=インフルエンザワクチン= インフルエンザワクチンは、インフルエンザウイルスに対するワクチンである。本記事では主としてヒトを対象とする。 世界保健機関 (WHO) およびアメリカ疾病予防管理センター (CDC) は、生後6か月以上のすべての人々、特にインフルエンザへの罹患リスクの高い人々に対して、毎年のインフルエンザワクチン接種を推奨している。欧州疾病予防管理センター (ECDC) も同様に、高リスクの人々に対して、毎年インフルエンザワクチンを接種することを推奨している。これらの高リスクグループには、妊娠中の女性、高齢者、6か月から5歳の子供、健康問題を抱えている人、医療従事者が含まれる。接種してもインフルエンザを発症する可能性が全くなくなるわけではない。不活化インフルエンザワクチンによるインフルエンザの発症予防効果は、小児で25‐60%、成人で50‐60%とされている。2歳未満、65歳を超える高齢者では証拠の品質が低く効果のための結論が導けない。全ての人々がワクチンを接種しても、理論的に集団免疫の獲得には至らない。ワクチンを接種して、抗体が産生されて効果が出現するまでには約2〜3週間を要する。また、獲得した防御免疫の効果が継続する期間はその後約3〜4ヵ月であると考えられている。 インフルエンザワクチン接種は、主にアメリカ合衆国において開発が進められてきた。実験的なワクチン接種は1930年代に始まり、1943年にはA型インフルエンザウイルスについて、1945年にはB型インフルエンザウイルスについて本格的に接種が開始された。2017年現在では、WHOによって、世界各国の医療制度において必要とされる適切で安全な医薬品群のリストであるWHO必須医薬品モデル・リストにも収載されている。 ワクチンは、一般的に安全であるとされているが、副反応(一般的な医薬品における副作用)も存在する。ワクチン接種による副反応として、予防接種を受けた子供の5から10%で発熱がみとめられ、疲労感や筋肉痛も発生する可能性がある。高齢者については、ギラン・バレー症候群が接種100万回あたり約1例の割合で発生するとされる。また、卵またはインフルエンザワクチンによって、アナフィラキシーショック等の重度のアレルギー症状を引き起こす可能性のある者へは、接種してはならない。妊婦では弱毒化型は禁忌であり、不活化型を接種しなくてはならない。 インフルエンザウイルスは変異型が多いため、主に冬季に流行する季節性インフルエンザワクチンの対象とするウイルス株は毎年変更される。ただ、インフルエンザワクチンは、そのワクチンに含まれていないインフルエンザの型に感作した場合にも、ある程度インフルエンザの重症度を低下させることができるともされている。不活化ワクチンと弱毒性ワクチン(生ワクチン)とがある。摂取経路として、筋肉内注射、鼻に噴霧する経鼻接種、皮膚の中間層に注入する皮内注射などが存在する。 その有効性は毎年変動するものの、インフルエンザの発症に対する高い予防効果が存在する。 ==製造== インフルエンザワクチンは、通常、ニワトリの受精卵からワクチン製造メーカーによって製造される。北半球においては、世界保健機関 (WHO) による冬季インフルエンザ流行期に推奨されるウイルス型(系統)の発表(通常は2月に行われる)に続いて製造が開始するインフルエンザの3つの系統(H1N1、H3N2、およびB型を表す)が選択され、別々のニワトリ卵に投与されたのち、それぞれの生成物(1価)を3つ組み合わせて3価ワクチンを製造する。従来の注射型だけでなく、経鼻スプレーも鶏卵を使用して製造されている。2009年の新型インフルエンザウイルスの流行を受けて2010/2011冬シーズンからA/H1N1がA/H1N1pdm09に変更され、2015/2016冬シーズンからは、4つのウイルス型(A/H1N1pdm09、A/H3N2、B/山形系統、B/ビクトリア系統)に増やされた。 2007年の報告書では、季節性インフルエンザワクチンの世界全体での生産能力は、不活化ワクチンと弱毒生ワクチンあわせて約8億2600万個であったが、これは実際に生産された4億1300万個の2倍程度であった。2013年までに世界的大流行(パンデミック)に対するインフルエンザワクチンを生産するという計画予測においては、6か月の期間内に生産可能なワクチンは28億個にとどまるとされた。もしも、中高所得国のすべてが、パンデミック発生時に全人口のワクチンを必要とした場合、約20億個が必要となり、これに中国が加わると、30億個以上が必要となる。世界中の人口に対して、手ごろな価格でより多くの量のインフルエンザワクチンを生産することができる新しいワクチン製造方法を開発するために、ワクチンの研究開発が進められている。 ===過程=== インフルエンザワクチンは、11‐12日齢の病原体のないニワトリ卵を使用して製造される。まず、ニワトリ卵の上部をアルコールによって消毒する。その後、尿膜腔(卵殻の直下に広がる空間)内の静脈が存在しない領域を探し、圧力を解放するための小さな穴をあける。さらに2つ目の穴を卵の上部に作り、そこからインフルエンザウイルスを尿膜腔に注入する。続いて、2つの穴を溶融パラフィンで密封し、37 ℃で48時間孵卵する。孵卵時間の間、インフルエンザウイルスは内部で複製され、新たに複製されたウイルスは尿膜腔の液中に放出される。48時間の孵卵期間のあと、卵の上部にひびを入れ、そこから10 mLの尿膜腔液を取り出すと、約15μgのインフルエンザワクチン成分を得ることができる。(15μgは、日本において3歳以上のワクチン1回接種量である0.5mLに含まれる抗原量に相当する。)その後インフルエンザワクチン(ウイルス抗原)は精製され、添加物が入れられたのち、注射薬ではバイアルやシリンジ、経鼻薬では鼻腔噴霧器(スプレー)の中に注入される。このような方法を経ることによって、必要とされるワクチンを製造することができる。 また、インフルエンザワクチンをニワトリ卵で作る過程において、ウイルスを卵の中で増えやすくするためには、ウイルスを卵で複数回増やし、卵での増殖に適応させる「馴化」という工程が必要となる。この過程でウイルスの遺伝子に変異が起きる場合があり、これが起きた場合ワクチンの有効性が低下することもありえる。そのため、製造されたワクチンは毎年有効性の確認がされている。 季節性のインフルエンザワクチンでは、増殖させたインフルエンザウイルスを上記のような方法で分離精製したのち、エーテル処理により脂溶性成分を抽出除去し、ヘマグルチニン(HA)を含む画分を得て不活化ワクチンとしている。そのため、このような不活化ワクチンは「インフルエンザHAワクチン」と呼ばれる。かつてはホルムアルデヒド(ホルマリン)で不活化していたが、2017年現在の「インフルエンザHAワクチン」にはホルマリンは使用されていない。 経鼻投与されるタイプでは、上記のような不活化の過程を経ない弱毒生ワクチンが用いられている。(詳細は、別節を参照) ===新技術による製造=== ニワトリ卵を用いた手法は、大規模な製造に向いておらず、また接種者に卵に対するアレルギー反応を引き起こす可能性や、ニワトリを含む鳥類に影響を及ぼす鳥インフルエンザウイルス株と不適合性であるなどの問題も生じており、解決が求められている。また、特定の株に対してのみならず、幅広い種類のインフルエンザウイルスに対して効果的である「普遍的な」インフルエンザワクチンの開発の研究も続けられている。(詳しくは研究節参照) 卵の必要性を代替するワクチンの生成方法には、インフルエンザの「ウイルス様粒子」(VLP)の構築法が含まれる。VLPはウイルスの構造に似ているが、ウイルスの遺伝子コードを含まず、ウイルス粒子と同様の方法でヒトの免疫系に対して抗原を提示するだけであるため、不活性化をする必要はない。VLPを産生するいくつかの方法には、昆虫細胞(ツマジロクサヨトウ、ガの一種)や植物(ベンサミアナタバコ、タバコの一種など)を活用した培養方法などが存在する。2013年1月17日には、アメリカ食品医薬品局 (FDA) が、卵の代わりに昆虫細胞で製造された季節性インフルエンザワクチンであるFluBlokを承認している。この製品は、卵が製造過程において使用されていないため、卵アレルギーの問題を回避することができる。 DNAの逆転写技術を用いた細胞培養によるワクチンの製造は、製造速度がより速くなることが期待されており、2011年付で、安全性と有効性を決定する臨床試験が行われている。2012年11月20日には、最初の細胞培養ワクチンFlucelvaxが、製薬メーカーのノバルティスによって、アメリカ食品医薬品局 (FDA) の承認を受けている。その後、ノバルティス社のインフルエンザワクチン製造部門は、アメリカの製薬メーカーであるCSLベーリングによって買収され、現在ではCSLベーリングの設立したSeqirusが事業を引き継いでいる。このような細胞培養によって作成されるワクチンは、世界的大流行(パンデミック)の際に大量のワクチンが早急に必要な場合にも、適切かつ迅速な供給を維持できることが期待されている。副反応についても、従来型ワクチンとほぼ同等程度とされている。ただし、FDAによる最初の承認では、18歳以上だけが使用の対象とされている。 ==価格== 南アフリカにおける卸売価格は、2015年8月時点で1剤(シリンジ入り0.5mL)あたり4.56米ドルであり、アメリカ合衆国では2015年時点で25米ドル未満である。日本では、2017年現在、厚生労働省等が決める公定価格一覧である「薬価基準収載品目リスト」には収載されておらず、保険適用外となっている。そのためインフルエンザワクチンの接種は自由診療となり医療機関ごとに価格は異なるが、2017年現在で3500円程度である。自治体・学校・企業等で接種費用の補助を受けられる場合もある。 ==効果と有効性== ワクチンは、一定の条件下において疾患の危険性を減らす程度を示す「効果」と、ワクチン接種後に観察された感染リスクの低下を考慮した「有効性」によって評価される。インフルエンザワクチンの場合、この「有効性」に関しては、インフルエンザに起因するとは限らないインフルエンザ様の症状を含んだ罹患率を用いて測定されるため、「効果」と比べて低く見積もられていると予想される。動物モデルあるいはワクチン接種されたヒトにおける抗体産生の測定において、インフルエンザワクチンは一般的に高い効果を示している。しかし、現実における実際のインフルエンザワクチンの有効性に関する研究は困難である。その理由としては、ワクチンのウイルス型が完全に一致していない可能性、インフルエンザの有病率は年によって大きく異なること、しばしば他のインフルエンザ様の症状が出る病気と混同されていることなどが挙げられる。とはいえ、ほとんどの年(2007年以前の19年のうち16年)において、インフルエンザワクチン株は流行株とのおおむね一致を示しており、また仮に不一致であったとしても、交差防御によって効果が得られることがある。 インフルエンザワクチンの有効率は一般的に、(1 ‐ 接種群罹患率)/ 非接種群罹患率 X 100 である。つまり、「非接種者群の発症者10人で、接種者の発症者が4人である」とき、「10人から6人へと減らしたので有効率は60%」と表現される。よって、「有効率60%」は、100人の非接種者群と100人の接種者群の研究において、「予防接種を受けた100人のうち、60人は発症しない」ことを示すのではない。(このような計算方法では、罹患率の影響を受けるため、罹患率が低い感染症では有効率の評価ができない) 季節性インフルエンザに対する不活性ワクチンの試験の結果はいくつかのメタアナリシスに集約されており、これは、成人、子供、高齢者において季節性インフルエンザに対する不活性化ワクチンの効果効能および有効性を調べたものである。2012年のメタアナリシスによると、インフルエンザワクチン接種の有効率は67%であった。最も効果が高かった集団は18から55歳の後天性免疫不全症候群(HIV陽性)の成人で、有効率は76%であった。そのほかの集団の有効率は、18から46歳の健康な成人では70%、生後6から24か月の健康な子供では66%であった。 弱毒生インフルエンザワクチン(鼻スプレー型)について、米国予防接種諮問委員会(ACIP)は、2016‐2017年、2017‐2018年のインフルエンザシーズンに、これら鼻スプレーのワクチンを使用しないよう推奨していたが、2018‐2019年では、無効になっていたH1N1の抗体が変更されたため使用中止の推奨を取りやめ、またしかし市場から離れていたため有効性に関するデータは存在しない。 2017年の報告では、日本の不活化インフルエンザワクチン接種による発症予防効果は、小児で25〜60%、成人で50〜60%とされている。65歳以上の老人福祉施設・病院に入所している高齢者を対象とした1999年の研究では、インフルエンザワクチンによって34〜55%の発病を防ぎ、死亡を抑制する効果は約82%であった。インフルエンザワクチンの効果は年々低くなってきているという日本臨床内科医会の報告も存在する。この報告によると、全年齢群において、2001‐2002年から2007‐2008年シーズンまでは効果が有意に認められたものの、以降は2009年の一部と2014‐2015年シーズンを除き、有意ではなくなっているとされている。これらのことから、インフルエンザ対策は、インフルエンザワクチンのみでは不充分とされており、手指消毒や咳エチケット、マスクの着用といった標準予防策を合わせて用いることが重要とされる。 ===判定方法=== インフルエンザワクチンは、その対象となるウイルス株が毎年変更されるため(詳細は後節参照)、毎シーズンワクチンの有効性(vaccine effectiveness;VE)を評価する必要がある。この有効性の推定には「診断陰性例デザイン」が用いられている。この方法は、2005年にカナダにおいて初めてインフルエンザワクチンに用いられたことが報告されて以降、世界的に標準方法として使用されるようになった。診断陰性例デザインによるワクチン有効性の算出は、インフルエンザの疑いとして、インフルエンザの検査を受けた患者を陽性群と陰性群に分け、それぞれのワクチン接種率を比較することによって行われる。つまりその結果は、「インフルエンザワクチンを接種したら、インフルエンザと診断される確率を何%減らせているか」というものと同義となる。この方法による精度は高く、ランダム化比較試験に匹敵するものいう意見もある。診断陰性例デザインによるVEは様々な条件下で算出されており、国、地域、年や施設によって結果は大きく異なる。 ===成人=== 2014年、コクラン共同計画のシステマティック・レビューによると、ワクチン接種によって、インフルエンザと確認された症例は約2.4%から1.1%に減少し、インフルエンザ様の症状を示した者は約16%から約10%に減少していた。入院数の増減に関するデータは得られなかった。仕事を持つ成人において、ワクチン接種はインフルエンザの症状および休業日数の両方に対して、わずかながら減少をもたらすことが示されている。しかし、このデータから出版バイアスの影響を評価することができずバイアスによるデータの誤差などのリスクは不明である。 2018年にコクランはレビューを改訂し、ワクチンを接種しなかった場合のインフルエンザの頻度2.3%を0.9%へと減少させ、これは1人のインフルエンザを予防するために71人がワクチンを接種する必要があり、インフルエンザ様症状では21.5%を18.1%へと減少させ同じように1人の予防に29人の接種が必要とし、また休業あるいは入院をわずかに減少させるという証拠の確かさは低いとし、有害事象では接種者は「わずかな発熱」のリスクを増加させていた。 インフルエンザウイルスに対して、ある程度の予防効果も存在するとされているが、その効果は時間を経るにつれて大幅に減少または消失するとされる。 理論的に全ての人々がワクチンを接種しても、集団に感染が拡大することを防止する集団免疫の獲得には至らない。 医療従事者においては、2006年のシステマティックレビューにおいて、ワクチンの確かな患者死亡率が低下したことを示した。このレビューでの18の研究のうち、2つの研究において医療従事者のインフルエンザワクチン接種率に対する患者死亡率の関係を評価した。双方ともに、医療従事者のワクチン接種率が高いほど患者の死亡率が減少していることを示している。2014年のシステマティックレビューでは、医療従事者に対するワクチン接種の患者へ与える影響について、医療従事者がワクチン接種を受けていなかった場合と、医療従事者がワクチン接種を受けた場合において、患者のあらゆる原因による死亡率の減少が観察されたことを挙げている。 ===小児=== 2012年のコクラン共同計画のレビューによれば、2歳以上の子供の発症の予防に効果を示したが、インフルエンザと同様の症状を呈する疾患(インフルエンザ様疾患)を予防する効果なく、しかしまた6歳以上では不活性化ワクチン(英語版)は偽薬と同じであった。また、2歳未満の小児に対するワクチン接種については、存在する限られたわずかな研究データとしては測定可能なほどの効果は得られていない。 2018年の改定されたコクランのレビューは、証拠の確実性は中程度であり、おそらくインフルエンザを減らし、インフルエンザ様の症状では低い確実性で減らすとし、有害事象については記載が十分ではないため評価できず、2歳未満では同様に研究がほとんどなかった。 ===高齢者=== 2010年のコクランレビューでは、65歳を超える高齢者では証拠の品質が低く結論が導けなかった。65歳以上の高齢者における効果は不明であるとされている。ランダム化比較試験 (RCT) と症例対照研究の両方を調べる系統的レビューでは、信頼性の高い研究結果が存在しないことが示された。それらより信頼性の低い症例対照研究のレビューでは、高齢者において、診断されたインフルエンザ、肺炎、および死亡に対する効果の存在を示唆している。 高齢者は、季節性インフルエンザに対して最も脆弱なグループであるのにもかかわらず、ワクチン接種の効果が最も少ない。高齢者における急激なワクチン効果の低下には、複数の理由が存在する。最も一般的なものは、免疫機能の低下と高齢に伴う衰弱である。インフルエンザの大流行が発生しなかった年において、アメリカ合衆国では、50‐64歳の人は若年者よりもインフルエンザ関連死亡率が10倍近く高く、65歳以上の人では10倍以上となるとのデータが存在する。 より強い免疫応答を提供するために特別に製造された新しい高用量インフルエンザワクチンも存在する。信頼性が担保された研究によると、この高用量ワクチンを高齢者に接種すると、正規用量のワクチンよりもインフルエンザに対して強い免疫応答が誘導できることが示されている。 また、インフルエンザに対して脆弱な高齢者における流行を減らすことを目標として、高齢者とかかわる医療従事者に対するワクチン接種が、多くの国で推奨されている。医療従事者のワクチン接種によって、高齢者をインフルエンザ感染から守るという確かな臨床試験からの決定的な証拠には乏しいものの、効果を示唆する証拠は存在している。 ===妊婦=== 2018年のコクランによるレビューでは、母親と新生児に対する保護作用は成人一般におけるものよりも小さく、妊婦とその新生児では非常に控えめであった。 妊娠中であっても、インフルエンザワクチン接種は可能である。妊婦へのインフルエンザワクチン接種は、母体だけでなく、産まれてくる児への防御という重要な役割も果たす。また、コホート研究によれば、妊婦に対するインフルエンザワクチン接種は、インフルエンザ感染の影響から母親や子供を守るだけでなく、満期妊娠を成功させる可能性を増加させる傾向がある。また、3価不活化インフルエンザワクチンの研究では、ヒト免疫不全ウイルス(HIV)に感染した妊婦に対する予防効果が示されている。 インフルエンザワクチンの接種は、妊娠のどの期間においても可能とされているが、ワクチンの効果が出現するまでは約2〜3週間要し、その効果が継続する期間は約3〜4ヵ月であることを考慮すると、インフルエンザ流行期が始まる10〜11月にワクチン接種を行うことが理想的とされている。母体ヘワクチン接種することによって、母体で獲得された抗体は胎盤を介して胎児へも移行する上、その抗体は胎児の出生後も約6ヵ月間持続するとされている。出生後の乳児へのインフルエンザワクチン接種は、多くの場合生後6か月以降とされているが、この空白期間を妊婦への接種によって補うことが可能である。 妊娠中の接種の場合、胎児へのリスクとして催奇形性、胎児毒性や妊娠の継続に関する懸念をもつ妊婦も多いが、実際にはインフルエンザワクチン接種による胎児奇形の誘導は認められず、接種妊婦において奇形児が発生する確率は、自然発生率を超えないとされている。また、自然流産早産、胎盤発育異常が増加するという明確な証拠も存在しない。ただし、母体への危険性として、インフルエンザワクチンによる母体の副反応やアレルギーが挙げられるが、これらの発生頻度は妊娠の有無には関係ないとされている。 ただし、経鼻スプレー型の生ワクチン(後述)の妊婦への接種は禁忌である。 ==安全性== インフルエンザワクチン接種によって副反応(一般的な医薬品における副作用に相当)が発生する可能性があるが、通常は軽微なものがほとんどである。具体的な副反応としては、鼻水や喉の痛みなどの症状を引き起こす可能性があり、これらは数日間続くこともある。ただし、これらのワクチン接種による一般的な副反応や危険性は、毎年流行するインフルエンザあるいはそれによって引き起こされる可能性のある入院、死亡などの危険性と比較して、一時的かつ軽微なものに留まることが多い。稀に、アレルギー反応を含む深刻な副作用を引き起こす可能性はあるものの、確率は非常に少ない。 日本におけるインフルエンザワクチンの接種後の副反応の報告データでは、接種関連死亡として報告された例は、通常年間5例以下であった。これに対して使用量は、年によって異なるものの、年間約2500万本であり、報告されている疑い死亡例の確率は非常に少ない。また、これらの死亡例を専門家が評価したところによると、死亡とワクチン接種の直接の明確な因果関係があるとされた症例は1例もなかったとされている。また、上記死亡例のほとんどが、基礎疾患等がある高齢者である。 ===卵アレルギーとの関連=== インフルエンザワクチンは通常卵を使用して作られているため、接種者の卵アレルギーの有無も注意しなくてはならない。複数の専門家グループは、卵アレルギーとインフルエンザワクチンの研究に基づいて、軽度のアレルギーの人にはワクチンを推奨し、重症の人にはワクチン接種を慎重に行うべき、としている。 イギリスにおいて実施された、卵アレルギーを持つ800人近くの小児(卵によるアナフィラキシーショックの既往歴を伴う250人以上の小児を含む)が参加した大規模な研究では、弱毒生インフルエンザワクチン接種を受けた際に、全身性のアレルギー反応が生じた小児は1人も認められなかった。また、卵アレルギーの人への安全な接種のための研究も進んでいる。2013年1月17日には、アメリカにおいて医薬品承認を行う機関であるアメリカ食品医薬品局(FDA)によって、卵の代わりに昆虫細胞で製造された季節性インフルエンザワクチンであるFluBlokが承認された。FluBlokは製造過程において卵が使用されていないため、アレルギーの問題を回避することができる。 ===神経系疾患との関連=== ====ギラン・バレー症候群==== 予防接種による合併症としてギラン・バレー症候群(筋肉の運動神経に生じる障害によって引き起こされる疾患)が懸念されてきたが、アメリカ疾病予防管理センター (CDC) は、現在のインフルエンザワクチンに関するほとんどの研究においてギラン・バレー症候群との関連性は認められないとしている。2009年の推定値によると、インフルエンザウイルスへの感染そのものによって上昇する死亡の危険性(10,000人中最大1人)及びギラン・バレー症候群を発症・増悪させる危険性は、ワクチン接種による副反応との関連性が疑われている最も高い危険性の水準よりも、約10倍高いものであるとされている。 2009年Vaccine誌掲載レビューによると、ワクチン接種によるギラン・バレー症候群の発生率は100万回あたり約1例とされている。もっとも権威ある医学雑誌のひとつであるニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディシンに掲載された別の研究によると、2009年に中国においてH1N1ブタインフルエンザに対するワクチン接種が行われた際、1億人に近い人に接種が行われたのに対し、ギラン・バレー症候群の発生例は11人のみであった。(100万人あたり約0.1人)これは中国におけるギラン・バレー症候群の通常の罹患率より低く、その他にも顕著な副作用はみとめられなかった。リスク対効果を考えるならば、圧倒的に接種を行ったほうが有利であるという結果となっている。2010年日本公衆衛生雑誌掲載の総説では、インフルエンザの疾病負担とワクチン有効性を比べると、インフルエンザワクチン接種の有益性は、季節性ワクチン接種後のギラン・バレー症候群の発生リスクを大きく上まわると結論付けている。 ===ナルコレプシー=== 2013年に発表されたある研究によると、2009年にH1N1インフルエンザが大流行した際に用いられたワクチンのひとつである「H1N1インフルエンザASO3アジュバント添加ワクチン」の接種者において、ナルコレプシーの発生率が増加していることが確認されており、この機序を解明することによって、ナルコレプシーが自己免疫疾患であることが示唆された。この研究では、「H1N1インフルエンザASO3アジュバント添加ワクチン」は、オレキシン(ヒポクレチン‐1)と類似しており、ナルコレプシー発症の原因となり得るとされていた。ただし、上記の主旨で発表された2013年の論文は、論文の構成上重要な実験が再現できなかったとして、2014年に著者により取り下げられている。 ===添加物の安全性=== チメロサールの安全性についてはメディアによって論争がある。1997年にアメリカでの法改正によって水銀化合物が使用できるようになり、1999年にはいくつかのワクチンにエチル水銀含有の防腐剤であるチロメサールが使用されるようになり、乳児には水銀量が過剰ではないかと提起され、一方その政府機関は安全性だと述べてきた。2012年にも、世界保健機関のワクチン安全性に関する諮問委員会は、ワクチンにおけるチメロサールの有害性の証拠は方法的な欠陥のある研究であり、半減期が3‐7日のエチル水銀が血中及び脳に到達する水銀濃度は毒性がない域であり、安全性を支持している、と報告している。 ==投与方法== インフルエンザワクチンには、主として以下の2つの投与方法とワクチン種類が存在する。 3価 (TIV) あるいは4価 (QIV) の注射薬 (不活化ワクチン)経鼻スプレー弱毒生ワクチン (LAIV, Q/LAIV) ===注射型不活化ワクチン=== 3種類のウイルス株が入った3価ワクチン (TIV) および4種類のウイルス株が入った4価ワクチン (QIV) の注射薬は、一般的には筋肉内、皮下あるいは皮内に投与して用いられる。これらは体内に注射されることによって、不活性化されたインフルエンザウイルスに存在する抗原に対する免疫応答に基づいて防御機構を誘導する。不活化ワクチンは、インフルエンザウイルスの病原体としての活性を失わせ、免疫をつくるのに必要な成分を取り出したものである。したがって、不活化インフルエンザワクチン接種によって、インフルエンザを発症することはない。 ===経鼻スプレー型生ワクチン=== 経鼻スプレー弱毒生ワクチン (LAIV)は、弱毒生インフルエンザウイルス株が鼻腔内へ感染を起こすことによって機能する。経鼻スプレー型の生ワクチンは、不活化型の注射薬と比べて新しいインフルエンザワクチンである。通常の注射型ワクチンによって誘導される血中の抗体(IgG抗体)に加えて、感染経路である鼻の粘膜に別のタイプの抗体(分泌型lgA抗体)も誘導することによって、粘膜へのインフルエンザウイルスの侵入を抑えることができると考えられている。従来の注射薬タイプの不活化ワクチンには、分泌型IgA抗体誘導の効果がないため、今後の有用性が期待されている。 2015年現在、カナダ、イスラエル、フィンランド、スウェーデン、ドイツにおいて、インフルエンザに対する危険性が高い個人に対して、優先的に推奨されているワクチンである。世界で初めて承認を行ったのはアメリカ合衆国であり、2003年に登場している。以降、世界中で1億回超の投与量が供給されている。2012年3月には、経鼻スプレーによって投与される4価インフルエンザワクチンであるFluMist Quadrivalent(製造者:アストラゼネカ)が、医薬品の認可を担うアメリカ食品医薬品局(FDA)によって、承認された。このワクチンは、対象年齢が当初は15歳以上だったが、その後2歳以上に引き下げられたことで乳幼児への接種例が増えた。しかし、その後アメリカ予防接種諮問委員会(ACIP)による「2‐17歳での効果が認められない」との報告を受けて、アメリカ疾病予防管理センター (CDC)は、2016‐2017年のインフルエンザ流行期にはこのワクチンの使用を勧奨しないと発表した。 日本においては、第一三共が、FluMist Quadrivalentの製造メーカーであるアストラゼネカと提携し、経鼻スプレー型インフルエンザ生ワクチンを2016年承認申請した。2017年6月現在、承認には至っていないが、個人輸入して使用している医師は存在する。 アメリカ疾病予防管理センター (CDC) によると、以下の人々は弱毒生ワクチン(経鼻スプレー型)は避けるべきとされている。 卵もしくはインフルエンザワクチンに対して重度のアレルギー反応の病歴を有する人ギラン・バレー症候群の既往がある人心臓、呼吸器、腎臓、肝臓、または神経系の慢性疾患を有する人喘息あるいは呼吸器疾患の既往をもつ人妊娠中の女性アスピリン投与を受けている若年者免疫不全をもつ人クリーンルーム等の環境を必要とする人(たとえば、骨髄移植を受けた人など)を、今後7日間以内に訪問または治療・看護する人 ==製品== 主なインフルエンザワクチンの製品は以下の通りである。 ==接種の推奨== 世界保健機関(WHO)をはじめとして、さまざまな公共保健機関が、インフルエンザによる合併症の危険がある人々、あるいはそれらの人々と生活を共にしたり、治療・看護に関わっている人々に対して、毎年日常的にインフルエンザワクチンを接種することを推奨している。 高齢者(イギリスにおける推奨は65歳以上の者)慢性肺疾患 (喘息、慢性閉塞性肺疾患(COPD)など)の患者慢性心疾患 (先天性心疾患、慢性心不全、虚血性心疾患など)の患者慢性肝炎あるいは肝硬変の患者慢性腎臓病 (ネフローゼ症候群などを含む)の患者免疫機能障害 (後天性免疫不全症候群の患者や長期にわたるステロイド治療を受けている人)をもつ人とその家族刑務所、福祉施設、学校、宿舎など、インフルエンザが急速に広がる可能性がある環境で大勢の人と共に暮らしている人妊娠中の女性 2009年のレビューでは、妊娠初期において3価インフルエンザワクチン接種を推奨する根拠が不充分であるとの意見も存在する。ただし、インフルエンザが流行する季節にインフルエンザワクチンを接種することは、アメリカ合衆国において妊婦に対する推奨事項の一部となっている。2009年のレビューでは、妊娠初期において3価インフルエンザワクチン接種を推奨する根拠が不充分であるとの意見も存在する。ただし、インフルエンザが流行する季節にインフルエンザワクチンを接種することは、アメリカ合衆国において妊婦に対する推奨事項の一部となっている。医療従事者(本人の予防とともに、患者への感染を防ぐため)また、インフルエンザに罹患した乳児の死亡率は高いため、乳児にインフルエンザウイルスを感染させる危険性を減らすために、乳児の家庭内接触者および養育者はワクチン接種を受けることが推奨される。また、インフルエンザワクチンの接種が推奨されていない生後6か月までの期間は、出生前に妊婦への接種によって補うことが可能であるとされている。(詳細は、妊婦の節参照) ただし、インフルエンザワクチン接種は、卵タンパクに対する重度のアレルギーをもつ人や、ギラン・バレー症候群の既往がある人には禁忌であることに注意する必要がある。 なおアメリカ疾病予防管理センター (CDC) では、生後6か月以下の乳児以外には季節性インフルエンザワクチンを投与することを推奨している(6か月以下に承認された薬はない)。 ===世界保健機関=== 2017年現在、世界保健機関(WHO)は、以下の人々への季節性インフルエンザワクチン接種を推奨している 最推奨 妊娠中の女性妊娠中の女性推奨 生後6か月から59か月(4歳11か月)の小児 高齢者 慢性疾患を抱える患者 医療従事者生後6か月から59か月(4歳11か月)の小児高齢者慢性疾患を抱える患者医療従事者また、季節性インフルエンザワクチンの接種については以下のように推奨している 1歳より上は三角筋、6か月から12か月の乳児は大腿部の前外側面に注射する。生後6か月未満には接種しない。生後6か月から36か月は、成人の半量を用いる。9歳未満で生まれてから一度も接種を受けていないものは2回接種が必要で、少なくとも1か月の接種間隔を空ける。9歳以上の児童生徒と健康な成人は1回接種する。接種部位の痛み、発赤、腫れは一般的な反応であり、発熱などの全身症状の頻度はそれよりも低い。 ===カナダ=== カナダ公衆衛生庁の免疫に関する諮問委員会 (National Advisory Committee on Immunization;NACI) は、2008年から、2歳から65歳のすべての人に対して年1回のインフルエンザワクチン接種を推奨しており、生後6か月から24か月(2歳)の小児およびその養育者に対しては、ワクチン接種のさらに高い優先対象と位置付けられている。 また、NACIは以下の人々へのインフルエンザワクチン接種を推奨している。 肥満、健康な妊婦、生後6‐59か月(4歳11か月)の小児、高齢者、先住民族、および一定の慢性疾患をもつ人々などを含む、インフルエンザの合併症または入院の危険性が高い人々上記の人々と生活を共にする人や医療従事者を含む、高リスク者にインフルエンザウイルスを感染させる可能性のある人公共に携わる人々特定の畜産に関わる人々 ===ヨーロッパ=== 欧州疾病予防管理センター(ECDC)は、第1に高齢者、第2に慢性疾患を抱える人や医療従事者に対して、インフルエンザワクチンを接種することを推奨している。 インフルエンザワクチンの接種戦略は一般的に、インフルエンザの流行を抑制あるいは完全に防止するというよりも、むしろインフルエンザに対して脆弱な人々を保護することにある。この点において、急性灰白髄炎(ポリオ)や麻疹などの他の感染症に対する「集団免疫 (herd immunity)」の考え方とは対照的となっている。 ===アメリカ合衆国=== アメリカ合衆国では、生後6か月以上のすべての人に対して、定期的なインフルエンザワクチン接種が推奨されている。 アメリカ疾病予防管理センター (CDC) は、医療従事者に対するインフルエンザワクチン接種の推奨を1981年に開始した。CDCは、一般的に感染症に対して高リスクな人々と、その治療・看護をする人々は特に予防接種の緊急性を要するとの趣旨を、一般的なワクチン接種の包括的推奨のなかで臨床医に対して強調している。インフルエンザワクチン接種に関しては、重篤なインフルエンザの合併症の危険性がより高い人、またはこれらの人と一緒に暮らしている人や世話をする人々にとって特に重要となる。2009年には、インフルエンザ標準ワクチンの、新しい高用量製剤であるFluzone High Doseが承認された。Fluzone High Doseは、特に65歳以上の人に適しており、標準のFluzone(15μg)の抗原投与量の4倍の用量(60μg)となっている。インフルエンザの合併症の危険性がより高い人には、妊婦や生後6か月から18歳までの若年者などが含まれる。年齢制限を18歳とする目的は、小児科医への受診、学校の欠席あるいは合併症に対処するための抗生物質の必要性等を減らすことである。さらに、子供へワクチンを接種することによって、その親および生活を共にする人々のインフルエンザ罹患者の減少、ひいては一般社会への感染拡大の可能性を減少させることが期待できる。 アメリカ合衆国政府は、病院に対して従事者のワクチン接種率を報告するよう求めている。また、アメリカ合衆国の州や多くの病院は、インフルエンザ流行期に医療従事者にワクチン接種を受けたり、マスクを装着するよう要求している。これらの要求に対して団体交渉や組合訴訟が起こされることもあるが、一般的に裁判所は、病気の流行時に一般住民に及ぼす影響を考慮したのものとして、これらのワクチン接種に関する規則を支持している。 なおCDCは、経鼻スプレー型である弱毒生インフルエンザワクチン(LAIV)を、2016‐2017年のインフルエンザ流行期において推奨しないことを発表している。さらに、重度の免疫不全患者を治療・看護する医療従事者は、弱毒生インフルエンザワクチン型(LAIV)ではなく不活化ワクチンである注射型(TIVまたはQIV)を受けるべきであるとしている。 ===日本=== 日本においては、インフルエンザワクチンは予防接種法に定める定期接種のひとつとなっている。定期接種の対象となるのは以下の人々である。 65歳以上の高齢者60〜64歳で、心臓、腎臓もしくは呼吸器の機能に障害があり、身の周りの生活を極度に制限される人(身体障害者障害程度等級1級に相当)60〜64歳で、ヒト免疫不全ウイルス(HIV)による免疫の機能に障害があり、日常生活がほとんど不可能な人(身体障害者障害程度等級1級に相当)予防接種は、上記以外の人における任意接種のほか、定期接種としては地域の医療機関、開業医等で受けることができ、地方公共団体によって実施期間や費用が異なる。インフルエンザワクチンの接種は病気に対する治療ではないため、健康保険が適用されない自由診療だが、上記定期接種の対象者については、接種費用が自治体によって公費負担されているところも存在する。 そのほか、「予防接種実施規則」において、予防接種を受けることが適当でない者が以下の通り定められている。 明らかな発熱を呈している者重篤な急性疾患にかかっていることが明らかな者インフルエンザ予防接種の接種液の成分によってアナフィラキシーを呈したことがあることが明らかな者そのほか、予防接種を行うことが不適当な状態にある者また、「定期接種実施要領」においては、予防接種の判断を行うに際して注意を要する者として以下の通り定められている。 心臓血管系疾患、腎臓疾患、肝臓疾患、血液疾患、発育障害等の基礎疾患を有する者予防接種で接種後2日以内に発熱のみられた者及び全身性発疹等のアレルギーを疑う症状を呈したことがある者過去にけいれんの既往のある者過去に免疫不全の診断がされている者及び近親者に先天性免疫不全症の者がいる者接種しようとする接種液の成分に対してアレルギーを呈するおそれのある者生後6か月からの接種が可能であり、接種量は、以下の通り定められている。 6か月以上3歳未満 ‐ 1回0.25mL (2回接種)3歳以上13歳未満 ‐ 1回0.5m (2回接種)13歳以上 ‐ 1回0.5mL (1回接種)厚生労働省は、「インフルエンザワクチンは、接種すればインフルエンザに絶対にかからないというものではなく、ある程度の発病を阻止する効果があり、たとえかかっても症状が重くなることを阻止する効果がある」と広報している。また、インフルエンザワクチン接種による効果が出現するまでには、2週間程度の期間を必要とすることから、毎年12月中旬までにワクチン接種を終えるよう推奨している。日本全国における平成27年度(2015年)の推計使用量は約2565万本であり、平成28年度(2016年)の供給量は約2752万本である。 インフルエンザワクチンは、2017年現在、日本においては、厚生労働省等が決める公定価格一覧である「薬価基準収載品目リスト」には収載されておらず、保険適用外となっている。そのためインフルエンザワクチンの接種は原則自己負担となり、その価格は2016年現在で3300円程度である。 ==接種指向== 季節性インフルエンザとパンデミック(大流行)を引き起こすインフルエンザの両方において、インフルエンザワクチン接種率は一般的に高くない。 パンデミックを引き起こすインフルエンザに対するワクチン接種に関するシステマティック・レビューでは、性別(男性の接種率が高い)、民族性(少数民族の接種率が高い)および慢性疾患の有無などが、接種に影響を与える個人的要因として特定されている。さらには、ワクチンの安全性と有効性に関する個人的な心情も重要な因子となる。 ===医療従事者=== 最前線で働く医療従事者は、季節性インフルエンザやパンデミックを引き起こすインフルエンザに対するワクチン接種を受けることが推奨されている。例えば、イギリスでは、患者の治療に携わるすべての医療従事者は、季節性インフルエンザワクチンの接種を推奨されており、2009年の新型インフルエンザのパンデミックの際には、新型インフルエンザに対するワクチンも同様に推奨された。しかし、接種率はしばしば低くなっている。2009年の新型インフルエンザのパンデミックの際には、イギリス イタリア,、ギリシャ、および香港において、接種率が低かったことが指摘されている。 アメリカの医療従事者を対象とした2010年の調査では、2010‐2011年の流行期に63.5%の人がインフルエンザワクチン接種を受けたと報告しており、前年の61.9%から増加している。医師と歯科医(84.2%)やナース・プラクティショナー(アメリカにおいて、一定の医療行為が許された看護師)(82.6%)など、患者と直接接する医療従事者では、ワクチン接種率がとくに高かった。 医療従事者に対してワクチン接種が推奨される主な理由は、医療従事者が接する患者へのインフルエンザ感染を防ぐことや、需要が高い時期に欠勤する医療従事者を減らすことにある。しかし、彼らがワクチン接種を受け入れるかどうかについては、接種によって受ける個人の利益によるところもある。 ==歴史== 1918年に世界的なインフルエンザパンデミック(いわゆるスペインかぜ)が起こった際には、医者は、患者の出血に関する古くからの伝承治療から、酸素の投与、新しいワクチンや血清の開発に至るまで、さまざまな手を尽くした(「インフルエンザ菌(Hemophilus influenzae)」と呼ばれている病原体は、当時インフルエンザ感染症の病因と考えられていたことに由来する名前である。現在ではこの説は否定されているが、インフルエンザに続発してインフルエンザ菌の感染をきたす可能性はある)。このうち、回復した患者から感染者に血液を輸血するという治療法は、インフルエンザの対する成功の一助となった。 1931年には、ヴァンダービルト大学のErnest William Goodpastureらによって、ニワトリ卵内におけるインフルエンザウイルスの増殖が報告された。この研究は、複数の他の研究者らによって引き継がれ、インフルエンザウイルスの増殖によって最初の実験的インフルエンザワクチンが誕生した。1940年代には、インフルエンザワクチンによる一定の予防効果が確認された。実験・開発は、アメリカ軍に設置された「インフルエンザその他陸軍において発生する伝染性疾患の研究と防疫の為の委員会」によって主にすすめられ、第二次世界大戦期(1943年ごろ)から本格的な使用が開始された。さらに、ワクチン製造メーカーは、ウイルスの純度を改善するために製造プロセスの開発を行い、ニワトリ卵タンパク質をより除去し、さらにワクチンの全身反応性を低下させるための改善を進めた。最近では、アメリカ食品医薬品局 (FDA) は、ニワトリ卵を用いず細胞培養によってウイルスを増殖させて作られたインフルエンザワクチンを承認した。また、植物細胞由来のインフルエンザワクチンも臨床試験が行われている。 日本において1962年にインフルエンザワクチンの集団予防接種が開始され、1964年にはその副反応の被害訴訟がはじまり80年代、90年代まで続いた。1994年には学校での集団予防接種は廃止された。 次第に新型インフルエンザの恐怖が煽られ、出版物が続々と刊行された。2009年には世界的なパンデミック宣言が発せられた。各国は膨大な税金をワクチンや抗ウイルス薬を備蓄したが、その致死性が恐れていたほどではないと判明した。 ===年によるワクチン型の変更=== 世界保健機関 (WHO) は、次年に流行する可能性が最も高いインフルエンザウイルス株を選択して、毎年ワクチンの内容を調整している。WHOの世界的インフルエンザ調査ネットワーク (Global Influenza Surveillance Network; GISN) によって、毎年、それぞれの年の流行期におけるインフルエンザワクチンとして、3つあるいは4つのウイルス型が選択される。従来は3価(3種類のウイルス型が入っている)のインフルエンザワクチンが使用されていたが、4価インフルエンザワクチンが承認されたことに伴い、WHOは、2012年から2013年までの北半球におけるインフルエンザ流行期から、B型株を2つに増やした4価のインフルエンザワクチンを推奨している。H1N1、H3N2、B型の系統から選択されたこれら3つあるいは4つの型は、次の流行期にヒトへの影響が強い可能性が最も高いとされる。 最初の正式なWHOによる勧告は、1973年に出されている。1999年からは、北半球(N)と南半球(S)の2つの勧告を年に2回行うこととなった。WHO世界インフルエンザ監視対応システム(Global Influenza Surveillance Network;GISN)は、1952年に設立された。このネットワークは、世界140か国に存在する「WHO国内インフルエンザセンター」(WHO National Influenza Centres; NICs) と、WHOによって認められた6つの「WHOインフルエンザ協力センター」(WHO Collaborating Centres; WHO CCs)によって構成されている。NICsは、自国でウイルスサンプルを収集し、検査を行う。ここから新しく単離されたウイルス株を、さらに高度な検査のためにWHO CCsに提供し、その結果が毎年のインフルエンザワクチンの構成に関する勧告の基本となる。製造するワクチンを決定するためのウイルス株選定は、どの株が次の年において支配的となるのかという最善の推定に基づいており、最終的には外れる可能性も存在する。とはいえ、ほとんどの年(2007年以前の19年のうち16年)において、インフルエンザワクチン株は流行株とのおおむね一致を示している。 日本においては、厚生労働省健康局の要請によって国立感染症研究所で開催される「インフルエンザワクチン株選定のための検討会議」に基づいて、厚生労働省が最終的な決定・通達を行う。国立感染症研究所では、WHO世界インフルエンザ監視対応システム(GISN)を介した世界各地の情報のみならず、日本全国77カ所の研究所と、厚労省結核感染症課の感染症発生動向調査事業により得られた国内の流行状況、および約8,158株に及ぶ国内分離ウイルスについての抗原性や遺伝子解析の成績、感染症流行予測事業による住民の抗体保有状況調査の成績などを考慮し、ワクチン候補株を選択する。さらに、これらの候補株について、ニワトリ卵での増殖効率、抗原的安定性、免疫原性、エーテル処理効果などの項目について、ワクチン製造に適するか検討を行っている。国立感染症研究所での会議で最終的なワクチン株が選定されると、厚生労働省健康局長から決定通知が公布され、その年のワクチン株が発表されることとなる。 ===年別ワクチン型一覧=== それぞれのワクチン株の選定理由については、国立感染症研究所によってインフルエンザ流行期ごとに発表されている。 2016/2017冬シーズン A/California(カリフォルニア)/7/2009(X‐179A)(H1N1)pdm09 A/Hong Kong(香港) /4801/2014(X‐263)(H3N2) B/Phuket(プーケット)/3073/2013(山形系統) B/Texas(テキサス)/2/2013(ビクトリア系統)A/California(カリフォルニア)/7/2009(X‐179A)(H1N1)pdm09A/Hong Kong(香港) /4801/2014(X‐263)(H3N2)B/Phuket(プーケット)/3073/2013(山形系統)B/Texas(テキサス)/2/2013(ビクトリア系統)2015/2016冬シーズン A/California(カリフォルニア)/7/2009(X‐179A)(H1N1)pdm09 A/Switzerland(スイス)/9715293/2013(NIB‐88)(H3N2) B/ Phuket(プーケット)/3073/2013(山形系統) B/ Texas(テキサス)/2/2013(ビクトリア系統)A/Switzerland(スイス)/9715293/2013(NIB‐88)(H3N2)B/ Phuket(プーケット)/3073/2013(山形系統)B/ Texas(テキサス)/2/2013(ビクトリア系統)2014/2015冬シーズン A/California(カリフォルニア)/7/2009(X‐179A)(H1N1)pdm09 A/New York(ニューヨーク)/39/2012(X‐233A)(H3N2) B/Massachusetts(マサチュセッツ)/2/2012(BX‐51B)A/New York(ニューヨーク)/39/2012(X‐233A)(H3N2)B/Massachusetts(マサチュセッツ)/2/2012(BX‐51B)2013/2014冬シーズン A/California(カリフォルニア)/7/2009(X‐179A)(H1N1)pdm09 A/Texas(テキサス)/50/2012(X‐223)(H3N2) B/Massachusetts(マサチュセッツ)/02/2012(BX‐51B)(山形系統)A/Texas(テキサス)/50/2012(X‐223)(H3N2)B/Massachusetts(マサチュセッツ)/02/2012(BX‐51B)(山形系統)2012/2013冬シーズン A/California(カリフォルニア)/7/2009(H1N1)pdm09 A/Victoria(ビクトリア)/361/2011(H3N2) B/Wisconsin(ウイスコンシン)/01/2010(山形系統)A/California(カリフォルニア)/7/2009(H1N1)pdm09A/Victoria(ビクトリア)/361/2011(H3N2)B/Wisconsin(ウイスコンシン)/01/2010(山形系統)2011/2012冬シーズン A/California(カリフォルニア)/7/2009(H1N1)pdm09 A/Victoria(ビクトリア)/210/2009(H3N2) B/Brisbane(ブリスベン)/60/2008(ビクトリア系統)A/Victoria(ビクトリア)/210/2009(H3N2)B/Brisbane(ブリスベン)/60/2008(ビクトリア系統)2010/2011冬シーズン A/California(カリフォルニア)/7/2009(H1N1)pdm A/Victoria(ビクトリア)/210/2009(H3N2) B/Brisbane(ブリスベン)/60/2008 (ビクトリア系統)A/California(カリフォルニア)/7/2009(H1N1)pdmB/Brisbane(ブリスベン)/60/2008 (ビクトリア系統)2009/2010冬シーズン A/Brisbane(ブリスベン)/59/2007(H1N1) A/Uruguay(ウルグアイ)/716/2007(H3N2) B/Brisbane(ブリスベン)/60/2008A/Brisbane(ブリスベン)/59/2007(H1N1)A/Uruguay(ウルグアイ)/716/2007(H3N2)B/Brisbane(ブリスベン)/60/20082008/2009冬シーズン A/Brisbane(ブリスベン)/59/2007(H1N1) A/Uruguay(ウルグアイ)/716/2007(H3N2) B/Florida(フロリダ)/4/2006B/Florida(フロリダ)/4/20062007/2008冬シーズン A/Solomon Islands(ソロモン諸島)/3/2006(H1N1) A/Hiroshima(広島)/52/2005(H3N2) B/Malaysia(マレーシア)/2506/2004A/Solomon Islands(ソロモン諸島)/3/2006(H1N1)A/Hiroshima(広島)/52/2005(H3N2)B/Malaysia(マレーシア)/2506/20042006/2007冬シーズン A/New Caledonia(ニューカレドニア)/20/99(H1N1) A/Hiroshima(広島)/52/2005(H3N2) B/Malaysia(マレーシア)/2506/2004A/New Caledonia(ニューカレドニア)/20/99(H1N1)2005/2006冬シーズン A/New Caledonia(ニューカレドニア)/20/99(H1N1) A/New York(ニューヨーク)/55/2004(H3N2) B/Shanghai(上海)/ 361/2002A/New York(ニューヨーク)/55/2004(H3N2)B/Shanghai(上海)/ 361/20022004/2005冬シーズン A/New Caledonia(ニューカレドニア)/20/99(H1N1) A/Wyoming(ワイオミング)/3/2003(H3N2) B/Shanghai(上海)/361/2002A/Wyoming(ワイオミング)/3/2003(H3N2)B/Shanghai(上海)/361/20022003/2004冬シーズン A/New Caledonia(ニューカレドニア)/20/99(H1N1) A/Panama(パナマ)/2007/99(H3N2) B/Shandong(山東)/7/97(Victoria系統株)A/Panama(パナマ)/2007/99(H3N2)B/Shandong(山東)/7/97(Victoria系統株)2002/2003冬シーズン A/New Caledonia(ニューカレドニア)/20/99(H1N1) A/Panama(パナマ)/2007/99(H3N2) B/Shandong(山東)/7/97(Victoria系統株)2001/2002冬シーズン A/New Caledonia(ニューカレドニア)/20/99(H1N1) A/Panama(パナマ)/2007/99(H3N2) B/Johannesburg(ヨハネスバーグ)/5/99(山形系統株)B/Johannesburg(ヨハネスバーグ)/5/99(山形系統株) ==研究== インフルエンザウイルスワクチンの研究は、分子ウイルス学、分子進化、病因、宿主の免疫応答、ゲノミクス、および疫学などのさまざまな学問が重要となる。また、インフルエンザウイルスがどのように細胞に侵入し、複製し、変異し、新たな系統に進化し、免疫応答を誘導するかということに関する基礎研究を必要としている。「インフルエンザゲノム配列解析プロジェクト」は、インフルエンザの遺伝子配列のライブラリを作成している。このプロジェクトによって、どのウイルス株が他のウイルス株より致命的なであるのか、どの遺伝的決定因子が免疫に最も影響を与えるのか、そしてウイルスがどのように進化するかを理解するのに役立ちつ。さらに、現状のワクチンによる対策の限界への解決策が研究されている。 ===世界的大流行に対する迅速な対応=== インフルエンザの世界的大流行(いわゆるパンデミック)が発生した時、インフルエンザワクチンを迅速に開発、生産、流通させることは、何百万人もの命を救う可能性がある。短期間でパンデミックの原因となったウイルス株と特定し、それを迅速かつ安価に製造し、パンデミックの発生源地と予想されている中低所得国へ提供するために、研究者たちは、ニワトリ卵や遺伝子組み換え技術を用いた新しい技術の開発を進めている。2009年に発生した新型インフルエンザの世界的流行と関連して、2009年7月には、70以上の臨床試験が完了しており、パンデミックを引き起こすインフルエンザ株に対するワクチン開発も進められた。2009年9月、アメリカ食品医薬品局(FDA)は、2009年の新型インフルエンザウイルス株に対して4種類のワクチンを承認している。 ===季節性インフルエンザに対する4価ワクチン=== 従来は、3種類のウイルス株が入った3価のインフルエンザワクチンが使用されていたが、2012年3月に、アメリカ食品医薬品局(FDA)によって、経鼻スプレーによって投与される4価インフルエンザワクチン(4種類のウイルス株が入ったもの)であるFluMist Quadrivalentが承認された。さらに、2012年12月には、4価不活化ワクチンであるFluarix QuadrivalentがFDAの承認を受けた。これらのワクチンは、アメリカ合衆国において2013‐2014年のインフルエンザ流行期から導入されている。 日本においても、2015‐2016年のインフルエンザ流行期から4価のインフルエンザワクチンが導入されている。国立感染症研究所は、世界的に3価インフルエンザワクチンから4価インフルエンザワクチンへと移行が進んでいるのを受けて、4価インフルエンザワクチン導入の是非について2015年度における「インフルエンザワクチン株選定のための検討会議」において検討を行い、4株のワクチン株を選定した。この選定を受けて、最終的に厚生労働省が4価ワクチン導入を決定した。なおこのとき、インフルエンザワクチンの医薬品としての製法、性状、品質、貯法等に関する基準を定めた「生物学的製剤基準」の改正もあわせて行われた。 ===ユニバーサルインフルエンザワクチンの開発=== インフルエンザワクチンは、2017年現在の技術では、各半球の各インフルエンザ流行期に合わせてそれぞれ内容を調整して製造しなければならない。このような必要がなく、すべてのインフルエンザ株に効果のあるワクチン「ユニバーサルインフルエンザワクチン」を開発することができれば、ワクチンの供給を安定させ、ウイルスの変異を原因とするインフルエンザの流行を防ぐことができるとされる。そのため、何十年にもわたって研究の対象となってきた。 この「ユニバーサルインフルエンザワクチン」を実現させるために、現在のワクチンが標的としているウイルス抗原(HAヘッド)ではなく、抗原変異が起こらない別の抗原部位(HAストーク)を標的にしてワクチンをつくるというアイデアがある。2009年には、世界インフルエンザワクチン会議(IVW2009)において、インフルエンザウイルスの3種類のタンパク質から、変異しない特定の領域9カ所を連結した遺伝子組み換えワクチンが「ユニバーサルインフルエンザワクチン」として発表された。その後、2015年にも別の手法によって作成したワクチンのマウス実験の結果が発表されている。しかし、いずれの感染防御効果もいまだ実用段階には至っていない。また、そのほか期待されている方法として、免疫系による免疫応答を利用して抗体を生成する現在のワクチンによるシステムではなく、中和抗体を使用する方法が提案されている。 =ドイツ国大統領= ドイツ国大統領(ドイツこくだいとうりょう、ドイツ語: Reichspr*6345*sident)は、ヴァイマル共和政(1919年 ‐ 1934年)およびナチス・ドイツ(1934年 ‐ 1945年)におけるドイツ国(Deutsches Reich)の国家元首である。 ==ドイツ国大統領の誕生== 第一次世界大戦末、敗色濃きドイツ帝国で革命が発生した。1918年11月9日、ベルリンの帝国宰相官邸に在って革命により進退窮まった帝国宰相マクシミリアン・フォン・バーデンは、スパの大本営にいた皇帝ヴィルヘルム2世の退位を独断で宣言し、さらにドイツ社会民主党(SPD)党首フリードリヒ・エーベルトに宰相職を譲った。さらに同党の共同党首フィリップ・シャイデマンが王党派だったエーベルトに独断で共和国宣言(ドイツ語版)を行うに至った。 1919年1月19日に制憲国民議会選挙が行われ、2月6日に制憲国民議会がヴァイマルに召集された。2月10日にそこで臨時憲法にあたる暫定国家権力法(ドイツ語版)が採択され、この中で初めてドイツ国大統領(Reichspr*6346*sident)の存在が規定された。その翌日にエーベルトが制憲国民議会議員の投票によって大統領に選出(ドイツ語版、英語版)された。 暫定国家権力法の大統領には憲法とそれに基づく政府が設立されるまでの間、担当閣僚の副署を得たうえで政令を発する任務が与えられていた。 ==ヴァイマル共和政のドイツ国大統領== 1919年7月31日にヴァイマル憲法 (WRV: Weimarer Reichsverfassung) が制憲国民議会で採択された。同憲法においてドイツ国大統領は第3章「大統領及び政府」(41条から59条)を中心に規定されている。 ===大統領の選出=== ヴァイマル憲法41条はドイツ国大統領の被選挙権を35歳以上の全ドイツ国民に認め、大統領は全ドイツ国民から選出されると定めていた。細かい選挙制度は法律によって定めるとしており、大統領選挙法によってそれが規定されていた。同法は最初の投票では当選には過半数の得票が必要であり、この投票で過半数を得票した候補がいない場合には第2次投票が行われ、最多得票者を当選者とするとしていた。また第2次投票の出馬のために第1次投票に出馬している必要はないとしていた。 憲法43条は大統領の任期を7年とし、再選可能としていた。また、議会が持つ大統領の弾劾権と大統領罷免のための国民投票発議権によって、大統領を罷免することが可能な規定になっていた。 なおエーベルトは憲法制定前に制憲国民議会から暫定的に大統領に選出されたため、ヴァイマル憲法の定めるドイツ国民からの選出を受けていないが、憲法180条によって次の大統領選挙までエーベルトが大統領職に在職することが認められていた。エーベルト自身は1920年6月以降国民による大統領選挙の実施を希望していたが、内外の事情がそれを許さず、最終的にシレジアでの紛争が終わった1922年になってエーベルトの任期を1925年6月30日までとする憲法180条の改正が行われた。 しかしこの任期切れ前の1925年2月28日にエーベルトが死去した。これによりヴァイマル憲法に則った初めての国民直接投票による大統領選挙が行われることとなった。3月29日に大統領選挙が行われたが、過半数を獲得した候補はいなかった。そのため4月26日に第二次選挙が行われ、パウル・フォン・ヒンデンブルクが僅差でヴィルヘルム・マルクスを破って大統領に当選した(1925年ドイツ大統領選挙)。 ヒンデンブルクの7年の任期満了に伴う1932年の大統領選挙にはナチ党党首アドルフ・ヒトラーが出馬していた。3月13日の選挙の結果、再選を目指すヒンデンブルクが最多得票したが、得票率49.6%とわずかに過半数に届かなかった。そのため4月10日に二度目の選挙があり、この選挙で53%の得票率を得たヒンデンブルクが再選した(1932年ドイツ大統領選挙)。 ===大統領の代行=== 憲法51条は任期期間中に大統領が任務遂行不可能となった場合には首相がこれを代行し、その期間が長くなり得る際に法律の定めるところによって代行を擁立すると定めていた。 1925年2月28日にエーベルトが大統領の任期切れ直前(1925年6月30日)に死去したため、まずは憲法51条の規定に基づいてハンス・ルター首相が代行を務めることになった。その後、ルターの代行期間が長くなり得ることが確実視されたため、同年3月10日に国会で大統領代行に関する特例法が採択され、ヴァルター・ジモンス帝国最高裁判所長官が大統領代行に就任した。 ヒンデンブルクの時代に国会の第一党となったナチ党はこれを恒常化すべきであるとして憲法改正を提案し、1932年12月17日に憲法改正条項である憲法76条に基づいて憲法51条の規定が法律で修正され、大統領が職務を執れない場合は最高裁判所長官が大統領職を代行すると規定された。ナチ党がこの憲法修正を行わせたのは、当時のクルト・フォン・シュライヒャー首相が大統領を兼務することを阻止するためだったという。 ===大統領の権限=== 大統領は憲法24条により国会召集権、また25条により国会解散権を有した。ただし解散権が濫用されないよう同一案件での解散は1回のみに限定されていた。しかしこの規定に罰則はなく、もし違反して解散総選挙を行ってもその選挙は有効とされていた。憲法25条により総選挙は解散後60日以内に行わねばならなかったが、政治的混乱が多かったヴァイマル共和政時代においてはこの規定は政府が2カ月の間国会から自由になれるという意味があった。 憲法45条により大統領は国際法上ドイツ国を代表し、諸外国と条約を結び、また、諸外国使節の認証や接受を行うとされていた。憲法46条は法律に別個定めがある場合を除き大統領に官吏・将校の任免権を認めている。さらに憲法47条は大統領に国軍最高指揮権を認めている。 憲法48条の第1項では州政府が憲法の義務を果たさない場合は大統領は武力をもって州政府に対して義務を履行させることができると定めており、第2項では公共の秩序が阻害または危機にある場合にも武力を含めた必要な処置を執ることが認められており、その際に基本的人権に関する一定の条項につき一時的に効力を停止することを認めていた。ただしこれらの処置を行った場合は国会に遅滞なく報告せねばならず、国会の要求があればその処置は停止されるとも定められていた。 この非常時の強力な大権によりヴァイマル憲法のドイツ大統領は「代理皇帝(Ersatzkaiser)」とも呼ばれていた。大統領にこのような権限が認められたのは憲法を創案したフーゴ・プロイスやマックス・ウェーバーらが議会政治に慣れていないドイツ人が完全なる議会政治の中に投げ込まれれば混乱に陥ると考えたためだった。しかし、結局はこの憲法48条第2項が後に拡大解釈されて大統領内閣の道を開き、事実上議会政治が終焉してしまった。 憲法53条は大統領に政府の議長たる首相の任免権を認めていた(閣僚は首相の提案に従って任免)。首相の任命にあたって国会が関与できるのかどうかは議論のあるところだったが、54条は政府は国会の信任を必要とし、不信任を受けた場合は退陣しなければならない旨を定めていたため、結局は首相の任命にあたっても国会が影響を及ぼすことになった。実際的な運用としては事前に大統領が国会の各会派と協議を行ったが、それは徐々に各党への圧力という形に変化していった。しかし、それは政府が強かったというよりもむしろ国会の弱さが原因であった。国会議員の選挙制度が比例代表制だったため、国会は常に多数派が安定せず、首相選定にあたって安定した首相候補を推せる立場になかった。それでも、SPD出身のエーベルトの大統領在任中には国会との協力の上で組閣を行うことが重視されていたが、軍部出身のヒンデンブルクの大統領在任中には徐々に首相任免権は大統領にあることが強調されて組閣にあたって首相に指針を与えることが増え、ついには国会軽視の大統領内閣が組閣されるに至った。 憲法73条は大統領に国会が制定した法律を国民投票に付す権限を認めていたが、それが実施されることはなかった。国会解散権の方が強力であり、そちらで十分だったからである。 憲法50条は大統領が出す全ての命令と処分を発効するためには首相か担当閣僚の副署が必要としており、その政治責任は首相か担当閣僚が負うと定めていた。このことも非常時には大統領が直接政治指導するのだという解釈を強めた。 ===大統領内閣について=== 世界恐慌の中の1930年3月27日、ヘルマン・ミュラー大連立内閣は失業者対策で社民党の党内合意を得られずに瓦解した。社民党、ヤング案反対運動に興じる国家人民党、ヴァイマル共和政を「ブルジョア共和政」として忌み嫌う共産党、いずれからも政府支持を期待できない中、ヒンデンブルクは議会に拘束されない政治を志向し、側近のクルト・フォン・シュライヒャーの薦めに従ってハインリヒ・ブリューニングを首相に任命しつつ、憲法48条第2項に基づいて公布する大統領緊急命令(以下、大統領令)を発令して政治を行う「大統領内閣(ドイツ語版)」を開始した。ブリューニング辞職後もフランツ・フォン・パーペン内閣、クルト・フォン・シュライヒャー内閣と大統領内閣を継続した。 1930年7月16日にブリューニング内閣が提出した赤字補填案が国会で否決されるとヒンデンブルクは大統領令を出して強引に可決させたが、社民党がこれを国会の投票で否決し、国会の解散につながった。1930年10月18日には大統領令で国会から予算審議権を剥奪している。また、台頭するナチ党の弾圧にもしばしば使用され、1931年3月28日にはナチ党の集会と新聞を禁止する大統領令が出され、1932年4月23日にもナチ党の突撃隊と親衛隊を禁止する大統領令が出されている。パーペン内閣時代の1932年7月20日には大統領令で社民党のオットー・ブラウン首相率いるプロイセン州政府をクーデター(ドイツ語版)で強制的に解体した。 こうして、従来なら大統領令の発令対象にならなかった分野にも続々と大統領令が発令されるようになり、大統領令の乱発によって国会の重要性は低下していった。しかし、大統領令の拡大は最高裁判所や多数の憲法学者、ドイツ民主党など中道ブルジョア政党から独自の立法権としてむしろ擁護されていた。 それでも大統領内閣ではナチ党や国家人民党とうまく折り合いがつかず、結局は1933年1月30日にナチ党・国家人民党による連立政権と大統領内閣を組み合わせたようなヒトラー内閣が誕生するに至った。 ==ナチス体制下のドイツ国大統領== ===大統領と首相の二頭政治=== 1933年1月30日にヒトラーが首相に就任し、2月28日には前日に発生した帝国議会議事堂放火事件に伴う混乱の収拾というヒトラーの要請を受けたヒンデンブルクはヴァイマル憲法48条第2項に基づき、国民の基本的人権に関する114、115、117、118、123、124、153の各条の効力を一時的に停止するとしたドイツ国民と国家を保護するための大統領令とドイツ国民への裏切りと反逆的策動に対する大統領令(ドイツ語版)(二つの大統領令(ドイツ語版))を布告した。 ついで3月24日にはドイツ国家人民党と中央党の協力を得て憲法76条の憲法改正立法の手続きを踏んで全権委任法を国会で可決させる。これにより、憲法を除くあらゆる法律の制定権限が首相に認められた。さらに一党独裁体制を構築した後の1934年1月30日には憲法76条の憲法改正立法の手続きを踏んで国家新構成法(ドイツ語版)を制定し、その中で「政府は憲法を制定できる」と定めた。 これらの処置によりヴァイマル憲法は事実上死文化して国会も無力化されるとともに、各地の州(ラント、独: Land、複数形: L*6347*nder)の代表者からなる上院(ライヒスラート)も廃止され、ヒトラーは独裁的権力を持つようになる。しかし、ヒトラーは憲法上の大統領権限には浸食しなかったため、首相・閣僚の任免権や国軍の最高指揮権は依然としてヒンデンブルクにあり、首相ヒトラーとの二頭政治はヒンデンブルクの死まで続いた。しかし、既に病体であったヒンデンブルクはヒトラー首相が全権委任法に基づいて政党新設禁止法(ドイツ語版)を制定するなどの一党独裁体制を確立する措置に対して強い行動を起こさなかった。 1934年6月21日には国軍最高指揮権と首相任免権を有するヒンデンブルクがヒトラーに対して突撃隊問題を解決できないならば大統領権限で戒厳令を布告し、ヒトラーの権限を陸軍に移すと通達しており、これによりヒトラーは突撃隊粛清の決意を固めて長いナイフの夜の粛清を行ったとみられる。 ===首相職およびヒトラー個人との統合=== ヒンデンブルクの死期が迫った1934年8月1日、ヒトラーは国家新構成法を根拠として国家元首法(ドイツ語版)を制定し、その中でヒンデンブルクが死去した場合には、大統領職と首相職を合一させた上で、憲法が定める大統領の権能は「指導者兼首相(F*6348*hrer und Reichskanzler)であるアドルフ・ヒトラー」個人に対して帰属させると定めた。そして8月2日にヒンデンブルクが死去すると、一時間と経たずに大統領の権能はヒトラーに統合された旨が発表された。軍はヒトラー個人に対して忠誠宣誓を行った。8月19日には国家元首法の賛否を問う国民投票(ドイツ語版)が行われ、89.9%の賛成票を受けた。 かくしてヒトラーはドイツ国の国家元首の地位に就いたが、大統領(Reichspr*6349*sident)という呼称はヒンデンブルクへの敬意のためとして永久に廃止するとされた。以後ヒトラーは「F*6350*hrer」もしくは「F*6351*hrer und Reichskanzler」の称号を用いた。国家元首、首相、そしてナチ党の党首としてドイツ国の最高指導者となったヒトラーの地位を日本では「総統(F*6352*hrer)」と称している。 ===デーニッツの大統領就任=== 第二次世界大戦に敗れてベルリンが陥落すると、ヒトラーは自殺してナチス・ドイツは事実上崩壊した。ヒトラーの政治的遺書(英語版)に基づき、カール・デーニッツ海軍元帥が臨時政府(フレンスブルク政府)の後継者となった。ヒトラーの遺書では、デーニッツの地位は「総統」ではなく、ヒンデンブルクの死後、事実上存在していなかった「ドイツ国大統領(Reichspr*6353*sident)」であった(首相にはヨーゼフ・ゲッベルスが指名されていたが直後に自殺したため、デーニッツの任命によりルートヴィヒ・シュヴェリン・フォン・クロージクが代行を務めた)。しかし、デーニッツ本人はヒトラーの後継者であることは認めつつも、自らを大統領であると称することは控えていた。降伏後、5月23日にデーニッツを含む臨時政府閣僚は連合国によって逮捕された。臨時政府の解体とドイツ中央政府の消滅を宣言したベルリン宣言により、ドイツ国大統領の職は完全に終焉を迎えた。 ==ドイツ国の歴代大統領== ドイツ国の歴代大統領・総統は以下のとおりである。 ==ドイツ国の大統領旗== ===ヴァイマル共和政時代=== ===ナチ党による権力奪取以後=== ==戦後ドイツの大統領制に与えた影響== ヴァイマル憲法が大統領に強大な権限を与えた結果、ヒトラーによる独裁を許してしまったため、戦後に西ドイツで制定されたドイツ連邦共和国基本法では、大統領の役割は形式的・儀礼的なものにほぼ限定されており、選出方法も間接選挙となっている。戦後のドイツ大統領についての詳細は連邦大統領 (ドイツ)を参照。 =水の江瀧子= 水の江 瀧子(みずのえ たきこ、1915年2月20日 ‐ 2009年11月16日)は、日本の女優、映画プロデューサー、タレント。 50年以上に亘り芸能活動を続けたが、1984年に甥の三浦和義が妻の不審死に関わったのではないかとしてマスメディアを賑わせた「ロス疑惑」のスキャンダルに巻き込まれ、芸能界を引退。その後は隠居の傍らジュエリー作家として活動したほか、1993年に自身の生前葬を大々的に催し話題をとった。 出生名は三浦 ウメ子であったが、ロス疑惑の後、法的に水の江瀧子を本名とした。以下の経歴部分では、松竹入団までをウメ子、入団後を瀧子と記述する。「水ノ江」や「滝子」との表記も多くあるが、引用部分を除き「水の江瀧子」で統一して記述する。 1928年に東京松竹楽劇部(後の松竹少女歌劇部、松竹歌劇団)に第1期生として入団。日本の女性歌劇史上初めて男性様に断髪した男役で「男装の麗人」の異名を取り、「ターキー」の愛称と共に1930〜40年代にかけて国民的人気を博した。1942年の松竹退団後は劇団主宰、映画女優などを経て1955年に日活とプロデューサー契約。日本初の女性映画プロデューサーとなり、石原裕次郎を筆頭に、浅丘ルリ子、長門裕之、岡田真澄、和泉雅子、赤木圭一郎ら数々の俳優や、中平康、蔵原惟繕といった監督を発掘・育成し、『太陽の季節』、『狂った果実』など70本以上の映画を企画、日活の黄金時代を支えた。また、『NHK紅白歌合戦』の司会を2度務めたほか、『ジェスチャー』、『独占!女の60分』といった番組に携わった。 ==経歴== ===生い立ち ‐ 初舞台=== 1915年、北海道小樽区(後の小樽市)花園町に生まれる。8人きょうだいの7番目だったが4人が子供の頃に死んだため、4人きょうだいの末っ子として育つ。出生名は三浦ウメ子。2歳の時に一家で東京府千駄ヶ谷(後の東京都渋谷区千駄ヶ谷)、次いで目黒村(後の目黒区)に移り、以後同地で育った。幼少の頃は当時まだ田舎だった目黒にあってベーゴマ遊びやチャンバラごっこ、洞窟探検などに興じる活発な少女であった。 1928年、東京松竹楽劇部の新設に伴う第1期生募集の新聞広告を見た次姉が、ウメ子の知らぬ間に入部試験に応募。ウメ子は「浅草に連れていってあげる」と姉に試験会場まで連れ出され、何も聞かされず言われるがままに試験に臨み、合格した。ウメ子は何の感慨も湧かず、「学校の勉強があまりできなかったから、それよりはこっちの賑やかなほうへ行くほうがいいだろうと思ったぐらい」であったという。試験でのウメ子の様子については様々な伝聞があるが、『タアキイ ‐水の江瀧子伝‐』の著者中山千夏が「おそらく正確なところを語っている」とする試験委員・大森正男の次のような回想がある。 初めて東京に楽劇部の支部が出来て女生を募集したとき私も試験委員の一人として思へばターキーを試験したのだつた。その時のターキーがどんな子だつたか、何一つおぼえてゐない。〔中略〕その時の試験委員の連中だつてその時、今日のターキーを見越して採用した人はおそらくあるまいと思ふ。〔中略〕『その頃からターキーにはどつか違つたところがあつた』と云へる程、私はあの頃のターキーについて知るところがない。 入部後は高田雅夫・永井三郎(洋舞)、花柳輔蔵(日舞)、天野喜久代(声楽)、篠原正雄(音楽)に師事しながら10カ月あまりの基礎訓練を受けた。芸名は最初「東路 道代(あずまじ みちよ)」であったが、「水の江たき子」の名を授けられた生徒が不満を訴えたことから芸名の交換が行われ、「水の江たき子」がウメ子の名となった。この名前は『万葉集』所収の柿本人麻呂の一首「あしかものさわぐ入り江の水の江の 世に住みがたき我が身なりけり」に由来する。後に初めて役が付いた際に、ポスターのレイアウト上の都合から「水の江瀧子」となり、以後定着した。初舞台は1928年12月、昭和天皇の即位礼に合わせ、先に発足していた大阪松竹楽劇部が浅草松竹座で上演した『御大典奉祝レビュー』の中で、奉祝行列の山車の紅白綱を曳く子供役であった。なお、瀧子の初めての舞台化粧を施したのは当時大阪松竹に所属し、後に「ブギの女王」として国民的歌手となる笠置シヅ子(当時の芸名は「三笠静子」)で、笠置とは後々まで交流が続いた。 ===「男装の麗人・ターキー」へ=== 1929年11月28日、浅草松竹座で東京松竹単独としての初公演『松竹座フォーリィズ』を上演。1930年5月に東京六大学野球をレビュー化した『松竹座リーグ戦』で瀧子にも初めて役が付き、「慶応大学主将」を演じた。1930年10月、人気が高まりつつあった東京松竹は「松組」、「竹組」の二部制を導入し、瀧子は竹組に所属した。 翌1931年5月31日、『先生様はお人好し』で髪を短く切って出演し、千秋楽の頃には楽屋にファンが大挙して訪れるなど大きな反響を呼んだ。当時、瀧子は周囲との身長差から群舞でひとり目立ってしまうため、楽屋で待機させられていることが多かったが、同作では舞台装置を転換する2分間、場を繋ぐ必要が生じた。そこで空いていた瀧子が急遽、劇中の女学生の噂話に出てくる「隣の美青年」として幕前で踊る、という小さな場面が突発的に与えられたものだった。断髪はこの準備中に行ったもので、「君、髪切れよ」と促され、「いいですよ」と即答したという。当時から宝塚少女歌劇にも男役は存在したが、長髪をネットでまとめ、その上に帽子をかぶる形で舞台に上がっており、それと比較して瀧子の頭のシルエットはすっきりとしたものになり、以後宝塚にも断髪が波及していった。これにより瀧子は松竹楽劇部で最初の男役、さらに男性様の髪型にした日本で最初の男役となった。この作品は瀧子の出世作となり、「男装の麗人」の印象を決定づけた。 なお、松竹歌劇の史誌では、前年9月に出演した『松竹オン・パレード』において短髪にした上で、シルクハットにタキシードという衣装で出演したことをもって「わが国レビュー史上はじめての、文字通り男装の麗人となった」とされているが、中山千夏の検証ではこの断髪は当時女性の間で流行していたボブカットにしたに過ぎず、当時の資料にその時の瀧子についての目立った反響もないことから、中山は「やっぱり『松竹オン・パレード』で髪をボブにしたのが画期的だったのではなくて、『先生様はお人好し』でほとんど少年なみに短く切った、それが画期的だったのだ」としている。また、同時代に出版された『評判花形大写真帖』(1933年)においても、「『先生様はお人好し』に初めて学生に扮してから、その颯爽たる男装を認められ」とある。 続く7月興行『メリー・ゴーランド』では主役に据えられ、11月には新歌舞伎座で公演を行った。このとき上演されたレビュー3本のうちの1本『万華鏡』において、カウボーイに扮した瀧子が名を問われ「俺はミズノーエ・ターキーだぁ!」と見得を切ったことから、以後「ターキー(書き文字では「タアキイ」が多用された)」の愛称が使われ始めた。この場面は歌劇団史誌においては「以後レビュー史上に燦然と輝く、ターキーの愛称が生れたのである」と称揚されているが、興行的には散々な不入り公演であったとされ、脚本を担当した江川幸一は「男装水の江の人気が確定したのと、『タアキイ』の名が残つただけが大きな拾ひ物と云はなければならない」と述懐している。また「ターキー」もすぐに定着したものではなく、まず瀧子ファンの間で徐々に使われていき、翌1932年7月に読売新聞に取り上げられ、それに追随して秋頃から経営陣が大々的に定着を図ったというのが実相であった。 また1931年秋には瀧子の私設後援会「水の江会」が発足。翌1932年元旦に発行された第1号パンフレットに記載された賛助会員は次のような面々であった。 永田龍雄夏川静江高津慶子西條八十如月敏島耕二川村花菱鈴木善太郎時雨音羽梅村蓉子中野実津村京村谷幹一川口松太郎崎山猷逸山田五十鈴泉博子楢崎勲江川宇禮雄長崎抜天田中絹代園池公功中井駿二畑本秋一藤田草之助菅原寛メイ牛山森岩雄袋一平(順不同) ===桃色争議=== 1931年10月、東京での人気定着を図る宝塚少女歌劇が新橋演舞場で公演を行い、これに対抗した東京松竹も築地川対岸の東京劇場で『らぶ・ぱれいど』を上演、東西レビュー劇団の対決的図式は巷間の注目を集めた。この公演は松竹、宝塚ともにファンを満足させたものの、世間で「上品な宝塚、大衆的な松竹」という対比が盛んに行われたことから、松竹側は経営陣、ファンともに「上流階級志向」を強めていった。この頃、東京松竹楽劇部は組織名を「松竹少女歌劇部(SSK)」と改めている。1932年12月、瀧子は「上流社会向け」に製作された「青い鳥」に出演したが、公演2日を終えた時点で病気になり、以後1カ月間の休演を余儀なくされた。相手役の吉川秀子もほぼ時を同じくして怪我で休演。この直前には劇団機関誌『楽劇』や水の江会のパンフレットに女生(団員)の過重労働を糾弾する内容が掲載されていた。 その後、松竹は1933年5月27日より歌舞伎座で『真夏の夜の夢』を上演していたが、公演が浅草松竹座に移って4日目の6月10日、待遇改善を求める劇団音楽部員と経営陣との間の争議が表面化。12日には音楽部員が瀧子に女生の合流を求めると、瀧子以下の女生もこれに応じ、共産党員も加入して事態は瀧子を委員長とする組織的な労働争議へと発展した。争議団の要求は昇給、各種手当の支給、衛生・設備の改善、公休日の設定等々であった。これに対し経営側は16日に浅草松竹座および本郷・帝劇両練習場を閉鎖し、レビューを廃し浪曲大会を催すと発表。争議団はこれにストライキで対抗した。10〜20代の女生を中心とした争議は世間の関心を集め、各紙誌はこれを「桃色争議」と書き立てた。交渉は難航し、7月1日、瀧子は歌劇部を解雇される。同時に経営側は復帰条件を呑んで帰参した女生による8月公演予定を発表。一方、瀧子ら争議団はさらなる切り崩しを防ぐため神奈川県湯河原町の湯河原温泉で立て籠もりを始めた。世間は争議団側に同調し、帰参した女生達を揶揄的に「お詫びガール」と呼び、瀧子らを「頑張りガール」と呼んだ。瀧子は後に「私はスターだったから、一応満足してる立場なのに、みんなと一緒になってやったものだから、同情が集まった」と振り返っている。 7月12日朝、警視庁が争議団本部などを一斉捜索し、思想犯の疑いで争議団長・益田銀三、委員長・瀧子以下46名を検挙。瀧子らは浅草象潟警察署に留置されたが、瀧子を含む35名は即日釈放された。翌13日から交渉が再開されると、17日には「生理休暇」を除くほとんどの条件を経営側が了承する形で争議は妥結された。争議の中で解雇された24名のうち5名は無条件復帰、瀧子を含む残り19名は2カ月間の謹慎処分となった。28日には松竹少女歌劇部が解消され、松竹本社直属の「松竹少女歌劇団」となった。 ===絶頂期=== 瀧子の謹慎中、劇団は争議前から売り出しを図っていたオリエ津阪(津阪織江)を中心として公演を行ったが、活気を欠いたものとなった。一方の瀧子は時事新報の平尾郁次の協力のもと、9月20日に日比谷公会堂でワンマンショーを行い好評を博した。この状況に劇団も瀧子の謹慎を解かざるを得なくなり、11月の東京劇場公演『タンゴ・ローザ』から瀧子は松竹に復帰した。この公演は地元の東京劇場、浅草松竹座のみならず大阪歌舞伎座、京都南座でも上演され、当時のレビュー界最多記録となる160回の上演を数え、松竹レビュー創生以来の傑作といわれた。京都日日新聞は南座公演の盛況ぶりを次のように伝えている。 「二十八日午後九時、満都のレヴユーフアンが待ち焦れてゐた東都レヴユー界の明星水の江滝子・津阪オリエ・西条エリ子らが、大阪の興行を打ちあげて華々しい京都乗りこみのときだ!京阪四条駅の上り下りのプラツトから南座前、菊水前へかけて何といふ人出だ!たゞ見る人人人の波である。その数無慮八千といふフアンが七時から乗り込みを聞き伝へて続続とつめかけてゐたが、九時前後になるともう附近一帯黒山で、身動きも出来ない」「見物席は若きマドモアゼルでぎつしり詰まつてゐる。その彼女達が舞台の何処かに水の江滝子の姿を一寸でも発見すると、”ターキー”口々に絶叫して熱狂する。(中略)これがため舞台は一層の活気を呈して、初日から圧倒的人気を見せてゐる」 以後の数年間がレビュースターとしての瀧子の絶頂期となった。瀧子が主演し『ウインナ・ワルツ』、『ベラ・ドンナ』、『シャンソン・ダムール/東京踊り』、『夏のおどり/ローズ・マリー』、『忠臣蔵』、『リオ・グランデ』といった公演がことごとく好評を博し、またキッコーマン醤油、アサヒビール、明治チョコレート、トンボ鉛筆、森永チーズ、ヒゲタ醤油、ダットサン、キヤノンカメラなど数多くの商品の広告宣伝に起用された。水の江会の会員は朝鮮、台湾などの居留民を含めて約2万人に達し、1935年10月13日には水の江会主催で劇団主催本公演と同等規模の「第3回タアキイ祭り」が挙行された。当時の瀧子のファンには宮家や数多くの華族も含まれており、娘が瀧子のファンであった高橋是清一家や、大倉財閥の大倉喜七郎らとは個人的にも親交を深めた。また少し後の時期ながら、ライバルである宝塚歌劇の娘役スター・月丘夢路が在団中に瀧子の楽屋を訪ねた際、嬉しさと緊張のあまりガタガタと震えたまま挨拶もできなかったという話が、月丘本人から伝えられている。20歳の頃には牛込に洋風の住宅を建て、マスコミに「ターキー御殿」と騒がれた。 男役スターとしての瀧子の人気ぶりについて、評論家の青地晨は次のように述べている。 かつて宝塚には葦原邦子や小夜福子らの第一級のスタアがいた。今日の松竹にも川路龍子、曙ゆり、小月冴子など男役の人気スタアは少なくない。だが、少女歌劇の過去、現在を通じて、タアキイほどのダイナミックな人気の所有者はなかった。遅れて出発した松竹が、一時は宝塚と肩を並べたのも、タアキイの力があずかって大きかった。近い将来も、彼女ほどの人気者が生まれる可能性は、まずなかろう。いわば彼女は少女歌劇の象徴みたいな存在である。 ===アメリカ滞在=== 1938年11月から12月までは、日中戦争の従軍兵士慰問のため中国北部を訪れた。帰国後、翌1939年1月から舞台に復帰したが、この頃から瀧子はファンの視線に対して恐怖を覚え始め、襖の引き手を人の目と誤認したことを皮切りに「アクセントのあるものは全て人の目に見える」といったノイローゼの様相を呈していった。 こうした中、瀧子の贔屓筋である日本領事館の市川という人物が「世間が狭いからノイローゼになる、治すためには一度あなたの地位を捨てなさい」と瀧子に渡米を勧めた。ちょうど国産航空機「ニッポン号」が、難航路である北回りルートでニューヨーク万博を目指す計画が持ち上がっており、市川の手配により、ニューヨークに到着した「ニッポン号」乗務員を現地で出迎えるガイドホステスという名目でアメリカ行きが決定。5月4日、「東京踊り」の千秋楽でファンや劇団との惜別が演出されたのち、同11日より「日米芸術親善使節」としてアメリカに赴いた。瀧子を悩ませたノイローゼは「船に乗った途端」治ったという。なお、瀧子はこのとき松竹歌劇から退団したつもりでいたが、公には休演扱いとされていた。 アメリカ到着後は船内で知り合った富豪ケロッグの歓待を受けたのち、サンタバーバラで居候をしながらロサンゼルス近辺で2〜3カ月を過ごした。その後、大倉喜七郎の知人であった男性歌手・デビッド黒川と、日系2世の少女を伴い、ルート66を通り車でニューヨークへ向かった。途中、黒川の出身大学があったレッドランズにおいて約2000人を前に舞踊を披露し、現地新聞『ザ・サン』に「日本の民族衣装を着た日本女優、タキコ・ミズノエが描き出した物語は、まったく絵のように美しかった」と賞賛された。なおニューヨークに到着する前には、持病としていた狭心症を発症し1カ月あまり入院、さらに黒川が荷物と金を持ち逃げするといった事件もあった。 ニューヨークに到着し、「ニッポン号」のガイドホステスの務めを終えてからは、在住日本人のサロン化していた目賀田綱美夫妻の家に身を寄せながら、専ら遊び歩いた。当時最新のショービジネスを見聞し、ブロードウェイで観劇をした際には、末端の出演者に至るまで確かな実力を持つことに「自分が少女歌劇でやってきたことは、どう贔屓目に見てもプロとはいえない」と思い知らされ、「ニューヨークでああいうのを見なければ、ずっとプロとアマチュアの違いもわかんなかったかも知れないし、とにかく”芸”というものが、初めてわかった」と後に語っている。 瀧子はその後ヨーロッパを巡って世界一周をする予定でいたが、ニューヨーク到着直後にドイツによるポーランド侵攻とそれを受けた第二次世界大戦の開戦があり、渡航を断念。その後もニューヨーク生活を続けたものの、第二次世界大戦のヨーロッパ以外への拡大が危惧されたことや、日米間の関係が緊迫し始めたこともあり「アメリカ滞在は危険」との勧告が寄せられるようになり、1940年3月に、約10カ月半のアメリカ滞在を終えて日本へ帰国した。 ===劇団たんぽぽ ‐ 映画俳優時代=== 帰国した瀧子に松竹はしきりに歌劇出演の打診をし、瀧子は嫌々ながら客演の形で舞台に立った。日中戦争が行われている戦時下において風紀の引き締めが行われていたことから、当局より男装禁止が通達されており、女役としての出演であった。またこの頃新派の舞台にも立ち、水谷八重子、井上正夫と共演している。 松竹歌劇の方では、1941年12月の「マレー作戦」により大東亜戦争が勃発し、日本軍は各地で戦勝を続けたものの、戦時下となったことから上演作品の内容に厳しい制限が課されるようになった上に、娯楽を自粛する雰囲気となったこともあり観客が激減した。そうした折り、当時瀧子のマネージャー兼恋人のようになっていた松竹宣伝部の兼松廉吉が新たな劇団創設を打診した。これを容れた瀧子は1942年12月に自身の劇団「たんぽぽ」を組織。翌1943年1月に15年間過ごした松竹を離れ、邦楽座で劇団「たんぽぽ」としての旗揚げ公演を行った。たんぽぽは今東光が命名した 旗揚げ当初は元松竹歌劇の団員が多く、「少女歌劇の亜流」扱いされたこともあり評判は良くなかった。その後、堺駿二、有島一郎、田崎潤といった男性俳優が加わった後、4月にニコライ・ゴーゴリ作の戯曲『検察官』をミュージカル化した『おしゃべり村』が大当たりし、同作をもって全国各地で公演を行った。しかし、戦時中のために不要不急の移動が自粛するように通達されていたこともあり、地方周りでは有島が大尉、瀧子が中尉の「軍属」という身分になっていた。 その後1945年に入ると日本軍の劣勢が決定的になり、日本本土に対する連合国軍機の空襲や艦砲射撃などが行われるようになり、空襲中にも上演を行っていたが、群馬県太田市では工場などを目標にした大規模な空襲に遭遇し、翌日の新聞に「”たんぽぽ”全員爆死」と誤報されたこともあった。 1945年8月に終戦し、以後は交通網の混乱などから渋谷の映画館などで公演を行っていたが、翌1946年、当時問題小説とされた『肉体の門』の上演を巡り、上演反対を主張する瀧子と賛成派が分裂。賛成派は新たな劇団「空気座」を旗揚げし、たんぽぽには瀧子、兼松、朝鮮人俳優の3名のみとなった。その後は「喜劇王」榎本健一率いる「エノケン一座」の助力を受けながら公演を続け、空気座に移った有島なども後に戻ってきたものの、1948年1月をもってたんぽぽは解散した。その後は国際劇場でのショーなどに出演していたが、1948年に大映と契約して出演した映画『花くらべ狸御殿』が大ヒットし、以後立て続けに10本ほどの映画に出演した。『花くらべ‐』は劇団たんぽぽとほぼ同じメンバーに月丘夢路、喜多川千鶴を加えて舞台化され、全国を巡業して好評を博した。 1952年、兼松が松竹のスター俳優鶴田浩二と共に「新生プロダクション」を設立。瀧子も新生プロに所属したが、瀧子によれば「ホモじゃないんだけど、それに近いような男同士の友情も大事にする人」だった鶴田が、「水の江君をとるか、僕をとるか」と兼松に迫った。悩む兼松に、瀧子は「鶴田さんはうんと人気があって、こっちは落ち目のほうだから」と引退を決意。公には舞台からの引退と発表し、1953年6月6日より20日まで松竹歌劇団で『さよならターキー・輝く王座』が催された。瀧子は『タンゴ・ローザ』や『狸御殿』など過去の名作を余すところなく演じ、また十七代目中村勘三郎、二代目市川猿之助、花柳章太郎、辰巳柳太郎、高峰三枝子、木暮実千代、淡島千景、京マチ子、灰田勝彦、淡谷のり子、服部良一、渡辺弘といった面々が日替わりで客演、10日連続で1万人以上を動員する盛況となった。 こうした出来事の一方で瀧子は新興メディアのテレビにも進出し、1953年2月のNHK開局と同時に始まったゲーム番組『ジェスチャー』に出演した。これはたんぽぽ時代に合同公演を行ったことがある柳家金語楼の推薦によるものであった。また、同年と1957年には『紅白歌合戦』の紅組司会を務めたが、瀧子はその前身『紅白音楽試合』(1945年)の司会者も務めている。『紅白音楽試合』では、欠場したベティ稲田の穴埋めとして急遽紅組トリで「ポエマタンゴ」を歌唱した。 ===日本映画界初の女性プロデューサーとなる=== 舞台引退後は、テレビで活躍する傍らしばし趣味に興じる生活を送っていたが、1954年2月10日、兼松が鶴田の作った借金3000万円を背負い自殺。当時住んでいた鎌倉の自宅が瀧子が知らぬ間に担保に入れられており、税金滞納のため差し押さえられた。一方で兼松は数多くの友人・知人への遺書で瀧子の生活支援を頼んでおり、そのひとりであった報知新聞社長・深見和夫が、新興の映画会社であった日活へ瀧子をプロデューサーとして売り込んだ。深見は当時の状況について次のように語っている。 (前略)彼女の身の振り方、気分転換を図ることが急務なので、私は、松竹の大谷竹次郎社長(故人)、城戸四郎副社長(後に社長、故人)、大映の永田雅一社長にも会った。しかし一世を風靡した人間だけに、かえってそれが災いして先方もその処遇に困って容易に返事をもらえなかった。一計を案じた私は新発足した日活映画の堀久作社長(故人)に会い、日本で最初の女プロデューサーを誕生させる気はないかと相談をもちかけた(二号は田中絹代)。水の江君の求める条件(給料)は月二十万円の収入であった。税務署の滞納税金を月賦返済、外部の借金に月々若干当て、残りが生活費だった。当時の二十万円は高額だったが、堀社長と交渉する私には自信があった。堀社長、江守専務(清樹郎、故人)をなんとか口説き落とした。 1年ごとに更新の日活の契約のプロデューサーとなり、1954年3月より勤務。瀧子は給料を10万円だったとしているが、それでも通常の倍額であった。しばらくは撮影所で相手にされず、社内で唯一交流があった江守の部屋に入り浸るのみの日々を送っていたが、勉強も兼ねて東宝のプロデューサー・藤本真澄制作による『女人の館』など数本の映画に出演し、制作の様子を見ながら基本を覚えていった。 翌1955年には初作品『初恋カナリヤ娘』を企画。明るい作風の喜劇が受け、1作で社内における地位向上に成功した。この作品を撮る前、瀧子は日劇ミュージックホールの看板に出ていた岡田真澄の美貌に目を留めて映画に出演させ、岡田は瀧子が発掘した最初の俳優となった。岡田は以前東宝ニューフェイスにいたが芽が出ず日劇に戻っており、「東宝に見放されて日活に誘われたんですから、飛び上がらんばかりに嬉しかったですよ」と述懐している。瀧子は岡田について「完全すぎてダメなんじゃないか」と思ったともいうが、ハーフであることにより味わった苦労が、独特の陰、ニヒルさを生んだのではないかとしている。また「美少年の岡田の隣に置いたら面白いのでは」という発想から、銀座のクラブでドラムを叩いていたフランキー堺も出演させている。 2作目の『緑はるかに』ではヒロインの公募が行われ、数千人の応募者の中から瀧子が浅丘ルリ子を選定(命名者は監督の井上梅次)。この映画もヒットし、浅丘は後に日活の看板女優となり、数多くの映画賞や紫綬褒章を受けるなど名女優の地位を確立した。他に補欠として桑野みゆき、ミュージカルシーン用に山東昭子、榊ひろみ、滝瑛子、安田祥子も選ばれ、その全員が映画界に残ることになった。 ===石原裕次郎の発掘=== 1955年、石原慎太郎の『太陽の季節』が芥川賞を受賞。日活は以前から映画化権を獲得しており、企画部の荒牧という人物が映画化実現のために奔走し、瀧子がプロデューサー中で唯一興味を示した。賛否両論が巻き起こっていた内容に、社内では「こんな不道徳なものを」という反対意見が起こったが、芥川賞を受賞したことで製作の方向へ傾いた。瀧子は当初原作者の石原慎太郎を主演として考えていたが、慎太郎と打ち合わせを重ねるうちに「一度弟に会ってほしい」と頼まれ、芥川賞受賞記念パーティーで慎太郎の弟・石原裕次郎に引き会わされた。瀧子はそのときの印象を次のように述べている。 「一目で『これはいける』と思った。不良って言ってもね、本当の不良かどうかは雰囲気で分かるんです。裕ちゃんにはそういう暗い翳はなかった。輝きがありましたから。(中略)やっぱり今までになかったタイプの青年でしたね。戦後アメリカがどっと入ってきたでしょう。ところが周りの日本人社会見たってそういうのは全然いなかったわけですよ。裕ちゃんにはそういう、ややアメリカ的な感じがあるでしょう。身長はあるしね」 また、蔵原惟繕は次のように述べている。 当時、ジェームス・ディーンなんかが出てきた時代で、既成の俳優の中にはない、時代の息吹を背負って出て来た、そういうものを感じさせる青年で、兄、石原慎太郎さんの小説『太陽の季節』なんかの、ああこの世界から本当に出てきたんだなという感じで、水の江さんの感覚に感心したんですけれど。ジェームス・ディーンみたいに、演技の上手下手は、超越したところで存在してしまう全く新しいタイプの役者が出てきたなと、これを見つけ出してきた嗅覚には驚いたもんです。 瀧子は裕次郎の主演を熱望したが、身長が高すぎて他の俳優と吊り合わないこと、素人であること、裕次郎が「不良」とされていたことなどから会社からの猛反対に遭い、長門裕之主演で撮影されることに決まり、裕次郎は湘南の学生言葉を指導するスタッフに回された。撮影開始後、瀧子は新たに付け加えた「拳闘部の学生」という端役に裕次郎を据え、カメラマンの伊佐山三郎に裕次郎を大アップで撮らせ、それをスチール化して会社幹部に見せた。この写真を見た幹部も出演に納得し、裕次郎は端役ながら『太陽の季節』の出演者に名を連ねることになった。瀧子が伊佐山に裕次郎を撮らせた際、伊佐山が「ファインダーの向こうに阪妻がいる」と感嘆したという話が伝説的に伝えられているが、瀧子によればそれは事実であったという。 映画『太陽の季節』は公開後、公序良俗に反する、若者を不良化させる、などといった非難を巻き起こし、各県で未成年の観覧が禁止されたが、「太陽族」、「慎太郎刈り」という流行語まで生み出す大ヒットを記録した。ただし瀧子は、監督の感覚が古く、「新しい若者の台頭」を描くべきところで焦点が違うところにあったとして、「プロデューサー会でさんざん吊し上げを喰って、それで、できた映画があれではどうしようもなかった」と作品の出来への不満を吐露している。 ===プロデューサーとしての成功=== 続く『狙われた男』では助監の中平康を監督に抜擢。会社からは「まだ早い」と反対されたが、瀧子は「早くたって会社のためにいいものができればいいじゃないの」と説き伏せた。さらに次回では裕次郎を初の主演に据え、監督に引き続き中平を起用して『狂った果実』を製作。同作は日本国内でのヒットのみならず国外でも高く評価され、特に当時フランスで勃興していたヌーヴェルヴァーグの代表的監督であったジャン=リュック・ゴダールやフランソワ・トリュフォーに影響を与えたとされており、瀧子もまた「名作だと思います」と高評価を送っている。 『太陽の季節』『狂った果実』の二作で裕次郎はスターの地位を確立し、以後「裕次郎映画」が次々と製作され、日活は黄金時代を迎えていった。この頃から瀧子は裕次郎を自宅2階に下宿させ始める。この理由について熊井啓は、態度が大きく重役から反発を買っていた裕次郎を、瀧子が手元で監督する意図があったとしている。会社が裕次郎のために家を建ててからは瀧子もその敷地内に家を建て、裕次郎、後にその妻となる北原三枝(石原まき子)などの若手俳優や、中平康、熊井啓、斉藤耕一、蔵原惟繕といった若手監督らが入り浸るようになった。蔵原は瀧子が「一種の才能集団みたいな息吹を裕ちゃんの周りに作り上げていった」とし、瀧子宅に若者が集ったことは「裕ちゃんと次の世代の監督、つまり我々の、才能を結びつけてゆく前段階であった」と述べている。しかしこの共同生活は、後に瀧子と裕次郎との関係に齟齬が生じる原因ともなった。 以後、瀧子は蔵原の初監督作品『俺は待ってるぜ』など数々の映画を企画。「芸術作品は好きじゃない」として、専ら娯楽作品ばかりを好んで手がけた。監督にもテンポが早い映像を要求したが、これは若く未熟な俳優ばかりを使っていたため、テンポが落ちると粗が見えやすくなるという理由もあった。また「舞台では、すぐ次の音楽が出て、パッと立って、サッと踊って、歌わなきゃなんないって生活をしてたもんですからね。それと比べちゃうんですよ」とも述べている。一方で蔵原は「水の江さんは芸術映画は好きじゃない、面白くなければと言っておられますけど、その中で僕らがね、きちっとした枠組みの中から飛び出そうとして試みることに対しては寛容だった。割合大胆に取り入れました」と述べている。 日活プロデューサーとしては、その他にも前述の岡田真澄やフランキー堺の発掘の他にも、中原早苗や和泉雅子の移籍、吉永小百合の抜擢、舟木一夫の獲得に成功するなどの手腕を見せた。スタッフでは倉本聰を気に入って、契約ライターとして日活に招いた。 ===裕次郎との確執 ‐ 日活退社=== 1963年、裕次郎が瀧子の映画の製作主任を務めていた中井景と共に日活を離れ、石原プロモーションを設立。以後瀧子は『何かいいことないか』を初めとして石原プロと共同で数本の映画を製作していたが、1968年、瀧子宅と裕次郎宅の同居を巡っての確執が報じられ、同年11月の『君は恋人』を最後として瀧子と石原プロとの共同は途絶えた。 裕次郎は週刊誌の取材に対し、瀧子宅の使用人や出入り業者によって裕次郎宅のプライバシーが侵され、妻のまき子がノイローゼ気味になっていたことや、瀧子のコントロール下から抜け出したかったことなどを関係変化の理由に挙げている。裕次郎は自宅の庭の拡張を理由として瀧子に立ち退きを求め、移転費用1500万円を裕次郎が負担するという条件で事態は決着した。この後瀧子は東京を離れ、神奈川県秦野市郊外に移り住んだ。日活の企画部社員であった黒須孝治はこの出来事について「プロデューサーと、それで動くスターとの宿命ですよね、これは。それがこの二人にも避けがたく訪れたということでしょう」と評している。また、独立後の裕次郎と三船敏郎の共演で大ヒットした『黒部の太陽』を監督した熊井啓は、瀧子との関係が破綻した後の裕次郎について次のように述べている。 (前略)石原プロは現場は強いが映画作りの中枢である企画部から出た人で構成されてないから企画の失敗がいくつもあった。独立してからあまりいい映画作ってないでしょ。これは軍師がいなかったということです。水の江瀧子という軍師がいなかった悲劇ですよ。水の江さんの言っていることは全部当たっているとは限らない、しかし、ある方向は見出せる方でした。その中で僕らの才能を水の江さんなりに巧みに操作して、路線に持って行くという軍師でしたから、そういう人が石原プロにいれば、また違った裕ちゃんの作品ができたのではないかと思う。いい企画でね、映画作らしてやりたかったな、という気がします。逆に言えば、裕ちゃんが日活時代ずっとやってこれたのは、軍師なり、裏方なりに、そういう精鋭が揃っていたっていうことになるんですよ」 1970年7月、瀧子は江守清樹郎の退社に追随する形で契約を更新せず日活を離れた。最後のプロデュース作品は同年7月公開の原田芳雄主演の『反逆のメロディー』であったが、瀧子は当時大阪万博の仕事を兼務し映画に集中できない状況にあり、監督が瀧子の意図を汲まず不本意な作品だったとしている。 以後はテレビを中心に活動し、1972年からは『オールスター家族対抗歌合戦』の審査員、1975年10月からは『独占!女の60分』のメインキャスターを、いずれも後述する芸能界引退直前まで務めた。また俳優としては『だいこんの花』(1974年)でテレビドラマに初出演。同年には熊井啓の監督映画『サンダカン八番娼館 望郷』にも出演した。最高視聴率23.0%を記録した『Oh!階段家族!!』(1979‐1980年)では「モダンおばあちゃん」役で親しまれた。 ===芸能界引退 ‐ 死去まで=== 舞台、映画、テレビにまたがる半世紀以上の芸能生活だったが、1983年、松竹歌劇団のミュージカル『マイガール』のプロデュースを経て、1984年に甥(実兄の子)の三浦和義が、保険金目的で妻を殺害した疑念が報道された「ロス疑惑」で世間に騒がれ、瀧子に対しても三浦が隠し子なのではないかとのいわれのない記事が10本以上報道された。この件に絡みワイドショーへの出演を求められたことでフジテレビとの諍いが起こり、『オールスター家族対抗歌合戦』を降板。1987年には『独占!女の60分』も辞め、芸能界から引退した。 隠し子騒動に絡んでは私生活でも三浦の父である兄から義絶を告げられ、一家と絶縁。また長く芸名で通していたことや、瀧子を本名で呼ぶ人物も少なくなったこと、さらに一連の騒動が起きたことで「三浦」という名に愛着がなくなり、1984〜1985年頃に本名を水の江瀧子に改名した。なお、三浦自身も小学生時代は瀧子が実母であると信じていたが、1985年には「水の江滝子の実子説というのはなんの根拠もありませんよ」とはっきり否定していた。瀧子によれば、その名声に傷が付かないようにと配慮した警察は、記事が出る前に主要週刊誌の記者を和義の生地である山梨に連れて行き、彼を取り上げた助産婦から、彼が確かに瀧子の義姉の子であり帳面も残っているとの証言を聞かせていたという。それを踏まえて記事を書いた週刊誌の行為に、瀧子は最も腹が立ったとしている。 引退後は、秦野市の自宅で宝飾デザインを始め、個展を開くなどした。1993年2月19日にキャピトル東急ホテルで、森繁久彌を発起人(葬儀委員長)とする生前葬を華やかに行い、続けて翌日の78歳の誕生日に「復活祭」を行い関係者を驚かせた。翌1994年、映画『女ざかり』(大林宣彦監督)への特別出演が最後の映画出演になる。1995年にはNHKのテレビドラマ『水辺の男 リバーサイドストーリー』に出演した。 晩年は、乗馬の際の怪我で車椅子生活となり、障害者手帳の交付も受けた。マスメディアの取材も受け付けず、毎回楽しみにしていた松竹歌劇団OG会にも一切出席することなく、ほとんど隠居的な生活を送っていたという。 2009年11月16日、老衰により神奈川県内の自宅において94歳の生涯を閉じる。21日に訃報が伝えられた。生前葬を行っていたため、公にお別れの会などは催されなかった。その死に際しては森光子が少女時代に観劇した『タンゴ・ローザ』の思い出などを絡めた惜別の辞を送った。同年の毎日映画コンクールにおいて、瀧子の6日前に死去した森繁久彌と共に「特別賞」を贈られた。 ==評価== ===レビュースター=== 松竹歌劇のスターとしての瀧子は、歌、ダンス、芝居いずれにも特別秀でていたわけではなかった。ファン誌『タアキイ』の中でさえ「踊りが――歌が――芝居が――格段に優れてゐると云ふのでもない水ノ江瀧子、それでゐてあのシツクなスマートな舞台に魅悩されずにはゐられない水ノ江瀧子の芸風、一体彼女の技能は奈辺にあるのだらうか」と問われた。瀧子自身も芸のない自分になぜ人気があるのか分からず、師と仰いだ青山杉作に尋ねたところ、「君が出てくると、舞台がパッと明るくなるんだよ。それは誰でも持ってるものではないから、大事にしなさい。それも芸のうちだから」と諭されたという。また瀧子は自身の引退会見で「私にはなんにも芸がない」とした上で「パーソナリティだけで舞台に出ていた」と述べた。 他方、青山杉作は『タアキイ』で瀧子の長所について尋ねられた際、形を見せただけで演出家の意図をたちどころに理解する「感の良さ」を挙げ「私は千人近い人を役者として扱ってきましたが、あの教養とあの年齢に対して、あの感の良さに及んだ人は一人も無かったでしょう」と賞賛している。また、引退会見についての記事を書いた評論家の尾崎宏次は、恥じることなく自身を無芸と評した瀧子への憤りを露わにしつつ、「少女歌劇というへんてこなものが存在してきたことのなかでターキーほどの愛嬌を、つまりショウマン・シップを示したスターはいなかった」と評した。これに対し、女優・作家の中山千夏は、尾崎が瀧子の最後の舞台について「お客をよろこばせるコツを心得ていた」と評していることについて「そのコツこそ芸でなくて何だろう?そのコツを分析評論するのが芸能評論だと私は思っていたが」と批判した上で、「パーソナリティが才能なのではない、大衆の好むパーソナリティを、舞台という不自由な空間で表現できること、それが大衆を掴む彼女のコツであり、才能なのだ。つまりは自分を突き放して立つ強烈な自我、それが彼女の天才だったし、演技者になって以来、彼女はその天才に日夜磨きをかけたのだ」と評している。 また瀧子は、ダンスについては「一番上手かったときは、SKDの中でもうまかったんじゃないかな。私は感情をだすのがうまかったんです」と述懐しており、特に青山圭男の振付では独特の特徴が出たとしている。また男装が映えた理由について、顔が小さく、細身である割に肩幅が広かったことから、逆三角形の体型でスマートに見えたらしい、と述べている。1933年の『東京踊り』では、観劇したスウェーデン公使から「日本婦人に稀な美しき肢体の持ち主」と賞賛されたと機関誌『楽劇』に記されている。瀧子は同年代の女性としては長身であり、身長5尺5寸(約166.7cm)であった。 トランスジェンダーおよびその文化の研究者である三橋順子は、日本において男性の女装が、女性の男装ほど寛容に扱われない背景を論じる中で、瀧子と川島芳子を戦前日本における「『男装の麗人』の2大スター」と呼び、両者の人気により男装のイメージが上がったとしている。 ===映画プロデューサー=== プロデューサーとしての瀧子については「若手を次々と発掘しスターに育て上げた」という点がしばしば強調されるが、これは他のプロデューサーが瀧子に俳優を貸さなかったことから、自前で新人を探さざるを得なかったという事情が先にあった。また、既存の俳優はすでに独自のカラーがついているため「面倒くさい」ものであったが、「どこのものともわからない未知の子だと、ちょっとおだてればすぐこっちのカラーに染まって」いくため、育てることが面白かったのだという。 瀧子が新人を探す際には、松竹で青山杉作がしばしば口にしていた「完全な人間はあり得ない。欠陥があるのが普通だから、完全に見えるのは本物ではない。その欠陥が魅力のある欠陥か、悪意のある欠陥かは、その人間の人柄によって違ってくる」という言葉に沿った視点でいたといい、「十人が十人いいって言うようなのはダメですね。一生懸命押すのが三人ぐらいで、反対が七人ぐらいっていうのが、一番成功するんじゃないかな」と述べている。松尾昭典、舛田利雄は瀧子に独特の眼力があったとし、松尾は「やっぱり自分が歌ったり踊ったりしていた人ですから、自分の鏡にてらしていたのかもわかりませんね」と述べている。 また、日活企画部にいた黒須孝治は「感性が鋭いというか、触覚というのかな、それがめちゃくちゃ鋭い人で、それが大スターになったり、大プロデューサーになる人の素地だったと思う。万人にあるものじゃない。彼女のどんな分野にいても輝いてくる魅力、その特異な感性というものが裕次郎を拾い上げたとんだと思う」と語っている。一方で山田信夫は「かつてのスターは他にもいるけど、全部が全部ターキーさんみたいに感性豊かかっていうと、そんなことはあり得ない。過去にはターキーさんと並び称される大スターもいましたよね。その人がターキーさんのようにプロデューサーとしての磨き澄まされた才能があったかというとそんなことはない。やっぱり彼女に与えられた才能でしょうね」としている。 また蔵原惟繕は、瀧子のプロデューサーとしての成功の背景には、既存の映画製作5社(松竹、東宝、新東宝、東映、大映)を飛び出した者の集まりであった新興の日活に、新しいものに対する拒否感覚がなく、とりわけ瀧子の上司的な存在であった江守清樹郎が瀧子を認め、自由にやらせたことが大きかったとしている。また山田信夫は江守が「本当のエグゼクティブ・プロデューサー」だったとした上で、「彼も感性があって偉大な人だから感性同士が出会ったわけね。それが裕ちゃんてものを抜擢して、日活の黄金時代を作ることになったわけですよ」と述べている。瀧子自身は日活も昔からのしきたりに縛られていたとしているが、江守については「私を割合と理解してくれました」と述べている。監督の権力が絶大だった他の映画会社とは異なり、日活の組織はプロデューサーが最も強いアメリカ型の構造となっていたが、これも江守が推進したものだった。 ==私生活・親族== ===恋人=== 生涯独身を通した瀧子であったが、その生涯でふたりの恋人がいた。ひとりはアメリカ滞在中に知り合った日系人男性で、瀧子が帰国してから手紙でしきりに求愛をされた。これが瀧子の初恋であったといい、瀧子は日本にいる男性の両親に会い、彼自身も日本に帰る予定で、瀧子が結婚衣装の白無垢を用意するところまで話が進んでいた。しかし日米の開戦後、日系人である男性はスパイ容疑を掛けられるに至り、やむなく日本国籍を捨て、瀧子に結婚が不可能である旨を伝えて破談となった。瀧子は数日間泣き暮らし、その後もしばらく沈んだ状態となった。なお、男性は戦後進駐軍の大尉として瀧子と再会したが、すでに結婚しており、瀧子も特別な感情を抱くことはなかった。瀧子は当時たんぽぽの公演中で、男性は様々な物資を差し入れてくれたという。 そして失恋の傷心にあった瀧子を慰め、新たに恋人となったのが公私に影響を及ぼすことになる兼松廉吉であった。兼松は妻子ある身だったが瀧子と同棲し、戦時中に彼の家族が疎開から戻ってからは当時瀧子が住んでいた鎌倉に住まわせ、両者のもとを行き来していた。瀧子はその妻子とも交流を持ち、相手方の生活を金銭的に支援していた。兼松が自殺した際には瀧子が遺体を引き取り、葬儀のあとの位牌は妻の手元に収められた。葬儀では妻とふたり並んで挨拶に立ち、「恋人と奥さんと一緒になりまして、両方で(葬式を)やっていたら、本人もさぞ満足しているでしょう」と述べた。このような冗談を口にしてはいたが、自殺の報を聞いてその遺体を前にした瀧子は、病院から「早く遺体を引き取ってくれ」と言われるまで泣き続け、さらに深見和夫によれば以後の様子は「自殺しかねない」というほど憔悴していた。妻子とはその後も交流が続き、長じた子供たちの妻を紹介されたり、瀧子の長姉が死去した際には相手が弔いに来るなどしていた。 ===親族=== 家族で最も瀧子と深く関わったのは長姉であった。松竹歌劇時代から、兼松がいた劇団たんぽぽ時代を除いて生涯瀧子の世話をしていたが、周囲を睥睨し、後援会を掌握するステージママのような存在で、瀧子は「全部見てみない振りしてたから、何も言わなかったけど、ものすごい人嫌いになりましたね。そういう姉さんを見るのは、妹として決していい気持ちじゃなかった」と述べている。一方では瀧子に対して恐れを抱くが様子があったといい「本当の妹としてかわいがっていたんではなく、水の江瀧子のファンだった」ともいう。瀧子が自宅に常に人を集めていたのは、彼女と一対一になりたくないという意識も背景にあった。他方、熊井啓はこの姉について「なかなかできた方」だったと回想している。 また、瀧子に義絶を告げた兄は、兵役からの帰還後に水の江会の運営に参画していた。『タアキイ』で旺盛に寄稿し、誌上では他の男性筆者3名と共に「四銃士」の異名があった。長姉とは異なり、瀧子は「本当に優しい、いいアニキだった」と評し、和義の事件が取り沙汰されてからも「あの兄の子が、殺人などするわけがない」と考えていた。瀧子は兄との関係が変わってしまった原因は兄嫁にあるとしているが、その兄嫁も元は瀧子の熱心なファンで、『タアキイ』における「白椿」「椿」などの筆名でファンの間によく知られた人物であり、1934年には瀧子のパトロンとして大衆誌に書き立てられたこともあった。 芸能界引退の原因となった甥の三浦和義とは兄の一家が土木業で頻繁な転居をしていたため、交流が少なかったが、1959年から1960年にかけて三浦は日活の映画に出演した。これについてマスコミは水の江の後押しだと報じたが、本人は1958〜1959年頃に成城の家に和義が遊びに来たことがあり、そのとき和義が「映画に出たい」と言い出した。瀧子はこれを受け流したが、和義は監督に直談判し、監督から改めて出演の可否を問われて「監督がいいなら出してやってよ」と許可を出し、和義は子役として映画に出演したと語っている。これについては出演作品を監督した舛田利雄は、水の江宅で三浦を見かけて石原裕次郎の少年時代役への起用を思い立ち、水の江に進言したと別の証言をしている。少年時代の和義に「瀧子が実母だ」と吹き込んだのは、日活の演技課にいた人物であったという。映画監督の斉藤耕一も水の江の息子だとからかっていたという。瀧子は和義との騒動について、雑誌の取材で「私は事件のことはわかんない。やったんだかなんだか、それは警察に任せておけばいいと思ってるの。もし甥が犯罪者でも、しょうがねえなあ、ってぐらいで私はそんなのは平気なのよ。だけど実母とかなんとかいうのはねえ」と語っている。 ==主な出演・企画== ===出演作=== ====映画==== グランドショウ1946年(1946年、松竹)花くらべ狸御殿(1949年、大映)透明人間現わる(1949年、大映)歌うまぼろし御殿(1949年、東映)弥次喜多ブギウギ道中(1950年、松竹)恋文裁判(1951年、松竹)無宿猫(1951年、新東宝)ハワイの夜(1953年、新東宝、新生プロダクション)乾杯!女学生(新東宝、1954年)女人の館(1954年、日活)牛乳屋フランキー(1956年、日活)サンダカン八番娼館 望郷(1974年、東宝、俳優座)女ざかり(1994年、松竹) ===テレビ番組=== ジェスチャー・紅組キャプテン(NHK)テレビ三面記事 ウィークエンダー(日本テレビ) ‐ リポーター独占!女の60分・メイン司会者(1975年10月 ‐ 1987年3月、NET)欽ちゃんドラマ・Oh!階段家族!!(1979年、NTV)欽ちゃん劇場・とり舵いっぱーい!(1979年、NTV)木曜ゴールデンドラマ(YTV) 大誘拐(1981年) 嫁・姑・小姑(1983年)大誘拐(1981年)嫁・姑・小姑(1983年)オールスター家族対抗歌合戦(CX) ‐ 審査員日清ちびっこのどじまん (CX) ‐ 審査員 ===企画=== ※太字は日活100周年記念企画の「GREAT20」選定作。 初恋カナリヤ娘(1955年)緑はるかに(1955年)猿飛佐助(1955年)江戸一寸の虫(1955年)太陽の季節(1956年)狂った果実(1956年)地下から来た男(1956年)牛乳屋フランキー(1956年)丹下左膳(1956年)狙われた男(1956年)月蝕(1956年)俺は待ってるぜ(1957年)お転婆三人姉妹踊る太陽(1957年)風速40米(1958年)赤い波止場(1958年)嵐の中を突っ走れ(1958年)錆びたナイフ(1958年)紅の翼(1958年)白い悪魔 (1958年)お笑い三人組(1958年)野郎と黄金(1958年)男が爆発する(1959年)山と谷と雲(1959年)男なら夢を見ろ(1959年)清水の暴れん坊(1959年)男が命を賭ける時(1959年)鉄火場の風(1959年)青年の樹(1960年)霧笛が俺を呼んでいる(1960年)やくざ先生(1960年)闘牛に賭ける男(1960年)邪魔者は消せ(1960年)けものの眠り(1960年)街から街へつむじ風(1961年)堂々たる人生(1961年)アラブの嵐(1961年)この若さある限り(1961年)七人の挑戦者(1961年)一石二鳥(1961年)生きていた野良犬(1961年)恋をするより得をしろ(1961年)太陽は狂ってる(1961年)追跡(1961年)男と男の生きる街(1962年)銀座の恋の物語(1962年)青年の椅子(1962年)憎いあンちくしょう(1962年)上を向いて歩こう(1962年)硝子のジョニー 野獣のように見えて(1962年)ひとりぼっちの二人だが(1962年)何か面白いことないか(1963年)空の下の遠い夢(1963年)俺の背中に陽が当る(1963年)現代っ子(1963年)狼の王子(1963年)学園広場(1963年)敗れざるもの(1964年)美しい十代(1964年)月曜日のユカ(1964年)人間に賭けるな(1964年)現代悪党仁義(1965年)青春とはなんだ(1965年)拳銃野郎(1965年)二人の世界(1966年)三匹の牡猫(1966年)終わりなき生命を(1967年)君は恋人(1967年)燃える大陸(1968年)牡丹と竜(1969年)反逆のメロディー(1970年) ==瀧子を演じた女優== 江角マキコ ‐ 『弟』(2004年、テレビ朝日)大空祐飛 ‐ 『紅白が生まれた日』(2015年、NHK) ==文献== 単著 『ターキー自画像』(少女画報社、1934年)『ターキー舞台日記 続ターキー自画像』(少女画報社、1934年)『白銀のダリア』(白陽社、1936年)『笑った 泣いた ‐ ターキー放談』(文園社、1984年)ISBN 4893360191『ひまわり婆っちゃま』(婦人画報社、1988年)ISBN 978‐4573200111『水の江滝子のジュエリーメーキング 』(山海堂、1988年)ISBN 978‐4381070548『ターキーの気まぐれ日記』(文園社、1998年)ISBN 489336121X共著 水の江滝子、丹下キヨ子、宮城千賀子『華麗なる三婆 ‐ 文句があったら言ってみな』(山手書房、1982年)水の江瀧子、阿部和江『みんな裕ちゃんが好きだった ‐ ターキーと裕次郎と監督たち』(文園社、1992年)ISBN 978‐4893360618その他 中山千夏『タアキイ ‐水の江滝子伝‐』(新潮社、1993年)ISBN 4103905018 ==関連項目== ジョセフィン・ベーカー ‐ フランスのレビュースター、女優。松竹レビューの雛形にされたひとり。モーリス・シュヴァリエ ‐ フランス、アメリカで活躍したエンターテイナー。松竹時代の瀧子が好んで真似していた。大辻司郎 ‐ 1920〜1950年代に活躍した活弁士、漫談家。瀧子のファンであり、『タアキイ』にも寄稿していた。春日野八千代 ‐ 瀧子と同年に生まれ、瀧子の楽劇部入部と同年に宝塚少女歌劇に入団。宝塚において「白薔薇のプリンス」と呼ばれた。 =マンスール= アブー・ジャアファル・アブドゥッラー・イブン・ムハンマド・アル=マンスール(アラビア語: *7527**7528**7529* *7530**7531**7532**7533* *7534**7535**7536* *7537**7538**7539**7540* *7541**7542* *7543**7544**7545**7546**7547* *7548**7549**7550**7551**7552**7553**7554*‎、 Ab*7555* Ja*7556*far *7557*Abd All*7558*h ibn Mu*7559*ammad al‐Man*7560**7561*r、712年/13年?/14年 ‐ 775年10月7日)は、アッバース朝の第2代カリフ(在位:754年 ‐ 775年)。即位後に用いた称号(ラカブ)の「アル=マンスール」は「勝利者」「神の助けを受ける者」を意味する。漢語史料での表記は「阿蒲恭払」。 マンスール以降に即位したアッバース朝のカリフは、全て彼の直系子孫である。 アブー・ジャアファルは預言者ムハンマドの叔父アッバースの4代目の子孫にあたる。747年からのアッバース革命で戦果を挙げ、754年に異母弟サッファーフの跡を継いでカリフの地位に就き、「アル=マンスール」を称した。即位したマンスールはウマイヤ朝の官僚制度と地方行政機関を踏襲・整備し、新都バグダードを中心に国家体制を構築していく。マンスールの治世にアッバース朝の支配体制が確立され、そのために彼は王朝の実質的な創始者と見なされている。10世紀末までのアッバース朝の黄金時代の基盤はマンスールの時代に完成したとされ、最大の功績にはアッバース朝の首都バグダードの建設が挙げられる。西アジア世界においては、孫のハールーン・アッ=ラシードとともによく知られているアッバース朝のカリフである。 ==生涯== ===若年期=== アブー・ジャアファルは、アッバース家の家長ムハンマド・イブン・アリー・イブン・アブドゥッラーフとベルベル人の奴隷サッラーマの子として生まれた。ウマイヤ朝のカリフ・ワリード1世の時代にアブー・ジャアファルの祖父アリー・ブン・アブドゥッラーは一族を連れてヨルダン南部のフマイマ村に移住し、一族がフマイマ村に落ち着いた直後にアブー・ジャアファルが誕生する。 父のムハンマド、兄のイブラーヒームはアリー家のアブー・ハーシムの遺言に従ってウマイヤ家の打倒を目指し、有力者の支持を取り付けるため各地にダーイー(宣教員)を派遣した。アブー・ジャアファルの前半生には不明な点が多いが、744年に第4代正統カリフ・アリーの兄ジャアファルの子孫アブドゥッラー・ブン・ムアーウィヤが起こした反乱に参加したと伝えられている。748年にウマイヤ朝によってイブラーヒームが投獄された後、危機を察したアブー・ジャアファルは弟のアブー・アル=アッバースら親族とともにイラクのクーファに避難する。クーファのシーア派の中心人物であるアブー・サラマはアッバース家の人間を密かに保護し、アブー・ジャアファルたちの元にはシーア派の人間が集まり、一大勢力を形成した。 ===カリフ即位=== 仲間内での抗争を防ぐため、アッバース革命の中で誰がウマイヤ家のカリフに代わる新たなイスラームの指導者になるか明確にされていなかった。749年9月にホラーサーン地方で挙兵したダーイーのアブー・ムスリムがクーファに入城し、新たな指導者の選出が始められる。アブー・サラマは正統カリフ・アリーの一族からカリフを選ぶ事を望んでいたが、アブー・ムスリムらホラーサーンの革命軍はアッバース家のアブー・アル=アッバースをカリフに選出してバイア(忠誠の誓い)を行い、アブー・サラマもやむなくアブー・アル=アッバースの即位を認めた。749年11月にクーファでアブー・アル=アッバースがカリフへの即位を宣言し、翌750年にウマイヤ朝のカリフ・マルワーン2世が殺害されたことが確認されると正式に新王朝が樹立された。 750年、アブー・ジャアファルは将軍ハサン・ブン・カフタバとともに、ウマイヤ朝のイラク総督ヤズィード・イブン・フバイラが立て籠もるワーシトを包囲する。11か月に及ぶ包囲の末、ヤズィードと彼の家族、家臣の安全と全財産を保障する条件でワーシトに入城した。ヤズィード一族の勢力を警戒するアブー・ムスリムとサッファーフはヤズィードたちの処刑を命じ、アブー・ジャアファルは命令の遂行を拒否し続けたものの押し切られ、ヤズィードと彼の長男、家臣を処刑する。 アブー・アル=アッバース(サッファーフ)の即位後、アブー・ジャアファルにアリー家出身者のカリフ選出を主張したアブー・サラマへの対処が求められる。アブー・ムスリムが派遣した刺客によってアッバース家の人間が泥を被ることなくアブー・サラマを粛清することができたが、アブー・ジャアファルはアブー・ムスリムの能力と軍事力に恐れを抱くようになる。クーファに帰還したアブー・ジャアファルはサッファーフからジャズィーラ地方(イラク共和国北部、シリア・アラブ共和国、トルコ共和国にまたがるメソポタミアの地域)の統治を任され、モースルに赴任したくようになる。 754年にアブー・ムスリムは二心がないことを示すためにアッバース朝の首都アンバールを訪れ、サッファーフと談笑した。そしてアブー・ムスリムは歴代のカリフが直々に行うメッカ大祭に向かう巡礼団の総指揮を申し出たが、総指揮はすでにアブー・ジャアファルに委任されていた。この時にアブー・ジャアファルはサッファーフにアブー・ムスリムの排除を進言したが、サッファーフは功績のあるアブー・ムスリムの粛清を躊躇い、アブー・ジャアファルの意見は容れられなかった。巡礼団にはアブー・ムスリムが補佐として同行し、両者は一定の距離を置きながらも衝突を起こすことなく巡礼を終えたと考えられているが、巡礼の途上でアブー・ジャアファルとアブー・ムスリムの間に諍いが起きたとも言われている。巡礼の帰路で一行がアンバールに達した時、一行の元にサッファーフの訃報が届き、アブー・ジャアファルはカリフ位の継承を宣言した。ベルベル人の女奴隷の子供がカリフに即位した前例は無く、マンスールの即位はアラブ純血主義を打破するきっかけとなった。 ===内乱の鎮圧=== アブー・ジャアファルの叔父アブドゥッラー・イブン・アリーはシリア北部でビザンツ帝国(東ローマ帝国)との戦争の準備を進めていたが、女奴隷の子であるマンスールの即位に反対し、カリフを自称した。アブドゥッラーはシリア、メソポタミア方面の軍隊を掌握しており、マンスールはホラーサーン軍を率いるアブー・ムスリムの力を頼らなければならなかった。アブー・ムスリムは数か月の間メソポタミア各地で反乱軍と戦い、754年11月にモースル北方のヌサイビーン(ニシビス)(英語版)の戦いで勝利を収め、アブドゥッラーをバスラに追いやった。アブドゥッラーは7年間を獄中で過ごした後、マンスールが塩の土台に建てた家の中に入れられ、崩れた家屋に潰されて圧死したと伝えられている。『カリーラとディムナ』の翻訳に携わったイブン・アル=ムカッファはマンスールによって処刑されるが、処刑の一因にはムカッファがアブドゥッラーに仕えていた過去があったためだと考えられている。 アブドゥッラーが失脚した後、マンスールはホラーサーンを治めるアブー・ムスリムを最大の脅威と認識していた。戦利品の5分の1をカリフに送り、残りを先頭に参加した兵士に平等に分配することがイスラーム世界の慣例となっていたが、マンスールは本来戦利品の分配を行うべきアブー・ムスリムに戦利品を明け渡すように命令し、アブー・ムスリムはマンスールの指示に不満を抱いた。反乱を鎮圧したアブー・ムスリムは領地のホラーサーンに帰ろうとするが、マンスールは使者を遣わしてアブー・ムスリムを留め置いた。一説によれば、交渉の中でマンスールはアブー・ムスリムにホラーサーンと引き換えにシリア・エジプト総督の地位を与えようとしたが、アブー・ムスリムは提案に応じず領地に帰還しようとしたと言われている。根負けしたアブー・ムスリムはやむなくマンスールの元を訪れ、マンスールは天幕に入ったアブー・ムスリムに労いの言葉をかけ、休息を取って翌日再び自分の元を訪れるように命じた。翌日、面会の前にマンスールはアブー・ムスリムのもとに出迎えの使者を送り、天幕に武器を持った兵士を潜ませて暗殺の準備を進める。天幕の中でマンスールはアブー・ムスリムの剣を取り上げ、彼がこれまで犯した罪を弾劾し、アブー・ムスリムの釈明を聞くとより怒りを募らせた。アブー・ムスリムは敵対者との戦いのために自分を生かしておくよう嘆願したが、マンスールはアブー・ムスリムこそが最大の敵だと答え、陰に忍ばせていた従者によってアブー・ムスリムを殺害させた。 アブー・ムスリムの訃報が届けられたホラーサーンには大きな衝撃が走り、復讐のための蜂起が起きた。ペルシャ人のスンバーズ(スンバード)を指導者とする反乱軍はイラクに西進したが、ハマダーンとレイの間でマンスールが派遣した討伐隊に撃破される。しかし、討伐隊の司令官ジャフワル・ブン・マッラールはホラーサーンに蓄えられていた富を見て変心し、マンスールに対して反乱を起こした。ジャフワルを撃ち、ようやく東方に安定がもたらされた。ジャフワルの反乱と同時期、ジャズィーラ地方で反乱を起こしたハワーリジュ派のムラッビド・ブン・ハルマラがマンスールの派遣した軍に勝利を収めており、756年に将軍ハーズィム・ブン・フザイマの活躍によって反乱の鎮圧に成功する。 ホラーサーン、ジャズィーラでの動乱の前後にアナトリア方面ではビザンツ帝国(東ローマ帝国)の侵入の撃退に成功し、7年の和約を結んだ。しばしばビザンツからの侵攻に晒される国境地帯には、防衛のために多くの要塞が建設される。756年/57年、マンスールは将軍ハサン・ブン・カフタバと甥のアブド・アル=ワッハーブにビザンツ軍の攻撃によって破壊されたマラトヤ(マラティヤ)の再建を命じる。アブド・アル=ワッハーブは私費を投じて工事に参加する労働者に食事を振舞うハサンを不快に思い、マンスールに彼の行動を訴え出た。マンスールはアブド・アル=ワッハーブの心の狭さを咎め、ハサンには労働者の供応を続けるよう励ました書状を送った。再建されたマラトヤには駐屯部隊と彼らに割り当てられた農地が置かれ、後にマラトヤの攻撃を試みたビザンツ皇帝コンスタンティノス5世はマラトヤの兵力の多さを知って撤退する。 758年4月にマンスールはメッカ巡礼に発ち、エルサレムを経由してシリアを巡幸した後、ハーシミーヤに帰国した。しかし、マンスールが帰国してみるとハーシミーヤではアッバース家を支持するラーワンド派の信奉者がハーシミーヤのマンスールの宮殿の周りを歩き回り、ここが神の住居であると騒ぎ立てる事件が起きていた。ラーワンド派はインドの輪廻思想の影響を受け、自分たちに食料と水を与えるマンスールは神の生まれ変わりだと考えていた。彼らの行動を不快に思ったマンスールはおよそ200人を投獄したが、残ったラーワンド派の人間は激高し、牢内の仲間を救いだした後、宮殿に殺到した。マンスールは護衛とともに戦ったが数の上では劣勢であり、戦闘の中で突然現れた覆面の人物の奮戦によってマンスールは難を脱することができた。戦闘を終えたマンスールは覆面の男に正体を訪ね、男は自分はアッバース朝の探索から逃れていたウマイヤ朝の将軍マアン・ブン・ザーイダであることを明かした。マンスールはザーイダの功績を評価して彼をヤマン(イエメン)の総督に任じ、ザーイダは任地の統治で大きな功績を挙げた。また、この時宮殿の門に馬が繋がれていなかったため、マンスールはラバに乗って戦わなければならなかった。この事件以後マンスールは宮殿の入り口に常時馬を繋ぎとめるようになり、救難馬の制度は後のカリフや他のイスラーム国家の支配者にも受け継がれた。 759年に西方のタバリスターン、ギーラーンがアッバース朝の支配下に組み込まれ、カスピ海沿岸部のダイラムからの侵入を撃退する。762年にグルジアに侵入したハザールを破り、マー・ワラー・アンナフル、インドへの進出を試みたが、領土拡大の成果は上げられなかった。マンスールが派遣した軍隊によってカンダハールの仏像は破壊され、アッバース軍はカシミールに到達した。 北アフリカ、ウマイヤ家の残党が拠るイベリア半島にはマンスールの権威は及んでいなかった。マグリブでは平等主義を標榜するイバード派を信奉するベルベル人が、アッバース朝の支配に頑強な抵抗を示していた。758年にバスラのアブル=ハッターブがタラーブルス(トリポリ)南のナフーサ山地のベルベル人を率いて反乱を起こし、カイラワーン(ケルアン)を占領する。762年にホラーサーン軍によってアブル=ハッターブの反乱は鎮圧されるが、反乱の参加者であるイブン・ルスタムはアルジェリア西部のティアレットに逃れてルスタム朝を建国した。また、771年にはアブル=ハッターブの後継者であるアブー・ハーティムがイバード派とハワーリジュ派を率いてアッバース朝の支配に対する蜂起を指導した。 ===シーア派への圧迫=== マンスールは弟のサッファーフと同様にシーア派の過激な一団が統治の障害になると考えて彼らの弾圧に乗り出し、758年に起きたシーア派の反乱を鎮圧する。マンスールはアリーの長子ハサンの曾孫ムハンマドとイブラーヒーム兄弟の逮捕を命じたが、すでに二人は逃走していた。残りのアリー家の人間はクーファのフバイラ城に投獄され、ムハンマドの義父で第3代正統カリフ・ウスマーンの子孫にあたるムハンマド・アル=ウスマーニーは処刑された。逃走した二人を見つけ出すために潜伏先と思われる集落は徹底的な探索を受け、宿を提供した疑いのある人物は全て逮捕された。 762年末、メディナで法学者マリク・イブン・アナス、メディナの名族の多くの支持を受けたムハンマドがカリフを称して反乱を起こし、マンスールが派遣した総督、役人は投獄される。報告は反乱の発生から9日後にマンスールの元に届けられ、マンスールの従兄弟イーサー・ビン・ムーサーが率いるホラーサーン軍がメディナに派遣された。マンスールはムハンマドに助命、居住地の自由、親族の保護と引き換えの降伏を提案したが、ムハンマドは正統のカリフは自分であると答え、ヤズィード、アブー・ムスリムらの末路を挙げて降伏勧告を一蹴した。 さらに762年11月22日にバスラでムハンマドの兄弟イブラーヒームが挙兵する。当時クーファにいたマンスールの元にはわずかな兵力しか残されておらず、最大の危機に直面したマンスールは自分の周りに女性を近づけない態度で戦争に臨んだ。イブラーヒームはアッバース朝の軍に数度勝利を収め、マンスールはクーファからの退却さえ覚悟したと言われている。一方メディナに向かったホラーサーン軍は町の周りに張り巡らされた塹壕を突破して町を攻撃し、12月6日にムハンマドは敗死した。ムハンマドの死を知ったイブラーヒームはカリフへの即位を宣言しクーファに進軍したが、763年2月にクーファ南のバハムラの戦いでイブラーヒームは戦死し、マンスールが勝利を収めた。イブラーヒームの首がマンスールの元に届けられたとき、挺身たちがイブラーヒームの首に罵声を浴びせかける中でマンスールは彼の死を悼み、首に唾を吐きかけて罵倒した部下を厳罰に処したといわれる。 戦後、メディナ、バスラのアリー家の支持者、フバイラ城内のアリー家の人間は処刑、迫害された。また、ムハンマドの首は見せしめのために領内の各地で掲げられ、ムハンマドの最期を見せつけられたエジプトのシーア派は反乱の計画を取りやめたと言われる。シーア派の抵抗を抑えた後は国内の反乱は沈静化し、マンスールは国政の確立に着手する。 ===晩年=== サッファーフはマンスールの次のカリフに従兄弟のイーサーを指名していたが、息子のアル=マフディーを溺愛するマンスールは、マフディーへのカリフ位の継承を望むようになった。継承権を放棄したイーサーはマフディーに忠誠を誓ったが、マンスールはイーサーに継承権を放棄させるために種々の圧力を加え、毒殺さえ企てたと伝えられている。バードギースの豪族ウスターズ・スィースはイーサーに継承権の放棄を迫ったマンスールに反発し、767年に反乱を起こした。 775年、マンスールはメッカ巡礼を計画するが、準備中に流れ星を見る凶兆に遭う。同年の晩夏、巡礼の途上でマンスールは下痢に罹り、暑熱によって彼の体力はより奪われた。死の前日、マンスールは宿舎の壁に自らの死を予期させる詩句を見つけて激怒するが、壁に書かれた文言は他の人間には見えず、運命を悟ったマンスールは侍従に命じてコーランの一節を唱えさせた。775年10月7日にマンスールはメッカに辿り着くことなく没する。マンスールの死は巡礼に同行していた大臣のアッ=ラビーウによって秘匿され、遺体は生者と同様に2枚のイフラームで包まれてメッカに運ばれた。そして、メッカでラビーウの口を通してマフディーへのカリフ位の継承が知らされたと伝えられる。マンスールが埋葬された場所は明確になっておらず、メッカ近辺の砂漠に100に達する墓穴が掘られ、その中の1つに埋められたという。 ==政策== 互いに敵意を抱く多種の民族を擁する国家を統治するために、マンスールは神聖的・不可侵の絶対的君主制度の必要性を痛感していた。マンスールは宗教面での権力を主張する事は避けてイマームの称号を使用せず、コーランとスンナに則ったイスラーム的政治を打ち出した。サーサーン朝、ビザンツ帝国の専制王権の概念がイスラームの政治思想に導入され、一般の信徒はカリフから隔絶された上でハージブ(侍従)の取次が必要とされた。そして、強力な軍隊と官僚制度によって、中央集権制度をより堅固なものにした。 マンスールはアラブ人同士の派閥にこだわらずアッバース家の一族や腹心を要職に配置し、腹心の多くはペルシャ人などの複数の民族から構成される奴隷の出身者で構成されていた。政府にワズィール職(宰相)が設置され、ワズィールの下に各種の官庁(ディーワーン)が置かれた。従前は地方総督によって任命されていた各地のカーディー(裁判官)は、中央の政府が直接任命した人物が配属されるようになる。軍事力の中心にはアッバース革命に貢献したホラーサーン軍が据えられ、彼らに支払う俸禄が引き上げられた。アッバース革命の際に兵士を集めた人間は重用され、警察・親衛隊の長官は彼らの中から選出された。マンスールには重職に付けた一族にも峻厳な態度で接し、法に背いた人間には厳罰を加えた。 マンスールの治世に整備された駅伝(バリード)制は、情報の伝達に大きな役割を果たしたと考えられている。マンスールはカリフの目が帝国の隅々にまで行き渡らなかったウマイヤ朝の政治体制の問題点を踏まえて中央集権制度を志向し、その一環としてカリフの命令と地方の実情をいち早く伝達するバリードを構築した。ウマイヤ朝以前から導入されていたバリードはマンスールによって全国規模に拡大され、首都にバリードを管轄する駅伝庁が設置される。歴史家のタバリーは、バリードを通して穀物、食糧の価格、カーディーと総督の業務、税収といった地方の情報が毎日マンスールの元に届けられていたことを記している。さらに遠隔地に赴任した地方官、高官の動向は密偵によって監視され、マンスールはバグダードの中にいても帝国の内情を把握することができた。マンスールが国内の事情を細部まで把握しているため、民間ではマンスールは魔法の鏡で千里離れた場所まで見通していると噂された。後世に伝わる笑話として、マンスールが廷臣に帝国を支える4つの柱として公正なカーディー、警察長官、徴税官を挙げた後、最後の1つに彼らの動向を伝える信頼できるバリードの長官だと口ごもりながら答えた逸話がある。 ===バグダードの建設=== アッバース朝が建国された時点でイスラームの西方への拡大は停滞し、他方でペルシャなどの東方地域への拡大が進展していた。イスラーム国家の中心は東方に移りつつあり、マンスールはウマイヤ朝の首都ダマスカスに代わる新都の必要性を感じていた。即位の翌年からマンスールは新都の建設に着手し、側近に候補地の調査を行わせる傍らで自らも視察を行った。マンスールは即位の翌年にクーファ近辺にハーシミーヤの町を建設し、この地に宮殿を置いた。しかし、マンスールはバスラやクーファの住民に不信感を抱いており、これらの町に首都を置くことを躊躇していた。 最終的にサーサーン朝以来の農産物の集積地で、定期的に市が建つチグリス川西岸のバグダードを新王朝にふさわしい場所に選んだ。軍隊の駐屯地に適しているだけではなく、周辺諸国や遠く離れた中国との交通に便利な位置であり、チグリス川とユーフラテス川を介した物資の輸送を活用できる点を考慮し、マンスールはバグダードを選択したと考えられている。また、バグダードには蚊が少なく、マラリアに罹る心配が薄い点もマンスールにとって魅力的に映っていた。 100,000人に達する建築家、職人、作業者が動員され、4,000,000ディルハムの費用が投入され、新都の建設が開始される。バグダードの建設にあたって、マンスールは廷臣からクテシフォンのサーサーン朝の宮殿に使われている資材の流用を進言された。宰相のハーリド・イブン=バルマクはイスラームの象徴である宮殿の破壊を危ぶみ、莫大な費用がかかることを理由に反対したが、マンスールは宮殿の取り壊しを強行する。だが、ハーリドの意見通り多大な工事費を要することが判明したため、宮殿の一部を崩した時点で工事は中断された。ハーリドは他の人間が建てたものをマンスールは取り壊せなかったことが世間の笑いものになると警告し、工事の続行を勧めたがマンスールは取り合わなかった。また、762年にバスラで反乱を起こしたアリー家のイブラーヒームが建設中のバグダードに彼が進軍する噂が流れたとき、町が奪われることを恐れた工事の責任者によって建材が焼き捨てられた。やがて反乱は鎮圧されて工事も再開され、766年にバグダードが完成する。城郭が完成した後、マンスールは占星術に従い、自身と家族の邸宅やホラーサーン兵の宿舎を建設していく。息子のマフディーが任地のホラーサーンから帰還した後、768年から773年にかけてチグリス東岸のルサーファ区にマフディーと彼の配下のための施設が建設された。 マンスールの孫のハールーン・アッ=ラシードの時代にバグダードの開発はより進み、世界的な大都市に発展する。 ==人物像== マンスールは背丈が高く細身の浅黒い肌の持ち主と伝えられ、精力的かつ冷徹な人物だと見なされている。髪と髭は細くまばらであり、髪と髭を気にかけてサフランで染めていたという。直感と読みの深さを併せ持つ、大局的な視点の持ち主だと評されているが、同時に信義に欠け、人命を軽視する一面も指摘されている。しかし、政敵の粛清、巨費を投じた新都の建設、異民族の登用とアラブ諸民族が持つ既得権益の撤廃といった政策は、恐怖を前面に押し出すマンスールの性格に拠るところも大きかった。 マンスールは午前中に政務を処理し、午後に家族と過ごし、夜の祈祷の後に使者からの報告を確認して大臣との協議を行う一日を送っていた。マンスールが床に就くのは夜が3分の1ほど更けてからのころで、深い眠りに落ちる間も無く起床して朝の祈祷に赴いた。私生活では他人の悪ふざけにも寛容な面を見せたが公の場では表情が一変し、マンスールは自分が正装を纏って政務に赴くときには決して近づかないよう、自分の子供たちに言い聞かせていた。しかし、マンスールには恐妻家の一面もあり、即位前に結婚したヒムヤル族のウンム・ムーサーには頭が上がらなかった。マンスールはウンム・ムーサーに迫られて他に妻や女奴隷を持たない約束を交わしていたが、ある時ウンム・ムーサーとの誓約は法的に有効であるか法学者に質問した。ウンム・ムーサーは法学者に多額の賄賂を贈り、マンスールは彼女が存命の間は約束は有効であるとの回答を得たが、ウンム・ムーサーが没した後に100人の乙女がマンスールの宮殿に送られた。 マンスールは酒色、音楽を遠ざける質素な生活を送り、カリフとなった後にも粗末な衣服を纏っていたことが伝えられている。服を作るときには市場で値切って買った布を使わせ、さらに一週間同じ服を着続けたと伝えられている。貯蓄を好んだために吝嗇家と言われることもあるが、真に必要な場合には財を投じる事を惜しまなかった。宰相のハーリド・イブン=バルマク、末弟のアル=アッバースといった重臣・一族の不正にも厳しく当たって容赦なく財産を没収し、逆に搾取から解放された民衆は充足した生活を送っていた。マンスールは違反者に課した罰金、没収した財産には取り立てた人物の名前を記して国庫に保管し、死期が迫ったときにマフディーに没収した金品を元の持ち主に返すように命じ、財産を返却された人々がマフディーに好意を寄せるように取り計らった。死後に多額の財産が遺され、マンスールの後に多くの浪費家のカリフが登位したにもかかわらず、100年の間国家財政は支障をきたさなかった。 マンスールは読書、文学を愛好し、学者との交流を楽しんだ。また、説教師としても名高く、モスクの壇上で彼の口から美しいアラビア語が発せられたと言われている。ギリシャ、インドの文化に敬意を表し、アッバース朝で行われるギリシャ語古典の翻訳事業が始められる。 マンスールの時代に行われたシーア派への弾圧はアッバース朝の歴史の中で最も激しく、マムルーク朝時代の歴史家スユーティーは「アッバース家とアリー家の不和の原因はマンスールから生じ、それまで両家は友好的な関係を保っていた」と述べた。マンスールのアリー家への憎しみを示すものに、以下の伝説がある。マンスールの宮殿には常に鍵がかけられた部屋があり、鍵はマンスール自身が所有していた。マンスールの死後にマフディーが扉を開けると、部屋の中には塩漬けにされた多くのアリー家の人間の死体が置かれ、名前と血統を書いた札が貼られていたという。 ==家族== 最初の妻であるウンム・ムーサーとの間には、マフディーとジャアファルの二子が生まれた。ほか、ウンム・ムーサー没後に結婚した妻や女奴隷との間に多くの子をもうけた。 =日豪砂糖交渉= 日豪砂糖交渉(にちごうさとうこうしょう)は、日豪砂糖長期輸入契約(1974年締結)の見直しを日本側が求めて、1976年から1977年にかけて行われた日本‐オーストラリア間の交渉。交渉は紛糾し国際問題にまでなったが、結局1年半もの交渉の末に両国の妥協で終結した。日本製糖業界側の一方的かつ強硬な態度は日本国内からも批判を浴びた。日豪砂糖紛争ともいう。 なお、本稿では通貨としてのポンド(イギリスポンド)と重さの単位であるポンドの両方が使われている。当時の国際砂糖取引はロンドン市場が国際指標だったからであり、ニューヨーク・コーヒー砂糖取引所も有力だったからである。「トンあたり」とした場合は通貨としてのポンド(イギリスポンド)であり、ポンドあたりとか/ポンドとした場合は重さの単位であるポンドである。日本‐オーストラリア間の決済はアメリカドル、日本円、オーストラリアドルであり、重さの単位はトンであるが、国際相場価格との比較のためにあえて通貨としてのポンド(イギリスポンド)と重さの単位であるポンドを使用している。また本稿では原糖は原料糖であり粗糖と同義、製糖は精製糖製造を意味している。 ==概要== 日本において1973年のオイルショックではトイレットペーパーが買い占められ店頭からトイレットペーパーが無くなったが(トイレットペーパー騒動)、砂糖でもパニック買いの為に店頭から砂糖が無くなる事態を経験している。また1974年砂糖の国際相場が急騰した。1973年までは1トンあたり100ポンド(通貨)程度だった砂糖国際価格が1974年11月にはトンあたり615ポンドまでになった。このため、1974年12月、価格と量の安定供給を求め日本製糖業界はオーストラリアから5年間にわたって毎年60万トンの原糖をトンあたり229ポンド(当時の為替レートで)の固定価格で輸入する日豪砂糖長期輸入契約(日豪砂糖長期貿易協定)を結んだ。契約による原糖の輸入開始は1975年7月からである。 ところが、砂糖価格の急騰は一時的なもので契約締結直後から価格が急落し1975年5月には180ポンド/トン程度の価格となった。以降の砂糖の価格は229ポンド/トンを上回ることは無くむしろ180ポンドからさらに下がっていった。したがって229ポンド/トンの日豪砂糖長期輸入契約を履行すると日本の製糖会社は必ず赤字になる(その後の為替変動によって価格差はさらに広がっていく)。当時の日本製糖業界各社は構造不況で苦しく、この事態に耐える資金力は無かった。そのため、日本製糖業界は契約価格を引き下げるようにオーストラリア側に求めたが、オーストラリア側は拒否。1年以上にわたって再三行われた交渉は政府をも巻き込み日豪首脳会談の最重要テーマにもなるが進展はなかった。日本製糖業界側はついに1977年7月、合意なく一方的に契約終了を宣言し東京港に到着したオーストラリアからの原糖運搬船の荷揚げを拒否するという強行手段に出た。オーストラリア側は契約通り原糖を送り続けたので1977年9月上旬にはオーストラリア産原糖を積んだまま荷揚げが出来ず東京湾に停泊している豪州原糖運搬船は10隻にもなり、オーストラリアはロンドン砂糖協会に提訴する。1977年10月には東京湾や大阪湾で立ち往生している原糖運搬船は16隻になる。この事態では「日本は契約を守らない国だ」とオーストラリア側に批判され、一方的な都合で契約を変更しようと強行手段にまで及んだ日本製糖業界に対しては日本国内からも批判が集まっている。 しかし世界的な砂糖供給のダブつきもあってオーストラリア側も妥協に踏み切り1977年10月下旬には契約価格を7%引く代わりに量的な付帯条件をつけることで折り合い、日豪砂糖交渉は終了する。こののち、日本製糖業界は大きな再編の波を迎えることになる。 ==日豪砂糖長期輸入契約を結ぶまで== ===1974年日本側の状況=== 太平洋戦争で打ちひしがれた日本も順調に回復し、それに伴って砂糖の需要も増えていった。1963年8月には粗糖の輸入化が自由化された。1960年代は砂糖の国際価格が低価格だったため、1964年以降の日本では砂糖の輸入が増える一方で国内生産は頭打ちになり(サトウキビ・甜菜栽培では産業保護政策があるため一定の国内農家は確保され減少まではしていない)、砂糖に占める自給率は下がっていった。1973年には日本の砂糖消費量はピークを迎え304万トンあまりが消費された。日本製糖業界は原料糖の輸入をスポット市場に頼ったため、国際砂糖市場の値動きに直接影響を受ける形となっていった。1960年代には安定していた国際砂糖相場も70年代に入ると価格上昇の局面になっていく。その中で1973年オイルショックが起こる。日本ではトイレットペーパーや洗剤などがパニック買いによって店頭から姿を消したが、砂糖もおなじくパニック買いによって店頭から姿を消す事態になっている。この時に砂糖パニックを起こしたのは一般消費者ばかりではなく菓子や清涼飲料水、パンなどの食品企業もである。むしろ消費を我慢できる一般消費者よりも死活がかかっている食品企業こそ砂糖供給の安定を求めることになる。 また、オイルショックの影響は日本だけの話ではなく世界中で物価は上がっていった。1974年砂糖の国際価格は高騰を続ける。この背景には1973年の国連砂糖会議が紛糾し1973年国際砂糖協定でも輸入や価格に関する国際的な枠組みが外れ、砂糖価格が無統制になったこともある。ニューヨーク市場では1973年11月には10セント/ポンド(重量)だった砂糖価格が1974年2月には20セント、9月には30セント、11月のピークには65.5セントになっている。 このため、日本では安い価格と量の安定した供給先が求められたのである。 ===1974年オーストラリア側の状況=== イギリス連邦の一国であるオーストラリアはイギリス連邦砂糖協定に加わり、砂糖市場の中心であったイギリスに特恵価格で安定的に原糖を輸出をしていた。しかしイギリスがEC:欧州共同体に加わることで1974年末にはイギリス連邦砂糖協定は失効することになった。オーストラリアは大きな安定輸出先を失うことになる。そのため、オーストラリアは新たな安定輸出先を求めていた。オーストラリアではサトウキビ生産農家のほとんどはクインズランド州に集中するが、クインズランド州では州政府がサトウキビを一旦全量を買付、CSR(コロニアル・シュガー・リファイナリー)という企業に原糖の輸出に関する一切の権限と業務を委託している。CSRは砂糖・鉱業・建材・牧畜・化学・その他を扱うコングロマリットで1974年当時はオーストラリアで第二の大きさを誇った企業である。この為、日本製糖業界が砂糖の貿易について交渉する相手はCSRになる。 ==日豪砂糖長期輸入契約締結== かくして、安定した輸入先を求めていた日本製糖業界33社と安定した輸出先を求めていたオーストラリアCSRの思惑は一致し、長期の砂糖貿易契約が結ばれる。 日本・オーストラリア間で1974年12月に結ばれた契約内容は オーストラリアは1975年7月から5年間、毎年60万トンの原糖を日本に供給する。価格は60万トンの50%はトンあたり405オーストラリアドル、残りの50%はトンあたり535と1/3アメリカドルとする。(見直し条項)売主・買主は少なくとも年に1回、契約の運用と継続性に関する見直しを行う。といった内容で当時の為替レートで計算すると原糖1トンあたり229ポンド(通貨)の価格となる。 しかし、この契約は1974年の物価水準の中で4000‐5000億円もの巨額の契約にもかかわらず、契約書はわずか2‐3枚の書面で「見直し条項」も細部は詰められておらず、大雑把な契約内容は後の紛糾の元になる。また、日本側の砂糖価格変動の見通しも甘く、契約交渉時にオーストラリア側から「固定価格で本当にいいのか?」と念押しされたにも関わらず、日本側は固定価格にこだわった。 日本側では日豪砂糖長期輸入契約によって輸入した原糖は、各製糖会社に1974年の国内シェアに比例して配分されることになった。1974年に日本国内でトップシェアの三井製糖が16.07%、第二位の塩水港製糖が9.78%からシェア最小の大西商事が0.01%まで製糖業界全社にシェアに比例して豪州産原糖の配分比率は決められている。この輸入カルテルは1975年2月輸出入取引法によって認可されている。 契約締結時には日本製糖業界も農林省(現在の農水省)も安い価格で長期の安定供給が確保できたと喜んだが、半年も経たないうちに日本側は見通しが外れたことを自覚する。 ==砂糖価格の急落== 1974年11月のピークにはトンあたり615ポンドまで急騰した砂糖の国際相場で、1974年12月の契約では日本側は安い価格で契約したつもりでいた。砂糖価格はどんなに下落しても200ポンドは切らないだろうと予測していたらしい。しかし、砂糖の国際価格は日本側の想像を超えて急速に下落している。1975年5月には180ポンド/トン程度の価格となり。さらに価格は下落していく。この価格では日本の製糖会社はオーストラリア産原糖から精製糖を作れば作るほど赤字が拡大していく。原糖引き取り量の多い大手や、引き取り量が少ない中小製糖会社でも資金力のない会社にとって重荷となって倒産の危機ですらあった。実際に1977年4月に新光砂糖工業と7月に東海製糖は倒産している。 ==日豪砂糖交渉== 砂糖の国際相場の急落に慌てた日本製糖業界は契約実施(1975年7月から輸入は始まっている)からわずか7か月後の1976年2月にはオーストラリア側に価格見直し交渉を申し入れている。日本側の申し入れの根拠は契約の中の「見直し条項」には価格の改定も含まれるという解釈に依っていた。しかし、オーストラリア側は「見直し条項」はシッピングスケジュールなど事務処理的なことを示すとして価格の改定は見直し条項の対象ではないと受け付けなかった。本交渉は1976年5月から始まる。日本側も交渉の難航は予想はしていたものの、予想を超えてオーストラリア側の態度は硬く、交渉団団長の大日本製糖社長藤山覚一郎は「オーストラリア側のCSRの背後には農家団体が控えているのでCSRも引くに引けなかったのだろう」と推測している。 日本側は砂糖の価格をトンあたり170ポンドにするように求めたが(ポンドの為替変動で契約価格は285ポンド程度にまではなっている。つまり要求は4割引きである。)1976年末になっても交渉はまったく進展がなく、1977年に入っても難航を続けた。1977年4月にはオーストラリア側はわずかな価格引き下げを提示(8%引く代わりに固定価格契約を2年延長)したが日本側は満足せず、日本側の提案はオーストラリア側が依然として拒否したままだった。両国政府の介入もまったく効果なく、交渉は暗礁に乗り上げたままだった。業を煮やした日本側はついに1977年6月一方的に契約の終了を宣言する。1977年7月に東京港に到着した豪州産原糖運搬船の荷揚げも拒否し代金も支払わないと決め、運搬船は原糖を積んだまま荷上げが出来ず東京湾に停留を続けることを余儀なくされる。オーストラリア側は契約の終了や一切の変更を受け入れていないので契約通りに原糖を積んだ船を日本に向けて次々に送り出す。1977年8月クアラルンプールでの福田首相とフレーザー首相の会談でもこの問題は最重要テーマとなったが首脳会談ですらも進展はなく、双方の妥協を求めた福田首相に対してフレーザー首相はこれ以上妥協する余地はないと拒否する。1977年9月には東京湾で立ち往生している豪州原糖運搬船は10隻になる。この事態にオーストラリア側はロンドンにある国際砂糖協会の仲裁委員会に日本の契約不履行を提訴する。日本製糖業界の態度には日本国内からすら「(いったん結んだ契約を一方の都合で変えるなど)常識では考えられない」「(日本側は)エゴ丸出し」「(日本側は)実に虫のいいことを言っている」などの批判が集まった。朝日新聞にもこの件の報道で「ちょっと甘かったかナ」と記事名を付けられている。 ==終結== 1977年10月には東京湾や大阪湾で立ち往生している豪州産原糖運搬船は16隻(原糖21万3300トン)になる。日豪のトラブルを見て世界最大の砂糖輸出国であるキューバが日本の製糖会社に売り込みを図ってきた。世界的には砂糖の供給過剰となっていたのでこれ以上揉めては今後の為にならないと見たオーストラリア側は妥協する方向に変化した。日本製糖業界側も自国内からすら批判を浴びている状況なので歩み寄り、1977年10月末には契約の改定が合意される。合意された内容は 現行契約(残り3年)を延長し、毎年60万トン×3年を毎年45万トン×4年にする。価格を改め、トンあたり410.25オーストラリアドルにする(実際の支払いは3通貨建てで60%をトンあたり461.57アメリカドル、30%を116,304日本円、10%を410.25オーストラリアドル)。ポンド(通貨)換算で260ポンド、為替レート変動を考慮するとこの価格は7%の値引きになる。新たに4年にわたって年間15万トンの追加契約を行い(日本の総合商社11社が責任を持つ)、追加分の原糖の価格は国際相場に2.75ドルのプレミアムを付ける(ただし急騰・急落に備えて上下限枠を設ける)。東京湾で立ち往生している運搬船の原糖は日本が引き取るが、滞船料はCSRが支払う。両国政府が改定案を保証し、オーストラリア側はロンドン国際砂糖協会への提訴を撤回する。といった内容で、新規に追加契約した分と合わせて考えるとトンあたりの価格は230ポンド程度にまで「薄まり」、日本製糖業界の負担も少しは軽くなる内容だった。オーストラリア側も値引く代わりに、国際相場にプレミアムを上乗せした価格で追加契約が取れたので両者痛み分けと評価されている。 ==日本政府への批判とその後の日本製糖業界== 日豪砂糖交渉では農林省(現在の農水省)の指導に大きな問題が指摘されている。1974年当初、国際砂糖価格の急騰前にオーストラリアからはトンあたり130ポンドの価格で長期契約の打診が来ていた。これを農林省が拒否させたと言われている。結果を見ればこの時に契約を結んでいれば日本側には何の問題も生じなかったのである。しかし、その後の国際価格の急騰を見て慌てた農林省は前言を翻し今度は高値で長期契約を結ぶように製糖業界に働き掛けている。 結果として高値で契約を結んでしまった日本製糖業界は、仮にそれがなくても構造不況で各社とも経営が苦しかった。そこでなりふり構わず日豪砂糖交渉に持ち込んだのである。農林省は1976年12月に行政主導で価格カルテルを製糖業界に結ばせる(第一次指示カルテル)。指示カルテルはその後もたびたび行われている。日豪砂糖長期輸入契約改定と度重なる価格カルテルによって製糖各社の業績は一時的に良くなる。そして、製糖業界は大きな再編の波を迎えることになる。 =ハッブル・ディープ・フィールド= ハッブル・ディープ・フィールド(英語: Hubble Deep Field、HDF)とは、ハッブル宇宙望遠鏡による一連の観測結果に基づいた、おおぐま座の非常に狭い領域の画像である。ハッブル深宇宙などとも呼ばれる。画像の大きさは差し渡し144秒角であり、これは100メートル先に置いたテニスボールの大きさと同じである。この画像は、1995年12月18日から12月28日まで10日間続けて、ハッブル宇宙望遠鏡の広視野惑星カメラ2(Wide Field and Planetary Camera 2、WFPC2)で撮影された342枚の画像を組み合わせて得られたものである。 HDFの観測から3年後には、似たような方法で南天の一領域の画像が作られ、ハッブル・ディープ・フィールド・サウス(英語版)(Hubble Deep Field South、HDF‐S)と名付けられた。この2つの領域が似通っていたことから、宇宙は大きな規模で見ると均一であり、地球は宇宙の中で典型的な位置にあるという説(宇宙原理)がさらに強固なものとなった。2004年には、より詳細なハッブル・ウルトラ・ディープ・フィールド(Hubble Ultra Deep Field、HUDF)が、合計11日間の観測から作られた。HUDFはこれまで可視光の波長域で撮影されたものとしては最も暗い天体まで写っている天体写真である。 撮影された領域は非常に狭く、また画像内には銀河系の星は、ほとんど写っていない。画像内に写っている約3000の天体のほとんど全てが銀河であり、その中にはこれまで知られている中で最も若く遠いものも含まれている。このように非常に多数の若い銀河の姿を明らかにしたために、HDFは初期宇宙を研究する宇宙論において画期的な画像となり、画像が作られて以来400近い論文の基となっている。 ==構想== ハッブル宇宙望遠鏡を設計した天文学者たちの主な目的の一つは、地上からでは不可能なほどの高い分解能を生かして、遠方の銀河の研究をすることであった。ハッブル宇宙望遠鏡は大気圏より上に位置しているため、地球の大気の影響を受けずに済み、大気の揺らぎや大気光の影響を受ける地上の望遠鏡よりも高感度の可視光や紫外線の写真を撮影することができる(補償光学による適切な補正がなされている場合は、地上の望遠鏡では口径10mほどのものがハッブル宇宙望遠鏡と同じ程度の性能になる)。望遠鏡が1990年に打ち上げられた直後は、主鏡が製造ミスにより歪んでしまっていたために予定していた性能の5%しかなかったが、それでもそれまで撮影できたものよりも遠くの銀河の画像を得るのに使うことができた。非常に遠方の銀河からの光が地球に届くまでには数十億年かかるため、我々はその銀河の数十億年前の姿を見ているということになる。従って、より遠くの銀河へと研究の範囲を広げていけば、銀河の進化についての理解が深まることになる。 1993年にはスペースシャトルのミッションSTS‐61によって鏡の歪みを補正する光学機器を入れたことにより、望遠鏡の優秀な撮影性能がより遠く暗い銀河を研究するのに使われるようになった。他の観測装置が予定されている観測に使われている間には、任意の領域の画像を撮影するためミディアム・ディープ・サーベイ(Medium Deep Survey、MDS)がWFPC2を使っていた。同時に、他の専用のプログラムが既に地上の望遠鏡で知られていた銀河の撮影に使われていた。これらの研究の全てが、現在存在する、あるいは数十億年前に存在した銀河の間にある大きな性質の違いを明らかにしていった。 ハッブル宇宙望遠鏡の観測時間の最大10%までは所長の自由裁量時間(Director’s Discretionary、DD)と呼ばれ、通常は超新星のような予測不可能で長続きしない現象を研究したいと思っている天文学者に割り当てられている。ひとたびハッブル宇宙望遠鏡の修正された光学系が上手く働いていることが分かると、当時宇宙望遠鏡科学研究所の所長だったロバート・ウィリアムズは、1995年中、自分のDDのかなりの割合を遠方の銀河の研究に充てることを決めた。ある特別な研究助言委員会は、銀緯が高い「典型的な」空の一区域を、いくつかのフィルターを使って撮影するのに広視野惑星カメラ2を使うべきだと助言した。この計画を練り上げ実行するために作業部会が設置された。 ==目標領域の選定== 観測対象として選ぶ領域はいくつかの基準を満たしている必要があった。まず、我々の銀河系の円盤面上にある塵や暗い物質により遠方の銀河の観測が妨げられるため、目標とする領域は銀河系面から遠い、銀緯の高いところでなければならない。目標とする領域は、深宇宙にある天体の様々な波長での研究を容易にするため、既知の明るい可視光源(手前にある恒星など)や、赤外線、紫外線、X線の放射を避ける必要があった。また、冷たい水素ガスの雲(HI領域)の中にある暖かい塵の雲からのものと考えられている、巻雲状の背景赤外線放射が弱い領域である必要もあった。 これらの条件から、目標領域として選択できる範囲はかなり絞られる。さらに、目標領域は、ハッブル宇宙望遠鏡の軌道上で地球や月に掩蔽されない「継続観測領域」(continuous viewing zones、CVZs)の中にあるべきだと決められた。作業部会は、ケック望遠鏡や超大型干渉電波望遠鏡群(VLA)といった北半球にある望遠鏡が追跡調査観測ができるように、北半球のCVZに絞ることを決めた。 これらの条件を全て満たす20の領域がまず確認され、その中でも最適な領域の候補が3つ選ばれた。それらは全ておおぐま座にあった。電波によるスナップ写真観測から、これらの領域のうちまず1つが電波の放射源を含むとして除外された。残った最後の2つの領域のどちらにするかの決定は、視野の近くに恒星の追尾に使える星があるかということを元にして行われた。ハッブル宇宙望遠鏡は通常、露出中に望遠鏡の高精度ガイドセンサーが固定追尾できる近接した恒星のペアを必要とするが、HDF観測の重要性を考えると、2組目の予備のガイド星が必要だった。最終的に選ばれた領域は、赤経12h36m49.4s、赤緯+62°12′48″に位置している。 ==観測== 観測する領域が決まったので、次は観測方法を開発する必要があった。重要な選択として、観測に使うべきフィルターの決定があった。WFPC2は48種類のフィルターを備えており、天体物理学的に興味深い特定のスペクトル線を分離するナローバンドフィルターや、恒星や銀河の色を研究するのに有用なブロードバンドフィルターが含まれている。HDFに使うことができるフィルターの選択は、それぞれのフィルターのスループット、すなわち、透過できる光全体の割合と、受信できるスペクトルの範囲に基づいて決められた。できるだけ重なる帯域を持つフィルターが望ましいとされた。 最終的に、波長の中心が300nm(近紫外線)、450nm(青色)、606nm(赤色)、814nm(近赤外線)の4種類のブロードバンドフィルタが選ばれた。ハッブル宇宙望遠鏡の探査装置の量子効率が300nmにおいては非常に低かったため、この波長での観測時のノイズは、宇宙の背景からのものではなくCCDからのものが大部分になった。従って、この観測は、背景ノイズの多さにより他の帯域での観測の有効性に差し支えがでたときに行われることになった。 選ばれたフィルターでの対象領域の画像は連続10日に渡って撮影され、その間にハッブル宇宙望遠鏡は地球の周りを約150回公転した。それぞれの波長の総露出時間は300nmで42.7時間、450nmで33.5時間、606nmで30.3時間、814nmで34.3時間であった。宇宙線がCCD検出器にあたると明るい線が現れるため、それによる重大な影響からそれぞれの画像を守るために画像は342枚の別々のコマに分けて撮影された。 ==データ処理== それぞれの波長で最終的な結合した画像を作るのは複雑な処理であった。露出中に宇宙線が衝突して生じた明るいピクセルは、同じ露出時間で撮影した別の画像と比較し、宇宙線の影響で生じたピクセルかそうでないかを確認して取り除かれた。元々の画像にはスペースデブリや人工衛星の軌跡も存在するが、これらも注意深く取り除かれている。 地球からの反射光が全体の4分の1のコマに明らかに存在する。これは反射光に影響された画像を撮影し、影響されていない画像と並べて、影響されている画像から影響されていない画像を引くという方法で除去されている。結果として得られた画像はなめらかであり、それから明るいコマから減じられることもあった。この手順により、反射光に影響された画像から反射光をほぼ全て取り除くことができた。 342枚の画像それぞれから宇宙線や反射光の影響が取り除かれたので、次に結合しなければならない。科学者たちは、1対のコマの間で望遠鏡の向きを絶えず変える「drizzling」と呼ばれる技法を開発したHDFの観測に参加していた。WFPC2のCCDチップのそれぞれのピクセルには、直径0.09秒の範囲が記録されるが、コマの間で望遠鏡の向きが少し変わることにより、結果として得られた画像は複雑な画像処理技術を用いて結合され、最終的な角分解能はこの値より良くなる。HDFの画像では、それぞれの波長で最終的なピクセルの大きさは0.03985秒角になっている。 データ処理により、それぞれの波長につき1枚、合計4枚のモノクロ画像が得られる。これらの画像から、それぞれを赤、緑、青に割り当てて1枚のフルカラー画像として合成し一般に合成するのは任意の処理であった。この画像が撮影された波長は赤、緑、青とは一致していなかったため、最終的な画像の色はあくまでも画像に写っている銀河の実際の色の近似表現に過ぎない。HDF(及び大部分のハッブル宇宙望遠鏡の画像)では、フィルターの選択は人間の目が実際に感知する色に一致する色になるようにではなく、観測の科学的有用性を最大にすることを第一として選ばれている。 ==ディープ・フィールドの内容== 最終的な画像から、遠くかすかな銀河について非常に多くのことが明らかになった。この画像の中に約3000個の銀河を識別することができ、不規則銀河と渦巻銀河の両方がはっきり認められるが、視野の中には差し渡し数ピクセルしかない銀河もある。HDFには手前の銀河系内の恒星が全部で10個未満含まれていると考えられているが、それ以外の視野内の圧倒的多数の天体は遠方の銀河である。 HDFにはおよそ50個の青い点状の天体が写っている。多くはすぐ近くにある、鎖状や弧状の銀河と関係があると考えられている。これらは活発な星形成領域だろう。その他は遠方のクエーサーである可能性がある。天文学者たちは当初これらの点状の天体の一部が白色矮星である可能性を除外したが、それは当時一般的だった白色矮星の進化理論と矛盾するほど青いからだった。しかし、より最近の研究から、白色矮星には年を取ると青くなるものも多いことが発見され、HDFに白色矮星が含まれている可能性があるという考えにも根拠が生まれている。 ==科学的成果== HDFは宇宙学者たちに極めて豊富な分析材料を提供し、2005年までに、天文学に関する文献にHDFに基づいた400近い論文が発表されている。最も基礎的な発見は、大きな赤方偏移の値を持っている銀河が多く見つかったことである。 宇宙が膨張するのにともなって、より遠くにある天体は地球からより速く遠ざかる。これはハッブルの法則と呼ばれており、それに基づいた銀河の後退はハッブル流と名付けられている。非常に遠い銀河からの光はドップラー効果の影響を著しく受け、我々が遠方の銀河から受ける光は元々の光より赤くなる。非常に高い赤方偏移の値を持つクエーサーは知られていたが、1より大きい赤方偏移の値(波長が元の2倍になる)を持つ銀河は、HDFの画像が得られるまでは非常に少数しか知られていなかった。しかし、HDFには、赤方偏移の値が6(波長が元の7倍になる)にも達する銀河が多数含まれており、これは120億光年の距離に相当する[3]。(赤方偏移のため、HDFの中で最も遠い天体は実際にはこのハッブル宇宙望遠鏡の写真では見えない。それらは地上の望遠鏡によってより長い波長で撮影された画像からHDFの画像の中に発見されたものである。) HDFの銀河には、我々の銀河系の近くの宇宙に比べて、他の銀河の影響を受けた銀河や不規則銀河が明らかに高い割合で含まれている。若い宇宙は現在よりかなり小さかったため、銀河の衝突と合体はより頻繁に起こっていた。渦巻銀河と不規則銀河が衝突すると、巨大な楕円銀河が形成されると考えられている。 異なる進化段階にある銀河が豊富にあるため、宇宙の生涯にわたっての星形成の割合がどう変動するかを推定することが可能になっている。HDFに写っている銀河の赤方偏移の値の推定はまだ不完全であるが、星形成の割合が最大になったのは80億年前から100億年前であり、それ以来割合はおよそ10分の1に減少したと天文学者たちは考えている。 HDFから得られたその他の重要な成果としては、手前の星が極めて少数しか存在しなかったことがある。天文学者たちは長年にわたって、見つけられないが観測によると宇宙の質量の90%を占めていると推測されるいわゆる暗黒物質と呼ばれるものに困惑してきた。ある理論では、暗黒物質には銀河の外部にある赤色矮星や惑星などの、暗いが質量の大きいMACHOと呼ばれる天体が含まれていると考えられていた。しかし、HDFにより、我々の銀河の外側の部分にはそれほど多数の赤色矮星が存在するわけではないということが分かった。 ==後続の観測== HDFは観測宇宙論における画期的な業績であり、未だにそこから学ぶべきことは多い。1995年以来、この領域はさらに他の宇宙望遠鏡で電波からX線にかけての波長で観測されただけでなく、多くの地上の望遠鏡でも観測されている。 非常に高い赤方偏移の値を持った天体が、地上の望遠鏡、特にジェームズ・クラーク・マクスウェル望遠鏡によってHDFから発見されてきた。これらの天体が高い赤方偏移の値を持っているということは、可視光では見ることができず、一般的には代わりにHDFの赤外線やサブミリ波の波長域のサーベイで発見されるということを意味している。 宇宙からの重要な観測には、チャンドラX線天文台や赤外線宇宙天文台(ISO)によるものが含まれている。X線の観測からHDFに6つのX線発生源が確認され、これらは3つの楕円銀河に相当することが分かった。1つは渦巻銀河、1つは活動銀河核であり、1つは極めて赤い天体で、青い光を吸収する塵を大量に含む遠方の銀河だと考えられている。 ISOの観測で、可視光の画像で見ることができる13の銀河からの赤外線放射が見つかり、活発な星形成と関連した大量の塵に起因すると考えられている。VLAを用いて得られた地上からの電波画像では、HDFに7つの電波源があることが明らかになり、これらは全て可視光の画像で見える銀河と合致した。 1998年には、ハッブル・ディープ・フィールド・サウス(HDF‐S)と呼ばれる、HDFと同等の画像が南天で作られた。同じような観測方法を用いて作られたため、HDF‐Sは元々のHDFと一見して極めて似たものとなっている。これは宇宙が大きな規模では均質であるという宇宙原理を支持する結果である。 2012年に、エクストリーム・ディープ・フィールド(XDF)と呼ばれる画像が公開された。この画像は、ろ座の一角を紫外線、可視光、近赤外線を10年以上にわたって撮影した物を合成したもので、総露光時間200万秒(約23日)にも及ぶ。この画像には、渦巻銀河から、銀河衝突の残骸でもう新しい恒星を生むことのない赤色の巨大銀河まで、約5500個の銀河が写っている。 ==関連項目== ハッブル・ウルトラ・ディープ・フィールドハッブル・ディープ・フィールド・サウス(英語版) ==参考文献== Williams RE et al. (1996), The Hubble Deep Field: Observations, data reduction, and galaxy photometry, Astronomical Journal, 112:1335Ferguson HC (2000), The Hubble Deep Fields, Astronomical Data Analysis Software and Systems IX, ASP Conference Proceedings, Vol. 216, N Manset, C Veillet, and D Crabtree (eds). Astronomical Society of the Pacific, ISBN 1‐58381‐047‐1, p.395 ==註== =ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ= ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(伊: Michelangelo Merisi da Caravaggio、1571年9月28日 ‐ 1610年7月18日)は、バロック期のイタリア人画家。 ルネサンス期の後に登場し、カラヴァッジョ(Caravaggio)という通称で広く知られ、1593年から1610年にかけて、ローマ、ナポリ、マルタ、シチリアで活動した。あたかも映像のように人間の姿を写実的に描く手法と、光と陰の明暗を明確に分ける表現は、バロック絵画の形成に大きな影響を与えた。 ==概要== カラヴァッジョはティツィアーノの弟子だった師匠のもと、ミラノで画家の修行を積んだ。その後、ミラノからローマへと移っているが、当時のローマは大規模な教会や邸宅が次々と建築されており、それらの建物を装飾する絵画が求められている都市だった。対抗宗教改革のさなか、ローマカトリック教会はプロテスタントへの対抗手段の一つとして自分たちの教義を補強するようなキリスト教美術品を求めるようになる。しかしながら、盛期ルネサンス以降、およそ1世紀にわたって美術界の主流となっていたマニエリスムは、もはや時代遅れの様式であると見なされていた。このような状況の中、カラヴァッジョは1600年に枢機卿に依頼された作品『聖マタイの殉教』と『聖マタイの召命』とを完成させ、一躍ローマ画壇の寵児となった。極端ともいえる自然主義に貫かれたカラヴァッジョの絵画には印象的な人体表現と演劇の一場面を髣髴とさせるような、現在ではテネブリズムとも呼ばれる、強烈な明暗法のキアロスクーロの技法が使用されている。 カラヴァッジョは画家としての生涯で絵画制作の注文不足やパトロンの欠如などは経験しておらず、金銭面で困ったことはなかった。しかしながらその暮らしは順風満帆なものではなく、自宅で暴れて拘置所に送られたことが何回かあり、ついには当時のローマ教皇から死刑宣告を受けるほどだった。カラヴァッジョについての記事が書かれた最初の出版物が1604年に発行されており、1601年から1604年のカラヴァッジョの生活について記されている。それによるとカラヴァッジョの暮らしは「2週間を絵画制作に費やすと、その後1か月か2か月のあいだ召使を引きつれて剣を腰に下げながら町を練り歩いた。舞踏会場や居酒屋を渡り歩いて喧嘩や口論に明け暮れる日々を送っていたため、カラヴァッジョとうまく付き合うことのできる友人はほとんどいなかった」とされている。1606年には乱闘で若者を殺して懸賞金をかけられたため、ローマを逃げ出している。さらに1608年にマルタで、1609年にはナポリで乱闘騒ぎを引き起こし、乱闘相手の待ち伏せにあって重傷を負わされたこともあった。翌年カラヴァッジョは熱病にかかり、トスカーナ州モンテ・アルジェンターリオで38歳の若さで死去する。人を殺してしまったことへの許しを得るためにローマへと向かう旅の途中でのことだった。 存命中のカラヴァッジョはその素行から悪名高く、その作品から評価の高い人物だったが、その名前と作品はカラヴァッジョの死後まもなく忘れ去られてしまった。しかし20世紀になってからカラヴァッジョが西洋絵画に果たした大きな役割が再評価されることになる。それまでのマニエリスムを打ち壊し、後にバロック絵画として確立する新しい美術様式に与えた影響は非常に大きなものだった。ルーベンス、ホセ・デ・リベーラ、ベルニーニそしてレンブラントらバロック美術の巨匠の作品は、直接的、間接的にカラヴァッジョの影響が見受けられる。カラヴァッジョの次世代の画家で、その影響を強く受けた作品を描いた画家たちのことを「カラヴァジェスティ」あるいはカラヴァッジョが使用した明暗技法から「テネブリスト」と呼ぶこともある。現代フランスの詩人ポール・ヴァレリーの秘書をつとめたアンドレ・ベルネ=ジョフロワはカラヴァッジョのことを「いうまでもなくカラヴァッジョの作品から近現代絵画は始まった」と評価している。 ==生涯== ===前半生(1571年 ‐ 1592年)=== カラヴァッジョは1571年にミラノで三人兄弟の長男として生まれた。父フェルモ・メリージは、ベルガモ近郊にあるカラヴァッジョ侯爵家の邸宅管理人かつ室内装飾担当で、母ルチア・アレトーリは、同地方の地主階級の娘だった。1576年にはペストで荒廃したミラノを離れ、一家でカラヴァッジョ村へと移住したが、その翌年の1577年には父フェルモが死去している。カラヴァッジョは幼年期をこの村で送ったと考えられており、カラヴァッジョとスフォルツァ家やコロンナ家といった当時の有力なイタリア貴族との関係はその後も続いていた。後年カラヴァッジョはスフォルツァ一族の娘と結婚し、このことがカラヴァッジョの後半生に大きな役割を果たすことになる。 カラヴァッジョの母も1584年に死去し、この年からカラヴァッジョはティツィアーノの弟子だったという記録が残っているミラノの画家シモーネ・ペテルツァーノ (en:Simone Peterzano) のもとで4年間徒弟として修行している。カラヴァッジョは徒弟の年季が終了した後もミラノ近辺に在住していたが、ヴェネツィアを訪れて、後年フェデリコ・ツッカリがカラヴァッジョの絵画はこの画家の作品を真似ただけだと非難したジョルジョーネやティツィアーノらの絵画を目にした可能性はある。カラヴァッジョはレオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』などミラノに保管されていた貴重な作品や、ロンバルディア地方の絵画に親しんでいった。硬直化し、大げさな表現に陥っていたローマ風のマニエリスム様式ではなく、飾り気なくありのままを表現するドイツの自然主義絵画様式に傾倒していった。 ===ローマ時代前期(1592年 ‐ 1600年)=== 1592年半ばにカラヴァッジョは「おそらく喧嘩」で役人を負傷させ、ミラノを飛び出し「着の身着のままで…行く宛ても食料もなく…ほとんど無一文の状態で」ローマへと逃げ込んだ 。その数ヵ月後カラヴァッジョは、ローマ教皇クレメンス8世のお気に入りの画家だったジュゼッペ・チェーザリ (en:Giuseppe Cesari) の工房で助手を務め、「花と果物の絵画」で画家としての技量を知られるようになる。このころのカラヴァッジョの作品として知られているのは『果物の皮を剥く少年 (Boy Peeling Fruit)』(ロンギ財団所蔵、1592年ごろ)、『果物籠を持つ少年 (Boy with a Basket of Fruit)』(ボルゲーゼ美術館所蔵、1593年 ‐ 1594年)、『病めるバッカス (Young Sick Bacchus)』(ボルゲーゼ美術館所蔵、1593年ごろ)などがある。『病めるバッカス』は自画像ではないかと言われており、ひどい病気に罹患してチェーザリの工房から解雇された後の回復しつつある自分自身を描いたとされている。これら3点の絵画は精密な写実的表現で描かれており、カラヴァッジョの画家としての名声を高めることになった。『果物籠を持つ少年』に描かれた果物は園芸の専門家によればそれぞれの種類を言い当てることが可能で、例えば籠の右下に垂れ下がっているのは「菌類による病変に侵されて斑に枯れた大きなイチジクの葉」である。 カラヴァッジョは1594年にジュゼッペ・チェーザリの工房から解雇され、独立した画家として生計を立てることを決意した。このころがカラヴァッジョの生涯でもっとも底辺にあった時期だが、画家プロスペロ・オルシ、建築家オノーリオ・ロンギ、当時まだ16歳だったシチリア出身の芸術家マリオ・ ミンニーティら、カラヴァッジョにとって非常に重要な存在となる人々と友人になっている。オルシはすでに成功していた画家で、多くの影響力がある収集家をカラヴァッジョに引き合わせた。一方ロンギはカラヴァッジョに悪い影響を与えた人物で、喧騒に満ちたローマの裏の世界をカラヴァッジョに教えた。ミンニーティはカラヴァッジョのモデルをつとめ、数年後にシチリアでの重要な絵画制作に大きな役割を果たすことになった。 『女占い師 (The Fortune Teller)』(カピトリーノ美術館所蔵、1594年ごろとルーブル美術館所蔵、1595年ごろの2点のヴァージョンが現存)はカラヴァッジョの作品の中で最初に二人以上の人物が描かれた絵画で、モデルになっているのはミンニーティである。ミンニーティ扮する少年がジプシー娘に欺かれている様子が描かれており、このような題材の絵画はそれまでのローマでは見られず、この作品を嚆矢としてその後数世紀にわたって描かれるようになった題材である。しかしながら、この題材で描かれた絵画に人気が出たのは後年になってからのことで、カラヴァッジョ自身はただ同然の価格でしかこの作品を売却できなかった。 『トランプ詐欺師 (The Cardsharps)』(キンベル美術館所蔵、1594年ごろ)は、トランプ詐欺に引っかかる純朴な少年を描いた作品で、題材としては『女占い師』と同様のものである。しかしながら心理的描写はより優れており、カラヴァッジョの作品で最初の傑作とされている。『女占い師』と同じく後世になって人気が出た題材で、50点以上の模写が現存している。さらにこの作品を通じて、カラヴァッジョは当時のローマでもっとも優れた美術鑑定家の一人といわれていた枢機卿フランチェスコ・マリア・デル・モンテに認められ、後援を受けることに成功した。そして、デル・モンテと取巻きの裕福な美術愛好家たちに依頼され、多数の室内装飾用絵画を描いた。『音楽家たち (The Musicians)』(メトロポリタン美術館所蔵、1595年 ‐ 1596年)、『リュートを弾く若者 (The Lute Player)』(ウィルデンスタイン・コレクション所蔵、1596年ごろ、バドミントン・ハウス所蔵、1596年ごろ、エルミタージュ美術館所蔵、1600年ごろの3点のヴァージョンが現存)、『バッカス (Bacchus)』(ウフィツィ美術館所蔵、1595年ごろ)や、寓意に満ちているが写実的な『トカゲに噛まれた少年 (Boy Bitten by a Lizard)』(ロンドン・ナショナル・ギャラリー所蔵、1593年 ‐ 1594年とロベルト・ロンギ財団所蔵、1594年 ‐ 1596年の2点のヴァージョンが現存)などである。これらの作品にモデルとなって描かれているのはミンニーティのほか、数人の青少年である。 カラヴァッジョが最初に描いた宗教画は写実的で、高い精神性をもったものだった。宗教を題材とした最初期の作品として『懺悔するマグダラのマリア (Penitent Magdalene)』(ドリア・パンフィリ美術館所蔵、1594年 ‐ 1595年ごろ)があり、描かれているマグダラのマリアはそれまでの娼婦としての生活を悔やんで座り込み、あたりには虚飾を示す宝飾品が散乱している。「宗教的な絵画にはとても見えないかもしれない…濡れた髪の少女が低い椅子に座り込み…良心の呵責に苛まれ…救済を求めているのだろうか」 この作品はロンバルド風の絵画で、当時のローマ風の気取った作風ではないと考えられていた。同様の作風で描かれた宗教絵画に『聖カテリナ (Saint Catherine)』(ティッセン=ボルネミッサ美術館所蔵、1598年ごろ)、『聖マタイとマグダラのマリア (Martha and Mary Magdalene)』(デトロイト美術館所蔵、1598年ごろ)、『ホロフェルネスの首を斬るユディト (Judith Beheading Holofernes)』(ローマ国立古典絵画館所蔵、1598年 ‐ 1599年)、『イサクの犠牲 (Sacrifice of Isaac)』(ピエセッカ・ジョンソン・コレクション所蔵、1598年ごろ)、『法悦の聖フランチェスコ (Saint Francis of Assisi in Ecstasy)』(ワーズワース美術館、1595年ごろ)、『エジプトへの逃避途上の休息 (Rest on the Flight into Egypt)』(ドリア・パンフィリ美術館所蔵、1597年ごろ)などがある。これらの作品は広く公開されていたわけではなく、比較的限られた人にのみ目にする機会があったものだが、カラヴァッジョの名声は美術愛好家や友人の芸術家の間で高まっていった。しかし一般からの評価を決定付けるためには、教会の装飾絵画のように広く大衆が目にする作品が必要だった。 極端なまでの写実主義と自然主義の作品によって、現代のカラヴァッジョの評価はゆるぎないものになっている。カラヴァッジョは題材を目に見えるとおりに表現し、描く対象を理想化することなく欠点や短所すらもありのままに描き出した。このことはカラヴァッジョが非常に高い絵画技術を有していたことを示している。ミケランジェロのような古典的理想表現こそが絵画のあるべき姿だと認識されていた当時において、カラヴァッジョの作風は大きな反響を呼んだ。この時期のカラヴァッジョの作品は写実主義だけが最大の特徴というわけではなく、当時の中央イタリアで長期にわたって受け継がれてきたルネサンス様式を否定したところに大きな意義がある。カラヴァッジョは対象をそのまま油彩画へと描きだした、ヴェネツィア風の半身肖像画や静物画を特に好んでいた。このような作風がもっともよく表れている当時の作品に『エマオの晩餐 (Supper at Emmaus)』(ロンドン・ナショナル・ギャラリー所蔵、1601年)があげられる。 ===ギャラリー=== ===ローマ時代後期 ‐ ローマでもっとも有名な画家(1600年 ‐ 1606年)=== 1599年におそらく枢機卿デル・モンテの推薦で、カラヴァッジョはサン・ルイジ・デイ・フランチェージ教会コンタレッリ礼拝堂の室内装飾の依頼を受けた。契約では2点の絵画を制作するとなっており、このときに描かれたのが『聖マタイの殉教 (Martyrdom of Saint Matthew)』と『聖マタイの召命』である。1600年に完成したこれらの絵画は、たちまちのうちに大評判となった。カラヴァッジョはこの絵画でキアロスクーロよりもさらに強い明暗法のテネブリズムを使用し、このことが画面に高い劇的な効果を与え、カラヴァッジョの作品が持つ鋭い写実性に激しい感情表現を加えることになった。当時の画家たちの間ではカラヴァッジョに対する評価は両極端に分かれている。絵画技法上、様々な間違いを犯していると公然と非難するものもいたが、カラヴァッジョを新しい絵画技法の先駆者であると支持するものが多かった。「当時ローマに居た画家たちは、カラヴァッジョの作品が持つ革新性に驚愕した。とくに若い画家たちはカラヴァッジョに共感し、実物をありのままに描くことが出来る比類ない画家であると賞賛して、その作品はほとんど奇跡だとまで考えていた」 カラヴァッジョには有力者たちから大量の絵画制作の依頼が舞い込むようになった。とくに暴力的な表現を伴う宗教画の依頼が多く、グロテスクな断首、拷問、死などが主題となっていた。カラヴァッジョが描いたこのような宗教画のなかでも、もっとも優れた作品といわれているのがイタリア貴族マッテイ家 (en:House of Mattei) からの依頼で描かれた『キリストの捕縛 (The Taking of Christ)』(アイルランド国立美術館、1602年ごろ)である。200年以上にわたって失われた絵画だとされていたが、1990年になってダブリンのイエズス会教会で再発見された作品である。次々と描きあげる絵画によってカラヴァッジョの名声は高まる一方だったが、ときには依頼主に受け取りを拒否されることもあり、描き直すかあるいは別の購入者を探すことになった作品もあった。カラヴァッジョの描く強い明暗法で表現された劇的な作品は高く評価されていたが、逆に通俗的で下品な絵画であるとして忌避されることもあった。サン・ルイジ・デイ・フランチェージ教会の依頼でコンタレッリ礼拝堂のために描かれた、みすぼらしい小作人のように表現された聖マタイが、光り輝く衣装に身を包んだ天使に教えを受けているという構図の『聖マタイと天使 (Saint Matthew and the Angel)』(第二次世界大戦で消失、1602年)は依頼人の好みに合わず、代替として『聖マタイの霊感 (The Inspiration of Saint Matthew)』(サン・ルイジ・デイ・フランチェージ教会コンタレッリ礼拝堂所蔵、1602年)が描かれた。有名な『聖パウロの回心 (The Conversion of Saint Paul)』(オデスカルキ・バルビ・コレクション所蔵、1600年ごろ)も当時の依頼人から拒否され、同じ主題の『ダマスカスへの途中での回心 (Conversion on the Way to Damascus)』(サンタ・マリア・デル・ポポロ教会所蔵、1601年)として描き直されている。『ダマスカスへの途中での回心』は聖パウロが乗馬していた馬のほうがパウロよりも大きく描かれており、このことがカラヴァッジョと絵画を依頼したサンタ・マリア・デル・ポポロ教会の間で論争にもなった。 『キリストの埋葬 (Entombment)』(バチカン美術館所蔵、1602年 ‐ 1603年)、『ロレートの聖母』(サンタゴスティーノ教会所蔵、1604年 ‐ 1606年)、『聖アンナと聖母子 (Grooms’ Madonna)』(ボルゲーゼ美術館所蔵、1605年 ‐ 1606年)、『聖母の死 (Death of the Virgin)』(ルーブル美術館所蔵、1604年 ‐ 1605年)なども有名なカラヴァッジョの宗教画である。とくに『聖母子と聖アンナ』と『聖母の死』の来歴は、カラヴァッジョ存命時の作品が一部の人々からどのような評価を受けていたのかの好例となっている。 『聖アンナと聖母子』は別名『蛇の聖母』とも呼ばれており、もともとはローマ教皇庁の馬丁組合大信心会が依頼し、サン・ピエトロ大聖堂の小さな祭壇に飾るために描かれた作品だった。だが飾られていたのはわずか二日間だけで、すぐさま祭壇から除去されてしまった。当時の枢機卿付書記官が「下品で、神を冒涜する不信心極まりない絵画で、嫌悪感に満ちている…この絵画は優れた技術を持つ画家の作品かも知れないが、その画家の心は邪悪で善行や礼拝などといった信仰心からはかけ離れているに違いない」と書き残している。『聖母の死』は1601年にサンタ・マリア・デッラ・スカラのカルメル会修道院に礼拝堂を個人所有していた裕福な法律家の依頼を受け、その礼拝堂の祭壇画として描かれた作品だったが、1606年に修道院から所蔵を拒絶されている。同時代の著述家ジュリオ・マンチーニが、修道院からこの作品が拒絶されたのは、当時非常によく知られていた娼婦を聖母マリアのモデルにしたためであると記録している。同じく同時代人の画家ジョヴァンニ・バリオーネ (en:Giovanni Baglione) は、どちらの絵画も聖母マリアのむきだしの足が問題視されたのだとしている。カラヴァッジョの研究者ジョン・ガッシュは、カルメル会修道院が『聖母の死』を拒絶したのは、芸術的評価ではなくカルメル会の教義が影響しているのではないかと推測した。神の母は決して死することなく天国へと召されただけであるという聖母の被昇天の教義を否定している絵画と見なされたとしている。『聖母の死』の代替に描かれたのは、カラヴァッジョの追随者でもあったカルロ・サラチェーニ (en:Carlo Saraceni) が描いた祭壇画で、カラヴァッジョの『聖母の死』とは違って、聖母マリアは未だ死んではおらず、座して死に行くさまを描いたものだった。しかしながらこの祭壇画も修道院から受け取りを拒否され、さらなる代替作品として、天使たちが聖歌を歌う中でマリアが天界へと昇天していく絵画が描かれている。とはいえ、このような絵画の受入拒否はカラヴァッジョやその作品が嫌われていたことを意味するとは限らない。『聖母の死』は修道院から拒まれた直後にマントヴァ公ヴィンチェンツォ1世・ゴンザーガが購入しており、しかもこのときにマントヴァ公にこの作品の購入を勧めたのはルーベンスだった。その後、1671年にイングランド国王チャールズ1世が購入し、清教徒革命によるイングランド内戦でチャールズ1世が処刑されると、フランスへ売却されてフランス王室コレクションに納められた。 キリスト教には関係がないこの時期の作品の一つに、1602年にデル・モンテの取り巻きの一人で銀行家・美術本収集家イタリア人ヴィンチェンツォ・ジュスティニアーニ (en:Vincenzo Giustiniani) の依頼で描かれた『愛の勝利』(絵画館所蔵、1601年 ‐ 1602年)がある。描かれているキューピッドのモデルとなったのは、17世紀初頭の記録にフランチェスコの愛称である「チェッコ (Cecco)」と記されている人物である。この人物は後にチェッコ・デル・カラヴァッジョ (en:Cecco del Caravaggio)と呼ばれ、1610年から1625年ごろに画家として活動したフランチェスコ・ボネリではないかと考えられている。裸身で矢を手にし、好戦、平和、科学などを意味する事物を踏みにじっている様子で描かれ、その歯をむき出しにしてほくそ笑むいたずら小僧のような表現は、ローマ神話の神であるキューピッドを想起することは難しい。カラヴァッジョには他にも半裸の青年として多くのキューピッドを描いた絵画があるが、いずれも芝居の小道具のような翼で描かれており、こちらも神話のキューピッドが描かれているようには見えない。しかしながらカラヴァッジョが意図していたものは、極めて強く写実的に絵画を描くことによって、神たるキューピッドと俗世のチェッコ、あるいは聖母マリアとローマの娼婦という二面性を同時に作品に持たせることだった。 ===ローマ追放と死(1606年 ‐ 1610年)=== カラヴァッジョは激動の生涯を送った。裏社会の住人たちの間でさえ喧嘩っ早いという悪評があり、カラバッジョの不品行が当時の警備記録や訴訟裁判記録に数ページにわたって記載されている。そしてカラヴァッジョは、1606年5月29日におそらく故意ではないとはいえ、ウンブリア州テルニ出身のラヌッチオ・トマゾーニという若者を殺害してしまう。それまでのカラヴァッジョの放埓な言動は、有力者に多くパトロンがいたことによって大目に見られていたが、このときはパトロンたちもカラヴァッジョを庇うことはなかった。殺人犯として指名手配されたカラヴァッジョはローマを逃げ出し、ローマの司法権が及ばないナポリで有力貴族コロンナ家の庇護を受けた。カラヴァッジョとコロンナ家との関係は『ロザリオの聖母 (Madonna of the Rosary)』(美術史美術館所蔵、1607年)など、主要な教会からの絵画制作依頼に大きく寄与している。 ナポリでも成功を収めたカラヴァッジョだったが、数か月後には、おそらくマルタ騎士団の騎士団総長アロフ・ド・ウィニャクール (en:Alof de Wignacourt) の庇護を求めて、ナポリからマルタへと移った。ド・ウィニャクールは、このイタリア有数の高名な画家を騎士団の公式画家とすることは利益になると判断してカラヴァッジョを騎士団の騎士として迎え入れ、カラヴァッジョを喜ばせた。マルタ滞在時にカラヴァッジョが描いた主要な作品には、唯一カラヴァッジョ自身の署名が残る『洗礼者ヨハネの斬首 (Beheading of Saint John the Baptist)』(聖ヨハネ准司教座聖堂所蔵、1608年)や、『アロフ・ド・ウィニャクールと小姓 (Portrait of Alof de Wignacourt and his Page)』(ルーブル美術館所蔵、1607年 ‐ 1608年)を始め当時の主要なマルタ聖堂騎士団員を描いた肖像画などがある。 遅くとも1608年8月終わりまでに、カラヴァッジョは逮捕され投獄されている。このマルタ時代のカラヴァッジョを取り巻く急激な環境変化は長く議論の的になっており、近年の研究では、カラヴァッジョがマルタでも喧嘩沙汰を起こし、騎士団宿舎の扉を叩き壊したうえに騎士の一人に重傷を負わせたためだとされている。騎士団員たちによって投獄されたカラヴァッジョは、同年11月に「恥ずべき卑劣な男」であるとして騎士団から除名されたが、脱獄してマルタから逃れた。 マルタを後にしたカラヴァッジョは、昔からの知り合いで結婚後シラクサに住んでいたマリオ・ ミンニーティを頼ってシチリアへと逃れた。二人は共にシラクサを離れてメッシーナへと出発し、最終的にシチリアの首都パレルモに到着している。カラヴァッジョは旅先の各都市でも画家としての名声を勝ち取り、多額の謝礼を伴う絵画制作の依頼を受けたため、この旅はいわば大名旅行ともいえる贅沢なものになった。このシチリア時代の作品には『聖ルチアの埋葬 (Burial of St. Lucy)』(サンタ・ルチア・アラ・バディア教会所蔵、1608年)、『ラザロの蘇生 (The Raising of Lazarus)』(メッシーナ州立美術館所蔵、1609年ごろ)、『羊飼いの礼拝 (Adoration of the Shepherds)』(メッシーナ州立美術館所蔵、1609年)があげられる。カラヴァッジョの作風は進化し続けており、このころの作品は描かれている人物が身にまとう織りの粗い衣服が、何も描かれていない広い背景から浮き出て見えるかのように表現されている。「カラヴァッジョがシチリアで描いた素晴らしい祭壇画は陰になっている部分が多く、薄暗く広い背景に数人のみすぼらしい人物が描かれている構図という他にあまり例のない作品になっている。人間の絶望的なまでの不安と心の弱さを表現すると同時に、人間が代々受け継いできた優しさ、謙虚さ、柔和さなどが未だ失われていないさまを描き出している」といわれている。一方でカラヴァッジョの不品行は改まってはおらず、眠っているときでさえ完全武装し、他人の作品を根拠なく誹謗してその絵画を引き裂いたり、地元の画家たちを嘲笑していたという当時の記録が残っている。 カラヴァッジョはシチリアに9か月滞在した後に再びナポリへと戻っている。ナポリ帰還は、最初期の伝記によればカラヴァッジョがシチリアで常に敵対者に付け狙われており、ローマ教皇の許しを得てローマに戻れるようになるまでは、知己である有力貴族コロンナ家が大きな権力を持つナポリがもっとも安全であると考えためである。ナポリ帰還後の作品として『聖ペテロの否認 (The Denial of Saint Peter)』(メトロポリタン美術館所蔵、1610年ごろ)、『洗礼者ヨハネ (John the Baptist)』(ボルゲーゼ美術館所蔵、1610年ごろ)、そして遺作となった『聖ウルスラの殉教 (The Martyrdom of Saint Ursula)』(インテーザ・サンパオロ銀行所有、1610年)がある。特に『聖ウルスラの殉教』は、フン族の王が放った矢が聖ウルスラの胸を貫く瞬間を描いた奔放かつ印象的な筆使いの絵画で、それまでの絵画が持ち得なかった躍動感にあふれた作品になっている。 カラヴァッジョは安全な場所だと思っていたナポリで襲撃を受けた。犯人は不明で、ローマでは「有名な芸術家」カラヴァッジョが殺されたという記録が残っているが、これは誤報でありカラヴァッジョは顔に重傷を負ったものの生命に別状はなかった。『洗礼者ヨハネの首を持つサロメ (Salome with the Head of John the Baptist (Madrid))』(マドリード王宮、1609年ごろ)の大皿に乗った生首は自身の頭部を描いたもので、カラヴァッジョはこの作品をマルタでの不品行への許しを請うためにマルタ騎士団長ド・ウィニャクールへと贈っている。『洗礼者ヨハネの首を持つサロメ』とおそらく平行して『ゴリアテの首を持つダビデ (David with the Head of Goliath)』(ボルゲーゼ美術館、1609年)も描いている。若きダビデが不思議な悲しみの表情で巨人ゴリアテの切断された頭部を見つめている作品で、この絵画に描かれているゴリアテの頭部もカラヴァッジョ自身の自画像である。カラヴァッジョはこの『ゴリアテの首を持つダビデ』をローマ教皇パウルス5世の甥で、罪人への恩赦特権を持つ悪名高き美術愛好家の枢機卿シピオーネ・ボルゲーゼ (en:Scipione Borghese) への贈答絵画にするつもりだった。 1610年の夏にカラヴァッジョは、奔走してくれたローマの有力者たちのおかげで近々発布される予定だった恩赦を受けるために北方へと向かう船に乗り込んだ。このときカラヴァッジョは枢機卿シピオーネへの返礼品として3点の絵画を持参していた。この後カラヴァッジョに何があったのかの記録が非常に混乱、錯綜しており、いずれも推測の域を出ない。わずかに事実だといえることは、7月28日のローマからウルビーノ公爵家へ宛てた速報手記 (en:Avviso) にカラヴァッジョが死去したという記事が掲載されており、3日後の別の速報手記にカラヴァッジョがナポリからローマへと向かう旅の途中で熱病のために死去したというものである。カラヴァッジョの友人の詩人が後に7月18日をカラヴァッジョの命日であるとしており、近年の研究で同じく7月18日にトスカーナ大公国のポルト・エルコレで熱病で死去したという証拠が見つかったと主張する美術史家もいる。 2010年にポルト・エルコレの教会で人骨が発見され、この骨はまずカラヴァッジョのものに間違いないだろうと考えられている。この発見から一年以上かけてDNA鑑定、放射性炭素年代測定など様々な科学的鑑定が行われた。発見された人骨からは高濃度の鉛が検出されており、この人骨がカラヴァッジョのものであるならば鉛中毒で死去した可能性が高い。当時の顔料には多くの鉛が含まれ、鉛中毒はいわば画家の職業病だった。さらにカラヴァッジョは非常に放埓な生活を送っており、このことも鉛中毒に悪影響を及ぼしたと考えられる。 ===墓碑銘=== カラヴァッジョの墓碑銘は、友人のマルツィオ・ミレージによるものである。 フェルモ・ディ・カラヴァッジョの息子ミケランジェロ・メリージ 自然そのもの以外に比肩しうるもののいない画家 ナポリからローマへと向かう途中のポルト・エルコレにて 36年と6カ月12日の人生を生きて1610年8月15日に客死した ‐ 法学者マルツィオ・ミレージが、この異常なまでの才能を持った友人に捧ぐ ==画家としての評価== ===バロック芸術の成立=== カラヴァッジョは「陰 (oscuro) をキアロスクーロ (chiaroscuro) へと昇華した」といわれる。キアロスクーロ自体はカラヴァッジョ以前から長らく使われてきた手法だが、一方向からまばゆく射す光を光源として段階的な陰影をつけて描かれた対象物を浮かび上がらせる表現はカラヴァッジョが絵画技法として確立したものである。カラヴァッジョが持っていた肉体面、精神面両方に対する鋭い写実的な観察眼によって成立したもので、とくに宗教絵画においてカラヴァッジョが直面した数々の課題を通じて形成されていった。カラヴァッジョの絵画制作速度は非常に速く、モデルを前にしたまま基本的な部分を最後まで描き上げることが出来た。カラヴァッジョが描いた下絵(ドローイング)はほとんど現存しておらず、このことはカラヴァッジョが紙などに下絵を描くことなく、キャンバスにいきなり描き始める手法を好んでいたためと考えられている。これは当時の熟練した画家たちからは忌み嫌われていた手法で、旧来の画家からはカラヴァッジョが下絵から描き始めないことと、人物像を理想化して描かないことを声高に非難された。しかしながら、人物を理想化することなく写実的に描くことはカラヴァッジョにとってはごく当然のことだった。 写実的に絵画に描かれた人物像のモデルが誰なのかが判別している者もいる。よく知られているのは後にカラヴァッジョの作風を受け継いだ画家となったマリオ・ ミンニーティとフランチェスコ・ボネリで、ミンニーティは初期の世俗的な作品に、ボネリは天使、洗礼者ヨハネ、ダビデとしてカラヴァッジョ後期の作品にそれぞれ描かれている。女性モデルには『フィリデの肖像 (Portrait of Fillide)』(第二次世界大戦で消失、1597年 ‐ 1599年)に描かれているフィリデ・メランドローニ、『聖マタイとマグダラのマリア』に描かれているアンナ・ビアンキーニ、法廷記録の「アーティチョーク事件」にレナという名前で記載されているカラヴァッジョの愛人マッダレーナ・アントネッティらがいるが、全員が当時有名だった娼婦であり、カラヴァッジョは彼女たちを聖母マリアなど様々な聖人のモデルとして多くの宗教絵画に描いた。カラヴァッジョは自身の肖像も数枚の絵画に登場人物として描いている。最後の自画像は『聖ウルスラの殉教 (The Martyrdom of Saint Ursula)』の右端に描かれている男性像である。 カラヴァッジョは決定的な瞬間を誰にも真似できないほどに鮮やかに切り取って描く優れた能力を持っていた。『エマオの晩餐』はキリストの弟子だったクレオパが、夕食をともにしている人物が復活したキリストだと気がつく場面を描いた絵画で、直前までメシアの死を嘆く旅人であり宿屋の主人が目もくれていなかった人物だったものが、突然救世主として再臨したその瞬間を劇的に表現した作品である。『聖マタイの召命』ではマタイが自分を指差して「私ですか?」と問いかけているかのように描かれているが、その両目はキリストに注がれ「私は貴方のしもべです」と応えており、マタイが自分の使命に目覚めた瞬間を描き出した絵画である。『ラザロの蘇生』では死人が復活する瞬間を捉えたさらに進んだ表現がなされている。ラザロの胴体は断末魔の死後硬直の状態にあるが、手はすでに復活しキリストのほうを向いている。 ===カラヴァジェスティ=== カラヴァッジョの絵画を研究し、その作風を真似た追随者はカラヴァジェスティ (Caravaggisti) と呼ばれることがある(カラヴァッジョ派、カラヴァジェスキとも)。1600年にコンタレッリ礼拝堂に納められた『聖マタイの殉教』と『聖マタイの召命』はローマの若手芸術家の間で大評判になり、カラヴァッジョは野心的な若手画家たちの目標となっていった。カラヴァジェスティと呼ばれる最初期の画家にカラヴァッジョの友人でもあったオラツィオ・ジェンティレスキやジョヴァンニ・バリオーネ (en:Giovanni Baglione) があげられる。ただし、バリオーネがカラヴァッジョ風の絵画を描いた時期は短く、カラヴァッジョがバリオーネの絵画は自分の作品からの盗作だと糾弾したこともあって二人は長く反目しあっていたが、後にバリオーネはカラヴァッジョに関する伝記を最初に書いた人物となった。次世代のカラヴァジェスティとしてカルロ・サラチェーニ (en:Carlo Saraceni)、バルトロメオ・マンフレディ (en:Bartolomeo Manfredi)、オラツィオ・ボルジャンニ (en:Orazio Borgianni)らがいる。1563年生まれのジェンティレスキはこの3名よりもかなり年長だったが、長命な画家でこの3名よりも長生きし、最後はイングランド王チャールズ1世の宮廷画家になり1639年にロンドンで死去している。ジェンティレスキの娘アルテミジアも父の縁でカラヴァッジョとは面識があり、カラヴァジェスティの画家の中ではもっとも才能があった一人だった。 ナポリではカラヴァッジョは短期間しか滞在していないにも関わらず、バッティステッロ・カラッチョーロ (en:Battistello Caracciolo)、カルロ・セッリート (en:Carlo Sellitto)ら、重要なカラヴァジェスティの画家を輩出した。ナポリでのカラヴァジェスティの活動は1656年のペスト流行によって終焉したが、当時のナポリはスペインの支配下だったこともあって、カラヴァッジョの影響はスペイン絵画へも波及していった。 オランダでも17世紀初頭に画学生としてローマを訪れ、カラヴァッジョの作品に多大な影響を受けたユトレヒト・カラヴァッジョ派 (en:Utrecht Caravaggism) と呼ばれる宗教画家たちが存在した。これら画学生たちが自国へ持ち帰ったカラヴァッジョの作風の流行は短かったとはいえ、1620年代にはヘンドリック・テル・ブルッヘン、ヘラルト・ファン・ホントホルスト、アンドリエス・ボト (en:Andries Both)、ディルク・ファン・バブーレン (en:Dirck van Baburen) らによって全盛期を迎えている。以降の世代のオランダ人画家たちにはカラヴァッジョの影響は薄れていったが、マントヴァ公ゴンザーガ家の依頼でカラヴァッジョの『聖母の死』を購入し、『キリストの埋葬 (Entombment of Christ)』の模写も行ったルーベンスを初め、フェルメール、レンブラント、さらにはイタリア滞在時にカラヴァッジョの作品を目にしているベラスケスの作品にもカラヴァッジョの影響が見られる。 ===死後の評価と20世紀の再評価=== カラヴァッジョの名声はその死後間もなく急速に廃れてしまった。カラヴァッジョの革新性はバロック芸術のきっかけになったとはいえ、バロック絵画はキアロスクーロを用いた劇的な効果のみを取り入れて、カラヴァッジョの特性といえる肉体的な写実主義には目を向けようとはしなかった。上述した画家以外では、イタリアからは距離があるフランスのジョルジュ・ド・ラ・トゥール、シモン・ブーエ (en:Simon Vouet)、スペインのホセ・デ・リベーラらが直接カラバッジョの影響を受けた画家だが、カラヴァッジョの死後数十年でその作品は単なる醜聞にまみれた画家が描いた絵画とみなされるか、あるいは単に忘れ去られてしまった。カラヴァッジョの死後バロック美術は発展し作風も変化していったが、その成立に多大な貢献をしたカラヴァッジョはバロック美術の発展に多大な貢献をしたアンニーバレ・カラッチとは違って工房も弟子も持たず、自身の絵画技術を広めるための努力はしていない。自身の作品の根幹ともいえる理性的な自然主義絵画製作手法について何も語ってはおらず、その写実的な心理描写の技法は残された作品から推測するしかなかった。それゆえに、後世のカラヴァッジョの評価は、ジョヴァンニ・バリオーネ (en:Giovanni Baglione) とジョヴァンニ・ピエトロ・ベッローリ (en:Gian Pietro Bellori) がそれぞれ書いたカラヴァッジョに極めて否定的な初期の伝記に大きく左右された。バリオーネはカラヴァッジョと長く確執があった画家で、ベッローリは直接カラヴァッジョとは面識がなかったが、その作品を嫌っていた画家であり、かつ17世紀に影響力があった批評家でもあった。 しかし、1920年代になってからイタリア人美術史家ロベルト・ロンギ (Roberto Longhi) がカラヴァッジョを再評価し、西洋美術史のなかに確固たる地位を与えた。それは、ロンギとL.Venturiが主導した1951年のミラノでの「カラヴァッジョとカラヴァッジョ派展」で確立された(アンドレ・シャステル)。 ロンギは「ホセ・デ・リベーラ、フェルメール、ラ・トゥール、レンブラントは、もしカラヴァッジョがいなければ存在しえない画家だっただろう。また、ドラクロワ、クールベ、マネらの芸術も全く異なったものになっていたに違いない」とし、著名な美術史家バーナード・ベレンソンも、「ミケランジェロを除けば、カラヴァッジョほど絵画界に大きな影響を及ぼしたイタリア人画家はいない」と同様の意見を述べている。 カラヴァッジョはイタリアの10万リラ紙幣に肖像が採用された。このときには「人殺しを紙幣の顔に採用するとはどういうことか」と一部から批判の声があがった。しかし、画家としての業績や時代背景などを考慮して採用されることになった。 ===絵画作品=== 現存しているカラヴァッジョの作品で、まず真作であろうと考えられているのは80点程度にすぎず、なかには時代を経てからカラヴァッジョの作品であると同定された、あるいはカラヴァッジョの作品らしいと見なされた作品も多い。『聖ペテロと聖アンデレの召命 (The Calling of Saints Peter and Andrew)』(ロイヤル・コレクション、1603年 ‐ 1606年)は1637年にイギリス国王チャールズ1世が購入し、清教徒革命でフランスに売却されたものをさらに王政復古で戴冠したチャールズ2世が取り戻した絵画である。長くカラヴァッジョのオリジナル絵画の複製画と見なされ、ハンプトン・コート宮殿に所蔵されていたが、6年間にわたる修復と調査の結果、2006年にカラヴァッジョの真作であると認定された。一方でリチャード・フランシス・バートンがカラヴァッジョの作品として書き残した「トスカーナ大公家のギャラリーが所蔵する、30人の男たちが描かれた聖ロザリアの絵画」は現在行方不明となっている。ローマのサン・ルイジ・デイ・フランチェージ教会コンタレッリ礼拝堂から受け取りを拒否された『聖マタイと天使』は、第二次世界大戦中のドレスデン爆撃で失われ、現在は白黒の写真が残るのみである。2011年6月にはそれまで知られていなかったカラヴァッジョが1600年頃に描いた『聖アウグスティヌス』がイギリスのプライベート・コレクションから発見されたという発表があった。この「重要な発見」によってもたらされた絵画はローマ時代のパトロンだったヴィンチェンツォ・ジュスティニアーニが秘密裏に依頼した作品であると考えられている。本来はサン・ドメニコ聖堂のために制作されたが、保存のために現在はナポリの国立カポディモンテ美術館が所蔵する『キリストの鞭打ち 』(Flagellazione)(1607年頃 Oil on canvas, 390 x 260 cm)は、カラヴァッジョがナポリ滞在時に残した代表作のひとつ。本作の主題はユダヤの民を惑わしたとして捕らえられたイエスが、総督ピラトの命によって鞭打ちの刑に処される場面。 ==カラヴァッジョを題材とした大衆文化作品== 『カラヴァッジオ』‐1986年にイギリスの映画監督デレク・ジャーマンが、カラヴァッジョの生涯や創作スタイルを描いた映画。ベルリン映画祭で銀熊賞を受賞したこともあり、カラヴァッジョの絵画を多くの人が知るきっかけとなった。『カラヴァッジョ 天才画家の光と影』‐2007年にイタリアで放送された全2話のテレビ・ミニシリーズ。日本では2010年に、1本の映画作品として公開された。『カラヴァッジオ』 ‐ 2008年にベルリン国立バレエ団により発表されたバレエ作品。カラヴァッジョをウラディミール・マラーホフが演じた。 ==日本語文献== ===入門書=== 『カラヴァッジョ巡礼』 宮下規久朗編(新潮社〈とんぼの本〉、2010年) ISBN 978‐4‐1060‐2200‐5『もっと知りたいカラヴァッジョ 生涯と作品』 宮下規久朗編(東京美術〈アート・ビギナーズ・コレクション〉、2009年) ISBN 978‐4‐8087‐0870‐2『カラヴァッジョ アート・ライブラリー』 ティモシー・ウィルソン=スミス、宮下規久朗訳(西村書店、2003年/新装版2009年) ISBN 978‐4‐8901‐3627‐8 ===伝記=== 『カラヴァッジョへの旅 天才画家の光と闇』 宮下規久朗(角川選書、2007年) ISBN 978‐4‐0470‐3416‐7『闇の美術史 カラヴァッジョの水脈』 宮下規久朗(岩波書店、2016年) ISBN 4‐00‐025356‐5『カラヴァッジョ 灼熱の生涯』 デズモンド・スアード、石鍋真澄、石鍋真理子訳(白水社、2000年/新装版2010年 ISBN 978‐4‐5600‐8059‐7)『カラヴァッジョ伝記集』 石鍋真澄編訳(平凡社ライブラリー、2016年)、ISBN 978‐4‐582‐76838‐1『カラヴァッジョの秘密』 コスタンティーノ・ドラッツィオ(上野真弓訳、河出書房新社、2017年) ===大著=== 『カラヴァッジョ 聖性とヴィジョン』 、サントリー学芸賞(文学・芸術部門)受賞 宮下規久朗(名古屋大学出版会、2004年) ISBN 978‐4‐8158‐0499‐2宮下規久朗(名古屋大学出版会、2004年) ISBN 978‐4‐8158‐0499‐2『カラヴァッジョ鑑』 岡田温司編(人文書院、2001年、復刊2009年) ISBN 978‐4‐4091‐0014‐1 ‐ 17名の論考『カラヴァッジオ 生涯と全作品』 ミア・チノッティ解説(森田義之訳、岩波書店、1993年) ISBN 978‐4‐0000‐8057‐6 ===画集=== 『カラヴァッジョ 西洋絵画の巨匠*11415*』 宮下規久朗編(小学館、2006年) ISBN 978‐4‐0967‐5111‐4展覧会図録 『カラヴァッジョ 光と影の巨匠─バロック絵画の先駆者たち』 東京都庭園美術館:2001年9月‐12月/岡崎市美術博物館:2001年12月‐02年2月『カラヴァッジョ 全作品集』 ゼバスティアン・シュッツェ (TASCHEN(タッシェン・ジャパン) 、2010年) ISBN 978‐4‐88783‐401‐9 =チラコイド= チラコイド(Thylakoid)は、葉緑体やシアノバクテリア中で膜に結合した区画である。光合成の光化学反応が起こる場所である。チラコイドという言葉は、「嚢」を表すギリシャ語の θ*9682*λακο*9683* (thylakos)に由来する。チラコイドは、ルーメンの周りを取り巻くチラコイド膜から構成される。緑色植物の葉緑体のチラコイドは円盤状で、積み重なってグラナと呼ばれる構造をなしている。グラナはストロマとつながり、単一機能を持つ構造を作っている。 ==チラコイドの構造== チラコイドは膜と結合した構造で、葉緑体のストロマに埋め込まれている。 ===膜=== チラコイド膜は、直接埋め込まれた光合成色素内で光化学反応が起こる場所である。1nm幅の暗いバンドと明るいバンドが交互に重なった模様として見える。チラコイドの脂質二重層は、原核生物の膜や葉緑体内膜と同じ性質を持っている。例えば、チラコイド膜やシアノバクテリア、その他の光合成細菌の膜では酸性脂質が見られ、光合成の機能的統合に関わっている。高等植物のチラコイド膜は、主にリン脂質とガラクト脂質が非対称に配列して構成されている。チラコイド膜の脂質は、小胞体と色素体包膜の内膜の脂質前駆体を交換する複雑な経路で合成され、内膜から小嚢を通ってチラコイドに輸送される。 ===ルーメン=== チラコイドルーメンは、チラコイド膜に結合した区画である。光合成過程での光リン酸化に不可欠な役割を果たす。光化学反応の際には、チラコイド膜を通過してルーメン内にプロトンが輸送され、pH4まで酸性化される。 ===グラナ=== グラナは、チラコイドの円盤が重なった構造である。葉緑体は1つ当たり10個から100個のグラナを持つ。グラナは、ラメラと呼ばれる細長く伸びたチラコイドによって結ばれている。グラナを構成するチラコイドとストロマ内のチラコイドは、タンパク質組成によって区別できる。グラナは、葉緑体が体積に対して大きい表面積を持つのに貢献している。またチラコイドの電子断層撮影の解釈によって、グラナの構造について2つのモデルが作られている。どちらも、ラメラはグラナの円盤の重なりと平行に交差すると仮定しているが、グラナの重なりの軸と垂直に交差しているか、それとも右巻きのらせんを描いているかについて、論争がある。 ==チラコイドの形成== 葉緑体は、植物が地面から発芽する際に色素体から発展してできる。チラコイドの形成には光が必要である。胚の段階で光が当たらないと、色素体は、プロラメラ体と呼ばれる半結晶の膜構造を持つエチオプラストになる。光に曝露されると、プロラメラ体はチラコイドになる。光の量が不十分だとチラコイドの形成に失敗し、葉緑体ができずに植物は死んでしまう。 チラコイドの形成には、vesicle‐inducing protein in plastids 1 (VIPP1)と呼ばれるタンパク質の働きが必要である。このタンパク質を欠くと植物は生きることができず、VIPP1の発現量を減らすと光合成の能力が落ち、成長は遅く、色は薄くなる。VIPP1はチラコイド膜の形成に必要だと考えられているが、チラコイド膜上のタンパク質複合体には含まれていない。このタンパク質は、シアノバクテリア、クラミドモナスのような緑藻、シロイヌナズナのような高等植物を含むチラコイドを持つ全ての生物で保存されている。 ==チラコイドの単離と分画== チラコイドは、重力遠心法と分画遠心法を組み合わせることによって、植物細胞から単離される。機械せん断力が働くと、ルーメン分画が流出してしまい、チラコイドの単離は上手くいかない。表在性膜や内在性膜は、膜画分の残渣から抽出される。炭酸ナトリウムによる処理により表在性膜タンパク質を分離し、界面活性剤や有機溶媒による処理により内在性膜タンパク質を可溶化することができる。 ==チラコイドタンパク質== チラコイドは、内腔タンパク質の他に、多くの表在性及び内在性膜タンパク質を持つ。チラコイド画分のプロテオーム解析の研究により、チラコイドのタンパク質組成がより詳細に理解された。これらのデータは、いくつかのオンラインのタンパク質データベースで入手することができる。 これらの研究によると、チラコイドのタンパク質は少なくとも335種類から構成される。そのうち、89種類は内腔性、116種類は内在性、62種類はストロマ側の表在性、68種類はルーメン側の表在性である。さらに、コンピュータを用いた方法により、存在量の少ない内腔性のタンパク質が予測された。機能別に見ると、42%が光合成に関わるもの、11%がフォールディングの際のタンパク質標的に関わるもの、9%が酸化ストレスへの応答に関わるもの、8%が翻訳に関わるものであった。 ===内在性タンパク質=== チラコイド膜には、光合成の際の光受容や光化学反応において重要な役割を果たす内在性タンパク質が存在する。主要なタンパク質複合体には、次の4つがある。 光化学系Iタンパク質複合体光化学系IIタンパク質複合体シトクロムb6f複合体ATP合成酵素光化学系IIタンパク質複合体は、主にグラナのチラコイドに、光化学系Iタンパク質複合体は主にストロマのチラコイドやグラナの外層に存在する。シトクロムb6f複合体はチラコイド膜に平均的に広がっている。チラコイド膜上で2つの光化学系の存在する位置が離れているため、電子の運搬が必要である。このためには、プラストキノンやプラストシアニンが稼働型電子運搬体となって電子を運ぶ。プラストキノンは光化学系IIタンパク質複合体からシトクロムb6f複合体まで、プラストシアニンはシトクロムb6f複合体から光化学系Iタンパク質複合体まで電子を運搬する。 またこれらのタンパク質は、光エネルギーによって電子伝達系を動かしてチラコイド膜を挟んで電気化学的勾配を作り出し、酸化還元反応の最終産物であるニコチンアミドアデニンジヌクレオチドリン酸(NADPH)を作り出す。ATP合成酵素は電気化学的勾配を用いて、光リン酸化によりアデノシン三リン酸(ATP)を作り出す。 ===光化学系=== これらの光化学系は、光で稼働する酸化還元中心で、それぞれが葉緑体及びカロテノイドやフィコビリンタンパク質等のその他の光合成色素を用いて様々な周波数の光を受容するアンテナ複合体から構成されている。アンテナ複合体はそれぞれ250個から400個の色素分子を持ち、これらが吸収するエネルギーはそれぞれの光化学系中心が持つ特殊なクロロフィルaに共鳴輸送される。反応中心の2つのクロロフィルa分子のどちらかが光を吸収すると、電子が励起して電子受容分子に転移する。光化学系Iは、700nmまでの波長の光を吸収するP700と呼ばれる1対のクロロフィルaを持つ。光化学系IIは、680nmの波長の光を最も良く吸収するP680と呼ばれるクロロフィルを持つ(これらの波長は、深紅色である)。Pは色素(pigment)という言葉を縮めたものであり、数字はそれぞれの反応中心のクロロフィル分子が吸収する波長のピークをnm単位で表した値である。 シトクロムb6f複合体は、チラコイドの電子伝達系の一部であり、1対のプロトンがルーメンの中に取り込まれる。エネルギー的には2つの光化学系の間に位置づけられ、光化学系II‐プラストキノンから光化学系I‐プラストシアニンに電子を転移する。 チラコイドのATP合成酵素は、ミトコンドリアのATPアーゼと類似したF1F0‐ATP合成酵素である。ストロマに突き出たチラコイド膜のCF‐1部位に埋め込まれている。そのため、ATP合成は光合成の暗反応がおこるチラコイドのストロマ側で行われる。 ===内腔性タンパク質=== 電子伝達タンパク質のプラストシアニンはルーメン内に存在し、シトクロムb6f複合体から光化学系Iに電子を輸送する。プラストキノンは脂溶性でチラコイド膜内を移動するのに対し、プラストシアニンはチラコイドルーメン内を移動する。 ルーメンには、光化学系IIのルーメン側とともに水を酸化する酸素発生複合体も存在する。 内腔性タンパク質は、ターゲットシグナルに基づき、コンピュータで予測することができる。シロイヌナズナでは、Tatシグナルを処理する最も大きいグループでは、19%がタンパク質プロセシング(タンパク質分解やフォールディング)に、18%が光合成に、11%が代謝に、7%が酸化還元の運搬や防御に関与するものだった。 ===チラコイドタンパク質の発現=== 葉緑体は、多数のチラコイドタンパク質をコードする独自のゲノムを持つ。しかし、シアノバクテリアからの色素体の進化の過程で、葉緑体ゲノムから細胞核への広範の遺伝子転移が生じた。これにより、チラコイドの4つの主要なタンパク質複合体が、部分ごとに葉緑体と細胞核の両方でコードされることになった。植物は、化学量論的に適切な量を発現し、タンパク質複合体を組み立てるため、2つの別々の器官にコードされる異なるサブユニットの発現を共同制御する様々な機構を発展させてきた。例えば、光合成装置の一部をコードする細胞核ゲノムの転写は、光によって制御される。チラコイドタンパク質複合体の合成、維持、分解は、チラコイド膜のRedox感受性キナーゼによるリン酸化によって制御される。葉緑体にコードされるタンパク質の転写速度は、エピスタシスによって制御される。この機構の中には、過剰のタンパク質が葉緑体mRNAの5’非転写領域に結合することによるネガティブフィードバックも含まれる。葉緑体には、光化学系Iと光化学系IIのバランスも重要である。チラコイド膜の電子を運搬するプラストキノンの酸化還元状態は、光化学系の反応中心のタンパク質をコードする葉緑体遺伝子の転写に直接影響し、電子伝達系のバランスを調節する。 ==チラコイドの機能== チラコイドは光合成の光化学反応が行われる場所である。これには、光による水の酸化と酸素の生成、プロトンと電子の勾配形成等が含まれる。 ===水の光分解=== 光合成の第一段階では、光により水を酸化し、電子伝達系に電子を供給するとともにプロトン勾配を形成する。水の開裂反応はチラコイド膜のルーメン側で行われ、光化学系によって捕獲された光のエネルギーが用いられる。この水の酸化反応によって、細胞呼吸に不可欠な酸素が廃棄物として生成される。生成された酸素分子は、大気中に放出される。 ===電子伝達系=== 光合成では、以下の2種類の方法で電子伝達が行われる。 非循環的電子伝達または非循環的光リン酸化反応には、両方の光化学系が関与し、NADPH + H+とATPを生成する。循環的電子伝達または循環的光リン酸化反応には、光化学系Iのみが関与し、ATPのみを生成する。光化学系Iは、光エネルギーを用いてNADP+をNADPH + H+に還元する。非循環的電子伝達にも循環的電子伝達にも関与する。循環的電子伝達では、励起電子が電子伝達系に伝わり、葉緑体に戻る。光化学系IIは、光エネルギーを用いて水分子を酸化し、電子、プロトン、酸素分子を生成する。循環的電子伝達のみに関与する。この系では電子は保存されず、水分子の酸化により継続的に供給され、NADP+のNADPHへの還元に消費される。 ===化学浸透=== チラコイド膜と光化学系の主要な役割は、化学浸透圧を形成することである。電子伝達系での輸送は、電子のエネルギーを用いてストロマからラメラにプロトンを能動輸送する。光合成の際には、ルーメンはpH4程度の酸性、ストロマはpH8程度の塩基性である。これは、チラコイド膜を挟んでプロトンの濃度が約1万倍も違うことを意味している。 ===プロトン勾配の原因=== ルーメンのプロトンの供給源には、主に以下の3つがある。 ルーメン内での光化学系II複合体による、水の酸素、電子、プロトンへの光分解非循環的電子伝達の際の光化学系IIからプラストキノンへの電子の輸送により、ストロマのプロトンが2つ消費される。これは、ルーメン内で還元されたプラストキノンがシトクロムb6f複合体によって酸化される際に解放される。循環的電子伝達の際のフェレドキシンによるプラストキノンの還元によっても、ストロマからルーメンに2つのプロトンが輸送される。ストロマ内でNADPレダクターゼによりNADP+からNADPHを生成する際にもプロトン勾配が発生する。 ===ATP生成=== 葉緑体内でのATP生成の分子機構は、ミトコンドリア内での機構と類似しており、プロトン駆動力が用いられる。しかし、葉緑体ではATP合成に必要なポテンシャルエネルギーをプロトン駆動力の化学ポテンシャルにより大きく依存している。プロトン駆動力はプロトン勾配によるプロトンの化学ポテンシャルと膜を挟んだ電位の総和である。電荷の分離による膜電位がかなり大きいミトコンドリア内膜と比べ、チラコイド膜では電位勾配はほとんどない。これを埋め合わせるために、ミトコンドリア内膜のプロトン勾配が10倍程度であるのに対して、チラコイド膜のプロトン勾配は1万倍にも達する。結果としてのルーメンとストロマの間の電気化学的勾配は、ATPシンターゼを用いたATP合成に十分なものとなっている。プロトンがATPシンターゼのチャネルを通って勾配に沿って元に戻ると、ADP + Piが結合してATPが生成する。このような機構で光化学反応はプロトン勾配を通じ、ATP合成と協調している。 ==シアノバクテリアのチラコイド膜== シアノバクテリアは、高度に分化した膜系を持つ光合成原核生物である。シアノバクテリアは内部にチラコイド膜を持ち、そこでは光合成と呼吸の電子伝達が行われる。別の膜系の存在もあり、シアノバクテリアは細菌の中でも独特の細胞となっている。シアノバクテリアは、膜の再構成、新しい膜脂質の合成、正しい膜へのタンパク質のターゲッティングが可能なはずである。細菌外膜、原形質膜、チラコイド膜は、シアノバクテリア細胞の中でそれぞれが特殊な役割を果たす。膜系の組織、機能、タンパク質構成等を調べることは、シアノバクテリア細胞生物学の大きな課題として残っている。 ==関連項目== アーサー・メイヤー化学浸透電気化学ポテンシャル細胞内共生酸素発生光合成 =アンドレイ・ルブリョフ (映画)= 『アンドレイ・ルブリョフ』(Андрей Рублёв)は、1971年のソビエト連邦の映画である。監督は、アンドレイ・タルコフスキー、脚本は、アンドレイ・コンチャロフスキーとアンドレイ・タルコフスキーがつとめた。出演は、アナトリー・ソロニーツィン、イワン・ラピコフ、ニコライ・グリニコ、ニコライ・セルゲーエフ、ニコライ・ブルリャーエフ、イルマ・ラウシュなど。15世紀初頭のモスクワ大公国を舞台に、イコン画家アンドレイ・ルブリョフを描いた歴史映画である。 また、1969年、ソビエト連邦での一般公開が許可されていないうちに第22回カンヌ国際映画祭に出品されて、当年の国際映画批評家連盟賞を受賞した。 本作が製作された当時のソビエト連邦の映画は、完成するとまずスタジオの審査にかけられ、さらに国家検閲を経てから一般上映されるしくみになっていた。本作においては、1966年に完成しながら検閲で歴史的解釈や暴力的描写が批判されて、ただちに一般公開が許可されず、のちに作品の一部をカットして検閲を通過したものが、1971年にソビエト連邦内で一般公開された。 ==あらすじ== 本作の舞台は、15世紀初頭のモスクワ大公国である。タタール襲来とルーシ諸公の内乱が続いた動乱期を背景に、ロシアの最も優れたイコン画家アンドレイ・ルブリョフの苦悩と模索を描いた。ルブリョフの生涯をたんにたどるのでなく、その生涯に関する挿話や、中世ロシアの史実を下敷きにした挿話を織りまぜた8つの章と「プロローグ」、「エピローグ」をあわせた全10章を叙述することで物語は進む。「プロローグ」と「エピローグ」を除く8つの章はそれぞれ題名が付けられて年代順に並べられている。また、「プロローグ」から「最後の審判 1408年 夏」が第1部、「襲来 1408年」から「エピローグ」が第2部の2部構成になっており、日本公開時は第1部に「動乱そして沈黙」、第2部に「試練そして復活」と独自の邦題がくわえられた。 ===第1部 動乱そして沈黙=== ====プロローグ==== 熱気球の打上げ準備をする人々と、それを邪魔しようとする人々が入り乱れるなか、気球から垂れたロープに吊るされるような格好で、イエフィム(ニコライ・グラズコフ)が聖堂の屋上から離陸する。イエフィムは、地上にいる人々を見おろしながら高く舞い上がってゆくが、やがて高度を下げて墜落する。墜落後、沼のかたわらで寝そべる馬が映し出される。 ===旅芸人 1400年=== アンドレイ・ルブリョフ(アナトリー・ソロニーツィン)、ダニール(ニコライ・グリニコ)、キリール(イワン・ラピコフ)の3人の画僧は、長年暮らしたザゴルスクのトローイッツェ・セルギエフ修道院を出て、新天地モスクワを目指していた。一行は道中で大雨を避けるため、通りがかりの小屋に入る。小屋では村人たちが、みじめな貴族のことを笑いの種にしたスコモローフ (ロラン・ブイコフ)の歌と踊りを楽しんでいたが、まもなく兵士たちが乗り込んできてスコモローフを連行する。 ===フェオファン 1405年=== ルブリョフたちは、モスクワのアンドロニコフ修道院(ロシア語版)で新しい生活を始めた。ある日、キリールは著名なイコン画家フェオファン・グレク(ニコライ・セルゲーエフ)の工房を訪れて、フェオファンから助手になることの勧誘を受ける。しかしキリールは断り、フェオファン自らアンドロニコフ修道院に赴いて、助手になることを願い出てくれるのであれば受けたいと答える。後日、フェオファンの使者がアンドロニコフ修道院にやってくるが、このときの目当てはルブリョフだった。使者はルブリョフに対して、フェオファンが助手として来てほしいそうだと伝えると、ルブリョフは即座に受諾する。これを聞いたキリールは嫉妬と深い怒りにかられ、修道院での生活を捨てて還俗する。 ===アンドレイの苦悩 1406年=== フェオファンとルブリョフが、それぞれの信仰を語り、イコンの在り方について議論をたたかわせている。ロシア人民の無知は彼ら自身の愚かさのせいだ、人民の神に対する恐れがなければ信仰は成り立たないと主張するフェオファン。一方のルブリョフは、人民はたしかに無知だが、いたずらに怖がらせるのではなく、未来への希望に目覚めさせるイコンを描くべきではないかと主張する。そして、映像はキリストの磔刑を再現する場面に変わり、ルブリョフの語りが重なる。 ===祭日 1408年=== ルブリョフたちの乗ったボートが川岸につく。その日の夜、ルブリョフは、笑い、叫び、嬌声をあげながら色欲の儀式をあげていた全裸の異教徒たちに出くわす。あやしい光景に心を引かれて集団に近づいていくが、異教徒に捕らえられてはりつけ台に縛られる。そこへ1枚の毛皮を羽織っただけの異教徒の女(ネリー・スネギナ)がやってくる。女は毛皮を脱ぎ、縛られたルブリョフと口づけをかわす。翌朝、ルブリョフたちがボートを出して川を進むころ、岸のうえでは兵士たちが異教徒狩りをしていた。昨晩の女は川に逃げ込み、ルブリョフたちの乗るボートのそばを泳ぎ去って行く。 ===最後の審判 1408年 夏=== ルブリョフとダニールは、大公(ユーリ・ナザロフ)の命令を受けて、ウラジーミルのウスペンスキー大聖堂の壁画を制作していた。しかし、ルブリョフは絵に悩んで仕事が進まない。ともに聖堂で働いていた彫刻家たちは、大公の側近ステパン(ニコライ・グラッベ)のことが気にいらず、大公と反目する大公の弟(ユーリ・ナザロフ、大公と2役)のもとで仕事すると言って聖堂を出て行くが、ステパンに襲われて仕事などできないよう目をえぐられてしまう。このとき、ルブリョフたちがいた聖堂に佯狂の女(イルマ・ラウシュ)が迷い込んでくる。聖堂のなかをさまよう女の姿を見ていたルブリョフは、壁画の新しい発想が浮かび歓喜する。 ===第2部 試練そして復活=== ====襲来 1408年==== 大公の留守を狙って、大公の弟とタタール兵の連合軍がウラジーミルを襲撃する。兵士たちは男の胸を切り裂き、女をさらい、牛に火を放つなど市中で大虐殺を繰り広げる。ルブリョフや佯狂の女、大勢の市民が逃げ込んだ聖堂にも騎兵たちがなだれ込み、混乱をきわめる聖堂のなかで、兵士のひとりが佯狂の女を強姦しようとする。それを止めようとしたルブリョフは兵士を殺してしまう。殺人を犯したルブリョフは、罪を償うために絵筆を折り、沈黙の誓いを立てることを決意する。 ===沈黙 1412年=== ルブリョフは佯狂の女を連れて、ふたたびアンドロニコフ修道院に身を寄せていた。ルブリョフは絵を描かず、沈黙の行を続けている。そこへキリールが姿を見せて、ふたたび修道院に居させてほしいと院長に請う。院長はキリールに対して、ここに残りたければ聖書を15回書き写せと言う。さらに後日、タタール兵たちが修道院にやってきて、兵士のひとりが佯狂の女を娶ってやると言って連れ去ってゆく。 ===鐘 1423年=== キリールは、沈黙の行を続けるルブリョフに対して、かつてはルブリョフの才能を妬んでいたことや、ルブリョフが絵を捨てたと知ったときは憂さがはれたことなど告白をはじめる。さらに、このままイコン画家としての天分を寝かせておいてはいけない、絵をふたたび描くべきだと熱心に勧める。 一方、 鋳物師の息子ボリースカ(ニコライ・ブルリャーエフ)が、大公から鐘づくりを命じられる。ボリースカは大勢の職人と資材を使って鐘をつくりあげて、その公開式に大勢の市民が集まる。そのなかにはルブリョフ、佯狂の女が混じり、また大公とその側近たちや外国大使らも臨席していた。そして鐘が鳴り、鳴り続ける鐘の音を聞いたボリースカは力尽きて地面に倒れこむ。そこにルブリョフが現れて、ボリースカを抱きかかえる。ルブリョフは沈黙の誓いを破り、「お前は鐘をつくり、私はイコンを描く。ともにトローイッツェ・セルギエフ修道院に行こう」とボリースカに言う。 ===エピローグ=== ここまでの映像はすべてモノクロームだが、エピローグのみカラーとなって、ルブリョフの描いたイコンが次々と映し出される。映し出されるイコンは、『栄光の玉座の救世主』、『十二使徒』、『受胎告知』、『十二使徒』、『エルサレム入城』、『降誕』、『栄光の玉座の救世主』、『キリストの変容』、『ラザロの復活』、『受胎告知』、『ラザロの復活』、『降誕』、『至聖三者』、『大天使ミカエル』、『使徒パウロ』、『救世主』の順に、その細部または全体が映し出される。そしてラストシーンへとクロスフェードして、雷雨のなか、川辺にたたずむ4頭の馬が映し出されて幕を閉じる。 ==製作== 1961年、『僕の村は戦場だった』で長編映画の初監督をつとめていたアンドレイ・タルコフスキーは、その製作中にイコン画家アンドレイ・ルブリョフにかんする映画の企画書を映画スタジオのモスフィルムに持ち込んだ。1962年2月に脚本執筆の契約を結び、タルコフスキーと脚本の共同執筆者アンドレイ・コンチャロフスキーは、映画の舞台となる中世史や当時の芸術文化にかんする書籍や記録をくわしく調査しながら、同年12月に第一稿を完成させた。その後、2回の改稿を経て、1963年12月に脚本の最終稿がモスフィルムに承認されたのち、1964年4月にはソビエト連邦における映画全般の管理を担っていた中央行政機関ゴスキノでも脚本が承認されて、映画製作が始まった。また、時期を同じくして映画雑誌『映画芸術』4月号と5月号に脚本の最終稿が連載されて、歴史家、映画研究家や一般読者らによって社会政治的側面、歴史的側面から広く議論がなされた。 そもそも、ルブリョフの生涯の映画化は、映画俳優ワシーリー・リヴァーノフの構想から始まったものだった。リヴァーノフは、タルコフキーとコンチャロフスキーと3人でモスクワ郊外の森を散策中にルブリョフの脚本をともに書くことを提案したが、タルコフスキーとコンチャロフスキーは、リヴァーノフがほかの映画に出演中に2人で脚本を執筆し始めた。ルブリョフを題材に選んだ理由は、ロシア文化史上、第一級の人物のひとりであったからである。しかし、タルコフスキーは、ルブリョフの伝記映画や歴史映画にするつもりはなく、それよりむしろルブリョフの生きた時代と、芸術家の人格形成との関連性を表現することに興味を持ち、ルブリョフが芸術家として成熟していく過程を描こうとした。 そして、主役のルブリョフ役には、スヴェルドロフスクの無名の舞台俳優だったアナトリー・ソロニーツィンを選んだ。映画雑誌『映画芸術』に掲載された脚本を読んだソロニーツィンは、ルブリョフの役にほれ込み、自費でモスクワへ行ってタルコフスキーに会い、「この役を自分以上に演じられるものは誰一人としていない」と断言した。それは、タルコフスキーも同感で「自分のいだくアンドレイ・ルブリョーフにもっとも近いものを見出した」が、モスフィルムが起用に反対した。どうしても起用したいタルコフスキーは、古美術の専門家や修復家からも意見を聞き、ソロニーツィンが適役であるとおおくの専門家から助言を受けたことで自信を深めて起用を決めた。 撮影は、脚本が承認されてから1年が経った1965年4月14日に、スーズダリで始まった。スーズダリでは、ポクロフスキー聖堂を使って「鐘 1423年」の章の撮影を行い、それ以降はネルリ川や、ウラジーミル、プスコフ、イズボルスク、ペチョールィの史跡を使ったロケーション撮影が行われた。また、当初の撮影予算は160万ルーブルだったが、数次にわたって予算が削減されて90万ルーブルにまで減額された。予算の削減に伴って、クリコヴォの戦いを描く合戦シーン、大公の弟が白鳥狩りをするシーンや、タタール兵と佯狂の女との間にできた子どもの出産を農民が手伝うシーンといった脚本にあるいくつものシーンを削除した。製作は1965年11月から1966年4月まで豪雪によって撮影を中断したが、全体としては順調に進み、撮影開始からおよそ1年のあいだに作品が完成した。 ===スタッフ=== 監督:アンドレイ・タルコフスキー脚本:アンドレイ・コンチャロフスキー、アンドレイ・タルコフスキー撮影:ワジーム・ユーソフ美術:エフゲーニイ・チェルニャーエフプロダクションデザイン:エフゲーニー・チェルニアエフ、イッポリト・ノボジェレシキン、セルゲイ・ボロンコフ衣装:リディア・ノヴィ、マヤ・アバル=バラノフスカヤ編集:リュドミラ・フェイギーノワ、オルガ・シェフクネンコ、タチアナ・エゴリチェワ録音:インナ・ゼレンツォワ特殊効果:パベル・サフォーノフ音楽:ビャチェスラフ・オフチンニコフ演奏:国立映画フィルハーモニー管弦楽団製作:タマーラ・オゴロドニコヴァ ==封切り== ===完成から一般公開まで=== 本作の第1版は、1966年7月に完成した。このときの題名は『アンドレイの受難』(Страсти по Андрею)となっており、上映時間は205分であった。しかし、中央行政機関ゴスキノの検閲で歴史的解釈が批判されたほか、上映時間を短縮することや暴力的描写、ヌードシーンの削除が要求されて、ただちに一般上映が許可されなかった。