23年)1月、動物園線用は2011年(平成23年)3月で運用を終え、全車廃車された。 =レオシュ・ヤナーチェク= レオシュ・ヤナーチェク(チェコ語: Leo*231* Jan*232**233*ek [*234*l*235*o*236* *237*jana*238*t*239**240**241*k]  発音, 1854年7月3日 ‐ 1928年8月12日)は、モラヴィア(現在のチェコ東部)出身の作曲家。 モラヴィア地方の民族音楽研究から生み出された、発話旋律または旋律曲線と呼ばれる旋律を着想の材料とし、オペラをはじめ管弦楽曲、室内楽曲、ピアノ曲、合唱曲に多くの作品を残した。そのオペラ作品は死後、1950年代にオーストラリアの指揮者チャールズ・マッケラスの尽力により中部ヨーロッパの外に出て、1970年代以降広く世に知られるようになった。 ==生涯== ===少年時代(1854年 ‐ 1868年)=== 1854年7月3日、モラヴィア北部のフクヴァルディ(ドイツ語版) という村で、父イルジーと母アマリアの10番目の子供(14人兄弟)として誕生した。祖父と父はともに教師で、音楽家でもあった。 11歳のとき、ヤナーチェクの音楽的素養を見抜いていた父イルジーの意向によってモラヴィアの首都ブルノにあるアウグスティノ会修道院付属の学校に入学し、同時に修道院の少年聖歌隊員となった。聖歌隊の指揮者であったパヴェル・クシーシュコフスキーはヤナーチェクの父イルジーのもとで音楽の教育を受けた人物で、ベドルジハ・スメタナと同時期に活動したチェコ音楽における重要人物とされる。ヤナーチェクは約4年または8年の間、クシーシュコフスキーの指導を受けた。1866年に父のイルジーが死去し、伯父のヤンの後見を受けることになった。なお、ヤナーチェクは後に生まれ故郷のフクヴァルディに足繁く通うようになり、1921年には家を購入している。 ===王立師範学校時代(1869年 ‐ 1874年)=== 1869年秋、ブルノ市のドイツ人中学校を卒業したヤナーチェクは王立師範学校の教員養成科に入学し、音楽のほか歴史、地理、心理学で優れた成績を収めた。イーアン・ホースブルグは、ヤナーチェクのオペラ作品に登場人物に対する深い理解がうかがえることと心理学でよい成績を収めたこととの関連性を指摘している。1872年、3年間の教科課程を修了したヤナーチェクは無給での教育実習を2年間課せられた。同じく1872年にアウグスティノ会修道院の聖歌隊副指揮者に就任。留守がちであったクシーシュコフスキーにかわって活動を取り仕切った。指導を受けた生徒の一人によると、ヤナーチェクは「気性が激しく、怒りっぽく、発作的に怒りを爆発させていた」という。1873年、スヴァトプルク合唱協会の指揮者に就任。イーアン・ホースブルグによるとスヴァトプルク合唱協会は主に織工によって構成されており、「居酒屋に集まる労働者の歌唱クラブの域をあまり出なかったが、ヤナーチェクの熱意のおかげでその水準はかなり高まった」。ヤナーチェクは合唱協会のために四声部の世俗歌を作曲しており、イーアン・ホースブルグは、合唱協会の指揮者を務めたことと『耕作』や『はかない愛』といった初期作品のいくつかが無伴奏男声合唱のための作品であることとの関連性を指摘している。 1874年、2年間の教育実習を終え最終試験に合格したヤナーチェクは王立師範学校を卒業。この時ヤナーチェクが取得したのは「チェック語が話される学校で地理と歴史を教える資格」であり、音楽を教える資格ではなかった(ヤナーチェクが音楽の正教員としての資格を得たのは1890年5月のことである)。また、当時多くの中等学校ではチェック語ではなくドイツ語が話されていた。 ===プラハに滞在(1874年 ‐ 1875年)=== ヤナーチェクは王立師範学校長のエミリアン・シュルツにプラハのオルガン学校で学ぶことを勧められ、1年間の休暇が与えられた。出願に際し、師であるクシーシュコフスキーは以下のような推薦状を書いた。 彼の音楽的才能、特にオルガン演奏の才能は殊のほか傑出したものであり、音楽をあますところなく研究する十分な機会が与えられるならば、彼はいつの日か真にすぐれた音楽家になることでしょう。 ― ホースブルグ1985、40頁。 プラハ滞在中、ヤナーチェクはアントニン・ドヴォルザークと出会って親交を深め、その音楽を深く愛するようになった。また、ロシアを「全スラブ民族の理想の源泉」と位置付けて親ロシア的な心情を抱くようになり、ペテルブルク留学を志し独学でロシア語を学んだ。ヤナーチェクは後に生まれた2人の子供に、ロシア式の名をつけている。1918年に完成した交響的狂詩曲『タラス・ブーリバ』は「ロシア人をスラヴ民族の救済者であり指導者であるとみなす国家的情熱」が反映された作品とされる。ヤナーチェクの最後のオペラ作品である『死の家より』はフョードル・ドストエフスキーの小説『死の家の記録』を、1921年初演のオペラ『カーチャ・カバノヴァー』はアレクサンドル・オストロフスキーの戯曲『嵐 』をもとに制作されており、他に実行には移せなかったもののレフ・トルストイの小説『アンナ・カレーニナ』、『生ける屍』を題材にしたオペラの制作を計画していた。また1898年にはロシア愛好者協会を設立して1914年まで会長を務め、1909年にブルノのロシア文化サークルの会長を務めた。文芸評論家の粟津則雄は、ロシアの作曲家を除けばヤナーチェクほど「ロシアの文化や文学と強く結びついた作曲家はちょっとほかに思いつかない」と述べている。粟津は、ヤナーチェクの親ロシア的な心情には政治的な動機はまったくなく、「ロシアとかチェコといった区別を超え、それらをともに包んだ汎スラヴ的なものへの夢想」によるものであったと分析している。 ヤナーチェクは教会音楽を中心としたオルガン学校の教育課程を「きわめて優れている」成績で修了。1875年の夏をズノロヴィの叔父のもとで過ごした後、ブルノに戻った。 ===ブルノへ戻る(1875年 ‐ 1879年)=== ブルノに戻ったヤナーチェクは師範学校の臨時教員となり、アウグスティノ会修道院聖歌隊とスヴァトプルク合唱協会の指揮を再開した。新たにブルノ・クラブ合唱協会聖歌隊の指揮者にも就任し、多忙となったため1876年10月にスヴァトプルク合唱協会の指揮者を辞任した。ブルノに戻ったヤナーチェクが手掛けた作品には男声合唱曲の『まことの愛』、『沈んだ花環』のほか、初の器楽作品である『管弦合奏のための組曲』、メロドラマ『死』などがある。イーアン・ホースブルグはこの時期のヤナーチェクを「平凡な成行きで作曲と編曲にも手を染めた有能な教会音楽家以上の存在であることを暗示するものは、まだそこにはいっさいなかった」と評している。 ===ライプツィヒ・ウィーンに滞在(1879年10月 ‐ 1880年)=== やがてヤナーチェクは「基本的な音楽技能を向上させたい」と思うようになり、1879年10月、王立師範学校長エミリアン・シュルツの勧めでライプツィヒの音楽院に入学した。この時ヤナーチェクはシュルツの娘、ズデンカ・シュルゾヴァーと交際していた。音楽院でのヤナーチェクの評価は「『並はずれた才能に恵まれ、まじめで勤勉で』、『きわめて有能で知的で』あり、「まれにみる真剣さ」で勉強に熱中している」というものであったが、ヤナーチェクは授業の内容に満足できず、1880年2月末にウィーンへ移った。イーアン・ホースブルグによると5か月間のライプツィヒ滞在中にヤナーチェクはルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン、フランツ・シューベルト、ロベルト・シューマンの音楽に接しており、この時期に作曲された作品からはその影響がうかがえる。ウィーン滞在中、ヤナーチェクは2つのコンクールに『ヴァイオリン・ソナタ』を出品したが「あまりにも保守的」であるとして高い評価を得ることはできず、一方音楽院の授業にも満足することができなかった。ライプツィヒ、ウィーンでの滞在を通してヤナーチェクは、「正規の教育を受ける必要はもはやないという事実を痛感した」。 ===再びブルノへ戻る(1880年 ‐ 1916年)=== ウィーンからブルノへ戻った後ズデンカと婚約し、1881年7月13日に結婚。翌1882年8月に娘のオルガが誕生したが、直後に母アマリアとの同居を望むヤナーチェクに反発したズテンカが娘を連れて2年間実家に戻るなど、当初から夫婦関係は不安定であった。また、民族主義者のヤナーチェクは「きわめてドイツ的」なズデンカの親族に当惑を覚えていた。ヤナーチェクのもとへ戻ったズテンカは長男ヴラディミールを出産したがヴラディミールは猩紅熱にかかり、1890年11月に2歳半で死去した。ヴラディミールの死により、結婚・同居関係こそ解消されなかったものの、ヤナーチェク夫妻の結婚生活は事実上破綻した。なお、ズデンカはヤナーチェクの死後「ヤナーチェクとの生活」と言う回想録を遺し、2人の関係について率直に語っている。 1882年9月、ヤナーチェクはブルノにオルガン学校(現在のヤナーチェク音楽院)を設立した。この学校ではヤナーチェクが自ら音楽理論を教えたほか、義父となったエミリアン・シュルツが心理学を教えた。学校の教育課程は3年間で、目的は「教会音楽の技能の質を高めること」であった。これについてイーアン・ホースブルグは、「プラハ・オルガン学校の規則を手本としていたことは明らか」としている。 同じく1882年9月、ブルノ・クラブ合唱協会運営の「若い歌手とヴァイオリニストのための学校」がヤナーチェクの計画に基づき設立されると、その責任者に就任した。アウグスティノ会修道院聖歌隊の指揮者にも復帰し、さらに1884年11月に音楽雑誌『ブデブニー・リスティ』を創刊、編集者を務めた。ヤナーチェクはブルノ・クラブ合唱協会内部から批判を浴び、1889年以降聖歌隊の指揮者と「若い歌手とヴァイオリニストのための学校」の運営責任者から退いた。この時期のヤナーチェクは多くの仕事や夫婦間の軋轢を抱え、1881年から1888年にかけて作曲したのは『四つの男声合唱曲』などいくつかの合唱曲のみである。。ユリウス・ゼイエルの戯曲を原作とするオペラ『シャールカ』の作曲にも取り掛かったが、ゼイエルから詞の使用許可を得ることができず、とん挫した。『シャールカ』が完成したのはゼイエルが1901年に死去し、その作品がチェコ・アカデミーに遺贈された後のことである。 1886年、ヤナーチェクは民俗音楽を研究していた民俗学者フランティシェク・バルトシュと親交を深め、バルトシュに協力して民俗音楽と民俗舞踊の収集・分析作業を行うようになった。作業を進める中でヤナーチェクは民俗音楽の技法に魅せられていき、民俗音楽を採集することにとどまらず編集・刊行し、さらには自らの器楽作品に活用するようになった。ヤナーチェクはモラヴィアの民謡にとくに強い関心を抱いた。内藤久子は、ヤナーチェクは民謡を「民衆の生を包みこむ、まさに生きた歌」ととらえ、芸術音楽が「唯一、民謡から発展する」ことを確信していたと主張している。19世紀末から20世紀初頭にかけ、ヤナーチェクは作曲家としてよりも民俗音楽学者として名が通っていたといわれる。1889年から1890年にかけて作曲された『ラシュスコ舞曲』は、編曲・採集を除き、民俗音楽の影響がうかがえる初の作品とされる。イーアン・ホースブルグは『ラシュスコ舞曲』について、以下のように評している。「特色の重要性は、いくら強調してもしすぎることはない。この比較的初期の作品においてヤナーチェクは、のちの作品で発展させてゆく旋律とリズムの創意を身につけていたことをすでに示していた」。1891年にはオペラ『物語の始まり』が完成。この作品はモラヴィア人がモラヴィアの民俗的資料に基づいて作曲した初のオペラであった。イーアン・ホースブルグは「『物語の始まり』の重要性は、「その質がどうあれ、ここでヤナーチェクが音楽の点でも題材の点でも『シャールカ』のロマン主義を断固として放棄したことである」と評している。音楽学者の内藤久子は、ヤナーチェクはこの頃から固有の語法を確立していったと考察している。 1891年を境に、ヤナーチェクは民俗音楽の旋律を作品中に直接用いる手法を用いなくなった。イーアン・ホースブルグによると、1894年完成の序曲『嫉妬』、1896年完成の宗教曲『主よ、我らをあわれみたまえ』、1898年完成のカンタータ『アマールス』、1901年完成の宗教曲『主の祈り』といった作品にそのような傾向がはっきりと認められ、1903年完成のオペラ『イェヌーファ』へと繋がる。『イェヌーファ』はガブリエラ・プライソヴァーによる戯曲『彼女の養女』の翻案を基にした作品で、この戯曲はモラヴィアの村を舞台とし、さらにモラヴィア方言で書かれている点に特徴があり、ヤナーチェクが独自の語法を確立した作品として知られる。ヤナーチェクは1894年から『イェヌーファ』の制作にとりかかっていた。『イェヌーファ』は子供の死にまつわる悲劇を描いた作品であるが、完成の直前、ヤナーチェクは実際に娘のオルガを病で失っている。死の間際の願いは『イェヌーファ』の全曲の演奏を聴きたいというもので、願いが叶えられた5日後にオルガは死去した。ヤナーチェクはプラハでの初演を望んだが果たせず、1904年1月にブルノの仮設劇場で上演された。地元での評価は極めて高かったが、「プラハの批評家たちはほとんど公然と敵意を示した」。イーアン・ホースブルグは当時のヤナーチェクについて、「プラハにおいては、彼はいくぶん冷やかに作曲家とみられていたが、それよりもわずかに敬意をこめて民俗学者と考えられていたのだった」、「オペラ劇場やコンサートホールでの手ごわい競争者というよりも、民俗学者としての知識を身につけている二流の地方の作曲家であるという見方がプラハではなおも一般的であった」と評している。1904年9月、ヤナーチェクは王立師範学校の教員を辞職した。 『イェヌーファ』の完成から数か月でヤナーチェクはオペラ『運命』の制作に乗り出し、半年で完成させた。イーアン・ホースブルグによるとこの作品は「然るべき方向に進めることができなかった失敗作」であった。台本の書き直しを模索するなど上演を躊躇するうちに第一次世界大戦が勃発して上演が不可能となり、没後30年にあたる1958年に初めて舞台で上演された。1906年から1909年にかけ、ヤナーチェクはモラヴィア教員合唱団のために3つの男声合唱曲(『ハルファール先生』、『マルイチカ・マグドーノワ』、『7万年』)を作曲しており、これらはヤナーチェクの男性合唱曲の「頂点を極めた傑作」と評されている。 1904年、ワルシャワ音楽院院長就任を打診される。親露家のヤナーチェクはこの話に前向きであったが、立ち消えとなった。1905年10月1日、ブルノでチェコ人のための大学創立を要求するデモと軍隊が衝突し一人の労働者が死亡する事件が起こると、ヤナーチェクは猛烈に怒り『ピアノソナタ「1905年10月1日 街頭にて」』を作曲した。 ===プラハでの『イェヌーファ』上演(1916年)=== 1916年5月26日、かつて果たされなかったプラハでの『イェヌーファ』上演が実現した。上演が実現しなかった要因の一つとして、プラハ国民劇場の首席指揮者カレル・コヴァルジョヴィツ(英語版)がヤナーチェクに対し悪感情を抱いていたことが挙げられる。1887年、ヤナーチェクはコヴァルジョヴィツのオペラ『花嫁』を「威嚇的な暗さと絶望的な悲鳴にみち、短剣が振り回されるいわゆる音楽」、「不安定な和音と動揺する聴感覚をそなえた序曲は、音楽的才能‐かなり耳を悪くしてしまう才能‐を証明している」と酷評していた。事態が打開したのはヤナーチェクの友人ヴェセリー夫妻のコヴァルジョヴィツに対する説得が功を奏したからであった。プラハ国民劇場での上演はイーアン・ホースブルグ曰く「度肝を抜くような大成功」で、その後ウィーン、ケルン、フランクフルト、リュブリャナ、ポズナニ、リヴォフ、バーゼル、ベルリン、ザグレブなどで上演された。プラハでの上演後、ヤナーチェクはヨゼフ・ボフスラフ・フェルステルへの手紙で次のように述べている。 私はまるでおとぎ話の世界に生きているかのような気持です。わたしはなにかせき立てられるようにして、次々に作曲をしているのです。 ― ホースブルグ1985、176頁。 この言葉通り、ヤナーチェクはプラハでの『イェヌーファ』上演以降、精力的に作品をつくり出していった。イーアン・ホースブルグはこれを、「異常な力と独創性をそなえた音楽」が「万華鏡のようにほとばしり出(た)」と評している。 ===カミラ・シュテスロヴァーとの出会い(1917年 ‐ 1928年)=== 1917年夏、ヤナーチェクは二人の子供を持つ38歳年下の既婚女性カミラ・シュテスロヴァーと出会い、魅了された。以降ヤナーチェクは生涯にわたりカミラに対し熱烈に手紙を送り続け、その数は11年間で600通以上に及ぶ。カミラが住む南ボヘミアのピーセクを訪れ家に泊まることもあったが、両者に肉体関係はなかったとされる。カミラの存在は晩年の活動に多大な影響を与えたと考えられており、たとえば『消えた男の日記』は若者がゼフカという名のジプシーに恋をする連作歌曲であるが、ヤナーチェクはカミラに対し「『日記』を作曲しているあいだ、あなたのことしか考えませんでした。あなたはゼフカであったのです!」と書いた手紙を送っている。また、管弦楽曲『シンフォニエッタ』は、カミラの前で構想が立てられた。 1918年、チェコスロバキアがオーストリア=ハンガリー帝国から独立。1919年、新政府がヤナーチェクが設立したオルガン学校を国立音楽院としたが、その院長にはヤナーチェクではなく弟子のヤン・クンツが抜擢され、ヤナーチェクはショックを受けたとされる。1926年に完成した管弦楽曲『シンフォニエッタ』は独立を果たしたチェコスロバキアに対する誇りが反映された作品で、チェコスロバキア共和国軍に捧げられた。 1920年にプラハで上演された『プロウチェク氏の旅行』は、ヤナーチェクが手掛けたオペラ作品の中で唯一初演がプラハで行われた作品であり、さらに初めて作家に頼らず独力で台本を完成させるスタイルを確立させるきっかけをつかんだ作品である。『プロウチェク氏の旅行』より後に制作された4つオペラ(『カーチャ・カバノヴァー』、『利口な女狐の物語』、『マクロプロス事件』、『死者の家から』)はすべてヤナーチェク自身が台本を手掛けた。和田亘はその理由を、ヤナーチェクが目指した「できるかぎり自然な楽曲形成をおこなうためにはそれにふさわしい台詞が必要であった」からだとしている。なお、イーアン・ホースブルグによるとこのうち『カーチャ・カバノヴァー』、『利口な女狐の物語』、『マクロプロス事件』は、(ヤナーチェクがカミラを通じて垣間見た)女性がもつ3つの顔を描いた三部作で、『カーチャ・カバノヴァー』は「苦悩に満ちた情熱」を、『利口な女狐の物語』は「自然な天真爛漫さ」を、『マクロプロス事件』は「冷たい不自然な美」を描いている。ホースブルグは『マクロプロス事件』と『死者の家から』について、「(ヤナーチェクの)主題の展開と探求の体系が究極的な豊かさに到達しており、オペラ化がきわめてむずかしい物語が、かえって彼の豊かな才能を十分に引き出している」と評している。1920年、ヤナーチェクはプラハ音楽院ブルノ分校の教員となり、1925年まで作曲を教えた。 ===死(1928年)=== 1928年7月30日、カミラ・シュテスロヴァーとその夫ダーヴィト、そして11歳になるカミラの息子の三人を招待して、故郷フクヴァルディに出かけた。ダーヴィトは商用のため数日で帰宅したため、ヤナーチェクは三人で休暇を過ごしていたが、この滞在中ヤナーチェクは死に至る肺炎に罹った。カミラの息子が迷子になったと思い込み、森の中へ探しに入ったのが原因といわれている 。 8月12日の夜、ヤナーチェクは肺炎によりオストラヴァで息を引き取り、同月15日にブルノで公葬が執り行われた。妻のズデンカは連絡の遅れによりヤナーチェクの死に目に会えなかった。さらに死の直前、ヤナーチェクは遺書をカミラに有利な内容に書き換えていたため、カミラとズテンカは激しく対立することとなった。 死のおよそ2か月前の1928年5月、ヤナーチェクはオペラ『死の家より』を完成させている。完成前の1927年11月と1928年5月に、カミラ宛ての手紙でヤナーチェクは以下のように述べている。 わたしはまるで人生の決済をまもなくすませなくてはならないかのように、作品をひとつ、またひとつと完成させている ― ホースブルグ1985、335‐337頁。 暗くなってきている。人は認めざるを得ないのだ、十字路の道しるべを ― ホースブルグ1985、337頁。 もうペンをおいていい時期だと私は強く感じます。……この『死の家より』が完成したらどんなに心の荷がおりることか、あなたには想像もつかないでしょう。この作品に夜も昼も取りつかれて、今年で3年目になります。しかしそれがどんな作品になるのか、まだわたしにもわかりません。音符をただ積み重ねているだけです。バビロンの塔が高くなってゆきます。それがわたしのうえに崩れおちる時に、わたしは埋葬されることになるでしょう。 ― ホースブルグ1985、329頁。 同年2月19日に完成した『弦楽四重奏曲第2番「ないしょの手紙」』は、カミラへの愛が表現された最後の作品と考えられている。 ==モラヴィア音楽の特徴とヤナーチェク== チェコの音楽学者J・ヴィスロウジルは、ヤナーチェクの作品に「モラヴィアのフォークロア(民俗音楽)を活用し、あるいは摂取して、地方性を強く芸術作品に表出しようとする動き」と濃厚なモラヴィアの地方色を見出し、フランチシェク・スシル、パヴェル・クシーシュコフスキー、アロイス・ハーバとともにヤナーチェクを音楽のモラヴィズム、モラヴィア主義の系譜に属する音楽家であると評価している。ヤナーチェクは「民俗音楽と芸術音楽は一つの管で繋がっているようなものである」と考えた。ヤナーチェクは芸術音楽が「唯一、民謡から発展する」と確信し、モラヴィア民謡から音楽の基礎を会得したといわれており、その作品はモラヴィアの民俗音楽から強い影響を受けた。ドイツの音楽批評家ハンス・ハインツ・シュトゥッケンシュミットは、ヤナーチェクが目指したものは「民謡の精神に基づく現代音楽の刷新」であったと述べている。ヤナーチェクは民謡を直接引用するのではなく、その構造を科学的に分析して独自の「語法」を会得しようとした。 現在のチェコは大きく分けて、ベドルジハ・スメタナやドヴォルザークの生まれたボヘミア(西部)とヤナーチェクの生まれたモラヴィア(東部)という歴史的地域から成り立っているが、両者の間には文化においても違いがある。ボヘミアが「いつも多分に西ヨーロッパの一部」で「いっそう都会風で豊か」なのに対し、モラヴィアは「スラヴ系特有の東洋との同一性を保持」し、「本質的に農村」と評される。音楽についてもボヘミアの音楽が「単純な和声と規則的なリズムのパターンと調的構造」「厳格で規則正しい拍子」を有するのに対し、モラヴィア、とりわけワラキア、ラキアなどスロバキアに近い東部の音楽は規則性がなく、自由な旋律によって構成される。また、ボヘミアの音楽には長調のものが多く、モラヴィアの音楽には短調のものが多い。ボヘミアの音楽は舞踊に適するがモラヴィアの音楽は適さないとされる。ヤナーチェクはチェコの音楽史において、「スラヴ人民の為のチェコ音楽の創造を目ざし、モラヴィア地方の諸要素を自らの内に正当化しつつ、地方レベルの音楽からモラヴィアの地方性に基づく国民音楽へ、さらには20世紀における世界的水準に至る現代音楽へと、創作の意味内容と価値を昇華させた」と評される。ヤナーチェクは、スメタナの音楽のもつボヘミア的を西欧音楽・ドイツ音楽に傾斜した、「モラヴィアの『地方性』や『民俗性』を含む『汎スラブ主義』の理想を脅か」すものとみなし、「モラヴィアの伝統文化こそが、西スラヴ民族であるチェコ人の音楽を象徴するものである」と考えた。内藤久子は、ヤナーチェクは「西洋としてのチェコ音楽」ではなく「『スラヴ民族としてのチェコ民衆の音楽』を通して見出される表現領域」、「西洋文化の影響がどちらかといえば希薄な南東モラヴィアのスロヴァーツコ地方や、東モラヴィアのラシュスコおよびヴァラシュコ地方の民俗音楽」にこそ、スラヴィ人としてのアイデンティティを見出したのだと述べている。モラヴィア出身の音楽学者J・ヴィスロウジルは、西洋音楽の枠にとらわれなかったヤナーチェクこそ「真のスラブ民族の音楽を樹立しようとした人物」であり、ヤナーチェクの出現によって「本当の意味での『チェコ国民音楽』の発展」が始まったのだと述べている。 モラヴィア民謡では旋律を三度や六度で重ねることがある。ヤナーチェクは部分的にこの手法を用いることで効果を上げている。これはボヘミア民謡にも共通の特徴であり、ヤナーチェクに先行するスメタナやドヴォルザークもしばしば用いているものである。イーアン・ホースブルグは、ヤナーチャクがこの手法を用いた場合について、「最大の同情がこめられた瞬間においては、…過酷な音楽との対比において、突然きらめく日の光のようにきわ立っている」と評し、例としてオペラ『死の家より』第一幕冒頭を挙げている。 ヤナーチェクは民謡を研究する中で、モラヴィア、とりわけ東部の民謡が「話し言葉(の抑揚)」から生まれると考え、オペラ『イェヌーファ』作曲中の1897年以降、「人間の心の動きの表れである話し言葉の抑揚を、言葉の意味と関連させて楽譜に写し取った」旋律(「旋律曲線」または「発話旋律」)を収集し、作曲の際の参考とするようになった。ヤナーチェクは発話旋律について「魂を覗き見るための窓」、「人間のある瞬間の忠実な音楽的描写であり、人間の心とその全存在のある一瞬の写真である」、「’生なるもの’のすべてを映し出す鏡」「発話旋律の中にのみ、チェコ語による劇的な旋律の真の範例が多く見出される」と述べている。収集の対象は娘のオルガの臨終の床での言葉や動物の鳴き声にも及んだ。このことについて和田亘は、「偉大な自然の理法にしたがって生きる人間や動物の言語のいわば<<深層構造>>に迫ろうとする、ヤナーチェクの並々ならぬ熱意を示している」と評している。ヤナーチェクの楽曲の特徴は、旋律曲線または発話旋律を参考にした「少数の核となる動機の反復と変容から全体が植物が繁ってゆくような独自のパターンを確立している」点にあるといわれている。ヤナーチェクは収集した発話旋律を着想を得るための材料にはしたが、そのまま楽曲に活用することはしなかった。この点についてヤナーチェク自身は次のように述べている。 収集した発話旋律、痛々しいほどに敏感な他人の心の断片をこっそりともちいて、自分の作品を『つくりあげる』などということは考えられるのだろうか?どうすればそんなばかげたことを推し進められるのだろうか?! ― 赤塚2008、194頁。 ==作曲法== ヤナーチェクがオペラの作曲で用いたプロセスは以下の通りである。 主題について、かなり長い時間をかけて考える「自然発生的なおおまかな草稿をスコアの形で書く」「オペラの最終的な形が明瞭に認められるスコアを書く」第1段階では、「しばしば、作品に固有の環境の環境を探り同化しようとする努力がはらわれた」。たとえば『マリチカ・マグドーノヴァ』作曲時にはオストラヴァの工業地帯を、『ブロウチェク氏の旅行』作曲時にはプラハの聖ヴィトゥス大寺院の塔を訪れている。第2段階については、「(ピアノの)ペダルをしっかり踏んだままにして」、「同一のモチーフを繰り返」しながら、「通常このモチーフをもとにして作られる曲を、ピアノを使わずに熱狂的に紙面に書きつける」姿の目撃談がある。 ==ヤナーチェクの受容史== 前述のように、「二流の地方の作曲家」であり、「プラハにおいては、彼はいくぶん冷やかに作曲家とみられていたが、それよりもわずかに敬意をこめて民俗学者と考えられていた」ヤナーチェクの知名度は、1916年にオペラ『イェヌーファ』のプラハでの上演を成功させたことにより大きく広がり、1920年代に入るとブルノやプラハでオペラ作品が次々と上演されるようになった。ただし母国以外で作品が上演されたのは主にドイツで、上演される作品はほぼ『イェヌーファ』と『カーチャ・カバノヴァー』に限られていた。 英語圏では1919年にロンドンで催されたチェコスロバキア音楽祭で男性合唱曲『マリチカ・マグドーノヴァ』が演奏された後、ローザ・ニューマーチの尽力によって1922年にロンドンのウィグモア・ホールで『消えた男の日記』が、1926年にはウィグモア・ホールで『弦楽四重奏曲第1番』など4曲が、1928年にロンドンのクイーンズ・ホールで『シンフォニエッタ』が、1928年にノリッチで『グラゴル・ミサ』が演奏・上演されたが、ほとんど関心を示されなかった。アメリカでは1924年12月6日にニューヨークのメトロポリタン歌劇場でオペラ『イェヌーファ』(ドイツ語訳)が上演された時、イギリスの批評家アーネスト・ニューマンはこの上演を「明らかに素人に毛が生えた程度の男の作品としか思えない音楽」と酷評し、他にも「多くの批評家がヤナーチェクのなじみのない様式に当惑」した。 音楽評論家の相澤啓三はオペラ史におけるヤナーチェクの位置づけについて、以下のように評している。 一見カオス状の<20世紀のオペラ>の中には何々主義でもなく何の立場を表明するものでもないオペラ作曲家たちがいます。その作曲行為には自発性と多様性があり、その作品は劇場性と個人様式をそなえ、そしてある意味では孤立した作曲家たちですが、ある意味ではオペラの辺境から現れてその母国語の声調とその風土の音楽語法とに拠って新鮮な悦びをもたらしてくれた作曲家たちです。その最高がチェコスロヴァキアのヤナーチェクとイギリスのブリテンの2人です。 ― 相澤1992、450頁。 相澤は1992年発行の著書『オペラの快楽』において、ヤナーチェクのオペラが広く世に知られるようになったのは1970年代以降であるが、チェコ語で書かれた9曲中「少なくとも5曲か6曲はこれから世界中のオペラハウスのレパートリーとして歓迎されるようになるでしょう」と述べている。 ヤナーチェクの死後の1951年、オーストラリアの指揮者チャールズ・マッケラスの尽力によりオペラ『カーチャ・カバノヴァー』が初めてサドラーズウェルズ劇場で上演されたのを皮切りに、「ヤナーチェクに対する最も熱狂的な支持」がイギリスで巻き起こった。イギリスでは「主要なオペラがすべて上演され」たほか、オペラ以外の作品に対する関心も高まりつつある。音楽評論家の相澤啓三は、ヤナーチェクのオペラが中部ヨーロッパから外に出るようになったのはマッケラスの功績であると評している。 ==作品== =アイザック・アシモフ= アイザック・アシモフ(Isaac Asimov、1920年1月2日 ― 1992年4月6日)は、アメリカの作家、生化学者(ボストン大学教授)である。その著作は500冊以上を数える。彼が扱うテーマは科学、言語、歴史、聖書など多岐にわたり、デューイ十進分類法の10ある主要カテゴリのうち9つにわたるが、特にSF、一般向け科学解説書、推理小説によってよく知られている。 ジュブナイル作品ではポール・フレンチという筆名を用いた。1942年発表のSF短編 Time Pussy では George E. Dale という筆名を用いた。1971年の著書 The Sensuous Dirty Old Man では Dr. A という筆名を用いた。 日本語では「アシモフ」と「アジモフ」などの片仮名表記があり、前者での表記が一般的であるが、本人が望んでいた読みは後者の発音に比較的近い[*491*a*492*z*493*k *494**495*z*496*m*497*v]である。 ==生涯== ===生い立ち=== アシモフは1920年1月2日、当時のロシア・ソビエト連邦社会主義共和国のペトロヴィッチにおいて、父ユダ・アジモフ (Judah Azimov、Judah Ozimov) と母アンナ・レイチェル (Anna Rachel Azimov、Anna Rachel Ozimov) の間にユダヤ系ロシア人イサアーク・ユードヴィチ・オジモフ (Исаак Юдович Озимов) として生まれた。生年月日については記録が不十分であり、暦の違いもあるため正確にこの日付かは不確実だが、誕生日がこの日より遅いことはない。ソビエト連邦成立後、3歳の時に家族とともにアメリカに移住し、ニューヨーク・ブルックリンで育った。10歳のころ、SF雑誌『アメージング・ストーリーズ』によりSFファンとなる。本人によれば、父親の経営するキャンデーストア(英語版)にはパルプ・マガジンが置いてあったが、アシモフはこれらに興味を持ったものの読むことを許されなかったため、アシモフは雑誌名に「サイエンス(科学)」の語が含まれることから教育的なものであると父親を説き伏せ、彼の了承を得ることに成功したという。 家庭は裕福ではなかったが学業成績は優秀で、公立校や高校を飛び級で卒業して1935年に15歳でコロンビア大学へ入学した。1938年に初めての作品をSF雑誌『アスタウンディング』に持ち込み、採用はされなかったが編集者ジョン・W・キャンベルの指導を受けるようになった。1939年には『アメージング』誌に「真空漂流」が掲載され作家としてデビューした。 ===大学と就職=== 1939年にアシモフはコロンビア大学を卒業し、同大学大学院で化学を専攻した。この頃すでに『われはロボット』所収のロボット工学三原則物やファウンデーションシリーズの諸作品、出世作『夜来たる』など初期の代表作を発表しているが、当時はまだSF自体の社会的地位や市場規模が限られていたこともあり専業作家になることは全く考えておらず、大企業に就職して高給取りの研究員となることを目指していた。1942年にはガートルードという女性と結婚、第二次世界大戦の勃発を理由に大学院を休学し、フィラデルフィア海軍造船所に技術者として勤務した。ここでは予備役の技術士官として勤務していたロバート・A・ハインラインとL・スプレイグ・ディ・キャンプに出会った。終戦直後に徴兵され、化学の学位を持っていることを理由にビキニ環礁でのクロスロード作戦に技術兵として加えられ、ハワイまで行ったが結局参加せずに9か月で除隊した。 1946年に大学院に復学し、1948年には博士号を取得したものの就職口は得られず、コロンビア大学で1年間博士研究員を務めた後に、1949年からボストン大学医学部の生化学の講師となった。大学では講義と研究の他に共同で教科書の執筆を行い、一般向けのノンフィクションを書くきっかけとなった。この頃にはアシモフはSF界の第一人者として認められており、またSFの地位向上や新雑誌の登場により市場規模や稿料が増加し、1950年にダブルデイ社から初めての単行本『宇宙の小石』が出版され、さらに『われはロボット』やファウンデーションシリーズなど過去に雑誌で発表した作品の書籍化やアンソロジーへの再録が相次ぎ、雑誌の原稿料に加えて印税でも収入を得られるようになった。1953年から1954年にはSFミステリ『鋼鉄都市』を発表した。また化学のノンフィクションの作品を出版するようになり、講演者としての活動も行うようになった。 1955年に准教授となり終身の在職権を得たが、この頃になると執筆活動への傾倒が進んで学内で上司や一部の教授たちから不興を買い度々トラブルが発生していた。既に著作や講演で十分な収入を得ていたこともあり、1958年に肩書きのみを保持することで合意し、教壇を降りた。その後は専業の作家・講演者となり、化学以外のノンフィクションの分野へも活動を広げていった。1979年7月、ボストン大学教授に昇任する。 1951年に息子、1955年に娘が生まれていたが、1970年から妻子と別居し、ボストンから再びニューヨークへ移り住んだ。1973年にガートルード夫人と正式に離婚し、同年に心理分析医のジャネット・ジェプスン(後にSF作家)と再婚した。アシモフとジャネットはノービー (Norby) シリーズなどの共著を残している。 ===執筆活動=== アシモフは次第に科学の解説者として知られるようになり、科学を概観した『知識人のための科学入門』 (The Intelligent Man’s Guide to Science) が1961年の全米図書賞ノンフィクション部門にノミネートされ、1965年にはアメリカ化学会から化学についての報道を表彰するジェイムズ・T・グラディー賞(英語版)を受賞した。1962年にメンサの会員になったが数年後に退会した。1972年に再び会員になり、1974年にはメンサの講演のためにイギリスへ旅行した。その際、同じくメンサ会員で親睦の深かったアーサー・C・クラークと再会し、共に講演に参加している。 1970年ごろから『エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン』にて純粋なミステリの『黒後家蜘蛛の会シリーズ』の連載を開始した。SFでは1972年に久々の長編である『神々自身』を出版し、ヒューゴー賞 長編小説部門とネビュラ賞 長編小説部門を受賞した。1982年には、ファンや編集者の要望に抗しきれず執筆したファウンデーションシリーズの30年ぶりの新作『ファウンデーションの彼方へ』がベストセラーとなり、以後再びSF長編を執筆し、同シリーズとロボットシリーズを統合した。 ===病気と死=== アシモフは1992年4月6日に没した。死因は後天性免疫不全症候群(エイズ)によるもので、1983年に受けた心臓バイパス手術の際に使用された輸血血液がHIVに汚染されていたことが原因である。アシモフの死因は、彼の死から10年後に出版されたジャネット夫人の自伝 It’s Been a Good Life (我が良き生涯)で明らかにされた。アシモフは生涯で500冊以上の著書を執筆した。 ==人物== アシモフは自伝の中で英語とイディッシュ語の2つの言語が使えると述べているが、イディッシュ語による作品は残していない。すべての著作は英語で行われた。 作家としての地位を確立し、著作からの収入で裕福になってからも「仕事中毒」であり、贅沢をしたり余暇を楽しむことは少なかった。アシモフ自身は、父の自営する店で幼い頃から働いた影響であると自己分析している。飛行機嫌いで、その生涯で飛行機を利用したのは2度のみである。そのため遠くへ行くことは少なかったが、東海岸の各地で講演を行った。自宅近辺で開催される世界SF大会にはよく参加し、他の作家やファンと陽気に交流を楽しんだ。普段と同様に女性に対して飛びついたりしたが、相手がマジメに返すと驚いて引き下がる、などのエピソードも残っている。また、ハーラン・エリスンなどとは過激なやりとりを楽しんだ。狭くて閉ざされた空間をこよなく愛する閉所愛好家(閉所恐怖症の逆)でもあり、地下室や屋根裏部屋でタイプライターに向かう時間が無上の喜びだったと自ら語っている。 アシモフは人道主義者で、アメリカ人道主義協会(英語版)の会長を務めた。かつ合理主義者だった。純粋な信仰心に反対することはなかったが、超常現象や根拠のない思想に対しては断固とした態度を貫いた。アシモフは疑似科学の科学的な調査・批判を行う団体、サイコップの創立者の一人である。 ほとんどの政治的問題においては進歩的な態度をとっており、若い頃から一貫して民主党の強い支持者だった。1970年代初期のテレビのインタビューでは公然とジョージ・マクガヴァンを支持した。1960年代後期以降に急進的な政治活動家によって採られていた、アシモフにとっては「非合理主義的」な物の見方を不満に思っていた。第2の自伝 In Joy Still Felt の中で、アシモフはカウンターカルチャーの象徴であったアビー・ホフマンとの会合を回想している。アシモフの受けた印象は、この1960年代のカウンターカルチャーの英雄は感情の波に乗り、最後に「思想の中立地帯」で座礁させられたようであり、彼らはそこから二度と戻ってはこないのだろうか、といぶかしむものであった。アメリカのSF界を2つに割ったベトナム戦争への賛成・反対問題については反対派についた。また、1960年代の半ば、ソ連のSF評論家たちがアメリカSFを「社会の進歩を信じていない」と批判した際、ポール・アンダースンは共産主義の欺瞞をついた激しい反論を行ったが、ソ連からの移民でもあるアシモフははっきりとした政治的態度を取らなかった。 このほか、ポール・エルリッヒ(英語版)によって発表された将来の見通しを受けて、多くの著作で人口管理の重要性を訴えた。彼の最後のノンフィクションの著作は Our Angry Earth (怒れる地球、1991年、SF作家フレデリック・ポールとの共著)であり、この中で彼は地球温暖化やオゾン層の破壊といった環境危機について論じている。 メンサの会員として非常に有名であり副議長まで務めていたが、メンサへの参加には消極的であった。一部の攻撃的である会員に対してあまり良い感情を抱いていなかったこともあり、一時期脱退したが、後に復帰しメンサの講演のためにイギリスへと旅行した。アシモフは同じく会員であったマービン・ミンスキーとカール・セーガンの2人に関して、アシモフ自身よりも知的であると認めている。 彼の栄誉をたたえ、その名を冠したものとして、(5020) アシモフという小惑星、アシモフという火星のクレーター、SFのアイザック・アシモフ賞がある。また出身の高校も現在(2013年)はアイザック・アシモフ高校という名前になっている。東京大学で2003年に開発された、起き上がり動作に特化したロボットが、アシモフの小説に登場するロボットR・ダニール・オリヴォーと同じ「Rダニール」と名付けられた。世界初のロボットスーツHALを開発した山海嘉之はアシモフの影響を受けている。本田技研工業の人型ロボットASIMOは名前の綴りがアシモフと似ているが(最後の ”V” がない)、開発者はまったく関係はないとしている。アシモフはロボット工学を造語したが、「ロボット工学の父」と呼ばれることもあるジョセフ・F・エンゲルバーガー博士はアシモフに影響を受けていた。 ==SF== アシモフは、アーサー・C・クラーク、ロバート・A・ハインラインと合わせて三大SF作家 (The Big Three) と呼ばれる(日本では「(海外)SF御三家」)。SFの分野でヒューゴー賞を7回、ネビュラ賞を2回、ローカス賞を4回受賞している。 ===初期=== 10代の頃からSFファンであり、『アスタウンディング』誌の読者欄に書評を投稿したりSFのファンダムに参加していた。1938年に初めての商業作品をアスタウンディング誌へ持ち込んでから、編集者のジョン・W・キャンベルの指導の下で実力をつけていき、クリフォード・シマックやロバート・ハインラインらとともに、いわゆる「アメリカSFの黄金時代」を作り上げた。アシモフはキャンベルと個人的にも親しくなり、その影響を強く受けた。 キャンベルの発案で書かれ出世作となった短編「夜来たる」(Nightfall, 1941年)は Bewildering Stories 第8号で「もっとも有名なSF短編」の一つとして挙げられている。また、1968年アメリカSF作家協会(現アメリカSFファンタジー作家協会)による投票でも「これまでに書かれた最高のSF短編」に選ばれている。彼は短編集『夜来たる』 (Nightfall and Other Stories) の中で次のように述べている。 『夜来たる』は、わたしのプロ作家としての経歴の中で、一つの転換点となった作品である(中略)突然、私は重要な作家と見なされ、SF界が私の存在に注目するようになった。何年か後には、わたしはいわゆる”古典”を書いたことがはっきりした。 ― アイザック・アシモフ、『夜来たる』 短編小説以外にもSF雑誌に「チオチモリンの驚くべき特性」(The Endochronic Properties of Resublimated Thiotimoline, 1948年)という科学論文のパロディーを書いた。ペンネームが用いられるはずが博士号の口述試験の直前に実名で掲載されたためにアシモフは不合格とされることを心配したが、試験には合格した。 ファウンデーションシリーズやロボットシリーズの初期作品にもキャンベルは深く関わっており、多大な影響を及ぼした。 その後就職のためニューヨークを離れボストンに転居したこと、キャンベルがダイアネティックスなどの疑似科学に傾倒していったことから二人は疎遠となり、折しもアスタウンディング誌に代わって台頭してきた『ギャラクシー』誌のホーレス・ゴールド(英語版)編集長、『ファンタジイ・アンド・サイエンス・フィクション』 (F&SF) 誌のアンソニー・バウチャー、ロバート・P・ミルズ(英語版)両編集長との関係を深めた。前者は長編『鋼鉄都市』、後者は F&SF 誌の科学エッセイシリーズに関わることとなった。 ===ファウンデーション=== アシモフの代表的SFシリーズであるファウンデーションシリーズは、エドワード・ギボンの『ローマ帝国衰亡史』をヒントにした、未来の宇宙における巨大な銀河帝国の崩壊と再生の物語である。 1942年に第一作『ファウンデーション』がアスタウンディング誌に掲載、以後1949年まで中短編の形で同誌で発表され、のちに『ファウンデーション』(1951年)、『ファウンデーション対帝国』(1952年)、『第二ファウンデーション』(1953年)の3冊にまとめられた。現在は「初期3部作」と呼ばれるこの3冊は、1966年にヒューゴー賞過去最優秀長編シリーズ賞を受賞した。 1982年、ファンや編集者の続編を求める声に抗えなくなったアシモフは、新作『ファウンデーションの彼方へ』を発表、ニューヨーク・タイムズ紙のベストセラーリストに名を連ねると共に、1983年のヒューゴー賞長編小説部門を受賞した。以後その続編『ファウンデーションと地球』(1986年)、時代をさかのぼりハリ・セルダンの半生を描いた『ファウンデーションへの序曲』(1988年)、『ファウンデーションの誕生』(1992年)が書かれ、ロボットシリーズとの世界観の融合もなされた。 アシモフの死後、SF作家グレゴリー・ベンフォード、デイヴィッド・ブリン、グレッグ・ベアの3人が続編として『新・銀河帝国興亡史』3部作 (Second Foundation trilogy) を発表した。 ===ロボット=== ロボットものもファウンデーション3部作と同じ頃に書き始められた。その多くは後に短編集『われはロボット』(I, Robot, 1950年)、『ロボットの時代』(1964年)として出版された。この作品群により、ロボット・人工知能の倫理規則(いわゆるロボット工学3原則)が世に広められた。この規則は、他の作家や思想家がこの種の話題を扱うに際して大きな影響を与えている。また中編『バイセンテニアル・マン』(1976年)は1977年のヒューゴー賞 中編小説部門と1977年のネビュラ賞 中編小説部門、ローカス賞 長篇部門を受賞し、1999年にロビン・ウィリアムズ主演で映画化された(日本では『アンドリューNDR114』のタイトルで公開)。 一連の作品は、ロボットが一見して三原則に反するような行動を取り、その謎を解決するというミステリ仕立ての作品が多く、中でも長編『鋼鉄都市』と続編『はだかの太陽』は、3原則の盲点を利用した巧妙な殺人トリックを描いたSFミステリの傑作としても知られている。 ファウンデーションとロボットの2つの潮流は、『ロボットと帝国』(1985年)によってひとつの未来史としてまとめられた。また没後に『アンドリューNDR114』および『アイ,ロボット』の2本の映画が公開されている。 ===専業作家以降=== 1958年にボストン大学を辞して専業作家となったアシモフだが、増加した執筆時間は専らノンフィクションの分野に向けられることとなり、SFの執筆量はかえって激減した。それでも(何とか彼にSFを書かせようという編集者の努力もあって)短編を中心に年に数作は書いており、ファンの「何故SFを書くのを止めたのか」との問いにも「決して止めてはいない」と繰り返し答えている。 アシモフはテレビ番組化されることを期待して、『天狼星の侵略』(1952年)などジュヴナイルの長編小説「ラッキー・スター」シリーズを執筆、この際に低品質なテレビ番組になる場合を懸念してポール・フレンチという筆名を用いた。結局TV化は実現せず、後期の作品ではロボット工学三原則を出すなどして自ら正体を示唆し、再版時には実名に戻している。 アシモフは「編集をせずとも、自動的に収録される作品が決まる」アンソロジーである『ヒューゴー賞傑作集』の形式上の「編者」として、収録各作品の前にユーモラスなエッセイを書いた。これは、アシモフがその時点でヒューゴー賞を受賞していなかったために「編者」に選ばれたのだが、1963年にSF雑誌F&SFの科学のコラムによる功績で初めてヒューゴー賞を受賞した後もひきつづいて「編者」を務めた。さらに異星人とセックスの要素を含む『神々自身』(1972年)でヒューゴー賞 長編小説部門とネビュラ賞 長編小説部門を受賞した。1992年の「ゴールド‐黄金」でもヒューゴー賞 中編小説部門を受賞した。 1977年には彼の名前を冠したSF雑誌「アイザック・アシモフズ・サイエンス・フィクション・マガジン Isaac Asimov’s Science Fiction Magazine 」が創刊された(現在の誌名は「アシモフズ・サイエンス・フィクション Asimov’s Science Fiction 」)。アシモフ自身は編集には関わっていなかったが、巻頭のエッセイと読書投稿欄のコメントを担当していた。 マーティン・H・グリーンバーグらと共同編集のアンソロジーも多数(グリーンバーグとの共同編集は127作)発表しており、ユーモラスな前書きを書いてそれらのアンソロジーに花を添えている。なお、グリーンバーグとの最初の共同編集アンソロジーである『三分間の宇宙』は、グリーンバーグらがすでに選択済である、2倍の数の作品を、アシモフが半分にしぼる方法で作品選択がされた。 他に彼の作品の世界観を元に若手作家が競作する『電脳惑星シリーズ』などのシェアード・ワールド物にも積極的に協力した。 ==推理小説== アシモフはしばしばSFにミステリの手法を用いる一方で、純粋なミステリ作品も執筆しており、推理小説作家としても評価を受けている。 純粋なミステリの代表作は『黒後家蜘蛛の会』シリーズである。『黒後家蜘蛛の会』はアシモフも属した実在の「トラップ・ドア・スパイダース」という会をモデルにしている。ほぼ純粋なパズル・ストーリーであり、殺人事件さえめったに起こらない。題材は盗まれた物や遺産を得るための暗号の解読、忘れてしまった地名の推測など、より日常的な問題である。解決には登場人物である給仕ヘンリーの該博な知識が使われる。 『黒後家蜘蛛の会』はすべて短編であり、1972年2月号の『エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン』に第1作「会心の笑い」が発表されてから断続的に合計66作が書かれた。60作は5冊の短編集として出版され(日本語訳あり)、残りの6作はアシモフの死後、The Return of the Black Widowers (2003年)にまとめられた。 アシモフは『ユニオン・クラブ奇談』というシリーズも書いている。これはクラブで語られるパズル・ストーリーである。『黒後家』の名探偵役ヘンリーが人格円満で謙虚な人物であるのに対して、『ユニオン・クラブ』の名探偵役グリズウォルドは傲岸で偽悪的な人物である。しかし両者はともにアシモフに似た人物であり、全体的な構成やトリックも似ている。アイディアを使うという点で2作は競合関係にあって、『ユニオン・クラブ』執筆中は『黒後家』の執筆は進まなかった。 『黒後家蜘蛛の会』『ユニオン・クラブ奇談』シリーズには長編作品はないが、アシモフは長編ミステリーの『ABAの殺人』(1958年)『象牙の塔の殺人』(1976年)を書いた。 ==ノンフィクション== アシモフは科学解説者としてもよく知られている。ファンタジー&サイエンス・フィクション誌に連載されていた科学エッセイは400編以上を数え、テーマは物理・天文・化学・生物学・科学史など多岐にわたる。記事はエスクァイア、ハーパーズ(英語版)、サタデー・イブニング・ポストなどにも寄稿した。 1954年に出版した10代向けの生化学の本『生命の化合物』 (The Chemicals of Life) 以来、アシモフは大衆向け・子供向けの科学の本も執筆した。1957年、ソ連がアメリカに先駆けて初の人工衛星「スプートニク1号」を打ち上げると、いわゆるスプートニク・ショックによってアメリカ国内で科学に対する関心が高まり、一般向けの科学解説書の需要が急増した。アシモフはこれに応える形で多数の科学解説書を執筆し、ノンフィクションに執筆活動の中心を移して行く契機となった。 科学全般について大衆向けに書かれた『知識人のための科学入門』(The Intelligent Man’s Guide to Science, 1960年)はニューズウィーク等の書評から好評を受け、全米図書賞ノンフィクション部門にノミネートされた。アシモフはこの本によって科学の解説者としての地位を向上させた。また『宇宙を作る元素』(Building Blocks of the Universe, 1957年)はエジソン財団賞を、血液についての著作『生きている川』(The Living River, 1960年)はアメリカ心臓協会のハワード・W・ブレイクスリー賞を、それぞれ受けた。さらに、1967年にはアメリカ科学振興協会から科学の著述における功績でウェスティングハウス賞を与えられている。 アシモフは2冊の『アシモフの聖書入門』 (Asimov’s Guide to the Bible) を著した。第1巻(1967年)は旧約聖書を、第2巻(1969年)は新約聖書をそれぞれ扱っている。後にこの本は1295ページの1冊の本にもまとめられた。この本では、聖書に記述されている事件、人物や場所について、冒涜も妄信もせずに科学的な観点からの解説や考察を行っている。 そのほか、科学以外の分野では歴史の解説やシェイクスピアなどの文学の解説、趣味である滑稽五行詩(リメリック)についての著作も残した。 彼はまた、3冊の自伝、すなわち In Memory Yet Green (1979年、『アシモフ自伝I』)、In Joy Still Felt (1980年、『アシモフ自伝II』)、I, Asimov: A Memoir (1994年)も書いている。この自伝は非常に大分量のもので、アシモフの生涯のできごとや作品と、それによる収支まで詳細に書かれたものである。 3番目の自伝、I, Asimov: A Memoir は1994年4月に出版された。この本のエピローグは彼の死のあとまもなく、彼の後妻であるジャネット・アシモフによって書かれたものであり、1995年のヒューゴー賞ノンフィクション部門を受賞した。他にも『木星買います』『アシモフ初期作品集』などのSF短編集でも、収録作品の前書きに代えて執筆当時の自身の状況を詳細に記している。 他にも彼の日ごろからの社会的主張もいくつかのエッセイにまとめられている。『考えることを考える』(Thinking About Thinking, 1967年)、『科学:プラスチックをたたく』(Science: Knock Plastic, 1967年)など。 また彼は、自身の著作が100冊、200冊、300冊にそれぞれ到達した際に、それまでの著書の内容から選別した本、Opus 100 (1969), Opus 200 (1979), Opus 300 (1984) を刊行しており、Opus 200 は『アシモフ博士の世界』として日本語訳されている。 ==代表的著作== ===SF=== 長編 1950年 ‐ Pebble In The Sky (『宇宙の小石』) 1951年 ‐ The Stars, Like Dust (『暗黒星雲のかなたに』) 1951年 ‐ Foundation (『ファウンデーション』) 1952年 ‐ Foundation and Empire (『ファウンデーション対帝国』) 1952年 ‐ The Currents of Space (『宇宙気流』) 1953年 ‐ Second Foundation (『第二ファウンデーション』) 1954年 ‐ The Caves of Steel (『鋼鉄都市』) 1955年 ‐ The End of Eternity (『永遠の終り』) 1957年 ‐ The Naked Sun (『はだかの太陽』) 1966年 ‐ Fantastic Voyage (『ミクロの決死圏』) 1972年 ‐ The Gods Themselves (『神々自身』) 1982年 ‐ Foundation’s Edge (『ファウンデーションの彼方へ』) 1983年 ‐ The Robots of Dawn (『夜明けのロボット』) 1985年 ‐ Robots and Empire (『ロボットと帝国』) 1986年 ‐ Foundation and Earth (『ファウンデーションと地球』) 1987年 ‐ Fantastic Voyage II: Destination Brain (『ミクロの決死圏 2 ‐ 目的地は脳』) 1988年 ‐ Prelude to Foundation (『ファウンデーションへの序曲』) 1989年 ‐ Nemesis (『ネメシス』) 1993年 ‐ Forward the Foundation (『ファウンデーションの誕生』)1950年 ‐ Pebble In The Sky (『宇宙の小石』)1951年 ‐ The Stars, Like Dust (『暗黒星雲のかなたに』)1951年 ‐ Foundation (『ファウンデーション』)1952年 ‐ Foundation and Empire (『ファウンデーション対帝国』)1952年 ‐ The Currents of Space (『宇宙気流』)1953年 ‐ Second Foundation (『第二ファウンデーション』)1954年 ‐ The Caves of Steel (『鋼鉄都市』)1955年 ‐ The End of Eternity (『永遠の終り』)1957年 ‐ The Naked Sun (『はだかの太陽』)1966年 ‐ Fantastic Voyage (『ミクロの決死圏』)1972年 ‐ The Gods Themselves (『神々自身』)1982年 ‐ Foundation’s Edge (『ファウンデーションの彼方へ』)1983年 ‐ The Robots of Dawn (『夜明けのロボット』)1985年 ‐ Robots and Empire (『ロボットと帝国』)1986年 ‐ Foundation and Earth (『ファウンデーションと地球』)1987年 ‐ Fantastic Voyage II: Destination Brain (『ミクロの決死圏 2 ‐ 目的地は脳』)1988年 ‐ Prelude to Foundation (『ファウンデーションへの序曲』)1989年 ‐ Nemesis (『ネメシス』)1993年 ‐ Forward the Foundation (『ファウンデーションの誕生』)短編集 1950年 ‐ I, Robot (『われはロボット』) 1955年 ‐ The Martian Way and Other Stories (『火星人の方法』) 1957年 ‐ Earth Is Room Enough (『地球は空き地でいっぱい』) 1959年 ‐ Nine Tomorrows (『停滞空間』) 1964年 ‐ The Rest of the Robots (『ロボットの時代』) 1968年 ‐ Asimov’s Mysteries (『アシモフのミステリ世界』) 1969年 ‐ Nightfall and Other Stories (『夜来たる』『サリーはわが恋人』) 1972年 ‐ The Early Asimov (アシモフ初期作品集『カリストの脅威』『ガニメデのクリスマス』『母なる地球』) 1975年 ‐ Buy Jupiter and Other Stories (『木星買います』) 1976年 ‐ The Bicentennial Man and Other Stories (『聖者の行進』) 1982年 ‐ The Complete Robot (『コンプリート・ロボット』) 1983年 ‐ The Winds of Change and Other Stories (『変化の風』) 1988年 ‐ Azazel (『小悪魔アザゼル18の物語』) 1995年 ‐ Gold (『ゴールド‐黄金』) 1996年 ‐ Magic1950年 ‐ I, Robot (『われはロボット』)1955年 ‐ The Martian Way and Other Stories (『火星人の方法』)1957年 ‐ Earth Is Room Enough (『地球は空き地でいっぱい』)1959年 ‐ Nine Tomorrows (『停滞空間』)1964年 ‐ The Rest of the Robots (『ロボットの時代』)1968年 ‐ Asimov’s Mysteries (『アシモフのミステリ世界』)1969年 ‐ Nightfall and Other Stories (『夜来たる』『サリーはわが恋人』)1972年 ‐ The Early Asimov (アシモフ初期作品集『カリストの脅威』『ガニメデのクリスマス』『母なる地球』)1975年 ‐ Buy Jupiter and Other Stories (『木星買います』)1976年 ‐ The Bicentennial Man and Other Stories (『聖者の行進』)1982年 ‐ The Complete Robot (『コンプリート・ロボット』)1983年 ‐ The Winds of Change and Other Stories (『変化の風』)1988年 ‐ Azazel (『小悪魔アザゼル18の物語』)1995年 ‐ Gold (『ゴールド‐黄金』)1996年 ‐ Magicロバート・シルヴァーバーグによる長編化作品 1990年 ‐ Nightfall (『夜来たる (長編版)』) 1991年 ‐ The Ugly Little Boy (『停滞空間』の長編化) 1992年 ‐ The Positronic Man (『アンドリューNDR114』)1990年 ‐ Nightfall (『夜来たる (長編版)』)1991年 ‐ The Ugly Little Boy (『停滞空間』の長編化)1992年 ‐ The Positronic Man (『アンドリューNDR114』)ジュヴナイル ポール・フレンチ名義 1952年 ‐ David Starr, Space Ranger (『天狼星 (シリウス)の侵略』) 1953年 ‐ Lucky Starr and the Pirates of Asteroids (『小惑星 (アステロイド)の海賊』) 1954年 ‐ Lucky Starr and the Oceans of Venus 1956年 ‐ Lucky Starr and the Big Sun of Mercury (『水星基地のなぞ』) 1957年 ‐ Lucky Starr and the the Moons of Jupiter (『木星のラッキースター』、『九号衛星のなぞ』の2種) 1958年 ‐ Lucky Starr and the Rings of Saturn (『太陽系の侵入者』) ジャネット・アシモフとの共著 1983年 ‐ Norby, the Mixed‐up Robot 1984年 ‐ Norby’s Other Secret 1985年 ‐ Norby and the Lost Princess 1985年 ‐ Norby and the Invaders 1986年 ‐ Norby and the Queen’s Necklace 1987年 ‐ Norby Finds a Villain 1988年 ‐ Norby Down to Earth 1989年 ‐ Norby and Yobo’s Great Adventure 1990年 ‐ Norby and the Oldest Dragon 1991年 ‐ Norby and the Court Jesterポール・フレンチ名義 1952年 ‐ David Starr, Space Ranger (『天狼星 (シリウス)の侵略』) 1953年 ‐ Lucky Starr and the Pirates of Asteroids (『小惑星 (アステロイド)の海賊』) 1954年 ‐ Lucky Starr and the Oceans of Venus 1956年 ‐ Lucky Starr and the Big Sun of Mercury (『水星基地のなぞ』) 1957年 ‐ Lucky Starr and the the Moons of Jupiter (『木星のラッキースター』、『九号衛星のなぞ』の2種) 1958年 ‐ Lucky Starr and the Rings of Saturn (『太陽系の侵入者』)1952年 ‐ David Starr, Space Ranger (『天狼星 (シリウス)の侵略』)1953年 ‐ Lucky Starr and the Pirates of Asteroids (『小惑星 (アステロイド)の海賊』)1954年 ‐ Lucky Starr and the Oceans of Venus1956年 ‐ Lucky Starr and the Big Sun of Mercury (『水星基地のなぞ』)1957年 ‐ Lucky Starr and the the Moons of Jupiter (『木星のラッキースター』、『九号衛星のなぞ』の2種)1958年 ‐ Lucky Starr and the Rings of Saturn (『太陽系の侵入者』)ジャネット・アシモフとの共著 1983年 ‐ Norby, the Mixed‐up Robot 1984年 ‐ Norby’s Other Secret 1985年 ‐ Norby and the Lost Princess 1985年 ‐ Norby and the Invaders 1986年 ‐ Norby and the Queen’s Necklace 1987年 ‐ Norby Finds a Villain 1988年 ‐ Norby Down to Earth 1989年 ‐ Norby and Yobo’s Great Adventure 1990年 ‐ Norby and the Oldest Dragon 1991年 ‐ Norby and the Court Jester1983年 ‐ Norby, the Mixed‐up Robot1984年 ‐ Norby’s Other Secret1985年 ‐ Norby and the Lost Princess1985年 ‐ Norby and the Invaders1986年 ‐ Norby and the Queen’s Necklace1987年 ‐ Norby Finds a Villain1988年 ‐ Norby Down to Earth1989年 ‐ Norby and Yobo’s Great Adventure1990年 ‐ Norby and the Oldest Dragon1991年 ‐ Norby and the Court Jester ===推理小説=== 長編 1958年 ‐ The Death Dealers (後に A Whiff of Death に改題、『象牙の塔の殺人』) 1976年 ‐ Murder at the ABA (『ABAの殺人』)1958年 ‐ The Death Dealers (後に A Whiff of Death に改題、『象牙の塔の殺人』)1976年 ‐ Murder at the ABA (『ABAの殺人』)短編集 1974年 ‐ Tales of the Black Widowers (『黒後家蜘蛛の会1』) 1976年 ‐ More Tales of the Black Widowers (『黒後家蜘蛛の会2』) 1980年 ‐ Casebook of the Black Widowers (『黒後家蜘蛛の会3』) 1983年 ‐ The Union Club Mysteries (『ユニオン・クラブ綺談』) 1984年 ‐ Banquets of the Black Widowers (『黒後家蜘蛛の会4』) 1986年 ‐ The Best Mysteries of Isaac Asimov 1990年 ‐ Puzzles of the Black Widowers (『黒後家蜘蛛の会5』) 2003年 ‐ The Return of Black Widowers1974年 ‐ Tales of the Black Widowers (『黒後家蜘蛛の会1』)1976年 ‐ More Tales of the Black Widowers (『黒後家蜘蛛の会2』)1980年 ‐ Casebook of the Black Widowers (『黒後家蜘蛛の会3』)1983年 ‐ The Union Club Mysteries (『ユニオン・クラブ綺談』)1984年 ‐ Banquets of the Black Widowers (『黒後家蜘蛛の会4』)1986年 ‐ The Best Mysteries of Isaac Asimov1990年 ‐ Puzzles of the Black Widowers (『黒後家蜘蛛の会5』)2003年 ‐ The Return of Black Widowers ===ノンフィクション=== 1954年 ‐ The Chemicals of Life (『生命の化合物』)1956年 ‐ Inside the Atom (『原子の内幕 ‐ 百万人の核物理学入門』)1957年 ‐ Only a Trillion (『たった一兆』)1958年 ‐ The World of Nitrogen (『窒素の世界』)1960年 ‐ The Intelligent Man’s Guide to Science1960年 ‐ The Living River1962年 ‐ Life and Energy1963年 ‐ View from a Height (『空想自然科学入門』)1963年 ‐ From Earth to Heaven (『地球から宇宙へ』)1964年 ‐ The Human Brain (『脳 ‐ 生命の神秘をさぐる』)1964年 ‐ Adding a Dimension (『次元がいっぱい』)1964年 ‐ Asimov’s Biographical Encyclopedia of Science and Technology, Doubleday (1982年改訂、『科学技術人名事典』 皆川 義雄 (訳) 共立出版、1971年)1965年 ‐ Of Time and Space and other things (『時間と宇宙について』)1965年 ‐ A Short History of Chemistry (『化学の歴史』)1966年 ‐ The Neutrino (『ニュートリノ』)1967年 ‐ Is Anyone There? (『生命と非生命のあいだ』)1968年 ‐ Science, Numbers and I1969年 ‐ Opus 1001969年 ‐ Twenty Century Discovery (『発見、また発見!』)1971年 ‐ The Stars in their Courses (『わが惑星、そは汝のもの』)1974年 ‐ Of Matters Great and Small (『アジモフ博士の極大の世界・極小の世界』)1974年 ‐ Our World in Space1976年 ‐ The Planet that Wasn’t (『存在しなかった惑星』)1978年 ‐ Quasar, Quasar, Burning Bright (『輝けクエーサー』)1979年 ‐ Isaac Asimov’s Book of Facts (『アシモフの雑学コレクション』 星新一(編訳))1979年 ‐ The Road to Infinity (『アジモフ博士の地球・惑星・宇宙』)1979年 ‐ Opus 200 (『アシモフ博士の世界』)1981年 ‐ Change! (『変わる!』)1981年 ‐ Views of the Universe1982年 ‐ The Sun Shine Bright (『アジモフ博士の輝け太陽』)1983年 ‐ Counting the Eons (『アジモフ博士の地球の誕生』『アジモフ博士の宇宙の誕生』)1984年 ‐ X Stands for Unknown (『未知のX』)1984年 ‐ Opus 3001985年 ‐ Asimov’s Guide To Halley’s Comet (『アジモフ博士のハレー彗星ガイド』)1985年 ‐ The Subatomic Monster (『素粒子のモンスター』)1986年 ‐ The Dangers of Intelligence and other science essays (『真空の海に帆をあげて』)1987年 ‐ Far as Human Eye Could See (『見果てぬ時空』)1988年 ‐ The relativity of Wrong (『誤りの相対性』)1989年 ‐ Asimov’s Chronology of Science and Discovery, Harper & Row (『アイザック・アシモフの科学と発見の年表』 小山慶太・輪湖博(訳) 丸善、1992年)1990年 ‐ Out of the Everywhere (『人間への長い道のり』)1991年 ‐ The Secret of the Universe (『宇宙の秘密』)1991年 ‐ Asimov’s Chronology of the World, HarperCollins (『アイザック・アシモフの世界の年表』 川成洋(訳) 丸善、1992年)1995年 ‐ Breakthroughs in Science (『アシモフの科学者伝』〈地球人ライブラリー〉 木村繁(訳) 小学館、1995年) =ビザンティン建築= ビザンティン建築(ビザンティンけんちく、英語: Byzantine Architecture)は、東ローマ帝国(ビザンツ帝国、ビザンティン帝国)の勢力下で興った建築様式である。4世紀頃には帝国の特恵宗教であるキリスト教の儀礼空間を形成し、そのいくつかは大幅な補修を受けているものの今日においても正教会の聖堂、あるいはイスラム教のモスクとして利用されている。日本では、ビザンツ建築と呼ばれる場合もある。 キリスト教の布教活動とともに、ブルガリアやセルビアなどの東欧の東ローマ帝国の勢力圏のみならずロシアあるいはアルメニアやジョージアなど西アジアにも浸透していった。その影響力は緩やかなもので、地域の工法・技術と融合しながら独自の様式を発展させた。また、初期のイスラーム建築にも影響を与えている。 ローマ建築円熟期の優れた工学・技術を継承し、早い段階で技術的成熟に達するが、その後、東ローマ帝国の国力の衰退と隆盛による影響はあるものの、発展することも急速に衰退することもなく存続した。 ==概要== ビザンティン建築を単に時代区分として捉えた場合、コンスタンティヌス大帝が330年に首都をビザンティウム(のちコンスタンティノポリス)に移転した時から、1453年のオスマン帝国によるローマ帝国滅亡までのほぼ1100年間にも及ぶ時代を指しているが、「東ローマ帝国」「ビザンツ(ビザンティン)帝国」といった呼称が、現代の歴史編集によって、東方世界に継承されたローマ帝国を便宜上区分しているだけであるのと同様に、ビザンティン建築についても、4世紀の時点でローマ建築との様式的、工学的な転換点が明確に存在するわけではない。 4世紀から5世紀にかけて、ローマ帝国では国教となったキリスト教の礼拝空間が形成され、今日、これは特に初期キリスト教建築と呼ばれている。キリスト教徒は教会堂を建設するにあたって、ローマの世俗建築であるバシリカを採用したが、ユスティニアヌス帝の君臨した6世紀に、宗教空間としてより象徴性の高いドームを取り入れた儀礼空間を創造した。ハギア・ソフィア大聖堂はその嚆矢であり、バシリカとドームを融合したキリスト教の礼拝空間はそれまでにない全く新しい形態であった。これは、ローマ帝国から受け継がれた高度な建築技術によって完成したものであり、初期ビザンティン建築の傑作であるとともに、ローマ建築の技術的な最終到達点であるといえる。 しかし、イスラム帝国や異民族の侵入による国土の縮小、帝国の政治機構の転換に伴ってビザンティン建築も変容し、やがて初期ビザンティン建築とは異なった特有の建築形態を獲得するに至った。初期のビザンティン建築が勢力下に張り巡らされた建築材料の流通経路や建設のための高度な施工技術から、ローマの建築(末期ローマ建築)でもあるといえるのに対し、7世紀から9世紀にかけての東ローマ帝国は、古代世界とは異なった状況を迎えているため、この暗黒時代をビザンティン建築の一つの分岐点とする指摘もある。 中期以降の東ローマ帝国は地中海貿易の優位性を失い、唯一の大都市コンスタンティノポリスを擁する農業国となったので、初期の建築とは必然的に異なる様相を見せる。11世紀初頭には皇帝バシレイオス2世の元で東ローマ帝国は最盛期を迎えるが、巨大な公共建築物は必要とされなくなり、建設の主流は貴族や有力者の個人礼拝のための施設に向けられた。これは9世紀まで続いた聖像破壊運動が修道院の独立を促し、修道院の建設、移転、譲渡が裕福な寄進者によって行われるカリスティキアと呼ばれる制度が形成されたことによる。多数の人員を収容する必要がなくなったため、教会堂は小型化し、その結果、それまでのバシリカは放逐されて、内接十字型とよばれるドームを頂く中小規模の教会堂建築が主流となった。 9世紀から13世紀までの中期ビザンティン建築には、ほとんど変化が見られなかったが、十字軍の侵略による国家の分裂、西ヨーロッパの宮廷との繋がりなどにより、帝国末期の建築には多様性が見られるようになった。帝国に在留する西欧人は自国の建築を移植したため、末期ビザンティン建築には、ロマネスク建築やゴシック建築の影響を受けたものも散見されるが、その発展は帝国の滅亡とともに途絶え、東欧諸国の建築にその影響を残すのみとなった。 東ローマ帝国では、住宅や宮殿、貯水槽、要塞、橋梁、慈善施設などの建造物が造られたことが豊富な文献より明らかであるが、こうした中期以降の世俗建築はほとんど残っていない。また、東ローマ帝国の文書は細部の説明が不明瞭で、日常生活についての記述がほとんどないため、ビザンティン建築の実情をはっきりと説明できる建築物は残存する教会堂建築に限られる。しかし、東ローマ帝国の人々は教会建築しか造らなかったわけではない。 ==歴史== ===初期ビザンティン建築=== 4世紀から6世紀までの初期ビザンティン建築は、末期ローマ建築の要素と初期キリスト教建築が混在しているが、両者の明確な区別はほとんど不可能である。また、この時代の宮殿・住居などの世俗建築は図版や文献も含めてあまり残っておらず、これについての記述は今後の発掘・研究を待たねばならない。一方で、今日、初期キリスト教建築と呼ばれる建築群については、原型のまま残っているものはないものの、文献や遺構の調査によってその全貌が知られている。 ===初期キリスト教建築=== 黎明期のキリスト教は美術に対して敵対的で独自の宗教美術は持たず、文献などから宗教行事は比較的大きな個人邸宅を借用していたと考えられている。しかし、布教地域が拡大するにつれて宗教美術も発展し始め、4世紀前半にはローマの神々を祭る異教礼拝堂を思わせないバシリカを採用することで礼拝空間を確立した。 ローマ建築におけるバシリカはそもそも礼拝を目的とした建築ではなかったが、キリスト教の宗教儀礼は一般信徒と司祭が参加する集会的形態であったので、宗教空間としては有効に機能したと推察されている。ただし、これはキリスト教独自の活動ではなく、ユダヤ教やミトラ教も同様で、ロンドンのクイーン・ヴィクトリア・ストリート(英語版)に存在するミトラ教寺院(2世紀頃)の遺構などもバシリカ式神殿であることが知られている。 初期キリスト教建築としては、ローマに初めて建設されたローマ司教座教会堂であるコンスタンティヌスのバシリカや、 450年頃にコンスタンティノポリスに建設されたストゥディオス修道院(英語版)のアギオス・ヨアンニス聖堂、同時代にテッサロニキに建設されたアギイ・アヒロピイトス聖堂、ラヴェンナに550年頃建されたサンタポリナーレ・イン・クラッセ聖堂、エルサレムの聖墳墓聖堂などが挙げられる。これらは全てバシリカである。バシリカはキリスト教の儀礼空間としての必要性から採用されたというよりも、むしろ建設が容易で比較的自由に大きさを決めることができ、装飾によって神聖な空間を得やすく、儀礼空間として融通が利くという実際的な理由から大量生産されたと考えられている。 初期キリスト教建築として特筆すべきもう一つの重要な建築は、聖地や殉教者の記念碑として建設されたマルティリウム(記念礼拝堂)である。324年頃に建設されたローマのサン・ピエトロ大聖堂は、典礼を行うための教会堂ではなく、ペテロの墓所を参拝するための記念礼拝堂として建設された。333年頃に起工されたベツレヘムの聖降誕教会や、キリストが弟子たちに説法を行ったとされる洞窟を収容したエレオナ教会礼拝堂、ラヴェンナのサン・ヴィターレ聖堂、5世紀中期に建設されたテッサロニキのアギオス・ディミトリオス聖堂などの建築はすべてマルティリウムであるが、崇拝の対象物や敷地の形状に従わなければならなかったため、バシリカ、八角堂、十字型など、様々な形式で創られた。また、その多くは修道院や付属教会堂など、徐々に様々な用途の建築が建て増しされ、大規模な複合建築物となった。5世紀初期に建設された登塔者聖シメオンを崇敬するための宗教施設であるカラート・セマーン建築群や、ルザファ建築群、ゲラサ建築群などは、その好例である。 このようなマルティリウムの建設は、聖地への巡礼運動と密接な関係がある。6世紀末期まで、コンスタンティノポリスからシリアに至る東地中海沿岸部では活発な交易が行われており、港湾都市は貿易によって賑わった。これらの都市を経由する聖地への巡礼も大々的に行われており、人と金の大動脈が形成されていた。このため、沿岸部の港湾都市には聖堂や都市の遺跡が数多く残る。エフェソスやハリカルナッソス(現ボドルム)のほか、日本調査隊が発掘したリキア地方のゲミレル島、アンティオケイアなどに、その痕跡を見ることができる。 アンティオケイアやカラート・セマーンなどの巨大宗教施設は、5世紀末から急速に繁栄した北シリアの経済発展がもたらしたものであるが、5世紀末から6世紀初頭のキリスト教建築は、地域の独自性というものも見過ごすことのできない大きな潮流となっていた。これは地域の経済活動と修道院主義の結びつきや、帝国の地政学的要因、あるいは神学論争と関連する(詳しくはキリスト教の歴史を参照)。特に、隔たりを大きくしたキリスト教各派の神学論争は地域性に深い影響を与えており、カラート・セマーンのように皇帝の経済援助を受ける修道院は別として、この当時のシリア、エジプトの教会建築はコンスタンティノポリスの影響をほとんど受けることがなかった。このような建築的特徴は、異端とされた単性論教会の活動と、シリア語・コプト語の成立とともに、民族主義的傾向の一端としてしばしば参照される。 ===ユスティニアヌス帝時代の建設事業=== 553年から始まるユスティニアヌス帝の時代は、初期ビザンティン建築の胚胎期でありコンスタンティノポリスのハギア・ソフィア大聖堂、その先駆的建築と伝えられているハギイ・セルギオス・ケ・バッコス聖堂、アギオス・ポリエウクトス聖堂といった偉大なキリスト教建築物が建設された。これら首都の教会堂は、皇帝による事業という境遇や、その大きさからいって各地で安易に模倣されるものではなく、プランについても当時としてはかなり大胆なもので、当時のビザンティン建築の一般解とよべるものではない。各地では、やはりバシリカ型の教会堂が継続して建設され続けていた。しかし、ユスティニアヌスの時代に建設された教会堂には、以下に挙げるような、後にビザンティン建築では一般的となる特徴が認められる。 ===複雑な組積構造のため、独立柱と水平梁が衰退した。=== 東ローマ帝国はギリシア世界であったが、ギリシア建築由来の独立柱・水平梁は構造的意味を失い、水平梁は6世紀末に全く消滅し、独立柱は副次的な要素でしかなくなった。コリント式とイオニア式の柱頭もインポスト柱頭にとって代わられた。 ===バシリカとドームを融合するプランが形成された。=== ユスティニアヌスの時代には首都に限られた事象であるが、ドームを頂く集中型教会堂とバシリカ型教会堂を組み合わせた円蓋式バシリカ(ドーム・バシリカ)と呼ばれる形式の教会堂が建設された。ハギア・ソフィア大聖堂もその試みの一つで、より小型のものでは皇帝宮殿の側に建設されたハギア・エイレーネー聖堂がある。ユスティニアヌスの時代は、ベリサリウスに仕えた歴史家プロコピオスの著作から、初期キリスト教建築以外の世俗建築についての情報が得られている。これによると、ユスティニアヌスの建築に対する主眼は、あらゆる意味での国家防衛政策にあり、アナスタシウス1世から引き継いだ国境線の防壁補強事業に注がれているという点が指摘されている。コンスタンティノポリスは、すでにテオドシウスの城壁によって十分に拡張されていたが、ユスティニアヌスは国境の防衛を図るため、地方都市の城壁を首都に倣って増強した。ユスティアナ・プリマ(現ツァリチン・グラード)やセルギオポリス(現ルザファ)、ゼノビア、アインタプ(現ガズィアンテプ)といった市街には難攻不落の城塞が建設され、意図的に破壊されていないものは、現在でもその姿を目にすることができる。ユスティニアヌスにより、シナイ山に燃える柴を記念して建設されたハギア・エカテリニ修道院も、帝国が異民族の侵入を防ぐための防衛屯所であり、防壁に囲まれた武装修道院として設立された。 東ローマ帝国の給水設備についてはあまりよく分かっていないが、ユスティニアヌスの時代に2つの大貯水槽が造られたことが知られている。一つは今日、地下宮殿(イェレバタン・サラユ)と呼ばれる138m×65mにも及ぶシステルナ・バシリカで、1列12本の列柱を28列備えたものである。柱はアカンサス柱頭を備えた一見豪華なものもあるが、これは5世紀に流行した型で、当時石工がもっていた在庫品を処分したものであるとの見方が有力である。もう一つは、千一本の円柱宮殿(ビンビルディレク)と呼ばれるフィロクセノス貯水槽である。こちらはインポスト柱頭を用いた64m×56m貯槽であるが、構造は2本の円柱を上下に連結した大胆なもので、天井から床までの高さは15mにも達する。このような危険な構造を採用したのは、15m近い柱を調達するよりもコストと手間が省けるからである。 ユスティニアヌス時代の建築はビザンティン建築の始まりであるとともに、世界帝国ローマの、そしてローマ建築の技術的可能性の最終局面であるといえる。以後のビザンティン建築は、この時代の技術革新によってもたらされた要素を継承していくが、工学的な面において、これを発展させていくことはなかった。 ===暗黒時代=== 600年前後に始まる暗黒時代は、東ローマ帝国の建築活動に完全な停滞をもたらした。東ローマ帝国の勢力範囲はその大部分がウマイヤ朝や他民族によって侵略を受け、腺ペストの流行と旱魃、地震被害による人口の減少により、都市生活は破壊された。これらの地域で今日まで残る初期ビザンティン建築はほとんどないが、小アジア一帯では、東ローマ帝国の領土と経済が復興した際に、廃墟となった聖堂の身廊および側廊が、近隣住民の墓地として利用された。 コンスタンティノポリスや、テッサロニキ、モネンヴァシア、アテナイなど、イスラームの侵略をはねのけた地域もあったが、地方都市で都市生活を営むことができたかどうかは疑問であり、新たな教会堂の建設は行われなかったか、あるいは行われたとしても施工精度の悪いものであったと考えられる。この時期に建設された建物の詳しい年代や建設意図の大部分は資料が少なく、よく分かっていない。6世紀から9世紀に建設されたと確認できる教会堂は、テッサロニキのハギア・ソフィア聖堂のほか、現存するものではデレアジの教会堂(現在は廃墟)やミュラ(現デムレ)のアギオス・ニコラオス聖堂など、わずかしか知られていないが、ハギア・エイレーネー聖堂に見られる円蓋式バシリカ、あるいはクロス・ドーム・バシリカが各地に建設された。この形式は、6世紀から9世紀にかけてのビザンティン建築の過渡期を特徴づけるものと考えられている。 暗黒時代のビザンティン建築は、イスラームに包囲されて疲弊した首都に、援軍として迎えられたアルメニア人やグルジア人によって保持された。彼らは常に独自性を保ちながら東ローマ帝国の文化を取り入れ、帝国が暗時代に突入するまさにその時期に芸術の最盛期を迎えた。 アルメニアの教会建築は5世紀頃にまで遡り、初期にはトンネル・ヴォールトを用いたバシリカを採用した。しかし、6世紀末にはバシリカは造られなくなり、代わってドームを持つ集中形式が好まれるようになった。7世紀に東方キリスト教を主導するに至ったころには、三葉型と四葉型、八角堂型、円筒形の四葉型、内接十字型の4つの形式が発展する。これらはアルメニアにおいて発展した形跡がないので、メソポタミアから北シリアにいたる東方の形式を取り入れたものと考えられるが、これらの地域の教会建築が全く残っていないため、どのような形でそれがアルメニア建築の中に取り入れられたのかは分かっていない。彼らもまた、7世紀後半にはイスラーム帝国の侵略の前に屈服し、その教会堂も大半が放棄され廃墟となったが、その建築のアイディアはビザンティン建築の本流に取り入れられた。 ===中期ビザンティン建築=== アラブ人の侵略によって国土を大幅に縮小した東ローマ帝国は、9世紀前半になってようやく安定を取り戻し、失われた領土の回復を進めていく。文化の面でも古代ギリシャ・ローマ文化の復興運動、すなわちマケドニア朝ルネサンスが興った。この帝国の建築活動が7世紀頃まで変遷過程にあったこと、その後、内接十字型と呼ばれる独自の建築平面を獲得したことを考慮し、7世紀以降から9世紀にかけての東ローマ帝国の建築がビザンティン建築の始まりと考えることもできるとの指摘もある。 ===再生の時代の教会建築=== マケドニア王朝の開祖バシレイオス1世はローマ帝国再生を唱え、ユスティニアヌスに倣って建築活動を積極的に行い、ハギア・ソフィア大聖堂をはじめとする荒廃した教会堂を修復し、新たに教会と宮殿の一角を建設した。総主教フォティオスの下、帝国は栄光の再生を夢見たが、ユスティニアヌス帝の建設活動が主として巨大公共建築であったのに比べると、バシレイオス帝の建築活動ははるかに規模が小さく、私的建築活動と呼ぶべきものであった。宮廷の建築活動はすでにかなり縮小しており、その影響力も農業中心の地方域には波及せず、東ローマ帝国一の大都市であるコンスタンティノポリスに限定されたものであった。このような私的援助は宮廷に限らず貴族によって模倣され、ビザンティン建築はこの後、私的建築活動によって存続することになる。 976年から始まるバシレイオス2世の治世になると、国庫の収入は改善され、セルジューク朝侵入に至る1071年まで、ビザンティン建築は活動最盛期を迎えることになる。バシレイオス2世は厳格な軍人皇帝であったため、その偉業にもかかわらず、彼の銘による建築は現在まで発見されていない。皮肉にも、中期ビザンティン建築の革新は、彼の後継者たちの散財によってもたらされた。11世紀は建築の革新期で、1028年のロマノス3世アルギュロスによるパナギア・ペリブレプトス修道院、1034年にミカエル4世によって建設されたアギイ・コスマス・ケ・ダミノス聖堂、コンスタンティノス9世モノマコスによるマンガナのアギオス・ゲオルギウス聖堂などの大規模で壮麗な教会堂が建設された。これらはどれも現存していないが、下部構造からの推定ではアルメニアの影響が認められ、当時建設された教会建築に大きな影響を与えたと考えられる。その一例としては、ネア・モニ修道院、オシオス・ルカス修道院の中央聖堂に見られるスクィンチ式の教会堂建築がある。 セルジューク朝の侵攻と一次十字軍の派遣という東西文化の軋轢に悩まされるコムネノス王朝時代には、中期ビザンティンの建築活動は保守的になり、マケドニア朝の革新的な平面計画は棄てられ、すでに確立した内接十字型平面が好まれるようになった。キリスト・パンテポプテス修道院聖堂は、皇帝アレクシオス1世コムネノスの母アンナ・ダラセーナによって1100年に創建されたが、建築形態は内接十字型のうち4円柱式と呼ばれる平面で、すでに暗黒時代に建設されていたもので、新しい要素は全くない。1124年頃に建設されたキリスト・パントクラトール修道院の北聖堂である生神女エレウーサ聖堂も同様の平面である。また、コーラ修道院の中央聖堂とカレンデルハネ・ジャーミイのように、暗黒時代に流行したクロス・ドーム形式の教会堂も建設された。このような状況は、西方と東方から迫る圧力に対し、純粋に正教会のもの、東ローマ帝国のものと思われたものを選択する意図があったと考えられる。 中期ビザンツの教会堂は私的礼拝のために建設されたため、大規模なものは存在しない。仮に多くの市民を収容するような需要があったとしても、古代に繁栄した都市であれば、減少した人口を収容できる程度の教会堂はすでに存在することが多かった。何より、この時代の東ローマ帝国はハギア・ソフィアのような大規模建築物を建てられるような国家体制ではなく、建築的関心は修道院の教会堂建設に向けられていた。 ===修道院の建築活動=== 修道院の建設は中期ビザンティン建築の主たる特徴である。カルケドン公会議に司教の監督下に措かれた各修道院は、聖像破壊運動の迫害を忌避してその管理下から逃れ、10世紀頃までにはかなりの独自性を持つようになっていた。 スラブ人やブルガリア帝国から奪還されたバルカン半島では、961年に聖アナスタシウスがラヴラ修道院を建設した後、ギリシャ正教最高の聖地となったアトス山の修道院や、フォキスにあるオシオス・ルカス修道院、ヒオス島のネア・モニ修道院など、多くの修道院が建設されている。修道院は様々な建築の複合体であり、中央教会堂(カトリコン)を残してその他の施設が消滅している場合もあるが、今日に至るまで残存しているものも多い。また、都市人口の減少による空地の拡大に伴って、都市に開設される修道院も認められるようになる。このような修道院は一部の裕福層からの寄進によって建設されたものも少なくなく、寄進者らに施設そのものを不動産して譲渡、売却することも行われた。 コンスタンティノポリスでは、貴族出身のコンスタンティノス・リプスによって建てられた修道院北教会堂が挙げられる。907年に創建された教会堂はそれほど大きなものではないが、献堂式に皇帝も列席するほど壮麗な建築で、大量の彫刻装飾と大理石の象眼、釉薬タイルによって装飾されていた。コンスタンティノポリスのその他の修道院としては、ロマノス・レカペノス提督(皇帝ロマノス1世)のミュレレオン修道院中央聖堂、イサキオス・コムネノスによるコーラ修道院中央聖堂などが挙げられる。地方都市では、テッサロニキのパナギア・ハルケオン聖堂、スクリプーのコイメシス聖堂などで、貴族の寄進による修道院建設を見ることができる。 貴族の寄進に頼るこれら中期ビザンティンの教会堂建築に大規模なもの存在しないが、その代わりに外部空間はかなり意識されるようになったようである。内部空間の重要性に変わりはなかったが、中央聖堂は修道院中庭に孤立して建設されたため、外部を装飾する意識が生まれたようである。オシオス・ルカス修道院の生神女聖堂では、外壁の煉瓦積みがクロワゾネと呼ばれる技法によって構成され、クーファ文字をモティーフとした浮き彫りによって装飾されており、同様のモティーフはテッサロニキのパナギア・ハルケオン聖堂など、バルカン半島でよく見られる。また、アクダマル島のスルブ・ハツ聖堂は外部を美しい浮き彫りで覆っている。 ===末期ビザンティン建築=== 12世紀末期になると、東ローマ帝国は政治的には小公国のゆるやかな連合体となり、これは1204年のコンスタンティノポリス陥落以後、より一層加速された。ニカイア帝国によって首都は奪還されるものの、軍事力・経済力などの面で、帝国は往年の繁栄からは程遠いまでに衰退しており、同時代の壮麗なイスラム教礼拝堂やカトリック教会堂を凌駕するような建築は建てられなかった。 亡命政権が各地に樹立されることによって、ビザンティン建築は必然的に多様化することになるが、特に、ロマネスクやゴシックの影響を受けた建築が認められる。ラテン帝国の建築活動は著しく低かったので、これらは金角湾に居留したヴェネツィアやピサ、ガラタ地区のジェノヴァの人々による建築の影響を受けた可能性が指摘される。 ===分裂の時代と再統一後の建築活動=== ビザンツ諸公国のうち最も活動的であったニカイア帝国は、多くの建築を建立したが、そのほとんどは現在には残っておらず、確実なことはいえない。 ニカイア帝国と勢力を競ったエピロス専制侯国は、王室の活発な建築活動が認められ、洗練された建築物とは言えないものの、礼拝堂建築が数多く残る。アルタにはエピロス建築の傑作とされるパリゴリティサ聖堂があり、その近郊にはカト・パナギア聖堂(1231年)やブラケルネ修道院、トリカラにはポルタ・パナギア聖堂(1283年)がある。エピロス王室はシチリア島のホーエンシュタウフェン家やヴィルアルドゥアン家との婚姻関係があり、これらの建築には西欧風の特色が認められる。このため、エピロスの建築は革新的なものが多いが、ニカイア帝国との争いに破れ、消滅してしまったために、その建築が最末期のビザンティン建築に継承されることはなかった。 トレビゾンド帝国には、首都トレビゾンドに皇帝マヌエル1世によって建設されたハギア・ソフィア修道院のカトリコンが現存している。グルジア王国の影響を受けた平面構成が認められるが、グルジア王国とルーム・セルジューク朝に挟まれたこの帝国のその他の建築活動については、あまり研究されていない。 1261年のニカイア帝国によるコンスタンティノポリス奪回後、コンスタンティノポリスではビザンティン文化の最後の華が開花した。いわゆる「パレオロゴス朝ルネサンス」である。しかし、この時期に建設された教会堂は、中期ビザンティン建築の伝統を墨守したものであって、他の文化活動に見られるような初期ビザンティンの、ましてや古代ローマの伝統を復興させるようなものではなかった。コンスタンティノポリスでの建築活動は1261年から1330年頃までのわずかな期に認められるのみで、以後は完全に停滞した。 ミカエル8世の皇妃テオドラの開設したコンスタンティノス・リプス修道院南聖堂は1280年代の建立と思われ、既存の北聖堂を拡張するように建設された円蓋式バシリカに近い聖堂である。1310年に着工されたパナギア・パンマカリストス修道院付属礼拝堂は4円柱式の教会堂で、外観はほとんど立方体に近く、バルカン半島で認められる模様積みなどは認められない。これらの聖堂は、ほとんどが単純な矩形面であり、外部のデザインを優先してドームを多くかつ高く設計しているため、内部空間には広がりがなく、井戸の底にいるかのような印象を受ける。そして、恐らく他のよく残存している教会堂と同じく、内部は説話に基づく絵画で覆われていた。 1316年に起工したコーラ修道院は、政治家テオドロス・メトキテスによって既存の教会堂を改築したものである。建築的に見るべきものは何もないが、内部のフレスコ画は末期ビザンティン美術の傑作といわれている。コーラ修道院に代表されるパレオロゴス朝の壁画では、写実性の向上と、初歩的ではあるものの遠近法の発達が認められ、これが後に西欧のルネサンスに繋がるとされる由縁となっている。 パレオロゴス朝の皇子達が封じられたモレアス専制公領の首府が置かれ、ペロポネソス半島を実効支配したミストラ城塞都市は、現在では完全な廃墟であるが、末期ビザンティンの都市景観を最もよく遺している。ミストラの宮廷は周囲のフランク諸公国との婚姻関係もあったので、宮殿建築には西欧風の要素が認められる。ミストラ宮殿は1250年頃から1350年頃、1400年頃、1460年頃の3期にわたって建設され、その構造体には尖頭アーチの窓、リブ・ヴォールトといったゴシック建築の要素が散見する。宮殿の内部装飾が残っていないため明確ではないが、全体としてはビザンティン建築の伝統ではなく、西欧の宮殿建築の影響の方がむしろ強い。 末期東ローマ帝国時代に建設された修道院としては、聖アタナシオスの創建したメテオラがある。最も古いイパパンティ修道院は1366年に建設され、1388年にはメテオラ最大となるメガロ・メテオロン(メタモルフォシス修道院)が建立された。東ローマ帝国滅亡(1453年)後も、14世紀から18世紀にかけて、さらに5つの修道院が建設されている。 ===末期ビザンティン建築の特徴=== 末期ビザンティン建築も建築的関心は修道院建築にあったが、そのほとんどは既存教会堂の増築・改築であった。この際、外部にナルテクス(廊下状の前室空間)か礼拝に供された通路状の建物が回され、ポーティコ(列柱のある玄関またはアーケード)付きの正面を形成することが多く、この形状はヴェネツィアからもたらされたのではないかとの指摘がある。 ポーティコ付ファサードは、教会堂以上に住居建築に採用され、コンスタンティノポリスのポリフィロゲニトゥス宮殿(現テクフルサライ)にもこの形状が認められる。12世紀後期と考えられるこの宮殿は、3階建てでテオドシウス2世の城壁の間に建設され、中庭に面した北側と城壁に連続する南側にポーティコ付正面が認められる。 テッサロニキは、パレオロゴス朝初期に繁栄し始め、首都での停滞期の間も修道院に付随する建築活動が活発に行われた。そのため、末期のビザンティン建築を知る上で重要な建築物がいくつか残っている。1315年創建されたハギイ・アポストリ教会堂、同時代かそれより早い時期に建てられたと思われるハギア・エカテリニ教会堂は、ともに典型的な四円柱式内接十字型の教会堂であるが、三面がドームを頂く吹き放しのポーティコ状廊下で囲われ(現在では吹き放しではなく、ガラス戸が嵌め込まれている)、その四隅にドームを架けている。教会建築における、このような周歩廊の機能ははっきりせず、首都では墓所に使われたようであるが、テッサロニキではそのような機能は認められない。 1262年に東ローマ帝国に移譲されたミストラには、ミストラ型と呼ばれる教会堂が建設されている。パナギア・オディギトリア聖堂(アフェンディコ聖堂)はブロントシオン修道院の中央聖堂として使われ、その後ミストラに建設された教会の模範となった「ミストラ型」の最初のモデルで、1階は円蓋式バシリカ平面を持つが、2階は内接十字型平面を持つ特殊な形式である。13世紀にバシリカとして建設されたアギオス・ディミトリオス聖堂は、15世紀にミストラ型として改修された。 ==特徴== ビザンティン建築は、ユスティニアヌス1世の時代における宮廷の建設事業によって急速に開花した。この時代の建築事情は、プロコピオスの『建築について』(De aedificiis) や現存する建築物、ハギア・ソフィア大聖堂やハギイ・セルギオス・ケ・バッコス聖堂、ハギア・エイレーネー聖堂などによって知られる。アーキトレーヴや柱頭に彫り込まれた植物装飾によって構造体からの独立性を強調するような、特徴的な細部のデザインもこの時代に確立されたものである。バシリカ型の教会堂では身廊と側廊を分離するために独立円柱が一定の役割を果たしていたが、ドームとバシリカのプランが融合されるに従って、構造体としての役割は角柱に代わり、オーダーはそこに付け足された装飾の一部としてしか機能しなくなった。ギリシア起原であるにもかかわらず、中期以降のビザンティン建築では、オーダーはほとんど消滅することになる。 ===ビザンティン建築の構成=== ビザンティン建築には多様なプランが認められるが、以下の形式は全て教会堂に関してのものである。世俗建築がいかなる形式で、いかなる機能を有したものであったかは、初期の段階ではローマ建築とほとんど違いがないということ以外は分かっていない。これは、ビザンティンの俗建築がミストラ以外にはあまり残っていないことによる。ミストラの建築も多くはフランク人によって建設されたもので、これをビザンティンの世俗建築一般と見なすことは難しい。 ===バシリカ=== すでに初期ビザンティン建築の項で説明した通り、初期のキリスト教徒は礼拝用建築物の雛形としてローマ建築のバシリカを採用した。このタイプの教会堂は、長期間に渡って広い地域で建設され続けた。いくつかの種類が認められ、代表的なものとして、身廊に高窓を持ち、木造小屋組みの屋根が架けられる「ヘレニスティック・タイプ」と呼ばれるバシリカがある。ラヴェンナのサンタポリナーレ・イン・クラッセ聖堂やサンタポリナーレ・ヌオヴォ聖堂などがこれに当たる。大規模なものになると、旧サン・ピエトロ大聖堂、ルーマニアのトロパエウム(6世紀)、アギオス・デメトリオス聖堂、ピリッポイのバシリカBなどのように、トランセプトを構成するものもある。 ビザンティン建築のバシリカ式として最も一般的なタイプは、身廊部分に トンネル・ヴォールトを架けた側廊のない、いわゆる単廊式バシリカで、「オリエンタル・タイプ」と呼ばれ、12世紀に至るまで建設され続けた。これはアルメニアの初期キリスト教建築などを起源とし、カッパドキアの岩窟修道院はこの流れを汲んでいる。 ===円蓋式バシリカおよびクロス・ドーム=== ハギア・ソフィア大聖堂やハギア・エイレーネー聖堂で試みられたような、バシリカとドームを融合する形式は古代ローマの世俗建築においてすでに確立されていたが、ビザンティン建築の歴史の中で一般的形態として確立されるのは6世紀頃である。 ドーム・バシリカあるいは円蓋式バシリカ (Domed Basilica) と呼ばれるこの形式は、トンネル・ヴォールトを架けた身廊中央部に、身廊幅と同じ直径のドームを頂く正方形か長方形平面の教会堂である。側廊に据えた大きな角柱にアーチを架け、教会堂の短手方向で、身廊を横断するアーチはそのまま滑らかにトンネル・ヴォールトに連続するか、アーチが突出する。長手方向(側廊側)のアーチ下部はティンパヌムを構成し、開口部が設けられる。平面は単廊式(身廊のみで構成されるもの)か3廊式(身廊とそれを取り囲む側廊から構成されるも)である。ハギア・ソフィア大聖堂、およびハギア・エイレーネー聖堂は基本的にこの形式である。 円蓋式バシリカには、クロス=ドーム・バシリカ (Cross‐Domed Basilica) と呼ばれる、身廊部分がギリシア十字平面に近い形式になったものもある。ハギア・ソフィア大聖堂では、身廊と側廊を分けるアーケードとティンパヌムが、四隅に設けられた角柱の内側に設けられているため、角柱は側廊に隠され、南北のアーチは内部には露出していない。しかし、中小規模の教会堂で同様の形状にすると、身廊がかなり狭苦しく、空間の広がりを保つことができない。クロス=ドーム・バシリカは、ティンパヌムとアーケードを角柱の外側に構成することによって、身廊内部に広がりを持たせたものである。この場合、やや奥行きの深いアーチを持つ空間が短手方向にも伸びるため、身廊は十字型の平面となる。 円蓋式バシリカやクロス=ドーム・バシリカは、5世紀末から9世紀までビザンティン建築で採用されたが、内接十字型がビザンティン建築の主流として確立されると廃れてしまった。しかし、12世紀には一時的にリヴァイヴァルされている。現存する代表的な円蓋式バシリカは、上記に挙げた聖堂のほか、ミュラ(現デムレ)のアギオス・ニコラオス聖堂(8世紀頃か?)、デレアジの廃墟となっている聖堂(名称不明、9世紀初期?)、721年頃に創建されたテッサロニキのハギア・ソフィア聖堂などがある。特にテッサロニキのものはクロス=ドーム・バシリカの典型例として引用される。12世紀にリヴァイヴァルされたものでは、コーラ修道院中央聖堂(12世紀初期)やコンスタンティノポリスのカレンデルハネ・ジャーミイ(12世紀中期)が挙げられる。カレンデルハネでは側廊が失われ、集中性の高いギリシア十字型平面になっている。これらは、もはやバシリカとは言えないような形式となっているため、単にクロス=ドーム (Cross‐Domed Church) とも呼ばれる。 ===内接十字型=== 内接十字型教会堂(Cross‐Inscribed または Cross‐in‐square, あるいは Quincunx)は、それまで標準的であったバシリカを駆逐し、中期ビザンティン時代に標準形式となった教会堂形式である。一般に、「ギリシア十字型の教会堂」を指す場合や、ビザンティン様式、ビザンツ様式として紹介される教会堂は、このタイプを指すことが多い。正方形平面の中にギリシア十字型の身廊・袖廊を内包しており、中央部にペンデンティヴを備えたドームを支持する円柱またはピア(主柱)がある。円柱2本と内壁によってドームを支えるものは二円柱式教会堂 (Two‐Column Church)、ドームの荷重を4本の円柱で保持するものは四円柱式教会堂 (Four‐Column Church) と呼ばれるが、後者の方が一般的な形式である。四円柱式教会堂には、さらに身廊とアプスの間にベイが差し込まれる形式と、追加ベイがないものに分けられる。概ね二円柱式はベルカン半島南部に、四円柱式で追加ベイのないものはセルビアからイタリア半島南部に限られ、追加ベイのある二円柱式はビザンティン文化圏の広い範囲に渡って認められる。 内接十字型教会堂の起源は明確ではないが、ビザンティン建築においてこの形式が導入されたのは8世紀末から9世紀頃である。経済が復興した9世紀後半以降、多くの教会堂が内接十字型で建設されている。コンスタンティノポリスでは、バシレイオス1世が880年に献堂したネア聖堂が、文献の記述から、おそらくこの形式で造られたと推定されている。現在にも残る修道院の聖堂としては、二円柱式教会堂として、 マニにあるアギオス・ストラテゴス聖堂、ミストラのペリブレプトス修道院付属聖堂などがある。四円柱式教会堂は数多く残っているが、主なものを挙げると、10世紀中期に建設されたオシオス・ルカス修道院の生神女聖堂のほか、1028年に建設されたパナギア・ハルケオン聖堂、1100年建設されたキリスト・パンテポプテス修道院中央聖堂(現エスキ・イマレト・ジャーミイ)、12世紀初期に建設されたパントクラトール修道院の南北両聖堂(現ゼイレク・キリッセ・ジャーミイ)がある。また、ビザンティン建築ではないが、サン・ピエトロ大聖堂についても、ドナト・ブラマンテによる最初の計画は、内接十字型といって良い平面の教会堂であった。 内接十字型は、東ローマ帝国の職人たちが円柱の上に3.5m以上の幅のアーチを架けることを忌避したため、その構造から小規模の教会堂にしか適用できず、内部空間がほとんど単一となる。バシリカのように空間を身廊・側廊に分けることができないため、必然的に集中性の高い性格の建築物となっている。しかし、ミストラでは、ミストラ型教会堂と呼ばれるバシリカと内接十字型の混成形式の教会堂が存在する。この形式の教会堂は、1階部分に円柱を並べて身廊と側廊を区分しており、1階部分の平面のみを見るとバシリカになっている。しかし、2階になると角柱を設けて内接十字型の平面を構成しており、内部の印象はハギア・エイレーネー聖堂に近いものとなっている。 ===スクィンチ式=== スクィンチ式教会堂 (Church on Squinches) は中期ビザンティン時代に形成されたもので、平面形態ではないが、内接十字型と並び、ビザンティン建築の主要な形式の一つである。正方形平面の四隅に設けたスクィンチ(多角形の構造を正方形平面の上部に乗せるために斜めに置かれたアーチ)が形成する八角形平面の上に鼓胴壁付きのドームを架けたものを主屋とする教会堂形式である。内接十字型では、ドームの直径は最大でも4m程度のものしか造れないと考えられていたようであるが、スクィンチ式教会堂のドームは、これよりも大きい直径8m程度のドームを架けることができる。 東にアプス、西にナルテクスを構成する単純型と、南北に付属室のある複合型がある。前者の形式として、1042年に建設されたネア・モニ修道院中央聖堂、1090年に建設されたキプロスのクリソストモス修道院中央聖堂がある。後者の代表的な例としては、11世紀初期に建設されたと推定されるオシオス・ルカス修道院中央聖堂、11世紀末と考えられるアテネ近郊のダフニ修道院中央聖堂、ミストラのアギイ・テオドリ聖堂がある。 ===東ローマ帝国の都市=== 東ローマ帝国の多くの都市は、ローマ帝国の時代から継承されたものである。ローマ帝国の混乱によって、3世紀後半から4世紀にかけてローマ時代の都市は広範囲に衰退したが、5世紀から6世紀になると東ローマ帝国の勢力範囲内では経済が再生し、これに伴って建築活動も盛んになった。交易の活性化は、南イタリアからバルカン半島沿岸部、コンスタンティノポリスからアナトリア半島沿岸部、シリア一帯で見られるが、東ローマ帝国とサーサーン朝の衝突や異民族の侵入などによって安定せず、大局的には地方都市は徐々に衰退していったといってよい。このような地方経済の低下は、地方都市の公共業務の担い手であった裕福市民層の減衰を招いた。中央政府の介入が増大したため、公共活動は中央官庁の官僚組織、あるいは教会組織に継承されたが、フォルムやクリアなどの大規模な公共建築物は東ローマ帝国時代には建設されなくなった。 都市生活自体もローマ帝国の時代から変化しており、体育館や競技場の利用は著しく低下した。劇場は競技場よりは活用されたが、上演されるのは喜劇や卑猥な演目になったため、教会から度々禁止令が出され、やがて放棄されていった。ローマ都市の中心部にあった神殿は、キリスト教が国教になったために廃れ、392年にテオドシウス1世が異教崇拝の禁止を発した後、廃棄されるか破壊された。 このような変化に伴って、古代に建設された公共建築には徐々に住居が建て込まれるようになり、人口密度は高くなったが、公共スペースの喪失によって市街地は縮小した。異教の神殿は6世紀頃にキリスト教聖堂として使用されるようになったアテナイのパルテノン神殿やテッサロニキのロトンダ、ローマのパンテオンなどを除いて、石切り場、あるいは柱や彫刻などの転用材の集積場となった。 このような古代都市に比べ、東ローマ帝国の時代に新設された都市、あるいは古代の町村を拡張した都市は少ない。また、首都コンスタンティノポリスを除けば、東ローマ帝国時代の都市は、古代ローマ時代の都市よりもずっと小規模である。ほとんどがユスティニアヌス帝によって開都されたが、ユスティアナ・プリマ、セルギオポリス、ダラ、ゼノビア(現ハラビエ)といった新設都市は、国境防衛のための軍事拠点であった。一般に、強固な城壁に囲まれた場所には兵舎が建設され、ローマの都市と同じくカルドとデクマヌスを軸とする規則正しい都市計画が採用されている。一般市民はその外側に生活の場をおく農民で、緊急時には城壁内に避難する生活であった。 東ローマ帝国は6世紀に衰退を始め、都市部の経済活動も完全に停滞した。サーサーン朝ペルシャとの戦乱に巻き込まれたシリアからアナトリア半島の都市は壊滅状態のまま国家統制から排除され、イスラム帝国が勃興してからはシリア、エジプトの海上拠点も制圧された。バルカン半島は北方からの侵入したブルガリア人とマジャール人に悩まされただけでなく、沿岸地域からはイスラム帝国に攻撃された。貿易は完全に停止し、地中海貿易によって成り立っていた古代都市は、略奪され、あるいは経済的停滞によって完全に衰退・放棄された。特に北方から来襲したスラブ人の勢力下におかれたバルカン半島の都市は10世紀まで荒廃した状態にあり、住居は粗悪なものであったので、建物の平面ですら確認するのが困難である。このような緊張状態にあって、ローマ時代から続く都市も完全に要塞化し、城壁に囲まれた軍事拠点とそれを取り囲む一般住宅という中世都市のスタイルが一般化した。 このような東ローマ帝国の中世都市の雰囲気をよく残しているのが、ペロポネソス半島のモネンヴァシアや、ギョーム2世ヴィルアルドゥアンによって建設されたミストラである。ミストラは完全に中世のものではなく、また、ノルマン人によって建設されたものではあるが、末期東ローマ帝国の都市を知る上で重要な手掛かりとなる。町は高低差240mの急斜面にあり、はっきりした街路計画も中心部もない。貴族も庶民もつましい生活を送っていたらしく、住居は大きな居間が1つで、独立した部屋はなく、食事や睡眠、排泄もそこで行われていた。 ===修道院での慈善施設=== ローマ帝国では、公共業務は都市の有力市民層によって運営されていたが、都市の衰退とともに有力市民層も没落すると、それは教会によって維持されることになった。キリスト教組織は、すでに国教化以前から積極的に慈善活動を行っていたが、4世紀から5世紀になると、各地域の主教が慈善施設の設立について重要な役割を果たすようになり、病院や救貧院といった施設を創設し、これを管理するようになった。これを受けて、451年のカルケドン公会議では、主教が慈善施設の運営に責任を持つことが成文化され、さらに544年にユスティニアヌス帝の発令した教会機関に対する法令において、主教は教会内部に宿泊施設、救済施設、病院、孤児院、養老院といった施設を設け、これらを維持するように計らう責任があることが明確に示された。さらに、慈善施設は、設置する基準としてその運営能力を証明する必要性があったが、活動は慈善目的に限られており、これを逸脱するような場合、主教は運営に介入する権限を有することも記載されている。 しかし、このような制度は形骸化し、11世紀には私的な慈善施設に対する主教の権限は剥奪された。どの時点から主教の権限の低下が始まったのかは資料が少ないため不明瞭であるが、少なくとも9世紀には制度の変節が認められ、中世東ローマ帝国時代になると、裕福層の寄進によって設立された修道院の慈善施設は国家や教会権力から独立した事業として認識されている。皇帝が私的に設立した修道院ですら、皇帝自身の私有財産と見なされ、必要な収入が確保できるように資産管理が行われていた。皇帝ロマノス1世レカペノスの設立したミュレレオン修道院(病院施設が付随)やヨハネス2世コムネノスの設立したパントクラトール修道院(病院施設・養老院・浴場が付随)がその代表的な例である。 パントクラトール修道院は1118年から1124年にかけてヨハネス2世コムネノスによって建設された南側のパントクラトール聖堂と、1136年以前にコムネノス家の墓所として建設された中央部のアギオス・ミハイル聖堂、そして北側のエウレーサ聖堂の3つの聖堂から成るが、これに今日では残っていないコンスタンティノポリスの病人を収容する病院(パントクラトール・クセノン)と養老施設(ゲロコミオン)が付属した複合建築物であった。パントクラトール・クセノンは規模が大きく、またその運営を記した『規律書(ティピコン)』や当時の歴史家ニケタス・コニアテスの著作によってその実態を推測することができる。パントクラトールの病院は、外科的治療、眼・腸などの疾患治療、女性患者の治療、その他の5部門に分かれ、専門の医師、助手、補助員、女性スタッフらが常駐する。入院患者のために合計で50床のベッドが用意され、院内には暖房用の暖炉が男性用に2、女性用に1つ設けられる。トイレは男性用、女性用がそれぞれ一カ所あり、夜間でも明かりが灯されていた。治療には入浴が重要視されていたため、浴室も設置されていた。主聖堂とは別に、患者のために男性用と女性用の教会堂がそれぞれ設立されていた。主に貧困層を対象(とはいえ、極貧の者は対象ではなく、必ずしもすべての患者が貧困層というわけでもなかったが)にした医療機関であるが、かなりの運営費用が割り当てられており、また今日の病院に匹敵するほどの高度な組織的運営が行われていたとする研究もある。 ===モルタルと煉瓦=== ビザンティン建築の建築方法は、基本的にはローマ建築のものと大差ない。各地の建築工房において、粗石造と煉瓦造を交互に使用する工法が確立されていたため、時代の推移に関わらずビザンティン建築の施工は常に安定していたようである。大まかに、シリア、パレスティナ、アルメニアやジョージアなどの切り石構造と、その他の地域の煉瓦・粗石構造とに分けられる。 ビザンティン建築において最もポピュラーなのは後者で、長方形の石材を片枠として積み上げ、その内部にモルタルと粗石を流し込み、次いで煉瓦を5段程度積層し、さらに石材を積み上げモルタルを流し込むことを繰り返すことによって外壁を形成した。ほとんどの場合、外壁には漆喰やモルタルが塗られなかったため、この石材と煉瓦の交互の配列は水平方向の縞模様となって、ビザンティン建築の外部の色彩的な特徴となっている。この建築方法は、初期の時代から11世紀頃に至るまで全く変化しておらず、建築工法による建築物の時代特定を困難なものにしている。 古代ローマで用いられたローマン・コンクリートは、ポッツォラーナによって均質な凝固性を示すが、ビザンティンで用いられるモルタルは焼石灰と砂によるもので、ローマン・コンクリートほどの耐久性を示していない。また、石灰によるモルタルは硬化した後に風雨にさらされると分解するため、構造体は石材などの外装を付与する必要性があった。さらに、壁の仕上げと一体化した煉瓦のモルタル目地は、建築コストを下げるために徐々に多量に用いられる傾向にあり、モルタル硬化時の乾燥収縮によって建築物の精度は低下した。 ハギア・ソフィア大聖堂のような大規模建築物にとっては、このような建物の歪みは致命的欠陥であり、事実、最初に架けられたドームは建築途中においてもすでに湾曲し、その結果、わずか20年で崩壊した。再建には、大聖堂そのものの建設と同程度の時間を要している。崩壊の原因はドームを支える支柱の傾斜が原因であったが、この垂直傾斜は今日でもそのまま遺っている(この強度不足は、バットレスを補強することによって解決されている)。 ===建築の装飾=== ==主要建築物== ここでは、全て現存するか、あるいは上部構造がほとんど残っている建築物を挙げている。ビザンティン建築を代表するものであっても、基礎構造しか残っていないもの、内部空間を把握できないものは対象としていない。かっこ内は、建築物のある都市、建設された年代。現〜と表示しているものは、現在の名称。 ===前期ビザンティン建築=== ストゥディオス修道院のアギオス・ヨアンニス聖堂(イスタンブール 現イムラホール・ジャーミイ 450年頃完成)アヒロピイトス聖堂(テッサロニキ 5世紀中期)アギオス・デメトリオス聖堂(テッサロニキ 5世紀中期)カラート・セマーン修道院建築群(カラート・セマーン 5世紀後期)サンタポリナーレ・ヌオヴォ聖堂(ラヴェンナ 490年建設)サン・ヴィターレ聖堂(ラヴェンナ 526年起工・574年完成)アギイ・セルギオス・カイ・バッコス聖堂(イスタンブール 現キュチュック・アヤソフィア・ジャーミイ 527年から536年頃)ハギア・エイレーネー聖堂(イスタンブール 現アヤイリニ博物館 532年頃起工)ハギア・ソフィア大聖堂(イスタンブール 現アヤソフィア博物館 532年起工・537年完成)サンタポリナーレ・イン・クラッセ聖堂(ラヴェンナ 534年頃起工)ハギア・エカテリニ修道院(シナイ山 548年起工・565年完成)カスル・イブン・ワルダン(シリア 561年起工・564年完成)聖降誕聖堂(ベツレヘム 6世紀)システルナ・バシリカ(イスタンブール 現イェレバタン・サライ 6世紀)フィロクセノス貯水槽(イスタンブール 6世紀) ===暗黒時代=== スルブ・フリプシメ聖堂(エチミアジン 618年起工・630年完成)本来名不詳 現グリーゴル聖堂(ズヴァルトノッツ 645年起工・660年完成)ハギア・ソフィア聖堂(テッサロニキ 8世紀末期)本来名不詳 現ファティエ・ジャーミイ(トリエ 8世紀末期) ===中期ビザンティン建築=== アギオス・アンドレアス聖堂(ペリステレ 871年完成)パナギア・クーベリディキ聖堂(カストリア 9世紀中期)アクシアルヒス聖堂(カストリア 9世紀)コイメシス聖堂(スクリプ 874年頃完成)コンスタンティノス・リプス修道院北聖堂(イスタンブール 現フェナリ・イサ・ジャーミイ 907年完成)スルブ・ハツ聖堂(アクダマル島 915年起工・921年完成)ミュレレオン修道院中央聖堂(イスタンブール 現ボドルム・ジャーミイ 920年頃完成)オシオス・ルカス修道院生神女聖堂(フォキス 10世紀中期頃)ラヴラ修道院中央聖堂(アトス山 10世紀中期頃)ハギイ・アナルギリ聖堂(カストリア 10世紀末)アニ大聖堂(アニ 988年起工・1000年完成)パナギア・マヴリオティッサ聖堂(カストリア 1000年頃完成)パナギア・ハルケオン聖堂(テッサロニキ 1028年完成)アギオス・ニコラオス・ティス・ステギス聖堂(キプロス島 11世紀完成)パナギア・アンゲロクティトス聖堂(キプロス島 11世紀完成)ネア・モニ修道院中央聖堂(キオス島 11世紀完成)オシオス・ルカス修道院中央聖堂(フォキス 10世紀中期頃)ダフニ修道院中央聖堂(アテネ近郊 11世紀末完成)カプニカレア聖堂(アテネ 11世紀完成)キリスト・ポンテポプテス修道院中央聖堂(イスタンブール 現エスキ・イマレト・ジャーミイ 1100年頃完成)スヴェティ・パンテレイモン修道院中央聖堂(ネレズィ 1164年完成)パントクラトール修道院(イスタンブール 現モッラー・ゼイレク・ジャーミイ 1120頃起工・1136年頃完成)コーラ修道院中央聖堂(イスタンブール 現カーリエ美術館 12世紀前期頃)ハギア・ソフィア聖堂(モネンヴァシ 12世紀中期)パナギア・トゥ・アラコス聖堂(キプロス島 12世紀後期)アギオス・エレフテリオス聖堂(アテネ 12世紀完成) ===末期ビザンティン建築=== ブラケルネ修道院中央聖堂(アルタ 13世紀初期に再整備)カト・パナギア修道院中央聖堂(アルタ 1250年頃起工・1270年頃完成)ハギア・ソフィア聖堂(トラブゾン 1250年頃完成)コンスタンティノス・リプス修道院南聖堂(イスタンブール 現フェナリ・イサ・ジャーミイ 1282年頃)ポルタ・パナギア聖堂(トリカラ 1283年完成)パナギア・パリゴリティサ聖堂(アルタ 1282年起工・1289年完成)アギオス・バシリオス聖堂(アルタ 13世紀)ハギイ・テオドリ聖堂(ミストラ 1290年から1295年頃完成)アギオス・ディミトリオス聖堂(ミストラ 13世紀後半)アギオス・エウゲニオス聖堂(トラブゾン 13世紀末)コンスタンティノス・ポルフュロゲネトスの宮殿(イスタンブール 現テクフルサライ 13世紀末)パナギア・パンマカリストス付属礼拝堂(イスタンブール 現フェティエ・ジャミィ 1310年頃完成)ブロントシオン修道院パナギア・オディギトリア聖堂(ミストラ 1310年頃完成)アギイ・アポストリ聖堂(テッサロニキ 1310年起工・1314年完成)コーラ修道院修復工事(イスタンブール 現カーリエ博物館 1316年起工・1321年完成)パナギア・ペリブレプトス聖堂(ミストラ 1350年から1375年頃完成)ネア・モニ修道院中央聖堂(テッサロニキ 現プロフィティス・イリアスと推定 1360年頃完成)ヴラタドン修道院(テッサロニキ 1360年頃完成)イパパンティ修道院中央聖堂(メテオラ 1366年完成)アギオス・アサナシオス・トゥ・ムザキ聖堂(カストリア 1384年頃完成)メタモルフォシス修道院(変容修道院)中央聖堂(メテオラ 1388年完成)パンタナッサ修道院中央聖堂(ミストラ 1428年完成) =岡部幸雄= 岡部 幸雄(おかべ ゆきお、1948年10月31日 ‐ )は、日本の元騎手。日本中央競馬会(JRA)に所属し1967年から2005年にかけて活動した。群馬県新田郡強戸村(現:太田市)出身。 ※文中の「GI競走」は日本のパート1国昇格前のGI競走を、「GI級競走」は日本のパート1国昇格後のGI競走およびJpnI競走を指す(詳細については競馬の競走格付けを参照)。 20世紀後半から21世紀初頭にかけて中央競馬のトップジョッキーとして活躍し、競馬ファンから名手の愛称で親しまれた。アメリカの競馬に感化され、「馬優先主義」をはじめとする理念や技術を日本に持ち込んだ。中央競馬において、特定の厩舎や馬主に拘束されないフリーランス騎手の先駆けとなったことでも知られる。1995年1月から2007年7月まで、中央競馬における騎手の最多勝記録(最終的には2943勝)を保持した。 ==人物歴== ===概要=== 少年時代に中央競馬の騎手を志し、馬事公苑の騎手養成所に入学。1967年3月に騎手としてデビューした。2年目の1968年に牝馬東京タイムズ杯で優勝して重賞初制覇を達成し、翌1969年には関東リーディングジョッキー2位を獲得、1971年に優駿牝馬(オークス)を優勝して八大競走初制覇を達成するなどデビュー当初から活躍。1984年には中央競馬史上4人目の牡馬クラシック三冠達成騎手となった。引退するまでの間に全国リーディングジョッキーを2回(1987年、1991年)、関東リーディングジョッキーを11回獲得。1995年に騎手として中央競馬史上最多となる通算2017勝を挙げ、以降2005年3月に引退するまでの間、最多勝利記録を更新し続けた(成績に関する詳細については#成績を参照)。日本国外へ積極的に遠征し、その経験をもとに中央競馬に対しさまざまな提言を行った。また、特定の厩舎に所属せずエージェントを介して騎乗依頼を受ける騎手業のスタイルを確立した。また、日本騎手クラブ会長としても活動した。騎手引退後は競馬評論家的活動を行っている。 ===少年時代=== 1948年に誕生。実家は農家で、馬の育成も行っていた。岡部は物心がつくかつかないかという頃から馬に乗せられ、小学生の頃には自力で速歩や駈歩を行うことができるようになった。幼少期は体質が弱く、また平均よりも身長が低かったためコンプレックスを抱くことが多かったが、やがて乗馬においてはむしろ小柄なことが有利に働くことを知り、中学生時代には中央競馬の騎手を志すようになった。中学校3年生の秋に馬事公苑の騎手養成所に願書を提出、事後に父の承諾を得て受験し、合格した。 岡部は、騎手になったことについて祖父の影響が強かったと述べている。実家が馬の育成を行っていたのは祖父の意向によるものであり、幼少期から馬に騎乗する機会を得ると同時に、馬の世話を課されたことによって馬に対する愛情には世話をすることの辛さが含まれることを学んだ。また、祖父に連れられて足利競馬場に通うことが多く、競馬に親しんだ。 ===馬事公苑時代(1964年4月 ‐ 1966年3月)=== 1964年4月に馬事公苑騎手養成所に入学。16名いた養成所の同期生には柴田政人・福永洋一・伊藤正徳らがおり、花の15期生と呼ばれる。 岡部曰く、馬事公苑の実習においては競馬関係者の息子が教官に贔屓されて能力の高い馬があてがわれ、岡部のようなバックボーンのない者よりもいい成績を収めた。その結果岡部は成績の悪い者を集めた班に振り分けられた。岡部は一矢報いるために能力の著しく劣る馬を調教し、成績優秀者の馬に劣らぬ高いパフォーマンスを発揮させることに成功した。岡部は教官の贔屓によって無意識のうちにハングリー精神が培われたとしている。 ===騎手時代(1967年3月 ‐ 2005年3月)=== ====下積み時代==== 馬事公苑修了後1年間の修業期間を経て、1967年に岡部は騎手免許を取得して鈴木清厩舎所属騎手としてデビューする。岡部が騎手になった当初の中央競馬界には徒弟制度が色濃く残されており、見習騎手の頃には庭の掃除、草むしり、使い走り、靴磨きなどに従事した。岡部は当時存在した徒弟制度について、「縦の世界」の中で先輩から技能面や精神面の指導を受け、競馬界のルールを学びとることができる点を肯定的に評価し、もう一度下積みから始めることに何の抵抗もないと述べている。なお岡部は、徒弟制度が崩壊した現在の中央競馬においては縦の人間関係によって守られつつ技能を会得する機会がなく、若手であってもいきなり結果が求められる点を弊害として指摘している。 デビュー当初、岡部は兄弟子であり鈴木厩舎の主戦騎手であった高橋英夫を目標とした。高橋も岡部の騎手としての資質に加え研究熱心さを高く評価して親身に指導し、騎手を引退し調教師となった後は岡部を主戦騎手として起用することが多かった(岡部の重賞初勝利は高橋の管理馬によるものである)。そのため、両者の関係を師弟関係に近いととらえる者もいる。 ===日本国外への遠征(1971年以降)=== 岡部は1971年の年末にアメリカを訪れ、競走馬のたくましさ、レースの激しさ、競馬関係者の情熱、騎手の技術水準の高さを目の当たりにし、以後は常にアメリカの競馬を目標とするようになった。岡部は英会話を学びつつアメリカを中心に日本国外への遠征を繰り返し、1972年にアメリカで日本国外の競馬での初騎乗を経験して以降、日本国外12か国で133のレースに騎乗し、8か国で13の勝利を挙げた。 1985年7月に西ドイツで日本国外での競馬における初勝利を挙げ、同年8月にはアメリカで日本人騎手として初めての勝利を挙げた。重賞競走では1994年にメディパルに騎乗しマカオのマカオダービーを優勝して日本人騎手としては初めて日本国外のダービー優勝を達成。さらに1998年にはタイキシャトルに騎乗しフランスのジャック・ル・マロワ賞を優勝し、悲願であった日本国外の国際G1制覇を成し遂げた。日本の騎手が日本国外へ遠征し、騎乗することの先駆者的存在といわれる。松山康久は、国際化の先駆けとなった意味で「日本競馬の顔」であると評した。岡部が引退した際、武豊は岡部が日本国外で騎乗したことに刺激を受けたとコメントしている。武は1994年、岡部について次のように語っていた。 今年、何度も海外に行って、岡部さんの偉大さがつくづくわかりました。僕があの人の影響を凄く受けていた、ということにも気づいた。向こうでの振る舞い方、現地の関係者との接し方、あと、自分の存在感の作り方というのかな、参考になることばかりです。 ― 武・島田2004、215頁。 アメリカへの遠征は、岡部に大きな影響を与えた。たとえば岡部のモンキー乗りはアメリカ式のモンキー乗りの要素(日本よりも鐙が短く、つま先で鐙に足をかけるため、重心が前方にある。また、手綱を短めに持つ)を取り入れたものである。また、鞭の持ち替え(鞭を持つ手を変えて、馬の左右から鞭を入れられるようにする技術)はアメリカで行われているのを目にした岡部が日本で初めて実践した。岡部曰くアメリカでのやり方を模倣して日本で実践したことには当初「アメリカかぶれ」などと批判も浴びせられたものの、その後スタンダードになったものが数多くある。さらに自らが模倣するだけでなく、日本の競馬関係者及び競馬界に対しアメリカに倣うよう数々の提言を行った。アメリカ遠征の影響は技術面のみならず精神面にも及び、遠征を繰り返すもなかなか勝利を挙げられないでいた岡部に対してクリス・マッキャロンが贈った言葉「Take it easy」(日本語に訳すると「無理をしないで気楽にいこう」という意味)は、岡部の座右の銘となった。さらに岡部は、遠征中に日常会話を交わす中で、日本国外の競馬関係者と比べて社会一般のルールや常識が身についていないことを自覚するようになった。岡部は「よきゴルファーである前によき社会人であれ」というジャック・ニクラスの言葉を引き合いに出し、自戒を込めつつ、日本の競馬関係者に対して専門分野にのみ偏って社会常識や判断力を失ってはならないと警鐘を鳴らすようになった。 ===シンボリルドルフでクラシック三冠を達成(1984年)=== 1984年、岡部はシンボリルドルフに騎乗して中央競馬牡馬クラシック三冠を達成した。岡部はシンボリルドルフについて、「現在、日本でつくり出せるサラブレッドの最高峰を極めた馬」と評し、騎手生活が38年間に及んだのはもう一度シンボリルドルフのような馬に巡り合いたいと思ったからだと述べている。競馬ファンの多くもシンボリルドルフを岡部のベストパートナーとみなしている。 騎手引退後に同じくクラシック三冠馬のディープインパクトとシンボリルドルフの比較においては、ディープインパクトにはシンボリルドルフに匹敵する能力があるとしつつ、欠点の少なさにおいてはシンボリルドルフの方が上であると評している。 ===フリー騎手のさきがけとなる(1984年)=== 1984年10月1日、岡部は特定の厩舎に所属しないフリーランスの騎手となった。動機は、所属厩舎が管理する馬への騎乗を優先させて騎乗したい馬に乗れないことへの不満にあった。岡部がフリー騎手となったことはほかの騎手に影響を与え、1990年代にはトップジョッキーがフリーであることは一般的な事柄となった。さらにフリー騎手となってから数年が経過した時に、レースにだけ集中したいという思いから騎乗依頼についてエージェントを導入した。エージェントについても岡部の行動はほかの騎手に影響を与え、2006年にJRAが騎乗依頼仲介者として公認するほど普及した。ライターの阿部珠樹は岡部によって「優れた騎手が優れた馬に乗る」という「スポーツとして当然の法則」が切り拓かれたと評した。岡部は1つのレースに複数の騎乗依頼が来た場合、能力があると認めながらもそのレースでは騎乗できない競走馬への依頼を、自らを慕う柴田善臣、田中勝春に振り向けた。柴田、田中を受け皿とすることで、依頼を断るとその競走馬をほかの騎手にとられてしまいその後の騎乗が困難になるという問題に対処したのである。岡部と柴田、田中の関係は「岡部ライン」と呼ばれた。 ===騎手生活最大の落馬事故(1988年)=== 1988年6月25日、岡部は福島競馬場でのレース中に落馬事故に見舞われ、左腕の握力が3キロに低下する重傷を負った。岡部は自分の未来は自分の意思で決めるという信念を持ち、競馬関係者が重んじることの多いジンクスや運といった概念を好まず、特定の宗教を信じることのない人間であったが、事故後3週間が過ぎても回復の兆しが見えない中で騎手生命の終わりを意識し、神社に参拝して回復を祈るほどの精神状態に追い込まれた。懸命のリハビリの結果、事故から3か月後には騎手への復帰が可能な程度にまで回復した。この落馬事故について岡部は騎手生活最大の事故で「最大級の試練」であったと回顧している。なお自身は同年初春にも落馬事故に遭っている。 ===関東のトップジョッキーとして活躍=== 岡部はデビュー2年目の1968年に関東リーディング6位となり、その後も1976年に関東のリーディングジョッキーになるなど、リーディング上位を維持し続けた。1987年に初めて全国リーディングジョッキーを獲得して以降、2000年までの14年間に10回関東リーディングジョッキーとなった。GI競走においても西高東低と呼ばれた時代にあってコンスタントに優勝し、美浦トレーニングセンター所属の調教師だけでなく栗東トレーニングセンター所属の調教師からも騎乗依頼が寄せられた。1995年には騎手として中央競馬史上最多となる通算2017勝を達成した(GI優勝時に騎乗していた競走馬については#GI競走および八大競走優勝馬、GIを含む優勝した重賞競走の一覧については#年度別成績(中央競馬のみ)を参照)。なお、初めて中央競馬の全国リーディングジョッキーを獲得したのは騎手人生の後半を過ぎた39歳の時で、また重賞99勝、GI競走23勝は40歳以降に挙げたものである。岡部は自身の騎手人生を「『一流』と呼ばれるには程遠い地点から、長い長い時間をかけて自分の居場所を築いてきた」とし、また自分自身を晩成型と分析している。岡部は長距離戦に強く、ダイヤモンドステークス(岡部勝利時は3200m)、ステイヤーズステークス(3600m)をそれぞれ7勝(ともにレース史上最多勝利)した。八大競走においても菊花賞(3000m)を3勝、天皇賞(春)(3200m)を4勝し、「長距離の鬼」と称された。なお、1995年から引退した2005年までの間は日本騎手クラブ会長としても活動した。 ===キャリア晩年=== キャリア晩年はトレーニングによって「20代後半のスポーツ選手と変わらない」といわれる肉体を維持しつつ、「一回一回競馬を楽しもう、一回一回悔いを残さず」という思いで騎乗を続け、中央競馬史上最年長の騎手として活躍した。2002年には第126回天皇賞(秋)を53歳11か月28日で優勝。これはGI競走およびGI級競走の中央競馬史上最高年齢での優勝記録である。 晩年の岡部は左膝の痛みに悩まされ続け、痛み止めの注射を打ちながら騎乗を続けていた2002年には左足を引きずって歩くほどに症状が悪化し、12月の有馬記念での騎乗を最後に休養に入り、左膝の半月板を手術した。1年近くにわたるリハビリを経て2004年1月25日の中山競馬で復帰。復帰初日には丸刈り姿でレースに臨み、同日第9競走の若竹賞で、後に桜花賞を勝つダンスインザムードに騎乗し1着となった。 2005年に入り岡部は自身の騎乗に違和感を覚えるようになった。2月19日にイメージ通りの競馬ができなくなっていることを自覚し、翌2月20日になっても改善が見られなかったため、同日のレースを最後に騎乗を自粛した。 同年3月10日に38年間におよぶ騎手生活からの引退を発表し、騎手免許を返上した。引退当時岡部は中央競馬における騎手の最多勝記録を更新し続けており、史上初の通算3000勝を目前にしていたが、岡部自身は記録がかかっていることで迷いは生じなかったと述べている。岡部は自らの騎手人生について、「今、与えられたこと、やれることを、やっていくしかない」と思って行った「自然体の努力」の結果であると振り返った。 これに伴って、2005年3月20日には中山競馬場で引退セレモニーが行われ、同日の第10競走に予定されていた「東風ステークス」は最終12競走に変更の上、レース名も「岡部幸雄騎手引退記念競走」と変更されて施行された。セレモニーでは後輩騎手である横山典弘らの提案で岡部を神輿に乗せ、騎手一同で担いでパドックを周回した。 ===騎手引退後=== 引退後は2006年10月から、「JRAアドバイザー」として裁決委員や審判業務を行う決勝審判委員などに対しての意見や助言、若手騎手に対する技術指導を行うアドバイザーを務める傍ら、フリーランスの競馬評論家的活動を行っている。騎手の中には引退後に調教師となる者も多数いるが、岡部は人間関係が重んじられる調教師は「自分の肌に合う職業ではない」として転身しなかった。 2007年4月22日に開催した元騎手によるエキシビジョンレース、「第1回ジョッキーマスターズ」に出場(結果は9頭中5着)。翌2008年11月9日に行われた「第2回ジョッキーマスターズ」にも出場した(結果は8頭中3着)。 2009年6月20日付で日本中央競馬会裁定委員会委員に就任することになった。 2013年には筑波大学の非常勤講師に就任。同年5月27日に初めての講義を同大学で行った。 ===年表=== 1948年10月31日、群馬県新田郡強戸村(現在の太田市)に生まれる。1964年4月、馬事公苑騎手養成所に入学。1966年3月、馬事公苑騎手養成所を修了。1967年3月、騎手免許を取得し、鈴木厩舎の所属騎手としてデビュー。1968年12月、牝馬東京タイムズ杯を優勝し重賞初制覇を達成(騎乗馬ハクセツ)。1971年6月、優駿牝馬(オークス)を優勝し八大競走初制覇を達成(騎乗馬カネヒムロ)。1972年、アメリカ合衆国のデルマー競馬場において日本国外の競馬に初めて騎乗する。1975年12月、結婚。1984年、シンボリルドルフに騎乗し中央競馬牡馬クラシック三冠を達成。同年、フリーランスの騎手となる。1986年1月11日、中央競馬通算1000勝を達成。1987年、当時の中央競馬における年間最多勝記録の138勝を挙げ、初めて全国リーディングジョッキーとなる。1987年、中央競馬における年間最多騎乗(725回)を達成。1988年6月25日、福島競馬場でのレース中に落馬して負傷し、3か月間の入院生活を送った。1990年10月20日、中央競馬通算1500勝を達成。1992年11月14日から15日にかけて、1節単位での中央競馬最多勝となる10勝を達成。1994年、中央競馬での騎乗回数が12781回を超え、最多騎乗記録を更新。1994年2月13日、京都記念を優勝し、中央競馬史上初となる重賞100勝を達成(騎乗馬ビワハヤヒデ)。1994年12月10日、中央競馬通算2000勝を達成。1995年1月14日、中央競馬史上最多となる通算2017勝を達成(騎乗馬プレストシンボリ)。1995年9月23日、サファイヤステークスを優勝し、中央競馬重賞115勝目を挙げる。これにより、保田隆芳の114勝を更新。1998年1月5日、中山金杯を優勝し、中央競馬史上最多となる24年連続での重賞競走優勝を達成。1998年2月1日、フェブラリーステークスを優勝し、中央競馬史上最高齢となる49歳3か月1日でのGI競走勝利を達成。1998年3月21日、中央競馬史上初となる15000回騎乗を達成(騎乗馬エアスマップ)。1998年8月16日、フランスのジャック・ル・マロワ賞を優勝し、日本国外の国際G1制覇を達成(騎乗馬タイキシャトル)。1999年1月24日、中央競馬史上初の通算2500勝を達成。2000年、中央競馬史上初となる重賞競走騎乗回数1000回を達成。2002年12月22日、第9競走の有馬記念での騎乗を最後に左膝の治療のため長期休養に入る。2004年1月25日、長期休養から399日ぶりにレースに復帰。同日、中山競馬場第8競走で優勝し、中央競馬史上最高齢となる55歳2か月25日での勝利を達成。2005年3月10日、騎手免許を返上し騎手を引退。 ==私生活== 私生活での岡部は家庭を大切にし、騎手としての全盛期にも「世界で一番家族が大切」「仕事と家庭、どちらかを捨てなければならない状況に直面した(ならば)躊躇なくボクは馬をやめる決断をする」と公言していた。岡部は競馬社会の血縁関係のしがらみに拘束されることを嫌い、競馬とは関係のない女性と結婚した。騎手時代の岡部は、子供の学校行事に一度も出席できなかったり、妻の出産に一度も立ち会えないなど、家族との交流が制限されていた。そのため騎手引退後は父親と旅に出たり子供の学校行事に参加するなど、家族との交流に努めている。また、「好きなこと」「現役時代にできなかったこと」に挑戦し、新たな趣味としてスキューバダイビングやサーフィンなどを始めた。 ==成績== ===通算成績(中央競馬のみ)=== ===年度別成績(中央競馬のみ)=== ※勝利数が太字になっている年は全国リーディングジョッキー、斜体になっている年は関東リーディングを獲得したことを意味する。太字の競走名はグレード制が導入された1984年以降はGI競走を、1983年以前は八大競走を指す。 ===日本国外・地方競馬における成績=== 日本国外通算133戦13勝(アメリカ5勝、ドイツ2勝、イギリス、ドバイ、マカオ、アイルランド、ブラジル、フランス各1勝) 主な勝ち鞍:ジャック・ル・マロワ賞(騎乗馬タイキシャトル)、マカオダービー(騎乗馬メディパル)など。主な勝ち鞍:ジャック・ル・マロワ賞(騎乗馬タイキシャトル)、マカオダービー(騎乗馬メディパル)など。地方通算136戦25勝。 主な勝ち鞍:ブリーダーズゴールドカップ2回(騎乗馬ウイングアロー)、ダイオライト記念(騎乗馬デュークグランプリ)、名古屋グランプリ(騎乗馬ワイルドソルジャー)など。主な勝ち鞍:ブリーダーズゴールドカップ2回(騎乗馬ウイングアロー)、ダイオライト記念(騎乗馬デュークグランプリ)、名古屋グランプリ(騎乗馬ワイルドソルジャー)など。中央・地方・日本国外の勝利数を合計すると2981勝である。 ==表彰== JRA賞 騎手大賞(1987年、1991年) 最多勝利騎手(1987年、1991年) 最高勝率騎手(1987年 ‐ 1993年、1995年、1996年) 最多賞金獲得騎手(1987年、1991年 ‐ 1992年、1994年)騎手大賞(1987年、1991年)最多勝利騎手(1987年、1991年)最高勝率騎手(1987年 ‐ 1993年、1995年、1996年)最多賞金獲得騎手(1987年、1991年 ‐ 1992年、1994年)優秀騎手賞(1969年、1970年 ‐ 1972年、1975年 ‐ 1981年、1983年、1985年 ‐ 2002年)フェアプレー賞(1985年、1986年、1990年、1994年、1996年、1998年、2000年、2002年、2004年)東京競馬記者クラブ賞(1987年)日本プロスポーツ大賞 功労賞(1988年、1996年) 特別賞(1993年)功労賞(1988年、1996年)特別賞(1993年)スポーツ功労者 文部科学大臣顕彰(2006年) ==騎手としての特徴== 成績・記録面の特徴については#成績を参照。 ===競馬観=== ====馬優先主義==== 岡部はアメリカ遠征時に、現地の競馬関係者が馬を中心に行動し、馬と対等の立場に立って行動することに感銘を受けた。岡部はその経験をもとに、競馬の主役をあくまで馬とみなし、馬と同じ目線に立って馬の気持ちをくみ取る馬優先主義の理念を提唱した。具体的には人間の抱く無理な夢ほど馬にとって迷惑なことはない、無理を強いると馬の一生が変わってしまうという考えに立ち、馬の将来を見据えた育成、調教、レース、ローテーション管理を行うことを提唱した。その対象は岡部自身も「年の一度の最高のレース」と認める東京優駿(日本ダービー)にも向けられ、ダービー出走が目的化してしまい、発育が十分でない競走馬に無理なトレーニングを課した結果能力が削がれてしまう例も数多くあるとし、ダービーだけをもてはやすことには疑問を呈した。岡部は未完成な競走馬のダービー出走にこだわったことで馬の能力を削いだ実例として、しばしばマティリアルの名を挙げる。また、1990年に八大競走のうち桜花賞を除く7つの優勝を達成してからは桜花賞を勝つことができるかどうかに競馬ファンおよびマスコミの注目が集まったが、岡部は「成長途上にある3歳牝馬の将来のことを考えると勝利至上主義にはなれない」という理由から優勝にこだわりはないと発言していた。 馬優先主義は当初ほとんど受け入れられなかったが徐々に浸透し、賛同者は増加していった。代表的な賛同者として後輩騎手の横山典弘、調教師の藤沢和雄や赤沢芳樹(大樹ファーム元代表取締役)らがいる。 一方、馬券を買う側の立場から「馬優先主義」の一部に疑問を呈した者に、評論家の大川慶次郎がいる。大川は岡部の技倆について「これくらい信頼に足るジョッキーもいない」「ナンバーワン」と評価しながらも、実戦で調教的な騎乗を行う点については「レースが終わった後に『練習だった』みたいなことを言われたら『カネ返せ!』って文句も言いたくなりますよね。一見カッコいいように見えるけど、『何言ってんだ』ってときどき思いますよ」と批判した。岡部自身、馬の将来を踏まえたレース運びで敗れた後に「調教は美浦(トレーニングセンター)でやれ」とファンから怒鳴られた、という経験を著書に記し、そうした声に対して「正当性はよくわかる」とした上で、「最後まで馬を追っていれば1着になれる可能性があるのにそれをしないで2着に終わらせるということや、3着に残る可能性があるのに流してしまうなどということは決してなかった。あくまでも、ファンを裏切らないことを心がけながら、将来を見据えたレースをしていた」と説明している。 ===騎乗論=== 岡部は競馬のレースにおいては事前のシミュレーションに反する状況が生まれ、その際騎手には瞬間的な判断力と即決力が問われると述べている。それらの力を岡部は「勝負勘」と呼び、勝負勘は生まれながらに備えていなくとも努力と経験によって得ることができるとしている。また、岡部はレースで馬の能力を引き出す最善策を、「騎手が馬に働きかける要素をできるだけ減らして、馬の気持ちにできるだけ耳を貸(す)」ことであり、騎手が自分の思い通りにレースを動かそうとしても功を奏しないことが多いとしている。 ===身体=== 現役時代の公式データでは身長161cm、体重53kgであった。本人曰く太りにくい体質で減量に苦しんだことがなく、そのことが長く騎手を続けられた大きな要因であった。晩年はトレーニングによって筋肉を鍛える重要性に気付き、積極的に行った。 ===競馬関係者からの評価=== ====岡部に騎乗を依頼した調教師からの評価==== シンボリルドルフの管理調教師であった野平祐二は、岡部の騎手としての特徴を、競走馬にレースの仕方を教育し、どんな馬も理想の馬・完璧な馬に作り上げようと尽くす点にあると評した。シンボリルドルフの調教助手を務め、調教師となった後に多くの競走馬の主戦騎手を岡部に任せた藤沢和雄は、岡部が引退を発表した際に「今の藤沢和雄はジョッキー(厩舎関係者の間での岡部の通り名)の存在なくしてはなかった」とコメントした。ビワハヤヒデを管理していた浜田光正は、コースロスが少なく勝負どころでいつも2、3番手につけるレースぶりが「関係者を非常に安心させてくれるもの」だったと評した。 ===岡部と同じ時期に騎手として活躍した人物からの評価=== 武豊・柴田善臣・田中勝春・坂本勝美は、岡部をあらゆる面ですべての騎手の手本・目標であると評した。河内洋は岡部のレースぶりについて、「馬にムダな労力をかけずに、最終的にきっちり勝っていた。騎乗していて、余裕があるんでしょう」と評した。 田原成貴は若手時代に岡部を理想に最も近い騎手と見なし、騎乗したレースのビデオテープを繰り返し見て参考にした。田原は岡部の最も素晴らしい点は「努力を遥かに超えている努力」によって肉体を維持している点にあると評した。 オリビエ・ペリエは、岡部のペース判断の正確さを評価し、岡部に「日本での乗り方を教えてもらったと言っても過言ではない」としている。 藤田伸二は岡部がもつ鞭を扱う技術について、鞭と一体化したような柔らかでしなるような腕の動きや、左右の手で持ち替える際のスムーズさを高く評価し、野平祐二を超えるほどの技術を持っていたのではないかと述べている。 ==著書== ※この記事では主に『ぼくの競馬ぼくの勝負』、『勝つための条件 改訂・新版』、『勝負勘』を参考文献として使用。 『ルドルフの背』池田書店、1986年11月、 ISBN 4262143716『ぼくの競馬ぼくの勝負』 大陸書房、1992年6月 ISBN 480334129X『チャンピオンのステッキ』 コミュニケーションハウス社、1997年3月 ISBN 4756310184『チャンピオンの密かなる愉しみ』 コミュニケーションハウス社、1997年4月 ISBN 4756310222『勝つための条件 改訂・新版』 ブックマン社、1997年11月 ISBN 489308321X『勝つ馬の条件 名手岡部・飛翔の蹄跡』 日本文芸社、2000年2月 ISBN 4537140259『勝負勘』 角川書店、2006年9月 ISBN 4047100609 ===馬・優先主義シリーズ=== サンケイスポーツ紙・『週刊Gallop』で現役時代から引退後の2007年1月まで連載していたエッセイ。主に競馬に関する評論。 『馬、優先主義』 ミデアム出版社、1991年12月 ISBN 4944001274『続馬、優先主義』 ミデアム出版社、1993年11月 ISBN 494400138X『続々馬、優先主義』 ミデアム出版社、1995年3月 ISBN 4944001428『馬、優先主義4巻』 ミデアム出版社、1997年4月 ISBN 4944001517『馬、優先主義5巻』 ミデアム出版社、1999年6月 ISBN 4944001614 ==映像作品== 『岡部幸雄・馬と歩んだ日々』(DVD) 発売日:2005年11月25日 販売元:株式会社ポニーキャニオン 規格番号:PCBC‐50780 ==テレビ・CM出演== 騎手当時から、JRAのCMに出演しており(ジョッキーキャンペーンでナインティナインの岡村隆史と共演)、引退後の2009年秋には「CLUB KEIBA」キャンペーンのCMにバーテンダーの役で出演した。 また引退後は、フジネットワークの競馬中継(西日本の『競馬BEAT』(かつては『DREAM競馬』)、東日本の『みんなのKEIBA』(かつては『みんなのケイバ』)に、主にGIレースのある週にゲスト解説者として度々出演しているほか、NHK BS1「世界の競馬」でも「マスターズ・アイ」と題して、レースの分析を行うコーナーを担当している。 グリーンチャンネルでも自らの司会・冠番組である「岡部フロンティア」シリーズを担当。 ==ギャラリー== ==関連項目== 野平祐二:岡部がデビューした当時の関東のトップ騎手。若手時代の岡部にとっては挨拶をして返事が返ってきただけで感激する「別世界の住人」だった。のちにシンボリルドルフの調教師として岡部とコンビを組んだ。藤沢和雄:厩舎の主戦騎手として数々の有力馬の騎乗を依頼。柴田政人:馬事公苑の同期で、常に互いをライバルとして意識した。柴田の引退に際し岡部は「柴田政人がいたから今の自分がある」とコメントした。なお、柴田の引退に際し岡部は柴田から要請され、柴田の後任として日本騎手クラブ会長となった。よしだみほ:漫画家。シンボリルドルフの頃よりの岡部のファンとして知られる。中央競馬通算1000勝以上の騎手・調教師一覧 =アンネ・フランク= アンネ・フランク(アンネリース・マリー・フランク、ドイツ語: Annelies Marie Frank  発音、1929年6月12日 ‐ 1945年3月上旬)は、『アンネの日記』の著者として知られるユダヤ系ドイツ人の少女である。 ==概要== ドイツ国のフランクフルト・アム・マインに生まれたが、反ユダヤ主義を掲げる国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)の政権掌握後、迫害から逃れるため、一家で故国ドイツを離れてオランダのアムステルダムへ亡命した。しかし第二次世界大戦中、オランダがドイツ軍に占領されると、オランダでもユダヤ人狩りが行われ、1942年7月6日に一家は、父オットー・フランクの職場があったアムステルダムのプリンセンフラハト通り263番地の隠れ家で潜行生活に入ることを余儀なくされた(フランク一家の他にヘルマン・ファン・ペルス一家やフリッツ・プフェファーもこの隠れ家に入り、計8人のユダヤ人が隠れ家で暮らした)。ここでの生活は2年間に及び、その間、アンネは隠れ家でのことを日記に書き続けた。 1944年8月4日にナチス親衛隊(SS)に隠れ家を発見され、隠れ家住人は全員がナチス強制収容所へと移送された。アンネは姉のマルゴット・フランクとともにベルゲン・ベルゼン強制収容所へ移送された。同収容所の不衛生な環境に耐えぬくことはできず、チフスを罹患して15歳にしてその命を落とした。1945年3月上旬頃のことと見られている。 隠れ家には、アンネがオランダ語で付けていた日記が残されていた。オットーの会社の社員で隠れ家住人の生活を支援していたミープ・ヒースがこれを発見し、戦後まで保存した。8人の隠れ家住人の中でただ一人戦後まで生き延びたオットー・フランクはミープからこの日記を手渡された。オットーは娘アンネの戦争と差別のない世界になってほしいという思いを全世界に伝えるため、日記の出版を決意した。この日記は60以上の言語に翻訳され、2500万部を超える世界的ベストセラーになった。 ==生涯== 父はユダヤ系ドイツ人のオットー・ハインリヒ・フランク。母は同じくユダヤ系ドイツ人のエーディト・フランク(旧姓ホーレンダー)。父オットーは銀行家だった。母エーディトはアーヘンの有名な資産家の娘であった。アンネは次女であり、3歳年長の姉にマルゴット・フランク(愛称マルゴー)がいた。 生後12日目にエーディトはアンネをフランクフルト郊外のマルバッハヴェーク307番地にあったフランク一家の暮らすアパートに連れ帰った。フランク一家は中産階級のユダヤ人一家だが、ユダヤ教にも他の宗教にもあまり熱心な家庭ではなかった。1931年3月、フランク一家はガングホーファー通り24番地のアパートへ引っ越した。しかしフランク一家の家業である銀行業は世界的な不況から立ち直れずに業績が悪化していた。フランク一家は一般のドイツ国民よりは経済水準は高かったものの、節約のためにもアパートを借りるのは止めることとなった。一家はヴェストエント地区(ドイツ語版)のヨルダン通りにあるベートーベン広場に面したオットーの実家へ戻った。ここは1901年にオットーの父ミヒャエルが購入した高級住宅で、ミヒャエルの死後はオットーの母アリーセが1人で切り盛りしていた。とはいってもフランク一家の私生活はあまり変わらず、一家はよく旅行やショッピングに出かけていた。 しかしこの頃のドイツの政治は、反ユダヤ主義を掲げる国家社会主義ドイツ労働者党(以下ナチ党)が急速に伸長していた。1932年には同党が国会で最大議席を獲得し、その党首アドルフ・ヒトラーが首相に任命されるのも目前に迫っていた。フランクフルトでも反ユダヤ主義デモを行う突撃隊隊員の姿がよく見られるようになった。1932年にオットーはエーディトと相談して、ドイツを離れる事を考えたという。しかし亡命先で生活の糧を得られる見込みがなく、断念せざるを得なかった。 ===ドイツ脱出=== 1933年1月30日、ナチ党党首アドルフ・ヒトラーがパウル・フォン・ヒンデンブルク大統領より首相に任命され、ドイツの政権を掌握した。これに危機感を抱いたユダヤ系ドイツ人達は次々とドイツ国外へ亡命していき、1933年だけで6万3000人余りのユダヤ系ドイツ人が国外へ亡命している。1933年3月のフランクフルト市議会選挙でもナチ党が圧勝した。市の中心部では勝ち誇ったナチ党員たちが大規模な反ユダヤ主義デモを行った。ユダヤ人商店のボイコット運動も激化し、ユダヤ系企業は次々と潰された。1933年4月7日に制定された職業官吏再建法(ドイツ語版)によって反ユダヤ主義に従わない教師は次々と停職・退職させられ、学校内でもユダヤ人の子供の隔離が進められるようになった。アンネもマルゴーもドイツでまともな教育を受けることは不可能であった。 1929年夏にスイスへ移住していたアンネの叔父エーリヒ・エリーアスは、ジャム製造に使うペクチンをつくる会社「ポモジン工業」の子会社オペクタ商会(ドイツ語版)スイス支社を経営していた。エリーアスは義兄にあたるオットー・フランクにオランダ・アムステルダムへ亡命してそこでオペクタ商会オランダ支社を経営しないかと勧めた。オットーはドイツに残ることの危険性、オランダに知り合いがいたこと、オランダが難民に比較的寛容であったことなどを考慮してこの申し出をありがたく受けることにした。 まず仕事と住居を安定させるため、1933年6月にオットーが単身でアムステルダムへ移った。その間、アンネは姉マルゴーや母エーディトとともにアーヘンで暮らすエーディトの母ローザ・ホーレンダーの家で暮らした。オットーはヴィクトール・クーフレルやミープ・ヒースなど信用のできる人物を雇い、何とか事業を軌道に乗せた。 オットーはその間、一家の住居先も探した。エーディトもアーヘンとアムステルダムを行き来して夫の住居探しを手伝った。オットーたちはアムステルダム・ザウト(オランダ語版)の新開発地区に一家4人で暮らすのにちょうどいいアパートを見つけ、そこを購入した。1933年12月にまずエーディトとアンネの姉マルゴーが向かい、続いて1934年2月にはアンネもそこへ移住していった。 ===オランダでの生活=== アムステルダム・ザウト地区は当時開発中で、ドイツからナチスの迫害をのがれて移住してきたユダヤ人が多く集まってきていた。フランク一家もそうした家の一つである。フランク一家はアムステルダム・ザウト地区の一郭であるメルウェーデ広場(オランダ語版)37番地のアパートの三階で暮らしていた。メルウェーデ広場は二等辺三角形をした広場で三角形の頂点には当時としては珍しい12階建てのビルがそびえ立っている(写真参照)。 姉のマルゴーは普通の小学校に入学したが、アンネは、1934年に自宅の近くのニールス通りにあるモンテッソーリ・スクールの付属幼稚園に入学した。さらに1935年9月には幼稚園と同じ建物の中にあるモンテッソーリ・スクールに入学する。モンテッソーリ・スクールは自由な教育を特徴とし、時間割が存在せず、教室での行動を生徒の自主性に任せ、授業中の生徒のおしゃべりさえも推奨していた。アンネにモンテッソーリ・スクールを選んだのは、アンネがおしゃべりで長い間じっと座っていることができない性分であったためという。 父親のオットー・フランクは娘たちについて「アンネは陽気な性格で女の子にも男の子にも人気があった。大人を喜ばせるかと思えば、あわてさせる。あの子が部屋に入ってくるたびに大騒ぎになったものでした。一方姉のマルゴーは聡明で誰からも『いい子だね』と褒められるような子供でした」と後に語っている。 当時モンテッソーリ・スクールは革新的な学校と目されており、そのためユダヤ人の入学者が多かった。アンネのクラスも半分がユダヤ人であり、そのほとんどがアンネと同じドイツ系であった。アンネはモンテッソーリ学校で、同じくドイツから亡命してきたユダヤ人一家の子供ハンネリ・ホースラル(オランダ語愛称リース)やズザンネ・レーデルマン(愛称サンネ)と親しく遊んでいた。いつも仲良しの3人少女は「アンネ、ハンネ、サンネの3人組」などと呼ばれていた。特にハンネのホースラル家とアンネのフランク家は家族ぐるみの親しい付き合いをしていた。1937年秋にアンネにサリー・キンメルという初めてのボーイフレンドができた。これ以降、アンネの友達に男の子が増えてくるようになった。陽気なアンネは学校でもパーティーでも目立つ女の子で男子からも人気があった。映画スターやファッションに興味を持ち始めたのもこの頃だった。しかしアンネは病弱であり、百日咳、水ぼうそう、はしか、リューマチ熱など小児病にはほとんど罹患している。 1938年10月にオットー・フランクはアムステルダムにもう一つの会社「ペクタコン商会」を設立した。ソーセージの製造のための香辛料を扱う会社であった。ヨハンネス・クレイマンをオペクタ商会とペクタコン商会の監査役とし、同じくドイツから亡命してきたユダヤ人でソーセージのスパイス商人だったヘルマン・ファン・ペルスをペクタコン商会の相談役に迎えている。ファン・ペルス一家は1937年6月にドイツをのがれてアムステルダムへ移住して来ており、フランク家の近くで暮らしていた。ファン・ペルス一家はフランク一家と家族ぐるみの付き合いをして、後に隠れ家でフランク一家と同居することとなる。 1938年末には母エーディトの実家であるドイツ・アーヘンのホーレンダー家が経営する「B・ホーレンダー商事会社」が「アーリア化(ドイツ政府の圧力の下にユダヤ系企業がドイツ系企業に捨て値で買い取られる)を受け、ホーレンダー家が財産を失った。エーディトの兄ユリウスは従兄弟のいるアメリカへ逃れたが、エーディトの母ローザは当時72歳で海を渡っての長旅は無理だった。結局ローザは息子ユリウスに同行せず、1939年3月にアムステルダムのフランク家へ移ってきて、一家は5人暮らしになった。アンネはおばあちゃんっ子であり、よくローザに学校での話や友達とのことなどを話した。 また1940年春ごろにはアメリカ合衆国アイオワ州ダンビル(英語版)からオランダへ赴任してきていた女教師バーディー・マシューズの計らいで、アンネとマルゴーは彼女の教え子であるダンビルの学校の生徒と文通することになった。アンネとマルゴーの文通相手はダンビルの農家の娘の姉妹ベッティ・アン・ワーグナーとホワニータ・ワーグナーであった。アンネはホワニータと文通した。ちなみにこの文通は英語で行われている。父オットーが娘たちの書いた手紙を英訳したものと思われる。 ===ドイツ軍がオランダ侵攻=== 1939年9月1日のドイツ軍のポーランド侵攻によって始まった第二次世界大戦にオランダは中立を宣言していた。しかしヒトラーは「オランダはイギリス軍機がドイツ空爆のためにオランダ領空を通過していくことを黙認している。自分から中立の資格を放棄している」と主張し、1940年5月10日早朝にドイツ軍をオランダへ侵攻させた。この日は金曜日で平日だったが、ドイツ軍侵攻を受けて聖霊降臨祭の休みが急遽繰り上げられて、学校は休みになり、アンネは自宅で待機した。一方、父オットーは会社に出勤している。オットー以下オペクタ商会の社員たちは、暗澹たる空気の中でラジオ放送の混乱する情報を聞いていた。放送を聞くオットーの顔色は蒼白だったとミープ・ヒースは著書の中で回顧している。 オランダ国内はパニックに陥った。ポーランドで戦争後、オランダ政府は「たくさん蓄える者は国民に害」をスローガンに食糧配給制へ移行していたが、人々は食糧を蓄えようとして商店に殺到した。街中には空襲警報が連発した。ラジオ放送は混乱に陥り、相矛盾する命令や意味が不明瞭な命令を国民に次々と出した。オランダ国内にいるドイツ人が手当たり次第にオランダ当局に逮捕された。自動車を所有する裕福なユダヤ人の中には、オランダからの脱出を試みようとアイマウデン(オランダ語版)やスヘフェニンゲンなど海の方へ逃げる者もいたが、イギリス行きの船舶はわずかで、ほとんどはオランダ脱出に失敗している。フランク一家は逃亡を試みなかった。フランク一家は自動車を所持していなかったし、オットーやエーディトは、青春期の娘2人や年老いた祖母を連れてあちこち逃げまわりたがらなかった。オットー達は娘たちが心配なく青春を過ごせるよう現下の政治情勢については家庭内でほとんど話さないこととした。 5月13日にはウィルヘルミナ女王やディルク・ヤン・デ・ヘール(オランダ語版)首相以下政府閣僚がイギリスへ逃亡した。ドイツ空軍によるロッテルダム空襲の後、5月14日夜7時、オランダ軍総司令官ヘンリー・ヴィンケルマン(オランダ語版)大将はドイツ軍に対して降伏することを発表した。5月15日正午にはオランダ政府はドイツ政府に対して正式に降伏文書に調印した。侵攻から1週間足らずでオランダ全土はドイツ軍占領地となった。 ===ドイツ軍占領下の生活=== 占領直後のオランダはドイツ国防軍の軍政下に置かれていたが、1940年5月28日にヒトラーはオランダ駐在国家弁務官に親衛隊中将アルトゥール・ザイス=インクヴァルトを任じ、民政へ移行させた。ザイス=インクヴァルトは占領当初「穏健」な態度をとり、オランダ社会に急激な変化をもたらさないよう気にかけた。オランダ政府閣僚はすでに国外逃亡していたが、事務次官以下官僚機構はそのままオランダに残っており、オランダの行政機能はこれまでとほとんど変りなく稼働した。またザイス=インクヴァルトは、反ユダヤ主義についても即時にオランダに持ち込むことはしなかった。そのため占領後もしばらくの間は、アンネの生活に大きな変化はなかった。ハンネやサンネとも今まで通り遊んでいた。アンネはオランダ降伏には怒っていたが、この頃にはまだ将来への強い不安までは感じてはいなかったという。 1940年5月28日にはベルギーがドイツに降伏、さらに6月22日にはフランスもドイツに降伏した。ドイツの情勢が安定してきたことで、ザイス=インクヴァルトは徐々に「穏健」の仮面を脱ぎ捨ててユダヤ人迫害を開始するようになった。まず1940年7月にザイス・インクヴァルトよりオランダ国籍以外のユダヤ人は氏名と住所を登録せよとの命令が下った。さらに8月には「1933年1月1日以降にドイツからオランダへ移住したユダヤ人はその旨を登録せよ」との命令が出された。フランク一家はこれらの命令に従って登録を行っている。10月にはユダヤ人企業に登録が義務付けられた。オットーはこれに従ってオペクタ商会とペクタコン商会を登録する一方、「アーリア化」されることを防ぐためにヴィクトール・クーフレルとヤン・ヒース(ミープの愛人。2人は1941年7月に結婚)を仮の所有者とする偽装会社「ヒース商会」を設立した。 1941年1月9日以降にはオランダ映画館主同盟がユダヤ人の映画館入場を拒否したためユダヤ人は映画館に入れなくなった。アンネはハリウッドの有名なスターの写真を切り抜いては台紙に貼ってコレクションするような映画好きの女の子だったのでこれは大事件だった。結局、フランク一家は自前で映写機、スクリーン、フィルムを用意して自宅で上映会を行うようになった。 1941年5月末にユダヤ人は公園、競馬場、プール、公衆浴場、保養施設、ホテルなど公共施設への立ち入りを禁止された。アンネはプールに行けなくなったことを嘆き、「日焼けしようにも、あまり方法はありません。プールに入れないからです。残念ですけど、どうしようもありません」と1941年6月末にスイスにいる父方の祖母アリーセに宛てた手紙で書いている。 1941年8月29日にはユダヤ人はユダヤ人学校以外に通うことを禁止する法律が公布された。アンネはモンテッソーリ・スクールへ通えなくなり、マルゴーともどもフォールマーリゲ・スタツティンメルタイン(オランダ語版)のユダヤ人中学校(オランダ語版)へ転校することとなった。ユダヤ人中学校でアンネは新たな親友ジャクリーヌ・ファン・マールセン(愛称ジャック)と出合った。アンネとジャックは家が近いにもかかわらず、しょっちゅうお互いの家に泊まり合っていた。アンネはジャックの家に行くのに大した荷物もないのにスーツケースを持っていった。スーツケースがないと旅行気分が出ないからという。 1942年1月29日には同居していた祖母ローザ・ホーレンダーが癌により死去している。おばあちゃんっ子のアンネには衝撃だった。アンネは後に書く日記のなかでも祖母の死について触れ、「おばあちゃんのことは、いまでもこの胸に焼き付いています。私が今でもどれだけおばあちゃんを愛しているか、きっと誰も想像がつかないと思います」と書いている。アンネは思春期になるにつれ、母エーディトとの摩擦が増えていた。アンネとエーディトの親子喧嘩の仲裁役になれるのはアンネの祖母でエーディトの母であるローザだけだった。その事もアンネが祖母好きな理由であったという。 1942年4月29日にはオランダ、フランス、ベルギーにおいてユダヤ人は黄色いダビデの星を付けることが義務付けられた。これは先にポーランドやドイツで実施されていたものが導入された物であった。オランダのダビデの星には中央に「Jood(ユダヤ人)」の文字が入っていた。1942年6月22日にはオランダの親衛隊及び警察高級指導者ハンス・ラウター親衛隊中将より「ユダヤ人は所有している自転車を48時間以内に当局に提出せよ」との命令が下された。フランク一家はこの命令に従わず、マルゴーの自転車を隠し持つことにした。アンネも専用の自転車を持っていたが、彼女の自転車は復活祭の休み中に何者かに盗まれてしまっていたため、この頃にはすでに所持していなかった。アンネにとって厳しかったのは1942年6月30日のユダヤ人外出制限命令だった。ユダヤ人は夜8時から朝6時までの間の外出を禁止され、また非ユダヤ人を訪問したり、あるいは訪問を受けることを禁止された。ユダヤ人の子供にとって友達と遊ぶのに大きな影響がある命令だった。 アンネは1940年夏にペーテル・スヒフという年上(14歳)の少年と付き合っていた。ペーテルは長身の美男子でアンネは彼にかなり熱を入れていたが、ペーテルが引っ越すとペーテルとアンネは疎遠になってしまった。ペーテルの新しい友人たちが年下の女の子と付き合っているペーテルをからかったため、彼はアンネを故意に無視するようになったらしく、一方のアンネはしばらく失意の状態だったという。1944年1月6日付け、1月7日付けの彼女の日記にはペーテルのことを忘れられないでいる様子がうかがえる。ペーテルほど熱を入れてはいなかったが、1942年6月終わり頃には3歳年長のヘルムート・シルベルベルフ(愛称ヘロー)という男の子と付き合い始めていた。ヘローはこの時のことを後に「アンネは魅力的な女の子でした。いきいきとしていて機転がきいて、人を笑わせたり、楽しませたりするのが大好きでした。はっきりと記憶に残っているのはいつも大きな椅子に座り、あごに両手を添えてじっと私のことを見ているアンネの姿です。(中略)たぶん私はアンネに恋していたのでしょう。ひょっとすると彼女も同じ気持ちだったかもしれません」と語っている。 1942年6月12日の13回目のアンネの誕生日、オットーからのプレゼントでサイン帳を贈られた。表紙全体に赤と白のチェック模様が入っている女の子らしいサイン帳であった。アンネはこのサイン帳を日記帳として使用することにし、その日、最初の日記をつけている。後世に『アンネの日記』として世界的に知られることになる日記の執筆の始まりである。なおアンネは日記帳を「キティー」と名付け、この「キティー」に手紙を書くという設定にしていた。なぜキティーだったかは諸説あってはっきりとしないが、当時オランダの女の子の間で人気があった少女小説の主人公の名前から取られたという説が最も有力である。あるいはアンネの友達の一人ケーテ・エヘイェディ(愛称キティー)から来ている可能性もある。日記の最初はこのように記されている。 あなたになら、これまで誰にも打ち明けられなかったことを何もかもお話しできそうです。どうか私のために大きな心の支えと慰めになってくださいね ― 1942年6月12日 1942年6月末、夏休み前の学期末試験の通知書が配布された。マルゴーは「いつも通りの素晴らしい成績」で、アンネも日記上でしぶしぶ賛辞を呈している。一方アンネは予想よりは良かったが、数学の成績が低く、夏休み後の9月に追試を受けることを申し渡されてしまった。しかしアンネが再び学校に通える日はもう来なかった。 ===隠れ家の準備=== ドイツの総力戦体制が強まり、ユダヤ人狩りが頻繁に行われはじめると、「ユダヤ人はポーランドへ連行されそこで虐殺される」という不穏な噂が流れるようになった。ドイツ側は、連行しているユダヤ人は失業中で未婚のユダヤ人のみであり、彼らはドイツ国内の労働収容所へ送っており、そこで公正な取り扱いの下に強制労働に従事しているとしていた。しかしイギリスのBBC放送などはユダヤ人はポーランドへ連れて行かれ、そこで虐殺されていると報道していた。いずれにせよ明白であるのは、経済の「アーリア化」によりユダヤ人失業者は増大しており(オットー・フランクも書類上は失業者であった)、ユダヤ人狩りで連れていかれる人数は日増しに増え、その対象はユダヤ人ならば誰でも手当たり次第という具合になっていたことである。 危険が迫ってきていると判断したオットーとヘルマン・ファン・ペルスは、オペクタ商会とペクタコン商会(ヒース商会)が入っている建物の中に隠れ家を設置して身を隠す準備を進めた。その建物はアムステルダム・ヨルダーン地区(オランダ語版)プリンセンフラハト通り(オランダ語版)263番地にあった。4階建ての建物で1階が倉庫、2階が事務所、3階と4階(さらにその上に屋根裏部屋もあり)も倉庫として使われていた。この建物の後ろには離れ家がついており、そこの2階にはオットーのオフィスと従業員用のキッチンがあり、3階と4階は放置されていた。こうした離れ家は、運河に面したアムステルダムの建物にはよくある形状で「後ろの家(オランダ語版)」(アハターハウス)と呼ばれ、定冠詞”Het”を付けた「後ろの家」(ヘット・アハターハウス)は、オランダ語版アンネの日記のタイトルとなった。この離れ家の3階と4階と屋根裏部屋を改築して隠れ家が作られた。 ミープ・ヒース、ヨハンネス・クレイマン、ヴィクトール・クーフレル、ベップ・フォスキュイルら会社の非ユダヤ人社員たちが食料や日用品を隠れ家に運び込む役を引き受けてくれた。オットーは、ドイツ軍に見つからぬよう少しずつ家具などを隠れ家に入れていった。この間、アンネとマルゴーには隠れ家のことは一切知らされていなかった。少しでも娘たちに自由な時間を楽しませたいというオットーとエーディトの配慮からだった。ユダヤ人の子供はすでに自由に遊ぶことはできなくなっていたが、それでもアンネは、ハンネ、サンネ、ジャック達とともにイルセ・バーハネルという子の家に集まって卓球をして遊んだり、卓球の後はユダヤ人でも入れるアイスクリーム屋へ行って男の子達と会って仲良くしたりして楽しんでいた。 1942年7月5日午後3時頃、マルゴーに対して7月6日にユダヤ人移民センターへの出頭を命じるナチス親衛隊(SS)からの召集命令通知がフランク家に届けられた。これはマルゴーに限らずアムステルダムの15歳から16歳のユダヤ人数千人に一斉に出された召集命令であった。召集後はヴェステルボルク通過収容所を経てドイツ国内の強制労働収容所へ送られ、労働に従事させられることとなっていた。通知には持って行ける衣類とシーツ、食器類についてのリストまで付属していた。オットーの帰宅後、すぐにヘルマン・ファン・ペルスやヒース夫妻、クレイマンなどと連絡をとり、対策を話し合った。召集命令に応じるのは危険と判断したオットー達は、すぐに潜伏生活を始めることとした。アンネとマルゴーも荷造りの準備を始めた。 7月6日朝7時半、アムステルダムは雨が降っていた。自転車を持っていたマルゴーはミープに連れられてひと足先に隠れ家へ向かった。続いて7時45分、アンネとオットーとエーディトの3人も家を出ると徒歩で隠れ家へ向かった。アンネたちは1時間ほどかかってプリンセンフラハト通り263番地の隠れ家に到着した。到着した頃には雨はあがっていた。 アパートを出る際にオットーはその頃フランク家に下宿していた人物に宛てて手紙を置き残した。そこでスイスへ逃れることをほのめかし、アンネが飼っていた猫「モールチェ」(ユダヤ人学校へ転校した頃から両親の許可を得て飼っていた)を託したい旨を書いている。フランク一家の突然の失踪は近所の人たちにも知られたが、召集命令が来たユダヤ人は次々と逃げ出していたのでとりたてて不思議には思われなかったようである。すぐに「フランク一家はスイスへ逃げたらしい」という噂が流れた。アンネの友達のハンネリやジャックもアンネを探しに来たが、家はもぬけのからになっていた。ジャックはアンネと事前にお互い身を隠す時が来たら手紙を置き残そうと約束していたので手紙を探したが見つからなかった。彼女たちはとりあえずアンネとの思い出の品を探し、ジャックはアンネが水泳競技でもらったメダルを見つけて持って帰っている。 ===隠れ家生活=== 「後ろの家」の隠れ家の入口は正面の建物から3階に上がり、本棚の後ろに隠れた秘密の入口を通って入ることができた。秘密の入口を通るとすぐ右手に4階への階段があった。階段のすぐ横のドアはオットーとエーディトの部屋であった。その部屋とつながっている右側の細長い部屋がアンネとマルゴーの部屋だった(フリッツ・プフェファー合流後、プフェファーはアンネの部屋で暮らすことになり、マルゴーはオットーたちの部屋に移っている)。アンネたちの部屋と4階への階段の手前から洗面所に入ることができ、そこに洗面台と水道、そして水洗トイレがあった。4階に通じる階段を上ると大きな部屋があり、そこは隠れ家のリビングルーム、またファン・ペルス一家の部屋だった。またその部屋に通じる部屋にファン・ペルス一家の長男ペーター・ファン・ペルスの部屋があり、この部屋から屋根裏部屋へ上がるはしご段があった。屋根裏部屋のつきあたりのアーチ形の窓からは西教会(オランダ語版)の時計塔が見え、別の窓からは中庭に立つマロニエの巨木を眺めることができた。隠れ家にはオットー・フランク一家(オットー、妻エーディト、長女マルゴー、次女アンネ)、1942年7月13日からヘルマン・ファン・ペルス一家(ヘルマン、妻アウグステ、長男ペーター)、1942年11月16日から歯科医のフリッツ・プフェファーも合流して合計8人が隠れ家で同居した。 ===隠れ家での人間模様=== 隠れ家生活に入ってからアンネと母エーディトは対立することが多くなった。母から自立したいアンネとアンネを心配するエーディトがすれ違っていたせいであった。オットーがよく2人の仲裁に入っていた。日記上でも母親を批判する記述は多い。「とにかくママが我慢なりません。ママの前では、自分を抑えて辛抱しなくちゃなりません。そうしないとママの横っ面をひっぱたいてしまいかねませんから。どうしてこんなにまでママが嫌いになってしまったのか。自分でも分かりません」と書いている。しかしやがてアンネは母を傷つけていることを反省して、徐々に攻撃の手を緩めるようになる。日記の書きなおし作業の中で「アンネ、本当に貴女が書いたの? 『憎らしい』なんて? よくもこんなことが書けたわね」「お母さんが私の気持ちを分かっていないのは事実ですが、私もお母さんの気持ちを分かっていないのですから」などと書いている。 またアンネは、成績優秀で控えめな性格の姉マルゴーをやっかむ事が多かった。母エーディトがマルゴーを高く評価し、アンネはいつもマルゴーと比べられてお姉さんを見習うように言われるせいだった。アンネは「鼻持ちならないとしか言いようがありません。昼も夜も神経に触りっぱなし。私はいつもマルゴーをからかって『よくそんなに猫をかぶってられるわね』と言ってやりますけど、さすがのマルゴーもこれにはむっとしてるようですから、そのうち猫を被るのは止めるかも」、「ママは何かと言うとマルゴーの味方をします。それは誰の目にも明らかです。いつだって2人でかばい合っています。もうそれは慣れっこなので、ママがごちゃごちゃお説教をしても、マルゴーが怒ってきても何とも思いません。もちろん2人のことは愛していますが、それは私のお母さんであり、お姉さんだからにすぎません。一個の人間としては2人ともくたばれと言いたいです」と書いている。しかし後に親への不満を共通の話題にして姉妹仲はよくなった。「特別なことと言えば、マルゴーと私が二人揃って両親が鼻につき始めてることぐらいです。誤解しないでほしいんですけど、私は今でも以前と変わらずお父さんを愛してますし、マルゴーは両親どちらも愛しています。でも私たちぐらいの年になると、誰でもちょっとは物事を自分で決めたくなります。(中略)マルゴーも悟ったようです。両親より同性の友達の方が、自分自身について気楽に話せるってことが」「(マルゴーとは)本当の親友になりかけています。もう私のことを子供扱いして、相手にしてくれないなんてこともありません」と書いている。 家族の中でアンネが一番好きだったのは父オットーだった。アンネは1942年11月7日の日記には「パパだけが私の尊敬できる人です。世界中にパパ以外に愛する人はいません」と書いている。アンネはオットーにエーディトへの不満を漏らすことがあったが、オットーはアンネに拒絶されて苦しんでいるエーディトを知っていたので必ずしもその言い分を認めなかった。「パパは、私が時々ママについて、鬱憤をぶちまける必要があることを分かってくれません。そのことを話題にしたがらないんです。話がママの欠点について触れそうになると、すぐにその話題を避けようとします」とアンネは書いている。この件についてオットーは後年、「このことでは妻の方がアンネより深く悩んでいたと思う。実際に妻はよく出来た母親で子供のためならいかなる苦労も惜しまなかった。アンネの反抗についてよくこぼしていたが、それでもアンネが父親の私を頼っていることに妻は幾らか慰められているようだった。アンネと妻の仲介役になる時は私も気が重かった。妻を苦しませたくはなかったが、アンネが母に対して生意気で意地悪な態度を取った時、アンネをたしなめるのは、しばしば容易なことではなかった」と述べている。 アンネの妥協の無さ、臆することのない舌鋒は、ファン・ペルス夫妻やフリッツ・プフェファーも立腹させることが多かった。彼らは「アンネの躾がなっていない」とよく、フランク夫妻に忠告した。しかしこのような時には母エーディトは常にアンネの味方だった。プフェファーとアンネは机の使用権などをめぐって対立し、プフェファーはアンネにマナーなどの説教をすることがあった。アンネは皮肉をこめてプフェファーを「閣下」などと呼んでいる。また彼女がプフェファーに付けた日記上の変名は「デュッセル」(ドイツ語で間抜けの意)である。またファン・ペルス夫妻とフランク一家にもしばしば摩擦があった。 しかし対立ばかりではなく、楽しい時も多かった。隠れ家ではお祝いをするきっかけを見つけては頻繁にお祝いをしていた。毎週金曜日に行うユダヤ教の安息日の儀式、隠れ家メンバーの誕生日のお祝い、ハヌカー祭、クリスマス、新年、などであった。ヘルマン・ファン・ペルスはもともと陽気な人だったのでこうした席でよく冗談をいって人を笑わせていた。アンネの日記にもそうした楽しい思い出が「夜にはみんなしてテーブルを囲み、頭がおかしくなるほど笑い転げました。私がドレヘルさんの奥さんの毛皮のカラーを持ち出して、パパの頭に巻きつけたからです。なんだか馬鹿に神々しくて見えて、ほんと、笑い死にするかと思いました。次にファン・ペルスおじさんもそれを真似をしましたけど、こちらはもっと滑稽でした」「ペーターがおばさんのすごく細みのドレスを着て、帽子をかぶり、私が彼の服を着て、男の子の帽子を被ったら、大人たちはみんなお腹を抱えて笑い転げ、おかげで私たちまですっかり楽しくなりました」と多く描かれている。 隠れ家で唯一のティーンエイジャーの男の子のペーターとは徐々に恋仲になっていき、アンネとペーターは屋根裏部屋で2人きりで長い時間を過ごすようになった。2人はキスもしている。1944年4月16日付けの日記に「昨日の日付を覚えておいてください。私の一生の、とても重要な日ですから。もちろん、どんな女の子にとっても、初めてキスされた日といえば記念すべき日でしょう?」と書いている。ただペーターには物足りなさも感じていたようでしばしばペーターへの不満の記述もある。 ===様々な困難=== 人に見つかってはならない隠れ家には厳しいルールがあった。昼間はできる限り静かに過ごすこと(事務所に人の出入りがあるから)、カーテンは閉めたままにすること、水を流す音が響かないようにすること、トイレの使用は早朝と事務所が閉まる夕方以降にすること、などである。食料の調達はミープ・ヒースで、店長がレジスタンス活動家であった食料店から購入していた。食料は屋根裏部屋に貯蔵された。しかし食料の確保はどんどん難しくなり、少なくなっていった。特に1944年に入ると食料切符があっても満足に食料を得られなくなった。しかも同年5月25日には野菜の入手経路だった八百屋の主人ファン・フーフェンが2人のユダヤ人を匿っていた罪によりゲシュタポに逮捕されたため、野菜の確保が難しくなった。ひもじさに耐えねばならなくなると隠れ家住民達の心がすさんで喧嘩になることも多かった。アンネも日記の中で1週間に1種類か2種類の食事しか食べられないことを嘆いている。 医者にかかれないため、病気になると大変であった。1943年冬にはアンネはインフルエンザにかかり、隠れ家の大人たちが総がかりで必死に看病した。幸い熱は下がり、回復したが、悪性の伝染病に襲われた時にはひとたまりもない様子であった。また夜には連合軍の空襲の恐怖にさらされることも多くなっていった。もし爆弾が落ちても助けは求められなかった。隠れ家からそう遠くないミュントプレインに対空砲火に撃ち落とされた英軍機が墜落した際にはその轟音と火事で隠れ家がパニックになったという。電力も制限されていき、ろうそくを明かりの代わりに使用するようになった。また暖房の使用ができなくなると厚手のコートを重ね着したり、ダンスや体操をして体を温めたりしていた。 どんなに絶望的な状況になっていってもアンネは最後まで希望を捨てなかった。1944年7月15日の『アンネの日記』には次のような記述がある。 自分でも不思議なのは私がいまだに理想のすべてを捨て去ってはいないという事実です。だって、どれもあまりに現実離れしすぎていて到底実現しそうもない理想ですから。にもかかわらず私はそれを待ち続けています。なぜなら今でも信じているからです。たとえ嫌なことばかりだとしても人間の本性はやっぱり善なのだと。 ― 1944年7月15日 この言葉はアンネ・フランクの代表的な言葉としてよく引用されている。『アンネの日記』は、この後、7月21日に記述があり、その次の1944年8月1日火曜日を最後にして終わっている。 ===逮捕=== 1944年8月4日朝、プリンセンフラハト263番地の建物はいつも通りであった。隠れ家メンバーは読書や勉強、裁縫などに専念して音を立てないよう静かにしていた。表の建物の2階の事務所の社長室ではヴィクトール・クーフレル、その隣室の事務所ではミープ・ヒース、ヨハンネス・クレイマン、ベップ・フォスキュイルの3人が働いていた。また一階の倉庫では倉庫従業員のヴィレム・ファン・マーレンとランメルト・ハルトホ(Lammert Hartog)がスパイスを袋に詰める作業をしていた。 そんな中の午前10時半頃、プリンセンフラハト263番地の前に1台の車が止まった。中から出てきたのは制服姿のSD・ユダヤ人課のカール・ヨーゼフ・ジルバーバウアー親衛隊曹長と私服のオランダ人警察官数名であった。ジルバーバウアーらは建物の中に入ると倉庫従業員ファン・マーレンに「ユダヤ人はどこに隠れている?」と問うた。彼は指を一本立てて階上を指し示した。 ジルバーバウアーたちは2階の事務所へ向かった。事務所に入るとオランダ人警官がミープ、クレイマン、ベップの3人に銃口を突き付けて「そのまま座っていろ。動くな!」と指示した。ジルバーバウアーらは石のように固まっている3人を無視してその隣室の社長室に入り、クーフレルの前に立った。オランダ人警察官の1人が「この建物にユダヤ人が匿われているはずだ。そのことは訴えがあってすでに分かっている。そこへ案内しろ」とクーフレルに指示した。クーフレルに打つ手はなく、観念した彼は、ジルバーバウアーたちを先導して階段を上り、3階の隠れ家に向かった。 クーフレルが踊り場の突き当りにある本棚を指さすとオランダ人警察官たちはその本棚を調べて秘密の入り口を見つけた。ジルバーバウアーは銃を抜くとクーフレルの背に押し当て「入れ」と指示した。クーフレルが隠れ家に入るとフランク夫妻の部屋のテーブルに座っていたエーディトが目に入った。クーフレルは彼女に向って「ゲシュタポが来た…」と小さい声で呟いた。クーフレルの後ろからオランダ人警官が現れ、エーディトに銃を突きつけて「両手をあげろ」と指示した。オランダ人警官たちが続々と隠れ家に入ってきて家宅捜索を開始した。まず隣室のアンネの部屋にいたアンネとマルゴーが拘束され、つづいて4階のリビングルームにいたファン・ペルス夫妻とフリッツ・プフェファーが拘束された。最後に発見されたのがペーターの部屋でここではオットーがペーターに英語を教えているところだった。 隠れ家メンバーの8人は全員手をあげさせられて入り口に近い3階のオットー夫妻の部屋に集められた。誰も声を出さなかったが、マルゴーだけは声を上げずに泣いていた。ジルバーバウアーは真っ先に貴重品を提出させて押収した。ジルバーバウアーがカバンを逆さにして中身をぶちまけた際に中からはアンネの日記が床に落ちたが、アンネが何か言うことはなかった。ジルバーバウアーは武器の携帯の有無を尋ねた後「5分以内に支度をしろ」と命じた。しかしジルバーバウアーはオットーが第一次世界大戦の際にドイツ軍中尉だったことを知ると態度が一変し、一瞬敬礼のポーズすら取りそうになったという。そして荷造りをしている隠れ家住人たちに「ゆっくりでいい」と指示し直している。 クーフレルとクレイマンはジルバーバウアー達に何を聞かれても答えなかったため、この2人も連行されることとなった。女性従業員と倉庫従業員は逮捕を免れた。 連行する人数が予想より多かったため、ジルバーバウアーはもう1台車を手配し、午後1時頃に警察の護送車が到着した。10人ともこの護送車に乗せられ、アムステルダム南部ユーテルペ通り(オランダ語版)にあったゲシュタポ・SD本部に連行された。 逮捕を免れたミープ、ベップ、ファン・マーレン、駆けつけてきたヤン・ヒースらはSDに荒らされた隠れ家の整理にあたり、『アンネの日記』も拾い集められた。それらはミープが戦後まで保存した。 SDは密告を受けて出動していた。この密告者が誰かについては今日に至るまで判明していない。倉庫係ヴィレム・ファン・マーレン、ランメルト・ハルトホ、もしくはその妻で掃除婦のレナ・ハルトホを疑う説もあるが、真相は不明である。密告者がはっきりしないことなどから、偽造された配給券の家宅捜索中だったSDが偶然に隠れ家を発見したのではないかという説も存在する。 ゲシュタポ・SD本部に到着すると直ちに非ユダヤ人であるクーフレルとクレイマンは、ユダヤ人である隠れ家メンバーと引き離され、その日のうちに拘置所の方へ送られている。その後この2人は当時ユダヤ人を助けた廉で逮捕された多くのオランダ人と同様にドイツ国内の労働収容所へ送られたが、それぞれ脱走・釈放によって市民生活に戻っている。 一方隠れ家メンバーはゲシュタポ・SD本部で取り調べを受けた。取り調べでは他に潜伏しているユダヤ人についてを中心に聞かれたが、ずっと隠れ家生活をしていた8人が知るところではなかった。その日一晩はゲシュタポ・SD本部の監房で過ごすこととなった。翌日にはアムステルダムのウェテリングスハンス(オランダ語版)の拘置所に移され、ここで3日ほど過ごした。 ===ヴェステルボルク収容所=== 1944年8月8日に隠れ家のユダヤ人8人はアムステルダム中央駅からオランダ北東のヴェステルボルク通過収容所へ移送された。オットー・フランクの回想によれば、この移送中にアンネは列車の窓から一度も離れず、外の光景を眺めていたという。アンネは都会っ子で田舎にはほとんど興味がなかったというが、この時には窓外の田園風景に釘付けだったという。 1944年8月8日午後遅くにヴェステルボルク収容所に到着した。このヴェステルボルクはユダヤ人をポーランドのアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所へ移送するまで一時的に拘留しておく通過収容所だった。ドイツ人の収容所所長もいたが、日常業務はユダヤ人被収容者の中から出されたリーダーの自治によって行われていた。そのため強制収容所と比べると比較的自由に行動することが許されており、収容所内には学校や孤児院、医療施設、宗教施設、娯楽施設、スポーツ施設なども存在していた。 しかしフランク一家はじめ隠れ家メンバー8人は「有罪宣告を受けたユダヤ人」に分類され、政治犯として懲罰棟である第67号棟へ収容された。ここに収容される者は自由が大幅に制限されていた。男性は丸刈り、女性は短髪と定められており、アンネも髪を切られたものと思われる。ヴェステルボルクでフランク一家はド・ヴィンテル一家(父マヌエル、母ローザ、娘ユーディー)と親しくなった。ユーディーはアンネと同い年だった。ド・ヴィンテル一家もユダヤ人であり、潜伏生活を送った後、発見されて逮捕されていた。 アンネ、マルゴー、エーディトは電池の分解作業に割り当てられていた。昼食はわずかなパンと水っぽいスープだけであった。ここでアンネたちは同じ作業を行っていたヤニーとリーンチェのブリレスレイペル姉妹と知り合った。リーンチェは「アンネとマルゴーはいつもお母さんのそばにいました。『アンネの日記』ではアンネはお母さんを手厳しく批判していますが、ちょっとした反抗期だったんじゃないでしょうか。収容所ではお母さんの腕にしがみついていました」と証言している。1944年9月3日、ヴェステルボルク収容所からの最後の移送列車がアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所へ向けて出発することとなった。アンネたちはこの列車に乗せられることとなった。 ===アウシュヴィッツ=ビルケナウ収容所=== 1944年9月3日、隠れ家メンバー8人、ド・ヴィンテル一家、ヤニ‐とリーンチェのブリレスレイペル姉妹はまとめてアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所へ向かう移送列車に乗せられた。移送中のアンネは、マルゴー、ペーター、ユーディーと一緒に話をしたり、時々小窓によじのぼって外の光景を眺めていたという。 3日後、列車はビルケナウ収容所に到着した。到着と同時に男女が分けられた。アンネは、父オットーとはここで今生の別れとなった。さらにその後、SS医師団による働ける者と働けない者の選別が開始された。この移送でアウシュヴィッツへ送られてきた者1019人のうち549人が労働不能と判断されてガス室送りとなった。しかしアンネたち隠れ家メンバーは、全員労働可能と認定され、ガス室送りを免れた。 女子供はビルケナウ収容所の中にある女子収容施設へ入れられ、男性は3キロ離れた場所にあるアウシュヴィッツ強制収容所へ向けて歩かされた。アンネとマルゴーとエーディトは女子収容施設である第29号棟に入れられた。アウシュヴィッツでは男子も女子も丸刈りにしていたのでアンネも短髪から丸刈りにされた。またアウシュヴィッツでは囚人の左腕に囚人ナンバーの刺青を入れていた。アンネの左腕に入れられた正確な囚人番号は分かっていない。A25060からA25271までの間のいずれかの番号であった。 ビルケナウでのアンネはエーディトとマルゴー、ローザとユーディーのド・ヴィンテル母子などと固まって暮らしていたという。まもなくアンネやマルゴーはシラミやダニに喰われて傷口が化膿した。エーディトは娘たちに献身的につくし、自分に支給されたパンも娘たちに分け与えていた。 ソ連赤軍の接近に伴うアウシュヴィッツ強制収容所撤収作戦の一環で10月28日にベルゲン・ベルゼン強制収容所へ送る者の選別が行われた。ローザ・ド・ヴィンテルによると選別を行ったのはヨーゼフ・メンゲレ親衛隊大尉であったという。この選別でアンネとマルゴーは母エーディトと切り離されてベルゲン・ベルゼンへ送られることとなった。母エーディトとはここで最期の別れとなった。ローザはこの時のアンネを「15歳と18歳、痩せこけて、裸でしたが、それでも堂々として選別デスクに向かいました。アンネはマルゴーを励まし、マルゴーは背筋をしっかり伸ばして、ライトの中を進みました。姉妹2人、裸で、丸坊主という姿でした。ふとアンネの目がこちらに向けられました。曇りのない目で、まっすぐこちらに視線を向けて、まっすぐ立って」と回想している。 ===ベルゲン・ベルゼン収容所での死=== アンネたちのベルゲン・ベルゼンへの移送は4日に及び、その間、食料はほとんど与えられず、アンネたちはますます弱っていった。 到着したベルゲン・ベルゼン強制収容所は恐ろしく不潔な収容所で病が大流行していた。食料もほとんど与えられず、餓死者と病死者が続出する収容所だった。この収容所でアンネはチフスに罹患して命を落とすことになる。 この収容所でアンネはリーンチェとヤニーのブリレスレイペル姉妹と再会したという。ブリレスレイペル姉妹はフランク姉妹より10歳以上年長だったが、同じアムステルダム出身であり、親しくなって一緒に過ごすようになったという。リーンチェは後にこの時のアンネについて「アンネはよく就寝後に話を聞かせてくれた。姉のマルゴーも同様だった。馬鹿げた小話だの、ジョークだの、いつも4人(アンネ、マルゴー、リーンチェ、ヤニ‐)で交代で話し役を受け持った。たいがいは食べ物の話だった。アムステルダムのアメリカン・ホテル(オランダ語版)に行き、豪華なディナーを食べるという話をしていたところ、いきなりアンネが泣き出したことがあった。もう2度とあの街へ戻ることはできないだろうと考えたのだろう。みんなで空想のメニューをこしらえ、すばらしい御馳走を考え出した。そしてアンネはいつも言うのだった。『私にはまだ学ばなくちゃいけないことがたくさんある』と」と証言をしている。食事の話ばかりになったのは食料がますます減らされたためだった。リーンチェによるとアンネの顔は痩せこけて、まるで目だけになってしまったようだったという 1944年11月終わりにはアウグステ・ファン・ペルスがベルゲン・ベルゼンに移送されてきてアンネたちと再会した。アウグステは別の区画にアンネの親友ハンネがいたことをアンネに告げた。1945年初めには有刺鉄線越しだがアンネはハンネと再会できたという。2人は互いの無事を喜び涙を流しあったという。アンネはこの時ようやく実はスイスに亡命したのではなくて隠れ家で隠れていたことをハンネに打ち明けた。また両親とは離れ離れになったことを告げ、「私にはもう両親がいないの」と涙ながらに語っていたという。その後も3、4回あったというが、2月末ごろからアンネの姿を見なくなったという。 しかしこのころのアンネの詳細については、このような数少ない目撃者たちの断片的な証言を残すのみであり、はっきりとはしていない。体力の衰えた姉妹はやがてチフスにかかり、先にマルゴーが、2、3日遅れてアンネが息を引き取ったとされている。オランダ赤十字は1945年3月31日を死亡日としているが、これは特定されたものではなく、生き残った者の証言などにより、それよりも早い2月の終わりか3月の始めころに亡くなったものと推測される。 友人たちのうち、スザンネ・レーデルマンやイルセ・ヴァーハネルも犠牲になったが、ハンネリ・ホースラル、ナネッテ・ブリッツ、ケーテ・エヘイェディは生還し、ジャクリーヌ・ファン・マールセンも戦後を迎えることができた。 ===没後=== 隠れ家の住人はオットー・フランクを除いて全員が終戦を迎えることなく強制収容所の中で死亡した。アンネとマルゴーはベルゲン・ベルゼン強制収容所、母エーディト・フランクはアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所、ペーター・ファン・ペルスはマウトハウゼン強制収容所、ヘルマン・ファン・ペルスはアウシュヴィッツ強制収容所、フリッツ・プフェファーはノイエンガンメ強制収容所でそれぞれ死亡している。アウグステ・ファン・ペルスの死亡場所は不明である。 オットー・フランクは、解放後にアムステルダムに戻った。日記を保存していたミープ・ヒースから娘アンネの残した日記などの文書を遺品として渡された。この文書はオットーによってタイプし直され、関係者の間に私家版としてごく少数の者に配られた。やがてこれが評判を呼び、1947年に『後ろの家』(Het Achterhuis)というタイトルでオランダ語の初版が出版された。 売れ行きは非常に好調で、ほどなく各国語に翻訳された。1950年にはドイツ語版とフランス語版が出版され、1952年5月に英語版が出版された。日本語版は昭和27年(1952年)に『光ほのかに アンネの日記』というタイトルで文藝春秋から出版されたのが最初である。イギリスではあまり売れなかったが、アメリカ・ドイツ・フランス・日本では発売とともに好調な売れ行きを示した。イギリスでは1954年にペーパーバック版になった後に売れるようになった。 1955年10月5日に戯曲『アンネの日記(英語版)』がニューヨークのブロードウェイで初演された。主演はスーザン・ストラスバーグ。彼女の友人のマリリン・モンローが観劇している。上演回数は1000回を超えた。同演劇は1956年度のピューリッツァー賞とトニー賞を獲得した。 1956年からヨーロッパでも上演された。特にドイツで重く受け止められた。100万人のドイツ人が観劇し、その効果でドイツでの『アンネの日記』の売り上げが急上昇し、ドイツ各地にアンネの名を冠した青少年団体や学校や通りが出現するようになった。オランダでは1956年11月27日にオランダ王室の臨席のもとで初上演された。そのオープニング・セレモニーにオットー・フランク、ミープ・ヒース、ヤン・ヒース、ベップ・フォスキュイル、ジャクリーヌ・ファン・マールセン(ジャック)らが出席している。 1957年にはアメリカの20世紀フォックス社が映画『アンネの日記』の撮影を開始した。大戦中にダッハウ強制収容所を解放したアメリカ軍部隊の兵士だったジョージ・スティーヴンスが監督を務めた。この映画は1959年4月16日にアムステルダムでユリアナ女王やベアトリクス王女臨席のもとに初公開された。 隠れ家のあるアムステルダム・プリンセンフラハト263番地を含めた地域一帯がブローカーに買収され、さらに1957年5月には再開発予定地に組み込まれて、アンネの隠れ家のあった建物が取り壊されそうになった。取り壊しに反対する市民運動が巻き起こり、ユリアナ女王やアムステルダム市長も運動に参加し、オランダ国外からも寄付金が寄せられた。建物を所有していた不動産会社ベルクハウス社は市民の声に負け、「アンネ・フランクに捧げる」として隠れ家の建物をアムステルダム市に寄付した。アムステルダム市はアンネの隠れ家の建物の付近を「歴史地区」に指定し、保護することを市民に約束した。建物の保存と一般公開を目的として「アンネ・フランク財団」が設立され、1960年5月に同財団が建物の所有権を買い取り、博物館「アンネ・フランクの家」として一般公開を行っている。 1980年8月19日にオットー・フランクはスイス・バーゼルの自宅で死去した。オットーの遺言でアンネの書いた物はすべてオランダ政府に遺贈された。オランダ国立戦時資料研究所が1980年11月にアンネの日記の原稿を受け取っている。 ==人物== 将来の夢は著名な作家になることであったが、多くの芸術家たちと同様、死して後その名が知られるようになった。2004年10月3日、オランダの司法省は、ドイツからの亡命と同時に無国籍となり、国籍を持たないまま、この世を去っていった彼女にオランダの市民権を与えるべきという要望に、死後の市民権の付与は不可能という拒否解答を出した。彼女は、政治、文化、経済などでのオランダを代表する人物の中に以前から数えられているが、オランダ国籍や市民権が与えられたことはない。 隠れ家でアンネはたくさんの本を読んだ。日記に出てくる本だけでも26冊にも及ぶ。初め文学の本に関心が強かったが、後に伝記に関心を持つようになった。彼女が読んだ伝記はマリー・アントワネット、皇帝カール4世、ルーベンス、レンブラント、フランツ・リストなどであった。父オットーの勧めでゲーテ、シラー、フリードリヒ・ヘッベルなどドイツ人古典作家の本もかなり読んだという。ドイツ古典はオットーがナチスから守りたかった世界であったという。 隠れ家で日記を書き続けたアンネであるが、『アンネの日記』以外にもいくつかの短編小説を残しており、これらは現金出納簿の一冊に書かれていた。短編小説を書くのは1943年夏頃から夢中になった彼女の趣味だった。アンネの書いた短編小説には、『じゃがいも騒動』『悪者!』などのような身近な題材の作品から、『カーチェ』『管理人の一家』『エーファの見た夢』など幻想的な作品まで幅広く存在する。 ==アンネに由来する事物等== ジョージ・スティーヴンス監督、映画『アンネの日記』(The Diary of Anne Frank, 1959)永丘昭典監督、アニメーション映画『アンネの日記』(The Diary of Anne Frank, 1995)、マッドハウス製作のアニメ映画。アルベルト・ネグリン監督、映画『アンネの追憶』(Mi ricordo Anna Frank, 2009)彼女の名に由来する小惑星アンネフランクがある。この小惑星には探査機が接近し、写真を撮影した。“Souvenir d’Anne Frank”(「スヴニール・ダンヌ・フランク」と読み、フランス語で「アンネの追憶」の意)」という名前のバラがある。ベルギーの園芸家が作った新種のバラで、アンネの父オットー・フランクに贈られた。1972年12月に、オットー・フランクより10本が日本に贈られた。また、1976年3月に再び10本が贈られ、日本全国で「アンネのバラ」として育てられている。アパルトヘイト(人種隔離政策)に反対して投獄されたネルソン・マンデラは、『アンネの日記』を読んで常に希望を失わなかったアンネの生き方に励まされたと述べている。アンネが屋根裏の採光窓から眺めたとされる隠れ家の裏のマロニエの木、通称「アンネの木(ドイツ語版)」が、2010年8月23日に強風のため倒木した。倒木時は推定樹齢は150‐170歳で既に立ち枯れ状態であった。2006年に倒木の危険があるとして一度アムステルダム市が伐採を決定したが、国内外から反対運動があり、2008年に撤回されて鉄柵で保護されていた。なお建物への被害や怪我人はなかった。ナチスのホロコーストによるユダヤ人犠牲者を追悼するホロコースト記念日の2011年5月2日(ユダヤ暦1月27日)、エルサレム郊外に位置する殉教者の森(英語版)にアンネの記念碑(*68**69* *70**71**72* *73**74**75**76* / Anne Frank Memorial)が建てられた。 =ベリリウム= ベリリウム(新ラテン語: beryllium, 英: beryllium [b*85**86*r*87*li*88*m])は原子番号 4 の元素である。元素記号は Be。第2族元素に属し、原子量は 9.01218。ベリリウムは緑柱石などの鉱物から産出される。緑柱石は不純物に由来する色の違いによってアクアマリンやエメラルドなどと呼ばれ、宝石としても用いられる。常温常圧で安定した結晶構造は六方最密充填構造(HCP)である。単体は銀白色の金属で、空気中では表面に酸化被膜が生成され安定に存在できる。モース硬度は6から7を示し、硬く、常温では脆いが、高温になると展延性が増す。酸にもアルカリにも溶解する。ベリリウムの安定同位体は恒星の元素合成においては生成されず、宇宙線による核破砕によって炭素や窒素などのより重い元素から生成される。 ベリリウムを含有する塵は人体へと吸入されることによって毒性を示すため、その商業利用には技術的な難点がある。ベリリウムは細胞組織に対して腐食性であり、慢性ベリリウム症と呼ばれる致死性の慢性疾患を引き起こす。 ベリリウムは主に合金の硬化剤として利用され、その代表的なものにベリリウム銅合金がある。また、非常に強い曲げ強さ、熱的安定性および熱伝導率の高さ、金属としては比較的低い密度などの物理的性質を利用して、高速航空機やミサイル、宇宙船、通信衛星などの軍事産業や航空宇宙産業において構造部材として用いられる。ベリリウムは低密度かつ原子量が小さいためX線やその他電離放射線に対して透過性を示し、その特性を利用してX線装置や粒子物理学の試験におけるX線透過窓として用いられる。 ==名称== はじめに、ルイ=ニコラ・ヴォークランが「グルシニウム(旧元素記号Gl, glucinium)」と名づけた。語源の glykys は、ギリシア語で甘さを意味する。これは、ベリリウム化合物が甘みを持つことにちなんでいる。 1828年には、マルティン・ハインリヒ・クラプロートが「ベリリウム」と命名した。この名前は緑柱石(beryl, ギリシア語で beryllos)に由来している。。 ==歴史== 初期の分析において緑柱石とエメラルドは常に類似した成分が検出されており、この物質はケイ酸アルミニウムであると誤って結論付けられていた。鉱物学者であったルネ=ジュスト・アユイはこの二つの結晶が著しい類似点を示すことを発見し、彼はこれを化学的に分析するために化学者であるルイ=ニコラ・ヴォークランに尋ねた。1797年、ヴォークランは緑柱石をアルカリで処理することによって水酸化アルミニウムを溶解させ、アルミニウムからベリリウム酸化物を分離させることに成功した。 1828年にフリードリヒ・ヴェーラーとアントワーヌ・ビュシーがそれぞれ独立に、金属カリウムと塩化ベリリウムを反応させることによるベリリウムの単離に成功した。 カリウムは、当時新しく発見された方法である電気分解によってカリウム化合物より生産されていた。この化学的手法によって得られるベリリウムは小さな粒状であり、金属ベリリウムのインゴットを鋳造もしくは鍛造することは出来なかった。1898年、ポール・ルボー(英語版)はフッ化ベリリウムとフッ化ナトリウムの混合融液を直接電気分解することによって、初めて純粋なベリリウムの試料を得た。 第一次世界大戦以前にも有意な量のベリリウムが生産されていたが、大規模生産が始まったのは1930年代初期からである。ベリリウムの生産量は、硬いベリリウム銅合金および蛍光灯の蛍光体用途の需要の伸びによって、第二次世界大戦中に急速に増加した。初期の蛍光灯にはベリリウムを含有したオルトケイ酸亜鉛が使用されていたが、後にベリリウムの有毒性が発見されたためハロリン酸系蛍光体に置き換えられた。また、ベリリウムの初期の主要な用途の一つとして、その硬さや融点の高さ、非常に優れたヒートシンク性能を利用した軍用機のブレーキへの利用が挙げられるが、こちらも環境への配慮から別の材料に代替された。 ==性質== ベリリウムは周期表の上では第2族元素に属しているが、その性質は同じ族の元素であるカルシウムやストロンチウムよりもむしろ第13族元素であるアルミニウムに類似している。たとえば、カルシウムやストロンチウムは炎色反応によって発色するが、ベリリウムは無色である。そのため、ベリリウムは第2族元素ではあるが、アルカリ土類金属には含めないこともある。また、ベリリウムの二元化合物の構造は亜鉛とも類似している。 ===物理的性質=== ベリリウムの常温、常圧(標準状態)における安定した結晶構造は六方最密充填構造(HCP)であり、その格子定数は a = 2.268 *89*、b = 3.594 *90* である。モース硬度6から7と第2族元素の中で最も硬いが、粉砕によって粉末にできるほど脆い。しかしながら、高温になると展延性が増すため、核融合炉のような高温条件で利用する用途において高い機械的性質を発揮することができる。この用途では、400 ℃を下回る温度になると使用上問題となるレベルにまで展延性が低下してしまう。比重は 1.816、融点は 1284 ℃、沸点は 2767 ℃である。 ベリリウムのヤング率は287 GPa と鉄のヤング率より50 %も高く、非常に強い曲げ強さを有している。このような高いヤング率の高さに由来してベリリウムの剛性は非常に優れており、後述の熱負荷の大きい環境における安定性も相まって宇宙船や航空機などの構造部材に利用されている。また、このヤング率の大きさと、ベリリウムが比較的低密度であるという物性が組み合わさることにより、周囲の状況に応じて変化するものの、およそ 12.9 km/s という著しく高い音の伝導性を示す。この性質を利用して音響材料におけるスピーカーの振動板などに用いられている。ベリリウムの他の重要な特性としては、1925 J ・ kg ・ K という高い比熱および、216 W ・ m ・ K という高い熱伝導率が挙げられ、これらの物性によってベリリウムは単位重量当たりの放熱物性に最も優れた金属である。この放熱物性を利用した用途としてヒートシンク材料が挙げられ、電子材料などにおいて活用されている。またこれらの物性は、11.4×10 K という比較的低い線形熱膨張率や1284 ℃という高い融点も相まって、熱負荷の大きな状況下における非常に高い安定性をもたらしている。 ===化学的性質=== ベリリウムの単体は還元性が非常に強く、その標準酸化還元電位 E0 は −1.85 V である。この標準電位の値はイオン化傾向においてアルミニウムの上に位置しているため大きな化学活性が期待されるが、実際には表面が酸化物の膜(酸化被膜)に覆われて不動態化するため高温に熱した状態でさえも空気や水と反応しない。しかしながら、一旦点火すれば輝きながら燃焼して酸化ベリリウムと窒化ベリリウムの混合物が形成される。 ベリリウムは通常、表面に酸化被膜を形成しているため酸に対しての強い耐性を示すが、酸化被膜を取り除いた純粋なベリリウムでは塩酸や希硫酸のような酸化力を持たない酸に対しては容易に溶解する。硝酸のような酸化力を有する酸に対してはゆっくりとしか溶解しない。また、強アルカリに対してはオキソ酸イオンであるベリリウム酸イオン (Be(OH)4) を形成して水素ガスを発生させながら溶解する。このような酸やアルカリに対する性質はアルミニウムと類似している。ベリリウムは水とも水素を発生させながら反応するが、水との反応によって生じる水酸化ベリリウムは水に対する溶解度が低く金属表面に被膜を形成するため、金属表面のベリリウムが反応しきればそれ以上反応は進行しない。 ベリリウム原子の電子配置は [He] 2s である。ベリリウムはその原子半径の小ささに対してイオン化エネルギーが大きいため電荷を完全に分離することは難しく、そのためベリリウムの化合物は共有結合性を有している。第2周期元素は原子量が大きくなるにしたがってイオン化エネルギーも増大する法則が見られるがベリリウムはその法則から外れており、より原子量の大きなホウ素よりもイオン化エネルギーが大きい。これは、ベリリウムの最外殻電子が2s軌道上にあり、ホウ素の最外殻電子は2p軌道上にあることに起因している。2p軌道の電子は内殻に存在するs軌道の電子によって遮蔽効果(有効核電荷も参照)を受けるため、2p軌道に存在する最外殻電子のイオン化エネルギーが低下する。一方で2s軌道の電子は遮蔽効果を受けないため、相対的に2p軌道の電子よりもイオン化エネルギーが大きくなり、これによってベリリウムとホウ素の間でイオン化エネルギーの大きさの逆転が生じる。 ベリリウムの錯体もしくは錯イオンは、たとえばテトラアクアベリリウム(II)イオン (Be[(H2O)4]) やテトラハロベリリウム酸イオン (BeX4) のように、多くの場合4配位を取る。EDTA は他の配位子よりも優先してベリリウムに配位して八面体形の錯体を形成するため、分析技術にこの性質が利用される。たとえば、ベリリウムのアセチルアセトナト錯体に EDTA を加えると、EDTA がアセチルアセトンよりも優先してベリリウムとの間で錯体を形成してアセチルアセトンが分離するため、ベリリウムを溶媒抽出することができる。このような EDTA を用いた錯体形成においては Al のような他の陽イオンによって悪影響を受けることがある。 ===化合物=== ベリリウムは多くの非金属原子と二元化合物を形成する。無水ハロゲン化物としては、フッ素、塩素、臭素、ヨウ素との化合物が知られており、固体状態においては橋掛け結合によって重合している。フッ化ベリリウム (BeF2) は、二酸化ケイ素のような角を共有した BeF4 の四面体構造を取り、ガラス状においては無秩序な直鎖構造を取る。塩化ベリリウムおよび臭化ベリリウムは両端を共有した直鎖状の構造を取る。全てのハロゲン化ベリリウムは、気体の状態においては線形のモノマー分子構造を取る。塩化ベリリウムは金属ベリリウムを塩素と直接反応させることによって得られ、これは塩化アルミニウムと同様の製法である。 酸化ベリリウムはウルツ鉱型構造を取る耐火性の白色結晶であり、金属と同じぐらい高い熱伝導率を有する。酸化ベリリウムは2種類の多形が存在し、低温型の酸化ベリリウムは熱したアルカリ溶液などに溶解するが、高温では相転移してより安定な構造となり濃硫酸に硫酸アンモニウムを加えた熱シロップのみにしか溶解しなくなる。他のベリリウムと第16族元素との化合物は硫化ベリリウムやセレン化ベリリウム、テルル化ベリリウムが知られており、それらは全て閃亜鉛鉱型構造を取る。水酸化ベリリウムは両性を示し、その酸性水溶液が他のベリリウム塩を合成する出発原料とされる。 窒化ベリリウム (Be3N2) は非常に加水分解をしやすい、高融点な化合物である。アジ化ベリリウム (BeN6) およびリン化ベリリウム (Be3P2) は窒化ベリリウムと類似した構造を有していることが知られている。塩基性硝酸ベリリウムおよび塩基性酢酸ベリリウムは4つのベリリウム原子が中心の酸素イオンに配位した四面体構造を取る。Be5B、Be4B、Be2B、BeB2、BeB6、BeB12 のようないくつかのホウ素化ベリリウムも知られている。炭化ベリリウム (Be2C) は耐火性のレンガ色をした化合物であり、水と反応してメタンを発生させる。ケイ素化ベリリウムは同定されていない。 ===核的性質=== ベリリウムは、高エネルギーな中性子線に対して広い散乱断面積を有しており、その散乱断面積は0.01 eV を上回るものに対しておよそ6 バーンである。散乱断面積の正確な値はベリリウムの結晶サイズや純度に強く依存するため実際の散乱断面積は1桁ほど低くなり、ベリリウムが効果的に減速させることのできる中性子線のエネルギー範囲は0.03 eV 以上のものに限られる。このため、ベリリウムは高エネルギーな熱中性子は効果的に減速させることができるものの、エネルギーの低い冷中性子は減速させることができずに透過してしまう。この性質を利用して様々なエネルギーを持つ中性子の中から冷中性子のみを取り出すためのフィルターとして利用される。 ベリリウムの主な同位体である Be は (n, 2n) 中性子反応によって1つの中性子を消費して2つの中性子を放出し、2つのアルファ粒子に分裂する。したがって、ベリリウムの中性子反応は消費する中性子よりも多くの中性子を放出して系内の中性子を増加させる。 金属としてのベリリウムは大部分のX線およびガンマ線を透過するため、X線管などのX線装置におけるX線の出力窓として有用である。ベリリウムはまた、ベリリウムの原子核と高速のアルファ粒子との衝突によって中性子線を放出するため、実験における比較的少数の中性子線を得るための良好な中性子線源である。 ===同位体および元素合成=== ベリリウムの安定同位体は Be のみであり、したがってベリリウムはモノアイソトピック元素である。Be は恒星において宇宙線の陽子が炭素などのベリリウムよりも重い元素を崩壊させることによって生成され、超新星爆発によって宇宙中に分散する。このようにして宇宙中にチリやガスとして分散した Be は、分子雲を形成する原子の1つてして星形成に寄与し、新しくできた星の構成元素として取り込まれる。 Beは、地球の大気に含まれる酸素および窒素が宇宙線による核破砕を受けることで生成される。宇宙線による核破砕によって生成したベリリウム同位体の大気中の滞在時間は成層圏で1年程度、対流圏で1か月程度とされており、その後は地表面に蓄積する。Be はベータ崩壊によって B になるものの、その136万年という比較的長い半減期のために Be として地表面に長期間滞留し続ける。そのため、Be およびその娘核種は、自然界における土壌の侵食や形成、ラテライトの発達などを調査するのに利用される。また、太陽の磁気的活動が活発化すると太陽風が増大し、その期間は太陽風の影響によって地球に到達する銀河宇宙線が減少するため、銀河宇宙線によって生成される Be の生成量は太陽活動の活発さに反比例して減少する。したがって Be は、同様に宇宙線によって生成される C(炭素14)とともに太陽活動の変動を記録しているため、極地方のアイスコア中に残された Be および C の解析することで、過去の太陽活動の変遷を間接的に知ることができる。 核爆発もまた Be の生成源であり、核爆発によって発生した高速中性子が大気中の二酸化炭素に含まれるC と反応することによって生成される。これは、核実験試験場の過去の活動を示す指標の一つである。 半減期53日の同位体 Be もまた宇宙線によって生成され、その大気中の存在量は Be と同様に太陽活動と関係している。Be の半減期はおよそ 7 × 10 秒と非常に短く、この半減期の短さはベリリウムよりも重い元素がビッグバン原子核合成によっては生成されなかった原因ともなっている。すなわち、Be の半減期が非常に短いためにビッグバン原子核合成段階の宇宙において核融合反応に利用できる Be の濃度が非常に低く、そのような低濃度な Be が He と核融合して炭素を合成するにはビッグバン原子核合成段階の時間が不十分であったことに起因する。イギリスの天文学者であるフレッド・ホイルは、Be および C のエネルギー準位から、より多くの時間を元素合成に利用することが可能なヘリウムを燃料とする恒星内であれば、いわゆるトリプルアルファ反応と呼ばれる反応によって炭素の生成が可能であることを示し、それによって超新星によって放出されるチリとガスから炭素を基礎とした生命の創生が可能となることを明らかにした。 ベリリウムの最も内側の電子は化学結合に関与することができるため、Be の電子捕獲による崩壊は、化学結合に関与することのできる原子軌道から電子を奪うことによって起こる。その崩壊確率はベリリウムの電子構成に大部分を依存しており、核崩壊において希なケースである。 既知のベリリウム同位体のうち最も半減期が短いものは中性子放出によって崩壊するBe であり、その半減期は2.7 × 10 秒である。Be もまた非常に半減期が短く、5.0 × 10 秒である。エキゾチック原子核である Be および Be は、中性子が原子核の周りを周回する中性子ハローを示すことが知られている。この現象は、液滴模型において、古典的なトーマス・フェルミ理論による表面対称エネルギーの影響によって、中性子の分布が陽子分布よりも外部に大きく広がっていると理解することができる。 ベリリウムの不安定な同位体元素は恒星内元素合成においても生成されるが、これらは生成後すぐに崩壊する。 なお、原子番号が偶数で、安定同位体が1つしかない元素はベリリウムだけである。通常、原子番号が20以下の元素においては、ベーテ・ヴァイツゼッカーの質量公式のペアリング項に現われるように、陽子と中性子が偶数であるものは奇数のものと比較して結合エネルギーが大きく安定であるのに加え、対称性項に現われるように陽子数と中性子数が同数のものほどのため安定となるが、陽子数および中性子数が共に4である Be は例外的に不安定である。これは、Be の崩壊生成物である He が魔法数を取っているため非常に安定であることによる。 ==分析== ベリリウムの性質はアルカリ土類金属よりもアルミニウムなどと類似しているため、ベリリウムの分析方法はアルミニウムや鉄、クロム、希土類元素などと同一のグループとして扱わる。このようなグループはアンモニアによるアルカリ性の条件において水酸化物の沈殿を生じることからアンモニア属と呼ばれる。 ===定性分析=== ベリリウムはアルカリ性の状態で3, 5, 7, 2’, 4’‐ペンタヒドロキシフラボン(モリン)と反応させることで黄色の蛍光を観察することができるため、この反応を利用して定性分析を行うことができる。この蛍光は日光ではあまり発色しないため、発色を観察するためには紫外線の照射を行う。このベリリウムとモリンとの反応を阻害するようなイオンが共存していなければ、1 ppmの濃度でも十分に強い発色を観察することができるほどに分析感度が高く、この方法での検出限界は0.02 ng (10 g) である。モリンはリチウムやスカンジウム、大量のカルシウムや亜鉛などとも反応して蛍光を発するため、これらのイオンが共存しているとベリリウムの検出を阻害するが、その発光強度は弱いため通常は問題とならない。また、カルシウムはピロリン酸、亜鉛はシアン化物を加えることによってそれらの元素とモリンとの反応を抑制することができる。 ===定量分析=== ベリリウムはアンモニアによって水酸化物の沈殿を生じるため、これを利用して重量分析を行うことができる。この水酸化物の沈殿は pH 6.5 から 10 までの範囲で生じ、アンモニア添加量が過剰になり pH が高くなりすぎると水酸化物の沈殿が再溶解してしまう。得られた水酸化物を濾過、洗浄した後、強熱することで水酸化ベリリウムを酸化ベリリウムとし、その重量を計量することでベリリウム濃度が分析される。この方法を用いる場合、分析試料の溶液中に炭酸塩もしくは炭酸ガスが含まれると、水酸化ベリリウムとして沈殿せずに炭酸ベリリウムとして溶液中に残ってしまうため分析結果に誤差が生る原因となる。また、沈殿の洗浄が不十分で塩化物が残留していると、強熱時に水酸化ベリリウムと反応して塩化ベリリウムとなって揮発してしまうため、こちらも誤差の原因になる。鉱石中のベリリウムの分析などの多成分中のベリリウムを分析する際には、アルミニウムや鉄などの成分がベリリウムと同様の条件で水酸化物の沈殿を生成するため、前処理を行いこれらの元素を分離する必要がある。通常用いられる方法としては、一旦不純物を含んだ水酸化物の沈殿を生成させ、その水酸化物を炭酸水素ナトリウムで処理してベリリウムを水溶性の炭酸塩として水に溶解させることで鉄やアルミニウムから分離する方法が用いられる。また、ケイ素を多く含む場合は炭酸ナトリウムを用いたアルカリ溶融法が用いられる。このような古典的手法のほか、イオン交換膜法や水銀電極を用いた電気分解などの方法も利用される。 溶液中の微量のベリリウムの分析には電気炉加熱原子吸光光度法 (AAS) もしくは誘導結合プラズマ発光分析法 (ICP‐AES)、誘導結合プラズマ質量分析法 (ICP‐MS) が用いられる。AAS の吸収波長は234.9 nm であり、ICP‐AES の発光波長は313.042 nm が用いられる。AAS では試料溶液は塩酸もしくは硝酸で酸性に調整し、ICP‐AES および ICP‐MS では硝酸で酸性に調整して分析を行う。海水のような他の塩類を多く含む試料を測定する場合には、EDTA およびアセチルアセトンを用いて溶媒抽出法によりベリリウムを分離する。最も感度の高いベリリウムの分析手法としては、トリフルオロアセチルアセトンを用いて揮発性のベリリウム錯体としてガスクロマトグラフィーを用いて分析する方法が挙げられ、検出限界0.08 pg (10 g) という分析精度が1971年に報告されている。 ==存在== ベリリウムは宇宙において非常に希な元素で、宇宙全体の平均濃度の推定値は重量濃度で1 ppb(10億分の1)であり、ニオブより原子量の小さい元素の中ではホウ素と並んで最も存在率が小さい。太陽内部でも重量濃度0.1 ppbと希であり、レニウムと同程度の存在量である。一方、地球におけるベリリウム濃度は、地表の岩石中の重量濃度の推定値でおよそ2.8から5 ppm、海水中でおよそ0.0006 ppb、河川の水においては海水中よりは多くおよそ0.1 ppbである。太陽中のベリリウム濃度が地球上のベリリウム濃度と比較して著しく低い原因は、太陽の燃焼における核反応で消費されるためと考えられている。 地表の岩石中のベリリウム濃度は前述のようにおよそ2.8から5 ppmであるが、ベリリウム鉱石によって高濃度にベリリウムが存在する地域もある。ベリリウムは約4,000種類の既知の鉱石のうち、約100種類の鉱石において主成分となっており、その中でも重要なものは、ベルトラン石(英語版) (Be4Si2O7(OH)2)、緑柱石 (Al2Be3Si6O18) およびフェナカイト (Be2SiO4) である。このようなベリリウム鉱石は主にマグマの冷却過程に由来するペグマタイト中で濃縮される。また、ベリリウム鉱石は凝灰岩や閃長岩からも発見されており、これらはすべて火山活動に由来する火成岩や火山砕屑岩である。また、土壌中のベリリウムは植物によってわずかに吸収され、カラマツなど特定の植物はベリリウムを蓄積する。 大気中のベリリウム濃度は先進国の都市部でおよそ0.03から0.07 ng/mほどであるが、ベリリウムの大気への主要供給源は化石燃料の燃焼によるものであるため、工業化の進んでいない国においてはさらに低濃度になると推測されている。1987年のアメリカ合衆国環境保護庁のデータによれば、自然におけるベリリウムの大気への放出量は年間5.2 tほどであるが、化石燃料の燃焼を含む人類の活動によるベリリウムの大気への放出量は年間187.4 tにも及ぶ。 ==生産== ベリリウムは高温状態で酸素と高い親和性を示すなどの性質を有しているため、ベリリウム化合物から金属ベリリウムを精製することは非常に困難である。19世紀の間は金属ベリリウムを得るための方法として、フッ化ベリリウムとフッ化ナトリウムの混合物を電気分解するという方法が用いられていた。しかしこのような方法は、ベリリウムの融点が高いために金属ベリリウムの製造に類似した方法を用いるアルカリ金属の製造と比較して多くのエネルギーが必要だった。20世紀の初めには、ヨウ化ベリリウムの熱分解によるベリリウムの生産法が研究され、ジルコニウムの生産法に類似した方法が成功を収めたが、この方法では大量生産において経済的に採算が取れないことが判明した。2007年時点では、ベリリウム鉱石中の酸化ベリリウムを処理することによってフッ化ベリリウムとし、それをマグネシウムを用いて還元させることで生産されている。 この金属ベリリウムの精製に用いられるフッ化ベリリウムは、主にベリリウム鉱物である緑柱石を原料として生産される。ベリリウム鉱石は石英と同程度の比重であるために比重差を利用した選鉱を行うことができず多くの場合選鉱は手作業に頼っているが、ベリリウム鉱石にガンマ線を照射することでベリリウムから放出された中性子を検出して選別する自動装置も開発されている。こうして選鉱された緑柱石からベリリウムを抽出するために硫酸処理が行われるが、鉱石のままでは硫酸と400度で反応させたとしてもベリリウムはほとんど溶解しないため、前処理としてアルカリ処理もしくは熱処理が行われる。アルカリ処理はケイ素を多く含む試料を分析する際に用いられるアルカリ溶融法と同様の原理でケイ素と金属を分離する方法であり、ベリリウム鉱石に水酸化ナトリウムや炭酸ナトリウムのようなアルカリを加えて溶融させる。熱処理は1650度以上の高温に加熱することで緑柱石を溶融させて鉱石中のベリリウムを完全に酸化ベリリウムとした後、再度900度に加熱することで二酸化ケイ素から遊離させてベリリウムの溶解性を高める方法である。このようにしてベリリウムを溶出させやすいように前処理を行った後、硫酸処理を行うことで硫酸ベリリウムの溶液として鉱石からベリリウムを抽出することができる。得られた硫酸ベリリウム溶液をアルカリで中和することで水酸化ベリリウムの沈殿が得られ、これをフッ化アンモニウムと反応させた後、熱分解させることによってフッ化ベリリウムが生産される。また、ベリリウム鉱石中からベリリウムを分離抽出する方法としては他にも、ヘキサフルオロケイ酸ナトリウムを加えて700度で溶融させテトラフルオロベリリウム酸ナトリウムとして抽出する方法や、ベリリウム鉱石を炭素と共に塩素気流下、630度以上で塩素と直接反応させて塩化ベリリウムとして抽出する方法などがある。このようにして得られた塩化ベリリウムを溶融塩電解することでも金属ベリリウムを生産することができる。この方法では、塩化ベリリウムの電気伝導度が非常に低く電解効率が悪いため、塩化ナトリウムが助剤として加えられる。 工業規模でのベリリウム産出に関与しているのはアメリカ、中国およびカザフスタンの3国のみである。2008年時点のアメリカにおけるベリリウムおよびベリリウム化合物の主な生産者はブラッシュ・エンジニアード・マテリアルズ社である。ブラッシュ・エンジニアード・マテリアルズ社では、ベリリウムを製錬するための原料の大部分を自身が所有するスポール山の鉱床(ユタ州)から産出されるベリリウム鉱石(ベルトラン石を含む)から得ている。ベリリウムの製錬および他の精製は、ユタ州デルタ(英語版)の北10マイルにある工場で行われており、その場所はインターマウンテン・パワー・プロジェクトによる発電設備から近くかつ町からも離れているために選ばれた。1998年から2008年までの間、ベリリウムの世界の生産量は343トンからおよそ200トンにまで減少しており、200トンのうち176トン (88%) はアメリカで生産されている。真空鋳造によって製造されたベリリウムインゴットの2001年におけるアメリカ市場でのキログラム単価は745ドルであった。 ==用途== ベリリウムの用途には、その物理的性質を利用したX線装置や構造材、鏡(ベリリウムミラー)、合金材料、音響材料としての用途、磁気的性質を利用した工具製造、電子物性を利用した電子材料、核的性質を利用した中性子源や、ベリリウム鉱石の外観の美しさを利用した宝石としての用途が挙げられる。この中には核兵器やミサイル、射撃管制装置などの軍事的用途も含まれ、そのような分野に関する詳細な情報を入手することは難しい。また、ベリリウムの毒性により、過去に用いられていた蛍光材料としての用途は既に他の代替材料に置き換えられており、ベリリウム銅合金なども代替材料の開発が進められている。 ===X線透過窓=== ベリリウムはX線を透過させるための窓に用いられる。ベリリウムは原子番号が小さく電子の数が少ないため、X線に対する透過率が非常に高い。そのため、X線源やビームライン、X線望遠鏡などの検出器用の窓に用いられる。この用途においては、X線像に不要な像が写り込むことを回避するためにベリリウムの純度と清潔さが最も要求される。また、X線探知機のX線放射窓としてもベリリウムの薄膜が用いられている。これは、ベリリウムのX線吸収率が非常に低いことによって、高強度のシンクロトロン放射光に典型的な低エネルギーX線に起因する熱の影響を最小限に留めることができるためである。さらに、シンクロトロンによる放射線試験のための真空気密窓およびビームチューブの素材にはベリリウムのみが用いられている。他にも、エネルギー分散型X線分析などの様々なX線を利用した分析機器においてはベリリウム製のサンプルホルダーが常用される。これは、ベリリウムから発生する特性X線や蛍光X線の有するエネルギーが100 eV以下と分析試料由来のX線と比較して非常に低く、試料の分析データに影響を与えないためである。 ベリリウムはまた、素粒子物理学の実験装置において高エネルギー粒子を衝突させる場所周辺のビームラインを構築するための素材として用いられる。たとえば、大型ハドロン衝突型加速器の実験における主要な4つの検出器全て(ALICE検出器、ATLAS検出器、CMS検出器(英語版)、LHCb検出器(英語版))やテバトロン、SLAC国立加速器研究所において用いられている。このような用途においてはベリリウムが持つ様々な性質が効果的に働いている。すなわち、ベリリウムの原子番号の小ささに由来する高エネルギー粒子に対する透過性が比較的高いという性質や、ベリリウムの密度が低いという性質によって、粒子の衝突によって発生した生成物を重大な相互作用なしに周囲の検出器へと誘導することができる。また、ベリリウムは剛性が高いためベリリウムのパイプ内を非常に高真空にでき、残留した気体分子による相互作用を最小限にすることができる。さらに、ベリリウムは熱的に非常に安定しているため、絶対零度よりわずかに高い程度の極低温においても正常に機能することができる。その上、ベリリウムの反磁性を有する性質によって、粒子線を収束させて検出器まで導くために用いられる複雑な多極電磁石システムへの干渉を防ぐことができる。 ===機械的用途=== ベリリウムは剛性が大きく、軽く、広い温度範囲における寸法安定性を有しているため、防衛産業や航空宇宙産業において軽量な構造部材として、たとえば、高速航空機やミサイル、宇宙船、通信衛星などに用いられる。液体燃料ロケットには高純度ベリリウムのロケットエンジンノズルが用いられている。また、少数ではあるものの自転車のフレームにも用いられている。また、ベリリウムは硬く、融点が高く、さらに非常に優れたヒートシンク性能を有しているため、軍用機やレース車両のブレーキディスクに用いられていたが、環境への配慮のため代替材料が用いられている。 ベリリウムは優れた弾性剛性を有しているため、例えばジャイロスコープによる慣性航法装置や光学系のための支持構造物などの精密機器に利用される。 ===ベリリウムミラー=== ベリリウムミラーは、気象衛星のような低重量および長期間の寸法安定性が重要とされる用途に対する大面積の鏡(しばしばハニカムミラー(英語版))に用いられる。たとえば、ジェイムズ・ウェッブ宇宙望遠鏡の主鏡はベリリウム製であり、同様の理由でスピッツァー宇宙望遠鏡もベリリウム製の反射望遠鏡が用いられている。 また、より小さなベリリウムミラーは光学的な制御システムや射撃管制装置に用いられる。例えば、ドイツの主力戦車であるレオパルト1やレオパルド2に用いられている。これらのシステムには鏡の非常に迅速な動きが要求されるため、ベリリウムの低重量かつ高剛性な性質が必要とされる。通常このベリリウムミラーは、光学的仕上げ材による研磨をより容易に行えるように無電解ニッケルめっきによって被覆される。しかしながら極低温条件で用いる場合などには、熱膨張率の違いによって被覆材に歪みが生じてしまうため、このような用途においては被覆材を用いずに直接磨き上げられる。 ===磁気的用途=== 機雷などの爆発物は磁気に反応して爆発する磁気信管を一般的に備えているため、軍による機雷の除去作業では磁性を持たないベリリウムやその合金から作られる器具が用いられる。それらはまた、強い磁場を発生させる核磁気共鳴画像法 (MRI) の機械の近くで用いられるメンテナンス器具や建設材料にも用いられる。無線通信や強力なレーダー(通常は軍用)の分野においては、非常に磁気の強いクライストロン (Klystron) やマグネトロン、進行波管などの高レベルなマイクロ波を発生させるための送信機が使われるため、それらを調整するためにもまたベリリウム製の手工具が用いられる。 ===音響材料=== ベリリウムは低質量かつ高剛性であるため、およそ12.9 km/sと高い音の伝導率を示す。ベリリウムのこの物性を利用して、高音域スピーカーの振動板として主にドーム型に成形し使用される。しかしながら、ベリリウムはしばしばチタン以上に高価であり、その脆性の高さにより成形が困難であり、処置を誤れば製品の毒性を封印できないため、ベリリウム製のツイーターはハイエンドな家庭用や業務用オーディオ、Public Addressなどの用途に限られている。高音域スピーカーの振動板としての使用例としては、ヤマハ・パイオニア等の音響機器メーカーの製品があり、グレース製レコード針のカンチレバーに用いられた例がある。また、その熱伝導率の良さから、セラミック送信管(アイマック(英語版)社製、eimac 8873)の本体および純正放熱用熱伝導体として酸化ベリリウムが採用された例がある。ベリリウムは他の金属との合金としても頻繁に利用されるが、その合金組成に明記されないこともある。 ===核物性の利用=== ベリリウムの薄いプレートやホイールは、しばしばテラー・ウラム型のような熱核爆弾において、核融合燃料に「点火」するためのトリガーである第一段階の核分裂爆弾を囲うプルトニウムピットの最外層として用いられる。このようなベリリウムの層は、Pu を爆縮させるための良好な核反応促進材であり、初期の実験的な原子炉において中性子反射減速材として利用されていたように良好な中性子反射体でもある。 ベリリウムはまた、比較的少ない中性子を必要とする原子炉規模以下の実験用途において、一般的に中性子源として用いられる。この目的のための Be ターゲット材は、Po や Ra、Pu、Am などの放射性同位体から放出される高エネルギーなアルファ粒子を衝突させることで中性子が取り出される。この時に起こる核反応によって、Be は C になり、遊離した中性子はアルファ粒子が移動するのと同じ方向へ放出される。ベリリウムはそのような中性子源として、urchin と呼ばれる中性子点火器(英語版)として初期の原子爆弾にも利用されていた。 ベリリウムは欧州連合のトーラス共同研究施設における核融合研究所においても利用されており、より高度なITERにおいてプラズマに直接接する部分の素材としても利用されている。ベリリウムはまた、その機械的、化学的、核的な物性の組み合わせの良さから、核燃料棒の被覆素材としての利用も提案されている。フッ化ベリリウムは、溶融塩原子炉設計の多くの仮定において、溶媒、減速材および冷却材としての使用が想定されている、共晶塩であるフッ化リチウムベリリウム(英語版)を構成する塩の1つである。 ===電子材料=== ベリリウムはIII‐V族半導体においてP型半導体のドーパントである。それは、分子線エピタキシー法 (MBE) によって製造されるヒ化ガリウムやヒ化アルミニウムガリウム(英語版)、ヒ化インジウムガリウム、ヒ化インジウムアルミニウム(英語版)のような素材において広く用いられている。クロス圧延されたベリリウムのシートはプリント基板への表面実装における優れた構造支持体である。電子材料におけるベリリウムの重要な用途は、構造支持のみならずヒートシンク素材としての用途がある。この用途においては、アルミナおよびポリイミドガラス基盤と調和した熱膨張率が必要とされる。これらの電子的用途のために特別に設計されたベリリウム‐酸化ベリリウム複合材料は「E‐Material(英語版)」と呼ばれ、様々な基盤素材に合わせて熱膨張率を調整できる利点がある。 電気絶縁性および優れた熱伝導率、高い耐久性、硬さ、非常に高い融点という複数の特性が要求されるような多くの用途において、酸化ベリリウムが利用される。酸化ベリリウムは、電気通信のための無線周波送信機におけるパワートランジスタの絶縁基盤として多用される。酸化ベリリウムはまた、酸化ウランの核燃料ペレットにおいて熱伝導性を向上させるための用途が検討されている。ベリリウム化合物は蛍光灯にも用いられていたが、ベリリウムを用いた蛍光灯の製造工場で働く労働者にベリリウム中毒が発症したため、この用途でのベリリウムの利用は中止された。 ===宝石=== ベリリウム鉱物である緑柱石のうち状態の良い物は宝石として利用される。緑柱石由来の宝石としては、不純物としてクロムを含み濃い緑色を呈するエメラルド、2価の鉄を含み水色を呈するアクアマリン、3価の鉄を含み黄色を呈するゴールデンベリル、マンガンを含むレッドベリルやモルガナイトなどがある。 同じくベリリウム鉱物である金緑石からなる宝石には、宝石の表面に猫の目のような細い光の筋が見えるキャッツアイ効果を示す猫目石や、光源の種類によって見える色が変化する変色効果を示すアレキサンドライトといった特殊な効果を示すものがあり、キャッツアイ効果と変色効果を併せ持つものも存在する。アレキサンドライトの赤紫色は不純物として含まれる鉄によるものである。 ===合金=== 銅 (Cu) に0.15%から2.0%程度を混ぜてベリリウム銅合金として利用される。銅よりもはるかに強く、純銅に近い良好な電気伝導性がある。膨張率はステンレス鋼や鋼(はがね)に近い。ゆっくり変化する磁界に対し高い透磁率をもつ。銅合金の中でも優れた機械的強度を持っており、電気回路のコネクタなどで使われるバネの材料に用いられる。また、磁化しにくい・打撃を受けても火花が出ない特徴を持つことから、石油化学工業などの爆発雰囲気の中で使用する防爆工具に安全保持上用いることもある。ベリリウム銅合金はまた、Jason pistols と呼ばれる船から錆やペンキをはぎ取るのに用いられる針状の器具にも用いられる。また、銅の代わりにニッケルを用いた合金も同様に利用される。ベリリウム銅合金はベリリウムの持つ毒性のために代替材料の開発が進められており、実用化されているものもある。 また、アルミベリリウム合金も軽量かつ強度が高い特徴があり、F1レーシングカーの部品(安全性の観点から2004年以降は使用禁止)や航空機の部品にも使用されている。 ===堆積学的履歴解析=== 堆積学分野では同位体のBeおよびBeと鉛の同位体Pbの存在比率により、地層の堆積物の輸送がどのようなイベントで生じたのか、つまり「ゆっくりと安定した堆積なのか」「河川の氾濫や洪水、嵐による急激な堆積なのか」などを調べることが可能である。 ==危険性== ===人体への影響=== ベリリウムは人体への曝露によってベリリウム肺症もしくは慢性ベリリウム症として知られる深刻な慢性肺疾患を引き起こすように極めて毒性の高い物質であり、水棲生物に対しても非常に強い毒性を示す。また、細胞組織に対して腐食性であるため、可溶性塩の吸入によって化学性肺炎である急性ベリリウム症を引き起こし、皮膚との接触によって炎症が引き起こされる。 慢性ベリリウム症は数週間から20年以上と非常に個人差の大きい潜伏期間があり、その死亡率は37%で、妊婦においてはさらに死亡率が高くなる。慢性ベリリウム症は基本的には自己免疫疾患であり、感受性を有する人は5%以下であると見られている。慢性ベリリウム症におけるベリリウムの毒性の機序は、ベリリウムが酵素に影響を与えることで代謝や細胞複製が阻害されることによる。慢性ベリリウム中毒は多くの点でサルコイドーシスに類似しており、鑑別診断においてはこれらを見分けることが重要とされる。 急性ベリリウム症は基本的には化学性肺炎であり、慢性ベリリウム症とは異なる機序によるものである。その定義は「継続期間1年未満のベリリウム由来の肺疾患」とされており、ベリリウムへの曝露量と症状の重さには直接的な因果関係が見られる。ベリリウム濃度が1000 μg/m以上になると発症し、100 μg/m未満では発症しないことが明らかとなっている。 急性ベリリウム症は最高曝露量の設定による作業環境の改善に伴い減少しているが、慢性ベリリウム症はベリリウムを扱う産業において多く発生しており、ベリリウムの許容濃度を順守している工場においても慢性ベリリウム疾患の発症した例が確認されている。また、このような産業に関わらない人々にも化石燃料の燃焼に起因する極微量の曝露がみられる。 ベリリウムおよびベリリウム化合物は、WHO の下部機関 IARC より発癌性がある (Type1) と勧告されている。カリフォルニア州環境保健有害性評価局が算出した公衆健康目標のガイドライン値は1 μg/L、有害物質疾病登録局が算出した最小リスク濃度は0.002 mg/kg/day(体重1キロ当たり、1日に0.002mg)とされている。ベリリウムは生体内で代謝されないため、一度体内に取り込まれたベリリウムは排出されにくく、主に骨に蓄積されて尿により排出される。 ===ベリリウム症の歴史=== 1933年(昭和8年)、ドイツにおいて「化学性肺炎」という形で急性ベリリウム症が初めて報告され、ついで1946年(昭和21年)には慢性ベリリウム症がアメリカで報告された。このような症例は蛍光灯工場やベリリウム抽出プラントにおいて多くみられたため、1949年(昭和24年)には蛍光灯におけるベリリウムの利用が中止され、1950年代初頭にはベリリウムの最高曝露濃度が25 μg/mに定められた。こうして作業環境が大幅に改善されたことによって急性ベリリウム症の罹患率は激減したが、核産業や航空宇宙産業、ベリリウム銅などの合金、電子装置の製造などの分野においてはベリリウムの利用が続いている。1952年(昭和27年)、アメリカ合衆国でベリリウム症例登録制度がはじまり、1983年(昭和58年)までに888件の症例が登録された。この制度においては6つの診断基準が定められ、そのうち3つが当てはまると慢性ベリリウム症であるとして登録されるようになっていた。検査技術の向上した2001年(平成13年)現在では、肺の経気管支の生体組織診断などによる組織病理学的な確認、リンパ球幼若化試験およびベリリウムの曝露歴の3点が診断基準とされている。ベリリウムは原子爆弾の核反応促進材に利用されるため、初期の原子爆弾の開発に携わった研究者の幾人かはベリリウム中毒によって命を落としている(例えばアメリカの核物理学者でありマンハッタン計画にも携わったハーバート・L・アンダーソン(英語版))。 ===爆発性=== ベリリウムは酸化被膜のために反応性に乏しい金属であるが一度着火すると燃焼しやすい性質であるため、空気中にベリリウムの粉塵が存在している状態では粉塵爆発が起こる危険性がある。 =讃岐うどん= 讃岐うどん(さぬきうどん)は、香川県(旧讃岐国)の特産うどんである。 ==概要== 香川県において、うどんは地元で特に好まれている料理であり、一人あたりの消費量も日本全国の都道府県別統計においても第1位である。料理等に地域名を冠してブランド化する地域ブランドの1つとしても、観光客の増加、うどん生産量の増加、知名度注目度の上昇などの効果をもたらし、地域ブランド成功例の筆頭に挙げられる。日経リサーチの隔年調査では地域ブランドの総合力において350品目中1位となり(2008年、2010年連続)、観光客は行き先選択の理由、香川の魅力の第一にうどんを挙げ、2011年には香川県庁と香川県観光協会はうどんを全面的に推しだした観光キャンペーン「うどん県」をスタートさせた。 古くから良質の小麦、塩、醤油、そして地元ではイリコと呼ばれている煮干しなどが、讃岐国(現在の香川県)の特産品であり、それらうどんの材料の入手が容易であった。元禄時代の一枚の屏風絵にも複数のうどん屋を認めることができる。時代が下り、現在の地域ブランド名称として広く知られるようになったのは、うどんを名物とし始めた1960年代頃と考えられている。 香川県のうどん店や家庭で作られるうどんを指すとともに、日本全国各地の飲食店でもうどん料理が当名称で供されていたり、冷凍食品などとして手軽に購入できたりするなど、香川県外の地域でも容易に食せる料理として広まっている。代表的なうどんの一種として有名になったことや、2006年から開始された地域団体商標制度への登録は「地名+商品名」でも、一般的に使用されている名称で全国各地で作られている物は難しいという見解を特許庁は示しており、該当する商品(後述)において「本場」「特産」などと表示する場合のみ、公正競争の観点から規制を設けた程度にとどまっている。本場でしか味わえない点と、どこでも容易に触れ得る点の両面から、「本場の味を試したい」という欲求を呼び起こすことに成功している一方で、日本国外でのブランド防衛では後手に回った事例も見られる(後述)。 小麦粉の切り麺であるうどんは香川にしかないものではなく、古来全国にあるが、讃岐は特にうどんのトップブランドとして広く認知されており、各地のうどんを紹介する際に「第二の讃岐うどん」といった表現が用いられたり、特にゆかりはなくとも「讃岐」「讃岐風」を謳われたりしている。 香川県民の生活の中で、うどんは特別な位置を占めている。香川県におけるうどん生産量の推移(ゆで麺・生麺・乾麺の合計、香川県農業生産流通課調べ)は、1980年代は1万トン台中盤から2万トン台中盤、1990年代は3万トン強から4万トン台後半、2000年代前半は5万トン弱から6万トン台中盤であった。2009年の生産量は59 643トン(小麦粉使用量)、全国1位であり、2位の埼玉県の2倍以上となっている。1980年にはわずか5%でしかなかった日本国内シェアは、以後四半世紀で四半分に迫るほどの伸びを見せた。 香川県民を対象とした調査によると、うどんを「週に1回以上食べる」人の割合は90.5%、「まったく食べない」人は9.5%であり、「週1回」が最も多く50.8%であった。 うどんは観光客向けの名物というよりは、老若男女問わず県民の生活に密着した食物・食習慣となっている。うどん店は高松市・中讃を中心に県全域に分布し、たとえば観光用に店鋪の特定集中区域はない。彼らは県外に出てもうどんへのこだわりを隠さず、里帰りにうどんを食して帰郷を実感するほどである。 うどんにまつわる地域行事も存在する。半夏生(7月2日頃)にうどんを食べるという慣わしがあり、この習慣に基づきさぬきうどん協同組合が毎年7月2日を「さぬきうどんの日」と制定しているほか、大晦日には年越し蕎麦ではなくうどんを食べる県民が一定の割合で存在しており(ただし2010年の四国学院大学の学生による調査では「年越し蕎麦派」が「うどん派」を上回っている)、玉売のうどん店や製麺所は多忙を極める。また新たな行事やイベントのプロモーション活動にも余念なく、2009年からは「年明けうどん」をプロデュースするなどしている。 ==名称== 日本国内では、名称に対する使用制限はない。理由として、全国生麺類公正取引協議会と公正取引委員会は「どこで作っても物は同じ」との見解を示している。この要因によって全国各地で当名称を名乗るうどんが作られている。2000年代初旬頃までうどん業界では「讃岐うどんは香川産」という常識が存在していたが、人気の全国的な拡大によってこの常識は崩れていった。 ただし、生めん類において「名物」「本場」「特産」などを表示する場合にのみ、公正競争の立場から次のような規制が適用される。 香川県内で製造されたもの手打、手打式(風)のもの加水量 ‐ 小麦粉重量に対し40%以上食塩 ‐ 小麦粉重量に対し3%以上熟成時間 ‐ 2時間以上ゆでる場合 ‐ ゆで時間約15分間で十分アルファ化されていること香川県外ではしばしば看板やメニューの標記として、具なしのうどん(香川で「かけ」「かやく」などと呼ばれているもの)や店独特のうどんメニューの名称として当名称が用いられることがある。 ===名称に関するトラブル=== 生めん類で名産・特産・本場・名物などを表示しなければ、自由に使用可能であるため(前述)、それに起因したトラブルも発生している。 味の劣る物・粗悪品・類似品の流通。2008年3月、台湾で類似の名称で14の商標が現地の冷凍食品メーカーによって商標登録され、当名称を店名に使用した現地日本人の店に対し、2007年11月に権利を保有していた台湾企業が名称の使用停止請求を行った。現地日本人うどん店経営者は台湾の経済部(経済産業省)知的財産局に商標登録無効を求める審判を申し立て、2010年11月に同局がこれを認め商標登録を無効とした。権利を保有していた台湾企業は、この決定を不服として取り消しを求めた行政訴訟を起こしたが、知的財産法院(裁判所)は2011年12月8日までに全14件のうち4件を却下する判決を下し、残る10件についても同じく却下する判決が2013年8月までに確定した。中華人民共和国上海市在住の個人による「讃岐烏冬」名称の商標登録申請が問題化し、2009年8月にこの申請に対して異議申し立てを行ったため、中国商標局はこれを認めない決定を下したことを、香川県が2011年7月19日に発表した。 ==歴史== 一般的なうどんに共通する歴史に関してはうどん#歴史の項目を参照のこと。ここでは、特に香川県のうどんに係わる歴史を述べる。 ===江戸時代以前=== 典型的な瀬戸内海式気候に属するため日照時間が長く、また平地が多い事から穀物栽培に適している。古く条里の時代から畿内を凌ぐほどの水田が広がる一大穀倉地であったが、主要な作物は長らくイネであった。やがて戦国時代から江戸時代にかけて二毛作が盛んになり、小麦の生産が増加した。降雨も河川も少ないこの地で水田から一度水を抜いて畑にする二毛作は、少ない水を徹底的に使う治水開発を促し、今日見られるおびただしいため池が広がる讃岐平野の景観もこの頃に形作られた。 商品作物が奨励された江戸中期以降は米・小麦以外にも様々な作物が生産されるようになり、少雨の気候は製塩に適するため19世紀初頭から坂出に塩田が開発された。醤油の生産はそれより古くから小豆島や引田で行われていた。しかし江戸以前は醤油は高級品であり、産地の庶民が気軽に地元消費していたとは考えにくく、江戸中葉以前の讃岐におけるうどんの形がどのようなものであったか(あるいは他所との違いは無かったか)は、なお研究を待たねばならない。なお、当時の大消費地におけるうどんのレシピには、垂れ味噌または煮貫き(いずれも味噌由来)を用いるとあり、醤油の記載はない。 讃岐でのうどん屋の記述が、元禄末(18世紀初頭)に描かれた『金毘羅祭礼図屏風』に現れる。200軒あまりの建物がひしめく金刀比羅宮門前町の活況を描いたこの屏風には3軒のうどん屋が認められ、いずれも絵馬様イカ型の特徴的な形の招牌(しょうはい、看板のこと)を掲げて営業している。同時代の浮世草子『好色一代男』(1682年)の挿絵でも、三河国は芋川に開いたうむどん屋(うどん屋)が同じ形の招牌を掲げている。この形状の招牌は、讃岐に限らず麺類を出す店の看板として一般的であった。 江戸時代後期には金毘羅参りを対象とした旅籠が増え、その1階がうどん屋であることが多かった。また参拝客が船で発着する丸亀や多度津にもうどん屋があった。うどん屋の店頭には麺を茹でる釜が据えられ、うどんを入れた砥部焼の鉢、付け汁を入れた猪口、そしてショウガやネギが供され、漬けて食べる形式が一般的だった。 ===明治時代 ‐ 戦前=== 明治時代には夜なきうどんの行商人が高松市内に増え、1887年頃には天秤棒の両端に縦長の箱を下げ、頂部に石油ランプを灯して鈴を鳴らしながら売り歩いていた。箱の下部には丼鉢や湯沸かしを入れ、総重量は60‐70kgだったといわれる。20世紀に入るとこれらの業者は全て車輪付き屋台を用いるようになり、その両脇に飾り格子をはめて行燈を吊るしていた。うどんは鰹節と出汁を掛けたぶっかけで、人気があったという。夜なきの行商人は生麺の卸売業者(玉卸し屋)と契約して道具を借り、営業を行っていた。当時は5軒の玉卸し屋があったが、大正時代にはのれん分けの関係を基に3系統に分かれ、第二次世界大戦終戦までこれが続いていた。昭和初期には飾りガラスなどを凝らした屋台が並び、夜の高松の風物詩と呼ばれた。 農村部では水車の動力を利用した製粉業が盛んになり、粉を仕入れる小規模な製麺業者も増加した。1930年代にはエンジン式の製粉機が普及し始め、20世紀後半には完全に水車に取って代わっている。同時期には機械式製麺も全国に広がったが、香川県では手打ちの製麺所が残った。 20世紀前半の香川県では年中行事や冠婚葬祭でもうどん料理が振る舞われ、「うどんが打てぬようでは嫁にも行けない」という言葉があったという。 ===第二次世界大戦以後=== 終戦直後の小麦粉が十分に手に入らない中、高松市などでは代用品としてドングリや芋の粉を用い、足りない粘り気はワラビの粉やところてんで繋ぐなどしてうどんが作られていた。小麦粉の供給は、1949年頃から闇市を中心に回復してきた。 うどんは主に家庭で消費され、また喫茶店や大衆食堂を含む様々な飲食店にうどんは置かれた。1960年代にはその数3,000から3,500と推定される。当時はまだうどん専門店と呼べるような店は高松市内でもほとんど存在していなかったが、1960年代半ばから香川県独自のセルフサービス方式のうどん専門店が登場した。1970年前後からはメニュー数種を揃えたうどん専門店も増え始め、現在に至る香川県におけるうどん店の状況が形作られていった(香川県におけるうどん店の業態に関しては後述する)。飲食店の分化・専門化が進んだことでうどんを扱う飲食店の総数は逆に減少した。 1963年2月に高松駅の構内に立ち食いうどん店が開店した。当時、立ち食い蕎麦は全国の多くの駅にあったが、うどんは前例がなかった。まもなく高松駅構内には2号店もオープンし、テレビなどで「食べる民芸品」として県内で味の評価の高い店が紹介された。 1969年には宇高連絡船デッキの立ち食いうどんコーナーが営業を開始した。また、この頃にポリエチレン包装など衛生面の進歩により保存期間が伸び、土産品としての販売も上昇してきた。 この頃まではうどんが香川の名物であるという認識はそれほど一般的ではなかったが、1970年の大阪万博で和食チェーンの京樽の運営するレストランのメニューの一つとして供され、ガラス越しに手打ちを実演し毎日6,000食を売り切るなどし、知名度も上昇していった。 1974年に加ト吉(現・テーブルマーク)が「冷凍讃岐うどん」で冷凍麺市場に参入し、製造・販売を開始。しかし、品質面における特徴であるコシの強さが出ていないとの理由から、当時の社長は直ちに改良を指示し、製法や茹で方を研究し試行錯誤を重ねた末、新技術の開発や新装置を導入して「コシ」問題を解決し、1976年にリニューアル発売した。1978年にはキンレイがコシを目指して再現したアルミ容器入り冷凍鍋焼きうどんを発売。 ===ブーム=== 1980年代末頃から、香川県のタウン情報誌『月刊タウン情報かがわ(TJかがわ)』で連載された個性的なうどん店の紹介企画「ゲリラうどん通ごっこ」が評判となる。県内で「うどん屋探訪」がレジャーとして盛んになり、味に加えて個性的な店自体を楽しむ客が大きく増えた。 1988年には瀬戸大橋の開通が好影響を及ぼし、加ト吉「冷凍讃岐うどん」の売上が急増した。 これ以降、主に『TJかがわ』編集部とその周辺のコミュニティによって、県内のみならず全国に向けたうどんブームの「仕掛け」がなされていった。 まず、在京テレビ局のグルメ番組で、1992年頃から武田鉄矢や吉村明宏といったタレントと穴場うどん店を巡る番組が放送され始め、それは一過性のものに終わることなく引き続いていく。近隣の地方局でも情報番組などで穴場うどん店紹介を頻繁に取り上げる。やがて90年代後半には料理対決番組でのうどんVSそば、テレビ東京『TVチャンピオン』での「讃岐うどん王選手権」の定期開催など、うどんと穴場うどん店にまつわる露出が加速していった。 また出版物においては1993年に上記連載の単行本『恐るべきさぬきうどん』がホットカプセル(TJかがわ出版元)から県下で発売、後に新潮社から全国発売される。これは何巻にも渡って刊を重ねた。並行して、雑誌『レタスクラブ』『DIME』『Hanako』『AERA』などへの寄稿・アドバイスを精力的に行う。これらの書籍・記事に触発されたうどん遠征記なども書籍化された。広告プランナー佐藤尚之(さとなお)の『うまひゃひゃさぬきうどん』(1998年)もその初期の一つである。 これらの仕掛けは奏功し、明石海峡大橋が開通して京阪神方面と香川県が高速道路で直結した1990年代後半からは県外からもうどん屋巡りを目的に香川へ出向くという観光スタイルが広がっていった。また同時期を通じて、香川県のうどん生産量は倍増し、田舎の「穴場店」に観光客が行列を作る光景が見られるようになった。ブームの「仕掛け人」とされるTJかがわ編集長・ホットカプセル社長(当時)田尾和俊は一躍文化人の仲間入りを果たし、多数の受賞のほか2003年には四国学院大学の教授職に迎えられた。 田尾の成功譚を翻案した映画『UDON』が2006年に公開された。 ===ブームの回数と発生年=== 香川県農政水産部は、20世紀後半から4度のブームが起きたとする。田尾は第3次と第4次を連続したブームとしている。ブーム発生の年は以下の通り。 第1次:1969年 最初の注目。立ち食いうどん、大阪万博への出店や金子正則知事によるトップセールスなどによる。当時香川県はPRのためキャラバン隊を組織していた。最初の注目。立ち食いうどん、大阪万博への出店や金子正則知事によるトップセールスなどによる。当時香川県はPRのためキャラバン隊を組織していた。第2次:1988年 瀬戸大橋の開通を受けて四国全体の観光客が増加し、うどん店への客も増加した。一部の店が値段を高騰させるなどの問題も生じた。橋の開通が好影響を及ぼし、冷凍ものの売上が急増し、全国的に手軽な讃岐うどんとして普及していった。瀬戸大橋の開通を受けて四国全体の観光客が増加し、うどん店への客も増加した。一部の店が値段を高騰させるなどの問題も生じた。橋の開通が好影響を及ぼし、冷凍ものの売上が急増し、全国的に手軽な讃岐うどんとして普及していった。第3次:1995年 田尾らの仕掛けによる香川県内のうどん店を巡る客の増加。引き続く全国区への「怪しい店」露出による県外からのうどん店目的の観光客の増加。田尾らの仕掛けによる香川県内のうどん店を巡る客の増加。引き続く全国区への「怪しい店」露出による県外からのうどん店目的の観光客の増加。第4次:2002年 香川県外でのセルフうどん出店増加により、讃岐うどんを認知し、実際に食べる機会が増えた。香川県外でのセルフうどん出店増加により、讃岐うどんを認知し、実際に食べる機会が増えた。 ===セルフうどんの県外進出=== 「セルフうどん」(セルフサービスのうどん店)は香川県外ではあまり見られなかったが、2002年にこのセルフ方式のうどん店が首都圏に開店したのを皮切りに、日本各地で同様のセルフうどんが次々とオープンした。背景として「外食デフレ」の時代に合致した低価格路線の商材であったことや、スターバックスやドトールコーヒーショップなどセルフ方式を導入したコーヒーショップの普及で、飲食店におけるセルフ方式の懸念が払拭されたこと、B級グルメブームが挙げられている。この最初の出店ラッシュは2005年頃には一段落したが、その頃には廉価・手軽な軽食の一つとしてある程度定着し、ショッピング街やフードコート、主要な街道沿いなどで見かけることが珍しくなくなった。 香川県外のセルフうどんは、既存の外食産業企業グループの多角化の1つとしてのチェーン・フランチャイズ展開が牽引しており、零細店舗がしのぎを削る香川県内とは様相を異にしている。そのため県外資本のチェーン店企業は、本場香川県への逆進出に慎重である。 2000年代半ばをピークとして国内全体の麺類生産量が下落傾向である中、セルフうどんはなお右肩上がりで成長している。香川県外資本チェーン店は、さぬきうどん振興協議会によると「13」(2012年時点)に上る。 チェーン店は日本国外にも展開している。2010年、上海国際博覧会にはなまるうどんが出店(期間出店)。2011年には上海(はなまるうどん)セルフうどんの常設店が開店した。 ===うどん県=== 2010年の香川県観光交流局の調査によれば、観光客は香川県の魅力としてうどんを69.0%でトップに挙げ、2位の豊かな自然や景色 (37.1%) を大きく上回っている。旅行先として香川県を選択した理由のトップもうどん(43.2%、2位名所旧跡は23.9%)、観光客飲食状況も66.4%がうどんを食べた、など、名実ともにうどんは観光の目玉となっている。 しかし香川県イコールうどん、とあまりにもイメージが固定化しており、そんなうどん以外の観光資源が注目されない状況を打破しようと、香川県および香川県観光協会は2011年10月、「うどん県。それだけじゃない香川県」プロジェクト特設サイトを開設し、うどんをきっかけに他の地域産品も知ってもらえればと企図した。香川県が「うどん県」に改名したという設定で、要潤を副知事役に、香川出身のタレントを動員した地域紹介動画を公開したところ、たちまち注目を浴び、一時サイトに繋がりにくくなるほどのアクセスが殺到した。またTwitterやブログなどでもうどん県の話題が激増した。 現実のフェリーやバスの行先表示や、本物の県知事の名刺に「うどん県」と表示する、実際に日本郵便にうどん県宛の年賀状の配達を申し入れ快諾を得るなど、フィクションの枠を飛び出すほどのインパクトを生み出したが、肝心のうどん以外の産品のPRとしては課題が残り、香川県観光振興課では2012年度もうどん県PR予算として7250万円を計上した。 ==諸説・伝承== 香川県でうどんの話題によく挙がるのが、うどんは弘法大師が唐から伝えたという言い伝えである。「民間伝承に過ぎない」という説も確かに多くあるが、「うどん空海請来説」のなかに次のような一文がある。「うどんは、空海が唐から持ち帰った「唐菓子」が源流といわれています。「唐菓子」は、小麦粉にアンコを入れて煮たもので「混沌(こんとん)」といわれていました。それが「検飩(けんとん)」となり、煮て、熱いうちに食べるものだから「温飩(おんとん)」となり、それが転じて「饂飩(うんとん)」となり現在の「うどん」になったと言われています。」(山野明男「うどん伝来の一考察」より)。しかし、これも史実としてすべての学会で公認されているとはいえず、結局、 お遍路さんなどにより大師信仰の強い香川では「何かわからないことがあるとお大師さまの仕業にして安心する」という大師信仰の所為にされている。今後の歴史研究、空海研究の実証的成果を待たねばならない。大師の説話はうどん屋の内装や公告に頻繁に取り上げられる。 1898年10月に善通寺市に駐屯していた陸軍第11師団の師団長に着任した乃木希典も、兵士の多くが休日に地元でうどんを食べていることに着目して栄養価や体力作りの面から部隊食にするよう提案・推奨し、除隊した兵士たちが日本各地でうどん店を開業したことが全国に広まったきっかけだとする説がある。 ==取り組み== 香川県立高等技術学校丸亀校(旧丸亀高等技術学校)では2003年より毎年、うどん職人を養成するさぬきうどん科(3か月、職業訓練)を開講し、卒業生の県内外での新規開店や就職に実績を挙げている。 かつて存在した瀬戸内短期大学には、さぬきうどんインストラクター養成という教育課程があった。 「年越しそば」以外の国民的麺食習慣を新たに創り出そうと、「年明けうどん」の広報活動がさぬきうどん振興協議会などの主導で行われ、各地の名物うどんや食品企業とも共同で取り組まれている。 ==メニューなどの用語== 一般的なうどんに関する用語についてはうどんを参照。 ===調味材=== ====だし==== 調味されたうどんの汁。一般的に「つゆ」「うどんつゆ」と呼ばれているものであるが、香川ではだしと呼ぶ。詳細は後述する。 ===メニュー=== 2013年現在、麺そのものや業態をもって特色とし、完成した料理メニューとしては統一的なものはないと言える。メニューは非常に多岐に渡り、変り種のうどんも非常に多い。 ===かけ=== 薄めのだし汁をかけ、刻みねぎや天かすを載せたうどん。薄切りの蒲鉾を加える場合もある。シンプルで値段も安く、20世紀後半まで最も主流の食べ方だった。 ===かやく=== 意味は「具の入ったうどん」のことであるが、蒲鉾などが少し入っただけのシンプルなものから、いくつかの具を盛り合わせたものまで様々である。 ===生醤油(きじょうゆ)=== うどん玉に醤油を少しかけただけのうどん。しょうゆうどんとも呼ばれる。生醤油とは呼ぶものの、用いる醤油は火入れしないいわゆる生醤油とは限らない。調味された醤油が使われたり、薬味や具が入れられたりすることもある。 ===ぶっかけ=== 濃い目のだし(つけだしに近いぶっかけだし)が、少なめにかけられたうどん。ぶっかけうどんは、具のあまり乗っていないシンプルなものから豪華なものまで、店によって様々であり、共通点は「濃い目のだしが少なめにかけられている」という点である。冷やしぶっかけにはレモンと大根おろしがのっている場合が多い。 ===湯だめ=== 冷水でしめて完成した玉を再度温めて湯に浸かった状態で供され、だしにつけて食べるうどん。釜揚げうどんと対比されて使われる。最も古くからの食べ方で、夏期は冷水に入れて冷やしうどんとした。 ===しっぽく(卓袱)=== 肉や根菜類を煮た甘めの汁をかけたうどん。家庭では里芋、ニンジン、大根、油揚げなど、店では天ぷらやちくわなどが具に入る。秋から冬を中心に食べられる、東讃地方の郷土料理。 ===釜揚げ=== 水洗いして締める前の熱いうどん、ヌメリがありコシやエッジは未完成。麺の状態のことを指すこともあれば、完成した料理のことを指すこともある。料理としての釜揚げうどんは当該項目を参照。 ===釜玉(かまたま)=== 釜揚げを丼に手繰り入れ、卵、薬味、だしまたは醤油を混ぜて作られるうどん料理。メニューとしては綾川町の山越うどんが、発祥とされることがある。サッカーJ2のカマタマーレ讃岐の名称の由来にもなっている。 ==業態== 本節では、ある程度認知されている食べ方や業態 について説明する。その他一般のうどん店についてはうどんの当該項目を参照。 ===一般店=== 完成した料理を店員が上げ下げしてくれる、全国で一般的な飲食店の形態のうどん専門店。香川県内においても最も数が多い。メニューには各種の具入りうどんや副食品の類が並んでおり、量や薬味の加減を店員に頼める点も香川県内外で共通している。 香川県内の一般店で特徴的なのは、おにぎり、おでんなどの作り置きのできる副食品は、一般店であっても大抵セルフサービスであるという点である。客は店に入ってすぐにそれらを取ってきて、食べながらうどんが出てくるのを待つ。なお、一般店のメニューは県外の一般的なうどん店と大きく異なることはない。一般的なうどんメニューについてはうどんの当該項目を参照。 ===セルフサービス店=== 料理の受け取り、食後の食器の返却を客自ら行う、セルフサービスの業態をとるうどん専門店。 冷水で〆め蒸篭に並べられたうどん玉を客が好みの量を玉単位で丼に取り分ける。湯と「てぼ」(鉄砲ざる)または「ぬくめいかき」(竹製の道具)が用意されていて、自分で好みの温度まで温める。冷たいうどんまたは冷やさないそのままも可能。置かれている具や薬味を自分で取って入れる。ショウガを自分ですり下ろしたり、店脇の畑に生えているネギを自分で抜いてきて刻まなければならなかったりする場合もある。タンクの蛇口を捻って、もしくは柄杓で掬ってだし(つゆ)を注ぐ。だしは温冷の双方が選べる。冷たいうどんに熱いだしをかけたり、その逆なども行われている。また、かけだしのほかにぶっかけだし、つけだしが用意されていたり、醤油、調味醤油などを少しかけるだけで賞味されることもある。ほとんどの店では料金の支払いは具などを選んだ後の先払いであるが、ごくまれに食事の後の後払いの店もあるので何を食べたか記憶している必要がある。上記は一例であるが店と客の役割分担が店によって違うこともままあり、香川県民でさえはじめて入るセルフ店ではまごつくことがあるため、メニューではなく手順が掲示されている場合も多い。 長らくこのようなセルフうどん店は香川県や岡山県などの限られた地域独特の業態だったが、2002年頃よりセルフ式うどんのチェーン店が県外へ出店し、短期間に急増した。香川県で標準的なセルフうどん店よりも客自ら行なう手順は少なくなっており、セルフうどん店がはじめての客にも入りやすい工夫がされている。 ===製麺所=== 製麺所に什器を設け食事ができるようにしたうどん店であり、基本的にセルフサービスである。 看板や暖簾がない、什器などに気を遣わない、店舗が集客に適していない場所(路地裏、山奥など)に立地しているなど、とても客商売をしているようには思えないたたずまいの店が少なくない。 ===小売=== 外食としてだけではなく家庭でもうどんはよく消費される。外食店が今のように増加する前は、うどんは買ってくるか手作りするのが主流であった。 ===玉売り=== 調理済みのうどん玉の形で販売されるもの。家庭では湯通しして(湯掻いて)利用される。製麺所などで蒸篭から取り分け販売されるほかに、袋詰めにしてスーパーマーケットなどでも販売される。 ===冷凍うどん=== 工場生産の冷凍食品。日本冷凍めん協会によると製法から分類され、「冷凍茹で麺」「冷凍生麺」「冷凍調理麺」「冷凍セット麺」といったカテゴリーがある。主流は「冷凍茹で麺」 で特徴としてコシの強さが挙げられる。その理由として工場の生産工程にて茹でた直後に冷凍するため水の分散状態が保たれる ことや、足踏み製法など職人が行う工程と同じ効果を持つ製造方法を工場の生産過程に取り入れる、タピオカの原料になるキャッサバの使用 など、各商品によって様々な研究と工夫を行っていることにより生み出されている。調理法は指定の時間茹でて水洗いしてから利用するものが多いが、電子レンジ や流水 で調理可能な物も登場した。保存が利き段階的に改良が進んで味の評価が高まってきたため、全国的に家庭調理の生めん類において主流になりつつある。香川県内のメーカーのほか、各地の大手食品メーカーも手がけている。 ===生、半生=== 茹でる前の、生地を伸ばして切った状態で販売されるもの。水分量を調節するなどして乾麺に近い状態にし、常温である程度の保存が可能なものもあり、半生と呼ばれる。指定の時間茹でて水洗いしてから利用する。 ===乾麺=== 茹でる前の生地を伸ばした状態で、天日干しに近い環境で乾燥させて販売されるもの。保存性に優れ、全国のスーパーマーケットで販売されている。 ==食感・製法・原料== ===コシについて=== 最近は第2次ブーム以前に比べると、日本全国すべてのうどんの中で特別にコシが強いわけではない。コシという言葉はそれを使う人によって、硬さや弾力、または粘度であったりと、言葉の定義が必ずしも共有されていないが、味の評価は、この麺のコシの強さによってなされる部分が大きい。店やメニューの紹介ではだしや具の味、佇まいなどが取り上げられても、麺の評価がそれ以外の要素の評価よりも上位に位置する場合が多い。一方、かつては製麺所から麺を仕入れる店が多かったため、むしろだしが店ごとの個性として重視されていた。 うどんのコシについての学術的研究では、コシは「咀嚼中の総合的な食感」というテクスチャーをもって表現されている。調査によれば、弾性率と粘性率がそれぞれ 1 × 10 Pa、1.5 × 10 Pa・s 以下と軟らかく、かつ破断強度が大きいうどんが、コシがあって美味しいと評価されている。すなわち、噛み切るのに力が必要だが軟らかいのがコシのあるうどんであり、単純に硬いだけではコシがあるとは見なされない。 コシのもう一つの特徴は、それが「時間とともに急速に失われていく」ということである。これはうどんの破断強度が2時間で約2/3まで低下することからも分かる。コシ(ないし美味しさ)は、茹でて水で締めたその瞬間に最大となって分単位で失われる。これは時間が経つとともに水分分布が均一化して全体が糊化(アルファ化)し、噛み始めが硬くなる一方で噛み切るのに必要な力は減少し、コシがなくなっていくためである。このため、店で食す場合の当たり外れは店に入るタイミングが全て、とも評される。時間とともに出現するような類の美味さは一般に存在しないが、茹でおきを提供する店もある。 ===手打ち式製法・足踏み製法=== 上記のようなコシが生まれる原因として、特有の手打ち式製法があげられる。これには一般的な機械式の製麺と比べて 十分な混捏圧延が多方向生地の熟成といった特徴がある。この中で1と2は生地の中のグルテンの分布を均一にする効果があり、3には生地からの脱気や遊離脂質の減少と結合脂質の増加をうながす効果がある。3には1によって生地に生じた応力を緩和し、軟らかく伸びるようにする効用もある。 また、食塩水の添加も重要な要素となっている。加える水の量を増やすことによってグルテンの均一性を増す事ができるが、多すぎると生地の粘弾性が増して硬くなる。また食塩を加えることで生地の伸びがよくなるが、多すぎると逆に低下する。このため食塩水の量と濃度を調節することが重要であり、古くから「土三寒六常五杯」(土用など夏期は1杯の塩に対して水を3杯加え、寒中の冬期は水を6杯にする)という言葉が目安にされてきた。これらの要素が組み合わさってコシは得られている。 生地はうどんゴザをかぶせた上から裸足の足裏で踏みつけて腰を出す「足踏み」製法がかつての主流であったが、衛生面から戦後この方法の是非が問題となった。このため効率化を兼ねて、製塩業に用いていた藁の加工機をベースに混捏用の機械が1965年に開発された。1968年に香川県が製麺業の免許の交付・更新の際にこの機械の採用を義務付けたため普及が進み、1970年には北海道など全国各地や韓国ソウル、米国アラスカ州など日本国外にも出荷されている。このような流れであるため「足踏み」製法は規模縮小しつつも、衛生面からビニール を用いて生地を保護 した上で、今日においても根強く行われている。また、生地に十分な粘りを生み出しながらそれを延ばす方法として「すかし打ち」という独自の高度な技法がある。 ===小麦粉=== 香川県産のうどんの原料となる小麦粉は、かつて稲の裏作として盛んに栽培されていた県内産の小麦(地粉)が使われていた。最盛期の栽培面積は10,000ヘクタール以上にも及んだが、高度経済成長期に急減して1973年には326ヘクタールとなった。その後は栽培の振興施策などもあって1987年に4,130ヘクタールまで回復したが、1997年には475ヘクタールまで再び減少している。 1970年代には粘りの強いカナダ産と、さらさらしたアメリカ産の小麦をブレンドして主に使っていたが、現在は多くがオーストラリア産であり、日本のうどん用に最適化して開発された「Australian Standard White」(略称:ASW)という麺用中力粉が用いられることが多い。県産のうどん用小麦としてはもともと農林26号など が使われ、20世紀末にはASWに対抗するため県が「さぬきの夢2000」を開発したが、生産量の少なさ、製麺の難しさ、2004年に起こったJA香川県による不当表示問題(後述)などによるブランドイメージの低迷などにより普及はあまり進まなかった。 一方でオーストラリア産の小麦と、さぬきの夢2000をブレンドした讃岐うどん用の小麦粉なども開発され、これを使用した半生うどん「幽玄 premium」がモンドセレクションの金賞を受賞している。また「さぬきの夢2000こだわり店」の認証も行われており、さぬきの夢2000を100%使用した店名も明示されている。これは、「めん」「だし」「サービス」の三つを厳しく審査するものである。 2010年3月18日には後継品種として「さぬきの夢2009」が品種登録された。 ===だし=== 麺の食感という共通の価値観を除けば、味付けなどは非常にバリエーションに富んでいるが、特徴付けるものとしてはほかに、イリコ(煮干し)のだしが挙げられる。香川では、近隣の伊吹島がイリコの名産地であることなどからイリコを使った濃厚なだしが昔からよく使われ、主張の強い麺と豊富な食べ方のバリエーションを下支えしてきた。イリコのだしは一般的な日本料理では煮物や味噌汁などに用いられるが、それはイリコが青魚独特の臭みを持つため、二番出汁相当の使われ方をするものだからである。うどんつゆのような「表の味」には鰹節・昆布によって調製される一番出汁が用いられることが多い。しかし、繊細な一番出汁では、「強さ」に負けかねない事もあり、地元のイリコと北海道産の昆布を組み合わせてだしを作ってきた。煮干しの臭みを取るためには、焼いた鉄の棒をだしに入れる方法などが採られ、最後に加える醤油にも生臭さを消す効用がある。なお、つけ汁には濃口醤油、かけ汁には薄口醤油を使い、それぞれの分量を変えるなどの工夫がされている。 ===薬味=== 薬味にショウガやネギが多用されるのも特徴であり、これらはイリコだしと相性がよい。なお、一番出汁に香りの強い香辛料を加えると風味が損なわれるが、イリコだしとショウガの組み合わせはかえって臭みが消えて爽やかな風味がうどんを引き立てる。 このほかにも唐辛子やからし、すりゴマ、花がつお、スダチが従来から用いられてきた。近年では食品の地域性も薄れて入手性もよくなり、さらに多様な薬味が供されている。他県のうどんやそばと同様、七味唐辛子、山葵なども定番であり、イリコや様々なふしを混合した新たな味も次々生まれている。また県外に進出するとともに、かけだしにショウガも広まっている。「おろしうどん」など冷たいうどんにはレモンを用いる店もある。 ==統計== 「香川県民は一人あたり年間○○玉のうどんを食し、日本一うどんを食べる」という表現はしばし使われるが、その数字は100玉程度から300玉を超えるようなものまで様々であり、根拠が必ずしもはっきりしない。これは「うどんの玉の数」という明確な統計がないためである。たとえば、総務省の家計調査 では、「うどん・そば」と一括りにされている。また、統計における数字を目分量であり店によって量が倍ほども違う「うどん玉」の数に換算することの問題もある。一方でこれは「うどん玉」という単位自体の問題であり、人口当たりのうどん生産量や消費量が日本国内で圧倒的に高いことは統計的に明らかになっている(概要参照)。 また、香川県民を対象としたアンケート調査によると、うどんを週に1回以上食べると回答した人が9割いた。食べる人の内訳は週に1回が5割、週に2〜3回が3割、週に4回以上が1割であった。また、まったく食べない人と回答した人は1割であった。 香川県のうどん屋の数については、毎年発行される讃岐うどん店を網羅したガイド本 では800軒前後が掲載されている。うどん屋またはうどんを生産していると思しき箇所として、県では1100軒程度(2005年度)を把握しているようである。店舗は特に高松地域と中讃に集中しており、その中でも紹介頻度が高いのは高松市以西の綾川や土器川などの河川沿いの店が多く、良質な地下水を大量かつ安価に使用できる環境の影響が指摘されている。同様に、東讃や瀬戸内海の島嶼部でうどん店が少ないのは平野部が海岸砂州や後背湿地から形成されて地下水に恵まれないためともされる。 ==讃岐うどんや店舗営業に関する問題点== ===水質汚染=== ゆで汁を起因とする水質環境汚染が近年問題視されているため、香川県は解決に向けて取り組みを行っている。 香川県では、下水道の普及率が2000年代後半でも60%と四国他県を上回るものの全国的には40位台で整備が遅れている。店舗の大多数は零細企業に該当するため排水規制がかからず、下水道のない地域では高濃度のデンプン質を多く含むうどんのゆで汁 が、浄化装置を通さずに店舗近くの水路や川に直接放水されていることが多く、川底にうどんの切れ端が重なり合って沈んでいたり、ゆで汁に含まれる澱粉が沈殿したり などの要因で、香川県一般の飲食店などの中でも最悪の環境汚染状態であり、環境汚染が懸念されている。ブームに伴い排出量が大幅に増加し、小規模の店でも毎日トン単位の水を大量に消費していることから、環境に対する影響も悪臭 などが発生したことで苦情が寄せられるほどになった。県では県下のうどん店に、うどん店排水処理対策マニュアル などの配布を行ったが、小規模事業者が抱える設備資金負担の問題もあり 大きな改善が見られなかった。そこで次の段階として、小規模店舗にも設置しやすいうどん排水処理装置の開発、規制と共に罰則を想定した条例施行に向けた動きなど、解決に向けた取り組みが行われている。 また、廃棄うどんからバイオメタノールを作るプラントを開発した企業讃岐うどんのエネルギー循環を目指して、ECO‐MISSION2011@JAPANや、ゆで汁から石鹸を作る企業“うどんのゆで汁”から石鹸、自然環境への悪影響から香川県守る。、エキサイトニュース、閲覧2017年4月17日など、民間からも対策に乗り出すものが現れている。 ===小麦粉の産地偽装=== 香川県農協が販売したもののうち、「香川県産小麦100%」「さぬきの夢2000小麦粉100%使用」を謳っていながら、実際はオーストラリア産の小麦が平均で約8割使用されていたことが、香川県の調査で2004年11月8日に発覚した。さぬきの夢2000はうどんに加工した時のもちもち感・のどごしや小麦本来の香りとうまみが特徴だが、オーストラリア産より価格が高いことや加工時に水加減が難しく切れやすいなど扱いにくい側面も併せ持っていることから、加工時に切れにくくするため下請け業者が豪州産小麦を混ぜて使用していた。 ===迷惑駐車=== 店舗が用意する駐車場にて駐車できる車の数が数台分しかない場合やまったくない場合もあり、自動車で訪れる一部の客がその店舗周辺地域で迷惑駐車を行い、近隣住民の迷惑やトラブルとなるケースが存在する。 高松市鶴市町の池上製麺所はうどん通の間では有名だった事から、ブームの発生で近隣にあるマルヨシセンター鶴市店の駐車場への無断駐車が増加し、同店の客が駐車できない事態が発生したことや、近隣地域で違法駐車が後を絶たないなどのトラブルにより、ついに同市の別の場所に移転する騒動となった。 ===健康面=== うどんの早食いやおにぎりなど他の炭水化物との重ね食いといった食生活習慣が、糖尿病や肥満の一因になっているとの指摘もある。香川県庁は対策として、野菜との食べ合わせや適度な運動、健康診断の受診などを呼び掛けている。難消化性デキストリンを練り込むなどして、糖質の吸収ペース(血糖値の上昇度合い)をおだやかにする麺を開発する製麺会社もある。 =日本語= 日本語(にほんご、にっぽんご)は、主に日本国内や日本人同士の間で使用されている言語である。 使用人口について正確な統計はないが、日本国内の人口、および日本国外に住む日本人や日系人、日本がかつて統治した地域の一部住民など、約1億3千万人以上と考えられている。統計によって前後する場合もあるが、この数は世界の母語話者数で上位10位以内に入る人数である。 2017年12月現在、インターネット上の言語使用者数は、英語、中国語、スペイン語、アラビア語、ポルトガル語、マレー語、フランス語に次いで8番目に多い。 日本で生まれ育ったほとんどの人は、日本語を母語とする。日本語の文法体系や音韻体系を反映する手話として日本語対応手話がある。 日本は法令によって公用語を規定していないが、法令その他の公用文は全て日本語で記述され、各種法令において日本語を用いることが規定され、学校教育においては「国語」として学習を課されるなど、事実上、唯一の公用語となっている。 ==特徴== 日本語の音韻は、「っ」「ん」を除いて母音で終わる開音節言語の性格が強く、また標準語(共通語)を含め多くの方言がモーラを持つ。アクセントは高低アクセントである。 なお元来の古い大和言葉では、原則として 「ら行」音が語頭に立たない(しりとり遊びで『ら行』で始まる言葉が見つけにくいのはこのため。『らく(楽)』『らっぱ』『りんご』などは大和言葉でない)濁音が語頭に立たない(『だ(抱)く』『どれ』『ば(場)』『ばら(薔薇)』などは後世の変化)同一語根内に母音が連続しない(『あ お(青)』『かい(貝)』は古くは『あを /awo/』, 『かひ /kapi/』)などの特徴があった(「系統」および「音韻」の節参照)。 文は、「主語・修飾語・述語」の語順で構成される。修飾語は被修飾語の前に位置する。また、名詞の格を示すためには、語順や語尾を変化させるのでなく、文法的な機能を示す機能語(助詞)を後ろに付け加える(膠着させる)。これらのことから、言語類型論上は、語順の点ではSOV型の言語に、形態の点では膠着語に分類される(「文法」の節参照)。 語彙は、古来の大和言葉(和語)のほか、漢語(字音語)、外来語、および、それらの混ざった混種語に分けられる。字音語(漢字の音読みに由来する語の意、一般に「漢語」と称する)は、漢文を通して古代・中世の中国から渡来した語またはそれらから派生した語彙であり、現代の語彙の過半数を占めている。また、「紙(かみ)」「絵/画(ゑ)」など、もともと音であるが和語と認識されているものもある。さらに近代以降には西洋由来の語を中心とする外来語が増大している(「語種」の節参照)。 待遇表現の面では、文法的・語彙的に発達した敬語体系があり、叙述される人物どうしの微妙な関係を表現する(「待遇表現」の節参照)。 日本語は地方ごとに多様な方言があり、とりわけ琉球諸島で方言差が著しい(「方言」の節参照)。近世中期までは京都方言が中央語の地位にあったが、近世後期には江戸方言が地位を高め、明治以降の現代日本語では東京山の手の中流階級以上の方言(山の手言葉)を基盤に標準語(共通語)が形成された(「標準語」参照)。 表記体系はほかの諸言語と比べて複雑である。漢字(国字を含む。音読みおよび訓読みで用いられる)と平仮名、片仮名が日本語の主要な文字であり、常にこの3種類の文字を組み合わせて表記する(「字種」の節参照)。ほかに、ラテン文字(ローマ字)やギリシャ文字(医学・科学用語に多用)などもしばしば用いられる。また、縦書きと横書きがいずれも用いられる(表記体系の詳細については「日本語の表記体系」参照)。 音韻は「子音+母音」音節を基本とし、母音は5種類しかないなど、分かりやすい構造を持つ一方、直音と拗音の対立、「1音節2モーラ」の存在、無声化母音、語の組み立てに伴って移動する高さアクセントなどの特徴がある(「音韻」の節参照)。 ==分布== 日本語は、主に日本国内で使用される。話者人口についての調査は国内・国外を問わず未だないが、日本の人口に基づいて考えられることが一般的である。 日本国内に、法令上、日本語を公用語ないし国語と定める直接の規定はない。しかし、法令は日本語で記されており、裁判所法においては「裁判所では、日本語を用いる」(同法74条)とされ、文字・活字文化振興法においては「国語」と「日本語」が同一視されており(同法3条、9条)、その他多くの法令において、日本語が唯一の公用語ないし国語であることが当然の前提とされている。また、法文だけでなく公用文はすべて日本語のみが用いられ、学校教育では日本語が「国語」として教えられている。 日本では、テレビやラジオ、映画などの放送、小説や漫画、新聞などの出版の分野でも、日本語が使われることがほとんどである。国外のドラマや映画が放送される場合でも、基本的には日本語に訳し、字幕を付けたり声を当てたりしてから放送されるなど、受け手が日本語のみを理解することを当然の前提として作成される。原語のまま放送・出版されるものも存在するが、それらは外国向けに発表される前提の論文、もしくは日本在住の外国人、あるいは原語の学習者など限られた人を対象としており、大多数の日本人に向けたものではない。 日本国外では、主として、中南米(ペルー・ブラジル・ボリビア・ドミニカ共和国・パラグアイなど)やハワイなどの日本人移民の間に日本語の使用がみられるが、3世・4世と世代が下るにしたがって非日本語話者が多くなっているのが実情である。また、太平洋戦争の終結以前に日本領ないし日本の勢力下にあった朝鮮総督府の朝鮮半島・台湾総督府の台湾・旧満州国で現在中華人民共和国の一部・樺太庁の樺太(サハリン)・旧南洋庁の南洋諸島(現在の北マリアナ諸島・パラオ・マーシャル諸島・ミクロネシア連邦)などの地域では、日本語教育を受けた人々の中に、現在でも日本語を記憶して話す人がいる。台湾では先住民の異なる部族同士の会話に日本語が用いられることがあるだけでなく、宜蘭クレオールなど日本語とタイヤル語のクレオール言語も存在している。また、パラオのアンガウル州では歴史的経緯から日本語を公用語の一つとして採用しているが、現在州内には日本語を日常会話に用いる住民は存在せず、象徴的なものに留まっている。 日本国外の日本語学習者は2015年調査で365万人にのぼり、中華人民共和国の約95万人、インドネシアの約75万人、大韓民国の約56万人、オーストラリアの約36万人、台湾の約22万人が上位となっている。地域別では、東アジア・東南アジアで全体の学習者の約8割を占めている。日本語教育が行われている地域は、137か国・地域に及んでいる。また、日本国内の日本語学習者は、アジア地域の約16万人を中心として約19万人に上っている。 ==系統== 「日本語」の範囲を本土方言のみとした場合、琉球語が日本語と同系統の言語になり両者は日本語族を形成する。いっぽう琉球語(琉球方言)も含めて日本語とする場合は、日本語は孤立した言語となる。 日本語(族)の系統は明らかでなく、解明される目途も立っていない。言語学・音韻論などの総合的な結論は『孤立した言語』である。しかし、いくつかの理論仮説があり、いまだ総意を得るに至っていない。 アルタイ諸語に属するとする説は、明治時代末から特に注目されてきた。その根拠として、古代の日本語(大和言葉)において語頭にr音(流音)が立たないこと、一種の母音調和が見られることなどが挙げられる。ただし、アルタイ諸語に属するとされるそれぞれの言語自体、互いの親族関係が証明されているわけではなく、したがって、古代日本語に上記の特徴が見られることは、日本語が類型として「アルタイ型」の言語であるという以上の意味をもたない。 南方系のオーストロネシア語族とは、音韻体系や語彙に関する類似も指摘されているが、語例は十分ではなく、推定・不確定の例を多く含む。 ドラヴィダ語族との関係を主張する説もあるが、これを認める研究者は少ない。大野晋は日本語が語彙・文法などの点でタミル語と共通点を持つとの説を唱えるが、比較言語学の方法上の問題から批判が多い(「大野晋#クレオールタミル語説」も参照)。 個別の言語との関係についていえば、中国語、とりわけ古典中国語は、古来、漢字・漢語を通じて日本語の表記や語彙・形態素に強い影響を与えており、拗音等の音韻面や、古典中国語における書面語の文法・語法の模倣を通じた文法・語法・文体への影響もみられた。日本は、文明圏として中国を中心とする漢字文化圏に属するが、言語系統としては、基礎語彙が対応しておらず、文法的・音韻的特徴でも、中国語が孤立語であるのに対し日本語は膠着語であり、日本語には中国語のような声調がないなどの相違点があり、系統的関連性は認められない。 アイヌ語は、語順(SOV語順)において日本語と似るものの、文法・形態は類型論的に異なる抱合語に属し、音韻構造も有声・無声の区別がなく閉音節が多いなどの相違がある。基礎語彙の類似に関する指摘もあるが、例は不充分である。一般に似ているとされる語の中には、日本語からアイヌ語への借用語が多く含まれるとみられる。目下のところは系統的関連性を示す材料は乏しい。 朝鮮語は、文法構造に類似点が多いものの、基礎語彙が大きく相違する。音韻の面では、固有語において語頭に流音が立たないこと、一種の母音調和が見られることなど、上述のアルタイ諸語と共通の類似点がある一方で、閉音節や子音連結が存在する、有声・無声の区別が無いなど、大きな相違もある。朝鮮半島の死語である高句麗語とは、数詞など似る語彙もあるといわれるが、高句麗語の実態はほとんど分かっておらず、現時点では系統論上の判断材料にはなりがたい。 また、レプチャ語・ヘブライ語などとの同系論も過去に存在したが、ほとんど偽言語比較論の範疇に収まる。 琉球列島(旧琉球王国領域)の言葉は、日本語の一方言(琉球方言)とする場合と、日本語と系統を同じくする別言語(琉球語ないしは琉球諸語)とし、日本語とまとめて日本語族とする意見があるが、研究者や機関によって見解が分かれる(各項目参照)。 ==音韻== ===音韻体系=== 日本語話者は普通、「いっぽん(一本)」という語を、「い・っ・ぽ・ん」の4単位と捉えている。音節ごとにまとめるならば [ip*248*.po*249*] のように2単位となるところであるが、音韻的な捉え方はこれと異なる。音声学上の単位である音節とは区別して、音韻論では「い・っ・ぽ・ん」のような単位のことをモーラ(拍)と称している。 日本語のモーラは、大体は仮名に即して体系化することができる。「いっぽん」と「まったく」は、音声学上は [ip*250*po*251*] [mat*252*tak*253*] であって共通する単音がないが、日本語話者は「っ」という共通のモーラを見出す。また、「ん」は、音声学上は後続の音によって [*254*] [m] [n] [*255*] などと変化するが、日本語の話者自らは同一音と認識しているので、音韻論上は1種類のモーラとなる。 日本語では、ほとんどのモーラが母音で終わっている。それゆえに日本語は開音節言語の性格が強いということができる。もっとも、特殊モーラの「っ」「ん」には母音が含まれない。 モーラの種類は、以下に示すように111程度存在する。ただし、研究者により数え方が少しずつ異なる。「が行」の音は、語中語尾では鼻音(いわゆる鼻濁音)の「か*256*行」音となる場合があるが、「が行」と「か*257*行」との違いは何ら弁別の機能を提供せず、単なる異音どうしに過ぎない。そこで、「か*258*行」を除外して数える場合、モーラの数は103程度となる。これ以外に、「外来語の表記」第1表にもある「シェ」「チェ」「ツァ・ツェ・ツォ」「ティ」「ファ・フィ・フェ・フォ」その他の外来音を含める場合は、さらにまた数が変わってくる。このほか、外来語の表記において用いられる「ヴァ・ヴィ・ヴ・ヴェ・ヴォ」については、バ行として発音されることが多いものの、独立した音韻として発音されることもあり、これらを含めるとさらに増えることとなる。 なお、五十音図は、音韻体系の説明に使われることがしばしばあるが、上記の日本語モーラ表と比べてみると、少なからず異なる部分がある。五十音図の成立は平安時代にさかのぼるものであり、現代語の音韻体系を反映するものではないことに注意が必要である(「日本語研究史」の節の「江戸時代以前」を参照)。 ===母音体系=== 母音は、「あ・い・う・え・お」の文字で表される。音韻論上は、日本語の母音はこの文字で表される5個であり、音素記号では以下のように記される。 /a/, /i/, /u/, /e/, /o/一方、音声学上は、基本の5母音は、それぞれ [*259*]、[i*260*]、 [u*261*]または[*262**263*]、[e*264*]または[*265**266*] 、[o*267*]または[*268**269**270*]に近い発音と捉えられる。 *271* は中舌寄り、 *272* は後寄り、 *273* は弱めの円唇、 *274* は強めの円唇、*275* は下寄り、 *276* は上寄りを示す補助記号である。 日本語の「あ」は、国際音声記号 (IPA) では前舌母音 [a] と後舌母音 [*277*] の中間音 [*278*] に当たる。「い」は少し後寄りであり [i*279*] が近い。「え」は半狭母音 [e] と半広母音 [*280*] の中間音であり、「お」は半狭母音 [o] と半広母音 [*281*] の中間音である。 日本語の「う」は、東京方言では、英語などの [u] のような円唇後舌母音より、少し中舌よりで、それに伴い円唇性が弱まり、中舌母音のような張唇でも円唇でもないニュートラルな唇か、それよりほんの僅かに前に突き出した唇で発音される、半後舌微円唇狭母音である。これは舌と唇の動きの連関で、前舌母音は張唇、中舌母音は平唇・ニュートラル(ただしニュートラルは、現行のIPA表記では非円唇として、張唇と同じカテゴリーに入れられている)、後舌母音は円唇となるのが自然であるという法則に適っている。しかし「う」は母音融合などで見られるように、音韻上は未だに円唇後舌狭母音として機能する。また、[*282**283*] という表記も行われる。 円唇性の弱さを強調するために、[*284*] を使うこともあるが、これは本来朝鮮語に見られる、iのような完全な張唇でありながら、u のように後舌の狭母音を表す記号であり、円唇性が減衰しつつも残存し、かつ後舌よりやや前よりである日本語の母音「う」の音声とは違いを有する。またこの種の母音は、唇と舌の連関から外れるため、母音数5以上の言語でない限り、発生するのは稀である。「う」は唇音の後ではより完全な円唇母音に近づく(発音の詳細はそれぞれの文字の項目を参照)。一方、西日本方言では「う」は東京方言よりも奥舌で、唇も丸めて発音し、 [u] に近い。 音韻論上、「コーヒー」「ひいひい」など、「ー」や「あ行」の仮名で表す長音という単位が存在する(音素記号では /R/)。これは、「直前の母音を1モーラ分引く」という方法で発音される独立した特殊モーラである。「鳥」(トリ)と「通り」(トーリ)のように、長音の有無により意味を弁別することも多い。ただし、音声としては「長音」という特定の音があるわけではなく、長母音 [*285**286*] [i*287**288*] [u*289**290**291*] [e*292**293*] [o*294**295**296*] の後半部分に相当するものである。 「えい」「おう」と書かれる文字は、発音上は「ええ」「おお」と同じく長母音 [e*297**298*] [o*299**300**301*] として発音されることが一般的である(「けい」「こう」など、頭子音が付いた場合も同様)。すなわち、「衛星」「応答」「政党」は「エーセー」「オートー」「セートー」のように発音される。ただし、九州や四国南部・西部、紀伊半島南部などでは「えい」を [e*302*i] と発音する。「思う」[omo*303**304*]、「問う」[to*305**306*]などの単語は必ず二重母音となり、また軟骨魚のエイなど、語彙によって二重母音になる場合もあるが、これには個人差がある。1文字1文字丁寧に発話する場合には「えい」を [e*307*i] と発音する話者も多い。 単語末や無声子音の間に挟まれた位置において、「イ」や「ウ」などの狭母音はしばしば無声化する。たとえば、「です」「ます」は [de*308*su*309**310**311*] [m*312*su*313**314**315*] のように発音されるし、「菊」「力」「深い」「放つ」「秋」などはそれぞれ [k*316*i*317**318*ku*319**320*] [*321*i*322**323*k*324**325**326*] [*327*u*328**329**330*k*331*i*332*] [h*333*n*334**335*u*336**337**338*] [*339*k*340*i*341**342*] と発音されることがある。ただしアクセント核がある拍は無声化しにくい。個人差もあり、発話の環境や速さ、丁寧さによっても異なる。また方言差も大きく、たとえば近畿方言ではほとんど母音の無声化が起こらない。 「ん」の前の母音は鼻音化する傾向がある。また、母音の前の「ん」は前後の母音に近似の鼻母音になる。 ===子音体系=== 子音は、音韻論上区別されているものとしては、現在の主流学説によれば「か・さ・た・な・は・ま・や・ら・わ行」の子音、濁音「が・ざ・だ・ば行」の子音、半濁音「ぱ行」の子音である。音素記号では以下のように記される。ワ行とヤ行の語頭子音は、音素 u と音素 i の音節内の位置に応じた変音であるとする解釈もある。特殊モーラの「ん」と「っ」は、音韻上独立の音素であるという説と、「ん」はナ行語頭子音 n の音節内の位置に応じた変音、「っ」は単なる二重子音化であるとして音韻上独立の音素ではないという説の両方がある。 /k/, /s/, /t/, /h/(清音)/*343*/, /z/, /d/, /b/(濁音)/p/(半濁音)/n/, /m/, /r//j/, /w/(半母音とも呼ばれる)一方、音声学上は、子音体系はいっそう複雑な様相を呈する。主に用いられる子音を以下に示す(後述する口蓋化音は省略)。 ===その他の記号=== 基本的に「か行」は [k]、「さ行」は [s]([θ] を用いる地方・話者もある)、「た行」は [t]、「な行」は [n]、「は行」は [h]、「ま行」は [m]、「や行」は [j]、「だ行」は [d]、「ば行」は [b]、「ぱ行」は [p] を用いる。 「ら行」の子音は、語頭では [*344*] 、「ん」の後のら行は英語の [l] に近い音を用いる話者もある。一方、「あらっ?」というときのように、語中語尾に現れる場合は、舌をはじく [*345*] もしくは [*346*] となる。 標準日本語およびそれの母体である首都圏方言(共通語)において、「わ行」の子音は、上で挙げた同言語の「う」と基本的な性質を共有し、もう少し空気の通り道の狭い接近音である。このため、/u/ に対応する接近音/w/ と、/*347*/ に対応する接近音/*348*/ の中間、もしくは微円唇という点で僅かに /w/ に近いと言え、軟口蓋(後舌母音の舌の位置)の少し前よりの部分を主な調音点とし、両唇も僅かに使って調音する二重調音の接近音といえる。このため、五十音図の配列では、ワ行は唇音に入れられている(「日本語」の項目では、特別の必要のない場合は /w/ で表現する)。外来音「ウィ」「ウェ」「ウォ」にも同じ音が用いられるが、「ウイ」「ウエ」「ウオ」と2モーラで発音する話者も多い。 「が行」の子音は、語頭では破裂音の [g] を用いるが、語中では鼻音の [*349*](「が行」鼻音、いわゆる鼻濁音)を用いることが一般的だった。現在では、この [*350*] を用いる話者は減少しつつあり、代わりに語頭と同じく破裂音を用いるか、摩擦音の [*351*] を用いる話者が増えている。 「ざ行」の子音は、語頭や「ん」の後では破擦音(破裂音と摩擦音を合わせた [d*352*z] などの音)を用いるが、語中では摩擦音([z] など)を用いる場合が多い。いつでも破擦音を用いる話者もあるが、「手術(しゅじゅつ)」などの語では発音が難しいため摩擦音にするケースが多い。なお、「だ行」の「ぢ」「づ」は、一部方言を除いて「ざ行」の「じ」「ず」と同音に帰しており、発音方法は同じである。 母音「い」が後続する子音は、独特の音色を呈する。いくつかの子音では、前舌面を硬口蓋に近づける口蓋化が起こる。たとえば、「か行」の子音は一般に [k] を用いるが、「き」だけは [k*353*] を用いるといった具合である。口蓋化した子音の後ろに母音「あ」「う」「お」が来るときは、表記上は「い段」の仮名の後ろに「ゃ」「ゅ」「ょ」の仮名を用いて「きゃ」「きゅ」「きょ」、「みゃ」「みゅ」「みょ」のように記す。後ろに母音「え」が来るときは「ぇ」の仮名を用いて「きぇ」のように記すが、外来語などにしか使われない。 「さ行」「ざ行」「た行」「は行」の「い段」音の子音も独特の音色であるが、これは単なる口蓋化でなく、調音点が硬口蓋に移動した音である。「し」「ち」の子音は [*354*] [*355*] を用いる。外来音「スィ」「ティ」の子音は口蓋化した [s*356*] [t*357*] を用いる。「じ」「ぢ」の子音は、語頭および「ん」の後ろでは [d*358**359*]、語中では [*360*] を用いる。外来音「ディ」「ズィ」の子音は口蓋化した [d*361*] [d*362**363**364*] および [z*365*] を用いる。「ひ」の子音は [h] ではなく硬口蓋音 [*366*] である。 また、「に」の子音は多くは口蓋化した [n*367*] で発音されるが、硬口蓋鼻音 [*368*] を用いる話者もある。同様に、「り」に硬口蓋はじき音を用いる話者や、「ち」に無声硬口蓋破裂音 [c] を用いる話者もある。 そのほか、「は行」では「ふ」の子音のみ無声両唇摩擦音 [*369*] を用いるが、これは「は行」子音が [p] → [*370*] → [h] と変化してきた名残りである。五十音図では、奈良時代に音韻・音声でp、平安時代に[*371*]であった名残で、両唇音のカテゴリーに入っている。外来語には [f] を用いる話者もある。これに関して、現代日本語で「っ」の後ろや、漢語で「ん」の後ろにハ行が来たとき、パ行(p)の音が現れ、連濁でもバ行(b)に変わり、有音声門摩擦音[*372*]ではないことから、現代日本語でも語種を和語や前近代の漢語等の借用語に限れば(ハ行に由来しないパ行は近代以降のもの)、ハ行の音素はhでなくpであり、摩擦音化規則で上に挙げた場合以外はhに変わるのだという解釈もある。現代日本語母語話者の直感には反するが、ハ行の連濁や「っ」「ん」の後ろでのハ行の音の変化をより体系的・合理的に表しうる。 また、「た行」では「つ」の子音のみ [t*373*s] を用いる。これらの子音に母音「あ」「い」「え」「お」が続くのは主として外来語の場合であり、仮名では「ァ」「ィ」「ェ」「ォ」を添えて「ファ」「ツァ」のように記す(「ツァ」は「おとっつぁん」「ごっつぁん」などでも用いる)。「フィ」「ツィ」は子音に口蓋化が起こる。また「ツィ」は多く「チ」などに言い換えられる。「トゥ」「ドゥ」(/t*374*/ /d*375*/)は、外国語の /t/ /tu/ /du/ などの音に近く発音しようとするときに用いることがある。 促音「っ」(音素記号では /Q/)および撥音「ん」(/N/)と呼ばれる音は、音韻論上の概念であって、前節で述べた長音と併せて特殊モーラと扱う。実際の音声としては、「っ」は [‐k*376*k‐] [‐s*377*s‐] [‐*378**379**380*‐] [‐t*381*t‐] [‐t*382**383*‐] [‐t*384**385*‐] [‐p*386*p‐] などの子音連続となる。ただし「あっ」のように、単独で出現することもあり、そのときは声門閉鎖音となる。また、「ん」は、後続の音によって [*387*] [m] [n] [*388*] などの子音となる(ただし、母音の前では鼻母音となる)。文末などでは [*389*] を用いる話者が多い。 ===アクセント=== 日本語は、一部の方言を除いて、音(ピッチ)の上下による高低アクセントを持っている。アクセントは語ごとに決まっており、モーラ(拍)単位で高低が定まる。同音語をアクセントによって区別できる場合も少なくない。たとえば東京方言の場合、「雨」「飴」はそれぞれ「ア*390*メ」(頭高型)、「ア/メ」(平板型)と異なったアクセントで発音される(/を音の上昇、*391*を音の下降とする)。「が」「に」「を」などの助詞は固有のアクセントがなく、直前に来る名詞によって助詞の高低が決まる。たとえば「箸」「橋」「端」は、単独ではそれぞれ「ハ*392*シ」「ハ/シ」「ハ/シ」となるが、後ろに「が」「に」「を」などの助詞が付く場合、それぞれ「ハ*393*シガ」「ハ/シ*394*ガ」「ハ/シガ」となる。 共通語のアクセントでは、単語の中で音の下がる場所があるか、あるならば何モーラ目の直後に下がるかを弁別する。音が下がるところを下がり目またはアクセントの滝といい、音が下がる直前のモーラをアクセント核または下げ核という。たとえば「箸」は第1拍、「橋」は第2拍にアクセント核があり、「端」にはアクセント核がない。アクセント核は1つの単語には1箇所もないか1箇所だけあるかのいずれかであり、一度下がった場合は単語内で再び上がることはない。アクセント核を ○ で表すと、2拍語には ○○(核なし)、○○、○○ の3種類、3拍語には ○○○、○○○、○○○、○○○ の4種類のアクセントがあり、拍数が増えるにつれてアクセントの型の種類も増える。アクセント核が存在しないものを平板型といい、第1拍にアクセント核があるものを頭高型、最後の拍にあるものを尾高型、第1拍と最後の拍の間にあるものを中高型という。頭高型・中高型・尾高型をまとめて起伏式または有核型と呼び、平板型を平板式または無核型と呼んで区別することもある。 また共通語のアクセントでは、単語や文節のみの形で発音した場合、「し/るしが」「た/ま*395*ごが」のように1拍目から2拍目にかけて音の上昇がある(頭高型を除く)。しかしこの上昇は単語に固有のものではなく、文中では「あ/かいしるしが」「こ/のたま*396*ごが」のように、区切らずに発音したひとまとまり(「句」と呼ぶ)の始めに上昇が現れる。この上昇を句音調と言い、句と句の切れ目を分かりやすくする機能を担っている。一方、アクセント核は単語に固定されており、「たまご」の「ま」の後の下がり目はなくなることがない。共通語の音調は、句の2拍目から上昇し(句の最初の単語が頭高型の場合は1拍目から上昇する)、アクセント核まで平らに進み、核の後で下がる。従って、句頭で「低低高高…」や「高高高高…」のような音調は現れない。アクセント辞典などでは、アクセントを「しるしが」「たまごが」のように表記する場合があるが、これは1文節を1つの句として発音するときのもので、句音調とアクセント核の両方を同時に表記したものである。 ==文法== ===文の構造=== 日本語では「私は本を読む。」という語順で文を作る。英語で「I read a book.」という語順をSVO型(主語・動詞・目的語)と称する説明にならっていえば、日本語の文はSOV型ということになる。もっとも、厳密にいえば、英語の文に動詞が必須であるのに対して、日本語文は動詞で終わることもあれば、形容詞や名詞+助動詞で終わることもある。そこで、日本語文の基本的な構造は、「S(主語)‐V(動詞)」というよりは、「S(主語)‐P(述語)」という「主述構造」と考えるほうが、より適当である。 私は(が) 社長だ私は(が) 行く。私は(が) 嬉しい。上記の文は、いずれも「S‐P」構造、すなわち主述構造をなす同一の文型である。英語などでは、それぞれ「SVC」「SV」「SVC」の文型になるところであるから、それにならって、1を名詞文、2を動詞文、3を形容詞文と分けることもある。しかし、日本語ではこれらの文型に本質的な違いはない。そのため、英語の初学者などは、「I am a president」「I am happy.」と同じ調子で「I am go.」と誤った作文をすることがある。 ===題述構造=== また、日本語文では、主述構造とは別に、「題目‐述部」からなる「題述構造」を採ることがきわめて多い。題目とは、話のテーマ(主題)を明示するものである(三上章は「what we are talking about」と説明する)。よく主語と混同されるが、別概念である。主語は多く「が」によって表され、動作や作用の主体を表すものであるが、題目は多く「は」によって表され、その文が「これから何について述べるのか」を明らかにするものである。主語に「は」が付いているように見える文も多いが、それはその文が動作や作用の主体について述べる文、すなわち題目が同時に主語でもある文だからである。そのような文では、題目に「は」が付くことにより結果的に主語に「は」が付く。一方、動作や作用の客体について述べる文、すなわち題目が同時に目的語でもある文では、題目に「は」が付くことにより結果的に目的語に「は」が付く。たとえば、 4. 象は 大きい。5. 象は おりに入れた。6. 象は えさをやった。7. 象は 鼻が長い。などの文では、「象は」はいずれも題目を示している。4の「象は」は「象が」に言い換えられるもので、事実上は文の主語を兼ねる。しかし、5以下は「象が」には言い換えられない。5は「象を」のことであり、6は「象に」のことである。さらに、7の「象は」は何とも言い換えられないものである(「象の」に言い換えられるともいう)。これらの「象は」という題目は、「が」「に」「を」などの特定の格を表すものではなく、「私は象について述べる」ということだけをまず明示する役目を持つものである。 これらの文では、題目「象は」に続く部分全体が「述部」である。 大野晋は、「が」と「は」はそれぞれ未知と既知を表すと主張した。たとえば 私が佐藤です私は佐藤ですにおいては、前者は「佐藤はどの人物かと言えば(それまで未知であった)私が佐藤です」を意味し、後者は「(すでに既知である)私は誰かと言えば(田中ではなく)佐藤です」となる。したがって「何」「どこ」「いつ」などの疑問詞は常に未知を意味するから「何が」「どこが」「いつが」となり、「何は」「どこは」「いつは」とは言えない。 日本語と同様に題述構造の文を持つ言語(主題優勢言語)は、東アジアなどに分布する。たとえば、中国語・朝鮮語・ベトナム語・マレー語・タガログ語にもこの構造の文が見られる。 ===主語廃止論=== 上述の「象は鼻が長い。」のように、「主語‐述語」の代わりに「題目‐述部」と捉えるべき文が非常に多いことを考えると、日本語の文にはそもそも主語は必須でないという見方も成り立つ。三上章は、ここから「主語廃止論」(主語という文法用語をやめる提案)を唱えた。三上によれば、 甲ガ乙ニ丙ヲ紹介シタ。という文において、「甲ガ」「乙ニ」「丙ヲ」はいずれも「紹介シ」という行為を説明するために必要な要素であり、優劣はない。重要なのは、それらをまとめる述語「紹介シタ」の部分である。「甲ガ」「乙ニ」「丙ヲ」はすべて述語を補足する語(補語)となる。いっぽう、英語などでの文で主語は、述語と人称などの点で呼応しており、特別の存在である。 この考え方に従えば、英語式の観点からは「主語が省略されている」としかいいようがない文をうまく説明することができる。たとえば、 ハマチの成長したものをブリという。ここでニュースをお伝えします。日一日と暖かくなってきました。などは、いわゆる主語のない文である。しかし、日本語の文では述語に中心があり、補語を必要に応じて付け足すと考えれば、上記のいずれも、省略のない完全な文と見なして差し支えない。 今日の文法学説では、主語という用語・概念は、作業仮説として有用な面もあるため、なお一般に用いられている。一般的には格助詞「ガ」を伴う文法項を主語と見なす。ただし、三上の説に対する形で日本語の文に主語が必須であると主張する学説は、生成文法や鈴木重幸らの言語学研究会グループなど、主語に統語上の重要な役割を認める学派を除いて、少数派である。森重敏は、日本語の文においても主述関係が骨子であるとの立場を採るが、この場合の主語・述語も、一般に言われるものとはかなり様相を異にしている。現在一般的に行われている学校教育における文法(学校文法)では、主語・述語を基本とした伝統的な文法用語を用いるのが普通だが、教科書によっては主語を特別扱いしないものもある。 ===文の成分=== 文を主語・述語から成り立つと捉える立場でも、この2要素だけでは文の構造を十分に説明できない。主語・述語には、さらに修飾語などの要素が付け加わって、より複雑な文が形成される。文を成り立たせるこれらの要素を「文の成分」と称する。 学校文法(中学校の国語教科書)では、文の成分として「主語」「述語」「修飾語」(連用修飾語・連体修飾語)「接続語」「独立語」の5つを挙げている。「並立語(並立の関係にある文節/連文節どうし)」や「補助語・被補助語(補助の関係にある文節/連文節どうし)は文の成分(あるいはそれを示す用語)ではなく、文節/連文節どうしの関係を表した概念であって、常に連文節となって上記五つの成分になるという立場に学校文法は立っている。したがって、「並立の関係」「補助の関係」という用語(概念)を教科書では採用しており、「並立語」「補助語」という用語(概念)については載せていない教科書が主流である。なお「連体修飾語」も厳密にいえばそれだけでは成分にはなり得ず、常に被修飾語と連文節を構成して文の成分になる。 学校図書を除く四社の教科書では、単文節でできているものを「主語」のように「‐語」と呼び、連文節でできているものを「主部」のように「‐部」と呼んでいる。それに対し学校図書だけは、文節/連文節どうしの関係概念を「‐語」と呼び、いわゆる成分(文を構成する個々の最大要素)を「‐部」と呼んでいる。 ===種類とその役割=== 以下、学校文法の区分に従いつつ、それぞれの文の成分の種類と役割とについて述べる。 文を成り立たせる基本的な成分である。ことに述語は、文をまとめる重要な役割を果たす。「雨が降る。」「本が多い。」「私は学生だ。」などは、いずれも主語・述語から成り立っている。教科書によっては、述語を文のまとめ役として最も重視する一方、主語については修飾語と併せて説明するものもある(前節「主語廃止論」参照)。 用言に係る修飾語である(用言については「自立語」の節を参照)。「兄が弟に算数を教える。」という文で「弟に」「算数を」など格を表す部分は、述語の動詞「教える」にかかる連用修飾語ということになる。また、「算数をみっちり教える。」「算数を熱心に教える。」という文の「みっちり」「熱心に」なども、「教える」にかかる連用修飾語である。ただし、「弟に」「算数を」などの成分を欠くと、基本的な事実関係が伝わらないのに対し、「みっちり」「熱心に」などの成分は、欠いてもそれほど事実の伝達に支障がない。ここから、前者は文の根幹をなすとして補充成分と称し、後者に限って修飾成分と称する説もある。国語教科書でもこの2者を区別して説明するものがある。 体言に係る修飾語である(体言については「自立語」の節を参照)。「私の本」「動く歩道」「赤い髪飾り」「大きな瞳」の「私の」「動く」「赤い」「大きな」は連体修飾語である。鈴木重幸・鈴木康之・高橋太郎・鈴木泰らは、ものを表す文の成分に特徴を付与し、そのものがどんなものであるかを規定(限定)する文の成分であるとして、連体修飾語を「規定語」(または「連体規定語」)と呼んでいる。 「疲れたので、動けない。」「買いたいが、金がない。」の「疲れたので」「買いたいが」のように、あとの部分との論理関係を示すものである。また、「今日は晴れた。だから、ピクニックに行こう。」「君は若い。なのに、なぜ絶望するのか。」における「だから」「なのに」のように、前の文とその文とをつなぐ成分も接続語である。品詞分類では、常に接続語となる品詞を接続詞とする。 「はい、分かりました。」「姉さん、どこへ行くの。」「新鮮、それが命です。」の「はい」「姉さん」「新鮮」のように、他の部分に係ったり、他の部分を受けたりすることがないものである。係り受けの観点から定義すると、結果的に、独立語には感動・呼びかけ・応答・提示などを表す語が該当することになる。品詞分類では、独立語としてのみ用いられる品詞は感動詞とされる。名詞や形容動詞語幹なども独立語として用いられる。 「ミカンとリンゴを買う。」「琵琶湖の冬は冷たく厳しい。」の「ミカンとリンゴを」や、「冷たく厳しい。」のように並立関係でまとまっている成分である。全体としての働きは、「ミカンとリンゴを」の場合は連用修飾部に相当し、「冷たく厳しい。」は述部に相当する。 ===目的語と補語=== 現行の学校文法では、英語にあるような「目的語」「補語」などの成分はないとする。英語文法では「I read a book.」の「a book」はSVO文型の一部をなす目的語であり、また「I go to the library.」の「the library」は前置詞とともに付け加えられた修飾語と考えられる。一方、日本語では、 私は本を読む。私は図書館へ行く。のように、「本を」「図書館へ」はどちらも「名詞+格助詞」で表現されるのであって、その限りでは区別がない。これらは、文の成分としてはいずれも「連用修飾語」とされる。ここから、学校文法に従えば、「私は本を読む。」は、「主語‐目的語‐動詞」(SOV) 文型というよりは、「主語‐修飾語‐述語」文型であると解釈される。 鈴木重幸・鈴木康之らは、「連用修飾語」のうち、「目的語」に当たる語は、述語の表す動きや状態の成立に加わる対象を表す「対象語」であるとし、文の基本成分として認めている。(高橋太郎・鈴木泰・工藤真由美らは「対象語」と同じ文の成分を、主語・述語が表す事柄の組み立てを明示するために、その成り立ちに参加する物を補うという文中における機能の観点から、「補語」と呼んでいる。) 「明日、学校で運動会がある。」の「明日」「学校で」など、出来事や有様の成り立つ状況を述べるために時や場所、原因や目的(「雨だから」(「体力向上のために」など)を示す文の成分のことを「状況語」とも言う(鈴木重幸『日本語文法・形態論』、高橋太郎他『日本語の文法』他)。学校文法では「連用修飾語」に含んでいるが、(連用)修飾語が、述語の表す内的な属性を表すのに対して、状況語は外的状況を表す「とりまき」ないしは「額縁」の役目を果たしている。状況語は、出来事や有様を表す部分の前に置かれるのが普通であり、主語の前に置かれることもある。なお、「状況語」という用語はロシア語・スペイン語・中国語(中国語では「状語」と言う)などにもあるが、日本語の「状況語」と必ずしも概念が一致しているわけではなく、修飾語を含んだ概念である。 ===修飾語の特徴=== 日本語では、修飾語はつねに被修飾語の前に位置する。「ぐんぐん進む」「白い雲」の「ぐんぐん」「白い」はそれぞれ「進む」「雲」の修飾語である。修飾語が長大になっても位置関係は同じで、たとえば、 ゆく秋の大和の国の薬師寺の塔の上なるひとひらの雲 ―佐佐木信綱 という短歌は、冒頭から「ひとひらの」までが「雲」に係る長い修飾語である。 法律文や翻訳文などでも、長い修飾語を主語・述語の間に挟み、文意を取りにくくしていることがしばしばある。たとえば、憲法前文の一節に、 われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。 とあるが、主語(題目)の「われら」、述語の「信ずる」の間に「いづれの国家も……であると」という長い修飾語が介在している。この種の文を読み慣れた人でなければ分かりにくい。英訳で ”We hold…”(われらは信ずる)と主語・述語が隣り合うのとは対照的である。 もっとも、修飾語が後置される英語でも、修飾関係の分かりにくい文が現れることがある。次のような文は「袋小路文」(en:garden path sentence) と呼ばれる。 The horse raced past the barn fell.(納屋のそばを走らされた馬が倒れた。) この場合、日本語の文では「馬」に係る連体修飾語「納屋のそばを走らされた」が前に来ているために誤解がないが、英語では「The horse」を修飾する「raced past the barn」があとに来ているために、誤解の元になっている。すなわち、「崩れた納屋のそばを馬が素早く走り抜けた」とも読める。 ===品詞体系=== 名詞や動詞、形容詞といった「品詞」の概念は、上述した「文の成分」の概念とは分けて考える必要がある。名詞「犬」は、文の成分としては主語にもなれば修飾語にもなり、「犬だ」のように助動詞「だ」を付けて述語にもなる。動詞・形容詞・形容動詞も、修飾語にもなれば述語にもなる。もっとも、副詞は多く連用修飾語として用いられ、また、連体詞は連体修飾語に、接続詞は接続語に、感動詞は独立語にもっぱら用いられるが、必ずしも、特定の品詞が特定の文の成分に1対1で対応しているわけではない。 では、それぞれの品詞の特徴を形作るものは何かということが問題になるが、これについては、さまざまな説明があり、一定しない。俗に、事物を表す単語が名詞、動きを表す単語が動詞、様子を表す単語が形容詞などといわれることがあるが、例外がいくらでも挙がり、定義としては成立しない。 橋本進吉は、品詞を分類するにあたり、単語の表す意味(動きを表すか様子を表すかなど)には踏み込まず、主として形式的特徴によって品詞分類を行っている。橋本の考え方は初学者にも分かりやすいため、学校文法もその考え方に基づいている。 学校文法では、語のうち、「太陽」「輝く」「赤い」「ぎらぎら」など、それだけで文節を作り得るものを自立語(詞)とし、「ようだ」「です」「が」「を」など、単独で文節を作り得ず、自立語に付属して用いられるものを付属語(辞)とする。なお、日本語では、自立語の後に接辞や付属語を次々につけ足して文法的な役割などを示すため、言語類型論上は膠着語に分類される。 ===自立語=== 自立語は、活用のないものと、活用のあるものとに分けられる。 自立語で活用のないもののうち、主語になるものを名詞とする。名詞のうち、代名詞・数詞を独立させる考え方もある。一方、主語にならず、単独で連用修飾語になるものを副詞、連体修飾語になるものを連体詞(副体詞)、接続語になるものを接続詞、独立語としてのみ用いられるものを感動詞とする。副詞・連体詞については、それぞれ一品詞とすべきかどうかについて議論があり、さらに細分化する考え方や、他の品詞に吸収させる考え方などがある。 自立語で活用のあるもののうち、命令形のあるものを動詞、命令形がなく終止・連体形が「い」で終わるものを形容詞(日本語教育では「イ形容詞」)、連体形が「な」で終わるものを形容動詞(日本語教育では「ナ形容詞」)とする。形容動詞を一品詞として認めることについては、時枝誠記や鈴木重幸など、否定的な見方をする研究者もいる。 なお、「名詞」および「体言」という用語は、しばしば混同される。古来、ことばを分類するにあたり、活用のない語を「体言」(体)、活用のある語を「用言」(用)、そのほか、助詞・助動詞の類を「てにをは」と大ざっぱに称することが多かった。現在の学校文法では、「用言」は活用のある自立語の意味で用いられ(動詞・形容詞・形容動詞を指す)、「体言」は活用のない自立語の中でも名詞(および代名詞・数詞)を指すようになった。つまり、現在では「体言」と「名詞」とは同一物と見ても差し支えはないが、活用しない語という点に着目していう場合は「体言」、文の成分のうち主語になりうるという点に着目していう場合は「名詞」と称する。 ===付属語=== 付属語も、活用のないものと、活用のあるものとに分けられる。 付属語で活用のないものを助詞と称する。「春が来た」「買ってくる」「やるしかない」「分かったか」などの太字部分はすべて助詞である。助詞は、名詞について述語との関係(格関係)を表す格助詞(「名詞の格」の節参照)、活用する語について後続部分との接続関係を表す接続助詞、種々の語について、程度や限定などの意味を添えつつ後続の用言などを修飾する副助詞、文の終わりに来て疑問や詠嘆・感動・禁止といった気分や意図を表す終助詞に分けられる。鈴木重幸・高橋太郎他・鈴木康之らは助詞を単語とは認めず、付属辞(「くっつき」)として、単語の一部とする。(格助詞・並立助詞・係助詞・副助詞・終助詞の全部および接続助詞のうち「し」「が」「けれども」「から」「ので」「のに」について)または語尾(接続助詞のうち「て(で)」、条件の形の「ば」、並べ立てるときの「たり(だり)」について)。 付属語で活用のあるものを助動詞と称する。「気を引かれる」「私は泣かない」「花が笑った」「さあ、出かけよう」「今日は来ないそうだ」「もうすぐ春です」などの太字部分はすべて助動詞である。助動詞の最も主要な役割は、動詞(および助動詞)に付属して以下のような情報を加えることである。すなわち、動詞の態(特に受け身・使役・可能など。ヴォイス)・極性(肯定・否定の決定。ポラリティ)・時制(テンス)・相(アスペクト)・法(推量・断定・意志など。ムード)などを示す役割を持つ。山田孝雄は、助動詞を認めず、動詞から分出される語尾(複語尾)と見なしている。また時枝誠記は、「れる(られる)」「せる(させる)」を助動詞とせず、動詞の接尾語としている。鈴木重幸・鈴木康之・高橋太郎らは大部分の助動詞を単語とは認めない。「た(だ)」「う(よう)は、動詞の語尾であるとし、「ない」「よう」「ます」「れる」「られる」「せる」「させる」「たい」「そうだ」「ようだ」は、接尾辞であるとして、単語の一部とする。(「ようだ」「らしい」「そうだ」に関しては、「むすび」または「コピュラ」「繋辞」であるとする。) ===名詞の格=== 名詞および動詞・形容詞・形容動詞は、それが文中でどのような成分を担っているかを特別の形式によって表示する。 名詞の場合、「が」「を」「に」などの格助詞を後置することで動詞との関係(格)を示す。語順によって格を示す言語ではないため、日本語は語順が比較的自由である。すなわち、 桃太郎が 犬に きびだんごを やりました。犬に 桃太郎が きびだんごを やりました。きびだんごを 桃太郎が 犬に やりました。などは、強調される語は異なるが、いずれも同一の内容を表す文で、しかも正しい文である。 主な格助詞とその典型的な機能は次の通りである。 このように、格助詞は、述語を連用修飾する名詞が述語とどのような関係にあるかを示す(ただし、「の」だけは連体修飾に使われ、名詞同士の関係を示す)。なお、上記はあくまでも典型的な機能であり、主体を表さない「が」(例、「水が飲みたい」)、対象を表さない「を」(例、「日本を発った」)、到達点を表さない「に」(例、受動動作の主体「先生にほめられた」、地位の所在「今上天皇にあらせられる」)、主体を表す「の」(例、「私は彼の急いで走っているのを見た」)など、上記に収まらない機能を担う場合も多い。 格助詞のうち、「が」「を」「に」は、話し言葉においては脱落することが多い。その場合、文脈の助けがなければ、最初に来る部分は「が」格に相当すると見なされる。「くじらをお父さんが食べてしまった。」を「くじら、お父さん食べちゃった。」と助詞を抜かして言った場合は、「くじら」が「が」格相当ととらえられるため、誤解の元になる。「チョコレートを私が食べてしまった。」を「チョコレート、私食べちゃった。」と言った場合は、文脈の助けによって誤解は避けられる。なお、「へ」「と」「から」「より」「で」などの格助詞は、話し言葉においても脱落しない。 題述構造の文(「文の構造」の節参照)では、特定の格助詞が「は」に置き換わる。たとえば、「空が 青い。」という文は、「空」を題目化すると「空は 青い。」となる。題目化の際の「は」の付き方は、以下のようにそれぞれの格助詞によって異なる。 格助詞は、下に来る動詞が何であるかに応じて、必要とされる種類と数が変わってくる。たとえば、「走る」という動詞で終わる文に必要なのは「が」格であり、「馬が走る。」とすれば完全な文になる。ところが、「教える」の場合は、「が」格を加えて「兄が教えています。」としただけでは不完全な文である。さらに「で」格を加え、「兄が小学校で教えています(=教壇に立っています)。」とすれば完全になる。つまり、「教える」は、「が・で」格が必要である。 ところが、「兄が部屋で教えています。」という文の場合、「が・で」格があるにもかかわらず、なお完全な文という感じがしない。「兄が部屋で弟に算数を教えています。」のように「が・に・を」格が必要である。むしろ、「で」格はなくとも文は不完全な印象はない。 すなわち、同じ「教える」でも、「教壇に立つ」という意味の「教える」は「が・で」格が必要であり、「説明して分かるようにさせる」という意味の「教える」では「が・に・を」格が必要である。このように、それぞれの文を成り立たせるのに必要な格を「必須格」という。 ===活用形と種類=== 名詞が格助詞を伴ってさまざまな格を示すのに対し、用言(動詞・形容詞・形容動詞)および助動詞は、語尾を変化させることによって、文中のどの成分を担っているかを示したり、時制・相などの情報や文の切れ続きの別などを示したりする。この語尾変化を「活用」といい、活用する語を総称して「活用語」という。 学校文法では、口語の活用語について、6つの活用形を認めている。以下、動詞・形容詞・形容動詞の活用形を例に挙げる(太字部分)。 一般に、終止形は述語に用いられる。「(選手が球を)打つ。」「(この子は)強い。」「(消防士は)勇敢だ。」など。 連用形は、文字通り連用修飾語にも用いられる。「強く(生きる。)」「勇敢に(突入する。)」など。ただし、「選手が球を打ちました。」の「打ち」は連用形であるが、連用修飾語ではなく、この場合は述語の一部である。このように、活用形と文中での役割は、1対1で対応しているわけではない。 仮定形は、文語では已然形と称する。口語の「打てば」は仮定を表すが、文語の「打てば」は「已(すで)に打ったので」の意味を表すからである。また、形容詞・形容動詞は、口語では命令形がないが、文語では「稽古は強かれ。」(風姿花伝)のごとく命令形が存在する。 動詞の活用は種類が分かれている。口語の場合は、五段活用・上一段活用・下一段活用・カ行変格活用(カ変)・サ行変格活用(サ変)の5種類である。 ==語彙== ===分野ごとの語彙量=== ある言語の語彙体系を見渡して、特定の分野の語彙が豊富であるとか、別の分野の語彙が貧弱であるとかを決めつけることは、一概にはできない。日本語でも、たとえば「自然を表す語彙が多いというのが定評」といわれるが、これは人々の直感から来る評判という意味以上のものではない。 実際に、旧版『分類語彙表』によって分野ごとの語彙量の多寡を比べた結果によれば、名詞(体の類)のうち「人間活動―精神および行為」に属するものが27.0%、「抽象的関係」が18.3%、「自然物および自然現象」が10.0%などとなっていて、この限りでは「自然」よりも「精神」や「行為」などを表す語彙のほうが多いことになる。ただし、これも、他の言語と比較して多いということではなく、この結果がただちに日本語の語彙の特徴を示すことにはならない。 ===人称語彙=== こうした中で、日本語に人称を表す語彙が多いことは注意を引く。たとえば、『類語大辞典』の「わたし」の項には「わたし・わたくし・あたし・あたくし・あたい・わし・わい・わて・我が輩・僕・おれ・おれ様・おいら・われ・わー・わん・朕・わっし・こちとら・自分・てまえ・小生・それがし・拙者・おら」などが並び、「あなた」の項には「あなた・あんた・きみ・おまえ・おめえ・おまえさん・てめえ・貴様・おのれ・われ・お宅・なんじ・おぬし・その方・貴君・貴兄・貴下・足下・貴公・貴女・貴殿・貴方(きほう)」などが並ぶ。 上の事実は、現代英語の一人称・二人称代名詞がほぼ ”I” と ”you” のみであり、フランス語の一人称代名詞が ”je”、二人称代名詞が ”tu” ”vous” のみであることと比較すれば、特徴的ということができる。もっとも、日本語においても、本来の人称代名詞は、一人称に「ワ(レ)」「ア(レ)」、二人称に「ナ(レ)」があるのみである(但し『ナ』はもと一人称とも見られ、後述のこととも関係があるか)。今日、一・二人称同様に用いられる語は、その大部分が一般名詞からの転用である。一人称を示す「ぼく」「手前」や三人称を示す「彼女」などを、「ぼく、何歳?」「てめえ、何しやがる」「彼女、どこ行くの?」のように二人称に転用することが可能であるのも、日本語の人称語彙が一般名詞的であることの現れである。 なお、敬意表現の観点から、目上に対しては二人称代名詞の使用が避けられる傾向がある。たとえば、「あなたは何時に出かけますか」とは言わず、「何時にいらっしゃいますか」のように言うことが普通である。 「親族語彙の体系」の節も参照。 ===音象徴語彙(オノマトペ)=== また、音象徴語、いわゆるオノマトペの語彙量も日本語には豊富である(オノマトペの定義は一定しないが、ここでは、擬声語・擬音語のように耳に聞こえるものを写した語と、擬態語のように耳に聞こえない状態・様子などを写した語の総称として用いる)。 擬声語は、人や動物が立てる声を写したものである(例、おぎゃあ・がおう・げらげら・にゃあにゃあ)。擬音語は、物音を写したものである(例、がたがた・がんがん・ちんちん・どんどん)。擬態語は、ものごとの様子や心理の動きなどを表したものである(例、きょろきょろ・すいすい・いらいら・わくわく)。擬態語の中で、心理を表す語を特に擬情語と称することもある。 オノマトペ自体は多くの言語に存在する。たとえば猫の鳴き声は、英語で「mew」、ドイツ語で「miau」、フランス語で 「miaou」、ロシア語で「мяу」、中国語で「*397**398*」、朝鮮語で「*399**400**401**402*」などである。しかしながら、その語彙量は言語によって異なる。日本語のオノマトペは欧米語や中国語の3倍から5倍存在するといわれ、とりわけ擬態語が多く使われるとされる。 新たなオノマトペが作られることもある。「(心臓が)ばくばく」「がっつり(食べる)」などは、近年に作られた(広まった)オノマトペの例である。 漫画などの媒体では、とりわけ自由にオノマトペが作られる。漫画家の手塚治虫は、漫画を英訳してもらったところ、「ドギューン」「シーン」などの語に翻訳者が「お手あげになってしまった」と記している。また、漫画出版社社長の堀淵清治も、アメリカで日本漫画を売るに当たり、独特の擬音を訳すのにスタッフが悩んだことを述べている。 ===品詞ごとの語彙量=== 日本語の語彙を品詞ごとにみると、圧倒的に多いものは名詞である。その残りのうちで比較的多いものは動詞である。『新選国語辞典』の収録語の場合、名詞が82.37%、動詞が9.09%、副詞が2.46%、形容動詞が2.02%、形容詞が1.24%となっている。 このうち、とりわけ目を引くのは形容詞の少なさである。かつて柳田國男はこの点を指摘して「形容詞饑饉」と称した。英語の場合、『オックスフォード英語辞典』第2版では、半分以上が名詞、約4分の1が形容詞、約7分の1が動詞ということであり、英語との比較の上からは、日本語の形容詞が僅少であることは特徴的といえる。 ただし、これは日本語で物事を形容することが難しいことを意味するものではない。品詞分類上の形容詞、すなわち「赤い」「楽しい」など「〜い」の形式を採る語が少ないということであって、他の形式による形容表現が多く存在する。「真っ赤だ」「きれいだ」など「〜だ」の形式を採る形容動詞(「〜的だ」を含む)、「初歩(の)」「酸性(の)」など「名詞(+の)」の形式、「目立つ(色)」「とがった(針)」「はやっている(店)」など動詞を基にした形式、「つまらない」「にえきらない」など否定助動詞「ない」を伴う形式などが形容表現に用いられる。 もともと少ない形容詞を補う主要な形式は形容動詞である。