批判を受けた具体的な内容は、「襲来 1408年」の章において、民衆はタタール軍に蹂躙、虐殺されて一方的に打ちひしがれる描かれ方をしているが、ロシア人民はもっと勇敢にもっと英雄的にタタールと戦い続けた、という歴史的解釈の異論があったほか、暴力的描写は「最後の審判 1408年 夏」の章で彫刻家らの目をえぐる場面など、ヌードシーンは「祭日 1408年」の章の異教徒らの儀式の場面などが議論の的となった。監督のアンドレイ・タルコフスキーは、そういったゴスキノの要求に段階的に従い、元の205分版を数次にわたってカットと編集を重ねて186分版まで短縮して、題名を『アンドレイ・ルブリョフ』と改題した。 ソビエト連邦内での一般上映がゴスキノによって差し止められていた間、モスクワのドムキノでは映画専門家を対象に限定的に公開しており、高い評価を受けていた。その評判はソビエト連邦に留まらず、多くの国外の映画専門家にも及んでいた。1967年にフランスのカンヌ国際映画祭で、十月革命から50年経ったことを機にソビエト映画史を振り返るイベントが開かれて本作が招待されたが、まだ未完成の作品という理由からソビエト連邦当局が出品を断った。その後もカンヌ国際映画祭の総代表ロベール・ファーブル=ル=ブレは、ソビエト連邦当局と交渉を続けて、1969年の第22回カンヌ国際映画祭に出品されることとなったものの、ソビエト連邦内で一般公開されないことに対する抗議として、パルム・ドールや審査員特別グランプリの選考対象とならないコンペティション外での招待出品作として扱われ、さらに上映されたのは映画祭最終日の午前4時に1回だけであった。 こうした国外での評価にくわえて、映画監督グリゴーリ・コージンツェフ、作曲家ドミートリイ・ショスタコーヴィチ、映画雑誌『映画芸術』の編集者らをはじめとするタルコフスキー作品の国内の支持者が、ソビエト連邦での一般公開に向けて尽力していた。タルコフスキーと妻ラリーサ・タルコフスカヤも、一般公開を支援してもらえるよう、影響力を持つ大勢の人物に対して手紙を送り続けており、ラリーサは映画を携えてソビエト連邦閣僚会議議長アレクセイ・コスイギンと面会もした。そして、1971年にゴスキノは186分版の一般公開を承認して、12月24日にソビエト連邦内で一般公開を開始した。公開期間中、フィルムは277本プリントされて、298万人の観客を動員したが、このプリント数は当時の他作品と比較すると非常に少ない。需給関係が釣り合っておらず、タルコフスキーは公開当時の日記に「新聞は『ルブリョフ』が上映中だということについて、何も触れていない。町には、ポスター一枚ない。それなのに映画のチケットは入手不可能な状態だ。映画に感動したさまざまな人が、感謝の電話をかけてくる。」と記している。こうして一般公開を認められていなかった作品がのちに公開を承認された理由のひとつは、創造的な知識人達への恐れが当局にあったためと考えられる。タルコフスキーは、一般公開された186分版を最終版と位置づけて、186分版は「最高かつ大成功したもの」であり、編集やカットをしたことによって「映画の主題の変質もなかった」と述べた。 ===短縮版と完全版=== 186分版の原版と異なるものとして、205分版の完全版や、さらにカットした短縮版など数多くのバージョンが存在する。劇場で公開されたさいの上映時間は国や地域によって様々で、1973年に北米で公開された版は原版から20分ほど短縮した165分版であり、イギリスではさらに短い145分版、日本では原版をわずかに短縮した182分版が1974年12月7日に公開された。また、1973年にソビエト連邦でテレビ放映されたものは、おもに「襲来 1408年」や「祭日 1408年」の場面がカットされた上映時間101分の版で、ソビエト連邦が完全にカラーテレビへと移行していないといった理由から、ルブリョフのイコンが映し出される「エピローグ」の章がカラーではなくモノクロで放映された。その後、1987年にもソビエト連邦でテレビ放映されたが、このときすでにカラーテレビへ移行していたにもかかわらずエピローグはモノクロのままであった。そのほかの版として、映画の冒頭にルブリョフの生涯と歴史的背景にかんする簡単な説明文がつけ加えられた版もある。 また、205分版の完全版は、劇場での公開がされなかったものの、1990年代以降にアメリカ合衆国の映像ソフト会社クライテリオン・コレクションがレーザーディスクやDVDで販売したことにより、その全体像が明らかになった。それまで日の目を見ることがなかった完全版の出どころについて、タルコフスキーの妹マリーナ・タルコフスカヤは、映画を編集したスタッフのひとりだったリュドミラ・フェイギーノワが205分版のプリントをひそかに自身のベッドの下に保管しつづけていたと述べた。一方、完全版を販売したクライテリオン・コレクションの製作者マーク・ランスは、映画監督マーティン・スコセッシがロシア訪問のさいに入手したプリントをもとにソフト化したものだと述べた。 ==作品の評価== ===批評=== 映画批評家ロスチスラフ・ユレーネフは、本作を「映画の構成は複雑で、時には冗長に感じられる。すべての人間像を、俳優が見事に描き出しているとは言えない。しかし、これすべての欠点といえども、個性と才能にあふれた作家により作られた、この特異で詩的な映画のきわめて高い評価を変えさせることはできない」と評した。構成の複雑さや冗長については、映画監督でアンドレイ・タルコフスキーの国立映画大学時代の師であるミハイル・ロンムも「全体としては、どうもまとまりに欠けている」と評しており、これは作品に含まれているおおくの主題、たとえば、「破壊に対する創造と再創造の勝利」と「魂の亡びに対する贖いの勝利」、「人間と神、人間と自然、芸術家と大衆、芸術家と芸術の形、ロシアと物理的・神秘的要素としての国土、そのそれぞれの関係」が各章を通じて漸進的に叙述されていることに起因する。さらには、回想や幻想と現実の場面がそれぞれ明確にわけられておらず、それに伴って場所が不明な場面もおおく描かれることも構成を複雑にしている要因のひとつである。しかしながらその一方で、文筆家若菜薫は、映画の持つ構成の複雑さを「時間の重層性、多層性」、また冗長さを「通時的に展開する緩慢な時間の流れ」と表現して、「この映画の時間の重層性、多層性は二つの時間の流れによってもたらされている」「ひとつは、通時的に展開する緩慢な時間の流れであり、もうひとつは、現在と過去、現実と幻覚の交錯による急激な時間の流れである」「この作品の映像の持続を支配するのは、二つの時間のポリフォニーなのだ」と考察した。また、俳優の力不足については、その一部をタルコフスキー自身が認めていた。タルコフスキーは、配役にあたって「表立った才能とか、そういうものに私たちは注目しません」と述べながらも、作中で少年ボリースカを演じたニコライ・ブルリャーエフや、画僧キリールを演じたイワン・ラピコフの演技に満足してなかった。 タルコフスキーとアンドレイ・ルブリョフの相似についての批評も多くなされた。その背景には、タルコフスキーがルブリョフの伝記映画や歴史映画にするつもりがなかったことや、さらにルブリョフの生涯を記録した確かな資料が少なく、不明な点もおおいため、ルブリョフの人となりを描くことには伝記に縛られない自由さがあったことが挙げられる。本作のなかのルブリョフは、新しい世代の人文主義的な芸術家として描かれ、モノローグが自由さや抑圧からの解放を示唆していること、少年ボリースカの鐘づくりの描写など、本作は芸術家としての創造性にかんすることが作品の基調となっている。そこに描かれた社会と芸術家との関わりかたについて、芸術歴史家ミハイル・アルパートフ(ロシア語版)は、「映画制作者は、ルブリョーフと見せかけて創造の苦しみを味わう新時代の画家を演出している」と評して、映画批評家佐藤忠男は「タルコフスキーは、この映画でたんに中世の圧政と悲惨さを描いているのではなく、彼自身が生きた現代ソビエトの圧政をそれにだぶらせて描いているのであると思う。そしていつの日か、圧政を見つづけた眼がルブリョフのイコンのような慈愛に充ちた芸術作品を生み出す力になることを念じているのである」と評した。ただ、その一方で映画批評家ジャン=ミシェル・フロドン(フランス語版)は、「主人公アンドレイ・ルブリョフと、20世紀のソ連映画監督アンドレイ・タルコフスキーの類似点を描き出すことがゴールではない」とも述べている。 ===受賞歴=== 1969年から1973年にかけて、フランスとフィンランドで映画賞を受賞した。ひとつは、1969年に第22回カンヌ国際映画祭に出品したときのものである。このとき、ソビエト連邦でまだ一般公開が許可されておらず、公開を許可しないソビエト連邦当局に対する抗議として、パルム・ドールや審査員特別グランプリの選考対象とならないコンペティション外での招待出品となった。しかしながら、本作は観客の高い評価を得て、国際映画批評家連盟賞を受賞した。また、このときのカンヌ国際映画祭は、出品作を選ぶ主導権が出品国の映画関係機関にあったが、1972年以降の回からそれが映画祭当局に移ることとなり、本作の出品と受賞をめぐる一件は、そうした未来へのひとつの序章となった。さらに、1971年にフランスのフランス映画批評家協会の最優秀外国映画賞、1973年にフィンランドのユッシ賞で最優秀外国映画賞を受賞したほか、個人では1970年にイルマ・ラウシュが、フランスのエトワール・ドゥ・クリスタル賞の最優秀外国人女優賞を受賞した。 ===その他=== 歴代映画作品のなかから傑作を選び、順位づけるといった映画選は、世界各国のさまざまな団体で実施されている。イギリスの新聞ガーディアンとオブザーバーの映画批評家からの投票による「Greatest Films of All Time(史上最高の映画)」として、1位が『チャイナタウン』、2位タイで本作と『サイコ』が選ばれたほか、イギリスの映画雑誌エンパイアにおいて、「The 100 Best Films Of World Cinema(世界の名画100選)」の87位に選ばれた。そのほか、トロント国際映画祭が「The Essential 100(エッセンシャル100)」を発表して、本作が87位に選ばれた。 =吉田の火祭= 吉田の火祭(よしだのひまつり)は、山梨県富士吉田市上吉田(かみよしだ)地区で行われる祭りである。日本三奇祭のひとつ。北口本宮冨士浅間神社と境内社(摂社)である諏訪神社の両社による例大祭で、毎年8月26日の「鎮火祭」と、翌8月27日の「すすき祭り」の2日間にわたって行われる。 吉田の火祭は、北口本宮冨士浅間神社、諏訪神社、両社の例大祭としてばかりではない。祭事の背景には富士講や御師といった富士山への民間信仰や、富士五湖地域の風俗習慣、今日もなお神仏習合の姿が見られるなど民俗学的要素も多分に含まれている。2000年(平成12年)12月25日には、国によって記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財として選択され、2012年(平成24年)3月8日には、山梨県内では3件目となる国の重要無形民俗文化財に指定された。文化庁による指定種別は、風俗習慣である。 火祭りの名の通り、上吉田地区の金鳥居(かなどりい)から北口本宮冨士浅間神社にかけた約1キロにおよぶ本町通りの沿道では、高さ約3メートルの大松明70本から80本余りが燃やされ、各家ごと作られる井桁状に組まれた多数の松明も燃やされる。夕暮れ時、大松明に次々に火が点されると、吉田口登山道に沿った富士山の山小屋でも一斉に松明が焚かれる。麓の町と山は一体となって火祭りを繰り広げ、上吉田の町は火の海と化し深夜まで賑わう。 ==概要== 夏山の富士山登拝の山仕舞いを意味する祭りで、講社でも火祭りまでに登拝を済ませている。木花開耶姫命(コノハナサクヤヒメ)の故事に由来する祭りである、と一般には言われている。かつては旧暦7月21日に行われていたが、明治期に新暦8月21日から22日に改められ、大正初期に現在の8月26日・27日の両日に改められた。 祭りの運営は、古くより北口本宮冨士浅間神社祭典世話係(世話人)と呼ばれる年毎に選出された氏子代表14名の男性と、御師家、富士講社らの信徒組織を主体として、現在では地元商店や民間企業らも参加している。大松明(結松明)は高さ3メートル強、赤松などの薪を経木で囲み荒縄で締めて筒状にしたものである。世話人は松明の奉納者を募集して寄付金を集め、依頼を受けた職人が7月下旬頃から製作する。大松明は上吉田の本町通りに70本から80本ほど掲げられ、沿道の家々でも門前に井桁松明を立てる。明治期には「富士山北口全図鎮火大祭」など浮世絵にも描かれた。 御師家では屋敷地や白蛇が下ると言われる川沿いの草刈りなど清掃作業を行う。その年に不幸のあった者は「ブクがかかる」と言われ、不浄であるとされて祭りには参加しない。ブクのかかった家では「手間粉」と呼ばれる小麦粉や蕎麦粉などの贈答物を贈る「手間見舞い」が行われ、火祭りの際には親戚宅などへ宿泊するか(手間に出る)、または手間着を着て自宅での謹慎を行う。 祭りは2日間にわたり行われる。26日の夕刻から夜半にかけて松明を焚く行事である鎮火祭が一般に「吉田の火祭り」と呼ばれるが、鎮火祭はいわゆる宵宮であり、本祭は翌27日の「すすき祭り」である。なお、火を使用する祭りであるが雨天や台風であっても延期や中止にはならず、必ず8月26日・27日の両日に催行され、松明の火を火元とする延焼などの火災は一度も起きていないという。 2013年9月1日の時点で、富士吉田市の人口は5万1423人。そして同年8月26日の鎮火祭には約19万人の地元住民や観光客らが詰めかけた。 ==御師のマチ上吉田== 吉田の火祭が行われる富士吉田市は、富士山北麓の山梨県東南部に位置しており、富士山山頂を含む広大な市域を持つが、富士吉田の町そのものは北口本宮浅間神社の北側に広がる一帯である。このうち火祭の行われる上吉田は単に「吉田」、江戸時代には「吉田町」とも呼ばれた。 2014年現在では市街化が進み範囲が明確ではないものの、上吉田地区の中世以来の町並みは、国道139号線(火祭の行われる本町通り)を主軸とした、南北1,000メートル、東西約700メートルの範囲である。富士吉田市街地は標高約650メートルから900メートルにかけて広がり、このうち上吉田地区は標高800メートル以上の地域にある。この標高のために気候は非常に冷涼であり稲作には適さず、加えて富士山の熔岩流末端に位置した土壌は小石混じりで地力がなく、農業に関しては、近代に入り圃場整備が行われるまで水田はほとんどなく、大豆などの畑が僅かに点在する地域であった。農業に適さないこの地に人々が居住し町が形成されたのは、富士山に登拝する人々に対して、自坊を提供し、信仰の仲立ちを行った富士御師や、複数の神職、それをとりまく人々たちが集住したことによる。 ここ上吉田で言う「御師の仕事」とは、富士山へ登拝するドウシャ(道者)にヤド(宿坊)と食事を提供し、登山の案内全般の便宜を図ることや、檀家廻りをして神札を配り、祈祷や祓いをすることであった。特にナツヤマ(夏山)と呼ぶ7月1日(山開き)から8月26日(山仕舞い)までの2か月間には、御師の家には大勢のコウシャ(富士講社)を宿泊させ、年間の収入の大半をこの2か月間に得ていた。御師以外の職業としては、山小屋、支度所(登山に必要な装備を整える場所)、出店、強力など、いずれも富士山登拝に関わる職業が主体である。このような特殊な風土と産業によって上吉田の町は発展し人々の営みが継続されてきた。 南を見上げると大きな富士山を頭上に仰ぐ上吉田の人々にとって、富士山が方位感の基準である。上吉田では富士山に向かって南方向に向かうことをノボル(上る)、反対に標高の低い北方向に向かうことをクダル(下る)と独自に表現し、地区内で使用される地図の方位も富士山のある南側を上に表現する。 上吉田は大きく3つの地域に分けられ、標高の高い富士山側(浅間神社側)の南方から、上町(上宿)、中町(中宿)、下町(下宿)と、今日の本町通を縦軸にした町域が形成されており、御師と社人、神職が居住するその細長い町並みをタテジク(縦宿)と呼んできた。このタテジク(本町通り)で火祭は行われる。 ==火祭の伝承と変遷== 吉田の火祭の起源は、一般的には木花開耶姫命の神話になぞらえられているが、その起源を記した文献が存在しないため実際には不明である。この節では主に、残された古文書などの文献から判明している火祭の歴史について説明する。 ===浅間明神と諏訪明神社=== 現在の吉田の火祭は、木花開耶姫命を祭神とする浅間明神(北口本宮冨士浅間神社)と、建御名方神を祭神とする諏訪明神社(諏訪神社)の、両社の祭典として、浅間社宮司が主宰して執行されている。 だが元々は諏訪明神(諏訪神社)の旧暦7月23日の祭典であった。諏訪明神は『甲斐国志』(巻之七一)によれば、神主である上吉田中宿の佐藤家の氏神であったものが、後に上吉田の町の産土神となったものであり、1494年(明応3年)の『勝山記』にもその名が見られる。 一方の浅間明神(現、北口本宮浅間神社)は、現在地からやや西の大塚に設けられていた富士山遥拝所を、1480年(文明12年)ごろ諏訪明神境内に鳥居を立ち、同地に移された。その後永禄4年武田信玄造営と伝わる社殿が造られ、富士山2合目の御室浅間(現:富士御室浅間神社)を勧請して神社になったものと推定されている。このような関係であったため、天文年間や永禄年間の小山田信有の神事や軍功祈願状などの文書は諏訪明神宛に発給されており、当初は諏訪明神が富士信仰の北口拠点の中心的役割を担っていたものと考えられている。 しかし、武田氏、小山田氏が滅亡すると、吉田地域の近世領主たちは社殿の造営をはじめとする各種寄進を浅間神社に行い、信仰の拠点を浅間神社へ移し、元々諏訪神社の祭典であった火祭は浅間神社が主催する両社の祭典となった。 ===火祭の起源伝説=== 上吉田とその東側に隣接する新屋(あらや)地区には、諏訪神社に関連した火祭の起源が伝えられている。長野県の諏訪大社では諏訪明神は蛇体になって現れるとされるが、上吉田にも諏訪明神と蛇に関する伝承が残されている。火祭の神輿は後述するように浅間神社を出発して上町から金鳥居のある下町へと下っていく。このとき神輿と一緒に白い蛇が上吉田の町を上から下へと下っていくという。そのため御師家では火祭の当日に、屋敷内を流れる川沿いの草刈を行うなど水路を掃除し、蛇神の通り道を迎える。これを「白蛇様のお下り」と言う。 また、富士道場とも呼ばれ、今日の火祭祭礼にも深く関わる上吉田の時宗西念寺にも、次のような火祭の起源伝承が残されている。昔、西念寺の僧が諏訪へ修行に行き帰る際、木の枝を折って作った竜神を諏訪神社に祀り、その竜神を杖の頭に入れて燃やしたのが火祭であったという。また、『古事記』上巻によれば、諏訪大社の祭神、建御名方神が国譲りの力比べで負け、信濃の諏訪湖へ追い込まれた際の夜戦で松明を燃やしたところ、相手側の軍は無数の炎を援兵と見て退散したと伝わっており、これが7月21日の夜であったという。このように上吉田では、諏訪明神 ‐ 蛇 ‐ 西念寺 ‐ 火祭という関連で考えられてきた。 一方、浅間神社に関連した火祭起源説も存在する。上吉田の浅間神社は富士山を神格化した浅間神が祀られており、神道説での祭神はこれを木花開耶姫命(コノハナサクヤヒメノミコト)と説かれている。木花開耶姫命にまつわる神話として『古事記』上巻に書かれた火中出産が知られている。邇邇芸命(ニニギノミコト)との一夜の交わりで懐妊した木花開耶姫は、邇邇芸命に疑われたので、身の証をたてるために、出入り口のない産屋をつくり、その産屋に火を放ち燃えさかる炎の中で3人の子を産んだという。そのため、浅間神社の祭神の神徳は火伏せ、安産、災厄除け、産業守護などといわれている。こうした伝説を背景として神道説で説く火祭りの起源は、燃えさかる炎の中で出産した木花開耶姫命の神話になぞらえて、火を焚くのだといわれており、記事冒頭の概要説で記したように今日ではこの説が広く流布されている。 このように祭りの起源が複数あり不明であるのは、それを記した記録が残っていないからである。だが少なくとも、現在の北口本宮冨士浅間神社の摂社である諏訪神社の祭りであったことは文献に残されているので、木花開耶姫命由来説は辻褄が合わないと、北口本宮冨士浅間神社の権禰宜田辺将之は述べている。 ===祭日の変遷と祭礼の意味の変化=== 吉田の火祭は、起源こそ明らかではないものの、祭礼そのものを記した文献は1572年(元亀3年)の古吉田から上吉田への移転の際の屋敷割帳に、御旅所となる大玉屋(御師)の所に御幸道の記載がある。つまりその頃すでに、神輿による巡幸があったということが確認できる。また、松明を燃やす篝火については、1729年(享保14年)の篝火伐採訴訟の文書の中に、祭典で火を焚くことが恒例である旨の記述が確認できる。 今日では8月26、27両日に行われる吉田の火祭の例大祭日は、過去にいくつかの変遷があった。文献に残された記録を年代順に追ってみていくと、まず、1780年(安永9年)7月に富士登山を行った高山彦九郎は『富士山紀行』の中で7月21日の火祭に言及している。また、賀茂季鷹(京都上賀茂社家の歌人)は富士登山に訪れた際に火祭を見たが、その日時は1790年(寛政2年)7月21、22日の両日であったと『富士日記』に記している。1814年(文化11年)の『甲斐国志』の記述では、上吉田村の諏訪明神の例祭は、7月22日で「其夜此屋皆篝松を焼く」とあり、同時期に書かれた『菊田日記』(御師により書かれた記録)によれば、1804年(享和4年)から1834年(天保5年)までの火祭は7月21、22日に行われている。さらに、西念寺に伝わる1853年(嘉永6年)の『富士道場日記』でも同様の日時であり、元来の火祭の祭日は陰暦(旧暦)の7月21、22日であったことは間違いがない。 一方、富士信仰における開山(山開き)と閉山(山仕舞い)の日時については、1860年(万延元年)の『富士山道しるべ』において「当山は例年六月朔日をもつて山びらきといひ、七月廿七日をもつて山仕舞いといふ」とあるのが、山開き山仕舞いの日時を確認できる最も古いものである。1872年(明治5年)に陰暦から太陽暦へと暦法が改正されたが、明治時代を通じ火祭は陰暦7月21日、山仕舞いは陰暦7月26日として行われていた。ちなみに山梨日日新聞の記事に残されている祭事実施日はすべて新暦であるが、1885年(明治18年)は9月1日、1887年(明治20年)は9月8日、1908年(明治41年)は8月19日であり、これらはすべて陰暦の7月21日に当たる。しかし、このように陰暦を基準とした場合、実生活上の太陽暦(新暦)では8月中下旬から9月初旬と、祭日が毎年変動してしまうため、明治末期の頃から新暦での祭日に移行し固定化する動きが始まった。まず、1910年(明治43年)の火祭を陰暦7月21日の月遅れとして新暦の8月21、22日に移動して行われた。1912年(大正元年)の社司氏子総代の会議では、火祭を新暦9月9、10日としたが、議論が一致せず、翌1913年(大正2年)には火祭を新暦8月30、31日、山仕舞いを9月10日とした。ところが8月30日、31日は市町村等の計算日にあたるため、参詣者が少なくなることから、1914年(大正3年)5月の会議で火祭を再び陰暦7月21日に戻すことにした。しかし、その直後の会議で、火祭は新暦8月26、27日と決定された。このように二転三転したが、この時をもって吉田の火祭は現在の8月26、27日両日に固定された。新暦の8月26日は陰暦7月26日の山仕舞いの月遅れの日である。これにより火祭と山仕舞いの日は重なることとなり、火祭が山仕舞いの意味も併せ持つこととなっていった。山仕舞いとは、富士登拝者らの「山の神」に感謝する日である。こうして本来は諏訪神社の祭りであった火祭は浅間神社の祭りとして取り込まれ、同じ時期に火祭の起源も諏訪神社の竜神や建御名方神による説話から、浅間神社の木花開耶姫命が主体となる説話に改変されていったものと考えられている。 祭礼に関する図画として最も古いものは、1680年(延宝8年)に版行された「八葉九尊図」からはじまり、江戸後期から明治期にかけ複数の祭礼図が残されている。特に6色刷の版図である「富士北口鎮火大祭図」(富士山北口全図鎮火大祭)はよく知られている。正確な作成年代は不詳だが、図中右下に福地村の記載があることから、上吉田村が周囲の二か村と合併して福地村となった1875年(明治8年)以降に作成されたものである。 また、大正末年ころから「岳麓の奇祭」、「日本三奇祭の一つ」などと呼ばれるようになった。火を使う祭りは各地で見られるが、大抵は社寺の境内など特定の限られた場所で火を使うものが多かった。吉田の火祭のように町中で広い範囲にわたって焚くのは珍しく、夜間の暗闇が普通の感覚であった近代初頭までの人々にとって、まさに奇祭であった。 ==祭礼をとりまく風習と伝承組織== 吉田の火祭は浅間、諏訪両社の例祭であるばかりでなく、その背景には富士山信仰に関連した富士講社や御師の関わりや、富士北麓地域の民俗風習などが色濃く残されている。この節では吉田の火祭に関連する風習や民間信仰について説明する。 ===ブクとテマ=== 吉田の火祭は浅間神社側にとっても氏子側にとっても、最上級に神聖な祭りである。一切の不浄を排除しなければならず、とりわけ人間の死にかかわるブク(忌服)と呼ばれるものは徹底的に忌避されている。上吉田の住人は前年の祭りから1年間の間に身内に不幸のあった者を「ブクがかかる」と表現し、ブクのかかった者は祭礼の期間中、上吉田地区以外へ出ることになっており、これを「テマ(手間)に出る」と言う。身内、正確には血縁者に不幸があった者は不浄であり、世話人やセコを務めることはもちろん、祭事の一切に関わることはできない。そればかりか、火祭の火を見ることすら許されないという厳しいものである。火祭のテマのしきたりが、いつ頃からあったものなかはっきりしない。だが『甲斐国志』の諏訪明神の項に現在のテマのしきたりとほぼ同じ内容の記載があることから、今日の禁忌がすでに近世後期には成立していたことが確認されている。 ブクのかかった家をアラブク(新服)と言い、家人は泊りがけでテマに出かける。この際、近所の家からアラブクの家に対して、うどん粉やそば粉などをタマブチと呼ばれる漆器の桶に入れて贈られる。これをテマ見舞い、贈られる粉をテマ粉と言う。またテマの期間中に着用する服をテマ着と呼ぶ。火祭が終わった翌朝、テマに出た人は金鳥居の下に戻ってくるので、近所の人々がテマを迎えたという。また、上吉田から逃げずに玄関を閉ざし家に閉じこもって火祭をやり過ごし、その旨の張り紙をして祭りの2日間は一種の謹慎生活を送る場合もある。これを俗にクイコミ(食い込み)と言う。これらのしきたりは2012年現在も厳格に守られている。ブクのかかった者が、それを隠してセコ(神輿の担ぎ手)となり、神輿を担いだなら必ず事故に遭い大怪我をすると言われており、実際にそのようなことが何度か起きているという。 なお、御師家においてもブクによる祭り参加の禁忌はもちろん固く守られている。だが御師の場合、火祭の当日には多くの講社を受け入れなければならず、宿坊を閉めるわけにもいかない。そこで、御師本人にブクがかかった場合、当人のみが部屋の奥の納戸などに閉じこもり、宿泊中の講員らと顔を合わせないようにしている。講社の世話や食事作りなどは、御師本人の配偶者や親類などの姻族にまかせる。ブクは個人にかかるものなので、血のつながりのない妻にはブクはかからないのである。 ===世話人=== 吉田の火祭の挙行に最も重要な役割を果たす役職が世話人である。火祭における世話人は、浅間神社の氏子地域を構成する上吉田地区の、上中下の三町(宿)から選出される神社への奉仕役であり、この地に代々居住する地つきの家々の男性が年毎に就任する。構成は浅間神社に近い上町から4人、その下手にあたる中町から4人、金鳥居のある下町および中曽根地区から6人の、計14人である。年齢的には20歳代から40歳代の男性に限られており、厄年(数え年42歳)までに世話人を務めるものとされ、なおかつ既婚者であることが絶対条件である。 世話人は浅間神社の主要な年間行事にかかわり、とりわけ火祭は最も重要な奉仕であるとともに晴れの舞台である。しかし世話人は祭りの顔役であり名誉ある役職ではあるものの、長老格としての祭役ではない。よって氏子住民や神輿の担ぎ手であるセコ(勢子)に対しては、あくまでも遜った態度で接する下働き役に徹する。火祭の2日間、14人の世話役は揃いの衣装をまとい提灯を掲げ、神輿の先導、松明への点灯など、さまざまな神事の運営にあたる。ただし、これら祭り当日の運営指揮は世話人としての仕事の一部に過ぎず、実際には長期間にわたり火祭の準備作業に関わるさまざまな奉仕作業に勤しむ。特に祭礼当月の8月になると、約1ヶ月間にもわたって自らの仕事も休み、祭りの準備に忙殺される。中でも重要な仕事は、祭りのメインとなる大松明の奉納寄進者を募り、その寄付集めに奔走することである。その任務は祭礼半年前の春から始まる。 このように世話人は大変な苦労と重責を伴う役職であるため、近年では志願者の確保に苦労している。だが、その重責を果たし終えた後の感激にはひとしおのものがあり、祭礼2日目の神輿を納めた後、随神門の前で世話人一同が男泣きする姿が今日でも見られる。こうして世話人を務めた同期の仲間は固い絆で結ばれ一生涯の友となる。また、「上吉田の男は世話人を務めて一人前」と言われ、この地に生まれた男性であるならば、一生に一度は世話人を務めるものとされている。 ===氏子と祭礼組織=== 浅間、諏訪両社の大例祭である吉田の火祭は主宰こそ浅間神社であるが、実際には氏子をはじめとする多種多様な立場の多数の人々によって運営開催されている。その中心となるのが上吉田地籍の自治会から構成される北口本宮富士浅間神社の氏子である。氏子総代は、上宿(町)、中宿(町)、下宿(町)、中曽根の各町から2名の合計8名で、区内の選挙により選出され任期は3年である。文化財としての「吉田の火祭保存会」は、この総代会の組織とイコールであり、祭事全般におけるさまざまな運営の中心的な組織である火祭実行委員会の進行運営会計を取り仕切る。 この他の組織には神職、神楽を奉納する神楽講、氏子青年団、地元消防団、神輿の担ぎ手である複数のセコ集団などがある。特筆すべき吉田の火祭特有の組織としては、上吉田地区内の御師から構成される北口御師団がある。御師団は祭りの際、神職とともに白い祭服を着用して随行し、外見上は神職と見分けがつかない。相違点は後述する2基の神輿のうち、浅間神社の神職は先頭を行く明神神輿を担当するのに対し、北口御師団は後方の御山神輿の神事を担当することである。 ===火祭における御師と講社=== 上吉田の御師は中世末期以降、富士山と講社(富士講)を結ぶ役割を果たし、近世には86家、明治初年には101家を数え、多くの講社を檀家に持っていた。しかし太平洋戦中戦後の不況や、1964年(昭和39年)に開通した富士スバルラインによって登山経路が変化したことなどにより、宿泊者が減少し廃業した御師家は多い。2012年現在、北口御師団に加入している御師家は35家、そのうち講社を受け入れ営業を続けている御師は、筒屋(つづや)、大国屋(だいこくや)、上文司(じょうもんじ)、菊谷(きくや)の4家である。富士信仰の講社は、宿坊である御師に宿泊して浅間神社に参拝し、富士山へ登拝し御師に縁のある山小屋に泊まり、山頂で拝みを上げて下山するのが古くからの慣わしであった。しかし今日では御師に宿泊せず休憩だけする講社が多い。宿泊を伴う各講社は滞在中各種儀礼を行うが、詳細については後述する。 ==祭礼の年間経過== 吉田の火祭は、祭りの規模が大掛かりである上に、祭りの段取りも非常に複雑であり、実際には、ほぼ丸1年間の準備過程を経て開催されている。祭りの2日間はその総仕上げであり、それだけを見ても祭事の全体像を捉えることは困難である。この節では、祭礼に関する準備過程、段取りを通じて、それらに携わる世話人、氏子、講社、御師などの動きについて説明する。 ===春から夏へかけての祭礼準備=== 上吉田地区の上中下の三町では、毎年1月15日の小正月を中心に、各町の道祖神祭りがそれぞれ行われる。古くからこの地区における年度の区切りは各町の道祖神祭りとなっており、この時に新旧世話人の交替式が浅間神社の拝殿で行われる。交替式では、前年度世話人の退任式に続いて新年度世話人の新任式が行われ、14人の新年度世話人に揃いの法被や祭りの衣装などが手渡される。 新年度世話人の初仕事は、2月3日に行われる浅間神社の節分祭である。世話人は上吉田地区各戸を回って節分祈祷の申し込みを受け付け寄付を集めるのと同時に、新年度世話人就任の挨拶も兼ねる。特に火祭当日に神輿を担ぐセコ役の人々に対する挨拶が重要で、三町とも「勢子名簿」と呼ばれるものを持っており、それに基づいてセコのいる家々は全戸を回る。各戸には俗に「勢子セット」と呼ばれるバケツ、タワシ、ほうき3点1組の生活用具が配られる。これらは上吉田の三町全体で約1000組ほどになる。3月に入ると大松明の寄進者を募る活動が始まり、世話人は手分けして富士吉田市内および近隣の各種団体、民間企業等への挨拶回りを行う。 5月5日には「お初申(おはつざる)」と呼ばる浅間神社の初申祭が行われ、世話人は金鳥居下の中曽根地区から最上部の上町までの1キロほどの本町通り両側に、えんえんと注連縄を張る作業を数日前から行う。浅間神社の境内でも、神前に立つ太郎杉ほか3本の神木の注連縄を新しいものに交換する作業も行う。大松明奉納寄進集めが本格的に始まる6月初旬、この年最初の火祭の打ち合わせ会議が浅間神社社務所で開催される。神職、氏子総代、御師団、世話人らが出席し、今年度の祭礼の計画や注意事項、警察などへの申請事項に関する説明と討議が行われる。 ===タイマツ(大松明)の結初式=== 8月が近づくとタイマツ作りが始まる。毎年70本から80本にもなるタイマツ作りの作業に当たるのは、上吉田地区の西隣に位置する松山地区の職人7‐8名で、古くからタイマツ作りの技術を受け継いできた人々である。その中心的な存在が和光家であり、代々にわたってタイマツ作りを請け負ってきた。職人たちは普段は農業などに従事しているが、祭りの直前の1ヶ月間は連日のタイマツ造りに追われる。タイマツの奉納寄進者は、前述したように世話人が募って集めるが、2005年現在ではそれを富士吉田市観光協会が集約し、一括して松山地区の職人仲間に発注する形がとられている。 タイマツを作る作業場は、上吉田地区にある木材流通センターの一角に設営されており、職人たちは毎日ここに通ってタイマツを作り続ける。木材流通センターで作るようになったのは1975年(昭和50年)頃からであり、それ以前は御師の家の庭などに職人が通って作っていた。 タイマツを作り始める前日の7月下旬、木材流通センターで浅間神社から神職が出向き御祓いを行うタイマツの結初式が行われる。参列者は、職人仲間、木材流通センター職員、世話人、氏子総代、市観光協会などの関係者である。木材流通センターは普段は材木や資材の置き場になっているが、タイマツ作りの期間中は入口に注連縄を張り、その中で作業に勤しむ。 ===タイマツの製作=== 吉田の火祭を象徴するタイマツ(松明)の形状は大きく分けて、大松明と井桁松明に分けられる。このうち奉納者を募り、職人によって製作されるのが祭りでも目立つ筒状の大松明である。一方の井桁松明は、祭事当日の夕方に各家々で薪を井桁状に組上げて作られる松明である。これら松明に使用される木材もまた、ブクの忌避が厳格に守られており、特に中に詰めるアカマツの薪は、どこの山から切り出されてきたものなのか職人は把握しておかなければならず、ブクのかかった山林所有者の木材は使用されない。ここでは職人によって作られる大松明について説明する。 ===経木の準備=== 大松明の製作に先立って、大松明の外側を覆う経木の準備が行われる。経木に使用される木材はアカマツであり、上吉田地区東隣にある新屋地区の堀内経木店が納めている。経木製造の規格は、長さ1尺7寸、幅4寸が主なものであるが、この他にも2種類、計3種類の規格がある。なお、ここで使用されるのは曲尺(かねじゃく)であり、1尺はおよそ30.3センチメートルである。タイマツ製作のための機械は「ムキの機械」と呼ばれ浅間神社が所有者であるが、この機械はタイマツ製作以外には使用されないので、現在は前任者から引き継いだ堀内経木店が預かっている。1尺2寸から3寸に切った赤松の外皮を、手剥きの道具で剥いた後、ムキの機械を使用して経木にする。経木を30枚から50枚に重ねて、マルノコと呼ばれるノコギリで5寸幅に裁断すると経木は完成し、大松明製作まで保管される。 ===大松明の製作=== 結初式の翌日より大松明の製作が始まる。大松明はかつて大中小の3種類の大きさがあったが、2012年現在では、大11尺(高さ約327センチ、上部直径約42センチ)と、中10尺(高さ約310センチ、上部直径約36センチ)、底面の直径はそれぞれ約90センチの2種類である。(厳密には、地区内の小学校や保育園などから高さ170センチほどの子供用松明が、毎年3‐4基ほど奉納される。これは職人の指導を受けながら各機関の関係者によって作られる。)このうち、11尺の大松明は御旅所用の2本のみで、残りはすべて10尺の大松明である。結初式の後、最初に作られるのがこの御旅所用の11尺の2本である。 大松明の中に詰められる薪は経木と同じくアカマツが使用される。細かく裁断した薪を順々に重ね合わせながら、松明の芯となるヒノキを中心に立て、縄を幾重にも張りながら徐々に組み立てていく。形が整ってきたところで外側を経木で覆い、周囲を何ヶ所も縄で巻き上げていく。最後に松明を横にして、下部から隙間に薪を入れたり、底部を何度も叩いたりしてバランスを調整する。なお、最上部には点火がスムーズに行われるよう松脂(マツヤニ)の束が置かれる。 大松明は1基の重さが200キロにもなり、燃え尽きるのに約4時間半から5時間かかる。この大きさの松明が、上部に点火され最後まできれいに燃え切るためには、薪の大きさや、割り方、組み方、隙間の調整など微妙なさじ加減があり、長年の経験による熟練した技巧を要する。1日に作られる大松明は平均3基から4基で、20日間ほどをかけて70数基の大松明が作られていく。 ===井桁松明=== 井桁松明(イゲタタイマツ)とは鎮火際の当日に、各家の前に井桁状に積み上げられる薪のことである。かつては自分の家の山林からアカマツを切り出したり、懇意にしている職人に頼んで薪を用意していた。今日では木材流通センターなどから、1把約600円程度のものを10把から15把購入する家が多い。薪を積むにはまず、世話人が前もって道端に用意しておいた砂を敷き、塩を撒いてから井桁上に組上げていく。高さはおおむね170センチほどである。点火する際に各家の主人によって四方に塩が撒かれる。また、大松明と同様に点火をスムーズに行うため、薪の上部には束にした松脂が置かれる。 ===八月の祭礼準備=== 8月に入ると世話人の仕事も多忙をきわめるようになり、各自の稼業を休みながら世話人の仕事に奔走する。特に祭り直前の10日間ほどは、完全に本業を休み全休状態で祭りの準備に明け暮れる。世話人は、火祭の1ヵ月前から精進潔斎の生活に入り、女人に触れてはならず、世話人の妻も祭りの場ではあまり表に出ないものとされている。浅間神社の神職らもまた、祭礼期間中は潔斎の生活を送り、豚肉や牛肉など4つ足の動物を食するのは禁忌される。 8月初旬からの世話人の仕事を順に挙げると、祭典寄付集めと集計、神輿巡幸時にセコらの休憩所となる家々への挨拶回り、神輿行列を先導するアゲ太鼓のバチの製作(バチのみ年毎に新調され、山から切り出したクルミの木を削って作る。)、タイマツの点火材として使われるヤニ木(松脂)の採取および作製(約80組)、御旅所に立てる6本の御神木に使用するモミの木と、榊の代用となるソヨゴを富士山麓の恩賜林の奥深くまで行って切り出し、上吉田コミュニティーセンターでの御旅所、神楽殿の設営、大松明を運搬し本町通りの所定位置道端へ設置、山砂の敷布など、休む間もなく連日連夜準備に追われる。 ===祭礼当日の準備=== ====神輿の準備と諏訪神社法楽==== 8月26日、吉田の火祭祭礼当日になると、午後3時開始の神事に先立つ最終準備が行われる。 朝9時、世話人は浅間神社に集まると、諏訪神社拝殿内に併設された神輿庫から2台の神輿を外に出して担ぎ棒を取り付ける。吉田の火祭で使用される神輿は2台ある。1台は明神神輿といい、現在のものは1990年(平成2年)に152年ぶりに新調された神輿で、以前はもっと小型の神輿であった。もう1台は赤富士をかたどった重量1トンにもなる巨大な山形の神輿で、一見すると到底神輿には見えない形状のものである。この富士山をかたどった神輿は、オヤマ(御山)、オヤマサン(御山さん)、ミカゲ(御影)、富士御影(以下、御山神輿と記述する。)などと呼ばれる。御山神輿は近世初頭の「御訴訟」の古文書にも富士山型の形状をした神輿の記載が見られ、その後も複数の古文書等に記されており、古くから明神、御山の2台の神輿が祭礼に関わっていたことが確認されている。 また同日午前10時頃から、古くから諏訪神社の祭祀に深く関わってきた、同じ上吉田地区内にある時宗西念寺住職により、神前読経による仏式法楽が行われる。西念寺住職をはじめとする3名の時宗僧侶は、氏子総代、世話人らに先導され諏訪神社の本殿前に並んで立ち、般若心経と阿弥陀経の読経を行う。読経が終わり僧侶らは社務所の直会へと退席するが、その際にも浅間神社拝殿の前で立ち止まり深々と頭を下げ神前に拝礼していく。このような神仏習合の姿が今日でも見られる。西念寺僧侶は26日午後の神輿渡御と、翌日27日の還幸時にも道路端まで出向いて迎え読経を行う。なお、西念寺住職家で身内に不幸があった場合、やはりブクがかかることになるので、法楽を務めることができず、このような場合には、同宗の他寺院から僧侶を招いて代行される。 ===富士講社の坊入り=== 各地の富士講社は祭礼に参加するため、26日の昼頃までに富士吉田市内に入り、各講社の所属する御師坊へと入る。講員は御師坊に入ると、講社のマネキ(講社名を染め抜いた布旗)を、坊の玄関先やタツ道の入口に掲げるので、どの御師坊にどの講社が滞在しているのかが外からでも分る。講員らは行衣(ぎょい)に着替えて午後3時から始まる浅間神社本殿祭へ向かう。 一般的な富士講員の服装は、白の宝冠、行衣、行袴を着て、手に白の手甲、脛にも白の脚絆をつけ、わらじもしくは足袋を履く。頭に被る宝冠は7尺2寸の布であるが、現在これをかぶるのは秩父大丸講、丸伊講、丸金講の講社だけである。また、講社が御師坊に滞在してる間、世話人が挨拶回りに各御師坊を回り、各講社、御師坊からご祝儀を渡される。 御師坊では家族総出で講社の世話に追われる。どの御師坊でも部屋数に余裕がなく、複数の講社にまとめて部屋に入ってもらい、就寝時にはいわゆる雑魚寝状態になる。食事も講社ごと順番に食べてもらう。 ==火祭りの神事== 吉田の火祭は、8月26日の「鎮火祭」と、翌27日の「すすき祭り」とに大別される。この節では2日間にわたって行われる祭事の流れを時系列に沿って説明する。 祭事に関する位置関係は右記に示す座標一覧も参照。 ===鎮火祭(26日)=== ====浅間神社本殿祭==== 鎮火祭の最初に行われる神事が、26日午後3時より浅間神社拝殿内で行われる本殿祭である(位置)。本殿祭は鎮火祭開始に際し、神輿への動座を浅間神社の祭神に願うための神事である。出席者は氏子総代、世話人、講社、御師団をはじめ、地元選出議員や主要企業関係者などの来賓を含め総勢100名にものぼる。出席者のうち氏子総代10名は、白衣・青袴姿、御師は白い斎服姿、消防団員らは印半纏(しるしはんてん)姿など、それぞれの正装で臨席する。「山梨県神道雅楽会」会員ら4名による三管三鼓の雅楽により越天楽などが奏でられる中、神事が執り行われる。本殿祭の神事は、開扉、献饌、斎主祝詞奉上、斎主玉串奉献、玉串奉献、来賓の玉串奉献、撤饌、太鼓奉仕者へのバチ授与、宮司にならい御一拝、この順序に従い約1時間をかけて粛々と執り行われる。 ===御霊移しと御絹垣=== 本殿祭が終わると、神輿に浅間神社と諏訪神社の分霊を移す御霊移しの儀式が始まる。御霊(みたま)とは祭神の御神体の分霊をのことであり、御霊代(みたましろ)とも呼ぶ。浅間神社と神輿が置かれた境内社である諏訪神社(摂社)とは、境内を介して約150メートルほど離れており、浅間神社から神輿のある諏訪神社へと御霊を持った宮司が移動するのが御霊移しの儀式である。御霊移しが始まる午後4時頃になると、境内一帯は大勢の参詣者や見学者らで埋め尽くされている。14名の世話人と12名の消防団員は両社を結ぶ境内中央部に一列に並んで、一般参詣者らを入れないようにして御霊の通り道を明ける。 社殿内と境内の照明や電気はすべて消され、薄暗くなった浅間神社拝殿奥から神職による「オーッ」という警蹕(けいひつ)の低い声が響き渡ると、純白の布で覆われた御絹垣(おきぬがき)が拝殿内から現れる。御絹垣は6本の支柱の間に大きな白布を張り、御霊を持つ宮司を四方から囲んで隠した幕であり、6名の神職によって持ち抱えられている。神聖な御神体は人目にさらしてはならず、このように幕で隠しながら諏訪神社へ運ばれる。御絹垣の前には道楽・賛者の2名が先導を行い、後側には典儀・賛者と、護衛の御師団が続く。御絹垣の中には宮司と露払い役の行障(こうしょう)の2名のみがおり、宮司は袖の中に御神体(御霊)を抱えながら、神職らの発する警蹕の声に導かれながらゆっくりと進む。参詣者らは低頭して道を明け、光を浴びせたり写真を撮ることは禁忌とされる。御絹垣は諏訪神社に着くと拝殿上にのぼり、そのまま本殿内に納めて安置する。こうして御霊移しが済むと御絹垣は取り払われ、境内の電灯も再び灯され、間を空けずただちに諏訪神社祭が開始される。 ===諏訪神社祭・御動座祭と高天原での発輿祭=== 午後4時20分頃、諏訪神社本殿前において諏訪神社祭が行われる(位置)。これも浅間神社の本殿祭同様に、諏訪神社の祭神に対し、神輿への動座を乞うための神事である。神前には神職、氏子総代、世話人らが参列して開扉、献饌、祝詞奉上などが行われる。この日、諏訪神社では、午前に行われる西念寺住職による仏式での法楽、そしてこの夕方に行われる浅間神社宮司による神式での儀式と、2度の儀式が行われることになる。やがて諏訪神社祭が終わると、すでに社殿前に集合しているセコに対して、神職が拝殿上から大幣を振り修祓を行う。その後、宮司の手によって神輿への御霊移しが行われるため再び御絹垣が張られ、宮司はその中で諏訪神社と浅間神社の御神体を取り出して両社の分霊を明神神輿に移動する。なお、2社の御霊は2つとも明神神輿に分霊され御山神輿に御霊は移されない。 御霊移しが終わると神輿の出御の準備が整い、2台の神輿は世話人の呼びかけにより、それぞれのセコたちによって諏訪神社から担ぎ出される。しかし、このまま町中に繰り出すのではなく、境内の高天原(たかまがはら/位置)と呼ばれる四方を注連縄で張られた方形の祭場に一旦置かれる。2台の神輿のうち明神神輿の前で宮司が祝詞を奉上し、神職らが整列して発輿祭の神事が行われ、これが済んで初めて、正式な神輿の出御となる。このように神輿渡御にかかわる諸神事は、すべて明神神輿を中心に行われ、御山神輿に対しては御師団行司が献饌と拝礼を行うのみである。 高天原の神事は10分ほどで終わる。四方の注連縄が取り払われると、セコたちは再び一斉に2台の神輿しに取り付いて担ぎ出し、浅間神社境内を土埃を上げながら勢いよく上吉田の町中へ繰り出していく。 ===神輿渡御と西念寺僧の読経=== 神輿行列は次のような順序で構成されている。 先頭から、 唐櫃 唐櫃箱を2名で担ぎ、中には予備の幣束などが入れられている。真榊 前述したよう当地では榊が育たず、1本ないし2本のソヨゴ(当地ではソヨギと呼ぶ)の木が用いられている。2名で担ぎ、枝先には赤白青緑黄の5色の布帯と細かく刻まれた幣紙が飾られている。アゲ太鼓 2名で担ぎ、1名が叩く。賽銭役 複数名で構成され、ザルを持って沿道の人々から賽銭を集める。神職の集団明神神輿御山神輿御師団の集団以上の順序で神輿行列は進行していく。 このうち重要なのは2台の神輿の先頭を行くのは明神神輿であって、御山神輿はどのようなことがあっても明神神輿を追い抜いてはならないとされている。2台の神輿を担ぐセコは上吉田の氏子青年が中心で、いくつもの小団体が結成されており、団体ごと揃いの法被に身を固めているので、そのセコがどの団体構成員であるのか分る。また、2台の神輿のうち、先頭を行く明神神輿を担ぐのは、世話人経験者からなるセコ団体とほぼ決まっており、一方の御山神輿を担ぐのは、その他の有志団体である。有志団体にはさまざまなものがあり、職場仲間であったり、行きつけの飲食店に集う仲間など、約10団体ほどで、同様に揃いの法被などを着用している。有志団体セコの職業は建設業や飲食業関係者が多い。2台の神輿にはそれぞれ常時50‐60人ほどのセコが取り付いており、さらに交代要員も20‐30名ほどおり、集団で神輿に取り付いて御旅所まで移動していく。 浅間神社参道を抜け、国道138号線から本町通り南端の上宿交差点に向かう途中では、先述したように西念寺僧侶3名による、神輿行列を出迎え読経が行われる(位置)。西念寺(位置)ではこれを御下り・御迎えと称し、正装をして国道端に立ったまま神輿行列が通過するまで読経と焼香を続ける。 なお、神輿の巡行する区間と火祭りの行われる本町通りなどは、富士吉田警察署によって午後4時30分頃より順次、交通規制が敷かれ車両通行止めとなる。そして神輿の通過した場所から、世話人やセコなどにより道端に寝かされていた大松明が立てられて行き、沿道の一般家庭でも井桁松明が組み立てられ始め、沿道には露天商らが出店の準備を始める。 ===神輿の御旅所入り=== 浅間神社を出発した神輿行列は、本町通り中程に設けられた御旅所(上吉田コミュニティセンター/位置)を目指して進んでいく。ただし移動と言っても、一気に向かうのではなく、同じ場所を行きつ戻りつつ数回の休憩を挟みながら、ゆったりとした速度で進んでいく。この際、赤富士をかたどった御山神輿を数回、どすんどすんと路上に投げ落とす。これは御山神輿(おやまさん)を富士山になぞらえ、代わりに噴火させているものだといわれている。 吉田の火祭りの神輿渡御における御旅所は、江戸時代には上吉田中宿(現在の中町)東側に位置した諏訪明神神主である佐藤上総(御師大玉屋)の屋敷であった。1875年(明治8年)からは上吉田中宿西に開校した吉田小学校(現、富士吉田市立吉田小学校)の広場が御旅所になった。1935年(昭和10年)に吉田小学校が現在地へ移転して、旧校地が福地村公会堂や山梨県林業試験場となっても、そこが御旅所であった。1975年(昭和50年)に現在の御旅所が設営される上吉田コミュニティーセンターが建設されて以来、ここが御旅所となり今日まで使用されている。このコミュニティーセンターは最初から御旅所としての利用を考慮して設計されており、現在の祭礼を行う上で重要な役割を果たしている。 日が沈んだ午後6時を過ぎた頃、2台の神輿を従えた神輿行列は御旅所に入る。御旅所の入口には火の見櫓があり(位置)、その両側には世話人によって立てられた2本のモミの木による御神木があり、注連縄が張られている。神輿行列はこの火の見櫓の下を潜って御旅所入りをする。最初に入る明神神輿の屋根に立つ鳳凰のくちばしで、その注連縄を切り落としていくことになっている。セコたちの掛け声は最高潮に達し、見事に鳳凰のくちばしで注連縄が切り落とされると、群集から大きな拍手喝采が起き、それに続く御山神輿とともに神輿行列は御旅所になだれ込んでいく。 2台の神輿は御旅所内の台座の上に向かって右側に明神神輿、左側に御山神輿が安置され、両神輿の前には2名ずつ神職がついて共奉する。御旅所に神輿が安置されると、ただちに御旅所着輿祭と奉安祭の神事が始まり、神職(浅間神社および御師団年行事)、氏子総代、世話人、セコ一同が、神輿の前に整列して拝礼を行う。 ===松明の点火=== 奉安祭の神事が終わると、14名の世話人は一斉に御旅所を飛び出し、御旅所と火の見櫓の間に寝かされている2本の11尺大松明の点火にとりかかる。時刻は例年午後6時30分から午後7時の間であり、夕刻から夜になる時間帯である。この御旅所の大松明は吉田の火祭りで最初に点火されるもので、それを合図に町中や富士山中の松明に火がつけられることになっている。 世話人は手際よく地面に木枠を設置し、その中にスコップで山砂を敷き詰め、数人がかりで寝かされている大松明を起こして立てる。世話人は上町、中町、下町の各町名の入った提灯を高く掲げて大松明を囲み、2名の火付け役世話人が、点火用の竹竿の先端に付けた針金に松脂の束を引っ掛けて火を点け、竹竿を大松明の頂部に伸ばし、火の点いた松脂の束をそこに乗せると、大松明はメラメラと燃え始め、再び群集から拍手喝采が巻き起こる。世話人らは2手に分れ、上吉田の町を南北に走り、中宿から下宿へ、中宿から上宿へと順次大松明に火が点けられていく。大松明と大松明の間に積み上げられた、各家々の井桁松明にもまた一斉に火が点けられていく。こうして上吉田の町を南北に伸びる1本の火の帯が出現し、下は金鳥居交差点付近から最上部の上宿交差点付近まで延々と火の帯が燃え盛り、多くの見物人、観光客らが繰り出す喧騒や、居並ぶ露天商らの掛け声など、祭礼は最高潮の時を迎える。 御旅所に設けられた神楽殿では神楽講による太々神楽の舞いや、各種芸能の上演が行われ、安置された明神、御山の神輿に参拝する人々の列で賑わう。 町中で松明に点火がされると、それに呼応して五合目より上の吉田口登山道沿いの山小屋でも松明が焚かれる。空気が澄み条件がよければ麓の上吉田からも、登山道に沿って一列に並ぶ灯火が良く見える。ただし、標高2500メートルを越す五合目以上は、気象条件が非常に厳しく、大松明のような大きなものを設置するの不可能である。五合目の佐藤小屋では松明を井桁状に1.2メートルほど積み上げるが、標高が高くなるほど風速が強くなるため、七合目東洋館では積高はくるぶし程度になり、標高3000メートル超となる、それ以上では井桁状ではなく乱雑につむようになる。 参考として2003年8月26日に行われた各山小屋での松明の状況を以下に示すが、これらは、その時々の気象条件に左右されるものであり、以下の表はあくまでも2003年の記録データである。 (備考1):黄欄は2003年(平成15年)に松明を燃やした所。(備考2):青欄は悪天候時中止、または以前行っていた所。記載内容はすべて2003年(平成15年)時点のもの。 ===富士講社の拝み=== 松明が燃え始めると、御師坊に宿泊中の富士講社らは行衣に身を固めて通りに繰り出し、各御師坊の井桁松明を囲んで拝みを行う。吉田の火祭りには、主に関東一円から数十もの講社が毎年参加する。このうち宿泊を伴う講社としては、御師筒屋へ宿泊する丸八講・丸伊講・丸金講、扶桑教、御師菊谷に宿泊する大丸講・丸嘉講、御師大国屋に宿泊する宮元講・一山講などが知られており、各講社のリーダーである先達を中心にさまざまな儀礼が執り行われる。 御師の家の前の通りには、御師の檀家である各講社が奉納した大松明を立てて、それを講社が拝んで祈祷するのが本来の姿であったが、近年では大松明を奉納する講社は少なくなり、そのような講社では御師の家のタツミチ(表通りから御師の家に続く細い通路)に篝火を焚き、講社の松明代わりにしている。また、伊丸講・丸金講・扶桑教では御焚上げと呼ばれる儀礼が行われる。これは筒屋の前にある大松明と富士山に向かって地面に座り、松明の前に白い布を広げ、約2キログラムもの塩を円錐形に盛り、その盛り塩に多数の線香を立てて火をつけ、大祓えを唱えて諸神を呼び神徳経を唱えるものである。「参明藤開山」(さんみょうとうかいざん)と書いた焚き符の半紙を線香の火で焚いて「コウクウタイソクミョウオウソクタイジン」の御身抜きを唱える。その後、線香と符の灰が混ざった塩を白い布に包み、それを信者の体に擦り健康を祈願する。また、この塩を翌朝の加持に用いたり信者に分けたりする。これを塩加持と言う。 各講社では、富士講の経本であるお伝えを伝授している。お伝えは教義などを祭文や祝詞としてまとめたもので、体裁は小型の折り本になっている。もともとお伝えは、江戸時代においては御師か高名な先達に書いてもらうもので、なおかつ複数回に分けて書いてもらうため、完全な状態になるまでは数回の御山詣でをしなけらばならなかったという。また、富士講の系譜には村上派・月行派・身禄派などがあり、それぞれに経本が存在する。講社がお伝えを唱えるのは、浅間神社参拝、松明を前にした御焚上げ、御師宿の祭壇などで、先達の唱えに講員が合わせていく。 また、宮元講や、丸金講・丸伊講などでは、「エーナンマイダブー、ロッコンショウジョウ」と謡って唱える六根清浄などの掛念仏が行われる。これら、お伝えや掛念仏を唱えられるようになるには、およそ10年はかかるという。講員たちはさらに、松明が焼け落ちた夜中に御師坊から出てきて、燃え残りの消し炭を拾っていく。それを自宅の神棚や軒先に吊るしておくと火難を逃れると言われている。この際も掛念仏が唱えられる。 ===松明の消火=== 夜も更けて午後9時頃になると、松明はかなり燃え尽きて崩れている。大松明はおよそ4時間以上燃え続けると言われているが、今日では午後10時15分頃、一斉に消火命令が出され、神社側で用意した重機やトラックを使って、その日のうちに火の後片付けが行われる。燃え残った松明の残骸を崩し、放水を行って完全に消火し、灰はスコップ等でかき集めてトラックで運び出す。最後の仕上げに路上に水を撒いて、完全に流し終わると作業終了となる。これら後片付け作業は消防団員によって行われ、午後11時までに完了し、午後11時30分には交通規制が解除される。 ===すすき祭り(27日)=== 火祭りの2日目、浅間神社へ還幸する2台の神輿を、参詣者らがススキの玉串を持って、ついて行き、境内の高天原をぐるぐると回る。これをすすき祭りと呼んでいる。 ===御旅所発輿祭と金鳥居祭=== 吉田の火祭2日目の祭礼は、午後2時前頃から御旅所内で行われる御旅所発輿祭から始まる。これは2台の神輿を上吉田の氏子地域での巡行に向かうための神事である。出席者一同は2台の神輿の前に整列し、雅楽の奏でられる中、神職による御祓い、献饌、玉串奉献など一連の神事の後、世話人がセコたちに神輿担ぎ出しの掛け声を掛け出発となる。2台の神輿は御旅所より下手にあたる、おもに上吉田の北側の氏子地域を巡行していくが、休憩を挟みながら同じ場所を行ったりきたり、複雑な経路を巡行していく。やがて午後3時30分頃から始まる金鳥居祭での神事のため、2台の神輿は金鳥居の下に集結する(位置)。明神神輿は金鳥居北側の山梨中央銀行前の道路上中央、御山神輿はやや北側の金鳥居交差点の中央に安置され、明神神輿のみ四方に忌竹が設置され注連縄で囲まれる。神職らによる一連の神事が執り行われると再び神輿の出発となる。 ===御鞍石祭・神輿の還幸=== 金鳥居での神事を終えた2台の神輿は、再び2手に分かれて上吉田地区氏子地区内を複雑な経路でそれぞれ巡行していく。御旅所を再び経由し、浅間諏訪の両社を目指し坂を登っていく。途中、昨日と同様に西念寺僧侶による神輿送りを受けながら、御鞍石(おみくらいし)の聖地を目指す(位置)。御鞍石とは諏訪神社の旧鎮座地といわれる聖地で、諏訪神社南方の森の中に馬の鞍の形をした巨石があり、その上に神輿を安置して神事を行う。午後6時30分頃、神輿行列は御鞍石に到着し、明神神輿は御鞍石の上に東向きに安置され、御山神輿はそのかたわらの地上に南向きに置かれる。御鞍石と明神神輿の周囲は4本の忌竹で囲われ注連縄が張られる。宮司の手で祝詞が読み上げられると、いよいよ浅間神社境内への最後の下向となる。 ===高天原・着輿祭=== 日が暮れてすっかり暗くなった浅間神社境内では、2台の神輿を迎え待つ多くの参詣者らで埋め尽くされており、参詣者らは手にススキで作った玉串を持っている。午後7時過ぎ、最初の明神神輿が浅間神社の境内に戻ってくると、待構えていた参詣者らは一斉に神輿の背後について、手に持ったススキの玉串を高く掲げ、遅れて到着した御山神輿も合流し、高天原の周囲を2台の神輿と参詣者らは合計7周回る。参詣者は浴衣姿の女性が多い。これは婦人が神輿を担いではならないというしきたりがあるためで、神輿を担げないなら、その代わりにせめて神輿の還幸時に背後について行列に加わりたいという思いによるものであるという。 2台の神輿は高天原の周囲を7周回ると、高天原の中央部に安置され、高天原神事が行われる。御山神輿は再び地上に3回ドスンドスンと景気よく落とされる。世話人14名は叫びながら駆け出し、セコらは明神神輿、御山神輿をそれぞれ諏訪神社拝殿下まで運び安置すると、セコらは一斉に神輿から離れ、神職らによる御霊移しの儀式が始まる。境内の照明はすべて消灯され、闇の中で御絹垣によって神輿は隠され、諏訪・浅間両社の御神体が取り出され再び諏訪神社本殿に戻される。 午後7時30分過ぎ頃、諏訪神社還幸祭の神事が行われ(位置)、その後、浅間神社での御霊移しの儀式が行われ、御絹垣に隠されたそれは宮司の手によって大切に抱かれて浅間神社の本殿へと動座する。午後8時、御霊移しの神事が終了すると境内に再び電灯が灯され、浅間神社拝殿内で本殿還幸祭が行われる(位置)。これをもって火祭に関わる祭礼はすべて終わり、世話人、セコ、氏子らは解散となる。14人の世話人は最後に社前に一拝し、セコや多くの参詣者たちの拍手を浴びながら提灯を高く掲げ退場していく際、すべての任務を務め上げたことの開放感、困難な仕事をやり遂げたことの感動が胸をよぎり、14人の世話人は感極まって涙を流す。 ==祭礼以降の関連行事== 火祭の祭礼が終わった翌8月28日には、世話人、氏子総代らによって御旅所・神楽殿の解体、神社境内では神輿の清掃、担ぎ棒の解体などが行われる。 浅間神社から出される鎮火祭の神札も、氏子総代の手で各戸に配られる。その数は上町で1,200体、中町で650体、下町・中曽根で1,200体にも達する。また、世話人たちは祭りの後に残される巨額の支払いを決済する。祭りのために調達されたあらゆる物品、資材、飲食物などはすべて売掛で地元商店から仕入れている。世話人たちはその全てを現金決済していき、各所への挨拶回りも並行して行っていくのである。 火祭りの残務処理がすべて片付いた11月になると、14名の世話人は静岡県の秋葉山本宮秋葉神社への秋葉詣などを行い、12月には次年度の世話人の選出に携わる。次年度世話人が決まり、年が明けた小正月の道祖神祭りでの新旧世話人交替式をもって、1年間におよぶ世話人の任務はすべて終了することになる。 ==文化財指定と世界遺産== 吉田の火祭は、富士山と地域の歴史的な結び付きや、富士山信仰を背景とした文化遺産価値の高いものであり、文化庁により2000年(平成12年)12月25日に選択無形民俗文化財として選択された。 富士吉田市教育委員会では国および山梨県から補助金などの支援を受け、2003年(平成15年)に吉田の火祭調査委員会を組織し「吉田の火祭民俗文化調査事業」を発足させた。同事業は各分野の研究者から構成される調査委員3名、調査員9名、地元調査員2名、調査補助員20名からなり、同年から2年間をかけ、吉田の火祭の多角的な調査考察を行った。これらの調査をもとにして2012年(平成24年)3月8日に、山梨県内では3件目となる国の重要無形民俗文化財に指定された。 富士山の世界遺産の構成資産リストには、吉田の火祭に密接に関係する北口本宮冨士浅間神社や御師の家などが推薦段階で挙げられ、山梨県教育委員会学術文化財課や富士吉田市関係者らは2012年1月の時点で、これら構成資産に密接に関連した吉田の火祭の重文指定は、富士山の世界遺産登録に向けた機運の醸成にもつながるものと期待し、2013年(平成25年)6月22日、富士山は前述した構成資産を含め富士山‐信仰の対象と芸術の源泉として世界遺産に登録された。 ==交通== 富士急行線、富士山駅下車中央自動車道、河口湖インターチェンジ東富士五湖道路、富士吉田インターチェンジ =ウィリアム・ピット (初代チャタム伯爵)= 初代チャタム伯爵ウィリアム・ピット(英語: William Pitt, 1st Earl of Chatham, PC, FRS、1708年11月15日 ‐ 1778年5月11日)は、イギリスの政治家、貴族。 通称大ピット(William Pitt the Elder)。フランス革命戦争・ナポレオン戦争時の首相ウィリアム・ピット(小ピット)は次男である。 1735年にホイッグ党の庶民院議員に当選し、政界入り。ウォルポール首相の「軟弱外交」を批判するタカ派若手政治家として頭角を現し、庶民院で影響力を拡大させた。1757年から1761年にかけて第2次ニューカッスル公爵内閣で南部担当大臣を務め、七年戦争を実質的に指導し、インド亜大陸や北アメリカや西インド諸島などの植民地でフランス勢力を駆逐することに成功し、大英帝国の基礎を築いた。その後、首相(在任:1766年7月30日 ‐ 1768年10月14日)も務めたが、首相時には大きな業績はなかった。 ==概要== 1708年に大地主の庶民院議員の息子として生まれる。オックスフォード大学トリニティ・カレッジやオランダ・ユトレヒト大学で学んだ後、1735年に庶民院議員選挙に当選して議会入りを果たした(→議会入りまで)。 ホイッグ党に所属したが、当時はホイッグ党優越の時代であり、トーリー党が脅威でなかったため、ホイッグ党内で党派対立があり、ピットもロバート・ウォルポール首相の「軟弱外交」を批判する若手タカ派議員として活躍。やがて庶民院で大きな影響力を持つようになった(→最初の野党期(1735‐1746))。1746年にはヘンリー・ペラム首相の求めに応じて、陸軍支払長官(英語版)に就任し、続く第1次ニューカッスル公爵内閣でも留任したが、処遇に不満を抱き、政権内から政権批判を行うようになったため、1755年に罷免された(→ペラム・第1次ニューカッスル公内閣陸軍支払長官(1746‐1755))。 1756年に七年戦争が勃発し、その戦争指導の失敗でニューカッスル公爵内閣が総辞職すると、代わってデヴォンシャー公爵を名目上の首相(第一大蔵卿)、ピットを事実上の首相(南部担当大臣)とするデヴォンシャー公爵内閣が成立した(→デヴォンシャー公内閣南部担当大臣(1756‐1757))。 国王ジョージ2世のハノーファー優先策に否定的だったため、一時的に罷免されたものの、ピットなしでの政権運営は不可能な情勢になっていたので、1757年6月にはニューカッスル公爵と手を組んで第2次ニューカッスル公爵内閣を組閣することに成功し、同内閣に南部担当大臣として入閣、事実上の首相として七年戦争の指導にあたった(→第2次ニューカッスル公内閣南部担当大臣(1757‐1761)、→再就任の経緯)。 ヨーロッパ大陸での戦いは同盟国プロイセンへの資金援助に留めて深入りせず、代わりに植民地でのフランスとの戦いに戦力を集中した。その結果、インド亜大陸、北アメリカ、インド諸島などにおいてフランス勢力を駆逐することに成功し、後の世界最大の植民地帝国大英帝国建設の基礎を築いた(→戦争指導と大英帝国の建設)。しかし大陸での戦いはプロイセンの疲労で停滞し、1760年後半には国内で厭戦気分が高まり、同年10月に七年戦争の早期講和を目指すジョージ3世が即位したことで立場を弱め、スペインに対する宣戦布告の是非をめぐる閣内論争において国王の寵臣ビュート伯爵に敗れて、1761年10月に辞職を余儀なくされた(→辞職の経緯)。 下野後、再び野党となり、ビュート伯爵内閣とグレンヴィル内閣を批判した。とりわけグレンヴィル政権の植民地に対する課税政策に強く反対した(→再度の野党期(1761‐1766))。 政権の不安定が続く中、1766年7月末に至って安定政権樹立を望むジョージ3世から組閣の大命を受け、首相に就任した。またチャタム伯爵に叙され、貴族院議員に転じた。しかしこの頃から病が深刻になり、指導力を発揮できなくなり、内閣はピットの意思に反して対植民地強硬路線に傾いていき、アメリカ植民地との関係を悪化させた。植民地への重負担に反対するピットは閣内で孤立していき、1768年10月に至って辞職を余儀なくされた(→大ピット内閣(1766‐1768))。 下野後、三度野党となり、グラフトン公爵内閣やノース卿内閣を批判したが、同じ野党のロッキンガム侯爵派と連携できず、それがノース卿内閣の長期政権化につながった。1778年5月に死去。彼の派閥はシェルバーン伯爵が引き継ぎ、またチャタム伯爵位は長男のジョン(英語版)が継承した(三度目の野党期と死去(1768‐1778))。 首相時の業績よりも第2次ニューカッスル公爵内閣の閣僚期の七年戦争の戦争指導が最も高く評価されている。平民出身で長く庶民院議員だったため、「偉大なる平民」と呼ばれた。国王や貴族を侮蔑して憚らなかったため、国王ジョージ3世からは「反逆のラッパ」と渾名された。党派を嫌っており、全ての党派を解体して各党派の最良の部分を自らが「愛国首相」として率いることを夢見ていた(→人物・評価)。 首相ジョージ・グレンヴィルの妹ヘスター(英語版)と結婚し、彼女との間に3男2女を儲けた。そのうちの次男がフランス革命戦争・ナポレオン戦争時の首相小ピットである(→家族)。 ==生涯== ===議会入りまで=== 1708年11月15日、庶民院議員ロバート・ピットとその後妻ハリエット(旧姓ヴィリアーズ)の息子としてロンドン・ウェストミンスターに生まれる。大地主階級の出身であった。マドラス知事をつとめたトマス・ピット(英語版)は祖父にあたる。祖父は、フランスの摂政オルレアン公フィリップ2世にダイヤモンドを売りつけ、135,000ポンドの利益をあげたことで知られる。 イートン校を経て、オックスフォード大学トリニティ・カレッジやオランダのユトレヒト大学で学ぶ。 大学卒業後、陸軍の第2騎兵連隊(後の第1近衛軽騎兵連隊(英語版))に入隊した。 ホイッグ党貴族のテンプル家やグレンヴィル家との縁故で政界進出を目指すことになり、1735年にオールド・サラム選挙区(英語版)から立候補し、ホイッグ党の庶民院議員に当選。以降1747年まで同選挙区から当選した。その後シーフォード選挙区(英語版)、オールドバラ選挙区(英語版)、オークハンプトン選挙区(英語版)、バース選挙区(英語版)と選挙区を変えながらも1766年の叙爵まで庶民院議員に当選し続けた。 陸軍は議会での処女演説前の1736年に退役した。 ===最初の野党期(1735‐1746)=== ピットが議会入りした当時、首相ロバート・ウォルポールの指導の下にホイッグ党一党優位体制が築かれていた。トーリー党はウォルポールの巧みな政局運営やジャコバイト扱いされたことで信用を落としており、慢性的な少数野党状態に陥っていた。トーリー党が脅威でないため、ホイッグ党はいくつかの党派に分裂しており、中には政権を批判する野党党派も出現するようになっていた。 ピットもタカ派若手議員としてウォルポール首相の「軟弱外交」を批判して活躍し、庶民院内で影響力を拡大させた。また国王ジョージ2世の長男であった皇太子フレデリック・ルイスに接近し、1737年から1745年にかけて皇太子の寝室宮内官を務めた。 ジョージ2世から強硬派として倦厭されていたため、1742年2月にウォルポールが退陣した後の新政権に入閣できず、引き続き野党の立場を取り続けた。オーストリア継承戦争をめぐってはハノーファー王国軍をイギリスの負担で維持する政策を「ハノーファー優先」と批判した。 1744年に初代マールバラ公爵ジョン・チャーチルの未亡人サラ・ジェニングスが亡くなると、彼女の遺言によりピットに1万ポンドと地所が遺贈された。サラはウォルポールを毛嫌いしており、ピットがウォルポールに対して容赦ない攻撃をしていたのが爽快だったというのが遺贈の表向きの理由であったが、その鋭い慧眼でピットに大英帝国を築き上げる素質を感じたためとも言われている。 ===ペラム・第1次ニューカッスル公内閣陸軍支払長官(1746‐1755)=== ジャコバイトの反乱鎮圧後、ヘンリー・ペラム内閣は議会での支持者拡大を狙ってピットを政権に取り込もうとし、渋る国王を一悶着の末に説得してピットに入閣を要請した。ピットはこの要請に応じ、1746年からペラム内閣の陸軍支払長官(英語版)に就任した。ただこの官職はさほど重要ではなく、庶民院における自己の重要性を意識するピットにとって満足のいくポスト配分ではなかった。 ペラムの死去後に成立した初代ニューカッスル公爵トマス・ペラム=ホールズの第一次内閣でも陸軍支払長官に留任したが、この頃までにはピットの不満は抑え難いものとなっていた。1754年の解散総選挙(英語版)は政府の勝利に終わったが、同年11月から招集された新議会ではピットはヘンリー・フォックス(後の初代ホランド男爵)とともに官職に就いたまま政府批判を展開した。1755年12月にフォックスが閣内大臣に就任すると彼とも絶交して野党活動を強化していった。 ちょうどその頃、ニューカッスル公爵内閣は外交面で失態を続けていた。北アメリカではフレンチ・インディアン戦争が勃発し、英仏が武力衝突したが、陸でも海でも敗北した。また1755年夏から秋にかけてはハノーファーの安全を確保すべくヘッセン大公国やロシア帝国と条約して資金提供を行ったが、この政策は各方面から不人気だった。ピットはこれらを攻撃材料にして激しい政府批判を展開するようになった。ピットが完全に野党の立場に移ったことから、ニューカッスル公爵はピットを陸軍支払長官職から罷免した。 ===七年戦争の勃発=== 1756年に入るとイギリスとロシアの接近を恐れたプロイセン王フリードリヒ2世(フリードリヒ大王)がイギリスに接近し、ウェストミンスター協定を締結。これに反発したロシア・オーストリア・フランスが接近を開始した。イギリス国内のフランス脅威論は高まり、1756年5月にイギリスはフランスに宣戦布告した。さらに同年8月にプロイセンがロシア・オーストリア・フランスを敵に回してザクセンへ進攻したことで七年戦争勃発した。 イギリス軍は開戦間もなく英領ミノルカ島をめぐる戦いでフランス軍に敗れ、北アメリカでも敗戦を重ね、劣勢に立たされた。フォックスは野党からの攻撃を恐れてニューカッスル公内閣を見限り、庶民院院内総務職を辞任した。フォックス以外で庶民院を統制できる実力者はピットしかおらず、ニューカッスル公はピットに協力を要請したが、ピットはそれを拒否した。そのため内閣は1756年11月にも総辞職を余儀なくされた。 植民地の情勢に明るく欧州大陸よりも植民地を重視するピットは、ハノーファーや欧州大陸しか関心をもたなかったジョージ2世とは大変仲が悪かった。しかしピット以外に会期の迫る議会を乗り切れる政治家はなく、ジョージ2世もピット中心の内閣の組閣を認めるより他になかった。 ===デヴォンシャー公内閣南部担当大臣(1756‐1757)=== ピットは財政の知識が乏しかったので第一大蔵卿(首相)の座は第4代デヴォンシャー公爵ウィリアム・キャヴェンディッシュに譲り、自身は南部担当大臣として入閣し、戦争指導に集中した。この内閣はデヴォンシャー公爵が名目上の首相、ピットが実質的な首相であったと評価されている。 ピットは「愛国者」として海軍力増強と植民地での戦闘に力を入れ、ジャコバイトの反乱の中心地になったスコットランド・ハイランドに正規軍の連隊を編成したり、民兵制度改革で国民の戦争協力の強化を目指したが、ニューカッスル公爵を排除して政権に就いた経緯から議会の広範な支持を得られず、政権が安定しなかった。またハノーファー重視のジョージ2世と意見があわなかったうえ、他方で国王のハノーファー重視に一定の配慮もせざるをえなかったため、庶民院において彼を支持していた「独立派」議員からの支持も弱体化した。 そうした背景から1757年4月上旬をもってジョージ2世により罷免された。 ===第2次ニューカッスル公内閣南部担当大臣(1757‐1761)=== ====再就任の経緯==== しかし更迭された後のピットは再び妥協をやめたので「愛国者」として人気を回復していった。結局ピットなしでは安定政権樹立は不可能という情勢になり、ニューカッスル公とピットが手を組むことになり、1757年6月末に第2次ニューカッスル公爵内閣が成立、ピットは再び南部担当大臣として入閣した。 この内閣では首相ニューカッスル公が国王と議会の支持を確保し、ピットが戦争を指導して庶民院の「独立派」と国民の支持を確保する役割を担っていた。ピットは「今この国を救えるのは私だけだ」と語り、首相ニューカッスル公にさえ面と向かって異論を唱えたという。 ===戦争指導と大英帝国の建設=== ピットは、初代アンソン男爵ジョージ・アンソン提督を海軍大臣(英語版)に再任させ、エドワード・ボスコーエン、ホーク、ソンダースといった提督やジェフリー・アマーストやジェームズ・ウルフといった将軍を能力本位で起用した。 また戦争指導の方針としては欧州大陸では同盟国プロイセンに対する資金援助を中心にして深入りせず、海上や北アメリカ大陸・インド等の植民地での対仏戦争に戦力を集中させた。 就任直後には大陸でのイギリスとプロイセンは苦しい戦況にあったが、1757年11月から12月にプロイセンがロスバッハの戦いやロイテンの戦いに勝利したため、事態打開の兆しが見えた。1758年4月にはプロイセンと第二次ウェストミンスター協定を締結して同盟関係を強化し、イギリスはプロイセンに多額の資金を与えた。 植民地における戦いも好調だった。インドでは1757年6月にフランスの支援を受けたベンガル太守をプラッシーの戦いで撃破することに成功し、ベンガル地方の支配権を確立できた。また1758年12月にはマドラスの防衛にも成功した。北アメリカでもピットが任じた軍人たちが活躍し、1758年7月にはルイスバーグを陥落させ、11月にはデュケーヌ要塞を陥落させた。 1759年は「奇跡の年」と呼ばれ、イギリスの戦勝が更に増加した。8月にはラゴス沖の海戦、11月にはキブロン沖の海戦に勝利し、フランス軍のイギリス上陸作戦を不可能にした。北アメリカでは7月にはナイアガラ要塞、9月にはケベック、1760年9月にモントリオールを占領したことでフランスはカナダから駆逐された。 西アフリカのセネガルでも勝利を収めた。 これら七年戦争の植民地での戦闘の勝利で、名誉革命以来長く続いていたフランスとの植民地争奪戦に終止符が打たれ、イギリスはインド、北アメリカ大陸、西インド諸島を掌握。これらが後に世界最大の植民地帝国となる大英帝国の土台となった。とりわけインドは東洋に大帝国を建設する上で重要な存在となった。 ===辞職の経緯=== 一方でヨーロッパ大陸ではプロイセンの疲労により戦況が好転しなかった。この影響で1760年後半になるとイギリス国内でも厭戦気分が高まった。 さらに1760年10月25日にジョージ2世が崩御し、その孫である22歳のジョージ3世が即位した。ジョージ3世は寵臣第3代ビュート伯爵ジョン・ステュアートの影響で七年戦争の早期講和を望んでおり、勝利まで戦争続行を唱えるピットやその影響下のニューカッスル公を嫌い、ビュート伯爵を閣僚に抜擢して彼らを牽制した。またビュート伯爵はスコットランド貴族であり、上下院いずれにも議席も持っていなかったので、彼の大臣就任は議会議員を大臣に任命するという長年の慣行が破られた形であり、その点からも批判があった。 1761年8月にフランスとスペインが同盟を締結すると、ピットはスペインにも宣戦布告すべきことを訴えたが、国王とビュート伯爵はそれに反対した。首相ニューカッスル公も財政が持たないことと国民の厭戦気分が高まっている事を理由にスペインとの開戦には反対した。孤立したピットは1761年10月に辞職した。 この時のピットの怒りは激しく「2度と公人として働きたくない」と吐き捨てたという。しかしこの後もピットは庶民院への巨大な影響力を有し続けた。この後の5年に渡る政局混乱はピットの予測不能な行動によるところが大きかったといわれる。 ===再度の野党期(1761‐1766)=== 下野後、組閣の大命を受ける1766年7月まで再び野党の立場となったが、1762年から1764年にかけてピットは痛風が悪化して議会に出席することが少なくなった。そのため野党は強力な指導者を欠く状態となり、分裂状態に陥っていた。 1762年5月に首相ニューカッスル公爵は辞職し、ビュート伯爵が代わって首相に就任したが、議会政治を危機に陥れて成立したこの内閣は当初より不人気であり、逆にピットはビュート伯爵と対比される形で人気を上昇させた。結局1763年4月にビュート伯爵は辞任し、代わってジョージ・グレンヴィルが首相に就任した。グレンヴィルは庶民院議員であったものの、ビュート伯爵の影響力が強かったのでやはり批判が多い政権となった。ピットに近いジョン・ウィルクスが1763年4月に国王勅語を批判し、それに対してグレンヴィル政権が「一般逮捕状」でウィルクスを逮捕したことにはじまるウィルクス事件もこの時期に発生している。 グレンヴィル政権は1765年3月に植民地での歳入増加を目指して印紙法を可決させたが、これはアメリカ植民地人から強い反発を招いた。「本国には植民地に課税する権利がある」というのは当時のイギリス政治家の主流意見であったが、その中にあってピットは当初より植民地への課税に反対だった(結局この印紙税はアメリカ植民地人のイギリス製品ボイコット運動を招いたため、政権交代後に廃止されることになる)。 1765年7月にはグレンヴィル内閣が倒れ、ピットと同じくグレンヴィル政権を批判してきた第2代ロッキンガム侯爵チャールズ・ワトソン=ウェントワース(ニューカッスル公の派閥の継承者)が組閣したが、ピットは同内閣への入閣を拒否した。まもなく政権運営に行き詰ったロッキンガム侯は、1766年1月に再度ピットに協力を要請したが、ピットはこの時も拒否した。 ===大ピット内閣(1766‐1768)=== 安定政権を望んでいたジョージ3世は、1766年7月末にロッキンガム侯を罷免し、ピットに組閣の大命を与える決断を下した。 ピットは王璽尚書として内閣を率い、一般に首相と見られる役職第一大蔵卿には第3代グラフトン公爵オーガスタス・フィッツロイを就任させた。しかし組閣の大命を受けたのはピットであり、また主導したのもピットであったため、この内閣は一般にはピット内閣と呼ばれる。他に財務大臣としてチャールズ・タウンゼント、北部担当国務大臣としてヘンリー・シーモア・コンウェイ(英語版)が入閣した。閣僚の大半は前政権からの参加者であり、唯一のピット派の閣僚が南部担当大臣として入閣した第2代シェルバーン伯爵ウィリアム・ペティだった(彼は後にピットの派閥を継承する)。 首相就任直後の1766年8月4日にチャタム伯爵に叙され、貴族院へ移籍したが、これは「偉大な平民」と呼ばれて人気が高かったピットにとって人気急落と政権不安定化の要因となった。ピットは「全ての派閥を解消し、あらゆる党派の最良の部分を内閣に生かす」としていたが、ピットの政権運営は非妥協的だったので、もともと敵対関係のグレンヴィル派や第4代ベッドフォード公爵ジョン・ラッセル派に加えて、折衷的だったロッキンガム侯爵派まで完全に野党陣営に追いやってしまった。結局ピットは党派解消どころか、全ての党派を敵に回す格好になってしまった. またピットはこの頃から病気で体調を悪化させることが増え、政治に専念できなくなり、指導力を低下させていた。特に1767年春に躁鬱病を罹患するとほとんど政治的な役割を果たせなくなった。 そのため内閣の政策は元来のピットの主張と異なり、対植民地強硬派閣僚に押し切られたものとなった。1767年夏には財務大臣タウンゼンドの主導でタウンゼンド諸法が制定され、植民地支配機構が強化されるとともにガラス、紙、茶、鉛などに輸入関税がかけられた。アメリカ植民地はこれに強く反発した。 1767年末には対植民地強硬派のベッドフォード公爵派が政権に参加してきたため、政権は一層植民地に対して高圧的になった。ピットやシェルバーン伯爵の植民地に対する穏健な姿勢を支持する閣僚は減り、ついに1768年10月に至って閣内で孤立したピットとシェルバーン伯爵は辞職することになった。 ===三度目の野党期と死去(1768‐1778)=== この後、グラフトン公爵内閣が成立し、ついで1770年1月末から長期政権となるノース卿内閣が発足した。ピットはそのどちらにも野党の立場を取った。1770年代の野党にはロッキンガム侯爵派とピット派、その他の「独立派」の議員がいたが、ピットは政党・党派を嫌っていたので、彼の派閥はさほど組織だった物とはならず、組織的なロッキンガム侯爵派より常に少数派であった。 また、ピット派とロッキンガム侯爵派は、野党共闘が取れなかった。ピットが州選出議員の増加を訴えた際にも、国王の政治介入に腐敗の原因を求めるロッキンガム侯爵派は賛成しなかった。さらに、1770年6月に、ピットに近い政治家で、議会外改革運動のウォルクス運動とピットの懸け橋となっていたウィリアム・ベックフォードが死去し、これがきっかけでピット派と議会外改革派との繋がりが失われてしまった。 1771年春にはピット派とロッキンガム侯爵派の議員が庶民院議場で衝突し、野党共闘の目は無くなった。この野党の分裂状態を背景にノース卿内閣は長期安定政権を維持することになる。 アメリカ独立戦争をめぐっては自らが作り上げた植民地帝国の崩壊を恐れ、アメリカ独立に反対した(ロッキンガム侯爵派は賛成であったため、両派の距離は更に広がった)。そのため戦争を遂行するノース卿内閣は1778年3月にピットに政権への協力要請を行ったが、ピットの条件が厳しかったため、この交渉は決裂した。 その直後の1778年4月、貴族院議場で植民地維持を訴える演説をしていた際に倒れ、一か月後の5月11日にケント州・ヘイス(英語版)で死去した。 チャタム伯爵位は長男のジョン(英語版)が継承した。ピットの派閥はシェルバーン伯爵が引き継いだ。 ==人物・評価== 首相時代の事績より第2次ニューカッスル公爵内閣期の七年戦争の戦争指導によって高い評価を得ている。この戦争の勝利でイギリスは北アメリカとインド亜大陸からフランスを追って覇権を構築し、世界最大の植民地帝国大英帝国を建設する基礎を築いたからである。 平民出身のピットは「国民の声を聞け」と国王に要求して国王から煙たがられた。国王や貴族を侮蔑して憚らず、ジョージ3世やニューカッスル公に公然と盾突いた。そのためジョージ3世はピットのことを「反逆のラッパ」と渾名した。長く平民・庶民院議員で通したため、「偉大な平民」と呼ばれて尊敬された(その反動で1766年にチャタム伯爵位を受けた際には批判に晒された)。 彼の行動理念は政党・党派を否定して「愛国王」(初代ボリングブルック子爵ヘンリー・シンジョンの概念)ならぬ「愛国首相」になることであった。第4代オーフォード伯爵ホレス・ウォルポールは「できる限りあらゆる陣営から優秀な人材を引きぬいて、全ての政党を瓦解させることがチャタムの年来の意図であった」と述べている。ルイス・バーンスタイン・ネイミアは「チャタムは孤独な人間だった。自分と世間の間に垣根を設けていて少数の者にしかそれを越すことを許さなかった。」と論じており、彼が政党政治家になりたがらなかったのは、この孤独な性格に起因していたとも言われる。 雄弁家だったといわれ、同時代の第2代ウォルドグレイヴ伯爵ジェイムズ・ウォルドグレイヴはピットについて「彼は独特の明晰で流麗な表現力をもっている。そして完成された雄弁家であり、庶民院をいつも興奮させたり、魅了したりしている。彼は冷静で猛烈に積極的に慎重に対処するという、あらゆる素質を備えている。彼は現代人民の指導者であり、代表選手である。しかし愛国者のマスクの下に暴君の専制的精神を秘めている」と評している。しかし手紙を書くのは苦手だったとされ、「弁舌は当代随一、だが手紙を書かせたら当代最悪」との評価も残る。 文芸の知識は乏しかったが、デモステネスとボリングブルック子爵の著書だけは目を通したという ==栄典== ===爵位=== 1766年8月4日に以下の爵位を新規に叙された ケント州における初代チャタム伯爵 (1st Earl of Chatham, in the County of Kent) (勅許状によるグレートブリテン貴族爵位)(勅許状によるグレートブリテン貴族爵位)サマセット州におけるバートン・ピンセントの初代ピット子爵 (1st Viscount Pitt, of Burton Pynsent in the County of Somerset) (勅許状によるグレートブリテン貴族爵位) ===その他=== 1744年1月26日、王立協会フェロー (FRS)1746年5月28日、枢密顧問官(PC) ==家族== 1754年、ヘスター・グレンヴィル(英語版)(庶民院議員リチャード・グレンヴィル(英語版)の娘。首相ジョージ・グレンヴィルの妹)と結婚し、彼女との間に以下の5人の子供を儲けた。 第1子(長女)ヘスター(1755年 ‐ 1780年) ‐ 第3代スタンホープ伯爵チャールズ・スタンホープ(英語版)と結婚。19世紀にアラビアを旅したレディ・ヘスター・スタンホープ (Lady Hester Stanhope)の母。第2子(長男)ジョン(英語版)(1756年 ‐ 1835年) ‐ 第2代チャタム伯爵第3子(次男)ウィリアム(1759年 ‐ 1806年) ‐ 首相。通称「小ピット」第4子(三男)ジェームズ・チャールズ(1761年 ‐ 1781年)第5子(次女)ハリエット(1770年 ‐ 1786年) ‐ エドワード・ジェームズ・エリオットと結婚 =干支= 干支(かんし、えと、中国語:干支、ピンイン:g*9610*nzh*9611*)は、十干と十二支を組み合わせた60を周期とする数詞。暦を始めとして、時間、方位などに用いられる。六十干支(ろくじっかんし)、十干十二支(じっかんじゅうにし)、天干地支(てんかんちし)ともいう。 ==概説== 中国を初めとしてアジアの漢字文化圏において、年・月・日・時間や方位、角度、ことがらの順序を表すのにも用いられ、陰陽五行説とも結び付いて様々な卜占にも応用された。古くは十日十二辰、十母十二子とも呼称した。 起源は商(殷)代の中国に遡る。日・月・年のそれぞれに充てられ、60日(ほぼ2か月)、60か月(ほぼ太陰太陽暦5年)、60年などをあらわす。干は幹・肝と、支は枝・肢と同源であるという。日本、朝鮮半島、ベトナム、西はロシア、東欧などに伝わった。 日本では「干支」を「えと」と呼んで、ね、うし、とら、う、たつ…の十二支のみを指すことが多いが、「干支」は十干と十二支の組み合わせを指す語であり、「えと」は十干において「きのえ(甲)」「きのと(乙)」「ひのえ(丙)」「ひのと(丁)」と陽陰に応じて「え」「と」の音が入ることに由来するので、厳密には二重に誤りである。 10と12の最小公倍数は60なので、干支は60回で一周する。干支には、すべての組合せのうちの半数しかない。例えば、一覧01〜60で5回ある「子」のうちに、「甲子」はあるが「乙子」はない。これは、10と12に共通の約数2があるので、干支の周期が積の120ではなく、最小公倍数の60になるからである。 ==種類== 十干は甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸の10種類からなり、十二支は子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥の12種類からなっており、これらを合わせて干支と呼ぶ。十干十二支は戦国時代に作られた陰陽五行説よりもはるかに古い起源をもつので、陰陽五行説による説明は後付けであって学問的な意味はない。また生命消長の循環過程とする説もあるが、これは干支を幹枝と解釈したため生じた植物の連想と、同音漢字を利用した一般的な語源俗解手法による後漢時代の解釈である。鼠、牛、虎…の12の動物との関係がなぜ設定されているのかにも諸説があるが詳細は不明である。 ===十干=== ===十二支=== ===干支概略史=== 干支はすでに商(殷)代に現れており、殷墟出土の亀甲獣骨にたくさんの干支が日付を表すために用いられている。甲骨文には、干名だけで日を表すこともあり、祖王の名を「祖甲」「父丁」など、その人に関連する特定の干名で呼ぶ例があることから、十二支よりも十干の方がより基本的であったことが伺える(これについては、「殷#殷王の一覧」も併せて参照のこと)。 春秋戦国時代に、自然や世界の成り立ちを木・火・土・金・水から説明する五行思想が起こり、干支も五行と結びつけられるようになった。 古くは十干を「十日」、十二支を「十二辰」と呼んだ。『史記』律書では上を母、下を子に見立てて「十母十二子」と呼んでいる。幹(干)と枝(支)に喩えて「干支」と呼ばれるようになったのは後漢代からである。 月や年を表すために干支を用いるようになった時期は、殷代よりも後の時代に属する。 年を表すには、古来、著しい事件や帝王の即位年を基準とすることが多かったが、戦国時代の中ごろになって木星(歳星)の天における位置によって年を指し示すことが考案された。後述のように、この方法がやがて発達し、当初は木星の位置により、次には十二支により、漢代には干支の組合せによって年を表す例が広く行われるようになった。 1日(24時間)を十二支に分けるようになった時期も漢代である。十二支に対して十二獣を充当することは秦代にも見られるが、文献における初出は後漢代からである。また、「外事には剛日を用い、内事には柔日を用いる」とされたのも漢代であり、これは、戦国時代の陰陽家の影響を受けている。 方位への応用も、陰陽五行思想と結びついたことによって漢代に広がった。 ただし、全10巻中8巻が『四庫全書』にも収められている唐の時代に編纂された兵書である『神機制敵太白陰經』 (李筌編)のうち、巻四「戰具」や巻九「遁甲」において、夜半、鶏鳴といった十二時による時刻名とともに、この時刻の干支は云々と記載されているので、時刻を干支で呼ぶ習慣の定着には長い時を要し、唐の時代にはまだ古い記憶の名残があったと推測できる。 ==干支による紀日== 干支によって日付を記述する干支紀日法は、すでに殷代の甲骨文に現れている。 西洋では1月を4分割して「週」(7日)というサイクルを編み出した(ただし7という数字は天体から)が、古代中国では1月を3分割して「旬」(10日)というサイクルを考案し、十干という順序符号をつけた。甲骨文には「卜旬(ぼくじゅん)」があり、これは、ある特定の日(癸の日)から向こう10日間の吉凶を占ったものである。10日、すなわち十干を3回繰り返すと1か月(30日)になるので、十干と十二支を組み合わせると、2か月(60日)周期で日付を記録することになる。 ある日を甲子とすると、第2日が乙丑、第3日が丙寅というように進んで第60日の癸亥へと進み、第61日に至ると再び甲子に還って日を記述していった。これは、3,000年以上経った今に至るまで、断絶することなく用いられている。また、干支紀日は『日本書紀』など東アジアの歴史書にも広く使用されている。 殷代においては、干支はもっぱら紀日法として用いられ、年に関しては1から始まる順序数(自然数)を使用しており、月に関しても順序数を基本としていた。 現在のような順序数による紀日法がいつ始まったかはわかっていないが、現在のところ、山東省臨沂県(りんぎけん)から出土した銀雀山漢墓竹簡、および武帝7年(元光元年、紀元前134年)の暦譜竹簡の例が最古とされている。 中国でも日本でも暦はしばしば改定されているが、干支による紀日は古代から連綿と続いており、古い記録の日付を確定する際の有力な手がかりになる。 さらに、旧暦の月は29日また30日で規律があまりなく、閏(うるう、月と月の間にさらに一ヶ月を入れる)もあるため、干支を使えば閏があるかないかがわかる。 一例として、史料に「○月甲寅朔(1日は甲寅の日)」のように記録したら、「乙丑、…(なにかのできごと)」はその月の12日であることは自明。そして「七月甲子」と「八月甲子」の間に60日もあるから七月と八月の間に「閏七月」があることがわかる。 ==干支による紀月== 古くから中国では冬至を含む月を11月とする習わしがあり、この月を「子月」と呼び、以下12月を「丑月」、正月を「寅月」と呼んだ。 こうした呼び方は戦国時代からあったが、さらに月名に十干を加えることは唐代には行われており、その場合の配当は年の干名によって各月の干が割り当てられた。たとえば、寅月についていえば、甲や己の年は丙、乙や庚の年は戊、丙や辛の年は庚、丁や壬の年は壬、戊や癸の年は甲となる。つまり、干名が甲である年の寅月は「丙寅月」となる。詳細を、下表に示す。 ==干支による紀年== 紀年法とは、年を記したり数えたりするための方法のことで、中国を中心とした漢字文化圏では年号紀元に基づく紀年法とともに、60年周期の干支による干支紀年法が併用されてきた。その起源は木星の観測と深い関わりがある。 ===歳星紀年法=== 歳星紀年法は、天球における木星の位置に基づく紀年法である。 中国の戦国時代に始まった。木星は約12年で天球上を一周し、十二次(天球を天の赤道帯に沿って西から東に12等分した12の区画)を1年に一次進む。そこで、木星は年を示す星であるとして「歳星」と呼び、木星の十二次における位置で年を記した。たとえば「歳在星紀(歳、星紀に在り)」は、木星が天球上の「星紀」という場所に存在する年という意味である。 ===太歳紀年法=== 太歳紀年法は、木星の鏡像である太歳の天球における位置に基づく紀年法である。 木星は天球上を十二次に沿って西から東に進むが、当時の人たちがよく使っていた十二辰(天球を天の赤道帯に沿って東から西に十二等分した区画、十二支が配当された)に対しては、運行の方向と順序が逆であった。そこで、木星の円軌道に一本の直径を引き、その直径を境に木星と線対称の位置に存在する太歳という仮想の星を設定し、その十二辰における位置で年を記すようにしたものである。 中国の戦国時代には、この直径は寅の起点と申の起点とを結んで引かれ、たとえば、「太歳在寅(太歳、寅に在り)」という記述があれば、その年は太歳が寅の位置に存在する年、つまり木星が丑の位置に存在する年のことである。その翌年は「太歳在卯」となり、太歳は卯、木星は子に位置する。 さらに、「太歳在寅」「太歳在卯」と記録する代わりに、太歳が位置する各「年」に名称を設けて使用することが行われた(『爾雅』「釈天」より)。 漢代に入ると、『淮南子』天文訓に「淮南元年冬、天一在丙子」と記述されるように、十干と組み合わせた干支で太歳の位置が記述されるようになった。 この太歳の位置を示す十干にも歳名が付けられた。 この十干(歳陽)と十二辰(歳陰)の歳名とを組み合わせ、例えば、ある年を閼逢摂提格とすると、その翌年は旃蒙単閼、第3年は柔兆執徐…となり、第60年の昭陽赤奮若に至ると、再び閼逢摂提格から始めるという60年周期の歳名とした。 ただし、木星の公転周期は正確には11.862年であるため、実際には1年に一次と少し進んでいることになり、約86年に一次(太歳は一辰)ずれることになる。これを「超辰」と呼ぶ。この超辰によるずれを解消するため、秦の*9612**9613*暦では、太歳を設定するための直径を丑の起点と未の起点に引き、秦の始皇帝元年(紀元前246年)を木星が亥にあり、太歳が寅にある年とする新しい基準を設けた。 前漢の太初元年(紀元前104年)の改暦(太初暦)では、超辰を行い、丙子を丁丑に改めた。後に三統暦の補正では超辰は114年に一次ずれると定義し、太初元年を再び丙子に戻し、太始2年(紀元前95年)を乙酉から丙戌へ超辰するとした。これによって三統暦による太歳紀年と後の干支紀年は太始2年から見かけ上、同じになる。 ===干支紀年法=== 後漢の建武26年(西暦50年)は、当時使われていた劉*9614*の三統暦の超辰法に従うならば、庚戌を辛亥とすべき年であった。にもかかわらず、光武帝に随従していた学者たちは超辰を行わず、庚戌のまま紀年を続けた。さらに元和2年(西暦85年)の改暦では三統暦の超辰法自体が廃止された。これ以後、木星を観測して、その位置で年を記録することはなくなった。この時から、木星の運行とは関係なく、60年周期の干支を1年ごとに機械的に進めていく干支紀年法が用いられるようになり、絶えることなく現在まで続いている。これは、後代に干支が伝来した朝鮮や日本とも共通である。 民間では干支のうちの十二支の部分だけを用い、それに動物を配当した生肖紀年法が今も広く用いられている。なお、広開土王碑と12世紀成立の高麗朝による正史『三国史記』の干支に1年の違いがあるなど、時代や地域によっては必ずしも一定しないことも散見される。 ===生肖紀年法=== 十二支と十二獣がいつから結びつけられたのかは不明であるが、1975年に湖北省雲夢睡虎地の秦代の墓から出土した竹簡には既に現在のように動物が配当されている様子が伺われる。 後漢の王充が著した『論衡』物勢篇では、十二支を動物名で説明しており、これによって干支の本来の意味が失われ、様々な俗信を生んだ。ただし、日、月、時刻、方位などを干支で示す慣習が廃れた今日でもなお、干支紀年に限っては今なお民間で広く定着している要因ともなっている。日本の風習である年賀状などにも動物の絵柄が好んで描かれているが、下表のとおり、配当される動物には国によって違いが見られる。 ===干支紀年と日本=== 干支紀年の日本への伝来時期はよくわかっていない。日本に中国の暦本が百済を通じて渡来したのは欽明天皇15年(554年)とされるが、実際には、それ以前にさかのぼる可能性が高い。 埼玉県行田市埼玉の埼玉古墳群の一つ、稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣には「辛亥年七月中記」の紀年があり、銘中「獲加多支鹵(わかたける)大王」を雄略天皇とする考えが主流であることから、「辛亥年」を471年とする説が有力である。ただし、これに対しては531年とする反論もある。 一方、和歌山県橋本市隅田の隅田八幡宮に所蔵されている人物画像鏡には、「癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿…」という銘文が鋳されており、この「癸未年」は、「男弟(おとど)王」が継体天皇と考えられることから、503年とする見方が有力である。 ==陰陽五行説との連関== ===陰陽五行説と十干=== 陰陽五行説では、十干に対し、天運を表す木、火、土、金、水の五行にそれぞれ陰陽一対を配して表す。訓読みでは十干の名称は、甲(きのえ)、乙(きのと)、丙(ひのえ)、丁(ひのと)、戊(つちのえ)、己(つちのと)、庚(かのえ)、辛(かのと)、壬(みずのえ)、癸(みずのと)となり、五行のそれぞれに「(の)え」・「(の)と」がついたものである。「(の)え」は「(の)兄姉」を意味する。「(の)と」は「(の)おと」に由来し、「(の)弟妹」を意味する。「えと」の呼称もこれに由来している。 ===陰陽五行説と十二支=== 十二支にも五行が配される。四季に対応する五行は、春が木、夏が火、秋が金、冬は水であり、土は各季節の最後の月にあたり、季節の変わり目を表す。土用の丑の日は夏の最終月(土用)の丑の日という意味である。各季節に十二支を配すと、 春…寅(木)、卯(木)、辰(土)夏…巳(火)、午(火)、未(土)秋…申(金)、酉(金)、戌(土)冬…亥(水)、子(水)、丑(土)となる。 陰陽五行説が起こったのは、中国の戦国時代であり、*9615*衍の五行思想に陰陽思想が結びついたものである。これが干支と結びついて干支五行説として天地間の森羅万象における根本原理であると考えられるようになった。 ===五行説と干支=== 上記のように割り当てられた十干と十二支それぞれの五行は、その組合せによって吉凶を占うことができるとされる。代表的なものを下に掲げる。 「相生」…この関係は、天地陰陽の気が調和を保ち、万事が順調に進んで吉とされる。 木生火(木は火を生じる) 火生土(火は土を生じる) 土生金(土は金を生じる) 金生水(金は水を生じる) 水生木(水は木を生じる)木生火(木は火を生じる)火生土(火は土を生じる)土生金(土は金を生じる)金生水(金は水を生じる)水生木(水は木を生じる)「相剋」…この関係は、天地の平衡が失われるため凶とされる。 木剋土(木は土を剋す) 土剋水(土は水を剋す) 水剋火(水は火を剋す) 火剋金(火は金を剋す) 金剋木(金は木を剋す)木剋土(木は土を剋す)土剋水(土は水を剋す)水剋火(水は火を剋す)火剋金(火は金を剋す)金剋木(金は木を剋す)「比和(相勝)」…この関係は、同気が重なるため、五行それぞれの性質を強め、良い場合はますます良く、悪い場合はますます悪くなるとされる。他に、相侮、相乗がある。 ==時刻と方角== 干支は、時刻や方位、角度を表すのにも用いられる。 ===時刻=== 時刻については、現代の23時から翌1時までを子の刻とし、以下、丑、寅、…と続いて、11時から13時までを午の刻とした。現在、夜0時を「子夜」、昼12時を「正午」、正午より前を「午前」、正午より後を「午後」と称するのは、これに由来する。怪談などで用いられる「草木も眠る丑三ツどき」とは今日でいう午前2時半ごろのことである。 なお、日本で初めて中国伝来の暦日を遵用して、時刻に十二支を配し、子を真夜中としたのは推古天皇12年(604年、甲子の年)の正月のことであったとされる。平安時代の延喜年間に編纂が始まり延長5年(927年)に完成した「延喜式」でも、宮中の諸門の開閉や日の出、日の入りの時刻について、「申四刻六分」のように十二支を用いて示している。 ===方位=== 十干は、五行説によって説明されるようになると五行が表す方位である五方と結び付けられた。さらに、後には十二支や、易における八卦を交えて細かい二十四方が用いられるようになった。 十二支では、東を卯、西を酉、南を午、北を子の方位としている。東西を結ぶ線(緯線とは厳密には異なる)を「卯酉線(ぼうゆうせん)」、南北を結ぶ線(経線に相当)を「子午線」、経度0度のロンドンのグリニッジ天文台を通る経線を「本初子午線」と呼ぶのは、これに由来する。 四隅については、北東・南東・南西・北西がそれぞれ「うしとら」、「たつみ」、「ひつじさる」、「いぬい」と呼ばれ、該当する八卦から、「艮(ごん)」、「巽(そん)」、「坤(こん)」、「乾(けん)」の字を充当している。指南の実物を見るかぎり、南を指すためのレンゲの形状の磁石を置いた板の模様は、六壬神課で使用する式盤の地盤の形状に酷似している。 なお、二十四方(下表参考)では、十干のうちの戊・己は用いられない。したがって、十干のうちの8、十二支の12、八卦のうちの4を合わせての24方位となる。 十二支が方位と結合していくのは、漢代のことと考えられている。漢代には易の解釈学である「象数易」という学問が隆盛し、そこでは、易の卦や、それを構成する爻に、十二月、十二律(音律)、十二辰(支)、二十四節気、五行、方位などが配当され、極めて複雑な理論が編み出された。 なお、歳徳神の在する方向とされる恵方(えほう)は、その年の干名によって定められている。 ==干支にかかわる伝承や俗信== 干支が十二獣や陰陽五行思想と結びついたことで、さまざまな伝承や俗信が生まれたが、日本に伝来すると日本固有のものとも習合して独自の俗信を生んでいった。中には、申(さる)の日は「去る」と通じるので結婚式を行わないなどというものもあった。 ===還暦=== 数え年の61歳は、生まれた年の干支に戻るので、「暦が還(かえ)った」という意味で「還暦(かんれき)」といい、歳をとる正月には、公私ともに正式に隠居して長寿の祝いをした(東洋にあっては誕生日の概念は乏しかった)。この年齢に達すると親族などが赤い頭巾やちゃんちゃんこを贈るのは、もう一度赤ちゃんに戻って「生まれ直す」という意味合いをこめている。現在は、満60歳の誕生日や60周年に還暦の祝いをすることが多い。2周(120年)した場合は大還暦という。 中国では「花甲」、日本と同じように60年の長寿を祝い、無病息災を願う習慣が今も続いている。 ===辛酉革命、甲子革令=== 中国漢代緯書にみえる予言説(讖緯)である。中国よりもむしろ日本で信じられた。 辛酉は天命が改まる年とされ、王朝が交代する革命の年で辛酉革命という。日本では、平安時代に政治的変革が起るのを防ぐ目的で、三善清行の提唱によって、辛酉年の昌泰4年(901年)が「延喜」と改元された。それ以来、日本では慶応に至るまで、辛酉年と前年の庚申年の2年続きで改元が実施されたが、中国ではこのような例はない。 また、『日本書紀』では、神武天皇が即位したとする年を西暦紀元前660年の辛酉の年に充てている。これについて、明治時代の歴史学者那珂通世は、『緯書』にある鄭玄の注に、1260年に一度(干支一周の60年(1元)×21元=1260年=1蔀)の辛酉年には大革命が起こるとの記述があり、推古天皇9年(601年)がその年に充たることから、この1260年前にあたる西暦紀元前660年を即位年に充てたとの説を立てた。また、1320年(60年×22回=1320年)周期説を採用する学者もあり、その場合、辛酉の3年後に充たる甲子年が革令(甲子革令)の年であり、白村江の戦いの翌年の甲子年(西暦664年)が基点とされる。 甲子革命については、中国でも、後漢末に太平道の教祖張角は光和3年(180年)に「蒼天已死 *9616*天當立 *9617*在甲子 天下大吉(『後漢書』71巻 皇甫嵩朱*9618*列傳 第61 皇甫嵩伝)」、蒼天(漢朝)已に死す 黄天(黄巾党)當に立つべし 歳は「甲子」に在り 天下大吉)とのスローガンを発しており、干支に基づく易姓革命を意識して光和7年(184年)という甲子の年に黄巾の乱を起こした史実がある。 ===庚申=== 近代以前の日本では、庚申の日に広く庚申講が行われたが、これは道教の伝説に基づいている。 中国の言い伝えによれば、人間の頭と腹と足には三尸(さんし)の虫がいて、いつもその人の悪事を監視している。三尸の虫は庚申の日の夜の寝ている間に天に登って天帝に日頃の行いを報告し、罪状によっては寿命が縮められるとされる。そこで、三尸の虫が天に登れないようにするため、この日には徹夜しなければならないとされた。これを「守庚申」という。また、中国では、庚申の日には、菜食するのがよいとも言われていた。日本には庚申の晩に生まれた子、あるいは庚申の日の交わりで孕んだ子は盗人になるという言い伝えがあり、庚申の日に生まれた赤子には名に「金」の字を入れれば「ひと様の金を盗らない」という意味で厄除けになるとされた。夏目漱石の本名である「金之助」は、この俗信にちなむ。 日本では、「庚申さま」として庚申の日そのものも神格化された。庚申の日の夜は村人が集まって神々を祀り、その後、寝ずに酒盛りなどをして夜を明かした。これを庚申講という。庚申講を3年18回続けた記念に建立されたのが庚申塔で、今も各地に残っている。 ===丙午=== 陰陽五行説によれば、丙も午もともに剛強なる陽であって火の性格をもち、中国ではその年は火災が多いなどといわれていた。 それが日本では、八百屋お七が丙午の年(1666年)生まれだという風説があったところから、丙午の年に生まれた女性は気性が激しく、夫の運勢を圧倒して連れ合いを短命にするという俗信に変化した。これは男性中心主義の見方であり、迷信俗説に類するものであるが、日本では丙午年の出産が避けられて、新生児の数が他の干支の年よりも少なかった。この迷信は戦後になっても残り、1966年の出生数は、前年比で45万人減少した136万人だった。その反動もあり、翌年の丁未の年は新生児の数が例年よりおよそ57万人増え、193万人となった。なお、同様に火の重なる丁巳(ひのとみ)は八専の一つである。 ===強の寅=== 五黄の寅参照。 ===干支と年中行事=== 干支は、二十四節気や雑節と結びついて、各地でさまざまな行事が行われている。 中国の漢代には、正月最初の子の日には皇帝が鋤で耕し、皇后が箒で蚕床をはらって、祖先神や蚕神をまつる行事があったといわれている。 この行事は、古代日本にも伝播しており、正倉院には使用した鋤と箒が現存している。正月初子(はつね)の日に、山野に出て若菜をつみ、若松をひいて長寿を願った行事が、『小右記』にも記された「子の日のお遊び」であり、平安時代の宮中の年中行事であった。 それ以外で著名なものとしては、次のものがある。 初午…2月最初の午の日に稲荷神社で祭礼が行われる。端午の節句…5月の月初めの午(端午)の日に行われる年中行事。土用の丑の日…土用(立秋前の18日間)の丑の日。風呂に入ったり、灸をしたり、「ウ」のつく食べ物を食べるとよいとされた。亥の子…旧暦10月の亥の日に行う刈上げ行事。酉の市…11月の酉の日の鷲神社で行われる祭礼の際、神社境内に立つ市。子の日祭…ネズミが大黒天の使獣と考えられたところから、子の月(11月)の子の日に行われた。丑紅…寒中に作った紅は質が良いとして丑の日に「丑紅(寒紅)」を売る行事。戌の日…犬はお産が軽いとされることから、帯祝いなどにはこの日を選ぶ風習がある。 ===選日=== ====天赦日==== 干支相生の日とされた天赦日は、「よろずよし」の大吉日と考えられてきた。春(立春から立夏前まで)は戊寅、夏(立夏から立秋前まで)は甲午、秋(立秋から立冬前まで)は戊申、冬(立冬から立春前まで)は甲子の日である。 ===三隣亡(さんりんぼう)=== 選日のひとつ。1月・4月・7月・10月の亥の日、2月・5月・8月・11月の寅の日、3月・6月・9月・12月の午の日を三隣亡という。棟上げなど建築に関することの凶日とされる。 ===十方暮(じっぽうくれ)=== 選日のひとつ。干支21番目の甲申の日から30番目の癸巳の日までの10日間を凶とした。 ===三伏(さんぶく)=== 選日のひとつ。夏至以降3度目の庚の日(初伏)、4度目の庚の日(中伏)、立秋以後の最初の庚の日(末伏)を凶日とする。庚(かのえ)は「金の兄」で金の陽性であり、金は火に伏せられること(火剋金)から、火性の最も盛んな夏の時期の庚の日は凶であるとする考えに由来している。 ===それ以外の選日=== それ以外の選日に次のものがあり、いずれも干支が用いられる。 八専不成就日天一天上一粒万倍日犯土(大土・小土)臘日 ===干支と占い=== 漢代には易の解釈学として象数易が流行し、そこでは、易の卦や、それを構成する爻に、十二月、十二支、二十四節気、五行、方位などが配当されて、複雑な理論が編み出された。 特に八卦と干支が結びついて占いに用いたものとして、納甲がある。完成は前漢代の京房によるといわれており、三国時代の呉の虞翻らによって継承された。後には十二支も易に用いられるようになり、八卦の各爻に干支が当てはめられた。唐の李淳風は『周易元義』で八卦六位図を伝えている。 一方、納音は、干支を陰陽五行説や中国古代の音韻理論を応用し、形容詞を付加して30に分類したものである。生まれ年の納音は、その人の運命を判断するのに用いられた。 納音において凶日とされたのが五墓日であった。戊辰の日、壬辰の日、丙戌の日、辛丑の日、乙未の日がそれで、家作りは構わないが、動土・地固め・葬式・墓作り・播種・旅行・祈祷などは凶とされた。その名から、この日に葬式などを行うと、墓を5つ並べるといって忌むことがあった。 ===十二直=== 十二直とは、暦注の一つであり、十二支とは別の12のサイクルを月に合わせて暦をつくり、その日の吉凶を占ったものである。中国では戦国時代に萌芽が見られ、秦と楚では異なる十二直を使用していた。現代まで伝わっているのは中国を統一した秦の十二直である。十二直は、建・除・満・平・定・執・破・危・成・納・開・閉から構成される。 ===現代における干支占い=== 現代において干支占いは、血液型性格分類や占星術と比べてマイナーである。血液型や星座は個人のプロフィールによく記述されるが、干支は記載されないことが多い。そのせいもあって、干支は血液型や星座などと異なり疑似科学の扱いを受けないことが多い。心理学者でもあった増永篤彦によって行われた、生日の干支において干から支にひいた十二運とある種の性格分類に相関があるとする研究は、動物占いや動物占いの動物キャラクターを別のもので置き換えた様々な占いに無断で流用されている。 ==干支の求め方== ===年の干支=== ある年を西暦(あるいは皇紀)で表した値を10で割った余り、すなわち一の位を求め、下表から十干を割り出す。 同様に、西暦(あるいは皇紀)で表した値を12で割った余りを求め、下表から十二支を割り出す。 この二つの組合せが、その年の干支である。すなわち、西暦と皇紀においては、10の倍数の年が庚、12の倍数の年が申、60の倍数の年が庚申となる。例えば、西暦2005年(皇紀2665年)は、2005(2665)を 10 で割った余りが 5 となり、12 で割った余りが 1 となるので、乙酉(きのととり・いつゆう)となる。 また、西暦で表した値から 3 を引いて 60 で割った余りが干支一覧の左端の数となる(0の場合は60にする)。例えば、西暦2005年は、2005から 3 を引くと2002で、2002を 60 で割った余りは 22となり、乙酉が求められる。 現在の日本においては、太陽暦の年に対して干支を適用することが多いが、伝統的には節月(立春から翌年の立春の前日まで)を1つの干支として適用することも多く、一部の占いにおいては今日にも引き継がれている。また中国においては太陽太陰暦(農暦)に対して適用している。 ===月の干支=== 十二支は月と同じ12個なので、月の十二支は毎年同じになる。十干は10個なので、十二支と組み合わせると、太陽暦では5年(60か月)周期で月の同じ干支が繰り返されることになる。 ここでいう月は、「暦月」(1日から翌月1日の前日まで)を適用する場合と「節月」(節気から次の節気の前日まで)を適用する場合とがある。 ===日の干支=== ユリウス通日に49を加えて60で割った余りに1を加えると、上表(「干支」のページ、一番上の右側に表示) に示した数字となる。 検表法 例えば、西暦2018年5月21日は、十干日付5月21日I、年18I、世紀20J (癸)、十二支5.21E、18E、20B(丑)、癸丑の日である。ユリウス暦の場合、西*9619*年で表した値を80で割った余りを求め(年 mod 80)、その他のステップと同じである。例えば、紀元前105年(‐104 mod 80 = 56)12月25日は、十干日付12月25日G、年56G、世紀ユリウスA(甲)、十二支12.25G、56G、ユリウスA(子)、甲子の日である。例を挙げましょう。 1960.12.6: 十干HHE戊、十二支LLE辰、干支は戊辰である。1800.1.1: 十干IIG庚、十二支IIC寅、干支は庚寅である。1582.10.4: 1582 mod 80 = 62、十干EEJ癸、十二支IIJ酉、干支は癸酉である。‐2020.2.29: ‐2020 mod 80 = 60、十干GGB乙、十二支GGJ酉、干支は乙酉である。公式法 グレゴリオ暦の公式:干支数 = (10 + [年/400] ‐ [年/100] + 年 mod 80 x 5 + [年 mod 80/4] + 月値(m) + 日(d)) mod 60。ユリウス暦の公式:干支数 = (8 + 年 mod 80 x 5 + [年 mod 80/4] + 月値(m) + 日(d)) mod 60。 月値 0100 0231 03‐1 0430 0500 0631 0701 0832 0903 1033 1104 1234 *9620* ‐1 30 m ([30.6(M ‐ 3) + 0.4] ‐ 1) mod 60 例1: 2000年1月1日c = 10 + [20/4] ‐ 20 = ‐5y = 2000 mod 80 x 5 + [2000 mod 80/4] = 0干支数 = (c + y + m + d) mod 60干支数 = (‐5 + 0 ‐ 1 + 1) mod 60 = 55干支は戊午である。例2: 紀元前4713年1月1日c = 8y = ‐4712 mod 80 x 5 [‐4712 mod 80/4] = 42干支数 = (8 + 42 ‐ 1 + 1) mod 60 = 50干支は癸丑である。 ==干支一覧== 「五行」は十干、十二支それぞれの五行をあらわす。なお、十干が「弟(と)」の場合だけ、十干と十二支の間に「の」を入れて読むのが慣例である。 ==干支カレンダー== =イトカワ (小惑星)= イトカワ(糸川、いとかわ、25143 Itokawa)は、太陽系の小惑星であり、地球に接近する地球近傍小惑星(地球に近接する軌道を持つ天体)のうちアポロ群に属する。 ==概要== イトカワは近日点が地球軌道の内側に入る、アポロ群の地球近傍小惑星である。地球軌道との最小距離が小さく、半径も160メートルあるため、潜在的に危険な小惑星 (PHA) にも分類されている。スペクトル型からS型小惑星に分類される。日本の小惑星探査機(工学実験宇宙機)はやぶさ (MUSES‐C)の目的地に選ばれ、2005年9月からの約1ヵ月半、はやぶさに搭載された可視光分光撮像カメラ、近赤外線分光器、レーザー高度計、蛍光X線分光器の4つの観測機器による詳細な探査が行われた。そして2005年11月には、イトカワ表面の岩石試料を採取して地球へ持ち帰るサンプルリターンを行うため、はやぶさは2度の着陸を行った。 イトカワは平均半径が約160メートル、長径500メートルあまりしかない小天体であり、これはこれまで惑星探査機が探査を行った中で最も小さな天体である。はやぶさは2010年6月に地球へ帰還し、同年11月にははやぶさのカプセルコンテナ内にイトカワの微粒子が多数存在することが明らかとなり、その後イトカワの微粒子についての分析が進められている。 はやぶさによるイトカワの探査と地球へ持ち帰った試料から、これまで知られていなかった小さなサイズの小惑星について様々な知見がもたらされている。まずイトカワの質量と体積から考えて、内部の約40パーセントが空隙であると考えられ、イトカワは瓦礫を寄せ集めたようなラブルパイル天体であると考えられた。またイトカワの分光観測と岩石試料から、イトカワは普通コンドライトの中のLL4、LL5、LL6というタイプの隕石と同様の物質で構成されていることが判明した。そしてイトカワ表面の物質は宇宙風化を起こしていることが明らかとなり、地球上に落下する隕石の約8割を占める普通コンドライトの多くが、S型小惑星を起源とすることが明らかとなった。 また直径20キロメートル前後の母天体が大きな衝突によって破壊され、その瓦礫が再集積することによって現在のイトカワが形成されたと考えられること、重力が極めて弱いイトカワでは、表面の物質が惑星間空間に逃げ続けていると見られることなどが判明した。 ==発見とはやぶさの目的地に選定== イトカワは1998年9月26日、アメリカ・ニューメキシコ州ソコロでマサチューセッツ工科大学・リンカーン研究所の地球接近小惑星研究プロジェクト (LINEAR) により発見された。発見後、 1998 SF36という仮符号が付けられ、軌道要素確定後に25143番小惑星とされた。 ===第三の候補=== イトカワが発見された当時、日本の宇宙科学研究所では、1995年8月に宇宙開発委員会で正式承認された小惑星探査機(工学実験宇宙機)はやぶさ(MUSES‐C) の開発が進められていた。計画開始当初はMUSES‐Cの探査対象である小惑星はネレウスとされ、打ち上げは2002年1月の予定であった。またネレウスのバックアップ天体として1989 MLが用意された。しかし探査機の設計が進む中で重量的にネレウスに向かうことが困難であることが明らかとなったため、1999年8月にはバックアップ天体の1989 MLへ目的地が変更となり、打ち上げ時期も2002年7月へと変更された。 ところが2000年2月10日、宇宙科学研究所の科学衛星用ロケットであるM‐Vロケット4号機の打ち上げが失敗した。失敗原因を分析し、対策を講じていく中で、MUSES‐Cは予定通りに打ち上げを行うことが不可能であることが明らかとなった。MUSES‐Cの目標天体であった1989 MLは、2002年7月の機会を逃すと次回打ち上げが可能となるのが5年後の2007年となってしまう。打ち上げが大きく延期されることにより、これまでMUSES‐C計画を進めていくに際してアメリカと締結していた協力関係が維持できなくなり、アメリカが独自に小惑星探査機を打ち上げる方針に転換することも考えられることから、1989 MLをMUSES‐Cの目標天体とすることは困難となった。そこで改めて候補天体を検討した結果、第3の候補として1998 SF36が、2002年11月から12月ないしは2003年5月の打ち上げでMUSES‐Cが到達可能な小惑星として浮上してきた。 ===MUSES‐Cの目標天体となる=== 1998 SF36がMUSES‐Cの第3の目標天体として浮上する中で難題が持ち上がった。既にMUSES‐Cの製作はかなり進行しており、推進剤タンクの製作も終了していた。MUSES‐Cの目標天体であった1989 MLは1998 SF36と比べて到達に必要なエネルギー量が低く、1989 ML用に完成していたMUSES‐Cの推進剤タンクの能力では1998 SF36に到達することが不可能であった。 MUSES‐Cが1998 SF36に到達することが可能な手法について検討を進めていく中で、EDVEGA(Electric Delta‐V Earth Gravity Assist)と命名されることになる、イオンエンジンと地球スイングバイを組み合わせた新たな軌道技法が編み出された。スイングバイは探査機を天体に会合させ、その天体の引力を用いて探査機の進行方向の変換を行うとともに、天体の公転運動を利用して探査機の加速、減速を行う技法であるが、EDVEGAでは比推力が大きく、長時間をかけた加速に優れた能力を発揮するイオンエンジンを、探査機の軌道離心率を大きくするように噴射して軌道変更を行い、地球との軌道離心率の差という形でエネルギーを蓄え、地球との再会合時の経路角差によって生じる地球との相対速度からエネルギーを取り出す軌道技法である。 MUSES‐CはEDVEGAを用いることにより、探査機重量に換算して25‐30キログラムの軽量化がなされた形となり、1998 SF36へ向かうことが可能となった。またEDVEGAを用いた軌道計画には他にも優れた点があった。まず太陽電池を用いて電力供給を行うMUSES‐Cにとって、地球軌道近辺でイオンエンジンを駆動させながら軌道変更を行うことは、安定した電力供給を受けながらイオンエンジンを駆動せることが可能であるため都合が良かった。そしてMUSES‐Cの打ち上げは2002年11月から12月以外に2003年5月にもチャンスがあり、打ち上げ機会の複数化というメリットがあった。また打ち上げた地球へいったん戻ってくる特異軌道と呼ばれる軌道を取るため、地球脱出の速度が多少ずれても地球スイングバイの実施が可能である利点もあった。こうして2000年7月の宇宙開発委員会で、MUSES‐Cは第三の候補である1998 SF36を目指すことが決定された。 ===出発までの苦闘と1998 SF36の観測=== MUSES‐Cは1998 SF36を目指すことが決定したものの、出発までにまだまだ苦闘は続いた。まず問題となったのが北半球のアメリカユタ州の砂漠地帯に帰還する予定であったMUSES‐Cの帰還カプセルであったが、1998 SF36の軌道傾斜角の関係上、南半球に帰還しなければならないようになった。アメリカとの協力関係を構築していく中で、アメリカユタ州への帰還時に全面的なバックアップを受ける予定であったものが、南半球への帰還が必要となった時点で協力関係の枠組みが崩れそうになった。結局アメリカ側との再協議が行われ、1998 SF36からのサンプルの10パーセントをアメリカ側に渡すという当初の約束をそのまま維持した上、MUSES‐Cによる1998 SF36観測へのアメリカ側からの参加機会の確保や、1998 SF36からサンプルリターンされた試料の初期分析に携わる科学者やアドバイザーをアメリカ側からも受け入れる等の合意がなされ、協力関係は維持されることになった。 また2001年には地球に接近した1998 SF36の光学およびレーダー観測が行われた。その結果、1998 SF36は約300×600メートルの楕円形をしたS(IV)型の小惑星であり、自転周期は約12時間であることが判明した。MUSES‐Cは小惑星にタッチダウンしてサンプル採集を行う探査機であるため、あまり小惑星の大きさが小さかったり、また自転周期が早すぎるとサンプル採集が困難となるが、1998 SF36の大きさと自転周期はサンプル採集に支障がないものと判断された。 一方、1998 SF36へ向かうMUSES‐Cの製作は難航していた。特に小惑星と探査機との距離をレーザー光線で測定する、LIDARという機器の開発が難航した。また2002年4月に発生したMUSES‐Cの高圧ガス系の気密を保つためのOリングという部品の破損事故の際、Oリング自体が仕様と異なる材質で作られていることが判明し、それらの対策に日時を要したため、2002年9月になって2002年12月のMUSES‐Cの打ち上げは断念し、ラストチャンスである2003年5月に打ち上げられることが決定した。 ===イトカワと命名される=== 2003年5月9日、内之浦宇宙空間観測所からM‐Vロケット5号機によってMUSES‐Cは打ち上げられ、はやぶさと命名された。打ち上げ後、はやぶさはEDVEGAを用いて1998 SF36を目指すため、5月末からイオンエンジンの運転を開始した。そして宇宙科学研究所ははやぶさの目的地である1998 SF36に、日本のロケット開発の父・糸川英夫の名前を付けるよう命名権を持つ発見者のLINEARに依頼した。LINEARはこれを受けて国際天文学連合に提案、2003年8月6日に承認されて「ITOKAWA」と命名された。2004年5月19日には、はやぶさはEDVEGAによる地球スイングバイを成功させ、秒速30キロメートルから34キロメートルへと増速がなされ、予定通りイトカワへ向かう軌道に乗った。 しかしはやぶさの行程は順調なことばかりではなかった。2003年11月4日に発生した大規模な太陽フレアの影響で、はやぶさの太陽電池が劣化したことにより発電能力が低下したため、2005年6月の予定であったイトカワへの到着時期を3か月遅れの9月にせざるを得なくなった。そこではやぶさのイトカワ出発時期も2005年10月の予定から12月へと変更された。 2004年、イトカワは再び地球に接近し、プエルトリコのアレシボ天文台の電波望遠鏡によってレーダー観測が行われ、ジャガイモ状をした大まかな形状が明らかとなった。 ==はやぶさによる観測== はやぶさが地球を出発してから2年余りが経過した2005年7月29日、イトカワがあると考えられる方向の撮影が行われた。撮影は翌30日、8月8、9日、12日と続けられ、イトカワの位置を確認した。イトカワは直径500メートル程度の小さな天体であるため、探査機が通常用いる地上からの電波を利用する軌道決定法に、イトカワを撮影した画像からの光学情報を加味して、高精度の軌道決定を行うことによって、はやぶさは正確にイトカワへ向かうことが可能となった。そのような中、はやぶさの姿勢制御に用いられるX軸用のリアクションホイールが故障により機能を停止した。 2005年9月12日、はやぶさはイトカワから約20キロメートルのゲートポジションに到着し、イトカワの観測を開始した。その後9月20日には約7キロメートルのホームポジションへ進み、そして10月8日から30日にかけて、ホームポジションから東西南北の各方向や高度3‐4キロメートルの低高度へ移動しながらイトカワの観測を続けた。2005年9月から10月にかけて、はやぶさは搭載された科学観測機を用い、可視光での撮影、近赤外線スペクトルの測定、レーザー高度計による測地、および蛍光X線の観測を行った。しかし10月2日にはX軸に続きY軸用のリアクションホイールが故障により機能を停止し、はやぶさに残されたリアクションホイールはZ軸用のもののみとなった。 2005年11月に入ると、はやぶさは小惑星表面の物質のサンプルリターンを試みることになった。はやぶさによるイトカワの観測の中で、着陸候補地としてアルコーナ地域、ミューゼスシー地域と呼ばれる場所が候補として挙げられていた。11月4日の初回の降下リハーサルでは、当初予定していたイトカワ表面への降下誘導方法が上手く機能せず、イトカワ表面から約700メートルの場所で中止となった。続いて2度目のリハーサルは11月9日に行われ、降下誘導方法の改良が試験された。11月4、9日に行われたリハーサル時にアルコーナ地域とミューゼスシー地域の詳細な画像から、アルコーナ地域には多くの岩塊があって、はやぶさの着陸地点に向かないことが判明し、はやぶさの着陸予定地は、岩石が少なからず見られ着陸にリスクはあると判断されたが、ミューゼスシー地域に絞られることになった。 11月12日には三回目のリハーサルが行われ、近距離レーザー距離計の較正、そしてイトカワへの着陸を行うために新たに考案された航法のテストが行われ、さらにホッピングロボット「ミネルバ」の放出が行われた。しかしミネルバはイトカワへの投下に失敗し、ミネルバによるイトカワ表面の観測は行うことが出来なかった。 2005年11月20日、はやぶさはイトカワへの着陸を試みた。この時はやぶさは着陸寸前まで順調に航行していたが、着陸寸前にイトカワ表面に障害物があることを検知したことがきっかけとなって、はやぶさは自動的に着陸を中止しようとしたが、着陸寸前であったために既に姿勢をイトカワ表面に合わせていたため、スラスター噴射を行うことによるイトカワからの離脱を選択せず、そのまま自由落下をする形となってイトカワに着陸した。この時は地上からの指示が出るまでの30分あまり、はやぶさはイトカワ表面に止まっていた。計画でははやぶさはイトカワ表面にタッチダウンした際、サンプラーホーンというサンプル採取用機器の弾丸を発射することによって表面の物質を採取する予定であったが、いわばイトカワに不時着する形となった初回の着陸では弾丸は発射されなかった。しかしイトカワ表面の重力が極めて弱いため、イトカワに着陸していた30分あまりの間にサンプルキャッチャー内にイトカワ表面の微粒子が入ったことが期待された。 2005年11月26日、はやぶさは2度目のイトカワ着陸を試みた。はやぶさは順調に航行し、予定通りイトカワにタッチダウンに成功し、イトカワからの離脱も行われた。しかし後に2度目の着陸時もコンピューターのプログラムミスが原因で、サンプラーホーンの弾丸は発射されなかった。 その後はやぶさは燃料漏れが原因で姿勢を大きく崩し、一時通信が途絶えるなど数多くの困難に見舞われ、地球帰還も当初の予定の2007年から2010年6月になったが、2010年6月13日、無事に地球への帰還を果たした。 はやぶさによるイトカワ探査では、観測期間が2005年9月から11月にかけての約2か月半と短かったことにより探査機の運用に余裕がなく、姿勢制御用のリアクションホイールの故障により予定通りの観測が出来なくなった部分もあったが、表面の写真を約1500枚、近赤外線分光器による8万以上のスペクトルデーター、約167万点のレーザー高度計による高度データー、さらには蛍光X線分光計によるスペクトルデーターを取得した。 またはやぶさによるイトカワの観測によって、イトカワの大きさは535 × 294 × 209 (± 1)m、自転軸は太陽系の黄道面にほぼ垂直で、太陽や地球と反対側に自転していること、そして自転周期はほぼ半日の12.1324 ± 0.0001時間であることが明らかとなった。またイトカワ周辺についても詳しく観測がなされた結果、イトカワには直径1メートル以上の大きさの衛星は存在しないことも明らかとなった。 ==はやぶさ探査後のイトカワ観測== イトカワは2006年末から2007年半ばにかけて地球に接近し、地上の望遠鏡による観測が行われた。小惑星のような小天体は太陽光によって暖められ、その熱が宇宙空間に偏った形で放出されることによって小天体の自転速度が変化していくYORP効果と呼ばれるものが知られており、イトカワについては、はやぶさの観測結果からYORP効果によって自転速度が遅くなることが推定され、その推定が正しいかどうかについて特に注目された。観測の結果、YORP効果が確認されたとの報告と、確認されなかったとの報告がある。 2014年2月にヨーロッパ南天天文台が観測報告を出し、YORP効果は見られず、自転速度は逆に1年間に0.045秒速くなっている事が確認された。この理由は、落花生状にくびれた小惑星のそれぞれの部分で密度が異なるためと考えられる。小さい方のかたまりは1立方センチメートルあたり2.85グラム、大きい方のかたまりは1立方センチメートルあたり1.75グラムの密度であった。このことから、小惑星イトカワは、2つの小天体がぶつかって合体形成されたことが考えられる。 そして2006年に打ち上げられた赤外線天文衛星のあかりは、2007年7月にイトカワ観測に成功した。小惑星の大きさは赤外線の観測で推定が可能であるが、正確な大きさや形が判明しているイトカワを赤外線天文衛星によって観測することにより、赤外線による小惑星観測の精度が向上することが期待される。 ==はやぶさによってもたらされたイトカワ表面物質の確認== MUSES‐C計画が進められていた1999年12月に、サンプルリターンによって得られる小惑星の試料を分析する分析チームの公募が開始された。公募は翌2000年4月締め切られ、書類審査、模擬試料の分析についての審査を経て、はやぶさが打ち上げられる前の2002年には、サンプルリターンで得られる小惑星試料を分析するチームがほぼ固まった。 2008年3月には、宇宙航空研究開発機構相模原キャンパス内に、探査機によって地球外からもたらされる物質を適切に採取、管理、保管することを目的とする惑星物質試料受け入れ設備(キュレーション設備)が完成し、2010年6月に予定されたはやぶさの帰還によってもたらされることが期待された、小惑星イトカワの試料を受け入れる体制が整えられた。 はやぶさは2010年6月13日に地球へ帰還し、はやぶさ本体は大気圏再突入により消滅したが、カプセルは13日23時8分(日本時間)、オーストラリア南部のウーメラ試験場にあらかじめ設定されていた着陸エリアのほぼ中心にパラシュートで着陸した。翌6月14日には回収が行われ、17日にウーメラーからチャーター機によって羽田空港に運ばれ、翌18日の午前2時に惑星物質試料受け入れ設備へと運び込まれた。その後、24時間体制でカプセルのX線CT撮像、外部の洗浄などを行い、6月20日の午後5時ごろに惑星物質試料受け入れ設備内のクリーンチャンバー内に収納され、カプセル着陸後1週間以内で地球物質による汚染の心配が無い環境に運び込むことができた。 2度のイトカワ着陸時に、当初予定していた弾丸発射による試料採取が実現できなかったため、サンプルキャッチャー内のイトカワ表面からの物質確認と採取は難航した。結局、走査型電子顕微鏡のホルダーに納まる特製のテフロン製のヘラを作成し、そのヘラでサンプルキャッチャー内をかき出し、ヘラを走査型顕微鏡で観察する手法を編み出したことにより、サンプルキャッチャー内に岩石質の粒子が存在することが明らかとなった。 テフロン製のヘラに付着していた岩石質の粒子について観察を進めていく中で、カンラン石、輝石、斜長石、硫化鉄、クロム鉄鉱や、それらが混在した粒子があることがわかった。また各鉱物ごとの組成はほぼ均一であり、それらの鉱物が複数混在している粒子が存在することから、テフロン製のヘラに付着した岩石質の粒子は同一の条件下で形成された岩石の粒子であると考えられた。そして鉱物の組み合わせ、鉱物の相対的な存在量、鉱物の化学組成から見て、粒子は普通コンドライトであると考えられ、地球上の岩石で当てはまるものが見られない上に、はやぶさによる観測の中で、イトカワは普通コンドライトと同様の物質であることが予想されていたため、テフロン製のヘラに付着した岩石質の粒子はイトカワ由来のものと 判断された。 その後、イトカワ由来の岩石質の粒子採集が進められた。採取された粒子の中から一定数を順次、公募された初期分析チームに分配することになり、2011年4月初旬までに第一回の分配が行われ、イトカワ物質の科学的分析が開始された。その後はやぶさ探査の取り決めに基づき、アメリカ側にイトカワ粒子の配分が行われ、さらには国際公募により粒子の分析が行われることになっている。 ==地形的特徴== ===振動による地形変化=== イトカワは細長い形状をしており、長軸の約3分の1のあたりでくびれがあり、さらに大きく屈曲している。くびれの部分を首に見立て、大きく屈曲した約3分の1を頭、そして残りを胴体に見立てることにより、イトカワの形はラッコに例えられている。なおくびれたラッコの頚部は幅約60‐120メートル、深さ約20メートルの溝状となっている。。イトカワの地形的な特徴は、これまで宇宙探査機によって探査が行われた他の小惑星の姿とは大きく異なっていた。まずこれまで探査が行われていた小惑星では、表面はほぼ完全にレゴリス(砂礫)に覆われていた。これは他の小天体が小惑星に落下することによって表面が破砕されて形成されたレゴリスが、重力が小さい小惑星では表面全体にばら撒かれたためと考えられている。一方、イトカワは表面の約8割が岩塊で覆われ、レゴリスに覆われた部分は約2割にすぎず、イトカワは全表面にレゴリスが見られる他の小惑星と異なり、レゴリスの分布に地域性が見られる。 またこれまでの小惑星の探査では、2000年から2001年に行われたNEARシューメーカーによる、エロスの探査で、エロスの一部において1センチ単位の分解能でエロス表面の写真の撮像が行われた以外は、粒径が探査機のカメラ分解能以下であったため、小惑星表面を広く覆うレゴリスの大きさを直接把握出来ていなかった。NEARシューメーカーではエロス表面一部のみの詳細画像の撮像に止まっているが、はやぶさはイトカワ表面について岩塊に覆われた地域、そしてレゴリスに覆われた地域について詳細な画像を撮像しており、中でもレゴリスに覆われた代表的な地域であるミューゼスの海の詳細画像から、イトカワ表面のレゴリスの粒径は直径1センチから数センチサイズであることが判明している。 はやぶさが撮影した画像を詳細に分析したところ、イトカワで見られる大きな岩塊の上にレゴリスが見られる例が皆無であることが判明した。また岩塊同士が引っかかってグラグラしているような不安定な状態の岩石はイトカワ表面上には見られず、全ての岩石は重力的に安定した状態であった。そして他の天体では円形をしているクレーターが、イトカワでは全て不明瞭な形をしていることがわかった。これらの点から見て、イトカワ上のレゴリスは頻繁に振動を受けることによって流動化し、イトカワ上を移動するような作用が働いているものと考えられる。 イトカワ表面における重力分布を計算すると、レゴリスが見られる部分はイトカワの中では最も低く、重力的に安定した場所にあたる。つまり小天体の衝突などによって生み出されたレゴリスは、イトカワ表面の中で最も重力的に安定した場所に集結したものと見られる。 そしてイトカワ表面では、斜面上の岩塊の長軸が斜面が傾斜する方向から見て直交した位置に並び、また大きな石が複数寄り添うように並んでいたり、大きな石の周囲に複数の小さな石があるなど、地球の地すべりによって形成された地形と類似した地形が見出された。これらのことからイトカワ上の岩石は、イトカワに小天体が衝突するたびに振動し、その結果として岩塊の中のレゴリスが振動によって分別され、重力的に安定した場所に集まってきたものと考えられている。天体の中で重力的に安定した場所にレゴリスが集まる現象としては、エロスのクレーター内にレゴリスがあたかも池の水のように堆積している現象が類似例として挙げることが出来るが、エロスと異なりイトカワでは天体全体で振動による地形変化が発生している。 このような天体全体で振動による地形変化が発生している現象は、イトカワで初めて観察されたものである。直径数百メートルという小天体であるイトカワでは、極めて小さな物体が衝突しても天体全体が振動する。これまでの数多くの衝突によって天体全体が振動した結果、振動による地形変化が起こったものと考えられている。また小天体との衝突以外にも、地球や火星などの惑星との接近時に受ける潮汐力などもイトカワを振動させる要因として考えられる。振動によって天体の地形が変化する現象は、これまで探査機による探査が行われた天体の中で、最も小さなイトカワにおいて初めて観察し得た現象ということができる。 ===岩塊の分布について=== イトカワ表面の岩塊の密度はエロスよりも大きい。また岩塊はイトカワ表面上のレゴリスが集まった地域以外に、ほぼまんべんなく分布していることが明らかになっている。イトカワ表面の岩塊の形状は、実験室で岩石を衝突されることによって作られた破片の形状ときわめてよく一致しており、これはイトカワ表面の岩塊は衝突が繰り返されることによって形成されてきたことを示唆している。またイトカワ表面には大きな岩塊が割れて複数になったと考えられるものも見られ、これはイトカワ上の岩塊が衝突によって破壊されたものであると考えられる 。 またイトカワ上で見られる最大の岩塊は、通称ヨシノダイと呼ばれる、50×30×20メートルというイトカワ本体の約10分の1にもなる大きさのものであるが、このような大きさの岩塊は、イトカワ上で見られる最大のクレーター状地形である、直径100メートルクラスのクレーター形成時にとうてい作り出せるものではない。またエロスなど他の小惑星では、岩塊はクレーターの形成時に作られるために分布が偏っており、イトカワでは岩塊の分布に偏りが見られない点からも、イトカワの岩塊の多くはイトカワで作られたものではなく、イトカワの母天体上で形成されたか、または母天体が大きな衝突によって破壊された際に形成されたものと考えられている。これらはイトカワが母天体が破壊された後、その瓦礫の岩塊の一部が集まって形成された、いわゆるラブルパイル天体である有力な根拠とされている。そして頭と胴体部分が繋がったようなラッコ状のイトカワの形態も、イトカワ全体として岩塊が集まって形成されたラブルパイル天体であることを示唆している。 ===特徴あるクレーター=== イトカワの地形的な特徴としてもう一点、イトカワ上のクレーターの形態が挙げられる。イトカワには他の太陽系天体では普遍的に見られるおわん形をしたクレーターが見られない。高解像画像の解析とイトカワの形状モデルの分析から、他の天体のクレーターに比べて極めて浅く、崩れた円形をした凹地が数十ヵ所発見された。そのような地形が形成される要因は衝突によるクレーター形成以外考えにくいことから、それらの凹地の多くは衝突クレーターではないかと推察されている。そしてイトカワ上のクレーターと考えられる地形は全体的に数が少なく、特に小さなサイズのクレーター数が少ない。しかし例えばクレーター候補の中でも大きなアルコーナ地域は、南北方向から見ると凹地であるが、東西方向から見ると逆に膨らんでいるなど、クレーターとして極めて特異な地形をしており、イトカワ上に見られる底が浅く形が崩れた円形の凹地が、確実にクレーターであるという専門家間の完全な意見統一はなされていない。 いずれにしてもイトカワにはクレーターであると推測される地形は数が少なく、また特異な地形をしている。小さなサイズのクレーターが少ない現象はエロスでも見られ、イトカワのクレーター数が少ない理由としては、もともとクレーターの形成数自体が少なかったという外因説、またいったん形成されたクレーターが地形変化によって崩壊しやがて消滅したため、または地質的な原因でクレーターが出来にくいという内因説が唱えられている。内因説の中では先述のように、イトカワが衝突によって天体全体が振動する中で、レゴリスが凹地であるクレーター内に移動し、クレーター底を埋めていく中でクレーターの深さが浅くなり、形も崩れていき、やがて消滅するという仮説が有力視されている。この仮説ではイトカワに見られる底が浅く崩れた円形を持つ、特異な地形をしたクレーターについても説明することができるが、イトカワ上のレゴリスの厚さはクレーターを埋没させるほど厚くはないとの反論があり、またイトカワ上の岩塊が集まった地域に見られるクレーターも、やはり特異な地形を持つ点についての説明が難しい。他にクレーターの底が浅い理由としては、イトカワのような重力が小さな小天体では、クレーター形成時に多くの物質が宇宙空間に飛散してしまうため、クレーター縁の形成が阻害されることにより、結果としてクレーターが浅くなるという仮説、またイトカワの内部は比較的大きな岩塊が集まっていて、クレーター形成時に内部の大きな岩塊によってクレーター底部の形成が阻害されるという仮説がある。 ==地質学的特徴== ===LLコンドライト、角礫岩とイトカワ=== 小惑星と地球に落下する隕石との関係で、これまで大きな謎とされていたのが地球に落下する隕石の約8割を占める普通コンドライトと、S型小惑星との関連であった。地球上に落下する隕石の大多数を占める普通コンドライトであるが、普通コンドライトに該当するスペクトル型を持つ小惑星はほとんど存在しない。一方S型小惑星はそのスペクトル型が石鉄隕石のものと類似しており、S型小惑星は石鉄隕石のような地質学的特徴を持つものと考えられてきたが、小惑星の観測が進む中で、小惑星帯の内側はS型小惑星が多数を占めていることが明らかになるにつれて、太陽風や宇宙塵などによってS型小惑星の表面が宇宙風化をしたためにスペクトル型が変化したため、S型小惑星と普通コンドライトのスペクトル型が一致しないのであって、普通コンドライトの母天体の多くはS型小惑星であるという仮説が有力視されるようになってきた。 しかし、普通コンドライトのスペクトル型を持つ小惑星がほとんど見つからない理由としては、地球に落下してくる小惑星はヤルコフスキー効果などによって偏ったタイプになっているという説や、また隕石のような小さなサイズの小惑星はこれまで観測されていないため、今後、隕石となって落下するような小さな小惑星の多くが観測されるようになれば、普通コンドライトに該当する新たなタイプの小惑星が見つかっていくというような説など、普通コンドライトとS型小惑星との関係性を否定する仮説もあった。そのためはやぶさによるS型小惑星であるイトカワの探査では、普通コンドライトとS型小惑星との関係性を明らかにすることが期待されていた。 イトカワの地上からのスペクトル観測ではイトカワ表面の物質として、溶融による分化が進んだエイコンドライトの中では最も溶融の度合いが低い、始原的エイコンドライトが最も適合すると考えられた。一方、はやぶさの近赤外線分光器によるスペクトル分析からは溶融が進んでいない未分化の隕石であるコンドライトのうち、鉄の含有量が低いLLコンドライトに当たり、そしてLLコンドライトの中では熱変成が進んだタイプであるLL5、LL6の可能性が高いと考えられた。はやぶさ搭載の蛍光X線分光計によるスペクトルデーターからも普通コンドライトの可能性が高いとされたが、始原的エイコンドライトである可能性も残った。 イトカワ表面の岩塊の詳細画像を調べてみると、全体に数センチから10センチ程度の凹凸が確認される岩塊が数多く見られ、中には突出部が取れかかっているように見られるものもある。つまりイトカワの岩塊は、数センチから10センチ程度の小さな石が集まって岩塊を形成しているものが数多く存在しており、全体の約半数がそのような構造を持っていると見られている。一方、地球上に落下する隕石にも同じように数センチから10センチ程度の小さな石が集まった構造をしているものがあり、それらは礫が集まって形成された角礫岩である。イトカワ表面に見られる全体に凹凸が見られる岩塊も、やはり角礫岩ではないかと考えられている。また角礫岩は多くの種類のコンドライト、エイコンドライトに見られるが、始原的エイコンドライトにはほとんど確認されておらず、この点からイトカワ表面は角礫岩が約半数を占めるLLコンドライトである可能性が高いと考えられた。 角礫岩は衝突による衝撃などで岩石が一部溶融して、岩石同士がくっつくことによって形成される。イトカワのような小さな天体では、角礫岩を作り出すほどの激しい衝突は発生し得ないと考えられており、角礫岩はイトカワが生まれる前の母天体で形成したものと考えられる。イトカワ表面の岩塊の約半数が角礫岩であるとすると、イトカワの母天体はある程度の大きさがあった天体であり、それが大きな衝突によって破壊され、瓦礫が再集積したことによってイトカワが形成されたことが想定される。 またイトカワにはブラックボルダーと名づけられた黒い岩塊がある。ブラックボルダーが形成された理由としてはまず宇宙風化が考えられるが、もし宇宙風化が原因だとするとブラックボルダーだけではなく、付近の他の岩塊も同じように黒化するため理由としては考えにくく、ブラックボルダー固有の理由によって黒化したものと考えられる。強い衝撃によって全体が黒くなった隕石が見られることから、ブラックボルダーも強い衝撃によって黒化したのではないかと考えられており、この点からもイトカワ表面に見られる岩塊には、過去に強い衝撃を受けたものがある可能性が指摘できる。 ===イトカワで確認された宇宙風化の特徴=== これまで探査が行われた小惑星とイトカワの違いの一つとして、イトカワ表面では場所によって反射率と色にはっきりとした違いが見られる点が挙げられる。例えばガリレオが探査したガスプラとイダでは、場所によって色の違いは検出されたが反射率はほぼ一定であった。またエロスは反射率の違いは確認されたが目だった色の違いは確認されなかった。一方イトカワは全体的に赤っぽい色をしているがその程度には差が見られ、赤みが強い部分は反射率が低く、逆に青みがかった部分は高いことが明らかとなった。 一般的に色や反射率の違いは、表面にある鉱物の違いで説明される。しかしはやぶさの近赤外線分光器での観測結果によれば、イトカワ表面の鉱物組成は場所によって大きな差が見られないことが明らかとなっている。そのためイトカワ表面の色と反射率の違いは、宇宙風化の程度の差であると考えられている。大気のない天体では太陽風や惑星間のチリが減速されることなく、高速で衝突することによってレゴリスの表面に微小な加熱・蒸発・再凝縮作用が生じ、その結果表面に微細な鉄粒子が形成され、その部分が赤くかつ暗くなる宇宙風化が起こる。そのため最近形成されたクレーター内部などは、宇宙風化が進んでいないため反射率が高い青っぽい色をしていて、宇宙風化が進んだ場所は反射率が低く赤っぽい色となると考えられている。 これまで探査が行われたイトカワ以外の小惑星は表面がレゴリスで覆われており、ほぼ一様に宇宙風化が進行するため、イトカワほどはっきりとした色と反射率の差が見られないと考えられる。一方表面の多くが岩塊で覆われているイトカワでは、新たにクレーターが形成された場所では、宇宙風化が進んでいないフレッシュな表面が見えることになり、色と反射率の差がはっきりするものと考えられる。 またイトカワ探査以前は、宇宙風化作用は岩石ではなくレゴリス表面で起こるものと考えられていた。しかしはやぶさによるイトカワ探査では、レゴリスではない岩石の表面でも宇宙風化が進行している観測結果が得られており、岩石における宇宙風化進行についてのメカニズム解明が期待されている。 ==イトカワ物質の初期分析== ===LLコンドライトであったイトカワ=== 2011年4月初旬までに、公募によって選ばれた8つの初期分析チームにイトカワ微粒子の分配が行われ、各グループによって初期分析が進められた。まず大阪大学のグループが、SPring‐8を用いたX線マイクロCTにより、イトカワ微粒子40個の3次元構造について非破壊調査を行い、さらにはCT撮影によって微粒子の3次元内部構造を直接調査した。その結果、40個全ての微粒子がLLコンドライトと類似していることが判明した。また東北大学らのグループが行った、イトカワ微粒子38個についての放射光X線回折分析、高解像度電子顕微鏡分析でも、微粒子はかんらん石が最も多く、その他カルシウムに富む輝石、斜長石、トロイリ鉱、テーナイト、クロマイトなどによって構成されていることが示された。これは地球上の岩石では全く見られることがない普通コンドライト特有の組成であり、中でもかんらん石が最も多く含まれていることから、LLコンドライト隕石に最も近いことが明らかとなった。北海道大学のグループが行った、イトカワ微粒子28個の酸素同位体についての分析結果からも、Oの比率が地球物質よりも低い普通コンドライトの分布と一致した。そして首都大学東京らのグループがイトカワ微粒子について行った中性子放射化分析法による元素組成分析でも、イトカワ微粒子がコンドライト隕石の元素組成と一致することが示された。イトカワ微粒子の各分析結果は、はやぶさによるイトカワについての観測結果とも一致することからも、イトカワ表面の物質はLLコンドライトであることが明らかとなった。 大阪大学の分析によれば、イトカワからもたらされた粒子の密度は3.4g/cmと考えられた。また大阪大学と東北大学の分析では、イトカワの微粒子は熱による変成を受けたLL5ないしLL6に近いものが多いが、一部の粒子は熱変成をあまり受けていないLL4に近いものも見られ、イトカワには熱変成の状態が異なる岩石が混ざった角礫岩が存在した可能性が指摘された。また北海道大学の酸素同位体比の分析からは、イトカワ微粒子は酸素同位体比が地球物質よりも広い範囲に分布していることから、地球よりも熱変成作用が弱かったことが明らかとなった。イトカワのような小天体では熱変成が起こることは考えられず、東北大学のグループは直径20キロ程度の天体で、中心部分が約800度になる熱変成を受け、その後ゆっくりと冷えていったと推定し、北海道大学のグループは約650度の熱変成を受けたものと推定している。これらのことからイトカワの母天体が大きな衝突によって破壊され、母天体の中心付近の熱変成を受けたLL5やLL6と、表面付近の熱変成が弱いLL4が再集積して、現在のイトカワが形成されたことが想定される。 また熱変成の度合いが地球物質よりも少ないために酸素同位体比に幅が見られることや、熱変成が弱いLL4に相当する物質が見られることから、イトカワの母天体上で熱変成を受ける以前の情報も微粒子内に残っているものと考えられ、イトカワの母天体のような直径20キロ程度の小天体がどのように形成されていったのかについてなど、イトカワ微粒子の分析を進めることによって、太陽系形成時の出来事について更なる情報が入手出来ることが期待される。 ===イトカワ微粒子の特徴と宇宙風化=== 大阪大学のグループによるイトカワ微粒子の3次元構造の分析により、イトカワでは月のレゴリスと比較して、ミリ以下の小さなレゴリスが少ない可能性が指摘された。これはイトカワの小さな重力では微小なレゴリスは衝突による衝撃で宇宙空間へ逃げていってしまう可能性、また小さな粒子は静電的に浮遊してしまい失われた可能性や、イトカワでは常に発生していると考えられる小天体衝突による振動で、いわゆるブラジルナッツ効果によって、ある程度大きな粒子がイトカワ表面に集まった可能性が考えられる。 また微粒子の形状から、イトカワの微粒子は衝突による破片であると考えられるが、形状が尖ったものばかりではなく丸みを帯びた微粒子も存在しており、衝突によって形成された微粒子が、イトカワで多く発生する小天体衝突による振動によって、微粒子同士が接触して表面が削られることによって、丸みを帯びた粒子ができたものと考えられている。またイトカワの微粒子には月の微粒子で見られるような大規模な融解が発生した痕跡は全く見られない。これはイトカワでの衝突速度が月の衝突速度の半分以下の、約5キロメートル毎秒であるためと考えられている。このようにイトカワの微粒子は月の微粒子と比較して、重力が小さな天体特有の特徴を持っていることが明らかとなった。 茨城大学らのグループでは、イトカワ微粒子を樹脂で固め、ダイヤモンド製の刃で0.1マイクロメートルの薄い切片とし、走査透過型電子顕微鏡で観察した。その結果、微粒子の表面から約50ナノメートルの深さまで白く見える点が多数確認された。分析の結果、この白く見える点は鉄成分に富む超微粒子であることが判明した。もっと詳しく分析観察を進めていくと、表面から約15ナノメートルまでは鉄、硫黄、マグネシウムに富み、ケイ素が乏しい層があり、その奥に鉱物の結晶構造が部分的に壊されて金属鉄の超微粒子が多数形成された層が約50ナノメートルまで見られることがわかった。これは主に太陽風による宇宙風化によって微粒子表面が変化していることを示しており、イトカワ微粒子から宇宙風化の具体的な証拠が検出されたことにより、イトカワのスペクトルは宇宙風化によって本来のスペクトル型から変化していることが証明され、イトカワのようなS型小惑星の表面は、宇宙風化によって本来のスペクトル型が変化したため、S型小惑星と普通コンドライトのスペクトル型が一致しないようになったと考えられ、普通コンドライトの母天体の多くはS型小惑星であるという仮説が実証された。 そしてイトカワ微粒子の中には、部分的に溶けて泡が発生したことを示す白い粒や、結晶が割れた部分が見られるものがある。これは強い衝撃が加えられたことを示しており、イトカワの母天体にかつて衝突による激しい衝撃が加えられ、その痕跡が確認されたものと考えられる。 ===イトカワから失われていく物質=== 東京大学らのグループでは、3個のイトカワ微粒子について、ヘリウム、ネオン、アルゴン、クリプトン、キセノンという希ガスの同位体分析を行った。まず3個の微粒子全てから、高濃度のヘリウム、ネオン、アルゴンが検出され、その同位体比は太陽風の組成とよく一致しており、これらの粒子がイトカワ表層の太陽風に直接曝される場所のものであることを示している。またクリプトン、キセノンについては検出されず、イトカワを構成するとされる普通コンドライトのLL5やLL6内に含まれるクリプトンやキセノンの量から考えると、イトカワ微粒子内のクリプトン、キセノンは検出限界以下であると考えられる。 Heの分析からは、3つのイトカワ微粒子がそれぞれ異なる太陽風に曝された経歴を持つことが明らかとなった。これはイトカワのレゴリスは表面に現れた後も、必ずしも表面に留まり続けるわけではなく、再びレゴリス層の中に入ってしまい、その後また表面に現れるという経過を辿ってきたことが示唆される。 分析された3つのイトカワ微粒子から検出されたネオンの同位体、Neの濃度から、各微粒子がどのくらいの期間、太陽風に曝されてきたかを推定すると、約150年から550年という値が出た。実際にはもっと長い期間太陽風に曝されていたものと推定されるが、数千年を大きく超えることはないと考えられる。 また、宇宙線起源のNeが今回のイトカワ微粒子の希ガス同位体分析では検出されなかったことから、各微粒子はかつて宇宙線照射の影響を受けないイトカワ内部にあったものが、比較的最近になって表面に露出するようになったものと考えられる。Ne不検出という事実から推定される各微粒子の宇宙線照射年代は数百万年以下であり、これらのことからイトカワ表面の微粒子は表面に数百万年以下という比較的短期間しか存在しなかったことが明らかとなった。これは月表面で採取された粒子が、推定数億年間表層に留まっていることに比べて極めて短期間であり、小さな重力のためにイトカワ表層の物質は惑星間空間に放出され続けていることが示唆される。計算ではイトカワは表層の物質が100万年に数十センチの割合で宇宙空間に逃げていっており、10億年以下の間に全ての物質を失ってしまうものと考えられる。 ==ラブルパイル天体であったイトカワ== はやぶさによるイトカワ探査の中で、レーザー高度計などを用いて4つの方法でイトカワの質量が計測された。それぞれの結果は誤差の範囲内で一致し、イトカワの質量は(3.510 ± 0.105)×10 kgと推定された。一方、イトカワの体積は2つのグループが算定した結果、0.0184 ± 0.00092 kmと推定され、その結果イトカワの密度は1.90 ± 0.13 g/cmと推定された。イトカワを構成すると考えられているLLコンドライトの密度は約3.19 g/cmであるため、イトカワ内部には約40パーセントの空隙が存在することが想定された。空隙率約40パーセントというのは、同じくらいの大きさの石を箱に詰めた際の空隙率に近似しており、イトカワは瓦礫が集まって重力で緩く結合したラブルパイル天体であることが示唆された。また大阪大学のグループによるイトカワ微粒子の分析結果などから、イトカワ微粒子はLL4、LL5、LL6という普通コンドライトであり、密度は約3.4 g/cmであることが明らかになっており、この結果からもイトカワはラブルパイル天体であるという説が支持される。 イトカワがラブルパイル天体であるという証拠は密度ばかりではなく、イトカワに見られる最大の岩塊である通称ヨシノダイが、イトカワ上での最大のクレーター形成時にできる岩塊を大きく上回る大きさであること、イトカワは頭部と胴体がくっついたラッコのような形をしているが、これはイトカワ全体が岩塊が集まることによって形成されたことを示すものと考えられること、またイトカワ表面には衝突時の熱によって溶結した角礫岩と考えられる岩塊が多数見られるが、イトカワの大きさでは角礫岩ができるほど激しい衝突は発生しないことなども挙げられる。 またイトカワ微粒子は数百度の熱によって変成を受けた普通コンドライトのLL5、LL6と同様のタイプのものが見られる分析結果からは、直径20キロ前後の母天体が激しい衝突によって破壊された後、その瓦礫が再結合することによってラブルパイル天体であるイトカワが生まれたものと考えられる。 ==イトカワの成因と軌道== イトカワの母天体は直径約20キロ前後の天体であったと考えられる。母天体形成後、中心部は数百度になったが、やがてゆっくりと冷えていった。その後母天体は大きな衝突に遭遇し破壊され、その瓦礫が再集積することによって、瓦礫が寄せ集まったラブルパイル天体であるイトカワが生まれた。イトカワは平均半径約160メートルの小天体であるため、ごく小さな物体が衝突しても振動を起こし、数多く発生する振動によって重力的に安定した場所にレゴリスが集まり、他の部分は広く岩塊で覆われることになり、現在のイトカワが形成されていった。またイトカワ表面は宇宙風化が進み、本来の色よりも暗く赤っぽい色になっているが、衝突によってフレッシュな部分が露出している部分では青みがかって見えるようになっている。 またイトカワは元来、小惑星帯の中でも太陽に近い側にあった可能性が高く、特別な共鳴がある地域か火星軌道に交差する領域にあったものが、現在の地球近傍小惑星の軌道へと進化していったものと考えられている。イトカワの軌道は地球と火星に接近しやすいために不確定要素が大きいが、約5000年前からは現在の軌道とほぼ同じ軌道を取っている可能性が高い。今後についてはまず2010年から2178年までの間に5回、地球に大接近し、最接近時の距離は約370万kmから約700万kmであるが、近い将来、地球と衝突する可能性は無い。しかし将来的にはイトカワは太陽ないしは内惑星と衝突する可能性が最も高いと考えられ、地球と衝突する可能性は100万年に一回程度と推定される。また東京大学らのグループによるイトカワ微粒子の分析結果によれば、イトカワは重力が極めて弱いため、表面の物質が惑星間空間に放出され続けていると見られるため、イトカワが太陽や惑星と衝突せずに生き残り続けたとしても、10億年以内に全ての物質を失い消滅すると考えられる。 ==地名== イトカワに確認された主要な地形や岩塊、クレーターなどには日本の宇宙開発や「はやぶさ1」ミッションにゆかりのある名前が多く提案されている。2007年5月までにサガミハラ、ミューゼスシー、ウチノウラの3ヵ所が国際天文学連合(IAU)に承認され、続いて2009年2月19日に14ヵ所の地名がIAUによって承認された。現在までに公式に承認されたものはUSGS: Itokawa nomenclatureに一覧されている。 なおイトカワ上の経度は、ブラックボルダーと呼ばれる黒い岩塊を経度0としたため、ブラックボルダーは通称グリニッジとも呼ばれることになった。 ===クレーター=== ===地域=== =富山県営渡船= 富山県営渡船(とやまけんえいとせん)とは、富山県射水市の伏木富山港新湊地区(富山新港)において運航されている県営の渡船である。越ノ潟フェリーと通称される。 ==概要== 富山新港造成工事に伴う港口切断により廃止された富山地方鉄道射水線や富山県道1号魚津氷見線の代替交通手段として、1967年(昭和42年)11月23日より運航を開始した。「県民の生活を支える身近な公共交通サービスが安定的に確保され、高齢者、障害者など誰もが安全で快適に移動できること」を事業の目標としている。 越の潟発着場 ‐ 堀岡発着場間(770メートル)を約5分で結び、運賃は無料である。原動機付自転車を除く自動二輪車は乗船できず、30名以上の団体によって乗船を行う場合は事前に予約を必要とする。2014年(平成26年)4月以降は1日69便が運航されている。 ==沿革== ===富山新港造成と周辺の交通事情=== 伏木富山港を形成する港域の1つである富山新港の所在地には、かつて放生津潟と呼ばれる潟湖が広がっていた。この放生津潟の砂州上には富山県道1号魚津氷見線(主要地方道)や富山地方鉄道射水線が通り、堀岡(旧射水郡堀岡村)等の東側地区にとっては新湊市中心部に接続する重要な経路となっていたのであるが、富山新港を造成するには大型浚渫船を放生津潟に入れねばならず、そのためにはこの道路や鉄道を撤去して港口を切断し、外海と潟湖を接続する必要があった。これによって周辺住民は代替手段として地下道や橋梁の建設を求めたが、富山新港の造成事業に要する事業費が70億円であるのに対して、地下道の建設には80億円、橋梁の建設には200億円を要すると試算されており、国や県は迂回道路の建設や渡船の運航を現実的対応策として提示したので、地元住民の激しい反対運動を招くことになった。 ===港口切断反対運動=== 1961年(昭和36年)9月15日に起工式を挙げた富山新港は、当初1967年(昭和42年)中の完成を見込んでいたが、実際には1966年(昭和41年)になっても東防波堤と西防波堤の一部が完成したに過ぎなかった。工事が思うように進捗しない富山県としては、港口切断を可及的速やかに行いたい意向であったが、地元青年団を中心とした反対運動は根強く、1964年(昭和39年)2月には堀岡通勤者同盟、同年7月には海老江通勤者同盟が組織され、1965年(昭和40年)1月11日には富山県労働組合協議会、新湊地区労働者組合協議会及び富山地方鉄道労働組合が中心となって富山新港港口切断対策富山県共闘会議を結成するなど、運動の組織化が進んでいった。1965年(昭和40年)8月1日には反対運動のシンボルである「切断反対の監視塔」が完成している。 こうして地下道の建設や富山地方鉄道射水線の地下鉄化を求める富山新港港口切断対策富山県共闘会議及び地元振興会と富山県との交渉は何ら進展せず平行線を辿っていたものの、吉田実富山県知事が「交渉相手は新湊市と市議会」であると断言したことで事態は急変し、1966年(昭和41年)3月17日の新湊市議会全員協議会において質疑や討論を省略した自由民主党系議員による強行採決が行われ、富山県側の提案する形による港口切断の着工が決定した。これによってまず同年4月5日に富山地方鉄道射水線堀岡駅 ‐ 越ノ潟駅間が廃止され、同区間における代行バスの運行が開始された。また、同日より富山地方鉄道射水線越ノ潟駅 ‐ 新湊駅間は加越能鉄道に譲受され、同社新湊港線となった。富山県道1号魚津氷見線の堀切橋も同日より撤去作業が開始され、以降は仮橋による通行が行われた。 ===代替交通手段として就航=== そして1967年(昭和42年)11月23日より港口の本格的切断に着工し、仮橋の通行も禁止され、クレーン車による護岸堤防の破壊が行われた。富山県営渡船も同日よりこうした鉄道や道路に替わる交通手段として運行を開始したのである。午前5時41分に富山地方鉄道射水線の列車が新湊東口駅に到着したのに合せて、打ち上げ花火を合図に「海竜丸」により処女航海が行われ、吉田実富山県知事や内藤友明新湊市長が搭乗し、紅白のテープを切って就航を祝った。当初は地元住民に対してのみ無料優待券が配布され、一般の旅客は20円(子供は10円)の乗船券を購入する必要があったものの、券売機が故障したため、1986年(昭和61年)4月より無償化が行われた。 ===利用者数の減少と事業の縮小=== かつて渡船は24時間運航されていたが、利用者数は1968年(昭和43年)度の年間79万1019人を頂点に年々減少し、2002年(平成14年)度には年間17万515人にまで落ち込んだ。これがため富山県は2003年(平成15年)9月9日に夜間早朝の時間帯における渡船運航を廃止する旨を表明し、2004年(平成16年)4月1日より深夜早朝に限り海王交通に委託してワンボックスカーによる代替輸送を開始した。加えて、2006年(平成18年)4月には費用削減のために「射水丸」が引退することとなり、以降は「こしのかた」及び「海竜」の2隻によって運航が行われるようになった。 また、2012年(平成24年)9月23日には渡船の航路とほとんど平行する新湊大橋の供用が開始された。これにより、臨港道路富山新港東西線が全通し、堀岡 ‐ 越ノ潟間は45年ぶりに陸路によって接続されることとなった。なお、歩道および自転車道の部分の開通は強風時の振動を理由として開通が遅れたものの、2013年(平成25年)6月16日に供用が開始されている。この自転車歩行者道は従来運航されていた富山県営渡船の代替であるとされ、富山県行政改革委員会は2010年(平成22年)10月27日にその完成後に渡船を廃止することを提案していた。しかし、防犯上の理由により新湊大橋の自転車歩行者道部分(通称あいの風プロムナード)は夜間閉鎖されることなどから、富山県営渡船の運航は従来通り継続されることとなった。ただし、2014年(平成26年)4月1日にはさらなる減便が行われた。 2012年(平成24年)度に新湊大橋開通に伴う観光客の増加により一旦増加に転じた富山県営渡船の利用者数は、2013年(平成25年)度より再び減少に転じ、2015年(平成27年)度には5万7103人と過去最少を記録している。2016年(平成28年)度の利用者数も2015年(平成27年)度に引続き5万人台で推移しており、富山県は渡船の廃止を含めて協議を行っていくとしている。渡船の維持費用は毎年およそ1億円で、歳出減に取り組んでいる県の行政改革目標においては繰り返し「運営見直し」の対象とされていることから、運航にかかわる職員も新規採用が見送られ、大半が60歳以上の再任用もしくは嘱託職員である。 ===年表=== 1961年(昭和36年)9月15日 ‐ 富山新港の起工式が挙行された。1964年(昭和39年)12月 ‐ 「越の潟丸」及び「海竜丸」が建造された。1965年(昭和40年)10月15日 ‐ 富山県が富山県営渡船条例を公布した。1966年(昭和41年) 3月17日 ‐ 新湊市議会全員協議会において港口切断工事が採択された。 4月5日 ‐ 富山地方鉄道射水線堀岡駅 ‐ 越ノ潟駅間を廃止し、代行バス運行が開始された。 12月1日 ‐ 富山地方鉄道が新港東口駅を開業し、射水線は新富山駅 ‐ 新港東口駅間となった。3月17日 ‐ 新湊市議会全員協議会において港口切断工事が採択された。4月5日 ‐ 富山地方鉄道射水線堀岡駅 ‐ 越ノ潟駅間を廃止し、代行バス運行が開始された。12月1日 ‐ 富山地方鉄道が新港東口駅を開業し、射水線は新富山駅 ‐ 新港東口駅間となった。1967年(昭和42年) 10月20日 ‐ 富山県が富山県営渡船条例施行規則を公布した。 11月23日 ‐ 港口切断工事の開始により、運航が開始された。10月20日 ‐ 富山県が富山県営渡船条例施行規則を公布した。11月23日 ‐ 港口切断工事の開始により、運航が開始された。1968年(昭和43年)4月21日 ‐ 富山新港が開港した。1970年(昭和45年)9月 ‐ 「射水丸」が就航した。1980年(昭和55年)4月1日 ‐ 富山地方鉄道が射水線を廃止し、代行バスの運行が開始された。1986年(昭和61年)4月1日 ‐ 全面無償化を実施し、地元住民無料優待券が廃止された。1987年(昭和62年) 12月1日 ‐ 「こしのかた」の完成式が挙行された。 12月10日 ‐ 「こしのかた」が就航し、「越の潟丸」の運用が廃止された。12月1日 ‐ 「こしのかた」の完成式が挙行された。12月10日 ‐ 「こしのかた」が就航し、「越の潟丸」の運用が廃止された。1988年(昭和63年) 10月25日 ‐ 「海竜」の完成式が挙行された。 11月1日 ‐ 「海竜」が就航し、「海竜丸」の運用が廃止された。10月25日 ‐ 「海竜」の完成式が挙行された。11月1日 ‐ 「海竜」が就航し、「海竜丸」の運用が廃止された。2004年(平成16年)4月1日 ‐ 深夜早朝における渡船運航を廃止し、海王交通委託による代替輸送が開始された。2006年(平成18年)4月 ‐ 「射水丸」の運用を廃止した。2010年(平成22年)10月27日 ‐ 富山県行政改革委員会が新湊大橋完成後の渡船廃止を提案した。2012年(平成24年)9月23日 ‐ 新湊大橋(車道部分)の供用を開始し、臨港道路富山新港東西線が全通した。2013年(平成25年)6月16日 ‐ 新湊大橋の自転車歩行者道部分(あいの風プロムナード)の供用が開始された。2014年(平成26年)4月1日 ‐ 運行本数が1日97便から69便に減った。 ==船舶== ===現役船=== ====こしのかた==== 1987年(昭和62年)12月1日に完成式を挙行し、同年12月10日より運用を開始した。全長16メートルで総トン数は46、105馬力のエンジンを2基搭載しており、最高速度は9ノットである。日本海重工業が建造した。定員80名に加えて自動二輪車10台、自転車40台を搭載できる。ただし、富山県営渡船においては規則によって自動二輪車は乗船できない。 ===海竜=== 1988年(昭和63年)10月25日に完成式を挙行し、同年11月1日より運用を開始した。全長16メートルで総トン数は44、105馬力のエンジンを2基搭載しており、最高速度は9ノットである。新日本海重工業が建造した。定員80名に加えて自動二輪車10台、自転車40台を搭載できる。ただし、富山県営渡船においては規則によって自動二輪車は乗船できない。また、濃霧時に用いるレーダーを搭載している。 ===退役船=== ====越の潟丸==== 1964年(昭和39年)12月に建造され、1967年(昭和42年)11月23日より就航した。総トン数は96で定員は120名であった。1987年(昭和62年)12月10日に「こしのかた」の運用開始と共に退役した。 ===海竜丸=== 1964年(昭和39年)12月に建造され、1967年(昭和42年)11月23日より就航した。1988年(昭和63年)11月1日に「海竜」の運用開始と共に退役した。 ===射水丸=== 1970年(昭和45年)9月に就航し、2006年(平成18年)4月に退役した。全長17メートルで幅4.4メートル、総トン数は33であり、最高速度は8ノットである。総工費1950万円を以て伏木造船が建造した。定員55名のほか、自動二輪車等を20台搭載できる。 ==利用状況== 各年度の利用者数は次の通りである。 ==ダイヤ== ===渡船=== 越ノ潟発着場は始発6時52分で最終が20時22分、堀岡発着場は始発が6時44分で最終が20時29分である(2017年(平成29年)現在)。 ===夜間代替=== 深夜早朝は中新湊待合所 ‐ 堀岡発着所間において代替車両を運航する。所要時間は15分で、23時から翌朝6時までは申込制であるが、その他の時間帯においては定時運行を行う(2017年(平成29年)現在)。 ==交通アクセス== 万葉線新湊港線越ノ潟駅。富山地方鉄道バス布目経由四方・新港東口線新港東口停留場。射水市コミュニティバス海王丸パーク・ライトレール接続線新港東口停留場。 ==脚註== ==参考文献== 富山県編、『富山県史 年表』、1987年(昭和62年)3月、富山県新湊市史編さん委員会編、『新湊市史 近現代』、1992年(平成4年)3月、新湊市富山大百科事典編集事務局編、『富山大百科事典 上巻』、1994年(平成6年)8月、北日本新聞社草卓人編、『鉄道の記憶』、2006年(平成18年)2月、桂書房堀岡郷土史編集委員会編、『堀岡郷土史』、2015年(平成27年)3月、堀岡連合自治会 ==関連項目== 射水線加越能鉄道(現 万葉線)新湊港線新湊大橋 =ロイヒ= ロイヒ(英: L*9664**9665*ihi)またはロイヒ海山(ロイヒかいざん、英: Loihi Seamount)とは、アメリカ合衆国、ハワイ島からおよそ35 km (22 mi)南東沖にある活発な海底火山である。山頂は地球上最大の楯状火山であるマウナ・ロア山の中腹、海面下975 m (3,000 ft)に位置している。「ロイヒ」とは、ハワイ語で「長い」を意味する言葉である。 ==概要== ロイヒはハワイ‐天皇海山列のなかで一番新しくできた火山である。 ロイヒはハワイ諸島を構成する火山列の中で形成された年代が最も若い。ハワイにある火山の成長史のなかで、現在のロイヒは幼年期(Submarine preshield stage:直訳すると「海底火山/先盾状火山期」「先楯状期」)に相当する。2012年の現時点では、ロイヒ以外に幼年期にあたる火山は、ハワイ諸島の火山のなかでは発見されていない。ロイヒは海底深くで火山島へと成長しつつある海底火山であるといえる。 ロイヒは約40万年前に形成を始めた。今後1万から10万年後頃になれば、海面上に姿を現しはじめるだろうと予測されている。ロイヒは深海底から比高3,000 m (10,000 ft)以上に聳え立っている。この高さはセント・ヘレンズ山が1980年に起こした破局的な噴火(en)で低くなる前の海抜標高に匹敵しているか、それを追い抜くほどになっている。今のところ、山頂は海面下975 m (3,000 ft)に届いている。ロイヒ山頂周辺の熱水噴出孔には多種多様な微生物群が生息している。 ==特徴== ===地質=== ロイヒは地球最大の楯状火山であるマウナ・ロア山の中腹に存在している海山である。この火山はハワイ・ホットスポットが生み出した、長大なハワイ‐天皇海山列を構成する火山の中で最も若い火山である。形成年代が古いマウナロア山とロイヒとの山頂間の距離は、およそ80 km (50 mi)である。この距離は偶然にもハワイ・ホットスポットの直径と一致している。ロイヒの頂上部は、三つの火口(ピット・クレーター(英語版))があり、それぞれ、山頂直下から北方向に11 km (7 mi)、南南東方向に19 km (12 mi)の長さにわたって割れ目帯(リフト・ゾーン(英語版))が伸びている。 3つの頂上火口は、それぞれ、西火口(West Pit)、東火口(East Pit)、そしてペレ火口(Pele’s Pit)と名付けられている。ペレ火口はこの中で一番若く、山頂の南部にある。ペレ火口の火口壁は200 m (700 ft)の高さで立ち上がっている。これは、1996年7月に、その前身であるペレ噴出口(Pele’s Vent)が陥没して形成された。ペレ噴出口は、ロイヒ山頂直下にあった熱水噴出領域であった。ペレ火口の壁が驚くほど分厚いことは、これらの火口は過去に何度も溶岩で充たされたことがあることを示唆している。この火口壁は、平均して20 m (70 ft)の幅が有る。特記すべきはこの厚みで、ハワイの陸上によく見られる火口と比較しても異常なほどである。 ロイヒには南北方向に延びるリフト・ゾーンがある。これが海山特有の南北に細長く引き伸ばされた形をつくる元になっている。それゆえ、この海底火山の名前はハワイ語で”長い”を意味する「ロイヒ」と命名されたのである。北リフトゾーンは、長い西の分枝部と短い東リフトゾーンから成っている。観測結果から、南北両方のリフトゾーンには海底の堆積物が積もっていないことが明らかになっている。このことから、地質年代的にごく近い時期に火山活動を起こしたことを示している。北リフトゾーンの膨出部は3つの60―80m (200―260ft)の円錐形をした高まりを内に含んでいる。 1970年まで、ロイヒは太古の昔に活動を止めた火山だと考えられていた。海洋底拡大に伴い、太平洋プレートに乗って、あたかもベルトコンベア上に載せられた小包のようにして、生まれた場所から遥か離れたこの地まで運ばれてきたのだと思われてきた。ハワイ諸島が下に敷いている海洋底は東太平洋海膨で作られてから8千万年から1億年たっている。太平洋の海洋底拡大軸でマントルからマグマが湧き上がっては噴出してできた新たな海洋地殻は、拡大軸から離れる方向へ動き続けている。そのような長期間にわって、ハワイの下の海洋底は東太平洋海膨から6,000 km (4,000 mi)西に行った現在の位置まで旅をして古代の海山を運んできたのだと思われてきた。ロイヒがハワイ‐天皇海山列の正式なメンバーであると判明したのは、1970年、ハワイ島沖で起きた群発地震を科学調査した時である。ロイヒの山頂火口の年齢パターンは、ロイヒ自体がハワイホットスポットの真上にあった発生地点から動くにつれて火山活動の中心をゆっくりと東に移らせているということを確証させた。 ロイヒは海底から3,000 m (10,000 ft)以上もそびえたっている。しかし、未だその頂きは海面よりも975 m (3,199 ft)下にある。ロイヒは約5度の傾きのある海底で形成された。マウナロアの中腹にある海山の北側の基盤は海面下1,900 m (6,200 ft)にある。しかし、その南側の基盤は更に深いところ、海面下4,755 m (15,600 ft)の深海にある。それゆえ、山頂は、海山の北麓を基準にして測ると931 m (3,054 ft)の比高が有るといえるが、南麓を基準にして測ると3,786 m (12,421 ft)の比高があるといえる。 ロイヒは、ハワイ型の火山の成長段階を辿る途中にある。それは、ハワイ諸島に所在する全ての火山に典型的なものである。ロイヒの溶岩からの地球化学的な知見は、幼年期から盾状火山期(Shield volcano stage)への過渡期にあるということを示している。この火山は、ハワイにある火山における初期の発達段階の研究についての価値ある手がかりを提供してくれている。ハワイの幼年期の火山は急峻な山裾があり、火山活動は低調でアルカリ玄武岩の溶岩を噴出することが判っている。火山活動が長期間にわたって継続すれば、現在ロイヒ海山の存在する海域がやがては火山島になるだろうと期待されている。ロイヒは数回にわたる海底地すべりを経験してる。海底火山が上へ上へと成長することは、その斜面を不安定な状態にする。実際に、山体崩壊によって堆積したと思われる広大な緩斜面が急峻な南東斜面の下に存在している。他のハワイにある火山で採取された同様の堆積物は、ハワイの火山の初期の成長段階にとって地すべりによる岩屑は重要なものであるということを示している。ロイヒは今後1万年から10万年以内には海面に顔を出すであろうと予想されている。 ===成長段階と火山の年齢=== ロイヒから採取された岩石標本の年代を特定するために放射年代測定が使われた。ハワイ火山学センター(Hawaii Center for Volcanology)は、数回の学術調査を目的とした航海で記録されたサンプルを試験した。特筆すべきは1978年の17回もサンプルを浚い上げるのに成功した調査航海であった。殆どのサンプルは古代にその起源をもつように思われた;最も古い記録が残された岩石は30万年前のものであった。1996年イベントを受けて、作られてからそう年代を経ていない火山砕屑岩(角礫岩、Breccia)数個も採集された。サンプルを基にして、科学者チームはロイヒの生成年代を、今よりおよそ40万年前であろうと推定した。山体は、基底部では1年当たり平均して3.5 mm (0.14 in)、頂部では7.8 mm (0.31 in)の割合で積み重なっていた。もし、例えばキラウエア火山のような他の火山で得られたデータモデルがロイヒでも当てはまるとすると、火山の重量の40パーセントが最近10万年以内に形成されたことになる。リニアな成長モデルが当てはまると仮定すれば、ロイヒは形成開始から25万年経っていることになる。しかしながら、全てのホットスポット火山と同様に、ロイヒの火山活動レベルは時間が経過するとともに増大したと考えられる;それゆえ、このような火山がロイヒの規模に達するまでに、少なくとも40万年は掛かったと考えられる。ハワイ諸島の火山は北西方向に年間10 cm (4 in)の割合で引きずられているので、ロイヒは、海底で初めて噴火した時には現在地より40 km (25 mi)南東にあったはずである。 ==火山活動== ロイヒは地質学的には形成年代が若く、活発な火山活動をしていることが顕著な海底火山である。しかしながら、近くにあるキラウエア火山より火山活動は激しくない。過去のある短期間には、ロイヒで数回にわたる群発地震が発生した。その中で最大の物は下記に示す表中にまとめられている。現在では、この海山の火山活動は、火山によって引き起こされる地震が1959年から収録されている地震計での記録波形をさかのぼることでも研究が進められている。ロイヒで起こる大抵の群発地震は一度始まってから2日間以内に収まってきた。うち2件の例外は数か月にも及んだ1991年から1992年にかけての地震、および、1996年の噴火事象(以下1996年イベント)である。これは短期間で終わったが、論文に取り上げられる群発地震のなかで一番多く言及されている。両方の地震とも、山腹から始まり、山頂にかけて広がっていくという、決まった地震活動の様式を踏襲していた。1996年イベントは、自律的海底観測所(autonomous ocean bottom observatory :OBO)で、直接観測されていた。これにより、科学者にとって、震源は山頂直下6 km (4 mi)から8 km (5 mi)までの深さにあると判明した。この場所はロイヒのごく浅いマグマだまりに近い位置である。この計算結果からは、ロイヒでおこる群発地震は火山に起源をもつものであるという証拠になった。 1959年からロイヒで詳細に記録された低レベルの地震活動により、2回から10回の地震が山頂で起こっていることが突きとめられた。 群発地震のデータはロイヒを構成する火山岩が地震波をどのくらい良く伝播するか、および、地震と噴火の関係を調べるために使われた。この低調な地震活動は、100回ほどの地震で構成された大規模な群発地震により、周期的に中断されていた。大部分の地震の震源域は山頂近くには分布していなかったが、北から南へと震源域の分布が延びる傾向があった。むしろ、強いて言うならば、ほとんどの地震はロイヒの南西部でおきていた。1971年、1972年、1975年、1991から1992年、1996年の期間に、ロイヒで記録的な最大規模の群発地震が発生した。強烈な地震が集中して起こる場所は、ロイヒの周囲30 km (20 mi)からハワイ島の南岸にかけてである。マグニチュード2以下の地震イベントは頻繁に記録されるが、小さい地震の震源の位置は的確に検知できないでいる。これとは対照的に大規模な地震の場合は震源が正確に特定できる。実際のところは、ロイヒの中腹に設置されたHUGOがハワイ火山観測所(HVO)の地震ネットワークで記録されたよりも10倍の頻度で地震を記録している。 ===1996年の群発地震=== この表では、噴火した可能性のある事象、および、主要な噴火事象しか記載していない。ロイヒは複合的な群発地震がほぼ年2回を基本として起こる場所でもある。 ロイヒで記録された最大規模の活動は、1996年の7月16日から同年8月9日にかけての群発地震、その数4070回を数えたものであった。この一連の地震は、現在までにハワイにある火山で取られた地震記録の中で揺れの強烈さと回数の双方において最強クラスのものだった。ほとんどの地震はモーメント・マグニチュードにしてM3.0未満の規模であった。マグニチュード3.0以上のものは数百回、その中でも40回以上がM4.0以上であり、M5.0を記録した微動もあった。 群発地震の最後2週間は1996年8月に発足したクイック・レスポンス・クルーズ(quick response cruise)によって観測されていた。アメリカ国立科学財団は、ハワイ大学のフレデリック・K・ドゥエネビアー(Frederick K. Duennebier)率いる科学者チームによる探査(学術調査航海)のために研究費を交付した。この学術航海は、ロイヒの試料採取と火山活動の解明を目的とし、1996年8月から続いた一連の群発地震及びその起源を徹底的に調べるためにはじめられた。科学者たちの想定は、研究の大半を占め、何回となく繰り返された学術航海で構成され、また、仮説の裏付けとなったフィールドワークに基礎を置いていた。ロイヒに対する追跡調査が行われた。その中では8月と9月に有人潜水艇パイシーズ号の投入も行われた。 これ等の調査は非常に多くの海岸を基本とした研究により、不足した箇所を増補された。調査航海の間に採集された新鮮な岩石により、群発地震のおこる以前に噴火が起こっていたことが明らかになった。 8月に実施された潜水調査は、1996年9月から10月にかけてNOAAが資金援助した研究から支援された。これらの細部にわたった研究で、現状ではロイヒ山頂の南端が陥没していることが明らかにされた。火山自体からマグマ溜まりへと火道を満たすマグマが急速に後退したこと、および、群発地震との両方によって引き起こされたものであろうと考えられている。差し渡しが1 km (0.6 mi)、深さが300 m (1,000 ft)の火山岩塊でできた山頂火口が作られた。この1996年イベントは100 million立方メートルの火山噴出物の流出を伴っていた。山頂にある10 km (3.9 sq mi)から13 km (5.0 sq mi)の領域が、バス並みの大きさの枕状溶岩で置き換えられ、岩の塊がごろごろし、さながら海中のガレ場の様相を呈していた。巨岩は新たに形成された火口の外縁一帯に不安定な状態で留まっていた。1996年イベントで緊急調査する以前、山頂南端にあるこの場は、「ペレ噴出口」(”Pele’s Vents”)と呼ばれた熱水噴出領域(熱水フィールド)があり、安定して長期間にわたって存在するだろうと考えられていた。しかし、そこは、完全に崩落・陥没して巨大な窪みを形作り、地名を「ペレ火口」(”Pele’s Pit”)に改められた。海底火山南端にできたばかりのピット・クレーターに海水が流入し、遊離した無機塩類やバクテリア代謝物と混じり合い、ロイヒ山頂の西縁から流れ出していた。その結果できる流速が非常に強い海流は、この海域への有人潜水艇による調査を非常に危険なものにしていた。 研究員たちは、噴煙のような硫化物や硫酸塩の濁りが絶え間なくもうもうと立ち込めているのに遭遇した。ペレ噴出口が突然崩壊してしまったことで、熱水噴出口生成物(hydrothermal material)が莫大に放出されていた。混合物の中に或る特定の指標鉱物の存在は、熱水の温度が摂氏250度を超えてしまったことを示唆していた。この記録は海底火山で見つかった熱水噴出口の水温の現在まで残る最高記録である。ロイヒの熱水に含まれている物質の構成は、ブラックスモーカーから出てくる熱水を構成する物質と同じであった。ブラックスモーカーとは、中央海嶺の周囲にある熱水噴出口の一種であり、濁った熱水を、あたかも工場や銭湯の煙突から吐き出す黒煙のように噴出しつづけるものである。 熱水噴出口からの物質が堆積してマウンドのようになった小山から得られたサンプルはホワイトスモーカーから得られたサンプルとよく似ていた。 いくつかの研究は火山学的にも熱水活動的にも一番活発な地域は南リフト・ゾーン沿いに所在する事を論証してみせた。それほど活動的ではない北縁での潜水調査において、その地域での微小地形はやや安定していて柱状節理が発達していることが判った。新たにできた熱水フィールド(Naha Vents:「ナハ・ベント」)はアッパーサウス・リフトゾーン(upper‐south rift zone)の深さ1,325 m (4,350 ft)の場所に位置していた。 ===最近の活動=== 1996年イベント以来、ロイヒはそのほとんどの期間を静かにして過ごしていた。2002年から2004年にかけて、全く地震活動が記録されていなかった。2005年、再び、その海山は火山活動の兆候を示し、そこで記録された他のどのような地震よりも大きな地震をおこした。ロイヒで、それぞれ5月13日にM5.1、7月17日にM5.4の規模の2回の地震が発生した。USGS‐ANSS(Advanced National Seismic System)は、これらの地震を記録していた。両方とも震源の深さは44 km (27 mi)であった。4月23日、深さおよそ33 km (21 mi)の場所でM4.3の地震が記録された。2005年12月7日から年が明けて1月18日にかけて、凡そ100回の群発地震が発生した。記録されたうち最大のものはモーメント・マグニチュードにして4の規模であり、深さ12 km (7 mi)から28 km (17 mi)にかけて発生したものだった。そのほかの地震では、後に、ロイヒとハワイ島南岸の街パハラの殆ど中間地点で記録された、M4.7の地震がある。 ==海中探査== ===初期の活動=== 収集されたデータは火山が今でも活動をしているという物的証拠になった。 ロイヒの微生物の群落について多くのことを学ぶ。 後にロイヒと名付けられることになる当海山が世界で初めて海図に書き込まれたのはSurvey Chart 4115に記載されたものである。1940年にアメリカ国立沿岸測地局(英語版)(USCGS)によって編纂されたハワイ州沿岸の海底地形図(英語版)に記載されている。当時は、その海山は特別に記述すべき事項が何もない、その海域に無数に存在する名も無き海山のうちの一つでしかなかった。1952年に海山周辺で発生した巨大な群発地震のおかげで、科学者からの科学的な関心が向けられるようになった。同年、地球科学者のゴードン・A・マクドナルド(Gordon A. Macdonald)は、その海山が現実に活発な噴火をしている海底火山であり、2座のハワイ島の火山であるマウナロアやキラウエアと同じような盾状火山ではないかと言う仮説をたてた。マクドナルドの仮説は、海山をハワイ・ホットスポットが産み出したハワイ‐天皇海山列の一番若い火山と位置づけていた。しかしながら、地震は火山性の地溝帯とも言うべきリフト・ゾーン(或いはヒリナ断層系(英語版))の走る方向である東西の方角に向かっており、また海山から離れて設置した地震計が火山性微動を検知しなかったために、マクドナルドは、この地震を、断層がずれ動いたために起きたものであろうと考えた。彼は、地震の発生源が火山噴火にあるとは考えなかったのである。 地質学者たちは、その海山が活動的な海底火山ではないだろうかと疑わしく思っていた。しかし、その確証がなかなか得られず、不確かなままで放置されていた。この海山が「現在でも活動する海底火山である」との説は1952年イベントの後で殆ど否定され、その後に刊行された海図には「かなり古い火山性の地形」”older volcanic feature”としばしば誤って表示された。1955年に、地質学者のケネス・O・エメリー(Kenneth O. Emery)は、この海山に名前を付けたと言われている。彼は、この海底火山が南北に長く幅の狭い外形をしていることから、ハワイ語で「長い」を意味するロイヒ(L*9666**9667*ihi)という言葉を取って、この海山に名前を付与した 。1978年、ロイヒのある海域の周囲や内部で起こる群発地震として知られている強烈で再帰性のある地震活動を調査するため学術航海が行われた。海山の観測をしたところ、火山が活発に熱水を噴出しているのはもちろん、その表面が全面的に新旧織り交ぜた溶岩流で覆われているということが判明した。集積されたデータから、ロイヒが若くもしかしたら今でも活動している火山かもしれないことが明らかになった。もはや、太古に活動し今では活動していない、いうなれば「海底死火山」とみなすことは不可能に近かった。 1978年、米地質調査所の調査船は、ロイヒが現在でも活動するか否かを調べるため、底浚いで得たサンプルを収集し、ロイヒ海山山頂を写真に撮った。写真の分析と枕状溶岩の岩石標本の試験をおこなったところ、火山から噴出した物質は「新鮮な」噴火してからそんなに年月が経過していないことを示しているように思わた。ロイヒが未だ活発であることを示す更なる証拠が得られたのである。1980年10月から1981年1月にかけての調査航海ではさらに多くのサンプルを浚い上げ、何十枚にもわたる写真を撮影し、さらなる証拠がもたらされた。研究から、噴火現象はリフトゾーンにあるクレーターの南部から始まると言う事を示していた。この海域はロイヒにマグマを供給する源であるハワイ・ホットスポットのすぐそばである。1986年の群発地震を受けて、OBOs(ocean bottom observatories)5台で構成されたネットワークをロイヒ周辺に一カ月掛かりで設置した。ロイヒでは頻繁に起こる火山性微動はOBOによる地震学の研究にとって、まさにおあつらえ向きの好環境だった。1987年、潜水艇アルビン号がロイヒの多角測量(en)に使われた そのほかには、1991年に群発地震を追跡するために自律観測機が設置された。 ===1996年イベントから現在にかけて=== 潜水調査でもたらされたロイヒにまつわる大部分の情報は、1996年の噴火に即座に応えてくれた。地震活動を報じられた直後の潜水調査では、海中に放出された鉱物が高い濃度で海水に混じっていて、大きなバクテリアマットがちぎれて欠片になったものが水中に漂っており、視界がとても悪くなっていた。海水中に溶け込んだ栄養塩類を餌とする微生物たちはペレ火口にできた熱水噴出口で既にコロニーを造り始めていた。ペレ火口は、そこで以前にあった熱水噴出領域が陥没してできたものである。これらのバクテリアは新しく形成された熱水噴出口から放出された物質が何であるのかを示すインジケーターになるかもしれない。更に詳しい分析を研究室で行うため、それらは注意深くサンプルされた。OBOは一時的に山頂に設置された。もっと恒久的な観測ができる機器類が設置されるときに取り外しが簡単にできるようにしてあった。 マルチビーム音響測深機を繰り返し使う海底測量が何度も行われた。その成果を利用して作られた海底地形図は、ロイヒ山頂が1996年の陥没前後でどのように変化したかを測るために使われた。熱水プルームの調査ではエネルギーの変化、および、ロイヒから放出されている溶存ミネラルが確認された。ハワイ海底研究所(英語版)(HURL)所有の2,000 m (6,562 ft)まで潜航可能なパイシーズ級深海探査艇パイシーズV(英語版)のおかげで、研究者は噴出口からでてくる熱水および噴出口周辺に住む微生物や熱水鉱床の標本採集が可能だった。 1997年、ハワイ大学の研究グループがOBO(Ocean bottom observatory ,「海底観測機」)をロイヒ海山の頂上に設置した。その水中観測ロボットは、Hawai*9668*i Undersea Geological Observatory(「ハワイ海底地質観測機」)のアクロニムを取ってHUGO と渾名が付けられた。HUGOは、海底を這わせた光ケーブルで34 km (21 mi)離れた海岸にある操作表示部とつながっていた。このおかげで、科学者はリアルタイムでロイヒの現況についての震動・化学・画像の各種データを得ることが出来た。この段階で、HUGOは、海底火山についての研究を深めるうえで欠かせない、国際的な海底火山研究所となった。1998年10月、HUGOに電力を送り続け、各データを伝送してきた海底ケーブルが切断されてしまった。このことは、観測所が事実上閉鎖することを意味していた。翌年の1月19日、HUGOはパイシーズVの訪問を受けた。この観測ロボットは、2002年に再び機能不全をきたすまでの4年間にわたってその役割を果たした。 2006年から毎年10月になると、アメリカ国立科学財団から資金提供を受けた(Fe‐Oxidizing Microbial Observatory ,FeMO「鉄酸化微生物観測所」)およびMicrobial Observatory Programがロイヒの微生物の調査を目的とした現地への航海を主催してきた。第一回目は、R/V Melvilleおよび同船に支援される潜水艇JASON2を利用しての9月22日から10月9日にかけて行われたものだった。これらの航海では鉄バクテリアをはじめとしたロイヒに生息する多数の化学合成生物について研究をした。ロイヒで広い範囲に分布する熱水噴出孔は高濃度のCO2と鉄イオン、低濃度の硫黄分で特徴づけられる。ロイヒ周辺に現れる、このような傾向はFeOBと呼ばれる鉄酸化細菌にとって生育に最適な環境になる。 ==生態系== ===熱水噴出孔の地質化学=== 太平洋のほぼ真ん中というロイヒの位置、および、熱水噴出システムが長期間存在していることは、微生物の生態系にとっての豊かなオアシスが育まれるのに多大な貢献をしている。広大な熱水噴出地域はロイヒの火口底や北斜面、ロイヒ山頂周囲で発見される。活発な熱水噴出口は1980年代後半に初めて見つかった。これらロイヒで見つけられる噴出口は、中央海嶺にあるものと見分けがつかないくらい良く似ている。両者の間では、構成物が類似し、違いが有ると言えば吐き出す熱水の温度ぐらいで、両者はほぼ同一と言っていいものである。ロイヒ山頂には2箇所の一番活動的な熱水フィールドがある。「ペレ火口」(Pele’s Pit、以前は「ペレ噴出口」、Pele’s Vents)、および、「カポ噴出口」(Kapo’s Vents)である。これら2大熱水フィールドはハワイ神話に出てくる神々であるペレとその姉妹カポ(英語版)に因んで名付けられた。これらの噴出口から出てくる水は摂氏30 ℃程度しかないため、これらは「低温噴出口」であると考えられている。1996年噴火でペレ火口が形成されたことにより、この噴出口は「高温噴出口」に変わってしまっていた。1996年、噴火直後に出口の熱水を測ったところ、摂氏77 ℃を記録したのである。。 ===微生物=== 熱水噴出口群は海面下1,100 m (3,600 ft)から1,325 m (4,347 ft)にかけての深度に存在する。また、水温は、低いものでは摂氏10 ℃から、高いものでは200 ℃になるものまで存在する。熱水噴出口からの熱水はCO2(up to 17 mM)とFeを高濃度に含有し、対照的に硫化物イオンを低濃度で含むことで特徴づけられる。酸素濃度とpHレベルが低く保たれていることは、噴き出す熱水が鉄イオンを高濃度に含むことの助けになる重要な要素である。これらはロイヒが他の熱水鉱床とは違う特色のうちの一つである。これらの特徴は、FeOBとも呼ばれる鉄バクテリアにとって繁栄に最適な生育条件を生み出す。これらの種の例にプロテオバクテリア門ゼータプロテオバクテリア綱(英語版)を構成する1科1属1種の細菌であるMariprofundus ferrooxydansが挙げられる。 ロイヒにある熱水噴出口の、上へと伸びた煙突のようなものを構成する物質の組成は、ブラックスモーカーと同じである。それらは古細菌をはじめとする好熱菌などの極限環境微生物のすみかである。次の2年間掛かりで観察された鉱物の酸化と溶解現象の結果は、硫酸塩鉱物は簡単に分解されてしまうことを示唆している。 微生物マット(英語版)の多様な微生物の群落は、ペレ火口の底の大部分を絨毯のように覆い、また、熱水噴出口を取り巻いている。NOAAが西太平洋とハワイ研究のために設立した研究センターであるハワイ海底研究所は、熱水システムを監視し調査しており、ロイヒ固有の微生物コミュニティについての研究をしている。 1999年、アメリカ国立科学財団(NSF)は、ロイヒ周辺に住む極限環境微生物のサンプリングを目的とした当海域への調査航海を資金面で支援した。微生物マットは摂氏160 ℃の熱水噴出口を取り巻き、奇抜なクラゲのような有機体を含んでいた。サンプルはNSFの海洋バイオプロダクト工学センター(Marine Bioproducts Engineering Center, MarBEC)で研究するために採集された。2001年、パイシーズV は、その有機体のサンプルを収集し、研究のために海上へ送り届けた。 NOAAのアメリカ国立海底研究センターとNSFの海洋バイオプロダクト工学センターは、ロイヒ周辺にしか生息していない好熱性古細菌および細菌の採集・研究をするために、お互いの弱点を補完するなどの協力をしあっている。鉄酸化バクテリアの採集(FeMO)を目的とした第四回目の研究航海は209年10月に行われた。 ===大型多細胞生物=== ロイヒ周辺の海中を主な生活圏とする海生生物は、火山活動がロイヒよりも活発ではない他の海山ほど生物種に満ち溢れているわけではない。ロイヒ周辺に生息する魚類ではアンコウ科の一種(Celebes monkfish)、および、ホラアナゴ科の一種の魚がこれまでで見つかっている。この海域で確認された無脊椎動物は、ここの熱水噴出口に固有な生物種、2種が含まれている。オハラエビ科(英語版)(Alvinocarididae)の一種、トウロウオハラエビ (bresiliid shrimp, 学名:Opaepele loihi)(1995年同定)、そして、シボグリヌム科の動物の仲間である。1996年イベントの後の潜航調査では、エビ類も、ワーム類のどちらもが発見できなかった。海底火山の噴火がこれらの種に持続的な影響があるかどうかは、これからの知見が待たれるところである。 1982年から1992年にかけての10年間、NURP(英語版)・ハワイ海底研究所(HURL)にいる研究者は深海探査艇の窓の外を泳ぐ魚の写真を撮影した。これらの魚類はロイヒ海山、ジョンストン島、およびクロス海山(英語版)周辺の深さ40 m (130 ft)から2,000 m (6,600 ft)にかけての深さを生息域にしているものであった。ロイヒで特定された少数の種には、ハワイで新しく記録された目撃例になったものがある。その中にはフサアンコウ科のホンフサアンコウ(英名:Tassled coffinfish ,学名:Chaunax fimbriatus)、それに、Celebes monkfishが含まれている。 =制服 (ナチス親衛隊)= 本稿ではドイツの政党国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の準軍事組織である親衛隊(以下SS)の制服について記述する。 ==概要== SS隊員ははじめ突撃隊(以下SA)と同じ褐色シャツ型制服を着用していたが、1932年にSSの制服として有名な黒いスーツが制服として採用された。1938年には黒服と同型のフィールドグレー色の制服が導入された。 一方SS特務部隊(武装SS)では陸軍型の野戦服が使用された。武装SSの戦車・装甲車搭乗員(以下戦車兵)も陸軍の戦車兵とほぼ同型の黒い制服を着用していた。 SSで使用された制帽は共通してトーテンコップ(髑髏)が帽章として使用されていた。 ==勤務服== ===黒服以前の初期の制服=== ナチスの最初の準軍事組織であるSAは褐色で統一されたシャツ型の上着とネクタイ(党員はネクタイに党員章)、ズボン、ケピ帽を制服として使用していた。 SSは1925年4月に結成されたが、1932年までSAと同型で色だけ異なる制服を使用していた。シャツ型上着はSAと同じく褐色だったが、ケピ帽の色が黒く、ネクタイも黒く、ズボンも黒い物を用いた。またハーケンクロイツの腕章の上下に黒のストライプを入れることでSAと差別化を図った。色以外でSAの制服と違っていたのは、ケピ帽にトーテンコップ(髑髏)の徽章を入れていることがある。 1926年11月にSAがその制服に階級と所属部隊を明らかにするための襟章を導入。これに倣ってSSも1929年8月に襟章を導入した。SAは所属する管区・部隊等を示す為、襟章に様々な配色を設けていたが、SSの襟章は銀と黒で統一されていた。SSでは所属部隊は左腕の袖のカフタイトル(袖章)で示した。SAと同様に襟周りや襟章の縁にパイピングを用いており、このパイピングは黒服以降の制服にも受け継がれたが、1940年には廃止された(しかし襟周りのパイピングは廃止後も使用されることも多かったという)。 ただし黒服以前の制服は特に支給されておらず、各隊員が自前で揃えるものであった。 黒服制定以降にはこの褐色シャツの制服は「伝統の制服(Traditionsanzug)」と呼ばれるようになり、ナチ党の式典などで着用されるようになった。ただ褐色シャツは基本的にSAの制服であり、この服を式典で着たがるのは野党時代の闘争を懐かしむ古参SS隊員だけであったという。親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーもこの服を好まず、式典には黒服で出席していた。 ===黒服=== 1932年7月7日に制服が大きく改訂され、SSの制服として有名な黒い勤務服(SS‐Dienstrock Schwarz)が定められた。 黒服のデザインをしたのはグラフィックデザイナーのSS上級大佐カール・ディービッチュ(en)といわれるが、これを疑う説もある。黒服のデザインのモデルとなったのはプロイセン王国時代の第1近衛軽騎兵連隊(de)と第2近衛軽騎兵連隊(de)であるという。「黒」は神聖ローマ帝国やプロイセン王国の旗の一部を構成する色でもあり、ドイツにとって象徴的な色で高貴な部隊であることを意味する。 黒いネクタイをつけた褐色のシャツの上に黒いスーツを着用する。スーツの前ボタンは4つ付いており、開襟して着用する。ふた付きポケットが胸、腰に2つずつ計4つあり、腰ポケット2つは斜めになっていた。肩章は右肩にのみ装着する。背部には腰の部分にベルトフックとベルト止めの役割があるボタンが二つ付いており、ボタンから裾までひれのようなプリーツが入っている。黒スーツの下に着るシャツは基本的に褐色のシャツだが、礼服として着用する場合には白いシャツを用いることも許可されていた。1938年頃からは日常勤務服としても白いシャツが併用されるようになった。 制帽はケピ帽から軍の制帽に似た物に変更された。ただ黒服初期の制帽は第一次世界大戦のドイツ軍や戦後のヴァイマル共和国軍の軍帽の流れを組んでいたので、あまりトップが高くなく、潰れているような感じの物が多かった。 下士官・兵士に支給する黒服はナチ党の「国家装備統制局」(Reichszeugmeisterei,略章RZM)と契約した民間企業の工場において製造されていた。一方将校はRZM規格品をSS被服販売所で購入するか、オーダーメイドで仕立てる場合がほとんどであった。上級隊員は1933年のうちには黒服を手に入れたが、下級隊員の間では1935年ぐらいまで黒服以前の褐色シャツ制服が黒服に混在して使用され続けたという。 1939年6月27日以降には夏用に黒服と同じデザインで色だけ異なる「白服」が将校にのみ支給された。着用期間は4月1日から9月30日までであった。しかし白服はベルヒテスガーデンでの式典を除きほとんど着用されなかったという。白服はここで見られる。 1935年に親衛隊特務部隊、続いて1936年に親衛隊髑髏部隊でアースグレー色やアースブラウン色の野戦服が導入されたため特務部隊と髑髏部隊は日常制服としては黒服を着用しなくなった。以降は一般SSだけが黒服を着用していたが、1938年に一般SSに常勤する隊員にフィールドグレーの新しい勤務服が導入されたため、彼らも日常制服としては黒服を使わなくなった。以降の黒服は礼服としてのみ使用されるようになった。 しかし一般SSの予備役的な存在であった非常勤一般親衛隊隊員にはフィールドグレー勤務服が支給されなかったので、彼らは日常制服としても黒服を使用し続けた。戦争がはじまると非常勤一般親衛隊員は続々と徴兵され、大幅に数が減少した。彼らの分の余剰になった黒服は徽章などを外して外国人SS部隊や占領地現地民による補助警察シューマ(de:Schutzmannschaft,略称Schuma)の隊員に支給された。 戦時中のドイツ国内で日常制服として黒服を使用していたのは予備役的存在となっていた4万人の一般親衛隊非常勤隊員が中心だった。そのため黒服は兵役忌避者の象徴となり、嘲笑の的になってしまったという。 ===フィールドグレーの勤務服=== 1938年からSSの本部(SS‐Hauptamt, 国家保安本部、経済管理本部など12の本部)に勤める一般SS常勤隊員にフィールドグレー勤務服(SS‐Dienstrock Feldgrau)が支給された。前述したが、一般SSでも非常勤隊員にはこのフィールドグレー勤務服は支給されなかった。 基本的に黒服と同型だが、黒服が右肩にのみ肩章があるのに対してフィールドグレー勤務服は両肩に肩章があった。またハーケンクロイツの腕章の代わりに腕の部分に鷲章が刺繍されることとなった。開襟で着用した武装SSのフィールドグレー野戦服とも似ているが、異なる点としてはこちらは黒服と同型なので前ボタンが4つで開襟での着用しかできず、また背部にベルト止めボタンが2つ付いている点である。 一般SS常勤隊員には、支給制服を着る者、SS被服購買所などで自ら選んで買った制服を着る者、洋服店で仕立てさせた制服を着る者などがあった。武装SSと異なり、一般SSでは階級が低くてもお金に余裕があるなら自分で制服を仕立ててかまわなかった。逆に将官であっても裕福でない者などは支給品を着ている場合もあった。SSは貴族・ブルジョワなど既存の上流階級に抵抗するいわば「革命勢力」であった。能力さえあれば家柄に関係なく出世できたので将官だからといって裕福であるとは限らなかったのである。 戦時中には一般SSでも武装SSのフィールドグレーの野戦服を着用する者が増えた。特に占領地勤務者にそれが顕著だった。 ==武装SSの野戦服== SSの制服には「勤務服」(Dienstrock)と「野戦服」(Feldbluse)があり、武装SS(SS特務部隊)隊員には両方とも支給されていた。「勤務服」については一般SSのものと同じである。「野戦服」が武装SSだけに支給される特別な制服である。 SS特務部隊やSS髑髏部隊も当初は一般親衛隊と同じ「黒服」を着用していたが、派手すぎて戦場での作戦行動や強制収容所警備に不向きであったので野戦服が作られることになったのである。 ===初期のアースグレーの支給野戦服=== 草創期のSS特務部隊にはアースグレーの野戦服が支給されたが、このアースグレー野戦服ははじめ部隊ごとに様々なバリエーションがあった。1935年初めに「ライプシュタンダルテ・アドルフ・ヒトラー」と特務部隊用に統一されたアースグレー色の野戦服が支給されるようになった(M35野戦服)。M35野戦服は1935年11月のSS指令で正式に認可された。 アースグレー野戦服の形状は基本的に黒服と同じだったが、前ボタンが黒服より1つ多い5つあり、ラペルを閉じて着ることができた。ただし将校のは前ボタンが4つであり、開襟でしか着用できなかった。 1936年3月には髑髏部隊にもアースブラウン色で同型の野戦服が日常勤務用として支給された(なお髑髏部隊以外の強制収容所所員は通常の勤務服を着用していた)。 陸軍M36野戦服の影響からか、1936年になると部隊によっては襟をダークグリーンにしている物も見られるようになった(特にライプシュタンダルテの下士官兵士) ===フィールドグレーの支給野戦服=== 1937年にこの二つの野戦服が統一されてフィールドグレーの野戦服が制定され、特務部隊と髑髏部隊に支給された。これはM37野戦服と呼ばれる。ドイツ陸軍のM36野戦服をモデルにして作られたが、襟が制服と同じフィールドグレーである点(陸軍のは襟の部分がダークグリーンであり、服と色が異なった)や下ポケットが切り込み式で斜めについている点(陸軍のは上下ポケットともに貼り付け式で水平になっている)などが陸軍M36野戦服と異なった。詰襟でも開襟でも着る事が出来た。ただ1940年ぐらいまでアースグレーの野戦服を着用している部隊もあったという。 戦争がはじまり、武装SS隊員数が急増した1939年末に武装SSは陸軍のM36野戦服の大量採用を余儀なくされた。これにSSの徽章をつけた野戦服が1940年から支給されるようになった(M40野戦服)。陸軍M36野戦服の使いまわしなので襟がダークグリーンの物もあるが、陸軍野戦服も1940年以降に生産された物は襟がフィールドグレーになっていた。SS被服工場でもM40野戦服に準じた野戦服が製造されており、これは襟をフィールドグレーにして製作していた。 もともとSS被服工場はダッハウ強制収容所にしかなかったのだが、1939年にラーフェンスブリュック強制収容所にも置かれるようになり、第二次世界大戦緒戦の勝利により占領地にも続々と置かれ、1941年にはSS被服生産体制が整い、陸軍に頼ることなく独自に野戦服を支給できるようになった。1941年からSS被服工場で作られるようになったM41野戦服は外見はM40野戦服(陸軍野戦服流用品)と変わらなかったが、裏の仕様がだいぶ変わっていた。さらに1942年になるとポケットのプリーツをなくしたM42野戦服が支給されるようになった。さらに1943年にはポケットの口の形が単純化されてまっすぐにされたM43野戦服が支給されるようになった。素材もウールの使用量が大幅に減らされて保温機能が悪化した。 1944年には更なる生産工程の簡素化のために野戦服が全軍共通になり、記章のみが異なる「M44野戦服」が生まれた。これは極端に丈が短く、下ポケットが消滅している。そのため、まるで英軍の野戦服「バトルドレス」(en)のようになってしまっている。素材はさらに粗悪品となり消耗が激しかったという。 ===将校の野戦服=== 陸軍と同様に武装SSでも兵士・下士官は支給物、将校は独自にオーダーメイドした物を着用した。そのために将校は被服手当を受けていた(SS将校の受けていた被服手当は陸軍将校より多額であった)。 SS将校たちははじめ特務部隊のM35野戦服やM37野戦服と同型の野戦服を仕立てることが多かったが、やがて陸軍将校と同型の野戦服を仕立てるのが一般的になっていった。そのため襟がダークグリーンになっていたり、腰ポケットが斜めの切り込みポケットではなく水平の貼り付けポケットになっていたりする物が多かったが、中には武装SSの制服規定に合わせて襟をフィールドグレーにしたり、腰ポケットを斜めの切り込みポケットにした物もあった。 ただし消耗を避けるため、戦闘中には将校も支給品の野戦服を着用する者が多かったという。 ===迷彩服=== 武装SS(SS特務部隊)は迷彩服の先駆者である。世界で初めて迷彩服を正式採用して大量に支給した。現在でこそ世界中の軍隊で当たり前のように使われている迷彩服であるが、当時の繊維・染織技術で迷彩服のような複雑なプリント生地を大量に製造するなどということは前例のない試みであった。 SS特務部隊の迷彩服の研究は1935年から始められた。まず迷彩ヘルメットカバーと迷彩ポンチョ、顔面偽装具といった迷彩装備が開発された。これらが1936年末にSS特務部隊ドイッチュラント連隊の演習に実験的に使用された結果、迷彩装備を使用した場合には兵の消耗を15%抑えることができるという結論が出されたことによって採用が決定した。 迷彩ポンチョ自体はすでに陸軍でも開発されていたのだが、SS特務部隊ではこの後迷彩だけを目的とした迷彩スモックの開発がすすめられ、1937年末に世界初の規格型迷彩スモックを誕生させた。このスモックは通常の野戦服の上にかぶって着用するもので、胸元には切れ込みが入っており、紐で留めるようになっていた。 当初、手作業で作成していたため、数は限定的でポーランド戦争の頃には一般的ではなかったが、1940年6月頃に生産が機械化できるようになったため、1941年の独ソ戦の頃からほぼすべての武装SS部隊に迷彩スモックが行き届いたという。 さらに1944年3月には迷彩スモックに代わって迷彩柄の上着とズボンが揃った迷彩服が登場した。これは単体で着用してもよかったが、従来のスモックと同様に通常の野戦服の上から着用してもかまわなかった。 ===戦車兵軍服=== ドイツ陸軍の戦車兵の黒い軍服は有名であるが、武装SSの戦車兵も同じく黒い軍服を着用した。初めは陸軍の戦車兵の軍服が支給されていたが、1938年頃からSSが管理する強制収容所の被服工場で武装SS独自の戦車兵軍服の制作が開始され、1941年頃からこれが大量支給されるようになり、1942年以降には陸軍の物は使用されなくなっていった。 陸軍の物と比べると親衛隊の戦車兵軍服は丈が短く、下襟が小さいことなどがあげられ、下襟が小さいがゆえに武装SS戦車兵の前合わせは垂直になっている。陸軍の戦車兵軍服は上襟周りに兵科色のパイピングが入っているが、武装SSは将校が銀のパイピングを入れるのみだった。さらに陸軍のものは背中の生地を二枚継ぎ合わせていたので背中に縦に一本縫い目が付いていた。しかし武装SSは一枚だったので縫い目がなかった。また襟章は陸軍が髑髏を入れていたのに対して武装親衛隊は親衛隊の階級章を入れていた。 ズボンも武装SSと陸軍では若干異なり、武装SSのものは隠しベルトがなく、代わりにウエストの両側にバックル付きの絞りが付いていた。また武装SSではズボンの左右腰についているポケットやズボン前部に付いている懐中時計用ポケットの蓋が2つのボタンで留められていた。 ネクタイは黒、シャツはグレーかブラウンが通常だが、オプションで黒いシャツも認められていた。 1943年に戦車兵が車外に出た場合を想定して迷彩オーバーオールが支給された。リバーシブルになっており反転着用でき、裏面は秋の迷彩パターンになっていた。ただ秋面の方は胸ポケットがなかった。さらに1944年1月には戦車兵に支給されていたリード・グリーンのツーピース作業着が迷彩柄に取り換えられることになった。 ===突撃砲兵軍服=== 1940年4月にLSSAHに突撃砲中隊が初めて編成されたのに伴い、武装SS用の突撃砲兵軍服が制定された。武装SS戦車兵の黒軍服と同型だが、色がフィールドグレーであった。しかし1941年頃までは陸軍の突撃砲兵の軍服が流用されることもあった。1942年夏頃から武装SS用突撃砲兵軍服が広く支給されるようになった。戦車軍服と同様に将校は上襟の襟周りに銀パイピングを入れることがあった。またLSSAHのみ下士官は襟周りにトレッセを入れた。 ===熱帯服=== 武装SSは北アフリカ戦線には従軍していないが、南ヨーロッパのバルカン半島の戦いには従軍しており、気温の高いギリシャでの戦闘において武装SS将兵たちは陸軍のコットン製の熱帯用野戦服を独自に調達して使用した。これがきっかけとなり、武装SS独自の熱帯服の開発がすすめられることとなった。 1942年から支給されるようになった武装SSの熱帯野戦服はドイツ軍ではなくイタリア軍の熱帯野戦服「サハリアーナ(Sahariana)」をモデルにして作られており、肩から胸を大きなフラップが覆っており、胸ポケットのボタンでとめる仕様になっていた。このフラップは放熱効果のために付けられていたという。素材は陸軍熱帯服と同じコットン製。前ボタンは4個で開襟して着用する。ボタンは洗濯に便利なよう着脱式になっている。1943年にはポケットのプリーツを省略したM43熱帯服が製作されるようになった。 熱帯服の登場とともに各種熱帯帽や熱帯シャツ、熱帯ズボン(半ズボンもあった)なども導入された。 ==SS女性補助員の制服== 戦時中、SSも国防軍と同様に人手不足から後方任務に女性補助員(SS‐Helferinnen)を動員した。SSの女性補助員には「女性補助員」と「戦時女性補助員」の区別があった。SS経済管理本部の1943年の命令によると前者はSS帝国学校の卒業者、後者は東部占領地域に派遣される者であるという。 女性補助員はネクタイを付けずに白いブラウスを着用し、その上にフィールドグレーの背広を着た。この背広は前ボタンが3つ、左右の腰の部分にふた付きポケットがあり、左胸にもポケットが付いていた。ポケットはいずれも切り込み式であった。スカートは背広と同じフィールドグレー色だった。靴は黒い靴を履いた。 さらに黒い略帽風の帽子をかぶった。この帽子には男性SS隊員の略帽と違って折り返し部分がなかった。また髑髏の帽章は付かず、鷲章だけが付いていた。 女性補助員はSSのルーン文字が入った黒い布製パッチを胸ポケット部分に貼り付けた。また通信を担当する者は左袖に通信隊を示すブリッツ(雷光)章を入れることもある。一方戦時女性補助員の場合にはSSルーン文字のパッチは付けなかった。 ==オーバーコート== 1932年の黒服の導入と同時に黒いオーバーコート(Mantel)が制服に定められた。このオーバーコートは前ボタンは一列6個のダブルになっており、斜めの切り込みポケットが腰の部分の左右に付いている。後ろには両端に離れたボタンで止められたハーフベルトが付いている(ナチ党型ハーフベルト)。また黒服と同様に左腕にはハーケンクロイツの腕章をつけた。ウール製のコートと革製のコート、レインコートの三種があったが、一般SSではやがてウール製コートは使われなくなり、皮製コートが一般的になった。コートにも徽章類を全てつけたが、勲章はコートに付けてはならなかった。 基本的に下に着用している制服と同じ色のコートを着るのが原則であり、1935年にSS特務部隊でアース・グレーの野戦服が制定されるとともにアース・グレー色のオーバーコートも制定された。ついで1937年に野戦服の色がフィールドグレーに変化したのに伴い、1939年に陸軍で使用されていたフィールド・グレーのオーバーコートが武装SSにも支給された。陸軍オーバーコートは後ろのハーフベルトを中央のボタンで止める。 はじめ襟がダークグリーンだったが、1942年に襟がフィールドグレーになった。陸軍のオーバーコートは襟章は付けてはならなかったが、武装SSでは付けても構わなかった。ただ戦争後期になるにつれて付けない者が増えた。なお一般SSでは最後までオーバーコートに襟章を付け続けた。 下士官兵士は支給された物を着用した。将校はオーダーメイドする者も支給品を着る者もあった。冬季には高級将校の間ではコートの襟に毛皮をつけるのが流行ったという。将校の中で多かったのはオーダーメイドした皮コートである。この皮コートには基本的に襟章は付けなかった。袖章もあまり付けなかったようだが、付けている者もいたようである。 なおオーバーコートが何色であってもSS准将以上の階級の者の場合は下襟にはシルバーグレー色(かなり白に近い)を入れ、開襟で着用するのが普通であった。SS将官の中には襟の縁取りにシルバーグレーのパイピングを入れている者もいるが、これは特にSSで規定していたわけではなく個人の好みで行われたようである。 ==制帽== ===全制帽の共通事項=== ====帽章のトーテンコップ==== 親衛隊の帽章は共通して「交叉する骨の上に髑髏」で知られる「トーテンコップ(ドイツ語で髑髏)」の徽章が入っていた。トーテンコップは、一見海賊旗の旗印にも似ているが、海賊旗の髑髏章は、頭蓋骨の下に交差した骨が配されているのに対し、トーテンコップは頭蓋骨が骨に重なっている。トーテンコップは元々ドイツや北欧・東欧地域では古来より用いられている徽章であり、親衛隊の帽章のトーテンコップのデザインはプロイセン王国時代の軽騎兵をモチーフとしていると言われている。「骨になっても祖国のために戦う」という意味がある。当初親衛隊は下顎がない伝統的なトーテンコップを使用していたが、1934年に陸軍が戦車兵の軍服を制定してその襟章に同じくプロイセン時代からのトーテンコップを使用したため、混同されないよう親衛隊のトーテンコップの形に変更が加えられ、下顎がつけられてよりリアルな髑髏になった。この形は伝統的なものではなく親衛隊独自のトーテンコップである。 ===鷲章=== 1923年〜1929年にかけては、親衛隊制帽のトーテンコップの上にはドイツ帝国軍やヴァイマル共和国軍と同様に円形章(コカルデ)が入っていたが、1929年秋にナチスの鉤十字の上に翼を広げて留まる鷲をデザインした「鷲章」(アドラー)が取り入れられることとなった(ナチ党政権掌握後、国防軍も鷲章に変更されている)。この「翼を広げて留まる鷲」のデザインは古代ローマ帝国時代を起源とする伝統的なデザインで、さらに1936年に鷲章のデザインが変更され、大型になり鷲の翼が横に広くなった。この新しいSS鷲章は陸軍の鷲章と似ているが、よく見ると若干デザインが異なっている。陸軍鷲章は羽根の上端が一番長いが、SS鷲章は羽根の中間部分が一番長くなっている。 ===制帽の種類=== ====ケピ帽==== SAと同型の制服を着用していた頃に使用された帽子。SAの使用したケピ帽は褐色だったが、SSの物は黒く、また髑髏の徽章を付けるのが特徴的であった。1932年制定の黒服用制帽に取って代わられた。 ===クレッツヒェン=== クレッツヒェン(Kr*9340*tzchen)は帝政ドイツ軍で使用されたバイザーのない制帽のような帽子である。SSが使用したものは色が黒く、正面に髑髏の帽章と鷲章を付けた。ここで帝政時代のクレッツヒェンとSSのクレッツヒェンを見られる。 クレッツヒェンはSSが誕生したばかりの1925年頃からSSで使用されてきた。1933年から1934年にかけて特務部隊で頻繁に使用された。しかし1935年に黒い略帽が制定されると取って代わられた。 ===一般制帽=== 1932年7月7日に黒服とともに黒い制帽(Dienstm*9341*tze)が制定された。それ以前のケピ帽に代わる帽子であった。髑髏などSS専用の徽章類を除けば陸軍制帽とほぼ同形状である。最初の物は黒だったが、制服の色に併せてアースグレーやフィールドグレーの制帽が作られていった。 将校はアルミモールの顎紐を使用し、兵士・下士官は革の物を使用した。制帽の縁取りの色は大佐以下の階級の者は白、准将以上の階級の者は銀を使用した。1940年5月には縁取りの色を兵科色にするようにとの命令が出されたが、同年12月には白・銀に戻すよう再命令が下された。しかしこの命令に従わない者が多く、兵科色の縁取りがなされた一般制帽がその後も広く使用され続けたという。 ===クラッシュキャップ=== 陸軍と同様にSSでも制帽の代わりとしてクラッシュキャップが使用された。クラッシュキャップはコレクターたちの間での俗称であり、正式名称は野戦帽(Feldm*9342*tze)という(後に支給を廃されたので旧式野戦帽という)。 一般制帽と似ているが、帽子の中に形状を保つためのワイヤーが入っていないため、ふにゃふにゃしている。あご紐は付属しない。髑髏と鷲章は機械織りの刺繍であることが多かったが、金属製である場合もあった。通常のクラッシュキャップのつばは革製であるが、SSでは1938年に「SS下士官用野戦帽(Feldm*9343*tze f*9344*r Unterf*9345*hrer)」という下士官用クラッシュキャップが制定しており、これはつばが革ではなく布だった。この影響で将校でもつばが布の物を使う者がいた。 陸軍ではクラッシュキャップは1938年に支給を廃されているが、武装SSでは1940年前後に支給を廃されたとみられる。しかし持ち運びに楽であるため、支給を廃された後も多くの前線の武装SS将兵がオーダーメイドしてかぶっていた。オーダーメイドを惜しんで一般制帽からワイヤーの支えを取り除くなどしてクラッシュキャップ風に改造している例も見られる ===略帽=== 制帽の代わりに用いられた略帽である。正式名称はクラッシュキャップと同じく野戦帽(Feldm*9346*tze)である。船のような形なので「小舟(Schiffchen)」という愛称があった。日本では一般に略帽と呼ばれている。 SSで最初に略帽が制定されたのは1934年だった。特務部隊の下士官兵士用にアースグレーの野戦服用に制定された。1935年には黒服用の黒い略帽も登場した。こちらはクレッツヒェンに代わるものとしての導入であった。その後、アースブラウン野戦服やフィールドグレー野戦服用の同じ色の略帽も登場した。これらの略帽は折り返し部分の前部をえぐったような陸軍の略帽に似た形状である。正面に髑髏のマークが入ったボタンがついており、左側面部分に鷲章が入っていた。1939年末に兵科色がSSに導入されると陸軍と同様に略帽の前部に山型のパイピング(Soutache)を付けるようになった。 1940年からは新型略帽が導入された。こちらの略帽は空軍の略帽のような流れる形状であり、鷲章とボタンではない髑髏帽章を正面につけた。 1943年以降は下記の規格野戦帽に取って代わられた。 ===規格帽=== 陸軍、空軍、SSで規格が異なっていた略帽を統一するため、1943年6月11日に陸軍で統一規格野戦帽(Einheitsfeldm*9347*tze)が制定された。この帽子は日本では一般に規格帽と呼ばれている。1943年に制定されたためM43帽とも呼ばれる。 SSでは1943年10月1月にこれが採用された。陸軍の物とほぼ同じだが、折り返しを止める前部のボタンが陸軍の規格帽は二個ボタンのみなのに対して、武装SSの規格帽には一個ボタンの物も存在した。また武装SSの規格帽には鷲章が真横についている物もあった。 ===迷彩帽=== 1942年6月1日に制定された迷彩柄のバイザー付きの帽子。この帽子は武装SS独自のものである。夏季迷彩と春季迷彩の二種類がある。迷彩効果最優先のこの帽子には鷲章や髑髏などは付けないはずだったが、一時的に徽章を入れるよう命令が下された時期もあった。この命令は後に撤回されているが、付け続ける将兵も多かったという。 ===フェズ帽=== フェズとは中東の伝統的帽子。ムスリムの兵士が多い第13SS武装山岳師団と第23SS武装山岳師団でのみ着用が許されていた。鷲章とトーテンコップが入っていた。兵士下士官はモス・グリーン、将校は赤いフェズ帽をかぶった。また赤いフェズ帽は礼装用でもあった。 ==シュタールヘルム(鉄兜)== ドイツ軍の象徴ともいうべきシュタールヘルム(鉄兜、Stahlhelm)については、SSは陸軍の物と同じ物を使った。貼りつけるデカールだけSSと陸軍で異なった。陸軍のシュタールヘルムには35年型、40年型、42年型の3種類が存在する。1936年からSS特務部隊に35年型が支給されるようになった。それ以前のSSのシュタールヘルムは主に一次大戦時代の物やSS国家主計局で作った物が使用されていた。もっとも西方電撃戦ぐらいまでの頃には一次大戦時のシュタールヘルムが依然として用いられていたという。 1935年型は空気穴がヘルメット本体と別パーツになっているが、40年型以降は一体化されてプレス加工になった。また材質がモリブデン鋼からマンガン・シリコン鋼に変更された。ついで1942年7月6日には更なる工程の簡素化が行われ、これまでヘルメットの縁が中に折り曲げられていたのが、縁を少しだけ外側にそらすだけの1942年型が生まれるようになった。3つのシュタールヘルムの違いについてはここが詳しい。 SSの鉄兜ははじめ右側にSSルーン文字のデカール、左にハーケンクロイツのナチ党旗のデカールが貼られていたが、迷彩効果のうえで問題があり、1940年3月に左のナチ党旗のデカールは外すよう命令があり、以降は急速に見られなくなった。その後は右側にSSルーン文字のデカールだけを付けていた。1943年11月にSSルーン文字のデカールも外すよう命令が出ているが、こちらは外されることはあまりなく敗戦まで一般的に見られた。外国人部隊の場合には左側にSSのデカールを貼る例も見られる。 ==徽章== ===襟章=== 襟章は親衛隊大佐以上と親衛隊中佐以下で大きく異なった。親衛隊大佐以上は左右対称になっている柏葉で階級のみを示した。親衛隊中佐以下は右襟の襟章で所属する師団や所管を示し、左襟の襟章で階級を示した。 たとえば右襟章に数字だけが入っている場合はその数字は一般SSの所属連隊の番号を指している。右襟章が無地の場合は技術専門職、あるいはSSの本部や司令部の要員であることを意味している。トーテンコプフ(髑髏)の右襟章ならば親衛隊髑髏部隊、トーテンコプフ師団、強制収容所所員などであることを示す。ルーン文字SSの右襟章をよく見かけるが、これは他の右襟章を付ける立場にないすべてのドイツ人・ゲルマン人隊員が付けていた襟章である。1940年には親衛隊特務部隊のドイツ人・ゲルマン人師団は独自の右襟章を廃されたため、SSルーン文字で統一された。敵に何師団かばれないようにという防諜上の理由であるという。ただ外国人義勇兵はそれぞれの師団の独自の右襟章を使い続けた。 階級章については親衛隊大佐以上は柏葉と星の数で示し、親衛隊中佐以下は星と線で示した。しかし親衛隊特務部隊(武装親衛隊)においては1938年に陸軍型の肩章を導入したので襟章での階級表示は二重表示になるので不要という話も出るようになった。そのため大戦初期に襟章の変更が繰り返されて襟章の階級章が廃されたり復活されたり混乱した時期があった。しかし結局ヒムラーはSS独自の階級章も示す必要があるとして陸軍肩章と旧来の親衛隊襟章による二重の階級表示とした。なお迷彩服用の階級章も存在していた。 SSの階級と階級章については変遷があり、煩雑なので詳しくは親衛隊階級の項を参照のこと。 ===肩章=== SSにおいて肩章は1933年5月に導入されたものである。黒服の肩章は右肩にしかついてなかったが、SS特務部隊や武装SSの野戦服、一般SSのグレーの制服には両肩に肩章が付いていた。 基本的にSSでは細かい階級は襟章で示した。肩章は下士官兵卒、下級将校(尉官)、上級将校(佐官)、将官という大雑把な区別をする物だった。しかし1938年3月にSS特務部隊(武装SS)では陸軍と同じ肩章が導入され、肩章でも階級を表すようになった。一般SSは従来の肩章を使用し続けたが、やがて一般SSでも陸軍型の肩章を使用する者が増えた。 また武装SSの肩章には所属部隊が分かるような徽章も入れられていたが、これは1943年10月のヒムラーの決定により廃された。SDや保安警察の所属者には警察型の肩章を使用している者も見られる。 ===カフタイトル=== SSの制服の特徴の一つが「カフタイトル」である。カフタイトルは英語の呼び名であり、正式には「袖章」(*9348*rmelstreifen)という。 SSの制服には左腕の袖の部分にこれが付けられている事が多い。陸軍もグロースドイッチュラント師団など一部の部隊がカフタイトルを使用していたが、SSではより多くの部隊で使用されていた。 カフタイトルには所属する師団、連隊、本部、親衛隊地区などの名が書かれていた。たとえば一般SSの連隊所属者は、カフタイトルに所属連隊名が書かれ、カフタイトルの縁取りの色で所属大隊、番号で中隊を示した。なお部隊によっては名誉部隊名がつけられている事があるが、その場合は名誉部隊名のカフタイトルが優先された。他部隊へ転属した場合には必ず新しい部隊のカフタイトルに変更しなければならなかった。ただ新しい部隊にカフタイトルがない場合は以前の部隊のカフタイトルを使用することが許可されていた。矛盾しない組み合わせの場合、一人が二つのカフタイトルを付けているケースも見られる。 親衛隊名誉指導者などにも独自のカフタイトルがあった。なお親衛隊全国指導者(Reichsf*9349*hrer‐SS)の略称である「RFSS」のカフタイトルは親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーの幕僚であることを表す。「Reichsf*9350*hrer‐SS」のカフタイトルも存在するが、これは第16SS装甲擲弾兵師団「Reichsf*9351*hrer‐SS」の隊員であることを意味しており、ヒムラーの幕僚のカフタイトル「RFSS」とは別物なので注意が必要である。 戦争中にはカフタイトルの授与式はやけに厳かになった。そこに書かれている部隊の名前を汚すことがないようにという意味が込められるようになったためである。ただ外国人師団には師団名を与えられていない場合があったり、また与えられていてもカフタイトルは授与されなかったケースが多い。部隊名やカフタイトルがその部隊に与えられるためには、それにふさわしい戦功を立てることが期待されたといわれる。あるいは外国人部隊は本来はSS隊員としてふさわしくないという思想でそうなっていたのかもしれない。 カフタイトルに書かれる文字はヒトラーの手書きである「ライプシュタンダルテ・アドルフ・ヒトラー」以外は初めゴシック体で表記されていたが、後に標準ラテン字体に変更された。 ===古参闘士名誉章=== ナチ党政権掌握(1933年1月30日)以前からナチ党かナチ党組織(SSである必要はない)に所属していたSS隊員は、1934年2月より右上腕部に古参闘士名誉章(Ehrenwinkel f*9352*r Alte K*9353*mpfer)を付けるようになった。後に基準が緩められて、国防軍や警察からSSに入隊してきた者のうち、一定の基準を満たしている者も付けることが許されるようになった。 ===兵科色=== 武装SSは1939年末に兵科色(Waffenfarben)を導入した。陸軍とは異なる独自の兵科色を使用した。主な兵科色は以下のとおりである。 ==その他の装備品== ===ベルト=== SSのベルトのバックルは、将校と下士官兵卒で異なった。将校は円形であり、下士官兵卒は四角形である。将校用も下士官兵卒用もバックルのデザインには国家鷲章が描かれ、その鷲章の周囲にSSのモットーである「忠誠こそ我が名誉(Meine Ehre hei*9354*t Treue)」の文字が入っていた。この言葉は1931年末にSSのモットーとして定められてベルトのバックルのデザインに採用された。 なお陸軍や警察のバックルには「神は我らと共に(Gott mit Uns)」という文字が入っていた。将校用の丸型バックルは外れやすく、戦場には不向きだったので陸軍将校がよく使用していた二本爪バックルの茶色ベルトを使用する者が多かった。 ===SS短剣=== SSの短剣(Dienstdolch)は、1933年12月に制定された。黒い鞘と柄の短剣で、刀身にはSSのモットーである「忠誠こそ我が名誉(Meine Ehre hei*9355*t Treue)」の文字が刻まれていた。黒服や黒服のコート、「伝統の制服」の着用時に帯刀した。これは新規隊員全員に授与された(ただし自己負担)。1933年短剣は1940年に製造が中止された。 一方1936年には鎖付きになった1936年版短剣が製造された。これは隊員のうち所持希望者が独自に購入する物だったが、買う者はあまりいなかったという。名誉短剣も三種類存在する。1934年2月にSA幕僚長エルンスト・レームが古参SS隊員9900人に授与した「レーム短剣」、1934年7月以降にヒムラーがSA粛清の功績者に与えた「ヒムラー短剣」、1936年に制定されたSS高官の誕生日に授与する「誕生日短剣」である。 ===SS長剣=== 1933年以降、SSの将校と下士官は陸軍と同型のサーベルを自費で購入して帯刀することを許可された。1936年にSSと警察専用の長剣が作成され、下士官以上ならばいつでも購入できるようになった。 名誉長剣も存在する。士官学校卒業生やヒムラーが選んだ将校に送る親衛隊全国指導者名誉長剣とSS高官の誕生日にヒムラーが個人的に贈る誕生日長剣である。 親衛隊全国指導者名誉長剣の写真はここやここで見られる。 ===SS髑髏リング=== 1934年4月に制定された髑髏をかたどった指輪。正式名称は親衛隊名誉リングという。始めは古参党員用の指輪だったが、後に基準が緩められて3年以上SSに勤務した将校は事実上だれでも持てるようになった。左手薬指にはめる事を定められていた。 =受粉= 受粉(じゅふん)とは、種子植物において花粉が雌性器官に到達すること。被子植物では雌蕊(しずい、めしべ)の先端(柱頭)に花粉が付着することを指し、裸子植物では大胞子葉の胚珠の珠孔に花粉が達することを指す。種子植物の有性生殖において重要な過程である。 被子植物では、自家不和合性・雌雄異熟 (dichogamy) ・異形花柱花といった自家受粉・自家受精を防ぐ機構が発達した植物種も存在する。それらの機構は遺伝的多様性の維持と近交弱勢の防止の役割を持っている。 以下、本記事では特に断りが無い限り、被子植物の受粉について記述する。被子植物では、受粉後に花粉から花粉管が伸び、それが柱頭組織中に進入して胚珠に到達し、卵細胞が花粉管の中の精核と融合することで受精が成立する。 受粉は英語”pollination”の翻訳語であり、ほかに授粉・送粉(そうふん)・花粉媒介(かふんばいかい)の用語も用いられる。受粉の研究は植物学・園芸学・動物学・生態学・進化生物学など多くの学術分野に関連しており、受粉に関する専門的な学術分野としては送粉生態学(花生態学・受粉生態学)、受粉生物学(送粉生物学)および花粉学”palynology”などがある。 花粉は被子植物では雄蕊(ゆうずい、おしべ)の葯(やく)で、裸子植物では葯もしくは小胞子葉の花粉嚢で形成され、移動して受粉・受精する。同一個体内での受粉を自家受粉、他の個体の花粉による受粉を他家受粉という。この受粉過程で、どのように花粉が移動するかによって、種子植物の受粉様式を風媒、水媒、動物媒(虫媒、鳥媒など)、自動同花受粉に分類する。裸子植物の大部分は風媒花である。 ==受粉様式== 自ら動くことに制約のある植物は花粉媒介を他の媒体に依存することが多い。その媒体の種類によって受粉様式は風媒、水媒、動物媒、自動同花受粉に分けられる。種子植物は約90%が動物媒受粉であり、残り10%が非生物的受粉であると推定されている。受粉様式は種子植物の進化上で重要であり、花の形質(送粉シンドローム)に反映されている。動物媒の受粉様式は動物と植物の共進化の例として研究がなされている。植物と動物の関係は、受粉様式だけでなく種子散布まで含めた共生関係にあるものがある。 人間が人為的に受粉させることを人工授粉という。詳細は人工授粉の項を参照。 ===非生物的受粉=== 非生物的受粉として風媒 (anemophily) と水媒 (hydrophily) がある。裸子植物の大部分と一部の被子植物が風媒受粉である。裸子植物の一部に生じた虫媒の植物から被子植物が進化した。風媒の被子植物は虫媒から再び風媒に戻ったものと考えられている。水媒は風媒よりまれでありほとんどが水生植物でみられる。 風媒花は目立たない花であることが多く、香りも少ない。花の構造としては雌蕊(めしべ)・雄蕊(おしべ)とも花の外部に露出するものが多く、花粉量も動物媒花よりも多い傾向がある。また花粉相互の粘着力が少ない。これらは風媒に適応した特徴である。 水媒花は水との位置関係で、水中媒 (hydrogamy、水中で受粉する) と水面媒 (epihydrogamy、水面で受粉する) に分けられる。 ===動物媒=== 自然界で受粉(送粉)を行う動物を送粉者と呼ぶ。動物媒花では送粉者を引き寄せるために目につきやすい色や特有の香りの花を咲かせたり、蜜や花粉を提供するなどの戦略をとる。 送粉者の種類は約20万種あると推定されており、その大部分は昆虫である。昆虫による送粉を虫媒 (entomophily) と呼び、虫媒花はハチとアリ(膜翅目)・コウチュウ(鞘翅目)・チョウとガ(鱗翅目)・アブとハエ(双翅目)などの昆虫を引き寄せる。また、昆虫類が視覚として感じる紫外線領域で独特の模様を示し、昆虫を誘引している花もある。進化的には被子植物の原型は、スイレンやモクレンのように送粉者へ花粉を提供するタイプの虫媒植物であったと考えられている。 その他の動物媒”zoophily”としては、鳥類・コウモリなどの脊椎動物によるものがあり、約1,000種が送粉者であると考えられている。それら脊椎動物の例としてはハチドリ・オオコウモリ類・小型有袋類がある。コウモリやガを送粉者とするように適応した植物は白い花弁と強い香りを持つ傾向があり、鳥類を送粉者として適応した植物は赤い花弁を発達させ香りは持たない傾向がある。 ===植物と送粉者の共進化=== 非生物的な受粉の最初の化石記録は、石炭紀後期のシダ種子植物に遡る。三畳紀に裸子植物が動物媒介受粉を始めた証拠がある。多くの花粉化石は、現代の動物媒介される花粉に類似した特徴を示している。また、鞘翅目とハエの化石の腸内容物・翅の構造および摂食器官の形態は、彼らが初期の送粉者として働いたことを示唆している。白亜紀初期から後期にかけて、昆虫類と被子植物は並行的に放散進化した。白亜紀後期に花に蜜腺が生じた進化は、昆虫類と被子植物の間で共生関係が始まったことを示唆している。 ===同花受粉=== 遺伝的多様性を維持し、近交弱勢を避けるためには他家受粉が有利である。しかしながら、花粉媒介が起こる範囲に同種の植物がない場合、他家受粉のみに頼る繁殖法では子孫が残せなくなる。したがって、自家不和合性や雌雄異熟性を持たずに自殖可能な植物も多い。特に、繁殖機会が1回しかない1年草では、同じ花の中で自家受粉を行う同花受粉の道を選択しているものがある。 