漢語・外来語の輸入によって、「正確だ」「スマートだ」のような、漢語・外来語+「だ」の形式の形容動詞が増大した。上掲の『新選国語辞典』で名詞扱いになっている漢語・外来語のうちにも、形容動詞の用法を含むものが多数存在する。現代の二字漢語(「世界」「研究」「豊富」など)約2万1千語を調査した結果によれば、全体の63.7%が事物類(名詞に相当)、29.9%が動態類(動詞に相当)、7.3%が様態類(形容動詞に相当)、1.1%が副用類(副詞に相当)であり、二字漢語の7%程度が形容動詞として用いられていることが分かる。 「語彙の増加と品詞」の節も参照。 ===語彙体系=== それぞれの語は、ばらばらに存在しているのではなく、意味・用法などの点で互いに関連をもったグループを形成している。これを語彙体系と称する。日本語の語彙自体、一つの大きな語彙体系といえるが、その中にはさらに無数の語彙体系が含まれている。 以下、体系をなす語彙の典型的な例として、指示語・色彩語彙・親族語彙を取り上げて論じる。 ===指示語の体系=== 日本語では、ものを指示するために用いる語彙は、一般に「こそあど」と呼ばれる4系列をなしている。これらの指示語(指示詞)は、主として名詞(「これ・ここ・こなた・こっち」など)であるため、概説書の類では名詞(代名詞)の説明のなかで扱われている場合も多い。しかし、実際には副詞(「こう」など)・連体詞(「この」など)・形容動詞(「こんなだ」など)にまたがるため、ここでは語彙体系の問題として論じる。 「こそあど」の体系は、伝統的には「近称・中称・遠称・不定(ふじょう、ふてい)称」の名で呼ばれた。明治時代に、大槻文彦は以下のような表を示している。 ここで、「近称」は最も近いもの、「中称」はやや離れたもの、「遠称」は遠いものを指すとされた。ところが、「そこ」などを「やや離れたもの」を指すと考えると、遠くにいる人に向かって「そこで待っていてくれ」と言うような場合を説明しがたい。また、自分の腕のように近くにあるものを指して、人に「そこをさすってください」と言うことも説明しがたいなどの欠点がある。佐久間鼎(かなえ)は、この点を改め、「こ」は「わ(=自分)のなわばり」に属するもの、「そ」は「な(=あなた)のなわばり」に属するもの、「あ」はそれ以外の範囲に属するものを指すとした。すなわち、体系は下記のようにまとめられた。 このように整理すれば、上述の「そこで待っていてくれ」「そこをさすってください」のような言い方はうまく説明される。相手側に属するものは、遠近を問わず「そ」で表されることになる。この説明方法は、現在の学校教育の国語でも取り入れられている。 とはいえ、すべての場合を佐久間説で割り切れるわけでもない。たとえば、道で「どちらに行かれますか」と問われて、「ちょっとそこまで」と答えたとき、これは「それほど遠くないところまで行く」という意味であるから、大槻文彦のいう「中称」の説明のほうがふさわしい。ものを無くしたとき、「ちょっとそのへんを探してみるよ」と言うときも同様である。 また、目の前にあるものを直接指示する場合(現場指示)と、文章の中で前に出た語句を指示する場合(文脈指示)とでも、事情が変わってくる。「生か死か、それが問題だ」の「それ」は、「中称」(やや離れたもの)とも、「相手所属のもの」とも解釈しがたい。直前の内容を「それ」で示すものである。このように、指示語の意味体系は、詳細に見れば、なお研究の余地が多く残されている。 なお、指示の体系は言語によって異なる。不定称を除いた場合、3系列をなす言語は日本語(こ、そ、あ)や朝鮮語(*403*、*404*、*405*)などがある。一方、英語(this、that)や中国語(*406*、那)などは2系列をなす。日本人の英語学習者が「これ、それ、あれ」に「this、it、that」を当てはめて考えることがあるが、「it」は文脈指示の代名詞で系列が異なるため、混用することはできない。 ===色彩語彙の体系=== 日本語で色彩を表す語彙(色彩語彙)は、古来、「アカ」「シロ」「アヲ」「クロ」の4語が基礎となっている。「アカ」は明るい色(明しの語源か)、「シロ」は顕(あき)らかな色(白しの語源か)、「アヲ」は漠然とした色(淡しの語源か)、「クロ」は暗い色(暗しの語源か)を総称した。今日でもこの体系は基本的に変わっていない。葉の色・空の色・顔色などをいずれも「アオ」と表現するのはここに理由がある。 文化人類学者のバーリンとケイの研究によれば、種々の言語で最も広範に用いられている基礎的な色彩語彙は「白」と「黒」であり、以下、「赤」「緑」が順次加わるという。日本語の色彩語彙もほぼこの法則に合っているといってよい。 このことは、日本語を話す人々が4色しか識別しないということではない。特別の色を表す場合には、「黄色(語源は「木」かという)」「紫色」「茶色」「蘇芳色」「浅葱色」など、植物その他の一般名称を必要に応じて転用する。ただし、これらは基礎的な色彩語彙ではない。 ===親族語彙の体系=== 日本語の親族語彙は、比較的単純な体系をなしている。英語の基礎語彙で、同じ親から生まれた者を「brother」「sister」の2語のみで区別するのに比べれば、日本語では、男女・長幼によって「アニ」「アネ」「オトウト」「イモウト」の4語を区別し、より詳しい体系であるといえる(古代には、年上のみ「アニ」「アネ」と区別し、年下は「オト」と一括した)。しかしながら、たとえば中国語の親族語彙と比較すれば、はるかに単純である。中国語では、父親の父母を「祖父」「祖母」、母親の父母を「外祖父」「外祖母」と呼び分けるが、日本語では「ジジ」「ババ」の区別しかない。中国語では父の兄弟を「伯」「叔」、父の姉妹を「姑」、母の兄弟を「舅」、母の姉妹を「姨」などというが、日本語では「オジ」「オバ」のみである。「オジ」「オバ」の子はいずれも「イトコ」の名で呼ばれる。日本語でも、「伯父(はくふ)」「叔父(しゅくふ)」「従兄(じゅうけい)」「従姉(じゅうし)」などの語を文章語として用いることもあるが、これらは中国語からの借用語である。 親族語彙を他人に転用する虚構的用法が多くの言語に存在する。例えば、朝鮮語(「*407**408**409*」お父様)・モンゴル語(「aab」父)では尊敬する年配男性に用いる。英語でも議会などの長老やカトリック教会の神父を「father(父)」、寮母を「mother(母)」、男の親友や同一宗派の男性を「brother(兄弟)」、女の親友や修道女や見知らぬ女性を「sister」(姉妹)と呼ぶ。中国語では見知らぬ若い男性・女性に「老兄」(お兄さん)「大姐」(お姉さん)と呼びかける、そして年長者では男性・女性に「大爺」(旦那さん)「大媽」(伯母さん)と呼びかける。日本語にもこの用法があり、赤の他人を「お父さん」「お母さん」と呼ぶことがある。たとえば、店員が中年の男性客に「お父さん、さあ買ってください」のように言う。フランス語・イタリア語・デンマーク語・チェコ語などのヨーロッパの言語で他人である男性をこのように呼ぶことは普通ではなく、日本語で赤の他人を「お父さん」と呼ぶのが失礼になりうるのと同じく、失礼にさえなるという。 一族内で一番若い世代から見た名称で自分や他者を呼ぶことがあるのも各国語に見られる用法である。例えば、父親が自分自身を指して「お父さん」と言ったり(「お父さんがやってあげよう」)、自分の母を子から見た名称で「おばあちゃん」と呼んだりする用法である。この用法は、中国語・朝鮮語・モンゴル語・英語・フランス語・イタリア語・デンマーク語・チェコ語などを含め諸言語にある。 ===語種=== 日本語の語彙を出自から分類すれば、大きく、和語・漢語・外来語、およびそれらが混ざった混種語に分けられる。このように、出自によって分けた言葉の種類を「語種」という。和語は日本古来の大和言葉、漢語は中国渡来の漢字の音を用いた言葉、外来語は中国以外の他言語から取り入れた言葉である。もっとも、和語とされる「ウメ(梅)」「ウマ(馬)」「カミ(紙/簡)」「ヱ(絵/画)」などが元来中国語からの借用語であった可能性があるなど、語種の境界はときに曖昧である(「語彙史」の節参照)。 和語は日本語の語彙の中核部分を占める。「これ」「それ」「きょう」「あす」「わたし」「あなた」「行く」「来る」「良い」「悪い」などのいわゆる基礎語彙はほとんど和語である。また、「て」「に」「を」「は」などの助詞や、助動詞の大部分など、文を組み立てるために必要な付属語も和語である。 一方、抽象的な概念や、社会の発展に伴って新たに発生した概念を表すためには、漢語や外来語が多く用いられる。和語の名称がすでにある事物を漢語や外来語で言い換えることもある。「めし」を「御飯」「ライス」、「やどや」を「旅館」「ホテル」などと称するのはその例である。このような語種の異なる同義語には、微妙な意味・ニュアンスの差異が生まれ、とりわけ和語には易しい、または卑俗な印象、漢語には公的で重々しい印象、外来語には新しい印象が含まれることが多い。 一般に、和語の意味は広く、漢語の意味は狭いといわれる。たとえば、「しづむ(しずめる)」という1語の和語に、「沈」「鎮」「静」など複数の漢語の造語成分が相当する。「しづむ」の含む多様な意味は、「沈む」「鎮む」「静む」などと漢字を用いて書き分けるようになり、その結果、これらの「しづむ」が別々の語と意識されるまでになった。2字以上の漢字が組み合わさった漢語の表す意味はとりわけ分析的である。たとえば、「弱」という造語成分は、「脆」「貧」「軟」「薄」などの成分と結合することにより、「脆弱」「貧弱」「軟弱」「薄弱」のように分析的・説明的な単語を作る(「語彙史」の節の「漢語の勢力拡大」および「語彙の増加と品詞」を参照)。 漢語は、「学問」「世界」「博士」などのように、古く中国から入ってきた語彙が大部分を占めるのは無論であるが、日本人が作った漢語(和製漢語)も古来多い。現代語としても、「国立」「改札」「着席」「挙式」「即答」「熱演」など多くの和製漢語が用いられている。漢語は音読みで読まれることから、字音語と呼ばれる場合もある。 外来語は、もとの言語の意味のままで用いられるもの以外に、日本語に入ってから独自の意味変化を遂げるものが少なくない。英語の ”claim” は「当然の権利として要求する」の意であるが、日本語の「クレーム」は「文句」の意である。英語の ”lunch” は昼食の意であるが、日本の食堂で「ランチ」といえば料理の種類を指す。 外来語を組み合わせて、「アイスキャンデー」「サイドミラー」「テーブルスピーチ」のように日本語独自の語が作られることがある。また、当該の語形が外国語にない「パネラー」(パネリストの意)「プレゼンテーター」(プレゼンテーションをする人。プレゼンター)などの語形が作られることもある。これらを総称して「和製洋語」、英語系の語を特に「和製英語」と言う。 ===単純語と複合語=== 日本語の語彙は、語構成の面からは単純語と複合語に分けることができる。単純語は、「あたま」「かお」「うえ」「した」「いぬ」「ねこ」のように、それ以上分けられないと意識される語である。複合語は、「あたまかず」「かおなじみ」「うわくちびる」「いぬずき」のように、いくつかの単純語が合わさってできていると意識される語である。なお、熟語と総称される漢語は、本来漢字の字音を複合させたものであるが、「えんぴつ(鉛筆)」「せかい(世界)」など、日本語において単純語と認識される語も多い。「語種」の節で触れた混種語、すなわち、「プロ野球」「草野球」「日本シリーズ」のように複数の語種が合わさった語は、語構成の面からはすべて複合語ということになる。 日本語では、限りなく長い複合語を作ることが可能である。「平成十六年新潟県中越地震非常災害対策本部」「服部四郎先生定年退官記念論文集編集委員会」といった類も、ひとつの長い複合語である。国際協定の関税及び貿易に関する一般協定は、英語では「General Agreement on Tariffs and Trade」(関税と貿易に関する一般協定)であり、ひとつの句であるが、日本の新聞では「関税貿易一般協定」と複合語で表現することがある。これは漢字の結合力によるところが大きく、中国語・朝鮮語などでも同様の長い複合語を作る。なお、ヨーロッパ語を見ると、ロシア語では「человеконенавистничество」(人間嫌い)、ドイツ語では「Naturfarbenphotographie」(天然色写真)などの長い語の例を比較的多く有し、英語でも「antidisestablishmentarianism」(国教廃止条例反対論。英首相グラッドストンの造語という)などの語例がまれにある。 接辞は、複合語を作るために威力を発揮する。たとえば、「感」は、「音感」「語感」「距離感」「不安感」など漢字2字・3字からなる複合語のみならず、「透け感」「懐かし感」「しゃきっと感」「きちんと感」など動詞・形容詞・副詞との複合語を作り、さらには「『昔の名前で出ています』感」(=昔の名前で出ているという感じ)のように文であったものに下接して長い複合語を作ることもある。 日本語の複合語は、難しい語でも、表記を見れば意味が分かる場合が多い。たとえば、英語の「apivorous」 は生物学者にしか分からないのに対し、日本語の「蜂食性」は「蜂を食べる性質」であると推測できる。これは表記に漢字を用いる言語の特徴である。 ==表記== 現代の日本語は、漢字・平仮名・片仮名を用いて、常用漢字・現代仮名遣いに基づいて表記されることが一般的である。アラビア数字やローマ字(ラテン文字)なども必要に応じて併用される。 正書法の必要性を説く主張や、その反論がしばしば交わされてきた。 ===字種=== 平仮名・片仮名は、2017年9月現在では以下の46字ずつが使われる。 このうち、「゛」(濁音符)および「゜」(半濁音符)を付けて濁音・半濁音を表す仮名もある(「音韻」の節参照)。拗音は小書きの「ゃ」「ゅ」「ょ」を添えて表し、促音は小書きの「っ」で表す。「つぁ」「ファ」のように、小書きの「ぁ」「ぃ」「ぅ」「ぇ」「ぉ」を添えて表す音もあり、補助符号として長音を表す「ー」がある。歴史的仮名遣いでは上記のほか、表音は同じでも表記の違う、平仮名「ゐ」「ゑ」および片仮名「ヰ」「ヱ」の字が存在し、その他にも変体仮名がある。 漢字は、日常生活において必要とされる2136字の常用漢字と、子の名づけに用いられる861字の人名用漢字が、法で定められている。実際にはこれら以外にも一般に通用する漢字の数は多いとされ、日本工業規格はJIS X 0208(通称JIS漢字)として約6300字を電算処理可能な漢字として挙げている。なお、漢字の本家である中国においても同様の基準は存在し、現代漢語常用字表により、「常用字」として2500字、「次常用字」として1000字が定められている。これに加え、現代漢語通用字表ではさらに3500字が追加されている。 一般的な文章では、上記の漢字・平仮名・片仮名を交えて記すほか、アラビア数字・ローマ字なども必要に応じて併用する。基本的には、漢語には漢字を、和語のうち概念を表す部分(名詞や用言語幹など)には漢字を、形式的要素(助詞・助動詞など)や副詞・接続詞の一部には平仮名を、外来語(漢語以外)には片仮名を用いる場合が多い。公的な文書では特に表記法を規定している場合もあり、民間でもこれに倣うことがある。ただし、厳密な正書法はなく、表記のゆれは広く許容されている。文章の種類や目的によって、 さくらのはながさく / サクラの花が咲く / 桜の花が咲くなどの表記がありうる。 多様な文字体系を交えて記す利点として、単語のまとまりが把握しやすく、速読性に優れるなどの点が指摘される。日本語の単純な音節構造に由来する同音異義語が漢字によって区別され、かつ字数も節約されるという利点もある。計算機科学者の村島定行は、日本語では、表意文字と表音文字の二重の文章表現ができるため、記憶したり、想起したりするのに手がかりが多く、言語としての機能が高いと指摘している。一方で中国文学者の高島俊男は、漢字の表意性に過度に依存した日本語の文章は、他の自然言語に類を見ないほどの同音異義語を用いざるを得なくなり、しばしば実用の上で支障を来たすことから、言語として「*410*倒している」と評している。歴史上、漢字を廃止して、仮名またはローマ字を国字化しようという主張もあったが、広く実行されることはなかった(「国語国字問題」参照)。今日では漢字・平仮名・片仮名の交ぜ書きが標準的表記の地位をえている。 ===方言と表記=== 日本語の表記体系は中央語を書き表すために発達したものであり、方言の音韻を表記するためには必ずしも適していない。たとえば、東北地方では「柿」を [kag*411*]、「鍵」を [k*412**413**414*] のように発音するが、この両語を通常の仮名では書き分けられない(アクセント辞典などで用いる表記によって近似的に記せば、「カギ」と「カンキ*415*」のようになる)。もっとも、方言は書き言葉として用いられることが少ないため、実際上に不便を来すことは少ない。 岩手県気仙方言(ケセン語)について、山浦玄嗣により、文法形式を踏まえた正書法が試みられているというような例もある。ただし、これは実用のためのものというよりは、学術的な試みのひとつである。 琉球語(「系統」参照)の表記体系もそれを準用している。たとえば、琉歌「てんさごの花」(てぃんさぐぬ花)は、伝統的な表記法では次のように記す。 てんさごの花や 爪先に染めて 親の寄せごとや 肝に染めれ ― この表記法では、たとえば、「ぐ」「ご」がどちらも [gu] と発音されるように、かな表記と発音が一対一で対応しない場合が多々ある。表音的に記せば、[ti*416**417*agunu hanaja *418*imi*419*a*420*i*421*i sumiti, *422*ujanu ju*423*igutuja *424*imu*425*i sumiri] のようになるところである。 漢字表記の面では、地域文字というべきものが各地に存在する。たとえば、名古屋市の地名「杁中(いりなか)」などに使われる「杁」は、名古屋と関係ある地域の「地域文字」である。また、「垰」は「たお」「たわ」などと読まれる国字で、中国地方ほかで定着しているという。 ==文体== 文は、目的や場面などに応じて、さまざまな異なった様式を採る。この様式のことを、書き言葉(文章)では「文体」と称し、話し言葉(談話)では「話体」と称する。 日本語では、とりわけ文末の助動詞・助詞などに文体差が顕著に現れる。このことは、「ですます体」「でございます体」「だ体」「である体」「ありんす言葉」(江戸・新吉原の遊女の言葉)「てよだわ言葉」(明治中期から流行した若い女性の言葉)などの名称に典型的に表れている。それぞれの文体・話体の差は大きいが、日本語話者は、複数の文体・話体を常に切り替えながら使用している。 なお、「文体」の用語は、書かれた文章だけではなく談話についても適用されるため、以下では「文体」に「話体」も含めて述べる。また、文語文・口語文などについては「文体史」の節に譲る。 ===普通体・丁寧体=== 日本語の文体は、大きく普通体(常体)および丁寧体(敬体)の2種類に分かれる。日本語話者は日常生活で両文体を適宜使い分ける。日本語学習者は、初めに丁寧体を、次に普通体を順次学習することが一般的である。普通体は相手を意識しないかのような文体であるため独語体と称し、丁寧体は相手を意識する文体であるため対話体と称することもある。 普通体と丁寧体の違いは次のように現れる。 普通体では、文末に名詞・形容動詞・副詞などが来る場合には、「だ」または「である」を付けた形で結ぶ。前者を特に「だ体」、後者を特に「である体」と呼ぶこともある。 丁寧体では、文末に名詞・形容動詞・副詞などが来る場合には、助動詞「です」を付けた形で結ぶ。動詞が来る場合には「ます」を付けた形で結ぶ。ここから、丁寧体を「ですます体」と呼ぶこともある。丁寧の度合いをより強め、「です」の代わりに「でございます」を用いた文体を、特に「でございます体」と呼ぶこともある。丁寧体は、敬語の面からいえば丁寧語を用いた文体のことである。なお、文末に形容詞が来る場合にも「です」で結ぶことはできるが「花が美しく咲いています」「花が美しゅうございます」などと言い、「です」を避けることがある。 ===文体の位相差=== 談話の文体(話体)は、話し手の性別・年齢・職業など、位相の違いによって左右される部分が大きい。「私は食事をしてきました」という丁寧体は、話し手の属性によって、たとえば、次のような変容がある。 ぼく、ごはん食べてきたよ。(男性のくだけた文体)おれ、めし食ってきたぜ。(男性のやや乱暴な文体)あたし、ごはん食べてきたの。(女性のくだけた文体)わたくし、食事をしてまいりました。(成人の改まった文体)このように異なる言葉遣いのそれぞれを位相語と言い、それぞれの差を位相差という。 物語作品やメディアにおいて、位相が極端にステレオタイプ化されて現実と乖離したり、あるいは書き手などが仮想的(バーチャル)な位相を意図的に作り出したりする場合がある。このような言葉遣いを「役割語」と称することがある。例えば以下の文体は、実際の博士・令嬢・地方出身者などの一般的な位相を反映したものではないものの、小説・漫画・アニメ・ドラマなどで、仮想的にそれらしい感じを与える文体として広く観察される。これは現代に始まったものではなく、近世や近代の文献にも役割語の例が認められる(仮名垣魯文『西洋道中膝栗毛』に現れる外国人らしい言葉遣いなど)。 わしは、食事をしてきたのじゃ。(博士風)あたくし、お食事をいただいてまいりましてよ。(お嬢様風)おら、めし食ってきただよ。(田舎者風)ワタシ、ごはん食べてきたアルヨ。(中国人風。協和語を参照) ==待遇表現== 日本語では、待遇表現が文法的・語彙的な体系を形作っている。とりわけ、相手に敬意を示す言葉(敬語)において顕著である。 「敬語は日本にしかない」と言われることがあるが、日本と同様に敬語が文法的・語彙的体系を形作っている言語としては、朝鮮語・ジャワ語・ベトナム語・チベット語・ベンガル語・タミル語などがあり、尊敬・謙譲・丁寧の区別もある。朝鮮語ではたとえば動詞「*426**427*(ネダ)」(出す)は、敬語形「*428**429**430*(ネシダ)」(出される)・「*431**432**433*(ネムニダ)」(出します)の形を持つ。 敬語体系は無くとも、敬意を示す表現自体は、さまざまな言語に広く観察される。相手を敬い、物を丁寧に言うことは、発達した社会ならばどこでも必要とされる。そうした言い方を習得することは、どの言語でも容易でない。 金田一京助などによれば、現代日本語の敬語に特徴的なのは次の2点である。 相対敬語である文法体系となっている朝鮮語など他の言語の敬語では、たとえば自分の父親はいかなる状況でも敬意表現の対象であり、他人に彼のことを話す場合も「私のお父様は…」という絶対的敬語を用いるが、日本語では自分の身内に対する敬意を他人に表現することは憚られ、「私の父は…」のように表現しなければならない。ただし皇室では絶対敬語が存在し、皇太子は自分の父親のことを「天皇陛下は…」と表現する。 どんな言語も敬意を表す表現を持っているが、日本語や朝鮮語などはそれが文法体系となっているため、表現・言語行動のあらゆる部分に、高度に組織立った体系が出来上がっている。そのため、敬意の種類や度合いに応じた表現の選択肢が予め用意されており、常にそれらの中から適切な表現を選ばなくてはならない。 以下、日本語の敬語体系および敬意表現について述べる。 ===敬語体系=== 日本語の敬語体系は、一般に、大きく尊敬語・謙譲語・丁寧語に分類される。文化審議会国語分科会は、2007年2月に「敬語の指針」を答申し、これに丁重語および美化語を含めた5分類を示している。 ===尊敬語=== 尊敬語は、動作の主体を高めることで、主体への敬意を表す言い方である。動詞に「お(ご)〜になる」を付けた形、また、助動詞「(ら)れる」を付けた形などが用いられる。たとえば、動詞「取る」の尊敬形として、「(先生が)お取りになる」「(先生が)取られる」などが用いられる。 語によっては、特定の尊敬語が対応するものもある。たとえば、「言う」の尊敬語は「おっしゃる」、「食べる」の尊敬語は「召し上がる」、「行く・来る・いる」の尊敬語は「いらっしゃる」である。 ===謙譲語=== 謙譲語は、古代から基本的に動作の客体への敬意を表す言い方であり、現代では「動作の主体を低める」と解釈するほうがよい場合がある。動詞に「お〜する」「お〜いたします」(謙譲語+丁寧語)をつけた形などが用いられる。たとえば、「取る」の謙譲形として、「お取りする」などが用いられる。 語によっては、特定の謙譲語が対応するものもある。たとえば、「言う」の謙譲語は「申し上げる」、「食べる」の謙譲語は「いただく」、「(相手の所に)行く」の謙譲語は「伺う」「参上する」「まいる」である。 なお、「夜も更けてまいりました」の「まいり」など、謙譲表現のようでありながら、誰かを低めているわけではない表現がある。これは、「夜も更けてきた」という話題を丁重に表現することによって、聞き手への敬意を表すものである。宮地裕は、この表現に使われる語を、特に「丁重語」と称している。丁重語にはほかに「いたし(マス)」「申し(マス)」「存じ(マス)」「小生」「小社」「弊社」などがある。文化審議会の「敬語の指針」でも、「明日から海外へまいります」の「まいり」のように、相手とは関りのない自分側の動作を表現する言い方を丁重語としている。 ===丁寧語=== 丁寧語は、文末を丁寧にすることで、聞き手への敬意を表すものである。動詞・形容詞の終止形で終わる常体に対して、名詞・形容動詞語幹などに「です」を付けた形(「学生です」「きれいです」)や、動詞に「ます」をつけた形(「行きます」「分かりました」)等の丁寧語を用いた文体を敬体という。 一般に、目上の人には丁寧語を用い、同等・目下の人には丁寧語を用いないといわれる。しかし、実際の言語生活に照らして考えれば、これは事実ではない。母が子を叱るとき、「お母さんはもう知りませんよ」と丁寧語を用いる場合もある。丁寧語が用いられる多くの場合は、敬意や謝意の表現とされるが、、稀に一歩引いた心理的な距離をとろうとする場合もある。 「お弁当」「ご飯」などの「お」「ご」も、広い意味では丁寧語に含まれるが、宮地裕は特に「美化語」と称して区別する。相手への丁寧の意を示すというよりは、話し手が自分の言葉遣いに配慮した表現である。したがって、「お弁当食べようよ。」のように、丁寧体でない文でも美化語を用いることがある。文化審議会の「敬語の指針」でも「美化語」を設けている。 ===敬意表現=== 日本語で敬意を表現するためには、文法・語彙の敬語要素を知っているだけではなお不十分であり、時や場合など種々の要素に配慮した適切な表現が必要である。これを敬意表現(敬語表現)ということがある。 たとえば、「課長もコーヒーをお飲みになりたいですか」は、尊敬表現「お飲みになる」を用いているが、敬意表現としては適切でない。日本語では相手の意向を直接的に聞くことは失礼に当たるからである。「コーヒーはいかがですか」のように言うのが適切である。第22期国語審議会(2000年)は、このような敬意表現の重要性を踏まえて、「現代社会における敬意表現」を答申した。 婉曲表現の一部は、敬意表現としても用いられる。たとえば、相手に窓を開けてほしい場合は、命令表現によらずに、「窓を開けてくれる?」などと問いかけ表現を用いる。あるいは、「今日は暑いねえ」とだけ言って、窓を開けてほしい気持ちを含意することもある。 日本人が商取引で「考えさせてもらいます」という場合は拒絶の意味であると言われる。英語でも ”Thank you for inviting me.”(誘ってくれてありがとう)とは誘いを断る表現である。また、京都では、京都弁で帰りがけの客にその気がないのに「ぶぶづけ(お茶漬け)でもあがっておいきやす」と愛想を言うとされる(出典は落語「京のぶぶづけ」「京の茶漬け」よるという)。これらは、相手の気分を害さないように工夫した表現という意味では、広義の敬意表現と呼ぶべきものであるが、その呼吸が分からない人との間に誤解を招くおそれもある。 ==方言== 日本語には多様な方言がみられ、それらはいくつかの方言圏にまとめることができる。どのような方言圏を想定するかは、区画するために用いる指標によって少なからず異なる。 ===方言区画=== 東条操は、全国で話されている言葉を大きく東部方言・西部方言・九州方言および琉球方言に分けている。またそれらは、北海道・東北・関東・八丈島・東海東山・北陸・近畿・中国・雲伯(出雲・伯耆)・四国・豊日(豊前・豊後・日向)・肥筑(筑紫・肥前・肥後)・薩隅(薩摩・大隅)・奄美群島・沖縄諸島・先島諸島に区画された。これらの分類は、今日でもなお一般的に用いられる。なお、このうち奄美・沖縄・先島の言葉は、日本語の一方言(琉球方言)とする立場と、独立言語として琉球語とする立場とがある。 また、金田一春彦は、近畿・四国を主とする内輪方言、関東・中部・中国・九州北部の一部を主とする中輪方言、北海道・東北・九州の大部分を主とする外輪方言、沖縄地方を主とする南島方言に分類した。この分類は、アクセントや音韻、文法の特徴が畿内を中心に輪を描くことに着目したものである。このほか、幾人かの研究者により方言区画案が示されている。 一つの方言区画の内部も変化に富んでいる。たとえば、奈良県は近畿方言の地域に属するが、十津川村や下北山村周辺ではその地域だけ東京式アクセントが使われ、さらに下北山村池原にはまた別体系のアクセントがあって東京式の地域に取り囲まれている。香川県観音寺市伊吹町(伊吹島)では、平安時代のアクセント体系が残存しているといわれる(異説もある)。これらは特に顕著な特徴を示す例であるが、どのような狭い地域にも、その土地としての言葉の体系がある。したがって、「どの地点のことばも、等しく記録に価する」ものである。 ===東西の文法=== 一般に、方言差が話題になるときには、文法の東西の差異が取り上げられることが多い。東部方言と西部方言との間には、およそ次のような違いがある。 否定辞に東で「ナイ」、西で「ン」を用いる。完了形には、東で「テル」を、西で「トル」を用いる。断定には、東で「ダ」を、西で「ジャ」または「ヤ」を用いる。アワ行五段活用の動詞連用形は、東では「カッタ(買)」と促音便に、西では「コータ」とウ音便になる。形容詞連用形は、東では「ハヤク(ナル)」のように非音便形を用いるが、西では「ハヨー(ナル)」のようにウ音便形を用いるなどである。 方言の東西対立の境界は、画然と引けるものではなく、どの特徴を取り上げるかによって少なからず変わってくる。しかし、おおむね、日本海側は新潟県西端の糸魚川市、太平洋側は静岡県浜名湖が境界線(糸魚川・浜名湖線)とされることが多い。糸魚川西方には難所親不知があり、その南には日本アルプスが連なって東西の交通を妨げていたことが、東西方言を形成した一因とみられる。 ===アクセント=== 日本語のアクセントは、方言ごとの違いが大きい。日本語のアクセント体系はいくつかの種類に分けられるが、特に広範囲で話され話者数も多いのは東京式アクセントと京阪式アクセントの2つである。東京式アクセントは下がり目の位置のみを弁別するが、京阪式アクセントは下がり目の位置に加えて第1拍の高低を弁別する。一般にはアクセントの違いは日本語の東西の違いとして語られることが多いが、実際の分布は単純な東西対立ではなく、東京式アクセントは概ね北海道、東北地方北部、関東地方西部、甲信越地方、東海地方の大部分、中国地方、四国地方南西部、九州北東部、沖縄県の一部に分布しており、京阪式アクセントは近畿地方・四国地方のそれぞれ大部分と北陸地方の一部に分布している。すなわち、近畿地方を中心とした地域に京阪式アクセント地帯が広がり、その東西を東京式アクセント地域が挟む形になっている。日本語の標準語・共通語のアクセントは、東京の山の手言葉のものを基盤にしているため東京式アクセントである。 九州西南部や沖縄の一部には型の種類が2種類になっている二型アクセントが分布し、宮崎県都城市などには型の種類が1種類になっている一型アクセントが分布する。また、岩手県雫石町や山梨県早川町奈良田などのアクセントは、音の下がり目ではなく上がり目を弁別する。これら有アクセントの方言に対し、東北地方南部から関東地方北東部にかけての地域や、九州の東京式アクセント地帯と二型アクセント地帯に挟まれた地域などには、話者にアクセントの知覚がなく、どこを高くするという決まりがない無アクセント(崩壊アクセント)の地域がある。これらのアクセント大区分の中にも様々な変種があり、さらにそれぞれの体系の中間型や別派なども存在する。 「花が」が東京で「低高低」、京都で「高低低」と発音されるように、単語のアクセントは地方によって異なる。ただし、それぞれの地方のアクセント体系は互いにまったく無関係に成り立っているのではない。多くの場合において規則的な対応が見られる。たとえば、「花が」「山が」「池が」を東京ではいずれも「低高低」と発音するが、京都ではいずれも「高低低」と発音し、「水が」「鳥が」「風が」は東京ではいずれも「低高高」と発音するのに対して京都ではいずれも「高高高」と発音する。また、「松が」「空が」「海が」は東京ではいずれも「高低低」と発音されるのに対し、京都ではいずれも「低低高」と発音される。このように、ある地方で同じアクセントの型にまとめられる語群(類と呼ぶ)は、他の地方でも同じ型に属することが一般的に観察される。 この事実は、日本の方言アクセントが、過去の同一のアクセント体系から分かれ出たことを意味する。服部四郎はこれを原始日本語のアクセントと称し、これが分岐し互いに反対の方向に変化して、東京式と京阪式を生じたと考えた。現在有力な説は、院政期の京阪式アクセント(名義抄式アクセント)が日本語アクセントの祖体系で、現在の諸方言アクセントのほとんどはこれが順次変化を起こした結果生じたとするものである(金田一春彦や奥村三雄)。一方で、地方の無アクセントと中央の京阪式アクセントの接触で諸方言のアクセントが生じたとする説(山口幸洋)もある。 ===音声・音韻=== 発音の特徴によって本土方言を大きく区分すると、表日本方言、裏日本方言、薩隅(鹿児島)式方言に分けることができる。表日本方言は共通語に近い音韻体系を持つ。裏日本式の音韻体系は、東北地方を中心に、北海道沿岸部や新潟県越後北部、関東北東部(茨城県・栃木県)と、とんで島根県出雲地方を中心とした地域に分布する。その特徴は、イ段とウ段の母音に中舌母音を用いることと、エが狭くイに近いことである。関東のうち千葉県や埼玉県東部などと、越後中部・佐渡・富山県・石川県能登の方言は裏日本式と表日本式の中間である。また薩隅式方言は、大量の母音脱落により閉音節を多く持っている点で他方言と対立している。薩隅方言以外の九州の方言は、薩隅式と表日本式の中間である。 音韻の面では、母音の「う」を、東日本、北陸、出雲付近では中舌寄りで非円唇母音(唇を丸めない)の [*434*] または [*435**436*] で、西日本一般では奥舌で円唇母音の [u] で発音する。また、母音は、東日本や北陸、出雲付近、九州で無声化しやすく、東海、近畿、中国、四国では無声化しにくい。 またこれとは別に、近畿・四国(・北陸)とそれ以外での対立がある。前者は京阪式アクセントの地域であるが、この地域ではアクセント以外にも、「木」を「きい」、「目」を「めえ」のように一音節語を伸ばして二拍に発音し、また「赤い」→「あけー」のような連母音の融合が起こらないという共通点がある。また、西日本(九州・山陰・北陸除く)は母音を強く子音を弱く発音し、東日本や九州は子音を強く母音を弱く発音する傾向がある。 ==歴史== ===音韻史=== ====母音・子音==== 母音の数は、奈良時代およびそれ以前には現在よりも多かったと考えられる。橋本進吉は、江戸時代の上代特殊仮名遣いの研究を再評価し、記紀や『万葉集』などの万葉仮名において「き・ひ・み・け・へ・め・こ・そ・と・の・も・よ・ろ」の表記に2種類の仮名が存在することを指摘した(甲類・乙類と称する。「も」は『古事記』のみで区別される)。橋本は、これらの仮名の区別は音韻上の区別に基づくもので、特に母音の差によるものと考えた。橋本の説は、後続の研究者らによって、「母音の数がアイウエオ五つでなく、合計八を数えるもの」という8母音説と受け取られ、定説化した(異説として、服部四郎の6母音説などがある)。8母音の区別は平安時代にはなくなり、現在のように5母音になったとみられる。なお、上代日本語の語彙では、母音の出現の仕方がウラル語族やアルタイ語族の母音調和の法則に類似しているとされる。 「は行」の子音は、奈良時代以前には [p] であったとみられる。すなわち、「はな(花)」は [pana](パナ)のように発音された可能性がある。[p] は遅くとも平安時代初期には無声両唇摩擦音 [*437*] に変化していた。すなわち、「はな」は [*438*ana](ファナ)となっていた。中世末期に、ローマ字で当時の日本語を記述したキリシタン資料が多く残されているが、そこでは「は行」の文字が「fa, fi, fu, fe, fo」で転写されており、当時の「は行」は「ファ、フィ、フ、フェ、フォ」に近い発音であったことが分かる。中世末期から江戸時代にかけて、「は行」の子音は [*439*] から [h] へ移行した。ただし、「ふ」は [*440*] のままに、「ひ」は [*441*i] になった。現代でも引き続きこのように発音されている。 このように、「は行」子音はおおむね [p] → [*442*] → [h] と唇音が衰退する方向で推移した。唇音の衰退する例は、ハ行転呼の現象(「は行」→「わ行」すなわち [*443*] → [w] の変化)にも見られる。また、関西で「う」を唇を丸めて発音する(円唇母音)のに対し、関東では唇を丸めずに発音するが、これも唇音退化の例ととらえることができる。 「や行」の「え」([je]) の音が古代に存在したことは、「あ行」の「え」の仮名と別の文字で書き分けられていたことから明らかである。平安時代初期に成立したと見られる「天地の詞」には「え」が2つ含まれており、「あ行」と「や行」の区別を示すものと考えられる。この区別は10世紀の頃にはなくなっていたとみられ、970年成立の『口遊』に収録される「大為爾の歌」では「あ行」の「え」しかない。この頃には「あ行」と「や行」の「え」の発音はともに [je] になっていた(次節参照)。 「が行」の子音は、語中・語尾ではいわゆる鼻濁音(ガ行鼻音)の [*444*] であった。鼻濁音は、近代に入って急速に勢力を失い、語頭と同じ破裂音の [*445*] または摩擦音の [*446*] に取って代わられつつある。今日、鼻濁音を表記する時は、「か行」の文字に半濁点を付して「カ*447*ミ(鏡)」のように書くこともある。 「じ・ぢ」「ず・づ」の四つ仮名は、室町時代前期の京都ではそれぞれ [*448*i], [d*449*i], [zu], [du] と発音されていたが、16世紀初め頃に「ち」「ぢ」が口蓋化し、「つ」「づ」が破擦音化した結果、「ぢ」「づ」の発音がそれぞれ [*450*i], [*451*u] となり、「じ」「ず」の音に近づいた。16世紀末のキリシタン資料ではそれぞれ「ji・gi」「zu・zzu」など異なるローマ字で表されており、当時はまだ発音の区別があったことが分かるが、当時既に混同が始まっていたことも記録されている。17世紀末頃には発音の区別は京都ではほぼ消滅したと考えられている(今も区別している方言もある)。「せ・ぜ」は「xe・je」で表記されており、現在の「シェ・ジェ」に当たる [*452*e], [*453*e] であったことも分かっている。関東では室町時代末にすでに [se], [ze] の発音であったが、これはやがて西日本にも広がり、19世紀中頃には京都でも一般化した。現在は東北や九州などの一部に [*454*e], [*455*e] が残っている。 ===ハ行転呼=== 平安時代以降、語中・語尾の「は行」音が「わ行」音に変化するハ行転呼が起こった。たとえば、「かは(川)」「かひ(貝)」「かふ(買)」「かへ(替)」「かほ(顔)」は、それまで [ka*456*a] [ka*457*i] [ka*458*u] [ka*459*e] [ka*460*o] であったものが、 [kawa] [kawi] [kau] [kawe] [kawo] になった。「はは(母)」も、キリシタン資料では「faua」(ハワ)と記された例があるなど、他の語と同様にハ行転呼が起こっていたことが知られる。 平安時代末頃には、 「い」と「ゐ」(および語中・語尾の「ひ」)「え」と「ゑ」(および語中・語尾の「へ」)「お」と「を」(および語中・語尾の「ほ」)が同一に帰した。3が同音になったのは11世紀末頃、1と2が同音になったのは12世紀末頃と考えられている。藤原定家の『下官集』(13世紀)では「お」・「を」、「い」・「ゐ」・「ひ」、「え」・「ゑ」・「へ」の仮名の書き分けが問題になっている。 当時の発音は、1は現在の [i](イ)、2は [je](イェ)、3は [wo](ウォ)のようであった。 3が現在のように [o](オ)になったのは江戸時代であったとみられる。18世紀の『音曲玉淵集』では、「お」「を」を「ウォ」と発音しないように説いている。 2が現在のように [e](エ)になったのは、新井白石『東雅』総論の記述からすれば早くとも元禄享保頃(17世紀末から18世紀初頭)以降、『謳曲英華抄』の記述からすれば18世紀中葉頃とみられる。 ===音便現象=== 平安時代から、発音を簡便にするために単語の音を変える音便現象が少しずつ見られるようになった。「次(つ)ぎて」を「次いで」とするなどのイ音便、「詳(くは)しくす」を「詳しうす」とするなどのウ音便、「発(た)ちて」を「発って」とするなどの促音便、「飛びて」を「飛んで」とするなどの撥音便が現れた。『源氏物語』にも、「いみじく」を「いみじう」とするなどのウ音便が多く、また、少数ながら「苦しき」を「苦しい」とするなどのイ音便の例も見出される。鎌倉時代以降になると、音便は口語では盛んに用いられるようになった。 中世には、「差して」を「差いて」、「挟みて」を「挟うで」、「及びて」を「及うで」などのように、今の共通語にはない音便形も見られた。これらの形は、今日でも各地に残っている。 ===連音上の現象=== 鎌倉時代・室町時代には連声(れんじょう)の傾向が盛んになった。撥音または促音の次に来た母音・半母音が「な行」音・「ま行」音・「た行」音に変わる現象で、たとえば、銀杏は「ギン」+「アン」で「ギンナン」、雪隠は「セッ」+「イン」で「セッチン」となる。助詞「は」(ワ)と前の部分とが連声を起こすと、「人間は」→「ニンゲンナ」、「今日は」→「コンニッタ」となった。 また、この時代には、「中央」の「央」など「アウ」 [au] の音が合して長母音 [*461**462*] になり、「応対」の「応」など「オウ」 [ou] の音が [o*463*] になった(「カウ」「コウ」など頭子音が付いた場合も同様)。口をやや開ける前者を開音、口をすぼめる後者を合音と呼ぶ。また、「イウ」 [iu] 、「エウ」 [eu] などの二重母音は、[ju*464*] 、[jo*465*] という拗長音に変化した。「開合」の区別は次第に乱れ、江戸時代には合一して今日の [o*466*](オー)になった。京都では、一般の話し言葉では17世紀に開合の区別は失われた。しかし方言によっては今も開合の区別が残っているものもある。 ===外来の音韻=== 漢語が日本で用いられるようになると、古来の日本に無かった合拗音「クヮ・グヮ」「クヰ・グヰ」「クヱ・グヱ」の音が発音されるようになった。これらは [kwa] [*467*we] などという発音であり、「キクヮイ(奇怪)」「ホングヮン(本願)」「ヘングヱ(変化)」のように用いられた。当初は外来音の意識が強かったが、平安時代以降は普段の日本語に用いられるようになったとみられる。ただし「クヰ・グヰ」「クヱ・グヱ」の寿命は短く、13世紀には「キ・ギ」「ケ・ゲ」に統合された。「クヮ」「グヮ」は中世を通じて使われていたが、室町時代にはすでに「カ・ガ」との間で混同が始まっていた。江戸時代には混同が進んでいき、江戸では18世紀中頃には直音の「カ・ガ」が一般化した。ただし一部の方言には今も残っている。 漢語は平安時代頃までは原語である中国語に近く発音され、日本語の音韻体系とは別個のものと意識されていた。入声韻尾の [‐k], [‐t], [‐p], 鼻音韻尾の [‐m], [‐n], [‐*468*] なども原音にかなり忠実に発音されていたと見られる。鎌倉時代には漢字音の日本語化が進行し、[*469*] はウに統合され、韻尾の [‐m] と [‐n] の混同も13世紀に一般化し、撥音の /*470*/ に統合された。入声韻尾の [‐k] は開音節化してキ、クと発音されるようになり、[‐p] も [‐*471*u](フ)を経てウで発音されるようになった。[‐t] は開音節化したチ、ツの形も現れたが、子音終わりの [‐t] の形も17世紀末まで並存して使われていた。室町時代末期のキリシタン資料には、「butmet」(仏滅)、「bat」(罰)などの語形が記録されている。江戸時代に入ると開音節の形が完全に一般化した。 近代以降には、外国語(特に英語)の音の影響で新しい音が使われ始めた。比較的一般化した「シェ・チェ・ツァ・ツェ・ツォ・ティ・ファ・フィ・フェ・フォ・ジェ・ディ・デュ」などの音に加え、場合によっては、「イェ・ウィ・ウェ・ウォ・クァ・クィ・クェ・クォ・ツィ・トゥ・グァ・ドゥ・テュ・フュ」などの音も使われる。これらは、子音・母音のそれぞれを取ってみれば、従来の日本語にあったものである。「ヴァ・ヴィ・ヴ・ヴェ・ヴォ・ヴュ」のように、これまで無かった音は、書き言葉では書き分けても、実際に発音されることは少ない。 ===文法史=== ====活用の変化==== 動詞の活用種類は、平安時代には9種類であった。すなわち、四段・上一段・上二段・下一段・下二段・カ変・サ変・ナ変・ラ変に分かれていた。これが時代とともに統合され、江戸時代には5種類に減った。上二段は上一段に、下二段は下一段にそれぞれ統合され、ナ変(「死ぬ」など)・ラ変(「有り」など)は四段に統合された。これらの変化は、古代から中世にかけて個別的に起こった例もあるが、顕著になったのは江戸時代に入ってからのことである。ただし、ナ変は近代に入ってもなお使用されることがあった。 このうち、最も規模の大きな変化は二段活用の一段化である。二段→一段の統合は、室町時代末期の京阪地方では、まだまれであった(関東では比較的早く完了した)。それでも、江戸時代前期には京阪でも見られるようになり、後期には一般化した。すなわち、今日の「起きる」は、平安時代には「き・き・く・くる・くれ・きよ」のように「き・く」の2段に活用したが、江戸時代には「き・き・きる・きる・きれ・きよ(きろ)」のように「き」の1段だけで活用するようになった。また、今日の「明ける」は、平安時代には「け・く」の2段に活用したが、江戸時代には「け」の1段だけで活用するようになった。しかも、この変化の過程では、終止・連体形の合一が起こっているため、鎌倉・室町時代頃には、前後の時代とは異なった活用の仕方になっている。次に時代ごとの活用を対照した表を掲げる。 形容詞は、平安時代には「く・く・し・き・けれ(から・かり・かる・かれ)」のように活用したク活用と、「しく・しく・し・しき・しけれ(しから・しかり・しかる・しかれ)」のシク活用が存在した。この区別は、終止・連体形の合一とともに消滅し、形容詞の活用種類は一つになった。 今日では、文法用語の上で、四段活用が五段活用(実質的には同じ)と称され、已然形が仮定形と称されるようになったものの、活用の種類および活用形は基本的に江戸時代と同様である。 ===係り結びとその崩壊=== かつての日本語には、係り結びと称される文法規則があった。文中の特定の語を「ぞ」「なむ」「や」「か」「こそ」などの係助詞で受け、かつまた、文末を連体形(「ぞ」「なむ」「や」「か」の場合)または已然形(「こそ」の場合)で結ぶものである(奈良時代には、「こそ」も連体形で結んだ)。 係り結びをどう用いるかによって、文全体の意味に明確な違いが出た。たとえば、「山里は、冬、寂しさ増さりけり」という文において、「冬」という語を「ぞ」で受けると、「山里は冬ぞ寂しさ増さりける」(『古今集』)という形になり、「山里で寂しさが増すのは、ほかでもない冬だ」と告知する文になる。また仮に、「山里」を「ぞ」で受けると、「山里ぞ冬は寂しさ増さりける」という形になり、「冬に寂しさが増すのは、ほかでもない山里だ」と告知する文になる。 ところが、中世には、「ぞ」「こそ」などの係助詞は次第に形式化の度合いを強め、単に上の語を強調する意味しか持たなくなった。そうなると、係助詞を使っても、文末を連体形または已然形で結ばない例も見られるようになる。また、逆に、係助詞を使わないのに、文末が連体形で結ばれる例も多くなってくる。こうして、係り結びは次第に崩壊していった。 今日の口語文には、規則的な係り結びは存在しない。ただし、「貧乏でこそあれ、彼は辛抱強い」「進む道こそ違え、考え方は同じ」のような形で化石的に残っている。 ===終止・連体形の合一=== 活用語のうち、四段活用以外の動詞・形容詞・形容動詞および多くの助動詞は、平安時代には、終止形と連体形とが異なる形態を採っていた。たとえば、動詞は「対面す。」(終止形)と「対面する(とき)」(連体形)のようであった。ところが、係り結びの形式化とともに、上に係助詞がないのに文末を連体形止め(「対面する。」)にする例が多く見られるようになった。たとえば、『源氏物語』には、 すこし立ち出でつつ見わたしたまへば、高き所にて、ここかしこ、僧坊どもあらはに見おろさるる。 ―『源氏物語』若紫巻 などの言い方があるが、本来ならば「見おろさる」の形で終止すべきものである。 このような例は、中世には一般化した。その結果、動詞・形容詞および助動詞は、形態上、連体形と終止形との区別がなくなった。 形容動詞は、終止形・連体形活用語尾がともに「なる」になり、さらに語形変化を起こして「な」となった。たとえば、「辛労なり」は、終止形・連体形とも「辛労な」となった。もっとも、終止形には、むしろ「にてある」から来た「ぢや」が用いられることが普通であった。したがって、終止形は「辛労ぢや」、連体形は「辛労な」のようになった。「ぢや」は主として上方で用いられ、東国では「だ」が用いられた。今日の共通語も東国語の系統を引いており、終止形語尾は「だ」、連体形語尾は「な」となっている。このことは、用言の活用に連体形・終止形の両形を区別すべき根拠の一つとなっている。 文語の終止形が化石的に残っている場合もある。文語の助動詞「たり」「なり」の終止形は、今日でも並立助詞として残り、「行ったり来たり」「大なり小なり」といった形で使われている。 ===可能動詞=== 今日、「漢字が書ける」「酒が飲める」などと用いる、いわゆる可能動詞は、室町時代には発生していた。この時期には、「読む」から「読むる」(=読むことができる)が、「持つ」から「持つる」(=持つことができる)が作られるなど、四段活用の動詞を元にして、可能を表す下二段活用の動詞が作られ始めた。これらの動詞は、やがて一段化して、「読める」「持てる」のような語形で用いられるようになった。これらの可能動詞は、江戸時代前期の上方でも用いられ、後期の江戸では普通に使われるようになった。 従来の日本語にも、「(刀を)抜く時」に対して「(刀が自然に)抜くる時(抜ける時)」のように、四段動詞の「抜く」と下二段動詞の「抜く」(抜ける)とが対応する例は多く存在した。この場合、後者は、「自然にそうなる」という自然生起(自発)を表した。そこから類推した結果、「文字を読む」に対して「文字が読むる(読める)」などの可能動詞が出来上がったものと考えられる。 近代以降、とりわけ大正時代以降には、この語法を四段動詞のみならず一段動詞にも及ぼす、いわゆる「ら抜き言葉」が広がり始めた。「見られる」を「見れる」、「食べられる」を「食べれる」、「来られる」を「来れる」、「居(い)られる」を「居(い)れる」という類である。この語法は、地方によっては早く一般化し、第二次世界大戦後には全国的に顕著になっている。 ===受け身表現=== 受け身の表現において、人物以外が主語になる例は、近代以前には乏しい。もともと、日本語の受け身表現は、自分の意志ではどうにもならない「自然生起」の用法の一種であった。したがって、物が受け身表現の主語になることはほとんどなかった。『枕草子』の「にくきもの」に すずりに髪の入りてすられたる。(すずりに髪が入ってすられている) ―『枕草子』 とある例などは、受け身表現と解することもできるが、むしろ自然の状態を観察して述べたものというべきものである。一方、「この橋は多くの人々によって造られた」「源氏物語は紫式部によって書かれた」のような言い方は、古くは存在しなかったと見られる。これらの受け身は、状態を表すものではなく、事物が人から働き掛けを受けたことを表すものである。 「この橋は多くの人々によって造られた」式の受け身は、英語などの欧文脈を取り入れる中で広く用いられるようになったと見られる。明治時代には 民子の墓の周囲には野菊が一面に植えられた。 ―伊藤左千夫『野菊の墓』1906年 のような欧文風の受け身が用いられている。 ===語彙史=== ====漢語の勢力拡大==== 漢語(中国語の語彙)が日本語の中に入り始めたのはかなり古く、文献以前の時代にさかのぼると考えられる。今日和語と扱われる「ウメ(梅)」「ウマ(馬)」なども、元々は漢語からの借用語であった可能性がある。 当初、漢語は一部の識字層に用いられ、それ以外の大多数の日本人は和語(大和言葉)を使うという状況であったと推測される。しかし、中国の文物・思想の流入や仏教の普及などにつれて、漢語は徐々に一般の日本語に取り入れられていった。鎌倉時代最末期の『徒然草』では、漢語及び混種語(漢語と和語の混交)は、異なり語数で全体の31%を占めるに至っている。ただし、延べ語数では13%に過ぎず、語彙の大多数は和語が占める。幕末の和英辞典『和英語林集成』の見出し語でも、漢語はなお25%ほどに止まっている。 漢語が再び勢力を伸張したのは幕末から明治時代にかけてである。「電信」「鉄道」「政党」「主義」「哲学」その他、西洋の文物を漢語により翻訳した(新漢語。古典中国語にない語を特に和製漢語という)。幕末の『都鄙新聞』の記事によれば、京都祇園の芸者も漢語を好み、「霖雨ニ盆池ノ金魚ガ脱走シ、火鉢ガ因循シテヰル」(長雨で池があふれて金魚がどこかへ行った、火鉢の火がなかなかつかない)などと言っていたという。二葉亭四迷の『浮雲』の中では、お勢という女学生が 私の言葉には漢語が雑ざるから全然何を言ッたのだか解りませんて…… と、漢語の理解できない下女を見下す様子が描かれている。 漢語の勢力は今日まで拡大を続けている。雑誌調査では、延べ語数・異なり語数ともに和語を上回り、全体の半数近くに及ぶまでになっている (「語種」参照)。 ===外来語の勢力拡大=== 漢語を除き、他言語の語彙を借用することは、古代にはそれほど多くなかった。このうち、梵語の語彙は、多く漢語に取り入れられた後に、仏教と共に日本に伝えられた。「娑婆」「檀那」「曼荼羅」などがその例である。また、今日では和語と扱われる「ほとけ(仏)」「かわら(瓦)」なども梵語由来であるとされる。 西洋語が輸入され始めたのは、中世にキリシタン宣教師が来日した時期以降である。室町時代には、ポルトガル語から「カステラ」「コンペイトウ」「サラサ」「ジュバン」「タバコ」「バテレン」「ビロード」などの語が取り入れられた。「メリヤス」など一部スペイン語も用いられた。江戸時代にも、「カッパ(合羽)」「カルタ」「チョッキ」「パン」「ボタン」などのポルトガル語、「エニシダ」などのスペイン語が用いられるようになった。 また、江戸時代には、蘭学などの興隆とともに、「アルコール」「エレキ」「ガラス」「コーヒー」「ソーダ」「ドンタク」などのオランダ語が伝えられた。 幕末から明治時代以後には、英語を中心とする外来語が急増した。「ステンション(駅)」「テレガラフ(電信)」など、今日では普通使われない語で、当時一般に使われていたものもあった。坪内逍遥『当世書生気質』(1885) には書生のせりふの中に「我輩の時計(ウオツチ)ではまだ十分(テンミニツ)位あるから、急いて行きよつたら、大丈夫ぢゃらう」「想ふに又貸とは遁辞(プレテキスト)で、七(セブン)〔=質屋〕へ典(ポウン)した歟(か)、売(セル)したに相違ない」などという英語が多く出てくる。このような語のうち、日本語として定着した語も多い。 第二次世界大戦が激しくなるにつれて、外来語を禁止または自粛する風潮も起こったが、戦後はアメリカ発の外来語が爆発的に多くなった。現在では、報道・交通機関・通信技術の発達により、新しい外来語が瞬時に広まる状況が生まれている。雑誌調査では、異なり語数で外来語が30%を超えるという結果が出ており、現代語彙の中で欠くことのできない存在となっている(「語種」参照)。 ===語彙の増加と品詞=== 漢語が日本語に取り入れられた結果、名詞・サ変動詞・形容動詞の語彙が特に増大することになった。漢語は活用しない語であり、本質的には体言(名詞)として取り入れられたが、「す」をつければサ変動詞(例、祈念す)、「なり」をつければ形容動詞(例、神妙なり)として用いることができた。 漢語により、厳密な概念を簡潔に表現することが可能になった。一般に、和語は一語が広い意味で使われる。たとえば、「とる」という動詞は、「資格をとる」「栄養をとる」「血液をとる」「新人をとる」「映画をとる」のように用いられる。ところが、漢語を用いて、「取得する(取得す)」「摂取する」「採取する」「採用する」「撮影する」などと、さまざまなサ変動詞で区別して表現することができるようになった。また、日本語の「きよい(きよし)」という形容詞は意味が広いが、漢語を用いて、「清潔だ(清潔なり)」「清浄だ」「清澄だ」「清冽だ」「清純だ」などの形容動詞によって厳密に表現することができるようになった。 外来語は、漢語ほど高い造語力を持たないものの、漢語と同様に、特に名詞・サ変動詞・形容動詞の部分で日本語の語彙を豊富にした。「インキ」「バケツ」「テーブル」など名詞として用いられるほか、「する」を付けて「スケッチする」「サービスする」などのサ変動詞として、また、「だ」をつけて「ロマンチックだ」「センチメンタルだ」などの形容動詞として用いられるようになった。 漢語・外来語の増加によって、形容詞と形容動詞の勢力が逆転した。元来、和語には形容詞・形容動詞ともに少なかったが、数の上では、形容詞が形容表現の中心であり、形容動詞がそれを補う形であった。『万葉集』では名詞59.7%、動詞31.5%、形容詞3.3%、形容動詞0.5%であり、『源氏物語』でも名詞42.5%、動詞44.6%、形容詞5.3%、形容動詞5.1%であった(いずれも異なり語数)。ところが、漢語・外来語を語幹とした形容動詞が漸増したため、現代語では形容動詞が形容詞を上回るに至っている(「品詞ごとの語彙量」の節参照)。ただし、一方で漢語・外来語に由来する名詞・サ変動詞なども増えているため、語彙全体から見ればなお形容詞・形容動詞の割合は少ない。 形容詞の造語力は今日ではほとんど失われており、近代以降のみ確例のある新しい形容詞は「甘酸っぱい」「黄色い」「四角い」「粘っこい」などわずかにすぎない。一方、形容動詞は今日に至るまで高い造語力を保っている。特に、「科学的だ」「人間的だ」など接尾語「的」を付けた語の大多数や、「エレガントだ」「クリーンだ」など外来語に由来するものは近代以降の新語である。しかも、新しい形容動詞の多くは漢語・外来語を語幹とするものである。現代雑誌の調査によれば、形容動詞で語種のはっきりしているもののうち、和語は2割ほどであり、漢語は3割強、外来語は4割強という状況である。 ===表記史=== ====仮名の誕生==== 元来、日本に文字と呼べるものはなく、言葉を表記するためには中国渡来の漢字を用いた(いわゆる神代文字は後世の偽作とされている)。漢字の記された遺物の例としては、1世紀のものとされる福岡市出土の「漢委奴国王印」などもあるが、本格的に使用されたのはより後年とみられる。『古事記』によれば、応神天皇の時代に百済の学者王仁が「論語十巻、千字文一巻」を携えて来日したとある。稲荷山古墳出土の鉄剣銘(5世紀)には、雄略天皇と目される人名を含む漢字が刻まれている。「隅田八幡神社鏡銘」(6世紀)は純漢文で記されている。このような史料から、大和政権の勢力伸長とともに漢字使用域も拡大されたことが推測される。 漢字で和歌などの大和言葉を記す際、「波都波流能(はつはるの)」のように日本語の1音1音を漢字の音(または訓)を借りて写すことがあった。この表記方式を用いた資料の代表が『万葉集』(8世紀)であるため、この表記のことを「万葉仮名」という(すでに7世紀中頃の木簡に例が見られる)。 9世紀には万葉仮名の字体をより崩した「草仮名」が生まれ(『讃岐国戸籍帳』の「藤原有年申文」など)、さらに、草仮名をより崩した平仮名の誕生をみるに至った。これによって、初めて日本語を自由に記すことが可能になった。平仮名を自在に操った王朝文学は、10世紀初頭の『古今和歌集』などに始まり、11世紀の『源氏物語』などの物語作品群で頂点を迎えた。 僧侶や学者らが漢文を訓読する際には、漢字の隅に点を打ち、その位置によって「て」「に」「を」「は」などの助詞その他を表すことがあった(ヲコト点)。しかし、次第に万葉仮名を添えて助詞などを示すことが一般化した。やがて、それらは、字画の省かれた簡略な片仮名になった。 平仮名も、片仮名も、発生当初から、1つの音価に対して複数の文字が使われていた。たとえば、/ha/(当時の発音は [*472*a])に当たる平仮名としては、「波」「者」「八」などを字源とするものがあった。1900年(明治33年)に「小学校令施行規則」が出され、小学校で教える仮名は1字1音に整理された。これ以降使われなくなった仮名を、今日では変体仮名と呼んでいる。変体仮名は、現在でも料理屋の名などに使われることがある。 ===仮名遣い問題の発生=== 平安時代までは、発音と仮名はほぼ一致していた。その後、発音の変化に伴って、発音と仮名とが1対1の対応をしなくなった。たとえば、「はな(花)」の「は」と「かは(川)」の「は」の発音は、平安時代初期にはいずれも「ファ」([*473*a]) であったとみられるが、平安時代に起こったハ行転呼により、「かは(川)」など語中語尾の「は」は「ワ」と発音するようになった。ところが、「ワ」と読む文字には別に「わ」もあるため、「カワ」という発音を表記するとき、「かわ」「かは」のいずれにすべきか、判断の基準が不明になってしまった。ここに、仮名をどう使うかという仮名遣いの問題が発生した。 その時々の知識人は、仮名遣いについての規範を示すこともあったが(藤原定家『下官集』など)、必ずしも古い仮名遣いに忠実なものばかりではなかった(「日本語研究史」の節参照)。また、従う者も、歌人、国学者など、ある種のグループに限られていた。万人に用いられる仮名遣い規範は、明治に学校教育が始まるまで待たなければならなかった。 ===漢字・仮名遣いの改定=== 漢字の字数・字体および仮名遣いについては、近代以降、たびたび改定が議論され、また実施に移されてきた。 仮名遣いについては、早く小学校令施行規則(1900年)において、「にんぎやう(人形)」を「にんぎょー」とするなど、漢字音を発音通りにする、いわゆる「棒引き仮名遣い」が採用されたことがあった。1904年から使用の『尋常小学読本』(第1期)はこの棒引き仮名遣いに従った。しかし、これは評判が悪く、規則の改正とともに、次期1910年の教科書から元の仮名遣いに戻った。 第二次世界大戦後の1946年には、「当用漢字表」「現代かなづかい」が内閣告示された。これに伴い、一部の漢字の字体に略字体が採用され、それまでの歴史的仮名遣いによる学校教育は廃止された。 1946年および1950年の米教育使節団報告書では、国字のローマ字化について勧告および示唆が行われ、国語審議会でも議論されたが、実現しなかった。1948年には、GHQの民間情報教育局 (CIE) の指示による読み書き能力調査が行われた。漢字が日本人の識字率を抑えているとの考え方に基づく調査であったが、その結果は、調査者の予想に反して日本人の識字率は高水準であったことが判明した。 1981年には、当用漢字表・現代かなづかいの制限色を薄めた「常用漢字表」および改訂「現代仮名遣い」が内閣告示された。また、送り仮名に関しては、数次にわたる議論を経て、1973年に「送り仮名の付け方」が内閣告示され、今日に至っている。戦後の国語政策は、必ずしも定見に支えられていたとはいえず、今に至るまで議論が続いている。 ===文体史=== ====和漢混淆文の誕生==== 平安時代までは、朝廷で用いる公の書き言葉は漢文であった。これはベトナム・朝鮮半島などと同様である。当初漢文は中国語音で読まれたとみられるが、日本語と中国語の音韻体系は相違が大きいため、この方法はやがて廃れ、日本語の文法・語彙を当てはめて訓読されるようになった。いわば、漢文を日本語に直訳しながら読むものであった。 漢文訓読の習慣に伴い、漢文に日本語特有の「賜」(…たまふ)や「坐」(…ます)のような語句を混ぜたり、一部を日本語の語順で記したりした「和化漢文」というべきものが生じた(6世紀の法隆寺薬師仏光背銘などに見られる)。さらには「王等臣等乃中尓」(『続日本紀』)のように、「乃(の)」「尓(に)」といった助詞などを小書きにして添える文体が現れた。この文体は祝詞(のりと)・宣命(せんみょう)などに見られるため、「宣命書き」と呼ばれる。 漢文の読み添えには片仮名が用いられるようになり、やがてこれが本文中に進出して、漢文訓読体を元にした「漢字片仮名交じり文」を形成した。最古の例は『東大寺諷誦文稿』(9世紀)とされる。漢字片仮名交じり文では、漢語が多用されるばかりでなく、言い回しも「甚(はなは)ダ広クシテ」「何(なん)ゾ言ハザル」のように、漢文訓読に用いられるものが多いことが特徴である。 一方、平安時代の宮廷文学の文体(和文)は、基本的に和語を用いるものであって、漢語は少ない。また、漢文訓読に使う言い回しもあまりない。たとえば、漢文訓読ふうの「甚ダ広クシテ」「何ゾ言ハザル」は、和文では「いと広う」「などかのたまはぬ」となる。和文は、表記法から見れば、平仮名にところどころ漢字の交じる「平仮名漢字交じり文」である。「春はあけぼの。やうやうしろく成行山ぎはすこしあかりて……」で始まる『枕草子』の文体は典型例の一つである。 両者の文体は、やがて合わさり、『平家物語』に見られるような和漢混淆文が完成した。 強呉(きゃうご)忽(たちまち)にほろびて、姑蘇台(こそたい)の露荊棘(けいきょく)にうつり、暴秦(ぼうしん)すでに衰へて、咸陽宮(かんやうきう)の煙*474**475*(へいけい)を隠しけんも、かくやとおぼえて哀れなり。 ―『平家物語』聖主臨幸 強呉(きゃうご)忽(たちまち)にほろびて、姑蘇台(こそたい)の露荊棘(けいきょく)にうつり、暴秦(ぼうしん)すでに衰へて、咸陽宮(かんやうきう)の煙*476**477*(へいけい)を隠しけんも、かくやとおぼえて哀れなり。 ここでは、「強呉」「荊棘」といった漢語、「すでに」といった漢文訓読の言い回しがある一方、「かくやとおぼえて哀れなり」といった和文の語彙・言い回しも使われている。 今日、最も普通に用いられる文章は、和語と漢語を適度に交えた一種の和漢混淆文である。「先日、友人と同道して郊外を散策した」というような漢語の多い文章と、「この間、友だちと連れだって町はずれをぶらぶら歩いた」というような和語の多い文章とを、適宜混ぜ合わせ、あるいは使い分けながら文章を綴っている。 ===文語文と口語文=== 話し言葉は、時代と共にきわめて大きな変化を遂げるが、それに比べて、書き言葉は変化の度合いが少ない。そのため、何百年という間には、話し言葉と書き言葉の差が生まれる。 日本語の書き言葉がひとまず成熟したのは平安時代中期であり、その頃は書き言葉・話し言葉の差は大きくなかったと考えられる。しかしながら、中世のキリシタン資料のうち、語り口調で書かれているものを見ると、書き言葉と話し言葉とにはすでに大きな開きが生まれていたことが窺える。江戸時代の洒落本・滑稽本の類では、会話部分は当時の話し言葉が強く反映され、地の部分の書き言葉では古来の文法に従おうとした文体が用いられている。両者の違いは明らかである。 明治時代の書き言葉は、依然として古典文法に従おうとしていたが、単語には日常語を用いた文章も現れた。こうした書き言葉は、一般に「普通文」と称された。普通文は、以下のように小学校の読本でも用いられた。 ワガ国ノ人ハ、手ヲ用フル工業ニ、タクミナレバ、ソノ製作品ノ精巧ナルコト、他ニ、クラブベキ国少シ。 ―『国定読本』第1期 1904 普通文は、厳密には、古典文法そのままではなく、新しい言い方も多く混じっていた。たとえば、「解釈せらる」というべきところを「解釈さる」、「就学せしむる義務」を「就学せしむるの義務」などと言うことがあった。そこで、文部省は新しい語法のうち一部慣用の久しいものを認め、「文法上許容スベキ事項」(1905年・明治38年)16条を告示した。 一方、明治20年代頃から、二葉亭四迷・山田美妙ら文学者を中心に、書き言葉を話し言葉に近づけようとする努力が重ねられた(言文一致運動)。二葉亭は「だ」体、美妙は「です」体、尾崎紅葉は「である」体といわれる文章をそれぞれ試みた。このような試みが広まる中で、新聞・雑誌の記事なども話し言葉に近い文体が多くなっていく。古来の伝統的文法に従った文章を文語文、話し言葉を反映した文章を口語文という。第二次世界大戦後は、法律文などの公文書ももっぱら口語文で書かれるようになり、文語文は日常生活の場から遠のいた。 ===方言史=== ====近代以前==== 日本語は、文献時代に入ったときにはすでに方言差があった。『万葉集』の巻14「東歌」や巻20「防人歌」には当時の東国方言による歌が記録されている。820年頃成立の『東大寺諷誦文稿』には「此当国方言、毛人方言、飛騨方言、東国方言」という記述が見え、これが国内文献で用いられた「方言」という語の最古例とされる。平安初期の中央の人々の方言観が窺える貴重な記録である。 平安時代から鎌倉時代にかけては、中央の文化的影響力が圧倒的であったため、方言に関する記述は断片的なものにとどまったが、室町時代、とりわけ戦国時代には中央の支配力が弱まり地方の力が強まった結果、地方文献に方言を反映したものがしばしば現われるようになった。洞門抄物と呼ばれる東国系の文献が有名であるが、古文書類にもしばしば方言が登場するようになる。 安土桃山時代から江戸時代極初期にかけては、ポルトガル人の宣教師が数多くのキリシタン資料を残しているが、その中に各地の方言を記録したものがある。京都のことばを中心に据えながらも九州方言を多数採録した『日葡辞書』(1603年〜1604年)や、筑前や備前など各地の方言の言語的特徴を記した『ロドリゲス日本大文典』(1604年〜1608年)はその代表である。 この時期には琉球方言(琉球語)の資料も登場する。最古期に属するものとしては、中国資料の『琉球館訳語』(16世紀前半成立)があり、琉球の言葉を音訳表記によって多数記録している。また、1609年の島津侵攻事件で琉球王国を支配下に置いた薩摩藩も、記録類に琉球の言葉を断片的に記録しているが、語史の資料として見た場合、琉球諸島に伝わる古代歌謡・ウムイを集めた『おもろさうし』(1531年〜1623年)が、質・量ともに他を圧倒している。 奈良時代以来、江戸幕府が成立するまで、近畿方言が中央語の地位にあった。朝廷から徳川家へ征夷大将軍の宣下がなされて以降、江戸文化が開花するとともに、江戸語の地位が高まり、明治時代には東京語が日本語の標準語と見なされるようになった。 ===近代以降=== 明治政府の成立後は、政治的・社会的に全国的な統一を図るため、また、近代国家として外国に対するため、言葉の統一・標準化が求められるようになった。学校教育では「東京の中流社会」の言葉が採用され、放送でも同様の言葉が「共通用語」(共通語)とされた。こうして標準語の規範意識が確立していくにつれ、方言を矯正しようとする動きが広がった。教育家の伊沢修二は、教員向けに書物を著して東北方言の矯正法を説いた。地方の学校では方言を話した者に首から「方言札」を下げさせるなどの罰則も行われた。軍隊では命令伝達に支障を来さないよう、初等教育の段階で共通語の使用が指導された。 戦後になり、経済成長とともに地方から都市への人口流入が始まると、標準語と方言の軋轢が顕在化した。1950年代後半から、地方出身者が自分の言葉を笑われたことによる自殺・事件が相次いだ。このような情勢を受けて、方言の矯正教育もなお続けられた。鎌倉市立腰越小学校では、1960年代に、「ネサヨ運動」と称して、語尾に「〜ね」「〜さ」「〜よ」など関東方言特有の語尾をつけないようにしようとする運動が始められた。同趣の運動は全国に広がった。 高度成長後になると、方言に対する意識に変化が見られるようになった。1980年代初めのアンケート調査では、「方言を残しておきたい」と回答する者が90%以上に達する結果が出ている。方言の共通語化が進むとともに、いわゆる「方言コンプレックス」が解消に向かい、方言を大切にしようという気運が盛り上がった。 1990年代以降は、若者が言葉遊びの感覚で方言を使うことに注目が集まるようになった。1995年にはラップ「DA.YO.NE」の関西版「SO.YA.NA」などの方言替え歌が話題を呼び、報道記事にも取り上げられた。首都圏出身の都内大学生を対象とした調査では、東京の若者の間にも関西方言が浸透していることが観察されるという。2005年頃には、東京の女子高生たちの間でも「でら(とても)かわいいー!」「いくべ」などと各地の方言を会話に織り交ぜて使うことが流行し始め、女子高生のための方言参考書の類も現れた。「超おもしろい」など「超」の新用法も、もともと静岡県で発生して東京に入ったとされるが、若者言葉や新語の発信地が東京に限らない状況になっている(「方言由来の若者言葉」を参照)。 方言学の世界では、かつては、標準語の確立に資するための研究が盛んであったが、今日の方言研究は、必ずしもそのような視点のみによって行われてはいない。中央語の古形が方言に残ることは多く、方言研究が中央語の史的研究に資することはいうまでもない。しかし、それにとどまらず、個々の方言の研究は、それ自体、独立した学問と捉えることができる。山浦玄嗣の「ケセン語」研究に見られるように、研究者が自らの方言に誇りを持ち、日本語とは別個の言語として研究するという立場も生まれている。 ===研究史=== 日本人自身が日本語に関心を寄せてきた歴史は長く、『古事記』『万葉集』の記述にも語源・用字法・助字などについての関心が垣間見られる。古来、さまざまな分野の人々によって日本語研究が行われてきたが、とりわけ、江戸時代に入ってからは、秘伝にこだわらない自由な学風が起こり、客観的・実証的な研究が深められた。近代に西洋の言語学が輸入される以前に、日本語の基本的な性質はほぼ明らかになっていたといっても過言ではない。以下では、江戸時代以前・以後に分けて概説し、さらに近代について付説する。 ===江戸時代以前=== 江戸時代以前の日本語研究の流れは、大きく分けて3分野あった。中国語(漢語)学者による研究、悉曇(しったん)学者による研究、歌学者による研究である。 中国語との接触、すなわち漢字の音節構造について学習することにより、日本語の相対的な特徴が意識されるようになった。『古事記』には「淤能碁呂嶋自淤以下四字以音」(オノゴロ嶋〈淤より以下の四字は音を以ゐよ〉)のような音注がしばしば付けられているが、これは漢字を借字として用い、中国語で表せない日本語の固有語を1音節ずつ漢字で表記したものである。こうした表記法を通じて、日本語の音節構造が自覚されるようになったと考えられる。また漢文の訓読により、中国語にない助詞・助動詞の要素が意識されるようになり、漢文を読み下す際に必要な「て」「に」「を」「は」などの要素は、当初は点を漢字に添えることで表現していたのが(ヲコト点)、後に借字、さらに片仮名が用いられるようになった。これらの要素は「てにをは」の名で一括され、後に一つの研究分野となった。 日本語の1音1音を仮名で記すようになった当初は、音韻組織全体に対する意識はまだ弱かったが、やがてあらゆる直音を1回ずつ集めて誦文にしたものが成立する。平安時代初期には「天地の詞」が、平安時代中期から後期にかけて「いろは歌」が現れた。これらはほんらい漢字音のアクセント習得のために使われたとみられるが、のちにいろは歌は文脈があって内容を覚えやすいことから、『色葉字類抄』(12世紀)など物の順番を示す「いろは順」として用いられ、また仮名の手本としても人々の間に一般化している。 一方、悉曇学の研究により、梵語(サンスクリット)に整然とした音韻組織が存在することが知られるようになった。平安時代末期に成立したと見られる「五十音図」は、「あ・か・さ・た・な……」の行の並び方が梵語の悉曇章(字母表)の順に酷似しており、悉曇学を通じて日本語の音韻組織の研究が進んだことをうかがわせる。もっとも、五十音図作成の目的は、一方では、中国音韻学の反切を理解するためでもあった。当初、その配列はかなり自由であった(ほぼ現在に近い配列が定着したのは室町時代以後)。最古の五十音図は、平安時代末期の悉曇学者明覚の『反音作法』に見られる。明覚はまた、『悉曇要訣』において、梵語の発音を説明するために日本語の例を多く引用し、日本語の音韻組織への関心を見せている。 歌学は平安時代以降、大いに興隆した。和歌の実作および批評のための学問であったが、正当な語彙・語法を使用することへの要求から、日本語の古語に関する研究や、「てにをは」の研究、さらに仮名遣いへの研究に繋がった。 このうち、古語の研究では、語と語の関係を音韻論的に説明することが試みられた。たとえば、顕昭の『袖中抄』では、「七夕つ女(たなばたつめ)」の語源は「たなばたつま」だとして(これ自体は誤り)、「『ま』と『め』とは同じ五音(=五十音の同じ行)なる故也」と説明している。このように、「五音相通(五十音の同じ行で音が相通ずること)」や「同韻相通(五十音の同じ段で音が相通ずること)」などの説明が多用されるようになった。 「てにをは」の本格的研究は、鎌倉時代末期から室町時代初期に成立した『手爾葉大概抄(てにはたいがいしょう)』という短い文章によって端緒が付けられた。この文章では「名詞・動詞などの自立語(詞)が寺社であるとすれば、『てにをは』はその荘厳さに相当するものだ」と規定した上で、係助詞「ぞ」「こそ」とその結びの関係を論じるなど、「てにをは」についてごく概略的に述べている。また、室町時代には『姉小路式(あねがこうじしき)』が著され、係助詞「ぞ」「こそ」「や」「か」のほか終助詞「かな」などの「てにをは」の用法をより詳細に論じている。 仮名遣いについては、鎌倉時代の初め頃に藤原定家がこれを問題とし、定家はその著作『下官集』において、仮名遣いの基準を前代の平安時代末期の草子類の仮名表記に求め、規範を示そうとした。ところが「お」と「を」の区別については、平安時代末期にはすでにいずれも[wo]の音となり発音上の区別が無くなっていたことにより、相当な表記の揺れがあり、格助詞の「を」を除き前例による基準を見出すことができなかった。そこで『下官集』ではアクセントが高い言葉を「を」で、アクセントが低い言葉を「お」で記しているが、このアクセントの高低により「を」と「お」の使い分けをすることは、すでに『色葉字類抄』にも見られる。南北朝時代には行阿がこれを増補して『仮名文字遣』を著した(これがのちに「定家仮名遣」と呼ばれる)。行阿の姿勢も基準を古書に求めるというもので、「お」と「を」の区別についても定家仮名遣の原則を踏襲している。しかし行阿が『仮名文字遣』を著した頃、日本語にアクセントの一大変化があり、[wo]の音を含む語彙に関しても定家の時代とはアクセントの高低が異なってしまった。その結果「お」と「を」の仮名遣いについては、定家が示したものとは齟齬を生じている。 なお、「お」と「を」の発音上の区別が無くなっていたことで、五十音図においても鎌倉時代以来「お」と「を」とは位置が逆転した誤った図が用いられていた(すなわち、「あいうえを」「わゐうゑお」となっていた)。これが正されるのは、江戸時代に本居宣長が登場してからのことである。 外国人による日本語研究も、中世末期から近世前期にかけて多く行われた。イエズス会では日本語とポルトガル語の辞書『日葡辞書』(1603年)が編纂され、また、同会のロドリゲスにより文法書『日本大文典』(1608年)および『日本小文典』(1620年)が表された。ロドリゲスの著書は、ラテン語の文法書の伝統に基づいて日本語を分析し、価値が高い。一方、中国では『日本館訳語』(1549年頃)、李氏朝鮮では『捷解新語』(1676年)といった日本語学習書が編纂された。 ===江戸時代=== 日本語の研究が高い客観性・実証性を備えるようになったのは、江戸時代の契沖の研究以来のことである。契沖は『万葉集』の注釈を通じて仮名遣いについて詳細に観察を行い、『和字正濫抄』(1695年)を著した。この書により、古代は語ごとに仮名遣いが決まっていたことが明らかにされた。契沖自身もその仮名遣いを実行した。すなわち、後世、歴史的仮名遣いと称される仮名遣いである。契沖の掲出した見出し語は、後に楫取魚彦編の仮名遣い辞書『古言梯(こげんてい)』(1765年)で増補され、村田春海『仮字拾要(かなしゅうよう)』で補完された。 古語の研究では、松永貞徳の『和句解(わくげ)』(1662年)、貝原益軒の『日本釈名(にほんしゃくみょう)』(1700年)が出た後、新井白石により大著『東雅』(1719年)がまとめられた。白石は、『東雅』の中で語源説を述べるに当たり、終始穏健な姿勢を貫き、曖昧なものは「義未詳」として曲解を排した。また、賀茂真淵は『語意考』(1789年)を著し、「約・延・略・通」の考え方を示した。すなわち、「語形の変化は、縮める(約)か、延ばすか、略するか、音通(母音または子音の交替)かによって生じる」というものである。この原則は、それ自体は正当であるが、後にこれを濫用し、非合理な語源説を提唱する者も現れた。語源研究では、ほかに、鈴木朖(すずきあきら)が『雅語音声考(がごおんじょうこう)』(1816年)を著し、「ほととぎす」「うぐいす」「からす」などの「ほととぎ」「うぐい」「から」の部分は鳴き声であることを示すなど、興味深い考え方を示している。 本居宣長は、仮名遣いの研究および文法の研究で非常な功績があった。まず、仮名遣いの分野では、『字音仮字用格(じおんかなづかい)』(1776年)を著し、漢字音を仮名で書き表すときにどのような仮名遣いを用いればよいかを論じた。その中で宣長は、鎌倉時代以来、五十音図で「お」と「を」の位置が誤って記されている(前節参照)という事実を指摘し、実に400年ぶりに、本来の正しい「あいうえお」「わゐうゑを」の形に戻した。この事実は、後に東条義門が『於乎軽重義(おをきょうちょうぎ)』(1827年)で検証した。 また、宣長は、文法の研究、とりわけ、係り結びの研究で成果を上げた。係り結びの一覧表である『ひも鏡』(1771年)をまとめ、『詞の玉緒』(1779年)で詳説した。文中に「ぞ・の・や・何」が来た場合には文末が連体形、「こそ」が来た場合は已然形で結ばれることを示したのみならず、「は・も」および「徒(ただ=主格などに助詞がつかない場合)」の場合は文末が終止形になることを示した。主格などに「は・も」などが付いた場合に文末が終止形になるのは当然のようであるが、必ずしもそうでない。主格を示す「が・の」が来た場合は、「君が思ほせりける」(万葉集)「にほひの袖にとまれる」(古今集)のように文末が連体形で結ばれるのであるから、あえて「は・も・徒」の下が終止形で結ばれることを示したことは重要である。 品詞研究で成果を上げたのは富士谷成章(ふじたになりあきら)であった。富士谷は、品詞を「名」(名詞)・「装(よそい)」(動詞・形容詞など)・「挿頭(かざし)」(副詞など)・「脚結(あゆい)」(助詞・助動詞など)の4類に分類した。『挿頭抄(かざししょう)』(1767年)では今日で言う副詞の類を中心に論じた。特に注目すべき著作は『脚結抄(あゆいしょう)』(1778年)で、助詞・助動詞を系統立てて分類し、その活用の仕方および意味・用法を詳細に論じた。内容は創見に満ち、今日の品詞研究でも盛んに引き合いに出される。『脚結抄』の冒頭に記された「装図(よそいず)」は、動詞・形容詞の活用を整理した表で、後の研究に資するところが大きかった。 活用の研究は、その後、鈴木朖の『活語断続譜』(1803年頃)、本居春庭の『詞八衢(ことばのやちまた)』(1806年)に引き継がれた。盲目であった春庭の苦心は、一般には足立巻一の小説『やちまた』で知られる。幕末には義門が『活語指南』(1844年)を著し、これで日本語の活用は、全貌がほぼ明らかになった。 このほか、江戸時代で注目すべき研究としては、石塚龍麿の『仮字用格奥山路(かなづかいおくのやまみち)』がある。万葉集の仮名に2種の書き分けが存在することを示したものであったが、長らく正当な扱いを受けなかった。後に橋本進吉が上代特殊仮名遣いの先駆的研究として再評価した。 江戸時代後期から明治時代にかけて、西洋の言語学が紹介され、日本語研究は新たな段階を迎えた。もっとも、西洋の言語に当てはまる理論を無批判に日本語に応用することで、かえってこれまでの蓄積を損なうような研究も少なくなかった。 こうした中で、古来の日本語研究と西洋言語学とを吟味して文法をまとめたのが大槻文彦であった。大槻は、日本語辞書『言海』の中で文法論「語法指南」を記し(1889年)、後にこれを独立、増補して『広日本文典』(1897年)とした。 その後、高等教育の普及とともに、日本語研究者の数は増大した。東京帝国大学には国語研究室が置かれ(1897年)、ドイツ帰りの上田万年が初代主任教授として指導的役割を果たした。 以下、第二次世界大戦後に至るまで、重要な役割を果たした主な日本語学者を挙げる。 ===日本国外の日本語=== 近代以降、台湾や朝鮮半島などを併合・統治した日本は、現地民の台湾人・朝鮮民族への皇民化政策を推進するため、学校教育で日本語を国語として採用した。満州国(現在の中国東北部)にも日本人が数多く移住した結果、日本語が広く使用され、また、日本語は中国語とともに公用語とされた。日本語を解さない主に漢民族や満州族には簡易的な日本語である協和語が用いられていたこともあった。現在の台湾(中華民国)や朝鮮半島(北朝鮮・韓国)などでは、現在でも高齢者の中に日本語を解する人もいる。 一方、明治・大正から昭和戦前期にかけて、日本人がアメリカ・カナダ・メキシコ・ブラジル・ペルーなどに多数移民し、日系人社会が築かれた。これらの地域コミュニティでは日本語が使用されたが、世代が若年になるにしたがって、日本語を解さない人が増えている。 1990年代以降、日本国外から日本への渡航者数が増加し、かつまた、日本企業で勤務する外国人労働者(日本の外国人)も飛躍的に増大しているため、国内外に日本語教育が広がっている。国・地域によっては、日本語を第2外国語など選択教科の一つとしている国もあり、日本国外で日本語が学習される機会は増えつつある。 とりわけ、1990年代以降、「クールジャパン」といわれるように日本国外でアニメーションやゲーム、映画、テレビドラマ、J‐POP(邦楽)に代表される音楽、漫画などに代表させる日本の現代サブカルチャーを「カッコいい(cool)」と感じる若者が増え、その結果、彼らの日本語に触れる機会が増えつつあるという。 日本人が訪問することの多い日本国外の観光地などでは、現地の広告や商業施設店舗の従業員との会話に日本語が使用されることもある。このような場で目に触れる日本語のうち、新奇で注意を引く例は、雑誌・書籍などで紹介されることも多い。 ==日本語話者の意識== ===変化に対する意識=== 日本語が時と共に変化することはしばしば批判の対象となる。この種の批判は、古典文学の中にも見られる。『枕草子』では文末の「んとす」が「んず」といわれることを「いとわろし」と評している(「ふと心おとりとかするものは」)。また、『徒然草』では古くは「車もたげよ」「火かかげよ」と言われたのが、今の人は「もてあげよ」「かきあげよ」と言うようになったと記し、今の言葉は「無下にいやしく」なっていくようだと記している(第22段)。 これにとどまらず、言語変化について注意する記述は、歴史上、仮名遣い書や、『俊頼髄脳』などの歌論書、『音曲玉淵集』などの音曲指南書をはじめ、諸種の資料に見られる。なかでも、江戸時代の俳人安原貞室が、なまった言葉の批正を目的に編んだ『片言(かたこと)』(1650年)は、800にわたる項目を取り上げており、当時の言語実態を示す資料として価値が高い。 近代以降も、芥川龍之介が「澄江堂雑記」で、「とても」は従来否定を伴っていたとして、「とても安い」など肯定形になることに疑問を呈するなど、言語変化についての指摘が散見する。研究者の立場から同時代の気になる言葉を収集した例としては、浅野信『巷間の言語省察』(1933年)などがある。 第二次世界大戦後は、1951年に雑誌『言語生活』(当初は国立国語研究所が監修)が創刊されるなど、日本語への関心が高まった。そのような風潮の中で、あらゆる立場の人々により、言語変化に対する批判やその擁護論が活発に交わされるようになった。典型的な議論の例としては、金田一春彦「日本語は乱れていない」および宇野義方の反論が挙げられる。 いわゆる「日本語の乱れ」論議において、毎度のように話題にされる言葉も多い。1955年の国立国語研究所の有識者調査の項目には「ニッポン・ニホン(日本)」「ジッセン・ジュッセン(十銭)」「見られなかった・見れなかった」「御研究されました・御研究になりました」など、今日でもしばしば取り上げられる語形・語法が多く含まれている。とりわけ「見られる」を「見れる」とする語法は、1979年のNHK放送文化研究所「現代人の言語環境調査」で可否の意見が二分するなど、人々の言語習慣の違いを如実に示す典型例となっている。この語法は1980年代には「ら抜き言葉」と称され、盛んに取り上げられるようになった。 「言葉の乱れ」を指摘する声は、新聞・雑誌の投書にも多い。文化庁の「国語に関する世論調査」では、「言葉遣いが乱れている」と考える人が1977年に7割近くになり、2002年11月から12月の調査では8割となっている。人々のこのような認識は、いわゆる日本語ブームを支える要素の一つとなっている。 ===若者の日本語=== 日本語の変化に対する批判の矛先は、往々にして若い世代に向かう。若者は、旧世代の用いなかった言語および言語習慣を盛んに創出し、時として上の世代に違和感を与えることになる。 ===若者言葉=== いわゆる「若者言葉」は種々の意味で用いられ、必ずしも定義は一定していない。井上史雄の分類に即して述べると、若者言葉と称されるものは以下のように分類される。 一時的流行語。ある時代の若い世代が使う言葉。戦後の「アジャパー」、1970年代の「チカレタビー」など。コーホート語(同世代語)。流行語が生き残り、その世代が年齢を重ねてからも使う言葉。次世代の若者は流行遅れと意識し、使わない。若者世代語。どの世代の人も、若い間だけ使う言葉。「ドイ語」(ドイツ語)など学生言葉(キャンパス用語)を含む。言語変化。若い世代が年齢を重ねてからも使い、次世代の若者も使うもの。結果的に、世代を超えて変化が定着する。ら抜き言葉・鼻濁音の衰退など。上記は、いずれも批判にさらされうるという点では同様であるが、1 ‐ 4の順で、次第に言葉の定着率は高くなるため、それだけ「言葉の乱れ」の例として意識されやすくなる。 上記の分類のうち「一時的流行語」ないし「若者世代語」に相当する言葉の発生要因に関し、米川明彦は心理・社会・歴史の面に分けて指摘している。その指摘は、およそ以下のように総合できる。すなわち、成長期にある若者は、自己や他者への興味が強まるだけでなく、従来の言葉の規範からの自由を求める。日本経済の成熟とともに「まじめ」という価値観が崩壊し、若者が「ノリ」によって会話するようになった。とりわけ、1990年代以降は「ノリ」を楽しむ世代が低年齢化し、消費・娯楽社会の産物として若者言葉が生産されているというものである。また、2007年頃からマスメディアが「場の空気」の文化を取り上げるようになってきてから、言葉で伝えるより、察し合って心を通わせることを重んじる者が増えた。これに対し、文化庁は、空気読めない (KY) と言われることを恐れ、場の空気に合わせようとする風潮の現れではないかと指摘している。 ===若者の表記=== 若者の日本語は、表記の面でも独自性を持つ。年代によりさまざまな日本語の表記が行われている。 1970年代から1980年代にかけて、少女の間で、丸みを帯びた書き文字が「かわいい」と意識されて流行し、「丸文字」「まんが文字」「変体少女文字(=書体の変わった少女文字の意)」などと呼ばれた。山根一眞の調査によれば、この文字は1974年までには誕生し、1978年に急激に普及を開始したという。 1990年頃から、丸文字に代わり、少女の間で、金釘流に似た縦長の書き文字が流行し始めた。平仮名の「に」を「レこ」のように書いたり、長音符の「ー」を「→」と書いたりする特徴があった。一見下手に見えるため、「長体ヘタウマ文字」などとも呼ばれた。マスコミでは「チョベリバ世代が楽しむヘタウマ文字」「女高生に広まる変なとんがり文字」などと紹介されたが、必ずしも大人世代の話題にはならないまま、確実に広まった。この文字を練習するための本も出版された。 携帯メールやインターネットの普及に伴い、ギャルと呼ばれる少女たちを中心に、デジタル文字の表記に独特の文字や記号を用いるようになった。「さようなら」を「±∋ぅTょら」と書く類で、「ギャル文字」としてマスコミにも取り上げられた。このギャル文字を練習するための本も現れた。 コンピュータの普及と、コンピュータを使用したパソコン通信などの始まりにより、日本語の約物に似た扱いとして顔文字が用いられるようになった。これは、コンピュータの文字としてコミュニケーションを行うときに、文章の後や単独で記号などを組み合わせた「(^_^)」のような顔文字を入れることにより感情などを表現する手法である。1980年代後半に使用が開始された顔文字は、若者へのコンピュータの普及により広く使用されるようになった。 携帯電話に絵文字が実装されたことにより、絵文字文化と呼ばれるさまざまな絵文字を利用したコミュニケーションが行われるようになった。漢字や仮名と同じように日本語の文字として扱われ、約物のような利用方法にとどまらず、単語や文章の置き換えとしても用いられるようになった。 すでに普及した顔文字や絵文字に加え、2006年頃には「小文字」と称される独特の表記法が登場した。「ゎたしゎ、きょぅゎ部活がなぃの」のように特定文字を小字で表記するもので、マスコミでも紹介されるようになった。また、「ぅゎょぅι゛ょっょぃ」のように、すべての文字を小文字化したり、ι゛のような通常は使用されない文字も使われることがある。 ===日本語ブーム=== 人々の日本語に寄せる関心は、第二次世界大戦後に特に顕著になったといえる。1947年10月からNHKラジオで「ことばの研究室」が始まり、1951年には雑誌『言語生活』が創刊された。 日本語関係書籍の出版点数も増大した。敬語をテーマとした本の場合、1960年代以前は解説書5点、実用書2点であったものが、1970年代から1994年の25年間に解説書約10点、実用書約40点が出たという。 戦後、最初の日本語ブームが起こったのは1957年のことで、金田一春彦『日本語』(岩波新書、旧版)が77万部、大野晋『日本語の起源』(岩波新書、旧版)が36万部出版された。1974年には丸谷才一『日本語のために』(新潮社)が50万部、大野晋『日本語をさかのぼる』(岩波新書)が50万部出版された。 その後、1999年の大野晋『日本語練習帳』(岩波新書)は190万部を超えるベストセラーとなった(2008年時点)。さらに、2001年に齋藤孝『声に出して読みたい日本語』(草思社)が140万部出版された頃から、出版界では空前の日本語ブームという状況になり、おびただしい種類と数の一般向けの日本語関係書籍が出た。 2004年には北原保雄編『問題な日本語』(大修館書店)が、当時よく問題にされた語彙・語法を一般向けに説明した。翌2005年から2006年にかけては、テレビでも日本語をテーマとした番組が多く放送され、大半の番組で日本語学者がコメンテーターや監修に迎えられた。「タモリのジャポニカロゴス」(フジテレビ 2005〜2008)、「クイズ!日本語王」(TBS 2005〜2006)、「三宅式こくごドリル」(テレビ東京 2005〜2006)、「Matthew’s Best Hit TV+・なまり亭」(テレビ朝日2005〜2006。方言を扱う)、「合格!日本語ボーダーライン」(テレビ朝日 2005)、「ことばおじさんのナットク日本語塾」(NHK 2006〜2010)など種々の番組があった。 ===日本語特殊論=== 日本語が特殊であるとする論は、近代以降しばしば提起されている。極端な例ではあるが、戦後、志賀直哉が「日本の国語程、不完全で不便なものはないと思ふ」として、フランス語を国語に採用することを主張した(国語外国語化論)。また、1988年には、国立国語研究所所長・野元菊雄が、外国人への日本語教育のため、文法を単純化した「簡約日本語」の必要性を説き、論議を呼んだ。 このように、日本語を劣等もしくは難解、非合理的とする考え方の背景として、近代化の過程で広まった欧米中心主義があると指摘される。戦後は、消極的な見方ばかりでなく、「日本語は個性的である」と積極的に評価する見方も多くなった。その変化の時期はおよそ1980年代であるという。いずれにしても、日本語は特殊であるとの前提に立っている点で両者の見方は共通する。 日本語特殊論は日本国外でも論じられる。外交官養成教育を行うアメリカ国務省の下部組織である Foreign Service Institute (FSI) は、日本語を中国語・アラビア語などとともに、レベル4(習得に時間の掛かる、最も難解な言語群)に分類している(ただしこれは英語話者から見ての指摘であって、あくまでも相対的な見方を示すものである)。E. ライシャワーによれば、日本語の知識が乏しいまま、日本語は明晰でも論理的でもないと不満を漏らす外国人は多いという。ライシャワー自身はこれに反論し、あらゆる言語には曖昧・不明晰になる余地があり、日本語も同様だが、簡潔・明晰・論理的に述べることを阻む要素は日本語にないという。今日の言語学において、日本語が特殊であるという見方自体が否定的である。たとえば、日本語に5母音しかないことが特殊だと言われることがあるが、クラザーズの研究によれば、209の言語のうち、日本語のように5母音を持つ言語は55あり、類型として最も多いという。また語順に関しては、日本語のように SOV構造を採る言語が約45%であって最も多いのに対して、英語のようにSVO構造を採る言語は30%強である(ウルタン、スティール、グリーンバーグらの調査結果より)。この点から、日本語はごく普通の言語であるという結論が導かれるとされる。また言語学者の角田太作は語順を含め19の特徴について130の言語を比較し、「日本語は特殊な言語ではない。しかし、英語は特殊な言語だ」と結論している。これらは統計の基準を言語数としたものであり、代わりに話者数を基準とすれば異なった順位付けが得られるが、その場合でも5母音体系には話者数4位のスペイン語が、SOV構造には話者数3位のヒンディー語がある等、特殊であるという結論には達しがたい。 かつてジャーナリスト森恭三は、日本語の語順では「思想を表現するのに一番大切な動詞は、文章の最後にくる」ため、文末の動詞の部分に行くまでに疲れて、「もはや動詞〔部分で〕の議論などはできない」と記している。このように、動詞が最後に来ることを理由に日本語を曖昧、不合理と断ずる議論は多い。しかし、文の中では「誰が、何を、どこで」など、述語以外の部分のほうが情報として重要な場合も多く、これらの部分を述語の前に置く妥当性もまた無視しえない。 また、計算機科学者の村島定行の主張によれば、古くから日本人が文字文化に親しみ、庶民階級の識字率も比較的高水準であったのは、日本語には表意文字(漢字)と表音文字(仮名)の2つの文字体系を使用していたからだという。もちろん、表意・表音文字の二重使用は、日本語で唯一無比というわけではなく、韓文漢字や女真文字など、漢字文化圏なら日本語以外においてでも認められる現象である。漢字文化圏以外でも、マヤ文字やヒエログリフなどにおいては、表意文字と表音文字の使い分けが存在していたという。さらに、もっぱら表音文字のみを使用する言語でも、音声よりもむしろその綴字に重きを置かれるヘブライ語のような言語では、表意・表音の並列処理という点で日本語と共通の特徴をもつという指摘もある。ただ、漢字と仮名を巧みに組み合わせることは、日本語における特徴的な利点であると、村島と同様の主張をする者は多い。一方で、カナモジカイのように、数種類の文字体系を使い分けることの不便さを主張する者も存在し、両者の間で論争は絶えない。 日本語における語順や音韻論、もしくは表記体系などを取り上げて、それらを日本人の文化や思想的背景と関連付け、日本語の特殊性を論じる例もある。しかし、大体においてそれらの説は、手近な英語や中国語などの言語との差異を牧歌的に列挙するにとどまり、言語学的根拠に乏しいものが多い(サピア=ウォーフの仮説も参照)。近年では日本文化の特殊性を論する文脈であっても、出来るだけ多くの文化圏を俯瞰し、総合的な視点に立った主張が多く見られるという。 村山七郎は、「外国語を知ることが少ないほど日本語の特色が多くなる」という「反比例法則」を主張したという。日本人自らが日本語を特殊と考える原因としては、身近な他言語がほぼ英語のみであることが与って大きい。もっとも、日本語が印欧語との相違点を多く持つことは事実である。そのため、対照言語学の上では、印欧語とのよい比較対象となる。 日本語成立由来という観点からの諸研究については『日本語の起源』を参照のこと。 ==辞書== ===古代から中近世=== 日本では古く漢籍を読むための辞書が多く編纂された。国内における辞書編纂の記録としては、天武11年(682年)の『新字』44巻が最古であるが(『日本書紀』)、伝本はおろか逸文すらも存在しないため、書名から漢字字書の類であろうと推測される以外は、いかなる内容の辞書であったかも不明である。 奈良時代には『楊氏漢語抄』や『弁色立成(べんしきりゅうじょう)』という辞書が編纂された。それぞれ逸文として残るのみであるが、和訓を有する漢和辞書であったらしい。現存する最古の辞書は空海編と伝えられる『篆隷万象名義』(9世紀)であるが、中国の『玉篇』を模した部首配列の漢字字書であり、和訓は一切ない。10世紀初頭に編纂された『新撰字鏡』は伝本が存する最古の漢和辞書であり、漢字を部首配列した上で、和訓を万葉仮名で記している。平安時代中期に編纂された『和名類聚抄』は、意味で分類した漢語におおむね和訳を万葉仮名で付したもので、漢和辞書ではあるが百科辞書的色彩が強い。院政期には過去の漢和辞書の集大成とも言える『類聚名義抄』が編纂された。同書の和訓に付された豊富な声点により院政期のアクセント体系はほぼ解明されている。 鎌倉時代には百科辞書『二中歴』や詩作のための実用的韻書『平他字類抄』、語源辞書ともいうべき『塵袋』や『名語記(みょうごき)』なども編まれるようになった。室町時代には、読み書きが広い階層へ普及し始めたことを背景に、漢詩を作るための韻書『聚分韻略』、漢和辞書『倭玉篇(わごくへん)』、和訳に通俗語も含めた国語辞書『下学集』、日常語の単語をいろは順に並べた通俗的百科辞書『節用集』などの辞書が編まれた。安土桃山時代最末期には、イエズス会のキリスト教宣教師によって、日本語とポルトガル語の辞書『日葡辞書』が作成された。 江戸時代には、室町期の『節用集』を元にして多数の辞書が編集・刊行された。易林本『節用集』『書言字考節用集』などが主なものである。そのほか、俳諧用語辞書を含む『世話尽』、語源辞書『日本釈名』、俗語辞書『志布可起(しぶがき)』、枕詞辞書『冠辞考』なども編纂された。 ===近現代=== 明治時代に入り、1889年から大槻文彦編の小型辞書『言海』が刊行された。これは、古典語・日常語を網羅し、五十音順に見出しを並べて、品詞・漢字表記・語釈を付した初の近代的な日本語辞書であった。『言海』は、後の辞書の模範的存在となり、後に増補版の『大言海』も刊行された。 その後、広く使われた小型の日本語辞書としては、金沢庄三郎編『辞林』、新村出編『辞苑』などがある。第二次世界大戦中から戦後にかけては金田一京助編(見坊豪紀執筆)『明解国語辞典』がよく用いられ、今日の『三省堂国語辞典』『新明解国語辞典』に引き継がれている。 中型辞書としては、第二次世界大戦前は『大言海』のほか松井簡治・上田万年編『大日本国語辞典』などが、戦後は新村出編『広辞苑』などが広く受け入れられている。現在では林大編『言泉』、松村明編『大辞林』をはじめ、数種の中型辞書が加わっている他、唯一にして最大の大型辞書『日本国語大辞典』(約50万語)がある。 =ばね= ばねとは、力が加わると変形し、力を取り除くと元に戻るという、物体の弾性という性質を利用する機械要素である。広義には、弾性の利用を主な目的とするものの総称ともいえる。ばねの形状や材質は様々で、日用品から車両、電気電子機器、構造物に至るまで、非常に多岐にわたって使用される。 「ばね」は和語の一種だが、平仮名ではわかりにくいときは片仮名でバネとも表記される。現在使用されている漢字表記では発条と書かれる。英語に由来するスプリング(spring)という名称でもよく呼ばれる。語源は諸説あるが、「跳ね」「跳ねる」から転じて「ばね」という語になったとされる。 人類におけるばねの使用の歴史は太古に遡り、原始時代から利用されてきた弓はばねそのものである。カタパルト、クロスボウ、機械式時計、馬車の懸架装置といった様々な機械や器具で利用され、ばねは発展を遂げていった。1678年にはイギリスのロバート・フックが、ばねにおいて非常に重要な物理法則となるフックの法則を発表した。産業革命後には、他の工業と同じくばねも大きな発展を遂げ、理論的な設計手法も確立していった。今日では、ばねの製造は機械化された大量生産が主だが、一方で特殊なばねに対しては手作業による製造も行われる。現在のばねへの要求は多様化し、その実現に高度な技術も求められるようになっている。 ばねの種類の中ではコイルばねがよく知られ、特に圧縮コイルばねが広く用いられている。他には、板ばね、渦巻ばね、トーションバー、皿ばねなどがある。ばねの材料には金属、特に鉄鋼が広く用いられているが、用途に応じてゴム、プラスチック、セラミックスといった非金属材料も用いられている。空気を復元力を生み出す材料とする空気ばねなどもある。ばねの荷重とたわみの関係も、荷重とたわみが比例する線形のものから、比例しない非線形のものまで存在する。ばねばかりのように荷重を変形量で示させたり、自動車の懸架装置のように振動や衝撃を緩和したり、ぜんまい仕掛けのおもちゃのように弾性エネルギーの貯蔵と放出を行わせたりなど、色々な用途のためにばねが用いられる。 ==定義と特性== 物体には弾性と呼ばれる、力が加わって変形しても元に戻ろうとする性質がある。ばねの広い意味での定義は、この弾性という性質の利用を主な目的とするものの総称といえる。ばねが持っている、あるいはばねに求められる特性としては、大きく分けて 復元力を持つエネルギーの蓄積と放出ができる固有の振動数を持つという3つの特性が挙げられ、これらは「ばねの3大特性」とも呼ばれる。ばねと呼ばれる部品や物以外にもこれら3つの特性は備わっているが、これらの特性を特に上手く利用しているのがばねともいえる。他にもばねの基本的な性質や働きの分け方はあるが、ここではこの3つの大別に沿って、ばねの基本的特性について説明する。 ===復元力=== ばねは、力を加えられると変形し、力を取り除くと元の形に戻るという性質を持っている。このように力が加わって変形しても元に戻ろうとする性質を持つことが、ばねの基本的性質であり、必要条件である。元の形に戻ろうとする力は「復元力」と呼ばれ、復元力の存在がばねの大きな特性の1つ目に挙げられる。 復元力は物質の「弾性」という性質に起因し、力を取り除くと元の形に戻る変形は「弾性変形」と呼ばれる。しかし、力(正確には応力)が材料の限界を超えて加わると、力を除いても変形(正確にはひずみ)が残るようになる。この性質は「塑性」と呼ばれ、塑性という性質によって元に戻らない変形のことを「塑性変形」と呼ぶ。変形が弾性変形に留まる最大の応力は「弾性限度」と呼ばれる。ばねは元に戻ることを前提して使われるものであるため、塑性変形が起こることは好ましくなく、一般にばねに加わる力が弾性限度を超えない範囲で使用される。 ばねの変形のことや変形量のことを「たわみ」と呼ぶ。たわみの物理単位には、変位(長さの変化)と回転角(ねじり角や曲げ角の変化)の2種類がある。長さが変化することを利用する圧縮コイルばねでは、たわみの単位は変位で表される。棒のねじり角度が変化することを利用するトーションバーでは、たわみの単位は回転角(ねじり角)である。たわみの物理量に対応して、たわみを起こす負荷にもいくつかの種類が考えられる。変位であれば荷重(純粋な力)であり、ねじり角であればねじりモーメントが考えられる。実際のばねでは、変位や回転変形が組み合わさった複雑なたわみを起こすものもある。 このような荷重とたわみがある一定関係を持っていることが、ばねが持つ基本的性質や機能の一つともいえる。ばねが示す荷重とたわみの関係のことを「ばね特性」「荷重‐たわみ特性」「荷重特性」などと呼ぶ。最もよく利用されるばねのばね特性は、線形であることが多い。線形とはたわみが荷重に比例して増減するということで、ばねに 10 kg の重りを吊るすとばねが 1 cm 伸び、20 kg の重りを吊るすと 2 cm 伸びるという具合である。この関係は「フックの法則」としても知られる。線形特性であるばねでは荷重とたわみの関係は以下のような式で表される。 ここで、P が荷重(力)で、δ がたわみ(変位)である。k は P と δ の比例定数で「ばね定数」と呼ばれ、単位は[力]/[長さ]である。例えば 10 kgf/cm というばね定数は、たわみ 1 cm を起こすのに 10 kg の重りを吊るす必要があるという意味である。実際の製品でいえば、大型自動車や鉄道車両の懸架装置用ばねでは大きなばね定数が必要となり、それと比較してベッドやソファーのばねでは小さなばね定数が必要となる。 負荷がねじりモーメント T で、たわみがねじり角 θ のときは、 という式になる。この場合の k の単位は[モーメント]/[角度]であり、k を「回転ばね定数」などと呼んで通常のばね定数と区別する場合もある。 荷重とたわみが比例しないばねも存在し、そのような関係を非線形と呼ぶ。非線形特性のばねでは、例えば、ばねに 10 kg の重りを吊るすと 1 cm 伸びるが、20 kg の重りを吊るしても 1.2 cm しか伸びないという具合である。さらに、荷重を加えるときと取り除くときで荷重とたわみの関係が異なり、荷重‐たわみ曲線がヒステリシスループを描くばねもある。皿ばねや圧縮コイルばねの内の特殊なものが、非線形特性のばねの例として挙げられる。 ===エネルギーの蓄積と放出=== ばねが変形するとき、弾性エネルギーという形でエネルギーがばねに蓄えられる。蓄えられたエネルギーを放出させれば、ばねに機械的な仕事をさせることができる。この「エネルギーの蓄積と放出」という働きが、ばねの大きな特性の2つ目として挙げられる。例えば、弓によって矢を放つのは、このエネルギーの蓄積と放出を利用している。手で弦を引くことで弾性エネルギーを蓄え、手を放すことで弾性エネルギーを矢を飛ばす力に変える。ぜんまい時計では、ぜんまいに蓄えられたエネルギーを放出させながら時計が動いている。弓と比較すると、ぜんまい時計の場合は弾性エネルギーを徐々に放出させながら利用している。自動車の懸架装置用ばねの場合は、路面から伝わる衝撃をばねが受け、衝撃力をばねの弾性エネルギーに変化させて緩衝している。 ばねに蓄えられる弾性エネルギーは、その弾性変形を起こす荷重によってなされた仕事に等しい。荷重‐たわみ線図では、曲線と横軸で囲まれた面積が弾性エネルギーに相当する。線形特性に限定せずに、荷重 P がたわみ δ の一般的な関数であるときは、 P(δ) を積分して、弾性エネルギー U は以下のようになる。 線形特性のばねであれば、囲まれる面積は三角形となるので が弾性エネルギーである。ばねが受ける荷重 P が同じなら、ばね定数 k が小さいほど吸収エネルギー U が大きくできる。鉄道車両の連結器や緩衝装置のようにばねを衝突を緩和するために使用するときは、この吸収エネルギーが大きいほど有利となる。 荷重‐たわみ曲線がヒステリシスループを描く非線形特性ばねの場合では、ループで囲まれる部分の面積分のエネルギーが摩擦などで消費される。このヒステリシスによる弾性エネルギーの消費は減衰として働き、衝撃緩和の視点からは、ループで囲まれる面積が大きいほど有利となる。 ===固有の振動数=== 先端に重りを付けたばねを天井に吊るし、重りを下に引っ張り、力を放す。すると重りは一定の振動数で上下に振動する。この一定の振動数は「固有振動数」と呼ばれる。この例のような、線形特性のばねと質点(重り)と基礎(天井)から成る1自由度の系では、固有振動数は となる。m は重りの質量、k はばね定数、π は円周率、fn が固有振動数である。このような固有振動数を持つことが、ばねの大きな特性の3つ目である。上の式では、k が大きくなるほど fn が大きくなり、k が小さくなるほど fn が小さくなる。一般的にも、ばねが硬いほど固有振動数が大きくなり、ばねが柔らかいほど固有振動数が小さくなる。 固有振動数は実際上のあらゆる振動の問題に関係し、固有振動数は振動の問題を考えるときの最重要の物理量ともいわれる。特に、大きさや向きが周期的に変動するような力が質点に加わったり、ばねを支える基礎自体が周期的に揺れ動くとき、このような外からの振動数が固有振動数に一致すると「共振」と呼ばれる質点が激しく振動する現象が発生する。共振を積極的に利用する機械・道具もあるが、通常は共振を避ける必要がある。共振が起こると、機械の動作が不安定になったり、故障の原因となったり、最悪は破壊事故を引き起こすこともある。このため、固有振動数と外からの振動数をずらすように機械や構造物を設計することが求められる。 一方で、ばねの固有振動を持つ性質を利用することで、振動の伝達を緩和することもできる。固有振動数が外からの振動数よりも十分小さいとき、振動がばねが支える質点に伝わりにくくなる。これを利用することによって、ばねが支える物体の振動を和らげることができる。振動を伝わりにくくする一般的な目安としては、固有振動数が外からの振動数の1/3以下となるようにするのが望ましいとされる。例えば鉄道車両では、金属ばねに比べてばね定数を小さくすることができる空気ばねを採用し、乗り心地を良くしている。 ==種類== ばねの種類は多岐にわたる。様々な分類の仕方があり、決定的なものはない。以下では、形状別の種類と材料別の種類を主に説明し、その他の分類についても触れる。 ===基本形状別=== ばねの形状で分類した代表的種類を以下に示す。これらは主に金属を材料にするばねである。金属の内、特に鋼が材料として使われるが、鋼自体は硬いため力を加えられても目でわかるように大きな変形はしない。そのため、力が加わる板や棒を長くすることによって微小な変形を集めて、ばね全体としての大きな変形を生み出している。 ===コイルばね=== ===細長い線状の材料を螺旋(らせん)状に巻いたばね。様々な種類のばねの中で最も一般的な形状のものである。受ける荷重の種類によって、さらに「圧縮コイルばね」「引張コイルばね」「ねじりコイルばね」といった種類に分けられる。 圧縮コイルばね 圧縮コイルばね コイルばねの内、圧縮の荷重を受けて用いられるばね。ばねの中でも最も広く使用されている種類である。円筒状のコイルばねが最も一般的だが、円錐状や樽形に巻いたものなど様々な種類がある。コイル状にする素線自体には、主にねじりモーメントが加わり、素線がねじり変形を起こすことで、ばねが全体として伸び縮みする。ばねが変形するときの単位体積当たりの弾性エネルギー(エネルギー吸収効率)は他のばね部品と比較して大きく、取り付けに必要な空間は比較的小さくて済む。 引張コイルばね 引張コイルばね コイルばねの内、コイルの端にフックが存在し、引張(引っ張り)の荷重を受けるばね。圧縮コイルばねと同じく、素線自体は主にねじり変形を起こし、全体が伸びる。圧縮コイルばねに次いで広く用いられているばねである。一般的な引張りコイルばねは、外部から荷重がかかっていない状態でもコイル同士が密着しており、この状態でもコイル同士が密着しようとする力が働いている。端のフック形状には用途に合わせて様々な形状がある。 ねじりコイルばね ねじりコイルばね コイルばねの内、コイル中心軸まわりにねじりモーメントを受けるばね。コイルの端に荷重を受ける腕を持ち、コイルを巻き込んだり巻き戻したりする方向に変形させる。ばねの素線自体には曲げ応力が加わり、荷重による弾性エネルギーは曲げ弾性エネルギーとして蓄えられる。部品を回転運動をさせる箇所などで用いられる。=== ===圧縮コイルばね=== 圧縮コイルばねコイルばねの内、圧縮の荷重を受けて用いられるばね。ばねの中でも最も広く使用されている種類である。円筒状のコイルばねが最も一般的だが、円錐状や樽形に巻いたものなど様々な種類がある。コイル状にする素線自体には、主にねじりモーメントが加わり、素線がねじり変形を起こすことで、ばねが全体として伸び縮みする。ばねが変形するときの単位体積当たりの弾性エネルギー(エネルギー吸収効率)は他のばね部品と比較して大きく、取り付けに必要な空間は比較的小さくて済む。 ===引張コイルばね=== 引張コイルばねコイルばねの内、コイルの端にフックが存在し、引張(引っ張り)の荷重を受けるばね。圧縮コイルばねと同じく、素線自体は主にねじり変形を起こし、全体が伸びる。圧縮コイルばねに次いで広く用いられているばねである。一般的な引張りコイルばねは、外部から荷重がかかっていない状態でもコイル同士が密着しており、この状態でもコイル同士が密着しようとする力が働いている。端のフック形状には用途に合わせて様々な形状がある。 ===ねじりコイルばね=== ねじりコイルばねコイルばねの内、コイル中心軸まわりにねじりモーメントを受けるばね。コイルの端に荷重を受ける腕を持ち、コイルを巻き込んだり巻き戻したりする方向に変形させる。ばねの素線自体には曲げ応力が加わり、荷重による弾性エネルギーは曲げ弾性エネルギーとして蓄えられる。部品を回転運動をさせる箇所などで用いられる。 ===板ばね=== ===板材を用いたばねの総称。板の曲げ変形の利用してばねとして作用する。たわみが小さい範囲であれば、はりの曲げ理論をそのまま使って変形などが計算ができる。「重ね板ばね」「薄板ばね」といった種類に分けられる。 重ね板ばね 重ね板ばね 複数の板材を重ねた板ばね。中央を分厚くするように板を重ねることで、ばね内に発生する曲げ応力の均一化を図っている。自動車や鉄道車両の懸架装置用に使われるのがほとんどである。板材同士が接触して摩擦することで振動の減衰に寄与する。一方で、板間の摩擦が固有振動数を高くし、実際の車両においては乗り心地に悪影響することもある。 薄板ばね 薄板ばね 板ばねの内、薄い板材を用いたばねの総称。形状は多種多様で、定まった形はない。厳密な定義は特にないが、2 mm 程度までの厚みのものを薄板ばねと呼ぶことが多い。 主に小型機器で用いられる。=== ===重ね板ばね=== 重ね板ばね複数の板材を重ねた板ばね。中央を分厚くするように板を重ねることで、ばね内に発生する曲げ応力の均一化を図っている。自動車や鉄道車両の懸架装置用に使われるのがほとんどである。板材同士が接触して摩擦することで振動の減衰に寄与する。一方で、板間の摩擦が固有振動数を高くし、実際の車両においては乗り心地に悪影響することもある。 ===薄板ばね=== 薄板ばね板ばねの内、薄い板材を用いたばねの総称。形状は多種多様で、定まった形はない。厳密な定義は特にないが、2 mm 程度までの厚みのものを薄板ばねと呼ぶことが多い。 主に小型機器で用いられる。 ===トーションバー=== トーションバー棒状のばね。棒の一端を固定して他端をねじりを加え、棒をねじり変形させることでばね作用させる。棒の断面形状は、ねじりに対して効率のよい円形が一般的である。吸収エネルギー効率が高く、形状が簡単なため、実際のばね特性が計算と一致しやすい。 ===渦巻ばね=== ===板を渦巻状に巻いたばね。特に、薄板を用いた渦巻きばねは「ぜんまい」とも呼ばれる。一端にトルクや力を加えることで、板が曲げ変形してばねとして作用する。狭い空間内で比較的多くのエネルギーを蓄えることができ、製作が容易などの利点を持つ。大きく「接触形」と「非接触形」に分けられる。 接触形渦巻ばね 接触形渦巻ばね(解けた状態) 渦巻きばねの内、隣接する板同士が接触するもの。この接触形渦巻きばねのことを「ぜんまい」と呼ぶこともある。ばねを巻き上げていくとき、密着していた板が解けていくため、ばね定数が変化していく特性を持つ。板同士が密着しているため、そこで摩擦が発生してヒステリシスを持つばね特性となる。 非接触形渦巻ばね 渦巻きばねの内、隣接する板同士が離れたもの。板間摩擦がないため、ばね特性を比較的正確に計算できる長所がある。一方で渦巻ばねを巻ける回数は少ないという点がある。=== ===接触形渦巻ばね=== 接触形渦巻ばね(解けた状態)渦巻きばねの内、隣接する板同士が接触するもの。この接触形渦巻きばねのことを「ぜんまい」と呼ぶこともある。ばねを巻き上げていくとき、密着していた板が解けていくため、ばね定数が変化していく特性を持つ。板同士が密着しているため、そこで摩擦が発生してヒステリシスを持つばね特性となる。 ===非接触形渦巻ばね=== 渦巻きばねの内、隣接する板同士が離れたもの。板間摩擦がないため、ばね特性を比較的正確に計算できる長所がある。一方で渦巻ばねを巻ける回数は少ないという点がある。 ===竹の子ばね=== 竹の子ばね長方形断面の板状の素材を円錐状に巻いたばね。分類としては、圧縮コイルばねの一種である円すいコイルばねに相当し、円すいコイルばねの素線が板に変わったものといえる。たわみが一定以上増すとばね定数が次第に増す非線形特性があり、なおかつ比較的小さな形状で大きな荷重を受けることができる。 ===皿ばね=== 皿ばね底のない皿のような形状にしたばね。皿ばねの円錐上側部分と下側部分に荷重を加え、高さを低くする方向にたわませることでばね作用が得られる。非線形特性のばねであり、形状の寸法比を変えることで様々なばね特性が得られる。皿ばね同士を組み合せることにより、さらに様々なばね特性が得られ、全体としてのばね高さも変えることができる。 ===輪ばね=== 輪ばね内輪と外輪という2種類の輪を交互に重ね合わせたばね。内輪は外側に斜面を持ち、外輪は内側に斜面を持ち、重ね合わされた内輪と外輪に荷重が加わると、内輪は縮まり、外輪は広がるように変形して、全体として縮む。合わさった面間で摩擦が働き、大きなエネルギーを吸収することができる。 ===線細工ばね=== 線状の材料をばね作用を得ることができようした部品の総称。用途に応じて様々な形のものが作られ、特に定まった形状はない。静的な荷重がかかるような使われ方が多い。荷重が小さい範囲で使うことが多いため、ばね特性を厳密に出すことを求めないことも多い。 ===ファスナーばね=== スプリングピンばね作用を利用した締結部品の総称。ばね座金、止め輪、スプリングピンなどが含まれる。様々な種類が存在する。 ===メッシュばね=== 細い線材を布生地のように編んだばね。「メッシュスプリング」とも呼ぶ。編み方はメリヤス編みとなっており、編み込んで帯状とした材料を円筒状やドーナツ形にして使われる。クッション材として使われ、ばね特性が大きなヒステリシスを持っていることから振動吸収の性能が高い。 ===材料別=== ばねの復元力を生み出す材料には様々なものがある。原理的には、弾性を持つ材料全てがばねの材料となりえる。材料で分類すると金属ばねと非金属ばねに大きく分けられ、一例として以下のように分類される。 金属ばね 鉄鋼ばね(炭素鋼、合金鋼、ステンレス鋼など) 非鉄金属ばね(銅合金、ニッケル合金、チタン合金など)鉄鋼ばね(炭素鋼、合金鋼、ステンレス鋼など)非鉄金属ばね(銅合金、ニッケル合金、チタン合金など)非金属ばね 高分子材ばね(天然ゴム、プラスチック、繊維強化材など) 無機材ばね(セラミックス) 流体ばね(空気、不活性ガスなど)高分子材ばね(天然ゴム、プラスチック、繊維強化材など)無機材ばね(セラミックス)流体ばね(空気、不活性ガスなど) ===金属ばね=== 金属と非金属にばね材料を分けると、金属ばねが特殊な場合を除いて一般的に用いられている。コストが安いながらも、大きな力を受けることができたり、大きなたわみ量を確保できたりするのが金属ばね全般における利点である。金属材料の中でも、強度と汎用性の高さから特に鉄鋼材料が広範囲で用いられている。ばね用の鋼材は「ばね鋼」という名称でも呼ばれ、弾性限度を上げるために一般的な鋼材よりも材料中の炭素濃度が高められている。ばね鋼は大きく分けて冷間成形用と熱間成形用がある。冷間成形とは材料が常温の状態でばねの形へ加工することで、比較的小型のばねの成形に適している。熱間成形とは材料を高温に熱した状態でばねの形へ加工することで、比較的大型のばねの成形に適している。ばね鋼の種類としては、炭素を主な添加元素とする炭素鋼、あるいは炭素以外の元素を特別に加える合金鋼が使われる。他の鉄鋼材料としては、耐食性と耐熱性に優れたステンレス鋼が用いられている。 ばねに使われる非鉄金属の材料としては、黄銅、リン青銅、洋白、ベリリウム銅といった銅合金材料が一般的である。銅合金の電気伝導性の良さを利用して、コネクタなどで抵抗や発熱を減らすために使われる。他には耐食性や非磁性も長所として持っているが、鋼材料と比べるコストが高い欠点もある。 他の非鉄金属材料としては、耐食性、耐熱性ならびに耐寒性が優れたニッケル合金もばね材料として用いられている。特にインコネルがニッケル合金の中でも一般的である。400℃以上の高温領域で使用されるようなばねで、ニッケル合金材料が用いられている。鋼と比較して大きな軽量化が可能な材料として、チタン合金もばねに使用されている。チタン合金は鋼と比較して弾性率と比重が小さいため、ばねの軽量化が可能となる。一方でコストが高いという欠点もある。 ===非金属ばね=== 金属材料では実現できない機能や特性を得たいとき、非金属材料がばね材料として使われる。プラスチックやゴムといった高分子材料も、ばね材料として利用される。ゴムの弾性を利用するばねは、特に「ゴムばね」と呼ばれる。ゴムの弾性は非線形であり、ひずみが小さい範囲でのみ線形とみなせる。具体的な材料としては、汎用に使われる天然ゴム、対候性の高いクロロプレンゴム、振動減衰特性が良いブチルゴムなどが使われている。金属ばねと比較すると、ばね定数を方向に応じて自由に調整できる、ゴムの内部摩擦によって変形時に減衰力が生まれる、といった長所を持っている。車両用や産業機械用の防振ゴムとして広く利用されている。一方で、高温・低温で性能が劣化しやすい、長期間の大荷重負担でクリープが生じやすい、といった短所もある。さらに、ゴムばねの挙動は明確には計算できないので、おおよその範囲で計算する必要がある。 プラスチック材料もばねに用いられる。金属ばねと比較すると、プラスチック製ばねには軽量、錆びない、成形が容易といった長所がある。一方で、ゴムのようにクリープが起こりやすい、鋼材と比較すると強度や弾性率が小さいといった短所がある。プラスチック材料の中では、エンジニアリングプラスチックがばね用として一般的である。例としてはポリエーテルエーテルケトン(PEEK)製のコイルばねなどが、耐薬品性が必要な個所で活用されている。 プラスチックの強度の低さを克服するために、強化繊維を含有させた繊維強化プラスチック(FRP)もばね用材料として使われている。ばね材料として用いられるFRPには、ガラス繊維強化プラスチック(GFRP)と炭素繊維強化プラスチック(CFRP)の2つがある。強化繊維の配向によって、FRPは力を受ける向きによって強度や弾性率が異なるという特徴がある。そのため、ばね定数を最適化したり、FRPが持つ高い強度を生かすためには、適切な配向でばねを設計する必要がある。軽量化のためにGFRP製の板ばねが自動車懸架装置用として実用化されたことがあるが、コストが高い・リサイクルしづらいといった欠点により定着はしていない。CFRPも、板ばねとしての利用が代表例である。他の材料と比較すると、CFRPは比強度や比弾性率が特に優れており、加えて疲労強度も高いという長所を持つ。これらの長所を生かして、他の材料では不可能な用途にCFRP製ばねを適用することが試みられている。 無機材料のセラミックスもばねとして利用されている。既存の金属ばねでは対応不可能な700℃から1000℃の高温下でも実用できる耐熱性を持つ。セラミックスは脆性材料であり、小さな欠陥でも破壊に至り、強度のばらつきが大きいため、ばね用材料としては不適当と以前は考えられていた。その後の製造技術の進歩によって、高強度のセラミックスが誕生し、ばねとして実用可能となった。実際の使用例としては、高温下使われる治具用ばねに窒化ケイ素が使われている。 気体や液体の流体を利用するばねも存在し、特に空気の弾性を利用したばねは「空気ばね」と呼ばれる。一定温度下では気体の体積は圧力に逆比例するというボイルの法則が、空気ばねの弾性を生み出す基本原理となる。ばねの高さ・受けることができる荷重・ばね定数が独立に設定できる、絞りを設けることで減衰力を発生させることができる、調整弁を設けることでばね高さを一定に保つことができる、といった長所を持っている。特に、一つ目の長所により、同じ条件下の金属ばねと比較してばね定数を小さくでき、車両の懸架装置として用いた場合は乗り心地を良くすることができる。形状によって、ベローズ形とダイヤフラム形の2種類に大きく分けられる。欠点としては、金属ばねと比較して構造が複雑で、空気ばね以外の付属装置も必要となり、コストが高い。 空気ではなく、アルゴンやヘリウムなどの不活性ガスを利用するばねもあり、このようなばねは「ガスばね」と呼ばれる。ばね特性設定の自由度が高く、省スペースで大きな荷重を働かすことができるといった長所がある。一方で使用温度に制約があり、ガス漏れのおそれがあるといった短所がある。 ===磁気ばね=== 弾性を利用するものではないが、磁石の磁気力を復元力として利用する「磁気ばね」と呼ばれるばねもある。磁石の同極を近づけると反発力が発生するので、圧縮方向に復元力を持つばねとして利用できる。磁石の異極を対向させる場合は、磁石が横方向にずれたときに吸引力が発生するので、横方向に復元力を持つばねとして利用できる。物体同士の接触を避けることができる、質量を持たないばねなので後述のサージングが発生しない、といった長所がある。 ===その他の分類=== 以上の基本形状別・材料別の他には、ばねは次のような観点からも分類される。 ===荷重形式=== ばねが受ける荷重の種類(形式)による分類。軸方向圧縮荷重を受ける「圧縮ばね」、軸方向引張荷重を受ける「引張ばね」、軸回りねじりモーメントを受ける「ねじりばね」がある。 ===応力状態=== 荷重を受けた時に、ばねに発生する応力状態による分類。実際の応力状態は種々の応力の複雑な組み合わせとなるので、主として何を受けるかで分類する。例えば、主に曲げ応力を受けるばねには板ばねが、主にねじり応力を受けるばねには圧縮コイルばねが、主に引張・圧縮応力を受けるばねには輪ばねが該当する。 ===ばね特性=== ばねが持つ荷重とたわみの関係(ばね特性)による分類。線形特性、ヒステリシス無しの非線形特性、ヒステリシス有りの非線形特性に大別できる。例えば、線形特性ばねにはトーションバーが、ヒステリシス無し非線形特性にはテーパコイルばね(圧縮コイルばねの一種)が、ヒステリシス有り非線形特性には重ね板ばねが該当する。 ===素材形状=== ばねの材料となる素材形状による分類。板状の材料(板材)を用いるばね、棒状の材料(棒材)または線状の材料(線材)を用いるばねに大別できる。例えば、板材を用いるばねには渦巻ばねが、棒材または線材を用いるばねにはコイルばねが該当する。 ==設計と製造== ===設計の基礎事項=== ばねの設計上でまず重要となるのは、何の用途に使うかを明確にする点である。他の機械要素と同様に、使用目的に適した性能を設計するばねに与える必要がある。ばねによって実現したい機能に、具体的には次のようなものが挙げられる。 除荷すると元の位置や形状に戻る復元性の利用物体を弾性的に保持振動の絶縁・緩和振動を生み出して利用衝撃の緩和エネルギーの貯蔵と放出荷重の計測や規定機能を満たすという要求の他には、次のようなことがばねの設計上要求される 空間的制限に収まる永久変形や破壊が起きない使用期間内で十分な強度を持つ使用環境中で十分な強度を持つ軽量である小型である製造が容易である価格が安いばねの調達方法としては、販売されている標準品の中から選ぶ場合と、規格品にないものを個別に製作する場合がある。ばねの用途は多様であるため、ファスナーばねを除くと、一つ一つ個別に設計することが多い。そのため、ばねの設計において標準品から選ぶ方式は、同じ機械要素であるボルトやベアリングほどは多くない。 一つのばねで必要なばね特性を得ることができないときは、複数のばねを組み合わせることもある。荷重を分担するようなばねの組み合わせを「並列」や「並列接続」、たわみが加算されるようなばねの組み合わせを「直列」や「直列接続」という。並列では、組み合わさるばねの数が多いほど、組み合わせ全体としてのばね定数は大きくなる。直列では、組み合わさるばねの数が多いほど、組み合わせ全体としてのばね定数は小さくなる。組み合わせの仕方によっては、全体としてのばね特性を非線形特性にすることもできる。 ===古典理論式と有限要素法=== ばねを設計するとき、荷重と変形の関係や発生する応力を計算する方法には、材料力学の古典的な理論式を使う方法と数値解析の有限要素法 (FEM) を使う方法がある。古典的理論では代数式の形で計算式が与えられていることが多く、電卓などでも容易に計算できる。また、形状をどれだけ変えたら特性にどれだけ影響するかなど、要因と結果の関係が明白に理解できる。 一方で、古典的理論では計算式を導出するためにいくつかの仮定を置いており、それらの仮定に近い範囲の使用のみで式の精度が期待できる。例えば、一般的な圧縮コイルばねのばね定数 k は、形状と材料特性の数値を決めれば次の基本式で計算できる。 ここで、G が材料特性の値、 d, Na, D が各寸法の値である。しかしこの式は、荷重はコイル中心一直線上にかかる、ピッチ角(螺旋の傾き)の影響は小さく無視できる、ねじりモーメントのみを考慮する、という3つの仮定を前提にしており、適用範囲に限界がある。実際の設計では、これらの仮定を超える範囲で使用することも必要となる。 一方のFEMでは、ばねの形状を要素と呼ばれる小領域で分割したモデルをコンピュータ上に作り、解を出す。適用可能なばね形状の制約が少なく、代数式形での計算式が確立していないような特殊な形状のばねに対しても計算可能である。実際の製品により近い計算が可能となる。ただし、形状を変えたらその度にモデルを変更する必要があり、最適な設計に収束させるのに作業の繰り返しが必要となる。古典的理論式と比較すると時間やコストがかかることが多い。設計においては、古典的理論式とFEMの長所と短所を勘定し、それぞれを使い分けるのが一般的である。 ===振動問題=== ばねの使用目的が振動の緩和であれば、ばねとは別に振動を減衰をさせる機械要素が必要となることがある。減衰とは物体の振動エネルギを熱エネルギなどに変換して消散させることで、減衰用の機械要素としてはオイルダンパなどが代表的である。ゴムばねのようにばね自体に減衰を備えているものあるが、一般的な金属コイルばねは減衰を少ししか起こさないため、別にダンパが必要となる。減衰によって、ばねで支えられた物体が自由振動で揺れ続けることを避けることができる。より強力に振動を抑えるために、ばね・ダンパに加えてアクチュエータを備えることもある。車両のアクティブサスペンションなどがその例である。 振動の問題を扱うときなどには、対象の機構をモデル化し、個々の要素から構成されるシステム(系)として考える。基本的な振動モデルは慣性要素、復元要素、減衰要素の3つから成る。復元要素の典型がばねである。ばねの荷重‐たわみ特性を求めることができれば、振動モデル上の一要素としてその特性を与えることができる。ただし、振動モデル上でモデル化されたばねは、実際のばねをあくまでも理想化したものであることに注意が必要である。振動モデル上のばねは質量を持たないものとして扱われるが、実際に組み込まれるばねは質量を持っている。実際のばねは、それ自体も一つの振動系である。そのためばね自体も振動し、その振動にも固有振動数が存在する。ばね自体の固有振動数と外からの振動数が一致すると共振が起こる。この共振は「サージング」と呼ばれ、特に高振動数で伸縮される圧縮コイルばねで問題となる。サージングが起こると、機構の動きにばねが追従できずシステムが不安定になったり、ばねの破損を引き起こしたりする。サージングが問題となるときは、ばね自体の固有振動数を上げるなどして対策をする。 ===強度=== 一般的な機械設計では壊れないように十分な強度を持たせることが大事であり、ばねもそれは同様である。設計においてばねが他の機械要素と比較して特殊な点は、変形によるたわみ量を必要とする点にある。他の機械要素では強度の評価は行うが、変形量の評価までは通常は必要としない。もう一つの設計上の特徴は、前述のとおり、ばねの使用範囲が弾性変形の範囲内となるようにすることである。これは、ばね設計の「絶対条件」ともいえる。材料の弾性限度を超えるようだと、ばねとしての機能が通常は果たせなくなる。ばねの強度面で特に重要となるのが「疲労」と「へたり」である。 疲労は、物体に荷重が変動しながら繰り返し加わり続けることで、物体にき裂が発生して破壊に至る現象である。このような繰り返し荷重のことを「動的荷重」や「動荷重」と呼ぶ。振動を受け続ける車両の懸架装置用ばねなどがそのような荷重を受ける例である。疲労強度には材質、形状、荷重形式、使用温度、雰囲気などの多くの要素が影響する。ばねは繰り返し荷重を受ける形で使用されることが多いことから、設計上も疲労強度の検討が重要となる。一般的には、荷重が繰り返し加わる回数が1000万回までであれば、ばねが疲労破壊しないように設計する。ばねの用途によっては、それよりも少ない回数に耐えれればよい場合やそれ以上の回数に耐えるようにする場合がある。 へたりは、降伏応力以下しか与えない荷重でも長期間かけ続けると、徐々に材料中で塑性変形が発生して、ばねに永久たわみが発生する現象である。へたりは荷重がほぼ一定でかかり続けるような場合にも発生する。このような荷重のことを「静的荷重」や「静荷重」とも呼ぶ。へたりは材料のクリープと呼ばれる現象が主原因である。例えば、自動車の懸架装置用ばねではへたりによる車高変化が問題となる。特に高温領域ではへたりが起きやすいため、高温領域で使用されるばねは発生応力を低く抑えたり、へたりに対する耐性が高い材料を採用するなどの配慮がされる。450℃以上の高温領域におけるへたり現象については解明が進んでいるが、400℃以下の領域におけるへたり現象の発生機構については2014年現在では未だに不明確である。 ===製造の基礎事項=== ばねの製造工程は種類によって様々である。以下では金属ばねに関する製造について大まかに説明する。 金属ばねの場合、棒状や板状の材料から所定のばね形状への成形は主に塑性加工によって行われる。材料に曲げや圧延を行い、望みの形状に加工する。金属ばねの塑性加工は大きく分けて、冷間成形と熱間成形に分かれる。前述のとおり、冷間成形とは材料が常温の状態でばねの形へ加工することで、比較的小型のばねに対して行う。熱間成形とは材料を高温に熱した状態でばねの形へ加工することで、比較的大型のばねに対して行う。 金属ばねの場合、成形後には熱処理が施される。鋼材の熱間成形ばね(重ね板ばね、竹の子ばね、コイルばねなど)であれば成形後直ちに急冷して焼入れ、そして焼戻しを行う。焼入れ焼戻しによって、硬く粘り強い材質にすることができる。鋼材冷間成形ばね(薄板ばね、コイルばね、皿ばねなど)の成形後に熱処理する場合は、焼入れ焼戻しあるいは残留応力を除去するために低温焼なましを行う。非鉄金属材料の場合は時効処理が施され、同じく強度を高める。 熱処理後には多くの場合、ショットピーニングを行う。ショットピーニングは無数の硬質粒子をばね表面に高速でぶつける処理で、ばね表面に圧縮の残留応力を与えて疲労強度を向上させる。ショットピーニングあるいは熱処理後には、設計上の最大荷重よりも大きな荷重を加える、「プレセッチング」あるいは「セッチング」と呼ばれる工程を多くの場合で行う。セッチングを行うことでへたりに対する耐性を向上させることができる。熱間成形コイルばねなどでは、焼戻しと同時に高温状態でセッチングを行う「ホットセッチング」を行う場合もある。ホットセッチングによって耐へたり性を大きくすることができる。最終工程では、必要に応じてメッキや塗装などで表面処理を行う。 プラスチックばねの場合、ばねに使用されるプラスチックはほとんど熱可塑性樹脂なので、射出成形で成形される。溶融された材料が金型に圧入されて、冷却・固化されて造られる。ゴムばねの一つである防振ゴムの場合は、原料の配合と練りを行い、ゴムを金具へ加硫接着させて製造する。 ===工業規格=== 国際規格であるISOの他、各国の工業規格(ASTM、BS、DIN、JIS、JASO、NF、SAEなど)で、ばねの設計や製造に関する規格が制定されている。内容は、ばねに関する用語、各種のばね製品、試験方法、ばね用材料、製図方法などに関するものである。例えば日本工業規格における皿ばねの規格「JIS B 2706:2013」では、材料、分類、設計計算式、寸法許容差、試験方法などが規定されている。ISOでは、2017年現在12カ国が参加する技術委員会「ISO/TC 227」が設置され、金属ばねを所掌範囲として規格開発が行われている。 ==用途例== ばねの特性や機能を活かして、ばねは幅広い分野にわたって使われている。身近な器具から大型機械・構造物まで、昔ながらの機器から現代的な機器まで、ばねの利用は広範囲に及んでいる。 ===日用品=== 身の回りの日用品の中にも様々なばねが存在する。文房具では、紙や書類を挟むためのクリップもばねの一種といえる。線を折り曲げて成形されたゼムクリップは、線細工ばねの一種である。紙や書類を綴じるためのステープラーには、板ばねとコイルばねが使われている。針を前に押し出す機構にはコイルばねが使われ、針を押し出す薄板は板ばねになっている。ノック機構を持つボールペンでは、ペン先の出し入れにコイルばねを利用している。ボールペンの中には、ペン先のボールを 1 mm 程度の小さなばねで支える機構を持つものもある。 衣服を干すための洗濯ばさみでもばねが使われている。洗濯ばさみには、ねじりコイルばねを利用するものと、輪っかの形のばねを利用するものがある。重さを量る秤にもばねを利用する種類がある。ばねばかりは引張コイルばねを利用するもので、計量の仕組みはフックの法則の見本といえる。 機械式時計では2種類の渦巻ばねが用いられている。1つは接触形渦巻ばねのぜんまいで、時計の針を進める動力を生み出している。もう1つは非接触形渦巻ばねのひげぜんまいと呼ばれる部品で、時計の調速脱進機で使われる。てんぷという部品に取り付けられたひげぜんまいに往復運動をさせることで、正しい時刻を刻むように針を動かしている。 おもちゃもばねの様々な性質を利用している。びっくり箱はフタを開けると人形などがばねの復元力で飛び出る古典的なおもちゃである。オルゴールは、渦巻ばねを動力として音を出している。エネルギーを弾性エネルギーとして蓄積して徐々に放出させる、ばねの使い方の例である。ミニカーのチョロQも渦巻ばねが走りの動力原である。スリンキーという変わった動きをするばね状のおもちゃもある。 ===車両=== 1台の自動車で使用されているばねは2,000から3,000個あるといわれ、自動車とばねの関連は強い。自動車エンジンの中で使用されている代表的なものは、カムシャフトのカム形状通りに吸排気バルブを動かすばねで、「弁ばね」や「バルブスプリング」と呼ばれる。約120℃の油中で1億回以上の伸縮をしても疲労破壊しないことが必要とされ、さらには小型化と軽量化が常に要求される。ばね全体の中でも、弁ばねは最も過酷な環境で使われるばねといえる。使用条件に応えるために、ピッチ形状や線断面形状には特別な工夫が施されている。材料については、引張強さが 2000 MPa を超える鋼線が弁ばね用材料に規格化されて使われており、「現在量産されているばねのなかでも最も高品質なばね」といわれる。 車輪を保持しつつ車体を支え、路面からの衝撃を和らげる自動車の懸架装置(サスペンション)にも様々なばねが使用されている。最も多く用いられている懸架用ばねは圧縮コイルばねで、軽量で小型なため乗用車の多くで使われている。重ね板ばねは、重量が重く乗り心地もあまりよくないが耐荷重が大きいため、貨物自動車、バス、オフロード車などで使用される。空気ばねは車高調整ができて乗り心地向上などの長所があるが、高価なため、バスや高級車で使われている。トーションバーはフォーミュラ1カーで主流な懸架用ばねとなっている。また車体のロール揺動を抑えるために、腕と一体となったスタビライザーとしてもトーションバーが軽自動車から大型トラックまでの広い範囲で利用されている。 鉄道車両の懸架装置は、枕ばねと軸ばねという2種類のばねから構成されている。枕ばねは車体と台車の間に存在するばねで、空気ばねが主に使われている。空気ばねを使用することで、柔らかいばね定数を得ながらも車体の高さを維持することができている。軸ばねは台車と輪軸の間に存在するばねで、コイルばねが主に使われている。 懸架装置の他には、電車のパンダグラフは、空気圧によるものもあるが、ばねによって舟体を架線に押し付けて電気を得ている。古い鉄道車両では、連結器の緩衝用に輪ばねが使われている。レールを枕木に固定するためにも、板ばねや線ばねが使われている。 その他車両用としては、建設車両のブルドーザの足回りには、キャタピラに張りを与えながらも異常な力が加わったときはそれを逃がすことができるように、ばねが組み込まれている。このばねは「リコイルスプリング」と呼ばれており、主にはコイルばねが使われている。リコイルスプリングの中には、人の背を超えるような巨大な圧縮コイルばねもある。 ===電気電子機器=== 電気機器類や電子機器類においても、ばねが活用されている。ばね自体が電気回路の一部となる場合もあり、そのような用途では導電性のよい銅合金ばねが使われる。電気を得るためのコンセントには銅製の薄板ばねが組み込まれており、この薄板ばねがプラグとの電気的接続およびプラグの保持を行っている。これによってプラグが容易には取れないようになっており、なおかつ適度な力でプラグを抜くこともできるようになっている。電気回路・電子回路中のリレーやスイッチでも、電気的な接点をばねが担っている。ノートパソコンや携帯電話といった電子機器類は高度な軽量化や小型化を求められるため、それらの中にあるリレー・スイッチ・コネクタなどで使われる薄板ばねにも同様に軽量化や小型化が求められ、結果として懸架装置用ばね並みの高強度を持つばねが使われることもある。 照明やリモコンなどのスイッチも、その動作にばねを利用している。ばねが無いとすると、スイッチをゆっくり押されると電気接点もゆっくり近づき接触するので、接点間でアークが長く発生しやすく、損傷に繋がる。ばねを利用することで、スイッチがゆっくり押されたとしても瞬間的に端子を接触させている。圧縮コイルばねやゴムを使う機構、接続する端子自体が板ばねとなっている機構などがある。 コンピュータの例では、操作を行うキーボードの中にばねが組み込まれている。古い型のキーボードでは金属製のコイルばねがそれぞのキーの下に組み込まれ、キーを押し戻すようになっている。ゴムの復元力でキーを押し戻す方式もあり、2008年現在ではこの方式のキーボードが主流となっている。記憶装置のハードディスクドライブでは、磁気ヘッドという部品が磁気ディスク上を移動して、ディスクに情報を読み書きする。このとき、サスペンションとよばれる薄板ばねが磁気ヘッドに一定荷重を与え、磁気ヘッドがディスク上数十nmの位置で維持されるのに寄与している。 ===構造物=== 建築・土木分野における構造物自体にもばねが使われている。建物を地震から守るために建物と基礎を切り離し、その間にばねやダンパーを取り付ける構造を免震構造と呼ぶ。免震構造では、コイルばねも使用されているが、代表的には金属板とゴムが層状に重なった積層ゴムが使われる。体操競技のゆかの床も、敷き詰められたばねで支えられている。これによって、ゆか競技における高難度な宙返り技が可能となっている。橋の支承でも積層ゴムなどが組み込まれており、これにより橋の上部構造の動きを逃している。 免震構造以外で建物を揺れから守る方法に制振構造がある。制振構造では、TMDと呼ばれる、重量物をばねとダンパーを介して建物上部に取り付ける機構を設ける。免震構造と異なり強風による揺れを低減できるため、特に超高層建築物で制振構造が必要とされる。一例としては、日本の東京スカイツリー頂部のゲイン塔には、ばね1本当たり1トンの巨大なコイルばねを使ったTMDが設置されている。 ===市場割合=== ISOの技術委員会「ISO/TC 227」は、ばねの産業別市場割合を2012年に発表した。それによると、1994年、2004年の実績、および2014年の推定は以下のとおりとなっている。 さらに主要国におけるばね産業の規模は、同じく ISO/TC 227 によると、2004年で次のようになっている。 ==名称と語源== 「ばね」という言葉は和語であり、その語源は次のように諸説ある。いずれの説にしても確実とされるものはなく、確かな語源は判明していない。1932年から1937年にかけて刊行された国語辞典『大言海』では「跳ねること」が訛って濁って「ばね」となったと記されている。この説は『日本国語大辞典』でも採用された。日本機械学会編『機械工学辞典』や日本ばね学会編『ばね 第4版』でも「跳ね」「跳ねる」から転じたといわれる説が紹介されている。各種の語源事典でも「跳ね(はね、ハネ)」を語源として紹介している。 1796年(寛政)に細川半蔵が著したとされる『機巧図彙』では、現在のばねに相当する部品を「はじきがね」「はじき金」と呼んでいた。16世紀に日本でも盛んに作られるようになった火縄銃でも「はじきがね」は使用されていた。1819年(文政)の鉄砲鍛冶師の国友一貫斎による『気砲記』では、ばねを「ハシキ金」と記している。また、砲術の井上流による伝書では「弾金」と記されていた。この「はじき金」「弾金」を「跳ねる」「とび跳ねる」に引っかけ、なおかつ訛り、「ばね」となったという説がある。この「はじきがね」と「跳ねる」から訛ったという説が有力といわれる。 他には、戦国時代に使用されていた鎖帷子や鎖襦袢が刀や槍を”はね”返した様子から、「はね」が「ばね」となったという説もある。 「ばね」の漢字表記には、発条、鎖鬚、撥条、弾機、発弾、発軌といったものがある。いずれの漢字表記もいつ誰が当てはめたのか明らかではない。これら漢字表記の中でも「発条」が現在でも使用される。実際の使用としては、ばねの製造会社などが「○○発条」といった名称をつけることが多い。「発条」の読みは、「ばね」の他に「はつじょう」や「ぜんまい」がある。 英語ではばねを ”spring” と記し、これを片仮名表記したスプリングという名称でもよく呼ぶ。”spring” には「ばね」の他に「春」や「泉」といった語義もある。これらの語義は、”spring” の中心義「(人・物が)ぴょんと跳ぶ」から 「若芽がぴょんと現れる時期」が「春」「水がぴょんと現れる場所」が「泉」「ぴょんと跳ぶことを可能にする物」が「ばね」という風に展開されたと分析される。”spring” という語の原義には「素早い動作」が挙げられ、日本語の「ばね」の原義にも「もとある場所から(急に)移動する」が挙げられる。その他言語では、ドイツ語の ”feder” は「ばね」の他に「羽毛」という語義を持ち、ポルトガル語の ”mola” は「ばね」の他に「刺激」という語義を持つ。これらの語義も、日本語の「ばね」と共通な意味を感じさせると評される。 ==歴史== ===原始から古代まで=== 冒頭でも述べたとおり、ばねは弾性を利用する機械要素や部品の総称である。人類が使う道具には「弾性を利用してばねとして利用する道具」と「弾性を利用せず剛体として利用する道具」という大まかな2種類の道具が考えられるが、18世紀の産業革命まで、これら2種類の道具によってのみで人類の歴史が積み重ねられてきたとも評される。人類によるばねの利用の歴史は太古に遡る。 まず、人類が弾性を利用した最初期の道具として挙げられるのは、原始的な罠である。約10万年前から約5万年前にかけて、しならせた木の枝を利用した動物捕獲のための罠が使われ始めたといわれる。さらに、弓もまた人類が弾性を利用して自己以外のエネルギーを利用した最初期の道具の一つとして挙げられる。弾力のある木の枝に弦を張った弓が発明され、弓矢が狩猟に用いられたと考えられている。弓の使用の始まりが何時何処なのかは判明していないが、旧石器時代後期のソリュートレ文化で石鏃が存在していた。弓矢が広く普及したのは中石器時代以降と考えられており、世界各地に残る岩壁画(英語版)からも、弓矢の使用の跡が確認できる。最古のもので紀元前約1万年の岩壁画が残ると推定されているタッシリ・ナジェールには、弓を持つ人たちを描いた岩壁画が残されている。弓矢はやがて戦争の武器としても使われるようになり、簡単な構造であった弓以上にばねの張力を利用する、より強力な兵器へと発展していった。 紀元前4世紀頃、古代中国では機械式弓の弩が出現した。古代ギリシャでも、発射物として矢も石も含めた広い意味でのカタパルト兵器が弓から発展していった。アレクサンドリアのヘロンが、弩と同じような機械式弓のガストラフェテスの構造について説明を書き残している。ヘロンの説明によると、弓の材料は「角と木の一種」が用いられていた。弓型ではなく、ねじりばねを利用した形式の射撃装置も、紀元前4世紀頃の古代ギリシャで考案されていた。このねじりばねは糸状の材料をより合わせて束ねたもので、これにレバーを差し込み、ねじることで復元力が発揮される機構であった。ねじりばねのための糸状の材料には、動物の腱や人間の髪の毛が利用された。 古代ギリシャで考案されたカタパルト機構にはねじりばね以外を利用する種類もあり、クテシビオスは青銅製の板ばねを利用するカタパルトを考案した。このクテシビオスの板ばねは、最古の板ばねともいわれる。さらにビザンチウムのフィロンが、クテシビオスのカタパルト機構の説明を書き残している。このフィロンによるカタパルトの説明中で、弾性を利用することを意識した一つの独立した部品としての「ばね」という概念は初めて語られたと考えられている。またさらにフィロンは、剣を曲げて試験するときは瞬時に元の形に戻る点に注意するよう呼び掛ける記述も残しており、金属が持つ弾性の重要性について明確に言及した最古の記録を残している。 ===中世から近世まで=== 機械式弓はその後も発展し、鋼製ばねを使用することで強力な威力を持つようになったクロスボウは、1139年の第2ラテラン公会議でキリスト教徒に対する使用禁止が定められるに至った。一方で、西暦400年頃から1400年頃にかけての中世ヨーロッパでは、ばねや機械に関する進歩はあまり知られていない。11世紀頃になると、鍛冶屋などの多くのギルドが誕生したが、ばね屋のギルドの記録は残っていない。しかしこれらの間もばねの利用は続いており、鍛冶、金細工、銀細工、鎧、錠前や時計などの製造者たちによって個別にばねが作られていたと推測される。 中世ギルドの中でも、時計産業は、ばねの利用と製作の発展に古くから重要な寄与してきた存在であった。本格的な機械式の時計は、1300年頃、ヨーロッパで最初に作られたといわれる。この時計は錘の落下を動力したもので、錘を落とすための高さが必要で、大型なものであった。しかし、渦巻ばねのぜんまいが発明され、これを時計の動力として用いることによって、携帯可能な大きさの時計が初めて実現した。ぜんまいの発明者は不明だが、14世紀中には存在していた。フィリッポ・ブルネレスキの伝記や肖像画に、ぜんまいを使った時計の記述が残っている。当時の携帯可能な時計の中でも、ドイツのニュルンベルクで作られたぜんまい式携帯時計は「ニュルンベルクの卵(英語版)」という名称でヨーロッパで人気を博した。ニュルンベルクの時計技師であったピーター・ヘンラインがぜんまいあるいはニュルンベルクの卵を発明したという説もあるが、現在では否定されている。 ルネサンス期には、イタリアのレオナルド・ダ・ヴィンチも、ばねを利用した機械や機械要素としてのばねのスケッチや説明を多くの手稿の中に書き残した。これらの内で実際に当時実現されたのものは少ないと考えられているが、これらの時代に先立つアイデアはダ・ヴィンチの才能の現れの一つとも評される。一例として、自動車の祖先ともいえる、弓形のばねを動力として自走する三輪車のスケッチをアトランティコ手稿の中に残している。この自走する三輪車は現代的な視点から推測すると実用に耐えないと考えられているが、一方でダ・ヴィンチの独創性としても評価される。 16世紀あるいは17世紀以降のヨーロッパでは、交通手段として本格的に馬車が活用されるようになる。この背景となった技術の一つとして、馬車の懸架装置用に鋼製のばねが使用されるようになった点がある。それまでの馬車の懸架装置は、座席を革製のひもで吊り下げるものであった。しかし、鋼製ばねによる懸架装置が利用されるようになったことで馬車の乗り心地は改善され、馬車は荷物運搬のみならず人の移動にも利用されるようになった。記録としては1669年、イギリスの海軍史家サミュエル・ピープスが、自分の馬車に鋼製のばねを実験的に使ったことを書き残している。この記述は、懸架装置に用いられた板ばねの記録の中で最古のものでもある。 1678年には、ばねにおいて非常に重要な物理法則である「フックの法則」がイギリスのロバート・フックから発表された。当時、ジョン・カトラーという人物が資金を提供して創設された「カトラー講義」の授業をフックは行っていた。この講義の内容のいくつかは出版されて、『復元力についての講義』(Lectures de Potentia Restitutiva, Or of Spring) という著作をフックは1678年に出版し、この中でフックの法則が論じられた。『復元力についての講義』出版の2年前に、フックは別の事柄に関する著書を出しており、この著書の終わり近くでフックの法則を意味するアナグラムを公表していた。そして、『復元力についての講義』の中で、フックはそのアナグラムの解答を発表した。フックは『復元力についての講義』の最初のページで以下のように述べている。 およそ2年前、ヘリオスコープに関する自著の最後に示した Vt tensio sic vis を意味する ceiiinosssttuu というアナグラムによって、私はこの理論を出版した。Vt tensio sic vis すなわち、あらゆるばねの力は、それによる伸びと同じ比例関係にある。つまり、1つの力がばねを1つの空間分だけ伸ばしたり、曲げたりするなら、2つの力は2つの空間分だけ曲げ、3つの力は3つの空間分だけ曲げ……、以下は同様に続いていく。 さて、この理論はとても簡潔であるから、試すのはとても簡単である。 ― Robert Hooke、Lectures de Potentia Restitutiva, Or of Spring (1678) アナグラムの解答である Vt tensio sic vis はラテン語の文となっており、科学技術史学者の中島秀人はこれを「伸びは力のごとく」と訳している。今日では、フックの法則はばねの最も基本的な動きを表し、さらには、ばねに限らずに弾性を持つ物体全てが関連する重要な法則となっている。 ===近代から現代まで=== 18世紀になるとイギリスを最初として産業革命が起き、ここから20世紀後半までにかけて工業化が世界に広がっていった。他の工業と同じく、産業革命の中でばねも大きな発展を遂げた。コイルばねを巻くための生産機械であるコイリングマシンも産業革命の中で生まれた。イギリスの発明家ジョセフ・ブラマーの錠前工場の中で、様々なピッチのコイルばねを造れる製作機が使われていた。このばね製作機は、ブラマーの工場で当時働いており、後にねじ切り旋盤の発明で知られるヘンリー・モーズリーの発明にも影響を与えたと考えられている。 コイルばねの製造は第一次世界大戦前まではコイルの芯となる棒に巻き付ける手法で行われていたが、大量生産の時代が来るとより早く作れるコイリングマシンが求められるようになった。アメリカでは様々なばね製作方法の特許が生まれた。1918年にはスリーパー&ハートレー社の創業者フランク・スリーパーがユニバーサルコイリングマシンの特許を出し、これが旋盤式コイリングマシンに取って代わっていった。工作機械全般が数値制御化(NC化)される中で、ばね製造機もNC化が進んだ。1969年にはアメリカのトーリン社がNC式のばね製造機を世界で初めて開発した。2012年現在、ばねの製造は機械化による大量生産品が主を占めている。一方で、大量生産品では対応できない特殊なばねに対しては、手作業による製造もまた行われている。 最初は蒸気機関を動力として生まれた自動車は、内燃機関のガソリンエンジンが開発されて動力として実用化されると、様々な国で自動車が実用に供されていった。自動車では非常に多くの種類と数のばねが使用されているため、「自動車の発達の歴史は、そのままばねの発達の歴史」ともいわれるほど自動車とばねの関係は深い。ドイツのゴットリープ・ダイムラーが開発した1883年の4サイクルガソリンエンジンでは、弁ばねが既に使用されていた。懸架装置には、板ばねを使用した方式が馬車の時代から引き続き用いられ、1900年初期頃まで板ばねが主として用いられていた。その後1930年頃から、コイルばねやトーションバーといった板ばね以外の種類のばねも鋼材料の進歩にともなって自動車懸架装置用に使われるようになっていった。2016年現在では、一般的な乗用車用にはコイルばねの使用が主流となり、板ばねはトラックやバスなどの大きな荷重を受ける車種で利用されている。 産業革命以前は経験的に試行錯誤で作られていたばねも、1830年頃以降から徐々に理論的な設計がなされるようになっていった。18世紀から20世紀にかけて、ばねの解析の下地となる弾性力学の基礎概念や基礎理論、代表的な金属ばねについての個々の理論が確立されていった。1949年にはアメリカのウェスティングハウス・エレクトリック社の技師 A. M. ワールが著書 Mechanical Springs(機械ばね)を、1960年にはドイツのジークフリート・グロスが著書 Berechnung und Gestaltung von Metallfedern(金属ばねの設計と計算)を出版し、各種ばねの設計の基礎がまとめられた。ワールは、コイルばねの応力解析における「ワールの応力修正係数」として今日でも名をとどめている。 20世紀後半にはコンピュータが誕生し、数値解析手法の一つである有限要素法 (FEM) が実用化されるに至った。FEMはばねの解析にも利用され、限られた範囲でしか使用できない理論式に縛られずに、様々な形状や荷重状況のばねを解析できるようになった。例えば、軽量化が要求される自動車懸架装置用ばねなどにおいて、古典的な理論式では解明できなかった点をFEMは明らかにしている。一方で、古典的な理論式は未だに有用であり、FEMを補完するものとして価値を持ち続けている。 ばねの材料は金属がほとんどだったが、金属材料では実現できない特性を得るために近年では非金属材料についても材料として利用されるようになってきた。プラスチック製のばねや空気ばねは、それぞれの長所を生かして実用に至っている。セラミックス製のばねは、1000℃以上の高温下でも使用可能なばねとして期待されている。鋼製ばねも、自動車の軽量化要求によって更なる高強度のばね用鋼材開発が進められている。今日のばねは、省エネルギー、軽量化、安全性、精密化、リサイクルなど要求が多様化し、高度な技術が求められるようになっている。 ==工業以外におけるばね== ===生体=== 生体の動きについて、「ばね」という言葉を使って比喩的に表すことがある。実際に筋肉と腱は弾性を持ち、特に、腱は骨格筋においてばねとして機能することで走りや跳躍といった動作の効率を高めている。例えば垂直跳びでは、跳躍前に勢い良く一旦しゃがみ込むことによって、そうしない場合よりも高く跳び上がることができる。これは反復動作(伸張‐短縮サイクル運動)と呼ばれる大きな力を出すための動作で、腱のばね効果が反復動作時に大きな力を生み出す一役を担っている。動物の中で最も高い跳躍力を持つカンガルーは長いアキレス腱をばねとして使い、連続した大きな跳躍を可能にしている。バイオメカニクスにおける骨格筋の最も基本的なモデルである「ヒルの筋収縮モデル」では、筋繊維をモデル化した「収縮要素」、腱組織をモデル化した「直列弾性要素」、その他結合組織をモデル化した「並列弾性要素」の3つで骨格筋をモデル化し、骨格筋が生み出す力を説明している。 鳥類や昆虫では、翼や翅の羽ばたき機構の中にばねの要素を取り入れて共振させることで、羽ばたきを補助しているという説がある。他には、鳥類のホシムクドリの叉骨は飛翔中にばねとして機能していることが確認されており、呼吸動作の補助を行っているのではないかと推測される。 ===比喩=== 「ばね」や「ばね仕掛け」といった言葉は日本語の比喩表現としても使われる。比喩表現としては、「スプリング」という語は通常は用いられない。なお、この傾向は、「春」と「スプリング」についても同様である。「ばね」の原義として、もとの場所から急に移動する、あるいは変わる、といった意があるといわれる。前述の身体における動きを表す場合の他に、「飛躍や発展のきっかけ」「行動を起こすきっかけ」を「ばね」という語で例えることがある。 勇気とか堅忍とかいうことがしばしば云われるが、勇気や堅忍を可能にする力は何によって湧くのだろう。生活の意味に対する明るい知と愛とを抜いて、人は真に勇気に満ちることも堅忍であることも不可能である。勇気とか堅忍とかいうものは、結果ではなくて一つの行動の内面的な弾機(ばね)である。 ― 宮本百合子、「世代の価値―世界と日本の文化史の知識」 ※括弧書き振り仮名は引用者による =コレステロール= コレステロール (cholesterol) とは、ステロイドに分類され、その中でもステロールと呼ばれるサブグループに属する有機化合物の一種である。1784年に胆石からコレステロールが初めて単離された。室温で単離された場合は白色ないしは微黄色の固体である。生体内ではスクアレンからラノステロールを経て生合成される。 いわゆる「善玉/悪玉コレステロール」と呼ばれる物は、コレステロールが血管中を輸送される際のコレステロールとリポタンパク質が作る複合体を示し、コレステロール分子自体を指すものではない。善玉と悪玉の違いは複合体を作るリポタンパク質の違いであり、これにより血管内での振る舞いが変わることに由来する。これらのコレステロールを原料とする複合体分子が血液の状態を計る血液検査の指標となっている。 コレステロール分子自体は、動物細胞にとっては生体膜の構成物質であったり、さまざまな生命現象に関わる重要な化合物である。よって生体において広く分布しており、主要な生体分子といえる。精製物は、化粧品・医薬品・液晶の原材料など工業原料としても利用される。 ==名称== 名称は1784年に研究者が胆石からコレステロールの固体を初めて同定した際、ギリシア語の chole‐(胆汁)と stereos(固体)からコレステリン (cholesterin) と命名されていたが、その後化学構造がアルコール体であるため、化学命名接尾辞 ”‐ol” が付けられて現在の名称となっている。 ==動植物への分布== ヒトのあらゆる組織の細胞膜に見出される脂質である。ヒトを始めとした哺乳類においては、コレステロールの大部分は食事に由来するのではなく、体内で合成され、血漿に含まれるリポタンパク質と呼ばれる粒子を媒体として輸送される。コレステロールはそれを生産する臓器や細胞膜や小胞体のような膜組織が密集している細胞で構成される臓器、たとえば肝臓、脊髄、脳に高濃度に分布している。成人の体内コレステロール量である100‐150 gのうち約1/4が脳に集中し、約1/3が脳を含めた神経系に集中している。 動脈硬化叢に形成されるアテローム(血管の内側に詰まるカスのようなもの)にも高濃度で存在する。また、コレステロールが胆汁中で結晶化すると胆石の原因となる。植物の細胞膜においてはわずかな量のコレステロールが認められるに過ぎず、他の種類のステロイド(フィトステロールもしくは植物ステロールと呼ばれる)が同様の役目を担う。 ==資源== コレステロールは工業製品原料として化粧品・医薬品・液晶などに利用される。これらは全て天然物から精製し原料に供される。コレステロールを多く含む高等動物の組織、あるいはイカの内臓からも抽出され、工業原料として利用される。 ===精製=== コレステロールを多く含む天然物から抽出すると、ヒドロキシ基(OH基)の部分に脂肪酸が結合したエステル体であるアシルコレステロール、さらに他のステロイド(コレスタノールや7‐デヒドロコレステロール)のアシル体などが含まれる粗精製物が得られる。この混合物から純粋なコレステロールを取り出すには、脂肪酸を鹸化して取り除いたあと、鹸化されない分画を抽出し、アセトンあるいはアルコールを用いて再結晶する。二重結合を持たないコレスタノールや7‐デヒドロコレステロールなどを取り除くために、臭素付加してコレステロールの二臭素体とすることがある。二臭素体は難溶性を示すので再結晶などで容易に精製することが可能であり、そのあと二臭化物を脱臭素化してコレステロールに戻すことにより、純粋なコレステロールを得る。 ==化学== ===物性=== ===定性試験=== 分析化学において、コレステロールを同定する定性反応が幾つか知られている。これらのうちいくつかはコレステロールと同じ部分構造のステロイドに対しても反応する。日本薬局方ではサルコフスキー反応とリーバーマン‐ブルヒアルト反応とでコレステロールを同定するよう指示している。 ===サルコフスキー反応 (Salkowski reaction)=== クロロホルム溶液 (0.01 g/1 mL) に濃硫酸 (1 mL) を加えて室温で振り混ぜると、クロロホルム層は赤色を呈し、硫酸層は緑色の蛍光を発する。 ===リーバーマン・ブルヒアルト反応 (Liebermann‐Burchard reaction)=== クロロホルム溶液 (5 mg/2 mL) に無水酢酸 (1 mL)、硫酸1滴を室温で振り混ぜると、クロロホルム層は赤色を呈し、黄色を経て緑色に変わる。 ===チュガーエフ反応 (Chugaev reaction)=== 氷酢酸溶液に塩化亜鉛と塩化アセチルを加えて煮沸する。液は紅色を呈し紫色に変じる。 ===トーテリィ・ヤッフェ反応 (Tortelli‐Jaffe reaction)=== 酢酸溶液に臭素のクロロホルム溶液を重層すると8位に二重結合を持つステロールは境界面に緑色のリングを形成する。 ===ジギトニン沈殿反応=== ジギトニン (Digitonin) のアルコール溶液を加えると、3‐β‐ヒドロキシステロールは沈殿を生じる。 ===コレステリック液晶=== コレステロール脂質を含むいくつかのコレステロール誘導体はある種の液晶として知られており、この分子はコレステリック液晶と呼ばれる配向状態をとる。コレステリック液晶はネマティック液晶の一種であり、ネマティック液晶のダイレクタ(分子集合体の向き)が空間的に歳差運動のようにねじれながら回転していき、らせん状に配向する性質を持つ。これはコレステリック液晶分子がキラリティを有することに起因している(下図参照)。コレステリック液晶はキラルネマティック相とも呼ばれる。コレステリック相のらせんピッチは可視光線の波長と同程度であることが多く、このとき選択反射という現象が観察されて色が見える。刺身から緑色の反射光が見えることがあるのはこのためである。らせんピッチは微小な温度変化に応答するため、温度によって色彩が変化する。それゆえ、コレステロール誘導体は液晶温度計や温度応答性インキとして利用される。カナブンや玉虫のようなメタリックな色彩を示す甲虫の一部の構造色はこれによると考えられている。 コレステリック液晶は表示の書き換え時にのみ電圧印加が必要となるだけで、透過状態でも反射状態でも電気を消費しない。低い電圧で横向きらせん姿勢をとるため透過状態となり、通常は背面の黒を表示する。より高い電圧を加えれば縦向きらせん姿勢をとるため反射状態となる。 コレステリック液晶は色彩を反射するのでバックライトが不要であるという長所の一方、単色では1層の表示構造で済むが、擬似フルカラーでは少なくともRGBのような3層分を積層する必要があり、透過時の光損失によって表示が暗くなるという短所がある。2005年には日本の家電メーカーがコレステリック液晶の試作品を製作した。 ==生化学== コレステロールは生体内の代謝過程において主要な役割を果たしている。まず多くの動物でステロイド合成の出発物質となっている。また動物細胞においては、脂質二重層構造を持つ生体膜(細胞膜)の重要な構成物質である。人間では肝臓および皮膚で生合成される。肝臓で合成されたコレステロールは脂肪酸エステル体に変換され血液中のリポタンパク質により全身に輸送される。 ===悪玉コレステロールと善玉コレステロール=== コレステロールが生命維持に必須な役割を果たす物質であるという事実は、科学者以外にはあまり知られていない。むしろ、一般社会には健康を蝕む物質として認知されていることが多い。すなわち、様々なリポタンパク質コレステロール複合体の血液中でのあり方が、脂質異常症など循環器疾患の一因になるとの認識が強い。たとえば、医者が患者に対してコレステロールの健康上の懸念がある場合には、悪玉コレステロール(LDLコレステロール:low density lipoprotein cholesterol、いわゆるbad cholesterol)の危険性を訴える。一方、悪玉コレステロールの対極には善玉コレステロール(HDLコレステロール:high density lipoprotein cholesterol、いわゆるgood cholesterol)が存在する。この両者の違いはコレステロールを体内輸送する際における、コレステロールと複合体を作るリポタンパク質の種類によるものであり、コレステロール分子自体の違いではない。 詳細は、体内輸送およびリポタンパク質、変性LDLの項を参照のこと。 ===構造と生合成=== コレステロールの存在自体は知られていたが、20世紀に入るまでその構造は長い間不明であった。1927年にコレステロールのステロイド骨格が4つの環構造6, 6, 6, 5員環が繋がっているものであると決定したのはオットー・ディールスである。彼はセレンを使った脱水素反応を利用した炭化水素の構造に関する系統的な研究を行っている。すなわち構造が未知の炭化水素を脱水素して二重結合を生成したり骨格を切断したりして既知の炭化水素に導き、元の炭化水素の構造を推定していくのである。ステロイド骨格もその一環でディールスの炭化水素と呼ばれる化学式 C16H18 の炭化水素から現在の立体配置を除くステロイド骨格の構造を決定した。この方法では構造変換の過程で立体構造に関する手掛かりが失われるため、コレステロールの立体構造は解明されないままであった。 1930年代はステロイドホルモンの単離と構造決定が相次いで研究された。この段階ではディールスの研究では立体構造が不明なため、これらのステロイドホルモンの構造はコレステロールを化学的に構造変換してステロイドホルモンへ変換しそれによって立体構造を決定している。 立体構造を最終的に決定したのはE・J・コーリーである。彼の天然物合成の研究方法に基づき、ほとんど立体構造が分からない状態から天然物の生成経路ならびに中間体の立体配座と反応機構からステロイド骨格の生成反応が立体特異的に進行することを見出した。 コーリーの見つけ出したステロイド骨格(ラノステロール)の構築反応は、生体内で生じる生化学反応のなかでも非常にエレガントなものの一つである。メバロン酸経路やゲラニルリン酸経路を経て生合成されるスクアレンの2,3‐位が酵素的にエポキシ化されると、逐次閉環反応が進行するのではなく、一気にラノステロールが生成する。酵素によりエポキシ酸素がプロトネーションされるのをきっかけに、4つの二重結合のπ電子がドミノ倒しのように倒れこんでσ結合となりステロイドのA, B, C, D環が一度に形成される。それだけでなく、ステロイドの20位炭素上に発生したカルボカチオンを埋めるように、2つの水素(ヒドリド)とメチル基がそれぞれステロイド環平面を横切ることなく1つずつ隣りの炭素に転位することで、熱力学的安定配座となりラノステロールが生成する。 他の生物種では同じスクアレンエポキシダーゼによりスクアレン 2,3‐エポキシドからテルペノイドであるβ‐アミリンを生成する生合成経路も知られているので、このステロイド構築反応はスクアレンエポキシダーゼ固有の反応というわけではない。 ラノステロールからさらに先はリダクターゼとP450酵素によるメチル基の酸化が繰り返されて適用される。その結果、3つのメチル基が二酸化炭素として切断される酸化的脱メチル化によって(ラノステロールから17段階で)コレステロールが生成する。 ===生体膜とコレステロール=== リン脂質から人工的に製造した脂質2分子膜は電気容量、屈折率、水との界面張力が実際の生体膜とよく類似するが、生体膜と異なり相転移温度Tcを持つ。すなわちTc以上では流動性を示すが、Tc以下では硬くなり流動性を失う。 これに30―50 mol%のコレステロールを加えると流動性はさらに増し、しかもTcが消滅することが知られている。脂質2分子膜上では次のように埋め込まれる。すなわち、親水性を示すコレステロールのヒドロキシ基は外向きに配置されリン脂質の燐酸基部分と水素結合する。そして嵩高いステロイド骨格と炭化水素側鎖は内側のリン脂質の脂肪酸鎖の間に埋め込まれる。 コレステロールは高等動物の細胞膜の必須成分であるが、植物細胞の細胞膜には別のステロールであるフィトステロール類(シトステロール、スチグマステロール、フコステロール、スピナステロール、ブラシカステロールなど)も含まれ、真菌では別のステロールであるエルゴステロールも含まれる。一方細菌の細胞膜にはコレステロールは含まれない。 ==生理学== コレステロールは生体の細胞膜の必須成分であり、また動脈硬化症の危険因子として、ヒトにおけるコレステロールの生理学は注目を集めている。 まず、コレステロールが含有することでリン脂質より構成される脂質二重膜は、生体膜特有のしなやかさを発現する。そして、コレステロールから代謝産生されるステロイドホルモン類は、細胞核内の受容体タンパク質と結合して転写因子となり遺伝子の発現を制御する。 複雑な体制を持つ多細胞動物の体内では、コレステロールは胆汁酸、リポタンパク質など輸送分子と共に複合体を形成して移送される。そして、どの輸送分子と組み合わされているかによって、どの組織からどの組織へ移送されるのかが制御されている。 コレステロールに関する研究ではコンラート・ブロッホ、フェオドル・リュネンがコレステロールと脂肪酸代謝の調節機序を解明した功績で1964年のノーベル生理学・医学賞を受賞している。 ===機能=== コレステロールは細胞膜の構築や維持に必要で、広範囲の温度帯で膜の流動性(粘性度)を安定にする働きがある。いくつかの研究によるとコレステロールは抗酸化剤としての作用を持っている。 コレステロールは(脂肪の消化を助ける)胆汁酸の産生も助けている。胆汁酸は、肝臓にてチトクロムP450の作用でコレステロールを酸化することにより産生される。胆汁酸は、タウリン、アミノ酸であるグリシンと結び付いて、あるいは硫酸塩、グルクロン酸と抱合して、脱水により塩にまで濃縮されて胆嚢に蓄えられる。人においては、コレステロール7‐α‐水酸化酵素により、ステロイド環の7の位置にヒドロキシ基(水酸基)が付加され 7α‐ヒドロキシコレステロールが合成される反応が律速反応となっている。胆汁酸の生合成は、コレステロールの代謝によるものが一般的である。人体では1日あたり 800 mg のコレステロールを産生し、その半分は胆汁酸の新たな生成に使用されている。毎日、合計で20‐30 gの胆汁酸が腸内に分泌されている。分泌される胆汁酸の90%は回腸で能動輸送され再吸収され再利用され、腸管から肝臓や胆嚢に抱合胆汁酸が移動することを、腸肝循環と呼んでいる。 ビタミンA、D、EおよびKなど脂溶性ビタミンの代謝にも重要な役割を果たしている。ビタミンDは、コレステロールが7‐デヒドロコレステロールに変化し、これに紫外線が当たることによって生成される。 そしてコレステロールはビタミン以外にも色々なステロイドホルモン(コルチゾール、アルドステロンなど副腎皮質ホルモンやプロゲステロン、エストロゲン、テストステロンや誘導体など性ホルモン)の合成の主要な前駆体である。 最近、コレステロールが細胞シグナル伝達に関与していることが発見された。それによると、原形質膜で脂質輸送の役割を果たし、原形質膜の水素イオンやナトリウムイオンの透過性を下げる働きがあることが示唆されている。 脳、神経系にコレステロール全量の1/3も多く含まれているのは、神経細胞から伸びた神経伝達を司っている軸索を覆っているミエリン鞘にコレステロールが大量に含まれているためである。コレステロールは、ミエリン鞘の絶縁性を保持する役割を果たしている。絶縁されたミエリン鞘の切れ目であるランヴィエの絞輪ごとでの跳躍伝導により高速の神経信号伝達に寄与している。実際、哺乳類である豚や牛などでは脳総重量の2‐3%がコレステロールで占められている。 脳の灰白質は、中枢神経系の神経組織のうち、神経細胞の細胞体が存在している部位のことである。これに対し、神経細胞体がなく、神経線維ばかりの部位を白質と呼ぶ。白質は明るく光るような白色をしているのに対し、灰白質は、白質よりも色が濃く、灰色がかって見えることによる。これは、有髄神経線維のミエリン鞘の主成分として大量に存在しているコレステロールやミエリンが白い色をしているためで、白質には、灰白質に比べて、有髄神経線維が多いからと考えられている。 カベオラ依存エンドサイトーシスやクラスリン依存エンドサイトーシスにおいて、カベオラやクラスリン被覆ピットを構成したり陥入する作用にコレステロールは必須である。これらのエンドサイトーシスにおけるコレステロールの役割は、コレステロール欠損原形質膜とメチルベータシクロデキストリン (MβCD) とを使って研究されている。 ===生合成と吸収=== コレステロールは哺乳類の細胞膜において正常な細胞機能を発現するために必要であり、コレステロールはいくつかの細胞や組織でアセチルCoAを出発原料として細胞内の小胞体で合成されるか、食事から取り込まれ、コレステロールのアシルエステルはLDLにより血流を介して輸送される。そして、受容体関与エンドサイトーシスによりクラスリン被覆ピットから細胞内に取り込まれ、リソゾームで加水分解される。 まず、コレステロールの供給については胆汁酸と複合体を形成して腸管より吸収される外因性コレステロールと、主に肝臓において、アセチルCoAからメバロン酸、スクアレンを経由して生合成される内因性コレステロールとに大別される。その生合成量は外因性コレステロール量の変動を吸収するように調節されている。 外因性コレステロールは1, 200―1, 300 mgが吸収されるが、食事由来のものは200―300 mgほどであり、他は肝臓から胆汁に分泌されたものの再吸収である。したがって、体内で循環しているコレステロールの50%ほどが血流中に存在していることになる。 ヒトで体内の全コレステロール量はおよそ100‐150 gほどである。殆どが細胞膜に取り込まれたものであるが一部が代謝循環している。すなわち内因性コレステロールの生産量は低コレステロール食摂取時にはおよそ800 mg/日程度 であることがしられており、体内を循環するコレステロールのおよそ20%―25%が肝臓で合成される。 皮膚においても肝臓に次ぐ量のコレステロールが産生されており、皮膚で 7‐デヒドロコレステロールからビタミンD3 が光化学的に生成される。7‐デヒドロコレステロールは、ヒトを含むほとんどの脊椎動物の皮膚中で大量に生成される。ビタミンD3は、肝臓でC25の位置でヒドロキシ化の代謝を受け25‐ヒドロキシコレカルシフェロール(別名 25(OH)D3、カルシジオール)へと変化し肝細胞に貯えられ、必要なときにα‐グロブリンと結合しリンパ液中に放出される。 ヒトを含む哺乳類においては、皮膚以外の組織で必要とされるコレステロールあるいはステロイドホルモンなどコレステロール誘導体は生合成されるのではなく、肝臓から血漿中を輸送されるコレステロールエステルを含むリン脂質複合体を利用するデノボ合成により産生される。また体内における貯蔵について述べると、コレステロールを貯蔵するための特別な形態は存在しない。たとえばブドウ糖はグリコーゲンへ、アセチルCoAはトリグリセリドへと転換されることで蓄積される。しかし、コレステロールはそうではない。このため輸送途中のリポタンパク質(LDLコレステロール)などは体内におけるコレステロールのリザーバーとしての役割もある。末梢組織にリン脂質とともに運ばれたコレステロールエステルはリソゾームで加水分解を受けてコレステロールに戻り、さらに利用される。 このような動態を持つためコレステロールの食事からの吸収や肝臓での生合成は必須である一方、コレステロールの過剰による脂質異常症も問題となる場合も多い。 脂質異常症は、食事による外因性コレステロールの増大だけでなく、末梢組織での LDLコレステロール受容体機能の抑制も大きな因子である。家族性高コレステロール血症では遺伝的に末梢組織のLDL受容体が変成することで、結果として末梢でのコレステロール取り込みが減り、脂質異常症が発生する。また、先天的要因だけでなく後天的に脂質代謝異常も発現していると考えられ、そういった糖・脂質の複合的な代謝異常という意味でメタボリックシンドロームが注目を集めている。なお、植物油に含まれるフィトステロールがコレステロールの吸収を減少させる作用を有する(詳細はフィトステロール#コレステロールの低減を参照)。フィトステロールは小腸の粘膜細胞において一旦は吸収されるが、能動輸送によってフィトステロールが細胞外に排泄される。この時、コレステロールも一緒に排泄されるので摂取したコレステロールの吸収が減少することになる。 ===体内輸送=== 食事のうちトリグリセリド(中性脂肪の一種)の摂取量は50―125 g/日 であるのに対して、コレステロールは200―300 mg/日程度である。 高等動物種の場合、コレステロール単独で輸送されることは無く、脂質の成分比率は様々であるがトリグリセライドなど他の脂質と共にリン脂質のミセルを形成し輸送される。脂質を輸送するリン脂質にはアポリポタンパク質が含まれ、リン脂質とアポリポタンパク質を総称してリポタンパク質と呼ばれる。リポタンパク質にはいくつかの種類が存在し、比重、ミセルの大きさやアポリポタンパク質の種類で分類される。 つまり、水にわずかしかに溶解しないコレステロールを水を主成分とする血流に乗せるために、リポタンパク質がミセルを形成し、スーツケースのようにコレステロール(エステル体)や中性脂肪を格納することで血流を介して輸送するのである。 リポタンパク質の表面のアポリポタンパク質が細胞のコレステロールを運び去るのか、受け取るのかを決定する。すなわちヒトにおけるコレステロールの輸送はそれぞれの場面において固有の役割を担うリポタンパク質などキャリヤーの存在が重要である。 コレステロールの輸送は肝臓を中心として胆汁酸とリポタンパク質より形成されるキロミクロンとにより輸送される、 肝臓 → 胆汁 → 小腸 → 肝臓を経る腸肝循環と、LDLやHDLが介する 肝臓 → 血漿 → 末梢 → 血漿 → 肝臓の血漿循環とに大別される。言い換えると、肝臓から末梢へのコレステロール輸送はLDLが担当し、組織(おもに遅筋)から肝臓への輸送はHDLが担当する。その役割の違いからLDLコレステロール複合体(LDLコレステロール)は「悪玉コレステロール」、HDLコレステロール複合体(HDLコレステロール)は「善玉コレステロール」と呼ばれることがある。 キロミクロン (chylomicron) と呼ばれるリポタンパク質脂質複合体はリポタンパク質の総量の大部分を占め、主に小腸粘膜と肝臓の間で脂肪を輸送する。キロミクロンは主に中性脂肪とコレステロールを肝臓に輸送し、肝臓で中性脂肪と一部のコレステロールを放出する。そしてキロミクロン粒子は LDL粒子へと変換されて肝臓から他の組織へと中性脂肪とコレステロールを輸送する。 もう一つのリポタンパク質脂質複合体であるHDL粒子はコレステロールを肝臓に逆輸送し、肝臓から分泌させる。この作用は大変興味深い作用で、巨大HDL粒子の数が多いほど健康に寄与するところが大きい。 このようにリポタンパク質の種類により役割が分化する理由は、細胞への取り込みがリポタンパク質の種類を細胞膜表面にあるリポタンパク質受容体が識別してエンドサイトーシスが生じて取り込みが起こるためである。取り込まれた小胞はリソゾーム代謝を受け、細胞に利用される。 ===分泌・代謝=== ヒトにおけるコレステロールの排泄は、肝臓でコレステロールが水酸化されて胆汁酸を生成し、胆嚢からビリルビンとともに胆汁として分泌される。その際にコレステロールの一部が胆汁酸と複合体を形成して十二指腸に排泄される。胆汁の中のコレステロールは胆汁酸により分散安定化されているが、胆嚢で胆汁が濃縮される際に何らかの原因で遊離しコレステロールの結晶が成長すると、胆嚢あるいは胆管においてコレステロール胆石症の原因となる場合もある。胆石の他の原因であるレシチンやビリルビンによる結石は稀である。 胆汁は胆管を経由して、十二指腸で腸管内に分泌排泄される。しかし大部分は小腸において再吸収されることになる。食物繊維を多く含む食事は食物繊維が胆汁酸を吸着するのでコレステロールや他の脂質も巻き込んで排泄される。それゆえ、脂質吸収を抑制するのに役立つと考えられている。また、皮膚あるいは髪の毛など上皮細胞が脱落するとその細胞膜のコレステロールも失われることになる。 ===調節=== コレステロールの生合成量は体内コレステロールレベルが直接が調節している。しかしコレステロール恒常性について判明していることはごく一部である。まず食事から吸収する量が増大すると生合成は抑制され、吸収量が減ると反対に作用する。主要な調節機構は次の通りである。 細胞内のコレステロール量は小胞体上のSREBPタンパク質 (sterol regulatory element binding protein 1 and 2) により検出される。コレステロールが存在するとSREBPは他の2つのタンパク質、SCAP (SREBP‐cleavage activating protein) と Insig1 とが結合する。コレステロールレベルが減少すると、Insig‐1が遊離することでSREBP‐SCAP複合体はゴルジ体へと移動する。SREBPはS1P (site 1 protease) とS2P (site 2 protease) とに分割され、コレステロールレベルが低い状態で2つの酵素はSCAPにより活性化する。分割されたSREBPは核へ移動しSRE (sterol regulatory element) と結合して転写因子として作用し、幾つかの遺伝子を発現させる。これらの遺伝子の中にLDL受容体とHMG‐CoAレダクターゼが含まれる。そして血流中を循環するLDLを取り込むように働くと共にHMG‐CoAレダクターゼはコレステロールの生合成を増大させる。この機構のほとんどは1970年代にマイケル・ブラウンとジョーゼフ・ゴールドスタインによって解明され、彼らは1985年のノーベル生理学・医学賞を受賞している。 ===昆虫におけるコレステロール代謝=== 昆虫では体内で必要とするコレステロール合成ができないため、肉食性の昆虫では食物からすべてのコレステロールを得ている。草食性の昆虫では食物となる植物細胞の構成要素となるステロールの主体がシトステロールなどであり、コレステロールの量がわずかであるため必要量を満たせない。そのためシトステロールを体内でコレステロールに変換していることが知られている。 ===植物におけるコレステロール=== (教科書を含む)多くの書籍では植物にはコレステロールが含まれないという誤った記述が見られる。この誤解の多くは、米国の食品医薬品局が食品中のコレステロール含有量が一回の食事当り2 mg以下の場合にラベル表示をしなくても良いとしていることに起因する。植物性食品にも多少のコレステロールは含まれる(ベールマン (Behrman) とゴパラン (Gopalan) によると動物性食品では5 g/kgなのに対し、植物性食品では総脂質のうち50 mg/kg がコレステロールであると指摘している)。 ==健康とコレステロール== 食物由来のコレステロールのほとんどは動物性食品に由来する。卵黄に多量に含まれる。そのため卵の摂取量はしばしば研究の対象となる。植物のフィトステロールは血漿中のコレステロール量を下げるとされる。 コレステロールは動物の生理過程において不可欠の物質であるが、血液中をリポタンパク質によって循環する量が過剰となることで高脂血症を引き起こし、血管障害を中心とする生活習慣病の因子となることが知られてきた。よく血液検査でコレステロールが調べられるが、TCまたはT‐CHOの略号で血液中の総コレステロール、LDLCまたはLDL‐Cでの略号でいわゆる「悪玉コレステロール」、HDLCまたはHDL‐Cの略号でいわゆる「善玉コレステロール」を表すことが多い。なお、国際的な観点ではLDL‐C は日本でのみ用いられているスクリーニング指標で測定精度には疑義が出されている。 ===コレステロール値の増減に関わる因子=== 人間の体内にあるコレステロールのうち、およそ7割前後は肝臓で合成されている。コレステロールを多く含む食事の摂取が増えても、生体には恒常性を保つ調節機構があり、健康な人間であれば体内におけるコレステロール量は一定に保たれている。しかし、生合成の出発点となるスクアレンはアセチルCoAから合成されるため、食事からコレステロールを取らなかったとしても脂肪や炭水化物を摂取すれば体内でコレステロールに転換されることになる。 従来はリノール酸はコレステロールを下げる働きがあるとされていたが長期的にはTC(総コレステロール)値に変化がないとの結果が出ている。 臨床検査分野における標準となるLDL測定法はアメリカ疾病予防管理センターのベータ測定法であるが、コスト上の問題で、一般には血中LDL値はフリードワルドの公式で算出することがある。その式は LDL値 = 総コレステロール値 − 総HDL値 − 中性脂肪値の20%である。この計算式の基となる理論は総コレステロール値がHDL、LDLおよびVLDLの合計で定義されることを利用する。この理論に基づき、実際に測定する総コレステロールから測定するHDL値と中性脂肪値から導き出されるVLDL値を差し引くのである。そしてVLDL値はおよそ中性脂肪値の5分の1であることが経験的に知られている。 このような背景から特に次の点に留意すべきである。コレステロール値とことなり中性脂肪値は直近の食物の摂取や内容により大きく変動する。そのため、血液検査前は最低8―12時間、完全に影響を排除するには 12―16時間の絶食が必要である。 臨床事例増加により分かったことは、直接LDLとHDLの濃度とサイズとを測定する方法に比べて、総コレステロールとHDLコレステロールとを測定し式より導かれる値でLDLの決定する方法は実際に直接LDLを測定する方法に比べLDL値が大きな値を推定することが示されている。 ===脂質異常症=== ===動脈硬化症とコレステロール=== 血液中のコレステロール値 (TC) は動脈硬化症と単純に結び付けて語られることが多かったが、現在はTC値が高いことは動脈硬化の危険因子(リスクファクター)の1つということになってきている。 ===冠動脈疾患 (CHD) とコレステロール=== コレステロールは、冠動脈疾患(狭心症・心筋梗塞等)の危険因子である。アメリカ心臓学会では心疾患リスクと血中総コレステロール値に関するガイドラインを提唱している。 しかし、今日での臨床検査ではLDL(悪玉)とHDL(善玉)のコレステロール値を分けて測定する方法が通常であり、アメリカ心臓学会が提唱するような総コレステロール値だけを見る単純化された方法はいくぶん時代遅れである。後述のHPS試験計画などによれば、リポタンパク質を区別して測定し、望ましくはLDLレベルを100 mg/dL (2.6 mmol/L) 以下にすべきであり、高リスク患者ではさらに厳しく< 70 mg/dLにすべきであるとされている。 そして総コレステロールにおけるHDL量は他のコレステロール量と比べて5対1以下にすることで健康を維持するのに適当な値である。特に子供は成人とはHDLレベルが異なることに注意すべきであり、子供の平均的なHDLレベルは 35 mg/dLである。 米国で最近行われたヒトでの冠動脈疾患とそのリスク評価に関する、よく計画された無作為抽出評価であるHeart Protection Study (HPS) 試験計画やPROVE‐IT試験計画、およびTNT試験計画により研究されてきた。 これらの試験計画はLDL低減によるHDL向上の効果や、LDL低減療法が血管内超音波カテーテルによるアテローム治療と同等以上かどうかを調査するものである。この試験結果では少数の症例でLDL低減したことが冠動脈疾患の進行を抑止したということが確認された。しかしリポタンパク質の構成比の異常が治療により成功しても、アテローム動脈硬化の治療の必要性が無くなった症例はごくわずかであった。 また脂質異常症治療薬のHMG‐CoAリダクターゼ阻害剤(スタチン)の複数の臨床試験結果からも動脈硬化に対するリポタンパク質の影響が明らかになっている。まず、スタチンを投与するとリポタンパク質の分布を不健康型から循環器疾患の発生が低下するようなより健康な型へと変化させる。そして健常人であってもHDLを増やすように作用する。しかし心疾患が無かったり、心臓発作病歴の無いなどの無症状患者において、スタチンを投与してコレステロール値を低下させても、その後の経過において心疾患による死亡率を低減させる作用があるかどうかについて調査すると、その結果はスタチン治療しない場合と統計上の有意さは無いことが分かっている。 したがって現状の知見においては、動脈硬化を発症している患者については脂質異常症は明らかに症状を悪化させる因子である。しかし、低いコレステロールが冠動脈疾患や動脈硬化を改善するかどうかは明確になっていない。 それとは別に糖尿病を罹患している患者は、糖尿病による高血糖は血管内皮細胞を障害するし、耐糖能異常があると血糖が低くても高インスリン血症を引き起こすので血管内皮細胞に悪影響を及ぼす。したがって耐糖能異常があるとすでに動脈硬化、冠動脈疾患、脂肪肝のリスクを抱えていることになる。それゆえ、そのような患者や患者予備軍は脂質異常症については注意を払う必要がある。このように理由により、糖代謝と脂質代謝が同時平行的に複合的に異常を起こすメタボリックシンドロームが注目されている。 ===がんとコレステロール=== コレステロール摂取量と卵巣がんや子宮内膜がんに正の関連が認められている。肺がん、膵臓がん、大腸がん、直腸がんにおいても、正の関連を認めた報告が多くある。 ===低コレステロール血症と副腎、生殖腺=== 血中での正常値を下回るコレステロール値を示す症状を低コレステロール血症(低脂血症)と呼ぶ。この病態の研究は比較的限られたものであり、いくつかの研究によりうつ病、がん、神経ホルモンと関連が示唆されている。 コレステロールは副腎や生殖腺でステロイドホルモン(副腎皮質ホルモンと性ホルモン)に合成される。体内で合成される副腎皮質ホルモンにはアルドステロン、コルチゾン、コルチゾール、デスオキシコルチコステロン等がある。体内で合成される性ホルモンには、テストステロン、AMH、インヒビン、エストラジオール、エストリオール、エストロン、ゲスターゲン、プロゲステロン等がある。これらすべての原料がコレステロールである。LDLコレステロール異常低値では家族性低コレステロール血症、低βリポ蛋白血症、無βリポ蛋白血症、甲状腺機能亢進症、慢性肝炎、肝硬変、腎疾患、アジソン病、肝実質細胞障害、消化吸収不良症候群などが疑われる。 リポタンパク質は細胞の生命維持に必須のコレステロールがアポタンパク質と結合したものである。無βリポ蛋白血症は常染色体劣性遺伝疾患で、コレステロールが低下し、LDLコレステロールは検出できず、超低比重リポタンパク (VLDL) とLDLを介して抹消組織に送られるビタミンEにも重度の欠損が起こる。血漿中にアポBがないことで確定診断される。治療には高用量 (100―300 mg/kg) のビタミンE、食物脂肪、その他の脂溶性ビタミン補充を行う。低βリポ蛋白血症は常染色体優性遺伝疾患あるいは相互優性遺伝疾患である。LDLコレステロール欠損の病態には無βリポ蛋白血症と同様の治療を行う。低アルファリポタンパク血症の治療も同様である。カイロミクロン停滞病は常染色体劣性遺伝疾患である。治療は脂肪、脂溶性ビタミン(ビタミンE)補充を行う。 コレステロールを原料にした副腎皮質ホルモンおよび性ホルモンの異常値で疑われるのは、先天性副腎低形成(原発性副腎低形成)、下垂体機能低下症、副腎酵素欠損症、クッシング病、偽性低アルドステロン症、原発性アルドステロン症、グルココルチコイド抵抗症などである。リポイド過形成症ではProtein (Steroidogenic acute regualtory protein、StAR) 蛋白の異常とコレステロール側鎖切断酵素に欠損がみられる。副腎酵素欠損症の一つであるP450オキシドレダクターゼ欠損症では、P450オキシドレダクターゼ (POR) の異常によって、細胞内のコレステロールの低下と様々な骨奇形、Antley‐Bixler症候群、ステロイドの異常値が起きる。 ===寿命とコレステロール=== 一般に血中コレステロール量は加齢により変動し、通常は60歳代まで徐々に増大する。またヒトにおいてはコレステロールレベルの季節変動が認められ、冬季には平均よりも高くなる。また、脂質異常症が循環器疾患を引き起こす危険因子であるので、血中コレステロール値の大小で寿命が影響を受けると考えられてきた。それゆえ、寿命とコレステロールの関係については注目されてきており、すでに米国で大規模な疫学調査 MRFIT (multi risk factor intervention) が実施されている。 その結果は予想に反して、コレステロール値は高すぎても、低すぎても寿命を短縮するというものである。MRFITの解析結果によると、血中総コレステロールが200 mg/dL以上では冠動脈疾患による死亡率が急速に増大し、180 mg/dL以下では冠動脈疾患による死亡率は低減せずほぼ一定になることが判明している。一方、血中総コレステロールが180 mg/dL以下では冠動脈疾患以外による死亡率が増えるため、結果として血中総コレステロールが180―200 mg/dLが最も死亡率が低下することが判明した。 米国でのMRFIT以外にもヨーロッパや他の地域でも同様な疫学調査がなされており、同様な結果が得られている。 コレステロールの値が高いほど心筋梗塞のリスクが高まり、コレステロールの値が低いほど脳卒中のリスクが高まり、血中総コレステロールが180―200 mg/dLが最も死亡率が低下し、長寿であることが指摘されている。この結果や前述の説明のように血中コレステロールの総量よりはその種類(LDLコレステロールとHDLコレステロールあるいは酸化型リポタンパク質の存在)などコレステロールの質が寿命と深く関わっていると考えられている。 ===コレステロール低値で死亡率が上昇=== 日本での疫学調査としては、1986年度から1989年度までの福井市で行われた調査がある。26,000人を対象に住民検診の結果を福井保健所長であった白崎昭一郎医師がまとめた結果、男性ではコレステロール値が低い人ほどガンなどで死亡した人が多く、女性でもコレステロール値が低い群が死亡率が高かった。感染症、がん、肝疾患、気管支炎、胃潰瘍および貧血の基礎疾患をもった人は血清総コレステロール値が低くなるので、死亡率が高くなるためと考えられている。 低コレステロールは、脳卒中のリスク要因でもある。 ===コレステロール等についての血液検査の参考基準値=== ==食事中コレステロールと健康== ===食物由来コレステロール=== 食物由来コレステロールのほとんどは動物性食品に由来する。たとえば、卵黄(約1400 mg/100 g)、するめ(乾物; 約980 mg/100 g)、エビ類(約 170 mg/100 g)。植物性食品(亜麻仁種子やピーナッツ)では、コレステロール類似化合物のフィトステロールが含まれ、血漿中のコレステロール量を下げるとされている。 ===食事中コレステロールの摂取目標量=== 2003年の世界保健機関による生活習慣病予防に関する報告書では1日のコレステロールの摂取目標を300 mg未満としている。米国農務省・保健社会福祉省の”Dietary Guidelines for Americans 2010”によると健康な人の場合 300 mg である。また、厚生労働省の「日本人の食事摂取基準(2010年版)」では、コレステロールの摂取目標量の上限は成人男性で1日当たり750 mg、成人女性で600 mgとされていた。 しかし、2015年の「アメリカ人のための食生活指針2015‐2020年版」および厚生労働省の「日本人の食事摂取基準(2015年版)」では、食事で摂取するコレステロールと血中のコレステロール量との関係性が見いだされないとして、摂取目標量は撤廃された。 2015年時点で、アメリカ心臓財団と米国心臓病学会も同様に撤廃しているが、全米脂質協会の脂質異常症のためのガイドラインは200mg未満としている。こうした違いは、健康な集団と、特定の病気に関連した集団という違いに由来する。 ===食事中コレステロールと疾患リスク=== 2010年の文献調査は、1日に卵を1個摂取している場合、週に1個未満のものと比較して糖尿病のリスクが2倍以上であり、心臓血管疾患のリスクがある患者はコレステロールの摂取を制限すべきであり、脳卒中や心筋梗塞後の卵黄の消費を止めるべきであるとしている としている。この見解などを根拠としてアメリカ合衆国などでは、食事性コレステロールを1日300 mg未満に抑えるよう推奨している。 オーストラリアシドニー大学のNicholas Fullerにより、第50回欧州糖尿病学会で発表された研究は、3カ月後の比較であり、成人の糖尿病状態および2型糖尿病患者140人を対象とした調査で、朝食時に2個 × 6日 = 12個の卵を食べる高卵食群と、週に卵を2個未満の低卵食群に振り分けた。なお、両群のタンパク質の摂取量を一致させるため低卵食群は赤身の動物性タンパク質を摂取し、主要栄養素と熱量を一致させ試験期間中の体重を維持した。結果は、卵の摂取量が多くても、2型糖尿病患者の脂質プロファイルには悪影響を及ぼさないとしている。 ==日本でのコレステロール値の決定プロセス== 日本では一般にコレステロール値が高いと言うのは総コレステロール値が220以上の場合を指す。これは日本動脈硬化学会が作成した「動脈硬化性疾患診療ガイドライン」が大きく影響している。これは動脈硬化性疾患をスクリーニングための診断基準としている。ガン検診でガンの疑いがあるとされても、いきなりガン治療を始めるわけではないのと同様に、スクリーニングでは220以上でも多くの患者が特に治療を必要とはしないケースがあるとされている。 一般にスクリーニングは、精密検査を必要とする患者予備軍を簡単な検査によって精密検査前に絞り込むことが求められる。しかし、総コレステロール値が220以上をすべて患者予備軍としてしまうために、男性では26%、女性では33%が要精密検査と判定されている。動脈硬化による主な病状は心筋梗塞があるが、コレステロール値を検査することで動脈硬化と心筋梗塞へ至る症状の予防が求められるのに、現状では心筋梗塞が男性に比べて1/2から1/3の女性の方が多くの割合で要精密検査となってしまう。 1980年代まではこの基準が250から240になっていたが、これは95%の人がこの基準値以下で健康であったためである。1987年に日本動脈硬化学会が「コンセンサス・カンファレンス」で基準値を220としたためこれ以降は220が使われている。220が科学的な妥当性を欠いているという意見は決定以降も多数あり、6年間・5万人を対象に行われた「日本脂質介入試験」の結果も240を境に有意に心臓の冠動脈疾患のリスク上昇を示していたが、結果として2007年現在も220が基準とされている。一度は1999年に240への改定の直前まで行ったが、日本動脈硬化学会内の改定反対派の主張する「220がすでに定着しており、変更すれば医療現場に混乱が起きる」という意見が通り見送られた。240を採用すると患者数が半減するため、病院経営の危機を招くとしての判断が働いたのではないかとする見方がある。 また、220の基準でスクリーニングに掛かって診察を受け、動脈硬化疾患などの病気と診断された後は治療目標値がなぜか240といきなり緩和される逆転現象が起きてしまうという、不合理な状況にある。 ==年表== 1769年 Fran*126*ois Poulletier de la Salle が胆石からコレステロールを発見。1784年 コレステロールが単離される。1815年 ミシェル=ウジェーヌ・シュヴルールが「コレステリン」と命名。1848年 アドルフ・ストレッカーがコラン酸(胆汁酸の基本骨格)の組成式を C24H40O5 と決定する。1888年 フリードリッヒ・ライニッツァー (Friedrich Reinitzer) がコレステロールの組成式を C27H40O と決定する。ヒドロキシ基が含まれることが分かったため「コレステロール」と呼ばれるようになる。1910年 アドルフ・ヴィンダウスとオットー・ディールスが血管のアテローム中に高濃度のコレステロールが含まれることを発見した。1913年 アニチコフ (Nikolai Nikolaevich Anitschkow) がコレステロールはアテローム硬化(動脈硬化)の原因物質であることを発見した。1919年 ヴィンダウスが胆汁酸とコレステロールが共通の骨格(ステロイド骨格)を持つことを示した。1927年 ハインリッヒ・ヴィーラントが胆汁酸とその類縁物質の構造研究によりノーベル化学賞を受賞した。 ディールスがコレステロールから「ディールスの炭化水素 (Diels’ hydrocarbon, 3’‐methyl‐1,2‐cyclopentenophenanthrene; C18H16)」へと化学変換して、ステロイド骨格の構造を決定する。ハインリッヒ・ヴィーラントが胆汁酸とその類縁物質の構造研究によりノーベル化学賞を受賞した。ディールスがコレステロールから「ディールスの炭化水素 (Diels’ hydrocarbon, 3’‐methyl‐1,2‐cyclopentenophenanthrene; C18H16)」へと化学変換して、ステロイド骨格の構造を決定する。1928年 ヴィンダウスがステロール類の構造(およびそのビタミン類との関連性)についての研究によりノーベル化学賞を受賞した。 ツォンデック (B. Zondek) が卵胞ホルモンのエストロンを発見。ヴィンダウスがステロール類の構造(およびそのビタミン類との関連性)についての研究によりノーベル化学賞を受賞した。ツォンデック (B. Zondek) が卵胞ホルモンのエストロンを発見。1931年 アドルフ・ブーテナントらが男性ホルモンのアンドロステロンを発見。1932年 ブーテナントとドイジー (E. A. Doisy) ら個別に卵胞ホルモンのエストロンを単離する。 ヴィーラントがコラン酸の構造を決定する。ブーテナントとドイジー (E. A. Doisy) ら個別に卵胞ホルモンのエストロンを単離する。ヴィーラントがコラン酸の構造を決定する。1934年 ブーテナント、スロッタ (K. H. Slotta)、アレン (W. M.Allen)、ハルトマン (M. Hartmann) らが個別に黄体ホルモンのプロゲステロンを発見する。 レオポルト・ルジチカによりコレステロールからアンドロステロンが合成される。これによりアンドロステロンの立体構造が決定する。ブーテナント、スロッタ (K. H. Slotta)、アレン (W. M.Allen)、ハルトマン (M. Hartmann) らが個別に黄体ホルモンのプロゲステロンを発見する。レオポルト・ルジチカによりコレステロールからアンドロステロンが合成される。これによりアンドロステロンの立体構造が決定する。1935年 ラクール (Laqueur) らがテストステロンを発見。 ルジチカによりコレステロールからテストステロンが合成される。これによりテストステロンの立体構造が決定する。ラクール (Laqueur) らがテストステロンを発見。ルジチカによりコレステロールからテストステロンが合成される。これによりテストステロンの立体構造が決定する。1936年 ウィンターシュタイナー (O. Wintersteiner) とプフィッフナー (J. Pfiffner) がコルチゾンを発見・単離する。1939年 ブーテナントがコレステロールから産生される性ホルモンの研究、ルジチカがコレステロールを含むステロイド類(およびテルペノイド)の研究によりノーベル化学賞を受賞した。1948年 エストロンが全合成される。1951年 ロバート・ウッドワード、ジョン・コンフォースらにより初めてコレステロールのステロイド骨格(コルチゾン)が全合成される。これは生合成経路とは異なる経路で合成されている。1953年 シンプソン (S. A. Simpson) とライヒシュタイン (T. Reichstein) が男性ホルモンのアルドステロンを単離した。1964年 コンラート・ブロッホ、フェオドル・リュネンらがコレステロールと脂肪酸の生合成機構と調節に関する研究によりノーベル生理学・医学賞を受賞。1973年 HMG‐CoA還元酵素阻害剤メバスタチンが発見される(報告は1976年)。1978年 酵母から精製した P450 である CYP51 (P45014DM) がラノステロールからコレステロールを生合成する酵素反応の14脱メチル化を触媒することが発見された。1985年 マイケル・ブラウン、ヨセフ・ゴールドスタインらはコレステロール代謝の詳細とその関与する疾患の研究によりノーベル生理学・医学賞を受賞。彼等により LDL受容体とその機能が発見される。1989年 HMG‐CoA還元酵素阻害剤プラバスタチン(メバロチン)が上市される。1994年 ヒトCYP51 の cDNAクローニングによりステロール14‐脱メチル化酵素CYP51 の染色体上での位置を決定した。 =エアバスA300= エアバスA300 (Airbus A300) は、エアバス・インダストリー(後のエアバス)が開発・製造した双発ジェット旅客機である。世界初の双発ワイドボディ旅客機であり、エアバス社設立のきっかけとなった。 本格的なジェット旅客機の時代を迎えた1960年代、バスのように気軽に乗れる大型旅客機「エアバス」が待望された。当時、欧州の航空機メーカーは単独で「エアバス」を事業化する体力が無かったため、国際共同開発体制によりA300構想が推進された。紆余曲折を経てフランスと西ドイツ(当時)政府が中心となって企業連合エアバス・インダストリーが設立されA300が開発された。 A300第1世代は1974年にエールフランスにより初就航し、A300‐600は1984年にサウジアラビア航空により初就航した。役目を終えた第1世代は1985年に生産を終了し、A300‐600シリーズは2007年まで生産された。総生産数はA300第1世代が250機、A300‐600シリーズは317機であった。2017年1月現在、A300の関係した機体損失事故が34件、ハイジャックが30件起きている。死者を伴う事件・事故は15件発生しており、合わせて1,435人が亡くなっている。 以下、本項ではジェット旅客機については社名を省略して英数字のみで表記する。例えば、「エアバスA300」であれば「A300」、「ボーイング747」であれば「747」、「ダグラスDC‐10」はDC‐10、「ロッキードL‐1011」はL‐1011とする。 A300は低翼配置の主翼下に左右1発ずつターボファンエンジンを装備し、尾翼は低翼配置、降着装置は前輪配置である。A300第1世代の全長は53.62メートル、全幅は44.84メートル、最大離陸重量は116.5トンから165トンで、最大巡航速度はマッハ0.82から0.84である。当初、A300は欧州域内の短距離機として開発されたが、後に離着陸性能や航続距離性能を強化した派生型が開発され、一部の海上ルートを含む中距離路線にも進出した。旅客型だけでなく貨客転換型や貨物専用型も開発された。貨物型は新造のほか旅客型からの改造も行われており、2017年現在では貨物機としての運航が中心である。 機種名のA300は、エアバスのAと初期構想の座席数300席にちなむ。A300は2つの世代に分けることができ、第1世代はA300Bとも呼ばれる。新技術の採用でグラスコックピット化された次世代型はA300‐600と呼ばれる。本項ではA300第1世代を中心に説明する(A300‐600シリーズについては当該ページを参照)。 ==沿革== ===ヨーロピアン・エアバス構想=== 「エアバス」という言葉は、もともと特定の機種名や企業名を指すものではなく、「中短距離用の大型ワイドボディ旅客機」という意味合いで使われ、その語源は1960年代の欧州の大型機構想にある。1950年代終盤に707とDC‐8が相次いで就航すると、本格的なジェット旅客機の時代が到来した。航空旅客は爆発的に増加し、1960年代の中盤になると旅客機の大型化が望まれるようになった。空港に行けばいつでも飛行機に乗れる時代が到来すると予想され、バスのように気軽に乗れる飛行機として「空のバス」すなわち「エアバス」という言葉が生まれた。 1964年にイギリスでは王立航空研究所の主導でメーカーや航空会社も参加した委員会が開かれ、今後の欧州には大量輸送用に経済的な短距離輸送機が必要になるとの考えから様々な機体案が検討された。フランスでも1961年から1962年頃にエールフランスがカラベルの後継となる大型短距離旅客機の開発を求めており、1963年から1965年にかけてシュド、ノール、ブレゲーらのメーカーが200席から250席級の旅客機構想を相次いで発表した。同じ頃、ドイツ(西ドイツ)の航空機メーカーは小規模だったため、1960年にメッサーシュミット、ベルコウ(英語版)、ジーベル(英語版)、ドルニエ、VFWなどの各社が集まりエアバス検討グループが立ち上げられ、後のドイチェ・エアバスの前身となった。 こうして「エアバス」への関心が西欧全体で高まり、1965年のパリ航空ショーの頃からドイツ・フランス間、あるいはフランス・イギリス間などでメーカー間の相談も始まるようになった。1965年10月20日から21日にかけて、英国欧州航空主催によるエアバスシンポジウムが開かれた。この会議に西欧各国の航空会社やメーカーが集まり、200ないし250席で新しい大型エンジンを備えた双発機というエアバス像が練られた。これに沿って1965年11月にはイギリス・フランス両政府のワーキンググループが以下のような欧州エアバスの概要仕様をまとめた。 座席数:200 ‐ 225席(座席間隔34インチの1クラス)航続距離:1,500キロメートル(810海里)離陸滑走距離:2,000メートル着陸滑走距離:1,800メートルその他、1座席を1マイル飛ばすためのコストは727‐100より30パーセント低く、在来機よりも低騒音、自動着陸を可能とすることなども要求に盛り込まれた。 一方、米国でも1960年代中頃に大型旅客機を求める動きが盛り上がっていた。1965年秋に米空軍の大型輸送機CX‐HLSの受注に失敗したボーイングは、その設計チームと培われた技術をもって超大型機747を開発することを決定した。これはパンアメリカン航空がメーカーに開発を呼びかけていた機材でもあった。また、1966年3月にはアメリカン航空が米国内幹線に適した「大型双発機」の要求仕様を発表し、メーカーに開発を促していた。これら米国の大型旅客機計画と比べると、欧州エアバスの要求仕様は特に航続距離が短く、欧州域内の輸送に適した旅客機を目指している点が特徴だった。 ===国際共同開発へ=== 欧州エアバス構想は欧州のメーカーが開発経験のない大型旅客機であり開発費も高額になると見込まれた。当時欧州の航空機メーカーは、米国のボーイングやダグラスに販売機数で大きな差をつけられており、1社単独では巨額の開発費を賄うことは困難視され 、現実策として複数メーカーでの共同開発が模索された。 1966年7月にエアバス計画の担当企業としてイギリス政府がホーカー・シドレーを、フランス政府がシュドを指名し、これにドイツのエアバス検討グループが加わり共同プロジェクトとしてヨーロピアン・エアバスを開発することに合意した。同年10月15日にプロジェクト参加企業はそれぞれの政府に対して計画への助成申請を行ったほか、機体仕様のとりまとめも進行して1967年2月に初期仕様書が発行された。 その後、ヨーロピアン・エアバスは、より広い旅客機市場に対応できるよう最大離陸重量が120トンに引き上げられ機体サイズが300席級に大型化した。この機体案はエアバス (Airbus) の”A”と座席数の”300”を組み合わせてA‐300と呼ばれるようになった。1966年7月にボーイングが正式開発を決定していた747との共通性を重視するよう仕様が変更され、胴体直径は747とほぼ同じ6.4メートル、搭載できる貨物コンテナや床面地上高も747と同じとされた。また、エンジンも航空会社は747と同じプラット・アンド・ホイットニー(以下、P&W)社のJT9Dを装備するよう要請していた。 しかし、イギリスは自国のロールス・ロイス(以下、R‐R)が計画していた新エンジン「RB207」の採用を強硬に主張し、英仏独政府間の調整により機体の取りまとめをフランスが担当するかわりとしてエンジンはR‐R製RB207双発のみとなった。1967年9月4日には西ドイツにおけるエアバス事業の受け皿として、MBBとVFWの合弁によりドイチェ・エアバス社が設立された。こうして着々と準備が進められ、1967年9月26日に英仏独3か国政府で以下のようなA‐300プロジェクトの了解覚書が取り交わされた。 機体開発費は推定総額1.4億ポンドで分担は英仏が各37.5パーセント、独が25パーセント。エンジン開発費は推定総額6千万ポンドで分担は英75パーセント、独仏が各12.5パーセント。機体設計はシュドが主導してホーカー・シドレーとドイチェ・エアバスが協力する。エンジン設計はR‐Rが主導し、仏のスネクマと独のMTUが協力する。装備品は欧州内のみから調達。販売のための共同会社を設立。1968年7月31日までに英国欧州航空、エールフランス、ルフトハンザ航空から計75機の受注が得られたら実機開発に着手。仮日程として初飛行は1971年3月、型式証明は1972年11月、初就航を1973年春とする。 ===イギリスの離脱=== 華やかにスタートしたエアバス計画だったが1年後には雲行きが怪しくなった。1967年から1968年にかけて風洞試験や構造の設計が進んだが、米国のダグラスやロッキードも「エアバス」機体案を練っており、それに対抗してA300の設計案はさらに大型化した。航空会社側の意見を入れて胴体直径は5.94メートルに縮小されたものの、最大離陸重量は138.5トンまで増加し、RB207エンジンの推力増強が必要になった。開発費の見積もりも機体が2.1億ポンド、エンジンは7000万ポンドまで膨らんだ。 航空会社側は大きすぎると難色を示し、1968年7月31日の期限になっても1機の発注もなかった。経済が停滞していたイギリスでは政府が支出を切り詰めようとしており、A‐300反対論が台頭した。さらに決定的だったのは、A‐300計画がもたついている間に米国の「エアバス」構想が具体化し、1968年4月にロッキードとダグラスがそれぞれL‐1011とDC‐10の生産に着手したことだった。これで、A‐300が見込んでいた市場が奪われてしまうだけでなく、R‐RがL‐1011向けに新型エンジンRB211の開発を受注したことで、R‐Rおよびイギリス政府は販売数が期待されたRB211の開発を優先してA‐300向けRB207エンジンには積極的でなくなった。 このような状況でA‐300プロジェクトは機体の小型化を検討した。エンジンは747、DC‐10、L‐1011と同じエンジンを流用することになり、機体案はゼネラル・エレクトリック(以下、GE)製CF6、P&W製JT9D、あるいはRB211のどれでも装備可能な双発機でそれに適したサイズとして最大離陸重量は125トンに抑えられた。胴体直径は5.54メートルと一段と細くなり、座席数を約50席減らして252席(座席間隔34インチの1クラスの場合)となった。この小型化した機体案はA‐300Bと呼ばれ、航空会社の要望にも沿ったものであったが、まだ受注獲得には至らなかった。 この間、イギリスでは機体担当のホーカー・シドレー社を除いて計画への熱意がますます冷めていき、ついに1969年4月10日、イギリス政府はこれ以上の財政負担はできないとして計画からの脱退を発表した。イギリス政府はR‐Rによるエンジン独占がなくなった上、A‐300Bは事業的成功に懐疑的になったと判断した。 ===エアバス・インダストリーの設立=== 最初の先導役だったイギリスが離脱したが、フランス・ドイツ両政府は2国だけでもエアバス計画を続行することを決定した。1969年5月29日、パリ航空ショーに出展していたA‐300Bの客室モックアップの中で、仏独両政府の民間航空担当大臣により計画の正式決定の調印式が行われた。この時点での受注数は未だゼロだったが、初飛行を1972年、型式証明の取得を1973年春の予定で計画が進められることとなった。 フランスとドイツの両政府が開発資金を融資し、シュドとドイチェ・エアバスが継続してそれぞれの国の事業担当となった。イギリス政府は計画から離脱したことで、主翼開発に参画していたホーカー・シドレーが窮地に立った。ホーカー・シドレーは民間企業としてプロジェクト参加継続を希望したが、政府の援助なしには主翼開発が難しかった。主翼を開発できる代替企業もなかったことから、開発費の一部をドイツ政府が援助する条件でホーカー・シドレーは自社資金でプロジェクトに残ることになり、1969年6月にシュドおよびドイチェ・エアバスに対して参加契約を締結した。また、同年11月にはオランダのフォッカーもプロジェクトに加わった。1970年1月にはフランスでシュドとノールが合併してアエロスパシアルとなりエアバス担当企業の座を引き継いだ。 フランス・ドイツ両政府の積極的な支援のもと計画は前進し、1970年12月18日、共同事業を取りまとめるため企業連合「エアバス・インダストリー」が設立された。エアバス・インダストリーはフランス商法に基づく経済利益団体(英語版) (GIE) で、単独法人ではなく参加企業が共同で責任を持つ特殊会社であった。設立時はアエロスパシアルとドイチェ・エアバスが50対50で出資し、1971年12月23日にはスペインのCASA(英語版)もメンバーに加わり出資比率は表1のようになった。ホーカー・シドレーとフォッカーは協力会社として開発や生産を分担した。開発費は参加企業だけでなく各社を抱える各国政府による分担もあり、その内訳は表1の通りとなった。 出典:松田 1981a, p. 55。†1: 機体生産コスト比。エンジンや機器類を含んだ全ての生産コストの56.5%に相当するとされる。†2: 100%政府負担。†3: 1990年のドイツ再統一以降はドイツ。†4: 90%政府負担、10%業界負担。†5: 100%企業負担。政府助成が無かったホーカー・シドレーには開発費分担と比べて大きな生産シェアが割り当てられた。†6: A300の設計がかなり進行してから参加したスペインは、生産シェアに対して開発費分担が少ない。この間1970年6月にはエールフランスがA300Bの発注の意向を示していたが、同社はパリとロンドン、ジュネーヴ、コルシカ島などを結ぶ高需要路線に適した機材を求めており、A300の座席数をもう少し増やすよう要求した。そこで、A300Bの胴体を5フレーム(2.65メートル)延長したモデルを用意することとなり、A300Bの2番目のタイプということでA300B2と名付けられた。そして1971年11月3日、エールフランスはA300B2を正式に発注した。これがA300の初受注となり、注文数は確定6機、オプション10機であった。これにより原型機はA300B1と呼ばれるようになったほか、後に基本名称がA300BからA300に戻され、旅客型をA300Bとして貨客転換型をA300C、貨物型をA300Fとする型式名の整理が行われている。 1972年2月にはスペインのイベリア航空から確定4機、オプション8機の受注を獲得した。イベリア航空は4,000キロメートル以上の航続距離性能を求めていたが、A300B2の航続距離は3,430キロメートルだったため、航続距離延長型としてA300B4を開発することになった。 ===設計の過程=== A300の設計は計画が紆余曲折していた間も進行しており、生産設計と治具類の設計・制作は1969年5月の計画の正式決定とほぼ同時に開始されていた。 西欧では1950年代後期以降、C‐160輸送機やアトランティックなどで航空機の共同開発経験が蓄積されており、予想以上にスムーズに開発が進んだ。1971年の春には設計の90パーセントが完了し、ピーク時には総計3000人の技術者がA300に携わったと言われる。A300の空力設計は、全体のまとめと機首形状をアエロスパシアル、主翼とエンジン取り付け部をホーカー・シドレー、胴体後部と尾翼をドイチェ・エアバスが担当した。A300の材料やプロセスは無理に統一規格を作らず、コンポーネントを担当した各国の規格で設計・生産され、1つの図面の中に英語、フランス語、ドイツ語が混在して使用されることもあった。 イギリス政府が離脱したことでR‐R製エンジンにこだわる必要が無くなったことから、当時欧州の主要航空会社が発注していたDC‐10‐30と同じGE製のCF6エンジンが採用された。また、エンジン本体だけでなくエンジンポッドや補助動力装置、エアコン装置などもDC‐10と同じものが用いられた。 A300の胴体断面は外径5.64メートルの真円形となった。この胴体径は、必要な座席数を満たしつつ床下貨物室にLD‐3航空貨物コンテナを左右並列に搭載できる寸法として決定された。構想初期には747の胴体幅に迫る6.4メートルという外径から始まったが、客席数の変更などに合わせて修正が重ねられて最終的に外径5.64メートルに落ち着いた。 A300の空力学的特性は、欧州域内を結ぶ短中距離路線で最適となる飛行速度と経済性を目指して設計された。A300の主翼の翼型にはホーカー・シドレーがトライデントやHS.125、HS.681などの研究開発を通して10年以上練り上げてきた「リア・ローディング翼型」が採用された。この翼型は翼後方の下面がえぐられたような形状を持ち、翼の後半で多くの揚力を得ることができ、遷音速での巡航時に翼表面の流速が部分的に音速を超えても抵抗が急増しないという特徴を持つ。当時最先端の技術であり、注目を浴びた。この翼型の特性は、1960年代にアメリカ航空宇宙局 (NASA) が開発したスーパークリティカル翼型と基本的に同じであるが、翼を設計したホーカー・シドレーは、NASAとは独立にリア・ローディング翼型の開発に至ったとして、決してスーパークリティカル翼型の一種とは認めなかった。 リア・ローディング翼型は衝撃波の発生を遅らせ揚力係数を増加できることから、後退角と翼厚比を同じくした場合に従来の翼型よりも高速で飛行できる。しかし、A300は短中距離路線に適した旅客機を目指していたことから高い巡航速度は不要とされ、リア・ローディング翼型の特色を翼厚を増やして後退角を減らすよう振り向けられた。後退角は25パーセント翼弦で28度と浅くなり低速時の操縦性に有利になったほか、翼厚比の増加は強度面に有利に働き、構造重量は従来の翼厚比の主翼と比べて同一翼面積で1トン以上の軽量化に成功した。 A300の主翼は、断面の変化とねじり下げにより翼幅方向にほぼ一様の圧力分布を持つように設計された。それに伴いA300の主翼表面は翼根と翼端で異なる曲面を持つことになった。主翼の製造を担当したホーカー・シドレーは、当時このような二重曲率の外板を製造できる設備をもっていなかったため、エンジンパイロンのやや外側を境として翼を外側と内側に2分割して製造し、継ぎ手で繋ぐ構造が採用された。 主翼には高揚力装置として前縁にスラット、後縁にフラップが設けられた。スラットは主翼のほぼ全幅にわたり配置され、エンジンパイロンの付け根で他機ではスラットが途切れる部分にも、パイロンを避ける切り欠きを入れることでスラットを通し揚力を稼いだ。フラップはタブ付きのダブルスロット型ファウラーフラップが採用され、後縁翼幅の84パーセントにわたる当時の大型民間機では例のない大きさとなった(フラップの詳細は形状・構造節参照)。主翼のエルロンは片翼あたり2枚で、外翼部に低速度エルロン、エンジン後方部に全速度エルロンが配置された。エルロンを2枚持つのは当時の大型ジェット旅客機としては一般的ではあったが、28度という浅い後退角の翼では珍しかった。また、ロール方向の操縦にはエルロンだけでなく、スポイラーも用いるよう設計された。 A300が設計された当時はまだグラスコックピットやフライ・バイ・ワイヤ技術が確立しておらず、コックピットや飛行システムは従来の機械式で計器類も機械電気式であるが、アビオニクスの技術進歩に対しても対応できるよう、機器類の搭載スペースや冷却能力には余裕をもたされた。特にブラウン管 (CRT) を利用したディスプレイの搭載や計器類の増設、そして電気信号を介して動翼を操縦するフライ・バイ・ワイヤの導入にも備えた設計がなされた。運航に必要な操縦士は機長、副操縦士、航空機関士の3人であり、エアバス・インダストリーが開発した旅客機で唯一の3人乗務機となった 航続距離延長型となるA300B4では、中央翼(主翼が胴体内を貫通する部分)内にも燃料タンクを設けて燃料搭載量を増やした。また、最大離陸重量をA300B2の137トンから150トンに引き上げ、これによる離着陸性能の低下を補うため主翼前縁の翼根部にクルーガー・フラップ(高揚力装置の一種)が追加された。 ===生産と試験=== 4機の試作機と2機の強度試験機の部品製作は1969年12月から開始された。各国のメーカーで製造されたコンポーネントは1971年にフランス・トゥールーズにあるアエロスパシアルの工場に集められた。コンポーネントを輸送するため、ボーイング377を大型貨物運搬用に改造した「スーパーグッピー」をエアロスペースラインズ(英語版)社から購入し、1971年11月から運用を開始した。 総組立および総組立図面の管理はアエロスパシアルが担当し、各機体の生産進捗に合わせて総組立図面をアップデートする方式が採られた。機体の組み立てでは、現場合わせによる結合が各所で採用された。例えば主翼と胴体の結合では、まず胴体と主翼を工場の基準点に位置合わせし、次に油圧ジャッキなどで主翼及び胴体に実機同様の荷重をかけた上で現場合わせでボルト穴をあけて結合された。初期にはフランスで製造した胴体とドイツで製造した胴体が合致しないトラブルもあったとされるが、すぐに解決された。 A300の1号機は原型機となるA300B1で、初飛行は1972年10月28日に行われた。通算3号機からA300B2仕様となり、1973年6月28日に初飛行した。試験飛行には1号機から4号機の4機が投入された(1、2号機がA300B1仕様で、3、4号機がA300B2仕様)。試験中に以下の改修が加えられたが、いずれも困難な問題ではなく飛行試験は順調に進んだ。 失速迎角での縦の安定性を改善するため、主翼前縁のスラットにフェンス(小板)を追加した。高速飛行時に主翼表面の気流がはがれるのを防ぐため、スラットの密閉性を高めたほか、翼上面にヴォルテックスジェネレータを配置した。主翼内側のエルロンを操作すると水平尾翼に想定以上の荷重がかかることが分かったため、内側エルロンの舵角を減らし、ロール方向の操縦に用いるスポイラーの枚数を増やしたほか、外側エルロンが動作する条件を拡大した。試験で確認された運用限界や性能は、控えめに設定されていた計画値を上回った。最大運用限界マッハ数は0.84から0.86に引き上げられたほか、所要滑走路長は4 ‐ 6%短くて済み、最大揚力係数は8 ‐ 10%高くなったのでフラップの最大角度が減らされた。 1974年3月15日、フランスおよびドイツの航空当局からA300B2の型式証明が交付され、同年5月30日には米国の連邦航空局からも型式証明が交付された。型式証明取得までの飛行時間は、延べ1,585時間で内訳は開発試験が610時間、証明試験が595時間、訓練や路線実証試験などが380時間であった。 通算5号機のA300B2が量産初号機となり、1974年4月15日に初飛行して同年5月10日にエールフランスに初引き渡しが行われた。以降の量産機はA300B2の仕様が基本型となった。 ===就航開始=== 1974年5月23日、エールフランスのパリ ‐ ロンドン線でA300は初就航した。就航したA300は予想よりトラブルは少なく、乗客や乗員からも好評だった。主なトラブルと改修内容としては、気流の乱れに起因する方向舵の破損例が見つかり、気流を乱す隙間が塞がれて方向舵の構造も改良されたほか、フラップが正常に動作しない可能性が見つかり、フラップの作動機構が変更された。また、客室後部の横揺れが指摘されヨーダンパが改良された。その他、エアコンダクトや貨物積載装置の不具合対策、電波障害対策などが実施された。就航後3か月頃から定時出発率は約97%に安定してワイドボディ大型機としては良好であった。 初就航の時点で36号機までの生産が進められていたが、受注は思わしくなかった。1972年2月のイベリア航空によるA300B4の受注に加えて、同年末にはルフトハンザ航空からA300B2を確定3機、オプション4機受注していた。しかし、1972年8月に英国欧州航空はA300ではなくR‐R製RB211エンジンを装備したL‐1011を発注した。A300ほどの大型機を必要とする短距離路線は限られていたほか、欧州初の大型機に対する様子見の空気もあった。そして、本格化しつつあった不況と1973年の第1次石油危機の発生により、航空輸送需要が激減し、世界中の航空会社が新機種導入を控えるようになったことがA300の販売低迷に影響していた。 そのような中、1974年10月に大韓航空から6機のA300B4の受注に成功し、欧州以外の航空会社からの初めての注文となった。当時、航空会社はエアバス・インダストリーのサポート体制に不安を感じていたことから、この商談は、エアバス・インダストリーが欧州から遠い地域でも必要なサポートを提供できることを示す上でも重要だった。 航続距離延長型のA300B4の初号機(通算9号機)は、1974年12月26日に初飛行し、1975年3月26日に型式証明を取得した。ところが初飛行目前の1974年10月に、A300B4の最初の発注者だったイベリア航空が注文をキャンセルしてしまったため、1975年5月にフランクフルトを拠点とするチャーター便航空会社のジャーマンエア(ドイツ語版)に初納入され、6月1日に初就航した。 ===改良と中距離型への発展=== 販路拡大のため、エアバス・インダストリーはA300の性能向上に努め、A300B2・B4ともにペイロードや燃料搭載量を増やせるよう最大離陸重量を引き上げたほか、A300B2では離陸性能向上型が開発された。 A300B2の最大離陸重量を142トンとしたタイプは1975年6月20日に型式証明を取得し、座席数269席での航続距離は1,400海里(約2,590キロメートル)から1,800海里(約3,330キロメートル)に向上した。また、A300B4で採用されたクルーガー・フラップをA300B2にも装備して高地や高温地域での離陸性能を向上させたタイプも開発された。このタイプはA300B2Kと名付けられ、南アフリカ航空から初受注した。A300B2Kの初号機は通算32号機で1976年7月30日に初飛行し、同年11月23日に納入された。 1976年6月10日にはA300B4の最大離陸重量を157.5トンに上げたタイプに型式証明が交付され、航続距離は2,600海里(4,820キロメートル)となった。さらに、A300B4では主翼と主脚(降着装置)の強度を向上し、ブレーキとタイヤの容量を増すことで最大離陸重量を165トンまで引き上げたタイプも開発された。このタイプでは貨物室に燃料タンクを増設でき、その場合の航続距離は3,000海里(5,560キロメートル)となった。165トン仕様は1978年1月にエールフランスから初受注し、1979年4月26日に型式証明を取得、同月末から引き渡しが始まった。 この間、1978年4月にエアバス・インダストリーはA300の型式名の整理を行い、クルーガー・フラップを持たないB2をB2‐100、B2KをB2‐200、最大離陸重量が165トン以上のB4をB4‐200、それ以外の標準型B4をB4‐100と呼ぶようになった。 その他にも設計改良が続けられ、着陸滑走距離の短縮や、燃料系統の工夫によるタンク有効容積の改善なども行われた。また、1975年にエールフランスのA300でオートパイロットが誤作動する事象があったため対策が打たれたほか、金属疲労対策として部品が変更されたり、トルコ航空DC‐10パリ墜落事故を受けた急減圧への対策などが施された。 こうして、エアバス・インダストリーの努力によってA300は改良が重ねられ、欧州域内の短距離専用機から、5,000キロメートルを超える中距離路線にまで使える幅の広い旅客機に成長した。当時双発機の飛行が難しかった大洋横断航路は無理であったが、欧州と中東・アフリカ間路線や東南アジア路線といった海上路線でもA300が運航されるようになった。 ===米国市場への売り込みと販売好転=== 1976年11月時点でA300の運航会社にはエールフランス、ルフトハンザ航空、大韓航空、ジャーマンエアのほか、エア・インディアやフランスのエールアンテール、オランダのトランサヴィア航空なども加わっていたが、運航機数は27機であった。エアバス・インダストリーはA300の改良と販売活動に懸命に取り組んだが、受注は相変わらず伸び悩んだ。1977年初頭における確定受注は36機、オプションを含めても57機であった。深刻な不況が続いて世界の航空会社は大型機を持て余し、売りに出される747もあるほどだった。DC‐10、L‐1011そして747は石油危機の前にまとまった受注を獲得していたが、A300にはそれがなかった。 エアバス・インダストリーの主要メンバーであるアエロスパシアルは、当時手がけていたコンコルドやコルベット(英語版)も売れず経営危機に陥った。A300は月産2機で生産されていたが、トゥールーズには行き場のない機体が滞留し、1977年には月産1機に減産することが決定し、さらに0.5機まで抑えることも検討された。必死の売り込みが続けられ、欧州の銀行団も破格の融資条件を提示し、米国のメーカーが手を引くような経営状況が悪い航空会社へも納入したため、叩き売りの噂も立つほどだった。 エアバス・インダストリーは、A300の事業成功の鍵は米国の航空会社からの受注にあると考え、積極的な販売活動を展開した。その成果は1977年に現れ、米国内線大手だったイースタン航空への売り込みに成功した。実は当時、不況の影響でイースタン航空も経営不振に陥っていて、主力のL‐1011を持て余していた。同社はL‐1011と同等の近代性を備えた小型の機材を求めており、A300にも興味はあったが、新機材購入に充てられる資金が無かった。そこで、エアバス・インダストリーは4機のA300B4を6か月間、無償でリースするという思い切った提案を行い、1977年8月にこの内容で契約が結ばれた。 同年12月13日、イースタン航空はA300の路線就航を開始した。イースタン航空のA300は、評価という目的もあり条件が厳しい路線に投入されたが、1日あたり平均8.4時間、定時出発率98.4%という優れた運航実績を示した。イースタン航空が特に気にしていたエアバス・インダストリーの製品サポートに問題は無く、乗客からの評判も上々であった。 ただ、ニューヨークのラガーディア空港への乗り入れが問題となった。空港を管理するニューヨーク港湾局が、空港の水上部分の強度上の理由によりA300の109トン以上での離陸を認めなかったのである。話し合いの結果、エアバス側が水上部分のコンクリート補強費用50万ドルを負担するとともに、A300の主脚の車輪間隔を広げる改造を18か月以内に行うことを条件に、138トンまでの離陸が認められ、これによりラガーディア ‐ マイアミ間の直行便の運航が可能となった。 エアバス・インダストリーは本格的にA300の購入を検討し始めたイースタン航空に対し、購入額の大部分に好条件の融資を行った。さらに、イースタン航空が元々望んでいたのは170席程度の機材であったことから、より大型のA300で運航コストが嵩んだ分を1982年までエアバス・インダストリーが保証するという金融的措置まで行った。こうして1978年4月にイースタン航空からA300B4を確定23機、オプション9機を発注し、エアバス・インダストリーはA300の米国の航空会社への売り込みに成功した。 イースタン航空によるA300の運航は好調で、同社は「今までの機材中最高」と評価した。ちょうどこの頃から世界の航空業界も不況を切り抜け経営を立て直しつつあった。航空機需要が上向きになり、1977年後半からA300の販売は急に売れ出した。石油危機による燃料費の高騰が長期に渡ったことで、双発で大人数を乗せられるA300の経済性が認められることとなった。スカンジナビア航空やアリタリア航空に加え、タイ国際航空やガルーダ・インドネシア航空、そして日本の東亜国内航空といった欧州以外の航空会社からも新規受注を獲得した。エールフランスやルフトハンザ航空の追加発注やイベリア航空からの再発注も加わり、確定受注数は1977年が20機、1978年が70機、1979年も前半だけで50機に達し、エアバス関係者も予想していなかった売れ行きとなった。一転してA300の増産が決まり、1979年には月産2.5機、1980年の通算118号機完成後からは月産3機となった。 この販売好調には、エアバス機を導入する航空会社に対する好条件の融資も一役買っていた。エアバス加盟国の政府保証のもと欧州の銀行団が、必要資金の90%近くまで年率8%台固定で貸し出し、10年またはそれ以上の延べ払いも可能とするなど、米国輸出入銀行が自国製旅客機に設定する条件を上回っていた。 これまで生産されたA300は、GE製のCF6シリーズエンジンを装備していたが、スカンジナビア航空の発注機はP&W製のJT9Dエンジンを装備する最初の機体となった。このタイプは1979年4月28日に初飛行を行い、1980年1月4日に型式証明を取得、1980年1月17日に初引き渡しが行われた。 この頃、A300B4をベースとした貨客転換型A300C4も開発された。A300C4では、メインデッキ(客席部分)に貨物を搭載できるよう左舷前方に幅3.58メートル、高さ2.57メートルの貨物扉を設置し、床面強化などが行われた。ドイツのハパックロイドが最初の発注者となり、A300B4‐200として完成していた83号機がA300C4に改造された。A300C4は1979年12月18日に型式証明を取得し、その月に初引き渡しが行われた。 ===A310の開発とイギリスの加盟=== A300の販売が好転すると、エアバス・インダストリーは次期製品の検討を本格化した。これまで行っていた市場調査の結果から座席数200席強の旅客機需要が高まると予測され、同社はA300の胴体を短縮した派生型の開発を決断した。この派生型はA310と名付けられ1978年7月7日に正式開発が決定され、同月13日にフランス・ドイツ両政府からの事業認可を得た。 A300の販売好転とA310の開発決定という将来性が見えてくると、これまで様子見をしていたイギリス政府が方針を変えた。イギリスは、1977年4月29日にホーカー・シドレーを含む航空機メーカー4社を統合し、国有企業としてブリティッシュ・エアロスペース(以下、BAe)を設立させた。そして1978年11月、イギリス政府のエアバス計画への加盟が決定した。エアバスの苦しい時期を支えてきたフランス政府は、このイギリス政府の態度に反発したが、同じくエアバスを支えてきたドイツ政府は米国へ対抗するためにはイギリスの力を無視できないと考え、最終的にイギリス政府の参加が実現した。 A310の胴体は、A300の胴体から平行部分で11フレーム短縮された。また、このままでは機体重心から尾翼までの距離が長くなってしまうので、圧力隔壁の後方にあたる尾部も2フレーム短縮されて尾部の絞り込みがA300より急角度になった。これにより、A310の全長はA300B2より6.96メートル短縮された。初期のA310構想では主翼やシステム類はA300のものを流用して開発費を抑える考えだったが、ボーイングが全くの新規開発で双発ワイドボディ機「7X7」(のちの767)を研究していたことから、それに対抗するためエアバス・インダストリーはA310にできるだけ新技術を盛り込むことにした。短縮した全長に合わせて主翼は新規に設計された。当時、デジタル通信・制御技術が急速に進歩していたことと、航空会社が直接運航費の抑制を求めていたことから、アナログ式だったA300の機体システムは全面的にデジタル式へ設計変更され、自動化技術やフライ・バイ・ワイヤ技術も導入され、いわゆるグラスコックピット化された。これらにより、A310は標準仕様で操縦士2人で運航可能なワイドボディ機となった。A310では水平尾翼と降着装置も新設計となったほか、炭素繊維強化プラスチック (CFRP) などの複合材料の使用範囲も拡大された。 A310はA300と同じ組み立てラインで生産され、製造番号もA300と共通の通し番号が採番された。通算162号機がA310の初号機となり、1982年4月3日に初飛行した。A310は1983年3月11日に型式証明を取得し、1983年4月10日にルフトハンザ航空により初就航した。 ===A300‐600の開発=== エアバス・インダストリーはA310だけでなく、A300への新技術投入も早くから考えていた。新しいA300では、A310との競合を避けるため座席数を少し増やしつつ、A310と同じ2人乗務のコックピットを導入してA300とA310の運航の共通性を高めることになった。この次世代型A300の機体構造はA300B4をベースに開発され、正式な型式名はA300B4‐600と名付けられたが、一般的にA300‐600と呼ばれるようになった。本項では以下、A300‐600より前に開発されたA300シリーズをA300第1世代、A300‐600およびその派生型をA300‐600シリーズと呼ぶ。 2人乗務のコックピットは、A300第1世代の頃から研究されていた。A300第1世代の通常仕様では、航空機関士が操作する機器類は主にコックピット内の右舷側にあるが、エンジン始動後は航空機関士が前方向きに座って飛行できるよう操作パネルが配置されていた。エアバス・インダストリーは、この考えを一段と進めて航空機関士を必要とせず操縦士2名だけでの運航も可能なFFCC(Forward Facing Crew Cockpit の略)と呼ばれるコックピットを開発した。A300のFFCC仕様機は1981年10月6日に初飛行し、ワイドボディ機として世界初となる操縦士2名だけでの飛行を3時間40分実施した。FFCC仕様機の試験は順調に進み、1982年にガルーダ・インドネシア航空に対して初引き渡しが行われた。また、1980年代前半にA300の垂直安定板の前縁や主脚扉などをCFRP製とした試作品の開発や実証試験も行われていた。 これらの取り組みやA310で蓄積された技術がA300‐600に反映された。A300‐600の開発では、A300第1世代より航続力と搭載力を強化すること、そして、可能な限りA310との共通性を持たせて開発・生産コストや航空会社の運用コストを抑えることを目指して以下の点などが変更された。 A300B4の後部胴体を平行部分を3フレーム(1.59メートル)延長する一方で、2フレーム短縮されたA310の尾部を流用し、座席を1列 ‐ 2列分(8 ‐ 16席)増やしつつ胴体延長による重心・尾翼間距離の変化を抑えた。主翼も改良が加えられ、動翼が簡素化されたほか、翼型や空力学的特性がA310の新型主翼に近づけられた。失速特性も改善され主翼のスラットのフェンスが不要になり除去された。水平尾翼はA310と同じ小型のものに変更された。フライ・バイ・ワイヤ等の採用でコックピットはA310とほぼ共通化され、2人乗務での運航が標準となったほか、操縦士の操縦資格もA310とA300‐600とで共通化された。上記の主翼の改良や小型水平尾翼の採用、フライ・バイ・ワイヤの導入に加え、複合材料の使用拡大、小型軽量の補助動力装置の採用、カーボンブレーキの採用、客室装備等の軽量化により全体で2トンの軽量化を実現した。エンジンはGE製CF6シリーズとP&W製のJT9Dシリーズであるが、燃料消費率や推力が向上した改良型に変更された。生産の途中からは、翼端渦を抑えて揚抗比を向上させるため、主翼の翼端にウイングチップ・フェンスと名付けられた矢尻状の板が追加された。A300‐600を最初に発注したのはサウジアラビア航空(現・サウディア)で、その内容はJT9Dエンジン装備仕様を11機であった。これにより1980年12月6日にA300‐600の開発が正式決定された。A300・A310通算252号機がA300‐600の初号機となり1983年7月9日に初飛行した。型式証明のための飛行試験には3機が用いられ、飛行回数はのべ232回、飛行時間は計506時間の試験が行われた。1984年3月9日に型式証明が交付され、同月25日にサウジアラビア航空に対して初納入されて翌月に初就航した。1985年までにサウジアラビア航空に加えてクウェート航空、タイ国際航空でもA300‐600の就航が始まった。 ===第1世代の生産終了と次世代型の発展=== A300第1世代は1980年から82年にかけて引き渡し数のピークを迎えたが、A300‐600の登場により役割を終え、1985年1月2日に初飛行した通算304号機を最後に生産を終了した。304号機はシンガポール航空の発注により製造されていたが、発注が変更されたことでアメリカン航空に納入された。A300第1世代の生産数は250機で1号機を除く249機が顧客に納入された。 エアバス・インダストリーでは早くからA300の貨物専用型となるA300F4も提案していた。新造機での発注はなかったが、旅客型からの改造の受注があった。通算277号機がA300F4への改造初号機となって1986年6月6日に型式証明を取得し、大韓航空に引き渡された。 A310とA300‐600シリーズでもそれぞれ航続力を強化した派生型としてA310‐300とA300‐600Rが開発された。A310‐300、A300‐600Rでは水平尾翼にも燃料タンクを設けて燃料搭載量を増やすとともに、尾翼と主翼の燃料タンク間で燃料を移送して機体の重心位置を制御するシステムが搭載された。このシステムによって機体の姿勢を一定に保つのに必要なトリム抵抗を最小限に抑えられ、運航経済性の向上が図られた。A300‐600Rの初号機は通算420号機で1987年12月9日に初飛行し、1988年3月10日に型式証明を取得して同年4月20日にアメリカン航空へ初引き渡しが行われた。その他、A300‐600シリーズでも貨客転換型のA300‐600Cと純貨物型のA300‐600Fが開発された。 ===その後の展開=== エアバス・インダストリーは、A310とA300‐600に続く製品開発も進め、同社初の単通路機(ナローボディ機)であるA320を開発した。A320での飛行制御システムはA300‐600から一段と進化し、完全なグラスコックピットとなり操縦装置も従来の操縦桿に替えてサイドスティックが採用された。旅客機へのサイドスティックの導入はこれが初めてであり、A300の3号機を試験機に充てて新しいコックピットとシステムを組み込んで入念な試験飛行が行われた。A320は1987年2月に初飛行して1988年2月に型式証明を取得し、1988年3月に航空会社への引き渡しが始まった。 さらにワイドボディ機の分野でも、エアバス・インダストリーはA300より大型で長航続距離の旅客機市場へ進出を図り、大型双発機のA330と4発機のA340を同時並行的に開発した。A340は1993年2月、A330は1994年1月にそれぞれ路線就航を開始した。A330とA340の胴体断面はA300と同じものが用いられたが、主翼は新設計となったほか、A320と共通性の高いコックピットやシステムが導入された。A320以降の操縦システムの共通化により、相互乗員資格(Cross Crew Qualification, 以下CCQ)制度が認められ、対象機種の操縦資格を持つ操縦士は、短期間の転換訓練で別機種の操縦資格を取得できるようになった。 エアバス・インダストリーは、A320以降の機種でも参加各国でパーツやコンポーネントの生産を分担する体制を続けていた。これまで、参加各国で生産されたコンポーネントの輸送には「スーパーグッピー」輸送機が用いてきたが、同機が旧式化したことに加え、エアバス・インダストリーの事業が急成長したことで、これに対応するために新しい輸送機が必要になった。そこで、1991年8月、エアバス・インダストリーはA300‐600Rをベースとした新型輸送機A300‐600ST「ベルーガ」を開発することを正式決定した。A300‐600STは、主翼やエンジンなどをA300‐600Rと同じくし、大型貨物を収容できるよう胴体上半分が極めて太いものとなった。A300‐600STは1994年9月13日に初飛行し、1995年10月25日に引き渡しが始まった。A300‐600STは2001年までの間に5機生産され、全機がエアバス子会社の「エアバス・トランスポート・インターナショナル」(Airbus Transport International)で運航され、これによりエアバス機の生産に従事していたスーパーグッピーは全機退役した。 1980年代前半まで民間航空機市場におけるエアバス・インダストリーのシェアは、納入機数で20パーセントに届くか届かないかだったが、1999年に初めて受注機数でエアバス・インダストリーがボーイングを上回った。エアバス・インダストリーは参加国政府の様々な後押しを受けて急成長したが、決算報告書も存在しない企業連合 (GIE) という形態が問題視されるようになり、構成各社や政府内からも財務情報の公表も含めた組織の健全化が求められるようになった。そこで会社形態を単純型株式資本会社(フランス語版) (SAS) に転換することになり、2001年に新会社へ移行して社名も「エアバス」(Airbus S.A.S.)に変わった。 A300‐600登場後の引き渡し数は、1980年代末から1990年代前半まではおおむね毎年20機超であったが、A340・A330の納入が始まり1990年代半ばになると売れ行きが鈍り、毎年10機程度の生産となった。CCQの対象外であったA300とA310は、A320から始まったエアバス機のファミリー化の流れから取り残される形になった。1990年代後半にはエアバス関係者は、A300が担っていた市場は、A330の短胴型であるA330‐200(座席数およそ250席)が代替するようになったとの見方を示している。また、この関係者は中距離ワイドボディ機市場には、航続力や運用の柔軟性でA300/A310よりも勝るボーイング767の存在することを認めている。2006年3月8日、エアバスはA300とA310の生産を2007年7月で終了すると発表し、以降は受注済み機体の生産を終え次第、製造ラインを閉じることとなった。A300‐600の最終生産機は製造番号878号機のA300‐600Rの貨物型であり、2007年4月18日に初飛行し、同年7月17日にフェデックスに引き渡された。 A300はA310と合わせて822機生産され、そのうちA300第1世代が250機、A300‐600シリーズは317機であった。顧客への引き渡し総数は561機であり、内訳は第1世代が249機、A300‐600シリーズが312機であった。また、A300‐600STは、全5機がエアバス関連企業のエアバス・トランスポート・インターナショナルで運航されている。 ==機体の特徴== 本節では、基本的にA300第1世代の特徴について説明する。A300‐600およびその派生型については「エアバスA300‐600」を参照。 ===形状・構造=== A300の最大の特徴として、250席から300席級というサイズの旅客機を双発機として実現したことがあげられる。A300は、客室内に2本の通路をもつワイドボディ機である。片持ち式の主翼を低翼に配置した単葉機であり、左右の主翼下に1発ずつターボファンエンジンを備える。尾翼も低翼配置で垂直・水平尾翼ともに胴体尾部に直接取り付けられている。降着装置は前輪式配置で機首部に前脚、左右の主翼の付け根に主脚がある。A300第1世代の機体全長は53.62メートル、全幅は44.84メートル、全高は16.53メートルである。 A300の胴体は真円形断面で外径が5.64メートル、胴体長はA300B2/B4で52.03メートルである。A300の胴体外径は巡航時の抵抗を抑えるため、同時期に開発されたワイドボディ機のDC‐10(6.03メートル)やL‐1011(5.97メートル)よりも細い。胴体構造は円形断面のフレーム(円框)と前後方向に延びる縦通材、そして外板の組み合わせで強度を保つセミモノコック構造である。フレームは21インチ(53センチメートル)間隔で配置され、1座席列に最低1か所の窓が確保できるようになっている。A300は胴体尾部がかなり細長くなっているのが特徴で、離着陸時に引き起こし角を十分にとれるよう尾部下面を大きく跳ね上げた形状となっている。これにより客室後部の床は、後方に向かって僅かに上り勾配がつけられている。尾部を長くしたことで尾翼面積が小さく済み、巡航時のトリム抵抗低減などの利点があるとされたが、発展型のA300‐600では胴体の平行な部分を延ばして尾部構造は短縮されている。 主翼はテーパーのついた後退翼である。主翼は胴体と一体となった中央翼と左右の片持ち翼で構成される。片持ち翼は、翼幅方向に延びる桁を複数配置し、前後の桁と上下の外板とで箱型を作り応力を分担する箱型応力外皮構造である。A300の片持ち翼は、エンジンパイロンのやや外側を境に外翼と内翼に分けられ、外翼は2本桁構造、内翼は3本桁構造となっている。A300の主翼外板は外翼部と内翼部で分割して継ぎ手で繋ぐ方式を採用し、複雑な曲面の製造を避けている。フェイルセーフ性を確保するため747、DC‐10、L‐1011といった他のワイドボディ機では翼幅方向には継ぎ目を設けていないが、主翼の製造を担当したホーカー・シドレーは当時、翼幅にわたる一枚式の外板を製造できる設備をもっていなかったため、製造方法をシンプルにできる構造が採用された。 主翼平面形の主なパラメータを見ると、全幅が44.84メートル、主翼面積が260平方メートルでアスペクト比は7.7である。25パーセント翼弦における後退角が28度と比較的浅い一方、翼厚比は10.5パーセントとやや厚めである。浅い後退角は低速時の操縦性を向上しやすいほか、翼根部の曲げモーメントの低減にも繋がり、厚い翼厚比と合わせて構造強度上有利であり構造重量の低減が図られている。 主翼の翼型には開発当時の最新技術である「リア・ローディング翼型」が採用されている。この翼型の翼断面は前縁が大きな丸みを帯び、上面は比較的平らで下面は後縁がえぐられたような形状である。高亜音速や遷音速で飛行すると、機体の飛行速度がマッハ1以下でも翼面上を流れる空気は局所的に音速を超えることがある。音速を超えた気流は大きな負の圧力を示し、翼を引きつけるよう作用する。しかし、この気流は翼面上の後方に向かって最終的に飛行速度まで減速するため、音速以下に戻るところで衝撃波が発生して抵抗の急増や飛行性の急変を起こす。巡航状態におけるリア・ローディング翼型の圧力分布は、翼上面の前縁付近に負圧が最大になる地点(すなわち流速が最大になる地点)があるがそのピークは従来のピーキー翼型と比べて低く、翼表面の流速が音速を超えても抵抗が急増しない。続く上面の圧力分布は翼弦長の中程までほぼ一定で、そこから後縁に向けて穏やかに低下する。一方翼下面では、一旦負圧が上昇するが後半部のえぐりにより流れが減速されて上面との圧力差が確保されるため、翼弦上の後方で多くの揚力を得ることができる。この翼型の特性は、1960年代にアメリカ航空宇宙局 (NASA) が開発したスーパークリティカル翼型と基本的に同じであるが、翼の設計を行ったホーカー・シドレー社は、NASAとは独立にリア・ローディング翼型の開発に至ったとしてスーパークリティカル翼型の一種とは認めていない。リア・ローディング翼型は衝撃波の発生を遅らせ揚力係数を増加できることから、後退角と翼厚比を同じくした場合に従来の翼型よりも高速で飛行できる。しかし、欧州域内を結ぶ短中距離機として開発されたA300では高い巡航速度は不要とされ、前述の通り後退角を減らし翼厚比を大きくする設計がなされた。主翼の空力設計が優れていたことが、A300が成功した要素の一つとも言われる。 中央翼が貫通する胴体部分は、胴体のモノコック構造をそのまま通しているが与圧はされていないため、中央翼の上面に与圧を受けられるよう5本のトラス・ビームを通している。A300の主翼は低翼配置であるが、客室床の位置が比較的高いことから中翼に近い形で取り付けられている。これにより胴体の円筒内に主脚やエアコン装置を収納するスペースが確保できたため、胴体下側に翼と胴体の表面を滑らかに繋ぐフィレット(翼胴フェアリング)が張り出していない。 主翼には動翼として、高揚力装置、エルロン、スポイラーを備える。 高揚力装置には前縁に基本的にスラット、後縁にファウラーフラップを備える。スラットは主翼のほぼ全幅にわたり配置され片翼あたり3分割されている。他機ではスラットが途切れるエンジンパイロン部分についても、A300ではパイロンを避ける切り欠きを入れてスラットを通すことで揚力を稼いでいる。A300B1およびA300B2‐100以外では離着陸性能を向上させるため前縁の翼根部にクルーガー・フラップが追加されている。スラットの展開角度は、着陸時には揚力係数が最大となる25度、離陸時には揚抗比が最大となる16度である。後縁のフラップは、展開時に2本の隙間が現れるダブルスロット型ファウラーフラップである。フラップは内翼部と外翼部で2分割され、後縁全幅の84パーセントを占める。このフラップは、まず後方に移動し、その後回転しつつ滑り降りるように展開される。フラップの後ろ側1枚はタブと呼ばれ、前側の1枚よりもさらに折れ曲がる機構を用いている。エアバスでは、この方式により簡単な機構で性能を高くできるとしていた。全開時には翼弦長が25パーセント増え、フラップが下がり始める前に7割まで展開される。フラップは、着陸時には揚力係数が最大となる25度まで全開になり、離陸時には揚抗比を稼げる16度までの展開となる。 エルロンは低速度エルロンと全速度エルロンの2枚を備える。全速度エルロンは内翼部フラップと外翼部フラップの間に、低速度エルロンは外翼側フラップより翼端側に配置されている。エルロンリバーサルを防ぐため、翼端側の低速度エルロンはスラットやクルーガー・フラップが展開されている時のみ作動する。全速度エルロンは、フラップの作動と連動してフラップと同様の効果を発揮するフラッペロンとしても働く。 主翼上面にはスポイラーが配置されている。スポイラーは片翼あたり7枚で、内翼側フラップの前方に2枚、外翼側フラップの前方に5枚である。内舷側から数えて4枚は、グラウンドスポイラー(空力ブレーキ参照)としてのみ機能し、外弦側の3枚はフライトスポイラーとしても働く。エルロンとスポイラーの横操縦能力の分担は、高速飛行時では80パーセントが全速度エルロン、20パーセントがスポイラーによって行われ、低速では全速度エルロンと低速度エルロンがそれぞれ36パーセント、スポイラーが28パーセントを分担しているとされる。 水平尾翼は水平安定板と1枚式の昇降舵で構成される。逆キャンバー(後縁がそり上がる形状)の翼断面を持ち、翼幅が16.94メートル、翼面積が69.5平方メートルである。ピッチ方向のトリム調整(釣り合う姿勢の調整)ができるよう水平安定板自体が可動式となっており、油圧モータでボールスクリュージャッキが駆動されて+3度から‐12度まで角度をとれる。垂直尾翼は垂直安定板と1枚式の方向舵で構成される。片側エンジン停止時の操縦性と横風時の着陸性能などを考慮して方向舵面積が大きく、同時に横方向の動安定を満足するよう垂直安定板も大きいため、翼面積は45.2平方メートルである。尾翼も箱型応力外皮構造で、垂直尾翼の下半分は3本桁でそれ以外は2本桁構造、舵面は板金構造である。 エンジンはパイロンにより主翼下に1発ずつ吊り下げられている。A300のエンジンポッドは補器やパイロン取り付け面も含めてDC‐10‐30と同じで、違いは配管等の僅かな配置程度である。胴体尾部には補助動力装置 (APU) としてガスタービンエンジンが搭載されている。APUも当初はDC‐10と同じものが採用されたが、A300にはやや大きすぎたことから、後により軽量・低騒音・低燃費のAPUに変更された。 燃料タンクは主翼外翼の桁間全体が充てられ、左右それぞれのエンジンに燃料を供給するほか、左右タンク間での燃料移動も可能である。タンクは内舷側と外弦側に2分割されており、翼の強度的な負荷を抑えるため内側タンクの燃料から使用される。APUへの燃料供給も翼内のタンクから行われる。A300B4では中央翼の桁間にも燃料タンクが設けられた。さらに、A300B4‐200では、後方貨物室に搭載可能なLD‐3貨物コンテナ2個分に相当する追加燃料タンクがオプション設定されている。 降着装置は引き込み式で、前脚は2輪式で前方へ格納、主脚は4輪ボギー式で内側へ格納される。主脚の車輪はアンチスキッド機能付きの油圧ディスクブレーキを有する。主脚のタイヤとブレーキはB2からB4への重量増に対応して次第に強化されている。尾部にはテールスキッドを備え、離着陸時に尾部が地面に接触してしまった際にはショックを吸収できるようになっている。 A300の主要構造部材の大部分はアルミニウム合金が使用されている。主要部分の一部にはスチールやチタン合金も用いられているが、マグネシウム合金は一切使われていない。主翼の縦通材と外板はリベット接合で、胴体については外板とフレームはリベット、外板と縦通材は接着により接合されている。DC‐10では接着は腐食の問題があるとして主構造部材には全く使用しなかったのと対照的に、エアバスでは腐食対策を十分に施すことで接着も採用された。また、費用対効果が見合う部品には一体削り出しも多用された。そのほか、二次構造部材の一部には複合材料も採用されている。たとえば、垂直安定板の縁部、翼胴フェアリングおよびトラックレールのフェアリングなどにはガラス繊維強化プラスチック (GFRP) が用いられ、水平安定板の翼端の一部には炭素繊維強化プラスチック (CFRP)が用いられている。 ===飛行システム=== A300第1世代の操縦システムは機械式で計器類も機械電気式である。運航に必要な操縦士は機長、副操縦士、航空機関士の3人であり、A300第1世代はエアバスの旅客機で唯一の3人乗務機となったが、後に航空機関士を除く2名でも運航可能なFFCC(後述)と呼ばれるコックピット仕様が開発された。 A300第1世代のシステムは、双発機であっても3発機や4発機と同等の保護安全装置や回路を装備させるよう設計されている。全てのシステムは、カテゴリーIIIaの自動着陸能力に対する要求を満たすよう設計されている。APUを空中で使用可能にするなどしてシステムは二重あるいは三重に冗長化されている。特に飛行の安全に重大な影響を及ぼす主要システムについては2種類の機器が故障してもシステム全体が使用不能にならないよう安全性が確保されている。 油圧は完全に独立した3系統が同時に機能し、どの1系統が故障しても操縦能力は十分で2系統が故障しても飛行と着陸が可能である。このため翼の舵面には、予備の人力操縦系統は搭載されていない。油圧3系統は、それぞれブルー、グリーン、イエローと名付けられており、エンジン駆動のポンプによって作動する。グリーン系統だけは電源ポンプも備えておりAPUの電源で作動可能であり、さらにグリーン系統から油圧モータを介して残りの2系統を作動させることもできる。また、エンジンとAPUが全て停止した時には、ラムエア・タービンのポンプによりイエロー系統を作動させることが可能である。 コックピットの各システムの制御パネルにはそのシステムの概要が図示されているほか、操作機器類の配置はシステムを構成しているロジックと同じ連続性を持つよう配置されている。各表示機器も実際のシステム構成要素の配置と相関を持つように配置され、操縦士が状況を把握しやすいよう工夫されている。主警報パネルは3名の乗務員から見やすいよう、中央のパネルに取り付けられている。航空機関士のシステムパネルは右舷側にあるが、エンジン始動後は着陸して停止するまで航空機関士が前向きに座って乗務できるよう操作パネルが配置されている。この考え方をさらに一段階すすめて開発されたコックピットがFFCC(Forward Facing Crew Cockpit の略)であり、システムパネルの機器類を中央のオーバーヘッドパネル(コックピット天井のパネル)に移設して航空機関士は常時前向きで乗務できるようにし、必要であれば操縦士2名だけでも運航可能となった。 A300第1世代の飛行システムやコックピットは、アビオニクスの技術進歩に対しても対応できるよう、機器類の搭載スペースや冷却能力には余裕をもって設計された。特にブラウン管 (CRT) を利用したディスプレイの搭載や計器類の増設、そして電気信号を介して動翼を操縦するフライ・バイ・ワイヤの導入にも備えた設計がなされた。実際にA300の派生型として開発されたA310や、A310の技術をA300にフィードバックした発展型のA300‐600ではCRTディスプレイを用いたいわゆるグラスコックピット化が実現し、操縦系統の一部にはフライ・バイ・ワイヤも採用され、正副操縦士のみの2人乗務での運航が標準となった。 安全性に対するリスクを抑えつつ整備性を向上させるようシステムの分離も図られてり、A300第1世代では特に電源系統と油圧系統の分離が重点的に行われている。整備および点検を簡素化できるよう、システムの各構成要素は整備性の良い場所にまとめて配置され、その近くには取り外しを行いやすいアクセスパネルが設けられている。複雑なシステムおよびサブシステムには、BITE (Built In Test Equipment) と呼ばれる検査装置が装備されている。BITEはシステムの作動状況や故障状態を自動的に検知して、表示・記録することができ、整備や飛行前点検などにおける業務負荷の軽減が図られている。 A300のシステム構成要素は一部を他機種とも共通性・互換性があり、特にDC‐10とは広範囲に及ぶ。エンジンポッド全体はDC‐10‐30と同じでAPUや発電機、エアコン装置や防氷装置等の主要部もDC‐10と同じであるほか、油圧ポンプは747、DC‐10、L‐1011と同じであり、主要機器のなかの80点は米国製の機体と共通である。 ===客室・貨物室=== A300の胴体は中央付近の床面を境として上層に客室、下層に貨物室が配置されている。キャビンは常用圧力差が8.25重量ポンド毎平方インチ(約570ヘクトパスカル)に与圧され、エンジンまたはAPUから得られる高圧空気を温度調整してキャビンに送られる。 A300の客室は最大幅が5.35メートル、最大高が2.54メートル、長さは初期のA300B1を除くと39.15メートルである。客室内には通路が2本配置され、標準的な座席配置は上級クラスでは2‐2‐2の6アブレストまたは2‐3‐2の7アブレストであり、エコノミークラスでは2‐4‐2の8アブレストで座席間隔を詰めれば3‐3‐3の9アブレストも可能である。真円形胴体を持つ旅客機では、客室の床面位置を断面円の中心からある程度低くした方が窓際座席のゆとりを確保しやすくなる。しかし、A300では細い胴体径で床下にLD‐3貨物コンテナを2列で収容できる貨物室スペースを確保するため、床位置は相対的に高くなっている。断面の円の中心から床までの距離は、DC‐10では46センチメートル、L‐1011では48センチメートルあるが、A300の場合は18センチメートルである。そのためA300では円の曲率の影響で窓側席の上部が狭くなってしまうことから、座席と側壁との間を10センチメートル空けている。エアバスによる標準座席数は2クラス編成で251席(上級クラス26席+エコノミークラス225席)、エコノミーのモノクラス編成では269席から302席であり、非常口により決まる上限座席数は345席(A300B1は323席)である。客室の扉配置は左右対称で、乗降用ドアは客室最前部、最後部、主翼の前方部に1組ずつ6か所あり、加えて主翼後方に非常口が1組配置されている。客室の窓は上下を丸めた小判形で寸法は230×340ミリメートルである。 座席の頭上には手荷物を収納するためのオーバーヘッド・ストウェージが配置されている。左右の座席のストウェージは標準装備でエコノミークラスの中央列のものはオプション扱いだったが、中央列にも採用する航空会社が多かった。機内エンターテインメント設備は基本的にはイヤホンにより音楽等のサービスを提供するオーディオ・システムのみだったが、短中距離線用の旅客機ということで機体価格を抑えるため、初期にはエンターテインメント設備を一切装備しない運航会社もあった。一方、時代と共に機内設備品が進歩したことから、エンターテインメントシステムを新しいものに置き換えた航空会社もあった。 床下貨物室は3室に分けられており、主翼を挟んで前方貨物室と後方貨物室があり、その後ろにバルク貨物室がある。床下貨物室のドアは右舷にあり、前方・後方貨物室には外開き式扉が各1か所、バルク貨物室には内開き式扉が1か所ある。前方・後方貨物室はLD‐3航空貨物コンテナを左右に並べて搭載できる幅を持っており、コンテナをそれぞれ12個、8個まで収容可能である。コンテナやパレットの積み下ろしを行うため、前方・後方貨物室には動力付きローラー式の積載装置が備わっており、ドア近くのコントロールパネルにて操作する。747やDC‐10、L‐1011などのワイドボディ機と同規格のパレットやコンテナを搭載可能であることから、航空会社は地上設備等を共用でき、中継地の空港で他のワイドボディ機からコンテナのまま貨物を載せ替えることも可能である。前方貨物室は煙探知器と消火装置を備え、後方貨物室は煙探知器のみで消火装置は持たない。 ==シリーズ構成== 出典:EASA 2014GE: ゼネラル・エレクトリック、P&W: プラット・アンド・ホイットニーA300はA300‐600より前に開発されたタイプ(第1世代)とA300‐600以降で開発されたタイプがある。A300第1世代はエアバス・インダストリーが初めて開発・製造した旅客機で、A300‐600は第1世代の機体構造を基本に先進技術が導入された発展型である。以下本節ではA300第1世代のシリーズ構成について述べる。A300‐600およびその派生型(A300‐600R、A300‐600Fなど)については「エアバスA300‐600」を参照のこと。また、A300‐600Rをベースに開発された大型貨物輸送機A300‐600STについては「ベルーガ」を参照のこと。 A300第1世代の型式名は装備するエンジンによって細分化されている(表2)。GE製CF6エンジンとP&W製JT9Dエンジンを装備する機体が生産された。R‐R製のRB211エンジンを装備する仕様も提案されていたが、採用する航空会社が現れず生産されなかった。 ===A300B1=== A300で最初に製造されたモデルで1972年10月28日に初飛行し、1974年11月12日に型式証明を取得した。A300B2が開発されるとそちらに注文が集中したため、製造されたA300B1は1号機と2号機のみである。1号機はエアバス・インダストリーが所有し、1974年8月まで各種試験に用いられてその後は展示機となった。2号機はリースされてトランス・ヨーロピアン・エアウェイズ(英語版)によって商業運航に用いられ、1990年11月に引退した。 ===A300B2=== ====A300B2‐100==== エールフランスの意向を受けてA300B1の胴体を2.65メートル延長し、単一クラスでの標準座席数を281席としたタイプである。最初の機体は通算3号機で1973年6月28日に初飛行した。1974年3月15日、フランスおよびドイツの航空当局から型式証明が交付された。1974年5月11日にエールフランスに引き渡され、その月の23日に初就航した。 当初は単にA300B2、あるいはA300B2‐1C、A300B2‐1Aと呼ばれていたが、1978年4月にエアバス・インダストリーは型式名の整理を行い、クルーガー・フラップを持たないA300B2をA300B2‐100と呼ぶようになった。A300B2‐100は30機が生産された。 ===A300B2‐200=== 当初はA300B2Kと呼ばれていたが、1978年4月の型式名の整理によりA300B2‐200に変更された。主翼前縁の翼根部にA300B4と同じクルーガー・フラップを装備することで、高地や高温地域での離着陸性能を向上させたタイプである。A300B2Kでは、空力的な特徴に加えて強力なブレーキを備え、ナローボディ機のDC‐9や727よりも短い滑走路から離陸でき、着陸も727と同等の滑走路の使用が可能であり、2,000メートルの滑走路でも余裕のある離着陸性能を持っていた。 通算32号機がA300B2Kの初号機となり1976年7月30日に初飛行し、11月23日に南アフリカ航空に初引き渡しが行われた。A300B2KとA300B2‐200を合わせて25機が生産された。日本の東亜国内航空が最初に導入したA300もA300B2Kであった。 ===A300B2‐300=== A300B2‐200の最大離陸重量を増加し、短距離区間を頻繁に離着陸するような路線に適した機材として開発された。A300シリーズでP&W製JT9Dエンジンを採用した最初の機体となった。 通算79号機がA300B2‐300の初号機となり、1979年4月28日に初飛行、1980年1月4日に型式証明を取得した。当型式を採用したのはスカンジナビア航空のみであり4機が生産された。 ===A300B4=== ====A300B4‐100==== イベリア航空の要求によりA300B2の中央翼内に燃料タンクを増設し、最大離陸重量も150トンに増やして航続距離を伸ばしたタイプである。重量増加に対応して離陸性能を確保するため、主翼前縁の翼根部にクルーガー・フラップが追加された。A300B4の開発により、もともと短距離型として開発されたA300が中距離路線にまで使える幅の広い旅客機に成長し、結果的に販売の中心はA300B4となった。 通算9号機がA300B4の初号機となり、1974年12月26日に初飛行、1975年3月26日に型式証明を取得した。しかし、最初の発注者だったイベリア航空が注文をキャンセルしたため、ドイツのチャーター便航空会社のジャーマンエア(ドイツ語版)が最初の納入先となり、1975年6月1日に初就航した。最大離陸重量を157.5トンに増加したタイプも開発され、1976年6月10日に型式証明が交付された。さらに、構造を強化して最大離陸重量を165トンまで増加したタイプ(次節参照)が登場し、基本構造のA300B4はA300B4‐100と呼ばれるようになった。A300B4‐100は66機が生産されたほか、スカンジナビア航空のA300B2‐300は全4機が当型式に改造された。 ===A300B4‐200=== 主翼と主脚(降着装置)の強度を向上し、ブレーキとタイヤの容量を増すことで最大離陸重量を165トンまで増加したタイプである。A300B4‐200では貨物室内に燃料タンクを増設でき、その場合の航続距離は3,000海里(5,560キロメートル)となった。 A300B4‐200は1978年1月にエールフランスから初受注し、当型式の初号機は通算70号機で1979年4月26日に型式証明を取得、同月末から引き渡しが始まった。100機が生産されたほか、A300B4‐100からA300B4‐200仕様に改造された機体もある。操縦士2名での運航が可能名FFCC仕様もある。 ===A300C4=== A300B4をベースに開発された貨客転換型で、正式な型式名はA300C4‐200である。メインデッキ(客席部分)に貨物を搭載できるよう左舷前方に幅3.58メートル、高さ2.57メートルの貨物扉を設置し、床面強化とメインデッキへの煙探知器の追加を行い、内装も貨物向きに変更している。メインデッキに貨物を搭載するときは、座席のかわりに貨物積載装置を取り付け、前方に9Gに耐えられるバリヤーネットを張ってコックピットを保護する。メインデッキの貨物室容積は173 ‐ 179立方メートルであり、客室内装を残したままで88×125インチ(2.23×3.17メートル)の貨物パレットを13枚、96×125インチ(2.44×3.17メートル)の貨物パレットでは12枚を収容可能である。旅客機として運用する場合の座席数は281席で、繁忙期は旅客機として、閑散期は貨物機または貨客混載機といった運用が可能である。貨物用から旅客用へは24時間で転換できる。 A300C4は、ドイツのハパックロイドから初受注し、A300B4‐200として完成した83号機をドイツ・ブレーメンのVFW社に空輸して1975年5月から改造作業を行った。1979年12月18日に型式証明を取得し、同月中にハパックロイドへ納入された。初めからA300C4として生産されたのは4機であるが、このうちの2機は納入前にA300F4(次節参照)に改造された。 ===A300F4=== A300C4と同様にメインデッキに貨物を搭載可能とした貨物専用型であり、正式名称はA300F4‐203である。エアバス・インダストリーでは早くからA300の貨物型を提案していたが、第1世代では新造機での受注はなく全て旅客型またはA300C4からの改造により製造された。A300F4の初号機は通算277号機で、A300C4‐200として1983年9月29日に初飛行していた機体を改造し、1986年6月6日の型式証明取得後に大韓航空に引き渡されたものである。この改造はイギリスのBAeによって行われた。A300‐600シリーズでも純貨物型も提案され、こちらは新造機での受注もあった(詳細は、A300‐600を参照)。 ===A300 ZERO‐G=== フランスのノヴァスペース(フランス語版)社が提供している航空機実験サービスにA300が使用された。この機体はA300 ZERO‐Gと名付けられ、放物線飛行を行うことで微少重力環境をつくり出す。A300 ZERO‐GはA300B2の通算3号機を改造したもので、放物線飛行に必要な操縦を行えるコックピット、飛行状況を記録する計測装置類、そして実験機器を搭載できるキャビンを備える。1回の放物線飛行で作り出せる微少重力状態は20秒間ないし25秒間で、重力加速度は‐0.02Gから0.02Gである。放物線飛行の前後では各20秒間1.8Gの加重がかかる。1回の飛行で最大40回まで放物線飛行を行え、最大ペイロードは12トンである。A300 ZERO‐Gは1997年から運用を開始し、18年間に13,000回以上の放物線飛行を行った。構造に高負荷のかかる飛行を繰り返すことから、年々それに耐えるための整備が難しくなり、A310をベースとした新しい「ZERO‐G」に後を引き継ぎ、2014年10月に引退した。 ==運用の状況== A300はシリーズ全体で561機が顧客へ引き渡された。そのうちA300第1世代が249機で、A300‐600シリーズが312機であった。この他、A300‐600STは5機ともエアバス・トランスポート・インターナショナルにより運用されている A300第1世代の新造機での導入数が最も多かったのは、イースタン航空でその数は32機であった。10機以上の新造機を導入したのは、欧州ではエールフランス (23) とルフトハンザ航空 (11)、米国ではイースタン航空とパンアメリカン航空 (12)、アジアではタイ国際航空 (12)、東亜国内航空(後の日本エアシステム) (11)、大韓航空 (10)、インディアン航空 (10)であった(括弧内は導入機数)。 A300‐600シリーズを新造機で最も多く導入したのはUPS航空で53機、次いでFedExが42機導入しており、貨物航空会社が上位を占めた。新造機を10機以上導入した旅客航空会社は、導入数の多い順にアメリカン航空 (34)、大韓航空 (24)、日本エアシステム (22)、タイ国際航空 (21)、ルフトハンザ航空 (13)、サウディア (11)、チャイナエアライン (10)、中国東方航空 (10)、ガルーダ・インドネシア航空 (10)であった。 エールフランス、ルフトハンザ航空、イベリア航空、アリタリア航空といった欧州の主要航空会社は、A300を欧州内幹線で運航した。A300第1世代の運航機数が最も多かったのは1980年代後半で約240機をピークに引退が進み、A300‐600については2000年代中盤の約290機をピークに引退が進んでいる。初期の運航会社が放出した機体は、中古機として中小規模の航空会社で採用されたほか、貨物専用型へ改造され貨物航空会社でも運航されている。 2017年7月現在では、A300第1世代が13機、A300‐600シリーズが198機運用されている。運用数の半数以上は貨物航空会社によるもので、運用数の首位はFedEx (68)、以下UPS航空 (52)、DHLの関連会社であるユーロビアン・エア・トランスポート(英語版) (21) と続き、上位3社ともA300‐600のみの運用である。旅客航空会社でA300を運航しているのは中東やアフリカの航空会社を主とした数社で、マーハーン航空 (12)、イラン航空 (7)、エジプト航空 (3) などとなっている。運用数の中には5機のA300‐600STも含まれる。 ===日本での運航=== 日本の航空会社では東亜国内航空(後の日本エアシステム)と佐川急便グループのギャラクシーエアラインズがA300を採用した。東亜国内航空は日本エアシステム時代から日本航空との統合後まで含めて、A300B2Kを9機、A300B4を8機、A300‐600Rを22機と延べ39機を運航した。ギャラクシーエアラインズはA300‐600Rの貨物型を2機運航した。そのほか、大韓航空やタイ国際航空、フィリピン航空、中国の航空会社などが日本への国際便にA300を用いた。また、パンアメリカン航空はアジア路線にA300を投入し日本へも乗り入れていた。 A300は東亜国内航空の初のワイドボディ機となり、同時に日本の航空会社が導入した最初の欧州製ジェット旅客機となった。日本のローカル国内線を中心に運航していた東亜国内航空はDC‐9の次に導入する大型機の選定にあたり、主にA300とDC‐10を比較検討した。その結果、DC‐10ほどの大きさや航続距離性能は不要とされ、双発で整備性・経済性に有利で地方空港の2,000メートルの滑走路でも離着陸できる機材としてA300B2Kが選定された。実績の無い欧州製で世界初の双発ワイドボディ機の導入ということで心配する声もあったが、事前調査の上で1979年5月に最初の受注契約が交わされた。初納入に先立つ1979年11月、入間基地で開催された国際航空宇宙ショーにエアバス・インダストリーはA300のデモ機を出展した。この時の機体はエアバスのコーポレートカラーであるレインボーカラーに「東亜国内航空」とペイントされており、これを見た東亜国内航空の役職員が感激し、同社の機体塗装にレインボーカラーを譲り受けることとなった。 東亜国内航空への初引き渡しは1980年10月で、翌年3月に羽田 ‐ 鹿児島線で初就航した。その後、ワイドボディ機でありながら滑走路長が2,000メートルの地方空港へも就航できる離着陸性能を活かし羽田と北海道、東北、九州を結ぶ路線に相次いで投入されローカル路線網の充実に貢献した。増加する旅客数に対応し、A300B2Kに続いてA300B4を追加発注しようとしたが、当時既にA300‐600の生産に移行していたことから新造機では数を揃えられず海外の航空会社から中古機を買い集めた。また、1988年4月には東亜国内航空は日本エアシステムへ社名変更し、その年の7月に同社初の国際定期便となる成田 ‐ ソウル線が開設されA300B4が就航した その後、日本エアシステムは、輸送力の強化と国際線へも就航できる機材としてA300‐600Rの導入を決め、1991年4月に最初の機体を受領した。この時のA300‐600Rは第1世代の後継というより機材増強の側面が強く、第1世代は主に国内線、A300‐600はアジア地域への国際線の強化に振り向けられた。日本エアシステムは東亜国内航空時代からA300の定時出発率99.5パーセント以上を維持し、エアバスから最優秀運航者として2度表彰された。 日本エアシステムが日本航空と経営統合した後もA300は引き継がれたが、第1世代機は2002年から引退が始まり、2006年3月31日に運航を終了した。第1世代は予め引退が計画されていたため統合後もレインボーカラー塗装で運用された。一方のA300‐600Rは新しい日本航空の塗装に塗り替えられ国内線で運航された。2008年のリーマン・ショックをきっかけに日本航空は経営難に陥り、再建策の一環として機種整理を行いA300‐600Rも引退することとなった。当初の引退予定は2011年3月だったが、その月の11日に発生した東日本大震災を受けて被災した東北への輸送力増強に充てられたことで引退は一旦延期され、5月31日の青森発羽田行きの便をもって運航を終えた。 ギャラクシーエアラインズは2005年5月に佐川急便が設立した貨物専門航空会社で、A300‐600Rの中古機を改造した貨物機を導入し、翌年10月に羽田と北九州ならびに那覇空港間で運航を開始した。2007年4月には新造機で2機目を導入し、新千歳と羽田ならびに関西国際空港間でも就航も開始した。しかし、燃料費高騰や機材の不具合により運航・整備コストがかさみ、当初計画より大幅な赤字となり2008年8月に事業停止と清算を決定し、同年10月に全路線を廃止した。 ===受注・納入数=== 顧客へ納入されたA300シリーズは、総計561機である。内訳は、A300第1世代が249機、A300‐600シリーズが312機であった。 ==主な事故・事件== 2017年1月現在、A300が関係した航空事故および事件は73件報告されており、その中には34件の機体損失事故と30件のハイジャックが含まれる。死者を伴う事件・事故は15件発生しており、合わせて1,435人が亡くなっている。 A300の最初の機体損失事故は1982年3月17日にイエメンのサヌア国際空港で発生した。カイロ国際空港行きのエールフランス125便が離陸滑走中にエンジンが破損し、飛び出した破片が燃料タンクを突き破り火災が発生した。この事故で乗客乗員124人の内乗客1人が負傷したが死者は出なかった。機体は修理不能と判断され登録抹消となった。 A300の最初の死亡事故は、1987年9月21日に発生した。ルクソール国際空港に着陸しようとしていたエジプト航空のA300B4‐203が滑走路を700メートル超過して墜落した。同機には乗客は搭乗していなかったが乗員5人全員が死亡した。 A300の事故・事件のなかで最も多くの犠牲者が発生したのはイラン航空655便撃墜事件である。1988年7月3日、アメリカ海軍のミサイル巡洋艦が発射したミサイルによってイラン航空のA300B2‐200が撃墜され、乗客と乗員合わせて290人全員が死亡した。そのほか100人以上の犠牲者が発生した事故には、1992年9月28日に発生したパキスタン国際航空268便墜落事故、1994年4月26日に発生した中華航空140便墜落事故、1997年9月26日に発生したガルーダ・インドネシア航空152便墜落事故、1998年2月16日に発生したチャイナエアライン676便墜落事故、2001年11月12日に発生したアメリカン航空587便墜落事故がある。このうち、パキスタン国際航空268便とガルーダ・インドネシア航空152便の事故はA300B4によるもので、それ以外はA300‐600Rによる事故である。 A300が巻き込まれた最初のハイジャック事件は、1976年9月27日に発生したエンテベ空港奇襲作戦である。エールフランスのA300B4‐203がハイジャックされエンテベ国際空港に着陸した。人質が空港の旧ターミナルに移された後、イスラエル軍による救出作戦が実施されたが人質3名が死亡した。 ==主要諸元== 本節ではA300第1世代の主要諸元を示す。A300‐600およびその派生型の諸元は「エアバスA300‐600」を参照のこと。 GE: ゼネラル・エレクトリック、P&W: プラット・アンド・ホイットニー† 主デッキに貨客混載時の最大。 =サンデーサイレンス= サンデーサイレンス(英: Sunday Silence、1986年 ‐ 2002年)は、アメリカ合衆国生まれの競走馬、種牡馬である。1996年にアメリカ競馬殿堂入りを果たした。そのイニシャルからSSと呼ばれることもある。 ※文中の「GI級競走」は日本のパート1国昇格前および昇格後のGI競走とJ・GI競走、ならびに昇格後のJpnI競走を指す(詳細については競馬の競走格付けを参照)。 ==概要== 1988年10月に競走馬としてデビュー。翌1989年にアメリカ三冠のうち二冠(ケンタッキーダービー、プリークネスステークス)、さらにブリーダーズカップ・クラシックを勝つなどG1を5勝する活躍を見せ、エクリプス賞年度代表馬に選ばれた。1990年に右前脚の靭帯を痛めて競走馬を引退。引退後は日本で種牡馬となり、初年度産駒がデビューした翌年の1995年から13年連続で日本のリーディングサイアーを獲得。さらに中央競馬における種牡馬にまつわる記録を次々と更新した。サンデーサイレンスを起点とするサイアーラインは日本競馬界における一大勢力となり、サンデーサイレンス系とも呼ばれる。 2002年8月19日に左前脚に発症した蹄葉炎を原因とする衰弱性心不全のため16歳で死亡。幼少期は見栄えのしない容貌ゆえに買い手がつかず、生命にかかわる事態に見舞われながら競走馬、さらに種牡馬として成功した生涯は童話『みにくいアヒルの子』に喩えられる。 ==生涯== ===誕生からデビューまで=== ====誕生==== サンデーサイレンスは1985年に繁殖牝馬ウィッシングウェルと種牡馬ヘイローが交配された結果、翌1986年3月25日にアメリカ合衆国ケンタッキー州にあるストーンファームで誕生した。両者が交配された要因は、ニックスとされるマームードのインブリード(4×5)が成立することにあった。 サンデーサイレンスの毛色は、生国のアメリカでは「黒鹿毛ないし青鹿毛 (Dark Bay or Brown)」となっているが、のちに輸入した日本では「青鹿毛」と登録されている 。 ===見栄えが悪く、売れ残る=== 幼少期のサンデーサイレンスは体格が貧相で、後脚の飛節が両後脚がくっつきそうなくらいに内側に湾曲(外弧姿勢、X状姿勢という。そのような体型の馬は下半身の推進力に欠けるとされる)していた。ストーンファームの経営者アーサー・ハンコック3世は幼少期のサンデーサイレンスについて「脚がひょろ長くて、上体は華奢」であったと述べている。さらに幼少期のサンデーサイレンスの馬体はくすんだ鼠色をしており、その容貌は、テッド・キーファーがストーンファームを訪れた際に必ず「あんなひどい当歳(0歳)馬は見たことがない」「目にするのも不愉快」と言うほど見栄えがしなかった。また気性が激しく、扱いの難しい馬であった。 1987年にキーンランド・ジュライセール(ケンタッキー州で行われる、世界的に有名なセリ市)に出品されたが、馬体の見栄えが悪かったサンデーサイレンスはセレクトセール(一定水準以上の血統および馬体をもつと判断された馬が出品される部門)への出品が許可されず、一般部門に出品された。サンデーサイレンスには1万ドルの値がついたが安すぎると感じたハンコックは1万7000ドルで買い戻した。ハンコックはサンデーサイレンスを買い戻したことをトム・ティザム(サンデーサイレンスの母ウィッシングウェルの実質的所有者)に報告し、買い取ってもらおうとしたがティザムは所有する意思がないと答えた(テッド・キーファーのアドバイスによるものだった)ため、そのままハンコックが所有することとなった。翌1988年3月、サンデーサイレンスはカリフォルニア州で行われたトレーニングセールに出品されたが希望販売価格の5万ドルに届かず、3万2千ドルでふたたびハンコックに買い戻された。さらにハンコックは複数の競馬関係者に購入の打診をしたが、ことごとく断られた。 ハンコックはサンデーサイレンスをキーンランド・ジュライセールで買い戻したあと、同馬を友人のポール・サリバンと半分ずつの持ち分で共有した。その後サリバンはカリフォルニア州のトレーニングセールで買い戻された時期に所有する競走馬の調教費用と相殺する形で調教師のチャーリー・ウィッティンガムに持ち分を売却し、ウィッティンガムはそのうちの半分を友人の医師アーネスト・ゲイラードに売却した。なお、サンデーサイレンスが活躍を見せ始めるとハンコックのもとには持ち分を購入したいという申し込みが相次いだが、ハンコックは売却しなかった。 ===疾病・負傷=== サンデーサイレンスは当歳時(1986年11月)に悪性のウイルスに感染し、数日にわたってひどい下痢を起こして生死の境をさまよった。また、カリフォルニア州のセリからの帰り道ではトラックの運転手が心臓発作を起こし馬運車が横転する事故に遭い、競走能力こそ失わなかったもののしばらくまっすぐに歩けなくなるほどの重傷を負った。このとき馬運車に乗っていたサンデーサイレンス以外の競走馬はすべて死亡した。 ===競走馬時代=== ====1988年・1989年==== サンデーサイレンスは同馬の所有権を4分の1持つチャーリー・ウィッティンガムが管理することとなった。調教を進めるなかでサンデーサイレンスの能力を感じ取ったウィッティンガムはハンコックに「あの真っ黒い奴は走る」と電話で報告し、ハンコックを驚かせた。サンデーサイレンスは1988年10月に初めてレースに出走したが2着に敗れ、翌11月に初勝利を挙げた。12月の一般競走でふたたび2着に敗れたあと、ウィッティンガムは余力を残した状態で休養をとらせることにした。 翌1989年3月2日、サンデーサイレンスはサンタアニタパーク競馬場で行われた一般競走でレースに復帰して優勝。さらに同月19日、重賞 (G2) のサンフェリペハンデキャップをスタートで出遅れながら優勝した。この段階で主戦騎手のパット・ヴァレンズエラは「今まで乗った中でも最高の3歳馬」と評し、ウィッティンガムは「ケンタッキーダービーでも5本の指には入るだろう」と述べた。サンデーサイレンスはケンタッキーダービーの優勝候補として競馬ファンに認識され始めた。 ウィッティンガムはサンデーサイレンスのケンタッキーダービー出走について「サンタアニタダービーが終わるまでは分からない」とも述べていたが、4月8日にサンタアニタダービーを11馬身差というレース史上最大の着差で優勝したことを受けてケンタッキーダービー出走を正式に表明。4月半ばにはケンタッキーダービーに備え同レースが行われるチャーチルダウンズ競馬場へサンデーサイレンスを移送した。ケンタッキーダービーはレース前日に20mmを超える雨が降り、1967年以来といわれる悪い馬場状態で行われた。また、発走時の気温は摂氏6.1℃でレース史上最低であった。サンデーサイレンスはスタートで体勢を崩し他馬と激しく接触し、直線で左右によれる素振りを見せる場面も見られた(ヴァレンズエラは馬場の両側から歓声を浴びせられて驚いたからだと、ウィッティンガムは馬場の内側のラチ沿いに並んでいた警備員に驚いたからだとしている)が、1番人気のイージーゴアに1馬身半の着差をつけ優勝。レース後、ウィッティンガムは「この馬は三冠馬になる」と宣言した。 ケンタッキーダービー優勝後、アメリカ三冠第2戦のプリークネスステークスに出走するまでの過程は平坦なものではなかった。まずレース1週間前の5月13日、サンデーサイレンスの右前脚に問題が発生(獣医師の診断は打撲または血腫による跛行)し、レースの4日前まで調教が行えなくなるアクシデントに見舞われた。さらにサンデーサイレンスはレースまでの期間をピムリコ競馬場で過ごしたが、数百人にものぼる観光客やマスコミが馬房に押しかけ、サンデーサイレンスは苛立った様子を見せるようになった。陣営は馬房の扉を閉めてサンデーサイレンスを隔離する措置を講じた。ケンタッキーダービーを優勝したサンデーサイレンスであったが実力はケンタッキーダービーで1番人気に支持されたイージーゴアのほうが上と見る向きが多く、プリークネスステークスでもイージーゴアが1番人気に支持され、サンデーサイレンスは2番人気であった。レースは中盤を過ぎてからイージーゴアがサンデーサイレンスの外に進出し、サンデーサイレンスが前方へ進出するためのスペースを塞ぐ展開となった。そのままイージーゴアは先頭に立ったがサンデーサイレンスが猛然と追い上げ、15秒以上にわたる競り合いの末、数センチの差でサンデーサイレンスが先着し優勝した。このマッチレースはアメリカ合衆国の競馬専門誌『ブラッド・ホース』で行われた読者によるアンケートで、年間ベストレースに選出されている。 ベルモントステークスではアメリカ三冠達成の期待がかかり、サンデーサイレンスはイージーゴアと対戦したレースで初めて1番人気に支持された。しかしレースでは残り400メートルの地点でイージーゴアに交わされるとそのまま差を広げられ、8馬身の着差をつけられ2着に敗れた。 ベルモントステークス出走後、ウィッティンガムはブリーダーズカップ・クラシック優勝を次の目標に据えた。ウィッティンガムはじめ厩舎スタッフはサンデーサイレンスの体調の低下を感じ取っていたが、短い休養を取らせたあとでスワップスステークスに出走した。レースでは逃げの戦法をとったが残り400mの地点で突如失速し、プライズドに交わされ2着に敗れた。レース後、ウィッティンガムはレース途中でほかの馬を引き離し過ぎたことに不満を表した。合田直弘はヴァレンズエラがサンデーサイレンスに鞭を入れ過ぎたことを敗因に挙げている。敗戦を受けて陣営は万全の体調でブリーダーズカップ・クラシックに出走できるよう態勢を整えることにした。9月に入り、ウィッティンガムはブリーダーズカップ・クラシックに向けた前哨戦としてルイジアナ州のルイジアナダウンズ競馬場で行われるスーパーダービーへの出走を決めた。この時期にはサンデーサイレンスの体調は回復しており、レースでは2着に6馬身の差をつけて優勝した。 ブリーダーズカップ・クラシックの1週間前、サンデーサイレンスの主戦騎手パット・ヴァレンズエラに対して薬物(コカイン)検査で陽性反応が出たことを理由に60日間の騎乗停止処分が下され、急遽クリス・マッキャロンに騎手が変更されるアクシデントがあった。しかしサンデーサイレンス陣営は同期のライバルであるイージーゴアが抱えていた脚部不安が深刻化していたことを察知し、勝利に対する自信を深めた。ベルモントステークスのあとG1を4連勝したイージーゴアもブリーダーズカップ・クラシックに出走することが決まり、このレースはエクリプス賞年度代表馬をかけた対決となった。競馬関係者のなかには2頭の対決をボクシングのヘビー級のタイトルマッチに例えたり「10年に一度の大一番」と呼ぶ者もいた。レースではイージーゴアが1番人気に支持され、サンデーサイレンスは2番人気であったが、残り200メートルの地点で先頭に立つとイージーゴアの追い上げをクビ差しのいで優勝した。レース後、ウィッティンガムはサンデーサイレンスを、自身が管理したなかで「文句なしに最高の馬」と評している。この年、サンデーサイレンスは北アメリカにおける1年間の獲得賞金記録(457万8454ドル)を樹立した。さらに翌1990年1月、1989年度のエクリプス賞年度代表馬、および最優秀3歳牡馬に選出された。 三冠競走では、イージーゴアがサンデーサイレンスのライバルとなった。血統背景が優れている点、馬体が美しい点などから、イージーゴアはサンデーサイレンスとは対照的な馬とされる。イージーゴアはケンタッキーダービーが行われる前から競馬マスコミによって「セクレタリアトの再来か?」、「今、その存在は伝説となりつつある」と評されるなど高い評価を集め、ケンタッキーダービー、さらには同レースでサンデーサイレンスに敗れた直後のプリークネスステークスでも1番人気に支持された。前述のように三冠競走をサンデーサイレンスの2勝1敗で終えたあと、イージーゴアがG1を4連勝し、サンデーサイレンスがG1のスーパーダービーを優勝して迎えたブリーダーズカップ・クラシックはエクリプス賞年度代表馬をかけた対決となり、「10年に一度の大一番」といわれた。2頭の関係はアファームドとアリダーの再来、競馬史上最高のライバル関係と評された。 サンデーサイレンスとイージーゴアとの比較についてウィッティンガムは、サンデーサイレンスの得意距離は1600メートルから2000メートルで、イージーゴアは一流のステイヤーと述べている。レイ・ポーリックはサンデーサイレンスは敏捷な馬でコーナーを回りながら加速することができたためカーブがきつい競馬場を得意とし、一方イージーゴアは長い直線では圧倒的なパワーを発揮するがきついカーブを苦手としていたと分析している。 なお、イージーゴアはクレイボーンファームで生まれた競走馬である。サンデーサイレンスの馬主アーサー・ハンコック3世はクレイボーンファームの経営者ブル・ハンコックの息子であったが、父の死後後継者に指名されなかったことに不満を覚え、クレイボーンファームと袂を分かった過去があった。さらにイージーゴアの名義上の生産者であり馬主であったオグデン・フィップスは、顧問としてクレイボーンファームの後継者指名に関与していた。 前述のようにサンデーサイレンスはプリークネスステークスの直前期に脚部に問題を抱え、短期間で回復した。サンデーサイレンスの治療にあたった獣医師のアレックス・ハートヒルによると、施された処置は脚部をエプソム塩に浸して血液の循環を促進したあとで患部に湿布を貼るというものであったが、同じ時期に前述のように厩舎サイドが観光客およびマスコミに苛立つサンデーサイレンスを隔離するために馬房の扉を閉める措置を講じたことから、馬房のなかで違法な処置がとられているという疑惑を口にするマスコミ関係者が現れた。三冠の最終戦のベルモントステークスを前に、ニューヨーク州の競馬当局は同レースが行われるベルモントパーク競馬場の厩舎エリアへのハートヒルの立ち入りを禁止した。 ===1990年=== 「古馬になればもっと強くなる」というウィッティンガムの主張により、サンデーサイレンスは1990年も現役を続行することになった 。ブリーダーズカップ・クラシックのあと、サンデーサイレンスは脚部に複数の故障(膝の剥離骨折と軟骨の痛み)を発症したため、骨片の摘出手術を行ったあとで休養に入った。1990年の3月に調教が再開された際にウィッティンガムは「ここからきっかり3ヵ月でレースに出られるように仕上げてみせる」と宣言し、宣言通り6月のカリフォルニアンステークスでレースに復帰させた。このレースをサンデーサイレンスは逃げ切って優勝した。2着馬との着差は4分の3馬身であったが、これは今後のハンデキャップ競走で重い斤量を課されないために着差をつけないで勝つようウィッティンが指示を出したためであった。なおこのレースでは当初ブリーダーズカップ・クラシックでサンデーサイレンスに騎乗したクリス・マッキャロンが引き続き騎乗する予定であったが、当日に行われた別のレースでマッキャロンは落馬し、復帰まで5か月を要す大怪我を負った。これによりパット・ヴァレンズエラがふたたび主戦騎手を務めることになった。 続いてサンデーサイレンスは中2週でハリウッドゴールドカップに出走した。レースでは直線に入りクリミナルタイプとのマッチレースとなったが交わせず、アタマ差の2着に敗れた。敗因として、ウィッティンガムとヴァレンズエラはともにクリミナルタイプより5ポンド重い斤量を課されたことを挙げている。合田直弘とハンコックは、ヴァレンズエラが鞭を入れ過ぎたことを挙げている。 その後、サンデーサイレンスはアーリントンパーク競馬場がサンデーサイレンスとイージーゴアを対決させる意図で企画した特別招待レース(アーリントンチャレンジカップ、8月4日開催予定)を目標に調整された。7月半ばにイージーゴアが脚部の骨折により競走馬を引退し対戦が不可能になってからも出走予定は変更されなかったが、レース直前に左前脚をかばう素振りを見せた。診察の結果左前脚にある「XYZ靭帯」と呼ばれる靱帯(馬の体重を支えるのに不可欠な靱帯といわれている)に小さな断裂が見つかり、獣医師のハートヒルは引退を勧告。陣営はそれに従い、引退を決定した。 ===競走成績=== ”S”はステークス、”C”はカップ、”H”はハンデキャップの略。 ===種牡馬時代=== ハンコックは総額1000万ドル(1株25万ドル×40株)のシンジケートを組み、サンデーサイレンスにアメリカで種牡馬生活を送らせる予定だった。しかしヘイロー産駒の種牡馬成績が優れなかったことやファミリーラインに対する評価の低さから種牡馬としてのサンデーサイレンスに対する評価は低く、株の購入希望者は3人にとどまり、種付けの申込みを行った生産者はわずか2人であった。 そんな中、1990年はじめにハンコックから250万ドルで持ち分の半分(全体の4分の1)を買い取っていた日本の競走馬生産者吉田善哉がサンデーサイレンスの購入を打診してきた。当時ハンコックはストーンファームの経営を拡大させるなかでできた負債を抱えており、経済的事情から「他に道はない」と判断し、サンデーサイレンスを売却することにした。吉田善哉が購入のために使った金額は1100万ドル(当時の為替レートで約16億5000万円)であった。吉田善哉の子吉田照哉によると、取引成立には善哉とウィッティンガム、さらに照哉とハンコックとの間に交友関係があったことが大きく作用しており、「築きあげてきた人脈なくしては不可能だった」。照哉はかつてクレイボーンファームに隣接するフォンテンブローファームの場長を務めたことがあり、その縁でハンコックとは親しい間柄であった。しかしながらこの取引は当時、「日本人のブリーダーがとても成功しそうにない母系から生まれたヘイロー産駒を買っていった」とアメリカの生産者の笑いものになった。一方、「欧米の超スーパーホースが、いきなり日本で種牡馬入りするというのはまずあり得ない」と考えられていた当時の日本競馬界では衝撃をもって受けとめられた。 作家の吉川良によると、吉田善哉がサンデーサイレンスの購入を思い立ったのは、同馬が勝ったピムリコステークスのビデオを観たときのことである。吉田善哉は吉川の前で「欲が出るね。これは忙しくなる。わたしか照哉がしばらくアメリカに下宿しなくちゃならなくなるかもしれんな」と述べたという。実際に購入に踏み切った動機について作家の木村幸治は、社台ファームで繋養されていた種牡馬ディクタスが1989年9月20日に死亡したため、その後釜を探していたのだと推測している。木村によると当時社台ファームにはノーザンテースト、リアルシャダイ、ディクタスに続く種牡馬を導入し、生産馬について「同じ系統の馬だけが増加し、近親の度合いが濃くなり過ぎる」ことを解消しようとする動きがあった。吉田善哉はサンデーサイレンスが勝ったブリーダーズカップクラシックを現地で観戦して帰国後「サンデーサイレンスを、早来に持ってくるぞ」と宣言した。ハンコックによると、購入交渉における吉田善哉の「サンデーサイレンスに対する執着心は度外れたものだった」。吉田善哉はサンデーサイレンス産駒のデビューを見ることなく1993年8月にこの世を去っている。吉田善哉は生前、吉川良に次のように語っていた。 ノーザンテーストと同じくらい走ると信じてるサンデーサイレンスの子を走らせればね、そのうち、何十年したって、日本のあちこちでサンデーの血が走るわけだね。わたしは生まれ変われないが、わたしのね、馬屋の意地は生まれ変われるんだ ― 吉川1999、412頁。 吉田善哉に購入されたサンデーサイレンスは日本へ輸入され、1991年から社台スタリオンステーションで種牡馬生活を開始した。種牡馬入りに際し、総額25億円(4150万円×60株)のシンジケートが組まれた。シンジケートは満口となったものの、当初サンデーサイレンスの評価はさほど高くなかったうえに種付料が1100万円と高額であったため、期待されていたほどの交配申し込みはなく、もっとも多く交配したのは吉田善哉が経営する社台ファーム千歳(現在の社台ファーム)に繋養されていた繁殖牝馬であった(吉田善哉の息子で社台ファーム代表の吉田照哉曰く、「最高の繁殖牝馬をすべて交配させた」)が、その結果誕生した馬に対する同牧場の関係者の評価は高くなかった。しかし1994年6月にデビューした初年度産駒は社台ファームの関係者にとっても予想を上回る活躍をし、約半年の間に30勝(重賞4勝)を挙げた。 サンデーサイレンスはその後も活躍馬を次々と輩出し、初年度産駒がデビューした翌年の1995年にリーディングサイアーを獲得。2世代の産駒だけでリーディングサイアーを獲得というのは中央競馬史上初の記録である。以後2007年まで13年連続でリーディングサイアーに君臨した。同じく1995年に種牡馬としての中央競馬獲得賞金記録を更新。その後もサンデーサイレンスは中央競馬における種牡馬に関する記録を次々と更新(詳細については#記録を参照)、産出された12世代すべてからGI級競走優勝馬が登場し、産駒は日本の中央競馬の24あるGI級競走のうち、20で勝利を収めた。産駒のうちディープインパクトとスティルインラブが中央競馬における三冠を達成しているが、三冠馬を二頭、それも牡牝双方で輩出した種牡馬はサンデーサイレンスただ一頭である。 種付け料は、初年度1100万円でスタートし、3年後800万円まで下がったものの、初年度産駒の活躍以降は高騰を続け、2500万円(不受胎8割返金条件付き)にまで上がった。そして、生産者の要望に応える形で種付け頭数も年を追うごとに増加し、2001年は年間200頭を超える繁殖牝馬と交配された。それまで日本の競走馬生産者の間には年間100頭を超えて種付けをさせることは種牡馬を酷使しているという認識があったが、サンデーサイレンスの種付け頭数が100頭、200頭を超えるのに伴いほかの種牡馬も200頭を超える種付けを行うことがめずらしくなくなった。ブリーダーズ・スタリオン・ステーションの秋山達也によると、このような種付け頭数の増加は有力種牡馬に交配の申し込みが殺到する現象を生み、成績が優れない種牡馬が以前よりも早く見切られるようになった。種牡馬時代の厩務員を務めた佐古田直樹によるとサンデーサイレンスは性欲が強く、最大で年間224頭(2001年)の繁殖牝馬と交配したにもかかわらず種付けを嫌がる様子を見せなかった。佐古田はサンデーサイレンスを「まるで種付けマシーンのよう」と形容している。 1998年に始まったセレクトセールでは毎回産駒が高額で落札された。晩年には種付け料と産駒の購買価格、獲得賞金、種牡馬シンジケートの額を合計するとサンデーサイレンスが1年間に動かす金額は100億円を超え、年間150頭の繁殖牝馬に5年間種付けを行った場合、産駒の獲得賞金と種付け料を合計して1500億円の経済効果があるといわれた。 産駒は日本国外のレースでも活躍を見せ、日本調教馬は日本国外でG1を3勝(ステイゴールド、ハットトリック、ハーツクライが各1勝)した。さらにオーストラリア生まれ(交配は秋〈南半球は春で繁殖シーズンにあたる〉に日本で行われた)のサンデージョイ (Sunday Joy) がG1のオーストラリアンオークスを優勝するなど、日本国外生産馬および日本国外調教馬からも複数の重賞優勝馬を輩出した。日本国外で活躍する産駒が出現した影響から日本国外の有力馬主がセレクトセールでサンデーサイレンス産駒を購買し、さらに繁殖牝馬を日本へ移送して交配させるようになった。2001年に行われた第4回セールではロッタレースの2001を巡ってゴドルフィンとクールモアスタッドの代理人が激しい競り合いを演じた(ゴドルフィンが1億9000万円で落札)。 ===年度別の種付け頭数および誕生産駒数 === ===蹄葉炎を発症し死亡=== 2002年5月5日、サンデーサイレンスは右前脚に跛行を発症し、この年の春の種付けを中止して休養に入った。一度は快方に向かったものの同月10日に跛行が再発。検査の結果、右前脚にフレグモーネを発症していることが判明した。フレグモーネを引き起こした細菌は血管が少なく抗生物質の効果が現れにくい深屈腱(上腕骨と中節骨をつなぐ腱の外側)に入り込んでいた。さらに通常フレグモーネは外傷から菌が侵入して発症するがサンデーサイレンスの脚に外傷が見当たらず、発症の詳しい経緯が不明であったことから治療に有効な抗生物質が見つけられなかった。これらの理由から治療は困難を極めた。サンデーサイレンスを繋養する社台スタリオンステーションはイギリスからフレグモーネの専門医を招いて治療を行った。3回にわたって患部を切開して洗浄する措置が施された結果、右前脚の病状は改善したものの、8月に入りそれまでに右前脚をかばった負担が原因となって左前脚に蹄葉炎を発症。懸命な治療の甲斐なく8月19日に衰弱性心不全のため死亡した。 サンデーサイレンスは火葬され、社台スタリオンステーションの敷地内に埋葬された。墓の横には吉田善哉の遺品が埋められている。産駒は2003年生まれがラストクロップとなった。最後に生まれた産駒はハギノプリンセス(母サベージレディ)である。また、中央競馬で最後の登録馬は、2012年に引退したアクシオンであった。 ==競走馬としての特徴・評価== ===精神面=== サンデーサイレンスは気性が非常に荒く、騎乗した人間の指示に従わず暴れる傾向があった。ウィッティンガムは厩舎一の腕を持つジャネット・ジョンソンをサンデーサイレンス担当の調教助手に指名したが、ジョンソンは気性の荒さに嫌気が差し、一度騎乗しただけで降板している。騎手のウィリー・シューメーカーも調教のために騎乗したことがあるが気性の荒さに激怒し、レースでの騎乗を拒否した。ウィッティンガムによると、ヘイローの産駒は総じて気性が荒いという。しかし、種牡馬時代のサンデーサイレンスはメジロマックイーンがそばにいると大人しくなることが多く、サンデーサイレンスとメジロマックイーンの放牧地は隣同士に設えられていたという逸話がある。 前述のように1986年11月に悪性のウイルスに感染して激しい下痢を起こし、生死の境をさまよったことがある。この闘病についてハンコックは「普通の馬だったらダメだっただろう」、「よほどの精神力がなければ、とてもじゃないがあんな経験は乗り越えられない」と述べている。 ===身体面=== テッド・キーファーは「サンデーサイレンスの馬体の欠点は目をつぶってすむような軽いものじゃなかった」「同じような馬格の馬が1000頭いたとしたら、そのうち999頭はチャンピオンやリーディングサイアーになるどころか、競走馬としてまず使い物にならないだろう」とし、ティザムに購入を勧めなかったことを正当化するとともに「個人的には、サンデーサイレンスは一種の突然変異だったと思っている」と述べている。 ===走法=== ブリーダーズカップ・クラシックで騎乗したクリス・マッキャロンはサンデーサイレンスの走りを「ストライドに全感覚を集中させるか、それとも脚元を見下ろすかしない限り、いつ手前を変えたのか全くわからない。そのくらい脚運びが滑らか」と評し、かつて騎乗したジョンヘンリーの感覚を思い出させたと述べている。ウィッティンガム厩舎の調教助手の一人は、どんなに狭いコースでも器用に手前を変えることができ、コーナーを回りながら加速することができる点をサンデーサイレンスの特徴として挙げている。 ===選定=== サンデーサイレンスは1996年にアメリカ競馬殿堂入りを果たした。1999年に競馬専門誌のブラッド・ホース誌が発表した20世紀のアメリカ名馬100選では第31位となった。 ===競走馬名=== サンデーサイレンスという競走馬名は、メリーランド州に住むストローという名の夫婦が考案した。意味は「静寂なる日曜日(のミサ)」。夫妻は「自分たちが所有する競走馬がケンタッキーダービーに出走を果たすとしたら、どんな名前がいいだろう」という空想をもとに作成した競走馬名リストをストーンファームに送り、その中からハンコックが「サンデーサイレンス」を採用した。 ==種牡馬として== ===種牡馬成績・記録=== 前述のようにサンデーサイレンスは初年度産駒がデビューした翌年の1995年から2007年にかけて13年連続でリーディングサイアーとなった。 サンデーサイレンスは中央競馬における種牡馬に関する記録の多くを更新した。リーディングサイアー、連続リーディングサイアー、通算勝利数、通算重賞勝利数、通算GI級競走勝利数、年間勝利数、年間重賞勝利数、年間GI級競走勝利数、年間獲得賞金額、通算クラシック勝利数はいずれも最多記録を保持している。 また、中央競馬・地方競馬をあわせた通算勝利数は3719勝でアジュディケーティングの3766勝(2015年10月時点)に次ぐ世界2位である。 ===年度別種牡馬成績(日本総合)=== ===年度別種牡馬成績(中央競馬)=== ===ブルードメアサイアーとしての成績=== サンデーサイレンスをブルードメアサイアーに持つ競走馬は1997年に初めて誕生した。当初はサンデーサイレンスの激しい気性が悪い形で遺伝するのではないかと懸念されていたが、2世代目から重賞優勝馬が、6世代目からGI級競走優勝馬が現れるなど徐々に成績を伸ばし、2007年に初めてリーディングブルードメアサイアーの座を獲得した(中央競馬のみの集計では2006年に初めて獲得)。 競走馬エージェントの柴田英次は、サンデーサイレンスは種牡馬としての特徴である柔らかくしなやかな筋肉と激しい気性から生まれる「狂気をはらむほど激しい闘争心」をブルードメアサイアーとしても遺伝させるとしている。 ===ブルードメアサイアーとしての年度別成績(日本総合)=== ===ブルードメアサイアーとしての年度別成績(中央競馬)=== ===サンデーサイレンス系種牡馬の活躍と血の飽和、偏りの問題=== サンデーサイレンス直仔の種牡馬がデビューすると、日本のリーディングサイアー上位は彼らによって占められるようになった。サンデーサイレンス直仔の種牡馬の産駒は中央競馬において、サンデーサイレンス産駒が優勝できなかったNHKマイルカップ、ジャパンカップダート、中山大障害を含む数々のGI級競走を優勝している。さらに日本国外でもシーザリオ(父スペシャルウィーク)がアメリカンオークスインビテーショナルステークスを、デルタブルース(父ダンスインザダーク)がメルボルンカップを勝ち、フジキセキ、タヤスツヨシ、バブルガムフェローといったシャトル種牡馬の産駒が南半球やドバイのG1優勝馬を輩出。日本国外へ輸出された種牡馬を見ると、フランスに輸出されたディヴァインライトの産駒ナタゴラがチェヴァリーパークステークスを制してカルティエ賞最優秀2歳牝馬を受賞しイギリスのクラシックレースである1000ギニーを制したほか、アメリカで種牡馬入りしたハットトリック産駒のダビルシム (Dabirsim)がモルニ賞とジャン・リュック・ラガルデール賞を制してカルティエ賞最優秀2歳牡馬に選出されている。 サンデーサイレンス自身ばかりでなくその直系の牡馬までもが種牡馬として活躍し数多くの種付けをこなすようになると、サンデーサイレンスの血を引く馬が過剰に生産され、それらの馬が種牡馬や繁殖牝馬となることで近親交配のリスクが高まり、やがては日本の競走馬生産が行き詰まりを見せるようになるのではないかという懸念が生じるようになった(血の飽和、偏りの問題)。2011年の日本ダービーでは出走18頭すべてが「サンデーサイレンスの血を引いた馬」という事態も起こっている。同レースの優勝馬はステイゴールド産駒のオルフェーヴル。 これに対し吉田照哉は、サラブレッドの生産においては一つの系統が栄えれば次に別の系統が栄えるということが繰り返されて来たのであり、サンデーサイレンスの場合もほかの系統が自然と栄えるようになる、加えてサンデーサイレンス系の馬を日本国外へ輸出するという対策方法もあると反論している。 ===特徴・評価=== ====産駒の精神面==== サンデーサイレンスの産駒は気性が激しい馬が多いことで知られた。競走馬エージェントの柴田英次は、産駒は激しい気性から生まれる「狂気をはらむほど激しい闘争心」ゆえに痛みに対して従順でなく、「肉体の限界を超えるほどのチカラを発揮できた」と分析し、「種牡馬として成功した要因として、激しい気性があったのは間違いない」と述べている。サンデーサイレンス産駒に騎乗し多くの勝利を挙げた武豊は、騎乗したときに産駒が気性の悪さを見せるとかえって頼もしさを感じたという。武によると、レースでは序盤はのらりくらりと走り、後半になってから本気を出すタイプの馬が多かった。 オリビエ・ペリエは、日本で騎乗した産駒には「神経質でピリピリしてるようなタイプが多かった」と指摘した上で、そのことが実戦ではプラスに作用し、反応の鋭さに繋がっていたと推測している。岡部幸雄は、サンデーサイレンス産駒の良さは気性の荒さにあるが、気性の荒さを表に出し過ぎるタイプの競走馬は距離適性が短く、「うまく内面に押し込めんでレースに爆発させることができる」タイプの競走馬は距離の融通がきくと述べている。 社台ファーム繁殖主任の水越治三郎は、やんちゃな気性の割に物覚えがよいと述べている。獣医師の松永和則は、サンデーサイレンス産駒の気性はただ単に激しいのではなく、強い精神力を伴ったものであると述べている。 ===産駒の肉体面=== 産駒の特徴について水越治三郎は、外見は見栄えがしないがそれとは正反対に肉体面がしっかりとしていると述べている。エアメサイアを管理した伊藤雄二は「とても体質、骨質が優れている」、「前脚は膝から下、後脚は飛節から爪の先までしっかりと力が入っている産駒が多い」、「全身均等に筋肉がついて」いる点を特徴として挙げている。 筋肉や繋ぎの柔らかさも特徴の一つである。サイレンススズカ、アドマイヤベガ、アドマイヤグルーヴなどのサンデーサイレンス産駒を管理した橋田満によると筋肉が柔らかいと走行時のストライドが大きくなり、優れた瞬発力を発揮するという。競走馬仲介業者の富岡眞治はサンデーサイレンスは飛節の角度がやや深い点が難点であったが筋肉と繋ぎが柔らかい点に特徴があり、産駒についても飛節の難点を筋肉と繋ぎの柔らかさがカバーしていたと分析している。そして、産駒は柔らかい筋肉を活かした素早い収縮運動により日本の固い馬場でのスピード勝負に対応したと分析している。こうした柔らかさについて岡田繁幸は当初「馬体が柔らかすぎて、まるで力強さが感じられない。決して誉められた馬ではない」という印象を抱いていたが、産駒が活躍したことにより「相馬眼を180度覆された」と述べている。 サンデーサイレンス産駒は仕上がりが早い(調教の効果が表れやすい)傾向にあり、2歳のうちから能力を十分に発揮した。松永和則によると、産駒は少し運動をさせただけで澄んだ心音が聞こえるようになるなどはっきりとした身体的変化を見せたという。中央競馬では初年度産駒がデビューした1994年から最終世代がデビューした2005年までの間、1996年をのぞく11回2歳リーディングサイアーを獲得した。富岡眞治によると、成功を収めたサンデーサイレンス産駒には細身の馬が多く、通常そのような馬が晩成型であることが多いが、サンデーサイレンス産駒の場合は馬体が未完成な時期にもクラシックを戦い抜く基本性能を備えていた。 ===遺伝に関する特徴=== 伊藤雄二はサンデーサイレンスの特徴として、遺伝力の強さを挙げている。武豊も、競走馬としてのサンデーサイレンスには走行中進路が左右にぶれる癖があったことを指摘した上で、産駒にも同様の傾向を示す馬が多かったのは遺伝能力の強さの表れだと述べている。吉沢譲治は自身の長所を伝える遺伝力の強さに加え、配合相手の長所を引き出す和合性を挙げている。吉田照哉は「ほとんどどんな牝馬でも結果を残す」、「長距離血統でも短距離血統でも、とにかく繁殖牝馬を選ばない万能の種牡馬」と評価している。 田端到によるとサンデーサイレンスの産駒はブルードメアサイアーに応じて一定の傾向を持ち、たとえばダンジグをブルードメアサイアーとする産駒は短い距離を得意とし、ヌレイエフをブルードメアサイアーとする産駒はダートを得意とする傾向がある。ブルードメアサイアーとの相性という点では、ノーザンテーストとの組み合わせで4頭が、ニジンスキー、ヌレイエフ、トニービンとの組み合わせでそれぞれ3頭がGI級競走を勝っている。 ===「作られた」コース、馬場への適性=== 吉田照哉の見解では、サンデーサイレンスが種牡馬として成功した要因にあげられるのは、イギリスの競馬場のように「もともとの自然を活かした」ものではなく、日本のような「作られた」競馬場に対する適性が高かったことである。吉田は、サンデーサイレンスのこのような適性は、産駒が日本国外において、日本と同様「作られた馬場」をもつ香港やドバイの競馬場で優れた成績を残したことからもわかると述べている。 ===レース体系への対応=== サンデーサイレンスが優れた種牡馬成績を残すことができたのは、中央競馬のレース体系が変化したことによる時代の勢いに乗ったからだという見方もある。作家の藤野広一郎は「サンデーサイレンスの種牡馬としての素質には端倪すべからざるものがある」としつつ、中央競馬のレース編成に占める長距離戦の比重が軽くなったことで日本のサラブレッド生産が「圧倒的なマイラー志向に傾き、早熟で、手がかからなくて、仕上がりの早い、しかもスピード適性をもった産駒を送り出せる早熟型の種牡馬しか成功できなくなってきた中で時代傾向にのっかった」「早熟タイプの完成度の高い器用な軽量級種牡馬で、別にのけぞって驚嘆するほどの種牡馬でもなく、トップクラスの国際級種牡馬と表現するのをためらわせる」としている。安福良直は、サンデーサイレンスの初年度産駒がデビューした1994年と2005年を比較すると、中央競馬においてサンデーサイレンス産駒がもっとも得意とする芝1800メートル‐2000メートルのレースの施行数が2歳馬の新馬戦、未勝利戦において2.5倍に増えていることを挙げ、「時代が、サンデーサイレンス産駒が勝つほうへ勝つほうへと変化」したと分析している。 ===客観的評価=== アーニングインデックスをコンパラブルインデックスで割った数値(産駒の収得賞金に加え繁殖牝馬の質の高さを考慮するため、種牡馬の本当の実力が分かるとされる)は、2005年末の試算で同時期に活躍した有力種牡馬であるノーザンテーストやブライアンズタイム、トニービンなどを上回っている(2.02。ノーザンテーストは1.83、ブライアンズタイムは1.58、トニービンは1.32)。 ==主な産駒== ===日本調教馬=== ====GI級競走優勝馬==== 勝ち鞍はGI級競走のみ表記。なお、前述のように日本の中央競馬においては産出した12世代すべてでGI級競走優勝馬を輩出、24あるGI級競走のうち20で勝利を収めた。 1992年産 フジキセキ(朝日杯3歳ステークス) ジェニュイン(皐月賞、マイルチャンピオンシップ) ダンスパートナー(優駿牝馬、エリザベス女王杯) タヤスツヨシ(東京優駿) マーベラスサンデー(宝塚記念)フジキセキ(朝日杯3歳ステークス)ジェニュイン(皐月賞、マイルチャンピオンシップ)ダンスパートナー(優駿牝馬、エリザベス女王杯)タヤスツヨシ(東京優駿)マーベラスサンデー(宝塚記念)1993年産 バブルガムフェロー(天皇賞〈秋〉、朝日杯3歳ステークス) イシノサンデー(皐月賞、ダービーグランプリ(統一グレード制前)) ダンスインザダーク(菊花賞)バブルガムフェロー(天皇賞〈秋〉、朝日杯3歳ステークス)イシノサンデー(皐月賞、ダービーグランプリ(統一グレード制前))ダンスインザダーク(菊花賞)1994年産 サイレンススズカ(宝塚記念) ステイゴールド(香港ヴァーズ〈香港〉)サイレンススズカ(宝塚記念)ステイゴールド(香港ヴァーズ〈香港〉)1995年産 スペシャルウィーク(東京優駿、天皇賞〈春〉・〈秋〉、ジャパンカップ)スペシャルウィーク(東京優駿、天皇賞〈春〉・〈秋〉、ジャパンカップ)1996年産 スティンガー(阪神3歳牝馬ステークス) アドマイヤベガ(東京優駿) トゥザヴィクトリー(エリザベス女王杯)スティンガー(阪神3歳牝馬ステークス)アドマイヤベガ(東京優駿)トゥザヴィクトリー(エリザベス女王杯)1997年産 チアズグレイス(桜花賞) エアシャカール(皐月賞、菊花賞) アグネスフライト(東京優駿)チアズグレイス(桜花賞)エアシャカール(皐月賞、菊花賞)アグネスフライト(東京優駿)1998年産 メジロベイリー(朝日杯3歳ステークス) アグネスタキオン(皐月賞) マンハッタンカフェ(菊花賞、有馬記念、天皇賞〈春〉) ビリーヴ(スプリンターズステークス、高松宮記念)メジロベイリー(朝日杯3歳ステークス)アグネスタキオン(皐月賞)マンハッタンカフェ(菊花賞、有馬記念、天皇賞〈春〉)ビリーヴ(スプリンターズステークス、高松宮記念)1999年産 ゴールドアリュール(ジャパンダートダービー、ダービーグランプリ、東京大賞典、フェブラリーステークス) デュランダル(スプリンターズステークス、マイルチャンピオンシップ (2003,2004)) アドマイヤマックス(高松宮記念)ゴールドアリュール(ジャパンダートダービー、ダービーグランプリ、東京大賞典、フェブラリーステークス)デュランダル(スプリンターズステークス、マイルチャンピオンシップ (2003,2004))アドマイヤマックス(高松宮記念)2000年産 ピースオブワールド(阪神ジュベナイルフィリーズ) スティルインラブ(牝馬三冠(桜花賞、優駿牝馬、秋華賞)) ネオユニヴァース(皐月賞、東京優駿) アドマイヤグルーヴ(エリザベス女王杯 (2003,2004)) ゼンノロブロイ(天皇賞〈秋〉、ジャパンカップ、有馬記念) ヘヴンリーロマンス(天皇賞〈秋〉) オレハマッテルゼ(高松宮記念)ピースオブワールド(阪神ジュベナイルフィリーズ)スティルインラブ(牝馬三冠(桜花賞、優駿牝馬、秋華賞))ネオユニヴァース(皐月賞、東京優駿)アドマイヤグルーヴ(エリザベス女王杯 (2003,2004))ゼンノロブロイ(天皇賞〈秋〉、ジャパンカップ、有馬記念)ヘヴンリーロマンス(天皇賞〈秋〉)オレハマッテルゼ(高松宮記念)2001年産 ダンスインザムード(桜花賞、ヴィクトリアマイル) ダイワメジャー(皐月賞、天皇賞〈秋〉、マイルチャンピオンシップ (2006,2007)、安田記念) ダイワエルシエーロ(優駿牝馬) スズカマンボ(天皇賞〈春〉) ハットトリック(マイルチャンピオンシップ、香港マイル〈香港〉) ハーツクライ(有馬記念、ドバイシーマクラシック (UAE))ダンスインザムード(桜花賞、ヴィクトリアマイル)ダイワメジャー(皐月賞、天皇賞〈秋〉、マイルチャンピオンシップ (2006,2007)、安田記念)ダイワエルシエーロ(優駿牝馬)スズカマンボ(天皇賞〈春〉)ハットトリック(マイルチャンピオンシップ、香港マイル〈香港〉)ハーツクライ(有馬記念、ドバイシーマクラシック (UAE))2002年産 ショウナンパントル(阪神ジュベナイルフィリーズ) ディープインパクト(牡馬クラシック三冠(皐月賞、東京優駿、菊花賞)、天皇賞〈春〉、宝塚記念、ジャパンカップ、有馬記念) エアメサイア(秋華賞) スズカフェニックス(高松宮記念)ショウナンパントル(阪神ジュベナイルフィリーズ)ディープインパクト(牡馬クラシック三冠(皐月賞、東京優駿、菊花賞)、天皇賞〈春〉、宝塚記念、ジャパンカップ、有馬記念)エアメサイア(秋華賞)スズカフェニックス(高松宮記念)2003年産 フサイチパンドラ(エリザベス女王杯) マツリダゴッホ(有馬記念)フサイチパンドラ(エリザベス女王杯)マツリダゴッホ(有馬記念) ===重賞優勝馬=== 1992年産 ブライトサンディー(函館記念、サファイヤステークス) サイレントハピネス(サンスポ賞4歳牝馬特別、ローズステークス) プライムステージ(札幌3歳ステークス、フェアリーステークス) マジックキス(北九州記念) キングオブダイヤ(中山記念) サンデーウェル(セントライト記念) サマーサスピション(青葉賞)ブライトサンディー(函館記念、サファイヤステークス)サイレントハピネス(サンスポ賞4歳牝馬特別、ローズステークス)プライムステージ(札幌3歳ステークス、フェアリーステークス)マジックキス(北九州記念)キングオブダイヤ(中山記念)サンデーウェル(セントライト記念)サマーサスピション(青葉賞)1993年産 サイレントハンター(大阪杯など重賞4勝) ローゼンカバリー(日経賞など重賞4勝) ロイヤルタッチ(きさらぎ賞、ラジオたんぱ杯3歳ステークス) アグネスカミカゼ(目黒記念) チアズサイレンス(名古屋優駿)サイレントハンター(大阪杯など重賞4勝)ローゼンカバリー(日経賞など重賞4勝)ロイヤルタッチ(きさらぎ賞、ラジオたんぱ杯3歳ステークス)アグネスカミカゼ(目黒記念)チアズサイレンス(名古屋優駿)1994年産 ビッグサンデー(マイラーズカップなど重賞3勝) オレンジピール(サンスポ賞4歳牝馬特別など重賞3勝) エアウイングス(阪神牝馬特別)ビッグサンデー(マイラーズカップなど重賞3勝)オレンジピール(サンスポ賞4歳牝馬特別など重賞3勝)エアウイングス(阪神牝馬特別)1995年産 ジョービッグバン(函館記念など重賞3勝) メイショウオウドウ(大阪杯、鳴尾記念) エガオヲミセテ(マイラーズカップ、阪神牝馬特別) サンプレイス(新潟記念) タヤスメドウ(新潟大賞典) サンデーセイラ(七夕賞) タヤスアゲイン(青葉賞) マルカコマチ(京都牝馬特別) ジュビレーション(JTB賞)ジョービッグバン(函館記念など重賞3勝)メイショウオウドウ(大阪杯、鳴尾記念)エガオヲミセテ(マイラーズカップ、阪神牝馬特別)サンプレイス(新潟記念)タヤスメドウ(新潟大賞典)サンデーセイラ(七夕賞)タヤスアゲイン(青葉賞)マルカコマチ(京都牝馬特別)ジュビレーション(JTB賞)1996年産 ロサード(オールカマーなど重賞5勝) フサイチエアデール(報知杯4歳牝馬特別など重賞4勝) エイシンルーデンス(中山牝馬ステークス、チューリップ賞) ペインテドブラック(ステイヤーズステークス) ブラックタキシード(セントライト記念) テイエムサンデー(シルクロードステークス) マルカキャンディ(府中牝馬ステークス) サイキョウサンデー(中日スポーツ賞4歳ステークス) キングオブサンデー(北海道3歳優駿) クリアーベース(九州王冠)ロサード(オールカマーなど重賞5勝)フサイチエアデール(報知杯4歳牝馬特別など重賞4勝)エイシンルーデンス(中山牝馬ステークス、チューリップ賞)ペインテドブラック(ステイヤーズステークス)ブラックタキシード(セントライト記念)テイエムサンデー(シルクロードステークス)マルカキャンディ(府中牝馬ステークス)サイキョウサンデー(中日スポーツ賞4歳ステークス)キングオブサンデー(北海道3歳優駿)クリアーベース(九州王冠)1997年産 ウインマーベラス(京都ハイジャンプなど障害重賞4勝) ユキノサンロイヤル(日経賞) フサイチランハート(アメリカジョッキークラブカップ) トウカイオーザ(アルゼンチン共和国杯) フサイチゼノン(弥生賞) アドマイヤボス(セントライト記念) マニックサンデー(サンスポ賞4歳牝馬特別) ヤマニンリスペクト(函館記念) メイショウドメニカ(福島記念) フューチャサンデー(クイーンカップ) バンドオンザラン(東海ゴールドカップ)ウインマーベラス(京都ハイジャンプなど障害重賞4勝)ユキノサンロイヤル(日経賞)フサイチランハート(アメリカジョッキークラブカップ)トウカイオーザ(アルゼンチン共和国杯)フサイチゼノン(弥生賞)アドマイヤボス(セントライト記念)マニックサンデー(サンスポ賞4歳牝馬特別)ヤマニンリスペクト(函館記念)メイショウドメニカ(福島記念)フューチャサンデー(クイーンカップ)バンドオンザラン(東海ゴールドカップ)1998年産 ダイヤモンドビコー(阪神牝馬ステークスなど重賞4勝) サンライズペガサス(毎日王冠など重賞3勝) ウインラディウス(京王杯スプリングカップなど重賞3勝) ミレニアムバイオ(マイラーズカップなど重賞3勝) アグネスゴールド(スプリングステークス、きさらぎ賞) チアズブライトリー(京阪杯、七夕賞) ローズバド(フィリーズレビュー、マーメイドステークス) ハッピーパス(京都牝馬ステークス) ボーンキング(京成杯) トラストファイヤー(ラジオNIKKEI賞) タガノテイオー(東京スポーツ杯3歳ステークス) ダイワルージュ(新潟3歳ステークス) タイムトゥチェンジ(マーチカップ) ダンツプライズ(中島記念) インターレジェンダ(九州記念)ダイヤモンドビコー(阪神牝馬ステークスなど重賞4勝)サンライズペガサス(毎日王冠など重賞3勝)ウインラディウス(京王杯スプリングカップなど重賞3勝)ミレニアムバイオ(マイラーズカップなど重賞3勝)アグネスゴールド(スプリングステークス、きさらぎ賞)チアズブライトリー(京阪杯、七夕賞)ローズバド(フィリーズレビュー、マーメイドステークス)ハッピーパス(京都牝馬ステークス)ボーンキング(京成杯)トラストファイヤー(ラジオNIKKEI賞)タガノテイオー(東京スポーツ杯3歳ステークス)ダイワルージュ(新潟3歳ステークス)タイムトゥチェンジ(マーチカップ)ダンツプライズ(中島記念)インターレジェンダ(九州記念)1999年産 リミットレスビッド(東京盃2回など重賞8勝) チアズシュタルク(共同通信杯、毎日杯) ダイワレイダース(七夕賞) サクセスビューティ(フィリーズレビュー) ヤマニンセラフィム(京成杯) シャイニンルビー(クイーンカップ) ビーポジティブ(クイーン賞) オースミシュネル(ステイヤーズカップ2回)リミットレスビッド(東京盃2回など重賞8勝)チアズシュタルク(共同通信杯、毎日杯)ダイワレイダース(七夕賞)サクセスビューティ(フィリーズレビュー)ヤマニンセラフィム(京成杯)シャイニンルビー(クイーンカップ)ビーポジティブ(クイーン賞)オースミシュネル(ステイヤーズカップ2回)2000年産 リンカーン(阪神大賞典など重賞3勝) サクラプレジデント(札幌記念など重賞3勝) ヴィータローザ(セントライト記念など重賞3勝) サイレントディール(武蔵野ステークスなど重賞3勝) クワイエットデイ(平安ステークス、マーチステークス) チアフルスマイル(キーンランドカップ) スズカドリーム(京成杯) チアズメッセージ(京都牝馬ステークス) チューニー(クイーンカップ)リンカーン(阪神大賞典など重賞3勝)サクラプレジデント(札幌記念など重賞3勝)ヴィータローザ(セントライト記念など重賞3勝)サイレントディール(武蔵野ステークスなど重賞3勝)クワイエットデイ(平安ステークス、マーチステークス)チアフルスマイル(キーンランドカップ)スズカドリーム(京成杯)チアズメッセージ(京都牝馬ステークス)チューニー(クイーンカップ)2001年産 スウィフトカレント(小倉記念、2006年サマー2000シリーズチャンピオン) ハイアーゲーム(鳴尾記念、青葉賞) グレイトジャーニー(ダービー卿チャレンジトロフィー、シンザン記念) レクレドール(ローズステークス、クイーンステークス) エアシェイディ(アメリカジョッキークラブカップ) キョウワロアリング(北九州記念) アズマサンダース(京都牝馬ステークス) ムーヴオブサンデー(フィリーズレビュー) ブラックタイド(スプリングステークス) アドマイヤビッグ(東京スポーツ杯2歳ステークス) フィーユドゥレーヴ(函館2歳ステークス)スウィフトカレント(小倉記念、2006年サマー2000シリーズチャンピオン)ハイアーゲーム(鳴尾記念、青葉賞)グレイトジャーニー(ダービー卿チャレンジトロフィー、シンザン記念)レクレドール(ローズステークス、クイーンステークス)エアシェイディ(アメリカジョッキークラブカップ)キョウワロアリング(北九州記念)アズマサンダース(京都牝馬ステークス)ムーヴオブサンデー(フィリーズレビュー)ブラックタイド(スプリングステークス)アドマイヤビッグ(東京スポーツ杯2歳ステークス)フィーユドゥレーヴ(函館2歳ステークス)2002年産 ローゼンクロイツ(金鯱賞など重賞3勝) ディアデラノビア(フローラステークスなど重賞3勝) デアリングハート(府中牝馬ステークス2回など重賞3勝) キングストレイル(京成杯オータムハンデキャップ、セントライト記念) ペールギュント(デイリー杯2歳ステークス、シンザン記念) シックスセンス(京都記念) トウカイワイルド(日経新春杯) マチカネオーラ(中京記念) ロフティーエイム(福島牝馬ステークス) ダンツキッチョウ(青葉賞) アドマイヤジャパン(京成杯) マチカネオーラ(中京記念) モエレフェニックス(九州王冠)ローゼンクロイツ(金鯱賞など重賞3勝)ディアデラノビア(フローラステークスなど重賞3勝)デアリングハート(府中牝馬ステークス2回など重賞3勝)キングストレイル(京成杯オータムハンデキャップ、セントライト記念)ペールギュント(デイリー杯2歳ステークス、シンザン記念)シックスセンス(京都記念)トウカイワイルド(日経新春杯)マチカネオーラ(中京記念)ロフティーエイム(福島牝馬ステークス)ダンツキッチョウ(青葉賞)アドマイヤジャパン(京成杯)モエレフェニックス(九州王冠)2003年産 アクシオン(鳴尾記念、中山金杯) アドマイヤキッス(ローズステークスなど重賞4勝) アドマイヤメイン(青葉賞、毎日杯) トーセンシャナオー(セントライト記念) マルカシェンク(デイリー杯2歳ステークス、関屋記念) モエレソーブラッズ(兵庫ジュニアグランプリ) タイムトゥチェンジ(マーチカップ)アクシオン(鳴尾記念、中山金杯)アドマイヤキッス(ローズステークスなど重賞4勝)アドマイヤメイン(青葉賞、毎日杯)トーセンシャナオー(セントライト記念)マルカシェンク(デイリー杯2歳ステークス、関屋記念)モエレソーブラッズ(兵庫ジュニアグランプリ) ===日本国外調教馬=== 勝ち鞍はG1を含む主要競走。 