日本のスミレ属 Viola では、春期に通常の虫媒花を開花させた後に閉鎖花を着け、花弁を開くことなく同花受粉で種子を形成することが知られており、また、オニバスでは水深が浅い場所では虫媒花と閉鎖花の両方を形成するが、水深が深い環境では閉鎖花のみを形成することが知られている。 開放花であっても同花受粉の機構を持つ植物がある。それらを田中 (1993)は、雄動同花受粉(雄蕊が動いて受粉:タチイヌノフグリ)・雌動同花受粉(雌蕊が動いて受粉:アキノノゲシ)・両動同花受粉(雄蕊も雌蕊も動いて受粉:オシロイバナ)・不動同花受粉(雄蕊と雌蕊が開花のときに動いた状態で受粉:メヒシバ)に分類している。 ==自家受粉と他家受粉== 受粉には自家受粉と他家受粉があるが、同一個体内でも自家受粉する花も他家受粉する花もある。 以下に花の形態・特徴と自家受粉・他家受粉の関連を示すが、閉鎖花でない場合はすべての花が自家受粉であるわけでもなく、雌雄異株あるいは自家不和合性でない場合はすべての花が他家受粉であるわけでもない。 閉鎖花(花弁が開かない花) ‐ 閉花自家受粉(同花受粉)開放花(花弁が開く花) 単性花(雄花と雌花が分かれている) 雌雄異株(雄花と雌花をつける個体が別) ‐ 他家受粉 雌雄同株(同一個体に雄花・雌花・両性花のうち2種類以上が同時にある) ‐ 自家受粉・他家受粉 両性花(一つの花に雌蕊と雄蕊がある) 異形花(異形蕊・異形花型自家不和合性) ‐ 他家受粉 同形花 自家不和合性 ‐ 他家受粉 雌雄異熟 ‐ 他家受粉および隣花受粉 上記以外の同形花 ‐ 自家受粉・他家受粉単性花(雄花と雌花が分かれている) 雌雄異株(雄花と雌花をつける個体が別) ‐ 他家受粉 雌雄同株(同一個体に雄花・雌花・両性花のうち2種類以上が同時にある) ‐ 自家受粉・他家受粉雌雄異株(雄花と雌花をつける個体が別) ‐ 他家受粉雌雄同株(同一個体に雄花・雌花・両性花のうち2種類以上が同時にある) ‐ 自家受粉・他家受粉両性花(一つの花に雌蕊と雄蕊がある) 異形花(異形蕊・異形花型自家不和合性) ‐ 他家受粉 同形花 自家不和合性 ‐ 他家受粉 雌雄異熟 ‐ 他家受粉および隣花受粉 上記以外の同形花 ‐ 自家受粉・他家受粉異形花(異形蕊・異形花型自家不和合性) ‐ 他家受粉同形花 自家不和合性 ‐ 他家受粉 雌雄異熟 ‐ 他家受粉および隣花受粉 上記以外の同形花 ‐ 自家受粉・他家受粉自家不和合性 ‐ 他家受粉雌雄異熟 ‐ 他家受粉および隣花受粉上記以外の同形花 ‐ 自家受粉・他家受粉有性生殖に関与しない花 生理的不稔の花(三倍体など) 形態的不稔の花(キク科植物の舌状花など) 単為生殖をする花(セイヨウタンポポ・ヒメジオンなど)生理的不稔の花(三倍体など)形態的不稔の花(キク科植物の舌状花など)単為生殖をする花(セイヨウタンポポ・ヒメジオンなど) ==自家受粉・自家受精を防ぐ機構== ===自家不和合性=== 受粉した花粉が受精することができる性質を和合性(または花粉親和性)と呼ぶ。一般には、他の生物種および属以上に離れた植物の花粉は和合性が低く、受粉しても受精あるいは正常種子形成に至らないことが多い。受粉しても子孫を残せない性質は不和合性と呼ばれ、花粉管の不発芽、花粉管の伸長停止、受精胚の崩壊などが観察される。また、種子が得られ発芽に至る場合でも実生が正常に発育しない場合も含め広義の不和合性とする場合もある。このような現象は異種間・異属間の生殖的隔離の役割を果たしている。同一植物種内においても不和合性が観察されることがあり、近親交配を阻止する遺伝的な制御機構であると考えられている。それらは自己花粉での受精・種子形成を阻害し、自家不和合性と呼ばれている。自家不和合性は同形花型(胞子体型および配偶子型)、異形花型に分けられる。 ===雌雄異熟=== 雌雄異熟とは、一つの花の中の柱頭の受粉可能時期と、葯の花粉放出時期が異なる現象である。柱頭が先に熟す場合を雌性先熟、葯が先に花粉を放出できる状態になる場合を雄性先熟という。雌蕊と雄蕊が成熟する時期が異なることで、自家受粉を避ける機構として機能している。 ===異形花柱花=== 両性花の中には個体によって雌蕊や雄蕊の形が異なる異形花柱花がある。サクラソウ・ナスでは2種類の花(二形花)があり、ミソハギ・アサザでは3種類の花(三形花)がある。これらの花では同じ形の花同士での受粉が起こりにくく、形が異なった花の間での受粉が起こりやすくなっている。雌雄異株よりも交雑が起こりやすいことが指摘されている。 ===雌雄異株=== イチョウ・スイバ・アオキなど雄花と雌花が着く個体が異なる植物では、必然的に他家受粉が行われる。多年草および木本植物にみられ、1年草では観察されない。 ==研究史== 受粉に関する科学的研究はSprengelによる『花の構造と受精』(1793年)から始まったとされる。19世紀にはダーウィンによる『蘭の受精』(1862年)・『受精の研究』(1876年)が刊行され、この分野の発展に刺激を与えた。この時期に受粉方法の記録・分類が行われ、受粉様式が風媒・水媒・動物媒・閉花同花受粉などに整理された。 20世紀に入ると、送粉生態学は生物学分野で重んじられることがなくなり、再び脚光を浴びるのは1950年代以降である。1955年にはドイツのKuglerにより『花生態学』、1966年にはアメリカのF*9725*griとPijlによる『受粉生態学原理』などが著されて研究が盛んになった。 その後、動物行動学・進化生物学分野の知見を取り入れることにより、送粉生態学から受粉生物学へと発展し、20世紀末には受粉に関する総合学術分野としての送粉生態学・受粉生物学が確立している。 =アドルフ・ヒトラーの死= アドルフ・ヒトラーの死の項目では、1945年4月30日、ドイツ第三帝国総統アドルフ・ヒトラーが総統地下壕の一室で、夫人のエヴァ(エーファ)・ブラウンと共に自殺を遂げた経緯について記述する。自殺の手段は、拳銃と劇薬であるシアン化物を複合的に用いたものとされている。 ヒトラーの生前の意向に従い、夫妻の死体はガソリンをかけて燃やされたが、その残骸はソビエト軍の防諜部隊・スメルシにより発見、回収された。ソ連によりヒトラーの死体は秘密裏に埋められたが、1970年に掘り起こされ、完全に焼却された後にエルベ川に散骨された。これらの情報は冷戦終結後の1992年に旧ソ連のKGBと後継組織であるロシアのFSBに保管されていた記録が公開されたことによって明らかになった。 ==自殺に至る過程== 1945年初頭の時点で、第二次世界大戦におけるドイツの戦局は崩壊の危機に瀕していた。東部戦線では、ポーランドを手中に収めた赤軍が、コストシンとフランクフルト・アン・デア・オーダーの間を流れるオーダー川を渡って、82km西方のベルリンを攻略する準備を進めていた。西部戦線でもアルデンヌ攻勢を戦っていたドイツ国防軍は、連合軍に作戦開始地点より更に内側に押し戻される形で完全に敗北し、イギリス軍・カナダ軍はライン川を越えてドイツの中心的工業地帯であるルール地方に侵入しつつあった。その南では、ロレーヌ地方を占領したアメリカ軍が、ライン川流域のマインツとマンハイムに向かって進撃を続けていた。イタリアでは、1945年春のアメリカ軍とイギリス連邦軍による攻勢の結果、ドイツ軍は北部に追い詰められた。軍事作戦と並行して、連合国は2月4日‐11日にかけて首脳会談(ヤルタ会談)を実施し、ヨーロッパにおける戦争終結の形態を議論した。 戦況の悪化を受け、ヒトラーは1945年1月16日から総統地下壕に居を移しており、以降ヒトラーはこの地下壕から統括を行っていた。ドイツ指導部は、ベルリンの戦いがヨーロッパ戦線における最後の戦いとなることを認識していた。1945年4月11日までに、アメリカ軍はベルリンの西方100kmに位置するエルベ川を渡った。4月18日にはドイツ軍B軍集団の32万5000人もの将兵が降伏し、捕虜となった。この降伏により、アメリカ軍がベルリンに進撃することが可能となった。東部戦線では4月16日、赤軍がオーダー川を渡り、ベルリンを守る最終防衛線であるゼーロウ高地を突破するための戦いを開始していた。4月19日までにはドイツ軍がゼーロウ高地から全面撤退し、ベルリン東方の防衛線は消滅した。ヒトラー56歳の誕生日である4月20日、ベルリンは初めて赤軍による砲撃を受けた。4月21日の夜までには、ベルリンの郊外に戦車部隊が到達した。ヒトラーの一部の側近や国防軍首脳部の一部は、南部のベルヒテスガーデンへの疎開を進言したが、ヒトラーはそれを拒否した。 4月22日午後の軍事情勢会議においてヒトラーは、フェリックス・シュタイナーSS大将率いる「シュタイナー軍集団」が、前日にヒトラーから与えられたベルリン救援のための攻撃命令を実行していないと知らされたことで、明らかな神経衰弱に陥った。ヒトラーは感情を抑えられなくなり、ドイツ軍司令官たちの不忠と無能さを怒りに任せて非難し、ついには戦争に敗北したことを初めて認めるに至った。さらにヒトラーは、自分はあくまでもベルリンにとどまり、最後には銃で自殺すると宣言した。ヒトラーはその後、軍医であったヴェルナー・ハーゼSS中佐に、確実な自殺方法を教えてほしいと依頼した。ハーゼは「ピストルと毒」による自殺を提案し、シアン化物の服用と、頭に銃弾を撃ち込むことの併用を勧めた。ヒトラーが自殺を決めたことを知ったヘルマン・ゲーリング国家元帥は、1941年の布告(ゲーリングをヒトラーの後継者に指名していた)に基づいて国家指揮権を自身に移譲するよう求める電報をヒトラーに送った。この電報を受け、ヒトラーに多大な影響力を持つ官房長のマルティン・ボルマンは、ゲーリングがクーデターを企てているのだとヒトラーに説き、彼もゲーリングの反逆を確信した。ヒトラーはゲーリングに返信し、全官職を辞さない限り処刑されることになると伝えた。同日、ヒトラーは彼をすべての官職から解任した上で逮捕令を出した。 4月27日の時点で、ベルリンはドイツの他の地域から遮断されていた。防衛部隊との間の安定した無線通信も失われており、総統地下壕の司令官は電話回線を用いて指示・命令を下すことを強いられていた。同様に、ニュースや情報の入手は公共のラジオ放送に頼らざるを得ない状況だった。4月28日、ロイター通信発のBBCのニュース報道が地下壕で傍受され、その内容のコピーがヒトラーのもとに届けられた。このBBCの報道では、SS全国長官であるハインリヒ・ヒムラーが、西側連合国に対して独自に降伏を提案したが拒絶されたこと、ならびに彼が自らにドイツの降伏交渉を行う権限があると連合国側にほのめかしていたことが伝えられていた。ヒトラーは彼のこのような動きを自分に対する重大な反逆とみなし、同日の午後には抑えられない怒りと苦々しさから、彼に対する罵詈雑言を怒鳴り散らした。ヒトラーはヒムラーの逮捕令を出し、ベルリン総統大本営における彼の連絡将校であるヘルマン・フェーゲラインを逮捕・銃殺刑に処した。 この時点で、ベルリンの赤軍はポツダム広場にまで進出しており、総統官邸への強襲が目前に迫っているという兆候が観察されていた。この危機的状況とヒムラーの反逆に衝撃を受け、ヒトラーは自らの人生の最期についていくつかの決定を下した。ヒトラーはエヴァ・ブラウンと結婚することを決め、4月28日の深夜、 2人は総統地下壕の地図室でささやかな人前結婚式を挙げた。結婚式の後、ヒトラーは妻となったエヴァとともに簡素な結婚披露宴を催した。その後、秘書官のトラウデル・ユンゲを連れて別室に移動し、自身の遺言を口述したのだろうとアントニー・ビーヴァーは考察している。午前4時00分、ヒトラーは遺言の書類に署名し、床に就いた。なお、記録によってはヒトラーが遺書を口述したのは結婚式の直前だということになっているが、いずれにしても、サインのタイミングについては一致している。結果的にヒトラーとエヴァが正式な夫婦として生活したのは、40時間に満たなかった。 翌4月29日にヒトラーは、同盟国イタリア社会共和国の指導者ベニート・ムッソリーニがパルチザンに捕らえられ処刑されたこと、ムッソリーニとその愛人の死体がミラノのガソリンスタンドに逆さ吊りにされたことを知った。この出来事は、ヒトラーが遺言の中でも言及していた決意、つまり自分たちは死後に晒し者にはなりたくないという恐れをさらに強固にした可能性が高い。 4月29日の午後、ヒトラーは自分がヒムラーのSSを通じて入手したシアン化物のカプセルは偽物ではないかと言い始めた。カプセルの有効性を確かめるために、ヒトラーはハーゼに命じて愛犬ブロンディにカプセルを飲ませ、その死を確認した。 4月30日午前1時までに、ヒトラーがあてにしていたベルリン救援のためのドイツ軍部隊が、すべて包囲されるか守勢に立たされていることがヴィルヘルム・カイテルによって報告されていた。4月30日の朝遅くには、赤軍が総統地下壕から500メートルも離れていない場所にまで迫り、ヒトラーはベルリン防衛軍司令官のヘルムート・ヴァイトリング砲兵大将と会談を持った。彼はベルリン防衛軍の弾薬がおそらく夜には尽きるであろうこと、ベルリンでの戦闘行為は24時間以内に停止せざるを得ないことをヒトラーに告げた。同時にヴァイトリングはヒトラーに脱出の許可を願い出た。彼は以前にも脱出許可を願い出て却下されていた。しかしヒトラーからの回答が得られなかったため、彼はベンドラーブロックにある本部に戻った。同日午後1時ごろ、ヴァイトリングは夜を待って脱出を試みることについてヒトラーからの許可を得た。 ==自殺== 4月30日の昼、ヒトラーは2人の秘書官と料理人と共に最後の食事となる昼食を摂った。献立は野菜のスープとマッシュポテトであったとも、ラビオリであったとも言われている。その後、ヒトラーとエヴァは地下壕のスタッフや、ゲッベルス一家やマルティン・ボルマン一家、秘書官やドイツ国防軍の将校らに最後の別れを告げた。午後2時30分ごろ、ヒトラーとエヴァは「居間」と呼ばれていた小部屋に入っていった。 「午後3時30分ごろに大きな銃声を聞いた」と、複数の証人がのちに伝えている。数分待って、ヒトラーの世話係ハインツ・リンゲが、ボルマンの立ち合いのもと居間のドアを開けた。すぐに焦げたアーモンドの匂いに気付いたと、リンゲはのちに証言している。そのような匂いは青酸(シアン化水素水溶液)の一般的な特徴として知られている。 ヒトラーの副官で親衛隊少佐のオットー・ギュンシェが、居間に入りソファに腰掛けた2人の死体を確認した。エヴァの死体はヒトラーの左手にあり、膝を胸に抱え込んだ姿勢で、ヒトラーから遠ざかるように倒れていた。ヒトラーの死体の状態についてギュンシェは、「ぐったりと座っており、右のこめかみからは血が滴っていた。彼はワルサーPPK7.65で自らを撃ったのだ。」と述べた。今日では、ヒトラーはまずシアン化物(青酸カリ)のカプセルを噛み砕き、その後右のこめかみをピストルで撃ったものと考えられている。 自殺に使われたピストルはヒトラーの足元に落ちていた。ヒトラーの頭から滴った血が、居間の床に血だまりをつくっていた。ヒトラー専属の身辺警護部隊(英語版)の隊員だったローフス・ミッシュによれば、ヒトラーの頭部は前方のテーブルの上に横たわっていたという。リンゲの証言では、エヴァの死体には外傷が見当たらず、その顔からはシアン化物を用いて服毒自殺したことが見て取れた。 ギュンシェが居間を出て、ヒトラーの死を地下壕に残る人々に発表した。その後すぐに、地下壕の人々は煙草をふかし始めた(ヒトラーは生前喫煙を嫌悪し、許可しなかった)。ヒトラーの生前の指示に従い、2人の死体は地上階に運ばれ、地下壕の非常口を経て、総統官邸裏の中庭に降ろされた後、燃やすためにガソリンを浴びせかけられた。ミッシュは、誰かが「早く上階へ急げ、彼らはボスを燃やしている」と叫んだのを聞いている。何度かガソリンへの点火に失敗した後、リンゲは一旦地下壕に戻り、厚く巻かれた紙を持って帰ってきた。その後、ボルマンが紙に火をつけ、それを死体の上に投げた。燃え上がったヒトラーとエヴァの死体に向けて、地下壕出入り口のすぐ内側から、ボルマン、ギュンシェ、リンゲ、ゲッベルス、エーリヒ・ケンプカ、ペーター・ヘーグル、エヴァルト・リンドロフ(英語版)、ハンス・ライザーらがナチス式敬礼を送った。午後4時15分頃、リンゲは親衛隊少尉ハインツ・クリューガーと親衛隊曹長ヴェルナー・シュヴィーデルに、ヒトラーの居間の絨毯を巻き上げて燃やすよう命じた。シュヴィーデルは居間に入った瞬間、ソファのひじ掛け付近に「大きな皿」ほどの大きさの血だまりがあるのが目に入ったとのちに語っている。シュヴィーデルは、空の薬莢がひとつ、絨毯の上にピストルから1mmほど離れて落ちているのに気づき、かがんで薬莢を拾い上げた。2人は血痕のついた絨毯を回収すると、総統官邸の中庭まで運び、その場で燃やした。 その日の午後を通して、赤軍は断続的に総統官邸の付近を砲撃していた。ヒトラーらの死体をさらに燃やすため、親衛隊の兵士が追加のガソリン缶を運んできた。リンゲによれば、燃やしたのが屋外であったため、2人の亡骸を完全に燃やし尽くすことはできなかった。死体の焼却は午後4時00分から6時30分にかけて行われた。午後6時30分ごろ、リンドルフとライザーが、砲撃でできた浅いクレーターの中に燃え残った2人の亡骸を掩蔽した。 ==余波== ヒトラーの死亡を外部に対して初めて示唆したのはドイツのメディアだった。1945年5月1日、ラジオ局「ライヒセンダー・ハンブルク」は通常の放送を中断し、まもなく重大なニュースが発表されるとアナウンスした。ワーグナーとブルックナーの葬送音楽が流された後、ヒトラーが遺言で後継者に指名した海軍元帥カール・デーニッツがヒトラーの死を発表した。デーニッツはドイツ国民に「総統」の死を悼むよう要求し、ヒトラーは首都を防衛するため英雄的な死を遂げたと述べた 。軍と国家を維持するため、デーニッツは西部でのアメリカ・イギリスへの部分降伏を画策し、東部のドイツ軍部隊を西方に移動した。この結果、約180万人ものドイツ軍兵士がソビエト赤軍の捕虜になることを回避することができた。デーニッツの方策は一定の成功を収めたが、一方で戦闘は5月8日まで継続されることとなり、人的被害は拡大した。 ヒトラーの死から13時間が経過した5月1日の朝、スターリンはヒトラーの自殺を知った。5月1日午前4時00分、ドイツ陸軍将軍ハンス・クレープスが、条件付き降伏を模索するため赤軍司令官ワシーリー・チュイコフと会っており、その際にクレープスはチュイコフにヒトラー死亡の情報を伝えていた。スターリンはドイツの無条件降伏を要求し、さらにヒトラーが死亡したことを確認するよう求めた。スターリンは赤軍の防諜部隊SMERSH(スメルシ)に、ヒトラーの死体を発見するよう命じた 。5月2日の早朝、赤軍は総統官邸を制圧した。官邸地下の総統地下壕では、クレープス将軍とヴィルヘルム・ブルクドルフ将軍が頭部を撃ち抜いて自殺した。 5月4日、スメルシの指揮官イワン・クリメンコにより、ヒトラーとエヴァ、そして犬2匹(ブロンディとその子ヴルフと考えられている)のひどく焼けた死体が発見された。ヒトラーらの亡骸は砲弾のクレーターに埋もれており、翌日に掘り起こされた。スターリンはヒトラーの死を確信するのに慎重を期しており、その情報を公に発表することを禁止した。1945年5月11日までに、ヒトラーの歯科医ヒューゴ・ブラシュケ(英語版)、歯科助手のケーテ・ホイザーマン、歯科技師のフリッツ・エヒトマンらにより、クレーターから回収された歯の残骸がヒトラーとエヴァのものであることが確認され、回収された下顎(歯の治療跡があった)が、ヒトラーのものであることが証明された。公式な検死報告書には、銃弾によるヒトラーの頭蓋骨の損傷、口腔内のガラス破片の両方について記録されており、スターリン自身が1945年に認可したが、彼は大敵の死を容易には信じようとしなかった。ヒトラーとエヴァの遺骸は、スメルシによって埋めたり掘り出されたりを繰り返した。ヒトラーらの遺骸は当初、1945年6月上旬にベルリン西方の森に墓標なしで埋められたが、その後再び掘り出され、最初の埋葬から8ヶ月後、マクデブルクのソ連の駐屯地に秘密裏に埋葬された。 政治的な目的から、ソ連はヒトラーの運命について諸説を発表した。1945年以降の数年間、ソ連はヒトラーが逃走して生存しており、西側諸国によって保護されていると主張していた 。このようなソ連の策略により、西側関係者の間にもヒトラーの生死について一時的な混乱がもたらされた。ニュルンベルク裁判におけるアメリカの検事トーマス・J・ドッド(英語版)は、「ヒトラーが死んだと言い切ることは誰にもできない」と述べた。ポツダム会談中の1945年8月、アメリカ大統領ハリー・S・トルーマンはスターリンに、ヒトラーは死んだのかと質問したが、スターリンはぶっきらぼうに「ノー」と返答した。1945年11月、ベルリンのイギリス占領地区における防諜部門のトップであったディック・ホワイト(英語版)は、部下のヒュー・トレヴァー=ローパーにヒトラーの死についての調査を行うよう命令し、ソ連のヒトラーが西側で生存しているという主張への反証を試みた。トレヴァー=ローパーによる調査の成果は1947年に本として出版された。 なお日本は、先に死去したアメリカのフランクリン・D・ルーズヴェルト大統領の死去に際し、外交儀礼に則り鈴木貫太郎首相の名で正式に弔意を示す声明を発表したものの、ドイツという最大の同盟国の国家元首であるヒトラーの自殺の報に対しては、弔意を示す声明や半旗の掲揚を行わなかった。さらに、駐日ドイツ大使館は恐らく世界の公的機関として唯一の追悼式を行ってヒトラーの死を悼んだが、日本政府はこれに対して外務省の儀典課長が式典に参列したのみであった。 ==遺骨== 1970年には、スメルシの施設は KGBのコントロール下、東ドイツ政府に移譲される予定だった。ヒトラーの埋葬場所がネオナチの聖地になることを恐れ、KGB議長のユーリ・アンドロポフは部隊に遺骸を破壊する許可を与えた。ソビエトのKGBチームは詳細な埋葬場所を指示され、1970年4月4日秘かに10体の遺骸を掘り出し完全に焼却して灰をエルベ川に散骨した。 この1年前の1969年にソビエトのジャーナリスト、レヴ・ベジメンスキー(Lev Bezymensky)が、スメルシの検視レポートに基づき西側で本を出版した。しかし初期の情報攪乱のため、歴史家はその情報の信頼性に疑いを持つ場合がある。 しかしソ連崩壊後の1993年に、KGB(FSB)が、KGBの元メンバーによる公的検死記録その他の報告書を公表した。これらにより歴史家は、ヒトラーとエヴァの死体のその後について見解の一致に達した。また、これによりトレヴァー=ローパーの1947年の著書『The Last Days of Hitler』で示されたヒトラーの死についての見解が裏付けられた。 1993年にロシア政府は、ヒトラーの下頤骨と銃弾の痕のある頭骨の一部を、モスクワにあるロシア連邦保安庁(FSB)の公文書館が保管していることを発表した。アメリカ・コネチカット大学のチームがロシア政府の許可を受けて頭骨のDNA鑑定を実施したところ、この頭骨は女性のものであるとの結果が出たという。 2018年、法医学者のフィリップ・シャルリエがロシアの連邦保安局と国立公文書館の許可を受け、保管されていたヒトラーの遺骨の調査を開始(遺骨調査の許可は1946年以来とされている)。ロシアに保管されていた頭蓋骨の断片が、過去に撮影されていたヒトラーのレントゲン写真と酷似していたことから本物と断定。その上で、頭蓋骨に残された弾痕、虫歯に着いた青みがかった付着物から、銃で頭を撃ち抜く行為も青酸カリを服用する行為も両方行われたのであろうと結論付けている。 ==戯曲化== 『アドルフ・ヒトラーの死』は1973年イギリスで作製されたテレビ映画。総統地下壕を舞台に、ヒトラーの人生最期の10日間を描く。タイトルロールを演じたフランク・フィンレーが、BAFTA の最優秀男優賞を受賞した。不正確な映画だという批評もある。『アドルフ・ヒットラー 最後の10日間』は、1973年に上映された、エンニオ・デ・コンチーニ監督、アレック・ギネス主演による映画。アドルフ・ヒトラーの死に先立つ数日間を題材とする。不正確な点が多いという批判がある。『地下壕』は1981年作製のテレビ映画。監督はジョージ・シェーファー。原作は1978年ジェイムス・オドネル著の『地下壕』で、戦争の最後の数か月と、総統地下壕での1945年1月17日〜5月2日を描く。アンソニー・ホプキンスがヒトラーに扮してエミー賞を受賞した。『ヒトラー 〜最期の12日間〜』は2004年公開のドイツ映画。広く総統地下壕内外と、アドルフ・ヒトラーと第三帝国の最後の数日を描く。オリヴァー・ヒルシュビーゲル監督は、実際の風景や雰囲気を正確に再現するため、目撃者の口述、生存者のさまざまな回顧録、その他に広く当たった。ヒトラーの秘書官だったトラウデル・ユンゲへのインタビューも行っている。 =タイ王国の便所= タイ王国の便所(タイおうこくのべんじょ)ではタイ王国の便所について述べる。 1917年から1928年の間、タイ政府はアメリカの民間公益団体であるロックフェラー財団から医療、公衆衛生分野における援助を受けて、地方での便所の建設を進め、設置数を増やしていった。当時はまだ試行錯誤の段階にあり、タイの地域風土に応じてさまざまな形のトイレが試作された。例えば、便器のふたの閉め忘れに対応したブンサアート式便所(*9920**9921**9922**9923**9924**9925**9926**9927**9928**9929**9930**9931**9932**9933**9934**9935*)や、腐敗槽・浸透槽システムをもつコーハーン式便所(*9936**9937**9938**9939**9940**9941**9942**9943**9944**9945*)などである。 さらに第二次世界大戦後に現代家屋が多く建設されると同時に水洗式便所が設置されるようになった。これが好評となり、現在に至るまで水洗式便所が増加してきている。 タイ王国では便所に関する規則が数多く取り決められているが、公衆衛生に関する一番初めに制定された法律はバンコク都公衆衛生法令(*9946*.*9947*. 116)である。1997年には1979年には建築物管理法に基づく第39号内務省令、さらに2005年に身体障がい者、弱者、高齢者に対応したバリアーフリーの衛生設備規則が取り決められた。 タイ政府にとっても昔からタイの公衆便所は、公衆衛生、環境の観点から重要な懸案事項であった。公衆便所はタイ保健局(*9948**9949**9950**9951**9952**9953**9954**9955**9956*)が管轄しており、公衆便所の調査や基準値の測定を行う。2006年にタイ政府は公衆衛生の発展の上で重要な国際会議となったWorld Toilet Expo & Forum 2006のホスト国となり、さらに多くの公衆便所の建設計画を企画している。 タイ王国では便所は古くから使用されてきた。便所の使用者は主に三つの社会階層集団に分けることができる。まず王族、豪族、貴族などの上流階層、次に戒律下にある僧集団、そして社会の大半を占める庶民階層である。しかしこの庶民階層は便所を使用せず、それぞれ適宜な場所で排泄をすることが多く見られた。そこで1897年に政府は「バンコク都公衆衛生法令」を発令し、バンコク市民は便所で排泄するように取締りを行った。 ==呼称== 「便所」(スワム:*9957**9958**9959**9960*)のタイ王国学士院版タイ語辞書による意味は、「排便排尿する処」(*9961**9962**9963**9964**9965**9966**9967**9968**9969**9970**9971**9972**9973**9974**9975**9976**9977**9978**9979**9980**9981*)(俚言では「うんちするところ、もしくはおしっこするところ」(*9982**9983**9984**9985**9986**9987**9988**9989**9990**9991**9992**9993**9994**9995*)と呼ばれる)と記述している。 この「便所」という言葉は古くからあり、現王朝であるラッタナコーシン王朝以前から用いられている。 モンルタイ・チャイヤウィセート著『タイ国の便所と衛生器』(*9996**9997**9998**9999**10000**10001**10002**10003**10004**10005**10006**10007**10008**10009**10010**10011**10012**10013**10014**10015**10016**10017**10018**10019**10020**10021**10022**10023**10024**10025**10026**10027**10028*)では、「便所」を以下のように詳説している。 北タイ語で「スワム」は、「仏壇もしくは僧の寝所」を指す語である。寝所は特に寺の住職の寝所を指す。さらに東北タイやラオスでは、「スワム」は娘の寝室もしくは新郎新婦の寝室を指す。「便所」の他の語には、スワム(*10029**10030**10031**10032*)、ホーンスカー・ウェート(*10033**10034**10035**10036**10037**10038**10039**10040* *10041**10042**10043* (*10044**10045**10046**10047*))、ターン(*10048**10049**10050*:僧用の便所)、シーサムラーン(*10051**10052**10053**10054**10055**10056**10057*)、ウモーン(*10058**10059**10060**10061**10062**10063**10064*)(この2語は王宮に住む女性または王族ではなくとも宮殿の女性が排泄する場所を意味する。) 高位の貴族もしくは王族に対しては、クメール語を起源とするホーンバンコン(*10065**10066**10067**10068**10069**10070**10071**10072**10073*)が用いられる。 現在では一般的にホーンスワム(*10074**10075**10076**10077**10078**10079**10080**10081*)やホーンスカー(*10082**10083**10084**10085**10086**10087**10088**10089*)の語が用いられ、水洗式の便座もしくはしゃがみこんで用いる便器がおかれている小部屋である。 「便所」を意味する一般的なもうひとつの語である「スカー」(*10090**10091**10092**10093*)はラーマ5世時に設立された「公衆衛生局」(グロム・スカーピバーン:*10094**10095**10096**10097**10098**10099**10100**10101**10102**10103**10104**10105*)の略語「グロム・スカー」(*10106**10107**10108**10109**10110**10111**10112*)から派生し、さらに綴りが*10113**10114**10115**10116**10117**10118**10119**10120**10121*に変化して、「ホーン・スカーピバーン(衛生室)」(*10122**10123**10124**10125**10126**10127**10128**10129**10130**10131**10132**10133**10134*)と呼ばれるようになり、さらに短縮されて、「ホン・スカー」(*10135**10136**10137**10138**10139**10140**10141**10142*)と呼ばれるようになったと見られる。ホーンスカーとは、「公衆衛生の観点から、排便排尿のために建てられた部屋」を意味し、当時、公衆衛生局(グロム・スカー)が王都の衛生環境の整備と、防疫を担当していたことから名づけられたのである。 ==歴史== ===スコータイ時代・アユタヤ時代=== 便所の使用に関連する証拠としては、スコータイ時代から人々は排便を処理する方法を確立しており、歴史的な証拠として便器(おまる)の存在が認められている。「スコータイ式便器」と呼ばれている。この便器は石製で、尿を受ける溝と中央に便を落とす穴が開いている。臭気がひどくならないようにするために尿と便はそれぞれに分けて回収された。 特に王や豪族といった地位の高い人々が特権的に住居の中に便所を建設するようになり、次第にタイの便所が発展していった。平民は部屋を均一に仕切っており、おそらくは便所を設置していなかったと見られる。さらに便所に関しては特別な呼称があり、ティ・ロン・バンカン(*10143**10144**10145**10146**10147**10148**10149**10150**10151**10152*)もしくはホーン・バンコン(*10153**10154**10155**10156**10157**10158**10159**10160**10161*)と呼ばれた。特に王族の便をバンコンといい、王族は排便の際には容器の中に排泄し、その従者が廃棄する。この便を捨てる場所のことをサターン・ティ・コーン・スワム(*10162**10163**10164**10165**10166**10167**10168**10169**10170**10171**10172**10173**10174**10175*)もしくはサターン・ティ・プラバンコン(*10176**10177**10178**10179**10180**10181**10182**10183**10184**10185**10186**10187**10188**10189**10190**10191**10192*)といい、便所はにおいを防ぐために宮殿から離れた場所に建設された。 ナーラーイ王治世のフランス外交官シモン・ド・ラ・ルベールによる1688年の記録に以下のような便所の記述がある。 サヤーム王国において、栄誉ある責務のひとつと考えられていることに国王陛下の便壷の処理の役目を拝命することがある。便壷の中の便は取り決められた場所で廃棄され、その場所には誰も入ってこないように衛兵によって厳重に警備されている。これは魔術に関わっており、サヤームの人々は肉体から生じる排泄物を呪物として用いることができると考えているためである。 僧集団である僧伽に関してもすでに律によって便所の設置が取り決められており、ウェート(*10193**10194**10195*)もしくはウェート・クティー(*10196**10197**10198**10199**10200**10201**10202*)と言われる。この便所はレンガや石で作られ、さらに崩れないように補強材として木材が使われていた。便器の中央には便を落とす穴があり、さらに石、レンガや木の板で作られた蓋がある。便所によっては、四方を壁に囲まれた小部屋の形をとっていた。 さらに一般的な平民は、排泄をすることを「野良へ行く」(*10203**10204**10205**10206**10207**10208*:パイ・トゥン)、「渡し場へ行く」(*10209**10210**10211**10212**10213*:パイ・ター)、「森へ行く」(*10214**10215**10216**10217**10218*:パイ・パー)と表現した。このことから平民は一般的に個人の民家の中に排泄のための特別な施設を持っていなかったことがわかるだろう。平民は野辺、森、川辺、森のなかで排泄をしたのである。森の近くの村では便意を催すと森に入り、排泄のために適切な場所を探した。平野の村では、村の田畑の中にある林や茂みを排便の場所に選ばねばならなかったのであるが、排便の邪魔をしないように木の棒を持って豚を追い払いながら排便をした。水辺の近くにある村では、渡し場や川辺で排泄をして、排泄後水に流した。 ===ラッタナコーシン時代:王都内=== 王朝年代記によると、ラーマ1世の治世の王の便所(ティ・ロン・プラバンコン)に関する記述があり、「いつも便所を探して降りられたのであるが、今日の大宮殿はそうではなかった。黎明(午前六時ごろ)まではまだかなり時間があり、あたりはまだ薄暗い。ようやく大宮殿の裏手の便所にたどり着いた。」と書かれている。 便所に行くために宮殿から出ることはかなり危険であった。さらに王の殺害を目論む暗殺者が現れたこともあり、より安全なものにするために便所は大王宮内に設置すべきものとされた 。 ラーマ2世治世において、サムットソンクラーム県アムパワー郡の王の便所は、密閉された四角の箱と椅子を組み合わせた形をしており、木製であった。便所上部に排泄をするための穴が開いており、内部は中空になっており、内部に入れてある便壺や大きなバナナの葉の容器を取るためにどちらの側からも開けることができる。掃除の際には、従者がこの容器を取り出して容器ごと水の中に投げ捨てる。これによりこの王の便所は掃除が簡単にできるのである。 この王宮における便所の位置は、雑誌『タイ族』(*10219**10220**10221**10222**10223**10224**10225**10226**10227**10228**10229**10230**10231**10232*)に収録された ヂュンラダー・プーミノット(*10233**10234**10235**10236**10237**10238* *10239**10240**10241**10242**10243**10244**10245**10246**10247**10248**10249**10250**10251*:作家ロダワーンの別のペンネーム)が記した『王宮の便所』(*10252**10253**10254**10255**10256**10257**10258**10259**10260**10261**10262**10263**10264*)から推測できる。この文章の中には「いまだ王宮の便所について書かれた本に見たことは一度も無い。人々の間で語り継がれて来たことによると、玉座の裏に小さな部屋があり、王はそちらで排泄をしていた。この小部屋は浴室の近くに作られていたという。」と記されている 。排泄後の汚物は、従者が処理をする。王の排泄物の入った便壺は非常に価値あるもので作られていたので、持ち出してしまうと問題がおきる恐れがあった。そこで、従者は一日三枚、バナナの葉で作った容器を作っておき、 王が排泄された後にこの容器に移し替え、川に流した。 時代が下ると王の便所の便器の特徴と材質が変わっていった。西洋文化が移入されると、金、金メッキなどが用いられていた便器が有釉陶器に変わり、排泄壺は受け口が広く、取っ手がついたものになった。さまざまな有色釉陶器が使用され、小花弁紋などさまざまなデザインも施されたのではないかと考えられている。領主の中には洗面や手洗いのための器を命じて作るものも出てきた。ラーマ5世の治世にはヨーロッパ式のドゥシット宮殿が造られ、ハイタンク式水洗便所が導入された。 ===公衆便所の建設=== ラーマ4世とラーマ5世の治世になると、バンコクの人口が増加し、経済発展が進むと、西洋の文化もまた急速に受容されていた。しかし当時、庶民にとってまだ個人の住居敷地に便所を建設することは好まれず、便所は普及していなかった。排便は路地や大通りの脇、寺の壁の脇、水路の岸辺などで済ませていたため、いたるところに糞尿の山が散らばり目も当てられない状況となり、強い臭いを放ち、伝染病の原因ともなっていった。さらに僧院の便所は寺の敷地に中にあったが、便は水に流したり、地面にばら撒いて捨てたりしていたので、動物が漁りに来たり、ゴキブリが集ってしまっていた。そこで、ラーマ5世の治世後期、1897年公衆衛生局が設立され、同年に初めて公衆便所の建設を開始した。この便所はウェートサーターラナ(*10265**10266**10267**10268**10269**10270**10271**10272**10273**10274*:公共の便所)と呼ばれた。公衆便所はさらに建設が進められ、各タムボン、バンコク都内で設置された。さらに時同じくして1897年政府によって「バンコク都公衆衛生法令」を公布し、バンコク都民に排便は便所で行うように規則を課した。さらに政府では同法令、8条2項に「すべての人民のために便所を建設に取り組む」ことを掲げ、衛生局に便所建設に取り組ませた。 衛生局が建設した公衆便所は、5から6室に仕切られており、主要な通り脇で多くの人々で賑わう商業区域であるヂャルーンクルン通り、バムルンムアン通り、フアンナコーン通りなどに建設された。また寺院の近くの集落にも建設され、ワット・ボーロムタート(*10275**10276**10277**10278**10279**10280**10281**10282**10283**10284*)門前界隈、ワット・カムローイー(*10285**10286**10287**10288**10289**10290**10291**10292**10293**10294*)門前界隈、ワット・マハン(*10295**10296**10297**10298**10299**10300**10301**10302**10303*)向かいに設置された。さらに寺の敷地の中に建設されることもあり、ワット・ボーウォーニウェートウィハーンやワット・ラーチャブラナ(*10304**10305**10306**10307**10308**10309**10310**10311**10312**10313**10314*)では敷地内に設置された。このほかにも領主の宮殿や刑務所や病院といった公共機関の近くに建設された。 最初期の公衆便所は便壺式便所(スワム・タンテー:*10315**10316**10317**10318**10319**10320**10321**10322**10323*)であった。建屋を持ち、内部には屈んで排便をするために穴を開けた木製の便器が設置され、下部には便を受ける容器が設置されている。便は許可証を与えた清掃会社が毎日の回収と搬出、便壺の交換に責任を持っていた。政府は都市部では便壺式便所、農村部で穴式便所(スワム・ルム:*10324**10325**10326**10327**10328**10329**10330**10331*)の公衆便所を作ることで国民の排泄行為を変革する政策をたて、さらに都市の人々に便所の使い方とその重要性を理解させるために規則、罰則を定めた法律を制定した。その甲斐があり法律の施行からおよそ10年もたつと個人宅にもトイレを建設する人々が出始めた。 1917年から1928年までの間、アメリカのロックフェラー財団が医療、公衆衛生分野の援助のためにタイで活動を行った。財団は伝染病の予防のために各地で便所の建設を進め、設置数を増やしていった。続いてタイ人もまた、タイの地域風土に応じてさまざまな形の便所を発明し、設置していった。例えば、排泄口のふたの閉め忘れに対応したブンサアート式便所(*10332**10333**10334**10335**10336**10337**10338**10339**10340**10341**10342**10343**10344**10345**10346**10347*)や、腐敗槽・浸透槽システムをもつコーハーン式便所(*10348**10349**10350**10351**10352**10353**10354**10355**10356**10357*)などである。 こういった古いタイプの便所はゴキブリや悪臭の発生に対処するために作られたが、この技術はさらに節水、安価な建設費、容易に建設が可能など多くの利点があった。コーハーン式便所は穴式便所に取って代わって普及し、現在なお利用されている。 1932年立憲革命の後にプレーク・ピブーンソンクラームが首相になると政府は国民と排便と入浴といった公衆衛生に関する政策の強化を政策に掲げ、衛生観念を植え付けるために児童学習教材を製作した。 ===家屋内の便所=== タイ王国にハイタンク式水洗便所が最初に普及したのは、1917年から1947年ごろであり、宮殿や、教育を受けたり、海外で暮らしたりした者のいる所得の高い家でまず導入された。しかしまだ庶民には普及していなかった。次に一般家庭に水洗トイレの設置が増えるのは第二次世界大戦後であり、新しい近代的家屋の建設が行われるようになって、水洗便所が好まれ、次第に設置が進んでいった。 タイ政府においても国民に水洗便所もしくはコーハーン式便所の設置を行い、家庭内で使用することを推奨し、1942年ごろから積極的に普及させていった。さらに1960年には、米国の団体USOMの支援を受けて政府が地方衛生衛生改善計画を開始した この計画では特に便所の建設と国民の便所使用への意識改革が重要な事業になった。 第七次公衆衛生計画(1991年‐1996年)において、衛生局は便所の様式を今まで使用されてきた浸透槽便所(スワム・スム:*10358**10359**10360**10361**10362**10363**10364*)から、腐敗槽便所へ変更することを推奨している。公衆衛生基準に拠ると、浸透槽はレンガもしくはコンクリート缶を地面に埋設して作り、液体が地面に浸透できるようになっている。固形の汚物は槽下部に溜まり、分解されて養分となり、さらに便所から液体物と一緒に地面に浸透してゆくことで、地面に還元される。水の浸透を利用するためにこの種の便所は「浸透式便所」と呼ばれている。他方、腐敗式便所は汚物を貯める槽を地下に埋設し、固形と液体の汚物を分離させながら、生分解を起こさせる。この間、腐敗槽内の物質は槽の外環境との間で浸透が起こらないように保護される。下水は槽の中に貯められ、固形汚物の沈殿、一連の分解過程が終了した後、浄化された下水のみを管を使って外環境へ放出する。 タイ国家統計局のデータによると、2007年の一般世帯内の便所使用に関する調査で、調査全世帯の87.3%で浸透槽便所が利用され、8.5%がハイタンク式水洗便所、その他が4.2%という結果になっている。 ==便所の種類== ===穴式便所=== 穴式便所(*10365**10366**10367**10368**10369**10370**10371**10372*:スワム・ルム)は、タイ人が使用した最初期の便所である。この便所は地面に便穴を掘るが、乾燥地でも湿地でもかまわず、穴の形状も円形でも、方形でもかまわない。さらに穴を覆うように建屋を立てる。さらに木の板2枚を便穴の上に架けてあることもあり、これによってその上でしゃがみ込めるようにしてある。排便できるようにするために板の間は隙間を開けて敷かれており、使用後に木の板でふたをする。便所の設置場所は、悪臭を避けるために住宅地から離れた場所が選ばれることが多い。そして便穴が一杯になると埋め戻され、新しい場所に便穴が掘られた。公衆衛生局(*10373**10374**10375**10376**10377**10378**10379**10380**10381**10382**10383**10384*)の推奨する適正な穴式便所の設置法によるのであれば、便所には便穴を塞ぐ蓋と換気をするための管が必要である。この管は竹で作られることもあるが、その際には節を抜いて管状にする。この管を便所の地面に突き刺し、槽から臭気を抜く。 タイ人は古来からこのような穴式便所を作ってきたが、ラーマ6世頃に顕著に穴式便所が作られ、この頃に政府が人民の便所として設置に取り組み始め、1897年から公共衛生局は穴式便所と便壺式便所の普及を進めた。 ===便壺式便所=== 便壺式便所(*10385**10386**10387**10388**10389**10390**10391**10392**10393*:スワム・タンテー)は、穴式便所と同様の特徴を持つが、穴の中に便を受ける壺が備えられている。便は用意された壺に排泄された後に捨てられる。 多くの場合、便は毎日集められ、捨てられる。 バンコクで初の清掃会社サアート社(*10394**10395**10396**10397**10398**10399**10400**10401**10402**10403*)は、1897年に創設され、バーンクンパーン(*10404**10405**10406**10407**10408**10409**10410**10411**10412**10413*)を拠点に排泄物の回収運搬を行った。サアート社は20年に渡り、事業を行ったが、その後事業をオーンウェーン社に事業を売却。オーンウェーン社がバンコク市内最大の排泄物回収企業となり、公衆衛生局やバンコク市民から排泄物の回収権を獲得していった。 便壺の処理価格は便壺1個あたり平均して1バーツまたは月6サルン。便壺の利用は義務ではなく、この便壺方式を利用したくない人は公衆便所を利用することもできた。一度便つぼを買うと顧客はサービスを利用することができ、毎晩深夜になると、清掃会社は二頭の牛を使って、四方がトタン板でぴったりと閉じられた回収容器を積んだ荷車を引いて回収した。車一台にはおよそ30‐40壺分を積むことができ、事務所で新しい回収容器と交換する。便壺式便所は維持や伝染病の予防に手間のかかる便所であったので、あまり国民に普及することは無かった。 ===ブンサアート式便所=== ブンサアート式便所(*10414**10415**10416**10417**10418**10419**10420**10421**10422**10423**10424**10425*)は、1932年アユタヤ県タールア郡の公衆衛生局調査官であったイン・ブンサアート(*10426**10427**10428**10429**10430**10431* *10432**10433**10434**10435**10436**10437**10438**10439*)によって発明された便所である。この便所は特殊な特徴を持った蓋付穴式便所であり、舌のようなものを扉に接続して使う。便所に入ってきた人がこの閉じ蓋のように使われている舌を扉にはめ込むと、扉の外で蓋が立っているのが見える。そうすると、外にいる人は便所が使用されていることが分かる。排便が終わると、蓋を元に閉め戻しておかなければ、便所の扉を開き、外に出ることができない。これの便所により便所の蓋の閉め忘れを防ぐことができるという利点がある。 ===コーハン式便所=== コーハーン式便所の考案者はプラヤー・ナコーンプララーム(サワット・マハーガーイー、*10440**10441**10442**10443**10444**10445**10446* *10447**10448**10449**10450**10451**10452**10453*)で、モントン・ピサヌロークの元長官であり、1924年にはスワンカローク県とウッタラディット県の県知事の就任した。当時政府はロックフェラー財団と協力して、有鉤条虫症撲滅計画と国民に便所の使用を促すキャンペーンを行っていた。 穴式便所と便壺式便所は、悪臭や害虫の発生を防ぐには良い構造とはいえなかったため、プラヤー・ナコーンプララームは数多くの新型便所を考案した。その中からついにコーハーン式便所が試作された。この便所は排泄物を下方の槽に落とすようになっており、排せつ物を落とす円管は上に向かって婉曲しており、婉曲部に水を溜め、栓することができる。この便所では水を使って排泄物を流し、地面の下に埋設してある槽に流し込む。また害虫は導管の婉曲部の水で遮られて下の槽に達することはできない。下部の槽の中の排泄物と水は地面中に浸透していってしまうためにこの便所は「浸透式便所」(スワム・スム、*10454**10455**10456**10457**10458**10459**10460*)と呼ばれる。初期の頃の浸透式便所の構造は排泄物を直接地面に浸透させる方式を取ったために病気が伝染する可能性があるという欠点があった。そこで浸透槽の構造を改良し、まず槽をコンクリートで作り、さらに槽を2室もしくはそれ以上に分けて、その中に排泄物を通すことでバクテリアによる腐敗を促す腐敗槽(濾過槽、*10461**10462**10463**10464**10465**10466**10467**10468*)を設置し、その腐敗槽を通った汚水を浸透槽に通し、浸透させる構造になった。この構造によって、完全ではないものの初期の浸透式便所よりも安全性が高まった。コーハーン(アヒルの首)型便器と腐敗・浸透槽式(スワム・スム)構造を持つ便所は、穴式便所や便壺式便所に取って代わるようになり、より清潔、快適、そして安価な便所として普及し、現在なお使用されている。 ===水洗式便所=== この水洗式便所のタイ名「チャッククローク」(*10469**10470**10471**10472**10473**10474**10475*)はかなりややこしい言葉の重なりでできている。「チャック」は引っ張ること、「クローク」はゴオと水の流れる音を意味する。これは特に昔の水洗式便所の水槽は高所に置かれており、使用後にレバーを引いて水を流し落とす方式を用いていた。水音が大きかったため、「引っ張るとゴオと水音の響く便所」(チャッククローク)の名が定着してしまったものである。 近代的な水洗式便所はイギリス貴族ジョン・ハリントンが1596年に発明したと言われている。水のタンクを高所に設置し、ひもを引くと勢いよく水が流れ、クダを通して排泄物を貯留槽に押し流す構造であった。続いて1775年アレクサンダー・カミングスが水洗式便所を改良し、腐敗槽に落とすために下部に設けられた管をU字型に曲げ、滞水できるようにしたことで、現在の水洗トイレのように悪臭が戻ってこないように改善した。 タイ王国のしゃがみこみ式水洗便所は第2次世界大戦後に普及した。当時の水洗式便所の水槽はハイタンク式で便所の高いところに設置してあった。排泄物は水で浄化槽に流され、溜められる。現代の水洗式便所は、フォルムの美しいもの、節水などテクノロジーを利用したもの、高品質の洗浄システムで水音の静かなもの、自動装置を備えたものなどさまざまな様式のものが作られている。 ==公衆便所== 公衆便所とは公共の場にある便所、もしくは一般的な人々が排便に使えるようにしつらえられた場所のことである。昔から便所はタイ王国の公衆衛生や環境の観点から重要な場所であり、タイ保健局が公衆便所の管轄機関となっている。 ===公衆便所に関する基準=== 2004年保健局はタイ王国内で1,100カ所の公衆便所を調査し、20県で5,786人が清潔な便所や十分な施設がないとして公衆便所のみを使用している。公衆便所の76%が男女別の便所。身体障がい者用公衆便所は総数の10%。衛生的もしくは中程度の便所は58.9%、 不衛生な便所は19.5%である。また34%の公衆便所で悪臭があり、83.6%の人が水にぬれた便座の上で腰を浮かせながら用を足している。また22.1%の人が便座の上に土足で載ったり、便座を上げた上で便器の縁に載ったりして用を足している。さらに6.5%の人が便所を使用した後に手を洗っていないとの結果が出ている。 推計によると2006年のタイ王国の公衆便所はノンタブリー県、ロッブリー県、チョンブリー県、ラーチャブリー県、ナコーンラーチャシーマー県、コーンケン県、カムペーンペット県など12県に6,149か所以上設置されているとみられる。2006年3月時点で基準に達していない便所は5,993か所、90%で衛生項目に問題があり、多くはゴミ箱の蓋が閉まらない、トイレットペーパーもしくは洗浄用ホースがない、手洗い用の石鹸がないなどの項目である。アクセシビリティ項目においては76%で問題があり、多くは身体障がい者、高齢者、妊婦に配慮した便所がないなどの項目である。安全項目においては69%に問題があり、男女に分かれていない、乾燥していない土地に立っている、人目につかないところにあるなどの問題がある。 2009年保健省は衛生項目、アクセシビリティ項目、安全項目の基準に達しているタイ王国内の公衆便所は40.37%である。基準に達した公衆便所の割合は、デパート 88.52%、病院 83.11%、道路脇 67.02%、観光地 62.91%、公園 60.06%、市場 48.6%、公共施設 47.28%、学校 44.45%、ガソリンスタンド 44.07%、バスステーション 41.4%、レストラン 36.15%、寺院 11.75%。 タイ王国の公衆便所はまだ身体障がい者に対する配慮が十分といえず、保健局によると2004年20県1,100カ所の便所を調査した内で、障がい者用の便所は10%に過ぎず、公共施設、公共交通機関、ホテル、公園、レストラン、スポーツ競技場、娯楽施設、観光地など公共の土地などにわずかに設置されているだけである。さらにその数少ない便所の多くは身体障がい者用の便所があっても、鍵がかかっていたり、掃除用具置き場になっていたりして、使用できなくなっていることも多い。そこで保健省では、各所に身体障がい者の便所を設けるように啓蒙普及活動を進めている。 ===支援と普及啓蒙=== 2005年保健省とタイ国会議展示会事務局(TCEB)はタイ王国の公衆便所を普及開発するための基本計画を策定した。その中で、学校、病院、宗教施設、公園、ガソリンスタンド、市場など11種類の目標地域を定め、衛生(Healthy)、アクセシビリティ(Accessibility)、安全(Safty)の三点を「HAS」評価基準として定め、改善していく計画が実行された。 2006年タイ王国は第2回世界トイレ会議( World Toilet Expo & Forum 2006)の主催国となった。この会議は2006年11月16‐18日の期間にインパクト・ムアントーンターニーのインパクトアリーナで開催され、アメリカ、イギリス、ドイツ、日本、香港、中国、インドネシア、オーストラリア、インド、シンガポール、ヴェトナムなど世界19か国・地域の代表が参加した。会議は「公衆便所の発展」に関する問題解決の糸口を討議するために行われた。さらにタイ王国における便所の展示紹介や様々な新型便所が紹介も行われた。この会議を通して、トイレ関係者は改めて公衆便所の改善の必要性を確認した 。 さらに保健局では公衆便所に関する様々な事業を行っている。たとえば「公衆便所監視計画」(Toilet Spy計画)はボランティア参加型の計画であり、市民の代表が注意、管理、巡回監視したり、公衆便所が基準に達するような解決の糸口を保健局に提案したり、実施したりする。 また保健局の公式計画として、2006‐2009年タイ公衆便所開発計画が策定されており、三つの大きな柱として、衛生、アクセシビリティ、安全の改善を定めている。この計画には内務省地方行政局、天然資源環境省国立公園・野生動物・植物局、石油企業が名を連ね、参加している。 ==便所と法== タイ王国では便所に関する多くの規則が取り決められているが、すべて便所に関する法律に明記された条項に基づいている。 まずタイ国内法律における便所、汚物の管理に関する条項は、伝染病の発生の事態に対応することから始まり、1897年バンコク都公衆衛生法令(*10476*.*10477*. 116)が制定された。これはバンコクの公衆衛生を規定したタイで最初の法令であり、伝染病の防除と市民の便所、排便処理の規制を定めた。1926年には獅子王小印璽(文官最高位のみ使用できる印璽、*10478**10479**10480**10481**10482**10483**10484**10485**10486**10487**10488**10489**10490**10491**10492**10493**10494*)によって、すべてのモントンに対して排泄物処理の実施と川沿いの便所の撤去に関する衛生管理命令を行った。1934年には公衆衛生法が発布。1937年に排泄物堆肥化管理法が制定された。さらに1941年に公衆衛生法が改正され、便所の設置、便所設置禁止地域、便所の衛生管理に関する規定条項が加えられた。さらに継続して修正が加えられる中で1937年排泄物堆肥化管理法と1941年公衆衛生法を廃止。1992年公衆衛生法を発布して、現在に至っている。 この他に、1979年建築物管理法に基づく、1994年第39号内務省令では、建物の管理品質基準の一つとして建築物別の便所と便器の数を規定している。 2005年身体障がい者、虚弱者、知能障がい者に対する建物内での利便性についての規定に関する省令では、以下のように規定している。 適用される施設は、病院、病院施設、福祉施設、保健所、 官公庁、公的事業、法定公機関の施設、教育施設、政府図書館・博物館施設、公共交通機関施設。300m以上の一般市民にサービスを提供する施設:劇場、ホテル、会議場、スポーツ競技場、ショッピングセンター、デパートなど。それ以外の2,000m以上の一般市民にサービスを提供する施設。以上の施設では身体障がい者、虚弱者、精神障がい者用の便所を、便所ごとに少なくとも1室設置しなくてはいけない。 さらに法律の条項では、身体障がい者用の便所について細かい取り決めがなされている。 ==便所の文化== ===タイ人の便所の利用方法=== タイ人のトイレ使用の文化はもともと昔からしゃがみこんで用を足していた。この形態は消化しやすく、繊維の長い食品を食べがちなタイ人の食慣習から、排泄に長い時間をかけずともよく、足がしびれることもないために適している。しかし、消化するのに時間のかかるものを食べがちな食習慣をもつ西洋人にとってしゃがみ込み式の排泄様式は不便であり、椅子式の便座に座って用を足さなくてはいけない。現在生活様式が西洋化しており、タイでもしゃがみこみ式便器が少なくなってきている。便座式水洗便所は、都市農村ともに設置個所が増えてきている。しかし、タイ人は昔からのしゃがみこみ式の排泄様式に慣れているために調査によると22%の人が水洗式便所の座椅子の上に足で載り、しゃがみこんで使用しているという。 公衆便所での空室の待ち方は、タイでは個室毎に列を作って待つが、ヨーロッパ、アメリカ、日本および多くの国々では、入り口に列を1列のみ作り、空室ができると初めに列に並んだ人からそれぞれの空いた個室に入る方式を取る。このような待機方法は利点が多く、時間がかからず、また先着先取の原則に従って公正に順番を回すことができる。 ==便所に関わるタイの慣用句== タイの慣用句の中には便所に関するものがあり、あてつけた多くの隠された意味を含んでいる。古い慣用句には「便所七つ分の糞である」(ペン・キー・チェット・ウェット、*10495**10496**10497**10498**10499**10500**10501**10502**10503**10504**10505**10506**10507**10508**10509*)というものがある。これは「この上もなく嫌だ」という意味である。キーは「糞」もしくは糞のように嫌われるものであり、ウェットは「便所」のことである。わずかな糞であっても嫌われるのに、もし便所七つ分(チェット・ウェット)の糞があるのならば、この上もなく嫌なものになるのである。 便所は嫌なものを隠喩する。別の慣用句によると、娘について便所で比喩することわざがあり、「娘がいることは、家の前に便所があるようなもの」(*10510**10511**10512**10513**10514**10515**10516**10517**10518**10519**10520**10521**10522**10523**10524**10525**10526**10527**10528**10529**10530**10531**10532**10533**10534**10535**10536**10537**10538**10539**10540**10541*)というものがある。 便所は悪臭を発するものであるが、家の前にあると家の主人に悪臭を流し続けてしまう。これを家にいる娘にかけて、よく面倒を見て置かずうっかりしていると、両親に恥をかかせてしまうことがあることを述べている。たとえば父親のいない子どもを身ごもったり、結婚前に子どもを身ごもったりしてしまうようなことは、昔はひどく品の無いこととされたのである。 ===文学の中の便所=== 文学における便所は、小説から歌詩までさまざまに語られる。小説である『クンチャーン・クンペーン物語』では2章において便所について語られる個所があり、クンチャーンがクンペーンに対する讒言をし、パンワサー王への謀反の罪を着せた。その起訴事実のひとつが、徒党を組み、王族でもないのに厚かましくも住居の中に便所を建設したことである。昔、平民が住居の中に便所を作ることは身分不相応なこととみなされたのである。 もう一つは、ワントーンがクンペーンと縁を切ろうと思い立った章である。これはワントーンが愛した夫を思い、千々に心の乱れるヒロインとして、苛立ちとともに思いの丈を表明し、クンペーンとの生活の痕跡を家から消そうと大掃除をするシーンである。 雑誌「タイ族」(*10542**10543**10544**10545**10546**10547**10548**10549**10550**10551**10552**10553**10554**10555*)に収録された ヂュンラダー・プーミノット(*10556**10557**10558**10559**10560**10561* *10562**10563**10564**10565**10566**10567**10568**10569**10570**10571**10572**10573**10574*:作家ロワダーンの別のペンネーム)の『シーサムラーン』(*10575**10576**10577**10578**10579**10580**10581**10582*)にも以下のように記述されている。 便所とは穴式便所であり、家屋の外に作られる。便所穴が一杯になると、土で埋め返したのちに新しい穴を掘る。クンペーンの便所は、結婚してから夫婦として一緒に生活をし、一年越しで戦士として戦場に赴くまで排泄をしてきた便所である。そして浮気をしたクンペーンの汚物もまた長い間そこに溜められてきたのである。汚物が便所の下の土と同じようになると準備が完了する。ワントーンは言ってないかもしれないが、人にお金で頼んでやってもらったのだろう。土を掘って汚物を新たに混ぜ返し、新しい土で埋め、臭いの古い痕跡を消す。そうすることで汚物はなくなったが、夫の汚物のにおいだけがワントーンの鼻と家に不吉なものとして漂うのである。 ポップカルチャーのなかにも、便所に関係する歌詞を書いている作詞家がいる。便所の滑稽さを強調してうたっている曲では、チャイラット・ティアップティアン『便所はどっちにあるの』(*10583**10584**10585**10586**10587**10588**10589**10590* *10591**10592**10593**10594**10595**10596**10597**10598**10599**10600*『*10601**10602**10603**10604**10605**10606**10607**10608**10609**10610**10611**10612*』)があり、この曲は1971年の映画『迷い時期』(*10613**10614**10615**10616**10617**10618**10619*)(パイロート・サンウォリブット/ララナー・スラーワン監督) の挿入歌である。この曲の原曲の作者はピヤポン・エーノックグン(*10620**10621**10622**10623**10624* *10625**10626**10627**10628**10629**10630**10631*)で友人グループと歌っていたが、パイロート監督がこれを採用し、チャイラットが新曲を作成した。 もう一つの曲の歌詞に中に便所が出てくるのは、『トイレを貸して』(『*10632**10633**10634**10635**10636**10637**10638*』)である。この曲もまた映画『ゴースト・ステーション』(ユッタルート・シッパパーク監督、タイ語名『ゲイ、集まってね』(*10639**10640**10641**10642**10643**10644**10645**10646**10647**10648**10649*))の挿入歌。映画の主演はセーナーホーイ・クリヤティサック・ウドムナートとプーン・ナーコーン。曲はセーナーホーイがメインボーカルであり、ラップ部分はダージムが歌い、プーン・ナーコーンも副ボーカルとして参加している。歌の内容は性の権利について述べたものであり、男性のゲイが公衆便所に入る時の問題を訴えたものであるが、ユーモアを交えて歌っている。 =帯広市図書館= 帯広市図書館(おびひろしとしょかん)は、北海道帯広市にある公共図書館である。 帯広市図書館のルーツは、1907年に当時の帯広町民が始めた巡回文庫とされる。1916年に町民有志の資金により図書館が建設された後、1920年に施設と蔵書が帯広町に寄付されたことで「町立大典記念帯広図書館」が発足した。その後、公民館図書館として業務が行われ、数度の移転を経て施設、蔵書、サービスの拡充が進み、1963年に図書館法に基づき「帯広市図書館」として独立した。1964年に自動車文庫が開始され、1968年に本館が新築された。時代が平成に入ると施設の老朽化や狭あい化が目立つようになり、帯広駅の南隣に位置する現在地に2006年に新築移転した。 運営は帯広市による直営とし、「市民と一緒につくる図書館」を合言葉に掲げ、地元住民や団体からの寄付などを通じた財政的支援とボランティアによる人的支援が熱心に行われている。運営方針に『「十勝圏の拠点図書館」としての役割』、『ソフト施策の充実』、『市民との協働』を掲げ、帯広・十勝の情報発信・生涯学習の拠点の一つとして、地域住民に向けた図書館サービスの提供、子どもの読書活動を推進する活動、郷土文化の継承や地域の文芸振興に関する事業などを行っている。 帯広市では、市中心部に図書館(以下、本館とする)を設置し、移動図書館を運営しているほか、市内のコミュニティ施設等に図書室・図書コーナーを開設している。 ==歴史== ===町立図書館の発足まで=== 帯広市図書館の歴史をさかのぼると、1907年(明治40年)に創設された十勝教育会が1913年(大正2年)に十勝教育会図書館を設立して管内の小学校に巡回文庫を実施したことから始まる。晩成社の開拓団27名による帯広の開拓が始まってから30年後のことで、図書の移動にはリヤカーを用いたとも伝えられる。 まもなくして1916年(大正5年)に、当時の帯広町の町内有志から集められた資金により建物が新築され、十勝教育会が維持する大典記念帯広図書館が発足した。その後、管理上の問題から建物および図書が帯広町に寄付されることになり、1920年(大正9年)に町立大典記念帯広図書館として発足した。時代は昭和に入り1930年(昭和5年)になると建物の老朽化のため移転することになり、前年に建築された十勝会館へ入居した。 ===公民館図書館から公立図書館へ=== 1933年(昭和8年)に帯広町に市制が施行され、2年後の1935年(昭和10年)に市議会の議決によって名称が大典記念図書館に変更された。その後、建物の老朽化や狭あい化といった理由のほか、建物が軍の司令部に転用されたために数度の移転を経て、1950年(昭和25年)に市内西5条南9丁目に帯広図書館として移転開館した。また、この間、1945年(昭和20年)には、第二次世界大戦の戦局悪化により約半年間の閉館も経験した。 その後、サービスの充実が図られ、1954年(昭和29年)には児童室が開設されるとともに、16か所の移動図書ステーションが設置されたほか、15歳以上を対象とした図書の館外貸し出しも始まった。1955年(昭和30年)には、アイヌ研究者の吉田巖が収集した郷土の文化・歴史資料を編纂した帯広市教育叢書(現帯広叢書)の発行が始まった。また、1961年(昭和36年)には地域の文芸振興を図る取り組みとして、帯広市民文芸誌「市民文藝」が創刊された。 これまで帯広図書館は公民館図書館として運営されていたが、図書も整理されて公共図書館の一応の形態を整えたとして、1963年(昭和38年)3月30日に、図書館法にもとづく図書館として分離独立し、名称が帯広市図書館となった。 帯広市図書館として独立した後、1964年(昭和39年)に自動車文庫が始まり、1966年(昭和41年)には専用の移動図書館車が導入された。1968年(昭和43年)には市内西7条南7丁目に新築移転し、施設面の充実が図られた。並行して各種サービスの拡充も進められ、1967年(昭和42年)にレファレンスサービス、1972年(昭和47年)に複写サービスを開始、1983年(昭和58年)にはリクエスト(予約申込)制度が実施された。 ===現在地への移転=== 時代が平成に変わり1990年代の後半に入ると、建物の老朽化や狭あい化などが問題視されるようになり、施設の改造を行ったり、市内の商業ビル内に暫定的に分館を設置したりしたが、1997年(平成9年)には「新しい図書館を考える市民委員会」から提言書が出され、新たな図書館の建設が望まれるようになった。 このような状況から、1998年(平成10年)に新図書館建設担当職員が配置され、移転に関する議論が開始された。ところが新図書館をどこに建設するかで議論が紛糾し、基本設計費の予算化が何度も先送りされる事態となった。新図書館の展望が見えない状態が続き、2001年にNPO法人「市民満足学会」が実施した公立図書館の満足度調査では全国で最下位を記録するに至った。状況を打開するため、2001年に市議会において新図書館建設調査特別委員会が設置され、合意形成が進められたことで、2002年に、ようやく帯広駅の南に隣接する現在地への移転が決定した。 新図書館の設計は公募型プロポーザル方式により行われ、2003年(平成15年)に着工した。新図書館の建設に際して住民参加型市場公募地方債「まちづくり債」が発行されたほか、個人・団体からの寄付金による新図書館建設基金も設立され施設建築の財源に充てられている。移転準備のため2005年(平成17年)11月10日から本館が休館となり、続いて12月29日には民間ビル内の分室も閉鎖され、翌2006年(平成18年)3月3日に新図書館が開館した。同時に蔵書管理が電子化され、インターネット経由での蔵書検索も可能になった ===市民との協働・ソフト施策の拡充=== 新館建設の議論と並行して図書館ボランティアを育てる取り組みも進められた。2000年10月にボランティア活動の意識調査を実施、2001年にはシンポジウムやボランティアを育成する講習会などが開催され、2002年11月にボランティア団体「帯広図書館友の会」が設立された。 新館への移転とあわせて読み聞かせや読み手養成講座、各種展示会といったイベントの開催、ビジネス支援事業などのソフト面の充実も進められた。2004年(平成16年)からは十勝管内の公立図書館と帯広畜産大学、帯広大谷短期大学が参加した広域個人貸出事業も始まった。新館移転後の来館者数は市が2001年に立てた「新帯広市図書館基本計画」の推計年間来館者数を大きく上回り、利用者数、貸出点数、市民一人あたりの年間貸出冊数がいずれも移転前より増加した。 他機関との連携も進められ、2006年には帯広畜産大学附属図書館内に帯広市図書館の資料を置く地域図書コーナーが開設されたほか、両図書館の連携事業として小学生向けの調べ学習事業が始まった。さらに、2008年(平成18年)にはおびひろ動物園、帯広百年記念館、帯広市児童会館との間で共通のテーマを設定して催し物を行う「4館連携事業」が始まった。 子どもたちの読書活動を促進する活動も拡充され、「絵本との出会い事業」(ブックスタート)を2003年(平成15年)に試行し、翌年から本格実施が始まった。2007年(平成19年)1月に市内の小中学校を対象とした図書のセット貸出事業「ぶっくーる便」が始まり、同年2月に学校図書館の改善を目的とした学校図書館支援事業(学校図書館クリニック)第1号が実施された。その後もセット貸出事業の内容や対象者が拡充されたほか、2010年(平成22年)1月に中高生向けに推薦図書をまとめたブックリスト「ぶっく・なび」を発行し、市内の中学生全員ならびに各高校の図書室に配布された。2012年(平成24年)には「幅広い年齢を対象に読書活動の機会充実を図っている、学校での読書活動支援にも積極的に取り組んでいる」などの推薦理由で、「子どもの読書活動優秀実践図書館」として文部科学大臣表彰を受賞している。 ==市民と一緒につくる図書館== 帯広市図書館は指定管理者制度やPFIを導入せず、市が直接運営している。指定管理者を含む民間活力の導入は帯広市の重点課題とされ、図書館経営のあり方についても継続的に検討されているが、帯広市図書館では職員の専門性を継承していく上で、現状では直営方式が適していると判断している。効率的で利用者満足度が高い図書館を追求するとともに、運営方針の一つに『市民との協働』を掲げている。図書館活動に対する市民の関心や参加意欲は高いとされ、寄付行為などを通じた市民・団体からの財政的支援と、市民ボランティアの図書館活動への参加によって、「市民と一緒につくる図書館」が育てられている。 出典:帯広市図書館要覧 †1 寄贈品は出典における評価額で換算して加算 †2 件数の合計は延べ件数 個人や団体から受け付けた寄付金は「図書館図書整備基金」に積み立てて運用され、図書館資料の充実のために活用されている。年ごとの寄付金・寄贈品(評価額)の合計金額は百万円から数千万円と幅があるが、2003年から2012年までの10年間で計1億4千万円に達している(表1参照)。2015年度の時点で継続的に寄付を行っている個人・団体は35件あり、中には1951年から半世紀以上にわたって寄付を続けている個人や、数千万円の大口寄付を行った個人もいる。帯広市図書館を寄付の獲得で成果を上げている図書館と評価する声もある。寄付金により購入した図書は寄付者の名前を入れた「○○文庫」 と名付けられ、図書に文庫名を記したラベルが貼られている。寄付金以外では、図書や視聴覚資料の寄贈のほか、地域の郷土や歴史に関する資料、帯広出身の歌人である中城ふみ子ゆかりの品なども寄贈されている。このほか、過去にはコミュニティ施設の図書室を巡回するための車両も寄贈されている。 2003年に着工した新図書館建設に際しては「新図書館建設基金」が設立され、1994年より個人4名と9団体から合わせて1千7百万円あまりの寄付金が集まり、図書館建設に活用された。加えて、帯広市は市民を対象とした住民参加型市場公募地方債「まちづくり債」を発行して資金を集め、3年間で23億円が図書館建設に割り当てられた。市民からは現金だけでなく物品の寄贈もあり、図書館の設備・備品として必要なベンチやブックカート、車いす、拡大読書機、AV機器などが寄せられたほか、絵画や陶器といった装飾品や、敷地内に植える樹木の寄贈もあった。 ボランティア活動については、帯広図書館友の会をはじめとするボランティア団体のほか個人単位での参加もあり、2007年時点での参加者は100人を超える。ボランティアによって読み聞かせ会、朗読会、映画会などが実施されているほか、図書の配架や修理業務への協力、スクラップブックの作成、布の絵本や貸出用手提げ袋の作成などが行われている。乳幼児健診時に行われるブックスタート事業もボランティアの協力によって実施されている。また、図書館サービスを障害者へ提供する取り組みとして、ボランティアによる本の音訳、視覚障害者向けの朗読、障害者を対象とした本の宅配などが行われている。さらに、図書館内の清掃、生け花の管理、観葉植物の管理など、施設管理業務へのボランティアの協力も見られ、ボランティアの参画は図書館運営の多岐にわたる。そのほか、ボランティアによる自主研修会なども定期的に行われている。 ==主な事業・取り組み== 帯広市図書館は帯広・十勝の情報発信・生涯学習の拠点としての役割が期待されており、『「十勝圏の拠点図書館」としての役割』、『ソフト施策の充実』、『市民との協働』という運営方針に基づいて各種事業を展開している。子どもの読書活動の推進に力を入れており、平成24年度の文部科学大臣表彰に選ばれる成果を上げているほか、郷土文化の発信、地域の文芸振興について半世紀以上にわたる息の長い活動を続けている。また、情報発信の拠点として、図書館を会場としたイベントを開催したり、広報紙やウェブサイトを活用した利用者・市民向けの情報提供にも取り組んでいる。これらの事業の中には、広域個人貸出事業に代表されるように、近隣の公立図書館や学校機関をはじめ、市の学習施設、商工会議所、地元新聞社、民間書店などと連携して行われているものも多い。以下で帯広市図書館の主な事業・活動を紹介する。 ===子どもの読書活動の推進=== 本図書館では、乳幼児から中高生まで、それぞれの年齢層に合わせて読書活動を推進する取り組みを行っている。乳幼児を対象とした活動の一つとして、乳幼児健診時に絵本をプレゼントする「絵本との出会い事業」を帯広市こども未来部と連携して行っている。また、子どもの発達段階や利用目的に合わせて図書館が推薦するセットを作成し、一括して貸し出す事業を行っている。以下で各セットの概要を説明する。 ===おたのしみバッグえほん=== 帯広市内の保育所や幼稚園などの施設を対象とした、絵本セットの貸し出しサービスである。2011年に0から3歳向けの「おたのしみバッグえほんBaby」と4から6歳向けの「おたのしみバッグえほんKids」にリニューアルされた 。低年齢むけのセットには歯磨きや着替えなどの生活に関する絵本も含まれる。 ===「プチトマト」・「プチコーン」バッグ=== 子育て中の父母を支援するための絵本セットである。「おたのしみバッグえほん」の利用が低調だったため、対象を一般利用者に設定しなおして作成された。内容は「おたのしみバッグえほん」と同様である。 ===ビッグ・ナウマン便=== 市内小学校を対象に、学校図書館の活性化を図るため、学校単位で一括大量貸し出しを行うサービス。図書館で選定した絵本100冊と読み物200冊の合計300冊で1セットが構成され、貸出期間は4週間である。図書館の閉架資料の有効利用という側面もある。 ===ぶっくーる便=== 市内小中学校を対象に、朝の読書や調べ学習などの読書活動を支援する目的で、対象年齢やテーマに沿って作られた図書セットをクラス単位で貸し出すサービス。朝の読書向けセットのほか、科学・英語・国際理解・福祉・食育・職業などのテーマに基づくセット、点字セットのほか、支援学級も対象に含めた「しかけ絵本セット」も用意されている。2007年からは、市内の学校図書館の改善を目的とした、学校図書館クリニックが始まった。この取り組みでは、実施先の学校に図書館職員と学校の担当教諭、そしてボランティアメンバーが集まり、講師担当者による事例紹介や改善ポイントの講義、現場の図書室への具体的な改善アドバイスが行われ、その場で図書室の改装作業が行われる。北海道立図書館とも連携を図り、講師を道立図書館から招くこともある。年1校から3校程度、市内の小中学校で実施されている。 それ以外にも、子どもたちに図書館に親しみを持ってもらい、利用普及を図る目的で、小学生を対象とした調べ学習事業を行っている。帯広畜産大学との連携事業であり、図書館職員や畜産大学職員が講師となって図書館資料の調べ方のほか、図書館の利用方法やマナーなども教える。 ===郷土文化や文芸振興に関する取り組み=== 帯広市図書館では、帯広・十勝にまつわる郷土文化の継承・発信、あるいは地域の文芸振興を図るための取り組みを行っており、中でもアイヌ文化や郷土史資料を編纂した「帯広叢書」、地域住民の応募作品によって作られる「市民文藝」の刊行は半世紀以上続けられている。伝統的な事業の継続とともに新しい試みもあり、2004年には帯広出身の歌人、中城ふみ子の功績を称えた「中城ふみ子賞」が創設され、2010年には小学生から18歳を対象とした文芸誌「ヤング文芸」が創刊された。以下で、それぞれの内容を説明する。 ===帯広叢書=== アイヌの研究者であった吉田巖が整理・収集した資料を伝えるために刊行されている叢書である。吉田は教員としてアイヌ児童を教えるかたわら、赴任地域のアイヌ文化や郷土史を調べ膨大な記録や資料を残した。調査成果は吉田自身によって学術雑誌などで発表されるとともに、その草稿や資料が帯広市教育委員会によって編纂され、1955年から「帯広市社会教育叢書」として発刊された。吉田が高齢になったことから、1960年12月の第6巻発行をもって刊行が中断されたが、1963年の吉田の没後、遺された資料(以下、「遺稿資料」)の多くは遺族らの厚意によって帯広市に寄贈された。「遺稿資料」は帯広市図書館が保管することとなり、1964年から叢書の発行が再開された。1972年の第16巻からは「帯広叢書」に改題された。年1回程度の発行を続け、2013年3月には第65巻が発行されている。アイヌの文化・歴史の分野において、個人が遺した記録・関係資料を継続的に整理・刊行している数少ない取り組みの一つである。 ===市民文藝=== 「地域に根ざした独自の文化の創造及び発展を目指し、地域文芸の振興を図ること」を目的とし、地域住民からの公募作品によって作られる文芸書である。十勝管内の住民であれば年齢に関係なく応募でき、帯広市教育委員会が委嘱した編集委員会による選考を経て、優秀作品には市民文藝賞などが贈られるほか、入選作品が「市民文藝」誌に掲載される。募集ジャンルは小説、戯曲、文芸評論、随筆、ノンフィクション、童話、詩、短歌、俳句、川柳と10分野にわたる。1961年11月に第1号が発行されて以来、地元の書き手の発掘と育成、そして地域の文芸愛好者のための発表の場として年1回程度、発行が続けられ、2012年12月に第52号まで達した。市民文藝賞の受賞者の中には、のちに全国公募の文学賞を受賞するなどして作家や評論家となった者も多く、過去には春山希義、海保進一、近藤潤一、神谷忠孝らの作品が市民文藝誌上に掲載されている。 ===ジュニア文芸=== 子どもたちの創作意欲と表現力の向上を図り、十勝の文芸文化のすそ野を広げる活動として、2010年に誕生した公募文芸誌である。ジュニア文芸の創設に先立ち、市民文藝において3年間ほどジュニア文芸の特集コーナーが設けられ、特集コーナー内での優秀作の選考が行われた。2010年に星槎大学帯広サテライトが共催に加わりジュニア文芸として独立し、年1回作品の募集・選考が行われて入選作品が掲載される文芸誌が発行されるようになった。2015年度の第6回募集からは市の直営事業となり、「とかちジュニア文芸」へとリニューアルした。2017年度の募集時点において、とかちジュニア文芸の応募対象は十勝管内在住の小学生以上18歳以下で、扱うジャンルは小説、童話、戯曲、詩、短歌、俳句の6種類である。さらに、子どもたちの書く力や題材を見つける力を育てる取り組みとして、ジュニア文芸の選考委員が講師をつとめる文章教室も開催されている。 ===中城ふみ子賞=== 帯広で生まれ育ち、一時代の短歌の流れをつくったと評価される歌人中城ふみ子の功績を称え、新たな文化を創造・発信することを目的として、没後50年となる2004年に「中城ふみ子賞」が創設された。全国でも珍しいとされる個人名を冠したこの短歌賞は隔年で開催され、『自らの「生きる」姿勢』をテーマとし、新人五十首詠入選にちなんだ50首の連作短歌を全国から公募している。応募作品の選考は帯広出身の時田則雄ら数名の歌人によって行われ、入選作品は『短歌研究』誌上で発表される。 ===4館連携事業=== 帯広市図書館では、市の教育関連施設である「おびひろ動物園」、「帯広百年記念館」、「帯広市児童会館」と共同で、1つのテーマを設定して催し物を行う「4館連携事業」を2008年から実施している。この取り組みは2010年度からは市の「社会教育施設連携アクションプログラム」となり、共通テーマの下に4施設それぞれの特色を生かしたイベントや講座の開催などが行われている。例として2010年度の事業を見ると、4つのテーマ、「おびひろからわかる?!地球のようす展」、「夕涼み生涯学習事業」、「未来に伝えるあそび体験」、冒険家「植村直己展」が設定され、図書館ではこども向け講演会、おはなし会、所蔵資料の上映会や展示会のほか、広報紙にてテーマに関連する書籍の紹介などを行った。 ===情報発信・生涯学習拠点としての活動=== 帯広市図書館では、読み聞かせ会、朗読会、映画会、文章教室、郷土資料読み解き講座などをある程度定期的に開催しているほか、講演会や写真展、企画展示といったイベントも実施している。 ビジネス支援にも力を入れており、帯広市の商工観光部や帯広商工会議所と連携した取り組みも行われている。起業や異業種参入を考えている市民や経営者向けに、ビジネス支援コーナーを本館2階に設定して関連書籍やパンフレットなどを集め、ここに商工会議所からも資料が提供されている。また、図書館を会場として、市や商工会議所と連携したセミナー類も開催されている。そのほか、公式サイトにも専用コーナー「ビジネス.com」を開設し、ビジネスに関連した情報発信や、図書館で提供しているサービスの紹介を行っている。 地元新聞社との連携も行われており、2003年10月から紙面に「図書館司書のおすすめ本」というコーナーが設けられ、十勝館内の17の公立図書館と共に持ち回りで図書の紹介を続けている。この企画には後に、市内の一部高校と帯広畜産大学の図書館も加わっている。地元書店組合との連携による取り組みとしては、公開講座や作家を招いた講演会を実施している。図書館側が会場を提供し、書店側で実行委員会を作るなど工夫して必要経費などの管理が行われている。 帯広市図書館では、「調べ隊」と名付けられたパスファインダー(あるテーマを調べるために役立つ資料を紹介したガイド)も作成している。テーマに関する本の表紙と内容紹介や所蔵されている視聴覚資料に加えて、関係する雑誌、新聞、ウェブサイトのURLや見学可能な施設も紹介されている。また、調べるためのキーワードが紹介されており、OPACやウェブで検索する手がかりとしても使える。発行は不定期で、ときおり改訂も行われており、印刷されたものが本館内で入手できるほか、公式サイトからPDF版をダウンロードできる。 定期的に発行している広報紙やウェブサイトを通じて、利用者や市民向けに情報発信が行われており、一部の広報紙は、バックナンバーを含めて公式サイトからPDF版をダウンロード可能である。また、帯広市図書館では食に関する資料収集に積極的に取り組んでおり、2006年度から2015年度にかけて食をテーマとした広報紙「食☆ナビ」を発行したほか、公式サイトでも専用コーナー「食文化.com」が設けられている。そのほか、健康・医療をテーマとした「からだ♪ナビ.com」も公式サイトに設けられている。 ==特徴的な所蔵資料== 帯広市図書館では郷土資料の収集・保存を行っており、吉田巖遺稿資料や中城ふみ子に関する資料など、学術的・文化的に貴重なものも多く含まれる。 ===吉田巖遺稿資料=== 先述(「郷土文化や文芸振興に関する取り組み」)の通り、吉田が遺したアイヌの文化や歴史に関する「遺稿資料」は、遺族の寄贈により帯広市図書館が保管している。この「遺稿資料」は、フィールドノートのような性格をもつ日記をはじめとする、ノート、草稿などの文書類のほか、図書、雑誌、書簡、写真などを含み、「アイヌの文化と歴史に関する膨大かつ重厚な基礎資料群」とされる。また、吉田は、日本の統治下であった台湾を視察旅行で訪れており、「遺稿資料」の中には、視察に関する手記、書簡類、視察先で入手した学校資料なども含まれ、国内外の他機関では確認できない貴重な資料もある。「遺稿資料」の中には、アイヌの生徒の作品や、生徒が家庭での伝統文化・習俗の様子などを記した提出物なども含まれており、教育実践や生活実態に関する貴重な記録になっていると同時に、著作権やプライバシー、個人の尊厳に関わる問題を含むものも少なくないため、資料の適切な活用のために、閲覧や利用に際して慎重な配慮が求められている。「遺稿資料」のほとんどは2005年までにマイクロフィルムに撮影され、マイクロフィルムあるいは原資料のコピー製本を閲覧利用できる。 ===中城ふみ子関係資料=== 本館の2階には「中城ふみ子資料室」が設けられ、中城に関わる資料が展示されている。帯広市図書館が保存している資料には、中城の日記、手帳、創作ノート、原稿、書簡のほか、中城の幼少期からの写真や中城が愛用した品などがある。また、確認されている最初期の短歌作品とされる、中城が高校生時代に詠んだ短歌が掲載された帯広高等女学校(現帯広三条高校)の同窓会会報誌も所蔵している。資料の一部は画像化され、公式サイトで公開されている。上記の他に、帯広市図書館では、北海道・十勝にゆかりのある作家の作品や、帯広や道内の企業情報・統計資料などの収集・保存も行っている。 ==本館== ===施設概要=== 本館の建築構造は鉄筋コンクリート造り、一部鉄骨造りの地下1階、地上3階で、ガラス天井から自然採光が得られる構造を有し、外壁には北海道産のレンガが使用されている。延床面積は6,544.53平方メートル、敷地面積は7,260.48平方メートルで、所蔵能力は約50万冊である。駐車場は94台(身体障害者用3台を含む)用意されている。 館内にはユニバーサルデザインが取り入れられているほか、太陽光発電施設や地熱を利用した空調システムなどを備えて自然エネルギー利用を行っており、人と環境に配慮した施設である。 1から3階の各フロアはテーマに基づいて構成されている。各階のテーマと主な機能、設備は以下の通りである。 1階のテーマは「にぎわいのフロアー」で、主要機能は資料の貸出・返却である。この階に正面入口とエントランスホールが設けられているほか、総合カウンターと自動貸出装置が設置されている。文学を中心とした一般図書が配置され、他に新聞・雑誌コーナー、児童図書コーナー、ヤングアダルトコーナー、AVコーナーが設定されている。また、多目的視聴覚室、おはなし室、朗読サービス室、研修室、展示コーナーのほか、授乳室、オストメイト対応トイレが設置されている。2階のテーマは「探求のフロアー」で、レファレンスサービスを主要機能とし、資料相談カウンターが設置されている。文学以外の一般図書、参考図書、地域行政資料が配置されているほか、中城ふみ子資料室もこの階に開設されている。また、学校のクラス単位での来館学習にも対応できる最大60人を収容可能な総合学習室、閲覧室、パソコン持込閲覧室、ITコーナー、グループ研究室、読書テラスなどがこの階にある。3階は「憩いのフロアー」として軽食、休憩、学習場所の提供を主要機能とし、喫茶コーナー、休憩ラウンジ、学習席、ボランティア活動室が配置されている。 ===サービス=== 十勝管内の自治体の図書館、帯広畜産大学ならびに帯広大谷短期大学と連携して広域個人貸出事業を行っている。利用対象者の範囲は、十勝管内に居住している人、帯広市内に通勤・通学している人、その他、教育委員会が特に認めた人である。 基本的なサービス内容は以下の通りである。 開館時間 ‐ 10時から20時(土曜日、日曜日、祝日は10時 ‐ 18時)休館日 ‐ 月曜日(祝日にあたるときは開館し、翌日を休館とする)、年末年始、月末整理日、毎月末日(土曜日、日曜日、上記休館日の場合は繰り上げ)、特別整理期間貸し出し ‐ 冊数は、図書等が一人10冊以内、視聴覚等資料が一人3点以内。期間はいずれも2週間以内。OPACが導入されており、館内端末および館外からインターネット経由で蔵書検索、予約が利用可能である。 ===立地=== 本館の所在地は、帯広市西2条南14丁目3番地1である。北海道旅客鉄道(JR北海道)帯広駅の南に位置し、駅から徒歩2分である。公園大通りを挟んだ向かいには、帯広市の生涯学習センターと定住交流センターが併設された「とかちプラザ」があり、その先には長崎屋帯広店を挟んで帯広市民文化ホールが位置する。 ==移動図書館== 広大な市域の隅々までサービスを展開するために、移動図書館バス「ナウマン号」が運行されている。この愛称は公募によって1970年に決まった。2012年10月から5代目となる車両が導入された。車体にはその名の通りナウマン象のイラストが描かれており、最大積載冊数は約3,500冊である。市内各地域を月1回のスケジュールで巡回して図書の貸し出しを行う。 利用対象者の範囲は本館と同じである。利用料は無料で、事前に利用登録が必要となるが、本館の利用カードがあれば共通して使用可能。本館で利用する冊数とは別に、一人10冊まで貸し出しを受けられる。貸出期間は次の巡回日までで、延長はできないが、直接本館に返却することが可能である。希望する図書がナウマン号に置かれていない場合、予約して次回巡回時に受け取ることができる。 ==地域の図書室・図書コーナー== 帯広市が市内各地域に設置しているコミュニティ施設の中には、図書室・図書コーナーを開設している施設がある。これらの図書室等についても帯広市図書館が配本や入替などの管理を行っており、閲覧、貸し出しのサービスが受けられる。また、帯広畜産大学附属図書館内にも連携事業として市の地域図書コーナーが設けられており、大学図書館の蔵書とは別に貸し出しが受けられる。貸出冊数は1人5冊以内(畜産大学附属図書館の図書コーナーのみ3冊以内)で、期間は2週間以内、各施設に設置された貸出簿に記入することで貸し出しを受けられる。 =電気= 電気(でんき、英: electricity)とは、電荷の移動や相互作用によって発生するさまざまな物理現象の総称である。それには、雷、静電気といった容易に認識可能な現象も数多くあるが、電磁場や電磁誘導といったあまり日常的になじみのない概念も含まれる。 電気に関する現象は古くから研究されてきたが、科学としての進歩が見られるのは17世紀および18世紀になってからである。しかし電気を実用化できたのはさらに後のことで、産業や日常生活で使われるようになったのは19世紀後半だった。その後急速な電気テクノロジーの発展により、産業や社会が大きく変化することになった。電気のエネルギー源としての並外れた多才さにより、交通機関の動力源、空気調和、照明、などほとんど無制限の用途が生まれた。商用電源は現代産業社会の根幹であり、今後も当分の間はその位置に留まると見られている。また、多様な特性から電気通信、コンピュータなどが開発され、広く普及している。 ==歴史== ===語源=== 電気を表す英単語 electricity はギリシア語の ηλεκτρον ([elektron], 琥珀)に由来する。古代ギリシア人が琥珀をこする事により静電気が発生する事を発見した故事によるもので、そこから古典ラテン語で electrum、新ラテン語で *10793*lectricus(琥珀のような)という言葉が生まれ、そこから electricity が派生した。 一方で漢語の「電気」の「電」は雷の別名であり、いわば「電気」というのは「雷の素」といった意味になる。ベンジャミン・フランクリンによる研究はしばしば「雷の正体が電気である事を発見した」と紹介されるが、この文章は字義的な矛盾を含む事になる。もちろん「電気」という漢語がフランクリンの時代以後に作られたからである。 ===古代=== 電気について知識がなかったころにも、電気を発生させる魚類の電気ショックに気づいていた人々がいた。紀元前2750年ごろの古代エジプトの文献にそういった魚を「ナイル川の雷神」とする記述があり、全ての魚の守護神だと記している。そういった魚類についての記述は、千年以上後の古代ギリシア、古代ローマ、イスラムの学者らの文献にもある。大プリニウスやスクリボニウス・ラルグスといった古代の著作家は、デンキナマズやシビレエイによる感電の例をいくつか記しており、それらの電気ショックが導体を伝わることを知っていた。痛風や頭痛などの患者をそういった電気を発する魚に触れさせるという治療が行われたこともある。雷や他の自然界の電気が全て同じものだという発見は中世イスラムという可能性もあり、15世紀のアラビア語辞書で雷を意味する raad という言葉がシビレエイも表すとされていた。 古代の地中海周辺地域では、琥珀の棒を猫の毛皮でこすると羽根のような軽い物を引き付けるという性質が知られていた。 紀元前600年ごろミレトスのタレスは一連の静電気についての記述を残しているが、彼は琥珀をこすって生じる力は磁力だと信じており、磁鉄鉱のような鉱物がこすらなくても発揮する力と同じものだと考えた。タレスがそれを磁力だと考えたことは間違っていたが、後に電気と磁気には密接な関連があることが判明している。古代ギリシア人は、琥珀のボタンが髪の毛のような小さい物を引きつけることや、十分に長い間琥珀をこすれば火花をとばせることも知っていた。イラクで1936年に発見された、紀元前250年頃のものとされる、バグダッド電池なるものはガルバニ電池に似ている。バグダッド電池はパルティア人が電気めっきを知っていた証拠とする説もあるが、これを単に金属棒に巻物を巻いて収め地中に埋めた壺(つまり電池ではない)とする説もある。 ===近世=== イタリアの物理学者カルダーノは、『De Subtilitate』(1550年)のなかで、電気による力と磁力とをおそらくは初めて区別した。1600年にイギリスの科学者ウィリアム・ギルバートは、『De Magnete』のなかでカルダーノの業績について詳細に述べ、ギリシア語単語「琥珀」elektron からラテン語単語 electricus を作り出した。electricity という英単語の最初の使用は、トーマス・ブラウンの1646年の著作『Pseudodoxia Epidemica』の中にあるとされる。 ギルバートに続いて、1660年にゲーリケは静電発電機を発明した。ロバート・ボイルは1675年に、電気による牽引と反発は真空中で作用し得ると述べた。スティーヴン・グレイは1729年に、物質を導体と絶縁体とに分類した。デュ・フェは、のちに positive(陽)、negative(陰)と称ばれることになる、電気の2つの型を最初に同定した。大量の電気エネルギーの蓄電器の一種であるライデン瓶は、1745年ライデン大学で、ミュッセンブルークによって発明された。ワトソン (William Watson) はライデン瓶で実験し、1747年に静電気の放電は電流に等しいことを発見した。平賀源内は、18世紀半ばにエレキテルを開発した。 18世紀中ごろ、ベンジャミン・フランクリンは私財を投じて電気の研究を行い、1752年6月、雷を伴う嵐のなか凧を揚げるという実験を行った。この実験で雷が電気であることを示し、それに基づいて避雷針を発明した。フランクリンは陽電気および陰電気の発明の確立者と見なされることが多い。 ===近代=== 1773年、ヘンリー・キャヴェンディッシュは荷電粒子間に働く力が電荷の積に比例し、距離の2乗に反比例することを実験で確認。1785年にシャルル・ド・クーロンがクーロンの法則として定式化した。 1791年、ルイージ・ガルヴァーニは生体電気の発見を発表。神経細胞から筋肉に信号を伝える媒体が電気であることを示した。1800年、アレッサンドロ・ボルタは亜鉛と銅を交互に重ねたボルタの電堆を発明。それまでの静電発電機よりも安定的に動作する電源となった。 1820年、ハンス・クリスティアン・エルステッドが電磁気学の基礎となる電流による磁気作用を発見。アンドレ=マリ・アンペールは現象を再現してさらに詳細な研究を行った。ジャン=バティスト・ビオとフェリックス・サバールは1820年、電流とその周囲に形成される磁場の関係を定式化(ビオ・サバールの法則)。1821年、マイケル・ファラデーはその現象を応用した電動機を発明。1830年、ファラデーとジョセフ・ヘンリーが電磁誘導現象を発見。電気と磁気(と光)の関係を定式化したのはジェームズ・クラーク・マクスウェルで、1861年から1862年の論文 On Physical Lines of Force で発表した。これにはウィリアム・トムソンの1845年の論文が影響を与えた。 ゲオルク・オームは1827年、オームの法則を含む電気回路の数学的解析を発表した。グスタフ・キルヒホフは1845年、キルヒホッフの法則を発見。これらの成果を基にヘルマン・フォン・ヘルムホルツ(1853年)、シャルル・テブナン(1883年、再発見)、鳳秀太郎(?年)が電気回路に関する電圧、電流、電源の考え方を確立した。 このように19世紀前半に電気の研究は大いに進展したが、19世紀後半には電気工学が急速に発展した。ニコラ・テスラは交流を応用した電気機器(交流発電機ほか)を発明。後の電気の発電、送配電に大きな影響を与えた。また、蛍光灯や無線機の発明も行った。トーマス・エジソンは蓄音機、電球などを発明。イェドリク・アーニョシュはダイナモの原理を確立。ジョージ・ウェスティングハウスはテスラの交流電動機の権利を取得し、交流発電・送電システムの確立に寄与した。ヴェルナー・フォン・ジーメンスも電気産業の発展に貢献。アレクサンダー・グラハム・ベルは電話を発明。電気は科学的興味の対象から第二次産業革命の推進力となり、日常生活に欠かせないものへと変貌していった。 ==物理学における電気== 電子や陽子などの素粒子固有の性質に由来する。古代より、摩擦した琥珀(こはく)に物が吸い寄せられるなどの電気現象が知られており、物質にはこのような性質を持つものと持たないものがあるということがわかっていた。 近代になって物理学が発展すると、これらの現象(電気)は、定量化することができ、また保存されるということがわかった。電気の現象を研究する物理学の分野は電磁気学と呼ばれている。電気が多量にあると思われる場合や逆に少量しかない場合など、条件に応じて、物が吸い寄せられるなどの電気現象にその程度の相違が観察されたり、雷の火花の大きさの程度により、電気にも水量と同様にその嵩があるとして、電気の嵩の多少を示す量として電気の量、即ち「電気量」というものが考えられている。これに対して、「電荷」とは「電気量」の多少を特に問わずに電気が存在しさえすれば足りる時に「電荷」があるなどと言い表し、「電気量」とは少し視点が異なり、電荷量とは言わないことが多い。 電気は正と負の二種類がある。正と正または負と負に帯電した物体同士は反発し合い、正と負に帯電した物体同士は引き合う。その引力あるいは斥力の強さはクーロンの法則により計算することができる。また、これにより「電気量」の単位を決めることもできる。 電気エネルギーは他の様々なエネルギーに変換でき、また逆に他のエネルギーから電気エネルギーにも変換できる。 → 運動エネルギー : 電動機← 運動エネルギー : 発電機、風力発電、水力発電→ 化学エネルギー : 電気分解、電気精錬← 化学エネルギー : 電池→ 熱エネルギー : 電熱器、電磁調理器← 熱エネルギー : 火力発電、原子力発電、太陽熱発電、海洋温度差発電→ 磁気エネルギー : 電磁石、電磁ブレーキ← 磁気エネルギー : MHD発電→ 光エネルギー : 照明、発光ダイオード、エレクトロルミネセンス← 光エネルギー : 太陽光発電← 核エネルギー : 原子力電池他のエネルギーと比べ効率が良く伝送が容易なため、現代では広く利用されている。 ==概念== ===電荷=== 電荷とは、ある種の素粒子が持つ性質であり、物理学において自然界の4つの根源的な基本相互作用の一つである電磁気力の元となる。電荷は原子内にもともとあり、よく知られる担体としては電子と陽子がある。また電荷は保存量であり、孤立系内の電荷量は系内でどんな変化が起きても変化しない。孤立系内では電荷は物体から物体へ転送され、その転送は直接的な接触の場合もあるし、金属の導線などの伝導体を伝わって行われることもある。静電気とは電荷が物体に(不均衡に)存在する状態であり、通常異なった素材をこすり合わせることで電荷が一方からもう一方に転送されて生じる。 電荷が存在すると電磁気力が発生する。電荷が互いに力を及ぼしあう現象は古くから知られていたが、その原理は古代には分かっていなかった。ガラス棒を布でこすって帯電(電荷を帯びること)させ、それを紐でつるした軽いボールに触れさせると、ボールが帯電する。同様のボールを同じようにガラス棒で帯電させると、2つのボールは互いに反発しあう。しかし一方をガラス棒で帯電させ、もう一方を琥珀棒で帯電させると、2つのボールは互いに引き付け合う。このような現象を研究したのが18世紀後半のシャルル・ド・クーロンで、彼は電荷には2種類の異なる形態があると結論付けた。すなわち、同じ種類の電荷で帯電したものは反発しあい、異なる種類の電荷で帯電したものは引き付け合う。 この力は荷電粒子自身にも働くため、電荷は物体表面に互いに距離をとるように一様に分布する傾向がある。この電磁気力の強さはクーロンの法則で定式化されており、互いの電荷の積に比例し、距離の2乗に反比例する。電磁気力は強い相互作用に次いで強い力だが、強い相互作用とは異なりあらゆる距離に働く。ずっと弱い重力相互作用と比較すると、2つの電子が電磁気力で反発しあう力はそれらが重力で引き付け合う力の10倍である。 電子と陽子の電荷は極性が逆であり、物体全体の電荷は正の場合と負の場合がありうる。一般に電子の電荷を負、陽子の電荷を正とする。この習慣はベンジャミン・フランクリンの業績に由来する。電荷量は記号 Q で表され、その単位はクーロンである。電子はどれも同じ電荷量を持ち、その値は約 −1.6022×10 クーロンである。陽子は同じ大きさの極性が逆の電荷量を持つので +1.6022×10 クーロンとなる。電荷は物質だけでなく反物質にもあり、それぞれに対応する反粒子は大きさが等しく極性が逆の電荷量を持つ。 電荷量を測定する手段はいくつかある。検電器は最初の電荷測定機器だが、今では授業での実験などでしか使われない。今では電子式のエレクトロメータがよく使われている。 ===電流=== 電荷を持った粒子の移動によって、電流が発生し、その強さはアンペアを単位として計られる。どんな荷電粒子(電荷担体)でも移動することで電流を形成できるが、電子が最も一般的である。 歴史的な慣習により、電流の流れる向きは正の電荷の流れる向きとされており、電源の正極から負極に流れるとされる。負の電荷を持つ電子は電荷担体としては最も一般的だが、電気回路での電流の流れる向きと電子の移動する向きは反対である。しかし、状況によっては電流の向きと荷電粒子の移動する向きが一致する場合もあるし、荷電粒子が両方向に同時に移動することもある。様々な状況で電流の流れる方向を便宜的に定めるために、このような規定がある。 物質を電流が流れる過程を電気伝導と呼び、その性質は流れる荷電粒子と物質の性質によって様々である。金属の場合は電子が流れ、電気分解においてはイオン(電荷を帯びた原子)が液体中を流れる。粒子自体の移動速度は極めて遅く、せいぜい毎秒数ミリメートルだが、それによって形成される電場は光速に近い速度で伝播する。そのため、電気信号は導線上で極めて高速に伝送される。 電流はいくつかの目に見える現象を引き起こし、歴史的にはそれらが電流の存在を確認する手段でもあった。水に電流を流すと分解されるという現象は1800年にウィリアム・ニコルソンとアンソニー・カーライルが発見した。これがいわゆる電気分解である。そこからさらに研究が進み、1833年にマイケル・ファラデーが電気分解の法則を解明した。電気抵抗のある物質を電流が流れるとき、局所的な発熱がある。これを研究したのがジェームズ・プレスコット・ジュールで、1840年に数学的に定式化したジュールの法則を導き出した。電流に関する最も重要な発見をしたのはハンス・クリスティアン・エルステッドで、1820年に講義の準備をしているときに導線に電流を流したときに近くにあった方位磁針が振れることに気づいた。これが電気と磁気の基本的相互作用の発見であり、そこから電磁気学が発展することになった。 工学や実用的観点では、電流を直流 (DC) と交流 (AC) に分類することが多い。これは電流が時間と共に変化するかしないかを示した用語である。直流は電池などが発する電流であり、常に一方向に流れる電流である。交流は電流の流れる向きが定期的に逆転する場合を指す。交流の電流の強さの時間変化は正弦波を描くことが多い。したがって、交流が流れる導体内では電荷(電子)が一方向に進むことはなく、短い距離を行ったり来たりすることになる。交流の電流の強さをある程度以上の時間で平均するとゼロになるが、エネルギーはある方向に運搬され、次に反対方向に運搬される。交流には定常的な直流では見られない特性があり、インダクタンスや静電容量に影響を受ける。そういった特性は電源を入れた直後など回路の過渡現象が主題となる場合に重要となる。 ===電場=== 電場の概念は、マイケル・ファラデーによって導入された。電場は電荷によってその周囲の空間に形成され、その電場内に存在する他の電荷に力を及ぼす。2つの電荷の電場の振る舞いは、ちょうど2つの質量の重力場のそれと似ており、広がりは無限だが互いに及ぼしあう力は距離の2乗に反比例する。ただし、電場と重力場には大きな違いが1つある。重力は常に引き付け合う力だが、電場は引き付け合う場合と反発しあう場合がある。惑星のような巨大な物体は全体としてほとんど電荷を帯びていないため、遠距離の電場は通常ゼロである。そのため宇宙規模の距離では本来弱いはずの重力が支配的になる。 電場は空間の位置によって変化し、ある位置に正の単位電荷量を静止させて置いたとき、その電荷が受ける力の強さがその位置の電場と定義される。この概念上の電荷を試験電荷と呼び、自身の電場が影響を及ぼさないようほとんどないくらいに小さく、しかも磁場を生じないために決して動かないものとする。電場は定義上から力であり、力はベクトル量である。つまり、電場自身もベクトル量であり、大きさと方向がある。明らかに電場はベクトル場である。 静止した電荷が形成する電場を研究する分野が静電気学である。電場は空間の各点における方向に沿って描いた想像上の曲線で視覚化できる。この概念を導入したのはファラデーで、これを「電気力線」と呼び、今も時折見かける。正の点電荷をその電場内で動かそうとした場合、点電荷が通る経路は電気力線に沿ったものになる。ただしこれは物質的存在とは無関係の想像上の概念であり、電気力線の間も含めて空間全体に電場は存在する。静止した電荷から発する電気力線にはいくつかの特性がある。まず、電気力線は正の電荷を始点とし、負の電荷を終点とする。次に、良導体がある場合は常に直角に入っていく。さらに、電気力線同士が交差することはない。 中空の導体では電荷は常にその外側の表面に分布する。従って、その内部のどの位置でも電場はゼロとなる。これがファラデーケージの動作原理であり、金属殻で囲まれた内部は外界の電場から隔離される。 静電気学の知識は高電圧装置の設計において重要である。電場を満たしている媒体には必ず耐えられる電場の強度(電界強度)の限界がある。電界強度がその限界を超えると絶縁破壊がおき、帯電した部分の間に電弧によるフラッシュオーバーが生じる。例えば空気の場合、電極の間が狭いなら電界強度が30kV毎センチメートルを越えると電弧が生じる。電極間の距離が大きい場合は限界がさらに低くなり、1kV毎センチメートルでも電弧を生じることがある。雷はこの現象が自然界で発生したもので、上昇気流によって地面と隔てられて電荷を蓄えた雲が電場を生じ、その強度が空気の限界を超えたときに発生する。大きな雷雲の電位は100MVにもなり、その放電エネルギーは最大で250kWhほどになる。 電界強度は近くに導体があると大きく影響され、特に尖った導体の先端部分に電気力線が集中する。この原理を応用したのが避雷針で、その尖った先端が周辺で発生する雷を引き寄せ、建物を守ることになる。 ===電位=== 電位の概念は電場の概念と密接な関係がある。電場内に小さな電荷を置こうとすると力を受け、その力に逆らって電荷をその場所に置くことは仕事となる。ある位置の電位とは、単位試験電荷を無限遠からその位置までゆっくり運ぶのに要するエネルギーと定義される。一般にその単位はボルトであり、1ボルトとは無限遠から1クーロンの電荷をその位置に運んでくることが1ジュールの仕事となる位置の電位である。この電位の定義は公式なものだがあまり実用的でない。より実用的な定義として電位差すなわち電圧がある。こちらは単位電荷を2地点間で移動させるのに要するエネルギーと定義される。電場は「保存性」という特殊な性質があり、試験電荷の移動に際して移動経路と移動に必要なエネルギーは無関係である。2地点間の任意の経路で同じエネルギーを要するので、電位差は一意に定まる。ボルトはむしろ電位差の単位として認識されており、電圧は日常的によく使われる。 実用においては、電位の比較・参照の際の基準を定義した方が便利である。定義上は無限遠がそれにあたるが、より実用的には地球自体がそのどこをとっても同じ電位だと仮定することで基準点となる。この基準点をアースまたは接地と呼ぶ。地球は正及び負の電荷の無限の源泉とみなすことができ、そのため電気的には帯電していないし、帯電させることもできないと見なせる。 電位はスカラー量であり、方向はなく大きさだけの量である。これは重力場における高さと似ている。ある高さで物体を離すと重力を発している重力源に向かって落ちていく。同様に電荷をある電位に置くと電場の電気力線に沿って「落ちて」いく。地図に同じ高さの地点を結んだ等高線が描かれるように、電場においても同じ電位の地点を結んだ等電位線を描くことができる。等電位線は電気力線とは直角に交わる。また、電気伝導体の表面は電位が等しいため、電気伝導体の表面とは平行になる。仮に伝導体表面に電位差があってもその電位差をなくすように電荷が移動して等電位になる。 電場は正式には単位電荷に及ぼされる力と定義されているが、電位の概念を使えばもっと実用的で等価な定義が可能である。すなわち、電場とは電位の局所的勾配である。通常ボルト毎メートルで表され、電位の勾配がもっともきつい方向(つまり等電位線が最も密になっている方向)が電場の方向となる。 ===電磁気学=== 1821年、エルステッドは電流の流れる導線の周囲に磁場が存在することを発見し、電気と磁気に直接的な関係があることがわかった。さらにその相互作用は当時自然界に存在することがわかっていた重力や静電気力とも異なるようだった。方位磁針にかかる力は単に電流の流れる導線との間の引力や斥力といったものではなく、それとは直角な方向の力である。エルステッドはこれを「電気的衝突は回転するように働く」とやや不明瞭に表現した。この力は電流の向きにも依存し、電流を逆向きに流すと力の向きも反対になる。 エルステッドはその発見を完全には解明しなかったが、その現象が相互的であることは述べている。すなわち、電流が磁石に力を及ぼすと同時に、磁場が電流に力を及ぼすということである。この現象をさらに研究したのがアンドレ=マリ・アンペールで、2つの平行な導線にそれぞれ電流を流すと相互に力を及ぼすことを発見した。同じ方向に電流を流すと2つの導線が引き付けあい、逆方向に電流を流すと反発しあう。この相互作用はそれぞれの電流によって生じる磁場同士が介在して起きるもので、アンペアという単位の定義にもこの現象が使われている。 この磁場と電流の関係は極めて重要であり、この現象からマイケル・ファラデーが1821年に電動機を発明した。ファラデーの単極電動機は永久磁石が水銀のプールの中央につき立てられた状態になっている。その上から導線が垂らされていて先端が水銀に浸っている。導線に電流を流すと接線方向に力が働き、導線が磁石の周囲を回るように動く。 1831年、ファラデーは導線を磁場を横切るように移動させるとその両端に電位差が生じることを発見した。これが電磁誘導であり、さらなる研究によってファラデーの電磁誘導の法則と呼ばれる法則を見出した。すなわち、回路に乗じる電位差は、回路を貫く磁束の変化の割合に比例するという法則である。この発見を応用し、ファラデーは銅の円盤を回転させる機械エネルギーを電気エネルギーに変換する世界初の発電機を1831年に発明した。このファラデーの円盤は原始的なもので実用可能なレベルではなかったが、磁気を使って発電できる可能性を示した。 ファラデーとアンペールの業績により、時間と共に変化する磁場が電場を生み出し、時間と共に変化する電場が磁場を生み出すことが示された。つまり、電場または磁場が時間と共に変化すれば、もう一方の場が必然的に誘導される。このような現象は波動の性質を持っており、一般に電磁波と呼ばれる。電磁波については1864年にジェームズ・クラーク・マクスウェルが理論的に解析した。マクスウェルは、電場、磁場、電荷、電流の関係を明確に示す一連の方程式を導出。また彼は電磁波が光速で伝播することを証明し、光も電磁放射の一種であることを示した。マクスウェルの方程式は光、場、電荷を統合し、理論物理学における重要な進歩となった。 ==電気回路== 光や動力を得たり、有用な計算をさせるために、電気素子を電気伝導体で繋いだものを、電気回路という。電気回路は、抵抗器、インダクタ、コンデンサ、スイッチ、変圧器、その他の電子部品などから成る。電子回路には半導体などの能動素子が使われており、非線形な挙動を示すため、それを表すには複素解析が必要である。最も単純な電気回路部品は受動素子でかつ線型性を示すもので、一時的にエネルギーを蓄えられるが電力源は含まず、入力に対して線形に反応する。 抵抗器は最も単純な受動素子である。名前が示す通りそれを通る電流に対して電気抵抗を示し、エネルギーの一部を熱に変換する。電気抵抗は導体内を電荷が移動する結果生じる。例えば金属では主に電子同士やイオン同士の衝突によって電気抵抗が生じる。電気工学の基本法則であるオームの法則によれば、抵抗器を流れる電流はその両端の電位差に比例する。多くの物質の電気抵抗値は、広範囲の温度や電流値に対してほぼ一定である。抵抗値の単位オームはゲオルク・オームに因んで命名されたもので、ギリシア文字 Ω で表す。1Ωの抵抗器に1ボルトの電位差を印加すると1アンペアの電流が流れる。 コンデンサは電荷を蓄える機能を持つ素子で、蓄えた電荷によって生じた電場にエネルギーを蓄える。概念的には薄い絶縁層を2枚の導体の板で挟んだ形状で、静電容量を増すために体積に対して表面積を増やすべく、実際には金属薄膜をコイル状に巻いている。静電容量の単位ファラドはマイケル・ファラデーに因んで命名されたもので、F で表す。1ファラドのコンデンサに1クーロンの電荷を蓄えると1ボルトの電位差が生じる。コンデンサを電圧源に接続すると、最初は電流が流れて電荷が蓄積される。しかし、電荷が蓄えられていくと電流は時間と共に減少し、最終的に全く流れなくなる。従ってコンデンサでは定常電流(直流)が流れることはなく、むしろそれを阻止する性質がある。 コイルは一般に導線の巻線であり、そこに流れる電流によって生じた磁場にエネルギーを蓄える素子である。電流が変化するとその磁場も変化し、誘導起電力が生じる。その誘導起電力は電流の時間変化に比例し、その比例定数をインダクタンスと呼ぶ。インダクタンスの単位ヘンリーはジョセフ・ヘンリーに因んだもので、H で表す。1ヘンリーのコイルに1秒間に1アンペアの割合で変化する電流を流すと、1ボルトの誘導起電力が生じる。コイルはある意味でコンデンサとは逆の作用をし、定常電流は自由に流れるが、電流の急激な変化は阻止しようとする。 応用面の話題については電気工学も参照。 ==発電と電気の利用== ===発電と送電=== 前述の通り、電気エネルギーはさまざまな形態のエネルギーへの変換が容易であり、伝送も比較的簡単であるので、現代ではさまざまな分野で必要不可欠のものとなっている。非電気エネルギーを電気に変換することを、発電と呼ぶ。 タレスの琥珀棒の実験は、電気エネルギー生産の最初期の研究だった。その摩擦帯電現象は軽い物なら引き寄せることができ、火花を発生させることもあるが、発電方法としては極めて非効率である。史上初の実用的な電力源は18世紀に発明されたボルタ電池である。ボルタ電池から始まった電池はエネルギーを化学的に蓄え、そこから必要に応じて電気エネルギーを引き出して使うことができる。電池は様々な用途に使える一般的な電力源だが、蓄えているエネルギー量は有限であり、完全に放電すると再充電するか廃棄するしかない。電気エネルギーへの大きな需要に応えるためには、継続的に発電し、電線を通してそれを送電する必要がある。 電力は主に水蒸気で駆動される発電機で発電され、水蒸気を発生させるための熱源としては化石燃料の燃焼や核分裂反応の発生する熱が使われている。あるいは水流や風の持つ運動エネルギーを利用して発電機を駆動する場合もある。蒸気タービンは1884年にチャールズ・アルジャーノン・パーソンズが発明し、何らかの熱源で蒸気タービンを回して発電することで今では全世界の80%の電力を得ている。そういった発電機は1831年のファラデーの円盤とは似ても似つかないものだが、磁場を横切る形で移動する伝導体の両端に電位差が生じるというファラデーの電磁誘導の法則に従って発電している。19世紀末に変圧器が発明され、高電圧低電流でより効率的に電力を送ることが可能になった。送電が効率化されたことで1つの大きな発電所で発電して広い地域に電力を供給できるようになり、規模の経済の効果が発揮されるようになる。 国家規模の電力需要を賄えるほど電気エネルギーを蓄えるのは容易ではないため、電力網には常に必要とされるだけの電気エネルギーを供給し続ける必要がある。そのためには常に電力需要を注意深く予測し、発電所間で常に連携する必要がある。ある程度の発電能力は、急激な電力需要増や何らかの障害への対策としてとって置く必要がある。 国が近代化し経済発展すると共に、電力需要は急激に増大する。アメリカ合衆国では20世紀の最初の30年間、毎年12%電力需要が増加し、最近では発展の著しいインドや中国が似たような増加傾向を示している。歴史的に見て、電力需要の成長率は他のエネルギー形態のそれよりも急激だった。 環境問題への懸念から、風力発電や水力発電といった再生可能エネルギーに注目が集まりつつある。様々な発電技法の環境への影響が議論される中で、これらは相対的にクリーンだとされている。 ===利用=== 電気はエネルギーの形態としては極めて柔軟であり、その用途は極めて幅広い。1870年代に実用的な電球が発明され、照明が電力の用途として最初に一般に普及した。照明に電気を使うことは新たな危険性を伴っていたが、同時にガス灯などの火をそのまま使う従来の技法に付きまとっていた火災の危険性を大きく低減させることになった。電力網は電気照明のためにまず大都市圏から急激に整備され始めた。 電球が利用しているジュール熱現象は、より直接的に電気ストーブでも利用されている。電気エネルギーをジュール熱に変換して利用することは制御が容易で便利だが、元々の発電で熱エネルギーを電気エネルギーに変換していることを考えると大きな無駄ともいえる。デンマークなどの多くの国々で、新たに建設する建物で電気を熱源として利用することを制限または禁止する法律が成立している。しかしながら電気は冷却や空調のエネルギー源としてよく使われていて、その分野の需要増が電力需要全体を押し上げている。 電気は電気通信にも使われている。中でも電信は1837年、チャールズ・ホイートストンとウィリアム・フォザギル・クック(英語版)が最初に商業化した。1860年代には大陸間の電信網、さらには大西洋横断電信ケーブルができ、電気によって数分で世界中に通信可能となった。光ファイバー技術も通信の一部を担うようになったが、やはり通信の大部分は電気が担っている。 電磁気学的現象を目に見える形で使っている例として電動機があり、クリーンで効率的な動力源となっている。ウインチなど据え置き型では電力供給が容易だが、電動輸送機器のような電動機自体が移動する用途では、電池を搭載して電力を供給するか、集電装置のような機構で電力を供給する必要があり、移動距離や移動範囲が制限されている。 20世紀最大の発明の1つであるトランジスタは、現代のあらゆる電子回路の基本素子である。最近の集積回路には、数センチ平方メートルの中に数十億個の微細なトランジスタが含まれている。 ==日常用語における電気== 日常的に電気という場合、下記のように様々な意味で用いられる。 電荷または電流(例: 「電気が流れる」)電流を流す力(電圧、起電力と同義)エネルギーの一種(電力または電力量と同義)電球、または電気を使用した照明器具の俗称(例: 「電気をつける」)電気屋 ‐ 家電製品を販売する店(電器店)。電気そのものを販売しているのは電力会社であるが、一般的にそれを指して言うことはほぼ無い。ただし、電気に携わる研究者ないし技術者が自らを「電気屋」と呼称する事はあり得る。商用電源(電力会社が販売する電力)の俗称 ==電気と自然界== ===生理学的効果=== 人間の身体に電圧がかかると細胞に電流が流れ、比例関係にあるわけではないが、電圧が高いほど流れる電流も大きくなる。知覚されるしきい値は供給周波数や電流の流れる経路によって異なるが、知覚されやすい周波数でだいたい0.1mAから1mAである。ただし、条件によっては1μAであっても電気振動を知覚する場合がある。電流が十分強ければ筋肉が収縮し、心臓の筋肉が細動し、熱傷を生じる。電気伝導体が帯電しているかどうかは一見しただけではわからないため、電気は一般に危険なものとされている。感電による苦痛は強烈な場合もあるため、電気は拷問の手法にも採用されてきた。感電によって死に至ることもある。死刑の手段として感電を使う電気椅子もあるが、最近ではそういった死刑手段は使われなくなる傾向にある。逆に人工的な電気エネルギーで生体電気現象の復帰を促す治療方法として電気的除細動がある。 ===自然界における電気現象=== 電気は人類の発明品ではなく、自然界にも様々な形で見られ、その代表例が放電現象の雷である。放電現象には他にセントエルモの火もある。触覚や摩擦による静電気や化学結合といった巨視的レベルでよく見られる相互作用は、原子スケールでの電場間の相互作用に起因している。地磁気は地球の核を流れる電流で生まれた天然のダイナモによって生じていると考えられている(ダイナモ理論)。石英や砂糖のような結晶は、圧力を加えられると電位差を生じる。これを圧電効果と呼び、1880年にピエール・キュリーとジャック・キュリーが発見した。この効果は可逆的で、圧電性のある物質に電圧を印加すると、その形状が微妙に変化する。 サメ(とくにシュモクザメ)などの生物は電場の変化を知覚し反応する。これを電気受容感覚と呼ぶ。捕食や防御のために自ら電気を発生させる生物もあり、それを生物発電と呼ぶ。例えばデンキウナギ目のデンキウナギは筋肉細胞が変化した「発電板」を持ち、高電圧を発生することで獲物を探し麻痺させる。全ての動物は細胞膜に沿って活動電位と呼ばれる電圧パルスを発生させて情報を伝え、神経細胞による神経系によって筋肉まで情報伝達する。感電はこのシステムを刺激し、筋肉を収縮させる。活動電位は特定の植物や動物においてその活動を調整する役目を果たしている。心電図や筋電図はそういった神経系の電位差を測定して図示するもので、脳波は脳内の電気活動を間接的に測定して図示するものである。 ==文化と電気== 19世紀から20世紀初めにかけて、産業が発達していた西洋においても一般大衆にとって電気は日常生活の一部ではなかった。当時の大衆文化では電気を不思議な魔法のような力として描くことが多く、生きものを殺したり、死者を蘇らせたり、自然の法則に反する力を発揮するものとして描かれていた。そのような見方は1771年、ルイージ・ガルヴァーニが動物電気を応用して死んだカエルの脚をけいれんさせる実験を行ったことに端を発している。そして、明らかに死んだ人間が電気の刺激で息を吹き返したという話がガルヴァーニの研究のすぐ後に医学誌に報告された。『フランケンシュタイン』(1819) を書いたメアリー・シェリーもそれらの話を知っていたが、彼女は怪物を生き返らせた方法について特に固有名詞を挙げていない。電気を使った怪物の復活は後のホラー映画の定番となった。 第二次産業革命の生命線として電気が徐々に大衆にもなじみのあるものになっていくと、肯定的に捉えられることが多くなっていった。ラドヤード・キップリングは1907年の詩 Sons of Martha で、電気に関わる技師について ”finger death at their gloves’ end as they piece and repiece the living wires”(手袋の端で死に触れ、生きたワイヤーを繕う)と記している。ジュール・ヴェルヌの作品や《トム・スイフト》ものなどの冒険小説では、電気を動力源とする乗り物が重要な役割を演じた。トーマス・エジソン、チャールズ・スタインメッツ、ニコラ・テスラといった科学者も含めて、実在か架空かを問わず電気に精通した人は一般に大衆からは魔法使いのような力を持っているとみなされた。 1950年代には電気は物珍しいものから日常生活に不可欠なものへと変貌し、なんらかの災害が起きたことを示すことの多い「停電」のときだけ注意を惹くようになった。停電がおきないよう電力網を維持している作業員たちはグレン・キャンベルのヒット曲「ウィチタ・ラインマン」 (1968) で無名のヒーローとして歌われている。 =御嶽山= 御嶽山(おんたけさん)は、長野県木曽郡木曽町・王滝村と岐阜県下呂市・高山市にまたがり、東日本火山帯の西端に位置する標高3,067 mの複合成層火山である。大きな裾野を広げる独立峰である。 2014年9月27日に7年ぶりに噴火。山頂付近にいた登山客が巻き込まれ、1991年雲仙普賢岳の火砕流による犠牲者数を上回る事態となった。 ==概要== 木曽御嶽山、御嶽、王嶽、王御嶽とも称する。また嶽の字体を新字体で表記し御岳山や、単に御岳と表記されることもある。標高3,000mを超える山としては、日本国内で最も西に位置する。日本には同名の山(御嶽山・御岳山)が多数あり、その最高峰である。山頂には一等三角点(3,063.61 m、点名「御岳山」)と御嶽神社奥社がある。 古くから信仰の山として信者の畏敬を集めてきた巨峰で、いくつもの峰を連ねてそびえる活火山である。民謡の木曽節では「木曽の御嶽夏でも寒い袷やりたや足袋添えて」、伊那節では「わしが心と御嶽山の胸の氷は 胸の氷はいつとける」と歌われており、神聖な信仰の山であるとともに木曽を代表する山として親しまれている。東海地方特に尾張地方ではほとんどの場所からその大きな山容を望めることから、「木曽のおんたけさん」として郷土富士のように親しまれている山である。日本百名山、新日本百名山、花の百名山、ぎふ百山のひとつに選定されている。旧開田村を代表する山として飛騨頂上、旧三岳村を代表する山として剣ヶ峰が「信州ふるさと120山」のひとつに選定されている。1927年(昭和2年)に、大阪毎日新聞社と東京日日新聞社などにより日本二十五勝のひとつに選定されている。 国立公園に指定されている飛騨山脈や赤石山脈と異なり、木曽山脈とともに国定公園にさえも指定されていない。長野県の御岳県立自然公園および岐阜県の御嶽山県立自然公園には指定されているものの、国立・国定公園に指定されなかったのは、木曽ヒノキを主とする林業の盛んな地域であるという事情がある。山腹は深い森で覆われ多くの滝があり、木曽川水系の源流部の山であり、その下流部である中京圏の水がめとなっている。 以前は死火山や休火山であると思われていた山であるが、1979年(昭和54年)10月28日に突如噴火した。気象庁は2008年(平成20年)3月31日に噴火警戒レベル1(平常)と噴火予報を発表した。 2014年(平成26年)9月27日に噴火、南側斜面を火砕流が流れ下り、噴火警戒レベルが3(入山規制)に引き上げられた。これに伴い、火口から概ね4kmの範囲が立入禁止区域に指定された。 2015年6月、火山性地震は続くものの2014年10月中旬以降噴火が観測されていないため、噴火警戒レベルが2(火口周辺規制)に引下げられた。これに伴い、立入禁止区域は火口から概ね1kmの範囲に変更された。 2017年8月、噴煙活動や山頂直下付近の地震活動は緩やかな低下が続いており2014年10月中旬以降噴火の発生がないため、噴火警戒レベルが1(活火山であることに留意)に引下げられた。ただし現在も、火口から概ね1kmの範囲は立入禁止区域であり、「岐阜県北アルプス地区及び活火山地区における山岳遭難の防止に関する条例」により、御嶽山の火口から4km以内に立ち入る場合に登山届の提出が義務づけられている。 ==山名の由来== 遠く三重県からも望め「王御嶽」(おんみたけ)とも呼ばれていた。古くは坐す神を王嶽蔵王権現とされ、修験者がこの山に対する尊称として「王の御嶽」(おうのみたけ)称して、「王嶽」(おうたけ)となった。その後「御嶽」に変わったとされている。修験者の総本山の金峯山は「金の御嶽」(かねのみたけ)と尊称され、その流れをくむ甲斐の御嶽、武蔵の御嶽などの「みたけ」と称される山と異なり「おんたけ」と称される。日本全国で多数の山の中で、「山は富士、嶽は御嶽」と呼ばれるようになった。 ==火山・地勢== 御嶽山は日本の山の標高順で14位の山であり、火山としては富士山に次いで2番目に標高が高い山である。剣ヶ峰を主峰にして、摩利支天山(2,959.2 m)、継子岳(2,858.9 m)、継母岳(2,867 m) などの外輪山があり、南北約3.5 kmの山頂部による台形の山容である。北端の継子岳は比較的新しい山体の成層火山で、北側山麓から見ると、他の峰が隠れて見えないためきれいな円錐形をしており、郷土富士として「日和田富士」とも呼ばれている。なお、長野県側に寄生火山として三笠山(2,256 m)、小三笠山(2,029 m)がある。最高点の剣ヶ峰は長野県に位置し、王滝口登山道の外輪山との合流部が「王滝頂上」(標高点2,936 m)、小坂口との合流部が「飛騨頂上」(標高2,811 m)である。火山灰の堆積した裾野は広く、長野県側の麓の傾斜地では濃い色の火山灰が耕地を覆っていて、高地の開田高原は蕎麦の産地として知られている。岐阜県側の地形は長野県側と比較して複雑で、平坦地が少なく、尾根筋が屈曲している。2007年(平成19年)5月10日に、日本の地質百選選定委員会により「日本の地質百選」の第1期選定(全国83箇所)のひとつに選定された。 ===火山活動=== 御嶽山は東日本火山帯の西端(旧区分による乗鞍火山帯の最南部)に位置し、古生層と中生代の濃飛流紋岩類を基盤(基底部は17 km四方の広さ)とし、基盤からの高さが1,400‐1,900 mのカンラン石、複輝石、安山岩などで構成される成層火山である。各方向に溶岩流を流れ出しているが、西に流れた摩利支天山第6溶岩流は、最も延長が長く約17kmに及ぶ。末端には安山岩の大岩壁巌立がある。一ノ池を中心として、摩利支天山、継母岳、王滝頂上を結ぶ外輪山の内側がカルデラであると推測され、カルデラ形成前の姿は、富士山に匹敵する高さの成層火山であったと推測される。大爆発によって崩壊した土砂は土石流となって川を流れ下った岐阜県各務原市付近の各務原台地には御嶽山の土砂が堆積しており、水流によってできた火山灰堆積物が地層となっている。この大爆発によって剣ヶ峰、摩利支天山、継母岳の峰々が形成された複成火山であり、その山容はアフリカのキリマンジャロ山に似ている。 1970年代以前の認識では、最後のマグマ噴火は約2万年前で以降は水蒸気爆発と考えられていたが、2006年(平成18年)に行われた岐阜県の調査および2008年(平成20年)に行われた国土交通省多治見砂防国道事務所や産業技術総合研究所の調査によれば、約5200年前の火砕流を伴う噴火を含め、2万年間に4回(約1万年前以降、約1万年前、約9000年前、約5200年前、約5000年前)のマグマ噴火を起こしている。信濃毎日新聞の2007年(平成19年)4月30日の紙面に掲載された記事によると、岐阜県の調査によって、剣が峰北西6キロの下呂市小坂町内において、約5200 ‐ 6000年前の火砕流が堆積してできた地層が発見され、五ノ池火口からの噴出物と考えられる火砕流の痕跡が確認された。最近の2万年以降の活動は水蒸気爆発と限定していた岐阜県・長野県それぞれにおいて、火砕流も想定しての、ハザードマップなど防災に関する見直しが行われた。 1979年以降は断続的(1991年、2007年)に小規模な噴気活動が続いている。2014年現在、気象庁により「火山防災のために監視・観測体制の充実等が必要な火山」に指定されていて、山頂周辺には火山活動の観測のための地震計、空振計、傾斜計、火山ガス検知器、GPS観測装置、監視カメラなどの観測機器が設置されている。2001年から名古屋大学大学院環境学研究科が、「岐阜・長野両県における火山噴火警戒避難対策事業」として噴火の前兆現象を観測する地震計による御岳火山災害観測を行っている。1979年の水蒸気爆発の6ヶ月前の三ノ池が白濁し池の中から泡が噴き出す音が発生した現象と6時間前の火口直下での地震は、その前兆現象であったとみられている。2011年(平成23年)7月27日に「御嶽山火山噴火緊急減災対策砂防計画検討会」が開催され、御嶽山火山噴火緊急減災対策砂防計画が策定された。王滝頂上直下西面(八丁ダルミ付近)と地獄谷の噴気孔から硫化水素などの火山ガスを噴出し続けていて、噴気孔から発生する火山ガスの轟音が聴こえることがある。 ===活火山の定義を見直すきっかけとなった有史以来の水蒸気爆発=== 1979年(昭和54年)の水蒸気爆発以前において、御嶽山は火山学者の多くと一般大衆から死火山と認識されていた。実際、当該爆発を伝える新聞見出しも『死火山大爆発』などと報道された。このことから、この時点において御嶽山は死火山であるとの認識が一般的であった。ところがこれは不正確な認識が一般的となっていたことを示しているにすぎない。例えば19世紀前半の文献には実際に噴気活動の証拠を示す現象が記録されている。また 気象庁も、1968年(昭和43年)刊行の「火山観測指針」 において御嶽山を「御岳山」として63座の活火山の一つとして掲載しており、直前の1975年(昭和50年)刊行の『日本活火山要覧』の77活火山にも包含されていた。 1979年当時は、定常的な観測体制が整備されていなかったため明確な前兆現象が観測されず、また活動自体も山麓から噴気が観察できる規模ではないまま同年10月28日に水蒸気爆発を起こし、約1,000 mの高さにまで噴煙を噴出した。同日5時頃に発生した噴火は14時に最大となり、その後衰退した。噴出物の総量は約二十数万トン。噴煙は北東方向に流れ軽井沢町や群馬県前橋市にまで降灰が観測された。 この噴火をきっかけとして、日本国内における火山の分類(死火山、休火山、活火山の定義)そのものが見直されるに至った。現在では「活火山」以外の用語は使用されない。 ===火山史=== 御嶽火山の活動史は休止期を挟み古期と新期の2つの活動期と新期以降から現在までの静穏期の3つに分けられる。なお、各々の始まりと終わりの年代に関しては研究者により5万年程度の差違がある。また、最後のマグマ噴火は三ノ池を埋めた五ノ池のスコリア噴火と考えられているが噴火年代は不明である。 ===古期御嶽火山(78万年前以前から39万年前)=== 古期御嶽火山は現在と同じ位置に噴火口を有する中心火山により形成された、標高3,200‐3,400 mほどの玄武岩、安山岩、デイサイトにより構成される複成火山群。古期御岳火山は、溶岩層の年代値と岩石学的特徴から、約78万年前以前から64万年前の降下テフラが卓越するステージと、約64万年前から39万年前の溶岩流が卓越するステージに大きく区分される。降下テフラが卓越するステージは更に3つのサブステージに細分される。また、溶岩層の年代値と分布から4つの火山体が推定されている。広域テフラとして、湯川テフラ5と、上浦沢テフラがそれぞれ、上総層群中の白尾テフラ(約77万年前)と、笠森12テフラ(60‐58万年前)に対比される。このうち、白尾テフラは松山‐ブリュンヌ逆転の直下に存在し、地磁気逆転の年代を高精度で決定するのに役立った。 78万年前から65万年前 ‐ 東部火山群68万年前から57万年前 ‐ 土浦沢火山 64万年前 ‐ 東山腹に倉越溶岩を噴出した。周りの地層が浸食されて、堅い溶岩がレリーフ状に残り現在の倉越高原を形成。64万年前 ‐ 東山腹に倉越溶岩を噴出した。周りの地層が浸食されて、堅い溶岩がレリーフ状に残り現在の倉越高原を形成。54万年前から52万年前 ‐ 上俵山火山44万年前から42万年前 ‐ 三笠山火山 東山腹に安山岩質溶岩の三笠山溶岩を噴出。東山腹に安山岩質溶岩の三笠山溶岩を噴出。 ===休止期(約39万年前から10万年前)=== 約10万年前まで約30万年の活動休止期間が続く。山体は浸食を受け深い谷と和村泥流を形成。 ===新期御嶽火山(約10万年前から2万年前)=== 活動域からは摩利支天火山群と西側の継母岳火山群に分類される。 継母岳火山群 ‐ 約9万年前の爆発的な噴火により、御嶽第1軽石層や塩尻軽石層、Pm‐Iテフラを噴出し、広域テフラを関東地方まで降らせた。この活動は、プリニー式噴火で古期御嶽火山の中央部に直径5‐6kmのカルデラ形成する活動であり、流紋岩からデイサイトのシン谷溶岩層、湯ノ谷溶岩層、濁滝火砕流堆積物、三浦山溶岩層などを形成。総見かけ噴出量 50 km(30 km DRE)。摩利支天火山群 ‐ カルデラが形成された後の約8万年前から約2万年前の活動では摩利支天火山群の濁河火山、金剛堂火山、奥の院火山、草木谷火山、継子岳火山、およびほぼ南北方向に並ぶ小火山群として四ノ池火山、一ノ池火山、三ノ池火山などの火口から安山岩質の溶岩・火砕物などを噴出。噴出量は四ノ池火口由来が最大で、一ノ池火口と二ノ池火口は山頂の小カルデラ内に形成された。また、現在の御嶽山の最高点の剣ヶ峰の火口丘と南北に並ぶ山頂群が形成された。約6万年前 ‐ 摩利支天溶岩を噴出した。摩利支天第6溶岩が濁河川の支流の大俣川に沿って流下して形成された柱状節理である「巌立」(所在地が下呂市小坂町落合中サキ平)は、1957年(昭和32年)に岐阜県の天然記念物の指定を受けている。約5万年前 ‐ 大規模な山体崩壊を起こし崩壊した土砂は東山麓の西野川から王滝川、木曽川流域を埋め約200km下流の愛知県犬山市にもその泥流の堆積物が残された。 ===約2万年前から現在までの静穏期=== 2000年代以前は、約2万年前からはマグマを噴出しない活動が主体で静穏な期間と考えられていたが、近年の研究では最近1万年間で4回のマグマ噴火と10数回の水蒸気爆発が起きたと考えられているほか東山腹で山腹割れ目噴火も生じている。 約1万年前 ‐ カラ谷火砕流で1740万 mの軽石を中規模に降下した。約9,000年前 ‐ 三ノ池溶岩で5億 mの大規模な噴出をした。約6,000年前 ‐ 五ノ池火口が形成された。約5,200年前 ‐ 女人堂スコリアで140万 mの小規模な噴出をした。約5,000年前 ‐ 濁滝スコリアで35‐75万 mの小規模な噴出をした。 ===有史以降=== 『御嶽山 地質と噴火の記録』千村出版によれば、774年と1892年に噴火活動があったとされているが、後の研究によりこの2回の噴火は発生していなかったことが明らかとなっている。有史以降最も活発な活動は1979年に始まった。 19世紀前半 小規模な噴気活動を示す記録が残る。1968年 気象庁「火山観測指針」 の63活火山に掲載。1975年 気象庁「日本活火山要覧」 の77活火山に掲載。1979年(昭和54年)地獄谷上部の標高2,700 m付近を西端とし東南東に並ぶ10個の火口群が形成され、噴出量は18万トンから20数万トンほどの小規模な噴出量であった。最大降灰深度は*8334*田原で 3cmと報じられた。なお、噴出当初の火山灰は湿り気を帯びハロイサイト、カオリナイト、モンモリロン石などを主成分とする 2 ‐ 3mmkの粒状であった。また、モンモリロン石を含むことから山頂地表下の浅い場所に泥漿溜まりが存在し、その泥漿溜まりが深いところからの高温ガスによって熱せられ爆裂的に噴出したと考えられている。約50名の登山者がいたが負傷1名。 4月頃から三ノ池の水の白濁化。 10月28日 噴火の6時間前頃から、山頂直下の地震増加。 5時頃 ‐ 水蒸気爆発が起こり、王滝村役場の職員が頂上付近で高さ150 mの噴煙を確認した。 5時15分頃 ‐ 王滝頂上から山頂へ向かった登山者が硫黄臭に気付き、15分後に降灰を受けた。 6時頃 ‐ 王滝口7合目の登山口(田の原)で登山者、頂上付近で黒煙が上昇するのを目撃し、頂上にいた登山者はジェット機に似た音やかなりの煙に気付いた。 9時頃 ‐ 三岳村から白煙が1箇所から上昇しているのが確認され、田の原では白煙が茶色に変わるのが確認された。 9時30分 ‐ 飛行機から山頂の山小屋が黒い火山灰に覆われて、高さ1,000 mの噴煙が東北東に流れているのが確認された。 11時 ‐ 定期航空便が高さ1,800 mの噴煙と下部で灰色の火山灰が上がっているのを目撃し、三岳村では降灰のため暗くなった。 12時 ‐ 長野地方気象台、臨時火山情報第1号発表。 12時30分頃 ‐ キノコ雲状の噴煙が確認された。八合目付近まで噴石が飛ぶ。噴火口付近では、直径1 m程の岩が飛ぶのが確認された。噴煙は、4000mから5000mまで。 15時頃 ‐ 三岳村では降灰が盛ん。開田村では降灰により視界が10‐20 m程となり、道路照明自動点灯。 16時頃 ‐ 開田村での降灰徐々に弱まる。 17時頃 ‐ 王滝村から多量の黒い煙が確認され、王滝頂上の山小屋の裏の方では白い噴煙が確認された。王滝口村では多量の降灰が続いていた。 18:45 ‐ 長野地方気象台、臨時火山情報第2号発表。 10月29日 ‐ 噴煙の量は減少して白色に変わり、火山灰の降灰も少なくなった。 10月31日 ‐ 噴煙には火山灰が含まれなくなった。4月頃から三ノ池の水の白濁化。10月28日 噴火の6時間前頃から、山頂直下の地震増加。 5時頃 ‐ 水蒸気爆発が起こり、王滝村役場の職員が頂上付近で高さ150 mの噴煙を確認した。 5時15分頃 ‐ 王滝頂上から山頂へ向かった登山者が硫黄臭に気付き、15分後に降灰を受けた。 6時頃 ‐ 王滝口7合目の登山口(田の原)で登山者、頂上付近で黒煙が上昇するのを目撃し、頂上にいた登山者はジェット機に似た音やかなりの煙に気付いた。 9時頃 ‐ 三岳村から白煙が1箇所から上昇しているのが確認され、田の原では白煙が茶色に変わるのが確認された。 9時30分 ‐ 飛行機から山頂の山小屋が黒い火山灰に覆われて、高さ1,000 mの噴煙が東北東に流れているのが確認された。 11時 ‐ 定期航空便が高さ1,800 mの噴煙と下部で灰色の火山灰が上がっているのを目撃し、三岳村では降灰のため暗くなった。 12時 ‐ 長野地方気象台、臨時火山情報第1号発表。 12時30分頃 ‐ キノコ雲状の噴煙が確認された。八合目付近まで噴石が飛ぶ。噴火口付近では、直径1 m程の岩が飛ぶのが確認された。噴煙は、4000mから5000mまで。 15時頃 ‐ 三岳村では降灰が盛ん。開田村では降灰により視界が10‐20 m程となり、道路照明自動点灯。 16時頃 ‐ 開田村での降灰徐々に弱まる。 17時頃 ‐ 王滝村から多量の黒い煙が確認され、王滝頂上の山小屋の裏の方では白い噴煙が確認された。王滝口村では多量の降灰が続いていた。 18:45 ‐ 長野地方気象台、臨時火山情報第2号発表。噴火の6時間前頃から、山頂直下の地震増加。5時頃 ‐ 水蒸気爆発が起こり、王滝村役場の職員が頂上付近で高さ150 mの噴煙を確認した。5時15分頃 ‐ 王滝頂上から山頂へ向かった登山者が硫黄臭に気付き、15分後に降灰を受けた。6時頃 ‐ 王滝口7合目の登山口(田の原)で登山者、頂上付近で黒煙が上昇するのを目撃し、頂上にいた登山者はジェット機に似た音やかなりの煙に気付いた。9時頃 ‐ 三岳村から白煙が1箇所から上昇しているのが確認され、田の原では白煙が茶色に変わるのが確認された。9時30分 ‐ 飛行機から山頂の山小屋が黒い火山灰に覆われて、高さ1,000 mの噴煙が東北東に流れているのが確認された。11時 ‐ 定期航空便が高さ1,800 mの噴煙と下部で灰色の火山灰が上がっているのを目撃し、三岳村では降灰のため暗くなった。12時 ‐ 長野地方気象台、臨時火山情報第1号発表。12時30分頃 ‐ キノコ雲状の噴煙が確認された。八合目付近まで噴石が飛ぶ。噴火口付近では、直径1 m程の岩が飛ぶのが確認された。噴煙は、4000mから5000mまで。15時頃 ‐ 三岳村では降灰が盛ん。開田村では降灰により視界が10‐20 m程となり、道路照明自動点灯。16時頃 ‐ 開田村での降灰徐々に弱まる。17時頃 ‐ 王滝村から多量の黒い煙が確認され、王滝頂上の山小屋の裏の方では白い噴煙が確認された。王滝口村では多量の降灰が続いていた。18:45 ‐ 長野地方気象台、臨時火山情報第2号発表。10月29日 ‐ 噴煙の量は減少して白色に変わり、火山灰の降灰も少なくなった。10月31日 ‐ 噴煙には火山灰が含まれなくなった。11月4日 ‐ 白色噴煙 100m、活動小康状態続く。 12月2日 ‐ 深夜から山頂付近で微小地震と鳴動を観測。微小地震は数日間続く。 12月末 ‐ 噴煙極めて少量。11月4日 ‐ 白色噴煙 100m、活動小康状態続く。12月2日 ‐ 深夜から山頂付近で微小地震と鳴動を観測。微小地震は数日間続く。12月末 ‐ 噴煙極めて少量。1984年 気象庁「日本活火山総覧」の77活火山に掲載。 9月14日 長野県西部地震9月14日 長野県西部地震1991年(平成3年)5月中旬 ‐ 79‐7火口でごく小規模な噴火が起きて、10トン程度の火山灰を噴出した。約1ヶ月前から火山性地震。79火口群の一部の八丁ダルミ直下南と山頂直下南面の地獄谷の上部の噴気孔から噴気活動が続いている。粉体流(火砕流)が発生していたとする報告がある。2004年 微弱な地震と噴気活動。2007年(平成19年)3月16日頃 ‐ 79‐7火口でごく小規模な噴火が起きた。約4ヶ月前から火山性地震と山体膨張、約2ヶ月前から低周波地震と火山性微動。2008年(平成20年)3月31日 ‐ 気象庁は、噴火警戒レベルの導入に伴い、噴火予報(噴火警戒レベル1、平常)を発表した。2014年(平成26年) 8月末より火山性地震を観測。 9月27日 ‐ 11時52分に噴火。8月末より火山性地震を観測。9月27日 ‐ 11時52分に噴火。 ===長野県西部地震による大規模崩壊=== 1984年(昭和59年)9月14日8時48分49秒に南山麓で発生した長野県西部地震(M6.8)により、御嶽山南斜面で大規模な山体崩壊が発生した。地震によって崩壊した大量の土砂は木曽川水系の濁川上流部の支流伝上川をかけ下り8分間で王滝川にまで達した。平均80‐100 km/h、延長距離約3 kmで、「御岳崩れ」と呼ばれることがある。濁川温泉、住宅、営林署の建物を流失させ、15人が犠牲となった。 ===5つの火口湖=== 1927年(昭和4年)に京都大学地理学者に田中阿歌麿が湖沼の調査を行った。御嶽山には、5つの火口湖があり、一ノ池から五ノ池の名前が付けられている。常に水をたたえているのは、エメラルド色の二ノ池と三ノ池である。二ノ池は日本で最も高いところ (2,905 m) にあるお盆形状の水深3.5 mの湖沼で、集水面積は湖面の数倍あり、ミクリガ池などの飛騨山脈の火口湖と比べて水位の日変化が40 cm程と大きいのが特徴である。昼夜の気温差による雪解け量の差がその原因である。夏でも雪渓が残り北西斜面の雪渓の雪解け水・天水・伏流水を集め、水位が極端に上昇した場合には、東端にあるニノ池小屋付近から北東に排水される。1979年の噴火活動の際に、ニノ池に大量の硫黄が流れ込み池の水は酸性度が強くなった。周辺の山小屋ではこの湖水をポンプで送水して宿泊者のためのお風呂の水に利用している。三ノ池は御嶽山で最大の池で、湖盆の平均斜度14.4度、水深が13.3 m、8月初旬の平均水温が表面で9.7 °C低層で9.5 °Cである。三ノ池畔には荒神と白龍王初春姫大神などの神々が祀られていて、三ノ池の湖水は信者の御神水(ごしんすい)とされている。王滝村御嶽神社里宮御神水とともに「信州の名水・秘水」の一つに選定されている。四ノ池は高層湿原となっていて、小川が流れており、高山植物の群生地となっている。なお、二ノ池北西の斜面の下、賽の河原との間に小さな窪地があり、多雨期には水がたまる。これを六ノ池と呼ぶことがある。賽の河原の西端、シン谷へ落ち込むところに日本最高所の滝 (2,800 m) がある。この谷は兵衛谷となり濁河川と合流し小坂川となって、飛騨川に注いでいる。三ノ池のみにオンダケトビケラ(学名:Pseudostenophylax sp.)の幼虫が生息する。 ===滝が非常に多い山=== 「御嶽山は滝の山である」と言われるほど、御嶽山を源とする河川には滝が多い。地形が急峻で高低差が大きいこと、独立峰で山体が大きいこと、降水量が多いこと、豊かな森林を育んでいて水が涸れることがないことなどがその成因となっている。人が近づきにくいところにあるものが多いが、黒沢口から油木尾根の遊歩道沿いにある百間滝(西野川の支流の南俣川)、開田高原の尾ノ島滝、王滝口の滝・清滝、濁河温泉付近の仙人滝・緋の滝、日本の滝百選に選ばれた根尾の滝など、比較的簡単に目にすることができる滝もいくつかある。新滝と清滝は御嶽教の行場で、新滝には洞窟がありここに籠って断食を行い滝に打たれる行場となっている。冬に新滝(落差約30 m)と清滝は氷柱となる。黒沢口四合目の霊神場周辺には、日ノ出滝、明栄滝、大祓滝、松尾滝などがあり不動明王などの神霊が祀られた行場となっている。下呂市小坂町には落差5 m以上の滝が200以上あり、多数の小坂の滝めぐりコースが紹介されている。 ===御嶽山は飛騨山脈に含まれるのか=== 御嶽山は北アルプス(飛騨山脈)の延長線上にあり、北アルプスに含めるという説もあるが、北側の乗鞍岳との間には稜線らしき峰々はほとんどないため、一般的には御嶽山は飛騨山脈には含まれないというのが定説である(ただし、旧乗鞍火山帯には含まれる)。しかし、間を横切る河川は1本もないのも事実であり、明確な結論は出ていない。著名登山家でも意見は分かれている。なお、ガイドブック等で日本アルプスを3つに分けて紹介する場合、中央アルプスの山数が少ないので御嶽山を中央アルプスと合わせて掲載されるケースが多々ある。このため、御嶽山を中央アルプスの山と思いこんでいる人も数多く存在するが、中央アルプスとの間には木曽川が流れており、明らかに中央アルプスには属さない。国土地理院の日本の主な山岳標高の一覧では、鎌ヶ峰までが「飛騨山脈南部」、御嶽山は「御嶽山とその周辺」とされている。御嶽山と鎌ヶ峰との鞍部には長峰峠(標高約1,350 m)がある。 ==歴史・信仰== 御嶽山は山岳信仰の山である。通常は富士山、白山、立山で日本三霊山と言われているが、このうちの白山又は立山を御嶽山と入れ替えて三霊山とする説もある。日本の山岳信仰史において、富士山(富士講)と並び講社として庶民の信仰を集めた霊山である。教派神道の一つ御嶽教の信仰の対象とされている。最高点の剣ヶ峰には大己貴尊とえびす様を祀った御嶽神社奥社がある。鎌倉時代御嶽山一帯は修験者の行場であったが、その後衰退していった。室町時代中期に神沢杜口の随筆『翁草』巻162で御山禅定は百日精進せずしては上り得ず、其間は行場に入りて修行をなす、昼夜光明真言を誦し、水垢離をとるなり。其の料金三両二分百日間の行用とす。斯くのごとくなれば軽賦の者は登り得ず生涯大切の旨願ならねば籠らずとなり。 ― 神沢杜口『翁草』巻162(室町時代中期) と記載されていて、山頂の御嶽神社奥社登拝に当たり麓で75日または100日精進潔斎の厳しい修行が必要とされ、この厳しい修行を行ったものだけに年1回の登拝が許されていた。この「道者」と呼ばれる木曽谷の人々による登拝が盛んとなった。1560年(永禄3年)6月13日に木曽義昌が、従者と共に武運を祈願するために御嶽神社の里宮で100日の精進潔斎を終え後登拝した。江戸時代前期の行脚僧円空も登拝し、周辺の寺院で多くの木彫の仏像を残している。1785年(天明5年)に尾張春日井郡出身の覚明行者が、旧教団の迫害を退けて地元信者を借りて黒沢口の登拝道を築き、軽い精進登山を普及させるに成功し、厳しい修行をしなくても水行だけで登拝できるようになった。その後普寛行者が王滝口を開いた。江戸時代に、王滝口、黒沢口および小坂口の3つの道が開かれることにより、尾張や関東など全国で講中(普寛講他)が結成され御嶽教が広まり、信仰の山として大衆化されていった。江戸時代末期から明治初期にかけて毎年何十万人の御岳講で登拝され賑わっていた。江戸時代末期の『信濃奇勝録』で、信州一の大山なり、嶽の形大抵浅間に類して、清高これに過ぐ、毎年6月諸人潔斎して登る、福島より十里、全く富士山に登るが如し。 ― 信濃奇勝録(江戸時代末期) と記載されている。1868年(明治元年)に黒沢口の8合目には「女人堂」が御嶽山で最初に山小屋としての営業を開始し、この上部への女性の立ち入りが禁止されていたが、1872年の太政官通達により他の国内の山と比較して早くから女人禁制が解かれた。王滝口と黒沢口の参道には多数の霊場と修行場跡がある。御嶽信仰では自然石に霊神(れいじん)の名称を刻印した「霊神碑」を建てる風習がある。黒沢口の参道には登拝者を祀った約5,000基の霊神碑があり、王滝口の参道にも多数の霊神碑が並ぶ。御嶽神社には蔵王権現が祀られていて、遠く離れた鳥居峠や和田峠などの遥拝所に御嶽信仰の石碑や祠が設置されている。江戸時代後期の絵師谷文晁が『日本名山図会』この山を描いて、名山として紹介した。林道黒石線と白崩林道の有料道路や御岳ロープウェイの開業に伴い、ひのき笠と金剛杖の白装束の信者で埋め尽くされていた登拝道に、一般の登山者が混じるようになってきた。1985年(昭和60年)以降に山腹に4つのスキー場が建設された。 ===御嶽神社=== 御嶽大神と呼ばれる国常立尊、大己貴命、少彦名命を祭神とする。王滝口に里宮と黒沢口に里宮と若宮があり、木曽御嶽神社王滝口の奥社は王滝頂上、木曽御嶽神社黒沢口の奥社は山頂の剣ヶ峰にある。1882年(明治15年)6月に、小谷分喜が『御嶽神社社略縁起』を出版した。1944年(昭和22年)に御嶽教などの教団と御嶽神社が「木曽御嶽山奉賛会」を設立し、その後「御嶽山奉賛会」と改称し神社の運営を行っている。1984年(昭和59年)9月14日の御嶽山直下を震源とした長野県西部地震で一合目の里宮の拝殿と末社が半壊し、行場の清滝は滝つぼが土砂に埋まった。御嶽神社黒沢口では太々神楽が奉納されている。 木曽御嶽神社黒沢口 里宮 ‐ 黒沢口、所在地は木曽町三岳6687、少彦名命を祭神とする。 若宮 ‐ 1385年(至徳)黒沢口に再興された。に大己貴命を祭神とする。 頂上奥社本宮 ‐ 御嶽山頂上(剣ヶ峰)、大己貴命と少彦名命を祭神とする。里宮 ‐ 黒沢口、所在地は木曽町三岳6687、少彦名命を祭神とする。若宮 ‐ 1385年(至徳)黒沢口に再興された。に大己貴命を祭神とする。頂上奥社本宮 ‐ 御嶽山頂上(剣ヶ峰)、大己貴命と少彦名命を祭神とする。木曽御嶽神社王滝口 里宮 ‐ 王滝口1合目にあり、1484年(文明16年)に再建され、御嶽山登拝前の精進潔斎の参籠のための行場であった。古くは、「岩戸権現」と呼ばれ、明治以前は王御嶽岩戸座王権現が祀られていたが、現在は国常立尊、大己貴命、少彦名命を祭神とする。 王滝頂上にある木曽御嶽神社王滝口頂上奥社本宮 頂上奥社本宮 ‐ 頂上の剣ヶ峰、かつては日ノ権現が祀られていたが、現在は国常立尊、大己貴命、少彦名命を祭神とする。里宮 ‐ 王滝口1合目にあり、1484年(文明16年)に再建され、御嶽山登拝前の精進潔斎の参籠のための行場であった。古くは、「岩戸権現」と呼ばれ、明治以前は王御嶽岩戸座王権現が祀られていたが、現在は国常立尊、大己貴命、少彦名命を祭神とする。 王滝頂上にある木曽御嶽神社王滝口頂上奥社本宮頂上奥社本宮 ‐ 頂上の剣ヶ峰、かつては日ノ権現が祀られていたが、現在は国常立尊、大己貴命、少彦名命を祭神とする。八海山神社 ‐ 王滝口5合目、眼病平癒三笠山神社 ‐ 王滝口7合目の三笠山頂上、道中安全、交通安全田ノ原大黒天 ‐ 王滝口5合目の田の原、商売繁盛、開運御嶽神社飛騨口里宮 ‐ 濁河温泉登山口 ===御嶽の四門=== 遠方から御嶽の登拝にやってきて最初に御嶽山を望むことができる場所が「御嶽の四門」と呼ばれていて、鳥居などが設置された御嶽山の遥拝所がある。これらは仏教の四門として、岩郷村神戸が発心門、長峰峠が菩薩門、三浦山中が修行門、鳥居峠が涅槃門にたとえられていた。木曽福島から黒沢口への古道の合戸峠や姥神峠などにも御嶽遥拝所があった。 岩郷村神戸 ‐ 中山道を京方面から最初に御嶽山を望める箇所、現在の木曽町、山頂の東南東19.8 km。長峰峠 ‐ 鎌ヶ峰との鞍部 ‐ 覚明行者系の空明行者によって再興された御嶽大権現の碑が設置されている。山頂の北北東10.4 km。三浦山中 ‐ 戦乱で焼失したと記録されている。阿寺山地の拝殿山、山頂の南西17.2 km。鳥居峠 ‐ 中山道、山頂の東北東29.2 km。木曽義元が戦勝祈願のため、御嶽遥拝の鳥居を建造した。普寛行者系の一心行者の石像が設置されている。 ===御嶽信仰を広めた行者=== ====覚明行者==== 覚明行者(かくめいぎょうしゃ)は、1718年(享保3年)3月3日に尾張国春日井郡牛山村皿屋敷の農夫丹羽清兵衛(左衛門)と千代の子として生まれ、幼名は源助で後に仁右五衛門に改名、幼少期は新川村土器野新田の農家で養われていた。出身地の愛知県春日井市立牛山小学校の校歌で、「北に御岳見はるかす 覚明行者の産湯の街に」と歌い込まれている。1818年(文政元年)10月の『連城亭随筆』で「医師の箱持ちをした後お梅と結婚し餅屋を開き商いをしていた」と記録されている。ある時予期せぬ出来事(盗みを働いたと疑われたことがきっかけとする説がある)が起こり、各地で巡礼修行を行い行者となった。木曽谷の村々で布教活動を行い信者を増やした。1782年(天明2年)御嶽山を管轄する神職武居家と尾張藩木曽代官山村氏に登山許可の請願を行ったが、数百年に渡る従来の登拝型式(精進潔斎)を破ることになるため却下された。しかし登山許可がないまま1785年(天明5年)6月8日に地元住民8名と、6月14日には尾張の38名の信者らと、6月28日には約80名を引き連れて強引に登拝を行った。登拝したものは罪を受け、覚明行者も21日間拘束を受けたとされている。1786年(天明6年)にも多数の同志を引き連れて登拝を強行し黒沢の登山道の改修を行ったが、その最中の6月20日にニノ池畔で病に倒れ、その直下にある黒沢口九合目の覚明堂の宿舎上の岩場に埋葬された。山小屋「覚明堂」の横に覚明行者の霊場が現存する。その後覚明行者の志を受け継いだ信者により黒沢口の登山道の改修が完結され、覚明行者が強行登拝したことによって事実上の「軽精進による登拝解禁」となった。信者が増加し福島宿に経済効果が生まれるようになったこともあり1791年(寛政3年)6月には麓の庄屋が連名で武居家に軽精進登拝の請願を提出し、1792年(寛政4年)1月1日に許可が下された。6月14日から6月18日まで間に、入山料200文を徴収し、軽精進による登拝を認めるという規定が作られた。1850年(嘉永3年)に上野東叡山日光御門主から菩薩号が授与された。覚明行者は麓の開田西野で村人に「アカマツの苗が育てば必ず稲ができる」と教え、村人が苗を植えたら育ったことから開田の地名が生まれ、その由来が1806年(文化3年)に設置された稗田の碑に刻まれている。御嶽山を中興開山させた先駆者とされている。 ===普寛行者=== 普寛行者(ふかんぎょうしゃ)は、1731年(享保16年)に武蔵国秩父郡大滝村落合で生まれ(本名が本明院普寛)、青年期江戸に出て剣術を学び酒井雅楽頭家に仕えたと伝えられている。1764年(明和元年)三峯神社に入門した本山派の修験者となった。1792年(寛政4年)5月に江戸などの信者を引き連れて開山にために旅立ち、6月8日から山に入り各地で御座(おざ)を行いながら6月10日に登拝し王滝口を開いた。その後江戸方面での御嶽講を組織し御嶽信仰を普及させた。1794年(寛政6年)には上州の武尊山、1795年(寛政7年)には八海山の開山を行い霊山の開山活動を続けた後、1801年(享和元年)9月巡錫中に武州本庄宿で病に倒れた。普寛行者はなきがらは いつくの里に埋むとも 心御嶽に 有明の月 ― 普寛行者の辞世の句 の辞世の句を残している。王滝口3合目の清滝上の花戸には普寛行者の墓塔がある。1850年(嘉永3年)に上野東叡山日光御門主から菩薩号が授与された。1890年(明治23年)王滝村で普寛行者百年祭が開催され記念碑が建立された。普寛行者の直弟子として広山行者、泰賢行者、順明行者などがいて、その後次々に有力な行者が現れて御嶽講が広まった。 ===御嶽講=== 御嶽山の登拝は行者と信者が一緒にその聖地を巡礼する旅(御嶽参り)でもある。講者ごとに先達(せんだつ)に導かれて集団で登拝されることが多い。普寛行者の没後有力な行者が次々と現れ、この信仰により病苦が救われると信頼され、最初に江戸など関東地方に普寛行者系の御嶽講社が開かれた。その後普寛行者の弟子である儀覚行者(きかくぎょうじゃ、1769‐1841年)が東海地方に宮丸講を初めて開き、覚明行者系の講社が愛知県を中心に西日本へと広まった。濃尾平野の農民は木曽川の水源となる御嶽山を水分神の山として尊崇していた。木曽谷の地域でも普寛行者系の講社が次々と結成された。各講の先達の魂は霊神として、その碑が御嶽山の登拝道に鎮められている。この「死後我が御霊はお山にかえる」という信仰に基づく霊神碑が御嶽山信仰の特徴のひとつである。江戸時代から関東や尾張から中山道が利用されていたが、1919年(大正8年)の中央本線が全線開通すると木曽福島駅から御嶽山へ歩き始めるようになった。1923年(大正12年)に木曽森林鉄道が敷設された後、木曽福島駅から黒沢と王滝までおんたけ交通の乗合バスが利用されるようになった。1966年(昭和41年)に有料道路林道黒石線が全線開通すると貸切バスで直接王滝口の田の原へ入ることができるようになり、1971年(昭和46年)有料道路白崩林道が全線開通すると貸切バスで直接黒沢口の中の湯まで入ることができるようになった。現在は天気が安定している7月下旬から8月中旬頃に1泊2日または2泊3日で登拝が行われることが多い。黒沢口から8合目の女人堂を経て山頂を往復するか、黒沢口から山頂を経て王滝口へ下るルートで登拝されるか、王滝口から山頂を往復するか、王滝口から山頂を経て8合目の女人堂を経て黒沢口へ下るルートで登拝されることが多い。 ===宗教教団=== 御嶽教、木曽御嶽教、神進大教、神理教、禊教、大成教、神道修成派、丸山教、稲荷教、天台宗寺門派や古くは講社と呼ばれていた旧教派神道系の教団などの御嶽信仰の教団がある。 ===御嶽教=== 御嶽教(おんたけきょう)は、奈良県奈良市に教団本部(御嶽山大和本宮)を置く教派神道で、神道十三派の一つ。御嶽教の山の本部である木曽大教殿が長野県木曽町福島新満郡にある。1984年(昭和59年)4月に、日本全国に御嶽教の教会、枝教会、布教所が978(愛知県263、岐阜県98、埼玉県47、長野県40など)ほどあった。 ===木曽御嶽教=== 木曽御嶽教(きそおんたけきょう)は、1946年(昭和21年)に覚明行者系の講社などが結集して設立された御嶽信仰の宗教教団。総本庁と天昇殿事務所が木曽町三岳にある。御嶽神社を宗祠とし、初代の管長は黒沢御嶽神社宮司の武居誠。 ===御嶽山の年表=== 702年(大宝2年)6月 ‐ 役小角が開山し、高根道基が山頂の剣ヶ峰に御嶽神社奥社を創建したとされている。774年(宝亀5年) ‐ 信濃国司の石川望足 (石川朝臣)が勅を受けて登頂し、大己貴命と少彦名命の二神を祀り悪疫退散を祈願した。925年(延長3年) ‐ 白河少将重頼が登拝し、御嶽神社奥社の神殿を建造したとされている。928年(延長6年) ‐ 醍醐天皇の勅使により、黒沢口に御嶽神社里宮が建造された。1161年(応保元年)‐ 後白河天皇の勅使が登山参拝されたと伝えられている。1177年‐1184年(治承元年‐寿永3年) ‐ 木曾義仲が打倒平氏を祈願するために登ったと伝えられている。室町時代 ‐ 修験者の登拝が盛んになった。1492年‐1500年(明応‐大永年間) ‐ 木曽義元が小笠原氏を打倒し、藪原峠に御嶽遥拝の鳥居を建造した。1503年(文亀3年) ‐ 王滝村祚宜彦五郎が『王御嶽登山清女行法巻』の祭文を書写。1507年(永正4年) ‐ 王滝村祚宜彦五郎が『王御嶽蔵王権現祭祀祝詞』を書写。1560年(永禄3年)6月13日 ‐ 木曽義昌が従者と共に武運を祈願するために登頂した。1591年(天正19年) ‐ 王滝村祚宜滝六郎右ヱ門が『嶽由来記』を記す。1593年(文禄元年) ‐ 王滝村祚宜滝六郎右ヱ門が『御嶽山縁記』を書写。1716年‐1735年(享保年間) ‐ 本草学者の丹羽正伯らが山域で生薬の採集や調査を行った。1719年(享保4年)6月15日 ‐ 「山村家給人古畑助三郎以下四十一名」の道者が登拝したと記録されている。1785年(天明5年) ‐ 尾張の覚明行者によって黒沢口が開かれた。御嶽信仰の山として江戸時代に、一般にも開放されるようになった。1791年(寛政3年) ‐ 小坂口が開かれた。1792年(寛政4年) ‐ 代官山村良喬により御嶽山の軽精進登山が許可され、武居家から「登山に付谷中へ通達の事」が通達された。 6月 ‐ 武蔵の普寛行者が王滝口を開いた。6月 ‐ 武蔵の普寛行者が王滝口を開いた。1849年(嘉永2年) ‐ 普寛行者の弟子である寿光行者が御嶽山の霊草百種を採り集め、煎じて生薬としたと伝えられている。1861年(文久元年) ‐ 剣ヶ峰の御嶽神社奥社の祠の石垣の改修が行われ、700枚ほどの大観通宝が出土した。1872年(明治5年) ‐ 太政官通達により神社仏閣地の女人禁制が解かれた。1907年(明治40年) ‐ 御嶽山上に御嶽夏季郵便局が開設された。1925年(大正14年) ‐ 御嶽自動車商会(現在のおんたけ交通)が開業。1952年(昭和27年)3月3日 ‐ 長野県側の山域が御岳県立自然公園に指定される。1954年(昭和29年)3月 ‐ 王滝口、自動車道路の建設開始。 8月8日 ‐ 山頂直下の八丁ダルミに、御嶽教の斎場である「御嶽山頂上祭場」(日本で最高所の火葬場)が造られ、毎年「御嶽山大御神火祭」が斎行されるようになった。8月8日 ‐ 山頂直下の八丁ダルミに、御嶽教の斎場である「御嶽山頂上祭場」(日本で最高所の火葬場)が造られ、毎年「御嶽山大御神火祭」が斎行されるようになった。1961年(昭和36年)‐ 南山麓に牧尾ダムが完成し中京圏の水がめとして上水道、工業用水、かんがい用水を供給している。1966年(昭和41年)‐ 王滝口、有料道路林道黒石線(現在の村道41号線)が田の原まで全線開通。1971年(昭和46年)‐ 黒沢口、有料道路白崩林道が中の湯まで全線開通。1979年(昭和54年)10月28日 ‐ 南西側斜面で水蒸気爆発が発生し、有史以来の噴火となった。1984年(昭和59年)9月14日8時48分49秒 ‐ 御嶽山直下を震源としたM6.8の長野県西部地震が発生し、剣ヶ峰南南東の伝上川上流で山体崩壊が発生し、岩屑なだれが流れ下った王滝川沿いの山麓に多大な被害をもたらした。この際、濁川温泉(現存せず)が流失し、経営者一家が行方不明になった。1985年(昭和60年)‐ 東南東山腹におんたけスキー場(現在のおんたけ2240)が開業。1989年(平成元年) ‐ 御岳ロープウェイが開業し、通年運行され、冬はスキー場、その他のシーズンは、観光客や登山者に利用されている。1996年(平成8年) ‐ 東山腹に開田高原マイアスキー場が開業。1997年(平成9年)4月1日 ‐ 有料道路林道黒石線無料開放化。1998年(平成10年)‐ 北岳山腹にチャオ御岳スノーリゾートが開業。1999年(平成11年)4月1日 ‐ 岐阜県側の山域が御嶽山県立自然公園に指定される。2004年(平成16年)3月1日 ‐ 麓の小坂町及び萩原町、下呂町、金山町、馬瀬村が合併して下呂市が誕生した。2005年(平成17年)2月1日 ‐ 麓の朝日村、高根村及び高山市、丹生川村、清見村、荘川村、宮村、久々野町、国府町、上宝村の1市2町7村が編入合併し新しい高山市となった。 11月1日 ‐ 麓の開田村、三岳村及び木曽福島町、日義村が合併し木曽町となる。11月1日 ‐ 麓の開田村、三岳村及び木曽福島町、日義村が合併し木曽町となる。2007年(平成19年)11月13日‐11月14日 ‐ 木曽町で日本山岳修験学会(木曽御嶽学術大会)が開催される。2014年(平成26年)9月27日 ‐ 南東斜面で水蒸気爆発が発生し、多数の登山客が巻き込まれる。 ==御嶽山の環境== 1757年(宝暦7年)に松平君山が『吉蘇志畧』を刊行し、御嶽山について その東の峰に三つの池有り、一の池は水涸る、一の池は水少し、一の池は水満る、その水は流れて西のに至る。この北を地獄谷と云う硫黄多し、その水流れて王滝に至る、濁川と云う、往々硫黄を取得す、その水甚だ臭し ― 松平君山『吉蘇志畧』 と記載し、ハイマツ、コマクサ、オンダテ、オコジョなどの解説とホシガラス、ライチョウなどの鳥類の詳細なスケッチを残している。標高3,000 mを越える高山であり、木曽節では「木曽の御嶽夏でも寒い袷やりたや足袋添えて」と歌われている。1979年の噴火による荒廃で黒沢口登山道九合目の石室山荘周辺のハイマツが枯れたが、2002‐2003年頃から若芽が確認されている。御嶽山のコマクサの昔話がある。王滝口登山道にある田の原天然公園を中心に約830 haが、木曽御岳自然休養林に指定されている。田中澄江は、『花の百名山』著書で代表する花に一つとしてリンネソウを紹介した。標高1,500m以下の山麓では、ヒノキ、アスナロなどの木曽五木が見られる。1836年(天保7年)に西山麓の下呂市小坂町赤沼田で植栽されたヒノキの人工林が、1993年(平成5年)に林野庁により「赤沼田天保ヒノキ植物群落保護林」の指定を受けた。木曽町三岳では「御嶽黒光真石」と呼ばれる安山岩が産出され、御嶽信仰の霊神碑にも利用されていた。現在も麓の田中石材店などで石材加工が行われている。 ===御嶽山の動物=== 3万年前の旧石器時代にオオツノシカが生息していて、東山麓の開田高原はその狩猟場であった。柳又遺跡からは石器や土器が出土している。山頂付近の登山道の高山帯に生息するホシガラス、ライチョウ、クジャクチョウなどが見られる。ライチョウ(雷鳥)は日本で特別天然記念物に指定され、環境省によりレッドリストの絶滅危惧IA類、岐阜県では絶滅危惧I類、長野県では絶滅危惧II類に指定され絶滅が危惧されている。1981年の調査で50箇所あったライチョウの縄張りが、2008年の調査で28箇所に減少している。2012年12月に、西側の前衛峰である御嶽山系の御前山の標高1,500 m付近でライチョウ1羽(冬羽のメス)が確認され、冬期に尾根伝いに高山帯から移動してきたものと見られている。山域にはイタチ、イノシシ、タヌキ、ツキノワグマ、ニホンザル、ホンドギツネなどが生息し、アトリ、イカル、キジ、キバシリ、ヒガラ、ブッポウソウなどの鳥類も豊富である。南東山麓の長野県木曽郡木曽町の「三岳のブッポウソウ繁殖地」は国の天然記念物の指定を受けている。開田高原ではその産地であった木曽馬が飼育されていて、長野県の天然記念物の指定を受けている。チョウ目ヤガ科のオンタケクロヨトウ(学名:Apamea ontakensis Sugi)の高山蛾は、御嶽山の高山帯のみに生息する。本州の限られた山岳地帯に分布するチョウ目シャクガ科のウチジロナミシャク(学名:Dysstroma truncata fusconebulosa Inoue)は、岐阜県では御嶽山のみで分布が確認されている。 ===御嶽山の植物=== 江戸時代末期に御嶽山の高山植物は「御神草」として珍重され、山頂部の高山帯に自生するコマクサは薬草として採集され多くの自生のものが消滅した。山頂部のコマクサ群落の再生活動が行われている。1887年(明治20年)7月に植物学者の白井光太郎が登頂して高山植物を採集し、1889年(明治22年)には三好学らも採集し、1933年(昭和8年)に植物学者の中野治房が御嶽山の植物生態を調査した。山の上部の森林限界の高山帯には、アオノツガザクラ、イワウメ、ウラジロナナカマド、オオヒョウタンボク、ガンコウラン、キバナシャクナゲ、クロマメノキ、コケモモ、コメバツガザクラ、タカネナナカマド、チングルマ、ハイマツ、ミネズオウ、ミヤマハンノキなどの樹木とイワギキョウ、イワツメクサ、オンタデ、クモマグサ、クロユリ、コマクサ、シラタマノキ、チシマギキョウ、トウヤクリンドウ、ハクサンイチゲ、ミヤマアキノキリンソウ、ミヤマキンバイ、ミヤマダイコンソウ、モミジカラマツなどの多くの高山植物が自生している。日本の固有種であるオンタデ(御蓼)の和名は、この山で最初に発見されたことによる。ウラジロナナカマドとタカネナナカマドとの雑種のオンタケナナカマド(学名:Sorbus x yokouchii M.Mizush. ex T.Shimizu)が自生している。中腹の亜高山帯では、オオシラビソ、オガラバナ、コメツガ、シラビソ、ダケカンバ、トウヒ、ナナカマド、ハリブキ、ミヤマザクラなどの樹木とオサバグサ、カニコウモリ、キソアザミ、キソチドリ、ゴゼンタチバナ、コバイケイソウ、サンカヨウ、セリバシオガマ、タケシマラン、ツバメオモト、バイカオウレン、マイヅルソウ、ムシトリスミレ、ユキザサなどの草花が自生している。下部の山地帯では、イヌブナ、カエデ類、カツラ、クリ、シラカンバ、シナノキ、ミズナラなどの落葉広葉樹とトチノキ、クロベ、サワラ、ヒノキなどの自然林の針葉樹とカラマツ、スギ、ヒノキなどの人工林、イワカガミ、クガイソウ、ササユリ、ススキ、ツルアジサイ、トリアショウマ、ホタルブクロ、マツムシソウ、ヤナギランなどの草花が分布している。「御岳オサバグサ」(面積18.39 ha)と「胡桃島ハイマツ等」が林野庁により、植物群落保護林の指定を受けている。「木曽ヒノキ」は、「秋田のスギ」と「津軽のヒバ」とともに『日本三大美林』に選定されている。南側は現在も火山活動中であり植物相は貧弱で、北側はコマクサの群生地など豊富な植物相となっている。1910年に植物学者小泉源一がこの山でトリカブト属のオンタケブシ(学名:Aconitum metajaponicum Nakai)を採集しその和名の由来となっている。オンタケチブシは絶滅が危惧されていて、環境省の絶滅危惧IA類の指定を受けている。 ===御嶽山の生薬「百草丸」=== 多くの薬用植物が分布し江戸時代に本草学の研究が盛んに行われ、この地域を領有していた尾張藩が薬草の採取を行っていた。1716年‐1735年(享保年間)に本草学者の丹羽正伯らが山域で生薬の採集や調査を行った。1804年‐1818年(文化年間)に水谷豊文が山麓を中心とする『木曽採薬記』を刊行し、山頂付近にコマクサが自生していることが記載されている。1844年(天保15年)に周辺の木曽谷の山域で採取された植物のおしば帳である『木曽産草花根皮類』が刊行され、アオノツガザクラ、オヤマリンドウ、クロユリ、スミレ、チングルマ、ミズバショウなど50種類などが図鑑型式にまとめられていた。そのうちの24種が現在の和名で記載されていた。本草学が進んでいた尾張藩に属していて、山村代官により薬草の調査、栽培、管理が行われていた 。王滝口を開いた普寛行者により、『御嶽山の霊薬百種を採り集めよく煎じて薬を製せば霊験神の如し、これを製して諸人を救え。』と村人などに伝授された。1849年(嘉永2年)に王滝口を開いた普寛行者の弟子である寿光行者が、御嶽山の霊草百種を採り集め煎じて生薬としたと伝えられていて、王滝村には「百草元之碑」には同村の胡桃沢弥七と小谷文七が普寛行者の遺法を基に百草を製造したと記載されている。御嶽信仰の広がりと共に木曽御嶽の「御神薬」の百草が各地に広まった。百草は御嶽参りのお土産とされていた。南山麓では長野県製薬(御岳百草丸)と日野製薬(御嶽山日野百草丸)が、キハダの樹皮の内側の木の層の「オウバク」を主成分とした「百草丸」(胃腸薬)を製造している。この薬箱には「山三丸マーク」と呼ばれる御嶽信仰を象徴するマーク(御嶽神社や登山道の霊神碑の刻印などでも使用されている)が印刷されている。なおこの山三丸マークを使用する商標権について製薬会社間で訴訟「平成9年(行ケ)213号 審決取消請求事件」が行われた。明治以降は兵士の常備薬として需要が高まり、山域のキハダは昭和初期には伐採し尽くされ、他の地域や海外から輸入する事態となり現在は大半を中国のから輸入に頼っている。百草には「御嶽山の五夢草」であるコマクサ、オンタケニンジン、オウレン、トウヤク、テングノヒゲが含まれ、タカトウグサとゲンノショウコなども利用されていた伝えられている。 ===御嶽山の国有林=== 鎌倉時代から昭和初期まで山腹から山麓にかけての森林で木曽五木などが伐採され、その伐材は木曽川を利用して川流しが行われていた。山域の森林は江戸時代には尾張藩により管理され、明治になると御料林となり、現在山域の多くは国有林となっている。その大部分が水源かん養保安林に指定されている。御岳特定地理等保護林(旧御岳垂直森林帯植物群落保護林、面積1,540 ha)などで、自然環境の維持や動植物の保護ための国有林の保護管理が行われている。千間樽国有林と胡桃島国有林の一部が、「御岳自然休養林」に指定されている。 下呂地区(岐阜森林管理署管内) 落合国有林 ‐ ウラジロカンバ、ミネカエデなどの落葉広葉樹とコメツガ、サワラ、シラベ、トウヒなどの針葉樹林が分布し、ヒノキが植林されている。落合国有林 ‐ ウラジロカンバ、ミネカエデなどの落葉広葉樹とコメツガ、サワラ、シラベ、トウヒなどの針葉樹林が分布し、ヒノキが植林されている。高山地区(岐阜森林管理署管内) 幕岩下国有林 千間樽国有林 胡桃島国有林 ‐ 胡桃島ハイマツ等植物群落保護林がある。 幕岩下国有林幕岩下国有林千間樽国有林胡桃島国有林 ‐ 胡桃島ハイマツ等植物群落保護林がある。木曽谷地区(木曽森林管理署管内) 三浦国有林 ‐ 古くからヒノキの山地として知られ、江戸時代初期に伐採されていて、痕地にチマキザサ(学名:Sasa palmata)などが分布する。阿寺山地上部の隆起準平原で濃飛流紋岩などで構成されている。 王滝御岳国有林 樽沢国有林 浦沢国有林 障子沢国有林 御嶽国有林 黒沢御岳国有林 ‐ 黒沢口の油木尾根沿いの百間滝道には江戸時代に尾張藩が植林した樹齢200年以上のヒノキの美林が広がり「油木美林」と呼ばれている。 新高国有林 ヤケノ国有林 ヌカネ国有林 ナガウ原国有林三浦国有林 ‐ 古くからヒノキの山地として知られ、江戸時代初期に伐採されていて、痕地にチマキザサ(学名:Sasa palmata)などが分布する。阿寺山地上部の隆起準平原で濃飛流紋岩などで構成されている。王滝御岳国有林樽沢国有林浦沢国有林障子沢国有林御嶽国有林黒沢御岳国有林 ‐ 黒沢口の油木尾根沿いの百間滝道には江戸時代に尾張藩が植林した樹齢200年以上のヒノキの美林が広がり「油木美林」と呼ばれている。新高国有林ヤケノ国有林ヌカネ国有林ナガウ原国有林 ==登山== 古来より信仰の対象として少数の修験者によって登られ、江戸時代に覚明行者が黒沢口を開き、普寛行者が王滝口を開き全国各地に御嶽講が広まり信者による集団登拝が盛んに行われ、現在も白装束の登拝者が見られる山である。江戸時代の御嶽登山者の病気や凍死による死亡者の記録(御嶽山遭難者遺族差出証文など)が多数残されていて、1847年(弘化4年)7月16日には山頂の強い風雨で7人中5人が凍死する山岳遭難が起きた。1868年(明治元年)に黒沢口8合目の「女人堂」が御嶽山で最初に山小屋としての営業を開始した。1872年(明治5年)に女人禁制が解かれるまでは、避難小屋などとして登拝者に利用されていた女人堂から上部への女性の立入りは禁じられていた。明治初期に外国人の登頂により近代登山が始まった。1894年にウォルター・ウェストンが登頂して以降、一般の登山者にも登られるようになった。ウェストンと同時期にアメリカの天文学者パーシヴァル・ローウェルが来訪した際に登頂し、『オカルト・ジャパン』(第1章「御嶽」)で当時の様子を記している。1907年(明治40年)の馬やかごに乗る御嶽山登山者の写真が残されている。御嶽山の登山口は木曽側から3つ(王滝口、黒沢口、開田口)、飛騨側から1つ(小坂口)が昔から利用されていたが、その後日和田口が比較的新しく開かれた。 1979年10月の噴火により、山頂から4合目までが入山規制された。1981年に山頂部の火口付近を除き入山規制が解除された。気象庁が発表する噴火警戒レベルにより入山が規制される場合がある。木の丸太などで整備された階段状の登山道は「木曽御嶽奉仕会」などによる地元の有志や御岳信仰の関係者によって修復整備がなされている。3,000 mを越える高峰であるが登山口の標高が高いため日帰りで登山されることもある。麓の開田中学校や王滝中学校、下呂市の小学校などで学校登山が行われている。黒沢口などでは御嶽講の先達を背負ったり、信者の荷物や、山小屋の物資を運ぶ強力を担う人がいる。1954年(昭和29年)から8月8日に山頂直下(剣ヶ峰と王滝頂上の間)の八丁ダルミで、御嶽教の御嶽山大神火祭が行われている。大多数の信仰登山者が利用する黒沢口と王滝口の登拝道は、一般登山道としても利用されている。積雪期の登山において難所はないものの、独立峰のため山頂付近が強風でアイスバーンとなるため滑落に注意を要し、視界が悪い時にはルート判断が難しくなる山である。百名山ブームもあって、旅行会社による登山ツアーが多数行われた。 2014年9月の噴火により、噴火警戒レベルが3(入山規制)に引き上げられたことに伴い、火口から概ね4kmの範囲が立入禁止区域に指定された。2015年6月、噴火警戒レベルが2(火口周辺規制)に引下げられたことに伴い、立入禁止区域は火口から概ね1kmの範囲に縮小された。2017年8月に噴火警戒レベルが1(活火山であることに留意)に引き下げられたが、現在も火口から概ね1kmの範囲は立入禁止区域であり、また「岐阜県北アルプス地区及び活火山地区における山岳遭難の防止に関する条例」により、御嶽山の火口から4km以内に立ち入る場合には登山届の提出が義務づけられている。 ===近代登山史=== 1868年(明治元年) ‐ 黒沢口8合目の「女人堂」が御嶽山で最初に山小屋としての営業を開始した。1873年(明治6年) ‐ ウィリアム・ゴーランドとエドワード・デイロンが外国人としての初登頂をした。1874年(明治7年) ‐ ヨハネス・ユストゥス・ラインとイギリス人のワイウイー・ハウス他2名が登頂。1881年(明治14年) ‐ アーネスト・サトウがウィリアム・ゴーランドと登頂し、『中部及び北方日本旅行案内』を執筆した。1891年(明治24年)8月 ‐ ウォルター・ウェストンが登頂。1893年(明治26年) ‐ 木暮理太郎が王滝口から御嶽講に加わり登頂。1894年(明治27年)8月14日 ‐ ウォルター・ウェストンが黒沢口から再登頂し王滝口に下山、その後『日本アルプスの登山と探検』などの著書で御嶽山を含む日本の山々を世界に紹介した。1933年(昭和8年) ‐ 三笠宮が登山を行った。1937年(昭和11年)7月17日 ‐ 英文学者と登山家である田部重治が、王滝口から再登頂し小坂口へ下山した。1948年(昭和23年) ‐ 麓の木曽町立開田中学校の生徒による学校登山が始まる。2006年(平成18年)6月25日 ‐ 王滝村を中心とした御嶽山でOSJおんたけスカイレース(トレイルランニング競技)が開催され、以降毎年同レースが開催されている。 ===登山道=== 各方面から登山道が開設されている。小坂口、日和田口利用者の中には、剣ヶ峰まで登らずに、飛騨頂上・継子岳あるいは、摩利支天山までの登山を目的とする登山者も多い。一ノ池を取り囲むの西側の稜線に登山道があり、剣ヶ峰からニノ池小屋へのルートの一つとなっている。以前は、王滝川の支流の濁川に沿って濁川温泉(現存せず)を経て、剣ヶ峰と継母岳の鞍部に登る松原新道があったが、1984年の長野県西部地震により発生した伝上崩れにより崩壊し、廃道となった。 ===王滝口=== 車道で上がれる登山口は御嶽山で最も高い標高地点(田の原、標高2,160 m)であり、山頂の剣ヶ峰への最短ルートである。途中での眺望が優れており、登山口から王滝頂上までのコースが常に上から下まで見渡せる。登山口の田の原から王滝頂上までの間には8合目と9合目に避難小屋がある。山開きに相当する開山祭は7月1日に行われる。積雪期には登山口の田の原への道路が閉鎖されるが、春先におんたけ2240のスキー場のゴンドラを利用して、雪山登山を行う例がある。1合目に国常立尊、大己貴命、少彦名命を祀った御嶽神社里宮があり登拝口となっている。3合目には清滝と新滝があり、清滝には清滝不動明王が祀られ、登拝者が水行を行う行場となっている。5合目には子授け神霊である十二権現、6合目には眼の神様の八海山大神がある。標高約2,190 mの田の原には田ノ原山荘と木曽御嶽自然休養林田ノ原自然公園があり、登山シーズン中には自動車で上がることができる。 田の原 ‐ 7合目大江権現 ‐ 金剛童子(8合目下) ‐ 9合目石室 ‐ 王滝頂上 ‐ 剣ヶ峰 ===黒沢口=== 覚明行者によって開かれた最も古い登山道。御嶽教、木曽御嶽本教に最も関わりの深い登山道でもある。夏には「懺悔反省、六根清浄」を唱える白衣の登拝者が見られる。有人山小屋が合目ごとにある。現在は7合目付近にロープウェーの飯森駅(標高2,150 m)ができ、王滝口登山口の田の原とほぼ同じ標高まで歩かずに登ることができるようになったため、大半の登山者がロープウェイを利用するようになったが、6合目から歩く登山者は現在でも少なくない。山開きに相当する開山祭は王滝口と同じ7月1日に行われる。1合目に大己貴命を祀った御嶽神社若宮と少彦名命を祀った御嶽神社里宮があり登拝口となっている。登拝道場には多数の霊神碑が並べられていて、4合目の屋敷場には御嶽山で最大規模の霊神場があり講社単位で建てられた多数の霊神碑がある。松尾滝から油木尾根を経て百間滝から8合目の女人堂に至るルートは百間滝道と呼ばれている。百間滝には百間滝小屋があり行場となっている。 中の湯(6合目)またはロープウェイ飯森駅 ‐ 行場山荘(7合目) ‐ 女人堂(8合目) ‐ 石室山荘(9合目) ‐ 覚明堂 ‐ 剣ヶ峰 ===開田口=== 木曽側の3つの登山口のうち、唯一、信仰のためでなく作られた登山道。営林署(現・森林管理署)の作業道として開かれた。距離は長いが、大自然を満喫することが出来る。水場は4合目付近に湧き水があり、それ以外は三の池まで無し。登山口の標高が低く(1,500 m)標高差が大きいため、健脚向き。 開田口4合目 ‐ 7合目避難小屋跡 ‐ 三ノ池避難小屋 ‐ 賽の河原 ‐ 二ノ池 ‐ 剣ヶ峰 ===小坂口=== 剣ヶ峰へのアプローチが長いためか、現在は信仰登山者はほとんど見かけず、一般登山客が多い。このルートの山開きは、毎年6月15日に御嶽神社飛騨口里宮で開催されている。下山時に温泉を楽しめるのが魅力のコース。なお、登山口を胡桃島とし、のぞき岩避難小屋下で濁河温泉からの道と合流するコースもあるが、このコースを特に胡桃島コースと称することもある。飛騨頂上の五の池小屋は、2010年に新館が増築され収容人数が100人に倍増した。なお、平成30年6月豪雨の影響により登山道が崩落したが、迂回ルートが整備され2018年9月より通行可能となった。 濁河温泉 ‐ 湯の花峠 ‐ のぞき岩避難小屋 ‐ 飛騨頂上(五の池小屋) ‐ 賽の河原 ‐ 二ノ池 ‐ 剣ヶ峰 ===日和田口=== 継子岳頂上を目指して登るコースで宗教登山に由来しないコースのひとつ。1998年のチャオ御岳スキー場の開発に伴い、通年運行されるゴンドラリフトの「フライングチャオ」を利用することが多くなり、旧来の登山口からの登山は減った。ゴンドラリフトを使用した場合は王滝口とほほ同じ標高(2,190 m)まで登ることができるが、継子岳から最高峰剣ヶ峰までの距離が長い。また、ルートは他のコースに比べてあまり手入れがされていない。2010年現在、フライングチャオはスキーシーズン(12月初旬 ‐ 5月初旬)のみの運行となっており、春 ‐ 秋の登山には利用できなくなっている。 日和田口またはゴンドラリフト山頂駅 ‐ 継子岳 ‐ 飛騨頂上(五の池小屋) ‐ 賽の河原 ‐ 二ノ池 ‐ 剣ヶ峰 ===山小屋=== 御嶽山は宗教登山が盛んであるため、山小屋も宗教施設としての側面がある山小屋が多い。五の池小屋は近代的なアルペンスタイルの山小屋である。各登拝道や山頂などに多数の山小屋と避難小屋がある。登山道上にキャンプ指定地はないが、胡桃島口の登山口に「胡桃島キャンプ場」がある。それらの山小屋は大広間や客室内に御嶽神社の掛け軸などが祀られている。また、王滝口・黒沢口の開山祭の7月1日以降の営業開始となる小屋が多く、営業終了は山小屋によって差があるものの、8月末から9月末までの間が多い。御嶽神社・御嶽教・木曽御嶽本教は山開きを7月10日から9月10日までとしているため、その間は特に白装束の宗教登山者の宿泊利用や立ち寄り利用が多い。なお、五の池小屋は例外的に例年6月1日から10月15日までの営業と、長期間の営業を行っている。8合目と7合目の山小屋は紅葉シーズンも営業する。宗教施設としての側面が多い山小屋群の中で、五の池小屋は御嶽山では唯一アルプススタイルの山小屋である。 山頂地域に多くの有人山小屋があるが、黒沢口には途中にも合目ごとに有人山小屋が営業している。二ノ池の水を飲料水などの水源としている山小屋が多く、二ノ池から遠い「五の池小屋」や7合目以下の山小屋以外の山小屋は「二の池水組合」を設立し、共同で水道施設の設置・維持・撤去を行っている。また、日頃の水源ポンプ施設の操作は「二ノ池本館」のスタッフが行っている。豊富な水を使って「二ノ池本館」「二ノ池新館」「石室山荘」「覚明堂」では、宿泊者向けの風呂を毎日用意するほか、宿泊者が少ない時のみ宿泊者にスタッフ用の風呂を提供する山小屋もある。環境問題としてトイレのし尿処理施設の改善が必要な山小屋が多い。 ===有人山小屋=== 王滝口…田の原登山口2軒(田の原山荘および御嶽観光センター・ただし山小屋とされないことが多い)・王滝頂上(王滝頂上山荘)・剣ヶ峰山頂(御嶽剣ケ峰山荘・旧称「剣ヶ峰旭館」)黒沢口…6合目(中の湯・近年はロープウェイ完成による利用者の減少により、平日は営業しない日もある)・7合目(行場山荘・旧称「一ノ又行者小屋」または「覚明行場小屋」)・8合目(女人堂・別称「金剛堂」)・9合目(石室山荘)・9合目半(覚明堂・「覚明堂休泊所」とも)・剣ヶ峰山頂(御嶽頂上山荘・王滝口の御嶽剣ケ峰山荘の隣)小坂口…飛騨頂上(五の池小屋)二ノ池周辺…池畔(二ノ池山荘)・飛騨側(二の池ヒュッテ)(なお、二ノ池山荘と二の池ヒュッテは全くの別経営である) 以下は、2014年9月噴火の前まで営業していた山小屋である。 ===避難小屋=== 阿蘇山に設置されているような火山活動による噴石から身を守るシェルターは設置されていない。 王滝口…8合目避難小屋、9合目避難小屋開田口…7合目避難小屋(荒廃し倒壊)、三ノ池避難小屋、白竜避難小屋 ===焼印=== 多くの有人山小屋や山頂神社社務所では、宗教登山に使われる金剛杖に焼印を押印するサービスを有料で行っている。1891年(明治24年)に登山道の神社などで、「登山杖に記念の印を捺します」の看板が設置されこの焼印が行われていた。富士山で特にポピュラーなサービスであるが、御嶽山でも実施する山小屋を少し減らしながらも現存しており、貴重な存在である。ただ、富士山ほど押印希望者は多くなく、希望者が現われてから焼印を加熱するところが多いため、焼印に時間がかかることが多い。また、押印の料金も富士山よりも割高になっている。 ===登山者数の推計=== 昭和中期までの木曽側からの御嶽山の登山者数は下表のように推計されている。2010年頃の黒沢口から入山者は年間3万人を越える程度であった。 ==地理== 木曽川水系の源流の山であり、西側から飛騨川、東と南側から王滝川などの本流へと流れ太平洋側の伊勢湾へ流れる。剣ヶ峰の山頂には一等三角点(点名が「御岳山」、標高3,063.41 m)が設置されていて、一等三角点百名山のひとつに選定されている。最高点は御嶽神社の西側のある岩の標高点。日本で14番目に高い山。南東中腹の王滝村の区域は「御岳高原」と呼ばれている。 ===周辺の山=== 独立峰であるため、周囲の多くの山からその山容を望むことができる。山頂部は広く、複数のピークから成る。濃尾平野からも北東にその大きな山容が望める。岐阜県側には前衛の山として、ぎふ百山の一つである御前山(1,646 m)と続ぎふ百山の一つである下呂御前山(1,412 m)がある。 ===源流の河川=== 源流となる以下の河川は木曽川水系で伊勢湾へ流れる。山頂の南東13.4 kmにある王滝川の牧尾ダムの御岳湖に貯水された水は愛知県などの飲料水、工業用水及び農業用水に利用されていて、その上流部には関西電力の水力発電用の三浦ダム(山頂の南西11.0 km)がある。王滝川の支流の濁川上流部の赤川では浸食と崩落が激しく「地獄谷」と呼ばれている。南面の王滝川の支流の濁川は、1979年10月28日噴煙後地獄谷上部の火口から白いガスと火山灰で黒色となった温泉水が大量に流れ出て白く濁った。 西野川、白川、王滝川(木曽川の支流)飛騨川秋神川、小坂川(飛騨川の支流) ===主な峠=== 野麦峠 ‐ 乗鞍岳との間に映画『あゝ野麦峠』などで有名となった峠がある。標高1,672 mで長野県道・岐阜県道39号奈川野麦高根線が通る。長峰峠 ‐ 国道361号にある岐阜県と長野県との県境で、暮岩川(飛騨川の支流)と西野川(木曽川の支流)との分水嶺となっている。九蔵峠 ‐ 国道361号の開田高原にある峠で、九蔵峠展望台からは西南西に御嶽山を望むことができる。濁河峠 ‐ 秋神川と濁河川(小坂川の支流)との分水嶺となっている。白巣峠 ‐ 白川(王滝川の支流)と付知川との分水嶺となっていて、林道が通る。鞍掛峠 ‐ 水無川(王滝川の支流)と竹原川(飛騨川の支流)との分水嶺となっていて、林道が通る。 ===交通・アクセス=== 南山麓の王滝川沿いには1923年(大正12年)に竣工された木曽森林鉄道の王滝森林鉄道が敷設され、1975年(昭和50年)5月30日まで国有林の材木の運搬に利用されていた。1925年(大正14年)に御嶽自動車商会(現在のおんたけ交通)が開業、おんたけ交通は山麓や御嶽山の登山口まで路線バスを運行している。1963年(昭和38年)に西山腹の名古屋営林局小坂営林署が運営する小坂森林鉄道濁河温泉線が開通し伐採した木材の運搬に利用されていたが、林道が敷設されトラックによる輸送への切り替えに伴い1971年(昭和46年)に廃止された。1966年(昭和41年)に山麓の王滝村の長野県道256号御岳王滝黒沢線から田の原までの「有料道路林道黒石線」が全線開通し、1997年(平成9年)4月1日に村道41号線(御岳スカイライン)として無料開放され、おんたけ2240のスキー場利用者、登山者、観光客などに利用されている。長野県道473号上松御岳線が南東の山麓から通じ無料化された白崩林道を経て中腹の中の湯まで通じている。東山麓を長野県道20号開田三岳福島線が通り、木曽町三岳の木曽温泉付近から御岳ロープウェイスキー場まで東山腹に「御岳ブルーライン」が通る。その鹿の瀬温泉から上部は冬期閉鎖されている。南東山麓の県道20号開田三岳福島線沿いに道の駅三岳がある。北東山麓に国道361号が通り、北山腹に岐阜県道463号朝日高根線、北西山腹に岐阜県道435号御岳山朝日線が通る。西山麓の下呂市小坂町から濁河温泉まで岐阜県道441号濁河温泉線が通り、「御嶽パノラマライン」と呼ばれている。小三笠山(標高2,029 m)の南面には御岳林道と王滝林道が通る。 ===主な交通機関=== 松本空港の南西50 kmに位置する。JR東海中央本線木曽福島駅の西北西20.0 kmに位置し、JR東海高山本線飛騨小坂駅の東南東21.2 kmに位置する。中部縦貫自動車道(高山清見道路)高山インターチェンジの南東37.8 kmに位置し、中央自動車道伊那インターチェンジの西42.0 km、中津川インターチェンジの北46.3 km、塩尻インターチェンジの西南西51.4 kmに位置する。 ===路線バス=== 岐阜県側のJR東海高山本線小坂駅及び高山駅から御嶽山の登山口である濁河温泉への濃飛バス路線は2007年(平成19年)11月30日に廃止された。 王滝・田の原線(黒沢・王滝線) ‐ 長野県木曽合同庁舎前 ‐ 木曽福島駅前 ‐ 王滝 ‐ 田の原(御嶽山登山口)、2006年7月よりおんたけ交通から王滝村営バスに移管された。御岳ロープウェイ線 ‐ 木曽福島駅前から御岳ロープウェイまでの区間、2006年(平成18年)6月1日よりおんたけ交通から木曽町生活交通システムに移管された。チャオスノーリゾート線(おんたけ交通) ‐ 木曽福島駅前 ‐ チャオ御岳スノーリゾート ‐ 濁河温泉 ==観光== ===主な観光スポット=== 御嶽山資料館 ‐ 王滝口の二合目の木曽郡王滝村大又にある。田の原天然公園 ‐ 御嶽山の登山道の王滝口標高約2,200m付近に広がる天然公園で、湿原、背の低い針葉樹林帯に遊歩道や展望台が整備されている。御岳ロープウェイ ‐ 御岳ロープウェイスキー場は2013年にスキー場の営業を休止していて、冬期の運行が行われていない。開田高原 ‐ 蕎麦の産地や木曽馬の里としても知られ、乗馬体験ができる施設がある。自然湖 ‐ 長野県西部地震によりせき止められた木曽川の支流である王滝川上流の湖で、立ち枯れの木が湖の中に並んでいて夏季シーズンのカヌーが人気となっている。御岳湖 ‐ 王滝川の牧尾ダムによりできた湖。おんたけ休暇村 ‐ 御岳高原にある名古屋市の保険休養地、周辺には木曽御岳カントリークラブのゴルフ場がある。濁河温泉 ‐ 御嶽山の濁河口の登山口にある温泉東京大学天文台木曽観測所 ‐ 東京大学大学院理学系研究科附属天文学教育研究センターの木曽観測所が木曽郡木曽町三岳10762‐30にあり、1977年(昭和55年)2月に香西洋樹と古川麒一郎が発見した小惑星がその場所にちなんで『御嶽』と命名された。飛騨御嶽高原高地トレーニングエリア ‐ 北西山腹にある高地トレーニング施設。2007年(平成19年)に濁河温泉付近に下呂市が「御嶽パノラマグランド」を開設した。濁河温泉とチャオ御岳リゾートを結ぶ「飛騨御嶽尚子ボルダーロード」が整備されている。小坂の滝めぐりコース ‐ 西山腹の下呂市小坂町の飛騨川の支流の小坂川には落差5 m以上の滝が200以上あり、多数の滝めぐりコースが紹介されている。滝によってはガイドが必要な箇所もある。三ツ滝コース(椹谷) ‐ 三ツ滝(上段の落差5 m、中段11 m、下段6 m)、あかがねとよ(落差14 m)、からたに滝(落差15 m) 仙人滝コース(濁河川上流部) ‐ 仙人滝(落差30 m)、無名の滝(落差15 m)、白糸の滝(落差15 m)、緋の滝(落差20 m) 根尾の滝(落差 63m・幅 5m) 根尾の滝コース(濁河川) ‐ 根尾の滝(落差63 m、日本の滝百選)三ツ滝コース(椹谷) ‐ 三ツ滝(上段の落差5 m、中段11 m、下段6 m)、あかがねとよ(落差14 m)、からたに滝(落差15 m)仙人滝コース(濁河川上流部) ‐ 仙人滝(落差30 m)、無名の滝(落差15 m)、白糸の滝(落差15 m)、緋の滝(落差20 m) 根尾の滝(落差 63m・幅 5m)根尾の滝コース(濁河川) ‐ 根尾の滝(落差63 m、日本の滝百選)材木滝コース(兵衛谷) ‐ 材木滝(落差23 m)、翡翠の滝(上段の落差10 m、下段8 m) あまつばの滝コース(椹谷) ‐ あまつばの滝(落差17 m)、二段の滝(上段の落差10 m、下段3 m)、孫八滝(落差15 m)、焼小屋の滝(落差17 m) 観音滝コース(大洞川) ‐ 観音滝(落差9 m)、立岩の滝(落差45 m)、塩滝(落差15 m) 濁滝コース(濁河川) ‐ 二段の滝(上段の落差10 m、下段10 m)、くの滝(落差15 m)、濁滝(落差27 m) 岩折の滝コース(兵衛谷) ‐ 岩折の滝(落差21 m)、屏風の滝(落差28 m)、吹上の滝(落差25 m) 千畳の滝コース(真谷) ‐ 千畳の滝(落差50 m) しょうけ滝コース(兵衛谷) ‐ しょうけ滝(落差23 m)、扇滝(落差6 m) 龍門の滝コース(兵衛谷) ‐ 龍門の滝(落差15 m)、袴滝(落差20 m) 回廊の滝コース(椹谷) ‐ 回廊の滝(落差40 m)、開門の滝(落差40 m) 百間滝コース(兵衛谷) ‐ パノラマの滝(上段の落差50 m、下段10 m)、百間の滝(落差60 m)材木滝コース(兵衛谷) ‐ 材木滝(落差23 m)、翡翠の滝(上段の落差10 m、下段8 m)あまつばの滝コース(椹谷) ‐ あまつばの滝(落差17 m)、二段の滝(上段の落差10 m、下段3 m)、孫八滝(落差15 m)、焼小屋の滝(落差17 m)観音滝コース(大洞川) ‐ 観音滝(落差9 m)、立岩の滝(落差45 m)、塩滝(落差15 m)濁滝コース(濁河川) ‐ 二段の滝(上段の落差10 m、下段10 m)、くの滝(落差15 m)、濁滝(落差27 m)岩折の滝コース(兵衛谷) ‐ 岩折の滝(落差21 m)、屏風の滝(落差28 m)、吹上の滝(落差25 m)千畳の滝コース(真谷) ‐ 千畳の滝(落差50 m)しょうけ滝コース(兵衛谷) ‐ しょうけ滝(落差23 m)、扇滝(落差6 m)龍門の滝コース(兵衛谷) ‐ 龍門の滝(落差15 m)、袴滝(落差20 m)回廊の滝コース(椹谷) ‐ 回廊の滝(落差40 m)、開門の滝(落差40 m)百間滝コース(兵衛谷) ‐ パノラマの滝(上段の落差50 m、下段10 m)、百間の滝(落差60 m) ===スキー場=== 北側と東側の山腹には以下のスキー場があり、標高の高い位置(上部は標高2,000 m以上)にあり雪質が良く、ゴールデンウィーク頃の遅い時期まで滑走が可能である。王滝村は、村営であった旧おんたけスキー場の負債により厳しい財政状況となっている。 おんたけ2240(旧おんたけスキー場)御岳ロープウェイスキー場 ‐ 平成22年度より冬季営業休止開田高原マイアスキー場チャオ御岳スキー場 ===眺望スポット=== 3,000mを越える高山であるが、奥深い山中にあるため、山体全体を眺められる場所は意外と少ない。高山市中切町の「中切町付近の山より望む御嶽山」、高山市久々野町無数河の「舟山山頂道路より望む御嶽山」、高山市朝日町西洞の「鈴蘭高原より望む御嶽山」、高山市朝日町胡桃島の「胡桃島キャンプ場近く展望台より望む御嶽山」と「秋神地域より望む継子岳」が、「新高山市100景」のひとつに選定されている。 長野県側に、九蔵峠と地蔵峠などがある。岐阜県側に、御嶽パノラマライン、日和田高原、御嶽鈴蘭高原などがある。 ==御嶽山の風景== 独立峰である御嶽山の大きな山容を、濃尾平野(尾張や美濃)や遠方の山からなどの各方面から望むことができる。東海地方の多くの小中高等学校の校歌で山名が歌い込まれている。木曽谷では開田高原以外に麓から御嶽山を望める箇所は少ない。5月中旬ごろ、東面の9合目付近に残雪の白い背景に黒色の種をまくお爺さんの姿の雪形(ネガ型)が見られる。深田久弥は1965年(昭和39年)に第16回読売文学賞(評論・伝記賞)を受賞した『日本百名山』の著書で御嶽山の山容をこの傾斜がみごとである。厖大な頂上を支えるには十分な根張りをもって、御岳全体を均整のとれた美しい山にしている。 ― 深田久弥『日本百名山』 と表現している。 ===各方面からの山容=== ===御嶽山からの展望=== 山上部からは東に八ヶ岳、中央アルプス、南アルプス、富士山、南に小秀山などの阿寺山地、濃尾平野、西に白山などの両白山地、北にニノ池、乗鞍岳などの北アルプスが望める。 ==メディア== ===古文書=== 『御嶽登山社礼伝祝詞巻』 ‐ 1576年(天正4年)の古祭文『御嶽縁起』 ‐ 室町時代の中期1592年(天正20年)に書写された御嶽の神を祀る祝詞、祭文、縁起などの巻物『御嶽蔵王権現登山次第』 ‐ 1704年‐1710年(宝永年間)の筆写本で道者の王滝口での登拝の方法などが記載されている。『登山古例之事』 ‐ 道者の黒沢口での登拝の方法などが記載されている。『御嶽由来伝記』『御嶽登山案内』『御嶽一山記録』『木曽採薬記』 ‐ 1804年‐1818年(文化年間)に水谷豊文が刊行。『中山道六十九次』の藪原宿と奈良井宿 ‐ 1835‐1837年(天保6‐8年)頃に、渓斎英泉により鳥居峠からの御嶽山の風景が描かれた。『木曽産草花根皮類』 ‐ 1844年(天保15年)に周辺の木曽谷の山域で採取された植物の「おしば帳」『御嶽山総図』 ‐ 1848年(嘉永元年)『日本名山図会』 ‐ 江戸後期、江戸南画の谷文晁が、旅人と鳥居峠からの御嶽山の風景を描写している。 ===新聞=== 大型写真企画「御岳山」 ‐ 信濃毎日新聞で2009年(平成21年)7月から2010年(平成22年)4月まで39回の連載 ===写真集=== 宮原卓司 『信州木曽御嶽 山麓逍遙』 遊人工房、2001年12月。ISBN 4946562346。 ===関連書籍=== 青木保 『御岳巡礼―現代の神と人』 講談社、1994年10月。ISBN 4061591487。上野ミチオ 『御嶽山』 近代文藝社、1994年11月15日。ISBN 4773322586。三浦清吉 『木曽御岳山』 ゼンリン〈登山・ハイキング(5)〉、1999年7月。ISBN 4432901535。久山喜久雄 『御岳の風に吹かれて―開田高原への招待』 ナカニシヤ出版、2007年1月。ISBN 4888487111。中山郁 『修験と神道のあいだ―木曽御嶽信仰の近世・近代―』 弘文堂、2007年7月9日。ISBN 978‐4335100826。木股文昭 『御嶽山―静かなる活火山』 信濃毎日新聞社、2010年6月。ISBN 9784784071395。飛騨山岳会 『飛騨の山 研究と案内』 ナカニシヤ出版、2010年11月、160‐161頁。ISBN 9784779505041。菅原壽清 『木曽御嶽信仰とアジアの憑霊文化』 岩田書院、2012年10月。ISBN 978‐4872947687。参考文献も参照 ===テレビ番組=== 『こころの時代 宗教・人生 山の信仰 霊山御嶽』 NHK教育テレビジョン、1985年9月8日放送『日本百名山 御嶽』 NHK衛星第2テレビジョン、1994年11月3日放送『いのち輝く山 〜四季・御嶽〜』 NHK総合テレビジョン、2005年1月1日放送『週刊 日本の名峰 御嶽山』 NHKデジタル衛星ハイビジョン、2007年6月11日放送『絶景!夏の御嶽山 〜御嶽山〜 』 総合テレビ(NHK名古屋放送局)、ウイークエンド中部、2010年8月21日放送『小さな旅 山の歌 祈りの峰 いまも〜御嶽山〜』 NHK総合テレビジョン、小さな旅、2010年8月28日放送『天空の宿へ 〜にっぽん山小屋物語〜』 テレビ東京、土曜スペシャル、2011年9月3日放送『にっぽん百名山 御嶽山』 NHK BSプレミアム、にっぽん百名山、2012年9月10日放送 =日本の貿易史= 日本の貿易史(にほんのぼうえきし)では、日本の対外貿易に関する歴史を説明する。歴史的に蝦夷地や琉球等と呼ばれてきた地域の貿易についても記述する。世界各地の貿易の歴史については、貿易史を参照。 ==概要== ===古代=== 日本列島は最終氷期が終わったおよそ1万年前にユーラシア大陸から切り離され、以降は外の国や地域との交流を行うさいには海を渡る必要があった。農耕社会の前から交流は始まり、沿岸や島伝いに移動が行われていた。弥生時代の後半から、北部九州と朝鮮半島南部との交易が盛んになった。弥生時代の重要な輸入品は朝鮮半島中南部の加耶で産する鉄や青銅だった。古代の貿易は外交に結びついており、東アジアでは中国の冊封にもとづく朝貢が中心となった。日本列島においては邪馬台国による魏への朝貢や、倭の五王による宋への朝貢が行われた。 律令国家の成立で国号が日本となり、朝廷による管理貿易が進むと、遣唐使のように外交使節に付随して貿易が行われた。航海技術の発達と、大陸の情勢の不安定化により、私貿易も次第に広まった。平安時代後期には平氏が日宋貿易によって経済的優位を得て、初の武士政権が成立した。平安時代以降は砂金が輸出されて、東北や北海道からの産出が中心となった。中国から輸入された品物は唐物と呼ばれて重宝され、西アジアや東南アジア由来の唐物もあった。 ===中世=== 平氏が隆盛をもたらした日宋貿易は鎌倉幕府でも引き継がれ、輸出品は砂金、木材、そして火薬の材料となる硫黄などがあった。宋の滅亡後は元との貿易や戦争があり、元ののちに建国された明には室町幕府が朝貢を行い、日本刀なども送られた。中世から近代までは貿易用の貨幣として銀が世界的に重要であり、戦国時代には日本列島に灰吹法が伝わって生産が増えて、銀が東アジアを中心に流通した。 14世紀から16世紀には、倭寇と呼ばれる集団が活動する。倭寇は日本、朝鮮、中国の沿岸で密貿易や海賊、商品用の奴隷の捕獲などを行った。倭寇の原因には日本や高麗の戦乱、中国の明の海禁などがある。また、インド洋経由でポルトガルとオランダ、太平洋経由でスペインが東アジアに来航して、南蛮貿易や朱印船貿易が行われた。戦国時代には、日本国内や朝鮮半島で捕虜とした人間を取引する奴隷貿易も行われた。輸入品は、古代末期から中世にかけて陶磁器が増え、宋銭をはじめとする中国の銅貨も輸入されて日本で通貨として用いられた。中世から近世にかけては朝鮮半島の木綿や中国の生糸などの繊維製品が中心となった。 ===近世=== 江戸幕府のもとで貿易が制限されて、四つの口と呼ばれた長崎、対馬藩、薩摩藩、松前藩が貿易を独占した。貿易の相手はオランダ東インド会社や、中国の明・清の商人、李氏朝鮮、琉球王国、アイヌだった。輸出品は貴金属の金、銀、銅が中心で、輸入品の支払いにあてられた。輸入品には生糸、砂糖、漢方薬、高麗人参などがあった。貿易によって国内の貴金属が減少すると、通貨の貴金属含有率を下げる改鋳が行われた。幕府は貴金属流出の対策として貿易量を制限し、現在は輸入代替と呼ばれる政策をとった。 18世紀後半から通商を求める諸国が日本に来航して、紛争となる場合もあった。アヘン戦争以降に来航が増加して、国内でも貿易の拡大や海外進出についての提案が出されるようになった。アメリカ合衆国との通商条約をきっかけに、欧米諸国によって開港が進められて、明治維新の一因にもなった。 ===近代=== 産業革命以後は工業製品の貿易が中心となる。明治政府は幕末からの不平等条約の改正と外貨の獲得を課題として、工業化を進めて欧米諸国との条約改正を実現した。日本貿易の拡大のテンポは世界貿易の中でも早く、貿易額の対GNP比率は、企業勃興期には14%、日清戦争後は21%、日露戦争後は25%と急増した。貿易額は増加をしつつも貿易収支では赤字が続き、特に日清戦争・日露戦争の期間に大幅赤字となった。 第一次世界大戦中には輸出産業の発展によって産業の中心が農業から工業へと変化し、世界恐慌後には貿易に代わって植民地化やブロック経済による自給自足体制を推進した。第二次世界大戦までの輸出品の中心は、綿と絹の繊維製品だった。輸入品では戦略物資である石油が重要となり、アメリカ、イギリスをはじめとする連合国との開戦の一因となった。植民地や併合地域では、資金調達のためのアヘン貿易も行われた。 ===現代=== 第二次世界大戦後の復興から始まり、関税及び貿易に関する一般協定(GATT)をはじめとする国際機関に加盟して、西側諸国として自由貿易を推進した。日本は大量生産体制を確立して、鉄鋼、自動車、家電の輸出を伸ばす一方で、輸出の増加は他国との貿易摩擦の原因ともなった。輸入品では、重化学工業のための石油をはじめとする鉱業資源、衣料品、食料品、パルプ原料となる木材などが重要とされる。 世界の総貿易額の対GDP比は1960年代の24%から2000年代後半には60%以上に上昇する一方で、日本の貿易額の対GDP比は2000年代初頭まで20%前後で推移し、2000年代に20%を越えた。この要因は、アジア圏内の貿易の拡大と、原油価格の上昇とされている。1990年代以降はアジア圏内での産業内貿易が急伸して、日本の最大の貿易相手国は2007年にアメリカから中国に代わった。日本はGATTののちに発足した世界貿易機関(WTO)にも整合した政策をとってきたが、WTOの原則に反する地域貿易協定が世界各地で増加するにともない、2002年以降は地域貿易協定の締結も開始している。 ==古代== ===弥生時代以前=== 後期旧石器時代には、神津島の黒曜石が関東地域に継続して運ばれていたことが判明している。縄文時代の水運には丸木舟が使われ、硬玉の翡翠で作られた装身具が列島各地に流通して、石器は200キロから300キロの距離を運ばれている。黒曜石は旧石器時代と縄文時代を通して朝鮮半島やサハリンにも運ばれていた。日本列島では新潟県の糸魚川市周辺でしか産出されない翡翠の加工品が青森県の三内丸山遺跡で出土するなど、規模は小さいながらも広範囲で交易が行われていたことが推測される。こうした交易は商業的な取り引きではなく、贈り物のやり取りによる互酬の面を持っていた。 ===弥生時代、古墳時代=== 弥生時代に入ると、大陸からの青銅器や鉄器の入手が盛んになる。日本では鉄鉱石からの製鉄が始まるのは6世紀後半、銅鉱石からの製銅が始まるのは7世紀であり、それまでは朝鮮半島中南部の加耶を中心に産した鉄や銅が原料として用いられた。紀元前4世紀中頃には、玄界灘の有力者の副葬品に朝鮮半島製の青銅の鏡や武器が用いられている。前漢の武帝が朝鮮半島に建設した楽浪郡には、倭人と呼ばれた日本列島からの人間も往来した。『漢書』地理志には「楽浪海中倭人あり」という記録がある。楽浪郡では土器、青銅器、鉄器が生産されており、倭人はそれらを入手して壱岐島、対馬、九州北部へ運んだ。弥生時代には準構造船が造られるようになり、帆も用いられていた。 海上交易の品物としては銅鏡、鉄製品、ガラス玉が重要だった。鉛ガラスは中国東北部、カリガラスはインドのアリカメドゥ(英語版)で生産が始まったとされ、ガラス玉は勾玉の材料にもなった。銅鏡は九州で大量に発見されており、500年に渡って重要な財とされた。こうした大陸の品を入手するために、日本側では海岸で生産した塩、そして稲や生口(人間)を送ったとされる。朝鮮半島の加耶には、鉄を得るために倭人が訪れていたという記述が『魏志』弁辰伝にある。九州北部、瀬戸内海、日本海側の海岸では中国の貨幣も出土しており、交易に用いられた可能性がある。 ===冊封と朝貢=== 古代の貿易で東アジアの中心となったのは、中国の管理貿易である朝貢だった。中国は華夷秩序の思想にもとづいて近隣諸国・地域との冊封体制を構築した。朝貢は商業的な利益が目的ではなく、周辺地域との政治的安定を得るために行われた。漢以降の中国王朝は、周辺地域から朝貢の品物を受け取るかわりに回賜と呼ばれる返礼品を与え、臣下として冊封した。中国側では、優れた品が民間貿易で流通しないように規制をして、回賜の希少性を保とうとした。のちには、日本も中国の華夷思想をもとに外国を規定して、朝貢を行った(後述)。 中国が倭国を冊封した記録は後漢の時代にまで遡る。紀元前1世紀から1世紀にかけては九州北部に中国製品が多く、1世紀以降は東へ広がり、2世紀には東海や関東にも流通網ができた。後漢の時代になると、黄巾の乱ののちに楽浪郡が衰退して交易圏も不安定になった。『魏志』倭人伝によれば、邪馬台国の卑弥呼が倭の諸国を代表して魏に朝貢を行い、伊都国には一大率という役職が派遣された。3世紀中頃から広範囲に分布した三角縁神獣鏡には同じ型から作られたものがあり、魏への朝貢に対して卑弥呼が受け取った銅鏡百枚にあたるかという点で、魏鏡説と倭製説に分かれている。朝貢の記録は卑弥呼の跡を継いだとされる台与の代で途絶え、5世紀に倭の五王の1人目である讃(倭讃)が宋へ使節を送り再開している。讃が朝貢をした目的には、宋から中国の官爵を得て国際的な地位を高める意図があったとされる。また、倭の五王は百済から贈られた中国系の渡来人から漢字文化を取り入れて冊封関係に役立てた。五王の最後にあたる武が朝貢したのちは、遣隋使まで中国と国交のない状態が続く。この時期に日本と交流が盛んだった地域は朝鮮半島の百済、加耶、栄山江流域だった。 ===朝鮮半島との交流=== 日本列島では、ヤマト王権の成立前には邪馬台国のほかにも九州北部の奴国や伊都国、瀬戸内海では吉備氏が半島と貿易をしていた。3世紀には倭国は倭錦や真綿などの絹製品や九州北部の穀物を輸出し、朝鮮半島からは加耶で産する鉄が輸出された。『魏史』倭人伝には、3世紀頃に壱岐島や対馬が市糴(穀物貿易)を南北で行なっていたと記述がある。これらの地域の首長はヤマト王権の成立後も独自に半島と交流を続け、時には協調した。 古墳時代の頃の朝鮮半島は、東部の新羅、西部の百済、北部の高句麗の3国のほかに南部の加耶、西南部の栄山江流域などに分かれていて、それぞれ協調や対立をしつつ日本列島と交流した。中でも百済とは贈答が盛んとなり、百済から贈られたとされる七支刀は石上神宮に現存する。朝鮮半島からは工芸品や技術者、倭国からは兵や軍船、武器、穀物、繊維品が贈られた。朝鮮半島から日本列島に来た渡来人には工人もおり、4世紀に帯金式甲冑、4世紀後半に馬具が製作されるようになり、農具や工具も輸入された。ヤマト王権と吉備氏との間で吉備氏の乱が起き、ヤマト王権と北部九州の筑紫君磐井との間では磐井の乱が起きた。これらの紛争は、朝鮮半島との外交や貿易をめぐる対立を原因とする説もある。 ===弥生時代から古墳時代にかけての交易地と交易ルート=== 日本列島と朝鮮半島南部をつなぐルートとして、博多湾と洛東江の沿岸に交易地が発展して交易港が建設された。『魏志』倭人伝によれば、朝鮮半島北部の帯方郡から南下して狗邪国から海を渡るルートが記録されている。ヤマト王権が成立すると金官国との交流が増え、畿内と金官国を直接つなげる沖ノ島のルートが栄えた。九州北部ではこれに対して玄界灘を拠点とする。瀬戸内海は九州と畿内を結ぶルートであり、吉備氏をはじめとする豪族が朝鮮半島と交流した。 朝鮮半島南部の多島海の中央に位置する泗川勒島遺跡には、弥生中期から後期の弥生土器も出土しており、日本列島で鋳造鉄器が見つかり始める時期と一致する。金海湾に面した狗邪韓国の金海官洞里遺跡や新文里遺跡には日本列島の土師器系の土器があり、鉄を輸出して成長した。壱岐島の原の辻遺跡は船着場を備えた交易地であり、中国の銅貨である五銖銭の他に中国製の銅鏡や鉄器、朝鮮南部の土器が出土した。博多湾に面した西新町遺跡は3世紀後半から栄え、朝鮮半島系の土器やかまど、鉄器、鉄器、ガラス玉の鋳型、西日本各地の土器が出土しており、日朝の交易港とされる。交易地だった亀井遺跡では日本最古の石の分銅が出土しており、計量に用いられたとされる。奈良盆地の纒向遺跡には外来の土器や列島各地の土器が出土している。邪馬台国の卑弥呼の時代には、大陸との貿易は伊都国を中心として行われ、西新町遺跡などの交易地が栄えた。一大率は、魏や朝鮮半島から運ばれた鉄などの物資を各地の首長に配分した。 ===飛鳥時代、奈良時代、平安時代=== 律令国家の成立によって、各地域の豪族や首長が行なっていた貿易は、朝廷による独占管理が進む。律令法で貿易のルールが定められ、外国の使節は蕃客と呼ばれて、貿易の順序は(1)贈答形式の貿易、(2)官司の先買、(3)貴族の購入、(4)蕃客の日本製品購入で処理された。日本から外国への貿易は遣外使節と呼ばれる使節が行い、遣外使節以外の渡航は禁止された。国号は倭国から日本へと変わり、渤海や奄美群島との間で朝貢も行われた。日本最初の仏教寺院である飛鳥寺の造営においては、人材や物資の面で百済や高句麗の支援があった。貿易は外交上の競争の場ともなり、使節の来航時には貿易品の質や保有量の誇示も行われた。 ===遣隋使、遣唐使と貿易=== 7世紀から日本は遣隋使を送るようになる。隋が滅んで唐が成立すると、国際都市となった長安から商品や知識が東アジア各地に広まっていった。これをうけて遣隋使は遣唐使と改称され、交流が続いた。『隋書』倭国伝と『日本書紀』で記述の違いがあるが、遣隋使は4回が派遣され、遣唐使は停止したものを含めて第20次まであったとされる。遣隋使や遣唐使に付随して貿易が行われ、日本側は冊封体制のもとではなく対等の関係で行おうとしたが、中国側は遣隋使や遣唐使を朝貢として記録した。 遣唐使は4隻または5隻の船で400人から500人を運んだ。百済舶とも呼ばれる遣唐使船は、近江国、丹波国、播磨国、備中国、周防国、安芸国などの地方が命じられて建造した。日本が百済に味方をして唐や新羅と戦ったことが影響して遣唐使は中断するが、再開されると唐との交流が増え、制度や漢字表記などの文化面ではそれまでの朝鮮半島に代わって唐の影響が強まった。 遣唐使のメンバーや物品のリストは『延喜式』に記録があり、日本からの輸出品は繊維製品(*11074*、真綿)、鉱物(銀)、油の大きく3種類に分かれていた。これらは国内で納税されたものが中心で、のちに和紙や砂金も加わった。いずれも素材としての質を評価された品物であり、物品貨幣としての面を持っていた。 ===唐物=== 遣唐使によって、日本に大量の文物が輸入された。輸入品には漢籍や仏典などの書物、仏像などの美術工芸品、沈香などの香料や薬物、動植物がある。漢籍は1600種類で1万7000巻弱、仏典は一切経をはじめとして早くから輸入されて転写された。ミカンや茶のように日本の食文化や喫茶文化に影響を与えたものもある。スキタイに由来するペルシアの剣であるアキナケスは波斯国剣と呼ばれ、平安時代には真如親王が長安から贈った波斯国剣が鳥羽宝蔵に収められた。輸入品には猫もおり、唐猫と呼ばれて珍重された。宇多天皇は太宰府の役人から献上された唐猫について日記に書いており、『寛平御記』に記述がある。 平安時代にはこうした舶来品や、舶来品のような様式の品物を指して唐物という言葉が使われるようになる。唐物は朝廷が管理して臣下へと再配分され、唐の滅亡後も唐物という語は使われ続けた。唐物の先買権が朝廷にあるため、例えば貴族が新羅の輸入品を買う際には、買新羅物解(ばいしらぎもののげ)という文書で申請をしていた。当時の輸入品には正倉院の宝物として現存するものもある。 ===南西諸島=== 弥生時代から平安時代の南西諸島は、奄美大島と喜界島を中心にヤマト王権や隋・唐と交流した。掖久人が入貢したのちに南島の使者が訪れたという記録が『日本書紀』や『続日本紀』にある。奄美諸島の土器は日本列島の土師器の影響を直接に受けており、沖縄の土器は6世紀から7世紀にかけて奄美の影響が見られるようになる。 屋久島以南の産物としてアカギとヤコウガイがあり、海上交易の重要な品物だった。ヤコウガイは奄美諸島を中心に加工されて、7世紀にはヤマト王権へ輸出されて螺鈿細工などに用いられた。ヤコウガイは隋や唐との貿易でも用いられており、中国の銅銭である五銖銭や開元通宝が各地で発見されている。唐では螺鈿細工が発達しており、ヤコウガイが大量に求められていた。ヤコウガイ貿易によって奄美諸島には鉄器が輸入し、久米島にはヤコウガイの加工場があり、周辺から集めたヤコウガイを唐やヤマト政権に輸出して、輸入した物産を再配分していたと推測される。鉄器のほかに南西諸島にはいない豚も遺跡で発見されている。沖縄諸島では、ゴホウラやイモガイが交易に用いられて、装身具の貝輪にも加工されていた。 ===渤海=== 高句麗が滅んだのちには渤海が建国され、朝鮮半島をめぐる情勢が不安定になると、日本は渤海との交流を深めた。渤海側の使節である渤海使が到着し、日本側では朝貢を求めたとして歓迎して、遣渤海使も派遣された。渤海使を迎えるために、太宰府の他に出羽国の秋田城、越前国の松原客館、能登国の能登客院なども使われたとされる。渤海は薬用人参や毛皮、麝香などを輸出し、日本は絹・綿などを輸出して、渤海使は34回続いた。しかし日本にとっては回賜の負担が大きいため、朝貢を12年に1度と定めた。 ===私貿易の増加と新羅=== 律令国家の成立時点では、列島周辺で遠洋航海をする民間の貿易商人が存在していなかった。そのため律令には民間の貿易商人についての条文もなかった。唐では安史の乱が起きたのちに政情が不安定となり、朝貢以外の私貿易が増加する。唐や新羅の海商や、新羅で海賊対策をしていた武人張保皐のような人物が私貿易に参加し、日本からも唐や新羅の商船に同乗して私貿易に参加する者が現れた。貿易増加の流れを見た朝廷は、それまで蕃客との間で行われてきた管理貿易を商人にも適用することを決めた。臨時の使者である唐物使(からものつかい)が唐物を買い上げるために太宰府に派遣され、のちには唐の商船に同乗する入唐使(にっとうし)が派遣された。しかし、民間の貿易の増加で貴族が唐物を買い漁ることも増え、朝廷は禁制を出すが唐物の先買権や独占が維持できなくなる。9世紀中頃以降には青磁を中心とする陶磁器の輸入が増加した。こうして遣唐使の派遣がなくなった後も貿易は続いた。 ===平安時代の日宋貿易=== 黄巣の乱以降に中国は分裂状態となり、これを統一したのは宋であった。日宋貿易によって博多には大唐街と呼ばれる宋国人の居住街も形成されて、これに関心を寄せた平忠盛が輸入品を朝廷にもたらして権力を持つ。忠盛は肥前国の神崎荘で日宋貿易を行い、唐物に関心が高い鳥羽院の近臣となる。忠盛の息子の平清盛は肥後国の国司となったのちに瀬戸内海の安芸国や播磨国の国司、そして大宰大弐などの地位について日宋貿易を支配下におく。清盛は福原の大輪田泊を改修して貿易を振興し、そこから得られる利益をもとに平氏政権を磐石にした。こうして宋との関係は活発になり、宋船が瀬戸内海に入って大輪田泊で取り引きを行うようになると、大宰府の利権は減少した。北宋との貿易については、成尋の旅行記『参天台五台山記』にも記されている。 日本は絹織物や陶磁器などを輸入した。12世紀頃からの交易の様子は、福岡市内の博多遺跡群から出土した、浙江省の龍窯で大量生産された龍泉窯産をはじめとするおびただしい数の青磁、白磁などの輸入陶磁器に反映されている。また、12世紀中頃から、銅貨である宋銭がもたらされると日本国内でも使われて流通した。日本の輸出品としては砂金が重要であり、砂金の流通は陸奥国の奥州藤原氏が主導した。藤原清衡は出羽の港を改修して唐物を平泉に輸入し、平泉を拠点とする奥州藤原氏は都に金を送る一方で独自に博多と交易を行った。奥州藤原氏によって中尊寺、毛越寺、無量光院などの寺院にも唐物が使われ、源頼朝の出兵まで平泉は繁栄した。奥州藤原氏は北海道にも進出しており、中尊寺金色堂で昭和の大改修が行われた際、金箔の砂金には陸奥だけではなく北海道の日高の砂金が用いられているという指摘もあった。 ===アイヌとオホーツク人=== アイヌは古墳時代では北海道や列島を南北に移住しながら生活をしていた。天智、天武、持統、文武朝には和人と交易をともなう交流があり、和人にはエミシとも呼ばれた。サハリンで暮らしていたオホーツク人は道北と道東に移住し、アイヌとは対立をしながら距離を保って生活した。オホーツク人は唐では流鬼と呼ばれ、唐には朝貢でクロテンの毛皮を送りつつ、日本列島での交易も求めて南下した。奥尻島や津軽、佐渡島にもオホーツク人が訪れている。そのころ本州では、越国守である阿倍比羅夫が遠征を繰り返しており、『日本書紀』の記録から北海道や奥尻島へ遠征したという説が有力とされている。比羅夫は粛慎と接触をはかり、沈黙交易を行おうとしたが交渉は成立せず、粛慎との戦闘となった。アイヌの居住地や交易地からはロシア沿海州の錫製の耳環が発見されており、アイヌとオホーツク人は対立しつつも沈黙交易などで交流をしていた。 陸奥国では、和人は国府から繊維製品や鉄器、和同開珎、装身具を送り、アイヌからは熊の皮、昆布、砂金、馬、奴隷などが送られた。陸奥の国司をはじめ一般人もアイヌとの交易を行っており、禁令が出されている。遣唐使において日本側が蝦夷地の人間を帯同したこともあり、これは中国の華夷秩序をもとにして、日本に朝貢する地域として蝦夷地を位置づける意図があった。9世紀以降のアイヌは奥州藤原氏との交易が活発となる。奥州藤原氏は遠方から砂金を入手するために北海道にも居住地を建設しており、アイヌは砂金のほかに矢羽に用いるオオワシの尾羽や海獣の毛皮、鹿皮や干鮭を送った。苫小牧では平泉が最大の消費地だった常滑焼が発見されており、砂金の産地である北海道の胆振と日高のアイヌ集落跡では、新羅産の銅鋺が発見されている。これらは北海道で生活した藤原氏が使用した品物や、アイヌが藤原氏から入手した品物と推測されている。 ===飛鳥時代から平安時代にかけての交易地と交易ルート=== 当時の貿易は重要な外交事業でもあるため、海外交流や貿易の施設として鴻臚館が設置された。磐井の乱の後には、那津に外交施設として那津官家が設置された。遣隋使の頃に筑紫太宰が駐在して太宰府が設置されると、鴻臚館の行政機能はなくなり筑紫館と呼ばれた。畿内の港がある難波津には難波館が設置され、平安京には主に渤海使のための鴻臚館があった。 遣唐使では、船は難波津を出港して北路か南路を進んだ。北路は新羅を通るルートであり、南路は五島列島を経由するルートだった。当初は北路が選ばれたが、日本と新羅の関係が悪化すると南路が選ばれるようになる。五島列島は、大宰府と対馬を結ぶ拠点でもあった。 宋の時代になると、宋の商人は博多や敦賀に来航し、民間レベルでの貿易を行った。当時の商人として王則貞などの名が知られている。宋の貿易船の船長は綱首と呼ばれ、博多に滞在する博多綱首たちは地元の寺社と友好関係を結んで保護を受けた。綱首の中には日本で土地を所有する者もいた。初期の陶磁器は、長沙市の長沙窯、浙江省慈渓市の余姚窯、周辺の窯で産する越州窯の青磁が揚州や寧波から鴻臚館へと運ばれた。奥州藤原氏は平氏とは異なるルートを用いたため、北方貿易とも呼ばれる。11世紀から12世紀にかけて但馬国や越前国に来航や居留をした唐人の記録もある。 ==中世== ===鎌倉時代の日宋貿易=== 平氏政権後の鎌倉幕府は民間貿易を認め、出羽国の武藤資頼が大宰少弐になって以降に貿易の支配を強めて、南宋が滅亡する直前まで日宋貿易は続いた。鎌倉幕府は御分唐船という貿易船を派遣した。大陸ではモンゴル帝国の内紛によって1240年代は南征がなく、その影響で南宋や朝鮮半島の高麗は日本との交流が盛んになる。僧侶の往来が急増して、日本側は博多、中国側は慶元が拠点となった。慶元では市舶司が貿易を管理したが、商船の減少によって官貿易は廃止された。 13世紀に宋からの陶磁器の種類と搬入量が急増した。13世紀中頃までの同安窯青磁や龍泉窯青磁に加えて、13世紀後半には景徳鎮の碗皿、香炉、花瓶、大盤などが増える。こうした陶磁器は鎌倉に大量に輸入されて、鎌倉の中心部に位置した今小路西遺跡から出土している。また、ジャコウネコやインコなどの珍しい鳥獣を輸入して貴族や富裕層の贈り物にすることが流行した。唐物の増加により物価が上がり、幕府は1254年(建長6年)に宋船の入港を5艘に制限しようとしたが失敗した。平安末期から鎌倉時代にかけての日本の主要な輸出品は、木材と硫黄だった。硫黄は、宋の時代から兵器としての使用が増えた火薬の材料であり、中国より硫黄の産出が多い日本は日明貿易に入っても輸出が続いた。その他に砂金や日本刀などが輸出されている。 ===日元貿易=== モンゴル人王朝の元は、南宋を滅ぼしたのちにベトナムや日本にも進出を計画した。近隣諸国との関係が悪化する中でも民間や地方では交易が続けられて、日本との間でも日元貿易が行われた。とくに江南地方は経済拡大が続いていたこともあり、その規模は拡大した。元は高麗を介して日本に朝貢を求めるが日本が拒否したため、文永の役と弘安の役が起き、元寇と呼ばれた。ただし、元は日本との貿易を戦争中も許可しており、元寇ののちも貿易は続いた。日本からは砂金、硫黄や工芸品などが輸出され、元は銅銭、陶磁器、書物などを輸出した。仏教僧の移動が活発で、貿易船に乗って日本、高麗、元を往来した。鎌倉幕府も、寺院や鎌倉大仏の造営費のために寺社造営料唐船と呼ばれる勧進船を派遣した。のちに韓国の新安郡で発見された沈没船も、寺社造営料唐船だった。また、元は北方ではサハリンやアムール川をめぐってアイヌと紛争をしたのちに朝貢を受けている(後述)。 ===室町時代の日明貿易=== 元に替わって明が中国を統一すると、明の洪武帝は海禁の政策をとり、私貿易を取り締まった。海禁は大きな反発を呼び、元の末期から中国沿岸で活動していた倭寇と呼ばれる集団が増加し、明は倭寇対策を室町幕府に求めるようになる。同じ頃、博多商人の肥富は幕府の3代将軍の足利義満に明との貿易の利益を説明して、貿易を望む義満は国書とともに肥富と僧侶の祖阿を使者として送る。建文帝は使者を朝貢使として受け入れて、義満を日本国王とした。次の永楽帝は朝貢国の証明である勘合符を義満に与え、勘合符を持つ足利氏の朝貢使が遣明使として公式な貿易を独占し、遣明船は19回が派遣された。遣明船は遣唐使船とは異なり、専用の船を建造せずに民間の船舶を借り上げた。遣明船の積載量は800石から1000石で、大型化していった。幕府は嘉吉の徳政一揆から財政難となり、単独で遣明船を派遣できなくなる。8代将軍の足利義政は勘合を大名や寺院に売って費用を調達するようになり、幕府以外の大名や寺院も遣明船に参加した。遣明船の派遣には多額の費用がかかったが、それを上回る利益があった。遣明船の費用を調達するために臨時の重税を課す地域もあり、第10回の遣明船に参加した興福寺の大乗院では、税に反対する農民が48箇所で一揆を起こした。 日本からの輸出品は鉱物(硫黄や銅)、日本刀や扇子などだった。日本に輸入された唐物は、宋の時代に続いて洪武通宝や永楽通宝などの銅貨が多く、その他に白金、繻子、僧衣、器皿、織金、沙羅、絹、宝鈔(紙幣)などで、将軍家から家臣への贈与や会所での披露に用いられた。義満は唐物を輸入するために10年後の予定だった朝貢を早めることもした。足利将軍によって唐物は美術品として扱われ、同朋衆が唐物の鑑定や等級づけ、座敷飾りを行なった。朝貢国は非関税で明と貿易ができたが、回賜の増加は財政を圧迫するために明の内部で批判もあった。日明貿易によって永楽通宝などの明銭の銅貨が日本へ流入すると、明では銅貨の流出を懸念した。明は対策として回賜に紙幣も用いたが、幕府では銅貨での受け取りを求めており、紙幣は日本国内では流通しなかった。 将軍家では、中国から輸入した唐物を御物として保管した他に、家臣である貴族に売却や再配分をして権威の保持に用いた。足利義勝や義政の時代には幕府の財政難が深刻だったため、支払いのために御物を手放した。これは売物と呼ばれ、特に寛正期には大量に売却された。御物には、幕府が家臣の財政難を救うための質物としての役割もあり、御物を与えられた貴族はそれを金融業者である土倉に持ち込んで借金をしていた。幕府が御物を売物として手放すのは、家臣の救済ができなくなることを意味し、幕府の経済的信用は失墜した。 ===倭寇の発生と密貿易=== 14世紀から16世紀にかけて、倭寇と呼ばれる集団が活動した。倭寇という語は、元の時代に初めて記録に現れる。倭寇は日本、朝鮮、中国の沿海部の出身者が中心で、対馬、壱岐、松浦、済州島、舟山列島を根拠地として、密貿易や海賊、商品用の奴隷の捕獲などを行なった。また、現地の人間を拉致して強制的に部下にする場合もあった。14世紀から15世紀の倭寇は日本人と一部の朝鮮人が中心となり、前期倭寇とも呼ばれる。16世紀の倭寇には多数の中国人や一部ポルトガル人も参加しており、後期倭寇(後述)とも呼ばれる。 ===朝鮮半島と前期倭寇=== 1350年(南朝 : 正平5年、北朝 : 観応元年)、日本で観応の擾乱が起きていた時代に、倭寇の襲撃が始まったという記録が『高麗史』にある。朝鮮半島の沿岸部は荒廃し、明や高麗は倭寇を沈静化するために室町幕府に使者を送り、李氏朝鮮でも使者は引き継がれた。これを機会として日本と朝鮮間で使節派遣が行われて、貿易も盛んになった。やがて倭寇の定住や貿易の許可によって、倭寇の活動は中国沿岸へと移った。この間、日本の輸出は銅などの鉱物資源や漆器や屏風などの工芸品、明の輸出は銅貨の永楽通宝や繊維製品、朝鮮の輸出は木綿や朝鮮人参だった。しかし室町幕府が求心力を失うと再び倭寇が出没して、日朝貿易が中断する時期もあった。 ===日麗貿易、日朝貿易=== 11世紀から高麗と貿易が続いており、貿易のために日本から高麗へと渡ったのは、対馬の人間がもっとも多かった。日本は真珠、刀剣、水銀、柑橘類などを輸出し、日本船は年1回渡航した。一方で、13世紀前半に朝鮮半島における倭寇の略奪が京都にも伝えられるようになる。李氏朝鮮は倭寇の懐柔策を行い、降伏して定住する投化倭人が現れる。朝鮮の官職を持って貿易も許された受職倭人、港に住む恒居倭人、日本の豪族の使者で使走船に乗る使走倭人などもいた。商人としては興利倭人がおり、商船は興利倭船と呼ばれた。興利倭人が急増したため、対馬、壱岐、九州の諸大名の渡航許可書が義務とされた。 日朝貿易は大きく分けると、(1)使節による進上と回賜、(2)官僚による公貿易、(3)商人同士の私貿易の3種類があった。公式の交流は(1)だが、取引額は(2)と(3)が大部分を占めた。(2)は公定価格で(3)は市場価格にあたり、価格の変動によっていずれが得になるかが常に注目された。日本が入港できる場所は、太宗の時代には富山浦と乃而浦で、世宗の時代に塩浦が加わって三浦とも呼ばれた。 ===琉球と明=== 14世紀からは琉球王国が日本、明、朝鮮を中継する琉球貿易で繁栄する。当時は山北王国、中山王国、山南王国の3つの王国がある三山時代で、中でも大規模な交易港のある那覇をもつ中山が活発だった。明の招諭使である楊載は、懐良親王を訪れた時に琉球の情報を得る。楊載は中山王の察度を訪れて明への入貢を求めて、察度は洪武帝に朝貢を行い、明は琉球に大型船を提供して朝貢が頻繁になった。明は倭寇対策のために琉球の貿易を活発にする目的があり、琉球の朝貢には回数制限がなく、複数の朝貢主体も認められていた。当時の日本の朝貢は10年に1度であり、琉球は優遇されていた。朝貢を担当するために明から派遣された*11075*人の専門家集団もおり、大型船の船長や水夫、漢文文書の作成や通訳を担当した。*11076*人たちは久米村に住んだために久米三十六姓と呼ばれた。久米三十六姓の人々が住む場所は大明街とも呼ばれ、琉球から明への渡航者は福州の琉球館に滞在した。高麗にも中山が朝貢の使者玉之を送って交流が始まり、日本とは博多や堺の商人と取り引きをした。 琉球は明に朝貢をすることで、南九州経由のルートに代わって明と直接に貿易をするルートができた。中継貿易は王府による国営事業であり、琉球の輸出品は小型の馬と、硫黄鳥島で産する硫黄で、その他に中継貿易で得たコショウや蘇木、象牙、日本刀などがある。これらを明に献上して回賜を受けとり、陶磁器はグスクにも大量に貯蔵された。日本との貿易は応仁・文明の乱で交通が不安定になり、細川氏との兵庫津での交渉が不首尾に終わったので、博多や堺の民間商人や、禅僧が交流を引き継いだ。博多商人の佐藤重信や禅僧の道安は、朝鮮との外交も担当した。商人にとって琉球国王使の名目を使えることは利益が大きく、琉球国王の偽使も発生した。 ===戦国時代、安土桃山時代の日明貿易=== 応仁の乱後は、日明貿易の日本における主導権は、細川氏や大内氏を中心とする九州や西日本の大名、堺や博多の商人に移っていった。大内氏は宝徳年間の遣明船から博多商人と協力して、天文年間には遣明船を2回送った。大内氏の船には博多商人の神屋主計や河上杢左衛門をはじめとして、堺や薩摩の人物も乗っていた。大内氏と細川氏のあいだでは貿易の主導権をめぐって寧波の乱が起き、遣明船の中断も招いた。肥後の相良氏は琉球に船を送っていた他に、宮原銀山の発見で費用を調達して天文年間に2回遣明船を送った。豊後の大友氏は、明からの制限で宝徳の遣明船以降は直接参加ができず、正式な勘合がない私的な貿易船を送った。のちに大友晴房(大内義長)が大内氏を継いだことで、再び遣明船に参加した。 寧波の乱による貿易の中断は、倭寇の一因にもなった。大名による遣明船の中には明に入貢を許可されなかった船もあり、その場合は警備の手薄な中国沿岸で私貿易を行なった。明の公式な立場からは、これらは密貿易であり倭寇的行為と見なされた。大内氏は、室町幕府が明から受けた日本国王の金印の模造品も作っていた。明ではこうした偽使の対策として、中国沿岸の密貿易者を取り締まった。公式の勘合貿易は、大内氏の滅亡によって断絶したとされるが、それ以降も複数の大名が遣明船を派遣した。古代から安濃津、坊津と並んで日本三津と呼ばれた交易港の博多は明、朝鮮、琉球、東南アジアで商人が活動していたが、少弐、大友氏、大内氏の紛争に巻き込まれて荒廃し、九州各地に建設された唐人町や長崎、豊後府中へと貿易が移っていった。 ===アイヌと東北アジア=== アイヌは貿易品のオオワシやタカの尾羽などを得るために、11世紀からサハリンへ進出をした。13世紀にはサハリンの先住民だったニヴフとアイヌは対立する。ニヴフは元と冊封関係にあったため、モンゴルの樺太侵攻が起き、アイヌと元の紛争は約40年続いた。アイヌは大陸へと渡ってアムール川下流を襲撃するが、やがて元の冊封を受けて朝貢で毛皮を送った。元代の地誌である熊夢祥(中国語版)の『析津志(中国語版)』によれば、アイヌは野人と呼ばれたツングース系の民族と沈黙交易を行なっていた。アイヌはオコジョの毛皮、野人は元との朝貢で得た物資を送った。アイヌは元ののちに明にも朝貢し、15世紀になると千島列島のラッコの毛皮を中国や日本へ送った。15世紀は津軽半島の安東氏が十三湊で貿易を盛んにしており、アイヌが大陸で入手した物産も運ばれた。安東氏は奥州藤原氏が滅んだのちに鎌倉幕府に蝦夷代官に任ぜられ、北海道から京都までのルートを支配して栄えた。 ===倭銀と貿易=== 古代からの鉱脈だった石見銀山が16世紀前半に再開発されて、対馬や壱岐を経由して博多や朝鮮半島へ鉱石が運ばれた。博多商人の神屋寿禎が朝鮮半島から技術者を石見に連れてきたことが、灰吹法の伝来とされる。灰吹法が各地に伝わると銀の産出量が増えて畿内や九州、貿易港に銀が流通した。大内氏による第18次遣明船には堺や博多の商人も多数参加して、銀で唐物を購入した。 当時は銀が国際的な貨幣であり、日本の銀は倭銀とも呼ばれて日明貿易や日朝貿易、南蛮貿易における重要な輸出品となる。朝鮮では銀を木綿布と交換して船舶の帆布や衣料品となった。明は銀で納税する一条鞭法をとっており、倭銀を求める福建、浙江、広東の商人が密貿易に訪れた。ポルトガルは平戸から倭銀を入手するのに加えて、長崎・マカオ間の定期航路も開設して、倭銀がマカオを経由して明に流入した。日本は生糸や絹織物などの高価な外国産品や、火薬原料である硝石を輸入した。 ===日朝貿易と倭館=== 朝鮮王朝は、倭寇の拠点となっていた対馬を応永の外寇で攻撃する一方で、朝鮮半島に倭館を建設した。倭館は日本人の客館として李氏朝鮮が用意した施設で、貿易で来航する日本人のためであり、倭寇対策も兼ねていた。もっとも貿易を活発にしていたのは対馬の宗氏であり、宗氏は倭寇の取り締まりで朝鮮王朝と協力した。他に大内氏、九州探題の渋川氏、肥前の宗像氏、肥後の菊池氏、薩摩の島津氏なども渡航した。日本からの輸出品は銀、朝鮮からの輸出品は木綿布だった。日朝貿易は一時中断したのちに15世紀中頃に再開されるが、これは李氏朝鮮が密貿易に統制をかけようとした目的があった。15世紀末には恒居倭人は3000人近くに達して、三浦の乱という暴動も起きた。 ===海禁と後期倭寇=== 16世紀の倭寇は後期倭寇とも呼ばれる。活動地域は中国沿岸を中心とし、海禁を原因とした中国人の参加が多数にのぼった。初期の海禁は外国商人との取り引きを禁ずるのみだったが、やがて中国人同士の海上の交易も禁じられた。中国沿岸の商人は反発し、福建、広東、浙江の塩商人や米商人を中心とした密貿易が急増する。海禁の取り締まりの激化や、遣明船廃止による日本人の参加、ポルトガルが中国沿岸で行った密貿易の影響もあり、諸勢力が入り乱れる状況下で16世紀に倭寇が拡大した。 ポルトガル人の中にも中国船に同乗する者がおり、明や朝鮮から仏郎機(ふらんき)と呼ばれて倭寇と見なされた。明では倭寇対策として日本に関する調査も行われた。探検家の鄭舜功は琉球や日本に滞在して研究書『日本一鑑』を書き、鄭若曽は日本の需要が高い品物を倭好としてまとめ、『日本図纂』や『籌海図編』に掲載した。 密貿易の増加によって、中国内陸で活動をしていた徽州商人も参加するようになる。徽州出身で倭寇の頭目となった王直は五島を本拠地にしつつ、博多や平戸で取り引きをして、中国沿岸で海賊行為を行なった。のちに南蛮貿易が始まったきっかけも、王直の船に乗っていたポルトガル人が種子島に漂着したためだった。王直が倒されると倭寇は次第に衰退して、台湾、フィリピン、南洋へと活動を移す。明が海禁を解除すると、南海への中国人の渡航と貿易が認められた。日本への渡航や、禁制品である硫黄・銅・鉄の輸出は許可されなかったが、倭寇は沈静化した。 ===南蛮貿易=== 南蛮貿易とは、ポルトガル人、中国人、およびヨーロッパとアジア人の混血がマカオで行った中継貿易を主に指す。ポルトガルの他にはスペインが東アジアに進出して、ポルトガルが貿易を重視し、スペインは領土の拡張を重視した。