1996年産 サンデーピクニック:クレオパトル賞(仏G3)サンデーピクニック:クレオパトル賞(仏G3)1999年産 サイレントオナー (Silent Honor) :チェリーヒントンステークス(英G2) サンデージョイ (Sunday Joy) :オーストラリアンオークス(豪G1)、WHストックスステークス(豪G3)サイレントオナー (Silent Honor) :チェリーヒントンステークス(英G2)サンデージョイ (Sunday Joy) :オーストラリアンオークス(豪G1)、WHストックスステークス(豪G3)2000年産 ダヌタ (Danuta) :UAEオークス(UAE)、ムーンシェルマイル (UAE)ダヌタ (Danuta) :UAEオークス(UAE)、ムーンシェルマイル (UAE)2001年産 サンドロップ (Sundrop) :カーディナルハンデキャップ(米G3)、プリンセスエリザベスステークス(英G3)サンドロップ (Sundrop) :カーディナルハンデキャップ(米G3)、プリンセスエリザベスステークス(英G3)2002年産 レイマン (Layman) :カブール賞(仏G3)、ソヴリンステークス(英G3) サイレントネーム (Silent Name) :アーケーディアハンデキャップ(米G2)、コモンウェルスブリーダーズカップステークス(米G2)レイマン (Layman) :カブール賞(仏G3)、ソヴリンステークス(英G3)サイレントネーム (Silent Name) :アーケーディアハンデキャップ(米G2)、コモンウェルスブリーダーズカップステークス(米G2) ===高額落札馬=== セレクトセールにおいて、2億円を超える落札額の産駒は以下の6頭いたが、獲得賞金が落札額を上回ったのはアドマイヤグルーヴのみであった。 トーセンダンス(3億3500万円、2002年)フサイチジャンク(3億3000万円、2003年)カーム(3億2000万円、2000年)アドマイヤグルーヴ(2億3000万円、2000年)ミステリアスアート(2億2000万円、2000年)アサクサキンメダル(2億500万円、2002年) ===ブルードメアサイアーとしてのおもな産駒=== 勝ち鞍はGI級競走のみ表記。 2002年産 ラインクラフト:桜花賞、NHKマイルカップ(父エンドスウィープ・母マストビーラヴド) ヴァーミリアン:川崎記念、JBCクラシック、ジャパンカップダート、東京大賞典、フェブラリーステークス、帝王賞(父エルコンドルパサー・母スカーレットレディ) シャドウゲイト:シンガポール航空インターナショナルカップ(父ホワイトマズル・母ファビラスターン)ラインクラフト:桜花賞、NHKマイルカップ(父エンドスウィープ・母マストビーラヴド)ヴァーミリアン:川崎記念、JBCクラシック、ジャパンカップダート、東京大賞典、フェブラリーステークス、帝王賞(父エルコンドルパサー・母スカーレットレディ)シャドウゲイト:シンガポール航空インターナショナルカップ(父ホワイトマズル・母ファビラスターン)2003年産 フサイチリシャール:朝日杯フューチュリティステークス(父クロフネ・母フサイチエアデール) ソングオブウインド:菊花賞(父エルコンドルパサー・母メモリアルサマー) アドマイヤムーン:ドバイデューティーフリー、宝塚記念、ジャパンカップ(父エンドスウィープ・母マイケイティーズ)フサイチリシャール:朝日杯フューチュリティステークス(父クロフネ・母フサイチエアデール)ソングオブウインド:菊花賞(父エルコンドルパサー・母メモリアルサマー)アドマイヤムーン:ドバイデューティーフリー、宝塚記念、ジャパンカップ(父エンドスウィープ・母マイケイティーズ)2004年産 アサクサキングス:菊花賞(父ホワイトマズル・母クルーピアスター) スクリーンヒーロー:ジャパンカップ(父グラスワンダー・母ランニングヒロイン) ジャガーメイル:天皇賞・春(父ジャングルポケット、母ハヤベニコマチ)アサクサキングス:菊花賞(父ホワイトマズル・母クルーピアスター)スクリーンヒーロー:ジャパンカップ(父グラスワンダー・母ランニングヒロイン)ジャガーメイル:天皇賞・春(父ジャングルポケット、母ハヤベニコマチ)2005年産 トールポピー:阪神ジュベナイルフィリーズ、優駿牝馬(父ジャングルポケット・母アドマイヤサンデー) レジネッタ:桜花賞(父フレンチデピュティ・母アスペンリーフ) サクセスブロッケン:ジャパンダートダービー、フェブラリーステークス(父シンボリクリスエス・母サクセスビューティ)トールポピー:阪神ジュベナイルフィリーズ、優駿牝馬(父ジャングルポケット・母アドマイヤサンデー)レジネッタ:桜花賞(父フレンチデピュティ・母アスペンリーフ)サクセスブロッケン:ジャパンダートダービー、フェブラリーステークス(父シンボリクリスエス・母サクセスビューティ)2006年産 セイウンワンダー:朝日杯フューチュリティステークス(父グラスワンダー・母セイウンクノイチ)セイウンワンダー:朝日杯フューチュリティステークス(父グラスワンダー・母セイウンクノイチ)2007年産 ローズキングダム:朝日杯フューチュリティステークス、ジャパンカップ(父キングカメハメハ・母ローズバド) ビッグウィーク:菊花賞(父バゴ・母タニノジャドール)ローズキングダム:朝日杯フューチュリティステークス、ジャパンカップ(父キングカメハメハ・母ローズバド)ビッグウィーク:菊花賞(父バゴ・母タニノジャドール)2008年産 グランプリボス:朝日杯フューチュリティステークス、NHKマイルカップ(父サクラバクシンオー・母ロージーミスト) アヴェンチュラ:秋華賞(父ジャングルポケット・母アドマイヤサンデー) ホエールキャプチャ:ヴィクトリアマイル(父クロフネ・母グローバルピース) ベルシャザール:ジャパンカップダート(父キングカメハメハ・母マルカキャンディ)グランプリボス:朝日杯フューチュリティステークス、NHKマイルカップ(父サクラバクシンオー・母ロージーミスト)アヴェンチュラ:秋華賞(父ジャングルポケット・母アドマイヤサンデー)ホエールキャプチャ:ヴィクトリアマイル(父クロフネ・母グローバルピース)ベルシャザール:ジャパンカップダート(父キングカメハメハ・母マルカキャンディ)2009年産 アルフレード:朝日杯フューチュリティステークス(父シンボリクリスエス・母プリンセスカメリア)アルフレード:朝日杯フューチュリティステークス(父シンボリクリスエス・母プリンセスカメリア)2010年産 ロゴタイプ:朝日杯フューチュリティステークス、皐月賞、安田記念(父ローエングリン・母ステレオタイプ) アウォーディー:JBCクラシック(父ジャングルポケット・母ヘヴンリーロマンス)ロゴタイプ:朝日杯フューチュリティステークス、皐月賞、安田記念(父ローエングリン・母ステレオタイプ)アウォーディー:JBCクラシック(父ジャングルポケット・母ヘヴンリーロマンス)2011年産 レッドファルクス:スプリンターズステークス (2016,2017)(父スウェプトオーヴァーボード・母ベルモット)レッドファルクス:スプリンターズステークス (2016,2017)(父スウェプトオーヴァーボード・母ベルモット)2012年産 ドゥラメンテ:皐月賞、東京優駿(父キングカメハメハ・母アドマイヤグルーヴ)ドゥラメンテ:皐月賞、東京優駿(父キングカメハメハ・母アドマイヤグルーヴ)2014年産 ペルシアンナイト:マイルチャンピオンシップ(父ハービンジャー・母オリエントチャーム)ペルシアンナイト:マイルチャンピオンシップ(父ハービンジャー・母オリエントチャーム)2015年産 アーモンドアイ:桜花賞、優駿牝馬、秋華賞、ジャパンカップ(父ロードカナロア・母フサイチパンドラ)アーモンドアイ:桜花賞、優駿牝馬、秋華賞、ジャパンカップ(父ロードカナロア・母フサイチパンドラ)1998年産 ジョウテンペガサス:百万石賞、スプリンターズカップ(父ジェイドロバリー)ジョウテンペガサス:百万石賞、スプリンターズカップ(父ジェイドロバリー)1999年産 マイソールサウンド:阪神大賞典など重賞5勝(父タマモクロス) プリサイスマシーン:中日新聞杯2回など重賞4勝(父マヤノトップガン) プレシャスカフェ:CBC賞、シルクロードステークス(父ハートレイク) シャドウスケイプ:根岸ステークス、クラスターカップ(父フォーティナイナー)マイソールサウンド:阪神大賞典など重賞5勝(父タマモクロス)プリサイスマシーン:中日新聞杯2回など重賞4勝(父マヤノトップガン)プレシャスカフェ:CBC賞、シルクロードステークス(父ハートレイク)シャドウスケイプ:根岸ステークス、クラスターカップ(父フォーティナイナー)2000年産 サカラート:ブリーダーズゴールドカップなど重賞4勝(父アフリート) アイポッパー:阪神大賞典、ステイヤーズステークス(父サッカーボーイ) スズノマーチ:エプソムカップ(父ティンバーカントリー)サカラート:ブリーダーズゴールドカップなど重賞4勝(父アフリート)アイポッパー:阪神大賞典、ステイヤーズステークス(父サッカーボーイ)スズノマーチ:エプソムカップ(父ティンバーカントリー)2001年産 ポップロック:目黒記念2回(父エリシオ) ウイングレット:中山牝馬ステークス(父タイキシャトル)ポップロック:目黒記念2回(父エリシオ)ウイングレット:中山牝馬ステークス(父タイキシャトル)2002年産 ワイルドワンダー:根岸ステークスなど重賞3勝(父ブライアンズタイム) ヤマニンメルベイユ:中山牝馬ステークス、クイーンステークス(父メジロマックイーン) ライラプス:クイーンカップ(父フレンチデピュティ) アンブロワーズ:函館2歳ステークス(父フレンチデピュティ)ワイルドワンダー:根岸ステークスなど重賞3勝(父ブライアンズタイム)ヤマニンメルベイユ:中山牝馬ステークス、クイーンステークス(父メジロマックイーン)ライラプス:クイーンカップ(父フレンチデピュティ)アンブロワーズ:函館2歳ステークス(父フレンチデピュティ)2003年産 サクラメガワンダー:金鯱賞など重賞4勝(父グラスワンダー) サイレントプライド:ダービー卿チャレンジトロフィー、富士ステークス(父フレンチデピュティ) シンゲン:オールカマーなど重賞3勝(父ホワイトマズル) パフィオペディラム:TCKディスタフ、栄冠賞(父フサイチコンコルド)サクラメガワンダー:金鯱賞など重賞4勝(父グラスワンダー)サイレントプライド:ダービー卿チャレンジトロフィー、富士ステークス(父フレンチデピュティ)シンゲン:オールカマーなど重賞3勝(父ホワイトマズル)パフィオペディラム:TCKディスタフ、栄冠賞(父フサイチコンコルド)2004年産 フサイチホウオー:共同通信杯など重賞3勝(父ジャングルポケット) トーセンキャプテン:アーリントンカップ、函館記念(父ジャングルポケット) ホクトスルタン:目黒記念(父メジロマックイーン) マイネルシーガル:富士ステークス(父ゼンノエルシド) アブソリュート:東京新聞杯、富士ステークス(父タニノギムレット) ボランタス:浦和記念(父ティンバーカントリー) クランエンブレム:阪神ジャンプステークス(父ウォーエンブレム)フサイチホウオー:共同通信杯など重賞3勝(父ジャングルポケット)トーセンキャプテン:アーリントンカップ、函館記念(父ジャングルポケット)ホクトスルタン:目黒記念(父メジロマックイーン)マイネルシーガル:富士ステークス(父ゼンノエルシド)アブソリュート:東京新聞杯、富士ステークス(父タニノギムレット)ボランタス:浦和記念(父ティンバーカントリー)クランエンブレム:阪神ジャンプステークス(父ウォーエンブレム)2005年産 ヤマニンキングリー:札幌記念など重賞3勝(父アグネスデジタル) スマイルジャック:スプリングステークスなど重賞3勝(父タニノギムレット) ドリームシグナル:シンザン記念(父アグネスデジタル) エアパスカル:チューリップ賞(父ウォーエンブレム) ユキチャン:関東オークスなど重賞3勝(父クロフネ) フサイチアソート:東京スポーツ杯2歳ステークス(父トワイニング) ナンヨーリバー:兵庫チャンピオンシップ(父スキャン) ブラボーデイジー:エンプレス杯、福島牝馬ステークス(父クロフネ) ロールオブザダイス:平安ステークス(父トワイニング) マイネルスターリー:函館記念(父スターオブコジーン) キングスエンブレム:シリウスステークス(父ウォーエンブレム) シルポート:マイラーズカップ、京都金杯(父ホワイトマズル)ヤマニンキングリー:札幌記念など重賞3勝(父アグネスデジタル)スマイルジャック:スプリングステークスなど重賞3勝(父タニノギムレット)ドリームシグナル:シンザン記念(父アグネスデジタル)エアパスカル:チューリップ賞(父ウォーエンブレム)ユキチャン:関東オークスなど重賞3勝(父クロフネ)フサイチアソート:東京スポーツ杯2歳ステークス(父トワイニング)ナンヨーリバー:兵庫チャンピオンシップ(父スキャン)ブラボーデイジー:エンプレス杯、福島牝馬ステークス(父クロフネ)ロールオブザダイス:平安ステークス(父トワイニング)マイネルスターリー:函館記念(父スターオブコジーン)キングスエンブレム:シリウスステークス(父ウォーエンブレム)シルポート:マイラーズカップ、京都金杯(父ホワイトマズル)2006年産 グランプリエンゼル:函館スプリントステークス(父アグネスデジタル) ゴールデンチケット:兵庫チャンピオンシップ(父キングカメハメハ) クリーバレン:新潟ジャンプステークス(父シンボリクリスエス)グランプリエンゼル:函館スプリントステークス(父アグネスデジタル)ゴールデンチケット:兵庫チャンピオンシップ(父キングカメハメハ)クリーバレン:新潟ジャンプステークス(父シンボリクリスエス)2007年産 アプリコットフィズ:クイーンカップ、クイーンステークス(父ジャングルポケット) エーシンホワイティ:ファルコンステークス、新潟ジャンプステークス(父サクラバクシンオー) トゥザグローリー:日経賞など重賞5勝(父キングカメハメハ) ミッキードリーム:朝日チャレンジカップ(父キングカメハメハ) フェデラリスト:中山記念、中山金杯(父エンパイアメーカー) サイレントメロディ:マーチステークス(父シンボリクリスエス) ソリタリーキング:東海ステークス、日本テレビ盃(父キングカメハメハ) ダイワファルコン:福島記念2回(父ジャングルポケット) アドマイヤロイヤル:プロキオンステークス(父キングカメハメハ) セイコーライコウ:アイビスサマーダッシュ(父クロフネ)アプリコットフィズ:クイーンカップ、クイーンステークス(父ジャングルポケット)エーシンホワイティ:ファルコンステークス、新潟ジャンプステークス(父サクラバクシンオー)トゥザグローリー:日経賞など重賞5勝(父キングカメハメハ)ミッキードリーム:朝日チャレンジカップ(父キングカメハメハ)フェデラリスト:中山記念、中山金杯(父エンパイアメーカー)サイレントメロディ:マーチステークス(父シンボリクリスエス)ソリタリーキング:東海ステークス、日本テレビ盃(父キングカメハメハ)ダイワファルコン:福島記念2回(父ジャングルポケット)アドマイヤロイヤル:プロキオンステークス(父キングカメハメハ)セイコーライコウ:アイビスサマーダッシュ(父クロフネ)2008年産 リアライズノユメ:エーデルワイス賞(父アフリート) マイネイサベル:府中牝馬ステークス、新潟2歳ステークス、中山牝馬ステークス(父テレグノシス) ダンスファンタジア:フェアリーステークス(父ファルブラヴ) クレスコグランド:京都新聞杯(父タニノギムレット) マイネルラクリマ:京都金杯、七夕賞、オールカマー(父チーフベアハート) オールザットジャズ:福島牝馬ステークス2回(父タニノギムレット) ムスカテール:目黒記念(父マヤノトップガン) ミトラ:福島記念(父シンボリクリスエス) エポワス:キーンランドカップ(父ファルヴラヴ)リアライズノユメ:エーデルワイス賞(父アフリート)マイネイサベル:府中牝馬ステークス、新潟2歳ステークス、中山牝馬ステークス(父テレグノシス)ダンスファンタジア:フェアリーステークス(父ファルブラヴ)クレスコグランド:京都新聞杯(父タニノギムレット)マイネルラクリマ:京都金杯、七夕賞、オールカマー(父チーフベアハート)オールザットジャズ:福島牝馬ステークス2回(父タニノギムレット)ムスカテール:目黒記念(父マヤノトップガン)ミトラ:福島記念(父シンボリクリスエス)エポワス:キーンランドカップ(父ファルヴラヴ)2009年産 エアソミュール:鳴尾記念、毎日王冠(父ジャングルポケット)エアソミュール:鳴尾記念、毎日王冠(父ジャングルポケット)2010年産 コディーノ:札幌2歳ステークス、東京スポーツ杯2歳ステークス(父キングカメハメハ) インパルスヒーロー:ファルコンステークス(父クロフネ) アウトジェネラル:羽田盃(父アドマイヤドン) ディアデラマドレ:マーメイドステークス、府中牝馬ステークス、愛知杯(父キングカメハメハ、母ディアデラノビア) ソロル:マーチステークス、小倉サマージャンプ(父シンボリクリスエス) トロワボヌール:クイーン賞(父バゴ)コディーノ:札幌2歳ステークス、東京スポーツ杯2歳ステークス(父キングカメハメハ)インパルスヒーロー:ファルコンステークス(父クロフネ)アウトジェネラル:羽田盃(父アドマイヤドン)ディアデラマドレ:マーメイドステークス、府中牝馬ステークス、愛知杯(父キングカメハメハ、母ディアデラノビア)ソロル:マーチステークス、小倉サマージャンプ(父シンボリクリスエス)トロワボヌール:クイーン賞(父バゴ)2011年産 ホウライアキコ:小倉2歳ステークス、デイリー杯2歳ステークス(父ヨハネスブルグ) ショウナンアチーヴ:ニュージーランドトロフィー(父ショウナンカンプ) カラダレジェンド:京王杯2歳ステークス(父フレンチデピュティ) トゥザワールド:弥生賞(父キングカメハメハ) アドマイヤデウス:日経新春杯、日経賞(父アドマイヤドン) ロワジャルダン:みやこステークス(父キングカメハメハ) ネロ:京阪杯2回(父ヨハネスブルグ) サクラアンプルール:札幌記念(父キングカメハメハ) スズカデヴィアス:新潟大賞典(父キングカメハメハ) エアアンセム:函館記念(父シンボリクリスエス)ホウライアキコ:小倉2歳ステークス、デイリー杯2歳ステークス(父ヨハネスブルグ)ショウナンアチーヴ:ニュージーランドトロフィー(父ショウナンカンプ)カラダレジェンド:京王杯2歳ステークス(父フレンチデピュティ)トゥザワールド:弥生賞(父キングカメハメハ)アドマイヤデウス:日経新春杯、日経賞(父アドマイヤドン)ロワジャルダン:みやこステークス(父キングカメハメハ)ネロ:京阪杯2回(父ヨハネスブルグ)サクラアンプルール:札幌記念(父キングカメハメハ)スズカデヴィアス:新潟大賞典(父キングカメハメハ)エアアンセム:函館記念(父シンボリクリスエス)2012年産 セカンドテーブル:京王杯2歳ステークス(父トワイニング) ベルーフ:京成杯(父ハービンジャー) ヤングマンパワー:アーリントンカップ、関屋記念、富士ステークス(父スニッツェル) クリプトグラム:目黒記念(父キングカメハメハ) マキシマムドパリ:愛知杯、マーメイドステークス(父キングカメハメハ) トーセンビクトリー:中山牝馬ステークス(父キングカメハメハ)セカンドテーブル:京王杯2歳ステークス(父トワイニング)ベルーフ:京成杯(父ハービンジャー)ヤングマンパワー:アーリントンカップ、関屋記念、富士ステークス(父スニッツェル)クリプトグラム:目黒記念(父キングカメハメハ)マキシマムドパリ:愛知杯、マーメイドステークス(父キングカメハメハ)トーセンビクトリー:中山牝馬ステークス(父キングカメハメハ)2013年産 エアスピネル:デイリー杯2歳ステークス、京都金杯、富士ステークス(父キングカメハメハ、母エアメサイア) ドレッドノータス:ラジオNIKKEI杯京都2歳ステークス(父ハービンジャー、母ディアデラノビア) チェッキーノ:フローラステークス(父キングカメハメハ) キンショーユキヒメ:福島牝馬ステークス(父メイショウサムソン) アスターサムソン:京都ハイジャンプ(父メイショウサムソン)エアスピネル:デイリー杯2歳ステークス、京都金杯、富士ステークス(父キングカメハメハ、母エアメサイア)ドレッドノータス:ラジオNIKKEI杯京都2歳ステークス(父ハービンジャー、母ディアデラノビア)チェッキーノ:フローラステークス(父キングカメハメハ)キンショーユキヒメ:福島牝馬ステークス(父メイショウサムソン)アスターサムソン:京都ハイジャンプ(父メイショウサムソン)2014年産 ヴゼットジョリー:新潟2歳ステークス(父ローエングリン) ダンビュライト:アメリカジョッキークラブカップ(父ルーラーシップ) エアウィンザー:チャレンジカップ(父キングカメハメハ、母エアメサイア)ヴゼットジョリー:新潟2歳ステークス(父ローエングリン)ダンビュライト:アメリカジョッキークラブカップ(父ルーラーシップ)エアウィンザー:チャレンジカップ(父キングカメハメハ、母エアメサイア)2015年産 ジャンダルム:デイリー杯2歳ステークス(父キトゥンズジョイ、母ビリーヴ) パクスアメリカーナ:京都金杯(父クロフネ)ジャンダルム:デイリー杯2歳ステークス(父キトゥンズジョイ、母ビリーヴ)パクスアメリカーナ:京都金杯(父クロフネ)2016年産 フィリアプーラ:フェアリーステークス(父ハービンジャー)フィリアプーラ:フェアリーステークス(父ハービンジャー)2005年産 Tale of Ekati:ウッドメモリアルステークス、シガーマイルハンデキャップ(父Tale of the Cat・母Silence Beauty) Young Pretender:ロシェット賞(父Oasis Dream・母Silent Heir)Tale of Ekati:ウッドメモリアルステークス、シガーマイルハンデキャップ(父Tale of the Cat・母Silence Beauty)Young Pretender:ロシェット賞(父Oasis Dream・母Silent Heir)2006年産 More Joyous:クイーンオブザターフステークス連覇、クイーンエリザベスステークス、ドンカスターマイル、フューチュリティステークス、トゥーラックハンデキャップ、ジョージメインステークス、フライトステークス(父More Than Ready・母Sunday Joy)More Joyous:クイーンオブザターフステークス連覇、クイーンエリザベスステークス、ドンカスターマイル、フューチュリティステークス、トゥーラックハンデキャップ、ジョージメインステークス、フライトステークス(父More Than Ready・母Sunday Joy)2011年産 Karakontie:ジャン・リュック・ラガルデール賞、プール・デッセ・デ・プーラン、ブリーダーズカップ・マイル(父Bernstein、母サンイズアップ) ※生産国日本Karakontie:ジャン・リュック・ラガルデール賞、プール・デッセ・デ・プーラン、ブリーダーズカップ・マイル(父Bernstein、母サンイズアップ) ※生産国日本 ==血統== ===血統表=== ===血統的背景=== 母のウィッシングウェルは12勝(うち重賞2勝)を挙げたが、その母系を遡るとマウンテンフラワー、エーデルワイス、ダウィジャー、マルセリーナはいずれも競走馬として優勝したことがない。前述のように母系が地味であることが種牡馬としてのサンデーサイレンスの評価を下げる一因となった。 サンデーサイレンスは非常に気性が荒かったが、父のヘイローも突然人を襲うなど気性の荒い馬として知られている。母のウィッシングウェルも競走馬時代の管理調教師が「気が違っているんじゃないか」と思うほど気性が悪い馬であった。 サンデーサイレンスの全妹サンデーズシス、ペニーアップ、マイライフスタイルの3頭が日本に輸入され繁殖牝馬となっている。ペニーアップの孫トーセンクラウンが中山記念で優勝している。 =中山トンネル (上越新幹線)= 中山トンネル(なかやまトンネル)は、上越新幹線の高崎駅 ‐ 上毛高原駅間にある、総延長14,857 mの複線鉄道トンネルである。 日本において初めて新オーストリアトンネル工法 (NATM) が採用されたトンネルである。 当初の予想を大幅に超えた難工事による工期の遅れから、中山トンネルの工事は上越新幹線全体の開業に多大な影響を与えることとなり、事前の地質調査の重要性など、多くの教訓を残すこととなった。 高崎方面から進行すると榛名トンネルの次、2番目に通過するトンネルである。建設中に2回の大出水事故を起こして難工事を極め、2回の経路変更によりようやく完成した。経路変更に伴いトンネル内に半径1,500 mの曲線が生じたため、営業速度240 km/hの新幹線がトンネル内の曲線部分を通過するときには160 km/hに減速せざるをえなくなった。 ==建設の背景== 先に開通していた東海道新幹線や建設が行われていた山陽新幹線に引き続き、「国土の均衡ある発展を図る」ことを目的として1970年(昭和45年)に全国新幹線鉄道整備法が制定された。これにより東京と新潟を結ぶ高速鉄道として上越新幹線を建設することが決まり、1971年(昭和46年)1月に基本計画決定された。そしてわずか10か月ほどの準備期間を経て同年10月に起工されたが、この準備期間はいささか短すぎるものであった。また準備に際しても、過去に難工事を経験した在来線の上越線用の清水トンネル・新清水トンネルと並行しており、かつ上越新幹線でもっとも長い大清水トンネルに注目が集まり、中山トンネルに対しては十分な準備がなされたとは言えない状況であった。 ===経路の選択=== 群馬県内における上越新幹線の経路としては、上越線のように利根川に沿う経路ではなく、それより西に寄った月夜野の高原地帯の下をトンネルで貫く経路が選択された。これに関しては、上毛高原駅周辺の土地開発に絡む利権からの決定であるという主張がある。一方、当時計画されていた沼田ダムとの関連を指摘する意見もある。新潟大学名誉教授の大熊孝は「群馬県に計画されていた沼田ダムでの水没予定地を避けて関越自動車道と新幹線の経路が選択されたと理解している」と発言している。 実際に建設された中山トンネルは、小野子山と子持山の間の火山活動でできた高原地帯の下を貫く経路が選択されている。これに関しては、子持山の東側を利根川に沿ってトンネルで貫く経路も検討されていた。実際に採用された経路ではなだらかな高原地帯の下に建設したため、トンネルの建設位置に取り付く経路として斜坑を建設するときわめて長大なものにならざるを得ないことから、鉄道のトンネルとしては前例の少ない立坑を掘らなければならなかったのに対して、子持山東麓経路では利根川沿いからトンネルへ取り付く経路を設定できて施工条件は良いとされた。事前の検討でも子持山東麓経路が本命で直行ルートは当て馬的に考えられていたという証言がある。しかし子持山東麓経路ではその手前で渋川の市街地を長く通過することになって土地買収の困難が予想されたことや、前後の駅設置位置との関係などの問題があった。また当時東北新幹線において水沢や花巻などの中間駅設置の要望が強かったが、国鉄としては新幹線の速達性を損なう中間駅の増設に否定的な立場であった。利根川沿いに北上する経路を採用した場合、渋川と水上に駅を設置することが検討されていたが、このような駅間距離の短い駅の配置を上越新幹線で採用する影響が東北新幹線に波及することを国鉄のトップが恐れたこともあり、最終的に現経路が選択された。 ==建設計画== ===建設担当=== 上越新幹線はそれまでの新幹線と異なり、初めて日本鉄道建設公団(以下、公団と略す)が担当することとされた。このため中山トンネルも公団が担当して建設することになった。公団ではこの上越新幹線の工事にあたり、大宮起点126 km330 m地点(在来線の水上駅付近)より南側を担当するために東京新幹線建設局を設置した。その下で実際に中山トンネルの建設を担当したのは、高山鉄道建設所である。 ===建設基準=== 上越新幹線建設にあたっては、乗り心地の限界、蛇行動発生の限界、粘着の限界など諸限界を考慮の上で、近い将来に改良して向上できる限界も加味して、計画最高速度を250 km/hと設定した。ただし、自動列車制御装置 (ATC) によってブレーキが動作する速度(許容最高速度)は260 km/hである。実際には開業時には最高速度210 km/hで走行し、その後240 km/hに高速化し、1990年(平成2年)3月10日のダイヤ改正から下り2本のみ大清水トンネル内の下り勾配を利用して275 km/h運転を実現したが、1999年(平成11年)12月ダイヤ改正で275 km/h運転は中止され、240 km/h運転となっている。 車両限界と建築限界については、東海道・山陽新幹線に比べて縮小することでトンネル断面積の削減を検討したが、将来的な直通運転への対応やサービス向上に対する弾力性などを考慮し、また工事費の節減効果が少ないとされたことから、東海道・山陽新幹線と同じ断面が採用された。軸重は、東海道・山陽新幹線では16 tであったが、雪害対策を施したために1 t増加して17 tとなった。これに合わせて活荷重は新P‐17標準活荷重およびN‐16標準活荷重を採用している。 最小曲線半径については山陽新幹線の基準を踏襲し、停車場外では4,000 m(やむを得ない場合3,500 m)と設定されていたが、後述するようにこれは結果的に達成できず、トンネル内に半径1,500 mの曲線が設定されることとなった。縦曲線半径は15,000 m以上、最急勾配は15パーミル以下、延長10 km間平均勾配で12パーミル以下とされた。軌道中心間隔は4.3 mで、軌道は全面的にスラブ軌道を採用している。トンネルの断面は、ほぼ山陽新幹線のものを継承している。基面の幅は、レール面の下0.4 mの高さ(基面)で直線区間では8.4 m、スプリングライン(トンネル側壁から上部の円形部分への接続点)の高さはレール面から2.6 m、アーチ(トンネル上部の円形部分)の半径は4.8 mである。 ===線形=== 中山トンネルは、大宮起点101 km 710 m地点から116 km 540 m地点に至る区間にある。このためトンネルの長さは14,830 mのはずであるが、実際にはトンネル内に2か所の重キロ程(キロ程の重複地点、詳細は後述)があり、27 mが加算されて全長は14,857 mとなっている。トンネル内での勾配は、大宮方から新潟方へ向けて12パーミルの上り片勾配として計画されていたが、実際に完成したトンネルでは一部に11.9パーミル区間がある。平面線形は、トンネル中間付近で下り列車に対して右へ半径6,000 mの曲線と、トンネル出口付近で下り列車に対して左へ半径4,000 mの曲線が計画されていた。これは建設中の2回にわたるルート変更により、半径1,500 mの曲線が挿入されている。トンネルが通過している地域は子持山と小野子山の間の鞍部にあたり、標高400 ‐ 650 m程度の高原地帯で、土被りは200 ‐ 400 m程度である。 ===工区割=== 中山トンネルのように長大なトンネルを両側の坑口からの工事のみで建設すると、完成までに非常に長期間を要するため、通常は斜坑や横坑で本坑の中間に取り付いて中間からも工事を進めることで工期の短縮を図る。斜坑や横坑はあくまで準備のためのトンネルであり、これそのものの工事に時間がかかっては意味がないので、トンネルそのもののルート選定の際に斜坑や横坑の建設のしやすさが考慮されることが通例である。しかし、中山トンネルは高原状の地形の部分に建設されており、本坑に取り付く横坑・斜坑を建設するために適当な谷筋がなく、立坑を建設しなければならなくなった。鉄道のトンネル建設に際して立坑を掘ることは珍しく経験者がほとんどいなかったために、立坑の工事経験の多い炭鉱へ技術者を研修に派遣して対処しようとした。ところが、炭鉱では地質年代が古い地層に立坑を掘ることがほとんどで湧水が少なく、中山トンネルの新しい時代の地層とは大きく様相が異なって、大きな誤算を生む要因となった。 中山トンネルでは当初、表に示したように起点側から小野上南、小野上北、四方木(しほうぎ)、高山、中山、名胡桃(なぐるみ)の6つの工区に分割して着工された。資料によっては小野上南を小野上(南)、小野上北を小野上(北)のように表記しているものもあるが、以下ではカッコなしで表記する。このうち両坑口から着工した小野上南、名胡桃を除く中間4工区については、立坑3本、斜坑1本を用いて取り付くことになった。中でも立坑は300 mにもおよぶ高さとなった。 小野上北工区については、斜坑の建設中に大出水事故を起こし、斜坑の経路変更を行った。しかしそれでも掘削を進めることができず、その間に順調に工事を進めてきた小野上南工区が小野上北工区の範囲にさしかかる見込みとなったことから、途中で契約解除となり工区が廃止となった。結果として小野上北工区は本坑の完成に何らの寄与もすることができず、むしろトンネル周辺の渇水被害などをもたらす結果となってしまった。以降の建設は3つの立坑と両坑口から行われることになった。こうした難工事で本坑建設が進まなかった他の工区を救援することになった小野上南工区と中山工区は、全長が5 km近い長大なものとなった。 ===地質=== 中山トンネル付近では地表付近を火山泥流堆積物が厚く覆っており、また土被りが300 ‐ 400 mにも達することから、地表面からの踏査で地質を調査することは難しかった。そこでボーリングと弾性波探査(人工地震波による調査)による地質調査が実施された。立坑に着手した1971年度(昭和46年度)の時点では12本のボーリングが実施されたが、コアの採取率が悪く詳細な地質は不明のままであった。その後、1972年度(昭和47年度)に追加のボーリング15本と弾性波調査が実施され、1973年度(昭和48年度)に総合解析としてトンネル全区間の地質縦断面図が作成された。 この当初作成された地質縦断面図では、トンネル本坑周辺のかなり広い範囲で猿ヶ京層群 (Gf) という堆積岩が分布していることになっていた。この堆積岩は約3000万年前に堆積して、長い年月の間に岩石化が進行し、湧水のほとんどないよく固結した良好な岩盤であるとされた。実際に中山立坑では工事中の湧水が少なかったこともあり、当初工事が難航していた四方木立坑や小野上北斜坑も、もう少し深く掘り下げれば堆積岩層に入って好転するものと期待されていた。しかし実際にはいつまでたっても良好な岩盤が現れることはなかった。 1974年(昭和49年)9月に小野上北斜坑において大出水事故が発生し、これを受けて70本以上のボーリング調査が追加実施されて、1976年(昭和51年)に再度地質縦断面図が作成された。これによれば、当初四方木立坑や小野上北斜坑の下部にあるとされていた緑色凝灰岩を中心とした固結した堆積岩は、実際には未固結凝灰角礫岩(八木沢層、Yg)であることが判明した。八木沢層は古く見積もっても数百万年前程度に堆積したもので、ほとんど未固結であり、中山トンネルの工事を難航させた最大の原因となった。 また、四方木立坑から高山立坑にかけての本坑付近に閃緑岩類 (Dp) の存在が確認された。この閃緑岩は固くてトンネルを建設するのに適した地層であるが、中山トンネルにおいてはその上部が不整合面を形成していた。不整合面はかつての地表面で、その上に新たに堆積物が積み重なって地層の境界となっている。このためかつての地表面そのままに境界面に山や谷が形成されていて複雑な起伏があり、地表からのボーリング調査によって構造を正確に把握するのは困難であった。そして、トンネル施工基面がこの不整合面にほぼ一致していたため、本坑付近の地質分布が大変複雑なものとなってしまった。特に問題があったのは、本坑は不整合面の下部の閃緑岩層にあるが、不整合面までの高さが薄くなっている部分で、不整合面の上は20気圧近い水圧のかかった地下水を含む八木沢層であるため、本坑へ水が浸透してくることが問題となった。このため薬液注入を実施して対策を施したが、それでもそうした場所での大出水事故を招くことになった。一方でそうした起伏に富んだ不整合面を把握することで、帯水層までの十分な離隔を置いた位置へのルート変更を行うことが可能となった。 ===工期=== 1971年(昭和46年)に当初の工事実施計画が認可された時点では、上越新幹線の完成は1976年度(昭和51年度)と設定されていた。約5年の工期は、東海道新幹線や山陽新幹線の実績を考えれば、それほど無謀な設定ではなかった。しかし建設中の1973年(昭和48年)には第一次オイルショックに見舞われ、建設予算の削減や新規発注の凍結が行われ、工事の遅れに直結した。中山トンネルでは、当初完成予定のはずの1976年度の時点で四方木や高山の立坑がようやく完成して本坑の工事に入る段階で、工事が大幅に遅れていることは明らかであった。 こうしたことから、1977年(昭和52年)3月24日の工事実施計画変更申請、同3月30日認可により、完成予定は1980年度(昭和55年度)へと延期となった。しかし出水事故などに見舞われて工期はさらに遅延することになり、1980年(昭和55年)12月24日には1982年(昭和57年)春に東北・上越新幹線を同時開業させる方針が発表された。ところが中山トンネルで2回目の出水事故が発生して、最終的に東北新幹線との同時開業の断念に追い込まれた。結局上越新幹線は1982年(昭和57年)11月15日の開業と決定し、これに間に合わせるべく突貫工事を続け、中山トンネルを同年3月に完成させた。 ==建設== 建設工事は6つの工区それぞれにおいて行われた。以下工区別に、本坑への取り付きのための立坑や斜坑の工事を四方木、高山、中山、小野上工区の順にまず説明する。続いて本坑の工事を両端から工事した名胡桃工区、小野上南工区を先に説明し、また立坑を用いた工区の本坑工事については、大きな問題のなかった中山工区を最初に、四方木工区における本坑工事と1回目の出水事故とその復旧工事および1回目のルート変更、高山工区における本坑工事と2回目の出水事故とその復旧工事と2回目のルート変更、そしてトンネルの完成の順番で説明する。最後にトンネル工事に伴う渇水対策を説明する。 ===本坑への取り付き工事=== ====四方木立坑==== 1972年(昭和47年)2月8日、東京新幹線建設局管内で最初の工事として、四方木工区の工事が佐藤工業に対して発注され、同年4月に着工した。四方木工区は当初計画では大宮起点106 km300 m地点から109 km200 m地点までの2,900 mを担当することになっており、107 km734 m地点の下り列車に対して本線左側20 mの離れの地点に立坑を建設して取りついた。立坑の地表面から施工基面までの深さは336.6 m、施工基面より下にさらに35.0 m掘り、総深度は371.6 mである。立坑の内径は6.0 mである。 立坑を掘るには、20 ‐ 40 m程度掘削してから覆工(コンクリートで巻き立てを行う)するロングステップ工法と、1.5 ‐ 3.0 m程度掘削してすぐに覆工するショートステップ工法があるが、湧水が多く地質の悪い中山トンネルでは地山(トンネル周辺の地盤)の緩みの少ないショートステップ工法が採用され、1回の覆工長を2.4 mに設定した。ただし深度173 m以深は1.5 mピッチとなっている。掘削作業では、穴をあけてダイナマイトを装填して発破を行い、エキスカベータを底に降ろしてずり(残土)を集めてキブル(立坑において資材運搬に使用する大きなバケット)を使って搬出し、その後に壁面のコンクリート打設を行うという手順を繰り返して掘り下げていった。掘削中に発生する湧水対策として、揚程40 m、揚水量500リットル/分のタービンポンプを2系統、30 m間隔で設置して地上へ揚水するようにしたが、湧水量の増加に揚水が追い付かなくなり、3回にわたる揚水計画変更により1,500リットル/分のポンプを6系統備えたものに増強され、これ以外に予備1,500リットル/分、また清水用深井戸ポンプ揚程160 m、3,000リットル/分も備えた当初の12倍の揚水能力へ向上が実施された。 4月の着工後、19.2 m地点まで掘り下げを行うともに立坑掘削の設備の準備を進めて、掘削設備の完成した10月からは本格的に掘削が開始された。掘削が86 mまで進んで地下水位に到達した時点から湧水が始まり、次第に水量が増加していった。深度100.8 mに達した1972年(昭和47年)12月29日より第1回の坑底注入が実施された。坑底注入は、立坑の底から下へ向けて多数のボーリングを実施して、セメントミルクや水ガラスを注入して坑底から約30 mの範囲で地質改良を行って、湧水を止める作業である。坑底注入作業中は坑底がそのための機械に占拠されてしまうため、その期間中掘削は止まってしまうことになった。1973年(昭和48年)1月27日から掘削を再開したが、すぐに湧水が増加してしまい、第2回坑底注入を迫られることになった。こうして工事は掘削と坑底注入の繰り返しで進められることになった。第3回坑底注入では、坑底にカバーコンクリートを打設してからボーリングを実施しようとしたが、厚さ2.4 mのカバーコンクリートが水圧で持ち上がってしまい、7.2 mまで厚さを増加させなければならなかった。深さを増すにつれて水圧はさらに増大して施工条件は悪化していき、当初見込んでいた月間50 mの掘削など到底望めない状態となった。結局、第1回100.8 m、第2回112.8 m、第3回139.2 m、第4回152.3 m、第5回162.9 m、第6回175.6 m、第7回204.7 m、第8回318.0 mと、都合8回の坑底注入を繰り返すことになった。 深さ158 m付近で堅固な安山岩の層に入ったが、10 mほど下で再び未固結な火山噴出物層に入ることは予測されていたため、この安山岩層を利用して深さ162.9 m地点で立坑周辺に鉢巻状にトンネルを掘って注入基地を設けることになった。これは坑底で注入を行うとその期間掘削が中断してしまうため、立坑の周辺に設けた注入基地からボーリングして立坑周辺へ注入を行うことで、注入と掘削を同時並行して進めるものであった。しかし多少の効果はあったものの、注入基地からの注入距離が長くなるにつれて効果が薄れ、期待通りの成果とはならなかった。 こうした悪戦苦闘の末、1976年(昭和51年)8月12日についに371.6 mの立坑の掘削工事を完了した。立坑を建設した後、本坑施工の準備のために立坑設備の工事(バントン工事)を行った。これは立坑にエレベーター、ずりだしスキップ、揚水管、風管、コンクリート管、高圧ケーブルなどを設置するもので、1977年(昭和52年)4月27日に着手し11月30日に完了した。 四方木立坑の工事に際して発生した他の問題としては、排水処理の問題がある。四方木立坑の湧水は、吾妻川の支流である関口沢川に放流されていた。この川はイワナやヤマメの漁場であり、また中流部にわさび田、養鱒場があって、下流では田んぼにも水が使用されているため、排水中の無機物を除去する対策を必要とすることになった。このため毎分10トンの処理能力を持つシックナー(排水処理設備)を設置し、凝集剤としてポリ塩化アルミニウム (PAC) を使用して無機物除去を行った。さらにコンクリート打設に伴って排水のpHが上昇したため、硫酸を投入して中和を行った。ところが立坑内の湧水増大に対応するために注入薬剤を効果の高い有機性薬剤に変更したところ、シックナーの処理効率が低下し放流水の生物化学的酸素要求量 (BOD) が上昇し、川に水わた(鉄バクテリアの一種)が発生して汚染されることになった。これに対して接触酸化装置の導入や改良の対策が実施された。さらに湧水量の増大に対応してシックナーの増設や、中和に伴う硫酸イオン増加の悪影響に対処するために炭酸ガスによる中和設備を導入するなど、改良を行ってきた。また排水処理施設の負荷軽減を図るため、注入基地より上部からの綺麗な湧水を別途専用のポンプで揚水して、処理設備を通さずに直接放流するようにしていた。同様の排水対策は、他の工区でも実施されている。 ===高山立坑=== 高山工区は大林組に対して発注され、1972年(昭和47年)8月に着工した。高山工区は当初計画では大宮起点109 km200 m地点から112 km100 m地点までの2,900 mを担当することになっており、109 km460 m地点の下り列車に対して本線右側20 mの離れの地点に立坑を建設して取りついた。立坑の地表面から施工基面までの深さは260.0 m、施工基面より下にさらに35.0 m掘り、総深度は295.0 mである。立坑の内径は6.0 mである。 高山立坑では、四方木立坑に比べても浅い位置に地下水位があることが分かっていたため、掘削開始前に地上から注入作業を行った。35 mずつ8ステップに分けて、掘削予定の深さのほぼ全体にわたって薬液の注入を行って、湧水の防止を試みた。しかし、坑底での注入では地下水位の下で作業を行うため、注入用のボーリング穴を開けたときに地下水が噴出してこなくなれば十分薬液が注入されて止水されたと判断できるが、地下水位の上で作業を行う地上からの注入ではボーリングをしてももともと地下水の噴出が無く、薬液の注入効果を確認できないという問題があった。 1973年(昭和48年)1月になりようやく立坑の掘削工事を開始した。四方木立坑と同様の手順でショートステップ工法により掘削を推進したが、51.8 m地点で約1.5トン/分の湧水に見舞われて掘削不可能となった。そこで高山立坑でも坑底注入を実施することになり、カバーロックコンクリートを施工してボーリングを行い、薬液注入を行ってから掘削し、再びボーリングと注入を行うという段階的な注入方式を実施した。しかし59.8 m地点で再度約0.8トン/分の湧水に見舞われ、経済的にも工期的にも問題のあった段階的な注入方式の見直しが行われた。 続いて採られた対策はディープウェル(深井戸)の掘削である。立坑の周囲に30 cm径の穴を8本、深さ200 mまで掘削し、ポンプでこの穴から水をくみ上げてしまうことで、地下水位そのものを下げようという対策であった。ディープウェル1本あたり3トン/分のポンプを設置し、8本合計で24トン/分の排水を続けたが、水位は100 m程度までしか下がらなかった。さらに低温の排水が周辺の水田に低温障害を引き起こしていたこともあり、これ以上のポンプ増設は困難であった。ともかく、ディープウェルによる汲み上げと坑底注入の併用で、深さ119 mまで掘削を行った。 その後、深さ200 m付近にあることがわかっている安山岩層まで、残り80 mほどの掘削にあたって、フランスで開発された注入工法であるソレタンシュ式注入工法(ソレタンシュ地盤改良工法)を採用することになった。この工法ではより精密に所定量の薬剤を必要な場所に注入することができるという特徴がある。3回に分けての注入が実施され、1975年(昭和50年)9月に深さ195 m付近で安山岩層に到達し、その後は順調に工事が進められた。1976年(昭和51年)6月4日に坑底に到達した。その後10月15日からバントン工事が行われ、1977年(昭和52年)5月15日に完了した。 ===中山立坑=== 中山工区は熊谷組に対して発注され、1972年(昭和47年)7月20日に着工した。中山工区は当初計画では大宮起点112 km100 m地点から114 km900 m地点までの2,800 mを担当することになっており、112 km640 m地点の下り列車に対して本線右側20 mの離れの地点に立坑を建設して取りついた。立坑の地表面から施工基面までの深さは277.9 m、施工基面より下にさらに35.0 m掘り、総深度は312.9 mである。立坑の内径は6.0 mである。 中山立坑の地点では、基盤となる緑色凝灰岩層が隆起しており、立坑の313 mの深さのうち250 mほどが基盤の中に入っていた。このため四方木・高山の両立坑と異なり、工事中に湧水に悩まされることはほとんどなく順調に工事が進められた。他の立坑が難航を続ける中、中山立坑は1973年(昭和48年)10月12日には深さ313 mまでの掘削を完了した。その後バントン工事を1974年(昭和49年)1月31日から5月3日までかけて施工した。 なおこの中山立坑は、本坑の工事完成後は保線作業や渇水対策事業などで使用する見込みがなかったため、埋戻しが行われている。下部にはコンクリートを流し込み、その上は土砂を上部から投入して、コンクリートで蓋をして埋められている。 ===小野上北斜坑=== 小野上北工区は三井建設に対して発注され、1973年(昭和48年)3月1日に着工した。小野上北工区は当初計画では大宮起点104 km610 m地点から106 km300 m地点までの1,690 mを担当することになっており、大宮起点104 km900 m地点に取り付く全長810 mの斜坑を建設することになった。中山トンネルで唯一の斜坑であり、その傾斜は14.5度である。 斜坑掘削開始当初から湧水が多く、深くなるにつれてさらに増大していった。457.8 mまで掘削した1974年(昭和49年)9月27日に切羽(トンネル工事の先端部)が崩壊し大出水事故を起こした。出水量は340 t/分にも達し、約10分間にわたって坑口から水が噴き出した。この水量は、100万人規模の都市の水道水を供給できる量である。出水事故当時先端にいた作業員は水に追われて斜坑を走って脱出することになった。また流出した水が斜坑付近にあった民家の床下浸水をもたらしている。 出水後、復旧工事を進めるとともにボーリング調査により地質を調査したところ、出水地点付近に20万立方メートルに及ぶ大滞水塊が存在することが判明した。ほとんど地中湖同然の水塊であり、その水圧が地山強度を超えたことが出水事故の原因であった。 現行ルートでの斜坑掘削継続は不可能とされたが、しかし隣接する小野上南工区も難航していたことから、双方の進捗状況を検討した上で、小野上北斜坑のルート変更を行って建設を継続する方針となった。斜坑口から188 mの位置で大宮方へ20度で分岐し、勾配18度で本坑へ到達する、分岐後の延長447 mの新斜坑の計画が決定され、1975年(昭和50年)11月に着手した。ところが新斜坑を掘るにつれて、旧斜坑の湧水量が減少してその分が新斜坑に出てくるような状態となり、再び難航するようになった。1976年(昭和51年)7月5日、新斜坑の掘削を中止し、再度検討を行った。その結果新斜坑であっても、旧斜坑の中止原因となった滞水塊の影響を受ける範囲を外れておらず危険であることがわかり、掘削を継続するためには注入作業を併用しなければならないことが判明した。一方でこの間に小野上南工区は順調に進行するようになっており、7月10日時点では工区境まで510 mのところまで来ていた。双方の進捗を考慮すると、小野上北斜坑が本坑位置に到達して本坑の掘削を開始できるよりも先に、小野上南工区からの掘削が到達すると考えられたことから、小野上北斜坑の工事継続を断念することになり、1976年(昭和51年)11月18日に契約解除となった。小野上北工区が担当するはずだった本坑の区間は、結果的に小野上南工区により建設されている。 ===本坑工事=== ====名胡桃工区==== 名胡桃工区は清水建設に対して発注され、1973年(昭和48年)1月10日に着工した。大宮起点114 km900 m地点から116 km540 m地点までの1,640 mを担当する工区で、新潟方の坑口からの工事となった。坑口側340 mを開削工法で施工した他は、底設導坑先進工法による機械掘削で順調に工事が進められた。下り勾配区間であったが、湧水の量は少なく問題とならなかった。1976年(昭和51年)7月31日に竣工した。結局、ほぼ予定通りに完成したのは名胡桃工区だけであった。 ===小野上南工区=== 小野上南工区は鉄建建設に対して発注され、1972年(昭和47年)9月1日に着工した。小野上南工区は当初の計画では大宮起点101 km710 m地点から104 km610 m地点までの2,900 mを担当することになっていた。大宮方の坑口を担当する工区であるが、坑口のすぐ前を国道353号が通っており設備を設置できなかったため、下り列車に対して本線左側の丘陵から188 mの横坑を掘って本線の101 km860 m地点に取り付いて掘削工事を行った。この横坑は、後にトンネル巡回車両の基地として再利用された。 本坑は上り12パーミルの片勾配での掘削を進め、当初は底設導坑先進工法を使用した。土被りが厚くなり八木沢層に入るにつれて湧水量が増大したため、103 km760 m付近からサイロット工法(側壁導坑先進工法)に切り替え、水抜坑を掘りながら掘削を続けた。この際掘られた水抜坑は、高山工区本坑の同様の水抜坑とともに、トンネル微気圧波対策のために存置されている。小野上南工区が立坑による工区と異なるのは、上り勾配であるため湧水をポンプによらず自然排水できて、水没することがないということである。 こうして平均60 m/月で進行してきたが、105 km600 m付近で四方木累層泥岩部に遭遇し、安山岩部からの高圧湧水により掘進が困難となった。水抜き坑や止水注入を行い、吹付コンクリートによる支保を採用するなどして約6か月かけて突破した。その先では綾戸安山岩層に入り、柱状節理が発達していたため周辺からの湧水が多く、約4か月にわたって水抜きを続けてようやく水が止まり、この層を突破した。105 km950 m付近からは、水のほとんどない堆積岩層に入り順調に工事が進められたが、約20 m上は水を大量に含んだ八木沢層であり、やはり境界が不整合面を形成していた。このため慎重な掘削が行われ、一部で新オーストリアトンネル工法 (NATM) も採用された。106 km410 m付近からは八木沢層に入ることから、約4か月かけて薬液注入を実施し、これを完成させた。 ===中山工区本坑=== 中山工区は1974年(昭和49年)7月から導坑掘削に着手した。この工区は湧水はあまりなかったが、膨圧および高熱に苦しめられることになった。地質は緑色凝灰岩であったが、強度が弱く土被りの大きさによる大きな圧力により掘削した区間の岩肌が次第に膨張してきて坑道が狭くなってきてしまうという問題が発生した。こうした膨圧の強い区間の対応として、サイロット工法が選択された。サイロット工法は側壁導坑先進工法とも呼ばれ、全断面のうち両側の壁になる部分に先に導坑を掘って壁面の覆工を行い、それから天井部分を掘ってアーチを形成し、最後に中央を掘削する方法である。しかしその導坑も膨圧により縮小が発生し、支保工は折り曲げられトロッコを走らせる線路は持ち上がり、通行も困難な状態となってしまった。このため既に掘った区間の掘削作業をやり直す「縫い返し」が必要になり、作業は一進一退となった。1975年(昭和50年)7月に113 km328 m地点までたどりついたが、その後約1年間前進することができなくなった。 また岩盤の膨張に伴い山からの発熱があり、坑内の温度が上昇したことも問題となった。コンクリートの硬化熱もあるため、坑内の温度は摂氏40度を超え、しかも湿度も100パーセントという状況になった。坑内にエアコンを設置してみたが、切羽部分だけ冷却しても、エアコンの排熱が他の部分を温めて灼熱となるため失敗した。また液体空気を散布する方法も試したが、局所的にしか役に立たず、霧が発生して作業に支障をきたして失敗した。結局坑内に氷柱をおき、作業員は水を浴びながら作業を続けることになった。しかし特に冬期には、坑内と坑外の気温差で体調を崩す作業員が続出した。 側壁導坑の膨圧対策として、1976年(昭和51年)5月からロックボルトと可縮支保工の試験施工を開始した。ロックボルトは、トンネル周辺の岩に2 ‐ 3 mのボルトを打ち込んで人工的に岩の強度を強化しようというものである。一方可縮支保工は、周囲の岩盤を支えている柱(支保工)が圧力で座屈するのを避けるために、支保工の柱に可縮継手を入れて小さくできるようにしたものである。これにより、掘削後膨張が止まるまで1年ほどかかっていたのが、80日程度に短縮され、またその膨張量も抑えられて効果を上げることができた。 この成果を基に、新オーストリアトンネル工法 (NATM) を導入することになった。NATMでは、ロックボルトに加えて表面に吹付コンクリートを施工することで、さらにうまく膨圧に対処することができる。NATMは日本では中山トンネルにおいて初めて施工された。サイロット工法における導坑においても吹付コンクリートを併用することが検討されたが、温度が高いことや換気に問題があること、立坑の輸送能力の制約などから見送られている。すでに掘削を終えていた名胡桃工区側から、1977年(昭和52年)3月に断面90平方メートルのショートベンチ工法(断面を2段または3段に分割して順次掘削していく工法)でNATMの使用を開始した。これは成果を上げ、平均月進65 mを達成して延長800 mを施工し、中山工区と名胡桃工区の間が1977年(昭和52年)10月に貫通した。この日本初のNATM導入に対して、「強膨張性地山における吹付コンクリートとロックボルト併用を主体とするトンネル工法の設計・施工」という名目で、日本鉄道建設公団東京新幹線建設局および熊谷組に対して昭和53年度土木学会賞技術賞が与えられている。 一方中山立坑より大宮方では、四方木・高山の両工区の工事が難航していたこともあり、工区割の変更が行われて4回に渡る追加発注が行われ、当初の2,800 mの工区長に1,800 mが追加されて4,600 mとなった。1981年(昭和56年)12月に中山工区の工事が完成した。 ===四方木工区本坑工事と1回目の出水事故=== 四方木工区では立坑着工以来5年10か月を要して、1977年(昭和52年)12月にようやく本坑掘削工事に着手した。四方木立坑の本坑基面高さ付近には八木沢層が存在して、その湧水が立坑の工事に大変な障害となったが、本坑周辺の地質は地上からのボーリング調査だけでは把握することが困難であった。そのため立坑坑底設備を準備している段階から、周辺に対して水平ボーリングを実施して地質調査を行い、下り列車に対して本線右側(東側)に堅固な閃緑*173*岩が存在することが判明した。そこで工期を短縮するため、本坑東側の堅固な岩盤に迂回坑を掘って八木沢層を迂回し、隣接工区と連絡を図るとともに注入作業を行う基地を増やすことを狙った。こうして本坑の掘削と並行する形で、1978年(昭和53年)4月に迂回坑に着手された。 迂回坑は大宮起点106 km759 m40の地点から分岐し、四方木立坑から東へ伸ばしてその先で曲がり、新潟方は100 m、大宮方は140 m本坑から下り列車に対して右側に離れた位置を本坑に平行に伸ばして行った。当初はこのまま伸ばして本坑へ戻るようにする計画であったが、前方をボーリングで探りながら掘削していき、八木沢層があることが判明すると迂回するように曲げたため複雑な経路となった。新潟方の迂回坑は1979年(昭和54年)2月23日、全長822.9 mで本坑大宮起点107 km394 m74の地点に到達して完成した。また迂回坑より本坑に近いところに、本坑に対する注入を行うための注入基地を建設する工事を行った。 こうして迂回坑と本坑を並行して作業を行っていた1979年(昭和54年)3月18日に出水事故が発生した。この時点で新潟方は、迂回坑が本坑へ到達し、その先大宮起点107 km481 mの地点まで掘削が進んでいた。また立坑から直接新潟方への本坑は106 km804 m地点に到達していた。これに対して大宮方は、本坑が106 km661 m地点、迂回坑が410.4 m(本坑の位置にして106 km455 m地点)まで掘削が行われていた。 出水事故を起こしたのは、本坑掘削予定地点に対して側面から薬液注入を実施するために、新潟方迂回坑から分岐して掘削した注入基地であった。1979年(昭和54年)2月21日までに107 km086 m地点まで掘削した時点で、やや風化した岩盤が現れてきたために掘削を中止し、その地点で注入基地を設置する準備を進めていた。この時点では湧水はほとんどなかった。しかし3月16日になり100リットル/分ほどの湧水が発見されたため補強作業が開始された。17日には湧水が2トン/分に増加したこともあり、コンクリート覆工を行うことにし18日にその用意が整った。21時30分に確認した時点ではまだ湧水量は2トン/分程度であったが、22時に確認した時点では80トン/分にも及ぶ濁流が溢れだしていた。ただちに作業員の非常呼集がかけられ、51名の作業員が現場に急行して出水の阻止作業をしようとした。しかし出水現場の注入基地にたどり着くのも困難な状況で、そのうちに照明が消えたことから現場へ行くのを断念し、ポンプ室と変電施設の死守に方針を切り替えた。それでもあまりに水量が多く、水が止水壁を越えてポンプ室に流れ込み始めたため、23時45分に退避指令が出された。ところが、ポンプ室への浸水により電気系統がショートしており、立坑のエレベーターは動かなくなっていた。さらに立坑内の揚水ポンプの機能が停止したため、中継ポンプ室から溢れた水が滝のようにエレベーターに降り注ぎ、エレベーター内は大混乱に陥った。 地上では非常用発電機が立ち上がったが、坑内で電気系統がショートしているためすぐに停止してしまい、電気系統の切り替えが必要とされた。担当している電気主任は渋川市内の自宅におり、緊急連絡を受けて現地へ自動車で駆け付けた。この際に、現場までの山道を全速で走ったためにパトカーの追跡を受け、それを振り切って現地へ駆けつけるほどであった。電気主任の系統切り替え作業により3月19日0時25分にエレベーターが動き始め、かろうじて51名は無事救出された。朝の8時35分の時点で、立坑の底から約250 mのところまで水位が来て安定していることがわかり、四方木工区は完全に水没してしまった。 出水事故の原因は、注入基地建設の際にボーリングで八木沢層までの間隔を確認して掘削を止める位置を決めた際、間隔を4 m程度確保したつもりであったが、ボーリングの間隙に被りが薄くなっている地点があり、そこが水圧に耐えられなくなって崩壊し水が噴出したものと推定された。 ===四方木工区復旧工事と1回目のルート変更=== 出水事故で水没した四方木工区を復旧するために、出水場所となった注入基地を閉塞する作業が行われた。これには、注入基地の360 m上部の地上からボーリングを行い、セメントミルクおよびモルタルを流し込むことで行われた。その上で、立坑に設置したポンプからの揚水量や、隣接する高山工区から行ったボーリングで排水された量と、立坑の水位の変化を比べることで、閉塞が確実に行われ水が止まったことが確認された。そこでポンプを設置し排水作業を行い、1979年(昭和54年)9月17日、出水事故から6か月後に排水作業を完了することができた。 排水完了後、損傷していたエレベーター関係の回路復旧や高圧ケーブルの敷設しなおし、損傷ポンプの撤去や代替ポンプの新設などの作業を行い工区の復旧を進めた。坑内の点検と清掃も行ったが、地上から閉塞のために注入した注入剤が迂回坑に流れ込んで堆積しており、その撤去まで新潟方への掘削作業を再開することができなかった。このため隣接する高山工区から導坑を貫通させ、新潟方からも応援の掘削を行った。最終的に中山工区の復旧工事が完了したのは1980年(昭和55年)2月末のことであった。 なおこの四方木工区水没事故において水没した機材の費用は、工区を請け負っていた佐藤工業から公団に対して請求されたが、機材価格を偽るなどして総額6億2814万4000円の請求額のうち約1億5000万円が水増し請求であったことが会計検査院の調査で発覚し、1981年(昭和56年)11月26日の参議院大蔵委員会において追及を受けることになった。 中山トンネルのうち、四方木工区に属する大宮起点106 km400 mから107 km300 mほどの区間は、高圧の湧水を伴う過酷な地質条件にあることがこれまでに明らかになっていた。一方で迂回坑の掘削およびその際の地質調査により、本線より東側(下り列車に対して右側)には良好な地質の層が存在していることも明白になっていた。地質条件の悪い区間を直接掘削することも注入作業を行えば可能ではあったが、工期の短縮および工費の節約を図るためにはトンネルのルート変更を行って、地質の良い東側に本坑を移すことが有効であると考えられるようになった。四方木工区の水没事故をきっかけにルート変更の方針となり、1979年(昭和54年)9月20日に公団総裁に上申され、9月27日に承認されてルート変更が決定した。 地質分布の分析から、106 km600 m地点において従来の本坑から75 m東に移す方針が決定された。この時点で、大宮方に隣接する小野上南工区は105 km600 m付近まで接近してきており、その工事のやり直しをできるだけ少なくするように新たなルートを設定する必要があった。一方で新潟方に隣接する高山工区でも、108 km130 m地点付近において半径6,000 mの曲線の設定があり、それに抵触しないように設定する必要もあった。これに加えて、新幹線鉄道構造規則により最小曲線半径は4,000 mと規定されており、これを順守する必要があった。 こうして、下り列車に対して半径6,000 mの曲線で右へ曲がり、半径4,000 mの曲線で左へ曲がり、再び半径6,000 mの曲線で右へ曲がって元の本坑ルートへ戻る経路が決定された。従来の本坑より最大で85.81 m東にずれ、従来は八木沢層通過区間が約780 mであったところを約280 mに短縮した。 ===高山工区本坑工事と2回目の出水事故=== 高山工区では、1977年(昭和52年)6月から本坑掘削に着手した。高山立坑の底付近は堅固な安山岩や閃緑*174*岩であったこともあり、本坑工事は順調に進められた。 立坑より新潟方では、大宮起点109 km600 m付近から古子持火砕岩層に入った。湧水は少なかったが水圧が高いままであり、水抜きが困難で、しばしば土砂流出を繰り返した。迂回坑を建設したが、これも行き詰った。結局注入によって突破することになった。ソレタンシュ式注入工法を採用したが、工費が膨大であり月進6 ‐ 10 m程度でしか前進できなかったため、異なる工法が検討された。その結果、ボーリング穴に真空ポンプを接続する水平バキューム排水工法(真空水抜工法)を採用することで月進30 m程度を達成することができた。1981年(昭和56年)10月に高山工区の新潟方が完成した。 一方高山工区の大宮方は良好な地質で順調に掘削を進めることができた。底設導坑先進上半工法により掘削を進めてきたが、108 km000 mから300 m付近には八木沢層が分布していることがわかり、108 km380 m付近からサイロット工法に切り替えた。ここでも迂回坑を掘ることが検討された。下り列車に対して本線右側(東側)の方が不整合面の尾根になっていると考えられたことから、東側に向かって迂回坑を掘ってみたが、ボーリングにより前方に八木沢層があることが確認され前進できなくなった。当初の見込みとは逆に、下り列車に対して本線左側(西側)に閃緑岩があることが判明し、こちら側に迂回坑が建設された。最大で180 mほど本坑から離れた場所を迂回して、1979年(昭和54年)10月に107 km900 m付近に到達することに成功した。これにより八木沢層の背後に回ることができたため、八木沢層を両側から攻略するとともに、この間に出水事故を起こして停滞していた四方木工区へ向けて掘削を進めることになった。 迂回坑により回り込んだ先で新潟方へ逆戻りするように本坑工事を進めて行ったが、108 km100 m付近で探りボーリングにより八木沢層が近づいていることが判明した。このため注入を実施して前進することになった。1980年(昭和55年)3月6日、108 km125 mまで導坑を前進させ、次のボーリングとコンクリート覆工を行う準備を進めていた。3月7日23時30分頃、108 km110 m付近で変状が見られ始め、補強作業を行ったものの8日9時30分頃40トン/分の大出水となった。この当時、四方木工区と高山工区の間の坑道がつながったばかりであったため、この水は両方の工区に流れ込んでいった。出水から1日半の間は両工区の揚水能力の範囲内であったため完全水没は免れていたが、3月9日17時30分に2次崩壊が発生し、110トン/分の大出水となって四方木工区と高山工区のすべてが水没した。四方木工区がようやく復旧したばかりの時期の出水事故であったため、関係者に大きな衝撃をあたえた。前年12月24日に、1982年(昭和57年)春に東北新幹線と上越新幹線を同時開業させる方針が発表された直後であったが、この時期に再度の出水事故の打撃は大きく、ついに上越新幹線は東北新幹線との同時開業を断念することになった。 今回の出水事故は、閃緑岩が半島状に伸びているところにトンネルの本坑を掘る形となったため、両側面から水圧がかかって岩盤が劣化したことが原因と考えられた。 ===中山銀座と2回目のルート変更=== 前年の四方木工区出水事故の復旧工事と同様に、トンネル上部の地上からボーリングを行って閉塞作業を行うことになった。さらにこの作業期間を利用して、今後の本坑掘削工事に障害となる八木沢層の区間に対して地上から薬液注入作業を行っておくことになった。この注入作業を行うに際しては、その範囲をできるだけ少なくすることが求められた。このため、2回目のルート変更が決断されることになった。ルート変更は八木沢層を通過する区間をできるだけ少なくすることが目的であった。小野上南工区と四方木工区の境界付近にある100 mほどの八木沢層の区間はどうやっても避けることができないが、高山工区の八木沢層区間は回避して閃緑岩の層を通すことは可能であった。そのために80 km/h程度の速度制限を甘受して半径500 mの曲線を挿入することさえ議論された。残りの工程を詳細に検討した結果、高山工区の八木沢層は回避しなくても小野上南工区と四方木工区の境界付近の八木沢層よりは先に掘り抜ける見込みとなったことから、制限速度160 km/hで半径1,500 mの曲線を挿入することになった。1981年(昭和56年)1月7日に公団総裁に上申され、1月30日に承認されている。 このルート変更により、下り列車に対して半径6,000 mの曲線で右に曲がり、さらに半径2,000 mの曲線で右に曲がって、半径1,500 mの曲線で左へ、続いて右へ曲がって元の半径6,000 mの右曲線につなぐ複雑な迂回経路が設定された。2回のルート変更の結果、2か所の重キロ程が発生した。108 km120 m60地点でキロ程が20 m60巻き戻されて108 km100 m00となり、また108 km476 m67地点でやはり6 m32巻き戻されて108 km470 m35となって、都合26 m92のキロ程が重複している。この変更により、八木沢層を通過する区間は最終的に約140 mにまで短縮された。 こうして変更されたルート上の八木沢層区間に対して、地上からの注入作業が始められることになった。注入区間は106 km422 m ‐ 106 km550 mの144 m、106 km638 m ‐ 106 km692 mの54 m、108 km031 m ‐ 108 km229 mの198 mの合計396 mとされた。そのために注入箇所の直上に敷地が必要とされた。前の2区間は直上が県道と国有林であったため、借地しあるいは道路を付け替えることで対処することができた。しかし最後の1区間は直上がゴルフ場(ノーザンカントリークラブ上毛ゴルフ場)であった。しかも直上にあたるのはスタートホールのティーグラウンドで、仮に営業休止となれば補償額が大きくなることは免れなかった。しかしゴルフ場側の理解を得て、ティーグラウンドを通常より前に出してボーリング作業を行うことができた。 こうして注入作業が開始された。日本全国からボーリングマシンが100台以上集められ、ボーリング技術者の90パーセント以上が中山に集結した。作業は昼夜兼行で行われ、多数のやぐら群が煌々と照明で照らし出される幻想的な夜景は、誰からともなく「中山銀座」と称されるようになった。平均360 mの深さのボーリングを643本行い、16万立方メートルに及ぶ薬液を注入した。このための費用は257億円にも上ったとされる。坑外からの注入は、長いボーリングが必要であることや効果を確認しづらいこと、薬液の注入の無駄があることなど、費用面では明らかに不経済な方法であったが、上越新幹線全体の開業時期が中山トンネルの完成にかかっている以上やむを得ないものであった。この時期新潟県内の平野部ではすでに線路が完成し、1980年(昭和55年)11月5日からは試運転が始まっていたのである。注入作業は工区が復旧した後の1981年(昭和56年)6月まで継続された。 揚水量と水位の変化などから閉塞が完了したことが見込まれると、ポンプを増設して揚水量が増やされ、1980年(昭和55年)8月20日に高山工区、8月27日に四方木工区の排水がそれぞれ完了した。11月上旬に両工区の復旧作業が完了した。 ===トンネルの完成=== 中山トンネルの完成に上越新幹線全体の開通時期が依存していたこともあり、水没した工区の復旧後は工事が急ピッチで進められた。地質・残工事量・後続作業との兼ね合いなどを検討の上で工区割が再編された。作業員約2,000名が投入され、迂回坑を利用して増やされた本坑掘削現場で24時間3交代制の猛スピードで工事が進められた。四方木工区では、立坑でズリを運ぶ装置の稼働率が93パーセントに達するという記録的な値となった。1981年(昭和56年)8月、上越新幹線の開業予定が翌1982年(昭和57年)の11月と発表された。これに間に合わせるためには、トンネルを3月までに完成させて後工程の軌道工事・電気工事に引き渡す必要があった。 1981年(昭和56年)10月から12月にかけて、中山工区と高山工区の本坑工事が順次完了していき、残されたのは四方木工区と小野上南工区の境界付近となった。この区間では1981年(昭和56年)7月27日に迂回坑が貫通した。これは、迂回坑ではあったが中山トンネルの全区間が貫通したことを意味し、また四方木・高山の両工区が下流の小野上南工区とつながったことで、水没の恐れがなくなったことも意味した。小野上南工区の本坑工事は11月末まで続けられ、106 km430 m地点で完了した。これは当初設定の工区では小野上北工区を完全に含み、四方木工区の大宮方130 mまでをも含むもので、総延長は4,720 mとなった。そして四方木工区側から残り40 mの工事が行われ、12月23日に貫通してようやく中山トンネル全区間の本坑が貫通した。 1982年(昭和57年)3月17日、群馬県知事や近隣町村長、日本鉄道建設公団総裁や請負会社の社長らが臨席して、中山トンネル完成式が行われた。代表者により最後の軌道用コンクリートの打設が行われた。これによりトンネルは土木工事から軌道工事に引き渡された。 トンネルの建設がまだ行われている中でも、既に完成した区間では軌道の敷設が始められていた。引き渡しを受けて最後の区間の工事が進められ、4月に軌道工事が、5月に電気工事が完了した。7月23日に試運転が開始され、11月15日についに開通を迎えることができた。 14,857 mのトンネルに、約10年の歳月とのべ230万人の作業員が投入された。中山トンネルのメートル当たりの建設費は約839万円に上り、上越新幹線の全トンネルの平均約330万円を大きく上回った。わけても2回水没し、八木沢層に苦しめられた四方木工区の建設費はメートル当たり3467万円という多額に上った。トンネルの長さ14,857 mをかけると、総額は1246億5023万円となる。この他に、渇水対策費として約119億円を費やしている。これだけの難工事であった中山トンネルであるが、上越新幹線全体で72名の殉職者を出しているのに対して、2名(資料によっては4名)の犠牲に留まっている。2回の水没事故も犠牲者を出すことがなかった。このトンネルを、新幹線は約4分で走り抜ける。 ===渇水対策=== トンネル工事に伴い、地表では渇水の被害が広がった。特に小野上南工区では、坑口からの自然排水によりどんどん水を抜いていたので、その上部にあたる小野上村・子持村において深刻な被害が発生した。沢が1本干上がり、その他の沢も水量が減少し、水道用の揚水井戸では水位が下がってポンプによる汲み出しができなくなった。こうした問題の対処のために給水車が随時出動した。代掻きをする時期には農業用水の不足が問題となり、トンネル湧水や近くの川の水をポンプアップして対応したが、水量の不足に対処するために各農家での代掻きの時期の調整が必要となった。小野上南工区が柱状節理にぶつかって大量の湧水が発生した際には、小野上村の基幹水源地の水源が枯渇し、トンネル湧水を水源地に送る全長約5 kmの配管を村道に沿って急遽建設して断水を防いだ。 中山トンネル工事に伴う渇水で、高山村・小野上村・子持村の3村で合計約6,300人に何らかの飲料水被害が生じた。また農業用水被害を受けた面積は83ヘクタールに上る。期間中のべ4,600回の給水車出動があった。飲料水対策として水源地の付け替えなどが行われ、農業用水対策としても立坑の底に設置されたタービンポンプにより揚水して給水するようになっている。トンネル完成後も、高山立坑と四方木立坑は水道用の揚水施設として使用が継続されている。 完成後の坑内湧水は54トン/分程度で、このうち30トン/分程度は吾妻川に放流されている。本線101 km740 m地点に立坑が設置され、そこから国道353号の下を通って受水槽へ送られ、放流塔から吾妻川に放流されている。 ==年表== 1972年(昭和47年) 2月8日 ‐ 四方木工区発注。 4月 ‐ 四方木立坑着工。 7月20日 ‐ 中山立坑着工。 8月 ‐ 高山立坑着工。 9月1日 ‐ 小野上南工区着工。2月8日 ‐ 四方木工区発注。4月 ‐ 四方木立坑着工。7月20日 ‐ 中山立坑着工。8月 ‐ 高山立坑着工。9月1日 ‐ 小野上南工区着工。1973年(昭和48年) 1月10日 ‐ 名胡桃工区着工。 1月27日 ‐ 高山立坑掘削開始。 3月1日 ‐ 小野上北斜坑着工。 10月12日 ‐ 中山立坑坑底到達。1月10日 ‐ 名胡桃工区着工。1月27日 ‐ 高山立坑掘削開始。3月1日 ‐ 小野上北斜坑着工。10月12日 ‐ 中山立坑坑底到達。1974年(昭和49年) 1月31日 ‐ 中山立坑バントン工事着手。 5月3日 ‐ 中山立坑バントン工事完了。 7月 ‐ 中山工区本坑掘削開始。 9月27日 ‐ 小野上北斜坑出水事故。1月31日 ‐ 中山立坑バントン工事着手。5月3日 ‐ 中山立坑バントン工事完了。7月 ‐ 中山工区本坑掘削開始。9月27日 ‐ 小野上北斜坑出水事故。1975年(昭和50年) 11月 ‐ 小野上北斜坑経路変更工事着手。11月 ‐ 小野上北斜坑経路変更工事着手。1976年(昭和51年) 5月 ‐ 中山工区側壁導坑においてロックボルト試験施工開始。 6月4日 ‐ 高山立坑坑底到達。 7月5日 ‐ 小野上北斜坑掘削中止。 7月31日 ‐ 名胡桃工区竣工。 8月12日 ‐ 四方木立坑坑底到達。 10月15日 ‐ 高山立坑バントン工事着手。 11月18日 ‐ 小野上北斜坑の継続を断念、小野上北工区の契約を解除し廃止。5月 ‐ 中山工区側壁導坑においてロックボルト試験施工開始。6月4日 ‐ 高山立坑坑底到達。7月5日 ‐ 小野上北斜坑掘削中止。7月31日 ‐ 名胡桃工区竣工。8月12日 ‐ 四方木立坑坑底到達。10月15日 ‐ 高山立坑バントン工事着手。11月18日 ‐ 小野上北斜坑の継続を断念、小野上北工区の契約を解除し廃止。1977年(昭和52年) 3月 ‐ 名胡桃工区側から中山工区のNATMによる掘削を開始。 4月27日 ‐ 四方木立坑バントン工事着手。 5月15日 ‐ 高山立坑バントン工事完了。 6月 ‐ 高山工区本坑掘削開始。 10月 ‐ 名胡桃工区側からの迎え掘りにより中山工区まで貫通。 11月30日 ‐ 四方木立坑バントン工事完了。 12月 ‐ 四方木工区本坑掘削開始。3月 ‐ 名胡桃工区側から中山工区のNATMによる掘削を開始。4月27日 ‐ 四方木立坑バントン工事着手。5月15日 ‐ 高山立坑バントン工事完了。6月 ‐ 高山工区本坑掘削開始。10月 ‐ 名胡桃工区側からの迎え掘りにより中山工区まで貫通。11月30日 ‐ 四方木立坑バントン工事完了。12月 ‐ 四方木工区本坑掘削開始。1978年(昭和53年) 4月 ‐ 四方木工区迂回坑着工。4月 ‐ 四方木工区迂回坑着工。1979年(昭和54年) 2月23日 ‐ 四方木工区新潟方迂回坑完成。 3月18日 ‐ 四方木工区出水事故。 5月1日 ‐ 四方木工区出水地点の閉塞のためのボーリング作業開始。 9月17日 ‐ 四方木工区排水完了。 9月20日 ‐ 1回目のルート変更を公団総裁に上申。 9月27日 ‐ 1回目のルート変更を承認。 10月 ‐ 高山工区大宮方迂回坑完成。2月23日 ‐ 四方木工区新潟方迂回坑完成。3月18日 ‐ 四方木工区出水事故。5月1日 ‐ 四方木工区出水地点の閉塞のためのボーリング作業開始。9月17日 ‐ 四方木工区排水完了。9月20日 ‐ 1回目のルート変更を公団総裁に上申。9月27日 ‐ 1回目のルート変更を承認。10月 ‐ 高山工区大宮方迂回坑完成。1980年(昭和55年) 2月末 ‐ 四方木工区復旧工事完了。 3月8日 ‐ 高山工区出水事故。 4月23日 ‐ 高山工区出水地点の閉塞のためのボーリング作業開始。 8月20日 ‐ 高山工区排水完了。 8月27日 ‐ 四方木工区排水完了。 11月上旬 ‐ 四方木・高山両工区復旧工事完了。 11月27日 ‐ 施工再開。2月末 ‐ 四方木工区復旧工事完了。3月8日 ‐ 高山工区出水事故。4月23日 ‐ 高山工区出水地点の閉塞のためのボーリング作業開始。8月20日 ‐ 高山工区排水完了。8月27日 ‐ 四方木工区排水完了。11月上旬 ‐ 四方木・高山両工区復旧工事完了。11月27日 ‐ 施工再開。1981年(昭和56年) 1月7日 ‐ 2回目のルート変更を公団総裁に上申。 1月30日 ‐ 2回目のルート変更を承認。 6月 ‐ 坑外注入を完了。 7月27日 ‐ 四方木工区と小野上南工区の間の迂回坑が貫通、これにより全工区の間が貫通。 10月 ‐ 高山工区新潟方本坑掘削完了。 11月 ‐ 高山工区大宮方本坑掘削完了。 11月末 ‐ 小野上南工区本坑掘削完了。 12月 ‐ 中山工区本坑完成。 12月23日 ‐ 四方木工区と小野上南工区の間の本坑が貫通、中山トンネル全区間の本坑が貫通。1月7日 ‐ 2回目のルート変更を公団総裁に上申。1月30日 ‐ 2回目のルート変更を承認。6月 ‐ 坑外注入を完了。7月27日 ‐ 四方木工区と小野上南工区の間の迂回坑が貫通、これにより全工区の間が貫通。10月 ‐ 高山工区新潟方本坑掘削完了。11月 ‐ 高山工区大宮方本坑掘削完了。11月末 ‐ 小野上南工区本坑掘削完了。12月 ‐ 中山工区本坑完成。12月23日 ‐ 四方木工区と小野上南工区の間の本坑が貫通、中山トンネル全区間の本坑が貫通。1982年(昭和57年) 3月17日 ‐ 中山トンネル完成式。 4月 ‐ 軌道敷設工事完了。 5月 ‐ 電気工事完了。 7月23日 ‐ 全線試運転開始。 11月15日 ‐ 供用開始。3月17日 ‐ 中山トンネル完成式。4月 ‐ 軌道敷設工事完了。5月 ‐ 電気工事完了。7月23日 ‐ 全線試運転開始。11月15日 ‐ 供用開始。 ==技術的な影響と教訓== 中山トンネルは、日本のトンネル建設史上屈指の難工事として知られるようになった。これは事前の地質調査をろくに行わずに建設するという、技術の基本を無視した行いの結果であった。中山トンネルや、ちょうど同時期に公団が建設を進めていた北越急行ほくほく線で建設に19年を要した鍋立山トンネルの教訓を受けて、改めて事前の地質調査と慎重なルート選定の重要性が広く認識されることになった。以降は、新幹線といえども直線的なルート選定に必ずしもこだわらず、北陸新幹線飯山トンネルのように難工事となる地層を最短距離で横断できるように曲線を描いた線形が採用されるようになった。これにより建設費の低減にも効果を発揮している。 ===新たに導入された工法=== 今回の中山トンネル工事では日本で初めて、新オーストリアトンネル工法 (NATM) が導入された。これは巨大な膨圧に対応するために導入された一手法であったが、その成功にトンネル技術者からの注目が集まった。さらに同時期に、オーストリアでNATMの視察をして帰国した日本国有鉄道(国鉄)の技術者が、多くのトンネルでNATMによる施工に切り替えを断行したこともあり、NATMの採用が広がっていった。当初は慣れない吹付コンクリートの作業に手間取り、工期が長引いて工費が高騰するとの反対もあったが、慣れるにつれて作業が1か所に集中して管理しやすいこと、作業員を減らせること、落石による事故を防げること、そして工費も低減できることがわかってきた。 本格導入から10年もたたない1987年度(昭和62年度)に土木学会はトンネル標準示方書を改定し、NATMをトンネル工事の標準工法と定め、従来の鋼製支保工を用いた工法を特殊工法とした。中山トンネルでのNATM施工は、それまで個別作業員の能力に頼ることの多かったトンネル掘削を初めて工学と呼べる水準に引き上げ、その後の日本のトンネル工学の発展に大きな寄与をした。 薬液を注入する工法についても、中山トンネルが大きな役割を果たした。注入工法は古くから地質の悪いところを改良する方法として使われてきたが、信頼性のある手法とは言えなかった。中山トンネルの厳しい条件下で失敗を繰り返しながら注入剤と注入方法の改良が進められ、初めて信頼性のある工法として定着することになった。有機廃液によるバクテリア発生の問題を解決するために、実験段階であった新しい注入剤を試行し、これは後のトンネル工事において広く使われるようになった。中山トンネル以降では、注入工法はトンネル工事だけではなく地盤改良などにも多用される技術となった。 =八丈小島のマレー糸状虫症= 八丈小島のマレー糸状虫症(はちじょうこじまのマレーしじょうちゅうしょう)とは、伊豆諸島南部の八丈小島(東京都八丈町)にかつて存在したリンパ系フィラリア症を原因とする風土病である。この風土病は古くより八丈小島および隣接する八丈島では「バク」と呼ばれ、島民たちの間で恐れられていた。 フィラリアはイヌの心臓などに寄生する犬糸状虫 Dirofilaria immitisから、イヌの病気としても知られている。だが、かつての日本国内ではヒトが発症するフィラリア症(以下、本記事で記述するフィラリア症はヒトに発症するものの意として扱う)のひとつバンクロフト糸状虫 Wuchereria bancrofti、ICD‐10 (B74.0) による流行地が、北は青森県から南は沖縄県に至る広範囲に散在していた。特に九州南部から奄美・沖縄へかけての南西諸島一帯は、世界有数のフィラリア症流行地として世界の医学界で知られていた。しかし、1977年(昭和52年)に沖縄県の宮古諸島および八重山諸島で治療が行われた患者を最後に、ヒトに感染するフィラリア症の日本国内での発生事例は確認されなくなった。そして1988年(昭和63年)の沖縄県宮古保健所における根絶宣言により、日本は世界で初めてフィラリア症を根絶した国となった。 ヒトに寄生して発症するフィラリア症はフィラリア虫の種類ごと世界各地に8種あるといわれ、そのうち日本国内のフィラリア症はバンクロフト糸状虫によるものがほとんどであった。だが、不思議なことに八丈小島のフィラリア症はバンクロフト糸状虫ではなく、東南アジアを中心とする地域で流行するマレー糸状虫によるものであり、これは日本国内では唯一の流行地であった。 この記事では、かつて八丈小島でバクと呼ばれ恐れられていたマレー糸状虫症と、その防圧の経緯について解説する。 日本におけるフィラリア症の防圧・克服へ向けた本格的な研究は、1948年(昭和23年)から始まった東京大学付属伝染病研究所(現東京大学医科学研究所)の佐々学による八丈小島でのフィールドワークと、それに続く同島での駆虫薬スパトニンを用いた臨床試験が端緒である。この八丈小島で得られた一連の治験データや経験は、後に続く愛媛県佐田岬半島、長崎、鹿児島、奄美、沖縄各所での集団治療を経て、最終的に日本国内でのフィラリア症根絶へ向かう契機となる日本の公衆衛生史上重要な意義を持つものであった。 本疾患の原因はフィラリアの一種であるマレー糸状虫 Brugia malayi ICD‐10 (B74.1) によるものであり、八丈小島は日本国内で唯一のマレー糸状虫症の流行地であった。 ==八丈小島のバク== 八丈小島は伊豆諸島南部の八丈島の西北西約7.5キロメートル、東京の南約287キロメートルの海上に位置する安山岩で構成された火山島で、面積3.07km*131*、周囲8.7 km、最高標高点616.6メートルの太平山がそびえる円錐状の島嶼である。島の海岸線は海食崖で囲まれ、平坦地はほとんどない急峻な地形であるが、かつて八丈小島は人々が居住する有人島であり2つの村が存在していた。八丈島から直接眺められる八丈小島南東側の宇津木村(うつきむら)と、八丈小島の北西側に位置するために八丈島からは直接見ることのできない鳥打村(とりうちむら)である。 かつて八丈小島にはバクと呼ばれる風土病があり、島の人々を長年にわたり苦しめ続けていた。隣接する八丈島の人々はこの病気を「小島のバク」と呼んで恐れ、八丈島の漁師や海女は小島近くの海域で漁は行っても、病気を恐れて小島へは上陸しなかったという。 八丈小島に伝わる民謡に次のような一節がある *132* わりゃないやだよ この小島には ここはバク山 カブラ山カブラとは大かぶのことで明治初期には島の中央にそびえる太平山の山頂付近で栽培されていたという。バク山のバクとはバク病のことであり、明治期には「バク」という呼び名の風土病が存在することが一部の医療関係者の間で知られ始めていた。 八丈小島の島民の多くは10代半ばまでに熱発作を出すといわれており、突然何の前ぶれもなく寒気と戦慄に襲われ、震え(シバリング)を起こして高熱が出る。バクだけが直接の原因となって死に至ることは無かったものの、バクにかかった島民はさまざまな症状に苦しめられた。バクは寒気や発熱に始まることが多く、おおよそ次のようなものであった。その多くが畑仕事をしているときに発症し、周囲の人々に「バクが来たぞ」と大声で知らせながら急いで家に戻り、布団に潜り込んで高熱と震えが治まるまでやり過ごしたという。熱発作は数日で自然に治まり畑仕事に戻るが、そのうちにまた激しい熱発作が起きる。この2回目以降の熱発作症状を八丈小島では「ミツレル」と呼び、ひどい場合には、1か月の間に何度もミツレル熱発作を繰り返すため、仕事や日常生活に支障をきたす。このような状態を年単位で繰り返していると、やがて足のリンパ節が腫れ始める。腫れた部位はリンパ機能が低下することから傷が治りにくくなり、小さなトゲが刺さるなど、ほんのわずかの外傷による刺激で熱発作や戦慄を何度も起こし、中には人事不省に陥るケースもあったという。数年が経過してリンパ節の痛みや腫れが治まると、今度は足が徐々に太く腫れて皮が厚くなり患部に強い痒みが起きる。耐えがたい痒みゆえに絶えず爪で掻き続けるため、掻いた部位の皮膚がさらに肥大してしまい、また掻いては太くなるという悪循環に陥る。 近代医学によって原因が解明される以前の八丈小島の人々は、病気の原因は島の水に毒があるからだと考えており、誰も知らない大昔から小島の人間は皆バクにかかってきたので、バクにかかるのは仕方のないことであり、治るはずがないと諦めていたという。 八丈小島は1969年(昭和44年)の集団離島により無人島となったが、集団離島するまで電気や水道といった基本的なインフラは満足に整備されておらず、商店は1軒もなく交番も設置されていなかった。また、八丈小島には宇津木村・鳥打村ともに係留施設が整備された港湾がなく、1か月に数便しかない八丈島からの生活物資輸送も兼ねた定期船や漁船などの小型船の乗降は、下船時には甲板から船着き場の岩場へ直接跳び移って上陸し、乗船時には甲板へ跳び乗るといった方法であった。そのため、強風時や波が高い気象条件下では接岸できず頻繁に欠航になり、旅客の往来だけでなく八丈島からの生活物資の輸送や郵便物の配達も数週間にわたって途絶えてしまうことが多々あった。 昭和30年代になって島内の小中学校に自家発電機が整備され、八丈島との間で無線通信が行えるようになり、島民の生活基盤は徐々に改善されつつあった。それでも一般家庭における電気・電話は1日の間に使用できる時間が限られるなど、1969年(昭和44年)の集団離島時までインフラは不完全のままであった。また、宇津木、鳥打の両村とも小中学校(小中併設校)は設置されていたが、いずれも集団離島時まで医師のいない無医村であった。 八丈小島の島民にとって特に深刻であったのは水不足の問題であった。宇津木村では海岸の断崖にある洞窟の天井から滴る水滴を桶などで溜めて利用していたといい、水滴量が減少する冬季には朝から夕方まで溜めても、わずか1升5合(約2.7リットル)が溜まるに過ぎなかったという。一方の鳥打村にはごく小さな湧水が存在したものの、やはり人々の生活用水を確保するほどの湧水ではなかった。八丈小島は保水性に乏しい火山性の地質かつ急峻な地形であるため、河川は存在せず井戸水にも恵まれなかった。慢性的な水不足に加え簡易水道ですら未整備であったため、飲用水や生活用水を確保する手段はもっぱら降雨に大きく左右される天水(雨水)に頼っており、各家庭や小中学校には簡素な貯水槽や甕(かめ)桶などが設けられていたが、水量も不安定で水質も決して良くはなかった。この島民にとって生命線ともいえる天水を蓄える大小さまざまな天水桶の存在が、八丈小島の「バク」と呼ばれたマレー糸状虫症流行の間接的要因であった。 ==リンパ系フィラリア症の概略== 本記事では八丈小島におけるマレー糸状虫症(フィラリア症の一種)の研究および防圧の経緯について記述する。まず、この節ではあらかじめ、ヒトに発症するリンパ系フィラリア症についての概略を述べる。 ===リンパ系フィラリア症の主な症状=== リンパ系フィラリア症はヒトのリンパ系各所に寄生虫であるフィラリア虫が寄生することにより、さまざまな症状を引き起こす寄生虫病の総称である。 フィラリア虫は日本などの先進国では、イヌの心臓に寄生する寄生虫(犬糸状虫)がよく知られているが、ヒトやイヌだけでなく多種多様の脊椎動物毎に寄生するフィラリア虫が多数存在する。これらの中でヒトに寄生するタイプのフィラリア虫は、主にヒトのリンパ管やリンパ節などに寄生することから、リンパ系フィラリアと呼んでヒト以外のフィラリア症と区別している。 ヒトがリンパ系フィラリア症に感染するメカニズムは、フィラリアの幼虫であるミクロフィラリア(microfilaria)を体内に宿す媒介者(ベクター)の役割を持つ蚊がヒトを吸血する際、ミクロフィラリアが人間の体内に侵入することによって成立する。媒介する蚊の種類は、イエカ属、ヤブカ属、ハマダラカ属などさまざまである。日本国内ではアカイエカ Culex pipiens pallensが主な媒介蚊であった。 フィラリア虫の成虫はヒトのリンパ管内部に住み着き、6年とも8年とも言われる生存期間中、数百万匹ものミクロフィラリア(幼虫)を宿主の体内で産み、そのミクロフィラリアはヒトのリンパ系や血液中を循環する。媒介者の蚊は感染した終宿主であるヒトを吸血することにより、ミクロフィラリアを含む血液を取り込む。取り込まれたミクロフィラリアは蚊の体内で感染性を持つ幼虫に成長し、その蚊が再びヒトを吸血することによって感染力を持ったミクロフィラリアがヒトの体内へ侵入し、リンパ管へ移動して成虫になることで生活環が成立する。 このようにリンパ系フィラリア虫の生活環(ライフサイクル)は蚊が中間宿主であり、ヒトが終宿主である(右、図1参照)。 ヒトに発症するリンパ系フィラリア症の経過は、無症候期、急性期、慢性期があり、感染初期の罹患者は自覚症状がなく感染していることに気付かないことが多い(無症候期)。ただし、無症状であってもすでに罹患者はリンパ系組織各所や腎臓に障害を起こしており、人体の免疫機能への影響が始まっている。また、体内にミクロフィラリアがいても無症状のまま一生自覚症状が出ない場合もある。無症候期から急性期に進行する場合、感染から1年程度経過した頃、突然何の前触れもなく悪寒や高熱などの熱発作と戦慄を起こす。この最初の熱発作は数日間で治まるが、その後も悪寒や発熱を伴う熱発作を長期間にわたり何度も繰り返すことが多い。このようにフィラリア症と一口に言っても、その症状は一様ではない。適切な治療を行わないまま長期間放置すると、体内のフィラリア虫が成長・増殖して慢性期に入る。こうなってしまうと成虫になったフィラリア虫がリンパ管やリンパ節に居座り、リンパ液の流れを塞いでしまう。このようなリンパ液の閉塞による循環障害が引き金となり、リンパ系フィラリア症特有のさまざまな病状が現れる。 リンパ系フィラリア症の慢性期には、次に挙げる特有の症状が知られている。 ===象皮病=== 象皮病(ぞうひびょう Elephantiasis )はフィラリア症の病態としては最もよく知られている。主に四肢の肥大により足や手が太く変形し、象の皮膚のように見えるのでこの名前がある。象皮病はフィラリア虫の成虫が太ももの付け根にあるリンパ管に「とぐろ」を巻いて居座ることが原因である。リンパ管内のフィラリア虫が障害となってリンパ液の流れを悪くするため、太ももより下部のリンパ液が胴体のほうへ戻りにくくなり、足に溜まったリンパ液によりリンパ浮腫(むくみ)が目立つようになることから、やがて多発した浮腫が固定化されてしまう。初期の浮腫は痒みが強いため爪などで掻くが、汚い爪で掻くとさまざまな細菌が入り、菌がリンパ液を培地として炎症を起こす。その結果、痒みはさらに激しくなり、何度も掻き続けるため同じ場所の炎症を何度も繰り返し、ついには皮下組織が厚くなり毛が抜けてしまう。度重なる炎症と浮腫によって足の肥大、皮膚のただれ、変色を起こし、まるで象の足のようになる。 象皮病は日本では古くから知られている。平安末期もしくは鎌倉初期に作られたと考えられる病草紙(異本)というさまざまな病気を描いた絵巻物の中のひとつに十二単をまとった貴族と思われる若い女性が描かれている絵がある。この女性は上半身と下半身を露わにし、両足が黒く変色して皮膚がただれているように見える。付き添う2名の女官が心配そうな表情で見つめる様子が描かれており、これは今日でいう象皮病ではないかと考えられている。(右記、画像外部リンク参照) ===陰嚢水腫・乳房肥大=== 陰嚢水腫(いんのうすいしゅ Scrotum swelling)、乳房肥大(ちぶさひだい Breast hypertrophy)は、いずれも象皮病と同様にフィラリアの成虫によるリンパ管の閉塞が原因である。陰嚢水腫の場合は陰嚢周辺のリンパ管にフィラリア虫が定着することでリンパ液が溜まった陰嚢が大きくなる。乳房肥大もフィラリア虫による胸部リンパ管の閉塞で乳房が大きくなる。 陰嚢水腫は驚くほど大きくなるケースがあり、日本国内ではよく知られた例として江戸後期の著名な浮世絵師葛飾北斎による陰嚢水腫の絵がある。北斎は1812年(文化9年)、東海道の三島宿(現、静岡県三島市)でもっこに包まれた荷物を天秤棒のようなもので担いでいる2人の男を見掛けるが、よく見ると荷物だと思ったものが片方の男の巨大な陰嚢であることに驚き、その場で矢立を取り出して描いたという。その絵は北斎漫画十二編の中で「大嚢」の題で描かれている。これは19世紀初頭の日本に陰嚢水腫、つまりリンパ系フィラリア症が存在した記録として日本国外でも知られている。 また、西郷隆盛が陰嚢水腫であったこともよく知られており、1872年(明治5年)に明治天皇が鶴丸城(現、鹿児島城)へ行幸した際、陰嚢水腫であった西郷は馬に乗ることができず徒歩(かち)で行列に従ったという話や、西南戦争で自決した西郷の首のない遺体を、西郷本人であると特定させたのが陰嚢水腫であったという。 ===乳糜尿=== 乳糜尿(にゅうびにょう Chyluria)は尿が粥のように白く濁る症状であり(「糜」は粥の意)、胸管にフィラリアが「とぐろ」を巻くことが原因で起きる。胸管とはリンパ液を血管に集めるリンパ管の本管であり、小腸で吸収された脂肪分を集めて首の静脈へ送る通路にもなっている。乳糜(にゅうび)とは、脂肪分が消化され小腸から吸収されたリンパ液のことであるが、胸管にフィラリアが居ついて閉塞すると、脂肪分を含んだリンパ液である乳糜は身体の上部へ行くことができなくなり、そのまま腎臓へ運ばれて尿を白く濁らせる。軽症の場合は薄く濁る程度であるが、重症になると腎臓の出血を伴う乳糜血尿や、尿がゼリー状に硬くなり最悪の場合尿閉を起こす。 以上がリンパ系フィラリア症の慢性期における主な症状であるが、他にも、リンパ管瘤、リンパ管炎、リンパ腺炎といったさまざまなリンパ系炎症反応を起こす。 ===リンパ系フィラリア虫の種類=== フィラリア虫には非常に多くの種類があるが、ヒトに感染するフィラリア症の原因となるフィラリア虫は、リンパ系疾患以外のもの(オンコセルカ症など)を含めると世界に8種ほどあると言われている。それらの中でリンパ系フィラリア症を引き起こすものは下記に挙げる3種のリンパ系糸状虫(Lymphatic firaria)によるものがほとんどである。 ===バンクロフト糸状虫=== バンクロフト糸状虫 Wuchereria bancrofti (Cobbold, 1877)は、バンクロフト糸状虫症の病原体となる寄生虫であり、世界中のリンパ系フィラリア症の90パーセント以上が本虫によるものである。 1863年(文久3年)、フランス人医師のデマルクワイ(ドイツ語版)が、パリにおいて陰嚢水腫のハバナ人の水夫の血液と陰嚢に溜まった水を顕微鏡で調べた際、その中に小さな細長い糸状の虫体(幼虫)を見出した。この糸状虫の幼虫(ミクロフィラリア)が世界で最初に確認されたフィラリア虫である。フィラリアという名前は、この虫を発見したデマルクワイが「細くて糸状のもの」を表すフランス語のFilaire(フランス語版)(電球のフィラメントも同じ語源である。)から、この虫を「ミクロフィラリア」と記述したことが、この寄生虫の名前と病名の由来である。 3年後の1866年(慶応2年)にブラジルの医師オットー・エドワード・ワッシャー(英語版)がブラジルの大西洋沿岸に面した港町バイーアで患者の白い尿からミクロフィラリアを見つけ、さらに1872年(明治5年)にはインドのカルカッタでイギリス人医師のルイスが患者の血液からミクロフィラリアを発見した。 これらの研究により象皮病や陰嚢水腫の患者はミクロフィラリアを持つという共通点が分かり始めた。 1800年代後半当時、中国南部のアモイでマラリアの研究をしていたスコットランド出身のパトリック・マンソン(英語版)は、マラリア媒介実験で使用した蚊が溺れて沈んだ水の中から偶然ミクロフィラリアを発見したことでフィラリアに興味を持ち、後述するミクロフィラリアの夜間定期出現性 nocturnal periodicityを1879年(明治12年)に発見する。その後、研究者たちはフィラリアをヒトに感染させる媒介者はおそらく蚊であろうと考え、さまざまな検証を重ねたが、しばらくの間は確証を得られないままであった。 フィラリアが蚊によって媒介されることを証明したのはオーストラリアの寄生虫学者ジョセフ・バンクロフト(英語版)である。バンクロフトは当時の世界中で確認されていた1600種の蚊の中から、アカイエ蚊の一種がミクロフィラリアの主要媒介蚊であることを実証し突き止めた。バンクロフトはミクロフィラリアの形態も詳しく観察し、色は乳白色で糸のように細長く滑らかに湾曲し(日本語の平仮名の「し」のような形状)、頭部がやや肥大していることや、性別があり雄より雌のほうが大きいなど、ミクロフィラリアの形態を顕微鏡の倍率を上げ可能な限り詳細にスケッチした。こうしてミクロフィラリア、すなわちフィラリア症は蚊を媒介者としてヒトに感染する寄生虫病であることが解明された。 バンクロフト糸状虫の学名である Wuchereria bancrofti は以上の経緯から、オットー・エドワード・ワッシャー O. E. H. Wuchererと、ジョセフ・バンクロフト Joseph Bancroftの両名にちなんで命名された。 ===マレー糸状虫=== マレー糸状虫(英語版) Brugia malayi (Brug, 1927)はバンクロフト糸状虫以外のリンパ系フィラリア症の残りのほとんどを占めている。1927年(昭和2年)、マレー半島やスマトラ島でミクロフィラリアを研究していたオランダ軍軍医のリヒテンシュタインLichtensteinは、採取したいくつかのミクロフィラリアがバンクロフト糸状虫と形態的に異なることに気付いた。それはバンクロフト糸状虫と比べると小さく、虫体は何か所も細かく湾曲していた。この報告を受けた同じオランダ人寄生虫学者のブルグSteffen Lambert Brugは論文に新種記載し、マレー種の糸状虫 Brugia malayi と命名し報告した。 マレー糸状虫症の大きな特徴は、バンクロフト糸状虫症で見られる陰嚢水腫や乳糜尿を起こす患者が認められないことである。また、リンパ浮腫や象皮病が起こる部位も下腿部のみ(膝関節から上部を超えない)のケースがほとんどである。このようなバンクロフト糸状虫症との差異の理由は解明されていないが、成虫の寄生するリンパ系の部位が異なるためだと考えられている。 ===チモール糸状虫=== チモール糸状虫(英語版) Brugia timori (Partono et al, 1977)は1960年代になって報告され始めた。1960年代の中ごろ、チモール島の住民の血液中にマレー糸状虫に似るものの、細かな部分が異なるミクロフィラリアが存在することが報告され、チモール型フィラリア Timor filariasisと呼ばれるようになったが、成虫の同定は1977年(昭和52年)になるまで行われなかった。チモール糸状虫は世界のリンパ系フィラリア虫全体から見ればごくわずかであり、チモール島を含むインドネシアの小スンダ列島以外では確認されていない。 ==八丈小島における病態調査と防圧の経緯== ===明治・大正期の調査=== 日本で初めてフィラリア虫が確認されたのは1876年(明治9年)のことで、お雇い外国人として東京医学校(現東京大学医学部)に招かれたドイツ人内科医のエルヴィン・フォン・ベルツ(独: Erwin von B*133*lz)が、来日したその年に日本人患者の血液中からミクロフィラリアを発見したのが最初である。ただし、1876年の時点でのフィラリアに関する知見は、前述したように研究の途上であり、八丈小島で最初に調査が始まった明治後期から大正初期の頃は、ミクロフィラリアと象皮病との関連性について日本国内の医学界での見解は完全には定まっておらず、1927年に新種記載されたマレー糸状虫に至っては、その存在すら知られていなかった。なお、八丈小島以外の伊豆諸島にもかつてフィラリア症は存在しており、少数ながら新島、八丈島、青ヶ島にはバンクロフト糸状虫が存在した。 ===中浜東一郎による八丈小島初調査=== 明治維新後の日本では、風土病と考えられる地域特有の疾患が日本各地で多数確認され始めており、新しい西洋医学を学んだ多くの研究者や医師らにより調査や研究が行われ始めていた時期であった。八丈小島の「バク」も、それらのひとつとして一部の医療関係者の間で知られ始めていた。しかし「八丈島に隣接する小島に古くより「バク」と呼ばれる奇病があり、島民の多くが発症する」という話が人づてに伝わるだけであった。 八丈小島は「鳥も通わぬ」と言われた絶海の孤島八丈島の、さらに属島という地理的条件もあり、日本国内各所に散在する他の風土病流行地のように現地調査に赴くことが、交通事情の悪い当時は困難であった。 「バク」と呼ばれたこの風土病について、近代医学的観点による現地調査が初めて行われたのは1896年(明治29年)2月のことで、調査を行ったのは当時の内務省衛生局の中浜東一郎である。中浜東一郎の実父は、幕末の1841年(天保12年)に土佐(現、高知県)から漁に出かけて遭難し、漂流中にアメリカの捕鯨船に救出されて渡米して近代科学を学び、日本へ帰国した後に日米和親条約の締結に関わったジョン万次郎(中浜万次郎)である。 中浜東一郎はジョン万次郎の長男として1857年(安政4年)に江戸で生まれ、1881年(明治14年)に(旧)東京大学医学部を卒業すると、福島、岡山、金沢の各医学校の教授を務めた。当時の日本では公衆衛生に関する知識の必要性が求められており、中浜は1885年(明治18年)、内務省の命令により衛生学研究のためドイツへ留学し、日本帰国後は内務省衛生局の技師を務めた。1896年(明治29年)4月に内務省を退官後、東京衛生試験所所長、初代東京市医師会長などを歴任した。 中浜が「バク」の調査のため八丈小島を訪れたのは、内務省技師を退官する2か月前の1896年(明治29年)2月で、中浜とともに調査に同行したのは、内務省技手の上村行彰、東京府庁より派遣された塩田虎尾の計3名であった。一行は同年2月5日に横浜港を出航し、丸3日をかけて八丈島の港へ到着したものの、目的地である八丈小島に着岸可能な小型船は風や波に影響を受けやすく、折しも2月は冬季の季節風の吹き荒れる時期であり、強風が何日も続き出航できずに八丈島で足止めを余儀なくされた。天候がやや安定して八丈小島へ渡れたのは、八丈島到着から10日も経過した2月18日であった。 中浜らは波が穏やかになった間をついて、八丈島からの海上距離が近い八丈小島の宇津木村の岩場に上陸すると、早速同村での調査を開始し、その後宿泊予定である島の反対側の鳥打村へ歩いて移動した。島の向こうへ行くこの道は断崖絶壁に設けられた狭隘な悪路であり、足を踏み外すと海面へ落下してしまう危険な道であったという。 中浜はこの悪路の道中で「バク」と呼ばれる病態をはじめて目にした。八丈小島を含む伊豆諸島では荷物を頭上に乗せて運ぶ習慣があり、これは主に女性の仕事であった。鳥打村までの険しい小路を数名の女性が、頭に重そうな荷物を乗せているのにもかかわらず、平地と同じように平然と歩いていた。そして彼女たちの下腿部の皮膚は著しく肥大した、いわゆる象皮病と呼ばれるものであり、これが島で「バク」と呼ばれる病態のひとつであることを中浜は確認する。 鳥打村で宿泊した翌日の2月19日に同村でバクの調査が行われた。しかしそもそも当時、東京から遠く離れた小さな島へ内務省技師の職に就く医師が訪れるようなことは、医者のいない離島に暮らす人々にとって願ってもないことであった。中浜ら3名は診察を願う島民の要望に応え、バク病に限らず一般患者の診察および持参した薬品の投与を行った。島民から聞くところによると、この島で過去に行われた医療行為は種痘と思われるものを明治5年と明治20年に1回ずつ施されただけだという。 当時、八丈島と横浜を結ぶ定期船は2か月に1便しかなかった。再度天候が荒れ八丈島に戻れなくなると横浜へ戻る定期船に乗り遅れる恐れがある。そのためやっとの思いで渡った八丈小島であったが急いで調査を終えなければならなかった。鳥打村での調査や診察を終えた中村ら3名は、風雨の中を前日の悪路を宇津木村へ戻り急いで乗船し無事に八丈島へ戻ったが、翌日から八丈付近の海域は強風が吹き続け、八丈小島への渡船はその後数日間にわたって途絶えたという。21日以降は八丈本島での調査を行い数例の象皮病を確認したが、これは後年バンクロフト糸状虫によるものと判明している。中村ら3名が横浜へ到着したのは3月8日で、結局は1か月をかけて八丈小島と八丈島の調査を行ったことになる。 中浜は八丈小島と八丈島での調査内容を同年(1896年)発行の東京医事新誌954号に『八丈島属島小島におけるバク病取調報告』として報告した。これにより八丈小島のバクと呼ばれる風土病が日本の医学界に知られることになった。 中浜の報告によれば、調査時点(1896年、明治29年)の八丈小島の戸数および人口は、宇津木村が28戸、人口150名。鳥打村が戸数41戸、人口270名、八丈小島全体では戸数69戸、人口420名であった。中浜が島民から聞き取った話によれば、生涯中にバクを患わない島民はほとんどいないという。症状が軽いまま一生を過ごす者もある一方、下腿に重度の肥大を残す重症者も少なからずおり、調査の時点で重症者は75名、そのうち女性が57名であった。最初の発症は年少の7‐8歳から12‐13歳の間で、高齢になってから初めて発症することはほぼないという。 最初の症状は全身の戦慄を伴う発作的な高熱と下肢のリンパ腺の腫れから始まるが、この発作の期間や軽症重症の度合いは人によって異なる。発作は反復することが多く、回数もまちまちで、数年に1回の者もあれば、ひと月の間に数回起こす者もいる。患部への、ほんのわずかな外傷で発作を起こすことが分かっていて、発作を起こす時期は春と秋に多い。発作を何度も繰り返すと患部の皮膚のむくみ(浮腫)が残り、ついには肥大してしまう。ただし、発作のない通常時は足が奇形を呈しているだけで日常生活に支障はなく、また、この病気によって早世することはないので、患者の中には高齢者も多いことなどが分かった。 これらのことから中浜は、バクの本態はいわゆる象皮病であり、九州南部などでフトスネ(太脛)、コエスネ(肥脛)などと呼ばれるものと同一であると結論した。これに基づきフィラリア症、あるいは一種のバチルス菌による感染の疑いがあったため、数名の患者の血液検査を深夜に行ったものの原因は不明であったという。 19世紀後半の当時は寄生虫学に関する知見が十分でなかった時代であり、今回の八丈小島上陸調査は短期間かつ悪条件下での実地調査であったため、本病の主な症状が象皮病であると確認されただけであった。しかし、中浜が観察して書き残した「腫大肥厚するのは下肢が最も多く、上腿、上肢とこれに次ぎ、陰嚢にこれを生じるものは1名も認められなかった」とする記録は、後年重要な意味を持つことになった。 ===京大と九大による八丈小島調査=== 中浜の調査により八丈小島のバクと呼ばれる病態は、下肢が太くなる象皮病が主な症状であることが確認された。だが、その原因については不明のままで、これを研究する医師や学者はその後しばらく現れなかった。 中浜東一郎に続く新たな研究者が八丈小島を訪れたのは15年後の1911年(明治44年)9月であった。調査を行ったのは京都帝国大学衛生学教室に所属する吉永福太郎と帖佐彦四郎の2名である。当時この京大の衛生学教室(講座)は松下禎二教授を中心として日本の各所に散在していた象皮病流行地の分布状況、および疫学や原因に関する研究を行っており、吉岡・帖佐の2名も松下教授教室所属研究者の一員として八丈島および八丈小島の象皮病調査に赴いた。 当時の日本の医学界では象皮病の成因についていくつかの説があり、フィラリア糸状虫によるものとする意見が多かった。その一方で、糸状虫感染が背景にあるとしても、皮膚が肥大する直接の原因は連鎖球菌であるとする考え方や、それがさらに進んでフィラリア糸状虫ではなく連鎖球菌のみに重点を置く研究者たちもいた。京大の松下教授はその旗頭であり、同教室の象皮病研究はいずれもそれを実証するためであった。吉永と帖佐も当然この説の支持者であり、八丈小島での調査も連鎖球菌感染説の見地で行われたことは否めないと、後年、寄生虫学者の森下薫は指摘している。 吉永と帖佐は八丈小島で12名のバク病患者の血液検査を昼間と夜間にそれぞれ行ったものの、1例もミクロフィラリアを認められなかったのに対し、丹毒様浮腫(バクの初期症状。)を起こしている21名中、14名の患部および血液から純粋培養に近い状態で連鎖球菌を認めた。よってこの菌がバク病丹毒様発作の病原菌であるのかを確かめるために、その菌を微量、6名の患者の皮下に接種した結果、自然に発生するものと同じ発作が起きた。次に、加温殺菌して毒性を弱めたものを76名の患者に予防接種を行うと、発作の多い9月であったにもかかわらず、少なくとも八丈小島滞在中には発作はまったく起きなかったという。 これらの結果から吉永と帖佐は、小島のバク患者に見られる連鎖球菌が丹毒様発作の原因であり、かつ日本の他地域で実証したものと同じであって、日本の象皮病の大部分は連鎖球菌が原因であるといっても過言でない、と結論づけている。 日本国内の象皮病は八丈小島のケースも含め連鎖球菌が主原因でなく、リンパ系フィラリア虫によるリンパ系器官の閉塞が主な原因であることは今日では明らかであるが、原因論とは別に、吉永と帖佐が八丈小島で得た臨床所見の中には注目すべき事実があった。それは島民中76名の患者の中で、既往歴の聞き取り、および現段階において乳糜尿を患うものは1人もいなかった点であった。15年前に中浜東一郎が陰嚢水腫患者は1人もいなかったとする所見と合わせ、乳糜尿患者が1人もいない事実が確認された。 九州帝国大学第二内科(現九州大学大学院病態機能内科学)の望月代次と井上三郎の2人は、「象皮病の原因は連鎖球菌である」とする吉永・帖佐の結論に疑問を持った。望月と井上は一部の象皮病患者にミクロフィラリアが見られないからといって、フィラリア症を否定するのは早計であり、もっと多数の患者を検査する必要があると考え、吉永・帖佐が調査を行った翌年の1912年(大正元年)9月上旬に八丈島と八丈小島を訪れた。 望月と井上による八丈小島の調査は主に鳥打村で行われたが、その調査結果は前年の吉永・帖佐による結果と大きく異なっていた。望月・井上が行った血液検査の結果は、鳥打村在住者のうち象皮病を持つ32名のうち15名(46.8%)にミクロフィラリアを見つけ、さらに象皮病を持たない56名のうち26名(46.4%)にもミクロフィラリアを見つけた。この検査成績は年齢・症状別に調べられており、それをまとめたものが次の表である。各欄の数字は分子がミクロフィラリア陽性者数、分母が検査数である。 このように象皮病の症状の有無を問わず、鳥打村住民の血中ミクロフィラリア陽性率は4割以上の高率であり、「ミクロフィラリアは見いだせなかった」とする前年の吉永・帖佐の調査結果と大きく異なっている。なお、見出したミクロフィラリア虫の種類については特に述べておらず、日本国内の他のフィラリア流行地と同様にバンクロフト糸状虫と見做したものと考えられている。望月と井上はこの結果から、象皮病の発生にはフィラリア糸状虫の関与が必要であることを主張し、連鎖球菌を主因とした京大側の結論に異論を唱えた。ただし、フィラリア虫の寄生によってリンパ系のうっ滞が起こることが象皮病の主要因ではあるものの、うっ滞した部分が細菌に感染し易くなるのも事実であって、細菌感染による丹毒様発作はあり得るとし、感染過程のある時点では何らかの細菌の関与があることを認めている。 なお、この九大の2名も八丈小島での臨床的観察において、下肢の象皮病は見られるが、陰嚢水腫、乳糜尿については1例も見られなかったことを特記しており、さらに吸血したものを含め15匹のヤブカを剖検し、そのうちの3匹にフィラリアの幼虫らしきものを見出したと記している。この蚊の調査は短時間かつ簡易的に行われたため不完全ではあるものの、八丈小島におけるフィラリア糸状虫伝播蚊問題の最初の記録であり注目に値すると、後年寄生虫学者の佐々学は指摘している。なお、八丈島本島でも調査が行われ大賀郷村、三根村、樫立村、中之郷村、末吉村の計5ケ村に象皮病患者は総計21名おり、最も多かった樫立村では症状のないものを含めた29名の村民のうち17名の血液中にミクロフィラリアを検出し、そのうち1名には陰嚢水腫が認められたという。その後も連鎖球菌説を主張する京大派とフィラリア説を主張する九大派の論争が続いたが、最終的には京大側が矛を収める形になった。 九大による調査が行われた1912年(大正元年)は Steffen Lambert Brugがマレー糸状虫を新種記載する15年も前のことであり、八丈島本島と八丈小島のフィラリアが別種であることは誰も気づいていなかった。 こうして東京のはるか南に浮かぶ小さな島は医学者の研究の場として選ばれ、象皮病の成因について論議の材料を提供することになった。だが、1912年(大正元年)の九州大学による実地調査の後、八丈小島を訪れ調査を行う研究者は長期間にわたって現れなかった。研究者が訪れることもなく無医村であった八丈小島では、その後も依然としてバク病の流行は途切れることなく続き、島の人々は病気に苦しめられ続けていた。 ===昭和20年代以降の調査=== 明治から大正初期にかけて八丈小島で行われたバク病の調査研究は、象皮病の臨床診断や原因調査に主眼点を置いており、治療に直結していなかった。リンパ系フィラリア症は命の危険に直接晒されるような病気でなかったことに加え、そもそもフィラリア症に対する有効な予防法や治療法は1950年頃(昭和25年頃)まで存在しなかったのである。 九州大学の調査以降、八丈小島が日本国内の研究者から再び注目を集めたのは太平洋戦争終戦後の1948年(昭和23年)から始まった東京大学付属伝染病研究所の佐々学による現地調査であった。 ===伝染病研究所・佐々学=== 東京大学伝染病研究所(以下、伝研と記述する)の佐々学(さっさまなぶ)は同僚の加納六郎を誘い、1948年(昭和23年)7月、八丈小島のバクを調査するために八丈小島を訪れた。 佐々学(1916―2006)は1916年(大正5年)に東京神田で生まれ、東京帝国大学医学部を1940年(昭和15年)に卒業し伝研へ入所する。直後の同年5月、海軍軍医科士官となり、駆逐艦「東雲」乗組の軍医として日本と中国大陸の間を何度も往復したり、掃海母船「栄興丸」乗組の軍医としてソロモン諸島など南洋の島々を巡り、船内で乗員の虫垂炎手術を行うなどした。その後、日本軍が占領していたペナン島(現マレーシアジョージタウン)に滞在し、午前中は外科の診療に従事し、午後は島内の病院や保健所へ出向いて熱帯医学 Tropical medicine を学んだ。日本軍が占領する前のペナン島は、イギリス東インド会社の極東進出に始まるイギリスの植民地支配の拠点であったため、イギリスの医師・研究者たちによる熱帯医学の基礎研究が進んでいた。それを受け継ぐペナン島の現地医師たちは、熱帯医学への知見において、当時の日本の医師たちを大きく上回っていたという。佐々はそれまで教科書でしか知らなかった数々の熱帯病の症例を目の当たりにし、特にマラリア、フィラリアなどの蚊を媒介とする熱帯性感染症の研究に没頭していった。 それらの研究を通じ佐々は Species Control(スピーシズ コントロール)対種駆除という考え方に初めて接した。例えばマラリアを媒介するのは蚊であるのだから、予防のためには片端から蚊を駆除すればよいという大雑把なものではなく、マラリアを媒介する蚊の種を特定し、人間のマラリアを媒介する蚊だけを駆除すればよい、という考え方である。この考え方はマラリアに対してだけでなく、フィラリア、黄熱病、デング熱、日本脳炎といった蚊を媒介とする熱帯性の感染症の予防対策の基礎となる重要な考え方であった。佐々はマレー人の医師や研究者からその区別方法を伝授されると同時に、当時は敵国であったイギリスの医療知識や技術に感嘆し、日本にはない熱帯医学に関する各種論文や医学書を読み漁り、その理念や技術を日本語に翻訳し、ペナン島でのマラリア対策を克明に記録したものとともに、東京築地にある海軍軍医学校へ逐次送付し続けた。佐々は海軍軍医学校から呼び戻され、マラリアの予防法を若い軍医に教える傍ら、さらに研究を進め、マラリア媒介蚊の種類を判別するための図鑑『大東亜共栄圏のアノフェレス蚊の鑑別図鑑』を作成した。この図鑑は全軍に配布され、佐々は日本における熱帯病研究者としての地位を確立していく。その後、佐々は海軍陸戦隊の軍医として南シナ海に浮かぶ海南島で終戦を迎え、内地へ復員した。籍のあった伝研へ戻った佐々は、GHQの要請を受けて、日本脳炎の研究のために来日した医学者アルバート・サビンの助手をすることになった。東京や岡山で複数の蚊を採取してはさまざまな角度で研究を行う佐々を気に入ったサビンは、日本での研究成果をアメリカの医学雑誌で発表する際に、自らの名前だけでなく佐々の名前を加えた。 佐々は復員後2年も経たずに東京大学医学部の助教授になった。さらに、共同研究者も集まり始めた1948年(昭和23年)、ロックフェラー財団が募集した公衆衛生学の戦後初となる日本人留学生2名の1人に佐々は選ばれ、1年間のアメリカ留学が決まっていた。が、具体的な出発の日取りは2か月以上も決まらないでいた。その頃の同年6月下旬、伝研を訪れた東京都の職員から「八丈小島にはバクという風土病があり、何年も発熱が散発的に続いて足が太くなる」という話を佐々は聞く。バクと言う病名も八丈小島という島名も初めて聞く名前であったが、「足が太くなる」という症状から佐々は即座にフィラリアを疑った。早速さまざまな資料や文献を調べてみたが、この時は「バク」が何なのか分からなかったと言う。俄然興味が湧いた佐々は日取りが決まらないアメリカ留学を控えていたものの、急遽八丈小島行きを決めた。 ===佐々による八丈小島初回調査=== 八丈小島のバクを調査するため、佐々は同僚の加納六郎(1920―2000)を誘い1948年(昭和23年)7月、東京竹芝桟橋から5日に1便あった八丈島行き貨客船の藤丸(初代)に乗船し、ほぼ1日をかけて八丈島に到着するが、八丈小島への定期船はひと月に2便しかなく、次回の出港は5日後だと分かり八丈島の民宿に滞在することになった。 八丈島の人々は東京大学の学者が2人も来た事を不思議に思い、佐々らに来島目的を尋ねると「八丈小島のバク」の調査のためだと分かり仰天する。八丈島の人々は八丈小島を単に「小島」と呼んでおり、「バクは昔からある恐ろしい病気で高熱を出したり足が醜く太くなる。」、「バクが怖いからみんな小島へは近づかない。月に二度の連絡船で役場の職員とか郵便局の人が行くだけだ。」、「トコブシやテングサを採る海女も、あの島の近くでは仕事もしないし上陸もしない。」、「小島に生まれたものだけが罹る遺伝病だ。」など、八丈島の島民はバクの恐ろしさを佐々に語った。 これらのバクに対する当時の人々の認識は医学的根拠のないものであり、バク、すなわちリンパ系フィラリア症は遺伝病でもなければ、人から人へ直接感染する病気でもない。しかし昭和20年代前半の当時、フィラリアという病気の原因は一般的には認識されておらず、医療関係者の間でも八丈小島のバクは日本国内の他のフィラリア流行地と同様にバンクロフト種のフィラリアと考えられていた。また、専門家による調査は長期間途絶えており、佐々は小島のバクについて八丈島の人々からの話を聞き及ぶにつれ、何としても小島へ渡りその正体を確認しなければならないと強く感じ始めていた。 5日後の朝、八丈小島への船は予定通り出航することになった。八丈島の八重根港で乗船待ちする佐々のもとへ、民宿のおかみが今届いたばかりだという電報を持って駆け付けた。電報には「アメリカイキキマル スグモドレ」と書かれていた。今戻ったら八丈小島へ渡るチャンスは何時になるか分からず佐々は迷った。八丈島から本土へ戻る定期船はこの日の午後に出航する。当時八丈島と本土を結ぶ定期船は5日に一便であったが欠航になる可能性もあり、このまま八丈小島へ渡れば本土へ戻れるのは少なくとも2週間後であった。加納は本土へ戻った方が良いのではと佐々に促したが、何よりもバクへの探求心が勝った佐々は電報を破り捨てて海に捨て八丈小島行きの船に飛び乗ったという。 船は2時間半で八丈小島北西側にある鳥打村の船着場に着いた。島の中腹にある村の人々は接岸する船に気が付くと積まれた物資を受け取るため一斉に船着場へ駆け下りてきた。島民らが積荷を降ろす中、佐々と加納は大きな荷物を背負い島の岩場へ上陸すると、5人ほどの島の子供たちに囲まれ、興味深そうに来島目的を尋ねられ「バクを調べに来た」ことを伝えた。すると子供たちは驚き、自ら進んで2人の荷物を持つのを手伝い、鳥打村への道案内役を買って出て、すれ違う村人や畑仕事をする人たちに「このおじさんたちはバクを調べに来た」と大きな声で喧伝してくれたという。佐々と加納は子供たちから「バクのおじさん」と名付けられた。持参した大きな荷物の中身は顕微鏡や試験管、試薬、精製水の入ったビンなどが入っていた。高熱が出て最後は足が太くなるという都の職員の話からフィラリア症に見当を付けていた佐々は、フィラリア症検査に必要な器具一式を用意して来ていた。 八丈小島には電話などの通信機器がなく、事前の協力要請ができなかったため、佐々は鳥打村の村長への挨拶とバク調査の協力をお願いしようと村長の家の場所を尋ねたが、子供も大人も「村長」という言葉の意味を知らず、怪訝な顔をしたという。八丈小島の2か村は前年の1947年(昭和22年)10月に施行された地方自治法によって名主制度から村長制度へ変わった ばかりで、島民たちにとって「村長」を意味する言葉は長年使用していた名主(なぬし)のままであった。 夏休み前の平日にもかかわらず小学生くらいの子供たちが昼間から遊んでいた。不思議に思い聞いてみると、1人しかいない小学生担当の先生がバクになってしまったので今日は休校だという。子供たちに案内され名主の家へ向かい鳥打村の集落へ入っていった。どの家も強風を避けるための頑丈な石垣とツバキの木々に囲まれている。その家々の間を歩いていくと、ある家の中が外から見え、そこで佐々はバク症状を起こしている患者を初めて目にした。蒸し暑い7月の日中にもかかわらず布団に包まり歯をガタガタさせて震えていたのである。これはリンパ系フィラリア症の症状のひとつ、熱発作であり八丈小島ではミツレルと呼ばれる症状であった。 名主の家に到着すると意外にも名主は40歳という若い男性であった。佐々と加納の来島目的を知ると島の長老らが名主の家に集まりバクについて語り始め、わしがバクの親分だと自称する高齢の男性は、研究のためならと自らすすんで写真を撮らせてくれたという。この老人の左足は右足の3倍ほど太くなっていた(右、画像1参照)。 長老らの話を要約すると、まず、島の人間はほとんど全員が15歳くらいになるまでに熱発作を起こす。この熱は数日で下がるが再び熱発作を起こし、何年間にわたって何度も繰り返す。やがて熱発作が出なくなると今度は足が徐々に太くなる。太くなった足の皮膚が傷つくと、傷口が赤く腫れて膿んで傷が治りにくくなる。治りにくいことを島民たちは経験的に知っているため、日常生活で傷が付かないよう常に注意しているという。 続いて佐々は長老にバクの原因を訪ねると、水が悪いからだと答えた。集落の高台にバク池という小さな池があり、水道のないこの島ではこの池から水を汲んで利用していたという。それがつい最近、各家庭にコンクリート製の水溜めが作られ、家の屋根などから樋を引いて利用し始め、これでバクがなくなるかもしれないと島民は期待した。だが、やはりバクはなくならないという。 佐々と加納はこのような話を聞きながら、出されたお茶の湯呑の中に煮えたボウフラが数匹入っていることに気が付いた。加納は佐々の耳元で「これはフィラリアでしょうね」とささやき、佐々も黙って頷きバクの正体はフィラリアに間違いないと確信した。 ===ミクロフィラリアの夜間定期出現性=== 佐々は名主や島の長老たちに、この病気はフィラリアという病気によく似ているが、それを確かめるために血液検査が必要なので今晩協力してほしいと伝えた。ヒトに罹患するリンパ系フィラリア虫は血管やリンパ管の中に寄生する寄生虫である。したがって血液中からフィラリア虫の幼生であるミクロフィラリアが確認できれば感染の有無は判別できる。ただ、この採血検査は夜間に行う必要があった。その理由はミクロフィラリアの夜間定期出現性である。 前述したように19世紀の後半、中国南部(現、福建省)のアモイで研究を行っていたマンソンは、マラリアの感染経路を調べるため飼育していた蚊が、飼育籠の中から逃げ出して水に溺れているのを見つけ、その水を100倍ほどの顕微鏡で見るとマラリアの原虫ではなくフィラリアの幼虫のミクロフィラリアが泳いでいた。マンソンはフィラリアに興味を持ち、当時のアモイに多数いたフィラリア症患者の採血のため中国人の助手を2人雇い、1人は昼間、もう1人は夜間に働かせた。しかし患者の血液中からミクロフィラリアが確認されるのは決まって夜勤の助手の採血によるもので、日中勤務の助手からは一切確認できなかった。マンソンは昼間の助手がサボっているものと思い込んで、新たに別の中国人助手を雇った。ところが結果は同じであり、マンソン自身も研究室に来るのが夜の時にだけミクロフィラリアが確認されていたことに気がつく。そこでマンソンは1人のフィラリア症患者を対象にして、3時間置きに採血して血中のミクロフィラリアを数える調査を1か月以上続けグラフ化すると、午後6時過ぎから血中にミクロフィラリアが現れ始め、午前1時頃にピークを迎え午前8時以降は血液中から確認されなくなることが分かった。さらに別のフィラリア症患者を昼間に寝かせ夜間に起きる昼夜逆転生活にさせても結果は同じで、治験者の睡眠の時間帯に関係なくミクロフィラリアの出現は夜間に限られていた。 1879年(明治12年)のことで、マンソンはこの現象をミクロフィラリアの夜間定期出現性 nocturnal periodicityと名付けて発表し世界の医学者を驚かせた。その後も、世界各地の研究者によって蚊が媒介する生活環やミクロフィラリアの形態や性質などの基礎的な研究は進んでいたが、佐々が初めて八丈小島を訪れた1948年(昭和23年)当時、フィラリア症に対する有効な治療法や治療薬は未だに確立されていなかった。 ===夜間採血=== 無医村である八丈小島の人々にとって大学の医療研究者が来島することは、九大の望月と井上以来36年振りのことで佐々と加納は島民から好意的に迎えられ、調査場所兼宿泊場所として鳥打村役場が提供された。村役場は坂道を上った鳥打小中学校の庭の一角にある小さな小屋で、入口に「鳥打村役場」の表札が掲げられてはいるが簡素なものであった。 その夜、鳥打小中学校の校庭で佐々と加納の歓迎会が開かれた。東京から2人の医者がバクを調べるためにわざわざ来たことを喜んだ島民たちは、小舟を出して海に潜りトコブシやウニ、ナマコ、さまざまな魚介を採ってきた。さらに島の名産のサツマイモを使った家庭料理で2人をもてなした。このサツマイモから作られた「島酒」と呼ばれる強い自家製焼酎が佐々と加納のコップに注がれ、島の青年からかわるがわる献杯された。これ以上飲めないと断っても、後ろから羽交い絞めにされコップを口にあてがわれ、飲み干すまで許さないという頑固さであったが、隣にいた名主はこうした荒っぽさが八丈小島で最高の歓待だと教えてくれたという。 宴が盛り上がってくると島の人々は民謡を唄い始めた。 *134* ハアー 沖で見たときゃ 鬼島と見たが 来てみりゃ小島は 情島(なさけじま) ショメショメこれは八丈島本島で歌われる民謡『八丈ショメ節』(東京都無形文化財)の歌詞の一部を小島に変えたもので、この夜は大人も子供も一緒になって唄われた。現地の人々とのこうした接し方は風土病調査を円滑に行う上で重要なことであり、佐々自身も自著『熱帯への郷愁』の中で、現地の人々の文化を尊重し、付き合いを積み重ねていくことが絶対に必要な条件であると書いている。佐々をはじめとするフィラリア撲滅に携わった研究者たちが兼ね備えていた庶民性があったからこそ、日本国内のフィラリア症克服に繋がったのだろう、と作家の小林照幸は指摘している。 陽気に唄いながら島の男たちの酒の量はさらに増えていった。しかし佐々と加納は夜間に行う採血作業を控えていたため酔うわけにはいかなかった。 採血は午後9時過ぎより酔いつぶれかけている青年から始められた。耳たぶに注射針を刺して少量の血液を採り、スライドグラスに塗る作業を続けた。青年たちは「痛いぞ」と怒鳴るが、酒に酔って充血している耳たぶからの採血はかえって都合がよかったという。歓迎会参加者全員分の採血が終わると、名主と数人の青年らの案内で鳥打村の家々を1軒ずつ訪ね、女性や子供、老人を起こして採血を行った。当時の八丈小島では自家発電は午後7時半までで、それを過ぎるとほとんどの人は就寝していた。佐々らは急な斜面の岩だらけの狭い道をカンテラを照らしながら1軒ずつ訪ねて採血を続けたが、案内役の青年らは次々に酔いつぶれて道端で寝てしまい、最後の1軒の採血が終わった午前1時の時点で起きていたのは佐々と加納と名主の3人だけであった。しかし佐々と加納はまだ寝るわけにはいかなかった。急いで宿舎の役場へ戻りスライドグラスに塗布した血液をギムザ染色しなければならない。5パーセントのギムザを入れた精製水に1時間漬けて赤血球などを除去することでミクロフィラリアだけがスライドグラスに残る。こうすることによって顕微鏡で見やすくなり、また防腐剤的な役目も果たし数年間は腐ることを防げる。詳しい観察は翌日以降でも行えるが、急いでギムザ染色して血液を乾燥させないと、7月下旬の高温多湿なこの時期では血液が腐ってしまう恐れがあった。 佐々と加納は夜を徹して37名分の採血サンプルをギムザ染色し、100枚近いスライドグラスを役場の床に並べて乾燥させた。夜が明ける前に作業は終わり、一息ついて校庭に出て見上げると満天の星が夏の夜空いっぱいに広がっていたという。翌日、スライドグラスを1枚1枚顕微鏡で観察すると、採血した37名中の7名にミクロフィラリアが確認された。八丈小島のバクの正体はやはりフィラリアであった。ただし佐々はこのミクロフィラリアをバンクロフト糸状虫のものと思い込んでいた。この時点で知られていた日本国内のリンパ系フィラリアは、隣接する八丈島や伊豆諸島を含め、すべてバンクロフト糸状虫によるものであり、今回の八丈小島の調査で見たミクロフィラリアが他種であるとは思いもよらなかった。しかしこの最初の訪問時に象皮病の患者はいるが陰嚢水腫や乳糜尿の患者が見られないことを不思議に思ったが、佐々と加納もその理由については分からなかった。 佐々はアメリカ留学のこともあり本土へすぐ戻ることにしたが、名主や長老から「内地の先生は1度来るだけで、2度とこの島へは来てくれない」と言われる。長老たちは過去の京大や九大による1回限りの訪問を覚えていたのである。それに対して佐々は「この島からバクがなくなるまで、私が生きている限り何度でも来ます」と応じた。その後、実際に佐々は20回余りも八丈小島を継続的に訪れ研究や防圧を行い続け「病気がなくなるまで何度でも来ます」の言葉どおり、バク病の最後を本当に見届けることになったのである。 ===佐々の渡米と化合物DECとの出会い=== 八丈小島から帰った佐々は軍用機に乗ってロックフェラー財団の留学生として1年間のアメリカ留学へ向かった。戦後初のロックフェラー財団留学生に佐々が選ばれた理由は、帝国海軍軍医時代の熱帯病に関する研究成果と、ペナン島で養われた英会話能力の高さによるものであった。1948年(昭和23年)当時の日本は連合国軍最高司令官総司令部の占領下で外交権を失っており、アメリカに駐在する日本の外交官も存在しない状況であった。佐々のパスポート番号は80番であり、戦後の日本政府が日本国外へ渡航を認めた日本国籍者は佐々の前には79人しかいなかったということになる。西海岸のサンフランシスコから入国し、留学受け入れ先のジョンズ・ホプキンズ大学のある東海岸のボルチモアまでは長距離バスを乗り継いで移動した。 ジョンズ・ホプキンズ大学では公衆衛生学の修士コースを8か月間学ぶことになった。ともに学んだ同級生にはアメリカ海軍の軍医出身者もおり、彼らは日本人の佐々に興味を持ち、朝晩の下宿と大学の間を車で送迎してくれたり、夜にはビールを飲みながら日本のマラリア対策やツツガムシ病患者などの話を意見交換したりと、昔の敵意などすっかり忘れて打ちとけ合ったという。 マラリアに関する知見の高さから佐々は4か月を1クールとするマラリア講座の講師をつとめ、アメリカ軍医の卵に予防方法や蚊の飼育と判別を教えることになった。佐々自身もペナン島などで培ったマラリアに関する経験や知識には自信を持っており、日本帰国後は伝研でマラリア研究を継続していきたいと考えていたが、ジョンズ・ホプキンズ大学での留学生活を続けている間に、アメリカが莫大な予算をつぎ込んでマラリアの研究を行っていることを知り、終戦直後の日本の実情ではとても太刀打ちできないと思い始めていた。 しかし、その一方でフィラリアに対するアメリカの関心が著しく低いことも見えてきた。当時、蚊が媒介する感染症のうち、マラリア、フィラリア、デング熱、日本脳炎の順に重要とされており、このうち日本国内ではフィラリアと日本脳炎が大きな問題とされ、日本脳炎については戦前から伝研による研究調査が進んでいた。当時32歳の佐々は、それならば自分が進むべき道はフィラリアの研究しかないと決意する。 講師や研究の合間を縫って、佐々は膨大な書籍が所蔵されている大学図書館で、世界のフィラリアに関する文献を探し出し片端から読み漁っていった。特に日本にはない中南米のフィラリア文献は貴重であった。また、ジョンズ・ホプキンズ大学にはバンクロフト、マレーなどのリンパ系フィラリア虫だけでなく、オンコセルカ(英語版)、ロア糸状虫(英語版)などリンパ系以外のヒトに感染するフィラリア虫、ミクロフィラリアの標本が所蔵されており、佐々は何度も顕微鏡を覗いて観察し各虫を判別できるようになっていった。 ある日、佐々はアメリカの薬学誌の中に、「DECという化合物質を動物実験したところ、フィラリアに有効だった。」という記事を見つけ詳しく読んでみると、「1947年(昭和22年)、アメリカのヘウイットという医師のグループが、コットンラットという野ネズミに寄生するフィラリアに対して、DECを経口投与すると、ミクロフィラリアが急激に減少したことが確認された」と書かれていた。 DECとはクエン酸ジエチルカルバマジン、Di‐Ethyl‐Carbamazine‐citrateの略で、佐々は初めて聞く薬品名であった。早速調べてみると日本にはないらしく、仮に持ち帰れても薬価基準が日本とアメリカでは異なるため、適用は基本的に許可されない。ジョンズ・ホプキンズ大学の関係者に聞いてもDECはなかったが、ミクロフィラリアが検出された患者に対して何も投与できず対症療法を施すしかなかった従来の現状を考えれば、動物実験であるにせよミクロフィラリアを減少させる薬品が存在することは朗報であった。佐々はもしかしたら小島のバクを治せるかもしれないと期待し、DECの構造式や合成法などの研究を始めた。こうしてアメリカ留学の1年間は過ぎて行き、1949年(昭和24年)8月、佐々は横浜港へ入港する客船で日本へ帰国した。 ===新駆虫薬スパトニンの開発=== 日本へ帰国した佐々は、すぐに伝研へ戻り同僚の加納にDECのことを伝え、化合法について東京大学の薬学科(現、東京大学大学院薬学系研究科・薬学部)に協力を依頼すると、驚くことにDECはつい最近、薬学科教授の菅沢重彦(1898―1991)らの手によって合成されたばかりで、来年度以降大阪の製薬会社田辺製薬を通じて実用化される方向で準備が行われていた。 佐々は自分が留学している間に日本でフィラリアの治療研究が進んだものと思い、急いで薬学科を訪ねると、菅沢は「フィラリア?違う違う」と言って合成したばかりの白い粉末状のDECを佐々に見せた。菅沢のDEC合成の目的は回虫の駆除であった。戦前に回虫駆除に使用していたサントニンというヨモギを原料とする駆虫剤をソ連から輸入していたが、戦争終結に伴いソ連との国交が断絶したため一切輸入されなくなっていたのである。菅沢は各国の文献を調べDECに目を付け、サントニンの代用品として田辺製薬と共同研究を行い合成に成功したという。佐々は事情を打ち明けDECを八丈小島のフィラリア患者に使用したいと申し出るが、本来の目的である回虫駆除の臨床試験も行われていない段階であったため、菅沢は難色を示した。しかし、田辺製薬はこの新しい駆虫薬が抜群の効果をも発揮すると自負しており、サントニンを超える効果を持つという意味の「スーパー・サントニン」の略「スパトニン」という商品名まで既に名付けていた。 フィラリアに対する佐々の熱意に菅沢はDECの合成を承諾し、同年12月、飲み易いように錠剤にされた1錠あたり0.1グラムのスパトニン1000錠を佐々に譲渡した。ちょうどその頃、人間へのDECの投与例がアメリカから報告された。その内容は2年前の1947年(昭和22年)にアメリカ人医師のスティーブンソンが南太平洋の島で、バンクロフト糸状虫症患者に対し1日あたり体重1キログラムにつき6ミリグラム割合でDECを10日間投与すると、患者の血液中のミクロフィラリアが消えたというデータが、この年のアメリカでの学会で報告された。ただし、これは1名だけの成功例であり、患者の病状が感染初期なのか末期なのかも不明であった。 佐々はなるべく早く八丈小島を再訪してスパトニンによる治験を行いたかったが、海の荒れる冬であったため、天候の安定する春を待って決行することにした。 ===マレー糸状虫の発見=== ====マレー種のフィラリア==== 年が明けた1950年(昭和25年)5月初旬、佐々は一昨年と同じく伝研の加納と、若手研究員の林滋生(はやししげお)と佐藤孝慈(さとうこうじ)を伴い竹芝桟橋から八丈島を経由して八丈小島へ向かった。今回はDEC(スパトニン)の効果を確かめるのが主目的で、またそれに加え、ボウフラ対策として天敵となる金魚3匹を揺れる船の中、長時間苦労して東京から持参した。鳥打の船着き場に着くと佐々と加納を覚えていた子供たちが山から駆け下りて「バクのおじさん」と出迎えてくれた。名主や長老たちも伝研一行を歓迎し、一昨年と同様に夜間の採血と、新たにDECの投与を行いたい旨の申し出を承諾し、島民らへの段取りをつけるなど積極的に協力した。 今回も研究所として役場を借り、持参した3匹の金魚は手始めに、とある民家の天水桶に放した。その夜は新たに加わった林、佐藤の両名も島の青年たちから島酒による羽交い絞めの歓迎を受け、宴の終了後、伝研の佐々、加納、林、佐藤の4人は2組に分かれて、鳥打村と宇津木村を巡回して八丈小島全島民の採血を行った。 翌朝、顕微鏡で調べると宇津木村は20名中わずか1名からミクロフィラリアが確認されたのに対して、前回も採血調査した鳥打村では85名中の29名にミクロフィラリアが確認され、感染率は34.1パーセントという高率であった。 佐々はアメリカ留学中に世界に8種あるフィラリア虫の標本をつぶさに観察し続けた結果、一目でどの種類なのかが判別できるようになっていた。今回2年ぶりに採血した八丈小島島民の血液標本中のミクロフィラリアを顕微鏡で覗いた佐々は、すぐに違和感を持ったという。 これはマレー糸状虫だと、とっさに佐々は思った。バンクロフト種は平仮名の「し」の字のように緩やかに湾曲している。それに対してマレー種は細かく何か所も湾曲している。今、目の前にあるミクロフィラリアは明らかにマレー種のものであった。しかし従来の寄生虫学では日本国内に存在するフィラリア症はバンクロフト種のみとされ、これは佐々の留学していたジョンズ・ホプキンズ大学の図書館にあるフィラリア関連の蔵書でも同様であった。日本に存在しないはずのマレー糸状虫が八丈小島に存在するのだろうかと疑問を持ちつつ、昨夜採血した複数の血液標本を次々に検査したが、どれもこれもマレー種ばかりでバンクロフト種はまったく見当たらなかった。八丈小島のバクの正体はマレー種のフィラリアだったのである。 佐々は前回の調査時に、象皮病の症例は確認したものの陰嚢水腫や乳糜尿の患者が見られなかったことを不思議に思ったが、マレー糸状虫であるならその理由も合点がいく。バンクロフト糸状虫は象皮病に加え陰嚢水腫や乳糜尿を起こすが、マレー糸状虫では象皮病は起こしても陰嚢水腫や乳糜尿の症状は起こさないからである。明治期に調査を行った中浜東一郎や、京大や九大の研究記録にも同様の臨床所見があったことは前述したが、これらの所見はマレー種の特徴と合致していた。 八丈小島と地理的条件が近い青ヶ島や、すぐ隣の八丈島のフィラリアも日本国内他所の流行地と同じバンクロフト糸状虫であるのに、なぜ八丈小島だけ飛び地のようにマレー糸状虫が存在し蔓延していたのかは地理医学上興味深いが、その理由については未だに謎である。発見者の佐々は、八丈小島の島民の祖先は遠く離れた東南アジアのマレー糸状虫流行地から漂流して八丈小島へ住むようになったのかも知れないと推察し、寄生虫学者の森下薫は八丈小島の島民の祖先が黒潮に乗って遠く南方へ出漁した際に現地で感染し、故郷の八丈小島へ帰った者から広がり土着したとも考えられる。だが、生活環に中間宿主を必要とするこの種のものの土着が難しいことは、バンクロフト糸状虫の場合でも経験されており、珍しいという他にない、と指摘している。 マレー糸状虫はそれまで日本国内では発見されておらず、それ以降も八丈小島以外、日本国内の他の場所では見つからなかった。佐々は八丈小島のマレー糸状虫が寄生虫ではなく、他の動物であったなら特別天然記念物に指定されたであろうと、この発見に興奮したと言う。 ===スパトニン投薬テスト=== マレー糸状虫の歴史的な発見をした佐々であったが、この発見により今回の主目的であるスパトニンを利用した駆除薬テストに小さな懸念が生じた。アメリカのスティーブンソンが南太平洋で行ったDEC投与成功例はバンクロフト糸状虫症患者に対するものであってマレー糸状虫症患者ではない。図らずも今回マレー糸状虫を発見したが、このままスパトニン投与を行ってよいものか、果たしてマレー種にも効果があるのだろうかと佐々は迷った。 しかしバンクロフトもマレーも同じリンパ系フィラリア虫であり、同様の効果が期待できるのではないかと意を決し、1950年(昭和25年)5月12日の朝、前夜の採血検査で陽性であったミクロフィラリア保虫者たちを鳥打小中学校に集め、バクの特効薬である旨の説明とともにスパトニンが分配された。投与量はスティーブンソンに倣い、1回あたりの投薬を0.3グラムに相当するスパトニン3錠、投与期間を10日間とするスパトニンテストが開始された。これは世界初となるDECを使ったフィラリア症への集団投与であり、かつマレー糸状虫症に試みられた世界で最初の事例であった。 ところが投薬から5時間ほど経過した昼頃、ボウフラの調査を行っている佐々のもとへ名主が血相を変えてやってきた。投薬を行った島民たちが熱を出したり吐いたり、頭が痛いと訴えているという。佐々はそんなはずはないと思いつつも、恐れていた事態が起こったと思い、急ぎ名主の案内で伝研のメンバーを伴って患者らの家に行くと、布団をかぶってフーフー言っている者、洗面器を抱えて嘔吐している者など、DECを投与した全員が40度近い高熱と戦慄を起こし寝込んでしまっていた。ある青年はこの熱がミツレル熱発作だと思い「先生の薬はバクを治す薬ではなく、バクを起こす薬だ」と佐々に食ってかかったという。 DEC投与による発熱は副作用のひとつであり、ある理由によって高熱が出ることが後の研究で確認されるのだが、この段階では高熱の原因が分かるはずがなかった。佐々はDECがバンクロフト種にのみ有効だったのかと戸惑い、責任者の立場として10日間にわたる投薬テストを中止しようとした。 しかし林は「佐々先生、構わないからどんどんやっちゃいましょう。1回、熱が出ただけで、うまくいくかもしれませんよ」、と投薬の継続を佐々に主張し、佐藤も「後はピタリと止まってうまくいくかもしれません」と林の主張に賛同した。佐々はDECの駆虫効果について自信を持っていたものの、目の前で起きた発熱の原因が分からず、相談した結果、一部の希望する患者のみ10日間継続することにした。 投薬開始から3日後、DECを続けて飲んだ人はミツレル発作熱と似た症状が続き、一方、薬を止めた人の発熱は止まっていた。5日間飲んで止めてしまった人や10日間飲み続けた人などさまざまであった。佐々たちはこれら被験者全員の耳たぶから1回あたりの採血量を0.03ccと決めて血中のミクロフィラリアを毎日数えた。投薬初日のミクロフィラリアの数は多い人で30匹、少ない人で10匹であった。それが3日間投薬を続けた人は半分近くまでミクロフィラリアは減っており、その時点で中止した人は、一旦減ったミクロフィラリアが2日後に再び増え始めた。しかし10日間飲み続けた人からは完全に消えていて、それから5日後、10日後、15日後の検査でもミクロフィラリアは検出されず、最初の発熱を除けば、その後の体調に大きな変化は見られなかった。当初、回虫駆除の目的で合成されたスパトニンはマレー糸状虫、ひいてはリンパ系フィラリア虫に有効であると実証された。 佐々は投薬直後の発熱時、投薬を中止しなくてよかったと後年述べており、もしあの時、構わないから続けましょうと言った林の言葉が無かったら、日本のフィラリア症駆除対策の歴史は変わっていたかもしれないと回想している。 こうして伝研メンバーによる2回目の調査は八丈小島に約2か月間滞在して行われ、世界で初めてDEC(スパトニン)がマレー糸状虫に適用、有効であるという大きな成果を挙げることとなった。 ===高熱の解明=== DEC(本節以降はスパトニンと表記する)の効果が分かった佐々は、大阪の田辺製薬と連絡を取り合いフィラリアに対する投薬の検討を行い、「投与量の確立」と「高熱の原因究明」、この2つが重要な課題であるとして意見集約が行われた。 佐々は加納、林、佐藤を再び伴い、同年暮れの1950年(昭和25年)12月から2か月間にわたり八丈小島で島民らとともに生活をしながらスパトニンの調査を行った。3度目の調査ではあるが佐々ら伝研メンバーに対する島民たちの歓待ぶりは変わらなかった。伝研メンバーは疫学的な観点から村の一軒一軒を巡回して、家族のバク病歴や、現在の症状などをつぶさに調査した。これは特に林滋生が積極的に調査し島の方言までほぼ完璧に覚えたという。獣医学出身の佐藤孝慈は島の乳牛のお産の取り上げをしたり、牛の飼育方法やバターの作り方の指導を無料奉仕するなど、伝研のメンバーたちは皆、空いた時間には子供を相手に遊んだり、小学校で話をしたりして島民たちと交流を続けた。風土病の調査にはその土地の人たちとの信頼関係の構築が先決であり、たとえ東京の大学から来たからといって、いきなり血をとらせろ、バクを見せろなどと交渉しても受け付けられるものではない。あくまでも島の人たちの立場になって考え行動することが重要だ、ということを、佐々をはじめ伝研のメンバーは常に意識していた。 3回目となる八丈小島での調査は、前回スパトニンを飲むのを止めてしまった人を対象に再度採血をして、ミクロフィラリアの数を確認し投与することから始められた。多くの島民の協力により治験データが集められ、前回の調査と同様に1回3錠(0.3グラム)の割合で7日間以上から10日間継続して投与すれば、ミクロフィラリアを消滅させミツレル様熱発作も出なくなって全快することがほぼ確かめられた。また、熱が出た日から翌日にかけてミクロフィラリアが急激に減少し、しかも顕微鏡ですぐに確認すると、フィラリアダンスと呼ばれる通常は激しく動くミクロフィラリアの動作が極めて鈍くなっていた。佐々はこれをミクロフィラリアの神経に作用しているのだと考え、発熱の原因はミクロフィラリアが死ぬ瞬間に発熱物質になるためではないかと予測した。 八丈小島の患者血液サンプルを2か月後に伝研に持って帰ったメンバーは研究を始めた。その結果、スパトニン投与によりフィラリアの成虫および幼虫(ミクロフィラリア)の酸素消費量が抑制される、と分かった。次に人体のミクロフィラリアに対する抗体が作られ、フィラリアは死滅する。死滅したフィラリアは人体によって異物であるため、抗原となってアレルギー反応を起こさせ発熱を生じさせる。数百万ものミクロフィラリアが同時に死滅するので体温を上昇させるほどの高熱が出るのは当然であった。別の見方をすれば、高熱が出るということは体内のミクロフィラリアの死滅を意味しており、むしろ高熱が起こることは治療が遂行された証明だった。しかも高熱は数日で治まり他の副作用は確認されなかった。 なお、当初の開発目的であった回虫駆除は、確かに駆虫効果はあるものの、大量のスパトニン投与が必要で吐き気などの副作用を示すことが判明したが、その後にはさらに簡単な化合物のピペラジンが安価かつ効果も高く副作用もないことが明らかになり、スパトニンは回虫駆除剤としては落第してしまった。また、犬のフィラリアに対しては獣医学者の久米清治がスパトニンを試みたが、一時的にミクロフィラリアが減少することはあってもフィラリア成虫にはまったく効果がなく、それどころかフィラリア犬に投与すると、しばしばショック死をするので犬のフィラリアに対するスパトニン利用は禁忌という結論になった。しかし人間のフィラリア症に対するスパトニン治療効果は明らかであり、佐々は同時期に鹿児島県下でバンクロフト種に対するスパトニン投与研究を行っていた鹿児島大学の佐藤八郎と活発に意見交換を行うなど、リンパ系フィラリア症に対するスパトニン治験が進んでいった。 これらの報告を受けた田辺製薬は1951年(昭和26年)4月からフィラリア治療剤として「スパトニン」の販売開始を決定した。だが、これまでの試験製造と異なり大量製造を始めたことによって合成途中で生じるイペリット状のガスの発生が問題となり、田辺製薬内部でも製造を取りやめるべきか検討が行われた。結論としては、田辺製薬の研究者たちは実験室内の通気性の改善や合成方法の見直しなどを行い、フィラリア撲滅という大きな夢を追いかけることにし、苦労の末スパトニン製造を軌道に乗せた。これまで治療法がないとされてきたフィラリア症がスパトニンによって治療可能な段階に入った。 ===媒介蚊の特定=== 八丈小島における佐々ら伝研メンバーの次の課題は感染源対策であった。リンパ系フィラリアの伝播動物は、マレー種、バンクロフト種を問わず蚊であることは当時でも既に常識であり、フィラリアの感染駆除対策は蚊やボウフラの駆除ということになる。だがその前に、流行地である八丈小島に生息する蚊を調査する必要があった。つまり、八丈小島のマレー糸状虫を媒介する蚊の特定である。 マレー糸状虫を媒介する蚊は南アジアや中国南部などでは主に、ヌマカ属(英語版)(学名: Mansonia)やハマダラカ属 (学名: Anopheles)の蚊である。これらの蚊は沼地や水田などの沼沢地周辺に生息しており、患者もその周辺に多く発生している。しかし、八丈小島は急峻な地形の火山島でありそのような沼沢地はまったく存在しない、本来であればマレー糸状虫症が流行するとは考えにくい環境である。伝研のメンバーは島中を巡ってボウフラと蚊の調査を行った。 ボウフラの発生源のひとつは各家庭にある天水を蓄える天水桶や天水タンクであった。屋根に降った雨水が樋を伝って桶やタンクに集められるようになっているが、そこには落葉が堆積してボウフラも大量に発生している。この島では何よりも水が貴重品であり、雨水を溜めるために、あらゆる容器が軒下に置かれ、それらがすべてボウフラの発生源になっていた。もうひとつ、この島特有のボウフラ発生源として鳥打村の海沿いに広がる溶岩の岩場があった。凹凸の多いこの岩場には雨水や海水が溜まった無数の水溜り(ロックプールと呼ばれた)があり、これを調べるとことごとくボウフラが湧いていた。これで八丈小島のマレー糸状虫の発生源となるボウフラの湧く温床は、雨水を溜める天水タンク類、海岸沿いのロックプール、この2つであると確認された。 次に島内の蚊を屋内から牛小屋までくまなく採集し、八丈小島には6種類の蚊が生息していることが分かり、特にアカイエカ Culex (Culex) pipiens pallens、ヒトスジシマカ Aedes (Stegomyia) albopictus、トウゴウヤブカ Aedes (Finlaya) togoiの3種が多かった。 集められた各種の蚊合計78匹を解剖して調べると、トウゴウヤブカの中から3匹のミクロフィラリアが見つかった。 ミクロフィラリアが見つかったことにより媒介蚊はトウゴウヤブカでほぼ間違いないが、佐々はさらにもう一つの方法で媒介蚊を特定する方法を試みた。それはミクロフィラリアを有する島民に被験者になってもらい、実際に蚊を使った吸血によって媒介蚊の種類を特定する方法で、佐々らの熱意に賛同した島の年配女性(マレー糸状虫ミクロフィラリア保虫者)が協力する運びになった。伝研メンバーが島内で集めた無数のボウフラから成虫になった大量の蚊がブンブン飛ぶ籠の中に足を挿し入れて血を吸わせる方法である。一度に何十匹もの蚊に刺されるが、この年配女性は気前よく引き受けてくれたと言う。こうして血を吸わせてから2週間ほどおいて、年配女性の血を吸った複数種の蚊を解剖した。その結果、やはりトウゴウヤブカの体内でマレー糸状虫のミクロフィラリアがよく育っていることが分かった。 1951年(昭和26年)の時点では、従来から知られていた東南アジア各地のマレー糸状虫流行地の媒介蚊にトウゴウヤブカは含まれておらず、八丈小島のマレー糸状虫媒介蚊がトウゴウヤブカであったことは世界初の発見であった。 ===長崎大学による症状の再検=== 八丈小島における伝研のマレー糸状虫調査研究が知られ始めると、フィラリア症を研究する他の研究機関も八丈小島を訪れその症状の再検を行った。長崎大学の北村精一(後の同大学長)と片峰大助(後の熱帯医学研究所所長長崎医科大学 (旧制)#東亜風土病研究所参照)は、九州各地におけるバンクロフト糸状虫症の臨床に関する豊富な経験を基にして、八丈小島のマレー糸状虫症との比較研究を行うため、1952年(昭和27年)9月に八丈小島を訪れ調査を行った。その結果の概略をまとめると次の通りである。 八丈小島における症状の概略は、バクと呼ばれる初期症状と、ミツレルの名で呼ばれる丹毒様およびこれに続発する四肢の象皮病である。初期症状のバクの後、外傷などの誘因によって突然当該四肢に線状もしくは帯状のリンパ管発疹、さらに広範囲の丹毒様皮膚変化を起こし、悪寒、戦慄、発熱などの全身症状を伴った熱発作が襲来するようになる。島民はこの症状をミツレルと呼称し、バク初期症状と区別している。ミツレル丹毒様発作を繰り返しているうちに漸次象皮病に移行することはバンクロフト糸状虫症の場合とほとんど同じである。器質的病変としては四肢の象皮病のみで、他部の象皮病、陰嚢水腫、乳糜尿など一例も発見できなかった。これにより改めて八丈小島のマレー糸状虫症の症状が明確に把握された。長崎大学の調査では観察した27名すべてバク初発症状を経験しており、そのうち11名がミツレル丹毒様発作を起こしている。残りの16名はバク様発作のみでその後の後遺症はない。また、象皮病の10名はいずれもミツレル丹毒様発作の既往歴があり、象皮病に発展にはミツレル丹毒様発作が欠くことのできない症状と考えられた。なお、バク初発の誘因として労働や疲労に関係することが多いのに対し、ミツレル丹毒様発作では外傷が大きな誘因であることが再確認され、最初のバク発作は季節的に見て夏から秋にかけて発症する例が圧倒的に多いことも確認された。 ===天敵による捕食とDDTの散布=== 八丈小島のバクと呼ばれた奇病の正体はトウゴウヤブカがマレー糸状虫を媒介するリンパ系フィラリア症であると判明した。しかもスパトニンという新たな駆虫薬で治療可能な段階に入った。フィラリア虫が蚊を媒介者とするライフサイクルを持っている以上、蚊およびボウフラを全滅させることが一番確実な方法である。とはいえ、小さな離島であっても蚊やボウフラを全滅させるのは現実的に難しい。しかし、一時的に蚊を減らすことができればその期間中の新たな感染は防げるはずで、スパトニンの服用と蚊の駆除対策を同時進行で数年間根気強く継続すれば、いずれ近い将来、病気をなくすことができるかもしれない。佐々ら伝研のメンバーは島民らのスパトニン服用(マレー糸状虫の駆虫)と併行して、大掛かりな媒介蚊の駆除作戦を計画実行した。 1956年(昭和31年)8月5日から15日にかけ、佐々ら伝研メンバーは9回目となる八丈小島上陸調査に出向いた。今回は通常の臨床検査に加え媒介蚊の駆除という大きな目的があった。 この計画は大掛かりな準備の下、 天敵による捕食DDTの散布大きく分けてこの2つの方法で実行された。 天敵の利用はボウフラ対策として有効な方法であり、佐々が2回目に来島した1950年(昭和25年)5月、既に鳥打村のとある家の天水桶へ3匹の金魚を放していた。しかし、金魚などの淡水魚を東京から遥か離れた絶海の孤島へ生きたまま運ぶのは非常に困難で、2回目に放たれた3匹の金魚以来、天敵の利用は行われていなかった。今回、伝研のメンバーは意を決して金魚50匹、メダカ200匹を大きなバケツに入れ、東京の竹芝桟橋から八丈島行きの定期船に詰め込んだが、八丈島から八丈小島へ金魚とメダカを運ぶのは大変で、八重根港から八丈小島の船着き場まで小舟で渡る2時間は、荒波の中を水がこぼれないよう3人がかりでバケツを押さえ続けたという。鳥打の船着き場からは島の青年たちが集落まで重いバケツを担いで登った。 久し振りの佐々の来島を八丈小島の島民たちは大歓迎で迎え、恒例の歓迎会に続いて早速一行はその夜、採血検査を行ったが感染率は以前の調査時とあまり変化が無かった。これにはある理由があった。 前述したようにスパトニンを10日以上連続して服用すれば体内のミクロフィラリアは死滅する。したがって保虫者の全員が一様に10日以上連用すれば、当該地域でのマレー糸状虫症の根絶が期待できるが、実際には難しい問題があった。例えば服用後のミツレル様熱発作の誘発に一部の島民が恐れを抱いていること、また、まったく無症状(潜伏期)の保虫者が薬を飲むことに対して抵抗感を持つなど、その普及には心理的な障害があったのである。だからこそ住民のスパトニン服用だけではなく、それと連動して蚊やボウフラの駆除による感染源対策が必要であった。 各戸のコンクリートタンクや天水桶を確認すると相変わらず物凄い数のボウフラが湧いていたが、6年前に佐々が3匹の金魚を放した桶にはボウフラは湧いておらず、当時2センチ足らずであった金魚が15センチ程に成長していた。コンクリートタンクの大型のものは幅8メートル、深さ3メートルに及ぶものもあり、鳥打村全戸ではこのようなタンクが31個作られていた。佐々は1つのタンクに金魚2匹、メダカ5匹の割合で放した。メダカを見たことのない島の子供たちの歓声の中、ボウフラは次々に食べられていった。 もう一つの駆虫対策であるDDTの散布は大掛かりなものであった。DDTとはdichloro‐diphenyl‐trichloroethane(ジクロロジフェニルトリクロロエタン)の略で、有機塩素系の殺虫剤であるが、人体への有害性が問題となり1971年(昭和46年)以降、日本国内では製造および使用が禁止されている。しかし、八丈小島で散布が行われた1951年(昭和31年)頃にはそれらの有害性が広く認知されておらず、DDTは主に農業用の殺虫剤として使用されていた。八丈小島で使用されたDDTの粉末総量1トンは金魚やメダカと同じ定期船で八丈島経由で八丈小島まで運ばれた。 前述したように八丈小島でのボウフラ発生源はコンクリートタンクなどの天水桶と、海岸の溶岩地帯に無数に存在するロックプールであった。このうち集落内のDDT散布は人の手で充分可能であるが、推定8万平方メートルほどの溶岩地帯(岩場)は大小さまざまな凸凹のある険しい地形であるため、人の手による散布は困難であった。 ちょうどその1か月ほど前、佐々はバンクロフト糸状虫を調査するため、鹿児島県の奄美大島に滞在していた。おりしも、取材に来ていたNHKの村野科学班長と名瀬市の食堂で昼食を食べながら八丈小島の話題になった際、ひとつ応援しましょうと村野から申し出があり、NHKのヘリコプターを利用したDDTの空中散布が行われることになった。 ロックプールへの空中散布に使用された薬剤は10パーセントDDT粉剤で、DDT協会の斡旋により、日本曹達、味の素、呉羽化学(現クレハ)、大阪化成、旭硝子(現AGC)の各社より提供された。使用した機材は日本ヘリコプター所属のベル47で、東京から伊豆大島、三宅島を経由し、八丈島飛行場(現八丈島空港)を基地として、DDT粉剤を搭載し八丈小島のロックプールへ向かった。 DDT搭載量は1回あたり90キログラムずつ2回行われ、計180キログラムのDDT粉剤が散布された。空中散布が行われたのは1956年(昭和31年)8月9日の午前9時から10時の間で、風速は4メートルから6メートル、気温摂氏28度、天候は快晴であった。ヘリコプターの翼圧によって粉剤はよく地表に叩きつけられ、岩場全体にほぼ均一に散布された。トウゴウヤブカのボウフラは1時間後には既に中毒の症状を起こし、7時間後、24時間後と観察を続けた結果、ロックプール一帯のボウフラはほぼ全滅したことが確認された。 続いて人の手による鳥打村集落内へのDDT散布が行われたが、こちらは主に成虫である蚊に対して行われた。もちろん生活用水となっている天水にDDTがかからないよう、天水桶やタンクなどにはしっかりとフタがされた。佐々らが行ったのはDDTの残留噴霧という散布方法であった。この方法がマラリアの予防に顕著な成果をもたらしたこと(DDT#イタリアにおけるDDT屋内残留噴霧(マラリア根絶を目的としたもの)参照)は、寄生虫学者や公衆衛生学者の間で知られ始めており、フィラリア駆除対策においても同様の成果が期待され、佐々は八丈小島においてこれを実行したいと考え、鳥打村の人家30軒あまりと、役場や小中学校など1軒残らず屋内残留噴霧法によるDDT散布を行い、村中の家の内壁や天井などが真っ白になった。 これまで八丈小島では殺虫剤の類はまったく使用されたことがなかったため、殺虫効果はてきめんで、DDT散布の当日から蚊もハエも見られなくなったが、これは1度だけの散布であり殺虫効果は一時的なものであった。 後に島民が語ったところによれば10月末頃までは蚊もハエもいない状態が続いたが、それ以降徐々に出現し始めたという。同年12月に林が再調査に訪れた際には集落内の蚊だけでなく、海岸のロックプールにも再びボウフラが湧き始めていた。予想されてはいたが、DDT散布の効果は一時的なものであることが確認された。 ==日本国内のフィラリア症対策の進展== ===厚生省によるフィラリア症流行地対策の本格化=== 1948年(昭和23年)から数年間にわたり八丈小島でのフィールドワークと研究を実施した佐々を中心とする伝研のメンバーは、これまでの基礎研究によって得られたデータや経験に基づいて『八丈小島におけるマレー糸状虫症及び媒介蚊の地域的駆除の試み』と題する論文を1957年(昭和32年)に発表した。その中でフィラリア症の地域的駆除についての見解と今後の対策について次のように述べている。 糸状虫症(フィラリア症)の流行を阻止するには、「保虫者の駆虫」または「媒介蚊成虫または幼虫の駆除」、このいずれか一つでも完全に行えば、理論上その感染経路が遮断されて目的を達成できるはずである。しかし現実には、熱発作を恐れてスパトニンの服用に抵抗感を持つ患者が一定数いるように、いずれも完全を期するなど不可能であると考えられる。そこで実行可能な範囲で考えられる合理的な方法を複数併用して実行した。八丈小島において実際に行った具体的な試みは以下の内容である。保虫者および媒介蚊の基礎調査 保虫者のスパトニンによる駆虫 天水槽への天敵の放養 人家内のDDT残留噴霧 集落内水溜まりなどのボウフラ発生源に対するDDTペーストの混入 海岸のロックプール一帯へのDDT粉剤ヘリコプター散布保虫者および媒介蚊の基礎調査保虫者のスパトニンによる駆虫天水槽への天敵の放養人家内のDDT残留噴霧集落内水溜まりなどのボウフラ発生源に対するDDTペーストの混入海岸のロックプール一帯へのDDT粉剤ヘリコプター散布これらの結果、いずれも予想したような成果をあげた反面、同年12月の再調査では、スパトニン服用の不徹底から依然として保虫者がいること、DDT散布からおよそ2か月後より殺虫効果が薄れ始め、蚊やハエなどの活動が再開されたことが確認され、糸状虫(フィラリア)の根絶のためには、これらの総合的な対策を年に数回の割合で繰り返し定期的に実施する必要があると考えられる。 このようにまとめており、ここで提唱された「スパトニンの服用による駆虫」と「媒介蚊(ボウフラを含む)の駆除」の2つを総合的に繰り返し実施するという方法がモデルとなり、その後、日本各地のフィラリア症流行地で実施されていくことになった。 佐々は何度も八丈小島へ通い研究を重ね、その病態の解明とスパトニンによる治療、そして感染源の駆除方法を見出したが、伝研が東京大学の機関であるとは言え、一研究者が毎年訪問して治療を行う事には限界があった。かねてより佐々は行政へ全権を委ねようと、これまでに得たデータを携え何度も都庁を訪れていた。離島とは言え八丈小島は東京都の一部であり、行政主導による対策の必要性を訴えたが、毎回、予算がないの一点張りで話が先に進まなかった。佐々はある時「東京都は八丈小島のマレー糸状虫を天然記念物にするつもりなのか」と予防部長に詰め寄ったという。 佐々ら伝研のメンバーは八丈小島での研究と並行して1953年(昭和28年)12月の奄美返還以降、奄美大島でのバンクロフト糸状虫の調査を行っており、同様に鹿児島県下でフィラリア研究を行っていた鹿児島大学の佐藤八郎、尾辻義人らと1957年(昭和32年)より話し合いを行い、翌1958年(昭和33年)4月より奄美大島の4つの各地区で、100名ほどの住民を対象にしたスパトニン投薬による本格的なフィラリア駆除が開始された。これは文部省の科学研究費の補助を仰ぎ実行されたものであった。その後も各研究機関や医療関係者らは予算的な問題を抱えながらも努力を重ね、愛媛県佐田岬半島や、長崎県五島列島での集団検診やDDT噴霧など、フィラリア症防圧に向けた対策が日本の各地で行われていった。そのような中、フィラリア症対策の国家事業化に向けた要請を伝研の佐々、長崎大学の北村、鹿児島大学の佐藤らは厚生省に何度も申し出ていた。 防圧活動の成果が日本各地から届く中の1961年(昭和36年)8月、太平洋学術会議がハワイのホノルルで開かれ、日本からは佐々をはじめ厚生省、各大学、沖縄からは琉球衛生研究所の担当者が参加した。議題に挙げられたフィラリア対策の各国の現況などが報告され、日本でのスパトニンの投与法とDDT残留噴霧法のデータとその効果が示されると、座長のカリフォルニア大学のJ・F・ケッセルはこれを絶賛し、早速ケッセルはそれを英文の原稿にまとめ、ハワイ滞在中に佐々らに内容のチェックを依頼した。このように日本のフィラリア対策の実績が国際的に評価されはじめた1962年(昭和37年)、フィラリア対策は厚生省認可の国庫補助事業となり、日本全国のフィラリア症流行地を対象に大規模な対策が始まった。 ===八丈小島における研究と検診の継続=== 八丈小島では、1956年(昭和31年)にヘリコプターなどを使って行われた大規模な駆除作業の後にも、伝研のメンバーによる研究は継続されていた。1961年(昭和36年)に新人教員として鳥打小中学校へ赴任した 児童文学作家の漆原智良は著書『黒潮の瞳とともに』の中で、八丈小島赴任中の1962年(昭和37年)11月に行われた集団採血検査の様子を語っている。この時の八丈小島で採血検査を行ったのは佐々の門下生の1人である神田錬蔵を中心とする伝研の一行であり、鳥打小中学校を検査場に夜8時過ぎから島民の採血が行われ、漆原は当時結婚したばかりの妻とともに検査を受けた。 教員であった漆原は会場となった学校の発電機の当番であったため、検査終了後もその場に残り、ギムザ染色などを行う伝研メンバーの検査を見守っていると、神田から顕微鏡を覗くよう促され、血液の中に小さな虫が何十匹ものたうち回っているのを見て仰天する。検査で採血される血液はわずか0.03cmであるが、その中に170匹もバク虫(ミクロフィラリア)がいるという。人間の血液を約5リットルとして、約17万倍を掛けると2800万匹ものバク虫が体内にいる計算になる。 翌朝、漆原は神田から保虫者名簿を見せられ再び仰天する。今回の採血検査で見つかった15名の保虫者の中に漆原の妻が含まれていたからである。漆原の妻は半年ほど前に八丈小島へ来たばかり、それなのにバク虫に体内が侵されていたのに対し、島で1年半以上暮らしている漆原本人は陰性であった。保虫者名簿の横には0.03cmの採血中のバク虫の数が記されており、最低が2匹、最高が180匹、漆原の妻は7匹であったという。幸い1962年(昭和37年)は厚生省によるフィラリア対策がスタートした年で、スパトニンによる駆虫薬を使った治療方法はほぼ確立されており、その日のうちに漆原のもとへ神田から直接スパトニンが届けられ、服用方法の説明を受けて事なきを得たという。かつて不治の病であったフィラリア症も、自覚症状が現れる前の段階で感染の有無が分かり、スパトニンの服用によって完治する時代になっていたのである。 ==八丈小島のマレー糸状虫消滅と集団離島== ===新規感染者ゼロになった八丈小島=== 1963年(昭和38年)8月、寄生虫学者の森下薫は東京寄生虫予防協会による糸状虫症(フィラリア症)予防作業の一環として同協会の稲見一清らとともに八丈島および八丈小島を訪れた。この訪問は八丈島でのバンクロフト糸状虫症の調査が主な目的であったが、以前より八丈小島のマレー糸状虫症に興味を持っていた森下は、是非この機会に八丈小島へ渡ろうと計画していた。しかし八丈小島への渡船は昔と変わらず波や風が大きな障害となっており、八丈島の滞在中に出航ができるのか気をもんでいたが、8月11日の朝には風は強いが渡れそうとの連絡が入り、急いで八重根港へ向かって稲沢や東京都虫疫課職員らと漁船へ乗り込み、八丈小島へ向かった。 1時間ほどで鳥打の船着場に到着し、集落への道を登り始めると、ちょうどこの期間に調査に来ていた伝研の林滋生が駆け降りて来て森下らを出迎え、研究室となっている鳥打小中学校へ案内された。今期は林をリーダーとして伝研の山本久、水谷澄のほか、夏季休暇中の慶応医学部の学生3名を加えた計6名で2週間にわたって調査を行っていた。森下が訪れた1963年(昭和38年)は日本各地で急速にフィラリア対策が進んでいた時期であり、八丈小島でもこれまでと同様にスパトニンの服用や媒介蚊の駆除が継続されていた。林によれば1963年の時点の鳥打の住民70名の検査で未だ14名にミクロフィラリアが見つかり、予防作業が思うように進まない現状を語った。その一方で、見方を変えれば研究材料にはまだ事欠かないということで、森下が訪れた時には媒介蚊であるトウゴウヤブカを採集し、それらを解剖して感染した蚊の発育状態を調べる仕事を行っていた。この時、伝研メンバーによる八丈小島での研究を見学した森下は後年、次のように述べている。 ところでこの人達の目的は何かというと、結局は糸状虫予防対策事業の一環としてこの島の同虫をなくすことにあるのだが、何分日本では他の地域にはないマレー糸状虫であるのでなくしてしまうのは惜しいという思いはあるものの、そうもゆかないのでそれまでに精々研究すべきことはやって置こうということだった。 ― 森下薫 『ある医学史の周辺』より、引用 これらの研究と並行して伝研メンバーは保虫者に対するスパトニン服用を説得することも大きな仕事でもあった。発作熱の副作用を嫌う一部の人たちへの説得は依然として骨の折れることであったが、その後急速に保虫者は減少し続け、1965年(昭和40年)には八丈小島全体のミクロフィラリア保虫者の割合が0パーセント台まで下がり、そして1968年(昭和43年)の検査では保虫者はゼロ、島民の誰からもミクロフィラリアが検出されなくなった。島民や伝研メンバーらの長い努力が報われ「八丈小島のバク」と呼ばれた奇病は姿を消したのである。 これで八丈小島の人々は何世代も続いたバクの苦悩からはじめて解放され、島での明るい生活、島での新しい未来が始まるはずだった。 ===集団離島=== 八丈小島のマレー糸状虫対策が進んだ1960年代の日本は高度成長期の只中にあり、日本人の暮らしが大きく変革を遂げていく中で、小島の子供たちは中学校を卒業すると八丈島の高校に進学したり、東京の会社へ就職したまま島へは戻らなくなる若者が増加し始めていた。古くから自給自足に近い暮らしの小島には、これと言った産業は皆無に等しかったのである。島の将来に不安を持ち始めた島民たちの間で全員移住という話が具体的に持ち上がりはじめ、鳥打地区、宇津木地区の代表は島民たちの声を取りまとめ1966年(昭和41年)3月、八丈町議会に全員離島請願書を提出した。 島民たちの請願内容を要約すると、 電気、水道、医療の施設がない。生活水準格差の増大。人口過疎の傾向が甚大である。子弟の教育の隘路(あいろ)。このようなものであった。 同年6月、八丈町議会は八丈小島島民の請願を採択した。同町長池田要太は早速上京し、東京都へ小島住民の意思を伝え移住費の協力を求めた。太平洋戦後、日本政府は日本各地に多数ある離島の生活支援のため、離島振興法を1953年(昭和28年)に制定したものの、人口の少ない八丈小島はその恩恵に与ることもなくここまで来てしまっていた。9月には八丈町による東京都への「八丈小島住人の全員離島の実施にともなう八丈町に対する援助」の陳情が行われ、翌1968年(昭和43年)東京都は「全員離島対策措置費」を都の年度予算に計上し島民との交渉が開始された。先行きの見えない将来に不安を持つ島民らと行政側による交渉や議論が重ねられ、同年10月16日、東京都八丈支庁において鳥打地区、宇津木地区各1名の代表を含む八丈小島民代表13名は、「全員離島・移転条件」を呑み合意書に署名した。 東京都が示した条件は 3.3m(1坪)あたり93円で、島民の所有地(全面積140万m)を買い上げる。買い上げ金が50万円に満たない場合は、生活つなぎ資金を支給し、総額で50万円を下回らないようにする。ひとり10万円の生活資金と、一世帯あたり50万円の生業資金を融資する。都知事からひとり5千円、1戸3万円の見舞金を支給する。また、八丈町からは 都の生業資金の利息の3分の2を、町が肩代わり負担する。第二種都営住宅に優先入居させる。というものであった。 こうして八丈小島からの全員離島が正式に決定された。これは日本全国初事例となる全員離島であった。 1969年(昭和44年)3月31日、24世帯91人は、先祖の遺骨を抱いて島を離れ八丈小島は無人島になった。同島でのフィラリア対策は無人島となったことで事実上の終了を迎えた。寄生虫学者の藤田紘一郎は「1969年の島民の離島により、事実上のフィラリア対策を打ち切っている」と述べ、八丈小島での調査を長年にわたり率いてきた佐々学は自著の中で「全員移住により無人島となると共に、その流行地は消滅したことになる。」とだけ述べ、全員離島そのものについては語っていない。皮肉なことに、この島からマレー糸状虫がいなくなったのとほぼ同時に、人間もいなくなってしまったのである。 ===八丈小島忘れじ=== 八丈小島が無人島になった後、日本の各地ではフィラリア症の防圧が進み、1976年(昭和51年)の愛媛県三崎町(現伊方町)での根絶宣言を皮切りに、鹿児島県、長崎県、熊本県と続き、1988年(昭和63年)11月25日に沖縄県宮古島平良市中央公民館で開催された「第20回沖縄県公衆衛生大会」において沖縄県内のフィラリアの根絶が宣言されたことにより、日本は世界で初めてリンパ系フィラリア症を根絶した国になった。 根絶宣言が行われた各地では、その業績が称えられ記念碑が建立されたが、そこでの治療法や媒介蚊駆除の道筋が確立されたのは、佐々学ら研究者の努力もさることながら、数年間にわたり、採血検査、スパトニン治験、媒介蚊特定のために、その身を挺して協力を惜しまなかった八丈小島の人々の存在がなくては成し得ないものであった。 無人島となった八丈小島は磯釣りやトレッキングなどに訪れる人が時折いるだけで、その後も無人島のままであるが、全員離島から45年後の2014年(平成26年)11月2日、『八丈小島忘れじの碑』が建立された。この記念碑は八丈小島旧島民や所縁のある有志によって、八丈小島を正面に見渡せる八丈島南岸の南原千畳敷の一角に設置された。碑文には離島の際、当時の鳥打村村長鈴木文吉が鳥打小中学校校舎の内壁にペンキで書き記した詩文が刻まれ、無人島となった故郷の島や島民を偲ぶ場所となった。 八丈小島でのフィラリア症根絶は、愛媛、鹿児島、沖縄各地のように根絶記念碑が建てられることはなく、根絶宣言が行われることもなかった。しかし八丈小島で培われたDEC(スパトニン)服用による駆虫と媒介蚊の駆除の併用によるフィラリア防圧モデルは、根絶した日本国内に留まらず世界各地のフィラリア流行地での防圧活動に活かされている。 =小辺路= 小辺路(こへち)は、熊野三山への参詣道・熊野古道のひとつ。高野山(和歌山県伊都郡高野町)と熊野本宮大社(和歌山県田辺市本宮町本宮)を結び、紀伊山地を南北に縦走する。 ==概要== 小辺路は弘法大師によって開かれた密教の聖地である高野山と、熊野三山の一角である熊野本宮大社とを結ぶ道である。熊野古道の中では、起点から熊野本宮大社までを最短距離(約70キロメートル)で結び、奥高野から果無山脈にかけての紀伊山地西部の東西方向に走向する地質構造を縦断してゆく。そのため、大峯奥駈道を除けば最も厳しいルートである。(→#自然誌参照) 近世以前の小辺路は紀伊山地山中の住人の生活道路であり、20世紀になって山中に自動車の通行できる道路が開通してからも、おおよそ昭和30年代までは使用され続けていた。そうした生活道路が、熊野と高野山を結ぶ参詣道として利用されるようになったのは近世以後のことであり、小辺路の名も近世初期に初出する。小辺路を通行しての熊野ないし高野山への参詣記録は近世以降のものが大半を占め、近世以前の記録もいくつか確認されているが少数である。(→#歴史参照) 高野山(和歌山県伊都郡高野町)を出発した小辺路はすぐに奈良県に入り、吉野郡野迫川村・十津川村を通って柳本(十津川村)付近で十津川(熊野川)に出会う。柳本を発って果無山脈東端にある果無峠を越えると和歌山県側に入り、田辺市本宮町八木尾の下山口にたどり着く。ここからしばらくは熊野川沿いに国道168号線をたどり中辺路に合流し、熊野本宮大社に至る。(→#小辺路の峠参照) 古人のなかには全ルートをわずか2日で踏破したという記録もある が、現在では2泊3日または3泊4日の行程とするのが一般的である。日本二百名山に数えられる伯母子岳が単独で、または護摩壇山の関連ルートとして歩かれている 他は交通至難であることも手伝って歩く人も少なく、静謐な雰囲気が保たれている。また、高野山から大股にかけてなど著しい破壊の見られる区間(後述)も若干あるものの、良好な状態の古道がまとまって残されている 点も評価されている。 ただ、全ルートの踏破には1000メートル級の峠3つを越えなければならず、一度山道に入ると長時間にわたって集落と行き合うことがないため、本格的な登山の準備が必要で、冬季には積雪が見られるため、不用意なアプローチは危険と言われている。 高野山では町石道、黒河道、京大坂道、女人道、大峰道、有田・龍神道、相ノ浦道の高野参詣道と繋がる。 ==歴史== ===開創=== 高野・熊野の2つの聖地を結ぶことから、小辺路は『修験の道』 としての性格をも帯びており、修験宿跡や廻峰記念額も残されていると伝えられている。しかし、小辺路の起源は、もともと紀伊山地山中の住人の生活道路として大和・高野・熊野を結ぶ山岳交通路が開かれていた ものが畿内近国と高野山・熊野を結ぶ参詣道として利用され始めたことにあると考えられている。 小辺路の生活道路としての形成時期ははっきりしないが、小辺路が通行する十津川村・野迫川村の領域に関係する史料には8世紀に遡るものが見られ、また、周辺に介在する遺跡・史資料などから少なくとも平安期には開創されていたと考えられている。このことを裏付ける傍証として第21代熊野別当であった湛増が高野山往生院に住房を構えていた史実や、現在も小辺路からの下山口である八木尾口(田辺市本宮町)に正慶元年(1332年)に関所が設けられたことを伝える史料の記述(『紀伊続風土記』) がある。さらに正保3年(1646年)付の『里程大和著聞記』 は郡山藩主本多内記と高取藩主上村出羽守が幕命を受けて紀和国境のルートを調査した文書だが、この中には「中道筋」なる名で小辺路がとり上げられている。 中道筋 紀州境やけ尾越ヨリ 同コヘド越マデ道法、是は熊野本宮ヨリ高野ヘ巡礼道 ― 『里程大和著聞記』 『里程大和著聞記』の記述には「道幅一尺」「難所」「牛馬常通不申」といった表現が繰り返し見られ、険しい峰道か峠道、あるいは獣道程度の道でしかなく、困難な道であったことが分かる。また小辺路で最も南にある峠である果無峠は果無山脈東端の峠であることから、果無山脈伝いに龍神方面(田辺市龍神村)からの往来があったという。この道を龍神街道果無越といい、龍神方面と吉野・熊野および高野山とを果無峠および本宮(田辺市本宮町)を経由して結び、修験者や大峯参りの人々が行き交ったと伝えられている。 この他、特筆すべきものとして木地師 や杓子屋 の活動の道であることも挙げられよう。木地師とは、山で木を採り椀や盆などの木製品に仕上げる職人で、奥高野から吉野にかけての山域には近江国小椋村(滋賀県東近江市)を本拠地とした江州渡(こうしゅうわたり)木地師と呼ばれた人々が大正の頃までいたという。近世の参詣記にもこうした木地師がいた事が伝えられている。 おばこ峠 木地の挽物する者あり、五六人つれて山へ人参堀ニ行く者有〔後略〕 ― 『三熊野参詣道中日記』 木地師たちの本拠地である小椋村では木地師の免状や鑑札を発行するとともに、各地の木地師のもとに奉納金を集める使者を送り出した。その記録として「氏子駈帳」なる文書が残されており、1893年(明治26年)まで250年間に渡って計87冊・3万世帯に及ぶ記録が残されている。上に引用した『三熊野参詣道中日記』から10年後にあたる宝暦8年(1758年)付で、3名の木地師の名が記録されている。その他にも野迫川村全体で宝永4年(1707年)から慶応3年(1867年)までの160年間の間に32回の氏子駈の記録がある。 ===近世まで=== 皇族や貴人の参詣道として利用された中辺路と異なり、小辺路は生活道としてはともかく参詣道としては近世以降に利用されるようになった道である。また、同じ近世以降の熊野参詣道でも、文人墨客の道として利用された大辺路などと異なり、小辺路はもっぱら庶民の参詣道として用いられた。こうした事情から小辺路の記録は潤沢とは言い難い。 源氏との戦いに敗れた平維盛が密かに逃亡の道としたとする言い伝えがあり、それにちなむ史跡があった ほか、野迫川村の平という集落には維盛の落人伝説がある。また元弘の乱(元弘元年〈1331年〉)に際して後醍醐天皇の王子護良親王が鎌倉幕府の追討を逃れて落ちのびた際に利用したとも伝えられる(「大塔宮熊野落ちの事」『太平記』巻第5)。しかし、これらはあくまで伝承にとどまる。 確実な参詣の記録として最古のものは16世紀に遡り、伊予国の武将土居清良が戦死した父の菩提を弔うために高野山を経て熊野三山に参詣したとするものである。土居清良は伊予国領主の西園寺氏に仕えた西園寺十五将のひとりである。土居氏は紀伊国牟婁郡木本土居(三重県熊野市)を発祥とし、熊野三党の一家・鈴木一党を祖とすると伝えられ、熊野三山を篤く信仰していた。清良の参詣記は清良の一代記『清良記』巻十七に収められている。清良はまず高野山に参詣し、さらに大嶽(大滝)・大股を経て五百瀬(いもぜ)で神納川(かんのがわ)を渡って多量の弓を購入し、矢倉に一泊。「柳本(やぎもと)の渡」から「はてなし山」(果無峠)を越えて「焼尾谷」(八木尾)に下り、本宮に参詣したとしている。この後、清良は那智・新宮を巡拝し、先祖の故地である木本土居を訪ね、伊勢に向かっている。 次いで天正9年(1581年)には、毛利氏の家臣玉木吉保が京都から伊勢に詣でた後、新宮・那智・本宮を巡拝し、高野山奥ノ院に参詣したことが知られている。吉保の参詣記は、一代記『身自鏡』 に記されたもので、地名が明言されていないが、7月10日に新宮に到着し、14日に高野山に到るという日程や経路 から見て小辺路を利用したことは確実である。 ===参詣道の確立=== このように中世における事例が見られるとはいえ、小辺路が参詣道として確立するのは近世になってのことであり、その呼称の初見も近世初期のことである。 小辺路の呼称を確認できる最古の史料は、寛永5年(1628年)に編纂された笑話集『醒睡笑』巻一に収められた次の小話で、小辺路の読み方(こへち)の典拠もここである。 へちまの皮とも思わぬとは、紀の国の山家に、大辺路・小辺路とて、峰高う岸けはしく、つづら折なるつたひ道、人馬の往来たやすからぬ切所あり。かのあたりに使ふ馬は、糠につけ藁につけ、大豆などは申すにおよばねば、実に骨ばかりなる様なり。さるほどに、かしこの馬、皮を剥ぎても、背のあと、瘡の跡疵のみにて、何の役にもたたぬ物を、へち馬の皮とも思はぬ事にいふならん。 ― 「なんのへちまの皮」(「謂へば謂はるる物の由来」所収) 著者である安楽庵策伝は、『醒睡笑』を京都所司代板倉重宗に寛永5年(1628年)に献呈している。この成立年代を考えるならば、小辺路の名は早ければ戦国時代末期から近世初頭には知られていたことが推測できる。 小辺路には始点と終点のそれぞれにちなんだ呼称がいくつも付けられた。それらを一部挙げてみると、高野熊野街道、西熊野街道、熊野街道(『紀伊続風土記』)、高野道ないし熊野道 といったものが知られているが、近世の参詣記などでは高野道ないし熊野道と呼ばれる。また、奈良県教育委員会の調査報告によれば、小辺路の名は地元ではあまり用いられず、高野山や熊野に由来する「高野道」「高野街道」(野迫川村内)ないし「熊野道」「熊野街道」(十津川村内)と呼ばれることが多く、高野山ないし大師信仰との結びつきの強さも指摘できよう。こうした呼称の違いは、各地域と高野・熊野との結びつきや巡礼等の目的地の違いに依存すると考えられ、「小辺路」は参詣道全体を鳥瞰するような場合に用いられる名なのである。 ===小辺路の信仰=== 以上のように近世に確立した参詣道であることから、小辺路は信仰の側面においても近世的な特徴を示している。 小辺路はここまで述べてきたように高野・熊野というふたつの聖地を結ぶ道である。しかし、村上・山陰[2001]によれば小辺路は高野・熊野を結ぶ唯一の道ではなく、別のルートを指摘できるという。すなわち、高野山から大門・湯川辻・新子・箕峠・日光山を経由し、護摩壇山もしくは城ヶ森山を経て殿垣内からは龍神街道を富田川河岸まで下って中辺路に合流するもの、もしくは日光山から尾根道伝いに東進して伯母子岳で小辺路に合流するものである。 ここでいう日光山とは護摩壇山の北西約1キロメートルほどのところにあるピークで、平安時代末期から鎌倉時代初期に創建されたと伝えられる日光神社がある。この神社には室町時代の様子を描いた日光参詣曼荼羅が伝承している。この参詣曼荼羅は様式から見て熊野参詣曼荼羅の系譜に位置づけられるだけでなく、高野聖の描写が見受けられることから、高野・熊野のふたつの信仰が混在していたことをうかがわせる。しかし、こうした日光山経由のルートであれ小辺路であれ、信仰上の遺跡が乏しいことは否めない。小辺路には道標・宿跡などの交通遺跡 を除けば、信仰に関係する遺跡を見出すことは出来ない。日光山経由のルートにはかろうじて日光神社があるものの、ただそれだけである。 そうした意味で言えば、高野・熊野を結ぶ街道それ自体に信仰上の意義は乏しい。中世熊野詣において京の院や貴族たちが熊野に赴いた際のように、九十九王子を順拝しつつ参詣の道を歩く行為それ自体に信仰上の意義を見出す立場からは、これらの高野・熊野を結ぶ道は単に最短経路という以上のものでしかない。だが、九十九王子を成立せしめた中世熊野詣の先達たちの影響力は近世にはすでに失われて久しく、九十九王子も既に退転していた。したがって、小辺路における熊野信仰とは、もっぱら熊野三山めぐりに集約されている。また、高野参詣道をめぐって村上・山陰が指摘するとおり近世の巡礼では参詣道をたどること自体に信仰上の意味がしばしば失われている。このように、小辺路における信仰のあり方は近世的なものなのである。 ===近世参詣記=== 17世紀後半以降の近世になると畿内近国の町人たちによる参詣記が見られ、小辺路の詳しい様子を知ることができるようになる。また、東国からの参詣者たちも伊勢・熊野への参詣の後、高野山や畿内へ向かう短絡経路として小辺路をしばしば通行した。小辺路の要所に設けられた宿屋・茶店、道標といった交通遺跡が設けられたのも近世のことであり、重要な交通路であったことがわかる。 河内国丹北郡向井村(大阪府松原市)の庄屋で談林派の俳人でもあった寺内安林 は『熊野案内記』(以下、『案内記』)と題する紀行文を残している。安林は天和2年(1682年)、友人3、4人とともに高野山から小辺路を経て熊野三山に参詣し、那智からは大辺路経由で西国三十三所の札所(紀三井寺から葛井寺まで)を巡拝して帰郷している。『案内記』は俳句や狂歌、挿絵を交えた案内記となっている。松尾芭蕉の門人である河合曾良は元禄4年(1691年)の3月から7月下旬まで4か月近くにわたって近畿各地を巡遊した際に、小辺路を通行して高野山から本宮へ参詣を果たしている。曾良の旅行記『近畿巡遊日記』によれば4月9日に高野山に上り、大又(大股)・長井(永井)に宿をとり、翌々日の4月11日には本宮に到達している。 18世紀以降には、大坂高麗橋付近に住む氏名不詳の商人による元文3年(1738年)の『熊野めぐり』(以下、『めぐり』と略記)、伊丹の酒造家、八尾八佐衛門の家人 による延享4年(1747年)の『三熊野参詣道中日記』(以下、『道中日記』と略記)などが見られる。『めぐり』の商人たちは5月14日に大坂を出立し、高野山から小辺路をへて熊野に入り、本宮・新宮・那智を巡拝し、中辺路を通って大坂へ帰着している。『めぐり』の著者は道中の風物について詳しく行き届いた記述を残しており、沿道の事物の有り様をあざやかに浮かび上がらせている。『道中日記』の著者は3月29日に友人2人、駕籠屋2人の一行で伊丹を発ち、『めぐり』と同じルートをたどっている。4月3日に高野山に着き、4日後の7日に本宮、次いで新宮・那智に立ち寄った後、11日に再び本宮、13日に紀伊田辺、19日に伊丹へ戻っている。『道中日記』は、「内容豊富で、異色に富み、とくに民俗関係資料に見るべきものが少なくない」 点で際立ったもので、その人類学的な視線の向けようが興味深い。 東国からの参詣者による参詣記の例として、会津南山保上小屋(福島県南会津郡南会津町)の木地屋、大和屋一行による『伊勢参宮道中記』がある。大和屋一行は嘉永3年(1850年)正月に会津を発ち、伊勢参宮を経て2月9日に新宮に着いて熊野速玉大社に参詣し、翌10日には熊野那智大社へ参詣してすぐに大雲取越えを越えて小口に宿をとり、11日に本宮に着いている。翌日に熊野本宮大社に参詣したのち果無峠を越え、矢倉・大股に宿をとって、14日の午前中に高野山に着いている。 東国からの参詣者はその言葉遣いや服装に特色があることから、熊野を含む紀南地方では「関東ベエ」「奥州ベエ」と呼ばれた。彼らのほとんどにとっては一生に一度の旅であり、大坂・京都・奈良などを訪ねて各地の名所旧跡を巡るため、しばしば小辺路を北上して旅程の短縮を図ったのである。関東ベエ・奥州ベエたちは、秋の収穫を済ませてから旅立ったため小辺路を通行する頃にはすっかり厳冬期にはいっており、しばしば「雪が三尺も積もった峠を平気で越えて、萱小屋や大股や水ヶ峯の宿屋に泊まった」。大和屋の参詣記に、新宮・那智で牛王宝印を授かり、本宮で熊野講もちをついた とあるように、こうした参詣風俗も関東ベエ・奥州ベエに特徴的なものだった。彼らは牛王宝印を「御札もじばん」と呼び、護符として珍重したため、熊野参詣の際には欠かせないものであった。また、熊野講もちとは宿や宿坊で樫杵を使って数人でもちをつく習俗をいい、関東ベエ・奥州ベエが故郷で組織していた熊野講の習慣が持ち込まれたものであると考えられている。 ===幕末から近代=== 幕末期の動乱の中、尊皇攘夷派の一党、天誅組が決起(文久3年〈1863年〉)し、宮廷と関係の深い十津川の郷士らも呼応して五條に結集するが、情勢の急変により郷士たちは離脱・帰村、天誅組も東吉野村で壊滅する。その後、若干の分派が十津川村をたよって小辺路を敗走した。 1889年(明治22年)8月の十津川大水害により十津川村は甚大な打撃を受けた。この際、災害の中心地であった十津川本流沿いの幹線道路(今日の国道168号に相当する)の崩壊が著しかったため、当時五條市にあった郡役所への急報が小辺路伝いに届けられた だけでなく、救援ルートとしても用いられた。水害により生活基盤が損なわれたため、住人の一部は再建を断念して北海道に入植した(のちの新十津川町)。その際、入植者たちは、小辺路を経て高野山から神戸へ向かい、北海道へ海路をたどった。 明治維新以降の近代に入ってからは熊野詣の風習も殆どなくなってしまったため、参詣道としての利用はほとんど絶えたものの、周囲の住人が交易・物資移送を行う生活道路として昭和初期までは使用されつづけた。 小辺路沿道の吉野の山村では物資移送をもっぱら人力に頼っていたが、明治中期以降は馬を使うようになった。野迫川村では集落ごとに2、3頭の馬を飼うようになり、高野山との間で往来があった。高野山からは米、塩、醤油、味噌、酒、魚、その他日用雑貨品が、山中からは木炭、木材、箸、経木、楮、割菜、高野豆腐がもたらされた。また、紀和国境の果無峠は、前述の通り、龍神・熊野・高野および大峯の各地を結ぶ交通路として利用され続けていた。 ===現代=== 以上のように近代における小辺路は生活道路としての性格を持つ道であり、国道168号が五條・新宮間を全通するまで利用され続けた。小辺路を含む十津川流域に自動車道が初めて通じたのは1922年(大正11年)、北の五條市から天辻峠(標高800メートル)にトンネルを開削してのことであったが工事は遅々として進まず、川津集落 まで開通したのはようやく1936年(昭和11年)のことであった。前後して野迫川村内にも自動車道が通じると、生活道路としての役目はほぼ失われた。加えて、いくつかの区間では国道や林道の建設によって古くからの姿が失われた。以下はその中でも顕著な部分である。 大滝集落(高野町) 〜 水ヶ峯(野迫川村)‐高野龍神スカイライン(国道371号線)水ヶ峯 〜 大股集落(野迫川村)‐林道タイノ原線(1997年開通)大股集落 〜 伯母子岳登山道(野迫川村)‐林道拡幅工事西中大谷 〜 柳本(十津川村)‐国道425号線八木尾 〜 三軒茶屋(田辺市本宮町)‐国道168号線こうして歩かれなくなっていった小辺路は、昭和30年代に至って、紀伊山地山中の主要交通路としての役割を終えた。加えて、熊野参詣道といえば中辺路がまず想起される存在であることも手伝い、注目を浴びることの無かった小辺路は、やがて半ば「埋もれた熊野参詣路」 となっていった。のみならず、自動車道や林道の建設により、歴史的な景観は失われ、各種の遺跡だけでなく道それ自体も忘れ去られる危機にさらされるようになっていった。 しかし、玉置善春の先駆的な業績 における小辺路の重要性の指摘をさきがけとして1980年代以降、いくつかの報告が相次いで刊行された。玉置は果無峠越えを試みたのみだった が、登山家の仲西政一郎、郷土史家の杉中浩一郎、作家・林業家の宇江敏勝らによる踏査(1982年) は全ルートを通して歩いただけでなく、沿道の遺跡・民俗・伝承についても報告している。これらに続くのが熊野記念館(新宮市)の調査報告 である。熊野記念館は、1985年(昭和60年)から翌1986年(昭和61年)3月までの秋冬季に全ルートを調査しており、これが小辺路の初の学術調査である。熊野記念館の調査では、小辺路沿いに道標・町石・宿屋跡など多くの交通遺跡が確認され、庶民の道としての性格が指摘された。しかしながら、この時期の小辺路にはクマザサや風倒木に道が妨げられたり崩落地があったり と、荒廃の様子が見られた。また、近世以前の古道跡が不明になっている箇所もしばしば見られた。 「紀伊山地の霊場と参詣道」の世界遺産登録への動きが本格化する2000年(平成12年)前後 には、1999年(平成11年)の南紀熊野体験博の開催と呼応するかたちで再調査が行われ、登録に先立つ2001年から2002年にかけての時期には、整備と復元・復旧を目的とする事業が特に積極的に行われた。それら整備と復元には、近世以前の古道の復元・復旧 だけでなく、公衆トイレの設置 といった利用者のための施設の設置 も含まれている。 この時期の調査・研究には高野山信仰との関連から小辺路を含む紀伊山地山中の参詣道を捉え直した村上・山陰[2001]があり、これには新史料の紹介がある。小辺路を含め熊野古道を概説した小山[2000]は、1995年(平成7年)の踏査の簡単な記録を含んでいる。宇江の2度目の踏査録[宇江 2004b]は、2002年(平成14年)の踏査の記録で、1度目の踏査とあわせて読むと、小辺路の20年を経ての変容をうかがい知ることが出来る点でも興味深い。奈良県教育委員会による調査[奈良県教育委員会 2002→2005b]は、世界遺産登録を念頭に行われたものである。系統的な学術調査としては熊野記念館の調査報告に次ぐもので、内容上は熊野記念館の業績を大きく増補するものになっている。奈良県教育委員会による調査報告には、近世以前のルートの指摘 や、文化的景観の観点からの自然誌・考古・歴史・景観に関する報告、民俗・文化財、さらに調査・研究史の概観 や史料の解題 といった、重要な調査・研究の成果が含まれている。 2004年(平成16年)7月、小辺路は世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部として、全長約70キロメートルのうち43.7キロメートルが資産登録された。しかしながら、それに先立って失われた部分は小さくない。もっとも顕著なのは、高野山から大股にかけての区間である。前述のように大滝集落から水ヶ峯にかけての区間が高野龍神スカイラインの建設で失われたことに加え、水ヶ峯から大股にかけての尾根道に林道タイノ原線が建設されたことで、尾根上の古道は無残にも破壊され、古道は完全に損なわれた。タイノ原線の建設は、世界遺産登録へ向けての再調査・整備に先立つ1988年から1997年にかけて のことであったが、小辺路を知る識者からは批判が集まった。このことにより高野山から大股にかけての古道は大半が永久に失われ、熊野記念館の踏査報告[1987]の中に伝えられるだけの、記録上のものとなってしまった。 また、廃絶期間が長いためにルートが不明になっている箇所や、時代によって異なるルートが使用された区間の調査、さらにそうした箇所・区間の世界遺産への追加登録など、今後のさらなる調査・研究が待たれている。果無山脈の景観問題のように、危機にさらされている箇所があることも課題のひとつである。 ==小辺路の峠== 小辺路のルートと主要な3つの峠、その周囲の名所・旧蹟・遺跡等について記述する。 ===水ヶ峯=== 高野山内から小辺路へのとりかかりは金剛三昧院の入り口右手にある坂道である。林道を道沿いに登りきると、ろくろ峠である。高野七口のひとつでもあったろくろ峠からは平坦な尾根沿いの林道を進み、薄峠(すすきとうげ)手前の切り通しから御殿川(おどがわ)へと下る。下り道の途中には町石一基がある。御殿川にかかる橋を渡ってからは急な坂を上って大滝集落に入る。集落最奥の民家の脇から林道を通り、高野龍神スカイラインに合流する。1キロメートルほど歩いて水ヶ峯の尾根道に達するまでに、立里荒神社を山頂に祀る荒神岳への遥拝所の鳥居があるものの、高野龍神スカイラインの整備により古道は失われている。 高野龍神スカイラインから左手の尾根道に上るとそこが水ヶ峯である。水ヶ峯は近世には宿場を営む集落で、杉の防風林が残されている。水ヶ峯を過ぎ広葉樹林がしばらく続いたあと、尾根上の林道タイノ原線に合流する。前述のようにタイノ原線の建設により尾根上の古道はほぼ完全に失われている。高野山から大股までの区間は、「大半が高野龍神スカイラインと水ケ峰 〜 大股間の林道タイノ原線によって破壊されている」 のである。 タイノ原林道が通る尾根道には、麓の集落への分岐点であった檜股辻・今西辻・平辻が続く。平辻のそばには旅籠跡とみられるわずかな平坦地がある。この辺りの小辺路は尾根道を通り、所々でふもとの集落への枝道を分岐させている。ふもとの集落にとっての小辺路は、物資集散地であった高野山への幹線道路として重要なものであった。平辻からはスギ植林地の中の地道を進んで県道川津高野線に降り立ち、川原樋川(かわらびがわ)のほとりの大股集落に至る。 大股集落は『清良記』にも名があることから、室町初期には街道集落として成立していたものと見られ、『めぐり』にも伯母子峠越えを控えた宿場として機能していたようすが記されており、津田屋・坂口屋等の旅籠の名が伝えられている。大股は、高野山と十津川村神納川などとの間の物流中継地でもあり、馬方の親方として活躍した池尾馬之介という人物の名が今日に伝えられている。 ===ろくろ峠=== 高野七口のひとつ、大滝口の旧蹟。前述のように、大正ごろまで吉野・熊野の山中で木地師の活発な活動があったことから、木地師の道具のろくろに由来する地名と見られる。1872年(明治5年)まで女人禁制であった高野山に参詣を望む女性が遥拝するための女人堂があったと伝えられている。 ===町石=== 薄峠から御殿川への下り坂にある円頭形角柱の碑で、正面には円相の中に半肉彫り弘法大師坐像があり、右側には、かうや山(高野山)・くまの本宮(熊野本宮)、左側には、大坂(大阪)・奈良・若山(和歌山)への距離がそれぞれ記され、くまの本宮までは17里(約67キロメートル)とある。水ヶ峯(みずがみね、または「水ヶ峰」)は大滝集落から大股集落への尾根道上の集落跡。いくつかの近世の旅行記には、水ヶ峯に一軒家があったと記されている(『熊野案内記』 および『めぐり』)。さらに江戸時代終わりには4件、1899年(明治32年)頃には8軒をかぞえて最盛期を迎えたが、通行人の減少につれて住人は減り、1950年(昭和25年)頃には無住となった。 ===伯母子峠=== 大股集落から急坂を登り、萱小屋(かやごや)跡と呼ばれる廃屋跡を通り過ぎて、尾根を目指す。 萱小屋跡はかつて小集落のあった跡地である。『案内記』が伝えるところによれば 2件の民家があったようだが、1974年(昭和49年)刊行の『野迫川村史』は柏谷家という一軒家が宿屋を営んでいたとのみ記している。この後、熊野記念館の調査報告には遂に無住の廃屋となったことが報告された が、2002年に宇江が訪れたときには廃屋すらなくなり、残骸のみになってしまった。 萱小屋跡を過ぎ、弘法大師が捨てたヒノキの箸からヒノキが生えたとの伝承がある(『案内記』 および『めぐり』)檜峠で尾根道に合流する。夏虫山の側面を巻きつつ進むと、「かうやより くま乃みち」と刻まれた六字名号碑の道標に出会う。この道標のある場所は、護摩壇山・伯母子峠・伯母子岳山頂への分岐点となっており、古道は山頂東側の峠を通る。 峠からはなだらかな下り道をたどり、上西家跡の分岐に着く。分岐からは山腹を巻きながらふもとへ下る旧道と、尾根近くを通る古道に分かれる。旧道は明治時代に作られた道で、前述の1889年(明治22年)の大水害において古道に崩落が発生したために開削された。古道は2003年(平成15年)に復旧されるまで通行不能だった。 古道からは大師堂があった と伝えられる(『めぐり』)水ヶ元、大塔宮伝説や石垣をめぐらせた屋敷跡がある(『めぐり』)待平を経て、三田谷橋近くの下山口で神納川のほとりに降りる。 伯母子峠(おばことうげ)は小辺路の最高地点(標高1220メートル)である。伯母子岳(1344メートル)の東側を巻く。大正6年(1917年)の建立と刻銘された道標があり、裏面には「スグ十津川ヲ経テ熊野道」とある。この道標には寄進者の名が刻まれており、十津川村折立の林業家であった玉置義章と前述の池尾馬之介の名がある。 ===上西跡=== 上西跡(うえにしあと、資料によっては「植西跡」「上西家跡」とも)は、明治頃まで街道宿を営んでいた上西家の遺構。古道に沿った高さ1メートルほどの石垣、20メートル×20メートルの平坦地、防風のための屋敷林や畑跡が残されている。明治の頃には間口9間・奥行6間の豪邸があり、最後の住人が昭和初めまで住んでいたという。 ===三浦峠=== 三浦峠登り口の三浦口へは杉清から神納川沿いに下流に向かい、五百瀬の小学校近くの橋で川を渡る。三浦口集落の棚田の間を抜けると九十九折の坂がはじまる。三浦峠北側には2点の自然石道標が知られており、それぞれ川から25丁および30丁のところにある。30丁石の傍らには、船形光背の石造半肉彫り地蔵道標もある。 三浦峠(みうらとうげ)は標高1070メートル。林道に横切られており、眺望は開けない。無人雨量観測所の建屋がある。茶屋跡ないし旅籠跡と見られる平坦地があるが定かではない。 三浦峠からは植林地の中を下り、『清良記』にも登場する古矢倉の跡を通り過ぎる。18世紀中頃に作られたと見られる新道 と古道の分岐点を左にとって古道を進むと、観音堂の傍を過ぎ、十津川の支流・西川のほとりの西中大谷に降り立つ。ここからの古道は国道425号に飲み込まれたと見え、大津越え近辺の区間などのわずかな部分を除けば古道の道筋は不明確である。 ===果無峠=== 小辺路の最後の峠である果無峠へは、かつて渡しや宿場があった柳本(やぎもと)の集落近くからとり付く。西川をはさんで対岸の蕨尾には新宮からの舟着場があり、山中で働く杣人のための物資を運んでいた(『めぐり』)。この舟を旅人も利用できたが、ほとんどの参詣者は果無峠を越えたという。 果無峠を越える道は参詣者だけでなく、地元の人々の生活道路としても使われていた。蕨尾から七色(なないろ)にかけては明治初年に七色横手(なないろよこて)という道が開かれたが、断崖沿いの危難な道であるため、ほとんど使われなかったという。果無峠が使われなくなり始めるのは、1921年(大正10年)に新宮と折立を結ぶプロペラ船が就航してからのことである。五条からの国道168号線が柳本以南へ開通するのはさらに遅れ、昭和30年代の電源開発とともにようやく本宮町まで陸路がつながる と、果無峠は生活道としての役割を終えることとなった。 柳本から果無集落への上り坂には石畳が残されている。この上り坂にはかつて道作りの勧進所が2ヶ所設けられており、通行人から通行税を募っては石畳の整備に充てたという。果無集落を通り抜け、集落のすぐ上部で西国三十三所第三十番の観音像に出会う。この観音像は、十津川村櫟砂古(いちざこ)の第三十三番から、本宮町八木尾の第一番まで古道沿いに配されている三十三観音像のひとつである。 山道に入ると緩やかな上り坂が続き、やがて古道左手に山口茶屋跡が見えてくる。『めぐり』に「四十丁目茶屋」、『案内記』 に「やない本より壱里上り」と記された場所と考えられており、石垣の跡がある。またしばらく登ると観音堂が見えてくる。観音堂の傍らの第二十番観音像を横目に急な登りをたどり、果無峠に着く。果無峠(はてなしとうげ、標高1114メートル)は、果無山脈の尾根を古道が横切る小平坦地で、半壊した法筐印塔と第十七番観音像がある。 峠からは再び急な道をたどる。第十五番観音の手前には開けた土地があり、『めぐり』 に「花折茶屋」と記された場所である が、その名残は六字名号供養塔のみである。これは下方の七色集落の人が茶屋を出した跡だと言われ、峠から八丁の距離にあることから八丁茶屋とも呼ばれた。さらに下って七色分岐を分けるが、この分岐の辺りも少し開けている。古道右手には「七色領」の境界石柱があり、ここにも七色の人が営む茶屋があったという。 道は八木尾で熊野川のほとりに降りる。八木尾からの道は国道によって消されており、不明確である。近世には八木尾から本宮大社まで、舟で向かう例も見られた(『めぐり』)。八木尾から萩を経て九鬼の辺りから旧道を登り、仲ノ平の三軒茶屋跡にて中辺路と合流する。中辺路との合流点には駒形の石造道標があり、関所や茶屋があったと伝えられている。ここからの登り坂を越えれば、本宮大社まではあとわずかの道のりである。 ===果無集落=== 果無峠の十津川側登山口からすぐの山上(稜線上)にある集落。北に向かって眺望が開ける。紀伊山地には、山の中腹部に平坦に近い緩斜面が見られることがあり、地質的には紀伊山地がかつて隆起準平原であったときの名残と考えられている。 ===三十三観音像=== 本宮町八木尾を起点(第一番)とし、果無峠(第十七番)、果無集落(第三十番)を経て櫟左古の第三十三番まで、山道沿いに配されている観音像群。西国三十三所の観音の像を、十津川・新宮・本宮の信者たちが1922年(大正11年)から1923年(大正12年)にかけて寄進・造立したもの。舟形光背に半肉彫りないし厚肉彫りの観音像が彫られており、光背には札所と観音名、台石には造立年月日と施主が刻銘されている。 ===果無観音堂=== 果無峠下にある観音堂。13.7メートル×9.5メートルの石垣をめぐらせた平坦地に、南向きに建てられた宝形造りの観音堂があり、石仏3体が祀られている。石仏は左から順に千手観音立像(舟形光背石造半肉彫)、聖観音坐像(石造丸彫)、不動明王坐像(火焔光背石造厚肉彫)だが摩滅が著しい。聖観音像と不動明王像の台石には施主・建立者名の刻銘がある。 ==自然誌== ===地理=== 紀伊山地は西日本を南北に二分する中央構造線以南の外帯に属し、南北方向に走る山脈、すなわち、紀伊山地中央にそびえる大峯山脈、十津川を挟んで大峯山脈の西側の伯母子山脈、北山川を挟んで東側の台高山脈を軸とする。さらに、これらの山脈は、東西方向に走る地質構造に影響されて、果無山脈、大塔山地といった東西方向に走る山脈を多数派生・交差させながら発達している。小辺路が越えて行くのは、これら紀伊山地の山々のうち伯母子山脈・果無山脈といった西部の山々である。 紀伊山地は第四紀に隆起して形成された山地 で、急斜面が多く起伏の大きい壮年期山地の特徴を示している。山々の間には、著しい蛇行を示す河川と、その作用で形成された環流丘陵や雄大なV字谷が見られ、谷底低地や河岸段丘の発達は乏しい が、その一方で山頂や山腹に平坦面が多数見られる。これらは、山地の隆起以前、平地を蛇行していた頃の流路をそのまま保った川による侵食によって形成されたものである。小辺路が越えてゆく山々は、いくらかの例外があるものの、1100から1300メートルとおおよそ稜線高が一定し、定高性を示している。このことは、紀伊山地の隆起準平原が河川に浸食されて形成された過程を示している。 地質的には変成岩と古生代・中生代の水成岩からなる。東西方向の帯状配列が顕著で、北から南に向かって三波川帯、秩父帯、四万十帯と古から新へ配列し、その周辺に新生代の田辺層群および熊野層群が分布する。前述のように、東西方向に走る山脈はこうした地質構造に支配されており、一方、南北方向に走る山脈には東西方向からの圧力による波状変形が見られるが、断層は乏しく、地質は連続的である。 ===水系=== 水系を見ると、前述のように、雄大なV字谷と著しい屈曲を示す蛇行河川が注目される。 特に十津川支流の神納川のV字谷は、紀伊山地の中でも発達が著しいもので両側の稜線間の距離は10キロメートル、深さは500メートル以上、神納川と十津川本流との合流点である川津から分水嶺までの標高差は1000メートル以上に及ぶが蛇行はさほどではない。これは隆起が今も進行中であることが小さな屈曲を打ち消したものと考えられている。 十津川の支流のなかでも湯川や川原樋川、また、湯川の支流である西川は半径100メートルから500メートルの小さな屈曲を頻繁に繰り返している。十津川本流でも蛇行は見られるものの湯川や西川ほどの急な屈曲の蛇行は見られず、注目に値する。こうした屈曲にΩ字状に囲まれた土地は環流丘陵を構成するが、水害防止の観点から水路を短絡させる工事が行われている箇所もある。このような河川蛇行は、隆起準平原上にあった河川流路の名残と考えられる。この種の隆起準平原の名残と見られる地形が、小辺路周辺には多く見られる。 水系に産する生物、特に魚類については、源伴存の『和州吉野郡群山記』(弘化年間)がイワナ(地方名キリクチ)、アユ、アマゴ(ヤマメ)、ウナギの5種を記載して 以来、十津川とその支流に見られる淡水魚について、多くの調査研究が行われてきた。イワナは冷涼な水系を好む種であり、十津川水系上流部は南限にあたると考えられる。小辺路が横切る川原樋川の最上流部渓流は民俗名をキリクチ谷といい、この渓流に棲息するキリクチは1962年(昭和37年)に奈良県天然記念物に指定された。 ===気候=== 小辺路の大半が属する奈良県南部の山岳地帯は、内陸性山岳気候もしくは太平洋に影響を受けた海洋性山岳気候に属し、さらに台風の通過経路でもあることから、日本でも有数の多雨地帯であることが知られている。小辺路の気象は通年での観測記録を欠くが、十津川・野迫川の両村内もしくは高野山での観測記録から概要を推測できる。例えば野迫川村の荒神岳での観測記録によれば、1月には摂氏マイナス1.9度(同月の橿原4.6度)、8月で21.3度(同27.7度)、年平均9.7度(同15.6度)で、より温暖な十津川でも、夏季の最高気温は25度前後、冬季の最低気温は10度を下回り、寒冷ないし冷涼な気候である。 降水量は十津川の夏季のピーク時には400ミリメートル以上を記録し、奈良盆地での月平均降水量の100から200ミリメートル前後を大きく越える。大台ケ原には及ばないものの、野迫川でも年間降水量は2000から3000ミリメートルに達し、多雨地帯である。 ===植物分布=== 植生の面では、小辺路の大半が属する奈良県南西部の気候が寒冷ないし冷涼な山岳気候である という条件に影響されている。小辺路の垂直断面 を見ると、熊野川河畔に降りる田辺市本宮町内を除けば最低地点でも標高約200メートル前後、最高地点が伯母子峠(1220メートル)および伯母子岳山頂(1344メートル)周辺であることから、小辺路の植物分布は奈良県史編集委員会による高度別植物分布(表1)では丘陵帯、低山帯、山地帯に属している。 十津川・野迫川両村を含む地域は植物分類地理学上、伯母子山地植物地区と呼ばれる。伯母子山地植物地区は東を十津川渓谷、南北と西を和歌山県境稜線で画された地域を指し、神納川を境にさらに伯母子区および果無区に細分される。この植物地区は北を高野山、南を熊野に接することから、これらの地方の植物もみられる。 伯母子岳山麓の神納川・川原樋川河岸ではシラカシ、アカガシ、コナラ、クマシデ、イヌシデやサカキが見られる。800メートルあたりからはブナ林帯に入り、伯母子岳山頂周辺では、ブナ、ミズナラ、クマシデ、ヤシャブシ、オオカメノキなどの落葉広葉樹があり、山頂部の樹木には風雪の影響による矮化が見られる。低木ではシャクナゲ、コバノミツバツツジ、コウヤミズキ、草本類ではツルシロガネソウ、ヤマシャクヤクのほかにラン科植物が多い。標高を下げるにつれ、スギ・ヒノキ植林地ないし、植林の伐採後に発達するアカマツ、リョウブ、コナラ等の二次林が多くなり、「いわば人の生活臭がしみこんだ」 景観をなしている。 蕨尾からの果無峠には照葉樹林帯が見られる。十津川河岸から集落までの急傾斜地にはコジイ、サカキ、カシ、アセビ、ウバメガシが生育し、果無集落周辺からはアカマツ、コナラなどに、モミ、ツガ、ヒメシャラ、ホオノキなどを交えた二次林が広がる。山口茶屋の屋敷跡の二次林には海岸性のタブノキやカクレミノが見られるが、これが鳥によって運ばれたものなのか住人が持ち込んだものなのかは不明である。果無峠の一帯はブナを主とする夏緑林帯の自然林である。 この他、特徴的なものとして高野山周辺で商品作物として栽培されていたコウヤマキ が挙げられる。 ==文化財保護== 小辺路は文化財保護法にもとづく史跡「熊野参詣道」の一部として、2002年(平成14年)12月19日に追加指定を受けている。小辺路を含む熊野参詣道はそれまで文化財保護法による指定を受けておらず、世界遺産への推薦に先行して保存管理の計画を示す必要から登録されたものである。史跡指定により、小辺路の現状を変更する、または保存に影響を及ぼす行為には文化庁長官の許可が必要となった。世界遺産への推薦・登録に際して設けられた緩衝地帯は文化財保護法の対象ではないが、その他の法令や県および市町村の条例による保護の下に置かれている。 また和歌山・奈良・三重の3県の教育委員会が市町村教育委員会および文化庁と調整のうえで定めた包括的な保存管理計画にもとづき、個別遺産の管理にあたる県ないし市町村教育委員会が個別の保存管理の策定・実施にあたる体制がとられており、保存管理にあたって必要な資金や技術についても政府や県による支援が行われている。 ==史料== 小辺路に関連する主要な史料を以下に概観する。 中西 啓、1962、「杉浦博士未翻刻曾良日記」、『近世文芸 ‐ 資料と考証』1 ‐ 翻刻 ==注== ^ 世界遺産登録推進三県協議会[2005: 76、79]。 自治体による保存管理計画の例として以下を参照。 奈良県教育委員会編、2002、『奈良県歴史の道(大峯奥駈道・熊野参詣道小辺路)整備活用計画』、奈良県教育委員会 高野町教育委員会編、2003、『熊野参詣道「小辺路」歴史の道整備活用推進事業報告書』、高野町教育委員会 奈良県教育委員会編、2002、『奈良県歴史の道(大峯奥駈道・熊野参詣道小辺路)整備活用計画』、奈良県教育委員会高野町教育委員会編、2003、『熊野参詣道「小辺路」歴史の道整備活用推進事業報告書』、高野町教育委員会 ==文献== ===史料=== 安楽庵策伝、鈴木棠三(校注)、1964、『醒睡笑』上下巻、 角川書店〈角川文庫〉畔田 翠山、1998、『和州吉野郡群山記 ‐ その踏査路と生物相』、東海大学出版会 ISBN 4‐486‐01420‐0三一書房(編)、1972、『探検・紀行・地誌補遺』、三一書房〈日本庶民生活史料集成第20巻〉人物往来社(編)、1966、『中国史料集』、人物往来社〈戦国史料叢書第2期〉神道大系編纂会、1984、『参詣記』、神道大系編纂会〈神道大系文学編5〉正宗 敦夫(編纂・校訂)、1978、『五畿内志』上、 現代思潮社〈日本古典全集〉山口 之夫・出水 睦巳ほか、1996、『熊野案内記と寺内安林』、松原市役所〈松原市史研究紀要第6号〉和歌山県神職取締所編(編)、1909、『続紀伊風土記』第三輯、 地方帝国行政学会出版部 ===踏査記=== 宇江 敏勝、1989、『木の国紀聞 ‐ 熊野古道より』、新宿書房 ISBN 4‐88008‐131‐0 ‐ 宇江らによる1982年の踏査記を含む。‐、2004a、『熊野古道を歩く』、山と渓谷 ISBN 4‐63560‐033‐5‐、2004b、『世界遺産熊野古道』、新宿書房 ISBN 4‐88008‐321‐6 ‐ 宇江らによる2002年の踏査記を含む。高桑 信一、2005、『古道巡礼』、東京新聞出版局 ISBN 4‐8083‐0819‐3中庄谷 直、1995、『関西 山越の古道』中、 ナカニシヤ出版 ISBN 4‐88848‐283‐7 ===調査報告・研究=== 岡田 喜秋、1991、『旅人・曾良と芭蕉』、河出書房新社 ISBN 4‐309‐00725‐2紀南文化財研究会、2008、『田辺市 世界遺産熊野参詣道』、田辺市教育委員会熊野記念館資料収集調査委員会自然・歴史部会編、1987、『熊野古道小辺路調査報告書』、熊野記念館資料収集調査委員会小山 靖憲、2000、『熊野古道』、岩波書店 ISBN 4‐00‐430665‐5小山 靖憲、2004、『吉野・高野・熊野をゆく ‐ 霊場と参詣の道』、朝日新聞社〈朝日選書〉 ISBN 4‐02‐259858‐1世界遺産登録推進三県協議会(三重県・奈良県・和歌山県)、2005、『世界遺産 紀伊山地の霊場と参詣道』、世界遺産登録推進三県協議会玉置 善春、1979、「埋もれた熊野参詣路 ‐ 近世の「小辺路」の諸相」、『くちくまの』(42) pp. 18‐29奈良県教育委員会、2002、『熊野古道小辺路調査報告書』、奈良県教育委員会 → 服部・磯村[2005b: 457‐622]服部 英雄・磯村 幸男編、2005a、『近畿地方の歴史の道3 ‐ 和歌山』、海路書院〈歴史の道 調査報告書集成〉 ISBN 4‐902796‐35‐X‐、2005b、『近畿地方の歴史の道4 ‐ 奈良1』、海路書院〈歴史の道 調査報告書集成〉 ISBN 4‐902796‐36‐8村上 保寿・山陰 加春夫、2001、『高野への道 ‐ いにしへ人と歩く』、高野山出版社、 ISBN 487527016X和歌山県文化財研究会、1982a、『修験の道』、和歌山県教育委員会〈歴史の道調査報告書IV〉 → 服部・磯村[2005a: 417‐472]‐、1982b、『龍神街道』、和歌山県教育委員会〈歴史の道調査報告書V〉 → 服部・磯村[2005a: 375‐416]紀南文化財研究会・熊野歴史研究会(編)、2008、『熊野古道大辺路調査報告書 ‐ 田辺市から新宮市まで』、大辺路再生実行委員会 ===自然誌=== 「角川日本地名大辞典」編纂委員会(編)、1985、『和歌山県』、角川書店 ISBN 4‐04‐001300‐X‐、1990、『奈良県』、角川書店 ISBN 4‐04‐001290‐9金田 幸裕・石川 義孝、2006、『近畿圏』、朝倉書店 ISBN 4‐254‐16768‐7蒲田 文雄・小林 芳正、2006、『十津川水害と北海道移住』、古今書院 ISBN 4‐7722‐4061‐6奈良県史編集委員会(編)、1985、『奈良県史 地理』、名著出版 ISBN 4‐626‐01097‐0‐、1990、『奈良県史 動物・植物』、名著出版 ISBN 4‐626‐01390‐2平凡社(編)、1983、『和歌山県の地名』、平凡社 ===地方誌=== 大島暁雄ほか(編)、1995、『近畿の民俗 奈良県編』、三一書房 ISBN 4‐380‐95556‐7杉中浩一郎、1981、『紀南雑考』、中央公論事業出版奈良県教育委員会、1973、『野迫川村民俗資料緊急調査報告書』、奈良県教育委員会 → 大島ほか[1985: 439‐616]野迫川村史編集委員会、1974、『野迫川村史』、野迫川村史編集委員会 ==関連項目== 熊野古道高野山町石道紀伊山地の霊場と参詣道 =名鉄3400系電車= 名鉄3400系電車(めいてつ3400けいでんしゃ)は、名古屋鉄道(名鉄)が主に優等列車運用に供する目的で1937年(昭和12年)に導入した電車である。名鉄の直流1,500 V電化路線において運用された吊り掛け駆動車各形式のうち、間接自動進段制御器を搭載するAL車に属する。 以下、本項においては3400系電車を「本系列」と記述し、また編成単位の説明に際しては制御電動車モ3400形の車両番号をもって編成呼称とする(例:モ3401‐ク2401の2両で組成された編成であれば「3401編成」)。 先頭車の前頭部を流線形状として、前面から側面にかけての車体下部全周をスカートと称する下部覆い板にて覆った外観を特徴とし、名鉄社内においては3400系電車を「流線(りゅうせん)」と呼称した。また鉄道愛好家からは主に「いもむし」の愛称で呼称された。 ==概要== 愛知電気鉄道(愛電)と名岐鉄道(名岐)の対等合併によって成立した現・名古屋鉄道(名鉄)における、合併後初の新型車両として、1937年(昭和12年)3月に制御電動車モ3400形と制御車ク2400形によって組成される2両編成3本・計6両が落成した。当時は国鉄EF55形電気機関車・国鉄52系電車・国鉄キハ43000形気動車などに代表される、前面形状を流線形とした車両設計が流行しており、本系列もそれを取り入れる形で設計され、旧愛電由来の各路線、通称「東部線」へ導入された。また同時期には旧名岐由来の各路線、通称「西部線」向けの新型流線形車両として850系が導入され、東部線・西部線にそれぞれ流線形車両が導入される形となった。 ただし、旧名岐出身の設計陣が担当した西部線用の850系が名岐鉄道当時に新製されたモ800形の設計を踏襲しつつ、前面形状を本系列と同じく流線形に改めたのみの保守的な設計を採用したのに対して、旧愛電出身の設計陣が担当した東部線用の本系列は車体・主要機器とも完全新規設計され、高速運転に対応した歯車比設定による高回転型主電動機の採用、回生制動を用いた定速制御機能の実装や、車内座席を全席転換クロスシート仕様とするなど、名鉄においては初採用となる数々の新機軸が取り入れられた。 落成当初は2両編成で就役したが、太平洋戦争終戦後の1948年(昭和23年)に東部線・西部線の架線電圧統一が完成し東西直通運転が開始され、それに伴って幹線系統の優等列車運用が4両編成を基本とする形態に改められたことを受け、1950年(昭和25年)と1953年(昭和28年)の二度にわたって中間電動車モ3450形および付随車サ2450形を1両ずつ編成内に組み込み、全編成とも4両編成となった。その途上、回生制動および定速制御機能の撤去などが施工され、他のAL車各形式と性能が統一された。 1967年(昭和42年)より重整備工事と称する車体修繕工事が施工され、外観に大きな変化が生じたものの、特徴ある前頭部の流線形状や車体下部のスカートはそのままとされた。その後は長年にわたり幹線系統を中心に運用されたのち、1988年(昭和63年)に2編成が廃車となった。残る1編成については、名鉄の会社発展の象徴的存在との本系列の位置付けから、中間車2両を編成より外して落成当初と同じく2両編成化の上、動態保存車両として運用を継続した。同編成はのちに車体塗装を落成当初の塗り分けに復元し、さらに冷房装置を搭載するなど各種改造を経て、2002年(平成14年)まで運用された。 ==導入経緯== ===当時の時代背景=== 現・名古屋鉄道(名鉄)は、神宮前を拠点駅として名古屋以東に多くの路線を保有していた愛知電気鉄道(愛電)と、押切町を拠点駅として津島・岐阜・犬山方面へ路線を延ばしていた名岐鉄道(名岐)が1935年(昭和10年)8月に合併して成立した事業者である。ただし、押切町と神宮前の間は線路が繋がっておらず、また架線電圧も旧愛電由来の各路線(東部線)の大部分が直流1,500 Vであったのに対して、旧名岐由来の各路線(西部線)は全線直流600 Vと異なっていた。そのため現・名鉄発足後も、列車の運行および車両の管理については、東部線を管轄する旧愛電由来の部署と西部線を管轄する旧名岐由来の部署という別組織によって行われた。 同時期には名古屋市において汎太平洋平和博覧会が1937年(昭和12年)3月に開催されることが決定し、多くの来場者によって大幅な利用者増が見込まれたことから、名鉄は東部線・西部線の両路線区について車両増備による輸送力増強を計画した。1936年(昭和11年)6月に作成された決裁書「車輌製作ノ件伺」によると、輸送力増強目的のほか、鉄道省路線との競争関係を踏まえ、会期前の翌1937年(昭和12年)2月までに新型車両を導入し、旅客誘致を図る計画であったことが明らかとなっている。 同決裁書にて取り上げられた新型車両は、前記事情から東部線向けの新製車両については旧愛電出身の設計陣が、西部線向けの新製車両については旧名岐出身の設計陣がそれぞれ開発を担当した。旧名岐の設計陣が担当した850系は従来車モ800形の設計を踏襲したのに対して、旧愛電の設計陣が担当した本系列は従来車の設計に囚われない完全新規設計が採用され、両系列の設計思想は大きく異なるものとなった。この設計思想の差異については、保守的体質を特徴とする地元名古屋資本による名岐鉄道を出自とする設計陣と、電力会社系資本で新機軸を取り入れることに非常に意欲的であった愛知電気鉄道を出自とする設計陣との体質の違いに起因することが示唆されている。 ===連接車計画の存在=== また、前記決裁書においては、東部線向け新型車両2両編成3本について、当時の流行を反映して前頭部を流線形状とし、さらに連接構造を採用した「流線形連接車」として予算を計上しており、本系列は2車体3台車構造の連接車として計画されていたことが明らかとなっている。連接構造の採用は製造発注先の日本車輌製造本店からの提案であったと伝わり、同社は本系列の受注に先立つ1934年(昭和9年)に、京阪電気鉄道向けに日本の鉄道車両史上初の連接車として設計・製造された60型電車「びわこ号」を納入していたことから、その実績をもって名鉄側に提案したものとされる。また、本系列をはじめとした日本国内のみならず世界的に大流行した鉄道車両における流線形デザインの祖であるドイツの電気式気動車「フリーゲンダー・ハンブルガー」が連接構造を採用していたことに影響を受けたともされる。 連接構造の採用による長所としては、一編成あたりの台車数の削減による製造コストおよび保守コスト削減などが挙げられ、設計担当者より連接構造の採用を強く推奨された。しかし、本格的な高速鉄道向けの鉄道車両における連接構造の採用は当時の日本国内においては前例がなく、本系列を連接車として設計することについて担当部署の上長より慎重な見解が示されたことも記録されている。 結局、一編成あたりの台車数が減少することによって車輪1軸あたりの軸重が過大となることなどを理由として連接構造の採用は見送られた。本系列は一般的な2軸ボギー構造による車両として設計が進められ、1936年(昭和11年)7月26日付で設計図面「見‐2‐ハ‐4066」が日本車輌製造本店において作成され、最終仕様が決定した。 発注時の1両あたりの単価はモ3400形が56,000円、ク2400形が32,000円で、財源として1936年(昭和11年)11月発行の新株払込金が充当された。なお、850系の発注時単価はモ850形が45,000円、ク2350形が24,900円であり、本系列の単価は850系と比較して約2割高額であった。 翌1937年(昭和12年)3月16日付で3401編成(モ3401‐ク2401)・3402編成(モ3402‐ク2402)・3403編成(モ3403‐ク2403)の2両編成3本が竣功し、翌17日の公式試運転を経て、営業運転に就役した。 上記経緯により落成した本系列は、前述の通り現・名鉄発足後初の新規設計車両であり、元名鉄社員で鉄道研究家の清水武は、本系列の設計経緯について「(本系列を)新生名鉄のシンボルカーにしようとする関係者の意欲が込められていたに違いない」と評したほか、後年の名鉄社内において本系列は「名岐と愛電の良い部分を集大成した高性能車」と評された。 ==車体== ===外観=== 前頭部を流線形状とした、完全新規設計による車体長18,250 mm・車体幅2,700 mm(全長19,000 mm・全幅2,740 mm)の半鋼製車体を備える。外板は溶接構造の全面採用によってリベットを廃し、窓上の補強帯であるウィンドウヘッダーが露出しない構造としたほか、幕板部から屋根部にかけての外板を連続処理した張り上げ屋根構造を採用する。ただし、側面については幕板と屋根板の接合部付近に水切りが設置されている。車体下部は前面から側面にかけて、曲面形状(曲率1,300 R)の下部スカートによって完全に覆われている。スカート下端部は軌条面から350 mmとし、台車部分のみ上方へ切り欠かれている。 台車心皿中心間隔は12,000 mmと東部線用のモ3300形や西部線用のモ800形などに準じているが、側窓幅は800 mmとし、モ3300形 (710 mm) ともモ800形 (740 mm) とも異なる。ただし、乗務員扉と直後の客用扉の間に配置された2枚の側窓のみ、車体寸法上の制約から600 mm幅に縮小されている。また前頭部を流線形状とした都合上、台車心皿中心から妻面までの寸法(オーバーハング)は連結面側が2,850 mmであるのに対して、先頭側は3,400 mmと550 mm延長された前後非対称構造となっている。 流線形の前頭部は、側面の乗務員扉付近から前端部にかけて前後方向に滑らかな半円を描き、後退角は前面窓付近で床面に対して約70度とし、腰板下部で縦方向の曲線を描きつつ緩やかに垂直となる形状である。前面に配された3枚の前面窓はいずれも車体曲面に合わせた曲面ガラスを採用して外観の一体性を高めているほか、妻面からの曲面上に位置している乗務員扉の窓についても曲面ガラスを採用する。また、3枚の前面窓のうち両端の2枚の窓上には横格子のルーバー状の通風器開口部を設けている。前照灯は白熱灯式のものを1灯、前面屋根部中央に埋込形のケースを介して設置し、また後部標識灯は前面向かって左下の腰板下部に砲弾型の灯具を1灯、車体より水平方向に突き出した支持腕へ取り付ける形で設置する。 側面には乗務員扉および開口幅1,200 mmの片開客用扉、800 mm幅(一部600 mm幅)の側窓をそれぞれ配置し、客用扉両脇の吹寄柱幅は300 mm、窓間柱幅は100 mmである。側窓は一段上昇式の1枚窓で窓枠上隅部を曲線形状に処理し、客用扉の上辺もアーチ状に曲線形状を描く特徴的な形態とされている。客用扉は戸閉装置(ドアエンジン)を備える自動扉仕様である。また、客用扉の下部には内蔵型の乗降用ステップが設置され、客用扉下端部が車体裾部まで引き下げられている。側面窓配置はd 2 D 9 D 3(d:乗務員扉、D:客用扉、各数値は側窓の枚数)で、モ3400形・ク2400形とも同一である。 連結面は屋根部を含めて平坦な切妻形状とし、妻面には引扉式の貫通扉を併設した700 mm幅の貫通路を備え、その左右に500 mm幅の妻面窓を設置する。モ3400形・ク2400形の両車は車体断面と同一形状の大型貫通幌によって結合されており、編成としての一体感を演出している。また、この大型貫通幌は本系列が連接車として設計されていた当時の名残であるともされる。 屋根上にはガーランド形ベンチレーター(通風器)を1両あたり6基、中央部に一列配置する。 車体塗装は下半分を濃緑色・上半分を灰色がかった淡緑色とした2色塗りとし、下部スカートが薄茶色、屋根が明灰色にそれぞれ塗り分けられた。当時の東部線に在籍する従来車各形式の車体塗装がマルーン1色塗装である中で、緑の濃淡塗装の本系列は非常に目立つ存在であったと評される。 その他、側面腰板部の切り出し文字による車両番号(車番)標記の書体は、名岐由来のローマン書体ではなく、愛電由来の字体の異なるボールド体のローマン書体とされた。これは本系列以降、愛電由来の東部線向けに導入された各形式における特徴の一つとして継承され、戦後に新製された3850系への採用を機に、名鉄の保有車両における車体標記の標準書体として名岐由来のローマン書体に代わって全車に普及した。 ===車内=== 座席は転換クロスシート仕様で、車端部や運転台後部も含めて全席ともクロスシートとされている。当時の電車は車内床部に主電動機用点検蓋を設置する都合上、名鉄においてもモ800形・モ3300形など本系列に先行して新製された電動車各形式については点検蓋周辺のみをロングシートとするセミクロスシート仕様とされていたが、本系列は主電動機点検蓋を車内通路幅に合わせた一列配置とすることにより、クロスシートと点検蓋との干渉を回避して全席をクロスシート仕様とすることを可能としている。座席表皮(シートモケット)は当時の鉄道省における二等車と同様に青色とした。 前面中央部に設置された運転台と、運転台より後部の客室スペースを区分する仕切り壁は、左右幅を前面中央窓の左右横幅と合わせ、高さは前面窓の下辺までとして、それより上をパイプによって仕切った開放的な構造を採用する。そのため、先頭寄り最前列の座席からは運転台越しながら前面展望が可能であった。 車内照明は白熱灯式で1両あたり7個設け、各灯には行灯をモチーフとした和風の照明カバーを設置する。また落成当初は、当時の鉄道省に在籍した優等列車用客車と同様に車内床部の通路に痰壺が設置されていたことが図面で明示されている。その他、座席上部の窓上に設置された荷棚や車内手すりなどは磨き出し仕上げを施した真鍮製とした。 ==主要機器== ===制御装置=== 従来の旧愛電由来の東部線系統に在籍する車両における標準仕様であったウェスティングハウス・エレクトリック (WH) 社が開発した電空単位スイッチ式の間接手動進段制御器(HL制御器)ではなく、旧名岐由来の西部線系統に在籍する車両において標準仕様とされた電動カム軸式の間接自動進段制御器(AL制御器)を、東部線所属車両として初めて採用した。 モ3400形へ搭載された東洋電機製造ES‐515‐Aは、通常の直並列組合せによる抵抗制御、および弱め界磁制御のほか、電磁単位スイッチ式の他励界磁制御装置による回生制動および定速制御機能を有する。運転台に設置されたES‐63‐A主幹制御器(マスコン)の逆転器(レバーサ)を力行モードから回生制動モードに切り替え、マスコンのノッチを任意に選択することにより40 km/hから100 km/hの範囲で速度制御を行うもので、下り勾配区間において走行速度が指令速度を上回ると自動的に回生制動が動作し、上り勾配区間において走行速度が指令速度を下回ると自動的に力行に移行する。 なお、東洋電機製造が設計・開発した他励界磁制御による高速列車向けの回生制動機能は、本系列の新製に先立つ1935年(昭和10年)に阪和電気鉄道へ納入されたES‐513‐A制御装置によって実用化されており、当時日本国内で最速を記録した超特急列車など高速運転を行う車両における制輪子(ブレーキシュー)の摩耗減少に大きな効果をもたらしていた。本系列の回生制動機能は、東部線本宿付近をはじめとした連続勾配区間における抑速制動としての使用を想定して採用されたものである。また、当時の東洋電機製造の技術担当専務が名鉄の取締役の1人と懇意な間柄であったことが同機能の採用に関係しているとも指摘される。 ===主電動機・台車など=== 主電動機は東京芝浦電気(現・東芝)SE‐139C直流直巻電動機を採用、モ3400形に1両あたり4基搭載する。SE‐139Cは端子電圧750 V時の1時間定格出力が112.5 kWと標準的な特性を備えるが、定格回転数は1,188 rpmと、モ800形に搭載された東洋電機製造TDK‐528/5‐Fと端子電圧750 V環境下で同等の特性を持つ高速回転型の主電動機である。本系列への採用にあたっては歯車比を2.64 (58:22) と、TDK‐528/5‐Fを搭載するモ800形の歯車比3.21 (61:19) と比較して小さく設定、全界磁時定格速度は76 km/h、60 %弱め界磁時定格速度は96.2 km/hに達し、設計最高速度120 km/hの高速性能を有した。駆動方式は吊り掛け式である。 台車は形鋼組立形の釣り合い梁式台車である日本車輌製造D16をモ3400形・ク2400形とも装着する。D16をはじめとする日本車輌製造製の形鋼組立形釣り合い梁式台車は、東部線および西部線に在籍する従来車各形式において既に採用実績があったものである。 本系列が装着するD16台車は、軸受に従来の平軸受(プレーンベアリング)に代えてスウェーデン・SKF社製のコロ軸受(ローラーベアリング)を採用した。また、従来車に装着された日本車輌製造製の形鋼組立形釣り合い梁式台車の固定軸間距離は2,134 mm ‐ 2,200 mmであったのに対して、本系列の装着するD16台車は固定軸間距離が2,300 mmに延長された。さらに、軌条方向の軸箱寸法拡大、振動特性改善を目的とした枕ばね位置・ばね定数の変更、釣り合い梁の厚材化など、各部に改良が施されている。 制動装置は、アメリカのウェスティングハウス・エア・ブレーキ社 (WABCO) の原設計に基づくM三動弁を用いた自動空気ブレーキを常用制動として採用、モ3400形の制動装置はAMM、ク2400形の制動装置はACMとそれぞれ呼称された。その他、両形式とも手用制動を併設する。 ===補助機器・連結器など=== 電動カム軸式制御器搭載に伴う低圧電源供給を目的として、モ3400形に東洋電機製造TDK‐311直流電動発電機(MG、定格出力3.2 kW・直流100 V)を1両あたり1基搭載する。東部線系統に在籍する従来車における標準仕様であったHL制御方式は、制御装置用電源を架線からの電力を抵抗器によって電圧降下させて用いるため電動発電機 (MG) を必要とせず、本系列は東部線に在籍する車両として電動発電機を初めて採用した車両となった。また、モ3400形には制動装置の動作などに用いる空気圧供給元となる三菱電機DH‐25電動空気圧縮機(CP、定格吐出量710 L/min)を同じく1両あたり1基搭載する。 集電装置は回生制動の失効対策としてモ3400形のほかク2400形にも搭載、東洋電機製造PT‐7菱形パンタグラフを屋根上先頭寄りに1両あたり1基搭載する。 連結器は、設計段階より本系列が他編成との併結運用を考慮していなかったことから、外観の一体性を高める目的で運転台側の連結器を構造の簡易な簡易連結器とし、不使用時は連結器を前面下部スカート内へ格納する構造を採用、設計認可申請を行った。しかし、簡易連結器の耐荷重は一般的な連結器と比較した場合大きく劣るため、非常時における他編成との連結運転用途にも不適であることを理由に管轄省庁から設計を見直すよう指摘され、これを受けて最終的には従来車と同様に並形自動連結器を採用した。落成当初は、前頭部には連結器のみを装着し、他編成との総括制御用のジャンパ栓およびブレーキ管などは一切省略されたが、後年非常時における他編成との連結運転を考慮して非常ブレーキ管のみ追加された。 一方、連結面側の連結器については、衝動軽減を目的として柴田式密着連結器を名鉄において初めて採用した。固定編成間の連結器を密着連結器として前後衝動を抑制する設計方針は、戦後に新製された優等列車用車両である3850系にも踏襲された。 ==導入後の変遷== ===太平洋戦争前後=== 1937年(昭和12年)3月15日の汎太平洋平和博覧会開幕よりやや遅れて、3401編成・3402編成が同年3月20日に、3403編成が同年4月15日にそれぞれ営業運転を開始した。前述の通り、書類上の竣功日翌日の3月17日には3401編成を用いて公式試運転を実施、時速100 km/hを超える高速走行が行われ、翌3月18日付の名古屋新聞(現・中日新聞)は、当時の鉄道省(国鉄)を代表する特急列車「つばめ」を引き合いに、『時速百キロ、「燕」より速いぞ』の見出しで本系列の公式試運転を報じている。 導入後は、それまで主にモ3300形によって運用された特急および急行運用に充当され、東部線における主力形式として運用された。なお、本系列において採用された新機軸の一つである回生制動および定速制御機能は、当時の東部線の列車本数が少なかったため回生制動が有効に作用しなかったことに加えて、回生制動動作時における高い帰線電圧が変電所の水銀整流器に悪影響を及ぼす事態も生じた。さらに装置そのものも故障がちであったことから1941年(昭和16年)頃には使用停止措置が取られ、不要となったク2400形のパンタグラフは撤去された。 その後、太平洋戦争(第二次世界大戦)の激化に伴う戦時体制への移行により急増した輸送量に対応するため、一部の車両の車端部クロスシートをロングシート化し、収容力の増加を図った。また、戦中の資材不足を反映して、破損した側窓ガラスの補修に際しては一段窓構造のままながら窓枠に横桟を追加してガラスを2分割し、客用扉窓ガラスの補修に際してはT字型の桟を追加してガラスが3分割されるなど、外観にも変化が生じた。ただし、そのような混乱期においても大半のクロスシートは存置され、また本系列独自の車体塗装や保守面で難が指摘された下部スカートもそのままとされた。本系列は全車とも戦災による被災を免れたものの、終戦後間もなくモ3403がデッドアース(短絡)により車体を焼損、資材不足の折から復旧に1年以上を要した。 1948年(昭和23年)5月12日に西部線に属する主要路線の架線電圧を従来の直流600 Vから同1,500 Vに昇圧する工事が完成し、同年5月16日より金山橋(現・金山)を境とした運行系統分断を解消して東西直通運転が開始された。それに伴って、従来東部線でのみ運用された本系列も西部線区間へ入線するようになった。ただし、東西直通運転開始に伴って設定された新岐阜(現・名鉄岐阜) ‐ 豊橋間の特急・急行列車は4両編成での運用を基本としたため、前述の通り2両編成以上の編成を組成することが不可能であった本系列の特急・急行運用への充当機会は日中時間帯に限定された。その他の時間帯は津島線など支線区における普通列車運用に充当された。 なお、同時期には標識灯を砲弾型から一般的な引っ掛け式のものに交換し、同時に前面向かって右側の腰板下部にも1灯増設した。また台車のSKF社製コロ軸受については補修部品不足から維持が困難となり、全車とも平軸受仕様に改造された。 ===3両編成化=== 2両編成以上の編成を組成することが不可能であった本系列は運用上都合が悪く、1950年(昭和25年)12月に中間電動車モ3450形3451 ‐ 3453を新製して各編成へ組み込み、全編成とも3両固定編成となった。なお、本系列の中間車製造は早期から検討されており、本系列落成の翌年、1938年(昭和13年)には日本車輌製造本店によって図面が作成されていたことが、日本車輌製造の内部資料によって判明している。ただし、モ3450形の新製に際しては日本車輌製造本店にて設計図面「組‐2‐ハ‐9368」が1950年(昭和25年)9月6日付で新規に作成されている。 モ3450形は運転台を持たない中間車であることを除き、側窓上隅部の曲線処理や客用扉上部の上辺のアーチ状処理など車体形状・構造は先頭車であるモ3400形・ク2400形の基本設計を踏襲した。一方で細部には改良が加えられ、側窓構造が通気性の改善を目的として二段上昇式に変更されたほか、屋根上ベンチレーターが押込形の二列配置に改められた点が異なる。車内座席は全席転換クロスシート仕様である。 側面窓配置は3 D 9 D 3で、モ3400形・ク2400形の運転台側に相当する部分をそのまま連結面側の窓配置に置き換えた構成である。ただし、モ3450形の台車心皿中心間隔は11,900 mmとモ3400形・ク2400形より100 mm短縮され、また前後オーバーハングを2,850 mmで統一した前後対象構造としたため、車体長は17,600 mmとモ3400形・ク2400形より650 mm短縮されている。 主要機器については、制御装置はモ3400形と同じく電動カム軸式の自動加速制御器ながら、停止用発電制動機能を備える東洋電機製造ES‐532‐Aへ、主電動機は運輸省規格形電車である3800系における大量採用を契機にAL車の標準型主電動機となりつつあった東洋電機製造TDK‐528/9‐HM(端子電圧750 V時定格出力112.5 kW、同定格回転数1,188 rpm)へそれぞれ変更され、同時にモ3400形についてもモ3450形と同一の機器に換装された。歯車比はAL車の標準値である3.21 (61:19) に設定され、MT比が従来の1:1から2:1に向上したこともあり起動加速度が向上した反面、全界磁時定格速度は64.0 km/hとなり、中高速域の加速特性は従来よりも低下した。モ3450形の装着する台車はD16と比較して心皿荷重上限を2 t引き上げた日本車輌製造D18で、基本設計は従来のD16と同様であるものの、軸受は落成当初より平軸受仕様とされた。 モ3450形はパンタグラフを搭載せず、走行に必要な架線電圧はク2400形より直流1,500 Vの高圧母線を引き通して給電される形を取った。そのため、3両編成化に際してク2400形へ再びパンタグラフが搭載された。この際ク2400形へ搭載されたパンタグラフは過去に採用したPT‐7ではなく、国鉄制式機種のPS13A戦時設計型菱形パンタグラフに変更され、同時にモ3401・モ3402のパンタグラフについてもPS13Aへ換装された。 3両固定編成化後の本系列は以前と比較して特急・急行運用への充当機会が増加したが、朝夕の多客時間帯については4両編成を組成可能な他形式と比較して収容力不足が懸念されたため、依然として日中時間帯を中心とした運用に留まった。平日朝夕の時間帯は支線区における普通列車運用のほか、臨時団体列車運用にも充当された。 ===4両編成化および各種改良=== 1953年(昭和28年)にはさらに中間付随車サ2450形2451 ‐ 2453が増備され、全編成とも4両固定編成化された。これは当時の最新型車両である3850系および3900系と合わせて、本線特急運用に充当する4両編成の車両を確保するための措置である。 サ2450形の新製に際しては、モ3450形新製当時に作成された設計図面「組‐2‐ハ‐9368」がそのまま流用され、車体設計・外観ともモ3450形と同一仕様である。ただし、台車が3900系ク2900形と同一のボルスタアンカー付一体鋳鋼製軸ばね式台車の住友金属工業FS13に変更されたほか、車内照明が蛍光灯式に改良され、40 Wの管型蛍光灯2本を1つの角型カバーに収めた照明機器を車内天井中央部に設置した。座席はモ3450形と同様に全席転換クロスシート仕様である。また、車体塗装は本系列落成以来の下半分緑色・上半分淡緑色の2色塗装から、3850系および3900系と同一の下半分マルーン・上半分ピンクの2色塗装(スカート部は赤みがかった薄黄土色)という、3850系の新製以来採用された当時の名鉄の優等列車用車両における標準塗装に変更された。 サ2450形の組み込みに際しては、既存のモ3400形・モ3450形・ク2400形についてサ2450形と仕様を統一するため塗装変更と車内照明の蛍光灯化が施工されたほか、モ3400形・ク2400形については側窓構造を従来の一段上昇式から二段上昇式に改造し、さらに戦中にロングシート化された車端部座席の転換クロスシート化が施工された。 1953年(昭和28年)8月までに全3編成が4両編成化および各種整備を完了し、本系列は再び本線系統の優等列車運用へ充当された。 その後、1955年(昭和30年)に名鉄初のカルダン駆動車である5000系(初代)が導入され、1957年(昭和32年)に5000系(初代)の改良版である5200系が、さらに1959年(昭和34年)には特別料金を不要とする列車用の車両としては日本初の量産型冷房車である5500系が順次導入されたことに伴って、本系列をはじめとした吊り掛け駆動車が本線系統における特急運用に充当される機会は減少した。そして1961年(昭和36年)には7000系「パノラマカー」が導入されたことに伴い、本系列は本線系統における特急運用から撤退し支線区直通の特急・急行運用に転用された。 なおこの間、1956年(昭和31年)にモ3400形・ク2400形のパンタグラフが東洋電機製造PT‐42Fに換装され、1957年(昭和32年)には不具合を頻発した停止用発電制動の使用停止措置が取られた。さらに本線系統の特急運用から撤退した後の1963年(昭和38年)10月以降、多客時の収容力増大を目的として客用扉周辺のクロスシート撤去による立席スペースの拡大が施工された。先頭車モ3400形・ク2400形で計2脚、中間車モ3450形・サ2450形で計4脚のクロスシートが撤去されたほか、モ3400形・ク2400形については前位側客用扉後部の側窓2枚分に相当する部分をロングシートとした。また、同時期には車体断面と同一形状の大型貫通幌を廃止して貫通扉幅に合わせた一般的な貫通幌に交換され、車内では天井部照明機器の蛍光灯カバーが撤去された。 ===重整備工事の施工=== 1960年代後半に至り、先頭車モ3400形・ク2400形については車齢30年を経過して各部の劣化が進行したことから、1967年(昭和42年)から翌1968年(昭和43年)にかけて、本系列全編成を対象に重整備工事と称する大規模な車体更新修繕工事が施工された。重整備工事の施工に際しては、前面の貫通構造化および下部スカートの撤去も検討されたものの、最終的には構体に大きく手を加えることなく、各部の補修および近代化に主眼を置いた内容となった。 なお、施工に先立つ1967年(昭和42年)3月に日本車輌製造において車体更新設計図面「7C‐6715」が作成され、実際の工事は名鉄鳴海工場において概ね図面にて図示された内容に従って施工された。 先頭車であるモ3400形・ク2400形については、従来窓間柱によって3分割されていた前面窓を2本のピラーによって区切った連続3枚窓構造に改め、同時に前面窓上の通風器を埋込撤去した。また、標識灯を車体一体型の角型タイプのものに交換したほか、屋根上パンタグラフから床下への高圧配線の引き通し位置変更に伴って前位寄り客用扉の開閉方向を車体中心側から車端側に変更した。車内では運転台仕切り壁を天井鴨居部まで延長し、延長部分にはガラス窓を設けた。 その他、全車を対象として、客用扉の上辺のアーチ形状を廃して一般的な直線形状に改造し、客用扉下部の内蔵ステップを廃止して客用扉の下辺が車内床面高さまで引き上げられ、客用扉そのものも鋼製扉へ交換された。側窓は上隅部を直角形状に改め、窓枠をアルミサッシ化し、前面窓や戸袋窓といった固定窓についてはHゴムによる固定支持とした。 車内は床面のロンリューム仕上げ化のほか壁面を淡緑色のアルミデコラ張りとし、座席配置についてはモ3400形・ク2400形の先頭寄り、および全車の各客用扉直近の側窓1枚分の座席をロングシートとしたほかは全て転換クロスシートとした。 主要機器面では、制御装置の発電制動機能を完全撤去して型番がES‐532‐Nと変更され、編成内の連結器を従来の密着連結器から棒連結器に交換した。 重整備工事は編成単位ではなく2両単位で施工されたため、遊休車両が発生した場合に備えて3800系3821編成を専用編成として貫通幌などを整備し、本系列2両と連結して運用した。また、重整備工事施工の途上においては施工済の2両と未施工の2両が混在した状態で運用される編成も存在した。 1967年(昭和42年)7月に竣功した初回出場車である3401編成モ3401‐サ2451の2両のみは下半分マルーン・上半分ピンクの従来塗装で出場したが、次いで同年11月に竣功した3401編成モ3451‐ク2401より、車体を黄色がかったクリーム(ストロークリーム)地に赤帯・スカート部を灰色とした、当時の名鉄におけるクロスシート車の標準塗装に変更された。以降に施工された3402編成・3403編成も同様の塗装で竣功したほか、のちにモ3401‐サ2451についても同塗装へ変更された。 本系列は重整備工事施工に伴って外観が大きく変化したことから、施工後については「原形の優美な印象が一掃された」とも、「近代的でスマートな外観となった」あるいは「更新前とはまた違った魅力を備えた」とも評されるが、本系列の特徴である流線形の前面形状と下部スカートは変わらず維持された。 ===重整備工事施工後=== 1974年(昭和49年)に前照灯のシールドビーム2灯化が、1976年(昭和51年)に車体塗装のスカーレット1色塗装化がそれぞれ実施された。スカーレット1色塗装となったのちの本系列は鉄道愛好者から「赤マムシ」とも呼称された。 1977年(昭和52年)11月には平軸受仕様であったモ3400形・ク2400形のD16台車およびモ3450形のD18台車を、3800系が装着するコロ軸受化改造済のD18台車と振り替える形でコロ軸受化を実施した。同時にモ3400形・ク2400形の前面スカート下部に外気導入口を新設し、曲面ガラスを用いた前面窓の凸レンズ効果から熱がこもりやすいと現場から不評であった運転台環境の改善が図られた。1979年(昭和54年)には、夏季の客室環境改善を目的として車内天井部に扇風機が新設された。その他、モ3400形およびモ3450形に搭載される電動発電機 (MG) を東洋電機製造TDK‐362‐A交流電動発電機(定格出力5.0 kVA)に換装し、低圧電源が交流化された。 本系列は前述の通り落成当初から前面にジャンパ栓の装備がなく、他のAL車との併結運用が不可能であった。そのため、長らく本系列のみの独立運用が組まれていたが、そのような制約を解消し車両運用の効率化を図るため1984年(昭和59年)に連結対応工事が施工された。前面連結器周辺にジャンパ栓および常用ブレーキ管を新設したほか、制御装置を名鉄AL車における標準機種であった東洋電機製造ES‐568‐A電動カム軸式自動加速制御器へ換装し、以降3900系および7300系の4両固定編成と共通運用された。また、他形式との併結運用が行われるようになったことに伴って、850系と流線形車両同士の編成を組成して運用される機会も生じた。 ===動態保存車両化=== 1987年(昭和62年)3月の国鉄分割民営化で発足した東海旅客鉄道(JR東海)は、ダイヤ改正ごとに東海道本線の輸送力増強および利便性向上を図り、並行する名古屋本線を保有する名鉄にとって脅威となりつつあった。そのため名鉄側も対抗手段として1987年(昭和62年)から1989年(平成元年)にかけて6500系・6800系など新型車両を導入してサービス向上を図り、結果捻出されたAL車・HL車など旧型車両の大量淘汰が同時期に実施された。 幾度もの改造を経て長らく第一線で運用された本系列であったが、1988年(昭和63年)8月8日付で3402編成が、同年9月30日付で3401編成が相次いで廃車となった。しかし本系列については名鉄の会社発展の象徴的存在との位置付けから、最も状態が良好であった3403編成を2両編成化の上で動態保存する方針が決定した。 3403編成は中間車のサ2453・モ3453を編成から外し、両先頭車のモ3403・ク2403は1988年(昭和63年)10月27日付でモ3401(2代)・ク2401(2代)と改番された。この改番に際しては、同年8月15日付で除籍された850系モ851‐ク2351より側面車番標記の「1」の文字板が転用された。編成から外されたサ2453・モ3453は同年9月30日付で除籍され、また2両編成化に伴ってク2401(2代)のパンタグラフは撤去された。 2両編成化当初は他のAL車と共通運用されたが、1989年(平成元年)7月15日のダイヤ改正より別運用が組まれ、広見線・小牧線・各務原線など犬山地区の支線各路線において運用された。 ===車体塗装の復元=== 動態保存開始当時は長期間の運用は想定されておらず、他のAL車各形式の全廃と同時に廃車の予定であったとされる。しかし、1992年(平成5年)度に長年運用された鉄道車両を対象とした顕賞である「エバーグリーン賞」を鉄道友の会より授与されたことを契機として、車体塗装を落成当初の塗り分けに復元するなど、3401編成を本格的な動態保存車両として整備する方針が決定した。 車体塗装の復元に際しては、落成当初の下半分を緑色・上半分を淡緑色とした2色塗り当時の外観を撮影したカラー写真が存在せず、車体塗装の復元をエバーグリーン賞授賞式までに実施するという時間的制約から当時の絵本などの資料を探す余裕もなかった。そのため、当時を知る関係者からの聞き取り調査や本系列の新製当時に記録された色帳を参考として色調を違えた3種類のサンプルを作成し、沿線在住の名鉄愛好家を交えた検討会議が開かれた。その結果、新製当時に記録された色帳を参考とした案が最も正確であると結論付けられたが、下部スカートの茶色系統の塗装については、塗装復元が立案された1990年代当時の感覚では違和感があるとされ、屋根部より濃い灰色に変更することとした。車体塗装の復元と同時に、座席モケット色を従前の赤色系統のものから落成当初と同じく青色系統のものに交換し、落成当時のものがそのまま用いられていた真鍮製の荷棚については磨き出し加工による再整備が施された。 車体塗装の復元および内装改修が実施された3401編成は、1993年(平成5年)4月3日のエバーグリーン賞授賞式に際して東岡崎 ‐ 国府間にて運行された貸切列車が復元後の初運用となり、その後は従来通り犬山地区の各支線区において運用された。 ===冷房化改造=== 1994年(平成6年)6月には、旅客サービス水準維持の観点から冷房装置の取り付けが施工された。冷房化改造に際しては3401編成の動態保存車両としての位置付けを鑑み、通常の屋根上設置型の冷房装置ではなく床下設置型の冷房装置を採用して極力外観を損なわないよう配慮された。 パワーユニットと称する冷房装置本体は床下に搭載し、クーリングユニットと称する室内機(冷却能力3,200 kcal/h)が車内天井肩部に1両あたり4基設置された。採用されたデンソーDDL‐4CSF‐158X冷房装置は電源を架線電圧から得る直流1,500 V直接駆動仕様であり、冷房用補助電源装置の追加を不要とした。車体側の改造点は、室内機搭載部の構体補強のほか、冷房効果向上のため天井部断熱材を保冷効果の高いガラス綿製のものに交換し、側窓ガラスを熱線吸収ガラスに交換するとともに一部を除いて下段窓を固定窓化した。また、床下の冷房装置設置スペースを捻出するため、空気溜など一部の床下機器を車内に移設する必要が生じたことから、モ3401・ク2401とも連結面寄りのクロスシート左右各1脚ずつを撤去し、移設した機器および冷房装置の制御スイッチなどを格納する機械箱を新設した。その他、床下への冷房装置搭載に伴って側面スカート部にスリット状の放熱口が追加され、わずかに外観上の変化が生じた。 1994年(平成6年)は名鉄が創業100周年を迎えた年でもあり、3401編成は100周年記念イベントの一環として、同年8月の1か月間限定で碧南 ‐ 弥富間の三河線・名古屋本線・津島線・尾西線直通急行運用に1日1往復充当された。この列車は三河線・津島線・尾西線の各路線内では普通列車として運行され、知立 ‐ 須ヶ口間の名古屋本線区間のみ急行列車となるもので、名古屋本線内では最高速度100 km/hで運行された。またこの直通運用の間合い運用として、通常定期列車として運用機会のない三河線・津島線・尾西線の各路線内の折り返し運用にも充当された。 その後、1997年(平成9年)7月に、モ3401・ク2401とも台車を従来のD18から7300系モ7401・サ7451の廃車発生品であるボルスタアンカー付一体鋳鋼製軸ばね式台車の住友金属工業FS36に交換した。この際、側面スカートとFS36台車のボルスタアンカー部との干渉を回避するため台車部分の切り欠きが上方に拡大され、再び外観に変化が生じた。 ===退役=== 動態保存車両として犬山地区の各支線区における定期運用のほか、各種イベント列車運用に充当された3401編成であったが、経年による老朽化の進行と旧型の保守部品の調達が困難となりつつあったことに加えて、景気低迷の折から運行経費の確保が厳しくなったことなどを理由に、2001年(平成13年)10月1日のダイヤ改正をもって定期運用から離脱した。 定期運用離脱後の3401編成は、団体貸切列車など臨時列車運用にのみ充当されていたが、翌2002年(平成14年)7月に、同年8月31日をもって退役することが公式発表された。 2002年(平成14年)8月には、退役を記念する特製ヘッドマーク「さよなら3400系」を掲出して、広見線および各務原線の定期運用に同月の土曜・日曜限定で充当された。さらに同年8月11日・14日・18日の計3日、3401編成を使用して犬山 ‐ 伊奈 ‐ 新鵜沼 ‐ 新岐阜(各務原線) ‐ 犬山の行程で団体専用列車が運行され、各所で最高速度100 km/hの高速走行が実施された。また、同年7月から9月にかけての夏休み期間中、「さよなら3400系スタンプラリー」と題して、本系列「3400系」にちなんで名鉄線内の計34駅に設置されたスタンプを収集するスタンプラリー企画が実施された。 運用最終日となった2002年(平成14年)8月31日は新可児駅にてさよならイベントが実施され、同日をもって全ての運用を終了した。その後3401編成は舞木検査場へ回送されたのち、同年9月30日付で除籍され、本系列は全廃となった。 廃車後はモ3401‐ク2401の2両とも舞木検査場にて保管された。後年同2両が装着したFS36台車はえちぜん鉄道へ譲渡され、代わりに同社より本系列が当初装着したD16台車と類似した外観を有する形鋼組立形釣り合い梁式台車の汽車製造K‐16を譲り受け、同2両へ装着した。その後、ク2401は解体処分のため2006年(平成18年)5月19日に名電築港駅へ回送され、翌日より解体作業が実施された。残るモ3401については、2013年(平成25年)4月現在、舞木検査場正門付近にて静態保存されており、舞木検査場の見学イベント「名鉄でんしゃまつり」などにおいて一般公開される。 =三島由紀夫= 三島 由紀夫(みしま ゆきお、本名:平岡 公威(ひらおか きみたけ)、1925年(大正14年)1月14日 ‐ 1970年(昭和45年)11月25日)は、日本の小説家・劇作家・随筆家・評論家・政治活動家・皇国主義者。血液型はA型。戦後の日本文学界を代表する作家の一人であると同時に、ノーベル文学賞候補になるなど、日本語の枠を超え、海外においても広く認められた作家である。『Esquire』誌の「世界の百人」に選ばれた初の日本人で、国際放送されたTV番組に初めて出演した日本人でもある。 代表作は小説に『仮面の告白』『潮騒』『金閣寺』『鏡子の家』『憂国』『豊饒の海』など、戯曲に『鹿鳴館』『近代能楽集』『サド侯爵夫人』などがある。修辞に富んだ絢爛豪華で詩的な文体、古典劇を基調にした人工性・構築性にあふれる唯美的な作風が特徴。 晩年は政治的な傾向を強め、自衛隊に体験入隊し、民兵組織「楯の会」を結成。1970年(昭和45年)11月25日、楯の会隊員4名と共に自衛隊市ヶ谷駐屯地(現・防衛省本省)を訪れ東部方面総監を監禁。バルコニーでクーデターを促す演説をした後、割腹自殺を遂げた。この一件は世間に大きな衝撃を与え、新右翼が生まれるなど、国内の政治運動や文学界に大きな影響を及ぼした(詳細は三島事件を参照)。 満年齢と昭和の年数が一致し、その人生の節目や活躍が昭和時代の日本の興廃や盛衰の歴史的出来事と相まっているため、「昭和」と生涯を共にし、その時代の持つ問題点を鋭く照らした人物として語られることが多い。 ==生涯== ※三島自身の言葉や著作からの引用部は〈 〉にしています(三島死後の家族・知人らの述懐部や、年譜などからの引用部との区別のため)。 ===出自=== 家族・親族も参照のこと。 1925年(大正14年)1月14日、東京市四谷区永住町2番地(現・東京都新宿区四谷4丁目22番)において、父・平岡梓(当時30歳)と母・倭文重(当時19歳)の間の長男として誕生。体重は650匁(約2,400グラム)だった。「公威」の名は祖父・定太郎による命名で、定太郎の恩人で同郷の土木工学者・古市公威にあやかって付けられた。 家は借家であったが、同番地内で一番大きく、かなり広い和洋折衷の二階家で、家族(両親と父方の祖父母)の他に女中6人と書生や下男が居た。祖父は借財を抱えていたため、一階には目ぼしい家財はもう残っていなかった。兄弟は、3年後に妹・美津子、5年後に弟・千之が生れた。 父・梓は、一高から東京帝国大学法学部を経て、高等文官試験に1番で合格したが、面接官に悪印象を持たれて大蔵省入りを拒絶され、農商務省(公威の誕生後まもなく同省の廃止にともない農林省に異動)に勤務していた。岸信介、我妻栄、三輪寿壮とは一高、帝大の同窓であった。 母・倭文重(しずえ)は、加賀藩藩主・前田家に仕えていた儒学者・橋家の出身。父親(三島の外祖父)は東京開成中学校の5代目校長で、漢学者・橋健三。 祖父・定太郎は、兵庫県印南郡志方村上富木(現・兵庫県加古川市志方町上富木)の農家の生まれ。帝国大学法科大学(現・東京大学法学部)を卒業後、内務省に入省し内務官僚となる。1893年(明治26年)、武家の娘である永井夏子と結婚。福島県知事、樺太庁長官等を務めたが、疑獄事件で失脚した(後に無罪判決)。 祖母・夏子(戸籍名:なつ)は、父・永井岩之丞(大審院判事)と、母・高(常陸宍戸藩藩主・松平頼位が側室との間にもうけた娘)の間に長女として生まれ、12歳から17歳で結婚するまで有栖川宮熾仁親王に行儀見習いとして仕えた。夏子の祖父は江戸幕府若年寄の永井尚志。なお、永井岩之丞の同僚・柳田直平の養子が柳田国男で、平岡定太郎と同じ兵庫県出身という縁もあった柳田国男は、夏子の家庭とは早くから交流があった。 作家・永井荷風の永井家と夏子の実家の永井家は同族(同じ一族)で、夏子の9代前の祖先永井尚政の異母兄永井正直が荷風の12代前の祖先にあたる。公威は、荷風の風貌と似ている父・梓のことを陰で「永井荷風先生」と呼んでいた。ちなみに、祖母・夏子は幼い公威を「小虎」と呼んでいた。 祖父、父、そして息子の三島由紀夫と、三代に渡って同じ大学の学部を卒業した官僚の家柄であった。江戸幕府の重臣を務めた永井尚志の行政・統治に関わる政治は、平岡家の血脈や意識に深く浸透したのではないかと推測される。 ===幼年期と「詩を書く少年」の時代=== 公威と祖母・夏子とは、学習院中等科に入学するまで同居し、公威の幼少期は夏子の絶対的な影響下に置かれていた。公威が生まれて49日目に、「二階で赤ん坊を育てるのは危険だ」という口実の下、夏子は公威を両親から奪い自室で育て始め、母親の倭文重が授乳する際も、懐中時計で時間を計った。夏子は坐骨神経痛の痛みで臥せっていることが多く、家族の中でヒステリックな振舞いに及ぶこともたびたびで、行儀作法も厳しかった。 公威は物差しやはたきを振り回すのが好きであったが没収され、車や鉄砲などの音の出る玩具も御法度となり、外での男の子らしい遊びも禁じられた。夏子は孫の遊び相手におとなしい年上の女の子を選び、公威に女言葉を使わせた。1930年(昭和5年)1月、5歳の公威は自家中毒に罹り、死の一歩手前までいく。病弱な公威のため、夏子は食事やおやつを厳しく制限し、貴族趣味を含む過保護な教育をした。その一方、歌舞伎、谷崎潤一郎、泉鏡花などの夏子の好みは、後年の公威の小説家および劇作家としての素養を培った。 1931年(昭和6年)4月、公威は学習院初等科に入学した。公威を学習院に入学させたのは、大名華族意識のある夏子の意向が強く働いていた。平岡家は定太郎が元樺太庁長官だったが平民階級だったため、華族中心の学校であった学習院に入学するには紹介者が必要となり、夏子の伯父・松平頼安(上野東照宮社司。三島の小説『神官』『好色』『怪物』『領主』のモデル)が保証人となった。 しかし華族中心とはいえ、かつて乃木希典が院長をしていた学習院の気風は質実剛健が基本にあり、時代の波が満州事変勃発など戦争へと移行してゆく中、校内も硬派が優勢を占めていた。級友だった三谷信は学習院入学当時の公威の印象を以下のように述懐している。 初等科に入って間もない頃、つまり新しく友人になった者同士が互いにまだ珍しかった頃、ある級友が 「平岡さんは自分の産まれた時のことを覚えているんだって!」と告げた。その友人と私が驚き合っているとは知らずに、彼が横を走り抜けた。春陽をあびて駆け抜けた小柄な彼の後ろ姿を覚えている。 ― 三谷信「級友 三島由紀夫」 公威は初等科1、2年から詩や俳句などを初等科機関誌『小ざくら』に発表し始めた。読書に親しみ、世界童話集、印度童話集、『千夜一夜物語』、小川未明、鈴木三重吉、ストリンドベルヒの童話、北原白秋、フランス近代詩、丸山薫や草野心平の詩、講談社『少年倶楽部』(山中峯太郎、南洋一郎、高垣眸ら)、『スピード太郎』などを愛読する。自家中毒や風邪で学校を休みがちで、4年生の時は肺門リンパ腺炎を患い、体がだるく姿勢が悪くなり教師によく叱られた。 初等科3年の時は、作文「ふくろふ」の〈フウロフ、貴女は森の女王です〉という内容に対し、国語担当の鈴木弘一先生から「題材を現在にとれ」と注意されるなど、国語(綴方)の成績は中程度であった。主治医の方針で日光に当ることを禁じられていた公威は、〈日に当ること不可燃(しかるべからず)〉と言って日影を選んで過ごしていたため、虚弱体質で色が青白く、当時の綽名は「蝋燭」「アオジロ」であった。 初等科6年の時には校内の悪童から、「おいアオジロ、お前の睾丸もやっぱりアオジロだろうな」とからかわれているのを三谷信は目撃した。 初等科六年の時のことである。元気一杯で悪戯ばかりしている仲間が、三島に「おいアオジロ――彼の綽名――お前の睾丸もやっぱりアオジロだろうな」と揶揄った。三島はサッとズボンの前ボタンをあけて一物を取り出し、「おい、見ろ見ろ」とその悪戯坊主に迫った。それは、揶揄った側がたじろく程の迫力であった。また濃紺の制服のズボンをバックにした一物は、その頃の彼の貧弱な体に比べて意外と大きかった。 ― 三谷信「級友 三島由紀夫」 この6年生の時の1936年(昭和11年)には、2月26日に二・二六事件があった。急遽授業は1時限目で取り止めとなり、いかなることに遭っても「学習院学生たる矜り」を忘れてはならないと先生から訓示を受けて帰宅した。6月には、〈非常な威厳と尊さがひらめいて居る〉と日の丸を表現した作文「わが国旗」を書いた。 1937年(昭和12年)、中等科に進んだ4月、両親の転居に伴い、祖父母のもとを離れ、渋谷区大山町15番地(現・渋谷区松濤2丁目4番8号)の借家で両親と妹・弟と暮らすようになった。夏子は、1週間に1度公威が泊まりに来ることを約束させ、日夜公威の写真を抱きしめて泣いた。 公威は文芸部に入り、同年7月、学習院校内誌『輔仁会雑誌』159号に作文「春草抄――初等科時代の思ひ出」を発表。自作の散文が初めて活字となった。中等科から国語担当になった岩田九郎(俳句会「木犀会」主宰の俳人)に作文や短歌の才能を認められ成績も上がった。以後、『輔仁会雑誌』には、中等科・高等科の約7年間(中等科は5年間、高等科の3年は9月卒業)で多くの詩歌や散文作品、戯曲を発表することとなる。11、12歳頃、ワイルドに魅せられ、やがて谷崎潤一郎、ラディゲなども読み始めた。 7月に盧溝橋事件が発生し、日中戦争となった。この年の秋、8歳年上の高等科3年の文芸部員・坊城俊民と出会い、文学交遊を結んだ。初対面の時の公威の印象を坊城は、「人波をかきわけて、華奢な少年が、帽子をかぶりなおしながらあらわれた。首が細く、皮膚がまっ白だった。目深な学帽の庇の奥に、大きな瞳が見ひらかれている。『平岡公威です』 高からず、低からず、その声が私の気に入った」とし、その時の光景を以下のように語っている。 「文芸部の坊城だ」 彼はすでに私の名を知っていたらしく、その目がなごんだ。「きみが投稿した詩、“秋二篇”だったね、今度の輔仁会雑誌にのせるように、委員に言っておいた」 私は学習院で使われている二人称“貴様”は用いなかった。彼があまりにも幼く見えたので。… 「これは、文芸部の雑誌“雪線”だ。おれの小説が出ているから読んでくれ。きみの詩の批評もはさんである」 三島は全身にはじらいを示し、それを受け取った。私はかすかにうなずいた。もう行ってもよろしい、という合図である。三島は一瞬躊躇し、思いきったように、挙手の礼をした。このやや不器用な敬礼や、はじらいの中に、私は少年のやさしい魂を垣間見たと思った。 ― 坊城俊民「焔の幻影 回想三島由紀夫」 1938年(昭和13年)1月頃、初めての短編小説「酸模(すかんぽ)――秋彦の幼き思ひ出」を書き、同時期の「座禅物語」などと共に3月の『輔仁会雑誌』に発表された。この頃、学校の剣道の早朝寒稽古に率先して起床していた公威は、稽古の後に出される味噌汁がうまくてたまらないと母に自慢するなど、中等科に上り徐々に身体も丈夫になっていった。同年10月、祖母・夏子に連れられ、初めて歌舞伎(『仮名手本忠臣蔵』)を観劇し、初めての能(『三輪』)も母方の祖母・橋トミにも連れられて観た。この体験以降、公威は歌舞伎や能の観劇に夢中になり、その後17歳から観劇記録「平岡公威劇評集」(「芝居日記」)を付け始める。 1939年(昭和14年)1月18日、祖母・夏子が潰瘍出血のため、小石川区駕籠町(現・文京区本駒込)の山川内科医院で死去(没年齢62歳)。同年4月、前年から学習院に転任していた清水文雄が国語の担当となり、国文法、作文の教師に加わった。和泉式部研究家でもある清水は三島の生涯の師となり、平安朝文学への目を開かせた。同年9月、ドイツ対フランス・イギリスの戦争が始まった(第二次世界大戦の始まり)。 1940年(昭和15年)1月に、後年の作風を彷彿とさせる破滅的心情の詩「凶ごと」を書く。同年、母・倭文重に連れられ、下落合に住む詩人・川路柳虹を訪問し、以後何度か師事を受けた。倭文重の父・橋健三と川路柳虹は友人でもあった。同年2月に山路閑古主宰の月刊俳句雑誌『山梔(くちなし)』に俳句や詩歌を発表。前年から、渾名のアオジロ、青びょうたん、白ッ子をもじって自ら「青城」の俳号を名乗り、1年半ほどさかんに俳句や詩歌を『山梔』に投稿する。 同年6月に文芸部委員に選出され(委員長は坊城俊民)、11月に、堀辰雄の文体の影響を受けた短編「彩絵硝子」を校内誌『輔仁会雑誌』に発表。これを読んだ同校先輩の東文彦から初めて手紙をもらったのを機に文通が始まり、同じく先輩の徳川義恭とも交友を持ち始める。東は結核を患い、大森区(現・大田区)田園調布3‐20の自宅で療養しながら室生犀星や堀辰雄の指導を受けて創作活動をしていた。一方、坊城俊民との交友は徐々に疎遠となっていき、この時の複雑な心情は、後に『詩を書く少年』に描かれる。 この少年時代は、ラディゲ、ワイルド、谷崎潤一郎の他、ジャン・コクトー、リルケ、トーマス・マン、ラフカディオ・ハーン、エドガー・アラン・ポー、リラダン、モオラン、ボードレール、メリメ、ジョイス、プルースト、カロッサ、ニーチェ、泉鏡花、芥川龍之介、志賀直哉、中原中也、田中冬二、立原道造、宮沢賢治、稲垣足穂、室生犀星、佐藤春夫、堀辰雄、伊東静雄、保田與重郎、梶井基次郎、川端康成、郡虎彦、森鴎外の戯曲、浄瑠璃、『万葉集』『古事記』『枕草子』『源氏物語』『和泉式部日記』なども愛読するようになった。 ===「三島由紀夫」の出発――花ざかりの森=== 1941年(昭和16年)1月21日に父・梓が農林省水産局長に就任し、約3年間単身赴任していた大阪から帰京。相変わらず文学に夢中の息子を叱りつけ、原稿用紙を片っ端からビリビリ破く。公威は黙って下を向いて目に涙をためていた。 同年4月、中等科5年に進級した公威は、7月に「花ざかりの森」を書き上げ、国語教師の清水文雄に原稿を郵送し批評を請うた。清水は、「私の内にそれまで眠っていたものが、はげしく呼びさまされ」るような感銘を受け、自身が所属する日本浪曼派系国文学雑誌『文藝文化』の同人たち(蓮田善明、池田勉、栗山理一)にも読ませるため、静岡県の伊豆修善寺温泉の新井旅館での一泊旅行を兼ねた編集会議に、その原稿を持参した。「花ざかりの森」を読んだ彼らは、「天才」が現われたことを祝福し合い、同誌掲載を即決した。 その際、同誌の読者圏が全国に広がっていたため、息子の文学活動を反対する平岡梓の反応など、まだ16歳の公威の将来を案じ、本名「平岡公威」でなく、筆名を使わせることとなった。清水は、「今しばらく平岡公威の実名を伏せて、その成長を静かに見守っていたい ――というのが、期せずして一致した同人の意向であった」と、合宿会議を回想している。筆名を考えている時、清水たちの脳裏に「三島」を通ってきたことと、富士の白雪を見て「ゆきお」が思い浮かんできた。 帰京後、清水が筆名使用を提案すると、公威は当初本名を主張したが受け入れ、「伊藤左千夫(いとうさちお)」のような万葉風の名を希望した。結局「由紀雄」とし、「雄」の字が重すぎるという清水の助言で、「三島由紀夫」となった。「由紀」は、大嘗祭の神事に用いる新穀を奉るため選ばれた2つの国郡のうちの第1のものを指す「由紀」(斎忌、悠紀、由基)の字に因んで付けられた。 リルケと保田與重郎の影響を受けた「花ざかりの森」は、『文藝文化』昭和16年9月号から12月号に連載された。第1回目の編集後記で蓮田善明は、「この年少の作者は、併し悠久な日本の歴史の請し子である。我々より歳は遙かに少いが、すでに、成熟したものの誕生である」と激賞した。この賞讃の言葉は、公威の意識に大きな影響を与えた。この9月、公威は随想「惟神之道(かんながらのみち)」をノートに記し、〈地上と高天原との懸橋〉となる惟神之道の根本理念の〈まことごゝろ〉を〈人間本然のものでありながら日本人に於て最も顕著〉であり、〈豊葦原之邦の創造の精神である〉と、神道への深い傾倒を寄せた。 この年になり行われた南部仏印進駐以降、次第にイギリスやアメリカとの全面戦争突入が濃厚となるが、公威は「もう時期は遅いでせう」とも考えていた。12月8日に行われたマレー作戦によって日本はついにイギリスやアメリカ、オランダなどの連合国と開戦となった(大東亜戦争)。開戦当日、教室にやって来た馬術部の先輩から、「戦争がはじまった。しっかりやろう」と感激した口ぶりで話かけられ、公威も「なんともいへない興奮」にかられた。 1942年(昭和17年)1月31日、公威は前年11月から書き始めていた評論「王朝心理文学小史」を学習院図書館懸賞論文として提出(この論文は、翌年1月に入選)。3月24日、席次2番で中等科を卒業し、4月に学習院高等科文科乙類(独語)に進んだ。公威は、体操と物理の「中上」を除けば、極めて優秀な学生であった。運動は苦手であったが、高等科での教練の成績は常に「上」(甲)で、教官から根性があると精神力を褒められたことを、公威は誇りとしていた。 ドイツ語はロベルト・シンチンゲルに師事し、他の教師も桜井和市、新関良三、野村行一(1957年の東宮大夫在職中に死亡)らがいた。後年ドナルド・キーンがドイツで講演をした際、一聴衆として会場にいたシンチンゲルが立ち上がり、「私は平岡君の(ドイツ語の)先生だった。彼が一番だった」と言ったエピソードがあるほど、ドイツ語は得意であった。 各地で日本軍が勝利を重ねていた同年4月、大東亜戦争開戦の静かな感動を厳かに綴った詩「大詔」を『文藝文化』に発表。同年5月23日、文芸部委員長に選出された公威は、7月1日に東文彦や徳川義恭(帝大文学部に進学)と共に同人誌『赤繪』を創刊し、「苧菟と瑪耶」を掲載した。誌名の由来は志賀直哉の『万暦赤繪』にあやかって付けられた。公威は彼らとの友情を深め、病床の東とはさらに文通を重ねた。同年8月26日、祖父・定太郎が死亡(没年齢79歳)。公威は詩「挽歌一篇」を作った。 同年11月、学習院の講演依頼のため、清水文雄に連れられて保田與重郎と対面し、以後何度か訪問する。公威は保田與重郎、蓮田善明、伊東静雄ら日本浪曼派の影響の下で、詩や小説、随筆を同人誌『文藝文化』に発表し、特に蓮田の説く「皇国思想」「やまとごころ」「みやび」の心に感銘した。公威が「みのもの月」、随筆「伊勢物語のこと」を掲載した昭和17年11月号には、蓮田が「神風連のこころ」と題した一文を掲載。これは蓮田にとって熊本済々黌の数年先輩にあたる森本忠が書いた『神風連のこころ』(国民評論社、1942年)の書評で、この本を読んでいた公威は後年、神風連の地・熊本を1966年(昭和41年)8月に訪れ、森本忠(熊本商科大学教授)と会うことになる。 ちなみに、三島の死後村松剛が倭文重から聞いた話として、三島が中等科卒業前に一高の入試を受験し不合格となっていたという説もあるが、三島が中等科5年時の9月25日付の東文彦宛の書簡には、高等科は文科乙類(独語)にすると伝える記述があり、三島本人はそのまま文芸部の基盤が形成されていた学習院の高等科へ進む意思であったことが示されている。なお、三島が一高を受験したかどうかは、母・倭文重の証言だけで事実関係が不明なため、全集の年譜にも補足として、「学習院在学中には他校の受験はできなかったという説もある」と付記されている。 ===大学進学と終戦=== 1943年(昭和18年)2月24日、公威は学習院輔仁会の総務部総務幹事となった。同年6月6日の輔仁会春季文化大会では、自作・演出の劇『やがてみ楯と』(2幕4場)が上演された(当初は翻訳劇を企画したが、時局に合わないということで山梨勝之進学習院長から許可が出ず、やむなく公威が創作劇を書いた)。3月から『文藝文化』に「世々に残さん」を発表。同年5月、公威の「花ざかりの森」などの作品集を出版化することを伊東静雄と相談していた蓮田善明は、京都に住む富士正晴を紹介され、新人「三島」に興味を持っていた富士も出版に乗り気になった。 同年6月、月1回東京へ出張していた富士正晴は公威と会い、西巣鴨に住む医師で詩人の林富士馬宅へも連れて行った。それ以降数年間、公威は林と文学的文通など親しく交際するようになった。8月、富士が公威の本の初出版について、「ひとがしないのならわたしが骨折つてでもしたい」と述べ、蓮田も、「国文学の中から語りいでられた霊のやうなひとである」と公威を讃えた。そして蓮田は公威に葉書を送り、「詩友富士正晴氏が、あなたの小説の本を然るべき書店より出版することに熱心に考へられ目当てある由、もしよろしければ同氏の好意をうけられたく」と、作品原稿を富士に送付するよう勧めた。 日本軍とイギリス軍やアメリカ軍との戦争が激化していく中、公威は〈アメリカのやうな劣弱下等な文化の国、あんなものにまけてたまるかと思ひます〉、〈米と英のあの愚人ども、俗人ども、と我々は永遠に戦ふべきでせう。俗な精神が世界を蔽うた時、それは世界の滅亡です〉と神聖な日本古代精神の勝利を願った。なお、公威は同盟国イタリアの首脳のベニート・ムッソリーニに好感を抱いていながらも、ドイツのアドルフ・ヒトラーには嫌悪感を持っていた。 同年10月8日、そんな便りをやり取りしていた東文彦が23歳の若さで急逝。公威は弔辞を奉げた。東の死により同人誌『赤繪』は2号で廃刊となった。文彦の父・東季彦によると、三島は死ぬまで、文彦の命日に毎年欠かさず墓前参りに来ていたという。なお、この年に公威は杉並区成宗の堀辰雄宅を訪ね、堀から〈シンプルになれ〉という助言を受けていた。 世情はこの頃、国民に〈儀礼の強要〉をし、戦没兵士の追悼式など事あるごとにオーケストラが騒がしく「海往かば」を演奏し、ラウド・スピーカーで〈御託宣をならべる〉気風であったが、公威はそういった大仰さを、〈まるで浅草あたりの場末の芝居小屋の時局便乗劇そのまゝにて、冒*478*も甚だしく、憤懣にたへません〉と批判し、ただ心静かに〈戦歿勇士に祈念〉とだけ言えばいいのだと友人の徳川義恭へ伝えている。 国民儀礼の強要は、結局、儀式いや祭事といふものへの伝統的な日本固有の感覚をズタズタにふみにじり、本末を顛倒し、挙句の果ては国家精神を型式化する謀略としか思へません。主旨がよい、となればテもなく是認されるこの頃のゆき方、これは芸術にとつてもつとも危険なことではありますまいか。今度の学制改革で来年か、さ来年、私も兵隊になるでせうが、それまで、日本の文学のために戦ひぬかねばならぬことが沢山あります。(中略)文学を護るとは、護国の大業です。文学者大会だなんだ、時局文学生産文学だ、と文学者がウロウロ・ソワソワ鼠のやうにうろついている時ではありません。 ― 平岡公威「徳川義恭宛ての書簡」(昭和18年9月25日付) 同年10月25日、蓮田善明は召集令状を受け熊本へ行く前、「日本のあとのことをおまえに託した」と公威に言い遺し、翌日、陸軍中尉の軍装と純白の手袋をして宮城前広場で皇居を拝んだ。公威は日本の行く末と美的天皇主義(尊皇)を蓮田から託された形となった。富士正晴も戦地へ向かう出兵前に、「にはかにお召しにあづかり三島君よりも早くゆくことになつたゆゑ、たまたま得し一首をば記しのこすに、よきひとと よきともとなり ひととせを こころはづみて おくりけるかな」という一首を公威に送った。 1944年(昭和19年)4月27日、公威も本籍地・兵庫県印南郡志方村村長発信の徴兵検査通達書を受け取り、5月16日、兵庫県加古郡加古川町(現・加古川市)の加古川公会堂(現・加古川市立加古川図書館)で徴兵検査を受けた。公会堂の現在も残る松の下で十貫(約40キロ)の砂を入れた米俵を持ち上げるなどの検査もあった。 本籍地の加古川で徴兵検査を受けたのは、〈田舎の隊で検査を受けた方がひよわさが目立つて採られないですむかもしれないといふ父の入れ知恵〉であったが、結果は第二乙種で合格となった(召集令状は翌年2月)。級友の三谷信など同級生の大半が特別幹部候補生として志願していたが、公威は一兵卒として応召されるつもりであった。それは、どうせ死ぬのならば1日でも長く1行でも多く書いていられる方を平岡が選んだのだと三谷は思った。 徴兵検査合格の帰途の5月17日、大阪の住吉中学校で教師をしている伊東静雄を訪ね、支那出征前に一時帰郷していた富士正晴宅を一緒に訪ねた。5月22日は、遺著となるであろう処女出版本『花ざかりの森』の序文依頼のため、伊東静雄の家に行くが、伊東から悪感情を持たれ、「学校に三時頃平岡来る。夕食を出す。俗人、神堀来る。リンゴを呉れる。九時頃までゐる。駅に送る」などと日記に書かれた。しかし、伊東は、のち『花ざかりの森』献呈の返礼で、会う機会が少なすぎた感じがすることなどを公威に伝え、戦後には『岬にての物語』を読んで、公威に対する評価を見直すことになる。 1944年(昭和19年)9月9日、学習院高等科を首席で卒業。卒業生総代となった。卒業式には昭和天皇が臨席し、宮内省より陛下からの恩賜の銀時計を拝受され、ドイツ大使からはドイツ文学の原書3冊(ナチスのハーケンクロイツ入り)をもらった。御礼言上に、学習院長・山梨勝之進海軍大将と共に宮内参内し、謝恩会で華族会館から図書数冊も贈られた。 大学は文学部への進学という選択肢も念頭にはあったものの、父・梓の説得により、同年10月1日、東京帝国大学法学部法律学科(独法)に入学(推薦入学)した。そこで学んだ団藤重光教授による刑事訴訟法講義の〈徹底した論理の進行〉に魅惑され、この時修得した法学の論理性が小説や戯曲の創作において極めて有用となり、のちに三島は父・梓に感謝するようになる。公威が文学に熱中することに反対し、度々執筆活動を妨害していた父であったが、息子を法学部に進学させたことにより、三島の文学に日本文学史上稀有な論理性を齎したことは梓の貢献であった。 出版統制の厳しく紙不足の中、〈この世の形見〉として『花ざかりの森』刊行に公威は奔走した。同年10月に処女短編集『花ざかりの森』(装幀は友人・徳川義恭)が七丈書院で出版された。公威は17日に届いた見本本1冊をまず、入隊直前の三谷信に上野駅で献呈した。息子の文学活動に反対していた父・梓であったが、いずれ召集されてしまう公威のために、11月11日に上野(下谷区)池之端(現・台東区池之端)の中華料理店・雨月荘で出版記念会を開いてやり、母・倭文重、清水文雄ら『文藝文化』同人、徳川義恭、林富士馬などが出席した。 書店に並んだ『花ざかりの森』は、当時学生だった吉本隆明、芥川比呂志らも買って読み、各高の文芸部や文学青年の間に学習院に「三島」という早熟な天才少年がいるという噂が流れた。しかし、公威が同人となっていた日本浪曼派の『文藝文化』も、物資不足や企業整備の流れの中、雑誌統合要請のため8月をもって通巻70号で終刊となっていた。 1945年(昭和20年)、いよいよ戦況は逼迫し大学の授業は中断され、公威は1月10日から「東京帝国大学勤労報国隊」として、群馬県新田郡太田町の中島飛行機小泉製作所に勤労動員され、総務部調査課配属となった。事務作業に従事しつつ、公威は小説「中世」を書き続ける。以前保田與重郎に謡曲の文体について質問した際、期待した浪漫主義的答えを得られなかった思いを、「中世」に書き綴ることで、人工的な豪華な言語による絶望感に裏打ちされた終末観の美学の作品化に挑戦し、中河与一の厚意により、第1回と第2回の途中までを雑誌『文藝世紀』に発表した。 誕生日の1月14日、思いがけず帰京でき、母・倭文重が焼いてくれたホットケーキを美味しく食べた(この思い出は後年、遺作『天人五衰』に描かれることになる)。2月4日に入営通知の電報が自宅へ届いた。公威は〈天皇陛下萬歳〉と終りに記した遺書を書き、遺髪と遺爪を用意した。中島飛行機小泉製作所を離れることになったが、その直後(公威の入隊検査の10日)、アメリカ軍の爆撃機による主要目標となって大空襲を受けたため、結果的に応召は三島の罹災を免れさせる結果となった。 同年2月6日、髪を振り乱して泣く母・倭文重に見送られ、公威は父・梓と一緒に兵庫県富合村へ出立した。風邪で寝込んでいた母から移ったせいで、気管支炎を起こし眩暈や高熱の症状を出していた公威は10日の入隊検査の折、新米の軍医からラッセルが聞こえるとして肺浸潤と誤診され即日帰郷となった。その部隊の兵士たちはフィリピンに派遣され、多数が死傷してほぼ全滅した。 戦死を覚悟していたつもりが、医師の問診に同調したこの時のアンビバレンスな感情が以後三島の中で自問自答を繰り返す。この身体の虚弱から来る気弱さや、行動から〈拒まれてゐる〉という意識が三島にとって生涯、コンプレックスとなり、以降の三島に複雑な思い(特異な死生観や〈戦後は余生〉という感覚)を抱かせることになる。 梓が公威と共に自宅に戻ると、一家は喜び有頂天となったが、公威は高熱と旅の疲れで1人ぼんやりとした様子で、「特攻隊に入りたかった」と真面目につぶやいたという。公威はその後4月、三谷信宛てに「君と共に将来は、日本の文化を背負つて立つ意気込みですが、君が御奉公をすましてかへつてこられるまでに、僕が地固めをしておく心算です」と伝え、神風特攻隊についての熱い思いを記した。兵役は即日帰郷となったものの、一時の猶予を得たにすぎず、再び召集される可能性があった。 公威は、栗山理一を通じ野田宇太郎(『文藝』編集長)と知り合い、戦時下でただひとつ残った文芸誌『文藝』に「サーカス」と「エスガイの狩」を持ち込み、「エスガイの狩」が採用された。処女短編集『花ざかりの森』は野田宇太郎を通じ、3月に川端康成に献呈された。川端は『文藝文化』の公威の作品群や「中世」を読んでいた。群馬県の前橋陸軍士官学校にいる三谷信を、三谷の家族と共に慰問中の3月10日の夜、東京は大空襲に見舞われた(東京大空襲)。焦土と化した東京へ急いで戻り、公威は家族の無事を確認した。 1945年(昭和20年)5月5日から、東京よりも危険な神奈川県高座郡大和の海軍高座工廠に勤労動員された。終末観の中、公威は『和泉式部日記』『上田秋成全集』『古事記』『日本歌謡集成』『室町時代小説集』『葉隠』などの古典、泉鏡花、イェーツなどを濫読した。6月12日から数日間、軽井沢に疎開している恋人・三谷邦子(親友・三谷信の妹)に会いに行き、初めての接吻をした。帰京後の7月、戦禍が悪化し空襲が激しくなる中、公威は遺作となることを意識した「岬にての物語」を書き始めた。 1945年(昭和20年)8月6日、9日と相次ぎ、広島と長崎に原爆が投下された。公威は〈世界の終りだ〉と虚無的な気分になり、わざと上空から目立つ白いシャツを着て歩いた。10日、公威は高熱と頭痛のため高座工廠から、一家が疎開していた豪徳寺の親戚の家に帰宅し、梅肉エキスを舐めながら床に伏せった。 8月15日に終戦し第二次世界大戦が終わった。天皇陛下のラジオの玉音放送を聞き、「これからは芸術家の世の中だから、やっぱり小説家になったらいい」と父・梓が言った。 ===終戦後の苦悶と焦燥=== 終戦直後、公威は学習院恩師の清水文雄に、〈玉音の放送に感涙を催ほし、わが文学史の伝統護持の使命こそ我らに与へられた使命なることを確信しました〉と送り、学習院の後輩にも、〈絶望せず、至純至高志美なるもののために生き生きて下さい。(中略)我々はみことを受け、我々の文学とそれを支へる詩心は個人のものではありません。今こそ清く高く、爽やかに生きて下さい。及ばず乍ら私も生き抜き、戦ひます〉と綴った 三谷信には、〈自分一個のうちにだけでも、最大の美しい秩序を築き上げたいと思ひます。戦後の文学、芸術の復興と、その秩序づけにも及ばず乍ら全力をつくして貢献したい〉と戦後への決意を綴り、9月の自身のノートには「戦後語録」として、〈日本的非合理の温存のみが、百年後世界文化に貢献するであらう〉と記した。 戦争中「エスガイの狩」を採用した『文藝』の野田宇太郎へも、〈文学とは北極星の如く、秩序と道義をその本質とし前提とする神のみ業であります故に、この神に、わき目もふらずに仕へることにより、我々の戦ひは必ずや勝利を得ることを確信いたします〉と熱い思いを伝えた公威だったが、戦時中に遺作の心づもりで書いた「岬にての物語」を、野田から「芥川賞向き、文壇向きの作風」と見当違いの誤解をされ、「器用」な作だと退けられてしまった。そのため、公威は一人前の作家としての将来設計に苦慮することになった。 公威が私淑していた蓮田善明はマレー半島で陸軍中尉として終戦を迎え、同年8月19日に駐屯地のマレー半島のジョホールバルで、天皇を愚弄した連隊長・中条豊馬大佐を軍用拳銃で射殺し、自らもこめかみに拳銃を当て自決した(没年齢41歳)。公威は、この訃報を翌年の夏に知ることになる。 1945年(昭和20年)10月23日、妹・美津子が腸チフス(菌を含んだなま水を飲んだのが原因)により、17歳の若さで急逝。公威は号泣した。また、6月の軽井沢訪問の後から、邦子との結婚を三谷家から打診され逡巡していた公威だったが、邦子が銀行員・永井邦夫(父は永井松三)と婚約してしまったことを、同年11月末か12月頃に知った。 そして翌年1946年(昭和21年)5月5日に邦子と永井は結婚。公威はこの日、自宅で泥酔する。恋人を横取りされる形になった公威にとり、〈妹の死と、この女性の結婚と、二つの事件が、私の以後の文学的情熱を推進する力〉になっていった。邦子の結婚後の同年9月16日、公威は偶然、邦子と道で出くわし、このときのことをノートに記した。 偶然邦子にめぐりあつた。試験がすんだので友達をたづね、留守だつたので、二時にかへるといふので、近くをぶらぶらあてどもなく歩いてゐた時、よびとめられた。彼女は前より若く却つて娘らしくなつてゐた。(中略)その日一日僕の胸はどこかで刺されつゞけてゐるやうだつた。前日まで何故といふことなく僕は、「ゲエテとの対話」のなかの、彼が恋人とめぐりあふ夜の町の件を何度もよんでゐたのだつた。それは予感だ。世の中にはまだふしぎがある。そしてこの偶然の出会は今度の小説を書けといふ暗示なのか? 書くなといふ暗示なのか? ― 平岡公威「ノート(昭和21年)」 この邦子とのことは、のちの自伝的小説『仮面の告白』の中で詳しく描かれることになる。 1946年(昭和21年)1月1日、昭和天皇が「人間宣言」の詔書を発し、アメリカ大使館を訪れ背広姿でダグラス・マッカーサーと並ぶ写真が新聞に報道された。公威はこれについて親友の三谷信に、「なぜ衣冠束帯の御写真にしないのか」と憤懣を漏らしたという。また、三谷と焼跡だらけのハチ公前を歩いている時には、天皇制を攻撃し始めたジャーナリズムに対して心底怒りを露わにし、「ああいうことは結局のところ世に受け入れられるはずが無い」と強く断言したという。三谷は、そういう時の公威の言葉には「理屈抜きの烈しさがあった」と述懐している。 なお、この時期、斎藤吉郎という元一高の文芸部委員で、公威が17歳の時から親交のあった人物が、同時代の詩人たちの詩集を叢書の形で出版する計画に関与し、公威の詩も叢書の一巻にしたいという話を持ちかけていた。公威はそれに喜んで応じ、その詩集名を『豊饒の海』とする案を以下のように返信したが、この詩集は用紙の入手難などの事情で実現しなかった。 この詩集には、荒涼たる月世界の水なき海の名、幻耀の外面と暗黒の実体、生のかゞやかしい幻影と死の本体とを象徴する名『豊饒の海』といふ名を与えよう、とまで考へるやうになりました。詩集『豊饒の海』は三部に分れ、恋歌と、思想詩と、譚詩とにわかれます。幼時少年時の詩にもいくらか拾ひたいものがありますが、それは貴下に選んでいたゞきませう。これが貴下の御厚意への僕の遠慮のないお答へです。 ― 平岡公威「斎藤吉郎宛ての書簡」(昭和21年1月9日付) ===川端康成との出会い=== 戦時中に三島が属していた日本浪曼派の保田與重郎や佐藤春夫、その周辺の中河与一、林房雄らは、戦後に左翼文学者や日和見作家などから戦争協力の「戦犯文学者」として糾弾された。日本浪曼派の中で〈天才気取りであった少年〉の三島は、〈二十歳で、早くも時代おくれになつてしまつた自分〉を発見して途方に暮れ、戦後は〈誰からも一人前に扱つてもらへない非力な一学生〉にすぎなくなってしまったことを自覚し、焦燥感を覚える。 戦争の混乱で『文藝世紀』の発刊は戦後も中絶したまま、「中世」は途中までしか発表されていなかった。三島は終戦前、川端康成から「中世」や『文藝文化』で発表された作品を読んでいるという手紙を受け取っていたが、川端がその作品の賞讃を誰かに洩らしていたという噂も耳にしていた。 それを頼みの綱にし、〈何か私を勇気づける事情〉も持っていた三島は、「中世」と新作短編「煙草」の原稿を携え、帝大の冬休み中の1946年(昭和21年)1月27日、鎌倉二階堂に住む川端のもとを初めて訪問した。慎重深く礼儀を重んじる三島は、その際に野田宇太郎の紹介状も持参した。 三島は川端について、〈戦争がをはつたとき、氏は次のやうな意味の言葉を言はれた。「私はこれからもう、日本の哀しみ、日本の美しさしか歌ふまい」――これは一管の笛のなげきのやうに聴かれて、私の胸を搏つた〉と語り、川端の『抒情歌』などに顕著な、単に抒情的・感覚的なだけではない〈霊と肉との一致〉、〈真昼の神秘の世界〉にも深い共感性を抱いていた。そういった心霊的なものへの感性は、三島の「花ざかりの森」や「中世」にも見られ、川端の作品世界と相通ずるものであった。 同年2月、三島は七丈書院を合併した筑摩書房の雑誌『展望』編集長の臼井吉見を訪ね、8作の原稿(花ざかりの森、中世、サーカス、岬にての物語、彩絵硝子、煙草など)を持ち込んだ。臼井は、あまり好みの作風でなく肌に合わないが「とにかく一種の天才だ」と、「中世」を採用しようとするが、顧問の中村光夫は「とんでもない、マイナス150点(120点とも)だ」と却下し没となった。がっかりした三島は、〈これは自分も、地道に勉強して役人になる他ない〉と思わざるをえなかった。 一方、「煙草」を読んだ川端は2月15日、自身が幹部を務める鎌倉文庫発行の雑誌『人間』の編集長・木村徳三に原稿を見せ、掲載決定がなされた。「煙草」は6月号に発表され、これが三島の戦後文壇への足がかりとなり、以後、川端と生涯にわたる師弟関係のような強い繋がりが形づくられた。 しかしながら、その関係は小説作法(構成など)の指導や批判を仰いで師事するような門下生的なものではなかったため、三島は川端を「先生」とは呼ばず、「自分を世の中に出して下さった唯一の大恩人」「一生忘れられない方」という川端への強い思いから、一人の尊敬する近しい人として、あえて「川端さん」と呼び、献本する際も必ず「様」と書いた。川端は、三島が取りかかっていた初めての長編(盗賊)の各章や「中世」も親身になって推敲指導し、大学生の三島を助けた。 臼井や中村が、ほとんど無名の学生作家・三島の作品を拒絶した中、新しい才能の発掘に長け、異質な新人に寛容だった川端が三島を後援したことにより、「新人発見の名人」という川端の称号は、その後さらに強められることになる。職業柄、多くの新人作家と接してきた木村徳三も、会った最初の数分で、「圧倒されるほどの資質を感知」したのは、加藤周一と三島の2人しかいないとし、三島は助言すればするほど、驚嘆する「才能の輝きを誇示」して伸びていったという。 しかし当時、借家であった三島の家(平岡家)は追い立てを受け、経済状況が困窮していた。父・梓が戦前の1942年(昭和17年)から天下っていた日本瓦斯用木炭株式会社(10月から日本薪炭株式会社)は終戦で機能停止となっていた。三島は将来作家として身を立てていく思いの傍らで、貧しさが文学に影響しないよう(商業的な執筆に陥らぬため)、生活維持のために大学での法学の勉強にも勤しんでいた。梓も終戦の日に一時、息子が作家になることに理解を示していたが、やはり安定した大蔵省の役人になることを望んでいた。 ある日、木村徳三は、三島と帝大図書館前で待ち合わせ、芝生で1時間ほど雑談した際、講義に戻る三島を、好奇心から跡をつけて教室を覗いた。その様子を木村は、「三島君が入った二十六番教室をのぞいてみると、真面目な優等生がするようにあらかじめ席をとっておいたらしい。教壇の正面二列目あたりに着席する後姿が目に入った。怠け学生だった私などの考えも及ばぬことであった」と述懐している。 同年夏、蓮田善明が終戦時に自決していたことを初めて知らされた三島は、11月17日に、清水文雄、中河与一、栗山理一、池田勉、桜井忠温、阿部六郎、今田哲夫と共に成城大学素心寮で「蓮田善明を偲ぶ会」を開き、〈古代の雪を愛でし 君はその身に古代を現じて雲隠れ玉ひしに われ近代に遺されて空しく 靉靆の雪を慕ひ その身は漠々たる 塵土に埋れんとす〉という詩を、亡き蓮田に献じた。 戦後彼らと距離を置いた伊東静雄は欠席し、林富士馬も、蓮田の死を「腹立たしい」と批判し、佐藤春夫は蓮田を庇った。三島は偲ぶ会の翌日、清水宛てに、〈黄菊のかをる集りで、蓮田さんの霊も共に席をならべていらつしやるやうに感じられ、昔文藝文化同人の集ひを神集ひにたとへた頃のことを懐かしく思ひ返しました。かういふ集りを幾度かかさねながら、文藝文化再興の機を待ちたいと存じますが如何?〉と送った。 敗戦前後に渡って書き綴られた「岬にての物語」は、川端のアドバイスにより講談社の『群像』に持ち込み、11月号に無事発表された。この売り込みの時、三島は和服姿で袴を穿いていたという。『人間』の12月号には、川端から『将軍義尚公薨逝記』を借りて推敲した「中世」が全編掲載された。 当時の三島は両親と同居はしていたものの、親から生活費の援助は受けずに自身の原稿料で生活を賄い、弟・千之にも小遣いを与えていたことが、2005年(平成17年)に発見された「会計日記」(昭和21年5月から昭和22年11月まで記載)で明らかになった。この金銭の支出記録は、作家として自立できるかどうかを模索するためのものだったと見られている。 川端と出会ったことで、三島のプロ作家としての第一歩が築かれたが、まだ三島がこの世に生れる前から2人には運命的な不思議な縁があった。三島の父・梓が東京帝大法学部の学生の時、正門前で同級生の三輪寿壮が、見知らぬ「貧弱な一高生」と歩いているところに出くわしたが、それが川端だった。その数日後、梓は三輪から、川端康成という男は「ぼくらの持っていないすばらしい感覚とか神経の持主」だから、君も付き合ってみないかと誘われたが、文学に疎かった梓は、「畑ちがいの人間とはつきあう資格はないよ」と笑って紹介を断わったという。 ===学生作家時代と太宰治との対面=== 「煙草」や「中世」が掲載されたものの、それらに対する評価は無く、法学の勉強も続けていた三島だったが、作品が雑誌掲載されたことで何人かの新たな文学的交友も得られ、その中の矢代静一(早稲田高等学院在学中)らに誘われ、当時青年から熱狂的支持を得ていた太宰治と、太宰理解者の亀井勝一郎を囲む集いに参加することにした。三島は太宰の〈稀有の才能〉は認めていたが、その〈自己劇画化〉の文学が嫌いで、〈愛憎の法則〉によってか〈生理的反撥〉も感じていた。 1946年(昭和21年)12月14日、三島は紺絣の着物に袴を身につけ、中野駅前で矢代らと午後4時に待ち合わせし、〈懐ろに匕首を呑んで出かけるテロリスト的心境〉で、酒宴が開かれる練馬区豊玉中2‐19の清水家の別宅にバスで赴いた。 三島以外の出席者は皆、矢代と同じ府立第五中学校出身で、中村稔(一高在学)、原田柳喜(慶応在学)、相沢諒(駒沢予科在学)、井坂隆一(早稲田高在学)、新潮社勤務の野原一夫、その家に下宿している出英利(早稲田高在学、出隆の次男)と高原紀一(一橋商学部)、家主の清水一男(五中在学の15歳)といった面々であった。 太宰の正面の席に導かれ、太宰が時々思い出したように上機嫌で語るアフォリズムめいた文学談に真剣に耳を傾けていた三島は、森鴎外についての意見を求めるが、太宰は、「そりゃ、おめえ、森鴎外なんて小説家じゃねえよ。第一、全集に載っけている写真を見てみろよ。軍服姿の写真を堂々と撮させていらあ、何だい、ありゃ……」と太宰流の韜晦を込めて言った。 下戸の三島は、「どこが悪いのか」としらふの改まった表情で真面目に反論し鴎外論を展開するが、酔っぱらいの太宰はまともに取り合わず、両者の会話は噛み合わなかった。その酒宴に漂う〈絶望讃美〉の〈甘ったれた〉空気、太宰を司祭として〈自分たちが時代病を代表してゐるといふ自負に充ちた〉馴れ合いの雰囲気を感じていた三島は、この席で明言しようと決めていた〈僕は太宰さんの文学はきらいなんです〉という言葉をその時に発した。 これに対し太宰は、虚を衝かれたような表情をし、「きらいなら、来なけりゃいいじゃねえか」と顔をそむけた後、誰に言うともなく、「そんなことを言ったって、こうして来てるんだから、やっぱり好きなんだよな。なあ、やっぱり好きなんだ」と言った。気まずくなった三島はその場を離れ、それが太宰とのたった一度きりの対決となった。その後、太宰は「斜陽」を『新潮』に連載するが、これを読んだ三島は川端に以下のような感想を綴っている。 太宰治氏「斜陽」第三回も感銘深く読みました。滅亡の抒事詩に近く、見事な芸術的完成が予見されます。しかしまだ予見されるにとどまつてをります。完成の一歩手前で崩れてしまひさうな太宰氏一流の妙な不安がまだこびりついてゐます。太宰氏の文学はけつして完璧にならないものなのでございませう。しかし抒事詩は絶対に完璧であらねばなりません。 ― 三島由紀夫「川端康成宛ての書簡」(昭和22年10月8日付) 1947年(昭和22年)の4月、『古事記』と『日本書紀』の「衣通姫伝説」を題材にした「軽王子と衣通姫」が『群像』に発表された。前年の9月16日に偶然に再会した人妻の永井邦子(旧姓・三谷)とは、その後11月6日に来電があり何度か会い、友人らともダンスホールに通っていた三島だったが、心の中には〈生活の荒涼たる空白感〉や〈時代の痛み〉を抱えていた。 同年6月27日、三島は新橋の焼けたビルにあった新聞社・新夕刊で林房雄を初めて見かけた。同年7月、就職活動をしていた三島は住友(銀行か)と日本勧業銀行の入行試験を受験するが、住友は不採用となり、勧銀の方は論文や英語などの筆記試験には合格したものの、面接で不採用となった。やはり、役人になることを考えた三島は、同月から高等文官試験を受け始めた。 8月には、軽井沢を舞台にした「夜の仕度」を『人間』に発表。この作品は戦時中の邦子との体験を元に、堀辰雄の『聖家族』流にフランス心理小説に仮託した手法をとったものであった。林房雄は、これを中村真一郎の「妖婆」と共に『新夕刊』の日評で取り上げ、「夜の仕度」を「今の日本文壇が喪失してゐる貴重なもの」と高評し、これを無視しようとする「文壇の俗常識を憎む」とまで書いた。 これに感激した三島は、林にお礼を言いに9月13日の新夕刊の「13日会」に行った。林は酔って、帰りに3階の窓から放尿するなど豪放であったが、まだ学生の三島を一人前の作家として認めて話し相手になったため、三島は林に好感を抱き、親交を持つようになった。この時期三島は、堀辰雄の弟子であった中村真一郎の所属するマチネ・ポエティックの作家たち(加藤周一、福永武彦、窪田啓作)に親近感を持ち座談などするが、次第に彼らの思想的な〈あからさまなフランス臭〉や、日本古来の〈危険な美〉である心中を認めない説教的ヒューマニズムに、〈フランスはフランス、日本は日本じゃないか〉と反感を覚え同人にはならなかった。 「夜の仕度」は、当時の文壇から酷評され、「うまい」が「彼が書いている小説は、彼自身の生きることと何の関係もない」という高見順や中島健蔵の無理解な合評が『群像』の11月号でなされた。これに憤慨し、わかりやすいリアリズム風な小説ばかり尊ぶ彼らに嫌気がさしていた三島は、執筆中であった「盗賊」の創作ノートに、〈この低俗な日本の文壇が、いさゝかの抵抗も感ぜずに、みとめ且つとりあげる作品の価値など知れてゐるのだ〉と書き撲った。 大学卒業間近の11月20日、三島の念願であった短編集『岬にての物語』が桜井書店から刊行された。「岬にての物語」「中世」「軽王子と衣通姫」を収めたこの本を伊東静雄にも献呈した三島は、伊東からの激励の返礼葉書に感激し、〈このお葉書が私の幸運のしるしのやうに思へ、心あたゝかな毎日を送ることができます〉と喜びを伝え、以下のような文壇への不満を書き送っている。 東京のあわたゞしい生活の中で、高い精神を見失ふまいと努めることは、プールの飛込台の上で星を眺めてゐるやうなものです。といふと妙なたとへですが、星に気をとられてゐては、美しいフォームでとびこむことができず、足もとは乱れ、そして星なぞに目もくれない人々におくれをとることになるのです。夕刻のプールの周辺に集まつた観客たちは、選手の目に映る星の光など見てくれません。(中略) 「私が第一行を起すのは絶体絶命のあきらめの果てである。つまり、よいものが書きたいとの思ひを、あきらめて棄ててかかるのである」 川端康成氏にかつてこのやうな烈しい告白を云はせたものが何であるかだんだんわかつてまゐりました。(中略)横光利一氏の死に対してあらゆる非礼と冒*479*がつづけられてゐます。私の愛するものがそろひもそろつてこのやうに踏み躙られてゐる場所でどうしてのびのびと呼吸をすることなどできませう。 ― 三島由紀夫「伊東静雄宛ての書簡」(昭和23年3月23日付) ===文壇への挑戦――仮面の告白=== 1947年(昭和22年)11月28日、三島は東京大学法学部法律学科を卒業した(同年9月に東京帝国大学から名称変更)。卒業前から受けていた様々な種類の試験をクリアし、12月13日に高等文官試験に合格した三島は(成績は合格者167人中138位)、12月24日から大蔵省に初登庁し、大蔵事務官に任官されて銀行局国民貯蓄課に勤務することになった。 当時大蔵省は霞が関の庁舎がGHQに接収されていたため、焼け残った四谷第三小学校を仮庁舎としていた。銀行局長は愛知揆一、主計局長は福田赳夫で、基本給(月給)は1,350円であった。大蔵省同期入省者(22年後期組)は、三島の他、長岡實、田中啓二郎など全26名だった。三島は、「こんなのっぺりした野郎でござんすが何分よろしく」と挨拶したという。 同12月には、「自殺企図者」(長編『盗賊』第2章)、短編「春子」や「ラウドスピーカー」が各誌に掲載された。大蔵省入省してすぐの頃、文章力を期待された三島は、国民貯蓄振興大会での大蔵大臣(栗栖赳夫)の演説原稿を書く仕事を任された。その冒頭文に三島は、〈…淡谷のり子さんや笠置シズ子さんのたのしいアトラクションの前に、私如きハゲ頭のオヤジがまかり出まして、御挨拶を申上げるのは野暮の骨頂でありますが…〉と書き、課長から怒られ赤鉛筆でバッサリと削られた。将来有名作家となる三島の原稿を削除したという一件は、後々まで大蔵省内で語り継がれるエピソードとなる。 翌1948年(昭和23年)も、『進路』1月号の「サーカス」を皮切りに多くの短編を発表し、〈役所と仕事と両方で綱渡りみたいな〉生活をしていた三島だったが、この頃の〈やけのやんぱちのニヒリスティックな耽美主義〉の根拠を自ら分析する必要を感じていた。 そのころ私の文学青年の友人たちには、一せいに死と病気が襲ひかかつてゐた。自殺者、発狂者は数人に及び、病死者も相次ぎ、急速な貧困に落ちて行つたものも二三にとどまらず、私の短かい文学的青春は、おそろしいほどのスピードで色褪せつつあつた。又それは、戦争裁判の判決がはじまりつつある時代であつた。(中略)せつせと短篇小説を書き散らしながら、私は本当のところ、生きてゐても仕様がない気がしてゐた。ひどい無力感が私をとらえてゐた。(中略)私は自分の若さには一体意味があるのか、いや、一体自分は本当に若いのか。といふやうな疑問にさいなまれた。 ― 三島由紀夫「私の遍歴時代」 役人になったものの相変わらず文筆業を続ける息子の将来に不安を抱いた父・梓は、鎌倉文庫の木村徳三を訪ね、「あなた方は、公威が若くて、ちょっと文章がうまいものだから、雛妓、半玉を可愛がるような調子でごらんになっているのじゃありませんか。あれで椎名麟三さんのようになれるものですかね」と、息子がはたして朝日新聞に小説連載するような一人前の作家になれるのか聞きに来た。木村は、「花形作家」になれるかは運、不運によるが「一本立ちの作家」になれる力量はあると答えたが、梓は終始浮かない様子だったという。 同年6月、雑誌『近代文学』の第2次同人拡大の呼びかけに応じて、三島も同人となった。三島はその際、天皇制を認めるなら加入してもよいという条件で参加した。この第2次参加の顔ぶれは、椎名麟三、梅崎春生、武田泰淳、安部公房らがいた。6月19日には、玉川上水で13日に入水自殺した太宰治の遺体が発見された。太宰の遺作『人間失格』は大きな反響を呼んだ。 同年の7月か8月、三島は役所勤めと執筆活動の二重生活による過労と睡眠不足で、雨の朝の出勤途中、長靴が滑って渋谷駅ホームから線路に転落した。幸い電車が来ないうちに這い上がれたが危なかった。この事故をきっかけに息子が職業作家になることを許した梓は、「役所をやめてよい。さあ作家一本槍で行け、その代り日本一の作家になるのが絶対条件だぞ」と言い渡した。 同年8月下旬、河出書房の編集者・坂本一亀(坂本龍一の父)と志邨孝夫が、書き下ろし長編小説の執筆依頼のために大蔵省の三島を訪ねた。三島は快諾し、「この長篇に作家的生命を賭ける」と宣言した。そして同年9月2日、三島は創作に専念するため大蔵省に辞表を提出し、9月22日に「依願免本官」という辞令を受け退職した。 同年10月6日、芦田内閣総辞職の号外の鈴が鳴り響く晩、神田の喫茶兼酒場「ランボオ」の2階で、埴谷雄高、武田泰淳、野間宏、中村真一郎、梅崎春生、椎名麟三の出席する座談会(12月の同人誌『序曲』創刊号)に三島も加わった。その時、三島と初対面だった埴谷は、真正面に座った三島の「魅力的」な第一印象を、「数語交わしている裡に、その思考の廻転速度が速いと解るような極めて生彩ある話ぶり」だったとしている。 もし通常の規準をマッハ数一とすれば、三島由紀夫の廻転速度は一・八ぐらいの指数をもっていると測定せねばならぬほどであった。私は彼と向いあわせているので、ただに会話の音調を聞いているばかりでなく、会話に附随するさまざまな動作のかたちを正面から眺める位置にあったが、間髪をいれず左右を振りむいてする素早い応答の壺にはまった適切さを眺めていると、いりみだれて閃く会話の火花のなかで酷しく訓練されたもの、例えば、宴会にあるひとりのヴィヴィッドな芸者の快感といった構図がそこから聯想されるのであった。(中略)三島由紀夫に向って最も多く応答しているのは、偶然左隣りに腰かけている野間宏ということになるのであったが、困ったことに、野間宏の思考の廻転速度はマッハ数〇・四ぐらいなのであった。 ― 埴谷雄高「三島由紀夫」 河出書房から依頼された長編のタイトルを〈仮面の告白〉と定めた三島は、〈生まれてはじめての私小説〉(ただし文壇的私小説でない)に挑み、〈今まで仮想の人物に対して鋭いだ心理分析の刃を自分に向けて、自分で自分の生体解剖をしよう〉という試みで11月25日に起筆した。同月20日には、書き上げまで2年以上費やした初の長編『盗賊』が真光社から刊行され、12月1日には、短編集『夜の仕度』が鎌倉文庫から刊行された 1949年(昭和24年)2月24日、作家となってから初上演作の戯曲『火宅』が俳優座により初演され、従来のリアリズム演劇とは違う新しい劇として、神西清や岸田国士などの評論家から高い評価を受けた。4月24日には、「仮面の告白」後半原稿を喫茶店「ランボオ」で坂本一亀に渡した。紫色の古風な袱紗から原稿を取り出して坂本に手渡す三島を、店の片隅で目撃していた武田泰淳は、その三島の顔を「精神集中の連続のあとの放心と満足」に輝いていたと述懐している。 三島にとっての〈裏返しの自殺〉、〈生の回復術〉であり、〈ボオドレエルの「死刑囚にして死刑執行人」といふ二重の決心で自己解剖〉した渾身の書き下ろし長編『仮面の告白』は同年7月5日に出版され、発売当初は反響が薄かったものの、10月に神西清が高評した後、花田清輝に激賞されるなど文壇で大きな話題となった。年末にも読売新聞の昭和24年度ベストスリーに選ばれ、作家としての三島の地位は不動のものとなった。 この成功以降も、恋愛心理小説「純白の夜」を翌1950年(昭和25年)1月から『婦人公論』で連載し、同年6月30日には、〈希臘神話の女性〉に似たヒロインの〈狂躁〉を描いた力作『愛の渇き』を新潮社から書き下ろしで出版した。同年7月からは、光クラブ事件の山崎晃嗣をモデルとした話題作「青の時代」を『新潮』で連載するなど、〈一息つく暇もなく〉、各地への精力的な取材旅行に励み、長編小説の力倆を身につけていった。 8月1日に立ち退きのため、両親・弟と共に目黒区緑ヶ丘2323番地(現・緑が丘1丁目17‐24)へ転居。同月に岸田国士の「雲の会」発足に小林秀雄、福田恆存らと参加し、年上の文学者らとの交流が広まってゆき、その後、中村光夫の発案の「鉢の木会」にも顔を見せるようになった。10月には、能楽を基調にした「邯鄲」を『人間』に掲載し、劇作家としての挑戦の幅も広げていった。この作品は、のちに『近代能楽集』としてまとめられる1作目となり、矢代静一を通じて前年に知り合った芥川比呂志の演出により12月に上演された。 ===ギリシャへの憧れ――潮騒=== 1951年(昭和26年)1月から三島は、〈廿代の総決算〉として〈自分の中の矛盾や対立物〉の〈対話〉を描く意気込みで、ギリシャ彫刻のような美青年と老作家の登場する「禁色」(第一部)を『群像』に連載開始した。同性愛のアンダーグラウンドを題材としたこの作品は、文壇で賛否両論の大きな話題を呼び、11月10日に『禁色 第一部』として新潮社から刊行された。その間も三島は、数々の短編や中間小説「夏子の冒険」などを各誌に発表し、初の評論集『狩と獲物』も刊行するなど旺盛な活動を見せた。 しかし以前から、〈一生に一度でよいから、パルテノンを見たうございます〉と川端康成に告げ、自分の中の余分な〈感受性〉を嫌悪していた三島は、〈肉体的存在感を持つた知性〉を欲し、広い世界を求めていた。ちょうどこの頃、父・梓の一高時代の旧友である朝日新聞社出版局長の嘉治隆一から外国行きを提案され、三島は願ってもみない話に快諾した。 厳しい審査(当時はGHQ占領下で一般人の海外旅行は禁止されていたため)をクリアした三島は、同年12月25日から、朝日新聞特別通信員として約半年間の初の世界一周旅行に向け横浜港からプレジデント・ウィルソン号で出帆した。最初の目的地・ハワイに向かう船上で〈太陽と握手した〉三島は、日光浴をしながら、〈自分の改造といふこと〉を考え始めた。 ハワイから北米(サンフランシスコ、ロサンゼルス、ニューヨーク、フロリダ、マイアミ、サン・フアン)、南米(リオ・デ・ジャネイロ、サン・パウロ)、欧州(ジュネーブ、パリ、ロンドン、アテネ、ローマ)を巡る旅の中でも、特に三島を魅了したのは眷恋の地・ギリシャ・アテネと、ローマのバチカン美術館で観たアンティノウス像であった(詳細はアポロの杯#見聞録のあらましを参照)。 古代ギリシャの〈肉体と知性の均衡〉への人間意志、明るい古典主義に孤独を癒やされた三島は、〈美しい作品を作ることと、自分が美しいものになることの、同一の倫理基準〉を発見し、翌1952年(昭和27年)5月10日に羽田に帰着した。この世界旅行記は『アポロの杯』としてまとめられ、10月7日に朝日新聞社から刊行された。 旅行前から予定していた「秘楽」(『禁色』第二部)の連載を、帰国後の8月から『文學界』で開始していた三島は、旅行後すぐの〈お土産小説〉を書くことを回避し、伊豆の今井浜で実際に起きた溺死事件を題材とした「真夏の死」を『新潮』10月号に発表した。 また、旅行前に書き上げていた「卒塔婆小町」は、三島が渡航中の2月に文学座により初演された。この作品は「邯鄲」「綾の鼓」に続く『近代能楽集』の3作目となり、三島の戯曲の中でも特に優れた成功作となった。これにより三島は劇作家としても本物の力量が認められ始めた。 三島は、ギリシャでの感動の続きで、古代ギリシャの恋愛物語『ダフニスとクロエ』を下敷きにした日本の漁村の物語を構想した。モデルとなる島探しを、昔農林省(農林水産省)にいた父・梓に依頼した三島は、候補の島の中から〈万葉集の歌枕や古典文学の名どころ〉に近い三重県の神島(かみしま)を選んだ。 1953年(昭和28年)3月に、鳥羽港から神島に赴いた三島は、八代神社、神島灯台、一軒のパチンコ店も飲み屋もない島民の暮しや自然、例祭神事、漁港、歴史や風習、漁船員の仕事を取材し、8月末から9月にも再度訪れ、台風や海女などについて取材した。神島の島民たちは当初、見慣れない〈顔面蒼白〉の痩せた三島の姿を見て、病気療養のために島に来ている人と勘違いしていたという。 この島を舞台にした新作を創作中も、練り直された「秘楽」の連載を並行していた三島は、9月30日に『秘楽 禁色第二部』を刊行し、男色の世界を描いた『禁色』が完結された。12月には、少年時代から親しんだ歌舞伎に初挑戦し、芥川龍之介の原作小説を改作した歌舞伎『地獄変』を中村歌右衛門の主演で上演した。 伊勢湾に浮かぶ小さな島に住む健康的で素朴な若者と少女の純愛を描いた書き下ろし長編『潮騒』は、翌1954年(昭和29年)6月10日に新潮社から出版されるとベストセラーとなり、すぐに東宝で映画化されて三船敏郎の特別出演(船長役)もキャスティングされた。三島はこの作品で第1回新潮社文学賞を受賞するが、これが三島にとっての初めての文学賞であった。 これを受け、2年後にはアメリカ合衆国でも『潮騒』の英訳(The Sound of the Waves)が出版されベストセラーとなり、三島の存在を海外でも知られるきっかけの作品となった。11月には三島オリジナルの創作歌舞伎『鰯売恋曳網』が初演され、余裕を感じさせるファルスとして高評価された。この演目は以後長く上演され続ける人気歌舞伎となった。 この時期の他の作品には、『潮騒』の明るい世界とは対照的な終戦直後の青年の頽廃や孤独を描いた『鍵のかかる部屋』『急停車』や、三島の学習院時代の自伝的小説『詩を書く少年』、少年時代の憧れだったラディゲを題材にした『ラディゲの死』、〈菊田次郎といふ作者の分身〉を主人公にしたシリーズ(『火山の休暇』『死の島』)の終焉作『旅の墓碑銘』も発表された。 ===自己改造の試み――金閣寺=== 1955年(昭和30年)1月、奥只見ダムと須田貝ダムを背景にした「沈める滝」を『中央公論』に連載開始。同月には、少年時代の神風待望の心理とその〈奇蹟の到来〉の挫折感を重ね合わせた「海と夕焼」も『群像』に発表したが、三島の〈一生を貫く主題〉、〈切実な問題を秘めた〉この作品への反応や論評はなかった。三島は、もし当時この主題が理解されていれば、それ以降の自分の生き方は変っていたかもしれないと、のちに語っている。 同年9月、三島は、週刊読売のグラビアで取り上げられていた玉利齊(早稲田大学バーベルクラブ主将)の写真と、「誰でもこんな身体になれる」というコメントに惹かれ、早速、編集部に電話をかけて玉利を紹介してもらった。玉利が胸の筋肉をピクピク動かすのに驚いた三島は、さっそく自宅に玉利を招いて週3回のボディビル練習を始めた。この頃、映画『ゴジラの逆襲』が公開されて観ていたが、三島は自身を〈ゴジラの卵〉と喩えた。 同年11月、京都へ取材に行き、青年僧による金閣寺放火事件(1950年)を題材にした次回作の執筆に取りかかった三島は、『仮面の告白』から取り入れていた森鴎外的な硬質な文体をさらに鍛え上げ、「肉体改造」のみならず文体も練磨し〈自己改造〉を行なった。その双方を磨き上げ昇華した文体を駆使した「金閣寺」は、1956年(昭和31年)1月から『新潮』に連載開始された。 同月には、後楽園ジムのボディビル・コーチ・鈴木智雄(元海兵の体操教官)に出会い、弟子入りし、3月頃に鈴木が自由が丘に開いたボディビルジムに通うことになった。三島は自由が丘で知り合った町内会の人に誘われ、8月には熊野神社の夏祭りで、生まれて初めて神輿をかつぎ陶酔感を味わった。 元々痩身で虚弱体質の三島であったが、弛まぬ鍛錬でのちに知られるほどの偉容を備えた体格となり、胃弱も治っていった。最初は10キロしか挙げられなかったベンチプレスも、約2年後に有楽町の産経ボディビルクラブに練習場所を変えた頃には60キロを挙上するまでに至り、その後胸囲も1メートルを超え、ボディビルは生涯継続されていくことになる。 1月からの連載が終り、10月に『金閣寺』が新潮社から刊行された。傑作の呼び声高い作品として多数の評論家から高評価を受けた『金閣寺』は三島文学を象徴する代表作となり、第8回読売文学賞も受賞した。それまで三島に懐疑的だった評者からも認められ、三島は文壇の寵児となった。また、この年には、「日本空飛ぶ円盤研究会」に入会し、7月末の熱海ホテル滞在中に円盤観測に挑戦した。 9月には、鈴木智雄の紹介で、日大拳闘部の好意により、小島智雄の監督の下、ボクシングの練習も始めた。翌1957年(昭和32年)5月、小島智雄をスパーリング相手に練習を行っている三島を、前年の対談で知り合った石原慎太郎が訪ね、8ミリに撮影した。 これを観た三島は、〈石原慎太郎の八ミリシネにとつてもらひましたが、それをみていかに主観と客観には相違があるものかと非常に驚き、目下自信喪失の状態にあります〉と記し、以後ボクシングはもっぱら観戦の方に回り、スポーツ新聞に多くの観戦記を寄稿することになった。 この時期の三島は、『金閣寺』のほかにも、『永すぎた春』や『美徳のよろめき』などのベストセラー作品を発表し、そのタイトルが流行語になった。川端康成を論じた『永遠の旅人』も好評を博し、戯曲でも『白蟻の巣』が第2回岸田演劇賞を受賞、人気戯曲『鹿鳴館』も発表されるなど、旺盛な活動を見せ、戯曲集『近代能楽集』(「邯鄲」「綾の鼓」「卒塔婆小町」「葵上」「班女」を所収)も刊行された。 私生活でも、1954年(昭和29年)夏に中村歌右衛門の楽屋で知り合った豊田貞子(赤坂の料亭の娘。『沈める滝』『橋づくし』のモデル)と深い交際をしていた頃で、三島の生涯において最も豊かな成功に輝いていた時期であったが、結局貞子とは破局し、1957年(昭和32年)5月、新派公演『金閣寺』を観た日を最後に別離した。 花嫁候補を探していた三島が、歌舞伎座で隣り合わせになる形で会い、銀座6丁目の小料理屋「井上」の2階で、独身時代の正田美智子とお見合いをしたとされるのも、1957年(昭和32年)頃である。なお、同年3月15日、三島は母と共に、正田美智子が首席で卒業した聖心女子大学卒業式を参観していたという。 ===時代の中で――鏡子の家=== 前年8月の『潮騒』(The Sound of Waves)の初英訳刊行に続き、戯曲集『近代能楽集』(Five Modern Noh Plays)も1957年(昭和32年)7月にクノップ社から英訳出版されたことで、三島は同社に招かれ渡米した。その際に現地の演劇プロデューサーから上演申し込みがあり、実現に向けて約半年間ニューヨークに辛抱強く滞在したが、企画が難航し延期となってしまった。 一人ぼっちのホテルでの無為で孤独なニューヨークの年越しに耐えられず、正月をマドリード・ローマ経由で過ごして帰国した三島は、これから先の人生を一人きりでは生きられないことを身にしみ、結婚の意志を固くした。折しも、ニューヨーク滞在中に父・梓が病気入院し、帰国後の2月にも母・倭文重ががんと疑われた甲状腺の病気で手術したことも、それに拍車をかけた。 1958年(昭和33年)3月に、幼馴染の湯浅あつ子から見せられた女子大生・杉山瑤子(日本画家・杉山寧の長女)の写真を一目で気に入った三島は、4月にお見合いをし、6月1日に川端康成夫妻を媒酌人として明治記念館で瑤子との結婚式を挙げ、麻布の国際文化会館で披露宴が行われた。同年8月には雑誌に連載開始された小高根二郎の「蓮田善明とその死」を読み始め、11月末からは、ボディビルに加えて、中央公論社の嶋中鵬二と笹原金次郎の紹介により第一生命の道場で本格的に剣道も始めた。 同年3月には、ニューヨーク滞在中から構想していた書き下ろし長編『鏡子の家』の執筆も開始されていた。この作品は4人の青年と1人の〈巫女的な女性〉を主人公とし、〈「戦後は終つた」と信じた時代の、感情と心理の典型的な例〉を描こうとした野心作であった。時代背景は高度経済成長前の2年間で(昭和29年4月から昭和31年4月)、三島自身の青春と「戦後」と言われた時代への総決算でもあった。 翌1959年(昭和34年)9月20日の『鏡子の家』刊行までの約1年半の間、戯曲『薔薇と海賊』発表、結婚、国内新婚旅行、エッセイ『不道徳教育講座』、評論『文章読本』発表、新居建設(設計・施工は清水建設の鉾之原捷夫)など多忙であった。大田区馬込東1丁目1333番地(現・南馬込4丁目32‐8)に建設したビクトリア風コロニアル様式の新居へは5月10日に引っ越し、6月2日に長女・紀子が誕生した。ちょうどこの頃、新安保条約の採決を巡る大規模なデモ隊が国会周辺で吹き荒れ、三島はそれを記者クラブのバルコニーから眺めた。 三島の渾身作『鏡子の家』は1か月で15万部売れ、同世代の評論家の少数からは共感を得たものの、文壇の評価は総じて辛く、三島の初めての「失敗作」という烙印を押された。三島の落胆は大きく、この評価は作家として三島が味わった最初の大きな挫折(転機)だった。 同年11月、三島は大映と映画俳優の専属契約を結び、翌1960年(昭和35年)3月に公開された『からっ風野郎』(増村保造監督)でチンピラやくざ役を演じた。この映画の撮影中に頭部をエスカレーターに強打し入院する一幕もあった。同年1月には、都知事選挙を題材とした「宴のあと」も『中央公論』で連載開始するが、モデルとした有田八郎から9月に告訴されプライバシー裁判の被告となってしまった(詳細は「宴のあと」裁判を参照のこと)。 1961年(昭和36年)1月は、二・二六事件に題材をとり、のちに自身で監督・主演で映画化する「憂国」を『小説中央公論』に発表。2月には、その雑誌に同時掲載された深沢七郎の「風流夢譚」を巡る嶋中事件に巻き込まれ、推薦者と誤解されて右翼から脅迫状を送付されるなど、2か月間警察の護衛を受け生活することを余儀なくされた。 同年9月から、写真家・細江英公の写真集『薔薇刑』のモデルとなり、三島邸で撮影が行われた。写真発表は翌1962年(昭和37年)1月に銀座松屋の「NON」展でなされ、その鍛え上げられた肉体をオブジェとして積極的に世間に披露した。こうした執筆活動以外の三島の一連の話題がマスメディアに取り上げられると共に、文学に関心のない層にも大きく三島の名前が知られるようになった。 そのため週刊誌などで普段の自身の日常生活や健康法を披露する機会も増えた。遅く起きる三島の朝食は、午後2時にトーストと目玉焼き、グレープフルーツ、ホワイト・コーヒーを摂り、午後7時頃の昼食には週3回はビフテキと付け合わせのじゃがいも、玉蜀黍、サラダをたっぷり〈馬の如く〉食べ、夜中の夕食は軽くお茶漬けで済ますのが習慣だった。 また、カニの形状が苦手で、「蟹」という漢字を見るのも怖くてダメだった三島だが、すでにむき身になった蟹肉や缶詰の蟹は食べることができ、蟹の絵のパッケージは即座に剥がして取っていたという。酒は家ではほとんど飲まないが、煙草はピースを1日3箱くらい吸っていた。 1963年(昭和38年)には、三島が所属していた文学座内部での一連の分裂騒動があり、杉村春子と対立する福田恆存が創立した「劇団雲」への座員29人の移動後にも、文学座の立て直しを試みた三島の『喜びの琴』を巡って杉村春子らが出演拒否するという文学座公演中止事件(喜びの琴事件)が起こり、再びトラブルが相次いだ。 この時期には、安保闘争や東西冷戦による水爆戦争への危機感が強かった社会情勢があり、そうした政治背景を反映して、『鏡子の家』から繋がる〈世界崩壊〉〈世界の終末〉の主題を持つ『美しい星』や『帽子の花』、評論『終末観と文学』などが書かれ、イデオロギーを超えた純粋な心情をテーマにした『剣』や評論『林房雄論』も発表された。 1964年(昭和39年)初めには『浜松中納言物語』を読み、『豊饒の海』の構想もなされ始め、同年10月の東京オリンピックでは、新聞各紙の特派員記者として各種競技を連日取材した。開会式では天皇陛下の立派な開会宣言に感無量となり、聖火台に点火する最終聖火ランナーの〈白煙に巻かれた胸の日の丸〉への静かな感動と憧れを、〈そこは人間世界で一番高い場所で、ヒマラヤよりもつと高いのだ〉と三島はレポートした。 坂井君は聖火を高くかかげて、完全なフォームで走つた。ここには、日本の青春の簡素なさはやかさが結晶し、彼の肢体には、権力のほてい腹や、金権のはげ頭が、どんなに逆立ちしても及ばぬところの、みづみづしい若さによる日本支配の威が見られた。この数分間だけでも、全日本は青春によつて代表されたのだつた。 ― 三島由紀夫「東洋と西洋を結ぶ火――開会式」 この時期には他にも、『獣の戯れ』、『十日の菊』(第13回読売文学賞戯曲部門賞受賞)、『黒蜥蜴』、『午後の曳航』(フォルメントール国際文学賞候補作)、『雨のなかの噴水』、『絹と明察』(第6回毎日芸術賞文学部門賞)など高評の作品も多く発表し、待望だった『近代能楽集』の「葵上」「班女」も別の主催者によりグリニッジ・ヴィレッジで上演された。 また、『仮面の告白』や『金閣寺』も英訳出版されるなど、海外での三島の知名度も上がった時期で、「世界の文豪」の1人として1963年(昭和38年)12月17日のスウェーデンの有力紙『DAGENUS NYHETER』に取り挙げられ、翌1964年(昭和39年)5月には『宴のあと』がフォルメントール国際文学賞で2位となり、『金閣寺』も第4回国際文学賞で第2位となった。国連事務総長だったダグ・ハマーショルドも1961年(昭和36年)に赴任先で事故死する直前に『金閣寺』を読了し、ノーベル財団委員宛ての手紙で大絶賛した。 なお、1963年度から1965年度のノーベル文学賞の有力候補の中に川端康成、谷崎潤一郎、西脇順三郎と共に三島が入っていたことが2014年(平成26年)から2016年(平成28年)に掛け開示され、1963年度で三島は「技巧的な才能」が注目され受賞に非常に近い位置にいたことが明らかとなった。しかし1966年度の候補者には三島の名はなかった。 三島が初めて候補者に名を連ねた1963年度の選考において委員会から日本の作家の評価を求められていたドナルド・キーンは、実績と年齢順(年功序列)を意識し日本社会に配慮しながら、谷崎、川端、三島の順で当時推薦したが、本心では三島が現役の作家で最も優れていると思っていたことを情報開示後に明かしている。ちなみに、1961年(昭和36年)5月に川端が三島にノーベル賞推薦文を依頼し、三島が推薦文を書いていたこともある。その3年前の1958年(昭和33年)度には、谷崎潤一郎の推薦文も三島が書いていた。 ===行動の誘惑――英霊の聲=== 1965年(昭和40年)初頭、三島は4年前に発表した短編小説『憂国』を自ら脚色・監督・主演する映画化を企画し、4月から撮影に入り完成させた。同年2月26日には、次回作となる〈夢と転生〉を題材とした〈世界解釈〉の本格長編小説の取材のため、奈良帯解の円照寺を初めて訪ね、その最初の巻となる「春の雪」の連載を同年9月から『新潮』で開始した(1967年1月まで)。 9月からは夫人同伴で、アメリカ、ヨーロッパ、東南アジアを旅行。長編の取材のため10月はバンコクを訪れ、カンボジアにも遠征して戯曲『癩王のテラス』の着想を得た。この頃、AP通信がストックホルム発で、1965年度のノーベル文学賞候補に三島の名が挙がっていると報じた。三島は以降の年も引き続き、受賞候補として話題に上ることになる。 11月からは、自身の〈文学と行動、精神と肉体の関係〉を分析する「太陽と鉄」を『批評』に連載開始し、戯曲『サド侯爵夫人』も発表され、傑作として高評価を受けた。この戯曲は三島の死後、フランスでも人気戯曲になった。ドナルド・キーンは、三島以前の日本文学の海外翻訳を読むのは日本文学研究者だけに限られていたのに対し、三島の作品は一般の人にまで浸透したとして、古典劇に近い『サド侯爵夫人』がフランスの地方劇場でも上演されるのは、「特別な依頼ではなく、見たい人が多いから」としている。 高度経済成長期の真っ只中の1966年(昭和41年)の正月、日の丸を飾る家が疎らになった風景を眺めながら三島は、〈一体自分はいかなる日、いかなる時代のために生れたのか〉と自問し、〈私の運命は、私が生きのび、やがて老い、波瀾のない日々のうちにたゆみなく仕事をつづけること〉を命じたが、胸の裡に、〈なほ癒されぬ浪漫的な魂、白く羽搏くものが時折感じられる〉と綴った。 