ポルトガルは明からマカオの居留権を得て拠点として、司令官のカピタン・モールが着任したマカオにはセファルディムの改宗ユダヤ人やイエズス会も移住して貿易に参加した。16世紀にポルトガル人が種子島に漂着したことがきっかけで、日本とポルトガルとの貿易が始まる。ポルトガルがもたらした火縄銃は、日本の軍事技術に大きな影響を与えた。しかし、種子島に漂着したポルトガル人が誰を指すかについては諸説がある。 管理貿易はカピタン・モールを中心に行われ、私貿易では冒険商人たちが自由に往来をした。南蛮貿易のポルトガル船には、カピタン・モールの船、官許船や定航船、私貿易の船による違いがあった。ポルトガルの貿易はイエズス会による布教と結びついており、来航した港も布教と関係のある地域が中心となった。宣教師のフランシスコ・ザビエルが布教をした大内氏や大友氏、そして大村純忠がイエズス会に寄進して教会領となった長崎港などがある。寄進後の長崎は日本の貿易の中心となり、長崎の代官となった末次平蔵は外国船にも出資をした。 ポルトガル商人は日本の銀と中国産の生糸との交換を基本として、その他に日本に輸出したのはトウモロコシ、ジャガイモ、カボチャ、スイカなどの農作物や、火縄銃、メガネ、タバコ、薬品などだった。ポルトガルの次には、スペインが太平洋経由で貿易に参加して、スペイン領フィリピンのマニラからのスペイン船は年に約1隻の割合で来航した。九州の大名は東南アジアとの貿易を望み、松浦氏はタイのアユタヤ王朝、大友氏はカンボジアと交渉をした。ポルトガルやスペインが貿易で行っていた共同出資や海上貸付は、のちに長崎で投銀(なげかね)と呼ばれる投資形態の原型となった。日本商人の投資が増えて、ポルトガル商人は中国からの信用貸付が可能となったが、対日本人債務が急増した。 織田信長はキリスト教の布教を許可して、輸入品によって大名の間に南蛮趣味が広まった。豊臣秀吉は信長の南蛮趣味を引き継ぎつつも、宣教師とキリシタン大名による一揆の可能性を警戒する。その対策としてバテレン追放令を発令して宣教師を追放する一方で、南蛮貿易を続行するために異国渡海朱印状を発行した。秀吉はスペイン領のルソン、台湾の高山国、朝鮮に対して朝貢を要求するが失敗し、朝鮮においては文禄・慶長の役が起きた。秀吉の死後に徳川家康は親善外交をして関係修復につとめ、朱印船による貿易を推進する。 ===奴隷貿易と乱妨取り=== 戦国時代以降は、雑兵たちが乱妨取りで捕らえた捕虜を人買の商人に売り渡すようになった。ポルトガルが来航すると、ポルトガル商人にも捕虜を売る者が現れて、日本列島内の人身売買が海外貿易にも拡大した。イエズス会では、奴隷貿易が布教の妨げになるとポルトガル国王のセバスティアン1世に訴えて、セバスティアン1世は奴隷取引を禁止する勅令を出したが、取引は続けられた。九州では、大友氏と島津氏の豊薩合戦によって豊後や肥後を中心に多数の捕虜が売買された。その後の豊臣秀吉による九州平定では豊臣軍の者によって捕虜が売買されて、大坂をはじめとする上方にも売られた。秀吉は海外への日本人売買を問題視して、宣教師のガスパール・コエリョを召喚して外交問題として議論となり、秀吉はバテレン追放令の第一〇条などで人身売買停止令を出して事態の収拾をはかった。奴隷として売買された日本人は、マカオ、フィリピン、インド、中南米、ポルトガルやスペインへと運ばれた。 文禄・慶長の役では、朝鮮半島で日本軍による奴隷狩りが起きた。人買商人が朝鮮半島へ渡り、日本の名護屋港を中心に捕虜が運ばれた。秀吉は朝鮮半島での人捕りを禁じる一方で、大名に対しては、捕らえた朝鮮人から優れた技術者や女性を献上するように命じた。奴隷取引を防ぐために、イエズス会の日本司教となったルイス・デ・セルケイラ(ポルトガル語版)は取引に関わる全員を教会法で罰することを決めた。イエズス会は奴隷貿易をする者の破門決議の中で、無数の朝鮮人が日本に運ばれて安値で売られたと書いている。 ===琉球と東南アジア=== 琉球では、明や朝鮮の他に15世紀からは東南アジアとも取り引きが増える。シャムのアユタヤ王朝(暹羅)、マレー半島のマラッカ王国(満刺加)やパタニ王国(仏太泥)、ジャワ島のマジャパヒト王国(爪哇)、パレンバン(旧港)、スマトラ(蘇門答剌)、スンダ王国(英語版)(巡達)、ベトナム(安南)といった国々である。これらの国は、琉球と同じく明に朝貢しており華人社会があったので、漢文による外交が可能だった。琉球は日本刀や中国陶磁器を東南アジアへ輸出し、東南アジアからはコショウや蘇芳などを輸入した。やがてマラッカは東方に進出したポルトガルに占領され、交易地は他の港湾都市に散らばる。琉球はマラッカを避けてジャワ島のカラパや、マレー半島のパタニ王国へと移った。琉球は輸入した日本刀に螺鈿細工や朱漆塗りの外装をして輸出しており、レキオやリキーウー(琉球刀)と呼ばれた。琉球の外交文書集『歴代宝案』によれば、1570年(隆慶4年)のシャムが最後の東南アジア派遣だが、それ以降も東南アジアの品物は記録されている。アユタヤ朝がビルマのトゥングー朝に占領されてからは、1571年(隆慶5年)にスペイン領フィリピンが成立したマニラなどで活動していたと推測されている。 琉球にも倭寇は浸入して、明からの冊封使が来航すると騒ぎが大きくなった。冊封使が倭寇に襲撃される事件や、多数の倭寇が冊封使との交易を強引に求めて那覇に殺到する事件も起きた。琉球としては冊封使の品物は全て買い取る必要があり、深刻な紛争が起きないかぎりは倭寇も交易集団として扱った。 ==近世== ===朱印船貿易=== 江戸時代の始まりは、南蛮貿易の終わりと重なる。マカオを拠点とするポルトガル商人は次第に中国との競争で圧迫され、江戸幕府から得た朱印状で貿易を許可された朱印船貿易が年に約10隻の割合で始まった。幕府は3本マストの武装交易船350隻に朱印船の許可を出して、台湾、タイのアユタヤ王朝、ベトナムのチャンパ王国、カンボジアのプノンペン、マレー半島のパタニ王国などにも朱印船が渡航した。各地に日本人町が建設されて、アユタヤ日本人町の山田長政のように外国を活動拠点とする者も増加した。日本人以外では、華僑やポルトガル、スペインの商人も朱印状を得た。 商人は基本的に個人事業であったが、共同事業も行われており、投銀(抛銀、なげかね)という出資の仕組みを持っていた。投銀は、海上のリスクを貸主が高利で負担する海上銀や、商品の購入を委託する言伝銀に分かれていた。投資家から借り受けた貿易業者が一定額を朱印船主に渡して貿易を行い、無事に帰国すれば利益を船主、貿易業者、投資家で分配する。事故により損失が出た場合は元利の返済はなかった。博多の末次家と長崎の末次家は投銀の集約と投資を分業して、強力な組織を経営した。投銀の方法は、スペインやポルトガルで普及していた共同出資(コンパーニア)や、高利の海上貸付(レスポンデンシア)に類似しており、マカオにはコンパーニアがあり、その資金繰りが長崎に影響して投銀が用いられるようになったとされる。朱印船の廃止後は、廻船の船主と船問屋が同様の経営を継続した。 ===オランダの参入と禁教=== オランダは、ポルトガルが日本との貿易で利益を得ていることを知り、銀を得るために進出を計画してスペイン・ポルトガルと紛争を起こした。オランダのリーフデ号が日本に漂着した際に、イギリス人のウィリアム・アダムス(三浦按針)も乗り込んでおり、日本に来た初のイギリス人となった。家康はオランダとの貿易を望み、ヤックス・スペックスが平戸に来航する。スペックスは家康の外交顧問となったアダムスを通じて朱印状を得た。同年にはオランダ東インド会社が日本の緑茶を平戸から運び、フランスやイギリスで飲茶が広まるきっかけとなった。茶貿易は、のちに中国からの紅茶の輸出が中心となる。イギリスもクローブ号を最初として平戸に商館を開いて貿易を始めるが、イギリスが輸出しようとした毛織物は日本で人気がなく、撤退した。 家康の死後、2代将軍の徳川秀忠はキリシタン禁教の徹底と国際紛争の回避を目的に、貿易や出入国の管理と統制を強化する。スペインとポルトガルはキリシタン禁教の観点から貿易を禁じられ、イギリスはオランダとの競争に負けて撤退した。島原の乱の影響で幕府はカトリックに対する警戒を強める。さらに、パウロ・ドス・サントス司祭の書状が発見されて、ポルトガル商人が禁教後も宣教師を支援していることや、長崎奉行の竹中重義とポルトガルとの密貿易が判明する。幕府はオランダ東インド会社に打診して、ポルトガルに代わって生糸と絹織物を輸入できることを確認した上で鎖国令を出し、ポルトガルとの交流や貿易を禁止する。ポルトガルの撤退後はオランダが日本と取り引きをした。 ===台湾貿易=== 台湾島には多様な先住民族が暮らしており、17世紀に大陸の華人と華僑の間で中継貿易が始まった。ポルトガルの後に東アジアに来たオランダは明での貿易が認められなかったため、台湾島のタイオワン(大員)を拠点とした。平戸の中国人商人の首領だった李旦や、その弟で長崎にいた華宇のように、朱印状を得ていた華僑もオランダと取り引きをした。オランダはタイオワンでゼーランディア城を建設するために日本向けの商品に10%の輸出税をかけようとするが、朱印船貿易の日本商人と対立してタイオワン事件が起きた。中国では明の滅亡後も遺臣を名乗る者がいて、その一人鄭芝竜は李旦から引き継いだ勢力を拡大して貿易や海賊対策を行い、清と戦うための援助を日本に要請した。鄭芝竜の子である鄭成功はタイオワンを占領して、鄭氏政権は福建と台湾の日本貿易を掌握した。しかし、台湾の輸出品である鹿皮や砂糖は大陸商品に押されて、次第に貿易は減少した。 ===江戸幕府の貿易政策=== 江戸幕府は3代将軍徳川家光の時代になると、「四つの口」を通じて貿易と出入国を管理した。四つの口とは、(1)オランダや中国と貿易する長崎・出島、(2)朝鮮と貿易する対馬藩、(3)琉球と貿易する薩摩藩、(4)アイヌと貿易する松前藩を指した。幕府は貿易に加えて正式な外交関係がある通信国と、貿易のみの貿商国を区別した。通信国は琉球王国や朝鮮であり、貿商国は明や清、ポルトガル(南蛮)、オランダ・イギリス(紅毛)だった。 ===貴金属の流出対策=== 江戸時代の日本は貴金属の輸出国であり、貴金属は他地域でも貨幣として流通した。輸入超過が続くうちに支払いによって国内の金、銀、銅が減少したため、さまざまな対策が取られた。元禄期と宝永期には荻原重秀が貨幣改鋳を行って貴金属の含有量を減らし、正徳期の新井白石は海舶互市新例で貿易量を制限した。明和期や天明期に田沼意次が政治の中心につくと海舶互市新例が緩和されて輸出が奨励された。日本の金銀比率が他地域と大きく異なっていたため、幕末には金の流出が深刻化した。 ===輸入代替=== 幕府は貴金属の流出対策として、輸入が多い品物の国内生産も試みた。8代将軍の徳川吉宗は砂糖や朝鮮人参の国内生産を成功させた。砂糖の輸入は室町時代から始まっており、16世紀以降の日常的な消費で急増し、幕府による正徳期の輸入制限430斤(約250トン)に対して、586斤(約327トン)以上の年もあった。砂糖は東南アジアから輸出されており、砂糖の輸入代替は、元禄期の農学者宮崎安貞が『農業全書』でも提案している。徳川吉宗はサトウキビの栽培と製糖技術の取得を命じて、長崎経由で中国の宋応星の技術書『天工開物』からローラー圧搾式の製糖技術を導入した。国内生産が進むにつれて、17世紀末には350斤から500斤だった輸入量は、18世紀から19世紀には150斤から260斤に低下した。 また、江戸時代以前の医療においては漢方薬が使われることが多かったが、その材料を輸入に頼ることが多く、それは奈良時代の聖武天皇の遺品が納められた東大寺正倉院の宝物の中に多数の輸入薬物が含まれていることからも裏付けられる。江戸時代に入ると、医療が民間にも普及するとともに漢方薬の原料となる薬草・薬木の需要は高まり、宝永6年(1709年)からの5年間で合計120万5535斤(約7200トン)にも上った。 幕府直営の薬園は徳川家光の時代からあったが、徳川吉宗は享保年間以降、薬園の充実を進めて対馬藩経由で朝鮮から取り寄せた朝鮮人参の種を用いて朝鮮人参の国産化を図る一方、諸大名にも薬園設置を推奨した。また、輸入薬材に関しても長崎から輸入された品物を大坂道修町の薬種中買仲間が一括して購入して全国の薬種問屋に販売し、江戸や関東地方において販売される分については道修町の中買仲間から江戸本町三丁目の株仲間に属する薬種問屋を経由させた後に市中に販売させると言う流通統制を行った。 ===豪商の変化=== 近世初期の商人には、問、座商人、朱印船貿易に属する者が多く、堺の今井宗久、京都の角倉了以や茶屋四郎次郎、大坂の末吉孫左衛門や淀屋常安、長崎の末次平蔵や荒木宗太郎、博多の大賀宗九や島井宗室などがいた。貿易商は輸送から年貢請負などの手段を一手に持ち、領主から特権を受けた御用商人として軍需品や土木事業も手がけ、豪族的な性質や投機的な面もあった。幕府の鎖国政策が進んで貿易が減少すると初期の豪商は没落して、より堅実な商業が主流となり、商品ごとの問屋が整備された。幕府は織豊政権の楽市・楽座政策を引き継いでおり、商人の同業組織を当初は認めていなかった。しかし、生糸の輸入を統制するために糸割符の株仲間を認めて、茶屋四郎次郎が主導した。やがて株仲間は大坂の問屋をはじめとする商人の間で認められ、江戸へと広まった。 ===長崎貿易=== 長崎は幕府の直轄地であり、出島を建設してオランダ東インド会社や中国との貿易を行った。オランダ商館が平戸から移り、商館長はポルトガル時代の名称を引き継いでカピタンと呼ばれた。幕府はオランダに対してヨーロッパの情報を要求し、オランダ商館では毎年夏にオランダ船が着くと情報をまとめて幕府へ送った。これはオランダ風説書と呼ばれ、幕府のほぼ唯一のヨーロッパ情勢の情報源となった。清は台湾の鄭氏政権への対策として遷界令で中国沿岸の居住を禁止したが、やがて遷界令が廃止されて中国からの来航が増加する。幕府は中国人の居住地区として、唐人屋敷を建設した。 ===貴金属の輸出=== オランダはポルトガルにならって中国産の生糸などを日本に輸出し、日本は金や銀で支払いをした。当時の日本には貴金属にかわる主要な輸出品がなかったために金銀の流出が続き、日本が銅の輸出に切り替えると、東インド会社は銅産出量が少ない安南に銅を送った。幕府は輸出が禁じられていた寛永通宝の流出を防ぐために、貿易用の長崎貿易銭を発行した。銀の輸出量は、17世紀前半の世界の産銀量42万キログラムのうち20万キロに達した。17世紀後半のバタヴィアでは、日本の小判が流通した。元禄時代になると、幕府は金銀の流出を止めるために定高貿易法で貿易に上限を設け、改鋳を行う。改鋳で貴金属の含有率が減り、取引国のオランダや中国から反発を受けた。 ===工芸品、食料品の輸出=== 明の末期の戦乱で中国からの陶磁器輸出が減少すると、オランダ商館長のツァハリアス・ヴァグナーは日本の陶磁器に注目した。ヴァグナーはヨーロッパ向けの製品を依頼して、伊万里焼は500万個以上が輸出されてインドネシア経由でオランダへ運ばれ、ヨーロッパ各国へ流通した。蒔絵漆器も箱や櫃が輸出され、マリー・アントワネットの机やナポレオン三世の棚にも用いられた。調味料としては醤油が1647年から10樽輸出され、醤油は東南アジア各地に年間数百樽が輸出されて華僑に好まれた。ヨーロッパには1737年から醤油が流通したが、高価なため次第に中国産の醤油に代わっていった。 ===日朝貿易=== 16世紀になると三浦の乱や倭寇の影響で日朝関係は悪化し、貿易も減少した。倭館は豊臣秀吉による文禄・慶長の役が起きたため閉鎖され、江戸幕府になってからの己酉約条で、朝鮮王朝と対馬の宗氏との貿易が再開された。江戸幕府の成立後は、対馬藩が幕府の許可のもとで貿易を行なった。朝鮮は日本との正式な国交がある通信国となり、貿易に加えて外交使節である朝鮮通信使も行われた。釜山には日本人が生活する倭館が建設され、敷地は10万坪、人口は400人から500人ほどだった。朝鮮は中国産の生糸や、薬用として重宝された高麗人参を輸出して、日本は慶長丁銀で購入した。やがて日本は銀の不足によって、銀の含有率を低くした銀貨を用いるようになる。朝鮮では含有率が低い銀貨の受け取りを拒否して高麗人参の輸出が中止となり、幕府は対策として高麗人参専用の銀貨である人参代往古銀を発行した。 ===琉球貿易=== 秀吉による文禄・慶長の役ののち、家康は明との関係修復のために琉球王国に仲介を求める。琉球の尚寧王は家康を警戒したため、薩摩藩の島津忠恒は琉球への出兵を検討する。家康は日明貿易の復活を目的として出兵を許可したが、島津氏は琉球の領有化のための出兵を目的とした。これには、当時の島津氏の財政が逼迫していた点も関係していた。明から冊封使の夏子陽(中国語版)が琉球に来た際、薩摩藩は明に対しては領内への商船渡航を求め、琉球に対しては明商船の中継を求めた。琉球は薩摩藩の要求にもとづいて、商船の琉球渡航や、三十六姓の再派遣を明に求めた。しかし明は三十六姓の再派遣には応じたものの、日本を警戒して商船は許可せず、朝貢も2年1回から10年1回に減らされた。こうして琉球は薩摩藩の要求に沿うことが不可能となり、薩摩軍は琉球侵攻をした。その後の琉球は、徳川の幕藩体制に含まれつつ、明との朝貢を維持する。商品作物として砂糖やウコンを大坂へ輸出して、その利益を朝貢へ投資した。サトウキビの栽培と製糖美術は尚豊の時代に中国から導入し、琉球から奄美群島へと伝わり、奄美群島の砂糖は薩摩藩の財源になった。 ===アイヌと山丹貿易=== アイヌと和人との交易は、16世紀に蠣崎氏のもとに独占される。蠣崎氏は夷狄の商舶往還の法度を制定し、松前に改姓して家康の許可を受けて、松前藩以外の和人とアイヌの交易を禁じた。北海道は道南の和人地とアイヌが住む蝦夷地に分けられて、松前藩の家臣は商場でアイヌと取り引きできる商場知行制を行なった。17世前半の北海道は金の採掘や砂金の採取が盛んになり、当時のアイヌ総人口2万4千人を超える3万人以上の和人が各地から集まった。また、西廻航路を通る北前船によって魚介類や材木などの産物も送られた。商場知行制では松前藩が品物の交換レートを決定し、商場の和人が増加したためにアイヌの不満を呼び、シャクシャインの戦いが起きる。長崎貿易向けの産物として干鮑と煎海鼠が松前藩の管理下で推進され、アイヌも和人の米、酒、鉄製品へ依存するようになる。18世紀には商人が商場を運営する場所請負制となり、和人がアイヌに労働をさせた。 千島アイヌは、北海道本島のアイヌと沈黙交易を行なっていた。樺太のアイヌは、山丹人とも呼ばれる大陸のニヴフやウリチと貿易を行い、山丹交易とも呼ばれた。山丹側は清に朝貢をして得た絹織物や大陸の産物を輸出し、アイヌはクロテンをはじめとする毛皮や幕府から得た鉄製品を輸出した。松前藩はアイヌに鍋やヤスリなどの鉄製品を支払って清の物産を入手して、清の絹織物は蝦夷錦と呼ばれて珍重され、松前藩は幕府への献上品や諸大名への贈り物とした。 ===国際環境の変化と通商の要求=== 18世紀後半から、オランダ以外の諸国も日本との貿易をはかるようになる。かつて平戸から撤退したイギリスはチャールズ2世が台湾に商館を開き、イギリス東インド会社は日本との貿易再開を計画する。イギリスとしては、貿易を禁止されたポルトガルと異なり朱印状を得ているので、再開が可能であると判断した。こうしてイギリスはリターン号を送ったが、幕府はイギリス国王であるチャールズ2世がポルトガル王女のカタリーナ王女と結婚している点を理由として、貿易の再開を禁じた。 北方からはロシアが日本との通商を求めた。ロシアはラッコやオットセイの毛皮を輸出して清と毛皮貿易を行なっており、18世紀に北海道でアイヌや松前藩の人間と遭遇した。イルクーツク総督の使節のアダム・ラクスマンが漂流民の大黒屋光太夫を送り届けた際に、幕府は長崎入港を許可する信牌を与えた。ロシア側はこれを通商の許可と解釈して、露米会社の設立者でもあるニコライ・レザノフがアレクサンドル1世の国書を持って長崎に来航する。しかし幕府側では、通信国や貿商国を増やさないという方針は変わらず、幕府は回答を半年延ばして国書を受け取らず、食料などの補給も不十分な状態でレザノフを退去させた。これがもとでレザノフの部下が南樺太や択捉島を攻撃するフヴォストフ事件が起きた。その後、アヘン戦争後にオランダ、フランス、アメリカから通商の要求が相次いだ。 国際環境の変化を受けて、国内でも貿易や海外進出についての提案が出された。仙台藩の藩医工藤平助は著書『赤蝦夷風説考』において、要害を第一とした上で赤蝦夷(ロシア)との貿易や蝦夷地の開発を提案した。数学者の本多利明はヨーロッパにならった貿易や植民地政策を『西域物語』で説いた。公儀の儒者である古賀*11077*庵は『海防臆測』を著し、貿易による海外進出を説いた。 ===開港と通商条約=== アメリカ合衆国からのマシュー・ペリー提督の来航と日米和親条約によって、幕府はアメリカに対して開港し、日本は万国公法に基づく欧米を中心とした国際秩序に組み込まれた。次に日米修好通商条約が締結されるが、この条約によると日本側に関税自主権が与えられず、協定関税制とされていた。一方で、外国人の行動範囲は外国人居留地を中心とした地域に限定され、外国人の内地雑居は認められなかった。開港されたのは、横浜港、新潟港、神戸港、長崎港、箱館港の開港五港だった。同様の条約は英仏蘭露とも結ばれて、安政五カ国条約とも呼ばれた。 開港は日本各地の産業を大きく変化させてゆく。交通面では、中国や太平洋の航路を使っていた欧米各国の汽船が来航して、長崎、横浜、函館などの港は上海、マルセイユ、サンフランシスコなどの航路網に連結された。横浜を中心に貿易が拡大して、当初の日本は生糸を輸出し、織物を輸入した。生糸の輸出増は製糸業を発展させ、輸入品との競争によって衰退する地域も出た。流通面では株仲間を通さずに外国と取り引きをする商人が増え、幕府は重要な商品は江戸の問屋を通すように命じたが効果がなく、最終的には明治政府の商法大意によって営業の自由が認められる。 外国人の居留地には、外商と呼ばれる商人や商社が進出をした。居留地で取り引きをする日本人のうちで輸出をする者は売込商、輸入をする者は引取商と呼ばれた。通商条約が不平等条約であったため、外商は日本人に対して有利であり、日本人の事業に外国資本が進出する場合もあった。イギリスのジャーディン・マセソン商会は生糸、茶、綿布を扱い、オリエンタル・バンクは三井に100万円の融資をしている。 ===幕末の金流出=== 通商条約の締結によって、諸外国の銀貨が日本国内で使用できることが定められた。しかし、幕府が定めた金と銀との交換比率は、諸外国に比べて著しく金が割安であり、大量の金が日本から流出した。幕府は金の含有量を3分の1に圧縮した万延小判を発行し、ようやく金の流出を止めた。ところが、正貨の貨幣価値が3分の1に下落したこと、また諸外国との貿易の開始によって国内産品が輸出に向けられたため、幕末期の日本経済はインフレーションにみまわれた。この時期の日本貨幣と海外貨幣の交換比率の問題は幕末の通貨問題とも呼ばれる。 ===幕末の諸藩の貿易政策=== 通商条約の締結後、藩の中には開港場に商社を設立して自藩の特産物や各地の産物を欧米へ輸出するところが現れた。開港場の商人が藩の商社を経営して、藩士が元締めをつとめた。輸出で得た利益は、軍艦、大砲、小銃など欧米の兵器や商船の輸入にあてられて、武器の輸入はアメリカのウォルシュ・ホール商会やイギリスのグラバー商会が行った。こうして諸藩は幕府に対抗する軍事力を蓄え、薩長土肥の4藩がその中心となる。商社担当の藩士は経済や国際情勢の知識を蓄えて、明治時代に大資本家となった五代友厚や三菱財閥を創業した岩崎弥太郎、明治政府の財政で働いた由利公正のような人物を生む。五代友厚は、攘夷より開国交易を重視して上海への輸出を提唱した。しかし、各藩の商社の規模では、特産物の生産増や輸出奨励は不可能であり、明治政府によって実現された。 ==近代== 江戸幕府から政権を奪取した明治政府が直面した貿易面の課題は、外貨獲得と条約改正であった。明治政府は公称800万石の幕府の財政を引き継いだが、公称で合計3200万石を持つ約300の諸藩は財政や軍事が独立していたため、分割されていた経済力を廃藩置県によって中央集権化した。明治政府は富国強兵を目標としたが、富国と強兵のどちらを優先するかをめぐって対立が起きる。富国を優先する側は殖産興業を目標とした。 ===輸出入統計と殖産興業=== 産業革命以後の世界は工業製品の貿易が急増しており、欧米の事情を調査するための岩倉使節団に参加した大久保利通は、日本の工業化のためにイギリスの工場や機械を視察する。大久保は国力の基準として輸出入統計を重視し、政府による殖産興業の必要性を主張した。政府は工部省を設置して、技術導入のためにお雇い外国人の多数採用、官営工場の建設など産業振興と産業インフラ整備の事業を推進した。しかし、台湾出兵における占領や、内戦である西南戦争の戦費、そして松方財政のもたらした緊縮財政とデフレによって積極財政は中止される。殖産興業政策は1876年(明治9年)から1880年(明治13年)までで終了した。 ===条約改正=== 外商の取扱の比率は1880年に輸出80%、輸入93%であり、1890年に輸出89%、輸入75%となり日本側の取扱比率は上昇した。しかし依然として外商が主導しており、日本側としては輸出増加が目標だった。横浜の外商は生糸売込商への代金支払いの遅延や契約の破棄が重なり、売込商が連合生糸荷預所を設立して外商と対立する連合生糸荷預所事件が起きた。不平等条約の改正は、イギリスとの日英通商航海条約によって関税自主権の一部回復や最恵国待遇の相互化が実現し、これをきっかけに他の14カ国とも改正が進んだ。関税自主権の完全回復は、日米通商航海条約の改正で達成された。 ===輸出産業と交通・通信の発展=== 殖産興業政策は短期間で終了したが、1880年代以降の産業発展の下地を作った。1882年(明治15年)から1891年(明治24年)を100とした場合、1902年(明治35年)から1911年(明治44年)には日本の輸出は418で輸入は488まで拡大をした。 ===繊維=== 日清戦争までの工業化の中心は軽工業であり、中で製糸業や紡績業などの繊維工業だった。生糸は明治初年から生産量の60%から70%を輸出し、フランスから技術を導入して官営の富岡製糸場を建設する。こうして生糸は1870年から1880年(明治13年)の輸出総額の約30%となり、1886年(明治19年)から日清戦争が起きるまでは繊維工業が年15.4%の急成長をした。綿紡績業は開国後に輸入品が増えて伝統的な綿糸生産は衰退したが、大阪紡績の成功によって紡績会社が増え、1897年(明治30年)には輸出量が輸入量を上回った。 ===運送・通信=== 交通面では、鉄道は官営によって進められ、海運は政府の保護を受けつつ民間資本によって成長した。開国から明治初年までは貿易や沿岸の流通を外国船が行なっており、政府は台湾出兵の軍事輸送のため三菱会社を支援した。日清戦争後に海運業は急成長して汽船トン数が増加し、三菱と共同運輸会社の合併で設立された日本郵船はアジア、ヨーロッパ、北アメリカ、オーストラリアへの遠洋航路を開拓し、大阪商船や東洋汽船も続いた。日露戦争後にさらに大規模な拡大が繰り返された。通信面では、デンマークの大北電信会社が電信の海底ケーブルを上海・長崎・ウラジオストクに敷設して、長崎から東京にも敷設が進んで世界の通信網と結びついた。これによって海外取引も迅速となった。 ===造船=== 明治政府は幕営や藩営の工場を接収して軍工場と民間工場に分けた。石川島造船所、三菱長崎造船所、川崎造船所などが官営工場の払い下げを受けた。日清戦争時に造船能力の低さが問題視され、政府は造船奨励法と航海奨励法を制定して造船業の育成政策をとる。日露戦争後には国内建造が輸入を上回った。 ===製鉄=== 官営から払い下げられた釜石製鉄所が日清戦争前から製鉄を行なっていたが小規模であり、官営の八幡製鉄所によって生産量が増えた。しかし補助金等による政府の育成政策にもかかわらず、第一次世界大戦までは国際競争力がなかった。 ===総合商社=== 明治時代の後期から、多様な商品を取り扱う総合商社が出現する。それぞれの商社は、幕末の動乱、廃藩置県、内戦、国際緊張などを機会として成長した。江戸時代から続いていた豪商の三井家は明治政府を支持して小野家、島田家とともに明治政府の会計事務局為替方となり、倒産の危機に見舞われつつ三井越後屋呉服店の他に三井物産、三井銀行など多角化を進めた。三井物産は当初は政府の御用商品を扱い、のちに石炭、繊維、生糸を輸出して各国に支店を設置して三角貿易も行った。岩崎弥太郎は土佐藩の経営から分離された九十九商会から三菱商会を創業し、海運業で政府の助成を受けて江華島事件や西南戦争によって利益を得た。 ===日清戦争・日露戦争と貿易の影響=== ====日清戦争と朝鮮の植民地化==== 李氏朝鮮の貿易をめぐって、日本と清が対立した。日本は江華島事件をきっかけとして日朝修好条規を結び、倭館の敷地を引き継いで日本人居留地を建設し、朝鮮は釜山港、元山港、仁川港を開港した。日朝修好条規は日本側に有利な不平等条約の面を持っており、日本の対朝鮮貿易は拡大する。さらに日朝通商章程を結び、甲申事変の後は政治的進出が後退する一方で、経済的進出を活発にした。日本の業者は朝鮮商人の客商に資金を提供して穀物を買い集め、朝鮮では米不足と米価高騰が起きて生活を圧迫した。朝鮮の地方政府は食糧問題を解決するために日朝通商章程で承認されていた防穀令を発令して穀物の域外搬出を禁じる。しかし前貸で穀物を買い付けていた日本の業者は、域外搬出禁止に対する損害賠償を求めて紛争となった。日清戦争で清が敗北すると、朝鮮は清への朝貢を終え、日本は朝鮮の植民地化を進める。朝鮮の輸出の80%から90%、輸入の60%から70%が日本向けとなった。 ===日露戦争と満州への進出=== 日本は朝鮮の次に満州へと進出する。日本は清との間に不平等条約である日清追加通商航海条約などを結ぶが、義和団の乱をきっかけに満州を占領していたロシア帝国と対立し、日露戦争が起きた。日露戦争の勝利で日本の国際的な信用が高まり、外債の発行が容易になる。日本政府は重工業化を進めており、外資はこれに有利に働いた。 ===金本位制への移行=== 日清戦争で日本が得た賠償金は3億6千万円にのぼり、1895年(明治28年)の日本のGNPの20%以上に相当する。日本はこの賠償金をもとに金本位制に移行した。各国の為替レートは金を通じて安定するため、外貨の調達が容易となり、日本の金本位制は第一次世界大戦まで続いた。金本位制によって不利となったのは、輸出産業だった。日本は松方財政の時代から銀本位制をとっており、金銀比価の下落によって金本位制国への輸出が伸びていたが、金本位制移行で不況を迎える。 ===大戦景気と国際競争の激化=== 第一次世界大戦が起きると、各国とともに日本も金本位制から離脱した。金本位制離脱の原因は、通貨供給量が各国の金保有に制約されるので多額の戦費を調達できなかったためである。ヨーロッパは軍需生産を優先してアジア市場が供給不足となり、日本は繊維製品や雑貨の輸出の増加によって経済成長をした。輸出増によって対外債務が減少し、船成金と呼ばれる資産家が多数出現した。経常収支黒字により日本は累積債務を解消して債権国となり、大戦景気と呼ばれた。 大戦景気によって日本は農業国から工業国へと移行した。輸出面では、輸出と海運業の好況が造船業や鉄鋼業をはじめとする関連産業にも影響した。輸入面では、外国からの輸入減少による内需拡大が、国内の重化学工業にとって成長の機会となった。海外事業では商社の設立が急増して外商のシェアは低下し、商品の多様化と取引地域の拡大が進む。三井物産は1914年の輸入取引の27.3%、輸出取引の23.9%を占めており、総合商社のモデルとなった。日本の有力な商社はニューヨーク、ロンドン、ボンベイ、上海などに進出し、1920年の世界恐慌まで事業を展開した。1920年代には、三井物産の他に鈴木商店、三菱商事が総合商社として確立し、岩井商店、大倉商事などがこれに続いた。 大戦後にはバブル景気によって輸入超過となり、やがてバブルの崩壊で戦後恐慌が起きて株価は42%、物価は21%、地価は16%低下した。ヨーロッパのアジア市場への復帰に加えて、中国をはじめとして他のアジア諸国でも生産が向上して国際競争が激しくなった。企業倒産と企業合併が急増したため、大企業によるカルテルが形成され、特に三井、三菱、住友、安田の財閥による支配が強化された。 ===東南アジア貿易=== 岩倉使節団よりも数年早い時期に、からゆきさんと呼ばれた日本女性が東南アジアへ渡っている。からゆきさんの出身地は九州の海岸沿いが多く、中でも貿易港がある長崎近隣の天草や島原などの地域が多かった。近代初期の東南アジア貿易では、神戸の南京町の華商が中心となった。神戸には最大の在日華僑の商人グループがあり、福建出身の華商はフィリピンの福建商人と取り引きをして、広東出身の華商はオランダ領東インドやシンガポールの広東商人と取り引きをした。日本からはスルメ、イリコ、アワビなどの海産物や繊維製品が輸出された。 第一次大戦時の輸出増加と、旧ドイツ領だった南洋諸島の委任統治が、東南アジアや南洋諸島への進出のきっかけとなった。第一次大戦前までの東南アジアの在留日本人は女性人口が多かったが、貿易の増加によって逆転する。東南アジアへの輸出は大戦勃発の1914年(大正3年)から大戦後の1925年(大正14年)までに8倍となり、幕末から論じられていた南進論を後押しした。。 フィリピンには1904年頃から日本人の移住が始まり、ダバオのプランテーションでアバカ麻を栽培した。麻は船舶用ロープや和紙、和服になり、第一次大戦で需要が急増して高騰した。フィリピン群島政府(英語版)は公有地法の改正で日本人の土地取得を制限したが、日本側はパキアオという伝統的な土地経営を用いて農園を拡大した。ダバオにはバゴボ族(英語版)をはじめとする先住民がいたため、対立によって日本人の殺害も相次いだ。 ===欧米からの直接投資の増加=== 日本の製造業の成長にともなって外国からの直接投資や技術提携が増加した。戦間期の技術提携にはウェスチングハウスと三菱電機、ゼネラルエレクトリックと東芝、シーメンスと富士電機、デッカーと東洋電機などがある。 アメリカの製造業の大企業化は、大量生産の規格化や、中間生産物や最終消費財など分業の利益を世界規模で広めた。1920年代にアメリカのフォードやゼネラル・モーターズは日本にアセンブリー工場を創業し、日本の製造業にも影響を与える。豊田自動織機のチャールズ・フランシス、日産自動車のウィリアム・ゴーラム、芝浦製作所のアルフレッド・ワーレンなどは生産技術の向上や工場建設などで貢献した。次第に機械工業の発展が進み、軍需品のためのメーカーは増えたが、アメリカ式の大量生産方式が全国的に普及するのは第二次世界大戦後までかかることになった。 ===満蒙と在華紡=== ====満蒙==== 日本は天然資源を確保するために、朝鮮に続いて満蒙と呼ばれた満州と内蒙古への進出をはかり、日露戦争後のポーツマス条約で旅順や大連の租借権と東清鉄道の南満州支線を引き継いだ。国策会社として半官半民の南満州鉄道会社(満鉄)が設立され、ロシアとの日露協約によって満州の鉄道と電信の敷設権を分け合う。満鉄は昭和製鋼所などの製鉄、鉄鉱や炭鉱、ヤマトホテルなどの宿泊施設、さらにインフラストラクチャーも建設した。満州への投資は1920年代までは鉱業と運輸が中心であり、やがて石炭や大豆の生産が増えて満州への移民や交易が増加した。 ===在華紡=== 第一次大戦後の国際競争の変化によって、中国の民族紡績業が発展して、日本は輸出用綿糸の主な市場だった中国を失う。代わりとして、第一次大戦中に資本を蓄積した日本の紡績会社は中国へ直接投資を始めて、紡績工場を経営する在華紡が増える。日本国内の賃金上昇と、女子と児童労働の深夜勤務禁止という労働環境の変化も直接投資を後押しした。1920年代に鐘淵紡績、東洋紡績、大日本紡績が上海と青島を中心に在華紡として進出をして、1925年(大正14年)には中国資本の50%以上に達した。しかし労働条件をめぐって労働争議が起き、在華紡の工員によるストライキが発端となって上海で五・三〇事件が起きた。 ===アヘン貿易=== 日本は植民地や占領地での資金調達のためにアヘン貿易を行った。きっかけは日清戦争後の台湾の領有である。台湾統治では財政赤字が予想されたために、内地と同じく薬用として専売する方針をとり、アヘン専売を提案した後藤新平は台湾の民政長官となった。明治29年度の台湾総督府の歳入668万円のうちアヘン収入は355万円であり、初期の台湾総督府の財政を支えた。台湾での成功によって、アヘン専売はその後の日本の植民地でも採用されるようになる。 日露戦争後には、満州をはじめとする財政基盤の弱い地域でケシの栽培やアヘン密売が拡大する。イギリスがアヘン貿易を減らす一方で日本が市場に参入して、ペルシアやトルコ産のアヘンを上海に密輸したり、モルヒネを世界各地から輸入して自由港の大連から関東州へ密輸した。アヘンの密輸には鈴木商店や昭和通商など日本の商社も関わった。やがてモルヒネ製造の国産が開始されて、日本政府や朝鮮総督府が原料のアヘンを払い下げて、日本の製薬会社がモルヒネを製造した。満州国は阿片法で専売をすすめ、満州国の一般会計の10%以上はアヘンからの税収となる。通貨価値が下落した占領地では、アヘンが通貨の代わりとなった。 ===世界恐慌=== 南京国民政府は中国の全国統一を果たすと不平等条約の改訂を宣言して、日清通商航海条約を廃棄し、日本の満蒙進出と対立する。当時の日本の政策としては、(1)植民地の放棄と貿易の振興、(2)金本位制への早期復帰と国際協調主義、(3)対外膨張と自立的な経済圏の構築などの選択肢があり、論争も行われた。中国との対立が深まるなかで世界恐慌が起き、日本は金輸出解禁を行なって金本位制に復帰するが、前年から続いていた世界恐慌の影響で昭和恐慌を招いてしまう。恐慌対策として、犬養毅内閣のもとで高橋是清蔵相が金本位制離脱と財政政策をとる。金本位制の離脱によって為替レートが低下して輸出が拡大し、財政支出の拡大により有効需要を追加して景気回復をとげた。上海事変の影響もあって、日系資本の労使対立は日中の国策とも結びついて激化する。自由貿易を支持する在華紡系の軽工業の資本家は、軍事進出を支持する満鉄系の重化学工業の資本家よりも劣位となった。 ===満州国=== 満蒙では、満州事変に続いて、傀儡政権である満州国が建国された。世界恐慌後に経済が停滞をしていた日本では満州への期待が高まる一方、満州では現地の中国人からの強制買収で農地を確保しており、日系官僚が計画経済を進めて日本への従属が進んだ。石油の生産や重化学工業化も進められ、満州の鉱工業をまとめるために満州重工業開発も設立されたが、満州国と中国の貿易は減少して、アメリカやイギリスの対日政策にも影響した。日本人以外による強制労働が1938年(昭和13年)以降には毎年250万人にのぼり、日本への穀物輸出は1936年(昭和11年)以降の合計で3662万トンに達したが、厳しい統制によって現地の農村では飢餓と物不足が深刻となった。 ===東南アジアの貿易摩擦=== 世界恐慌が起きると、東南アジア貿易ではイギリス、オランダ、アメリカ、日本のシェア争いが激しくなった。金輸出の再禁止によって日本が繊維製品のシェアを伸ばすが、貿易摩擦の原因にもなった。日本とイギリスは日英会商を開くが、イギリスは輸入割当を開始した。日本とオランダの日蘭会商では、日本代表団の声明が反感を呼んで頓挫する。フィリピンでは日本とアメリカの貿易摩擦となり、日米紳士協定によって対策が取られた。こうした経済摩擦は日本に対する悪感情を招き、満州事変も印象悪化に影響した。ダバオには東南アジア最大の日本人社会が形成され、フィリピン・コモンウェルスやアメリカは、日本の進出が満州に似ているとして警戒した。 ===統制経済と第二次世界大戦=== ====石油貿易と経済ブロック==== 軍事用途や海運にあてられる重要な資源として、石油があった。石油輸入の60%はライジングサン石油株式會社とスタンダード・バキューム・オイル(英語版)の2社だったが、満州事変後の日本は外国企業への依存を減らすために石油業法を制定する。満州では石油会社が設立されて欧米企業の排除が進み、イギリスとアメリカでは対日禁輸が提案されるようになる。盧溝橋事件後に日中戦争となり、日本は日満支経済ブロックを形成する。日本は天然資源を確保するために満州へ進出したが、資源不足は解消されず、軍需品のための外資も不足する。そのため、さらに石油やゴムなどの資源を産出する地域を求めるという悪循環に陥った。1930年代後半の日本の石油生産は国内消費の7%であり、90%以上をアメリカとオランダ領東インドから輸入していた。アメリカの門戸開放政策は当時の日本の政策と相入れないために、日米は対立する。 ===第二次世界大戦=== ドイツがベルギー、オランダ、フランスに進軍すると、日本はイギリスに亡命したオランダ政府に対して石油輸出の増加を要請する。さらに、日本は以前から国内で主張されていた南進論を政策として実施して、仏領インドシナを仏印進駐によって占領する。欧米の植民地への武力進出によってイギリスやアメリカとの対立が深まり、フランクリン・ルーズベルト政権は日本が製鉄原料として約50%をアメリカから輸入していた屑鉄の禁輸を行なった。続けてアメリカは日本の在米資産を凍結し、事実上の石油の禁輸となった。独ソ開戦とアメリカやイギリスの経済制裁によって貿易で資源を獲得する道が閉ざされて日本は計画経済を強め、太平洋戦争となった。1937年(昭和12年)から1944年(昭和19年)まで実質GNPはほぼ一定で経済成長が停止した。日本は19世紀末から1930年代まで貿易依存度は高水準にあったが、輸入に依存しない経済政策のために戦争末期には2%から3%まで低下した。 ==現代== ===戦後復興と貿易再開=== 1945年(昭和20年)8月の終戦時は、原材料の不足によって生産が低下しており、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が貿易を管理して日本は戦時下以上の自給自足体制におかれた。貿易は日本の貿易庁とGHQの仲介で行われた。輸出では貿易庁が日本の公定価格で買い上げた品をGHQに渡し、GHQが国際価格で海外にドルで売った。輸入ではGHQが国際価格のドルで購入した品を貿易庁に渡し、貿易庁が日本の業者に公定価格で売った。この方法では為替レートがなく、個々の取引ごとに円とドルの換算比率が決まっていた。そのため輸出と輸入の為替レートが異なり、事実上の輸入補助と輸出補助に相当する効果を国内業者に与え、国内価格を国際価格から分離していた。 対外取引を占領軍から日本政府へ移譲するために、外国為替及び外国貿易管理法(外為法)が公布された。外為法の作成は、GHQとIMFの関係者および日本政府委員の共同作業で行われ、主な目的は外国為替と外国貿易の管理だった。アメリカは外為法によって国際収支の均衡化を日本に求めたが、日本政府は輸入制限や外国技術の導入による国内産業の育成に活用した。外資については、日米合同審議会によって外資に関する法律(外資法)が作成された。目的は外資の導入促進であり、当時の先進国としては異例な外資の優遇措置を行った。これにより電力・鉄鋼業の外資借款や外国技術の導入が始まった。 ===アメリカの対日政策=== アメリカとソビエト連邦の対立によって、世界は東西陣営に分かれて冷戦となり、アメリカ国務省極東局は日本・アメリカ・東南アジアの三角貿易による日本の復興を提案した。この提案は、東南アジアが原料供給地となり、日本が製造した製品をアメリカ市場に輸出するというものであり、共産党が統一した中国に依存せずに日本が復興する方法として考えられた。ウィリアム・ヘンリー・ドレイパー・ジュニア陸軍次官の調査団が公表したジョンストン報告書では、日本の貿易拡大の必要、為替レートの正常化、民間への貿易の移行が提言された。 日本経済の安定のために、アメリカ政府は公使としてジョゼフ・ドッジを派遣する。ドッジは1949年度予算を黒字化し、4月に単一為替レートを設定した。このドッジラインによって輸出と輸入の為替レートは一致して財政収支が均衡したほか、問題になっていたヤミ価格と公定価格の差もなくなった。民間の輸出は再開されていたが、外為法では国外での経済取引は原則禁止で、許認可を受けた例外のみ認められた。1946年(昭和21年)の実質GNPは1944年の56%まで低下していたが、1950年(昭和25年)には実質GNPが戦前の水準まで回復し、朝鮮戦争にともなう朝鮮特需をへて1955年(昭和30年)には戦前の1.5倍となった。 ===朝鮮特需=== 朝鮮戦争によって、日本経済は1000億円から1500億円といわれる影響を受けた。輸出は戦争の2‐3ヶ月前から増加して、繊維品、鉄鋼、機械製品が中心となった。生産拡大は原料不足、輸入増、資金不足や価格上昇を起こしたものの、特需によって貿易は持続した。特需は1953年に8億320万ドル、1954年も6億ドルという大規模なもので、外貨収入のうち特需の割合は1951年に26.4%、1952年は36.8%、1953年は38.2%にのぼり、日本の外貨不足を補った。休戦後も朝鮮半島の対立によって特需が継続し、輸出や特需の関連産業では利潤率も上がった。利益を得た反面、特需に依存する日本の経済力の脆弱さも明らかとなり、日本政府と財界は重化学工業を貿易の中心とするための合理化投資を進める。1955年以降に活発となる外国技術の導入において、朝鮮戦争下で蓄積された外貨が用いられた。 ===国際機関への加盟と自由貿易=== ====国際通貨基金==== 第二次世界大戦の原因となった保護貿易に対する反省から、自由貿易を推進するための国際組織が求められるようになる。連合国通貨金融会議のブレトン・ウッズ協定によって国際通貨基金(IMF)が創設され、加盟国は自国の通貨をドルに対して平価を設定することになった。日本がIMFに加盟した際には、1ドル=360円のIMF平価が設定されて、上下1%の枠内で安定化させる義務を負った。この平価は、リチャード・ニクソン政権によるドルの金兌換停止(ニクソン・ショック)まで続く。 ===関税及び貿易に関する一般協定=== 公正な貿易のための国際貿易機構(ITO)も提案されたが断念され、関税及び貿易に関する一般協定(GATT)が発足して、日本も加盟する。当時の日本の主な輸出品は繊維品、主な輸入品は食料と繊維品の原料だった。日本の加盟にはアメリカの支援が影響していたが、日本の輸出の影響を懸念した国々はGATT35条によって最恵国待遇の義務を免除された。対日の35条の適用国が0になるのは、1992年(平成4年)までかかった。 GATTの多角的貿易交渉では、輸入自由化と関税率の引き下げが進んだ。東京ラウンドでは、工業製品の関税率が引き下げられたほか、非関税障壁についての交渉も含まれた。ウルグアイ・ラウンドでは農業問題や知的所有権について対立があり、日本はそれまで民間の輸入を事実上禁止していた米の輸入が自由化された。日本が輸入する農産物には高い関税率や関税割当制が適用された。 ===民間交流と貿易=== 戦後に国交が再開していない国家との間では、民間貿易が先行する場合があった。吉田茂内閣はサンフランシスコ講和条約を結び、ハリー・トルーマン政権は日本に対して中華人民共和国との国交を結ばないように求める。また、アメリカが主導する対共産圏輸出統制委員会(COCOM)や対中国輸出統制委員会(CHINCOM)によって共産圏との貿易が制限された。正常な国交がない日中間では、中国側は政府と人民を区別する「以民促官」の方針をとり、民間貿易による交流が再開された。第一次日中民間貿易協定が結ばれ、日中貿易の促進団体も設立された。第三次日中民間貿易協定の時代に交流は活発になり、中華人民共和国初の中国商品の見本市が東京と大阪で開催され、北京と上海で日本商品の見本市が開催された。 長崎国旗事件で日中は断交して貿易が減少するが、天津甘栗、生漆、漢方薬など代替の商品を求めることができない物は、配慮物資という扱いで日本へ運ばれた。中国は大躍進政策の失敗とソ連との関係悪化の影響もあり、貿易の方針を変更する。こうして周恩来首相の周四原則に基づいて日中の貿易も再開された。これは友好貿易と呼ばれ、中国政府の方針を受け入れた日本の商社が広州市で取り引きをした。さらに半官半民の貿易としてLT貿易も行われた。LTとは、中国共産党の知日派である廖承志と、周恩来との信頼関係にあった高碕達之助の頭文字に由来する。中国は石炭や鉄鉱石を輸出し、日本は鉄鋼、化学品、プラントなどの機械を輸出した。 ===技術導入と技術貿易=== 1950年代から外国からの技術導入が進み、特に1957年から1972年まで機械工業や化学工業を中心に急増した。技術導入は政府の産業育成策として進められ、外為法による外貨集中と外貨予算・外貨割当制が活用された。外為法による競合製品の輸入制限は、保護関税よりも有効であり、国産化を短期間で確立する役割を果たした。この外貨予算制度は日本がIMFの8条国に移行する1964年まで続いた。技術貿易における輸出額と輸入額の収支比率は、1970年度は0.14であり、1975年度には0.23、1985年度は0.30、1995年度は0.65と増加して2002年度には1.01で技術輸出額が上回った。 物流においては、コンテナの導入が大きな影響を与えた。1961年(昭和36年)に国際標準化機構(ISO)によってコンテナの国際規格が決定し、日本でもコンテナの利用によるインターモーダル輸送が普及する。日本とアメリカ西海岸の間のコンテナ船は積載率が高く、ベトナム戦争によって後押しされた。シーランド社(英語版)のコンテナ船はベトナム戦争の物資を輸送してから日本に寄港し、日本からの輸出製品をアメリカへと運んだ。 ===高度成長期と貿易=== ====ベトナム戦争==== アメリカのベトナム共和国(南ベトナム)への介入によって勃発したベトナム戦争は、結果的に日本の経済成長と関連した。1964年頃からの輸出拡大はベトナムの周辺地域とアメリカに向けてのものであり、1966年には輸出増加額のうち80%近くはベトナム周辺とアメリカ向けとなった。日本はベトナム周辺地域に機械機器と鉄鋼を中心に輸出し、ベトナム周辺地域では1960年代後半に対日貿易収支で大幅赤字があったが、日本からの輸入を継続できたのはアメリカの対外軍事支出による。加えてベトナム周辺地域は日本から輸入した工業製品や金属製品によって工業化を進めて、のちの新興工業経済地域の発展の一因にもなった。日本の重化学工業企業は、ベトナム戦争拡大の見通しによって大型化の設備投資を行った。鉄鋼業における高炉の大型化、電力業における火力発電設備の大型化、造船業における大型ドック、石油精製業における巨大プラント、自動車産業における大衆車の量産などがこの時期に進められた。 ===大量生産の確立と輸出産業=== 鉄鋼業においては、日本はそれまでの平炉からヨーロッパで開発された転炉へと転換して生産を伸ばした。これによって平炉を続けるアメリカの30%ほどのコスト安を達成して、低価格で良質の鉄鋼を輸出しつつ、鉱物資源では鉄鉱石、石炭、コークスを輸出した。カメラやTV、オーディオなどの家電製品は1960年代から高く評価された。自動車産業においては、1970年代に排出ガスや騒音の最も厳しい規制基準を満たすようになり、ロボットの導入を進めて品質を安定させた。第一次オイルショックによる原油価格の上昇も、日本製の小型車の輸出を後押しして、1980年には年間1000万台を生産して自動車製造国で世界第1位となった。 ===黒字基調と輸出入=== 日本の通貨である円は、戦後復興期の貿易の決済では輸出入ともに1%以下のみ使われていた。そのため好景気により輸入が増えると、輸入に必要な外貨が不足するので経常収支の赤字を続けることができない。政府は経常収支の均衡の維持を目的に、経常収支が赤字になると金利を引き上げて輸入を抑制する金融政策をとった。そのため、神武景気や岩戸景気でも金利を引き上げて好景気は終息した。1960年代の後半からは貿易収支が黒字基調になり、戦後最長の景気拡大期間であるいざなぎ景気をへて、貿易収支のための金利の引き上げは終了した。黒字基調になった原因としては、世界的な貿易自由化や関税率の引き下げと、金属製品や機械に対する輸入需要の高まり、日本の輸出品の国際競争力の向上がある。日本は需要に対応した輸出を行っており、所得水準が上昇しても輸入依存度は停滞していた点も影響した。 ===貿易摩擦=== ブレトン・ウッズ体制のもとで、アメリカを中心とする西側諸国の貿易は1960年代まで安定して発展した。しかし、国際競争が激しくなるにつれてアメリカの主要産業はシェアが低下して外交問題になった。 ===アメリカとの貿易摩擦=== 日本の輸出額が大きい国との間で貿易摩擦が起き、特にアメリカとの日米貿易摩擦が増加した。1950年代には繊維、1960年代には鉄鋼や家電、1970年代には工作機械、1980年代には自動車や半導体が問題となった。日本は輸出自主規制(英語版)、アメリカは輸入割当で対応して、繊維や鉄鋼の対米輸出自主規制、最低価格輸入制度、自動車の輸出自主規制、工作機械の輸出自主規制、アメリカの国別輸入割当が実施された。日本の輸入に関しては、1970年代の牛肉やオレンジ、1980年代の半導体、米、スーパーコンピュータ、1990年代のフィルム・印画紙などが問題とされた。 ===中国との貿易摩擦=== 中国では*11078*小平の改革開放政策により、それまで国営企業に独占されていた貿易に新規参入が可能となり、輸出入割当や許可制度による貿易の管理が始まった。日中長期貿易が取り決められ、中国は一次産品を輸出し、日本は工業製品を輸出した。深*11079*、珠海、汕頭、厦門には経済特区が設置されて、加工貿易や海外直接投資が解禁される。1980年代半ばに日本の貿易黒字が拡大して、中国は自動車や家電製品の輸入抑制とともに貿易不均衡の是正を求める。日本は中国からの輸入拡大によって対応し、1986年(昭和61年)から大手商社は輸入拡大と中国の工業製品の品質や開発をサポートした。日中間の主力産業が競合していなかったため、1990年代に中国の工業製品を日本が輸入するまで深刻な対立は起きなかった。 ===円高と長期停滞=== ====プラザ合意と円高==== アメリカの貿易赤字が拡大する一方で日本は貿易黒字が拡大しており、日米の貿易不均衡が問題と見なされた。貿易不均衡の解決のためにニューヨークのプラザホテルで開催された先進5カ国(G5)の蔵相・中央銀行総裁会議では、円高・ドル安を誘導するプラザ合意がなされた。この合意によってアメリカは輸入の抑制と輸出の促進が進むと考えられたが、アメリカの対日赤字は続き、日米構造協議も行われた。日本は輸出の自主規制も行っていたが、GATTを継承して発足した世界貿易機関(WTO)では輸出の自主規制が禁止された。 ===長期停滞と輸出入=== プラザ合意以降も円高は続いたが、同時期に原油価格が低下して交易条件が改善されたため、輸出産業の収益悪化にはつながらなかった。しかし、円高不況を避けるための財政・金融政策によって土地や株式の資産価格が高騰して、バブル景気に入る。好況は1986年(昭和61年)11月から1991年(平成3年)2月まで続いたのちに、バブル崩壊となった。1992年(平成4年)から1995年にかけては輸出産業の採算は悪化して外国への直接投資が増加して、輸入財を扱う輸入競合産業も悪化した。2002年(平成14年)から2008年(平成20年)にかけて原油価格の上昇が進んで交易条件が悪化し、為替レートは下落し、輸出産業の収益は改善する。2008年にリーマン・ショックが起きると為替レートの上昇と交易条件の悪化が並行して、輸出産業の収益性は悪化した。長期的には国際競争力の悪化につながり、長期停滞は失われた20年とも呼ばれる。 ===直接投資と産業内貿易=== 東アジアにおいては、直接投資の受入先が新興工業経済地域(NIEs)へと移行していった。1980年代前半はアジア四小龍とも呼ばれた韓国、香港、台湾、シンガポールが主な受入先となった。プラザ合意以降、日本やNIEsでは自国通貨の切り上げが問題になり、1980年代後半は東南アジア諸国連合(ASEAN)の国々が受入先となり、1990年代になると中国が注目され、続いてベトナム、ミャンマーへと関心が移った。 こうして水平貿易とも呼ばれる構造が東アジア内で進んだ。水平貿易のパターンとしては、(1)異業種間の工業製品の相互貿易、(2)同一業種内の製品分業、(3)同一製品の生産プロセスにおける工程間分業がある。工程間分業によって生産工程や品質の分業が可能となり、国外の現地企業や日系企業から部品などの中間財を輸入して、国内で製品を完成して最終製品を輸出する産業内貿易が進んだ。 中国が2001年(平成13年)にWTOに加盟すると、日本から中間財を輸入して最終製品をアメリカやEUへ輸出することが増えた。一方日本では欧米への最終財の輸出が減り、中国への中間財の輸出が増えた。「世界の工場」とも呼ばれる中国の工業化と国際分業の進展によって、産業の空洞化が問題とされた。 上記のような経営や現象はオフショアリングやフラグメンテーションとも呼ばれる。分業が緊密になる中で、2011年の東日本大震災の被害は国外にも及んだ。日本の被災によって外国の最終製品の生産も滞るため、特に電子機器や自動車産業において操業停止や輸出減少が発生した。代わりに素材産業を中心として海外での調達が盛んになり、アジア地域からの調達が特に増加した。 ===貿易と自然環境=== 再生産コストを度外視する形での資源輸出は、環境破壊に結びつく場合がある。フィリピンは、1950年代には国土の75%が森林だった。しかし日本向け木材の輸出が60年代から毎年1000万立方メートル以上行われて、1980年代末には25%に低下している。マレーシアも有数の日本向け木材輸出国で、ボルネオ島を中心に伐採が行われている。環境保護運動が起きる一方で、アメリカ、EU、オーストラリアではマレーシア産木材の不買運動も起きた。マングローブがある台湾、インドネシア、タイ、ベトナムなどでは輸出用のエビを養殖するために伐採が進み、飼料や肥料によって養殖池の周辺環境が汚染される問題も起きた。 環境破壊に関連して、有害な廃棄物や稀少な動植物の取引に対する貿易協定がある。バーゼル条約やワシントン条約はこうした貿易取引を規制しており、日本では1980年にワシントン条約を締約し、1992年にバーゼル法を施行した。 ===貿易構造の変化=== ====日本の貿易の地域別構成(単位は%)==== 日本の貿易の地域別構成はアジアの比重が高まった。アジア全体のシェアは1990年の輸出30.9%、輸入29.1%から、2009年には輸出54.2%、輸入44.6%となった。中でも中国のシェアの増加がもっとも多く、1990年の輸出2.2%、輸入5.3%から2009年には輸出18.9%、輸入22.2%となっている。 ===繊維=== 第二次大戦前の日本における最大の輸出産業だった繊維産業は戦後も活発で、1950年代までは輸出総額の30%が繊維品だった。やがて輸出品は東南アジアやNIEsの綿製品との競合を避けて1970年代から合成繊維へと移り、アパレル産業が成長する。しかし、インフレや石油ショックによって輸出が減少し、プラザ合意以降はNIEs産の衣料品の輸入が急増して、日本の繊維産業は輸入産業化が進んだ。 ===食料=== 敗戦直後の食糧危機に対して、アメリカからの過剰農産物を中心とする対日援助が輸入された。1950年代の日本では米の輸入が大量に行われていたが、農地改革で農業生産が増加して米の自給が可能となる。これによって貿易収支の赤字が減少し、技術や機械の導入に使える外貨が増加して、1955年以降の重化学工業の発展につながった。一方で同時期には小麦がアメリカからの輸入に依存する体制となり、パン食が普及した。 日本政府は重化学工業の輸出競争力を強化する反面、農産物の輸入を進めた。小麦、トウモロコシ、大豆などの食料品の輸入が急増し、米や果実の一部を除いて食料自給率は低下した。1980年から2005年までにかけて、食料の輸入金額は3,44倍となった。輸入品目は1980年の1位トウモロコシ、2位小麦など穀類が上位20位のうち4品目あった。それ以降は穀類が減って動物性蛋白質食品が増加する、エビ、マグロ、タラ、サケなどの魚介類や牛肉や豚肉など肉類が増えた他に、犬・猫用の飼料も急増して2000年以降は20位内に入っている。 ===地域経済協力と貿易協定=== ====アジア太平洋経済協力==== 1960年代にヨーロッパでは欧州経済共同体(EEC)が設立され、日本では小島清が太平洋自由貿易地域構想を提唱した。1980年代にNIEsやASEANが成長をして東アジアの相互依存が高まると、地域経済協力を進めるために1989年にはアジア太平洋経済協力(APEC)が設立され、閣僚会議がキャンベラで開催された。設立時の参加国はASEANに加えて日本、韓国、アメリカ、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドの計12カ国となり、のちの1991年に中国、台湾、香港が加わり、現在では21カ国・地域となっている。1994年のボゴールでの首脳会議では、APECの目的を(1)貿易と投資の自由化、(2)製品基準や通関の円滑化、(3)経済協力と決定して、ボゴール目標が掲げられた。ヨーロッパのEUや北米のNAFTAと比較すると、APECはオープンな協議体であり、依拠する条約や協定がなく、共通目標の数値化や強制が存在しない。 ===自由貿易協定=== WTOが発足した一方、世界各地で自由貿易協定(FTA)や地域貿易協定(RTA)が締結されるようになる。地域貿易協定はWTOの最恵国待遇の原則に反しているが、日本もWTO重視から地域貿易協定の締結へと貿易政策を転換する。日本政府は自由貿易協定を経済連携協定(EPA)と呼んでいるが、WTOの分類においてはFTAに含まれる。日本は2002年(平成14年)にシンガポールと最初に自由貿易協定を結び、2005年(平成17年)にメキシコ、2006年(平成18年)にマレーシアと増えてゆき、2012年(平成24年)までに13の国や地域との自由貿易協定が発効した。 2006年(平成18年)には、シンガポール・ブルネイ・チリ・ニュージーランドの4か国によって環太平洋パートナーシップ協定(TPP)の原協定が発効した。日本はアメリカの参加表明を契機として2011年(平成22年)に関係国との協議開始を表明した。日本がTPPに参加した場合の経済効果については、2010年に内閣府、経済産業省、農林水産省が試算を行い、それぞれ異なる結果を出した。内閣府はGTAPモデルにもとづいて試算し、実質GDPの伸び率を0.48%から0.65%とした。経済産業省は基幹産業についての損失を試算し、TPP不参加の場合にはGDPが1.53%減少し、雇用が81.2万人減少するとした。農林水産省は主要な農作物19品目の関税を撤廃した影響を試算し、農産物の生産が4兆1000億円減少し、実質GDPが1.6%減少するとしている。 ==年表== 57年(垂仁天皇86年、後漢 : 建武中元2年) ‐ 倭奴国が後漢から金印を授与される。107年(後漢:永初元年) ‐ 倭国王帥升らが後漢の安帝へ朝貢して生口160人を送る。238年(神功皇后摂政38年、魏 : 景初2年)12月 ‐ 邪馬台国の卑弥呼、難升米らを魏に派遣。魏から親魏倭王に任じられ、仮の金印と銅鏡100枚を与えられる。248年(魏:正始4年) ‐ 台与が魏に朝貢して生口30人や勾玉を送る。3世紀中頃 ‐ 三角縁神獣鏡が流通。5世紀 ‐ 倭の五王が宋へ使節を派遣し、中国への朝貢を再開。570年(欽明天皇31年、高句麗 : 平原王14年) ‐ 高句麗から使者が来航。600年(推古天皇8年、隋 : 開皇20年) ‐ 第1回遣隋使を派遣。616年(推古天皇24年) ‐ 掖久人が入貢。630年(舒明天皇2年、唐 : 貞観4年) ‐ 第一次遣唐使を派遣。659年(斉明5年、唐 : 顕慶4年) ‐ 遣唐使で日本側が蝦夷を帯同。664年(天智天皇3年) ‐ 太宰府と筑紫鴻臚館の設置。668年(天智天皇7年) ‐ 統一新羅へ遣新羅使を派遣。670年(天智天皇9年) ‐ 白村江の戦いの影響により遣唐使が701年まで中断。679年(天武天皇8年) ‐ 遣耽羅使を派遣。701年(大宝元年) ‐ 大宝令施行、大宝律令完成。律令法で国際関係や貿易に関して規定される。727年(神亀4年) ‐ 渤海使が到着。728年(神亀5年) ‐ 遣渤海使を派遣。838年(承和5年、唐 : 開成3年) ‐ 最後の遣唐使。863年(貞観5年、唐 : 咸通14年) ‐ 唐物使を派遣。874年(貞観16年、唐 : 咸通15年) ‐ 入唐使を派遣。894年(寛平6年、唐 : 乾寧元年) ‐ 菅原道真の建議により、遣唐使が廃止。1161年(応保元年) ‐ 平清盛が日本初の人工港として袖の湊を博多湾に建設。1162年(応保2年) ‐ 平清盛が大輪田泊を改修。14世紀 ‐ 鎌倉幕府による寺社造営料唐船派遣。1371年(南朝 : 建徳2年、北朝 : 応安4年、明 : 洪武4年) ‐ 明が海禁令を発布。1371年(南朝 : 建徳2年、北朝 : 応安4年) ‐ 琉球王国が明に朝貢。1389年(元中6年) ‐ 琉球が高麗に朝貢。1401年(応永8年、明 : 建文3年) ‐ 足利幕府が明に朝貢。遣明船開始。1419年(応永26年、李氏朝鮮 : 世宗元年) ‐ 応永の外寇。1451年(宝徳3年、明 : 景泰2年) ‐ 遣明船が史上最多の10艘。1523年(大永3年、明 : 嘉靖2年) ‐ 明で寧波の乱が起き、1536年まで遣明船が中断する。1526年(大永6年) ‐ 石見銀山の再開発。1533年(天文2年) ‐ 博多商人の神屋寿禎が技術者を石見に案内。灰吹法の伝来。1543年(天文12年) ‐ ポルトガル人が種子島に漂着。1547年(日本:天文16年、明 : 嘉靖26年) ‐ 最後の遣明船。1550年(天文19年)または1551年(天文20年) ‐ 蠣崎氏がアイヌと夷狄の商舶往還の法度を制定。年代は特定されていない。1551年(天文20年) ‐ 大内氏が滅亡し、公式の勘合貿易が断絶。1561年(永禄4年) ‐ ポルトガルに貿易許可。平戸ポルトガル商館を建設。1567年(永禄10年、明 : 隆慶元年) ‐ 明が海禁を解除。1570年(永禄13年) ‐ ポルトガルが長崎・マカオ間の定期航路を開設。1570年(永禄13年) ‐ ポルトガルが奴隷貿易の禁止令。1584年(天正12年) ‐ スペイン船が太平洋航路から平戸に来航。平戸スペイン商館を建設。1592年(天正20年) ‐ 朱印船貿易が開始。1598年(慶長3年) ‐ イエズス会が奴隷貿易をする者の破門令。1600年(慶長5年) ‐ オランダのリーフデ号が日本に漂着。マニラからのスペイン船の来航が年に約1隻ペースとなる。1604年(慶長9年) ‐ 長崎で糸割符制度を開始。1604年(慶長9年) ‐ 松前藩が家康からアイヌ交易の独占権を得る。1609年(慶長14年、李氏朝鮮 : 光海君元年) ‐ 己酉約条により、日朝貿易が再開。1609年(慶長14年) ‐ オランダに貿易許可。平戸にオランダ商館を設置。オランダ東インド会社が緑茶を輸出。1613年(慶長18年) ‐ イギリスのクローブ号が来航。平戸にイギリス商館を設置。1613年(慶長18年) ‐ 仙台藩が慶長遣欧使節を派遣。1616年(元和2年) ‐ 江戸幕府は貿易や出入国の管理と統制を強化。1634年(寛永11年) ‐ 江戸幕府が出島を建設。1635年(寛永12年) ‐ 朱印船貿易が終了。1639年(寛永16年) ‐ 鎖国令。1641年(寛永18年) ‐ オランダ商館が平戸から出島に移転。1655年(明暦元年) ‐ 長崎で糸割符制度が廃止。相対貿易法を開始。1659年(万治2年) ‐ 貿易用の長崎貿易銭を発行。1660年(万治3年)‐ 伊万里焼の輸出が開始。1661年(万治4年、清 : 順治18年)‐ 清による遷界令。1672年(寛文12年) ‐ 江戸幕府による市法貿易法開始。1678年(延宝6年、李氏朝鮮 : 粛宗4年) ‐ 朝鮮が草梁倭館を建設。1685年(貞享2年) ‐ 江戸幕府による定高貿易法開始。1688年(貞享5年、清 : 康熙27年) ‐ 長崎に中国人居住地として唐人屋敷を建設。1698年(元禄11年) ‐ 長崎会所設置。1710年(宝永7年、李氏朝鮮 : 粛宗36年) ‐ 人参代往古銀発行。1715年(正徳5年) ‐ 江戸幕府による海舶互市新例で貿易量を制限。1854年(嘉永7年) ‐ 日米和親条約。1858年(安政5年) ‐ 日米修好通商条約。五港を開港。1860年(万延元年) ‐ 金の流出の影響により万延小判を発行。1869年(明治2年) ‐ 明治政府が通商司を設置。為替会社と通商会社を設立。1872年(明治5年) ‐ マリア・ルス号事件。1874年(明治7年) ‐ 先収会社設立。のちの三井物産。1876年(明治9年、李氏朝鮮 : 高宗12年) ‐ 日朝修好条規。広業商会設立。1883年(明治16年、李氏朝鮮 : 高宗20年) ‐ 日朝通商章程。1894年(明治27年) ‐ 日英通商航海条約。1896年(明治29年)3月 ‐ 造船奨励法、航海奨励法。1896年(明治29年、清 : 光緒21年)7月 ‐ 日清追加通商航海条約。1897年(明治30年) ‐ 金本位制に移行。1911年(明治44年)‐ 日米通商航海条約改正により関税自主権を完全回復。1915年(大正4年)1月 ‐ 南洋協会設立。南進論の中心となる。1917年(大正6年) ‐ 金本位制を離脱。1929年(昭和4年) ‐ 世界恐慌。1930年(昭和5年)1月 ‐ 金輸出解禁を行なって金本位制に復帰。昭和恐慌となる。1931年(昭和6年) ‐ 高橋財政による恐慌対策。1934年(昭和9年) ‐ 石油業法。1940年(昭和15年)9月 ‐ アメリカによる日本への屑鉄禁輸。1941年(昭和16年)7月 ‐ アメリカによる日本の在米資産凍結。1945年(昭和20年) ‐ ブレトン・ウッズ協定発効。1945年(昭和20年)12月 ‐ 貿易庁設置。1947年(昭和22年)8月 ‐ 民間の輸出が再開。1949年(昭和24年)12月 ‐ 外国為替及び外国貿易管理法。1950年(昭和25年)5月 ‐ 外資に関する法律(外資法)。1950年(昭和25年)6月 ‐ 朝鮮戦争。これに付随して朝鮮特需。1952年(昭和27年)8月 ‐ 国際通貨基金(IMF)に加盟。1952年(昭和27年) ‐ 第1次日中民間貿易協定。1954年(昭和29年) ‐ 神武景気。1955年(昭和30年)9月 ‐ 関税及び貿易に関する一般協定(GATT)に日本が加盟。1955年(昭和30年) ‐ 中華人民共和国初の中国商品の見本市が東京と大阪で開催。1956年(昭和31年) ‐ 北京と上海で日本商品の見本市が開催。1966年(昭和41年) ‐ 繊維や鉄鋼の対米輸出自主規制。1973年(昭和48年)9月 ‐ GATTの東京ラウンド開始。1973年(昭和48年)10月 ‐ 第一次オイルショック。1978年(昭和53年) ‐ 日中長期貿易を決定。1980年(昭和55年) ‐ ワシントン条約を締約。1981年(昭和56年) ‐ 自動車の輸出自主規制。1985年(昭和60年) ‐ プラザ合意。1985年(昭和60年) ‐ 日米スパコン貿易摩擦。1986年(昭和61年) ‐ GATTのウルグアイ・ラウンド開始。工作機械の輸出自主規制。1989年(昭和64年) ‐ 日米構造協議開始。1991年(平成3年)2月 ‐ バブル景気終了。1992年(平成4年) ‐ バーゼル法を施行。1993年(平成5年) ‐ 1993年米騒動。1994年(平成6年) ‐ アメリカがスーパー301条を復活。1995年(平成7年) ‐ 世界貿易機関(WTO)発足。2001年(平成13年) ‐ WTOのドーハ開発ラウンド開始。2002年(平成14年) ‐ 最初の自由貿易協定をシンガポールと締結。2005年(平成17年) ‐ 通常兵器の輸出管理であるワッセナー・アレンジメントに参加。2006年(平成18年) ‐ 環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)の原協定が発効。 =田中舘愛橘= 田中舘 愛橘(たなかだて あいきつ、安政3年9月18日(1856年10月16日) ‐ 昭和27年(1952年)5月21日)は、日本の地球物理学者。東京帝国大学名誉教授、帝国学士院会員、文化勲章受章者。 ==来歴== ===生い立ち=== 安政3年、陸奥国二戸郡福岡(現在の岩手県二戸市)の南部藩士の父・稲蔵(とうぞう)と呑香稲荷神社の娘である母・喜勢(きせ・旧姓 小保内)の長男として生まれた。田中舘家は父祖から藩の兵法師範を勤めていた家系で、愛橘の曾祖母は「南部の赤穂浪士」ともてはやされた相馬大作(下斗米秀之進)の実姉にあたる。文久2年(1862年)、6歳の時に母・喜勢が病没、愛橘は泣きしきって過ごした。9歳の頃、下斗米軍七の武芸「実用流」に入門、翌年に福岡内に郷学校の令斉場が開校されるとそこで文武を修め、また、私学校の会輔社で学んだ。この頃の愛橘はわんぱくなガキ大将であったという。明治維新で両校が廃止されると、明治2年(1869年)に心ならずも盛岡に移り、南部藩の藩校 作人館修文所に通い和漢の書を修めた。修文所の同窓には原敬と佐藤昌介が、後輩には新渡戸稲造がいた。 ===上京=== 明治5年(1872年)、帰農していた父・稲蔵は愛橘と弟の甲子郎の教育の為、土地や家などを売り払い一家を引き連れて東京の三田へ移住する。移動は徒歩や船での行程で、1か月半ほどを費やしての上京となった。同年9月、愛橘は慶應義塾に入学して英語を学んだ。翌明治6年(1873年)3月に福澤諭吉が義塾の学科を本来の学問を学ぶ「正則」と間に合わせの学問を学ぶ「変則」に分け、慶應義塾の正則は高額な月謝となった。愛橘は正則を選択するが、月謝3円は稲蔵にとって過大な負担となり、愛橘は9か月学んだだけで退学することとなった。愛橘は次の進路を官費入学が可能な工部大学校とした時期もあったが、「物を作る為の学問はくだらない」と考えを改めた。思案の末、安価な月謝の東京開成学校への予備教育課程として位置づけられた東京英語学校に進んだ。同校では肥田昭作から理学思想を教授され、このことが後年の理学を志す契機となったという。また、英国人英語教師フェントン(英語版)と行動を共にした。明治9年(1876年)9月に官立東京開成学校予科3級生へと進む。ここでは山川健次郎から物理学を学んでいる。愛橘はいまだ政治に関心を持ち進路を悩んでいたが、山川は「日本で遅れている理学の方を勉強せよ」と諭した。 ===東京大学と留学=== 明治11年(1878年)9月、前年に東京開成学校が改編され、新たに発足したばかりの東京大学理学部本科(のち帝国大学理科大学)に入学した。 在学中は主任教授となった山川から引き続き物理学を学び、菊池大麓からは数学を学んだ。また、ユーイング(英語版)からは数学、天文学、物理学、物理学実験、地磁気の観測を、メンデンホールからは力学、熱力学を学んだ。これらの恩師との出会いは愛橘に多大な影響を与えた。明治12年(1879年)にメンデンホールとユーイングによってエジソンのフォノグラフが日本に紹介された際には、その試作を行い音響や振動の解析を試みている。明治13年(1880年)にはメンデンホールによる東京と富士山で実施された重力測定に従事した。翌明治14年(1881年)の夏から明治15年(1882年)にかけて札幌、鹿児島、沖縄、小笠原諸島へ出向いて地磁気を観測した。明治15年7月に東京大学理学部を第1期生として卒業、東京大学準助教授に就任する。 同年9月に長岡半太郎が東京大学へ入学する。長岡は愛橘が使用していた寄宿舎に同室し、生活を共にした。明治16年(1883年)にユーイングが帰国した後は、後任のノット(英語版)からも地磁気の指導を受けた。愛橘はこの年にクモの糸を用いた電磁方位計(エレクトロマグネチック方位計)を考案している。この方位計は従来の観測機器よりも時間をかけずに計測することが出来た。また、その論文は日本の学会報告書やロンドン王立協会誌においても掲載され、当時の世界で最も精度の高い方位計であると称えられたという。同年12月、福岡に帰っていた父・稲蔵の割腹自殺の報を受けて帰郷、同27日に東京大学助教授に就任する。 明治20年(1887年)の6月から10月にかけてノットの提案で全国地磁気測定が実施され、愛橘は日本の南半及び朝鮮半島南部の31箇所で観測を行った。明治21年(1888年)1月、文部省より電気学及び磁気学修養として、イギリスのグラスゴー大学への留学を命ぜられる。グラスゴー大学ではユーイングの旧師であったケルビン卿に師事した。ケルビンから多大な影響を受けた愛橘は生涯に亘ってケルビンを尊敬した。明治23年(1890年)3月頃にヘルムホルツが教鞭を執っていたベルリン大学へ転学、ここでは1年間に亘り電気学などを学んだ。明治24年(1891年)7月にアメリカ経由で帰国、7月22日付けで東京帝国大学理科大学教授に就任し、翌月に理学博士の学位が授与された。 ===大学教授期の活動=== 日本に帰った愛橘は山川の任命により、教授職の傍ら翻訳委員として物理学教科書の翻訳に取り組んだ。また、一般人のための通俗科学講演を開催し、ケルビンの教えの流布に努めた。 ===濃尾地震の調査=== 明治24年10月に濃尾地震が発生する。大学の命によりこの地震の激震地域の地磁気調査が任され、愛橘は現地へ赴いた。激震地域の近傍には明治20年の全国地磁気測定の際の測定点が有り、今回の調査は同地点での再測量によるデータ比較を意図したものであった。この調査では地震前後の地磁気の変化が推定された。また、岐阜県の根尾谷断層を発見して世界に向けて発表し、反響を巻き起こした。この調査経験を機に地震被害の軽減を目的とした観点から、地震研究の必要性を訴え、菊池大麓理科大学長と共に帝国議会へ建議案を提示した。12月から翌明治25年(1892年)1月にかけて長岡らと共に中部地方の磁気再測量を実施した。愛橘らはこれらの調査結果から、地震活動に伴い磁場が変化した可能性が高いと発表した。同年には文部省内に震災予防調査会が設置され、7月に愛橘は委員となり、以降の地震や火山活動の発生に際して調査や視察に参加して職責を果たした。また、明治33年(1900年)頃には等倍の強震計を制作している。この地震計は中央気象台などで試験的に使用された。明治36年(1903年)にはフランスのストラスブールで行われた万国地震学会議設立委員会に列席、副議長を務めた。 ===地磁気測定と各観測所の設置=== 震災予防調査会では愛橘らの地磁気調査を受けて、地震予知には地磁気の測定が必要不可欠なものという施策が打ち出され重要視された。これにより同調査会では地磁気の研究も活発に行われることとなった。明治26年(1893年)から明治29年(1896年)にかけて同調査会による日本全国の地磁気調査が実施される。この調査は愛橘が中心となって進められた。調査地は富士山及び浅間山近傍、フォッサマグナ沿線地域、北海道、本州北部、西日本、中国、九州に及んだ。この全国地磁気測量の結果は、明治37年(1904年)に英文で発表された。更に愛橘は調査会において地磁気の時間変動による観測を提案した。これによりフランスからマスカール式自記磁力計を4台購入することとなる。明治26年から明治30年(1897年)にかけて名古屋(愛知県尋常師範学校内に設置、愛知県名古屋測候所に観測委託)と仙台(第二高等中学校)に恒温観測室が設けられ、この磁力計を用いた連続観測が始められた。後に、根室(根室測候所)と熊本(第五高等学校)においてもマスカール式自記磁力計による観測が開始された。 明治27年(1894年)3月、万国測地学協会の委員に任命された。国際観測事業として世界の北緯39度8分地点の6箇所に観測所が設置されることとなり、日本がそのうちの一つに選ばれる。愛橘は調査のうえ岩手県水沢の地を選定し、明治32年(1899年)9月に緯度観測所(現在の国立天文台 水沢VLBI観測所)として設立された。所長には教え子の木村栄が就任した。 明治35年(1902年)、「地球磁力の国際同時特別観測」が国際的に実施された際には、愛橘と長岡の主導により京都市上賀茂に臨時の観測所が設けられ、名古屋よりマスカール式自記磁力計を移設して1年間に亘る観測が行われた。明治37年1月、上賀茂臨時地磁気観測所は震災予防調査会によって洛北上賀茂地磁気観測所として正式に設置された。前年にデンマークのコペンハーゲンで開催された万国測地学協会 第14回総会では、地磁気脈動(geomagnetic pulsation)や磁気嵐(magnetic storm)の急始(sudden commencement)が問題となっており、愛橘は洛北上賀茂地磁気観測所に於いてこれらの観測を目指した。観測はマスカール式磁力計の早廻しにより行われたが、マスカール式磁力計の感度の不足や長すぎた時定数の設定などにより、この観測は失敗に終わった。明治43年(1910年)、マスカール式磁力計の不備を補うべく連続早廻し自記磁力計を製作する。愛橘はこの磁力計を三浦半島の三崎油壷にある東京帝国大学理科大学の臨海実験所の近くに設置する。この磁力計の設置により、日本初となる短周期の地磁気変動の観測がもたらされた。大正3年(1914年)4月には文部省測地学委員会の委員長に就任した。 ===軍用研究及び航空研究=== 過去の調査・研究との関わりから軍部との関係も深まり、明治37年の日露戦争開戦期からは愛橘と陸海軍との共同調査・研究がより緊密となった。日露戦争期の愛橘は海軍水路部が担当した地磁気測量で、初頭からその指導の中心的な役割を果たした。また陸軍からは、旅順攻囲戦時に敵情視察の為の繋留気球の制作を依頼される。これが愛橘と航空研究の出会いとなった。愛橘は中野の陸軍電信隊内に新たに設置された気球班で気球研究を始め、陸軍砲工学校教官を兼務していた藤沢利喜太郎を経て制作および運用法を指導した。気球の制作は難航するが試行錯誤の末に完成させ、その気球は旅順戦で使用された。この功績により従軍記章、勲章と賞金が下賜された。 明治39年(1906年)9月に帝国学士院会員となる。明治40年(1907年)8月にパリで開かれた国際度量衡総会に出席する。この場でフランスはラ・パトリーと名付けた飛行船を会場の上に飛行させ、それを見た愛橘は衝撃を受けた。また、英国の研究者から航空力学の本が愛橘に寄贈された。これらにより愛橘は航空研究を一層深めることとなった。会議後の愛橘は国際会議に参加するたびに欧州各国の航空研究事情を調べて回り、航空条約会議に出席するなどして情報の収集に努めた。翌明治41年(1908年)、帰国した愛橘は日本で初となる風洞を大学の研究室に作成した。この風洞には長持が用いられた。愛橘は長持の2か所に穴を開け一方の穴から他方の穴へ向けて風を送り、中に模型を吊るして長持の側面に設けたガラス窓からその様子を観測した。 明治42年(1909年)7月、航空研究に関心を持つ陸海軍が田中舘の研究室を訪問したことが契機となり、陸海軍の共同で臨時軍用気球研究会が創設される。研究会に招請を受けた愛橘は委員となって関与し、飛行機の買い付けの為欧州を巡った。この頃、陸軍から助成費を受けてプロペラによる気流攪乱の研究を行っている。同年12月、駐日フランス大使館附武官のル・プリウール(フランス語版)、相原四郎海軍大尉によるグライダー製作に協力、同機は上野の不忍池畔で有人飛行に成功し、動力がないとはいえ日本で最初の近代的航空機となった。臨時軍用気球研究会は研究施設として飛行場用地の獲得を求めた。愛橘はこの為の調査を行い複数の候補地の中から埼玉県の所沢町を選出して薦めた。これにより明治43年(1910年)4月に臨時軍用気球研究会所沢試験場が開設された。これが日本で最初の飛行場である。同月には航空事業を視察するため欧州への出張を命ぜられている。 大正4年(1915年)、貴族院の有志に対して航空機の発達及び研究状況を講演し、11月には『航空機講話』を発行して世間の人々に対しても知見の流布に努めた。 ===60歳の教授辞職=== 大正5年(1916年)10月7日、東京の小石川植物園で各界の著名人300人を招いた『教授在職25周年祝賀会』が盛大に営まれた。寺田寅彦は三崎油壷で愛橘の作った磁力計により観測された地磁気脈動を解析し、この場でその論文を愛橘に進呈した。また、画家中村彝により描かれた計算尺を手にする愛橘の肖像画が贈られた。山川健次郎らの祝辞に続いて愛橘は答辞し、同日に大学へ辞表を提出したことを打ち明け、辞職に対する同意を求めた。愛橘は還暦を迎える齢であった。 山川ら周囲は慰留に努めたものの愛橘の意志は固かった。山川は、航空研究所が将来に設立された時は愛橘がその本官となる、理学部では辞職後講師を務める、免官発令は少し後になることを条件として愛橘の辞職を受諾した。愛橘は同年に婿養子として下斗米秀三(火山学者)を籍に入れており、この辞職により公私とも後進に道を譲る形となった。愛橘はこの辞職受諾をとても喜び、ローマ字運動に専心できると活気づいた。その余りの嬉しさのためか、興奮して自転車の運転が荒くなり、転んで大腿骨を骨折した。 翌大正6年(1917年)4月に依願免官の辞令が交付される。当時は定年退職の決まりは殆どなく、東京帝大でもその議論が行われたが導入には至っていなかった。しかし愛橘の退職の反響は大きく、その後の60歳定年制のできるきっかけとなった。同年6月22日、東京帝国大学名誉教授となる。愛橘はこれを喜んで受け入れた。愛橘の教え子としては長岡半太郎、中村清二、本多光太郎、木村栄、田丸卓郎、寺田寅彦などがいる。門下から優秀な後進を輩出した愛橘は「種まき翁」や「花咲かの翁」と称された。 ===航空研究所=== 大正5年に東京帝国大学工科大学内に、航空に関する基礎研究機関設立を目的とした航空学調査委員会が山川健次郎東京帝国大学総長によって設置される。委員会には東京帝大の6人の博士が所属し、愛橘が委員長を務めた。委員会での議論を経て、寺田寅彦や愛橘の主導により、大正7年(1918年)4月に東京市深川区越中島の埋立地に「航空機ノ基礎的学理ノ研究」を目的とした東京帝国大学付属航空研究所(航空研)が設置された。愛橘は顧問に就任し航空研究と本格的に関わっていく。初期の航空研究所には航空学科の教官や理科大学の航空物理学講座担当の教官が所員となり、寺田、田丸卓郎、本多光太郎らが所属して研究に勤しんだ。第一次世界大戦で航空機が活躍しその軍事的な意義が認知されると、日本政府は大正10年(1921年)から航空研究施設の拡充を五カ年計画により図ることとなる。これを受けた山川健次郎総長の後援により、同年に大学附属研究所から大学附置研究所へと改称され、研究所は独立した官制を持つこととなり、その性格を改めた。附置研究所となってからは研究成果の実用化を図るべく、陸海軍の佐尉官または技師からも所員に任命された。愛橘は国際航空連盟の会合に毎回出席して研究成果を発表した。昭和3年(1928年)1月には航空事業の発展に対して、フランス政府からレジオン・ドヌール勲章が贈られた。また、大正14年(1925年)10月から昭和22年(1947年)5月まで貴族院議員(帝国学士院会員議員)を3期22年間に亘り務めた。 1930年代には高松宮宣仁親王、昭和天皇、伏見宮博恭王などの皇族が相継いで航空研に訪れたことに見られるように、国家からも相当の期待を受けた。また、愛橘は昭和8年(1933年)の御講書始で「航空発達史の概要」を進講している。このような期待の元、和田小六所長の主導により長距離機の製作が計画され、航空研の岩本周平が設計し木村秀政によって製作された航研機は、昭和13年(1938年)に航続距離記録の世界記録を樹立した。その後も航空研は陸軍戦略爆撃機キ‐74の基となったA‐26長距離機、研三機、航二(ロ式B型試作高高度研究機)などの試作に関わった。昭和19年(1944年)1月には「日本航空発達への貢献」に対して、昭和18年(1943年)度の朝日賞が愛橘に授賞され、4月には「地球物理学及び航空学」の功績により文化勲章が授章された。 第二次世界大戦後、連合国軍最高司令官総司令部により航空禁止令が発令され、昭和21年(1946年)1月9日に航空研は廃止された。後に日本の独立により「航空に関する学理及びその応用研究を行うことを目的」とした航空研究所が新たに設立されたが、愛橘の没後の昭和33年(1958年)まで時を要した。 ===日本でのメートル法化の推進=== メートル法は18世紀末期、フランス革命の頃にフランスで考案された。フランス政府によりその国際化が推し進められ、明治8年(1875年)5月20日にパリでメートル条約が成立し、日本は明治18年(1885年)にこれに加盟した。日本がメートル条約によって設立された理事機関の国際度量衡委員会に席を獲得したのは、条約加盟から22年後の明治40年(1907年)のことで、最初のアジア代表常設委員として愛橘が任命された。愛橘は明治40年以来1年おきにパリへ訪れて、4回の総会と5回の委員会に出席を重ね、関係各所にメートル法の導入を説いて回った。大正10年(1921年)に帝国議会において度量衡法の改正法案が通過し、メートル法を基本とする法律となったが、それまでの尺貫法も使われ続けた。愛橘はその後もメートル法普及のための啓蒙的な講演活動などを続けた。日本の計量法においてメートル法が完全に施行されたのは昭和34年(1959年)のことである。 ===日本式ローマ字の考案とその推進=== 明治17年(1884年)、山川健次郎ら海外留学経験のある東大教授らが中心となって、英語の発音に準拠したヘボン式ローマ字表記を推進する「羅馬学会」が発足する。ところが過去に愛橘が東大の生徒だった時、ユーイングがフォノグラフにヘボン式で書いた日本語を逆さ読みにしたものを記録し、これを逆回しで再生して解析する日本語の音韻の研究を行っていた。これにより愛橘はヘボン式の表記法に疑問を持つようになる。明治18年(1885年)に愛橘は「理学協会雑誌」にヘボン式の使用に反対する意見を発表、「発音考」を著した後、12月に音韻学の観点から五十音図に基づいた「日本式つづり」を考案し総会に対案として提出した。これは帝国大学の弟子で物理学者の田丸卓郎によって日本式ローマ字と名付けられた。翌明治19年(1886年)、愛橘らにより日本式ローマ字の月刊誌 “R*7087*mazi Sinsi” を発行するため、「羅馬字新誌社」が結成された。 明治42年(1909年)には愛橘、芳賀矢一、田丸により羅馬字新誌社を母体とする「日本のローマ字社」が設立、明治43年(1910年)6月に「ローマ字新聞」を創刊、明治44年(1911年)7月に「ローマ字世界」を創刊、大正10年(1921年)に日本ローマ字会を創立するなどの活動を続け、弟子の田丸や寺田と共にその普及に努めた。また、国語国字問題では「世界に日本語を広めるには、どうしても世界の文字なるローマ字でなければはかどらぬ」とローマ字論を唱えた。愛橘は若いころから和歌を嗜んでいたが、昭和9年(1934年)までに詠まれた和歌453首の内、ローマ字で詠まれた和歌は半数を超える。 昭和5年(1930年)11月、文部省臨時ローマ字調査会委員に就任する。昭和12年(1937年)、日本政府は日本式ローマ字を基に これに若干の改変を加えた訓令式を採用し、内閣訓令第3号として公布した。しかし終戦後の昭和20年、日本占領軍司令官ダグラス・マッカーサーの命令によりヘボン式の使用が復活された。 愛橘は貴族院でローマ字国字論の演説を行うことで有名で、貴族院最後の登壇でもローマ字に関する演説を行った。昭和23年(1948年)8月には「時は移る」を刊行したが、その記載はローマ字と漢字かな書きの併記であった。メモや家族の手紙などもほとんどをローマ字で記載し、共に推進した田丸の墓碑には愛橘がローマ字で揮毫した。ある時は航空に関する講演依頼でローマ字に関する話題を入れないよう要請されたが、愛橘は即座に断ったという程の徹底振りだった。5月20日は1955年(昭和30年)に「ローマ字の日」に制定されているが、愛橘の命日を1日ずらして20日としたものが、その由来であるともいわれている。 ===学術的外交官=== 愛橘は生涯で22回に及ぶ外遊をし、また、68回の国際会議に出席した。国際度量衡会議や国際航空会議の場で同席し愛橘と交流の有ったシャルル・エドゥアール・ギヨームは、「地球には2つの衛星がある。1つは勿論月であるが、もう1つは日本の田中舘博士である。彼は、毎年1回地球を廻ってやってくるのだ」と評した。愛橘の海外出張は教授時代から行われていたが、多くの出張は教授職退官後の大正7年(1918年)から昭和7年(1932年)の62歳から79歳のときに集中する。大正11年(1922年)、国際連盟により新渡戸稲造事務局次長が事務を受け持つ国際連盟知的協力委員会が設立された。委員会には各国から12名の有識者が選出された。愛橘も昭和2年(1927年)から昭和8年(1933年)まで同委員として出席し、マリ・キュリー、アルベルト・アインシュタインらと同席した。国際連盟知的協力委員会は戦後発足したユネスコへと受け継がれた。また、愛橘は万国議員会議、万国測地学協会、万国地震学会、万国度量衡会議、国際学術研究会議、地球物理学国際会議、航空連盟会議など様々な国際会議に精力的に参加した。これらの出席で外国人と親睦を深めた愛橘は「学術的外交官」と称された。 ===死去=== 昭和27年(1952年)5月21日、東京都世田谷区経堂の自宅で死去、95歳7か月の天寿を全うした。葬儀は初の日本学士院葬として東京大学安田講堂で営まれた。6月に遺骨が故郷の福岡町に送られると沿道は町民で溢れたという。福岡町でも福岡中学校校庭で町葬が行われ、2千人を超える人々が臨席した。福岡の愛橘の墓には日本式ローマ字で墓名が刻まれている。関勉は発見した小惑星に、愛橘の弟子の木村栄からは「Kimura」、その師匠の愛橘からは「Tanakadate」と両者の姓を冠した名前を付けている。 ==親族== 異母弟 田中舘寅士郎 (理論物理学者)従弟、養子、長女美稲の婿 田中舘秀三(物理・地学者) ==人物・逸話== 本来の愛橘の出生名は彦一郎であった。しかし役所に届け出たところ、南部藩主の家族の名と重なっていたので受理されなかった。2度目に役所に出した名もまた受理されず、これを案じた代官の中島六郎兵衛が中国二十四孝の「陸績」の故事に範をとり、愛橘と命名したという。愛橘は理学の道へ進んだが政治に対しても深い関心を持ち続けていた。ヨーロッパ留学でパリへ訪れた際には旧知の原敬が代理公使を勤めていた。原から呼ばれた愛橘は飲食をしながら原と共に夜半過ぎまで政治について論じあったという。愛橘は継母のキタの勧めで明治26年4月に盛岡出身の本宿宅命主計総監の妹、本宿キヨ子と結婚する。仲睦まじい夫婦であったが、翌年3月に長女の美稲が誕生した10日後にキヨ子は産後の不良により没した。その後の愛橘は再婚することは無く一人娘を育てた。美稲は晩年の愛橘と行動をいつも共にして父を支えた。愛橘は東京帝国大学で実施された運動会の計測を担っていた。明治35年(1902年)11月8日の運動会からは、愛橘と田丸節郎により考案された大掛かりな電気計測によりタイムが計測された。その内容はコース全体に電線を巡らせて計測器に掛けた2本のテープを同じ速度で進行するようにしておき、テープの1本には時間の長さを視認できるようにして、もう一方にはスタート合図のピストルとゴールに入った瞬間に電線の電流が切断された記録を残した。これらを照らし合わせて100分の1秒までの所要時間を計測した。この運動会では藤井實がこの計測により100メートル競走で10秒24、明治37年(1904年)11月12日に行われた運動会では同じく藤井が200メートル競走で25秒74という驚異的な記録を打ち出した。これらの記録は明治39年(1906年)に濱尾新総長により愛橘の証明文を添えてアメリカの主要な大学へ通知されたが、計測の誤りであったとみられており、公認とはならなかった。1910年頃のこと、ドイツに留学経験のある寺田寅彦がとある会議での愛橘のドイツ語の発言について意見を述べたことが有った。寺田は「舘先生、勢いは宜しいのですが、少々乱暴なドイツ語ではありませんか」と告げた。これに対して愛橘は「聞かれた相手に直ちに答えようと思ったら、テニヲハなどにかまっておられるか。今やらなければ殺されると思え」と答えたという。後に寺田は「舘先生はいつも日本を背負って、死ぬ気でやってらっしゃるのだ」と振り返った。大正11年(1922年)、改造社の山本実彦の招聘により、アルベルト・アインシュタインが来日する。東京帝国大学理学部物理学教室では無料の特別講義が開かれ、アインシュタインは相対性理論を講じた。愛橘は6回の講義全てに出席したが、アインシュタインについては初日のノートに「年寄りの冷や水」「研究でない。ただの調べにすぎない」「調べたことを言っただけだ」とローマ字で書いたのみであった。愛橘は古くから軍部と関係を持ち、また、貴族院議員となる前からも政治的な行動が多かった。教え子の長岡半太郎は愛橘とは逆に軍部と政治を嫌っており、これらの事から長岡は愛橘を批判することが何度かあったという。愛橘は昭和19年2月7日の第84回貴族院本会議において、「マッチ箱ぐらいの原子爆弾は東京全体を焼き払うことができる」と発言し、原爆待望論を展開した。同じく貴族院議員であった長岡はこの愛橘の発言を聞き、原子力研究の専門家ではない愛橘が原爆を喧伝する行為に不信感を覚え、原爆開発が不可能であることを論文に提示した。愛橘の文化勲章受章は弟子や孫弟子の4人が同章を既に受章しており、愛橘が受章していないのは申し訳ないと弟子たちからの推薦による受章であった。忘れっぽい性格で身の回りのものを置き忘れることがよく有った。そのため「ソコツ博士」というあだ名でも知られたが、愛橘はそれを気に掛けることは無かった。 ==栄典== 1891年(明治24年)12月21日 ‐ 正七位1897年(明治30年)2月10日 ‐ 正六位1902年(明治35年)2月1日 ‐ 勲四等旭日小綬章1906年(明治39年)4月 ‐ 勲二等旭日重光章1916年(大正5年)5月 ‐ 勲一等瑞宝章、8月21日 ‐ 従三位1944年(昭和19年)4月29日 ‐ 文化勲章(岩手県人初)1952年(昭和27年)5月21日 ‐勲一等旭日大綬章(没後追贈) ==記念・顕彰・栄誉== 1915年(大正4年)11月10日 ‐ 大礼記念章1928年(昭和3年)1月 ‐ レジオンドヌール勲章1944年(昭和19年)1月 ‐ 朝日賞1951年(昭和26年) ‐ 名誉福岡町民2002年(平成14年) ‐ 文化人郵便切手発行2015年(平成27年) ‐ 二戸市名誉市民このほか、郷里にある二戸市シビックセンターには「田中舘愛橘記念科学館」が併設されている(1999年(平成11年)開館)。 =吉野鉄道= 吉野鉄道(よしのてつどう)は、近鉄吉野線の前身となった鉄道である。軽便鉄道法制定に伴い軽便鉄道の鉄道事業者として吉野軽便鉄道株式会社(よしのけいべんてつどう‐)が設立され、1912年(大正元年)に国鉄吉野口駅から吉野駅(後の近鉄六田駅)間で開業、1913年(大正2年)に社名変更し吉野鉄道株式会社となった。それ以前にも1897年(明治30年)に設立の認可を受け同地に鉄道施設計画を進めたが止むなく解散に至った同名の「吉野鉄道株式会社」があった。 ==歴史== ===まぼろしの吉野鉄道=== 明治後期、日本各地で鉄道が敷設され奈良県でも南和鉄道(後のJR和歌山線)や大阪鉄道(後のJR桜井線)が開業した。吉野地方北部の人々は、山を越えて最寄りの駅まで歩き、それらの鉄道を利用して各地に出かけられるようになったが、その駅まではあまりにも遠かった。そのような背景もあって鉄道を吉野郡内まで敷く計画が立てられることになる。 1896年(明治29年)1月、土倉庄三郎ほか14名が南和鉄道の葛駅(後の吉野口駅、南葛城郡葛村)から吉野郡大淀村下渕を経て大淀村北六田にいたる「吉野鉄道」の敷設免許を申請した。同じ頃出水弥太郎らも同名の「吉野鉄道」(大阪鉄道畝傍駅 ‐ 高取 ‐ 下渕 ‐ 上市 ‐ 鷲家口)を申請しており、奈良県内では他にも多くの鉄道敷設の申請が鉄道院になされていた。そこで同年3月、土倉庄三郎発起の「吉野鉄道」は同じく申請をしていた「中和鉄道」「天理鉄道」と協定を結び新たに「大和鉄道」を創設、同年5月に四条畷 ‐ 奈良 ‐ 二階堂 ‐ 田原本間、葛 ‐ 北六田間、法隆寺 ‐ 丹波市間の3線敷設を改めて申請した。1897年(明治30年)4月、鉄道会議は「大和鉄道」の葛 ‐ 北六田間のみを許可し他の計画路線や出水弥太郎出願の「吉野鉄道」などは却下された。 この結果を受けて1897年(明治30年)6月、土倉庄三郎ほか19名によって「吉野鉄道株式会社」(本社は南葛城郡御所町。当初の資本金は50万円)が設立され、1899年(明治32年)4月に鉄道敷設の免許を受け取る。測量、用地買収、資材の注文など鉄道建設の準備は進められていたが、翌年に発生した義和団の乱や、それにともなう経済不況により、資本金の株式払い込みが進まず資金難に陥る。1901年(明治34年)には一部の株主が会社解散を訴えて、株主総会を開くよう要求。この時は、吉野郡長の本田登太が郡長名で大阪地方の株主らに解散要求に惑わされないよう、また鉄道建設の速成を要望するビラを送り鉄道完成を申し合わせるように求めた。結果、開かれた株主総会では、会社解散は否定されたが、その後も鉄道建設は遅々として進まず翌1902年(明治35年)11月の株主総会において会社解散が決議され免許は返戻されてしまう。 ===吉野軽便鉄道の開通=== その後、大淀村では1908年(明治41年)に森栄蔵らが南葛城郡葛城村から下市街道(車坂峠越)・伊勢街道を利用し北六田にいたる馬車鉄道「吉野馬車軌道」を計画し出願した。1910年(明治43年)に軽便鉄道法が公布されると、馬車鉄道から軽便鉄道に変更し会社設立を許可される。これが吉野軽便鉄道の源流となる(発起人は森ら12名。資本金は20万円)。だが、前例の吉野鉄道のこともあって株式の払い込みは進まなかった。これを危惧した吉野郡長、谷原岸松が、材木業組合役員や沿線の首長を説得し、発起人も入れかえ阪本仙次(この時は、吉野材木銀行の頭取)を発起人総代に迎えた。また株式の払い込みも郡長以下、郡役所職員の努力もあって増配した資本金30万円の予定を超える。1911年(明治44年)、発起人一同は自信を深め、改めて会社を設立、同年末時点の資本金は52万円にも達した。12年前の土倉らによる吉野鉄道の計画買収用地を利用して鉄道建設が進められた。 吉野軽便鉄道は標高200m前後の地域を走る山岳路線で屈曲する路線やトンネルなど難所が多いものの工事は順調に進み、翌1912年(大正元年)10月15日に完成、国鉄吉野口駅を起点として薬水トンネルを抜け下渕の下市口駅に達し、そこから吉野川北岸を東進して北六田の吉野駅を終着点とする3駅11.6kmの路線が開通した。 吉野駅は軽便鉄道の駅としては奈良県内第一の規模をもっていた。広い構内、機関車庫、多くの側線、長いプラットホームなど終着駅にふさわしい駅で、2004年現在でも近鉄六田駅構内の車庫などにその名残を認めることができる。国鉄と同じ1,067mmのゲージ(狭軌)は木材を積んだ貨車がそのまま国鉄路線に乗り入れできる利点があり、また旅客輸送の面でも吉野山の桜の時期には関西線の湊町駅(後のJR難波駅)から「吉野行観桜列車」を仕立てて、湊町 ‐ 王寺 ‐ 高田 ‐ 吉野口 ‐ 吉野という経路で花見客の便を図ることもできた。 右表は開通から1915年(大正4年)頃までの列車ダイヤ(8往復)である。本店は最初は大淀村下渕、ついで北六田、その後に上市町に移した。1913年(大正2年)当時の運賃は吉野 ‐ 下市口間が3等7銭、2等11銭。吉野 ‐ 吉野口間が3等19銭、2等29銭であった。 ===開通式の椿事=== 1912年(大正元年)10月25日の開通式の日に事件があった。工事を担当していた労働者のうちの数十人が賃金支払いに関して会社側に不手際があったとして午前6時発の開通列車の前に立ちふさがった。中には線路の前に横臥する者もあり列車が出発できなくなった。下市警察署・上市警察署の両署から動員された警官により首謀者3名を検束、午前10時にようやく4時間遅れで開通列車が出発した。翌日の『奈良朝報』には「吉野軽鉄の椿事 数十の工夫開通を妨害す」との見出しが見える。事件は労働者の要求を会社側が受け入れたことにより解決した。 スタートで思わぬトラブルがあったが営業はまずまず順調であった。下表は奈良県統計表に見る1918年(大正7年)から1920年(大正9年)の吉野駅の乗客数、収入金額であるが着実に伸びている。 ===吉野鉄道の発展=== 1913年(大正2年)5月には吉野軽便鉄道から吉野鉄道と名称を改め、次の目標である線路の延長と電化へと進んでいく。 まず取り組んだのは、吉野口駅から高市郡方面に延伸し国鉄桜井線畝傍駅へ直結すること。それと同時に輸送能力を高めるための電化が必要条件として運動し1920年(大正9年)5月20日に免許を取得すると、1923年(大正12年)12月5日に吉野口 ‐ 橿原神宮前間、1924年(大正13年)11月1日には橿原神宮前 ‐ 畝傍間、あわせて12.8kmが開通した。駅は畝傍駅から小房 ‐ 畝火山 ‐ 橿原神宮前 ‐ 岡寺 ‐ 壺阪山 ‐ 市尾 ‐ 葛 ‐ 吉野口 ‐ 薬水 ‐ 福神 ‐ 下市口 ‐ 吉野の順である。岡寺駅に32両収容できる車両基地を設け、貨物輸送のために奈良県下で最初の電気機関車も導入した。 電化以前に比べ列車運行は激増、1926年(大正15年)8月の時刻表では1日29往復、吉野 ‐ 畝傍間を1時間足らずで結び運賃は65銭であった。 吉野鉄道の次の課題は桜の吉野山までの延伸である。吉野登山電気軌道という会社が1921年(大正10年)に吉野駅のある北六田対岸の吉野村六田から吉野山への軌道施設を計画し認可を受けていたものを1924年(大正13年)7月5日に譲り受け、吉野鉄道が1922年(大正11年)4月20日に上市町までの敷設免許を受けたのと合わせて、北六田から上市へ延伸し吉野川橋梁で吉野川を渡り吉野山下千本を終点とする4.4kmの路線を敷設することになった。工事が完成し営業を開始したのは1928年(昭和3年)3月25日である。これにより吉野鉄道は開業から17年目に終着駅である吉野駅までの全線が開通し28.6kmの鉄道となった。同時に旧・吉野駅は六田駅と改称し大和上市駅、吉野神宮駅が設置された。なお1927年(昭和2年)には越部駅、1929年(昭和4年)には橘寺駅(後の飛鳥駅)、大阿太駅が新設されている。 また、吉野鉄道終点の吉野駅から吉野山へは1929年(昭和4年)3月12日に千本口・吉野山間を結ぶ吉野ロープウェイが営業を開始している。このロープウェイは地元有志により設立された吉野大峯ケーブル自動車によるもので、吉野鉄道との資本関係はない。 ===大軌との合併へ=== 国鉄吉野口駅への接続からスタートした吉野鉄道であったが、橿原方面へ延伸したことにより新たな局面を迎えることとなる。橿原 ‐ 吉野間を直結する吉野鉄道は大阪 ‐ 橿原間の路線を持つ大阪電気軌道(大軌)とそのライバル関係にある大阪鉄道(大鉄)にとって魅力的な路線であったのだ。 大阪阿部野橋を起点とする大鉄は阿部野橋 ‐ 吉野間の直通列車を走らせることを計画し吉野鉄道と交流を始めた。ゲージが同じ1,067mm(狭軌)の大鉄は吉野鉄道に電車を乗り入れることができる。一方ゲージが1,435mm(標準軌)の大軌は橿原神宮前駅で吉野鉄道と接続するものの相互乗り入れは不可能で直通列車を走らせることはできない。そこで大軌は1928年(昭和3年)10月に橿原 ‐ 吉野間の新線敷設の免許を取得する。大手の大軌が競合線を運行するとなれば吉野鉄道は存続の危機である。吉野鉄道は大軌の傘下に入ることを決定し1929年(昭和4年)8月1日に合併、大軌吉野線となった。 しかし大軌も大鉄の吉野鉄道への乗り入れは認めたため、大鉄は吉野鉄道と接続し合併直前の1929年(昭和4年)4月に接続地点(後の近鉄橿原神宮前駅の地点)に共同使用駅として久米寺駅が設置された。合併した大軌も自社の橿原神宮前駅から久米寺駅まで路線延長したため橿原神宮前 ‐ 久米寺間は狭軌と標準軌の両方が走行できる珍しい三線軌条となった。 桜の時期ともなると両社は宣伝合戦を繰り広げたという。1930年(昭和5年)の時刻表で見ると大軌は上本町 ‐ 久米寺間56分、久米寺 ‐ 吉野間54分で計110分。大鉄は阿部野橋 ‐ 吉野間117分、こちらは乗り換えなしなのでほぼ互角である。この合戦は1943年(昭和18年)に両社が合併するまで続いた。 ==付帯事業== 1926年(大正15年)5月14日、吉野郡上市町に陸上競技場、野球場、相撲場などを備えた美吉野運動競技場を開場した。収容人員は1万人、全日本女子東西対抗陸上大会など各種競技に使用された。 また1929年(昭和4年)3月には、上市、新子、柏木に営業所を持ち伯母峰越えなどを運行する吉野川上自動車のバス事業、および上市などでのハイヤー事業を譲り受け自動車事業へも進出している。 バス事業は大軌合併後も大軌吉野線自動車部として存続したが、その後1940年(昭和15年)に都司自動車(つじ‐ )と統合し吉野宇陀交通株式会社となり、1943年(昭和18年)には戦時の統合政策により奈良県下すべてのバス事業社が奈良自動車に吸収合併され奈良交通株式会社が発足した。 ==輸送・収支実績== 鉄道院年報、鉄道院鉄道統計資料、鉄道省鉄道統計資料、鉄道統計資料、鉄道統計各年度版 ==車両== 蒸気機関車 開業時にドイツコッペル製Bタンク式機関車(1‐3)が新製され翌1913年に同じコッペル製のより出力の大きいCタンク式機関車(4‐6)が増備された。電化により蒸気機関車は南越鉄道に1924年に3両(1‐3)が売却されさらに1938年に1両(4)が売却された。開業時にドイツコッペル製Bタンク式機関車(1‐3)が新製され翌1913年に同じコッペル製のより出力の大きいCタンク式機関車(4‐6)が増備された。電化により蒸気機関車は南越鉄道に1924年に3両(1‐3)が売却されさらに1938年に1両(4)が売却された。電気機関車 電機1形(1‐3)1923年(大正12年) ‐ 1924年(大正13年)、スイスのブラウン・ボベリー社から輸入された。 電機51形電機1形(1‐3)1923年(大正12年) ‐ 1924年(大正13年)、スイスのブラウン・ボベリー社から輸入された。電機51形電車 吉野鉄道モハ201形電車吉野鉄道モハ201形電車客車 開業時に南海鉄道から電化により余剰となった木製2軸客車12両を購入した。ロ1‐2(南海ろ9.10)、ハ1‐6(南海は74.79.80.81.42.45)、ハブ1‐4(南海はに5.7.9.10)。 1920年に国鉄より木製2軸客車3両の払下げを受け二等客車として使用した。ロ5・10・15(国鉄イ112・イロ259・ロ503)。このうち元国鉄イ112は鉄道院鉄道統計資料によると使用年数は47年で、日本の鉄道創業期の車両の一両となる。開業時に南海鉄道から電化により余剰となった木製2軸客車12両を購入した。ロ1‐2(南海ろ9.10)、ハ1‐6(南海は74.79.80.81.42.45)、ハブ1‐4(南海はに5.7.9.10)。1920年に国鉄より木製2軸客車3両の払下げを受け二等客車として使用した。ロ5・10・15(国鉄イ112・イロ259・ロ503)。このうち元国鉄イ112は鉄道院鉄道統計資料によると使用年数は47年で、日本の鉄道創業期の車両の一両となる。 ===車両数の変遷=== 鉄道院年報、鉄道院鉄道統計資料、鉄道省鉄道統計資料、鉄道統計資料各年度版 ==施設== 薬水変電所、回転変流器(交流側555V直流側750V)直流側の出力250kW、常用2、予備1、製造所不明、水銀整流器(交流側1365V直流側1500V)直流側の出力610kW、予備1、製造所BBC ===薬水拱橋=== 薬水・福神間に位置する「薬水拱橋」は、薬水集落に至る道路と薬水川をまたぐ煉瓦積みの2連アーチ橋で、アーチ橋側面を門として捉え煉瓦による格子帯や西面の扁額に意匠面の工夫が施されている。2013年度には土木学会選奨土木遺産に、2015年度には奈良県景観資産に選定されるなど文化的価値も評価されている。 =計算可能性理論= 計算可能性理論(けいさんかのうせいりろん、computability theory)では、チューリングマシンなどの計算模型でいかなる計算問題が解けるか、またより抽象的に、計算可能な問題のクラスがいかなる構造をもっているかを調べる、計算理論や数学の一分野である。 計算可能性は計算複雑性の特殊なものともいえるが、ふつう複雑性理論といえば計算可能関数のうち計算資源を制限して解ける問題を対象とするのに対し、計算可能性理論は、計算可能関数またはより大きな問題クラスを主に扱う。 ==はじめに== 計算機科学の中心的課題の1つは、コンピュータを使って解ける問題の範囲を理解することでコンピュータの限界に対処することである。コンピュータは無限の計算能力を持つと思われがちだし、十分な時間さえ与えられればどんな問題も解けると想像することは易しい。しかし、多大な計算資源を与えられたとしても、見たところ単純な問題を解くことでコンピュータの能力の限界を明確に示すことは可能である。 計算可能性理論では、次の質問に答えることでコンピュータの能力を明らかにする。すなわち「ある形式言語と文字列が与えられたとき、その文字列はその形式言語に含まれるか?」である。この質問はやや難解なので、もう少し判り易く例を挙げる。まず、全ての素数を表す数字列の集合を言語として定義する。入力文字列がその形式言語に含まれるかどうかという質問は、この場合、その数が素数であるかを問うのと同じことである。同様に、全ての回文の集合や、文字 ’a’ だけからなる全ての文字列の集合などが形式言語の例である。これらの例では、それぞれの問題を解くコンピュータの構築の容易さが言語によって異なることは明白である。 しかし、この観測された明白な違いはどういう意味で正確なのか? ある特定の問題をコンピュータで解く際の困難さの度合いを定式化し定義できるか? その質問に答えるのが計算可能性理論の目標である。 ==計算の形式モデル== 計算可能性理論の中心課題に答えるために、「コンピュータとは何か」を形式的に定義する必要がある。利用可能な計算モデルはいくつか存在する。以下に代表例を挙げる。 ===決定性有限状態機械=== 決定性有限オートマトン(DFA)、あるいは単に有限状態機械とも呼ぶ。単純な計算モデルである。現在、実際に使われているコンピュータは、有限状態機械としてモデル化できる。この機械は状態の集合を持ち、入力列によって働く状態遷移の集合を持つ。一部の状態は受容状態と呼ばれる。入力列は一度に1文字ずつ機械に入力され、現在状態から状態遷移先への遷移条件と入力が比較され、マッチングするものがあればその状態が新たな状態となる。入力列が終了したとき機械が受容状態にあれば、全入力列が受容されたということができる。 ===プッシュダウン・オートマトン=== 有限状態機械に似ているが、任意のサイズに成長可能な実行スタックを利用可能である点が異なる。状態遷移の際に記号をスタックに積むかスタックから記号を除くかを指定できる。 ===チューリングマシン=== これも有限状態機械に似ているが、入力が「テープ」の形式になっていて、読むだけでなく書くこともでき、テープを送ったり巻き戻したりして読み書きの位置を決めることができる。テープのサイズは任意である。チューリングマシンは時間さえかければ、かなり複雑な問題も解くことができる。このモデルは計算機科学では最も重要な計算モデルであり、資源の限界がない計算をシミュレートしたものである。 ==計算モデルの能力== これらの計算モデルについて、その限界を定めることができる。すなわち、どのクラスの形式言語をその計算モデルは受容するか、である。 ===有限状態機械の能力=== 有限状態機械が受容する言語のクラスを正規言語と呼び、正規文法で記述される。有限状態機械が持つことができる状態は有限個であるためであり、正規言語でない言語を扱うには無限の状態数を扱える必要がある。 従って、この言語は有限状態機械では正しく受容できず、正規言語ではないということになる。これを一般化したものを正規言語の反復補題と呼び、各種言語クラスが有限状態機械で認識できないことを示すのに使われる。 この言語を認識できるプログラムは簡単に書けると思われるかもしれない。そして、現在のコンピュータは有限状態機械でモデル化できると上に書いてある。もちろんプログラムは書けるが、この問題の本質はメモリ容量の限界の見極めにある。非常に長い文字列を与えられた場合、コンピュータのメモリ容量が足りなくなって入力文字数を数えられなくなり、オーバーフローするだろう。その意味で、現代のコンピュータは有限状態機械と同じと言える。したがって、この言語の文字列の大部分は認識できるとしても、必ず認識できない文字列が存在する。 ===プッシュダウン・オートマトンの能力=== プッシュダウン・オートマトンが受容する言語のクラスを文脈自由言語と呼び、文脈自由文法によって記述される。正規言語でないとされた ’a’ と ’b’ を同数含む文字列からなる言語はプッシュダウン・オートマトンで判定可能である。また一般に、プッシュダウン・オートマトンを有限状態機械のように動作させることもできるので、正規言語も判定可能である。従ってこの計算モデルは有限状態機械よりも強力である。 しかし、プッシュダウン・オートマトンでも判定できない言語がある。その詳細は(正規言語のときとあまり変わらないので)ここでは述べない。文脈自由言語の反復補題も存在する。例えば、素数の集合からなる言語がその例である。 ===チューリングマシンの能力=== チューリングマシンは任意の文脈自由言語を判定できるだけでなく、プッシュダウン・オートマトンが判定できない言語(例えば素数の集合からなる言語)も判定可能である。したがってチューリングマシンはさらに強力な計算モデルと言うことができる。 チューリングマシンでは、入力テープに「バックアップ」を置くことができるため、上で説明した計算モデルには不可能な方法で動作可能である。入力に対して停止しないチューリングマシンを構築することもできる。チューリングマシンはあらゆる入力について停止して答え(言語と入力の判定)を返す機械である。このようにチューリングマシンが必ず停止する言語クラスを帰納言語と呼ぶ。ある言語に含まれる文字列を与えられたときには停止するが、その言語に含まれない文字列を与えられたときに停止しない可能性があるというチューリングマシンもある。このような言語を帰納的可算言語と呼ぶ。 チューリングマシンは非常に強力な計算モデルである。チューリングマシンの定義を修正してより強力なモデルを作ろうとしても失敗する。例えば、1次元だったテープを2次元や3次元に拡張したチューリングマシンや、複数のテープを持つチューリングマシンなどが考えられるが、いずれも1次元の1個のテープを持つチューリングマシンでシミュレート可能であることが判っている。つまり、それらのモデルの能力は通常のチューリングマシンと同じである。実際、チャーチ=チューリングのテーゼでは、チューリングマシンで判定できない言語を判定可能な計算モデルはないと推定されている。様々な人々がチューリングマシンよりも強力だという計算モデルを提案してきた。しかし、それらは非現実的であるか不合理である(下記参照)。 従ってチューリングマシンは計算可能性の限界に関する広範囲な問題を解析する強力な手法である。そこで次の疑問が生まれる。「帰納的可算だが帰納でない言語はあるのか?」である。また、「帰納的可算でもない言語はあるのか?」という疑問も生まれる。 ===停止問題=== 停止問題は計算機科学の重要な問題の1つであり、計算可能性理論だけでなく日々のコンピュータの利用にも深い意味を持っている。停止問題を簡単に述べると次のようになる: チューリングマシンと入力が与えられたとき、その入力を与えられたプログラム(チューリングマシン)は停止(完了)するかどうかを求めよ。停止しない場合、永遠に動作し続ける。ここでチューリングマシンが判定しようとするのは素数や回文といった単純な問題ではなく、チューリングマシンで他のチューリングマシンに関する質問への答えを得ようとしているのである。詳しくは主項目(チューリングマシンの停止問題)を参照してもらうとして、結論としてこの問いに(あらゆる場合に)答えられるチューリングマシンは構築できない。 すなわち、あるプログラムとその入力があったとき、それが停止するかどうかは単にそのプログラムを実行してみるしかないということになる。そして、停止すれば停止することがわかる。停止しない場合は、それがいつか停止するのか、それとも停止せずに永遠に動作するのかは判らない。あらゆるチューリングマシンに関する記述とあらゆる入力の停止する全組合せからなる言語は帰納言語ではない。従って、停止問題は計算不能または判定不能と呼ばれる。 停止問題を拡張したライスの定理では、言語が特定の自明な特性を持つかどうかは(一般に)判定不能であるとされる。 ===帰納言語以上の言語=== しかし、停止しないチューリングマシンの記述を入力として与えられたとき、それを判定するチューリングマシンが永遠に動作することを許容するなら、停止問題は一応解決する。従って、停止問題判定は帰納的可算言語である。しかし、帰納的可算ですらない言語も存在する。 ==不合理な計算モデル== チャーチ=チューリングのテーゼでは、チューリングマシンよりも強力な計算モデルは存在しないと推測した。ここでは、その推定に反する「不合理」な計算モデルの例をいくつか示す。計算機科学者は様々な「ハイパーコンピュータ」を想像してきた(ここでいうハイパーコンピュータとは、スーパーコンピュータのさらに高性能なものという意味ではない)。 ===無限実行=== 計算の各ステップが前のステップの半分の時間しかかからない機械を考える。第一ステップにかかる時間を 1 に正規化すると、実行にかかる時間は となる。この無限数列の総和は 2 に近づいていく。つまり、このチューリングマシンは 2 単位の時間内に無限の処理を実行できる。この機械は、対象となる機械の実行を直接シミュレーションすることで停止問題の判定が可能である。 ===神託機械=== 神託機械とは、特定の決定不能な問題への解を「神託」として与える機械である。例えば、チューリングマシンに「停止問題の神託機械」が付属していれば、与えられた入力についてそのチューリングマシンが停止するかどうかは即座に判定できる。このような機械は再帰理論の中心的話題である。 ===ハイパーコンピュータの限界=== これらのマシンにも限界はある。あるチューリングマシンの停止問題を解くことができるとしても、それらの機械自身の停止問題は解くことが出来ない。つまり、神託機械は、ある神託機械が停止するかどうかに答えることはできない。 ==歴史== アロンゾ・チャーチとスティーブン・コール・クリーネが開発したラムダ計算により、計算可能性理論の定式化に重要な役割を果たした。アラン・チューリングは現代計算機科学の父とされる人物であり、チューリングマシンなど計算可能性理論にも数々の重要な足跡を残している([1]、1936年)。 ==参考文献== Michael Sipser (1997年). Introduction to the Theory of Computation. PWS Publishing. ISBN 0‐534‐94728‐X.  Part Two: Computability Theory, chapters 3―6, pp.123―222.Christos Papadimitriou (1993年). Computational Complexity (1st edition ed.). Addison Wesley. ISBN 0‐201‐53082‐1.  Chapter 3: Computability, pp.57―70. ==関連項目== オートマトン計算模型計算複雑性理論チョムスキー階層計算可能性理論数学に関する記事参照方法良質な記事ISBNマジックリンクを使用しているページ =尼港事件= 座標: 北緯53度8分 東経140度44分*6192* / *6193*北緯53.133度 東経140.733度*6194* / 53.133; 140.733 尼港事件(にこうじけん、露: Николаевский инцидент Nikol*6195*yevskiy Intsidy*6196*nt, 英: Nikolayevsk Massacre)は、ロシア内戦中の1920年(大正9年)3月から5月にかけてアムール川の河口にあるニコラエフスク(尼港、現在のニコラエフスク・ナ・アムーレ)で発生した、赤軍パルチザンによる大規模な住民虐殺事件。港が冬期に氷結して交通が遮断され孤立した状況のニコラエフスクをパルチザン部隊4,300名(ロシア人3,000名、朝鮮人1,000名、中国人300名)(参謀本部編『西伯利出兵史』によれば朝鮮人400‐500名、中国人900名)が占領し、ニコラエフスク住民に対する略奪・処刑を行うとともに日本軍守備隊に武器引渡を要求し、これに対して決起した日本軍守備隊を中国海軍と共同で殲滅すると、老若男女の別なく数千人の市民を虐殺した。殺された住人は総人口のおよそ半分、6,000名を超えるともいわれ、日本人居留民、日本領事一家、駐留日本軍守備隊を含んでいたため、国際的批判を浴びた。日本人犠牲者の総数は判明しているだけで731名にのぼり、ほぼ皆殺しにされた。建築物はことごとく破壊されニコラエフスクは廃墟となった。この無法行為は、結果的に日本の反発を招いてシベリア出兵を長引かせた。小樽市の手宮公園に尼港殉難者納骨堂と慰霊碑、また天草市五和町手野、水戸市堀原、札幌護国神社にも殉難碑がある。 ==事件の背景== ===シベリア出兵の混迷=== 1918年(大正7年)8月に始まった日本のシベリア出兵は、アメリカ合衆国の呼びかけによる共同出兵であり、当初はアメリカの提議に従って「チェコ軍団救援」を目的とし、「ロシア内政不干渉」を謳ったものだった。しかし、チェコ軍団は赤軍と戦闘状態にあり、ボリシェヴィキ政権とは敵対していたので、ロシア内戦への干渉なくして救援は不可能であり、そもそもアメリカの提議自体に大きな矛盾があった。 つまりシベリア出兵の前提は、対独戦の一環としてのものであったが、1918年末には、ドイツ軍と連合国軍との間に休戦協定が成立し、チェコスロバキアも独立を果たして、前提が崩れた。そのため、連合国側、主に英仏は、反ボリシェヴィキを鮮明にし、日本もそれに同調して、反革命派によるロシア統一をめざしていたが、反革命派のコルチャーク政権(オムスク政権とも)は一年ほどしか続かず、1919年末に崩壊した。 1920年1月9日、アメリカが単独撤兵を通告してきたが、これは日本の出兵にとって大きな転換点となった。この1月から2月にかけ、革命派の勢力はニコリスク、ウラジオストク、ブラゴヴェシチェンスク、ハバロフスクの反革命勢力を倒し、それぞれに地方政権を掌握した。1月17日付、陸軍大臣の指示により、日本軍は中立姿勢をとることになったが、不穏な情勢の中、それまで反革命側に肩入れしてきた現地日本軍は困惑した。 ===尼港住人と白軍=== 1850年にニコラエフスク港は建設され、ロシアの極東開港場としては最古のものである。ロシア官憲は港発展策としてユダヤ人にロシア人と同様に土地家屋の私有権を与えたことから有産階級の大部分はユダヤ人によって構成されていた。 ロシア革命の進展により、ニコラエフスクは治安が悪くなり白昼でも強盗が行われ、少しでも金を持っていそうな者はピストルで射殺されたり、銀行も金品を強奪されることから、イギリス、アメリカ、日本の銀行に依頼して預金替がされたり、島田商会(後述)が預金依頼されるほどであった。漁業を営んでいたユダヤ人の資産家たちは革命によって購買組合や労働者に業を奪われるようになりウラジオストクに逃れる者も少なくなかった。 1918年には、ニコラエフスクにも赤軍が進駐し、ソビエト政権が成立していた。しかし赤軍は、サハリン州(当時、ニコラエフスクはサハリン州に含まれていた)全体で300人ほどの少数にすぎず、日本軍の上陸によって追われ、やがてロシア海軍提督アレクサンドル・コルチャークによる臨時全ロシア政府(en)に代わった。「ニコラエフスクの支配階層市民102名が日本軍を呼んだ」という資料も、ソ連側にはあり、日本側も「尼港市民と内外居留民(イギリス人などもいた)が日本海軍陸戦隊の上陸を請願した」と記している。 ニコラエフスクとその周辺では、白衛軍系の守備隊が治安維持にあたっていた。1919年の夏には将校以下350人ほどの人数がおり、日本軍と協力していた。 ===尼港在住の日本人と駐留日本軍=== ニコラエフスクにおける日本企業進出の中心は、1896年に島田元太郎が設立した島田商会であり、市内随一の商社となっていた。ロシア革命による経済混乱期には自らの肖像入り商品券を流通させるほどの信用が築かれていた。 ニコラエフスクにおける漁業を事業として成立させたのは日本人だったが、1901年に日本人の漁業は禁止され、1907年に調印された日露漁業協約においてもニコラエフスク近辺は対象からはずされたため、ロシア人と共同経営をしていた島田商会などをのぞき漁業関係者は撤退した。しかし海産物の交易は続き、第一次世界大戦による食糧不足でロシアの国内需要が急増するまで、ニコラエフスクの主要海産物であった鮭の主な輸出先は日本であり、居留邦人の数が多かったため領事館が設けられていた。 事件の一年前、1919年(大正8年)1月の調査によれば、ニコラエフスクの人口は12,248人で、そのうち日本人は291人だった。1919年(大正8年)6月調査(1920年6月16日の外務省公表)では、日本人は領事以下353人(男169人、女184人)となっている。職業の主な内訳は商業、大工、指物、裁縫業、理髪、金銀細工、錺職等であった。日本人で唯一ニコラエフスク市商業会議所の議員であった島田元太郎は別格として、他に大きな商店を営む日本人としては、米、小間物、木材などを扱う川口力太郎、雑貨商の川内多市、溝上乙吉、菓子パン製造業の百合野熊次郎などがいた。 なお、1918年1月調査の日本人数は499人であり、男女比はほぼ半々であった。職業についている女性としては、娼妓90人、家事被雇人(家政婦や乳母、女中として雇われている者)61人が主であり、残り100人の女性には既婚者が多いのではないかと思われる。 日本軍のニコラエフスク駐留は、1918年9月海軍陸戦隊の上陸に始まった。同月のうちに陸戦隊は、陸軍第12師団の一部と交代し、1919年5月第14師団の部隊が交代した。また海軍は、航行可能な夏期にはニコラエフスクを根拠に沿岸警備を行っていたため、無線電信隊を常駐させていた。 ===尼港の中国人と中国艦隊=== ニコラエフスクに住む中国人は、1919年1月の調査でおよそ2,314人であり、うち女性は15人にすぎず、男性の単身者が圧倒的に多かった。市内には、ある程度裕福な商人などもいて、中国人居留民会を組織していた。この自治会は、秩序を乱す者を市外へ追放したりもしていて、ロシア人指導者層から信頼を得ていた。 1919年9月、中華民国海軍の艦隊がアムール川に姿を現した。江享、利綏(旧ドイツ海軍「ファーターラント」, de)、利棲(旧ドイツ海軍「オッター」, de)、利川の砲艦4隻(利川は運送船ともいわれる)である。これは、ロシア内戦の混乱の中で、シベリア河川の航行権を拡張しようとする中国の試みだったが、コルチャーク政権はロシア政権の弱体化につけこむ行為として航行を認めなかった。ハバロフスクに向けて航行する中国艦隊は、白軍のアタマン・カルムイコフの砲撃を受けてニコラエフスクへ引き返し、やむなく越冬することになった。 中国艦隊のニコラエフスク入港までには、紆余曲折があった。入港直前の8月には内満州において日中両軍が衝突する寛城子事件が起きていた。当時、日本は北京政府と日支共同防敵軍事協定を結んでおり、中国は連合国の一員として、巡洋艦海容をウラジオストクに派遣していた。北京政府は、ロシア側が日本の艦船のアムール川航行を黙認しているにもかかわらず、中国船の航行を認めないことはアイグン条約に反するとして交渉していたが、ロシア側は認めず、中国側は、日本がロシアにそうさせているのではないか、と疑っていた。北京政府は、日、米、英、仏各国に、ロシア側との仲介を依頼したが、アメリカをのぞく各国の反応は冷淡であり、中国側は、日本がこの問題のイニシャティブをとっているとの確信を強めた。一方、ウラジオストクの日本全権は、この問題に日本が関係する意志がないことを中国側に明言し、中国艦隊のニコラエフスクでの越冬について、コルチャーク政権にとりなした。しかし、中国の新聞は日本の航行妨害を書き立てているとして、10月1日、北京の小幡酉吉公使は、北京政府に抗議している。 日本の航行妨害については、当時から中国の新聞記事になっていただけに、現在の中国でも事実として受けとめられ、極端な場合は、日本軍が中国艦隊を砲撃した、というような話になっていたりもする。 ニコラエフスクの華僑商業会議所は、食料の提供などで艦隊を援助していた。中国艦隊には、領事・張文換が乗り込んでおり、ニコラエフスク当局は砲艦の乗組員こそ歓迎しなかったものの領事の歓迎会は催した。また日本領事も歓迎会を開いて交流を持ち、パルチザンが街に迫るまでの関係は悪いものではなかった。 しかし、パルチザン部隊には数百人規模で中国人が加わっていた。1920年6月19日に中国領事は会談した津野一輔少将に中国人の過激派は300人であると説明している。事件後に尼港から脱出できたアメリカ人マキエフは600名であるとし、参謀本部編『西伯利出兵史』は900名としている。これについて『ニコラエフスクの破壊』の著者のロシア人ジャーナリスト・グートマンは「最下層階級の者達であって、社会的不適合者」とし、「中国人商人達は同胞パルチザンを疎んでいた」という。一方、 原暉之は、市内で編入された者ばかりではなく、「尼港周辺の鉱山労働者が加わっていたのではないか」としている。ニコラエフスク進軍に先だち、中国人パルチザンは赤軍宣伝部指導者のニーナ・レベジェワからロシア女性の引き渡しを受けることを約束され証文を交わしていたが、後日、中国領事の抗議によって反故にされることとなる。 ===パルチザンの進軍=== 1919年11月、ハバロフスク地方アナスタシエフカ村で、沿アムール地方パルチザン部隊指揮官協議会が催された。この会において、ソビエト権力復活のために、アムール川下流地帯にパルチザン部隊を派遣することが検討され、指揮官にはヤーコフ・イヴァノーヴィチ・トリャピーツィン(ロシア語版)が任命された。トリャピーツィン率いる部隊は、二ヵ月あまり諸村をめぐって人員を募り、一月半ばにアムール河口のニコラエフスクを包囲したときには、4000人以上の部隊にふくれあがっていたという。 人数が多数にのぼったについては、強制動員されたという証言もある。 ===朝鮮人パルチザン=== 1919年1月、ニコラエフスクに住む朝鮮人(日本国籍)は916人で、日本人の3倍ほどだった。当時、朝鮮人の国籍は日本であり、材木商や牧畜業を営む日本商店に雇われた朝鮮人などもいた。しかし、ロシア国籍を持った高麗人もいて、それを加えるともっと多かったと思われる。 赤軍パルチザンに占領された後のニコラエフスクにおける朝鮮人過激派(パルチザン)の数には諸説がある。中国政府の調べは1,000名、アメリカ人マキエフも1,000名という数字を挙げるが、参謀本部編『西伯利出兵史』は400‐500名としている。朝鮮人過激派は掠奪した軍服を着用していた。 朝鮮人パルチザンが、中国人のそれと違っていたのは、抗日独立運動の一環としてパルチザン部隊に加わる者が多数いたことである。ウラジオストクにいた朝鮮独立運動指導者李東輝が、ウラジーミル・レーニンから資金援助を受け、赤軍と協力する方針が示されていた。 グートマンによれば、ニコラエフスクの朝鮮人は近郊で農業を営む者が多く、市内では富家の使用人がほとんどで、商人はごく少なかった。「ボルシェヴィキに入ることに無関心」だったが、トリャピーツィンが朝鮮独立への赤軍の援助を確約したことで、市内の韓人会は部隊を組織し、パルチザンの傘下に入ると忠実な手先となり、監獄の監視、死刑執行などを確実に行ったが、軍規は厳格で、徴発、没収、略奪には参加しなかった。原暉之によれば、グートマンが述べている「軍規が厳格な朝鮮人部隊」とは、韓人会書記のワシリー朴を中心として、パルチザン進駐後にニコラエフスク市内で編成された100名ほどの第2中隊である。外部から来た朴イリア率いる第1中隊(サハリン部隊の名で知られる)は、横暴で士気が低かった。 ==事件の経過== ===包囲される尼港=== 1919年11月、コルチャーク政権が崩壊したことによって、白軍は求心力をなくし、勢力を弱めていた。ニコラエフスクにおいても、近郊の村々が次々に占領されていたが、白軍の反撃はことごとく失敗に終わった。白軍司令部は、日本軍の支援なくしてパルチザンに対することができなくなったことを悟ったが、1920年1月には極東の指令本部があったウラジオストクでも政変が起こり、そこで日本軍が白軍を支持しなかったことが手伝い、日本軍との関係も微妙なものになっていた。市内においても、港湾労働者などを中心に、パルチザンの到来を待つ人々も増えてきていた。 ===パルチザンの攻勢=== 冬期(11月から5月)のニコラエフスクは、港が氷に閉ざされ、陸路のみとなる。ニコラエフスクに駐屯していた第14師団の主力は、ハバロフスクにいたが、その間は、氷結したアムール川の氷上通行があるのみだった。しかも、パルチザンが横行するようになった1919年の末ころから、それも不可能に近くなっていた。 1919年10月、ハバロフスク・ニコラエフスク間のロシアの電線をパルチザンが遮断し、街と外部との連絡は、日本海軍の無線電信に頼るのみになっていた。 1920年1月、ニコラエフスクに駐留していた日本陸軍は、石川正雅少佐以下、水戸歩兵第2連隊第3大隊のおよそ300名に、通信、衛生、憲兵、野戦郵便局員を加えて、330余名だった。海軍は、石川光儀少佐、三宅駸吾少佐以下40数名だったので、総計370余名である。 白軍の弱体化により、ニコラエフスク市内の治安維持は、白軍司令官メドベーデフ大佐を前面に出しながらも、実質的には日本軍が担うことになり、1月10日には、夜間外出禁止令などが布告され、戒厳に近い状態となった。 1月23日、300人ほどのパルチザン部隊が、氷結したアムール川の対岸から、ニコラエフスクを襲撃してきたが、ロシアの旧式野砲を修理して用意していた日本軍が、砲撃を加えたために、すぐに退散した。 翌24日と26日には、三宅海軍少佐と石田虎松副領事より、海軍軍令部長および外務大臣に対し、陸戦隊の派遣を求める無線連絡があり、ニコラエフスク救援隊派遣の検討がはじまった。 ===トリャピーツィンの使者=== この24日、トリャピーツィンの使者オルロフが日本軍守備隊を訪れて、ニコラエフスクの明け渡しを申し入れたが、守備隊長は「このパルチザンは強盗団である」という認識から、白軍の求めに応じて、白軍探偵局へオルロフを引き渡した。白軍は、引き取った使者オルロフを殺してしまった。 実はオルロフは、実際に山賊をしていたという証言もある。虐殺から生きのびた市民E.I.ワシレフスキイ(課税評価人)が、1920年7月の宣誓証言で、こう言っている。「オルロフは、1918年のボルシェビキ委員のベベーニンとスレポフとともに逃亡し、逮捕処刑されるまで、山賊をやっていた」 オルロフの処刑について、スモリャークが述べるソ連側の言い分では、「白軍は使者を残虐に責め殺した」ということである。一方、白軍将校の中で奇跡的に虐殺をまぬがれたグリゴリエフ中佐は、次のように証言している。「パルチザンが町に入った後、彼らは軍使オルロフの死体を発見した。トリャピーツィンの命令で、ロシア人および日本人医師からなる委員会が組織され、オルロフの死体を検視した。そして、銃痕以外には、なにも傷がないことが確認された。(両耳は鳥につつかれていたが、それは死後に起ったことである)私は、このことを委員会の一員だったポブロフ医師から聞いた」 リューリ兄弟商会の社員だったYa.G.ドビソフにも、同じような証言がある。「トリャピーツィンによって公開された情報は、実際の事実とは一致しなかった。『我らの軍使オルロフは、拷問によって殺され、このことは国際調査団によって確認された』という彼の主張は全くのデタラメであった。反対に、ロシア人と日本人の医師からなる調査団は、オルロフの死体を検査し、数ヶ所の銃弾の痕以外は、他に傷がないことを証明した。私は、ボブロフが、調査団のロシア人医師の一人であったことを覚えている。トリャピーツィンは、この結論に大変不機嫌であった。そして、検査の報告を公表しなかった」 木材工場主のI.R.ベルマントもこう証言する。「トリャピーツィンは町に入市するとすぐ、ロシア人と日本人の医師、住民の代表からなる合同委員会を任命した。委員会は、数発の弾痕以外、オルロフの遺体には、何らの傷あとも、拷問のあとも認められない、と断定した。このことは、委員会のメンバーだった、ユダヤ人住民代表のデルザベットとボブロフ医師に聞いた。トリャピーツィンは以前から、オルロフは拷問によって殺された、と触れ回っていたが。委員会によってその結論が出たにもかかわらず、同じ事を言い続けた」 ===チヌイラフ要塞と日本海軍無線電信所への攻撃=== ニコラエフスクの町の入り口は、町から10キロあまり離れた丘陵地帯にあり、町を一望できるチヌイラフ要塞によって守られていて、その近在には、日本海軍の無線電信所があった。 すでに白軍にはチヌイラフ要塞にまわす兵力がなくなり、日本軍が守備を引き受けていた。 1月28日、パルチザンの斥候8名がチヌイラフ要塞に姿を現し、戦いは始まった。翌29日、小競り合いがあり、チヌイラフ要塞とニコラエフスクの間の電線がパルチザンによって切断された。2月4日になって、ブラゴエシチェンスクにいた第14師団長白水淡中将からニコラエフスク守備隊へ、「パルチザン側から日本軍を攻撃してこないかぎり、自ら進んで攻撃をすることはやめよ」という新方針の無線連絡があった。要塞守備隊の人数が少なかったところへ、この指示が来て、翌5日には要塞を明け渡した。2月7日、要塞を占領したパルチザンは、海軍無線電信所を砲撃してきて、電信室が破壊された。やむなく陸海の守備隊はニコラエフスクへ引き上げることに決したが、その際の戦闘で、陸軍兵2名が死亡し、榊原機関大尉は下腹部貫通銃創の重傷を負い(後日死亡)、陸海各1名が軽傷を負った。 これにより、ニコラエフスクと外界との連絡網はすべて絶たれた。 最後の無線連絡で、事態を知った陸軍当局は、ニコラエフスクへの増援を検討したが、各地で不穏な情勢が続いていたため、ウラジオストク、ハバロフスクともに兵員の余力が無く、可能になり次第、本土から増援部隊を送ることとした。2月13日、北海道の第7師団より増援部隊を編成する手続きをとった。一方、海軍は、北樺太(北サハリン)のアレクサンドロフスクからも不穏な情報が入っていたことから、三笠と見島(砕氷船)を視察に出したが、ニコラエフスクの方は堅氷に閉ざされて、艦船の近接、上陸は不可能だった。結局、陸軍の増援は延期された。 ===尼港の開城=== ニコラエフスク開城の条件は、日ソで見解が食い違っている。開城の条件は、次項で述べる日本軍決起の原因にも深くかかわってくるので、ここで、開城の経緯とともに子細に双方の主張をまとめる。 ===尼港開城の経緯=== チヌイラフ要塞を占領したパルチザンは、ニコラエフスクに砲撃を加えたが、それほどの被害はもたらさなかった。2月21日、砲撃は止まり、トリャピーツィンは再び使者を派遣して、「我々に町を引き渡さなければ、砲撃で破壊する」という手紙を、日本軍守備隊に届けた。 同じ21日、トリャピーツィンは、ハバロフスクの日本軍無線電信所宛にも、「ニコラエフスクの日本軍は通信手段を失っているので、われわれの無線電信仲介によって、そちらが戦闘停止を指示してもらいたい」と打診していた。この報を受けて、陸軍当局は、ウラジオストクの派遣軍に「ニコラエフスクにおける衝突は、パルチザンの攻撃に始まっているのだから、わが日本の守備隊は正当防衛をしているにすぎず、以降、日本軍と居留民に損害が出たならば、その責任はパルチザン側にある。パルチザンは攻撃を中止し、日本の守備隊が無線電信を使えるようにして、守備隊長石川少佐と、ハバロフスクの山田旅団長が直接連絡できるようにしてくれ」とパルチザンに回答するよう、指示した。 ニコラエフスクのロシア人指導者、市長と市参事会、地方議会の代表たちは、日本軍宛のトリャピーツィンの手紙を検討し、市民の命の安全と町の繁栄の保持を条件に、赤軍との交渉をはじめることを決めた。5日以来、外部とのすべての通信が遮断されていたため、他の都市の状況を知る手段もなく、それが知りたかったこともあって、ロマロフスキイ市議会議長、カルペンコ市長、ネムチノフ大尉が使者となり、トリャピーツィンが本営をかまえていたチヌイラフ要塞に向かった。トリャピーツィンは彼らを使者と認め、およそ以下のような条件を提示した。 白軍は武器と装備を日本軍に引き渡す。軍隊と市民の指導者は、赤軍入城までその場にとどまる。ニコラエフスクの住民にテロは行わない。資産と個人の安全は保障される。赤軍入城までの市の防衛責任は、日本軍にある。赤軍入城後も日本軍は、居留民保護の任務を受け持つ。市の指導者たちは、これを受け入れる方向で動いたが、白軍は「赤軍はかならず裏切って、合意はやぶられる」と主張し、開城を受け入れなかったので、最終的な判断は、日本軍にゆだねられた。 2月23日、パルチザンの無線を通して、白水師団長から守備隊長の石川少佐宛に、「パルチザン部隊が日本の居留民に害を加えたり、日本軍に対して攻撃的態度をとらないかぎり、これまでのいきさつにこだわらず、平和的解決に努めよ」との指令が届いた。石川少佐は海軍と相談し、24日から停戦に入り、28日、パルチザン部隊と講和開城の合意が成立した。 ===尼港開城の条件=== 尼港開城にあたって、日本軍とパルチザンの間でかわされた合意条項に関して、双方の見解を比較する。 まず日本側だが、『西伯利出兵史要』は「日露(パルチザン)両軍が治安を維持すること。裁判なくして市民を銃殺しないこと。ほしいままに市民を捕縛したり、略奪したりしないこと」が合意事項であったようだとし、『西伯利出兵 憲兵史』は「ニコラエフスク市内においては反革命派を検束しないこと。規定数以上のパルチザンを市内に入れないこと」だったのだろうとする。 一方、スモリャークが述べるソ連側の見解では、一応、日本側は交渉の席で、「人格と住居の完全な不可侵、白軍や官吏、政府機関職員を含む全市民の財産の不可侵。過去の完全な免責。新政権と同一の見解に立たない白軍の全将校と兵士は、日本軍司令部の保護下におかれ、航行が再開され次第、その護衛の下に自由に外国に出国する権利をもち、また出国にいたるまでの期間軍服を着用する権利を保持する」という保障を求めたが、パルチザン側はこれを認めなかった、としている。原暉之もまた、ソ連側文献を根拠に、日本側からは「砲を日本軍にわたすこと。入市するパルチザンの数を制限すること。新政権と意見のあわない将兵は日本軍と日本領事館の保護を受け、解氷とともに出国する権利を保障されること」といった条件が出されたが、パルチザン側はこれをつっぱね、日本軍が折れて合意に達した、とする。 これに関して、事件直後の宣誓証言から、引用する。 私は、町の引渡しに関する赤軍との交渉が、どのように始まったのか正確には知らない。秘密裏に行われていたからである。その後、我々(白軍司令部)の代表数人も参加した。これらの代表者は、ムルガボフ少尉とネムチノフ大尉である。これら軍の代表者に、町の代表者たちが加わった。町の代表者は、市長カルペンコ、市議会議長コマロフスキイ、ゼムストヴォ(地方自治会)の議長シェルコブニコフであった。交渉が終ると、メドベーデフ大佐は会合を召集し、白水中将の宣言によって、日本軍は赤軍との交渉を始め、町を引渡すことを決定し、しかも引渡しの条件もすでに決定している、と文書を読み上げて、我々に伝えた。全部は憶い出せないが、最も重要なポイントは次のようなものであった。ロシア軍(白軍)部隊は、個々人の免責は保障される、そして、アムール河の航行が可能となったら、町を自由に離れることも許可される。日本軍は武器を保持するが、ロシア軍は赤軍が町に入る前に、武器と装備を日本軍に引き渡す。また、町の住民は、一切の免責と平和を保障される ― グリゴリエフ中佐(『ニコラエフスクの破壊』付録A 事件直後の宣誓証言集、pp. 171‐172) 町を引渡すときの条件は、以下のようなものであった。日本軍は武器を保持する。ロシア軍(白軍)部隊は、パルチザン入市以前に日本軍によって武装解除され、全ての町の警備は一時的に日本軍によって代行される。ロシア軍のその後の処遇については、ソビエト政府の法律によって決定される。市民は、その自由を制限されることはない。この最後の項目は、希望的な表現になっていた ― E.I.ワシレフスキイ(『ニコラエフスクの破壊』付録A 事件直後の宣誓証言集、p. 202) 誰もが、『流血が起らない限り、日本軍は、権力の移譲に反対しない』という白水中将の声明に驚いた。日本軍は、休戦に合意した。一方ロシア軍(白軍)は、武装解除を要求された。合意によれば、ロシア軍派遣隊は、パルチザンの到着前に日本軍に武器を引き渡すこと、そして市内の治安維持活動も日本軍に引き継がれることになっていた。パルチザンとの戦闘に参加した者に対しては、全員の罪の免除が保障されていた ― S.I.バルナシェフ(『ニコラエフスクの破壊』付録A 事件直後の宣誓証言集、p. 210) 降伏に関して、その条件案が話し合われました。それによると、逮捕されるのは諜報機関のメドベーデフ大佐と参謀長スレズキンだけとなっていました。全ての市民とその資産は、無傷で保全されることになっていました。この降伏に関する条件が、町中に張り出されまし ― V.N.クワソフ(女子学生)(『ニコラエフスクの破壊』付録A 事件直後の宣誓証言集、p. 243) 合意では、日本軍は、日本人居留民ならびにロシア人を含む一般住民の、護衛権を保持することになっていた。その他の合意条件は、次の通りであった。パルチザンの到着以前にロシア軍(白軍)は武器を日本軍に引渡すこと、日本軍は武器の保有権を有すること、パトロールを継続できること、日本人所有の建物の護衛権を保持すること ― I.R.ベルマント(『ニコラエフスクの破壊』付録A 事件直後の宣誓証言集、p. 239) ===ブラゴヴェシチェンスクの場合=== ちなみに、ニコラエフスク開城交渉に先立つ2月5日、アムール川を遡った内陸部にあるブラゴヴェシチェンスクにおいても、政変が起こっていた。赤軍が政権をとるにおよんで、白軍などは家族とともに日本軍に保護を求めてきたが、ここでは白水師団長が自ら赤軍側と交渉し、「一般人民の生命財産の安全を保障し、市内の安寧秩序を確保すること。市内にこれ以上の武装勢力を入れないこと」などを求めて、ついに呑ませ、白軍の軍人も助けた。日本軍は政治的中立は守るけれども、治安維持に責任を持っている以上、ロシア人の生命、財産の安全にも口をはさむ、という姿勢だったのである。なお、ブラゴヴェシチェンスクでは1900年に清国人3,000人がロシア軍によって虐殺されるアムール川事件が起きている。 ===開城合意の波紋=== 2月27日、ニコライエフスクの市民代表団と赤軍の間で、開城合意文書が調印された。同日夕刻、市のホールで報告会が開催され、代表団の一人、市議会議長のコマロフスキイが、開城にあたっての条件に関して市民に報告した。代表団のメンバーは、メンシェビキおよび社会革命党だったが、このとき、政治的に相容れないはずのボルシェヴィキ革命の勝利を、心から歓迎していた。 白軍のメドベーデフ大佐は、合意文書調印の夜、日本軍の本部を訪れてこれまでの謝辞を述べ、自宅に帰って自決した。参謀長スレズキンと、諜報機関の将校2人も、メドベーデフ大佐にならって命を絶った。グートマンは、「彼らは、仲間の将校や、ニコラエフスクの市民より幸福であった」としている。 ===日本軍決起の要因=== パルチザンのニコラエフスク入城は2月28日正午に行われた。日本軍の決起は、3月12日未明に始まった。この項では、その間の状況とともに、決起に至った要因の研究状況をまとめる。 ===赤軍支配下の尼港=== ニコラエフスクに入城したパルチザン部隊は、資産家の自宅や公共施設、アパートなどを接収し、分宿した。入城セレモニーの後、トリャピーツィンは、赤軍司令部によって、自身がニコラエフスク管区赤軍の司令官に任命されたことを宣言し、本部はノーベリ商会の館に置くことと、赤軍の人事を発表した。参謀長はナウモフ。レホフとニーナ・レベデワ・パウロウナ・キャシコが本部宣伝部門指導者。チェーカー3人、軍事革命裁判所メンバー5人、などである。続いて、全公共機関には監視員が派遣され、印刷所が接収されて、町の新聞はすべて発行禁止となった。またすべての職場で労働組合を組織することが命令され、組合員に加入しなかったり、受け入れられなかった者は、「人民の敵として抹殺される」と発表された。同時に、チェーカーとパルチザン部隊の活動が始まり、公共機関、ビジネス界で重要な地位にある市民たちの資産没収、逮捕が発令された。 ソ連側文献によれば、2月29日、ニコラエフスクにおいて第一回州革命執行委員会が開催され、ロシア人が所有する大企業、銀行、共同組合を国有化し、ロシア人所有の小企業と外国人所有の大企業を監査して、必要な場合は徴発することが決められた。また組合員となった市民の労働に対しては、現物支給を行い、配給制が計画されていた。 最初の逮捕者は、400人を超えたといわれる。白軍の将校にはじまり、ついで白軍兵士や出入り商人、企業家、資産家、立憲民主党員、公務員、知識人、聖職者、個人的にパルチザンの恨みを買っていた者など、女性も年少の者も区別無く投獄され、拷問にあい、処刑された者も多数にのぼった。 銀行や企業、産業、商業の国有化が開始され、投獄された人々の資産は没収された。徴発委員会が組織され、個人宅に押し入って金銭、貴金属類などを奪ったが、それに名を借りて、個人的な略奪も横行した。逮捕者の数は増え続け、ニコラエフスクの住人は、パニックに陥っていた。 ===決起についての日ソの見解=== 1920年6月30日、日本外務省公表の『尼港事件ニ関する件』によれば、ニコラエフスクにいた中国領事や惨殺を逃れたロシア人たちの話、新聞情報を総合して、日本軍決起の要因は次のようなものだった。「日本軍はパルチザンとの間に協定を結び、白軍を虐殺しないこと、としていたが、パルチザンは約束を破って惨殺した。またパルチザン部隊は、ニコラエフスク市内で朝鮮人、中国人を集めて部隊を編成し、革命記念日に日本軍を抹殺するとの風評が流れた。3月11日午後になって、日本軍は武装解除を求められ、しかも期限を翌12日正午と通告されたので、自衛上、決起した」 『西白利出兵 憲兵史』も、事件直後の外務省見解と基調は変わらず、決起にいたった状態を次のように述べている。「開城の合意条項において、ニコラエフスク市内では白軍であっても検束しない、ということになっていたにもかかわらず、入城するや否や、ほしいままに白軍、有産者を捕縛、陵辱、略奪し、日本軍に保護を願ってくる者が多数にのぼった。そこで、守備隊長の石川少佐は石田虎松領事と相談して、3月10日、トリャピーツィンに暴虐行為をやめるように勧告したが、かえってトリャピーツィンは、日本軍に武器弾薬全部の貸与方を要求して、翌12正午までの回答を迫った」。 事件により、400名近い日本軍守備隊は全滅したにもかかわらず、ある程度、戦闘状況などがわかったについては、ニコラエフスクの廃墟から、香田一等兵の日記などが発見されたためである。原暉之は、香田日記の表現が、「武器弾薬ノ借受ヲ要求」となっていることから、トリャピーツィンが日本軍に武装解除を迫ったという日本側の見解に疑問をはさみ、次に述べるソ連側の言い分に理解を示す。 ソ連側、スモリャークの論文では、事件に関係した赤軍の一人、オフチーンニコフの回想録により、「赤軍と日本軍の関係は友好的なものであった。しかしながら、これは日本側が赤軍を欺いていたのである」とし、「日本軍は講和条約の条件を破り、突然攻撃してきた」と結論づけられている。 これは、日本軍決起鎮圧直後に、トリャピーツィンがニーナ・レベデワ(ナウモフの死により参謀長になっていた)と連名で、各地に打電した声明文に基づいた回想と思われる。トリャピーツィンは、日本軍との友好関係を、次のように宣伝していた。「日本軍将校達は、頻繁に我々の本部を訪れて、仕事をする以外に、友人であるかのように議論に加わったり、ソビエト政府に対する賛同を表明したり、自分達をボルシェヴィキと呼んでみたり、赤いリボンを服に着けたりしていた。彼らは、武器の供給であるとか、その他可能なあらゆる方法で、赤軍を援助すると約束した。しかし、後に明らかになるように、それは、計画していた裏切り行為を隠蔽するために、彼らが被った仮面に過ぎなかった」 これについて、虐殺を生き延びたE.I.ワシレフスキイは、1920年7月に、こう宣誓証言をしている。「パルチザン本部への、日本軍の攻撃は、3月12日の午前2時か3時ごろに始まった。その攻撃の前に、日本軍の武装解除の通告に関する件と、パルチザン本部に来た日本軍の人たちに行った、赤いネクタイにピンを付けさせるような件による侮辱と、一連の挑発的な行動によって意図的にパルチザン達が、情報を流しているとの噂が、広まっていた」 アメリカ人マキエフは赤軍はニコラエフスク市街に侵入後、旧ロシア軍人、官吏等2,500名を捕縛し、そのうち200名を惨殺するなどの暴虐を行ったため、日本守備隊長が抗議を申込むと赤軍は却て日本軍の武装解除を要求し、日本守備隊長がこれを拒絶しついに日本軍と赤軍との間に戦闘が開始されたと証言している。 ===宣誓証言に見る決起の要因=== 事件生存者による1920年の宣誓証言から、日本軍決起の要因に関する部分を次に引用する。 Ya.G.ドビソフ「噂によれば、日本軍は、武器引渡勧告に対して、それを議論するために軍事会議を開かなければならない、旨を回答した。3月11日の夜に、参謀長ナウモフは石川を呼び、鋭い語気で、『交渉は、もう時間切れだ。もし、明日の11時までに武器を引渡さない時は、こちらも必要な処置を取る』と、彼に言った。私はこの話を、パルチザン本部で聞いた」 G.B.ワチュイシビリ(グルジア人)「3月10日に、日本軍は、『引渡しの条件の下では、ボルシェビキは何人をも逮捕することはできない。赤軍の処刑による“人々の抹殺”のような暴力行為が行われた場合には、日本軍は、それに対して行動を起こすであろう』と、書かれたビラを配った(同様のものが、赤軍が町に入る以前にも、配布されていた)。にもかかわらず、逮捕は続き、その数は日増しに増えていった。3月11日の晩に、赤軍は、反革命による犠牲者の葬儀を、翌12日に開催するので出席するようにとの招待と、その日の昼までに、保有する武器を引渡すようにとの勧告を、日本軍司令部に通達した」 V.N.クワソフ「3月12日午前2時、私たちは、大砲、機関銃、ライフルの音で目を覚ましました。そして、眠れぬ一夜を過ごしました。翌朝、日本軍が、赤軍の武装放棄要求を拒否して、攻撃を開始したことがわかりました」 I.R.ベルマント「3月11日午後5時、島田鉄工所の管理者で日本人の森氏が、電話をかけてきた。すぐに来てくれ、という。行ってみると、彼は、龍岡氏から今聞いたばかりだという話をした。軍関係者によると、トリャピーツィンが日本軍に対し、武器および機関銃を3月12日正午までに放棄せよ、と要求してきたと言う。私は尋ねた、『どうなるのだろうか?』『私の考えでは、日本軍司令部が武器を放棄するはずがない。その先どうなるかは、私にも見当がつかない』と、彼は言った」 『ニコラエフスクの破壊』の著者グートマンは、上のような証言を含む調査報告書をもとに、「日本軍本部は、血に飢えた人々に接収された町の中で、ボルシェビキの残虐な行為に対して、不平を言い、住民を困難な状況での避けがたい死から救うことを喜んでしようとする唯一の人間的な公共機関であった」とし、およそ次に要約するようなことを述べている。「赤軍が開城合意条項を裏切り、文化教養のある層を殺戮している中で、ロシア人はひそかに日本領事を頼り、日本人居留民も、次は自分たちではないかと不安を訴えた。日本軍は、毎日のように、合意遵守の必要を赤軍本部に訴え、略奪、殺人、拘束に抗議したが、無視され続けた。そこで、『日本軍と赤軍との合意条件の下では、市民の殺人、逮捕、資産の略奪は許されない』というビラを刷って配ったが、パルチザンによって破棄された。日本軍将校が、トリャピーツィン本人に抗議したときには、『内政問題なのであなた方には関係がない』と言い捨てた。しかし、トリャピーツィンにとって日本軍は邪魔だったので、挑発して片付けてしまうことを目論み、武装解除と武器引渡しを求める最後通牒をつきつけた」 『ニコラエフスクの破壊』の米訳者エラ・リューリ・ウイスエルも、次のように述べている。「ソビエト政府は、残酷な結末となった日本軍守備隊によるパルチザン部隊攻撃が、トリャピーツィンの挑発行為によって誘発されたものであることを絶対に容認しなかった。ソビエト側の文献では、ニコラエフスク占領は、英雄的パルチザンによる誉れ高い偉業として言及されている」 ===戦闘と虐殺=== 日本軍決起にともなって、日本人居留民のほぼ全員が惨殺された。しかしソ連側文献は、「居留民の死の責任は決起した日本軍にあり、パルチザン側にはない」という見解をとっている。原暉之はこのソ連側の見解を受け、参謀本部編『西伯利出兵史』の「戦闘の局外にあった民間人が敵軍の手で皆殺しになったような書き方」に疑問を呈している。 この項では、決起後の日本軍の戦闘を追うとともに、居留民虐殺の状況についてまとめる。 ===戦闘の経過=== ニコラエフスクにおける日本軍の兵力概数と配置は、以下のようだった。 計画は、およそ以下のようなものであったのではないか、と推測されている。陸軍部隊のうち、水上大尉率いる90人ほどが赤軍本部とその護衛部隊(ノーベリ商会と市民倶楽部)を襲撃。石川陸軍少佐は、60人ほどを率いて、赤軍本部付近の掃討をなしつつ北方から赤軍本部を攻撃する。後藤大尉率いる90名ほどについては、監獄を襲って、赤軍に捕らえられていた白軍や市民を解放しようとしていたのではないか、とされる。海軍部隊は、半分が赤軍本部の襲撃に参加し、半分は領事館の警備に残った。 日本軍は3月12日未明、赤軍本部を襲った。参謀長ナウモフが死に、トリャピーツィンも足に負傷を追ったが、ニーナ・レベデワに助けられて逃げた。しかし、クンストアルベルト商会を宿舎としていた赤軍副司令ラプタは、攻撃の圏外にいて、ただちに分宿したパルチザン部隊に連絡をとり、指揮をとった。市街戦となり、数に劣る日本軍は劣勢となっていった。市街戦は、ほぼ2日間続いた。島田商会は、赤軍本部に近かったこともあり、ここに立てこもった部隊もいたとされる。石川陸軍少佐がまず倒れ、12日夕刻、配下の生存者13名は、三等主計の指揮のもと、兵営に帰り着いた。水上大尉も、部下の過半数を失い、ある家屋にたてこもって闘っていた。 同日、負傷兵3名がスヤマ歯科医のもとに身を寄せたが、パルチザンは大家のアヴシャロモフ一家を追い出すと家に火を付け爆弾を投げ込んだ。外に飛び出した日本兵は殺害され、歯科医は爆弾で首を吹き飛ばされ、夫人は焼死した。 3月12日、後藤大尉隊は、早めに兵営を出て街の東方のはずれにある監獄をめざし、捕らえられていた人々を解放しようとしたが、守備が厳重で果たさなかった。あきらめて、本隊に合流しようと市中を進むうちに市街戦になった。戦闘相手の中心は、リューリ商会とスターエフの事務所に宿営していた中国人、朝鮮人からなるパルチザン部隊だった。路上の後藤大尉隊は、建造物を占拠しているパルチザンから狙い撃たれ、手榴弾を投げられるなどで苦戦し、生き延びた30余名がアムール河畔の憲兵隊に合した。 3月13日、中国軍砲艦による砲撃で日本軍兵営を悽惨極めるほどに破壊された。憲兵隊と合した後藤隊の生存者は、砲撃してきた中国軍砲艦目がけて突撃して全滅したと思われると香田昌三一等兵は書きとめている。11時には2月7日の戦闘で重傷を負った榊原海軍機関大尉が陸軍病院で息を引き取った。 払暁、水上大尉隊は包囲を突破して兵営に帰ることに決し突出し、水上大尉は戦死したが、20名ほどは河本中尉の指揮で無事帰り着いた。海軍部隊も攻撃に出た者はほとんどが倒れ、わずかな人数が領事館に帰った。 3月14日早朝、パルチザン部隊は、日本領事館を包囲すると火を放ち、中国軍から日本軍を砲撃するためとして貸与された艦載砲とガトリング砲で攻撃した。 グートマンは、包囲突撃に参加したパルチザンの、次のような話を紹介している。「石田領事は、領事館前の階段に現れて、『領事館とここにいる人は、国際法によって保護されている。そして、領事館は、不可侵である』と説得をはじめたが、一斉射撃が浴びせられ、領事は血まみれで倒れた」。しかし一方でグートマンは、生き延びた領事館の使用人が、「領事は妻と子供を射殺し、火を放って自殺した」と語ったとも記している。領事館の隣人・カンディンスカヤ夫人は、ボルシェビキからの保護を求めて領事館に駆け込んだところが、領事は「領事館の日本人は死を覚悟している。あなたが生存を望むなら早くお逃げなさい」と言い、また領事夫人は、子供に晴れ着を着せながら泣いていた、といった証言を行っていることから、結局、グートマンは、領事と夫人は最初から死を覚悟していたのだろう、と結論づけ、しかし、領事館の火災については、パルチザン部隊が投げた手榴弾によるものだった、としている。 当初、日本に伝えられた話では「石田領事は三宅少佐と差し違えて死んだ」ということだったが、石田領事などの遺骨を日本へ持ち帰った和田砲兵大尉によれば、「三宅少佐は領事館に押し寄せた敵に最後の戦いを挑んで、銃弾に倒れた」ということである。 ともかく、領事館は炎につつまれ、領事館を守護していた海軍無線電信隊は、石川少佐、三宅少佐以下、全員戦死。石田領事とその妻子、領事館にいた在留邦人も、すべて死亡した。 グートマンは、このとき、「凍結した港内にいた中国砲艦は、日本領事館の方向から突進してきた日本軍兵士と日本人居留民に発砲し、人々は、パルチザンと中国人の十字砲火の中で、全員死亡した」としている。これについて、グートマンと同じ生き延びたロシア人からの聞き取り調査を資料としたと思われる石塚教二の『アムールのささやき』は、「憲兵隊と合流していた後藤隊の残存者たちが、領事館から逃れて来た居留民たちを中国砲艦に助けてもらおうとしたところ、砲艦は居留民に発砲したので、後藤隊は砲艦に突進して全滅した」と解釈している。井竿富雄山口県立大学教授も中国軍は助けを求める在留邦人を撃ったとしている。 なお、グートマンは、日本軍の戦闘について、こう書いている。「明らかに、日本軍は、無用な血を流すことを意図してはいなかった。あらゆる可能性の中で、日本軍が目標としたものは、単にパルチザンの武装解除であった。このことは、日本軍に取り囲まれた建物のパルチザンの多くが、殺されていなかったのみならず、傷ついてさえもいなかったという事実がこれを説明している。パルチザンによる報告では、日本軍は、単に彼らの武器を持ち去り、彼らを自由にさせた。9人の医助手が、巡回裁判所の反対側の建物で逮捕された後、解放された。建物に駆け込んだ時、日本軍兵士たちは、単にそこに武器があるかを質問したのみで、否定的な返事を受け取ると、彼らはロシア人を害することもなく立ち去った」 領事館が焼け落ちた後、生き残った日本兵は、守衛のため兵営に残っていた者、帰り着いた者をあわせて、およそ80人あまりだった。女性を含む民間人も13人ほどが兵営に逃れてきていて、ともにたてこもっていた。また、アムール河畔の第二陸軍病院分院に、分院長内田一等軍医以下8人、患者18人がいた。 香田日記によれば「数門の砲および中国砲艦より砲撃を受け、兵舎の破壊は凄惨をきわめた」ということで、大隊本部は破壊されたが、中隊兵営に立てこもった100人ほどは、河本中尉の指揮下、四昼夜の籠城戦に耐えていた。ところが3月17日夕刻、突然、パルチザン側から、ハバロフスクの山田旅団長、杉野領事の名入りの電報を提示された。この電報は、ハバロフスクの革命軍司令官ブルガルコフと外交部長ゲイツマンが、山田旅団長と杉野領事に対し、「ニコラエフスクで戦闘が起こっているので、おたがい戦闘中止に尽力しようではないか」ともちかけ、評議の上、4人の連名で、日本軍とトリャピーツィン双方に、中止を勧告したものだった。 3月18日、河本中尉は「戦友が倒れただけでなく、同胞がみな虐殺されている中で、降伏はできない。しかし、われわれの戦闘が国策のさわりになるというので、旅団長がこう言ってきたのならば、逆らうこともできない」と述べて、戦闘を中止した。ニコラエフスクでの日本軍最高級者になっていた内田一等軍医が、武装解除を決め、民間人をも含めて兵営に立てこもっていた全員、そして軍医以下の衛生部員もみな、監獄に収容され、衣服も奪われ、過酷な労役を課された。3月31日にニコラエフスクを脱出しアレクサンドロフスク・サハリンスキーに逃れてきたアメリカ人マキエフの当時の証言では拘禁された日本人の待遇は日々冷酷を極めつつあり、その惨虐行為は外部に対し極力秘匿されていたが今や一人も生残るものはないであろうと語っている。 ===日本人虐殺=== グートマンによれば、パルチザンが最初に襲った日本人居留民は、花街の娼妓たちだった。「残酷な獣の手で見つけ出された不幸な婦人に降りかかった災難については、話す言葉もない。泣きながら、後生だからと婦人は、拷問者と殺人者に容赦を嘆願し、膝を落とした。しかし、誰も恐ろしい運命から救うことはできなかった。別の婦人は、かろうじて着物を着て通りを駆け出し、その場でパルチザンに銃剣で突かれた。通りは、血の海と化し、婦人の死体が散乱した」 また、即座に殺されなかった女性と子供についても、運命は過酷だった。「3月13日の夜の間に、12日の午前中に監禁された日本人の女性と子供が、アムール河岸に連れて行かれ、残酷に殺された。彼らの死体は、雪の穴の中に投げ込まれた。3歳までの特に幼い子供は、生きたまま穴に投げ込まれた。野獣化したパルチザンでさえ、子供を殺すためだけには、手を上げられなかった。まだ生きたまま、母親の死体の側で、雪で覆われた。死にきれていない婦人のうめき声や小さなか弱い体を雪で覆われた子供の悲鳴や泣き叫ぶ声が、地表を這い続けた。そして、突き出された小さな手や足が、人間の凶暴性と残酷性を示す気味悪い光景を与えていた」 パルチザンによる日本居留民の虐殺について、『西伯利出兵史要』は、次のように述べている。「敵は、わが軍の攻撃を撃退するや、直ちに市内の日本居留門を襲ってその全部を虐殺し、その家産を奪った。屈強の男だけというならまだしもの事、なんら抵抗力なき老若婦女もことごとく虐殺せられたのである。はなはだしきに至っては、小児なぞ投げ殺されたものもあるとの事で、その残忍凶悪ほとんど類を見ないのである。かくて彼らの魔手をのがれ幸に兵営に遁るるを得たものは400有余名の居留民中わずかに13名にすぎないのである」 これに対して原暉之は、「たしかに三月の戦闘時点で尼港日本人居留民の一部が略奪されたり殺されたりしたことは否定できない」としながら、全体としては、軍隊と行動をともにしての戦死と敗戦の過程での集団自決が多かったのではないか、と憶測する。原が、その根拠としているのは、主に以下の三点である。まず、現地入りした外務省の花岡止朗書記官の、6月22日付け内田外相宛報告に、「当地居留民ハ今春3月12日事件ノ際領事及軍隊ト行動ヲ共ニシ大部分戦死」と書かれていること。次に、救援隊の多門大佐が、ニコラエフスクを脱出してサハリンに現れたアメリカ人毛皮商人から、「脱出するとき、知り合いの日本人を誘ったが断られた。日本人はみな一団となって日本軍とともに抵抗する決心をして、知り合いの日本人も島田商店に立てこもった。憲兵隊の宿営も全焼したが、居留民も兵士と共に火中に身を投じた」というような話を聞き、5月6日付で参謀本部に報告していること。最後は、領事館の二人の海軍大佐が自決したともいわれ、また石田領事が妻子を道連れに自決したのではないかと推測されること、である。 原暉之が理解を見せるソ連側言い分の基本には、日本軍決起の要因と同じく、トリャピーツィンとニーナ・レベデワ連名の宣伝電文がある。「日本軍の主力部隊は、日本領事館、兵舎、守衛隊本部に集結された。さらに、本隊から切り離されてしまった兵士達は、日本人が居住していた全ての家屋で籠城した。日本人居留民の全員が武装し、攻撃に参加していた」と、彼らは各地に打電していたのである。 トリャピーツィンとニーナ・レベデワは、仲間割れによって処刑されるが、そのときの人民裁判の罪状に、日本人居留民の虐殺は含まれていない。 原暉之の疑念に関して、パルチザンと生き残ったニコラエフスクの人々の宣誓証言を引用する。 p. Ya.ウォロビエフ(パルチザン)「トリャピーツィンの裁判には、私は副議長として参加したが、次の事実が確かめられた。トリャピーツィンへの奉仕活動の中で、委員となるためには、少なくとも18人の人間を殺さなければならなかった。(中略)裁判で、トリャピーツィンが何故、そして何の罪で日本人居留民は殺されたのか、と尋ねられた時、彼は、『あなた達はもっとよく知るべきだ。あなた達が殺人を行ったのだ』と、答えた。そして私の、『しかし、あなたはその結果に対する命令を発しなかったか?』という質問に対して、『いいえ』と、答えた。しかしその間に、例外なく全ての日本人居留民を殺すこととの命令の書かれた、ウスチ・アムグン連隊司令官へ宛てに出された、トリャピーツィンとニーナの署名のある文書が存在した」 S.D.ストロッド(学生)「日本軍の攻撃の間に、女子供も慈悲のかけらもなく殺された。近所の人が、日本人女性2人と、子供2人がアムール河の方へ連れて行かれるのを見た、と言っていた。(中略)3月16日に、アムール河岸に放置されている死体の中に、兄がいないかと、探しに行った。死体の数は大変な数であった。最初の山には30体が積み上げられており、その多くは日本人の男女であった。1体だけロシア人の死体が混じっていた」 Ya.G.ドビソフ「私は後に、『お前が日本軍に隠れ家を提供したから、やつらはそこから発砲してきた』という口実で、多くのロシア人が、パルチザンによって殺されたことを知った。また彼らは、平和的な日本人居留民の家に押入り、金目の物を要求した後、彼らを殺した。日本人居留民は、攻撃に参加していなかったばかりでなく、攻撃があることさえ知らされていなかった。もし、日本軍司令部が居留民に、これから起こることを警告したり、武器を与えたりしていたら、後に起こったようなことは起こらなかったであろう。その場合には、おそらく、パルチザン達は持ちこたえられなかったであろう。監獄と民兵営舎に収容されていた800人を超える囚人が、解放されていたに違いないからである。しかしあいにく、女子供を含めて、日本人居留民はすでに全員殺されていた。私自身、多くの囚人がどこかに連れ去られるのを見た。その後、銃声と打撃音、悲鳴が聞こえてきた」 A.p. アフシャルモフ(学生)「日本人居留民は、日本軍による攻撃を、全く誰も知らされていなかった。それどころか、予測すらしていなかった。日本人の歯科医嵩山は、隣の叔父の家に住んでいた。パルチザンが我が家に来て、日本人が住んでいないか尋ねた。誰もいないと答えた。すると、隣の叔父の家へ行った。そして、ことは起った。叔父の家から銃声が聞こえた。パルチザン達は、叔父家族に外に出るように命令し、手榴弾を投げ込んだ。手榴弾3発が爆発した後、彼らは家の回りに干し草を置き、それに灯油をかけて、家に火をつけた。私は、この様子をずっと、窓越しに見ていた。家に火が放たれると、歯科医とその妻の側に、逃げ込んでいた3人の負傷兵がいたことがわかった。その3人の日本人は、炎の中を飛び出して来て、射殺された。歯科医は、爆発で吹き飛ばされて首がなかった。彼の妻は、焼死した。リューリ家の門のところで、日本人乳母の死体を見かけた。中国人パルチザンは、日本軍兵士の死体をあざけりながら、銃の台尻で、頭蓋骨を砕いていた」 E.I.ワシレフスキイ「日本領事とその家族は殺され、領事館は焼け落ちた。この攻撃に関与したしないに関わらず、女子供を含め、全ての日本人居留民が虐殺された。人々は、ベッドからたたき起こされて殺された。日本人の時計修理工も、自宅のすぐ近くで、同じように殺された。日本人居留民の行動をみていると、我々ロシア人と同様に、まさに寝耳に水、という様子であった。この未明の攻撃に関して、彼らは何も知らされていなかった、としか思えなかった」 S.I.パルナシェフ「日本人居留民の中に、この攻撃に関して、未決定の段階での情報を与えられたものは、いく人かはいたかもしれないが、大多数の日本人は、全く知らされていなかった。多くの人達が、その時までに義勇隊から動員が解除されていた。日本人居留民は、女性や子供を含めて、寝ていたベッドから掴み出されて、あるいはその場で、あるいは通りに連れ出されて、殺された。監獄に連れて行かれ、殺された者も大勢いた」 N.K.ズエフ(学生)「日本軍の攻撃中の3月12日か13日か(おそらく12日)朝10時に、パルチザンがラマキンの家に入って行った。そこには、6人の日本人が住んでいた。彼らは軍人ではなく、ただの職人であったが、全員が剣で斬り殺された。午後4時頃に、彼らの内、2人の男女が意識を取り戻した。指を切り落とされ、血まみれのまま何とか我々のフェンスにたどり着き、助けを求めて我が家に駆け込んできた。数人のパルチザンが、我が家の一階に住んでいた。そして、日本人が内側にたどり着く前に、銃を持って飛び出して行った。日本人は、膝を着いて叫んだ。『殺さないでくれ。何でも話すから』 しかし、この願いは無駄だった。パルチザンは、女を撃ったが、あまりに頭に近づけて回転銃を撃ったため、髪の中に額の部分が陥没した。それから、男を撃った。死体は、裏庭に3日間放置された。夕方、パルチザンの一人の中国人が、日本人のズボンを脱がしていたが、古くて擦り切れているのを見て、投げ捨てた」 G.B.ワチュイシビリ「3月12日の午前2時、日本軍の攻撃が始まった。日本人居留民はこの攻撃には参加しておらず、その計画さえも知らされていなかった。それにもかかわらず、パルチザンは、日本人居留民に突進し、彼らをベッドから引き摺り出し、外に連れ出し、資産を略奪している間に、有無を言わせず殺した。日本人の床屋と時計修理工とその子供は、私の家の通りを挟んだ向かい側に住んでいた。8時頃、彼らは家から追い立てられ、私の家の前を連行されて行った。12歳から14歳の4人の子供が、逃げようとした。中国人パルチザンが、後を追いかけ、4人とも射殺した。私の家から、川口乾物店まではそう遠くはなかった。3月12日の夜、中国人、朝鮮人パルチザンが、川口商店のドアを壊して、店を略奪し、住んでいた4人の事務員を殺した」 I.R.ベルマント「私は、日本人の一般住民が、攻撃に関しては何も知らなかったことを事実として知っている。日本人の女性達が、パルチザンに向けて発砲した、などというのは、全くの事実無根である。パルチザン達から聞いたのだが、朝鮮人と中国人パルチザンは女、子供もかまわず、狂ったように日本人を殺した、もっともロシア人の中にも、50歩100歩の輩もいたが、という。多くのパルチザンが、自分の戦果を自慢し合っていた。しかし、そうすることに憤りを感じているパルチザンが大勢いたことも、事実である」 A.リューリ(エラの祖母)「うちの御者がやって来ました。その男は、孫達の乳母が日本人で、私たちと一緒にいることを知っていました。彼は、私に言いました。『ばば様、お前さまもつらいだろうが、日本人のうばさんに今すぐ出てってもらった方がいい』 そして、彼女の方を向くと、言いました。『さあ、出て行きな』 すがり付くすべもなく、彼女は外に出ました。そして、裏庭から通りへ、突き出されました。彼女はそこで殺されました」 I.I.ミハイリク(会計係)「日本人居留民は、日本軍の攻撃には参画していなかった。これは、知っているパルチザンから聞いたのだが、他にも彼らが逮捕した日本人についても話してくれた。例えば、床屋の森とパン屋の百合野は、寝ていたベッドから裸のまま連行された。森は、『何故、私たちを殺すのか? 私たちは敵じゃない。ロシア人市民がそうであるように、もう長い間、あなた達と一緒に暮らしているし、一緒に仕事もしている』と言って、何とか助けてくれと懇願した。しかし、何の効果もなく、彼らは殺された。女、子供でさえも殺された。私は、腕に子供を抱えた女性達が、通りを連れて行かれるのを目撃した、彼女たちは、足を取られては、雪の上で転んでいた。そのたびに、早く立て、と銃尾で小突かれていた。彼女たちは、民兵隊の営舎に連行されて行った」 ===ロシア人虐殺=== 日本軍の決起に至るまで、赤軍が投獄した人々の処刑は、一応、赤軍裁判の手続きを経て行われていた。しかし、3月12日未明から14日の夜中の12時まで、3昼夜の間、裁判、審理なしで、一般住民の処刑が許されていたことが、残された書類でわかる。その書類と同時に、8日付けで、監獄の向かいの家に、死刑執行にあたった赤軍第一中隊の宿泊願いが出されていることから、グートマンは、「赤軍は、日本軍決起を挑発し、同時に手続きなしの市民殺戮を企てていたのではないか」と推測している。 日本人居留民の虐殺が始まると同時に、町の監獄と軍の留置所では、投獄されていた人々の惨殺がはじまった。監獄にいた160人のうち、生き残ったのは4人のみである。パルチザンは、銃弾を節約するために、囚人を裸にし、手を縛り、裏庭に連れ出して斧の背で頭を打ち、銃剣で突き、剣で斬った。死体は、町のゴミ捨て場に捨てられるか、アムール川の氷の中に投げ込まれた。街中で、一般の人々の家に押し入った場合は、銃殺した。資産家の妻から坑夫の娘まで、容赦がなかった。3月12日から16日までの5日間で、殺された日本人とロシア人の数は、1500人にのぼった。ロシア人のうち、600人は、企業家や知識人層として、町の誇りとなり、もっとも尊敬されていた人々だった。 続いて引き起こされる大量殺戮前の3月31日にニコラエフスクを脱出したアメリカ人マキエフは過激派がロシア人も日本人も関係なく掠奪惨殺を行い銃剣で蜂の巣のごとく刺殺するのを目撃している。 ===中国艦艇による砲撃問題=== 中国艦隊が日本軍を砲撃した件については、6月に日本軍の救援隊がニコラエフスク入りした直後、香田一等兵の日記ではっきりと確かめられ、生き延びたロシア人の証言も多数あって、調査が進められた。6月8日、中国海軍吉黒江防司令王崇文(中国語)海軍少将は石坂善次郎陸軍少将を訪れ配下の砲艦3隻はいまだ尼港にあるため確認は取れていないが調査を行っているので真偽は判明するであろうと答えている。 香田一等兵の日記が記した中国砲艦の砲撃は、「日本軍の兵営攻撃」と「後藤隊の残存者が砲撃によって全滅させられたようだ」という二点である。これに対して、中国側の資料としては、砲艦利捷の副官だった陣抜の回顧談を記述した『ニコラエフスクの回想』が残っているが、関与は認めながら、直接的な砲撃ではなく「パルチザン部隊に砲を貸し出した」ということになっている。 陣抜の回顧談によれば、以下のようなことになる。「中国艦隊は幾度も日本軍に行く手をはばまれ、白軍と日本軍に好意を持ってはいなかった。ニコラエフスクにパルチザンが進駐してくると、すばらしい軍隊だと感動し、友好関係を持った。12日夜、ニーナ・レベデワから日本領事館を攻撃するために大砲2門を借りたいと申し出があって、陣世栄艦長が江亨艦の3インチ舷側砲1門と利川艦のガトリング砲1門を貸し、側砲の鋼鉄弾と榴散弾それぞれ3発、ガトリング砲の砲弾15発を与えた」 日本政府は、北京政府に共同調査を申し入れ、9月、両国の委員がニコラエフスクにおいて中国艦隊の関与を確かめた。調査内容は公表されなかったが、当時の新聞報道によれば、日中間には、砲艦の乗員が上陸していたかどうか、直接的荷担か間接的荷担かで、事実認識にくいちがいがあったとみられる。10月26日、この共同調査の結果に基づき、小幡公使は北京政府に以下の和解案を示した。 中国政府が遺憾の意を表すこと中国砲艦の艦長が日本軍司令部に遺憾の意を表すこと関係将校下士卒の処罰中国艦の砲撃によって死亡した日本人遺族に慰謝料を支払うこと北京政府は、このうちの1と4に難色を示した。しかし年末に至って、中華民国政府は、共同調査報告書の字句修正(陸上交戦を武器貸与に変更)と、報告書と公文書の非公開を条件に、全項目を受諾し、三万元の慰謝料を払うこととなった。 陳世栄艦長は「解任して永久に叙任せず」という処分を受けたが李良才(陳季良)と名を改めて再び任務につき、文虎勳章を授与され将官に昇進すると第一艦隊司令などの重職を任され没後は上将を追贈された。また、共同調査の報告書が「武器貸与」に修正されたことから、現代の中国では関与は直接的なものではなく、間接的なものであった、と認識されている。 デロ・ロッシ新聞編集長アナトリイ・ヤコフレビッチ・グートマンが事件を総括した『ニコラエフスクの破壊』では、中国砲艦とパルチザンは領事館から逃れてきた日本兵と避難民に対して砲撃を行い、その十字砲火によって全滅させたとしている。 中国砲艦利捷の副官・陣抜の回顧談では、パルチザン部隊は日本領事館砲撃を目的に中国軍から艦載砲とガトリング砲を借り受け、使用法を教授されて、領事館砲撃を実行したとしている。 また、石塚教二の『アムールのささやき』では、パルチザンは領事館と日本軍兵営を砲撃したとしており、後藤大尉隊については領事館から逃れて来た居留民たちを中国砲艦に助けてもらおうとしたが砲艦が居留民に発砲したため、後藤隊は砲艦に突進して全滅したとしている。 2009年に発表された井竿富雄山口県立大学教授の論文『尼港事件と日本社会、一九二〇年』でも中国軍の軍艦は助けを求める在留邦人を撃ったとしている。 中国評論新聞網(2010年8月27日付)は陳世英が江享の艦載砲を紅軍に貸与し、この砲撃により日本領事館などが炎上したとしている。現在、中国共産党機関紙人民日報の国際情報紙『環球時報』は、日本政府の要求を受諾した当時の中華民国政府を軟弱無能であるとしている。 ===大量殺戮と焦土化=== グートマンによれば、トリャピーツィンはニコラエフスク住民の大量殺戮と街の破壊を、事件の大分前に計画していたという。彼は、「町の代わりに、血溜まりと灰の山を残すだろう」と宣言し、その通りに実行した。 ===大量虐殺と破壊=== ニコラエフスクでは、日本軍決起に続く市民虐殺の後、一時、手続きのない殺人は行われなくなっていた。3月16日には、第1回サハリン州ソビエト大会が開催された。大会では、ハバロフスクにおける革命委員会とゼムストヴォ自治政府の妥協主義が非難され、トリャピーツィンの独裁的な革命体制が確立されようとしていた。配給制度が推し進められ、徴発は日常茶飯事となり、恣意的な逮捕、投獄は続いた。そんな中で、かつてパルチザン鉱山連隊の司令官を務めていたブードリンがトリャピーツィンを批判し、ブードリンは逮捕された。しかしブードリンには、解散させられた鉱山連隊を中心に支持者が多く、死刑にはならなかったが、後に大虐殺の最中に殺された。 ニコラエフスクの惨事を知った日本軍は、赤軍との妥協的な態度を捨てた。4月4日、ウラジオストクにおいて、日本軍の歩哨が射撃を受けたことをきっかけに日本軍は軍事行動を起こし、赤軍に武装解除を求め、ウラジオストクの赤軍はこれを受け入れた。ハバロフスクでは戦闘が起こったが、4月6日には日本軍が勝利をおさめ、赤軍は武装解除された。4月29日になって、日本はウラジオストク臨時政府と、以下のような条件で講和した。「ロシアの武装団体はどのような政治団体に属するものであっても日本軍駐屯地およびウスリー鉄道幹線ならびにスーチャン支線から30キロ以内には侵入できない。また、この圏内のロシア艦船、兵器、爆弾その他の軍需材料、兵営、武器製造所など、すべて日本軍が押収する」。 日本軍が赤軍を武装解除した4月6日、ちょうど極東共和国が樹立され、ソビエト・ロシアの了承のもと、ロシア東部、シベリア一帯が独立した民主国家を名乗って、日本を含む連合国側に承認を求めた。ソビエト・ロシアとの間の緩衝国家となり、日本に撤兵を呑ませようとしていたのである。極東共和国のこの目的からしても、赤軍の武装解除は、受け入れを拒否する問題ではなかった。 ニコラエフスクには、4月20日ころから、ハバロフスクにおける日本軍と赤軍との戦闘の噂が届きはじめた。やがて、ハバロフスクの赤軍は武装解除されたこと、解氷とともに日本軍は確実にニコラエフスクへ至ることなど、詳しいことが伝わった。赤軍の武装解除、極東共和国の樹立は、トリャピーツィンには思惑外であり、ただちに、全権が執行委員会から革命委員会に移され、非常態勢がとられた。最初に行われたことは、アムール川の日本船の航行を妨害するため、障害物を置くことである。バージを航路に沈めるため、女子供までがかり出され、重労働に従った。また、資金もつきていて、トリャピーツィンは新ソビエト紙幣を刷った。中国商人はこれを受け取ろうとはせず、必要物資を調達するためには、金塊で支払うしかなかった。しかし、貯金が封鎖され、全紙幣の廃止、新ソビエト紙幣へ交換するための期限設定が布告されると、逮捕を怖れた人々は、争って交換した。交換された旧紙幣は、革命委員に分配された。 女性たちは強姦された。朝鮮人部隊の中隊長はある漁業経営者の娘を強姦すると翌日には音楽会で歌うことを強制した。その後、この少女と幼子も含めた家族全員はバージからアムール川に突き落とされた。また、女性教諭も強姦され、多くの少女達は恐怖の下でパルチザンと同棲することを強制された。 革命委員会とチェーカーの特別会議において、トリャピーツィンとニーナ・レベデワは、「パルチザンとその家族をアムグン川上流のケルビ村に避難させ、残ったニコラエフスクの住民を絶滅し、町を焼きつくす」という提案をし、了承された。それは秘密にされていたが、噂が流れ出した。5月20日、中国領事と砲艦、そして中国人居留民がみな、全財産を持って、アムール川の少し上流にあるマゴ(マヴォ)へ移動した。この直後、21日の夜から、逮捕と処刑がはじまった。日本軍決起のときに殺された人々の家族、以前に収監されたことのある人々が投獄され、次々に処刑された。80歳の老人から1歳の子供、弁護士や銀行家から郵便局員や無線局員、ユダヤ人は名指しで狙われていたが、ポーランド人やイギリス人も、無差別に殺された。21日から24日までの間に、3,000人が殺されたのではないか、と言われている。 5月24日、収監されていた日本兵、陸軍軍人軍属108名、海軍軍人2名、居留民12名、合計122名が、アムール河岸に連れ出されて虐殺され、さらには、病院に収容されていた傷病日本兵17名も、ことごとく殺された。日本の救援隊は、生存者の生命の安全を確保するために、交渉する用意はあったが相手がつかまらず、意志を伝えようと、海軍の飛行機を使ってビラをまいた。目的は果たせなかったが、元気づけられた人もいた。父、姉、弟を殺された女子学生V.N.クワソワは、こう語っている。「5月29日、日本軍の飛行機が飛んできて、市民を元気づける内容の、宣伝ビラを散布していきました」 住人は、街から逃げ出して、近郊の村やタイガへ隠れたが、赤軍は武装探索隊を出して殺害してまわった。殺戮は10日間続き、ケルビへの移動がはじまった。町を離れるには通行証が必要で、もらえなかった人々は、殺される運命にあった。町の破壊は、28日にはじまった。最初に川向こうの漁場に火がつけられ、30日には製材所が焼かれ、31日には、町中が炎につつまれた。その間にも、虐殺は行われた。建物に閉じ込めたまま焼き殺し、バージに乗せて集団で川に沈めた。最終的に、何千人が殺されたのか、正確な数は不明である。 ニコラエフスクを破壊した理由について、パルチザンだったp. Ya.ウォロビエフは、次のように証言している。「町を破壊した理由は、形成される政府の可能性を妨げることにあった。もし、町に住民が残っていれば、彼らの多くは日本軍の保護の下で、政府を作り上げることは確かである。しかし、もし町に誰もいなければ、日本軍は冬期に滞在することができずに、去ってしまうだろう」 事件全体の日本人犠牲者は、軍属を含む陸軍関係者が336名、海軍関係者44名、外務省関係者(石田領事とその家族)4名、判明している民間人347名。合計731名とされている。民間人については、領事館が消失して書類がなく、後日、政府が全国の町村役場に照会して調査したが、つかみきれず、さらに多いのではないか、とも考えられている。 この無差別な殺戮から逃れることができた人々の中には、個人的に中国人の家にかくまわれたり、中国の砲艦で脱出させてもらったりした場合が多くあった。日本人も、中国人にかくまわれた16人の子女が、中国の砲艦によってマゴへ逃れ、かろうじて命拾いをした。ニコラエフスク市内にいて助かった邦人は、単身自力で市外へ逃れ出た毛皮商人が一人いたことをのぞいて、これがすべてである。 ===救援部隊の出動=== ハバロフスクの革命委員会は、日本軍と共同で戦闘中止要請をした手前もあり、トリャピーツィンに状況の説明を求めた。それに応じてトリャピーツィンは、電報を打った。さらに後日、参謀長ニーナ・レベデワと連名で、モスクワをはじめ、イルクーツク、チタ、ウラジオストク、ブラゴヴェシチェンスク、ハバロフスク、アレクサンドロフスク、ペトロパブロフスクなど、各地へ、長文の声明文を打電したが、内容の骨子は、最初のものと似たものだった。 長文の声明の冒頭は、「ニコラエフスク管区赤軍本部は、ここに、ニコラエフスク・ナ・アムーレにおける日本軍による攻撃という血なまぐさい事件を、全ての者に報告する。さらに、事件の詳細および事件に先立つ諸事情についても、情報提供する。それによって、我々との平和協定締結後に、ソビエト赤軍に対し背信的攻撃を加えた、日本軍の裏切り行為と犯罪の本性が、明確に暴露されるであろう」というもので、さらに、「日本人居留民の全員が武装し」、「兵舎に立てこもった130名の日本軍が白旗を揚げて武器を放棄したので捕虜として捕らえた」以外は、「武器を取った日本人のほとんどが戦死した」とあった。ちなみに、赤軍側の死者は50名、負傷者は100名以上としている。 最初に、トリャピーツィンの電文の現物に接したのは、ペトロパブロフスクの塩田領事館事務代理で、3月18日、「電文を見たところ、ニコラエフスクで戦闘があり、在留民およそ700名が殺され、100名が負傷し、司令部、領事館、その他邦人家屋はすべて焼き払われたのではないか」と、内田外務大臣に打電した。21日には、トリャピーツィンの電文がウラジオストクの新聞に載り、それを見た海軍第5戦隊司令官より海軍省へも、ニコラエフスクにて異常事態発生の連絡があった。 その後、当局が各方面から情報を集め、早急な救援隊の派遣が決定された。まずは、すでに2月、第7師団より編成されていた増援隊を、アレクサンドロフスクへ派遣して、解氷を待つこととした。この部隊は、多門二郎大佐率いる歩兵1大隊、砲、工兵各1中隊、無線電信隊1隊で、主に北海道で編成されていた。4月16日、多門隊は、小樽を出発し、軍艦三笠と見島の援護のもと、22日にアレクサンドロフスクへ上陸した。 当局はさらなる情報収集を行ない、多門隊のみでは兵力不足だと認定した。第7師団からの歩兵1連隊を基幹とし、多門隊も含めて、津野一輔少将の下、北部沿海州派遣隊が編成された。多門隊は、5月13日にデカストリに上陸し、津野隊は、5月下旬に小樽を発した。津野隊とともに、海軍第三艦隊の主力(司令長官野間口兼雄中将)と第3水雷戦隊(司令官桑島少将)が、直接、ニコラエフスクへ向かった。一方、ハバロフスクの第14師団は、できるかぎりの兵力を集め、国分中佐の指揮下、海軍臨時派遣隊(中村少将指揮)の砲艦3隻の護衛を受け、5月14日にハバロフスクを出て、アムール川を下った。途中、ラプタの指揮するおよそ200の赤軍部隊を破り、25日、多門隊と合流して、ニコラエフスクをめざした。多門隊のニコラエフスク進入は、6月3日だったが、すでにそのときニコラエフスクは、遺体が散乱する焦土となっていた。 ===トリャピーツィンの処刑=== ニコラエフスクを焦土にしたトリャピーツィン一行が、ケルビ(ニコラエフスクから96キロ)に到着するまでに、人数は相当に少なくなっていた。強制動員されていた農民たちは、逃げ出して村に帰り、日本軍の報復を怖れた中国人や朝鮮人たちも、タイガへと逃れた者が多かった。6月3日にニコラエフスクを占領した日本軍は、トリャピーツィン一行を捕らえるつもりではあったが、アムール川からアムグン川にかけて、日本軍が跡を追えないようにバージ(艀)などの障害物が沈められていて、すぐに航路を使うことは不可能であり、またタイガに逃げ散ったパルチザンを捕まえることも難しかった。 その間、ニコラエフスクからの避難民が、ブラゴヴェシチェンスク、ハバロフスク、ウラジオストク、日本に現れ、事件の全容が外部に知られはじめた。ソビエト政権系のジャーナリズムは、当初、トリャピーツィンの言い分をそのままに、赤軍の正義と日本軍の裏切りを言い立てていたが、労働者が大半である数千人の市民の虐殺と街の破壊を、日本軍の責任にできるわけもなく、ボルシェヴィキは困惑せざるをえなかった。危機感を持ったハバロフスクのソビエト代表団は、6月の終わりにアムグン地域に出向き、反トリャピーツィングループと接触した。 反トリャピーツィングループを指導していたのは、殺されたブードリンと友人だった砲手アンドレーエフである。協力者には、朝鮮人第2中隊を率いていたワシリー朴がいた。ソビエト代表団と接触したことによって、アンドレーエフは行動を起こした。ケルビのパルチザン本部は、アムグン川に停泊する蒸気船の中にあったが、7月3日の夜、本部で眠るトリャピーツィンとニーナ・レベデワが逮捕され、続いて指導部全員が捕らえられた。9日、人民裁判が行われ、トリャピーツィンとニーナ・レベデワ以下7名が銃殺となった。 裁判の中でトリャピーツィンは、「もし自分がニコラエフスクで行った全てのことのために裁かれるのならば、その時の同志や自分を裏切って裁判に渡し、逮捕した人々も含めて一緒に裁かれるべきだ」と述べた。判決文におけるトリャピーツィンの主な罪状は、5月22日から6月2日までのニコラエフスク大殺戮を許容したこと、さらに7月4日まで、サハリン州諸村でも虐殺命令を発していたこと、ブードリンなど数名の仲間の共産主義者を射殺したこと、であって、日本人の虐殺については、まったく触れられていない。同時に、「ニコラエフスク管区赤軍司令官として在職中、ソビエト政治の方針に従わず、職権者を圧迫し、ロシア共和国政府のもとで活動していた労働者間の共産主義に対する信頼を傷つけた」ことを罪状に上げ、トリャピーツィンとニーナ・レベデワは、ソビエト政権への反逆者であったと、位置づけている。 ===北樺太進駐=== 日本政府は6月28日に北樺太の保障占領を廟議決定し、7月3日の官報で以下の告示を行った。「今年の3月12日から5月末まで、ニコライエフスクにおいて、日本軍、領事館員および在留民およそ700名、老幼男女の別なく虐殺されたが、しかし現在、シベリアには交渉すべき政府がない。将来、正当な政府が樹立され、事件の満足な解決が得られるまで、サハリン州内の必要と認められる地点を占領するつもりである」「必要と認められる地点」とは、北樺太であり、宣言と同時にサガレン州派遣軍が編成され、児島中将の指揮下、8月上旬アレクサンドロフスクに上陸し、駐屯した。 ==日本における事件の波紋== ===政治的な反響=== 尼港事件に関して、日本国内で大々的に報道されるようになったのは、6月、救援隊が現地入りし、凄惨な全容が明らかになってからである。 すぐに議会で取り上げられ、野党憲政会の激しい政府批判がはじまった。この年5月の衆議院選挙で、与党立憲政友会は圧勝していたが、野党側の言い分では、「与党は尼港事件を隠して解散、総選挙に踏み切った」というのである。原首相が「惨劇が起こったのは不可抗力だった」と言ったとの報道があり、「責任逃れではないのか」と追及された。「治安維持に十分な兵力を置いていないにもかかわらず、居留民の引揚げを考慮しなかったのは不注意だ」というところから、ついには、「チェコ軍団の救援目的は達したにもかかわらず、なんのために兵を残したのか。過激派の勢力をそぐこともできなければ、日本人居留民の生命財産を守ることもできなかったではないか」と、シベリア出兵そのものへの批判になった。 この年、7月号の中央公論には、尼港事件に関して、二つの論評が出ている。吉野作造は、「真の責任者は明白に政府殊に軍事当局者にある」としながら、野党が事件を利用して、内閣の倒壊を企てていることへの批判に重点を置いている。三宅雪嶺もやはり、「反対党がなにかといへば総辞職を迫るのも褒めた事ではない」としているが、こちらは、政府側が責任を負うことを言明しないでおいて、「権力争奪に利用するな」とばかりいうのは誤っていると、政府側に点が辛い。 田中義一陸軍大臣に対しても責任問題が追及されると、田中は陸軍大臣として陸軍について全責任があるが尼港事件については陸軍に過失はないと答えたため激しく糾弾され、1920年8月には進退伺を行うこととなった。その後、田中義一は国務大臣としての責任をとり「断じて臣節を全うす」と称して陸軍大臣の職を辞した。そして、占領宣言をした北樺太をのぞけば、シベリア出兵は撤退の方向にむかう、という大方針は変わらなかったのである。 帝国海軍は十分な砕氷艦を持たなかったために、在留邦人を見殺しにする結果となったことを受け、事件翌年には砕氷艦大泊を進水させている。 ===社会的な反響=== 井竿富雄は、政治の場で出てきた不可抗力論は、社会的には見殺しとして受けとめられた、という。新聞社が特派員を派遣して、領事とその家族、居留民、武装解除された日本軍部隊が惨殺された状況、そして、そうなるに至った事情を、こと細かく報道したのである。悲惨な状況が伝わるにつれ、どうしてそんなことが起こってしまったのか、陸軍ならびに政府のシベリア出兵の方針に、問題があったのではないかという疑念が満ちてくる。1920年の秋に9000部刷られた五百木良三のパンフレットは、以下のように慨嘆する。 日本軍は中立を保つという政策がやむをえなかったのだとすれば、兵力を増強しておくべきだった。それを怠って、突然、方針を一転し、赤軍と妥協せよと命じたために、昨日まで友軍だった白軍が残忍きわまる虐殺の下に全滅し、これを見ながら日本軍はなにもできず、見殺しにするしかなかった。たちまち順番は自分たちの上にまわってきて、白軍と同じ運命に突き落とされた。そして、悪戦苦闘の末に生き残った百余人の勇士が、最後の一戦に死に花を咲かそうとした時、またしても停戦命令である。痛恨を忍んで命令に従った結果、武器を奪われ牢獄に入れられ、あらゆる屈辱を加えられた末が、一同生きながらに焚き殺されたという始末。なんというみじめな運命であろう あまりに残酷な事件であったため別々の馬で両足を引き裂いて殺害されたなどの話が昭和になっても多く伝えられることとなった。 石田虎松領事の遺児である石田芳子はたまたま尼港にいなかったため難を逃れることができた。芳子が『敵を討ってください』という詩を発表すると、全国各地で開かれる追悼集会で引っ張りだことなった。日本軍犠牲者の遺族の声には、次のようなものがあった。「派遣しておいて孤立無援に陥らせ、新聞報道のような残虐なことに至った当局の処置は、合点がいかず、残念でたまらない」「名誉の戦死ではない。全く徒死だ」「堂々と戦ったのではなく、無惨に殺されたのは遺憾だ」。こういった不満は、政府や軍への批判にほかならず、遺族の割り切れない思いは報いられることなく、むしろ警戒された。三宅駸吾海軍少佐の兄である三宅驥一博士は、「この大事件は政党政派を超越した世界的な人道問題ではないか。私は、ルシタニア号の沈没とベルギーの中立侵害で、留学して世話になったドイツが嫌いになった。今回の尼港事件は、ルシタニア号事件以上の大問題だ。これに対して冷淡な政府と国民とは、人道に対して無感覚になっている人種だと笑われても仕方があるまい。弟だからいうのではない。救援の方法はあったのに、政府が怠って、いまになって不可抗力とは何事だ」と憤慨して同情を集めた。 ===北樺太占領と救恤金=== 白系ロシア人のグートマンは、日本の北樺太占領に領土欲を見て、「ロシア国民は侵略を受け入れることは決してない」と非難している。この北樺太占領に関しては、撤兵反対論者で、対外強硬論者といわれる五百木良三も、「サガレン(サハリン)占領のごときは大道商人のそれにも比すべき最もケチ臭い現金取引きで、あらずもがなのことだ」と反対し、『国辱記』で尼港事件を詳報した溝口白羊も、「人道の名を借りて侵略を行う連中といっしょにされることはお断りだ」とし、「尼港事件への寄付金には応じない富豪が、サガレンの漁業、林業、鉱業の利権獲得に夢中になっている」と批判する。 1922年に尼港事件被害者とオホーツク事件被害者のための露国政変及西比利亞事変ノ為損害ヲ被リタル者ノ救恤ニ関スル法律が施行され救恤金が支払われた。しかし、救恤金額が少ないことや申請が出来なかったものなどがいたため、尼港事件時に内地にいたため難を逃れることができた島田商会の島田元太郎は、東京に事務所を設け全国の被害者の中心となって再度の救恤金運動を行い続けた。 1925年、日本はソビエト・ロシアと国交を回復し、保障占領していた北樺太を返還した。しかしその交渉の過程で、尼港事件は政治的に棚上げされ、北樺太のオハ油田を中心とする石油長期利権と引きかえに、賠償は求めないことになった。1925年12月には救恤金の再給付を求める請願書が島田元太郎等によって提出されたことなどから、日本政府は、「本来はソビエトの責任で日本政府が賠償を肩代わりする理由はない」としながらも、救恤金という形で、遺族を慰撫した。 ===慰霊碑・納骨堂の建立=== 事件が大々的に報道された6月以降、各地で法要、招魂祭が催され、また、遺族や婦人団体、在郷軍人団体、宗教家などが現地を訪れて、慰霊につとめた。 北海道の小樽市は、樺太、シベリア方面への物資積み出し港であり、ニコラエフスクとも縁が深かった。1924年(大正13年)になって、小樽市民の総意で軍部に請願し、遭難者の遺灰払い下げの運動を起こした。ニコラエフスクで焼却された遺骨は、アレクサンドロフスクの慰霊碑に保管されていたが、これを小樽で永久保存しようということになったのである。軍からの許可が出て、市民に迎えられた遺骨は、市内浄応寺で保管された。1937年(昭和12年)になって、市内の素封家・藤山要吉が私財をなげうち、市民に呼びかけて、手宮の丘に慰霊碑や納骨堂を建てた。戦前には、毎年、尼港記念日の5月24日に法要が行われていた。第二次大戦後、小樽に進駐してきたアメリカの進駐軍から、「破壊せよ」と命令があったが、小樽市民はこれを拒んで、守り通した。 尼港事件の民間人殉難者には、熊本県天草の出身者が多い。他県在住の縁者も加えると110名にのぼり、ほぼ三分の一に達する。1895年(明治28年)、天草北部の二組の夫婦が、それぞれに若い女性たちを連れてニコラエフスクへ渡り、水商売を始めた。以来、水商売に限らず、洗濯業や洋服仕立業で、家族ぐるみの移住者も増え、中には成功して、貿易業や旅館経営をする者も現れていた。小樽と同じく昭和12年、遺族たちの手によって、天草市五和町手野に、尼港事変殉難者碑が建てられている。こちらは、毎年3月12日に慰霊祭が行われ、1970年(昭和45年)には50年祭が盛大に催された。 全員が犠牲となった第14師団尼港守備隊の出身地、茨城県水戸の堀原、もと練兵場のあった場所にも、尼港殉難者記念碑が建っている。戦前は、毎年かかさず慰霊祭が行われていたが、戦後は行われなくなり、記念碑が建っている場所も堀原運動公園の向かいにある小さな公園の奥であるので、碑のいわれを知る市民どころか、そもそも碑がある事すら知らない市民も増えている。その他、札幌の護国神社境内にも尼港殉難碑があるが、これは、1927年(昭和2年)、救援隊の兵士達が旧丸山村界川に建立したもので、戦後、現在地に移された。 ===南京事件=== 1927年の南京事件の際にも日本領事館は襲撃され、領事一家以下、在留邦人、日本軍将兵等が殺傷された。この事件の際には、海軍陸戦隊の荒木亀男大尉は「反抗は徒らに避難民全部を尼港事件同様の虐殺に陥らしむるだけだから、一切手向いせず、暴徒のなすがままにせよ」と命令し、陸戦隊員は中国人の暴行に反抗しなかった。このため領事館内では駐在武官の根本博少佐、領事館警察木村署長を始め多くが重傷を負い、婦女子も丸裸にされ金品・衣服などすべてを奪われ領事館内は木端微塵となったものの邦人虐殺事件に発展しなかったが、荒木大尉は事件後に責任を取り自決を図った。1945年のソ連対日参戦の際には北支那方面軍兼駐蒙軍司令官となった根本博は大本営の武装解除命令を拒否し殺到するソ連軍と戦い抜き4万人の在留邦人の脱出を成功させた。 ==参考史料について== 尼港事件に関する史料は、日本側のもの、ソ連側のもの、生存者の証言を白系ロシア人が記録したもの、という三種類に大別できる。 原暉之の論文『「尼港事件」の諸問題』によれば、基本的な日本側史料は、参謀本部編 『西伯利出兵史―大正七年乃至十一年』と外務省編『日本外交文書 大正九年』である。ソ連側のものは、パルチザン指導者などの回想録が2点ほどある他は、日本の研究者が読めるものでめぼしいものはない(『「尼港事件」の諸問題』が書かれた1975年において)。白系ロシア人の記録のうち、グートマンの『尼港の災禍』(『ニコラエフスクの破壊 =尼港事件総括報告書=』)は、百ページにのぼる生存者の証言、その他の史料(パルチザン側の文書を含む)をも収録している。 『西伯利出兵史』をもとに概略が述べられている日本の編纂物としては、『西伯利出兵 憲兵史』『西伯利出兵史要』などがあるが、それらの事件著述と、ソ連の歴史家の一般的な見解には、事実関係において大きな食い違いがある。双方の見解を併記し、主には『ニコラエフスクの破壊』掲載の証言を参考として供した。 『ニコラエフスクの破壊』(原題:Gibel Nikolaevska‐na‐Amure 米題:THE DESTRCTION OF NIKOLAEVSK‐ON‐AMUR)は、1924年にベルリンにおいて、ロシア語で出版された。著者のグートマン(A.Ya.Gutman)は、事件当時、日本に在住し、ロシア語新聞紙の編集長をしていた。生存者数名にインタビューするとともに、1920年夏、事件直後に実施された調査活動の報告書を入手し、それをもとに執筆した。報告書には生存者57名の口述証言が含まれていた。グートマンのロシア語版を読んでいた原暉之は、「グートマンは反ボリシェヴィキではあったが日本軍にも点が辛く、『尼港の災禍』(『ニコラエフスクの破壊』)に収録された生存者の証言は反革命派に限らず広範にわたって貴重である」というように評価している。 原暉之の言う『尼港の災禍』は近年、英訳、和訳出版された。1909年にニコラエフスクで事業を営んでいたユダヤ系のリューリ家で生まれたエラ・リューリ・ウイスエル(Ella.Lury.Wiswell)は、1993年、尼港事件に関する英語の文献に満足のいくものがないとして、生まれ故郷の悲劇を子細に記録したグートマンのGibel Nikolaevska‐na‐Amureを米語訳し、THE DESTRCTION OF NIKOLAEVSK‐ON‐AMURとして出版した。2001年、齊藤学はエラの米語訳をもとに、ロシア語版も参照した上で『ニコラエフスクの破壊』として和訳し、出版した。 ==尼港事件を題材とした作品== 熊谷敬太郎『ピコラエヴィッチ紙幣 日本人が発行したルーブル札の謎』ダイヤモンド社、2009年。 ISBN 978‐4‐478‐01127‐0第2回城山三郎経済小説大賞受賞小堺昭三『赤い風雪 小堺昭三全集15』ココデ出版、2011年。 ISBN 978‐4‐903703‐48‐0丹地甫『ニコラエフスクの長い冬』茨城新聞社、2012年。 ISBN 978‐4‐87273‐271‐9熊谷達也『氷結の森』集英社、2007年。ISBN 978‐4087465129 =夏のない年= 夏のない年(なつのないとし、英: Year Without a Summer)とは、1816年に北ヨーロッパ、アメリカ合衆国北東部およびカナダ東部にて起こった、夏の異常気象(冷夏)により農作物が壊滅的な被害を受けた現象のことである。この年の気候異常は太陽活動の低下と前年までの数年間、大火山の噴火が続いたことによる火山の冬の組み合わせにより引き起こされたと見る向きが大多数である。1815年のインドネシア中南部、スンバワ島に位置するタンボラ山の噴火は過去1600年間で最大規模である。歴史家のジョン・デクスター・ポストは「夏のない年」を「西洋において最後で最大の危機」と呼んだ。 ==概要== 1816年の気候異常はアメリカ北東部、カナダ東部および北ヨーロッパにおいて多大な影響を及ぼすことになった。アメリカ北東部やカナダ南東部は春から夏にかけての気候は比較的安定している。平均気温は20℃から25℃ほどであり、気温が5℃を下回ることは稀である。夏に雪が降ることは極めて稀であるが、5月に吹雪が起こることはある。 1816年5月、霜が発生したため農作物の大部分が壊滅的な被害を受けた。6月にはカナダ東部およびニューイングランドにおいて、2つの大きな吹雪により多数の死者が出た。6月初めにはケベックにおいて30cmもの積雪が観測され、農作物が被害を受けた。夏に栽培される植物の大部分は霜がわずかに発生しただけでも細胞壁が破壊されてしまい、まして土壌が雪で覆われてしまえばなおさらである。この結果、この地域では飢餓や伝染病が発生し死亡率が上昇した。 7月と8月にはペンシルベニア州の南にて湖や河川の凍結が観測された。気温の急激な変化が頻発し、わずか数時間で平年以上の気温である35℃あたりから氷結するほどまで気温が低下することもあった。ニューイングランド南部においては農作物はある程度は成長したが、トウモロコシや穀物の価格が急騰した。例えば、エンバクの価格は前年は1mあたり3.4ドルだったが、これが1mあたり26ドルまで上昇した。 清(中国)においては特に北部で、寒さのために木々が枯れ、稲作や水牛も被害を受けた。残りの多くの農作物についても洪水によって壊滅した。タンボラ山の噴火によって季節風の流れが変化したため、長江で破滅的な大洪水が発生したのである。ムガル帝国(インド)においては、夏の季節風の遅れにより季節外れの激しい雨に見舞われ、コレラが蔓延した。 影響は広範囲に及び、翌年以降も続いた。1817年の冬は特に厳しく、気温が‐32℃まで低下したこともあった。アッパー・ニューヨーク湾は凍結し、ブルックリン区からガバナーズ・アイランドまで馬そりで渡ることができた。 ==原因== 現在では一般的に、1816年の気候異常は前年5月5日から同月15日までのタンボラ山の噴火により引き起こされたと考えられている。過去1600年間で最大規模の噴火であり、火山爆発指数ではVEI=7に分類されている。噴火により莫大な量の火山灰が大気中に放出された。タンボラ山の噴火が起こった時期が、太陽活動が低かったダルトン極小期(1790年 ‐ 1830年)であったことも重要である。 同時期に発生した大規模な噴火は以下の通り。 1812年:カリブ海セントビンセント島のスフリエール山1812年:インドネシアサンギヘ諸島のアウ火山1813年:現在の鹿児島県鹿児島郡十島村の諏訪之瀬島1814年:フィリピンルソン島のマヨン山これらの噴火により既に相当量の火山灰が大気中に放出されていた。これにタンボラ山の噴火が加わり、大量の火山灰により太陽光が遮られたため世界的な気温の低下が引き起こされた。 ==結果== 火山の噴火が続いたことにより、農作物の不作が数年間続いた。アメリカでは、「夏のない年」によってニューヨーク中部や中西部、西部への移住が進んだと多くの歴史家は見ている。 ヨーロッパでは、ナポレオン戦争が終結しつつあったが、今度は農作物の不作による食糧不足に苦しめられることになった。イギリスやフランスでは食料をめぐって暴動が発生し、倉庫から食料が略奪された。スイスでは暴動があまりにひどく、政府が非常事態宣言を発令するに至った。食糧不足の原因は、ライン川を始めとするヨーロッパにおける主要な河川の洪水をもたらした異常な降雨であり、1816年の8月には霜が発生した。2005年5月にBBC Two(英国放送協会)で放送されたドキュメンタリーでは、スイスにおける1816年の死亡率は平年の2倍だったと推定しており、ヨーロッパ全体ではおよそ20万人もの死者が出たとしている。 タンボラ山の噴火はハンガリーに茶色の雪を降らせた。イタリアでも同様で、1年を通して赤い雪が降った。これらは噴火により大気中に放出された火山灰が雪に含まれたためと考えられている。 清では、夏の異常な低気温により雲南省では稲作が壊滅的な被害を受け、広範囲にわたって飢餓が発生した。黒竜江省では、霜によって畑が壊滅的な被害が発生したことが報告され、徴兵から逃れる者もいた。国内でも南部に位置する江西省や安徽省においても夏に雪が降ったことが報告されている。台湾においても、新竹市や苗栗市で雪が降り、彰化市では霜が報告された。 ===文化的な影響=== 噴火により大量の火山灰が大気中に放出されたことにより、この時期には壮大な夕暮れを見ることができた。ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナーの『チチェスター運河(英語版)』(1828年)にも、この時期の薄い黄色の夕焼けが描かれており、有名である。似た現象は1883年のインドネシアクラカタウのラカタ島の噴火の後にも観測されており、1991年のフィリピンのピナトゥボ山の噴火の後にアメリカ西海岸においても、同様の現象が観測されている。 馬の飼料として利用されるエンバクの不足により、ドイツ人の発明家のカール・フォン・ドライスは馬を使用しない新しい輸送方法を研究することになり、軌道自転車やベロシペードが発明されるに至った。これらの乗り物は現代の自転車の原型である。 農作物の不作により、ジョセフ・スミス・ジュニア一家はバーモント州ウィンザー郡シャロンからニューヨーク州ウェイン郡パルマイラへ移住せざるを得なかった。ジョセフ・スミスはモルモン書を出版し、末日聖徒イエス・キリスト教会を設立することになる。 1816年の7月、イギリスの小説家のメアリー・シェリーはジョン・ポリドリ(英語版)ら友人とスイスで休暇をとっていたが、絶え間なく降り続く雨のため屋内にいることが多かった。一人一作ずつ怪談を書くことが提案され、シェリーが書いた作品は後に『フランケンシュタイン、あるいは現代のプロメシュース』(Frankenstein, or The Modern Prometheus)として発表された。ポリドイが書いた作品は『ヴァンパイア(英語版)』(The Vampyre)として発表されている(ディオダディ荘の怪奇談義)。詩人ジョージ・ゴードン・バイロンは夏のない年に触発されて詩『暗闇(英語版)』を書いている。 ドイツの化学者のユストゥス・フォン・リービッヒは、子供の頃にダルムシュタットで飢餓を経験した。リービッヒは後に植物の栄養素について研究し、化学肥料を開発することになる。 ==類似の出来事== 2億5100万年前、最後のペルム紀(Permian)と中生代最初の三畳紀(Triassic)の間に、大量絶滅が起こった(P‐T境界)6550万年前、メキシコのユカタン半島付近に直径約10kmの巨大隕石が落下し、大量絶滅が起こった(K‐T境界)。2700万年前、サン・フアン火山群(英語版)(ラ・ガリータ・カルデラ)が大爆発を起こした。200万年前、イエローストーン(Island Park Caldera、ハックルベリーリッジ・タフ(英語版))が大爆発を起こした。130万年前、イエローストーン(Henry’s Fork Caldera、メサフォールズ・タフ(英語版))が大爆発を起こした。64万年前、イエローストーン(Yellowstone Caldera、ラヴァクリーク・タフ(英語版))が大爆発を起こした。9万年前、阿蘇山が大爆発(Aso4)を起こした。7万年前から7万5千年前にインドネシア・トバ湖の大噴火により気候が寒冷化し、ヴュルム氷期(7万年前 ‐ 1万年前)へと突入したために総人口が激減した(トバ・カタストロフ理論)。2.6万年前、ニュージーランド・タウポ火山(英語版)で大爆発を起こした(Oruanui eruption)。紀元前3123年、アルプス上空にアテン型小惑星が落下。破片が地中海一帯降り注ぎ、急激な気温の低下を引き起こした。この時期には、シュメール文明でジェムデト・ナスル期(英語版)が始まり、エジプトでもエジプト初期王朝時代が始まった。両地域で青銅合金の製造法が発見され、シナイ半島の銅山はエジプト王家の独占とされた。シュメールへの銅の供給地はバット遺跡である。紀元前1628年から紀元前1626年までの気候変動は、ギリシャ・サントリーニ島(Santorini caldera)の大噴火が原因と考えられている(ミノア噴火(英語版))。中国では二里頭文化(夏王朝)から二里岡文化(殷)に移行した(鳴条の戦い)。紀元前1200年の前1200年のカタストロフは、アイスランド・ヘクラ山の大噴火が原因と考えられている(Hekla 3 eruption)。535年から536年にかけての535年から536年の異常気象現象(英語版)はインドネシア・クラカタウの大噴火と関連していると考えられている。ヴァンダル戦争直後の異常気象。以後、東ローマ帝国と東ゴート王国が18年間に渡って戦争を行い、東ゴート王国が滅びたものの東ローマ帝国も国力を使い果たし、ランゴバルド人がイタリア半島を征服しランゴバルド王国を建国した。800年頃、パプアニューギニアのニューブリテン島・Dakatauaの噴火による影響でモンゴル高原では異常気象が頻発し、モンゴル高原は諸部族が割拠する時代に入り、モンゴル帝国が登場する舞台となった 。9世紀に白頭山で噴火があったことが明らかになり、渤海滅亡との因果関係が指摘されている。800年頃、富士山の延暦大噴火が起こった。806年、磐梯山の大噴火が起こった。864年から866年にかけて、富士山の貞観大噴火が起こった。869年には東北地方で貞観地震が発生。915年(延喜15年)に十和田湖も過去2000年間で日本国内最大級の噴火をした。日本では承平天慶の乱が起こった。10世紀(969年±20年)に再び白頭山の天池 (Heaven Lake) は過去2000年間で世界最大級とも言われる巨大噴火を起こし、火山灰は偏西風に乗って日本の東北地方にも降り注ぎ、白頭山苫小牧テフラ(B‐Tm))として現在も確認出来る。1257年5月から10月にかけて、インドネシアのサマラス山で過去3700年間で最大規模(1883年に起きたクラカタウの噴火の8倍、1815年に起きたタンボラ山の噴火の約2倍)と推定される噴火が発生。中世ヨーロッパの記録文書によると、この噴火の翌年にあたる1258年の夏は異常低温で、大雨による洪水が頻発したことにより農作物が不作だったという記述が残されている。1315年から1317年にかけてのヨーロッパでの大飢饉 (1315年 ― 1317年)(英語版)はニュージーランド・タラウェラ山の五年間続いた火山活動(カハロア噴火)が引き起こしたと考えられている。1452年から1453年にかけてバヌアツの海底火山クワエの大噴火が複数回あり、1453年の5月にはコンスタンティノープルが陥落して東ローマ帝国が滅亡した。日本では長禄・寛正の飢饉から応仁の乱に繋がり、戦国時代を迎えた。1600年2月19日にペルーのワイナプチナが噴火し、日本では9月15日に関ヶ原の戦いが起こった(慶長地震がこの前後に多発した)。翌1601年は、北半球で過去六百年間で最も寒冷化し、ロシアではロシア大飢饉(英語版)が起こり動乱時代につながった。1707年に富士山の宝永大噴火が起こった。49日前に宝永地震が発生していた。1783年から1784年にかけてアイスランドのラキ火山とグリムスヴォトンが噴火し、ヨーロッパに大きな災害をもたらし、フランス革命を引き起こした。日本では浅間山の噴火と天明の大飢饉が起こった。1945年、カムチャツカ半島のアヴァチン火山(英語版)が大爆発した。1991年のピナトゥボ山の噴火はアメリカ、特に中西部や北東部で気象傾向に変調をもたらした。1993年の冬は異常に暖かかったが夏は涼しかった。2010年4月14日にアイスランドのエイヤフィヤトラヨークトル山が噴火して、交通や経済などに影響を与えた(2010年のエイヤフィヤトラヨークトルの噴火および2010年のエイヤフィヤトラヨークトルの噴火による交通まひ)。2011年6月4日、プジェウエ=コルドン・カウジェ火山群が噴火(2011 Puyehue‐Cord*9639*n Caulle eruption)。 =ミネルバ (ローバー)= ミネルバ (MIcro/Nano Experimental Robot Vehicle Asteroid, MINERVA) は、2003年5月9日、宇宙科学研究所(ISAS)が打ち上げた小惑星探査機はやぶさに搭載された、小惑星探査ローバーである。なお、はやぶさの後継機として2014年12月2日に打ち上げられたはやぶさ2にもミネルバの後継機となるミネルバIIが搭載された。本稿ではミネルバIIについても説明を行う。 ==概要== 1995年8月に宇宙開発委員会によって承認された、宇宙科学研究所の小惑星サンプルリターン計画、MUSES‐C (MU Space Engineering Satellite‐C) 計画では、アメリカとの協力関係を締結していく中で、NASAが開発する車輪型の超小型ローバー、MUSES‐CNを搭載することが決まった。しかし日本独自のローバーの搭載も検討されるようになり、1997年からミネルバ (MIcro/Nano Experimental Robot Vehicle Asteroid, MINERVA) の開発が開始された。 しかしMUSES‐C計画におけるミネルバの位置づけは、探査機の重量バランスを調整する重り代わりという位置づけであり、正規のプロジェクトではなくオプション扱いであった。バランス調整の重り代わりであるために厳しい重量、大きさの制限、そしてオプション計画であるがゆえの慢性的な資金不足、更には極めて小さな重力しかない小惑星というミネルバ目的地の環境に悩まされながらの開発となった。 検討を進めていく中で、ミネルバの移動機構はNASAのローバーが採用した車輪ではなく、ミネルバ内部のモーターが回転することによって生じるトルクを利用して、ホップをしながら小惑星表面を移動する機構が採用された。ミネルバ本体の開発は、限られた開発費用の中、宇宙科学研究所と日産自動車宇宙航空事業部(2000年からはアイ・エイチ・アイ・エアロスペース)と共同開発とし、設計から開発、そして資金面の手配も民間企業との共同で行った。また放射線耐性など試験を行いながら、宇宙用ではない民生品を積極的に採用して経費の節減に努めた。そして地球から遠く離れた小惑星を探査するミネルバにとって必須となる自律機能を持たせるため、様々な工夫を施した。 NASAが開発を進めていたMUSES‐CNは、2000年11月、開発中止となった。NASAのローバーの計画中止によってミネルバがMUSES‐Cに搭載される可能性は著しく高まったが、ミネルバは正式プロジェクトに格上げされることは無く、最後までオプション扱いのままであった。結局2003年2月、直径12センチ、高さ10センチの正16角柱、本体重量は591g、分離機構などを含めても総重量1457gの超小型小惑星探査ローバー、ミネルバが完成した。ミネルバは日本初の宇宙探査用ローバーであり、また世界初の小惑星探査ローバーとなった。 ミネルバにはホップ中に上空から小惑星を撮影する単眼望遠カメラ、小惑星表面で表面の詳細撮影を行う接写ステレオカメラ、内部と外部の温度計、光量から太陽方向を測定するフォトダイオードが観測機器として搭載されており、電源としては一面に貼られた太陽電池の他に、ホップ時や写真撮影時には2次電源として宇宙空間で初めて採用された電気二重層コンデンサを利用する。このようなミネルバは、ホップしながら小惑星表面を移動するという小天体用ローバーの移動メカニズムの実証、そして自律的小惑星探査手法の実証という2つの工学的試験を小惑星上でチャレンジすることになった。 2003年5月9日、ミネルバが搭載されたMUSES‐Cが打ち上げられ、はやぶさと命名された。はやぶさが目的地である小惑星イトカワへ向かうまでの間、ミネルバは時々機器の電源をオンにして状態チェックを受けた。はやぶさは2005年9月12日、目的地の小惑星イトカワに到着した。はやぶさは2ヶ月近い探査の後、11月になって小惑星サンプルリターンのチャレンジを開始した。そして第三回目の着陸リハーサルであった11月12日、ミネルバははやぶさから分離されイトカワを目指したが、イトカワへの投下は失敗に終わり、世界最小の人工惑星となった。そしてミネルバははやぶさ分離後、18時間に渡って通信を続け、データを送り続けた。 ミネルバはイトカワへの着陸に失敗し、小惑星上での工学試験は実現できなかったが、小天体用ローバーの移動メカニズムの実証、そして自律的小惑星探査手法の実証という工学的試験はミネルバの開発経過、そしてはやぶさ分離後18時間に及ぶ運用の中である程度行うことができた。2014年打ち上げられたはやぶさ2では、ミネルバの運用結果、はやぶさのイトカワ探査の結果などを踏まえた後継機ミネルバIIが搭載されている。 ==ミネルバの開発開始== ===日本独自の小惑星ローバーの開発開始=== 1995年8月、宇宙開発委員会は小惑星サンプルリターン計画を承認した。MUSES‐C計画のスタートである。計画の遂行には惑星探査機となるMUSES‐Cとの通信や、地球帰還時のカプセル回収に際してアメリカの協力が不可欠であった。 アメリカとの協力関係を固めていく中で、MUSES‐CにNASAが開発する超小型ローバー、MUSES‐CNを無償で搭載することになった。その一方でプロジェクトマネージャの川口淳一郎は、重量に余裕ができた場合、探査機の重量バランスを補正する重り代わりとして日本製の小惑星ローバーも搭載することを考えるようになった。川口は長年宇宙探査用のローバーを研究していた同僚の中谷一郎に、質量1キロ程度の小惑星探査ローバーを作れないかと声をかけてみた。 川口の呼びかけに中谷は応じた。宇宙探査用のローバーを研究している宇宙科学研究所の教授を始め、大学教授、そしてメーカーの技術者らが集まり、1997年の夏、小惑星を探査するローバーの開発が始まった。 ===小惑星をホップしながらの移動=== 小惑星を探査するローバーの開発には、さまざまな困難が立ちはだかった。まず問題となったのが、どのような方法で小惑星上を移動するのかという点であった。MUSES‐Cが目的地とする小惑星は大きくても直径数キロ以下であり、表面の重力加速度が極めて小さい。その上、初めて探査機が向かうこととなる小惑星は、重力加速度を確実に予測することが困難であり、ある程度の幅を持った重力加速度に対応できる移動機構が必要とされた。 天体表面を移動するローバーの移動メカニズムとしては、まず摩擦力を利用する方法と、利用しない方法に大別できる。摩擦力を利用しない方法としては、ローバーにジェットを搭載し、ジェットを吹かせながら表面を移動する方法、天体が十分小さい場合などでは天体に紐やネットを被せ、紐を伝って移動する方法、さらに天体が強磁性を持つ物質でできている場合、電磁石を用いる方法などが考えられる。しかしジェットを吹かせて移動する機構では天体の表面を汚染するため、小惑星サンプルリターンを目指すMUSES‐C計画では採用できず、また電磁石を用いる方法などはどのような小天体でも使えるものではないため、摩擦力を利用した移動方法を採用することになった。 摩擦力を利用した移動メカニズムとしては、車輪と天体表面との摩擦力を利用して移動する車輪型移動機構、複数の脚と表面との摩擦力を利用する脚型の移動機構、そしてローバーを表面に押し付けることによって浮上させ、移動する浮上型移動機構などが考えられる。これまで月や火星などで活躍したローバーの多くは、車輪型移動機構を採用していた。 これまで多くのローバーで利用されてきた車輪型の移動機構は、天体の重力が十分大きな場合、ローバーと天体間の接触力に対して垂直に働く摩擦力が大きいため、スリップすることなく移動速度を得ることができる。しかしMUSES‐Cが目指すような直径数キロ以下の小惑星では重力が小さいため接触力が小さく、そのため摩擦力も小さくなり、ローバーの駆動力が摩擦力を上回るとスリップを繰り返してしまい前進力を得られない。また表面の凹凸によってローバーにわずかな力が加わるだけで、天体表面からたやすくホップしてしまう。ローバーがホップしてしまえば車輪は駆動力を天体表面に伝えられないことになる。また小天体の脱出速度は極めて小さいため、下手をすると表面の凹凸に躓いたら最後、そのまま宇宙空間に放り出され戻ってこない可能性もある。 小天体を探査するローバーに車輪型移動機構を採用した場合、極めて小さな重力のためにローバーがたやすくスリップやホップをしてしまい、思うように移動できないという難点がある。この難点を克服するには車輪の駆動速度を極めて遅くするという方法がある。実際、NASAが開発を進めていたMUSES‐Cに搭載する超小型ローバー、MUSES‐CNは車輪型の移動機構を用い、移動速度は秒速わずか1.5ミリを予定していた。しかし移動速度があまりにも遅い場合、ローバーが活動できる限られた時間内で移動できる範囲が極めて狭くなってしまい、天体表面を移動しながら探査を行うローバーの特性を生かしきれないことになってしまう。 MUSES‐Cへの搭載を目指す日本製ローバーの移動機構の検討では、極めて小さな小惑星の重力以外にも検討しなければならない点がいくつかあった。まず先述したように目標天体である小惑星の重力加速度の推定が不確実で、ある程度の幅を持った重力加速度に対応できる移動機構が必要である点、続いて重量に余裕ができた場合、探査機の重量バランスを補正する重り代わりとして搭載されるため、日本製ローバーの重量、大きさの制限が極めて厳しく、探査機MUSES‐Cからの分離機構を含めて質量1キロ以下、大きさも十数センチ立方以内を求められていたため、シンプルかつ軽量な移動機構が必要であった。またどのような姿勢で小惑星に着地しても移動できることも重要であった。そして日本製小惑星ローバーの開発関係者の間には、NASAのローバーが採用した車輪型の移動機構とは異なる移動機構にしたいとの意識もあった。 結局日本製ローバーの移動機構として、ローバーを表面に押し付けることによって浮上させ移動する浮上型移動機構のひとつである、小惑星表面をホップする方法を採用することになった。ホップしながら天体表面を移動するローバーは、天体表面にローバー自身を押し付けることによって生じる摩擦力で水平方向への速度を得るため、ホップする速さが大きすぎて天体の脱出速度を越えてしまうことに注意すれば、小天体上では極めてゆっくりとしか進み得ない車輪型の移動機構よりもはるかに速く移動することが可能である。 ===ローバー内部のトルクを利用した移動機構の採用=== MUSES‐C計画以前、小惑星など太陽系小天体探査用のローバーはほとんど前例がなかった。ただ、1988年7月に打ち上げられたソ連の火星探査機フォボス2号には、火星の衛星であるフォボスを探査するローバーが搭載されていた。このローバーに関する情報は少ないが、質量は約45キロで、バネを利用してホップしながら移動するローバーであったと伝えられている。また先述のように日本製ローバーとともに小惑星を目指すNASAのMUSES‐CNは車輪型の移動機構を備えていた。 日本製のローバーは小惑星表面をホップしながら移動する移動機構を採用する方針が固まった。その後ローバーの突起で表面を突くことでホップする方法、カエルの脚のような方法でホップするやり方など、ローバーをホップさせる様々な案が出された。ミネルバ開発の中心となる吉光徹雄は、まず三角パックのような形状の四面体の各頂点にハエタタキのような部品を取り付け、モーターで駆動されるハエタタキのような部品が小惑星表面を叩くことによって移動するメカニズムを提案した。議論を進めていくうちにローバー外部に何らかの可動部分を持ち、小惑星表面を叩いたり突くことによってホップする方式では、凹凸が激しい表面の場合叩いたり突いたりできない可能性が指摘され、またローバー外部の可動部分を塵などから保護する必要もあった。結局吉光のアイデアからハエタタキのような部品を取り除き、ローバー内のモーターの回転によって発生したトルクによってローバーを回転させ、小惑星表面との反力でホップするというアイデアが生み出された。 この方式ではローバー外部に可動部がないため、小惑星表面にあるといわれていたレゴリス対策が不要となり信頼性が高まる。またホップした後、飛行中のローバーの姿勢制御を移動機構と同じモーターで行える。MUSES‐Cが目指す小惑星のような重力の極めて小さな環境では、移動機構がギア無しの小型モーターの回転で良いため軽量化が可能である。モーターの制御を行うことにより小惑星の脱出速度を超えない範囲でローバーのホップする速度を調整することができるため、車輪を用いた移動機構よりも速い移動が可能であるなどの利点があった。1998年、吉光が提案したローバー内部のモーターによって発生するトルクを利用する移動機構が、日本製小惑星探査ローバーの移動機構として採用されることとなった。 ==困難を極めた開発== ===資金不足、厳しい重量と大きさの制限=== ローバーの移動機構は決まったが、実際のローバー開発は茨の道の連続となった。ミネルバ(MIcro/Nano Experimental Robot Vehicle Asteroid, MINERVA)と呼ばれるようになった計画にまず立ちはだかったのが、このプロジェクト自体が、あくまで小惑星探査機MUSES‐Cの重量に余裕ができた場合のオプションという扱いであり、正式のプロジェクトではないということであった。ミネルバの開発には設計段階から日産自動車の宇宙航空事業部(2000年からはアイ・エイチ・アイ・エアロスペース)が参加しており、資金も提供していた。しかし正式プロジェクトではない日本製ローバーの開発に、MUSES‐Cの開発を進める宇宙科学研究所もアイ・エイチ・アイ・エアロスペースも多くの資金を投入できるはずもなく、開発当初から資金難の壁にぶつかることになった。 資金難の中でまず問題となったのが無重力状態での試験であった。まず試作機の作成予算は何とか確保したが、ローバー内蔵モーターのトルクによる移動機構の確認に不可欠である微小重力状態での実験を行う、岐阜県土岐市にあった日本無重量総合研究所の使用料は一回100万円近い費用がかかった。低予算での開発が宿命づけられていたミネルバで、100万円近い実験費用は極めて厳しかった。そこで開発陣は、実際にはローバーが小惑星表面からホップする鉛直方向の動きを水平な面上に置き換えることを考えた。摩擦を極力抑えた水平面を用いた実験装置を作成した開発陣は、高額な日本無重量総合研究所での実験を行う前に試作機の改良に取り組むことができるようになった。 ローバーに必要とされる機能は移動機構だけではない。ローバーを動かすための電源、観測結果などのやりとりを行う通信系、観測機器、ローバー自体の熱制御、各種データの処理など、一つの人工衛星が持つほぼ全ての機能を備える必要がある。小惑星探査機MUSES‐Cの重量に余裕ができた場合のオプション計画であるミネルバには、極めて厳しい重量と大きさの制限が課せられている上に、大気のない小惑星表面の過酷な環境下で活動できるローバーを作り上げねばならず、資金難とともにこれらの制約が開発に大きな障害となって立ちはだかった。 ===厳しい条件との格闘の中での開発=== 開発を進めていく中でまず大きな課題となったのが2次電源であった。ローバーを動かす電力は太陽電池によってまかなわれるが、ホップして移動する際やカメラによる写真撮影時には太陽電池で供給される電力だけでは不十分となるため、2次電源によるバックアップが必要となった。このような場合、一般的には化学反応を利用した2次電池を用いることになる。しかしミネルバの場合、2次電池の利用が困難であった。化学反応を利用する2次電池はさまざまな種類があるが、それぞれ利用可能な温度範囲が狭い。小惑星表面では日の当たる昼間は100度以上となり、一方夜にはマイナス100度以下となる。ミネルバは小惑星上で60時間活動することを目標としていたが、60時間使用可能な2次電池は見つからなかった。 そこで目をつけたのが電気二重層コンデンサであった。1998年、ミネルバの開発を担当していた日産自動車宇宙航空事業部の技術者は、電源やモーターの総合展示会場でエルナーの担当者に声をかけ、ミネルバの2次電源として電気二重層コンデンサが使えないかと打診した。当時、電気二重層コンデンサの開発が本格化してきており、エルナーは利用範囲の拡大につながる宇宙空間への挑戦に積極的であった。結局、開発成果をエルナー側が利用可能とする条件付きで、ミネルバに搭載される電気二重層コンデンサの開発費用をミネルバ側とエルナーが折半することになり、開発費用の軽減も達成できた。 結局、小惑星上の低温時には劣化しないが、130度以上の高温時には少しずつ劣化する電気二重層コンデンサが開発され、ミネルバに搭載されることになった。事前の解析では小惑星(イトカワ)上の三昼夜を経過すると使用できなくなると推定された。電気二重層コンデンサは総合効率では2次電池に劣るものの動作温度が広く、また充放電回路が簡単となるため小型化に有利であるというメリットがあり、ミネルバが世界で初めて宇宙空間で利用することになった。 小惑星上をホップしながら移動するミネルバの心臓部ともいえる小型モーターも悩みの種であった。既製の宇宙用のモーターは大きさやコスト面からミネルバに使用できなかった。そこで地上用の民生品を利用する方針となり、複数のメーカーにミネルバ搭載のモーター製作を打診してみたが良い返事は得られなかった。結局スイスの精密機械メーカーのマクソンモーター(en)が協力をすることになった。しかしマクソンモーターはNASAの火星探査機マーズ・パスファインダーに搭載されたローバー、ソジャーナ用のモーターを提供したことがあったが、ソジャーナで要求された温度条件よりもミネルバのそれは高温での動作を要求される厳しいものであった。結局小惑星上で60時間動作するという耐久試験にマクソンモーターのモーターは合格し、ミネルバに使用されることが決まった。 ミネルバには小惑星表面を撮像するカメラの搭載を行う予定であった。まずミネルバにも探査機MUSES‐C本体が搭載するカメラを利用しようと考えたが、コスト高である上に、カメラ自体もミネルバと同じくらいの重量があるため断念せざるを得なかった。そこで技術者たちは様々なカメラを調べていったが、ミネルバに搭載可能である重量10グラム以下、取り付け高さ15ミリというカメラはなかなか見つからなかった。しかし1998年になってソニーのノートパソコン、VAIOシリーズのPCG‐C1に目をつけた。PCG‐C1には回転式のCCDカメラが内蔵されており、このカメラならばミネルバに搭載できそうであった。話を持ちかけられたソニー側は協力を了承したが、ミネルバに搭載されたカメラが宇宙空間で不具合を起こしても対応できないことと、カメラ本体の詳細な技術情報の開示は行わないことが条件となった。 ソニーのノートパソコン用カメラの利用が決まった後も、カメラの難題は続いた。最大の問題はソニー製のカメラのインタフェースが独自のものであり、ミネルバのマイコンに接続するための変換回路が必要となったことであった。結局1999年末に、ソニーが新たに開発を行ったUSBをインタフェースとするノートパソコン用の外付けカメラ、PCGA‐VC1をミネルバ用カメラとして採用することが決定した。またPCGA‐VC1にはカメラモジュール用のドライバがWindows向けしかなく、この後、ミネルバ用のμITRONドライバの開発を行うなど、ミネルバ搭載のカメラ開発を進めていった。しかし試験を進めるうちに低温環境でのカメラ動作に不具合が生じるなど様々な問題が起きた。ミネルバ開発陣はソニーからPCGA‐VC1の供給を受けていたが、2000年12月には数が足りなくなってしまったため開発陣はPCGA‐VC1を購入したところ、内部のLSIが変更されていてせっかく開発したミネルバ用のμITRONドライバが動かない事態が生じた。ソニー側に確認したところ、すでに以前のタイプの在庫はないとのことで、新たなドライバを開発する時間的な余裕もないため、あわてて中古品を秋葉原でかき集めざるを得ないことになった。民生用の部品は宇宙用部品と比べて製品開発のサイクルがはるかに短いために起こった出来事であった。 オプション扱いの低予算での開発が宿命づけられていたミネルバ開発陣は、小型モーター、カメラ以外にも積極的に宇宙用ではない民生品を利用した。もちろん実際に宇宙で使用できるかどうかについて放射線耐性などの試験を行い、合格したものを使用することにしたが、民生品の合格率は当初の予想よりも遥かに高かった。しかしどうしても宇宙用の部品を使用せねばならないものもあった。太陽電池は宇宙用の部品を使用したものの一つであった。わずか十数センチ立方以内というミネルバ表面に貼ることができる太陽電池の面積を考えると、小惑星探査に必要な電力をまかなうために高い変換効率を持つ太陽電池が必要とされたうえに、宇宙空間での劣化に耐えうるものにしなければならないというのが理由であった。しかし宇宙用の高性能太陽電池は極めて高価であり、見積もりで1000万円を越える金額を提示された。これでは太陽電池に開発費用を食われてしまい他の部分の開発ができなくなってしまう。そこで開発陣は、正規の太陽電池製品ではなく、製品製造の際に出るテストピースと呼ばれる切れ端の利用を思いついた。テストピースは性能は正規品と変わらないため、もし使うことができれば価格の低下が期待できた。目論見どおり、テストピースを使った見積もりは正規品の半分から三分の一になった。しかしここで難題が発生した。ミネルバは当初正八角柱の形状を予定していたが、製品の製造過程で出る切れ端であるテストピースは、正規品よりも小さいために正八角柱の表面に効率的に貼ることができなかった。やむをえず2000年夏には、ミネルバは正八角柱からテストピースの太陽電池を効率的に貼り付けられる正十六角柱に変更されることになったが、すでに設計が進み、各種試験も行われていたミネルバの設計、試験を一からやり直さねばならないことになった。 ==ミネルバの完成== ===NASAローバー計画の中止とミネルバ計画の進展=== ミネルバの開発が進められていく中で、2000年11月、NASAは開発を進めていたローバー、MUSES‐CNの開発中止を決断した。MUSES‐CNには約20億円の開発費用が投じられていたが、今後更に費用を要することが見込まれるため計画中止にしたという説明がなされた。NASAのローバーが中止になったことにより、ミネルバがMUSES‐Cに搭載される可能性は極めて高くなったものの、ミネルバはオプション扱いのままで正式プロジェクトに格上げされることはなく、完成まで資金難に苦しみ続けることになり、実際にMUSES‐Cに搭載されるかについても保証されなかった。 一方探査機本体であるMUSES‐C自体も開発に際して様々な困難に直面しており、当初2002年1月に予定されていた打ち上げが再三延期され、結局2003年5月9日の打ち上げとなった。資金不足、厳しい重量と大きさの制限という過酷な条件下で開発が進められていたミネルバにとって、MUSES‐Cの打ち上げ延期は開発までの時間稼ぎにもなったが、当初の計画ではミネルバは地上からの指示を受けることなく完全自律で動かす予定であったものが、地上からのテレオペレーションでも動かせるように方針が変更されたため通信効率を大幅に上げる必要性が生まれ、通信ソフトウエアを作り替えるなど、新たな要求にも対処せねばならなかった。2000年3月にエンジニアリングモデルが完成したミネルバは、2001年3月にはMUSES‐C本体との試験を行うことができるプロトフライトモデルが完成し、2003年2月にミネルバ本体が完成する。ミネルバは日本初の宇宙探査用ローバーであり、また世界初の小惑星探査ローバーとなった。 ===ミネルバのシステム=== 完成したミネルバは、ローバーであるミネルバ本体を含め、合計5つのコンポーネントで構成されていた。 MUSES‐Cにミネルバを据え付ける機構であり、小惑星までの飛行中にミネルバへの電源供給を担うOME‐BOME‐Bとミネルバとの間のカバーであるOME‐C探査機のデータバスとの間の中継器であるOME‐EOME‐Eがミネルバと通信を行うための平面パッチアンテナであるOME‐Antこれら4つのコンポーネントが探査機本体に付属した。 小惑星へのミネルバ放出時にはOME‐Bに固定されていたOME‐Cとミネルバが切り離され、バネによって探査機から押し出される。OME‐Cは秒速約40センチ、ミネルバは秒速約5センチで放出されるよう設計されており、探査機から放出後はミネルバとカバーであるOME‐Cは分離する仕組みとなっていた。ミネルバ本体の重量は591g、ミネルバと他の4つのコンポーネントの総重量は1457gになった。 ミネルバ本体は直径12センチ、高さ10センチの正16角柱で、太陽電池が一面に貼り付けられている。そのためどのような姿勢であっても太陽光を得られる環境であれば電力を確保できる。着陸時の衝撃緩和と太陽電池の保護のためミネルバ表面から16本のピンが突き出ており、うち6本のピンには温度センサーが内蔵されていて、小惑星地面の温度を直接測定することができるようになっている。またピンはホップ時の摩擦を大きくする役割も担っていた。ミネルバと探査機本体側のOME‐Eは同一のCPUシステムを持っていて、ミネルバが取得したデータはまず無線で中継器であるOME‐Eへ送られ、中継器から探査機本体の搭載コンピュータやデータレコーダーに送られた後、地球へ送信される。また地球からミネルバへの指令もOME‐Eを通して行われる。 ローバーを天体上の目的地まで導くためには任意の方向へ移動できる機能が必要とされる。任意の体勢から任意の方向へとホップさせるためには3自由度のアクチュエータ、とにかく任意の姿勢からホップするためには2自由度のアクチュエータが必要となるが、ミネルバは軽量化の必要性からモーターを2つとした。ミネルバ内には大きなターンテーブルがあり、ターンテーブルの上部にミネルバをホップさせるためのDCモーターが取り付けられた。そしてターンテーブル自体も旋回用のモーターによって動かすことができるようになっており、ターンテーブルを回してホップする方向を変えたり、またターンテーブルの回転によってホップさせることも可能である。またホップする速さを小惑星の脱出速度以下に抑えるため、ミネルバ分離前にホップする速度の設定を行うこととした。 電力はミネルバ全面に貼られた太陽電池から供給される。余剰電力は電気二重層コンデンサに蓄えられ、モーターの回転や写真撮影時など、太陽電池からの電力のみでは間に合わない大きな電力を必要とされる際にサポートする。電気二重層コンデンサは電解液の改良により低温では劣化しないが、130℃以上の高温下では少しずつ劣化する。そのため小惑星表面で活動を続けていくとやがて使えないようになる(最終的にMUSES‐Cの目的地となったイトカワ上では3昼夜と考えられた)。電気二重層コンデンサが使えなくなった後、通信などは可能であるがホップや写真撮影はできなくなってしまうため、ミネルバが静止している場所の小惑星表面温度を継続的に測定する運用を検討していた。 ミネルバには表面から突き出たピンに内蔵された6つの温度センサー以外に、3つのカメラ、6つのフォトダイオードが外界センサーとして搭載された。カメラは3つとも同じものであり、2つのカメラは同一方向に向けて隣同士に設置され、近くをステレオ視可能である。これは主に小惑星表面を撮影する。残り一つのカメラは2台のカメラと反対側に据え付けられ、ホップ時に上空から小惑星を撮影することを主目的としている。フォトダイオードは光量の測定を行う目的で搭載されており、全て異なる方向を向いていて、各フォトダイオードが測定された光量で太陽の方角を推定するようになっていた。 ミネルバの上面と下面にはアンテナが取り付けられている。ミネルバの姿勢が変化していく中で、上下のアンテナのうち探査機を指向している側を使用することになっていた。ミネルバとOME‐E間の通信速度は9.6kbpsで、最大距離20kmまで通信可能であった。 ===ミネルバの自律機能と小惑星探査=== ミネルバは極めて小さなローバーであり、太陽電池による発電量が少なく、そのため処理速度が速いコンピュータを搭載することはできず、高度に知能化されたローバーとすることは不可能であった。しかし地球から小惑星探査中のMUSES‐Cまでは、往復で30分以上の通信時間を要する。しかも通信レートは低速で、地球とミネルバ間は探査機を通してデーターのやり取りを行うシステムであるため、地球からの指示をいちいち仰ぎながらでは探査時間が極めて短くなってしまう。そこで様々な工夫を行いながらミネルバは自律機能を強化していった。この自律的小惑星探査手法の実証は、ホップしながら小惑星表面を移動するという小天体用ローバーの移動メカニズムの実証と並び、ミネルバの工学実験の柱であった。 大気のない小惑星表面では、昼間は100℃以上、一方夜になると‐100℃以下になると考えられた。しかしミネルバの動作温度は‐50℃から80℃である。そこで内部機器を断熱材で覆って低温から保護する対策を講じるとともに、ミネルバは内部の温度を4つの温度センサーによって常時モニターして、動作温度の下限や上限に近づくとまずホップや写真撮影といった電力を食う機能を停止させ、内部の温度が動作温度を外れたら一部の機能を残して活動を停止することにした。断熱材の影響もあってミネルバから熱が逃げにくくなると考えられ、特に日中の温度が高い時間帯はミネルバは休止状態になる見込みであった。またフォトダイオードのモニター値から太陽の方向を判断し、温度条件が厳しくない小惑星上の朝や夕方の方向へホップする機能も備えていた。 ミネルバはフォトダイオードの測定値から自らが移動しているかどうかを判断する。つまりフォトダイオードが測定する光量が一定であれば小惑星上に静止しているものと判断し、表面のステレオ撮影を行って表面温度を測定した後、ホップして移動する。一方光量が変化している場合には、小惑星上をホップしながら移動している最中であると判断し、小惑星上空撮影用のカメラで表面撮影を行う。 しかしミネルバにはホップ時に小惑星にカメラを向ける機能は設けられていない。そのためどうしても二分の一の確率で小惑星とは反対側の宇宙空間を撮影してしまう。そこで撮影した画像はまず圧縮処理を行い、圧縮後のデータサイズが小さいものは画像を廃棄する。そして保存された写真も画像内をいくつかの領域に分け、情報量が少ない部分はやはり宇宙空間を撮影したものと判断してその部分を廃棄し、情報量の多い部分のみ保存するようになっていた。そして保存された画像は情報量に比例して優先度をつけ、優先度が高い画像から順次MUSES‐Cへ向けて送信するようにした。 またミネルバのソフトウェアは自律して活動を行う自律モードの他に、地上のオペレーターがミネルバを直接制御するテレオペレーションモードも選択できるようになっていた。テレオペレーションモードの際はミネルバは自立的な活動は行わないようになっており、小惑星までの道中にミネルバの機能チェックを行う際などに使用された。 ==ミネルバの運用== 2003年5月9日、MUSES‐CはM‐V5号機によって内之浦宇宙空間観測所から打ち上げられ、はやぶさと命名された。ミネルバははやぶさに搭載されて小惑星イトカワを目指した。イトカワまでの2年余りの道中、ミネルバは時々機器の電源をオンにして状態チェックを受けた。はやぶさ打ち上げ直後のチェックで動作に不安定な面が見つかったが、原因が判明して対策を取ったところ正常に戻った。そしてその後の状態チェックではミネルバは正常に機能した。 はやぶさは2005年9月12日、目的地の小惑星イトカワに到着した。到着後、はやぶさはまずイトカワの詳細観測を行い、11月に入るとはやぶさの目的の一つである小惑星のサンプルリターンを目指し、イトカワへの着陸にチャレンジすることになった。しかしはやぶさはイトカワへの着陸チャレンジ前に深刻なトラブルに見舞われていた。姿勢制御を担う3基のリアクションホイールのうち、2基が故障してしまったのである。残り一つのリアクションホイールと化学エンジンの噴射を工夫することによって姿勢制御を行うことにしたのだが、安定した姿勢制御を行うことは困難であった。はやぶさは小惑星イトカワのサンプルリターンを目指しており、イトカワでの任務を終えたら地球へ戻らねばならない。イトカワから地球へ予定通り戻るには11月中にイトカワを出発しなければならず、姿勢制御の問題と時間の制約がのしかかっていた。 11月4日の初回の着陸リハーサルは、やはりリアクションホイール故障が大きく影響してイトカワ表面への誘導が想定通り進まず、また着陸を行う方法として考えられた画像処理のデータに基づく着陸試行では、画像処理自体にエラーが出てしまいうまくいかなかった。11月9日に行われた第二回のリハーサルでは、画像処理による着陸を断念し、高度500メートルまではイトカワ表面の地形画像をもとに地上からの指示ではやぶさを誘導するという別の方法を試行した。この二回目の着陸リハーサルは、イトカワ表面への着陸制度という面では精度がまだ足りなかったものの、一回目ではイトカワ表面から700メートルが最接近距離であったものが、70メートルまで接近することができた。 ===イトカワへの着地失敗=== 11月12日に行われることになった第三回着陸リハーサルで、ミネルバはイトカワ表面へ向けて放出されることになった。第三回着陸リハーサルの目的はミネルバの放出とともに近距離レーザー距離計と航法誘導方法の確認であった。この第三回リハーサルでミネルバの放出を行うことになった理由は、小惑星からのサンプルリターンを目的とする着陸時にはミネルバ放出も行う余裕はないと判断されたためであった。また11月中の着陸ミッション完遂を求められていた状況では、ミネルバ放出だけのためにリハーサルをもう一回追加する時間的余裕は無かった。 ミネルバの放出は自律機能を用いず、地上からの指令であるテレオペレーションで行うことになった。テレオペレーションで放出を行うということは、地球とイトカワ間の通信に片道約16分かかるため、はやぶさからのデータを見ながら、往復分である約32分後のはやぶさの位置と速度を予測しながらミネルバの放出を決定することになる。このような場合、本来テレオペレーションで放出を行うことは好ましいとはいえない。しかしはやぶさの場合、小惑星への距離が100メートル以下の状況下で用いる予定であった近距離レーザー距離計の事前試験がこれまで全く行われていなかった。つまり自律機能を用いてミネルバ放出を行おうとしても、きちんと動くかどうか全く確かめていなかった近距離レーザー距離計の数値をもとに行わざるを得ず、これはリスクが高い運用であると判断された。結局、時間の厳しい制約を課せられていたはやぶさのイトカワ着陸ミッションでは、ミネルバ放出と近距離レーダー距離計の試験を第三回リハーサル時に同時に行わざるを得なくなり、テレオペレーションによるミネルバ放出が決定された。 11月12日15時8分、地上からミネルバ放出のコマンドが送信された。ミネルバはイトカワ上空70メートル、イトカワとの相対速度は秒速5センチ以下で放出する予定であった。しかしミネルバ放出コマンドの前に、はやぶさに対して上昇するよう指示するコマンドが送られていたというミスが発生した。ミネルバは15時24分にはやぶさから放出されたが、イトカワからの高度は約200メートルで、はやぶさは秒速約15センチで上昇中であった。結局ミネルバはイトカワに着地することなく人工惑星となった。はやぶさのプロジェクトマネージャである川口淳一郎は、ミネルバのイトカワ着地失敗のそもそもの原因は、近距離レーザー距離計の試験とミネルバ放出を同一の着陸リハーサルで行ったことにあるとしている。 ミネルバははやぶさから放出後は自律モードとなり、定期的に写真撮影を行うようになっていた。一方はやぶさも、ミネルバ放出後は速度を上げてイトカワから上昇しながら搭載カメラでミネルバを撮影することになっていた。はやぶさからミネルバがあると思われる方向への撮影は合計4回行われた。ミネルバ放出後212秒後にはやぶさが撮影した写真に、ミネルバとミネルバとともに放出されたカバーであるOME‐Cが写っていた。 ミネルバが撮影した写真のうち、送信されたのははやぶさの太陽電池パネルが写った一枚のみである。その画像もフルサイズでは160×120ピクセルであったものが、画像下側の三分の一が送信されずに160×80ピクセルのものが送信されてきた。これはミネルバの自律画像判断機能が働いて、写真中で何も写っていない部分を破棄して送信しなかったためである。また送信された写真が一枚だけであった理由も、他の写真が何も写っていない宇宙空間を撮影していたり、もしはやぶさやイトカワが写っていたとしても、とても小さく写っていたために画像が棄却されてしまい送信されなかったためと考えられる。 ミネルバははやぶさから分離後、約18時間に渡って通信を継続した。もしミネルバがイトカワに着地すれば、イトカワの自転周期から考えて3時間前後で夜間となっていったん通信が途絶するはずであるが、18時間継続して通信できたことからも、ミネルバはイトカワに着地することなく、人工惑星として宇宙空間を漂っていたことがわかる。ミネルバからは写真は一枚しか送信されてこなかったが、温度データなどは通信継続中は送られ続けた。うち、ミネルバ内部の温度データは放出後ほぼ一定の数値を示しており、これはミネルバは放出後、イトカワ表面からの熱輻射の影響を受けない宇宙空間にあったことを示している。またミネルバが宇宙空間で初めて使用することになった電気二重層コンデンサも正常に動作した。 ミネルバの通信途絶直前に送信されてきたデータによれば、ミネルバの機能は完全に正常であった。従って通信途絶はミネルバの故障が原因ではなく、はやぶさのミネルバ通信用アンテナであるOME‐Antがカバーできる範囲からミネルバが外れてしまったことにより、通信不能になったためと考えられている。 ==ミネルバII== ミネルバは小惑星イトカワへの着地に失敗し、人工惑星となった。しかしミネルバが目的とした工学実験の二本の柱のうち、ホップしながら小惑星表面を移動するという小天体用ローバーの移動メカニズムの実証は、イトカワ表面での実地検証を行うことはできなかったが、はやぶさ打ち上げ前に落下塔での無重力試験を重ねることによってある程度メカニズムを確立できており、一方もう一本の柱である自律的小惑星探査手法の実証については、18時間に及ぶミネルバの運用の中で超小型自律ロボットとしての実績を積むことができた。 はやぶさによるイトカワ探査によって、イトカワのような小さな小惑星であってもその表面は均質ではなく、場所によって差異が見られることが明らかとなった。表面が均質な天体であればランダーが降り立って探査すればよく、移動機能を有するローバーは必要とはされない。しかし場所によって表面の性質が異なる天体であるならば、移動機能を有するローバーによる探査の必要性が生まれる。イトカワのような小天体でも場所によって表面の性質に違いが見られることが明らかになったということは、太陽系小天体においてもローバーがその探査に有効であることを示している。 そこでミネルバ以降の小天体用のローバーとして求められる機能としては、小天体上の科学的に重要と見られる地点にローバーを誘導する機能が求められることになり、そのためにはまず小天体上のローバーの位置同定が必要となる。位置同定にはミネルバのような超小型ローバーでは探査機によって詳細に撮影された画像により作成された地図と、ローバーが撮影した写真を比較する方法、ローバーに搭載された太陽や星のセンサを用い、天体上で観測された重力方法を基準とする方法、ローバーが車輪を用いる場合には車輪の回転を分析することによって移動距離や方向を分析する方法などが考えられるが、ミネルバのようなホップして移動する超小型ローバーでは、車輪の回転を分析する方法はそもそも使用できず、小天体は多くの場合いびつな形状をしているので表面で観測される重力方向が不安定であるため、太陽や星のセンサーを用いる方法では精度が保障できないと考えられた。また超小型ローバーの場合、撮影した写真の視野が極めて狭いことが予想され、探査機によって撮影された地図と上手く照合できないと考えられた。結局、探査機から静止中のローバーまでの距離を計測し、探査機の運動と小天体の自転運動の動力学を利用して小天体上の位置の同定を行う方法が検討されている。 はやぶさに続いて小惑星を探査するはやぶさ2計画においても、ミネルバの後継機であるミネルバ2の搭載が計画された。結局はやぶさ2に搭載されたミネルバは2機構成のミネルバ‐II1と、ミネルバ‐II2の合計3機となった。ミネルバ‐II1はJAXAと会津大学が開発を担当し、ミネルバ‐II2は東北大学、東京電機大学、大阪大学、山形大学、東京理科大学によって構成された大学コンソーシアムによって製作された。 ミネルバ2では、ミネルバが目指した自律的小惑星探査手法の実証、ホップしながら小惑星表面を移動するという小天体用ローバーの移動メカニズムの実証という工学的課題のほか、先述した小惑星上のローバーの位置同定、複数ローバーによるネットワーク探査、搭載コンピュータとしてSOIデバイスの宇宙空間での利用といった新たな工学的チャレンジが提案された。またミネルバ2では、探査目標の小惑星リュウグウの自転軸が不確かで、自転軸が横倒しの場合には日照が長時間連続する可能性があるため、搭載コンピュータの冷却機能の追加や、目標小惑星の公転軌道や探査時期から、1.2天文単位以遠での探査を見据えた大型化などが検討された。 ミネルバ2の科学観測は、ミネルバと同様のホップ中に上空から小惑星を撮影する単眼望遠カメラ、小惑星表面で表面の詳細撮影を行う接写ステレオカメラ、内部と外部の温度計、光量から太陽方向を測定するフォトダイオードの他に、ミネルバ2の姿勢変動を計測するジャイロ、ミネルバ2が小惑星表面に着地した正確な時刻の計測や、小惑星の表面重力の直接測定、更にははやぶさ2計画で行われる予定であるインパクター衝突時における振動の測定などへの利用が考えられる加速度計、そして炭素に富むC型小惑星である1999 JU3の表面探査を考慮して、LED照射による多色分光を行い有機物測定などを行う機器の搭載が検討された。 ミネルバ‐II1は、はやぶさ2の目的小惑星であるリュウグウが、小惑星の表面重力加速度、温度、自転周期、自転軸の傾きなどがイトカワと異なることが予想されたためローバーの再設計を行わねばならず、またミネルバの経験を踏まえて多くの改良を加えることとなったため、完全な新規開発となった。ミネルバ‐II1はローバー保持、分離機構とローバー本体の合計質量は約2500g、2機のローバーはそれぞれ約900gである。ミネルバで採用したターンテーブル方式は、ターンテーブル上にほとんど全ての回線配置を行う必要性から軸受けなどの構造を強化せねばならず、どうしても質量が大きくなってしまうため、ミネルバ‐II1では採用されなかった。ミネルバ‐II1は形状を薄型として、面積が広い面が小惑星表面に接地する可能性を高めるようにした。小惑星上でのローバーの姿勢がほぼ決まることにより、2つのアクチュエータを同時に動かすことによって任意の方向へローバーをホップさせることが考えられていたが、重量オーバーのため1つに減らすことになった。 一方、5大学のコンソーシアムによって2011年春に開発が開始されたミネルバ‐II2は、ローバー本体とローバー保持、分離機構との合計質量は約1500gである。ミネルバ‐II2は極めて小さな重力加速度下での移動機構の検証を主目的とし、カメラによる小惑星撮像などのミッションを行う計画である。 ミネルバ‐II2の製作に参加した5大学の役割分担は 東北大学は計画全体の取りまとめ、微小振動によるマイクロホップ型移動機構の開発山形大学はバイメタルによる環境駆動型移動機構の開発東京電機大学は永久磁石を利用した内部撃力型移動機構の開発大阪大学は板ばねを用いた弾性エネルギー開放型移動機構の開発東京理科大学はローバーに搭載するカメラの開発である。 ===リュウグウへの着地成功=== 2018年9月22日、JAXAは小惑星「りゅうぐう」の地表に2台のミネルバ2が着地に成功したと発表した。少なくとも1台がりゅうぐう地表をジャンプして移動したことも確認された。小惑星上で探査機が着陸、移動、写真撮影に成功したのはいずれも世界初となる。 2018年12月13日、JAXAは会見でミネルバ2‐1のステレオ画像を含む新たな画像を公開。また正式名称について1Aが「イブー (HIBOU)」、1Bが「アウル (OWL)」と発表した。いずれも神話でミネルバと関わりのあるフクロウに因む。それぞれ113日と10日の活動が確認されており、その後は日陰に入って休止中と推定された。またその間カメラの画像に全く汚れが確認できなかったことから、リュウグウ表面に砂は無いと結論付けられた。 ===ミネルバ‐II2の不具合=== ミネルバ‐II1の成功の一方、ミネルバ‐II2については、打ち上げ前の最終試験の段階から不具合が続いていることが同年11月8日に明らかにされた。ミネルバ‐II2のデータ処理用のFPGAの動作が不安定な状態となっており、軌道上での動作確認において、応答を返すものの機器の状態が取得できない状態が続いている。 =エレウシスの秘儀= エレウシスの秘儀(エレウシスのひぎ、ギリシア語: *3437*λευσ*3438*νια Μυστ*3439*ρια, 英語: Eleusinian Mysteries)は、古代ギリシアのエレウシスにおいて、女神デーメーテールとペルセポネー崇拝のために伝承されていた祭儀。エレウシスの密儀、エレウシスの秘教とも。 密儀の主題は、ギリシア神話において穀物と豊穣の女神デーメーテールの娘コレーが冥府の神ハーデースによって誘拐される物語に基づいている。冥府から地上に帰還するペルセポネーは死と再生の神として、世代から世代へと受け継がれる永遠の生命を象徴している。入信者たちはこの密儀によって死後に幸福を得られると信じていた。 儀式の中核部分は公開されず、秘密が厳格に守られたために現代に伝わっていない。しかし、『ホメーロス風讃歌』をはじめとする文献資料のほか、エレウシスの遺跡から出土した絵画や陶器の断片から、その内容についてさまざまな推測や議論がなされている。 この密儀は農業崇拝を基盤とした宗教的実践から成立したと考えられている。紀元前15世紀のミュケナイ期から古代ローマまで約2000年間にわたって伝わり、古代ギリシアの密儀宗教(英語版)としては最大の尊崇を集めた。主要な祭儀は毎年秋に催され、アテナイの祝祭として取り込まれた後は、春のディオニューシア祭、夏のパンアテナイア祭と並んで「アテナイの三大祭」といわれた。 ==歴史== ===起源=== エレウシスに最初に住んだのはトラキア人だった。地名のエレウシス(*3440*λευσ*3441**3442*)は、ギリシア神話において死後の楽園を意味するエーリュシオン(*3443*λ*3444*σιον)と関連がある。また、秘儀・密儀(μυστ*3445*ριον, 英語:mystery)の語形は、おそらくはインド・ヨーロッパ語根で口を閉じるmu‐に由来するもので、「儀礼的沈黙」を表している。 エレウシスでデーメーテールの名で捧げられた現存する最古の奉納品は紀元前8世紀のものである。ただし、線文字B文書には「ダマテ」という記載があり、これがデーメーテールを意味するとすれば、ミュケナイ期(紀元前1450年 ‐ 1150年頃)からこの名で礼拝された可能性がある。また、アッティカで発見されたエレウシニオン神殿跡は、それらが古い農耕信仰に基づいていることを示唆している。デーメーテールはもともとギリシアのすべての地方とギリシア植民地で崇拝された女神であり、新石器時代の大地母神の後継者だった。このような農耕信仰に基づいた祭式は、クレタ島のアリアドネー信仰のほか、近東・古代オリエントの宗教社会にも見られることが比較研究によって判明している。そうした例として、古代エジプトのイシスとオシリスの密儀、フェニキア(現シリア)のアドーニス信仰、ペルシアの密儀、フリギアのカベイロスの密儀が挙げられる。 エレウシスの祭儀堂テレステリオン(英語版)の発掘調査により、アテナイ時代の神殿遺構の下からミュケナイ期のメガロンの遺構が出土している。メガロンの長さは9.5メートル、幅5.7メートルで、紀元前1450年から1100年頃まで使用されたと考えられている。このメガロンが王の住居であったのか神殿であったのかについては議論があるが、この遺構に獣を犠牲として焼いた痕跡があることから、最近の研究ではミュケナイ期から聖所としての役割があった可能性が指摘されている。これらにより、密儀が始められたのは紀元前15世紀と見られる。 また、初期ミュケナイ期以前のギリシア本土では、宗教実践を示す証拠がほとんど見られないことから、おそらくミュケナイ人はミノア文明の信仰を受け容れることでその空白を埋めていたとも推測されている。クレタ島を起源とする出産と助産を司る女神エイレイテュイア(Ε*3446*λε*3447*θυια)は、ラコニアとメッセニアではエリュシア(*3448*λυσ*3449*α)と呼ばれており、「エレウシニオスの月」(ラコニア暦の2月)やエレウシスとの関係が考えられる。さらに、『ホメーロス風讃歌』の「デーメーテール讃歌」123行目にはデーメーテール自身がクレタ島から海を渡ってやってきたという身の上話をする場面がある。ハンガリーの神話学者カール・ケレーニイ(1897年 ‐ 1973年)によれば、デーメーテールはケシの神であり、クレタ島からエレウシスにケシが持ち込まれたという。一方、ルーマニアの宗教学者で『世界宗教史』の著者ミルチャ・エリアーデ(1907年 ‐ 1986年)は、最近の発掘はエレウシスの建造物にクレタからの影響があったという仮説の誤りを示しているとする。 ===古典期=== エレウシスの隣国にはアテナイがあり、エレウシスは早い段階でアテナイの支配下に入ったらしい。その時期ははっきりしないが、遅くとも紀元前6世紀半ばにはエレウシスはアテナイに併合されていたと考えられている。考古学的研究からは、紀元前8世紀からアッティカで生産されるようになった土器群がエレウシスで集中的に出土しており、この時期にエレウシスがアッティカに帰属し、政治的にもアテナイに併合されたことを示唆するという指摘もある。 ギリシア神話には、エレウシスとアテナイの対立を物語るエピソードが見い出せる。たとえばアテナイの神話的な王エレクテウスの時代、両国の間に戦争が起きたとされる。このとき、ポセイドーンとキオネーの子で密儀の創設者といわれるエウモルポス(英語版)は、トラキアの兵を率いてアテナイ軍と戦い、討ち死にした。また、アテナイの英雄テーセウスにレスリングを挑んで殺されたケルキュオーンは、エレウシスの英雄だった。このエレクテウス王時代の戦争について2世紀ギリシアの旅行家パウサニアスは、エレウシスは密儀を独自に執行する代わりに、アテナイに服属することで戦争を終結させたと記している。 以降、エレウシスの秘儀はアテナイの祝祭に組み込まれ、アテナイの発展とともに普及していった。僭主ペイシストラトス(紀元前6世紀頃 ‐ 前527年)の時代以降に見られる、新たな建築物や建物の再建は、祭儀の飛躍的発展を物語っている。エレウシスの秘儀は全ギリシア的規模となり、ギリシア周辺からも入信のための参加者が集まった。紀元前300年頃には、アテナイが国家として秘儀の主催を引き継いだ。祭儀はエウモルポスとその息子ケーリュクス(英語版)から起こったとされる二つの家系(「エウモルピダイ」及び「ケーリュクス」)によって取り仕切られ、入信者の数は大幅に増加した。男女を問わず、奴隷も入信が許された。アテナイでは年間を通じて公的行事として祝祭が執行されたが、数多い祝祭の中でも春のディオニューシア祭、夏のパンアテナイア祭と並んで、秋のエレウシスの秘儀祭(大密儀)は最も盛大であり、しばしば「アテナイの三大祭」といわれる。 エレウシスの碑文には、デーメーテールに命じられ、竜の戦車に乗って世界中に農耕を伝えたとされる神話的英雄トリプトレモスのほか、ペルセポネーが冥界から戻る道を導くエウブーレウス(英語版)について言及がある。紀元前500年頃の壺絵には有翼の戦車に乗るトリプトレモスが盛んに描かれており、トリプトレモスが農耕を伝搬する使者の役割を担うことになったのは、この頃からと見られる。 ===古代ローマ期・終焉=== 古代ローマの初代皇帝アウグストゥスは紀元前20年、ギリシアを支配下に置いた。アウグストゥスは、インドの王ポロスからの親善使節がエレウシスの秘儀を見たいと熱望したのに応えて、季節外れだったにもかかわらず臨時に秘儀を催させ、自身もこれに参加したという。また、2世紀前半の皇帝ハドリアヌスは、ギリシア文化への傾倒からエレウシスの秘儀に入信している。 170年にエレウシスはサルマタイによって略奪を受けたが、皇帝マルクス・アウレリウスがこれを修復した。アウレリウスは、テレステリオン内で聖職者しか入れないアナクトロンへの常時入場を認められた唯一の皇帝となった。しかし、4世紀から5世紀にかけて、ローマ帝国でキリスト教の支持が高まると、エレウシスの権威は薄れた。「異教徒皇帝」と呼ばれるユリアヌス(治世:361年 ‐ 363年)がエレウシスの秘儀を復興させるが、彼はローマ皇帝として最後の入信者となった。 約30年後の392年、皇帝テオドシウス1世は法令を発してエレウシスの聖域を閉鎖した。396年には西ゴート族の王アラリック1世の襲撃によって、密儀の最後の残滓も一掃され、古代の聖域は荒廃した。 ==神話== デーメーテールの神話で最も有名なエピソードは、冥府の王ハーデースによって略奪された娘ペルセポネーを探して諸国を放浪するというものである。このエピソードはエレウシスの密儀や農業の起源譚、あるいはデーメーテールの娘でアルカディア地方の密儀の主神であったデスポイナ女神の誕生譚となっている。紀元前4世紀から前5世紀にかけてのアテナイの修辞学者・弁論家イソクラテスは演説『パネギュリコス』(紀元前380年)の中で、密儀の由来と広がりについて、デーメーテールが放浪中にエレウシスに立ち寄り、穀物の栽培を教えたと語っている。 農耕発祥の由来において、二柱の女神に次いで重要な位置を占めているのはトリプトレモスである。彼はエレウシス王ケレオス(英語版)とその妃メタネイラ(英語版)の子で、デーメーテールは彼の両親から受けた好意に報いて、トリプトレモスに翼ある竜の戦車を与え、麦の栽培を世界の人々に教えるべく旅立たせた。トリプトレモスはまた、アッティカのデーメーテールの祭であるテスモポリア祭の創始者とされる。ところがトリプトレモスはエレウシスの伝承において必ずしも重視されているわけではない。 エレウシスの密儀に関する最も重要な文献は『ホメーロス風讃歌』の第2歌「デーメーテール讃歌」(紀元前8世紀頃成立)である。これはペルセポネー略奪の物語を伝える最古の詩である。この讃歌においてデーメーテール自身による密儀の伝授と創始が語られていることから、神話と密儀は互いに説明し合う表裏一体の関係にあると考えられている。以下に、「デーメーテール讃歌」の要約を述べる。 ===「デーメーテール讃歌」=== 草原で花を摘んでいたペルセポネーは、ゼウスの企みに従ったハーデースによって連れ去られる。娘の叫び声がデーメーテールに届き、母神は松明を掲げて大地をさまよい歩いた。10日目に、ヘカテーがデーメーテールの前に現れ、何者かがペルセポネーを奪い去ったと告げた。デーメーテールはヘカテーを伴ってヘーリオスのもとを訪れ、ペルセポネーをさらったのはゼウスの許しを得たハーデースだということを知る(第1行 ‐ 第90行)。 怒ったデーメーテールはオリュンポスから離れ、老婆に身をやつして地上の街や畑を巡り歩いた。女神は放浪の末にエレウシスにたどり着き、ケレオスの館に迎えられる。館ではケレオスとその妃メタネイラの子供デーモポーンが誕生しており、デーメーテールはデーモポーンの養育を引き受ける。女神は子供を不老不死にしようとして、昼にはアンブロシアを肌にすり込んで甘い息を吹きかけ、夜には両親に気づかれないように火の中に埋めて育てた。ところが、子供の神にも似た成長ぶりを不審に思ったメタネイラがこれを覗き見して叫び声を上げたため、デーメーテールは腹を立てて女神の姿を現し、アクロポリスの麓に神殿と祭壇を作るように命じた。ケレオスが言われたとおりにすると、デーメーテールは神殿にこもった(第91行 ‐ 第304行)。 穀物の女神が姿を隠したために、大地は実りを失った。ゼウスは女神の怒りを宥めようと、イーリスをはじめとして神々を遣わしたが、デーメーテールは一切聞き入れなかった。やむなくゼウスはヘルメースを冥府に遣わし、ハーデースを説得してペルセポネーを地上に連れ戻すように命じた。こうして、ついに母娘は再会を果たした。しかし、ハーデースはペルセポネーを還す前にザクロの種を食べさせていたため、冥府の食べ物を口にしたことにより、ペルセポネーは1年のうち三分の一は冥界で過ごし、残りの三分の二は地上で暮らすこととなった(第305行 ‐ 第469行)。 大地は実りを取り戻した。デーメーテールはトリプトレモス、ディオクレース、エウモルポス、ケレオスに祭儀の執行を教え、またトリプトレモス、ポリュクセイノス、ディオクレースには秘儀を明かすと、ペルセポネーとともにオリュンポスに赴き、再び神々の列に加わった(第470行 ‐ 第495行)。 ===解釈=== この物語が示す深い人間的な感情は、文学や宗教の歴史においても巨大な影を投げており、「原体験」あるいは「元型」とも呼ばれる。イギリスの社会人類学者ジェームズ・フレイザーは、著書『金枝篇』において、ペルセポネーの神話が冬を地中で越す麦の神話であることを論証している。コレーの運命は、穀物のサイクルを体現している。コレーが冥界にとどまる一季は穀物の種が播かれて目を出すまで、残りの二季は地上に芽を出して生長する。すなわち、ペルセポネーは冬の4ヶ月を地中で過ごし、春の芽吹きとともに地上に戻ってくることになる。讃歌でもペルセポネーの帰還は春だと明言されており、古代以来、これが通説とされてきた。ところが、ギリシャのとりわけアッティカ地方では農耕事情が異なっており、10月に播種すると数週間後に発芽し、3月に結実するため冬季の畑は成長期となる。したがって、ペルセポネーが冥界にいるのは穀物が地下の貯蔵庫に蓄えられている6月から9月だとする解釈が近年唱えられている。 ケレーニイは、「デーメーテール讃歌」の穀物は消滅と復活を思わせる回帰を象徴すると解釈している。また讃歌の中で子供を不老不死とするために火の中に埋めるという奇妙な行為も穀物の運命を暗示している。穀物はパンとなるためにいったん火によって死ぬが、死を克服して生命の糧となるというものである。ドイツの神話学者ヴァルター・ブルケルト(1931年 ‐ 2015年)は、デーメーテールがオリュンポスから退去し、再び戻るという点において、デーメーテールもペルセポネーも「どちらも退き、また戻ってくる女神」だとして、役割の二重性を指摘している。 また、讃歌の中間部では、例えば、羊の皮を掛けた椅子に座り(196‐197行。以下同じ)、飲食をせず(200)、イアムベーの冗談に笑い(202‐204)、大麦粉と水とミントを混ぜた飲み物(キュケオン)を飲む(208‐209)、など、儀式の所作が集中的に説明されている。このように、「デーメーテール讃歌」には儀式にかかる「縁起」が具体的に織り交ぜられているが、トリプトレモスへの言及はわずかであり、農耕発祥のエピソードやアテナイからエレウシスまで聖具を捧げ持って行進する「聖なる道」など、アテナイに関する事柄には触れていない。これらの事柄はおそらく、エレウシスがアテナイに併合された後、国家の隆盛に伴って自国の偉大さを強調するために生み出されたものだと考えられる。こうした「アテナイ色」の欠如は、この讃歌がエレウシス併合よりも早期に成立したという推定を裏付けるものとなっている。 ==密儀== 修辞学者イソクラテスは、「密儀にあずかる人々は生命の終わりと永遠について喜ばしい希望を持つようになる」と述べている。古代詩人ピンダロスは「(密儀を見たものは)生命の終わりを知り、またその始まりを知る」と謳い、悲劇詩人ソポクレスもまた「これらの密儀を見た者だけが冥府で真の生命を得る」と記している。 エレウシスの秘儀の骨子は、穀物神の復活・蘇生の若々しい生命力を人間の身につけ、循環する生命の永遠性に参与し、死後の魂の幸福を享受しようとする宗教的儀礼だった。大地の豊穣と、生命の誕生と再生という神秘的領域との交感をもたらしてくれる象徴性によって、エレウシスの秘儀は全ギリシアの人々を誘ったと考えられている。 ===秘密=== 入信者は密儀の内容を公開しないよう守秘義務が課され、厳格に守られた。「デーメーテール讃歌」に次の詩句がある。 「これ(秘儀)は、聴くことも語ることも許されぬ、侵すべからざる神聖な秘儀であり、神々に対する大いなる畏れが声を閉じ込めてしまう。」 ― 「デーメーテール讃歌」第487‐488行 アテナゴラスやキケロなど古代の著述家は、密儀の内容を漏洩した罪によりメロスのディアゴラス(英語版)がアテナイで死刑を宣告されたと述べている。エレウシス出身の悲劇詩人アイスキュロス(紀元前525年 ‐ 紀元前456年)は、劇場で密儀の秘密を明かしたとして審問を受けたが、彼自身が入信者ではないことを示して許されたと伝えられる。エレウシスの遺跡からは密儀の様々な局面を描いた絵画や陶器の破片が多く出土しているが、これらは主に儀式の最初の段階についてのものであり、秘密ではなかったと推測されている。 2世紀のギリシア教父アレクサンドリアのクレメンスは大密儀について、「私は断食し、キュケオンを飲んだ。私は箱から取った。この技を終えて再びそれを籠の中に置き、そして籠から箱へと入れる」と記している。また、3世紀初頭、ローマの対立教皇ヒッポリュトスはその著書『全異端反駁論』において、次のように暴露している。 「アテナイ人、エレウシスの秘儀入信者たちは、この秘儀が彼らを至高の段階に至らしめていると賢しらに誇示している。強大で崇高、もっとも完璧で好ましい秘密、究極の神秘的真理とは、すなわち『穀物の穂は静かに刈られた』である。」 ― ヒッポリュトス『全異端反駁論』 ただし、これらの証言についてエリアーデは、当時の「護教家」たちが異教を排撃する目的を持っていただけでなく、シンクレティズムの最盛期に書かれたものであり、より新しいヘレニズム的密儀をエレウシスの儀礼と混同していた可能性があり、注意が必要としている。 ===密儀の段階=== 上記アレクサンドリアのクレメンスは、「まず浄めの儀式があり、教えの基礎とそれ以降の準備のための事項を含んだ小密儀が続く。大密儀では、およそすべてのことどもに関することであり、もはや学ぶものではなく、自然と事物に関して観じ思惟を行うのみ」とも記している。これについて、ブルケルトは「浄め(カタルシア)」、「教え(ディダスカリア)」、「神見(エポプテイア)」の三段階を設定していると解している。エリアーデは、小密儀、大密儀(テレタイ)、最終的な体験としてエポプテイアを挙げている。このうちテレタイとエポプテイアについては決して明らかにされなかった。ドイツの神学者オード・カーゼル(1886年 ‐ 1948年)は、エレウシスの秘儀がデーメーテール・ペルセポネーの死と再生に与ることによって、死と再生を繰り返す自然界のサイクルに順応するための記念の儀礼であることを考えれば、エポプテイアの次元とは、そういった自然の秘儀を「見る」ことにおいて成立すると述べる。 ===小密儀=== 小密儀は毎年2月、アッティカ暦のアンテステーリオーンに執り行われた。ケレーニイによると、小密儀は参加者が入信の資格を得るためのもので、デーメーテールとペルセポネーに子豚を犠牲として捧げ、イリソス川で浄めの儀式を行った。小密儀を終えると参加者たちは大密儀に立ち会うにふさわしい「密儀者たち(ミュスタイ)」と見なされた。小密儀に参加した入信者たちは、同じ年の大密儀には参加できず、翌年の大密儀に参加するしきたりとなっていた。 伝説によれば、小密儀はヘーラクレースに課された「12の難行」の最後の冒険と関わっている。ヘーラクレースは冥府の番犬ケルベロスを生け捕ってくることを命じられたが、人間が生きたまま冥府に下るには、エレウシスの秘儀に入信することが必要だった。当時の密儀は他国人にはまだ開かれておらず、ヘーラクレースは最高祭司のエウモルポスを訪ねてピュリオスの養子となり、イリソス川で沐浴してケンタウロス殺戮による「血の穢れ」を浄められたのち、入信を許されたという。 ===大密儀=== 大密儀は毎年9月のボエードロミオーンに行われた。4年ごとの大密儀は「ペンテテリス」として特に盛大に祝われた。入信の資格は、年齢、性別、自由人か奴隷かに関係なく認められた。ただし、流血の罪を犯していないことが条件だった。儀式加入のための費用は、紀元前4世紀後半には一人あたり15ドラクマが必要だった。これは当時のおよそ10日分の賃金に当たる。大密儀については、以下概ねブルケルト及びミュロナスに従って記述する。 ボエードロミオーンの14日、エレウシスの聖具(ヒエラ)がアテナイのアクロポリスのエレウシニオン神殿まで運ばれた。15日(大密儀の第1日「アギュルモス」)、祭司長(ヒエロパンテス)が祭礼の幕開けを宣言する。16日(第2日「ハラデ・ミュスタイ(海へ、密儀者よ)」)、入信者たちはパレロン(英語版)の入江で子豚と沐浴する。17日(第3日「ヒエレイア・デウロ(犠牲をこちらへ)」)、デーメーテールとペルセポネーの二柱に犠牲を捧げて祈願した。18日(第4日)は休息に当てられた。この日、入信者たちは翌日以降の儀式の教示を受けたほか、医神アスクレーピオスの祭祀である「エピダウリア祭」が催された。この祭祀は紀元前420年ごろエピダウロスからアテナイに導入されたもので、この経緯はやがて、アスクレーピオスがエレウシスの秘儀に4日遅れて到着したところ、人々は彼のために特別に準備的儀式を行ったという神話として形成されることとなった。19日(第5日「ポンペー(大巡礼)」)、アテナイの墓地ケラメイコスからエレウシスまでの「聖なる道(ヒエラ・ホドス)」と呼ばれる約30キロメートルの道のりを行進する。女司祭が聖具を収めたキステと呼ばれる籠を掲げ、入信者たちはバッコイと呼ばれる杖を振りながらこれに付き添った。途中、ケピソス川の橋を渡る際に、入信者たちは卑猥な罵りを受けた。これは、イアムベー(英語版)またはバウボー(英語版)を記念したもので、この二人はそれぞれ別の伝承において、娘の喪失を嘆くデーメーテールを笑顔にさせていた。行列は道々「イアッコー、イアッケ!」と叫んだ。これはペルセポネーまたはデーメーテールの息子イアッコス(英語版)のことだという。日が落ち、暗くなってから行列は松明に照らされながらエレウシスに到着する。20日 ‐ 21日(第6‐7日「テレタイ」)、入信者たちは昼間のうちに休息するとともに、断食に入る。断食は、コレーが誘拐されたおりのデーメーテールを記念するものだった。断食が終了すると、麦、水、ミントを含んだキュケオン(英語版)と呼ばれる飲料が提供された(キュケオンの効能については後述)。祭儀堂テレステリオンにおいて本格的な儀礼が開始される。テレステリオン内にはアナクトロン(宮殿)と呼ばれる聖具の保管所があり、祭司長のみが入ることができた。ミュロナスによると、密儀の核心部分は「ドロメナ(演じられたこと、)」、「レゴメナ(語られたこと)」、「デイクニュメナ(明かされたこと)」の3つの要素からなっていた。ドロメナは神聖野外劇であり、デーメーテールとペルセポネーの物語が演じられた。終わりにプルート神殿の扉が開き、冥界からペルセポネーが現れてテレステリオンに向かい、入信者たちもそれに続いて中に入った。レゴメナについては短い典礼文であったと推測されている。デイクニュメナでは、アナクトロンが開いて、祭司長が聖具を示したと考えられている。聖具がどのようなものであったかは知られていない。ブルケルトによると、密儀の核心部分は次の要素からなる。 入信者たちは祭司長によって地下から呼び出されるコレーを見る。 祭司長が神の誕生を告げる。「女神は聖なる御子をお産みになった。畏怖すべき女神が御子をお産みになった」。 静寂の中、祭司長が刈り取られた麦の穂を提示する。入信者たちは祭司長によって地下から呼び出されるコレーを見る。祭司長が神の誕生を告げる。「女神は聖なる御子をお産みになった。畏怖すべき女神が御子をお産みになった」。静寂の中、祭司長が刈り取られた麦の穂を提示する。21日に儀礼が終わると、パニキスと呼ばれる夜通しの饗宴となり、農耕発祥の地と言い伝えられていたラーロスの野で踊りが催された。22日(第8日「プレーモコアイ」)、入信者たちは特別な器から献酒(英語版)を注いで死を敬った。23日、すべての者たちは帰路についた。 ==キュケオンの作用に関する議論== 『ホメーロス風讃歌』の「デーメーテール讃歌」第210行に、デーメーテールがケレオスの館で提供された赤ワインを拒否し、水と大麦、ペニーロイヤルミントから作られたキュケオンを受け入れるという場面がある。ギリシアをはじめとした古代には、魔術や宗教上の目的のために媚薬などの薬を用いることは比較的よく見られた。ケレーニイは、クレタ島でアヘンが生産されていたことは間違いなく、デーメーテール女神の信仰はクレタ島からエレウシスにケシの栽培をもたらしたかもしれないとして、ケシから採取されるオピオイドが密儀に用いられた可能性を指摘している。また、古代ローマの詩人オウィディウスによると、コレーがハーデースにさらわれたときに摘んでいたのはケシの花だったとする。 ロバート・ゴードン・ワッソン(1898年 ‐ 1986年)、テレンス・マッケナ(1946年 ‐ 2000年)、アルバート・ホフマン(1906年 ‐ 2008年)ら民族菌類学の研究者たちは、エレウシスの秘儀で用いられる飲料キュケオンにはエンセオジェン(英語版)もしくは幻覚剤としての効果があり、密儀の信仰の力はこれに由来していると主張している。ワッソンらによれば、キュケオンには大麦やライ麦などに寄生する菌類である麦角菌が含まれており、アルカロイドの一種であるエルゴタミンあるいはLSDの前駆物質となるエルゴメトリンを成分として含有する。先行する断食によって準備された入信者たちが速やかに感化を受けたことは、セットとセッティングの関係で説明される。これにより、キュケオンの向精神薬作用が深遠な霊的・知的効果をもたらし、啓示的な精神状態へと促進された可能性がある。紀元前415年に、アテナイの貴族アルキビアデスが私邸においてキュケオンを友人たちに振る舞い、エレウシスの秘儀への冒涜行為として非難された。このことは、キュケオンに幻覚剤的な作用があったことを間接的に示す証拠とされている。 これに対し、ブルケルトはこれらの主張には確たる証拠がなにもなく、麦角中毒の症状は不快で陶酔感をもたらすものではないこと、加えて薬物摂取のような個人的体験を千人規模の集団入信者に当てはめることはふさわしくないとして、否定的な見解を明らかにしている。また、J・ニグロ・サンソネーゼ(英語版)(1946年 ‐)は1994年、エレウシスの秘儀は人間の神経系の深部感覚が呼吸制御によってトランス状態を誘発するという仮説を発表している。 現代において麦角菌が寄生した大麦を用いてキュケオンを調製する試みは、決定的とはならなかったものの、アレクサンダー・シュルギンとアン・シュルギンは、エルゴメトリンとリゼルグ酸アミド(エルジン)の双方にLSDに似た効果があることが知られていると述べている。マッケナは、他にも密儀に使われたかもしれないものとして、マジックマッシュルームやシビレタケの仲間、あるいはベニテングタケなどの候補を挙げている。 キュケオンの精神作用に関するもう一つの説は、クサヨシ属やアカシアなど地中海地域に見られる多くの野生植物に含まれるジメチルトリプタミン(DMT)である。DMTを経口摂取で作用させるためには、モノアミン酸化酵素阻害薬(MAOI)と組み合わせなければならないが、MAOIはこれも地中海全域で生育しているシリアン・ルー(英語版)に含有されている。 ==後世への影響== ===キリスト教=== ドイツの歴史家ハンス・クロフトによると、エレウシスの秘儀は廃れたが、その信仰の要素はギリシャの片田舎で生き残った。デーメーテールの儀式と宗教的役割は、農民や羊飼いたちによって部分的にテサロニケの聖デメトリオス(英語版)として移され、聖デメトリオスは徐々に地方の農業の守護者として、異教の女神の「後継者」となった。 死と再生を記念する儀式としてのエレウシスの秘儀は、後のキリスト教的秘義を先取りするものとする指摘もなされている。例えば『ヨハネによる福音書』における「一粒の麦の譬え」にいう「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば多くの実を結ぶ。」との教えは、自然界のサイクルを背景にしたエレウシスの秘儀との共通点が見られる。また、マリア像における「麦穂のマリア」は、キリスト受胎の過程で救いの麦(生命のパン)を成育する「聖なる器」の暗示としてガウンに麦穂があしらわれており、地母神としてのデーメーテール崇拝が初期キリスト教に融合された結果、マリアの様相のひとつとして息づいている例とされる。 ===エレウシスの秘儀を題材にした現代作品=== オクタヴィオ・バスケス(英語版)の交響曲「エレウシス」(2009年):スペイン著者・出版社協会(英語版)及びRTVE交響楽団からの委嘱作品として作曲された。2015年に同オーケストラとエイドリアン・リーパーの指揮によって初演。現代ギリシャの詩人ディミトリス・リアコス(1966年 ‐)による『ポエナ・ダムニ』三部作の第2部『橋から来た人々(英語版)』(2014年):集団救済(英語版)のテーマのもとに、エレウシスの秘儀と初期キリスト教の伝統の要素を結合させている。また、地下の死者の住まいから生者の世界への定期的な帰還を暗示するものとして、ザクロが象徴的に用いられている。咲間貴裕の『吹奏楽のためのエレウシスの祭儀』:第10回全日本吹奏楽連盟作曲コンクール第1位作品として2018年は日本全国の吹奏楽団によって演奏される。 ==関連項目== アドーニス:古代シリア(フェニキア)の植物神として信仰の対象になっていた。ペルセポネーの神話とも関係がある。オシリスとイシスの伝説:死と再生を象徴するエジプト神話。オルペウス教:古代ギリシアの密儀宗教のひとつ。ギリシア神話のオルペウスが開祖と見なされている。カベイロス:ギリシア神話でヘーパイストスとカベイローの息子たち(複数形はカベイロイ)。その密儀は非常に古い起源を持つと考えられている。ディオニューソス:ギリシア神話の神。密儀宗教の信仰対象となり、エレウシスの秘儀との関連が議論されている。 =ウエスト・ハイランド・ホワイト・テリア= ウエスト・ハイランド・ホワイト・テリア (英: West Highland White Terrier) は、スコットランド原産の一犬種。白一色の被毛を持つ小型のテリアで、ウェスティ (Westie) という愛称で呼ばれている。19世紀にスコットランドで飼育されていた白い被毛の犬同士を掛け合わせて作出された犬種の子孫である。19世紀にポルタロックの領主エドワード・ドナルド・マルコムが、現在のウェスティの重要な血統となる白いテリアを作出し「ポルタロッホ・テリア」と名づけたが、現在ではこの名称はほとんど知られていない。その他現在のウェスティの祖先といえる血統として、第8代アーガイル公爵ジョージ・キャンベルの「ローズニース・テリア」とドクター・アメリック・エドウィン・フラクスマンの「ピッテンウィーム・テリア」があげられる。これらの血統の子孫にウエスト・ハイランド・ホワイト・テリアという名前が与えられたのは1908年のことで、各国のケネルクラブもその後まもなくこの犬種を公認した。現在でもイギリスでは人気が高い犬種であり、アメリカでも1960年代以降つねに上位3分の1に入る登録犬数となっており、日本での登録件数は1999年以降20位から30位程度である。BBC スコットランド制作のテレビドラマ『ヘイミッシュ・マクベス(英語版)』などテレビ作品や映画作品に出演することも多く、宣伝広告としてもマース社のドッグフードブランドであるシーザーのパッケージや、スコッチ・ウイスキーの銘柄「ブラック・アンド・ホワイト(英語版)」のラベルなどに使用されている。 ウェスティは小型のテリアで、スコットランド原産のほかの小型テリアに比べると脚部は長い。被毛は白一色の豊富なダブルコートで、頭部にも密生する被毛が丸顔の犬種であるという印象を与えている。幼い子供とともにすごすことを苦にする犬種ではないが、加減を知らない子供から手荒な扱いを受けた場合にはこの限りではない。活動的な犬種で、もともと猟犬として使役されていたこともあって獲物を追いかける本能が強い。非常に精力的な犬種であるため、十分な運動量が必要とされる。頑健な犬種ではあるが、幼犬期に顎の発育障害が見られることがあり、肥厚性皮膚疾患を発症することもある。 ==歴史== イングランド王ジェームズ1世(在位1567年 ‐ 1625年)の治世最初期の、白い被毛を持つスコットランドの犬に関する記録が残っている。フランス王への贈り物とするために、ジェームズ1世が12頭のテリアをアーガイルで産ませるように命じた記録である。当時はサンド(砂色)とブリンドル(虎毛)の被毛の犬が丈夫で、白い被毛の犬は虚弱だと考えられていた。ウェスティの作出には、スコティッシュ・テリアやケアーン・テリアの白い被毛の犬が大きな役割を果たしたと考えられている。 スコットランド有数の名族であるキャンベル氏族の長だった第8代アーガイル公ジョージ・キャンベルは、ローズニース・テリアとして知られる白い被毛のスコティッシュ・テリアを繁殖させていた。また、白い被毛を持つ別系統のスコティッシュ・テリアとして、ファイフ出身のドクター・アメリック・エドウィン・フラクスマンが維持していたピッテンウィーム・テリアの系統がある。フラスクマンはスコティッシュ・テリアには白い被毛の系統は不要であるとして生まれた仔犬を処分していたが、もともとスコティッシュ・テリアには白い被毛の形質が受け継がれており、一種の先祖がえりで白い被毛をもつスコティッシュ・テリアが生まれるのではないかと考えるようになっていった。そしてフラクスマンは白い被毛を持つスコティッシュ・テリアの計画的作出を試みるようになり、暗色の被毛に比べて低い位置に貶められていた白いスコティッシュ・テリアの復権に力を注いだ。19世紀の終わりにはフラクスマンが出陳した白い被毛のスコティッシュ・テリアが、ドッグショーで高く評価されることもあった。 現在のウェスティの血統にもっとも大きな貢献を果たしたのは、ポルタロックの領主エドワード・ドナルド・マルコムである。マルコムは狩猟用にテリアを飼育していたが、あるときキツネと間違えて赤茶色のテリアを撃ってしまった。そしてこの過ちを悔いたマルコムは白い被毛を持つテリアの作出を決心したという言い伝えがある。そしてマルコムが作出した白色のテリアが領地にちなんでポルタロック・テリアと呼ばれるようになっていった。最初期のポルタロック・テリアの被毛の色はサンドで、すでに現在のウェスティの特徴といえる立ち耳を持っていた。ポルタロック・テリアとピッテンウィーム・テリアとが交配されたかどうかは明らかになっていない。1903年にマルコムはポルタロック・テリアの作出者として名前が知られることは望まないとして、自身が作出した白い被毛を持つテリアの名前をポルタロック・テリアから改名することを求めた。「ウエスト・ハイランド・ホワイト・テリア」という名称が最初に見られるのは、1908年に出版されたL.C.R.キャメロンの『カワウソとカワウソ猟 (Otters and Otter Hunting)』である。ウェスティの愛好クラブが最初に設立されたのは1904年で、初代の代表者には第10代アーガイル公ナイアル・キャンベルが就任した。続いて設立された二番目のクラブの代表者にはアバディーン伯爵夫人が選ばれ、後にエドワード・マルコムが2代目の代表者となっている。イギリスのザ・ケネルクラブがウェスティを独立犬種として承認したのは1907年で、同年にザ・ケネルクラブが主催したドッグショーのクラフツ(英語版)にも最初のウェスティが出陳された。また、ウェスティは1907年から1908年ごろにアメリカに輸出された。アメリカでは当初ローズニース・テリアとも呼ばれ、愛好クラブも「ローズニース・テリア・クラブ」として1908年にアメリカンケネルクラブに公認されたが、このクラブは翌年「ウエスト・ハイランド・ホワイト・テリア・クラブ・オブ・アメリカ」に改称している。さらにカナダのケネルクラブ(英語版)も、1909年にウェスティを公認している。ウェスティはイギリスでたちまちのうちに人気犬種となり (in vogue)、輸入されて間もないアメリカでも人気を博した。ウェスティはイギリスで1924年にケアーン・テリアやスコティッシュ・テリアなどとは別系統の純血種として登録された。マルコムが死去する1930年には、立ち耳、白い被毛、短躯といった、この犬種の特徴が確立されている。 ウェスティはヨーロッパ、北米ともに、主要なドッグショーで高い評価を得ている。ドッグショーで最初にチャンピオン犬となったウェスティは、1905年にコリン・ヤングがスコティッシュ・ケネルクラブ主催のショーに出陳した生後7カ月のモーヴァンである。ただしこのときのモーヴァンは、ウェスティではなくスコティッシュ・テリアとして登録、出陳されていた。これは当時のウェスティが未だ独立犬種とは認められていなかったためで、後にモーヴァンがウエスト・ハイランド・ホワイト・テリアとして再登録されると、チャンピオン犬の称号は剥奪されてしまった。主要なドッグショーでチャンピオン犬となったウェスティは、1942年にニューヨークで開催されたウェストミンスター・ケネルクラブ・ドッグショー(英語版)にコンスタンス・ウィナントが出陳したウルヴィー・パターン・オブ・エドガーストーンで、このときにはショー全体の最優秀犬 (Best in Show) を受賞している。1962年にも同じ賞を、バーバラ・ウスターが出陳したエルフィンブルック・サイモンという名前のウェスティが受賞している。ウェスティがイギリスの主要なドッグショーで最優秀犬(ベスト・イン・ショー)となったのはキャス・ニューステッドとドロシー・テイラーが出陳したダイアンザス・ボタンズで、1976年に開催されたクラフツでのことだった。その後、1990年開催のクラフツでもデレク・タッターサルが出陳したウェスティのオラク・ムーン・パイロットがベスト・イン・ショーを受賞している。 20世紀初頭のウェスティの人気は高く、数百ギニーという高額で取引されていた。2010年のイギリスでは5,361頭のウェスティの仔犬がザ・ケネルクラブに新しく登録されており、これはテリアとしては第3位の登録件数である。しかしながらテリア中第1位を記録した2001年の11,019頭からみると、ウェスティの登録件数は減少している。アメリカではウェスティの登録件数は1960年ごろ以来、登録犬全体の上位3分の1で安定している。アメリカンケネルクラブの登録件数は、2001年に30位、2010年には34位であり、この10年ほどは30位前後の登録件数となっている。日本のジャパンケネルクラブの登録件数は1999年が20位で、以降徐々に順位は下がっており2011年時点では31位となっている ==外観== 一般的に、ウェスティは窪んだアーモンド形をした暗色の眼を持ち、小さく尖った立ち耳をしている。標準的な体重は6.8kgから9.1kg(15ポンドから20ポンド)程度で、肩までの体高は25cmから28cm(10インチから11インチ)程度である。体長は体高よりも短くなくてはならない。脚はほかのスコットランド原産のテリアよりも長めとなっている。深い胸部、筋肉質の脚部、黒い鼻先を持ち、顎は短くシザーズ・バイトと呼ばれる咬み合わせである。幼犬では鼻先や肉球はピンク色をしており、成長とともに徐々に黒くなっていく。 被毛は柔らかく密生したダウンコート(下毛)と粗いアウターコート(上毛)のダブルコートで、およそ5cm程度まで伸びる。頭部にも密生する被毛が丸顔の犬種であるという印象を与えている。成犬に対する被毛の手入れとして、古いアウターコートを指先で引き抜くハンド・ストリッピングが一般的で、ドッグショーに出陳する犬の場合には特別なクリッピングが必要とされる場合がある。 ==性質== ウェスティの性質は個体差が非常に激しく、例えば子供に対しても友好的な個体もいれば、まったく相手にしない個体もいる。いずれにせよ、加減を知らない子供がウェスティの耳を引っ張ったり、ウェスティの食べ物やおもちゃの取り合いをするなど、手荒に扱うことはことは好ましくない。概して独立心が高く毅然としているため、番犬としても優秀である。一方で飼い主に対しては親密で忠実な犬種であるが、そのためには十分なしつけ、訓練が要求される。ウェスティは非常に社交的な性質で、スコットランド原産のテリアのなかではもっとも友好的かつ明るい性質の犬種といえる。 頑固で、ときにしつけが入りにくい面もあり、その生涯を通じて訓練が必要とされる場合もある。多くのテリアと同様に獲物を追跡する本能が高く、ボール投げなどの遊びに強い興味を示す。好奇心が強く、アナグマやネズミの巣穴を探す猟犬として使役されていたころの習性も見られ、吠えたり地面を掘り返す本能も残している犬種である。アメリカ人心理学者スタンレー・コレン(英語版)の『あなたの犬の偏差値は?』では、ウェスティは17位となっている。 ==健康面== ウェスティの寿命は、長生きする個体もいるが、およそ12年から16年くらいで、一度に出産する仔犬の数は3頭から5頭である。まれに多産な個体も見られ、2012年4月にはアイソベルという名前の雌犬が11頭の子犬を産んだという記録がある。 ウェスティは腹部のヘルニアが比較的多い犬種である。また、ウェスティの仔犬は「ライオンの顎」として知られる頭蓋骨下顎骨骨症(英語版)を発症することがある。これは劣性形質によるもので、親犬がどちらも劣性遺伝子を持っている場合に発症する。頭蓋骨下顎骨骨症自体は他のテリア犬種にも見られ、グレート・デーンなどテリアの血統とは直接関係のない犬種も発症する症例である。1歳未満の幼犬が発症することが多く、食物の咀嚼や嚥下不良の原因となることがある。顎周辺の骨の放射線透過検査によってこの症例を診断することができ、血液中のカルシウム量や酵素量からもある程度の診断は可能となっている。1歳を越える頃になると進行が止まることがほとんどで、症状も治まることがある。それまでは抗炎症薬の投与と柔らかい食餌による治療が行われるが、症状が悪化している場合にはチューブによる流動食が必要となることがある。しかしながら、自力での摂食が不可能で苦痛が抑えられないような場合には安楽死の処置がとられることも多い。 ほかに皮膚疾患も発病しやすい症例である。2006年から2007年に実施された調査によれば、ウェスティのおよそ4分の1は遺伝性の慢性的なアトピー性皮膚炎に罹患しており、雌犬よりも雄犬のほうがその割合が高かったという調査結果がある。また、まれにではあるが、ウェスティ特有ともいえる増殖性皮膚症と呼ばれる、幼犬、成犬を問わず発症する重い皮膚疾患に罹患することがある。この疾患に罹病すると、皮膚に赤斑の沈着異常が見られるようになり、脱毛と苔蘚化(英語版)を発症する。発症初期ではアレルギー性皮膚炎など軽症の皮膚疾患と間違えられやすい。 ウェスティに見られる遺伝性疾患としてはクラッベ病(英語版)があげられる。ただしウェスティ特有の疾患ではなく、ケアーン・テリア、ビーグル、ポメラニアンなどの犬種にも見られるもので、ガラクトセレブロシダーゼと呼ばれる酵素の欠損を原因とする神経系の疾患である。幼犬のころから兆候があり、生後30週程度でこの疾患に罹病しているかどうかが判断できる。症状としては全身の震えや、筋肉の発育不全、歩行困難などである。病状の進行は遅いが、最終的には脚部が麻痺する。遺伝性の疾患であるため、この疾患に罹病しているウェスティは繁殖に使用しないことが求められている。ほかの遺伝性疾患として、ホワイト・ドッグ・シェイカー・シンドローム(英語版)があげられる。これもウェスティだけでなくマルチーズにもよく見られる疾患で、以前は白い被毛を発現する遺伝子が関係していると考えられていたが、ヨークシャー・テリアやダックスフントといった白以外の被毛を持つ犬種にも発症することがわかっている。初期症状としては頭部や脚部の震え、運動失調、ディスメトリア(英語版)があげられる。この疾患には雌雄差があり、雌の場合であれば症状が4週間から6週間で収束するのに対し、雄の場合には死ぬまでこの症状がおさまることはない。そのほか、あまり見られない疾患としては、尿、血漿、髄液に含まれるα‐ヒドロキシグルタル酸の異常亢進を伴うヒドロキシグルタル酸尿症がある。ヒドロキシグルタル酸尿症は発作、筋硬直、運動失調などの原因となるが、ウェスティよりもスタッフォードシャー・ブル・テリアに、より発症しやすい疾患となっている。股関節変性の一種であるレッグ・ペルテス病を発症することもある。しかしながらウェスティがこのレッグ・ペルテス病を発症する割合は他の犬種に比べて低く、オーストラリアン・シェパードやミニチュア・ピンシャーなどに、より見られる疾患となっている。また、小型犬によく見られる膝蓋骨脱臼(英語版)は発症しにくい犬種でもある。 ==大衆文化== ===広告ブランド=== スコッチ・ウィスキーの銘柄「ブラック・アンド・ホワイト」にはスコティッシュ・テリアとともにウェスティがラベルなどの広告に使用されている。マース社が発売しているドッグフードの「シーザー (Cesar )」にはウェスティがマスコットとして使用されている。 ===映画作品=== アメリカで2005年に、イギリスで2006年に公開された映画『ユアン少年と小さな英雄(英語版)』で、主役犬のボビー役にウェスティが使われた。しかしながら史実のボビーはウェスティではなくスカイ・テリアだったため、スカイ・テリアの愛好団体からの抗議を受けた 。 ===テレビ作品=== BBC スコットランド制作のテレビドラマ『ヘイミッシュ・マクベス(英語版)』の主役ヘイミッシュ・マクベスの愛犬ウィー・ジョック。イギリスのテレビコメディ『ジーヴス・アンド・ウースター』に、主人公バーティの伯母アガサの愛犬マッキントッシュ。アメリカのテレビアニメ『キング・オブ・ザ・ヒル』に、主人公ハンクの隣人カーンの愛犬ドギー。 ===その他=== 歌手のジュディ・オングの愛犬「パール」がこの犬種である。「涼宮ハルヒの憤慨」の『ワンダリング・シャドウ』において、ハルヒとキョンの同級生・阪中の飼い犬「ルソー」として登場する。「キミノココロ ボクノココロ」第2話(コミックス1巻)において、ヒロインの里乃が里親サークルでウェスティの雌犬を譲り受け、「クオン(久遠)」と名付けた。 =欧州連合= 欧州連合(おうしゅうれんごう、英: European Union、略称:EU)は、マーストリヒト条約により設立されたヨーロッパの地域統合体。 欧州連合では欧州連合条約の発効前に調印されていた単一欧州議定書によって市場統合が実現し、またシェンゲン協定により域内での国境通過にかかる手続きなどの負担を大幅に削減した。さらに欧州連合条約発効後によって外交・安全保障分野と司法・内務分野での枠組みが新たに設けられ、ユーロの導入による通貨統合が進められている。このほかにも欧州議会の直接選挙が実施されたり、欧州連合基本権憲章が採択されたりするなど、欧州連合の市民の概念が具現化されつつある。加盟国数も欧州経済共同体設立を定めたローマ条約発効時の6か国から、2013年7月のクロアチア加盟により28か国にまで増えている。 ==名称== 欧州連合の基本条約である欧州連合条約の正文は23言語で作成されており、そのため欧州連合の正式名称は23言語で表記される。略称としては、英語などでの表記の頭文字をとった EU があり、日本語圏においてもこの略称を使うことが多い。ただしフランス語、スペイン語など形容詞を後置する言語では UE という略称が用いられる。またアイルランド語では AE、エストニア語では EL、ラトビア語とリトアニア語では ES、キリル文字を使うブルガリア語では ЕС、ギリシア文字を使うギリシア語では ΕΕ となる。 日本語では、日本における欧州連合の代表機関である駐日欧州連合代表部や日本国政府が欧州連合という名称を使用している。また一部ではヨーロッパ連合という名称も用いる。 ただし日本国内において、ソビエト連邦の名称問題のように一部の日本人研究者はUnionに「連合」という訳語を充てることは不適切であると主張している。また欧州議会の最大会派だった欧州社会党も、同日本人研究者の指摘を受けて、日本語表記を「欧州同盟」に変更することに関する質問書を提出したことがあるが、欧州委員会の側は研究社英和辞典の用例や、「連合王国 (United Kingdom)」および「国際連合 (United Nations)」などの例を挙げながら、変更する必要はないと返答した。 ==歴史== ユゼフ・ピウスツキの海洋間連邦 (Intermarium) 、リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギーの国際汎ヨーロッパ連合、ナチス・ドイツの新ヨーロッパ (Das neue Europa) やウィンストン・チャーチルのヨーロッパ合衆国構想など、ヨーロッパを統合する試みは多々あったが、それらに共通する点として、ソ連を仮想敵国とした反共主義があった。 アメリカは、1948年に設立された統合ヨーロッパのためのアメリカ委員会(英語版)を通じてヨーロッパの統合を推し進めるための資金提供を行ってきた。例えば、1958年、ヨーロッパ統合の要を成していた欧州運動の資金の53.5%はこの委員会からきたものである。 ロベール・シューマンは1950年5月9日にシューマン宣言を発し、その中で経済と軍事における重要資源の共同管理を掲げ、欧州石炭鉄鋼共同体設立条約が策定され、1952年7月23日に欧州石炭鉄鋼共同体(英: ECSC)が設立された。 欧州石炭鉄鋼共同体が設立され、1957年には経済分野での統合とエネルギー分野での共同管理を進展させるべくローマ条約が調印され、翌年1月1日に欧州経済共同体(英: EEC)と欧州原子力共同体(英: Euratom)が発足した。当初これら3共同体は個別の機関・枠組みで活動していたが、1つの運営機関のもとでそれぞれの目的を達成することでヨーロッパの統合を進めるべく、1965年にブリュッセル条約が調印され、1967年にヨーロッパ(:諸)共同体(英: EC)という1つの枠組みの中に3つの共同体をおくことで統合の深化が図られた。 1973年1月1日、それまでのフランス、西ドイツ、イタリア、オランダ、ベルギー、ルクセンブルクの6か国に加えて、イギリス、アイルランド、デンマークが欧州諸共同体に加盟する。また1981年1月1日にはギリシャが、1986年1月1日にはスペインとポルトガルがそれぞれ欧州諸共同体に加盟する。この間に議題にあがったのが、いかに経済統合を進めていくか、というものである。加盟国間における政策や法制度の違いは貿易の自由化を妨げており、世界における市場競争の障害となっているという意見が出るようになったことを受けて、欧州経済共同体では域内の単一市場の設立が持ち上がってきた。また、1984年にはイタリアの欧州議会議員アルティエロ・スピネッリが提出した欧州連合設立条約草案を欧州議会が可決させたことは大きな後押しとなった。これに対応するべくドロール委員会のもとで1986年に単一欧州議定書が調印され、ローマ条約を大幅に修正し、経済分野に関する政策を原則として欧州経済共同体が統括することで共同市場設立が掲げられた。また域内における人、商品、サービスの移動の自由を図るべく、1985年にシェンゲン協定が調印され、加盟国間の国境という障壁を除去していくことが盛り込まれた。 1989年になると、レティンゲルの後半の予言が的中した。ポーランドの民主化を皮切りに、東ヨーロッパ諸国における政変が相次ぐなか、鉄のカーテンが劇的に取り払われていき、1989年11月9日にベルリンの壁が崩壊、翌年10月3日にドイツが再統一された。このさい東ドイツで復活した5州が西ドイツに編入され、これに伴って欧州諸共同体は旧東ドイツにもその領域を拡大させた。東ヨーロッパ諸国の共産主義体制の崩壊は欧州諸共同体にとっても重大な影響を及ぼし、これら諸国が自由主義陣営につくことが想定され、ヨーロッパの統合は政治の分野においても協力関係を強化することが求められるようになった。そこで1992年2月7日に欧州連合条約が調印され、翌年11月1日に欧州連合が発足した。 欧州連合では、経済分野に関して超国家的性格を持つ欧州共同体の枠組みのほかに共通外交・安全保障政策、司法・内務協力という加盟国政府間の協力枠組みを新設、いわゆる「3つの柱」構造のもとでヨーロッパのさらなる統合が図られ、またその後、欧州経済共同体設立条約から改称された欧州共同体設立条約と欧州連合条約は1999年発効のアムステルダム条約や2003年発効のニース条約で修正や一体化がなされ、統合の深化が進められた。 1995年1月1日にはオーストリア、スウェーデン、フィンランドが、2004年5月1日には旧社会主義陣営の東ヨーロッパ諸国を含む10か国が、2007年1月1日にはルーマニアとブルガリアがそれぞれ欧州連合に加盟する。将来における拡大についても、セルビアやマケドニア旧ユーゴスラビア共和国などの、2005年に加盟したスロベニアおよび2013年に加盟したクロアチア以外の旧ユーゴスラビア連邦構成国やアルバニア、ジョージアやウクライナなどのロシアと距離を置く東欧諸国、国土の一部がヨーロッパに属するトルコなどで加盟の是非に関する協議や、実際の加盟に向けた実務的な交渉が進められている。 また、経済の分野においては次の段階として通貨統合が進められ、1998年5月1日に欧州中央銀行が発足、翌年1月1日には単一通貨ユーロが導入される。また外交分野においては共通外交・安全保障政策のもとで、北大西洋条約機構と協調する形でユーゴスラビア紛争の対応などにあたってきた。さらに2000年には欧州連合基本権憲章が公布されている。 そのような情勢の中で欧州連合は新たな加盟国の受け入れ態勢の構築が求められ、その一方で機構の肥大化に伴う組織の効率性低下が問題となり、これらを受けて従来の基本諸条約を廃し、一本化した形の基本条約として「欧州憲法条約」が策定され、2004年10月28日に同条約は調印された。ところが欧州憲法条約の超国家主義的な性格に対して、個別の加盟国の主権が脅かされるのではないかという不安から欧州懐疑主義が起こり、条約批准の是非を問う国民投票の結果、2005年5月にフランスで、翌月にはオランダで批准に反対するという意思が示された。 欧州憲法条約が拒否されるという事態を受けて各国の市民に是非を問う国民投票が中断された。その間、欧州憲法条約の中身を引継ぐ新たな基本条約の作成が合意され、2007年12月にリスボン条約として調印された。 リスボン条約は2009年1月の発効を目指して加盟国内での批准手続きが進められているが、2008年6月にアイルランドで実施された、リスボン条約を受け入れるのに必要な憲法改正の是非を問う国民投票で反対票が賛成票を上回るという結果が出された。発効のためには全加盟国の批准を要するリスボン条約も窮地に立たされた事態について、直後に開かれた欧州理事会において、ほかの加盟国での批准手続きは進めていくことが確認された一方で、2008年後半の議長国を務めたフランスはアイルランドに国民投票の再度の実施を求めた。その後2008年12月に行われた欧州理事会の会合でアイルランドは2009年秋ごろまでに再度の国民投票を実施すると表明し、これを受けて欧州理事会はリスボン条約は2009年末までの発効を目指して残る手続きを進めていくことで合意された。後アイルランドは2009年10月に再び実施された国民投票で賛成が反対票を大きく上回り、憲法改正・条約批准が決定した。批准手続きを完了させていなかった加盟国も同年11月までに必要な手続きを完了させ、リスボン条約は同年12月1日に発効した。 このリスボン条約は欧州理事会議長を再定義し、実質上の欧州連合大統領(EU大統領)とした。2009年12月1日よりベルギーのヘルマン・ファン・ロンパウが初代議長として就任した。2014年12月1日よりシコルスキとレティンゲルの故郷ポーランドのドナルド・トゥスクが第二代議長として就任する。 2016年6月24日、イギリスの欧州連合離脱是非を問う国民投票において離脱支持票が過半数となった。この結果を受け、イギリスは2017年3月29日欧州理事会に離脱を通告し、2年を期限とする離脱手続きが開始された。 ===欧州連合統合史の時期区分=== 欧州連合の統合史を時期によって区分するならば次のように分けられる。 1945‐1949年欧州経済協力機構(OEEC)、北大西洋条約機構(NATO)、欧州審議会(Council of Europe)などの設立に象徴されるような、欧州の国際的な連携体制の組織化の時代。アメリカがこの動きを主導した。 1950‐1958年統合の始動と挫折の時代。1952年に欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)が誕生、これによって国際的な部門統合の動きが始まった。これに対して、欧州防衛共同体(EDC)や欧州政治共同体が提唱されたものの、両者とも実現には至らなかった。しかし、メッシーナ会議・スパーク報告によって統合の再出発が図られ、欧州経済共同体(EEC)と欧州原子力共同体(EURATOM)が設立された。 1958‐1969年フランスのシャルル・ド・ゴール大統領の影響が大きい時代。欧州統合の国家連合的性格が強まった時代。 1970‐1985年1970年の欧州政治協力(EPC)の発足、経済通貨同盟(EMU)の試行や、1979年の欧州通貨制度(EMS)の設立、それに伴う欧州通貨単位(ECU)の設置などに見られるように、欧州統合の進展は見られたものの、2度の石油危機もあり、それぞれの欧州国家は内向きであった時代。 1985‐2005年1985年に域内市場白書が採択され、1986年に単一欧州議定書が調印された。非関税障壁の撤廃などにより巨大な市場が誕生し、巨大な市場での自由競争が欧州に現出した。1993年にはマーストリヒト条約発効によって、欧州連合(EU)が誕生。 2005年‐現在2005年5月29日のフランスにおける欧州憲法条約否決や、2016年6月23日のイギリスにおける欧州連合離脱国民投票における離脱派の勝利に見られるような欧州統合拡大の質を問う時代。 ==加盟国== 欧州連合の前身である欧州共同体は当初、6か国が加盟して発足したが、2013年7月にクロアチアが加盟したことにより以下の28か国が欧州連合に加わっている。 フランス ベルギー デンマーク  スウェーデン チェコ エストニア マルタ ドイツ ルクセンブルク ギリシャ フィンランド スロバキア ラトビア ルーマニア イタリア イギリス スペイン オーストリア ハンガリー リトアニア ブルガリア オランダ アイルランド ポルトガル ポーランド スロベニア キプロス クロアチア 北キプロス・トルコ共和国は含まれない。またグリーンラインについては扱いが定まっていない。 グリーンランドは1985年に離脱。フェロー諸島は原則として欧州連合に含まれない。 上記以外にも海外領土などでは特別な地位にあるところが存在する。欧州連合加盟国の特別領域を参照。 マーストリヒト条約第49条では、欧州連合に加盟を希望する国はヨーロッパの国であることと、自由、民主主義、人権の尊重、法の支配といった理念を尊重していることが挙げられている。また実務面では1993年に示されたコペンハーゲン基準を満たす必要がある。これ以外にもアキ・コミュノテールを受け入れられるような法整備がなされていることなどが求められる。欧州委員会は加盟を希望する国に対してこれらの基準を満たしえるかどうか調査を実施し、その報告を欧州理事会に提出している。欧州理事会はその報告書をもとに加盟候補国として具体的な協議を行うか判断している。その後加盟するとなった場合には、加盟予定国は欧州連合との間ではなく、既存加盟国との間で加盟条約を調印し、条約の発効をもって正式に加盟する。 ===離脱することになった加盟国=== ====イギリス==== 2016年6月下旬、国民投票により欧州連合(EU)に於いて相当な影響力を維持していたグレートブリテンおよび北アイルランド連合王国(UK、以下「イギリス」と示す)のEU離脱派が過半数(52%)を占め、EU離脱の方向性が示された。背景にはEU政策に対するイギリスの不信、イギリスへの移民流入問題(en)があるとされる。 これに伴い現(2016年6月下旬)英国首相であるデーヴィッド・キャメロンの辞任が表明された。その後任として、EU残留派ではあったものの残留派のキャンペーンには消極的であったテリーザ・メイが英国首相に就任し、メイ内閣(保守党)の閣僚の中でも外務大臣にEU脱退派の代表格の一人であったボリス・ジョンソン前ロンドン市長が任命された。また、EU離脱担当大臣(初代:デイヴィッド・マイケル・デイヴィス)の閣僚ポストが新設され、行政機関としてEU離脱省が新設された。 ==政治== 議長アントニオ・タイヤーニ政治会派マンフレート・ヴェーバー: EPPジャンニ・ピッテッラ: S&D議員 (751人)事務局副議長会派代表者会議通常立法手続き議長国ブルガリア理事会:総務外務経済・財務 ユーログループユーログループ立法手続き投票事務総長イェッペ・トランホルム=ミッケルセン常駐代表委員会ドナルド・トゥスクユンケル委員会委員長ジョン=クロード・ユンケル副委員長フランス・ティンメルマンスフェデリカ・モゲリーニクリスタリナ・ゲオルギエヴァマロウシュ・シェフチョビッチユルキ・カタイネンヴァルディス・ドンブロウスキスアンドルス・アンシプ委員職員アレクサンダー・イタリアナー司法裁判所第一審裁判所公務員裁判所中央銀行総裁ESCBユーロEMUユーロ圏会計監査院予算OLAF投資銀行地域委員会経済社会評議会オンブズマン他の組織専門機関加盟国議会4つの自由経済領域共同市場自由・安全・正義の領域シェンゲン政策農業資源漁業地域市民汎欧州主義親欧州主義懐疑主義欧州統合スープラナショナリズム連邦主義ヨーロッパ合衆国マルチスピード適用除外強化された協力脱退上級代表対外行動局外交政策防衛政策拡大1979年, 1984年, 1989年1994年, 1999年, 2004年2009年, 2014年(前回選挙)政党人民党社会党保守改革同盟自由民主改革党緑の党左翼党諸国民自由連合直接民主主義連合自由同盟民主党ほか5党EU民主会派EPPS&DECRALDEEUL‐NGLG‐EFAEFDENL選挙区国民投票アキ・コミュノテール 優位性 補完性原理優位性補完性原理基本条約;ローマ(1957年)統合(1965年)SEA(1986年)マーストリヒト(1992年)アムステルダム(1997年)ニース(2001年)リスボン(2007年)基本権憲章加盟国 表・話・編・歴 欧州連合の最高意思決定機関は、全加盟国の政府の長と欧州委員会委員長、及び大統領にも相当するとされる常任議長による欧州理事会である。欧州理事会は、1年に最低4回の公式会合と、不定期の非公式会合を開き、そこで欧州連合の方針や政策の大局を決定する。また、常任議長は、欧州委員会委員長とともに、対外的に欧州連合を代表する。一方で個別・具体的な政策の詳細を定めるのは、加盟国の閣僚からなる欧州連合理事会(閣僚理事会、あるいは単に理事会とも呼ばれる)である。欧州連合理事会は各分野の政策ごとに分かれており、それぞれの担当閣僚が出席している。 欧州連合理事会でまとめられた政策案は欧州議会に諮られる。欧州議会は5年に1度の欧州連合市民による直接選挙(普通選挙)で選出される750名の議員で構成されている。2009年発効のリスボン条約により欧州議会が行う共同決定手続きが適用される範囲が広がり、一部の例外を除くほぼすべての政策分野で適用されることになる。ただし、一部分野では諮問手続きが適用される。また、欧州議会は非義務的支出だけでなく欧州連合の予算全般にわたっての権限も新たに得ることになる。 また一部の分野の政策決定手続きにおいては、地方政府の代表らからなる地域委員会やさまざまな企業団体や労働組織の代表らからなる経済社会評議会の関与が求められている。 欧州連合の政策執行を担当するのは欧州委員会である。欧州委員会は加盟国からそれぞれ1人ずつ出される委員で構成され、政策分野ごとの担当が与えられている。また委員長は欧州理事会に出席するほか、対外的に欧州連合を代表するという場面があり、たとえば主要国首脳会議においてもオブザーバとして出席する。欧州委員会は政策分野ごとに総局と呼ばれる、国内政府の省庁に相当する組織を持つ。 欧州司法裁判所は基本条約やEU法の解釈・適用を判断する機関である。欧州司法裁判所は加盟国政府による基本条約やEU法による義務不履行に対する制裁措置を決定したり、また第一審裁判所での控訴審を担ったりしている。第一審裁判所はおもに企業や個人などが欧州連合の諸機関の行為に対する不服の訴えを扱っている。このほかにも欧州連合の諸機関とその職員とのあいだでの紛争を扱う欧州連合公務員裁判所がある。欧州会計監査院は欧州連合の諸機関の業務や予算の執行が適切であるかを監査する役割を担っている。 リスボン条約により、欧州連合の3つの柱構造は廃止された。これにより、共通外交・安全保障政策も廃止されている。リスボン条約下では、通外交・安全保障政策上級代表職と欧州委員会の対外関係・欧州近隣政策担当委員職が統合された、欧州連合外務・安全保障政策上級代表が新設され、欧州対外行動局を率いることになっている。 これまで述べてきた以外にも専門機関が設置されており、欧州連合の基本条約の目的達成のために機能している。 ==経済== IMFによると、2010年の欧州連合のGDPは16兆1068億ドル(約1300兆円)である。アメリカのGDPをやや上回っており、世界全体の約26%を占めている。 欧州連合ではローマ条約や単一欧州議定書、シェンゲン協定により、国境管理や加盟国間の制度の違いといった障壁が除去されていき、域内における労働者、商品、サービス、資本の移動の自由が確保されている。またローマ条約を根拠とする独自の競争法体系が整備されている。また食糧の安定供給確保を目的とした共通農業政策により欧州連合は農業部門に対して毎年の予算の大部分を支出している。このような経済施策は欧州委員会が主導しており、加盟国政府は欧州委員会の決定に従うことが求められている。さらに通貨統合も進められており、1999年には単一通貨ユーロが導入され、2014年1月までにユーロ圏は18か国にまで広がっている。欧州連合の金融政策を担うのは欧州中央銀行と加盟国の中央銀行で構成される欧州中央銀行制度である。またユーロ未導入の国の通貨については欧州為替相場メカニズムにより、対ユーロ相場の変動幅が一定以内に制限されている。このほかにも地球温暖化対策の措置を進めており、2005年には域内排出量取引制度を導入した。 貿易面を見ると、域外への輸出額は2005年で1兆3300億USドル、機械、自動車、航空機などを輸出している。主な輸出先としてはアメリカ、スイス、ロシア、中国が挙げられる。一方で域内への輸入額は1兆4660億USドルで、主な輸入先はアメリカ、中国、ロシア、日本となっている。 一方で欧州連合では域内における格差も目立つ。2007年において欧州連合全体で32,300 USドルだった加盟国別の1人あたりGDP (PPP) は、ルクセンブルクが80,500 USドル、アイルランドが43,100 USドルだったのに対して、ブルガリアが11,300 USドル、ルーマニアが11,400 USドルとなっており、2004年以降に加盟した諸国はすべて欧州連合全体の数値を下回っていた。実質経済成長率の比較では、スロバキアで10.40%を記録した一方でハンガリーでは1.30%に留まり、欧州連合全体では3.00%だった。 ===各国のEU予算への負担額と政策支出額=== 表はEU予算全体に対する各国からの負担額と予算執行による各国への支出額である。政策支出額には、EUの地域間格差解消のための「補助金」に当たるEU構造基金(英語版) (EU Structural Funds) が含まれる。 ===リーマンショック後=== 2008年のリーマン・ショック以降、EU加盟国の失業率の悪化は顕著であり、EUの平均失業率は2012年以降10%を超えている。 ノルウェーやスイスのようなEU非加盟国の失業率はEUよりもはるかに低い。アイスランドは2008年にデフォルトになり失業率が悪化したが、通貨の暴落で 輸出増で景気を回復させ、失業率は改善している。2014年のアイスランドの失業率はEUよりもはるかに低い。 EUの失業率 (%) 米国の失業率 (%) アイスランドの失業率 (%) スイスの失業率 (%) ノルウェーの失業率 (%) 米国では失業率が10%近くまで上昇したが、ベン・バーナンキら主導のFRBが大規模な金融緩和を行い、緩やかに失業率を改善させてきている 。2014年時点での米国の失業率は約6%であり、ノルウェーやスイスよりは高いがEUよりは低い。 2013年、スイスの世界経済フォーラムにて、アンゲラ・メルケルは米国と日本が金融政策を経済競争力を増幅する手段としていることに懸念を表明した。メルケルは、「中央銀行は政治的過ちの尻拭いや競争力増幅のために存在するものではないと我々ドイツ国民は信じている」と述べた。 この発言の2年後にECBが量的緩和を始める。 ===高い失業率=== ノーベル賞経済学者ジェームズ・ミードは、中央銀行は物価の安定を総需要管理の目標とすべきではないと唱える。間接税増税や負の交易条件ショックで物価に上昇圧力がかかる局面では、中央銀行の物価安定政策は労働者の賃金低下でもってその物価上昇を差し引きゼロにさせるからである。短期的には労働需要は非弾性的であるから、その局面では物価安定政策が原因で全ての産業セクターで失業が起こると考えられる。 ===2013年Q4の各国の失業統計=== 失業率 (%)  失業者数(人)ミードの分析どおり、欧州中央銀行の物価安定政策によって加盟国が高い失業率を記録している。例えば2014年の段階でスペインの失業率は25%であり、20%以上の失業率が2017年までつづくと予測されている。同時期のスペインの若年失業率は53.8%である。 また2014年6月のギリシャの失業率は27%であり、OECDの経済予測によれば2016年まで27%前後を推移するとみられている。2014年7月の、ユーロ圏の失業率は11.7%となっている。 ===ドイツ中心の政策=== 経済学者のポール・クルーグマンは、ドイツが欧州連合の経済政策に悪影響を及ぼしているとして以下のように批判している。クルーグマンに拠れば、欧州連合最大の経済大国であるドイツはインフレを毛嫌いし、欧州中央銀行がドイツに影響を強く受けた政策をとっていることが、欧州における低いインフレの元凶となっている。スペイン、ポルトガルなど南欧諸国はドイツなど大国との労働コスト格差を埋めるために賃金を下げざるを得ない。もちろんその格差の解消はドイツが高い人件費、すなわち高いインフレ率を許容すれば可能である。だがインフレを良としないドイツはそれを許さない。結果として、名目賃金の下方硬直性のために、それら南欧諸国の失業率は高止まりすることになる。それに加え、ドイツは1990年代のドイツの経済的価値観を他のEU加盟国に押し付け、それらの国に緊縮財政政策を強いる傾向があると、クルーグマンは述べている。また、欧州議会に権限がなく、欧州委員会が政治の決定権を握っていることから欧州連合を第四帝国と捉えることもある。 ===銀行員達の欧州=== イギリスの労働党所属のジェレミー・コービンもユーロによって「銀行員達の欧州」(bankers’ Europe)を加盟国に課す状況になると考えていた。1993年のマーストリヒト条約発効に先立ち、コービンはECB設立は欧州の国家が独自の政策をとる能力を弱めるだろうと予言していた。 「マーストリヒト条約の中心はECBの設立だ。国家と国家経済から独立したECBは銀行員たちによって運営され物価の安定だけがECBの政策となる。それは労働党政権やその他の政権が実現させたい社会的目標を下げてしまうだろう。マーストリヒト条約は米国のような連邦政府への道にならないどころか逆の方向に加盟国を誘導することになる。外交政策では、選挙で選ばれてもいない者で構成される委員会が外交政策を加盟国に押し付けそれらの者のために戦うことになるだろう。」と述べていた。 ==人民== Survey 2012. ネイティブ:母国語 Total: EU citizens able to hold aconversation in this language ==対外関係== 欧州委員会委員長は主要国首脳会議にオブザーバとして出席するなどの対外的な代表を務めることがあり、また欧州委員会にも対外関係や安全保障の担当委員がいるが、このほかにも外交・防衛分野ではアムステルダム条約によって導入された共通外交・安全保障政策上級代表がいる。共通外交・安全保障政策上級代表は加盟国を代表して業務の調整や外交交渉を行う。 欧州連合の対外関係の基本的な枠組みは3つの柱のうち、第2の柱である共通外交・安全保障政策であるが、第1の柱である欧州共同体の分野の政策が欧州委員会の主導の下で進められるような超国家主義的であるのに対して、共通外交・安全保障政策は加盟国が主導するような政府間主義が採られている。 具体的な関係を見ていくと、欧州連合に加盟していないノルウェー、アイスランド、リヒテンシュタインとは欧州経済領域を通じて単一市場への参入を受け入れているほか、スイスも欧州自由貿易連合やそのほかの協定を通じて単一市場にかかわっている。またアンドラ、バチカン、モナコ、サンマリノではユーロが使われており、経済における結びつきを強めている。さらにヨーロッパの旧植民地であるアフリカ・カリブ海・太平洋諸国ともコトヌー協定に基づく協力関係を構築している。 欧州連合ではユーゴスラビアを構成していた諸国について、将来的に欧州連合に加盟することを念頭に置いて対応している。すでに欧州連合に加盟したスロベニア、クロアチアのほか、セルビア、モンテネグロ、北マケドニアを加盟候補国として欧州連合に加わるための具体的な状況整備を進めている。ユーゴスラビア紛争では欧州連合はその対応に失敗しているが、その後の地域の安定に向けて安定化・連合協定を結ぶなど、積極的に取り組んでいる。またソビエト連邦を構成していた国のうち、独立国家共同体 (CIS) に加盟していないエストニア、ラトビア、リトアニアが2004年5月に欧州連合に加盟しているほか、バラ革命が起こったジョージア(旧グルジア)やオレンジ革命が起こったウクライナ、2007年EUに加盟した隣国ルーマニアとの関係が深いモルドバなどいくつかの国がロシアと距離を置く一方で欧州連合との関係を強めており、将来的な加盟も模索している。 トルコは1970年代から欧州連合への加盟を求め、また欧州理事会でもトルコを加盟候補国にしているが、トルコの人口規模の大きさやイスラム教国であること、近年のイスラム原理主義勢力の台頭、トルコ系移民の多さを問題視する向きがあること、クルド人などの国内少数民族の権利の不徹底、キプロス問題で加盟国のキプロス・ギリシアと軍事的緊張状態にあることなどによりハードルは高い。イスラエルとは緊密な関係を築いており、欧州連合の一部の政治家からはイスラエルの欧州連合加盟に賛成の意見が出されるほどである。一方でパレスチナ問題にも欧州連合は積極的にかかわっており、中東カルテットの一角を担っている。このほかにも西アジアや北アフリカの地中海沿岸諸国とは欧州・地中海パートナーシップや、欧州近隣政策などの枠組みを通じて関係を深めているほか、2008年に発足が決定された地中海連合では多くの分野での統合や協力関係の構築を進めることを目指している。 また、2009年5月には東欧諸国との関係強化を目指す常設協議「東方パートナーシップ」を創設する。対象国はアルメニア、アゼルバイジャン、ベラルーシ、ジョージア(旧グルジア)、モルドバ、ウクライナである。 軍事・安全保障面では欧州安全保障防衛政策が策定され、また1948年調印のブリュッセル条約で設立された西欧同盟を事実上吸収し、ペータースベルク・タスクの理念のもと、とくに平和維持や人道支援の分野での加盟国間の協力関係を強化し、実際にこれらの活動を目的としてボスニア・ヘルツェゴビナやコソボなどに部隊を派遣している。 ==一体性と多様性== シューマン宣言が発表された5月9日について、1985年にミラノで開かれた欧州理事会で「ヨーロッパ・デー」とすることが決められた。また欧州評議会は1955年に青地 (Reflex Blue) に金色 (Yellow) に輝く12個の星の円環を描いた旗を「欧州旗」とし、ヨーロッパにおける機関に対してこの旗をシンボルとして使うことを進めていたが、1983年に欧州議会がこれに応じ、また1985年のミラノ欧州理事会において「欧州連合の旗」とすることが採択された。このとき同時にベートーヴェンの交響曲第9番第4楽章『歓喜の歌』を「欧州連合の歌」とすることも合意された。 ユーロ紙幣はデザインが統一され、ヨーロッパ風の建築物が描かれていたり、ヨーロッパの地図が描かれていたりしている。ユーロ硬貨の表面もデザインが統一されており、いずれもヨーロッパの地図が描かれている。このほかにも欧州連合加盟国で発行されるパスポートにも、欧州連合を意味する表記が発行国の公用語で印刷されている。欧州連合では欧州文化首都といった活動や欧州連合基本権憲章といったものを通じて、市民に「ヨーロッパの市民」、あるいは「欧州連合の市民」という概念を定着させようとしている。 一方で欧州連合では In varietate concordia(ラテン語で「多様性における統一」の意)を標語として掲げ、この語句は欧州連合における公用語とされる23言語で表現されている。この標語からもわかるとおり、約5億人の人口を有する欧州連合においても文化や言語の多様性は尊重されるべきものとして扱われている。また、欧州連合の関連機関では文書やウェブサイトを複数の言語で作成している。 ==拡大== ===直近の拡大=== 2007年にブルガリアとルーマニアが、2013年にクロアチアが加盟したことにより、欧州連合の加盟国数は28に達した。従来の基本条約における制度では、欧州委員会の委員は加盟国から1人ずつ出し、また無任所としないということになっていたため、委員の数も28にまで増え、担当分野も分掌が繰り返された。その結果、組織が肥大化した欧州委員会の部局間でセクショナリズムが激化し、業務効率が低下した。また立法手続きにおいても欧州連合理事会における政策決定過程が大国有利であるという批判や、全会一致を要する案件となる対象分野が多く、意思決定に時間がかかるといった難点を克服するため、またそのような政策決定に対する欧州議会の関与を強化するための改革が求められていた。そのような改革を盛り込んだのが2004年11月にローマで調印された欧州憲法条約であったが、その超国家主義的な性格が敬遠され、フランスとオランダの国民投票で批准が拒否されるという事態となり、結局のところ同条約は発効が断念された。その後2007年12月に、欧州憲法条約の内容をそっくり引継ぐリスボン条約が調印され、リスボン条約は2009年12月1日に発効した。 従来の基本条約では加盟国数の上限を27とすることが想定されていたため、リスボン条約では将来の新規加盟の受け入れ態勢を整備するという目的も含まれている。2005年、欧州理事会はクロアチアとトルコを加盟候補国とすることを決定し、その後加盟に向けた協議が開始されている。クロアチアとEUとの加盟交渉は2011年6月に終了し、2013年にはクロアチアが28番目の加盟国となった。 北欧のアイスランドは2009年7月23日に正式な加盟申請を行い、加盟候補国として承認された。加盟交渉は進んでいたが、政府は2014年秋にEU加盟の国民投票が行われるまで、加盟交渉の凍結を表明した。結局国民投票は行われず、2015年3月12日、アイスランドは加盟申請を取り下げた。 ===今後の拡大=== 2019年2月現在、トルコ、北マケドニア、モンテネグロ、セルビア、アルバニアの5か国は正式な加盟候補国として認定されている。 トルコに対しては欧州連合の価値観を共有することができるかといった疑問や、北キプロス問題、アルメニア人虐殺問題がある。2013年6月26日、約3年ぶりに加盟交渉を再開することを決定していたが、市民による反政府デモに対し、強硬姿勢を続ける同国政府への対応の懸念から、10月以降への加盟交渉の延期を発表した。 北マケドニアは2006年に加盟候補国となっている(当時の国名は「マケドニア旧ユーゴスラビア共和国」)。長らく隣国ギリシャとの間で国名改称問題を抱えており加盟に際する課題となっていたが、2018年6月12日に国名を北マケドニア共和国とすることでギリシャと合意し、両国の議会承認等を経て2019年2月12日に改名が発効した。 モンテネグロは2010年12月に加盟候補国として承認され、2011年10月から本格的な加盟交渉が開始された。 セルビアはボスニア・ヘルツェゴビナ内戦の大物戦犯であるラトコ・ムラディッチとゴラン・ハジッチ(英語版)の拘束が評価されてはいるものの、2008年にセルビアから一方的に独立を宣言したコソボ政府との関係改善および政治対話の進展が加盟交渉開始の条件とされており、正式な加盟申請を行った2009年12月22日から2012年2月の段階まで加盟候補国に認定されていなかったが、2012年3月1日のEU首脳会議において正式な加盟候補国に承認され、2013年4月22日にはコソボと関係正常化で合意し、2014年1月21日に加盟交渉を開始した。 アルバニアは2009年4月28日にEUに加盟を申請し、2014年6月27日に加盟候補国として承認された。 ボスニア・ヘルツェゴビナとコソボは潜在的加盟候補国と位置づけられている。 ボスニア・ヘルツェゴビナは2016年2月15日、EUに加盟申請を行った。 コソボは2016年4月1日、EUとの安定化・連合プロセス協定を発効した。ただしコソボの国家承認については既存加盟国の間で対応が分かれている。 旧ソ連の東欧地域にあるモルドバもEU加盟を目標とし、2014年7月27日にEUとの連合協定を締結させており、2年後の2016年7月1日からその連合協定が正式に発効されている。2013年6月25日、ナタリア・ゲルマン副首相兼外務・欧州統合相は、2014年中に欧州連合と自由貿易協定 (FTA) ならびにビザの免除に向けた連合協定の署名を行うことを発表し、仮調印を行った。 ===西バルカン諸国のEU加盟=== 2018年2月6日、欧州委員会は旧ユーゴスラビア構成国を中心とする西バルカン地域6か国について、EU加盟に向けた支援を強化する方針を発表した。支援の対象となる6か国は、加盟候補国の北マケドニア(当時の国名は「マケドニア旧ユーゴスラビア共和国」)、モンテネグロ、セルビア、アルバニアと、潜在的加盟候補国のボスニア・ヘルツェゴビナとコソボである。また、セルビアとモンテネグロに関しては早ければ2025年の加盟を目標とすることを示した。 ===トルコのEU加盟=== 2015年11月29日、アンゲラ・メルケルがEU・トルコ間で事前サミットを主催し多くのシリア難民をEUに受け入れる提案を行った。 そしてEUは、トルコからの移民流入の数を制限する措置と引きかえにトルコをEUへ加入させる道を開くことで合意に達した。 トルコ首相アフメト・ダウトオールはトルコとEUの新しい関係の歴史的な始まりだとした。 この協定によってトルコはエーゲ海のパトロールと人身売買を行うギャング達の取り締まりを強化し、EU加盟国に受け入れを拒否された移民をトルコに連れ戻すことになっている。その見返りにEUは資金30億ユーロをトルコに提供し、トルコのEU加盟の公開交渉のためのサミットを開いていくことで合意した。 EU首脳らはトルコのEU加盟に近道はないことを明確にしているものの、トルコ国民がEUにビザ無しで行くことを可能にするように努力していくことを誓っている。ダウトオールは「トルコのEU加盟は2016年に速度を増し、近い将来現実のものとなるだろう」と述べている。 ダウトオールは難民危機の対処に30億ユーロでは不十分だとしてEUに追加の資金提供を求めている。 ダウトオールは、もしEUが難民危機に伴う痛みを本気で分かち合おうと考えているならば資金提供に関しての更なる会合を開く必要があると述べた。 ==離脱国の登場== ===イギリスのEU離脱=== 2016年6月23日にイギリスで行われた「イギリスの欧州連合離脱是非を問う国民投票」で僅差で「EU離脱派」が勝利した。これによりイギリスは最初のEU脱退国となった。 この国民投票は2013年の総選挙でデーヴィッド・キャメロン首相が公約に掲げていたものである。キャメロン自身はEU残留派であったが、EU離脱の唱える世論の高まりを受けて国民投票を実施した。イギリスはドイツに次ぐ第2の経済大国であり、その脱退はEUの経済力を低下させるだろう、またイギリスも経済に悪影響が出るだろうと予想された。これらは国際経済の混乱を招くとしてEU圏外の国々からも残留を求める声があり、G7伊勢志摩サミットでも議論された。 EU残留派はイギリスの繁栄はEU域内での自由な経済活動によってもたらされたものであるとEUの加盟国であるメリットを主張した。一方でEU離脱派は、多額の拠出金と移民の増加などのデメリットを主張した。両者は拮抗し、投票日まで予想がつかない状況を呈したが「残留派の勝利、現状維持」という現実的な結果が出ると各国も市場も予想していたが、結果は離脱派の勝利であった。この結果を受けてキャメロン首相は辞任を表明。同年7月13日にテリーザ・メイ内相が新首相になり「EU脱退の手続き」という「永い離婚手続き」を行うことになった。 EU加盟国の首脳はベルリンに集まり結束を確認。イギリスにリスボン条約に従い早期に「脱退の通告」をするように要求した。これは手続きにまごついていると、新たな脱退国が現れることを懸念してのことである。イギリスの離脱にEU加盟国の欧州懐疑派は勢いづいた。一方で、イギリスの構成国であるスコットランドや北アイルランドでは「残留派」が優勢であった。そのためスコットランドのニコラ・スタージョン首相はスコットランドは独立してEUに加盟することを示唆した。また北アイルランドも独立してEU加盟国の「アイルランドとの統合」を目指すことがシン・フェインから提唱された。 リスボン条約にはEU離脱についての条項はあるが具体的にどのような手続きを踏むかの詳細はない。そのためイギリスの離脱はリーディングケースとなる。 ==懐疑論== ヨーロッパの統合が進められる中で、加盟国の主権と欧州連合の権限の優劣関係や、欧州連合の制度の下で享受される恩恵が加盟国間で不平等であるといった批判や疑問を唱える論調も存在する。政治分野での統合を目的に欧州政治共同体の設置構想が掲げられ、この手前の段階として1952年には欧州防衛共同体の創設に向けた作業が進められていた。しかしフランスにおいて設置条約の批准が国民議会において諮られていたが、国民議会はこれを拒否した。 2004年10月、将来の拡大における受け入れ態勢の整備と肥大化した機構の効率化、さらには政策決定手続きの簡素化を盛り込んだ欧州憲法条約が調印されたが、同条約では「欧州連合の旗」や「欧州連合の歌」といったものを盛り込み、さながら欧州連合をひとつの国家とするような性格を持っていた。これに対して加盟国の国民からは自国が欧州連合にとって替えられるという不安から欧州憲法条約を危険視する風潮が起こり、2005年5月にフランスで、翌6月にオランダで行われた同条約の批准の是非を問う国民投票で反対票が賛成票を上回るという結果が出された。この事態にヨーロッパ統合を進めていた欧州連合の首脳は動揺し、また一部の首脳からは欧州連合のあり方について疑問や批判が出されるようになった。 2007年3月にベルリン宣言が発表され、欧州連合の統合を進めていくことが再確認された。その後、欧州憲法条約から超国家主義的な要素を排除し、欧州連合の改革を進めるための新たな基本条約の策定が合意された。「改革条約」と位置づけられたこの条約は2007年12月にリスボン条約として調印される。ところがこの条約に対しても、市民にとって機構改革の必要性がわかりにくいなどの批判が起こり、2008年6月に行われたアイルランドでの国民投票で欧州連合に批判的な政党が「わからないものには No を」と呼びかけるなどした結果、反対票が53.4%、賛成票が46.6%(投票率 53.1%)となり、ヨーロッパ統合は再び暗礁に乗り上げ、リスボン条約を推し進めてきた各国の首脳らは欧州連合に対する市民の厳しい見方の存在を改めて痛感することになった。さらにポーランドやチェコでは議会で批准が承認されたリスボン条約に大統領が署名を拒み続けるということもあった。 またイギリスは1990年代後半から2000年代にかけて、欧州連合のもとでヨーロッパ統合に前向きであったにもかかわらず、ユーロの導入に関して、1990年の欧州為替相場メカニズム参加を契機に起こったポンド危機の経験から消極的な姿勢が見られる。このイギリスの消極的な姿勢は2016年のEU離脱へ至る。くわえて、基本条約においてユーロ導入が義務付けられているスウェーデンも、1994年の欧州連合への加盟を問う国民投票で加盟賛成が53%を占めていたものの、議会がユーロ導入時期の決定について事実上の棚上げを宣言し、その後2003年のユーロ導入を問う国民投票で反対が56%を占めるという結果が出されている。 ===ノルウェー=== ノルウェーはEUとは距離を置いている。ノルウェーは1973年と1995年の拡大のさいにそれぞれ欧州連合(欧州諸共同体)加盟条約に調印していたが、それらの条約の批准をめぐって国民投票で是非が問われ、いずれも反対する票が上回り、実際には欧州連合(欧州諸共同体)加盟に至らなかった。また1992年6月2日、マーストリヒト条約批准にあたってデンマークでは国民投票が実施されたが、僅差で批准反対票が上回り、さらにはイギリスにおいても議会で批准が拒否される事態が起きた。さらに従来の基本条約を修正するニース条約の批准においても、基本条約を修正するさいに国民投票の実施が憲法で義務付けられているアイルランドにおいて批准が拒否された。これらについてはいずれもその後の協議で特例を設けるなどの対応がなされ、改めて批准が諮られ可決されてきた。 2015年の調査でもノルウェー有権者の約7割がEU加盟に反対している。 もしEUに加盟すればEU側の主張や法(共通農業政策、共通の刑法など)に従うことが求められる。 よってノルウェーは自国の主権を最大限に行使するため、EUではなく、欧州自由貿易連合に加盟している。 EFTA加盟国の一人当たり所得はEUの約1.5倍である。 ===アイスランド=== 2015年、もはやアイスランドは欧州連合に加盟する意志がないことを欧州委員会とEU大統領に通告した。自国通貨アイスランド・クローナを有するアイスランドは、2008年のデフォルト以来、通貨暴落の恩恵を受けて輸出増で景気が順調に回復した。2007年には1ドル60アイスランド・クローナだったが、債務不履行の後に1ドル125アイスランド・クローナまで暴落。この通貨安はアイスランドの輸出産業、例えば観光業に追い風を与え、2011年度には56万人の観光客を呼び込み、国家全体として輸出主導の景気回復によって3%を越える経済成長を記録した。2012年には失業率を4.5%にまで改善させた。この数字はEUの平均失業率よりもはるかに低い。 ===スイス=== スイスは1992年にEU加盟のための申請を行ったが、その後EEAに加盟するかどうかの国民投票においてスイス国民がEEA非加盟を選択した。それ以降EU加盟のための交渉は停止していた。 その後スイス国民党が中心となって動き、スイス下院でEU加盟申請を取り下げる決定を下した。そして2016年6月にスイス上院が1992年の加盟申請を無効化する決定をしたことにより、スイスはEUへの加盟を公式に辞退した。 ==ノーベル平和賞== 欧州地域の安定及び協調路線を図る取り組みが評価され、2012年度のノーベル平和賞を受賞。 ===現実=== 第二次世界大戦以降EEC、EC、EUが欧州の平和を維持してきたとする考えがあるが、東西冷戦時代は実際には東西両陣営に配置されていた核戦力による核の抑止力が武力衝突を防いできた。1948年にベルリン封鎖、1953年に東ベルリン暴動、1956年にハンガリー動乱が起こった時、EECはまだ存在していなかった。1968年にプラハの春が起こった時、ECは存在していたものの、共通農業政策しか確立していなかった。 バスク紛争(1959‐2011年)、北アイルランド問題(1968‐1998年)、トルコによるキプロス侵攻(1974年)、どれもEEC、EC、EUは行動を起こさなかった。 =カリュドーンの猪= カリュドーンの猪(カリュドーンのいのしし、英語:Calydonian Boar)はギリシア神話に登場する巨大な猪。長母音を省略してカリュドンの猪とも表記する。アイトーリアのカリュドーン王オイネウスが生け贄を忘れたために女神アルテミスの怒りを買い、この猪が放たれたとされる。ギリシア全土から勇士が招集され、猪は退治されたが、このことがオイネウスの息子メレアグロスの死につながった。 ==概要== カリュドーンの猪の由来については、一般には女神アルテミスが野に放ったとする以上の伝えはない。ストラボンは、この猪をクロムミュオーン地方を荒らした雌猪パイア(エキドナとテューポーンの子ともいわれ、テーセウスによって退治された)の子であるとしているが、他にこの説を採り上げるものがない。イギリスの詩人ロバート・グレーヴスは、その著書『ギリシア神話』のなかで、猪は三日月型の牙を持つことから月の聖獣とされ、同時にアレースの聖獣でもあるとする。 カリュドーンの猪を退治するためにギリシア全土から勇士が集まった。狩りは、犠牲者を出しながらも猪を仕留めることに成功する。しかし、猪退治の功績をだれに帰するかについてメレアグロスと彼の伯父たちとの間で争いとなった。メレアグロスは伯父たちを倒すが、母アルタイアーに呪われ、彼の寿命とされた薪を燃やされて死んだ。 このような英雄たちの集結は、ギリシア神話中でもイアーソーン率いるアルゴナウタイ及びトロイア戦争などでも見られ、物語の登場人物の関連から、時系列的には「アルゴナウタイ」の後、「テーバイ攻めの七将」やトロイア戦争以前に位置する。 この神話は「カリュドーンの猪狩り」として、古代ローマでは彫刻の題材として好んで採り上げられた。後世においても著名な神話のひとつであり、バロック期のピーテル・パウル・ルーベンスやドメニコ・ヴァッカーロ、現代ではパブロ・ピカソなどが絵画や挿絵の題材としている。 ==研究者の解釈== この物語についてロバート・グレーヴスは、「たぶん有名な現実の猪狩りと、それが原因になって生じたアイトーリアの部族間の仲違いをもとにした英雄伝説だろう」としている。猪によって聖王が死ぬ、というテーマは、同じギリシャのアドーニスの神話の他にもエジプト神話でオシーリスが猪に姿を変えたセトに殺される話があるなど古くからあり、このため、同じ運命によって倒れたさまざまなギリシア都市国家の英雄がこの物語に持ち込まれているとする。 ハンガリーの神話研究家カール・ケレーニイは、その著書『ギリシアの神話 英雄の時代』のなかで、この物語に登場する英雄メレアグロスの死は、早い、不当な死の物語として思い出され、アッティカの石碑の上に一人の若い死者が夢見る狩人として立っている像があれば、それは決まってメレアグロスであるとする。 ==神話== ここでは主としてアポロドーロス及びロバート・グレーヴスにしたがった。 ===発端=== カリュドーン王オイネウスは、ある夏、オリュンポスの神々の生け贄を捧げる際に、アルテミスを忘れてしまった。ヘーリオスからこのことを知らされたアルテミスは、巨大な猪を地に放った。猪はオイネウスの家畜や作男たちを殺し、農作物に大損害を与えた。オイネウスは使者を遣わしてギリシア全土から勇士を募り、猪を退治した者にはその皮と牙を与えると約束した。 ===猪狩りの勇士たち=== オイネウスの招集に応えて集まったとされる勇士は次のとおり。この名簿には後述するように異同がある。オイネウスは彼らを9日の間饗応した。アポロドーロス(II. VI, 3)によれば、ヘーラクレースはこのときオムパレーの奴隷として仕えていたために参加しなかったという。 スパルタから、カストールとポリュデウケースメッセーネーから、イーダースとリュンケウスアテーナイから、テーセウスラーリッサから、ペイリトオスイオールコスから、イアーソーンペライから、アドメートスピュロスから、ネストールプティーアから、ペーレウスとエウリュティオーンテーバイから、イーピクレースアルゴスから、アムピアラーオスサラミースから、テラモーンマグネーシアから、カイネウスアルカディアから、アンカイオスとケーペウス、アタランテー ===オイネウスの親族=== メレアグロス オイネウスの息子 ===テスティオスの息子たち=== オイネウスの妃アルタイアーの兄弟たち。アポロドーロス(I, VII, 10)はテスティオス(アルタイアーの父)の息子にイーピクロス、エウヒッポス、プレークシッポス、エウリュピュロスを挙げるが、このうち誰が狩りに参加したかは特定していない。ヒュギーヌスはプレークシッポス、イーダイオス、リュンケウス(イーダースの兄弟とは別人)が加わったとする。オウィディウスはプレークシッポス、トクセウスの二人としている。 ===メレアグロスとアタランテー=== アルカディアから来たアンカイオスとケーペウスの兄弟は、アタランテーが参加しているのを見て、女と一緒に狩りをするのはご免だといいだした。メレアグロスは、アタランテーを見て彼女を恋するようになっており、文句を言うなら狩りそのものをやめにするといって、彼女の参加を受け入れた。メレアグロスは、すでにイーダースの娘クレオパトラーを妻としていたにもかかわらず、「アタランテーと結婚できる男はどんなに幸せ者だろう」とため息混じりにつぶやき、これを聞いた彼の伯父たち、つまりアルタイアーの兄弟たちは、アタランテーの存在を不吉と見て快く思わなかった。 ===狩り=== 狩りは、メレアグロスの案にしたがい、各人が数歩ずつの間隔を置いて半円形を描き、猪がねぐらとする森に入っていった。。バッキュリデースによれば、狩りは6日間つづいた。 猪は飛び出すと、たちまち二人の狩人を殺し、さらに一人を押し倒してその足を不自由にした。猪に襲われたネストールは木に登って難を逃れた。イアーソーンたちが槍を投げつけたが、みな外れ、イーピクレースの槍がかろうじて猪の肩にかすり傷を負わせただけだった。 テラモーンとペーレウスが進み出たところ、テラモーンは木の根につまずいて転んだ。ペーレウスがテラモーンを抱き起こそうとするところへ猪が突進してきた。アタランテーが矢を放つと、猪の耳の後ろに突き刺さり、猪はいったん逃げた。アンカイオスは笑って「そんなことで猪が退治できるものか。俺の腕前を見るがいい」といって猪の前に立ちはだかり、戦斧を振り下ろそうとしたが、猪の方が速く、アンカイオスは腹をえぐられて最期を遂げた。ペーレウスは動転して、投げつけた槍の手元が狂ってエウリュティオーンを殺してしまった。アムピアラーオスが猪の目を射抜くと、猪はやみくもに突進し、テーセウスに突っかかってきた。テーセウスの投げた槍は逸れたが、このときメレアグロスが投げた槍が猪の脇腹を貫いた。突き刺さった槍を外そうと、猪がぐるぐる回っているところをメレアグロスは再び手槍でとどめを刺した。 ===メレアグロスの死=== メレアグロスは猪の皮を剥ぐと、「最初に血を流させたのはあなただ」といい、生皮をアタランテーに贈った。しかし、メレアグロスの伯父たちはこれに腹を立てた。プレークシッポスは、メレアグロスが自分のものにすべき皮をいらないというのなら、オイネウスの義兄弟で最年長である自分によこすべきだと言い立てた。プレークシッポスの兄弟も、最初に血を流したのはアタランテーではなくイーピクレースだったとしてプレークシッポスを支持した。メレアグロスは、激怒して二人の伯父を殺してしまった。 メレアグロスの母アルタイアーは、兄弟たちの死を嘆くあまり、しまっていた箱から薪を取り出して火中に投じた。これは、メレアグロスが生まれたときに3人のモイライが現れ、「かまどの燃え木が燃え尽きるまでは、(メレアグロスは)生きているだろう」と予言した運命の燃え木だった。メレアグロスは突然、体中を焼き尽くすような痛みを感じて苦しみだし、アタランテーの目の前で、なすすべもなく死んでしまった。 アルタイアーとクレオパトラーはメレアグロスの後を追って自殺し、声を上げて嘆き悲しむメレアグロスの姉妹たちは、ゴルゲーとデーイアネイラの二人を除いてアルテミスによってほろほろ鳥(ギリシア語でメレアグリデス meleagrides)に姿を変えられたという。メレアグロスの死に衝撃を受けたアタランテーは、結婚しない誓いを立てた。 ===異説=== 狩りの結末についてはホメーロスの『イーリアス』(第9歌)などに別の説が示されている。猪の皮をめぐってテスティオスの息子(アルタイアーの兄弟)たちクーレース人たち(クーレーテスとも)とカリュドーンの間で戦いとなった。この戦いでメレアグロスが伯父を殺したところ、母親のアルタイアーは兄弟が殺されたことを恨み、メレアグロスを呪ったので、彼はこれに憤って家に閉じこもった。敵が城壁に迫り、市民たちが嘆願してもメレアグロスは撃って出ようとしなかったが、妻のクレオパトラーに説き伏せられてついに立ち上がり、武器を取って残る伯父たちを倒した。しかし、このときメレアグロス自身も倒されてしまったというものである。 ===後日譚=== ====ペーレウス==== 誤ってエウリュティオーンを殺してしまったペーレウスは、狩りに参加していたアカストスを頼り、イオールコスで罪を浄められた。しかし、アカストスの妻クレーテーイス(アステュダメイアとも)から恋心を寄せられ、これを断ったために恨みを買って殺されそうになる。詳しくは「アカストス」の項を参照。 ===ヘーラクレースの冥界行き=== ヘーラクレースがケルベロスを生け捕るために冥界に入ったとき、亡霊たちがみなヘーラクレースの前から逃げ出すなか、メレアグロスだけは輝く甲冑を身に付けた姿で彼を迎えた。ヘーラクレースはメレアグロスに恐怖を感じて弓を引いたが、メレアグロスは笑って「恐れるな。死者は傷つけられないし、生者を傷つけることもない」と話した。メレアグロスは彼の死につながった狩りについて語り、妹のデーイアネイラが心残りであり、ヘーラクレースに娶ってくれるように頼んだ。このとき、ヘーラクレースは涙を流したが、これがこのギリシア最大の英雄の最初で最後の涙だったという。 ==主要な原典== カリュドーンの猪について、現存する古典期の資料のなかで主要なものは以下のとおりである。 ===ホメーロス『イーリアス』=== 紀元前8世紀中ごろの成立と見られている。第9歌において、ポイニクスがアキレウスにカリュドーンの猪、狩りとその結果起こった戦いについて語る。ここでは、狩りの参加者名やメレアグロスのアタランテーへの恋情、「運命の燃え木」、メレアグロスの死についての言及は見られない。 ===オウィディウス『変身物語』=== 紀元前1世紀から紀元1世紀にかけての成立。神々の名前はローマ神話風になっている。第8巻にカリュドーンの猪狩りの物語がある。狩りの登場人物がもっとも多く、狩りの描写やアルタイアーの葛藤について詳述されるが、メレアグロスの妻については言及されない。 ===アポロドーロス『ビブリオテーケー』(日本語訳『ギリシア神話』)=== 紀元1世紀ごろの成立と推定されている。第1巻VIIIにおいて、カリュドーン王オイネウスとその息子たち、トクセウス、メレアグロス(カリュドーンの猪狩りを含む)、テューデウス及びテューデウスの息子ディオメーデースについて紹介している。 ===ヒュギーヌス『物語集』(日本語訳『ギリシャ神話集』)=== 2世紀末から3世紀初頭にかけての成立と見られる。171話「アルタイエー(アルタイアー)」、172話「オイネウス」、173話「カリュドーンの猪退治にいった者たち」、173A「オイネウスに援助を送った国々」、174話「メレアグロス」にかけて扱う。 ===狩りの参加者たちの異同=== 猪狩りについては、上記のうちアポロドーロス、ヒュギーヌス、オウィデウスが参加者の名簿を書いており、それぞれ異同がある。以下一覧にした。なお、狩りにはオイネウスの義兄弟(メレアグロスの伯父)が参加しているが、上記「猪狩りの勇士たち」節中「オイネウスの親族」で述べたとおり、単に「テスティオスの息子」とされて個々に判然としない場合があるためにここでは割愛した。 ==美術の題材== ===ローマ期=== 2世紀中ごろから古代ローマや地中海の主要都市、アテネやギリシャ語圏の諸都市などで石棺(サルコファガス)が作られ、この石棺を飾る浮彫にギリシア神話が題材とされた。「カリュドーンの猪狩り」は、「ヘーラクレースの功業」や「ニオベーとその子供たち」などと並んで好まれた。 ===バロック期以降=== 絵画ではバロック時代にギリシア神話の題材の一つとして採り上げられた。代表的なものを以下に挙げる。 ===ピーテル・パウル・ルーベンス(1577年 ‐ 1640年)=== 「メレアグロスとアタランテーの狩り」(1617/1628年?)、「メレアグロスとアタランテー」(1635年) ===テオドール・ボイエルマンス(1620年 ‐ 1678年)=== 「カリュドーンの猪を殺すメレアグロス」 ===ドメニコ・ヴァッカーロ(1678年 ‐ 1745年)=== 「猪を殺すメレアグロス」(1700年) ===ジャック=レイモン・ブラスカサ(1804年 ‐ 1867年)=== 「メレアグロスの狩り、あるいはカリュドーンの猪の死」(ボルドー美術館) ===パブロ・ピカソ(1881年 ‐ 1973年)=== 「カリュドーンの猪を殺すメレアグロス 『変身物語』より」(1930年) =燈明堂 (横須賀市)= 燈明堂(とうみょうどう)は、神奈川県横須賀市の浦賀港入り口にあたる燈明崎の先端に、江戸時代に築造された和式灯台である。 ==概要== 天正18年(1590年)の、徳川家康の江戸城入城後、江戸を中心とした水運は急速な発展を見せるようになった。水運の発展に伴い、東京湾入り口に近く、浦賀水道に面する入江である浦賀は港として大きく発展し、浦賀港に入港する船の安全を図る必要に迫られた。また浦賀水道を通行する船の増大は、夜間に浦賀水道を通過する船の安全策を講ずる必要性も高まってきた。 慶安元年(1648年)、江戸幕府は浦賀港入り口の岬に和式灯台である燈明堂を建設した。燈明堂は篝火ではなく堂内で油を燃やすことによって明かりを得ており、堂内には夜間は燈台守が常駐していた。当時は夜間に明かりがほとんどなかったこともあって、燈明堂の明かりは対岸の房総半島からも確認できたと言われている。建設当初は江戸幕府が燈明堂の修復費用を負担し、当時の東浦賀村と浦賀港の干鰯問屋が灯火の費用を負担していたが、元禄5年(1692年)以降は浦賀港の干鰯問屋が修復費用も捻出するようになった。 海に突き出た岬上にある燈明堂は、台風などの暴風や大地震による津波によって建物や石垣が崩されることがあった。しかし東京湾を通行する船の安全を守る役割を果たしていた燈明堂は、建物が破損してもただちに仮設の燈明堂を建設し、明かりが絶えないように努力がなされた。 明治2年(1869年)、日本初の洋式灯台である観音埼灯台が建設されたことによって、燈明堂はその使命を終え、明治5年(1872年)に廃止となった。廃止後も明治27年(1894年)ないし明治28年(1895年)頃まで燈明堂の建物は残っていたが、その後崩壊して石垣のみが残されていた。 浦賀の燈明堂は昭和43年(1968年)に横須賀市の史跡に指定された。昭和62年(1987年)には燈明堂とその周辺の発掘が行なわれ、翌昭和63年(1988年)には燈明堂がある岬への遊歩道の整備と、燈明堂の西側にあったと伝えられていた高札場の発掘が実施された。そして文献調査と発掘調査を踏まえ、昭和63年(1988年)に横須賀市は燈明堂の復元に取り掛かり、平成元年(1989年)3月に復元工事は完成し、復元された燈明堂とその周辺は現在は公園として整備されている。 ==歴史== ===浦賀の発展と燈明堂=== 三浦半島は古代より相模と上総を結ぶ海上交通の要衝であり、現在の横須賀市東部はリアス式海岸で船の停泊に適した場所が多かったこともあり、中世以降水運が発達するようになった。特に天正18年(1590年)の徳川家康の江戸入城、そして慶長8年(1603年)の江戸幕府の成立によって、現在の東京湾の水運は飛躍的な発展を見せるようになった。 水運の飛躍的な発達に伴い、東京湾を航行する船が通過する浦賀水道の重要性が高まり、浦賀水道に面する深い入江である浦賀には風待ちの船が多く集まるようになり、また干鰯問屋などの商人たちも集まって栄えるようになった。そして享保5年(1720年)には浦賀奉行所が設置され、東京湾口にあって交通の要衝である浦賀は、往来する船やその積荷を検査する場としての役割も担うようになった。 港湾としての重要性を増した浦賀に入港する船の安全と、東京湾の入り口である浦賀水道の航行の安全を図る必要性が高まる中、江戸幕府は慶安元年(1648年)、石川六左衛門重勝と能勢小十郎頼隆の指図のもと、浦賀に燈明堂を建設した。 ===常夜灯と燈明堂=== 海に囲まれた日本では、江戸時代以前から夜間の船の航行安全を図る目的で、篝火など様々な形式の明かりが沿岸部に設置されてきた。江戸幕府の成立後、樽廻船、菱垣廻船などの発達により海運が飛躍的に発展する中、夜間航行の安全性を高めるために、各地の沿岸部に和式灯台である燈明台や篝火を焚く篝屋が設置されるようになった。例えば東京湾周辺では浦賀の燈明堂以外に城ヶ島に篝屋が建設されたが、当時建設された多くの燈明台は神社仏閣の常夜灯がその役割を果たしているものが多く、浦賀の燈明堂は神社仏閣の常夜灯ではなく、宗教色が全く無い施設であったことが特徴の一つとして挙げられる。 ===燈明堂の運営=== 浦賀の燈明堂は、浦賀水道を航行する船と浦賀港を利用する船の航行安全を図るために江戸幕府が建設したという経緯から、当初修繕などの維持費用は幕府が負担していた。一方、建設当初は菜種油、その後魚油を用いた燈明の燃料代と燈明堂の燈台守については当時の東浦賀村と、寛永19年(1642年)に成立した浦賀の干鰯問屋が受け持つことになっていた。 ところが元禄5年(1692年)になって、上総の干鰯問屋が浦賀への新規進出を目論み、幕府に対して浦賀への新規進出を認めてもらえたら運上金の納入と燈明堂の維持費用を全て負担すると申し出た。当時15軒あった浦賀の干鰯問屋は新規進出を阻むため、同様の条件を幕府に提示し、上総の干鰯問屋の新規進出を認めないように嘆願した。結局、上総の干鰯問屋の浦賀進出は幕府より許可されることはなかったが、以降燃料代と燈台守ばかりではなく燈明堂の維持費用も浦賀の干鰯問屋が負担することになった。 岬の先端にある燈明堂は、台風などによる暴風や大地震による津波によってしばしば大きな被害を蒙り、老朽化に伴う修繕も必要であった。まず享保8年(1723年)には暴風によって建物が倒壊した。そして文政12年(1829年)には80両を費やした大修理が行われたものの、直後の天保3年(1832年)と天保4年(1833年)には二年連続台風に襲われ、建物ばかりではなく石垣も崩されてしまったため、234両を費やして修復が行なわれた。そして安政元年(1854年)には安政東海地震に伴う津波に襲われ、燈明堂は大きく破壊された。江戸時代の中期以降、浦賀で取り扱う干鰯の量が減少していくようになり、干鰯問屋の経営が厳しくなっていく中で燈明台の維持管理を担うことは大きな負担となったが、倒壊後には直ちに仮設の燈明堂を設置するなど、浦賀の干鰯問屋らは浦賀港に入港する船と浦賀水道の航行安全に不可欠な燈明堂の維持管理に尽力し続けた。 ===観音埼灯台の建設と燈明堂の廃止=== 安政東海地震に伴う津波による倒壊の直前である嘉永6年(1853年)のペリー艦隊の来航時には、浦賀の燈明堂はペリー艦隊の航行の目安ともなった。そしてペリー来航によって鎖国体制が終焉し、欧米各国などの船が盛んに往来するようになる中、沿岸部の燈明台などの明かりしかない日本の沿岸航行は大きな危険を伴うと認識されるようになった。 明治2年(1869年)、フランス人技術者レオンス・ヴェルニー設計の、光源にレンズを用いた最初の洋式灯台である観音埼灯台が点灯した。観音埼灯台の完成により浦賀の燈明堂はその役割を終え、明治5年(1872年)に廃止されることになった。燈明堂廃止後も明治27年(1894年)ないし明治28年(1895年)頃まで燈明堂の建物は残っていたが、その後崩壊して石垣のみが残されるようになった。 ==燈明堂の構造について== 燈明堂は下部の石垣と上部の木造建物で構成されていた。上部の木造建物は現在に残されている絵図から判断すると上下二層で構成されており、上層で明かりを灯していたと見られている。また屋根は瓦葺であったとされ、後述の発掘時にも瓦が検出されており、瓦葺であったことは明らかであるが、発掘時に検出された瓦には本瓦と桟瓦があり、本瓦葺きであったのか桟瓦葺きであったのか必ずしもはっきりしない点があるが、発掘内容から見て安政元年(1854年)の安政東海地震に伴う津波によって崩壊する以前は本瓦葺きであり、その後の再建時に桟瓦葺きとなったと考えられている。なお発掘された桟瓦の中に完形を留めたものが全く見られないことから、燈明堂の廃止後、使用されていた桟瓦は他の建物に転用されたと見られている。 燈明堂の木造建物上層は四面に鉄骨製の障子が嵌め込まれ、鉄骨障子は銅製の網が張られていた。銅網が張られた鉄骨障子の内部には燈明皿が置かれており、油が燃やされて明かりとなっていた。 二層の木造建物を載せていた石垣は、下端で約4.7×5.0メートル、上端で約3.7×3.9メートル、高さは約1.8メートルであった。石材は安山岩である伊豆石が全体の約8割以上を占め、残りの石材は根府川石や瀬戸内方面からもたらされたと考えられる御影石であり、これは江戸城の石垣に用いられている石材の構成と類似しており、江戸城築城時に余った石材を流用したものと考えられている。石垣の積石工法も江戸城築城で用いられた元和から寛永年間に大成された「切り込み接ぎ石垣」という技術が用いられており、崩壊しにくい締まった石垣が構築されている。 また石垣の東面と南面の一部は、西面と北面では見られない積石の緩みが見られる。これは安政東海地震による津波で石垣の一部が崩壊して修復された際には、「切り込み接ぎ石垣」の技法を持たない職人が修復作業に従事したため、修復部分に石垣の緩みが発生したものと考えられる。 浦賀の燈明堂は、四方から建物を支える控柱が取り付けられている。石垣の四隅の対角線上に安山岩製の礎石が設けられ、礎石に取り付けられた控柱が燈明堂本体の建物を支えていた。昭和63年(1988年)から平成元年(1989年)にかけて行なわれた燈明堂の復元以前は、四つあった礎石のうち二つが残っていた。この控柱の礎石である安山岩は石垣に用いられている安山岩と明らかに違う種類のものであり、控柱は燈明堂創建当時からあったものではなく、いずれかの建物倒壊後に建物補強のために新たに設けられた可能性が高い。 ==調査の経緯と復元== ===復元計画の始動と発掘=== 昭和61年度(1986年)度、横須賀市は石垣のみ残存していた燈明堂の復元を目指し、教育委員会内に燈明堂復元協議会を設立した。協議会ではまず文献の蒐集と残存していた石垣について調査を行い、燈明堂は数回の建て替えが行なわれていたことと、石垣については江戸城の石垣と同様の技法を用いて積み上げられていることが明らかになった。 昭和62年度(1987年)度には、燈明堂復元のためのデータ収集を目的として、燈明堂とその周辺の発掘調査を行うことになった。昭和62年(1987年)6月15日から26日にかけて行なわれた発掘調査によって、海側である東側を中心に、標高が低い基礎部分には盛土を行なった上に叩いて固めるといった整地と基礎工事が行なわれた上で、石垣が構築されたことが明らかとなった。 また、燈明堂北側からは本瓦や陶磁器が大量に検出されている。これは安政元年(1854年)の安政東海地震以前に、燈明堂で用いられていた本瓦と燈明堂の備品であった陶磁器類が、東京湾入り口である南側からの津波によって北側に建物が倒壊したために、集中して本瓦と陶磁器類が検出されるようになったものと考えられる。 検出された陶磁器の中には、皿や鉢類の他に灯明皿片、そして火鉢の一部と見られるものがあった。火鉢は冬季の夜間に灯台守を行なう際に暖をとるために用いられたものと見られている。 燈明堂本体とその周辺の発掘後、昭和63年(1988年)7月6日から13日にかけて、岬の先端部にある燈明堂への遊歩道の整備に伴い、かつて高札場があったと伝えられていた燈明堂西側の発掘が実施された。この時の発掘では高札場の高札を立てていたものと見られる、岩盤をくり貫いた柱穴が2つ検出された。 ===燈明堂の復元と三浦半島八景=== 数回の建て替えが行なわれたことが明らかとなった浦賀の燈明堂の復元に際し、いつの時期の燈明堂を復元するかについて議論が重ねられたが、各種資料が最も良く残っていて復元作業が最も容易であることなどから、安政元年(1854年)の安政東海地震の津波後に再建され、明治5年(1872年)の廃止に至った最後の燈明堂の建物を復元することになった。 復元に当たって、昭和63年(1988年)4月から初田亨が作成した燈明堂の復元図をもとに設計が開始され、設計をもとに基礎工事、部材の組み立てと進められた。平成元年(1989年)3月に復元工事は完成し、燈明堂周辺も公園として整備された。 復元された燈明堂は、神奈川県が平成13年(2001年)に選定した三浦半島八景に、「灯台(燈明堂)の帰帆」として選ばれた。 =密室殺人= 密室殺人(みっしつさつじん、英: locked room murder)は、推理小説などのフィクションで、密室(外と出入りができない部屋)の内部で人が殺されており、なおかつ、その犯人が室内に存在しない状態のこと。推理小説の設定のひとつである「不可能犯罪」の一種。 ==概論== 密室殺人は、「偽造アリバイ」と並んで本格推理小説の代表的な題材である。特定の登場人物(犯人)による犯行が不可能であるように見せかけるのがアリバイトリックであるのに対して、登場人物のみならず作品世界の全人類に実行が不可能であるように見せかけるのが密室トリックである。この見せかける主体は第一に作者であるが、作品中に密室殺人を現出させるにおいては、「犯人の意図」「被害者を含む犯人以外の意図」「偶然の作用」の三つの経路があり、さらにこの三つはしばしば入り交じる。作者がダイレクトに読者に作用を及ぼす叙述トリックは、密室構成への適用はごく少ない。 基本的に、アリバイトリックが遂行されていたことは、解決の時点まで明示されないのに対し、密室トリックの存在は、一見自殺や事故という状況であってさえ、読者が早々に予想できるように展開する、そのような作例が多い。 推理小説における「密室」とは、一見 人の出入りが不可能な部屋を指す。「内側から施錠された部屋」が典型例である。密閉の厳重さは、人はおろか空気の流通さえない状況を提示して、謎を強調する作例がある。逆によりゆるやかな状況、出入りが可能でも足跡がないことなどにより犯行時には人の出入りはなかったと判断されたり、絶えず視線にさらされていたがため密室であったとみなされる作品もある。また球場、列車、都市など部屋よりもはるかに広い空間が閉鎖下にある場合や、崖や川など、自然の造形が隔絶に一役買っている空間が密室に見立てられることもある。また被害者ではなく容疑者や凶器などを密室に置いて、鉄壁のアリバイに等しい、限定された不可能というべき状況を提示した作品もある。 密室で他殺死体が発見されながら、室内に犯人がいないという、狭義の密室殺人の場合、以下の要素のいずれかに欺瞞(トリック)が存在する。 外部の力が及ばない室内で閉鎖期間中に他の人間によって殺害され閉鎖解除と同時に犯行と加害者たり得る人間の非在が確認される推理小説の元祖とされるエドガー・アラン・ポーの『モルグ街の殺人』以降、多くの作家の手によってヴァリエーションを増やし、部屋や閉鎖とは無縁な状況が次々考案されるに至り、「不可能犯罪」(impossible crime)の概念が見出されることになった。サブジャンルとしての隆盛にはジョン・ディクスン・カーの貢献が大きい。日本でも江戸川乱歩から現代に至るまで消長はあっても一定の人気を得てきた。横溝正史は「一人二役」「顔のない死体」とともに推理小説の三大トリックとしている。 カーが長編小説『三つの棺』(1935)の一章をレクチャーに割いて以降、トリックの分類自体が読み物として幾分の人気を得て、小説内の講義や独立の文章として何種類かが発表されている。またロバート・エイディー(Robert Adey)の ”Locked Room Murders and Other Impossible Crimes” では、小説中の不可能犯罪の状況と解決の要約が2000篇以上まとめられている。 ===密室殺人への評価=== 密室殺人を扱う推理小説には、トリックと、不可能と思われていたことが、実は可能だったと示す解決が必要である。ファンは、その単純かつ強烈な効果やトリックの独創性を堪能し、他方陳腐さや実現困難性、現実性の欠落などを批判する。 密室トリックは目的によって2種類に分けられる。不可能を可能にすることと、可能を不可能に見せかけることである。前者はすでに存在する密閉を突破するトリック、後者は犯人が偽の密閉を生成するトリックと言える。後者は前提に限定が少ない分変化をつけやすく、圧倒的に多い。ジャック・フットレルの「十三号独房の問題」は前者だけで構成されている数少ない作品である。数少ないというのは、犯人は当然捜査陣から具体的な方法を隠す必要があるので、トリックによって可能になっても、不可能に見せかけなければならないからである。 特に長編において、実は自殺、抜け穴、「針と糸の密室」、殺人機械などという解決は批判される。千篇一律の類例、読者の知り得ない技術はアンフェア、気のきいた手掛りを配置し難い、逆に普通に伏線を張れば読者に一目瞭然といった理由である。ただし新たな工夫を加えて高評価を得ることもできる。室外から糸を引けば掛金がかかるようにその糸を張るため、適当な場所に針を打つという「針と糸の密室」を例にとると、糸を室内へ通す空隙にトリックを凝らしたカーの長編や、極端にスケールアップして別物に見える横溝の長編などがある。 独創性については現在までに「ネタが出尽くした」とも言われ、新しいトリックは生み出しにくいとされる。乱歩も『類別トリック集成』(1953)の中で新たな密室トリックを見つける困難にふれている。 意図的な密室の場合まず必要になるのは実行動機である。以下のような理由が、設定された犯人にとっては、密室を作り出す手間や露見のリスクを圧倒しうると読者が納得しなければ、現実的ではなくアンフェアという批判の対象となる。 実行動機が発生時に推測できる場合 自殺に偽装 超自然現象に偽装 殺す相手が密室内にいる 密室内の第三者に罪を着せる自殺に偽装超自然現象に偽装殺す相手が密室内にいる密室内の第三者に罪を着せる実行動機が解決時まで不明な場合 方法が判明しなければ立件は不可能 事件発覚、または嫌疑をかけられるまでの時間をかせぐ 自己顕示欲の発露、リスクを問題にしない精神状態方法が判明しなければ立件は不可能事件発覚、または嫌疑をかけられるまでの時間をかせぐ自己顕示欲の発露、リスクを問題にしない精神状態実は事故や自殺だった、殺人者があずかり知らぬ偶然や第三者の工作によって密室殺人と化す、などの作例も多い。 蓋然性の問題は「絵空事で大いに結構。要はその世界の中で楽しめればいいのさ」(綾辻行人『十角館の殺人』)など、娯楽性を優先する見方もある。 作品の評価は読者の知識や嗜好、シリーズ物か否か、長編か短編か、シリアスや戯作仕立てか、作者の筆力などにも左右される。効果が重視される短編においては一か所際立った部分があれば他の部分に筆を惜しんでもある程度は許容され、ユーモアミステリの場合は説得力の薄弱はある程度は大目に見られる。十分な筆力があれば多くの難点をカバーしうる。なお作品の評価は高くても、密室の部分についてはあまり問題にされない作品もある。たとえば島田荘司の『占星術殺人事件』はその一例である。高木彬光の『刺青殺人事件』も、密室トリック自体は平凡なこと作中で神津恭介が言うとおりである。 ===密室殺人の様式=== ここでは状況の各パターンについて解説する。生成方法のパターンについては密室の分類と密室講義を参照されたい。 密室殺人という言葉はしばしば不可能犯罪と同義に使われる。狭義の密室殺人は施錠によって内側から密閉された部屋で、閉鎖解除と同時に他殺死体が発見される、という設定である。 外側からの閉鎖の例も多い。監視下にあって事件に関連しうる時間内には出入りがないと確認された部屋での殺人である。この場合監視の中断の有無が問題となる。外側からの施錠を密室に仕上げるには、封蝋や、合鍵の存在を否定しておくなどして、途中の閉鎖解除がない、あるいはないと思わせる必要がある。 砂やぬかるみ、雪などがあり、人が通れば必ず足跡を残すはずなのにないという設定もある。「二次元の密室」「雪の密室」「足跡のない殺人」などと呼ばれる。これには二つのパターンがある。砂ほかに回りを取り囲まれた建造物の中で死体が見つかる場合と、屋外で死体が見つかるが被害者以外の足跡がない場合である。足跡が付く間は密閉が続いていると考えられる。 以上の設定に人間の消失を加えた例もある。施錠中にたとえば窓から被害者以外の人物が確認されるが入ってみるといない、監視中に入って行く人物が観察されるが出て来るところは見られていない、被害者以外の足跡もあるがその主は建造物の中あるいは被害者の脇にいない、などである。 他にもたとえば、床がきしみやすく足音をたてずにはいられない、窓と扉の隙間にはすべて接着剤を塗った紙を内側から貼ってある、池の中の小島が現場だがボートや潜水服はなく水中は蛭が大発生しており泳いで渡ることはできないなどの設定がある。 密室殺人とは言い難い不可能犯罪としては「衆人環視の殺人」がある。目前の人間が倒れたので近寄ってみると殺されているが、周辺には誰もいなかったという設定である。 多くの人間を擁した島嶼、船舶、列車、建造物などが、人為や自然現象で密閉されている中、殺人が起るという設定の小説があり、「孤島もの」「雪の山荘」「クローズド・サークル」などと呼ばれるが、密室の一種と見なす向きもある。アガサ・クリスティの『そして誰もいなくなった』(1939)は、孤島の連続殺人で生き残りの中に犯人がいるはずが、最後の一人が吊り下げられた輪なわを発見した時点で、本来の密室殺人へと様相を一変する。同様に作者がやはり最後まで隠したところ、設定を忘れてもトリックは記憶に残った読者が、密室物として喧伝するという不幸のもとにある小説も存在する。 ===日本における「密室」という言葉の起源=== 江戸川乱歩は『D坂の殺人事件』『屋根裏の散歩者』(1925)などの作品で密室状況を扱っているが、文中に「密室」という言葉は用いられず、評論『入り口のない部屋・その他』(1929)、『楽屋噺』(1929)では、「出入り口のない部屋」、『ヴァン・ダインを読む』(1929)では、「室外にいて室の内側からドアに錠をおろすトリック」という表現を使っている。その他の作家も「密閉室内よりの犯人逃走」(大庭武年『13号室の殺人』1930)や、「密閉された室内」「内側から密閉された家屋」(葛山二郎『骨』1931)としか書いていなかった。 乱歩が雑誌『探偵小説』に寄せた『探偵小説のトリック』(1931)で、ルルーの『黄色い部屋の秘密』について「あの素晴らしい密室の犯罪というトリック」と書いているのが初出と見られ、小説中で用いられているものとしては小栗虫太郎の「完全犯罪」(1933)の中にある「完全な密室の殺人」という記述だとされる。 ==密室を扱った推理小説の歴史 (世界)== ===前史(歴史書など)=== ヘロドトス『歴史』の第二巻には、ピラミッドで起こった密室での盗難と首なし死体の発見、が記されている。『ダニエル書補遺』の一編『ベルと竜』には、抜け穴を通ってベル神の神殿に忍び込み、供物を盗み食いする祭司一族の物語がある。 ===推理小説での「密室殺人」の誕生=== 推理小説の嚆矢たる密室小説『モルグ街の殺人』(1841)から半世紀が過ぎると、今に名を残す作品が現れ始める。アーサー・コナン・ドイルのシャーロック・ホームズ物の一編『まだらの紐』(1892)、最初の長編密室物といわれるイズレイル・ザングウィルの『ビッグ・ボウの殺人』(1891)である。ザングウィルの作品は、解決が抜け穴ではない最も初期の例である。捜査技術が発展し、不可能犯罪は現実では困難になっていったが、小説の世界では1890年代になってやっと展開が始まったわけである。 1890年代から1920年代の「シャーロック・ホームズとそのライバルたち」の時代を代表する密室は、ガストン・ルルーの長編『黄色い部屋の秘密』であろう。短編では、G・K・チェスタトンのブラウン神父ものに『秘密の庭』『狂った形』『見えない男』『ムーン・クレサントの奇跡』『翼ある剣』他、オースティン・フリーマンの『アルミニウムの短剣』、メルヴィル・デイヴィスン・ポーストの『ズームドルフ事件』などがある。 19世紀にはバルザック『赤い宿屋』、フィッツ=ジェイムズ・オブライエン『金剛石のレンズ』、やや後にはサキ『牝オオカミ』など、作者が推理小説やそのパロディを企図していない密室小説が存在する。 ===密室の意味の拡大=== 1903年にサミュエル・ホプキンズ・アダムズが、「足跡の無い殺人」の元祖『飛んできた死』を、翌年にはメルヴィン・L・セヴリーが、「衆人環視の殺人」の元祖『The Darrow Enigma』を発表。不可能犯罪は部屋という要素にこだわる必要がなくなった。一方1905年には賭けに勝つため、「思考機械」の異名をとるオーガスタス・S・F・X・ヴァン・ドゥーゼン教授が、脱獄を実行するというフットレルの『十三号独房の問題』が発表されている。「思考機械」は後にいくつかの不可能犯罪を解決してもいる。 さらに懸賞付きの密室も登場。エドガー・ウォーレスは、タリス・プレスという出版社を興し、自身の処女作『正義の四人』を刊行する。本に解決はなく、密室の謎を解いた者に500ポンド支払うと発表した。しかし、要項に正解者から抽選で受賞者を選ぶと記載しなかったので、早々に深刻な資金難に追い込まれた。 ===世界大戦期=== 1930年に『夜歩く』と題する、パリのナイトクラブの一室を密室に仕立てた長編で、ジョン・ディクスン・カーがデビューした。以降1972年まで本名と筆名カーター・ディクスンで多くの作品を発表する。不可能犯罪物では元祖「密室講義」で知られる『三つの棺』と、密室の中で他殺死体と共に見つかった男の裁判を描いた『ユダの窓』(ディクスン名義)の二つが存在。他『プレーグ・コートの殺人』『白い僧院の殺人』『火刑法廷』『曲った蝶番』『爬虫類館の殺人』『囁く影』『妖魔の森の家』などがある。カーのシリーズ・キャラクターはギデオン・フェル博士、ヘンリー・メリヴェール卿、アンリ・バンコラン、マーチ大佐の四人が知られる。 不可能犯罪を専門にした作家は他にもキャロライン・ウェルズ、アントニー・ウィン、クレイトン・ロースン、H・H・ホームズ(アントニー・バウチャー)、ピエール・ボアロー、ジョゼフ・カミングスなどがいる。カー以降の専門作家を「密室派」としてひとくくりにすることもあった。 この時期の主な長編は、ヴァン・ダイン『カナリア殺人事件』(1927)、フリーマン・ウィルス・クロフツ『二つの密室』(1932)、エラリー・クイーン『チャイナ橙の謎』(1934)、ジョナサン・ラティマー『処刑六日前』(1935)、レオ・ブルース『三人の名探偵のための事件』(1936)、クレイトン・ロースン『帽子から飛び出した死』(1938)、アガサ・クリスティ『ポアロのクリスマス』(1938)、ヘイク・タルボット『魔の淵』(1944)他。短編ではロナルド・ノックス『密室の行者』、ジョルジュ・シムノン『クロワ・ルース街の小さな家』、デイリー・キング『釘とレクイエム』、マージェリー・アリンガム『ボーダー・ライン事件』などがある。 ===戦後の作家=== 長編はエドマンド・クリスピン『金蠅』(1944)、『消えた玩具屋』(1946)、『白鳥の歌』(1947)、クリスチアナ・ブランド『自宅にて急逝』(1947)、ハーバート・ブリーン『ワイルダー一家の失踪』(1948)、アラン・グリーン『くたばれ健康法!』(1950)、ピーター・アントニイ『衣裳戸棚の女』 (1951)、エド・マクベイン『殺意の楔』 (1959)、ジョン・ル・カレ『高貴なる殺人』(1962)、タッカー・コウ『刑事くずれ/ヒッピー殺し』(1967)、シューヴァル&ヴァールー『密室』(1972)、トニー・ケンリック『スカイジャック』(1972)、キャサリン・エアード『そして死の鐘が鳴る』(1973)、ジョン・スラデック『黒い霊気』(1974)、『見えないグリーン』(1977)、ハーバート・レズニコウ『ゴールド1/密室』(1983)、『音のない部屋の死』(1987)、ピーター・ラヴゼイ『猟犬クラブ』(1996)他。短編はロバート・アーサー『ガラスの橋』、フレドリック・ブラウン『姿なき殺人者』『笑う肉屋』、スティーヴン・バー『最後で最高の密室』、ウィリアム・アーデン(マイクル・コリンズ)『奇妙な密室』、エドワード・D・ホックのサム・ホーソーン医師シリーズ他など。 中でも1987年に『第四の扉』でデビューしたフランスのポール・アルテは久々に現れた専門作家といえる。カーの愛読者で最初はフェル博士物を書き継ごうと考えていたが、許可を得られず、アラン・ツイスト博士というイギリス人の探偵を創造した。 ==密室を扱った推理小説の歴史 (日本)== 詳しくは「日本の推理小説史」も参照。 ===密室の誕生=== 明治になり、海外からの情報が入ってくると、まず翻訳と言う形で世間に伝わった。水田南陽訳『毒蛇の秘密』(アーサー・コナン・ドイル『まだらの紐』)などがあったが、「密室」を強調していない。 初期の作品では江戸川乱歩の書いた『D坂の殺人事件』(1925)が有名である。明智小五郎のデビュー作でもあるが、明智がポーやルルーの名前、作品名を挙げており、「密室」を意識していたことが伺える。明治期に意識されていなかった「密室」が大正期になり注目されだした理由として「鍵のかかる部屋」の普及にあるとされる。 小栗虫太郎の『完全犯罪』(1933)など、乱歩以外の作家も密室に挑戦するが、乱歩の作品も含めて、そのほとんどが機械的、理化学的であり「リアリティの欠ける」トリックであった。 ===密室の確立と、横溝、乱歩の貢献=== 戦火を避け岡山県に疎開中、カーの原書を読んで衝撃を受けた横溝正史が、敗戦後続けざまに書き上げた二長編『本陣殺人事件』(1946)、『蝶々殺人事件』(1947)と共に、日本でも本格推理小説の時代が始まる。『本陣』は勝手知ったる岡山の山村を舞台に、新雪に囲まれた離れで二重殺人が発生する「足跡のない殺人」物で、密室の謎を中心に据えた唯一の作品である。金田一耕助のデビュー作でもある。『蝶々』は連続殺人の一環として、ビル内の密室からの墜落を設定している。戦前多くの作品で活躍した由利先生の殆ど最後の登場である。他『夜歩く』(1948)、『女王蜂』(1952)、『悪魔が来りて笛を吹く』(1952)が横溝の主な密室である。 高木彬光は乱歩に『刺青殺人事件』(1948)の原稿を送りつけて認められた。浴室を現場にして『本陣』同様日本家屋の密室を実現している。『能面殺人事件』(1949、探偵作家クラブ賞受賞)、『刺青』に続く神津恭介物の『呪縛の家』『死を開く扉』『わが一高時代の犯罪』『妖婦の宿』『影なき女』、他『灰の女』など。被害者を密室内に搬入するトリックを「逆密室」と名付けたことでも知られる。 その他島田一男の『錦絵殺人事件』、鮎川哲也の『赤い密室』『白い密室』『砂とくらげと』『他殺にしてくれ』(いずれも短編)、飛鳥高、天城一、大坪砂男、楠田匡介、島久平、鷲尾三郎などが続いた。 ===社会派の台頭=== 芥川賞作家で主に歴史小説を書いていた松本清張は、『張込み』(1955)で愛読していた推理小説の世界にデビュー、『点と線』『眼の壁』『ゼロの焦点』『顔』『地方紙を買う女』他。ここに10年前の横溝の再出発時を思わせる勢いで、にわかに社会派推理小説の時代が到来する。既成作家のマンネリ化、目に余るリアリティの欠如、トリック以外が本格推理小説としておざなりな作品の氾濫などもその躍進を後押しした。密室については「老いた無形文化財」(紀田順一郎『密室論』、初出は佐藤俊名義。『宝石』1961.10掲載)と呼ぶものもあった。 とはいえ飛鳥高『疑惑の夜』『死にぞこない』、佐野洋『一本の鉛』、仁木悦子『猫は知っていた』(第3回江戸川乱歩賞)、日影丈吉『内部の真実』『善の決算』、天藤真『陽気な容疑者たち』、中井英夫『虚無への供物』(初出は塔晶夫名義)、多岐川恭『変人島風物誌』、笹沢佐保『突然の明日』、陳舜臣『方壺園』など質、量とも他の時代に引けを取るものではない。昭和30年代になって、初めて長編で多様さを見せることができたとさえ言える。 ===大ロマンの復活・密室の復権=== 社会派は事実上清張の独り舞台で、続く水上勉、黒岩重吾は本来の資質が社会性にはなかった。結果再びマンネリ化して読者が離れ、1960年代なかばには推理小説の刊行数自体が大幅に減った。戦前の『新青年』に代わって、戦後の推理小説における檜舞台であった雑誌『宝石』も光文社に売却され、小説誌ではなくなった。 60年代の末になると桃源社、三一書房他から小栗、夢野久作、久生十蘭など戦前の探偵、伝奇、大衆小説が続々と復刊、乱歩や横溝の新しい全集も現れたこのリバイバルブームは桃源社のキャッチフレーズを借りて「大ロマンの復活」と呼ぶことも多い。さらに1971年『八つ墓村』が角川文庫から刊行、1975年には『幻影城』が創刊される。 この時期は乱歩賞受賞者に密室小説を書き続ける作家が集中した。海渡英祐(『伯林―一八八八年』第13回)、森村誠一(『高層の死角』第15回)、大谷羊太郎(『殺意の演奏』第16回)。以後受賞作には密室が多い。1974年には日本初の密室アンソロジー、中島河太郎編『密室殺人傑作選』が刊行。翌年には渡辺剣次の『13の密室』、現在にいたるまで鮎川、山前譲、二階堂黎人などが多数編集している。 1980年代にかけての密室小説は山村美紗『花の棺』、泡坂妻夫『乱れからくり』、笠井潔『サマー・アポカリプス』、島田荘司『斜め屋敷の犯罪』、逢坂剛『裏切りの日々』、都筑道夫『なめくじ長屋捕物さわぎ』他。 ===新本格以降の密室=== 1987年、綾辻行人が、島田荘司に推薦され、『十角館の殺人』でデビュー。この後の新人の本格推理小説は「新本格」と呼ばれることになる。中では歌野晶午、二階堂黎人、柄刀一などに密室の作例が多い。 ==密室の分類と密室講義== 密室殺人には、不可能状態を作り上げるトリックが必要であり、数多くの作家や評論家が密室殺人の体系的な分類に取り組んできた。作中で探偵役など登場人物によって示される分類を、カーにあやかって「密室講義」と称することがある。 ===カーの密室講義=== 「三つの棺」の17章「密室の講義」(The Locked Room Lecture)において探偵役のフェル博士は、密室殺人に用いられるトリックを分類している。概略は以下の通り。 まず 秘密の通路や、それを変型させた原理は同じものを除外した上で(博士はきたないやり方と評した) 密室内に殺人犯はいなかった 偶発的な出来事が重なり、殺人のようになってしまった 外部からの何らかにより被害者が死ぬように追い込む 室内に隠された何らかの仕掛けによるもの 殺人に見せかけた自殺 すでに殺害した人物が生きているように見せかける 室外からの犯行を、室内での犯行に見せかける 未だ生きている人物を死んだように見せかけ、のちに殺害する偶発的な出来事が重なり、殺人のようになってしまった外部からの何らかにより被害者が死ぬように追い込む室内に隠された何らかの仕掛けによるもの殺人に見せかけた自殺すでに殺害した人物が生きているように見せかける室外からの犯行を、室内での犯行に見せかける未だ生きている人物を死んだように見せかけ、のちに殺害するドアの鍵が内側から閉じられているように見せかける 鍵を鍵穴に差し込んだまま細工をする 蝶番を外す 差し金に細工をする 仕掛けによりカンヌキや掛け金を落とす 隠し持った鍵を、扉を開けるためガラスなどを割ったときに手に入れた振りをする 外から鍵を掛け鍵を中に戻す鍵を鍵穴に差し込んだまま細工をする蝶番を外す差し金に細工をする仕掛けによりカンヌキや掛け金を落とす隠し持った鍵を、扉を開けるためガラスなどを割ったときに手に入れた振りをする外から鍵を掛け鍵を中に戻すクレイトン・ロースンは『帽子から飛び出した死』(1938)の13章「脱出方法」で、カーのものをほぼ踏襲する形で密室講義を書き、新たに「死体発見時に犯人が室内にいる場合」を加えている。 ディクスン名義の『孔雀の羽根』(1937)でヘンリー・メリヴェール卿は、犯人が密室を生成する動機について語り、四つを挙げている。 ===H・H・ホームズの分類=== H・H・ホームズ(アントニー・バウチャー)も『密室の魔術師』(1940)で密室の分類を試みている。 部屋が閉ざされる前に犯行が行われたもの。部屋が閉ざされている間に犯行が行われたもの。部屋の密室が破られてから犯行が行われたもの。カーと比較すると単純な分類ではあるが、犯行が「いつ」行われたのかという点に目を向け、分類に時間軸を加えている点で重要である。 ===江戸川乱歩の分類=== 江戸川乱歩は、カーの講義を絶賛したが、これで完全というものではないとして、改編が加えられた。例えば、密室の原因、というものにおいては統一されていない、などという欠点がある。乱歩は『類別トリック集成』(1953)で、カーやロースンを倣っているが、独自に改良を加え、四つの大きな項目に再編した。 犯行時、犯人が室内にいなかったもの。犯行時、犯人が室内にいたもの。犯行時、被害者が室内にいなかったもの。犯行時、被害者が室内にいたもの。乱歩の分類に対して、泡坂妻夫は『トリック交響曲』(1981)で、二階堂黎人は『悪霊の館』で問題点を指摘している。例えば、『悪霊の館』の探偵役、二階堂蘭子は、室外から鍵を掛ける機械的トリックをこの中のどれに分類するかが難しいことを挙げている。また、山口雅也の『13人目の探偵士』(2002)は、基本的に乱歩の分類を踏襲するが、「部屋」と、「被害者」「犯人」「凶器」の三要素との殺人があった時点における関係性という視点を示し、ホームズが示した動的な要素を組み込んだ。 ===天城一の「密室作法」=== 天城一が雑誌『宝石』(1961)の密室特集号に「密室作法」を書いた。カー、乱歩など過去の分類を挙げた後に、乱歩の分類の欠点として密室の作り方に触れていないことを指摘し、密室の定義と分類を行った。 天城は、時間Tについて、殺人が犯された時刻R、推定犯行時刻S、被害者絶命時刻Qとしたときに、QとSがRと一致しないことが「手品の種になる」として、密室殺人の定義を T=S において、監視、隔絶その他有効と「みなされる」手段によって、原点O(密室)に、犯人の威力が及び得ないと「みなされる」状況にありながら、なお被害者が死に至る状況をいう としたうえで、二つの「みなす」に着眼して密室の殺人を以下の通りに分類する。 不完全密室 A1:「抜け穴」が存在する場合 A2:「機械密室」A1:「抜け穴」が存在する場合A2:「機械密室」完全密室 B3事故または自殺 B4「内出血犯罪」B3事故または自殺B4「内出血犯罪」純密室 C5時間差密室(+)推定犯行時刻よりも後に殺人が犯された場合 C6時間差密室(‐)殺人が犯された時刻よりも後に犯行時刻が推定されていた場合 C7逆密室(+)被害者を運び込む C8逆密室(‐)被害者を運び出す C9超純密室C5時間差密室(+)推定犯行時刻よりも後に殺人が犯された場合C6時間差密室(‐)殺人が犯された時刻よりも後に犯行時刻が推定されていた場合C7逆密室(+)被害者を運び込むC8逆密室(‐)被害者を運び出すC9超純密室この記事が雑誌掲載以後単行本などとして刊行され、入手が容易となるのは、推理小説論のアンソロジー『教養としての殺人』に収録される1980年を待たねばならなかったが、多くの密室アンソロジーの解説などによってその存在と概要は広く知られていた。 小森健太朗の『ローウェル城の密室』の登場人物、星の君による密室講義の分類は、大きく「完全な密室」「不完全な密室」「錯覚によって密室が構成される」の3分類で、天城のものに近い(小森は執筆当時には天城の記事を見ていない)。 ===二階堂黎人の密室分類=== 二階堂黎人の『悪霊の館』では、探偵役の二階堂蘭子が複数の密室分類法の原理を例示している。 密室の構成要素による分類 鍵の施錠法に関する方法等で密室を構成するもの 殺人手段に関する方法等で密室を構成するもの 犯人及び被害者の出入りで密室を構成するもの鍵の施錠法に関する方法等で密室を構成するもの殺人手段に関する方法等で密室を構成するもの犯人及び被害者の出入りで密室を構成するもの密室の性質による分類 犯人が独力で密室を構成出来る場合 機械や動物の手を借りて密室を構成する場合 共犯者や被害者自身の手を要して密室を構成する場合 被害者の自殺や偶然が密室を構成する場合犯人が独力で密室を構成出来る場合機械や動物の手を借りて密室を構成する場合共犯者や被害者自身の手を要して密室を構成する場合被害者の自殺や偶然が密室を構成する場合密室を成立させる要素による分類 心理的な錯覚による密室 機械的な作為による密室 物理的な偽装による密室心理的な錯覚による密室機械的な作為による密室物理的な偽装による密室また、柄刀一は『時の結ぶ密室』の中で、横軸を機械性・心理性、縦軸を人工性・偶然性として、そこに時間軸を加えて、三次元のグラフを示して密室を分類している。 さらに麻耶雄嵩は『翼ある闇 メルカトル鮎最後の事件』の中で、犯人が密室を作る動機の分類を試みている。 ==現実に起きた、現代の密室事件== 2010年9月15日、テキサス州MCMエレガントホテルの宿泊客グレッグ・フレニケンが密室状態の348号室で不審死を遂げる事件が発生した。これは密室講義その2の1に分類される過失致死であった。 =鷲子山上神社= 鷲子山上神社(とりのこさんしょうじんじゃ、とりのこさんじょうじんじゃ)は、栃木県那須郡那珂川町と茨城県常陸大宮市の境界に鎮座する神社。参道や本殿の中央部を県境が貫いており、境内には栃木・茨城両県の社務所があり、宮司もそれぞれ奉職している。 主祭神は天日鷲命(あめのひわしのみこと)であり、フクロウの神社として信仰を集めている。境内の面積は鷲子山一帯の約22haで、うち2haは原生林である。 ==歴史== 大同2年(807年)に郷土の人物である大蔵坊宝珠上人が阿波国から天日鷲命を勧請したのが鷲子山上神社の始まりであるとされる。当時の社名は「鷲権現」であったが後に鷲子山上神社に改称した。また創建の地は朝日岳(朝日嶽、境内にある本宮神社の位置)であり、火災により鷲子山頂に移転したとされる。地元の伝承では、製紙に成功したため製紙の神である天日鷲命を祀ったという。山麓の常陸大宮市鷲子では製紙業が盛んであったようであり、「鷲子」という地名は天日鷲命に由来するという説がある。 天長5年(828年)、疫病の流行のため、平癒を願い大己貴命と少彦名命を合祀した。この頃の信仰圏は広く、常陸国・下野国・陸奥国に及んだとされる。八溝山地は修験道の修行場として名高く、八溝山地の中でもひときわ高い山である鷲子山は修験者から霊山として崇められ、神社は厚い信仰を集めた。建久8年(1197年)には源頼朝が社殿を再建し修理料の名目で15貫文を贈った。息子の源実朝も建保2年(1214年)に銭を献納している。南北朝時代には佐竹貞義の弟である佐竹義高が「鷲子別当」と称され、この地域に権勢を振るっていた。現存する最古の棟札は天文21年12月3日(ユリウス暦:1552年12月18日)のものであり、常陸国側の領主である江戸右近大夫通有と下野国側の領主である武茂守綱が協力して本殿を復興したと記されている。天正15年(1587年)には佐竹義胤から25町歩の寄進を受けた。 慶安元年10月24日(グレゴリオ暦:1648年12月8日)、徳川家光は常陸国鷲子村(現・常陸大宮市鷲子)の10石と下野国矢又村(現・那珂川町矢又)の10石の合わせて20石の朱印地、100石の除地を認めた。江戸時代は鷲子山上神社の朱印地であった常陸国鷲子村と下野国矢又村の鎮守とされた。これらの村々以外からも製紙関係者を中心に下野国那須郡、常陸国那珂郡・久慈郡から崇拝された。また下野国15村の修験総社でもあり、聖護院系の伍智院が別当として神社に奉仕した。伍智院には徳川光圀が宿泊したと伝えられ、鷲子山上神社で名勝を選定した。光圀の定めた名勝は鷲子十景と山中七奇で、鷲子十景は「海天旭日・富士晴雪・晃山霽色・烏山城塁・鹿浦眺望・村家炊煙・野寺晩鐘・雨堤暁晴・杉村初月(杉林初月)・那珂帆影(河川帆影)」、山中七奇は「社内神酒(神酒)・井戸石亀(井中石亀)・禁不浄(禁不祥)・神鳥雌雄(神烏雌雄)・三穂草(三本蘆 在矢又村)・三房柿(柿実 在建武村)・阿良佐巨(阿良沙巨)」である。 伍智院は明治維新に際して廃絶し、伍智院別当を務めていた家は長倉姓に復し、引き続き社務に務めた。1872年(明治5年)、近代社格制度に基づき郷社に列せられた。1979年(昭和54年)に国土調査が行われ、栃木県・茨城県双方の立会いの下、県境を示すピンが打ち込まれた。これは周辺の巨木がどちらの県に所属するかを確定する必要があったための措置である。また1990年(平成2年)には氏子からの申し出を受け、栃木県・茨城県が同時に調査を行った末、本殿などを同時に県指定有形文化財に指定した。 ==県境の神社== 鎮座地の鷲子山は『常陸国風土記』に常陸国と下野国の国境であったことが記されており、古代から境界の地であった。(風土記には「堺なる大き山」としかなく、鷲子山の名は当時まだなかったようである。)しかし、鷲子山をはさんだ両国はどちらも中世には佐竹氏領、近世には水戸藩領であったため、国境にあっても特段の問題はなかった。なお棟札の記録によれば、天文21年(1552年)には常陸国側の江戸氏と下野国側の武茂氏が協力して本殿を再興しており、それぞれの勢力下にある人々の名も同時に書かれていることから、両者が互いに気を遣っていることが窺える。ただしその次の棟札である元亀2年(1571年)のものには武茂氏方の名しか見当たらず、続く元亀4年(1573年)のものにも武茂氏方のみで、「武茂当社」と書かれていることから、この時は武茂氏の影響力が大きかったようである。 1871年(明治4年)の廃藩置県で下野国側が栃木県の、常陸国側が茨城県の管轄となったため、1つの境内に栃木県側と茨城県側の2つの神社が並立することとなった。この際、従来から宮司を務めていた長倉家は栃木県側の宮司となり、茨城県側は新たな宮司が奉職した。その後、1955年(昭和30年)頃より茨城県側の宮司は鷲子山麓の諏訪神社宮司を務める高部家が兼務することになり、平常時は栃木県側の宮司が神社を維持管理し、茨城県側の宮司は祭礼の時のみ奉仕するようになった。長倉家は明徳3年(1392年)に常陸国の城主家系から分家して鷲子山上神社の宮司になって以来2009年(平成21年)時点で23代目であり、高部家は同年時点で諏訪神社の43代目と長い歴史を持つ社家である。なお、工学者で東京工業大学・長岡技術科学大学名誉教授の長倉繁麿(1926年3月15日 ‐ 2014年12月6日、瑞宝小綬章受章者)は、鷲子山上神社宮司の三男として出生している。 元は1つの神社であるが、宗教法人としての登録は栃木県・茨城県双方にあり、2つの神社ということになっている。(ただし登記はしていない。)鳥居の前には「ここが県境」と書かれた看板が立ち、本殿の中央を県境が貫いている。本殿は栃木県と茨城県のどちらからも県の有形文化財に指定されており、県境の神社で指定を受けた日本初の事例となった。拝殿は茨城県側にあるが、栃木県・茨城県両社の共同所有の形をとる。社名の正式な読みは栃木県側が「とりのこさんしょうじんじゃ」、茨城県側が「とりのこさんじょうじんじゃ」である。本来は栃木県側も茨城県側も「とりのこさんしょうじんじゃ」が正式な読みであったが、1946年(昭和21年)に発足した神社庁に登録手続きをする際に、茨城県側の宮司が誤って「とりのこさんじょうじんじゃ」と記入してしまったため、茨城県側では「とりのこさんじょうじんじゃ」が正式な読みとなった。 社務所は栃木県側と茨城県側でそれぞれ別にあり、参道をはさんで向かい合っている。平常時は栃木県側の宮司のみが常駐し、神社の維持管理を担当する。このため参拝者が納めた賽銭は通常、栃木県側の取り分となり、初詣や例祭の折は栃木県と茨城県で折半する。水は井戸水と水道の併用で栃木県側から引いたものを共有するが、電気や電話は別個に契約している。警察は初詣の際に栃木県警と茨城県警の双方から警察官が派遣されて警備に当たるが、事件等が発生した際にどちらの所轄になるかは実際の出動例がないため不明である。消防は平成初期(1990年代)に出動例があり、栃木・茨城双方から駆けつけて消火活動を行ったという。2つに分かれているものの両社の関係は良好であり、宗教上は県境を設けず、共有地として進めていくという方針で話し合われている。例えば2007年(平成19年)に催行された鎮座千二百年祭では両社が協力して神事が円滑に進んだほか、祭りのための寄付金も両社が協力した結果、目標額の2倍以上が寄せられた。この時集まった募金の一部は日本一の大フクロウ像の建設資金に充当された。 日本航空の機内誌で「カントリーの境にある神社」として取り上げられたことがあり、以降は多くの日本国外からの訪問者がある。 県境の神社としてはほかに群馬県・長野県境にある熊野神社/熊野皇大神社がある。県境に神社があるのは一見珍しく思われるが、浅井建爾は神が宿る山頂に神社を建立することはよくあることであり、山頂を県境に定めることも一般的であることから、県境に神社が建っていることは「考えてみればそれほど不思議がることでもないだろう」としている。 ==信仰== 祭神は天日鷲命、大己貴命、少彦名命の3柱であり、それぞれ産業振興の神、縁結び・福徳・金運の神、医薬・難病克服・酒造の神として近在の住民から信仰を集めてきた。例祭は4月17日で、11月16日に夜祭りが行われる。秋の例祭である夜祭りは創建以来の古儀を伝えるとされている。現代の氏子地域は、栃木県側が那珂川町矢又と大那地、茨城県側が常陸大宮市鷲子である。1960年代頃には信仰圏の各字から2人ずつ、2月1日から5月6日まで代表者が日参する風習があった。 ===フクロウの神社=== 鷲子山上神社は「フクロウの神社」と呼ばれている。祭神が天日鷲命という鳥の神であることから、「不苦労」・「福老」・「福来朗」に通じるフクロウが神の使いとして崇拝されてきたのである。実際に鷲子山にはフクロウが生息している。境内には日本一の大フクロウ、不苦労御柱、フクロウの石段、石製の水かけフクロウ、フクロウのポスト、フクロウの鐘、フクロウのベンチなど至る所にフクロウをモチーフとしたものが設置され、フクロウお守りやフクロウのストラップの授与も行っている。 日本一の大フクロウは2008年(平成20年)に鎮座千二百年祭の集大成として設置されたもので、台座を含めた像高は7mあり、不苦労御柱を覆うように建てられている。素材は繊維強化プラスチック、幅・奥行きはともに3.5m、重量は500kgで、金色をしている。大フクロウは毎年12月に竹箒で煤払いが行われる。不苦労御柱は願掛けの場であり、苦労や悩みを叩き出し、頭上のフクロウに運び去ってもらい、金運や幸運を運んでもらうことを祈願する。ここで願って宝くじに高額当選した人がいるとマスメディアで紹介されたことがあり、多くの人がご利益にあずかろうと参拝に訪れている。フクロウの石段は社務所から拝殿に至る石段で、全96段あることから、片道苦労(96の語呂合わせ)、往復不苦労(96段を2回で2×96の語呂合わせ)といわれ、幸運を呼ぶ石段とされる。片道苦労の名の通り石段は急であるので注意が必要である。 フクロウの石像が奉納されることも多く、2016年(平成28年)12月時点で境内に約120体ものフクロウ像がある。 ===鷲子地区の民間信仰=== 茨城県側の常陸大宮市鷲子では、生活・文化・経済に至る広範な呪術的民間信仰があり、衰退したものもあれば、継続しているものもある。 鷲子山上神社に願掛けをするときは卵を手に握って家を出て、拝殿に着いたら卵を備え願い事をする「ツカミ卵」という風習があった。卵の代わりに生きたニワトリを奉納する人もいたという。ほかにも、イボに悩む人が年齢の数だけ大豆を供える、または数粒の大豆を入れた紙製の俵をイボの数だけ供えることでイボが取れることを祈願する、若白髪の治癒を願い叶ったら黒く染めた麻を供えてお礼参りする、境内の「子種石」に子宝を授かることを祈願する、丑の刻参りで境内の大杉に呪い釘を打ち込む、など多くの民間信仰があったが、これらはほとんど衰退した。 1990年代になっても継続していた民間信仰としては、小田野地区の住民が毎年4月頃に全員で日参して嵐除けの神札を授かり畑に立てる、八朔の日に神社で「風祭り」を集落単位で行い台風が来ないよう祈願する、というものがある。 ===境内の諸社=== ====本宮神社==== 鷲子山上神社の本殿があったとされる地に建てられた神社。この神社の境内に日本一の大フクロウ像がある。 ===奥山稲荷=== 伏見稲荷大社を勧請して創建された。 ===羽黒社=== 出羽三山の神々を遷した神社で、旧社地は鷲子山上神社本殿の位置であった。 ===大黒社=== 七福神の1柱である大黒天を祀る。 ===三社=== 風神・雷神と古峯神社の神々を祀る。 ===三本杉社=== 夜祭りはこの神社の前で行われる。 ==文化財== 社宝に天正元年(1573年)の棟札と三条実美の書である掛軸がある。茨城県知事が奉納した扁額もある。 ===本殿=== 三間社流造で屋根は銅板葺。棟札の記録に残るだけでも天文21年(1552年)、元亀2年(1571年)、元亀4年(1573年)、寛保3年(1743年)に再建修復を行っており、現存のものは天明8年(1788年)の築。益淵武衛門・町井藤衛門の両棟梁と彫物棟梁の石原藤助によって建てられ、3人は現今の栃木県芳賀郡市貝町の人であり、日光東照宮の流れをくむ宮大工である。間口は3間5尺(≒6.97m)、奥行は3間半(≒6.36m)、軒高は18尺5寸(≒5.61m)、棟高は30尺(≒9.1m)である。彫刻を多用し、彩色も施された装飾性に富む建築物で、彫物は牡丹・唐獅子・松竹梅・雲竜・花鳥・仙人がある。特に庇周りの彫刻された柱と頭貫(かしらぬき)、身舎(もや)の柱に取り付けられた獅子・象・麒麟をあしらった懸鼻(かけはな)が特徴的である。「関東地方における社殿の彫刻装飾の流れを知る上の重要な遺構」とされる。茨城県(1990年1月25日指定)および栃木県(1990年1月26日指定)の指定有形文化財(建造物)。 ===随神門=== 三間一戸の楼門で、文化12年(1815年)の築。町井六左衛門と町井新之丞が棟梁を務め、両者は現今の市貝町の人である。2階に長押や高欄が取り付けられていないなど一部未完成の部分があるものの、組物や軒回りはほかに類例が少ない手法を用いており社殿構成物の1つとして重要である。1階の正面両脇の間に随神像、背面両脇の間に仁王像を安置する。茨城県(1990年1月25日指定)および栃木県(1990年1月26日指定)の指定有形文化財(建造物)。 ===鷲子山上神社のカヤ=== 指定時点で樹齢600年、樹高25m、根回り6.9m、幹回り5.5mのカヤの木であり、分布の北限付近に立つ。随神門の右手にカヤの案内看板があり、これに従って急坂を下るとカヤが現れる。下枝が少ない分、上枝の張り出しの良さが目立つ。枝の張り出しは南側の方が北側よりも良い。幹の伸び方や根元の張りも優れている。このカヤの保護のため、周囲には柵を張り巡らせ、周りの木々は伐採されている。鷲子山は植生分布上、北方系と南方系の植物が接する地として重要であり、ほかにもカシやモミなど巨木が多い。上記2件とは異なり、茨城県の単独指定の天然記念物(1998年1月21日指定)であり、1979年(昭和59年)9月1日から美和村の天然記念物に指定されていた。 ==周辺== 神社が創建された頃の鷲子山周辺は辺境の地であり、神社へ至る道中にある道標に刻まれた「はとうからすやまとりのこみち」(「馬頭・烏山・鷲子道」の意)の字を見て「ハト・ウ・カラス・ヤマドリの小道」と誤解した旅人が通るのをやめ引き返したという逸話が残るほどであった。体育学者の永井道明の孫は学校の遠足で鷲子山上神社へ行った際に足を腫らして帰ってきたが、後日同じ道を歩いた永井道明(当時70歳代)は何ともなく、「やはり体育家だったのだ」と孫を驚嘆させたという逸話もある。 現代では麓に国道293号が整備され、沿線は田畑が広がる地域となっている。国道293号には鷲子山上神社への案内看板が立っている。栃木県側と茨城県側の双方から神社へ至る道路が伸びており、栃木県側の道路(栃木県道232号矢又大内線)の方が狭く、茨城県側(鷲子山林道)は整備が進んでいる。このため神社の公式サイトでは自動車で参拝に訪れる場合、あくまでも任意としながら、栃木県側は下り専用、茨城県側は上り下りどちらも可能と紹介している。最寄りの高速自動車国道のインターチェンジは栃木県側が東北自動車道矢板ICで約60分、茨城県側が常磐自動車道那珂ICで約60分である。駐車場は20台ほど駐車できる。 公共交通機関を利用する場合、最寄り駅は栃木県側がJR烏山線烏山駅または東北本線(宇都宮線)氏家駅であるが、烏山駅からはタクシーで20分、氏家駅からは関東自動車バスで那珂川町役場前まで行き、そこからタクシーで20分かかる。1990年代頃までは烏山駅から鷲子山麓まで路線バスが乗り入れ、鷲子山入口バス停から徒歩1時間で神社へ到達できた。茨城県側は水郡線常陸大宮駅が最寄り駅で、そこから茨城交通バス塙行きに乗車し終点で下車、国道293号を北上し、鳥居土集落センター付近にある分岐点から約3kmある鷲子山林道をまっすぐに進むと約70分で神社に到達する。林道を上っていくと、休耕田からスギ・ヒノキの人工林へと変化していく様子が見て取れる。 =ウィリアム・ラム (第2代メルバーン子爵)= 第2代メルバーン子爵ウィリアム・ラム(英語: William Lamb, 2nd Viscount of Melbourne, PC, FRS、1779年3月15日 ‐ 1848年11月24日)は、イギリスの政治家、貴族。 グレイ伯爵退任後のホイッグ党を指導し、ホイッグ党政権の首相を二度にわたって務めた(第一次:1834年、第二次:1835年‐1841年)。ウィリアム4世の治世からヴィクトリア朝初期にかけて保守党(トーリー党)党首ロバート・ピールと政権を奪い合った。ヴィクトリア女王即位時の首相であり、女王の寵愛を受けた。1842年に政界の第一線を退き、代わってジョン・ラッセル卿がホイッグ党を指導していく。 ==概要== 1779年にメルバーン子爵家の次男として誕生。ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジへ進学。さらにリンカーン法曹院で学び、弁護士となる。1805年に兄が死にメルバーン子爵家の跡取りとなる。また同年にキャロライン・ポンソンビーと結婚した(→生い立ち)。 1806年に庶民院議員に初当選。初めホイッグ党に所属していたが、1816年からトーリー党へ移籍した。妻キャロラインの不倫事件で著名となる(→若手議員)。 1827年のジョージ・カニング内閣でアイルランド担当大臣(英語版)を務めた。1828年のカニングの死後、カニング派(英語版)と呼ばれるカニングの路線を継承する派閥に加わる。ウェリントン公爵内閣では他のカニング派閣僚とともに首相ウェリントン公爵の守旧的方針に反発して辞職した(→トーリー党政権の閣僚)。 その後、ウィリアム・ハスキソン指導下のカニング派に属して野党となった。1828年に爵位を継承し、貴族院議員となる。1830年のハスキソンの死後にはカニング派を継承。ホイッグ党との連携を推進し、同年11月にはウェリントン公爵内閣を倒閣した(→カニング派としての野党期)。 代わって成立したホイッグ党政権のグレイ伯爵内閣に内務大臣として入閣。同内閣で行われた第一次選挙法改正をめぐっては慎重派だった(→ホイッグ党政権の閣僚)。 1834年7月にグレイ伯爵が首相を辞職すると代わって組閣の大命を受け、第一次メルバーン子爵内閣(英語版)を組閣した。しかし国王ウィリアム4世と人事案をめぐって対立を深め、同年11月に罷免された(→第一次メルバーン子爵内閣)。 後任の保守党政権第1次ピール内閣を1835年4月に総辞職に追い込み、第二次メルバーン子爵内閣(英語版)を成立させた。改革を抑えることを条件に与党攻撃を控えるという協約を野党保守党と結んで政権運営を行った(→組閣までの経緯)。1837年6月に即位したヴィクトリア女王から相談役として信頼され、寵愛を受けた(→ヴィクトリア女王即位)。1838年に盛り上がった労働者運動チャーティズム運動は徹底的に弾圧した(→チャーティズム運動取り締まり)。1839年5月には議会掌握の行き詰まりで辞表を提出したが、後任ピールの寝室女官人事を女王が拒否する事件があったため、メルバーンが続投することになった(→寝室女官事件)。在任中、外務大臣パーマストン子爵の主導で阿片戦争や第一次アフガン戦争を開始し、またベルギー独立革命や第二次エジプト・トルコ戦争の仲裁を行った(→外交問題)。1841年6月の解散総選挙(英語版)にホイッグ党が敗れた結果、総辞職した(→総辞職)。 首相退任の翌年1842年にホイッグ党党首の座をジョン・ラッセル卿とランズダウン侯爵に譲った。退任後も女王と親密だったが、女王の相談役は夫アルバート公子に転じつつあったため、宮中での影響力も低下していった。1848年に死去(→首相退任後)。 ==経歴== ===生い立ち=== 1779年3月15日、初代メルバーン子爵ペニストン・ラム(英語版)の次男としてロンドンに生まれた。母はその夫人エリザベス(英語版)。 母の浮気相手エグルモント伯爵(英語版)の子とも言われる。ラム家は代々ホイッグ党支持の家系であった。 イートン校を経てグラスゴー大学やケンブリッジ大学トリニティ・カレッジで学ぶ。その後、リンカーン法曹院に入学し、1804年に弁護士資格を取得した。 ウィリアムは次男であり、メルバーン子爵位の継承者として期待されていなかったが、1805年の兄ペニストン(英語版)の死により跡取りとなった。同年にベスバラ伯爵(英語版)の娘で小説家のキャロライン・ポンソンビーと結婚した。 ===若手議員=== 1806年にレオミンスター選挙区(英語版)から初めて庶民院議員に当選した。所属政党は当初ホイッグ党だったが、1812年にはカトリック解放を支持したために落選の憂き目を見た。 1816年に再選された際にトーリー党へ移籍した。トーリー党内の自由主義派であるジョージ・カニングの支持者になっていった。 彼の名前が一般に知れ渡ったのは、1812年の妻キャロラインの醜聞のせいだった。キャロラインがウィリアムの友人であった詩人バイロン男爵との不倫に走ったのである。この結果、2人は1825年に離婚した。 一方でウィリアム自身も国王ジョージ4世の放蕩仲間であり、多くの女性と関係した。二人の女性から離婚をめぐり訴えられたことがあるほどである。 ===トーリー党政権の閣僚=== 1827年4月にトーリー党穏健派とホイッグ党穏健派による連立政権ジョージ・カニング内閣が誕生すると、そのアイルランド担当大臣(英語版)(閣外大臣)となった。 8月にカニングが急死し、ゴドリッチ子爵の短期政権を経て、1828年1月にトーリー党守旧派のウェリントン公爵の内閣が発足した。この内閣にも一応残留したウィリアムだったが、彼はカニング派(英語版)と呼ばれるカニング首相の路線を支持する派閥に属していた。カニング派はカトリック問題や選挙法改正問題をめぐってウェリントン公爵と対立を深めていき、結局1928年6月には陸軍・植民地大臣ウィリアム・ハスキソン、陸軍・植民地省事務長官パーマストン子爵、外相ダドリー伯爵(英語版)、商務相チャールズ・グラント(後のグレネルグ男爵)(英語版)ら他のカニング派閣僚(英語版)とともに辞職した。 ===カニング派としての野党期=== 下野後は、ハスキソンをリーダーとするカニング派の中の最大派閥ハスキソン派に属した。 1828年7月22日に父の死去によりメルバーン子爵位をはじめとする爵位を継承。メルバーン子爵位はアイルランド貴族爵位だが、受け継いだ爵位の中には連合王国貴族のメルバーン男爵位もあったため、貴族院へ移籍することとなった。 1830年9月にハスキソンが鉄道事故死するとパーマストン子爵とともにカニング派ハスキソン派のリーダーとなった。メルバーン卿とパーマストン卿は早速ホイッグ党のホランド男爵とロンドンで会合し、両党の協力を確認した。野党の結束のもと、11月15日には王室費反対動議を可決させてウェリントン公爵内閣を総辞職に追い込んだ。 ===ホイッグ党政権の閣僚=== ホイッグ党嫌いの国王ジョージ4世の崩御と野党勢力の結集により、1830年11月にホイッグ党・旧カニング派、トーリー分派の連立によるグレイ伯爵内閣が成立した。メルバーン子爵はこの内閣に内務大臣として入閣した。 内閣の最優先の目標は選挙法改正であった。しかしどの程度の改正を行うかは閣内でも意見の差があった。大法官ブルーム男爵(英語版)や王璽尚書ダラム男爵、陸軍・植民地省事務長官ジョン・ラッセル卿は積極的な改正を希望していたが、メルバーン子爵や外相パーマストン子爵は最低限度の改正を希望していた。 しかしグレイ伯爵の指導力により内閣は分裂することなく1832年6月に第一次選挙法改正を達成した。 ===第一次メルバーン子爵内閣=== 1834年5月のアイルランド国教会に収められる教会税の転用問題をめぐって閣内は分裂し、転用に反対する陸軍・植民地大臣スタンリー卿(後のダービー伯爵)らホイッグ党右派が離党したことでグレイ伯爵内閣は1834年7月に総辞職した。グレイ伯爵は国王ウィリアム4世に後任の首相としてメルバーン子爵を推挙した。これは退任する首相が後任の首相を国王に推挙した初めての事例となった。 しかしホイッグ左派のジョン・ラッセル卿を庶民院院内総務にすることに反対した国王ウィリアム4世とメルバーン子爵の対立が深まり、国王は1834年11月14日にはメルバーン子爵を罷免したため、この第一次メルバーン子爵内閣(英語版)は短命政権に終わった。 もっともメルバーン子爵にとって罷免は計算のうちであったという。というのも少数党の保守党(トーリー党)政権をわざと誕生させることでその無能さを晒し、すぐに政権復帰して政権の安定化を図ることができると考えられたからである。 ===第二次メルバーン子爵内閣=== ====組閣までの経緯==== ウィリアム4世は保守党のウェリントン公爵に大命を与えたが、ウェリントン公爵は保守党庶民院院内総務サー・ロバート・ピールを推挙し、イタリア訪問中のピールが戻るまでの暫定という条件で組閣した。1834年12月に第1次ピール内閣が樹立された。 ピール首相はウィリアム4世の薦めで解散総選挙(英語版)を行い、保守党の議席を多少回復させたものの、選挙後にメルバーン子爵はホイッグ党・急進派・オコンネル(アイルランド独立)派の野党共闘関係を成立させ、アイルランド教会税問題で1835年4月にピール内閣を総辞職に追い込んだ。 ウィリアム4世はメルバーン子爵を嫌い、信頼するグレイ伯爵に組閣の大命を与えようとしたものの、高齢により政界引退を決意していたグレイ伯爵は大命を拝辞し、代わりにメルバーン子爵に大命を与えるよう助言した。その結果第二次メルバーン子爵内閣(英語版)が成立した。 保守党は、急進派やオコンネル派が求める過激な改革を行わない限りホイッグ党政権を攻撃しないことをメルバーン政権と密約で約定した。メルバーン子爵政権はこの密約を基礎として保守党と急進派・オコンネル派の間で均衡をとりながら6年にわたって政権を担当することになった。 ===ヴィクトリア女王即位=== 1837年6月20日深夜にウィリアム4世が崩御した。首相メルバーン子爵は同日午前9時に国王の姪で推定王位継承者ヴィクトリア王女のいるケンジントン宮殿に参内した。ヴィクトリアの引見を受け、引き続き国政を任せるとの言葉を賜った。 ヴィクトリアは5月24日に18歳となり、成人を迎えて、母ケント公妃や母のアドバイザーであるケント公爵家家令サー・ジョン・コンロイの影響下から脱したばかりであり、自らのアドバイザーを必要としていた。その役割を果たすことになったのがメルバーン子爵だった。女王は彼に、わずか生後8ヶ月で死別した父ケント公の面影を見いだして慕い、彼もその頃息子を亡くしていたのだった。メルバーン子爵はウィンザー城に私室を与えられていたため、女王は40歳年上の首相と結婚するつもりなのかと噂がたてられた。 メルバーン子爵は一日のほとんどを宮廷ですごし、様々な問題でヴィクトリアの相談に乗り、半ばヴィクトリアの個人秘書になっていった。彼の洗練されたマナーと話術はヴィクトリアを魅了して止まなかった。二人は毎日6時間は額を突き合わせて過ごしたといい、君臣の関係を越えて、まるで父娘のような関係になっていった。 この頃の女王の日記にも毎日のように「メルバーン卿」「M卿」の名前が登場する。ヴィクトリアがはじめて貴族院に出席して議会開会宣言を行った日の日記には「彼が玉座の側に控えていてくれるだけで安心できる。」と書かれている。 ===チャーティズム運動取り締まり=== 1838年には労働者運動が盛んになり、「劣等処遇の原則」を盛り込もうとする救貧法改正(英語版)に反対する運動と工場法改正による10時間労働の法文化を求める運動が拡大してイングランド北部を中心にチャーティズム運動が形成されるようになった。 1838年5月にはウィリアム・ラベット(英語版)によって「人民憲章」が提唱され、チャーティズム運動の旗印となった。チャーティズム運動は、人民憲章支持の署名を国民から集めて、1839年7月に議会に請願するという形で進展していった。 ところが急進派も含めて議会のほぼ全議員がこの請願を拒否した。メルバーン子爵も政治改革はあくまで議会内で行われるべきと考えており、こうした議会外からの圧力運動には抑圧の姿勢で臨んだ。メルバーン子爵は1839年から1840年にかけて500人のチャーティズム運動指導者を逮捕させている。 ===寝室女官事件=== 1839年5月初めにメルバーン子爵が議会に提出した英領ジャマイカの奴隷制度廃止法案は庶民院を通過したものの、わずか5票差という僅差であったため、メルバーン子爵は自らの求心力の低下を悟り、5月7日にヴィクトリアに辞表を提出した。ヴィクトリアの衝撃は大きく、泣き崩れたという。 代わって組閣の大命を受けた保守党庶民院院内総務サー・ロバート・ピール準男爵は、現在ホイッグ党の議員の妻で占められる宮中の女官を保守党の議員の妻に代えることを提言して、女王に拒否された。これにより女王とピールの間で寝室女官人事権をめぐって政治闘争が勃発した(寝室女官事件)。 メルバーン卿は女王への書簡の中で「(女官人事は)陛下個人の事柄なので、陛下のご希望通り主張されるべき。しかしもしサー・ロバートが譲歩できぬなら、拒絶して交渉を長引かせるべきではない」と助言した。しかし女王もピールも一歩も引かず両者の対立が深まると、メルバーン卿はピールの強引な態度に反感を持ち、ホイッグ党幹部会にも諮ったうえで女王支持を表明した。 結局ピールは5月12日にも組閣の大命を拝辞し、メルバーン卿が首相続投することに同意した。翌13日には保守党貴族院院内総務ウェリントン公爵もメルバーン卿の政権運営に協力することを表明した。 ただメルバーン子爵もこの事件が立憲主義の抵触する可能性があると理解しており、留任は複雑な気持ちであったという。 ===外交問題=== メルバーン子爵が首相在任中、外交問題は慌ただしかった。ベルギー独立革命をめぐる国際紛争の仲裁、第二次エジプト・トルコ戦争によって起きた国際紛争の仲裁(第二次東方問題)、アメリカとの国境紛争、清に自由貿易を強要するために発動したアヘン戦争、ロシアの南下政策への対抗のために発動した第一次アフガン戦争と外交紛争がたてつづけに起きた。外交問題は基本的に外相であったパーマストン子爵に全幅の信頼をおいて任せていた。パーマストン子爵はメルバーン首相の妹と長年の愛人関係の末結婚しており公私共に親しい間柄であった。 しかしパーマストン外交のうち第一次アフガン戦争は散々な失敗に終わり、内閣崩壊の原因ともなった。 ===総辞職へ=== 1841年4月に穀物法廃止(穀物自由貿易)運動への譲歩で政権の延命を狙ったが、地主など農業利益の代弁者たちの反発を買い、1841年4月に提出した砂糖関税低減の法案は議会で否決された。内閣信任相当の法案の否決は総辞職か解散総選挙すべきであったが、メルバーン子爵はそのまま政権に居座った。これに対抗してピールは6月に内閣不信任案を提出し、1票差で可決された。これを受けてメルバーン子爵は解散総選挙(英語版)に打って出たが、敗北した。 メルバーン子爵内閣は1841年8月に内閣総辞職することとなった。 ===首相退任後=== 首相退任の翌年1842年に病に倒れたことでホイッグ党党首職とホイッグ党貴族院院内総務職からも退任した。後任となったのはジョン・ラッセル卿(庶民院)とランズダウン侯爵(貴族院)だった。 この後もメルバーン子爵とヴィクトリア女王の親密な関係は続いたが、この頃には女王の相談役は1840年に女王と結婚したアルバート公子になっていたため、メルバーン子爵の宮廷内の影響力は徐々に小さくなっていった。 1845年7月にグレイ伯爵が死去するとメルバーン子爵が一番の「長老政治家」になった。 1845年末にはピール内閣が穀物法廃止をめぐって閣内分裂状態になり、総辞職の意向を表明した。ホイッグ党党首ジョン・ラッセル卿の指導力に不安を感じたヴィクトリア女王はメルバーン子爵の力を借りたがっていたが、その頃には彼の病状はだいぶ深刻化しており、ヴィクトリア女王の下へ参内することもさえ困難になっていたため、政局を主導することはできなかった(またそもそもメルバーン子爵は穀物法廃止に反対だった)。 結局ピール内閣は1846年6月に穀物法を廃止できたが、保守党は分裂して総辞職を余儀なくされ、ジョン・ラッセル卿に組閣の大命があり、ホイッグ党が政権を奪還した。 それを見届けた後の1848年11月に69歳で死去した。 一男一女がいたが共に先立たれ、メルバーン子爵の爵位は弟フレデリック・ラム(英語版)が継承した。 ==人物== ホイッグ党党首だが、内部分裂のために庶民院でギリギリの票しか集められない首相だった。そのため彼の政治的スタンスは保守党よりだった。 宗教も進歩も信じず、何に対しても価値を認めない人だった。社会改革は最悪の事態を招くと考えており、「善行などという考えは起こさないだけマシである。そうすれば窮地に陥る事もない」、「『悪人』というだけで毛嫌いするべきではない。その範疇に入る者はあまりに大勢いすぎる」と述べている。 「政府の責務とは犯罪を防止し、契約を保障することに尽きる」と語っていた。メルバーン卿によれば、教育の普及など良くて無益、貧者に教育を与えるのはむしろ危険なことであった。自由貿易は欺瞞であり、民主主義などという物は馬鹿の骨頂だった。工場で労働する貧しい子供たちについては「ああ、そんなものはただそっとしておいてやればいいいのにねぇ!」で終わりだった。このように徹底した保守主義者・貴族主義者だったにも関わらず、彼は反動ではなかった。内務大臣時代に選挙法改正を受け入れたように政権維持に必要と判断すれば平然と改革を行う狡猾な機会主義者だった。 ヴィクトリアの宮廷では品行方正に恭しくヴィクトリアに仕えたメルバーン子爵だが、首相の職務はかなりいい加減にやっていたという。呼び出された高官がメルバーン子爵の部屋に入るとメルバーン子爵は本などが散らばるベッドの中で寝転がっていたり、化粧室でヒゲを剃っていたりしたという。また閣議の際に居眠りすることもあった。 話術が巧みだったので社交界では魅力的な人であったという ==栄典== ===爵位・準男爵位=== 1828年7月22日に死去した父から以下の爵位・準男爵位を継承した。 キャヴァン州におけるキルモアの第2代メルバーン子爵 (2nd Viscount Melbourne, of Kilmore in the County of Cavan) (1781年1月11日の勅許状によるアイルランド貴族爵位)(1781年1月11日の勅許状によるアイルランド貴族爵位)キャヴァン州における第2代メルバーン卿、キルモア男爵 (2nd Lord Melbourne, Baron of Kilmore in the County of Cavan) (1770年6月8日の勅許状によるアイルランド貴族爵位)(1770年6月8日の勅許状によるアイルランド貴族爵位)ダービー州におけるメルバーンの第2代メルバーン男爵 (2nd Baron Melbourne, of Melbourne in the County of Derby) (1815年8月11日の勅許状による連合王国貴族爵位)(1815年8月11日の勅許状による連合王国貴族爵位)(ハートフォードシャーにおけるブロケット・ホールの)第3代準男爵 (3rd Baronet ”of Brocket Hall in Hertfordshire”) (1755年の勅許状によるグレートブリテン準男爵位)(1755年の勅許状によるグレートブリテン準男爵位) ===その他=== 1827年、枢密顧問官(PC)1841年2月25日、王立協会フェロー(FRS) ==メルバーン子爵を演じた人物== ===映画=== オットー・トレスラー(ドイツ語版):ドイツ映画『女王さまはお若い』(1936年)H.B.ワーナー(英語版):イギリス映画『Victoria the Great』(1937年)フレデリック・レスター(英語版):イギリス映画『The Prime Minister』(1941年)カール・ルートヴィヒ・ディール(ドイツ語版):オーストリア映画『女王さまはお若い』(1954年)ジョン・フィンチ:イギリス映画『レディ・カロライン(英語版)』(1972年)ポール・ベタニー:イギリス映画『ヴィクトリア女王 世紀の愛』(2009年) ===ドラマ=== ルーファス・シーウェル:「女王ヴィクトリア 愛に生きる」(2016年) =出口川のカドミウム汚染= 出口川のカドミウム汚染(でぐちがわのカドミウムおせん)は、1986年に発覚した広島県府中市の出口川でのカドミウムなどによる重金属汚染。採石場での作業で露頭した鉱脈が原因であった。採石場はモルタルで封鎖され、漏出する汚染水を処理するために出口川湧水処理場が建設された。現在も環境基準を上回る汚染水が漏出しており、施設の老朽化と保守費用が問題となっている。採石場による重金属汚染としては日本初とされ、採石法の運用に影響を与えた。 ==背景== 出口川は芦田川の支流で全長7km。標高500メートル前後の山々に源を発し、荒谷町から出口町・目崎町を経由して芦田川に合流する。出口川や出口町の名前は、山間部からの「出口」という意味に由来する。 下流側では石州街道と雲州街道が合流し宿場町が形成され、現代もその古い街並みを見ることが出来る。下流の剣先からは、街道で山陰地方から運ばれた物資が川船で芦田川経由で福山や大阪に運ばれていた。現在でも往年の繁栄を伺わせる屋敷が残る他、リョービ本社を中心にした金属、機械加工業の工場も立ち並んでいる。上流には昭和初期に瀬戸鉱山(岩谷鉱山とも)と呼ばれる鉱山があり、亜鉛や銅などが採掘されていた。付近の地層は複雑で、重金属を含む地層が眠っている。 ==歴史== ===重金属汚染の発覚=== 1986年(昭和61年)6月、出口川の水で鯉を養殖していた家で160匹の鯉が全滅する事件があった。川の汚染を疑った住人は鯉の稚魚を川の水につけたところ、一晩で死んでしまった。同時にカニ、ハヤ、カエルといった生物も出口川から姿を消した。地元町内会が広島県と府中市に出口川の調査を依頼した。 ===調査=== 調査の結果、出口川より基準を超えるカドミウムが検出された。広島県は「府中市出口川環境保全対策専門委員会」を立ち上げ、広島大学工学部の金丸昭治教授(当時)の協力のもと調査を進め、鯉が大量死した現場から500メートル上流にある「御調採石場」からカドミウムが浸出していることを特定した。岩石の採掘によって鉱脈が露出し、雨水と硫化鉱物が化学反応を起こして硫酸が生成され、その硫酸が重金属を溶出させているのが原因であった。川の水生生物が死滅した区間は、御調採石場から下流側に1.7kmであった。御調採石場の上流側では有毒物質は確認できなかった。採石場から下流側に100メートル程の区間で7カ所の地下水湧出地点があり、うち5カ所から高濃度のカドミウムが検出された。採石場での調査では、破砕された岩石の残りカスに交じって明らかに重金属の鉱石と思われる岩石が転がっていた。採石カス(ダスト)からは、福山大学の鷹村權教授の分析によって、カドミウム 34 ppm、鉄 21000 ppm、銅 5700 ppm、亜鉛 2700 ppm を検出した。出口川の流域の水田で作られた米にも重金属の集積が確認され、少なくとも1986‐1989年の農地土壌汚染調査で基準値を超えるカドミウムが荒谷町の農地から検出された(玄米1キロあたり、カドミウム 1.59ppmを検出)。 ===府中市や国の初期対応=== 汚染の発覚により、子供は出口川に入らないように指導された。府中市は緊急的に御調採石場からの地下水の処理を開始したが、その量は1日あたり6.5トンが限度であり、処理できなかった残り7.5トンの汚染水は、そのまま出口川へ垂れ流しという状態が4か月以上も続いた。国会でもこれが問題視され、1986年10月の 第107回国会の商工委員会で共産党の近藤忠孝は『採石法三十三条の十三に言う緊急命令』を発令して採石業者に対する災害防止のための緊急措置令をすることを、当時国務大臣だった田村元や政府委員に訴えたが、過去一度も発令されたことがない命令だったために見送られた。自治省として、府中市や広島県から今後特別交付金の申請があった場合は、事情を考慮して柔軟に対応する方針を示すに留まり、国としては府中市と広島県の対応を見守るのみとなった。 ===処理施設建設と採石場の封鎖=== 1987年(昭和62年)、広島県は荒谷地区の「出口川重金属汚染対策」として2億円をかけて「出口川湧水処理場」を建設することになった。建設と運営は府中市が行い、県は建設費の半額を補助した。1988年(昭和63年)に処理場が完成。1989年(昭和64年)に採石場はモルタルで被覆され封鎖された。採石場からの湧水中のカドミウム濃度は月日の経過とともに低下し、1988年に19mg/lだったものが2002年には0.98mg/lに低下し、2015年(平成27年)には0.33mg/lとなったが、それでも環境基準の110倍、排水基準の11倍の濃度である。 (出典は) ===継続される採石業=== 出口川流域(荒谷)で採石場が認可・操業されるのは御調採石の採石場が初めてではなく、それ以前から近傍で採石業が営まれていた。1986年に、御調採石場からの重金属湧出が顕在化したのちも、近隣の採石場に操業の停止命令が出されることはなかった。問題の採石場を運営していた「御調採石」自身も、反対側の山を切り開いて新しい採石場を開設し、これを不安視する声がある。 ==出口川湧水処理場== 採石場の下手の出口川傍に作られた。(座標: )重金属の凝集沈殿槽と汚泥処理槽などから成り、汚水の処理能力は1日あたり150トン。また豪雨時の汚水湧出の増加に備えて2500トンの貯留槽も設置されている。採石場跡から強酸性の地下水が施設に導かれ、1日平均50トンの汚染水を処理している。処理施設では塩化第二鉄及び高分子凝集剤(PA‐322)を滴下して凝集物を沈殿させている。処理後に残る汚泥は、広島市や呉市の最終処分場に運ばれ、埋め立て処分される。処理後の放流される処理水のカドミウム濃度は0.0016mg/lとなっている。処理前の汚水のpHは3前後であるが、処理後には6程度に調整されている。2017年(平成29年)度には汚泥脱水機が老朽化に伴い更新されている。管轄は府中市建設産業部環境整備課であるが、府中市の指定管理者制度に基づき運営は民間の企業が行っている。処理前の汚水を貯める貯水池が少し離れた場所にあるが、この位置に建設が決まったのは広島県との折衝の結果であり、妥協の産物とされる。 ===所在地と交通=== 広島県府中市荒谷町2076‐1JR福塩線府中駅より広島県道388号木野山府中線を荒谷方面(北西)に、府中駅より約5km(定期バスなどはない)。広島県道388号沿いに存在する。 ==採石場跡== 出口川湧水処理場から徒歩1分、出口川による浸食で造られた峡谷の東側斜面にある。業者の採石によって、県道388号線から山頂に至るまで山体が削り取られ、岩盤が露出している。採石場の岩盤や砕石には、カドミウムや亜鉛、鉛などの重金属が含まれていた。1987年にモルタル被覆工事に向けた現地調査が実施された。1989年(平成元年)に現場の斜面は出口川沿いの県道から山頂に至るまで鉄筋入りのモルタルで被覆され、鉱石が雨水に曝されないように処理された。モルタル壁は有害物質の流出を防ぐため、厚さ51センチ、広さ約6000平方メートルの規模になった(モルタルの厚みは5‐8センチとする出典もある、総面積は3万平方メートルという出典もある)。コンクリート壁の高さは150メートル。北側の渓流には砂防ダムも築かれた。採石場に浸出する強酸性の地下水は、専用の排水管で処理施設に送られる。 ==ギャラリー== ==問題== ===施設の老朽化=== 処理施設および採石場跡地のモルタル吹付は施工後30年を超え、老朽化と更新費用が問題となっている。鉄筋コンクリート製の処理施設の耐用年数は30年であり、出口川湧水処理場は耐用年数を超えて運用されている。 採石場跡も、コンクリート斜面の崩落が続いている。施行から16年後の2005年(平成17年)に、採石跡地斜面の赤外線調査と変状調査が実施され、斜面全体のコンクリート被覆をやり替えるプランが検討されたが、数十億円の費用が必要と見積もられている。 ===崩落事故=== モルタルと岩盤の劣化(風化)によって、崩落事故が起きている。崩落事故は、2005年、2008年、2011年、2016年、2018年にも起きている。内部の金属メッシュの劣化が進行していることも影響している。府中市7代市長の伊藤吉和の時代(2002‐2014年)には崩落するたびに補修されていたが、2014年に8代市長戸成義則に代わって以後は補修されず、崩落するに任せる状況となっている。 2004年4月23日、重金属を含む岩盤が高さ約30メートル、幅約20メートルにわたって崩落しているのが発見された。広島県と市は、崩落した斜面をブルーシートで覆ったり崩落個所からの水を湧水処理場に引き込むなどの緊急措置を取った。岩盤も深さ2メートルほど崩れており、一部は出口川に繋がる支流にも落下した。岩石とモルタル計約150立方メートルが撤去され、崩落した斜面は修復された。水質検査では出口川のカドミウム、銅、亜鉛、ヒ素の含有量に異常は認められなかった。2005年2月、200平方メートル、約540トンの岩石が崩落し、その処分費用だけで2000万円以上が必要とされた。崩落した岩石は、半年以上袋詰めで状態で現場に露天保管され、溶出するヒ素の濃度は国の環境基準の3.5倍であった。近郊での処分が検討されたが、引受先がないために九州の業者まで運ぶプランが検討された。市の現場検証では、コンクリート斜面に80か所の亀裂や剥離が発見された。府中市は市債と市一般財源を崩落の対策費に使用した。2008年4月には、2005年の崩落現場の50メートル北側で崩落した。縦約20メートル、横10メートル、深さは最大で約2メートルに渡って崩落した(出典によっては斜面北側の高さ30メートル、幅20メートルが崩落としている)。オーバーハング状に遺留した岩盤1200立方メートルを取り除いた後に、枠型にモルタルを吹き付け防護壁を鉄筋棒で岩盤に固定した。再建された部分は、高さ10メートルの場所から44メートルまで、幅約20メートルの範囲となった。水質検査は問題なかったが、崩落した岩石からは微量のヒ素が検出された。この2008年の崩落では、崩落とその後の補修工事で1500トンの岩盤が取り除かれ、現場の斜面下の県道沿いに穴を掘って埋設された。また8500万円の費用が必要とされたが、翌年に事業費は5200万円に訂正された。2008年8月に工事が始まり、2009年3月終了を見込んだ。2011年7月の崩落では、崖の上部、中央よりやや南寄りの部分が約3平方メートル程が剥離・落下し岩盤が露出した。周囲のモルタルにも亀裂が広がっており、府中市は2011年9月下旬より1200平方メートルのモルタルを斜面から撤去して吹付をやり直した。一連の事業費は2500万円が予算化された。2016年10月にも斜面の崩落が確認されている。2018年7月の平成30年7月豪雨で、崩落が起きている。 ==上空からの写真== ===広島県との費用負担=== 本来、採石場の許可と管理は県の管轄であるが、広島県は「事案の性格上(府中市荒谷地区に限定した事案)から、一義的には府中市が処理するのが妥当である」として、県は協力・支援するのみとしており、処理施設の運営費用や採石場跡地の管理費用の半分を府中市の負担としている。 これに対して府中市議会では、「広島県による押し付けである」として広島県の対応方針に問題があるという議員の意見がある。1988年の出口川湧水処理場建設のときにも、広島県は渋々半額を負担をしてやるという態度だったといわれる。2005年や2008年の採石場跡崩落のときも、対策費用は府中市と広島県の折半であったが、2005年のときには県との費用の負担を巡って容易に合意に至ることが出来ず、広島県の支援を得るのに時間を要した。出口川湧水処理場だけでも年間4000‐5000万円の運営費が必要とされており、人口の高齢化と減少によって収支バランスが悪化している府中市にとって重い負担になっている。 ===平成30年7月豪雨=== 平成30年7月豪雨では、通常の17倍の量の汚染水が押し寄せて貯水槽が満水となり、未処理の汚水をそのまま緊急放流した。2018年7月8日より600トンを24時間かかけて放出した。汚水中の有害物質は高濃度であるが、少量ずつの放出なので出口川の水によって希釈され、人体に問題ない濃度になるとされた。当初、放流量は300トンの予定であったが、採石場跡で斜面が崩落しているのが発見され、処理場への汚水流入量が更に増加することが予想され、600トンに変更された。放流された汚水中のカドミウム濃度は0.20mg/lで、環境基準の67倍であった。放流後の出口川下流や芦田川合流部での水質検査では、基準値以下のカドミウム濃度であることが確認されている。府中市城山浄水場では検出限度以下の濃度であった。 ==影響== 採石場から重金属が流出して川や田畑を汚染したことが指摘されたのは、本件が日本で初のケースとなった。この事件によって、都道府県による採石業の認可では、重金属による水質汚濁について十分な審査を行うように周知徹底が行われた。 ==関連法規== ===採石場の許認可=== 経済産業局長は、その土地における岩石若しくは砂利の採取が他人に危害を及ぼし、公共の用に供する施設を損傷し、又は農業、林業若しくはその他の産業の利益を損じ、公共の福祉に反するとき、採石権を設定し、又は権利者の権利を変更し、若しくは消滅させるべき旨を定める決定をしてはならない。 ― 採石法 第十六条のニ 都道府県知事は、第三十三条の(採石場の)認可の申請があつた場合において、当該申請に係る採取計画に基づいて行なう岩石の採取が他人に危害を及ぼし、公共の用に供する施設を損傷し、又は農業、林業若しくはその他の産業の利益を損じ、公共の福祉に反すると認めるときは、同条の認可をしてはならない。 ― 採石法 三十三条の四 都道府県知事は、岩石の採取に伴う災害の防止のため緊急の必要があると認めるときは、採取計画についてその認可を受けた採石業者に対し、岩石の採取に伴う災害の防止のための必要な措置をとるべきこと又は岩石の採取を停止すべきことを命ずることができる。都道府県知事は、第三十二条の規定に違反して採石業を行なつた者又は第三十三条若しくは第三十三条の八の規定に違反して岩石の採取を行なつた者に対し、採取跡の崩壊防止施設の設置その他岩石の採取に伴う災害の防止のための必要な措置をとるべきことを命ずることができる。 ― 採石法 三十三条の十三 以上のように、採石場に関する許認可の権限は県知事に集中しており、採石によって周辺地区の利益が損なわれる場合は採石許可を取り消したり計画の変更を命じる権限が与えられている。逆に市町村には採石業に関して権限も与えられていないのが分かる。 ===公害発生時の事業者責任=== 事業者は、その事業活動による公害を防止するために実施される公害防止事業について、その費用の全部又は一部を負担するものとする。 ― 公害防止事業費事業者負担法 第二条の二 工場又は事業場における事業活動に伴う有害物質の汚水又は廃液に含まれた状態での排出又は地下への浸透により、人の生命又は身体を害したときは、当該排出又は地下への浸透に係る事業者は、これによつて生じた損害を賠償する責めに任ずる。 ― 水質汚濁防止法 第十九条 その他、土壌汚染対策法の第七条等にも、汚染の原因を作った事業者の責任について明文化されている。 ==特記事項== 鯉が大量死して鉱毒汚染が発覚する発端になった家では、その後も鉱毒汚染の再発を恐れて、汚染の早期発見のために鯉を川の水で飼育し続けている。広島県道388号木野山府中線は、出口川湧水処理場の場所で終わっており、その先は狭い林道が代替路となっている。これは、この先トンネルを掘削して388号線を延伸すると、本件と同じようなカドミウム汚染を引き起こすことが危惧され、そのために計画が中断されているためである。 =リミットサイクル= リミットサイクル(英: limit cycle, 仏: cycle limite)とは、力学系における相空間上での閉軌道であり、時間 t を無限大、またはマイナス無限大にしたとき、その閉軌道に収束する軌道が少なくとも1つ存在するものである。極限閉軌道や極限周期軌道とも呼ばれる。1881年、力学系の始祖でもあるアンリ・ポアンカレによって初めて見いだされた。 安定なリミットサイクルでは、相空間上の様々な初期値から出発した軌道は閉軌道に収束する。閉軌道に小さな摂動が加わっても元の閉軌道に戻る。物理的には、リミットサイクルは自励振動の数理モデルとなる。リミットサイクルを持つ例として、ファン・デル・ポール振動子がある。代数的微分方程式におけるリミットサイクル軌道の数を求める問題は、ヒルベルトの第16問題の第2の問題として知られる。2次元相空間の場合は、ポアンカレ・ベンディクソンの定理などによってリミットサイクルの存在(または非存在)を予見できる。 リミットサイクルは非線形系でのみ現れる。リミットサイクルと充分に近い軌道が、全てリミットサイクルに収束するとき、漸近安定である、または単に安定であるという。 ==定義== 系の時間を t ∈ R、状態変数を X = (x1, x2, ... , xn) ∈ R とする。n 次元連続力学系のある解 X(t) が平衡点ではなく、なおかつ X(t) = X(t + T) を満たすような T > 0 が存在するとき、X(t) は閉軌道(あるいは周期軌道、周期解)と呼ばれる。特に X(t) = X(t + T) を満たす最小の T を周期と呼ぶ。閉軌道となる解 X(t) を C で表すとする。系の相空間 x1, x2, ... , xn 上で、閉軌道 C は単純閉曲線を描く。 リミットサイクルは次のように定義される。ある閉軌道 C が存在するとする。C のある近傍で任意の初期点(初期値)X0 を取り、X0 を通る解 *9418* (t, X0) が t → ∞ または t → −∞ で C に漸近するとき、C はリミットサイクルと呼ばれる。あるいは、 または となる C と X0 *9419* C が存在するとき、C はリミットサイクルと呼ばれる。ここで、d(*9420*(t, X0), C) は時刻 t における点 *9421* (t, X0) と集合 C の距離である。 リミットサイクル型の振動を示す系をリミットサイクル振動子などとも呼ぶ。「リミット」は極限集合を意味し、リミットサイクルは極限閉軌道や極限周期軌道とも呼ばれる。極限集合には t → ∞ 方向の ω 極限集合と t → −∞ 方向の α 極限集合の2つがある。極限集合を用いてリミットサイクルを定義すれば、閉軌道 C が存在し、X0 *9422* C の ω 極限集合 ω(X0) または α 極限集合 α(X0) が C となるとき、ω(X0) または α(X0) はリミットサイクルと呼ばれる。 2次元連続力学系では、相平面上でリミットサイクルは必ず孤立した閉軌道となる。すなわち、リミットサイクルとなる閉軌道 C の近傍には他の閉軌道は存在し得ない。C 近傍の全ての軌道は、C に吸引されるように近づくか、C から反発するように遠ざかるかの2通りしかない。周りの軌道を吸引するリミットサイクルは漸近安定あるいは単に安定であるという。安定なリミットサイクルはアトラクタの1種である。リアプノフ指数で特徴付けすると、閉軌道接線方向のリアプノフ指数は 0 で、その他の方向のリアプノフ指数は負であるのが安定なリミットサイクルである。安定なリミットサイクルのことを周期アトラクタともいう。 周りの軌道を反発するリミットサイクルは軌道不安定あるいは単に不安定であるという。相平面のリミットサイクルで、内側の軌道が吸引されて外側の軌道が反発するような場合、あるいは内側の軌道が反発して外側の軌道が吸引されるような場合、これらの場合のリミットサイクルは半安定であるという。 ==存在条件== 実直線上の1次元自律系の微分方程式系では、周期解は存在し得ない。2次元自律系あるいは1次元非自律系以上から周期解が現れるようになる。また、リミットサイクルは非線形の系のみで起こる現象である。線形の系ではリミットサイクルは起こらない。 流れに沿って相空間の体積が変化しない系を保存系と呼び、体積が零に漸近する系を散逸系と呼ぶ。散逸系の場合にリミットサイクルが存在する。周期軌道が散逸系で存在する場合、それらの周期軌道の大抵はリミットサイクルであると推定される。系が勾配系である場合も、リミットサイクルは存在しない。 以下、変数の時間微分 d/dt を変数の上部に ・ を付けて表す(ニュートンの記法)。もし、系を2次元自律系 に限定すれば、閉軌道およびリミットサイクルの有無が判別できる定理がいくつかある。ポアンカレ・ベンディクソンの定理により、平衡点を含まない有界な軌道の極限集合は閉軌道である。すなわち、このような軌道は閉軌道そのものか、存在するリミットサイクルに吸引される軌道であるかのどちらかである。さらに、ベンディクソンの否定条件によれば、単連結な領域 Ω 上で の値が零ではなく、かつ符号が一定であれば、Ω に完全に含まれる閉軌道は存在しない。また、系がリエナール方程式に相当するのであれば、リエナールの定理により原点を囲む漸近安定なリミットサイクルが存在する。 力学系のパラメータ(定数係数)が変化することによって、解に定性的な変化が起こることを分岐という。リミットサイクルも分岐を経て発生する。2次元系でリミットサイクルが発生する典型的な分岐は、ホップ分岐と呼ばれる分岐である。ホップ分岐では、パラメータ変化によって安定な平衡点が不安定に遷移し、その周囲に安定なリミットサイクルが起こる。あるいは、安定な平衡点と不安定なリミットサイクルが不安定な平衡点に遷移する場合もある。ホップ分岐は局所分岐の1種である。リミットサイクルが関わる大域分岐としては、ホモクリニック分岐やリミットサイクル同士が衝突するサドルノード分岐などがある。 周期軌道の安定性は、ポアンカレ写像の構成や周期軌道周りの線形化方程式(変分方程式)の構成から判別できる。適当な n − 1 次元の局所断面を取り、ポアンカレ写像を設定することで連続力学系の周期解を離散力学系の写像に置き換えることができる。写像が漸近安定な不動点を持つ場合は元の周期軌道が漸近安定である。ポアンカレ写像は、リミットサイクルを見出したポアンカレ自身がリミットサイクルを考察するために生み出した手法である。あるいは、周期軌道からの微小なズレを想定して周期軌道に対する線形化方程式を構成することによって、フロケ理論を適用することができる。線形化方程式のフロケ乗数あるいはフロケ指数から周期軌道の安定性が決定できる。ただし、ポアンカレ写像による方法も線形化方程式による方法も、任意の微分方程式系に適用できる解析的な一般的手法は存在しない。ポアンカレ写像であれば対象の系ごとに個別に工夫して構成する必要があり、フロケ乗数による判定であれば数値計算による手法がある。 ==具体例== ===2次元系=== リミットサイクルが現れる簡単な微分方程式系の例として、 という2次元系がある。この系を極座標で表せば、 となり、動径 r と偏角 θ の振る舞いが互いに無関係に決まる単純な形となる。θ(t) の一般解は一定振動数で回転し続ける関数となる。r(t) の一般解は という関数となる。ここで、r0 は t = 0 における r の値である。よって、r0 ≠ 0 であれば、r(t) は t → ∞ で r → 1 であり、系の原点を除く全ての軌道は回転しながら単位円に近づいていくこととなる。この結果は、明示的な一般解を必要としない簡易な安定判別によっても得られる。よって、原点を中心とする単位円がこの系の安定なリミットサイクルである。 上記の微分方程式系にパラメータ a を与えた では、a > 0 であれば、半径 √a の円が上記と同様に安定なリミットサイクルである。しかし a < 0 のときは、全ての軌道は原点に収束する。a = 0 のときも、代数的なオーダーの速さだが全ての軌道は原点に収束する。a > 0 になったときに、原点は不安定となり、原点周囲に安定なリミットサイクルが発生する。よって、この系では a = 0 でホップ分岐が起きている。 上記は解析解を得ることができる例だが、ほとんどの非線形微分方程式系は解析的に解くことはできない。非線形振動現象の代表的な例であり、なおかつ実際の現象に由来する二階非線形微分方程式として、バルタザール・ファン・デル・ポールが三極真空管の発振回路で起こる自励振動を解明するために導いたファン・デル・ポール方程式がある。2次元微分方程式系の形では、ファン・デル・ポール方程式は として表される。ここで μ > 0 がパラメータである。 上記の例と異なり、このファン・デル・ポール方程式の解は初等関数で表すことができない。しかし上記の例と同様に、原点周りにリミットサイクルが存在し、初期値が原点を取る場合を除いて全ての軌道がリミットサイクルに収束する。この証明はポアンカレ写像を構成する手法で行うことができる。あるいは、ファン・デル・ポール方程式はリエナール方程式の1種であることから、リエナールの定理よりファン・デル・ポール方程式系の相平面上には唯一の安定なリミットサイクルが存在することがわかる。 ファン・デル・ポール方程式のリミットサイクルは μ の値によってその形状が変化する。μ が小さいほど、リミットサイクルは円軌道に近づく。μ が大きいほど形状は円から離れていき、μ が大きいほど第1象限と第3象限で背が高くなる。このとき、時系列では弛張振動の様相を示し、緩やかな変化と急な変化の組み合わせから成る振動現象が起きている。 ===3次元系=== 3次元系においてリミットサイクルが現れる微分方程式系としては、レスラー方程式やローレンツ方程式などがある。オットー・レスラーが提案したレスラー方程式は で表される微分方程式系で、a, b, c がパラメータである。非線形項は第3式の xz のみであるにも拘らず、レスラー方程式の解は様々な振る舞いを見せる。 例えば、a = 0.1, b = 0.1, c = 4 というパラメータ値の組み合わせで、レスラー方程式の相空間には安定なリミットサイクルが現れる。ここから、a と b の値は 0.1 のままとして c の値を増やしていくと、ある c の値で1重巻きの閉曲線であったリミットサイクルは2重巻きの閉曲線に移り変わる。すなわち、2周して元の状態に戻るような閉曲線になる。パラメータ c の変化によって周期 T の長さがおおよそ倍になる分岐が起きており、このような分岐を周期倍分岐と呼ぶ。リミットサイクルが2重巻きになるには、閉軌道が交差せずに2周できる空間の余地が必要となる。よって、このようなリミットサイクルの周期倍分岐は3次元以上の系でのみ起こる現象である。 周期倍分岐を経て、例えば a = 0.1, b = 0.1, c = 6 のとき、レスラー方程式のリミットサイクルは2重巻き(2周期)の状態にある。さらに c の値を増やしていくと2重巻きのリミットサイクルは4重巻きのリミットサイクルになり、周期はさらに倍になる。以下同様に、c の値の増加に伴って周期倍分岐が起き続け、ある c の値で周期は無限となり、リミットサイクルからカオスへ変わる。これは系のアトラクタがカオス(ストレンジアトラクタ)へと分岐するルートの一つで、周期倍分岐ルートと呼ばれる。この例では、 a = 0.1, b = 0.1, c = 9 のアトラクタはカオスである。 レスラー方程式は、エドワード・ローレンツが提案したローレンツ方程式に触発され、導入されたものであった。ローレンツ方程式でもまた同様に、リミットサイクルの存在と周期倍分岐ルートが確認される。また、チュア回路では、2つのリミットサイクルが同時に存在する様とそれぞれの周期倍分岐が見られる。 ==実存の現象== 実存する現象に対して、リミットサイクルは自励振動現象の数理モデルとなり得る。自励振動とは、流入するエネルギーは非振動的であるにも拘らず、系自身の特性から自ずと発生する振動現象である。リミットサイクル振動子には、外力による強制振動の周期に依存せずに系自身でリズムを生み出す自律性がある。また、リミットサイクル振動子に外乱が加わった場合、一時的に振幅が変化するかもしれないが、外乱が無くなれば元の振幅に戻ることができる。このようなリミットサイクルの安定性は、工学的にも生物的にも重要である。 一定のリズムを鳴らす機械式のメトロノームは安定なリズムの好例である。最初に針を小さく振って動かしたとしても、針を大きく振って動かしたとしても、メトロノームは一定の振動に落ち着く。メトロノームの減衰力と駆動力がバランスすることによって安定な振動を生み出しており、簡単なモデル化によってもメトロノームにおけるリミットサイクルの存在が確認できる。また例えば心臓の拍動などのように、生物のリズム現象の多くは(生物分野では恒常性と呼ばれる)安定性を持っている。このような安定なリズムを記述するのにリミットサイクルを持つモデルが有効である。 ==関連項目== 非線形振動子安定多様体蔵本モデル非線形現象に現れるファレイ数列 =断続平衡説= 断続平衡説(だんぞくへいこうせつ、Punctuated equilibrium)は、生物の種は、急激に変化する期間とほとんど変化しない静止(平衡、停滞)期間を持ち、”徐々に”進化するのでなく、“区切りごとに突発的に”進化していき、小集団が突発して変化することで形態的な大規模な変化が起きるとする進化生物学の理論の一つ。区切り平衡説とも呼ばれる。 断続平衡説は通常、系統漸進説と呼ばれる理論に対比して用いられる。漸進説とはグールドらによれば、大きな集団が全体的に一様に、ゆっくりと、均一の速度で安定した状態を保ちながら進化が起きることと定義されている。この見地からは理想的には化石記録はゆっくりとなめらかに変化するように発見されるはずと予測される。この説の問題点として、変化しつつある中間の段階の化石がほとんど見つかってこなかったことを彼らは挙げた。それに対してダーウィンとその後継の進化生物学者は、地質学的記録では地球の歴史を完全には記録できないという説明を用いてきた。つまり化石記録がまだ見つかっていない(ミッシング・リンク)か、単に化石にならなかったというわけである。エルドリッジらの主張では、化石にならなかったのではなく、“何百万年も変化し続ける”中間種というものがそもそも存在しない。種は種分化の初期の段階で急激に変化していき、ある程度の形が整うと、その後何百万年とほとんど変化しない平衡状態になるというのである。 1972年に古生物学者ナイルズ・エルドリッジとスティーヴン・ジェイ・グールドはこの考えを発展させる記念碑的な論文を発表した。彼らの論文はエルンスト・マイアの地理的種分化理論、マイケル・ラーナーの発生学と遺伝的ホメオスタシス理論、および彼ら自身の古生物学研究の上に築かれた。エルドリッジとグールドは、チャールズ・ダーウィンが主張した種の漸進的な変化は化石記録には実質的に存在せず、化石記録が示す断続と停滞は、ほとんどの種の実際の歴史を表していると主張した。 ==理論形成の経緯== 断続説はエルンスト・マイアの同所的種分化と、特に異所的種分化・周辺種分化によるネオダーウィニズムの拡張として始まった。この理論の基盤は1954年のマイアの研究を元にしているが、ほとんどの科学史家は1972年のエルドリッジとグールドの論文を、断続説の主要なソースであり、新しくて重要な古生物学的研究の基礎論文であると認めている。断続説はエルドリッジとグールドが「停滞」を非常に大きく強調した点でマイアのものと異なる。一方マイアは化石記録で見つかる不連続なパターンの説明に関心を持った。 エルドリッジとグールドの論文は1971年のアメリカ地質学会の年次総会で発表された。シンポジウムは現代的な小進化の研究が、古生物学と大進化の理解の様々な視点をどのように甦らせるかという点に注視した。グールドの友人でその会議のオーガナイザーであったトム・ショップはグールドの種形成の講演に日程を割り当てた。グールドによれば、アイディアの大部分はエルドリッジのもので、断続平衡という用語をグールドが考え論文を執筆した。 エルドリッジはアメリカの三葉虫の研究から、グールドは氷河期のバミューダ諸島の陸貝の研究から、それぞれ、短期間に種分化が起こり、その後長期間にわたって解剖学的変化がまったく見られないというパターンを発見していた。 ==概要== 断続平衡説には様々なバージョンがあり、主張が一貫していないが、海洋生物学者ウェズレイ・エルズベリーは大まかにその主張を次のようにまとめている。 古生物学は現生生物学によって説明されるべきである。ほとんどの新種は、種内進化よりも分岐的進化(種分化)によって誕生する。ほとんどの新種は、周辺種分化によって誕生する。巨大で広範な種の場合、その存続期間を通じてどんなことがあってもゆっくりとしか進化しない(この強硬な視点は後にゆるめられた)。通常、娘種は地理的に限定された地域で進化する。通常、娘種は時間的に限定された範囲で進化し、それは種の存続期間全体と比べれば小さい。化石記録のサンプルはほとんどの種が停止状態にあることを明らかにする。また生態的遷移と分散の結果として新しい派生種の突然の出現を明らかにする。系統内の適応的な進化はほとんど種が形成される期間内に起きる。適応の方向はほとんどが種選択によって引き起こされる。エルドリッジとグールドはダーウィンの著書を引用し、系統漸進説を次のように定義した。 新しい種は祖先種の中で、変化した子孫種によって起きる。変化は一様で、ゆっくりである。変化は大集団でも起こり、通常は祖先種全体が変化する。変化は祖先種全体か、地理的分布の大部分で起こる。この主張はいくつかの要点を含意する。エルドリッジらはそのうちふたつを重視した。理想的には新種の起源の化石記録は、祖先と子孫を結び付ける連続的な長い変化を示すはずである。進化の系統の断絶的な記録は、化石記録の不十分さのためである。 ==一般的な誤解== 断続説はたびたびジョージ・ゲイロード・シンプソンの量子進化(マルチテンポ進化)、リヒャルト・ゴルトシュミットの跳躍進化説(多量の遺伝的変異が同時に起こり、親とは全く異なる子(新種)が誕生する進化様式)、ライエル以前の激変説(天変地異説)、そして大量絶滅を説明する理論と誤解される。したがって、断続説は漸進説と相反する理論であると考えられることが多い。しかしこれは実のところ漸進説の一つである。地質堆積物の間に発見される化石記録の進化的変化は突発的に見えるが、断続説は世代一つ一つの間に大きな遺伝的変化があるとは述べていない。 そのため、後にグールドはこうコメントした。「我々の古生物学の同僚は進化学を学ばず、異所的種分化を知らず、地質学的なタイムスケールをよく考慮しなかったためにこの洞察を見逃した。進化学の同僚も地質学的時間を考慮しなかったために含意をくみ取ることができなかった。」 断続説と漸進説の違いは次の例でよく理解できる。ある種の動物の手足の長さが50,000年で50センチ長くなると想定する。この時間は地質学的には一瞬である。また形態的な進化としては膨大である。平均的な世代間隔が5年であれば、10,000世代に相当する。この仮想的個体群が、最も保守的な(つまり毎世代同じ速度で)進化を遂げるとすれば、一世代につき0.005cmの割合で手足の長さが増大すると結論するのが合理的である。ジョン・メイナード=スミスはこう指摘する。「5万年を要する変化は古生物学者にとっては突然だが、集団遺伝学者にとっては漸進的である」「化石記録の間は数千世代離れており、化石の断絶は跳躍的進化の証拠にはならない」 断続説と漸進説は排他的な物ではなく、漸進説を拡張する理論だとグールドらは述べており、1977年にはこれを説明するために苦心している。グールドは最後の著書『進化の理論の構造』では断続並行的な進化は既知の進化遺伝学のメカニズム、すなわち自然選択と突然変異によって5万から10万年程度で起こると述べた。断続説は周辺種分化説以上に跳躍的な理論ではない。 断続平衡説は証拠の欠落を根拠としており検証不能であると指摘されることがある。エルドリッジとグールドは断続説を支持する二つの異なるラインの証拠を提示することに費やした。一つは有肺腹足類、もう一つは三葉虫ファコプス目で、同様に、古生物学的証拠についての議論が1977年の論文ではかなりの割合を占められている。またこの理論の証拠に挙げられるのは「生きた化石」の存在である。シーラカンスやオキナエビス、イチョウやカブトガニといった何億年も昔から存在していて、ほとんど当時の化石と変わらない姿で今も生きている種を生きた化石という。このように生物の形態が長期間変化しない現象はよく知られており、進化学において説明すべき重要な問題である。 ==論争== ===主張=== 断続平衡説がもたらした最も大きな論点の一つは長期間にわたる「停滞」が何によって引き起こされるかである。この原因として強調されたのは遺伝子流動と遺伝的ホメオスタシスであり、グールドは他に発生的制約を強調した。突然変異はどのような種類でも可能であるわけではない。生物の遺伝子型は複雑な表現型の共適応系を構成しており、すでに持っている形質によって有効な変異の幅は制限される。一方エルドリッジは「生息地の追跡」を重視する。環境が変われば個体群は生息地を移動するために、形態的な進化を必要としないかもしれない。これらの主張の特徴は、自然選択に抵抗する何らかのメカニズムがあると主張しているところにある。 二つ目の論点は形態上の進化、適応的な進化がいつ、何によって引き起こされるかである。このメカニズムとしてエルドリッジとグールド、デヴィッド・ラウプ、スティーヴン・スタンレーらは種選択を提唱した。種選択とは種自体が持っている特性(生息域の広さや個体数など)によって種同士が競争し、その結果として絶滅や適応的な形質が誕生すると主張する理論である。種選択は群選択とは異なる。群選択は個体の形質や行動が個体の利益を低下させ、群れの利益を増大させていると考える点で個体選択と対立する。種選択は種の持つ特性が種間競争において重要だと考えるだけであり、個体選択と両立する可能性がある。 第三に、自然選択は小進化しかもたらさず、大進化は他のメカニズムによって説明されなければならないという主張である。第一、第二の点とも関連するが、主唱者はほとんどの進化的変化が種分化の間に起き、その時のランダムな方向が系統の進化の傾向を決定すると主張した。この立場では、自然選択は進化の方向にほとんど寄与しない。 ===反論=== ====進化的停滞==== ネオダーウィニズムでは多くの長期間の停滞は安定性選択の結果として説明できると考えてきた。ジョン・メイナード=スミスは発生的制約や生息地の追跡の重要性を認めるが、それで停滞のほとんどを説明することに疑問を呈している。そして、特定の変異だけを許しそれ以外の進化的変化を制約する一般的な発生的法則はないと主張する。同時に、ネオダーウィニズムは発生の視点を軽視してきており、発生的な観点からよく研究されるべきだと認める。リチャード・ドーキンスは人為選択の際に、対象の動物が選択圧に従ってすみやかに変化することを示し、選択圧に抵抗する遺伝的なメカニズムはないだろうと指摘した。マイアによれば化石の解釈は難しく、進化的停滞の証拠は非常にバイアスのかかったサンプルに基づいている。 ===種選択=== 種選択の研究は集団内や個体に加わる自然選択の検証では分からない絶滅や進化のパターンを明らかにする可能性がある。エリザベス・ヴルバは種選択に解明すべき一定の法則やパターンがあると考えている。ドーキンスはこの議論を経て、ある系統は他の系統よりも絶滅しにくい場合があるのではないかと考え「進化しやすさの進化」を考慮するようになった。しかしメイナード=スミスはほとんどの適応的な形質を種選択と絶滅によって説明することは量的困難が存在すると述べ、個体選択よりも種選択が重要になるケースはあったとしても多くはないだろうと述べている。 ある種の誕生や絶滅が種選択の結果だと呼べるには条件がある。グールドは種選択がまれではないことを示す例として、干上がる池の魚を例に挙げた。池の乾燥は突発的な出来事であり、それまでの池への適応では対処できない。たまたま低酸素状態や乾燥に強い性質を持っているがそれまでは少数だった種の魚だけが生き残るかも知れない。このような事態は頻繁にありそうである。しかしアヤラは「低酸素や乾燥に強いという性質は種の性質ではなく個体の性質である。それは個体選択だ」と指摘する。種選択が働くために必要な「種が持つ特徴」が実在するかには議論がある。メイナード=スミスは存在するかも知れないと認めたが、マイアは種の持つ形質は全て個体の遺伝子型の一部であると主張した。例えば分散しやすさは種の特徴でもあるが、種を構成する個体の特徴でもある。 また、種選択はそのような現象が起きるとしても、個体選択とは異なり累積しないため、複雑な形質が発達する原動力とはなりそうにない。さらに種選択は提唱されてから30年間、個体選択よりも重要な働きをするという証拠を提示していないという問題がある。 ===大進化=== 断続平衡説によって、大進化が小進化の積み重ねで起きるという先験的な仮定は見直されることになった。小進化がどこまで大進化を説明できるか、他のメカニズムが必要なのかは未だに議論が続いている。しかし河田雅圭が指摘するように、大進化が小進化の積み重ねでは起きない、あるいは全く別のメカニズムでなければ説明できないという主張に十分な根拠はない。 断続平衡説に関わる進化機構の概念として、形態の進化の方向性が集団内の遺伝的変化によって生じる形態変化だけでなく、系統(集団や種)が新たに分岐したり、絶滅したりする結果、クレード(共通祖先をもつ系統のあつまり)内での形態の頻度や傾向が影響をうけるという系統選択の概念がある。この考えは、形態の多様性や系統の多様性を考える上で重要であり、今後さらに検証していく必要がある。 ===その他の批判=== マイアによれば広範な批判や激昂を引き起こしたのは次の四つの主張であった。 急速な進化と長期的な停滞のつよい強調新しい考えという主張。漸進主義と断続主義の対比。ダーウィニズムへの反証という主張。特に「ダーウィニズムは実質的に死滅している」という発言。有望な怪物、つまり跳躍説の復権さらに用語の曖昧さと多義性が混乱を増幅した。 ===漸進主義とは何か=== リチャード・ドーキンスは『盲目の時計職人』で断続平衡説を取り囲む(彼の視点によれば)広い誤解を訂正するために一章を捧げた。彼の中心的な指摘は、グールドが系統漸進説と呼ぶときに、それを進化の割合が「均一的」だという意味で用いている点である。ドーキンスはグールドらの漸進説を便宜的に「速度一定説」と呼ぶ。そしてこれは「ダーウィニズムのカリカチュア」であり、そのような説は「存在しない」。この劇画化されたダーウィニズムを却下すれば、後に残るのは一つの論理的選択肢だけである。それをドーキンスは「速度可変説」と呼ぶ。 速度可変説は大まかに二つに分けられる。一つは連続的可変説であり、もう一つは不連続的可変説である。不連続可変説は「トップギア」と「停止」しかない車のようなものである。エルドリッジとグールドはこの場合、後者であり、安定状態と相対的に急激な進化の間を飛ぶように行き来すると考える点では真にラディカルである。彼らは進化が爆発的に進むか、あるいは全くそうで無いかのどちらかだと主張する。連続的可変説は非常に速い状態から非常に遅い、そして止まっている段階まで、全ての中間段階を含めて進化の速度があり得ると考える。この見方よりも不連続可変という急進的な立場を選ぶ理由はないとドーキンスは指摘する。しかし化石の不連続さは周辺種分化した娘種がもとの生息地で祖先種と置き換わる生態的イベントで説明できると考える点では、エルドリッジとグールドとは異なる(マイアの立場に近い)。「進化的漸進主義に対する信念と、非常に急速な進化を含むいろいろな速度の進化の存在に対する信念との間にはいかなる矛盾も存在しない」。 ===跳躍説との関係=== 断続説のもう一つの大きな誤解は跳躍進化説と結び付けられたことである。グールドはゴルトシュミットを賞賛するエッセイを書き系統漸進説とネオダーウィニズムを明確に区別せずに批判したために、跳躍説を断続説と結び付けたと多くの人を誤解させた。しかしグールドは(遺伝的な視点ではなく)発生的な視点から有望な怪物の可能性を論じており、実際には結び付けていない。さらに他のエッセイで、「そのプロセスは何百年か何千年もかかるので...」と明確に跳躍説を否定する。チャールズ・ダーウィンが漸進的な進化観を強調したのは、当時の跳躍説が進化論に神による創造を差し込もうとする試みであったためである。19世紀初頭には生きている化石のようにある系統は長い間変化せず、他の系統は変化しやすいことは知られていた。ダーウィンは漸進主義には固執したが、速度の斉一性には固執しなかった。跳躍説に反対する点ではグールドも漸進論者であり、一方で、進化は一定の速度で進むというグールドらの定義した漸進説にはダーウィンも恐らく反対し、その意味ではダーウィンも断続論者だろうとドーキンスは述べている。 ===革新的であるという主張=== ダニエル・デネットも断続説に批判的である。デネットは著作『ダーウィンの危険な思想』の中で、グールドが断続説を革命的なものと保守的なものであるという二つの立場を行き来したと述べた。そしてグールドが断続説は革命的だと主張し(あるいはそう主張しているように見なされ)批判されるたびにネオダーウィニズムの立場に退避した指摘する。グールドはニューヨーク・レビュー・オブ・ブックスと彼の最後の専門的な大著『進化の理論の構造』でデネットへ反論した。 一部の批判家は、グールドが断続説の科学的正当性を主張するのにアナロジーやメタファーのような文学的手法をたびたび用いたことを明らかにした。特に彼は一般から人気を博したエッセイで断続説の正当性を主張するために文学、政治、個人的なエピソードから様々な戦略を多用する。グールドが非科学者の間から、彼の散文の色合いと力強さ、学際的な知識によって広く賞賛されると同時にレトリックの技術によって彼の理論も不当に大きな評価を得た、と彼の批判者たちは懸念を持った。 セーゲルストローレは「問題の誇張」「すでに他の人が述べたことの繰り返し」と言う指摘が、マイア、シンプソン、レヴィントン、ステビンズとアヤラ、ウィルソンからも行われたと記している。進化速度の点に関しては、メイナード=スミスが「すでにG.G.シンプソンが論じており、進化速度が一定でないことは私が学生の頃からオーソドックスな見方だった」と述べている。エルズベリーは、一定速度漸進説がダーウィンのものだという申し立てはでっち上げであり、彼らの主張以外のどこにそれがあるのかを示す責任がエルドリッジとグールドにはあると指摘する。 ===化石種の問題=== 古生物学者は化石から種を特定しなければならない。そこで「化石種とは何か?」という問題が、エルドリッジとグールドを断続平衡説の提唱へ導いた。現在一般的に用いられている種概念はマイアの生殖隔離された「生物学的種」である。断続平衡説も種の概念に生物学的種を用いているが、化石種における種は「形態的種」である。古生物学者は生物学的種の推測を可能とするDNAなどの情報を利用することができず、また化石生成時のアクシデントが形態学的分類を困難にする。アヤラは「まず形態で種を定義し、そのあと種ができるときに形態も大きく変化すると言えば循環論法の過ちを犯すことになる」と指摘する。河田は形態学的に分類された種に現代の生物学的種概念を当てはめることの限界を指摘したうえで、「化石記録が常に断続的というわけではない」とのべている。また、後にグールドが説明に苦心しているが、どのような形態的差異が断続でどのような差異が連続的かの判断は恣意的なものである。断続平衡的な現象が見られることに古生物学者のあいだでは議論はない。現在でも議論となっているのは、断続平衡が一般的なのかまれなのかである。 シーラカンスなどの生きた化石はこの理論を説明する良い例ではあるが、グールドらはそれを重要な証拠とは見なしていない。古代のシーラカンスと現生のシーラカンスは明確に区別ができる程度に異なっているうえ、形態上同目に分類されてはいるが実際の類縁関係は明らかではない。グールドらが挙げた証拠に、翼の進化や四肢の数の変化のようなボディプランの大幅な変化は含まれていない。彼らが証拠として挙げたのは三葉虫の体節数の変化、肺魚の頭骨の変化、カキの貝の平坦さの変化などである。 長期間、形態が変化しないとする形態の安定(stasis)は重要な進化の現象である。しかし、それは、種が変化しないというよりも、特定の形態が長期間変化しない事を表している。実際、形態がほとんど同じでも、生殖的に隔離された別種はひろく見つかっている。1990年代に、ガラパゴス諸島において、ピーター&ローズマリー・グラント夫妻によるダーウィンフィンチ類の研究によって、人間が観測可能な速度での形態の急激な進化が生じることが明確に示された。また、嘴の形態の漸進的な変化にともない漸進的にさえずりが異なるように進化し、生殖隔離に結果的に貢献したことが指摘されているが、嘴の断続的な急激な変化にともない生殖隔離が同時に進化したわけではない。グールドやエルドリッジは、生物の階層説を主張し、進化には、遺伝子や個体レベルだけでなく、種レベルでも働く進化メカニズムがあることの重要性を主張した。そのために、種の生成と形態の断続的な進化を結びつけたが、現在の多くの種分化の研究は、急激な形態変化と種分化が一致しないことを示している。 ==断続平衡説の意義== 断続平衡説は種の進化速度についての停滞を強調し、個体や集団の変異の結果として種分化が進むのではなく、新しい種が出現したり絶滅したりすることが、進化のきっかけになるとする観点を提供した。この主張の極端な部分の多くが明らかに根拠がない物であったが、ダグラス・フツイマは形態の停滞に注目が当たったのはエルドリッジとグールドの功績だと認め、マイアも断続平衡説以前は異所的種分化、周辺種分化説は重視されていなかったと述べる。またこの理論は進化の階層性に注目を集めた。そのため今後も検証されていく価値があると認められている。しかし多くの進化学者に共通した見解は、断続説はネオダーウィニズムの代替理論ではなく、その内部にあると言うことである。 断続平衡説は、生物学にとどまらず言語学にも影響を与えた。R. M. W. ディクソンはオーストラリア等の言語を調査しながら、比較言語学に見られるような「系統樹モデル」や「波紋説」とは異なった「断続平衡モデル」を提唱した。 =ポリオウイルス= 急性灰白髄炎(一般にポリオとも呼ばれる)の病原体、ポリオウイルス (Poliovirus) は、ピコルナウイルス科エンテロウイルス属に属する、ヒトを宿主とするウイルスである。 ポリオウイルスは1909年にカール・ラントシュタイナーとErwin Popperの2人によって初めて分離された。1981年には2つの研究グループ、MITのVincent Racanielloとデビッド・ボルティモアのグループ、およびニューヨーク州立大学ストーニーブルック校の喜多村直実とEckard Wimmerのグループがそれぞれポリオウイルスのゲノムを報告している。ポリオウイルスは非常に研究が進んでいるウイルスの1つであり、RNAウイルスの生態を理解する上で役に立つモデルとなっている。 ポリオウイルスは約7500塩基対で1本鎖の+鎖RNAゲノムと、タンパク質でできたカプシドから構成される。ウイルス粒子は直径約30nmの正20面体構造も持つ。ゲノムが短い、エンベロープを持たずRNAとそれを包む正20面体の形状をしたカプシドのみからなる単純な構成であると言った特徴から、重要なウイルスの中では最もシンプルなウイルスであると認識されている。 ==増殖== ポリオウイルスはヒトの細胞の細胞膜上に存在する免疫グロブリン様受容体、CD155(ポリオウイルスレセプター (PolioVirus Receptor) 、PVRとも)に結合する事で細胞内に侵入する。ポリオウイルスとCD155の相互作用が、ウイルスの細胞内侵入に必要な不可逆的な立体構造の変化をウイルス粒子に引き起こす。 細胞膜に吸着したウイルスは、次のいずれかの方法で核酸を細胞内に送り込むと考えられていた。(i) 細胞膜に穴を形成し、そこからRNAを宿主細胞の細胞質へ”注入”する。(ii) ウイルス自体が受容体介在性エンドサイトーシスによって細胞内へ取り込まれる。近年の研究成果は後者の仮説を支持し、ポリオウイルスがCD155と結合して細胞内へエンドサイトーシスによって取り込まれることを示唆する。細胞内へ吸収されたウイルス粒子は直ちにRNAを放出する。 ポリオウイルスは+鎖RNAウイルスである。そのため、ウイルス粒子内に包み込まれたゲノムは、そのままの状態でmRNAとして機能し、宿主細胞のリボソームによって直ちに翻訳される。細胞への侵入に際し、ポリオウイルスは宿主細胞の翻訳機構を乗っ取り、ウイルスタンパク質の産生に有利に働くよう、細胞性のタンパク質の代謝を阻害する。宿主細胞のmRNAとは異なり、ポリオウイルスのRNAの5’末端は700塩基を超える極端に長いもので、かつ複雑な高次構造を持つ。ウイルスゲノムのこの領域は配列内リボソーム進入部位 (IRES) と呼ばれ、ウイルスRNAの翻訳を導く。IRESの変異はウイルスタンパク質の産生を妨げる。 ポリオウイルスのmRNAは翻訳される事でウイルス特異的タンパク質の前駆体である1本の長いポリペプチドを生じる。このポリペプチドはさらに前駆体自体が内包するプロテアーゼ(タンパク質やペプチドを加水分解する酵素)による自己消化を経て、以下に示す、およそ10個のウイルスタンパク質となる。 3D : RNA依存性RNAポリメラーゼ。ウイルスのRNAゲノムを複製する。2A 、 3C/3CD : プロテアーゼ(タンパク加水分解酵素)。ウイルス性のポリペプチドを切断する。VPg (3B) : ウイルスゲノムRNAと結合する小タンパク質で、+鎖および‐鎖のウイルスRNAの合成に必要。2BC, 2B, 2C, 3AB, 3A, 3B : ウイルス粒子の複製に必要なタンパク質複合体を構成する。VP0 : さらに切断され、カプシドタンパク質であるVP2とVP4、VP1とVP3を生じる。