私はいつしか、今の私なら、絶対にむかしの「われら」の一員に、欣然としてなり了せることができる、といふ、甘いロマンチックな夢想のとりこになりはじめる。(中略)ああ、危険だ! 危険だ! 文士が政治的行動の誘惑に足をすくはれるのは、いつもこの瞬間なのだ。青年の盲目的行動よりも、文士にとつて、もつとも危険なのはノスタルジアである。そして同じ危険と云つても、青年の犯す危険には美しさがあるけれど、中年の文士の犯す危険は、大てい薄汚れた茶番劇に決つてゐる。そんなみつともないことにはなりたくないものだ。しかし、一方では、危険を回避することは、それがどんな滑稽な危険であつても、回避すること自体が卑怯だといふ考へ方がある。 ― 三島由紀夫「『われら』からの遁走――私の文学」 自身の〈危険〉を自覚していた三島は、それを凌駕する〈本物の楽天主義〉〈どんな希望的観測とも縁もない楽天主義〉がやって来ることを期待し、〈私は私が、森の鍛冶屋のやうに、楽天的でありつづけることを心から望む〉心境でもあった。 同年1月、モノクロ短編映画『憂国』が「愛と死の儀式」(Y*480*koku ou Rites d’amour et de mort)のタイトルでツール国際短編映画祭に出品され、劇映画部門第2位となった。日本での一般公開は4月からアートシアター系でなされ、大きな話題を呼び同系映画としては記録的なヒット作となった。映画を観た安部公房は、「作品に、自己を転位させよう」という不可能性に挑戦する三島の「不敵な野望」に「羨望に近い共感」を覚えたと高評価した。 この頃、毎週日曜日に碑文谷警察署で剣道の稽古をしていた三島は、同年5月に剣道四段に合格し、前年11月から習い出した居合も、剣道の師の吉川正実を通じて舩坂良雄を師範とする大森流居合に正式入門した。三島は、舩坂良雄の兄で剣道家の舩坂弘ともこの道場で知り合い、以後交流するようになった。 6月には、二・二六事件と特攻隊の兵士の霊たちの呪詛を描いた『英霊の聲』を発表し、『憂国』『十日の菊』と共に「二・二六事件三部作」として出版された。11歳の時の二・二六事件と20歳の敗戦で〈神の死〉を体感した三島は、昭和の戦前戦後の歴史を連続して生きてきた自身の、その〈連続性の根拠と、論理的一貫性の根拠〉をどうしても探り出さなければならない気持ちだった。 〈挫折〉した青年将校ら〈真のヒーローたちの霊を慰め、その汚辱を雪ぎ、その復権を試みようといふ思ひ〉の糸を手繰る先に、どうしても引っかかるのが昭和天皇の「人間宣言」であり、自身の〈美学〉を掘下げていくと、その底に〈天皇制の岩盤がわだかまつてゐることを〉を認識する三島にとって、それを回避するわけにはいかなかった。 『英霊の聲』は天皇批判を含んでいたため、文壇の評価は賛否両論あり総じて低く、その〈冷たいあしらひ〉で、文壇人の〈右顧左眄ぶり〉がよく解った三島だったが、この作品を書いたことで、自身の無力感から救われ、〈一つの小さな自己革命〉を達成した。 瀬戸内晴美は『英霊の聲』を読み、「三島さんが命を賭けた」と思って手紙を出すと、三島から、〈小さな作品ですが、これを書いたので、戦後二十年生きのびた申訳が少しは立つたやうな気がします〉と返事が来た。この時期の作品は他に、三島としては珍しい私小説的な『荒野より』、エッセイ『をはりの美学』『お茶漬ナショナリズム』、林房雄との対談『対話・日本人論』などが発表された。この対談の中で三島は、いつか藤原定家を主人公にした小説を書く意気込みを見せた。 ===文と武の世界へ――奔馬=== 『英霊の聲』を発表した1966年(昭和41年)6月、三島は奈良県の率川神社の三枝祭(百合祭)を見学し、長編大作の第二巻となる連載「奔馬」の取材を始めた。8月下旬からは大神神社に赴き、三輪山三光の滝に打たれ座禅した後、色紙に「清明」と揮毫。その後広島県を訪れ、恩師の清水文雄らに会い、江田島の海上自衛隊第一術科学校を見学し特攻隊員の遺書を読んだ。 清水らに見送られ熊本県に到着した三島は、荒木精之らに迎られ、蓮田善明未亡人と森本忠(蓮田の先輩)と面会し、神風連のゆかりの地(新開大神宮、桜山神社など)を取材して10万円の日本刀を購入した。この旅の前、三島は清水宛てに、〈天皇の神聖は、伊藤博文の憲法にはじまるといふ亀井勝一郎説を、山本健吉氏まで信じてゐるのは情けないことです。それで一そう神風連に興味を持ちました。神風連には、一番本質的な何かがある、と予感してゐます〉と綴った。 10月、自衛隊体験入隊を希望し、防衛庁関係者や元陸将・藤原岩市などと接触し、体験入隊許可のための仲介や口利きを求めた。12月、舩坂弘の著作の序文を書いた返礼として、日本刀・関ノ孫六を贈られた。同月19日、小沢開策から民族派雑誌の創刊準備をしている若者らの話を聞いた林房雄の紹介で、万代潔(平泉澄の門人で明治学院大学)が三島宅を訪ねて来た。 翌1967年(昭和42年)1月に、その雑誌『論争ジャーナル』が創刊され、副編集長の万代潔が編集長の中辻和彦と共に三島宅を再訪し、雑誌寄稿を正式依頼して以降、三島は同グループとの親交を深めていった。同月、日本学生同盟の持丸博も三島を訪ね、翌月創刊の『日本学生新聞』への寄稿を依頼した。三島は日本を守ろうとする青年たちの純粋な志に感動し、〈覚悟のない私に覚悟を固めさせ、勇気のない私に勇気を与へるものがあれば、それは多分、私に対する青年の側からの教育の力であらう〉と綴った。 三島は42歳となるこの年の元日の新聞で、執筆中の〈大長編の完成〉が予定されている47歳の後には、〈もはや花々しい英雄的末路は永久に断念しなければならぬ〉と語り、〈英雄たることをあきらめるか、それともライフワークの完成をあきらめるか〉の二者択一の難しい決断が今年は来る予感がするとして、西郷隆盛や加屋霽堅が行動を起こした年齢を挙げながら、〈私も今なら、英雄たる最終年齢に間に合ふのだ〉と〈年頭の迷ひ〉を告白した。 4月12日から約1か月半、単身で自衛隊体験入隊した三島は、英国やノルウェー、スイスなどの民兵組織の例に習い、国土防衛の一端を担う「祖国防衛隊」構想を固め、その後、学生らを引き連れた自衛隊体験入隊を定期的に行なった。以降、三島は航空自衛隊のF‐104戦闘機への搭乗体験や、陸上自衛隊調査学校情報教育課長・山本舜勝とも親交し、共に民兵組織(のち「楯の会」の名称となる)会員への指導を行うことになる(詳細は三島由紀夫と自衛隊を参照)。 これらの活動と平行し1967年(昭和42年)2月から「奔馬」が『新潮』で連載開始された(1968年8月まで)。この小説は、血盟団の時代を背景に昭和維新に賭けた青年の自刃を描き、美意識と政治的行動が深く交錯した作品となった。同年2月28日には、川端康成、石川淳、安部公房と連名で、中共の文化大革命に抗議する声明の記者会見を行なった。 6月、日本空手協会道場に入門し、中山正敏(日本空手協会首席師範)の下、7月から空手の稽古を始めた。三島は中山に、「私は文士として野垂れ死にはしたくない。少なくとも日本人として、行動を通して〈空〉とか〈無〉というものを把握していきたい」と語ったという。 6月19日、早稲田大学国防部の代表らと会合し森田必勝と出会った。森田はその後、三島を師と仰ぎ、体験入隊の礼状として、「先生のためには、いつでも自分は命を捨てます」と三島に贈った。三島は、「どんな美辞麗句をならべた礼状よりも、あのひところにはまいった」と森田に返答した。 三島が作中人物になりきってしまう傾向を危惧していた担当編集者の菅原国隆は、三島を鎌倉の小林秀雄宅に連れ、小林を通じてそれとなく自衛隊体験入隊を止めるよう説得を試みるが、逆に変な小細工をしたことで三島から不興を買った。この頃の三島は、「奔馬」に登場するような青年たちに出会ったことを、「恐いみたいだよ。小説に書いたことが事実になって現れる。そうかと思うと事実の方が小説に先行することもある」と担当編集者の小島喜久江に語ったという。 9月下旬からは、インド政府の招きで、インド、タイ、ラオスへ夫人同伴で旅行した。第三巻「暁の寺」の取材のため、単身でベナレスやカルカッタに赴いた三島は、ノーベル文学賞受賞を期待し加熱するマスコミ攻勢から逃れるためにバンコクに滞留し、そこで三島を捕まえた特派員の徳岡孝夫と知り合い、意気投合した。 10月、『英霊の聲』とは違う形でありながらも同根の〈忠義〉を描いた戯曲『朱雀家の滅亡』を発表。同時期には『葉隠入門』、『文化防衛論』などの評論も多く発表され、『文化防衛論』においては、〈近松も西鶴も芭蕉もいない〉昭和元禄を冷笑し、自分は〈現下日本の呪い手〉であると宣言するなど、戦後民主主義への批判を明確に示した。 ===楯の会と共に――豊饒の海=== 1968年(昭和43年)2月25日、三島は論争ジャーナル事務所で、中辻和彦、万代潔、持丸博ら10名と「誓 昭和四十三年二月二十五日 我等ハ 大和男児ノ矜リトスル 武士ノ心ヲ以テ 皇国ノ礎トナラン事ヲ誓フ」という皆の血で巻紙に書いた血盟状を作成し、本名〈平岡公威〉で署名した。4月上旬には、堤清二の手配によるドゴールの制服デザイナー・五十嵐九十九デザインの制服を着て、隊員らと青梅市の愛宕神社に参拝した。 インド訪問で中共に対処する防衛の必要性を実感した三島は、企業との連携で「祖国防衛隊」の組織拡大を目指し、民族資本から資金を得て法制化してゆく「祖国防衛隊構想」を立ち上げ、経団連会長らと何度か面談していたが、5月か6月頃の面談を最後に、資金援助を断られてしまった。 三島は組織規模を縮小せざるをえなくなり、10月5日に隊の名称を「祖国防衛隊」から万葉集防人歌の「今日よりは 顧みなくて大君の醜(しこ)の御楯と出で立つ吾は」にちなんだ「楯の会」と変えた。同年8月には剣道五段に合格し、9月からはインドでのベナレス体験が反映された第三巻の「暁の寺」を『新潮』で連載開始した(1970年4月まで)。 同年10月21日の国際反戦デーにおける新左翼の新宿騒乱の激しさから、彼らの暴動を鎮圧するための自衛隊治安出動の機会を予想した三島は、それに乗じて「楯の会」が斬り込み隊として加勢する自衛隊国軍化・憲法9条改正へのクーデターを計画した。この日の市街戦を交番の屋根の上から見ていた三島の身体が興奮で小刻みに震えているのを、隣にいた山本舜勝は気づいた。 この日帰宅した息子の興奮ぶりを母・倭文重は、「手がつけられない程で、身振り手振りで宜しく事細かに話す彼の話を、私は面白いと思いつつもうす気味悪く聞いた。彼の心の底深く沈潜していたものが一挙に噴出した勢いだった」と述懐している。三島はクーデターの恰好の機会を待ちながらゲリラ演習訓練を続け、各大学で学生とのティーチ・インや防衛大学校での講演活動を行なった。三島と楯の会は、世間から「玩具の兵隊さん」と嘲笑されるのを隠れ蓑にし精鋭化していった。 その活動と並行し、同時期には戯曲『わが友ヒットラー』や、『命売ります』、評論『反革命宣言』などを発表した。また同年10月17日には川端康成のノーベル文学賞受賞が報道され、三島もすぐに祝いに駆けつけた。川端は受賞のインタビューで「運がよかった」とし、「翻訳者のおかげ」の他に、「三島由紀夫君が若すぎるということのおかげです」と答えた 1969年(昭和44年)1月には『豊饒の海』第一巻の『春の雪』、2月には第二巻『奔馬』が新潮社から刊行され、澁澤龍彦や川端康成など多くの評論家や作家から高評価された。2月11日の建国記念の日には、国会議事堂前で焼身自殺した江藤小三郎の壮絶な諌死に衝撃を受け、その青年の行動の〈本気〉に、〈夢あるひは芸術としての政治に対する最も強烈な批評〉を三島は感得した。 同年5月13日には、東大教養学部教室での全共闘主催の討論会に出席し、芥正彦、小阪修平らと激論を交わした。その中で三島は、〈つまり天皇を天皇と諸君が一言言ってくれれば、私は喜んで諸君と手をつなぐのに、言ってくれないから、いつまでたっても殺す殺すと言っているだけのことさ。それだけさ〉と発言、最後に、〈諸君の熱情は信じます。ほかのものは一切信じないとしても、これだけは信じる〉として、壇を後にした。 6月からは、勝新太郎、石原裕次郎、仲代達矢らと共演する映画『人斬り』(五社英雄監督)の撮影に入り、薩摩藩士田中新兵衛役を熱演した。共演した仲代達矢が大阪行きの飛行機内で、「作家なのにどうしてボディビルをしているんですか?」と尋ねると、三島は「僕は死ぬときに切腹するんだ」、「切腹してさ、脂身が出ると嫌だろう」と答えたので、仲代は冗談の一つだと思って聞いていたという。 この頃、三島はすでに何人かの楯の会会員らに居合を習わせ、先鋭の9名(持丸博、森田必勝、倉持清、小川正洋、小賀正義など)に日本刀を渡し「決死隊」を準備していた。これと並行し、自衛隊の寄宿舎での一日を綴った私小説『蘭陵王』、戯曲『癩王のテラス』などが発表され、日本のオデッセイは源為朝だという意気込みで、歌舞伎『椿説弓張月』も書き上げた。 しかし、7月下旬頃から古参メンバーの中辻和彦と万代潔と、雑誌『論争ジャーナル』の資金源(中辻らが田中清玄に資金援助を求めていたこと)を巡り齟齬が生じ、8月下旬に中辻、万代ら数名が楯の会を正式退会した。その後、持丸博も、会の事務を手伝っていた松浦芳子と婚約したのを機に、退会の意向を示した。 三島は「楯の会の仕事に専念してくれれば生活を保証する」と説得したが駄目だった。右腕だった持丸を失った三島の落胆は大きく、山本に、「男はやっぱり女によって変わるんですねえ」と悲しみと怒りの声でしんみり言ったという。持丸の退会により、10月12日から森田必勝が学生長となった。 この年の10月21日の国際反戦デーの左翼デモは前年とは違い、前もって配備されていた警察の機動隊により簡単に鎮圧された。三島は自衛隊治安出動が不発に終わった絶望感から、未完で終るはずだった「暁の寺」を〈いひしれぬ不快〉で書き上げた。これでクーデターによる憲法改正と自衛隊国軍化を実現する〈作品外の現実〉に賭けていた夢はなくなった。 「暁の寺」の完成によつて、それまで浮遊してゐた二種の現実は確定せられ、一つの作品世界が完結し閉ぢられると共に、それまでの作品外の現実はすべてこの瞬間に紙屑になつたのである。私は本当のところ、それを紙屑にしたくなかつた。それは私にとつての貴重な現実であり人生であつた筈だ。しかしこの第三巻に携はつてゐた一年八ヶ月は、小休止と共に、二種の現実の対立・緊張の関係を失ひ、一方は作品に、一方は紙屑になつたのだつた。 ― 三島由紀夫「小説とは何か 十一」 この頃、自分が死ぬかもしれないことを想定していた三島は、もしもの場合を考え、川端康成宛てに、〈死後、子供たちが笑はれるのは耐へられません。それを護つて下さるのは川端さんだけ〉だと、8月から頼んでいた。 同年10月25日、蓮田善明の25回忌に、『蓮田善明全集』刊行の協力要請を小高根二郎に願い出た三島は、連載終了した小高根の「蓮田善明とその死」の返礼に、〈今では小生は、嘘もかくしもなく、蓮田氏の立派な最期を羨むほかに、なす術を知りません〉とし、〈蓮田氏と同年にいたり、なほべんべんと生きてゐるのが恥ずかしくなりました〉と綴った 11月3日、森田必勝を学生長とした楯の会結成1周年記念パレードが国立劇場屋上で行なわれ、藤原岩市陸将らが祝辞を述べ、女優の村松英子や倍賞美津子から花束を贈呈された。三島は、このパレードの祝辞を前々から川端康成に依頼し、10月にも直に出向いてお願いしたが、川端から「いやです、ええ、いやです」と、にべも無く断られ、村松剛に涙声でその悲憤と落胆を訴えたという。 ===最終章――天人五衰=== 1970年(昭和45年)1月1日、三島邸で開かれた新年会で、丸山明宏が三島に霊が憑いていると言った。三島が何人かの名前を矢継ぎ早に挙げて訊くと、磯部浅一のところで「それだ!」と丸山は答え、三島は青ざめたという。その昔1959年(昭和34年)7月に三島邸で奥野健男と澁澤龍彦らが来て、コックリさんをしている最中にも、「二・二六の磯部の霊が邪魔している」と三島が大真面目に呟いていたとされる。 1月17日、三島は学習院時代の先輩・坊城俊民夫妻との会食の席で、50歳になったら藤原定家を書きたいという今後の抱負を語った。2月には、未知の男子高校生の訪問があり、「先生はいつ死ぬんですか」と質問され、このエピソードを元に「独楽」を書いた。3月頃、万が一の交通事故死のためという話で、知人の弁護士・斎藤直一に遺言状の正式な作成方法を訊ねていた三島は、同時期には、常にクーデター計画に二の足を踏んでいた山本舜勝とは疎遠となり、4月頃から森田必勝ら先鋭メンバーと具体的な最終決起計画を練り始めた(詳細は三島由紀夫と自衛隊を参照)。 3月頃、三島は村松剛に、「蓮田善明は、おれに日本のあとをたのむといって出征したんだよ」と呟き、「『豊饒の海』第四巻の構想をすっかり変えなくてはならなくなってね」とも洩らしたという。刊行された小高根二郎の『蓮田善明とその死』を携えて山本舜勝宅を訪問した三島は、「私の今日は、この本によって決まりました」と献呈した。 第四巻の取材のため、三島は5月に清水港、駿河湾、6月に三保の松原に赴き、タイトルを決定し、7月から「天人五衰」を連載開始した。6月下旬には、自分の死後の財産分与や、『愛の渇き』と『仮面の告白』の著作権を母・倭文重に譲渡する内容の遺言状を作成し、7月5日に、森田必勝ら4名との決起を11月の楯の会定例会の日に定めた。 7月7日の新聞では、「果たし得てゐない約束」と題して自身の戦後25年間を振り返り、〈その空虚に今さらびつくりする。私はほとんど「生きた」とはいへない。鼻をつまみながら通りすぎたのだ〉と告白し、〈私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行つたら「日本」はなくなつてしまうのではないかといふ感を日ましに深くする〉と戦後社会への決別宣言した。 同じ7月、三島は保利茂官房長官と中曽根康弘防衛庁長官に『武士道と軍国主義』『正規軍と不正規軍』という防衛に関する文書を政府への「建白書」として託したが、中曽根に阻止されて閣僚会議で佐藤栄作首相に提出されることはなく葬られた。川端宛てには、〈時間の一滴々々が葡萄酒のやうに尊く感じれ、空間的事物には、ほとんど何の興味もなくなりました〉と綴った。 同年8月、家族と共に伊豆下田に旅行し、帰京後は、執筆取材のため新富町の帝国興信所を訪れた。8月下旬頃にはすでに「天人五衰」の最終回部分(26‐30章)をほぼ書き上げ、原稿コピーは新潮社出版部長・新田敞に預けた。9月には評論『革命哲学としての陽明学』を発表。同時期に対談集『尚武のこころ』、『源泉の感情』も出版した。 9月3日にヘンリー・スコット=ストークス宅の夕食会に招かれた三島は、食事後ヘンリーに暗い面持ちで「日本は緑色の蛇の呪いにかかっている」という不思議な喩え話をした。 三島は再び暗い話を始めた。日本にはいろんな呪いがあり、歴史上に大きい役割を果たしてきたと言う。近衛家は、九代にわたって嗣子が夭折した云云。今夜は様子が違う。延々とのろいの話。日本全体が呪いにかかっていると言い出す。日本人は金に目がくらんだ。精神的伝統は滅び、物質主義がはびこり、醜い日本になった…と言いかけて、奇妙な比喩を持ち出した。「日本は緑色の蛇の呪いにかかっている」 これを言う前に、一瞬だが、躊躇したような気がした。さらにこう説明した。「日本の胸には、緑色の蛇が喰いついている。この呪いから逃れる道はない」 ブランデーを飲んでいたが、酔って言ったのではないことは確実だ。どう解釈すればいいのか。 ― ヘンリー・スコット=ストークス「三島由紀夫 死と真実」 この時期には、ドナルド・リチーや『潮騒』の翻訳者・メレディス・ウェザビーとも頻繁に会い、リチーが楯の会のことをボーイスカウトだと揶揄すると、「数少ない彼らボーイスカウトと僕は、秩序を保つ核となるんだ」と言い、官僚主義に屈した新政府と戦い、敗けると判っていながらも若き兵士たちと行動を共にした西郷隆盛を「最後の真の侍だ」と敬愛していたという。 10月には、「このごろはひとが家具を買いに行くというはなしをきいても、吐気がする」と村松剛に告白し、村松が、「家庭の幸福は文学の敵。それじゃあ、太宰治と同じじゃないか」と指摘すると、三島は、「そうだよ、おれは太宰治と同じだ。同じなんだよ」と言い、小市民的幸福を嫌っていたとされるが、自分の死後も、子供たちに毎年クリスマスプレゼントが届く手配を百貨店にし、子供雑誌の長期購読料も出版社に先払いし毎月届けるように頼んでいた。伊藤勝彦によると、三島はある種の芸術家にみられるような、家庭を顧みないような人間ではなかったという。 10月に再演された『薔薇と海賊』の第2幕目の終りで、三島は舞台稽古と初日とも泣いていた。その場面の主人公・帝一の台詞は、〈船の帆は、でも破けちやつた。帆柱はもう折れちやつたんだ〉、〈僕は一つだけ嘘をついてたんだよ。王国なんてなかったんだよ〉だった。 11月17日、三島は清水文雄宛てに、〈「豊饒の海」は終りつつありますが、「これが終つたら……」といふ言葉を、家族にも出版社にも、禁句にさせてゐます。小生にとつては、これが終ることが世界の終りに他ならないからです。カンボジアのバイヨン大寺院のことを、かつて「癩王のテラス」といふ芝居に書きましたが、この小説こそ私にとつてのバイヨンでした〉と記している。 11月21日頃、いくら遅くても連絡してほしいという三島からの伝言を受けていた藤井浩明は、深夜三島に電話した。イタリアで上映され好評の『憂国』などの話をし、最後に藤井がまた連休明けに連絡する旨を伝えて切ろうとすると、いつもは快活に電話を切る三島が、「さようなら」とぽつりと言ったことが何となく気にかかったという。 11月22日の深夜午前0時前に横尾忠則が三島に電話し、横尾が装幀担当の『新輯 薔薇刑』のイラストについて話が及ぶと、その絵を三島は「俺の涅槃像だろう」と言って譲らず、また、療養中の横尾を気遣い、「足の病気は俺が治して歩けるようにしてやる」と言ったという。 11月24日、決起への全ての準備を整えた三島と森田必勝、小賀正義、古賀浩靖、小川正洋は、午後6時頃から新橋の料亭「末げん」で鳥鍋料理を注文し、最後の会食をした。午後8時頃に店を出て、小賀の運転する車で帰宅した三島は、午後10時頃に離れに住む両親に就寝の挨拶に来て、何気ない日常の会話をして別れたが、肩を落として歩く後姿が疲れた様子だったという。 ===自衛隊突入決行と自決=== 1970年(昭和45年)11月25日、三島は陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地内東部方面総監部の総監室を森田必勝ら楯の会会員4名と共に訪れ、面談中に突如、益田兼利総監を人質にして籠城。バルコニーから檄文を撒き、自衛隊の決起を促す演説をした直後に割腹自決した。45歳没。 決起当日の朝10時30分、担当編集者の小島喜久江は平岡家のお手伝いさんから間接的に第四巻「天人五衰」の原稿を渡された。編集部に戻って原稿を見ると、予定と違って最終回となっており、巻末日付が11月25日で署名がなされていた。 この11月25日という決行日については、昭和天皇が摂政に就いた日であることと、天皇が「人間宣言」をしたのが45歳だったことから、同じ年齢で人間となった天皇の身代りになって死ぬことで、「神」を復活させようという意味があったと考察する研究や、三島が尊敬していた吉田松陰の刑死の日を新暦に置き換えた日に相当するという見解もある。 また、11月25日は、三島が戦後を生きるために〈飛込自殺を映画にとつてフィルムを逆にまはすと、猛烈な速度で谷底から崖の上へ自殺者が飛び上つて生き返る〉という〈生の回復術〉〈裏返しの自殺〉として発表した『仮面の告白』の起筆日であることから、三島が戦後の創作活動のすべてを解体し、〈死の領域〉に戻る意味があったとする考察もある。 この日、細川護立の葬儀のため東京に居た川端康成は、三島自決の一報を受けてすぐに現場に駆けつけたが、遺体とは対面できなかった。呆然と憔悴しきった面持ちの川端は、報道陣に囲まれ、「もったいない死に方をしたものです」と答えた。三島の家族らは動転し、瑤子夫人はショックで寝込んでしまった。 三島の辞世の句は、〈益荒男が たばさむ太刀の 鞘鳴りに 幾とせ耐へて 今日の初霜〉、〈散るをいとふ 世にも人にも 先駆けて 散るこそ花と 吹く小夜嵐〉の2句。自宅書斎からは、家族や知人宛ての遺書の他、机上に「果たし得てゐない約束――私の中の二十五年」(サンケイ新聞 昭和45年7月7日号)と「世なおし70年代の百人三島由紀夫」(朝日新聞 昭和45年9月22日号)の切抜きがあり、〈限りある命ならば永遠に生きたい. 三島由紀夫〉という遺書風のメモも見つかった。 介錯に使われた自慢の名刀「関孫六」は刃こぼれをしていた。刀は当初白鞘入りだったが、三島が特注の軍刀拵えを作らせそれに納まっていた。事件後の検分によれば、目釘は固く打ち込まれさらに両側を潰し、容易に抜けないようにされていた。刀を贈った友人の舩坂弘は、死の8日前の「三島由紀夫展」(11月12日から17日まで東武百貨店で開催)で孫六が軍刀拵えで展示されていたことを聞き、言い知れぬ不安を感じたという。 武田泰淳は、三島と自身とは文体も政治思想も違うが、その「純粋性」を常に確信していたとし、以下のような追悼文を贈った。 息つくひまなき刻苦勉励の一生が、ここに完結しました。疾走する長距離ランナーの孤独な肉体と精神が蹴たてていった土埃、その息づかいが、私たちの頭上に舞い上り、そして舞い下りています。あなたの忍耐と、あなたの決断。あなたの憎悪と、あなたの愛情が。そしてあなたの哄笑と、あなたの沈黙が、私たちのあいだにただよい、私たちをおさえつけています。それは美的というよりは、何かしら道徳的なものです。あなたが「不道徳教育講座」を発表したとき、私は「こんなに生真じめな努力家が、不道徳になぞなれるわけがないではないか」と直感したものですが、あなたには生まれながらにして、道徳ぬきにして生きて行く生は、生ではないと信じる素質がそなわっていたのではないでしょうか。あなたを恍惚とさせようとする「美」を押しのけるようにして、「道徳」はたえずあなたをしばりつけようとしていた。 ― 武田泰淳「三島由紀夫氏の死ののちに」 翌日の11月26日、三島が伊沢甲子麿に託した遺言により、遺体には楯の会の制服が着せられ、手には胸のあたりで軍刀が握りしめられた。どんなに変わり果てた無惨な姿かと父・梓は心配だったが、胴と首も縫合され、警察官たちの厚意により顔も綺麗に化粧が施されていた。密葬は自宅で行われ、家族は柩に原稿用紙や愛用の万年筆も添え、品川区の桐ヶ谷斎場で荼毘に付された。ちなみに三島は律儀に国民年金に加入していて、死ぬまで保険料をきちんと払っていたという。 翌1971年(昭和46年)1月14日、三島の誕生日であるこの日、府中市多摩霊園の平岡家墓地に遺骨が埋葬された。自決日の49日後が誕生日であることから、三島が転生のための中有の期間を定めていたのではないかという説もある。 同年1月24日に、築地本願寺で告別式(葬儀委員長・川端康成、弔辞・舟橋聖一ほか)が行われた。8200人以上の一般会葬者が参列に訪れ、文学者の葬儀としては過去最大のものとなった。戒名は「彰武院文鑑公威居士」。遺言状には「必ず武の字を入れてもらいたい。文の字は不要」とあったが、父・梓は文人として生きてきた息子の業績を考えて「文」の字も入れた。 告別式には、右翼の仲間と思われることを厭い、参列を回避した知人らも多く、ドナルド・キーンも友人らの助言により参列を見合わせた。キーンはそのことを後悔しているという。 人質となった益田兼利総監は裁判の公判で、「被告たちに憎いという気持ちは当時からなかった」とし、「国を思い、自衛隊を思い、あれほどのことをやった純粋な国を思う心は、個人としては買ってあげたい。憎いという気持ちがないのは、純粋な気持ちを持っておられたからと思う」と語った。 なお、川端康成の養女・政子の夫・川端香男里によると、三島が川端康成に宛てた手紙の最後のものは、11月4日から6日の間に自衛隊富士学校滝ヶ原駐屯地から出された鉛筆書きのもので、この手紙は川端康成によって焼却されたとされる。香男里によると、「文章に乱れがあり、これをとっておくと本人の名誉にならないからすぐに焼却してしまった」とされる。しかし、これは川端の名誉にならないから焼却されたのではないかという見方もある。 三島と森田の忌日には、「三島由紀夫研究会」による追悼慰霊祭「憂国忌」が毎年行われている。三島事件に関わり4年の実刑判決を受けた楯の会3人(小賀正義、小川正洋、古賀浩靖)が仮出所した翌年の1975年(昭和50年)以降には、元楯の会会員による慰霊祭も神道形式で毎年行われている。 1999年(平成11年)7月3日には、三島の著作や資料を保管する「三島由紀夫文学館」が開館された。2008年(平成20年)3月1日には、富山県富山市向新庄町2丁目4番65号に「隠し文学館 花ざかりの森」が開館された。 ==文学碑・追悼碑== 三重県神島港に『潮騒』の文学碑があり、「三島文学 潮騒の地」と刻まれている。 1971年(昭和46年)1月30日、松江日本大学高等学校(現・立正大学淞南高等学校)の玄関前に「三島由紀夫・森田必勝烈士顕彰碑」が建立され、除幕式が行なわれた。碑には「誠」「維新」「憂国」「改憲」の文字が刻まれている。 同年2月11日、三島の本籍地の兵庫県印南郡志方町(現・加古川市志方町)の八幡神社境内で、地元の生長の家の会員による「三島由紀夫を偲ぶ追悼慰霊祭」が行われた。また、この地に「三島由紀夫先生慰霊の碑」が建立された。揮毫は県知事・坂井時忠。 同年11月25日、埼玉県大宮市(現・さいたま市)の宮崎清隆(元陸軍憲兵曹長)宅の庭に「三島由紀夫文学碑」が建立された。揮毫は三島瑤子(平岡瑤子)。 陸上自衛隊富士学校滝ヶ原駐屯地の第2中隊隊舎前に追悼碑が建立されている。碑には、「深き夜に 暁告ぐる くたかけの 若きを率てぞ 越ゆる峯々 公威書」という三島の句が刻まれている。 1973年(昭和48年)6月10日、静岡県賀茂郡賀茂村(現・西伊豆町)の黄金崎に『獣の戯れ』の一節が刻まれた文学碑が建立され、除幕式が行われた。揮毫は平岡梓。 1983年(昭和58年)1月9日、静岡県富士宮市郊外に「三島由紀夫神社」が建立された。 1991年(平成3年)11月、新潟県湯之谷村(現・魚沼市)の枝折峠に『沈める滝』の文学碑が村の有志により建立された。高さ1メートル、幅2メートルあまりの安山岩に、駒ケ岳の風景描写の一節が刻まれている。 ==作風・文学主題・評価== ※三島本人の言葉や著作からの引用部は〈 〉にしています(評論家の言葉との区別のため)。 ===作風=== 三島由紀夫の主要作品は、レトリックを多様に使用しているところに特徴があり、構成なども緊密に組み立てられ、古代ギリシアの『ダフニスとクロエ』から着想した『潮騒』、エウリピデスのギリシャ悲劇や、能楽・歌舞伎、ラシーヌのフランス古典劇などを下敷きにした戯曲や小説、『浜松中納言物語』を典拠とした『豊饒の海』など、古典から、その〈源泉〉を汲み上げ、新しく蘇らせようとする作風傾向がある。 上記のような傾向から、その形式的な構成の表現方法は、近代日本文学の主な担い手だった私小説作家たちより、西洋文化圏の作家に近い面がある。また、社会的な事件や問題を題材にするなど、日本の第一次戦後派作家、第二次戦後派作家と共通する点はあったものの、その作風は彼らと違い、戦争時代への嫌悪はなく、社会進歩への期待や渇望、マルキシズムなシンパシーを持った未来幻想がなかったため、そういった面では、明日など信じていない太宰治、坂口安吾、石川淳、檀一雄などの無頼派に近い傾向がある。 上述でも判るように、三島は古代から中世、近世の日本文学に造詣が深く、耽美的な傾向の点では江戸末期の文学の流れをくむ谷崎潤一郎、夭折美学や感覚的な鋭さの面では川端康成とも大きな共通性があるが、文体的には堀辰雄や森鴎外の影響を受けており、その文学の志向や苦闘は、日本的風土と西洋理念との狭間で格闘した横光利一の精神に近いことが指摘されている。 『午後の曳航』などを翻訳したことのあるジョン・ネイスンは、三島は、「(日本が開国により)国をこじあけられて以来ずっと病んできた文化的両価性の範型」と見なせるとし、日本が「生来的・先天的・伝統基底的な」自国文化と、「外来で扱いにくい」異種の西欧文化を和解させて「真正の〈自己〉を見出そうとする国民的争闘」、東洋と西洋の「綜合の模索」の同一パターンの反復であるとしている。 そしてネイスンは、「たしかに、三島の何とも優美で華麗な表現力をそなえた日本語は、多少熟れすぎではあったが、骨の髄まで日本的であった。三島が毎夜、真夜中から明け方までかけて紡ぎ出した日本語こそが彼にとって真の重大事であり、その一生を規定した」とし、「(三島の死は)一つの国民的苦悩の明快で適切無比な表現であったことも理解されなければならない。これぞ文化的廃嫡の苦悩であった」と評している。 ===二元論=== 三島の作品は、『純白の夜』『愛の渇き』『真夏の死』『夜の向日葵』『美徳のよろめき』『春の雪』『薔薇と海賊』『裸体と衣裳』『絹と明察』など、反対の概念を組み合わせた題名が多く、『仮面の告白』では、「仮面を被る」ことと、本来は反対の概念である「告白」が、アイロニカルに接合していることが指摘されている。 文学のテーマも、三島自身が、〈『太陽と鉄』は私のほとんど宿命的な二元論的思考の絵解きのようなもの〉と言っているように、生と死、文と武、精神と肉体、言葉と行動、見る者と見られる者(認識者と行為者)、芸術と人生、作者と彼、といった二元論がみられるが、その〈対〉の問題は、単純な並列や対立関係ではないところに特徴がある。 『トニオ・クレエゲル』の〈トニオ〉対〈ハンスやインゲ〉に象徴される〈芸術家〉対〈美しい無智者(欠乏の自覚〈エロス〉を持たぬ下方の者でありながらも美しいという存在)〉の二項の図式から生じてくる芸術家・トニオの〈分裂の意識(統一的意識を持つこと自体が二律背反であること)〉を解読した三島には、〈統一的意識の獲得〉を夢み、〈欠乏の自覚を持つことをやめて、統一的意識そのもの〉〈人工的な無智者〉に成り変って、〈自己撞着の芸術観〉つまりは〈エロスを必要とせぬ芸術〉〈無智者の作りうる芸術〉を打ち建てようという思考がみられる。 『潮騒』あたりから三島が志向し始めた「〈統一的意識そのもの〉に成り変る者」とは、〈芸術家〉(作者)、〈彼〉(無智者かつ美的存在で欠乏の自覚を持たぬ者)のいずれに属するのか、一体「誰」になるのかを青海健は考察し、三島文学の特異性について以下のように論じている。 “芸術家小説”である作品空間は、あのアキレスと亀の話のように、限りなく作者に近接するものの、永遠に作者に到達することはない。近づけば近づくほど、逆に作者は限りなく作品空間から遠ざかるのだ。芸術対人生の対立をのり超えたと信じた三島は、この地点で、転換されたレベルでの二項対立に新たに捕えられるのである。それは鏡の部屋の中でのように無限に繰り返されるだろう。「彼」は作者になりうるか、作者は「彼」になりうるか……。この自己撞着のウロボロスの無限円環のなす背理そのものが、以後の三島の文学空間を規定したのである。 ― 青海健「表層への回帰――三島由紀夫論」 すでに行動の世界にいた三島が自決の3年前、〈今は、言葉だけしか信じられない境界へ来たやうな心地がしてゐる〉とし、大東亜戦争時、あらん限りの〈至上の行動〉を尽くし、特攻隊が〈人間の至純の魂〉を示したにもかかわらず、〈神風が吹かなかつた〉のならば、〈行動と言葉とは、つひに同じことだつたのではないか〉、「力を入れずして天地(あめつち)を動かし」(古今集での紀貫之の序)という宣言(〈言葉の有効性には何ら関はらない別次元の志〉)の方がむしろ〈その源泉をなしてゐるのではないか〉と思い至り、〈このときから私の心の中で、特攻隊は一篇の詩と化し〉、〈行動ではなくて言葉になつた〉と語っているが、この〈言葉〉とは、「言葉からはみ出してしまうものを表現するものである言葉」(『太陽と鉄』での〈「肉体」の言葉〉)を意味している。 その三島の〈肉体〉は〈すでに言葉に蝕まれてゐた〉ゆえ、両者は永遠の往還となり、〈言葉〉によって〈肉体〉に到達しようとし、その〈肉体〉への到達がまた〈言葉〉へと還流するという「アイロニカルな円環」(到達不可能)であり、最終的には〈言葉〉と〈肉体〉のどちらでもなく、そのどちらでもあるという境界(「絶対の空無」、〈死〉)でしか超えらず、この〈生〉と〈死〉の関係性を「輪廻転生」(生と死が対立概念ではない)として表現した作品が『豊饒の海』となり、認識者の自意識(言葉)との格闘が物語られる3巻と4巻(『暁の寺』と『天人五衰』)で、最後に「作者」(三島)を待ち受けるのが、「絶対の空無」であると青海は論考している。 言葉の領域でもあった〈生〉と、〈死〉との連続性を垣間見た三島が、〈言葉の有効性〉をそぎ落とし、目指した〈詩的秩序をあらゆる有効性から切り離す〉こととは、「言葉の表層」、「エロス的悲劇性の表層」へと回帰することであり、「言葉が現実に対して無効となる時はじめてその本来の力を開示する」ということだったと青海は三島の作品遍歴から論考している。〈行動と言葉とは、つひに同じことだつた〉と三島が悟ったのは、言葉から逃走した地点が、〈行動〉の有効性をも消滅する地平でもあり、その〈行動〉に向かうことで、アイロニカルにも、「言葉の無効性を生かすこと」が可能となり、「言葉の否定による言葉の奪還」というパラドックス(円環)になる。 三島の『花ざかりの森』が初掲載された『文藝文化』には、蓮田善明の『鴨長明』が同時掲載され、そこで蓮田は、肉も骨もなくなり、魂だけになった「言葉」が鴨長明の和歌だと論じている。島内景二は、それは三島の行きついた「魂の形」を予言していたとし、三島は尊敬する蓮田の論を意識し、「血と見えるものも血ではなく、死と思われるものも死ではない」境地の、「肉も骨もない、魂だけの言葉」に辿り着くため、蓮田の論を実践し証明しようとしたと考察している。 ===悲劇性=== 『憂国』や『春の雪』に顕著であるジョルジュ・バタイユ的な生と死の合一といったエロティシズム観念(禁止―侵犯―聖性の顕現)は、三島の耽美的憧憬とも重なるものであるが、それは三島の「日本回帰」や「時代の禁忌」でもあり、神聖天皇(絶対の空無=超越者)を夢見るという不可能性の侵犯を秘めたロマン主義的イロニーでもあった。当時の左翼的知識人たちに対する「反動イデオローグ」として、三島は「危険な思想家」(山田宗睦が名付けた)と問題視され、また、野口武彦からは、その〈抽象的情熱〉を、ドイツ・ロマン派や、三島が少年時代に培った日本浪曼派に通ずるロマンチック・イロニーと呼ばれていた。 近代では禁忌である天皇の中にこそ、「近代」をのり超える〈絶対〉を垣間見ていた三島は、バタイユについて、以下のように語り、死の1週間前に行なわれた対談の中では、〈バタイユは、この世でもっとも超絶的なものを見つけだそうとして、じつに一所懸命だったんですよ。バタイユは、そういう行為を通して生命の全体性を回復する以外に、いまの人間は救われないんだと考えていたんです〉と述べている。 人間の神の拒否、神の否定の必死の叫びが、実は“本心からではない”ことをバタイユは冷酷に指摘する。その“本心”こそ、バタイユのいはゆる“エロティシズム”の核心であり、ウィーンの俗悪な精神分析学者などの遠く及ばぬエロティシズムの深淵を、われわれに切り拓いてみせてくれた人こそバタイユであつた。 ― 三島由紀夫「小説とは何か 七」 こういった三島の思考は、反キリストのニヒリスト・ニーチェが『ツァラトゥストラ』で「超人」を招来したイロニーと等価であり、ニーチェの『悲劇の誕生』は三島文学に大きな影響を与えている。ニーチェの待望した「英雄」「ディオニュソス」的なものは、三島にとって『蘭陵王』の〈獰猛な仮面〉と〈やさしい顔〉を持ち、蓮田善明の〈薩摩訛りの、やさしい目をした、しかし激越な慷慨家〉、特攻隊の〈人間の至純の魂〉、澄んだ『独楽』の〈透明な兇器〉、『奔馬』の飯沼勲の〈荒ぶる神〉、『椿説弓張月』の源為朝など、純一無垢のイメージを秘め、悲劇性を帯びた美的存在としてある。 ===寂寞のエンディング=== 遺作の『豊饒の海』4巻(『天人五衰』)のエンディングと、三島が16歳の時に夭折を想定して書いた『花ざかりの森』の静寂的な末尾が酷似していることは、多くの論者から指摘されているが、10歳の時に書いていたという絵コント入りの「紙上映画」とも言える小品『世界の驚異』の結末も、それまでの華やかな物語を全否定してしまうような「火の消えた蝋燭」のエンディングとなっており、寂寞のうちに閉じるという『豊饒の海』の印象的な結末と通底するものが看取される。 『世界の驚異』は、『マッチ売りの少女』や、ヴェルレーヌの『秋の歌(落葉)』の影響が見られ、〈すゝきのゆれるも物悲しき、むせびなくヴァイオリンの音のやうにかなでゆく秋の調べ〉という文章と共に秋の淋しさが表現され、前段の頁では、海や船、極楽鳥や花が描かれている。火の消えた蝋燭の頁では、〈やはり、美しい夢はつかめなかつた。あゝ果てゆく幻想。それは春の野にたつ、かげろうにのやうにはかないものだ。らうそくの火はきえて了つた。そして目も前は何もかもまつくらだ〉と記され(校正なしの原文のまま)、最後にMGMのトレードマークのライオンを模した絵が描かれ、先行作の着想を元に独自の世界観を作り上げている。 井上隆史は、三島が子供の頃から豊かな才能と想像力に恵まれていたと同時に、その自分が作った世界を自らの手で壊してしまおうというニヒリズム的な傾向があると考察しているが、三島自身も、〈知的(アポロン的)なもの〉と〈感性的〈ディオニソス的〉なもの〉の〈どちらを欠いても理想的な芸術ではない〉として二者の総合を目指し、芸術を〈積木細工〉に喩えつつ、〈積木が完全なバランスを保つところで積木をやめるやうな作家は、私には芸術家ぢやないと思はれる〉として、以下のように語っている。 現在あるところのものを一度破壊させなければよみがへつてこないやうなもの、ちやうどギリシャのアドニスの祭のやうに、あらゆる穫入れの儀式がアドニスの死から生れてくるやうに、芸術といふものは一度死を通つたよみがへりの形でしか生命を把握することができないのではないかといふ感じがする。さういふ点では文学も古代の秘儀のやうなものである。収穫の祝には必ず死と破滅のにほひがする。しかし死と破滅もそのままでは置かれず、必ず春のよみがへりを予感してゐる。 ― 三島由紀夫「わが魅せられたるもの」 ===人工性=== 三島文学の人工性もしばしば指摘される点だが、その人工性には、作品を書くことで自らの危機と向き合い、乗り越えようとする営為が看取される。川端康成は三島の人工性の中にある「生々しさ」について、『盗賊』の序文でいち早く言及していた。 すべて架空であり、あるひはすべて真実であらう。私は三島君の早成の才華が眩しくもあり、痛ましくもある。三島君の新しさは容易には理解されない。三島君自身にも容易には理解しにくいのかもしれぬ。三島君は自分の作品によつてなんの傷も負はないかのやうに見る人もあらう。しかし三島君の数々の深い傷から作品が出てゐると見る人もあらう。この冷たさうな毒は決して人に飲ませるものではないやうな強さもある。この脆そうな造花は生花の髄を編み合せたやうな生々しさもある。 ― 川端康成「序」(『盗賊』) 弟子の女優村松英子によると、三島は、現実の生々しさをそのまま感情的、グロテスクに表現することを嫌っていたとされ、「基本としてドメスティック(日常的)な演技も必要だけど、それだけじゃ、“演劇”にならない。大根やイワシの値段や井戸端会議を越えた所に、日常の奥底に、人間の本質のドラマがあるのだからね」、「怒りも嘆きも、いかなる叫びも、ナマでなく濾した上で、舞台では美しく表現されなければならない。汚い音、汚い演技は観客に不快感を与えるから」と表現の指導をしていたという。 荻昌弘との対談の中でも三島は、アーサー・シモンズが「芸術でいちばんやさしいことは、涙を流させることと、わいせつ感を起させることだ」と言った言葉を、〈千古の名言だ〉として、お涙頂戴的な映画を批判し、〈日本人の平均的感受性に訴えて、その上で高いテーマを盛ろうというのは、芸術ではなくて政治だよ。(中略)国民の平均的感受性に訴えるという、そういうものは信じない。進歩派が『二十四の瞳』を買うのはただ政治ですよ〉という芸術論を展開している。 ===劇作家と小説家=== 三島は劇作家でもあるが、その演劇作品もまた、二項の対立・緊張による「劇」的展開を得意とした。三島は、戯曲は小説よりも〈本能的なところ〉、〈より小児の遊びに近いところ〉にあるとし、〈告白の順番〉は、〈詩が一番、次が戯曲で、小説は告白に向かない、嘘だから〉と述べるなど、日常的な現実空間をリアルに書く従来の私小説作家の常識とは異なる考えを持っていたことが看取され、22歳の時、林房雄に宛てた手紙の中でも、〈あらゆる種類の仮面のなかで、「素顔」といふ仮面を僕はいちばん信用いたしません〉と、当時の日本文壇の〈レアリズム的〉な懺悔告白のようなものや啓蒙的な小説を批判している。 しかしながら、三島は自分自身を〈小説家〉と規定し、〈肉づきの仮面〉だけが告白できると言っていたことなどから、青海健は、「三島由紀夫とは、小説の〈仮面〉を被った劇作家としての小説家」だとして、三島にとり、「戯曲が〈本能的な〉素面であるなら、小説はその素面にまで喰い入ってしまった肉づきの仮面」だと解説している。 三島にとっては小説よりも戯曲の方が〈はるかに大胆素直に告白でき〉、それが〈詩作の代用〉をなすと自ら語るように、「枠のしっかりきめられた」形式の方が、「ポエジー(詩)」=「告白」できるという傾向がみられ、三島の小説が、金閣寺放火事件など、実際の事件を題材にしているものが多いのも、その「ノンフィクション」を「仮面」とすることにより、大胆な「告白」を可能せしめるという方法論をとっているからである。 三島は、〈戯曲の法則を強引に小説の法則へ導入〉して、ホフマンスタールの言う「自然で自明な形式感」を再確認することが〈小説家〉として重要だという持論の元に、『春の雪』や『奔馬』のようなドラマ性の高い小説を書いているが、その「物語」を見る本多邦繁へと主題がシフトしている『暁の寺』と『天人五衰』においては、すでに「劇」は不在となり、「自己言及的主題」が生の形で描かれる「小説的」な「小説(ノヴェル)」となっている。 この三島的な劇の形式感を放棄している小説は、ほかに『禁色』や『鏡子の家』などがあるが、戯曲において、この「“作品の書き手”の告白」の問題が露わに示されているのが、『船の挨拶』『薔薇と海賊』『源氏供養』『サド侯爵夫人』『癩王のテラス』である。青海健は、三島にとって戯曲とは、「認識者である〈作者〉が〈作品〉と化する告白の夢」であるとし、それが顕著なのが、童話作家・阿里子(アリスとも読める)と、空想の世界に生きている帝一が結婚する『薔薇と海賊』だとしている。 すなわち、『薔薇と海賊』では、「書き手とその作品世界との幸福な合体の夢」が暗喩的に描かれており、自決の直前に上演されたこの舞台を見て三島が泣いていたというエピソードからも、その「合体の夢」に託された「告白の意味の重み」が了解される。この「作品」対「作者」といった構図の「合体の夢」は、『禁色』『鏡子の家』『豊饒の海』などの小説では、分裂の悲劇へと向かう様相を呈し、三島が自ら廃曲にした戯曲『源氏供養』でも、作者と作品世界の「分裂の不幸」という小説テーマが扱われ、〈小説家〉である三島は、この「分裂の不幸」を、「小説という〈仮面〉」によって語り続けたと青海は考察している。 ==三島の持論== ===憲法改正論=== 三島は日本国憲法第9条を、「一方では国際連合主義の仮面をかぶつた米国のアジア軍事戦略体制への組み入れを正当化し、一方では非武装平和主義の仮面の下に浸透した左翼革命勢力の抵抗の基盤をなした」ものとして唾棄し、この条文が「敗戦国日本の戦勝国への詫証文」であり、「国家としての存立を危ふくする立場に自らを置くもの」であると断じている。 そして、いかなる戦力(自衛権・交戦権)保有も許されていない憲法第9条第2項を字句通り遵守すれば、日本は侵略されても「丸腰」でなければならず「国家として死ぬ」以外にはない」ため、日本政府は緊急避難の解釈理論として学者を動員し「牽強付会の説」を立てざるを得なくなり、こういったヤミ食糧売買のような行為を続けることは、「実際に執行力を持たぬ法の無権威を暴露するのみか、法と道徳との裂け目を拡大」するとしている。 このように三島は、平和憲法と呼ばれる憲法第9条により、「国家理念を剥奪された日本」が「生きんがためには法を破らざるをえぬことを、国家が大目に見るばかりか、恥も外聞もなく、国家自身が自分の行為としても大目に見ること」になったことを、「完全に遵奉することの不可能な成文法の存在は、道義的退廃を惹き起こす」とし、「戦後の偽善はすべてここに発したといつても過言ではない」と批判している。 また、現状では自衛隊は法的に「違憲」だとし、その自衛隊の創設が、皮肉にも、「憲法を与へたアメリカ自身の、その後の国際政治状況の変化による要請に基づくもの」であり、朝鮮戦争やベトナム戦争参加という難関を、吉田茂内閣がこの憲法を逆手にとり「抵抗のカセ」として利用し突破してきたが、その時代を過ぎた以降も国内外の批判を怖れ、ただ護憲を標榜するだけになった日本政府については、「消極的弥縫策(一時逃れに取り繕って間に合わせる方策)にすぎず」、「しかもアメリカの絶えざる要請にしぶしぶ押されて、自衛隊をただ“量的に”拡大」し、「平和憲法下の安全保障の路線を、無目的無理想に進んでゆく」と警鐘を鳴らしている。 これを是正する案として、憲法第9条第2項だけを削除すればよい、という改憲案に対しては「やや賛成」としつつも、そのためには、国連に対し不戦条約を誓っている第9条第1項の規定を「世界各国の憲法に必要条項として挿入されるべき」とし、「日本国憲法のみが、国際社会への誓約を、国家自身の基本法に包含するといふのは、不公平不調和」であると三島は断じ、この第1項を放置したままでは、自国の歴史・文化・伝統の自主性が「二次的副次的」なものになり、「敗戦憲法の特質を永久に免かれぬこと」になるため、「第九条全部を削除」すべしと主張している。 さらに、改憲にあたっては憲法第9条のみならず、第1章「天皇」の問題(「国民の総意に基く」という条文既定のおかしさと危険性の是正)と、第20条「信教の自由」に関する「神道の問題」(日本の国家神道の諸神混淆の性質に対するキリスト教圏西欧人の無理解性の是正)と関連させて考えなければ、日本が独立国としての「本然の姿を開顕」できず、逆に「アメリカの思ふ壺」に陥り、憲法9条だけ改正して日米安保を双務条約に書き変えるだけでは、韓国その他アジア反共国家と並ぶだけの結果に終ると警告している。 三島は、外国の軍隊は、決して日本の「時間的国家の態様を守るものではないこと」を自覚するべきだとし、日本を全的に守る正しい「健軍の本義」を規定するためには、憲法9条全部を削除し、その代わり「日本国軍」を創立し、憲法に、「日本国軍隊は、天皇を中心とするわが国体、その歴史、伝統、文化を護持することを本義とし、国際社会の信倚と日本国民の信頼の上に健軍される」という文言を明記するべきであると主張している。 自国の正しい健軍の本義を持つ軍隊のみが、空間的時間的に国家を保持し、これを主体的に防衛しうるのである。現自衛隊が、第九条の制約の下に、このやうな軍隊に成育しえないことには、日本のもつとも危険な状況が孕まれてゐることが銘記されねばならない。憲法改正は喫緊の問題であり、決して将来の僥倖を待つて解決をはかるべき問題ではない。なぜならそれまでは、自衛隊は、「国を守る」といふことの本義に決して到達せず、この混迷を残したまま、徒らに物理的軍事力のみを増強して、つひにもつとも大切なその魂を失ふことになりかねないからである。 ― 三島由紀夫「問題提起」 また1970年(昭和45年)2月19日に行われたジョン・ベスターとの対談(テープが「放送禁止」としてTBS局内で2013年まで放擲され2017年に公開されたもの)でも、きちんと法改正せずに、「憲法違反」を続けることで人間のモラルが蝕まれるとし、平和憲法は「偽善のもと」、「憲法は、日本人に死ねと言っているんですよ」と語っている。 ===自衛隊論=== 上記のように三島は、国の基本的事項である防衛を最重要問題と捉え、「日本国軍」の創立を唱えながら、「一定の領土内に一定の国民を包括する現実の態様」である国家という「一定空間の物理的保障」を守るには軍事力しかなく、もしもその際に外国の軍事力(核兵器その他)を借りるとしても、「決して外国の軍事力は、他国の時間的国家の態様を守るものではない」とし、日米安保に安住することのない日本の自主防衛を訴えている。 三島は1969年(昭和44年)の国際反戦デーの左翼デモの際に自衛隊治安出動が行われなかったことに関連し、「政体を警察力を以て守りきれない段階に来て、はじめて軍隊の出動によつて国体が明らかになり、軍は建軍の本義を回復するであらう」と説いており、その時々の「政体」を守る警察と、永久不変の日本の「国体」を守る国軍の違いについて言及している。 自決前の『檄』の後半では、核停止条約(NPT)のことも語っている。 諸官に与へられる任務は、悲しいかな、最終的には日本からは来ないのだ。(中略)国家百年の大計にかかはる核停条約は、あたかもかつての五・五・三の不平等条約の再現であることが明らかであるにもかかはらず、抗議して腹を切るジェネラル一人、自衛隊からは出なかつた。沖縄返還とは何か? 本土の防衛責任とは何か? アメリカは真の日本の自主的軍隊が日本の国土を守ることを喜ばないのは自明である。あと二年の内に自主性を回復せねば、左派のいふ如く、自衛隊は永遠にアメリカの傭兵として終るであらう。 ― 三島由紀夫「檄」 この警告について西尾幹二は、三島が「明らかに核の脅威を及ぼしてくる外敵」を意識し、このままでよいのかと問いかけているとし、三島自決の6年前に中国が核実験に成功し、核保有の5大国として核停止条約(NPT)で特権的位置を占め、三島自決の1970年(昭和45年)に中国が国連に加盟し常任理事国となったことに触れながら、「国家百年の大計にかかはる」と三島が言った日本のNPTの署名(核武装の放棄)を政府が決断したのが、同年の2月3日だった当時の時代背景を説明している。 そして、三島が「あと二年の内」と言った意味は、この2年の期間に日本政府とアメリカの間で沖縄返還を巡り、日本の恒久的な核武装放棄を要望するアメリカと中国の思惑などの準備と工作があり、日本の核武装放棄と代替に1972年(昭和47年)に佐藤栄作がノーベル平和賞を受賞し、表向き沖縄返還がなされたことで、自衛隊が「永遠にアメリカの傭兵として終る」ことが暗示されていたと西尾は解説している。 三島は、「改憲サボタージュ」が自民党政権の体質となっている以上、「改憲の可能性は右からのクーデターか、左からの暴力革命によるほかはないが、いずれもその可能性は薄い」と指摘し、本来「祭政一致的な国家」であった日本が、現代では、国際強調主義と世界連邦の線上に繋がる「遠心力的」な「統治的国家(行政権の主体)」と、日本の歴史・文化という時間的連続性が継承される「求心力」的な「祭祀的国家(国民精神の主体)」の二極に分離し、「後者が前者の背後に影のごとく揺曳してゐる」状態にあるとしている。 現状では自衛隊の最高指揮権が日本の内閣総理大臣でなく、最終的には「アメリカ大統領にあるのではないかといふ疑惑」があり、現憲法の制約の下で、統治的国家の「遠心力」と祭祀的国家の「求心力」の二元性の理想的な調和と緊張を実現するためには、日本国民がそのどちらかに忠誠を誓うかを明瞭にし、その選択に基づいて自衛隊を二分するべきだという以下のような「自衛隊二分論」を三島は説いている。 航空自衛隊の9割、海上自衛隊の7割、陸上自衛隊の1割で「国連警察予備軍」を編成し、対直接侵略を主任務とすること。この軍は統治国家としての日本に属し、安保条約によって集団安全保障体制にリンクする。根本理念は国際主義的であり、身分は国連事務局における日本人職員に準ずる。陸上自衛隊の9割、海上自衛隊の3割、航空自衛隊の1割で「国土防衛軍」を編成し、絶対自立の軍隊としていかなる外国とも軍事条約を結ばない。その根本理念は祭祀国家の長としての天皇への忠誠である。対間接侵略を主任務とし、治安出動も行う。2.の「国土防衛軍」には多数の民兵が含まれるとし、「楯の会」はそのパイオニアであるとしている。なお、三島は徴兵制には反対している。 三島は、自衛隊が単なる「技術者集団」や「官僚化」に陥らないためには、「武士と武器」、「武士と魂」を結びつける「日本刀の原理」を復活し、「武士道精神」を保持しなければならないとし、軍人に「セルフ・サクリファイス」(自己犠牲)が欠けた時、官僚機構の軍国主義に堕落すると説いている。 そして、戦後禁忌になってしまった、天皇陛下が自衛隊の儀仗を受けることと、連隊旗を直接下賜すること、文人のみの文化勲章だけでなく、自衛隊員への勲章も天皇から授与されることを現下の法律においても実行されるべきと提言し、隊員の忠誠の対象を明確にし、「天皇と軍隊を栄誉の絆でつないでおくこと」こそ、日本および日本文化の危機を救う防止策になると説いている。 ===天皇論=== 三島は、「天皇の政治上の無答責は憲法上に明記されねばならない」とし、軍事の最終的指揮権を「天皇に帰属せしむべきでない」としている。これは天皇が日本の歴史の「時間的連続性の象徴、祖先崇拝の象徴」であり、「神道の祭祀」を国事行為として行ない、「神聖」と最終的に繋がっている存在ゆえに、「天皇は、自らの神聖を恢復すべき義務を、国民に対して負ふ」というのが三島の考えだからである。 日本の「歴史と文化の伝統の中心」、「祭祀国家の長」である天皇は、「国と民族の非分離の象徴で、その時間的連続性と空間的連続性の座標軸である」と説く三島は、「文化概念としての天皇」という理念を説き、伊勢神宮の造営や、歌道における本歌取りの法則などに見られるように、「オリジナルとコピーの弁別を持たぬ」日本の文化では、「各代の天皇が、正に天皇その方であつて、天照大神(あまてらすおほみかみ)とオリジナルとコピーの関係にはない」ため、天皇は神聖で「インパーソナルな」存在であると主張している。 日本的な行動様式をも全て包括する「文化」(菊)と、それを守る「剣の原理」(刀)の栄誉が、「最終的に帰一する根源が天皇」であり、天皇は、日本が非常事態になった場合には、天皇文化が内包している「みやび」により、桜田門外の変や二・二六事件のような蹶起に手を差し伸べる形態になることもあると三島は説き、天皇は「現状肯定のシンボルでもあり得るが、いちばん先鋭な革新のシンボルでもあり得る二面性」を持つものとしている。 三島の天皇観は、「西欧化への最後のトリデとしての悲劇意志であり、純粋日本の敗北の宿命への洞察力と、そこから何ものかを汲みとろうとする意志の象徴」であり、昭和の天皇制はすでにキリスト教が入り込んで西欧理念に蝕まれていたため、二・二六事件の「みやび」を理解する力を失っていたと三島は批判している。 さらに戦後の政策により、「国民に親しまれる天皇制」という大衆社会化に追随したイメージ作りのため、まるで芸能人かのように皇室が週刊誌のネタにされるような「週刊誌的天皇制」に堕ちたことを三島は嘆き、天皇を民主化しようとしてやり過ぎた小泉信三のことを、皇室からディグニティ(威厳)を奪った「大逆臣」と呼び痛罵している。 三島は、昭和天皇個人に対しては、「反感を持っている」とし、「ぼくは戦後における天皇人間化という行為を、ぜんぶ否定しているんです」と死の1週間前に行なわれた対談で発言しているが、この天皇の人間宣言に対する思いは、『英霊の聲』で端的に描かれ、「人間宣言」を指南した幣原喜重郎も批判している。 三島は、井上光晴が「三島さんは、おれよりも天皇に苛酷なんだね」と言ったことに触れ、天皇に過酷な要求をすることこそが天皇に対する一番の忠義であると語っている。また、「幻の南朝」に忠義を尽くしているとし、理想の天皇制は「没我の精神」であり、国家的エゴイズムや国民のエゴイズムを掣肘するファクターで、新嘗祭などの祭祀の重要性を説いている。 天皇はあらゆる近代化、あらゆる工業化によるフラストレイションの最後の救世主として、そこにいなけりゃならない。それをいまから準備していなければならない。(中略)天皇というのは、国家のエゴイズム、国民のエゴイズムというものの、一番反極のところにあるべきだ。そういう意味で、天皇は尊いんだから、天皇が自由を縛られてもしかたがない。その根元にあるのは、とにかく「お祭」だ、ということです。天皇がなすべきことは、お祭、お祭、お祭、お祭、――それだけだ。これがぼくの天皇論の概略です。 ― 三島由紀夫(福田恆存との対談)「文武両道と死の哲学」 なお三島は、旧制学習院高等科を首席で卒業した際、恩賜の銀時計を拝受し昭和天皇に謁見しているが、1969年(昭和44年)5月に行われた全共闘との討論集会において、その時の卒業式に臨席した昭和天皇が「3時間(の式の間)、木像のごとく全然微動もしない」御姿が大変ご立派であったと敬意を表しており、終戦直後の20歳の時のノートにも、昭和天皇が「国民生活を明るくせよ。灯火管制は止めて街を明るくせよ。娯楽機関も復活させよ。親書の検閲の如きも即刻撤廃せよ」と御命令なさった「大御心」への感銘を綴っている。 ぼくらはつまり戦争中に生まれた人間でね、こういうとこに陛下が立ってて、まあ座っておられたが三時間全然微動もしない姿をみて、とにかく三時間全然木像のごとく微動もしない。卒業式で。その天皇から私は時計をもらった。そういうね、個人的な恩顧があるんだな。こんなこと言いたくないよ俺は。言いたくないけれどもだね、人間の一人の個人的な歴史の中でそういうことはあるんだ。そしてね、それはどうしても否定できないんだ俺の中でね。それはとても立派だった。 ― 三島由紀夫 1969年5月13日東京大学900番教室壇上において 磯田光一は、三島が自決の1か月前に、本当は腹を切る前に宮中で天皇を殺したいが、宮中に入れないので自衛隊にした、と聞かされたと語っているが、これに対して持丸博は、用心深かった三島が事前に決起や自決を漏らすようなことを部外者に言うはずがないと疑問を唱えている。 長く昭和天皇に側近として仕えた入江相政の日記『入江相政日記』の記述から、昭和天皇が三島や三島事件に少なからず関心を持っていたことが示されている。 なお、鈴木邦男は、三島が女系天皇を容認しているメモを、楯の会の「憲法研究会」のために残しているとして、昭和天皇が側室制度を廃止し、十一家あった旧宮家を臣籍降下させたことなどにより、将来必ず皇位継承問題が起こることを三島が批判的に予見していたという見解を示しているが、鈴木が見解の元としている松藤竹二郎の著書3冊にも、そういったメモあるいは伝言の具体的な提示はなく、三島研究者の間でも、三島が女系天皇を容認していたことを示すメモや文献の存在は確認されていない。 鈴木邦男が言う「皇位は世襲であって、その継承は男系子孫に限ることはない」という案は、三島の死後に行われた「憲法研究会」における討議案の中の、あくまで1人の会員の意見として記載されているだけで、それに異議を唱える会員の意見もあり、「憲法研究会」の総意として掲げているわけではない。仔細に読めば、その後段の話し合いでも、「“継承は男系子孫に限ることはない”という文言は憲法に入れる必要ない」という結論となっている。 ===特攻隊について=== 三島の天皇観は、国家や個人のエゴイズムを掣肘するファクター、反エゴイズムの代表として措定され、「近代化、あらゆる工業化によるフラストレイションの最後の救世主」として存在せしめようという考えであったが、三島の神風特攻隊への思いも、彼らの「没我」の純粋さへの賛美であり、美的天皇観と同じ心情に基づいている。 三島の考える「純粋」は、小説『奔馬』で多く語られているが、その中には、「あくまで歴史は全体と考へ、純粋性は超歴史的なものと考へたがよいと思ひます」とあり、評論『葉隠入門』においても、政治的思想や理論からの正否と合理性を超えた純粋行為への考察がなされ、特攻隊の死についても、その側面からの言及がなされている。 三島は日本刀を「魂である」としていたが、特攻隊についても西欧・近代への反措定として捉えており、「大東亜戦争」についても、「あの戦争が日本刀だけで戦つたのなら威張れるけれども、みんな西洋の発明品で、西洋相手に戦つたのである。ただ一つ、真の日本的武器は、航空機を日本刀のやうに使つて斬死した特攻隊だけである」としている。この捉え方は、戦時中、三島が学生であった頃の文面にも見られる。 僕は僕だけの解釈で、特攻隊を、古代の再生でなしに、近代の殲滅――すなはち日本の文化層が、永く克服しようとしてなしえなかつた「近代」、あの尨大な、モニュメンタールな、カントの、エヂソンの、アメリカの、あの端倪すべからざる「近代」の超克でなくてその殺傷(これは超克よりは一段と高い烈しい美しい意味で)だと思つてゐます。「近代人」は特攻隊によつてはじめて「現代」といふか、本当の「われわれの時代」の曙光をつかみえた、今まで近代の私生児であつた知識層がはじめて歴史的な嫡子になつた。それは皆特攻隊のおかげであると思ひます。日本の全文化層、世界の全文化人が特攻隊の前に拝跪し感謝の祈りをさゝげるべき理由はそこにあるので、今更、神話の再現だなどと生ぬるいたゝへ様をしてゐる時ではない。全く身近の問題だと思ひます。 ― 平岡公威「三谷信宛ての葉書」(昭和20年4月21日付) 敗戦時に新聞などが、「幼拙なヒューマニズム」や「戦術」と称し、神風特攻隊員らを「将棋の駒を動かすやうに」功利、効能的に見て、特攻隊の精神がジャーナリズムにより冒涜されて、「神の座と称号」が奪われてしまったことへの憤懣の手記もノートに綴っていた。 我々が中世の究極に幾重にも折り畳まれた末世の幻影を見たのは、昭和廿年の初春であつた。人々は特攻隊に対して早くもその生と死の(いみじくも夙に若林中隊長が警告した如き)現在の最も痛切喫緊な問題から目を覆ひ、国家の勝利(否もはや個人的利己的に考へられたる勝利、最も悪質の仮面をかぶれる勝利願望)を声高に叫び、彼等の敬虔なる祈願を捨てゝ、冒*481*の語を放ち出した。 ―  平岡公威「昭和廿年八月の記念に」 また、三島は戦後、『きけ わだつみのこえ』が特攻隊員の遺書を「作為的」に編纂し、編者が高学歴の学生のインテリの文章だけ珍重し、政治的プロパガンダに利用している点に異議を唱え、「テメエはインテリだから偉い、大学生がむりやり殺されたんだからかわいそうだ、それじゃ小学校しか出ていないで兵隊にいって死んだやつはどうなる」と唾棄している。 『きけ わだつみのこえ』を題材とした映画についても、「いはん方ない反感」を感じたとし、フランス文学研究をしていた学生らが戦死した傍らに、ボードレールかヴェルレーヌの詩集の頁が風にちぎれているシーンが、ボードレールも墓の下で泣くであろうほど「甚だしくバカバカしい印象」だと酷評し、「日本人がボオドレエルのために死ぬことはないので、どうせ兵隊が戦死するなら、祖国のために死んだはうが論理的」であるとしている。 ===愛国心について=== 「愛国心」という言葉に対して三島は、官製のイメージが強いとして、「自分がのがれやうもなく国の内部にゐて、国の一員であるにもかかはらず、その国といふものを向こう側に対象に置いて、わざわざそれを愛するといふのが、わざとらしくてきらひである」とし、キリスト教的な「愛」(全人類的な愛)という言葉はそぐわず、日本語の「恋」や「大和魂」で十分であり、「日本人の情緒的表現の最高のもの」は「愛」ではなくて「恋」であると主張している。 「愛国心」の「愛」の意味が、もしもキリスト教的な愛ならば、「無限定無条件」であるはずだから、「人類愛」と呼ぶなら筋が通るが、「国境を以て閉ざされた愛」である「愛国心」に使うのは筋が通らないとしている。 アメリカ合衆国とは違い、日本人にとって日本は「内在的即自的であり、かつ限定的個別的具体的」にあるものだと三島は主張し、「われわれはとにかく日本に恋してゐる。これは日本人が日本に対する基本的な心情の在り方である」としている。 恋が盲目であるやうに、国を恋ふる心は盲目であるにちがひない。しかし、さめた冷静な目のはうが日本をより的確に見てゐるかといふと、さうも言へないところに問題がある。さめた目が逸したところのものを、恋に盲ひた目がはつきりつかんでゐることがしばしばあるのは、男女の仲と同じである。 ― 三島由紀夫「愛国心」 ===国語教育論=== 三島は、戦後の政府により1946年(昭和21年)に改定された現代かなづかいを使わず、自身の原稿は終生、旧仮名遣ひを貫いた。三島は、言葉にちょっとでも実用的な原理や合理的な原理を導入したら、もうだめだと主張し、中国人は漢字を全部簡略化したため古典が読めなくなったとしている。 また敗戦後に日本語を廃止してフランス語を公用語にすべきと発言した志賀直哉について触れ、「私は、日本語を大切にする。これを失つたら、日本人は魂を失ふことになるのである。戦後、日本語をフランス語に変へよう、などと言つた文学者があつたとは、驚くにたへたことである」と批判した。 国語教育についても、現代の教育で絶対に間違っていることの一つが、「古典主義教育の完全放棄」だとし、「古典の暗誦は、決して捨ててならない教育の根本であるのに、戦後の教育はそれを捨ててしまつた。ヨーロッパでもアメリカでも、古典の暗誦だけはちやんとやつてゐる。これだけは、どうでもかうでも、即刻復活すべし」と主張している。 そして、中学生には原文でどんどん古典を読ませなければならないとし、古典の安易な現代語訳に反対を唱え、日本語の伝統や歴史的背景を無視した利便・実用第一主義を唾棄し、「美しからぬ現代語訳に精出してゐるさまは、アンチョコ製造よりもつと罪が深い。みづから進んで、日本人の語学力を弱めることに協力してゐる」と文部省の役人や教育学者を批判し、自身の提案として、「ただカナばかりの原本を、漢字まじりの読みやすい版に作り直すとか、ルビを入れるとか、おもしろいたのしい脚注を入れるとか、それで美しい本を作るとか」を先生たちにやってもらいたいと述べている。 三島は、日本人の古典教育が衰えていったのは、すでに明治の官僚時代から始まっていたとし、文化が分からない人間(官僚)が日本語教育をいじり出し「日本人が古典文学を本当に味わえないような教育をずっとやってきた」と述べ、意味が分からなくても「読書百遍意おのずから通ず」で、小学生から『源氏物語』を暗唱させるべきだとしている。また、『論語』の暗唱、漢文を素読する本当の教え方が大事だとし、支那古典の教養がなくなってから日本人の文章がだらしなくなり、「日本の文体」も非常に弱くなったとしている。 ===漫画・映画・サブカルチャー=== 生前、自身でも『のらくろ』時代から漫画・劇画好きなことをエッセイなどで公言していた三島の所蔵書には、水木しげる、つげ義春、好美のぼるらの漫画本があることが明らかになっている。 毎号、小学生の2人の子供と奪い合って赤塚不二夫の『もーれつア太郎』を読み、「猫のニャロメと毛虫のケムンパスと奇怪な生物ベシ」ファンを自認していた三島は、この漫画の徹底的な「ナンセンス」に、かつて三島が時代物劇画に求めていた「破壊主義と共通する点」を看取し、「それはヒーローが一番ひどい目に会ふといふ主題の扱ひでも共通してゐる」と賞讃している。平田弘史の時代物劇画の「あくまで真摯でシリアスなタッチに、古い紙芝居のノスタルジヤと“絵金”的幕末趣味」を発見し好んでいた三島は、白土三平はあまり好きでないとしている。 「おそろしく下品で、おそろしく知的、といふやうな漫画」を愛する三島は、「他人の家がダイナマイトで爆発するのをゲラゲラ笑つて見てゐる人が、自分の家の床下でまさに別のダイナマイトが爆発しかかつてゐるのを、少しも知らないでゐるといふ状況」こそが漫画であるとして、「漫画は現代社会のもつともデスペレイトな部分、もつとも暗黒な部分につながつて、そこからダイナマイトを仕入れて来なければならない」と語っている。 三島は、漫画家が「啓蒙家や教育者や図式的風刺家になつたら、その時点でもうおしまひである」として、若者が教養を求めた時に与えられるものが、「又しても古ぼけた大正教養主義のヒューマニズムやコスモポリタニズムであつてはたまらないのに、さうなりがちなこと」を以下のように批判しながら、劇画や漫画に飽きた後も若者がその精神を忘れず、「自ら突拍子もない教養」、「決して大衆社会へ巻き込まれることのない、貸本屋的な少数疎外者の鋭い荒々しい教養」を開拓してほしいとしている。 かつて颯爽たる「鉄腕アトム」を想像した手塚治虫も、「火の鳥」では日教組の御用漫画家になり果て、「宇宙虫」ですばらしいニヒリズムを見せた水木しげるも「ガロ」の「こどもの国」や「武蔵」連作では見るもむざんな政治主義に堕してゐる。一体、今の若者は、図式化されたかういふ浅墓な政治主義の劇画・漫画を喜ぶのであらうか。「もーれつア太郎」のスラップスティックスを喜ぶ精神と、それは相反するではないか。(中略)折角「お化け漫画」にみごとな才能を揮ふ水木しげるが、偶像破壊の「新講談 宮本武蔵」(1965年)を描くときは、芥川龍之介と同時代に逆行してしまふからである。 ― 三島由紀夫「劇画における若者論」 ボクシング好きで、自身も1年間ほどジムに通った経験のあった三島は、雑誌『週刊少年マガジン』連載の『あしたのジョー』を毎週愛読していたが、発売日にちょうど映画『黒蜥蜴』の撮影で遅くなり、深夜に講談社のマガジン編集部に突然現れて、今日発売されたばかりのマガジンを売ってもらいたいと頼みに来たというエピソードがある。編集部ではお金のやりとりができないから、1冊どうぞと差し出すと、三島は嬉しそうに持ち帰ったという。また、「よくみるTV番組は?」という『文藝春秋』のアンケートの問いに、『ウルトラマン』と答えている。 1954年(昭和29年)の映画『ゴジラ』は、公開直後は日本のジャーナリズムの評価が低く、「ゲテモノ映画」「キワモノ映画」と酷評する向きが多勢で、特撮面では絶賛されたものの各新聞の論評でも、「人間ドラマの部分が余計」として、本多猪四郎監督の意図したものを汲んだ批評は見られなかったが、田中友幸によれば、三島のみが「原爆の恐怖がよく出ており、着想も素晴らしく面白い映画だ」として、ドラマ部分を含めた全てを絶賛してくれたとされる。 次第に三島の審美眼は、プロの映画評論家にも一目置かれるようになり、荻昌弘や小森和子らとも対談もした。当時淀川長治は、「ワタシみたいなモンにでも気軽に話しかけてくださる。自由に冗談を言いあえる。数少ないホンモノの人間ですネ。(中略)あの人の持っている赤ちゃん精神。これが多くの人たちに三島さんが愛される最大の理由でしょうネ」と三島について語っている。 SFにも関心を寄せていた三島は、1956年(昭和31年)に日本空飛ぶ円盤研究会に入会し(会員番号12)、1957年(昭和32年)6月8日には、日活国際会館屋上での空飛ぶ円盤観測会に初参加した。1962年(昭和37年)には、SF性の強い小説『美しい星』を発表したが、その1年半前には、瑤子夫人と自宅屋上でUFOを目撃している。 1963年(昭和38年)9月には、SF同人誌『宇宙塵』に寄稿し、「私は心中、近代ヒューマニズムを完全に克服する最初の文学はSFではないか、とさへ思つてゐるのである」と記した。また、アーサー・クラークの『幼年期の終り』を絶賛し、「随一の傑作と呼んで憚らない」と評している。 ==家族・親族== 出自も参照のこと。 ===祖父・平岡定太郎(内務省官僚)=== 1863年(文久3年)6月4日生 ‐ 1942年(昭和17年)8月26日没1892年(明治25年)、帝国大学法科大学(現・東京大学法学部)卒業。内務省に入省。1906年(明治39年)7月、福島県知事に就任し、1908年(明治41年)6月、樺太庁長官に就任した。原敬に重用された人物であった。太く濃い眉と意志的な眼が印象的な、人望の厚い人物で、樺太に銅像が建立された。79歳で死去。 ===祖母・平岡夏子(戸籍名・なつ)=== 1876年(明治9年)6月27日生 ‐ 1939年(昭和14年)1月18日没東京府士族・大審院判事・永井岩之丞の長女。幕臣・玄蕃頭・永井尚志の孫。17歳で平岡定太郎と結婚した。潰瘍出血のため62歳で死去。 ===父・平岡梓(農商務省官僚)=== 1894年(明治27年)10月12日生 ‐ 1976年(昭和51年)12月16日没平岡定太郎と夏子の長男(一人息子)。1920年(大正9年)、東京帝国大学法学部(現・東京大学法学部)法律学科(独法)卒業し、農商務省(現・農林水産省)に入省。1942年(昭和17年)3月、水産局長を最後に退官。日本瓦斯用木炭株式会社社長に就任するが、会社は終戦で機能停止し、1948年(昭和23年)1月に政府命令で閉鎖された。肺に溜まった膿漿による呼吸困難のため82歳で死去。 ===母・平岡倭文重=== 1905年(明治38年)2月18日生 ‐ 1987年(昭和62年)10月21日没漢学者・橋健三の次女。加賀藩学問所「壮猶館」教授・橋健堂の孫(母・トミが橋健堂の五女)。橋家は加賀藩主・前田家に代々仕えた。19歳で平岡梓と結婚し、公威、美津子、千之の二男一女を儲けた。心不全のため82歳で死去。 ===妹・平岡美津子=== 1928年(昭和3年)2月23日生 ‐ 1945年(昭和20年)10月23日没聖心女学院専門部在学中の17歳の時に、学徒動員で疎開されていた図書館の本を運搬する作業中、なま水を飲んだのが原因で腸チフスで早世。 ===弟・平岡千之(外交官)=== 1930年(昭和5年)1月19日生 ‐ 1996年(平成8年)1月9日没1954年(昭和29年)、東京大学法学部政治学科卒業後、外務省に入省。フランスやセネガルなど各国に駐在。1987年(昭和62年)4月から駐モロッコ大使となり、その後に駐ポルトガル大使などを歴任した。引退後、肺炎のため65歳で死去。 ===祖父・橋健三(漢学者)=== 1861年(万延2年)1月2日生 ‐ 1944年(昭和19年)12月5日没加賀藩士の父・瀬川朝治と母・ソトの二男。幼少より漢学者・橋健堂に学び、学才を見込まれ、12歳の時に健堂の三女・こうと結婚、婿養子となる。こうの死去後は、健堂の五女・トミを後妻とした。1910年(明治43年)、開成中学校の第5代校長に就任。校長を辞職後は、昌平中学(夜間中学)の校長となる。故郷の金沢にて84歳で死去。 ===伯父・橋健行(精神科医)=== 1884年(明治17年)2月6日生 ‐ 1936年(昭和11年)4月18日没倭文重の兄。橋健三とこうの長男。開成中学]、一高、東京帝国大学医科大学(現・東大医学部)精神医学科と進み、1925年(大正14年)、東大精神科の付属病院の東京府巣鴨病院(のちの松沢病院)の講師から副院長となる。1927年(昭和2年)、千葉医科大学(現在の千葉大学医学部)助教授に就任。歌人の斎藤茂吉(北杜夫の父)とは親友同士であった。肺炎をこじらせ52歳で死去。 ===妻・瑤子=== 1937年(昭和12年)2月13日生 ‐ 1995年(平成7年)7月31日没画家・杉山寧の長女。日本女子大学英文科2年在学中の21歳の時に三島と結婚(大学は2年で中退する)。三島との間に、紀子、威一郎の一男一女を儲ける。急性心不全のため58歳で死去。 ===長女・紀子(演出家)=== 1959年(昭和34年)6月2日生 ‐31歳の時に冨田浩司(外交官)と結婚。富田との間に子供がいる。 ===長男・威一郎(元実業家)=== 1962年(昭和37年)5月2日生 ‐映画『春の雪』、『三島由紀夫映画論集成』(1999年)の監修、編集に携わった。 ==系譜== ===平岡家=== ====祖父・平岡定太郎の故郷、兵庫県加古川市志方村地区==== 三島は、〈私は血すぢでは百姓とサムラヒの末裔だが、仕事の仕方はもつとも勤勉な百姓である〉として、平岡家の血脈が〈百姓〉であることを述べているが、その祖父・平岡定太郎の本籍は、兵庫県印南郡志方村上富木(現・加古川市志方町上富木)で、その昔まだ村と呼ばれていた頃は、農業、漁業が盛んな地域であった。また、同じ兵庫県の赤穂に次いで塩田も盛んで、播磨の塩は「花塩」と呼ばれ、特に珍重されていた。近くには景行天皇の皇后・播磨稲日大郎姫の御陵があり、その皇子・日本武尊の誕生の地でもある。古代、この地は港で、三韓征伐の折に神功皇后が龍船を泊めた。その時に神功皇后が、野鹿の群が多いのを見て「鹿多」とこの地を呼び、その後「鹿多」が「志方」と改められたのが地名の由来である。1573年 ‐ 1591年頃(天正の頃)に、櫛端左京亮がこの地に観音城(別名、志方城)を築城したため、港町から城下町となった。秀吉の中国征伐にあたり、城主・櫛橋は、東播の三木城主・別所長治と共に抗戦し落城したため、多くの武士、学者が志方に土着化した。なお、この地は地盤が強く震災の被害が少ないことから、関東大震災のあとに登場した遷都論で候補地の一つに挙がったこともある。阪神大震災のときも加古川流域はほとんど被害がなかった。 ===「平岡」姓=== 平岡家の菩提寺・真福寺は1652年(承応元年)の建立である。過去帳によれば、平岡家の祖となる初代は1688年 ‐ 1703年(元禄時代)の孫左衛門である。二代目も孫左衛門を襲名し、次は利兵衛が三代続く。その次の六代目の平岡太左衛門(たざえもん)の四男が平岡太吉となり、三島の祖父・定太郎は太吉の二男である。“平岡”姓について、安藤武は、「平岡姓は平岡連、河内国讃良郡枚岡郷(ひらおかごう)か、河内郡枚岡邑(ひらおかむら)より起こりしか。武士は出身地の名田の名から姓をつけたが明治維新後は農民もならい姓とした。津速魂一四世孫胴身臣の後継。『大和物語』で奈良猿沢の池に身投げをした猿沢采女は平岡の人。農民の平岡家も明治になってから土地の名をとって、平岡姓を太左衛門から名乗った」としているが、過去帳を見た福島鑄郎によると、平岡姓は、四代目以降の五代目・利兵衛(3人目)からだとしている。 ===屋号「しおや」(塩屋)=== 五代目の利兵衛(3人目)のところから「しおや」(塩屋)という屋号が付いているが、これは塩田を営む塩屋ではなく、「塩物屋」のことで、五代目の利兵衛が農業のかたわら、「塩をまぶした魚介類」などを仕入れて売り歩く商売か、あるいは塩を売る商売を始めたのではないかとされている。野坂昭如は、「しおや」(塩屋)の屋号があって不思議はないとし、「“折ふしは塩屋まで来る物もらひ”と路通の句があるが、粗末な小屋、苫屋(とまや)の謂い、誇るに足る屋号ではない。“塩屋まで”は、貧しい塩屋までもの意味」だと説明している。 ===曽祖父・平岡太吉の「鶴射ち事件」=== 七代目にあたる平岡太吉は、妻・つるとの間に、萬次郎、定太郎、久太郎の3人の息子と、娘・むめを儲けた。三島の父・梓の従弟・小野繁(むめの息子)が真福寺の住職から聞き出してまとめた報告書には太吉の人物像が次のように記されている。 「平岡太吉は裕福な地主兼農家で、田舎ではいわゆる風流な知識人で腰には矢立を帯び短冊を持ち歩いた」、「萬次郎、定太郎両名を明石の橋本関雪の岳父の漢学習字の塾に入れ勉学させ、次いで東都へ遊学させた」、「太吉の妻(つる)もすこぶる賢夫人として土地では有名であった」。「平岡太吉は裕福な地主兼農家で、田舎ではいわゆる風流な知識人で腰には矢立を帯び短冊を持ち歩いた」、「萬次郎、定太郎両名を明石の橋本関雪の岳父の漢学習字の塾に入れ勉学させ、次いで東都へ遊学させた」、「太吉の妻(つる)もすこぶる賢夫人として土地では有名であった」。太吉の孫の嫁・平岡りき(久太郎の二男・平岡義一の妻)によれば、太吉は幼少(5、6歳)の頃、領主から禁じられていた鶴(一説には雉子)を射ったため、「所払い」が命じられ、それが理由で平岡一家は西神吉村宮前から志方村上富木に移り住んだという。その後、成長した太吉は金貸し業で成功し、果実栽培も軌道に乗って裕福となり、豪邸を建てた。 ===赤門事件=== 平岡梓は、「僕の家は、家系図を開けば、なるほど父方は百姓風情で赤門事件という反体制的のことをやらかして、お上に痛い目に会うし…」と述べているが、平岡りきの記憶によれば、「赤門事件」というものは聞いた記憶がないという。志方町中央農協組合の元組合長の好田光伊によると、「赤門事件」とは、加賀の前田家が徳川将軍から姫君を迎えるにあたって上屋敷の正門に赤い門を構えたが、平岡太左衛門がこれを真似て、菩提寺の真福寺に赤門を寄進し、それはほんのしるし程度のものであったが、この行為が「お上をおそれぬ、ふとどきもののおこない」と断じられ「所払い」になったという昔からのいい伝えの話だという。梓から直接その伝承話を聞いたことがあるという越次倶子は、実際にその事件があったかどうかは、真福寺に赤門寄進の記録がないため真偽不明だとした上で、その伝説を幼い頃から父親や祖父から聞かされたであろう三島の脳裏には、「赤門事件を起こした太左衛門という高祖父がいた」という意識が刻まれていた可能性があるとしている。福島鑄郎も、「所払い」の原因が、太吉の鶴射ち事件か、赤門事件かは不明だが、いずれにしても「おかみをおそれぬ行為」という反骨の血が三島に受け継がれていたとしている。 ===平岡家部落民説=== 『月刊噂』の記事(1972年)や、『農民文学』(1971年)の仲野羞々子(ペンネームで、元産経新聞四国支社の男性記者)は、平岡家の祖先が、部落民であるかのような記載をしているが、越次倶子が実際に過去帳を調べて写真撮影したものによれば、そういった記述は全く無く、1964年(昭和39年)頃に越次が入手していた平岡家の壬申戸籍の写しにも、特別変った箇所はなかった。村松剛は、もし過去帳や戸籍に部落民説を裏付ける記述があれば、差別意識の強かった時代、由緒ある永井夏子と定太郎の結婚は成立しなかったであろうとしている。近年、過去帳を実際に閲覧することができた福島鑄郎も、仲野羞々子が言うような情報は何も見つからず、「刑場の役人の下働き」をしていたという噂も根拠不明だとし、事件と何かを結びつけたい心理が、そういった噂を生んだのだろうとしている。板坂剛の取材に答えた住職夫人も、「ただ名前が書いてあるだけですよ。他には何も書いてないですよ。いろんなことを言う人がいますけどね」と述べている。 ===平岡家系図=== ===永井家=== 永井氏系譜(武家家伝) 三島は〈私は血すぢでは百姓とサムラヒの末裔〉として、〈サムラヒ〉の血脈を永井家・松平家に見ている。 映画『人斬り』(1969年)で、薩摩藩士・田中新兵衛の役を演じた時には、〈新兵衛が腹を切つたおかげで、不注意の咎で閉門を命ぜられた永井主水正の曾々孫が百年後、その新兵衛をやるのですから、先祖は墓の下で、目を白黒させてゐることでせう〉と林房雄宛てに綴っているが、この高祖父〈永井主水正〉が、三島の祖母・夏子の祖父にあたる永井尚志である。 永井尚志は、長崎海軍伝習所の総監理(所長)として長崎製鉄所の創設に着手するなど活躍し、徳川幕府海軍創設に甚大な貢献をなして、1855年(安政2年)、従五位下・玄蕃頭に叙任した人物である。 尚志はその後、外国奉行、軍艦奉行、京都町奉行となり、京摂の間、坂本龍馬等志士とも交渉を持った。1867年(慶応3年)に若年寄となり、戊辰戦争では、箱館奉行として榎本武揚と共に五稜郭に立て籠り、官軍に敗れて牢に入った。維新後は解放され、元老院権大書記官となった。 大屋敦(夏子の弟)は祖父・永井尚志について、「波乱に富んだ一生を送った祖父は、政治家というより、文人ともいうべき人であった。徳川慶喜公が大政奉還する際、その奏上文を草案した人として名を知られている。勝海舟なども詩友として祖父に兄事していたため、私の昔の家に、海舟のたくさんの遺墨のあったことを記憶している」と語っている。 永井亨(夏子の弟で、経済学博士・人口問題研究所所長)によると、尚志は京都では守護職の松平容保(会津藩主)の下ではたらき、近藤勇、土方歳三以下の新撰組の面々にも人気があったとされる。晩年の尚志は、向島の岩瀬肥後守という早世した親友の別荘に入り、岩瀬のことを死ぬまで祭祀していたという。 夏子の父・永井岩之丞は、1846年(弘化2年)9月に永井家一族の幕臣・三好山城守幽雙の二男として生まれ、永井尚志の養子となった。戊辰戦争では品川を脱出し、尚志と共に函館の五稜郭に立て籠って戦った。維新後は、司法省十等出仕を命ぜられ、判事、控訴院判事を経て、1894年(明治27年)4月に大審院判事となった人物である。 岩之丞は、水戸の支藩・宍戸藩の藩主・松平頼位の三女・松平鷹(のちに高)と結婚し、六男六女を儲けた。松平高の母・糸(佐藤氏の娘)は松平頼位の側室で、新門辰五郎の姪であった。松平頼位の長男・松平頼徳は乱の際に幕府から切腹を命じられて33歳で死んだ人物である。 岩之丞の六男・大屋敦は父親について、「厳格そのもののような人」で、「子供の教育については、なにひとつ干渉しなかったが日常の起居は古武士のようであぐらなどかいた姿を、ただの一度も見たことはなかった」と語っている。 三島は曾祖母・高の写真の印象を、〈美しくて豪毅な女性〉とし、〈写真で見る晩年の面影からも、眉のあたりの勝気のさはやかな感じと、秀でた鼻と、小さなつつましい形のよい口とが、微妙で雅趣のある調和を示してゐる。そこには封建時代の女性に特有なストイックな清冽さに充ちた稍々非情な美が見られるのである〉と表現している。 ===永井家系図=== ===永井尚志系図=== ===永井岩之丞系図=== ===松平家系図=== ===橋家=== 永井家・松平家の血脈が〈サムラヒ〉「武」とすれば、橋家は三島にとって「文」の血脈となる。 三島の母・倭文重の祖父・橋健三、曽祖父・橋健堂、高祖父・橋一巴(雅号・鵠山)は、加賀藩藩主・前田家に代々仕えた漢学者・書家であった。名字帯刀を許され、学塾において藩主・前田家の人々に講義をしていた。 高祖父・一巴以前の橋家は、近江八幡(滋賀県にある琵琶湖畔、日野川の近く)の広大な山林の持主の賀茂(橋)一族である。1970年(昭和45年)の滋賀県の調査により、この土地が賀茂(橋)一族の橋一巴、健堂、健三の流れを汲む直系の子孫に所有権があることが判明した。賀茂(橋)家は、約一千年の歴史をもつ古い家柄の京都の橋家が元で、島根県の出雲の出身である。 曽祖父・橋健堂は、平民・女子教育の充実など教育者として先駆的であったが、健堂が出仕した「壮猶館」、「集学所」(夜間学校のはしり)は、藩の重要プロジェクトと連動し、単に儒学を修める藩校だけでなく、英語や洋式兵学も教え、ペリー率いる黒船の来航に刺激された加賀藩が、命運を賭して創設した軍事機関でもあった。教授であった健堂はその軍事拠点の中枢にあり、海防論を戦わせ、佐野鼎から洋式兵学を吸収する立場の人物であった。 ===橋家系図=== ==略年譜== ==おもな作品== ★印は学習院時代の作品。◎印は映画化された作品。◇印はテレビ・ラジオドラマ化(朗読含む)された作品。■印は三島自身の肉声資料があるもの。 ===短編小説=== 酸模――秋彦の幼き思ひ出(輔仁会雑誌 1938年3月)★座禅物語(輔仁会雑誌 1938年3月)★墓参り(輔仁会雑誌 1938年7月)★ ‐ 連作「鈴鹿鈔」の一作。暁鐘聖歌(輔仁会雑誌 1938年7月)★ ‐ 連作「鈴鹿鈔」の一作。心のかゞやき(1940年3月)★ ‐ 未完仔熊の話(1940年6月)★神官(1940年)★彩絵硝子〈だみえがらす〉(輔仁会雑誌 1940年11月)★花ざかりの森(文藝文化 1941年9月‐12月)★青垣山の物語(1942年2月)★苧菟と瑪耶〈おっとおとまや〉(赤繪 1942年7月)★みのもの月(文藝文化 1942年11月)★玉刻春(輔仁会雑誌 1942年12月)★世々に残さん(文藝文化 1943年3月)★祈りの日記(赤絵 1943年6月)★曼荼羅物語(輔仁会雑誌 1943年12月)★檜扇(1944年1月)★ ‐ 2000年11月『新潮』初掲載。朝倉(文藝世紀 1944年7月)★中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜萃(文藝文化 1944年8月)★ ‐ 改題前は「夜の車」中世(文藝世紀 1945年2月‐1946年1月、人間 1946年12月)エスガイの狩(文藝 1945年5・6月。戦乱のため発行は8月に遅延)黒島の王の物語の一場面(東雲 1945年6月)菖蒲前(現代 1945年10月)贋ドン・ファン記(新世紀 1946年6月)煙草(人間 1946年6月)岬にての物語(群像 1946年11月)恋と別離と(婦人画報 1947年3月)軽王子と衣通姫(群像 1947年4月)鴉(光耀 1947年8月)夜の仕度(人間 1947年8月)ラウドスピーカー(文藝大学 1947年12月)春子(人間 1947年12月)サーカス(進路 1948年1月)◇■婦徳(令女界 1948年1月)接吻(マドモアゼル 1948年1月)伝説(マドモアゼル 1948年1月)白鳥(マドモアゼル 1948年1月)哲学(マドモアゼル 1948年1月)蝶々(花 1948年2月) ‐ 改題前は「晴れた日に」殉教(丹頂 1948年4月)親切な男(新世間 1948年4月)家族合せ(文學季刊 1948年4月)人間喜劇(1948年4月執筆) ‐ 1974年10月刊行の全集2巻に初収録。頭文字(文學界 1948年6月)慈善(改造 1948年6月)宝石売買(文藝 1948年6月)罪びと(婦人 1948年7月)好色(小説界 1948年7月)不実な洋傘(婦人公論 1948年10月)山羊の首(別冊文藝春秋 1948年11月)獅子(序曲 1948年12月)幸福といふ病気の療法(文藝 1949年1月)恋重荷(群像 1949年1月)毒薬の社会的効用について(風雪 1949年1月)大臣(新潮 1949年1月)魔群の通過(別冊文藝春秋 1949年2月)侍童(小説新潮 1949年3月)天国に結ぶ恋(オール讀物 1949年6月)訃音(改造 1949年7月)舞台稽古(女性改造 1949年9月)星(評論 1949年9月)薔薇(文藝往来 1949年10月)退屈な旅(別冊小説新潮 1949年10月)親切な機械(風雪 1949年11月)孝経(展望 1949年11月)火山の休暇(改造文藝 1949年11月)怪物(別冊文藝春秋 1949年12月)花山院(婦人朝日 1950年1月)果実(新潮 1950年1月)鴛鴦(文學界 1950年1月)修学旅行(週刊朝日 1950年3月1日)日曜日(中央公論 1950年7月)遠乗会(別冊文藝春秋 1950年8月)◇孤閨悶々(オール讀物 1950年8月)日食(朝日新聞夕刊 1950年9月19日)食道楽(サンデー毎日別冊 1950年10月20日)牝犬(別冊文藝春秋 1950年12月)女流立志伝(オール讀物 1951年1月)家庭裁判(文藝春秋 1951年1月)偉大な姉妹(新潮 1951年3月)箱根細工(小説公園 1951年3月)椅子(別冊文藝春秋 1951年3月)死の島(改造 1951年4月)翼――ゴーティエ風の物語(文學界 1951年5月)右領収仕候(オール讀物 1951年5月)手長姫(小説新潮 1951年6月)朝顔(婦人公論 1951年8月)携帯用(新潮 1951年10月)離宮の松(別冊文藝春秋 1951年12月)クロスワード・パズル(文藝春秋 1952年1月)学生歌舞伎気質(小説新潮 1952年1月)近世姑気質(オール讀物 1952年1月)金魚と奥様(オール讀物 1952年9月)真夏の死(新潮 1952年10月)◇ ‐ 1967年フォルメントール国際文学賞第2位受賞。二人の老嬢(週刊朝日 1952年11月30日)美神(文藝 1952年12月)◇江口初女覚書(別冊文藝春秋 1953年4月)雛の宿(オール讀物 1953年4月)旅の墓碑銘(新潮 1953年6月)急停車(中央公論 1953年6月)卵(群像 1953年6月)不満な女たち(文藝春秋 1953年7月)花火(改造 1953年9月)◇ラディゲの死(中央公論 1953年10月)陽気な恋人(サンデー毎日 1953年10月30日)博覧会(群像 1954年6月)芸術狐(オール讀物 1954年6月)鍵のかかる部屋(新潮 1954年7月)復讐(別冊文藝春秋 1954年7月)◇詩を書く少年(文學界 1954年8月)志賀寺上人の恋(文藝春秋 1954年10月)水音(世界 1954年11月)S・O・S(小説新潮 1954年11月)海と夕焼(群像 1955年1月)新聞紙(文藝 1955年3月)商ひ人(新潮 1955年4月)山の魂(別冊文藝春秋 1955年4月)屋根を歩む(オール讀物 1955年5月)牡丹(文藝 1955年7月)青いどてら(朝日新聞 1956年1月15日)十九歳(文藝 1956年3月)◇足の星座(オール讀物 1956年7月)施餓鬼舟(群像 1956年10月)橋づくし(文藝春秋 1956年12月)◇女方(世界 1957年1月)色好みの宮(オール讀物 1957年7月)貴顕(中央公論 1957年8月)影(オール讀物 1959年11月)百万円煎餅(新潮 1960年9月)愛の処刑(ADONIS 1960年10月)◎スタア(群像 1960年11月)憂国(小説中央公論 1961年1月)◎苺(オール讀物 1961年9月)帽子の花(群像 1962年1月)魔法瓶(文藝春秋 1962年1月)月(世界 1962年8月)葡萄パン(世界 1963年1月)真珠(文藝 1963年1月)◇自動車(オール讀物 1963年1月)可哀さうなパパ(小説新潮 1963年3月)雨のなかの噴水(新潮 1963年8月)切符(中央公論 1963年8月)剣(新潮 1963年10月)◎◇月澹荘綺譚(文藝春秋 1965年1月)◇三熊野詣(新潮 1965年1月)◇孔雀(文學界 1965年2月)朝の純愛(日本 1965年6月)仲間(文藝 1966年1月)英霊の聲(文藝 1966年6月)■ 先行試作「悪臣の歌」(1966年)あり。先行試作「悪臣の歌」(1966年)あり。荒野より(群像 1966年10月)時計(文藝春秋 1967年1月)蘭陵王(群像 1969年11月) ===長編小説=== 盗賊(1947年12月 ‐ 1948年11月) 第1章(午前 1948年2月) 第2章(文學会議 1947年12月) 第3章(思潮 1948年3月) 第4章(文學会議 1948年10月) 第5章(新文學 1948年2月) 第6章(書き下ろし/真光社 1948年11月)第1章(午前 1948年2月)第2章(文學会議 1947年12月)第3章(思潮 1948年3月)第4章(文學会議 1948年10月)第5章(新文學 1948年2月)第6章(書き下ろし/真光社 1948年11月)仮面の告白(書き下ろし/河出書房 1949年7月)純白の夜(婦人公論 1950年1月‐10月)◎◇愛の渇き(書き下ろし/新潮社 1950年6月)◎青の時代(新潮 1950年7月‐12月)禁色(群像 1951年1月‐1953年8月) 第1章‐第18章(群像 1951年1月‐10月) 第19章‐第33章(文學界 1952年8月‐1953年8月)第1章‐第18章(群像 1951年1月‐10月)第19章‐第33章(文學界 1952年8月‐1953年8月)夏子の冒険(週刊朝日 1951年8月5日‐11月25日)◎◇につぽん製(朝日新聞 1952年11月1日‐1953年1月31日)◎◇恋の都(主婦之友 1953年8月‐1954年7月)◎潮騒(書き下ろし/新潮社 1954年6月)◎◇ ‐ 第1回新潮社文学賞受賞。女神(婦人朝日 1954年8月‐1955年3月)◇沈める滝(中央公論 1955年1月‐4月)◇幸福号出帆(読売新聞 1955年6月18日‐11月15日)◎金閣寺(新潮 1956年1月‐10月)◎◇ ‐ 第8回読売文学賞小説部門賞受賞。永すぎた春(婦人倶楽部 1956年1月‐12月)◎◇美徳のよろめき(群像 1957年4月‐6月)◎◇鏡子の家(書き下ろし/新潮社 1959年9月)◇ 第1章‐第2章途中まで(聲 1958年10月)第1章‐第2章途中まで(聲 1958年10月)宴のあと(中央公論 1960年1月‐10月) ‐ 1964年フォルメントール国際文学賞第2位受賞。お嬢さん(若い女性 1960年1月‐12月)◎◇獣の戯れ(週刊新潮 1961年6月12日‐9月4日)◎美しい星(新潮 1962年1月‐11月)◎◇愛の疾走(婦人倶楽部 1962年1月‐12月)肉体の学校(マドモアゼル 1963年1月‐12月)◎◇午後の曳航(書き下ろし/講談社 1963年9月)◎ ‐ 1967年フォルメントール国際文学賞候補作品。絹と明察(群像 1964年1月‐10月) ‐ 第6回毎日芸術賞文学部門賞受賞。音楽(婦人公論 1964年1月‐12月)◎春の雪〈豊饒の海・第一巻〉(新潮 1965年9月‐1967年1月)◎◇複雑な彼(女性セブン 1966年1月‐7月)◎三島由紀夫レター教室(女性自身 1966年9月26日‐1967年5月15日)◇夜会服(マドモアゼル 1966年9月‐1967年8月)奔馬〈豊饒の海・第二巻〉(新潮 1967年2月‐1968年8月)命売ります(週刊プレイボーイ 1968年5月21日‐10月8日)暁の寺〈豊饒の海・第三巻〉(新潮 1968年9月‐1970年4月)天人五衰〈豊饒の海・第四巻〉(新潮 1970年7月‐1971年1月) ===戯曲・歌舞伎=== ☆印は潤色・修辞作品 東の博士たち(輔仁会雑誌 1939年3月)★路程(1939年9月28日以前)★基督降誕記(1939年8月‐9月)★館(輔仁会雑誌 1939年11月)★ ‐ 中断した未完の第2回は2000年11月『新潮』初掲載。やがてみ楯と(1943年6月)★ ‐ 学習院輔仁会春季文化大会で上演。狐会菊有明(まほろば 1944年3月) ‐ 舞踊劇。未上演。あやめ(婦人文庫 1948年5月)◇火宅(人間 1948年11月)愛の不安(文藝往来 1949年2月)燈台(文學界 1949年5月)◇ニオベ(群像 1949年10月)聖女(中央公論 1949年10月)魔神礼拝(改造 1950年3月)邯鄲――近代能楽集ノ内(人間 1950年10月)綾の鼓――近代能楽集ノ内(中央公論 1951年1月)艶競近松娘(柳橋みどり会プログラム 1951年10月) ‐ 舞踊劇。姫君と鏡(青山圭男若柳登・新作舞踊発表会プログラム 1951年11月) ‐ 舞踊劇。鯉になつた和尚さん(誠文堂新光社 1951年11月) ‐ わだよしおみ(和田義臣)との共同脚本。上田秋成『雨月物語』の「夢応の鯉魚」を翻案とした童話劇。卒塔婆小町――近代能楽集ノ内(群像 1952年1月)◇紳士(演劇 1952年1月) ‐ 無言劇。只ほど高いものはない(新潮 1952年2月)夜の向日葵(群像 1953年4月)室町反魂香(柳橋みどり会プログラム 1953年10月) ‐ 舞踊劇。地獄変(1953年12月初演)◇ ‐ 芥川龍之介の小説『地獄変』の竹本劇化(義太夫語りを含む歌舞伎)。葵上――近代能楽集ノ内(新潮 1954年1月)◇若人よ蘇れ(群像 1954年6月)溶けた天女(新劇 1954年7月) ‐ オペレッタ。未上演。ボン・ディア・セニョーラ(1954年9月初演) ‐ オペレッタ。1974年の全集で初活字化。鰯売恋曳網(演劇界 1954年11月)ボクシング(文化放送脚本 1954年11月)◇ ‐ 第9回文部省芸術祭放送部門参加。班女――近代能楽集ノ内(新潮 1955年1月)◇恋には七ツの鍵がある(1955年3月初演) ‐ 全19景のオムニバス劇(三島のほか、村松梢風、東郷青児、小牧正英、北條誠、トニー谷、三林亮太郎が執筆)の第2景‐第4景の「恋を開く酒の鍵」を担当。熊野(三田文学 1955年5月) ‐ 歌舞伎舞踊。三原色(知性 1955年8月)船の挨拶(文藝 1955年8月)◇白蟻の巣(文藝 1955年9月) ‐ 第2回岸田演劇賞受賞。芙蓉露大内実記(文藝 1955年12月) ‐ エウリピデスの『ヒッポリュトス』と、ジャン・ラシーヌの『フェードル』を翻案とした歌舞伎。大障碍(文學界 1956年3月)◇鹿鳴館(文學界 1956年12月)◎◇オルフェ(1956年12月初演) ‐ ジャン・コクトーの映画『オルフェ』の舞踊劇化。道成寺――近代能楽集ノ内(新潮 1957年1月)◇ブリタニキュス(新劇 1957年4月)☆ ‐ ジャン・ラシーヌ原作・安堂信也邦訳版。朝の躑躅(文學界 1957年7月)附子(1957年) ‐ 1971年4月『中央公論』初掲載。Long After Love(1957年) ‐ 1971年5月『中央公論』初掲載。薔薇と海賊(群像 1958年5月) ‐ 週刊読売新劇賞受賞。舞踊台本・橋づくし(柳橋みどり会プログラム 1958年10月)むすめごのみ帯取池(日本 1958年12月) ‐ 山東京伝の読本『桜姫全伝曙草紙』を翻案とした歌舞伎。熊野――近代能楽集ノ内(聲 1959年4月)◇女は占領されない(聲 1959年10月)熱帯樹(聲 1960年1月)サロメ(1960年4月初演)☆ ‐ オスカー・ワイルド原作・日夏耿之介邦訳版。弱法師――近代能楽集ノ内(聲 1960年7月)十日の菊(文學界 1961年12月) ‐ 第13回読売文学賞戯曲部門賞受賞。黒蜥蜴(婦人画報 1961年12月)◎ ‐ 江戸川乱歩の小説『黒蜥蜴』の戯曲化。源氏供養――近代能楽集ノ内(文藝 1962年3月)プロゼルピーナ(1962年11月初演)☆ ‐ 翻訳独白劇。ゲーテ原作・三島由紀夫邦訳版。トスカ(1963年6月上演)☆ ‐ ヴィクトリアン・サルドゥ原作・安堂信也邦訳版。喜びの琴(文藝 1964年2月)美濃子(新潮社 1964年2月) ‐ オペラ劇。黛敏郎の作曲が間に合わず、未上演。恋の帆影(文學界 1964年10月)ちびくろさんぼのぼうけん(学習院幼稚園 1964年12月)☆ ‐ お遊戯会用。聖セバスチァンの殉教(批評 1965年4月) ‐ ダンヌンツィオ原作劇の翻訳(池田弘太郎との共訳)。サド侯爵夫人(文藝 1965年11月) ‐ 文部省芸術祭演劇部門芸術祭賞受賞。舌切雀(学習院幼稚園 1965年12月)☆ ― お遊戯会用。リュイ・ブラス(1966年10月初演)☆ ‐ ヴィクトル・ユゴー原作・池田弘太郎邦訳版。アラビアン・ナイト(1967年3月初演) ‐ 『アラビアンナイト』を翻案とした戯曲。朱雀家の滅亡(文藝 1967年10月)ミランダ(心 1968年10月) ‐ バレエ劇。双頭の鷹(1968年10月)☆ ‐ 監修。ジャン・コクトー原作・池田弘太郎邦訳版。わが友ヒットラー(文學界 1968年12月)■癩王のテラス(海 1969年7月)椿説弓張月(海 1969年11月)■ ‐ 曲亭馬琴の読本『椿説弓張月』の歌舞伎化。文楽浄瑠璃化もあり(1971年11月初演)。 ===随想・自伝・エッセイ・日誌・紀行=== 狸の信者(輔仁会雑誌 1938年7月)★ ‐ 連作「鈴鹿鈔」の一作。惟神之道〈かんながらのみち〉(1941年9月)★芝居日記(1942年1月‐1947年11月)★ ‐ 原題「平岡公威劇評集」。1989年10月‐1990年2月『マリ・クレール』初掲載。東文彦 弔詞(1943年10月) ‐ 1998年12月『新潮』掲載。東*482*兄を哭す(輔仁会雑誌 1943年12月)★柳桜雑見録(文藝文化 1943年12月)★平岡公威伝(1944年2月)★扮装狂(1944年8月)★ ‐ 2000年11月『新潮』初掲載。廃墟の朝(1944年夏)★詩論その他(1945年5月‐6月) ‐ 2000年11月『新潮』に初抜粋掲載。別れ(輔仁会報 1945年7月)昭和廿年八月の記念に(1945年8月) ‐ 1979年3月『新潮』初掲載。戦後語録(1945年9月)川端康成印象記(1946年1月)わが世代の革命(午前 1946年7月)招かれざる客(書評 1947年9月)重症者の兇器(人間 1948年3月)師弟(青年 1948年4月)ツタンカーメンの結婚(財政 1948年5月)反時代的な芸術家(玄想 1948年9月)悲劇の在処(東京日日新聞 1949年6月28日)戯曲を書きたがる小説書きのノート(日本演劇 1949年10月)大阪の連込宿――「愛の渇き」の調査旅行の一夜(文藝春秋 1950年6月)虚栄について(美しい暮しの手帖 1950年10月)声と言葉遣ひ――男性の求める理想の女性(スタイル 1950年12月)アポロの杯(各誌 1952年4月‐8月、朝日新聞社 10月)遠視眼の旅人(週刊朝日 1952年6月8日)最高の偽善者として――皇太子殿下への手紙(婦人公論 1952年12月)私の好きな作中人物――希臘から現代までの中に(別冊文藝春秋 1952年12月)愉しき御航海を――皇太子殿下へ(1953年3月) ‐ 発表誌未詳。蔵相就任の想ひ出――ボクは大蔵大臣(明窓 1953年4月・5月)堂々めぐりの放浪(毎日新聞 1953年8月22日)芝居と私(文學界 1954年1月)女ぎらひの弁(新潮 1954年8月)好きな女性(知性 1954年8月)私の小説の方法(河出書房 1954年9月) ‐ 『文章講座4』収録。空白の役割(新潮 1955年6月)終末感からの出発――昭和二十年の自画像(新潮 1955年8月)八月十五日前後(毎日新聞 1955年8月14日)戯曲の誘惑(東京新聞 1955年9月6日‐7日)小説家の休暇(書き下ろし/講談社 1955年11月)新恋愛講座(明星 1955年12月‐1956年12月)歴史の外に自分をたづねて――三十代の処生(中央公論 1956年2月)ラディゲに憑かれて――私の読書遍歴(日本読書新聞 1956年2月20日)わが漫画(漫画読売 1956年3月5日)わが魅せられたるもの(新女苑 1956年4月)自己改造の試み――重い文体と鴎外への傾倒(文學界 1956年8月)ボディ・ビル哲学(漫画読売 1956年9月20日)或る寓話(群像 1956年10月)文学とスポーツ(新体育 1956年10月)ボクシングと小説(毎日新聞 1956年10月7日)陶酔について(新潮 1956年11月)わが思春期(明星 1957年1月‐9月)旅の絵本(各誌 1957年12月‐1958年4月)■裸体と衣裳――日記(新潮 1958年4月‐1959年9月)外遊日記(新潮 1958年7月、9月、11月)不道徳教育講座(週刊明星 1958年7月27日‐1959年11月29日)◎◇私の見合結婚(主婦の友 1958年7月)作家と結婚(婦人公論 1958年7月)母を語る――私の最上の読者(婦人生活 1958年10月)同人雑記(聲 1958年10月‐1960年10月)十八歳と三十四歳の肖像画(群像 1959年5月)ぼくはオブジェになりたい(週刊公論 1959年12月1日)夢の原料(輔仁会雑誌 1960年12月)ピラミッドと麻薬(毎日新聞 1961年1月28日)美に逆らふもの(新潮 1961年4月) ‐ タイガーバームガーデン紀行。汽車への郷愁(弘済 1961年5月)法律と文学(東大緑会大会プログラム 1961年12月)第一の性(女性明星 1962年12月‐1964年12月)私の遍歴時代(東京新聞 1963年1月10日‐5月23日)私の中の“男らしさ”の告白(婦人公論 1963年4月)小説家の息子(教育月報 1963年7月)一S・Fファンのわがままな希望(宇宙塵 1963年9月)わが創作方法(文學 1963年11月)写真集「薔薇刑」のモデルをつとめて――ぷらす・まいなす’63(読売新聞 1963年12月28日)夢と人生(岩波書店 1964年5月) ‐ 『日本古典文学大系77 篁物語・平中物語・浜松中納言物語』月報私の小説作法(毎日新聞 1964年5月10日)天狗道(文學界 1964年7月)熊野路――新日本名所案内(週刊朝日 1964年8月28日)秋冬随筆(こうさい 1964年10月‐1965年3月)実感的スポーツ論(読売新聞 1964年10月5日‐6日、9日‐10日、12日)東洋と西洋を結び火――開会式(毎日新聞 1964年10月11日)「別れもたのし」の祭典――閉会式(報知新聞 1964年10月25日)男のおしやれ(平凡通信 1964年12月)反貞女大学(産経新聞 1965年2月7日‐12月19日)法学士と小説(学士会会報 1965年2月)ロンドン通信・英国紀行(毎日新聞 1965年3月25日・4月9日‐10日)私の戦争と戦後体験――二十年目の八月十五日(潮 1965年8月)太陽と鉄(批評 1965年11月‐1968年6月)をはりの美学(女性自身 1966年2月14日‐8月1日)「われら」からの遁走――私の文学(講談社 1966年3月) ‐ 『われらの文学5 三島由紀夫』収録。わが育児論(主婦の友 1966年4月)二・二六事件と私(河出書房新社 1966年6月) ‐ 作品集『英霊の聲』付録。闘牛士の美(平凡パンチ 1966年6月10日)私の遺書(文學界 1966年7月)私のきらひな人(話の詩集 1966年7月)ビートルズ見物記(女性自身 1966年7月18日)私の健康法――まづボデービル(読売新聞 1966年8月21日)年頭の迷ひ(読売新聞 1967年1月1日)男の美学(HEIBONパンチDELUXE 1967年3月)紫陽花の母(潮文社 1967年10月) ‐ TBSラジオ「母を語る」活字化。いかにして永生を?(文學界 1967年10月)青年について(論争ジャーナル 1967年10月) ‐ 万代潔との出逢いを語る。インドの印象(毎日新聞 1967年10月20日‐21日)「文芸文化」のころ(番町書房 1968年1月) ‐ 『昭和批評大系2 昭和10年代』月報日本の古典と私(秋田魁新報 1968年1月1日)F104(文藝 1968年2月) ‐ F104戦闘機試乗体験記。電灯のイデア――わが文学の揺籃期(新潮社 1968年9月) ‐ 『新潮日本文学45 三島由紀夫集』月報1軍服を着る男の条件(平凡パンチ 1968年11月11日)怪獣の私生活(NOW 1968年12月)ホテル(朝日新聞PR版 1969年5月25日)「人斬り」出演の記(大映グラフ 1969年8月)劇画における若者論(サンデー毎日 1970年2月1日)独楽(辺境 1970年9月)愛するといふこと(女の部屋 1970年9月)滝ヶ原分屯地は第二の我が家(たきがはら 1970年9月25日) ===文芸評論・作家論・芸術論・劇評=== 田中冬二小論(1940年6月)★王朝心理文学小史(1942年1月)★ ‐ 学習院図書館の第4回懸賞論文に入選。古今の季節(文藝文化 1942年7月)★伊勢物語のこと(文藝文化 1942年11月)★うたはあまねし(文藝文化 1942年12月)★夢野之鹿(輔仁会雑誌 1943年12月)★古座の玉石――伊東静雄覚書(文藝文化 1944年1月)★檀一雄「花筐」――覚書(まほろば 1944年6月)★川端氏の「抒情歌」について(民生新聞 1946年4月29日)宗十郎覚書(スクリーン・ステージ 1947年10月20日)相聞歌の源流(日本短歌 1948年1月・2月)情死について――やゝ矯激な議論(婦人文庫 1948年10月)川端康成論の一方法――「作品」について(近代文学 1949年1月)中村芝翫論(季刊劇場 1949年2月)小説の技巧について(世界文学 1949年3月)雨月物語について(文藝往来 1949年9月)極く短かい小説の効用(小説界 1949年12月)オスカア・ワイルド論(改造文藝 1950年4月)文学に於ける春のめざめ(女性改造 1951年4月)批評家に小説がわかるか(中央公論 1951年6月)新古典派(文學界 1951年7月)日本の小説家はなぜ戯曲を書かないか?(演劇 1951年11月)「班女」拝見(観世 1952年7月)卑俗な文体について(群像 1954年1月)ワットオの《シテエルへの船出》(芸術新潮 1954年4月)芥川龍之介について(文藝 1954年12月)横光利一と川端康成(河出書房 1955年2月) ‐ 『文章講座6』収録。川端康成ベスト・スリー――「山の音」「反橋連作」「禽獣」(毎日新聞 1955年4月11日)芸術にエロスは必要か(文藝 1955年6月)福田恆存氏の顔(新潮 1955年7月)加藤道夫氏のこと(毎日マンスリー 1955年9月)ぼくの映画をみる尺度・シネマスコープと演劇(スクリーン 1956年2月)永遠の旅人――川端康成氏の人と作品(別冊文藝春秋 1956年4月)西部劇礼讃(知性 1956年8月)楽屋で書かれた演劇論(芸術新潮 1957年1月)川端康成の東洋と西洋(国文学 解釈と鑑賞 1957年2月)現代小説は古典たり得るか(新潮 1957年6月‐8月)心中論(婦人公論 1958年3月)文章読本(婦人公論別冊 1959年1月)川端康成氏再説(新潮社 1959年7月) ‐ 『日本文学全集30 川端康成集』月報六世中村歌右衛門序説(講談社 1959年9月) ‐ 写真集『六世 中村歌右衛門』序文「エロチシズム」――ジョルジュ・バタイユ著 室淳介訳」(聲 1960年4月)石原慎太郎氏の諸作品(筑摩書房 1960年7月) ‐ 『新鋭文学叢書8 石原慎太郎集』解説。ベラフォンテ讃(毎日新聞 1960年7月15日)「黒いオルフェ」を見て(スクリーン 1960年8月)春日井建氏の「未青年」の序文(作品社 1960年9月)武田泰淳氏――僧侶であること(新潮社 1960年9月) ‐ 『日本文学全集63 武田泰淳集』月報存在しないものの美学――「新古今集」珍解(国文学 解釈と鑑賞 1961年4月)RECOMMENDING MR.YASUNARI KAWABATA FOR THE 1961 NOBEL PRIZE FOR LITERATURE(1961年5月) ‐ 川端康成ノーベル文学賞推薦文。日本ペンクラブが6月12日付で英訳。川端康成氏と文化勲章(北日本新聞 1961年10月22日) ‐ 改題前「永遠に若い精神史」終末観と文学(毎日新聞 1962年1月4日)「純文学とは?」その他(風景 1962年6月)現代史としての小説(毎日新聞 1962年10月9日‐10日)谷崎潤一郎論(朝日新聞 1962年10月17日‐19日)川端康成読本序説(河出書房新社 1962年12月) ‐ 『文芸読本 川端康成』寄稿踊り(毎日新聞 1963年1月4日)林房雄論(新潮 1963年2月)細江英公序説(集英社 1963年3月) ‐ 『薔薇刑』序文ロマンチック演劇の復興(婦人公論 1963年7月)変質した優雅(風景 1963年7月)芸術断想(芸術生活 1963年8月‐1964年5月)文学座の諸君への「公開状」――「喜びの琴」の上演拒否について(朝日新聞 1963年11月27日)雷蔵丈のこと(日生劇場プログラム 1964年1月)解説(『日本の文学38 川端康成』 中央公論社 1964年3月)解説(『現代の文学20 円地文子集』 河出書房新社 1964年4月)文学における硬派――日本文学の男性的原理(中央公論 1964年5月)現代文学の三方向(展望 1965年1月)文学的予言――昭和四十年代(毎日新聞 1965年1月10日)谷崎朝時代の終焉(サンデー毎日 1965年8月15日)解説(『日本の文学2 森鴎外(一)』 中央公論社 1966年1月)危険な芸術家(文學界 1966年2月)映画的肉体論――その部分及び全体(映画芸術 1966年5月)ナルシシズム論(婦人公論 1966年7月)谷崎潤一郎、芸術と生活(中央公論社 1966年9月)‐ 『谷崎潤一郎全集』内容見本伊東静雄の詩――わが詩歌(新潮 1966年11月)谷崎潤一郎頌(日本橋三越 1966年11月) ‐ 『文豪谷崎潤一郎展図録』青年像(芸術新潮 1967年2月)古今集と新古今集(国文学攷 1967年3月)ポップコーンの心霊術―横尾忠則論(1968年2月) ‐ 横尾忠則著『私のアイドル』(改題後『横尾忠則 記憶の遠近術のこと』)序文『仙洞御所』序文(淡交新社 1968年3月) ‐ 『宮廷の庭I 仙洞御所』序文小説とは何か(波 1968年5月‐1970年11月)野口武彦氏への公開状(文學界 1968年5月)解説(『日本の文学40 林房雄・武田麟太郎・島木健作』 中央公論社 1968年8月)日沼氏と死(批評 1968年9月)篠山紀信論(毎日新聞社 1968年11月) ‐ 『篠山紀信と28人のおんなたち』寄稿All Japanese are perverse(血と薔薇 1968年11月) ‐ 性倒錯論解説(『日本の文学4 尾崎紅葉・泉鏡花』 中央公論社 1969年1月)序(矢頭保写真集『裸祭り』 美術出版社 1969年2月)鶴田浩二論――「総長賭博」と「飛車角と吉良常」のなかの(映画芸術 1969年3月)日本文学小史(群像 1969年8月‐1970年6月) ‐ 第6章目は未完のまま中断。解説(『日本の文学52 尾崎一雄・外村繁・上林暁』 中央公論社 1969年12月)『眠れる美女』論(国文学 解釈と教材の研究 1970年2月)末期の眼(新潮社 1970年3月) ‐ 『川端康成全集13巻』月報解説(『新潮日本文学6 谷崎潤一郎集』 新潮社 1970年4月)性的変質から政治的変質へ――ヴィスコンティ「地獄に堕ちた勇者ども」をめぐって(映画芸術 1970年4月)解説(『日本の文学34 内田百*483*・牧野信一・稲垣足穂』 中央公論社 1970年6月)柳田国男『遠野物語』――名著再発見(読売新聞 1970年6月12日)忘我(映画芸術 1970年8月) ===批評・世評・コラム・防衛論=== 死の分量(1953年9月) ‐ 発表誌未詳。道徳と孤独(文學界 1953年10月)モラルの感覚――芸術家における誠実の問題(毎日新聞 1954年4月20日)新ファッシズム論(文學界 1954年10月)欲望の充足について――幸福の心理学(新女苑 1955年2月)電気洗濯機の問題(花園 1956年1月)亀は兎に追ひつくか?――いはゆる後進国の諸問題(中央公論 1956年9月)きのふけふ(朝日新聞 1957年1月7日‐6月24日) ‐ コラム青春の倦怠(新女苑 1957年6月)憂楽帳(毎日新聞 1959年3月3日‐5月26日) ‐ コラム巻頭言(婦人公論 1960年1月‐12月)社会料理三島亭(婦人倶楽部 1960年1月‐12月)一つの政治的意見(毎日新聞 1960年6月25日)発射塔(読売新聞 1960年7月6日‐10月26日) ‐ コラムアメリカ人の日本神話(HOLIDAY 1961年2月) ‐ “Japan:The Cherished Myths” と英訳。魔――現代的状況の象徴的構図(新潮 1961年7月)堀江青年について(中央公論 1962年11月)天下泰平の思想(論争 1963年9月)生徒を心服させるだけの腕力を――スパルタ教育のおすすめ(文芸朝日 1964年7月)文武両道(月刊朝雲 1965年10月)日本人の誇り(朝日新聞 1966年1月1日)お茶漬ナショナリズム(文藝春秋 1966年4月)法律と餅焼き(法学セミナー 1966年4月)団蔵・芸道・再軍備(20世紀 1966年9月)序(舩坂弘著『英霊の絶叫』 文藝春秋 1966年12月)日本への信条(愛媛新聞 1967年1月1日)忘却と美化(戦中派 1967年2月)「道義的革命」の論理――磯部一等主計の遺稿について(文藝 1967年3月)私の中のヒロシマ――原爆の日によせて(週刊朝日 1967年8月11日) ‐ 改題前は「民族的憤怒を思ひ起せ――私の中のヒロシマ」人生の本――末松太平著『私の昭和史』(週刊文春 1967年8月14日)葉隠入門――武士道は生きてゐる(光文社 1967年9月)青年論――キミ自身の生きかたを考へるために(平凡パンチ 1967年10月5日)J・N・G仮案(Japan National Guard――祖国防衛隊)(祖国防衛隊パンフレット 1968年1月)祖国防衛隊はなぜ必要か?(祖国防衛隊パンフレット 1968年1月)愛国心(朝日新聞 1968年1月8日)円谷二尉の自刃(産経新聞 1968年1月13日)二・二六事件について――“日本主義”血みどろの最期(週刊読売 1968年2月23日)若きサムラヒのための精神講話(PocketパンチOh! 1968年6月‐1969年5月)フィルターのすす払ひ――日本文化会議発足に寄せて(読売新聞 1968年6月18日)文化防衛論(中央公論 1968年7月)機能と美(男子専科 1968年9月)栄誉の絆でつなげ菊と刀(日本及び日本人 1968年9月)橋川文三への公開状(中央公論 1968年10月)自由と権力の状況(自由 1968年11月)「戦塵録」について(昭和文明研究会 1969年1月) ‐ 木下静雄著への寄稿東大を動物園にしろ(文藝春秋 1969年1月)現代青年論(読売新聞 1969年1月1日)維新の若者(報知新聞 1969年1月1日)反革命宣言(論争ジャーナル 1969年2月)自衛隊二分論(20世紀 1969年4月)一貫不惑(光風社書店 1969年5月) ‐ 影山正治著『日本民族派の運動』付録砂漠の住人への論理的弔辞――討論を終へて(新潮社 1969年6月) ‐ 『討論 三島由紀夫vs.東大全共闘』付録北一輝論――「日本改造法案大綱」を中心として(三田文学 1969年7月)日本文化の深淵について(THE TIMES 1969年9月) ‐ “A problem of culture” と英訳。行動学入門(PocketパンチOh! 1969年9月‐1970年8月)三島由紀夫のファクト・メガロポリス(週刊ポスト 1969年10月17日、31日、11月14日、28日、12月12日)STAGE‐LEFT IS RIGHT FROM AUDIENCE(ニューヨーク・タイムズ 1969年11月29日) ‐ “Okinawa and Madame Butterfly’s Offspring” と抄訳。「楯の会」のこと(「楯の会」結成一周年記念パンフレット 1969年11月)「国を守る」とは何か(朝日新聞 1969年11月3日)「変革の思想」とは――道理の実現(読売新聞 1970年1月19日、21日‐22日)新知識人論(日本経済新聞 1970年1月22日)『蓮田善明とその死』序文(筑摩書房 1970年3月) ‐ 小高根二郎著への序文問題提起(憲法改正草案研究会配布資料 1970年5月)士道について――石原慎太郎への公開状(毎日新聞 1970年6月11日)果たし得てゐない約束――私の中の二十五年(サンケイ新聞 1970年7月7日)武士道と軍国主義(1970年7月) ‐ 1978年8月『PLAYBOY』掲載。正規軍と不正規軍(1970年7月) ‐ 1978年8月『PLAYBOY』掲載。革命哲学としての陽明学(諸君! 1970年9月)武士道に欠ける現代のビジネス(近代経営 1970年12月)わが同志観(潮 1971年2月) ===対談・座談・討論=== 青春の再建――二十代座談会(光 1947年12月) ‐ 対:中村真一郎、加藤周一、田代正夫、寺沢恒信、石島泰、上野光平、三浦節、升内左紀。実施:9月20日小説の表現について(序曲 1948年12月) ‐ 対:埴谷雄高、武田泰淳、野間宏、中村真一郎、梅崎春生、寺田透、椎名麟三。実施:10月6日二十代・三十代・四十代の恋愛観(芸苑 1949年1月) ‐ 対:池田亀鑑、亀井勝一郎、波多野勤子、岡本太郎舟橋聖一との対話(文學界 1949年3月) ‐ 対:舟橋聖一パンパンの世界――実態調査座談会(改造 1949年12月) ‐ 対:飯塚浩二、宮城音弥、佐多稲子、森田政次、南博、田中文子、三浦美紀子、北沢とし子、藤沢七生、伊藤あき子既成劇作家を語る(劇作 1950年1月) ‐ 対:梅田晴夫、矢代静一、戸板康二新しい文学の方向(展望 1950年2月) ‐ 対:中村光夫、加藤周一、小田切秀雄、野間宏、椎名麟三三島由紀夫・笠置シズ子 大いに語る――世相 文学 歌(日光 1950年4月) ‐ 対:笠置シズ子創作批評〈第4回〉(風雪 1950年4月) ‐ 対:河上徹太郎。実施:2月8日どんな女性に魅力があるか――独身人気者の座談会(主婦之友 1950年9月) ‐ 対:山本嘉次郎、池部良、岡本太郎、小松原博喜、花柳喜章「女相続人」を観て――映画放談(スクリーン 1950年10月) ‐対:林芙美子、河盛好蔵、松田ふみ新しき文学への道――文学の立体化(文藝 1950年10月) ‐ 対:福田恆存、武田泰淳、加藤道夫人生問答(新潮別巻・人生読本 1951年1月) ‐ 対:久米正雄、林房雄歌右衛門の美しさ(劇評別冊・六世中村歌右衛門 1951年4月1日) ‐ 対:戸板康二映画の限界 文学の限界(人間 1951年5月) ‐ 対:吉村公三郎、渋谷実、瓜生忠夫犬猿問答――自作の秘密を繞って(文學界 1951年6月) ‐ 対:大岡昇平演劇と文学(文學界 1952年2月) ‐ 対:芥川比呂志廃墟の誘惑(群像 1952年7月) ‐ 対:中村光夫日本の短篇小説について(文藝 1952年9月) ‐ 対:川端康成、舟橋聖一、山本健吉、臼井吉見、中島健蔵、青野季吉僕たちの実体(文藝 1952年12月) ‐ 対:大岡昇平、福田恆存息子の文才を伸した両親の理解と愛情――親子のはなし(主婦之友 1952年12月) ‐ 対:平岡倭文重、田村秋子。実施:初秋(緑ヶ丘・三島宅)柔道座談会――年齢別選手権大会を見ての…(柔道 1953年1月) ‐ 対:伊原宇三郎、醍醐敏郎、富田常雄、中村常男、真杉静枝、大悟法利雄。実施:前年11月23日(日比谷・陶々亭)二人の見たパリ(婦人朝日 1953年9月) ‐ 対:越路吹雪映画と文学のあいだ――映画監督の映画擁護論(改造 1953年12月) ‐ 対:アンドレ・カイヤット。実施:10月デザイナーのあり方――映画「にっぽん製」を中心に(産業経済新聞 1953年12月) ‐ 対:岩崎春子、伊東絹子岸田今日子さんと恋愛を語る――三島由紀夫氏の希望対談(主婦の友 1954年9月) ‐対:岸田今日子私の文学鑑定(群像 1954年11月) ‐ 対:舟橋聖一高峰秀子さんと映画・結婚を語る――三島由紀夫氏の希望対談(主婦の友 1954年12月)‐ 対:高峰秀子芸術よもやま話(週刊NHK新聞 1955年2月20日)■ ‐ 対:中村歌右衛門。NHKラジオ第一で2月8、15、22日に放送。シャンソン歌手石井好子さんと語る――三島由紀夫氏の希望対談(主婦の友 1955年3月) ‐ 対:石井好子三島由紀夫さんに聞く(若人 1955年6月) ‐ 対:川田雄基。実施:3月下旬(緑ヶ丘・三島宅)たのしきかな映画(小説公園 1955年12月) ‐ 対:田中澄江、黛敏郎日本の芸術1 歌舞伎(群像 1956年1月) ‐ 対:坂東三津五郎三島由紀夫氏訪問(映画の友 1956年1月) ‐ 対:淀川長治。実施場所:歌舞伎座3階稽古部屋日本の芸術2 新派(群像 1956年2月) ‐ 対:喜多村緑郎日本の芸術3 能楽(群像 1956年3月) ‐ 対:喜多六平太ウラーノワのバレエ映画――ロメオとジュリエットの物語(芸術新潮 1956年3月) ‐ 対:谷桃子、松山樹子、芥川也寸志日本の芸術4 長唄(群像 1956年4月) ‐ 対:杵屋栄蔵新人の季節(文學界 1956年4月) ‐ 対:石原慎太郎日本の芸術5 浄瑠璃(群像 1956年5月) ‐ 対:豊竹山城少掾日本の芸術6 舞踊(群像 1956年6月) ‐ 対:武原はん戦前派 戦中派 戦後派(文藝 1956年7月) ‐ 対:高見順、堀田善衛、吉行淳之介、村上兵衛、石原慎太郎、木村徳三。実施:5月日本美の再発見――創作対談(短歌研究 1956年9月) ‐ 対:生方たつゑ。実施場所:練馬区・生方宅映画・芸術の周辺(スクリーン 1956年9月) ‐ 対:荻昌弘小説から演劇へ――私はなぜ戯曲を書くか(演劇手帖 1956年11月) ‐ 対:武田泰淳、椎名麟三、安部公房、松島栄一美のかたち――「金閣寺」をめぐって(文藝 1957年1月) ‐ 対:小林秀雄愛国心(神戸新聞 1957年2月11日‐13日) ‐ 対:永田清、嘉治隆一協同研究・三島由紀夫の実験歌舞伎(演劇界 1957年5月) ‐ 対:杉山誠、郡司正勝、利倉幸一ヨーロッパの青春(キング 1957年7月) ‐ 対:犬養道子涼風をよぶ風流よもやま噺(淡交 1957年9月) ‐ 対:武智鉄二、井口海仙女はよろめかず(中央公論 1957年9月) ‐ 対:宇野千代作家の女性観と結婚観(若い女性 1958年4月) ‐ 対:石原慎太郎マクアイ・リレー対談(幕間 1958年5月) ‐ 対:中村歌右衛門。実施:4月7日(新橋・金田中)映画「炎上」を語る(毎日新聞 1958年8月18日) ‐ 対:市川崑、市川雷蔵。実施:8月15日(京橋・大映本社)狐狗狸の夕べ(宝石 1958年10月) ‐ 対:江戸川乱歩、杉村春子、芥川比呂志、松浦竹夫、山村正夫やァこんにちは〈日出造見参 第222回〉(週刊読売 1958年10月5日) ‐ 対:近藤日出造T・ウィリアムズと語る――紙上録音版(図書新聞 1959年10月10日) ‐ 対:テネシー・ウィリアムズ。実施:9月14日(赤坂・米国大使館文化交換局)。放送・報道:10月2日(ニッポン放送)。9月30日に「T・ウィリアムズ氏の文芸談」として抄録(毎日新聞)。劇作家のみたニッポン(芸術新潮 1959年11月) ‐ 対:テネシー・ウィリアムズ、オブザーバー参加:フランク・マーロ(秘書)、ドナルド・リチーニュー・フェイス三島由紀夫“センパイ”フランキー堺と大いに語る(週刊明星 1959年12月6日) ‐ 対:フランキー堺。実施:11月19日「サロメ」とその舞台(古酒 1960年5月) ‐ 対:矢野峰人、岸田今日子、燕石猷、関川左木夫、太田博。実施:4月16日(渋谷・東横ホール)外から見た日本(週刊公論 1961年2月13日) ‐ 対:大宅壮一。実施:1月30日(福田家)世界の旅から帰った三島由紀夫氏――ファニーフェイスtoフェイス(婦人公論 1961年3月) ‐ 対:芳村真理捨身飼虎〈希望対談8〉(淡交 1961年8月) ‐ 対:千宗興。実施:6月19日(中洲・其角)結婚身上相談――雪村さんが三島先生に聞く(若い女性 1961年9月) ‐ 対:雪村いづみ「薔薇刑」について(カメラ芸術 1962年3月) ‐ 対:細江英公川端康成氏に聞く(河出書房新社 1962年12月) ‐ 対:川端康成、中村光夫。『文芸読本 川端康成』収録。現代の文学と大衆(文藝 1963年5月) ‐ 対:川端康成、丹羽文雄、円地文子、井上靖、松本清張たのしいいじわるデイト――移動座談会(女性セブン 1963年5月5日) ‐ 対:有吉佐和子。子のしつけ親のしつけ――7月のサロン(太陽 1963年7月) ‐ 対:黛敏郎、加藤芳郎、谷川俊太郎、石井好子七年目の対話(風景 1964年1月) ‐ 対:石原慎太郎初釜清談(京都新聞 1964年1月5日) ‐ 対:谷崎潤一郎、谷川徹三、佐伯米子、入江相政、千宗興ヤンキー気質うらおもて(毎日新聞 1964年4月6日) ‐ 対:桂ユキ子、古波蔵保好歌舞伎滅亡論是非(中央公論 1964年7月) ‐ 対:福田恆存現代作家はかく考える(群像 1964年9月) ‐ 対:大江健三郎。実施:7月13日敗者復活五輪大会――雑談・世相整理学(中央公論 1964年12月) ‐ 対:大宅壮一、司馬遼太郎戦後の日本文学(群像 1965年1月) ‐ 対:伊藤整、本多秋五。実施:前年11月12日三島文学と国際性(中央公論社 1965年1月) ‐ 対:ドナルド・キーン。『日本の文学69 三島由紀夫』月報。実施:前年6月18日(虎ノ門・福田家)「源氏物語」と現代(文藝 1965年7月) ‐ 対:瀬戸内晴美、竹西寛子大谷崎の芸術(中央公論 1965年10月) ‐ 対:舟橋聖一父・森林太郎(中央公論社 1966年1月) ‐ 対:森茉莉。『日本の文学2 森鴎外(一)』月報。実施:前年11月8日(赤坂・シド)二十世紀の文学(文藝 1966年2月) ‐ 対:安部公房ニーチェと現代(中央公論社 1966年2月) ‐ 対:手塚富雄。『世界の名著46 ニーチェ』月報。実施:1月10日(虎ノ門・福田家)なんでもやってのけよう〈連載トップ対談 ふたりで話そう31〉(週刊朝日 1966年8月5日) ‐ 対:團伊玖磨文武両道(新刊ニュース 1966年9月) ‐ 対:巌谷大四対話・日本人論(番町書房 1966年10月) ‐ 対:林房雄。エロチシズムと国家権力(中央公論 1966年11月) ‐ 対:野坂昭如。実施:9月アメリカとアメリカ人(批評 1966年12月) ‐ 対:村松剛、山崎正和、西義之、佐伯彰一2・26事件と殉国のロマン(論争ジャーナル 1967年3月) ‐ 対:高橋正衛、土屋道雄、池田弘太郎文革・黙っていられない!〈日出造対談646回〉(週刊読売 1967年3月31日) ‐ 対:近藤日出造合理主義と非合理主義――土曜放談(山陽新聞 1967年4月8日) ‐ 対:藤原弘達われわれはなぜ声明を出したか――芸術は政治の道具か?(中央公論 1967年5月) ‐ 対:川端康成、石川淳、安部公房文武両道と死の哲学(論争ジャーナル 1967年11月) ‐ 対:福田恆存反ヒューマニズムの心情と論理(番町書房 1967年11月) ‐ 対:伊藤勝彦。伊藤著『対話・思想と発生』に収録。実施:8月25日(紀尾井町・福田家)意外な親類――オジとオイ(週刊朝日 1967年12月22日) ‐ 対:磯崎叡。実施場所:丸の内・国鉄副総裁室ファシストか革命家か(映画芸術 1968年1月) ‐ 対:大島渚。司会:小川徹武器の快楽――剣豪三島由紀夫とガンマン大藪春彦の決闘(週刊プレイボーイ 1968年1月9日) ‐ 対:大藪春彦天皇と現代日本の風土(論争ジャーナル 1968年2月) ‐ 対:石原慎太郎文武の達人 国防を語る――国防対談(国防 1968年4月) ‐ 対:源田実私の文学を語る(三田文学 1968年4月) ‐ 対:秋山駿。実施1月11日(南馬込・三島宅)対談・人間と文学(講談社 1968年4月) ‐ 対:中村光夫。実施:前年7月10日、8月17日、9月13日、11月10日東と西――その接触、交流、反発(読売新聞 1968年5月13日) ‐ 対:ルイス・ディエス・デル・コラール。実施場所:四谷・福田家12歳のとき映画に開眼したんです〈東和創立40周年を迎えて! 3〉(東和シネクラブ 1968年5月) ‐ 対:小森和子。実施:4月11日(南馬込・三島宅)デカダンス意識と生死観(批評 1968年6月) ‐ 対:埴谷雄高、村松剛日本を考える――学生文化フォーラム詳細報告(学生評論 1968年7月) ‐ 対:林房雄、村松剛。実施:5月(八王子・大学セミナーハウス)負けるが勝ち(自由 1968年7月) ‐ 対:福田赳夫放談・天に代わりて(言論人 1968年7月16日) ‐ 対:小汀利得。実施:7月3日。改題前:「放談・天に代わりて」討論・現代日本人の思想(原書房 1968年7月) ‐ 対:会田雄次、大島康正、鯖田豊之、西義之、林健太郎、福田恆存、福田信之、村松剛。『国民講座・日本人の再建1討論・現代日本人の思想』に収録。実施:1月14日‐15日(箱根湯本・松之茶屋)戦後のデモクラシーと反抗する世代(論争ジャーナル 1968年8月) ‐ 対:エドワード・G・サイデンステッカー、村松剛肉体の運動 精神の運動――芸術におけるモラルと技術(文學界 1968年9月) ‐ 対:石川淳エロス 権力 ユートピア――〈美的日本文化〉論(週刊読書人 1968年11月) ‐ 対:磯田光一、種村季弘原型と現代小説(批評 1968年12月) ‐ 対:山本健吉、佐伯彰一安保問題をどう考えたらよいか――腹の底から話そう(現代 1969年1月)‐ 対:猪木正道泉鏡花の魅力(中央公論社 1969年1月) ‐ 対:澁澤龍彦。『日本の文学4 尾崎紅葉・泉鏡花』月報。実施:前年11月4日(赤坂・シド)「葉隠」の魅力(筑摩書房 1969年1月) ‐ 対:相良亨。相良著『日本の思想9 甲陽軍鑑・五輪書・葉隠集』月報。実施:前年11月25日政治行為の象徴性について――小説家と政治(文學界 1969年2月) ‐ 対:いいだもも。国家革新の原理――学生とのティーチ・イン(新潮社 1969年4月) ‐ 対:大学生。実施:前年6月16日(一橋大学小平校舎)、前年10月3日(早稲田大学大隈講堂)■、前年11月16日(茨城大学講堂)サムライ(勝利 1969年6月) ‐ 対:中山正敏討論 三島由紀夫vs.東大全共闘――〈美と共同体と東大闘争〉(新潮社 1969年6月)■ ‐ 対:全共闘。実施:5月13日(駒場・東京大学教養学部900番教室)。刺客と組長――男の盟約(週刊プレイボーイ 1969年7月8日) ‐ 対:鶴田浩二。改題前「刺客と組長――その時は、お互い日本刀で斬り込むという男の盟約」おじさまは男として魅力あるわ〈連載対談 カンナ知りたいの2〉(女性自身 1969年7月26日・8月2日) ‐ 対:神津カンナ十年後、BIセクシャル時代がやってくる?!(小説セブン 1969年9月) ‐ 対:丸山明宏軍隊を語る(伝統と現代 1969年9月) ‐ 対:末松太平。実施:6月20日日本は国家か――「権力なき国家」の幻想(読売新聞社 1969年9月) ‐ 対:江藤淳、高坂正堯、山崎正和、武藤光朗。『日本は国家か』に収録。実施:4月12日(平河町・北野アームス日本経済研究所会議室)。日本文化会議「日本は国家か」特別研究会三島部隊“憂国の真情”(読売新聞 1969年10月21日) ‐ 対:村上兵衛大いなる過渡期の論理――行動する作家の思弁と責任(潮 1969年11月) ‐ 対:高橋和巳守るべきものの価値――われわれは何を選択するか(月刊ペン 1969年11月) ‐ 対:石原慎太郎この激動する時代の中で日本人である私はこう思う(主婦の友 1969年11月) ‐ 対:中丸薫私小説の底流(中央公論社 1969年12月) ‐ 対:尾崎一雄。『日本の文学52 尾崎一雄・外村繁・上林暁』月報。実施:10月7日(銀座・出井)現代における右翼と左翼――リモコン左翼に誠なし(流動 1969年12月) ‐ 対:林房雄戦争の谷間に生きて――青春を語る(学習研究社 1969年12月)■ ‐ 対:徳大寺公英。『現代日本の文学35 三島由紀夫集』月報。実施:11月12日(有楽町・日活ホテル)。剣か花か――七〇年代乱世・男の生きる道(宝石 1970年1月) ‐ 対:野坂昭如。実施:前年12月末(銀座・マキシム)二・二六将校と全学連学生との断絶〈財界放談室 堤清二対談6〉(財界 1970年1月1日・15日) ‐ 対:堤清二。実施場所:有楽町・胡蝶尚武の心と憤怒の抒情――文化・ネーション・革命(日本読書新聞 1970年1月1日〈1969年12月29日・1970年1月5日合併号〉) ‐ 対:村上一郎。”菊と刀”と論ずる(時の課題 1970年2月) ‐ 対:伊沢甲子麿中曽根防衛庁長官 作家三島由紀夫氏(朝雲 1970年2月12日) ‐ 対:中曽根康弘三島由紀夫とジョン・ベスターの対談(1970年2月19日)■ ‐ 対:ジョン・ベスター(英国の翻訳家) ‐ 2013年(平成25年)秋に東京赤坂のTBSのアーカイブ推進部保管の「放送禁止」扱いの放擲テープ群の中から、両者の1時間20分にわたる対談を記録したテープのコピーが見つかったことが2017年(平成29年)1月に公表された。対談は三島が書く予定だったエッセイをべスターが翻訳するにあたり、海外読者の理解を手助けする目的で講談社の仲介により行われたものとみられ、『豊饒の海』第3巻『暁の寺』を脱稿した日に行われたことから2月19日とみられる。対談中、三島は「僕の文学の欠点は、あんまり小説の構成が劇的すぎる」、「死が、肉体の外から中に入ってきた気がする」、「戦後、日本では偽善がひどくなった。その元は平和憲法だ」、音楽への興味は「全然ない」としながらも『獣の戯れ』を書く直前にはベートーヴェンを、『暁の寺』の執筆中にはドビュッシーの曲「シャンソン・ド・ビリティス」を聴くことで「イメージが出てきた」などと話した。また、川端康成については「怖いようなジャンプするんですよ。僕、ああいう文章書けないな、怖くて」などと述べた。三島文学の背景(国文学 解釈と教材の研究 1970年5月25日) ‐ 対:三好行雄タルホの世界(中央公論社 1970年6月) ‐ 対:澁澤龍彦。『日本の文学34 内田百*484*・牧野信一・稲垣足穂』月報。実施:5月8日(赤坂・シド)エロスは抵抗の拠点になり得るか(潮 1970年7月) ‐ 対:寺山修司世阿弥の築いた世界(筑摩書房 1970年7月) ‐ 対:ドナルド・キーン、小西甚一。小西編『日本の思想8 世阿弥集』月報。実施:1968年7月12日現代歌舞伎への絶縁状(芸術生活 1970年10月) ‐ 対:武智鉄二文学は空虚か(文藝 1970年11月) ‐ 対:武田泰淳。実施:9月14日破裂のために集中する(中央公論 1970年12月) ‐ 対:石川淳三島由紀夫対談――ザ・パンチ・パンチ・パンチ(VIVA YOUNG 1970年12月) ‐ 対:高橋基子、シリア・ポール。実施場所:南馬込・三島宅。放送:前年2月3日‐5日(ニッポン放送)戦争映画とやくざ映画(映画芸術 1971年2月) ‐ 対:石堂淑朗。司会:小川徹。実施:前年10月21日(有楽町・フジ・アイス)三島由紀夫 最後の言葉(図書新聞 1970年12月12日、1971年1月1日)■ ‐ 対:古林尚。実施:11月18日(南馬込・三島宅)。元題は「三島由紀夫対談 いまにわかります――死の一週間前の最期の言葉」、「戦後派作家対談7 もう、この気持は抑えようがない――三島由紀夫 最後の言葉」 ===講演・声明=== 日本文壇の現状と西洋文学との関係(1957年7月9日) ‐ ミシガン大学での講演。同年9月『新潮』掲載。INFLUENCES IN MODERN JAPANESE LITERATURE/YOMIURI JAPAN NEWS(1958年2月) ‐ Tokyo Women’s Club での講演。美食と文学(1958年2月5日) ‐ 『谷崎潤一郎全集』刊行記念中央公論社愛読者大会での講演。同年4月『婦人公論』掲載。JAPANESE YOUTH(1961年9月18日) ‐ バークレーのクレアモント・ホテルで行われた米誌『ホリデイ』とカリフォルニア大学共催のシンポジウムでの英語による講演。私はいかにして日本の作家となつたか(1966年4月18日)■ ‐ 日本外国特派員協会での英語によるスピーチと質疑応答。野口武彦訳で1990年12月『新潮』掲載。文化大革命に関する声明(1967年2月28日) ‐ 川端康成、石川淳、安部公房との共同声明。全文は同年3月1日の『東京新聞』、『産経新聞』掲載。古典芸能の方法による政治状況と性――作家・三島由紀夫の証言(1967年2月23日) ‐ 東京地裁で行われた映画『黒い雪』裁判における証言。同年4月24日に『日本読書新聞』掲載。私の自主防衛論(1968年10月24日) ‐ 日経連臨時総会での特別講演。 ‐ 同年10月31日に『日経連タイムズ』掲載。素人防衛論(1968年11月20日)■ ‐ 横須賀の防衛大学校での講演。2005年12月『 WiLL』に掲載(不明な部分など一部削除)。日本の歴史と文化と伝統に立つて(1968年12月1日) ‐ 東京都学生自治体・関東学生自治体連絡協議会主催の講演。1970年5月刊行の全国学生自治体連絡協議会編『“憂国”の論理』(日本教文社)に収録。日本とは何か(1969年10月15日) ‐ 大蔵省100年記念での講演。1985年12月『文藝春秋』掲載。現代日本の思想と行動(1970年4月27日) ‐ 山王経済研究会例会での講演。同月同研究会誌の特集号掲載。私の聞いて欲しいこと(1970年5月28日) ‐ 皇宮警察創立84周年記念講演。皇居内皇宮警察本部庁舎にて行う。悪の華――歌舞伎(1970年7月3日)■ ‐ 国立劇場歌舞伎俳優養成所での特別講演。1988年1月『新潮』掲載。「孤立」のススメ(1970年6月11日)■ ‐ 尚史会主催講演。9月『青雲』(6号)掲載。我が国の自主防衛について(1970年9月3日)■ ‐ 第3回新政同志会青年政治研修会(中曽根康弘主宰)での講演。檄(1970年11月25日)■ ‐ 自衛隊市ヶ谷駐屯地・東部方面総監部室のバルコニーから撒かれた声明文と、決起を呼びかける演説。 ===作文・習作=== ほめられた事(1932年)★ばけつの話(1934年4月)★大内先生を想ふ(1934年9月)★長瀞遠足記(1934年11月)★東京市(1935年12月)★我が国旗(1936年6月)★春草抄――初等科時代の思ひ出(輔仁会雑誌 1937年7月)★三笠・長門見学(1937年)★我はいは蟻である(1937年)★分倍河原の話を聞いて(1937年)★支那に於ける我が軍隊(1937年)★土耳古人の学校(1937年)★ ===詩歌・俳句・作詞=== アキノヨニ…(小ざくら 1931年12月)★ ‐ 俳句日ノマルノ…(小ざくら 1932年5月)★ ‐ 俳句おとうとが…(小ざくら 1932年12月)★ ‐ 俳句秋(小ざくら 1932年12月)★妹は…(小ざくら 1933年12月)★ ‐ 短歌蜜柑(1937年1月10日)★ ‐ 詩ノート「笹舟」に記録。こだま(輔仁会雑誌 1937年12月)★ ‐ 詩ノート「こだま――平岡小虎詩集」に記録。斜陽(輔仁会雑誌 1937年12月)★ ‐ 詩ノート「HEKIGA――A VERSE‐BOOK」に記録。秋二題(輔仁会雑誌 1937年12月)★詩篇「金鈴」(輔仁会雑誌 1938年3月)★ ‐ 光は普く漲り、金鈴、雨、海、墓場、ほか蜃気楼の国/月夜操練/隕星(輔仁会雑誌 1938年7月)★ ‐ 連作「鈴鹿鈔」中の3詩。詩篇「九官鳥」(輔仁会雑誌 1939年3月)★ ‐ 森たち、第五の喇叭 黙示録第九章、独白 廃屋のなかの女、星座、九官鳥誕生日の朝(1939年1月14日)★ ‐ 詩ノート「公威詩集I」に記録。見知らぬ部屋での自殺者(1939年12月24日)★ ‐ 詩ノート「Bad Poems」に記録。1949年3月『新現実』掲載。凶ごと〈まがごと〉(1940年1月15日)★ ‐ 詩ノート「Bad Poems」に記録。詩篇「小曲集」(輔仁会雑誌 1940年3月)★ ‐ 古墳、朝、昼の館、花の闇、倦怠、明るい樫、或る朝、ほか詩篇「青城詩抄」(山梔 1940年7月‐1941年1月)★ ‐ 町、故苑、鶴、死都、ほか詩篇「抒情詩抄」(輔仁会雑誌 1941年12月)★ ‐ 小曲〈第三番、第八番、ほか〉、風の抑揚、序曲、馬、ほかわたくしの希ひは熾る(文藝文化 1941年11月)★大詔(文藝文化 1942年7月)★かの花野の露けさ(文藝文化 1942年10月)★菊(文藝文化 1942年12月)★恋供養(赤繪 1943年6月)★夜の蝉(輔仁会雑誌 1943年12月)★詩人の旅(1944年) ‐ 1950年7月『文藝』掲載。もはやイロニイはやめよ(1945年4月20日) ‐ 曼荼羅草稿。絃歌――夏の恋人(東雲 1945年7月) ‐ 三谷邦子を題材。饗宴魔(東雲 1945年7月)落葉の歌(光耀 1946年5月)乾盃(1946年3月24日) ‐ 1955年刊『創作ノオト“盗賊”』に収録。逸題詩篇(叙情 1946年6月)負傷者(1946年7月23日) ‐ 1949年1月『海峡』掲載。故・蓮田善明への献詩(おもかげ 1946年11月17日)軽王子序詩(舞踏 1948年6月)新しきコロンブス(1955年8月2日) ‐ ニーチェの詩の邦訳。随筆『小説家の休暇』内掲載。理髪師の衒学的欲望とフットボールの食慾との相関関係(総合 1957年7月)詩篇「十五歳詩集」(新潮社 1957年11月)★ ‐ 『三島由紀夫選集1』に収録。凶ごと、日輪礼讃、悲壮調、風と辛夷、別荘地の雨、街のうしろに、遺物、石切場、熱帯、鶴、甃のむかうの家、建築存在、港町の夜と夕べの歌、つれづれの散漫歌、幸福の胆汁、冬の哀感狂女の恋唄(1958年9月11日)むかしと今(聲 1958年10月) ‐ ヘルダーリンの詩(むかしと今、夕べの幻想、ソクラテスとアルキビアデス)の邦訳。祝婚歌 カンタータ(奉祝 1959年4月) ‐ 作曲:黛敏郎。皇太子ご結婚祝賀演奏会での祝婚歌。からつ風野郎(同名映画主題歌)(1960年3月)■ ‐ 作曲:深沢七郎お嬢さん(同名映画主題歌)(1961年1月) ‐ 作曲:飯田三郎黒蜥蜴の歌/黒とかげの恋の歌/用心棒の歌(1962年3月) ‐ 作曲:黛敏郎。ミュージカル映画『黒蜥蜴』(監督:井上梅次。主演:京マチ子)の主題歌と挿入歌。微笑(文藝 1964年5月) ‐ ジェイムス・メリルの詩(微笑、世界の子供)の邦訳。造花に殺された舟乗りの歌(1966年7月) ‐ 作曲:丸山明宏。丸山明宏チャリティーリサイタルでマドロススタイルで歌唱。イカロス(1967年3月14日) ‐ 随筆『太陽と鉄』エピロオグに収録。隊歌(祖国防衛隊)(祖国防衛隊ちらし 1968年1月)起て! 紅の若き獅子たち(楯の会の歌)(楯の会隊員手帳 1970年1月)■ ‐ 作曲:越部信義辞世の句(1970年11月25日) 「益荒男が たばさむ太刀の 鞘鳴りに 幾とせ耐へて 今日の初霜」 「散るをいとふ 世にも人にも 先駆けて 散るこそ花と 吹く小夜嵐」「益荒男が たばさむ太刀の 鞘鳴りに 幾とせ耐へて 今日の初霜」「散るをいとふ 世にも人にも 先駆けて 散るこそ花と 吹く小夜嵐」 ===音楽作品=== 「皇太子ご結婚祝賀演奏会」(NHKテレビ 1959年4月10日) 作詞:三島由紀夫。作曲:黛敏郎。演奏:NHK交響楽団。指揮:ウィルヘルム・シュヒター ※ NHKラジオ第一と同時放送。作詞:三島由紀夫。作曲:黛敏郎。演奏:NHK交響楽団。指揮:ウィルヘルム・シュヒター※ NHKラジオ第一と同時放送。「からっ風野郎」(キングレコード 1960年3月20日発売)■ ‐ 同名映画の主題歌 作詞・歌唱:三島由紀夫。作曲・ギター演奏:深沢七郎。編曲:江口浩司。演奏:キングオーケストラ ※ EPレコード。B面は春日八郎「東京モナリザ」作詞・歌唱:三島由紀夫。作曲・ギター演奏:深沢七郎。編曲:江口浩司。演奏:キングオーケストラ※ EPレコード。B面は春日八郎「東京モナリザ」「お嬢さん」(キングレコード 1961年1月31日発売)‐ 同名映画の主題歌 作詞:三島由紀夫。作曲:飯田三郎。歌唱:中原美紗緒、キング合唱団。演奏:キングオーケストラ ※ EPレコード。B面は青山ヨシオ「たった一つの花」作詞:三島由紀夫。作曲:飯田三郎。歌唱:中原美紗緒、キング合唱団。演奏:キングオーケストラ※ EPレコード。B面は青山ヨシオ「たった一つの花」『ポエムジカ 天と海――英霊に捧げる七十二章』(タクトレコード 1967年5月1日発売) 詩:浅野晃。作曲・指揮:山本直純。朗読:三島由紀夫。演奏:新室内楽協会 ※ LPレコード。のち1970年12月に日本コロムビアからも発売。詩:浅野晃。作曲・指揮:山本直純。朗読:三島由紀夫。演奏:新室内楽協会※ LPレコード。のち1970年12月に日本コロムビアからも発売。「英霊の声――三島由紀夫作『英霊の聲』より」(クラウンレコード 1970年4月29日発売)■ 作曲・編曲:越部信義。朗読:三島由紀夫。竜笛:関河真克。演奏:クラウン弦楽四重奏団。 ジャケット題字「英霊の声」:三島由紀夫 ※ EPレコード。A面は「起て! 紅の若き獅子たち――楯の会の歌」作曲・編曲:越部信義。朗読:三島由紀夫。竜笛:関河真克。演奏:クラウン弦楽四重奏団。ジャケット題字「英霊の声」:三島由紀夫※ EPレコード。A面は「起て! 紅の若き獅子たち――楯の会の歌」「起て! 紅の若き獅子たち――楯の会の歌」(クラウンレコード 1970年4月29日発売)■ 作詞:三島由紀夫。作曲・編曲:越部信義。歌唱:三島由紀夫と楯の会 ※ EPレコード。B面は「英霊の声――三島由紀夫作『英霊の聲』より」作詞:三島由紀夫。作曲・編曲:越部信義。歌唱:三島由紀夫と楯の会※ EPレコード。B面は「英霊の声――三島由紀夫作『英霊の聲』より」「軍艦マーチのすべて」(キングレコード 1998年4月24日発売) 演奏・録音日は1968年3月18日(東京・文京公会堂) 作詞:鳥山啓。作曲:瀬戸口藤吉。指揮:三島由紀夫。演奏:読売日本交響楽団 ※ CD。「軍艦マーチ」アンソロジーへの収録。演奏・録音日は1968年3月18日(東京・文京公会堂)作詞:鳥山啓。作曲:瀬戸口藤吉。指揮:三島由紀夫。演奏:読売日本交響楽団※ CD。「軍艦マーチ」アンソロジーへの収録。 ===写真集被写体・映画出演=== ====映画出演==== □印は三島以外の原作・脚本。 『純白の夜』(松竹大船、1951年8月) ‐ 三島が端役でダンスパーティーのシーンに出演『不道徳教育講座』(日活、1959年1月) ‐ 三島が冒頭と最後のナビゲーター役で特別出演。『からっ風野郎』(大映東京、1960年3月)□ ‐ 主役『憂国』(東宝/ATG、1966年4月) ‐ 主役『黒蜥蜴』(松竹大船、1968年8月) ‐ 三島が日本人青年の生人形役で特別出演『人斬り』(勝プロ、1969年8月)□ ===写真=== 薔薇刑(撮影1961年9月13日‐1962年春) ‐ カメラマン:細江英公。1963年3月刊行(限定1,500部)。男の死(撮影1970年9月17日以降‐11月17日) ‐ カメラマン:篠山紀信。もう1人のモデル横尾忠則の病気入院のため企画が途絶し未発売。切腹や褌ポーズの写真(撮影日不明) ‐ カメラマン:矢頭保 ===翻案された作品=== 記事立項されていない作品の映画化のみ記載。立項されている作品は、作品リストの◎印(映画化)、◇印(テレビ・ラジオドラマ化)の当該記事内を参照のこと。 ===映画化=== 『燈台』(東宝、1959年2月) ‐ 監督:鈴木英夫。主演:津島恵子 久保明、河津清三郎 ===テレビドラマ化=== 文学座アワー『灯台』(日本テレビ 1958年4月24日)お母さん『大障碍』(KRテレビ 1959年12月10日)近鉄金曜劇場『十九歳』(TBSテレビ 1963年11月15日)NHK劇場『真珠』(NHKテレビ 1964年6月19日)月曜・女のサスペンス『復讐・死者からの告発状』(テレビ東京 1988年10月24日)月曜・女のサスペンス『花火・身代わり首の男』(テレビ東京 1988年12月12日) ===ラジオドラマ化=== 自作朗読『美神』(ラジオ東京 1954年7月1日)現代劇場『ボクシング』(文化放送 1954年11月21日) ‐ 三島が台本構成。続高峰秀子ドラマ集『遠乗会』(ニッポン放送 1956年4月13日)ラジオのためのオペラ『あやめ』(中部日本放送 1960年11月27日) ‐ 昭和35年度芸術祭賞。物語り『真珠』(NHKラジオ第一 1963年5月23日)ドラマ・スタジオ8『モノローグ・ドラマ 船の挨拶』(中部日本放送 1965年7月20日) ==刊行書籍== 初版刊行本を記載(後発の刊行情報は各記事を参照)。▲印は限定本。ダッシュ以下は収録作品、説明など。 著作権は、酒井著作権事務所が一括管理している。2010年11月時点で三島の著作は累計発行部数2400万部以上。 ===単独の単行本=== 『花ざかりの森』(七丈書院、1944年10月15日) ‐ みのもの月、世々に残さん、苧菟と瑪耶、祈りの日記、花ざかりの森、跋に代へて『岬にての物語』(桜井書店、1947年11月20日) ‐ 岬にての物語、中世、軽王子と衣通姫、跋『盗賊』(真光社、1948年11月20日) ‐ 序(川端康成)、盗賊『夜の仕度』(鎌倉文庫、1948年12月1日) ‐ 夜の仕度、序章、春子、煙草、ラウドスピーカー、中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜萃、蝶々、サーカス、彩絵硝子『宝石売買』(大日本雄弁会講談社、1949年2月28日) ‐ 偽序(渡辺一夫)、獅子、殉教、頭文字、慈善、宝石売買『仮面の告白』(河出書房、1949年7月5日) ‐ 仮面の告白、「仮面の告白」ノート(月報)『魔群の通過』(河出書房、1949年8月15日) ‐ 魔群の通過、不実な洋傘、山羊の首、恋重荷、大臣、幸福といふ病気の療法、毒薬の社会的効用について、岬にての物語、火宅、あやめ、愛の不安『燈台』(作品社、1950年5月30日) ‐ 訃音、薔薇、侍童、星、退屈な旅、親切な機械、孝経、鴛鴦、燈台、ニオベ、聖女『怪物』(改造社、1950年6月10日) ‐ 怪物、火山の休暇、果実、獅子、修学旅行、魔神礼拝『愛の渇き』(新潮社、1950年6月30日)『純白の夜』(中央公論社、1950年12月30日)『青の時代』(新潮社、1950年12月25日)『仮面の告白 その他』(改造社、1951年3月31日) ‐ 仮面の告白、日曜日、遠乗会、春子、火山の休暇、怪物、など26篇『聖女』(目黒書店、1951年4月15日) ‐ 盗賊、春子、聖女、あとがき『狩と獲物』(要書房、1951年6月15日) ‐ オスカア・ワイルド論、ドルヂェル伯の舞踏会、クレエヴ公爵夫人、ジイドの「背徳者」、雨月物語について、川端康成論の一方法、など26篇。初の評論集『遠乗会』(新潮社、1951年7月15日) ‐ 日曜日、箱根細工、牝犬、椅子、朝倉、花山院、死の島、偉大な姉妹、綾の鼓、遠乗会『三島由紀夫短篇集』(創芸社、1951年10月31日) ‐ 1950年5月30日刊行の『燈台』(作品社)と同一内容。『禁色』〈禁色 第一部〉(新潮社、1951年11月10日) ‐ カバー(表)下辺に三島の無題文章あり。『夏子の冒険』(朝日新聞社、1951年12月5日)『愛の渇き・仮面の告白』(筑摩書房、1952年9月25日) ‐ 愛の渇き、仮面の告白。解説:吉田健一『アポロの杯』(朝日新聞社、1952年10月5日) ‐ 航海日記、北米紀行、南米紀行、欧州紀行、旅の思ひ出。本扉裏に三島の文章「野尻抱影氏による」あり。『真夏の死』(創元社、1953年2月15日) ‐ 真夏の死、クロスワード・パズル、美神、翼、只ほど高いものはない、卒塔婆小町『につぽん製』(朝日新聞社、1953年3月20日) ‐ 帯(表)に浦松左美太郎による作品評あり。『夜の向日葵』(大日本雄弁会講談社、1953年6月15日) ‐ 夜の向日葵、あとがき。帯(表)に川端康成による作品評、帯(裏)に匿名批評(『週刊朝日』掲載)あり。『秘楽』〈禁色 第二部〉(新潮社、1953年9月30日) ‐ カバー(表)下辺に三島の無題文章あり。『綾の鼓』(未来社、1953年10月15日) ‐ 作者の言葉、綾の鼓――近代能楽集ノ内。そのまま台本として使用可能な本。『潮騒』(新潮社、1954年6月10日) ‐ 帯(裏)に吉田健一による作品評「『潮騒』について」あり。『恋の都』(新潮社、1954年9月20日)『鍵のかかる部屋』(新潮社、1954年10月15日) ‐ 鍵のかかる部屋、旅の墓碑銘、真夏の死、クロスワード・パズル、椅子、孝経、山羊の首、獅子、殉教。解説:中村光夫『若人よ甦れ』(新潮社、1954年11月25日) ‐ 若人よ甦れ、あとがき。カバー袖に無著名の文章「本書について」あり。『文学的人生論』(河出書房、1954年11月30日) ‐ 一青年の道徳的判断、重症者の兇器、新古典派、批評家に小説がわかるか、死の分量、卑俗な文体について、など39篇『沈める滝』(中央公論社、1955年4月30日) ‐ 帯に臼井吉見、本多顕彰、寺田透による作品評あり。『女神』(文藝春秋新社、1955年6月30日)『ラディゲの死』(新潮社、1955年7月20日) ‐ 花火、離宮の松、水音、新聞紙、不満な女たち、卵、海と夕焼、旅の墓碑銘、ラディゲの死、地獄変、鰯売恋曳網、あとがき『創作ノオト“盗賊”』(ひまわり社、1955年7月25日)▲ ‐ 「盗賊」創作ノート。4頁の別刷リーフレット(三島由紀夫「『盗賊』ノオトについて」掲載)あり。記番入りの限定3,000部『小説家の休暇』(大日本雄弁会講談社、1955年10月25日) ‐ 小説家の休暇、ワットオの《シテエルへの船出》。帯(裏)に福田恆存による作品評あり。『白蟻の巣』(新潮社、1956年1月25日) ‐ 白蟻の巣、船の挨拶、三原色。函(表)に川端康成による作品評あり。『幸福号出帆』(新潮社、1956年1月30日)『近代能楽集』(新潮社、1956年4月30日) ‐ 綾の鼓、邯鄲、卒塔婆小町、葵上、班女、あとがき『詩を書く少年』(角川書店、1956年6月30日) ‐ 詩を書く少年、復讐、江口初女覚書、家庭裁判、牡丹、山の魂、商ひ人、志賀寺上人の恋、あやめ、恋重荷、鴛鴦、おくがき。カバー袖に吉田健一による作品評「小説の魅力」あり。『亀は兎に追ひつくか』(村山書店、1956年10月12日) ‐ 亀は兎に追ひつくか?、芸術にエロスは必要か、空白の役割、堂々めぐりの放浪、学生の分際で小説を書いたの記、自己改造の試み――重い文体と鴎外への傾倒、終末感からの出発――昭和二十年の自画像、など48篇『金閣寺』(新潮社、1956年10月30日) ‐ 私家限定本4部あり。豪華版『金閣寺』(新潮社、1956年10月30日)▲ ‐ 記番・署名入りの限定200部『永すぎた春』(大日本雄弁会講談社、1956年12月25日)『鹿鳴館』(東京創元社、1957年3月5日) ‐ 鹿鳴館、大障碍、道明寺、あとがき『美徳のよろめき』(大日本雄弁会講談社、1957年6月20日)豪華版『美徳のよろめき』(大日本雄弁会講談社、1957年9月)▲ ‐ 署名入りの限定500部『現代小説は古典たり得るか』(新潮社、1957年9月25日) ‐ 現代小説は古典たり得るか、文壇崩壊論の是非、個性の鍛錬場、「アウトサイダー」をめぐつて、陶酔について、呉茂一の「ぎりしあの詩人たち」評、川端康成の東洋と西洋、舟橋聖一の「木石・鵞毛」について、など35篇『橋づくし』(文藝春秋新社、1958年1月31日) ‐ 橋づくし、施餓鬼舟、急停車、博覧会、十九歳、女方、貴顕、あとがき『旅の絵本』(大日本雄弁会講談社、1958年5月1日) ‐ 旅の絵本、ニューヨークの奇男奇女、ニューヨークの金持、ニューヨーク貧乏、ニューヨークで感じたこと、ニューヨークの炎、など16篇、跋『薔薇と海賊』(新潮社、1958年5月30日) ‐ 薔薇と海賊、あとがき『不道徳教育講座』(中央公論社、1959年3月16日) ‐ 前半の30篇。帯(裏)に有吉佐和子、池田弥三郎、河盛好蔵、杉靖三郎、永井道雄による作品評あり。『文章読本』(中央公論社、1959年6月25日) ‐ 文章読本、質疑応答(附録)『鏡子の家』〈第一部〉(新潮社、1959年9月20日) ‐ 第1章‐第5章。帯(裏)に三島の文章「『鏡子の家』そこで私が書いたもの」(第二部も同じ)あり。『鏡子の家』〈第二部〉(新潮社、1959年9月20日) ‐ 第6章‐第10章『裸体と衣裳』(新潮社、1959年11月30日) ‐ 裸体と衣裳――日記、外遊日記『続不道徳教育講座』(中央公論社、1960年2月5日) ‐ 後半の40篇。帯(裏)に「著者のことば」(本文から抜粋)あり。『宴のあと』(新潮社、1960年11月15日) ‐ 帯(裏)に臼井吉見、河上徹太郎、中村光夫、平野謙による作品評あり。『お嬢さん』(講談社、1960年11月25日)『スタア』(新潮社、1961年1月30日) ‐ スタア、憂國、百万円煎餅『獣の戯れ』(新潮社、1961年9月30日)『美の襲撃』(講談社、1961年11月15日) ‐ 序、六世中村歌右衛門、魔――現代的状況の象徴的構図、十八歳と三十四歳の肖像画、一つの政治的意見、俵屋宗達、存在しないものの美学――「新古今集」珍解、川端康成再説、舟橋聖一の「若いセールスマンの死」、大岡昇平氏――友情と考証、など83篇『美しい星』(新潮社、1962年10月20日) ‐ 帯(裏)に武田泰淳、福田恆存、高橋義孝による作品評あり。『愛の疾走』(講談社、1963年1月20日)『林房雄論』(新潮社、1963年8月30日)▲ ‐ 林房雄論、林房雄年譜(林房雄)、跋。限定1,000部『午後の曳航』(講談社、1963年9月10日) ‐ 帯(裏)に江藤淳による作品評「三島由紀夫の文学」あり。『剣』(講談社、1963年12月10日) ‐ 剣、月、葡萄パン、雨のなかの噴水、苺、帽子の花、魔法瓶、真珠、切符『肉体の学校』(集英社、1964年2月15日)『喜びの琴 附・美濃子』(新潮社、1964年2月25日) ‐ 喜びの琴、美濃子『私の遍歴時代』(講談社、1964年4月10日) ‐ 私の遍歴時代、八月二十一日のアリバイ、この十七年の“無戦争”、谷崎潤一郎論、現代史としての小説、など51篇。函(裏)に大江健三郎による作品評「最も魅力的な三島由紀夫神話」あり。『三島由紀夫自選集』(集英社、1964年7月10日)▲ ‐ 潮騒、美徳のよろめき、金閣寺、憂國、百万円煎餅、沈める滝、大障碍、ワットオの《シテエルへの船出》。解説:橋川文三「夭折者の禁欲」。記番・署名入りの限定1,000部『絹と明察』(講談社、1964年10月15日) ‐ 帯(裏)に磯田光一による作品評「現代小説の秀作の一つ」(『図書新聞』文芸時評)あり。『第一の性』(集英社、1964年12月30日)『音楽』(中央公論社、1965年2月20日)『レスボスの果実』(プレス・ビブリオマーヌ、1965年6月)▲ ‐ レスボスの果実(「果実」抄)、「memo」(佐々木桔梗)。限定195部。コレクション「サフィール」シリーズのXV『三熊野詣』(新潮社、1965年7月30日) ‐ 三熊野詣、月澹荘綺譚、孔雀、朝の純愛、あとがき『目――ある芸術断想』(集英社、1965年8月20日) ‐ 芸術断想(10篇)、PLAY BILLS(15篇)など26篇、あとがき『サド侯爵夫人』(河出書房新社、1965年11月15日) ‐ 序・サド侯爵の真の顔(澁澤龍彦)、サド侯爵夫人、跋(三島)『反貞女大学』(新潮社、1966年3月5日)『憂國 映画版』(新潮社、1966年4月10日) ‐ 憂國、撮影台本、スチール、製作意図及び経過『サーカス』(プレス・ビブリオマーヌ、1966年春)▲ ‐ サーカス、刊行後記(佐々木桔梗)。記番・署名入りの限定375部『英霊の聲』(河出書房新社、1966年6月30日) ‐ 英霊の聲、憂國、十日の菊、二・二六事件と私『複雑な彼』(集英社、1966年8月30日)『荒野より』(中央公論社、1967年3月6日) ‐ 荒野より、時計、仲間」の小説3篇、谷崎潤一郎について、ナルシシズム論、現代文学の三方向、石原慎太郎の「星と舵」について、団蔵・芸道・再軍備、など評論36篇、アラビアン・ナイト豪華版『サド侯爵夫人』(中央公論社、1967年8月18日)▲ ‐ 序・サド侯爵の真の顔(澁澤龍彦)、サド侯爵夫人、跋、豪華版のための捕跋(三島)。記番・署名入りの限定380部『葉隠入門――武士道は生きている』(光文社、1967年9月1日) ‐ プロローグ――「葉隠」とわたし、わたしの「葉隠」、「葉隠」名言抄(訳:笠原伸夫)。カバー袖に三島の「わたしのただ一冊の本『葉隠』」と、石原慎太郎による作品評「三島由紀夫氏のこと」あり。『夜会服』(集英社、1967年9月30日)『朱雀家の滅亡』(河出書房新社、1967年10月25日) ‐ 朱雀家の滅亡、後記『三島由紀夫レター教室』(新潮社、1968年7月20日)『太陽と鉄』(講談社、1968年10月20日) ‐ 太陽と鉄、エピロオグ――F104豪華版『岬にての物語』(牧羊社、1968年11月15日)▲ ‐ 岬にての物語、蕗谷虹児氏の少女像。記番・署名入りの限定300部『わが友ヒットラー』(新潮社、1968年12月10日)『命売ります』(集英社、1968年12月25日)『春の雪』〈豊饒の海・第一巻〉(新潮社、1969年1月5日) ‐ 私家限定本4部あり。帯(裏)に川端康成、北杜夫による作品評あり。『奔馬』〈豊饒の海・第二巻〉(新潮社、1969年2月25日) ‐ 私家限定本4部あり。帯(裏)に川端康成による作品評あり。『文化防衛論』(新潮社、1969年4月25日) ‐ 反革命宣言、反革命宣言捕注、文化防衛論、橋川文三への公開状、「道義的革命」の論理――磯部一等主計の遺稿について、自由と権力の状況、の評論6篇と、政治行為の象徴性について(いいだももとの対談)、国家革新の原理(学生とのティーチ・イン)、あとがき、本書関連日誌(附録)合本『不道徳教育講座』(中央公論社、1969年5月10日) ‐ 「暗殺について」を除く全69篇、あとがき『黒蜥蜴』(牧羊社、1969年5月20日)『癩王のテラス』(中央公論社、1969年6月28日) ‐ 癩王のテラス、あとがき『若きサムラヒのために』(日本教文社、1969年7月10日) ‐ 若きサムラヒのための精神講話、お茶漬ナショナリズム、東大を動物園にしろ、安保問題をどう考えたらよいか(猪木正道との対談)、負けるが勝ち(福田赳夫との対談)、文武両道と死の哲学(福田恆存との対談)、あとがき豪華版『椿説弓張月』(中央公論社、1969年11月25日)▲ ‐ 椿説弓張月、「弓張月」の劇化と演出。記番入りの限定1,000部豪華版『黒蜥蜴』(牧羊社、1970年1月15日)▲ ‐ 記番・署名入りの限定350部。別に著者本50部あり。『椿説弓張月』(中央公論社、1970年1月30日) ‐ 豪華限定版と同内容。『三島由紀夫文学論集』(講談社、1970年3月28日) ‐ 序文、太陽と鉄、小説家の休暇、「われら」からの遁走――私の文学、私の中の“男らしさ”の告白、精神の不純、など48篇。あとがき:虫明亜呂無豪華版『鍵のかかる部屋』(プレス・ビブリオマーヌ、1970年6月)▲ ‐ 鍵のかかる部屋、あとがき、捕記(別紙1葉)。A版とB版の2種。A版は記番・署名入りの限定395部。B版は記番入りの限定180部『暁の寺』〈豊饒の海・第三巻〉(新潮社、1970年7月10日) ‐ 私家限定本4部あり。帯(裏)に三島の文章「読者へ」(「小説とは何か」からの抜粋)あり。『行動学入門』(文藝春秋、1970年10月15日) ‐ 行動学入門、おわりの美学、革命哲学としての陽明学、あとがき『作家論』(中央公論社、1970年10月31日) ‐ 森鴎外、尾崎紅葉、泉鏡花、谷崎潤一郎、内田百*485*、牧野信一、稲垣足穂、川端康成、尾崎一雄、外村繁、上林暁、林房雄、武田麟太郎、島木健作、円地文子論、あとがき豪華版『橋づくし』(牧羊社、1971年1月7日)▲ ‐ 雪の巻、月の巻、花の巻の3種。記番・署名入りの限定360部(各種120部)。別に非売品の著者自筆署名特装本23部あり。『三島由紀夫十代作品集』(新潮社、1971年1月25日) ‐ 彩絵硝子、花ざかりの森、苧菟と瑪耶、玉刻春、みのもの月、世々に残さん、祈りの日記、中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜萃『天人五衰』〈豊饒の海・第四巻〉(新潮社、1971年2月25日) ‐ 天人五衰、認識と行動と文学――〈豊饒の海〉四部作をめぐって(佐伯彰一と村松剛の対談)。私家限定本4部あり。自筆原稿完全復元版『蘭陵王』(講談社、1971年3月5日)▲ ‐ 蘭陵王(復元原稿)。別冊子(蘭陵王、中村光夫「『蘭陵王』と『最後の一句』」)あり。記番入りの限定1,500部『蘭陵王――三島由紀夫1967.1〜1970.11』(新潮社、1971年5月6日) ‐ 「年頭の迷い」から「わが同志観」まで1967年‐1970年に執筆した評論・随筆と、蘭陵王豪華版『仮面の告白』(講談社、1971年11月25日)▲ ‐ 記番入りの限定1,000部。『小説とは何か』(新潮社、1972年3月20日)『日本文学小史』(講談社、1972年11月24日) ‐ 解説:磯田光一『わが思春期』(集英社、1973年1月15日) ‐ 解題:粉川宏『ぼくの映画をみる尺度』(潮出版社、1980年2月25日) ‐ ぼくの映画をみる尺度・シネマスコープと演劇、私の洋画遍歴、西部劇礼讃、映画的肉体論――その部分及び全体、忘我、映画見るべからず、など39篇『実感的スポーツ論』(共同通信社、1984年5月1日) ‐ 美しきもの、見事な若武者――矢尾板・ペレス戦観戦記、追う者追われる者――ペレス・米倉戦観戦記、冷血熱血――小坂=オルチス、未知への挑戦――海老原=ポーン、狐の宿命――関・ラモス戦観戦記、など54篇『生きる意味を問う』(大和出版、1984年10月30日)‐ 私の遺書、明るい樫、朝、薄化粧をした…、私の文学、わが創作方法、作家を志す人々の為に、芸術にエロスは必要か、など詩・評論45篇。編・解説:小川和佑「三島由紀夫の人と作品」。年譜作成:小川和佑、斉藤孝祐『芝居日記』(中央公論社、1991年7月5日) ‐ 第一冊(一番‐四十四番)、第二冊(四十七番‐百番)、未完小説集ほか覚書、随想一束。付録:織田紘二「『芝居日記』について」、六世中村歌右衛門「『三島歌舞伎』の世界」、『芝居日記』観劇目録。解説:戸板康二「若書きの新鮮さ」。ドナルド・キーン「『芝居日記』の底に流れるもの」『芝居の媚薬』(角川春樹事務所・ランティエ叢書、1997年11月18日) ‐ 戯曲を書きたがる小説書きのノート、私の遍歴時代(一部分)、踊り、玉三郎のこと、六世中村歌右衛門序説、など23篇。年譜作成:高丘卓・稲田智宏。