合成された部品がどのように集合(子孫ウイルスのゲノムが細胞外でも生き残るためにカプシドに包まれる)して新しいウイルス粒子を形成するのかは完全には理解されていない。集合を経て完成したウイルス粒子は、培養されたほ乳類細胞へ感染してから4 ‐ 6時間で宿主細胞から放出される。ウイルス放出のメカニズムははっきりとしないが、細胞1個当たり最大10000個のウイルス粒子を放出する。 Drakeはポリオウイルスが多重再活性 (multiplicity reactivation) をしうると報告している。この現象により、ポリオウイルスは紫外線照射を受けて不活化を受けても、1細胞に多重感染する事で1粒子の単独感染では不活化される紫外線照射量において生きた子孫ウイルス粒子を形成する事ができる。 ==起源と血清型== ポリオウイルスは他のヒトエンテロウイルス(コクサッキーウイルス、エコーウイルス、およびライノウイルス)と似た構造を持っている。これらのウイルスもまた、宿主細胞の認識と侵入に免疫グロブリン様受容体を利用する。ポリオウイルスのRNAおよびタンパク質の系統解析からは、ポリオウイルスがA群コクサッキーウイルスCクラスターの共通祖先からカプシドタンパク質内に変異を起こす事で進化した可能性が示唆される。ポリオウイルスの種分化は、A群コクサッキーウイルスのCクラスターが利用するICAM‐1からCD155へと、利用する細胞表面の受容体の特異性が変化した結果かもしれない。受容体の特異性の変化はさらに病原性の変化と神経組織への感染を可能にした。 ポリオウイルスはゲノムの変異が起こりやすいウイルスである。RNAウイルス持つRNA依存性RNAポリメラーゼや、逆転写酵素(RNA依存性DNAポリメラーゼ)は校正機能を欠くため、一般にRNAウイルスは、DNAウイルスと比べると遺伝子複製の正確さが低い。ただ、ポリオウイルスの場合は、他のRNAウイルスと比べても、さらに高い頻度でゲノムに変異が起きることが知られている。具体的には、アミノ酸の置換を伴わない変異(同義置換)が塩基当たり1.0 x 10 置換/年、アミノ酸の置換を伴う変異(非同義置換)が塩基当たり3.0 x 10 置換/年の確率でそれぞれ発生する。ゲノム中の塩基の分布は均等でなく、アデノシンの比率は5’末端側では期待値より低く、3’末端側では高い。使用コドンにも偏りが存在し、アデノシンで終了するコドンが好まれる一方、シトシンやグアニンで終了するコドンは避けられている。使用コドンの傾向は下記の3系統で異なり、この違いは選択圧ではなく突然変異によって引き起こされるようである。 ポリオウイルスは血清型によってさらに1型、2型および3型の3つに分類され、これらの血清型はカプシドタンパク質がわずかに異なる。このカプシドタンパク質の違いによって細胞の受容体の特異性とウイルスの抗原性が変化する。1型が野生型として最もよくみられるが、全ての型が高い感染性を示す。2015年11月現在、野生型の1型はパキスタンやアフガニスタンの一部地域に局在している。野生型の2型は1999年10月にインドのウッタル・プラデーシュ州で検出されて以来報告がなく、2015年9月に根絶が宣言された。2015年11月現在、野生型の3型は2012年にナイジェリアとパキスタンの一部で検出されて以来報告されていない。 各血清型のうち、特定の株がポリオワクチンとして用いられる。不活化ポリオワクチン (IPV) はいずれも病原性標準株であるMahoneyないしBrunenders (1型)、MEF‐1/Lansing (2型)、Saukett/Leon (3型)の3株をホルマリンにより不活化することで製造される。経口ポリオワクチン (OPV) は弱毒生ワクチンであり、弱毒化された各血清型のポリオウイルスを含む。1960年代に世界的に使われるようになったサビンのOPVでは、1型と3型がサル腎臓上皮細胞でのウイルス継代を経て作製されている。また、全ての型のワクチン株がウイルスゲノムのIRES領域に変異を持ち、特に1型と3型における病原性の低下に大きく寄与していると考えられている。 過去には、ポリオウイルスはピコルナウイルス科エンテロウイルス属の独立種として分類されていた。2008年に分類が見直され、ポリオウイルスの各血清型はいずれもエンテロウイルス属の独立種から外れ、ピコルナウイルス科エンテロウイルス属ヒトエンテロウイルスC型(後にエンテロウイルスC型に名称変更)に加えられている。また、エンテロウイルス属の標準種もポリオウイルスから(ヒト)エンテロウイルスC型へと変更されている。 ==病原性== どのウイルスにおいても感染成立の可否は、主に細胞侵入と感染性粒子の再形成の2点によって決定される。ポリオウイルスの場合はCD155の存在が感染の成立する動物種と組織を決める。CD155は(実験的環境を除き)ヒト、高等霊長類、および旧世界ザルでのみ認められる。しかしながら、ポリオウイルスは非常にヒトに特異的なウイルスであり、自然環境下で他の霊長目に感染する事はない(ただし実験的にはチンパンジーや旧世界ザルも感染する)。 CD155遺伝子は正の選択の対象となっているようである。CD155はシグナルペプチド、D1からD3の3つの細胞外ドメイン、膜貫通ドメイン、および細胞内ドメインから構成される417アミノ酸残基長のタンパク質で、そのうちD1ドメインがポリオウイルス結合領域である。特にD1ドメインの37個のアミノ酸残基がウイルスとの結合に重要である。 ポリオウイルスはエンテロウイルス属のウイルスであり、感染は糞口感染による。つまり、ポリオウイルスを接種した時、ウイルスの増殖は消化管内で行われる。ウイルスは感染患者の糞便と共に排出される。 95%の患者は一時的にウイルス血症(ウイルスが血中に存在する状態)となるが、症状は不顕性である。約5%の患者において、ウイルスは消化管以外に褐色脂肪組織、細網内皮系、筋組織などの組織へ拡散し、増殖する。ウイルスの持続感染は二次的なウイルス血症と、発熱、頭痛、喉の痛みといった軽微な症状を引き起こす。麻痺性の急性灰白髄炎を生じるのは1%に満たない。麻痺は、ウイルスが中枢神経系 (CNS) に侵入し、脊髄、脳幹、大脳皮質運動野の運動ニューロンの細胞内で増殖した場合に発症する。運動ニューロンへの侵入と増殖により運動ニューロンの選択的破壊を招き、結果的に一時的か永続的な麻痺となる。稀に麻痺性の急性灰白髄炎は呼吸停止を招き、死に至る。麻痺型の場合は、虚弱と麻痺の発症前に筋肉痛やけいれんが頻繁に観察される。典型的には麻痺は回復の前に数日から数週間持続する。 あらゆる点で、神経への感染は通常の消化管感染から偶発的に生じると考えられている。どのようにポリオウイルスが中枢神経系へたどり着くかはほとんど理解されていない。この神経系への侵入機構については3つの背反な仮説が呈示されてきた。いずれの仮説もまずウイルス血症が前提となる。第1の仮説はウイルス粒子がCD155とは無関係に血液脳関門を直接通過して血液から中枢神経系へ侵入するというものである。第2の仮説はウイルスを含む血流にさらされた筋などの末梢組織から、逆行性軸索輸送によって神経を通って脊髄へ移行するという説である。第3の仮説はウイルスが感染した単球、マクロファージを通じて輸送されるというものである。 急性灰白髄炎は中枢神経系の疾患である。しかしながら、CD155はほとんどの、あるいは全てのヒトの細胞の表面に存在しているとされている。そのため受容体の発現動態ではポリオウイルスが特定の組織に好んで感染する理由を説明できない。この事は組織向性(英語版)が細胞への感染の後に決まる可能性を示唆する。近年の研究はポリオウイルスの増殖を維持する細胞を決定する上で、I型インターフェロン(特にIFN‐αとIFN‐β)の反応が重要な因子であるという説を提唱している。(遺伝子組み換えによって生み出された)CD155を発現し、I型インターフェロンの受容体を欠損するマウスでは、ポリオウイルスは様々な組織で増殖できるようになるのみならず、さらに経口感染により感染が成立するようになる。 ===免疫回避=== ポリオウイルスは免疫回避機構を2つ持つ。まず、このウイルスは胃における強酸性の環境下でのタンパク分解酵素であるペプシンによる消化や、それ以降の腸管での消化においても不活化されずに、腸に感染できるため、経口感染することが可能である。その後、リンパ系を通して全身へ広がり感染を拡大することができる。 次に、ポリオウイルスは増殖速度が極めて速いため、免疫応答の準備ができる前に全身の臓器を制圧する。 自然感染にしろポリオワクチンの接種にしろ、ポリオウイルスの暴露を受けた患者はポリオウイルスに対する免疫を獲得する。免疫を獲得した場合は扁桃や腸管に抗ポリオウイルス抗体(特にIgA抗体)が分泌され、ポリオウイルスの増殖を防ぐ。また、抗ポリオウイルスIgG抗体や抗ポリオウイルスIgM抗体はウイルスが運動ニューロンや中枢神経系に広がるのを防ぐ事ができる。ある血清型に対する免疫は他の血清型に対する防御効果を持たないものの、感染したポリオウイルスを一旦排除できたヒトが再びポリオウイルスに感染するのは極めて稀である。 ==ポリオウイルスと実験技術== ===PVRトランスジェニックマウス=== ポリオウイルスの自然宿主がヒトのみであることは知られているが、一方でサルも実験的には感染しうる。そのため、サルは長い間ポリオウイルスの研究に実験動物として用いられてきたが、1990年から91年の間に小動物を用いたポリオ感染モデルが2つの研究所で開発された。遺伝子工学を用いてヒトのPVR (hPVR) を発現するように改変されたマウスである。 ポリオウイルス受容体を発現するトランスジェニックマウス (TgPVRマウス) は通常のマウスと違い、静脈内接種、筋肉内接種、脊髄内または脳内への直接接種のいずれかの経路でポリオウイルスを接種した場合、ポリオウイルスに対して感受性となる。 感染時にTgPVRマウスは麻痺症状を示し、これはヒトやサルの急性灰白髄炎の症状と類似する。さらに麻痺を起こしたマウスの中枢神経系における病理組織所見もヒトやサルと類似する。このようにポリオウイルス感染マウスモデルはポリオウイルスの生態と病原性を明らかにする上で用いられている。 TgPVRマウスの中でもいくつかの系統がよく研究されてきた: TgPVR1マウスはヒトPVRの遺伝情報を持つ導入遺伝子を第4染色体上に持つ。この系統のマウスは導入遺伝子の発現量が最も高く、ポリオウイルスに対して最も高い感受性を示す。TgPVR1マウスは脊髄内、脳内、筋内、経静脈のいずれの経路のウイルス接種に対しても感受性であるが、経口感染は成立しない。TgPVR21マウスは第13染色体上にヒトPVR遺伝子を持つ。この系統のマウスは脳内接種においてポリオウイルスの感受性が低く、hPVRの発現量が低いために感受性が低下している可能性がある。TgPVR21マウスはポリオウイルスの経鼻感染に感受性である事が示されており、粘膜感染モデルとして有用かもしれない。TgPVR5マウスは導入遺伝子が第12染色体上に存在する。この系統のマウスが表出するhPVRは最低レベルであり、ポリオウイルスに対する感受性も最も低い。2004年には4番目のTgPVRマウスモデルが開発された。この ”cPVR” マウスはβ‐アクチンプロモーターによって支配される、hPVRのcDNAを持ち、脳内、筋内、経鼻の接種経路で感受性である事が証明されている。加えてこのマウスは延髄ポリオを経鼻接種によって発症しうる。 TgPVRマウスの開発は経口ポリオワクチン (OPV) の生産に計り知れない影響を与えてきた。以前はOPVの安全性試験には唯一の感受性動物であるサルを用いる必要があったが、1999年にWHOは3型ポリオウイルスワクチンの効果評価における代替法としてTgPVRマウスの使用を認めた。2000年にはさらに1型および2型のワクチンにおいても試験でのマウスモデル使用が認可された。 ===クローニングと人工合成=== 1981年にRacanielloとボルティモアは遺伝子組み換え技術を用いて動物のRNAウイルスの感染性のクローンを生み出すことに初めて成功している。この時に作製されたのがポリオウイルスであり、ポリオウイルスのRNAゲノムをコードするDNAを培養ほ乳類細胞に導入する事で、感染性のポリオウイルスが産生された。感染性クローンの作製はポリオウイルスの理解を進め、この技術は様々なウイルス研究の場で標準的な技術となった。 2002年にはニューヨーク州立大学ストーニーブルック校のEckard Wimmerらのグループが化学的なコードから培養細胞を利用せずにポリオウイルスを人工合成することに成功している。これは世界初の人工合成ウイルスの作製であり、同時に初の合成ゲノムの報告でもある。彼らはまず既知の7741塩基長のポリオウイルスRNAゲノム配列を、人工合成が比較的容易なDNAの配列に変換した。ポリオウイルスゲノムの合成は以下の方法によってなされた。まず、DNA配列を分断化した数十塩基長の短いDNA断片を発注し、これを組み合わせて多数の400 ‐ 600塩基長の配列を作製する。さらにこれを切り貼りする事で約2 ‐ 3 キロ塩基長の断片を3つ作製、この3つの断片をDNA合成会社が組み合わせて完全長のポリオウイルスゲノムを合成した。この丹念なウイルス合成の全工程には2年を要している。人工ポリオウイルスと野生型と区別するためには19のマーカーが合成DNAに組み込まれた。合成DNAは酵素によってRNAへ変換され、さらに別の酵素を利用してRNAから機能的ウイルス粒子を産生するためのポリペプチドが翻訳された。新たに合成されたウイルスはPVRマウスへ接種され、人工的に合成されたウイルスが感染性を持つか試験された。合成ウイルスはマウス体内で増殖も感染も可能であり、さらにマウスに対し麻痺や死を引き起こす事も可能であった。ただし、合成ウイルスは基のウイルスと比べ1,000倍から10,000倍病原性が低下していた。 =ガブリエレ・ミュンター= ガブリエレ・ミュンター(Gabriele M*11405*nter, 1877年2月19日ベルリン ― 1962年5月19日ムルナウ(de))はおもにドイツで活躍した表現主義の女流芸術家で、ミュンヘン新芸術家協会及び青騎士のメンバー。絵画に加えて版画による創作活動もした。また、ヴァシリー・カンディンスキーのパートナーとしても知られる。彼女はカンディンスキーの作品のかなりの部分を第二次世界大戦中から戦後にかけて災難から守り、後には青騎士の芸術家仲間の作品と自分自身の作品とを広く一般に公開した。 ==生涯== ===両親=== ガブリエレの父カール・ミュンターはヴェストファーレンの商人で牧師の家庭出身であった。しかし1848年革命に参加した彼は、その政治思想を危険視した家族の手でアメリカに追いやられた。彼はアメリカで歯科医師として生活を営み、10年たたないうちに裕福な身分となってドイツ人女性ヴィルヘルミーネ・ショイバーと結婚した。だが、自由を愛した夫妻は、南北戦争の嵐吹き荒れる政情不安の合衆国を去り、ベルリンのウンター・デン・リンデンにある大きな屋敷に移った。(以下、本項で扱うガブリエレ・ミュンターを指してミュンターと記す) ===幼少期から青年期(1877‐1900)=== ガブリエレ・ミュンターは1877年2月19日、3子の末っ子としてベルリンに生まれた。一家は一年の後にヴェストファーレン地方のヘアフォルトへ、そしてその後コブレンツへと引っ越した。馬術、スケート、ダンス、サイクリングに熱中して過ごした子供時代の記憶はミュンターの心に色濃く残った。また彼女は音楽を好み、楽譜を読み、聴き、演奏して楽しんだ。数曲の歌曲も作曲している。1886年、父が他界。学校時代からすでに芸術的才能を示していた彼女は、兄コンラートの勧めもあって1897年春にはデュッセルドルフにある女子芸術学校の門をたたいた。当時は国立芸術院 への道は女性に閉ざされていたのである。彼女はしかし、自身の芸術的才能を開花させるためというよりむしろ絵画技法を身につける目的で絵の勉強を始めたのであった。 同年11月には母も亡くなり、勉強を一時中断しなければならなかったが、学校に退屈していた彼女はむしろこの機会を前向きにとらえた。両親の残した金銭的遺産に依ることなく、翌1898年彼女は姉とともにアメリカに住む親類のもとを訪ねた。二年にわたるアメリカ旅行で彼女たちは、ミズーリ、アーカンソー、そしてテキサスを訪れた。ミュンターは旅の様子を、たくさんの印象深い写真で克明に記録している。また人物や風景、植物を数多くデッサンした。1900年10月、ミュンターはコブレンツに戻った。 ===画家修業と、カンディンスキーとの出会い(1901)=== 1901年、ミュンターはミュンヘンへ移った。しかしこのとき、その地でも女性はまだ公の芸術院への入学を許されていなかった。それゆえミュンターは画家修業を女流芸術家協会の付属画学校初級教室でつづけ、同年冬にヴィルヘルム・フュスゲンとヴァルデマル・ヘッカーによる小さな、しかし進歩的な芸術学校「ファランクス」に移った。そこではカンディンスキーも教鞭をとっていた。この学校においてミュンターは、アンジェロ・ヤンクのクラスでモデルによる肖像デッサンを6ヵ月間学ぶが、その修業期間が終わる前に裸体画のクラスに進み、ついでヴィルヘルム・フュスゲンの彫刻教室へ移った。彼のもとで学んだ後、ミュンターは裸体画教室夜間部に通い、そしてカンディンスキーの絵画教室へと移る。カンディンスキーとの出会いはミュンターの人生を大きく方向づけた。彼女はカンディンスキーのもとで初めて、芸術が技能とは性格を異にする何者かであることを悟り、画家の内面的精神をフォルムによって絵画に表現することを学んだのである。 ===カンディンスキーとの恋愛(1902‐1916)=== ====恋愛と旅行(1902‐1908)==== 1902年夏、オーバーバイエルン地方コッヘルでのカンディンスキーによる夏季講習に参加。ミュンターは野外でたくさんの風景習作を制作したり、カンディンスキーとともに周辺をサイクリングしたりした。1903年、ファランクス・グループの芸術学校はオーバープファルツ地方のカルミュンツに移る。同年夏にはカンディンスキーの夏季講習会に再び参加し、風景をモティーフとしたペインティング・ナイフによる油彩の習作をはじめて制作した。またミュンターは木版画技術においても才能を示した。彼女とカンディンスキーとの関係は深くなり恋愛に発展し、婚約にまでいたった。しかしこのときカンディンスキーは法的にはまだ他の女性と結婚状態にあった。彼らの恋愛関係は、画学校の他の生徒には隠されていた。カンディンスキーは一年間彼女の教師をつとめ、その後学校は閉鎖したが彼はその地に留った。1911年までカンディンスキーは他の女性との結婚を維持したままであったにもかかわらず、ミュンターはこの恋人としばしば同棲生活を送った。これは20世紀初頭におけるドイツの女性としては大胆な行動だった。1904年以降彼女は幾度も彼とともに旅行した。これは、当時カンディンスキーは妻のアーニャ・セミヤキンとミュンヘンに住んでおり、ミュンターとともに過ごすためにはミュンヘンから離れる必要があったのである。1904年、オランダに4週間滞在する。翌1905年初頭には数カ月チュニスへ旅行、二人は街の中で制作にいそしんだ。このときミュンターは、カンディンスキーの下図を基に真珠を縫いこんだ刺繍を制作している。その後二人はイタリアを経由して帰欧、ドイツ国内を美術研究のために短期間旅行したのち、11月にラパッロへ旅立ち数ヶ月滞在した。ここでも彼らは、ペインティング・ナイフを用いた風景の習作や大判の静物画を数点描いた。1906年6月から約1年間、パリ近郊のセーヴルに滞在。ここでミュンターはデッサン教室に通ったり、また後期印象主義的な油彩の習作を多く制作した。1907年春、ミュンターはサロン・デ・ザルティスト・ザンデパンダンに絵画を6点出品する。これは彼女にとって初めての機会であった。秋にはサロン・ドートンヌに木版画やリノリウム版画をいくつか送っている。年末から翌1908年4月まで二人はベルリンに住んだ。この年、ケルンのサロン・レノーブレが64点のミュンターの絵画作品を展示、同じころボンでは彼女の全版画作品が展示された。南チロルへの旅行ののち、彼らは再びミュンヘンに住むことを決めた。同年の夏を二人は、画家仲間のアレクセイ・フォン・ヤウレンスキー、マリアンネ・フォン・ヴェレフキンとともに田舎町ムルナウで過ごした。このムルナウという町はバイエルン州に位置し、アルプス山脈を背にした丘陵地帯に佇み市が立つ、絵のようなところであった。自然の中や街に出て皆で集中的に制作を行い、この地でミュンターは表現主義的色彩へと至る確かな一歩を踏み出した。 ヴァシリー・カンディンスキー「ガブリエレ・ミュンターの肖像」1905年,ミュンヘン市立レンバッハハウス美術館蔵 ===ミュンヘン時代(1909‐1915)=== 1909年1月、カンディンスキーを会長にミュンター、ヤウレンスキー、ヴェレフキンを創立会員として「ミュンヘン新芸術家協会」が発足した。年末に行われた新芸術家協会第一回展にはミュンターの油彩10点と木版画11点が展示された。この年彼女はムルナウ に家を購入、翌年以降彼女は毎夏数か月をここでカンディンスキーとともに過ごし、たくさんのミュンヘン前衛画家を迎えた。そこに滞在したのはマリアンネ・フォン・ヴェレフキン、アレクセイ・フォン・ヤウレンスキー、アドルフ・エルプスレーらであり、後にはフランツ・マルク、アウグスト・マッケも住み、そして作曲家のアルノルト・シェーンベルクもまた時折そこで過ごした。この様にカンディンスキーを中心とした前衛芸術家が集った彼女の家はムルナウの人々から「ロシア人の家」と呼ばれた。 1910年の新芸術家協会第二回展は、ブラックやピカソ、ルオーといった特にフランスの国際的な芸術家の参加を得て開かれた。翌1911年、協会内の対立からメンバーの間に分裂がおこり、カンディンスキーやミュンター、フランツ・マルクが脱会する。彼らは「青騎士」という若い芸術家集団の中核を成した。青騎士共同の展覧会を通してミュンターは初めて大きな芸術的成果を体験した。第一回青騎士展が開かれたのは、その年12月のことであった。 1912年2月、青騎士第二回展が開催された。この年のアンデパンダン展(パリ)にミュンターは絵画2点を出品している。 1913年1月にはベルリンのシュトゥルム画廊で、ミュンター初の回顧展が行われ、84点の絵画が並べられた。 1914年に第一次世界大戦がはじまると、敵国人とのレッテルが貼られたカンディンスキーは祖国ロシアに戻ることを考え始めた。1914年の内にミュンターはカンディンスキーとともにボーデン湖畔の町、スイスのマリアハルデに移った。同年11月、バルカン半島を経由してカンディンスキーはロシアへ帰国した。ミュンターはチューリヒに残り、中立国スウェーデンでカンディンスキーに会う準備を始めた。1915年7月、ミュンターはストックホルムに移る。彼女は同地の芸術家たちと盛んに交流した。年末にカンディンスキーと会い、翌1916年初頭にはミュンターの尽力によりストックホルムのグメンソン画廊でカンディンスキーとミュンターの展覧会が何度か開かれている。二人は3月16日まで一緒に過ごしたが、それはカンディンスキーとミュンターの最後の日々となった。1916年3月16日、カンディンスキーはストックホルムを立ち、その後二度とミュンターと会うことはなかった。彼女はなおもカンディンスキーと再会できることに望みを抱き続け、スカンディナビアで彼を待ち続けた。カンディンスキーから何の音沙汰も無いのは、彼がロシア革命の混乱に巻き込まれているためだと信じていた。しかし実際には彼は革命渦中のモスクワで複数の芸術家委員会に所属して活動し、1917年2月に同地で軍士官の娘ニーナ・アンドレーフスカヤと結婚していた。1917年以降、カンディンスキーはミュンターとのほとんどすべての接触を拒んだ。その年の内に、彼女はカンディンスキーが別の女性と結婚したことを知った。これにより、カンディンスキーとミュンターの関係は完全に崩壊した。この別離ののち、ミュンターは絵筆を握ることが少なくなった。 ===後半生(1917‐1962)=== ====失意 (1917‐1921)==== カンディンスキーが去った後もミュンターはストックホルムで様々なグループ展に参加したが、1917年を失意と孤独のうちに過ごした。彼女は1920年までの間、スカンディナビア半島で暮らした。1918年には絵画作品100点を含む過去最大級の個展がコペンハーゲンで開かれるが、孤独感と経済的困窮が常に彼女を追い詰めていた。1920年初頭に彼女はミュンヘンに戻った。この頃、鬱病が彼女の画業を一時的に妨げていた。制作数は非常に少なくなっていたが、ミュンターはケルン、ミュンヘン、ムルナウにかわるがわる住み、ドイツ各地のグループ展に参加した。1920年以降、カンディンスキーとは代理人を通してコンタクトを持つが、それはミュンヘンに残したカンディンスキーの作品の所有権をはっきりさせるためのものだった。作品の大部分をミュンヘンに残したままロシアへ戻ってしまったカンディンスキーは、それを手元に置くミュンターに全作品の返還を迫ったのである。数年に及ぶ法的係争の末いくつかの大作はカンディンスキーのもとに返されたが、他作品の権利はすべてミュンターに帰属することになった。だがこのときミュンターにとって問題だったのは金銭的補償ではなく、むしろ道義的な罪の償いだった。 ===再出発 (1922‐1927)=== 1922年以降ミュンターは自身の芸術の再出発を志し、芸術家仲間との交流も深めていった。1923年からは再び、自然の中で力強い風景のスケッチを描いた。1925年末には新たな芸術的刺激への期待を胸にベルリンを訪れ、たくさんの芸術家と親交を結び、ベルリン女流芸術家協会の展覧会などに参加した。1927年にはベルリンで開催された「造形芸術分野で制作する女性」展に作品を出品している。またこの年の年末、終生をともに過ごす伴侶ヨハネス・アイヒナーと知り合った。彼は芸術史学者であり哲学者でもあった。 1928年から徐々に、アイヒナーとの関係は深くなっていった。二人はベルリンやミュンヘンの美術館を訪れたり、パリや南仏へ長期旅行に出かけたりした。旅先でミュンターは精力的に制作に取り組んだ。1931年から1933年にかけて、多くの展覧会に出品した。1933年4月には、「ガブリエレ・ミュンター 1908‐1933」展がブレーメンのパウラ・モダーゾーン=ベッカー=ハウスで開かれた。 ===第三帝国の影で(1933‐1945)=== ナチスが1933年に政権を握ると、現代芸術への政治的弾圧がはじまった。1920年代半ばからドイツ造形芸術家連盟に所属していたミュンターは自動的に帝国造形芸術院の会員に組み込まれた。この時期にオリンピア通りの建設をテーマとする絵画の習作を制作、1936年には「芸術におけるアドルフ・ヒトラーの道」展に出品している。翌1937年、ドイツにおける芸術文化環境がますます厳しくなる中、ミュンヘン芸術協会(de) でミュンターの作品が何点か展示された。これがその後12年間で最も大きな彼女の展覧会となった。同年ミュンヘンで「頽廃芸術展」が開かれ、ミュンターもアイヒナーを伴ってこれを訪れている。戦時中ミュンターはアイヒナーとともにムルナウに籠り、つつましく暮らした。展覧会への出展は禁じられた。ミュンターは花をモティーフにした静物画をおもに描き、それを売ったり食べ物と交換したりした。1944年12月13日、カンディンスキーが亡命先のパリ近郊ヌイイ=シュル=セーヌで亡くなった。 第三帝国時代にミュンターは、ムルナウの家の地下室にカンディンスキーの作品を隠して庇護し続けた。 ===敗戦後(1945‐1956)=== 1949年9月2日、ミュンターはミュンヘンの芸術の家で開かれた青騎士回顧展で代表を務めた。これはドイツの敗戦後最も重要な展覧会事業の一つであった。この展覧会により、青騎士の芸術家たちの作品が長年にわたるいわれなき頽廃芸術の烙印を薙ぎ払って復権を果たした。翌1950年にはアイヒナーが準備した「ガブリエレ・ミュンター:50年の歩み」展がドイツ22都市を巡業、また第25回ヴェネツィア・ビエンナーレには3点のミュンター作品が展示された。その後もいくつもの展覧会でミュンターの作品が公開され、公的コレクションによる購入も進んだ。1955年にはミュンヘンのオットー・シュラングル画廊で「カンディンスキー、マルク、ミュンター:知られざる作品」展が開かれ、注目を集めた。また同年、1905年から1955年までの美術を回顧する「ドクメンタ」第一回展がカッセルで開催され、ミュンターもたくさんの作品を出品した。翌1956年には彼女は、造形芸術分野における州都ミュンヘン功労賞を受賞した。 ===レンバッハハウス(1957‐1962)=== 1957年、80歳の誕生日に際して彼女は自身の膨大なコレクションをミュンヘン市に寄贈した。内訳は、自身の作品群、80点以上のカンディンスキーの絵画作品及び他の青騎士芸術家たちの作品であった。この一件によってミュンヘン市立ギャラリーのレンバッハハウスは一夜にして、その名を世界に知らしめる美術館となった。ミュンターを称えて同年、「カンディンスキーとガブリエレ・ミュンター:50年間の作品から」展が開催された。 1958年2月、後半生のよき伴侶であったアイヒナーが他界。以後ミュンターはムルナウで静かに暮らし、紙の小作品のみを制作した。1960年には初めてアメリカ合衆国で彼女の作品が展示された。 1962年5月19日、ムルナウの自宅でミュンターは息を引き取った。遺言により1966年、彼女の芸術作品や手稿、書簡などの遺品はレンバッハハウスに寄付された。またムルナウの「ロシア人の家」は今日では彼女の個人的偉業に対する記念館となっており、そこではカンディンスキーとミュンターが家具や壁に描いたもの、及び彼女たちの民芸品コレクションを見ることができる。 ==芸術的特徴== ===初期(‐1907)=== 美術学校「ファランクス」でカンディンスキーのもとに絵画の勉強を続けたミュンターは、多く彼から影響を受けた。カンディンスキーの反アカデミー的姿勢から、積極的に野外で外光のもとで制作を行った。これは印象派の流れを引くものである。 夏季講習でのミュンターの鉛筆スケッチは、風景をシンプルな輪郭線で捉えており、彼女の才能がうかがわれる。またこの時期木版画の技術も瞬く間に体得し、盛んに制作した。油彩では、ペインティング・ナイフを用いてカンバスに厚めに絵具を置いていく技法でミュンターは描いているが、これはカンディンスキーを通して美術学校の学生たちに広まった後期印象主義の様式であった。ミュンターはこの技法で風景や街並みを描いた。彼女の「つぎはぎのような」マティエール は、一度描かれている対象をばらばらに解きほぐし、ペインティング・ナイフを使って調合された絵具が肌理の細かいレリーフ状のものを新たに作り上げている。またミュンターはくすんだ色調を増やすことで、この技法を洗練させた。 ===ミュンヘン新芸術家協会と青騎士の時代(1907‐1916)=== 旅行生活に一区切りをつけてミュンヘンに居を構えたころ、ミュンターは芸術的転機を迎える。夏のムルナウ滞在と集団での制作活動を通してカンディンスキーとミュンターは絵画技法の転換と、模索していたオリジナルな表現手段を見出していった。二人はペインティング・ナイフを画筆に持ち替え、きびきびした筆さばきと力強い色彩で身近な風景を描き始め、しばらくの後には近郊の湿原やバイエルン・アルプスの眺望を描いた。たとえばミュンターの「ムルナウ―ブルクグラーベン通り―」 では、スーラなどに代表される新印象派の点描技法とはほとんど対極を成すと言っていいほど大きな変化を見せている。ミュンターはムルナウで、新しいタイプの平面的で遠近法を超越した画面構成、簡潔でくっきりした暗い輪郭線と細部の単純化によるフォルムの強い規定、そして自然の事物に固有のものと考えられていた色からは完全に解き放たれた鮮烈な色彩といった諸々を獲得した。平面上で黒い輪郭に取り囲まれるように仕切られたモティーフの単純化は、それを獲得したヤウレンスキーが自分なりの考えでムルナウの友人たち、特にミュンターに伝えたものだったが、彼女はそれを自身の色彩表現で止揚した。 ムルナウではオーバー・バイエルン地方の宗教的な民衆芸術との強烈な出会いもあった。1909 年ごろから見られる二人の絵画の厳格な単純化は、民衆芸術の素朴で簡潔な手法に感化されたものであった。またミュンターは神秘化された宗教的な静物画を会得したが、これはカンディンスキーによって「力強く、複雑で内的な響きを持つ」と大いに賞賛された。1911年に描かれた「聖ゲオルギウスのいる静物」 では、青色を背景に白馬にまたがった聖人が竜に剣を突き立てている。このころ描かれた宗教的な静物画は、ミュンターの画業と「青騎士」の芸術の双方にとって、唯一無二の特徴となっている。カンディンスキーはこの「聖ゲオルギウスのいる静物」を年刊誌『青騎士』の挿絵とし、「強く複雑な内面の響き」と書き添えている。特にムルナウのガラス絵が、こうした宗教的絵画の源泉だった。当時のムルナウではガラス絵職人が伝統的方法で制作を行っていた。反自然的な、輝くばかりの深い色彩や直截な表現は二人に強い影響を与え、自らガラス絵の制作もした。 また二人は民衆芸術のみならず、素朴派やヨーロッパ以外の芸術からのインスピレーションを受けてそれまでの「様式」から脱却を試みたが、これを促したのは1907年から1909年ごろにかけて子供の描いた絵と関わり始めたことだった。子供の絵の極端な単純さが二人の絵画に単純化、とりわけカンディンスキーにおける1910年から1912年頃の絵画の形態の単純化をもたらした 。1910年のミュンターの絵画「まっすぐな道」 で彼女はムルナウとコッヘルをつなぐ街道を描いているが、ここではその当時彼女が制作した作品のいくつかにすでにみられる、対照を抽象化する原則が忠実に遵守されている。その原則とは、決然とした態度で絵画の伝統的な描き方と訣別する、単純さへと到達することであった。 この時期、カンディンスキーの作品にはミュンターとの類似が明らかに表れているが、これはミュンターの方からの影響によるものも大きかった。後年カンディンスキーは自身の芸術へのミュンターからの影響を否定しているが、総じてこの時期の二人は相互に良い影響関係にあったといえる。また「絵画の抽象化」という点においてはカンディンスキーの方が積極的であった。ミュンターも時折彼のこの姿勢に感化され、幾点かの抽象画を描いているが、それらは一から彼女の内面から創造したものではなく、静物画あるいは風景画のモティーフから導き出したものだった。ゆえに彼女の絵画は一生涯、対象たるモティーフから乖離することはなかった。しかしミュンターは非常に迫力ある絵画を描いている。気分の直観的な把握、単純化の才能によって彼女は、モティーフを絵の中に高次な表現として昇華した。ミュンターの絵画の心のこもった表現は特に静物画の神秘的な雰囲気に現われており、この点についてマッケが次のように指摘している。 その点では、これは『ドイツ的なもの』で、幾分か古風で、家庭的なロマンティシズムがあります ― 1911年1月9日付、アウグスト・マッケからフランツ・マルク宛書簡 ===カンディンスキーとの別離ののち(1917‐)=== 生涯にわたって画風を変化させ続けたカンディンスキーとは対照的に、ミュンターは青騎士時代以降、自身の芸術を劇的に革新することはなかった。最終的にカンディンスキーは極限までフォルムを単純化した抽象絵画に到達したが、ミュンターは抽象的表現に至りつつも青騎士時代の特徴をよく残していた。 ==作品抄録== ハルモニウムの前のカンディンスキー,1907傾聴(ヤウレンスキーの肖像),1909,ミュンヘン,レンバッハハウス美術館蔵白い壁のある風景,1910,ハーゲン,カール‐エルンスト‐オストハウス美術館蔵オレンジのある静物,1910,アウクスブルク,ヴァルター美術館蔵積み車のモミ殻,1911,ミュンヘン,レンバッハハウス美術館蔵実りの風景,1911,ヴッパータル,フォン・デア・ハイト美術館蔵黒い仮面とバラ,1912,ニューヨーク,Hutton ギャラリー蔵子どもとボール,1916,ワシントンD.C.,国立女流美術館蔵シュタッフェル湖の秋,1923,ワシントンD.C.,国立女流美術館蔵小鳥たちの朝食,1934,ワシントンD.C.,国立女流美術館蔵ムルナウのオリンピア通り,1936,ムルナウ,シュロス=ムゼウム=ムルナウ蔵 ==評価== ミュンターは様々な観点から語られる。すなわちドイツ表現主義の画家として、カンディンスキーと相互に影響し合ったパートナーとして、当時の進歩的女流芸術家として、そしてナチスの狂気からたくさんの作品を守った芸術家としてである。 ===表現主義とミュンター=== はじめドイツ表現主義に対して、フォーヴィスムの劣化コピーに過ぎないとの論調があった。なかんずくフランス国内ではほとんど黙殺されていた。その後、ドイツ現代芸術はナチスの一方的な芸術政策によって致命的な打撃を受け、多数の芸術家がドイツ国外に亡命しドイツ表現主義に対する正当な評価もなされなかった。第二次世界大戦後は芸術界がそれまでのパリ一元的な風潮から変化し、ニューヨークが芸術の一大中心となったこともあって、積極的にアメリカからドイツ表現主義の再評価がなされた。とりわけ、青騎士をはじめとする20世紀初頭ミュンヘンでの芸術運動が近代絵画への突破口を開いたと言われる。ミュンターももちろん、その重要な一翼を担っていた。 ミュンターは単純化されたフォルムと色彩で対象を抽象化しているが、完全な抽象絵画へ移行することはなかった。芸術の前衛という点においては、その後抽象絵画へと進んで行ったカンディンスキーの方が進歩的であったといえる。だがこのことは、決してミュンターの到達点の低さを示すものではない。彼女は1911年の日記の中で、「モティーフの内面にあるものを感じ、モティーフの本質を抽象化して表現できるまでに躍進することができた」と語り、同時に、このきっかけとなったのはフランスの総合主義であったと自己分析している。ミュンターにとっての抽象化とは、モティーフが持つ形と自分自身の持つイメージとを総合させることであり、そこに彼女の芸術のオリジナリティがあったといえる。表現主義の展開は、青騎士の芸術家たちと相互に影響し合ったミュンターなしにはあり得なかったのである。 ===女流画家ミュンター=== ミュンターの時代、女性に対しては公立アカデミーや官展はまだ門戸を閉ざしていた。しかし市民社会が興隆した18世紀から19世紀、ブルジョワ階級を中心に子女に対する教育熱が高まる中、娘にも文化的教養を持たせようとし始めて以来、芸術に興味を持つ女性も増え、女性のための芸術教育機関も増えていた。青年期のミュンターが生きた20世紀の初頭には、女流芸術家も稀ではなくなっていた。元来、女流芸術家にとってその活動は、旧社会の因習を打ち破るというニュアンスが少なからずあったが、とりわけ表現主義の時代には、多くの女流画家がニーチェやイプセンの新しい人間観・女性観に影響を受け、伝統やブルジョワジーのモラルが規定してきた「女性らしさ」から脱却した新たな価値観を求め、社会のアヴァンギャルドとしての自覚をいっそう強めていた。 こうした背景の中ミュンターは、デュッセルドルフやミュンヘンの女子芸術学校に満足せず、「ファランクス」の芸術学校の門を叩きただ一人の女生徒として入学し、カンディンスキーと大胆に恋愛した。しかし芸術面での彼女は、そうした旺盛な向上心や大きな恋愛とは好対照に、「傾聴」や「黙想」といった作品タイトルにも示されるように内面的で思索的であった。このことは、同じ青騎士仲間の女流画家ヴェレフキンが「来たるべき芸術とは、感情を揺り動かす芸術だ」と語って画面に直接的に自己を表現しようとしていた点と比較される。 ===美術作品の庇護者=== また、彼女が国家社会主義時代にカンディンスキーらの貴重な作品群を守ったことは、人類にとって大きな幸いであった。カンディンスキーとの作品所有権の帰属をめぐる激しい法律的係争の間、彼の多数の作品の大部分は、ミュンヘンの運送会社に留め置かれたままになり、そのための費用を何年もの間ミュンターが負担した。1930年代、ナチスによる現代芸術糾弾が激しくなると、ミュンターはその貴重な絵画コレクションをムルナウまで運び、自宅の地下貯蔵庫に隠匿した。経済的困窮にも耐え、カンディンスキーの諸作品と青騎士の仲間たちによる絵画の大コレクションを、ナチスの弾圧と第二次世界大戦の戦禍から守り通した。ひとえに彼女の芸術を守らんとする不屈の意志の結果、現在も彼らの作品を鑑賞することができるのである。 ==顕彰== 1956年、造形芸術分野における州都ミュンヘン功労賞を受賞。また、ボン女流美術館は彼女の名を冠したガブリエレ・ミュンター賞を、絵画芸術分野において女流芸術家に贈っている。 ==放送劇== ウーテ・ミングスによる「カンディンスキー、ミュンター、ヤウレンスキー、ヴェレフキンとその仲間、ミュンヘン新芸術家協会(1909‐1912)」(バイエルン第2ラジオ放送,2009)がある。 =内裏塚古墳群= 内裏塚古墳群(だいりづかこふんぐん)とは千葉県富津市の小糸川下流域の沖積平野内にある、5世紀から7世紀にかけての古墳時代中期から終末期に築造された古墳群である。現在のところ前方後円墳11基、方墳7基、円墳29基の計47基の古墳が確認されている。 ==古墳群の名称について== 内裏塚古墳群に属する古墳は、旧飯野村の村域を中心として分布していることから当初は「飯野古墳群」と呼ばれていたことが多かった。しかし旧青堀町に属する古墳もあって飯野古墳群では不適当ではないかとのことで、「富津古墳群」、「内裏塚古墳群」という名称が提案されるようになった。富津古墳群という名称は、1955年に青堀町、飯野村、富津町の三町村が合併して富津町となる以前の富津町の地域内には、古墳群に属する古墳が全くないことと、1971年の富津市の成立後、かつての富津町よりも広い市域を指すようになった「富津」の名を古墳群の名称とするのは不適切ではないかとの見解により、古墳群内最大の古墳である内裏塚古墳から名づけられた内裏塚古墳群が古墳群の名称として主に用いられるようになり、多くの専門書でも内裏塚古墳群という名が用いられている。 しかし内裏塚古墳は古墳群内の盟主墳の中では唯一、5世紀半ばの古墳時代中期造営の古墳であり、6世紀半ばから7世紀にかけて最盛期を迎えた古墳群の名称として、内裏塚古墳の名前を用いるのは適切ではないとの意見の専門家もいる。 ここでは多くの専門家が用い、一般的にも広く用いられている内裏塚古墳群を記事名として採用する。 ==古墳群の立地と構成== 内裏塚古墳群は小糸川が形成した沖積平野上にある。古墳群は北西側は海岸線、東側は小糸川の氾濫原、そして南側は小糸川旧流路で区切られる約2キロメートル四方に広がっている。古墳の多くは沖積平野上にある、かつて砂丘であった微高地上に築造されている。微高地は小糸川下流域に数列あって、北東方向から南西方向へ伸びており、内裏塚古墳に属する多くの前方後円墳は北東側に後円部、南西側に前方部を向けている。 内裏塚古墳群は現在のところ前方後円墳11基、方墳7基、円墳29基の計47基の古墳が確認されている。その中で少しでも墳丘が残っている古墳は25基であり、22基の古墳は消滅している。確認されることなく消滅してしまった古墳も少なくないと考えられており、内裏塚古墳群で実際に築造された古墳はもっと多かったとされる。 内裏塚古墳群の盟主墳の被葬者は、須恵国造になっていく系列の首長であると考えられている。5世紀半ばと考えられる内裏塚古墳が古墳群のなかで最も早い古墳築造であり、続いて5世紀後半には上野塚古墳が築造されるが、その後約半世紀古墳の築造は停止される。6世紀半ばの九条塚古墳の築造後、6世紀末にかけて墳丘長100メートルを越える前方後円墳である盟主墳、そして盟主墳の下に位置する墳丘長約50‐70メートルの前方後円墳、その下位にあたる墳丘長20‐30メートルの円墳が盛んに築造されるようになる。 内裏塚古墳群では、前方後円墳の築造が行われなくなった7世紀には方墳が築造されるようになり、7世紀半ば頃まで築造が続けられた。 ==古墳群の歴史== ===古墳群誕生以前=== 小糸川流域では、5世紀半ばと考えられる内裏塚古墳の築造以前は、4世紀台には中・上流域の丘陵上に墳丘長40‐60メートル程度の前方後方墳や円墳、方墳が築造されているのみで、地域を代表するような古墳の築造は現在のところ確認されていない。近隣の古墳群を見ると、祇園・長須賀古墳群がある小櫃川流域では4世紀、中流域に墳丘長100メートルクラスの前方後円墳の築造が見られ、養老川流域の姉崎古墳群でも墳丘長130メートルの姉崎天神山古墳など、4世紀台の大型前方後円墳が築造されており、それぞれの地域での違いがみられる。 しかし小糸川下流域では、弥生時代後期から古墳時代にかけての集落跡が複数確認されていて、この地域に未発見の前期古墳が存在するのではないかと考える専門家もいる。 ===内裏塚古墳と古墳築造の中断=== 内裏塚古墳群で最初に築造された古墳は、内裏塚古墳である。内裏塚古墳は小糸川流域で最初に築造された前方後円墳と考えられており、墳丘長144メートルというその大きさは内裏塚古墳群のみならず、南関東(埼玉、千葉、神奈川、東京)の中で最大規模を誇っており、最初にして最大の古墳が5世紀半ば、小糸川下流域の砂丘跡の微高地上に築造されたことになる。 内裏塚古墳の築造後、内裏塚古墳近郊では古墳群南方約4キロメートルのところに弁天山古墳が築造される。続いて内裏塚古墳群の最北端にあたる、現在の青堀駅近くに帆立貝型の前方後円墳である上野塚古墳が5世紀末頃築造される。その後6世紀半ばの九条塚古墳の造営まで約半世紀間、内裏塚古墳群では古墳の築造が中断する。 内裏塚古墳の築造は、やはり5世紀半ば頃に築造されたと考えられる祇園・長須賀古墳群の高柳銚子塚古墳、姉崎古墳群の姉崎二子塚古墳と同じく、上総西部の河川下流部に広がる沖積平野一帯を統合する首長が誕生したことを意味している。しかしその後内裏塚古墳群では古墳の築造が途絶える。弁天山古墳など内裏塚古墳群外に首長権が移動したとの説もあるが 、墳丘長144メートルの内裏塚古墳に対して弁天山古墳は87.5メートルであり、首長権が弱体化したことは間違いないと考えられる。5世紀末以降、古墳の築造が中断する現象は祇園・長須賀古墳群でも見られ、姉崎古墳群でも古墳の築造は継続したものの規模は大きく縮小している。5世紀末から6世紀前半にかけて首長権が弱体化したのは内裏塚古墳群のみならず上総全体で見られる現象である。 また5世紀末から6世紀前半にかけて古墳の築造が低調となる現象は、関東地方各地や大王陵など畿内でも見られ、これはヤマト王権の弱体化によって社会が混乱し、古墳の築造秩序が乱れたとする説もある。 ===古墳築造の再開と古墳群の最盛期=== 6世紀半ば頃の九条塚古墳の築造によって内裏塚古墳群の古墳築造は再開される。その後100メートル以上の墳丘長を持つ盟主墳の稲荷山古墳、三条塚古墳が6世紀末にかけて相次いで造営された。同時期には盟主墳の下のクラスである首長を葬ったと考えられる、墳丘長約50‐70メートルの前方後円墳である古塚古墳、西原古墳、姫塚古墳、蕨塚古墳などがやはり相次いで築造された。またその下のクラスの首長を葬ったと考えられる白姫塚古墳、新割古墳、八丁塚古墳などの墳丘長20‐30メートルの円墳も古墳群内に盛んに造られ、内裏塚古墳群は6世紀半ばから末にかけてその最盛期を迎えた。 6世紀半ば頃の九条塚古墳に近い時期に造営された古墳としては、前方後円墳の西原古墳、円墳の白姫塚古墳などがあり、また九条塚古墳に最も近接し、古墳の主軸の向きが九条塚古墳とほぼ同一方向を向いている前方後円墳の武平塚古墳も同時期の築造である可能性がある。6世紀後半の稲荷山古墳に近い時期の造営と考えられる古墳は、墳丘長89メートルと盟主墳に次ぐ規模を有し、稲荷山古墳と似た墳形をした古塚古墳、そして稲荷山古墳に近接し、古墳の主軸の向きが稲荷山古墳とほぼ同一方向を向いている前方後円墳の姫塚古墳、円墳では新割古墳などがある。三条塚古墳に近い6世紀末に造営されたと考えられる古墳は、三条塚古墳に近接し、古墳の主軸の向きが三条塚古墳とほぼ同一方向を向いている前方後円墳の蕨塚古墳、円墳の中では八丁塚古墳などが挙げられる。 古墳群内で盟主墳に次ぐ位置にある前方後円墳が盟主墳の近くでほぼ時期に築造された事実から、双方の古墳の被葬者間に緊密な関係があったことが推察される。内裏塚古墳群は埼玉古墳群や龍角寺古墳群など、同時期の関東の有力古墳群で見られるのと同じく、同一の古墳群内に複数系譜の首長が同時に古墳の築造を進めていたものと考えられる。内裏塚古墳群の場合、上位の首長、中位の首長、下位の首長といった三系統程度の首長が造墓活動を行っていたものと見られる。これは同一古墳群に墓所を定める首長たちの結束の確認の場であるとともに、外部に対しては首長たちの結束を誇示する意味合いがあったと考えられる。 内裏塚古墳群では中期の前方後円墳である内裏塚古墳は、10メートル以上の墳丘の高さがあるが、後期の九条塚古墳、稲荷山古墳、三条塚古墳とも墳丘の高さが5‐8メートルと、100メートルを越える前方後円墳としては低い。また対照的に墳丘の周囲には二重の周溝が巡っており、特に稲荷塚古墳の周溝は広大で、周溝部分を含めると古墳の全長は200メートルを越える。この当時の関東各地の古墳では埼玉古墳群では長方形をした二重の周溝、下野では基壇と呼ばれる極めて低い一段目を有する古墳が造営されるなど、その地域の独自性が見られる古墳の築造がなされている。 内裏塚古墳の埋葬施設は竪穴式石室であることが確認されているが、九条塚古墳以降は横穴式石室を用いていたものと考えられ、石室は富津市内の海岸で採取される砂岩を用いて造られた。この砂岩は祇園・長須賀古墳群の金鈴塚古墳の横穴式石室にも使用されており、遠く埼玉古墳群の将軍山古墳でも使用が確認されている。これは内裏塚古墳群を造営した首長が隣の祇園・長須賀古墳群を造営した首長や、遠く埼玉古墳群を造営した首長らとの関係を持っていたことを表している。 また6世紀後半に前方後円墳の築造が盛んとなる現象は、上野、下野、常陸、武蔵、下総といった関東地方各地で見られる現象で、上総でも金鈴塚古墳に代表される祇園・長須賀古墳群、山武市にある大堤権現塚古墳に代表される大堤・蕪木古墳群といった、墳丘長100メートルを越える規模の前方後円墳を盟主墳とした古墳群が造営される。6世紀後半は全国的に見ると前方後円墳の築造は下火になりつつあり、築造が終了した地域もあるが、関東地方のみこれまでみられないほど盛んに前方後円墳が造営され続けていた。これはヤマト王権が王権を支える経済的、軍事的基盤として当時の関東地方を重視していたことの現れと見られている。内裏塚古墳群の場合、隣の祇園・長須賀古墳群の盟主墳の被葬者と同じく、三浦半島から房総半島へ向かう交通の要衝を押さえることにより勢力を強め、同時期の関東各地の有力首長の一員としてヤマト王権に重要視されるようになったと考えられる。またヤマト王権で重視されるようになっていく中で、内裏塚古墳の盟主墳に葬られた首長は王権との直接的な関係を結ぶようになり、その結果として首長権の固定化が進み、内裏塚古墳群の被葬者は、やがて国造となっていったものと想定される。 また6世紀後半、関東各地で墳丘長100メートルクラスの前方後円墳を盟主墳とした古墳群の造営が相次いだ事実は、ヤマト王権中枢が上野や武蔵などといった一国を支配するような大首長を媒介として関東地方を統治するシステムではなく、経済的・政治的実力を高めていた関東地方の各河川流域程度を支配する首長を直接統治するシステムを採用したことを示しているとの説もある。房総半島の地域事情としては、各河川の流域が丘陵地帯で分けられており、地域独自の首長が生まれやすかったという地理的な条件も影響したと考えられる。 ===青木亀塚古墳の謎=== 内裏塚古墳群には墳丘長100メートルを越す、盟主墳クラスの古墳が合計5基ある。その中で稲荷山古墳と並ぶ墳丘長106メートルで、古墳群内3位の規模を誇る青木亀塚古墳は極めて謎が多い古墳である。青木亀塚古墳は墳丘から埴輪が全く検出されないことから、前方後円墳築造の最終段階の古墳と考えられている。しかし1990年、後円部トレンチを入れて調査した結果、石室はおろか石室の痕跡すら検出されなかった。その上1996年の発掘調査では、墳丘に近接した場所から古墳時代後期から奈良時代にかけての集落が発見された。これらの事実から、青木亀塚古墳は築造途中で放棄された前方後円墳ではないかとの説が出されている。 ===方墳の築造期と古墳群の終焉=== 7世紀に入ると、内裏塚古墳群では前方後円墳の築造が終了して方墳が築造されるようになる。7世紀前半台に築造された割見塚古墳は墳丘長40メートルで、千葉県内では同時期に造営されたと考えられる、龍角寺古墳群の岩屋古墳、板附古墳群の駄ノ塚古墳、祇園・長須賀古墳群の松面古墳に次いで4番目の規模の方墳である。しかし割見塚古墳は二重の周溝を持ち、周溝部を含めると一辺107.5メートルに達し、周溝部を含めた規模は駄ノ塚古墳と松面古墳を凌駕し、岩屋古墳に匹敵する。また割見塚古墳の横穴式石室は全長18.75メートルに達し、房総最長の横穴式石室である。 古墳群には割見塚古墳以外にも墳丘長ではほぼ同格の亀塚古墳を始め、森山塚古墳、稲荷塚古墳といった方墳があり、内裏塚古墳群では前方後円墳の築造終了後、方墳が盛んに築造されていたことがわかる。検出された出土品から、方墳は7世紀前半から中後期にかけて、6世紀後半期と同じように複数系譜の首長が同時期に築造していたものと考えられる。 7世紀後半台に古墳の築造が終了した後、龍角寺古墳群では古墳群近隣に龍角寺が建立されるなど、首長の権威の象徴が古墳から寺院へと変わっていくが、内裏塚古墳群の場合、7世紀末頃に古墳群から東へ約6キロと、かなり離れた場所に九十九坊廃寺が建立されたと考えられている。これはもともと内裏塚古墳群の場合、古墳群と首長の根拠地が離れていた可能性と、房総半島内の主要交通路からやや離れた位置にある内裏塚古墳群の周辺から、小糸川流域の中心が移動した可能性が指摘されている。 ==内裏塚古墳群の特徴== 内裏塚古墳群は、隣接する木更津市の祇園・長須賀古墳群と並んで、5世紀から7世紀にかけて、上総西部の有力首長とその下にあたる首長らの複数系列の首長を葬る古墳群として機能した。小糸川流域を代表する内裏塚古墳群の首長は、交通の要衝である三浦半島から房総半島へのルートを押さえることによって実力を蓄え、ヤマト王権中枢との直接的な関係を強化して、経済的・政治的実力を高めつつあった関東地方の有力首長の一角を担うようになったと考えられる。 内裏塚古墳群では100メートルクラスの盟主墳のみならず、盟主墳の下にあたる墳丘長約50‐70メートルの前方後円墳、そしてその下の首長を葬った墳丘長20‐30メートルの円墳からも、近隣の同一規模の古墳以上に豊富な副葬品が検出されている。また内裏塚古墳群では6世紀台に造営された古墳は全て横穴式石室を埋葬施設としているが、近隣の小円墳では木棺を墳丘に直葬している例がほとんどである。これは内裏塚古墳群を築造した首長たちの実力の大きさを示しているものと考えられる。 また内裏塚古墳群では前方後円墳の西原古墳からは8体、蕨塚古墳からは12体以上、円墳の新割古墳からは20体以上というように、発掘された石室内から大人数の人骨が検出されていることが特徴として挙げられる。これは各古墳ともかなり長期間にわたって追葬が行われていたためと推定されている。 内裏塚古墳群は木更津市内にあってほとんどの古墳が消滅してしまった祇園・長須賀古墳群と異なり、一部でも墳丘が残っている古墳が25基あって、遺存状況は比較的良好である。内裏塚古墳群は5世紀から7世紀にかけての関東地方の首長のあり方を知る上での貴重な遺跡であり、古墳群の中で内裏塚古墳は2002年9月20日に国の史跡に指定され、九条塚古墳、稲荷山古墳、三条塚古墳は1973年7月6日、富津市の指定史跡に指定されている。 ==主な構成古墳== この項の各古墳の情報は、注釈がないものは全て小沢「内裏塚古墳群の概要」(2008)より引用した。 ===前方後円墳=== 内裏塚古墳上野塚古墳:名前は「うわのつか」と読む。墳丘長44.5メートルの前方部が短い帆立貝形の前方後円墳で、青堀駅そばの古墳群最北端に位置する古墳。5世紀末の築造と考えられている。九条塚古墳稲荷山古墳:墳丘長106メートル、周溝部を含めると全長202メートルの、内裏塚古墳群内で盟主墳のひとつとされる古墳。古墳主体部の調査はこれまで行われていないが、墳丘から検出された埴輪から6世紀後半に築造されたと考えられている。三条塚古墳青木亀塚古墳古塚古墳:名前は「こづか」と読む。墳丘長89メートルの盟主墳に次ぐ規模を持つ古墳。墳丘の西側がJR内房線に削られてしまっているが、それ以外は比較的原型をとどめている。墳丘からは埴輪列が検出されており、埴輪の形式や墳丘の形などから稲荷山古墳とほぼ同時期の6世紀後半の築造と考えられている。西原古墳:墳丘の真ん中をJR内房線が走っているため、現在は後円部の一部が残っている。ただ横穴式石室は比較的遺存状況が良い。1927年に発掘が行われており、8体の人骨とともに直刀、金銅製馬具、金銅製耳輪、銀製耳輪、ガラス玉、須恵器などが検出された。6世紀中ごろ、九条塚古墳と同時期の築造と見られる。姫塚古墳:現在は墳丘の一部のみ残存している。墳丘長61メートルで、1938年に行われた発掘では5体の人骨とともに直刀、金銅製耳輪、馬具、須恵器などが検出された。稲荷山古墳や古塚古墳と同時期の6世紀後半に造営された。蕨塚古墳:墳丘長48メートル。現状は墳丘の西側と前方部の一部が大きく削られている。1966年に発掘が行われており、横穴式石室の床面は貝殻が敷き詰められており、人骨12体とともに、金銅製耳輪、銀製耳輪、玉類、馬具、須恵器などが検出された。三条塚古墳と同時期の6世紀末頃造営されたと考えられている。武平塚古墳:名前は「ぶへいづか」と読む。推定墳丘長60‐70メートル。墳丘の一部しか残されていない。これまでほとんど調査が行われておらず、実態がよくわかっていない古墳である。九条塚古墳に近く、また墳丘の向きも九条塚古墳とほぼ同じため、九条塚古墳との関連性が強いと推定されている。 ===方墳=== 割見塚古墳:名前は「わりみづか」と読む。一辺40メートルの方墳で、二重の周溝部を含めると一辺107.5メートルに達する。前庭部を含めて18.75メートルという長大な横穴式石室を持っている。7世紀前半の築造と考えられている。亀塚古墳:墳丘の一辺38メートル、二重の周溝を含めると一辺99メートルという、割見塚古墳に匹敵する規模の大方墳。江戸時代、飯野陣屋隣に建てられていた牢が墳丘北東部にあったことなどから、墳丘は全体的に大きく削られている。1989年の発掘時、金銅製耳輪、銅椀、ガラス玉などが検出された。森山塚古墳:墳丘長は27メートルあり、古墳群内第三位の規模の方墳。現状、墳丘は大きく削られてしまっている。1983年に発掘が行われ、須恵器や土師器とともに鉄釘が検出された。鉄釘は石室内に安置された木棺に使用されたと考えられている。野々間古墳:宅地造成のために現在は消滅してしまっている。墳丘長19.5メートル、二重の周溝を持ち、周溝部を含めると一辺59.5メートルになる。1968年の緊急発掘時に、銀象嵌装大刀、金銅製耳輪とともに新羅製の緑釉長頸壺が検出された。稲荷塚古墳:飯野陣屋内にあった方墳で、現在は消滅してしまっている。1990年に行われた範囲確認調査によって、一辺が21.4メートルの方墳であったことが明らかになった。 ===円墳=== 白姫塚古墳:直径30メートルの円墳。現在も墳丘が残っている。1892年に発掘が行われ、飾大刀4、鍍金銅椀、金銅製耳輪、帯金具などといった豊富な出土品が検出された。出土品から円墳の中でも古い時代に造営されたと考えられている。丸塚古墳:1974年に発掘が行われ、その後土地区画整理のため消滅した。直径30メートルの円墳で、約10体分の人骨とともに、直刀、馬具、玉類、金銅製耳輪、須恵器といった豊富な出土品が検出された。新割古墳:1981年に宅地造成に伴い消滅。造成前に行われた発掘によって、造り出しを備えた直径35メートルの円墳であったことが判明した。円墳としては内裏塚古墳群内最大の規模で、墳丘には造り出しがあるため帆立貝形前方後円墳とも言える。発掘時、20体以上の人骨とともに、直刀、玉類、金銅製耳輪、須恵器などが出土した。古山古墳:名前は「こやま」と読む。直径29メートルの円墳で、1968年の会社社宅建設時に消滅した。消滅前に行われた発掘調査では、8体分以上の人骨とともに、大刀、金銅製耳輪、鉄製馬具、メノウ製勾玉、琥珀製棗玉、ガラス玉などといった豊富な出土品が検出された。円墳の中では比較的新しい時代に造営されたと考えられている。西谷古墳:墳丘は現存しているが、道路計画のため近い将来消滅が予想されている。墳丘長28メートルで、1951年に発掘調査が実施され、13体分以上の人骨とともに、刀子、ガラス玉、須恵器などが出土した。八丁塚古墳:直径24メートル。墳丘は現存している。1964年に発掘が行われ、直刀、馬具、金銅製耳輪、碧玉製管玉、琥珀製棗玉などが出土した。出土品の内容から、円墳の中でも新しい古墳であると考えられる。武平塚南方古墳:武平塚古墳の南西約200メートルのところにある。現在は墳丘の一部しか残っていない。現存の墳丘下には横穴式石室があるものと考えられている。墳丘上やその周囲からは円筒埴輪の破片が検出されており、内裏塚古墳群で埴輪を樹立した古墳は、内裏塚古墳、九条塚古墳、稲荷山古墳、古塚古墳の四つしかなく、いずれも盟主墳とそれに次ぐ規模の古墳のみであるため、武平塚南方古墳は前方後円墳である可能性が指摘されている。 =ペリー上陸記念碑= ペリー上陸記念碑(ぺりーじょうりくきねんひ)は、1853年(嘉永6年)のペリー艦隊の来航時、アメリカ大統領からの国書受け渡しの地となった神奈川県横須賀市久里浜に、ペリー上陸を記念して建立され、1901年(明治34年)7月14日に除幕された記念碑である。 ==概要== 1853年7月8日(嘉永6年6月3日)、ペリー率いるアメリカ海軍の艦隊が浦賀沖に来航した。ペリーはフィルモア大統領の国書を携えており、日本側を威圧しながら国書受け取りを要請した。ペリーの強圧に屈した幕府は長崎での対応を諦め、浦賀の隣の入江である久里浜でアメリカ大統領の国書を受け取ることになった。1853年7月14日(嘉永6年6月9日)、ペリーは久里浜に上陸して国書を日本側に引き渡した。 ペリーの久里浜上陸後47年を経た1900年(明治33年)10月、かつてペリー艦隊に少尉候補生として乗り込んでいたレスター・ビアズリー(Lester A. Beardslee)退役海軍少将が久里浜を訪れた。47年ぶりに久里浜を訪れたビアズリーは、ペリー来航を記念する事物が全く無いことに落胆した。ビアズリーは米友協会主宰の歓迎会の席などで、ペリー上陸を記念する事物が久里浜に全く無いことを遺憾とする意見を表明した。ビアズリーの意見に感銘した米友協会はさっそくペリー上陸記念碑の建設を決定する。米友協会は久里浜の現地見分や募金の呼びかけなど記念碑の建設に尽力し、碑文の揮毫は伊藤博文に依頼した。 1901年(明治34年)7月14日、日米両海軍の軍艦、そして桂太郎首相ら大勢の来賓を招き、ペリー上陸記念碑の除幕式が盛大に行われた。ペリー上陸記念碑は日米友好のシンボルとしての役割を果たしていたが、1941年(昭和16年)12月8日、日本がアメリカに宣戦して日米は敵国同士となり、やがて戦況が悪化する中で、ペリー上陸記念碑は人々の間に高まってきたアメリカ憎しの感情の格好のターゲットとなった。1944年(昭和19年)には、横須賀市の翼賛壮年団が中心となってペリー上陸記念碑の破壊運動が行われるようになり、1945年(昭和20年)2月8日、ついにペリー上陸記念碑は倒される。 しかし同年8月15日には終戦となり、11月には碑の再建工事が行われた。1947年(昭和22年)7月14日、ペリー上陸記念碑前でペリー上陸95周年記念式典が行われ、これを機に毎年7月半ばには久里浜ペリー祭りが行われるようになった。1953年(昭和28年)にはペリー来航100周年が盛大に祝われ、その後記念碑周辺の公園化、ペリー記念館の建設がなされ、記念碑は再び日米友好のシンボルとしての役割を果たすようになった。 ==国書受け渡しの地となった久里浜== 1853年7月8日(嘉永6年6月3日)、ペリー率いるサスケハナ、ミシシッピ、プリマス、サラトガの4隻の艦隊が浦賀沖に到着した。ペリー艦隊に接触した日本側は、来日の目的がフィルモア大統領の国書を日本の皇帝に受け渡すためであると把握した。日本側は長崎が日本唯一の対外交渉の窓口となっているので、日本での決まりに基づき長崎へ向かうように再三伝えたが、ペリー側は了承しなかった。その上、しかるべき高官が国書受け取りを行おうとしない場合、十分な兵力を率いて江戸に直接向かい国書を渡すと主張し、江戸湾内の測量を開始して、幕府側に圧力を加えた。ペリーの強硬姿勢を前に幕府側は譲歩を迫られ、ペリー艦隊を長崎に向かわせることを断念し、国書受け取りを決断した。 国書受け取りは当初、浦賀港入り口にあった燈明堂近くの、館浦で行われる予定であった。しかしここで江戸湾の警備を担当していた川越藩、彦根藩、会津藩、忍藩の四藩から猛抗議がなされた。四藩の言い分は、江戸湾の測量を強行するペリー艦隊に対して、あくまで攻撃を控え見守り続けるように指示され、江戸湾警備の役目を果たせなかった上に、狭くて四藩の警備陣が展開できる余地がない館浦では、国書受け取りという重要時までも蚊帳の外に置かれることになり、いったい何のために江戸湾警備に携わっているのかということであった。 結局国書受け取りの場所は、ペリー側の了承も得て浦賀の隣の入江である久里浜となった。久里浜には応接所として仮設の陣屋が設けられた。1853年7月14日(嘉永6年6月9日)の午前8時頃、ペリーらを久里浜へ案内するため、日本側から応接担当がサスケハナ号に向かった。国書受け渡しの当日、久里浜は江戸湾の警備を担当していた彦根藩、川越藩が陸、会津藩、忍藩が海上の警備を行う中、午前10時頃に日本側の応接担当に引率され、ペリー一行は久里浜に上陸した。 ペリーは操縦に必要な人員のみ船に残し、約300名の兵士を率いて久里浜に上陸した。上陸したペリー一行は隊列を整え、威儀を正して仮設の応接所へと向かった。ペリーは応接所で浦賀奉行の戸田氏栄と井戸弘道に、アメリカ大統領からの国書、ペリーの信任状、そしてペリーからの書簡2通を手渡した。戸田はペリーに対して日本語とオランダ語で書かれた受領書を交付し、国書受け渡しの目的を達したペリー一行は艦隊へと戻っていった。 ==記念碑建立の経緯== ===退役海軍少将ビアズリーの嘆き=== ペリー率いる黒船襲来をきっかけとし、日本の鎖国は破られ開国することになった。開国後、日本から多くの人々が学問や技術を学ぶために欧米諸国へ向かうことになる。アメリカにも多くの日本人が渡っていったが、明治時代後半になるとかつてアメリカで学んだ人々が、在米旧友親睦会、遊米人会という親睦会を組織するようになった。そして1898年(明治31年)12月には在米旧友親睦会、遊米人会が合同して米友協会が発足し、1900年(明治33年)9月、米友協会は金子堅太郎を会長とし、かつてアメリカで学問や技術等を学んだ日本人同士の親睦を図るとともに、日米友好親善に係わる活動を繰り広げるようになった。 ペリーの久里浜上陸から47年が経過した1900年(明治33年)10月、ペリー来航時は17歳の少尉候補生としてプリマス号に乗船し、その後アメリカ海軍の少将にまでなったレスター・ビアズリーが来日した。ビアズリーは1898年(明治31年)2月をもって退役しており、夫婦で日本などアジア諸国歴訪の旅の途上の日本訪問であった。1900年(明治33年)10月25日、ビアズリーは横浜からかつてペリーが上陸した久里浜へと向かった。彼はペリー上陸を記念する何らかのモニュメントがあるものと期待していたが、全くそのようなものがないことに落胆した。ビアズリーはペリーの日本来航が日本を開国へと導き、大きな歴史の転換点となったのにもかかわらず、ペリーの上陸地である久里浜にそのことを記念する事物が全く存在しないことを遺憾とする意見を、11月5日掲載の時事新報のインタビューの中で述べた。 折りしも日本では10月19日に第4次伊藤内閣が成立していた。第4次伊藤内閣には、米友協会会長の金子堅太郎が司法大臣、会員の星亨が逓信大臣として入閣した。また会員の中から駐オランダ大使、駐米公使館書記官に任命された人物がいたため、米友協会は11月6日に大臣就任祝賀会兼送別会を行うことになった。そして会を行うに当たり、在日中のビアズリーを招待するアイデアが出され、ビアズリーも出席を快諾したため、結局11月6日の会は大臣就任祝賀会兼送別会兼ビアズリー歓迎会となった。ビアズリーは米友協会主宰の歓迎会の席で時事新報のインタビューでも述べたように、ペリー上陸地の久里浜に記念となるものが全く無い現状を遺憾とする意見を述べた。米友協会の金子堅太郎会長以下、ビアズリーの意見に大きな感銘を受け、金子会長の提案によってその場で満場一致でペリー来航の記念碑建設の決議がなされた。 米友協会は11月11日、金子堅太郎、星亨ら10名の建碑委員を選出した。11月28日には、記念碑を久里浜に建設することや1901年(明治34年)7月14日のペリー上陸記念日に記念碑の落成式を行うことなどを取り決めた記念碑設立の要件を定めた。そして12月5日には雨宮敬次郎ら日本側と、ビアズリー夫妻、そしてシドモア(George Hawthorne Scidmore)米副総領事が碑の建設予定地である久里浜を検分した。検分の結果、約1500坪の土地に上陸記念碑を建設することとして、建設予定地に「嘉永六年米国水師提督彼理氏上陸紀念碑」と書かれた木標を立て、更にビアズリー夫妻ら4、5名が松の記念植樹を行った。 ===記念碑の建設=== 1901年(明治34年)に入ると記念碑建設への動きが本格化した。1月15日には米友協会の金子会長の名で、設立趣意書を各方面に配布するとともに募金を開始した。募金は順調に集まり、日米両国から寄せられた募金総額は6月末までに2万円余りに達した。その上、6月23日には宮内省から明治天皇の思召とのことで1000円が下賜された。 募金集めと並行して記念碑建設が開始された。途中、工事の届出を行っていなかったために東京湾要塞司令部から工事差し止めを言い渡されるアクシデントもあったが、届出を迅速に行ったために大事には至らず、建設は順調に進められた。記念碑本体となる石は、当初取り寄せた石が小さかったため、改めて大きな石を取り寄せたといい、高さ1丈5尺、幅8尺、厚さ1尺2寸、重量は10トンあまりの仙台産の花崗岩であった。台座は神奈川県根府川産の石が用いられ、高さ1丈8尺、幅1丈2尺、厚さ5寸、重さは9トンあまりであった。 碑文の揮毫は当初書家に依頼していたが、字があまりに平凡で記念碑にふさわしくないとのことで、雨宮敬次郎の意見により伊藤博文に依頼することになった。その結果、碑の表側には伊藤筆の「北米合衆国水師提督伯理上陸紀念碑」との文字が刻まれることになった。裏面上部には嘉永6年6月9日上陸、明治三十四年七月十四日建立、下部には英文で碑の説明が刻まれた。石工は横浜市日の出町の横溝豊吉であった。記念碑の工事は7月6日には完成した。 ===盛大な除幕式=== 米友協会は当初、ペリー上陸記念碑の除幕式は簡素なものを予定していた。しかし1901年(明治34年)6月、アメリカ側からペリー記念碑除幕式にペリーの孫に当たるフレデリック・ロジャーズ(Frederick Rodgers)少将率いる軍艦三隻が参加する旨の通知がなされ、その上、宮内省からの下賜金も受けた。そのため、米友協会は各方面の支援を仰いだ上で盛大な除幕式を挙行する計画を立てることになった。 米友協会では7月14日の除幕式当日、東京から横浜まで式典参列者のために臨時列車の運転を逓信省に依頼し、横浜から久里浜までの交通手段として日本郵船などに船のレンタルを依頼した。そして海軍には久里浜に仮桟橋の建設やテントの貸し出し、陸軍にもテントの貸し出しを依頼した。また式典終了後には立食パーティを計画し、立食で振る舞われる食べ物は東京から搬送し、1000人を予定した参加者のために50名の給仕を雇う計画などを立てた。 実際の式典の会場設営では、土木関係者とともに軍艦天城の乗組員が活躍した。また会場で用いられる椅子やコップなどの備品は横須賀鎮守府から全て借りた。そして横須賀鎮守府から派遣された海軍兵士は久里浜の海岸に仮の桟橋を設営した。一方陸軍は軍楽隊を派遣し、テントの貸し出しを行うとともに、日本赤十字社の病院船博愛丸の貸し出しを周旋した。そして式典前日の7月13日から米友協会の金子会長らは久里浜入りし、式典の準備に当たった。 7月14日は雨の一日となった。久里浜沖にはペリーの孫に当たるロジャーズ少将率いる三隻のアメリカ軍艦、ニューヨーク号、ヨークタウン号(USS Yorktown)、ニューオーリンズ号、そして日本側は天城、金剛、扶桑、初瀬の四隻、計七隻の軍艦がペリー記念碑の除幕式を祝い、満艦飾を施して集結した。日本の四隻の軍艦は、当時日本海軍で最も旧式の軍艦であった天城、中堅クラスの金剛、扶桑、そして最新鋭艦であった初瀬が参加することにより、これまでの日本海軍の進歩の道筋を示す意図が込められていた。そこにまず桂太郎首相、児玉源太郎陸軍大臣、山本権兵衛海軍大臣、曾禰荒助大蔵大臣、平田東助農商務大臣、芳川顕正逓信大臣らを乗せた軍艦敷島が到着した。 首相、閣僚以外の日本側の式典参加者には、西郷従道海軍元帥、伊東祐亨海軍大将、大山巌陸軍元帥、寺内正毅陸軍中将ら軍人、そして榎本武揚、徳川家達、千家尊福、渋沢栄一、大倉喜八郎、浅野総一郎ら、著名人が参加した。アメリカ側もロジャーズ少将、記念碑建設のきっかけを作ったビアズリー退役少将、ベローズ(Edward Clark Bellows)横浜総領事、シドモア副総領事らが参加した。 会場入り口は日米両国の国旗、そして三浦郡有志の寄付によるペリーと戸田氏栄の大きな人形が飾られていた。式典は軍楽隊による君が代吹奏の後、久里浜沖に停泊する日米両国の軍艦から放たれる祝砲が轟く中、金子堅太郎とロジャーズ少将によるペリー上陸記念碑の除幕により開始され、まず米友協会の金子堅太郎、そして桂太郎首相、ロジャーズ少将、周布公平神奈川県知事らの祝辞と続き、最後にビアズリー退役少将のペリー日本来航などの回想談で幕を閉じ、続いて立食パーティが行われた。パーティの後、参加者は会場内に飾られたペリー来航時の記念物などを見学した後、散会となった。 ===除幕式後のペリー記念碑=== 1908年(明治41年)10月、アメリカの大西洋艦隊が日本に訪れることになった。米艦隊の訪問を前に、久里浜のペリー上陸記念碑では碑の周囲を囲う柵を新設することとなり、艦隊訪問前に完成した。10月18日、米大西洋艦隊は日本に到着し、浦賀水道を通り横浜へ向かった。米艦隊が沖合いを通過する久里浜のペリー上陸記念碑前は、歓迎のため米国旗などで飾り立てられ、数百発の花火が打ち上げられた。 1917年(大正6年)11月にはかつてサスケハナ号に水兵として乗り組み、ペリーの日本来航に同行したウィリアム・ハーディ(William Howard Hardy)が来日し、久里浜のペリー上陸記念碑を訪問した。1853年(嘉永6年)当時17歳であったハーディは既に80歳を越えていた。1922年(大正11年)7月にはアメリカ海軍長官エドウィン・デンビーが、瓜生外吉海軍大将の案内で記念碑を訪れた。ハーディもデンビーとも久里浜では地元の人々との交流を行い、ペリー記念碑は日米親善にその役割を果たしていた。 ==倒された記念碑== 1941年(昭和16年)12月8日、日本は大東亜戦争(太平洋戦争)の宣戦を布告して、アメリカと戦うことになった。戦況が不利になってくると、日本国民の中にアメリカの事物を憎む声が高まってきた。そのような中、ペリーの功績を称えるペリー上陸記念碑は人々の憎しみの格好の標的となった。 1944年(昭和19年)、横須賀市の翼賛壮年団は有志たちと共にペリー上陸記念碑破壊を訴え出した。横須賀市の翼賛壮年団は、開戦の大詔渙発記念日にあたる1944年(昭和19年)12月8日を期してペリー記念碑を粉砕し、靖国神社の参道に撒いて参拝者に踏み付けにしてもらおうと計画した。 翼賛壮年団の面々はまず横須賀鎮守府長官を尋ね、ペリー上陸記念碑破壊に対する協力を依頼した。しかし大戦の最中、このようなことに係わりあう暇など無いといったんは門前払いされた。それでも翼賛壮年団は執拗に協力を要請したところ、鎮守府長官は、「記念碑には罪は無く、倒してしまおうとは大国民としてあまりに大人気ない、そんなに憎いのならば碑に喪章でも着けたらどうだ」と言い、相手にしなかった。 横須賀鎮守府長官の協力を得られなかった横須賀市の翼賛壮年団員らは、神奈川県庁に県知事を尋ねた。ペリー上陸記念碑は1935年(昭和10年)2月に、米友協会から県庁内の伯理記念碑保存会が管理を引き継いでいた。神奈川県知事は伯理記念碑保存会の会長であり、神奈川県連合翼賛壮年団長でもあったため、翼賛壮年団員は県知事に碑の破壊の了承を取り付けようとしたのであった。当時神奈川県知事を務めていた藤原孝夫は、十分に検討して結論を出すとして即答を避けた。記念碑建立に際しては宮内省からの下賜金が出ており、碑の破壊には宮内省の了承も必要であった。 横須賀市翼賛壮年団は会長名で12月6日、声明書を発表してあくまでペリー上陸記念碑の破壊を主張し、また「天誅」と大書した柱を碑の側に立てた。そして横須賀市翼賛壮年団は徳富蘇峰と連絡を取り、碑の破壊後には徳富蘇峰の筆による「護国精神振起之碑」建立計画を計画するに至った。神奈川県の藤原知事は県の翼賛壮年団幹部と協議し、更に徳富蘇峰らから意見を聞いた。この間、記念碑を破壊することを強硬に主張する元軍人らの翼賛壮年団員から、知事は短刀を突きつけられたこともあったと伝えられている。結局1945年(昭和20年)2月4日、藤原知事はペリー上陸記念碑の撤去を決断した。碑の破壊は2月8日と決められた。 1945年(昭和20年)2月8日、藤原知事、大場四平東京湾要塞司令官らが見守る中、記念碑の撤去が始まった。作業には横須賀鎮守府庁舎などを建設した、横須賀の建設業者であった馬淵組が中心となって当たることになった。まず碑を一気に倒そうと台座に発破をかけたところ、跳ね飛んだ破片で近くの商店のガラス窓が割れてしまった。作業に立ち会っていた工学博士に意見を聞いてみると、碑を破壊するとその衝撃で近隣の家屋などのガラスに相当な被害が出ることが予想されるとのことであった。当時、第二次世界大戦末期で物不足が著しくなってきており、貴重なガラスが破損しては大変だということで、急遽碑の全面に砂を盛り、その上に資材置き場から持ってきた米俵、ムシロなどを敷き詰め、碑の倒壊時の衝撃を和らげることにして、更にペリー上陸記念碑に大綱をかけて、翼賛壮年団員らが人力で引き倒すことにした。 ペリー上陸記念碑は翼賛壮年団員らの手によってあっけなく倒された。予定ではペリー上陸記念碑の跡には徳富蘇峰の筆による「護国精神振起之碑」の石碑が立てられる予定であったが、まだ作成されていなかったので、とりあえず高さ3メートル近くになる木製の「護国精神振起之碑」が立てられた。 ペリー上陸記念碑が倒された直後、横須賀市は空襲の被害を受けた。さっそく人々の間に「記念碑が倒されたことを知ったアメリカが報復に出たに違いない」との噂が広まった。ペリー上陸記念碑を砕石機で粉々にしてしまう計画があったが、アメリカの報復という噂が立てられたこともあっていつしか沙汰止みとなった。久里浜の海軍工作学校にあったヒョウタン池の橋にしてしまい、碑を兵隊たちに踏みつけにしてもらおうとの声も挙がったが、戦況の悪化で碑を運ぶ重機にも事欠くありさまであり、結局ペリー上陸記念碑は倒されたままの状態で1945年(昭和20年)8月15日の終戦を迎えることになった。 ==再建== 終戦後、チェスター・ニミッツ、ウィリアム・ハルゼー・ジュニアらが、横須賀上陸直後に倒されたペリー上陸記念碑を見に来たという。このような中、記念碑の撤去に携わった人々は戦犯にされるのではないかとの恐怖に怯えた。しばらくして浦賀警察署から碑の撤去作業の中心となった馬淵組の関係者が呼び出された。恐る恐る警察署に向かった馬淵組の関係者は責任追及ではなく碑の再建を依頼され、胸をなでおろした。さっそく馬淵組は再建に取り掛かったが、アメリカ側も関心があったようで数人のアメリカ人が作業を見守ることになった。中に日本語の上手なアメリカ人がいて、作業を見に来た子どもたちに「これを倒すときにどうやって倒しましたか?どういう人がやりましたか?」などと聞き始めたので、冷や汗を流す羽目になった。なおペリー上陸記念碑破壊に関してはGHQが藤原神奈川県知事を尋問したが、知事は全て自分の責任で行ったことであり、横須賀の翼賛壮年団は自分の命により労力を提供したに過ぎず、全責任がある私がこの件で処分されるのも止むを得ないと考えていると述べた。結局この件に関しては藤原知事も処分されることはなかった。 記念碑の再建は、まず台座の周囲に足場を組み、碑を傷つけないために支柱として電柱を4本立てた。碑の再建には当時としては破格の2万円が工事費として支給され、馬淵組は社員、協力会社総動員で作業に当たった。倒される前の碑は石が地面に垂直になるよう立てられていたが、自然石に碑文が刻まれていたために文字は地面に垂直になっていなかった。馬淵組は文字に水糸を合わせ、碑文が地面に垂直になるよう再建作業を進めた。 そして1945年(昭和20年)11月、ペリー上陸記念碑は再建された。 1947年(昭和22年)7月14日、デッカー(Benton Weaver Decker)アメリカ海軍横須賀基地司令官や内山岩太郎神奈川県知事を招き、ペリー上陸記念碑前でペリー上陸95周年記念式典が行われた。その後、久里浜ペリー祭りが継続して行われるようになり、1953年(昭和28年)にはペリー来航100周年が盛大に祝われ、翌年にはペリー上陸記念碑周囲の整備がなされ公園化された。1987年(昭和62年)にはペリー記念館がオープンし、そして2007年(平成19年)3月12日には、ペリー上陸記念碑は横須賀市指定重要有形文化財に指定された。 =ウルム戦役= ウルム戦役(ウルムせんえき、英語: Ulm Campaign)は、第三次対仏大同盟中の1805年にフランス帝国とバイエルン軍の軍事的な機動によってオーストリア軍を捕らえた戦役である。この戦役はシュヴァーベンの都市ウルム近郊で生じた。フランス皇帝ナポレオン・ボナパルド率いる、大陸軍は210,000人から成る7個軍を保有しており、ロシア軍の増援が来る前にドナウ川のオーストリア軍を撃滅することを狙っていた。10月20日、ナポレオンは迅速な行軍によりマック将軍率いる23,000人のオーストリア軍をウルムで降伏させる事に成功し、この戦役を通して60,000人のオーストリア軍を捕虜とした。一般的にこの戦役は戦略上最も偉大な勝利であると考えられており、19世紀末のシュリーフェン・プランに大きな影響を与えた。 このウルム戦役によって戦いは終わったわけではなく、まだウィーンの近くにはミハイル・クトゥーゾフ率いるロシア軍が控えていた。ロシア軍はオーストリア軍の生き残りと合流するために北東に撤退した。フランス軍は11月12日にウィーンを占領した。12月2日にアウステルリッツの戦いでフランスは決定的な勝利を得て、オーストリアはこの戦争から離脱した。12月の終わりに、プレスブルクの和約により、第三次対仏大同盟は崩壊し、フランスの覇権は中央ヨーロッパにまで及んだため、翌年、プロイセンとロシアによる第四次対仏大同盟が結成された。 ==序章== 1792年よりヨーロッパはフランス革命戦争に巻き込まれた。5年の戦いの後の1797年に、フランスは第一次対仏大同盟を崩壊させた。1797年に第二次対仏大同盟が結成されたが、1801年には崩壊した。イギリスだけがフランスの統領政府に敵対し続けたが、1802年3月にフランスとイギリスはアミアンの和約によって講和した。この講和によって10年ぶりにヨーロッパ全体に平和が訪れた。しかし表面的には講和が結ばれたものの、アミアンの和約における取り決めはほとんど遵守されなかった。イギリスは1793年以来の植民地の征服に反発し、フランスはマルタ島からイギリスが撤退しないことに反発していた。ナポレオンがハイチ革命を終結させるために遠征軍を送ると両国の関係はさらに悪化し、1803年、イギリスは再びフランスに宣戦布告した。 ===第三次対仏大同盟=== 1804年12月にイギリスとスウェーデンは第三次対仏大同盟の結成に同意した。1804年から1805年にかけて、イギリス首相のウィリアム・ピットはフランスに対する新たな同盟の形成を目指して奔走した。イギリスとロシアが互いに抱いていた不信感はフランスの政治的失策によって弱まり、両国は1805年4月に同盟を結ぶに至った。フランスに2度の敗北を味わされた記憶がまだ新しいオーストリアは、報復を果たそうと数ヶ月後れで第三次対仏大同盟に加入した。 ===フランスの軍事的準備=== 第三次対仏大同盟の結成前に、ナポレオンはイギリスへの侵攻軍を編成し、北フランスのブローニュに6つの野営地を設けた。この侵攻軍がイギリスに上陸することはなかったが、ナポレオンの軍はあらゆる可能性に備えて、軍事的な作戦の訓練を行っていた。侵攻軍の間では早くも訓練に退屈する気配はあったが、ナポレオンは何度も出向いて豪華なパレードを行う事で、士気を維持していた。 ブローニュで編成された軍は後にナポレオンに大陸軍と呼ばれるようになった。まず、フランス軍は200,000人の兵を7個軍団に編成した。1軍団あたり、36から40門のカノン砲を保有しており、それぞれの軍団は独立して作戦を行う事ができた。ナポレオンは22,000人の騎兵予備から胸甲騎兵2個師団、乗馬竜騎兵4個師団を創設し、下馬竜騎兵と軽騎兵2個師団を編成し、それぞれ24門の野砲を装備した。1805年までに大陸軍は350,000人にまで拡大した。下士官から元帥に至るまでの全ての階級でフランス革命戦争以来、経験を積んだ優秀な将校を保有していた。 ===オーストリアの軍事的準備=== オーストリア皇帝の弟のカール大公は宮廷軍事局の権力を把握した1801年から、オーストリア軍の改革を始めていた。軍政治評議会はオーストリア軍の政策決定を担っていた。カール大公は最も優秀なオーストリアの指揮官であったが、宮廷では人気がなく、彼の意見は外交に反映されず、オーストリアはフランスに宣戦布告した。 マック将軍がオーストリア軍の新たな総司令官に就任し、戦争前に歩兵の軍編成の改革を行った。もともとオーストリア軍は1連隊を3つの大隊、そして大隊を6つの中隊により編成していたが、1連隊を4つの大隊、大隊を4つの中隊により編成し直した。この急な変更は将校の訓練と調和しなかったため、新たに編成された軍の指揮は十分な戦術的訓練を受けていない指揮官に委ねられた。 オーストリアの騎兵はヨーロッパで最良の騎兵であると見なされていたが、多くの騎兵が歩兵の陣営に組み込まれてたため、結束したフランス軍に対抗する力とはなり得なかった。一方のナポレオンは大量の騎兵師団を運用し、戦局に影響を与えた。 ==戦役== ウルム戦役は一ヶ月近く続き、ナポレオン率いるフランス軍は混乱するオーストリア軍に打撃を与えた。10月20日、オーストリア全軍が敗北した。 ===オーストリアの計画=== マック将軍はオーストリアの安全保障がフランス革命戦争中に多くの戦いが行われてきた南ドイツのシュヴァルツヴァルト一帯の隙間を埋める事にかかっていると考えていた。ドイツ中部では何の軍事的行動も起きないと考えたマックは、ウルムを防衛戦略の中心に据えることにした。そのためには、ミハイル・クトゥーゾフ率いるロシア軍が到着してナポレオンに対する勝算が増すまで、フランス軍を食い止める必要があった。要塞化されたミヒェルスベルクの高地に守られているため、ウルムは事実上外からの攻撃によって陥落できない都市であるという印象をマックは持っていた。 致命的な事に、宮廷評議会はハプスブルク家にとっての主戦場を北イタリアとすることを決定した。95,000名の軍を率いることとなったカール大公は、アディジェ川を渡り、マントヴァ、ペスキエーラ・デル・ガルダ、ミラノを主な目標とした。ウルムのオーストリア軍は72,000名程で構成されていた。建前上はフェルディナント大公によってオーストリア軍は指揮されていたが、実際の権限はマックが保有していた。オーストリアの戦略ではヨハン大公の23,000名の軍に、ティロル(英語版)を防衛し、カール大公の軍とフェルディナントの軍との連携を保つことを求めた。またオーストリアは、ポンメルンのスウェーデン軍とナポリのイギリス軍を支援するために独立した軍団を送ったが、それらはフランス軍を混乱させ、兵力を転用させることを目的としていたものであった。 ===フランスの計画=== 1796年と1800年の戦役では、いずれもドナウ川周辺がフランス軍の戦闘の中心地になるとナポレオンが考えたにもかかわらず、イタリアが最も重要な舞台となった。宮廷評議会はナポレオンがイタリアを再び攻撃すると考えたが、ナポレオンには別の目的があった。210,000のフランス軍はブローニュの野営地から東に向かい、もしオーストリア軍がシュヴァルツヴァルトに向かって行軍を続けるなら、マック将軍のオーストリア軍を包囲するつもりだった。一方、ジョアシャン・ミュラはフランス軍が西から東へと直接行軍しているとオーストリア軍に思わせる囮となるため、部隊をシュヴァルツヴァルトを通り抜けさせた。ドイツでの主軍の攻撃は他の戦域でのフランスの攻撃によって援護される予定だった。アンドレ・マッセナはイタリアにて50,000名の兵を率いて、カール大公のイタリア軍と対峙しており、ローラン・グーヴィオン=サン=シールは20,000人の兵士と共にナポリに向かい、ギヨーム=マリ=アンヌ・ブリューヌはイギリスの侵攻に備えて、ブローニュを警備していた。 ミュラとアンリ・ガティアン・ベルトランはティロルとマイン川に参謀のアンヌ・ジャン・サヴァリ(英語版)を偵察として送り込み、ライン川とドナウ川の間の地域の詳細な道路の調査を作成した。大陸軍の左翼は北ドイツのハノーファーとオランダのユトレヒトの間からヴェルテンベルクへと向かっていった。右翼と中央はイギリス海峡沿岸からマンハイムやストラスブールなどのライン川中部の都市に沿って集中した。ミュラがシュヴァルツヴァルトが通れることを証明している間、フランスの軍の主力はドイツの中心部に侵攻し、南東に進みアウクスブルクを占領した。この動きはマック将軍を孤立させ、オーストリア軍との連絡網を断ち切る事を目的としていた。 ===フランスの侵攻=== 9月22日にマックはウルムに流れるイラ川の戦線を保持する事を決定した。9月28日から30日の間にフランスはオーストリア軍の後方へと猛烈な行軍を開始した。マックはフランス軍がプロイセンの領土に侵入することはないと信じていたが、ベルナドットの第1軍団がプロイセンのアンスバッハを経由して行軍していると聞いた時、南に撤退するのではなく、ウルムに留まって防衛する事を決定した。もしこの時マックが撤退していれば、彼の軍の大半を保持しておく事が可能だったと考えられている。ナポレオンはマックの動きについての正確な情報がほとんど持っていなかった。キーンマイヤーの軍団がインゴルシュタットに移動し、フランスの東側にいる事は把握していたが、この情報は軍団の規模が大きく誇張されていた。10月5日にナポレオンはネイにランヌとスールトとミュラに対して、軍を密集させた上で、ドナウヴェルトからドナウ側を渡るように命じた。しかしフランスの包囲は完成しておらず、キーンマイヤーの軍の逃亡を許してしまう。フランスの軍団は全てが同じ場所に到着する事はなく、代わりに東西に長い戦線を展開することになり、スールトとダヴーがドナウヴェルトに早く到着した事でキーンマイヤーは警戒心を掻き立ててしまった。ナポレオンはオーストリア軍がウルムに集結している事を徐々に理解し、フランス軍の大半をドナウヴェルトに集中させることを命じた。10月6日にフランスの3個師団と騎兵軍団はマックの退却路を封じるために、ドナウヴェルトに向かった。 マックは包囲されつつある状況を理解していたので、攻勢を行う事を決定した。10月8日に自軍にギュンツブルク周辺に集中し、ナポレオンの連絡線に打撃を与えようとした。マックはキーンマイヤーに対し、ナポレオンをさらに東のミュンヘン、アウクスブルク方面へとおびき寄せるように命じた。ナポレオンはマックが自軍の拠点を離れてドナウ川を渡る可能性はあまりないと考えていたが、ギュンツブルクの橋の制圧は戦略的に利点が大きいと理解していた。この目標を達成するために、ナポレオンはネイの軍団をギュンツブルクに送り、同じ場所に向かっているオーストリア軍に気付かれることなく、橋を抑えようとした。しかし10月8日にヴェルティンゲンで、ウルム戦役で最初の大きな戦いがオッフェンブルクとミュラ・ランヌの軍の間で生じた。 ===ヴェルティンゲンの戦い=== 理由は完全には分かっていないが、10月7日にマックはフランツ・クサーヴァー・フォン・アウフェンベルク(ドイツ語版)に5000名の歩兵と400の騎兵を用いて、オーストリア主軍がウルムを出て進軍するための準備として、ギュンツブルクからヴェルティンゲンに向かうよう命令した。不明瞭な目的と戦力の増強の望みがほとんどなかったため、ヴェルティンゲンは危険に晒されていた。最初に到着したフランス軍はミュラの騎兵軍団であり、ルイ・クレイン(英語版)の第1竜騎兵師団とマーク・アントワン・ド・ボーモン(Marc Antoine de Beaumont)の第3竜騎兵師団、エティエンヌ・マリー・アントワーヌ・シャンピオン・ド・ナンスーティ(英語版)の第1胸甲騎兵師団から構成されていた。これらの軍団がオーストリアへの攻撃を開始し、さらに北東からニコラ・ウーディノの擲弾兵が戦列に加わり、オーストリア軍に対して側面攻撃を仕掛けようとした。アウフェンベルクは南西に撤退しようとしたが、機動力が追いつかなかった。オーストリアはほとんど全ての兵力を失い、1000名から2000名が捕虜となった。こうして、ヴェルティンゲンの戦いはフランス側の勝利となった。 ヴェルティンゲンでの交戦を受けて、マックは右岸に沿って東へ撤退するのではなく、ドナウ川の左岸(北岸)で軍事行動を継続する意を決した。そのために、マックはギュンツブルクから北へ渡る必要があった。10月8日、ネイはルイ・アレクサンドル・ベルティエから翌日にウルムに直接攻撃を仕掛けるよう指示を受け、実行に移した。ネイはドナウ川にかかるギュンツブルクの橋を制圧すべく、ジャン=ピエール・フィルマン・マラー(英語版)の第3師団を送った。ギュンツブルクの戦い(英語版)において、師団の縦列はオーストリアの軍団に遭遇し、司令官のコンスタンティン・ギリアン・カール・ダスプレ(英語版)を含む200名の兵と2つのカノン砲を捕らえた。 この事態に気付いたオーストリア軍はギュンツブルク周辺に展開している自軍に3個歩兵大隊と20のカノンから成る増援を送った。マラーの師団は何度かオーストリアに対して果敢な攻撃を仕掛けたものの、全て失敗に終わった。マックはイグナツ・ギュライ(英語版)に7個歩兵大隊と4個騎兵大隊を送り、破壊された橋の修復に向かわせたが、遅れてやってきたフランス軍の第59歩兵連隊によって掃討された。掃討時に激戦が生じ、フランス軍は最終的にドナウ右岸(南岸)に橋頭堡をなんとか確保した。ヴェルティンゲンの戦いの間、ネイはエルヒンゲン(英語版)にあるドナウ川の橋を確保するためにルイ=アンリ・ロワソン(英語版)の第2師団を送り込んだ。エルヒンゲンはオーストリア軍によって、軽度の防衛が施されていた。ドナウ川の橋の大半を失ったので、マックはウルムへと引き返すために、行軍を開始した。10月10日までにネイの軍団は大きく前進した。マラーの第3師団はドナウ川南岸へと渡河し、ロワソンの第2師団はエルヒンゲンを保持し、ピエール・デュポンの第1師団はウルムへと向かった。 ===ハスラッハ=ユンギンゲンの戦い=== 士気を挫かれたオーストリア軍は10月10日未明にウルムに到着した。マックは今後の行動方針を慎重に考え、11日までオーストリア軍はウルムで何の行動も行わなかった。一方ナポレオンは欠陥がある仮説の元に作戦を実行していた。彼はオーストリア軍か東か南東に進軍し、ウルムを軽度に守備していると信じていた。ネイはナポレオンの考えを誤解だと感じていたので、ベルティエに手紙を書き、実際にはフランス軍が当初想定していたよりもずっと重厚にウルムが防御されている事を伝えた。この間、ナポレオンは東に位置するロシア軍の脅威に気をとられるようになり、ミュラがネイとランヌの軍団で構成され右翼の指揮を任された。ここへ来てフランス軍は両翼に分かれることになった。ネイ、ランヌ、ミュラの軍は西でマックを包囲する一方、スールト、ダヴー、ベルナドット、マルモンはオーストリア軍、ロシア軍の到来に備え、フランス軍の東側の守備をしていた。10月11日、ネイはウルムに対して、新たな攻勢を開始した。第2師団、第3師団はドナウ川の右岸に沿ってウルムへ行軍し、1個竜騎兵師団に支援されたデュポンの師団がウルムに直接行軍し、ウルム全体を占領しようとした。ネイはオーストリア軍全体がウルムに駐留していることを知らずに、この攻勢を開始したため、この攻勢は成功する見込みがなかった。 デュポンの師団の第32歩兵連隊はハスラッハ・アン・デア・ミュール(英語版)からウルムへと行軍し、ベッフィンゲンを保持しているオーストリア軍の4個連隊に遭遇した。第32歩兵連隊は獰猛な攻撃を仕掛けたが、オーストリア軍は強固であり、この攻撃を撃退した。オーストリア軍はデュポンの展開しているネイの軍団に対して、決定的な打撃を与えるために、ウルムのユンギンゲンの歩兵連隊と騎兵を用いてこの戦いに殺到した。デュポンはこの状況を理解し、ユンギンゲンでの奇襲をオーストリア軍に対して先手を取って攻撃を阻止し、この間に、1000名のオーストリア軍の捕虜を捕えている。オーストリアの再攻撃でフランス軍はハスラッハ・アン・デア・ミュールまで押し戻されたが、この拠点はなんとか保持した。デュポンは結局退却し、オールベックを拠点とし、ルイ・バラゲイ・ディリエ(英語版)の竜騎兵に加わった。ハスラッハ=ユンギンゲンの戦いがナポレオンの作戦にどのような影響を及ぼしたかは定かでないが、最終的にナポレオンはオーストリア軍の大半がウルムに集結している事実に気付いたと思われる。結果的に、ナポレオンはスールトとマルモンの軍団をイラー川(英語版)へ向かわせた。この作戦の意図するところは4個歩兵師団と1個騎兵師団をマックと取引させる事であった。ダブー、ベルナドットとバイエルン軍(英語版)はこの時まだ、ミュンヘン周辺の地域を防衛していた。ナポレオンは河を渡って戦う事を意図しておらず、元帥たちにウルム周辺の重要な橋を確保するよう命じた。この時ナポレオンは都市を包囲できる可能性よりも、都市周辺で戦闘が起きる事を予想していたので、軍をウルムの北に移動させた。この時ネイがオールベックに進軍した結果、14日にユンギンゲンにて戦闘が生じた。 この時点に至って、オーストリアの司令官たちは完全に混乱していた。マックの命令はオーストリア軍を進ませたり、撤退させたりする矛盾した内容であったため、フェルディナントは公然とマックの命令と決定に反対し始めた。10月13日マックは2つの縦列をウルムの外に送り、北への突破の準備を行い始めた。ヨーハン・ジギスムント・リーシュに率いられた1つ目の隊列は橋を守るためにユンギンゲンに向かい、フランツ・フォン・ヴェルネック率いるもう一つの隊列は大半の重砲を装備し北に向かった。ネイはまだドナウ川の北にいるデュポンとの連絡網を再構築するために軍を急行させた。 ネイはロワゾンの師団をドナウ川の右岸のユンギンゲンの南に誘導し、戦闘を開始した。マラーの師団は東の河を渡り、リーシュのいる西へと向かっていった。この戦場は部分的に森が覆い茂っている平野で、丘の上の都市のユンギンゲンに向かって、緩やかに坂が続いていた。そしてユンギンゲンからは戦場を広く見渡すことができた。フランス軍はオーストリア軍の小哨を橋から取り除いた後、連隊による大胆な攻撃を開始し、丘の頂上にある修道院を確保した。エルヒンゲンの戦い(英語版)の間、オーストリアの騎兵も敗北し、リーシュの歩兵もウルム方面に逃れている。ネイはこの戦いでの勝利で、エルヒンゲン公爵の称号を得た。 ===ウルムの戦い=== 10月13日にニコラ=ジャン・ド・デュ・スールトの第4軍団は東からメミンゲンに向かっていった。16日に小さな衝突が生じ、フランスの損害は16名に対し、カール少将を含む4600名の兵士が降伏し、8つの野砲と9つの軍旗を獲得した。オーストリア軍はウルムから遮断されたため、弾薬不足に陥り、司令部の混乱のために士気が完全に低下していた。 14日に更なる行動が行われた。ヴェルネックでのオーストリアの攻撃時に、丁度ミュラの軍がオールベックのデュポンの部隊に加わり、攻勢を撃退した。ミュラとデュポンは北のハイデンハイム(英語版)方面へ逃れるオーストリア軍を叩きのめした。15日の夜に、フランスの2個軍団はウルムの外側のミヒェルスベルクのオーストリア軍の野営地の近くに駐在していた。この時マックは危険な状況に置かれていた。もはや河の北側に逃れるすべはなく、マルモンと親衛隊(英語版)が河の南側からウルムの周辺に陣取っており、スールトがオーストリア軍のティロル方面への撤退を防ごうとメミンゲンから北上していた。問題はこれだけに留まらず、オーストリアの司令官のフェルディナントがマックの指示を無視し、6000名の全ての騎兵に対してウルムから逃れるよう命令していた。しかしミュラの追撃は非常に効果的で、11個騎兵大隊のみが、ハイデンハイムのヴェルネックの部隊に加わる事ができた。ミュラはヴェルネックへの攻撃を続け、10月19日にトロイヒトリンゲンにて8000名の兵士が降伏した。ミュラはオーストリアの野営地から500の荷車を奪い、ノイシュタット・アン・デア・ドナウ(英語版)方面へ向かいながら掃討を続け、12,000名のオーストリア兵を捕らえた。 10月15日にネイの軍団はミヒェルスベルクの野営地に突撃を行い、16日にフランス軍はウルムへの砲撃を開始した。オーストリア軍の士気は低く、マックはもはや救援の見込みが無いことを悟った。10月17日、マックはもし25日までに増援が来なかった場合、オーストリア軍が降伏する事を取り決めた文書に同意し、ナポレオンの使者であるセギュールと共にサインをした。しかしマックの耳にハイデンハイムとネーレスハイムでの降伏の知らせが徐々に入ってきたので、降伏を5日早めて、20日に降伏することに同意した。1500名のオーストリアの守備隊はかろうじて逃れたが、大半のオーストリア軍は10月21日に、武器を置いて、大陸軍に半円形に整列させられ、降伏した。将校は捕虜交換が行われるまで、フランス軍に対して武器を取らないことに合意した仮釈放状に署名し、去ることを許可された。この合意には10名を超える将官が含まれており、その中にはマック、ヨハン・フォン・クレーナウ(英語版)、バイエ・デュ・ラトゥール伯マクシミリアン・アントン・カール(英語版)、リヒテンシュタイン公とイグナツ・ギュライも居た。 ==結果== オーストリア軍のウルムでの降伏と同じくして、フランス・スペイン艦隊がトラファルガーの海戦で壊滅した。この海戦はイギリスにとって決定的であり、海上のフランスの脅威はなくなり、第一次世界大戦までイギリスの制海権が確定した。フランス海軍の壊滅にもかかわらず、ウルム戦役は劇的な勝利であり、フランスはほとんど損害なしで、オーストリア軍を撃滅した。大陸軍の第8報にはこの偉業を以下のように記載している。 2,000の騎兵を含む30,000人の兵士と60の野砲、40の軍旗が勝者の手に落ちた。この戦争が始まって以来、60,000名の捕虜と80の軍旗を手に入れた。これほど少ない犠牲で完全な勝利を得られたことはかつてない。 ピエール・オージュロー元帥がブレストから新しく編成された第7軍団(英語版)を連れて到着した事はフランスにとって良い知らせであった。11月13日にドルンビルンの降伏(英語版)で、フランヨ・イェラチッチの師団が追い詰められて、降伏した。ロシア軍はマックの降伏後、北東に退却し、ウィーンは11月12日に陥落した。12月のアウステルリッツの戦いで連合軍は完全に敗北し、数週間後に第三次対仏大同盟は完全に崩壊した。1796年のイタリア戦役でナポレオンが行ったのと同様に、ウルムでのフランスの勝利は機動力によるものであった。この機動は広く展開している敵軍の前線を足止めする部隊を展開する一方で、別の支援部隊が敵軍の後方か側面に布陣する。そして敵軍が足止め用の軍を相手している間、側面の軍が致命的な地点を攻撃し、勝利を確定させるというものである。ウルム戦役でシュヴァルツヴァルトからのフランスの攻撃が来ると想定していたオーストリア軍はジョアシャン・ミュラの騎兵によって釘付けにされた。ミュラはウルムへ向かうオーストリア軍を相手にしている間、フランスの主軍はドイツ中央を通り、敵軍を粉砕し、マックの軍をこの戦役の他の戦場から分離した。 ===戦役の意義=== ウルム戦役は歴史上最も重要な戦略的機動の一つである。歴史家はしばしばこの戦役を戦術的な戦いではなく、戦略的な戦いであったとみなしている。ウルムでの決定的な勝利はブローニュでの長い訓練と入念な準備によるものであると信じられている。大陸軍はほとんど荷物を持たず、作物の収穫時期に敵地に侵攻し、オーストリア軍の予想を上回る速度で行軍を行った。この戦役の最も重要な点は軍団の有用性を証明した事である。19世紀から20世紀の主な戦いにおいて軍団は基本的な戦略単位となった。典型的な軍団は3つの歩兵師団と偵察用の軽騎兵旅団と、各師団ごとに予備の砲兵大隊を装備していた。軍団の大きさは長期間支援なしに独立して戦う事ができる規模にまで拡大し、自ら軍を展開し、現地の食料を接収することで、軍を維持することができた。当時では見られないほどの機動力と柔軟性を維持するために、当時のフランス軍は現代の軍の1/8の補給を必要としていた。ジョン・チャーチルとジャン・ヴィクトル・マリー・モローが南ドイツに侵攻したときはカバーしている戦線は小さなものであったが、1805年の大陸軍は幅161kmもの前線にわたって侵攻した。オーストリア軍にとってこの動きは完全に奇襲となり、同軍に事態の深刻さを軽視させる原因となった。 =日本の道路標識= 日本における道路標識は本標識(案内標識、警戒標識、規制標識、指示標識)と、その本標識に付属する役割を持つ補助標識に区別されている。また、道路標識を設置する主体は都道府県公安委員会と道路管理者に分けられる。 道路標識の源流は江戸時代から設置が始まったとされる「道標」であり、日本で統一されたデザインの標識が設置され始めたのは大正時代のことである。その後、国内における道路交通情勢の変化に応じて様式の変遷・追加が行われ現在に至る。 日本の道路標識(にほんのどうろひょうしき)では、日本における道路標識について記述する。日本では道路上の安全と円滑のために道路標識が設置され、その様式や設置方法などは道路標識、区画線及び道路標示に関する命令に基づいて定められている。 ==概要== 日本では道路標識は道路における交通の安全と円滑を図るために設けられる。路面標示や信号機とは有機的あるいは補完的に設けられる。 日本の道路標識を大別すると本標識と補助標識に分けられる。本標識は案内標識、警戒標識、規制標識、指示標識の4つに区分され、補助標識は本標識に付属するものとしている。 案内標識は、道路案内のため主に青地または緑地に白の2色で表された標識で、目的地の方向や距離、現在地の情報、道路の路線番号などを通行者に伝えるために設置される。警戒標識は黄地に黒の2色で表された菱型の標識で、その先の交差点や踏切、車線減少、信号機や学校があることを通行者に注意を促すために設置される。規制標識は赤地に青・白または青地に白で表される。多くは円形あるいは四角形・逆三角形の標識で、通行者に通行規制や禁止事項を伝えるために設置される。指示標識は青地に白の2色で表される主に五角形や正方形の標識で、横断歩道、中央線、駐車可、優先道路などを運転者に伝えるために設置されるものである。また、補助標識は距離や区域、時間、車両の種類、方向など本標識を補足するための標識で、本標識の下に設けられる。 なお、これ以外に案内、注意喚起、指導用の看板類が設置されることがあるが、これらは一般に道路標識には含まれない。しかし、法令上で正式には定められていない標識として法定外標識と呼ぶことがある。 道路標識を設置・管理する主体で区別すると、都道府県公安委員会が所轄するものと、道路管理者(国土交通省、都道府県、市町村、NEXCOなど)が所轄するものに分けられる。規制標識および指示標識は都道府県公安委員会・道路管理者の両者が所轄する対象となるもの、もしくはどちらか片方が所轄するものが混在する。その一方で、案内標識と警戒標識は全て道路管理者の下で設置・管理が行われている。 法令上では定められていないが、交通に対する案内、警戒、規制、指示の内容を表現するために用いられる板を標識板、その標識板を固定するために用いられる支柱を標識柱と呼ぶ。 ==海外との比較== 陸上で国境を接する国同士では自動車による越境が日常的に行われているが、島国であり他国と接続する道路を持たない日本ではこのようなことがないため、日本とそれ以外の国では道路標識の内容やデザインに大きな差がある。 そもそも国家間で道路標識や交通制度を統一することは陸路貿易の活性化や交通安全保持のために必要であり、実際に多くの国が「道路標識及び信号に関するウィーン条約(ウィーン条約)」に則って道路標識を制定している。この条約で提示された国際連合道路標識(国連標識)は、古くから国境を越えて道路網が発展してきたヨーロッパの様式を基に、母語に関係なく意味が理解できるように設計されているため、結果的にこの目的に適うものとなっている。 日本はウィーン条約を批准しておらず、更に独自の基準で道路標識を制定しているため、諸外国との統一性はあまり見られない。実際は、一部ウィーン条約を尊重した法整備や訪日外国人のレンタカー利用増加に向けた対応を行っているものの、依然として国際標準とは大きく異なっている。 例えば「一時停止」の標識は国際的に八角形または円形が一般的だが、日本は逆三角形のものを使用している。また、漢字のみでデザインされた標識(「危険物積載車両通行止め」「停車可」など)もあり、このように外国人旅行者がその意味を解するのが困難な標識は、運転時に混乱を引き起こしストレスや事故の原因となり得るため、国連標識に近づけるなどの対策や再整備が必要であるという指摘がある。 一方、日本の禁止を表す標識は原則として赤い丸に赤い斜線を加えるという原則が保たれているため、これと赤い丸のみで禁止を表す標識が混在する国連標識などと比べて統一感があると言える。 また、日本は他国と比べて道路標識が数多く至るところに設置されている。 ==法律上の位置づけ== ===道路標識の設置に関する法律=== 道路管理者は、道路の構造を保全し、又は交通の安全と円滑を図るため、必要な場所に道路標識又は区画線を設けなければならない。 ― 道路法第45条 都道府県公安委員会(以下「公安委員会」という。)は、道路における危険を防止し、その他交通の安全と円滑を図り、又は交通公害その他の道路の交通に起因する障害を防止するため必要があると認めるときは、政令で定めるところにより、信号機又は道路標識等を設置し、及び管理して、交通整理、歩行者又は車両等の通行の禁止その他の道路における交通の規制をすることができる。この場合において、緊急を要するため道路標識等を設置するいとまがないとき、その他道路標識等による交通の規制をすることが困難であると認めるときは、公安委員会は、その管理に属する都道府県警察の警察官の現場における指示により、道路標識等の設置及び管理による交通の規制に相当する交通の規制をすることができる。 ― 道路交通法第4条 道路法、道路交通法に基づき道路管理者と都道府県公安委員会は道路標識を設置しなければならない。 前項の道路標識及び区画線の種類、様式及び設置場所その他道路標識及び区画線に関し必要な事項は、内閣府令・国土交通省令で定める。 ― 道路法第45条第2項 道路標識等の種類、様式、設置場所その他道路標識等について必要な事項は、内閣府令・国土交通省令で定める。 ― 道路交通法第4条第5項 ここで言う「内閣府令・国土交通省令」が道路標識、区画線及び道路標示に関する命令(以下、標識令)である。標識令によって様式や設置基準、設置主体が規定されている。なお、都道府県や市町村が設置する案内標識や警戒標識の寸法や文字の大きさは条例によって独自に定めることができる(道路法第45条第3項)。 また、法律には定められていない事項に関してはマニュアルや基準が整備され、これに則って計画・設計・施工・維持管理が行われている。 ===道路交通法と道路標識=== 道路交通法に基づく交通規制は道路標識または道路標示による明示によってはじめて強制力を持つものであり、明示が無い場合は法定の規制が働く。この原則を標識標示主義と呼ぶ。すなわち、交通規制を行う規制標識・指示標識は分かりやすさ・見やすさがなければ効力が発生せず、適法な設置の標識でも認識できない状況のものはその効力が失われる。そのため、樹木に隠れるなどして見づらい規制標識・指示標識は無効となる。また、公安委員会から正規の手続きを受けないで設置された規制標識・指示標識も無効とされ、たとえ取締を行ったとしても違反者に対して反則金の返還や違反歴の削除を行うこととなる。 ==設置方法== 標識を設置する際は建築限界を侵さず、視認性を損なわないようにしなければならない。道路標識の設置方法に関しては、道路管理者と公安委員会との設置主体の違いによって道路利用者に不便な道路標識が設置されているという指摘が存在する。また、同じ情報が複数表示されることのないよう、標識板の集約化などを行うことが望ましいとされている。 ===設置方法の分類=== 道路標識の設置方式は標識柱の形態によって以下のように分類される。 路側式:標識板を単一又は複数の柱に取り付け、道路の路端や歩道などに設置する方式。柱が1本のみの場合を単柱式、柱が複数ある場合は複柱式と呼ぶ。片持式(オーバーハング式):道路の路端や歩道などに設けられた柱から、梁を用いて車道部の上方に張り出させる方式。柱の形状によって逆L型・F型(この2つはF*9886*型・F*9887*型などと呼ばれる事もあり、ローマ数字は張り出した横棒の数に対応している)・テーパーポール型・T型などに分けられる。門型式(オーバーヘッド式):柱を道路を跨ぐように設置し、車道部の上方に標識板を設置させる方式。添加式:信号機、道路照明灯、横断歩道橋などに取付金具を用いて標識板を設置させる方式。 ===着雪対策=== 多雪地域において標識板に着雪することは視認性の悪化を招くため、標識板を傾斜して設置して風の流れを強くすることで着雪を防止してきた。一方で、大型の案内標識板は裏面に雪が積もって落雪が起こる事があるため、それを防ぐためにフラット型・屋根型・カバー型などの方法で標識板裏面の積雪を防いでいる。 ===基礎=== 道路標識の基礎は標識板や標識柱の自重および風荷重を安全に地盤に伝え、標識を堅固にする。道路標識の基礎は以下のものが一般的である。 直接基礎:一般道等の大型標識で多く見られ、長方形断面を道路進行方向に長くすることで風荷重に抵抗できる構造となっている。アンカーボルトを埋め込んで設置することが一般的である。ケーソン基礎:小型標識で見られる縦長の基礎で、支柱をコンクリートに埋め込むことが多い。杭基礎:高速道路等の法面に設置される標識で多く用いられる。コンクリート本体にH形鋼2本を使用したタイプが多いが、一方で市街地の片持式標識で設置スペースが制約される場合はH形鋼とアンカーボルトを直結した1本杭も用いられる。根かせ基礎:公安委員会が設置する小型標識に使用されることが多い。根かせのついた標識柱を土中に埋め込み、地際部をコンクリートで固める。置き基礎:一時的な仮設の標識で見られる形態で、コンクリートブロックに支柱を埋め込んだ構造が多い。 ==標識板== ===寸法=== 標識令において、道路標識の寸法が規定されている。単位はセンチメートル(cm)。 警戒標識 : 一辺45 cm円形の本標識 : 直径60 cm三角形の標識 : 一辺80 cm正方形の標識 : 一辺60 cm(一部の標識は90 cm)補助標識 : 横40 ‐ 60 cm、縦10 cm以上一部の案内標識は寸法の制限が設けられてなく、代わりに文字の大きさの基準値が設けられている(後述)。 道路の設計速度や交通の条件によって、道路標識の拡大や縮小が可能である。警戒標識の場合、設計速度が60 km/h (時速60キロメートル)以上の道路においては規定の2倍の大きさまで標識を大きくでき、設計速度が100 km/h 以上の場合は同様に2.5倍の大きさまで大きくできる。一方、規制標識や指示標識は規定の2倍の大きさまで拡大、又は1/2倍の大きさまで縮小できる。拡大する場合は通常は1.5倍に拡大したものを採用される。 道路標識の基準は、従来はすべての道路について、標識令によって規定されていたが、地方分権の流れのなかで、2012年4月1日からは、都道府県道や市町村道で設置する標識の寸法については、道路管理者である自治体の条例で定めることになった。具体的には、道路法第45条の規定が改正され、以下のようになった。 都道府県道又は市町村道に設ける道路標識のうち内閣府令・国土交通省令で定めるものの寸法は、前項の規定にかかわらず、同項の内閣府令・国土交通省令の定めるところを参酌して、当該都道府県道又は市町村道の道路管理者である地方公共団体の条例で定める。 ― 道路法第45条第3項 このように改正されたきっかけは、金沢市が2006年(平成18年)3月31日に内閣府の構造改革特別区域(周辺環境に調和した道路標識金沢特区)に認められ、この特区の全国展開として地域の特性に応じて柔軟に対応できるよう基準を緩和すべきと判断されたためである。 ===反射材料等による分類=== 標識板は夜間における視認性を確保するための方式によって以下のように分類される。 反射材料による方式:夜間における道路標識の視認性の向上のため標識板表面に反射シートが用いられたもので、反射式標識板とも呼ばれる。反射材にはガラスビーズを用いたもの(封入レンズ型、カプセルレンズ型)とプリズムを用いたもの(封入プリズム型、カプセルプリズム型、広角プリズム型)がある。反射材を使用しつつも、太陽電池などによって輪郭などを発光させる自発光式道路標識の設置もできる。照明装置を持つ方式: 外部照明方式:反射式標識板の判読性、視認性を高める目的で補助的に蛍光灯を用いて照明する方法。反射材の性能向上によって新設が無くなっている。外部照明方式の中には反射式標識板を照らす光源にサーチライトを用いた遠方照明方式もある。この遠方照明方式を応用して標識板の反射材料に紫外線によって発光するものを使用して、照射した紫外線による発光で視認性を向上させるものが存在する。 遠方照明方式は光源が比較的低く設置され、高所となる標識柱に上る事がなく、付属される事が多い梯子や作業台を使えば良いために光源の点検・交換が容易な事から、後述する内部照明方式に代えて高速道路のインターチェンジ(IC)・ジャンクション(JCT)の案内標識に使われる事もある。 内部照明方式:標識板の内部に光源を設け、自発光することにより判読性、視認性を確保する方式。高速道路のインターチェンジ(IC)・ジャンクション(JCT)における行動点など重要度の大きな標識に用いられる。外部照明方式:反射式標識板の判読性、視認性を高める目的で補助的に蛍光灯を用いて照明する方法。反射材の性能向上によって新設が無くなっている。外部照明方式の中には反射式標識板を照らす光源にサーチライトを用いた遠方照明方式もある。この遠方照明方式を応用して標識板の反射材料に紫外線によって発光するものを使用して、照射した紫外線による発光で視認性を向上させるものが存在する。遠方照明方式は光源が比較的低く設置され、高所となる標識柱に上る事がなく、付属される事が多い梯子や作業台を使えば良いために光源の点検・交換が容易な事から、後述する内部照明方式に代えて高速道路のインターチェンジ(IC)・ジャンクション(JCT)の案内標識に使われる事もある。内部照明方式:標識板の内部に光源を設け、自発光することにより判読性、視認性を確保する方式。高速道路のインターチェンジ(IC)・ジャンクション(JCT)における行動点など重要度の大きな標識に用いられる。 ===可変標識=== 表示内容を日時や道路状況によって変えられる構造を持ったものを可変式道路標識(可変標識)と呼び、このような形態は規制・指示標識のみならず道路情報の提供にも用いられる。交通規制がきめ細かく行われる場合には道路利用者が補助標識の判読に時間がかかることが多いため、その負担を軽減させるために必要な標識図柄を必要な時間帯だけ表示するようにした道路標識である。 ===逆光対策標識=== 東西に走る道路にある道路標識は朝夕の太陽の位置によって逆光になり著しく視認性が落ちることがある。そのため、時間帯を問わず標識の視認性を維持する目的で文字部分にスリットを入れたり、白色部分にパンチングメタルを使用するなどした道路標識を設置することがある。 ==色彩== ===表示面の色彩=== 道路標識の表面(反射材)で用いられる色はJIS規格によって決められており、JIS安全色と呼ばれる。JIS安全色は道路標識以外にも非常口の表示といった安全標識にも採用されている。なお、標識に主に用いられる赤・黄色・緑・青といった各JIS安全色が2018年4月、ユニバーサルデザインカラーを取り入れたものに13年ぶりに改正された。改正前と改正後のマンセル値は次の通りである。 改正前 赤色:7.5R 4/15 (251, 28, 42) 黄色:2.5Y 8/14 (255, 217, 0) 緑色:10G 4/10 (1, 115, 86) 青色:2.5PB 3.5/10 (11, 73, 157)赤色:7.5R 4/15 (251, 28, 42)黄色:2.5Y 8/14 (255, 217, 0)緑色:10G 4/10 (1, 115, 86)青色:2.5PB 3.5/10 (11, 73, 157)改正後(2018年4月改正) 赤色:8.75R 5/12 (255, 75, 0) 黄色:7.5Y 8/12 (242, 231, 0) 緑色:5G 5.5/10 (0, 176, 107) 青色:2.5PB 4.5/10 (25, 113, 255)赤色:8.75R 5/12 (255, 75, 0)黄色:7.5Y 8/12 (242, 231, 0)緑色:5G 5.5/10 (0, 176, 107)青色:2.5PB 4.5/10 (25, 113, 255) ===表示面以外の塗装=== 標識板や標識柱には腐食防止のため防錆処理が行われ、その一環として塗装が施される。塗装で用いられる色は原則として白色か灰色(大型の標識柱の場合は重たい印象を与えないため亜鉛めっきが主流)だが、周辺環境や景観との調和のために異なる色を用いることもある。その場合はダークグレーやダークブラウンなどが採用される。 ==道路標識の種類== 以下の説明において、()は標識の番号を示す ===本標識=== ====案内標識==== 案内標識は道路利用者に対して市町村の境界、目的地や通過地への方向および距離などを示すとともに、利用者の利便のため必要な沿道に関する各種の案内を行う標識である。全ての案内標識が道路管理者によって設置される。 目的地や通過地への方向、距離、経由路線などを示すものを「経路案内」、行政境界や地点の案内を行う「地点案内」、登坂車線や駐車場などの道路上の施設を案内を行う「付属施設案内」の三種類に分けられる。案内標識は文字数や内容によって標識板の寸法が異なるため、文字などの大きさが定められている。 文字などの大きさは寸法と同じく都道府県や市町村が条例に基づき設定することができる(道路法第45条第3項)。この例として、東京都などではローマ字寸法を拡大し、外国人旅行客を含め視認性が向上したことなどがあげられる。 漢字の大きさは下表の通り(いずれも基準値)。 ローマ字の大きさは大文字が漢字の1/2、小文字が大文字の3/4程度である。文字などの大きさは寸法と同じく都道府県や市町村が条例に基づき設定することができる(道路法第45条第3項)。この例として、東京都などではローマ字寸法を拡大し、外国人旅行客を含め視認性が向上したことなどがあげられる。漢字の大きさは下表の通り(いずれも基準値)。ローマ字の大きさは大文字が漢字の1/2、小文字が大文字の3/4程度である。 ===経路案内標識=== 一般道路に設置される経路案内標識はその色から青看と呼ばれる。また、「国道番号」や「都道府県道番号」はその形状からそれぞれおにぎりやヘキサと愛称が付けられている。「国道番号」「都道府県道番号」で番号の後ろに「‐B」「‐C」が付く様式は交差道路標識や卒塔婆と呼ばれる。原則として両面設置を行い、地図と連動させて案内できるよう赤(一般国道)、緑(主要地方道)、黄(一般都道府県道)のように色分けして設置する。案内標識で案内の対象となる地名を目標地と呼ぶ(下表)。目標地の案内方法には「地名方式」「路線番号方式」の2種類に分けられ、日本では地名方式が採用されている。経路案内標識で案内される目標地は以下のように分類されている。案内の対象となる道路の種類に応じて、案内される目標地が決まる。すなわち、経由地・目的地がほとんど一致する道路であっても、必ずしも同じ案内内容になるとは限らない。現行の案内標識は表示されている地名を順次入れ替えていくのがルールであるが、目標地が見慣れないものに入れ替わる、掲示情報が途中で途切れているものも存在する問題点が指摘されている。この背景には平成の大合併による影響や、道路管理者ごとで案内標識の内容を定めるため異なった管轄のものと調整が取りづらいこと、また参照にできるレイアウト図が少ないことに加え、関係者がコミュニケーションデザインについての理解が不十分であることなどが挙げられる。 ===地点案内標識=== 「市町村」や「都府県」は市町村・都府県界に設置し、これから入る市町村・都府県名を記す。この標識には自治体名のほか、都府県章や市区町村章を併記することができる。カントリーサインとも呼ばれ、特に都府県章・市区町村章や地域のシンボルやイメージを描いた絵を挿入した標識を指す。「著名地点」は駅や港、観光地や官公庁などの著名地点を案内する場合に設けられる。著名地点まで誘導を行いたい場合は矢印と距離が設けられ、更には必要に応じてシンボルマークが設けられる。また、歩行者向けに角を丸く取った様式(114‐B)が存在し、地図と併設したものを「地図標識」と称している。「主要地点」は主な交差点、橋梁やトンネルなど交通上の目標となる地点に設置され、その名称を記す。通常は横型のものを用いるが、設置が困難な場合に限り縦型のものを用いる。また、観光先進国や地方創生の実現に向けて、観光地等付近ではその観光地等の名称に変更するよう改善を進めている。 ===付属施設案内標識=== 「非常電話」や「非常停車帯」は自専道でそれぞれの手前又は頭上に設置し、その存在を記す。「登坂車線」は登坂車線の存在を記す。一般道路では原則として開始位置に設置される。ただし、自専道においては開始位置のほか、予告や終了位置にも違う様式のものが設置される。「エレベーター」 ‐ 「便所」までの案内標識はそれぞれの施設の位置を明示する。「バリアフリー標識」と呼ばれるもので、高齢者や身体障害者等の移動を円滑にするために設置される。 ===ギャラリー=== ===警戒標識=== 警戒標識は道路利用者に対して沿道における運転上の危険または注意すべき事象を予告する標識である。警戒標識の過度な設置は警告効果を弱める原因であるため、適正な設置計画が重要である。全ての警戒標識が道路管理者によって設置される。デザインはアメリカに倣ったもので、黄色地に黒ふち・黒模様の菱形。通常の大きさは一辺 45 cm。 ===交差点の予告=== 視認が困難で注意喚起が必要な交差点がある場合に設置する。原則として交差点手前30‐120 m (メートル)の間に設置する。 ===道路の平面形状の予告=== 曲線が開始する30 ‐ 200 m の間に設置され、道路の状況(設計速度、交通量、事故の有無等)から設置の必要性を十分に検討しなければならないとしている。 ===道路の縦断形状の予告=== 設計速度と縦断勾配の大きさからみて、急勾配の手前30 ‐ 200 m の間に設置される。 標識にある「○ % 」は、100 m 進むと○m上がる(下がる)ということを示している。例えば5 % は100 m 進むと5 m 上がる(下がる)勾配である。 ===交通流の変化の予告=== 該当の部分から50 ‐ 200 m 手前の設置を原則としているが、「道路工事中」のみ補助標識「距離・区域」の併設で1 km (キロメートル)手前から設置することができる。 ===路面又は沿道状況の予告=== それぞれの施設や状態が生じるの手前に設置する。「踏切あり」は原則として全ての踏切を対象に設置され、踏切を通過する車両が確実に停止できるよう設置されなければならない。1986年に電車が描かれた新形式のものが追加されたが、蒸気機関車が描かれた旧型式のものも現役として残っている。「学校・幼稚園・保育所等あり」は通学路を示したい場合も設置できる。この時は補助標識「通学路(508)」を取り付ける。「すべりやすい」は特定の季節のみ対象とする場合は補助標識を併用する。 ===気象状況、動物の飛び出し、その他の注意の予告=== 「動物が飛び出すおそれあり」は、標識令の例示ではシカが描かれたものとなっているが、実際に描かれている動物はシカのほかにタヌキやウサギ、サル、イノシシなど設置場所によって異なっている。タヌキ、ウサギ、サルについては標準がある。動物のイラストは自治体によって様々な種類のものが登場しており、例えば北海道では、キツネやシカのほか、帯広市内ではエゾリスがあるほか、牧場がある農村地帯ではウシと「横断注意」の文字の組み合わせ、徳島県美波町では海岸から少し離れた山に棲息するアカテガニを描いたものもある。「その他の危険」は設置の目的が一目でわかる場合以外は補助標識「注意事項(510)」を用いる。 ===規制標識=== 規制標識は道路の構造を保全し、または交通の危険を防止するため、もしくは道路利用者の道路への出入を制限するために設置される標識。都道府県公安委員会が設置するものと、道路管理者が設置するものがある。多くが円形で、禁止・徹底事項は赤の縁取りで青字、指定事項は青地で白字が使われる。通常の円型の場合の大きさは直径50 cm 、赤の縁取りを入れる場合その縁の幅8 cm 、赤の斜線(左上)を入れる場合角度 45°・幅 4 cm 。補助標識を伴い、一部の車種や時間などを指定した規制を表す場合もある。 ===一時停止又は徐行に関するもの=== 対象は車両と路面電車。かつては前方優先道路・一時停止 (330の2) があったが、2008年に一時停止 (330) に統合された。「徐行」「前方優先道路」「一時停止」の図柄は「英語併記あり(‐A)」と「英語併記なし(‐B)」に分けられる。 ===通行の禁止・制限に関わるもの=== (荷車、手押しの台車、人力車、そり、牛馬など) これらの標識は規制されている区間又は区域、場所の出入口に設置することとしている。その際の設置場所として全ての標識で左側の路側が認められているが、一部の標識は道路の中央や右側での設置も認められている。「車両進入禁止」は一方通行の出口に設置し、この道路が(標識の面する方向において)車両の進入が禁止されていることを表す。なお、多方向からの広い角度での視認性を確保するため、横方向に引き伸ばして筒状に成形することができる。「自動二輪車二人乗り禁止」は1978年(昭和53年)に一旦廃止となったが、2005年(平成17年)4月の高速自動車国道・自動車専用道路での、大型自動二輪車及び普通自動二輪車の二人乗り解禁に伴い復活している。「自転車及び歩行者専用」は「普通自転車歩道通行可」を示すことができる。その際、車道から向って右側通行となる向きには鏡像を用いることとしている。 ===交差点等における右左折の制限に関するもの=== 対象は車両。「指定方向外進行禁止」は交差点の手前などに設置し、矢印の方向以外の進行が禁止されていることを表す。交差点の形状が複雑な場合は道路の形状に合わせた図示にすることが可能で、進行できない方向も矢印を抜いた形で表示できる。 ===通行の方法等に関するもの=== 歩行者横断禁止(332)を除き、対象は車両。「最高速度」「特定の種類の車両の最高速度」「最低速度」を灯火(電光掲示板)によって設置する場合は文字を白色又は黄色、地を黒色にすることができる。また、このような色彩のものが高速道路や自動車専用道路で可変式速度規制標識として設置されている。「追い越しのための右側部分はみ出し通行禁止」の規制は原則として同名の道路標示によって実施され、標識は必要によって設置される。そのため、標識は区間の始点・終点を除き、特に必要性がない場合は設置しないこととしている。また、「転回禁止」を区間で規制するとき、区間の始点では標識の設置が困難ならば代替として標示によって規制の開始を示すことができる。「歩行者横断禁止」は歩行者の道路の横断を禁止することを示し、交通量の多い区間や、立体横断施設や信号機がある交差点の近くで乱横断を防ぎたい場合に設置される。漢字の読めない児童の理解を助けるため、「わたるな」の補助標識を設置することがある。 ===駐車・停車に関するもの=== ===指示標識=== 指示標識は交通上必要な地点などを指示するために設置される標識。大部分は公安委員会が設置に係るが、「規制予告」のみ道路管理者も設置ができる。四角形、青地で白い絵がほとんど。通常の四角形の場合の大きさは一辺60 cm 。 ===停止に該当するもの=== 「中央線」の標識はセンターラインの位置を示したものであり、多雪地域や中央線変移を行う場合に設置しなければならない。「並進可」の標識は自転車が2列まで並んで走行できることを示すが、日本での設置例は少ない。 ===横断に関するもの=== これらの標識は、信号機により交通整理を行う交差点または横断歩道においては不要である。「横断歩道」の図柄は「一般用(407‐A)」と「学童用(407‐B)」に分けられる。この中で学童用は保育園、幼稚園、小学校等付近に設けられる横断歩道で設置する。 ===規制予告に関するもの=== ===補助標識=== 本標識に付属して本標識の意味を補足する標識。一部を除き、横長で白地に黒字(トラック、バスのマークも含む)または赤(主に矢印の使用)である。 一部の規制標識・指示標識からは「区間内」(506)を省略する。公安委員会が設置する補助標識の寸法は横60 cm を基準とし、文字数は1行7文字まで、行数は3行までに収めなければならない。この規定に収まらない場合は可変標識を用いることとしている。1つの補助標識に2以上の表示を行う場合、上から「車両の種類」「日・時間」「距離区域又は区間」の順にしなければならない。ただし「追越し禁止」「駐車余地」「前方優先道路」を併記する場合は最も上に表記する。 ===補助標識の用語等=== 補助標識においては、車両の種類の略称、その他の用語が用いられるが、その用語の定義を示す。(別表第2の備考一の(六)ほか) ===法定外標識=== 法定外標識とは、道路管理者によって設置された標識のうち、標識令で定められた様式ではないものを指す。法定標識と同じく交通の安全と円滑のために設置されているが、法定標識では伝えられない事項を伝えることを目的としている。その特徴から内容は様々なパターンに分かれており、適切な計画および基準を設けなければ、道路利用者に誤解や混乱をもたらす恐れがある。 道路利用者に案内する目的で設置される法定外標識の一例として、アジアハイウェイ標識や距離標などが挙げられる。 ==材質と製造== ===標識柱=== 標識柱は用いられる材料によって鋼柱(鋼管、形鋼、テーパーポール)、アルミニウム合金柱、鉄筋コンクリート柱、ステンレス柱、木柱などに分類される。鋼材を加工した鋼柱を作る場合、鋼材を加工、溶接、塗装の順に工程をたどり標識柱として出荷される。 ===標識板=== 反射式標識板の板面の材質はアルミニウム合金板、鋼板、合成樹脂板などが用いられる。アルミニウム合金板を用いる場合は厚さ1.0―2.0ミリメートル (mm) のものが用いられる。このとき、1.0―1.2 mmの場合は縁曲げを施す。標識板の裏面には補強のための加工として補強材がスポット溶接される。さらに、面積の大きな標識板を設置する場合はアルミT型金具も用いられる。一般的に耐用年数は10 ‐ 20年と言われるが、障害がなければ20年以上も使用することができる。そのため、2000年代前半で標識板の交換が盛んとなり、それ以後は交換が少なくなっている。反射式標識板を製造は、基板の切断や補強材の溶接を行い、その後表示面に反射シートを貼り付け真空加熱圧着して完成となる。特に一品製作的要素が強い案内標識は素地となる反射シートを貼ってから罫書きを行った上で文字や記号の反射シートを貼り付けるという工程を経る。 ==施工== 道路標識の工事施工は一般の土木工事と共通している部分が多いが、供用中の道路で作業することがあるため交通安全や施工管理には十分な注意が必要である。 標識の設置は基礎設置、標識柱建込み、標識板取付け、検査の順で行われる。なお、一連の作業の準備工として、設置位置を選定し、埋設台帳や試掘により埋設物の調査を行う必要がある。標識の撤去は標識板取外し、標識柱撤去、基礎撤去の順番に行われる。 標識の工事を施工するにあたっての資格として全国道路標識・標示業協会(全標協)による登録標識基幹技能者や道路標識設置・診断士が存在する。 ==維持管理== 標識の変状は事故や腐食による損傷、劣化や植生・汚れに伴う視認性の低下があげられる。全ての道路付属物は安全かつ円滑な交通を保ち、第三者被害を及ぼしかねない変状を的確に把握して計画的に補修するための基礎的な情報を得るために点検が欠かせない。特に門型柱で設置されている道路標識はそれ以外の設置方法の道路標識よりも綿密に点検されるよう取り決められている。そして、道路標識の管理者は標識が常に良好な状態であるように配慮しなければならない。このとき、管理を円滑に行うため道路標識台帳を用いて道路標識の管理を行うことが望ましい。ただし、道路標識の点検を行う際に人員不足が課題となり、各々の標識の状況を十分に把握できない問題も発生していた。 腐食に伴う耐久性の低下に伴い標識板の落下や支柱の倒壊の事案が発生している。このような事案を防ぐために点検時には支柱基礎部の腐食やボルトの緩み、標識板と支柱・梁の接合部の腐食及びボルトの緩み、曲柱の支柱曲部の亀裂の存在などが重要な確認事項となる。また、標識板の落下を防ぐためにボルト・ナットに加えワイヤーで標識板を接合する事例も増えている。さらには、標識柱の倒壊を防ぐため、地際部分にアラミド繊維や二重構造を採用したケースや柱の内部に鉄筋棒鋼を入れるなどの対策もとられている。維持管理費の削減とした根本的な対策として、必要性のない道路標識の新設抑制や撤去、維持費が節約できるタイプの標識へ切り替えることもある。 標識板が汚れた場合の清掃作業は、きれいな水を吹き付け(汚れによっては灯油、鉱石油、中性洗剤も併用し)、洗浄剤を使用して表面を洗浄し、最後に乾拭きの順番で実施される。このとき、標識板表面を研磨しないよう注意しなければならない(洗浄剤の選定では研磨剤を含んだものは避けなければならない)。 ==歴史== 日本では明治時代以前から街道の交差点に「道標」が設置され、旅人に利便を与えてきた。この「道標」の発生は庶民の経済力が増し、行商・参詣・巡礼などが広く浸透した江戸時代と言われている。記録されている中で最も古いとされる道標は1672年(寛文12年)に設置された兵庫県川西市にある道標である。行き先は寺社道や湯治道を指すことも多く、供養塔としての役割も兼ねて建立したものも存在したため、「道標」は単なる道路標識に留まらずに宗教性を帯びていたものがあったとされる。 日本で最初に統一されたデザインによる道路標識が設置されたのは1922年(大正11年)のことである 。これに先立ち1919年(大正9年)には初めて道路標識が道路の付属物として規定されている。大正時代、道路交通の乗物として日本で普及していった馬車や自動車による事故も起こるようになり、交通の円滑を図るため、案内・警戒標識の2種類の日本全国統一の道路標識が制定され、行先案内や注意を記した看板が設置され始めた 。 1934年(昭和9年)に東京府(当時)での交通事故の増加に際し、警視庁が「交通標識統一に関する件」として8種類の道路標識を定めた。警視庁が定めたものは全国で普及し、内務省では統一化を図ろうとした。1942年(昭和17年)に、内務省令により道路標識令が施行されると、様式はヨーロッパに倣ったものとなり、新たに禁止・制限・指導標識の3種が追加されて、道路標識は全5種類となる 。その後、太平洋戦争中は金属類回収令に伴って金属製の道路標識は回収の対象となった。 太平洋戦争の敗戦によって日本はアメリカの統治下に置かれたが、進駐軍からの命令は道路標識にも及んだ。これに伴い既設の標識には全て英文標識が併設され、アベニューやストリートの標識も設置された。これらの標識は1952年(昭和27年)には姿を消すこととなる。 1950年(昭和25年)、戦前に制定されていた道路標識令が改正され、各種類の道路標識は大幅に見直しされて、現在の道路標識に通じる基本的な構成が確立される 。この改正に伴って、全国でまちまちだった標識の統一が進むこととなる。従来の制限標識は指導標識に統合されて、指示標識が新たに制定された。さらに、この当時の日本はアメリカ占領下の状況にあったため、道路標識の多くにローマ字や英語による併記がなされた。この時の禁止標識・制限標識・指示標識は長方形型で、上に日本語、下に英語で標識の意味が示された。この様式は道路標識の意味が理解されやすいという意見と、複雑なため視認性が悪いという意見で賛否両論であった。「その他の危険」の前身となる警戒標識の「危険」「注意」には英語の「DANGER」「CAUTION」が表記された。また、案内標識も同様にローマ字・英語併記もすべて大文字で表記され、市町村(英語:city,town,village)や駅(英語:station)は「C.」「T.」「V.」や「STN.」と特徴的な略記がなされた 。 1960年(昭和35年)になると道路標識令が廃止されて道路標識、区画線及び道路標示に関する命令(略称:標識令)が施行される。案内・警戒標識は一部廃止されたものがあるものの、そのほとんどは変更なく従来標識が継続使用され、禁止・指導標識は統合されて規制標識となり、現行の案内・警戒・規制・指示標識の4種類の形となった 。 その3年後の1963年(昭和38年)3月に標識令が改正され、道路標識自体が一新された。交通規制の増加や高速道路の建設によって遠くからでも見やすくわかりやすい道路標識が必要となったためである。新道路標識はできる限り記号化し、国連標識を尊重しつつも、従来の標識の記号も生かす方向で改正された。標識の分類と形状を一致させ、規制標識は円形または四角形、指示標識は四角形、一時停止・徐行は逆三角形、横断歩道は五角形を原則とした。これにより、従来の英語併記も廃止する大幅なデザインの変更が行われ、現行標識のような様式となる 。 1961年(昭和36年)5月に高速道路調査会で標識分科会が発足され、高速道路の標識について研究・開発が進められた。その結果、1963年(昭和38年)7月には、日本初の高速道路である名神高速道路の栗東 ‐ 尼崎間の開通に伴って、案内標識に高速道路用標識が新たに追加された 。その後、東名高速道路や中央高速道路の開通時にも標識の再検討が行われ、1967年(昭和42年)11月に標識令が改正されたことで高速道路の標識体系が一応完成したと言える。 1971年(昭和46年)の標識令の改正では、案内標識の大幅なデザイン変更がなされ、1950年から制定されてきた通称白看とよばれる白地に黒字または青字の案内標識は、地色が白から青のものへと替わられ、ローマ字・英語併記が一旦廃止された。これにより、日本のすべての道路標識は原則日本語表記のみに変わった 。 その後、社会の変化により国際化が叫ばれるようになると、それに対応するため、1986年(昭和61年)の標識令改正で、15年間制定されてきたローマ字併記のなかった案内標識についてローマ字・英語併記が復活し、現行のデザインへと大幅な変更がなされた 。 今後、全国にある道路標識をデーターベース化して、カーナビゲーションシステムとして現地に即した標識(電子道路標識)を車内で表示し、路上にある道路標識を撤去することも検討されてる。 ===年表=== 1899年(明治32年)6月警視庁が制札制文令を通達(適用範囲は東京府のみ)。1922年(大正11年)11月9日道路警戒標及ビ道路方向標ニ関スル件が施行され、道路標識(当時は、道路方向標、道路警戒標と呼ばれた)が初めて体系的に整備される。1942年(昭和17年)5月13日道路標識令施行され、道路警戒標及ビ道路方向標ニ関スル件廃止。1950年(昭和25年)3月31日道路標識令改正。案内標識は地が白色、矢印が赤色、文字が青色のいわゆる「白看」と呼ばれる様式となった。また、禁止標識・制限標識・指導標識は長方形で、上に日本語での標識の名称、下にその英訳が書かれた様式であった。この当時、現在の補助標識にあたる標示板は「補助板」と称された。1956年(昭和31年)7月31日琉球における道路標識が制定される。ただし、多くの標識で日本政府が定めたデザインとは異なりほとんどが文字のみのものが用いられている。1957年(昭和32年)5月7日琉球において、案内標識に「路線名及び所在地を標示するもの」が追加される。1958年(昭和33年)10月1日指導標識「車馬通行区分」「軌道敷内通行可」「軌道敷内通行可終わり」が追加される。1960年(昭和35年)2月3日琉球において、指導標識「注意して出よ」が追加される。1960年(昭和35年)5月10日案内標識「国道番号」、警戒標識「すべりやすい」、規制標識「危険物車輛通行止め」、補助板「方向」が追加。1960年(昭和35年)12月20日標識令(道路標識・区間線及び道路標示に関する命令)施行、道路標識令廃止。また、標識や標示を損壊した場合の罰則が強化される。1961年(昭和36年)9月8日琉球における道路標識で、指導標識「止まれの時は完全停止してから右折せよ」を追加し、「駐車禁止」に標柱に彫刻で表示した様式を追加1962年(昭和37年)1月30日案内標識「方面及び方向」「街路の名称」、規制標識「最大幅」が追加。「方面及び方向」の追加により、初めて背景が藍色、矢印・文字が白色のものが登場した。ただし、矢印の形が現在と異なっており、ローマ字も白看板のフォントである。また、「最高速度」の標識に限り「低速車」「中速車」「高速車」の車両の種類の略称が使えるようになる。1963年(昭和38年)3月29日規制・指示標識が大改正される。「後退禁止」「右側通行」「駐車線」など使用頻度が低かった標識を廃止、「車両進入禁止」「車両(組み合わせ)通行止め」「指定方向外進行禁止」を追加。この時、「補助板」が「補助標識」と名称を変える。1963年(昭和38年)7月13日高速道路などに設置する標識、規制標識「前方優先道路」「前方優先道路・一時停止」、指示標識「並進可」「優先道路」「中央線」、案内標識「待避所」、補助標識「安全速度」が追加。1965年(昭和40年)8月27日案内標識「非常電話」「まわり道」、警戒標識「信号機あり」「二方向交通」「上り急勾配あり」「下り急勾配あり」、規制標識「自動二輪車2人乗り禁止」が追加。また、規制標識の「最高速度」で文字を白色又は黄色、地を黒色にした電光式でも設置できるようになった。また、補助標識に用いられる車両の種類の略称として「自三輪」「一種三輪」「二種三輪」「一種原付」「二種原付」の表記が削除される。1967年(昭和42年)10月27日琉球における道路標識で日本政府が定めた現行のデザインと同一のものが採用される。ただし、右側通行のため一部の標識は右側通行用になっている。1967年(昭和42年)11月9日高速道路などに設置する標識を一部変更、案内標識の「非常駐車帯」、警戒標識の「落石のおそれあり」「路面凹凸あり」を追加。1969年(昭和44年)日本初の可変標識が新宿区神楽坂に設置される。1969年(昭和44年)11月18日案内標識に「主要地点」が追加される。1970年(昭和45年)8月20日規制標識「自転車専用」「自転車及び歩行者専用」「進行方向別通行区分」が追加される1971年(昭和46年)12月1日 ローマ字併記が無い旧式の案内標識(滋賀県大津市)案内標識が大幅にデザイン変更、「都道府県道番号」を追加。「方面及び距離」「方面及び方向」などの従来白色を地色としていた一部の案内標識が、藍色の地色に白抜き文字のものに統一。琉球を除き案内標識のローマ字併記を原則として廃止。1978年(昭和53年)7月30日沖縄県で車両の通行方法が右側通行から左側通行に戻ったことで、返還以降特例的に設置されていた右側通行用の標識を廃止し、他都道府県と同じく左側通行の標識に切り換えた (730を参照)。1978年(昭和53年)12月1日規制標識「自動二輪車2人乗り禁止」が廃止。指示標識「自転車横断帯」、補助標識「規制理由」が追加。1982年(昭和57年)4月高速道路出口分岐点標識並びに料金所上部、入口案内標識にインターチェンジ番号および名称が表示されるようになる。1985年(昭和60年)10月28日「指定方向外進行禁止」で進行禁止されている方向を明示することが可能となり、規制標識「原動機付自転車の右折方法(二段階)」「原動機付自転車の右折方法(小回り)」、指示標識「停止線」の標識を追加。また、「高速車」「中速車」「低速車」の補助標識が省略可能となり、補助標識における「休日」を「国民の祝日に関する法律」による定義とした。1986年(昭和61年)10月25日案内標識にローマ字が再び追加され、「著名地点」にシンボルマークを表示することができるようになり、「街路の名称」が「道路の通称名」になり様式が変更される。また、警戒標識「踏切あり」は電車をデザインした様式が追加され、補助標識「地名」が追加された。1986年(昭和61年)11月15日道路交通法の改正に伴い、「駐車時間制限」が廃止され「時間制限駐車区間」に置き換えられた。1992年(平成4年)11月1日指示標識「横断歩道・自転車横断帯」が追加され、横断歩道等の標識では鏡像を用いることが可能となった。補助標識「車両の種類」に記号表示(トラックやバスのマークなど)、「始まり」「終わり」に文字表示(「ここから」「ここまで」)を導入し、補助標識「歩行者専用」を廃止とした。また、補助標識の視認性を考慮して、一部の標識から「区間内」が省略され、また車両の種類の略称が一部変更された(「高速車」「中速車」「低速車」は廃止となった)。1996年(平成8年)4月1日補助標識「区域内」が追加。また、既存の補助標識「始まり」「終わり」に「区域ここから」「区域ここまで」の様式が追加される。さらに、区域規制の出入口部に背面板付きの規制標識を設置できるようになる。1997年(平成9年)10月30日規制標識「特定の種類の車両の通行区分」「牽引自動車の高速自動車国道通行区分」「牽引自動車の自動車専用道路第1通行帯通行指定区間」が追加。1998年(平成10年)4月1日案内標識「総重量限度緩和指定道路」、補助標識「始点」「終点」が追加。2000年(平成12年)11月15日案内標識「エレベーター」「エスカレーター」「傾斜路」「乗合自動車停留場」「路面電車停留場」「便所」が追加。2004年(平成16年)3月22日案内標識「高さ限度緩和指定道路」が追加2005年(平成17年)4月1日高速道路上での二輪車二人乗りが解禁となって、規制標識「自動二輪車二人乗り禁止」が復活。2007年(平成19年)6月2日中型自動車の新設に伴い、規制標識の「大型乗用自動車通行止め」を「大型乗用自動車等通行止め」に変更し(規制内容は変更なし)、補助標識の用語等における車両の種類の記号・略称やそれら意味を一部変更。2008年(平成20年)8月1日規制標識「前方優先道路・一時停止」が廃止(「一時停止」に統合)。また、規制標識「平行駐車」「直角駐車」「斜め駐車」 、補助標識「駐車時間制限」が追加。高速道路等以外でのキロメートルの標示を、Km(頭文字が大文字)からkm(頭文字が小文字)に、交差点の予告を「○m」から「この先○m」に改正。(キロも参照)2010年(平成22年)4月19日指示標識「高齢運転者等標章自動車駐車可」「高齢運転者等標章自動車停車可」、補助標識「車両の種類」(503‐D 標章車専用)が追加。2010年(平成22年)7月高速道路の標識使用文字を大幅変更。和字はヒラギノ、英字はビアログ、数字はフルティガーとなる。なお基本的なレイアウトは従前と変更なし。2010年(平成22年)12月17日規制標識「普通自転車専用通行帯」が追加。2011年(平成23年)9月12日規制標識「自転車一方通行」が追加。2012年(平成24年)4月1日都道府県道と市町村道に設置される案内標識と警戒標識の寸法や文字の大きさが条例に基づき独自に定めることが可能となった。2014年(平成26年)4月1日案内標識「サービス・エリア、道の駅及び距離」が追加、「サービス・エリアの予告」を「サービス・エリア、道の駅の予告」に変更(「サービス・エリア」も含め、道の駅にも設置できるように改正)。また、案内標識のローマ字を外国人旅行者も含めた道路利用者に分かりやすい英語表記に改正。2014年(平成26年)9月1日規制標識「環状の交差点における右回り通行」が追加。2017年(平成29年)2月14日案内標識「サービス・エリア又は駐車場から本線への入口」「高速道路番号」が追加。同時に、高速道路等に設置される案内標識を一部変更。2017年(平成29年)3月12日準中型自動車の新設に伴い、補助標識「車両の種類」、補助標識の用語等における車両の種類の略称を一部変更。2017年(平成29年)7月1日規制標識「徐行」「前方優先道路」「一時停止」がこの日から順次、英語併記に切り替えられる。「徐行」の下に「SLOW」(「前方優先道路」を含む)、「止まれ」の下に「STOP」と追記される。2018年(平成30年)12月14日規制標識「タイヤチェーンを取り付けていない車両通行止め」が追加され、画像表示用装置に道路標識を表示する場合の背板の色彩を規定した。 =湯山池= 湯山池(ゆやまいけ)は鳥取県にあった池である。江戸時代から昭和にかけて干拓が行われて農地となり、池としては現存しない。 ==概要== 湯山池は現在の鳥取市福部町(旧福部村)湯山地区一帯にあった。北は福部砂丘(鳥取砂丘の東部。「湯山砂丘」とも)によって日本海と隔てられており、南には摩尼山の山裾が迫っている。浜湯山から西へ峠を越すと多鯰ヶ池がある。現在は二級河川の塩見川の支流、江川の上流域にあたり、埋め立てによって海抜4m程度の低地になっている。 湯山池一帯はかつては海とつながる入り江で、池畔にあたる地域からは縄文時代から奈良時代に至るまでの様々な遺跡が見つかっている。中世の記録では潟湖になっており、水産物の豊富な池だった。近世に埋め立てが始まったが、砂丘の影響で干拓は思うように進まず、完全に埋め立てられて水域が消滅したのは昭和30年代である。 ==かつての湯山池== ===伝承に登場する水域=== 塩見川の下流一帯は、かつて日本海とつながる入り江だった。伝承では、神功皇后が敦賀(高志国)から九州征伐(あるいは三韓征伐)に向かうときにこの入り江に寄港したとされている。 この入り江は、やがて福部砂丘(鳥取砂丘の東部)の発達によって海と切り離され、潟湖となっていった。『因幡志』では海との接続部には水門があったとされている。潟湖は西側の「上池」と東側の「下池」という2つの水域に分かれており、上池と下池は小さな川で繋がっていた。江戸時代には、上池を湯山池、下池を細川池と呼ぶようになっていた。「湯山」という地名は、かつてこの辺りに温泉があったことによるとされている。 ===周辺の遺跡=== このあたりには数多くの遺跡が確認されており、湯山池の北畔からは直浪遺跡(すくなみいせき)という縄文時代から奈良時代にかけての居住跡が確認された。初めて確認されたのは1946(昭和21)年の干拓工事の際で、1990(平成2)年までに数回の発掘調査が行われた。遺跡からは石器、土器、木器が出土していて、特に縄文中期の土器の形式は山陽方面や丹後方面との繋がりを示唆するものである。確認された住居跡は古墳時代中期のものだが、出土遺物から縄文期にも定住地だったと推測されている。 湯山池の南岸では、「大谷山」と呼ばれる尾根の先端部にある湯山神社の脇から古墳(湯山6号墳)が検出されている。これは国道9号の工事で確認されたもので、調査時には既に損壊しており正確な形状などは不明だが、直径13メートルあまりの円墳で、遺物から5世紀前半のものと推測されている。石棺や遺物出土しており、なかでも武具一揃えとして見つかった鉄製冑は、柊葉形の切り込みのある特殊な小札を用いたもので、古墳時代の高度な技術を伝える貴重な考古資料とみなされている。この鉄冑は「小札鋲留眉庇付冑」として鳥取県の保護文化財に指定されている。古墳の位置には鳥取バイパス(国道9号)の福部インターチェンジが設けられており古墳は現存しない。 「下池」にあたる細川池の方面では、東岸の栗谷で栗谷遺跡が確認されている。この遺跡は縄文時代前期から弥生時代にかけての住居跡と古墳時代の祭祀跡を伴う大規模なもので、1961(昭和36)年に確認されると、山陰地方の重要な遺跡の一つとみなされるようになった。とくに1000点を超す土器・木器や編物が出土しており、縄文時代の自然遺物が良好な状態で検出されたものとして貴重である。これらの出土品のうち、木製杓子5点を含む土器、石器、編物製品等の一括遺物が「鳥取県栗谷遺跡出土品」の名称で国の重要文化財に指定されている。 このほか、立岩山山麓の坂谷神社(坂谷権現祠)には未解読の文字が遺されており、「謎の古代文字」とされている。(豊国文字も参照。) ===湯山池岸を通る古道=== 山陰道は古代(飛鳥時代)に成立した五畿七道のひとつである。山陰道は畿内から但馬国(兵庫県北部)を経由して因幡国(鳥取県東部)に入り、さらに西の伯耆国、出雲国へと続いていた。しかしその古い経路は山間部を中心に不詳な部分が多く、特に因幡国東部では明らかになっていない。 但馬国から蒲生峠を越えて因幡国に入ったのち、因幡国の国庁へ至る経路にはおおまかに2つの説がある。一つは蒲生峠から十王峠を越えて袋川上流にぬけ、袋川沿いに国府を目指すルートで、概ねいまの県道31号に相当する。もう一つは蒲生峠から蒲生川にそって下り、駟馳山峠を越え、塩見川支流の箭渓川に沿って国府を目指すルートである。これはおおよそ現在の国道9号および県道43号にあたる。 後者の節では、古道が湯山池・細川池の池畔を通っており、細川地区が「佐尉」駅にあたると推定されている。 江戸時代になると因幡国は鳥取藩の支配地となった。鳥取城から但馬国へ向かう街道として但馬往来が整備されるようになり、これが湯山を経由していた。但馬往来の本筋は「中道通り」と呼ばれており、鳥取城から砂丘地をぬけて多鯰ヶ池北岸を通り、浜湯山から湯山池の北岸に沿って細川へ通じていた。脇道として「山道通り」があり、摩尼寺を経由して峠越えにより山湯山におり、湯山池の南岸を伝って細川へ至る道だった。このほか海岸沿いを行く「灘通り」もあった。中通りや灘通りは砂丘を通るが、すぐに道が砂に埋もれてしまうため、道中に案内標識が整備されていた。 中道通りは、鳥取バイパスが開通する前の国道9号におおむね相当する。現在はバイパスが開通し、中道通りが県道265号、灘通りが県道319号におおよそ相当するほか、山道通りの一部が県道224号に相当している。 ===江戸時代の湯山池=== 江戸中期の1795(寛政7)年に著された『因幡志』によれば、湯山池は周囲が50町(約5.5km)の池だった。ただしこれに先だって享保年間(1716‐1736年)から既に湯山池や細川池の干拓が始まっている。 湯山池では淡水漁業が行われていた。主な漁獲物は鯉、鮒、鰻、*8347*(オオナマズ)や小エビなどの魚介類のほか、ヒシなども産物になった。なかでも名物は晩春の小エビを塩煮にした「湯山エビ」で、鳥取城下で売られていた。 ==干拓の歴史== 江戸時代中期から、細川池(下池)と湯山池(上池)の干拓が始まった。江川、箭渓川、塩見川が集まるこの水域は勾配が極端に小さく、海水が逆流するほどだった。そのうえ冬になると偏西風に押し戻された砂によって河口が閉塞しやすく、洪水が絶えない地域だった。 ===初期の干拓事業=== 享保年間(1716‐1736年)から鳥取藩の指導のもとで両池の干拓が始められた。指導者の一人に、鳥取各地で潟湖の干拓を行った和田徳兵衛(和田得中)がいる。事業の中心になったのは細川池で、寛政年間(1789‐1801年)には細川池は一通り埋め立てが終わった。湯山池のまわりでも干拓が行われたが、前述のとおり、湯山池は周囲5kmほどの水域として残っていた。しかし、ひとまず干拓事業は完成したものの、これらの新田はすぐに水没してしまった。砂丘からの飛砂によって水路が埋まってしまい、排水不良となるためであるこのため数年毎に排水路を改修する必要があり、これは費用と労力の両面で住民に大きな負担となった。例を挙げると、1818(文政元)年の細川池の水路改修では、延べ8000人以上が駆りだされている。 翌1819(文政2)年には鳥取の興禅寺が開発資金を出資して、湯山池と細川池共同の水路改修が行われた。この工事では、いまの塩見川の下流にあたる河口付近が掘り割られ、湯山池の水を一気に抜いて水路の砂を押し流す手法がとられた。これによって25町歩(約25ヘクタール)の新田が生まれたが、約20年でこれらも再び水没した。 とりわけ湯山池の方面では砂丘からの飛砂の影響が大きかった。飛砂は水路や田畑ばかりでなく、山林や家屋までも飲み込むほどの勢いがあり、住民はその対策だけで疲弊し、村は貧困のままだった。 ===安政の干拓事業=== その頃起きた天保の大飢饉(鳥取では「申年がしん」と呼ばれる)によって、1830年代から1840年代の鳥取藩でも大きな被害を出した。このため鳥取藩では湯山池の干拓事業に乗り出すことになった。 この半官半民の事業に取り組んだのが安藤仁平(あんどうにへい、1825‐1876)や宿院六平太(宿院義般、しゅくいんぎはん、1831‐1891)である。義般は浜湯山の庄屋の出で、1845(弘化2)年から鳥取藩の書記に仕えていた。義般は水路が埋まる原因である飛砂そのものを止める必要があると考え、庄屋である父を説き伏せて 出資させ、砂丘地への植林を行って砂防林とする取り組みを1857(安政4年)にはじめた。 これと同時に干拓をすすめる工事も企てられた。これに利用されたのが湯山池の西にあった多鯰ヶ池である。当時、峠によって隔てられている湯山池と多鯰ヶ池は水位が同じであると考えられていた。義般は自ら「宿院式測量機」を考案、これによって離れた場所にある両池の測量を行い、多鯰ヶ池のほうが湯山池よりも5丈7寸7分(約15m38cm)、水面が高いことを発見した。 義般は、峠を穿つトンネルを掘って多鯰ヶ池と湯山池を繋ぐ水路を造り、落差を利用した多鯰ヶ池からの水流で砂を押し流し、湯山池を砂で埋め立てて干拓するプランをたてた。トンネルは多鯰ヶ池の水面下3.6mの水準で、幅・高さともに1間(約1.8m)、全長212間(約385m )という設計になっていて、このトンネルを含めて全長約1200mの暗渠水路が造営されることになった。 義般らはトンネル工事のため、但馬国の生野銀山へ行って坑夫を雇い入れた。工事は1859年(安政6年)に始まり、トンネルは1年あまりをかけて完成した。その後も工事が続けられ、1862(文久2)年には水路の総延長が1600間あまり(約2.9km)に及んだ。当初の目論見では40町歩(約40ha)の新田が得られるはずだったが、この時点で完成したのは約半分の20町歩(約20ha)だった。一連の工事の総工費は2200両あまりにもなった。 ===明治の干拓事業=== しかし、こうして完成した新田もまもなく地盤沈下が始まって再び沼沢地へと戻っていった。宿院義般らによる埋立事業は明治時代に入っても続けられ、1870(明治3)年から1871(明治4)年にかけて総面積50町歩(約50ha)の田地が作られた。これらの新田まわりには「御上新田」や「流し」といった地名が遺されている。義般は砂丘地への植林も続けながら、殖産興業の施策として砂丘地での桑の栽培と養蚕事業を興した。 義般やその下で干拓事業に関わった浜湯山の村民たちは測量技術・土木技術の実績をかわれ、技師として明治新政府に雇い入れられた。1874(明治7)年からは全国をまわり、但馬、越前、近江、琉球などの測量を手がけた。晩年の義般は官営事業のため北海道に渡って開拓の指揮を行うとともに、事業を興した。1891(明治24)年に北海道から鳥取へ帰郷する途中に、山形で病死した。 1871年の干拓事業では50haが埋め立てられたことになっており、これは湯山池のほぼ全域に相当する。しかし実際にはその後も干拓地の水没が繰り返された。明治時代から大正時代にかけての旧陸地測量部による地図・「細川」では、もともとの面積の約4分の1ほどの水域として湯山池の姿が描かれている。 ===池の消滅=== 干拓はその後も繰り返され、1925(大正14)年から1926(大正5)年、1932(昭和7)年、1952(昭和27)年にも行われた。太平洋戦争後にアメリカ軍が撮影した航空写真には湯山池の様子が残されている。池は1957(昭和32)年から1958(昭和33)年にかけての干拓事業で完全に姿を消した。 義般が築いた多鯰ヶ池からの水路はいまも灌漑用水路として使われており、これが多鯰ヶ池から流出する唯一の水流となっている。 =乗鞍岳= 乗鞍岳(のりくらだけ)は、飛騨山脈(北アルプス)南部の長野県松本市と岐阜県高山市にまたがる剣ヶ峰(標高3,026m)を主峰とする山々の総称。山頂部のカルデラを構成する最高峰の剣ヶ峰、朝日岳などの8峰を含め、摩利支天岳、富士見岳など23の峰があり、広大な裾野が広がる。飛騨側の高山市街地などから大きな山容を望むことができ、親しまれてきた山である。剣ヶ峰は、本州を太平洋側と日本海側に分ける分水界上の最高峰でもある。 ==概要== 山体は岐阜県と長野県に跨がる活火山で日本で19番目に高い山。活火山ランクC気象庁による常時観測対象の47火山に含まれるが山頂部に噴気地帯は存在しない。比較的新しい火山であることから穏やかな山容が特徴で、最新の噴火は2000年前の恵比寿岳での噴火とされている。乗鞍岳を含む飛騨山脈の主な山域は1934年(昭和9年)12月4日に中部山岳国立公園の指定を受け。長野県側の麓には溶岩流で形成された乗鞍高原が広がる。1949年に岐阜県道の観光道路で標高2,702 mの畳平までバスが運行されるようになると、大衆化し「雲上銀座」と呼ばれ観光地として賑わった。長野県側からも畳平まで乗鞍エコーラインが開通し山麓にはスキー場が建設され周辺には温泉地があり、四季を通じて美しい景観に恵まれ、乗鞍岳の山域は観光地、保養地として発展している。日本百名山、新日本百名山、信州百名山、ぎふ百山、一等三角点百名山に選定されている。 ==山名の由来と変遷== 873年(貞観15年)の日本三代実録で、飛騨の国司の言葉大野郡愛宝山に三度紫雲がたなびくの見たとの瑞兆を朝廷に言上した ― 『日本三代実録』(873年) が残されており、「愛宝山(あぼうやま)」と呼ばれその当時から霊山として崇拝されていた。平安時代から室町時代にかけて古歌で「位山」と呼ばれ、1645年(正保2年)頃に乗鞍岳と呼ばれるようになったとされている。1829年(文政12年)の『飛州誌』では、「騎鞍ヶ嶽」と記されていた。飛騨側から眺めた山容が馬の鞍のように見えることから、「鞍ヶ嶺(鞍ヶ峰)」と呼ばれていた。日本には同名の乗鞍岳が複数あり、「乗鞍」は馬の背に鞍を置いた山容に由来している。信州では最初に朝日が当たる山であることから「朝日岳」と呼ばれていた。最高峰の剣ヶ峰の別称が、「権現岳」。魔王岳と摩利支天岳は円空が命名して開山したとされている。1963年(昭和38年)11月に乗鞍国民休暇村(休暇村乗鞍高原)の開設に伴い、番所平と金山平と呼ばれていた周辺一帯が乗鞍高原と呼ばれるようになっていった。南北に多数の峰が連なることから「乗鞍連峰」と呼ばれることもある。 ==火山・地勢== 日本の火山としては富士山、御嶽山に次ぐ高さである。乗鞍岳は複数の火山が南北に並ぶ複合火山である。千町火山体(せんちょうかざんたい、128‐86万年前に活動した古期乗鞍火山)と烏帽子火山体、四ッ岳火山体、恵比寿火山体、権現池・高天ヶ原火山体(32万年前に活動を開始した新期乗鞍火山)で構成されている。古い火山体の千町火山体と烏帽子火山体では、浸食と崩壊が進んでいる。新期の火山体は山頂付近に分布する火山体や山腹に分布する溶岩ドームと溶岩流からなる大規模な成層火山。剣ヶ峰の噴火での直下西に権現池の火口湖が形成された。約9000年前に現在の乗鞍岳の山容が形成された。 山頂部は南北6 km、山体は北の安房峠から南の野麦峠まで南北15 km、東西に30 km、山域の面積は約250 kmと裾野が広いのが特徴で、北アルプスの中では最も広い山域を持つ。乗鞍高原などの8つの平原がある。火山湖と堰止湖の12の池があり、山頂直下西にある権現池は、日本では御嶽山の二ノ池に次いで2番目の高所にある湖沼。梓川、神通川、飛騨川の源流となる山で、それらの分水嶺となっている。山頂付近の積雪が多く、乗鞍スカイラインの開通のために長期間の除雪が必要となる。夏でも一部の北東斜面などには雪渓が残り、夏山でのスキーが可能となっている。西山腹の千町火山体の溶岩台地上の千町ヶ原から奥千町にかけては、池塘が点在する高層湿原となっている。 ===活火山=== ====火山史==== 古期乗鞍火山 128‐125万年前 ‐ 千町火山体の乗鞍火山の噴火が始まり、千町北溶岩と黍生溶岩を流出し、黍生火砕岩を噴出した。92‐86万年前 ‐ 千町火山体で活発に活動し、ダナの岩溶岩、神立原溶岩、千町溶岩、朝日滝溶岩、大峰溶岩、県境溶岩を流出した。この活動で権現池付近を中心にほぼ円錐形の山容が形成された。50万年ほど火山活動は休止しその間に、大規模な山体崩壊により千町火山体の北側は崩れ去った。新期乗鞍火山 32‐12万年前 ‐ 千町火山体の北部の崩壊したカルデラ内の烏帽子火山体で火山活動が始まり、烏帽子溶岩、富士見溶岩、桔梗ヶ原溶岩、摩利支天溶岩、前川溶岩、大黒溶岩を流出した。12万年に二つの火口を持つ成層火山が形成された。10万年前 ‐ 権現池・高天ヶ原火山体で火山活動が始まりで、濁川溶岩、番所溶岩、ダナ新谷溶岩、平金溶岩、位ヶ原溶岩、嶽谷溶岩、ダナ東谷溶岩を流出し、前川本谷火砕流堆積物が形成され、高天ヶ原火砕岩と屏風岳火砕岩を噴出した。4万3千年前 ‐ 膨大な番所溶岩流により乗鞍高原の原型が形成された。4万年前 ‐ 浸食された烏帽子火山体上の四ツ岳火山体で火山活動が始まり、四ツ岳溶岩を流出した。2万年前 ‐ 浸食された烏帽子火山体の上で恵比寿火山体の火山活動が始まり、恵比寿溶岩を流出した。9600年前 ‐ 剣ヶ峰で断続的にブルカノ式噴火(Vulcanian eruption)がはじまり、火山灰(剣ヶ峰火山砂)を噴出した。9200年前 ‐ 剣ヶ峰の噴火により、位ヶ原テフラ(水蒸気噴火により火山灰を噴出、位ヶ原火山灰が形成され、その後スコリア噴火により位ヶ原スコリが形成された。)を放出し、岩井谷溶岩が西側に流出した。以後 ‐ 何回かの水蒸気爆発を起こした。2000年前 ‐ 恵比寿火山体水蒸気爆発噴火後、恵比寿岳第1テフラが形成され、その後の穏やかな噴煙活動噴火により恵比寿岳第2テフラが形成されたが、併せて発生した激しいブルカノ式噴火により恵比寿岳第3テフラを形成する。有史以降 1990年(平成2年)1月24日 ‐ 南南西約10 kmでM4.2の群発地震が発生。1991年(平成3年)1月23日 ‐ M4.2の地震が発生、前年から地震が、1992年末まで減少しつつ継続した。1995年(平成7年)8月 ‐ 南西約2 kmで地震が多発した。2011年(平成23年)3月13日20時23分 ‐ M3.1(震度2)の地震が発生、東北地方太平洋沖地震以降に北麓2‐8 km付近で地震が活発化している。 ===現在の状況=== 100年活動指数と1万年活動指数がともに低い火山であることから、「活火山ランクC」の指定を受けている。2009年(平成21年)6月に火山噴火予知連絡会により、山体浅い部に地震活動が認められていることから、過去100年以内に火山活動の高まりが認められている火山として、火山防災のために監視・観測体制等の必要がある火山の一つの指定を受けている。火山性の地震群発は現在でも観測されている。活火山としての活動力を失っていて山頂部に噴気地帯はないが、湯川(梓川の支流)の最上流部では火山ガスが発生している。周辺では気象庁、国土地理院、防災科学技術研究所、名古屋大学により地震計、傾斜計、空振計、GPS、遠望カメラが設置され火山活動の監視と観測が行われている。気象庁は2007年(平成19年)12月1日に噴火予報で「平常」を発表しており、「噴火警戒レベル対象外火山」であり、2013年7月度の気象庁火山部火山監視・情報センターの月例報告で、「火山活動に特段の変化はなく、静穏に経過し噴火の兆候は認められない」と発表している。しかし、1000年以上噴火しておらず、そろそろ噴火をしても良い時期と考える火山学者もいる。2014年の木曽御嶽山噴火災害をうけて、ハザードマップが作成されていない状態の解消を目指し、乗鞍防災協議会設置のための火山対策検討会議が行われた。 ===乗鞍岳の峰々=== 山頂部には北から順番に以下の峰が連なり、乗鞍23峰と呼ばれている。その他の峰として、高天ヶ原(たかまがはら、2,829 m)と金山岩(かなやまいわ、2,532 m)がある。最高峰の剣ヶ峰には一等三角点が設置されている。多くの峰は登山規制が行われていて、立ち入りが禁止されている。 ===山頂部の池=== 山頂付近には、以下の8箇所に12個の火口湖と堰止湖がある。 権現池 ‐ 山頂直下西にある権現池・高天ヶ原火山体の活動終期に形成されたコバルトブルーの火口湖。御嶽山のニノ池に次いで日本で2番目の高所にある湖沼。五ノ池 ‐ 里見岳の南にある溶岩流による堰止湖。不消ヶ池(きえずがいけ) ‐ 富士見岳と摩利支天岳の間にあり、真夏でも雪が残ることがある。鶴ヶ池 ‐ 畳平の東にあり、名称は鶴の形状に似ていることに因む。亀ヶ池 ‐ 恵比寿岳と魔王岳との間にある恵比寿火口、名称は周氷河地形の構造土が発見されたことに因む。大丹生池 ‐ 大丹生池に西にある溶岩流による堰止湖。土樋池 ‐ 烏帽子岳の西にある溶岩流による堰止湖。無名の池 ‐ 四ツ岳と硫黄岳の間。 ===地質=== 古生層の安山岩類や花崗岩類、デイサイト質の溶岩などで構成されている。乗鞍岳ではパン皮状火山弾(breadcrust bomb)が見られ、火口付近では吹き飛ばされた古い岩石の破片、スコリア、軽石なども見られる。山頂付近には亀甲砂礫や条線砂礫などの構造土が見られ、地理学者の田中阿歌麿が日本の周氷河地形として初めて亀ヶ池で構造土を発見した。乗鞍高原の鈴蘭には武田信玄によって開発されたとされる大樋鉱山があって、1640年(寛永17年)から1697年(元禄10年)にかけて盛んに銀が産出されていた。東山腹の梓川の支流湯川沿いの白骨温泉では石灰華(炭酸カルシウム)の沈殿物が見られ、「白骨温泉の噴湯丘と球状石灰石」が1952年(昭和27年)3月29日に国の特別天然記念物の指定を受けた。 ==環境== 自然保護の観点から乗鞍スカイラインと乗鞍エコーラインで2003年からマイカー規制が実施され、バスとタクシーを除き一般車両の通行が禁止されるようになった。これらの山岳道路では麓の山地帯、亜高山帯、高山帯へと植生の垂直分布の移行を観察することができる。東側の乗鞍高原の山麓では明治時代に牛の放牧とソバ畑の開拓が行われた。 ===気候=== 山頂付近の摩利支天岳(標高2,872 m)頂上の乗鞍コロナ観測所で観測された、毎日の平均気温、最低気温、最高気温の月ごとの1971年(昭和46年)から2000年(平成12年)までの30年間の平均値を下表に示す。1月下旬から2月上旬かけてが最も寒く、8月初旬が最も暑い。畳平へのシャトルバスの夏の早朝便ではカーエアコンで暖房される。 また、年間平均気温、および最低気温、最高気温の年間平均値を下表に示す。年間の平均気温の最低値は1986年の‐4.1℃、最高値は1998年の‐0.5℃。 9時と15時における風力の月ごとの1989年(平成元年)から1997年(平成9年)までの9年間の平均値を下表に示す。風向きは年間を通じて北西が主流となっている。冬期に風が強い日が多く、9時、15時の区別なく1‐2月には風力4.9‐5.2(風速換算で約10 m/s)。 9時と15時における月別天気出現率(%)(1968‐1997年の平均値)を下表に示す。乗鞍岳では夏に午後になると霧や雲の発生が活発になることが多く、他の山岳地帯と同様に午前中の方が天候が安定している。畳平では濃霧で視界不良となることもある。例年9月末‐10月にかけて山頂部で初冠雪し、6月にも雪が降ることがある。 ===動物=== 山域にはオコジョ、トウホクノウサギ、ニホンカモシカ、ツキノワグマ、イワヒバリ、ホシガラス、国の特別天然記念物に指定されているライチョウなど生息する。長野大学生態学研究室によりライチョウの詳細な生息調査が行われている。ライチョウの乗鞍岳における総個体数は1983年の調査では130羽、1994年の調査では109羽と減少傾向にある(環境省のレッドリストの絶滅危惧IB類の指定を受けている種)。イワツバメ、イワヒバリ、カヤクグリ、ライチョウ、ルリビタキの繁殖が確認されていて、カラ類、キセキレイ、ホシガラスなど多くの野鳥が生息している。白樺峠は、乗鞍高原一帯を通過していくタカの渡りの観察地として知られていて、9月下旬にはサシバ、ハチクマ、10月中旬にはノスリ、ツミなどの渡りが見られる。乗鞍高原では7種のコウモリの生息が確認されていて、日本の固有種であるクビワコウモリの繁殖が日本で初めて乗鞍高原で確認された。長野県の天然記念物の指定種の高山蝶のクモマベニヒカゲとミヤマモンキチョウやクジャクチョウ、コヒオドシなどの蝶が生息し、岐阜県のレッドリストで指定を受けている高山蛾のアルプスカバナミシャク、アルプスギンウワバ、アルプスヤガ、アルプスクロヨトウ、オオギンスジコウモリ、クモマウスグロヤガ、サザナミナミシャク、タカネモンヤガ、ナカトビヤガ、ヤツガダケヤガなどの確認記録がある。 ===植物=== 志村烏嶺が乗鞍岳で高山植物の採集と研究を行っている。位ヶ原と桔梗ヶ原では大規模なハイマツの群生地となっている。コイワカガミ、キバナシャクナゲ、ミヤマキンバイ、クロユリ、コマクサ、イワギキョウ、ヨツバシオガマなどの植物が見られ、高山ならではの自然を堪能する事ができる。富士見岳、魔王岳などの風衝地にはコマクサの群落が広がっている。大黒岳は山全体にコマクサが分布していたが、人の増加に伴い踏み荒らされ大幅に減少した。雪解けとともに開花が始まり、秋にはコケモモ、ダケカンバ、チングルマ、ナナカマドなどの紅葉が見られる。江戸時代大樋鉱山で銀を抽出する際に薪や炭を作るために乗鞍高原周辺の原生林のシラビソやブナが切り尽くされた。その結果乗鞍高原鈴蘭付近は、シラカバなどの二次林とスズラン、ヤナギランなどの草原となりっており、ミズバショウなどの高原植物も分布している。乗鞍高原には湿原があり、「乗鞍岳湿原」として日本の重要湿地500の一つに選定されている。子ノ原高原はレンゲツツジの名所として知られていて、「子ノ原高原レンゲツツジ群落」が1969年(昭和44年)8月5日に高山市の天然記念物の指定を受けている。西面中腹の千町ヶ原の湿原には、キソチドリ、コバイケイソウ、モウセンゴケなどが分布する。東面中腹の位ヶ原では、9月下旬‐10月上旬ごろにナナカマドとダケカンバが紅葉する。乗鞍岳では山麓から山上部にかけて以下の植物の垂直分布が見られる。山岳道路開通に伴い帰化植物が侵入し、北米原産のオオハンゴンソウが乗鞍スカイラインの旧料金所の上部の亜高山帯で、セイヨウタンポポが畳平の駐車場で、ムラサキツメクサが鶴ヶ池付近で確認されている。乗鞍スカイライン沿いでは針葉樹の立ち枯れが確認されている。 山地(山麓 ‐ 標高1,500 m付近) ‐ ブナ、ミズナラなどの落葉広葉樹亜高山帯(標高1,500‐2,500 m付近) ‐ トウヒ、シラビソ、コメツガなどの常緑針葉樹高山帯(2,500 m付近から上部) ‐ ハイマツ、高山植物 ===乗鞍自然観察教育林=== 乗鞍岳の高山帯と大部分の山域は国有林であり、林野庁中部森林管理局飛騨森林管理署内にある。畳平周辺の多くの高山植物が分布するハイマツ帯は、林野庁によりレクリエーションの森の「乗鞍自然観察教育林」の指定を受けている。畳平には飛騨森林管理署詰所があり、その南側のお花畑には観察用の木道が整備されている。 ===岐阜県乗鞍環境保全税=== 乗鞍地域の環境保全を目的として2002年(平成14年)10月9日に岐阜県議会で「岐阜県乗鞍環境保全税条例」が可決され、2003年(平成15年)5月15日のマイカー規制開始時から乗鞍スカイラインに乗り入れる自動車に対して課税と徴収が行われるようになった。税収は環境影響評価調査や環境パトロール員の配置などの乗鞍環境保全施策に使われている。課税標準は以下である。 観光バス(乗車定員が30人以上) ‐ 3,000円一般乗合バス(乗車定員が30人以上) ‐ 2,000円、濃飛バスのシャトルバスが該当する。自動車(乗車定員が11人以上29人以下) ‐ 1,500円自動車(乗車定員が10人以下) ‐ 300円、タクシーなどが該当する。 ==歴史== ===信仰=== 古くは「位山」と呼ばれ、山麓から遥拝されていた。飛騨側では大丹生池付近、信州側では乗鞍高原山麓の梓水神社付近に遥拝所があったとみられている。修験者が登頂するようになると、山頂の飛騨側に乗鞍大権現、信州側に朝日権現神社が祀られ、霊山としての修行の場であった。同じ飛騨地方にある白山や御嶽山と比較すると宗教的な意味合いが薄い山であった。 飛騨側にはいくつもの信仰の道が作られ、麓には乗鞍神社が建立され、乗鞍信仰が盛んであった。円食上人と木喰上人が修行のために登ったと伝えられている。 信州側では奈良時代と室町時代には水神の霊山として、江戸時代にかけては戦の神としての信仰の山であった。東面標高2,100 mの冷泉小屋脇には、乗鞍修験者の行場であった霊泉の湧水がある。1600年代後半頃には大樋銀山の鎮守神として信仰された。冷泉小屋上部の大雪渓下には、江戸時代に乗鞍岳を開山した宝徳霊神の碑がある。18世紀末には山頂の朝日権現神社でご来光を拝んだものにはご利益があるとれ、ご来光詣でが盛んに行われるようになった。 ===開発史=== 807年(大同2年) ‐ 田村将軍が乗鞍三座の神に祈願をして開山したとされる(『乗鞍山縁起』)。1183年(寿永2年) ‐ 木曽義仲に命じられた太夫坊覚明が、乗鞍岳奥ノ院に大日如来を安置した。1212年(建暦2年) ‐ 社殿が建造されたが、その後荒廃した。1683年(天和3年) ‐ 円空上人が岐阜県側の平湯から初登頂し、魔王岳と摩利支天岳を開山したとされている。乗鞍岳の山頂部の大丹生池に魔神が棲むと恐れられていた伝説を払拭するために、千体仏を彫り池に沈めて祈祷してその迷信を封じたと伝えられている。1878年(明治11年) ‐ ウィリアム・ゴーランドが地質調査を兼ねて平湯大滝口から登頂。1889年(明治22年) ‐ 陸地測量部が三角点選定のために南山麓の高山市高根町野麦から登頂。1891年(明治24年) ‐ 小杉復堂が平湯から登頂。1892年(明治25年) ‐ ウォルター・ウェストンが平湯大滝口から登頂1895年(明治28年) ‐ 1905年(明治38年)にかけて、高山市朝日町の行者である上牧太郎之助が青屋口を開設し、石仏を80体ほどを安置した。1922年(大正11年)3月 ‐ 早稲田大学山岳部の東条義人が番所からスキー登山をした。1934年(昭和9年)12月4日 ‐ 周辺の山域は中部山岳国立公園の指定を受けた。1942年(昭和17年) ‐ 旧陸軍が、畳平に飛行機のエンジンの研究を行う航空研究所を建設するために軍用道路を開設した。1948年(昭和23年) ‐ 高山市から畳平まで乗鞍登山バスの運行開始。1949年(昭和24年) ‐ 東京大学東京天文台の附属施設として摩利支天岳の山頂に乗鞍コロナ観測所が建設され、翌年萩原雄祐によりコロナグラフが設置された。建物の老朽化により2010年(平成22年)3月末をもって、乗鞍コロナ観測所は閉鎖された。2011年(平成23年)に自然科学研究機構本部に移管され、共同研究利用施設「乗鞍観測所」として利用されている。1953年(昭和28年)8月1日 ‐ 東京大学宇宙線研究所が、乗鞍肩ノ小屋の西隣に開設された。当時の初代所長は平田森三。1963年(昭和38年) ‐ 乗鞍エコーラインが畳平まで開通し、1979年(昭和54年)には全区間の舗装化された。1973年(昭和48年) ‐[乗鞍スカイラインの2車線の舗装道路が開通し、マイカーや観光バス多くの人が観光や登山で訪れるようになった。2003年(平成15年)5月15日 ‐ 自然保護の観点から乗鞍スカイラインなどでマイカー規制により、一般車両の通行が禁止された。2004年(平成16年)7月 ‐ 五色ヶ原に、完全予約制ガイド付きの自然散策コースが開設された。2005年(平成17年)夏 ‐ マイカー規制を機に整備を始めた平湯温泉からの登山道が完成。 ==登山== 信仰の山として信州側からと飛騨側からの修験道が開かれていた。古くから高山市高根町野麦からの野麦口が猟師やコマクサ採りの人々により利用されていた。近代登山の黎明期には地元のガイドとともに、ウィリアム・ゴーランド、アーネスト・サトウ、ウォルター・ウェストンらが登頂した。富山藩の漢学者小杉復堂が平湯から、植物学者の河野齢蔵と矢澤米三郎が信州側から登頂している。陸地測量部の舘潔彦らが測量登山のために1894年(明治27年)に野麦口から登頂している。本格的な登山道と山小屋が開設されたのは明治末期から大正中期以降であった。乗鞍スカイラインの開通などにより、標高2,702 mの畳平までバスや自動車で上がれるようになってからは、登山対象の山というよりも「観光客の山」という意味合いが強くなった。夏に麓の中学校などの行事として、学校登山が行われている。例年乗鞍スカイラインが開通する5月15日に、畳平で乗鞍岳山開き祭が行われている。山開き直後には登山道には多くの残雪がありクラストしていることもあり、アイゼン、ピッケル、ストックなどの雪山装備が必要となる。 山頂直下北には頂上小屋(売店のみ)があり、山頂には一等三角点と北側に朝日権現社、南側に乗鞍本宮奥宮(鞍ヶ嶺神社)の2つの神社がある。岩場の山頂は見晴らしが良く360度の展望がある。畳平と肩の小屋に西側に公衆トイレが設置されている。畳平付近にある魔王岳、大黒岳、富士見岳には遊歩道が整備されている。富士見岳からは南アルプス越し(仙丈ヶ岳と北岳との間)に、富士山の山頂部の南側の最高点である剣ヶ峰をわずかに望むことができる。 ===登山コース=== 各方面から登山道が開設されている。大多数の観光客やハイカーは、畳平から周辺や山頂を散策している。一部登山道は閉鎖や通行禁止状態になり、安房口、白骨口、野麦口は廃道になりつつある。 ===畳平からのコース=== 登山道の一部は未舗装の道路で、蚕玉岳から剣ヶ峰までの最後の登りは岩混じりの急登となる。家族連れ、老若男女を問わず大勢の人で賑わい、シーズン最盛期には山頂へ向かう登山道が渋滞することもある。(行程):畳平 ‐ (富士見岳) ‐ 肩の小屋 ‐ 蚕玉岳 ‐ (頂上小屋) ‐ 剣ヶ峰 ===乗鞍高原からのコース(番所口)=== 冷泉小屋の脇には湧水がある。戦後の登山ブーム時には乗鞍高原からのコースが利用され、雪山登山者には上部の冷泉小屋と位ヶ原山荘が前進基地として利用された。(行程):乗鞍高原 ‐ 三本滝分岐 ‐ 冷泉小屋 ‐ 位ヶ原山荘 ‐ 位ヶ原 ‐ 肩の小屋口 ‐ 肩の小屋 ‐ 蚕玉岳 ‐ (頂上小屋) ‐ 剣ヶ峰 ===丸尾尾根日陰平口コース=== 神通川水系小八賀川と飛騨川との分水嶺の丸黒尾根と千町尾根のコース。千町ヶ原にはオオシラビソの森の中に湿原がある。大正時代に行者が利用した信仰の道で、コース上には百体以上の石仏が設置されている。丸黒山は穂高岳などの見晴らし良い広い山頂で小さな祠がある。池塘が点在する千町ヶ原では1994年(平成6年)木道が整備された。コース上に水場はない。国立乗鞍青年の家からは、日陰平山(1,595 m)とかぶと山(1,545 m)を周回するハイキングコースが整備されている。(行程):国立乗鞍青年の家 ‐ 日陰峠 ‐ 枯松平山(1,694 m) ‐ 枯松平避難小屋 ‐ 丸黒山(1,956 m) ‐ 千町ヶ原 ‐ 奥千町避難小屋 ‐ 中洞権現 ‐ 剣ヶ峰 ===平湯口コース=== (行程):国道158号の平湯大滝入口 ‐ アンバ山 ‐ 猿飛八丁 ‐ 姫ヶ原(湿原) ‐ 乗鞍スカイライン ‐ 畳平 ‐ (富士見岳) ‐ 肩の小屋 ‐ 蚕玉岳 ‐ (頂上小屋) ‐ 剣ヶ峰 ===白骨口コース=== (行程):白骨温泉 ‐ 遊歩道 ‐ 東尾根 ‐ 十石小屋 ‐ 十石山 ‐ 硫黄岳 ‐ 乗鞍スカイライン ‐ 畳平 ‐ (富士見岳) ‐ 肩の小屋 ‐ 蚕玉岳 ‐ (頂上小屋) ‐ 剣ヶ峰 ===青屋口コース=== 1896年(明治29年)から3年かけて青屋村(現在の高山市朝日町)の上牧太郎之助が開拓したコースで、廃道となっていたが地元有志により再整備された。(行程):青屋口 千町ヶ原 ‐ 奥千町避難小屋 ‐ 中洞権現 ‐ 剣ヶ峰 ===子ノ原口コース=== (行程):南乗鞍キャンプ場 ‐ 林道 ‐ 尾根 ‐ 奥千町避難小屋 ‐ 中洞権現 ‐ 剣ヶ峰 ===阿多野口コース=== (行程):アイミックスキャンプ場 ‐ 林道 ‐ 尾根 ‐ 中洞権現 ‐ 剣ヶ峰 ===野麦口コース=== (行程):高根町野麦 ‐ 焼石原 ‐ 高天ヶ原 ‐ 剣ヶ峰 ===山小屋・宿泊施設=== 1919年(大正8年)に南安曇郡安曇村により乗鞍岳で最初に登山者用の山小屋の建設が進められていたが、完成間近に突風で倒壊した。翌年麓の安曇野村議会議員の筒期音弥により、現在の肩の小屋の位置に間口6間、奥行3間の小さな山小屋が建てられた。当時は「乗鞍小屋」や「筒木小屋」と呼ばれていて、この山小屋の開設により次第に登山者が増加していった。1926年(大正15年)番所大滝付近の麓に鈴蘭小屋が建てられスキー客の宿として利用され、1929年(昭和4年)に現在の位置に移設して通年営業の山小屋として開業した。その後山頂周辺に岐阜県山岳会の小屋など4軒の山小屋が建てられ、大衆登山の山となった。鈴蘭小屋の少し上部に1927年(昭和2年)に冷泉小屋が建てられた。乗鞍岳の東面は溶岩流のなだらかな斜面でスキーに適した地形で全国の注目を集めた。これらの山小屋により乗鞍高原からの登山ルートが築かれていった。肩の小屋は1961年(昭和36年)に増築され収容能力を増し、登山者の増加に対応した。登山者用の山小屋が山頂周辺などにある。山頂直下北には1931年(昭和6年)に建てられた売店営業のみの頂上小屋がある。山頂直下の摩利支天岳との鞍部には肩ノ小屋がある。畳平には、一般観光客向けの旅館タイプの宿泊施設である乗鞍山頂銀嶺荘と、乗鞍白雲荘(畳平駐車場に隣接しており、個室もあり一般観光客の利用も多いが、相部屋中心で、付近の残雪が少なくなると入浴ができなくなるなど、設備的には山小屋である。)がある。乗鞍高原からコースの乗鞍エコーライン沿いの位ヶ原には、山スキーなどに利用される位ヶ原山荘がある。南山麓の野麦峠には野麦峠お助け小屋がある。東山麓の乗鞍高原には乗鞍高原温泉ユースホステルの宿泊施設がある。千町尾根の登山道には1999年(平成11年)に建てられた奥千町避難小屋、丸尾尾根には枯松平避難小屋、猫岳の北西には猫の小屋、十石山頂上直下には十石小屋の避難小屋がある。 ==地理== 飛騨山脈南部の主稜線にあり、主峰の剣ヶ峰から北に硫黄岳、十石岳を経て十石尾根が安房峠まで延び焼岳につながる、南に高天ヶ原と戸鞍を経て県界尾根が野麦峠まで延び、鎌ヶ峰につながる。 ===周辺の山=== 飛騨山脈(北アルプス)南端の山で、野麦峠付近までが中部山岳国立公園の指定範囲である。 ===源流の河川=== 本州における太平洋側(木曽川)と日本海側(信濃川、神通川)の中央分水嶺が剣ヶ峰を通っており、この分水嶺の最高所となっている。 高原川 ‐ 神通川の支流、日本海へ流れる。梓川、小大野川 ‐ 信濃川の支流、日本海へ流れる。飛騨川 ‐ 木曽川の支流、伊勢湾から太平洋へ流れる。 ===周辺の峠=== 平湯峠 ‐ 標高1,684 m。山頂の北北西8.5 km。国道158号の平湯トンネルが下を通る。輝山と大崩山との鞍部、神通川の支流である久手川と高原川の支流であるトヤ谷との分水嶺。岐阜県道5号乗鞍公園線が通り、岐阜県道485号平湯久手線の終点。安房峠 ‐ 標高1,790 m。山頂の北北東10.1 km。国道158号が通り、飛騨山脈主稜線の白倉山と安房山との鞍部、高原川の支流である安房谷と梓川との分水嶺、岐阜県と長野県との県境。野麦峠 ‐ 標高1,672 m。山頂の南東7.2 km。長野県道・岐阜県道39号奈川野麦高根線が通り、戸蔵と鎌ヶ峰との鞍部、飛騨川の支流である益田川と梓川の支流である奈川との分水嶺、岐阜県と長野県との県境。野麦峠お助け小屋があり、1979年(昭和54年)の映画『あゝ野麦峠』で広く知られるようになった。白樺峠 ‐ 標高約1,620 m。山頂の東9.6 km。上高地乗鞍スーパー林道が通り、タカの渡りの観察地として知られている。 ===周辺の滝=== 平湯大滝 ‐ 高原川の源流部乗鞍三名滝 ‐ 三本滝、善五郎の滝、番所大滝が梓川支流の小大野川にある。布引滝 ‐ 五色ヶ原岳谷滝 ‐ 飛騨川の支流である益田川の源流部青垂滝、御越滝 ‐ 神通川の支流である小八賀川の源流部 ==観光== 畳平まで乗鞍スカイライン(岐阜県側)や乗鞍エコーライン(長野県側)といった自動車道が通じていることもあり、「日本で最も登りやすい3,000m超級の山、「ハイヒールでも上れる山」とも称されてきた。しかし自家用車で畳平の駐車場まで乗り入れのできた以前とは異なり、マイカー規制により麓にある専用駐車場などからシャトルバス又はタクシーの利用が必要となった。高山市は、江名子町より望む乗鞍岳、夕焼けの乗鞍岳、朝の乗鞍岳、桔梗ヶ原より望む乗鞍烏帽子岳、布引滝(五色ヶ原)、五色ヶ原の森雄池、十二ヶ岳付近より望む乗鞍岳、舟山山頂道路より望む乗鞍岳、日和田高原から望むレンゲつつじと乗鞍岳、野麦峠より望む乗鞍岳、野麦峠の池より望む乗鞍岳を「新高山市100景」の一つとして選定している。 ===畳平=== 畳平(たたみだいら、岐阜県高山市丹生川町)は乗鞍岳山頂部にある恵比寿火山体の火口原。標高は白山と同じ2,702 mで、日本最高所の路線バスのバス停がある。乗鞍スカイラインの終点であり、観光バスやタクシーが駐停車する駐車場がある。高山植物のお花畑には木道の遊歩道が整備され観光スポットとなっている。高山植物の見頃は6月下旬‐8月中旬ごろ。乗鞍自然観察指導員による自然観察教室が開催されている。周辺には山小屋などの宿泊施設と宇宙線研究所などの観測施設があり、乗鞍岳星空観察会が行われている。また売店、食堂、自然観察指導所、乗鞍山頂簡易郵便局、乗鞍本宮神社がある。乗鞍スカイライン開通後しばらくの間、鶴ヶ池周辺では立山黒部アルペンルートの雪の大谷のような雪の回廊が見られる。駐車場の500 mほど東の乗鞍エコーラインの峠部(長野県と岐阜県との県境)、大黒岳、富士見岳などがご来光スポットとなっている。畳平へのペットの持ち込みは禁止されている。 ===乗鞍高原=== 乗鞍岳の東麓に広がる標高1,200‐1,800 mの溶岩流の岩原で、三本滝、牛留池、湿原など景観に恵まれた環境である。4月上旬‐5月上旬にはミズバショウが開花し、5月に入るとシラカバやカラマツが芽吹き始める。牛留池や一ノ瀬園地などからは乗鞍岳を望むことができる。古くは修験者の登路となり、江戸時代には大樋銀山で銀の産出が行われていた。一ノ瀬園地ではソバの栽培が盛んに行われている。Mt.乗鞍(旧称の乗鞍高原温泉スキー場と旧乗鞍高原いがやスキー場のMt.乗鞍スノースマイルエリア)のスキー場がある。鈴蘭には長野県乗鞍自然保護センターがある。湯川から源泉を引湯している乗鞍高原温泉(のりくら温泉)がある。乗鞍高原温泉、すずらん温泉、安曇乗鞍温泉、わさび沢温泉の総称として、のりくら温泉郷と呼ばれている。 ===サイクリング=== 乗鞍スカイラインが2003年にマイカー規制される以前の有料道路であった時期には、自転車の通行が禁止されていた。マイカー規制後は自転車の通行が許可された。畳平付近の乗鞍エコーラインの標高2,716 m地点(大黒岳と富士見岳との鞍部、長野県と岐阜県との県境)は、日本で自転車で走行できる最も標高の高い県道の地点である。毎年夏に、乗鞍スカイライン・サイクルヒルクライムと全日本マウンテンサイクリングin乗鞍の自転車レースが開催されている。 ===乗鞍スカイライン・サイクルヒルクライム=== 毎年7月の第1日曜日に開催される乗鞍スカイラインをメインコースとした自転車ヒルクライムレース。岐阜県高山市丹生川町久手の殿下平交流ターミナル(標高1,360m)を起点として、平湯峠を経由して畳平の鶴ヶ池駐車場(標高2,702 m)を終点とする全長18.8 km(標高差1,642 m)のコース。乗鞍スカイラインがマイカー規制された翌年の2004年から始まり、2013年のエントリー数は1,011名であった。 ===全日本マウンテンサイクリングin乗鞍=== 毎年8月の最終日曜に開催される自転車ヒルクライムレース。乗鞍エコーラインの鈴蘭から長野・岐阜県境までの区間、全長約20.5km、標高差1,260m(スタート地点1,458m, ゴール地点2,716m)(大会主催者側の公称値)のコースをひたすら登り続ける。1986年(昭和61年)から実施されており2014年大会で実に29回目を数える、日本のヒルクライムレースの草分け的存在である。最近の自転車人気の復活も手伝ってか近年の参加者数は3,000名を大きく超える規模となっている。 ===スキー=== 国内では月山、立山とともに夏スキーができる山として知られている。冬に積雪が多く夏でも山頂付近の各所に雪渓が残り、剣ヶ峰の北東面の大雪渓と魔王岳北東面の鶴ヶ池雪渓がスキー指定地とされ夏スキーやスノーボードで賑わっている。山麓には以下のスキー場がある。1934年(昭和9年)1月に開業したリフトなどがない「飛騨乗鞍スキー場」が飛騨側の大尾根にあった。1997年(平成9年)に岐阜県大野郡丹生川村の村営スキー場として開業した「ひだ乗鞍ペンタピアスノーワールド」は、2007年1月に廃止となった。南西山麓の子ノ原高原には1972年(昭和47年)に開業した「子ノ原高原スキー場」があった。 Mt.乗鞍(旧称の乗鞍高原温泉スキー場と旧乗鞍高原いがやスキー場のMt.乗鞍スノースマイルエリア)飛騨高山スキー場飛騨ほおのき平スキー場 ===五色ヶ原=== 乗鞍岳の西麓の3,000 haほどのブナとミズナラなどの広葉樹とコメツガとシラビソなどの針葉樹の森林地帯で、溶岩台地周辺の地形に池、湿原、滝などが点在する。588種の植物が確認され、多くの環境省のレッドリスト指定種が含まれている。多くの自然が残されていて、一般の入山が規制され完全予約制でインタープリターによる周辺の遊歩道でガイドが行われている。2004年(平成16年)7月に整備された周辺の滝巡りをするカモシカコースと池や湿地などを巡るシラビソコースがある。「高山市乗鞍山麓五色ヶ原の森」が、2013年(平成25年)3月21日に「第8回エコツーリズム大賞」の優秀賞を受賞した。 ===周辺の温泉=== 周辺では温泉が湧きでていて、旅館などの宿泊施設がある。 のりくら温泉郷(乗鞍高原温泉、すずらん温泉、安曇乗鞍温泉、わさび沢温泉)平湯温泉白骨温泉中の湯温泉湯川源泉 ==交通・アクセス== 東麓では1929年(昭和4年)に大野川まで自動車道が通り、1940年(昭和15年)には幅員4.5 mの車道が乗鞍高原鈴蘭まで開通した。山域の北端を国道158号が通り、その安房峠の下部を1997年(平成9年)に開通した安房峠道路のトンネルが貫通している。国道158号の高山市側から平湯峠を経由して山上部の畳平まで岐阜県道5号乗鞍公園線が通じており、上部の区間は「乗鞍スカイライン」と呼ばれている。国道158号の平湯温泉側からは、平湯峠まで岐阜県道485号平湯久手線が通じている。山頂の北2 kmの畳平(標高2,702 m)には、日本で最高所の乗鞍バスターミナルがある。長野県の乗鞍高原側からは、長野県道84号乗鞍岳線が畳平まで通じ、その県道の上部の区間が「乗鞍エコーライン」と呼ばれている。1973年(昭和48年)に上高地方面から白骨温泉、乗鞍高原、白樺峠を経由して奈川温泉までの上高地乗鞍スーパー林道の有料道路が開通し、2008年(平成20年)に無料開放された。山域の南端の野麦峠を長野県道・岐阜県道39号奈川野麦高根線が通る。 ===マイカー規制とシャトルバス=== 1973年岐阜県初の有料道路として開通した乗鞍スカイラインは一般車両が通行できる日本最高所の有料道路であり、終点は収容台数230台の畳平駐車場と210台の鶴ヶ池駐車場があった。乗鞍スカイラインと乗鞍エコーラインから畳平まで乗り入れる車両は年間20万台を越えていた。2003年から乗鞍スカイラインの平湯峠ゲートより上部及び乗鞍エコーラインの三本滝ゲートより上部でマイカー規制が実施されている。岐阜県側では、濃飛バスによりアカンダナ駐車場(平湯温泉)と朴の木平駐車場から畳平行きの専用シャトルバスが運行されている(例年除雪後に冬期閉鎖が解除され、5月15日に開通する。)。長野県側では、アルピコ交通の松本電鉄バスにより乗鞍高原内の第1駐車場、第2駐車場、第3駐車場、三本滝駐車場からら畳平行きのシャトルバスが運行されている(例年除雪後に冬期閉鎖が解除され、7月初旬に畳平までの全区間が開通する。)。7‐9月の夏期シーズンにはご来光時に合わせた早朝便が運行されている。 ===主要地点からの距離=== 松本空港の西34 kmに位置する。JR東海高山本線高山駅の東27 kmに位置し、JR東海高山本線飛騨小坂駅の東南東21.2 kmに位置し、アルピコ交通上高地線の新島々駅の西南西21 kmに位置する。中部縦貫自動車道(高山清見道路)高山インターチェンジの東南東30 kmに位置し、安房峠道路平湯インターチェンジの南9 kmに位置する。 ==乗鞍岳の風景== ===乗鞍岳の近景=== 麓の乗鞍高原からはその山容を望むことができ、高山市街からは大きな山容を見渡すことができ、高山市などの山麓の多くの学校の校歌で歌われている。 ===乗鞍岳の遠景=== 比較的新しい火山であることからなだらかな女性的な山容で、御嶽山と同様に遠くから眺めると独立峰のように大きくその裾野を広げている。明治の歌人の長塚節がうるはしみ 見し乗鞍は 遠くして 一目といえど ながくほこらむ ― 長塚節 の短歌を残している。深田久弥は「日本百名山」の著書で、「乗鞍の姿を一度見たらその山を忘れることができないだろう。」と記している。麓の高山市の歌人福田夕咲はみ仏の 思惟の姿に 似たらずや 静けきかもよ 岳の夕ばえ ― 福田夕咲 の短歌を残し、乗鞍岳の山容を仏の仰臥に見立てている。また飛騨の山の特徴を「乗鞍の雄大、槍ヶ岳の険峻、御嶽の壮厳、錫杖の奇観、白山の崇高」と表現している。松本市などの学校でも校歌に歌われている。乗鞍岳を背景としてゲンゲとギフチョウを描いたふるさと切手(50円郵便切手)の『国土緑化・岐阜県』が、2006年(平成18年)5月19日に、郵便局から発売された。 ===乗鞍岳からの眺望=== ==メディア== ===関連書籍=== 『乗鞍スカイライン沿線植物群落の変遷学術調査報告書』 岐阜県、1978年、ASIN B000J8CZBK。福島立実 『「岳」はおれの学舎―乗鞍岳を知りつくした男の物語』 河出書房新社、2001年12月20日。ISBN 4309265103。 ===文献=== 斎藤守也、入江誠 (2002‐03‐29). “乗鞍コロナ観測所における気象観測” (PDF). 国立天文台報 (国立天文台) (第6巻): 37‐47頁. http://www.nao.ac.jp/contents/about‐naoj/reports/report‐naoj/6‐1‐4.pdf. 中下留美子; 鈴木彌生子; 林秀剛; 泉山茂之; 中川恒祐; 八代田千鶴; 淺野玄; 鈴木正嗣 (2010), “乗鞍岳畳平で人身事故を引き起こしたツキノワグマの食性履歴の推定 : 安定同位体分析による食性解析”, 哺乳類科学 (日本哺乳類学会) 50 (1): 43‐48頁, http://ci.nii.ac.jp/naid/10030472679/ ===絵画=== 『新雪の乗鞍岳』 ‐ 青地秀太郎の作品 ===写真集=== 山岸仁史 『よあけ乗鞍―山岸仁史写真集』 日本カメラ社、2003年2月。ISBN 4817920599。 ===テレビ番組=== NHKなどにより、乗鞍岳を主題とした以下のテレビ番組などが放送されている。 『日本百名山 乗鞍岳』 NHK衛星第2テレビジョン、1994年11月2日放送『北アルプス 乗鞍岳』 さわやか自然百景、NHK総合テレビ、2000年1月16日放送『週刊 日本の名峰 乗鞍岳』 日本の名峰、NHKデジタル衛星ハイビジョン、2009年1月30日放送『日帰り3026メートル 北アルプス 乗鞍岳』 小さな旅、NHK総合テレビ、2009年9月13日放送『北アルプス・乗鞍岳 〜標高3026m 雲上の別天地〜』 大人の山歩き‐自分に出会える百名山‐、テレビ朝日、2013年9月7日放送 =鶏頭の十四五本もありぬべし= 「鶏頭の十四五本もありぬべし」(けいとうのじゅうしごほんもありぬべし)は、正岡子規の俳句。1900年9月に子規庵で行われた句会で出された句であり、新聞『日本』11月10日号に掲載、同年『俳句稿』に収録された。季語は鶏頭(秋)。「鶏頭が十四、五本もあるに違いない」ほどの意味で、一般に病に臥せていた子規が病床から庭先の鶏頭を詠んだ句だと考えられている。元来評価の分かれている句であり、昭和20年代にはこの句の評価をめぐって鶏頭論争と言われる論争が起こり、以後も現代に至るまで俳人や歌人、文学者の間でしばしば論議の対象となっている。 ==成立== この句はまず1900年9月9日、子規庵で高濱虚子などを含む計19名で行われた句会に出された。子規の病床で行われた例会は次回の10月14日を最後に行われておらず、以後も死去の年である1902年の2月上旬に一度行っただけなので、これが子規の生涯で最後から三番目の句会ということになる。当日の句会では、まず第一回の運座にて一題一句で十題が出され、「娼妓廃業」「芋」「祝入学」「椎の実」「筆筒」「つくつく法師」などの題が出されたが、体調のためかあるいは興が乗らなかったのか、この運座では子規は「筆筒」の題に「筆筒に拙く彫りし石榴哉」一句を投じたきりであった。 つづく第二回の運座では一題十句で「鶏頭」の題が出された(子規の句会でははじめの運座のあと一題十句を行うのが慣例であった)。子規庵の庭には中村不折から贈られたりした鶏頭が十数本実際に植えられており、嘱目吟(実際に景を目にしながら作句すること)でもあったと考えられる。子規はこのとき「堀低き田舎の家や葉鶏頭」「萩刈て鶏頭の庭となりにけり」「鶏頭の十四五本もありぬべし」「朝貌の枯れし垣根や葉鶏頭」「鶏頭の花にとまりしばつたかな」「鶏頭や二度の野分に恙なし」など計9句を提出している。いずれも写実的な句であり、「十四五本も」の句のみ例外的に観念臭がある。選では「十四五本も」の句は特に支持を集めておらず、参加者のうち稲青、鳴球の二人が点を入れたのみである。高濱虚子は子規の句の中では「鶏頭や」の句を選んでおり、当日虚子が「天」(最上の句)としたのは三子の「葉鶏頭(かまつか)の根本を蟻のゆきゝ哉」であった。 この2ヵ月後、「十四五本も」の句は「庭前」の前書き付きで『日本』11月10日号に掲載された。特に必要ないと思われる前書きをつけたのは、難しくとらず写生句として読んで欲しいという作者の思いからだと思われる。 ==評価== ===論争前史=== 前述のように、句会ではこの句は子規を除く18人の参加者のうちわずか二名が点を入れたのみであり、子規の俳句仲間の間ではほとんど評価されなかった。子規の没後の1909年には高濱虚子、河東碧梧桐によって『子規句集』(俳書堂)が編まれたが、その中にもこの句は選ばれていない。最初にこの句に注目したのは歌人たちであり、まず長塚節が斎藤茂吉に対して「この句がわかる俳人は今は居まい」と語ったという(斎藤茂吉「長塚節氏を思う」)。その後斎藤はこの句を、子規の写生が万葉の時代の純真素朴にまで届いた「芭蕉も蕪村も追随を許さぬ」ほどの傑作として『童馬漫語』(1919年)『正岡子規』(1931年)などで喧伝し、この句が『子規句集』に選ばれなかったことに対して強い不満を示した。しかしその後も虚子は1941年の『子規句集』(岩波文庫)においても「選むところのものは私の見て佳句とするものの外、子規の生活、行動、好尚、其頃の時相を知るに足るもの、併(ならび)に或事によって記念すべき句等」としているにも関わらずこの句を入集させず、「驚くべき頑迷な拒否」を示した。 ===鶏頭論争=== こうしたことを背景に、戦後いちはやくこの句を取り上げて否定したのが俳人の志摩芳次郎であった。志摩は「子規俳句の非時代性」(「氷原帯」1949年11月)において、この句が単なる報告をしているに過ぎず、たとえば「花見客十四五人は居りぬべし」などのようにいくらでも同種の句が作れるし、それらとの間に優劣の差が見られないとした。また斎藤玄も「鶏頭」を「枯菊」などに、「十四五本」を「七八本」に置き換えうるのではないかという意見を出している。これらに対して山口誓子は、鶏頭を句のように捉えたときに子規は「自己の”生の深処”に触れたのである」(『俳句の復活』1949年)として句の価値を強調し、また西東三鬼も山口の論を踏まえつつ、病で弱っている作者と、鶏頭という「無骨で強健」な存在が十四五本も群立しているという力強いイメージとの対比に句の価値を見出して志摩への反論を行っている(「鶏頭の十四五本もありぬべし」「天狼」1950年1月)。このように俳壇内で意見が割れた結果、『俳句研究』では俳人22名にこの句についてアンケートを取る「鶏頭問答」なる企画も行われた(同誌1950年8月)。 その後、評論家の山本健吉は「鶏頭論争終結」(1951年)において当時の論争を概括し、まずこの句が単純素朴な即興の詩であり、だからこそ「的確な鶏頭の把握がある」として評価。そして誓子、三鬼の擁護意見が「病者の論理を前提に置きすぎている」としつつ、「十四五本」を「七八本」に変え得るとした斎藤の説に対して現実の鶏頭と作品の世界の鶏頭とを混同していると批判して、言葉の効果のうえで明らかに前者が優れていると指摘、その上でこの句が子規の「鮮やかな心象風景」を示していると改めて高く評価し論争を締めくくった。 ===論争以後=== 以後しばらく山本の論に匹敵するような論説は現れなかったが、1976年になって歌人の大岡信が「鶏頭の十四五本も」(『子規・虚子』所収)において新説を提示した。大岡はまず子規がこの句を作る前年に加わった「根岸草蘆記事」という、子規庵を題にした写生文の競作に注目する。この中で子規は自邸の「燃えるような鶏頭」を熱心に称えており、そしてこの鶏頭が霜のためか一斉に枯れてしまったときには「恋人に死なれたら、こんな心地がするであらうか」と思うほど残念がったことを記している。また同じ「根岸草蘆記事」の碧梧桐の作は鶏頭を擬人化してその視点で語る文章であったが、そこに「今年の夏から自分らの眷属十四五本が一処に」云々という部分もあった。つまりこの句は一年前の「根岸草蘆記事」の思い出に当てて、眼前にはない去年の鶏頭を思い出して作られたものであり、当日の句会の中では唯一の「根岸草蘆記事」の参加者であった虚子を意識して出されたものだというのである。大岡はまた句の中の「ぬべし」という、完了および強意の「ぬ」に推量の「べし」が結びついた語法が客観写生の語法とは言えず、「現在ただいまの景を詠む語法としては異様」として上の説の傍証としている。 また正岡子規の研究者でもある俳人の坪内稔典は鶏頭の「赤」に着目し、子規のそれまでのいくつもの随筆から「赤」の色に対する子規の愛着を指摘し、その「赤」が前述の誓子の言う「生の深処」に重なると論じた(「鶏頭の句」『正岡子規』所収、1976年)。しかし林桂は、大岡の説については「ぬべし」が「現在に対する語法としては異様」だという説に根拠がなく、辞書の用例等から考えてむしろ過去に向けて使うものとする考えのほうが異様であること、また坪内の論についてはそもそも子規邸の鶏頭が黄の種でもありえたこと等をそれぞれ指摘し反論を行っている(「鶏頭論」「未定」1979年‐1980年)。 近年では前述の坪内が「鶏頭の句は駄作」(「船団」2009年3月)において、子規という作者の人生を読み込まなければ「語るに足らない駄作」であると明言し、もし句会にもういちど作者の名を消して出したとしても末期の存在感のようなものは感じ取れないだろうと書いている。これに対し高山れおなは「子規の人生とセットにすることでそこに感動が生まれるならセットにしておけばよいではありませんか」と評し、またそもそもこの句が投じられた句会ではほかにも子規は鶏頭の句を出しているのだから、この句だけが選ばれ議論されているのは何故なのかということこそ考えねばならないという趣旨の批判を行った。またこのやりとりに関して山口優夢は、むしろ鶏頭というものに対して「十四五本」という、それまでにない言い表し方がぴったり合っていたということが、この句が残った理由であり句の核心ではないか、という見方も示している。 =ベニート・ムッソリーニの死= 本項では、ベニート・ムッソリーニの死 について記述する。かつてイタリアのファシスト独裁者として君臨していたベニート・ムッソリーニは、1945年4月28日、第二次世界大戦の欧州戦線が最終局面を迎える中で死亡した。ムッソリーニの最期は、北イタリアのジュリーノ・ディ・メッツェグラという集落で、正式な裁判にかけられることなく、パルチザンによって即時処刑されるというものだった。公式な見解では、ムッソリーニは「ヴァレリオ大佐」の偽名を使う共産党パルチザン、ワルテル・アウディージョ(英語版)によって銃殺されたとされている。しかし、ムッソリーニが死を迎えた状況ならびにムッソリーニを殺害した人物をめぐっては、イタリアでは戦後から現代に至るまで議論が続けられており、今日においても混乱や論争が引き起こされている。 ムッソリーニとペタッチの死体はミラノに運ばれ、郊外のロレート広場に放置された。広場に詰め掛けた群衆は怒りに任せて死体を侮辱し、殴る蹴るの暴行を加えた。その後、死体は広場内のガソリンスタンドの桁から逆さに吊るされた。ムッソリーニは墓標無しで埋葬されたが、1946年にファシズム支持者によって死体は掘り起こされ、盗まれた。盗難から4ヶ月後、当局はムッソリーニの死体を取り戻し、その後の11年にわたって死体を秘密裏に保管していた。1957年、ムッソリーニの亡骸は、故郷プレダッピオにあるムッソリーニ家の納骨堂に改めて埋葬された。プレダッピオにあるムッソリーニの墓廟は、ネオ・ファシストにとっての「巡礼地」のひとつとなっており、ムッソリーニの命日にはネオ・ファシストの集会が開かれている。 戦後、イタリアではムッソリーニの死について公式な見解を疑問視する声が湧き上がった。それにまつわる論争については、ケネディ大統領暗殺事件の陰謀論との類似点が指摘されることもある。アウディージョによる証言の信憑性に疑問を持つジャーナリスト、政治家、歴史家らは、ムッソリーニの死の真相について諸説を発表しており、少なくとも12名の異なる人物が、ムッソリーニ殺害の実行者として名前を挙げられている。ムッソリーニの銃殺を実行したとされる人物には、のちにイタリア共産党書記長となるルイージ・ロンゴ(英語版)や、のちのイタリア共和国大統領アレッサンドロ・ペルティーニが含まれている。一部の著述家は、ムッソリーニの殺害がイギリスの特殊作戦部隊による工作の一環であったと主張しており、その目的はウィンストン・チャーチルがムッソリーニと交わした往復書簡を回収し、「不名誉な密約」を隠蔽することにあったとしている。しかし、アウディージョがムッソリーニの処刑を実行したとする公式な見解は、今なお最も信憑性の高い説明として広く受け入れられている。 1940年、ムッソリーニはイタリア王国をナチス・ドイツの側で第二次世界大戦に参戦させたが、戦況はすぐに悪化した。1943年秋の時点で、ムッソリーニは北イタリアに樹立されたドイツの傀儡国家の指導者に身を落としており、南から進攻してくる連合国のみならず、国内のレジスタンス(パルチザン)の脅威にも直面していた。1945年4月、連合国軍がドイツ軍の北イタリアにおける最後の防衛線を突破し、パルチザンの一斉蜂起が各都市を席巻する中、ムッソリーニの身にも危険が迫っていた。1945年4月25日、ムッソリーニは本拠としていたミラノを離れ、スイスとの国境に向かって逃走した。4月27日、ムッソリーニとその愛人クラーラ・ペタッチは、コモ湖畔のドンゴという村の近くで、地元のパルチザンにより逮捕された。ムッソリーニとペタッチは翌日の午後に射殺された。ムッソリーニの死は、アドルフ・ヒトラーの自殺の2日前の出来事だった。 ==処刑までの経緯== ===背景=== 1922年に政権の座に就いて以来、ムッソリーニは国家ファシスト党の指導者としてイタリア王国を支配する立場にあり、特に1925年以降は独裁者として君臨し、ドゥーチェと称されていた。1940年6月、ムッソリーニはイタリア王国をナチス・ドイツの側で第二次世界大戦に参戦させた。1943年7月の連合国軍によるシチリア島への上陸作戦の後、イタリアは連合国陣営にくら替えし、ムッソリーニは解任された上で身柄を拘束された。1943年9月、ムッソリーニはドイツ軍の部隊によるグラン・サッソ襲撃で幽閉先から救出された。ヒトラーは救出されたムッソリーニをイタリア社会共和国の元首に就任させた。北イタリアに樹立されたイタリア社会共和国は、ガルダ湖畔の町サロを拠点とするドイツの傀儡国家だった。「サロ共和国」と蔑称されたこの国家は、1944年の時点で南から進攻してくる連合国軍のみならず、国内のレジスタンス運動(パルチザン)の脅威にも晒されていた。反ファシストのパルチザンと、イタリア社会共和国の間で行われた残忍な抗争は、後にイタリア内戦(英語版)として知られることになった。 連合国軍はイタリア半島を北上しながらゆっくりと進撃を続け、1944年の夏にはローマ、次にフィレンツェを陥落させた。そして1944年末、連合国軍は北イタリアへの進撃を開始した。1945年4月、ドイツ軍の防衛線であるゴシック線(英語版)が完全に崩壊すると、イタリア社会共和国とその後ろ盾であるドイツ軍の全面的な敗北は時間の問題となった。 1945年4月中旬以降、ムッソリーニはミラノを本拠として定めており、ムッソリーニとその政府はミラノ県庁に居を構えていた。1945年4月末、ドイツ軍の撤退を受け、パルチザンの指導部である北イタリア国民解放委員会(英語版)(CLNAI)は、北イタリアの各主要都市における一斉蜂起の決行を宣言した。ミラノがすでにCLNAIの影響下にあること、そして北イタリアのドイツ軍の降伏が目前に迫っていることを受け、ムッソリーニは1945年4月25日、北に逃れてスイスへと向かうため、ミラノを離れることにした。ムッソリーニは自動車と数台の装甲車からなる約30台の車列を編成し、4月25日午後8時頃、愛人のクラーラ・ペタッチや、他の共和ファシスト党幹部らとともにミラノを出発した。 ムッソリーニがミラノを離れたのと同じ日、CNLAIは次のように宣言した。 憲法が保障する権利の抑圧、人民の自由の破壊、およびファシスト体制の成立について有罪であり、国家を裏切ることで現状の大惨事を引き起こしたファシスト党幹部、ならびにファシスト政府のメンバーは、死刑に処せられることとなる。 ― CLNAI、 1945年4月25日の布告 ===身柄の拘束=== ミラノを離れたムッソリーニ一行は北に進み、コモを経由して4月26日にはコモ湖西岸のメナッジョに到着した。4月27日の早朝、一行の前に撤退中のドイツ軍高射砲部隊(トラック30台からなる)が偶然現れ、ムッソリーニはこの部隊と合流することを決めた。4月27日午前6時、ムッソリーニ一行とドイツ軍部隊はメナッジョを出発して北上を続けたが、午前7時30分頃、コモ湖北西のドンゴにほど近いムッソの路上で、一行の車列は地元のパルチザン部隊が設置したバリケードに遭遇し、停止することを強いられた。ピエル・ルイジ・ステーレ(イタリア語版)とウルバーノ・ラッザロ(イタリア語版)が指揮する地元パルチザンは、この車列にイタリア人のファシスト党幹部が同行していることを認識したものの、この時点ではムッソリーニの存在には気づかなかった。パルチザンはドイツ軍に通過を許可する見返りとして、車列に同行していたイタリア人全員を引き渡させた。その過程で、1台の車両の中でぐったりと座っているムッソリーニが発見された。のちにラッザロは、発見時のムッソリーニの様子を振り返って次のように語った。 ムッソリーニの顔はまるで蝋のように青白く、うつろなまなざしは何も見えていないかのようだった。疲れ切っているのが見てとれたが、恐れている様子はなかった。……彼は完全に気力を失っており、精神的に死んでいるように見えた。 1945年4月27日午後4時、ムッソリーニはパルチザンによって逮捕された。逮捕されたムッソリーニはドンゴの村役場に連行された。まもなく、愛人のペタッチも同様に逮捕され、ドンゴに連れてこられた。最終的に、車列からは50人以上のファシスト党幹部とその家族が発見され、パルチザンによって逮捕された。そのうち、最重要人物とされた16人(ムッソリーニとペタッチを除く)が、逮捕の翌日にドンゴで即時処刑(銃殺)された。その後の2日間ではさらに10人が処刑されることとなった。 4月27日午後7時頃、ムッソリーニの身柄は、ドンゴから少し離れたジェルマージノという集落の、財務警備隊(英語版)の兵舎に移された。ジェルマージノでムッソリーニは、パルチザン指揮官のステーレに対し、ドンゴに残されていたペタッチへの伝言を頼んだ。ペタッチは、ドンゴでムッソリーニからの伝言を受け取ると、ムッソリーニの側に行きたいとステーレに懇願したため、ステーレは彼女をジェルマージノの兵舎に連れて行った。ドンゴ周辺では依然として戦闘が続いており、パルチザンたちはムッソリーニとペタッチが、ファシスト党の支持勢力によって奪還されることを恐れていた。そこで、真夜中になってから、近隣で農業を営むデ・マリアという人物の家まで再度2人を移送した。安全な監禁場所と考えられたこの民家で、ムッソリーニとペタッチは残りの夜を過ごし、翌日も大半の時間をそこで過ごすことになった。 ムッソリーニが逮捕された日の午後、アレッサンドロ・ペルティーニ(北イタリアにおける社会党パルチザンのリーダー)はラジオ・ミラノの放送上で次のように宣言した。 無法者集団の首領であるムッソリーニは、憎悪と恐怖に満ちた様子で、スイスとの国境を越えようとしたところを逮捕された。ムッソリーニの身柄は、速やかにイタリア国民による法廷に引き渡され、裁かれねばならない。我々は、この男は銃殺の名誉に値しないと考えているが、それでも裁判にかけることが必要である。本来、ムッソリーニは不潔な犬のごとく殺されるべき男だ。 ===処刑命令=== 誰がムッソリーニの即時処刑を決定したのかについては諸説が存在する。イタリア共産党書記長であったパルミーロ・トリアッティは、ムッソリーニが逮捕される以前に自分がムッソリーニの処刑を命令していたと主張した。トリアッティは1945年4月26日に、「彼ら(ムッソリーニらファシスト党幹部)の処刑を決定するために必要な条件は、彼ら本人であることの確認だけだ」とのメッセージを無線電信で送ることで、ムッソリーニ処刑の命令を下していたと述べた。トリアッティはさらに、イタリア王国の副首相およびイタリア共産党の書記長として処刑の命令を下したと主張した。のちに、当時のイタリア王国首相イヴァノエ・ボノーミは、トリアッティの命令が政府としての権限や承認を得たものであったことを否定した。ミラノの上級共産党員であったルイージ・ロンゴ(英語版)は当初、ムッソリーニ処刑の命令はパルチザンの軍総司令部から「CLNAIの決定を受けて」下されたものであったと語っていたが、のちに異なる証言を行い、ムッソリーニ逮捕のニュースを知ったロンゴとフェルモ・ソラーリ(行動党(英語版)のメンバー)が、ムッソリーニが即時処刑されるべきとの意見でただちに一致し、ロンゴが処刑執行の命令を下したと述べた。 CLNAIにおける行動党の代表だったレオ・ヴァリアーニ(英語版)の証言によれば、ムッソリーニ処刑の決定は1945年4月27日の夜、CLNAIを代表して活動するグループ(ヴァリアーニ、ペルティーニ、共産党員のロンゴとエミリオ・セレーニから成る)によって下されたという。CLNAIはムッソリーニの死の翌日、ムッソリーニがCLNAIの指令によって処刑されたと発表した。 いずれにしても、ロンゴは共産党パルチザンのワルテル・アウディージョ(英語版)に対して、ただちにドンゴへ向かい処刑命令を遂行するよう指示した。ロンゴは処刑を命令するにあたって、「奴を撃ってこい」と声をかけたとしている。ロンゴはまた、別のパルチザンであるアルド・ランプレーディ(イタリア語版)にアウディージョに同行するよう頼んだ。ランプレーディによれば、ロンゴはアウディージョの性格が「生意気で、強情かつ向こう見ず」であると考えていたため、ランプレーディを任務に同行させたという。 ==処刑執行== ムッソリーニとペタッチが死亡した状況について、ワルテル・アウディージョが語った証言は、(戦後いくつかの異説が唱えられてきたものの)少なくともその大枠においては依然として最も信憑性の高いものであり、イタリアでは公式な見解として扱われる場合もある。 アウディージョの証言は、アルド・ランプレーディによる証言とも大枠で一致していた。1960年代にはステーレ、ラッザロやジャーナリストのフランコ・バンディーニによる著作が出版され、これらはムッソリーニ処刑についての「古典的」な説明を提示した。それぞれの人物が語るムッソリーニの死の経緯は、細部に違いは見られるものの、重要な事実関係については共通していた。 1945年4月28日の早朝、ロンゴから下された命令を遂行するため、アウディージョとランプレーディはミラノを離れた。2人はドンゴに到着すると、地元パルチザンの団長ピエル・ルイジ・ステーレと会見し、ムッソリーニを引き渡させるように話を取り決めた。この任務中、アウディージョは「ヴァレリオ大佐」との偽名を名乗っていた。午後になると、アウディージョはランプーレディやミケーレ・モレッティらの同志を引き連れてデ・マリアの農家まで車を走らせ、ムッソリーニとペタッチの身柄を引き取った。2人を車に乗せたあと、アウディージョらはジュリーノ・ディ・メッツェグラと呼ばれる集落へと向かった。車は細い道に面した「ベルモンテ荘」の入り口 ()で停止し、そこでムッソリーニとペタッチは車から降りるように指示され、塀の前に立たされた。その後、アウディージョは(自分の銃が故障していたため)モレッティから短機関銃を借り、午後4時10分にムッソリーニとペタッチを射殺した。 アウディージョの証言とランプレーディの証言にはいくつかの差異が存在する。アウディージョは、死の直前にムッソリーニが臆病に振る舞っていたと語るが、ランプレーディはそれを否定している。アウディージョはまた、処刑前に死刑判決を読み上げたと主張したが、ランプレーディの証言にそのような事実は含まれていない。他方、ランプレーディはムッソリーニの最期の言葉が「心臓を狙え」であったと語るが、アウディージョの証言におけるムッソリーニは処刑直前、処刑中に一切の言葉を発していない。 アウディージョの証言には、ラッザロやステーレを含む他の関係者の証言とも食い違う部分がある。ステーレの証言では、ドンゴでアウディージョとステーレが会見した際、アウディージョは前日に囚われたファシスト党関係者の名簿を要求したあと、名簿上のムッソリーニとペタッチの名前に処刑対象であることを示すマークをつけた。ステーレはペタッチが処刑対象とされたことに疑問を呈し、アウディージョに抗議した。それに対しアウディージョは、ペタッチがムッソリーニの相談役であったと語り、ムッソリーニの政策決定に影響を与えたために「ムッソリーニと同罪である」と述べた。ステーレによれば、このやりとり以外に処刑についての議論や手続きは一切行われなかったという。 一方、アウディージョは、1945年4月28日にドンゴでアウディージョを議長とする「戦争裁判」が開かれ、ランプレーディ、ステーレ、モレッティ、ラッザロらが参加したと主張した。この裁判ではムッソリーニとペタッチに死刑が言い渡されたほか、全ての処刑が反対なしで可決されたという。のちにラッザロは、このような戦争裁判が開かれたことを否定した上で、次のように語った。 私は、ムッソリーニは死刑になるべきだと信じていた。……だがその前に、法にのっとった裁判にかけられるべきだった。あのように処刑するのはひどく野蛮だった。 アウディージョは1970年代に著した本の中で、ドンゴで4月28日に下されたパルチザン幹部によるムッソリーニ処刑の決定は、戦争裁判開催に関するCLNAI規則の第15項に準拠したものであり、正当な判決として認められると主張した。しかし、裁判長およびCLNAI規約が求める戦争委員(Commissario di Guerra)が裁判に不在だったことから、この主張には疑問が持たれている。 ==その後の経緯== 独裁者として君臨していた当時、ムッソリーニの肉体を描いた肖像(例えば、上半身裸のムッソリーニが肉体労働に従事している図)は、ファシスト党によるプロパガンダの中核をなすものだった。そのため、ムッソリーニの死後もその肉体は強力なシンボルであり続け、支持者からの崇拝の対象、敵対者からの侮辱と軽蔑の対象となり、大きな政治的重要性を帯びていた。 ===ロレート広場=== 1945年4月28日の夜、ムッソリーニとペタッチの死体は、処刑された他のファシスト党幹部の死体とともにバンに積み込まれ、ミラノに向かって南へと運ばれた。4月29日の未明、バンはミラノに到着し、ムッソリーニらの死体はミラノ中央駅に近いロレート広場の地面に投げ捨てられた。ロレート広場では1944年8月、パルチザンの襲撃および連合軍の空爆への報復として15人のパルチザンが銃殺された後、その死体が見せしめに放置されたという経緯があり、パルチザンがこの広場を選んだのはその意趣返しだった。ムッソリーニは15人のパルチザンが処刑された当時、「ロレート広場で流れた血のために、我々は高いつけを払うことになるだろう」と語っていたと伝えられている。 ムッソリーニらの死体は積み重なった状態で放置された。4月29日午前9時を回る頃には、おびただしい数の群衆が広場に詰め掛けていた。群衆は死体に野菜をぶつけ、唾を吐きかけ、尿をかけ、銃撃し、足蹴にした。ムッソリーニの顔面は殴打され、変形した。あるアメリカ人の目撃者は、これらの群衆を評して「邪悪で下劣、無秩序」であると述べた。その後しばらくして、ムッソリーニらの死体はスタンダード・オイルのガソリンスタンド(建設途中)の骨組みの桁まで持ち上げられ、食肉用のフックに引っ掛けられて、逆さ吊りにされた。逆さ吊りは、吊るされた人物の「汚名」を強調するために北イタリアで中世から行われてきた方法であった一方で、実際にムッソリーニらを逆さ吊りにした人々によると、これは単に死体を群衆から保護するための処置であったという。ロレート広場での一連の出来事を記録した映像は、彼らの主張を裏付けているように見える。 ===検死=== 1945年4月29日午後2時頃、ミラノに到着していたアメリカ軍当局が、逆さ吊りされたムッソリーニらの死体を降ろすことを命じ、検死の準備のため死体を遺体安置所に移送させた。遺体安置所では、あるアメリカ陸軍のカメラマンが移送後の死体の写真をいくつか撮影したが、その中にはムッソリーニとペタッチの死体にポーズを取らせ、あたかも2人が腕を組んでいるかのように見せた悪趣味なものも含まれていた。 1945年4月30日、ミラノ法医学研究所でムッソリーニの検死が行われた。ある検死報告書では、ムッソリーニは9発の銃弾を受けたとされ、別の報告書では7発の銃弾を受けたと述べられている。そのうち、心臓に近い位置の4発の銃弾が死因として示された。銃弾の口径は特定されなかった。このほか、死体からはムッソリーニの脳の標本が採取され、分析のためアメリカへと送られた。その意図は、「梅毒がムッソリーニの精神異常を引き起こした」という仮説を証明することにあったが、脳の分析結果は梅毒の存在を示さず、梅毒の証拠はムッソリーニの身体からも発見されなかった。一方で、ペタッチの検死は一切行われなかった。 ===埋葬・盗難被害=== ミラノでの見せしめと検死を経て、ムッソリーニの死体はミラノ北部のムゾッコ墓地(英語版)に埋葬された。埋葬地に墓標は置かれなかった。1946年の復活祭の日曜日、ドメニコ・レチージ(イタリア語版)という名の若いファシストは埋葬場所を突き止め、2人の友人とともにムッソリーニの死体を掘り起こして盗んだ。当局による捜索が行われる中、その後16週間にわたって死体は転々と各地に運ばれた。その間、別荘や修道院などが死体の隠し場所として利用された。最終的に、ムッソリーニの死体は1946年8月、ミラノからさほど離れていないパヴィア修道院(英語版)で、片脚が欠損した状態で発見された。ファシズムへの共感を持つ2人のフランシスコ会修道士が、レチージが死体を隠すのに手を貸したとして罪に問われた。レチージは6ヶ月の懲役刑を受けることとなったが、その罪状は通貨偽造であり、ムッソリーニの死体を盗んだこと自体については無罪放免となった。 その後当局は、ムッソリーニの死体がチェッロ・マッジョーレの小さな町にあるカプチン会修道院に置かれるよう手配した。その後の11年間、死体はこの修道院に保管されていた。その間、ムッソリーニの死体の場所は遺族にすら秘密にされていた。ムッソリーニの遺族は何度も死体の引き渡しを求めたが、1957年になるまで政府はその要求を受け入れなかった。1957年5月、新たに首相に就任したアドネ・ツォーリ(イタリア語版)は、ムッソリーニを故郷のエミリア=ロマーニャ州プレダッピオに改めて埋葬することに合意した。背景には、議会におけるツォーリの地位が、極右勢力(ネオ・ファシスト政党の代議士となっていたレチージを含む)からの支持に依存していたほか、ツォーリ自身もプレダッピオにルーツがあり、ムッソリーニの未亡人ラケーレ・グイーディを良く知っていたという事情があった。 ===墓廟・命日=== 1957年9月1日、プレダッピオにあるムッソリーニ家の納骨堂で、詰め掛けた支持者らがローマ式敬礼を行う中、ムッソリーニの改葬が実施された。ムッソリーニの死体は大きな石棺(サルコファガス)の中に横たえられた。石棺のある墓廟にはファシスト党のシンボルが飾られており、ムッソリーニをかたどった大理石の頭像が設置されているほか、墓廟の前には参拝者が記名するためのノートが置かれている。ムッソリーニの墓廟はネオ・ファシストにとっての巡礼地のひとつとなっている。ノートに記名する訪問者は1日に数十人から数百人程度だが、重要な記念日には数千人が記名することもある。ノートに書き込まれるコメントのほとんどは、ムッソリーニを支持する内容となっている。 ムッソリーニの命日である4月28日は、ネオ・ファシスト達が大規模な集会を行う重要な3記念日のひとつでもある。プレダッピオではこの日、ムッソリーニの支持者が町の中心から納骨堂の前まで行進する。この行事には通常、数千人が参加し、スピーチや合唱、ローマ式敬礼などが行われる。 ===改葬後の出来事=== 1966年、ムッソリーニの脳組織の標本が、1945年以来保管してきたワシントンD.C.の聖エリザベス病院(英語版)から、ムッソリーニの未亡人に返還された。未亡人は返還された脳組織(6本の試験管に入っていた)を、ムッソリーニの墓廟に置かれた箱に納めた。歴史家のジョン・フット(英語版)はこの出来事を評して、「ついに、処刑執行から19年後、休まることのなかったベニート・ムッソリーニの遺骸が再び1ヶ所に集められ、ほぼ1体の状態に戻った」と述べた。2009年、検死の際に盗まれた可能性のあるムッソリーニの脳および血液の標本が、eBayにて1万5000ユーロの値段で売りに出されたと報告された。eBay側はこの出品をただちに取り下げたため、誰も入札することはできなかった。ムッソリーニの検死が行われた病院筋によれば、検死の際に採取された標本は全て、1947年に廃棄されたという。ムッソリーニの孫娘であるアレッサンドラ・ムッソリーニは、この件に関して警察が調査を行うことを要請した。 ==戦後の論争== イタリア国外では、ムッソリーニの死についてはアウディージョの説明が広く受け入れられており、論争が行われることは少ない。他方、イタリア国内では1940年代後半から現在に至るまで、ムッソリーニの死の真相をめぐる広範な議論が行われ、さまざまな説が生み出されてきており、少なくとも12名の異なる人物がムッソリーニ銃殺の実行者として名前を挙げられている。ムッソリーニの死をめぐる議論は、イタリアにおける陰謀論の代表として、ケネディ大統領暗殺事件の陰謀論との類似点が指摘されることもある。 ===アウディージョによる証言の受容=== 1947年になるまで、ムッソリーニ処刑へのアウディージョの関与は隠匿されており、共産党紙『L’Unit*7999*』上で1945年末に発表された最初期の報告では、ムッソリーニ銃殺の実行者は単に「ヴァレリオ大佐」とされていた。アウディージョの本名が最初に言及されたのは、『Il Tempo』紙の1947年3月の記事においてであり、その後共産党が公式にアウディージョの関与を認めた。1947年3月下旬には、処刑への関与についてそれまで公に語ってこなかったアウディージョが、『L’Unit*8000*』上の一連の5本の記事の中で自らの証言を発表した。ここで証言された内容は、アウディージョが著し、死の2年後(1975年)に出版された本でも繰り返されている。アウディージョの証言以外にもムッソリーニの死については諸説が発表されており、1960年代にはラッザロとステーレが著した『Dongo, la fine di Mussolini』およびジャーナリストのフランコ・バンディーニによる『Le ultime 95 ore di Mussolini』が出版され、これらはムッソリーニ処刑についての「古典的」な説明を提示した。 ほどなく、アウディージョが当初『L’Unit*8001*』上で発表した証言と、アウディージョがその後に行った証言および他の関係者による説明との間に食い違いがあることが指摘されるようになった。アウディージョの証言は、真実を中心としたものである可能性が高いが、他方でそこには確実に誇張が含まれていた。指摘された矛盾点と明らかな誇張は、「政治的な目的で、共産党がアウディージョを処刑実行者に仕立て上げた」との発想と結びつき、一部のイタリア人はアウディージョの証言のほとんど、または全てが虚偽であると信じるようになった。 1996年、それまで公表されてこなかったアルド・ランプレーディの証言が『L’Unit*8002*』上で発表された。これはランプレーディが1972年に、共産党の記録資料として書いたムッソリーニ処刑についての報告で、飾らずに起こった出来事を伝えており、重要な経緯の説明はアウディージョの証言と一致していた。ランプレーディは間違いなく処刑を目撃した人物の1人であることに加え、共産党が保管する「非公開」の記録としてこの報告を作成していたため、真実を歪めて伝える動機はなかったと考えられている。さらには、ランプレーディは実直な性格で知られており、またアウディージョを個人的に嫌っていることでも有名であった。これらの要因により、彼の証言とアウディージョの証言が大枠で一致していることは重要視されている。ランプレーディの証言が公表された後、ほとんどの専門家はその信憑性を認めた。歴史家のジョルジオ・ボッカ(英語版)は次のように述べた。「50年にわたって組み立てられてきた『ドゥーチェ』の最期についての質の悪い虚構は、ランプレーディの証言によって一掃された。……50年間で広められた、多くの馬鹿げた説は事実ではなかったのだ。……真実は、今や明白になった。」 ===ラッザロの主張=== パルチザンの指揮官であったウルバーノ・ラッザロは、1993年の著書『Dongo: half a century of lies』において、「アウディージョではなく、ルイージ・ロンゴこそが『ヴァレリオ大佐』の正体である」と改めて主張した。(ラッザロはそれ以前にも同様の主張を展開していた)同書でラッザロは、ムッソリーニが4月28日の午後4時10分以前に期せずして負傷していたとも主張した。ラッザロによると、4月28日のより早い時間にペタッチが1人のパルチザンから銃を奪い取ろうとした際、ペタッチはそのパルチザンに射殺され、ムッソリーニは被弾して負傷した。その後、ミケーレ・モレッティがムッソリーニに発砲してとどめを刺したという。 ===英国実行説=== イギリスの戦時秘密作戦部隊である特殊作戦執行部(SOE)がムッソリーニの死に関与したという主張は複数存在しており、そこでは当時のイギリス首相ウィンストン・チャーチルがムッソリーニ殺害を指示した可能性が示唆される。これらの説においては、ムッソリーニの殺害は、ムッソリーニとチャーチルの間で交わされた「不名誉な内容」の往復書簡を回収し、両者の秘密協定を隠蔽するための裏工作の一環なのだという。問題の書簡は、ムッソリーニがパルチザンに拘束された際に所持していたとされ、その内容には「ムッソリーニがヒトラーを説得し、ドイツを欧米諸国による対ソビエト連邦連合に引き入れることと引き換えに、講和および領土的譲歩をムッソリーニに約束する」旨の申し出が含まれていたという。英国実行説の提唱者には歴史家のレンツォ・デ・フェリーチェ(英語版)やピエール・ミルザ、ジャーナリストのピーター・トンプキンズやルチアーノ・ガリバルディが含まれるが、この説が受け入れられることは少ない。 1994年、かつてのパルチザン指揮官であるブルーノ・ロナティは著書の中で、ムッソリーニを射殺したのが自分であり、ペタッチを射殺したのは彼の任務に同行した「ジョン」というイギリス陸軍士官であると主張した。ジャーナリストのピーター・トンプキンズは、シシリー島にルーツを持つSOEエージェントの男、ロバート・マキャロンが「ジョン」の正体であることを突き止めたと主張している。ロナティによれば、4月28日の朝、彼と「ジョン」はデ・マリアの農家に赴き、午前11時ちょうど頃にムッソリーニとペタッチを射殺したという。2004年、イタリアの公共放送テレビ局RAIで、トンプキンズが共同制作者を務めるドキュメンタリー番組が放送され、英国実行説が前面に押し出された。このドキュメンタリーの中でロナティはインタビューを受けており、デ・マリアの農家に到着した際の様子について次のように証言した。 ペタッチはベッドの上に座っていたが、ムッソリーニは立っていた。ジョンは私を外に連れ出し、ムッソリーニとペタッチの2人ともを殺害することが、彼に与えられた命令なのだと告げた。ペタッチは、生かしておくには多くを知りすぎていたからだ。私は、「私にペタッチを撃つことなどできない」と言った。それで、ジョンがペタッチを撃つことになったが、同時にジョンは「ムッソリーニの方は、必ずイタリア人によって殺されなければならない」と言った。 ロナティらはムッソリーニとペタッチを家の外に出し、近くの小道の端まで連れ出した。そして、2人を塀を背にして立たせた後に射殺したという。このドキュメンタリーには、母がロナティらによる処刑を目撃したと語る、ドリーナ・マッツォーラという女性のインタビューも含まれていた。マッツォーラは自身も銃声を耳にしたと主張しており、その際に「時計を見ると、もうすぐ11時になる頃だった」と証言した。同番組は、その後のベルモンテ荘における発砲は「隠蔽工作」の一部として演出されたものだと主張した。英国実行説は、それを証明するために必要な証拠が欠落していることで批判を受けているが、とりわけチャーチルとの往復書簡の存在が証明されていないことは批判の対象となっている。SOEの活動の歴史を研究しているクリストファー・ウッズは、2004年に放送されたRAIのドキュメンタリー番組についてコメントし、番組内での主張について、「陰謀論の愛好に過ぎない」と完全に否定した。 ===その他の早期死亡説=== 一部の人々は、ムッソリーニとペタッチが4月28日の午後4時10分以前にデ・マリアの農家の附近で銃殺されており、ジュリーノ・ディ・メッツェグラでの処刑は死体を用いて演出されたものだと主張している。(特に一貫して主張している者としては、ジャーナリストでファシストのジョルジオ・ピサーノがいる)。この説は1978年、フランコ・バンディーニが最初に提唱したものだった ===その他の説=== ムッソリーニの死をめぐっては、その他にも諸説が発表されており、その中には 戦後にイタリア共産党書記長になったルイージ・ロンゴだけでなく、未来のイタリア共和国大統領アレッサンドロ・ペルティーニもまた、ムッソリーニ銃殺の実行者であったと主張するものもある。このほか、ムッソリーニ(またはムッソリーニとペタッチの2人とも)がシアン化物のカプセルを用いて自殺したとする説も存在する。 =ハチ (ヒョウ)= ハチ(1941年(昭和16年)2月頃 ‐ 1943年(昭和18年)8月18日)は、恩賜上野動物園で飼育されていたオスのヒョウである。 戦局が切迫するにつれて小隊にハチを同行させることが困難になってきたため、成岡は伝手を頼って恩賜上野動物園にハチを引き取ってもらった。その後ハチは戦時猛獣処分の対象となって薬殺され、第二次世界大戦終戦後に成岡と再会したときには剥製になっていた。 成岡は故郷の高知にハチを連れ帰り、晩年になってから高知市子ども科学図書館に寄贈した。ハチの生涯とエピソードについては成岡自身の著書『豹と兵隊』を始め、宮操子、浜畑賢吉、門田隆将などが本の題材として取り上げている。 日中戦争(支那事変)の最中の1941年(昭和16年)2月28日、中華民国湖北省の山中で日本軍の小隊に保護され、「ハチ」と命名された。小隊長の成岡 正久(なるおか まさひさ)と小隊の兵士たちはハチを可愛がって育て、ハチも兵士たちを慕うようになった。 ==生涯== ===成岡と時代背景=== 成岡は高知市出身で、1912年(大正元年)9月28日の生まれだった。城東商業から関西学院大学に進み、卒業後に大日本帝国陸軍の第40師団(通称号:鯨兵団)隷下の歩兵第236連隊に応召し、1941年(昭和16年)2月からは第8中隊第3小隊長を務めていた。日中戦争時に湖北省付近に展開していた歩兵第236連隊は、通称を「鯨部隊」と呼ばれていた。鯨部隊は、1939年(昭和14年)6月の結成から第二次世界大戦の終戦まで中支・南支を転戦して、その移動距離は二千数百キロメートル、戦死者も2,000人余りを数える存在だった。その歩兵第236連隊の第8中隊は、中国南東部長江の中流域にあたる湖北省陽新県に1939年(昭和14年)10月から駐屯していた。 陽新県と大冶県の境界付近に、白砂舗という名の小さな町があった。この町に配備された警備隊の主任務は2つあり、1つは軍の公路上の警戒と付近の治安維持、もう1つは白砂舗の東方約4キロメートル地点にある牛頭山の警備であった。牛頭山は中国でも随一といわれる優良な銅山で、1938年(昭和13年)11月に日本軍が武漢三鎮の攻略に成功した後、中国が放棄したものを日系の華中鉱業公司が再興していた。華中鉱業公司が派遣した日本人技術者数名および鉱山を警備するため、白砂舗の警備隊から1個分隊が派遣されていた。 ハチと成岡の出会いは、1941年(昭和16年)2月28日のことであった。 ===出会い=== 成岡は陣地に設けられた展望台に登って付近の地形を確かめ、敵襲があった際の兵員や火器などの配置について検討していた。日が落ちてあたりが暗くなった時分、成岡がふと牛頭山の方角に目をやると、そこには野火が燃え上がっていた。しかもその野火は、見る見るうちに牛頭山麓一帯に燃え広がっていった。成岡たちは不審に思ったものの、野火の原因については不明だった。 翌朝成岡は、部下を伴って牛頭山まで野火の原因究明と警備隊の指導に出向いた。警備にあたっていた兵士の報告では「異状ありません」とのことであった。兵士の案内で山上の監視所に赴いてみると、眼下の集落入り口や小道などのあちこちに火を焚いた跡が残っていて、一見しただけで昨夜見た野火のものであることがわかった。成岡は兵士に野火のことについて質問してみたが、兵士も何のための火であるかは全く知らなかった。 そのとき、1人の若い鉱山技師が大慌てで山頂から駆け下りてきた。成岡は彼の様子を不審に思って「どうしましたか!」と問いかけたが、技師はそのまま走り去っていった。成岡たちは技師の後を追って麓のテントまで戻り、彼の動揺が治まったところでその理由を尋ねた。その答えは「山の上に1頭の大きなヒョウがいて、しかも自分をにらみつけていた」ということであった。技師は拳銃を携帯していたものの、あまりの恐ろしさに山頂から逃げ帰ってきたのだった。 技師の話を聞いても、成岡たちは半信半疑であった。そこへ鉱山事務所に雇用されている地元の男性が戻ってきた。男性は牛頭山には4頭のヒョウがいて、しかも大きさが2.7メートルもあると証言した。そのヒョウが毎晩集落に出没して家畜のみならずときには人間さえ襲うため、ヒョウの害を防ぐため野火を焚いていると説明した。 男性は成岡に「どうかあなたの手で、是非ヒョウを退治してほしい」と頼み込んだ。住民や鉱山事務所が受けた被害について話を聞き、成岡はヒョウ退治を決意した。成岡が宿舎に戻って「ヒョウ狩りに行く者はおらぬか」と呼びかけると、隊の全員が志願した。そこで成岡は射撃に優れた部下を3名選び、自らが指揮を執って牛頭山の登山口に向かった。 牛頭山は標高こそ100メートル程度であったが、山の全体が岩に覆われている上に山バラが密生して移動がしにくい状態であった。山中にはヒョウの足跡が点々と残り、真新しいキジの羽毛やシカの白骨などが散乱していた。一行が頂上に近づくにつれてヒョウが食い荒らした鳥獣の残骸が多くなり、その中には人間の衣類とおぼしき切れ端すら混じっていた。頂上の大岩にたどり着いて周囲を確認したものの、ヒョウの気配すら感じられないほどに静まり返っていた。 一行は引き返すことにして、下山を開始した。7合目付近にある大岩にさしかかったとき、不意に大きな唸り声が付近の静寂を破った。一行は声の主を探し求めたが、周囲は再び静けさを取り戻していた。再び先ほどの大岩にたどり着くと、先ほどよりも大きな唸り声が至近距離から聞こえてきたため、大岩の下にヒョウがいることがわかった。 大岩の上は3坪ほどの平面になっていたので、一行にとって安全な場所であった。大岩の側面に密生している木の根元が深い空洞になっていて、その中をヒョウが根城にしていた。一行はヒョウをおびき出す手段として、空洞に火を放つことにした。1人が空洞の入り口を見張り、他の3人が付近の枯草を大量にかき集めて火をつけ、入り口から投げ込んだ。投げ込んだ火は湿気などのためにすぐに消え、最初の攻撃は失敗した。 成岡は部下のうち2人を再度頂上まで登らせ、ふもとで待機している警備隊に向かってガソリンを持ってくるように大声で叫ばせた。ふもとから技師がただ1人、ガソリンの入った一升瓶を手にかけつけてきた。成岡たちはそのガソリンを入り口に散布し、枯草に火をつけて投げ入れた。火は瞬く間に燃え広がってすぐ消えたため、成岡たちはヒョウが入り口から飛び出してくるのを待ち受けたが、出てきたのは小さなヒョウの子2頭のみであった。 成岡たちが思いがけない事態に驚いているうちに、ヒョウの子2頭は空洞の中に戻っていった。2頭を捕らえるためにもう一度火をつけようとしたところ、技師が成岡の意図に反して空洞の奥深くまでガソリンを散布して点火したため、火は激しく燃え上がった。空洞からはヒョウの子たちの悲鳴が聞こえたため、成岡は空洞に単身で入ることにした。 親ヒョウの気配がないのはすでに3回の火攻めによって遠くに逃れ去ったためと思われたが、成岡は用心のために拳銃を口にくわえて空洞に降りて行った。成岡は空洞の隅に隠れていたヒョウの子2頭を鷲づかみにして入り口に向かい、部下たちの銃口に守られながら地上に脱出した。 ヒョウの子は生後20日ほどで、オスとメスが1頭ずつであった。オスの方は右首筋に大きな火傷を負っていたが、メスの方は無傷だった。2頭を連れた一行が牛頭山のふもとに戻ると、残留していた成岡の部下、鉱山の技師たち、そして地元の住民多数が歓呼のうちに彼らを出迎えた。 成岡は白砂舗を去る前に、ヒョウの子たちを「おとり」にして親ヒョウを生け捕ろうと決心していたが、必要な資材が間に合わなかったため断念せざるを得なかった。3月3日、成岡たちは白砂舗での警備任務を終えて陽新県に戻ることになった。成岡は鉱山技師に預けていたヒョウの子2頭のうち、火傷を負った方の1頭を連れ帰ることにした。 ===兵士たちとともに=== 成岡たちが陽新県に戻ると、兵士たちが次々と集まってきた。彼らのもとには成岡の一行が可愛らしいヒョウの子を連れて戻ってくるという知らせがすでに届いていたため、大喜びで帰還を待ち受けていたのだった。 まだ歯も生えていないヒョウの子のことで成岡が困ったのが、何を食物として与えるかという問題だった。ヒョウの子が空腹を訴えて大声で鳴きわめくので、試しに牛乳を与えてみたが徒労に終わった。ヒョウの子は夜通し鳴き続けていたため、成岡は一睡もできないありさまだった。 成岡は部下の橋田寛一を呼んで「鳥を取ってきて食わせ」と命じた。橋田は成岡の率いる小隊では、一際優れた射撃の腕前の持ち主であった。「スズメ撃ちの名人」としても知られていて、実際にスズメ撃ちの腕前を乞われて披露した経験もあった。 橋田によれば、ヒョウの子を初めて見たとき「子猫」にしか見えなかったという。食べ物を受けつけようとしないヒョウの子には橋田も困ったが、工夫を重ねて何とか口に入れたら、そのうち食べるようになったという。その工夫というのは、軍服の上着の一番上のボタンを外し、そこにヒョウの子を顔だけ出すようにして入れた上で、橋田の食事を噛んで柔らかくしてヒョウの子に与えるというものであった。ヒョウの子が固形物も食べられるようになると、草原にいるノロジカや鳥を撃ってきて、それを同様に与えた。ヒョウの子は日中は橋田のもとで過ごし、夜は成岡の部屋で寝ることになった。 ヒョウの子のために巣箱が作られていたが、ヒョウの子は狭苦しい巣箱を嫌って常に部屋の中で過ごしていた。最初のうちは目も開かず足取りもおぼつかなかったが、1週間足らずのうちに目が見え始めた。成岡が座敷に腰を下ろすと走り寄ってきて膝の上に飛び乗り、彼の手先を嬉しそうになめるようになった。ヒョウの子は成岡と同様に部隊の兵士たちにも親しみを寄せた。兵士たちが部屋に訪れると早速足元に抱きついて愛嬌を振りまき、兵士たちもヒョウの子を抱き上げて頬ずりしたり、いつまでも撫でたりして可愛がっていた。 体が次第に大きくなってもヒョウの子の愛らしさは変わらず、休日には他の部隊の兵士たちがその姿を写真撮影しに来ることも多かった。ヒョウの子は成岡の部屋で起居を共にし、就寝時には彼の首を枕代わりにして安眠するようになった。最初のうち成岡はなかなか寝つけずに困ったというが、ヒョウの子の愛らしい寝姿と安心しきって幸せそうな寝息を聞くと可哀想になって追い払うことはできずにいた。 ヒョウの子は元気に成長し、1月も経たないうちに部隊のマスコットとなった。兵士たちが部屋に来ないときには、自分から建物のあちこちを訪れて挨拶代わりに戯れ、外で走り回ったり部屋で紙くずをおもちゃ代わりにもてあそんだりしながら楽しく過ごしていた。ヒョウの子にはまだ名前がなかったので、成岡は兵士たちのうち十数名を集めて名づけの相談をすることにした。このとき、第8中隊の名を取って「ハチ」と命名することに決定した。ハチは教練や野外練習にも兵士たちとともに参加し、他の部隊の兵士たちや地元の住民たちもその光景に驚いていたという。 ===慰問舞踊団の訪問=== ハチは人見知りをしない性格で、他の部隊の兵士たちともすぐに仲良しになるほどであった。ただし成岡と部下の兵士たちは部外者の兵士が誤ってハチを撃ったりしないか常に注意を払い、警戒も怠らなかった。やがてハチが第8中隊の一員となって50日ほど過ぎ、4月も半ばとなった。日本から将兵慰問のため、宮操子が率いる慰問舞踊団の一行が陽新県の兵営を訪れた。宮の舞踊団は、1939年(昭和14年)から1942年(昭和17年)まで中国各地への慰問公演を続けていた。舞踊団には若い女性6名も加わっていて、仮設の舞台で様々な踊りを披露して兵士たちを楽しませた。 しかしその日の夕方、宮が高熱を発して倒れ、舞踊団は次の訪問先に移動できない状態に陥った。成岡は異国の地で病に侵された宮の心細さと、足止めされた舞踊団の団員たちのことを思って、少しでも慰めになればとハチを抱いて舞踊団の宿舎に出向いた。宿舎にいた舞踊団の女性たちはハチを見て最初のうちは驚いていたが、成岡が「コイツは誰とでもすぐ友だちになりますから」との話を聞いてその人懐こさと愛らしさにすぐに心を許し、紙つぶてを投げるなどして遊び始めた。病臥中の宮も、成岡の心遣いを大いに喜んだ。成岡は宮を始めとした女性たちの希望を容れて、宮の容態が回復するまでハチを宿舎に残すことにした。 1週間後、舞踊団の一行は次の目的地に向かって出発することになった。成岡がハチを迎えに行くと、元気を回復した宮がハチを抱いている姿が目に入った。成岡がそっと近づいていくと、ハチはいち早く気づいて宮の腕から成岡の肩に素早く飛び乗り、再会を喜ぶ様子で顔中をなめ回しはじめた。いかにも嬉しげなハチの様子に、宮を始めとする舞踊団の女性たちはその背中を撫でて別れを惜しんだ。 一行が去ってしばらく経ってから、成岡はハチの体から芳香が漂っているのに気づいた。それは舞踊団の女性たちが毎日のようにハチを可愛がっていた際の移り香であった。そして女性たちは、美しい花模様入りの首輪をハチに贈っていた。成岡は後に自著で「それは可愛いハチにふさわしい贈り物でありました」と述懐していた。 ===育ちゆく日々=== ハチは一時期、体調を崩して起き上がることさえ困難になっていた。心配した成岡が大隊本部の獣医官に診察を依頼したところ、「カルシウム欠乏症」に起因するものという診断が下った。成岡はその日からハチに骨つきの肉を与えるように努め、郷里の高知から強力な空気銃を送ってもらって周囲に住むスズメやモズなどを撃ってハチの餌に加えた。その成果が出てハチは健康を取り戻し始めたものの、5月中旬に成岡は師団対抗剣術大会の審判兼選手として出場を命じられ、部隊を不在にせざるを得なくなった。 成岡はハチのことが気がかりだったため、留守中のことを部下によく言づけておいた。2週間にわたる出張中、ハチの容態が心配でならなかったが、任務を無事に果たすことができた。帰路を急いで兵営に戻った成岡に、立哨中の兵士が「ハチは元気になっています」とうれしい知らせを告げた。自室に戻ると、ハチはすぐに成岡に飛びついてきて再会の喜びをあらわにした。 ハチは兵士たちの夜間歩哨勤務によく付き合い、兵士たちにも頼りがいのある「相棒」となっていた。炊事場では盗み食いを働くネコや野良犬を「退治」したため、盗み食いの被害がなくなった。炊事係の兵士たちはハチを「衛兵」と呼ぶようになったが、1つ困った事態が起こり始めていた。それは、炊事場に物を売りに来る地元の住民たちに対してハチが襲いかかるそぶりを見せてしまうため、兵士たちがそばで押さえていなければならないことであった。 他の分屯隊から陽新県の中隊本部に事務連絡などでやってくる兵士たちは、いずれもその道すがらにハチのために大きなシカや野鳥を射止めて運んできていた。獲物を持ち帰ってきた兵士たちは、再会を喜んでじゃれつくハチの愛らしさに疲労も忘れてかわるがわる抱き上げるなどして愛情を示していた。兵士たちが再び帰隊するとき、ハチは東門まで必ず見送りに出た。その姿が見えなくなるとハチは悄然として戻ってくるため、中隊本部の兵士たちはすぐに鬼ごっこを始めてハチの寂しい気持ちを紛らわせていた。 ===「野生の豹と共に暮らす男」=== ハチが生後6か月になる頃には、体長がすでに1.7メートル、体重50キログラム以上にまで成長していた。ハチと成岡のことは「野生の豹と共に暮らす男」として、戦線にいた各部隊に広く知れ渡り、地元の住民たちからは「豹の大人(たいじん)」と呼ばれるほどであった。ヒョウは猛獣の中でも最も人に慣れにくいといわれ、それは著名なサーカスの中にライオンやトラの芸があってもヒョウを調教して芸をさせた例がほとんどないことが証明していた。成岡もハチがここまで人に慣れ親しみ、愛情に応えるようになるとは思っていなかった。 成岡はハチが赤ん坊のときはともかく、成長するにつれてどうなるかについては全く自信を持っていなかった。ハチが他人に危害を加えるような事態が起こればそれは成岡自身の責任であるため、内心少なからず心配をしていた。高知にいる成岡の肉親たちも、心配していたという点では同様であった。特に成岡の父は「やめてくれ」、「ヒョウを手放せ」などという戒めの手紙を何回も送ってきていた。 ハチの飼育については、部隊内の上層部からも強く諫める声が出ていた。特に連隊長である亀川良夫から「危険であるから、隊内での飼育は絶対に禁ずる」と再三にわたって注意されていた。成岡と部下の兵士たちは困り果てたが、皆が可愛がっているハチをいまさら捨てたりすることなどできずにこっそりと飼い続けることにした。成岡たちは兵営への出入りの監視を一層厳重にして、事情を知らない他の隊の兵士などに射殺されないように守るように努めていた。ハチも兵営を囲む鉄条網の内側が安全であることを判っていたようで、日中に単独で隊の外に出ることを慎んでいた。 ハチの「処分」などできないままに日々が経過し、亀川連隊長が内務巡視に来る当日になった。ハチをどこかに隠しておくこともできず、成岡たちは亀川の一行を出迎えることになった。一行が成岡たちのところまで10メートルほどに近づき、成岡たちが一斉に挙手の敬礼を行ったところで、成岡の足下に座っていたハチがやおら起き上がった。 亀川もハチに気づき、立ち止まってその様子を無言のままで見ていた。成岡たちは挙手の姿勢のままどうすることもできず、ただはらはらと見守ることしかできなかった。亀川がハチの挙動に注意を払いながらも歩みを進めた途端、ハチが飛びかかった。成岡にはその飛びかかりが、普段喜んで部隊の兵士たちにじゃれつくときと同じであることがすぐにわかった。 ハチは亀川の体ではなく、右肩から下がっていた図嚢(ずのう)にじゃれついて遊び始めた。とっさのことに亀川は両手を高く上げた棒立ちの姿勢のまま、遊び戯れるハチの姿を見つめた。やがて亀川は落ち着いた様子で「成岡、お前はまだ処分をしていなかったのか」と問いかけた。成岡は「はいっ」と返答して亀川の次の言葉を待った。 亀川は無心に遊ぶハチの姿を見て「成岡、大丈夫だろうな」と確かめてから軽くハチの頭を撫で始めた。成岡は「はいっ、絶対大丈夫であります」と即答したが、亀川は「隊員たちがどんなことをしても絶対大丈夫ということが、どうしていえるのか」と重ねて問いかけてきた。成岡は内心でこの事態を好機と捉え、素早く上半身裸体となってハチに近寄り、その体を担ぎ上げて兵営の中庭に運んだ。 成岡とハチは中庭で「レスリングさながらの実演」を開始した。成岡はハチを倒してその体を枕にしたり、馬乗りになったり、しまいには鋭い牙の生えた口の中に自らの拳を突っ込んだりした。ハチも大喜びで成岡と戯れていた。亀川の随行官たちはその光景に驚嘆した様子で、さかんにカメラのシャッターを切り始めた。亀川はやがて「もうよい、分った、分った」と言って「今後は連隊のマスコットとし、続いて第8中隊で飼うようにせよ。なお、より一層可愛がってやれよ」と許可を与えた。さらに亀川の計らいで、ハチにも毎日部隊用の豚肉が特別支給されることになった。 ハチを公然と飼育することができるようになったことは、成岡たちにとって大きな喜びであった。ハチは成岡と部下の兵士たちを家族と同様に慕い、兵舎を住みかとして毎日を楽しく過ごしていた。ハチは日本軍の軍服を着用した兵隊には従順にふるまったが、それ以外の人間や動物に対しては猛獣の習性を見せてときには一撃で倒してしまうことすらあった。ただし、日本軍が使役していた軍馬が放馬して中隊近くの草原に迷い込んでくることがあっても、ハチは素知らぬ顔をして近寄ることもなかった。ハチのこの行動について、後に成岡は「あるいは隊員の匂いがあって、姿は違っていても戦友とでも思っていたのかもしれません」と記述している。 ===太平洋戦争の開戦=== 9月初旬、成岡は悪性の熱帯性マラリアに罹患して臥床を余儀なくされた。ちょうどその頃、香川県からの慰問団が近日中に訪問してくるという知らせが届いたが、体調の悪い成岡はそれどころではなかった。ハチは成岡の体調を気づかうように、1日の大部分を彼の枕元で過ごした。成岡が高熱に苦しみだすと、その舌で手先や顔をなめ回したり体をすり寄せたりして見守り続けた。成岡はハチのいじらしさに涙を流し、体の痛みを忘れてハチを撫でるほどであった。 数日が過ぎ、成岡の体温はほぼ平熱に戻っていたが、激しい頭痛とめまいが残って体力が弱っていた。その朝部下の1人が「大隊長が慰問団を案内してハチを見学に来る」旨を知らせてきた。成岡と部下が病気のことなどについていろいろ話し合っていると、中庭の方からにぎやかな声が聞こえてきた。 その中には若い女性の声も混じっていた。ハチは成岡の枕元にいて中庭の騒ぎに聞き耳を立てていたが、いきなり声の方向に向かって走り出した。とっさのことに成岡は無意識のうちに起き上がってハチの後を追い、ハチが慰問団の一行に飛びかかる寸前で引き留めることに成功した。騒ぎに驚いた慰問団の一行が慌てて逃げたため、負傷者は出なかった。若い女性が1人失神して倒れていたが、スカートと下着を切り裂かれただけで怪我はなく、応急措置を受けて約30分後には無事に回復した。 騒動の終息後、成岡の体調は再び悪化した。隊員の助けを借りて自室に戻ってようやく臥床したが、すぐに強烈な震えが起こり始めた。ハチも再び成岡の枕元に付き添い、彼の苦しみを気づかわしげに見守っていた。成岡の体調はなかなか回復せず、臥床する日々が続いていた。 漢口の日本軍司令部は長沙方面の作戦を展開することになり、連隊は日々出動の準備に多忙をきわめた。成岡は療養中の身だったため兵営に残留して、留守中の警戒などを任されることになった。成岡の記憶によれば1941年(昭和16年)9月19日、兵営に最小限度の人数を残して、連隊は長沙方面に出動していった。 連隊は10月下旬にそれぞれの分屯地まで戻ってきた。当日連隊を迎えに出た成岡の目に入ったのは、白布にくるまれた8個の包みが兵士たちの胸に抱かれて軍用トラックから降りてくる光景だった。元気に出動していった兵士たちがわずか1か月余りで死を迎えたという事実に成岡は暗然としたが、兵営は以前のにぎやかさを取り戻し、ハチも嬉しげに兵士たちの間を駆け回っていた。 1941年(昭和16年)日本時間12月8日未明、日本軍は真珠湾攻撃を実行し、アメリカ軍の太平洋艦隊に大きな損害を与えた。中隊に属する無線班が特別に設置したラジオからは緒戦の華々しい戦果が次々と報道され、兵営は勝利の喜びに沸き返っていた。成岡はその2日後、マラリアを再発させて病臥状態に陥った。ハチは以前と同じく成岡の枕元に付き添っていたが、成岡の病状はなかなか回復しなかった。数日が過ぎて再び連隊は長沙方面への作戦に出動が決まり、成岡を含めてわずか十数名で兵営の留守を守ることになった。ハチは人数の少なくなった兵営において、警戒中の兵士とともに巡回し、よく任務を助けていた。 1941年(昭和16年)の年末、大冶にあった留守連隊本部から、戦局に関する情報が伝えられてきた。その情報によれば、亀川連隊長の率いる部隊主力は、長沙北方にある大山塘(だいさんとう)付近で数十倍の敵と戦闘し、第二大隊長水沢少佐以下多くの犠牲者が出たということであった。 成岡は病臥の身のままで1942年(昭和17年)の新春を迎えることになった。その時分から彼の容態は快方に向かいつつあった。2月になると、前線に出動していた連隊の主力部隊が任務を果たして引き上げてきた。軍用トラックから降りてきた兵士たちは、白布にくるまれた包みを十数個携えていた。帰還した兵士たちは疲労の色が濃かったものの、成岡のもとに走り寄って「成岡曹長殿、ご病気はよくなられましたか」と容体を気遣い、成岡もその思いやりに感謝しつつ「ご苦労様でした」と彼らの労をねぎらった。成岡は秋田中隊長に「留守中異常ありません」と報告したところ、秋田は成岡の病気全快を喜ぶとともにハチの近況を問いかけてきた。成岡は秋田の問いかけを聞いて、ハチの姿が見えないことにようやく気づいた。 成岡が自室に戻ったところ、ハチは土間の隅にうずくまっていたが、明らかに様子がおかしかった。成岡はハチののどに何かが刺さっていることに気づいて、嫌がるハチの体を押さえてのどの中を覗き込もうとした。大きく成長したハチは必死に抵抗を続けたため、成岡はそれ以上の処置を断念せざるを得なかった。やがてハチは屋外に出て行った。成岡は冬の寒気の中で、自室と屋外を往復してハチの様子を何度も見に行ったが、翌日の明け方になるとハチの姿は消えていた。 成岡は兵士たちの協力を求めて隊内を探してみたが、ハチを見つけることができないまま時間が過ぎた。やがて兵舎の北側付近から大きな呼び声が聞こえたため、その方面に向かって成岡は走った。成岡を呼んだのは兵士の1人だったが、彼が指し示す方向を見るとうつぶせになっているハチが草むらの中にいた。ハチは下あごから首にかけて大きくはれ上がり、悪臭さえ漂っているありさまだった。そのときのハチには成岡たちが近寄っても抵抗する元気すら残っていなかった。成岡は思い切ってハチの口に手を突っ込み、奥歯の内側に食い込んでいた異物を素早く抜き取った。この「荒療治」が功を奏して、ハチの体調は無事に回復することになった。 ===ハチとの別れ=== ハチは成岡を始めとする兵士たちと仲良く過ごし、表向きは幸福な日々を送っていた。しかし、ハチと兵士たちが別れなければならない日が迫りつつあった。 1942年(昭和17年)4月18日、アメリカ軍は日本本土に対する初の空襲(ドーリットル空襲)を実行した。太平洋側の重工業地帯に対する爆撃が行われたことに日本政府は衝撃を受けた。爆撃機が中国の江西省白山や建鳳にある飛行場を着陸地点としていたことが判明したため、大本営はそれらの飛行場を攻撃して日本本土への空襲を実行させないという「浙*9750*(せっかん)作戦」を発令した。 この命令によって、連隊は初年兵とその教育要員を除く全兵力が出動することが決定した。しかも、この作戦が終了した後には陽新県には戻らずに武昌の南方にある蒲*9751*県城付近に移動することとなっていた。成岡も中隊の第3小隊長として作戦に参加しなければならなかったが、ハチをどうするかという大きな問題にぶち当たっていた。 牛頭山の岩穴から連れてきてから1年以上が経過して、幼かったハチは人間でいえば青年期を迎えていた。ハチは兵士たちと家族同様に暮らしていたため、成岡はハチを見捨てることなどできなかった。成岡はいずれハチが成長して一緒に暮らすことが難しくなることを予期していて、故郷である高知県の柳原動物園にハチの引き取りを依頼していたが、食糧難を理由に断られた。次いで大阪の天王寺動物園にも照会してみたものの、すでに雌雄のヒョウを2頭飼育中だったため受け入れはできないとの返事であった。 成岡はかつて幼いハチを可愛がってくれた宮操子に連絡を取って、上野動物園にハチのことを依頼しようと思い立った。成岡からの手紙を受け取った宮は、自分の病床に付き添ってくれた可愛らしいハチのことをよく覚えていた。宮は何とか成岡とハチの力になりたいと考えたものの、政財界への伝手などはなかった。宮はいろいろと思案した上で、朝日新聞の記者を通して上野動物園に話を持ち込むことに成功した。 当時の上野動物園では1941年(昭和16年)7月29日に園長の古賀忠道が応召していたため、8月1日から福田三郎が園長代理を務めていた。福田は1922年(大正11年)に東京農業大学を卒業して以来、上野動物園に勤務していた。福田は動物の生態に関する専門家であると同時に、動物たちの飼育に誠実な姿勢で取り組んだ人物としても知られていた。 上野動物園側がハチの受け入れを正式に決定するまでにはかなりの時間がかかった 。成岡はハチのことが心配でならず、焦燥の日々を送っていた。出動の日が明後日に迫った1942年(昭和17年)5月3日の昼頃、成岡のもとに上野動物園からの返事が航空便で到着した。返事には「是非、送っていただきたい。大いに歓迎する」と書かれていて、成岡と部下たちはハチが生き永らえることを心から喜んだ。 部隊が出動するまでの残りの2日間、成岡と部下たちはハチとの別れを惜しんだ。橋田はハチのためにノロジカを仕留め、シカ肉をふるまった。成岡や部下たちには、明日の命も知れない自分たちの代わりにせめてハチには生を全うしてもらいたいという思いがあった。 このとき、第8中隊の1人から「ハチという軽い名前では可哀想だ」という話が出た。せっかくハチが東京まで行くのだから、それにふさわしい名前が必要だという理由であった。そこで当時の日本政府が掲げていた「八紘一宇(はっこういちう)」のスローガンから「八紘」の字を充てるのはどうかという意見に賛同者が相次ぎ、ハチは「八紘」と呼ばれることになった。 成岡はハチを東京に送り出す手順などを残留組の初年兵係教官の三宮少尉に託し、5月5日に江西省九江を目指して部隊とともに出発した。このときの成岡には、これがハチとの永遠の別れとなることなど知る由もなかった。 ===日本へ=== 数日後、ハチは軍用トラックに乗せられて兵営を後にした。そのときのハチは、取り残されたのがわかっていたのかしょんぼりしていたという。ハチの輸送のために大きな竹製の籠が作られて、嫌がるハチをその中に押し入れて約15キロメートル離れた石灰*9752*(せっかいよう)まで送り届けた。 石灰*9753*では同地の憲兵隊長を務めていた赤松大尉の好意によって軍用犬用の檻を借用し、輸送船に積み込んだ。積み込みの作業時には、ハチのことを伝え聞いていた同地の警備隊員や在留日本人などがその姿を見ようと埠頭まで見送りに訪れた。上海で日本行きの船に乗り換えて、ハチは東京に向かった。 船中でのハチは船員たちの服装が兵士と同じ国防色の衣服と戦闘帽だったため、始終落ち着いて過ごしていた。ハチの人懐こさに船員たちも心を開き、上甲板に置かれたハチの檻の扉は開け放たれた。ハチは船内を存分に駆け回り、甲板や船室だけではなくときには高いマストのてっぺんまでよじ登って大海原を眼下に見るなど、さまざまな冒険に興じていた。 ハチを乗せた船は、東シナ海を横断して福岡県八幡市(現:北九州市)の日本製鐵の埠頭に到着した。ここからハチは列車に移され、約800キロメートル離れた東京を目指した。5月30日、ハチは汐留駅に到着した。ハチについては新聞などが報道していたため、注目を集めていた。 上野動物園にたどり着いたハチは、用意されていた檻を嫌がって移ろうとはしなかった。動物園の係員たちがハチのこの様子に困り果てていると、見守っていた群衆の中から1人の兵士が進み出てきて「私にやらせてみてください」と申し出た。その兵士は名を吉村重隆といい、かつて成岡の部下として第8中隊でハチとともに過ごしていた人物であった。彼は数か月前に陸軍航空隊東部第105部隊に転属していたため、千葉県東葛飾郡田中村(現:柏市)から電車を乗り継いで上野動物園まで駆けつけてきたのだった。係員の逡巡をよそに、吉村は「ハチ!」と大声で呼びかけた。ハチは吉村の姿に気づき、大喜びでじゃれついて再会の喜びをあらわにした。吉村はハチを檻へと導き、ハチも素直に従った。 朝日新聞は1942年(昭和17年)6月2日付の夕刊で、「人間に抱かれる豹 戦線の兵隊さんからの贈り物」という表題でハチについて報道した。 ワッ凄い!豹が人間に抱かれているぞ‐ 一日上野動物園で初お目見得した雄豹の子「ハチ公」が俄然坊ちゃん嬢ちゃんの人気を掻っさらってしまった。 この人懐こい豹の子はそれもそのはず中支戦線で活躍中の皇軍の兵隊さんの手に捕らえられたのが生後二、三箇月のほんの赤ん坊時代、以来満二歳のきょうまで部隊のマスコットとして可愛がられたのを、最近兵隊さんの好意で本社の斡旋により去る三十日汐留駅に到着したもの(中略) 初お目見得の一日は様子の違う檻のなかからまぶしそうに眺め観覧者の中にカーキ色の軍服を見つけると懐かしそうにじっと眼を注ぐいじらしさがいっそう人気を呼んでいる。 ― 門田、pp.128‐129. ===成岡たちの思い=== ハチと別れた後の成岡には、「浙*9754*作戦」遂行中ということもあってハチの動静などはいっさい伝わっていなかった。成岡は、ハチのことがずっと気がかりであった。浙*9755*作戦は約3か月後にほぼ終了し、成岡と第8中隊の兵士たちは陽新県からおよそ80キロメートル離れた江西省九江市まで戻ってきた。九江には日本人街があり、大阪毎日新聞が支局を置いていた。成岡は新聞社に行けばハチのことがわかるかもしれないと考え、支局を訪ねることにした。 成岡を出迎えた記者は「あなたが、あの豹を上野動物園に贈ったご本人なのですか!」と即座に反応した。成岡が記者の反応に驚いていると、記者はハチの記事が載った新聞を探し出してくれた。6月2日付の紙面には「中支那の兵隊さんから贈られた豹”八紘”東京上野動物園に無事到着」という大きな見出しでハチの到着が報道されていた。 この記事を目にした途端、成岡は感謝と安堵のあまり涙を流していた。記者の好意で記事の掲載された新聞をもらい、宿舎に戻ってハチの無事を他の兵士たちにも知らせた。 その夜、成岡と兵士たちはハチの幸せを祝福して久々に酒を酌み交わし、和やかな時を過ごした。戦闘が1つ終わるごとに戦友の数が減っていき、次は我が身かもしれないという境遇にある彼らにとって、ハチが無事であることは何よりの喜びであった。 やがて成岡のもとに、1通の手紙が届いた。手紙の差出人は、ハチを乗せて日本まで行った船の船長だった。船長は偶然成岡の居場所を知って、この手紙を書いたのだった。 「成岡さん、今度のような愉快な航海は今まで一度も味わったことがありません。本当に有難く御礼を申し上げます」 船長は航海中のハチがどのように過ごしていたかを詳細に記してくれたため、成岡はハチが元気で船旅を楽しんでいたことを知って再度安堵した。 ===つかの間の幸福=== 上野動物園でのハチは、園内でも有数の人気者になっていった。人懐こくおとなしい性格で、時折寂しげに彼方を見つめるハチには、飼育員を始め動物園の関係者も一様に好意を寄せていた。 ハチの人懐こさは、意外な反響を呼んだ。太平洋戦争(大東亜戦争)が開戦してまもなく1年が経とうとしていた1942年(昭和17年)12月6日、皇太子明仁親王(当時8歳、平成期の今上天皇)が上野動物園を行啓(訪問)することになった。朝8時半に上野動物園に行啓した皇太子には、岸本綾夫東京市長(現在の東京都知事に相当)や宮内省(現在の宮内庁)の傅育官2名が随行し、取材にあたる報道関係者・新聞記者も同行していた。園長代理の福田が一行を出迎え、皇太子は福田の説明を聞きながら園内の動物を見学して回った。 やがて、ハチのいる檻の前に一行が来た。するとハチは急に檻の柵まで走り寄って、のどを鳴らしつつ体を柵に擦り付けて甘えるようなしぐさを見せた。一行を取材していた新聞記者たちは(こいつ、皇太子殿下であることがわかるのか?)と驚愕した。福田には、ハチの行動の理由がすぐにわかった。ハチは皇太子ではなく、随行の岸本が陸軍の軍服を着用していたためそちらに反応したのだった。 翌年の春、福田は成岡に宛てて1通の手紙を書いた。その文面には、ハチの幸福を伝えて成岡を安心させたいという思いがこもっていた。 相変わらず御壮健で御奮闘のことと思います。(中略)お贈り下さいました豹、八紘は元気で毎日大勢の少国民たちに可愛がられています。先日は畏れ多くも、皇太子殿下が動物園にお成りになられ、八紘は忝くも台覧の光栄に浴しました。(中略)成岡さん、どうぞ喜んで下さい。八紘はなんと幸福なことでしょう。 昭和十八年四月十六日 上野動物園長代理 東京市技師 福田三郎 ― 門田、pp.137‐138. ===「戦時猛獣処分」=== 1943年(昭和18年)を迎えるころには、太平洋戦線に異変が生じていた。ソロモン諸島のガダルカナル島からの「転進」(当時のマスコミ、新聞が報道する際、本来の「撤退」から事実を紛らわすために用いた用語)、連合艦隊司令長官山本五十六の死、アッツ島での「玉砕」など、日本の敗色が濃厚になりつつあった。成岡たちが配備された中国の戦線では劣勢に陥っていなかったものの、この戦争自体が不利な情勢になっていることは彼らも認めざるを得なかった。 上野動物園では福田が陸軍の東部軍司令部獣医部から、非常時における動物園の対策についての文書提出を求められていた。福田はその求めに応じて『動物園非常処置要綱』を提出した。要綱では飼育動物を「危険度」に応じて4段階に分類していた。最も危険な「第1種危険動物」にはライオン、トラ、ヒョウなどの肉食獣の他に草食獣のインドゾウやカバまでが含まれ、総頭数は49頭であった。 1943年(昭和18年)7月1日、東京市は「帝都防衛の強化」を理由として東京府に併合され、東京都が発足した。8月16日、福田は古賀(南方での1年余りの勤務を経て世田谷の陸軍獣医学校に勤務し、週2回ほど上野動物園に応援獣医として出向していた)とともに呼び出された。2人は井下清公園課長から「1か月以内にゾウと猛獣類を射殺せよ」との東京都長官大達茂雄からの命令を伝達された。射殺の命令は、周囲の住民に動揺を与えるとの理由で「毒殺」に変更された。こうして、上野動物園における戦時猛獣処分が開始されることになった。 福田は翌朝の出勤後に職員全員を集め、井下からの命令を伝達した上で、秘密を守るため家族にも口外しないようにと付け加えた。この日から、動物園の閉園後に猛獣が数頭ずつ毒殺されていった。使用された薬は「硝酸ストリキニーネ」だった。 それから約1か月にわたって「処分」が続いた。井下のもとには9月27日付で「処分」の完了が福田から報告された。この報告には、総数27頭の猛獣処分が記載されていた。ハチについては、ごく短い記述があった。 八月十八日 ヒョウ 牡 500 一 硝酸ストリキニーネ 剥製 昭和17年7月寄贈 「処分」開始後2日目の8月18日、ハチはその生涯を終えた。福田は第二次世界大戦の1953年(昭和28年)、自著『動物園物語』でハチの死について以下のように記述した。 豹は食べるとすぐ、顔をしかめ、口を曲げ、口の中の物を取ろうとでもするのか、前肢を口へ持っていくのです。が、急にごろりと横になり、眼を時々閉じています。(中略)が、四肢の硬直がきて、ついに倒れてしまい、二度と立つことが出来なかったのです。 ― 門田、p.145. 「処分」後のハチは剥製にされた。「処分」された27頭のうち、剥製となったのはハチを含めて7頭のみであった。 ==死後== ===思いがけない知らせ=== 成岡は連隊から2か月間の特別休暇を許可され、1943年(昭和18年)8月15日に湖南省岳州を出発して故郷の高知へ向かった。11日後の8月26日、成岡は無事に高知に到着した。母親の体調が芳しくなかったため、まずは実家に戻って両親に会い、その後上野動物園の福田あてにハチの様子を尋ねるために電報を打った。 「ハチ ケンザイナリヤ ナルオカ」 猛獣たちの「処分」が継続しているさなかに届いた電報を見て、福田は絶句した。福田は隠し立てなどはできないと判断して、短い返電を打った。 「八ガツ 十九ヒ ドクサツス」 成岡は福田からの返電に衝撃を受けた。つい1週間前まで生きていて、自分との再会を待っていたに違いないハチがこの世にすでにいないという事実に成岡は打ちのめされ、傷心のまま10月初旬に中国の部隊に戻っていった。 宮操子も、ハチの死に衝撃を受けた1人であった。宮の働きかけによっていったんは生き永らえることができたハチが、結果として命を縮めることになったため、彼女は成岡の心情を思いやった。1995年(平成7年)、宮は著書『陸軍省派遣極秘従軍舞踊団』でハチと成岡について次のように記述している。 「あと1週間早く帰ってきたら…」N曹長(注:成岡のことを指す)は悔やんでも悔やみきれなかっただろう。泣いても泣ききれなかっただろう。私は我が子同然のハチを失ったN曹長の悲しみの深さをとても計り知ることはできない。 ― 宮、p.210. ===ハチと一緒に=== 成岡は1944年(昭和19年)3月31日、湖北省岳陽県岳州から新編成の航空部隊に配属替えとなった。その後も中国各地を転戦し、満州国奉天省蘇家屯というところで終戦を迎えた。終戦後も部下数名とともに逃走を続け、復員して故郷の高知にたどり着いたのは1946年(昭和21年)11月23日のことであった。 成岡の心には、ハチのことが常にあった。せめて剥製となったハチを引き取り、手元に置きたいというのが成岡の願いになっていた。 ちょうどその時期、福田三郎は出張で高知を訪れていた。地元の新聞を読んで福田が高知に来たことを知った成岡は、宿舎を訪ねることにした。成岡と福田は初対面ではあったが、手紙と電報でのやり取りを通じてお互いのことをよく知る間柄になっていた。 2人は生前のハチについてさまざまなことを語り合った。2人の話題は尽きることがなかったが、やがて成岡が切り出した話を聞いて福田は驚いた。成岡は「ハチの剥製をいただきたいのです」との強い願いを繰り返し述べた。福田には成岡の心情がよく理解できたものの、剥製として東京都の所有になったハチを個人である成岡に引き渡すのは容易なことではなかった。それでも、福田は成岡の願いをせめて叶えたいと思って協力を決意した。 福田は東京に戻り、ハチを成岡に送るためにさまざまな手を尽くした。そして、福田はある「作戦」を発案し実行に移した。それはハチの剥製が傷んだことにして東京都の物品から「廃棄物」に組み替えることであった。福田と成岡は何度も連絡を取り合って、「作戦」の検討と実行に当たった。「作戦」は成功し、廃棄物扱いとなったハチは成岡のもとに戻ることができた。 ===成岡の晩年と死=== ハチは成岡とともに高知に戻った。第二次世界大戦が終わった後、成岡は高知市の桟橋通りに居を構え、喫茶店や氷屋を経営していた。成岡は自分の寝室でもある床の間の「床」にハチを安置して、大切に扱い続けた。ハチの存在は成岡家の日常に溶け込み、息子たちや孫たちもそれを自然なこととして受け止めていたという。 やがて、成岡の息子が喫茶店の後にレストランを開くことになり、ハチもそこに引っ越した。成岡は毎朝レストランの開店時間に合わせて来店し、ハチが見える席でコーヒーを飲むのを日課としていた。ハチの姿に目を止める客を見かけると、成岡はそばによってハチの説明をするのが常であった。 このレストランは4階建てで、2階から4階では大きな宴会を開くことも可能であった。「鯨部隊」の戦友会も、ここを会場として何回も開かれた。戦友たちはハチの見守る中で旧交を温め、最後は「南国土佐を後にして」を合唱してハチに手を合わせるのが常であった。「鯨部隊」の仲間とハチとの関係は、第二次世界大戦の記憶が遠くなっていく中でも長く続いていた。 1981年(昭和56年)、成岡はハチの剥製を高知市に寄贈することを決意した。それは自分がいなくなった後のハチの行く末を気遣うと同時に、戦争の悲劇をハチという存在を通じて後世に伝えたいという願いの表れでもあった。 1994年(平成6年)1月8日、成岡はこの世を去った。牛頭山でのハチとの出会いから53年、剥製となったハチとの再会から45年が経過していた。 ===ハチの修復=== ハチは成岡家に近い高知市子ども科学図書館で展示されることになった。ハチの剥製は、年月の経過によって傷みが出ていたため、2003年(平成15年)に浜畑賢吉(同年にハチを題材とした童話『戦場の天使』を出版していた)が修復のための募金を始めた。集めた募金を携えて高知を訪れた浜畑を迎えたのは、高知市の劇団「高知リトルプレイヤーズシアター」運営責任者を務める田村千賀であった。田村は浜畑に会うまでハチのことを知らなかったが、いきさつを聞いて修復への協力を決意した。 田村に続いて、地元の病院長高橋淳二がハチの修復に賛同した。高橋は高知の文化発展のために活動している人物であり、浜畑とは旧知の仲でもあった。高橋はすぐに高知市長岡崎誠也に面会の約束を取りつけ、「ハチの会」計画が動き始めた。岡崎はハチにまつわる話を聞いて、子どもたちに対する平和教育のすばらしい教材になると修復に協力的な意見を述べた。 ハチについて読売新聞が記事を掲載し、続いて田村が「高知リトルプレイヤーズシアター」の子供たちとともに朗読劇ミュージカル『ハチ』を上演した。ハチの修復活動をテレビ高知が取材したことなどにより、4年の間に約67万円の寄付金が集まった。しかし剥製修復業者数社に見積もりを依頼したところ、返ってきたのは「100万から300万円」という高額な回答であった。 修復活動が暗礁に乗り上げていたこの時期に、高知県立のいち動物公園で当時副園長を務めていた多々良成紀が高知市子ども科学図書館を訪れた。多々良は応対に出た指導員から、修復資金不足のためハチの剥製を上野動物園など管理ができるところに譲りたいと考えているという話を聞いた。その話に多々良はハチの剥製を高知県外に出してはならないと強く思った。 多々良はすぐに「ハチの会」事務局に連絡を取って、博物館や動物園の剥製を扱う業者を紹介した。業者はハチについての話と高知の子供たちなどが寄付金を集めたことなどを聞いて、予算内での修復を承諾した。さらに業者は運搬費用の圧縮のために、東京から直接ハチを引き取りに出向いてくれた。 集められた募金を元に修復作業が2009年(平成21年)5月から始まり、7月に修復されたハチが高知市子ども科学博物館に戻ってきた。そして、同年8月25日に修復後の姿が披露された。 ===語り継がれるハチの物語=== 高知市子ども科学図書館は、2009年(平成21年)12月に平和教材として『ハチからのメッセージ』という冊子を作成した。2010年(平成22年)には、高知学園短大の2年生2名の協力を得て、ハチの紙芝居を作り上げ、同年10月16日に潮江東小学校児童クラブの児童や指導員を招いて、紙芝居の「おひろめ会」を開催した。高知市子ども科学図書館は紙芝居の数を増やし、小学校などへの貸し出しを計画している。 高知県立のいち動物公園は、2012年(平成24年)9月1日から17日まで企画展示「ハチの命展」を開催した。この企画展示で使用されたパネル類は、戦争や動物と人との関係を考える上での補助教材として貸出されている。 2014年(平成26年)、高知市子ども科学図書館のハチは「日本動物大賞社会貢献賞」を受賞した。これはのいち動物公園長からの勧めで高知市子ども科学図書館が応募したところ、受賞を果たしたものであった。 なお、高知市子ども科学図書館はあらかじめ公式サイトで閉館を告知の上、予定通り2018年(平成30年)2月11日をもって閉館した。閉館後、同館は同年7月24日に開館した新図書館複合施設「オーテピア」(高知市追手筋2丁目1番12号)に移転・統合されたが、ハチの剥製については「オーテピア」5Fの「高知みらい科学館」において引き続き展示されるようになった。 ==ハチを題材にした作品== ===成岡自身の著書 『豹と兵隊』=== 成岡は第二次世界大戦中の1943年(昭和18年)、大東亜社から『兵隊と豹』という本を出版した。その後、1967年(昭和42年)に芙蓉書房から『豹と兵隊』を出版した。『豹と兵隊』は古賀忠道の序文と成岡の「まえがき」に続き、前半に当たる部分が成岡によるハチの生涯とエピソード、その後には「豹ハチと親しかった人びと」として福田三郎、久米滋三(当時土佐電気鉄道の取締役で、元歩兵第236連隊の副官を務めていた)、宮操子がハチの思い出などを寄稿している。 本の締めくくりは古賀忠道の執筆による「豹の話」である。ヒョウの説明から「レオポン」(オスのヒョウとメスのライオンの間に生まれた個体)の話と続き、さらにヒョウの習性、獲物、ヒョウと動物園のかかわりが記されている。『豹と兵隊』は1968年(昭和43年)、一峰大二によって漫画化され、小学館の学習雑誌「小学四年生」に読み切り(31頁)で掲載された。 ===宮操子『陸軍省派遣極秘従軍舞踊団』=== 宮操子は、1995年(平成7年)に『陸軍省派遣極秘従軍舞踊団』を出版した。全3章で構成されたこの本では、第2章が「極秘従軍舞踊団〈中国・シンガポール〉」の記述に充てられている。宮はこの本で第2章の最後「武器にされ、また運命を狂わされて 戦争の犠牲になった動物たち」でハチについて記述している。成岡は『豹と兵隊』を出版した後、宮を訪ねてきてハチの思い出を語ってくれたことがあったという。 1977年(昭和52年)『豹と兵隊』はNHKのドキュメンタリー番組でも取り上げられた。宮は番組内で数十年ぶりにハチと対面することになった。スタジオに数頭のヒョウの剥製が運び込まれ、司会の鈴木健二が「この中にハチがいます。どの豹がハチだかおわかりになりますか」と質問してきた。宮が近づいたとき、そのうちの1頭がサッと毛を逆立てて動いたのが確かに見え、思わず彼女はその1頭に近づいて頭を撫でた。その1頭こそ、まさしくハチであった。 ===浜畑賢吉『戦場の天使』=== 浜畑賢吉は俳優として芝居やミュージカルの仕事を続けるかたわら、「歌と朗読とお話」のステージ活動に取り組んでいる。彼は動物保護活動家として、このステージで動物に関する物語を多く取り上げていた。 浜畑は元NHKプロデューサーの中田整一から「動物に関するとてもいい話がありますよ」とハチのことを教えてもらう機会を得た。前出のドキュメンタリー番組で演出を手掛けたのが中田自身だったため、その際に使用した資料のほとんどを浜畑に提供した。浜畑は高知市子ども科学図書館でハチと対面し、成岡の息子から生前の成岡について話を聞くなど、さまざまな取材を重ねて童話『戦場の天使』を書き上げた。『戦場の天使』は2003年(平成15年)に角川春樹事務所から出版された。 ===門田隆将『奇跡の歌 戦争と望郷とペギー葉山』と『ヒョウのハチ』=== 作家・ジャーナリストの門田隆将は高知県の生まれで、両親や多くの親族が第二次世界大戦を経験していた。彼は通称「鯨部隊」について長年調べ続け、その成果を2017年(平成29年)にノンフィクション『奇跡の歌 戦争と望郷とペギー葉山』にまとめ上げて小学館から出版した。 この作品では日中戦争のさなかに歌われ始めた『南国土佐を後にして』(当初は『南国節』と呼ばれていた)が歌い継がれた経緯、その曲に新たな生命を吹き込み、大ヒット曲としたペギー葉山、そして「鯨部隊」とハチのエピソードなどが描き出されている。執筆の際、門田は幼いハチの世話にあたった橋田寛一や第236連隊の元騎兵で後に大豊町の町長を3期にわたって務めた渡辺盛男(『南国土佐を後にして』に関わるエピソードを語った)などから当時の話を聞いている。 ペギーは『南国土佐を後にして』を通じて、ハチのことに関心を抱くようになっていた。2011年(平成23年)7月9日、ペギーは高知を訪れて長年の念願だったというハチとの「対面」を果たした。そのときの思いを彼女は自身のブログ(10月19日付)でこう書いている。 やっと高知で「ハチ」と対面できました。ただ涙!(中略)あなたを可愛がっていた成岡さんが休暇で日本に帰国して真っ直ぐ上野動物園に向かったところその何日前に死んでいたなんて・・ どんなに悲しかったことか!(中略)私は・・ハチに話しかけました。立派な一匹の豹・・兵隊さんに癒しを沢山呉れたハチの子供の頃の写真からそのエピソード・・・・どうか高知にいらしたら是非ハチに逢って上げてください。 ― 門田、pp.333‐336. 門田は年少の読者に向けて絵本『ヒョウのハチ』を執筆し、2018年(平成30年)7月に小学館から上梓した。この絵本のあとがきで門田は「兵隊に育てられ、人間社会に入り込んでしまった、愛くるしく、心優しいハチを通じて、弱いものが生きることを許されなかった「あの時代」のことを是非、忘れないでほしいと思います」と読者へのメッセージを寄せている。 ===祓川学『兵隊さんに愛されたヒョウのハチ』=== ノンフィクションライターで児童文学者の祓川は、2018年(平成30年)6月に『兵隊さんに愛されたヒョウのハチ』をハート出版から上梓した。祓川がハチのことを知ったのは、前年の2017年(平成29年)夏のことであった。祓川は前出の門田による『奇跡の歌 戦争と望郷とペギー葉山』に登場するハチを記事化したいという依頼を受けて高知県に行った。高知市子ども科学図書館の関係者や成岡の孫にあたる男性などからハチの話を聞くうちに、祓川はハチをもっと調べて、児童書の形で伝えてみたいと思うようになった。 祓川は2018年(平成30年)に入ってからも高知県に何度も通って取材を続けていた。取材の日々の中で、祓川の胸中には成岡とハチの出会いの地である牛頭山に直接行ってみたいという思いが大きくなっていった。そして同年3月下旬に、日本から空路で約4時間半かけて武漢天河国際空港に赴き、空港から約120キロメートル離れた牛頭山に車で向かった。 祓川は牛頭山付近の小さな村に暮らす人々にヒョウのことを尋ねてみたが、知らないという返事ばかりであった。その村の文化施設で管理人を務める男性に話を聞いたところ、祖父や父親から伝え聞いた話として、牛頭山にヒョウが住み着いていたことや日本兵がいたという証言を得ることができた。4日間のみの中国滞在であったが、祓川が得たものは大きかった。祓川は『兵隊さんに愛されたヒョウのハチ』の最後で次のように綴っている。 戦争そのものは悲しい出来事です。しかし、戦争を通じて出会った人間とハチの物語は、時間も距離も超えて、中国から、東京・上野動物園、そして高知へとつながり、現在もはく製として語り継がれています。(後略) ― 祓川、p.157. =TEE= Trans Europ Express, 略称TEEは、1957年から西ヨーロッパで運行されていた列車の種別である。すべて一等車からなる昼行の国際列車で一定の条件を満たしたものがTEEとされたが、後に西ドイツ、フランス、イタリアでは国内発着の最優等列車もTEEとなった。TEEには原則として一往復ごとに個別の列車名がつけられていた。一等国際列車としてのTEEは1988年に全廃され、国内列車のTEEも1991年に廃止された。1993年に二等車を含む列車として復活するものの、これも1995年に廃止された。 日本語では「欧州特急」、「ヨーロッパ横断特急」、「ヨーロッパ国際特急」等と訳される。 ==特徴== TEEは本来、国際的に活動するビジネス客を主な対象として設定された列車である。また第二次世界大戦後に急速に発達した航空機や自動車に対抗できる速度や利便性、快適性を追求した列車でもある。 TEEでは出入国管理や税関検査などの手続きは原則として車内で走行中に行なえるようになっており、国境駅での長時間停車は不要になった。また食堂車を連結するか、もしくは車内の厨房からケータリングサービスが行なわれた。列車によっては車内からの電話や秘書によるタイプセットなどのサービスが行なわれるものもあった。 ほとんどの系統でTEEは1日に1往復から2往復程度であり、早朝に始発駅を出て昼頃に終着駅に着き、逆向きの列車は夕方に発車して深夜に到着するというダイヤが組まれた。これはビジネス客の出張利用を想定し午後を目的地での仕事に使えるようにしたためであり、昼間を列車の中で過ごすことはあまり想定されていない。 TEEの利用には各国鉄の一等運賃を合算したものに加え、TEE用の特急料金が必要であった。その額は1957年当時では1kmあたり1.47金サンチームと定められており、実際にはこれを各国の通貨に換算した料金表が適用された。例えば西ドイツで発券される場合は225km以下を4ドイツマルクとし、226kmから275kmまでは5マルクのように50kmごとに1マルク加算された。なおビジネス客を主な対象としていたこともあり、小人料金の設定はなく各種の割引制度もほとんどが適用されなかった。ただしユーレイルパスは利用可能であり、この場合特別料金も不要であった。 TEEは一部の国内区間相互発着利用の場合を除いて、基本的に全車指定席であり、利用には予約が必要だった。予約業務のため、列車名や駅名、その他必要な用語について各国共通の電報略号と通信手順が定められていた。 ==歴史== ===TEE以前の国際列車=== ヨーロッパにおける国際列車の運行が本格化するのは1872年に国際寝台車会社(ワゴン・リ)が設立されてからである。1880年代から1890年代にはオリエント急行、北急行など多くの国際列車が生まれた。これらは主にワゴン・リ社の一等寝台車と食堂車で編成され、国境や主要駅で機関車や客車をつなぎ変えながら運行された。 第一次世界大戦後の1920年代には、こうした寝台列車のほか、サロン車(プルマン車)による昼行の国際列車も登場した。ワゴン・リ社によるエトワール・デュ・ノールやエーデルヴァイス、そのライバルであるミトローパ車によるラインゴルトなどが代表例であり、これらはTEEの時代まで名を残した。これらの列車は一等および二等の客車のみ(当時のヨーロッパは三等級制)で編成されていた。また、1930年代になるとドイツやイタリア、フランスでは、従来の蒸気機関車牽引の列車よりも高速な気動車や電車による優等列車も現れた。 第二次世界大戦によってヨーロッパの鉄道は壊滅的な打撃を受けたが、1950年代には戦前を上回る優等列車網が復活した。1953年、西ドイツでは12往復からなる気動車特急列車(Fernzug, F‐Zug)網が誕生した。同じ年イタリアではETR300形特急電車(通称セッテベロ)が運行を始めた。 一方で、このころには鉄道は航空機や自動車との競争に晒されるようになった。また特急列車の利用客も変わり、ごく限られた上流階級のための列車に代わって、国際的に活動するビジネス客のための列車が求められるようになっていた。 ===TEEの構想=== TEEの構想を提案したのはオランダ国鉄の総裁であったF.Q.デン・ホランダー(Frans den Hollander)である。彼は1953年10月30日の記者会見で、Europa Express(ヨーロッパ急行)という新たな国際列車を提唱した。これはすべて一等車からなる高速の気動車列車で、当時の旅客機と同等以上の内装を有し、国境で乗務員を交代することなく運行されるべきものとされた。 デン・ホランダーは、300kmから500km程度の距離では列車は航空機に所要時間の面で優位に立てると考えた。また彼はこのころ国営航空会社KLMの役員も兼ねており、当時急速に発展していた航空業界のサービスを鉄道に取り入れようという意図もあった。一等専用としたのは、当時の航空運賃では二等旅客は航空機を選ぶことはないと考えられたためである。 デン・ホランダーの提案は国際鉄道連合で検討され、翌1954年10月にはヨーロッパ時刻表会議の議題となった。当初は国際寝台車会社をモデルに列車運行のための新会社を設立し、オランダの気動車を元にした共通車両を製作して使用するという構想であった。しかし各国間の調整がうまく行かず、以下の基準を満たした車両を各国鉄が製作し、共同運行することとした。 最高速度は140km/h(平坦線)、また16パーミルの登り勾配でも70km/h以上で走行可能であること。軸重は18t以下。共通のブレーキシステムを備える。乗り心地は最高の水準のものとし、客席の騒音も可能な限り抑える。客席は一等車のみとし、座席は最大で横3列(コンパートメント席の場合は1室6名、開放座席(中央通路)車の場合は通路を挟んで2列+1列)。編成定員は100名から120名。車内で温かい食事をとれること(食堂車を連結するか、客席へのケータリングサービスが可能)。塗装はクリーム色ないしベージュ地に赤帯とし、前頭部に ”TEE” のエンブレムを付ける。また新列車の種別名はTrans Europ Express, 略称TEEと定められた。1954年時点で共同運行に参加を表明したのは以下の7か国の国鉄である。 ベルギー国鉄ドイツ連邦鉄道(西ドイツ国鉄)フランス国鉄イタリア国鉄ルクセンブルク国鉄オランダ国鉄スイス連邦鉄道(スイス国鉄)これらの国鉄によりTEE委員会が組織された。その本部はデン・ハーグに置かれ、その下に技術、時刻表、営業の3つの専門委員会が設置された。TEE委員会の初代委員長にはデン・ホランダーが就任し、その後もオランダ国鉄の総裁がTEE委員長を兼任した。 オランダ国鉄とスイス国鉄はTEE用の気動車を共同で製作した。ベルギー国鉄とルクセンブルク国鉄はTEEのメンバーではあったが、車両は提供していない。 1956年のヨーロッパ時刻表会議において、翌1957年6月2日夏ダイヤ改正からTEEの運行を始めることが決まり、そのダイヤが承認された。またこの時までにオーストリア連邦鉄道(オーストリア国鉄)がTEEのメンバーに加わった。 ===初期の列車=== 1956年の時刻表会議で翌1957年の運行開始が決まったTEEは以下の12往復である。 ただし、イタリア国鉄の気動車は製造が遅れてダイヤ改正に間に合わないため、リーグレ、メディオラヌムの2本については冬ダイヤ改正(9月29日)時まで運行開始を遅らせることとされた。このため6月2日に運行を始めたのは10往復である。実際にはリーグレは8月12日、メディオラヌムは10月15日に運行を始めた。また西ドイツ国鉄のTEE用気動車も製造が遅れ、当初は前世代の気動車による代走となった。 これらの列車のダイヤは、エーデルヴァイス、エトワール・デュ・ノール、ヘルヴェティアを除いては、一方向が早朝に発車し、逆向きの列車は夕方に発車するというものであり、「日帰り」利用が可能なように設定されていた。 これらに加え、1957年10月3日にはTEEパルジファル(パリ ‐ ドルトムント、フランス国鉄車)が、1958年6月1日にはTEEレマノ(ミラノ ‐ ジュネーヴ、イタリア国鉄車)が新設された。 ===動力の変遷=== TEEは当初すべての列車が気動車列車であった。しかしスイス国鉄では、アルプス山脈やジュラ山脈の急勾配区間を越える列車では気動車では出力不足であり、強力な電車が必要であると考え、1957年以来国際列車用の電車の研究を行なっていた。一方で、西ヨーロッパでは主に以下の4通りの電化方式が混在していた。 直流 1500V : フランス(パリ以南)、オランダ直流 3000V : ベルギー、イタリア交流 15kV 16 2/3Hz : スイス、西ドイツ、オーストリア交流 25kV 50Hz : フランス(1950年代以降の電化路線)1961年、スイス国鉄はこれら4方式すべてに対応したRAe TEE II形電車を投入し、ゴッタルド、ティチーノ(ともにチューリッヒ ‐ ミラノ)、シザルパン(パリ ‐ ミラノ)の3往復の電車TEEが新設された。 1960年代には西ヨーロッパの主要幹線の電化が進み、スイス以外の各国鉄もTEEに電気動力を用いようとした。しかし構造が複雑で取り扱いの難しい交直両用電車は受け入れられず、電気機関車牽引の客車列車とし、必要に応じて機関車を交換しながら運行する方法が選ばれた。また国境付近など電化されていない区間ではディーゼル機関車が用いられることもあった。 1963年9月1日、パリ ‐ ブリュッセル間のTEEブラバントが初の電気機関車牽引のTEEとなった。 1964年以降フランス国鉄とベルギー国鉄は共同で開発したTEE用客車をパリ・ブリュッセル・アムステルダム系統のTEEに用いるようになった。後にスイス国鉄もフランスと同型の客車を保有するようになり、フランス国鉄所有車と混結してフランス・スイス間などのTEEに用いた。 西ドイツ国鉄では1962年にラインゴルト用に製造したのと同型の客車を増備し、TEEにも使用した。1965年3月1日にTEEヘルヴェティアが初の西ドイツ客車によるTEEとなった。 イタリア国鉄ではTEEに気動車を用い続けていたが、1960年代末になるとイタリアのTEE用気動車は冷房がないなど他国のTEE用客車と比べ見劣りし、もはやTEEにはふさわしくないとされるようになった。そこでイタリア国鉄も1969年にTEE客車の開発に着手した。1972年5月28日にTEEレマノが客車列車化され、1972年中にイタリア国鉄担当のTEEはすべて客車化された。 オランダ、ルクセンブルク、オーストリア、デンマークの各国鉄の客車はTEEには用いられていない。ただしルクセンブルクを除く各国の機関車はTEEの牽引に用いられた。 なお客車化によって余剰となったTEE用気動車を用いることにより、新たにTEEに格上げされた列車にディアマント(ドルトムント ‐ アントウェルペン、西ドイツ国鉄車、1965年昇格)とバヴァリア(チューリッヒ ‐ ミュンヘン、オランダ国鉄・スイス国鉄車、1969年昇格)がある。ただしこれらも後に客車列車化されている。 最後まで気動車列車として残ったTEEはエーデルヴァイスであるが、これも1974年5月26日に電車化され、気動車TEEは消滅した。 ===国内列車としてのTEE=== TEEは本来すべて国際列車であるが、1965年5月30日からは西ドイツとフランスでそれぞれの国内のみを走る列車もTEEとされるようになった。このきっかけは国際特急列車(F‐Zug)であったラインゴルトを新たにTEEにしようとしたことである。ラインゴルトはオランダ、西ドイツ、スイスの3ヶ国を走る国際列車で、一等車のみの編成であり、1962年以来使用されている車両もTEEに十分ふさわしいものであった。そこで1964年のTEE委員会で、西ドイツ、オランダ、スイスの3国鉄はラインゴルトをTEEとすることを提案した。ところが、ラインゴルトは途中のデュースブルクで西ドイツの国内特急列車ラインプファイル(ドルトムント ‐ ミュンヘン)と客車のほぼ半数を入れ替えていた。そこで西ドイツ国鉄はラインプファイルも同時にTEEに加えられるべきであると主張した。これに対してフランス国鉄はル・ミストラル(パリ ‐ ニース)もラインゴルトなどと同等の客車を用いており、TEEとされるべきであると主張した。委員会での交渉の結果、ラインプファイル、ル・ミストラルのほか、ラインゴルトと同型の客車が使われているブラウエル・エンツィアン(ハンブルク ‐ ミュンヘン)もTEEに昇格することになり、3往復の国内TEEが誕生した。なお、イタリアで1953年から運転されていた電車特急セッテベロもTEEに加えることが検討されたが、特急料金が高すぎるとしてこのときは見送られた。 その後1970年にブラウエル・エンツィアンはオーストリアまで延長されて国際列車となった。また1971年9月27日のダイヤ改正で、西ドイツ国鉄はTEEと同等の客車を用いた国内優等列車であるインターシティを新設した(後述)。これによりラインプファイルはインターシティに種別を変更し、西ドイツ国内列車のTEEは一旦姿を消した。 フランスでは、1969年にル・ミストラルを補完する国内TEEとしてル・リヨネ(パリ ‐ リヨン)が新設され、1970年からはそのほかの幹線にも国内TEEが次々と誕生した。最盛期には、国際TEEと合わせると、パリを起点に放射状に広がる幹線のほぼ全てにTEEが運行されていた。 またイタリアでも、1973年から国内の優等列車の一部がTEEとされるようになった。これらは前年に国際TEEに投入した客車を改良した新型客車「グラン・コンフォルト」を用いていた。1974年にはセッテベロもTEEとなった。 ===高速化=== TEEの最高速度は1957年当時はすべて140km/hであったが、電車や電気機関車を用いることにより1960年代には160km/h程度まで向上した。 1960年代後半には日本の新幹線の影響を受けてヨーロッパでも鉄道の高速化に関心が高まった。ヨーロッパ初の200km/h運転は1965年に西ドイツ国鉄が試験的に行なったものであるが、恒久的に行なわれたものとしては1967年のル・キャピトール(パリ ‐ トゥールーズ)からとなる。この列車は1970年にTEEに昇格した。 1970年代にはフランスや西ドイツの多くの路線でTEEの最高速度が200km/hに引き上げられた。中でもパリ ‐ ボルドー間のTEEアキテーヌ、エタンダールは表定速度が151.5kmに達し、TGV以前のヨーロッパでは最も速い列車であった。 ===ネットワークの拡大=== 1969年6月1日のTEEカタラン・タルゴ(バルセロナ ‐ ジュネーヴ)の運行開始により、レンフェ(スペイン国鉄)が新たにTEEの運営に加わった。また1974年5月26日にはシュトゥットガルトとコペンハーゲンを渡り鳥コース経由で結ぶTEEメルクールが誕生し、デンマーク国鉄もTEEに加わった。これによりTEEの走る国は11ヶ国(モナコを含む)となった。 なお1971年5月23日からヨーロッパでの列車番号の付け方に関する規則が改められ、1から99までの2桁以下の番号はTEE専用となった。また西ドイツを経由するTEEの中には、このとき列車番号が奇数の向きと偶数の向きが反転したものもある。 TEEの列車数が最大に達したのは1974年‐75年の冬ダイヤ期間である。この時期は45往復(臨時列車を除く)のTEEが運行されていた。うち30往復が国際列車、15往復がフランスとイタリアの国内列車であった。 ===インターシティの登場=== 1971年9月26日、西ドイツ国鉄はインターシティという新たな優等列車を導入した。インターシティは全て一等車からなり、車両はTEE用の客車あるいは気動車と同一のもので、停車駅や速度も同区間のTEEと同等のものである。その意味では「国内版TEE」とも呼べるものであった。 しかしダイヤの設定に関する思想は従来のTEEとは大きく異なっていた。TEEは一つの系統につき一日一往復か二往復程度しか運行されておらず、「日帰り利用」を意識したために早朝や夕方以降の時間に偏る傾向があった。これに対しインターシティは4つの系統で約2時間間隔のパターンダイヤを採用した。また主要駅では異系統のインターシティを相互に乗り換えられるようになっていた。 国際列車であるTEEも、西ドイツ国内のインターシティ路線と重複する部分ではインターシティ網の一部を担うものと位置づけられた。このため一部のTEEでは2時間間隔のパターンに合わせるため時刻や経路が修正された。また西ドイツ国鉄の客車・気動車を使うTEEは原則としてインターシティと共通の車両とされ、一日の走行距離を均等にするために複数のTEEやインターシティを組み合わせた複雑な運用が行なわれた。 ===一二等列車への転換=== 1970年代になると国際列車の利用者も大衆化し、二等車の需要が増えるのと引き替えに、一等車のみのTEEは利用が衰え始めた。このため1975年のTEEゲーテ(パリ ‐ フランクフルト・アム・マイン)の廃止以降、廃止あるいは二等車を含む特急・急行に格下げされるTEEが現れた。 西ドイツのインターシティも1976年以降一部の列車に二等車を連結するようになり、1979年5月27日から全てのインターシティが二等車を含むようになった。この影響でインターシティ網の一部を担っていたTEEの多くも、1978年から1979年にかけて二等車を連結してTEEでなくなった。一方で、少数ながら残った西ドイツ国内の一等車専用の優等列車が新たにTEEに加わり、7往復の西ドイツ国内TEE(国際列車から国内列車に変更されたローラントを含む)が生まれた。これにより西ドイツ、フランス、イタリアの国内TEEの総数が国際TEEの数を上回るようになった。ただし西ドイツの国内TEEは数年以内に全て廃止あるいは二等車を含むインターシティに変更された。 1980年6月1日からは西ヨーロッパの国際列車に対してもインターシティという種別が用いられることになり、二等車を含むようになっていた元TEEの多くが国際インターシティとなった。その後もTEEの廃止やインターシティへの変更は続いた。 1978年のメルクールのインターシティ化によりデンマークに乗り入れるTEEがなくなり、1981年にはルクセンブルク、1982年にはスペインおよびモナコから、さらに1984年にはオーストリアからもTEEが姿を消した。 ===終焉=== 1987年5月31日、ヨーロッパの国際列車の新たな種別としてユーロシティが誕生し、元TEEであった国際インターシティの多くはユーロシティとなった。この時のダイヤ改正でTEEラインゴルト(アムステルダム ‐ バーゼル)が廃止され、TEEイル・ド・フランス、ルーベンス(ともに パリ ‐ ブリュッセル) はユーロシティに変更された。なおユーロシティは二等車を含むのが原則であったが、イル・ド・フランスとルーベンスは1993年までTEE時代と同じ一等車のみの編成であった。 また、イタリアの国内列車のTEEもこの時全てインターシティに置き換えられて廃止された。これによりTEEとして残っているのはゴッタルド(チューリッヒ ‐ ミラノ)とフランス国内の4往復のみとなった。 ゴッタルドは1988年9月25日のダイヤ改正をもってユーロシティに種別変更され、「一等車のみからなる国際列車」としてのTEEは消滅した。フランス国内のTEEも次々と二等車を含むコライユまたはTGVに置き換えられた。 最後までTEEとして残ったのはパリとトゥールコワンをリール経由で結んでいた一往復(トゥールコワン行がフェデルブ、パリ行がヴァトー)であるが、これも1991年5月31日の運行を最後に廃止された。 なお、1982年から1993年までフランクフルト空港とボン、ケルンおよびデュッセルドルフを結ぶルフトハンザ・エアポート・エクスプレスという列車が存在した。この列車はTEEとして承認されたものではなく、ルフトハンザドイツ航空の利用者専用であり鉄道の時刻表には掲載されていなかった。しかし西ドイツ国鉄はこれにTEEとしての列車番号を付けて運行した。使用した車両は一等車専用であった時代のインターシティ用電車、すなわちTEEと同等とされる設備を持ったものであり、2日のみではあるが正規のTEEに使用されたこともあった。 ===ノンストップ列車としての復活=== 1993年5月23日(LGV北線部分開業と同日)から、フランス国鉄とベルギー国鉄はパリ ‐ ブリュッセル間を途中駅無停車で結ぶ列車4往復をTEEとし、列車種別としてのTEEが2年ぶりに復活した。ただしこれらのTEEはかつてと異なり、一等車と二等車の双方を連結していた。これらの列車にTEEの種別名を用いたのはマーケティング上の理由によるものである。当時パリ ‐ ブリュッセル間の列車は航空機との競争にさらされていた。このころ「ユーロシティ」の種別は陳腐化してしまっていたため、よりイメージの良い”TEE”の名称を用いたのである。 1995年1月23日、パリ ‐ ブリュッセル間のTGV運転開始と引き替えにTEEのうち3往復が廃止され、ブリュッセル行イル・ド・フランス(TEE 85)とパリ行ヴァトー(TEE 88)のみが残った。この一往復も1995年5月26日の運行を最後に廃止された。この日20時01分にブリュッセル南駅に到着したイル・ド・フランスが史上最後のTEEとなった。 ===TEEの功績と、21世紀のTEE=== TEEが本来の目的を果たした期間は決して長くはなかったが、ビジネスユーザをターゲットとしたその上質のサービスは、鉄道におけるサービスレベルの向上に貢献した。また、各国が競ってサービス向上に努めたことも特筆されよう。これらの要素は、後のインターシティや、現在の高速鉄道にも引き継がれている。 そのため、ヨーロッパの鉄道趣味界では、TEEなき後も、それに対する思い入れが強い。2007年は、TEEが運転を開始してちょうど半世紀が経過した年であるが、既にTEEとして運転されている列車は皆無であるにも関わらず、当時の車輌によるイベント列車を初めとして、50周年記念行事や、出版物の発行が行われている。 一方、2000年には、中欧3カ国の鉄道事業者であるドイツ鉄道・スイス連邦鉄道・オーストリア連邦鉄道により、”TEE Rail Alliance” と呼ばれる組織が結成されている。20世紀末から急速に発展している航空連合に対抗する意味もあり、この3ヶ国を相互に結ぶ列車に対し、統合されたサービスを提供することを目標としている(類似の組織としては、欧州の高速鉄道事業者連合 ”Railteam” がある)。 ===年表=== 個別の列車の新設、廃止、区間変更等については後の#TEE列車一覧節および各列車の記事を参照。 1953年10月30日 : オランダ国鉄のデン・ホランダー総裁が”Europa Express”の構想を発表。1954年 : TEEの基本構想がまとまる。1957年6月2日 : TEE10往復の運行を開始。当初はオランダ、ベルギー、ルクセンブルク、フランス、西ドイツ、スイス、イタリアの7ヶ国で運行。1958年10月15日 : オーストリアを経由するTEEが新設される。1961年7月1日 : 電車によるTEEの運行を開始。1963年9月1日 : 電気機関車牽引の客車によるTEEの運行を開始。1965年5月30日 : 西ドイツとフランスで国内TEEの運行を開始。1969年6月1日 : スペインにTEEが乗り入れる。1971年5月23日 : 列車番号の付番規則改訂により、1‐99はTEE専用となる。1971年9月26日 : 西ドイツでインターシティの運行開始。西ドイツの国内TEEが消滅。1973年6月3日 : イタリアで国内TEEの運行開始。1974年5月26日 : デンマークにTEEが乗り入れる。気動車TEE全廃。1974年9月28日 : TEEの列車数が最大(45往復)に達する。1978年5月28日 : 西ドイツの国内TEEが復活。デンマークからTEEが消滅。1979年5月27日 : 西ドイツのインターシティがすべて二等車を連結するようになる。1981年5月31日 : ルクセンブルクを経由するTEEがなくなる。1982年5月23日 : スペインからTEEが消滅。1983年5月28日 : 西ドイツの国内TEE全廃。1984年6月3日 : オーストリアを経由するTEEがなくなる。1987年5月31日 : ユーロシティ創設。オランダ、ベルギー、西ドイツからTEE全廃。またイタリアの国内TEE全廃。1988年9月25日 : 国際TEE全廃。スイス、イタリアからTEEがなくなる。1991年6月1日 : フランスの国内TEE廃止により、TEEが一旦全て廃止される。1993年5月23日 : パリ ‐ ブリュッセル間で二等車を含むTEEの運行を開始。1995年5月27日 : 最後のTEEが廃止される。 ===路線網の変遷=== ==TEEに使用された主な車両== ===内燃動車=== ====VT11.5型→VT601型 (西ドイツ国鉄)==== 1957年のTEE運転開始時に製造された、液体式ディーゼル動車。7両編成、全長130.7mで両端の車両が動力車。出力は1,100PS×2 = 2,200PS。最高速度は140km/h。ボンネットスタイルが特徴。TEEには1973年まで使われ、一方1968年から1979年までは国内特急(F‐Zug、インターシティ)に投入され、そして晩年は波動輸送用となる。インターシティでは160km/h運転を行うため、一部の動力車は2,200PSのガスタービンエンジンに換装されてVT602型となり、編成の片側の動力車に連結された(1982年廃車)。東西ドイツ統一直前の1990年8月から、わずか2ヶ月間ではあるが、ベルリンとハンブルクを結ぶインターシティ「マックス・リーバーマン」にも使用され、「フリーゲンダー・ハンブルガーの再来」とも言われた(運営は東ドイツ国鉄が実施。東ドイツ国鉄としては最初で最後のインターシティでもある)。現在はイベント用に保存。TEEでは「ライン・マイン」「サフィール」「ヘルヴェティア」「パリ‐ルール」「パルジファル」「メディオラヌム」の各列車に使用された。 ===VT07.5型・VT08.5型 (西ドイツ国鉄)=== 1957年のTEE運転開始時には、前述のVT11.5型の落成が遅れ、必要編成数を確保できなかった。そのため、運転開始後の短期間ながら、1950年代に製造され、既に西ドイツ国内で運用されていた特急用気動車であるVT07.5型(1951年製)・VT08.5型(1952年製、後の608型)がTEEとして運用された。VT11.5型の増備に伴い順次置き換えられたが、過渡期にはVT11.5型とVT08.5型の併結もあった。 ===X2700型 (RGP 825(RGP1))(フランス国鉄)=== 1957年のTEE運転開始時に製造された、825PSの液体式ディーゼル動車で、最高速度は140km/h。X2700型そのものは、在来型の長距離列車用の気動車 (600PS:RGP2) であったが、その一部編成 (2771 ‐ 2781) をTEE仕様として製造し、営業運転に備えた。この気動車は動力車(流線型)と制御車(半流線型)の2両編成でユニットとなり、このユニットを2つ連結して4両編成で運用される場合が多く、制御車の先頭部分には貫通幌が内蔵され、運転台周りは非常に凝った造作となっていた。また、各編成でヘッドライトの位置や形状にバラエティがある。現在はすでに引退、車体は更新されて近郊型の気動車に生まれ変わっている。TEEでは「モン・スニ」「アルバレート」「パルジファル」「イル=ド=フランス」「パリ・ルール」に使用された。このTEE用編成には厨房が設置され供食サービスは行われたものの、食堂車の連結はなく、座席も他国の専用車両に比較してやや見劣りがしたためか、1965年までと比較的使用期間は短かった。 ===DE4 (1000) 型 (オランダ国鉄) / RAm TEE形 (スイス国鉄)=== 1957年のTEE運転開始時に製造された、電気式ディーゼル動車。4両編成の一端が動力車で、他端は客車に運転台を付けた制御車。2ヶ国の国鉄で共同開発され、動力車をオランダが、客車をスイスが製造し、両国鉄が同一仕様の車両を所有、運用した。運行開始当初は「エーデルヴァイス」「エトワール・デュ・ノール」「オワゾ・ブルー」に使用された。 なおこの形式は事故で1編成が廃車されている。1974年までTEEに使われて引退した後、カナダのオンタリオ・ノースランド鉄道に譲渡されてトロント ‐ コクレーン間の特急列車「ノースランダー」に1977年から1992年まで使用された。その後さまざまな曲折を経て、制御車2両と中間車3両の計5両が2006年にオランダに里帰りしている。 ===ALn442+ALn448(イタリア国鉄)=== 1957年のTEE運転開始時に製造された、機械式ディーゼル動車。2両編成ながら、1両の長さが約28mあり、供食設備も有していた。この気動車はTEE車両としては唯一床下機関を持つ車両で、客室床も他の客車より高い設計だった。また、空調装置は装備していなかった。通常は2両で運用されたが、TEE以外の運用では中間に付随車を連結し3両で運転されることもあった。1972年までTEEとして使用後、ALn442は厨房を撤去してALn460に改称し、国内特急列車に1982年まで使用された。現役当時は、「リーグレ(列車)」「レマノ」「メディオラヌム」「モン・スニ」に使用された。最高速度は140km/h。 ===仕様一覧=== ===電車=== ====RAe TEE (1050) 形→RABe EC形 (スイス国鉄)==== TEE専用として製造されたものとしては最初の電車で、1961年製。4電気方式(直流1.5kV、直流3kV、交流15kV16 2/3Hz、交流25kV50Hz)に対応。クリーム色と紅色のTEE色。6両編成(登場当時は5両編成)だが、中間の1両に動力や機器を集中させており、電源や架線の仕様の違いに対応した4つの集電装置を持ち、室内の約半分が機器室(残りは厨房と乗務員事務室)となっている。この中間電動車はいわば機関車といえるもので、出力は594kW×4 = 2376kW、クイル式駆動で台車も3軸ボギー(中央軸は無動力車軸)となっており、日本の電車の感覚とは程遠いものがある。最高速度は160km/h。1989年以降はユーロシティ用となり、一部座席が2等車に改装され、灰色のツートンカラーとなった。既に営業運転からは引退したが、1編成は登場当時の姿に復元され、企画列車として主にかつての「ゴッタルド」のダイヤで運転されている。TEEでは、「シザルパン」「ゴッタルド」「ティチーノ」「エーデルヴァイス」「イリス」の各列車に使用されていた。 ===ETR300型 (イタリア国鉄)=== 1953年に製造された曲線美あふれる優美な電車。車体はライトグレーと緑に塗装され、先頭スカート部の赤色がアクセントであった。それまでの特急用電車であったETR200型の発展型といえるこの電車は、2+3+2の3ユニットの7両編成で、カルダン駆動。各ユニットは連接構造になっている。運転席を2階に上げ、先頭部1階を展望スペースとした最初の本格的な長距離電車でもあった。このデザインは、その後日本の名鉄パノラマカーや、小田急3100形「NSE」に多大な影響を与えた。当初は2編成が製造され、その後第3編成が増備された。全3編成のうち第1・第3編成は引退後に解体されたが、第2編成のみは電車基地に留置されている。この電車は、日本には『ベスビアス特急』という文化映画で紹介され、イタリアを代表する電車として、日本にも知られることになった。ローマ ‐ ミラノ間の運転で元々はTEE列車ではなかったが、国内列車もTEEに組み込まれるようになってからは、そのままTEE列車「セッテベロ」として運用された。この時点で台車の交換、ヘッドライトの強化などを行い200Km/h運転に対応した(試運転では240km/hを記録)。全長165.5m、定員160名(登場時)、自重301t、出力は180kW×12 = 2,160kW。 ===403形 (西ドイツ国鉄)=== もともとは国内のインターシティ用として1973年に製造されたが、1979年の夏ダイヤからインターシティへの二等車連結により定期運用を失い、団体列車としての使用の傍ら1981年2月に国内TEE「ゲーテ」で一時的に使用された。1982年からはルフトハンザ・エアポート・エクスプレス用に改装されて運用された。ルフトハンザ・エアポート・エクスプレスは航空機のチケットで乗車する列車で、正規のTEEではなかったが、西ドイツ国鉄ではTEEと同格に扱われた。4両編成で、その風貌から「ドナルドダック」と呼ばれた。1993年運転終了。最高速度は200km/h。 ===客車=== ====フランス国鉄車==== 1950年代にフランス国鉄の客車研究部(Division des *11101*tudes des voitures, DEV)の設計した客車。車体をアメリカ合衆国バッド社のライセンスで製造したステンレス製とすることで、従来の客車より軽量化されている。 1956年にパリ ‐ ニース間の特急列車「ル・ミストラル」向けに製造された車両は「ミストラル1956形」とも呼ばれ、一等コンパートメント車とコンパートメント・バー合造車からなる。最高速度は160km/h。1965年のミストラルのTEE昇格とともにTEEの車両となった。ステンレス製であるためTEEの標準色とは異なり、車体は無塗装で窓の上に細い赤帯と”TRANS EUROP EXPRESS”の金文字が入る。 1969年にミストラルに新型車両が投入されてからはアルバレート(パリ ‐ チューリッヒ)やゲーテ(パリ ‐ フランクフルト・アム・マイン)に転用されたが、このころには新型のTEE用客車と比べると見劣りするようになっていたため評判は好ましいものではなかった。1976年にTEE運用からは退き、その後はフランス国内の列車などに用いられた。1980年代には一部の客車が二等車に格下げ改造されている。1989年9月をもってフランス国内での運用を終え、1990年には24両がセネガルに譲渡された。 このほか、1978年に運行を始めたパリ ‐ トゥールコワン間のTEE(フェデルブ、ガヤン、ヴァトー)も短期間ではあるが1950年代のステンレス客車(ミストラルのものとは異なる)を用いていた。 フランス国鉄とベルギー国鉄が共同で開発した車両で、1964年からパリ・ブリュッセル・アムステルダム(PBA)系統のTEEに用いられた。TEE線用車両として設計された初の客車である。車体はステンレス製で最高速度は160km/h。塗装はミストラル56形と同様である。内訳は以下の通り。記号はフランス国鉄・ベルギー国鉄における分類記号と1972年以降のUIC分類記号である。 一等開放座席車(A8s/A8tu) 11両 ‐ ベルギー国鉄所属一等コンパートメント車(A8myfi/A8u) 7両 ‐ フランス国鉄所属一等開放座席・バー合造車(A3Rmyfi/A3rtu) 4両 ‐ フランス国鉄所属一等開放座席・厨房合造車(A5smyfi/A5rtu) 7両 ‐ フランス国鉄所属荷物・電源車(A2Dsmfi/A2Dx) 7両 ‐ フランス国鉄所属専用の食堂車はなく、列車内の厨房から座席へのケータリングサービスが行なわれることになっていた。 1984年以降パリ・ブリュッセル・アムステルダム系統のTEEがインターシティやユーロシティに変更された際には、一部の車両が二等車に改造された。1996年のユーロシティ「エトワール・デュ・ノール」の廃止により運用を終えた。 1969年にミストラルに投入された客車で、「新ミストラル(Nouveau Mistral)」とも呼ばれる。基本的な設計はPBA形と同様であるが、PBA系統よりも乗車時間が長いことが想定されていたので食堂車が存在する。またミストラル専用に売店や理容室、秘書室を備えた「特別バー」車もあった。 1968年から1970年にかけて86両が製造され、フランス国内TEEのミストラル、リヨネ、ロダニアンのほか、パリ・ルール(パリ ‐ ドルトムント)にも用いられた。1974年にはさらに36両が増備され、シザルパン(パリ ‐ ミラノ)およびパリ ‐ ブリュッセル系統の増発にあてられた。1974年製造分の開放座席車のうち5両はスイス連邦鉄道、6両はベルギー国鉄の所属である。パリ・ブリュッセル・アムステルダム系統ではPBA形と混結して用いられた。 車両の内訳は以下の通り。 一等開放座席車(A8tu) : 28両 + 11両(ベルギー国鉄、スイス国鉄所属)一等コンパートメント車(A8u) : 27両 + 15両特別バー車(Arux) : 4両 ‐ ミストラル専用食堂車(Vru) : 11両 + 2両一等開放座席・バー合造車(A3rtu) : 2両 + 3両一等開放座席・荷物・電源車(A5Dtux) : 14両 + 5両1976年以降のリヨネ、ミストラルなどの廃止とともに、ミストラル69型はアルバレートやフランス国内の他方面への列車に転用された。1984年以降は一部が二等車に改造されている。1996年に営業運転を終え、1999年には44両がキューバに売却された。 1960年代にフランス国内の列車の高速化と居住性の向上を主な目的として開発された車両である。車内は1964年製のPBA形とほぼ同じであるが、窓やドアの断熱、防音性能が改善されている。最高速度は200km/h。車体は耐候性鋼製で、側面が曲面状になっているのが大きな特徴である。これは曲線部分の通過速度を上げるため車体傾斜機能を持たせようとしたためである。ただし車体傾斜機能そのものは、運用を想定されている路線では時間短縮効果が少なく割に合わないとして見送られた。 グラン・コンフォール客車は本来TEE用ではなく、1970年にエタンダール(パリ ‐ ボルドー)で使用を始めた際にはこの列車はまだTEEではなかった。このため塗装はTEE標準色ではなく、灰色地に窓部分が赤帯の「グラン・コンフォール」塗装であった。1970年の冬ダイヤ改正から、グラン・コンフォール客車を用いるフランス国内列車をTEEに加えるようになり、まずル・キャピトール(パリ ‐ トゥールーズ)が客車の更新とともにTEEとなった。その後パリを起点に南西(ボルドー、トゥールーズ)方面、東(ストラスブール)方面、西(ナント)方面のフランス国内TEEに用いられた。1973年になって窓の上にTRANS EUROP EXPRESSの文字も取りつけられた。 一等コンパートメント車(A8u) : 40両一等開放座席車(A8tu) : 21両 + 13両(1973年以降増備)食堂車(Vru) : 10両一等開放座席・バー合造車(A3rtu) : 6両一等開放座席・荷物・電源車(A4Dtux) : 13両1981年以降、一部は二等車に改造されている。1989年のジュール・ヴェルヌ(パリ ‐ ナント)の廃止とともにTEEでの運用を終え、その後は国内の一般列車やルクセンブルクへのユーロシティに用いられた。1999年に営業運転を終了している。 1963年のブラバント(パリ ‐ ブリュッセル)の新設や1964年のオワゾ・ブルー(同)の客車列車化の時点では、PBA形客車の製造が間に合わなかったことから、前世代の鋼製客車が一時的に用いられた。 ミストラルは1969年まで旧国際寝台車会社の食堂車(1928年製)とプルマン(サロン)車(1929年製、コート・ダジュール形)を連結していた。また同期間に用いられていた電源車は1927年製の旧パリ・オルレアン鉄道の車両である。 ル・キャピトールは1970年のTEE昇格時から1974年まで、一部1970年以前の客車(200km/h対応ではあるが空調設備はない)を連結していた。 ===西ドイツ国鉄 TEE/IC客車=== 西ドイツのTEE用客車は1962年に当時はまだTEEではなかったラインゴルト、ラインプファイルに使用された車両が元になっている。車体はそれまでのドイツの優等列車用客車をもとに制定された国際鉄道連合のUIC‐X規格に準拠している。最高速度は初期のものは160km/hであるが、1960年代後半以降に製造された車両は200km/h運転に対応している。 1965年からTEEにも用いられるようになった。ラインゴルト用客車はクリーム地に紫帯の塗装であったが、1965年以降TEE向けに製造された車両はクリーム地に赤のTEE標準色であり、ラインゴルトの客車も後にこの色に塗り替えられた。 車両の内訳は以下の通り。なお製造数にはTEE運用についたことのないものも含まれる。またここでは1980年に使われなくなった扉の配置を表す記号である”*11102*”は省略している。 ADmh101形展望車は中央部が二階建てとなっており、二階部分はドーム屋根の展望室である。1962年に製造された3両は車両側面には”RHEINGOLD”の文字が書かれていが、1963年製造分ではこの文字は”DEUTSCHE BUNDESBAHN”に置き換えられている。WRmh131形食堂車は厨房部分が二階建てとなっている。こちらの側面には”DSG”(ドイツ寝台車食堂車会社、旧ミトローパの西ドイツ側)の文字が書かれていたが、1967年に”TRANS EUROP EXPRESS”と改められている。この2形式はラインゴルトのほか、1973年までラインゴルトと途中駅で一部の車両を入れ替えていたラインプファイル、1973年以降ラインゴルトと共通の車両を用いていたエラスムスのみで用いられたが、最高速度は160km/hに限られており、1976年を最後に運用を外れた。WGmh804形「クラブ車」はラインゴルト専用であり、1983年以降ラインゴルトのミュンヘン方面編成に連結された。 1971年にインターシティの運行が始まると、TEEと同形式の客車がインターシティにも用いられるようになった。TEEにおける運用は1987年のラインゴルトの廃止とともに終わったものの、インターシティ・ユーロシティ用車両としては、改装を重ねながら新型の客車とともに用いられ続けている。ただしバー車は1990年代にインターシティには連結されなくなった。 ドーム形展望車は1976年にTEEで用いられなくなった後、改装されて観光列車「アプフェルプファイル(Apfelpfeil)」に用いられた。その後1981年にスイスの旅行会社「ライズビューロー・ミッテルスルガウ」に売却され、さらにそこから北ヨーロッパの企業に転売された。2005年には4両がドイツに里帰りし、1962年当時の塗装やTEE色に復元されて観光用に運行されている。残る1両は2007年現在スウェーデンで保存されている。 なお西ドイツ国鉄車のTEEには、多客期には1954年以来用いられている長距離列車用一等客車が増結されることもあった。 ===イタリア国鉄車=== イタリアのTEE用客車は1972年に使用を開始した国際TEE用客車と、1973年から用いられている国内TEE用「グラン・コンフォルト(Gran Conforto)」客車の二種類が存在する。国際TEE用客車は荷物車が電源車を兼ねているのに対し、グラン・コンフォルト客車は架線から機関車経由で電力を得るため電源車はない。塗装も国際用がTEE標準色であるのに対し、グラン・コンフォルトはクリーム地に灰色と2本の細い赤帯という独自のものであった。 車両の内訳は以下の通り。ただしグラン・コンフォルトについては1987年までの製造数で、TEE運用に用いられていないものも含まれる。 他国のTEE用客車にみられる車内バーは存在しない。また国内TEE用の荷物車はUIC‐X規格の荷物車をグラン・コンフォルト色に塗り替えたものが使われていたが、1976年以降専用の荷物車が製造された。 グラン・コンフォルト客車は1987年にTEEでの運用を終えた後も、一部を二等車に改造されて国内インターシティ用に用いられ続けた。1989年から1991年にかけても新世代のグラン・コンフォルト客車が製造されている。2007年時点でトレニタリアには約350両のグラン・コンフォルト客車が在籍する。塗装は白地に緑と青帯のXMPR色に改められている。 ===スペイン国鉄 Talgo III RD=== スペイン国鉄の低床連接式客車タルゴの第3世代 Talgo III に、広軌のスペインと標準軌のフランス・スイスを直通するための軌間可変機構を持たせたものである。1969年以降カタラン・タルゴ(バルセロナ ‐ ジュネーヴ)に用いられた。タルゴ特有の一軸連接台車を用いており、車体長はほかの客車の半分以下である。また連結器が標準的なものとは異なるため、牽引する機関車は専用の連結器を装着している必要がある。 一等開放座席車 : 35両バー・厨房車 : 4両食堂車 : 7両荷物・電源車 : 8両1982年にカタラン・タルゴがインターシティ化されるとともに一部の客車が二等車に改造された。カタラン・タルゴはバルセロナ ‐ モンペリエ間に短縮されて運行を続けているが、LGVペルピニャン・フィゲラス線の旅客営業が始まるとともに廃止される見込みである。 ===スイス国鉄の食堂車=== チューリッヒ ‐ ミュンヘン間のTEEバヴァリアは1971年の脱線事故以降、西ドイツ国鉄のTEE客車による列車となっていたが、この編成に含まれる食堂車はスイス国鉄の車両であった。この車両は元は1967年に製造された一般国際列車用の車両である。1972年には塗装を赤色からTEE色に改めている。1977年のバヴァリアの急行格下げ以降は、TEE色のまま他方面への国際列車にも使用された。 ===客車を牽引した主な電気機関車=== ====CC40100型 (フランス国鉄) / 18型 (ベルギー国鉄)==== 1964年から製造された、4電気方式のC‐C機。客車と同じステンレス製のボディで統一美観を保っていた。出力3,850kW、最高速度240km/h。「オワゾ・ブルー」「イル=ド=フランス」「エトワール・デュ・ノール」等を牽引した。 ===CC6500型 (フランス国鉄)=== CC40100型とともにその前面形状から「ゲンコツ」と呼ばれた、直流専用のC‐C機。2次形を除き最高速度200km/h。「ミストラル」「アキテーヌ」「キャピトール」等を牽引した。 ===E03型→103型 (西ドイツ国鉄)=== 1966年に製造を開始し、1970年から量産化されたドイツの代表的C‐C機。出力7,440kW、最高速度200km/h。「ブラウエル・エンツィアン」に初めて使用された。「ラインゴルト」をはじめ西ドイツ担当のTEEの多くを牽引し、一部は塗り替えられて「ルフトハンザ・エアポート・エクスプレス」専用機となった。 ===Re 4/4形 (スイス国鉄)=== 1946年から製造された小型のB‐B機で最高速度は125km/h、当初は標準の濃緑色塗装、1972年以降は専用機がTEEカラーに塗装され使用された。スイスの食堂車を連結していた「バヴァリア」と短編成(3‐4両)の「ラインゴルト」専用であった。TEE塗装機は10033、10034、10046、10050の4両(1950年 ‐ 1951年製造)が在籍していたが、すでに引退。 ===Re 4/4形→Re420形 (スイス国鉄)=== 1963年から製造されたスイスの代表的電気機関車。14.8m、80tのB‐B機ながら、4700kWの出力を誇り、クイル式駆動で回生制動付き。TEE塗装機は11158 ‐ 11161、11249 ‐ 11253の9両が在籍。最高速度140km/h。「ヘルヴェティア」「ローランド」「レマノ」「シザルパン」等を牽引したはか、ごく初期の「バヴァリア」もこの機関車が牽引していた。現在も汎用機として使用されている。 ===E444型 (イタリア国鉄)=== イタリアのすべての客車TEE列車を牽引したB‐B機。”Tartaruga”(亀)と愛称され、車体にも小さく空を飛ぶ亀の絵が描かれていた。1985年以降、高速新線走行用に大規模修繕工事が実施され車体デザインも大幅に変更された。この改造により最高速度は200km/hに向上した。 ===保存車両=== 現役時代に使用された主な車両のうち、ドイツ、イタリア、オランダの気動車は整備され保存されている。また、スイスのTEE電車は、動態保存でイベント列車に使用されている。イタリアのETR300型電車は1編成が動態保存されている。ドイツではVT602 003号車(旧形式名VT11.5)など4両が、ドイツの鉄道発祥の地のニュルンベルク中央駅のすぐ西にあるニュルンベルク交通博物館に静態保存されている。 ==TEE列車一覧== TEEとして運行されていた列車は以下の通り。運行開始、終了はTEEとしての運行期間を示し、これ以前や以後にも別の種別の列車として存在していたものもある。経路は運行開始時のものであり、その後の変化については主要なもののみ記載している。また曜日などにより運休となったり運行区間を延長、短縮していた列車もある。 イタリア国内列車フランス国内列車西ドイツ国内列車1970年までは西ドイツ国内列車1970年5月31日以降、ミュンヘンからローゼンハイム、ザルツブルク経由クラーゲンフルトまで延長(夏ダイヤ期間は毎日、冬ダイヤ期間は一部の日のみ)。また1970年12月18日から1973年6月3日まではローゼンハイムからツェル・アム・ゼーへも分岐。1963年8月31日まではパリ行の片道のみ朝夕の2往復。1982年5月23日以降は一往復。1975年9月28日以降ヴァランス ‐ ジュネーヴ間はリヨン経由に変更。1974年05月26日から1979年09月29日まで、夏ダイヤ期間のみパリ ‐ ミラノ ‐ ヴェネツィア間に延長。「セッテベロ」から改名1966年5月22日 : ブリュッセル(南駅) ‐ ドルトムントに経路変更。1968年9月29日 : ブリュッセル ‐ ケルン間に短縮。1970年5月31日 : ブリュッセル ‐ ケルン ‐ ハノーファー間に延長。1973年6月3日 : ブリュッセル ‐ ケルン間に再度短縮。1974年5月26日: ブリュッセル(南駅) ‐ チューリッヒに経路変更。1976年5月30日 : デン・ハーグ(中央駅) ‐ ユトレヒト ‐ マインツ ‐ シュトゥットガルト ‐ ミュンヘンに経路変更1979年5月27日 : アムステルダム ‐ ユトレヒト ‐ マインツ ‐ フランクフルトに経路変更。1973年6月3日から1975年9月27日までボルドーからアンダイエ経由イルンまで延長。パリ行列車はアンダイエ始発。1990年9月29日以降はパリ行の片道のみ。1980年9月28日 : ブレーメン ‐ シュトゥットガルト間に短縮。1981年5月31日 : ミュンスター ‐ シュトゥットガルト間に短縮。1982年5月23日 : ドルトムント ‐ シュトゥットガルト間に運行区間を変更。1983年9月24日以降はパリ行の片道のみ。1982年9月26日 : デュッセルドルフ ‐ フランクフルト間に短縮。1965年5月30日から1982年5月22日まではチューリッヒからバーゼルまで延長。ただし1969年6月1日以降はスイス方面行列車はチューリッヒが終点。1974年から1979年までは夏ダイヤ期間のみミラノからジェノヴァまで延長。1987年5月31日以降はチューリッヒ空港 ‐ チューリッヒ中央駅 ‐ ミラノ間。1982年9月26日以降は週一往復のみ運転。1984年6月3日 : パリ ‐ ブリュッセル(南駅)間に短縮。1969年6月1日 : アヴィニョン ‐ マルセイユ ‐ ミラノ間に延長。「パリ・ルール」から改名1975年6月1日 : パリ ‐ ケルン間に短縮。1965年5月28日: パリ北駅 ‐ ブリュッセル北駅間に延長。1971年9月26日 : パリ ‐ デュッセルドルフ間に短縮。1973年6月3日 : 「モリエール」と改名1959年5月31日 : パリ ‐ デュッセルドルフ間に短縮。1960年5月29日 : パリ ‐ デュッセルドルフ ‐ ハンブルク=アルトナ間に延長。1976年5月30日 : ハノーファー ‐ ケルン ‐ フランクフルト・アム・マイン ‐ ヴュルツブルク ‐ ウィーン間に経路変更。1980年6月1日 : アムステルダム ‐ シュトゥットガルト間に短縮。フーク・ファン・ホラントへの分岐は1979年5月27日廃止。1982年5月23日 : アムステルダム ‐ バーゼル間に短縮。1983年5月29日以降、マンハイムからシュトゥットガルト経由ミュンヘンまで分岐。1985年6月2日からは分割地点をマインツに変更。また夏ダイヤ期間にはさらにザルツブルクまで延長。1971年9月26日 : アムステルダム発列車はボン終点に短縮。1972年5月28日 : 「ヴァン・ベートーヴェン」と改名1979年5月27日 : ブレーメン ‐ フランクフルト ‐ シュトゥットガルト間に経路を変更、西ドイツ国内列車となる。1958年6月1日 : オーステンデ ‐ ケルン ‐ フランクフルト・アム・マイン間に変更。1966年5月22日 : ブリュッセル(南駅) ‐ フランクフルト間に短縮。1971年9月26日からブリュッセル行列車はニュルンベルク始発に延長。ただし1978年5月28日以降はニュルンベルク ‐ フランクフルト間はTEE扱いではない。1984年6月3日: 「コロッセウム」と改名「ライン・マイン」から改名、アムステルダム発列車はボン終点1976年5月30日からアムステルダム発列車はフランクフルト経由ニュルンベルクまで延長。ただし1978年5月28日以降フランクフルト ‐ ニュルンベルク間はTEE扱いではなくなる。1990年9月29日以降はトゥールコワン行の片道のみ。一日4往復運転。正規のTEEではない。二等車を含む。1995年1月23日以降はブリュッセル行の片道のみ。1995年1月23日以降はパリ行の片道のみ。 =ナカプリバイン= ナカプリバインとは、東京都北区にある有限会社中村印刷所が製作したノートの商品名である。開いたときに中央部分が水平になることから水平開きノートと名付けられている。2016年、「おじいちゃんのノート」として話題になった。 ==特徴== 中村印刷所が2014年10月に販売を開始した。通常のノートは開いたときに中央部分がふくらんでしまうが、本ノートでは180度水平に開く。そのため、見開き2ページを1枚のノートとして使用することができる。また、コピーを取るときに中央部分に影が映ることもない。 この利点は、ノート本紙と表紙とをつなぐ接着剤を工夫したことによって生み出されている。本ノートでは、粘度の異なる2種類の接着剤を使用し、最初に粘度の低い接着剤を塗っている。こうすることで、接着剤層の弾性・柔軟性が向上し、それにともなって各ページの自由度が増して水平に開けるようになったと考えられている。 ==製法== 本ノートの製造方法は中村印刷所が出願人となり2014年11月27日に特許出願がなされ、2015年5月15日に特許5743362号として登録されている。特許の【請求項1】を参考に、製造方法の一例を概略として示す。 表紙材に2本のスジまたは折り目を入れる。表紙材を2本のスジまたは折り目のうちの1本の部分で折り曲げて2つに折り、折り目を本文用紙の側面にそろえて重ねる。表紙材の折り目と本文側面に第1の接着剤を塗る。第1の接着剤が乾いたら、その上から、より粘度の高い第2の接着剤を塗る。表紙材で本文をくるんでノートの形としてから、背面を押し当てた状態で乾燥させる。重ね合わせ、接着の工程は中村印刷所の社員による手作業である。1日当たり300冊を生産していたが、2016年に注目を集めるようになってからは1000冊に増やした。その後、契約先の製本会社でも製作するようになった。紙を正確にそろえて重ねるには修行が必要で、これまで4‐5人の職人が挫折してきたという。 ==歴史== ===販売までの経緯=== 中村印刷所は1938年に創業した印刷会社であったが、印刷業界の斜陽化にともない、2010年から2011年ごろにかけて経営状態が悪化していった。そこで社長の中村輝雄は再起をかけて、付加価値のあるオリジナル商品の販売に取り組むことを決めた。そしてその頃、会社をたたむことにしていた製本会社の経営者を社員として呼び寄せ、2人でオリジナルノートの開発を始めた。 2013年、中村印刷所は東京都北区の産業展に出展し、「旅行の想い出帖」「都電ノート」といったオリジナルノートを展示した。これらのノート自体は会場であまり話題を呼ばなかったが、その中でノートを手に取った来客の1人が、ノートは真ん中が膨らむから書きにくい、と話して立ち去って行った。それを聞いた社長の中村は、ノートとはそういうものだと思ったが、元製本会社の社員は、手作業で手間はかかるが真ん中が膨らまないノートは作れると言った。この言葉に興味を持った社長の中村は、よそが真似できない、うちだけのノートを作ろうと決意し、2人で「水平開きノート」の開発に取り組むことにした。 開発にあたっては、最適な接着剤を見つけ出すのが最大の課題で、ホームセンターなどで数十種類の接着剤を入手して、それらを組み合わせて試験を繰り返した。そして2年にわたる開発期間の末、水平に開き、強度にも優れたノートを作り出すことに成功した。2014年11月には特許も出願し、早期審査請求制度を利用して、2015年5月に登録となった。2015年8月には東京都の「トライアル発注認定制度」にも選ばれた。 販売は2014年10月から始め、2015年にこのノートはナカムラ・プリンティング・バインダーの略称で「ナカプリバイン」と名付けられた。自らのつてや中小企業振興公社からの紹介を頼りに、50‐60社を回ったが、取扱先は思うように増えなかった。展示会にも出品し、そこで商品の良さが理解され購入されることもあった。しかしそこから販路が拡大することはなかった。大量の発注依頼もあったが、その後に大幅な商品価格の値下げを要求されたこともあって契約には至らず、結局2015年の年末には8,000冊の在庫が積みあがった。社長の中村は土地を売って田舎に引っ越すことも考えていた。 ===Twitterによる拡散=== 2016年1月1日、元製本会社の社員は、なかなか販売数の伸びないノートに対し、「使ってもらえば、良さがわかってもらえる」と思い、新年のあいさつに来ていた専門学校生の孫に、友達にあげてくれと、ノートを手渡した。孫は、周りには使う人がいないだろうがTwitter上での知り合いの絵描きには需要があるかもしれないと思い、その場でノートの写真を撮り、Twitterで「うちのおじいちゃんノートの特許とってた…」「宣伝費用がないから宣伝できないみたい。Twitterの力を借りる!」などとツイートし、ノートを紹介した。 このツイートは大きな反響を呼び、リツイート数は3万を超え、購入を希望する声が多数寄せられた。商品を販売していた通販サイトではすぐに在庫切れとなった。また、中村印刷所の公式サイトへのアクセス数は、それまで4千数百だったのが、その日のうちに十万を超えた。 中村社長はその日初詣に行っており、帰宅後、知り合いの中小企業診断士からかかってきた電話でこの騒動を知った。そして1月3日以降になると、注文の電話が会社に殺到し、さらに商品を求めた客が店に次々と押し掛ける事態になった。また、テレビや雑誌の取材依頼もあった。突然の変化に、中村は当時の状況を「とにかく怖かった」「喜びよりも怒りの感情の方が強かった」と語っている。ノートの注文は2‐3日で3万部を超え、通販サイトにおいても、アマゾンのノート部門でのランキング1位となり、ヨドバシドットコムの文房具・オフィス用品のランキングでも1位となった。積みあがっていた店の在庫は無くなり、しばらくは品切れ状態となった。 ===その後の展開=== 大量の注文に対応するため、会社は生産部数を増やし、社長と従業員は朝から深夜まで製作に追われるようになった。それでも手が回らなくなったため、2つ折りの用紙を外部発注に切り替えた。会社は創業以来最高の売上を達成し、3月、4月の売り上げは前年同月比6倍に達したが、外注先の選定や費用の交渉をする余裕が無かったため、ほとんど利益は出なかったという。夏近くになると余裕ができ、利益率も上向くようになった。 中村印刷所は、技術の継承のため、東京都の多摩地区にある製本会社と契約を結び、2016年に同社の工場でのノート製作を開始した。 社長の中村は2016年の取材で、本ノートの技術を受け継ぐ会社が現れ、1人でも多くの人にノートが使われることを願っていると語った。「ジャポニカ学習帳」で知られるショウワノートの開発担当者はこの記事を読み、中村印刷所との提携を申し入れた。そして数度にわたる話し合いの結果、2016年6月30日、中村印刷所とショウワノートは、小学生向けの水平開きノートを製造・販売する契約を結んだ。ショウワノートでは、同年秋口から実証研究を始め、2017年春の商品化を目指すと発表した。開発にあたっては、大量生産するノートの品質を安定させるのに時間を要し、中村印刷所はショウワノートの試作品に対して2回NGを出した。2017年に商品が完成し、ショウワノートは同年11月13日に、本ノートを「水平開きノート」の名称で販売すると発表した。 ==論評== 本ノートに関する特許はノートの製法に関する方法特許であり、水平に開けるノート自体はすでに存在していた 。その中で本ノートが大きな話題となったのは、製品としての魅力のほかに、下町にある小さな会社が新しい技術を駆使して製品が生まれたという物語性があったためだという見解がある。加えて、Twitterの内容が、祖父を応援したいというものであり、製品の特徴が分かりやすかったことから、善意の輪という形での情報拡散がなされたと考えられている。 話題のきっかけとなった社員の孫は、「ノート自体がよかったのと、使いたい!って方のたくさんの声で実現したものだと思っています。私は懸け橋になっただけ。広めてくださった方々には感謝の気持ちでいっぱいです」と語っている。 社長の中村は、このノートが生まれたのは、崖っぷちの状況で、マーケティングする余裕もなく、ただ自分が欲しいと思う商品なら売れると信じた結果だと語っている。また、商品を購入した客からは、電話や手紙、払込取扱票の通信欄などで感謝の言葉が述べられていることがあり、それに対して喜びを見せている。今後の展望として、さらに量産化を進めてノートを安価に提供できるようにし、多くの子供たちがこの書きやすいノートを使って勉強するようになって欲しいと述べている。 =ニオブ= ニオブ(英: niobium [na*9524**9525*o*9526*bi*9527*m] 独: Niob [ni*9528*o*9529*p, *9530*ni*9531**9532*p])は、原子番号41、元素記号Nbの元素である。柔らかく灰色で結晶質の延性のある遷移金属であり、パイロクロアやコルンブ石といった鉱物としてしばしば産出し、後者に由来してかつてはコロンビウムと呼ばれていたこともあった。ニオブという名前はギリシア神話に由来し、タンタルの語源となったタンタロスの娘であるニオベーから来ている。この名前は、タンタルとニオブが物理的・化学的に非常によく似ており、区別を付けづらいという特徴を反映したものである。 ニオブが商業的に初めて利用されたのは20世紀初めになってからであった。ニオブおよび、ニオブと鉄の合金(60‐70パーセントがニオブ)であるフェロニオブ(英語版)の最大生産国はブラジルである。ニオブは主に合金として用いられ、ガスのパイプラインなどに用いられる特殊合金が最大の用途である。こうした合金は最大でも0.1パーセント程度のニオブを含有するだけであるが、このわずかなニオブにより鋼鉄の強度を増大させる。ニオブを含む超合金の温度安定性の高さから、ジェットエンジンやロケットエンジンといった用途が重要である。 ニオブは様々な超伝導材料に用いられる。こうした超伝導合金は、チタンやスズも含むものが、核磁気共鳴画像法 (MRI) の超伝導電磁石に広く用いられている。ニオブのその他の用途として、溶接、原子力産業、電子、光学、貨幣、宝飾といったものがある。貨幣と宝飾の用途では、毒性が低いことと、陽極酸化処理により虹色を呈することが、非常に望ましい特性として利用されている。 イングランドの化学者チャールズ・ハチェットが1801年に、タンタルに似た新元素を報告し、コロンビウムと名付けた。1809年にやはりイングランドの化学者ウイリアム・ウォラストンが誤ってタンタルとコロンビウムは同じものであると結論付けた。ドイツの化学者ハインリヒ・ローゼは1846年に、タンタルの鉱石にはもう1つの元素を含んでいると判断し、これにニオブという名前を付けた。1864年および1865年に、一連の科学的発見によりニオブと、かつてコロンビウムと呼ばれていたものは同じ元素であることが明らかになり、それから1世紀ほどの間にわたってニオブとコロンビウムという名前はどちらも同じものを指す言葉として使われてきた。1949年にニオブという名前が公式にこの元素の名前として採用されたが、その後もアメリカ合衆国では鉱業の分野において依然としてコロンビウムという名前が残っている。 ==歴史== ニオブはイングランドの化学者チャールズ・ハチェットにより、1801年に発見された。ハチェットは、1734年にジョン・ウィンスロップがイングランドにアメリカ合衆国のコネチカット州から送ったサンプルの鉱物から新元素を発見し、アメリカ合衆国の詩的な名前であるコロンビアにちなみ、この鉱物をコルンブ石、新しい元素をコロンビウムと名付けた。ハチェットが発見したコロンビウムは、おそらく新元素とタンタルの混合物であったと思われる。 その後、コロンビウムと、それによく似たタンタルの違いについて、かなりの混乱があった。1809年にイングランドの化学者ウイリアム・ウォラストンはコロンビウムの酸化物であるコルンブ石の密度(5.918 g/cm)と、タンタルの酸化物であるタンタル石の密度(8 g/cm以上)を比較し、密度がかなり違うにもかかわらずこの2つの酸化物は同じものであると結論付け、タンタルの方の名前を採用した。この結論に対し、1846年にドイツの化学者ハインリヒ・ローゼは異論を唱え、タンタル石にはさらに2つの異なる元素が含まれていると主張して、タンタロスの子供にちなんで、ニオベーからニオブ、ペロプスからペロピウムと名付けた。こうした混乱は、タンタルとニオブの間の観測された差異が非常に小さいことから生じていた。新しい元素だとされたペロピウム、イルメニウム、ダイアニウムといったものは、実際にはニオブか、またはニオブとタンタルの混合物であった。 タンタルとニオブの差異は、1864年にクリスチャン・ヴィルヘルム・ブロムストラント(スウェーデン語版)やアンリ・サント=クレール・ドビーユ(フランス語版)らがはっきりと示し、1864年にはルイ・ジョゼフ・トロースト(フランス語版)がいくつかの化合物の構造式を決定し、最終的にスイスの化学者ジャン・マリニャックが1866年に、含まれている元素は2種類だけであることを証明した。しかしイルメニウムという元素に関する記事は1871年まで残っている。 マリニャックは1864年に、水素雰囲気中でニオブの塩化物を熱して還元することにより初めてニオブの金属形態を得た。マリニャックは1866年にはタンタルを含まないニオブを大規模に得ることに成功していたが、ニオブが初めて商業的な用途に用いられたのは、20世紀初めになってからのことで、白熱電球のフィラメントとして用いられた。しかしこのニオブの用途は、より高い融点を持つタングステンによってすぐに代替され、時代遅れのものとなってしまった。鋼鉄の強度をニオブが改善することは1920年代になって初めて発見され、それ以来この用途が最大の用途であり続けている。1961年にアメリカの物理学者ユージーン・クンツラーとベル研究所の共同研究者らは、ニオブスズ(英語版)が大きな電流や強い磁場の中でも超伝導を維持できることを発見し、強力な磁石や大出力電気機械に必要とされる大きな電流や磁束に耐えられる初めての材料となった。この発見により20年後、回転機や粒子加速器、粒子検知器といった用途に用いられる大規模で強力な電磁石用のコイルを製作できる長い巻線を製造できるようになった。 ===元素の命名=== コロンビウム(元素記号Cb)は、1801年に初めてニオブが発見された際にハチェットが与えた名前であった。この名前は、発見に用いられた鉱石標本がアメリカ(コロンビア)から送られたことにちなんだものであった。アメリカの論文誌ではこの名前が使われ続け、アメリカ化学会がコロンビウムという名前をタイトルに含む最後の論文を公表したのは1953年のことであった。一方ヨーロッパではニオブという名前が使われていた。この混乱を終わらせるために、1949年にアムステルダムで開かれた第15回化学連合会議において41番元素の名前としてニオブが選択された。歴史的にはコロンビウムという名前の方が先に用いられていたにもかかわらず、この翌年、100年間に渡る論争を経て、国際純正・応用化学連合 (IUPAC) により正式にニオブという名前が採択された。これはある種の妥協であり、IUPACは、ウォルフラムという名前より北アメリカで使用されているタングステンという名前を採用した代わりに、コロンビウムという名前よりヨーロッパで使用されているニオブという名前を採用した。アメリカ合衆国の多くの化学関連組織や政府組織では公式のIUPAC名を使用しているが、一部の冶金関係者や金属関連組織では依然としてアメリカの名前であるコロンビウムを使っている。 ==性質== ===物理的な特徴=== ニオブは光沢のある灰色で、展延性があり、常磁性を持った周期表の第5族に属する金属であり、最外殻電子の配置は第5族としては変則的なものである(これは周期表上近傍にあるルテニウム (44)、ロジウム (45)、パラジウム (46) などに共通である)。 絶対零度から融点まで、体心立方格子構造を取ると考えられているものの、3結晶軸に沿った熱膨張の高解像度測定によれば、立方構造とは矛盾する異方性があることを明らかにしている。そのため、この分野でのさらなる研究と発見が期待されている。 ニオブはごく低温において超伝導になる。大気圧では、元素の超伝導体としては最も高い臨界温度である9.2ケルビンで超伝導となる。ニオブはすべての元素の中で最大の磁場侵入長を持つ。これに加えて、バナジウム・テクネチウムと並んで、3つだけ存在する元素の第二種超伝導体でもある。超伝導特性は、金属ニオブの純粋度に強く依存している。 非常に純度が高い金属ニオブは比較的柔らかく展延性があるが、不純物の存在により硬くなる。 金属ニオブは、熱中性子の捕獲断面積が小さい。そのため原子力産業において、中性子に透過的な構造が必要な場合に用いられる。 ===化学的な特徴=== ニオブは、室温で長期間空気にさらされると、青味がかった色を呈する。元素としては高い融点(摂氏2,468度)を持つにもかかわらず、他の耐火金属に比べると密度が小さい。また、腐食耐性が高く、超伝導特性があり、誘電酸化物層を形成する。 ニオブは、原子番号が1つ小さいジルコニウムに比べるとわずかに陽性度が小さくよりコンパクトであるが、一方重いタンタルと比べると、ランタノイド収縮の結果ほとんど同じ大きさである。結果として、ニオブの化学的特性は、周期表上でニオブの直下にあるタンタルととてもよく似ている。ニオブの腐食耐性はタンタルほど優れているわけではないが、価格が安く豊富に入手可能であることから、化学工場におけるタンクの内張りなど、あまり厳しい要求ではない用途にはニオブが向いている。 ===同位体=== 地球の地殻に含まれるニオブの安定同位体は、Nbのみである。2003年までに、少なくとも32の放射性同位体が合成されており、その原子量は81から113に及ぶ。放射性同位体の中でもっとも安定なものはNbで、その半減期は3470万年に達する。不安定な同位体としてはNbがあり、その推定半減期は30ミリ秒である。安定同位体のNbより軽い同位体は陽電子放出で崩壊する傾向にあり、安定同位体より重い同位体はベータ崩壊をする傾向にあるが、Nb、Nb、Nbは遅延陽子放出の崩壊系列を持ち、Nbは電子捕獲と陽電子放出し、Nbは陽電子放出とベータ崩壊の両方の崩壊をするという例外がある。 少なくとも25種類の核異性体が確認されており、その原子量は84から104に及ぶ。この範囲で、Nb、Nb、Nbは核異性体を持たない。ニオブの核異性体の中でもっとも安定なものはNbで、半減期16.13年を持つ。もっとも不安定な核異性体はNbで、半減期103ナノ秒を持つ。ニオブの核異性体はすべて核異性体転移またはベータ崩壊で崩壊するが、例外としてNbは電子捕獲という系列を持つ。 ==化合物== ニオブは多くの点でタンタルやジルコニウムに類似している。高温ではほとんどの非金属と反応する。フッ素とは室温で、塩素および水素とは摂氏200度で、窒素とは摂氏400度で反応し、得られる化合物は多くが侵入型で不定比である。大気中では摂氏200度で酸化し始める。王水、塩酸、硫酸、硝酸、リン酸など、アルカリや酸による腐食に耐える。フッ化水素酸およびフッ化水素酸と硝酸の混合物には腐食される。 ニオブの酸化数は+5から‐1までのすべてを取りうるが、ニオブの化合物のほとんどではニオブの酸化数は+5を取る。特徴として、+5より小さな酸化数を取る化合物ではニオブ‐ニオブ結合を示す。 ===酸化物と硫化物=== ニオブの酸化物は酸化数+5(Nb2O5)、+4(NbO2)、+3(Nb2O3)、そして珍しい酸化数として+2(NbO)がある。もっとも一般的な酸化物は五酸化ニオブで、ほとんどのニオブの化合物や合金の前駆体となる。ニオブ酸塩は、五酸化物を水酸化物イオンの溶液に溶かすか、アルカリ金属の酸化物に溶融させることで得られる。例としてニオブ酸リチウム(LiNbO3)やニオブ酸ランタン(LaNbO4)がある。ニオブ酸リチウムは三角形にゆがめられたペロブスカイト構造のような構造で、一方ニオブ酸ランタンは孤立したNbO3−4イオンを持つ。層状の硫化ニオブ (NbS2) も知られている。 摂氏350度以上でニオブ(V)エトキシド(英語版)を熱分解して、化学気相成長または原子層堆積により酸化ニオブの薄膜で材料をコーティングすることができる。 ===ハロゲン化物=== ニオブは、酸化数+5および+4で、様々な不定比化合物としてハロゲン化物を形成する。五ハロゲン化ニオブ (NbX5) は八面体の中心にニオブが配置される構造を特徴とする。五フッ化ニオブ (NbF5) は融点が摂氏79度の白い固体である。五塩化ニオブ(英語版) (NbCl5) は融点が摂氏203.4度の黄色い固体である。どちらも加水分解されて酸化物またはNbOCl3のようなオキシハロゲン化物を与える。五塩化ニオブは、二塩化ニオボセン ((C5H5)2NbCl2) のような有機金属化合物を生成するために使われる多用途の試薬である。四ハロゲン化物 (NbX4) はNb‐Nb結合を有する暗色のポリマーであり、たとえば黒く吸湿性のある四フッ化ニオブ(英語版) (NbF4) や、茶色の四塩化ニオブ(英語版) (NbCl4) がある。 ニオブのハロゲン化物の陰イオンは、五ハロゲン化物のルイスの酸性度も部分的に手伝って、よく知られている。もっとも重要なものは [NbF7] で、鉱石からニオブとタンタルを分離する過程の途中物質である。この七フッ化物は、タンタル化合物よりも容易にオキソペンタフルオライドを形成する傾向がある。その他のハロゲン化物の錯体としては八面体状の[NbCl6]などがある。 Nb2Cl10 + 2 Cl → 2 [NbCl6]原子番号の小さなほかの金属と同様に、多くの還元ハロゲン化物のクラスターイオンが知られており、主な例としては[Nb6Cl18]がある。 ===窒化物と炭化物=== 他に二元化合物として、低温で超伝導体となり、また赤外線検知器として用いられる窒化ニオブ (NbN) がある。主な炭化ニオブ(英語版)はNbCで、非常に硬く耐熱性のあるセラミックス材料であり、商業的には切削加工のバイトに用いられる。 ==存在== ニオブは地球の地殻における存在量で34番目の元素であるとされており、およそ20 ppm含まれているとされる。地球全体での存在度はより大きいと考えている者もおり、ニオブの高い密度のために地球のコアに濃縮されているとしている。ニオブの単体は自然界では発見されておらず、他の元素と化合して鉱物中に含まれている。ニオブを含む鉱物は、タンタルも含んでいることが多い。たとえば、コルンブ石 ((Fe,Mn)(Nb,Ta)2O6) やコルタン ((Fe,Mn)(Ta,Nb)2O6) といったものがある。コルンブ石、タンタル石といった鉱物(もっとも一般的な種類はコルンブ石‐(Fe)またはタンタル石‐(Fe))は、ペグマタイトの貫入やアルカリ性貫入岩の随伴鉱物として見つかることがもっとも多い。カルシウム、ウラン、希土類元素といったもののニオブ酸塩としても見つかる。こうしたニオブ酸塩の例としてはパイロクロア ((Na,Ca)2Nb2O6(OH,F)) (現在ではグループに与えられた名前となっており、その中で一般的なものはフルオロカルシオパイクロア)、ユークセン石(英語版)(正確にはユークセン石‐(Y))((Y,Ca,Ce,U,Th)(Nb,Ta,Ti)2O6) といったものがある。ニオブの大規模な鉱脈は、パイロクロアの構成物として、カーボナタイト(炭酸塩‐ケイ酸塩火成岩)に関連して発見される。 現時点で採掘されているパイロクロアの3大鉱床は、2つがブラジルに、1つがカナダにあり、どれも1950年代に発見され、なおもニオブ鉱石の主な供給源となっている。最大の鉱床は、ブラジルのミナスジェライス州アラシャ(ポルトガル語版)にあり、カーボナタイトの貫入物に随伴したもので、CBMM(ブラジル冶金鉱業会社)が保有している。もう1つのブラジルの採掘中鉱床はゴイアス州カタラン近郊にあり、やはりカーボナタイト貫入物に伴うもので、洛陽欒川モリブデン(中国語版)が保有している。これら2つの鉱床で、世界全体の供給のおよそ88パーセントを生産している。ブラジルにはほかにも、アマゾナス州サン・ガブリエウ・ダ・カショエイラ(ポルトガル語版)近郊に大規模だが未採掘の鉱床があり、ロライマ州にあるものなど、より小規模な鉱床もいくつかある。 ニオブの3番目の供給源は、カナダのケベック州チクーチミ(英語版)近郊サントノーレ(英語版)にあるニオベック鉱山で、やはりカーボナタイトに伴うもので、マグリス・リソーシズが保有している。この鉱山では、世界全体の供給の7パーセントから10パーセント程度を生産している。 ==生産== 他の鉱石の分離処理を行うと、タンタル(五酸化タンタル Ta2O5)とニオブ(五酸化ニオブ Nb2O5)の酸化物の混合物が得られる。抽出処理の最初の段階は、この酸化物をフッ化水素酸と反応させることである。 Ta2O5 + 14 HF → 2 H2[TaF7] + 5 H2ONb2O5 + 10 HF → 2 H2[NbOF5] + 3 H2Oジャン・マリニャックが開発した最初の工業的分離処理では、ニオブのフッ化物の錯体(フッ化ニオブ酸カリウム一水和物 K2[NbOF5]・H2O)とタンタルのフッ化物の錯体(フッ化タンタル酸カリウム K2[TaF7])の水への溶解度の差を利用していた。新しい処理方法では、フッ化物を水溶液からシクロヘキサノンのような有機溶媒へ取り出す液液抽出を利用する。ニオブとタンタルのフッ化物の錯体は、この有機溶媒から水に別々に抽出され、フッ化カリウムを加えてフッ化カリウムの錯体を形成して沈殿させるか、アンモニアを加えて五酸化物として沈殿させる。 H2[NbOF5] + 2 KF → K2[NbOF5]↓ + 2 HFまたは: 2 H2[NbOF5] + 10 NH4OH → Nb2O5↓ + 10 NH4F + 7 H2O還元して金属ニオブを得る方法としてはいくつかのものがある。フッ化ニオブ酸カリウム K2[NbOF5]と塩化ナトリウムの溶融塩を電気分解する方法、ナトリウムを使ってフッ化物を還元する方法などがある。この方法では比較的高い純度のニオブを得ることができる。大規模な生産では、五酸化ニオブ Nb2O5 は水素または炭素を用いて還元される。アルミノテルミット反応(英語版)では、鉄の酸化物とニオブの酸化物の混合物をアルミニウムと反応させる: 3 Nb2O5 + Fe2O3 + 12 Al → 6 Nb + 2 Fe + 6 Al2O3この反応を促進させるために硝酸ナトリウムのような少量の酸化剤が添加される。得られるのは酸化アルミニウムと製鉄に用いられる鉄とニオブの合金であるフェロニオブ(英語版)である。フェロニオブは60 ‐ 70パーセントのニオブを含む。酸化鉄なしでは、アルミノテルミット反応はニオブの生産にも用いられる。超伝導合金の水準に達するためにはさらなる精錬が必要である。ニオブの2大供給業者が用いている方法は、真空下での電子ビーム溶解法(英語版)である。 2013年現在、ブラジルのCBMMが世界のニオブ生産の85パーセントを占める。アメリカ地質調査所は、ニオブの生産量は2005年の38,700トンから2006年の44,500トンへと増加したと推定している。世界のニオブ資源量は440万トンであると推計されている。1995年から2005年までの10年間では生産量は1995年の17,800トンから2倍以上に増加している。2009年から2011年まで年間生産量は63,000トンでほぼ安定していたが、2012年には50,000トンへと減少した。 マラウイのケニカ鉱脈にもいくらか発見されている。 ==用途== 2006年に生産されたニオブ44,500トンのうち、推定で90パーセントは高級構造用鋼鉄の生産に用いられた。2番目の用途は超合金の生産である。ニオブ合金による超伝導体や電気部品などでのニオブ消費は、世界のニオブ総生産量のほんのわずかな部分を占めるに過ぎない。 ===鋼材=== ニオブは鋼鉄にマイクロアロイ(英語版)(少量を添加して性質改善を行う)を行う上で有用な材料であり、鋼材内では炭化ニオブや窒化ニオブを形成する。こうした化合物は細粒化を改善し、再結晶化と析出硬化を遅らせる。こうした効果により、硬度・強度・成形性・溶接性などを改善する。マイクロアロイを実施したステンレス鋼に含まれるニオブは少ないが(0.1パーセント以下)、現代の自動車に構造上広く用いられている高張力鋼にとって重要な添加剤である。 同様のニオブ合金は、パイプラインの建設にも用いられる。 ===超合金=== 多くのニオブがニッケル、コバルト、鉄をベースとした超合金に用いられており、その含有比率は6.5パーセントにも達する。ジェットエンジン部品、ガスタービン、ロケット部品、ターボチャージャー装置、耐熱部品、燃焼設備などに用いられる。ニオブは超合金の粒状組織内において、γ’’相の硬化を促進する。 超合金の一例として、インコネル718があり、おおむね50パーセントのニッケル、18.6パーセントのクロム、18.5パーセントの鉄、5パーセントのニオブ、3.1パーセントのモリブデン、0.9パーセントのチタン、そして0.4パーセントのアルミニウムで構成されている。こうした超合金はたとえば、ジェミニ計画における先進的な機体システムなどで用いられた。ニオブの合金は他に、アポロ司令・機械船のノズルにも用いられた。ニオブは摂氏400度以上になると酸化されるため、こうした用途では合金が脆くならないように保護コーティングが必要となる。 ===ニオブ合金=== C‐103合金は1960年代初頭にワー・チャン(英語版)とボーイングが共同で開発した。デュポン、ユニオンカーバイド、ゼネラル・エレクトリック他数社が、冷戦と宇宙開発競争を背景としてニオブ合金(英語版)を同時期に開発していた。89パーセントのニオブ、10パーセントのハフニウム、1パーセントのチタンで構成されており、アポロ月着陸船のメインエンジンなど、液体燃料ロケットのスラスターノズルに使われている。 スペースXがファルコン9の上段用に開発したマーリン・バキュームシリーズのロケットエンジンのノズルはニオブ合金で作られている。 ニオブは、酸素との反応性のため、真空中または不活性気体中で加工する必要があり、生産の費用と難度を大きく上げる原因となっている。当時新規開発されていた真空アーク溶解(英語版)または電子ビーム溶解(英語版)により、ニオブやそのほか反応性の高い金属に関する開発が可能となった。C‐103合金を開発したプロジェクトは1959年に始まり、ボタン状の金属を溶かして板金に圧延できる、256ものCシリーズ(おそらくコロンビウムの頭文字に由来する)の試作ニオブ合金を開発した。ワー・チャンは、原子力用ジルカロイを精製する過程で得られたハフニウムを在庫しており、これを商業用に利用したいと考えていた。Cシリーズ合金で103番目に試したニオブ89パーセント、ハフニウム10パーセント、チタン1パーセントの組み合わせが、成形性と高温特性の点で最適であった。ワー・チャンは1961年に、真空アーク溶解および電子ビーム溶解を用いて、最初のC‐103合金500ポンド(約225キログラム)を製造し、インゴットから板金にした。意図されていた用途はガスタービンエンジンや液体金属用熱交換器であった。当時C‐103に競合していたニオブ合金としては、ファンスティール冶金製のFS85(ニオブ61パーセント、タングステン10パーセント、タンタル28パーセント、ジルコニウム1パーセント)、ワー・チャンおよびボーイング製Cb129Y(ニオブ79.8パーセント、タングステン10パーセント、ハフニウム10パーセント、イットリウム0.2パーセント)、ユニオンカーバイド製Cb752(ニオブ87.5パーセント、タングステン10パーセント、ジルコニウム2.5パーセント)、およびスペリアー・チューブ製のニオブ99パーセント、ジルコニウム1パーセント合金であった。 ===超伝導電磁石=== ニオブゲルマニウム(英語版)、ニオブスズ(英語版)、ニオブチタン(英語版)などの合金は、第二種超伝導体としてワイヤーにして超伝導電磁石を作るために用いられる。こうした超伝導電磁石は、核磁気共鳴画像法 (MRI)、核磁気共鳴 (NMR) 装置、加速器といった用途に用いられるたとえば、大型ハドロン衝突型加速器には600トンの超伝導撚線が用いられており、ITER(国際熱核融合実験炉)には推定で600トンのニオブスズの撚線と250トンのニオブチタンの撚線が用いられている。1992年だけで、ニオブチタンの巻線を使った病院用のMRI装置がアメリカドルにして10億ドル以上製造された。 ===その他の超伝導体=== 自由電子レーザーのFLASH(中止されたTESLA線形加速器プロジェクトの成果)やEuropean XFEL(英語版)に用いられている超伝導加速(英語版)空洞は、純粋なニオブで作られている。フェルミ国立加速器研究所のクライオモジュール(英語版)チームは、同じFLASHプロジェクトに由来する超伝導加速技術を利用して、純粋なニオブ製の1.3 GHz 9セル超伝導加速空洞を開発した。この装置は国際リニアコライダーの30キロメートルに及ぶ線形加速器でも用いられることになっている。同じ技術は、SLAC国立加速器研究所のLCLS‐II計画、フェルミ研究所のPIP‐II計画でも用いられることになっている。 超伝導窒化ニオブで作られたボロメータは高い感度を持っており、テラヘルツ周波数帯における電磁放射の理想的な検知器である。この検知器はハインリッヒ・ヘルツサブミリ波望遠鏡(英語版)、南極点望遠鏡、Receiver Lb Telescope、アタカマ・パスファインダー実験施設(英語版)などで試験され、ハーシェル宇宙望遠鏡に搭載されてHIFI観測機器に用いられた。 ===その他の利用=== ====電子セラミックス==== 強誘電体であるニオブ酸リチウムは、携帯電話、光変調素子(英語版)、表面弾性波デバイスの製造などに広く用いられている。タンタル酸リチウムやチタン酸バリウムなどと同じように、ペロブスカイト構造を取る強誘電体に属する。ニオブコンデンサ(英語版)は、タンタルコンデンサ(英語版)の代替となりうるが、依然としてタンタルコンデンサが支配的である。高い屈折率を持つガラスを製造するためにニオブが添加され、眼鏡のレンズを薄く軽くすることができる。 ===低刺激性用途:医療および宝飾=== ニオブおよびニオブの合金は、生理学的に不活性でアレルギーをおこしにくい。このため、人工装具や心臓ペースメーカーのような埋め込みデバイスに用いられる。水酸化ナトリウムで処理したニオブは多孔質層を形成し、オッセオインテグレーション(骨と金属の接合)に資する。 チタン、タンタル、アルミニウムなどと同様に、ニオブは熱して陽極酸化処理をすることができ、多彩な玉虫色を呈して宝飾用にすることができ、アレルギーを起こしにくい性質はこの点でも好ましいものとなっている。 ===貨幣=== ニオブは記念硬貨において、銀や金などとともに貴金属として利用される。たとえば、オーストリアは銀とニオブのユーロ硬貨のシリーズを2003年から開始し、その色は陽極酸化処理による薄い酸化層が光を回折して呈したものである。2012年には、硬貨の中央に青、緑、茶、紫、黄など様々な色を呈する10種類の硬貨が入手可能であった。さらに、2004年のオーストリアの25ユーロゼメリング鉄道150周年記念硬貨、2006年のオーストリアの25ユーロヨーロッパ測位衛星(ガリレオ)記念硬貨がある。オーストリアの造幣局は2004年開始の同様の硬貨シリーズをラトビア向けに製造しており、2007年にも1種類発行した。2011年にはカナダ造幣局が5ドルのスターリングシルバーとニオブの「ハンターズ・ムーン」という名前の硬貨を製造開始し、ニオブは選択的に酸化されているため、同じ硬貨が2つとないような独特の仕上げとなっている。 ===その他=== ナトリウムランプの高圧発光管の密封材はニオブで作られており、場合によっては1パーセントのジルコニウムを含んだ合金となっている。発光管は、動作中のランプ内に含まれる熱い液体ナトリウムや気体ナトリウムによる化学的な反応や還元に耐えられる半透明材料となる、焼結されたアルミナのセラミックスで作られ、ニオブはこれと非常によく似た熱膨張係数を持っている。 ニオブは、ある種の安定化ステンレス鋼に対するアーク溶接用の溶接棒として使われ、またある種の水タンクにおけるカソード防蝕システムの陽極側に用いられる。この際、タンクは通常白金でメッキされる。 ニオブは、プロパンの選択的酸化によりアクリル酸を生産する際に用いられる、高性能で不均一な触媒の重要な構成要素となる。 太陽探査機のパーカー・ソーラー・プローブのコロナ微粒子捕獲モジュールの高電圧ワイヤを作成するためにニオブが用いられている。 ==人体への影響== ニオブには生物学的な役割が見つかっていない。ニオブの細粉は目や肌に対する刺激物であり、また火災の危険もある。一方で、より大きなサイズの塊であれば、化学的に比較的安定で生体に対しても不活性である。また、生体に対してアレルギー反応を誘発しにくい。宝飾品によく用いられ、またある種の医学用の埋め込み物(インプラント)の試作もされてきた。 多くの人にとって、ニオブを含む化合物に接することはまれであるが、毒性のあるものもあり注意して取り扱う必要がある。水溶性の化学物質であるニオブ酸塩や塩化ニオブについて、短期および長期の暴露がラットで実験されている。塩化ニオブまたはニオブ酸塩を単回投与されたラットの半数致死量 (LD50) は10 ‐ 100 mg/kgであった。経口投与では毒性はより弱く、ラットに対する実験では7日経過後のLD50は940 mg/kgであった。 =伊那市立図書館= 伊那市立図書館(いなしりつとしょかん)は、長野県伊那市の公共図書館。 2006年(平成18年)には旧伊那市、上伊那郡高遠町、上伊那郡長谷村の1市1町1村が合併して新伊那市が発足した。伊那市立図書館は旧伊那市域にある伊那図書館と旧高遠町域にある高遠町図書館の2館に加えて公民館図書室6室からなる。 ==沿革== 1986年(昭和61年) : 高遠町に高遠町図書館が開館1994年(平成6年) : 伊那市に伊那市立図書館が開館2006年(平成18年) : 旧伊那市・高遠町・長谷村が合併して新伊那市が発足、伊那市立伊那図書館と伊那市立高遠町図書館に改称 ==特色== 館長には教員経験者などを起用していたが、2007年には長野県の公立図書館として初めて館長を全国公募した。東京で法務・経営企画マネージャーなどを務め、2002年に伊那市に移住していた平賀研也が館長に就任。平賀は「“伊那谷の屋根のない博物館”の“屋根のある広場”」を目標に掲げている。平賀の後には、2013年度までに軽井沢町立図書館(軽井沢町)、塩尻市立図書館、小布施町立図書館、佐久市立図書館(佐久市)、大町市立図書館(大町市)でも公募館長または招聘館長が就任している。2010年時点の年間予算は1億円強。入館者の18%は伊那市以外の自治体在住者である。 図書館の枠組みを超えた発信によって図書館の可能性を広げる活動が評価され、2013年10月には第15回図書館総合展[1]で最終選考会が行われたLibrary of the Yearの大賞を受賞した。Library of the Yearは知的資源イニシアティブが主催し、図書館にかかわる先進的な取り組みを顕彰するものである。長野県の図書館としては、2年前の2011年に小布施町立図書館まちとしょテラソが大賞を受賞している。 伊那市立図書館を除く2013年の優秀賞は千代田区立日比谷図書文化館、長崎市立図書館、まち塾@まちライブラリー[2]だったが、伊那市立図書館は審査員票のほとんどを獲得した。川口市メディアセブンでディレクターを務める氏原茂将は、伊那市立図書館が「今後の図書館のあり方」について他に先んじていると評価した。図書館が住民と協同で知識や情報を発掘し、図書館の新たな機能を見出しているとしている。審査員を務めた情報学者の高野明彦は、対照的なコンセプトを持つ伊那市立図書館とまちライブラリーのアプローチが重なる場所に新たな図書館が生まれるのではないかと指摘している。 ===ぶら・りぶら=== 2009年(平成21年)には図書館地域通貨「りぶら」を用いたイベント「ぶら・りぶら」を初開催し、2015年まで毎年開催している。この地域通貨は上伊那図書館から生まれた除籍本の引換券、一棚古本市の割引券、商店街での割引券などとして使用することができる。参加者は軒先に書棚が置かれた商店街を歩き回り、図書館通貨を除籍本や古本と交換する過程で、地域と図書館の関係を再発見する。 ===伊那電鉄伊那まつり巡行=== 伊那電気鉄道が現在の伊那市に達してから100周年の2012年には、電気と電車の百年をテーマとして地域に学ぶ企画を数多く実施した。特に古い写真の収集とデジタル化を重視し、収集した写真の展示、写真を活用したワークショップ、デジタルツールの製作などを行った。図書館と地元出身の学生が協同で「伊那まち写真アーカイブ」をまとめ、図書館が主体となって鉄道沿線案内図や市街地地図に写真を掲載した携帯端末地図アプリを製作。100年前に走っていた電車の2/3サイズ模型は子どもを乗せて夏祭りを巡行した。すべての企画が市民参加型のワークショップであり、電子情報の共有財化に親しみを持ってもらうことを意図している。 ===高遠ぶらり=== 「高遠ぶらり」はiPadやスマートフォンで地図を閲覧するアプリケーションであり、GPSを用いて古地図や絵図に現在地を表示したり、古地図や絵図と現代の地図を切り替えながら街歩きを行うことができる。図書館がプロジェクトオーナーとなった政策委員会方式でアプリの開発やワークショップの開催を行い、図書館職員のほかには観光ガイド、郷土史家、デザイナー、エンジニア、学生などさまざまな属性の市民が参加者に名を連ねている。街歩きワークショップや観光客向けウォークラリーを行い、年2回のアップデートで掲載する地図を増やしている。 デジタル化した情報を再び街歩きに活かし、地域住民による能動的な情報収集・発信を支援している。高遠藩内藤家の下屋敷が新宿御苑にあった縁で、2013年には新宿御苑周辺もアプリに加えられ、新宿区立四谷図書館が街歩きイベントなどに活用している。 ===伊那谷自然環境ライブラリー=== 伊那市ふるさと大使の田畑貞寿と森田芳夫から寄贈された専門書を軸にして、関係する図書や資料に加えて地域活動の情報も収集したのが「伊那谷自然環境ライブラリー」である。地域の自然・歴史・文化を「屋根のない博物館」ととらえ、地域の発展を考えたエコミュージアム構想を提言。このコーナーには情報の窓口としての役割を持たせた。新刊書コーナーに次いで回転率が良いという。2009年(平成21年)7月には図書に加えて家具や昆虫標本なども展示した「自然がくらしをささえ、くらしが自然をつくる」を開催し、シンポジウムも行った。2010年夏には伊那市内の平地林で「森をきく、森にかたる」を開催し、詩や短歌の発表、火起こし体験、建築士を招いてのワークショップなどを行った。 ===高遠ブックフェスティバル=== 2009年8月29日・30日には斉木博司[3]や北尾トロなどが高遠で営業していた古本屋「本の家」などが主体となって、高遠ブックフェスティバルが開催された。古書で町おこしを図ったイギリスのヘイ・オン・ワイを目標に掲げ、「本の町」高遠のアピールを狙った。長野県内外の古書店を招待して町中に本棚を置き、角田光代、いしいしんじ、熊田俊郎、都築響一、飯沢耕太郎などを招いてトークイベントやシンポジウムを行った。高遠町図書館はこのイベントに除籍本を提供し、イベントのひとつとして百人一首大会を手掛けた。2010年9月18日から23日には第2回高遠ブックフェスティバルが開催され、高遠町図書館は独自のプログラムを展開した。 2011年には「高遠・週末本の町」に名称を変更。斉木や北尾はこの年限りで高遠から「本の家」を引き上げたが、町民がイベントの主体となることで高遠町図書館の重要性が増し、2012年には大掛かりなイベントではなく古書の販売会などを中心とした第4回高遠ブックフェスティバルを開催した。2013年以後も高遠ブックフェスティバルは毎年開催されている。 ==伊那図書館== ===歴史=== ====前史==== 製糸業の実業家である武井覚太郎はヨーロッパを視察する中で図書館の必要性を実感し、十数万円を投じて上伊那図書館を建設して上伊那教育会に寄贈した。1930年12月17日には財団立の上伊那図書館が開館。武井は片倉製糸の常務や上伊那銀行の頭取を務めたほか、長野県上伊那郡組合立伊北農蚕学校の設置に尽力し、上伊那郡伊那富村(現・辰野町)の村長、長野県議会議員、貴族院議員として政界でも活躍している。建物の玄関脇には武井の胸像が建っている。 上伊那図書館は伊那市唯一の洋館であり、外装にはレンガが用いられているほか、スチーム暖房を備えている。開館時には伊那町図書館の蔵書全433冊が寄贈されている。開館当日の信濃毎日新聞は「壮麗完備天下に誇る」と伝え、上伊那図書館はその後の約70年間にわたって上伊那地方の教育・文化の中心であり続けた。戦前の長野県は図書館活動が盛んであり、特に青年団が運営する私立図書館が多かった。 1936年(昭和11年)の「日本帝国文部省年報」によると、長野県には全国第1位の343館の図書館があり、私立館(252館)の数は他県を圧倒していた。太平洋戦争中の上伊那図書館は名古屋市蓬左文庫の図書や徳川美術館の美術品などの疎開先となり、戦後には進駐軍に接収された時期もあった。戦後の長野県は1949年まで占領軍の指令下に置かれたため、軍国主義的図書を閲覧禁止とする措置などが採られた。 1950年(昭和25年)には図書館法が施行され、青年団図書館や私立図書館の多くは自治体の公民館図書部に吸収されたが、上伊那図書館は県下15館の法定図書館のうちわずか2館の私立図書館のひとつとして残った。1960年時点の上伊那図書館の蔵書数は25,829冊である。『昭和54年度長野県公共図書館概況』によると、1979年の長野県には32館の法定図書館があったが、うち31館は市町村立図書館であり、上伊那図書館は長野県にただ一つ残る財団立図書館だった。 1994年(平成6年)に公立の伊那市立図書館が開館すると、財団立の上伊那図書館は2003年に閉館となり、2004年には管理が伊那市に移管されている。伊那市は合併特例債やまちづくり交付金を活用し、9億6000万円を投じて本館の改修と収蔵庫の新設を行った。2010年5月24日に伊那市創造館として開館し、神子柴遺跡から出土した石器、顔面付釣手形土器(いずれも重要文化財)などが常設展示されている。 ===伊那市立図書館(1994‐)=== 1977年の第17回上伊那母親大会を契機として、伊那市の6か所に地域文庫[4]が誕生した。1978年10月には教育委員会によってこれらの地域文庫に図書購入費が付けられ、地域文庫はさらに数を増やしている。伊那地域文庫連絡会は児童文学者・絵本作家・絵本画家などを招いた講演会を開催し、田島征三、いわむらかずお、古田足日、神沢利子などが伊那市で講演を行っている。名古屋市鶴舞中央図書館の見学ツアーなどを開催するなどする中で、1985年4月には「伊那図書館を考える会」に発展した。 1989年時点の長野県内17市の中で、市立図書館を持たないのは伊那市だけだった。伊那市は1989年に図書館建設基本計画を策定。建設地は上伊那図書館の用地が有力であり、上伊那図書館は用地を無償で貸与する意向を示していたが、敷地面積確保や文化財保護の観点から上伊那図書館の用地は困難となり、1991年12月には建設地を伊那市営中央駐車場の一角とすることを決定した。市営中央駐車場の東側半分に建物を建設し、西側半分は駐車場として使用している。 1992年10月31日に着工し、1993年12月28日に竣工。1994年1月25日に竣工式が行われ、1月31日には図書館より一足早く市民サービスコーナーを開設した。4月には貸出カードの受付を開始し、7月1日に伊那市立図書館が開館した。総工費は13億3436万5000円。建物は鉄筋コンクリート造3階建であり、延床面積は3,079.33mである。 1階は児童図書室や視聴覚室などであり、児童図書室は2万冊を収納できる。2階は一般図書室やレファレンス室(郷土資料)などであり、一般図書室は6万冊を、レファレンス室は2万冊を収納できる。3階の書庫は10万冊を収容可能。館全体で計20万冊の蔵書能力を持つ。『長野県の公共図書館』によると、1995年当時の蔵書数は66,293冊、雑誌294冊、新聞29紙、視聴覚1,816タイトルだった。 1996年には東春近分館(春近郷ふれ愛館図書室)を開設、1999年には富県分館(富県ふるさと館図書室)を開設、2001年には手良図書室を開設している。2006年には旧伊那市・高遠町・長谷村が合併して新伊那市が発足した。合併にともなって、伊那市立図書館は伊那市立伊那図書館に改称している。2007年には旧長谷村域に長谷分館(長谷公民館図書室)が設置され、2008年には美篶分館(美篶きらめき館図書室)が設置され、2014年には西箕輪分館(西箕輪公民館)が設置された。 ==高遠町図書館== ===歴史=== ====前史==== 1830年(文政13年) : 高遠文庫1860年(万延元年) : 進徳館文庫1908年(明治41年) : (私立)高遠図書館1916年(大正5年) : (私立)高遠進徳図書館及び美術館1920年(大正9年) : (町立)高遠進徳図書館高遠藩の藩儒である中村元恒と、鉾持神社の神官であり国学者でもある井岡良古は、収集した書物を失うことを憂慮していた。文政13年(1830年)には中村と井岡が共同で、漢籍を中心とする鉾持文庫を鉾持神社に設置。下野国足利荘(現・栃木県)の足利学校に倣って史書・経典・小説などを収集し、学者の研究に提供した。蔵書は学者からの寄付や藩主の後援によって収集されている。鉾持文庫は後に高遠文庫と改称し、進徳館設置の折には蔵書すべてが寄贈されている。高遠文庫は書物を収集・保存・利用した伊那谷初の施設だった。 万延元年(1860年)、高遠藩第8代(最後)藩主の内藤頼直は高遠藩の藩校として高遠藩学問所(進徳館)を開き、館内に進徳館文庫を設置した。内藤頼直は高遠文庫から寄贈された660部・3,388冊を進徳館文庫に交付し、さらには江戸の藩邸から1,300冊を送付。その後も毎年交付を行い、1869年(明治2年)の版籍奉還の際には978部・7,113冊となっていた。個人では入手が困難な文献もあり、進徳館文庫には文庫司(司書)もいたようである。進徳館文庫の中身は進徳館が流れを受けている陽明学の図書が多い。この中には中国・明の時代に印刷された『文献通考』(80冊)などもあり、日本で欠本なしに所蔵しているのは進徳館文庫だけであるという。1871年(明治4年)の廃藩置県で進徳館は閉鎖された。 廃藩置県後には上屋敷のあった東高遠の人口や財力が急落し、商人が多かった西高遠の人口や財力が相対的に強まった。進徳館は東高遠にあったが、筑摩県は学校の設置場所を西高遠としたため、1872年(明治5年)に学制が公布されると東高遠と西高遠の間で対立が起こった。この騒動で進徳館文庫4,473冊は筑摩県預かりとなり、1874年(明治7年)1月には書籍が馬の背に乗せられて松本に送られた。進徳館文庫は筑摩県から長野県に引き継がれ、その後長野師範学校に移された。筑摩県に送られる際に使用中だった書籍2,071冊は高遠が「借用」している。 青年会や学校教員などが協力して、1908年(明治41年)5月3日には会費制の図書館活動である高遠図書館が創立された。この団体は文芸欄や新着図書欄を持つ「図書館月報」を発行し、巡回文庫(移動図書館)の規定を設けて町民に読書を奨励。この巡回文庫は20冊程度の図書を入れた箱を会員間で巡回させるものである。月1回の例会、年3回の大会を開催し、大会ではレコード鑑賞、講演、研究発表・弁論、運動会などを行った。1914年(大正3年)には活動が評価されて長野県知事表彰を受けている。同年から1915年(大正4年)には寄付金を募って書庫を建設した。書庫建設後には図書館の建設を模索したが、進徳図書館及美術館の構想が具体化したために凍結された。 長野県内務部学務課が行った「図書館文庫ニ関スル調査」によると、1916年時点で上伊那郡には30の図書館があり、その中で高遠図書館は佳良図書館に挙げられている。4,000冊以上の蔵書を持つ図書館は長野県に6館だけであり、約25,600冊を持つ長野市の信濃教育会信濃図書館(現・県立長野図書館)と約17,500冊を持つ松本市の松本開智図書館(現・松本市図書館)を除けば、6,944冊の高遠図書館を筆頭に4館すべてが上伊那郡内にあった。 高遠町出身の伊沢修二は故郷に図書館を建設するべく、1912年(大正元年)に進徳図書館及美術館の建設委員会を設置。1916年(大正5年)9月23日には建物の開館式が行われた。建設資金は伊沢や中村弥六などの高遠町出身者が供出し、建物は建設後に高遠町に寄付された。建物は2階建であり、延床面積は25坪だった。小学校の教員が中心となって運営されている。建設過程においては伊沢と中村の間に意見の対立があり、また経営は順調とはいえなかった。 1916年から数年間は2つの図書館活動が共存していたが、1920年(大正9年)には合併して高遠町立高遠進徳図書館となった。進徳館文庫の蔵書の一部、高遠図書館と進徳図書館及美術館の蔵書を引き継いでいる。運営は高遠小学校長に委任され、小学校の教員が図書館職員を兼任した。開館は1920年4月頃と推定されており、6月3日付で高遠尋常高等小学校教諭の北村勝雄が司書に任命された。太平洋戦争中には図書の購入ができず活動は停滞。戦後には高遠進徳図書館の建物が高遠町花畑に移築されたが、昭和初期から1986年まで高遠町の図書館活動は事実上存在しなかった。 ===高遠町図書館(1986‐)=== 1986年には高遠町文化センター及び図書館を新築し、高遠進徳図書館の蔵書を引き継いだ。計画段階では図書館法における「図書室」という位置づけだったが、建設段階で「図書館」に変更され、書庫や児童室などが追加された。同年10月26日に高遠町図書館の竣工開館式が行われ、12月2日に図書の貸出を開始した。開館年度の図書購入費は1156万円であり、7,937冊の図書を購入して蔵書の中心としたほか、県立長野図書館から3,000冊を借用して開館に備えている。 開館後の図書館資料費は毎年1000万円を超え、住民1人あたり購入費では日本一の座にあり続けた。長野県の公共図書館で通算貸出冊数が10万冊を超えるのは平均6年3か月だが、1989年9月30日、高遠町図書館は開館から2年10か月で10万冊を超えた。高遠町図書館には古文書館が併設されており、古文書や古書を収集・保存している。奉仕人口8,000人弱の図書館ながら、20時までの夜間開館を実施し、高遠町図書館資料叢書や高遠ふるさと叢書を発行した。開館当初の貸出冊数は最大2冊だったが、1987年には最大3冊、1988年には最大5冊となり、やがて貸出冊数制限を撤廃した。 1988年度には長藤分館・三義分館が、1989年度には片倉分館が、1991年度には上山田分館が設置されている。1991年3月3日にはコンピュータを導入し、1993年3月には高遠藩の資料などを保管する古文書館が竣工した。1995年には夜間貸出が開始された。1995年度には小学校分館が開館し、一般にも開放された。『長野県の公共図書館』によると、1995年当時の蔵書数は44,177冊、雑誌33冊、新聞11紙だった。 高遠町出身者や高遠町に関する資料の復刻を目的として、高遠町図書館資料叢書を発行している。当初は図書館員自らがパソコン入力・印刷・製本などを行っていたが、やがて出版社を介するようになった。1988年には市民団体「高遠に文学碑を建てる会」が発足し、図書館は建てる会の事務局として推進役を担った。建てる会は1988年11月に初の文学碑として巌谷小波の句碑を建て、31基を建てたのちの1997年3月に解散した。 1997年8月19日は開館からの貸出冊数が555,555冊に達した。この時点で1日平均55.5人が利用し、1日平均201.5冊の貸出があった。1人あたり年間貸出冊数は7.8冊であり、長野県では下條村立図書館(下條村)、富士見町図書館(富士見町)、南箕輪村図書館(南箕輪村)、喬木村立椋鳩十記念図書館(喬木村)に次いで多かった。 太平洋戦争後に進徳館文庫は信州大学教育学部に引き継がれ、国有財産として保管されていた。高遠小学校や高遠高校はたびたび長野県知事に返還を申し入れ、そのたびに申請は却下されていたものの、2002年には信州大学が進徳館文庫の返還を承認したことで、128年ぶりに4,279冊が高遠町に無期限の貸与という形で返還された。1983年に刊行された『高遠町史』は、進徳館文庫が「県庁の焼失のため大半は烏有に帰したが、残部が長野の師範学校と松本の開智学校附属図書館とに分けて蔵されるようになった。」と書いているが、2004年の調査では大半が現存していることが確認されており、失われた書籍は12%に相当する約850冊のみである。128年前から「借用」中の2,071冊と合わせて、進徳館文庫6,350冊が再び高遠に揃った。 2006年(平成18年)には高遠町・旧伊那市・長谷村が合併して新伊那市となり、高遠町図書館は伊那市立高遠町図書館に改称した。 ==基礎情報== ===図書館=== ===公民館図書室=== ===利用案内=== 貸出 貸出カード作成可能者に住所などの制限なし 本・雑誌は貸出可能冊数制限なし・最大2週間 視聴覚資料は最大2点・最大1週間貸出カード作成可能者に住所などの制限なし本・雑誌は貸出可能冊数制限なし・最大2週間視聴覚資料は最大2点・最大1週間 =ティムール= ティムール(ペルシア語: *7494**7495**7496**7497**7498*‎ T*7499*m*7500*r/Taym*7501*r, 1336年4月8日 ‐ 1405年2月18日)は、チャガタイ・ハン国の軍事指導者で、ティムール朝の建国者(在位:1370年4月10日 ‐ 1405年2月18日)。 中世アジアを代表する軍事的天才と評価され、中央アジアから西アジアにかけてかつてのモンゴル帝国の半分に匹敵する帝国を建設した。しばしば征服した都市で大規模な破壊と虐殺を行う一方、首都のサマルカンドと故郷のキシュ(現在のシャフリサブス歴史地区)で建設事業を行う二面性を持ち合わせていた。 ==名前と称号== 「ティムール」という表記はアラビア文字の綴りに由来し、ペルシア語による綴りに基づいて「ティームール」とも表記される。ペルシア語では「跛者のティムール」を意味する「タメルラング」「ティムーリ・ラング」「ティムール・イ・ラング」(T*7502*m*7503*r‐i Lang)とも呼ばれ、ペルシア語名のT*7504*m*7505*r‐i Langが英語に転訛したタメルラン(Tamerlane)の名前でも知られている。「跛者のティムール(T*7506*m*7507*r‐i Lang)」の渾名はヨーロッパ世界でも普及し、タメルランのほかにタマレイン(Tamerlane)、タンバレイン(Tamburlaine)といった名前で呼ばれている。また、この名は中世モンゴル語では Tem*7508*r、現代ウズベク語では Temur であり、「テムル」とも表記される。『明史』などの漢語史料では「帖木児」と表記される。 語義は「鉄」を意味し、この名を持つテュルク系、モンゴル系の人物は少なくなかった。ティムール自身、一時はトゥグルク・ティムールの許におり、また、その覇道の最中で他の「ティムール」という名を持つ男達と何度か敵対している(ティムール・メリク、ティムール・タシュなど)。 ティムールはチンギス・ハーンの子孫ではなかったために生涯「ハン」の称号を名乗らず、「キュレゲン(グルガン、ハンの婿)」「アミール(長、司令官)」の称号を名乗った。ティムールが鋳造した貨幣にはチャガタイ家のハンの名前と共にキュレゲンの称号が刻まれ、モスクの金曜礼拝でもハンの名前とキュレゲンの称号がフトバに入れて唱えられた。彼が没してからおよそ20年後、ティムール朝で編纂された史書『ザファル・ナーマ』で彼が生前名乗らなかった「ハーガーン(ハン)」「スルターン」の称号が追贈された。 史家が著した年代記では、ティムールは「サーヒブ・キラーン(サーヒブ・ギラーン、Sahib Qiran、「幸運な二つの星が交わるとき生まれた支配者」、「吉兆の合(吉兆の星である金星と木星が太陽と重なる天文現象)の支配者」、「星座の支配者」)」の雅号で呼ばれている。その歴史家のうち、ヤズディー(英語版)はティムールとともにアレクサンドロス3世を、ニザーム・アッディーン・シャーミー(英語版)はチンギス・ハーンとティムールの孫ウマルを「サーヒブ・キラーン」として称している。 ==生涯== ===若年期=== ヒジュラ暦736年シャアバーン月25日火曜日の夜(1336年4月8日/4月9日)にサマルカンド南部のキシュ近郊のホージャ・イルガル村でバルラス部の貴族アミール・タラガイの家に生まれる。バルラス部はマー・ワラー・アンナフルを支配するモンゴル人の国家西チャガタイ・ハン国に属し、モグーリスタン(東トルキスタン)を支配する東チャガタイ・ハン国(モグーリスタン・ハン国)と対立していた。 幼少期と青年期のティムールの動向について記した信憑性の高い記録は極めて少ない。バルラス部の傍流の出身である父タラガイの家は裕福とは言い難く、ティムールに従う従者はわずかに4、5人、あるいは10人ほどだった。若年期のティムールは乗馬と弓術を学び、ペルシア語とテュルク語に加えてモンゴル語を話すことができた。早くに実母を亡くしてタラガイに育てられ、狩猟、家畜の見張りに携わっていた。やがて、ティムールの人望と能力に惹かれたためか、彼の周りに様々な出自の人間が集まり始める。クラヴィホの報告、アラブシャーの伝記によると、若いティムールは数人の部下を連れて略奪行為を行っていたという。ティムールは気前よく戦利品を分け与えたために部下の数は増え、強盗団の数は300人にまで増えたと伝えられている。 やがてティムールは西チャガタイ・ハン国の有力者カザガン(英語版)に見いだされ、20歳にならないうちにカザガンの側近に登用される。この時にティムールはカザガンの孫アミール・フサインと親密になる1358年頃にカザガンが暗殺され、カザガンの子アブドゥラーフが失脚すると、統制を失ったマー・ワラー・アンナフル各地に貴族(アミール)たちが割拠した。 キシュを中心とするカシュカダリヤ地方 ‐ バルラス部のハージー・ベク(英語版)。ティムールの叔父にあたる人物。ホジェンドを中心とするフェルガナ地方 ‐ ジャライル部のバヤジドカーブル ‐ カザガンの孫フサインが率いるカラナウス部族バルフ ‐ スルドゥズ部のオルジェイ・ブカこの他にも、各地の都市でテュルク・モンゴル系の貴族や土着の勢力が割拠し、互いに争っていた。 ===ティムールの台頭=== 1360年の2月から3月にかけて、モグーリスタン・ハン国のトゥグルク・ティムール・ハンが派遣した軍隊がマー・ワラー・アンナフルに侵入した。マー・ワラー・アンナフル各地で覇を争っていた領主たちはモグーリスタンの攻撃に対して団結して行動しようとせず、ティムールの叔父ハージーはホラーサーン地方に逃亡した。ティムールはトゥグルク・ティムールの軍隊の元に出頭し、アミールたちが退出した後にトゥグルク・ティムールと謁見した。会見の場でティムール配下のサイフッディーンはトゥグルク・ティムールにティムールの才能を列挙し、主君をハージーに代わる指導者に推薦した。会見の後にティムールはハージーに代わるバルラス部の指導者の地位を与えられ、キシュの統治を認められた。しかし、ハージーがホラーサーンから帰還すると部族民のほとんどはハージーを支持に回り、ティムールも指導者の地位を返還してハージーに仕えた。 1361年の3月から4月にかけてトゥグルク・ティムールは自ら軍を率いて再びマー・ワラー・アンナフルを攻撃、ジャライル部のバヤジドとスルドゥズ部のバヤンはモグーリスタンに降伏する。降伏したバヤジドとバヤンは処刑され、それを知ったハージーは再びホラーサーンに逃亡するが、逃走中にサブゼヴァール(英語版)(現アフガニスタン・イスラム共和国のラザヴィー・ホラーサーン州にある都市)の住民に殺害される。トゥグルク・ティムールの元に出頭したティムールは、バルラス部の指導者の地位とキシュの統治権を再認された。また、トゥグルク・ティムールはティムールの才能を認め、マー・ワラー・アンナフルの統治者に任命した息子イリヤース・ホージャの後見人とした。だが、理由は明らかではないがティムールは妻と少数の従者を伴ってイリヤース・ホージャの元から逃亡して山中に去った。 ===モグーリスタン・ハン国との戦い=== ティムールはモグーリスタン軍に追われるアミール・フサインと合流し、わずか60人で1,000人からなるヒヴァの領主の包囲を突破、この時にティムールは自らの槍で領主を討ち取った。1362年にティムールとフサインはモグーリスタン軍に敗れて捕虜とされ、62日間をメルブで過ごした。1363年、ティムールはスィースターンの領主との戦闘で負傷し、右手と右足に矢傷を負う。1364年に石橋の戦いでモグーリスタン軍に勝利、同年のキシュ近郊の戦いでイリヤース・ホージャに大勝し、モグーリスタン軍をマー・ワラー・アンナフルから放逐した。勝利したティムールとフサインはクリルタイを招集してチャガタイ家のカーブル・シャーを新たな西チャガタイ・ハン国のハンに擁立し、ティムールとフサイン2人の共同統治体制が成立した。 翌1365年春、トゥグルク・ティムールの死後にモグーリスタンのハンに即位したイリヤース・ホージャは雪辱を期してマー・ワラー・アンナフルに親征する。ティムールとフサインはチナズ・タシュケントの間でモグーリスタン軍を迎え撃った(泥沼の戦い)。ティムールとフサインは兵数でモグーリスタン軍に勝っていたにもかかわらず敗北し、2人はバルフ方面に逃亡した。敗戦の責任を巡ってティムールとフサインの関係は悪化するが、それでもまだ同盟関係は維持されていた。 他方、ティムール達に勝利したイリヤース・ホージャは守備兵がいないサマルカンドに向かって進軍を続けた。当時のサマルカンドは城壁と内城が再建されていなかったが、サマルカンド市民の中にはモンゴルからの解放を掲げる「サルバダール運動(英語版)」(英語: Sarbedaran movement)を行う一団が存在していた。サマルカンドに入城したイリヤース・ホージャの軍はサルバダールが指揮する市民の奇襲を受けて壊滅し、さらに軍馬が疫病に罹って激減したためにマー・ワラー・アンナフルから退却した。イリヤース・ホージャは敗走中にドグラト部(英語版)のカマルッディーンによって殺害され、カマルッディーンはモグーリスタンのハンを僭称した。 1366年春にイリヤース・ホージャが退却したことを知ったティムールとフサインはサマルカンドに戻り、一度はサルバダールたちの勝利を称え、彼らに面会を申し出る。歓待の後にティムール達は態度を一変させ、ティムールの取り成しによって助命された一人を除いてサルバダールを皆殺しにする。 ===フサインとの決別=== 1366年の春の終わりに、サマルカンドにフサインを指導者、ティムールを補佐役とする政権が成立した。しかし、ティムールとフサインの関係はより悪化する。フサインがティムールの支持者たちに重税を課した時、ティムールは妻の装飾品を売ってまでも彼らの債務の支払に協力したためにティムールの信頼は高まり、逆にフサインは支持を失った。また、ジャライル部やアパルディー部はティムールの裏切りを伝える偽の報告をフサインの元に送り、両者の決裂は決定的になる。この時期にティムールが寵愛した妻ウルジェイ・タルカン・アーガーが亡くなり、フサインの妹であるウルジェイの死によって二人の対立はより深まった。 1366年の秋にティムールはフサインからカシュカダリヤのカルシを奪還し、さらにブハラを攻撃した。フサインはマー・ワラー・アンナフル奪還を目指してブハラとサマルカンドを制圧、ティムールは一時ホラーサーンに退くが、モグーリスタンとの戦いに備えて二人は講和した。この時にはジャライル部やスルドゥズ部といった有力部族がフサイン側に付いており、ティムールは不利な状況下に置かれていた。講和後にティムールはフサインの政権下で起きた反乱の鎮圧に協力するが、ティムールを警戒するフサインは自身の本拠地であるバルフの改築を決定する。工事に要する多額の費用を捻出するために住民に重税が課されたため、ティムールは工事の中止をフサインに進言するが聞き入れられなかった。また、遊牧生活を営む諸部族もフサインの工事に反対し、ティムールの支持に回った。 1369年にティムールはアムダリヤ川を渡河してバルフへと進軍し、行軍中に多数のアミールや諸勢力がティムール軍に合流する。バルフへの進軍中、テルメズ付近でティムールはスーフィズム(神秘主義)の聖者サイイド・バラカ(英語版)に出会う。ティムールはバラカに寄進を行い、彼から権力者の象徴である太鼓と旗を授けられた。バルフ攻撃前、ティムールはモンゴル帝国の第2代大ハーン・オゴデイの末裔であるソユルガトミシュをハンに擁立した。これはカザガン一族に対抗する意思を表明したと考えられているが、形式の上ではハンを立てるカザガン一族の方針は継承していた。 勝ち目のないことを悟ったフサインが降伏を申し出ると、ティムールはフサインに助命を約束した。バルフから脱出したフサインはティムールの元に向かわず廃墟に身を隠したが、密告者によってティムールに引き渡される。ティムールは約束に従ってフサインを助けようとしたが、ティムールの同盟者であるフッターン・バルラス部のカイフスロ(ケイ・ホスロウ)の手によってフサインはアーディル・スルターン・ハンとともに処刑された。フサインの死を知った西チャガタイ・ハン国の部族長達はバルフのティムールの元に赴き、ティムールは慣習に従って彼らにマー・ワラー・アンナフルの支配を宣言した。1370年4月9日/10日にティムールは豪壮な式典を開き、ハンに即位する意図は無いこととイスラム教を国教とする意思を表明した。 戦後、バルフではフサインを支持した住民への報復として略奪が行われ、内城が破壊された。フサインの2人の息子は火刑に処され、ティムールはフサインが抱えていた妻のうち4人を自分の妻として残りの女性を配下の部族長たちに分け与えた。ティムールが娶った妻の一人であるサライ・ムルク・ハーヌムはチャガタイ・ハン・カザンの娘にあたり、チンギス家の娘を娶ったティムールは「ハーンの娘婿」を意味する「キュレゲン」の称号を名乗った。 同1370年、ティムールはサマルカンドに移動して首都に定め、城壁、内城、宮殿を建設して外敵に備えた。 ===モグーリスタン、ホラズムへの遠征=== マー・ワラー・アンナフルの統一後、ティムールは1370年から1372年にかけてカマルッディーンが支配するモグーリスタン・ハン国を攻撃した。モグーリスタンのマー・ワラー・アンナフルへの侵入を防ぐために遠征は定期的に行われ、1390年まで7回以上実施された。ティムールは待ち伏せを得意とするカマルッディーンの戦術に苦しんだものの、カマルッディーンの勢力は数度にわたるティムールの攻撃を受けて衰退する。 1372年にティムールはコンギラト部族の国家スーフィー朝が支配するホラズム地方に遠征軍を派遣する。14世紀半ばまで、ホラズム地方の北はジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)、南はチャガタイ・ハン国が支配していたが、それぞれの国が衰退するとコンギラトがホラズムを支配下に収めた。1371年にティムールはチャガタイ家が領有していたホラズム南部の返還を要求して軍を進め、首都ウルゲンチを包囲されたスーフィー朝の君主ユースフはホラズム南部の返還に同意して講和した。1373年、ティムールがモグーリスタン遠征に出発した隙をついてユースフがホラズム南部の奪回を図ると、ティムールはモグーリスタン遠征を中止してホラズムに急行する。同年冬、ティムールの王子ジャハーンギールとスーフィー朝の王女ソユン・ベグ(ハンザデ)の結婚を条件として和平が成立するが、ユースフはなおティムールに服従しなかった。 モグーリスタン・ハン国、スーフィー朝への遠征を行う中で、ティムールは西チャガタイ・ハン国時代から力を持っていた部族長達の反乱にも直面する。カルシを本拠とするタイチウト系カナチ集団のゼンデ・ムーサーは即位前からティムールに服従の意思を示さず、1371年と1372年の2回にわたって反乱を企て、ティムールは彼をサマルカンドの内城に幽閉した。1375年にユースフは和約を破ってホラズム南部のヒヴァとキャトを包囲すると、ティムールの即位前からの盟友だったフッターン・バルラス部のカイフスロがスーフィー朝に寝返った。ティムールはかつてのフサインの支持者にカイフスロを引き渡し、カイフスロは彼らに処刑された。ホラズム遠征の直前にスルドゥス部の部族長ムハンマドに代えて配下のアクテミルにスルドゥスの指揮権を委ねることで、スルドゥスの統制を強化した。1380年に西チャガタイ・ハン国の部族の中で最大の軍事力を有していたジャライル部を屈服させて以降、ティムールと部族長たちの対立はおおむね解消された。 1376年4月、分裂状態にあった北方のジョチ・ウルスの王族トクタミシュがティムールの元に亡命する。ティムールはジョチ・ウルスのハンであるオロスの伸張を警戒しており、トクタミシュを利用してオロスを抑えようと考えた。ティムールはトクタミシュに兵士と財貨を与えてキプチャク草原に送り返し、さらに抵抗の拠点としてオトラル、サブラン、スグナクの三都市を与えた。1377年にはティムールもオロスを討つために遠征し、スグナク・オトラル間の戦闘で勝利した。1378年にトクタミシュはオロスとトクタキヤの跡を継いだティムール・メリク・ハンを討ってハンに即位した。 ティムールは登位したトクタミシュが自身の忠実な同盟者になることを期待したが、トクタミシュはオロスの方針を継承してジョチ・ウルスの統一を目指し、1380年にクリミア半島の有力者ママイを破ってジョチ・ウルスの再統一を達成する。トクタミシュはジョチ・ウルス再統一後にアゼルバイジャンに遠征軍を送り、1385年にはタブリーズを攻撃する。やがて、中央アジアに勢力を広げるティムールは、トクタミシュと衝突することになる。 1376年夏、王子ジャハーンギールが早世する。ティムールは4人の息子たちの中でも、特にジャハーンギールに目をかけていた。 1376年から1377年にかけて、ティムールは5度目のモグーリスタン遠征を行う。1379年にティムールがモグーリスタンへの遠征に出ている最中、スーフィー朝のユースフがマー・ワラー・アンナフルに侵入し、サマルカンド近辺を略奪した。ユースフに一騎討ちを申し込まれたティムールは挑戦を受けて立ったが、怯んだユースフは決闘の場所に現れず、家臣に蔑視されたユースフは憔悴のうちに没した。3か月の包囲の末にティムールはウルゲンチを攻略、ユースフを支持した一部の住民を虐殺した。 ===ペルシアへの遠征=== 1381年以降にティムールは定住文化が定着したペルシアの都市に対して積極的に遠征を行い、「チャガタイ家にペルシア(イラン)の統治権を奉げる」ことを名分として掲げる。当初のペルシア遠征の目的は領土の拡大ではなく、現地の政権を保護国化することにあった。ほかに本拠地であるマー・ワラー・アンナフルの発展に必要な家畜などの可動財産と労働力の獲得という経済的な理由、戦利品の分配による配下の忠誠心の維持がペルシア遠征の動機にあったと考えられており、ティムールは遠征に際して情報の収集を入念に進めていく。 1380年に開催したクリルタイで、ティムールはホラーサーン地方の王朝クルト朝の君主ギヤースッディーン・ピール・アリーを招集するが、ギヤースッディーンはクリルタイに出席しなかった。1381年にティムールはホラーサーン地方に進攻し、クルト朝の首都ヘラートを占領した。ティムールはヘラートの攻撃前、住民に生命と財産の安全を保障したが占領後に重税を課し、さらに住民の蜂起を危ぶんで塔と城壁を破壊した。この時にヘラートのウラマー(神学者)、イマーム(指導者)がティムールの故郷であるキシュに連行され、装飾された門扉もキシュに持ち運ばれた。1383年にヘラートの住民がティムール朝の徴税人を襲撃すると、見せしめとして王子ミーラーン・シャーによる虐殺が行われる。反乱の責任はサマルカンドに連行されていたギヤースッディーンをはじめとするクルト朝の王族にものしかかり、彼らは処刑された。ギヤースッディーンらの死によって、1383年にクルト朝は滅亡した。 ティムールはさらにホラーサーンの西に進み、同1381年にサブゼヴァール(英語版)に存在したサルバダール政権(英語版)(サルバダール運動 ‐ 英語: Sarbedaran movement)を臣従させる。サルバダール政権の指導者アリー・ムアイヤドはティムールに忠誠を尽くすが1386年に戦死、アリー・ムアイヤドを失ったサルバダール政権は影響力を失う。マーザンダラーンの支配者アミール・ワーリー、ケラスとトゥースの支配者アリー・ベクはティムールに反抗したが、いずれも滅ぼされた。 1383年にスィースターン、1384年初頭にカンダハルを征服し、アフガニスタン全域がティムール朝の支配下に入った。1385年にイラクに存在したモンゴル系国家ジャライル朝の首都ソルターニーイェを占領、同年にマーザンダラーンを制圧した後にティムールはサマルカンドに帰還した。 帰国後およそ1年の間、ティムールは内政と軍備の増強に力を注いだ。 ===三年戦役=== 1386年より、ジョチ・ウルスの拡大を牽制することを目的とした、「三年戦役」の名で知られる西アジアへの遠征事業が始められる。 1386年にティムールはタブリーズを攻略するが、タブリーズはすでにトクタミシュによって破壊されていた。ジャライル朝が支配するアゼルバイジャンを支配下に加え、グルジア王国の首都ティフリスを攻撃するが、頑強な抵抗に遭って攻略には至らなかった(ティムールのグルジア侵攻(英語版))。翌1387年にティムールはシリア北部のマラティヤ、アナトリア東部のスィヴァスに進出した。中東各地の地方政権の君主と領主はティムールのコーカサス侵入をエジプトのマムルーク朝に報告しており、ティムールから降伏勧告を受けたスィヴァスのエルテナ侯国(英語版)の君主ブルハネッディン(英語版)(アラビア語: *7509**7510**7511**7512* *7513**7514**7515**7516**7517* *7518**7519**7520**7521**7522*‎ 転写: Qa*7523*i B*7524*rhan al‐din)は、マムルーク朝とオスマン帝国に助けを求める。この時にマムルーク軍がシリア北部に派遣されるが、ティムール軍とマムルーク軍が直接戦闘することは無かった。 1386年から1387年にかけての冬、ティムール軍の先遣隊はダゲスタンでトクタミシュの軍隊に遭遇する。両軍は交戦するが、勝敗が決しないうちにトクタミシュは退却し、コーカサスの北に引き上げた。この背信行為にもかかわらず、ティムールはトクタミシュに寛大に接し、彼に兵糧と共に和解を提案する書簡を送った。しかし、トクタミシュにとってはティムールの温情は屈辱でしかなく、ティムールを攻撃するための準備に取り掛かった。 1387年、ティムールはルリスタンを拠点とする強盗団の討伐隊を自ら指揮し、捕らえた賊徒を断崖から突き落とした。さらにティムール軍はヴァン湖畔の要塞を制圧してアルメニアを征服、キリスト教徒である要塞の守備兵を断崖から突き落として処刑した。また、ヴァン湖近辺で遊牧生活を営むトゥルクマーン系の国家黒羊朝に対しては、ミーラーン・シャーが率いる軍隊が派遣された。黒羊朝の君主カラ・ムハンマド(アゼルバイジャン語版)はミーラーン・シャーに対してゲリラ戦を展開したが、抵抗は長く続かなかった。 1387年にティムールはイルハン朝の旧領に成立したムザッファル朝の領土に進攻、エスファハーンを占領し、ムザッファル朝の首都シーラーズを略奪した。占領地のエスファハーンの住民がティムール軍の兵士と徴税人を殺害したために、見せしめとして殺戮が行われた。決められた数の首を持ってくるように命令された兵士によって70,000人の首が集められ、それを積み重ねた塔が建てられた。ティムールはムザッファル朝君主シャー・シュジャーの甥シャー・ヤフヤーを傀儡の君主に据えて、属領とした。 1380年代中頃にペルシア東部がティムール朝の支配下に入る。 ===トクタミシュとの戦い=== 1388年春にトクタミシュが本拠地のマー・ワラー・アンナフルに侵入したため、ティムールはやむなく西アジア方面での軍事活動を中断して中央アジアに帰還する。王子ウマル・シャイフが指揮する守備隊はトクタミシュの猛攻を凌ぎきれずアンディジャンまで後退し、サマルカンドとブハラは包囲を受けた。30,000の騎兵がサマルカンドの救援に向かい、ティムール自身も小部隊を率いてキシュに駆けつけると、トクタミシュは草原地帯に退却した。 1387年(もしくは1388年)にトクタミシュはスーフィー朝の君主スレイマンに反乱を唆しており、扇動に応じたスレイマンは挙兵した。モグーリスタンのカマルッディーンはトクタミシュと同盟して援助を受け、さらにティムールの姻族にあたる貴族ハージー・ベクがホラーサーン地方で反乱を起こし、ティムールは最大の危機を迎える。 1389年、ティムールはカマルッディーンを討伐するための本格的な軍事行動を起こした。イリ川を渡ったティムールはモグーリスタンの中心部に至り、カマルッディーンとイリヤース・ホージャの兄弟ヒズル・ホージャを撃破してウイグルスタンのトルファン近辺にまで達した。1390年の7回目のモグーリスタン遠征でティムール軍はモグーリスタンからカマルッディーンを放逐し、新たにハンに即位したヒズル・ホージャと和平を結んだ。 ホラズム地方に軍を返したティムールはウルゲンチを占領し、スレイマンはトクタミシュの元に逃亡した。ウルゲンチの住民はサマルカンドに連行され、町は一部を除いて徹底的に破壊され、更地に大麦の種が蒔かれた。1391年のキプチャク草原遠征の直前にティムールはウルゲンチを復興させる命令を発した。1391年1月にティムール軍はタシュケントを出発し、2月にティムールはクリルタイを開いて遠征に参加した将軍たちから計画の同意を得、彼らに軍令を発した。 2月5日、ティムールはウマル・シャイフが率いていた別動隊と共に、ホジェンドでトクタミシュ軍の前衛を撃破する。行軍の途上でジェズカズガン(英語版)近辺にトクタミシュ討伐に向かう旨の碑文を建て、飢えと疲労に苦しみながらもトクタミシュに迫った。同年6月18日にコンドゥルチャ川でティムールはトクタミシュを破る(コンドゥルチャ川の戦い(英語版))。この戦闘はトクタミシュに痛手を与えたが、まだ彼は再起するだけの力を残していた。 ===五年戦役=== 1392年、トクタミシュを破って間も無くティムールは西アジア遠征を再開する。この戦役は「五年戦役」と呼ばれる。遠征の前、ティムールはイラン全土の支配権はチンギス・ハーンからチャガタイの子孫に与えられたという名分を掲げ、イラン支配の正当性を主張した。 戦役の最初、ティムールはマーザンダラーンに残っていた未征服の都市を占領した。ムザッファル朝への攻撃が再開され、シーラーズに向かうティムールをシャーヒ・シュジャーの甥シャー・マンスールが迎撃した。1393年5月にティムール軍とシャー・マンスールはシーラーズ近郊で交戦、戦闘の混乱の中で親衛隊からはぐれたティムールはシャー・マンスールに肉迫され、頭を2度切りつけられる危機に陥る。シャー・マンスールは主君の危機に気が付いた兵士によって殺害され、ティムール軍は勝利の後にシーラーズを占領した。当初ティムールはムザッファル朝の王族を厚遇していたが後に彼らを処刑し、ムザッファル朝の領土を併合した。 ジャライル朝のスルターン・アフマドから服従を拒否する書簡が送られると、ティムールはアフマドの本拠地バグダードを攻撃するためさらに西進を続けた。ティムール軍の接近を知ったアフマドはエジプトに逃亡し、バグダードはティムールの支配下に入った。バグダード占領後にティムールはバグダード北部で跋扈していた盗賊団の討伐に向かい、城壁の破壊と地下トンネル建設のために72,000人の兵士を動員したという。砦を陥落させた後、犯罪者への見せしめとして盗賊団の生首を重ねた塔が建てられた。 バグダードの陥落後、ティムール軍の中で黒羊朝との戦いに敗れて撤退していた一団がマムルーク朝の捕虜となる。ティムールは捕虜の釈放を要求するが、マムルーク朝のスルターン・バルクークは要求の裏にあるティムールの意図を疑って、エルテナ侯国、オスマン帝国、黒羊朝、ジョチ・ウルスに同盟の結成を呼び掛けた。ジャライル朝のアフマドがカイロに亡命するとバルクークは彼を歓待し、ティムールとバルクークは書簡を通して互いを挑発しあった。しかし、グルジアとアゼルバイジャンでの反乱、トクタミシュ討伐の準備のために、五年戦役ではエジプトへの遠征は決行されなかった。1394年1月(もしくは2月)に王子ウマル・シャイフがクルディスタンで戦死。3月に孫のウルグ・ベクが誕生すると、ティムールは誕生を祝して反乱者に恩赦を与えた。ティムールが反乱を鎮圧しながら東方に戻ると、防衛のためにシリアに駐屯していたバルクークもカイロに引き上げた。この年、マムルーク朝と黒羊朝の支援を受けたアフマドによってバグダードが奪還される。 1394年末にトクタミシュがデルベントを越えてティムール朝の領土で略奪を行うと、ティムールは遠征の準備を進めた。1395年春にティムールは北に軍を進め、テレク川でトクタミシュと激突した(テレク河畔の戦い(英語版))。トクタミシュの兵士に囲まれたティムールは矢をすべて使い果たして槍を折りながらも敵兵を撃退し、助けの兵士が到着するまで持ちこたえる。3日にわたる激戦の末にティムールは勝利を収め、部下の忠誠心はより高まった。さらにドン川を遡ってモスクワ大公国とジョチ・ウルスの領土に侵入し、1395年から翌1396年にかけてサライ、アストラハンを破壊した。 テレク河畔での勝いとサライの破壊は、トクタミシュに決定的な一撃を与えた。戦後、ティムールはマンギト部の有力貴族エディゲとジョチ家の王族ティムール・クトルクらがキプチャク草原に新たな政権を立てることを承認した。 1396年春にティムールはデルベントを経由して夏にサマルカンドに帰還し、五年戦役は終結した。1397年ごろにティムールはヒズル・ホージャの娘テュケル(トゥカル)を妃に迎え、モグーリスタンと同盟を結んだ。テュケルとの結婚に際して、ティムールは彼女を迎えるためにサマルカンド郊外に宮殿と庭園を造営した。同年に孫のムハンマド・スルタンをモグーリスタンの統治に派遣して中国遠征の準備を進めるが、インド遠征によって中国への軍事活動はいったん中断される。 ===インド遠征=== 1398年から1399年にかけて、ティムールはインドに軍事遠征を行った。 1397年末よりアフガニスタンを統治していた孫のピール・ムハンマドにインドへの攻撃を命じていたが、ピール・ムハンマドがムルターンの攻略に苦戦していたためにティムールは親征を決定した。遠征においては92,000人の兵士を動員し、それを3部隊に分けて進軍した。 ソユルガトミシュの跡を継いだチャガタイ・ハンであるスルタン・マフムードを左翼軍の司令官として南下させ、ティムール自身は後方の安全を確保するためにヒンドゥークシュ山脈(現在のヌーリスターン州に相当する地域)を根城とする賊徒の討伐を指揮した。氷雪が積もる高山の進軍は困難なものとなり、盗賊団が立て籠もる山城の攻略では配下の将兵の士気が萎縮していた。ティムールは山賊の討伐を諦めず、山城の包囲が無益であると説得した軍師ムハンマド・コアギンの地位を剥奪したことがアラブシャーによって記録されている。奮い立った兵士たちによって山賊は殲滅された後、ティムールは遭遇する敵対勢力を撃破しながらカーブルに移動した。インド行軍中にアフガニスタン各地の反乱勢力が討伐されたことは治安の回復と交通路の確保につながり、ティムール朝のアフガニスタン方面の支配が強化された。 一方、ピール・ムハンマドはムルターンを制圧した後に洪水で軍馬を失っており、インドの領主たちから包囲を受けていた。ティムールはピール・ムハンマドと合流し、10月に彼の部隊を本隊に組み入れてあらためてデリーに進軍した。 12月13日、デリーから出撃した軍隊との会戦の前に捕虜の反抗を危惧したティムールは100,000人に及ぶヒンドゥー教徒の捕虜を処刑した。12月17日(あるいは18日)にティムール軍はトゥグルク朝のスルターン・マフムードが指揮する軍隊と交戦する。戦闘に際してティムールは敵側の戦象に対して入念な方策を巡らせていた。騎兵の活躍によって戦象は壊滅し、トゥグルク軍は敗走した。 デリーに入城したティムールは12月20日に占有を宣言し、戦勝を祝う祝宴を開いた。デリー入城後、ティムール軍の兵士は城内で破壊と略奪を行い、さらに抵抗する住民を殺害した。ティムールはデリー滞在中に120,000頭に及ぶ戦象と儀礼用の象の行進を見て楽しみ、それらの象をサマルカンド、ヘラート、タブリーズなどの帝国領の都市に持ち帰った。 翌1399年1月にティムールはデリーを出発して帰国、かつてチャガタイ・ハン国のタルマシリンが陥落させることができなかったメーラトを攻略した。ティムールは非イスラム教徒を弾圧しながら北上し、1399年3月末にマー・ワラー・アンナフルに帰還した。 このインド遠征においては、異教徒との戦いが大義名分とされ、ティムール朝の歴史家サラーフッディーン・アリー・ヤズディー(英語版)はインド遠征には宗教的な道義があったと述べた。しかし、バルトリドなどの後世の研究者の多くはインド遠征に宗教的な理由があったことに否定的な見解を示している。このインド遠征の背景にはインドの都市が有する財貨があると考えられており、ティムールは遠征によって約100,000人の兵士の給料に匹敵するほどの財宝を獲得したと言われている。研究者の中には、インド遠征に政治的必要性は無いとの指摘もある。 ===七年戦役=== 1399年にバルクークが没すると、それを知ったティムールは再び西方に軍を進める。また、インド遠征の前にアゼルバイジャンに派遣していた王子ミーラーン・シャーから老齢を理由として退位を勧める書簡がティムールの元に送られていた。インド遠征中(あるいは終了直後)にミーラーン・シャーは自身が後継者に指名されていないことを不服として、任地のアゼルバイジャンで反乱を起こす。インドから帰還して間も無く、「七年戦役」と呼ばれる戦役が始まった。 ミーラーン・シャーの反乱に対しては、ティムール自らが鎮圧の指揮を執った。さらに、敵対する動きを見せたグルジアに対して報復の攻撃が行われた。インドから帰還してすぐのエジプトへの進攻に、配下の将軍たちは疲労を訴え出て休養を懇願したが、ティムールは敵が団結する前に機先を制するべきだと遠征に打って出た。ティムール軍はアンティオキアを経由してシリアに進み、ティムール軍を目撃したマムルーク軍の斥候は「悪魔」が襲来したと報告した。オスマン帝国のスルターン・バヤズィト1世はティムールとの戦闘に積極的な姿勢を示していたが、当時マムルーク朝とオスマン帝国はマラティヤの領有を巡って対立していたため、マムルーク朝はオスマンの力を借りずに単独でのティムール軍を迎撃した。 進軍の速度を速めるためにティムール軍の進路にある都市には降伏を促す使者が送られ、ホムスなどの都市が無血開城をした。同年11月1日、ティムール軍は抵抗の意思を示したアレッポを開戦からわずか4日で攻略した。アレッポ攻略後にダマスカスに進軍を続け、マムルーク軍の士気を低下させるために流言を撒いた。マムルーク朝のスルターン・ファラジュは降伏を拒絶し、ティムールの元に刺客を放つが、暗殺は未遂に終わった。12月から翌1401年1月にかけて野戦が行われるが、ティムール軍とマムルーク軍は双方とも損害を受け、ティムールはファラジュに和平を提案した。 ファラジュの軍がエジプトで起きた反乱を鎮圧するためにダマスカスから脱出すると、ティムールは一計を案じて市民に和平を提案し、ダマスカスの守将の反対が押し切られて使節団が派遣された。この時派遣された使節団には歴史家イブン・ハルドゥーンが加わっており、ティムールはハルドゥーンを30日以上陣営に留め置いた。ティムールの要求によってダマスカスの城門が明けられると兵士が城内に流れ込んで略奪を行い、ティムールは太守の邸宅と内城を占領する。3月17日にダマスカスで大規模な破壊が行われた後、3月19日に熱病から回復したティムールはダマスカスから退去した。破壊されたダマスカスは飢饉と疫病に襲われ、ティムールの名前は市民に忌み嫌われた。 ダマスカス退却後、ティムール朝とマムルーク朝との間に休戦協定が締結される。ダマスカスを発ったティムールは、アフマドによって奪還されたバグダードに進軍した。この時アフマドはバグダードにおらず、バグダードの守将が降伏を拒否したために包囲が布かれた。同年6月にバグダードを再占領すると大規模な虐殺が行われ、死者の首を積んだ120の塔ができたという。 ===オスマン帝国との対決=== エジプト遠征の開始前に遡る1399年にスィヴァスがオスマン帝国の皇子スレイマンに占領され、ティムールに従属していた黒羊朝がオスマンの攻撃を受けていた。この時にティムールはオスマン帝国のスルターン・バヤズィト1世に捕虜の返還を要求したが、バヤズィトは侮蔑の意をもって返答した。 ティムールがダマスカスに滞在している間、アフマドと黒羊朝のカラ・ユースフ(英語版)がバヤズィト1世に働きかけ、ティムール朝の影響下に置かれていたアナトリアの都市エルズィンジャンがオスマンの支配下に入る。また、オスマン帝国によって滅ぼされたベイリクの君主たちの多くがティムールに助けを求めていた。 1402年にティムールはグルジア南部に進み(ティムールのグルジア侵攻(英語版))、バヤズィトに降伏を迫った。ティムールはオスマン帝国との戦いに先立ってイスラム教徒の支持を取り付けるためにバヤズィトを誹謗する流言を流し、その上でエルズルムを攻略した。バヤズィトの元から降伏を拒む書簡が届けられるとティムールは使者を追い返し、アンカラに向かった。1402年7月20日のアンカラの戦いでティムールは勝利、ティムール軍はバヤズィトと彼の皇子ムーサーを捕虜とした。捕虜となったバヤズィトがティムールの元に連行された時、ティムールは王子シャー・ルフとチェスを指していたと伝えられている。この時にアンカラに滞在していたカスティーリャ王国の使者はティムールの勝利を祝福し、ティムールは帰国する使者に書簡と進物を携えた返礼の使者を随伴させた。また、ヨーロッパのキリスト教国のほかに、マムルーク朝からも勝利を祝福する使者が送られた。 ティムールが捕虜としたバヤズィトを檻の中に閉じ込めて侮辱した伝説は有名であるが、これはアラブシャーの記録から生じた誤解であり、実際にはティムールは捕虜としたバヤズィトを丁重に扱った。1403年3月8日(もしくは9日)、バヤズィトは拘留中に没する。バヤズィトが没した時、ティムールは彼の死を悲しんで涙を流したという。 ティムールにアナトリアを直接統治する意思は無く、滅亡したベイリクの多くに旧領を返還して復興させた。オスマン帝国の主要都市ブルサには孫のムハンマド・スルタンを派遣し、ブルサに残されていた多くの財宝と聖遺物を獲得した。12月2日に聖ヨハネ騎士団が領有していたスミルナ(現在のイズミル)を占領、これをもって七年戦役は終結した。この聖ヨハネ騎士団領への攻撃にもかかわらず、カスティーリャ王エンリケ3世、イングランド王ヘンリー4世、フランス王シャルル6世、東ローマ帝国皇帝マヌエル2世らはティムールに親書を送った。 1403年3月、ティムールが後継者と考えていたムハンマド・スルタンが夭折する。孫の死を知ったティムールは嘆きの声を上げた。祈祷を終えた後に遠征が再開されたが、有能な後継者の死はティムールの精神状態に大きな影響を与えたと言われている。同年にコーカサスのカラ・バーグで一族に帝国の領土を分配した。 1404年8月にサマルカンドに帰国。留守中にサマルカンドで不正を行っていた役人と商人を処罰し、政務の合間を縫って建築事業を執り行った。同年夏、カスティーリャ王エンリケ3世からの返礼の使節としてルイ・ゴンサレス・デ・クラヴィホらがサマルカンドの宮廷を訪れた。クラヴィホが面会した当時のティムールは視力が落ちており、目の上に瞼が垂れ下がりほとんど目を開けられなかったという。また、この時に明朝(あるいは北元)の使節がクラヴィホ一行に同席していたが、ティムールと廷臣は明の使節を侮辱し、彼らへの貢納を拒否した。 ===最期=== 帰国後、ティムールは明朝が治める中国への遠征計画を再開する。中国遠征の準備は西アジアでの征服事業が一段落した1397年末より進められており、この遠征は異教徒に対する「聖戦」と位置付けられた。ティムールの東方遠征の真意については、単に戦利品が目的、中国ではなくモンゴル高原が遠征の目的地だった、当時ティムールの元に亡命していた北元の皇子オルジェイ・テムルを北元のハーン位に就けて全モンゴルへの影響力を有する意図があったと諸説ある。 遠征を前にしてティムールは国内の有力者とサマルカンドの全住民を招待しての大規模な孫の結婚式を開き、同時に罪人たちに刑を下した。式が終了する前になり、全ての貴族の前で亡くなったムハンマド・スルタンの弟であるピール・ムハンマドを後継者とすることを宣言した。 1404年11月27日にティムールはサマルカンドを出発して東方遠征に向かう。進軍中にティムールは和解を求めるトクタミシュの使者と遭遇し、寛大な態度でトクタミシュに援助を約束した。この年は気候が悪く、1月にサマルカンドから400km離れたオトラルにようやく到達することができたものの、ティムールは病に罹っていた。配下から寒さで士気の下がった兵士のために宴会を開くことが提案され、3日におよぶ宴会が催された。ティムールは病身にもかかわらず酒を飲み続けたがついに倒れ、死期が近づいていることを悟る。 病床の周りに集まった王子と貴族に、孫のピール・ムハンマドを後継者とすることを告げ、彼らに遺言を守ることを誓わせた。1405年2月18日にティムールはオトラルで病没した。亡くなる直前、「神のほかに神は無し」と言い残した。 香水と香料がかけられたティムールの遺体は装飾された担架に乗せられ、密かにサマルカンドに搬送された。しかし、ティムールの死を知った王族たちは、ピール・ムハンマドを後継者とする遺言に背いて王位を主張する。病没してから5日後、ティムールの遺体はサマルカンドのグーリ・アミール廟に安置された。 3月18日にサマルカンドを占拠したハリール・スルタンによってあらためて正式な葬儀が行われ、全てのサマルカンド市民が黒い喪服を着用した。葬儀のとき、ティムールが生前に愛用していた太鼓が廟に運び込まれ、他の人間が使用できないように引き裂かれた。 ==人物像== ===身体的特徴=== ティムールを描いたと伝えられる肖像画の中で信頼性の高いものは無く、容貌を詳しく記した文章も少ない。 晩年のティムールと対面した人物の一人であるアラブシャーはティムールの容貌について、「背が高く肩幅が広い。大きな頭と濃い眉、あごひげを生やしていた。長い手足を持っていたが、右脚は不自由だった。目は蝋燭のようではあるが、光は無かった」と描写した。身長はおよそ170cmと、14世紀当時の人間の中では長身に分類される。 ティムールは右脚が不自由であると伝えられており、「跛者のティムール」「びっこのティムール」を意味する「タメルラング」「ティムーリ・ラング」の呼び名でも知られている。クラヴィホの報告、アラブシャーの伝記、ロシアで編纂された年代記は強盗団時代に襲撃に失敗して負傷し、その後遺症で脚に障害が残ったと述べている。また、別の伝承では1363年に起きた戦闘での負傷が元で脚に障害を負ったと伝えられている。1390年末、ティムールは矢傷が原因で起きた骨と関節の病に罹り、40日間病床に伏した。右脚が不自由になった後もティムールは依然馬を自在に乗りこなしたが、年を経るごとに症状は徐々に重くなっていき、晩年には従者の手を借りなければ乗馬が困難な状態になった。 1941年5月から6月にかけてソビエト連邦の調査隊がサマルカンドのグーリ・アミール廟の調査を行い、ミハイル・ゲラシモフによって廟に安置されていたティムールの遺体も調べられた。この時の調査によって、ティムールは赤色の髭を生やしていたこと、手・肘・膝の3か所に矢傷を負っていたことが判明した。また、調査隊はティムールの顔をモンゴロイドをベースにしてコーカソイドの特徴がいくらか加わった容姿と分析した。 ===性格=== 冗談や嘘を好まない性格であり、読み上げさせた文をすべて暗記するほどの優れた記憶力を有していた。ティムールは音楽を好み、アラブから中国に至る東西の楽士で混成された楽団が奏でる歌曲に耳を傾けた。また、騾馬の蒐集に関心を持ち、数字の「9」にこだわりを持っていた。 ティムールは読み書きこそできなかったが、彼と対面した人間は概して教養人という印象を抱いた。国家が拡大するにつれて、ティムールは歴史に強い興味を抱くようになる。遠征の途中などで時間が空いたときには従者に書物を読み上げさせ、特に歴史書を好んだという。歴史以外にも医学、天文学、数学の価値を評価し、建築に関心を示した。ティムールは学者のほかに、芸術家や職人に対しても尊敬の念を抱いていた。 ティムールが面会した学者の一人に、イスラム世界を代表する歴史家イブン・ハルドゥーンが知られている。1401年にダマスカスを攻略した時にティムールはハルドゥーンの所在をマムルーク朝の使者に尋ね、彼が面会を望んでいることを知ったハルドゥーンはティムールの元に赴いた。2人は通訳を介して対話し、ハルドゥーンの故郷であるマグリブの事情について強い興味を持つティムールのためにハルドゥーンは地理書『マグリブ事情』を献呈した。そして、アラビア語で書かれた『マグリブ事情』は、後世に優れた史書を残そうというティムールの思惑により、彼の書記によってテュルク語に翻訳された。ハルドゥーンは35日間ティムールの陣営に滞在し、歓待を受け、ティムールと言葉を交わした。エジプト帰国後にハルドゥーンはモロッコのマリーン朝のスルターンに宛てた報告書の中で、ティムールの知性と探究心を讃える文を書いた。 ===ティムールとチェス=== ティムールの趣味の一つにチェスがあり、暇を見てはチェスを楽しんでいた。その腕前は相当なものであり、名人とも対局した。夜中に一人で巨大なチェス盤に向き合って物思いに耽り、複雑な戦略を巡らせながら駒を動かしていたエピソードが知られている。このため、ティムールはチェスから戦術の着想を得たという見方も存在する。 また、ティムールがチェスを打っている時に子供が生まれ、ちょうどその時手に持っていた王城(ルーク)の駒にちなんで、子に「ルフ(Rukh)」の名前を付けた伝承が存在する。15世紀のティムール朝の歴史家であるハーフィズ・アブルーは、ティムールのチェスの相手を務めていたことでも知られている。 ==イスラームの信仰== イスラム教を信仰するとともにモンゴルの伝統にも従ったティムールは、酒をこよなく愛し、伝統的なモンゴルのシャーマニズムを信仰する人間に改宗を強制しなかった。ティムールは同朋であるイスラム教徒を殺害し、時には奴隷とした。さらにモスクを汚し、イマームを殺害するなど、敬虔なイスラム教徒とは言い難い行動が多く見られた。ヤズディー、ハーフィズ・アブルー、アラブシャーらティムールと同時代の歴史家は、彼が絵画に興味を持っていたことを記録している。ティムールはマニ教の教祖マニが描いたという絵画を飾り、ペルシアやバグダードの画家に宮殿を飾る壁画を描かせた。 ティムールは信心深いムスリムとは言い難かったが、一定の信仰心も持ち合わせており、スーフィズムに強い関心を抱いていた。スーフィズムだけでなく正統派のイスラームにも敬意を表し、ティムールはウラマーと積極的に交流を持ち、イスラーム学者の著述活動に保護を与えた。一方でニーマトゥッラー教団の創始者ニーマトゥッラー・ワリーの活動を危険視してマー・ワラー・アンナフルから追放し、各地を移動するスーフィズムの修行者を間諜として利用していた。 ティムールは父のタラガイが師事していたスーフィー・シャムスッディーン・クラールを尊敬し、自身の軍事的成功はクラールの祈りによってもたらされたと述懐した。バルフ包囲の際にティムールの陣営を訪れたスーフィー・サイイド・バラカはティムールの成功を予言し、ティムールは彼を師父とした。バラカは宗教面だけでなく政治においてもティムールに助言を与え、1404年に没した。ティムールは自分が死んだ後はバラカの足元に葬って欲しいと考えており、ティムールが亡くなった後にバラカの遺体はグーリ・アミール廟に運び込まれてティムールの近くに安置された。1373/74年、ティムールは故郷のキシュに建立されていたクラールの廟の隣に新たな廟を建て、ここに父タラガイの遺体を安置する。1397年にはヤシにあるスーフィー・アフマド・ヤサヴィーの墓を巡礼した。この時にヤサヴィーの廟に用地をワクフとして寄進し、霊廟の増築を命令した。 ある年代記には、ティムールがキリスト教寺院の神性とキリスト教徒の信仰心に理解を示した伝承が記されている。三年戦役でのアルメニア攻略の際、ティムールは虐殺を逃れて洞窟内の修道院に隠れたキリスト教徒の集団に遭遇し、彼らに命を助けるかわりに修道院が保管している古い写本を提出するように要求した。キリスト教徒は命よりも大事な写本の提供を拒み、彼らの信仰心に心を打たれたティムールは命を助けたという。 ==征服地での残虐行為== 遠征の時、ティムールは抵抗する敵を追い詰めるためにしばしば焦土作戦を用いた。戦闘の前に都市へ降伏を進める使者を送ったが、交渉が決裂すると都市は虐殺と破壊の対象とされた。軍隊の突入の前に警告が発せられ、その後に残った住民と守備兵の虐殺、拉致、略奪、城壁の破壊が行われた。1383年のスィースタン遠征においてティムールは灌漑施設を破壊し、ティムールの破壊行為は長期にわたってスィースタンの発展を遅らせた原因として見なされている。 征服地から得られる利益を確保するため、原則的にティムール軍は兵士に征服地での略奪、強姦を禁じていた。しかし、征服地で反抗の兆候が見られると、ティムールは恐怖を植え付けるために大量虐殺を行い、住民を服従させた。ヘラート、イスファハーンで行われた「見せしめ」のための虐殺、デリーでは自軍の安全を保障するための虐殺が行われた。非イスラム教徒に対しては虐殺そのものを楽しんでいた傾向もあった。 大人だけでなく、子供もティムールの大量殺戮の対象に含まれた。1400年にスィヴァスを攻撃した際に、スィヴァスの住民は子供たちの合唱団を市外に送り出し、歌声で同情を引こうとした。しかし、ティムールは子供たちを殺害した。ダマスカス占領の際には約10,000人の幼児を捕虜とし、退去の時に幼児たちの親は我が子の釈放を求めたが、ティムールの命令によって幼児たちは全て軍馬に轢き殺された。部下の一人はティムールの行為を諌めたが、ティムールは「彼らに対する慈悲の思いが湧かなかった」と答え、意に介さなかったという。 サイイド(預言者ムハンマドの子孫)、ウラマー(法学者)、カーディー(裁判官)といったイスラームの知識人は、虐殺の対象から外され、イブン・ハルドゥーンのように厚遇を受けた者もいた。また、交易の振興のため、商人を中心とする都市の貴族層と従者も助命された。 ==サマルカンドの開発== ティムールは都に定めたサマルカンドに強い愛着を抱いており、多くの施設を建設した。モスク、マドラサ、武器工房が建設され、灌漑水路も整備された。大規模な工事現場にはティムール自身も視察に現れ、建築家や商人を叱咤激励した。ティムール統治中のサマルカンドにおける代表的な建築物として、グーリ・アミール廟、ビービー・ハーヌム・モスクが挙げられる。また、サマルカンド近郊にはソルターニーイェ、シーラーズ、バグダードなどの西方の都市の名前を冠した村が建設された。村の中にはミスル(カイロ)、ダマスカス、バグダードといったかつて存在したイスラム国家の首都の名前を持つものもあり、命名の裏にはそれらの古都でさえもサマルカンドの威光には及ばないことを示す意図があったと思われる。 さらにティムールは交易を奨励するためにバザールと隊商宿(キャラバンサライ)の建設、道路の修繕を行い、サマルカンドは東西交易の一大中継地点へと発展した。 サマルカンド、ひいてはマー・ワラー・アンナフル全体の発展のため、ティムールは経済力の高い都市へと遠征した。征服地からは財産と物資がかき集められ、都市に居住していた学者、芸術家、職工がサマルカンドに連行された。サマルカンドに連行された人々は住まいを与えられ、活動に必要な資金が貸し付けられた。イラン、シリア、中国から呼び寄せた職人も加わってサマルカンドの手工業は発達するが、人材の流出を防ぐために職人の中央アジア外への移動は厳しく制限されていた。 また、サマルカンドが発展した一方で、ティムールによって多くの人材が連行されたダマスカスでは数世紀にわたって技術と文化の発展が停滞した。 ==伝記史料== ティムールの存命中、彼の伝記を編纂する計画が一度持ち上がったが、その大仰かつ過剰な記述と表現を嫌ったティムールによって却下された。 1424年頃にヤズド出身のサラーフッディーン・アリー・ヤズディー(英語版)が著したペルシア語の年代記『勝利の書(ザファル・ナーマ(英語版))』は、ティムールと孫のハリール・スルタンの事績を記している。ティムールの事績が誇張されている箇所も存在するが、宮廷資料を使って具体的な事実を記録している点で他の伝記より優れていると考えられている。16世紀初頭にシャイバーニー朝の君主クチュクンジ・ハーン(ロシア語版、カタルーニャ語版)(在位:1510年 ‐ 1531年)の命令によって『ザファル・ナーマ』はチャガタイ語に訳され、さらに諸言語に訳された。 また、15世紀初頭にはヤズディーの『勝利の書』と同名の年代記がニザーム・アッディーン・シャーミー(英語版)によって編纂されている。シャーミーの『勝利の書』は1402年から1404年の間にティムールの命令によって編纂が開始された史書であり、ティムールの考えが反映されている信頼性を評価されている。しかし、以前に別の伝記が大言壮語を含む記述によって却下された経緯により、記述は簡素で情報量はやや少ないものとなった。 ダマスカス出身のアフマド・イブン・アラブシャー(英語版)は12歳のときにサマルカンドに連行され、ティムールが亡くなるまで2年の間を彼と生活を共にした。アラブシャーは後年ティムールの伝記を記し、その記述は彼の才能を認めながらも、また憎しみも含んでいた。 時代は下り、1627年にムガル帝国のシャー・ジャハーンに、ティムール自身が41歳までの前半生を記した自伝『ティムール法典』(Tuzk‐e‐Taimuri、”Memoirs of Temur”)が献呈された。1610年にオスマン帝国のイエメン総督ジャアファル・パシャの図書館で発見されたもので、アブーターリフ・アル・フサイニーがチャガタイ語からペルシア語に訳した。『ティムール法典』は英語、フランス語、ロシア語など多くの言語に翻訳されたが、チャガタイ語の原本は確認されておらずティムール朝の記録でも自伝の存在は確認できない。実際にティムールが編纂に携わったか否かについては議論が分かれているが、後世に書かれた偽書と仮定しても、ムガル帝国時代の事情が反映されている史書としての価値を評価されている。 ==ヨーロッパ人が見たティムール== ティムールはルネサンスから近代にかけてのヨーロッパ世界に強烈な印象を与えた。15世紀のヨーロッパの人々はティムールの事績に魅了され、また恐れを抱いた。 15世紀のヨーロッパには、ティムールの急速な勢力の拡大と各地での残虐行為に対して不安を抱いた人間と、ティムールをヨーロッパ世界の同盟者として歓迎する人間が混在していた。アンカラの戦いでティムールがバヤズィト1世を破った時、彼がオスマン帝国の手からキリスト教徒を守るために戦ったと思って称賛の言葉を送る者もおり、フランス王シャルル6世やイングランド王ヘンリー4世は彼を同盟者と見なしていた。オスマン帝国の勢力が減衰したためにキリスト教国の商人が中東での商業活動を続けることができ、ティムール軍が商人の帰国を支援したため、シャルル6世とヘンリー4世はよりティムールに信頼感を抱いた。キリスト教徒の中には、ティムールが中東での巡礼の安全を確保するために戦ったと考えた者もいた。 一方で、ティムールをヨーロッパ文明とキリスト教の両方を破壊する蛮族と見る国もあった。ティムールの台頭に対して、カスティーリャ王エンリケ3世のように個人的に使者を送り、情報の収集と同盟の締結を図った君主もいた。また、戦争を回避するためにティムールのキリスト教への改宗が試みられたこともあった。 16世紀末のイギリスの作家クリストファー・マーロウは、1587年にティムールの生涯を題材とした戯曲『タンバレイン大王』を発表した。この戯曲でマーロウは、ティムールを既成の価値観を打破する英雄として描き上げている。16世紀のヨーロッパで書かれた物語性の強い歴史書が戯曲の下敷きとなっているため、タンバレイン大王と史実のティムールの生涯には大きな相違がある。 ==禁断の棺== 1941年にソビエト連邦のミハイル・ゲラシモフらの調査隊によってグーリ・アミール廟のティムールの遺体の調査が行われた。 ティムールの棺には「私が死の眠りから起きた時、世界は恐怖に見舞われるだろう」という言葉が刻まれていたが、棺の蓋は開けられて調査が実施される。さらにゲラシモフは棺の内側に文章を発見し、解読した結果「墓を暴いた者は、私よりも恐ろしい侵略者を解き放つ」という言葉が現れた。調査から2日後、ナチス・ドイツがバルバロッサ作戦を開始し、ソ連に侵入した。1942年11月のスターリングラード攻防戦でのソ連軍の反撃の直前に、ティムールの遺体はイスラム教式の丁重な葬礼で再埋葬された。 ==ウズベキスタン共和国におけるティムールの評価== ロシア革命期にティムールはトルキスタンのナショナリズムを象徴する英雄に祭り上げられたが、スターリン時代にティムールの理想化は禁止され、「抑圧者」「破壊者」としてのイメージが強調される。ティムールとチャガタイ語をシンボルとしてトルキスタンの歴史・文化的一体性を主張した知識人は、「汎トルコ主義者」「民族主義者」の烙印を押されて弾圧された。サマルカンド2500年祭が開かれた1968年、歴史家のイブラヒム・ムミノフは記念事業として『中央アジアの歴史におけるアミール・ティムールの役割と位置』を刊行するが、それまで勤めていた研究職を解任される。その理由として、衆目を集める行事の中で、ウズベク人であるムミノフがウズベク・ナショナリズムの英雄とみなされる要素のある人物を称賛したことが挙げられている。ソ連史学界では、ティムールとティムール朝に対して概して否定的な評価が下されていた。 ウズベキスタン共和国が独立した後、ティムールは民族と国家を象徴する英雄として復権を果たし、1993年に首都タシュケントアミール・ティムール広場のマルクス像に代えてティムール像が設置される。1996年には生誕660周年を記念してユネスコの協賛で大規模な祝典が開かれ、タシュケント、サマルカンド、シャフリサブスで式典が開かれた。同年にアミール・ティムール博物館が開館し、グーリ・アミール廟やビービー・ハーヌムなどのティムールにまつわるサマルカンドの歴史的建造物が修復された。現在、ウズベキスタンで発行されている500スム紙幣の裏面にはティムールの騎馬像が描かれている。また、ティムールはウズベキスタンの伝統的な格闘技であるクラッシュの保護者と見なされている。 しかし、16世紀初頭にティムール朝を滅ぼしたシャイバーニー朝は「ウズベク」を自称する遊牧民族の国家であり、「ウズベク人」の区分と「名称の由来」を直結させると、ティムール朝を滅ぼした集団の名前を冠する民族がティムールを称賛する矛盾が生じている。ティムールを「現在のウズベキスタンで生まれ育ち、サマルカンドを首都として大国を建設した」ウズベク人とみなす観点は、旧ソ連の史観から継続する観点である。 ==家族== ===父母=== 父:アミール・タラガイ母:タキナ・ハトゥン義母:カダク・ハトゥン ‐ 1389年没 ===后妃=== ウルジェイ・タルカン・アーガー ‐ アミール・フサインの妹サライ・ムルク・ハーヌム ‐ アミール・フサインの妻。第一夫人。カザンの娘。トゥルミシュ・アーガー ‐ ガンチ部族の出身。ジャハーンギール、エケ・ベギの母。正室の中で唯一男子をもうけた。ウルス・アーガー ‐ アミール・フサインの妻。スルドゥズ部の指導者バヤンの娘。イスラーム・アーガー ‐ アミール・フサインの妻。ヤサウリー部族の指導者ヒズルの娘。ディルシャード・アーガー ‐ カマルッディーン、もしくはカマルッディーンの兄シャムスッディーンの娘。1375年のモグーリスタン遠征の後に妻に加えられた。トゥメン・アーガー ‐ タイチウト部族の貴族ムーサーの娘でサライ・ムルクの従姉妹にあたる。1378年に結婚。兄弟のムハンマド・ベグはティムールの娘エケ・ベギを妻に迎えた。テュケル(トゥカル)・ハーヌム ‐ ヒズル・ホージャの娘。第二夫人。トゥグデイ・ベグ ‐ スーフィー朝の君主アク・スーフィーの娘。ジョチ・ウルスのウズベク・ハンの子孫。ダウラト・タルカン・アーガーブルタン・アーガースルターン・アーガー ‐ ドゥグラト部の貴族バラート・ホージャの娘ジャニベグ・アーガームンドゥズ・アーガーチュルパン・マリク・アーガーバフト・スルターン・アーガースルターン・アラ・アーガーヌクズヌールーズ・アーガータガイ(タギ)・テルケン・アーガー・カラキタイ ‐ アミール・フサインの妻。カラキタイ部族出身。シャー・ルフの生母。他にティムールの元には26人の側室がいた。 ===王子=== ジャハーンギールウマル・シャイフミーラーン・シャーシャー・ルフ ===王女=== エケ・ベギ(タガイシャー) ‐ トゥルミシュの娘。チンギス家の血を引くタイチウト部族の貴族ムハンマド・ベグと結婚。スルタン・バフト・アーガー ‐ ウルジェイの娘。バルラス部の貴族ムハンマド・ミールケの妻サアダト・スルタンクトルグ・スルタン・アーガー =ケプラー16b= ケプラー16b (Kepler‐16b) は、恒星同士の連星ケプラー16の重心を中心に公転する太陽系外惑星である。初めて発見された、恒星同士の連星を公転する惑星である。 ==軌道== ケプラー16bは、K型主系列星であるケプラー16Aと、M型主系列星であるケプラー16Bの連星の重心を中心として公転する周連星惑星である。周連星惑星の最初の例は、中性子星のPSR B1620‐26と白色矮星のWD B1620‐2の連星系を中心として公転する太陽系外惑星「PSR B1620‐26 b」が1993年に発見されているが、恒星同士の連星を中心として公転する明確な例はケプラー16bが最初である。 ケプラー16bは、ケプラー16系の重心から約1億500万km (0.71AU) 離れたところを約229日周期で公転しており、2012年頃は、ケプラー16Aの手前を7.2時間、ケプラー16Bを6.0時間かけて通過する。周連星惑星が恒星の手前を横切る様子が観測されたのも初である。ケプラー16の恒星同士も互いの手前を通過するアルゴル型食変光星であり、元々食変光星として観測されていた。ケプラー16bはケプラー16の恒星同士が食を起こしていない時にも、更に2度光度が変化する現象の説明として、第3の天体の食による光度変化として観測された。 ケプラー16bは、連星系の惑星生成の限界であると考えられていた半径の内側を公転している点でも珍しい。マサチューセッツ工科大学のサラ・シーガーによると、接近した連星の惑星の軌道が安定するには、連星同士の軌道長半径の少なくとも7倍の距離が必要という。しかし、ケプラー16bの軌道長半径は、ケプラー16Aとケプラー16Bの軌道長半径の3.41倍しか離れていない。なお、この値は見つかっている周連星惑星の中で最小の値である。 ケプラー16bがケプラー16Aとケプラー16Bの両方を通過するのは2014年までであり、2014年以降はAとBのどちらか片方しか通過しなくなる。そして2018年から2042年まではどちらの恒星の手前も通過しなくなり、トランジット法では検出されなくなる。 ==物理的性質== ケプラー16bは、質量が木星の0.333倍、半径が0.7538倍と推定されている。およそ土星サイズの天体であるが、ほとんどがガスで構成されている土星や木星とは異なり、半分がガス、半分が岩石で構成されていると考えられている。 ケプラー16の光度変化と連星系の軌道を厳密に測定することによって、ケプラー16系の恒星と惑星の半径と質量は極めて高い精度で測定することが可能である。発見チームのリーダーであるSETI協会のローランス・ドイルは「私は、この太陽系外惑星の測定は最高のものであると考えています。」と話す。例えば、惑星の半径は0.3%以下の精度で求まっているが、これは2012年4月現在、どの惑星よりも厳密な精度である。 ==ハビタブルゾーン== ケプラー16bの表面温度は‐100℃から‐70℃であると推定されている。ケプラー16のハビタブルゾーンは、明るい恒星であるケプラー16Aの光度から、5500万kmから1億600万kmであると推定されており、ケプラー16bの軌道長半径の値1億500万kmは、ハビタブルゾーンの外側の縁に相当する。ケプラー16bはガス惑星なので、地球で考えられるような生命は存在しにくいと考えられるが、仮に地球サイズの衛星が存在すれば、十分な大気を持つことによって生命が発生することが可能であるという。テキサス大学アーリントン校のビリー・クォールズらのコンピューター・シミュレーションの結果では、ケプラー16の誕生後、ケプラー16Aのハビタブルゾーンに存在した地球型惑星が、他天体の重力の影響で軌道から外側に放り出され、移動の途中でケプラー16bに捕獲され、衛星になりうるという。衛星が地球質量の5分の1より重ければ、衛星の公転によるケプラー16bの軌道の微妙なふらつきを検出できるという。 連星系において生命の可能性を議論できることは重要である。なぜならば、宇宙には単独星は少なく、かなりの恒星が二重以上の連星であるからである。かつては、連星系において惑星は安定して存在することがなく、したがって生命が存在する可能性も低いと考えられてきたが、ケプラー16bの発見は、科学者が何十年も発見することのできなかった、連星系の惑星に生命の可能性を示唆する重要な「マイルストーン」である。 ==フィクションとの関連== ケプラー16bの表面からケプラー16を見れば、地球と違い、「太陽」が2つあることになる。これは映画『スター・ウォーズ・シリーズ』に登場する架空の惑星「タトゥイーン」に似ている。惑星が発見された時の報道発表も、例えとして「タトゥイーン」の名称を用いており、発見したSETI協会は非公式に「タトゥイーン (Tatooine)」という名称を用いている。この研究成果に対して、スター・ウォーズ・シリーズの製作会社ルーカスフィルムのVFXスーパーバイザー、ジョン・ノールは、「科学的発見は時として想像を超えるものです。こうした発見が、これから様々な作品にインスピレーションを与え、想像以上の世界に思いをいたす可能性を広げてくれます。」と称賛を述べている。 ただし、タトゥイーンが地球よりやや小さい、明確な表面を持った荒涼とした砂漠の岩石惑星であるという設定に対し、ケプラー16bは冷たい土星サイズのガス惑星であるため、映画のように農民が農業をしている可能性はない。ただし、先述した地球サイズの衛星が存在すれば、居住可能性は出てくる。また、映画とは異なり、太陽の位置関係は時間によって変化する。 ==発見== ケプラー16bはケプラー宇宙望遠鏡が観測した15万以上もの恒星のトランジットのデータから発見された。ケプラー宇宙望遠鏡は、ハビタブルゾーンに存在する惑星、もしくは地球サイズの惑星を見つけることのできる、NASAにおける最初のミッションである。 ==名前== この惑星の名前は、ケプラー宇宙望遠鏡が発見した惑星系のうち、16番目に登録されたことに因むが、単に「ケプラー16b」とすると、ケプラー16系の恒星「ケプラー16B」との区別が曖昧になることがある。また、連星の片方のみを公転する太陽系外惑星は多数あるが、これらは特に恒星のAやBに従って名称を付けることがあまりないため、この惑星が連星系を中心として公転していることが分かりにくい。そのため、通常は「ケプラー16(AB)b」とし、ケプラー16Bとの曖昧さが存在しない場合は「ケプラー16b」と記す場合が多い。 ==関連項目== ケプラー16周連星惑星 PSR B1620‐26 b ‐ 初の周連星惑星。中性子星と白色矮星の連星系。 へび座NN星b ‐ へび座NN星(英語版)を公転する。恒星を含む連星系を公転する初の周連星惑星。 ロス458c ‐ ロス458(英語版)を公転する。初の恒星同士の連星系を公転する周連星惑星である可能性がある。 BD +20°307 ‐ 間接的にであるが、かつて周連星惑星があった証拠がある恒星同士の連星。PSR B1620‐26 b ‐ 初の周連星惑星。中性子星と白色矮星の連星系。へび座NN星b ‐ へび座NN星(英語版)を公転する。恒星を含む連星系を公転する初の周連星惑星。ロス458c ‐ ロス458(英語版)を公転する。初の恒星同士の連星系を公転する周連星惑星である可能性がある。BD +20°307 ‐ 間接的にであるが、かつて周連星惑星があった証拠がある恒星同士の連星。極端な太陽系外惑星の一覧タトゥイーン =鳥取しゃんしゃん祭= 鳥取しゃんしゃん祭(とっとりしゃんしゃんまつり)は、毎年8月中旬に鳥取市で開催される夏祭りである。 見物客の人出は20万人以上に達し、鳥取市最大の祭りになっている。「一斉踊り」の参加者は100連・4000人あまりに及び、2014年に「世界最大の傘踊り」としてギネス世界記録に認定された。 1961年(昭和36年)に始まった地元の神社の例祭の行列に、1965年(昭和40年)から鳥取市に伝わる伝統的な「因幡の傘踊り」を組み合わせて始まったもので、祭りの中心となる「一斉踊り」では、数千人の踊り手が傘を持って市内中心部を舞い歩く。傘に取り付けられた鈴が「しゃんしゃん」と鳴ることや鳥取駅前の鳥取温泉の湯が「しゃんしゃん」と湧くことからその名がある。 ==歴史== 1961年(昭和36年)の聖神社、大森神社の例祭にあわせて、経済活性化を目指して「鳥取祭」というイベントが始まった。鳥取祭の目玉は神輿行列で、これに仮装行列が加わった。1961年の第1回から1964年の第4回鳥取祭まで、当時の市長も七福神、大国主、花咲か爺などの仮装で参加している。しかし「鳥取祭」の中心は氏子のパレードになっていて、祭りに加わることができる市民が限られているため活気がなかった。 1964年(昭和39年)は鳥取市役所の新庁舎が完成し、これに合わせて新しい「きなんせ節」の踊りが策定された。これは鳥取県の代表的で伝統的な雨乞い踊りだった「因幡の傘踊り」をもとに、多くの人が容易に参加できるように振り付けを簡単にしたもので、翌1965年(昭和40年)の祭りから採用されることになった。 イベント名も公募され、「しゃんしゃん祭」となった。これは鳥取市中心部の鳥取温泉の湯が「しゃんしゃんと湧く」、また傘に取り付けられた30個の鈴が「しゃんしゃんと鳴る」に由来するネーミングである。翌年の第1回しゃんしゃん祭りの日取りは慎重に選ばれた。傘は和紙でできているので、雨に濡れた傘を振り回して破れてしまっては興冷めである。そのため過去の気象統計に基づいて最も雨の少ない日が踊りの開催日に決められた。 ===祭りの拡大と渋滞問題=== こうして1965(昭和40)年にしゃんしゃん祭が始まった。この第1回しゃんしゃん祭では1000人が踊り子として参加した。参加者は順調に増え、1967(昭和42)年の第3回では2000人、1969(昭和44)年の第5回では3000人が踊り、見物客は10万人に達した。さらに1972(昭和47)年にはついに踊り子が4000人を突破した。 この間、1970(昭和45)年には三波春夫による「鳥取しゃんしゃん傘踊り」が新曲として導入された。ところが新曲の導入と踊り子の増加によって「渋滞」問題が顕在化してきた。 踊り子が練り歩くコースは1900メートルの長さの周回路になっている。ルートの若桜街道上に祭の本部が設置されていて、そこで踊り子たちの連に対する審査が行なわれるのだが、参加者が多すぎて踊り子の列が渋滞し、3時間の踊りの時間を費やしても本部前に一度もたどり着かない連が続出するようになった。そうかと思えば、前の連に遅れて離されてしまい、案内役の警備員に急かされて踊りの最中に傘を持って走る「見苦しい」姿も目立つようになった。1980年代になると、周回路を2100メートルに延長したり、1連の踊り子の人数を80人に制限したりといった対策が導入されたが、抜本的な解決には至らなかった。 問題の原因の一つは増えすぎた参加者と踊り傘にあった。傘踊りは長さ1.2mの傘を振り回して踊る。踊り子自身の体や前後の間隔を考えると、踊り子の隊列はどんなに少なく見積もっても1.8メートル間隔になる。80人を5列に並べるとそれだけで道幅は最低でも7.2メートルになり、実際には観客のいる沿道スペースを必要とするので、ルートに使える道路はかなり限られている。1連80名が5列に並ぶと少なくとも長さは30メートル、それに10メートル間隔で装飾車が連毎につく。1連あたり40メートルとして、4000人(50連)が並ぶとそれだけで長さが2キロメートルにもなってしまい、当初の1900メートルのルートでは物理的に長さが不足しているのである。 もう1つの決定的な原因は踊りの振付にあった。当初の想定では、決められた踊りを1曲ぶん踊ると35メートル進むことになっていた。第1回しゃんしゃん祭で使われた「きなんせ節」は1曲3分だったので、3時間の開催時間のあいだ休みなく踊り続けると60曲ぶん踊る計算になり、理論上なんとか2100メートル進む勘定になる。しかし「鳥取しゃんしゃん傘踊り」は4分30秒あって、二曲を交互に踊ると平均4分、一切休憩をはさまず踊っても45曲で1575メートルしか進めない。そのうえ、35メートル進むというのは普段着で踊った場合の測定値で、本番で浴衣を着ると、特に女性の場合には歩幅がずっと小さくなり、1曲で35メートルも進めなかった。 そこで、踊りそのものと踊り歌の2方面から抜本的な解決策が図られることになった。新たに導入されたのが「平成鳥取音頭」と「しゃんしゃんしゃんぐりら」である。この2曲では基本的に自由な振付で踊ることとされ、1曲で進む距離は従来の倍以上になった。この結果、1991(平成3)年には100メートル進むのに平均6分で済むようになった。なお、どちらの曲も従来の伝統的な振り付けで踊ることもできる。一方、こうした理由でかつて踊られた「吉岡小唄」や「白兎小唄」は使われなくなった。 ===しゃんしゃん傘とすずっこ=== かつては様々な和傘が用いられており、それぞれの参加者の地元の傘店がつくる傘が用いられていた。なかでも鳥取県西部が特産の淀江傘は高価だが華やかな番傘として珍重されたという。しかしやがて和傘を製造する業者が減っていき、近年は統一されたものが使われるようになっている。 竹と和紙でつくられた傘には30から100個ほどの鈴と色とりどりの和紙の幣で飾られている。色にはそれぞれ意味があり、一番外側の紅白は「砂丘」、青は「日本海」、銀は「魚」、金は「賑わい」を表し、さらに赤と銀の組み合わせは祭りの華やかさや結束を表している。傘のてっぺんには雨乞いのための白和紙が立体的に取り付けられている。 近年使われている傘は長さ1.2m、傘の直径は0.8mと、伝統的な「因幡の傘踊り」のもの(長さ1.6m)より一回り小さく、扱いやすいものになっている。さらに子供用に、長さの短いものも製作されている。米子や鳥取市内では、竹や因州和紙などを材料に手作業でしゃんしゃん傘を製作している。 「因幡の傘踊り」以来の伝統的な踊りは和傘を用いるが、近年は和傘の入手が難しい上に、新たに始まった創作振り付けの際に動きの制約になってしまう。これらを解消し、祭りの参加者をさらに増やすために2006(平成18)年から新たに加わったのが「すずっこ」(すず心)と呼ばれる楽器である。これは、「鳥取生まれの民族楽器」とされており、幅の広いしゃもじの形をした朱色の板に黄色や青で模様を描き、大中小と3つの穴を穿ち、それぞれ3個、2個、1個の合計6個の鈴を取り付けたものである。動かすとしゃんしゃん傘と同じように鈴が鳴り、掌に握って簡単に扱えるため踊りの自由度が高く、鮮やかなデザインが目を引くものである。しゃんしゃん祭りだけでなく、ガイナーレ鳥取の応援イベントにも採り入れられている。 ===ギネス認定=== 2014(平成26)年は祭りが始まってから第50回となる節目の年であり、これを期して「世界記録」に挑むことになった。傘踊りの世界記録は、全員が同時に傘を使って5分間以上踊ることによって認定されており、従来はルーマニアでの1461人が世界記録だった。 記録挑戦は2014年8月14日に行われた。10名の証人が記録挑戦者を数え、県知事の平井伸治や市長の深澤義彦も含めて「1729名」となった。「5分以上」を達成するために「きなんせ節」を2回続けて踊り、これを36名の監視員が審査した。その結果、踊りが揃っていないといった理由で41名が失格となったものの、1688名による踊りが成立したと認められ、「世界最大のアンブレラダンス」と認定された。 この年は一斉踊りの総参加者は4200名、来場者は推定21万人を記録した。 ===沿革=== 1961年 ‐ 第1回鳥取祭が聖神社・大森神社の例祭と併せて開催される。1964年 ‐ 鳥取市庁舎新築に合わせて「きなんせ節」を振付する新作傘踊りを発表。イベントの名称を「しゃんしゃん祭」に決定する。1965年(第1回) ‐ 第1回しゃんしゃん祭が開催される。1970年(第6回) ‐ 「鳥取しゃんしゃん傘踊り」が踊り歌に追加。1984年 ‐ 100万円をかけて直径・長さとも3.2mとなる「日本一の大傘」を制作し鳥取駅に設置。1989年 ‐ 鳥取市制100周年事業として市内のマンホールの蓋を傘踊りの図案のカラー蓋に変更。1991年 ‐ 男はつらいよシリーズ」第44作『男はつらいよ 寅次郎の告白』のロケが行われる。1996年 ‐ 「鳥取しゃんしゃん傘踊り」を描いた80円切手が発行される。2006年(第42回) ‐ 「すずっこ踊り」が初めて披露される。2010年(第46回) ‐ しゃんしゃんウィークを設定する。2014年(第50回) ‐ ギネスブックにより世界最大の傘踊りとして認定。 ==祭りの運営== しゃんしゃん祭りを主に運営するのは「しゃんしゃん祭振興会」という。これは主に市民のボランティア、各踊り子連の代表者、協力企業等によって構成されている。 ===日程=== しゃんしゃん祭りは8月中旬に行なわれる。祭りの期間中には千代川の河川敷での花火大会、「すずっこ踊り」などが行なわれる。最大の催しは「一斉踊り」で、鳥取市中心街の目抜き通りである若桜街道、智頭街道、片原通りで数千人による傘踊りが行われる。 日程はかつて8月15日・16日の2日間だったが、2007(平成19)年に3日間に拡大、2016(平成28)年にはプレイベントとしてさらに1日が追加され、延べ4日間の日程となっている。 また、同時期には関連イベントとして日本海テレビジョン放送及び山陰放送により芸能人を招いたコンサート、トークショー等が公開生中継で行われており、祭りを盛り上げている。その他にも民間団体によるイベントが数多く行われている。 ===日程例=== ===連=== 踊りを踊る団体は、「連」と呼ばれている。踊りの愛好者が集まって結成した連、企業が企業名を売り込む目的で結成した企業連、学校で結成した学校連、友人同士などで結成した連等、鳥取市内には数多くの連が存在する。また鳥取市外には鳥取市にゆかりのある者等が主体となって結成した連もある。 連の先頭には、連名を書いたプラカード、幟旗、提灯等を持つ者がいる。 1連は、20人以上50人以内と定められている。このため、構成者が51人以上の団体は2つ以上の連に分けて参加し、「○○連A」「○○連B」といったように同一名称を冠した連名で参加しているが、この場合は踊りの配置も必ず連続している。 ==踊り歌== しゃんしゃん祭りが始まった1965(昭和40)年には「きなんせ節」1曲のみだったが、その後しだいに新曲が追加された。2015年時点では「きなんせ節」「鳥取しゃんしゃん傘踊り」「平成鳥取音頭」「しゃん☆しゃん☆しゃんぐりら」の4曲が踊り歌になっている。このほか、すずっこ踊りの楽曲として「よっとっ鳥取」がある。 また、「きなんせ節」「鳥取しゃんしゃん傘踊り」を「基本踊り」として、全連が同じ振付で踊るほか、各連が考案した振付による「創作踊り(自由踊り)」として、「平成鳥取音頭」と「しゃん☆しゃん☆しゃんぐりら」の2曲が取り入れられている。「創作踊り(自由踊り)」を考案できない、または考案しない連は、基本踊りの振付で踊ることが可能なため、祭りに参加するためには基本踊りの2曲の振付を習熟するだけでよい。 ===きなんせ節=== 作詞:松本穣葉子作曲:小畑義之振り付け:中山義夫・高山柳蔵唄:佐藤松弘美「きなんせ節」は1950年代に登場した。作詞者は当時の鳥取市の職員で、貝殻節の作者でもある。もともと1951(昭和26)年に「鳥取新温泉小唄」としてつくらたもので、鳥取駅のホームなどで使用されていた。鳥取駅前に湧いている鳥取温泉を詠んでおり、歌詞の冒頭部「(温泉が)しゃんしゃん湧く」というフレーズが「しゃんしゃん祭り」の命名の由来になった。 サビ部分では鳥取弁で「きなんせ」(来てください)、「踊りゃんせ」と繰り返されるのだが、1955(昭和31)年に、この唄の振り付けを中山義夫を依頼した際に、曲名を「きなんせ節」にしたほうが良いと提案されて、レコード発売時に改題した。 1965(昭和40)年にしゃんしゃん祭りが始まる際に、伝統的な「因幡の傘踊り」を下敷きにした新しい振付が創作され、第1回しゃんしゃん祭りから使用されている踊り歌である。 ===鳥取しゃんしゃん傘踊り=== 作詞:門井八郎作曲:長津義司唄:藤本行年、三波春夫、佐藤松弘美「鳥取しゃんしゃん傘踊り」は1970(昭和45)年の第6回しゃんしゃん祭りから追加された曲である。 ===平成鳥取音頭=== 作詞:星野哲郎作曲:原譲二唄:北島三郎「平成鳥取音頭」は平成に入ってから追加された曲である。この曲は「創作踊り」として自由な振付で踊ることができる。 ===しゃん☆しゃん☆しゃんぐりら=== 作詞:松本正嗣作曲:松本正嗣唄:藤井真由美 with TOMMY「しゃん☆しゃん☆しゃんぐりら」(しゃんしゃんしゃんぐりら)は(平成15)年に登場した。従来使われてきた「きなんせ節」「鳥取しゃんしゃん傘踊り」の2曲は「基本踊り」として所定の振付が決められているのに対し、「平成鳥取音頭」は「創作踊り」として各連ごとに自由な振付が認められていた。さらにそこへ、より若い世代の参加を促進しようと新曲の公募が行われた。全国から30曲が寄せられ、その中からグランプリ作品として選出されたのが「しゃん☆しゃん☆しゃんぐりら」である。登場以来「創作踊り」の曲として使用されている。 原曲は宝塚市の女性による作詞・作曲で、これを鳥取市出身の松本正嗣が編曲し、「アップテンポ」で「活気ある」曲となった。歌詞は全編を通して鳥取弁で書かれている。しゃんしゃん祭りでは例年、歌手の藤井真由美(元REG‐WINK)とTOMMY(BLUFF)が曲を披露している。 ==因幡の傘踊り== しゃんしゃん祭りの踊りの直接のもとになったのは、明治時代に作られた「因幡の傘踊り」という舞踊である。これにはさらにルーツがあり、近世以前から因幡国各地に伝わる雨乞いや傘踊りがその起源とされている。 ===近世の雨乞いの踊り=== ====国府町の手笠踊り==== 鳥取市の南に隣接していた旧国府町には、江戸時代末期から伝わる雨乞い踊りの伝説がある。一説ではこれは袋川右岸の旧国府町(現・鳥取市国府町)美歎地区のことだともされている。 厳しい旱魃の年があり、田も畑もすべての作物が枯れる寸前に追い込まれた。そこで宇倍野村の五郎作という高齢の農民が、毎日炎天下の畦に出て、笠1枚だけを被って雨乞いの祈りを続けた。やがてついに雨が振り、死にかけていた作物が甦り、その年は大豊作になった。しかし五郎作は荒行がたたって死んでしまった。 村人は五郎作を慰霊するため、初盆の夜に五郎作が生前着用していた笠を高々と掲げて練り歩き、供養の踊りを捧げた。これが毎夏行なわれるようになり、夏祭りになった。なおこの時点ではいわゆる手笠を持って踊っていたと考えられている。 ===横枕の傘踊り=== 千代川左岸の鳥取市横枕地区にも似たような伝承がある。1786(天明6)年に何ヶ月も雨のない日が続き、村中の農作物が枯死に瀕した。村人は何日も続けて雨乞い祈願を行い、7日目に仁平という手踊りの巧みな若者が雨乞い踊りをした。この時に雨傘に白幣をつけ、神楽に合わせて面白おかしく踊った。すると雨が降ってきて、その年は豊作に恵まれたという。別の伝えでは、仁平は老人で、国府の伝承と同じように、雨乞いを行って雨を降らせたが疲労によって死んだとされている。この「横枕の傘踊り」は、田植えが終わったあとの旧暦8月1日に神社で奉納されていたものである。 このほか、岩美町には南北朝時代から続くとも伝わる「牧谷はねそ傘踊り」という舞踊がある。これは男は柄の長い傘に鈴をつけたものを持ち、女は編笠を被って踊るもので、仮名手本忠臣蔵などに合わせて演じられていた。(仮名手本忠臣蔵は、赤穂事件を下敷きにしながらも、当時の江戸幕府を憚って舞台を鎌倉時代末期の伯耆国(現・鳥取県)に移し、塩冶高貞にまつわる復讐譚に改変されている。) 因幡地方は旱魃に見舞われることが多く、各地に同様の雨乞いに踊りが伝わっている。これらの古形はいずれも花笠を持って踊る古風で素朴なものだったが、やがて長柄の傘を持って踊るものに変わっていった。 ===明治の傘踊りの考案=== 明治時代後期に、これらの古典的な雨乞い踊りから、新しい「因幡の傘踊り」が作られた。作ったのは旧国府町(当時は国府村)・高岡地区の山本徳二郎(1879年9月13日‐1968年9月1日)という人物である。昭和40年代の鳥取県教育委員会の資料によれば作られたのは1906(明治39)年の日露戦争戦勝時とされているが、山本の地元の山本徳二郎顕彰会では、1895(明治29)年頃には既に考案していたとしている。これによって「笠(手笠)」を持った踊りと、柄のついた長い「傘」を持った踊りが融合されたと考えされている。 山本の住んでいた高岡地区の高岡神社はもともとスサノオを祀っていて、勇壮な剣舞が伝わっていた。山本は、伝統的な雨乞い踊りは若者を惹きつける魅力に欠くと考え、高岡神社に伝わる力強い剣舞と華やかな雨傘を組み合わせ、詩吟に乗せてリズミカルかつきらびやかに、かつ多人数で踊ることができる踊を編み出した。 基本的に因幡の傘踊りは特定の伴奏曲をもたず、唄と囃しだけで踊るように作られている。これはどのような民謡にも合わせて踊ることができるように意図されたものであり、この地方に伝わる因幡大津絵、貝殻節をはじめ、安来節、心中節、などに合わせて演じられた。五穀豊饒や鎮護国家を祈願して、傘の動きは「おどれおどれ、みなおどれ」の文字を宙に描くように、剣を斬りこむように動かすことになっている。この振付を決めるまでの間、山本は一人で傘を乱暴に振り回してはいくつも壊していたため、家族は山本の頭がおかしくなってしまったと案じるほどだったという。 踊り子の衣装は農村の青年のものであり、短衣や手甲、脚絆を身にまとい、腰には手ぬぐいをぶら下げ、白い鉢巻きと襷を掛ける。踊りは2人一組となり、4人、6人、10人と複数であればいくらでも人数を増やして踊ることができる。こうしたスタイルは見るものに勇壮で活発な印象を与えるとともに、手にする雨傘には100個以上の鈴と金銀の飾りがつけられており、豪華なものだった。 この「因幡の傘踊り」は青年層に人気があり、因幡地方のみならず、遠方へ赴いての講習会なども盛んにおこなわれて、鳥取の踊りとして高い知名度を獲得していった。大正時代になると各地から青年が集まって聖神社で大会が開かれるようになっている。1928(昭和3)年頃には、観客は3万人に達したという。 美歎の傘踊り、横枕の傘踊り、明治の傘踊りは1952(昭和27)年に国の無形文化財の指定を受け、1974(昭和49)年にはあらためて鳥取県の無形民俗文化財に指定されている。考案者の山本徳二郎は国府町の「名誉町民」(現在は鳥取市の名誉市民)となった。これらの伝統的なタイプの傘踊りは、いまでは保存会によって受け継がれている。 ===しゃんしゃん祭りへ=== 「因幡の傘踊り」は大きく長い傘を剣に見立てて大きく振り回し、踊り手自身もぐるぐる廻るような、勇壮で華やかなものだった。しかしそれゆえに、この踊りは若い男性でなければ踊ることが不可能なほどハードなものだった。 これを、子どもや女性など、誰でも容易に踊ることができて、老若男女が参加できるように改められたものが現在の「しゃんしゃん踊り」である。当時の鳥取市長の依頼を受けてこの改良を行ったのは、横枕の傘踊り保存会の高山柳蔵という人物だった。 傘も扱いやすくするため、従来の長さ1.6メートル、直径1.1メートルの長傘から、長さ1.2メートル、直径0.8メートルとコンパクトに改良されている。 =古細菌= 古細菌(こさいきん、アーキア、ラテン語:archaea/アルカエア、単数形:archaeum, archaeon)は、生物の主要な系統の一つである。細菌(バクテリア)、真核生物(ユーカリオタ)と共に、全生物界を3分している。古細菌は形態や名称こそ細菌と類似するが、細菌とは異なる系統に属しており、その生態機構や遺伝子も全く異なる。非常に多様な生物を含むが、その代表例として高度好塩菌、メタン菌、好熱菌などが良く知られている。 これまでに様々な名称が提案されてきたが、現在日本語では「古細菌」または「アーキア」が使用されることが多い。「始原菌」(しげんきん)も使われる。中国語では、「古菌」、「古細菌」または「古生菌」が使用される。 古細菌を特徴づけるものは幾つかあるが、最も確実なものはリボソームRNA配列と細胞膜脂質である。特に細胞膜脂質は、真核生物・細菌がsn‐グリセロール3‐リン酸の脂肪酸エステルを使用している傾向があるのに対し、古細菌はsn‐グリセロール1‐リン酸のイソプレノイドエーテルより構成される細胞膜を持つ傾向がある。 ==概要== ===ドメイン=== 生物学では、生物を互いに近縁な物同士グループ分けしている。例えば、イヌであればオオカミという種に属し、オオカミという種はイヌ属に、イヌ属はイヌ科、イヌ科はネコ目にといった風な具合である。下から種、属、科、目、綱、門、界、ドメインなどが設定されており、上位の階級になるにしたがって大きなグループとなる。古細菌は、ドメインという生物の分類学上、最上位で他の生物と区別されている。 ドメインの階級で分類されているのは、「細菌」、「古細菌」、「真核生物」の3分類群である。この3つで、全ての生物を3つに分けている。それぞれ以下のような生物が含まれている 細菌(大腸菌、枯草菌、乳酸菌、藍色細菌など)古細菌(メタン菌、高度好塩菌、超好熱菌など)真核生物(植物、動物、真菌、アメーバ、ゾウリムシなど)ドメインでの分類は、基本的な遺伝の仕組みや生化学的性質を元に行われている。例えば、植物と動物は見た目は大きく異なるが、細胞レベルで見るとDNA複製のメカニズムや細胞膜の主成分などは共通性が高い。逆に言えば、ドメインが異なる生物同士は、ある程度異なっている。 たとえば、古細菌とその他の生物の間には、以下の1,2のような違いが知られている。 細胞膜を構成する脂質の構造が対掌体の関係にある。具体的には、細菌及び真核生物では、細胞膜のグリセロール骨格のsn‐1、sn‐2位に炭化水素鎖が結合するのに対し、古細菌は例外なく炭化水素鎖が sn‐2、sn‐3 位に結合する。簡単に言えば、立体構造が反転しているということである。細胞膜中の脂質に脂肪酸残基が一切含まれず、グリセロールにイソプレノイドアルコールがエーテル結合した脂質骨格を持つ。細菌及び真核生物の細胞膜にはグリセロールに脂肪酸がエステル結合したリン脂質が使用されている。また、古細菌と細菌の間の違いも以下のようなものがある 細菌の細胞壁はムレイン(ペプチドグリカン)であり、N‐アセチルムラミン酸、D‐アミノ酸を含むのに対し、多くの古細菌の細胞壁はタンパク質であり、N‐アセチルムラミン酸、D‐アミノ酸を持たない。生命の基幹部分の1つともいえるDNA複製に関与する酵素群が、古細菌と細菌は全く異なる(古細菌と真核生物は類似する)。古細菌と真核生物の違いについてもいくつか列記する(古細菌と細菌は共通する) 真核生物は細胞核やミトコンドリアなどの細胞小器官を持つ。古細菌と細菌は原核生物であり、細胞小器官を持たない。真核生物はエンドサイトーシスによる細胞内への取り込み機構がある。古細菌と細菌にはそのような機能はない。これらの違いに加え、進化的にも差が大きい。真核生物内部の分類群である植物と動物が分かれたのは精々10‐15億年前、動物と菌類に至っては6‐9億年前のことだが、古細菌と細菌の共通祖先は35‐42億年前、地球史上でもごく初期に遡る可能性が高い。古細菌から真核生物が分かれたのは20‐30億年前のことだが、真核生物は非常に特殊化しており、もはや同じ生物とは言い難い。以上のような生化学的差異、進化系統学的位置の違いによりドメインが定義されている。 ===含まれる生物=== 古細菌ドメインは更に、クレン古細菌、タウム古細菌、ユーリ古細菌に分けられている。詳細は後述(#古細菌の分類)するが、概要を述べる。それぞれ以下のような生物を含む クレン古細菌門 ‐ 陸上の温泉などにいる好熱好酸菌、80℃以上の高温を好み海底熱水噴出孔などにいる超好熱菌タウム古細菌門 ‐ 中温性の亜硝酸古細菌ユーリ古細菌門 ‐ 塩湖や塩田など非常に高い塩濃度を好む高度好塩菌、嫌気環境でメタンを生成するメタン菌、 超好熱菌、好熱好酸菌タウム古細菌以外はヒトから見れば極端な環境に生息している。ヒトに身近なのは腸内常在微生物叢の一部を占め、嫌気性の沼などにもいるメタン菌や、窒素循環に関連する亜硝酸古細菌程度(タウム古細菌に含まれる)である。これ以外にも様々な生物が含まれるとみられるが、培養が難しく研究が進んでいない。2018年時点で正式に記載されている古細菌は約550種である。 ==呼称== 古細菌という呼称は、6界説を提唱したカール・ウーズらが名づけたArchaebacteriaの翻訳である。Archaebacteria自体は、メタン菌が太古の地球大気の主要構成成分と考えられていた二酸化炭素と水素の混合気体を基質として生育するため、Archae(ギリシア語:αρχα*9687*α/太古・始原) + Bacteria(小さな棒)と名づけられたことに由来する。 1980年代に入ると、古細菌 (Archaebacteria)が真正細菌よりもむしろ真核生物に近いことが明らかになり、それ程広くは使われなかったが後生細菌 (Metabacteria; メタバクテリア) という用語が提唱された。 1990年になるとウーズは3ドメイン説を発表した。この際、これまでArchaebacteriaと呼ばれてきた生物群に対して、Archaeaという名称が与えられ、細菌と区別するためにbacteriaが外された。以後英語圏ではArchaeaが定着した。日本でもこれに対応して細菌が外され、始原菌という和名が提唱された。しかしながら始原菌という用語はそれ程定着しなかった。現在、最も一般に使用されるのは古細菌、または英語読みのアーキア(まれにアーケア)で、一部の研究者の間では始原菌、ラテン語に由来するアルカエア(アルケア)といった呼び方もされる。 このほかの呼称としては、Mendosicutes(メンドシクテス)や古バクテリア類、後生細菌といった表現もみられる。いずれも古い用語であり、使用頻度は下がっている。英語圏でもまだArchaeabacteriaは使用されており、特に著名な研究者であるトーマス・キャバリエ=スミスらがこの語を用いている。2分岐説(エオサイト説)において、アーキア(Archaea)を真核生物を含む範囲に拡張する場合、原核生物のみを指して古細菌と便宜上呼称する場合もある。 なお、中国語でも当初は古細菌と呼ばれていたが、「Archaea」に対しては、「古菌」や「古生菌」という漢字名が広く使用されている。 また、古細菌ドメインの下位タクソンであるEuryarchaeota、Crenarchaeota、Thaumarchaeotaはそれぞれ、ユーリ古細菌、クレン古細菌、タウム古細菌と訳される。 ==発見史== 古細菌(archaebacteria)発見の歴史は細菌(eubacteria)発見の歴史に並行している。今日知られているような枠組みが完成する以前は、高度好塩菌、メタン菌、好熱菌それぞれ別々の枠組みで研究が進められていた。古細菌という枠組みができたのは1977年以降である。 ===発見=== 1674年、アントニ・ファン・レーウェンフックが微生物を発見して以来、徐々に研究が進んでいた。1868年には微生物の働きによりメタンが発生することを初めて確認し、1880年代には高度好塩菌の研究が始まった。これ以前にも沼などからメタンが発生すること、塩蔵の食品や塩田が赤く染まることは知られていたが、微生物によるものとは考えられていなかった。明朝の本草綱目にも、天日塩の製造過程で塩水が赤く染まることが記述されている。 