解説:柳美里「王の恵みと宿命」『三島由紀夫未発表書簡 ドナルド・キーン氏宛の97通』(中央公論社、1998年5月25日) ‐ キーン宛ての97通の書簡。編集部後記『日本人養成講座』(メタローグ、1999年10月8日/平凡社、2012年5月) ‐ アメリカ人の日本神話、お茶漬ナショナリズム、文章読本(抄)、小説家の休暇(断片)、若きサムライのための精神講話(抄)、心中論、など12篇。付録:村松英子「巻末エッセイ」、高丘卓「三島由紀夫のパサージュ」。編者・年譜作成:高丘卓『三島由紀夫 十代書簡集』(新潮社、1999年11月20日) ‐ 東文彦宛ての64通、弔詞1篇、東菊枝(文彦の母)宛ての1通の書簡。付録:富岡幸一郎「十代の思想への帰郷」『三島由紀夫 映画論集成』(ワイズ出版、1999年11月25日) ‐ 多数の映画論・対談・座談など。編者:山内由紀人。監修:三島威一郎・藤井浩明『三島由紀夫詩集』(山中湖文学の森「三島由紀夫文学館」、2000年7月14日) ‐ 秋、寂秋、巡礼老者、光は普く漲り、幼なき日、斜陽、など多数の詩篇。あとがき:佐伯彰一「『詩を書く少年』の実像」。解題:工藤正『師・清水文雄への手紙』(新潮社、2003年8月30日) ‐ 清水文雄宛ての99通の書簡。付録:清水文雄「『花ざかりの森』をめぐって、三島由紀夫のこと」。解説:宇野憲治『告白――三島由紀夫未公開インタビュー』(講談社、2017年8月8日) ‐ 生前未公開インタビュー(1970年2月19日実施のジョン・ベスターとの対談)、太陽と鉄。あとがき:小島英人「発見のこと――燦爛へ」。編集:TBSヴィンテージ クラシックス ===共著の単行本=== 『対話・日本人論』(番町書房、1966年10月25日) ‐ 林房雄との対談。夏目書房版(2002年3月25日再刊)は、三島の「林房雄」(抄)、林の「悲しみの琴――三島由紀夫への鎮魂歌」(抄)を併せて収録、富岡幸一郎・解説「日本人へのメッセージ」。『対話・人間と文学』(講談社、1968年4月28日) ‐ 中村光夫との対談『討論 三島由紀夫vs.東大全共闘《美と共同体と東大闘争》』(新潮社、1969年6月25日) ‐ 美と共同体と東大闘争(全共闘との討論)、砂漠の住人への論理的弔辞――討論を終へて(三島)、全共闘代表3名の感想文『尚武のこころ 対談集』(日本教文社、1970年9月25日) ‐ 小汀利得、中山正敏、鶴田浩二ら10名10編の対談、三島自身のあとがき『源泉の感情 対談集』(河出書房新社、1970年10月30日) ‐ 小林秀雄、大江健三郎、舟橋聖一ら17名19編の対談、三島自身のあとがき『川端康成・三島由紀夫 往復書簡』(新潮社、1997年12月10日) ‐ はじめに(佐伯彰一)、川端と三島の往復書簡。解説「恐るべき計画家・三島由紀夫」(佐伯彰一・川端香男里の対談)、川端へのノーベル文学賞推薦文(英文、佐伯彰一訳)、両者の略年譜写真被写体の著書 『薔薇刑――細江英公写真集』(集英社、1963年3月25日)▲ ‐ 記番・署名入りの限定1,500部。のち様々な版で改訂再刊。 細江英公序説(三島)、薔薇刑(撮影:細江英公。被写体:三島。協力モデル:江波杏子、土方巽、元藤*486*子、ほか)細江英公序説(三島)、薔薇刑(撮影:細江英公。被写体:三島。協力モデル:江波杏子、土方巽、元藤*487*子、ほか)『グラフィカ三島由紀夫』(新潮社、1990年9月10日) 写真撮影:斎藤康一、篠山紀信、鈴木薫、田沼武能、土門拳、野上透、深瀬昌久、細江英公、宮本隆司、新潮社写真部 編者:三島瑤子・藤田三男。年譜(三島由紀夫の軌跡)作成:山口基 『写真集 三島由紀夫 ’25〜’70』(新潮文庫、2000年11月1日) ‐ 『グラフィカ三島由紀夫』を一部改訂。新たに付記:藤田三男「文庫版あとがき」。写真撮影:斎藤康一、篠山紀信、鈴木薫、田沼武能、土門拳、野上透、深瀬昌久、細江英公、宮本隆司、新潮社写真部編者:三島瑤子・藤田三男。年譜(三島由紀夫の軌跡)作成:山口基 『写真集 三島由紀夫 ’25〜’70』(新潮文庫、2000年11月1日) ‐ 『グラフィカ三島由紀夫』を一部改訂。新たに付記:藤田三男「文庫版あとがき」。『写真集 三島由紀夫 ’25〜’70』(新潮文庫、2000年11月1日) ‐ 『グラフィカ三島由紀夫』を一部改訂。新たに付記:藤田三男「文庫版あとがき」。『三島由紀夫の家』(美術出版社、1995年11月。普及版2000年11月) 写真撮影:篠山紀信。文章:篠田達美写真撮影:篠山紀信。文章:篠田達美漫画化 『春の雪』(主婦と生活社、2006年2月/中公文庫コミック版、2008年3月) 脚本・構成:池田理代子。画:宮本えりか。付録:池田理代子「『春の雪』を描き終えて」脚本・構成:池田理代子。画:宮本えりか。付録:池田理代子「『春の雪』を描き終えて」 ===翻訳書=== 『ブリタニキュス』(新潮社、1957年5月20日) ブリタニキュス(原作:ジャン・ラシーヌ/邦訳:安堂信也/修辞:三島)。付録:修辞者あとがき(三島)、ラシーヌと「ブリタニキュス」(安堂)ブリタニキュス(原作:ジャン・ラシーヌ/邦訳:安堂信也/修辞:三島)。付録:修辞者あとがき(三島)、ラシーヌと「ブリタニキュス」(安堂)『聖セバスチァンの殉教』(美術出版社、1966年9月30日) 霊験劇 聖セバスティアンの殉教(原作:ガブリエーレ・ダンヌンツィオ/邦訳:三島・池田弘太郎。付録:あとがき(三島・池田)。別刷に写真50頁49葉の「名画集 聖セバスティアンの殉教」(三島編)あり。 新版は国書刊行会〈クラテール叢書〉、1988年4月。画集は大幅に割愛されている。霊験劇 聖セバスティアンの殉教(原作:ガブリエーレ・ダンヌンツィオ/邦訳:三島・池田弘太郎。付録:あとがき(三島・池田)。別刷に写真50頁49葉の「名画集 聖セバスティアンの殉教」(三島編)あり。新版は国書刊行会〈クラテール叢書〉、1988年4月。画集は大幅に割愛されている。 ===全集・選集=== 『三島由紀夫作品集』〈全6巻〉(新潮社、1953年7月25日‐1954年4月30日) 1巻(仮面の告白、盗賊)、2巻(愛の渇き、青の時代)3巻(禁色)。4巻‐5巻(短篇)。6巻(戯曲・評論)各巻に三島の「あとがき」あり。1巻(仮面の告白、盗賊)、2巻(愛の渇き、青の時代)3巻(禁色)。4巻‐5巻(短篇)。6巻(戯曲・評論)各巻に三島の「あとがき」あり。『三島由紀夫選集』〈全19巻〉(新潮社、1957年11月30日‐1959年7月10日) ジャンルを問わない編年体の編集。3巻‐5巻、9巻、11巻‐19巻には付録として、文芸評論家や作家による同時代作品評あり。ジャンルを問わない編年体の編集。3巻‐5巻、9巻、11巻‐19巻には付録として、文芸評論家や作家による同時代作品評あり。『三島由紀夫戯曲全集』(新潮社、1962年3月20日)『三島由紀夫短篇全集』(新潮社、1964年2月10日)『三島由紀夫短篇全集』〈全6巻〉(講談社、1965年3月10日‐8月5日) 各巻に三島の「あとがき」あり。各巻に三島の「あとがき」あり。『三島由紀夫評論全集』(新潮社、1966年8月10日) 1947年1月から1964年4月までの評論1947年1月から1964年4月までの評論『三島由紀夫長篇全集』〈全2巻〉(新潮社、1967年12月10日、1968年2月25日) 「盗賊」から「音楽」までの主要16篇「盗賊」から「音楽」までの主要16篇『三島由紀夫短篇全集』〈全6巻〉(講談社、1971年1月20日‐ 5月20日) 各巻に三島の「あとがき」あり。月報:田中美代子(全巻連載)。各巻に三島の「あとがき」あり。月報:田中美代子(全巻連載)。『三島由紀夫全集』〈全35巻+補巻1〉(新潮社、1973年4月25日‐1976年6月25日) 監修:石川淳、川端康成、中村光夫、武田泰淳。編集:佐伯彰一、ドナルド・キーン、村松剛、田中美代子。解題・校訂:島崎博、田中美代子。主要参考文献目録作成:島崎博月報:清水文雄(1巻)など、ゆかりの人物が各巻1名寄稿(2名の巻もあり)、佐伯彰一《評伝・三島由紀夫》(全巻連載)、虫明亜呂無《同時代評から》(1巻‐25巻連載)、田中美代子《三島由紀夫論》(26巻‐35巻連載)総革装、本文2色刷の豪華限定版(1,000部)もあり。監修:石川淳、川端康成、中村光夫、武田泰淳。編集:佐伯彰一、ドナルド・キーン、村松剛、田中美代子。解題・校訂:島崎博、田中美代子。主要参考文献目録作成:島崎博月報:清水文雄(1巻)など、ゆかりの人物が各巻1名寄稿(2名の巻もあり)、佐伯彰一《評伝・三島由紀夫》(全巻連載)、虫明亜呂無《同時代評から》(1巻‐25巻連載)、田中美代子《三島由紀夫論》(26巻‐35巻連載)総革装、本文2色刷の豪華限定版(1,000部)もあり。『三島由紀夫短篇全集』〈全2巻(上・下セット)〉(新潮社、1987年11月20日)『三島由紀夫評論全集』〈全4巻(セット)〉(新潮社、1989年7月5日) 解題:田中美代子解題:田中美代子『三島由紀夫戯曲全集』〈全2巻(上・下セット)〉(新潮社、1990年9月10日)『決定版 三島由紀夫全集』〈全42巻+補巻1、別巻1〉(新潮社、2000年11月10日‐2006年4月28日) 編集:田中美代子。佐藤秀明、井上隆史、山中剛史。解題・校訂:田中美代子。月報:ゆかりの人物が各巻2名ずつ寄稿、田中美代子《思想の航海術》(全巻連載)。編集:田中美代子。佐藤秀明、井上隆史、山中剛史。解題・校訂:田中美代子。月報:ゆかりの人物が各巻2名ずつ寄稿、田中美代子《思想の航海術》(全巻連載)。 ===文庫本=== 刊行年月は原則初版のみ記載。 ===新潮文庫(新潮社)=== 『仮面の告白』(1950年6月25日) ‐ 解説:福田恆存。改版1987年7月から、注解(作成:田中美代子)、佐伯彰一「三島由紀夫 人と作品」、年譜を追加。『頭文字』(1951年10月30日) ‐ 花ざかりの森、中世、春子、山羊の首、頭文字、宝石売買、魔群の通過、遠乗会。解説:神西清『愛の渇き』(1952年3月31日) ‐ 解説:吉田健一『盗賊』(1954年4月30日) ‐ 解説:武田泰淳『禁色』〈上巻〉(1954年11月10日) ‐ 第1章‐第18章。解説:大井廣介『禁色』〈下巻〉(1954年11月15日) ‐ 第19章‐第33章『潮騒』(1955年12月25日) ‐ 解説:中村真一郎。改版1985年9月から、佐伯彰一「三島由紀夫 人と作品」、年譜を追加し、解説:佐伯彰一「『潮騒』について」となる。『金閣寺』(1960年9月15日) ‐ 解説:中村光夫。改版1977年4月から、注解、佐伯彰一「三島由紀夫 人と作品」、年譜を追加。『美徳のよろめき』(1960年11月5日) ‐ 解説:北原武夫『永すぎた春』(1960年12月10日) ‐ 解説:十返肇『沈める滝』(1963年12月5日) ‐ 解説:村松剛『禁色』(1964年4月30日) ‐ 全章。解説:大井廣介。改版1969年1月から、解説:野口武彦『鏡子の家』(1964年10月5日) ‐ 解説:田中西二郎『獣の戯れ』(1966年7月10日) ‐ 解説:田中美代子『美しい星』(1967年10月30日) ‐ 解説:奥野健男『近代能楽集』(1968年3月25日) ‐ 邯鄲、綾の鼓、卒塔婆小町、葵上、班女、道成寺、熊野、 弱法師。解説:ドナルド・キーン『午後の曳航』(1968年7月15日) ‐ 解説:田中美代子『花ざかりの森・憂国――自選短編集』(1968年9月15日) ‐ 花ざかりの森、中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜萃、遠乗会、卵、詩を書く少年、海と夕焼、新聞紙、牡丹、橋づくし、女方、百万円煎餅、憂国、月。自作解説:三島由紀夫『宴のあと』(1969年7月20日) ‐ 解説:西尾幹二『音楽』(1970年2月20日) ‐ 解説:澁澤龍彦『真夏の死――自選短編集』(1970年7月15日) ‐ 煙草、春子、サーカス、翼、離宮の松、クロスワード・パズル、真夏の死、花火、貴顕、葡萄パン、雨のなかの噴水。自作解説:三島由紀夫『獅子・孔雀』(1971年2月27日) ‐ 軽王子と衣通姫、殉教、獅子、毒薬の社会的効用について、急停車、スタア、三熊野詣、孔雀、仲間。解説:高橋睦郎『青の時代』(1971年7月23日) ‐ 解説:西尾幹二『春の雪』(1977年7月30日) ‐ 解説:佐伯彰一『奔馬』(1977年8月30日) ‐ 解説:村松剛『暁の寺』(1977年10月30日) ‐ 解説:森川達也『天人五衰』(1977年11月30日)‐ 解説:田中美代子『女神』(1978年3月30日) ‐ 女神、接吻、伝説、白鳥、哲学、蝶々、恋重荷、侍童、鴛鴦、雛の宿、朝の純愛。解説:磯田光一『岬にての物語』(1978年11月27日) ‐ 苧菟と瑪耶、岬にての物語、頭文字、親切な機械、火山の休暇、牝犬、椅子、不満な女たち、志賀寺上人の恋、水音、商い人、十九歳、月澹荘綺譚。解説:渡辺広士『サド侯爵夫人・わが友ヒットラー』(1979年4月25日) ‐ サド侯爵夫人、わが友ヒットラー。自作解題:(跋(サド侯爵夫人)、「サド侯爵夫人」について、「サド侯爵夫人」の再演、豪華版のための補跋(サド侯爵夫人)、作品の背景――「わが友ヒットラー」、「わが友ヒットラー」覚書、一対の作品――「サド侯爵夫人」と「わが友ヒットラー」)『鍵のかかる部屋』(1980年2月25日) ‐ 彩絵硝子、祈りの日記、慈善、訃音、怪物、果実、死の島、美神、江口初女覚書、鍵のかかる部屋、山の魂、蘭陵王。解説:田中美代子『ラディゲの死』(1980年12月25日) ‐ みのもの月、山羊の首、大臣、魔群の通過、花山院、日曜日、箱根細工、偉大な姉妹、朝顔、旅の墓碑銘、ラディゲの死、復讐、施餓鬼舟。解説:野島秀勝『小説家の休暇』(1982年1月25日) ‐ 小説家の休暇、重症者の兇器、ジャン・ジュネ、ワットオの《シテエルへの船出》、私の小説の方法、新ファッシズム論、永遠の旅人――川端康成氏の人と作品、楽屋で書かれた演劇論、魔――現代的状況の象徴的構図、日本文学小史。解説:田中美代子『殉教』(1982年4月25日) ‐ 新潮文庫より1971年2月27日刊行の『獅子・孔雀』と同一内容。解説:高橋睦郎『アポロの杯』(1982年9月25日) ‐ アポロの杯、沢村宗十郎について、雨月物語について、オスカア・ワイルド論、陶酔について、心中論、十八歳と三十四歳の肖像画、存在しないものの美学――「新古今集」珍解、北一輝論――「日本改造法案大綱」を中心として、小説とは何か。解説:佐伯彰一『葉隠入門』(1983年4月25日) ‐ プロローグ――「葉隠」とわたし、一 現代に生きる「葉隠」、二「葉隠」四十八の精髄、三「葉隠」の読み方。「葉隠」名言抄(訳:笠原伸夫)。解説:田中美代子『裸体と衣裳』(1983年12月25日) ‐ 裸体と衣裳――日記、ドルヂェル伯の舞踏会、戯曲を書きたがる小説書きのノート、空白の役割、芸術にエロスは必要か、現代小説は古典たり得るか、谷崎潤一郎論、変質した優雅、文化防衛論。解説:西尾幹二『鹿鳴館』(1984年12月20日) ‐ 鹿鳴館、只ほど高いものはない、夜の向日葵、朝の躑躅。自作解題(作者の言葉(鹿鳴館)、「鹿鳴館」について(文学座プログラム掲載)、「鹿鳴館」について(毎日新聞掲載)、あとがき(鹿鳴館)、美しき鹿鳴館時代――再演「鹿鳴館」について、「鹿鳴館」再演、上演される私の作品――「葵上」と「只ほど高いものはない」、「葵上」と「只ほど高いものはない」、あとがき(夜の向日葵)、「朝の躑躅」について)『熱帯樹』(1986年2月25日) ‐ 熱帯樹、薔薇と海賊、白蟻の巣」、自作解題(「熱帯樹」の成り立ち、「薔薇と海賊」について(毎日マンスリー掲載)、あとがき(薔薇と海賊)、「薔薇と海賊」について(文学座プログラム掲載)、「薔薇と海賊」について(劇団浪曼劇場プログラム掲載)、「白蟻の巣」について)『絹と明察』(1987年9月25日) ‐ 解説:田中美代子『憂国/橋づくし』(1996年8月15日) ‐ 憂国、海と夕焼、橋づくし、百万円煎餅。コンビニ店「セブンイレブン」のみの発売品の新潮ピコ文庫。『川端康成・三島由紀夫 往復書簡』(2000年11月1日) ‐ 1997年12月10日刊行の単行本と同一内容。なお著者の記載は川端側。『三島由紀夫 十代書簡集』(2002年11月1日) ‐ 1999年11月20日刊行の単行本と同一内容(表記は現代仮名遣い)。 ===角川文庫(角川書店)=== 『愛の渇き』(1951年7月15日) ‐ 解説:花田清輝『花ざかりの森 他六篇』(1955年3月30日) ‐ 彩絵硝子、花ざかりの森、みのもの月、軽王子と衣通姫、中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜萃、中世、岬にての物語。解説:戸板康二『真夏の死 他五篇』(1955年8月20日) ‐ 真夏の死、怪物、大臣、親切な機械、獅子、クロスワード・パズル。解説:奥野健男『純白の夜』(1956年7月30日) ‐ 解説:蘆原英了。改版2009年2月から、解説:小池真理子『女神』(1959年4月10日) ‐ 解説:十返肇『夏子の冒険』(1960年4月10日) ‐ 改版2009年3月から、解説:千野帽子『不道徳教育講座』(1967年11月30日) ‐ 「暗殺について」を除く69篇。解説:奥野健男『美と共同体と東大闘争』(2000年7月25日) ‐ 新潮社より1969年6月25日刊行の『討論 三島由紀夫vs.東大全共闘《美と共同体と東大闘争》』と同一内容だが、人権擁護の見地から「われわれはキチガイではない」の章名が「目の中の不安」と変更。『夜会服』(2009年10月25日) ‐ 解説:田中和生『複雑な彼』(2009年11月25日) ‐ 解説:安部譲二『お嬢さん』(2010年4月25日) ‐ 解説:市川真人『にっぽん製』(2010年6月25日) ‐ 解説:田中優子『幸福号出帆』(2010年11月25日) ‐ 解説:藤田三男『愛の疾走』(2010年11月25日) ‐ 解説:横尾忠則 ===中公文庫(中央公論社)=== 『沈める滝』(1959年8月25日) ‐ 解説:寺田透。表記は「中央公論文庫」『不道徳教育講座』(1962年5月15日) ‐ 「暗殺について」を除く69篇。表記は「中央公論文庫」『文章読本』(1973年8月10日、改版1995年12月) ‐ 解説:野口武彦『作家論』(1974年6月10日) ‐ 1970年10月刊の単行本と同一内容。解説:佐伯彰一。新装改版2016年5月、解説:関川夏央『荒野より』(1975年1月10日) ‐ 1967年3月刊の単行本と同一内容。解説:村松剛。新装改版2016年6月、解説:猪瀬直樹『癩王のテラス』(1975年8月10日) ‐ 癩王のテラス、あとがき。解説:宗谷真爾『椿説弓張月』(1975年11月10日) ‐ 椿説弓張月、「弓張月」の劇化と演出、「椿説弓張月」の演出、歌舞伎の脚本と現代語。解説:磯田光一『太陽と鉄』(1987年11月10日) ‐ 太陽と鉄、エピロオグ――F104、私の遍歴時代。解説:佐伯彰一『三島由紀夫未発表書簡 ドナルド・キーン氏宛の97通』(2001年3月25日) ‐ キーン宛ての97通の書簡、編集部後記。解説:松本徹「十七年の交友」『小説読本』(2016年10月25日) ‐ 作家を志す人々の為に、小説とは何か、私の小説の方法、わが創作方法、小説の技巧について、極く短かい小説の効用、法律と文学、私の小説作法、法学士と小説、法律と餅焼き、私の文学、自己改造の試み、「われら」からの遁走。解説:平野啓一郎。元版:中央公論新社(2010年10月)『古典文学読本』(2016年11月25日) ‐ 日本の古典と私、わが古典、相聞歌の源流、古今集と新古今集、存在しないものの美学、清少納言「枕草子」、雨月物語について、能、変質した優雅、「道成寺」私見、葉隠二題、日本文学小史、「文芸文化」のころ、「花ざかりの森」出版のころ、「花ざかりの森」のころ、古今の季節、伊勢物語のこと、うたはあまねし、寿、柳桜雑見録、古座の玉石、中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜萃。解説:富岡幸一郎 ===講談社文芸文庫(講談社)=== 『剣』(1971年7月1日) ‐ 剣、月、葡萄パン、雨のなかの噴水、苺、帽子の花、魔法瓶、真珠、切符。解説:佐伯彰一。レーベルは「講談社文庫」『絹と明察』(1971年7月1日) ‐ 解説:佐伯彰一。レーベルは「講談社文庫」『太陽と鉄』(1971年12月15日) ‐ 太陽と鉄、エピロオグ――F104、私の遍歴時代。解説:田中美代子。レーベルは「講談社文庫」『中世・剣』(1998年3月10日) ‐ 中世、夜の仕度、家族合せ、宝石売買、孝経、剣。解説:室井光広『対話・人間と文学』(2003年7月10日) ‐ 中村光夫との対談。解説:秋山駿「対談による精神のドラマ」『三島由紀夫文学論集 I』(2006年4月10日) ‐ 序文、太陽と鉄、小説家の休暇、「われら」からの遁走、私の中の「男らしさ」の告白、精神の不純、わが非文学的生活、自己改造の試み、実感的スポーツ論、体操、ボクシングと小説、私の健康、私の商売道具。編集:虫明亜呂無。解説:高橋睦郎『三島由紀夫文学論集 II』(2006年5月10日) ‐ 裸体と衣裳、アポロの杯――パリ、ジョルジュ・バタイユ「エロチシズム」、陶酔について、個性の鍛錬場、ナルシシズム論、「純文学とは?」その他、余暇善用、私の遍歴時代。編集:虫明亜呂無。解説:橋本治『三島由紀夫文学論集 III』(2006年6月10日) ‐ 古今集と新古今集、美に逆らうもの、変質した優雅、魔的なものの力、現代史としての小説、団蔵・芸道・再軍備、六世中村歌右衛門序説、沢村宗十郎について、『班女』拝見、海風の吹きめぐる劇場、楽屋で書かれた演劇論、戯曲の誘惑、「演劇のよろこび」の復活、ロマンチック演劇の復興、文学座の諸君への「公開状」、「道義的革命」の論理、「葉隠」とわたし、美しき時代、死の分量、モラルの感覚、レイモン・ラディゲ、ジャン・コクトー、オスカア・ワイルド、ジャン・ジュネ、コリン・ウィルソン、ノーマン・メイラー。あとがき(虫明亜呂無〈再録〉)。編集:虫明亜呂無。解説:加藤典洋。1970年3月刊の単行本を文庫化(3分冊)。 ===文春文庫(文藝春秋社)=== 『行動学入門』(1974年10月25日) ‐ 1970年10月刊行の単行本と同一内容。解説:虫明亜呂無『若きサムライのために』(1996年11月10日) ‐ 日本教文社より1969年7月刊行の単行本と同一内容。解説:福田和也 ===集英社文庫(集英社)=== 『夜会服』(1977年11月30日) ‐ 解説:篠田一士『幸福号出帆』(1978年6月30日) ‐ 解説:磯田光一『肉体の学校』(1979年3月30日) ‐ 解説:田中美代子『命売ります』(1979年11月25日) ‐ 解説:奥野健男『複雑な彼』(1987年10月25日) ‐ 解説:安部譲二 ===河出文庫(河出書房新社)=== 『F104――英霊の声/朱雀家の滅亡』(1981年6月4日) ‐ F104、英霊の声、朱雀家の滅亡。著者ノートにかえて(二・二六事件と私(抄)、後記(朱雀家の滅亡))『英霊の声』(1990年10月4日) ‐ 英霊の声、F104、朱雀家の滅亡、「道義的革命」の論理――磯部一等主計の遺稿について、二・二六事件と私(抄)、後記(朱雀家の滅亡)。解説:富岡幸一郎『文豪ミステリ傑作選 三島由紀夫集』(1998年8月4日) ‐ サーカス、毒薬の社会的効用について、果実、美神、花火、博覧会、復讐、水音、月澹荘綺譚、孔雀、朝の純愛、中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜萃。編集・解題:井上明久『英霊の聲 オリジナル版』(2005年10月20日) ‐ 1966年6月刊行の単行本と同一内容。解説:藤田三男『サド侯爵夫人/朱雀家の滅亡』(2005年12月10日) ‐ 序・サド侯爵の真の顔(澁澤龍彦)、サド侯爵夫人、跋(三島)、朱雀家の滅亡、後記(三島)。解説:藤田三男『源泉の感情』(2006年2月20日) ‐ 1970年10月刊行の単行本から6編削除、1編追加。小林秀雄、舟橋聖一、安部公房、野坂昭如、武田泰淳らとの対談14編。解説:藤田三男 ===ちくま文庫(筑摩書房)=== 『三島由紀夫レター教室』(1991年12月4日) ‐ 解説:群ようこ『肉体の学校』(1992年6月22日) ‐ 解説:群ようこ『愛の疾走』(1994年3月24日) ‐ 解説:清水義範『反貞女大学』(1994年12月5日) ‐ 反貞女大学、第一の性。解説:田中美代子『私の遍歴時代――三島由紀夫のエッセイ1』(1995年4月24日) ‐ わが思春期、私の遍歴時代、師弟、高原ホテル、学生の分際で小説を書いたの記、わが魅せられたるもの、作家と結婚、母を語る――私の最上の読者、ぼくはオブジェになりたい、小説家の息子、実感的スポーツ論、私の遺書、私のきらいな人、男の美学、雪、独楽。解説:田中美代子『新恋愛講座――三島由紀夫のエッセイ2』(1995年5月24日) ‐ 新恋愛講座、おわりの美学、若きサムライのための精神講話。解説:田中美代子『外遊日記――三島由紀夫のエッセイ3』(1995年6月22日) ‐ 旅の絵本、遠視眼の旅人、日本の株価、南の果ての都へ、外遊日記、ニューヨークの溜息、ニューヨークぶらつ記、紐育レストラン案内、大統領選挙、口角の泡、ピラミッドと麻薬、旅の夜、美に逆らうもの、冬のヴェニス、熊野路、英国紀行、インド通信、アメリカ人の日本神話。解説:田中美代子『芸術断想――三島由紀夫のエッセイ4』(1995年8月24日) ‐ 芸術断想、あとがき(目――ある芸術断想)、盛りあがりのすばらしさ、ベラフォンテ讃、迫力ある「ウエストサイド物語」――初日を見て、篠山紀信論、など32篇。解説:田中美代子『幸福号出帆』(1996年7月24日) ‐ 解説:鹿島茂『三島由紀夫のフランス文学講座』(1997年2月24日) ‐ 序(鹿島茂)、ラディゲに憑かれて――私の読書遍歴、一冊の本――ラディゲ「ドルジェル伯の舞踏会」、私の好きな作中人物――希臘から現代までの中に、ラディゲ病、レイモン・ラディゲ、小説家の休暇、からの抜粋などフランス文学論多数。編者あとがき:鹿島茂『命売ります』(1998年2月24日) ‐ 解説:種村季弘『三島由紀夫の美学講座』(2000年1月6日) ‐ 序(谷川渥)、美について、唯美主義と日本、ヴォリンガア「抽象と感情移入」をめぐって、など35篇。編集・解説:谷川渥『文化防衛論』(2006年11月10日) ‐ 新潮社で1969年4月刊行の単行本とほぼ同一内容(果たし得ていない約束――私の中の二十五年、を追加)。解説:福田和也『文豪怪談傑作選 三島由紀夫集――雛の宿』(2007年9月10日) ‐ 朝顔、雛の宿、花火、切符、鴉、英霊の聲、邪教、博覧会、仲間、孔雀、月澹荘綺譚、など18篇。編集・解説:東雅夫『恋の都』(2008年4月10日) ‐ 解説:千野帽子 ===上記以外の他社=== 『生きる意味を問う――私の人生観』(学陽書房:人物文庫、1997年9月) ‐ 単行版は大和出版(1984年10月、新版1992年4月)、複数の作品を入れ替え再編(「大いなる過渡期の論理――行動する作家の思弁と責任」(高橋和巳との対談)を追加)。編・解説:小川和佑『文学的人生論』(光文社知恵の森文庫、2004年11月) ‐ 河出書房(河出新書)で1954年11月に刊行の初刊本より一編(「日本の小説家はなぜ戯曲を書かないか?」)を割愛。解説:福田和也『黒蜥蜴』(学研M文庫、2007年6月)‐ 黒蜥蜴、自作解題(「黒蜥蜴」について(西武生活掲載)、関係者の言葉、「黒蜥蜴」、「黒蜥蜴」について(婦人画報掲載)、映画「黒蜥蜴」の収録歌)。付録・座談会(江戸川乱歩、杉村春子、芥川比呂志、松浦竹夫、山村正夫)、対談(丸山明宏)。解説:美輪明宏『三島由紀夫 近代浪漫派文庫42』(新学社、2007年7月) ‐ 十五歳詩集、花ざかりの森、橋づくし、憂国、三熊野詣、卒塔婆小町、太陽と鉄、文化防衛論。歴史的仮名遣い表記。『終わり方の美学 戦後ニッポン論考集』(徳間文庫カレッジ、2015年10月)‐ 『日本人養成講座』メタローグ(1999年10月)、新版・平凡社(2015年5月)を再編・改題増補(現代の夢魔、「憂国」の謎、鶴田浩二との対談など)。編・解説:高丘卓『三島由紀夫紀行文集』(岩波文庫、2018年9月)‐ 「アポロの杯」ほか海外・国内紀行を3章に分け収録。編・解説:佐藤秀明『若人よ蘇れ・黒蜥蜴 他一篇』(岩波文庫、2018年11月)‐ 他に「喜びの琴」を収録。解説:佐藤秀明 ===名言集=== 『芸術の顔 三島由紀夫 人生のことば』(巌谷大四編、番町書房、1967年7月) ‐ 『人生のことば』(川端康成監修、全10冊)の第2巻 筋肉、力、スポーツ、肉体、男性、女性、男性対女性、青年、人間、人生、旅、時など、37のテーマに分け三島作品から採った箴言集、三島自身による跋。筋肉、力、スポーツ、肉体、男性、女性、男性対女性、青年、人間、人生、旅、時など、37のテーマに分け三島作品から採った箴言集、三島自身による跋。『三島由紀夫語録』(秋津建編、鷹書房、1975年12月/鷹書房弓プレス(改訂版)、1993年2月) 「一貫不惑、文武両道、青天白日、自刃の思想、知行合一」のテーマに分け、右頁に三島作品から採った語録、左頁にその解説文。「一貫不惑、文武両道、青天白日、自刃の思想、知行合一」のテーマに分け、右頁に三島作品から採った語録、左頁にその解説文。『三島由紀夫 ロゴスの美神』(山内由紀人編、岳陽舎、2003年7月31日) 檄、詩を書く少年、敗戦、楯の会、日本、政治の言葉など、42のテーマに分け三島作品から採った箴言集。檄、詩を書く少年、敗戦、楯の会、日本、政治の言葉など、42のテーマに分け三島作品から採った箴言集。『人間の性 三島由紀夫の言葉』(佐藤秀明編、新潮新書、2015年11月20日) 「男女の掟、世間の掟、人間の性、芸術の罠、国家の檻」のテーマに分け、三島作品・対談などから引用し解説。「男女の掟、世間の掟、人間の性、芸術の罠、国家の檻」のテーマに分け、三島作品・対談などから引用し解説。『三島由紀夫 行動する言葉100』(英和出版社、2016年3月)。下記とも、写真と併せた語句解説。『三島由紀夫100の言葉――日本を心の底から愛するための心得』(適菜収監修、別冊宝島編集部編、宝島社、2016年7月) ==肉声資料== 記事立項されている「サーカス」朗読に附随したインタビュー、東大全共闘との討論会、檄文演説などは各記事を参照。 『人とその作品――三島由紀夫の魅力』(朝日ソノラマ、1967年4月1日・4月号) ソノシート両面 収録内容:剣道・ボディービルにはげむ三島由紀夫氏、美と官能、文学とスポーツ、現代の若者について、フラメンコの白い裳裾――旅の絵本(朗読:三島)、禿鷹の影――旅の絵本(朗読:三島) ※ソノシート2枚中の〔1〕が三島関連で、〔2〕には「激化する中ソ対立」「記録したい2月のニュース」が収録。本誌に、村松剛「人とその作品 三島由紀夫」掲載。ソノシート両面収録内容:剣道・ボディービルにはげむ三島由紀夫氏、美と官能、文学とスポーツ、現代の若者について、フラメンコの白い裳裾――旅の絵本(朗読:三島)、禿鷹の影――旅の絵本(朗読:三島)※ソノシート2枚中の〔1〕が三島関連で、〔2〕には「激化する中ソ対立」「記録したい2月のニュース」が収録。本誌に、村松剛「人とその作品 三島由紀夫」掲載。『学生との対話』(新潮社・新潮カセット講演、1988年4月22日。新潮CD講演、2002年6月25日) カセットテープ2巻。ケース装幀:木幡朋介。ライナーノーツ:佐伯彰一「座談家三島の魅力――爽やかな政治論」掲載。 CD2枚。ケース装幀:新潮社装幀室。写真は新潮社写真部。ライナーノート(ブックレット):同上。 収録内容:学生との対話――I、II(国家革新の原理)。1968年(昭和43年)10月3日に早稲田大学大隈講堂で録音されたもの。カセットテープ2巻。ケース装幀:木幡朋介。ライナーノーツ:佐伯彰一「座談家三島の魅力――爽やかな政治論」掲載。CD2枚。ケース装幀:新潮社装幀室。写真は新潮社写真部。ライナーノート(ブックレット):同上。収録内容:学生との対話――I、II(国家革新の原理)。1968年(昭和43年)10月3日に早稲田大学大隈講堂で録音されたもの。『三島由紀夫 最後の言葉』(新潮社・新潮カセット対談、1989年4月20日。新潮CD講演、2002年6月25日) カセットテープ1巻。ケース装幀:木幡朋介。ライナーノーツ:田中美代子「三島由紀夫・最後の言葉」掲載。 CD1枚。ケース装幀:新潮社装幀室。写真は新潮社写真部。ライナーノート(ブックレット):同上。 収録内容:三島由紀夫 最後の言葉(聞き手古林尚)。1970年(昭和45年)11月18日夕方に三島邸で録音されたもの。カセットテープ1巻。ケース装幀:木幡朋介。ライナーノーツ:田中美代子「三島由紀夫・最後の言葉」掲載。CD1枚。ケース装幀:新潮社装幀室。写真は新潮社写真部。ライナーノート(ブックレット):同上。収録内容:三島由紀夫 最後の言葉(聞き手古林尚)。1970年(昭和45年)11月18日夕方に三島邸で録音されたもの。『学習院時代の秘密』(悠飛社、1996年12月) カセットテープ1巻。ケース。ライナーノーツ:桜田満「三島由紀夫の謎を解く鍵」掲載。 収録内容:学習院時代の秘密(三島、徳大寺公英)。1969年(昭和44年)11月12日に対談「戦争の谷間に生きて――青春を語る」として録音されたものの編集版。カセットテープ1巻。ケース。ライナーノーツ:桜田満「三島由紀夫の謎を解く鍵」掲載。収録内容:学習院時代の秘密(三島、徳大寺公英)。1969年(昭和44年)11月12日に対談「戦争の谷間に生きて――青春を語る」として録音されたものの編集版。『決定版 三島由紀夫全集41巻 音声(CD)』(新潮社、2004年9月10日) CD7枚。内函装幀:新潮社装幀室。装画は柄澤齊。ブックレット:「解題」収録。 収録内容:〔1〕わが友ヒットラー(第一幕)〔2〕わが友ヒットラー(第二幕、第三幕)〔3〕椿説弓張月〔4〕我が国の自主防衛について〔5〕悪の華――歌舞伎、英霊の聲、起て! 紅の若き獅子たち、からつ風野郎〔6〕青春を語る(対談:徳大寺公英)〔7〕私はいかにして日本の作家になつたかCD7枚。内函装幀:新潮社装幀室。装画は柄澤齊。ブックレット:「解題」収録。収録内容:〔1〕わが友ヒットラー(第一幕)〔2〕わが友ヒットラー(第二幕、第三幕)〔3〕椿説弓張月〔4〕我が国の自主防衛について〔5〕悪の華――歌舞伎、英霊の聲、起て! 紅の若き獅子たち、からつ風野郎〔6〕青春を語る(対談:徳大寺公英)〔7〕私はいかにして日本の作家になつたか ==三島を題材にしている作品== 物語・散文作品 みずから我が涙をぬぐいたまう日(大江健三郎、1971年)帝都物語(荒俣宏、1985年) ‐ シリーズ「第伍番」で登場。三島は「第六番」で大沢美千代という女性に転生。僕は模造人間(島田雅彦、1986年)小説三島由紀夫事件(山崎行太郎、2000年)ようこそ、自殺用品専門店へ(フランスの作家ジャン・トゥーレ、2006年) ‐ 自殺用具店を経営する一家の物語。一家の父親がMishimaという名前で、日の丸の鉢巻を締め、日本刀を振り回して客にハラキリの作法を伝授する。2012年にはパトリス・ルコントによりアニメ映画化された。三島転生(小沢章友、2007年) ‐ 市ヶ谷駐屯地で死んだ三島の霊が浮遊して自身の生涯を振り返る物語。見出された恋「金閣寺」への船出(岩下尚史、2008年、雄山閣)。文春文庫で再刊、2014年不可能(松浦寿輝、2011年) ‐ 三島が死を免れて生き延びていると想定して創作したもの。奇妙な共闘(作者名称不明、2011年) ‐ クトゥルフ神話という独特な世界観の中、三島由紀夫が死後、「グール」として本来相容れない筈の探索者達との共闘を果たす。ミステリーホラー作品。詩・和歌 Harakiri〈ハラキリ〉(ハンガリーの詩人イシュトヴァーン・バーリント) ‐ アンデルセンの童話『エンドウ豆の上に寝たお姫さま』と融合して創作。ユキオ・ミシマの墓(フランス人翻訳者ピエール・パスカル、1970年) ‐ フランス語版『平和の発見――巣鴨の生と死の記録』(花山信勝)に付録された俳句12句と短歌3首。愛と死の儀式〈三島にささげる詩〉(フランスの詩人エマニュエル・ローテン、1971年) ‐ 映画『憂国』から創案した詩。哭三島由紀夫(浅野晃、1971年)‐ 弔文「虹の門」の結びに記載。「天と海」から――三島由紀夫君を偲びて(浅野晃、1975年)RHETORICS――三島由紀夫であった(なかった)非在に(高橋睦郎、1985年)雪の中の魂二つ――大江健三郎に(高橋睦郎、2001年)正午だった(藤井厳喜、2007年) ‐ 没後37周年(第38回)憂国忌で朗読。漫画 ジャコモ・フォスカリ(ヤマザキマリ、2012年) ‐ 三島や安部公房をモデルにした人物が登場する。映画 地獄の黙示録(フランシス・フォード・コッポラ、1979年) ‐ 構想の一部に『豊饒の海』からの創案がある。ミシマ:ア・ライフ・イン・フォー・チャプターズ(ポール・シュレイダー、1985年)みやび 三島由紀夫(田中千世子、2005年) ‐ ドキュメンタリー映画。 出演:平野啓一郎、岡泰正、柳幸典、野村万之丞、関根祥人、坂手洋二、松下恵、*488*飛(チン・フェイ)、ラウラ・テスタヴェルデ、バログ・B・マールトン、ホイクール・グンナルソン出演:平野啓一郎、岡泰正、柳幸典、野村万之丞、関根祥人、坂手洋二、松下恵、*489*飛(チン・フェイ)、ラウラ・テスタヴェルデ、バログ・B・マールトン、ホイクール・グンナルソン11・25自決の日 三島由紀夫と若者たち(若松孝二、2012年)音楽作品 Harakiri〈ハラキリ〉(エトヴェシュ・ペーテル、1973年) ‐ イシュトヴァーン・バーリントの『Harakiri』の日本語訳を基に作曲。Death & Night & Blood (Yukio)〈死と夜と血〉(ストラングラーズ、1978年) ‐ アルバム『Black and White』収録曲。『仮面の告白』の中の言葉「死と夜と血潮」から創案した詞。Ice(ストラングラーズ、1978年) ‐ アルバム『The Raven』収録曲。『葉隠入門』から創案した詞。Forbidden Colours〈禁じられた色彩〉(デヴィッド・シルヴィアン・坂本龍一、1983年) ‐ 『禁色』の主人公から創案した詞。M(モーリス・ベジャール、1993年) ‐ 三島をオマージュしたバレエ・スペクタクル作品。ミュージックシアター「浄土」The Pure Land(ジェームズ・ウッド・加藤訓子、1999年。日本公演2005年) ‐ 『志賀寺上人の恋』から翻案。由紀夫のためのソナタ〜C.P.E.バッハ:チェンバロ・ソナタ集(ジョスリーヌ・キュイエ、2011年) ‐ 『春の雪』の各場面と構成したプログラム。その他のアート 恒(分部順治、1976年) ‐ 彫刻。三島をモデルにした等身大の男性像。1970年(昭和45年)秋に三島から依頼されていたもので(日曜ごとにモデルに通った)、同年11月22日には原型が出来ていた。1976年(昭和51年)4月7日 の第6回日彫展に出品された。烈火の季節/なにものかへのレクイエム・その壱 ミシマ(森村泰昌、2006年) ‐ 扮装パフォーマンス美の教室、清聴せよ(森村泰昌、2007年) ‐ 同上。Objectglass 12(石塚公昭、2007年) ‐ 人形作品三島由紀夫へのオマージュ展「男の死」(石塚公昭、2011年) ==関連人物== ===芥川比呂志=== 演出家、俳優。共に岸田国士の「雲の会」に同人参加。『邯鄲』は芥川が上演企画・演出した。芥川が福田恆存と共に「文学座」を離れた後も、三島は自著を献呈し続け、『美しい星』を読んだ芥川が興奮し、劇化したいと三島に電話したが実現に至らなかった。瑠璃子夫人との会話で三島の話題となると言う「三島、あれは天才だよ」は、ずっと変わらなかったという。 ===東文彦=== 学習院の5歳年長の文学仲間。23歳で夭折するまでの約2年間、三島と文通した友人で、同人誌『赤繪』を共に創刊した。三島は自決前に『東文彦作品集』(1971年)の出版に尽力し、東との思い出を序文に記した。 ===安部公房=== 小説家、劇作家。政治的思想や作風は三島と異なったが共にSF好きであった。対談でも対立点はあったが互いに協調的で、安部は三島を、ユーモア感覚のある「対話の名手」と評し、「けっして謙虚ではなかったが、意味のない傲慢さはなかった」「三島君はつねに他者に対する深い認識と洞察があった。絶望はいわばその避けがたい帰結だったのだ」と語り、自身と三島との共通点を、「文化の自己完結性に対する強い確信だった」としている。 ===安部譲二=== 作家。元暴力団員(安藤組)、元日本航空客室乗務員。三島が通っていたゲイバーの用心棒をしていた時に知り合った。三島は安部の半生を題材に『複雑な彼』(1966年)を執筆。この物語の主人公「宮城譲二」は、安部のペンネームの一部となった。 ===伊沢甲子麿=== 教育評論家。國學院大學在学中の1947年(昭和22年)3月、豊川登(学習院教諭、ドイツ文学者)と磯部忠正(元学習院長)を介し三島と知り合い、終生の友人となった。三島との初対面の際、保田與重郎を好きか嫌いか質問された伊沢は、保田を「尊敬する人物」と答え、戦後保田を戦犯扱いし右翼・軍国主義と非難する意見と真っ向から戦っていると明言し、三島から信頼を得たという。三島の自決1週間前の清水文雄宛の書簡には、〈文壇に一人も友人がなくなり、今では信ずべき友は伊沢氏一人になりました〉と記されている。 ===石原慎太郎=== 小説家、政治家、元東京都知事。三島は石原文学のよき理解者で、作品集の編纂や翻訳化にも尽力し、石原の己惚れの強さも陽性の好ましいものとして『不道徳教育講座』などで擁護していたが、後年になると徐々に両者の意見の相違が露見し、関係が離れていった。三島は、政治家・石原の内部批判のあり方を叱咤する『士道について』(1970年)を発表し、村上一郎との対談でも、〈石原と小田実って、全然同じ人間だよ、全く一人の人格の表裏ですな〉と批判した。石原は、三島自決直後の追悼文では、「狂気とも愚行ともとれ得ることを承知した上で行なった、他が何といおうと氏にとっては、絶対に社会的政治的な行為であったに違いない」と哀悼したが、その後は否定的な見解を示し、三島の死を辛辣に批評した。 ===磯田光一=== 文芸評論家、イギリス文学者。三島存命中から三島論を展開し、三島の死を哀悼して自著『殉教の美学』の刊行を1年間停止するなど喪に服した。三島にとっての天皇は「“絶対”への渇きの喚び求めた極限のヴィジョン」であり、「存在しえないがゆえに存在しなければならない何ものかであった」と論じた。自決の1か月前に三島から、人間天皇を抹殺することで超越者としての天皇を逆説的に証明するため、「本当は宮中で天皇を殺したい」と直接聞いたという。 ===伊東静雄=== 日本浪曼派の詩人。三島は伊東を〈私のもつとも敬愛する詩人であり、客観的に見ても、一流中の一流だと思ふ〉と述べている。伊東の詩『春の雪』の影響は、少年時代の三島の詩『大詔』や小説、晩年の『春の雪』にまで及んでいる。伊東は葉書で、「これからも沢山書いて、新しき星になつて下さい、それを信じて待ちます」と17歳の三島を励ました。三島のことを日記に「俗人」と記したこともあったが、その後は再び三島を激励している。 ===市川雷蔵=== 歌舞伎役者、俳優。三島作品原作の映画『炎上』(1958年)と『剣』(1963年)で主演。『炎上』の撮影現場を見学した8月12日の三島の記録には、〈頭を五分刈にした雷蔵君は、私が前から主張してゐたとほり、映画界を見渡して、この人以上の適り役はない〉と記されている。雷蔵の歌舞伎公演に寄せた文でも、放火僧の演技について、〈ああいふ孤独感は、なかなか出せないものだが、君はあの役に、君の人生から汲み上げたあらゆるものを注ぎ込んだのであらう〉と激励した。雷蔵が企画し主演が予定されていた映画『獣の戯れ』は多忙で、『春の雪』の舞台公演は病気のため実現しなかった。雷蔵は二・二六事件の青年将校の役もやりたいと増村保造に相談していたという(詳細は炎上 (映画)#市川雷蔵と三島由紀夫を参照)。 ===梅田晴夫=== 劇作家。三島がまだ大蔵省に居た頃、世界文化社主催の講演会で京都に行った時に同行した。終戦後間もない時代で甘味に飢えていた2人は、夜の新京極をショートケーキと紅茶で「はしご」した。梅田はこの1週間の短い京都旅行で、「茶目っ気」たっぷりの三島の「天才」を思い知らされたという。 ===遠藤周作=== 小説家。晩年の代表作『深い河』は、『暁の寺』で描かれたベナレスが舞台となっており、人生観の広がりに『暁の寺』の影響が見られる。遠藤に連れられて三島邸を訪問したことのある秋山駿は、玄関で出迎えた三島に遠藤が花束を手渡していたエピソードを語っている。遠藤はクリスチャンであったが、三島の自死について、「社会的には批判もあろう。しかし、三島さんの思想と行動は、最後の一点で完全に結びついた、壮烈であり、清潔である」と理解を示し、作家の中では珍しく憂国忌発起人として名を連ねた。織田信長の妹・お市をモデルに描いた遠藤の遺作『女』には、三島の『天人五衰』の結尾と酷似する描写もある。 ===小川正洋=== 政治活動家。三島が結成した楯の会2期生で第7班班長。三島事件の実行メンバー。「三島先生は、如何なるときでも学生の先頭に立たれ、訓練を共にうけました。共に泥にまみれ、汗を流して雪の上をほふくし、その姿に感激せずにはおられませんでした。これは世間でいう三島の道楽でもなんでもない。また、文学者としての三島由紀夫でもない。日本をこよなく愛している本当の日本人に違いないと思い、三島先生こそ信頼し尊敬できるおかただ、先生についていけば必ず日本のために働けるときがくるだろうと考えました」と裁判陳述で述べた。 ===加藤道夫=== 劇作家。芥川比呂志同様、共に「雲の会」の同人で劇作家仲間として親交があった。三島は加藤を、〈純にして純なる、珠のごとき人柄〉のゆえに自作の不評に傷つきやすく〈大劇作家たらしめなかつた〉のではないか、〈加藤氏ほど心のきれいな人を見たことがない〉と語り、腐敗した劇檀人種の中で、〈心やさしい詩人は、「理想の劇場の存在する国」へと旅立つた〉と加藤の自殺を追悼した。加藤の死から間もない頃、矢代静一と奥野健男は、三島から「僕のペンネームは魅死魔幽鬼尾にしたよ」と勘亭流で書かれたメモの字を見せられたされる。 ===川端康成=== 小説家。戦後の三島の出発の礎を形づくった。三島の『盗賊』創作ノートの端々や、伊東静雄への書簡には、川端に対する尊敬や共感の念が綴られ、〈天狗〉を芸術家の比喩とした随筆では、〈「我師」といふ一句に、川端康成氏の名を当てはめたい誘惑にかられるが、それでは私も天狗の端くれを自ら名乗ることになつて、不遜のそしりを免れまい〉としている。三島は20代の頃、川端令嬢(養女・政子)の家庭教師をしていた時期があり、来訪時の手土産に可愛いお菓子や高級ケーキを持参し、秀子夫人らを介さずに直接政子に手渡そうとしていたという。川端夫人は1952年(昭和27年)6月の林房雄夫人の通夜の席で、三島から政子との結婚を申し込まれ、夫・川端に相談することなく「さりげなく、しかし、きっぱりとお断りした」としている。1971年(昭和46年)の都知事選挙に立候補した秦野章の応援のため選挙戦に参加した川端は、瑚ホテルで按摩を取っている時、突然と起き上がり扉を開け、「やあ、日蓮様ようこそ」と挨拶したり、風呂場で音がすると言いながら、再び飛び起き、「おう、三島君。君も応援に来てくれたか」と言ったため、按摩が鳥肌を立て早々と逃げ帰ったというエピソードがある。 ===岸田今日子=== 女優。三島が「鉢の木会」メンバーらと岸田国士の別荘に行き、そこで娘の今日子と知り合いグループ交遊した。今日子が「文学座」の女優となってからも親交を持ち続け、三島演出の『サロメ』の主役に抜擢された。三島は今日子に気があったようで、同座の仲谷昇と今日子の関係の進展ぐあいを長岡輝子に訊いていたという。 ===北村小松=== 脚本家、小説家。1955年(昭和30年)7月に発足した「日本空飛ぶ円盤研究会」創立メンバーで、翌年この会に入会した三島と知り合い、交流した。同会には他に、星新一、黛敏郎、石原慎太郎などが入会した。 ===北杜夫=== 小説家。年齢が近く、同じ山の手出身。奥野健男を通じて1961年(昭和36年)から交友が始まった。三島は北の『楡家の人びと』を気に入り推薦した。北の父親・斎藤茂吉と、三島の伯父で精神科医の橋健行は親友同士で、健行は『楡家の人びと』の聖子(モデルは杜夫の叔母)の婚約者だった男性として言及されている。 ===紀平悌子=== 三島の亡き妹・美津子と同級生だった縁もあり、三島と交際していた時期があった。実弟の佐々淳行は、新左翼による暴徒鎮圧に従事していた警視庁警務部参事官時代に三島と知り合い、東大安田講堂事件の際には、彼らを飛び降り自殺させないようにヘリコプターで催眠ガスを撒いてくれと三島から警視庁に電話が来たという。 ===神津カンナ=== 随筆家。1969年(昭和44年)夏、10歳の時に三島と対談し、カンナが8歳の時の作った詩「ふんすい」を何度も朗読した三島は、「素晴らしいね、とてもいい詩だ」と涙をためて褒めたという。どんな本を読んだらいいか質問すると、「おじさんはもうすぐ死ぬけれど、そんなおじさんが、責任をもってあなたに読むことを勧められるのは、辞書だけです」と三島は言ったという。カンナは、その年の秋の楯の会1周年記念パレードに招待されて参列した。 ===古賀浩靖=== 政治活動家。宗教家。三島が結成した楯の会2期生で第5班副班長。三島事件の実行メンバー。剣道の心得があり、森田必勝に代わり三島を介錯し、その後森田を介錯した。伊藤邦典(1期生)が、出所後の古賀に会い、「あの事件で、何があなたに残ったか」を訊ねると、古賀はただ掌を上に向けて、三島と森田の首の重さを持つようにしてじっとそれを見詰めていただけだったという。 ===小賀正義=== 政治活動家。三島が結成した楯の会2期生で第5班班長。三島事件の実行メンバー。自動車運転を任されていた。「三島先生と同じかまの飯を食ってみて、ともに起き、野を駆け、汗をかいてみたら、こういう人が文化人の中にもいたのかと心強かったし、先生の真心が感じられた。ほんとうに信頼できる人だと思った。生命は日本と日本民族の源流からわき出た岩清水のようなものです。生命をかけて行動するのはその源流に戻ること。源流とは天皇だと考えた。先生とともに行動することは、生命をかけることだった」と裁判陳述で述べた。 ===越路吹雪=== 女優、歌手。三島が越路の『モルガンお雪』を観て大ファンとなり、交友関係が始まった。三島が越路主演のために書いた戯曲には、未上演の『溶けた天女』(1954年)と、『女は占領されない』(1959年)があり、独身時代の三島の恋人だという噂もあった。若い頃、越路と湘南の海岸でキスしたことがあると、三島は楯の会会員の井上豊夫に話したという。なお越路の愛称「コーちゃん」は三島が子供の時の愛称「公ちゃん」と同じ読みである。 ===坂本一亀=== 河出書房の編集者。三島に初の書き下ろし長編を依頼したことで、三島が大蔵省を辞めて小説家一本で生計を立てることを決意し、『仮面の告白』執筆に集中した。三島は昼休みのベルが鳴ると、「食事しようや、前祝いだ」と坂本らを誘って、銀座でハンバーグステーキを食べた。坂本は三島から、兵隊に行ったのか聞かれ、行ったと答えると、「そうか、よかったな、うらやましいよ」と言われたという。 ===佐藤春夫=== 日本浪曼派の詩人。三島は18歳の時に富士正晴ら共に佐藤を初訪問して以来交流し、東京大空襲後、疎開する佐藤の餞別会にも林富士馬や庄野潤三と共に参加し、別れの俳句を贈った。終戦翌年に佐藤が蓮田善明を哀悼した詩「哭蓮田善明」は『人間』に掲載予定だったが、GHQの検閲を恐れて上梓されなかった。これを惜しんだ編集員が校正刷りを三島に託し、清水文雄がそれを三島から預かっていたため、1968年(昭和43年)に日の目を見ることができた。 ===志賀直哉=== 小説家。三島は18歳の時に徳川義恭と共に志賀の家を初訪問したが、志賀直哉の印象を、〈我々としても摂るべきところも多くあり、決して摂つてはならぬ所も多々あり、こちらの気持がしつかりしてゐれバ、決して単なるわがまゝな白樺式自由主義者ではいらつしやらぬことを思ひました〉、〈仰言ることは半ばは耳傾けてうかゞつて頗る有益なことであり、半ばは、我らの学ぶべき考へ方ではないといふことでございました〉と清水文雄に報告している。三島は、志賀が敗戦直後、日本語を廃止して国語をフランス語にしたらどうかと発言したことに呆れて唾棄した。 ===島尾敏雄=== 小説家。1946年(昭和21年)5月に伊東静雄が主宰した同人誌『光耀』(3号で終刊)に共に参加した。島尾は敗戦直後に『花ざかりの森』を読んで「文学的興奮」を覚え、すぐに「豊潤な若武者」のような三島に手紙を書いたのが知り合うきっかけだった。初対面の時の三島の印象を、「相手に有無をも言わせぬのぶとい声が、どうしてこの華奢なからだつきの少年の口から出てくるのかふしぎであった」と島尾は語っている。 ===清水文雄=== 日本浪曼派系の国文学者、和泉式部研究家。筆名「三島由紀夫」を提案し著作活動を促した恩師。戦後は、発足間もない新制の広島大学に赴任し、1967年(昭和42年)の退官の際には、大学の国文学攷に三島が評論『古今集と新古今集』を寄稿した。 ===澁澤龍彦=== フランス文学者、小説家。澁澤が自ら訳した『マルキ・ド・サド選集』(1956年)の序文を三島に依頼して以来親交し、『サド侯爵夫人』の着想も、澁澤の『サド侯爵の生涯』(1964年)から得られた。澁澤は追悼文で、「自分の同世代者のなかに、このようにすぐれた文学者を持ち得た幸福を一瞬も忘れたことはなかった」と三島を哀悼した。三島の死後は、憑かれたように古寺巡礼の旅に出た。 ===篠山紀信=== 写真家。処女出版『篠山紀信と28人のおんなたち』(1968年)に三島が序文「篠山紀信論」を寄せた。1970年(昭和45年)9月に薔薇十字社から企画が上がり、編集者・内藤三津子の執拗な再三の要請で三島がやっとモデルを引き受けた写真集『男の死』の撮影が11月17日に完了し出版が決定していたが、写真は数点が公開されたのみで、三島事件で立ち消えとなり、篠山側の意向もあり未出版である。 ===庄野潤三=== 小説家。三島が19歳の時に作品を投稿した雑誌『まほろば』に、庄野が初小説『雪・ほたる』を載せた。三島が大阪の伊東静雄を訪ねた時のことを、「先日、平岡君が学校へ訪ねて来て、あなたのことをいろいろ話しました」と伊東は庄野に伝えている。翌年4月、海軍少尉の制服で林富士馬の家を訪問した庄野は、「身だしなみのいい、礼儀正しい」学生の三島と初対面し、戦後に伊東が主宰した『光耀』の同人同志となった。 ===高橋和巳=== 小説家、中国文学者。三島の自決時、結腸癌を患っていた高橋和巳は新聞コメントで、「悪しき味方よりも果敢なる敵の死はいっそう悲しい」と語り、「もし三島由紀夫氏の霊にして耳あるなら、聞け。高橋和巳が〈醢をくつがえして哭いている〉その声を」と哀悼した。三島の自死の意味については、ドストエフスキーの『悪霊』の登場人物・キリーロフや、エドガー・アラン・ポーの『ウィリアム・ウィルソン』を想起したと語っている。 ===高橋睦郎=== 詩人。三島に詩集『薔薇の木、にせの恋人たち』を送り、認められ交友した。三島は自身が多くの先輩作家から恩恵を受けてきたためか、新人や若い人にとても優しかった。高橋睦郎によれば、三島はサービス精神旺盛であったため、三島と親交を持った誰しもが、自分こそが三島さんと最も親しかったと思い込ませてしまうところがあったという。ワイルドばりの逆説が好きな三島は高橋に、「小説というものは、精神なんかで書くんじゃなくて、肉体で書くんだよ」「不健全な精神は健全な肉体にこそ宿る」と教えたという。 ===武田泰淳=== 小説家、僧侶。『近代文学』の第2次同人拡大時に共に参加し、その後も互いの文学を認め合う仲だった。三島は自決直前に武田との対談中、自分が戦後社会を否定しながら、そこから金銭を得て生きてきたことを〈恥ずかしい〉〈僕のギルティ・コンシャスだ〉と吐露し、武田は、「それだけは言っちゃいけないよ。あんたがそんなことを言ったらガタガタになっちゃう」と懸命になだめた。告別式では袈裟姿で弔辞を読んだ。 ===太宰治=== 小説家。三島は太宰嫌いを公言していたが、〈氏は私のもつとも隠したがつてゐた部分を故意に露出する型の作家であつた〉とも述べていたように、両者には相通ずる性質も見られ、没落貴族を通して戦後批判をモチーフとした類似点や(『斜陽』と『宝石売買』)、普通の人間生活からの疎外感を持つ主人公(道化と仮面の人物)を視点として語る作品(『人間失格』と『仮面の告白』)などがあり、戦後的な世界秩序への反逆として作者自身が死(心中、自殺)へ向っていく共通性が挙げられるが、自死を「処世術みたいな打算的なもの」と、あえて小説家の苦悩の演出かのように表白してみせる自己劇画的な太宰と、「官能的な美」を表現する「様式」「芸術的・創造的行為」として自死を捉えた三島には、大きな隔たりがあることも指摘されている。 ===谷崎潤一郎=== 小説家。共に中央公論社出版の『日本の文学』〈全80巻〉の編集委員になった。三島は谷崎から、『美しい星』を褒められ、礼状を送っている。少年時代から谷崎文学に親しんでいた三島は数々の谷崎論を書き、その小説家としての天才を賞揚しているが、〈谷崎氏の文学世界はあまりに時代と歴史の運命から超然としてゐるのが、かへつて不自然〉とも述べ、戦時中に自ら戦地に踏み込み、時代を受け止めた岸田国士とは対極の意味合いで、〈結局別の形で自分の文学を歪められた〉作家だと評している。1958年(昭和33年)度のノーベル文学賞推薦文を谷崎のために書いていた三島だが、実際に谷崎が有力候補と目されていた頃、毎年新聞社に依頼され予め受賞祝いコメントを3回も書かされていたという。奥野健男によれば三島は、「谷崎潤一郎の晩年はノーベル賞をもらうために生きていたようなものだった。とうとう間に合わなかったが。ノーベル文学賞なんか、そんなものだ」と言っていたとされる。 ===団藤重光=== 最高裁判所裁判官。帝大法学部時代の三島に刑事訴訟法を教えていた教授。団藤は、三島没後の回想文で、『仮面の告白』の表層と深層の錯綜する二重構造的な構成を、三島の「美」の世界が比類のない論理と言語の魔術により現成されたとして、その文学を賞讃している。 ===堤清二=== 実業家、小説家。筆名「辻井喬」などで小説や詩を書き、三島とも交友が深かった。三島が組織した祖国防衛隊(のち「楯の会」)の軍服のため、デザイナー・五十嵐九十九を紹介した。三島自決直後に開かれた追悼会では、ポケットマネーから資金を提供した他、三島映画上映企画などでも会場を提供するなど、三島の死後も協力した。なお86歳で堤が逝去した日は、三島の命日と同日だった。 ===椿實=== 小説家。椿が1948年(昭和23年)に『新思潮』に発表した「人魚紀聞」に対し、三島が讃辞の葉書を送ったのをきっかけに、椿が三島の務める大蔵省を訪ねたのが交友の始まりとなった。三島が口述した稲垣足穂論を椿がノートに取り、「クナアベンリーベ」(少年愛)と名付けて玄文社に渡したが、当時の出版不況のために未発表となった。『永すぎた春』は、椿が「木内書店の娘はいいぞ」と言ったのが元となり、主人公の青年は、椿がモデルの一部となっている。 ===鶴岡淑子=== 女優。三島が映画『憂国』で相手役のために選んだ無名女優。「鶴岡淑子」という芸名は三島が付けた。撮影中に切腹シーンを見て、情緒不安定なところが見受けられたという。映画出演直後はファッション雑誌のモデルをしていたが、異性関係のトラブルでメンタル面に不調をきたし入退院を繰り返し、8年後はキャバレーのホステスになり、ストリップで踊っていたとされる。 ===徳川義恭=== 美術研究者。徳川義恕の四男。学習院の先輩で、東文彦と共に3人で同人誌『赤繪』を創刊した文学仲間。『花ざかりの森』の装幀をした。1949年(昭和24年)に28歳で病死し、三島は義恭をモデルにした短編『貴顕』(1957年)を書いた。また、義恭の姉の徳川祥子に三島は憧れ、17歳の時に書いた『玉刻春』の中で祥子の美しさを描いている。 ===中井英夫=== 小説家、詩人。三島は、中井の『虚無への供物』出版を祝う会の発起人となった。中井は、三島自決後に週刊誌が「異常性格者」「ホモだオカマだ」とスキャンダラスに騒ぐ狂乱ぶりを批判し、「死んだのは流行歌手でも映画スターでもない、戦後にもっとも豊かな、香り高い果実をもたらした作家である」と三島を哀悼した。三島が榊山保の筆名で発表した『愛の処刑』(1960年)の自筆原稿ノートは2005年(平成17年)に中井の家から発見されている。 ===中村歌右衛門(六世)=== 歌舞伎役者。歌右衛門を高く評価した三島は、『熊野』『芙蓉露大内実記』などの歌舞伎台本を歌右衛門のために書き、『中村芝翫論』『六世中村歌右衛門序説』などの評論も書いた。歌右衛門をモデルにした短編『女方』は、最初の歌舞伎『地獄変』を上演したときの体験が元となっている。 ===中村伸郎=== 俳優。三島が喜びの琴事件で「文学座」を脱退した際、劇団主要幹部でありながらも、三島に追随して退団して以降、「劇団NLT」「浪曼劇場」と、演劇面において三島と行動を共にした。後年、「三島の政治信条には全く共鳴しなかったが、あの人の書く戯曲の美しさには心底惚れ込んでいた。だから文学座も迷うことなく辞めた」と語っている。三島は中村伸郎の主役を念頭に『朱雀家の滅亡』を書いた。 ===西尾幹二=== ドイツ文学者、ニーチェ研究家。三島は、西尾の初期の著作『ヨーロッパ像の転換』(1969年)に推薦文を書き、その後の『文学の宿命――現代日本文学にみる終末意識』(1970年)にも注目した。西尾は三島宅を訪問した時のことを述懐し、礼儀正しく物言いは率直ながらも、無名で年下の人間にも分け隔てなく、友人のように接する三島の偉ぶらない物腰に感銘を受けたと語っている。三島が嫌いな文化人の悪口を言っても、からっとしていて陰湿さが全く無く、小田実が六本木のレストラン前に立っているのを見て、その辺りの空気がいっぺんに汚れているように感じて一目散に逃げ出したという話も面白く聞かされ、大笑いしたという。 ===野坂昭如=== 小説家、放送作家。三島は、雑文家だった野坂の処女小説『エロ事師たち』をいち早く評価し、野坂の小説家としての道を開いた。野坂は三島を、「もっとも尊敬する小説家であり、存在そのものに、戦慄せしめられていた」と語った。三島没後17年には、自身の生い立ちと重ねながら三島の祖父母に言及した三島本を著し、従来の三島研究になかった視点を盛り込んで、後発の猪瀬直樹や村松剛著の三島評伝成立を促した。野坂は若い頃、三島が『禁色』のゲイバー「ルドン」のモデルにした銀座5丁目の店「ブランスウィック」でバーテンダー見習いのアルバイトをしていたことがあった。店に来る三島に煙草の火をつけたことがあり、「ありがとう」と明瞭な発音でお礼を言われたことがあるという。カウンターに座っていた三島は上機嫌で、眉を八の字に「ガハハハ」と笑っていたと野坂は述懐している。 ===橋川文三=== 思想史家、評論家。戦中・戦後精神史の観点から三島作品を論じて『鏡子の家』を高く評価し、三島から信頼されて三島伝を書くなどしたが、『文化防衛論』に関しては、政治学的視点から文化的天皇の機能についての問題点を指摘し、三島はそれに答えて『橋川文三への公開状』で反論した。橋川は三島の自死の意味を、高山彦九郎、神風連、横山安武、相沢三郎や、「無名のテロリスト」の朝日平吾や中岡艮一と同じように位置づけた。 ===蓮田善明=== 日本浪曼派系の国文学者、陸軍中尉。同人雑誌『文藝文化』を主宰した。清水文雄を通じて三島を知り、少年時代の三島の感情教育の師となった。富士正晴が三島を連れて蓮田宅に行った帰り、蓮田がわざわざ駅まで見送り、まるで恋人と離れるかのように三島との別れを惜しんでいたとされる。蓮田が駐屯地のマレー半島のジョホールバルで、敗戦時に天皇を愚弄した上官を射殺後にピストル自決した事件は、三島の生涯にわたり影響を及ぼした。 ===林房雄=== 小説家、文芸評論家。三島が22歳の時に知り合い、生涯にわたって親しく交流した。三島は林の〈人間的魅力〉に惹かれたと語っている。三島は『林房雄論』を書き、2人の対談の共著『対話・日本人論』もある。三島の自決後、林房雄は憂国忌の運営に積極的に携わった。追悼書『悲しみの琴』(1972年)には、林とも親しかった川端康成の序文が添えられている。 ===林富士馬=== 詩人、医師。富士正晴を通じて知り合い、同人雑誌『まほろば』『曼荼羅』『光耀』などで交遊を持った。初対面の時に林富士馬が、「ビールでも飲もうか」と振る舞おうとするが、三島はきれいな言葉遣いで断ったため、「それで林はゾッコン参っちゃったんや」と富士は回想している。林は、三島が19歳の時、〈戦後の世界に於て、世界各国人が詩歌をいふとき、古今和歌集の尺度なしには語りえぬ時代がくることを、それらを私は評論としてでなく文学として物語つてゆきたい〉と決意していたことに触れ、決して器用ではない三島はそれを獲得するために「刻苦勉励の一生」を送り、「人の知らぬ屈辱のなかで、男らしく愚痴を云わずに、ひとり、たたかっていたのである」と追悼した。 ===土方巽=== 舞踏家、振付家。土方が1959年(昭和34年)に、『禁色』と同名の舞踏公演をして以来、交友を深めた。三島も土方巽を被写体とした写真集『おとこと女』(1961年)を見て気に入り、撮影者の細江英公に自身の評論集『美の襲撃』の口絵写真を依頼後、『薔薇刑』(1963年)で自らの肉体を披露した。この時の撮影では、土方がスタジオを提供し、後に夫人となる元藤*490*子もモデル参加した。 ===日沼倫太郎=== 文芸評論家。三島と会うたびに、自殺により三島文学はキリーロフのように完成すると勧告し、自ら生命を絶つことで「芸術と実生活との悪循環」を断ち切る方法が、「三島氏が賛美する夭折の美学を名実ともに現実化する最上の道」と書いた。その7日後、日沼自身が急逝(病死)したことに強い衝撃を受けた三島は、日沼が自殺したのかと思ったという。その追悼文で三島は、〈私はモラーリッシュな自殺しかみとめない〉〈武士の自刃しかみとめない〉と表明した。 ===深沢七郎=== 小説家、ギタリスト。三島が深沢のデビュー作『楢山節考』を高評価したのをきっかけに、『東京のプリンスたち』の出版記念会で一緒に歌うなど交流した。『からっ風野郎』の主題歌(作詞は三島)は、深沢の方から作曲したいと頼み込んだ。新進作家時代の深沢は、三島を「三島由紀夫先生」と呼び、「雲の上の人のような高貴な」存在と崇めてすり寄っていたが、三島自決後は、手のひらを返したように三島作品を批判した。 ===福島次郎=== 小説家、高校教師。三島ファンだった福島が1951年(昭和26年)に三島宅を訪問して1か月ほど交友したが、すぐに疎遠となり、約11年後に福島が自著を献呈したのをきっかけに文通し、1966年(昭和41年)に三島が熊本県に取材に行った際には、福島の勤務する工業高校も見学した。福島は三島没後28年に、実名小説で三島との思い出を著したが、私信の無断転載で訴訟となり、著作権侵害で絶版となった(『剣と寒紅』裁判参照のこと)。 ===福田恆存=== 英文学者、劇作家、演出家。「雲の会」同人で「鉢の木会」でも交遊し、「文学座」や同じ保守派の論客としても親しかった。福田が「文学座」から分裂し、芥川比呂志や岸田今日子を引き連れ「劇団雲」結成した際には、発表する前夜になってから三島に参加を呼びかけたため、三島だけ参加できなかった。それ以後、演劇活動は共にしなかったが、三島は「劇団雲」の機関紙に寄稿し、対談も行うなど関係断絶には至らなかった。 ===富士正晴=== 小説家。七丈書院の関西駐在員。三島を後援する伊東静雄や蓮田善明から『花ざかりの森』刊行の話を相談され、出版実現に奔走して、三島の恩人となった。戦後の1947年(昭和22年)にも三島の評論集出版の話を持ちかけ、三島から感謝されている。 ===舟橋聖一=== 小説家、劇作家。舟橋が主宰する「伽羅の会」に参加するなど交流した。三島は自死前に入院中の舟橋の見舞いに来たという。舟橋は三島の自決を、「表現しても、表現しても、その表現力が厚い壁によって妨げられる時、ペンを擲って死ぬほかはない」と哀悼した、舟橋は心筋梗塞だったが、告別式に出席し弔辞を読み、途中から北条誠が代読した。 ===坊城俊民=== 国文学者。学習院文芸部の先輩。三島が中等科の時に文通など交友し、『詩を書く少年』の先輩Rとして描かれた。長く疎遠となっていたが、『春の雪』を読んだ坊城が、その感動を三島に書き送ったのをきっかけに交流が再開した。三島が自死の6日前に坊城に送った書簡には、〈十四、五歳のころが、小生の黄金時代であつたと思ひます〉と記されている。 ===細江英公=== 写真家。三島を被写体とした『薔薇刑』(1963年)を出版し、三島が序文を寄せた。『薔薇刑』は戦後昭和を代表する写真集になり、英語版も数度出版された。細江は三島を、文字通り「誠実の人」だったと述懐し、三島が憂いていたのは、「根源的な、日本人の精神的な危機そのものだった」と追悼した。 ===堀辰雄=== 小説家。堀辰雄の文体を真似するなど影響を受けていた三島は、18歳の時に一度だけ堀の家を訪問した。堀から〈シンプルになれ〉と忠告され、〈シンプルにならうとしてそれに成功するなんで、さうおいそれと出来るものぢやない〉と三島はノートに記した。その後、肉体改造、文体改造した三島は次第に堀文学から離れていった。 ===増村保造=== 映画監督。東大法学部の同窓生で、三島主演の映画『からっ風野郎』を監督するに際し、三島の下手な演技を遠慮なく罵倒し、徹底的にしごいた。三島が撮影中の事故で頭部を強打して脳震盪で病院に担ぎ込まれた時、平岡梓は、「息子の頭をどうしてくれるんだ!」と激怒。入院中の三島は、見舞いに来た友人のロイ・ジェームスに向かって、「増村を殴ってきてくれよ、ロイ!」と喚いたという。しかし、増村は映画完成後に三島邸に招待され、怪我をさせて申し訳ないと思っていたのに、梓から「下手な役者をあそこまできちんと使って頂いて」と逆に礼を言われ、帰り道、「明治生まれの男は偉い」と褒めていたという(詳細はからっ風野郎#増村保造と三島由紀夫を参照)。 ===黛敏郎=== 作曲家。三島が初の世界旅行中のパリで、現地の詐欺師にトラベラーズチェックを盗まれたことをきっかけに、留学中の黛と知り合いとなり交友が始まった。黛は、ラジオドラマ『ボクシング』や、オペラ『金閣寺』や映画化された三島作品、戯曲の音楽を多く担当し、三島自決の翌年には、フランス人有志らと「パリ憂国忌」を開催した。 ===三谷信=== 学習院時代の同級生、銀行員。三谷が入隊前後から敗戦直後の間に書簡を取り交わし、その後も交流した。『仮面の告白』では、三島と交際していた妹・邦子と共に、「草野」として登場している。三谷は三島の願いを、「日本の泉を汲み、自分なりにその泉を“豊饒”にして次の世に譲ることであった」と追悼した。 ===美輪明宏=== 歌手、俳優。「ブランスウィック」(『禁色』のモデルのゲイバー)でアルバイトをしていた16歳の時に、客として訪れた三島と出会い、シャンソン喫茶『銀巴里』で専属歌手となった時にも三島が訪れ、親しい友人として交流するようになった。「神武以来の美少年」とマスコミから注目され、三島も報道陣に向って「丸山君の美しさは、“天上界の美”ですよ」と讃辞を送った。美輪の自伝著作『紫の履歴書』(1968年)には三島が序文を寄せている。映画『永すぎた春』に、歌手として初出演し、その後、戯曲『卒塔婆小町』『双頭の鷲』『黒蜥蜴』でも、三島戯曲特有の絢爛な台詞を「見事に肉体化し切る表現者として稀有な存在」として注目された。自決の数日前に三島が、「山のように抱えきれないほどの薔薇の花束」を持って楽屋を訪れ、「君には感謝している」と言ったとされる。 ===村上一郎=== 評論家、小説家。思想的な差異を超えて意気投合し、三島は村上の『北一輝論』(1970年)を高評価し、楯の会会員にも読ませた。三島は村上との対談で、政治家たちの言葉に対する軽視を批判し、〈「十一月に死ぬぞ」といったら絶対死ななければいけない〉と発言した。村上は、三島の決起の報を聞き、市ヶ谷駐屯地に駆けつけ門衛に誰何された際、「自分の官姓名は正七位海軍主計大尉・村上一郎である」と叫んだとされ、三島の死の5年後に自宅で自刃した。 ===村松英子=== 女優。兄・村松剛が三島の友人。「文学座」研究生だった英子に初めて会った日の夜、三島は村松剛に、「きみは、あんなにすてきで可愛い妹さんをいままでどこに隠していたの?」と電話してきたという。その後、英子は三島に師事し、三島戯曲の舞台に多数出演した。喜びの琴事件(1963年)では三島に附随し「文学座」を脱退したが、福田恆存からの強い要請で1年間「劇団雲」に移籍した後、三島の「劇団NLT」、「劇団浪曼劇場」と行動を共にした。 ===持丸博=== 政治活動家。三島が結成した楯の会の初代学生長。持丸は、全共闘運動が吹き荒れ、「左翼でなければ人にあらず」と言われた時代を、三島と共に過ごした日々を述懐し、「先生は、当時一つの輝く北斗の星でしたよ。文学者としてではなく、思想家として見てました。小説家三島由紀夫とは見てなかったですよ。おそらく(楯の会会員は)誰も」と語っている。 ===森田必勝=== 政治活動家。楯の会の第2代学生長。三島事件で三島と共に自決した。決起に至るまでの経緯には、森田が主導した面もあったという見解もある。三島の知人の金子國義によると、三島が決起の8日前寿司をおごってくれた時の会話の中でふと、「ずっと捜し続けていた青年に会えたよ」とポツリと呟いていたという。三島にとって森田の登場は、小説の中で描き続けた純粋無垢な青年、理想の主人公(『潮騒』の久保新治、『剣』の国分次郎、『奔馬』の飯沼勲)、アンティノウス像がまさに自分の目の前に現実の存在として具現化した人物だったと見られている。 ===矢代静一=== 劇作家。三島が21歳の時に川路明を通じて知り合い、一緒に太宰治に会いに行くなど交流を深めた。矢代は、一緒に〈悪所〉に行った〈例の友人〉として『仮面の告白』に登場する。その後、新劇界に進んだ矢代を通じて、劇作をするようになった三島は、芥川比呂志や加藤道夫らとも知り合い、演劇仲間として矢代と長く行動を共にした。 ===保田與重郎=== 日本浪曼派の文芸評論家。保田に影響を受けていた三島は17歳の時、学習院の講演依頼のため清水文雄と共に保田を初訪問し、それ以降、東京帝国大学の学生となってからも何度か保田宅にやって来た。三島は伊澤甲子麿に、保田を悪く言う人間は大嫌いだと言ったとされ、埴谷雄高や村松剛との後年の対談では、予言者・啓示者は死ななくていいとする埴谷に反論し、もしも保田が戦後を隠居で生き延びずに死んでいたとしたら、〈小型ゲバラ、小型キリストだったかもしれない〉としている。 ===矢頭保=== 写真家。三島は、矢頭の作品集『裸祭り』(1969年)や『体道・日本のボディビルダーたち』(1966年)に序文を寄せ、『体道・日本のボディビルダーたち』では、三島自身も褌姿で日本刀を携えてモデルも務めた。矢頭は三島の「切腹演戯」と題する写真も撮影していて、『宝島30』(1996年4月号)や『yaso夜想』(2006年4月号)に掲載された。 ===山本舜勝=== 元陸軍少佐、元陸軍中野学校研究部員兼教官。陸上自衛隊調査学校情報教育課長。三島と楯の会を自衛隊調査学校で直接指導した実質的な「軍師」で、三島の決起に至るまでの過程に深く関与した。次第に三島の計画と意見の相違が生じ始め、1969年(昭和44年)11月頃から疎遠となったが、翌年8月、中曽根康弘の阻止で閣僚会議に提出されなかった建白書を三島から送付された。山本は「三島由紀夫はもっとも雄々しく、優れた『魂』であった」と語っている ===横尾忠則=== グラフィックデザイナー。三島は横尾の絵を気に入り、横尾忠則論『ポップコーンの心霊術』を書いた。写真集『男の死』は、当初横尾も被写体になる予定だったが、病気入院したために三島だけとなった。三島は横尾に、「人間にはインドに行ける者と行けない者があり、さらにその時期は運命的なカルマが決定する」と言っていたとされ、自決3日前にも、インドは生を学ぶところだとして、「君もそろそろインドへ行ってもいいな」とアドバイスしたという。 ===吉田健一=== 英文学者、文芸評論家。「鉢の木会」の同人仲間として交流があったが、不和を生じ断交した。その原因は、三島の新居引っ越し時に、家具の値段を次々と大声で値踏みした吉田の無神経さに三島が立腹したためとも、同時期の力作『鏡子の家』を「鉢の木会」の月例会で酷評されたとの説もあるが、『宴のあと』に対し訴訟を起こした有田八郎と旧知の仲だった吉田が、裁判で有田側に立った発言をしたため、不仲になったのが主因とされる。吉田は三島の死を、一流の文士が道楽で身を誤ることがあっても不思議ではないという喩えで、「蝶気違ひの文士が崖に蝶を追つて墜落死することもある」として一種の事故死と捉えた。 ===若尾文子=== 女優。三島のお気に入りの女優で、三島原作の映画作品『永すぎた春』『お嬢さん』『獣の戯れ』に出演し、増村保造の『からっ風野郎』では三島から選ばれて共演もした。三島が増村から何度も執拗にNGを出されていたことを、「増村さんてそういう人ですけど、私の見た範囲ではあんなのはちょっとないですね。陰で祈ってたわ。普通の人だったら、並みの俳優だったら、もう辞めてますね」と、増村の度を越したいびりに三島がよく耐え我慢していたことを述懐している。三島が若尾について語った随筆・評論は、『若尾文子さん――表紙の女性』(1960年)、『若尾文子讃』(1962年)がある(詳細はからっ風野郎#若尾文子と三島由紀夫を参照)。 ===アイヴァン・モリス=== 日本文学研究者。『金閣寺』英訳者であり友人。英訳で上演された『班女』の吉雄役を演じた。モリスの著書『光源氏の世界』が1965年(昭和40年)、イギリスで文学賞を受賞した際、三島も訪英しており授賞式に立ち会った。 ===ジョン・ネイスン=== 翻訳者、日本研究者。『午後の曳航』を翻訳。ネイスンは『絹と明察』の翻訳依頼も受けたが、途中で放棄したまま大江健三郎の翻訳に乗り換え、このことにより三島とネイスンの関係は感情的もつれを生み、三島は知人にネイスンのことを、「左翼に誘惑された与太者」と呼んでいたとされる。 ===ドナルド・キーン=== 日本文学研究・翻訳者。三島文学を高く評価し、友人関係にもなった。三島は1961年(昭和36年)頃からキーン宛ての手紙の末尾に〈幽鬼夫〉〈幽鬼亭〉〈雪翁〉〈幽鬼尾〉と署名するようになり、1965年(昭和40年)頃から〈魅死魔幽鬼尾〉と記し、キーンを〈鬼韻様〉〈奇因先生〉としていた。キーンは、作家たちが自分の癖字や悪筆を、むしろ誇りにし汚い原稿のまま出す傾向がある中、三島が印刷所に対する礼儀として原稿用紙の字を読みやすく綺麗に書いていた習慣を「偉いこと」と語っている。『近代能楽集』『宴のあと』『サド侯爵夫人』などを翻訳したキーンは、1968年度のノーベル文学賞受賞が三島ではなかったのが不思議だとして、この時の受賞選考に関与した或る人物(東京での1957年の国際ペンクラブ大会に出席していた人物)が、三島を「左翼の過激派」と判断し、川端の方を強く推していたという内幕を語っている。 ===ヘンリー・スコット=ストークス=== イギリスのジャーナリスト。ロンドンの『タイムズ』東京支局長だった時に、三島の自衛隊体験入隊や楯の会を取材した。1970年(昭和45年)9月3日に三島から、「日本は緑色の蛇の呪いにかかっている」と言われたストークスは、この「緑色の蛇」の意味をずっと考え続け、1990年(平成2年)頃に突然、「米ドル」(緑色の紙幣)のことだと解ったという。 =スコッチ・ウイスキー= スコッチ・ウイスキー(英語: Scotch whisky)とは、英国スコットランドで製造されるウイスキーのこと。日本では世界5大ウイスキーの1つに数えられる。現在のイギリスでは後述のとおり2009年スコッチ・ウイスキー規則により定義され、糖化から発酵、蒸留、熟成までスコットランドで行われたウィスキーのみがスコッチ・ウィスキーと呼ばれる。麦芽を乾燥させる際に燃焼させる泥炭(ピート)に由来する独特の煙のような香り(スモーキーフレーバーと呼ぶ)が特徴の1つだが、銘柄によってこの香りの強さはまちまちである。ウイスキーはイギリスにとって主要な輸出品目の1つであり、その輸出規模はおよそ200か国、日本円にして6000億円(注: 以下で取り上げられる値に関して。2009年のポンド―円為替相場は,1ポンド=約146円)。ウィスキーの全生産量のうち、およそ7割を占めているウィスキーである。 ==イギリスにおける法律上の定義== 2009年スコッチ・ウイスキー規則(The Scotch Whisky Regulations 2009)により次のように定義されている。 スコットランドにおいて製造されたウイスキーであって、 (a)スコットランドの蒸留所にて、水および発芽させた大麦(これに他の穀物の全粒のみ加えることができる。)から蒸留されたものであって、 (i)当該蒸留所にて処理されマッシュとされ、 (ii)当該蒸留所にて内生酵素のみによって発酵可能な基質に転換され、かつ、 (iii)当該蒸留所にて酵母の添加のみにより発酵されたものであり、(i)当該蒸留所にて処理されマッシュとされ、(ii)当該蒸留所にて内生酵素のみによって発酵可能な基質に転換され、かつ、(iii)当該蒸留所にて酵母の添加のみにより発酵されたものであり、(b)蒸留液がその製造において用いられた原料およびその製造の方法に由来する香りおよび味を有するよう、94.8パーセント未満の分量のアルコール強度に蒸留されており、(c)700リットル以下の容量のオーク樽においてのみ熟成されており、(d)スコットランドにおいてのみ熟成されており、(e)3年以上の期間において熟成されており、(f)物品税倉庫または許可された場所においてのみ熟成されており、(g)その製造および熟成において用いられた原料ならびにその製造および熟成の方法に由来する色、香りおよび味を保持しており、(h)一切の物質が添加されておらず、または (i)水 (ii)無味カラメル着色料、もしくは (iii)水および無味カラメル着色料 を除く一切の物質が添加されておらず、かつ、(i)水(ii)無味カラメル着色料、もしくは(iii)水および無味カラメル着色料を除く一切の物質が添加されておらず、かつ、(i)最低でも40%の分量のアルコール強度を有するもの ==スコッチ・ウイスキーの種類== スコッチ・ウイスキーはまず、モルトウイスキーとグレーンウイスキーに分かれる。両者の違いには以下のような点がある。 モルトウイスキーは「ラウドスピリッツ(主張する酒)」、「個性的で風味の豊かな」と評され、グレーンウイスキーは「サイレントスピリッツ(沈黙の酒)」、「風味に乏しく没個性的で、それを単体で飲むには不向き」と評される。両者を混ぜて作られるのがブレンデッドウイスキーで、「適度な力強さと穏やかさを兼備」していると評される。モルトウイスキー65%に対しグレーンウイスキー35%がブレンドの目安(クラシックブレンド)とされる。ウイスキーのブレンドはブレンダーと呼ばれる専門家が担当し、1つのブレンデッドウイスキーを作るために数十種類のモルトウイスキーと数種類のグレーンウイスキーが混合される。 モルトウイスキーは製造工程の違いにより、シングルカスク、シングルモルト、ブレンデッドモルト(ヴァッテッドモルト)に分類される。2009年スコッチ・ウイスキー規則により、ヴァッテッドモルトと表記することは禁止された。 シングルカスクは1つの樽で熟成されたモルトウイスキーのみを瓶詰めしたもの、シングルモルトは1つの蒸留所で作られたモルトウイスキーを瓶詰めしたもの、ブレンデッドモルトは複数の蒸留所で作られたモルトウイスキーを混合して瓶詰めしたものである。 ピュアモルトという言葉があるが、これはブレンデッドウイスキーとの違いを示すために「モルトウイスキーのみを瓶詰めした」という意味で用いられる。シングルモルトとヴァッテッドモルトに使われるが、土屋守によると「スコットランドの場合、ピュアモルトといえば、まず99%シングルモルトのことを指すと思っていい」。2009年スコッチ・ウイスキー規則により、スコッチ・ウイスキーのラベルにピュアモルトと表記することは禁止されている。 モルトウイスキーと同様、グレーンウイスキーにもシングルグレーンとヴァッテッドグレーンとがある。ただし個性の乏しいグレーンウイスキーについて製造した蒸留所の名前を強調したり混合することに意味はないと考えられており、流通量は非常に少ない。 なお、ブレンデッドおよびヴァッテッドの熟成年数の表示については、混合するウイスキーの中で最も熟成期間が短いものの年数を表示しなければならない。 ==歴史== ===起源=== ウイスキーの製法がスコットランドに伝わった時期は定かでないが、遅くとも12世紀から13世紀にかけてという見解が有力である。製法の要の一つである蒸留技術はアイルランドからキリスト教とともに伝来したとされ、パトリキウスによってもたらされたとする言い伝えもある。 スコットランドにおけるウイスキーに関する現存する最も古い記録は、1494年のスコットランド財務省の記録で、「修道士ジョン・コーに8ボルのモルトを与え、アクアヴィテ(aqua vitae)を造らしむ」という内容である。アクアヴィテはラテン語で「生命の水」という意味で、これをゲール語で表すと「ウシュクベーハ」(uisge beatha、ウシュクは水、ベーハは生命の意)となり、そこから「ウイスキー」という英語が生まれた。ウイスキーという単語に関する最古の記録は1736年にスコットランド人が書いた手紙で、1755年には英語辞典に登場した。当初スコッチ・ウイスキーは薬酒として修道院が独占的に製造していたが、16世紀に宗教改革が起こり修道院が解散したことで蒸留技術が農家など民間に広まり、余剰生産された大麦の換金および保存の手段として製造が盛んになった。この時期のスコッチ・ウイスキーには熟成の工程がなく、蒸留したばかりの無色透明の液体が飲まれていた。 ===密造時代=== 1644年、スコットランド王国においてウイスキーに対する課税が始まった。1707年、スコットランド王国がイングランド王国と合同し、スコットランドは新たに成立したグレートブリテン王国の一部となった。1725年にウイスキーに対する課税が大幅に強化され(一説には15倍になったともいわれ、目的は対仏戦争の戦費の捻出にあった)。取締りに当る収税官がイングランド人だったこともあって、スコットランド人の反イングランド感情を刺激した。生産者の多くはこれに対抗して密造を行うようになった。皮肉なことに品質は密造ウィスキーが正規業者の製品を凌駕した。密造はハイランド地方の山奥で盛んに行われた。ジャコバイトによる反乱が鎮圧された後はその残党が加わって規模が拡大し、1823年に酒税法が改正され税率が引き下げられるまで続いた。この改正を巡っては、当時のイギリス国王ジョージ4世が腕利きの密造業者ジョージ・スミス製造のウイスキー「ザ・グレンリベット」を愛飲したため、王が密造酒を好むことがあってはならないと判断した側近が密造の原因を断つべく税率の引き下げを決断したとも伝えられている。酒税法改正後、ジョージ・スミス経営のザ・グレンリベット蒸留所(1824年)を皮切りに次々と政府公認の蒸留所が誕生した。その数は1820年代だけでおよそ250に上り、一方密造の摘発件数は激減した。なお、ウイスキーの密造が本格化した1710年代頃から、税率が大幅に引き下げられる1820年代までの間に、スコットランドで消費されたウイスキーの半分以上が密造酒であったという説もある 。 製法の多くは、密造時代に確立された。たとえば密造酒である以上販売の時期を選ぶことができなかったため、生産者は機会が到来するまでウイスキーを樽に入れて保管することにした。その結果長期間樽の中に入れられたウイスキーが「琥珀色をした芳醇でまろやかな香味をもつ液体」へと変貌を遂げることが発見され、蒸留したウイスキーを樽の中で熟成させる工程が製造法に加わることとなった。また、大麦麦芽を乾燥させるための燃料には、他に選択がないという理由でピート(泥炭)が使われた。さらに小さな単式蒸留器(ポット・スチル)を用いて2回蒸留する製法も、この時代に考案された。 ===連続式蒸留機の発明とスコッチ・ウイスキーの多様化=== 1826年、スコットランド人のロバート・スタインが連続式蒸留機を発明。これを改良したアイルランド人のイーニアス・コフィーが1831年に特許を取得した。連続式蒸留機はコフィーの名をとってコフィー・スチル、あるいは特許を意味する英語パテントからパテント・スチルと呼ばれるようになった。それまで用いられていた単式蒸留器では蒸留が終わる度に発酵もろみを投入するのに対し、連続式蒸留機では連続的に蒸留を行うことができた。連続式蒸留機の登場でウイスキーの大量生産が可能となった。エジンバラやグラスゴーなどローランド地方の生産者は連続式蒸留機を積極的に活用し、さらに原料をトウモロコシなど、大麦麦芽より安価な穀物に切り替えた。こうしてグレーンウイスキーが誕生した。一方、ハイランド地方の生産者は連続式蒸留機を採用せず、従来通り大麦麦芽を原料とし、単式蒸留器を使って蒸留する製法を維持した。この製法によるスコッチ・ウイスキーをモルトウイスキーという。1853年、エジンバラの酒商アンドリュー・アッシャーが、熟成年が異なるウイスキーを混ぜ合わせることを考案。その後1860年に、それまで異なるウイスキーを混合させてはならないと定めていた法律が改正され、保税貯蔵庫内であれば混合が可能となったことで、モルトウイスキーとグレーンウイスキーを混合したブレンデッドウイスキーと呼ばれるスコッチウイスキーが誕生した。ブレンデッドウイスキーの考案以降、「スコッチの歴史はブレンデッドの歴史」と評される。 ===繁栄と停滞=== 1870年代から1880年代にかけ、ヨーロッパではフランスのブドウがフィロキセラと呼ばれる虫によって壊滅的な被害を受け、ブドウを原料とするワインとそれを蒸留して造られるブランデーの生産が不可能となった。これをきっかけにブレンデッドウイスキーはロンドンの上流・中産階級に飲まれるようになり、さらにイギリス帝国全域に普及していった。1877年にグレーンウイスキー業者6社が設立したDCL社(現・ディアジオ)はスコッチ・ウイスキーの輸出を推し進め、ワインとブランデーの流通が再開するまでの間に世界各地に市場を確立することに成功した。1890年代はスコッチ・ウイスキーの第1の繁栄期と評されるが、蒸留所の建設が相次ぎ生産過剰となったことで1898年にブレンド会社大手のパティソンズ社が倒産。その影響が業界全体に波及したことで繁栄期は終わりを迎えた。なお19世紀後半にはガラス製品の大量生産が可能になったことにより、ウイスキーを詰める容器としてガラス瓶が定着するようになった。 1905年にロンドンイズリントン地区の裁判所がグレーンウイスキーおよびそれを混ぜて作られたブレンデッドウイスキーはスコッチ・ウイスキーではないとする判断を下し生産者に衝撃を与えたが、1908年から1909年にかけて生産者の要求で開かれた王立委員会においてグレーンウイスキーおよびブレンデッドウイスキーもスコッチウイスキーであるという結論が出された。前述したスコッチウイスキー法におけるスコッチ・ウイスキーの定義は、この時の結論を引き継ぐ形で定められている。 ウイスキーを入れる容器の蓋には長らくコルク栓が用いられていたが、ワインと異なり瓶の中で熟成することがなく、また開栓後すぐに飲みきれるわけではないウイスキーには不向きであった。1913年、ウィリアム・ティーチャーズ社が木製頭部付きのコルク栓を、1926年にホワイトホース社が金属製のスクリューキャップ(英: Screw cap)を発明。この2つの発明により、ウイスキーの売り上げは飛躍的に伸びたといわれている。しかしながら同時期に2度の世界大戦と世界恐慌、さらにアメリカで施行された禁酒法により被った損害も大きく、多くの蒸留所が閉鎖を余儀なくされた。 ===第2の繁栄期=== 第二次世界大戦において、イギリスはウイスキーの輸出を積極的に推し進めた。その結果アメリカ兵がスコッチ・ウイスキーを愛飲するようになり、アメリカ経済が好況を迎えた1950年代から1960年代にかけて消費量が増大した。1980年代には消費量が低迷したものの、2000年代初頭においてはシングルモルトが好調である。 スコッチ・ウイスキーはイギリスにとって5大輸出品目の一つであり、その輸出規模はおよそ200か国、6000億円を数える(スコッチ・ウイスキーのうちイギリス国内で消費されるのは1割に満たない)。輸出されるスコッチ・ウイスキーの種類を見ると、1990年代前半には約95%をブレンデッドウイスキーが占めていたが、2000年代後半にはシングルモルトの占める割合が15%を超えるようになった。 2010年代に入ると、年代物のスコッチ・ウイスキーが高値で取引され始めた。2018年、香港で行われたオークションの例では、60年物のザ・マッカラン2本が200万ドル以上の価格で落札されている。 ==製造工程== ===モルトウイスキーの製造工程=== ====製麦==== 製麦またはモルティングとは、大麦を発芽させて麦芽を作ることをいう。エタノールは酵母と呼ばれる微生物の力を借りてデンプンから生成されるが、酵母はデンプンそのものを摂取することはできないため、デンプンをグルコースやマルトースといった糖に分解して摂取させる。大麦は発芽の際にデンプンを分解する酵素を生成する性質があり、これを利用して少しだけ大麦を発芽させてから進行を止め、十分な量のデンプンとデンプンを分解する酵素がともに麦芽中に存在する状態を作り出す。この状態の麦芽をグリーンモルトという。 大麦には穂の形状によって二条種、四条種、六条種などの種類があるが、モルトウイスキーの原料として使用されるのは粒が大きくデンプンを多く含む二条種である。大麦には種を蒔く時期によって春小麦(スプリングバーレー)と冬小麦(ウインターバーレー)とがあるが、春小麦を用いるのが一般的である。収穫後2か月間は発芽しないので、少なくともその間は保管する必要がある。水分が12%以下になるまで乾燥させると大麦を「眠り」につかせることができ、1年以上の間発芽を抑え品質を保持しつつ保管することが可能となる。 まず保管していた大麦種子に水を吸わせ、さらに空気に晒して呼吸を促す(浸麦)。そうすることで大麦種子を「眠り」から覚まし、発芽を促すことができる。水は種子の重さの約30%に相当する量を吸わせ、水分含有率を44%ほどに高める(収穫時の水分含有率は16%)。浸麦は浸麦槽(スティーブ)で行われ、数時間浸した後で水を抜き、7時間ないし8時間空気に晒すという作業を繰り返す(ドライ・アンド・ウェット)。 浸麦を終えた大麦種子はモルトハウスまたはモルトバーンと呼ばれる作業場のコンクリート製の床の上に広げられ、木製のシャベル(シール)を使って4時間ないし6時間おきに撹拌される。これにより均一に発芽が進行するようになる。芽の長さが種子の5/8ほどの長さになったら麦芽を乾燥させて発芽を止める。乾燥は水分が5%ほどになるまで続けられる。この時、温度が高すぎると麦芽に含まれる酵素の活性が失われてしまうため、温度を上げ過ぎずに、しかも素早く乾燥させる必要があり、そのためには送風速度をコントロールすることが重要とされる。乾燥のための燃料はガスや重油、炭が主で、ピート(泥炭)も用いられる。ピートを麦芽を乾燥させるための燃料として使用することで「スモーキーフレーバー」と呼ばれる煙臭が麦芽に染み込む。この煙臭は以降の製造工程でも失われることはなく、スコッチ・ウイスキーを特徴づける香りの一つとなる。スモーキーフレーバーの内容はピートが掘り出された場所や深さ、炭化の進み具合、ピートを焚く時間の長さなどによって異なる。 なお、かつては蒸留所が自ら製麦を行っていた(自家製麦、フロア・モルティング)が、ほとんどの蒸留所がモルトスターと呼ばれる専門業者に委託するようになった。各蒸留所はモルトスターに対し製法や配合の指示を行い、モルトスターはコンピューター管理された巨大な乾燥装置を使って麦芽を大量生産する。キルンと呼ばれる麦芽の乾燥を行うための塔は蒸留所を象徴する建物であるが、1990年代には実際に稼働するものはほとんどなくなった。 ===醸造=== 醸造工程では、仕込みと発酵を行う。仕込みの工程では麦芽から麦汁が作られ、発酵の工程では麦汁に酵母を加え発酵もろみを作り出す。 製麦の工程で乾燥させた麦芽はゴミや小石を除去した上で粉砕され(粉砕された麦芽をグリストという)、マッシュタンと呼ばれる容器の中で温水と混ぜられる。すると麦芽中のデンプンに分解酵素が作用し、デンプンが糖に分解されて温水中に溶け出す。この時、グリストを混ぜた後の温水の温度は分解酵素が最も活発に作用するとされる63℃ないし64℃に保たれる。このようにして得られる液体を麦汁、糖液またはワート(ウォート)といい、グリストと温水を混ぜて麦汁を抽出することを仕込み、糖化、またはマッシングという。仕込みは3回前後繰り返される。1回目と2回目の仕込みで得られる麦汁は発酵の工程にかけられ、3回目以降で得られる麦汁は次回の仕込み用の温水として再利用される。 仕込みには、蒸留所が独自に確保した水(仕込み水)が使われる。仕込み水は一般に硬水よりも軟水の方が適しているとされるが、中には硬水を用いて仕込みを行っている銘柄も存在し、例えばスコットランドで最も消費量の多いグレンモーレンジは硬水を使用している。仕込み水は仕込み以外にも浸麦や加水に使われる。グリストは粉砕後の粗さによって3段階に分類される(粗い順にハスク、グリッツ、フラワー)。このうちハスクはマッシュタンの底へ沈殿して濾過層となり、ウイスキーの濁りを取り除く役割を果たす。この濾過層の形成がうまくいかないと、ウイスキーの出来が落ちてしまう。ハスクを2割、グリッツを7割、フラワーを1割ほどに挽き分けるのが一般的で、各蒸留所はこれに微調整を加えてそれぞれの個性を出す。 麦芽の搾りかすをドラフといい、蛋白質などの栄養分が残されている。ドラフは家畜用の飼料に加工される。 前述のように、1、2回目の仕込みで得られた麦汁は発酵(ファーメンテーション)の工程にかけられる。発酵とは麦汁に酵母を加え、濃度7%前後のエタノールを含む発酵もろみ(ウォッシュ)を作り出すことをいう。ウイスキー製造に適した酵母は数百種あるといわれ、一度に200kg近い量が使用される。発酵の工程に要する時間は48時間ないし70時間で、時間が長いほど発酵もろみの酸味が強くなる。 糖化の工程で得られた麦汁は、まず熱交換機(ヒートエクスチェンジャー、ワーツクーラー)を用いて20℃ほどに冷却される。次にウォッシュバック(発酵槽)と呼ばれる容量9000リットルないし45000リットルの容器に移され、酵母が加えられる。酵母が活動するのは1日から2日ほどの間である。伝統的な酵母はエールビールの醸造に使用されるエール酵母(ブリュワーズイースト)であるが、21世紀初頭においてはウイスキーの醸造向けに開発された酵母(ウイスキー酵母、ディスティラーズ・イースト)の使用が盛んで、さらに乾燥イーストや液状イーストの使用も増えつつある。酵母はエタノール以外にも様々なアルコールや酢酸エステル、エチルエステルなどのエステル、さらにはグリセロールを生成する。エステルは香りに、グリセロールは味に影響を与える。 2種類の酵母を添加して発酵を行うことを混合発酵という。ウイスキー酵母とエール酵母を使って混合発酵を行った場合、香味について相乗効果が得られることが判明している。エール酵母は単独で添加した場合には発酵終了直後に死滅するが、ウイスキー酵母と混合して添加した場合生存期間が長くなり、そのことによって香味が良化する。 前述のように麦汁に加えた酵母が活動するのは1日から2日ほどの間であるが、酵母と入れ替わるように活動を開始するのが乳酸菌である。つまり発酵の工程においては前期は酵母が、後期は乳酸菌が活発に活動するのである。古賀邦正は「ウイスキー造りにおける発酵とは、酵母と乳酸菌という微生物コンビが、香味豊かな発酵もろみをつくりあげている世界なのだ」と評している。乳酸菌は乳酸、エステル、フェノールを生成する。発酵にかける時間が長いほど発酵もろみの酸味が増すのは、酵母による発酵が不可能な非発酵性糖をもとに乳酸菌が乳酸を生成するためである。ウォッシュバックは木(具体的には北米産や南米産、シベリア産のマツなど)製のものとステンレス製のものとに大別することができるが、木製のウォッシュバックでは乳酸菌が活動しやすい傾向にある(ただし木製のウォッシュバックには温度管理や清掃がしにくいという欠点もある)。木製からステンレス製への転換を図ったものの、風味に違いが出ることから断念したケースもある。 ===蒸留=== 蒸留(ディスティレーションで)の工程では単式蒸留器(ポット・スチル)と呼ばれる銅製の装置を用い、発酵の工程で作られた発酵もろみからエタノール濃度約70%の蒸留液(ニューポット、ニュースピリッツ、ブリティッシュ・ファインスピリッツ)を得る。蒸留は蒸留棟(スチルハウス)と呼ばれる施設で行われる。 蒸留の仕組みを簡単に説明すると、発酵もろみの主成分である水とエタノールとの沸点の違い(水は100℃、エタノールは78.3℃)を利用し、エタノールを優先的に蒸発させて再び液体に戻すことでエタノールの濃度を高めていくということになる。ただし前述のように発酵もろみの中にはエタノール以外のアルコールやエステルなど様々な成分も含まれている。これらについては、エタノールよりも揮発しやすい成分ほど蒸留が容易である。 単式蒸留器の加熱方法には、石炭やガスによる直火炊き、単式蒸留器内部のパイプに蒸気を通す方式(蒸気蒸留方式)、加熱を単式蒸留器の外で行った後で中へ戻す特殊な方式(エクスターナル・ヒーティング)がある。直火炊きには焦げ付きやすいという欠点があり、主流は蒸気蒸留方式へと移行している。しかし直火炊きにはキャラメルのような甘い香ばしさを生みだす利点もあり、直火炊きにこだわる蒸留所も存在する。 エタノール濃度を十分に高めるため、蒸留は2回行われることが多い。1回目の蒸留(初留)を行う蒸留器を初留釜またはウォッシュスチルといい、初留で得られる蒸留液をローワインという。2回目の蒸留(再留)を行う蒸留器を再留釜、ローワインスチル、またはスピリッツスチルという。スコットランドでは初留釜の一部が赤く、再留釜の一部が青く塗装される。再留釜は初留釜よりも小さい。 初留は5時間ないし8時間かけて行われ、体積が発酵もろみの約3分の1に減少し、エタノール濃度が約3倍の21%前後に上昇したローワインが得られる。初留の段階で発酵もろみに含まれるエタノールはほぼすべて気化する。再留でローワインを蒸留するとエタノール濃度はさらに約3倍に上昇し、およそ70%となる。発酵もろみからエタノールが気化した結果、初留釜に残された溶液をスペントウォッシュ、ポットエール、バーントエールといい、前述のドラフとともに家畜用の飼料となる。 再留は前留、本留、後留の3つの段階からなり、6時間ないし8時間をかけて行われる。その内訳は前留が10分ないし30分、本留が1時間ないし2時間で、後留の時間は全体から前留と本留を差し引いた時間である。前留で得られる蒸留液(フォアショッツ、ヘッド)は揮発性と刺激性が強いために、後留で得られる蒸留液(フェインツ、テール)は揮発性が低く味を落とす原因となる成分が多く含まれているためそれぞれ排除し、中留で得られる蒸留液(ミドル、ミドルカットハート)のみを採集するようにする。フォアショッツを排除することを前留カット、フェインツを排除することを後留カットという。前留カットおよび後留カットを行うタイミングは蒸留液の内容に影響を与えるため、その判断には熟練を要する。この作業を担当するのはスチルマンと呼ばれる職人で、温度計とアルコール比重計を操作することで作業を行う。温度計とアルコール比重計はスピリッツセーフと呼ばれるガラス箱上の装置の中にある。排除されたフォアショッツとフェインツは他のローワインと混ぜられ、次回の蒸留(再留)にかけられる。ミドルは次の工程である熟成に備え、フィリング・ステーションと呼ばれる、樽詰め作業が行われる施設へと運ばれる。この段階でミドルはニューポット、ニュースピリッツなどと呼ばれるようになる。 単式蒸留器は釜、冷却器、釜と冷却器をつなぐパイプ(ラインアーム、ラインパイプ)の3つのパーツからなる、特徴的な形状をした装置である。釜で加熱され気化された発酵もろみはパイプを通って冷却器に運ばれ、そこで冷却されて再び液体(蒸留液)となる。釜の上部には、「かぶと」と呼ばれる膨らみがある。単式蒸留器の容量が大きいほど、蒸留液の仕上がりは軽くなる。単式蒸留器の最小容量は400ガロン(2000リットル)と法定されている。 かぶとにはその形状(くびれ方)に応じて呼び名があり、ほとんどくびれのないものをストレートヘッド、くびれが1つのものをランタンヘッド、2つのものをボールヘッドという。かぶとの大きさや形状、パイプの長さや角度、釜の大きさや形状など、単式蒸留器の形状は様々で、その違いが生成される蒸留液の性質の違いをもたらす。釜で蒸発した成分が冷却器に運ばれる前にかぶとの壁に触れて液体となり、釜に戻ってしまうことがある(分縮)。分縮され釜に戻った成分は再び蒸留されることになり、その分濃度が高くなる。かぶとの表面積が大きいほど分縮の程度(分縮率)が上がり、すっきりと軽い味に仕上がることになる。 ラインアームの角度もウイスキーの仕上がりに影響する。角度が上向きの場合、気化したエタノールの一部が途中で液体に戻り逆流、結果角度が下向きで逆流がない場合と比べて軽めの仕上がりになる。 単式蒸留器の素材が銅であることは重要な意味を持っている。発酵もろみには硫黄成分を含み悪臭を放つチオール化合物が含まれているが、銅にはチオール化合物と反応する性質があるため、チオール化合物は蒸留の工程で蒸留液から排除される。また熱効率がよく触媒効果をもつことにより、香り成分の生成などウイスキーにとって有益な反応を促進する。 ===熟成=== 蒸留によって得られた無色透明の蒸留液(ニューポット、ニュースピリッツ、ブリティッシュ・ファインスピリッツ)は、フィリングステーションと呼ばれる施設で樽詰めされた上で、保税貯蔵庫(ウエアハウス)に貯蔵される。貯蔵中には時間の経過とともに、熟成(マチュレーション)と呼ばれる性質の変化が起こる。スコットランドでは3年以上の熟成期間が法定されている。ただし実際は10年ないし12年にわたって品質の向上は続き、法定期間よりも長く熟成されるのが一般的である。モルトウイスキーの場合、18年間ないし20年間の熟成させたものが最も味わい深いとされる。 まず、蒸留の工程で得たニューポットに加水し、エタノール濃度を63.5%程に下げる。約60%のエタノール濃度は、ウイスキーにとって重要な意味をもつ。なぜならば蒸留後に行われる熟成の過程においてエタノールは樽の木材に含まれる、ウイスキーの品質を基礎づける高分子成分を分解する(エタノリシス)が、このエタノリシスはエタノール濃度が約60%であるときにもっとも盛んになるからである。 ウイスキーの貯蔵に適しているのは、「あまり気温が高くなく、湿度の高い、清澄な環境」で、「めりはりの利いた四季の変化、適度な温度変化や湿度変化があることが望ましい」とされる。樽の中のウイスキーは湿度や温度の影響を受ける。例えば気温が上昇すると樽の中のウイスキーの容量が増加し樽内の気圧が上昇、その影響で揮発成分が樽の外へ蒸散する。逆に気温が低下すると樽の中のウイスキーの容量は減少し樽内の気圧が下降、樽の中へ外の空気が入り込む。 前者の現象は初夏から秋口にかけて、後者の現象は晩秋から初春にかけて起こる。このような気体の出入りは「ウイスキー樽は呼吸をしている」と表現される。樽に隙間が生じていたり木材の乾燥が足りないと、呼吸に過不足が生じることになる。 ウイスキー樽の「呼吸」により樽の外へ蒸散する揮発成分の量は、1年目は年2%ないし4%、2年目以降は年1%ないし3%にのぼる。この蒸散量を「天使の分けまえ(エンジェルズ・シェア)」という。蒸散する気体の中にはエタノールだけでなく、硫黄化合物などウイスキーの味を損なう成分も含まれており、古賀邦正によると「天使に『分けまえ』を差し上げる代わりに、暴れ馬のニューポットを品格あるウイスキーに育ててもらっている」。一方、樽の外から中へ入ってくる空気(正確には空気中の酸素)はウイスキー中に溶け、そこに含まれる成分を酸化させる。この酸化をきっかけとして、ウイスキーの熟成が始まる。酸素はウイスキーの色の変化にも関与しており、酸素が足りない環境で熟成されたウイスキーはどす黒く変色してしまう。水分も樽を出入りしており、出入りする水分と蒸散するエタノールの量のバランスによって熟成後のエタノール濃度は変動する。一般にスコッチ・ウイスキーが貯蔵・熟成される場所は湿度が高く、水分の蒸散が進みにくいため、貯蔵を続けるに従ってエタノール濃度が低下する傾向にある。なお、熟成を70年ないし80年続けると500リットルの樽の中身はすべて蒸発するとされる。マッカランの蒸留所で1926年に醸造を開始した500リットルの樽入りのウイスキーを1986年に瓶詰めしたところ、25リットル余りに減少していた。 樽を静置する方法には、静置した樽の上に敷いた板の上にさらに静置していくダンネージ方式と、貯蔵庫を予め複数段の床で仕切ってから静置するラック式とがあり、ダンネージ方式では3段ないし4段、ラック式では10段以上にわたって静置される。いずれの方式をとる場合でも、樽は横向きに倒して静置するのが基本である。縦向きに静置した場合樽の側板に負担がかかり、中身が漏れる状態が生み出されやすい。ウイスキーが入れられたパンチョンやシェリーバットの重さは600kgほどになるが、横向きにして転がすことで容易に移動・方向転換ができる。なお、貯蔵庫の中は低い位置は温度変化が少なく高湿度、高い位置は温度変化が激しく低湿度な傾向にあり、もとは同質のニューポットであっても樽を静置する高さによって仕上がりに差が生じるが、この仕上がりの違いは、段数が多く高低差の大きいラック式の貯蔵庫でとくに顕著にみられる。ちなみに伝統的な方法では、熟成開始後に樽を静置する場所が変えられることはない。 樽の中に入れられた無色透明のニューポットは貯蔵開始から半年ほどで淡い黄色に、2、3年で黄褐色になり、さらに「明るく輝くような琥珀色」となった後、赤味を帯びる。この色の変化は、樽に由来する(樽から溶け出した)成分の作用による。 熟成が進むにつれ、ニューポットが持っていたエタノールの刺激的な臭いは次第に消え、熟成香と呼ばれる臭いが出てくる。多くの場合、熟成による品質の向上は10年ないし12年ほど続き、それ以上向上が見込めないと判断されたウイスキーは熟成の工程を終える。「○年貯蔵」という表現は単にその期間貯蔵されたということを意味するのではなく、熟成による品質の向上がそれだけの間続いたということを意味する。 樽の材料としてはブナ科のコナラ属に分類される木(オーク)のうち、ホワイトオークとヨーロピアンオークが主に用いられ、ミズナラ(ジャパニーズオーク)にも注目が集まっている。ホワイトオークは、ウイスキーの色と香味成分の形成に寄与するポリフェノールを多く含み、ヨーロピアンオークのうちコモンオークはフルーティーな風味を形成するとされる。 ホワイトオークとヨーロピアンオーク、ミズナラに共通するのは、泡状の柔組織(チローズ)が道管の中に詰まっていることで、それにより密閉性が高くウイスキーを長期間熟成するのに適した樽を造ることができる。樽の密閉性を高めるには木材の切り出し方に工夫が必要で、柾目取りという方法がとられる。柾目取りを用いることで水分を通しやすい道管や放射組織が木材の表面に出ることを防ぐことができる。また、木材は乾燥すると収縮する性質があるため、樽に加工してから収縮し隙間を生じさせないよう、加工前に十分に乾燥させるようにする。さらに、乾燥による収縮度の違いから樽に歪みが生じないよう、乾燥が同程度に進んだ木材を使用するようにする。木材の乾燥は数年間の自然乾燥によって行われる。ウイスキーの熟成に用いられる樽は主に以下の5種類である。 樽の容量はウイスキーの出来を左右する。容量の小さい樽はウイスキーの単位容量あたりの表面積が大きく、したがってウイスキーと接触する機会が多くなり、その木香はウイスキーに対しより強い影響を与える。ただし木香の影響が強すぎるとウイスキーの出来はかえって落ちる(この現象は「樽に負ける」と表現される)。一方、樽が大きすぎると熟成に時間がかかり、熟成が十分に進む前にエタノールが蒸散して風味を損なう。スコットランドでは法律により、700リットルを超える容量の樽の使用は禁止されている。 木香を抑えたい場合にはニューポットを注入する前に樽の内側を焼き、木香を抑える作業(チャー、ファイアリング)を行う。チャーにはセルロース、ヘミセルロース、リグニンといった抽出成分(樽の木材からウイスキーに溶け出す成分)と香味成分を増加させる効果もある。もっとも、生産者の多くはチャーがさらなる効果をもたらすと体感しているが、その解明は十分ではなく、「大切なのはわかっているが、その理由はよくわからない」のが現状である。火を用いないチャーの手法(煮沸、遠赤外線照射など)も開発されている。 同じく木香を抑えるため、通常は新しい樽ではなく、バーボン・ウイスキーやシェリーの貯蔵に使用したことのある樽を用いる。モルトウイスキーの熟成に用いられるのは1度使用した一空き樽(ファーストフィル)と2度使用した二空き樽(セカンドフィル)である。一空き樽からは、かつて詰められていたバーボンやシェリーの風味の影響を受ける。三空き樽(サードフィル)はグレーンウイスキーの貯蔵に、四空き樽は長期の熟成に用いられる。四空き樽になると樽の木香が落ち始める。五空き樽に対しては木香を取り戻すため、2度目のチャーが行われる(リチャー、ジュヴナイル)。スコッチ・ウイスキーの貯蔵に複数回使用したことがある樽をプレーン樽、ウイスキー樽、リフィル樽という。1つの樽は一般に、約70年間にわたって6回ないし7回使用される。樽は釘を用いずに組み立てられ、熟成を行うたびに補修が施される。 役割を終えた樽の木材は、燻煙材(燻製を作る時に煙を発生させる燃料)やコースター、家具、スピーカー、建築物などの材料として再利用される。 ===熟成終了後=== 熟成を終えたウイスキーは加水、後熟(マリッジ)、低温濾過という過程を経て瓶詰めされ、出荷される。加水によりウイスキーのエタノール濃度は37%ないし43%に調整される。加水しない場合もあり、これをカスクストレングスという。 後熟はウイスキーを数か月ないし1年間貯蔵することをいう。後熟が行われる前に、異なる樽で熟成させたウイスキーは混合(ヴァッティング)されるが、混合を行わなかった場合シングルカスクとなる。ブレンデッドウイスキーの場合、モルトウイスキーとグレーンウイスキーをそれぞれ個別に混合させた上で両者を混合させ、樽に入れる。後熟により、エタノールの刺激的な味にまろみが出る。なお、科学的には水とエタノールの混合液はまたたく間に均一化・安定化すると考えられており、後熟に数か月ないし1年間をかけることは意味がないと考えられる。この、科学的に意味がないはずの工程の存在は「後熟にひそむ謎」と呼ばれている。 低温濾過(チルドフィルター)は、加水によりウイスキーのエタノール濃度が薄められることにより成分の一部が析出することを防ぐため、0℃近い状態で濾過を行い析出が予想される成分を除去する工程で、成分の析出によるウイスキーの濁りを指摘する消費者の声に応える形で行われている。ただしこの時濾過されるのはウイスキーの香味を構成する成分である。低温濾過を行わないスコッチ・ウイスキーもある。 瓶詰めは、蒸留所やその親会社により行われる場合と、それらと関係のない商人が行う場合とがある。前者による製品をオフィシャル、または蒸留所元詰めという。後者の商人のうち、独自の保税貯蔵庫や瓶詰め施設をもち、蒸留所から樽ごと買い付けたウイスキーを商品化するものを瓶詰め会社またはボトラーズ・カンパニーといい、ボトラーズ・カンパニーによる製品をボトラーズ・ブランドという。一方、独自の施設を持たず、熟成までの工程を蒸留所に、瓶詰めをボトラーズ・カンパニーに委託するものをインディペンデント・カンパニーといい、インディペンデント・カンパニーによる製品をインディペンデント・ブランドという。 ===グレーンウイスキーの製造工程=== ====概要==== グレーンウイスキーの製造工程は、多くがモルトウイスキーと同じであるが、主にモルトウイスキーと混ぜてブレンデッドウイスキーを作るために用いられることから、個性を抑えた仕上がりが目指される。 原料は、主原料のトウモロコシと副原料の大麦麦芽(大麦は六条大麦が用いられることが多い)を5:1の割合で配合したものである。これを粉砕して温水と混ぜ、高温のパイプの中に流し込む。この間に大麦麦芽に含まれるデンプン分解酵素の働きによりトウモロコシのデンプンが分解され、糖化液が生成される。この仕込み方を連続蒸煮といい、モルトウイスキーの仕込み方法と比べて原料の特徴が出にくい。モルトウイスキーの仕込み方法との違いは、より高温で連続的に、短い時間で行うことにある。発酵の工程で用いられる酵母には、モルトウイスキーの場合よりも発酵もろみに与える個性が弱い種類のものが選ばれる。蒸留は連続式蒸留機を用いて行われ、エタノール濃度約90%の蒸留液(スピリッツ)が得られる。スピリッツはエタノール濃度を約60%に調整された後で樽に入れられ、熟成される。なおグレーンウイスキーはモルトウイスキーよりも熟成が早く進む傾向にある。また熟成の間、樽は縦置きで静置されることもある(パラタイズ方式)。 ===連続式蒸留機=== 連続式蒸留機は、基本的に粗留塔(モロミ塔、アナライザー)と精留塔(レクティファイアー)の2つの塔からなる、高さ10数mの装置である。発酵の工程を終えた温度約20℃ほどの発酵もろみは、精留塔の中を通るパイプ(ウォッシュ・パイプ)の中を通り、粗留塔に至る。粗留塔の内部には数十段の棚があり、棚には無数の穴があいている。発酵もろみは棚を上から下へと落ちていくが、その際粗留塔の下部から立ち上る蒸気とぶつかる。すると発酵もろみのなかのエタノール分が蒸気に取り込まれ、蒸気パイプと呼ばれるパイプを通って精留塔へと運ばれていく。理屈としては棚の穴一つが単式蒸留器一つに相当する。蒸気パイプを通って精留塔に至ったエタノールを含む蒸気は、精留塔の中を下から上へ移動する途中でウォッシュ・パイプにぶつかるが、ウォッシュ・パイプの中は温度約20℃ほどの発酵もろみが移動中であるため徐々に冷却されていき液化する。この時、純度の高いエタノールは精留塔内の高い位置に至ってエタノールを回収するためのパイプに入り、一方純度の低いエタノールはパイプに届かずに精留塔底部で回収されて再び蒸留にかけられる。連続式蒸留機では発酵もろみと蒸気を供給し続ける限り永久に蒸留が行われる。 ==飲み方== スコッチ・ウイスキーに限らず、ウイスキーにはストレート(ニート)、オン・ザ・ロック、ハーフロック、ハイボール、水割り、カクテル、ミスト、ホットウイスキーなど様々な飲み方が存在する。 ストレートは「ウイスキー本来の風味を堪能できる」飲み方とされる。ストレートで飲む場合、チェイサーとして水などを用意し、ウイスキーと交互に飲むことが多い。 「香りの芸術品」と呼ばれるモルトウイスキーの場合、常温で飲むことが望ましく、氷を入れると香りが損なわれてしまう。水割りについては否定的な見解もあるが、土屋守によると「割ってもバランスの崩れないしっかりとしたモルトを選び、適度の水を加える」ことで風味を堪能しやすくなることもある。ただし水とモルトウイスキーの比率が重要で、1:1(エタノール濃度が20%ほどになる)以上に水の量を増やすと風味が損なわれてしまう。1:1で割ることをトワイスアップといい、ウイスキーの香りを堪能するのに最適な割合とされる。ただし水道水で割ると、そのカルキ臭などのせいで風味を損ねるため推奨されない。低温濾過を行っていないウイスキーに水を加えると成分が析出し、濁りが出ることがある。 モルトウイスキーを入れる容器は、多様な飲み方ができるチューリップ型のグラスが最適とされる。薄いグラスを用いると口当たりが柔らかくなりモルトウイスキー本来の風味を感じることができる。そのため風味を堪能したい場合、材質はガラスよりも薄いクリスタルが推奨され、さらに手から体温が伝わらないよう、ステム(脚)のあるグラスが望ましい。 スコッチ・ウイスキーは一般的に、カクテルの材料としては不向きとされる。原因の一つとして、果汁や甘いリキュールを加えることでピート香などの特徴が殺されてしまうことが挙げられる。 なお、スコッチ・ウイスキーは伝統的に食前酒・食後酒として飲まれてきたが、食中酒としても注目を集めるようになった。 ==スコッチ・ウイスキー蒸留所の地域別分布== ===モルトウイスキーの蒸留所=== スコットランド各地にはモルトウイスキーだけで100を超える蒸留所が存在する。伝統的には酒類生産免許に関する規制の違いに基づき、ハイランド、ローランド、キャンベルタウン、アイラの4地区に分類されるが、ハイランドからとくに蒸留所の数の多いスペイサイドと、オークニー諸島などの島嶼部(アイランド)を独立させ、6地区に分類する方法も採用されている。2009年スコッチ・ウイスキー規則は、スペイサイドをハイランドから独立させる形でハイランド、ローランド、スペイサイド、アイラ、キャンベルタウンの5つの地域を伝統的な生産地域に定め、その保護を謳っている。 ===ハイランド (Highland)=== ダンディー ‐ グリーノック間の想定線以北をハイランド地方といい、およそ40の蒸留所が存在する。土屋守によると製造されるウイスキーは様々で共通する特徴を見いだすのは難しい。吉村宗之によるとピートがして飲みごたえのあるものが多く、北部ほどその傾向が強い。一般にハイランドは東西南北の4地区に分類される。 ===スペイサイド (Speyside)=== ハイランド地方東部のスペイ川およびデブロン川、ロッシー川の流域をスペイサイドといい、スコットランド全土の約半数、およそ50の蒸留所が存在する。大麦の収穫量が多くピートが豊富な地域で、密造時代にはおよそ1000の密造所が存在した。土屋守は、「スペイサイドモルトは、全モルト中で最も華やかでバランスに優れた銘酒揃い」と評している。スペイモルトは全体的に華やかな甘みを有する。 ===ローランド (Lowland)=== ダンディー ‐ グリーノック間の想定線以南をローランド地方という。かつては多くのモルトウイスキー蒸留所があったが衰退し、1995年の時点で操業しているのは3箇所である。ちなみにグレーンウイスキーの生産やブレンド、麦芽製造については今なおローランドで最も盛んに行われている。他の地区の2回蒸留に対し3回蒸留を伝統としていたが、2008年3月の時点で3回蒸溜を行っているのはオーヘントッシャンのみ。穏やかな風味のウイスキーが多い。 ===アイラ (Islay)=== ヘブリディーズ諸島の最南端に位置するアイラ島には8つの蒸留所がある。蒸留所は海辺に建てられており、その影響からアイラ・モルトはヨード臭がし、さらにピート由来のスモーキーさを持つ。アイラ島は気候が温暖で大麦の栽培に適し、ピートが豊富で良質の水が手に入ることから、伝統的にウイスキー造りの盛んな地域である。 ===キャンベルタウン (Campbeltown)=== キャンベルタウンは、キンタイア半島先端にある町である。かつては30を超える蒸留所が存在し、モルトウイスキー造りの中心地であったが衰退し、2008年3月の時点で3箇所のみとなっている。禁酒法時代のアメリカに向け粗製濫造のウイスキーを密輸したため、禁酒法が解除になった際に見向きもされなくなったのが大きな原因とされている。キャンベルタウンモルトの特徴としては「香り豊かで、オイリー、塩っぽい風味を持つこと」が挙げられる。 ===アイランズ (Islands)=== アイランズとは、オークニー諸島、スカイ島、マル島、ジュラ島、アラン島にある6つの蒸留所をいう。これは蒸留所が島にあるという地理的な分類であって、アイランズ・モルトに共通する特徴は見られない。2009年スコッチ・ウイスキー規則では独立させずにハイランドに含まれている。 ===グレーンウイスキーの蒸留所=== グレーンウイスキーの生産はローランド地方で最も盛んに行われている。歴史上初めてグレーンウイスキーを製造したのはキャメロンブリッジ蒸留所 (Cameronbridge) である。 ==スコッチ・ウイスキーの銘柄== ==瓶詰業者== ===ゴードン&マクファイル社(G&M社)=== 1895年創業。エルギンに本社を持つ。ボトラーズ・カンパニーの先駆的存在で、蒸留所からニューポットを購入して自前のシェリー樽で熟成し、瓶詰販売する。加水の際に軟水を使用することで知られ、同社の製品は総じて柔らかい風味に仕上がる。17000に及ぶ樽を保有。稀少品ブランドとして、古地図のラベルデザインで統一された「コニサーズ・チョイス」シリーズがある。 ===ウイリアム・ケイデンヘッド社=== 1842年、エジンバラで創業。キャンベルタウンに本社をもつ。カスクストレングスを広めたことで知られ、加水のほか低温濾過や樽同士のヴァッティング、着色を行わない。キャンベルタウンのスプリングバンク蒸留所と同資本。ゴードン&マクファイル社と並ぶ最大手。 ===シグナトリー・ビンテージ・スコッチ・ウイスキー社=== 1988年、リースで創業。80あまりの蒸留所のウイスキーを取り扱い、瓶詰めと保管を自社で行う。ラベルには樽の番号、ボトル番号が記載されている。保有する樽はおよそ11000。モルトはすべてシングル・カスク。 ===サマローリ社=== 1968年創業。本拠地はイタリアのブレシア。創業者のシルヴァーノ・S・サマローリは自ら仕入れ前と瓶詰め前の2度にわたって試飲を行い、その際の評価をラベルに記載することで商品の風味を顧客に知らせる。瓶詰め前の試飲でサマローリの舌に適わなかったウイスキーはすべて他社に売却される。濾過を常温で行う、加水に時間を掛け、瓶詰め後にエタノールと水をなじませるための期間を設けるなど、独自の工夫を行っている。 ===ムーン・インポート社=== 1980年、イタリアのジェノヴァで創業。イタリアにおける3大インディペンデント・カンパニーのひとつ。サマローリ社と同様、経営者自らテイスティングを行い、舌にかなうウイスキーのみを瓶詰めする。ラベルのデザインにコンピュータグラフィックスを用いることで知られる。 ===キングズバリー社=== ロンドンに本拠がある。旧社名はイーグルサム社。ニューポットを樽ごと購入し、シェリー樽に詰めて自前の貯蔵庫で熟成させる。ラベルには蒸留年月日、瓶詰年月日、産地、樽の種類などのデータと、鑑定家による評価が記載されている。 ===ウィルソン&モルガン社=== 1992年、エジンバラで創業。コストパフォーマンスのよさで注目を集める。 ===ダンカンテイラー社=== 本拠地はハントリー。アメリカ人アベ・ロッセンベルグが1960年代以降スコッチウイスキーを購入し、ボトリングしている。低温濾過や加水は行わない。 =天皇賞= 天皇賞(てんのうしょう)は、日本中央競馬会 (JRA) が春・秋に年2回施行する中央競馬の重賞競走 (GI) である。第1回とされる「帝室御賞典」は1937年(昭和12年)に行われているが、JRAが前身としている「The Emperor’s Cup(エンペラーズカップ)」まで遡ると1905年(明治38年)に起源をもち、日本で施行される競馬の競走では最高の格付けとなるGIの中でも、長い歴史と伝統を持つ競走である。現在は賞金のほか、優勝賞品として皇室から楯が下賜されており、天皇賞を「盾」と通称することもある。 春は京都競馬場で「天皇賞(春)」、秋は東京競馬場で「天皇賞(秋)」の表記で施行されている。記事内ではそれぞれ「天皇賞(春)」または「春の競走」、「天皇賞(秋)」または「秋の競走」と表記する。 ==歴史== 天皇賞のルーツをたどると、1905年(明治38年)5月6日に横浜競馬場で創設されたThe Emperor’s Cup(エンペラーズカップ)や、明治初期のMikado’s Vaseにまで遡ることができる。これらの競走が誕生した背景には、当時の日本が直面していた外交問題が強く影響している(後述)。エンペラーズカップはのちに「帝室御賞典」の名称で定着し、明治末期から1937年(昭和12年)まで日本各地で年に10回行われていた。 一方、施行距離や競走条件は1911年(明治44年)から1937年(昭和12年)まで行われていた「優勝内国産馬連合競走」を概ね継承している。この競走は年2回、3200メートルの距離で行われ、各馬等しい条件で日本のチャンピオンを決め、日本一の賞金を与える競走だった。 これらを統合して始まったのが1937年(昭和12年)秋の帝室御賞典で、日本中央競馬会 (JRA) ではこれを天皇賞の第1回としている。「帝室御賞典」は戦局悪化のため1944年(昭和19年)秋に中止され、終戦後の1947年(昭和22年)春に「平和賞」の名称で再開、同年秋から「天皇賞」と改称され現在に至っている。 1937年(昭和12年)以来「古馬の最高峰」として位置づけられた天皇賞は長らく番組体系の中心に据えられ、旧八大競走にも含まれるなど、その地位を保ち続けた。1着賞金も東京優駿(日本ダービー)などとともに国内最高クラスの競走だった。後に有馬記念やジャパンカップが創設され、やがて国内最高賞金はジャパンカップが上回るものの、2017年(平成29年)現在も天皇賞は、ジャパンカップ、東京優駿(日本ダービー)、有馬記念に次ぐ高額賞金競走である。 1980年代以降に進められた様々な制度改革、賞金や競走条件の変遷を経てもなお、天皇賞は日本国内で現存する競馬の競走として最も長い歴史と伝統を持ち、重要な競走の一つに位置づけられている。 ===用語の解説=== 競走条件 ‐ 当該競走に出走できる馬の条件(クラス分けなど)を定めたもの。馬齢・負担重量・施行コース・距離も含まれる場合がある(現在の競走条件は後述)。馬齢 ‐ 馬の年齢。実際の誕生日に関わらず、1月1日になると一律に1歳加算される。日本では2001年(平成13年)から国際基準に合わせた現行表記が採用され、満年齢(生まれたばかりの馬は0歳)で表記。2000年(平成12年)までは数え年(生まれたばかりの馬は1歳)で表記していた。記事内の本文では年代にあわせて旧表記と現行表記を使い分けているが、「歴代優勝馬」一覧表ではすべて現行表記に揃えている。負担重量(斤量) ‐ 出走馬が背負う重量のこと。騎手の体重のほか鞍などの馬具も含まれ、出走する各馬ごとに所定の条件のもと定められる。初期の競馬では「斤 (0.6kg)」を重さの単位としていたことから、「斤量(きんりょう)」とも呼ばれる。古馬 ‐ 4歳(旧馬齢表記では5歳)以上の馬をさす。一般的に中央競馬の競走馬は2歳の夏から順次デビューし、同世代の馬と競いあいながら翌年(3歳時)の東京優駿(日本ダービー)をまず大目標とする。次の2歳馬がデビューする時期になると、3歳馬も年上の古馬と一緒にレースをするようになる。番組(競馬番組) ‐ 日本の競馬は当該競馬場における1開催(現在の中央競馬は原則として4日 ‐ 12日)をひとつの単位としており、施行する競走は開催ごとに定められている。同一開催で組まれる競走の割り当てを「競馬番組(または単に番組)」と呼んでいる。 ===起源=== 王政復古後、明治新政府が直面した重要な外交問題の一つは、欧米を中心とする諸外国との間に結ばれた不平等条約の改正であった。条約改正交渉を円滑に進めたい明治政府は、鹿鳴館に象徴されるように、西洋文化を積極的に採用した。競馬もそのうちの一つで、政府や明治天皇は明治初期から西洋式の競馬を行うなど、競馬場は重要な外交の舞台だった。中でも横浜競馬場は幕末以来、外国人が設立・運営しており、競馬会の会頭も歴代のイギリス公使が務めていた。明治天皇は条約改正を実現するため、日本の外交官や外務担当の政治家を伴い、頻繁に横浜競馬場へ赴いていた。 イギリスでは清教徒革命後の王政復古に際して、国王自ら競馬場に大競走(King’s Plate、女王時代はQueen’s Plate)を創設し、豪華な賞品を下賜した故事があり、これはイギリス王室の伝統の一つだった。明治天皇はこの故事に倣い、横浜競馬場へ豪華な賞品(花器)を下賜した。これが1880年(明治13年)創設のMikado’s Vaseである。 明治30年代になると、イギリスとの条約改正を皮切りに、不平等条約の改正が実現した。イギリスとの間には日英同盟も締結され、日露戦争の後ろ盾となった。その日露戦争で日本の軍馬の質や数が大幅に劣っていることが露呈すると、軍部は日英同盟を頼って優秀な軍馬の大量輸入を依頼した。これに応えたイギリスは、イギリス連邦で日本に近く、かつ馬産地だったオーストラリアから3700頭あまりの馬(豪サラと呼ばれる)を日本へ緊急輸出した。 こうした一連のイギリスとの外交交渉で大きな役割を担ったのが、イギリス公使のクロード・マクドナルドである。マクドナルドは当初公使だったが、1905年(明治38年)に全権大使へ昇任した。マクドナルドと個人的な信頼関係を結んでいた明治天皇は昇任にあたり、マクドナルドへ「菊花御紋付銀製花盛器」を贈呈した。当時、マクドナルドは横浜競馬場の会頭も兼任しており、明治天皇から贈られた盃(当時は『尊重の重宝』と和訳している)を賞品として、1905年(明治38年)5月6日に「The Emperor’s Cup(エンペラーズカップ)」を創設した。以来、横浜競馬場では毎年この競走に際して明治天皇から賞品が下賜されるようになった。これがのちに日本語で「帝室御賞典」などと訳されるようになり、JRAでは「天皇賞の前身」としている。 横浜競馬場は外国人が運営し、書類や記録もすべて英語表記だったため、“The Emperor’s Cup”はときの担当者によって様々に和訳されていた。1905年(明治38年)には“皇帝陛下御賞盃”、1906年(明治39年)には“宮中御賞盃”と訳され、1907年(明治40年)からは新聞報道でも使われた“帝室御賞典”の訳で統一されるようになった(後述)。 ===帝室御賞典の拡大と統一=== 明治天皇は1899年(明治32年)まで盛んに競馬場へ巡幸したが、同年に不平等条約改正が実現すると、以後は一切競馬場へ赴かなくなり、代わりに皇族や親王を名代として派遣するに留まっていた。これ以来、天皇自身による競馬観戦(いわゆる天覧競馬)は2005年(平成17年)の第132回天皇賞(秋)まで106年間行われなかった(後述)。 1906年(明治39年)に日本人による本格的な競馬倶楽部として東京競馬会が創設された際、責任者だった子爵の加納久宜は明治天皇の臨席と賞品の下賜を打診した。しかし開催10日前になって、賞品の下賜は許されたものの、明治天皇の巡幸は却下された。このとき行われた「皇室賞典」競走が当時の新聞によって「帝室御賞典」と報じられ、以後はこの名称で定着した。 明治天皇から賞品を下賜されて行う帝室御賞典は、すぐに全国の競馬倶楽部へ広まった。横浜・東京に続いて阪神へも年2回の下賜が認められ、馬産地の福島・札幌・函館・小倉へも年1回の下賜が認められた。 全国各地で年に10回行われるようになった「帝室御賞典」は各競馬倶楽部が独自の競走条件で施行していたため、施行距離も斤量(負担重量)などの条件もまちまちで、競走名と天皇から御賞典が下賜される点以外に統一性はなかった。 一方、1911年(明治44年)に日本一の競走馬を決定する競走として、「優勝内国産馬連合競走(通称:連合二哩)」が帝室御賞典とは別に創設された。賞金は1着3000円、2着でも1500円で、当時日本国内の最高賞金レースだった(当時、帝室御賞典の1着馬には賞品が授与されるだけで、賞金はなかった)。距離は2マイル(約3200メートル)、条件は馬齢重量で、出走できるのは各地の競馬倶楽部で行われた優勝戦の上位馬に限られていた。優勝内国産馬連合競走は当初年1回の施行だったが、後に年2回施行になった。 昭和に入り戦時体制化が進むと、各地の競馬倶楽部は1936年(昭和11年)に発足した日本競馬会に統合され、一本化されることになった。日本競馬会は1937年(昭和12年)に各地の競馬倶楽部を統合し、年10回施行していた帝室御賞典は春に阪神競馬場(旧鳴尾競馬場)、秋に東京競馬場で年2回施行することとなった。年2回施行に改められてから初の競走は1937年(昭和12年)秋に東京で行われた帝室御賞典で、JRAではこれを天皇賞の第1回としている。競走の名称は「帝室御賞典」が採用され、競走の中身は「優勝内国産馬連合競走」が継承された。つまり、天皇(皇室)から御賞典が下賜される点は「帝室御賞典」を受け継いでいて、距離や競走条件などは「優勝内国産馬連合競走」から継承している。これが、現在の天皇賞である。また、帝室御賞典は古馬にとって最高峰の競走として位置づけられ、東京優駿(日本ダービー)など4歳馬の競走とは明確に線引きされた。 こうして「統一」された新しい帝室御賞典は、競走馬として日本一を決めるだけでなく、将来の種牡馬を選別するための最高の能力検査でもあった。また、天皇を頂点とした旧帝国憲法下の日本において、天皇からの賞典を受けることは平民(馬主)や農民(畜産家)にとっても生涯の名誉となった。 ===戦争の影響と天皇賞のはじまり=== 日中戦争から太平洋戦争にいたる戦時中も、帝室御賞典は下賜賞品を木製楯に代えながら続けられた(後述)。だが、やがて戦局が悪化すると馬主にも多くの戦死者がでるようになり、競走馬の所有権問題が浮上した。日本競馬会は全競走馬を買い上げることでこの問題を解決したが、全競走馬を買い上げたため「賞金や賞品を争う」という競馬の性格を維持できなくなった。さらに、1944年(昭和19年)春には軍部の命令により馬券(勝馬投票券)の発売を伴う競馬が禁止されたため、日本競馬会は農商省賞典四歳(現: 皐月賞)や東京優駿(日本ダービー)などの主要な大レースに限って、「能力検定競走」として競馬を行った。帝室御賞典も1944年(昭和19年)春は施行場を京都競馬場に移し、皇室からの賞品下賜も辞退したうえで「能力検定競走」として非公開で行われたが、同年秋は中止され、帝室御賞典は中断することとなった。その後、1945年(昭和20年)には戦争の激化により、能力検定競走も行われなくなった。 終戦後、競馬は1946年(昭和21年)秋に再開された。帝室御賞典は1947年(昭和22年)春からの再開を決め、日本競馬会は皇室へ賞品の下賜を打診した。しかし、この時点では連合国軍総司令部 (GHQ) による皇室への処分等が確定していなかったため、下賜は時期尚早として見送られた。既に御賞典競走を開催する前提で番組編成をしていた日本競馬会は急遽、競走名を「平和賞」に変更して施行した。 1947年(昭和22年)秋に予定していた「第2回平和賞」の前日に皇室から賞品(楯)の下賜が再開されることが決定し、名称を「天皇賞」に改めて施行された。「天皇賞」の名称で行われるのはこれが初めてとなるが、公式な施行回数は1937年(昭和12年)秋の帝室御賞典に遡り、「第16回天皇賞」とされた。その後、天皇賞の施行主体も日本競馬会から国営競馬(農林省競馬部)を経て、1954年(昭和29年)より日本中央競馬会が引き継いだ。 現在は1944年(昭和19年)春の帝室御賞典(能力検定競走)と1947年(昭和22年)の平和賞も公式な施行回数に含まれており、能力検定競走は「第14回天皇賞」、平和賞は「第15回天皇賞」と同義に扱われている。その一方で、これらの競走では皇室から賞品が下賜されていないため、天皇賞の施行回数から除外する考え方もある。1968年(昭和43年)に日本中央競馬会が編纂した史料では、能力検定競走や平和賞を回数に数えない考え方が示されている。 ===国内古馬戦の最高峰=== 再編され年2回施行となった帝室御賞典の時代から、天皇賞は古馬にとって最高峰の競走と位置づけられていた。当時の競走体系では、勝てば勝つほどより重い斤量を負担することになっていて、定量で出走できる天皇賞を勝つと、以後は出走すれば概ね負担重量が60kg後半から70kg後半にまで跳ね上がった(現在中央競馬の平地競走では、60kg以上の負担重量で出走する例が極めて少なくなっている)。よって、馬にかかる負担を考慮すれば出走可能な競走は大きく限定されることになった。また帝室御賞典・天皇賞には1980年(昭和55年)まで「勝ち抜き制」があり、一度天皇賞(帝室御賞典)を勝った馬は、以降の天皇賞(帝室御賞典)に出走することができなかった。これは当時、天皇賞(帝室御賞典)を勝った馬が再度出走して敗れるようなことがあれば、優勝馬の威厳を下げてしまうとされた考え方に基いており、天皇賞(帝室御賞典)を勝つほどの優れた競走馬は、優勝馬としての威厳を保ちつつ早く種牡馬になって競走馬の改良に貢献することが求められていた。 多くの古馬にとって、天皇賞優勝は最大の目標であると同時に、一度優勝するとその後の目標となるレースがほとんどなくなる。そのうえ、斤量も更に増えることから、優勝後に引退する馬は少なくなかった。1937年(昭和12年、第1回)から1955年(昭和30年、第32回)までの優勝馬のうち5頭が優勝と同時に、10頭が優勝したシーズン限りで引退している。このほか、3頭が優勝後に地方競馬へ転出した。 ===新たな目標を求めて=== 1956年(昭和31年)、年末の中山競馬場で中山グランプリ(現: 有馬記念)が創設された。これは4歳馬も古馬も分け隔てなく、その年の一流馬を集めて行う競走となった。 天皇賞を勝った古馬の一流馬にとって、有馬記念は新たな目標となった。有馬記念創設から2013年(平成25年)までの天皇賞優勝馬で、天皇賞優勝を最後に引退した馬は5頭しかいない。 一方、天皇賞を優勝して国内の最高峰に立った馬の一部は、新たな目標を求めて海外へ遠征するようになった。1952年(昭和27年)にアメリカで創設された「ワシントンDC国際」がその代表格である。この競走は招待制で、日本からは天皇賞の優勝馬が招待を受けるようになった。ワシントンDC国際は11月に行われ、当時は11月下旬に行われていた天皇賞(秋)と同時期になる。当時、一度天皇賞を勝った馬は再出走が認められていなかった(勝ち抜き制)ため、秋にワシントンDC国際に挑み、12月に帰国して有馬記念へ出走する馬も現れた。 有馬記念創設以降、1981年(昭和56年)までの25年間で、天皇賞に勝った後海外遠征を行った馬は7頭いる。そのうち5頭は秋にワシントンDC国際へ、1頭は同時期のヨーロッパで凱旋門賞に挑んだ。しかしこれらの中から目標を達することができた馬はおらず、逆に欧米との力量差を突きつけられる結果になった。 ===ジャパンカップの創設=== 天皇賞を勝つほどの一流馬が、日本以外の国で全く勝てないという事実は、日本国内に2つの相反する考え方をもたらした。1つは強力な外国の競走馬が日本へ入ってくることで国内の馬産が衰退するという脅威論、もう1つはより強い外国馬との対戦によって日本馬のレベルアップを図ろうとする門戸開放論だった。 1970年代後半より「世界に通用する強い馬作り」が提唱され、実現したのが1981年(昭和56年)に創設されたジャパンカップである。ジャパンカップは外国から競走馬を招待し、日本の一流馬と対戦させることで、日本競馬に活力を与えようという意図で企画された。 帝室御賞典が1937年(昭和12年)秋から年2回施行とされて以来、伝統的に11月下旬の施行が定着していた天皇賞(秋)は、ジャパンカップに時期を譲り10月に前倒しされた。「ワシントンDC国際」に出走した外国馬がジャパンカップへ転戦しやすいように配慮した結果である。ジャパンカップは新設競走にして賞金額が東京優駿(日本ダービー)や天皇賞、有馬記念と並ぶ高額に設定され、これは古馬の競走体系が根幹から変わることを意味した。第1回ジャパンカップでは、直前の天皇賞(秋)をレコード勝ちした馬など当時の中央競馬を代表する陣容で臨んだ日本勢が外国勢の前に総崩れとなり、日本の競馬界に衝撃を与える結果となった。また、ジャパンカップの商業的な成功は日本のみならず、アジアの競馬にも変革をもたらすきっかけとなった。 ===国際化と天皇賞(秋)の距離短縮=== ジャパンカップの創設以前より、世界の各国からは外国籍の馬主が日本のレースに所有馬を出走させられなかったり、外国馬に対する出走制限を設けていたことなど、日本の競馬界に対する閉鎖性が指摘されるようになっていた。これらの指摘をうけ、日本中央競馬会はジャパンカップの創設以来「競馬の国際化」を視野に入れた多角的な活動を展開するようになった。「国際化」とは、単に外国の競走馬を呼び寄せるだけでなく、制度面を含めた「国際標準」への適合をも意味していた。 日本の競馬を「国際標準」へ適合させるため、日本中央競馬会は様々な施策を打ち出した。1984年(昭和59年)に導入された「グレード制」もそのひとつである。天皇賞も春・秋ともにGIとして格付けされたが、当初のグレード制は興行に主眼を置いた中央競馬独自の格付けに過ぎず、1970年代に欧米でつくられた「グレード制・グループ制」とはまったく互換性のないものだった。その後様々な開放策を実施した結果、2005年(平成17年)には天皇賞が春・秋ともに国際競走となり、外国調教馬の出走が可能になった。さらに、2007年(平成19年)からは格付けの互換性も認められるようになった。 そんな中、1983年(昭和58年)11月に日本中央競馬会は昭和59年度の競馬番組について、グレード制の導入(前述)などの大幅改革を発表。この中に、天皇賞(秋)の施行距離を芝2000メートルに短縮することが盛り込まれていた。レースの性格を大きく変えることになるこの変更に対し、伝統的な3200メートルの距離を尊重する意見や東京競馬場(芝2000メートル)のコース形態に対する問題点を指摘する意見、また第1回ジャパンカップで日本勢が外国勢に大敗したことを踏まえ、スタミナよりもスピードの強化を重視する意見など賛否両論があったが、1984年(昭和59年)より天皇賞(秋)は施行距離が2000メートルに短縮された。以来、天皇賞(秋)は中央競馬の「中距離ナンバー1決定戦」の性格をもつようになった。 競走の規則も見直しが図られた。1950年代に欧米で定着した降着制度は1991年(平成3年)から中央競馬でも導入されたが、この年の天皇賞(秋)で1位入線馬が18着に降着となった。これは日本での重賞1位入線馬の降着例として史上初だっただけでなく、当該馬が圧倒的な単勝1番人気に推されていたことも相まって大きな話題になった。 帝室御賞典時代からの制度では、1度優勝した馬に再出走を認めない勝ち抜き制が1981年(昭和56年)から廃止され、過去の優勝馬も再出走が可能になったほか、種牡馬・繁殖馬選定の観点から長年認められていなかった去勢馬(せん馬)の出走も2008年(平成20年)以降可能になった。また、1971年(昭和46年)から認められていなかった外国産馬の出走も2000年(平成12年)より可能になった。 1937年(昭和12年)秋の帝室御賞典(第1回)以来「古馬の最高峰」として位置づけられてきた天皇賞だったが、1987年(昭和62年)より天皇賞(秋)は4歳馬も出走が可能になった。また1980年代以降、短距離路線・ダート路線・牝馬路線の拡充が図られたことに加え、海外遠征も容易になった。これにより様々なタイプの競走を選択できるようになり、天皇賞は「数ある頂点の一つ」という位置づけになっている。とはいえ、国内のGI競走では2014年(平成26年)現在もジャパンカップ、東京優駿(日本ダービー)、有馬記念に次ぐ高額の1着賞金が設定されている(後述)。 国内最高クラスの賞金、皇室から下賜された天皇楯の権威、長い歴史と伝統などに裏打ちされ、今も天皇賞は「古馬最高の栄誉」とされている。 【目次へ移動する】 ==御賞典と天皇楯== 前述のとおり、天皇賞のルーツとなるMikado’s VaseやThe Emperor’s Cupなどでは、明治天皇から賞品が下賜されていた。これらは通常、貴金属としても美術品・工芸品としても価値が高いものであると同時に、「天皇から下賜された」という事実は金銭では贖えない栄誉を担うものだった。 ===明治天皇と御賞典(賞品)=== 明治天皇は日本各地へ巡幸して、その先々で競馬を台覧し、優勝騎手や馬主らに賞金や賞品を下賜した。下賜された品々は、樽酒や黄八丈、白絽の反物、白羽二重、美術品、工芸品などである。 横浜競馬は多くの賞金や賞品を外部のパトロンやスポンサーから得ており、とりわけ皇室や皇族はその代表格だった。例えばロシア皇太子の名を冠した“Cesarewitch Gift”という競走の賞品を実際に提供していたのは日本の皇室だった。横浜競馬場で明治天皇が下賜したものは記録に残っているもので、「銅製花瓶」一対、「経一尺龍浮彫七宝入銀製花瓶」などがある。1900年(明治33年)にはロシア全権公使ローゼン男爵がMirror号の優勝により「銀製花鳥七宝菓子敷」を授与されている。ほかにも上野へ「金象眼銅製馬」を下賜した記録がある。なお、皇室以外からでも、横浜競馬の神奈川賞杯競走で神奈川県令が「青銅製酒杯」を賞賜している。 天皇賞のルーツとされるThe Emperor’s Cupの創設にあたって、明治天皇が下賜した御賞典を受け取った日本レース倶楽部では“尊重の重宝”と邦訳した。一方、1906年(明治39年)秋に池上競馬場で行われた皇室賞典では「銀製花盛鉢」が下賜された。これは直径が約30センチ(1尺)、深さが約15センチ(5寸)の大銀鉢で、三本の脚がつき、菊花の文様が高彫されていたと伝わる。以後も菊花御紋付銀製花盛器(銀製鉢や洋杯)が下賜された。御賞典は拝領する側にも相応のマナーが必要とされ、馬主や関係者は拝領式の際、正装(モーニングか国民服、軍服でも可)で臨むこととされていた。 ===天皇楯=== 楯(プレート)の下賜もまた、イギリス王室の伝統となっている。国を追われ、亡命先のフランスで馬術を磨いたチャールズ2世は王政復古が成って戴冠すると、ニューマーケット競馬場を復興した。1665年に国王チャールズ2世はタウンプレート(The Town Plate、もしくはNewmarket Town Plate)という競走を作り、自ら優勝楯を提供した。国王自身も騎手として優勝したことがある。この競走は「King’s Plate(女王の場合はQueen’s Plate。Royal Plateとも呼ばれる)」として受け継がれ、現存する世界最古の競馬の競走である。 明治天皇の時代に始まった華やかな銀杯の下賜は、大正時代に勃発した第一次世界大戦の間も絶えることなく、30年以上続いた。一方、その間に中国大陸での動乱は激しくなり、1931年(昭和6年)の満州事変、1937年(昭和12年)には7月に盧溝橋事件、8月に上海事変が相次いで起きた。 その直後である1937年(昭和12年)9月、皇室は競馬会に対し、以後の御賞典下賜を年2回とする、という通達を行っている。この通達により、年10回行われていた帝室御賞典は年2回施行になった(前述)。そして皇室は、帝室御賞典の回数を減らす分、御賞典をより立派なものにすることとなる。また同時期、大陸での時局の緊迫化によって軍馬の需要が急増していた。軍部はより強固な馬政統制を行うため全国の競馬倶楽部を一本化して「日本競馬会」を作った。そして帝室御賞典は、軍部の求めるスタミナ溢れる馬を作るため、長距離の3200メートルに改められた。 大陸での緊迫した情勢はさらに激しさを増し、日中戦争へと発展した。1939年(昭和14年)秋にはヨーロッパでドイツと連合軍が戦争を始め、日本に対しても「ABCD包囲網」と呼ばれる経済封鎖が1941年(昭和16年)より実施され、国内では様々な物資が不足するようになった。これに伴う金属製品の統制を受け、帝室御賞典の賞杯も同年春から優勝楯に改められた。 新しい優勝楯の作成にあたり、宮内省は東京高等工芸学校教授の畑正吉にデザインを依頼。これをもとに鋳物師の持田増次郎が金物を製作し、金メッキを施した2寸(約6センチ)もある菊の紋章と、板金をはめこんだ「競馬恩賞」の文字をラワン板にあしらった金御紋章付楯(いわゆる「天皇楯」)となった。 天皇楯の下賜も1944年(昭和19年)春の「能力検定競走」で下賜を辞退したことにより中断し、秋には帝室御賞典も中止となった。 ===戦後の天皇賞=== 戦争で中断した競馬は終戦後に再開され、帝室御賞典は御賞典が下賜されなかったため「平和賞」の名称で1947年(昭和22年)春に復活した(前述)。その後、1947年(昭和22年)秋に予定していた“第2回平和賞”の前日に皇室から天皇楯の下賜が決まったが、天皇楯はこれ以降持ち回り制になった。平和賞は急遽「天皇賞」に改称され、「第1回天皇賞」として施行された。ただし、前述の通りJRAでは1937年(昭和12年)秋の「帝室御賞典」を第1回としている。 表彰式で優勝馬主が楯を受け取る際は、白手袋を着用することが慣例となっている。 ===賞金=== 春(2017年、第155回)の1着賞金は1億5000万円で、以下2着6000万円、3着3800万円、4着2300万円、5着1500万円。 秋(2017年、第156回)の1着賞金は1億5000万円で、以下2着6000万円、3着3800万円、4着2300万円、5着1500万円。 1937年(昭和12年)に帝室御賞典が年2回施行に集約されて以来、天皇賞は日本国内で有数の高額賞金競走である。優勝馬の馬主に与えられる御賞典(優勝杯、優勝楯)の金銭的価値を一切考慮に入れないとしても、長い間、1着賞金の額は中央競馬で行われる競走の中でも上位を保ち続けた。2017年(平成29年)は、日本国内で施行する競馬の競走としてジャパンカップ・有馬記念の3億円、東京優駿(日本ダービー)の2億円に次ぐ高額の1着賞金が設定されている。 ===用語の解説=== 付加賞 ‐ 中央競馬のみにある制度で、特別登録料の総額を1着から3着までの馬に対し、7:2:1の割合で配分した賞金。通常の入着賞金には含めない。特別登録料 ‐ 特別競走・重賞競走に出走するための事前エントリーである「特別登録(通常はレース1週間前の日曜日。GIや3歳クラシックではさらに早まる場合がある)」の際に徴収され、料額は競馬法で300万円以下と定められている。中央競馬ではこの特別登録を経て、最終エントリーとなる「出馬投票(後述)」を行うことで出走申込手続きが完了する。 ===主要な高額賞金競走における1着賞金の変遷=== 表中の項目はJRAデータファイルより作成(1955年から2014年まで)。いずれも1着賞金のみ(付加賞・褒賞金など1着賞金に含めないものは除く)の比較。単位:万円第1回(1937年秋の帝室御賞典)の1着馬には「本賞」として御賞典(優勝杯)、「副賞」として賞金1万円が与えられた。この賞金額は、当時国内の競走としては東京優駿(日本ダービー)の1着本賞1万円、横浜農林省賞典四・五歳呼馬(1943年で廃止)の1着本賞1万円と並び最高額だった。第1回は3着馬までにのみ賞金を与えていたが、翌年から帝室御賞典など国内主要18競走に限り、4・5着馬にも賞金を与えるよう変更された。1954年(昭和29年)からは天皇賞の1着馬に与える副賞金も「本賞」に含めることになった。 1955年(昭和30年)当時、国内の1着最高賞金は東京優駿(日本ダービー)の200万円で、天皇賞の150万円がこれに次いでいた。1956年(昭和31年)に有馬記念(中山グランプリ)が創設され、1着賞金は東京優駿(日本ダービー)と同じく200万円とされた。翌1957年(昭和32年)には天皇賞の賞金も200万円に引き上げられ、天皇賞(春・秋)、東京優駿(日本ダービー)、有馬記念の4競走が国内最高額の競走となった。 1959年(昭和34年)には東京優駿(日本ダービー)の賞金が300万円に増額され再び「国内最高賞金」となり、天皇賞と有馬記念は東京優駿に次いで2番目の高額賞金競走となった。その後、各競走の賞金は年々増加を続けるが、東京優駿が1位、天皇賞と有馬記念が同額で2位という序列が1973年(昭和48年)まで続いた。 1974年(昭和49年)、天皇賞・東京優駿(日本ダービー)・有馬記念の賞金が同額になった。これ以降も賞金は伸び続けるが、これらの1着賞金は同額とされた。1981年(昭和56年)にジャパンカップが新設され、天皇賞(春・秋)、東京優駿(日本ダービー)、有馬記念を含めた5競走が日本では最高賞金の競走になった。1990年代に入ると賞金が1億円を超えるようになり、1995年(平成7年)には5競走ともに1着賞金が1億3200万円となった。 2001年(平成13年)よりジャパンカップの1着賞金が2億5000万円と大幅に引き上げられ、東京優駿(日本ダービー)・有馬記念も1着賞金が加増されたが、天皇賞の1着賞金は春・秋とも据え置かれた。 JRAが発表した2015年(平成27年)の重賞競走一覧によると、ジャパンカップ、有馬記念、天皇賞で1着賞金が増額。ジャパンカップは1着賞金が3億円となり、有馬記念は2億5000万円、天皇賞は春・秋とも1億5000万円にそれぞれ増額される。 ===褒賞金制度=== 大阪杯・天皇賞(春)・宝塚記念または、天皇賞(秋)・ジャパンカップ・有馬記念の3競走を同一年にすべて優勝したJRA所属馬には内国産馬2億円、外国産馬1億円の褒賞金が賞金とは別に交付される。この褒賞金は、クラス分けに用いる収得賞金には算入されない。 内国産馬(ないこくさんば) ‐ 外国産馬以外の馬で、原則として日本で産まれた馬をさす。ただし、外国へ一時的に輸出された繁殖牝馬が輸出前に日本で種付けを済ませ受胎(妊娠のこと)し、外国で産まれた子馬を0歳の12月31日までに輸入した場合、または外国で種付けされた繁殖牝馬が日本へ輸入されてから産まれた馬(持込馬という)も内国産馬として扱われる。 ==天覧競馬== 2005年(平成17年)の第132回天皇賞(秋)は「エンペラーズカップ100年記念」と副題がつけられ、今上天皇・皇后が東京競馬場に来場し天皇賞を観戦した。当初は前年の2004年(平成16年)に予定されていたが、施行日の8日前に発生した新潟県中越地震の被害に配慮して取り止めとなっていた。天皇が天皇賞を観戦した例は史上初めてであり、天皇自身による競馬観戦(いわゆる天覧競馬)も1899年(明治32年)以来106年ぶりとなった。競走前に天皇・皇后は場内の競馬博物館で「エンペラーズカップ100年記念 栄光の天皇賞展」を鑑賞。競走後に優勝騎手の松永幹夫が貴賓席に対して馬上から最敬礼を行った。 2012年(平成24年)の第146回天皇賞(秋)では「近代競馬150周年記念」と副題がつけられ、7年ぶりに天覧競馬が実施された。この際、優勝騎手のミルコ・デムーロはコース内でいったん下馬して最敬礼を行った。本来このような行為は騎乗馬が故障した場合を除き、競走後にコース内で騎手が下馬することを禁止する規則に抵触するものであったが、これを理由とした制裁は行われなかった。 なお、今上天皇・皇后は皇太子・皇太子妃だった1987年(昭和62年)にも、天皇賞施行50周年を記念して行われた第96回天皇賞(秋)を台覧している。 ==各競走の概説== 春の競走と秋の競走は開催地など競走条件が異なるものの同じ「天皇賞」であり、施行回数は春→秋と施行順に加算している。 同一の競走名で1年に複数回施行する競走は、現在の中央競馬で本競走のみである。 ===天皇賞(春)=== ====概要==== 4歳以上の馬(外国産馬・外国馬を含む)による重賞競走(GI)。施行距離は1939年(昭和14年)以来3200メートルで変わっておらず、現存する中央競馬の平地GI競走では最長距離。 2008年(平成20年)よりメルボルンカップ( オーストラリア、GI)の前年度優勝馬を招待するようになり、本競走の優勝馬にも同年のメルボルンカップへの優先出走権が与えられる。 2017年(平成29年)より大阪杯、宝塚記念とともに同一年に行われる3競走を全て優勝した馬に褒賞金が贈られる。 正式名称は「天皇賞」であるが、JRAでは天皇賞(秋)の距離が短縮された1984年(昭和59年)から「天皇賞(春)」と表記している。 正賞は天皇賞、日本馬主協会連合会会長賞。 ===世界の中の天皇賞(春)=== 世界の競馬開催国は国際セリ名簿基準委員会(ICSC)によってパートIからパートIVまでランク分けされており、主要な競走は国際的な統一判断基準で評価が行われている。日本は平地競走が最上位の「パートI」、障害競走は「パートIV」に分類されている。 2017年(平成29年)現在、日本を含めパートIに分類されている国・地域のうち、3000メートル級のG1競走を行っているのは、 日本 ‐ 天皇賞(春):3200メートル、菊花賞:3000メートルイギリス ‐ ゴールドカップ:約4014メートル、グッドウッドカップ:約3219メートル、セントレジャー:約2921メートルフランス ‐ ロワイヤルオーク賞:3100メートル、カドラン賞:4000メートルアイルランド ‐ アイリッシュセントレジャー:約2816メートルオーストラリア ‐ メルボルンカップ・シドニーカップ:3200メートルニュージーランド ‐ オークランドカップ:3200メートル以上の6カ国だけである。天皇賞(春)はこの分類で、ゴールドカップ、カドラン賞に続く世界で3番目の長距離戦に該当し、優勝馬を招待しているメルボルンカップとは同じ距離である。 競馬の競走における距離別の区分法として定着しているSMILE区分によると、天皇賞(春)は2701メートル以上の「Extended(超長距離)」部門に分類される。国際競馬統括機関連盟(IFHA)が公表した2012年(平成24年)から2014年(平成26年)の年間レースレーティングの平均値に基づく「世界のトップ100GIレース」によると、天皇賞(春)は全体の51位にランキングされ、Extended(超長距離)のカテゴリーからランクインした競走ではメルボルンカップ(69位)・セントレジャー(77位)を上回り、この部門で世界のナンバー1と評価された。同じくIFHAが公表した2016年(平成28年)の年間レースレーティングの平均値に基づく「世界のトップ100GIレース」によると、天皇賞(春)は全体の58位にランキングされ、Extended(超長距離)のカテゴリーからランクインした競走では同じく日本の菊花賞(43位)に次ぐ評価であり、メルボルンカップ(77位)・ゴールドカップ(99位)を上回り、この部門では菊花賞に次ぎ、世界のナンバー2と評価された。 単年度の競走馬ランキングでは、2013年(平成25年)の天皇賞(春)1 ‐ 3着馬が世界の競走馬ランキング(超長距離部門・2013年)で上位3頭を占めた。ただし、Extended部門で首位の馬は、全体の38位にとどまっている。 ===競走条件=== 以下の内容は、2017年(第155回)のもの。 4歳以上のサラ系競走馬(出走可能頭数:最大18頭) JRA所属馬地方所属馬(優先出走権を得た馬のみ)外国調教馬(JRA所属の外国産馬とあわせて最大9頭まで)出馬投票を行った馬のうち、以下の優先出走権を得ている馬から優先して割り当て、その他の馬は「通算収得賞金」+「過去1年間の収得賞金」+「過去2年間のGI・JpnI競走における収得賞金」の総計が多い順に割り当てる。出馬投票締切の結果、出走申込頭数が出走可能頭数を超えた場合は、別に定めた方法または抽選で出走馬を決定する。 ===用語の解説=== 出馬投票 ‐ レースに出走するための最終的な申込みのこと。中央競馬では通常、レース2日前の15時に締め切られる。出走可能頭数 ‐ 施行コース・距離に応じて各競馬場ごとに定められており、これを超える頭数での競走は施行できない。「フルゲート」とも呼ばれる。収得賞金 ‐ 競走馬の格付け(クラス分け)に使われる賞金額。競走馬がレースで得た本賞金をもとに、別途定められたルールに基いて算出される。デビューからの収得賞金を全て加算したものを、「通算収得賞金」と呼んでいる。レーティング ‐ 競走馬の能力を示す客観的な指標で、「ポンド」の単位で表される。着差・負担重量・過去の勝馬との比較などをもとに、国際的に統一された基準で数値化されている。出馬投票を行っている外国調教馬レーティング順位の上位5頭当該年に行われる以下の競走のいずれかで1着となった馬(中央・地方の所属は問わない)当該年に行われる以下の競走のいずれかで2着以内に入着した地方競馬所属馬地方競馬所属馬は、上記のほか大阪杯の2着以内馬も本競走に出走できる。 定量(58kg、牝馬2kg減) 京都競馬場の芝コース、外回り3200メートルを使用。 スタート地点は観客席からみて向正面で、約1周半する。途中、第3コーナーから第4コーナーにかけて“淀の坂”と称される坂の上り下りがあり、天皇賞(春)ではこの坂を2度通過するため、「京都競馬場の難所」とされる。 1周目はスタート直後から100メートル進む間に約2.1メートル上る急坂となる。その後も緩やかに280メートルかけて約1.8メートルを上る。第3コーナーが坂の頂上にあたり、第4コーナーまで3.5メートルを下る。第4コーナーを回って直線に入るまで0.8メートルほどの下り勾配がある。 2周目の第4コーナーを回り終えると最後の直線で、ゴールまでは残り約400メートルとなる。 ===年表=== 1938年(昭和13年) ‐ 「帝室御賞典」を再編し年2回の施行に改め、春の競走を阪神競馬場(旧鳴尾競馬場)で施行。1939年(昭和14年) 施行距離を3200メートルに、出走資格を5歳(現4歳)以上牡馬・牝馬に変更。 負担重量を「馬齢重量」から「定量」に変更(負担重量は5歳(現4歳)は58キロ、6歳(現5歳)以上は60キロ、牝馬1.5キロ減に設定)。施行距離を3200メートルに、出走資格を5歳(現4歳)以上牡馬・牝馬に変更。負担重量を「馬齢重量」から「定量」に変更(負担重量は5歳(現4歳)は58キロ、6歳(現5歳)以上は60キロ、牝馬1.5キロ減に設定)。1944年(昭和19年) ‐ 「能力検定競走」として、京都競馬場の芝3200メートルで施行。以後、京都競馬場での施行が定着。1945年(昭和20年) ‐ 太平洋戦争の影響で中止。1947年(昭和22年) この年のみ「平和賞」の名称で施行。 負担重量を5歳(現4歳)、6歳(現5歳)以上とも牡馬60キロ、牝馬2キロ減に変更。この年のみ「平和賞」の名称で施行。負担重量を5歳(現4歳)、6歳(現5歳)以上とも牡馬60キロ、牝馬2キロ減に変更。1948年(昭和23年) 名称を「天皇賞」に変更。 5歳(4歳)の負担重量を牡馬58キロ、牝馬2キロ減に変更。名称を「天皇賞」に変更。5歳(4歳)の負担重量を牡馬58キロ、牝馬2キロ減に変更。1953年(昭和28年) ‐ 6歳(現5歳)以上の負担重量を5歳(現4歳)と同じく、牡馬58キロ、牝馬2キロ減に変更。1972年(昭和47年) ‐ 外国産馬が出走できなくなる。1981年(昭和56年) ‐ 勝ち抜き制を廃止。1984年(昭和59年) ‐ グレード制導入、GIに格付け。1995年(平成7年) ‐ 指定交流競走となり、地方所属馬も出走が可能に。2000年(平成12年) ‐ 外国産馬が2頭まで出走可能に。2001年(平成13年) ‐ 馬齢表記を国際基準へ変更したことに伴い、出走条件を「5歳以上牡馬・牝馬」から「4歳以上牡馬・牝馬」に変更。2005年(平成17年) 国際競走となり、外国調教馬が5頭まで出走可能に。国際競走となり、外国調教馬が5頭まで出走可能に。2007年(平成19年) ‐ 外国調教馬の出走枠を9頭に拡大。2008年(平成20年) 出走条件を「4歳以上牡馬・牝馬」から「4歳以上」に変更。 前年度メルボルンカップ優勝馬の招待を制度化。出走条件を「4歳以上牡馬・牝馬」から「4歳以上」に変更。前年度メルボルンカップ優勝馬の招待を制度化。2012年(平成24年) 「近代競馬150周年記念」の副称を付けて施行。 レーティング上位5頭に優先出走を認める。「近代競馬150周年記念」の副称を付けて施行。レーティング上位5頭に優先出走を認める。2014年(平成26年) ‐ トライアル制を確立し、指定した競走の1着馬に優先出走権を付与。 ===天皇賞(春)歴代優勝馬=== 競走名は第14回まで「帝室御賞典」、第15回は「平和賞」、第17回以降は「天皇賞」。 ===天皇賞(春)の記録=== レースレコード ‐ 3:12.5(第155回優勝馬 キタサンブラック) なお、このタイムは芝3200mのJRAレコード及び京都競馬場芝外回り3200m3歳以上のコースレコードでもある。 ===天皇賞(秋)=== 3歳以上の馬(外国産馬・外国馬を含む)による重賞競走(GI)。施行距離は1938年(昭和13年)から1983年(昭和58年)まで、春と同様に芝3200メートル。1984年(昭和59年)から芝2000メートルに短縮された。距離変更には賛否両論があったが、短縮後は中距離の最強馬決定戦として位置付けられた。施行時期も長年11月下旬で定着していたが、1981年(昭和56年)から10月下旬 ‐ 11月初旬に繰り上げられた。 2000年(平成12年)よりジャパンカップ・有馬記念とともに「秋の古馬三冠競走」とされ、同一年に行われる3競走を全て優勝した馬に褒賞金が贈られるようになった。 正式名称は「天皇賞」であるが、JRAでは施行距離が短縮された1984年(昭和59年)以降「天皇賞(秋)」と表記している。 ===世界の中の天皇賞(秋)=== 天皇賞(春)と同様に、天皇賞(秋)も国際的な統一判断基準で評価が行われている。 前述のSMILE区分によると、天皇賞(秋)は「Intermediate(1900メートル ‐ 2100メートル)」に分類される。国際競馬統括機関連盟(IFHA)が公表した2012年(平成24年)から2014年(平成26年)の年間レースレーティングの平均値に基づく「世界のトップ100GIレース」によると、天皇賞(秋)は全体の28位にランクインした。「Intermediate(1900メートル ‐ 2100メートル)」のカテゴリーからランクインした競走ではケンタッキーダービー(32位)やコックスプレート(35位)を上回り、同部門では香港カップ(25位)に次ぐ12番目の評価となっている。同じくIFHAが公表した2016年(平成28年)の年間レースレーティングの平均値に基づく「世界のトップ100GIレース」によると、天皇賞(秋)は全体の19位にランクインした。「Intermediate(1900メートル ‐ 2100メートル)」のカテゴリーからランクインした競走ではプリンスオブウェールズステークス(30位)やタタソールズゴールドカップ(30位)、ケンタッキーダービー(35位)を上回り、同部門では香港カップ(15位)に次ぐ9番目の評価となっている。 以下の内容は、2017年(平成29年、第156回)のもの。 3歳以上のサラ系競走馬(出走可能頭数:最大18頭) 定量(3歳56kg、4歳以上58kg、牝馬2kg減) 3歳馬は負担重量が軽減されており、4歳以上の馬に比べ重量面で優遇されている。 東京競馬場の芝コース、2000メートルを使用。 スタート位置は第1コーナーの奥に設けられた「ポケット地点」と呼ばれる。スタートから120メートルほどで第2コーナーにかかり、第2コーナーから向正面にかけての700メートルは落差2メートルの緩やかな下り勾配となる。その後、向正面の半ばから約1.5メートルの急な上り坂になる。これを上りきるとまもなく第3コーナーに入り、カーブを回りながら約1.8メートル下る。第4コーナーからは上り勾配に転じ、直線に入る。ゴールまでの直線は約525メートルで、JRAの競馬場では新潟競馬場(外回り:658.7m)に次いで2番目に長い。直線の中ほどにも高さ2メートルの長い上り坂があり、坂を登り切った後もゴールまで約250メートルの平坦路がある。 スタートから最初のカーブまでが短く、序盤から前へ行きたい馬が外側の枠に入った場合、スタートからすぐに先行できなければ、カーブで大きく外を回ることになり、距離を余計に走ることになるため、スタート直後の先行争いがひとつの見どころとなる。 1937年(昭和12年) ‐ 「帝室御賞典」を再編し年2回の施行に改め、秋の競走を東京競馬場で施行。1938年(昭和13年) ‐ 施行距離を芝3200メートルに、出走条件を5歳(現4歳)以上に変更。1944年(昭和19年) ‐ 太平洋戦争の影響で中止。1947年(昭和22年) ‐ 名称を「天皇賞」に変更。1971年(昭和46年) ‐ 外国産馬が出走できなくなる。1984年(昭和59年) グレード制導入、GIに格付け。 施行距離を芝2000メートルに変更。グレード制導入、GIに格付け。施行距離を芝2000メートルに変更。1987年(昭和62年) 出走資格を4歳(現3歳)以上牡馬・牝馬に変更。 「天皇賞競走施行50周年記念」の副称を付けて施行。 皇太子・同妃夫妻の行啓により台覧競馬として開催。出走資格を4歳(現3歳)以上牡馬・牝馬に変更。「天皇賞競走施行50周年記念」の副称を付けて施行。皇太子・同妃夫妻の行啓により台覧競馬として開催。1995年(平成7年) ‐ 指定交流競走となり、地方競馬所属馬も出走が可能に。2000年(平成12年) ‐ 外国産馬が2頭まで出走可能になる。2001年(平成13年) ‐ 馬齢表記を国際基準へ変更したことに伴い、出走条件を「4歳以上牡馬・牝馬」から「3歳以上牡馬・牝馬」に変更。2004年(平成16年) ‐ 「日本中央競馬会創立50周年記念」の副称を付けて施行。2005年(平成17年) 「エンペラーズカップ100年記念」の副称を付けて施行。 国際競走に指定され、外国調教馬は5頭まで出走可能となる。 外国産馬の出走枠制限を撤廃。 天皇・皇后が臨席、天皇賞史上初めての天覧競馬。「エンペラーズカップ100年記念」の副称を付けて施行。国際競走に指定され、外国調教馬は5頭まで出走可能となる。外国産馬の出走枠制限を撤廃。天皇・皇后が臨席、天皇賞史上初めての天覧競馬。2006年(平成18年) ‐ 「悠仁親王殿下御誕生慶祝」の副称を付けて施行。2008年(平成20年) ‐ 出走条件を「3歳以上牡馬・牝馬」から「3歳以上」に変更。2012年(平成24年) 「近代競馬150周年記念」の副称を付けて施行。 出走馬選定方法を変更、レーティング上位5頭に優先出走を認める。 天皇・皇后が臨席、天皇賞史上2回目の天覧競馬。出走馬選定方法を変更、レーティング上位5頭に優先出走を認める。天皇・皇后が臨席、天皇賞史上2回目の天覧競馬。2014年(平成26年) 「JRA60周年記念」の副称を付けて施行。 トライアル制を確立し、指定した競走の1着馬に優先出走権を付与。「JRA60周年記念」の副称を付けて施行。トライアル制を確立し、指定した競走の1着馬に優先出走権を付与。 ===天皇賞(秋)歴代優勝馬=== 競走名は第13回まで「帝室御賞典」、第16回以降は「天皇賞」。 ===天皇賞(秋)の記録=== レースレコード ‐ 1:56.1(第144回優勝馬 トーセンジョーダン) なお、このタイムは芝2000mのJRAレコード及び東京競馬場芝2000m3歳以上のコースレコードでもある。