20世紀に入ると、1922年に高度好塩菌の分離が始まり、Pseudomonas salinaria(後のHalobacterium salinarum)と名づけられた。翌年Serattiaに移され、その後もPseudomonasに戻されるなど分類は混乱した。1974年にようやくハロバクテリウム科にまとめられた。一方、メタン菌は存在することは分かっていたものの、酸素を極端に嫌う生物であり、1936年にやっと培養に成功し、1947年にはMethanobacterium formicicumとMethanosarcina barkeriが分離された。 既に1930年頃には原核生物と真核生物の違いが認識されており、原核生物帝(1937年)次いで五界説モネラ界(1969年)が提唱された。高度好塩菌とメタン菌には明らかに核がなく、以後モネラ界の枠組みに含まれることとなった。 一方、好熱性の古細菌は少し遅れ、1970年に炭鉱のボタ山から好熱好酸菌Thermoplasma acidophilumが発見された。この生物は細胞壁を欠くことからマイコプラズマの仲間とされた。1972年にはイエローストーン国立公園より好熱好酸菌Sulfolobus acidocaldariusが発見されたが、これらは別々に少し変わった生物だとして知られているに過ぎなかった。当時、メタン菌、高度好塩、Thermoplasma、Sulfolobusはそれぞれ別々の門や群に分類されていた。 しかし、1960年頃から他の生物とは性質が異なるという報告もされ始めている。今日知られている古細菌の特徴の一つであるエーテル型脂質は、1962年に高度好塩菌Halobacterium salinarum (Halobacter cutirubrum)より発見され、1972年には好熱菌Thermoplasma acidophilumも、やはり同じ脂質を持つことが判明した。 ペプチドグリカン細胞壁を持たないという報告も1970年代にはいくつか出されている。 ===定義=== これらの生物を他の原核生物と区別した最初の人物は、イリノイ大学のカール・ウーズである。 1960年代、互いに近縁な生物はタンパク質のアミノ酸配列や塩基配列が似ているという理論を背景にした分子時計や中立進化説が提唱され、生物の系統解析が開始されようとしていた。原核生物では、DNA‐23S rRNA分子交雑法、5S rRNA塩基配列などといった方法が取られ始めていた。 この流れの中で、ウーズらも、ライナス・ポーリングらの研究に影響を受け、1960年代後半から16S rRNAを用いて生物の分類を始めていた。彼が考案・使用した方法は、16S rRNAをいくつかの小断片に切断し、対応する配列と一致する塩基の割合を比較するポリヌクレオチドカタログ法というものだった。 様々な生物のrRNAを比較する中で、1976年、ウーズは同僚のウォルフからメタン菌のコロニーの提供を受け、そのrRNAが他の原核生物と大きく異なるという結果を得た。ウーズらはさらに研究を続け、翌1977年、この結果を元に原核生物を古細菌界(Archaebacteria。メタン菌)と真正細菌界(Eubacteria。その他の細菌)に分けるべきと主張した。 この時点で古細菌界はメタン菌のみを含むものであったが、1978年にメタン菌からエーテル型脂質が発見され、古細菌の特徴の一つとして、エーテル脂質を持つ可能性が出てきた。これは、既にエーテル脂質を持つ事が知られていた高度好塩菌及び好熱菌の一部も古細菌界に含まれることを示唆した。同年、rRNA系統解析が行われ、高度好塩菌と好熱菌の一部も古細菌界に属すことが支持された。しかしながら、通常の細菌と形態の殆ど変わらない生物を塩基配列データのみで分類することに抵抗は大きく、古細菌界という分類群が受け入れられるには時間がかかった。分割に反対する研究者もいた。 1980年代以降、古細菌の研究が活発になり、この時期、真正細菌と古細菌の差異を示す研究が蓄積された。それと共に古細菌という概念も受け入れられ始めた。1982年、それまでの常識を打ち破る110℃で増殖する古細菌が発見され、古細菌研究をさらに活発化させた。 1989年には共通祖先以前に重複した遺伝子を用いることによって古細菌が真正細菌よりも真核生物に近いことが報告された。ウーズはこの説を採用し、1990年には全生物を真核生物ドメイン、古細菌ドメイン、細菌ドメインの3つのグループに大別する3ドメイン説を提唱した。 1996年には、超好熱性のメタン菌Methanocaldcoccus jannaschiiの全ゲノムが解読された。これは古細菌として初めて、全生物の中でも4番目の解析例である。先行して解読されていたインフルエンザ菌、Mycoplasma genitalium、出芽酵母との比較により、代謝系の遺伝子は細菌にやや類似、転写・複製・翻訳に関連する遺伝子は真核生物に類似するが、細菌と類似の遺伝子はわずか11〜17%しか見つからず、半分以上の遺伝子はどちらにも見つからない新規の遺伝子であった。これは古細菌が、他の生物とは大きく異なることを裏付けるものであった。これらの結果を受け、今日大方の微生物学者に古細菌ドメインという分類群は受け入れられている。 ==生息環境== ===極限環境=== 古細菌は生物圏の広い範囲に分布し、最大で地球上の総バイオマスの20%を占めるとも言われている。純粋培養が可能な古細菌の多くは極限環境微生物あるいは非常に強い嫌気度を要求するメタン菌であり、このため歴史的に極端な環境に分布すると考えられてきた。実際、20世紀末までに医療分野や通常の土壌・水系から古細菌が分離されることは、一部のメタン菌を除き殆ど無かった。その一方で、間欠泉やブラックスモーカー、油田、塩田、塩湖、強酸、強アルカリ環境から比較的容易に古細菌が発見されてきた歴史がある。 これらの極限環境に生息する古細菌は、大まかに高度好塩菌、超好熱菌、好熱好酸菌へと区分することができる。Halobacterium属を含む高度好塩菌は、20‐25%のNaCl濃度で盛んに増殖し、塩湖など非常に塩濃度の高い環境に生息する。アフリカや中国の塩湖の中にはpHが10を超えるものもあり、このような環境からは、好アルカリ性高度好塩菌が分離されている。有名なものとして、pH12で増殖できる高度好塩菌Natronobacterium gregoryiがある。高度好塩菌は特別な培養装置を必要とせず、基本的には培地に塩を加えるだけで良いので、2018年現在記載種は250種近くに達している。これは古細菌ドメインの半数近い。 好熱菌は温泉など45°C以上の環境でよく活動するものをいう。このうち80°C以上に至適生育温度を持つものを超好熱菌と呼ぶ。Methanopyrus kandleri Strain 116は、全生物中最も高温で生育する生物として知られ、122°Cで増殖が可能と報告された。このほかPyrococcus、Pyrodictiumなどがあり、温泉や陸上硫黄孔、火山、海底熱水噴出孔などの多様な熱水系に生息する。嫌気性のものが多いが、偏性好気性の超好熱菌もAeropyrum pernix、Sulfurisphaera tokodaiiなど幾つかいる(後者は好酸性も兼ねる)。 硫黄分を含む熱泉では、硫黄が酸化されてしばしば強い酸性になる。強酸を好む好熱好酸菌は、スルフォロブス目やテルモプラズマ目に代表され、温泉や硫気孔、ボタ山などから発見される。初期に発見されたものとしてはSulfolobusやThermoplasmaなどがある。好酸菌の極端な例としては、pH‐0.06(1.2M硫酸溶液下に相当)で増殖する好熱好酸菌Picrophilusがいる。Stygiolobus azoricusを除き、大半が偏性好気性か通性嫌気性である。 なお、極限環境微生物と古細菌は、しばしば混同して使われることがあるが、必ずしも全てが古細菌というわけではない。極限環境で生育する細菌も多数存在しており、少数ではあるが超好熱性の細菌も知られている。とはいえ、やはり細菌は医療細菌や常在細菌の存在感が大きく、古細菌ほどは極限環境微生物の割合は多くない。 また、超好熱菌、好熱好酸菌などの菌群は表現型による区分であり、系統による分類と一致するとは限らない。高度好塩菌はハロバクテリウム綱、好熱好酸菌はテルモプラズマ目及びスルフォロブス目にほぼ一致するが、超好熱菌は古細菌ドメインの広い分類範囲に存在し、むしろ超好熱菌のいない目の方が少数派である。また、場合によっては複数条件で極限環境微生物と言えるものもあり、Methanonatronarchaeum thermophilumなどは、好熱性・好アルカリ性かつ強い好塩性のメタン菌である。 各生育・生存パラメータにおける代表種と限界値は以下のとおりである 高温:Methanopyrus kandleri 122℃アルカリ性:Natronobacterium gregoryi pH12酸性:Picrophilus oshimae pH‐0.06(マイナス0.06)高NaCl濃度:Halobacterium salinarumなど  飽和濃度高圧力:Pyrococcus yayanosii 1200気圧放射線:Thermococcus gammatolerans 30000グレイのガンマ線を照射しても一部は生き残る(Cs137線源)そのほかにも、超好熱かつ好酸性のSulfurisphaera ohwakuensis(限界温度92℃、限界pH1)、超好熱かつ好アルカリ性のThermococcus alkaliphilus(限界温度90℃、限界pH10.5)などがある。 ===嫌気環境=== 嫌気性の古細菌は、偏性嫌気性が約260種、通性嫌気性が約10種となっている。なお、偏性好気性の古細菌は約270種で、おおむね古細菌の半分が好気性、半分が嫌気性ということになる。 嫌気性の古細菌で代表的なものは、メタン菌(メタン生成菌)である。約160種が記載されている。これは代謝の結果メタンを生成する微生物の総称であるが、このような代謝を起こす生物は古細菌以外に知られていない。強い嫌気度を要求し、水素や酢酸などを代謝する為、それらが豊富な環境に分布する。例えば海底熱水噴出孔などでは、地球科学的または付近に生息する微生物によって水素が発生しており、それらを餌にメタン菌が大量に存在している。これらは同時に超好熱性も備えている。Methanopyrus kandleri、Methanocaldococcus jannaschii、Methanothermus fervidusなどがある。 水田や湖沼、海洋堆積物の中も微生物の働きによって酸素が消費され、水素や有機酸・アルコールなどが発生しており、それらをメタン菌が消費している。海洋ではメタノコックス綱、淡水系ではメタノバクテリウム綱やメタノミクロビウム綱が主にみられる。動物の消化器官や発酵槽などでもメタノバクテリウム綱やメタノミクロビウム綱が生息している。メタン発酵槽には好熱性のものやMethanosaetaが多い。 メタン菌はかなり広い範囲に分布しており、メタン菌そのものは極限環境微生物に含めないことが多い。ただし、増殖には酸化還元電位にして‐0.33Vの非常に強い嫌気環境が必要である。 メタン菌以外では、未培養系統であるが、冷湧水帯堆積物や海洋堆積物に、ANME I‐IIIと呼ばれる嫌気的メタン酸化菌が存在する。この他にも、膨大な数の古細菌が海底の堆積物の中から見つかっている。2008年には、海底1m以深の沈澱物中に存在する生物の大部分を古細菌が占めるという報告がなされた。これらは殆ど培養されておらず、不明な点が多い。 なお、前述の超好熱菌は、偏性好気性のAeropyrum、Sulfolobus、Sulfurococcus、通性嫌気性のAcidianus、Pyrolobus、Pyrobaculum aerophilumを除いて大半が偏性嫌気性である。 ===より温和な環境=== 一方で、近年いくつかの研究が、極限環境や嫌気環境だけでなく、より温和な環境にもメタン菌以外の古細菌も存在することを示している。例えば極地の海、湖などの冷たい環境において古細菌の遺伝子が高頻度で検出されている。一般的な海洋においても、細胞数当たりで微生物の約20%を古細菌が占めるという。湿原や下水、海洋、土壌などにも古細菌は存在する。これら環境古細菌の多くは、メタゲノム、脂質解析といった手法を用いることにより明らかにされつつある。 特に以前中温性クレン古細菌(Mesophilic Crenarchaeota)と呼ばれ、現在タウム古細菌と呼ばれるグループは、2000年以降急速に進展した分野である。2005年に初めてNitrosopumilus martimus純粋培養に成功し、2014年にはNitrososphaera viennensisが記載された。2018年には記載種の数は6種となっている。分離源は水族館のフィルターや海水、畑の土といった”通常の”環境で、生育温度も25〜42℃と低く、pH、塩濃度といった他の生育パラメータも極端な数字ではない。 タウム古細菌以外の系統は培養に成功していないが、環境DNAサンプルとして多数存在し、代表的なものとして海洋の有光層に多いMarine group IIと呼ばれるグループが知られている。 ==物質・エネルギー循環における役割== 古細菌は、かつてメタン生成を除き、地球上の物質循環への影響は限定的と考えられてきた。しかし、難培養性の古細菌の研究が進むにつれ、地球規模の物質循環への寄与が無視できないものであることが明らかとなってきている。全体として見た場合、環境中の古細菌は、炭素や窒素、硫黄における物質循環の一部を構成している。 近年注目されているのは窒素循環への関与である。以前からメタン生成菌や好熱菌など一部の古細菌が窒素固定や硝酸塩呼吸を行うことは知られていたが、これらに加え、2005年にタウム古細菌がアンモニア酸化を行うことが発見された。メタゲノム解析は、アンモニアモノオキシゲナーゼを有すタウム古細菌(亜硝酸古細菌)が、海洋、土壌何れにおいてもアンモニア酸化細菌を遥かに上回ることまで示している。これにより、アンモニア酸化は細菌が行うというこれまでの常識が崩された。農業用土壌では、アンモニア酸化細菌と古細菌は、アンモニア濃度やpH、土壌深度等に応じて住み分けを行っているようである。亜硝酸はその後別の細菌によって硝酸に酸化され、植物など他の生物によって利用される。この過程に古細菌が関与するという報告はない。亜硝酸古細菌はまた、温室効果ガスである一酸化二窒素を放出する。一方で、亜硝酸古細菌はメタンの酸化分解を行うという報告もある。 また、硫黄循環においては、鉱物から硫黄を遊離する過程で古細菌が働く。例えばSulfolobusは単体硫黄を酸化することによって増殖する。この活動によって生成する硫酸が環境汚染を引き起こすことがあるが、硫黄循環においては、硫黄を植物に利用できる形に変化させるという点において重要である。ただし、この反応は細菌の一部も同様に起こすことができる。 メタン生成菌は炭素循環において独特の地位を占める。これらの古細菌が持つ水素や有機酸をメタンとして除去する能力は、嫌気条件での有機物代謝の最終段階を担っている。この過程は「メタン菌」において詳しい。天然ガスやメタンハイドレートも、その生成にはメタン菌が関与している。 しかしながら、メタンの温室効果は二酸化炭素の21倍強く、地球温暖化寄与率は18%に達する。メタン菌は地球上におけるメタン放出量の少なくとも2/3以上を占めると考えられている。水田や反芻動物から放出されるメタンも、元を辿ればほぼ全てがメタン生成菌由来である。なお、古細菌の中には、硫酸還元細菌と共生し、嫌気条件下でメタンを硫化水素と二酸化炭素に分解する系統も存在する。 2015年には、植物プランクトンにとって重要な補因子である、海洋のビタミンB12生産の大部分をタウム古細菌が担うと報告された。 一部の古細菌は光エネルギーの利用も行うようである。バクテリオクロロフィルを使った光合成は知られていないものの、高度好塩菌やMarine group IIが保有する、バクテリオロドプシンやプロテオロドプシンは、光駆動プロトンポンプの機能を持つ。地球上における光エネルギーの利用はバクテリオクロロフィルを含むクロロフィル型が主だと考えられてきたが、細菌を含めたプロテオロドプシンによるエネルギー生産量はその1割にも達すると見積もられており、古細菌Marine group IIもその一部を占める。ただしこれらは炭素固定を行わない光従属栄養生物と考えられる。 ==他生物との関係== 他の生物との関係は、相利共生か片利共生のどちらかである。病原性の古細菌は確実なものは知られていない。寄生の例としては、”Ca. Nanoarchaeum equitans”が、別の古細菌Ignicoccus hospitalisとの共存下のみで増殖する例がある。 メタン菌と原虫の相互作用は相利共生として理解されている。これは、反芻動物や白アリの消化器官でセルロースを分解するために働く。原虫は嫌気条件でエネルギーを得るためにセルロースを代謝し、その過程で廃棄物として水素を放出する。水素が蓄積すると原虫は増殖が阻害される。メタン菌はこの水素の除去を行い、原虫は効率的なエネルギー生産を可能とする。有機酸や水素を放出する嫌気性細菌との間にも同様の共生関係が成り立つ。この関係は古細菌同士でも可能で、メタン菌であるMethanopyrus kandleriが存在すると、水素を放出するPyrococcus furiosusはM. kandleriに付着してバイオフィルムを形成する。こういった関係はいくつかの原虫、菌類でより進展しており、例えばPlagiopyla frontata、Nyctotherus ovalisなどは細胞内に共生メタン菌を保有する。 ヒトの体内で最も一般的なのはMethanobrevibacter smithiiというメタン菌である。このメタン菌を保有するマウスは体重増加が報告されており、栄養吸収や肥満に関係している可能性がある。高齢者に多いMethanomassiliicoccus luminyensisは、有害なメチルアミンを無害なメタンに分解する。一方、口腔内に存在するMethanobrevibacter oralisについては、免疫応答に関与することで歯周病を悪化させる危険因子であるとされている。メタン菌はヒトにとって、有益でも有害でもありうる。 メタン菌以外では、海綿Axinella mexicanaとタウム古細菌”Ca. Cenarchaeum symbiosum”の関係が報告されている。 ===ヒトによる利用=== 汚水処理施設やバイオガスの製造において、メタン菌によるメタン発酵が行われている。この他菌体を直接利用するものはあまりないが、キムチや魚醤からHalococcusやHalobacteriumに代表される高度好塩菌が検出されることがあり、腐敗や発酵に関与する。好熱好酸菌は硫化水素や金属の処理目的に研究されている。 一方、新しい遺伝子資源としても注目を集めてきた。Pyrococcus furiosusやThermococcus kodakaraensisなどに由来するDNAポリメラーゼ(Pfuポリメラーゼ、KODポリメラーゼ)は、Taqポリメラーゼ(細菌Thermus aquaticus由来)に比べ複製正確性が高く、PCRになくてはならない酵素の一つである。タンパク質が結晶化しやすく、真核生物のホモログあるいは新規酵素を多数持つことから、タンパク質の構造研究にもしばしば使用される。これまでのところあまり実用化されていないが、CRISPR/Casや抗生物質など未利用の遺伝子資源も存在する。 ==細胞の形態・構造== 古細菌の外観は細菌と似ている。0.5から数マイクロメートル程度の大きさを有し、球菌、桿菌またはディスク状など様々な形が見られる。大きさは最大の球菌で直径10数μm程度である。 珍しい形として、Haloquadratum walsbyiは、極薄の四角形の紙片状、高度好塩菌には他に三角菌(Haloarcula japonica )もいる。 Thermofilum pendensは極細の針状(最大長〜100μm)、ThermoplasmaやFerroplasmaは、強固な細胞壁を持たないために、一部の種は定まった形を持たず、アメーバのような形になることもできる。また複数の細胞が集合して大規模な融合細胞を形成するものも存在する。この例としてはThermococcus coalescensが知られている。 古細菌は原核生物であるため、通常細胞内の膜系を発達させず、細胞内の目立つ構造物と言えばDNAとリボソーム、ガス泡、PHBの顆粒くらいである。これらを含む細胞質を細胞膜がつつみ、その外側を細胞壁が覆う。一般に細胞壁は細菌よりも薄く、機械的強度も弱い。細胞表面には、鞭毛や線毛、繊維状の付属構造を持つ場合がある。なお、細胞内の膜系に関しては、ThermoplasmaやIgnicoccusといった例外も存在する。Ignicoccusは、外細胞膜と内細胞膜、その間の巨大な疑似ペリプラズムに特徴づけられる。外側の膜にATP合成酵素があり、疑似ペリプラズムにおいてもATPが利用可能な点で、グラム陰性細菌と異なる。内部はフィラメントや網構造が非常に入り組んで観察される。 細胞よりも高次の構造も乏しく、殆どの種は単独か原始的な群体を持つに過ぎない。Methanosarcinaは接着物質を使用し、小荷物様の群体を形成する。他のメタン菌の中には、シースと呼ばれる鞘の中に複数の細胞が鎖のようにつながった形態をとるものがある。シート形成や網目状のネットワークを形成するものもある。 何れにせよその形態は原核生物の範疇を超えるものではなく、そのため個性に乏しく形態により古細菌を特徴づけるのは困難である。古細菌を特徴付けているのは、ほとんどが分子生物学的知見による。 ===細胞壁=== 古細菌の細胞壁は一般的にタンパク質性のS層である。S層は多くの細菌にも認められるが、細菌と異なりペプチドグリカンを持たず、S層そのものが細胞壁になっているという点で異なる。古細菌のS層は熱に対して極めて安定だが、細菌の細胞壁と異なり浸透圧変化に脆弱で機械的強度も弱いものが多い。 メタノバクテリウム綱は、シュードムレインと呼ばれる糖ペプチドを持つ。これはペプチドグリカンの一種ではあるが、ムラミン酸やdアミノ酸を欠くという点で細菌の細胞壁と区別できる。Methanopyrus kandleri、Methanothermusは、シュードムレインの外側に更にS層がある。 S層もシュードムレインも、その合成系の違いから、細菌の細胞壁合成を阻害するβ‐ラクタム系抗生物質、グリコペプチド系抗生物質は効果が無い。一般的な傾向として、グラム染色ではS層が陰性に、シュードムレインが陽性に染色される。 その他の細胞表層構造としては、シース(Methanospirillus、Methanosaeta)、メタノコンドロイチン(Methanosarcina)、多糖類(Halococcus)、グルタミニルグリカン(Natronococcus)などがある。また、テルモプラズマ綱は細胞壁が無い。 多くの古細菌はグラム陽性細菌同様外膜を持たないが、Ignicoccus及びMethanomassiliicoccus luminyensis、未培養系統であるARMANは外膜(または外細胞膜)を持つ。これらは系統的に離れていて、進化的な意義は不明である。 ===べん毛=== 基部のモーターにより鞭を回転させ、細胞の移動を可能とする器官である。直径10‐15nm、全長10‐15μm。細菌のべん毛に似るが、よく見るとやや細く、また、構成するタンパク質にも相同性はない。むしろ古細菌自身やグラム陰性細菌が持つIV型線毛との共通点が多い。一方、細菌の鞭毛はIII型分泌装置との共通点が多く、両者は異なる起源を持つと考えられている。 鞭毛の繊維部分は根元にユニットが追加される形で伸長する。また、細菌は鞭毛の駆動力として水素イオン濃度差を利用するが、こちらはATPの加水分解により駆動する。エネルギー変換効率はほぼ100%の高効率を達成している細菌に比べて著しく低く、6〜10%程度と見積もられている。 ===細胞膜=== 細胞膜を構成する脂質は、古細菌とその他の生物を区別する最大の特徴である。真核生物や細菌はsn‐グリセロール3‐リン酸のsn‐1位、2位に脂肪酸がエステル結合しているが(図5‐8参照)、古細菌はこれと鏡像体の関係にある脂質を持ち、sn‐グリセロール1‐リン酸のsn‐2位、3位にイソプレノイドアルコールがエーテル結合している(図1‐4参照)。エーテル結合を含む脂質や環状脂質自体は、超好熱細菌Aquifex、Thermodesulfobacteriumなどからも見つかっているが、グリセロール骨格部分の立体構造は例外なく古細菌特有のものである。 炭化水素鎖は多くの場合、C20(稀にC25)イソプレノイドのみからなる。脂肪酸は存在しない。不飽和型も稀である。一部の古細菌の細胞膜には、炭化水素鎖が向かい合って結合した形のテトラエーテル型脂質や、炭化水素鎖の途中で架橋、あるいは環状構造を有す物も存在する(図10参照)。細胞膜上にはATP合成酵素や電子伝達体(その他メタン生成経路やバクテリオロドプシンなども)などの酵素類が偏在しており、古細菌の代謝の主要な場である。膜上にはこの他に各種輸送体や各種センサーなどが存在する。 ===細胞質=== 細胞質に目立つ構造は少ない。DNA、エネルギー貯蔵用のポリヒドロキシ酪酸の顆粒、リボソーム、高度好塩菌などが持つ浮力調整用のガス胞などが比較的目立つ程度である。 細胞骨格については、Thermoplasmaが細胞壁がないにもかかわらず、様々な形をとることから、発見時より何らかの形で細胞骨格が存在することが推測されていた。これは細菌のMreBに類似した蛋白質が使われている。 一方、クレン古細菌からはアクチンに類似するタンパク質が報告されている。ロキ古細菌から発見されたアクチンは、ヒトアクチンと58‐60%の同一性を持ち、プロフィリンはウサギアクチンと相互作用を起こすことができる。この系統やタウム古細菌からはチューブリンに近い遺伝子も報告されているが、実態は良く分かっていない。 ==DNAと遺伝子発現== ===DNA=== 1996年にMethanocaldococcus jannaschiiの全ゲノムが解読されて以来、2018年までに250株以上の古細菌についてゲノムの解析が行われた。ゲノムサイズは1.2 ‐ 6 Mbp(Mbp=100万塩基対)と細菌と比較してもやや小さく、Methanothermus fervidusのゲノムは124万3342bpしかない。完全独立生物を送るものとしては最小である。さらにIgnicoccus hospitalisという古細菌に共生している“Ca. Nanoarchaeum equitans”に至っては宿主に完全に依存しているとはいえ、49万885bpというきわめて小さなゲノムを持つ。これまでに解析された古細菌のうち、最大のゲノムを持つのはMethanosarcina acetivorans(575万1492bp)である。ゲノムは好熱菌では1分子のことが多いが、高度好塩菌や一部のメタン生成菌は副ゲノムやプラスミドを所持する例も多い。ゲノムサイズは小さいものの、古細菌のゲノムは細菌や真核生物よりも複雑性が高いという。 DNAの構造は細菌に類似しており、環状のDNAを持ち、それが凝集して核様態を形成している。DNA結合タンパクは細菌とは異なり、一般的に古細菌型ヒストンである。Methanothermus fervidusのヒストンは詳細に観察されていて、真核生物のH3‐H4四量体に対応する構造をとる。この四量体におおよそ60bpのDNAが巻き付き、真核生物のヌクレオソームに類似する構造を形成することが報告されている。ただし古細菌型ヒストンは、三次構造レベルでは真核生物ヒストンによく似ているものの、翻訳後修飾を受けるという報告は無く、N末側テールに相当する領域も欠く。 その他各種DNA結合タンパクが存在する。テルモプラズマ綱とデスルフロコックス目、スルフォロブス目はヒストンを持っておらず、それぞれ細菌のHU様タンパクや、独自のAlbaタンパクを使用する。 DNA複製は、細菌と真核生物で使用している酵素群に全く相同性が無く、両者の起源は異なると推定されている。一方、古細菌は真核生物のDNA複製に近いようで、真核生物の複製系酵素のホモログが多数見つかっている。 実際に複製を担うDNAポリメラーゼは、真核生物が使用しているBファミリーDNAポリメラーゼ(以下PolB)と、古細菌独自のDファミリーDNAポリメラーゼ(以下PolD)である。このどちらか、または両方が複製に使用されている。岡崎フラグメントの長さは真核生物と同様短いが、複製速度は細菌同様速い。DNAそのものは細菌と同じく環状2本鎖にもかかわらず、複製開始地点が複数存在する場合もある。一般に、古細菌のDNA複製機構は、真核生物のそれの祖先型とみられている。 また、古細菌に感染するウイルスも多数発見されている。多くは二本鎖DNAウイルスで、形態はかなり多様性に富んでいる。海洋環境でのウイルスによる感染の影響は細菌よりも古細菌の方が大きく、ウイルスによって死滅させられた古細菌から、炭素換算で年間3〜5億トンものバイオマスが供給されていると見積もられている。ウイルスに対しての獲得免疫システムとしてCRISPR/Casシステムがあり、古細菌の84%にCRISPRが存在すると推定される。 ===タンパク質の合成=== DNAからタンパク質が合成される際は、まずRNAポリメラーゼがDNA配列に従いmRNAを合成(転写)し、さらにリボソームでmRNA配列に従ってタンパク質に翻訳される。この過程はあらゆる生物において共通しているが、真核生物、細菌でタンパク質合成機構が微妙に異なる。全体としてみた場合、古細菌のタンパク質合成機構は細菌と類似する点もあるが、分子構造は真核生物(真核生物の翻訳参照)と類似している。 転写機構は真核生物のRNAポリメラーゼIIによる転写機構とよく似ていて、立体構造も酷似する。リボソームは3つのRNAと70種弱のタンパク質より成り、RNAはやや細菌に、タンパク質は真核生物に近い。翻訳開始アミノ酸はメチオニンで、リボソームがストレプトマイシンやキロマイシンによって阻害を受けず、ジフテリア毒素によって阻害を受けることなどの点で真核生物に似ている。 詳細は転写 (生物学)、翻訳 (生物学)を参照 ==中央代謝== 古細菌のTCA回路は他の生物とほぼ同じである。好気性の古細菌や一部の嫌気性クレン古細菌は完全なTCA回路を備えており、反応は通常の好気性細菌や真核生物と同様に進行する。残りの嫌気性菌はTCA回路を部分的にしか備えておらず、炭酸固定などに利用している。 解糖系は各古細菌種によってED経路(エントナー‐ドウドロフ経路)、EM経路(エムデン‐マイヤーホフ経路)何れかが存在する。こちらは他生物といくつか相違が見られる。いくつかのメタン菌やテルモコックス綱からはEM経路に関係する酵素が見つかっているが、ADP依存性グルコキナーゼやADP依存性ホスホフルクトキナーゼ、ホスホエノールピルビン酸シンターゼなど特異な酵素が関与するため、変形EM経路と呼ばれている 。 一方、好気性の古細菌の多くは、好気性の細菌の一部に見られるエントナー‐ドウドロフ経路(ED経路)に似る経路を使用する。高度好塩菌では、一部の経路がリン酸化せずに進行するため、部分リン酸化ED経路と言う。テルモプラズマ目の非リン酸化経路では、反応の末端である2‐ホスホグリセリン酸に至るまでリン酸化を伴わず、更にグリセルアルデヒドからグリセリン酸までの反応が、グリセルアルデヒドデヒドロゲナーゼによってバイパスされるため、系全体の収支としてATPは生成しない。 ペントースリン酸経路はあまり見られず、リブロースモノリン酸経路を用いる種が多い。炭素固定を行う種では、炭素固定経路は各古細菌種によって様々なものが使用されている。古細菌特有の経路として、Ignicoccusなどがジカルボン酸/4‐ヒドロキシ酪回路酸を用いている。 ==繁殖・細胞分裂== 古細菌は基本的に細菌と同様、単純な二分裂によって増殖(繁殖)する。出芽により増殖するテルモプロテウス目など一部を除くと、分裂後も殆ど同じクローンが2体できるだけである。胞子や芽胞の形成も確認されていない。最適条件での増殖速度はMethanocaldococcusやPyrococcusで約30分、Methanosaetaなど遅いものだと数日を要する。 分裂に伴う細胞膜の切断やDNAの分配は細菌に似ていると言われている。Methanocaldococcus jannaschiiを始めとしたユーリ古細菌のゲノム上にはFtsZ、MinDなどが存在し、細菌と同様、Zリングの収縮で細胞を分裂させると考えられている。 一方でクレン古細菌からはFtsZが見つからず、分裂機構は長い間全く不明であった。2008年に真核生物のエンドソーム選別輸送複合体(ESCRT複合体)に相当するタンパク質が細胞分裂に関与するという報告がなされている。タウム古細菌も同様の機構を持ち、アスガルド古細菌ではさらに多くのESCRT複合体関連遺伝子が見つかっている。一方で、テルモプロテウス目のゲノムからは、FtsZもESCRT複合体も見つからず、アクチンに類似するタンパク質を用いた細胞分裂機構を持つと予想されている。 有性生殖は存在しないが、特殊な例として、Haloferax volcaniiにおける細胞間架橋構造の形成がある。細菌の接合はプラスミドを移行させる現象であるが、この例ではプラスミドや細胞質は移行せず、ゲノムDNAのみが移行する点で異なる。スルフォロブス目の例では、UV照射や薬剤暴露によるDNA損傷によって細胞凝集が誘導され、染色体の組み換えが起こる。それ以外のストレスによっては誘導されず、プラスミドも関与しないなどといった点で細菌の接合とは異なる。また、繊毛を失った株は凝集できず、UV照射に対する生存性が低下する。細胞融合性を持つFerroplasma acidarmanusでも激しいゲノム組み換えが見られる。いずれも組み換えはプラスミドでは無くゲノムDNAに制御されている。 Sulfolobusではゲノムの交換は種特異的であり、Ferroplasma acidarmanusも進化距離の違いにより組み換え率が急速に低下する。これは古細菌における種の概念を示している可能性がある。 ==他生物との違いまとめ== ==古細菌の起源と系統的位置== 共通祖先、原始生命体、生命の起源なども参照地球の歴史は45憶4000万年前までさかのぼる。また、海洋もおそらく44億年前までには形成された。 生命の起源は不明であるが、西オーストラリア州ジャックヒルズから見つかった41億年前に形成されたジルコンから、異常に同位体比率の偏った炭素が発見されており、生命活動の痕跡の可能性が指摘されている。起源が38億年より遡る場合、後期重爆撃期との関係も重要になる。少なくとも35億年前まで、そしておそらくそれよりももっと以前から生命は存在していたと考えられている。 地球上に誕生した生命が細菌と古細菌に分かれた理由についても不明なところが多い。共通祖先が別れて古細菌が出現した時期についてはいくつか説が出されていて、例えば35億年前の地層から異常にC13の比率が低いメタンが発見されており、メタン菌が当時存在していた、つまりこの時期までには古細菌が出現していたと考えることもできる。系統解析からの推定では、38億年前、42億年以前、44億年以前、などという数字も出ているが、あまりにも古い時代のため、不確実性が大きい。 ===細菌との関係=== 細菌と古細菌は共通の祖先を有する可能性が高い。DNAやたんぱく質が脂質二重膜よりなる細胞膜につつまれる構造は全生物に共通する。コドンなど基本的な遺伝の仕組みも共通している。一方で、細胞膜の成分やDNA複製系は全く異なっており、両者が分かれたのは非常に古いと推定される。 ウーズが最初に描き出した系統樹は無根系統樹であり、共通祖先がどの位置にあるかは確定できないものであった。例えば、真核生物と原核生物が最初に分かれた後、原核生物が細菌と古細菌に分かれた、あるいは細菌と古細菌が最初に湧かれた後、細菌から真核生物が進化した、もしくは細菌の中に共通祖先があり、細菌の一系統から古細菌や真核生物が進化した、などの様に様々に解釈できる。この問題は、16S rRNAなどの遺伝子の単純な解析では導き出せないが、共通祖先以前に重複、その後独立して進化した遺伝子を比較することで可能となる。1989年に、H‐ATPアーゼ、伸長因子、リンゴ酸デヒドロゲナーゼ、乳酸デヒドロゲナーゼなど共通祖先以前に分かれた遺伝子を用い、共通祖先がまず細菌と古細菌類に分岐したことが明らかになった。時期的には前述のとおり、30億年よりも遥かに遡る古い時代に起こったと考えられる。 これ以外の説としては、共通祖先は現代的な細胞膜やDNA複製の仕組みを持っていなかったとする説もある。アルカリ熱水泉の細孔で生命が誕生したとすれば、透過度の低い細胞膜は必要ではない。古細菌と細菌はそれぞれ独立に細胞膜やDNA複製の仕組みを獲得し、別々に細孔から脱出したとする。また、トーマス・キャバリエ=スミスらは、最初に細菌が多様化した後、細菌の一グループである放線菌の中から真核生物と古細菌の祖先が出現したネオムラ説を提唱している。他の細菌との違いは、高温への適応や、細菌間での化学戦の産物であるとする。放線菌は外膜の無い単膜細菌(MD細菌)であり、膜が一重であることが古細菌と共通する。Hsp70やグルタミン合成酵素 Iなどから得られる系統樹がネオムラ説を支持するという。 ===真核生物との関係=== 真核生物と古細菌の関係にも論争がある。真核生物と古細菌は基本的な遺伝の仕組みを共有しており、この2つの生物は細菌よりも密接に関係している。問題となるのは、真核生物はどの古細菌から進化したのか不明な点であった。16S‐rRNAは、古細菌が多様化するよりもはるか以前に古細菌と真核生物は分岐したため、特に真核生物に近い古細菌はいないという系統樹を描き出したが、EF‐1/EF‐2(伸長因子)を使った解析では、クレン古細菌と真核生物が単系統となる系統樹を描き出した。 標準的な説(3ドメイン説)では、真核生物と古細菌はそれぞれが単系統であり、互いに姉妹群であるという説を採用している。ただし、3ドメイン説の提唱者であるウーズは、3ドメインが分かれる前は遺伝の仕組みが成立していない生物であったとしており(プロゲノート説)、古細菌(または古細菌に近い生物)から真核生物が進化したわけでは無いとしていた。 もう一つの有力な説は、クレン古細菌に近い生物から真核生物が進化したとする2分岐説である。これは1984年にレイクが提唱したエオサイト説を原型とし、3ドメイン説よりも古いものである。山岸らも系統樹がどちらであるにせよ、地球上の生物を細菌とアーキア(Crenarchaeota、Euryarchaeota及びUrkaryotes)の2つに分けるべきと主張した。2010年以降、クレン古細菌や近縁な古細菌からアクチンやESCRT、ユビキチン、チューブリンなど真核生物様の遺伝子が発見されたこと、更に2015年以降ロキ古細菌をはじめとしたアスガルド古細菌が発見され、この古い説が見直されている。 この他にも、前述(#細菌との関係)の「ネオムラ説」、RNAを基盤とするクロノサイトという生物に古細菌と細菌が合体した「ABC仮説」、古細菌にウイルスが感染して真核生物になった「細胞核ウイルス起源説」などが提案されている。 ==古細菌の分類== ドメイン古細菌以下の門および鋼、目をリストする。記載種を含む系統に限る。 古細菌の種から綱までの命名は国際原核生物命名規約に基づいて行われており、基本的な分類方法は細菌と共通している。原核生物は形態の変化に乏しく無性的に増殖するため、動植物でいう種の基準が適用できず、分類は16S rRNA系統解析やDNA‐DNA分子交雑法、ゲノム構造に基づく平均ヌクレオチド一致度(ANI)といった分子技法が主に用いられる。2018年10月現在の記載種は全部で約550種である。ユーリ古細菌、クレン古細菌、タウム古細菌以外の系統については後述(#未培養系統を含む系統概観)する。 ===クレン古細菌=== 2018年現在64種が記載。ESCRT複合体で分裂する。古細菌固有のDNA複製酵素であるDファミリーDNAポリメラーゼを欠く。テルモプロテウス目以外はヒストンを持たないことが多い。 ”クレン古細菌門”/”Crenarchaeota” テルモプロテウス綱/Thermoplotei ‐ 超好熱菌や好熱好酸菌より構成される綱。硫黄やチオ硫酸を代謝して硫酸イオンや硫化水素を生成する種が多い。Ignicoccus(外膜)を除き、細胞膜はS層。 テルモプロテウス目/Thermoproteales ‐ ThermoproteusやThermofilum、Pyrobaculumなど。全種が超好熱性の桿菌で、主に陸上の熱水系に分布。通性嫌気性のPyrobaculum aerophilumを除いて、大半は水素や有機物を硫黄を還元して増殖する。クレン古細菌の中では最初に分岐した様で、ヒストンやアクチンを持っている。ESCRT複合体を持たず、出芽により増殖する。 スルフォロブス目/Sulfolobales ‐ SulfolobusやAcidianus、Metallosphaeraなど。全種が好熱好酸菌。陸上の温泉や熱水泉、鉱山などの陸上熱水に分布し、クレン古細菌の中では特に好気性菌が多い。Sulfolobusの例では、好気条件下硫黄又は有機物を酸化する通性独立栄養生物である。Acidianusは、好気条件下であれば硫黄を酸化して硫酸イオンを生成し、嫌気条件であれば水素や有機物で硫黄を還元して硫化水素を生成する。 デスルフロコックス目/Desulfurococcales ‐ 全種が超好熱菌。Pyrodictiumなど極度に高温を好む種を含む。海底熱水噴出孔や陸上の熱水系にも分布する。偏性好気性のAeropyrumや通性嫌気性のPyrolobus fumariiを除き偏性嫌気性。発酵や硫黄還元を行う従属栄養性の種が多い。 アキディロブス目/Acidilobales ‐ 超好熱菌。主に陸上にある弱酸性の熱水系に分布する。嫌気性で有機物を発酵する。 フェルウィディコックス目/Fervidicoccales ‐ 好熱性。嫌気性で発酵する。カムチャッカ半島の温泉から分離されたFervidicoccus fontis 1種のみ。テルモプロテウス綱/Thermoplotei ‐ 超好熱菌や好熱好酸菌より構成される綱。硫黄やチオ硫酸を代謝して硫酸イオンや硫化水素を生成する種が多い。Ignicoccus(外膜)を除き、細胞膜はS層。 テルモプロテウス目/Thermoproteales ‐ ThermoproteusやThermofilum、Pyrobaculumなど。全種が超好熱性の桿菌で、主に陸上の熱水系に分布。通性嫌気性のPyrobaculum aerophilumを除いて、大半は水素や有機物を硫黄を還元して増殖する。クレン古細菌の中では最初に分岐した様で、ヒストンやアクチンを持っている。ESCRT複合体を持たず、出芽により増殖する。 スルフォロブス目/Sulfolobales ‐ SulfolobusやAcidianus、Metallosphaeraなど。全種が好熱好酸菌。陸上の温泉や熱水泉、鉱山などの陸上熱水に分布し、クレン古細菌の中では特に好気性菌が多い。Sulfolobusの例では、好気条件下硫黄又は有機物を酸化する通性独立栄養生物である。Acidianusは、好気条件下であれば硫黄を酸化して硫酸イオンを生成し、嫌気条件であれば水素や有機物で硫黄を還元して硫化水素を生成する。 デスルフロコックス目/Desulfurococcales ‐ 全種が超好熱菌。Pyrodictiumなど極度に高温を好む種を含む。海底熱水噴出孔や陸上の熱水系にも分布する。偏性好気性のAeropyrumや通性嫌気性のPyrolobus fumariiを除き偏性嫌気性。発酵や硫黄還元を行う従属栄養性の種が多い。 アキディロブス目/Acidilobales ‐ 超好熱菌。主に陸上にある弱酸性の熱水系に分布する。嫌気性で有機物を発酵する。 フェルウィディコックス目/Fervidicoccales ‐ 好熱性。嫌気性で発酵する。カムチャッカ半島の温泉から分離されたFervidicoccus fontis 1種のみ。テルモプロテウス目/Thermoproteales ‐ ThermoproteusやThermofilum、Pyrobaculumなど。全種が超好熱性の桿菌で、主に陸上の熱水系に分布。通性嫌気性のPyrobaculum aerophilumを除いて、大半は水素や有機物を硫黄を還元して増殖する。クレン古細菌の中では最初に分岐した様で、ヒストンやアクチンを持っている。ESCRT複合体を持たず、出芽により増殖する。スルフォロブス目/Sulfolobales ‐ SulfolobusやAcidianus、Metallosphaeraなど。全種が好熱好酸菌。陸上の温泉や熱水泉、鉱山などの陸上熱水に分布し、クレン古細菌の中では特に好気性菌が多い。Sulfolobusの例では、好気条件下硫黄又は有機物を酸化する通性独立栄養生物である。Acidianusは、好気条件下であれば硫黄を酸化して硫酸イオンを生成し、嫌気条件であれば水素や有機物で硫黄を還元して硫化水素を生成する。デスルフロコックス目/Desulfurococcales ‐ 全種が超好熱菌。Pyrodictiumなど極度に高温を好む種を含む。海底熱水噴出孔や陸上の熱水系にも分布する。偏性好気性のAeropyrumや通性嫌気性のPyrolobus fumariiを除き偏性嫌気性。発酵や硫黄還元を行う従属栄養性の種が多い。アキディロブス目/Acidilobales ‐ 超好熱菌。主に陸上にある弱酸性の熱水系に分布する。嫌気性で有機物を発酵する。フェルウィディコックス目/Fervidicoccales ‐ 好熱性。嫌気性で発酵する。カムチャッカ半島の温泉から分離されたFervidicoccus fontis 1種のみ。 ===タウム古細菌=== 2018年現在6種が記載。2008年にクレン古細菌から分けられた系統。同様にESCRT複合体で分裂する。クレン古細菌より低温に適応している。 ”タウム古細菌門”/”Thaumarchaeota” ニトロソスパエラ綱/Nitrososphaeria ‐ 亜硝酸古細菌 ニトロソスパエラ目/Nitrososphaerales ‐ 中温性の亜硝酸古細菌。2018年現在、土壌から発見されたNitrososphaera viennensis1種のみが記載されている。後述のニトロソプミルス目よりアンモニア濃度の高い環境に適応しており、海洋では堆積物などからの検出例が多い。 ニトロソプミルス目/Nitrosopumilales ‐ 中温性の亜硝酸古細菌。水族館のフィルターから発見されたNitrosopumilus maritimusを代表種とする。海水中からの検出例が多いが、土壌性の物もいる。ニトロソスパエラ綱/Nitrososphaeria ‐ 亜硝酸古細菌 ニトロソスパエラ目/Nitrososphaerales ‐ 中温性の亜硝酸古細菌。2018年現在、土壌から発見されたNitrososphaera viennensis1種のみが記載されている。後述のニトロソプミルス目よりアンモニア濃度の高い環境に適応しており、海洋では堆積物などからの検出例が多い。 ニトロソプミルス目/Nitrosopumilales ‐ 中温性の亜硝酸古細菌。水族館のフィルターから発見されたNitrosopumilus maritimusを代表種とする。海水中からの検出例が多いが、土壌性の物もいる。ニトロソスパエラ目/Nitrososphaerales ‐ 中温性の亜硝酸古細菌。2018年現在、土壌から発見されたNitrososphaera viennensis1種のみが記載されている。後述のニトロソプミルス目よりアンモニア濃度の高い環境に適応しており、海洋では堆積物などからの検出例が多い。ニトロソプミルス目/Nitrosopumilales ‐ 中温性の亜硝酸古細菌。水族館のフィルターから発見されたNitrosopumilus maritimusを代表種とする。海水中からの検出例が多いが、土壌性の物もいる。 ===ユーリ古細菌=== 2018年現在約480種が記載。Zリングで分裂する。アクチンを欠く。細胞内にゲノムを複数コピー持つ。 ”ユーリ古細菌門”/”Euryarchaeota” アルカエオグロブス綱/Archaeoglobi ‐ 海洋熱水鉱床、油田などから分離される嫌気性の超好熱菌。硫酸還元菌であるArchaeoglobus、鉄を酸化するFerroglobus、第二鉄を還元するGeoglobusの3属がある。 テルモプラズマ綱/Thermoplasmata ‐ ユーリ古細菌の中では唯一ヒストンを欠く。 テルモプラズマ目/Thermoplasmatales ‐ 陸上の硫気孔、温泉など。クレン古細菌のスルフォロバス目と同じく好熱好酸菌だが、それよりも低pHに適応し(好熱性は低い)、大半の種はpH1以下でも増殖できる。Picrophilusを除いて細胞壁を欠損する。偏性好気性の従属栄養生物が多い。 メタノマッシリイコックス目/Methanomassiliicoccales ‐ メタン菌。外膜を持つ。2018年現在Methanomassiliicoccus luminyensisのみが記載。この種はヒト大腸内でメチルアミンを分解していると考えられる。 テルモコックス綱/Thermococci ‐ 有機物を発酵する嫌気性の従属栄養生物で、海洋熱水系に広くみられる。全種が超好熱性。Pyrococcus furiosusは研究の進んでいる古細菌種である。 メタノバクテリウム綱/Methanobacteria ‐ 動物の消化器官、熱水泉、下水、湖沼、その他広い淡水系に分布するメタン菌。人体からもMethanobrevibacterが比較的よく検出される。細胞壁にシュードムレインという構造を持つ。 メタノコックス綱/Methanococci ‐ 海底熱水鉱床や海底沈殿物など主に海洋系に分布するメタン菌。Methanocaldococcus jannaschiiは最初にゲノムが解析された古細菌である。主に水素+二酸化炭素系でメタンを生成する。 ”メタノミクロビウム綱”/”Methanomicrobia” ‐ 主に水田や湖沼、シロアリ、反芻動物の消化器官などに分布するメタン菌。酢酸を利用する種が多いが代謝形態は多様性に富む。 メタノミクロビウム目/Methanomicrobiales ‐ 水素+二酸化炭素系のほかに、ギ酸、アルコール+二酸化炭素系でメタンを生成する。 メタノサルキナ目/Methanosarcinales ‐ 酢酸をメタン生成の基質に用いることのできる種が多く、硫化ジメチルを利用できる種もいる。バイオガスの生産にMethanosaeta、Methanosarcinaが重要。 メタノケッラ目/Methanocellales ‐ 以前Rice Claster Iと呼ばれていたもの。水田や湖水、泥炭地に生息するメタン菌。 メタノピュルス綱/Methanopyri ‐ 超好熱性のメタン菌。Methanopyrus kandleri1種のみが分離されている。生物の生育限界温度である122℃で増殖するStrain 116を含む。細胞壁はメタノバクテリウム綱と同様シュードムレインであるが、その外側を更にS層が覆う。 メタノナトロナルカエウム綱/Methanonatronarchaeia ‐ シベリアの超塩水ソーダ湖の嫌気性沈殿物より分離された、好塩・好アルカリ・好熱性のメタン菌Methanonatronarchaeum thermophilum1種のみ。 ハロバクテリウム綱/Halobacteria ‐ いわゆる高度好塩菌。2018年現在約250種を含み、記載されている古細菌の約半数を占める。好気従属栄養性で、バクテリオロドプシンにより光エネルギーも利用する。 ハロバクテリウム目/Halobacteriales ‐ よく研究された古細菌であるHalobacterium salinarum NRC‐1などを含む。 ハロフェラクス目/Haloferacales ナトリアルバ目/Natrialbales ‐ 比較的好アルカリ性の高度好塩菌が多い。アルカエオグロブス綱/Archaeoglobi ‐ 海洋熱水鉱床、油田などから分離される嫌気性の超好熱菌。硫酸還元菌であるArchaeoglobus、鉄を酸化するFerroglobus、第二鉄を還元するGeoglobusの3属がある。テルモプラズマ綱/Thermoplasmata ‐ ユーリ古細菌の中では唯一ヒストンを欠く。 テルモプラズマ目/Thermoplasmatales ‐ 陸上の硫気孔、温泉など。クレン古細菌のスルフォロバス目と同じく好熱好酸菌だが、それよりも低pHに適応し(好熱性は低い)、大半の種はpH1以下でも増殖できる。Picrophilusを除いて細胞壁を欠損する。偏性好気性の従属栄養生物が多い。 メタノマッシリイコックス目/Methanomassiliicoccales ‐ メタン菌。外膜を持つ。2018年現在Methanomassiliicoccus luminyensisのみが記載。この種はヒト大腸内でメチルアミンを分解していると考えられる。テルモプラズマ目/Thermoplasmatales ‐ 陸上の硫気孔、温泉など。クレン古細菌のスルフォロバス目と同じく好熱好酸菌だが、それよりも低pHに適応し(好熱性は低い)、大半の種はpH1以下でも増殖できる。Picrophilusを除いて細胞壁を欠損する。偏性好気性の従属栄養生物が多い。メタノマッシリイコックス目/Methanomassiliicoccales ‐ メタン菌。外膜を持つ。2018年現在Methanomassiliicoccus luminyensisのみが記載。この種はヒト大腸内でメチルアミンを分解していると考えられる。テルモコックス綱/Thermococci ‐ 有機物を発酵する嫌気性の従属栄養生物で、海洋熱水系に広くみられる。全種が超好熱性。Pyrococcus furiosusは研究の進んでいる古細菌種である。メタノバクテリウム綱/Methanobacteria ‐ 動物の消化器官、熱水泉、下水、湖沼、その他広い淡水系に分布するメタン菌。人体からもMethanobrevibacterが比較的よく検出される。細胞壁にシュードムレインという構造を持つ。メタノコックス綱/Methanococci ‐ 海底熱水鉱床や海底沈殿物など主に海洋系に分布するメタン菌。Methanocaldococcus jannaschiiは最初にゲノムが解析された古細菌である。主に水素+二酸化炭素系でメタンを生成する。”メタノミクロビウム綱”/”Methanomicrobia” ‐ 主に水田や湖沼、シロアリ、反芻動物の消化器官などに分布するメタン菌。酢酸を利用する種が多いが代謝形態は多様性に富む。 メタノミクロビウム目/Methanomicrobiales ‐ 水素+二酸化炭素系のほかに、ギ酸、アルコール+二酸化炭素系でメタンを生成する。 メタノサルキナ目/Methanosarcinales ‐ 酢酸をメタン生成の基質に用いることのできる種が多く、硫化ジメチルを利用できる種もいる。バイオガスの生産にMethanosaeta、Methanosarcinaが重要。 メタノケッラ目/Methanocellales ‐ 以前Rice Claster Iと呼ばれていたもの。水田や湖水、泥炭地に生息するメタン菌。メタノミクロビウム目/Methanomicrobiales ‐ 水素+二酸化炭素系のほかに、ギ酸、アルコール+二酸化炭素系でメタンを生成する。メタノサルキナ目/Methanosarcinales ‐ 酢酸をメタン生成の基質に用いることのできる種が多く、硫化ジメチルを利用できる種もいる。バイオガスの生産にMethanosaeta、Methanosarcinaが重要。メタノケッラ目/Methanocellales ‐ 以前Rice Claster Iと呼ばれていたもの。水田や湖水、泥炭地に生息するメタン菌。メタノピュルス綱/Methanopyri ‐ 超好熱性のメタン菌。Methanopyrus kandleri1種のみが分離されている。生物の生育限界温度である122℃で増殖するStrain 116を含む。細胞壁はメタノバクテリウム綱と同様シュードムレインであるが、その外側を更にS層が覆う。メタノナトロナルカエウム綱/Methanonatronarchaeia ‐ シベリアの超塩水ソーダ湖の嫌気性沈殿物より分離された、好塩・好アルカリ・好熱性のメタン菌Methanonatronarchaeum thermophilum1種のみ。ハロバクテリウム綱/Halobacteria ‐ いわゆる高度好塩菌。2018年現在約250種を含み、記載されている古細菌の約半数を占める。好気従属栄養性で、バクテリオロドプシンにより光エネルギーも利用する。 ハロバクテリウム目/Halobacteriales ‐ よく研究された古細菌であるHalobacterium salinarum NRC‐1などを含む。 ハロフェラクス目/Haloferacales ナトリアルバ目/Natrialbales ‐ 比較的好アルカリ性の高度好塩菌が多い。ハロバクテリウム目/Halobacteriales ‐ よく研究された古細菌であるHalobacterium salinarum NRC‐1などを含む。ハロフェラクス目/Haloferacalesナトリアルバ目/Natrialbales ‐ 比較的好アルカリ性の高度好塩菌が多い。 ==未培養系統を含む系統概観== 記載種を含む系統は太字で表した。これらの系統については前節と重複する。 ”ユーリ古細菌界”/”Euryarchaeota” ”ユーリ古細菌門”/”Euryarchaeota” テルモコックス綱/Thermococci ”メタノマダ”/”Methanomada” = クラスIメタン菌 メタノバクテリウム綱/Methanobacteria メタノコックス綱/Methanococci メタノピュルス綱/Methanopyri アルカエオグロブス綱/Archaeoglobi テルモプラズマ綱/Thermoplasmata Marine Group II ‐ 海洋性。有光層に多く、プロテオロドプシンを持つものもいる。 ”ステノス古細菌”/”Stenosarchaea” ”メタノミクロビウム綱”/”Methanomicrobia” = クラスIIメタン菌 ANME I‐III ‐ 嫌気メタン酸化古細菌。 メタノナトロナルカエウム綱/Methanonatronarchaeia ハロバクテリウム綱/Halobacteria”ユーリ古細菌門”/”Euryarchaeota” テルモコックス綱/Thermococci ”メタノマダ”/”Methanomada” = クラスIメタン菌 メタノバクテリウム綱/Methanobacteria メタノコックス綱/Methanococci メタノピュルス綱/Methanopyri アルカエオグロブス綱/Archaeoglobi テルモプラズマ綱/Thermoplasmata Marine Group II ‐ 海洋性。有光層に多く、プロテオロドプシンを持つものもいる。 ”ステノス古細菌”/”Stenosarchaea” ”メタノミクロビウム綱”/”Methanomicrobia” = クラスIIメタン菌 ANME I‐III ‐ 嫌気メタン酸化古細菌。 メタノナトロナルカエウム綱/Methanonatronarchaeia ハロバクテリウム綱/Halobacteriaテルモコックス綱/Thermococci”メタノマダ”/”Methanomada” = クラスIメタン菌 メタノバクテリウム綱/Methanobacteria メタノコックス綱/Methanococci メタノピュルス綱/Methanopyriメタノバクテリウム綱/Methanobacteriaメタノコックス綱/Methanococciメタノピュルス綱/Methanopyriアルカエオグロブス綱/Archaeoglobiテルモプラズマ綱/Thermoplasmata Marine Group II ‐ 海洋性。有光層に多く、プロテオロドプシンを持つものもいる。Marine Group II ‐ 海洋性。有光層に多く、プロテオロドプシンを持つものもいる。”ステノス古細菌”/”Stenosarchaea” ”メタノミクロビウム綱”/”Methanomicrobia” = クラスIIメタン菌 ANME I‐III ‐ 嫌気メタン酸化古細菌。 メタノナトロナルカエウム綱/Methanonatronarchaeia ハロバクテリウム綱/Halobacteria”メタノミクロビウム綱”/”Methanomicrobia” = クラスIIメタン菌 ANME I‐III ‐ 嫌気メタン酸化古細菌。ANME I‐III ‐ 嫌気メタン酸化古細菌。メタノナトロナルカエウム綱/Methanonatronarchaeiaハロバクテリウム綱/Halobacteria”プロテオ古細菌界”/”Proteoarchaeota・”エオサイト界”/”Eocyta” ‐ ESCRT複合体で分裂、EF‐1(伸長因子‐1)に11アミノ酸残基の挿入がある。 TACK系統(”フィル古細菌”/”Filarchaeota”) ”クレン古細菌門”/”Crenarchaeota” ”タウム古細菌門”/”Thaumarchaeota” ”アイグ古細菌門”/”Aigarchaeota” ‐ 地下320mの金鉱より発見された”Ca. Caldiarchaeum subterraneum’”。ゲノム情報からは、好気または硝酸呼吸により、水素や一酸化炭素を酸化していると予想されている。ユビキチン‐プロテアソームシステムに必要な遺伝子を持つ。タウム古細菌に近縁で、タウム古細菌に含めることもある。 ”コル古細菌門”/”Korarchaeota” ‐ 環境DNAサンプルと集積培養系のみ。環境中での存在量・分布は小さいと考えられる。嫌気従属栄養性の超好熱菌。ユーリ古細菌とクレン古細菌の2大系統以外では最も最初に発見され、当初は古細菌の中で原始的な系統に属すと考えられたが、その後クレン古細菌に近い系統と考えられている。集積培養が得られている”Ca. Korarchaeum cryptofilum”は、嫌気性・超好熱性の従属栄養生物である。 ”バテュ古細菌門”/”Bathyarchaeota” ‐ 海底堆積物などで豊富に見つかる系統。未培養だがメタン生成経路やバクテリオクロロフィルa合成酵素の検出例がある特異な系統。 ”アスガルド古細菌”/”Asgardarchaeota” ‐ 真核生物様の遺伝子を多数持ち、この系統から真核生物が派生したとする説がある。 ”ロキ古細菌”/”Lokiarchaeota” ‐ 水素依存性の嫌気性独立栄養生物と予想されている。2010年に北極海ガッケル海嶺のロキの丘から発見された。発見場所にちなんで”ロキ”古細菌と名付けられたが、これに倣ってアスガルド系統の古細菌には北欧神話の神の名前が付けられるようになった。 ”ヘイムダル古細菌門”/”Heimdalarchaeota” ‐ ゲノム情報よりプロテオロドプシンを持つことから、好気性の光従属栄養生物と予想されている。系統解析では真核生物を内部に含むことがある。 ”オーディン古細菌門”/”Odinarchaeota” ‐ チューブリンを持つ可能性がある。 ”トール古細菌門”/”Torarchaeota” ‐ 有機物と硫黄に依存する嫌気性の従属栄養生物と予想されている。TACK系統(”フィル古細菌”/”Filarchaeota”) ”クレン古細菌門”/”Crenarchaeota” ”タウム古細菌門”/”Thaumarchaeota” ”アイグ古細菌門”/”Aigarchaeota” ‐ 地下320mの金鉱より発見された”Ca. Caldiarchaeum subterraneum’”。ゲノム情報からは、好気または硝酸呼吸により、水素や一酸化炭素を酸化していると予想されている。ユビキチン‐プロテアソームシステムに必要な遺伝子を持つ。タウム古細菌に近縁で、タウム古細菌に含めることもある。 ”コル古細菌門”/”Korarchaeota” ‐ 環境DNAサンプルと集積培養系のみ。環境中での存在量・分布は小さいと考えられる。嫌気従属栄養性の超好熱菌。ユーリ古細菌とクレン古細菌の2大系統以外では最も最初に発見され、当初は古細菌の中で原始的な系統に属すと考えられたが、その後クレン古細菌に近い系統と考えられている。集積培養が得られている”Ca. Korarchaeum cryptofilum”は、嫌気性・超好熱性の従属栄養生物である。 ”バテュ古細菌門”/”Bathyarchaeota” ‐ 海底堆積物などで豊富に見つかる系統。未培養だがメタン生成経路やバクテリオクロロフィルa合成酵素の検出例がある特異な系統。”クレン古細菌門”/”Crenarchaeota””タウム古細菌門”/”Thaumarchaeota””アイグ古細菌門”/”Aigarchaeota” ‐ 地下320mの金鉱より発見された”Ca. Caldiarchaeum subterraneum’”。ゲノム情報からは、好気または硝酸呼吸により、水素や一酸化炭素を酸化していると予想されている。ユビキチン‐プロテアソームシステムに必要な遺伝子を持つ。タウム古細菌に近縁で、タウム古細菌に含めることもある。”コル古細菌門”/”Korarchaeota” ‐ 環境DNAサンプルと集積培養系のみ。環境中での存在量・分布は小さいと考えられる。嫌気従属栄養性の超好熱菌。ユーリ古細菌とクレン古細菌の2大系統以外では最も最初に発見され、当初は古細菌の中で原始的な系統に属すと考えられたが、その後クレン古細菌に近い系統と考えられている。集積培養が得られている”Ca. Korarchaeum cryptofilum”は、嫌気性・超好熱性の従属栄養生物である。”バテュ古細菌門”/”Bathyarchaeota” ‐ 海底堆積物などで豊富に見つかる系統。未培養だがメタン生成経路やバクテリオクロロフィルa合成酵素の検出例がある特異な系統。”アスガルド古細菌”/”Asgardarchaeota” ‐ 真核生物様の遺伝子を多数持ち、この系統から真核生物が派生したとする説がある。 ”ロキ古細菌”/”Lokiarchaeota” ‐ 水素依存性の嫌気性独立栄養生物と予想されている。2010年に北極海ガッケル海嶺のロキの丘から発見された。発見場所にちなんで”ロキ”古細菌と名付けられたが、これに倣ってアスガルド系統の古細菌には北欧神話の神の名前が付けられるようになった。 ”ヘイムダル古細菌門”/”Heimdalarchaeota” ‐ ゲノム情報よりプロテオロドプシンを持つことから、好気性の光従属栄養生物と予想されている。系統解析では真核生物を内部に含むことがある。 ”オーディン古細菌門”/”Odinarchaeota” ‐ チューブリンを持つ可能性がある。 ”トール古細菌門”/”Torarchaeota” ‐ 有機物と硫黄に依存する嫌気性の従属栄養生物と予想されている。”ロキ古細菌”/”Lokiarchaeota” ‐ 水素依存性の嫌気性独立栄養生物と予想されている。2010年に北極海ガッケル海嶺のロキの丘から発見された。発見場所にちなんで”ロキ”古細菌と名付けられたが、これに倣ってアスガルド系統の古細菌には北欧神話の神の名前が付けられるようになった。”ヘイムダル古細菌門”/”Heimdalarchaeota” ‐ ゲノム情報よりプロテオロドプシンを持つことから、好気性の光従属栄養生物と予想されている。系統解析では真核生物を内部に含むことがある。”オーディン古細菌門”/”Odinarchaeota” ‐ チューブリンを持つ可能性がある。”トール古細菌門”/”Torarchaeota” ‐ 有機物と硫黄に依存する嫌気性の従属栄養生物と予想されている。DPANN系統 ‐ 集積培養や環境DNAのみだが、極端に細胞とゲノムサイズが小さい。古細菌の中でもっとも初期に別れた系統とする系統解析例が多いが、特殊化したユーリ古細菌とする見解もある。 ”ディアペロトリテス門”/”Diapherotrites” (pMC2A384) ‐ 明神海丘(伊豆・小笠原弧)の水深1330mにあるブラックスモーカーより最初に報告されたもの。ホームステーク金山跡の地下水から検出された集団は、ゲノム解析から従属栄養生物と予想されている。同時に、ナノ古細菌などと同様の寄生生物から進化した可能性に言及されている。提案された古細菌門の中では、唯一‐archaeotaを語尾に持たない。 ”パルウ古細菌門”/”Parvarchaeota” ‐ テルモプラズマ目古細菌に関係(寄生の可能性もある)。非常に細胞サイズが小さい特徴がある。 ”ミクル古細菌”/”Micrarchaeota” ‐ パルウ古細菌同様テルモプラズマ古細菌に関係し、細胞サイズが小さい。細胞サイズの小ささは全生物でもトップクラスで、長さ200 nm×幅60 nm、体積も0.009 μmから0.04 μmしかない。ただし系統はやや離れる。 ”アエニグム古細菌門”/”Aenigmarchaeota” (DSEG) ‐ 深海の熱水噴出孔に存在する系統。 ”ナノ好塩古細菌門”/”Nanohaloarchaeota” ‐ 高塩環境に分布する。ハロバクテリウム綱とは別系統。 ”ナノ古細菌門”/”Nanoarchaeota” ‐ クレン古細菌に寄生する系統。ゲノムサイズが非常に小さい。最初に発見され、Ignicoccus hospitalisに寄生する”Ca. Nanoarchaeum equitans”は、ゲノムサイズが古細菌最少の49万0885塩基対しかない。”ディアペロトリテス門”/”Diapherotrites” (pMC2A384) ‐ 明神海丘(伊豆・小笠原弧)の水深1330mにあるブラックスモーカーより最初に報告されたもの。ホームステーク金山跡の地下水から検出された集団は、ゲノム解析から従属栄養生物と予想されている。同時に、ナノ古細菌などと同様の寄生生物から進化した可能性に言及されている。提案された古細菌門の中では、唯一‐archaeotaを語尾に持たない。”パルウ古細菌門”/”Parvarchaeota” ‐ テルモプラズマ目古細菌に関係(寄生の可能性もある)。非常に細胞サイズが小さい特徴がある。”ミクル古細菌”/”Micrarchaeota” ‐ パルウ古細菌同様テルモプラズマ古細菌に関係し、細胞サイズが小さい。細胞サイズの小ささは全生物でもトップクラスで、長さ200 nm×幅60 nm、体積も0.009 μmから0.04 μmしかない。ただし系統はやや離れる。”アエニグム古細菌門”/”Aenigmarchaeota” (DSEG) ‐ 深海の熱水噴出孔に存在する系統。”ナノ好塩古細菌門”/”Nanohaloarchaeota” ‐ 高塩環境に分布する。ハロバクテリウム綱とは別系統。”ナノ古細菌門”/”Nanoarchaeota” ‐ クレン古細菌に寄生する系統。ゲノムサイズが非常に小さい。最初に発見され、Ignicoccus hospitalisに寄生する”Ca. Nanoarchaeum equitans”は、ゲノムサイズが古細菌最少の49万0885塩基対しかない。 =津軽ダム= 津軽ダム(つがるダム)は青森県中津軽郡西目屋村、一級河川・岩木川本流上流部に建設されたダムである。 国土交通省東北地方整備局が施工を行う国土交通省直轄ダムで、高さ97.2メートルの重力式コンクリートダム。岩木川総合開発事業の中心事業として岩木川の治水、津軽平野への灌漑、流域都市への水道供給および水力発電を目的とした特定多目的ダム法に基づく特定多目的ダムである。1960年(昭和35年)に完成した目屋ダムのダム再開発事業として、目屋ダム直下流60メートル地点に建設され、2017年(平成29年)4月29日にダムのオープンイベントが行われた。完成に伴い目屋ダムは水没する。ダムによって形成される人造湖は、近くにある白神山地にちなんで津軽白神湖(つがるしらかみこ)と命名された。 ==地理== 岩木川は青森県を流れる河川としては最大規模の河川である。青森県・秋田県境、1993年(平成5年)に世界自然遺産に登録された白神山地にある雁森岳を水源とし、ダム地点を通過すると岩木山南麓を東に向かって流れ、弘前市に至る。その後は向きを北に変え、弘前市・南津軽郡田舎館村・南津軽郡藤崎町の境で水系最大の支流である平川を合わせる。以降北津軽郡板柳町・鶴田町・中泊町、つがる市、五所川原市を流れて三角州を形成しながら十三湖に至り、十三湖大橋を経て日本海へと注ぐ。流路延長102キロメートル、流域面積約2,540平方キロメートルの河川であり、流域内の人口は約48万2400人を抱える。 ダムは岩木川の上流部、白神山地の入口に当たる暗門の滝下流に建設されている。ダムの名称は青森県西部地域を総称する「津軽」から命名された。 ==経緯== ===岩木川の河川開発=== 青森県最大の河川である岩木川は、津軽平野の「母なる川」として流域住民の生活に欠かせない河川である。しかし白神山地の急峻な地形を上流域とすることから河川勾配は急で、大雨や融雪により発生した洪水は一挙に勾配の緩やかな津軽平野に流れ込む。加えて十三湖河口部はしばしば河口閉塞を起こすため、行き場を失った河水は十三湖や岩木川下流に滞留し、浸水被害を増加させていた。このため1917年(大正6年)より当時河川行政を管轄していた内務省は岩木川改修計画を立案し、主に下流部を中心とした堤防整備や十三湖の河口開削を柱とした河川改修を国直轄事業として進めていたが、1935年(昭和10年)に発生した洪水は改修計画で定めた岩木川河口部における計画高水流量・毎秒1,670立方メートルを超過する流量となり、津軽平野に多大な被害を与えた。このため翌年の1936年(昭和11年)に計画を改定し、計画高水流量を毎秒2,500立方メートルに高直しした上で河川改修に再度取り掛かるが、財政面・工期の時間的な制約などが問題となり進捗は遅れていた。その一方で、岩木川は天候によっては容易に水不足に陥り易く、一大穀倉地帯であり、かつ青森県の特産品であるリンゴ栽培も盛んな津軽平野では廻堰大溜池(津軽富士見湖)をはじめ多くのため池が建設されていたが、農業用水の安定的な確保には至らず流域住民はより安定した農業用水の供給を望んでいた。さらに当時の青森県は他県に比べて電力の需給バランスが悪く、電力は他県の発電所から融通をしてもらうという状態だったことから、灌漑や水力発電といった利水についても開発の必要性が生じていた。 当時の日本における河川行政は、東京帝国大学教授で内務省土木試験所長だった物部長穂が河水統制事業を提唱し、従来利水目的で建設が行われていたダム事業を治水・利水の双方で利用し総合的な河川開発を行うべきと主張。内務省内務技監の青山士(あきら)が1935年に国策として採用したことから相模川(神奈川県)、錦川(山口県)、綾川(香川県)などで多目的ダムによる河川開発が実施され始めた。青森県はこれに先立ち1934年(昭和9年)、治水と水力発電を目的として岩木川最大の支流・平川の二次支流である浅瀬石(あせいし)川上流部に日本最初の多目的ダム事業である浅瀬石川河水統制事業・沖浦ダムの建設に着手。十和田湖の莫大な貯水量を利用して三本木原台地の農地開発と水力発電を目的とした奥入瀬川河水統制事業と共に河川総合開発の先駆けとして1945年(昭和20年)に完成させた。戦後、連年発生する水害や食糧不足、発電設備の障害に端を発する停電頻発が日本の復興に負の影響を及ぼすことを懸念した内閣経済安定本部により、1951年(昭和26年)に物部の河水統制事業を拡充した河川総合開発事業が制度化。岩木川水系は対象河川となり多目的ダム計画がスタート。さらに1950年(昭和25年)制定の国土総合開発法に基づき、より広域かつ強力な河川開発を行い地域発展を促進する目的で特定地域総合開発計画が日本の22地域で計画された。青森県下でも岩木川水系と奥入瀬川水系が対象とされ1957年(昭和32年)に十和田岩木川特定地域総合開発計画が閣議決定され、岩木川の治水、津軽平野・三本木原台地の灌漑、両河川の水力発電開発などが計画に盛り込まれた。 こうした中で岩木川水系の河川開発の要として計画・建設されたのが目屋ダムであり、1960年(昭和35年)に完成した。 ===新たな課題と対策=== 目屋ダムは1936年策定の改修計画に基づく洪水調節、津軽平野の農地1万2624ヘクタールに対する農業用水供給、認可出力1万1000キロワットの水力発電を目的に完成した。総貯水容量は3900万立方メートルで完成当時は青森県最大のダムであり、岩木川の治水と利水に大きな役割を担っていた。しかしダム完成当時は高度経済成長期に差し掛かる時期で、人口の増加が著しくなる時期であった。このため利水の需給バランスが次第に不均衡になると共に都市・農地の拡大が治水安全度の低下をもたらし、従来の治水・利水計画では対応し切れなくなっていた。 治水では完成直後に流域を襲った1960年8月の洪水で早速洪水調節機能を発揮し、平均の洪水調節率は70パーセントと高い水準であった目屋ダムではあるが、治水計画を上回る洪水も度々発生した。ダム完成後48年間の間に計画洪水調節量を上回る洪水は21回記録され、1972年(昭和47年)の昭和47年7月豪雨と1997年(平成9年)5月の融雪洪水ではダムからの放流量が規定されている洪水調節時の放流量上限を超過した。前二者のほか1975年(昭和50年)の台風5号、1977年(昭和52年)の豪雨、1981年(昭和56年)の台風15号、1990年(平成2年)の台風19号(りんご台風)、2004年(平成14年)の豪雨で岩木川流域は多くの住宅や農地が浸水被害を受け、特に1977年の水害では死者・行方不明者41名を数える大きな被害を生じた。利水では1973年(昭和48年)と1982年(昭和57年)に大渇水が発生。1988年(昭和63年)には弘前市などで水不足が発生しプールが使用中止になるなどの影響を受けた。渇水は1988年以降2年に1回の割合で頻発し、農民が交代制で用水を利用する番水を行うなど不安定な状況が繰り返されたが特に深刻な水不足は気候変動が顕著になりつつあった2000年代以降であり、2007年(平成19年)の渇水では目屋ダムの貯水が過去最低水位に達し、岩木川の流量が極端に低下して農地には通常の二割しか取水できずひび割れの被害が生じたり、弘前市では上水道の給水制限が行われた。2011年(平成23年)にも再び渇水が発生し給水制限が実施されている。 水害と渇水が交互に繰り返される状況下、岩木川本流におけるダムは目屋ダムしか存在しないため新たな河川開発が必要となった。岩木川水系は1966年(昭和41年)に河川法の改定により一級河川に指定され、新たな河川改修計画である岩木川水系工事実施基本計画が1973年に策定された。この中で岩木川の基本高水流量は五所川原市地点で毎秒5,500立方メートルと大幅に高直しされ、これを河川改修や新規ダム事業で毎秒3,800立方メートルに低減する計画高水流量が決定した。また灌漑や上水道の水源も新たに整備する方向性が定まった。岩木川水系の多目的ダムはこの時点で目屋ダムのほかは沖浦ダムと五所川原市に1973年完成した飯詰ダム(飯詰川)しかなく、特に上水道供給目的を有するダムは飯詰ダムのみであった。このため新たな多目的ダム計画が岩木川水系で検討され、その第一弾として着手されたのが浅瀬石川ダム(浅瀬石川)である。沖浦ダムの再開発事業として治水・水力発電に加え沖浦ダムにはなかった上水道供給目的が新規で加わり、1988年完成した。そして岩木川本流でも新規のダム事業が計画され、既設目屋ダムの直下流に大規模なダムを建設して岩木川の治水・利水を強化する方針が青森県によって計画された。 計画当初「第二目屋ダム」として調査が開始されたダム事業が津軽ダムであり、浅瀬石川ダムが完成した1988年に事業が建設省東北地方建設局(国土交通省東北地方整備局の前身)に移管され、本格的な事業に着手した。 ==補償== 津軽ダムの建設に伴い、西目屋村砂子瀬地区・川原平地区の177戸と農地57ヘクタールが移転対象となる。この地域は目屋ダム建設においても移転対象となった地域であり、目屋ダムでは両地区において83戸92世帯が移転し、その大半が完成後にダム湖畔へ移転している。このため目屋ダムで移転を余儀なくされた住民が、津軽ダム建設によって再び移転を余儀なくされるという事態が起こった。しかも今回は目屋ダムを上回る規模の補償案件であり、再びダムにより故郷を失う住民はダム建設に強く反対した。 目屋ダムにおいては補償交渉に並行して下流域の受益地に住む住民が自発的にコメを一握り砂子瀬・川原平地区の住民に提供しようとした義捐金運動・「米一握り運動」を津軽平野全域で実施、当時の教員初任給1万円の時代に米価に換算して約150万円もの義捐金が集まり、これが移転住民の心を動かして1956年(昭和31年)に移転住民全員が一斉に補償基準に調印して交渉が妥結した。この時期は国によるダム補償関連の法整備が未熟であり、熊本県の下筌ダム(津江川)建設反対運動である蜂の巣城紛争をはじめ八ッ場ダム(群馬県・吾妻川)や大滝ダム(紀の川・奈良県)など長期間かつ強硬なダム反対運動が展開されており、目屋ダムの例は稀であった。こうした強固な反対運動は建設省の対応が発端の一つであったことから、ダム補償に関する法整備が強く求められ1973年に水源地域対策特別措置法(水特法)が施行された。津軽ダムは1993年(平成5年)に水特法の指定ダムとなったが、移転戸数177戸と大規模であることから、水特法第9条などの指定を受けた(水特法9条等指定ダム)。 水特法9条等指定ダムとは、ダムにより水没する戸数が150戸以上または水没農地面積が150ヘクタール以上の大規模な補償案件を有するダム事業に対し、道路・上下水道・小中学校・診療所・土地改良事業・森林保全事業などに関する補償事業の負担金を通常の指定ダムに比べて上積みするダムのことである。同法に指定されたダムとしては八ッ場・大滝ダムのほか東北地方では浅瀬石川ダム、御所ダム(雫石川)、七ヶ宿ダム(白石川)、長沼ダム(長沼川)、森吉山ダム(小又川)、摺上川ダム(摺上川)、三春ダム(大滝根川)がある。水特法指定以降移転住民との交渉は積み重ねられ、1999年(平成11年)に水没対象地域である西目屋村が水源地域に指定され、補償事業に関する整備計画が示された。このうち代替移転地についてはダム下流の西目屋村田代地区、弘前市若葉地区と一町田地区の三か所が集団移転地として造成され、移転の準備が整えられた。2000年(平成12年)3月に損失補償基準の提示と補償説明会が実施された。そして1995年(平成7年)に用地調査を開始してから延べ26回にわたる協議を経て2000年8月に移転住民は損失補償基準に調印し、1988年の津軽ダム計画発表から12年の歳月を経て補償交渉は妥結した。以後徐々に砂子瀬・川原平地区の住民は新天地への移転を開始し、西目屋村田代地区に51世帯、弘前市一町田地区に31世帯、弘前市若葉地区に28世帯が移転し残りはそれ以外の地区へ散って行った。古くからマタギの村として栄えた砂子瀬・川原平地区は全世帯が移転し、その歴史に幕を閉じたが、2002年11月には津軽ダム水没移転者協力感謝式典が青森県知事、弘前市長、東北地方整備局長出席の下開催され約600名の移転住民に対する感謝の念を表した。なお、同一住民がダム建設により二度の移転を余儀なくされた例は石淵ダム・胆沢ダム(胆沢川)の例がある 移転住民の補償交渉はこうして妥結したが、漁業権の補償を巡る岩木川漁業協同組合との漁業補償は難航している。2009年(平成21年)より開始された漁業補償交渉は、岩木川全域を漁業補償対象にすべきと主張する漁協側と事業者の国土交通省との間で意見が対立。2011年に国土交通省が提示した補償金額2177万円を漁協は拒否、国土交通省は青森県収用委員会に対し土地収用法に基づく漁業権の収容と使用を申請した。2012年(平成24年)に国土交通省側の主張が容れられた裁決が決定したが漁業側は裁決に対し拒否を表明。裁決に対する不服申し立てが不調に終わった場合は訴訟に踏み切るという姿勢を示している。 ==建設== 津軽ダムの建設において特に注意が払われたのは、白神山地など流域環境の保全と、目屋ダムの機能を維持しながら工事を進めることの二点であった。 ===環境対策=== 津軽ダムの建設を開始するに当たり、まず重要となったのは環境保全である。津軽ダムが建設される岩木川上流域は世界的にも貴重なブナ原生林が広がる白神山地があり、面積の23パーセントが岩木川流域である。白神山地には国の天然記念物に指定されているクマゲラやイヌワシをはじめ、希少種が多く生息している。加えて白神山地は1993年に世界自然遺産に屋久島と共に日本で初めて登録された。さらに1997年には環境影響評価法が制定され、大規模なダム事業は環境モニタリングが義務化されたこともあり、津軽ダム建設においてはこうした環境保護との整合性がより厳重に問われた。また目屋ダム完成以後、40年にわたり濁水問題が継続しており地元住民から「清流岩木川が泣く」と批判されていたため、岩木川の河床固定化改善を含めた流水機能改善も求められていた。 津軽ダムでは環境影響評価法制定前の1992年(平成4年)に環境影響評価が閣議で認められ、以後アセスメントに沿った形で環境対策が実施された。まずダム建設に伴う騒音・振動・粉塵など工事に伴う諸問題に対する対策として低騒音型の工事機械の採用や工事車両が渋滞しないような運行対策などを盛り込んだ。またクマタカの営巣に影響を及ぼさないために工事時期を調整して営巣期には工事を回避したり、営巣地域への立入制限などを行った。濁水については、渇水時に水位が低下した際に河岸段丘部が削り取られ、濁水が長期化することが推測されたため複数の方法で濁水の長期化を回避する対策を採った。まず取水塔に選択取水設備を設け、貯水池上層の比較的清澄な水を下流に放流することで濁水防止の他、河川生態系に影響を及ぼす温水・冷水放流を抑えて岩木川の水温を一定に保たせるほか、貯水池上流に水質保全ダムを建設してそこからバイパストンネルを下流まで建設して上流部の澄んだ水を放流する、洪水時に可及的速やかに濁水を放流して貯水池への滞留を防ぐ環境放流設備をダムに設置するなど濁水の長期化を回避する対策を講じた。さらに目的の一つに河川維持放流目的を持たせ、目屋ダムから岩木川第一発電所間の水が常時少なくなっている区間に一定量の水を放流して河川生態系を維持すると共に流砂連続性を改善して河床の固定化を防ぐ対策を採った。 生態系の維持については、貯水に伴い影響を受ける動植物の保全を対策に盛り込んだ。具体的にはユビナガコウモリの生息を保全するため人工的な洞窟を建設して2,300頭のコウモリを冬眠時に移転させ、生息数の維持を図った。昆虫についてはハッチョウトンボとエゾゲンゴロウモドキの2種について、住民の移転により放棄された水田などを利用して湿地環境を増やし個体数の増加を促す。植物についてはダム工事により繁茂に影響を及ぼす5種類の植物に対し、適切な地点に移植して繁茂を促すなどの対策を採っている。クマタカ・イヌワシなどの猛禽類については継続的に営巣状況などを確認し、生息状況をモニタリングしている。そして年間60万人ともいわれる白神山地観光を活性化させるため幅員の狭かった青森県道28号岩崎西目屋弘前線の付け替え道路を建設、環境や景観に配慮しながら建設が進められ2014年(平成26年)11月全線開通した。これにより白神山地へのアクセス向上が期待されている。 また、津軽ダム右岸直上流部で岩木川に合流する木戸ヶ沢には、1979年(昭和54年)に閉山した旧尾太(おっぷ)鉱山の鉱滓(こうさい)処分場である木戸ヶ沢堆積場があり、目屋ダム建設時に堆積場の重金属などが貯水池に流出しないようにする目的で鉱滓ダムである木戸ヶ沢かん止堤が建設されていた。しかし津軽ダムが建設されると貯水池の水位が上昇してかん止堤が冠水し、かん止堤の安定性低下や堆積場に積まれた鉱滓から重金属が流出して貯水池の水質を悪化させる懸念があった。このため2010年(平成22年)からかん止堤と県道28号木戸ヶ沢橋間の木戸ヶ沢に高さ43.2メートルの重力式コンクリートダムである鉱滓ダム・木戸ヶ沢貯水池保全施設を建設し、鉱滓流出防止を図った。まず堆積場を迂回させて上流の清浄な沢水を下流に流すバイパストンネルの出口をかん止堤下流から木戸ヶ沢貯水池保全施設下流に付け替える排水トンネル付替え工事を実施。付替え後に本体工事を施工して津軽ダム貯水池と堆積場をダムで隔離して水質汚濁を防ぐ対策を講じた。2014年(平成26年)に本体コンクリートの打設が終了し、2015年に完成する予定である。完成後は木戸ヶ沢ダムと呼ばれる木戸ヶ沢貯水池保全施設であるが、鉱滓ダムであるため河川法や河川管理施設等構造令で規定されるダムには当たらない。 ===ダムの施工=== 目屋ダム直下流60メートルという至近距離に建設される津軽ダムではあるが、完成までの間は目屋ダムは通常のダム機能を発揮している。このため目屋ダムの機能を維持しながらダム本体の工事を行わなければならない。しかしダム本体工事の第一段階である基礎岩盤の掘削を行うため、ダムサイトから川の流れを迂回させるために不可欠な設備である仮排水路については、すぐ上流に目屋ダムがあることからバイパストンネルをダム横の山に掘って流れを下流に迂回させる一般的な方法は物理的に不可能であった。特に目屋ダムは融雪期の3月末から6月に掛けてと、台風や大雨が多い夏季に放流するため、目屋ダムの放流水を適切に処理しながら工事を進める必要があったため、津軽ダムに関してはダム本体に仮排水路を設ける方針とし、半川締切方式でダム基礎岩盤の掘削と仮排水路工事を行うことにした。 津軽ダムで採用された半川締切方式の手順であるが、まずダム右岸に河水を流しこの間に流水が無くなった左岸部分の掘削を行い本体コンクリートを打設する。同時にダム本体下部に仮排水路を設ける工事を行い、完成した段階で右岸を流れていた河水を左岸に付け替える。以後河水は左岸の仮排水路を通って下流に流れ、今度は流れが無くなった右岸部の岩盤を掘削して本体コンクリートを打設し、右岸にも仮排水路を設ける。左右両岸の仮排水路が完成し、適切な河水の流下が可能となった所で本格的にダム本体のコンクリート打設を開始する。半川締切方式は1924年(大正13年)に完成した日本初の高さ50メートル級ダムである大井ダム(岐阜県・木曽川)において初めて採用され、堰や用水路の建設に際し用いられているが津軽ダムと同様の理由で半川締切方式を採用したダムとしては、北海道の夕張川に建設された大夕張ダムの再開発事業として、ダム直下流155メートル地点に2015年完成した夕張シューパロダムなどがある。 ダム本体コンクリート打設に用いられた工法は1972年に山口県の島地川ダム(島地川)で世界最初の施工が行われ、以後大規模コンクリートダムにおける標準的な工法となったRCD工法を採用した。RCDとはRoller Compacted Dam‐Concreteのことで、セメントの量を極力少なくした超堅練りコンクリートをブルドーザーでならしてロードローラーで締め固める工法である。機械を大量に投入可能なためコンクリートを大量に打設でき、工期の短縮や工事費を節約できることから島地川ダム以降多くのダムで採用されている。 こうして目屋ダムの機能を維持しながら津軽ダムの本体工事は2007年より進められ、2015年の時点でほぼ本体工事は完了している。本体工事が完了すると仮排水路は閉鎖され、試験的に貯水を行いダム本体や周辺地盤への影響を確認する試験湛水(たんすい)を行い問題が生じなければ試験的に放流を行い、完成となる。なお施工業者は安藤ハザマと西松建設であるが、安藤ハザマは前身の間組時代に目屋ダムの施工業者として建設に関わっている。 ==目的== 津軽ダムは目屋ダムを大幅に凌駕する規模のダムである(上表参照)。高さは1.7倍、長さは2倍、本体の体積は6.4倍の規模で、建設により貯水池の総貯水容量が3.6倍、有効貯水容量が3.9倍、湛水面積が2.5倍に拡大する。こうした巨大な貯水容量を有することで、目屋ダムの目的である洪水調節、不特定利水、水力発電に加え、灌漑用水の供給、上水道・工業用水道の供給目的を追加した。多目的ダムとしては用途が広い。 洪水調節についてはダム地点の計画高水流量を毎秒3,100立方メートルに設定し、ダムで毎秒2,940立方メートルを調節し下流には毎秒160立方メートルを放流する。目屋ダムは毎秒500立方メートルを計画高水流量とし、毎秒450立方メートルを調節していたため約6倍の洪水調節が可能となる。不特定利水については先述の通り河川維持放流を行うことで岩木川の減水区間を解消し、河川生態系の維持を図る。灌漑については弘前市・つがる市・五所川原市・北津軽郡鶴田町の3市1町の農地9,600ヘクタールに農業用水を供給する。上水道については弘前市の水がめとして、1日量で1万4000立方メートルを新規に供給し、工業用水については五所川原市にある第二漆川工業団地に対し1日量で1万立方メートルの用水をそれぞれ供給する。そして水力発電については、東北電力が電気事業者としてダム事業に参加。ダム右岸にダム式発電所の津軽発電所を新設し、認可出力8,500キロワットを発電する。発電所の工事は2011年12月から開始され、2016年5月に運転が開始される見込みである。 ただし、津軽ダムの事業内容については2005年(平成17年)と2007年に計画の変更が行われている。2005年の変更点はダムの完成年度であり、事業完成を2016年度へ変更した。2007年の変更は規模や目的内容、事業費などが変更されており、2005年よりも広範囲の変更であった。まず規模であるが当初計画のダム規模は高さ97.5メートル、総貯水容量1億4230万立方メートルであったが、高さを30センチメートル、総貯水容量を1400万立方メートル減らした。次に目的内容であるが受益地の情勢が変化したことによる利水計画の変更が主な内容である。灌漑目的では農地転用に伴う受益農地減少により、当初9,700ヘクタールだった供給面積を9,600ヘクタールに減らした。上水道については弘前市のほか当初は津軽広域水道事業団に所属する青森市、黒石市、平川市、五所川原市、つがる市、北津軽郡鶴田町・板柳町、南津軽郡藤崎町・田舎館村に対して合計で1日量5万4800立方メートルの給水を行う予定であったが、人口減少による水需要の鈍化で供給計画がより適正に変更された結果津軽広域水道事業団は水道事業から撤退。弘前市も供給量を半分以下に減らした。工業用水道も五所川原市の工業団地企業誘致が芳しくないことから、既に進出している工場の地下水取水をダムに転用する方向に転換し、1日量1万5000立方メートルの取水量を1日量1万立方メートルに減量した。反面洪水調節量については岩木川の治水基準点である五所川原市において100年に一度の洪水に耐えうる計画に修正するため、調節量を増加させている。水力発電事業においては大幅な変更があり、まず電気事業者が当初は目屋ダムの電気事業者である青森県公営企業局だったのが、電力自由化などによる環境の変化もあって事業から撤退。代わりに東北電力が新規事業者として参加した。津軽発電所も当初は岩木川第一発電所と同様にダム水路式発電所の計画であったがダム式発電所に変更、認可出力も当初1万3800キロワット予定が減らされ、8,500キロワットとなった。そして総事業費については当初約1450億円であったが、ダム自体の建設コストが削減されたのに対して環境対策・文化財保護対策・地すべり対策・木戸ヶ沢貯水池保全事業関連で事業費が約170億円増加し、トータルで約1620億円の事業費となった。また費用負担配分も利水事業者の撤退や治水事業の拡大で変更されている。 津軽ダム完成は2016年の予定であるが、ダム完成に伴い流域の発展に56年間寄与してきた目屋ダムは、津軽ダムに沈みその役割を終える。また、目屋ダムの水力発電所である岩木川第一発電所も、津軽ダム完成に伴い取水口の目屋ダムが水没することから廃止されることが決まっている。東北地方の国土交通省直轄ダムでは既に1988年に浅瀬石川ダム建設により沖浦ダムが、2010年(平成22年)に長井ダム(置賜野川)建設により管野ダムが、そして2013年(平成25年)に胆沢ダム建設により石淵ダムが水没しており、目屋ダムで4か所目の水没ダムとなる。なお、鳩山由紀夫内閣時代に当時の前原誠司国土交通大臣が推進したダム事業再検証では、津軽ダムは建設中であったが事業の再検証対象にはならなかった。 ==津軽白神湖== 津軽ダムによって誕生した人造湖は、浅瀬石川ダムが沖浦ダムの湖名を引き継いだのとは対照的に、目屋ダムの人造湖である美山湖の名は引き継がず、白神山地にちなみ津軽白神湖と命名された。ダム完成前に人造湖名が決まった例は少ないが、湖名は一般公募され、青森県内外189件の応募から2012年(平成24年)に決められた。津軽白神湖は「目的」の項目でも触れた通り美山湖を大きく上回る規模の人造湖であり、総貯水容量では東北地方において7番目に規模の大きい人造湖となる。また湛水面積510ヘクタールは天然の湖沼と比較すると北海道の大沼(5.3平方キロメートル)に匹敵し、人造湖でも北海道の岩尾内湖(岩尾内ダム・天塩川)や富山県の有峰湖(有峰ダム・和田川)と同等の規模を有し、東北地方では9番目に広い人造湖となる。津軽白神湖では水陸両用バスの試験運行が白神山地世界自然遺産登録20周年に合わせて2013年に開始されている。この事業は水源地域対策特別措置法に基づく水源地域ビジョンとして、地域活性化を目的に社会実験を行ったものである。 また津軽ダムは建設中の段階から積極的な工事現場内見学の受け入れを行っている。見学に訪れる団体は社会科見学として青森県内の小学校・中学校・高等学校児童・生徒および弘前大学・八戸工業大学などの学生や、青森県議会・弘前市議会などの議会関係者、農業協同組合・土地改良区などの受益者団体のほか町内会・老人会・婦人会といった地域コミュニティの団体、さらにはイランやスリランカからの視察団など幅広い。またダム右岸には展望台が設けられ、冬季以外は自由に見学が可能である。見学者数は年々増加しており、2012年の約2万2000人に対し2013年は倍以上となる約5万3000人が見学に訪れ、2014年も約5万2000人が訪れている。白神山地の入口に位置し暗門の滝にも近く、下流には弘前城といった観光地もあり、新たな観光地として期待が持たれている。 その一環として、地元の西目屋村は水陸両用バスによるダム湖ツアーを開始した。 津軽ダムへは弘前市街地より青森県道28号岩崎西目屋弘前線を白神山地・暗門の滝方面に直進すれば到着する。最寄りのインターチェンジは東北自動車道大鰐弘前インターチェンジ、最寄り駅はJR東日本奥羽本線弘前駅または弘南鉄道大鰐線中央弘前駅である。 ==参考文献== 建設省河川局開発課『河川総合開発調査実績概要』第1巻。1955年建設省河川局監修『多目的ダム全集』国土開発調査会。1957年建設省河川局監修・財団法人ダム技術センター編『日本の多目的ダム 1990年版』直轄編。山海堂、1990年建設省河川局監修・全国河川総合開発促進期成同盟会編『日本の多目的ダム 1963年版』山海堂。1963年社団法人日本河川協会監修『河川便覧平成16年版』国土開発調査会。2004年高崎哲郎『湖水を拓く 日本のダム建設史』鹿島出版会。2006年 =去来抄= 『去來抄』(きょらいしょう)とは、向井去來が松尾芭蕉からの伝聞、蕉門での論議、俳諧の心構え等をまとめた俳諧論書。 1702年(元禄15年)頃から去來が没した1704年(宝永元年)にかけて成立したとみられる。1775年(安永4年)に板行されて世に流布したが、去來の没後70年以上を経ていたため、本書が真実去來の著したものであるか否かが問題視された。 しかし有力な反証もまた無く、その内容は蕉風を語る上では事毎に引用されてきた。 蕉風の根本問題に触れた批評が多く蕉門の俳諧書として良くまとまり、近世俳諧史上、蕉風俳論の最も重要な文献とされている。 『去來抄』をはじめとする元禄の俳論は現代に比しても優れたところがあり、芭蕉研究者にも、初心に俳諧を学ぶ者にも良い指針となっている。 ==内容== 安永板本は「先師評」「同門評」「修行教」の上中下3冊、伝来する写本は「先師評」「同門評」「故實」「修行」の4部4冊により構成される。さび・しをり・ほそみ・かるみ・不易流行・花実・本意本情・匂・位・面影など、蕉風の本質から付合の技法に至るまで多方面にわたる問題を取り上げている。 ===先師評=== 「外人之評有といへども先師の一言まじる物は此に記す」芭蕉や門人の作に芭蕉が加えた評語を中心とし、芭蕉の発言が加わったものであれば門人同士の評論も収録した。句作の機微に触れる話が多く、等類・余白の美・句の姿・俳席の心得など多方面にわたる。45章からなり、個々の章は互いに独立している。33章目までは発句に関する俳話が記され、その後10章に渡り付句に関して述べ、終わりの2章は再び発句について記す。去來が俳論において芭蕉に近い存在であるように書かれており、句作においては自らの句を悪い見本として取り上げているところもあるが、評論においては他の門人より劣るように書かれたところは一つも無い。 ===同門評=== 「凡篇中ノ異評自ヲ是トスルニ似タルハ、いまだ判者なきゆへ也。猶、後賢を待ち侍る」芭蕉、あるいは蕉門の門人の作を門人同士が批評論議しあった発言を収める。40の短章からなり、付句に関するものが1章のみある他は、全て発句に関する内容となっている。許六との論議が最も多く、また文中で許六が登場しなくとも、先に成立した許六の『篇突』や去來の『旅寝論』で言及された論争を基にした俳諧談義が記されるところも多い。 ===故實=== 「予初學の時より俳諧の法を知事を穴勝とせず。此故に去嫌季節等も不レ覺悟。増して其外の事は言に不及。しかれども此篇は先師の物語有し事共、わずかに覺へ侍るを記す」卯七が問い、去來が答える形で俳諧の法式・脇第三の留め・切字・花の座などの故実について、芭蕉の真意を伝えている。23章からなり、発句や付句に関するものの他、俳文・俳号・俳書に触れた内容の章もある。 ===修行=== 「蕉門に千歳不易の句、一時流行の句と云ふ有り。是を二つに分て教へ給へる、其元は一つ也。不易を知らざれば基たちがたく、流行を知らざれば風新たならず」俳諧の基・不易流行などの俳諧の本質、さび・しをり・細みなどの論説、匂い付け・移り・響き・佛などの付合の技法などを述べ、俳諧の歴史や連句の変遷、修行の具体的な心得にも触れる。49章からなり、冒頭の10章は不易流行についてであり、次いで修行での心得、付合の技法、発句の善し悪しや付句との違いに触れる。その教えは、蕉門の根本的な理念を理解する上で、常に引用され参照される。 ==成立== 芭蕉の没後、門人らの手になる俳論書が次々と刊行された。それらの中には、芭蕉より去來が受けた教えとは相反する論述も見られた。去來はこれらに対して己の理解するところを書き記さんとし、かくて蕉門随一の俳論書の筆は執られた。 去來は関西でも蕉門随一の高弟であり、芭蕉も戯れに関西の俳諧奉行とも呼んだほどの達者であった。『去來抄』に見えるその思想は、芭蕉のそれを忠実に受け継いだものと言って良い。 芭蕉は門人に対して非常に懇切丁寧に指導添削を行ったが、俳論などを書き残したものは驚くほど少ない。これは芭蕉が自らを語ることを嫌った為でもあるが、自分の思想が師伝とされて後世を縛るものとなることを恐れた節もある。あるとき芭蕉は遠方の門人より付句の作法を問われて17箇条の説明を書き送ったが、蕉風の付句はこの17箇条に限るものと誤解されることを恐れて捨てさせたという逸話があるほどである。故に芭蕉の思想は門人の書き記した諸説より窺い知るしかなく、師説を門人それぞれに解釈したものを読み合わせる必要がある。 土芳の『蓑虫庵集』によれば、1702年(元禄15年)の春に去來より「嵐山」「鹿」「竹薮」「園の瓜」を題として出句を依頼されたという。去來は同時期に長崎の卯七を後見し、句集『渡鳥集』の編纂を行っていたが、これは故郷長崎を周遊した際の俳友との交流を記念したものである。去來が土芳に頼んだ4つの題は京都の落柿舎にちなむもので、後の1704年(宝永元年)5月27日付『土芳・半殘宛書簡』にあるところの『落柿舎集』編纂の為に出句を頼んだものであろう。 この『落柿舎集』とは、去來が当初俳論と発句の双方を収める文集の編纂を志して集句を行ったものである。同じく『土芳・半殘宛書簡』によれば、その後1704年(元禄17年)になって『落柿舎集』から『去來抄』へと題を改めた上で俳論の草稿に注力したと見えるが、1704年(宝永元年)9月に未完成のまま病没して俳論のみが残った。 一部には写本の形で伝えられていたが、安永期に京都の井筒屋が板行した事によって一般に流布した。 ===『去來抄』と『花實集』=== 安永の『去來抄』刊行に先立ち、江戸では『俳諧花實集』と題する俳書が刊行されていた。『花實集』は去來による序と称する一文を付け、去來の遺著であるとされた。その内容において『去來抄』と相通づるところの多いものであったが、『去來抄』では去來と門友との問答であるところが、『花實集』では其角を中心としたものとなっていた。このため『去来抄』と『花實集』とは、少なくともいずれか一方が偽書であり、遅れて刊行された『去來抄』は疑いを持たれ続けた。 『去来抄』や『花實集』の内容そのものである去來の遺著と称する論説が世に流布されたのは、安永板本が初めてではなかった。。 去來遺著の諸説は去來生前に成立した俳書に一致するものが多い。このことはまた同時に、この遺著なるものはそれら諸書に材料を得て、去來一人の手になるかのように作り上げられたものではないかとの疑惑を持つことも出来ることになる。しかし蕉門俳書の大多数は知られているにも関わらず、それらの俳書から得られるところは『去來抄』全体の10分の1にも満たない。故に『去來抄』『花實集』のいずれにしてもその基となった成書がなければならず、それは結局のところ去來の手になるものと見るほかは無い。蕉門他流の秘蔵書であったならば、其角・嵐雪ならば『花實集』の企ては無かったであろうし、許六・支考・越人・野坡などであればこれを秘することは無い。土芳には『三冊子』があり、杉風の秘蔵書にはこの成書と見られるものは無い。結局のところ、去來の伝と見るのが最も合理的なのである。。 勝峯晋風の『日本俳書大系』によれば、1745年(延享2年)に井筒屋より刊行された舊山撰『やまとがさ』奥付に「蕉門評 京貯月慮*12888*豪撰 去來遺著 三冊」と見え、去來の遺著と伝えられるものが延享以前に既に刊行されていたと知れる。川西徳三郎の『和露文庫俳書目』によれば溝口素丸の1755年(宝暦5年)刊行『俳諧教訓百首』に巻末付録としてある「去來先生確論」は「故實」と「修行」に当たるものであり、元は1753年(宝暦3年)の夏に『去來實記』という書から抜抄したものだという。 『花實集』は芭蕉の没した1694年(元禄7年)の冬に其角が落柿舎で越年した際の対談を基にしたとされるが、中村史邦の1696年(元禄9年)3月刊『芭蕉庵小文庫』からの引用がある点から完成はそれ以降と見られる。『去來抄』は去來の生存中に成稿したと見る他は無い。志田義秀は「去來抄を疑ふ」と題し、これらの資料を基に『去來抄』の成稿は元文ないし享保以前には遡れないとして、『去來抄』は去來の信奉者が『花實集』から記事を取り、語る人物を取り替えて去來を称揚し、ひいては江戸座一派や美濃派・伊勢派などに対し去来系統の優位を示すために作成されたものであると論じた。 これに対し潁原退蔵は、『去來抄』が『花實集』から材料を借りたものとする説を強く否定した。 1762年(宝暦12年)の大島蓼太・愚得坊鼠腹撰『俳諧無門閥』は収録する俳話48編中29編が『去來抄』の流用または抜抄であり、その内容は『去來抄』4冊の全てにわたっている。 1767年(明和4年)成立の蓑笠庵梨一『もとの清水』に参考書籍の一つとして挙げられた『去來集』なる書は『去來抄』と同一の書であろうと目される。 一方でこの内容を其角の門流と伝える書は『花實集』以前には全く見られず、寧ろ『去來抄』翻刻の動きを知った江戸座一派が、自派の権威を高からしめるために『花實集』を作成したのであり、『花實集』にこそ文中の問答者を取り替えた作為があるとした。 潁原は『去來抄』の古写本の中でも、古梓堂文庫に蔵する一本に注目し、仔細に検討を加えた。この本は「先師評」と「同門評」の2篇のみ現存するが、巻末に添えられた絅坊灰霜による識語には「或時知府の館にありける若杉の何がしと風雅を語るに、柿落舎の草稿其家に殘せり(中略)翁の金言、門人の高論、修教、古實の四ッの巻なり。(後略)」とあり元は「故實」と「修行」の2篇も存していたと見える。またその書体・用紙は去來の時代のものとして受け入れ難いものではない。この識語の通り去來自身の草稿であるならば、『去來抄』の真贋はたちどころに決着する。潁原は現存する去來真蹟との照合では、去來自筆と確定できないとした。しかしこの本は普通の写本とは異なり、文章を塗抹し、書き加え、二通り三通りに記すなどおびただしい添削推敲の跡がある。あまつさえ原字が判らないほど塗潰した所もあり、模写したものとは考え難いと論じた。 無論これは去來の草稿ではなく、偽書作成者の草稿であることも考えられる。しかしこの本は更に、裏面に『去來抄』本文と同一の筆跡で『渡鳥集』夜巻の草稿、去來が伊東不玉に送った論書などが記されている。『渡鳥集』は卯七が去來の後援を受けて撰したものであり、この草稿に見える推敲の結果は『渡鳥集』板本と全て一致した。「此間一行あく」「此追加ヲ裏ニおくりて」等とある注意書きも、板本ではその通りになっている。潁原はこの草稿の筆者は『渡鳥集』の撰者である卯七、または不玉宛論書の筆者であるべき去來と推定し、当然『去來抄』本文についても卯七か去來の筆になるものとした。 『去來抄』が卯七の筆録によるとの説は、従来も伝えられてきたものである。去來と親しく義理の従兄弟であった卯七が、『去來抄』を執筆したとしても不自然なことはない。卯七の真蹟と称するものは僅かな短冊しか無く、筆跡鑑定による客観的な証拠は得られなかった。潁原は今後有力な真蹟が現れることを待つとしながらも、この古梓堂文庫本こそは間違いなく現存する『去來抄』の稿本であると結論付けた。 その後、岩淵悦太郎は同僚である本庄實の家に伝わる『土芳・半殘宛書簡』が『去來抄』にまつわるものではないかと杉浦正一郎に教示した。本庄は杉浦にとっても大阪高等学校時代の恩師である。その家は藤堂家の家臣で代々上野の藩士という由緒正しいものであった。杉浦はこの書簡と潁原の示した古梓堂文庫本は筆勢が全く同一であることを確認し、また『俳人真蹟全集』第5巻に見られる「木節・乙州宛書翰」や『芭蕉門古人眞蹟』の「盛久傅」、『回家休』などの去來筆とも疑問の余地無く同筆勢であった。ここに『去來抄』稿本及び裏面の『渡鳥集』『不玉宛論書』草稿は全て去來真蹟と確認され、その真贋は遂に決着が付くこととなった。 ==諸本== ===大東急記念文庫本(草稿)=== 紙数36丁。おびただしい書入れや抹消、訂正などの推敲の跡があり、また筆蹟からも去來自筆と見られ最も信頼すべき底本である。「先師評」「同門評」の2篇のみが現存する。大正の末に旧古梓堂文庫蔵に帰し、潁原退蔵により去來抄の原本であると立証されて世に出た。戦後に大東急記念文庫蔵となった。去來抄撰述の推敲過程を伝えた現存唯一の原本であるとして、1978年6月15日に重要文化財に指定された。 ===安永板本(版本)=== 尾張の加藤暁臺が編者として序文を書き、井上士朗が跋をつけ、板下は嚔居士一音が浄書したと見られる。「故實」篇を除く「先師評」・「同門評」「修行教」の3篇を上中下の3巻3冊として刊行された。夏目成美は『隨齋諧話』にて「故實」篇が欠けていることを惜しんでおり、浄書者である一音自身が『左比志遠理』において「故實」篇を含む『去来抄』4巻本を推薦している。本来4巻本の写本から、刊行に際して暁臺が「故實」篇を除いたのではないかとされる。 ===国立国会図書館本(写本)=== 1冊。筆者・書写年代は未詳で「一枝菴」との蔵印がある。ただし筆蹟・装幀・蔵印を同じくする『三冊子』および『旅寝論』の写本が国会図書館にあり、特に『旅寝論』は1778年(安永7年)の板本を筆写して1787年(天明7年)跋の重厚編『もとの水』の写しを付載することなどから、あるいは安永から天明(1772年〜1781年)期前後のものとされる。本文は四篇を完備し、誤写・誤脱もあるがきわめて丁寧に筆写している。「先師評」「同門評」については大東急記念文庫本の書入れや抹消、訂正などに忠実に従って書写しており、その意味で草稿本系統に属する。前半二篇から類推して、「故実」「修行」の二篇の底本とされる。 ===天理図書館巻子本(写本)=== 巻子本2巻。筆者・書写年代は未詳。旧紫羊文庫蔵。本文内容はほぼ国立国会図書館本と共通する。 ===天理図書館本(写本)=== 1冊。三浦若海旧蔵。題簽は「芭蕉翁評談 去來抄 上中下合巻」と記される。巻末の識語に宝暦9年(1759年)とある。書写本からの転写本で比較的年代の古いもの。本文は簡略であり、おそらく内容の大意を取って筆写している。附録として『去來抄』に洩れた『花實集』の14ヶ条の抄録を巻末に付載する。本文には若海が板本系統の異本によって詳細な朱書校合を加えており、この異本は「若海朱書校合本」とも呼ばれる。 ===蕉門秘決集(写本)=== 1冊。表紙に「去來集」、扉に「落柿舎去來述 蕉門秘訣集」、内題に「去來集 蕉門秘訣」とある。巻末に識語を記す。本文内容はほぼ国立国会図書館本に共通するが、天理図書館本に近い部分もある。 ===大磯義雄本(写本)=== 大礒義雄架蔵の本。1冊。天理図書館本と同じく、巻末に『花實集』の抜抄を添えている。大礒は、若海が校合に供した異本と同じ系統の書としている。筆者・年代ともに不明だが、本書には本文の一節毎に石河積翠の『去來抄評』を「評」として加えており、『去來抄評』成立の寛政(1789〜1801)期頃のものとされる。 ===文里筆写淡々本(写本)=== 復本一郎架蔵の本。半時庵淡々が機会を得て去来自筆本から書写して門人に伝来したものを、1806年(文化3年)に田辺文里が写したもの。誤字脱字は見られるものの、素性の明らかな「故実」篇の書写としては現存唯一という。復本は国会図書館本が属する草稿本系統との違いから、『去來抄』浄書本の存在を想定し得るとする。 ===蛙夕坊本(写本)=== 大内初夫架蔵の本。表紙茶色、半紙本1冊、袋綴じ。始めに遊紙1枚、墨付き69丁。左肩に題簽が貼られ「去来抄 全」とある。「故實」「修行」「先師評」「同門評」の順に並ぶ。書写者蛙夕坊の識語に「此書ハ、去来先生の舎弟魯町(向井元成也)方に有りしを百花先生写し置きたまふを、後百花紗鹿子より写し伝へ侍る也。(後略)」とあり、草稿本系統に属する。「故實」「修行」の底本として用いられる国会図書館本は誤字脱字が多くて善本とは言えず、大内は校本の作成を重要としている。 ===贄川他石蔵本=== 椙軒素秋の正本を知足齋が筆写したもの。贄川他石が『芭蕉全集』(日本名著全集;江戸文藝之部;第3巻)を編纂するに際し底本として用いた。 =チャールズ・グレイ (第2代グレイ伯爵)= 第2代グレイ伯爵チャールズ・グレイ(英語: Charles Grey, 2nd Earl Grey, KG, PC、1764年3月13日 ‐ 1845年7月17日)は、イギリスの政治家、貴族。 父が叙爵された1806年から自身が爵位を継承する1807年まで、ホーウィック子爵(Viscount Howick)の儀礼称号を使用した。 ホイッグ党フォックス派の議員として頭角を現し、1806年のフォックスの死後にホイッグ党の指導者となった。長きにわたって野党だったホイッグ党が1830年に政権獲得した際に首相(在職1830年 ‐ 1834年)に就任した。第一次選挙法改正をはじめとする多くの自由主義的政治改革を成し遂げたが、政権内部の亀裂で1834年に辞職し、メルバーン子爵に首相・ホイッグ党党首の座を譲った。 ==生涯== ===生い立ち=== 1764年3月13日に陸軍将校チャールズ・グレイ(英語版)(のちの初代グレイ伯爵)の息子としてノーサンバーランド・ファラドン(英語版)に生まれる。母はエリザベス・グレイ(ジョージ・グレイの娘)。 グレイ家はノーサンバーランドの名家として知られる家柄であった。 イートン・カレッジを経てケンブリッジ大学トリニティ・カレッジで学ぶ。大学を出た後、ミドル・テンプルで学ぶ。 1784年から1785年にかけて王弟カンバーランド公ヘンリー・フレデリックの侍従となる。1784年から1786年にかけてはヨーロッパ大陸を旅行する。 ===ホイッグ党フォックス派として=== 1786年にノーザンバーランド選挙区(英語版)からホイッグ党候補として立候補し、庶民院議員に当選した(1807年までこの選挙区から当選し、ついで1807年5月から6月までウェストモーランド(英語版)州アップルビー選挙区(英語版)から、同年6月から爵位を継承する11月までデヴォン州タヴィストック選挙区(英語版)から選出される)。 ホイッグ党内では改革派のチャールズ・ジェームズ・フォックスの派閥に属した。グレイはフォックス派の中でも特に将来有望な若手議員であり、早いうちに同派の指導的地位に昇りつめた。 フランス革命の影響でイギリスでも民衆の改革要求が高まり、イギリス支配階級はその対応をめぐって分裂した。ホイッグ党内でもこれを弾圧すべきとするエドマンド・バーク派とある程度妥協すべきとするフォックス派に分裂した。 グレイは1792年4月に他のフォックス派議員27人とともに「国民の友協会(英語版)」を結成した。同組織は目的として「選挙の自由と議会における国民のより平等な代表の復活」「国民の選挙権のより頻繁な行使」を掲げていた。こうした改革を行うことによって国民が共和政革命を起こさないようにすることを狙いとしていた。彼らはホイッグ党内に残っていた貴族主義の空気に対抗したが、そのためにポートランド公爵派からは蛇蝎のごとく嫌われた。「国民の友協会」の宣言が過激になってくるとグレイ自身も困惑することがあったという。結局、「国民の友協会」は政府の弾圧を受けて創設から2年後には解散となった。 しかしグレイの議会改革を目指す運動は衰えず、1793年と1795年の二度にわたって議会改革動議を提出している(ただし否決)。 ホイッグ党は1780年代から長い野党生活を送っていたが、1806年から1807年にかけてホイッグ党とトーリー党の大連立政権(グレンヴィル男爵内閣)が短期間だが成立した。この内閣においてグレイは初め海軍大臣(英語版)、ついで1806年9月に死去したフォックスの後任として外務大臣に就任した。外務大臣として奴隷貿易廃止を実現した。またカトリック解放(カトリックの参政権付与)を訴えたが、カトリック解放に強く反対する国王ジョージ3世との軋轢が強まり、内閣は1807年3月にも総辞職に追い込まれた。 1807年11月には父が死去し、第2代グレイ伯爵の爵位を継承し、貴族院議員に列した。 ===ホイッグ党の指導者として=== 18世紀の党派は党首個人の人脈の集まりという要素が強かったので、党首が死ぬと解散してしまう傾向があったが、イデオロギー的・精神的結合を確立していたフォックス派はフォックスの死後も消滅せず、グレイを中心にして結束を維持した。 グレンヴィル男爵内閣の後を受けたトーリー党政権ポートランド公爵内閣はすぐにも解散総選挙(英語版)に踏み切った。この総選挙でトーリー、ホイッグの政党名が復活し、国王が大権でグランヴィル男爵内閣を更迭したことを支持する者をトーリー、支持しない者をホイッグと呼ぶようになった。選挙結果はトーリー党政権の勝利に終わり、これによりトーリー長期政権の基盤ができた。またグレイ伯爵とホイッグ党は国王ジョージ4世から嫌われていたため、彼の治世中には組閣の大命を受けられる見込みがなかった。結局グレイ伯爵率いるホイッグ党は、1830年までの長期に渡って野党に甘んじることになった。 このような不遇のためこの時期のグレイ伯爵はロンドンでの議会活動よりノーサンバーランドでの田園生活を好んでいた。 しかしトーリー党政府による治安維持立法の強化と弾圧にも関わらず、改革を求める大衆運動は衰えなかったし、議会内でもそれを反映して改革を求める機運が少しずつ高まっていった。そのため、グレイ伯爵は長い野党時代の間に自身のホイッグ党最高指導者としての地位を固めるとともに党勢を伸長させていくことができた。 1828年1月に成立したウェリントン公爵内閣(トーリー党政権)はカトリック解放問題や選挙法改正問題をめぐって内部分裂を起こし、カニング派(英語版)やウルトラ・トーリー(英語版)の政権離反を招いた。一方グレイ伯爵はカトリック解放・選挙法改正の実現を目標を掲げることでホイッグ党内の各派閥を一致団結させることに成功した。 1830年6月にはホイッグ嫌いのジョージ4世が崩御し、グレイ伯爵の友人だったウィリアム4世が国王に即位した。当時の慣例であった国王即位に伴う解散総選挙(英語版)はトーリー党政権が多数を得たものの、グレイ伯爵はカニング派やウルトラ・トーリーなど他の野党勢力との連携を深めていき、1830年11月にも王室費に関する政府法案に反対する動議を233対204の僅差で可決させた。これによりウェリントン公爵内閣は総辞職に追い込まれた。 ===グレイ伯爵内閣=== 国王ウィリアム4世より組閣の大命を受け、1830年11月22日にグレイ伯爵内閣が組閣された。同内閣はホイッグ党、カニング派、ウルトラ・トーリーの連立政権であった。閣僚の面子は全体的には貴族主義的だったが、ダーラム伯爵やジョン・ラッセル卿ら改革派も閣僚に登用されていた。 ===第一次選挙法改正=== 内閣の最初の課題は選挙法改正であった。どの程度の改革を行うかについて政権内部でも意見対立があったが、グレイ伯爵の人望のおかげでホイッグ党は分裂することなく、第一次選挙法改正法案をまとめあげ、1831年3月に議会に提出することができた。同法案は都市選挙区の選挙権について年価値10ポンド以上の家屋を占有する成年男性、県選挙区の選挙権については年価値10ポンド以上の自由土地を所有する成年男性に選挙権を認めることで有権者を現状より予測45万人増加させるとともに、2000人以下の人口の都市の選挙権を剥奪することで「腐敗選挙区」を抑止することを内容としていた。 しかし同法案への議会の反発は強く、庶民院第一読会はわずか1票差での可決となり、しかもイザック・ガスコイン(英語版)議員提出のアイルランド・スコットランド選出議員を増加させることに反対する修正動議も可決されたため、グレイ伯爵は1831年4月23日にも庶民院を解散した。総選挙(英語版)の結果グレイ伯爵率いるホイッグ党が大勝し、選挙法改正反対派のトーリー党は大きく議席を減らした。 この勝利により1831年6月に再び庶民院に提出された選挙法改正法案は第三読会まで難なく通過したが、トーリー党は貴族院で抵抗を続け、9月にも貴族院第一読会における第二読会へ移すかの投票において否決した。 しかしグレイ伯爵は断念せず、同年12月にも三度目の法案提出を行い、1832年3月までに庶民院を通過させた。法案は再び貴族院に移されたが、この時も貴族院は否決の構えを見せていたため、グレイ伯爵は新貴族創出以外に打開方法がない旨を国王に上奏した。国王は当初新貴族創出に反対したが、結局説得に折れて第二読会通過のために必要な限りにおいて新貴族創出を許可する内諾を与えた。これによりトーリー党が譲歩して法案は貴族院第二読会に進んだが、5月17日の第二読会委員会においてトーリー党が選出権に関する討議を求める動議を可決させたことで討議の主導権がトーリー党に奪われた。グレイ伯爵はこれに対抗して国王に50人の新貴族創出を求めたが、この時には国王は拒否した。これを受けてグレイ伯爵内閣は5月9日に総辞職の手続きを行った。 国王はトーリーのウェリントン公爵を後任の首相に望んだが、これには国民の憤慨が激しく不可能だった。結局国王は5月15日にもグレイ伯爵を招集して、引き続き政権を担うよう要請せざるをえなかった。グレイ伯爵は選挙法改正法案の通過の保障を国王から得られない限り、拝辞する構えだったため、国王は最終手段として新貴族を創出することを認めた。とはいえ実際に新貴族創出を行うことを嫌がった国王はトーリー党に譲歩するよう説得に当たり、ついに貴族院トーリー党は抵抗を諦め、1832年6月4日に至って法案は可決成立した。 貴族院通過をめぐる激しい闘争の中で細かい部分が若干修正されたものの、基本的に大きな修正なく第一次選挙法改正は達成された。 ===救貧法改正=== イギリスには16世紀以来、救貧法という法律があり、教区ごとに救貧税をとって貧困層保護を行っていたが、18世紀末頃から貧困層保護の方法について、救貧院収容から直接現金支給へ移行する教区が増えていった(それぞれ院内救済・院外救済と呼ばれた)。しかし院外救済は救貧税が高くつくため、多額納税者である中産階級から強い反発が起こっていた。また政治家の間でも院外救済は労働者の労働意欲を削ぐという考え方が広まっていた そこでグレイ伯爵内閣は1832年にも救貧法事情調査の王立委員会を創設した。同王立委員会は1834年2月にも「院外救済は労働者を堕落させ、労働意欲を削いでいる」「労働能力者への院外救済は全廃されるべき」「救貧政策は救貧院収容によってのみ行われるべき」「救貧院に収容される者の生活水準は収容されていない者の生活水準を下回らねばならない(「劣等処遇の原則」と呼ばれた)」とする報告書をまとめた。 この調査結果に基づいてグレイ伯爵は同年のうちに救貧法改正を行い、院外救済を廃止し、今後の救貧政策は救貧院のみとした。これにより労働者は、牢獄のような救貧院に入りたくなければ、低賃金でも労働しなければならない状況に追い込まれた。自由主義ブルジョワの要求は満たされたが、労働者層からは激しい反発が巻き起こった。とりわけ「劣等処遇の原則」は強く批判され、この不満は10時間労働の法制化を求める運動も加わって、後にチャーティズムとして爆発することになる。 ===都市自治体改革=== イギリスの都市自治体は多くがテューダー朝、ステュアート朝期に勅許状によって成立したものであるが、これらの都市自治体の住民は自由民と非自由民に別れていた。市政の中心である参事会をはじめとする都市自治体の役職に付くことができるのは全住民の1割にも満たない自由民のみであった。自由民は旧家のジェントルマンや商人であり、トーリー党支持者であることが多く、対する新興ブルジョワや非国教徒などホイッグ支持層は非自由民であることが多かった。そこでグレイ伯爵内閣はトーリーの支持基盤を切り崩す意味でも都市自治体改革を目指した。 1833年にこの問題についての王立委員会を設置して調査を行わせ、その調査結果に基づいて法案を作成した。同法案が可決に至ったのはグレイ伯爵退任後の1835年であったが、これによって次のような改革が実現した。まず178の都市自治体が廃止されて新たな都市自治体に改組された。有力自由民の互選による参事会に代わる市政中心機関として公選制の市会(英語版)が設置された。市議会議員選挙権はその都市に家屋を占有し、3年間救貧税を払っている成人男性とされた(第一次選挙法改正の庶民院選挙権よりもかなり広い)。市長選出は市議会議員の選挙によるとした。この法律は、都市自治体の市政が閉鎖的・寡頭的体制から、代議制の開かれた体制へと移行していく第一歩となった。 もっともトーリーの反発への配慮もあって、寡頭制の残滓はある程度残さざるを得なかった。たとえば市会議員になるためには、1000ポンド以上の動産もしくは不動産所有者であることと救貧税30ポンド以上の納税者であることを要したし、治安判事の任命権は市長ではなく国王に温存された。自由民の既得権も守られたし、参事会も完全廃止されず、参事会が市会の四分の一を構成し続けた。またロンドン市はこの法律の対象外であった。 ===外交=== 外交面ではパーマストン子爵を外相として自由主義外交を展開した。 とりわけ大きな出来事はベルギー独立革命であった。7月王政下のフランスとそれに敵対する神聖同盟三国(ロシア・オーストリア・プロイセン)をうまく調停し、ベルギー独立を実現させつつ、ベルギーがフランス支配下に落ちることも回避し、さらに亡きシャーロット王女(前国王ジョージ4世の長女)の夫だったレオポルドをベルギー王に擁立した。 ===その他の政策=== 1833年には庶民院院内総務オルソープ子爵の主導で工場法を制定し、児童労働の労働時間制限を設けた。また法案の実行力を確保するために監察官も設けた。社会政策への最初の一歩となる法律と評価される。 イギリス本国の奴隷貿易は19世紀初頭にすでに禁止されていたが、それに続く改革として1833年に奴隷制廃止法案を制定して大英帝国全体において奴隷貿易を禁止した。奴隷所有者への賠償のためにイギリス本国政府は2000万ポンドを拠出している。 ===辞職=== グレイ伯爵内閣は多くの改革を行ったが、それによって政権内部の意見不一致も徐々に深まった。この閣内不一致が噴出したのが、1834年5月に改革派閣僚の陸軍支払長官(英語版)ジョン・ラッセル卿が閣議で提案したアイルランド国教会の収入を民間に転用する政策だった。陸軍・植民地大臣スタンリー卿(後の第14代ダービー伯爵)、海軍大臣(英語版)の第2代準男爵サー・ジェームズ・グラハム、王璽尚書の初代リポン伯爵フレデリック・ロビンソン、郵政長官(英語版)の第5代リッチモンド公爵チャールズ・ゴードン=レノックス(英語版)らホイッグ右派の4閣僚がこれに強く反発し、そろって辞職してしまった。さらに彼らは80名ほどのホイッグ右派を引き連れて分党し、野党勢力ダービー派を形成した。 これによって求心力が大きく低下したグレイ伯爵は、人心一新のため、政界の第一線を引退することとした。1834年7月9日に国王ウィリアム4世のもとに参内し、辞表を提出した。後任の首相として内務大臣メルバーン子爵を推挙した。国王はその助言に従ってメルバーン子爵に組閣の大命に与えた。 ===首相退任後=== 政界引退後は再びノーサンバーランドで田園生活を送ることが多くなった。 1834年11月14日、ラッセルらホイッグ左派を閣僚に入れる人事案をめぐって新首相メルバーン子爵と対立を深めていた国王は内閣更迭に踏み切り、短期間の保守党(旧トーリー党)政権を誕生させたが、1835年4月9日にも保守党政権はアイルランド教会税法案の採決に敗れて倒閣された。国王は更迭したばかりのメルバーン子爵の再登用を躊躇い、4月9日に信頼するグレイ伯爵をセント・ジェームズ宮殿へ招集し、ホイッグ右派と保守党による連立政権を組閣することを要請した。グレイ伯爵もラッセルら党内左派の増長を警戒する立場だったが、自分がすでに71歳であること、また引退を宣言していたことから大命を拝辞した。メルバーン子爵やパーマストン子爵、ホランド男爵、ランズダウン侯爵ら党内重鎮からも首相再登板ないし外相としての入閣を求められたが、彼はそうした要請を全て断っている。 4月11日にグレイ伯爵は国王にメルバーン子爵を後任の首相とすべき旨を上奏した。また翌12日にはメルバーン子爵に対し、「自分はいかなる役職にも就けない」旨の書簡を送った。結局国王はグレイ伯爵の推挙通りメルバーン子爵に組閣の大命を下した。 1837年に即位したヴィクトリア女王からも政界の長老として厚い信頼を寄せられたが、彼女にとっては現役首相メルバーン子爵が最も信頼できる相談役であったので、彼女のもとではグレイ伯爵が相談に与る事は少なかった。 1845年7月17日にホーウィック・ハウス(英語版)において81歳で死去した。爵位は長男のヘンリー・グレイ(英語版)に受け継がれた。 ==人物== 本質的には保守的傾向を持っている政治家だったが、フランス革命後の議会政治枠外の民衆運動の高揚を警戒し(特に国王の軍隊たるイギリス軍がフランス革命後のフランス軍のような国民軍に転換されることを恐れていたという)、その運動を鎮静化させるため、またトーリー党への対抗から、改革の先頭に立たざるを得ない立場にあった。 1831年5月には第一次選挙法改正に慎重だった国王ウィリアム4世に対して「時代の精神が勝利を示しつつあります。それに対抗することは確実な破滅しか待っていません。陛下が後退しようと考えられても、どこにも支えてくれる者を発見できないでしょう。あの広大な大帝国ロシアでさえも一握りの暴徒に対抗できなかったのです」と上奏して説得にあたっている。 1792年、社交界の花形でホイッグ党の有力支持者であった第5代デヴォンシャー公爵ウィリアム・キャヴェンディッシュ(英語版)の妻ジョージアナの愛人となった。 紅茶好きとしても知られ、アールグレイは彼にちなんで付けられた名前であるといわれている。 ==栄典== ===爵位=== 1807年11月14日、第2代グレイ伯爵(1806年創設連合王国貴族爵位)1807年11月14日、第2代ホーウィック子爵(1806年創設連合王国貴族)1807年11月14日、第2代グレイ男爵(1801年創設連合王国貴族爵位) ===勲章=== 1831年、ガーター勲章勲爵士(KG) ===その他=== 1806年2月5日、枢密顧問官(PC)1808年3月30日、第3代カウンティ・ノーサンバーランドにおけるホーウィックのグレイ准男爵 ==子女== 1792年に、デヴォンシャー公爵夫人ジョージアナとの間に、イライザ・コートネイ(英語版)という娘を儲けた。イライザは両親の娘(チャールズの妹)として育てられた。 1794年に初代ポンソンビー男爵ウィリアム・ポンソンビーの一人娘メアリーと結婚し、10男6女をもうけた。 娘(1796年) ‐ 死産ルイーズ・エリザベス(1797 ‐ 1841) ‐ 初代ダラム伯爵ジョン・ラムトンと結婚エリザベス(1798 ‐ 1880) ‐ 1841年にデヴォン州長官を務めたジョン・ブルティールと結婚。末娘ルイーズの子孫に、元イギリス皇太子妃ダイアナがいる。キャロライン(1799 ‐ 1875) ‐ 第5代バリントン子爵の次男ジョージ・バリントンと結婚。ジョージアナ(1801 ‐ 1900) ‐ 未婚ヘンリー(英語版)(1802 ‐ 1894) 第3代グレイ伯爵。父と同じくホイッグ党の政治家となり、ジョン・ラッセル第一次内閣で陸軍・植民地大臣を務めた。チャールズ(英語版)(1804 ‐ 1870) ‐ 陸軍大佐。のちにヴィクトリア女王と アルバート王配の私設秘書を務めた。第4代グレイ伯爵アルバートの父。フレデリック・ウィリアム(英語版)(1805 ‐ 1878) 海軍大将。メアリー(1807 ‐ 1884) ‐ 初代ハリファックス子爵チャールズ・ウッドと結婚ウィリアム(1808 ‐ 1815) ‐ 夭折ジョージ(1809 ‐ 1891) ‐ 海軍大将。第6代グレイ伯爵リチャード(英語版)の高祖父。トーマス(1810 ‐ 1826) ‐ 早世ジョン(1812 ‐ 1895) ‐ ホートン・ル・スプリング(Houghton Hillside Cemtery)の教会牧師。フランシス・リチャード(1813 ‐ 1890) ‐ モーペス(Morpeth)の教会牧師。第6代カーライル伯爵令嬢エリザベスと結婚。エリザベスの母は第5代デヴォンシャー公爵ウィリアムと公爵夫人ジョージアナの長女である。ヘンリー(1814 ‐ 1880) ‐ 陸軍大尉。ウィリアム・ジョージ(1819 ‐ 1865) ‐ 在パリ公使館職員(Secretary of the Legation to Paris)。 =サッカー戦争= サッカー戦争(サッカーせんそう、スペイン語: Guerra del F*7009*tbol)は、1969年7月14日から7月19日にかけてエルサルバドルとホンジュラスとの間で行われた戦争である。両国間の国境線問題、ホンジュラス領内に在住するエルサルバドル移民問題、貿易摩擦などといった様々な問題が引き金となり戦争に発展した。この戦争の根本的な原因は両国の経済成長モデルと農地問題に起因した国内矛盾にあり、寡頭支配層が国際紛争を引き起こすことで政情不安の高まりを一時的に回避しようとする狙いがあったと考えられている。一般的には同年6月に行われた1970 FIFAワールドカップ・予選における両国の対戦と関連付けた「サッカー戦争」の名称で知られているが、この戦争の性質を端的に捉えたものではない。100時間戦争、エルサルバドル・ホンジュラス戦争、1969年戦争とも呼ばれる。 ==背景== ===移民問題=== エルサルバドルは中米で最も国土面積が小さく、人口密度が最も高い国である。人口の約9割は、メスティーソと呼ばれるスペイン系などの白人とインディオの混血であり、残りは純粋な白人とインディオで構成されていた。山岳地帯が連なる狭い国土に居住しており、中米地域の中で特に工業が発展していること、また勤勉な国民性を持つ点などから「中米の日本」とも評された。 その一方で19世紀後半頃から国内経済をコーヒーの生産と輸出に依存していたが、これは政府が自給自足農業を行う先住民の土地所有を法律により禁止し、コーヒー生産者には税制上の優遇措置を付与するなどして、国を挙げてコーヒー生産を奨励したことの影響によるものだった。国土の多くは「14家族」(カトルセファミリア)と呼ばれる一部の白人富裕層の所有する農場で占められ、土地や財産を独占していたのに対し、多くの国民は低所得に抑えられ生活に困窮していた。 土地を所有していないエルサルバドルの一部の国民は、約6倍の国土を持ち人口比もエルサルバドルの2分の1(250万人)に満たない隣国のホンジュラスへと移住し生活基盤を置いたが、こうした移民は1960年代当時、合法による者と非合法による者を含めて30万人から50万人に上った。 ホンジュラスでは古くからエルサルバドルからの移民を受け入れ、1900年代には政府が辺境地を開拓する意思を持つ移民に対し無償で土地を提供し、1932年にエルサルバドルで恐慌が発生した際には、数千人がホンジュラスへと移民し、農園や鉱山で働いた。一方、ホンジュラスの国内情勢の変化や、地元民と移民との間での土地と仕事を巡る争いごとが表面化すると、ホンジュラス政府も次第に態度を硬化させるようになった。 移民問題に対処するべく、両国政府は1962年と1965年に条約を締結し調整を図ってきたが、ホンジュラス国内の人口増加、バナナ農園の近代化に伴う労働需要の激減、牧畜や綿花農園の拡大による農地不足が問題となり、野党や富裕層から農地改革への圧力が高まっていた。ホンジュラス政府は1969年1月に条約の更新を拒否し、オスバルド・ロペス・アレジャーノ(スペイン語版)大統領は、1962年に制定された農地改革法の実施に踏み切ることになった。この改革法は土地の所有者をホンジュラス国内で出生した者に限定したもので、それに該当しないエルサルバドル移民に対し30日以内の国外退去を求める内容となった。ホンジュラス政府による発表は1969年4月に行われ、同年5月下旬までにエルサルバドル移民の帰還が始まった。 ===貿易問題=== 国の産業をコーヒーやバナナなどの農業生産と輸出に特化し、先進国からは「近代化の遅れた国々」と見做されていたエルサルバドル、ホンジュラス、ニカラグア、グアテマラ、コスタリカの5か国は、中米地域の経済統合を目指して1961年に中米共同市場を発足させた。中米共同市場の発足と、アメリカ合衆国の圧力による外資系企業の参入自由化により、1960年代に5か国での工業化が進展した。工業立地に関して当初は、各国間で公平に分配する取り決めとなっていたが、加盟国間の対立と外資系企業の圧力もあって緩和され、工業化の進んでいたエルサルバドル、グアテマラ、コスタリカの3か国に工業立地は集中するようになった。 その中で、1950年代から工業化が進んだエルサルバドルは、国民の多くが貧困層であり国内市場が狭いという事情が存在したものの、一部の富裕層向けの生産と双務貿易協定に基づいた中米諸国への輸出向け生産により発展を遂げていた。同国は中米共同市場の発足の際には主導的役割を果たし、加盟国内で最も多くの恩恵を受けていたが、一方でホンジュラスでは工業化に立ち遅れ、エルサルバドル製品により市場が圧迫を受けるなどの不均衡が生じたことから、ホンジュラス側は不満を抱くようになった。 ===国境線問題=== 両国の国境線は植民地時代以来、河川を基点とすることが多かったが、雨季と乾季で地形が大きく変動することから国境線が未確定の部分が存在した。そのため、エルサルバドルのチャラテナンゴやモラサン北部では、両国がたびたび衝突を繰り返しており、1961年、アルベルト・チャベスに率いられた部隊がホンジュラス領内のドロレス(スペイン語版)とラパスに侵入して現地の市民警備隊と交戦し、指揮官のチャベスが死亡した。6年後の1967年5月29日、エルサルバドル領内のモンテカ (Monteca) をパトロール中の国境警備隊が、ホンジュラス軍部隊の待ち伏せを受けて戦闘となった。この戦闘によりエルサルバドル側は3人が死亡、2人が捕虜となり、ホンジュラス側も2人が死亡したが、その後しばらくは国境を挟んで両国の緊張が高まった。 ==経緯== ===エルサルバドル移民の国外退去=== ホンジュラスのアレジャーノ大統領により実施された農業改革法は、主に国境未確定地帯に居住しているエルサルバドル人を退去させ、ホンジュラス人を入植させることを企図するものだったが、この政策により土地を失いエルサルバドルへと帰国した移民の数は戦争開始前の数か月間に1万4千人とも、2万人から5万人にのぼったものと推測されている。この政策はワールドカップ予選とほぼ同時期に執り行われたもので、偶然によるものなのか意図的なものなのかは定かではないが、結果として両国間の国民感情を刺激し、戦争へと発展する呼び水となった。 移民の国外退去は強制的なもので、ホンジュラスの「ラ・マンチャ・ブラバ」と呼ばれる極右組織や準軍事組織が関与し、残虐行為が行われた事例が報告された。これに対しエルサルバドルの新聞メディアは、ホンジュラスに対して徹底的な報復を求める様に政府に要求した。 ===ワールドカップ予選=== 1970 FIFAワールドカップ・北中米・カリブ予選は史上最多となる12チームがエントリーして行われた。同地域ではメキシコ代表がワールドカップ本大会に連続出場するなど優勢を保っていたが1970年大会は地元開催ということで予選を免除されていたため、それ以外のチームにとっては本大会出場の機会となった。 エルサルバドル代表はスリナム代表とオランダ領アンティル代表を、ホンジュラス代表はコスタリカ代表とジャマイカ代表をそれぞれ下して1次ラウンドを突破し、準決勝ラウンドで対戦することになった。 第1戦は1969年6月8日にホンジュラスの首都テグシガルパで行われホンジュラス代表が1‐0と勝利したが、エルサルバドル代表が宿泊するホテルの周辺を群集が取り巻き、昼夜を問わず爆竹やクラクションや鳴り物を響かせ、相手を批難する歓声や口笛を鳴らし、建造物へ投石をするなどして、同チームを疲弊させていた。なお、こうしたサポーターによる行為は両国間の関係や国民感情に拠るものだけではなく、ラテンアメリカ諸国では常態的に行われている行為だった。一方、エルサルバドルでは熱狂的サッカーファンの18歳の女性が敗戦を苦に拳銃自殺を図る事件が発生。女性の葬儀にはフィデル・サンチェス・エルナンデス(スペイン語版)大統領や大臣といった政府要人、エルサルバドル代表選手らが参列し葬儀の模様がテレビ中継をされるなど、国家的イベントの様相を呈した。 第2戦は1週間後の6月15日にエルサルバドルの首都サンサルバドルで行われたが、ホンジュラス代表が宿泊したホテルの周辺では第1戦と同様に群集が周囲を取り巻き、自殺した女性の肖像を掲げ、相手チームを批難した。また、群集はホテルの窓ガラスを破壊し、腐敗した卵や鼠の死骸などの汚物を建物へと投げ入れた。ホンジュラス代表選手の輸送はエルサルバドル軍の装甲車によって行われていたため、暴徒による襲撃を直接に受けることはなかったが、ホンジュラスから応援に駆けつけたホンジュラス代表サポーターは暴徒から殴る蹴るの暴行を受けるなど2人が死亡し、彼らの乗車していた自動車150台が放火される被害を受けた。試合は3‐0でエルサルバドルが勝利し1勝1敗の成績で並び、プレーオフへと持ち込まれることになった。 6月27日にメキシコの首都メキシコシティにあるエスタディオ・アステカで行われた最終戦は、会場となったエスタディオ・アステカの収容人数を10万人から2万人に制限。試合の2日前から観戦のために訪れていた両国のサポーターをメインスタンドとバックスタンドに分離して入場させ、緩衝地帯には催涙ガス銃を装備した機動隊員を配置させる、といった厳戒態勢の中で執り行われた。試合は延長戦の末にエルサルバドル代表が3‐2でホンジュラス代表を下し、ハイチ代表との最終ラウンドへと進出した。 ===国交断絶=== エルサルバドル政府の発表によると、6月15日に行われたワールドカップ予選後にホンジュラスに在住するエルサルバドル移民が襲撃を受け、身の危険を危ぶんだ1万2千人近くの移民がエルサルバドル領内へと避難する事態となった。エルサルバドル国民の間でホンジュラスとの国交断絶を求める声が高まると、エルサルバドル政府は6月23日に国家非常事態を宣言して予備役軍人を召集。3日後の6月26日夜に同政府は「ホンジュラスは同国に在住するエルサルバドル人を迫害しようとしている」との声明を発表し、国交断絶を宣言した。ホンジュラス政府もこれを受けて6月27日にエルサルバドルとの国交を断絶し、国防上の対処を行うことを発表した。 ===前哨戦=== エルサルバドル外務省の発表によると、7月3日11時45分にホンジュラス空軍(英語版)の1機が、エルサルバドル北西部に位置するエルポイ (El Poy) にある国境監視所を爆撃するなどして、同監視所の守備隊と交戦。その後、先刻の爆撃機とは別のホンジュラス空軍の2機が同監視所を襲撃したが、エルサルバドル空軍(英語版)機が迎撃してこれを退けた。また、両国陸軍が国境を挟んで約20分間に渡って銃撃戦を行った。エルサルバドル外務省は米州機構 (OAS) に対し、ホンジュラスの行為を非難する書簡を送った。両国の衝突を受けてOASは7月4日、理事会を招集し今後の対応を協議した。 7月9日、ホンジュラス政府の発表によると、エルサルバドル陸軍(英語版)がホンジュラス領内のインティブカ県にある村を襲撃し、地元の警官隊と衝突。12戸の民家が焼き払われたが、死傷者はなかった。両軍による戦闘は7月3日に続いて2度目。 7月12日、エルサルバドル陸軍の部隊がホンジュラス領内に10km侵攻した地点でホンジュラス陸軍(英語版)と衝突。銃撃戦となり、エルサルバドル兵14人が戦死した。 7月13日早朝、エルサルバドル政府の発表によると両軍は国境付近にあるエル・ポイで3時間に渡って交戦。ホンジュラス政府の発表によると、この戦闘により一般市民が負傷した。OAS理事会では両国間の本格的な軍事的衝突を回避するため、アルゼンチン、エクアドル、コスタリカ、ドミニカ、ニカラグア、グアテマラ、アメリカ合衆国の7か国による平和維持団の派遣を決定した。一方、同理事会においてホンジュラス外相のフィデル・デュロンはエルサルバドル側の行為を非難したが、エルサルバドル側は「非難はエルサルバドル人の大量追放を覆い隠す煙幕に過ぎない」「われわれは動員態勢にあるが、これは追放された同胞を守るためのものである」と応じた。 ===戦闘=== ====7月14日==== 7月14日、OASを介して両国による外交交渉が行われる中、エルサルバドル空軍はフィデル・サンチェス・エルナンデス大統領からホンジュラスの主要都市を攻撃するための直接命令を受けた。本作戦は1961年以来、ホンジュラス侵攻を目的に進められてきた「ヘラルド・バリオス大将計画」を実行に移したもので、戦略目標は「ホンジュラスに在住する自国民の身分保証と、緩衝地域の占領」にあった。 同日18時10分、エルサルバドル空軍のC‐47、F‐51D、FG‐1D(F4U コルセアのライセンス生産機)で構成される少なくとも6機の編隊が、テグシガルパ郊外のトンコンティン国際空港を爆撃。同空軍はこれと同時にホンジュラス領内にあるサンタロサ・デ・コパン(スペイン語版)、アマパラ、チョルテカ(スペイン語版)など、ホンジュラスの主だった飛行場及び軍事施設十数か所への爆撃を行った。なお、このエルサルバドル空軍による空爆は、戦力で勝るホンジュラス空軍に対して先制攻撃を仕掛けることで、従来の軍事的バランスを覆す目的があったが、作戦は失敗した。 エルサルバドル空軍による爆撃後、エルサルバドル陸軍は西部、チャラテナンゴ県、東部の3方面から国境を越えてホンジュラス領内へと侵攻を開始した。これらの空と陸からの奇襲作戦は、第二次世界大戦時のナチス・ドイツや第三次中東戦争時のイスラエルの事例が示すように双方の完璧な連携が行われた場合に効果を発揮するが、本作戦ではエルサルバドル側の望むような効果を得ることが出来ず、その代償としてホンジュラス側に注意を喚起させる結果となった。 ===7月15日=== 7月15日朝、ホンジュラス空軍のT‐28、F4U、F‐51Sなど数機がエルサルバドル領内に侵入し、サンサルバドル郊外にあるイロパンゴ国際空港(英語版)を爆撃。軍民共用飛行場である同空港の滑走路や格納庫、一般利用客用の駐車場などが損害を受けた。 この他に、ホンジュラス空軍機はエルサルバドルの主要な港湾都市であるアカフトラ(スペイン語版)にあるコンビナートを攻撃。石油精製所は被害を受けなかったものの、貯蔵タンクが爆撃により損害を受けた。また、ラ・ウニオン県にあるラ・クトゥコ港(スペイン語版)も爆撃され、17の貯蔵タンクのうち、5つが破壊されたが、港自体の損害はなかった。 航空戦力では2.5対1とホンジュラスが開戦前から優位に立ち、戦争を通じて制空権を維持していたが、これに対して地上戦力の面では両国共におよそ5千人前後の兵員を有し、アメリカ合衆国陸軍が第二次世界大戦の際に使用していた旧式の装備を身に付け、戦車や重火器といった大型装備を持ち合わせるなど、表面上の明確な差異は存在しなかった。一方で組織力や戦闘能力といった面でエルサルバドル陸軍が優位に立ち、戦争末期ではホンジュラス最強の部隊とされる大統領防衛隊を撃破したと報じられるなど、地上においてはエルサルバドル軍が攻勢を続けた。エルサルバドルの新聞は「エルサルバドル軍の進撃は誰にも止めることは出来ない」「ラテンアメリカのイスラエル」などと大見出しで報じるなど、このまま進撃を続けてホンジュラス領内の都市を陥落させ首都テグシガルパに迫るものと考えられていた。 ホンジュラス領内に侵攻していたエルサルバドル陸軍は、北部にあるエルポイから侵攻した部隊が、同日中にヌエバ・オコテペケ(英語版)を占領。この他、東部から侵攻した部隊が太平洋岸にあるゴアスコラン(スペイン語版)やカリダやアラメシナ(スペイン語版)を、チャラテナンゴ方面から侵攻した部隊が北中部の国境線に沿ってサン・フアン・ガリタ(スペイン語版)、バリャドリード(スペイン語版)、ラ・ビルトゥド(スペイン語版)といった町を占領するなど、旧式のH&K G3自動小銃を携帯する歩兵部隊が、開戦から1日でホンジュラス領内の40平方キロメートルの地域を占領した。一方で、エルサルバドルの司令官が兵站問題に理解がなかったこと、ホンジュラス空軍により石油貯蔵タンクが攻撃された影響により国内の石油供給に支障を来たしたためエルサルバドル陸軍でもガソリン不足に陥ったことにより侵攻の停止を余儀なくされた。 ===7月16日 ‐ 7月17日=== 7月16日、OASが派遣した平和維持委員会は、ホンジュラス側が「エルサルバドル軍がホンジュラス領内から撤退する」との条件付でエルサルバドルとの停戦に応じることを承諾したと発表した。一方、エルサルバドル側は停戦に応じる様子はなく、ホンジュラス軍に対し「降伏を選ぶか死を選ぶか」と要求するなど強硬な姿勢を見せた。 同日、ホンジュラス政府はラジオ放送を通じて「我が軍はエルサルバドルの戦略拠点に対する空爆を継続中である」との声明を発表。また、国民に対して「老若男女の区別なく、侵略者に対抗するために戦地に赴く準備をするように」と義勇兵の参加を呼びかけた。こうした両国間の情勢に対し国際連合のウ・タント事務総長は両国の外務大臣に、戦闘を中止し相互対話に応じるように要請した。 7月17日、エルサルバドル政府は「ホンジュラスに在住するエルサルバドル人に対する迫害行為を即座に停止させ、戦争前の原状に復帰させる」という条件付で停戦に応じることを承諾した。一方、ホンジュラス政府は同陸軍がエルサルバドルとの国境を越えて領内に侵攻し、北部にある都市に迫りつつある、と発表。同時に政府は、エルサルバドル側の停戦に向けた非協力的な姿勢を批難する声明を発表した。これに応じてエルサルバドル軍もホンジュラス領内の三方面からの攻撃を再開させた。 同日、地上目標に対する機銃掃射の任務に就いていたホンジュラス空軍のフェルナンド・ソト・エンリケス大尉が操縦するF4U‐5が、味方機からの要請を受けてエルサルバドル空軍機と交戦。エルサルバドル空軍のF‐51D 1機とFG‐1D 2機を撃墜した。レシプロ戦闘機同士による世界史上最後の戦いと呼ばれる戦闘での戦果によりソト大尉は少佐に昇進し、ホンジュラスの国民的英雄として扱われただけでなく、世界的な知名度を獲得した。 ===停戦=== 7月18日朝、OASのガロ・ブラサ事務総長は両政府関係者とOAS平和維持委員会との間で約24時間に渡って行われた三者会談により、戦争を終結させるための4項目からなる和平案について合意が成立したと発表した。この和平案は以下の通りとなっている。 両国の即時停戦。 両国軍が開戦前の地点にまで撤退する。 両国に在住する相手国民の有する財産と保護を保障する。 両国の停戦を監視するため、OASが派遣する軍民合同顧問団を受け入れる。 OASの発表によると両国は、中米時間の7月18日22時から停戦に入り、OASに加盟する3か国で構成される監視団の下で両国軍を96時間以内に撤退させる予定となっていた。両国の停戦受託により、それぞれの戦線では平穏な情勢を取り戻したが、一方でエルサルバドルのエルナンデス大統領は同日に国民に向けた放送において、占領地域からの撤退を拒絶する声明を発表した。 ===エルサルバドル軍の撤退拒否=== 7月19日、エルサルバドル軍の広報官の発表によると、同国のエルナンデス大統領がホンジュラス領内に17km入った前線地域を視察中にホンジュラス軍から狙撃される事件が発生した。エルナンデス大統領に怪我はなかったものの、同広報官はOASの停戦命令に反するものだとしてホンジュラス側を批難した。また、OASの公式報告によりエルサルバドル軍が停戦命令後も、ホンジュラス領内からの撤退を開始せず、同領内の陣地をさらに前進させていることが明らかとなった。 7月21日朝、エルサルバドル軍による停戦命令違反の報告を受けてOASは緊急会議を招集。OASから現地に派遣されたニカラグアのセビラ・サカサ監視団長は「エルサルバドル軍がこのまま撤退を拒んでホンジュラス領内に留まった場合、OASの規定に基づき同国に対する軍事的および経済的な制裁措置を採ることも辞さない」と警告した。 一方、エルサルバドル陸軍は同日夜までにホンジュラス南部にあるバジェ県の県都ナカオメを包囲し、首都テグシカルパと同地を結ぶ幹線道路を封鎖した。 7月23日、OASの定めた96時間の撤退期限が失効したことを受け、ホンジュラス空軍の2機の爆撃機がエルサルバドル領内に侵入し、サンサルバドルにあるイロパンゴ国際空港と、同地の北方16kmに位置するネハバ (nejaba) という村を爆撃。エルサルバドル軍の発表によると爆撃による被害は確認されなかった。 ===終結=== 7月29日、OAS外相会議の席上においてエルサルバドルの外務大臣は、紛争により占領した地域から撤兵することを発表。これを受けてOASは、エルサルバドル軍の撤退期限を8月3日18時までと定めた。 8月3日13時15分、OAS顧問団の監視の下、ホンジュラス南部のレンピーラ県にあるラ・ビルトゥドで最後の撤兵が確認され、撤退が完了した。この戦争により両国あわせて2千人が死亡し(2千から3千人、3千人、6千人とする資料もある)、4千人または1万2千人が負傷した。犠牲者の多くはホンジュラスの農民であり、国境沿いに在住する農民の多くが家や土地を失った。 ==影響== ===エルサルバドル=== 戦場から帰還したエルサルバドル軍の兵士たちは国民から歓迎を受け、エルナンデス大統領は国民的英雄と讃えられた。一方、ホンジュラスから10万人とも、6万人から13万人にのぼる移民が1969年の時点で労働人口の20%が失業状態にあるというエルサルバドル国内に引き揚げたことで都市は失業者で溢れかえり、戦争の相手国となったホンジュラスとの関係悪化によりエルサルバドル製の工業製品は市場を失うなど、それまで抱えていた問題点が表面化した。また、「14家族」と呼ばれる富裕層に富と権力が集中し、国民の6割が低所得に抑えられているといった社会構造への不満から、待遇改善を求める左翼系労働者によるストライキが頻発した。 1972年に行われた大統領選挙での現政権側の不正行為がきっかけとなり反政府運動が活発化し、左翼ゲリラによる政府軍兵舎への襲撃や、外国系企業を対象とした身代金目的の誘拐事件が多発した。これに対し軍部と右翼勢力が結びついた「死の部隊」によって左翼運動家への弾圧や暗殺が行われるなど、国内の治安状態は急速に悪化した。 1980年3月24日、国民の間で人気の高かったオスカル・ロメロ大司教が極右組織により暗殺されたことにより平和的解決の可能性は狭まり、左翼ゲリラはファラブンド・マルティ民族解放戦線 (FMLN) を結成し、政府軍との本格的な内戦へと突入していった。 中米で最も工業が発展し、政情が不安定な中米諸国の中で最も安定した民主国家と呼ばれたエルサルバドルは内戦の激化により衰退した。約12年間に渡って続いた内戦による犠牲者は7万5千人に達し、経済的損失は約50億ドルに上ると推測されている。 ===ホンジュラス=== ホンジュラスでは戦後、ナショナリズムや国に対する誇りといった新しい価値観が生まれた。数万人の労働者や農民が国家を守るため、武器を手に入れるために政府を訪れ、鉈などで武装した数千人の一般市民が地方での警備業務に従事した。 1970年代後半に入ると中米諸国では大規模な内戦が相次ぎ、反共産主義を執るアメリカ合衆国の軍事的支援もあり対立が深まったが、ホンジュラスでは政治的に安定した状態が続いたこともあり紛争に巻き込まれることはなかった。1980年代に入るとアメリカの中米介入のための軍事拠点としての役割を担うようになり、ニカラグアの反革命勢力・コントラの根拠地となった。また、隣国エルサルバドルで内戦が続く中、アメリカが中米諸国間の軍事バランスを理解することなくエルサルバドル政府軍の増強に関わったことから反エルサルバドル感情や反米感情が高まった。 ===二国間関係=== 戦争の影響により両国間の貿易は完全に暗礁に乗り上げ、両国間の境界線が閉鎖されたことにより交通網が遮断されるなど、両国の経済に深刻な影響を与えた。また、両国が加盟していた中米共同市場は、こうした問題やもともと存在した加盟国間の経済格差の問題などもあり、1970年代に入るとその役割を大きく後退させた。 一方、米州機構 (OAS) の調停による停戦後も散発的な戦闘が行われた。1976年7月、エルサルバドル軍がホンジュラス領内に侵攻したため、両国は再びOASに調停を依頼した。同年8月に両政府は非武装地帯の設置に合意すると、同年10月に仲裁協定に調印、翌1977年8月に和解が成立した。 ===サッカー=== 1969年7月、ワールドカップ予選において敗れた側のホンジュラスサッカー連盟は、第3戦に出場したエルサルバドル代表の2選手が1年前に出場停止処分を受け、処分中であるにも関わらず試合に出場したとして、国際サッカー連盟 (FIFA) に対し第3戦の試合結果を無効とするように提訴した。なお、この提訴についてのFIFAの裁定の結果は定かではない。 エルサルバドル代表とハイチ代表とのワールドカップ予選最終ラウンドは1勝1敗の成績でプレーオフへと持ち込まれた。同年10月8日にジャマイカの首都キングストンで行われたプレーオフは、両チーム無得点のまま延長戦に持ち込まれたが、エルサルバドル代表のフアン・ラモン・マルティネス(英語版)が決勝点を決め、1‐0でハイチ代表を下し、ワールドカップ初出場を果たした。エルサルバドル代表は、翌1970年6月に行われた本大会のグループリーグでは、ベルギー代表、メキシコ代表、ソビエト連邦代表と同じ組み合わせとなったが、3戦全敗で敗退した。 エルサルバドル代表とホンジュラス代表は、同年に行われた1969 CONCACAF選手権・予選(英語版)に参加し、前者はトリニダード・トバゴ代表と、後者はオランダ領アンティル代表と対戦する予定となっていたが、戦争の影響により失格となった。2年後の1971年に行われた1971 CONCACAF選手権・予選(英語版)では、両国は2次予選で対戦する予定となっていたが、エルサルバドル代表がサッカー戦争を理由に試合を辞退したため、ホンジュラス代表が本大会へ進出した。 ==その後== ===国交回復=== 両国関係の修復には10年以上の歳月を要した。ペルーのホセ・ルイス・ブスタマンテ・イ・リベロ(スペイン語版)元大統領の仲介により両国の接近が図られ、1980年10月30日にペルー首都リマでプスタマンテ元大統領の立会いの下で両国の外務大臣が出席し平和条約の調印式が行われ、11年ぶりに国交を回復した。この平和条約調印の背景には、エルサルバドル内戦における左翼ゲリラの根拠地が総面積420平方キロメートルにのぼる国境未画定地域に存在するため、エルサルバドル政府が左翼ゲリラ掃討のためにホンジュラス政府の協力を必要としていたとも、国境地域が左翼ゲリラの根拠地となっていたことを憂慮したアメリカ合衆国政府が双方に圧力を掛けたためだとも言われる。 ===エルサルバドル内戦=== 内戦の激化により、エルサルバドルからホンジュラスへと流入した難民の数は2万人に上った。1989年にエルサルバドルのアルフレッド・クリスティアニ(英語版)が大統領に就任すると両国間で難民の帰国交渉が始まり、同年末までの段階的な難民帰国計画が決定した。 1992年1月2日、7万5千人におよぶ死者と100万人とも推測される亡命者を出したエルサルバドル内戦は国際連合の仲介により和平の合意に達し、同年2月1日に公式に停戦した。合意文書の内容は「2月1日から10月末にかけて政府軍とFMLNの双方が段階的に武装解除を行う」「政府軍は現有兵力の5万3千人を半数にまで削減し、過去に人権侵害に関わった人物を追放する」「対ゲリラ急襲部隊、国家警察などを解体し、文民監視による市民警察を設立し治安維持に従事する」などの内容となっている。 ===国境問題=== サッカー戦争の主因の1つである国境問題に関しては、1980年に調印された平和条約において60%の国境線に関しては合意に達し、残りの国境線に関しては両国による合同委員会を設立し5年をめどに結論を出すことになった。 1986年、国境問題はペルーのフアン・ベラスコ・アルバラード大統領の立会いの下でオランダ・ハーグにある国際司法裁判所に委託された。国際司法裁判所は、1992年9月11日に新たな国境線の案を提示し、両国はこれを受け入れることを表明したが、画定作業は難航した。 2006年4月18日、両国の国境地帯に位置する街で式典が開催され、出席したエルサルバドル大統領アントニオ・サカとホンジュラス大統領マヌエル・セラヤは、国境線375キロメートルを画定する文書に署名した。これにより、国境問題は終結した。 ===サッカー=== 1980年11月に行われた1982 FIFAワールドカップ予選(1981 CONCACAF選手権(英語版))で、両国の12年ぶりの国際試合が実現し、試合は2‐1でエルサルバドルが勝利した。両国はともに地区予選を勝ち抜き、2年後の1982年、中米諸国を巻き込んだ中米紛争の最中に揃ってワールドカップに出場した。 =星の砂= 星の砂(ほしのすな、英語: star sand)は、星の形の粒子からなる砂状の海洋性堆積物、あるいはその成因となった生物である。星砂(ほしずな)とも呼ばれる。砂と名前が付いてはいるが、星の砂は有孔虫の殻が堆積したものであり、岩石の風化に由来する通常の砂とは異なる。 ==概要== 星の砂は原生生物である有孔虫の殻である。生きている有孔虫の殻内は原形質で満たされているが、有孔虫が死ぬと有機質である原形質が分解され、丈夫な殻のみが残存して堆積する。殻の形態が星や太陽を思わせる幾何学的な形状であるため、生物学的な研究対象としてのみならず、鑑賞の対象としても広く愛好されている。 有孔虫は単細胞生物としては大型の部類に入り、星の砂以外にも絶滅種のフズリナや貨幣石に代表されるように、しばしば肉眼的な大きさとなる。今と同じような星の砂の構成種となる有孔虫は鮮新世(500〜160万年前)ごろから出現しており、従って星の砂には現生の有孔虫の殻と共に、数万年前のもの(化石)が混入している場合もある。 有孔虫自体は海洋はもとより淡水、土壌中にも広く分布する生物群であるが、星の砂の元となる種の分布は温暖な海域に限られており、星の砂が見られる場所も限定される(後述する分布を参照)。星の砂を成す殻は炭酸カルシウムでできており、サンゴとともにサンゴ礁の炭素循環において重要な役割を果たしている。炭酸固定量(この場合は無機炭素としての固定)は700g(800,000個体相当)/m/年 ほどと見積もられていて、これは造礁サンゴや石灰藻(紅藻の一種)に次ぐ量である。また、星の砂を作る大型の有孔虫には珪藻やハプト藻といった藻類が共生しており、この共生藻は光合成を行っている。このように、生態系の中で一次生産者に住処を提供するという側面もある。星の砂は生態的に重要な生物の残渣なのである。 ==星の砂の構成種== C. calcar d’ OrbignyC. gaudichaudii d’ OrbignyC. hispida BradyC. spengleri Gmelin ===Baculogypsina=== 生物分類表は冒頭を参照 和名として「ホシズナ」の名を持つ、星の砂の主要構成種である。体長は数百μm〜数mm。Baculogypsina 属は1属1種であるが、生息場所の違いなどにより形態には若干の変異がある。殻は不規則な突起を持っており、星を想起させる形状となっている。 ===生態=== 生きている Baculogypsina は突起の先端から網状仮足を伸ばし、移動や基物への付着、摂食などを行っている。餌は海藻の断片や微細藻類などであるが、エネルギー収支としては共生藻の光合成産物に依存する割合が高いとされる。 ===生殖と成長=== Baculogypsina の寿命は1.5年ほどと言われている。他の有孔虫と同様、有性生殖と無性生殖の両方が知られている。無性生殖時には成熟した大型の個体が泡状の生殖室を形成し、そこから幼生が大量(平均769個体)が放出される。ただし無性生殖を行う個体の割合は非常に小さく(個体群の0.01%)、多くの場合は配偶子の塊を放出する有性生殖が行われる。 Baculogypsina は幼年期から既に殻に突起を持っており、それを維持したまま成長する。有孔虫に特徴的な螺旋状の室形成を経た後、突起部を含む殻の全面を覆うようにドーム状の室が形成される。このような殻成長の結果、特徴的な星型が形作られるのである。 ===Calcarina=== Baculogypsina とともに星の砂の大部分を占める有孔虫である。Calcarina は Baculogypsina と比べて中央部が球に近く、また突起の先端が丸みを帯びている事から、「太陽の砂」と呼び分けられる事もある。 生態やその他の特徴はおおよそ Baculogypsina に準じる。異なる点としては生活環の中での形態変化があり、Calcarina の無性世代は有性世代と比較して突起の数が多く、時に分枝する。 ===その他=== 上記2属の他、星の砂を構成する有孔虫としては、巻貝型の Neorotalia や Amphistegina、扁平な円盤状のゼニイシ(Marginopora)などがある。ゼニイシは成熟個体の直径が1cmを超える事もある大型種である。有孔虫以外の莢雑物ではサンゴ・貝殻・石灰藻の破片など、生物由来の炭酸カルシウム性構造物が混じる。場所によっては鉱物質の粒子(つまり本物の砂)も多く含まれる。 ==分布== 西太平洋の熱帯〜亜熱帯域など、サンゴ礁が広がる地域に分布する。日本であれば南西諸島、特に沖縄県側に多い。西表島の星砂の浜、竹富島のカイジ浜(太陽の砂と呼ばれる比率が高い)、鳩間島などが有名である。日本近海で普通に見られる一方、中央太平洋やハワイ諸島には分布しない。 Baculogypsina や Calcarina はサンゴ礁の中でも潮間帯を好み、その分布は水深5m以浅である。特にタイドプールには高密度で生息しており、100cmあたり4,000〜6,000個体に達することもある。 ==星砂の浜== 上記のように、ホシズナは本来は浅海の海底に附着して生活するものであるが、死んだ殻は砂浜にうち上がることもあり、ところによってはその密度が濃い場所が見られる。ところが、時に砂浜がほとんどホシズナだらけになっている場所があり、これが星砂の浜などと呼ばれて伝説や観光名所とされた。しかしその多くでは、現在は乱獲によってその様子を見ることはできない。ただし、乱獲といっても死体であるから、ホシズナそのものの生存には関係ない。 ==入手法== 浜によっては採集が禁止されているが、違法行為の有無を問わず乱獲され、集中的に堆積した場所は減りつつある。しかし、生息域近隣の海岸であれば、密度差はあるものの砂中を探すと見つかることもある。海浜の土産物屋や水族館の売店、自然科学系のミュージアムショップなどでも安価に入手できる。 先述のように、生きたものはいまも多く見られ、ごく浅いところの海藻の根本などを探せば見ることができる。 ==参考文献== Fujita K (2001). “Biology of star sands, Baculogypsina sphaerulata (Foraminifera) / (邦題:星砂の生物学)”. Midori‐Ishi 12: 26‐9.  PDF available ==関連項目== 砂有孔虫微化石原生生物海岸沖縄県良質な記事 =エストニアの国籍= 本項では、エストニア共和国の国籍政策について述べる。 エストニアには、ソビエト連邦による占領(ロシア語版)の経験から国内に大量のロシア民族(英語版)が存在する。ソ連崩壊に際して、多くの旧ソ連諸国が残留ロシア人に対しゼロ・オプション(ほぼ無条件)での国籍付与を認めたのに対し、エストニアは彼らに国籍付与を認めないとして、ラトビアと並ぶ強硬姿勢を示した。独立回復直後はロシア人に国外退去を迫る法案を通過させるなど、ロシアや国際社会との対決姿勢を取ったエストニアであったが、それらの強硬策が功を奏さず、また欧州連合の人権基準にも反したため、やがて国内のロシア人を社会へ統合する方針へと政策を転換した。その甲斐あって、一時は住民の40パーセントを占めた無国籍者は大幅に減少している。 エストニアの国籍法は、血統主義および単一国籍を採用している。2011年国勢調査では、129万4236人の永住者のうち85.1パーセント(110万1761人)がエストニアの国籍を所持し、他国籍者は8.1パーセント、無国籍者(ロシア語版)は6.5パーセント、残る3116人は国籍不詳となっている。他国籍者の主な内訳は、ロシア国籍者(英語版)が8万9913人、ウクライナ国籍者(英語版)が4707人、ラトビア国籍者(ロシア語版)が1739人である。 ==現況== 用語については、エストニア共和国憲法(英語版)では「国籍」(kodakondsus) という語のみが使用され、「市民権」(あえて訳せば kodaniku*9095*igus)という語は特に使用されていない。 ===取得要件=== 憲法はその第8条で、基本原則として「両親の一方がエストニア市民である子供は出生により国籍を取得し、〔中略〕未成年時に国籍を失った者はその回復の権利を有する。出生により取得した国籍は奪われることがない」と定め、その詳細については国籍法に委ねている。 2017年の時点で、国籍法の規定では出生時に国籍が付与される条件として、第5条で 出生時に少なくとも両親の一方がエストニア市民であった者父親の死後に生まれ、その父親が死亡時にエストニア国籍を有していた者国内で発見された親が不明な子供で、その保護者によって国籍取得申請が為されている者エストニア市民である養親の書面申請により、政府(エストニア語版)が承認した政府機関が国籍付与を許可した者であることを定めている。多重国籍は認められておらず、重国籍の者は18歳から3年以内に国籍選択を迫られる(第3条第1項)。 帰化要件については、その第6条で 年齢が15歳以上であること国内に住所登録し、国籍取得申請の受理日までに合法的に8年以上居住し、5年以上定住していること同法第8条の定める要求に即してエストニア語を習得していること同法第9条の定める要求に即して憲法および国籍法を習得していること恒常的かつ合法的な収入があることエストニア国家に忠実であること以下の宣誓を行うこと:「エストニア国籍の取得の申請に当たって、私はエストニア憲法上の国家秩序に忠実であることを誓う」と定めている。15歳未満の者についても、保護者の申請によって帰化を申請することができる(第3章)。 エストニア語・憲法・国籍法試験については教育科学省 (et) が合格のための講座を開設しており、試験に合格した場合にはその費用は払い戻される(第36条の1)。また、エストニア語で初等・中等・高等教育を修了した者(第8条第5項)および65歳以上の者については(第34条)、エストニア語能力試験は免除される。さらに、科学・文化・スポーツ・その他の分野での顕著な功績があった者に対しては、政府の提案に基づき、年間10人以内に限って居住要件やエストニア語・憲法・国籍法試験が免除される(第10条)。 このようにエストニアの国籍法は血統主義を採るが、2017年の調査では、エストニア民族の50パーセントとロシア国籍者(英語版)の76パーセントが、エストニア出身者に対しては民族にかかわりなく無条件に国籍が与えられるべきだと考えている。また、エストニア民族の16パーセントとロシア国籍者の40パーセントが、無条件での多重国籍を認めるべきだと考えている。多重国籍を許容すべきと考える年代は、若年層が高くなる傾向にある。 ===権利と義務=== 参政権については、憲法上はエストニア市民に限って政党結成権と国政選挙権が与えられるとされるが(第48条・第57条)、地方選挙権については当該地区に在住の18歳以上の者とのみ定め(第156条)、国籍条項は存在しない。ただし、政党の結成・加入は市民以外には認められていない。国家・地方公務員は原則としてエストニア市民であることが要求されるが、別途法が定める場合には外国籍者や無国籍者を充てることも認められている(第30条)。公職のほか、弁護士・公証人・大学学長など一部の職業にも国籍条項が設けられている。兵役義務は市民にのみ課せられているが、納税義務は国籍にかかわらず全住民に課せられている。 また、近年電子政府化(e‐Estonia(英語版))を推進するエストニアでは、国内への居住なしに銀行口座や法人の開設などを可能とする「e‐Residency(エストニア語版)」制度を設けている。これによって2018年3月の時点で世界各国の4万人以上が電子政府の「住民」となっているが、e‐Residency はあくまで電子政府のプラットフォームの一部を外国人が利用できる制度であり、実際の居住権・参政権・査証発給とは無関係である。 ==法制史== ===戦間期=== 1918年に旧帝政ロシア領から独立宣言(英語版)をなしたエストニア第一共和国は、ロシア人とバルト・ドイツ人による二重の支配から脱したエストニア人の国民国家であった。1922年の時点で、エストニアの国内人口は87.7パーセントのエストニア人の他、8.2パーセントのロシア人(英語版)や1.7パーセントのドイツ人などの少数民族も含まれていたが、彼らに対してエストニア政府が与えたのは、極めて寛大な法的処遇であった。 独立直後の1918年11月に議会(ロシア語版)は布告を発し、その第1条においては 現在エストニア国内に居住し、1918年2月24日(独立宣言)の時点で旧ロシア帝国の臣民であり、エストニア領内で出生したという条件を満たす者すべてにエストニアの市民権が与えられるとされた。帰化権については布告第6条で、5年間国内に居住することをその条件とした。次いで1920年に採択された憲法(エストニア語版)は、その第20条で民族籍選択の自由を保障した。 1922年10月27日には国籍法が制定され、その国籍付与原則は 同法発効の時点で国内に居住する者(都市または郷に定住し、そこに勤務などの理由で滞在し、動産または不動産を所持する者)1918年2月24日時点で旧ロシア帝国の臣民であり、かつ同法発効の時点で他国籍を有さない者両親のいずれかがエストニア領内の都市・郷の納税者名簿に登録されていた者が対象とされた。また第2条では 法規または諸条約によりエストニア市民と認められた者エストニア領域の内外でエストニア人を父として出生した幼児エストニア人女性を母とする非嫡出児エストニア市民の妻または寡婦エストニア国内で発見され、他国の市民権を有しないと認定された幼児などに対しても国籍の付与が認められた。第5条では、エストニア領域出身の旧ロシア臣民のうち、エストニア国外に居住する者などに対する国籍付与条件についても詳述されている。これらの布告・国籍法は現代で言うところの「ゼロ・オプション」(原則無条件での全住民への国籍付与)が採られており、また父系血統主義が強調されている。 他方、帰化条件については 帰化意思表明の2年前から表明後1年間までの、エストニア国内での居住歴(第8条)エストニア語能力(同条)18歳以上であるか、保護者の同意を得た未成年である(第10条)としてエストニア語能力を前提条件としたが、一方で、エストニア共和国に対する社会的・国家的・軍事的奉仕に顕著な功績があると認められるか、またはその優れた才能・見識・作品により著名であるか、またはエストニア出身者である場合を第8条の例外規定とすることが、第9条で定められている。 参政権については、憲法では国政選挙の投票権を市民に限定していたが(第27条)、地方選挙については外国籍者や無国籍者についても投票権を認めていた(第76条)。1925年には文化的自治機関の設置を認める「少数民族文化自治法」が制定されたが、エストニア市民であることはこの権利を行使する要件ともなっている。 ===1938年国籍法=== その後、1930年代半ばにはコンスタンティン・パッツによる権威主義体制(沈黙の時代(エストニア語版))が確立され、1938年には新たな国籍法が制定された。新国籍法は、帰化条件などについては旧法を踏襲しつつ、その第23条では新たに「他国の軍事機関に奉仕し、または所属する者」の国籍剥奪規定が定められた。 参政権についても、同年の新憲法 (et) では地方選挙権を「選挙資格を与えられた市民」(第122条)に限定し、国政選挙権も1922年憲法の「20歳以上で1年間国籍を有していた者」(第27条)から「22歳以上で3年間国籍を有していた者」(第36条)へと厳格化した。公務員に関しても、「国および地方の公職は〔中略〕所定の能力を有する市民から選任される。外国人は法の定める条件によってのみ選任される」(第32条)として、非市民の行政参画に制限を加えている。 ===再独立期=== ====ロシア化と反動==== 1989年のエストニア在住者の民族別割合 しかし、1940年にはバルト諸国占領によってエストニアはソビエト連邦へ併合(ロシア語版)され、その後独ソ戦を経てエストニア・ソビエト社会主義共和国に対するソ連支配は確立した。体制に反抗した多数のエストニア人が流刑などの犠牲となり、また多数のエストニア人が国外へ亡命した。その後にはエストニア語もエストニア文化(英語版)も学ぼうとしない大量のロシア人が流入し、人口の面でも文化の面でもエストニアの急速なロシア化が進行した。かつて人口の約90パーセントを占めたエストニア人人口は、ソ連支配の半世紀の間に61.5パーセントにまで減少した。 エストニア人がロシア人に対して極端な劣位に追い込まれる一方、1980年代末に始まったソ連崩壊は、エストニア人をはじめソ連の各民族の民族運動を加速させた。エストニア人民族派の側はエストニアの独立回復に際し、ロシア人の市民権を制限して文化的地位も低下させることを求めた。対するロシア人の側は、ロシアとの経済関係を重視してロシア人にもエストニア人と対等の市民権と文化的地位を与えることを求めた。 1988年4月の創作家諸同盟合同総会 (et) ではエストニア・ソビエト社会主義共和国籍の新設が議論されたが、この時点では戦前のエストニア国籍との連続性は考慮されていなかった。その主眼はロシア共和国からの新来者の登録を抑制することに置かれ、すでにエストニア国内に居住する「移民」については議論の対処ではなかった。1990年3月の最高会議選挙に辛勝した人民戦線(ロシア語版)は、5月の第2回大会において、国籍問題について国際的に認められている解決策を採ると明言した。しかし、6月26日に最高会議が採択した「移民法」も、性質としては入国管理法に近いものに過ぎなかった。 ===議会の並立=== 1991年1月には、エストニア政府および最高会議が、ロシア共和国との間にゼロ・オプションでの国籍付与を相互に約束する二国間協定を結んだが、民族派はこれに反発した。2月には最高会議が、有権者登録と国籍申請を一体化させた法案を審議したが、未だ存在するソ連国籍(ロシア語版)の放棄を意味するこの法案にロシア人議員が反対したため、採択には至らなかった。その後も、最高会議周辺や人民戦線はゼロ・オプションに近い形での国籍問題解決を模索し、5月19日の政府プログラムでは、エストニア出身者に対しての国籍付与に加え、国内に十分長く居住する者の任意届出によって国籍を付与することが確認された。 他方、人民戦線と共産党(ロシア語版)との協力関係を感じ取った民族派は、1989年2月24日の独立記念日に際し、第一共和国との国家的連続性と、当時の国民を基盤とした独立回復の意思を明確にした。そして民族派は、ソ連による占領(1940年6月16日)以前からのエストニア国民とその直系子孫、そしてこの理念に共鳴する者に対する独自の「国民」登録を開始し、新たな議会「エストニア会議(エストニア語版)」を結成した。1990年2月24日から5日間に渡って行われたエストニア会議選挙の投票者数は59万1508人であり、直後に実施された最高会議選挙の有権者数および投票者数(116万5000人と91万1000人)と比較すると、民族派が「国民」と見做す範囲の狭さが窺える。 とはいえエストニア会議の側も常に一貫していたわけではなく、1990年5月25日の第2回大会では国籍取得に際する言語要件などの免除や、国籍申請者に対する新国会の選挙権の拡大などが決議されている。しかし、これら最高会議への歩み寄りも状況を見てのポーズに過ぎず、1991年8月の独立回復以降、ロシア人の歓心を買う必要のなくなったエストニア会議は国籍問題について一層態度を硬化させていった。 ===1938年国籍法の回復=== 1991年9月9日に政府が最高会議に提出した国籍法案は、1938年国籍法を基にしつつも、エストニア出身者・60歳以上の者・25年以上エストニアに居住する者に対し、(1992年1月1日までに国籍申請を行った場合に限り)国籍取得の優遇を認める内容であった。エストニア会議は、これを国民への裏切りであると激しく批判し、最高会議の側も、ロシア人への人権侵害を避けなければエストニアは欧米諸国から孤立する、と反論した。 しかし結局は、最高会議はゼロ・オプションが親露売国的であるとの世論に屈し、11月6日に1938年国籍法の回復を決議。父系血統主義についてのみ「欧州の基準に適合させるため」父母両系へと変更したが、1940年6月17日以降の移住者についてはやはり「非・国民」と決定した。これによって、成人人口の約40パーセントに当たる45万5000人が一切の法的地位を喪失し、無国籍(ロシア語版)状態に追いやられた(ただし、無国籍者が保持するソ連パスポート(ロシア語版)の有効性も即座には否定されなかったため、彼らの日常生活には激変は生じなかった)。 こうしてエストニアは、ラトビアとともに旧ソ連諸国のうちでゼロ・オプションを拒否する強硬姿勢を取った2か国の一つとなった。この対抗措置として、同月末にロシア最高会議(ロシア語版)は、在外ロシア人(英語版)から申請があった場合には自動的にロシア国籍を付与する法律を採択した。 1992年2月26日には国籍法の運用法が制定され、国籍申請に要する2年の居住期間(+1年の待機期間)を1990年3月30日から起算することが定められた。これには、運用法の発効とほぼ同時に居住期間が満期になるという申請者に有利な面もあったが、年内に実施される国民投票(英語版)・議会選挙(英語版)・大統領選挙のいずれからも申請者が排除されるという面もあった。また、他国の諜報機関やソ連軍での勤務歴のある者の申請も認められず、加えて合法的な収入を申請要件としたため、市場経済への移行期に失業した多数のロシア人も対象から外された。 ===ロシアとの対立=== 国会議員からもロシア人は一掃され、人口の3割が参政権を持たない状況が生まれるに至って、国内のロシア人は「ロシア人代表者会議」を結成して抵抗した。ロシア最高会議も、7月17日に在エストニア・ロシア人に対する「人権侵害」の非難決議を行い、エストニアに対する一時的経済制裁をロシア連邦政府に要請した。同月には、エストニアも加盟する全欧安全保障協力会議 (CSCE) が少数民族問題高等弁務官(英語版) (HCNM) の設置を決議したため、9月にエストニア政府は、国籍法と言語法に関するCSCEの調査団を受け入れると表明した。 CSCE調査団は12月からの調査の結果、エストニアの立法に欧州の人権基準から見て大きな逸脱はないと結論し、ロシア側による人権侵害の訴えを退けた。1993年2月7日には、国連総会決議47/115「エストニアとラトビアにおける人権の状態」に基づく国連調査団もエストニアに入ったが、10月26日に調査報告書は、エストニア社会には「1940年以前に時計を戻そうとする願望」が見られるものの、「民族や宗教を理由にした差別は何ら見当たらなかった」と結論した。 一方のロシア最高会議人権委員会は、エストニア永住者の38パーセントもが外国人・無国籍者とされる状況は世界人権宣言第6条・第15条および自由権規約第2条・第25条・第26条に違反する、と非難した。4月4日にボリス・エリツィン大統領は、エストニアとラトビアが少数民族の「迫害」をやめない限りロシア連邦軍の両国からの撤退は延期される、と声明した。 ロシアの武力による威圧に対し、6月16日にエストニア議会はエストニア語の読み書き能力を帰化要件とする「国籍志願者に対するエストニア語の要請に関する法律」を採択し、さらなる強硬姿勢で対抗した。同月21日には、実質的にロシア人に国外退去を迫る「外国人法」(et) が可決され(下記参照)、この状況を危険視するCSCE・HCNM・欧州評議会やヘルシンキ・ウォッチ(英語版)などの国際調査団がエストニアへ入った。 国際調査団の勧告に遭って、レンナルト・メリ大統領は外国人法を議会へ差戻し、外国人法にはCSCEや欧州評議会の要求をほぼ全面的に受け入れた修正が加えられた。また、帰化要件とされるエストニア語能力についても、約1500語程度の日常会話能力で十分との緩和がなされた。メリもまた、「国家に対する貢献者」への国籍付与を認める憲法の条項を利用し、穏健派のロシア人政治家やジャーナリストに対し国籍を付与する懐柔策を採った。結果、その後の両国政府の合意によって、1994年8月にロシア軍はエストニアからの撤退を完了した。 CSCEの後身である欧州安全保障協力機構 (OSCE) の在タリン代表部によれば、エストニア再独立から1995年3月までの間に、1938年国籍法に基づいて帰化した人数は8万4252人である。その内訳は エストニア語能力試験合格者:3万5041人エストニア民族籍者:2万5251人国家に対する貢献者:2万3326人特別功労者:634人となっている。 ===血統主義からの転換=== その後、1995年の国籍法改定によって、国籍取得のための居住要件は2+1年から5+1年に延長された。ロシア系政治家やロシア政府は、この延長をロシア人の国籍取得を妨げるものと批判したが、実際には大半のロシア人がこの要件を満たしていた。むしろこの改定の主眼は、居住要件を他の欧州諸国と横並びにすることであった。他方、この改定では民族エストニア人(19世紀にシベリアなどへ移住した人々の子孫など)に対しても新たにエストニア語の能力試験が課されることとなった。これら言語的にロシア化した民族エストニア人に対する措置にあるように、エストニアのネイション意識は民族単位から言語単位へと比重を移しつつあった。 他方、この言語能力試験はロシア人にとっても難易度が高く、同時期の調査ではロシア人の57パーセントが、帰化を申請しない理由に試験への落第を挙げている。また、可能ならば帰化したいと考える者が7割、子供を帰化させたいと考える者が8割に達する一方で、政府は不法滞在者のうち2万4000人とロシア国籍者の2万5000人に対しても社会保障を支給していたため、これもロシア人の帰化努力を阻害したとされる。 また、1995年11月2日に国連自由権規約人権委員会が決定した所見においても、エストニア語能力を帰化要件とする点や、旧体制において行った宣誓が自動的に行政職への採用拒否事項となる点が憂慮されていた。そして、行政職にロシア人・ロシア語話者が採用されにくく、ロシア人がエストニアで差別なく公的サービスを受けることができない現実が指摘された。また同委員会は、1993年に復活した「少数民族文化自治法」の適用制限の厳しさや、長期永住者に対する結社の自由の制限について指摘し、自由権規約第27条に基づくエストニア国内法の修正を強く勧告した。 当初、ロシア人の国外退去を企図して制定された国籍法と外国人法であったが、彼らの多くは失業により合法的収入の要件を満たすことができなかったため、それらの法は不法滞在者を増やすだけの結果に終わった。在タリン・OSCE代表部によれば、1995年4月から1997年1月までの間に、1995年国籍法に基づいて帰化した人数は4282人。そのほとんどがエストニア人を親として出生した子供または孤児であった。 ===排除から統合へ=== エストニアは1995年11月に欧州連合 (EU) へ加盟申請を行い、1997年12月にはルクセンブルク欧州理事会での加盟交渉開始決定候補国入りを果たした。しかし、同時に「ロシア系無国籍者の社会統合促進を目的とした国籍取得加速化のための方策の必要性」が指摘され、これに対しエストニアは12月9日の国籍法改定案承認を以て応えた。この国籍法緩和が外圧によるものであることは、当時の人口・民族問題担当相も認めている。 しかし、同様の問題を抱えるラトビアが国際社会からの圧力を黙殺したのとは対照的に、エストニアでは祖国連合(英語版)以外のほとんどの賛成によって、1998年12月には改定国籍法が成立した。1998年国籍法では、親が国内に5年以上居住する無国籍者であり、1992年2月26日以降に国内で出生した15歳以下の子供に対し、親権者の届出によって国籍付与が認められるようになった。 2003年12月までに3237人の子供たちが無条件の帰化を認められたこの改定により、血統主義のみを採っていた国籍法に出生地主義の要素が加味され、エストニアはロシア系住民の統合へと明確に方針を転換した。また、この法改定によってエストニア語能力試験を免除された国民の増加が確実となったため、同時期の言語法改定により、エストニア語の優位性の確保が図られた。 1998年2月に政府は文書「非エストニア人のエストニア社会への統合――エストニア国家統合政策の基本」を承認し、その中で無国籍者の国籍取得の必要性とともに、エストニア人とロシア人の相互理解による社会統合を訴えた。翌3月には「非エストニア人統合基金」が設立され、その支出額は1999年の570万クローンから2002年には850万クローンにまで拡大している。2000年3月にはエストニア語教育の拡充に基づく国籍取得政策が打ち出され、国家プログラム「エストニアの社会統合2000‐2007」が議会で承認されている。 2003年3月31日には国連自由権規約人権委員会が再度の所見を決定し、エストニアでの無国籍者に対する帰化者の少なさを指摘した。そして所見は、とりわけ子供の無国籍者を減らす(保護者に帰化を呼びかける・学校で帰化促進キャンペーンを行う)よう勧告した。また、政党加入に対して設けられた国籍条項に関しても、自由権規約第22条に基づき、その締結国には非市民の政党加入可能性を考慮する義務がある、とも指摘している。 2008年12月の時点で、エストニアの住民構成はエストニア国籍者83.9パーセント、無国籍者7.8パーセント、外国籍者8.3パーセントであり、かつて人口の30パーセント超を占めた無国籍者数は大幅に減少している。とはいえ、1992年から2007年までのエストニアへの帰化者が14万7230人である一方、同時期にロシアへ帰化したエストニア在住者も14万7659人存在するなど、ロシア人の社会統合が順調であるとは即断できない状況でもある(2007年4月にはタリンで両民族の衝突事件(青銅の夜)も発生している)。 エストニア国籍者 ロシア国籍者 その他の国籍者 無国籍者 ==外国人法== ===立法経緯=== 1993年6月21日に、101議席中の賛成59票・反対3票で議会を通過した外国人法案は、ロシア人に対し同法発効後1年以内の居住・労働許可申請を迫り、それが満たされない場合には国外退去もあり得るとするものであった(ただし、実際に不法滞在者に対する国外追放規定が発動された例はなかったとされる)。旧ソ連パスポートにも有効期限が定められ、その出入国の権利も脅かされた。 その内容から国内外で議論を呼んだ法案について、メリ大統領は欧州評議会とCSCEから評価を受けるまで署名をしないとの立場を取った。これを受けてマックス・ファン・デル・ストゥール(英語版)HCNMは、 ロシア人が外国人パスポート (ru) の発給を受ける際に、ロシアのパスポート(英語版)を取得できないことを証明する必要の有無が不明確(第8条第4項)居住許可の延期のみならず、居住許可の拒否決定に対する不服申立権が必要(第9条第5項)憲法および法を遵守しない者、ならびに「エストニアの利益および国際的イメージを損なう活動をした者」への居住許可の拒否原則を削除すべき(第12条第4項)退役軍人などとその家族への居住許可の拒否は、無条件ではなく1991年以降の除隊者のみを対象とすべき1990年7月1日以前からのエストニアへの移住者については、合法的収入の有無にかかわらず国外退去としないこととの指摘を行った。 7月8日、議会はトゥンネ・ケラム(英語版)副議長の提案によって無修正での法案再議決を行ったが否決され、同日中に修正後の法案が賛成69票・反対1票・白票2票で可決された。原法案の起草者であるマルト・ヌット(エストニア語版)国家法律委員会 (et) 議長は、修正は法文上の曖昧さを排するために過ぎず、同法の本質に変りはないと説明した。しかし実際には、その法文上の曖昧さを排して恣意的な運用を防ぐことこそが、修正の主眼であった。その詳細は、 ソ連パスポートの有効性を同法発効後2年間保障いかなる外国人に対しても職業を保障すると明記許可の発給・延長を拒否された場合は裁判所への提訴も可能であると明記永住者に対する5年ごとの居住許可更新義務を削除(永住許可への切替えを許可)1990年7月1日以前の移住者に対する法的保障を一層明確化居住許可が原則拒否される「エストニアの利益および国際的イメージを損なう活動をした者」を「エストニアの国家および安全保障に敵対的な行動をする者」に変更というものであったが、外国の諜報機関・安全保障機関への勤務歴のある者、外国軍に勤務する者とその家族、そして外国軍将校およびその家族で勤務の報奨としてエストニアへ移住した者に対する居住許可の拒否原則は残された。また、他国のパスポート取得の有資格者には外国人パスポートを発行しないことを示唆する条項(第8条第4項)も維持された(制度上は、ロシア国籍者の外国人パスポート受給も否定はされていない)。 ===運用=== 同法により、外国人に対しても土地の購入権が新たに認められるようになったが、国境付近の土地についてはその例外とされた。また、教育・社会保障に関しては、別途定めのない限り外国人もエストニア市民と同等の扱いを受けることができる。居住許可については行政裁量によって定期更新が求められていたが、その件数から居住許可の発給業務に支障をきたすようになったため、政府は1997年に外国人法の改定を行い、1995年7月までに居住登録をしたロシア人に対して永住権を認めた。ただし、永住許可を保持していたとしても、事前登録なしに183日間以上国を離れると、居住許可は無効とされる。 同様に基づき発給されていた外国人パスポートは、無国籍者がロシア以外の他国に出入りする権利を保障し、eIDカード導入以前は身分証としても機能した。外国人パスポート保有者には、エストニア市民であれば受けられる国外での保護扶助は保障されないとされているが、実際にはエストニア外務省と在外公館は、外国人パスポート保有者に対する保護扶助も行っている。また、外国人パスポート保有者はロシアへの無査証渡航が認められている(これは2001年1月に一旦廃止されたが、2008年8月には復活している)。さらに、エストニアのシェンゲン協定加盟後は、外国人パスポート保有者も協定加盟国への90日間以内の無査証滞在が可能となった。 1997年の法改定では、それまで年間の居住許可発行数はエストニア国籍保有者の0.1パーセントであったところ、EU加盟国・ノルウェー・アイスランド・スイス・日本を適用除外とする代わりに、0.05パーセントとする引き下げも行われた。1999年にも法改定が行われ、1990年7月以前からの定住者に対し再度の居住許可登録が呼びかけられたため、不法滞在者数は約5000‐1万人にまで減少した。以前は、永住者の親族であっても年間割り当てを超えて居住許可を受けることはできなかったが、2000年4月の法改定によって、12週以上の妊婦や18歳以下の共通の子供については割り当てを超えて居住許可が下りるようになった。さらに、2002年6月の再改定によって、配偶者と近親者には割り当てに関わらず居住許可が下りるようになっている。2008年の法改定では、エストニア国籍保有者に対する外国人の居住許可発行数は、再び0.1パーセントに戻されている。 =イヌの起源= イヌの起源(イヌのきげん)では、イヌ科の家畜種であるイエイヌ(学名 Canis familiaris または Canis lupus familiaris 、以下イヌ)の起源、すなわち、イヌがその祖先となった動物から、いつ、どこで、どのようにして分かれ、イヌとなったかについて解説する。 イヌは、リンネ(1758年)以来、伝統的に独立種 Canis familiaris とされてきたが、D. E. Wilson and D. A. M. Reeder の Mammal Species of the World: A Taxonomic and Geographic Reference (1993年版)において、その分類上の位置づけはタイリクオオカミ(Canis lupus、以下オオカミ)の亜種とされ、学名も C. lupus familiaris に改められた。最近ではこの分類と学名が受容されつつあるが、依然、独立種 C. familiaris としている研究者も少なくない。 ==遺伝的に見たイヌの起源== イヌの直接の祖先が現生のどの動物であるかという説は、後述するとおり複数のものがあった。 1990年代以降に急速に発展した分子系統学の知見に基づき、2000年代の時点では、イヌの祖先はオオカミとする説が一般的である。つまり、人間がオオカミを家畜化(=馴化)し、人間の好む性質を持つ個体を人為的選択することで、イヌという動物が成立したと考えられている。 イヌ属にはイヌ・オオカミ(C. lupus)の他に、野生化したイヌであるディンゴ(C. lupus dingo)、独立種として複数のジャッカル(C. aureus, C. mesomelas, C. simensis)とコヨーテ(C. latrans)、交雑種アメリカアカオオカミ(C. lupus × latrans)が含まれる。これらの間には地理的あるいは生態的な要因によって生殖的隔離が見られるが、人為的には相互に交雑が可能であり、子孫も繁殖力を持つ。 このことから、かつてはオオカミ起原説のほかに、オオカミとジャッカル(あるいはコヨーテ)が混じっているとする説や、イヌの祖先として(すでに絶滅したパリア犬や、オーストラリアに現生するディンゴのような)「野生犬」の存在を仮定する説などがあった。チャールズ・ダーウィンも、これら複数のイヌ属動物にイヌの祖先を求めたが、確定することはできなかった。しかしながら、2000年代までの分子系統学・動物行動学など生物学緒分野の発展は、オオカミ以外のイヌ属動物の遺伝子の関与は小さく、イヌの祖先はオオカミであるという説を支持する結果をもたらしている。 ===イヌ属の分化=== イヌなどの食肉目(ネコ目)の祖先として、現生のイタチやテンのような形態のミアキスが出現したのは、6000万年前ごろとされる。3800万年前のヘスペロキオン(en:Hesperocyon)を経て、約1500万年前には北米にトマークタス(en:Tomarctus)が出現し、これがイヌ科の直接の祖先であると考えられている。他のイヌ科動物とイヌ属が分岐したのは、約700万年前であると見積もられている。 ===オオカミとの関係=== Wayne ら(1993年)は、イヌ科動物を、ミトコンドリアDNA(mtDNA:ミトコンドリアタンパク質をコードするDNA)の2,001bp塩基対の配列によって比較した。その結果、イヌはオオカミと最も近縁であり、コヨーテやジャッカルとは少し離れていた。 Vil*9828* ら(1997年)は、世界の27か所から集めたオオカミ162頭と、67品種(犬種)140頭のイヌを用いて、同じくミトコンドリアDNAのうち、region 1 と呼ばれる、変異の大きな領域の塩基配列を比較した。その結果、イヌとオオカミの配列に大きな違いはなかった。Vil*9829* らや Tsuda ら(1997年)による、ミトコンドリアDNAの塩基配列の分析からは、イヌとオオカミははっきり分けられるものではなく、系統樹を描くと、さまざまなオオカミの亜種やイヌの犬種が入り交じって出現する。 Vil*9830* らや Tsuda らの分子系統学的研究と、イヌとオオカミがお互いの子を作ることが可能であり、両者の間にできた子供も生殖可能である事実を考え併せると、イヌとオオカミは近縁種であると考えられる。 ===祖先となったオオカミの亜種=== オオカミには棲息する地域によっていくつかの亜種があるが、イヌが具体的にどの地域で、どの亜種から分岐したものであるかについては定説はない。かつては、他の多くの家畜動物と同様、西アジアで家畜化されたのではないかとも考えられていた。また、前述のVil*9831* ら(1997年)の研究は、イヌの祖先が特定のオオカミの亜種に由来せず、さまざまな場所で家畜化が行われたか、あるいはイヌの系統がさまざまな種類のオオカミから遺伝的な影響を受けたことを示唆していた。 これに対して、Savolainen ら(2002年)はイヌの起源を新たに東アジアに求め、今日ではこの説が有力となりつつある。Savolainen らは、ユーラシアの38匹のオオカミと、アジア、ヨーロッパ、アフリカおよび北極アメリカ(=アラスカ)から集められた654匹のイヌから採取したミトコンドリアDNAを調査した。その結果、南西アジアやヨーロッパのイヌに比べて、東アジアのイヌには、より大きな遺伝的多様性が見られ、それらがより古い起源をもつこと、すなわち、イヌは東アジアに起源を持つことが示唆された。このことから、すべてのイヌは、約1万5千年前あるいはそれ以前に、東アジアに棲息するオオカミから家畜化されたものを祖先とし、これが人の移動に伴って世界各地に広がったものと考えられる。ただし、その過程で、ユーラシア大陸に分布する複数のオオカミ亜種(ヨーロッパオオカミ、インドオオカミ、アラビアオオカミなど)との混血が(さらに、限られた地域では、コヨーテやジャッカルとの多少の混血も)あったと推測される。 なお、Savolainen らに先行する日本の Tsuda ら(1997年)の研究でも、イヌの原種はチュウゴクオオカミと考えられるという結論が導かれている(チュウゴクオオカミ Canis lupus chanco は一般にチベットオオカミ Canis lupus laniger のシノニムとされることが多く、ヨーロッパオオカミ Canis lupus lupus に含める研究者もある)。 一方、2010年にUCLAの研究チームはネイチャー誌において、遺伝子の研究から犬は中東が起源である可能性が高く、考古学的記録もそれを裏付けているとする論文を発表している。 ===オオカミとの分岐時期=== イヌがオオカミから分岐した(イヌが人間によって最初に家畜化された)時期については、異なった見解が並立している。 Vil*9832* らは、イヌの塩基配列に見られる変異が生じるために必要な時間として、13万5千年という数字を算出している。この「遺伝子時計」が示す数字が正しいとすれば、考古学的な証拠から確認されるよりもはるかに長い時間である。この時期の違いについては、初期のイヌの形態がオオカミとほとんど変わらず、化石からは識別できなかったのだと考えることもできる。 しかし、Wayne and Ostrander や Savolainen らによる報告では、「イヌのDNAの塩基配列に見られる変異が1匹のオオカミのみに由来する場合はイヌの家畜化は約4万年前」「複数のオオカミがイヌの系統に関わっている場合は約1万5千年前」という見解が提示されている。田名部(2007年)は、アフォンドバ遺跡(約2万年前、ムスティエ文化)で発見された犬の骨に基づいて、この時期にオオカミとイヌが分化したことを支持している。 なお、現生人類(ホモ・サピエンス)がアフリカ大陸からユーラシアに進出したのは7〜5万年前のことであり、一方、約20万年前に出現し、現生人類と共存していたネアンデルタール人の分布域は、ヨーロッパから中央アジアまでである。このことからも、オオカミの家畜化が東アジアで起こったものだとすれば、ホモ・サピエンス出現より前の10万年以上前に、ネアンデルタール人が存在しなかった東アジアでオオカミを馴化することは不可能である。 ===犬種の分化とオオカミとの関わり=== Tanabe ら(1999年)の研究では、とりわけ東アジアのイヌの血統にチュウゴクオオカミとの関わりが強いことが示唆されている。 Parker ら(2004年)は、細胞核のマイクロサテライトDNA(付属DNA)の96座位について、オオカミと85品種(414頭)の犬を比較した。その結果、古代に起源をもつ数種、すなわち、中国犬(チャイニーズ・シャー・ペイ、チャウチャウ)と日本犬(柴犬、秋田犬)、コンゴ共和国のバセンジー、アラスカのシベリアン・ハスキーとアラスカン・マラミュートの3グループが比較的オオカミに近かったのに対して、ヨーロッパに起源をもつその他の多くの品種は相互に近く、比較的新しく分岐したものであることがわかった。この研究は、イヌの家畜化は東アジアのオオカミからなされたとした Savolainen ら(2002年)の結論を支持する結果となった。 なお、現在のイヌの品種の大部分を占めるヨーロッパ系のイヌの品種が人為的に作られ始めたのは8世紀ごろとされるが、品種として増加したのは、18世紀以降のことと考えられる。 ==考古学的研究== イヌが最初の馴化(家畜化)動物であることは、考古学的遺物からも間違いない。最古のイエイヌの骨であるかもしれないものとして、以下のものが挙げられる。 シリア・ドゥアラ洞窟にあるネアンデルタール人の住居遺跡(約3万5千年前?、ムスティエ文化(ムスティリアン文化))から発掘されたイヌ科動物の下顎骨: 埴原和郎らが発掘。オオカミの下顎骨に比べて小さく、これを世界最古のイエイヌとする説がある。ウクライナ・マルタ遺跡などで出土した、イヌ科動物の骨: オオカミにしては小型。同じくウクライナのメジン遺跡(約3万年前)でもイヌの骨が出土している。ロシア・ウラル山脈の東に位置するアフォンドバ遺跡(約2万年前、ムスティエ文化)で発見された犬の骨アラスカ・ユーコン地方で発掘されたイヌの骨: 少なくとも2万年以上前のものと見られる。また、同じアラスカのオールドクロウ川沿岸で、1万8千〜2千年前のものと推測されるイヌの骨が発見されている。ただし、(これと同じものについてのものかどうかは不明だが、)ポーキュパイン川沿岸の洞窟で発見された「イヌ科動物の折られた歯」は、実はクマの歯であった、とする論文もある。ドイツ・オーバーカッセル遺跡(Oberkassel, 約1万4千年前)から発見された、イヌまたは馴化されたオオカミの骨イスラエルのアイン・マラッハ遺跡(Ein Mallaha/Ain Mallaha/Eynan, 約1万2千年前)で発見されたイヌ科の若獣(子犬?)の骨: 同じ場所で発見された高齢の女性の遺体は、左手をこの4〜5月齢の子犬の体にかけた形で埋葬されていた。同じイスラエルのハヨニム洞窟遺跡(Hayonim Cave, 約1万2千年前)からも、イヌまたは馴化されたオオカミの骨が発見されている。イラク・パレガウラ洞窟遺跡(Palegawra Cave, 約1万2千年前)から出土したイヌの骨: 歯が詰まった小さな下あごや、小さな鼓室胞など、イヌの明瞭な特徴が認められる。一般的には、アイン・マラッハ遺跡など、前1万2千年ごろの西アジアのもの、あるいは前1万4千年ごろのオーバーカッセル遺跡のものを「最古のイヌ」として挙げる資料が多い。前1万2千年ごろは、中石器時代のナトゥーフ文化 Natufian culture 初期に当たり、主要な狩猟具が石斧から細石器(小さな石のやじり)へと移行した時期である。狩猟の形態の変化が、イヌの利用と何らかの関わりをもつ可能性もある。 ==家畜化の経緯== イヌがなぜ、どのようにして家畜化されたのかについては、明確には分かっていない。従来はイヌの家畜化は東アジアまたは中東で農業の勃興と関係して行われたと考えられていたが、イヌの家畜化はヨーロッパで狩猟採集民によって行われたとする論文が2013年にサイエンス誌で発表された。この論文によれば、イヌの直接の先祖はヨーロッパの古代オオカミであることがDNA分析の結果明らかだという。 オオカミとヒト属動物(人類)とは数十万年にわたり、共通の地理的分布域および生活環境で生活しており、互いに頻繁に遭遇していたと考えられる。オオカミの骨は更新世の中期以降の人類の遺跡、たとえばイギリスのボックスグローブ遺跡(約40万年前、旧石器時代前期)、中国の周口店遺跡(約30万年前、旧石器時代前期)、フランスのラザレ洞窟(約15万年前、旧石器時代中期)などから発掘されている。この「ゆるやかな接触の時期」に、オオカミのうちのあるものが人間の宿営地近くに出没し、人に近づくようになり、やがてその中からイヌの祖先となるものが現れた可能性が考えられている。 オオカミの成獣を人に馴れさせるのはほとんど不可能に近いが、子供のうちに群れから離され、人間の中で育てられたオオカミは、かなり人に馴れることが知られている。それでも時に突然危険な行動をとるようなことがあるため、馴化して家畜として利用することは難しいと言われる。 「ゆるやかな接触の時期」には、オオカミが人の捨てた食べ残しをあさるため人の宿営地に近づくようになり、何らかの淘汰圧が働いて次第にイヌ化したのではないかとの意見がある。現在のイヌ・オオカミの遺伝子分析の結果から、オオカミとイヌの攻撃性の違いが、遺伝的背景と関連を持つ可能性が報告されている。 ==脚註・出典== ==参考文献== 猪熊壽(著), 林良博・佐藤英明(編), 2001.『イヌの動物学』東京大学出版会: 1‐35.石黒直隆, 2007. イヌの分子系統進化. 生物科学. Vol.58, No.3.(May, 2007)〈特集 イヌの生物科学〉: 140‐147.田名部雄一, 2007. イヌの起源と日本犬の成立. 生物の科学 遺伝. Vol.61, No.4.(Jul., 2007)〈小特集 あなたの犬はどこからきたのか〉: 55‐61.スティーブン・ブディアンスキー(著), 渡植貞一郎(訳) 2004. 『犬の科学 ほんとうの性格・行動・歴史を知る』築地書館: 21‐36.村山美穂, 2007. オオカミからイヌへ. 生物の科学 遺伝. Vol.61, No.4.(Jul., 2007)〈小特集 あなたの犬はどこからきたのか〉: 66‐69.Newton 編集部, 2011. イヌとネコはどこから来たのか?. Newton. 第31巻第10号(2011年10月号): 52‐61.コンラート・ローレンツ『人イヌにあう(英語版)』(原著”So kam der Mensch auf den Hund”は、1949年に著された。)日本語では、早川書房の2009年版(ISBN 4150503559)や、至誠堂の1968年版(全国書誌番号:68006201)の書籍がある。 ==関連項目== イヌオオカミ =ルワンダ虐殺= ルワンダ虐殺(ルワンダぎゃくさつ、英語: Rwandan Genocide)とは、1994年にルワンダで発生したジェノサイドである。1994年4月6日に発生した、ルワンダのジュベナール・ハビャリマナ大統領とブルンジのシプリアン・ンタリャミラ大統領の暗殺からルワンダ愛国戦線 (RPF) が同国を制圧するまでの約100日間に、フツ系の政府とそれに同調するフツ過激派によって、多数のツチとフツ穏健派が殺害された。正確な犠牲者数は明らかとなっていないが、およそ50万人から100万人の間、すなわちルワンダ全国民の10%から20%の間と推測されている。 ==概説== ルワンダ紛争はフツ系政権および同政権を支援するフランス語圏アフリカ、フランス本国と、主にツチ難民から構成されるルワンダ愛国戦線および同組織を支援するウガンダ政府との争いという歴史的経緯を持つ。ルワンダ紛争により、国内でツチ・フツ間の緊張が高まった。さらにフツ・パワーと呼ばれるイデオロギーが蔓延し、「国内外のツチはかつてのようにフツを奴隷とするつもりだ。我々はこれに対し手段を問わず抵抗しなければならない」という主張がフツ過激派側からなされた。1993年8月には、ハビャリマナ大統領により停戦命令が下され、ルワンダ愛国戦線との間にアルーシャ協定(英語版)が成立した。しかし、その後もルワンダ愛国戦線の侵攻による北部地域におけるフツの大量移住や、南部地域のツチに対する断続的な虐殺行為などを含む紛争が続いた。 1994年4月に生じたハビャリマナ大統領の暗殺は、フツ過激派によるツチとフツ穏健派への大量虐殺の引き金となった。この虐殺は、フツ過激派政党と関連のあるフツ系民兵組織、インテラハムウェとインプザムガンビが主体となったことが知られている。また、虐殺行為を主導したのは、ハビャリマナ大統領の近親者からなるアカズと呼ばれるフツ・パワーの中枢組織であった。このルワンダ政権主導の大量虐殺行為によりアルーシャ協定(英語版)は破棄され、ツチ系のルワンダ愛国戦線とルワンダ軍による内戦と、ジェノサイドが同時進行した。最終的には、ルワンダ愛国戦線がルワンダ軍を撃破し、ルワンダ虐殺はルワンダ紛争と共に終結した。 ==発生までの歴史的背景== ルワンダ虐殺は部族対立の観点のみから語られることもあるが、ここに至るまでには多岐に渡る要因があった。まず、フツとツチという両民族に関しても、この2つの民族はもともと同一の由来を持ち、その境界が甚だ曖昧であったものを、ベルギー植民地時代に完全に異なった民族として隔てられたことが明らかとなっている。また、民族の対立要因に関しても、歴史的要因のほかに1980年代後半の経済状況悪化による若者の失業率増加、人口の増加による土地をめぐっての対立、食料の不足、90年代初頭のルワンダ愛国戦線侵攻を受けたハビャリマナ政権によるツチ敵視の政策、ルワンダ愛国戦線に大きく譲歩した1993年8月のアルーシャ協定(英語版)により自身らの地位に危機感を抱いたフツ過激派の存在、一般人の識字率の低さに由来する権力への盲追的傾向などが挙げられる。さらに、国連や世界各国の消極的な態度や状況分析の失敗、ルワンダ宗教界による虐殺への関与があったことが知られている。以下にこれらの各要因について説明する。 ===ツチとフツの確立と対立=== 19世紀にヨーロッパ人が到来すると、当時の人類学により、ルワンダやブルンジなどのアフリカ大湖沼周辺地域の国々は、フツ、ツチ、トゥワの「3民族」から主に構成されると考えるのが主流となった。この3民族のうち、この地域に最も古くから住んでいたのは、およそ紀元前3000年から2000年頃に住み着いた、狩猟民族のトゥワであった。その後、10世紀以前に農耕民のフツがルワンダ周辺地域に住み着き、さらに10世紀から13世紀の間に、北方から牧畜民族のツチがこの地域に来て両民族を支配し、ルワンダ王国下で国を治めていたと考えられていた。 この学説の背景の1つに、19世紀後半のヨーロッパにおいて主流であった人種思想とハム仮説(英語版)があった。当時の人類学の1 つの考え方では、旧約聖書の創世記第9章に記された、ハムがノアの裸体を覗き見た罪により、ハムの息子カナンが「カナンはのろわれよ。彼はしもべのしもべとなって、その兄弟たちに仕える」と、モーゼの呪いを受けたという記述に基づき、全ての民族をセム系・ハム系・ヤペテ系など旧約の人物に因んだ人種に分けていた。ハム仮説とは、そのうちのハム系諸民族をカナンの末裔とみなし、彼らがアフリカおよびアフリカ土着の人種であるネグロイドに文明をもたらしたとする考え方である。ルワンダにおいて、「ネグロイド」のバントゥー系民族に特徴的な「中程度の背丈とずんぐりした体系を持つ」農耕民族のフツを、「コーカソイド」のハム系諸民族に特徴的な「痩せ型で鼻の高く長身な」牧畜民族のツチが支配する状況は、このハム仮説に適合するものとされた。また、民族の”識別”には皮膚の色も一般的な身体的特徴として利用され「肌の色が比較的薄い者が典型的なツチであり、肌の色が比較的濃い者が典型的なフツである」とされた。19世紀後半にこの地を訪れたジョン・ハニング・スピークは、1864年に刊行した『ナイル川源流探検記』においてハム仮説を提唱した。しかし近年では、この民族はもともと同一のものが、次第に牧畜民と農耕民へ分化したのではないかと考えられている。その理由として、フツとツチは宗教、言語、文化に差異がないこと、互いの民族間で婚姻がなされていること、19世紀まで両民族間の区分は甚だ曖昧なものだったこと、ツチがフツの後に移住してきたという言語学的・考古学的証拠がないことが挙げられる。 19世紀末にヨーロッパ諸国によりアフリカが分割され、この地域が1899年にドイツ帝国領ルアンダ・ウルンディとなると、ドイツはハム仮説に従いツチによるルワンダ王国の統治システムを用いて間接統治を行い、周辺地域の国々を平定して中央集権化した。その後の1919年、第一次世界大戦でドイツが敗れたことで、アフリカ各地のドイツ領は国際連盟委任統治領として新たな宗主国へ割りふられ、ルアンダ・ウルンディはベルギーの支配地域となった。ベルギーはこの国の統治機構を植民地経営主義的観点から積極的に変更し、王権を形骸化させ、伝統的な行政機構を廃止してほぼ全ての首長をツチに独占させたほか、税や労役面で間接的にツチへの優遇を行った。また、教育面でもツチへの優遇を行い、公立学校入学が許されるのはほぼ完全にツチに限られていたほか、カトリック教会の運営する学校でもツチが優遇され、行政管理技術やフランス語の教育もツチに対してのみ行われた。さらに1930年代にはIDカード制を導入し、ツチとフツの民族を完全に隔てられたものとして固定し、民族の区分による統治システムを完成させることで、後のルワンダ虐殺の要因となる2つの民族を確立した。このIDカードはルワンダ虐殺の際に出身民族をチェックする指標の1つとなった。 第二次大戦後、アフリカの独立機運が高まってくると、ルアンダ・ウルンディでも盛んに独立運動が行われた。宗主国であったベルギーは国際的な流れを受けて多数派のフツを支持するようになり、ベルギー統治時代の初期にはハム仮説を最も強固に支持していたカトリック教会もまた、公式にフツの支持を表明した。ベルギーの方針変化には、急進的な独立を求めるツチに対するベルギー人の反発や、ベルギーの多数派であるフランデレン人がかつて少数派のワロン人に支配されていた歴史的経緯に由来するフツへの同情、多数派であるフツへの支持によってルワンダを安定化する考えがあったとされる。これらの後押しもあり、後にルワンダ大統領となるグレゴワール・カイバンダやジュベナール・ハビャリマナらを含む9人のフツが、ツチによる政治の独占的状態を批判したバフツ宣言(英語版)を1957年に発表し、その2年後の1959年には、バフツ宣言を行ったメンバーが中心となりパルメフツが結成された。 そんな中、1959年11月1日の万聖節の日にパルメフツの指導者の1人であったドミニク・ンボニュムトゥワがツチの若者に襲撃された。その後、ンボニュムトゥワが殺害されたとの誤報が流れ、これに激怒したフツがツチの指導者を殺害し、ツチの家に対する放火が全国的に行われた。そしてツチ側も報復としてフツ指導者を殺害するという形で国内に動乱が広がった。なお、この1959年の万聖節の事件が、民族対立に基づいてフツとツチの間で行われた初の暴力であり、この事件に端を発した犯罪への「免責」の文化が、ジェノサイドの原動力であるという説もある。当時、ベルギーの弁務官であったロジスト大佐はフツのために行動することを表明し、フツを利するために行動した。さらに、1960年には普通選挙を開催し、フツの政治的影響力を拡大させた。なお、選挙の投票所にはフツが陣取っており、ツチの有権者に対する脅迫が行われていたことが知られている。 1961年にはルワンダ国王であったキゲリ5世の退位と王制の廃止が決定され、同年10月にグレゴワール・カイバンダが共和国大統領となった。このフツ系のカイバンダ政権は、近隣諸国に逃れたツチによるゲリラ攻撃に悩まされた背景もあり、フツ‐ツチ間の対立を政治利用し、暴力的迫害や政治的な弾圧を行った。なお、1959年から1967年までの期間で2万人のツチが殺害され、20万人のツチが難民化を余儀なくされたことが知られている。1973年、無血クーデターによりカイバンダ政権が倒され、ジュベナール・ハビャリマナが新たな政権を発足した。ハビャリマナ政権は前政権党のパルメフツの活動を禁止し、自身の政党にあたる開発国民革命運動による政治運営を行った。さらに、1978年には開発国民革命運動の一党制を憲法で確立した。軍や政権中枢における権力の基盤としてハビャリマナ大統領夫妻の血縁関係者や同郷出身者からなる非公式な組織のアカズが構築された。ハビャリマナ政権下ではツチに対する迫害行為の状況は幾分か改善したものの、周辺国へ逃れた難民の問題や、クウォーター制によるツチの社会進出制限の問題は残った。1980年代には、ルワンダ国外で難民として暮らすツチは60万人に達していた。 隣国のブルンジもまた、ルアンダ・ウルンディとしてルワンダとまとめて扱われていたため、同様のフツとツチ間の問題が生じることとなった。1962年の独立以降、ブルンジ虐殺(英語版)と呼ばれる2つの虐殺事件が1972年と1993年に発生した。1972年のツチ兵士によるフツの大量虐殺事件と、1993年のフツによるツチの虐殺事件である。 ===土地・食料・経済状況などの諸問題=== 1960年代から1980年代初頭にかけて、ルワンダは持続的な成長を遂げ続けたアフリカの優等国であった。しかしながら、1980年代後半には主要貿易品目であったコーヒーの著しい値崩れなどを受け経済状況は大きく悪化し、さらに1990年に行われた国際通貨基金の構造調整プログラム(英語版)(ESAF)により社会政策の衰退、公共料金の値上げを招き、状況の一層の悪化を導いた。その結果、失業率の悪化や社会格差による貧困などの諸問題が噴出し、特に若者を中心として不満を募らせるようになった。 またルワンダは国土の比較的狭い国であったが、「千の丘の国」と呼ばれる平均標高の高い土地のために温暖気候に属しており人の居住に適し、土地が肥沃で自然環境も豊かなことで知られていた。しかし1948年に180万人であった人口が1992年には四倍を超える750万人にまで増加し、アフリカで最も人口密度の高い国となり、農地などの土地不足の問題が発生するようになった。加えて人口の増加により食料不足の問題が生じ、国民の6人に1人が飢えに苦しむ状況となった。国民の多くは数ヘクタールにも満たない狭い農地で生産性の低い農業に頼った自給自足の生活をしており、市場に売却する余剰食料を充分に生産できなかった(先進国では数%の農業従事者が他の国民のための食料を生産している)。そのため日頃から生活の糧となる土地をめぐって争いが頻発していた。 ===ルワンダ紛争=== 1959年以降、周辺国へ逃れた多数のツチ系難民は、1980年頃に政治的組織や軍事的組織として団結するようになった。ウガンダでは1979年にルワンダ難民福祉基金が設立され、翌1980年に同組織が発展する形で国家統一ルワンダ人同盟が結成された。ウガンダ内戦(英語版)(1981年 ‐ 1986年)における反政府組織であり、最終的に勝利を納めた国民抵抗運動 (NRM) に参加した者も多く、1986年時点で国民抵抗運動の約2割がツチであった。しかしながら、内戦の初期から国民抵抗運動に参加していたツチらは相応の高い地位を得たものの、ヨウェリ・ムセベニウガンダ大統領のルワンダ難民問題に関する姿勢の変節などにより、強い失望を受けた。そのため、1987年になると新たにルワンダ愛国戦線を結成し、ルワンダへの帰還を目指すようになった。 1990年から1993年までの期間、アカズからの指示を受けたフツにより、雑誌の『カングラ』が作られた。この雑誌はルワンダ政府に批判的なツチ系の雑誌『カングカ』を真似たものであり、政府への批判を一応は行いつつも、主たる目的はツチに対する侮蔑感情の煽動であった。また、この雑誌のツチに対する攻撃姿勢は、植民地時代以前の経済的優遇を非難することよりも、ツチという民族そのものを攻撃することが中心であった。同誌の設立者であり編集者でもあったハッサン・ンゲゼは数々の煽動的報道で知られており、特にンゲゼの書いた「フツの十戒」はフツ・パワー・イデオロギーの公式理念と呼ばれ、学校や政治集会などの様々な場で読み上げられた。1992年には、ハビャリマナ大統領の宥和的姿勢に反発した権力中枢部により、極端なフツ至上主義を主張する共和国防衛同盟 (CDR) が開発国民革命運動から分離する形で結成された。また同年には、開発国民革命運動の青年組織としてインテラハムウェ(「共に立ち上がる(or 戦う or 殺す)者」を意味する)、共和国防衛同盟の青年組織としてインプザムガンビ(「同じ( or 単一の)ゴールを目指す者」を意味する)が設立された。後にこの両組織はルワンダ虐殺で大きな役割を果たす民兵組織となる。なお、共和国防衛同盟はルワンダ愛国戦線との間にアルーシャ合意を結ぶことを強く反対した結果、1993年8月に成立した同協定と、協定に従い設立された暫定政権から排斥された。このフツ過激派政党である共和国防衛同盟をアルーシャ協定(英語版)から排除する方針にはハビャリマナ政権と国際社会の反対があったものの、ルワンダ愛国戦線がこれを強固に主張したため最終的に排斥される形となった。 1993年にはアルーシャ協定(英語版)に従い、停戦による哨戒活動のほか武装解除と動員解除を支援する目的で、国連平和維持軍が展開された。同年3月時点の報告書によれば、1990年のルワンダ愛国戦線による侵攻以降、1万人のツチが拘留され、2000人が殺害されたことが判明している状況であった。1993年8月、国連軍の司令官であったロメオ・ダレール少将は、ルワンダの状況評価を目的とした偵察を行った後に5000人の兵員を要請したが、最終的に確保できたのは要請人数の約半分にあたる2548人の軍人と60人の文民警察であった。なお、この時点のダレールは、ルワンダでの任務は標準的な平和維持活動であると考えていた。 ===組織的虐殺の準備=== 近年の研究では、ルワンダ虐殺は非常に組織立った形で行われたことが明らかとなっている。ルワンダ国内では、地域ごとに様々な任務を行う代表者が選出されたほか、民兵の組織化が全国的に行われ、民兵の数は10家族あたり1人となる3万人にまで達していた。一部の民兵らは、書類申請によってAK‐47アサルトライフルを入手でき、手榴弾などの場合は書類申請すら必要なく容易に入手が可能であった。インテラハムウェやインプザムガンビのメンバーの多くは、銃火器ではなくマチェーテやマスといった伝統的な武器で武装していた。 ルワンダ虐殺当時のジャン・カンバンダ首相は、ルワンダ国際戦犯法廷の事前尋問で「ジェノサイドに関しては閣議で公然と議論されていた。当時の女性閣僚の1人は、全てのツチをルワンダから追放することを個人的に支持しており、他の閣僚らに対して”ツチを排除すればルワンダにおける全ての問題は解決する”と話していた」と証言している。カンバンダ首相はさらに、ジェノサイドを主導した者の中には退役軍人であったテオネスト・バゴソラ大佐やオーギュスタン・ビジムング少将、ジャン=バティスト・ガテテといった軍や政府高官の多数が含まれており、さらに地方レベルのジェノサイド主導者であれば、市長や町長、警察官も含まれると述べた。 ===メディア・プロパガンダ=== 研究者の報告によれば、ルワンダ虐殺においてニュースメディアは重要な役割を果たしたとされる。具体的には、新聞や雑誌といった地域の活字メディアやラジオなどが殺戮を煽る一方で、国際的なメディアはこれを無視するか、事件背景の認識を大きく誤った報道を行った。当時のルワンダ国内メディアは、まず活字メディアがツチに対するヘイトスピーチを行い、その後にラジオが過激派フツを煽り続けたと考えられている。評論家によれば、反ツチのヘイトスピーチは「模範的と言えるほどに組織立てられていた」という。ルワンダ政府中枢部の指示を受けていたカングラ誌は、1990年10月に開始された反ツチおよび反ルワンダ愛国戦線キャンペーンで中心的な役割を担った。現在進行中のルワンダ国際戦犯法廷では、カングラの背景にいた人物たちを、1992年にマチェーテの絵と『1959年の社会革命を完了するために我々は何をするか?(What shall we do to complete the social revolution of 1959?)』の文章を記したチラシを製作した件で告発した(このチラシにある1959年の社会革命時には、ツチ系の王政廃止やその後の政治的変動を受けた社会共同体によるツチへの排撃活動の結果、数千人のツチが死傷し、約30万人ものツチがブルンジやウガンダへ逃れて難民化した)。カングラはまた、ツチに対する個人的対応や社会的対応、フツはツチをいかに扱うべきかを論じた文章として悪名高いフツの十戒や、一般大衆の煽動を目的とした大規模戦略として、ルワンダ愛国戦線に対する悪質な誹謗・中傷を行った。この中でよく知られたものとしては「ツチの植民地化計画 (Tutsi colonization plan)」などがある。 ルワンダ虐殺当時、ルワンダ国民の識字率は50%台であり、政府が国民にメッセージを配信する手段としてラジオは重要な役割を果たした。ルワンダの内戦勃発以降からルワンダ虐殺の期間において、ツチへの暴力を煽動する鍵となったラジオ局はラジオ・ルワンダとミルコリンヌ自由ラジオ・テレビジョン (RTLM) の2局であった。ラジオ・ルワンダは、1992年3月に首都キガリの南部都市、ブゲセラ (Bugesera) に住むツチの虐殺に関して、ツチ殺害の直接的な推奨を最初に行ったラジオとして知られている。同局は、コミューンの長であったフィデール・ルワンブカや副知事であったセカギラ・フォスタンら反ツチの地方公務員が主導する「ブゲセラのフツはツチから攻撃を受けるだろう」という警告を繰り返し報道した。この社会的に高い地位にある人物らによるメッセージは、フツに”先制攻撃することによって我が身を守る必要がある”ことを納得させ、その結果として兵士に率いられたフツ市民やインテラハムウェのメンバーにより、ブゲセラに暮らすツチが襲撃され、数百人が殺害された。また、1993年の暮れにミルコリンヌ自由ラジオ・テレビジョンは、フツ出身のブルンジのメルシオル・ンダダイエ大統領の暗殺事件についてツチの残虐性を強調する扇情的な報道を行い、さらにンダダイエ大統領は殺害される前に性器を切り落とされるなどの拷問を受けていたとの虚偽報道を行った(この報道は、植民地時代以前におけるツチの王の一部が、打ち負かした敵対部族の支配者を去勢したという歴史的事実が背景にある)。さらに、1993年10月下旬からのミルコリンヌ自由ラジオ・テレビジョンは「フツとツチ間の固有の違い、ツチはルワンダの外部に起源を持つこと、ツチの富と力の配分の不均一、過去のツチ統治時代の恐怖」などを強調し、フツ過激派の出版物に基づく話題を繰り返し報道した。また、「ツチの陰謀や攻撃を警戒する必要があり、フツはツチによる攻撃から身を守るために備えるべきである」との見解を幾度も報じた。1994年4月6日以降、当局がフツ過激派を煽り、虐殺を指揮するために両ラジオ局を利用した。特に、虐殺当初の頃に殺害への抵抗が大きかった地域で重点的に用いられた。この2つのラジオ局はルワンダ虐殺時に、フツ系市民を煽動、動員し、殺害の指示を与える目的で使用されたことが知られている。 上記に加え、ミルコリンヌ自由ラジオ・テレビジョンは、ツチ系難民を主体としたルワンダ愛国戦線のゲリラを、ルワンダ語でゴキブリを意味するイニェンジ (inyenzi) の語で呼び、同ゲリラが市民の服装を着て戦闘地域から逃れる人々に混ざることに特に注意を促していた。これらの放送は、全てのツチがルワンダ愛国戦線による政府への武力闘争を支持しているかのような印象を与えた。また、ツチ女性は、1994年のジェノサイド以前の反ツチプロパガンダでも取り上げられ、例えば1990年12月発行のカングラに掲載された「フツの十戒」の第四には「ツチ女性はツチの人々の道具であり、フツ男性を弱体化させて最終的に駄目にする目的で用いられるツチの性的な武器」として描写された。新聞の風刺漫画などにもジェンダーに基づくプロパガンダが見られ、そこでツチ女性は性的対象として描かれた。具体的な例として「ツチの女どもは、自分自身が我々には勿体ないと考えている (You Tutsi women think that you are too good for us)」とか「ツチの女はどんな味か経験してみよう (Let us see what a Tutsi woman tastes like)」といった強姦を明言するような発言を含む、戦時下の強姦(英語版)を煽るような言説が用いられた。ミルコリンヌ自由ラジオ・テレビジョンは、堅苦しい国営放送のラジオ・ルワンダと異なり、若者向けの音楽を用いた煽動にも力を入れていた。シモン・ビキンディによるフツの結束を訴えた曲、『こんなフツ族は嫌い』が代表的な作品として知られている。 同様のメディア・プロパガンダにより、隣国のブルンジでも1993年10月21日にツチ系の民族進歩連合に所属するフツのフランソワ・ンゲゼ率いるツチ中心の軍部によるクーデターでフツのンダダイエ大統領が暗殺された。フツによるブルンジ虐殺(英語版)が発生し、約2万5千人のツチ系市民が殺害され、非難を浴びたンゲゼが退陣してツチのキニギ臨時政権が樹立され、民主政治への復帰を果たすものの、ブルンジ内戦(英語版)(1993年 ‐ 2005年)と呼ばれる長期の報復合戦に突入した。 ===国際連合の動向=== 1994年1月11日、カナダ出身の国際連合ルワンダ支援団 (UNAMIR) の司令官ロメオ・ダレール少将は、匿名の密告者から受けた4箇所の大きな武器の貯蔵庫とツチの絶滅を目的としたフツの計画に関して、事務総長とモーリス・バリル少将にファックスを送信した。ダレール少将からの連絡では、密告者が数日前にインテラハムウェの訓練を担当した同組織トップレベルの指導者であることが記されていたほか、およそ以下のような内容が含まれていた。 軍事訓練の目的はインテラハムウェの自衛ではなく、キガリに駐屯するルワンダ愛国戦線の大隊と国際連合ルワンダ支援団のベルギー軍を武力で刺激することである。インテラハムウェの筋書きでは、ベルギー兵とルワンダ愛国戦線をルワンダから撤退させるつもりである。戦闘によってベルギー兵数人を殺害すれば、人数や武装的に平和維持軍の要となっているベルギー軍全体が撤退すると考えている。ベルギー軍撤退後に、ツチは排撃されるだろう。インテラハムウェの兵1700人が政府軍キャンプで訓練を受けている。これまでは、マチェーテ(山刀,マシェット,マチェテ)やマス(多数の釘を打ち付けた棍棒)といった伝統的な武器が主流であったが、AK‐47などの銃火器が民兵組織の間で普及しつつある。密告者自身やその同僚はキガリに住む全てのツチをリスト化するように命じられた。その目的はツチの絶滅である可能性があり、例えば我々の部隊であれば、1000人のツチを20分間で殺害することが可能である。ハビャリマナ大統領は過激派を統制し切れていないのではないだろうか。密告者はルワンダ愛国戦線と敵対しているが、罪のない国民を殺害することには反対である。ダレール少将は、国際連合ルワンダ支援団部隊による武器貯蔵場所を制圧する緊急の計画を立案し、この計画が平和維持軍の目的に適うものであると考えて、国連に持ちかけた。しかし、翌日に国連平和維持活動局本部から送られた回答では「武器庫制圧の計画は、国連安保理決議第872号にて国際連合ルワンダ支援団に付与された権限を越えるものである」として、ダレール少将の計画は却下された。ダレール少将の計画を却下したのは、当時国連平和維持活動局のPKO担当国連事務次長であり、後に国際連合事務総長となるコフィー・アナンであった。なお、国連はダレールの計画を却下した代わりとして、ハビャリマナ大統領に対してアルーシャ協定(英語版)違反の可能性を指摘する通知を行い、この問題に関する対策の回答を求めたが、それ以降密告者からの連絡は二度となかったという。後に、この1月11日の電報は、ジェノサイド以前に国連が利用可能であった情報がどのようなものであったかを議論する上で、重要な役割を果たした。翌月の2月21日には、過激派フツにより社会民主党出身のフェリシアン・ガタバジ (F*6994*licien Gatabazi) 公共建設大臣が暗殺され、さらにその翌日には報復として共和国防衛同盟のマルタン・ブギャナ (Martin Bucyana) が殺害されたが、国際連合ルワンダ支援団は国連本部から殺人事件を調査する許可を得られず、対応できなかった。 1994年4月6日、ミルコリンヌ自由ラジオ・テレビジョンは、ベルギーの平和維持軍がルワンダ大統領の搭乗する航空機を撃墜、あるいは撃墜を援助したとする非難を行った。この報道が後にルワンダ軍の兵士によりベルギーの平和維持軍の10人が殺害される結果に結びついた。 国際連合から国際連合ルワンダ支援団へ下されたマンデート(任務)では、ジェノサイドの罪を犯している状態でない限りは、国内政治への介入はいかなる国の場合でも禁じられていた。カナダ、ガーナ、オランダは、ダレール少将の指揮の下、国連からの任務を首尾一貫して提供したが、国連安全保障理事会から事態介入に必要となる適切なマンデートを得られなかった。 ===宗教界の動向=== ルワンダ虐殺がジェノサイドへと至った動機としては、宗教対立などの要因はさほどなかったとされる。しかしながら上でも述べたように、ルワンダにおいてカトリック教会はツチとフツの対立形成に大きな役割を果たした。19世紀末から第二次世界大戦頃の植民地時代において、カトリック教会はハム仮説に基づくツチの優位性を植民地行政官以上に強く主張したが、その一方で1950年代後半以降はフツ側に肩入れし、多くのカトリックの指導者がジェノサイドへの批判を行わず、多くの聖職者が虐殺に協力した。ルワンダ虐殺に協力した一般住民の多くが「ツチの虐殺は神の意思に沿うものである」と考え、カトリック教会も虐殺に加担したと看做されている。虐殺終結後のルワンダ国際戦犯法廷では、ニャルブイェ大虐殺に関与した司祭のアタナゼ・セロンバ(英語版)など複数の宗教指導者らが告発され、有罪判決を受けている。 ヒューマン・ライツ・ウオッチは、ルワンダの宗教的権威者、特にカトリックの聖職者はジェノサイド行為に対する非難を怠ったと報告し、カトリック教会は「ルワンダでは大量虐殺が行われたが、これら虐殺行為への参加に関して教会は許可を与えていない」と主張している。1996年にローマ教皇であったヨハネ・パウロ2世は、カトリック教会としてのジェノサイドへの責任を否定している。 その一方で、1994年以前は1%程度であったイスラム教徒がルワンダ虐殺の終結後から大幅に増加しており、2006年には8.2%となったことが知られている。これはルワンダ虐殺時のカトリック教会の行動により同宗教への信頼性が大きく揺らいだことと、イスラム教は虐殺に参加せず避難民の保護を行ったことにより、イスラム教のイメージが大きく改善した影響であると考えられている。ルワンダでは現在のところイスラム原理主義は確認されていない。 ==ハビャリマナ大統領の暗殺から虐殺初期まで== 1994年4月6日、ルワンダのハビャリマナ大統領とブルンジのンタリャミラ大統領の搭乗する飛行機が、何者かのミサイル攻撃を受けてキガリ国際空港への着陸寸前に撃墜され、両国の大統領が死亡した。攻撃を仕掛けた者が不明であったため、ルワンダ愛国戦線と過激派フツの双方が互いに非難を行った。そして、犯行者の身元に関する両陣営の意見は相違したまま、この航空機撃墜による大統領暗殺は1994年7月まで続くジェノサイドの引き金となった。 4月6日から4月7日にかけて、旧ルワンダ軍 (FAR) の上層部と国防省の官房長であったテオネスト・バゴソラ(英語版)大佐は、国際連合ルワンダ支援団のロメオ・ダレール少将と口頭で議論を行った。この時ダレール少将は、法的権限者のアガート・ウィリンジイマナ首相にアルーシャ協定(英語版)に基づいて冷静に対応し、事態をコントロールするよう伝えることをバゴソラ大佐へ強く依頼したが、バゴソラ大佐はウィリンジイマナ首相の指導力不足などを理由に拒否した。最終的にダレール少将は、軍によるクーデターの心配はなく、政治的混乱は回避可能であると考えた。そしてウィリンジイマナ首相を保護する目的でベルギー人とガーナ人の護衛を送り、7日の午前中に首相がラジオで国民に対して平静を呼びかけることを期待した。しかし、ダレール少将とバゴソラ大佐の議論が終わった時点でラジオ局は既に大統領警備隊が占拠しており、ウィリンジイマナ首相のスピーチは不可能であった。この大統領警備隊によるラジオ局制圧の際、平和維持軍は捕虜となり武器を没収された。さらに同日の午前中、ウィリンジイマナ首相は夫とともに大統領警備隊により首相邸宅で殺害された。この際、首相邸宅を警護していた国際連合ルワンダ支援団の護衛のうち、ガーナ兵は武装解除されたのみであったが、ベルギー小隊の10人は武装解除の上で連行された後、拷問を受けた後に殺害された。 この事件に関しては、2007年にベルギーブリュッセルの裁判所において、ベルギー兵の連行を命じたベルナール・ントゥヤハガ(英語版)少佐が有罪判決を受けた。首相以外にも農業・畜産・森林大臣のフレデリック・ンザムランバボ(英語版)や労働・社会問題大臣のランドワルド・ンダシングワ(英語版)、情報大臣のフォスタン・ルチョゴザ(英語版)、憲法裁判所長官のジョゼフ・カヴァルガンダ(英語版)、前外務大臣のボニファス・ングリンジラ(英語版)などのツチや穏健派フツ、あるいはアルーシャ協定(英語版)を支持した要人が次々と暗殺された。このジェノサイド初日の出来事に関して、ダレールは自著『Shake Hands with the Devil』にて以下のように述べている。 私は軍司令部を召集し、ガーナ人准将のヘンリー・アニドホ(英語版)と連絡を取った。アニドホ准将はゾッとするようなニュースを私に伝えた。国際連合ルワンダ支援団が保護していた、ランドワルド・ンダシングワ(自由党の党首)、ジョゼフ・カヴァルガンダ(憲法裁判所長官)、その他多くの穏健派の要人が大統領警備隊によって家族と共に誘拐され、殺害された……(中略)……国際連合ルワンダ支援団はフォスタン・トゥワギラムングを救出し、現在はトゥワギラムングを軍司令部で匿っている。 上記のように、共和民主運動の指導者であったトゥワギラムングだったが国際連合ルワンダ支援団の保護を受けて暗殺を免れた。トゥワギラムングもウィリンジイマナ首相の死後に首相へ就任すると考えられていたが、4月9日に暫定大統領となったテオドール・シンディブワボが首相として任命したのはジャン・カンバンダであった。ルワンダ紛争終結後の1994年7月19日、トゥワギラムングはルワンダ愛国戦線が樹立した新政権で首相へ就任した。 ==ジェノサイド== 『大量虐殺の社会史』によれば、ルワンダ虐殺はしばしば無知蒙昧な一般の住民がラジオの煽動によってマチェーテ(山刀,マシェット,マチェテ)や鍬などの身近な道具を用いて隣人のツチを虐殺したというイメージで語られているが、これは適切な見解とは言い難い。ジェノサイドへ至るまでには、1990年以降の煽動的なメディアプロパガンダや民兵組織の結成、銃火器の供給、虐殺対象のリストアップなど、国家権力側による非常に周到な準備が行われていた。この国家権力側による準備と、対立や憎悪を煽られた民衆の協力によって、およそ12週間続いた期間のうち前半6週間に犠牲者の80%が殺害されるという、極めて早いペースで虐殺が行われた。その結果、与野党を含めたフツのエリート政治家の多くが、紛争終結後の裁判によりジェノサイドの組織化を行った罪で有罪とされている。 ===虐殺=== 1994年4月7日に開始されたジェノサイドでは、ルワンダ軍やインテラハムウェ、インプザムガンビといったフツ民兵グループが、組織的行動として捕らえたツチを年齢や性別にかかわらず全て殺害した。また、フツ穏健派は裏切り者として真っ先に殺害された。フツの市民は虐殺に協力することを強いられ、ツチの隣人を殺害するよう命令された。この命令を拒んだものはフツの裏切り者として殺害された。大半の国が首都キガリから自国民を避難させ、虐殺初期の時点で同国内の大使館を放棄した。状況の悪化を受けて、国営ラジオのラジオ・ルワンダは人々に外出しないよう呼びかける一方で、フツ至上主義者の所有するミルコリンヌ自由ラジオ・テレビジョンはツチとフツ穏健派に対する辛辣なプロパガンダ放送を繰り返した。国内各地の道路数百箇所では障害物が積み上げられ、民兵による検問所が構築された。大々的にジェノサイドが勃発した4月7日にキガリ内にいたダレールと国際連合ルワンダ支援団メンバーは保護を求めて逃げ込んでくるツチを保護したが、徐々にエスカレートするフツの攻撃を止めることができなかった。この時、フツ過激派はミルコリンヌ自由ラジオ・テレビジョンの報道を受けて、ダレールと国際連合ルワンダ支援団メンバーも標的の1つとしていた。4月8日、ダレールはフツ過激派を虐殺行為へ走らせる推進力が同国の民族性であることを暗示した電報をニューヨークへ送っている。また同電報には、複数の閣僚を含む政治家や平和維持軍のベルギー兵が殺害されたことも詳述されていた。ダレールはまた、この現在進行中の虐殺行為が極めて組織立ったもので、主に大統領警備隊によって指揮されていると国連に報告している。 4月9日、国連監視団はギコンド(英語版)のポーランド人教会にて多数の児童が虐殺されるのを目撃した(ギコンド虐殺(英語版))。同日に、高度に武装化した練度の高い欧州各国軍の兵士1000人が、ヨーロッパ市民の国外避難を護衛するためにルワンダ入りした。この部隊は国際連合ルワンダ支援団を援護するための滞在は一切行わなかった。9日になると、ワシントン・ポスト紙が同国駐在員を恐怖させた事件として、国際連合ルワンダ支援団の職員が殺害された事実を報道した。4月9日から10日にかけて、アメリカのローソン駐ルワンダ大使と250人のアメリカ人が国外へ避難した。 ジェノサイドは速やかにルワンダ全土へ広がった。虐殺の過程で一番初めに組織的に行動したのは、国内北西部に位置するギセニ県(現西部州)の中心都市、ギセニの市長であった。市長は4月6日の夜の時点で武器の配布を目的とした会合を行い、ツチを殺すために民兵を送り出した。ギセニは暗殺されたハビャリマナ大統領の出身地であるほかアカズの拠点地域でもあり、さらに南部地域がルワンダ愛国戦線に占領されたことから数千人のフツが国内避難民として流れ込んでいたため、反ツチ感情の特に激しい土地となっていた。なお、4月6日から数日後にはブタレ県内を除いた国内のほぼ全ての都市で、キガリと同様のツチやフツ穏健派殺害を目的とした組織化が行われた。ブタレ県知事のジャン=バティスト・ハビャリマナ(英語版)は、国内で唯一ツチ出身の知事で虐殺に反対したため、彼が4月下旬に更迭されるまでは大規模な虐殺が行われなかった。その後、ハビャリマナ知事が更迭されてフツ過激派のシルヴァン・ンディクマナ(英語版)が知事に就任すると、ブタレでの虐殺が熱心に行われていなかったことが明らかとなったため、政府は民兵組織のメンバーをキガリからヘリコプターで輸送し、直ちに大規模な虐殺が開始された。この際に、旧ルワンダ王室の皇太后であり、ツチの生ける象徴として国民から慕われていたロザリー・ギカンダがイデルフォンス・ニゼイマナの命令により射殺されている。なお、更迭されたハビャリマナ知事も大統領警備隊によって数日後に殺害された。 4月下旬にはキブンゴ県のニャルブイェ(英語版)においてニャルブイェ大虐殺が発生し、およそ2万人が虐殺された。この虐殺は、フツ出身の市長シルヴェストル・ガチュンビチ(英語版)の勧めを受けて多数のツチが市内にあったニャルブイェカトリック教会へ逃れたが、その後市長は地元のインテラハムウェと協力し、ブルドーザーを用いて教会の建物を破壊し、教会内に隠れていたツチは老若男女を問わずにマチェーテで叩き切られたり、ライフルで撃たれて大半が虐殺されるという経過で行われた。地元のカトリック司祭であったアタナゼ・セロンバはルワンダ国際戦犯法廷において、自身の教会をブルドーザーで破壊することに協力したため、ジェノサイドと人道に対する罪で有罪となり、無期懲役の判決を受けた。その他では、約2000人が避難していたキガリの公立技術学校 (*6995*cole Technique Officielle) を警護していた国際連合ルワンダ支援団のベルギー兵が避難民を放置して4月11日に撤退した結果、ルワンダ軍とインテラハムウェによって避難民の大半が虐殺された事件(公立技術学校の虐殺)が発生している。この事件は2005年に『ルワンダの涙』として映画化された。 犠牲者の大半は自身の住んでいた村や町で殺害され、直接手を下したのは多くの場合隣人や同じ村の住人であった。民兵組織の一部メンバーにはライフルを殺害に利用した者もあったが、民兵は大半の場合マチェーテで犠牲者を叩き切ることで殺害を行った。犠牲者はしばしば町の教会や学校へ隠れているところを発見され、フツの武装集団がこれを虐殺した。一般の市民もツチやフツ穏健派の隣人を殺すよう地元当局や政府後援ラジオから呼びかけを受け、これを拒んだ者がフツの裏切り者として頻繁に殺害された。『虐殺へ参加するか、自身を虐殺されるかのいずれか』の状況であったという。また、ラジオやヤギ、強姦の対象となる若い娘といったツチの”資産”は、虐殺参加者のために事前にリストアップされており、殺害する前後に略奪もしばしば行われた。また、キガリ近郊の女性議員の1人は、ツチの首1つにつき50ルワンダフランを報酬として与えて、ツチの殺害を奨励していたという。各地に構築された民兵組織による検問では、ツチやツチのような外見を持つものが片っ端から捕らえられて虐殺された。多くの場合で、犠牲者は殺害される前に略奪され、性的攻撃や、強姦、拷問を受けた。川や湖は虐殺された死体で溢れ、または道端に積み上げられたり、殺害現場に放置された。また、1992年にはフツ至上主義の政治家であったレオン・ムゲセラはツチの排斥を訴え、ツチをニャバロンゴ川を通じてエチオピアへ送り返すよう主張したが、1994年4月にこの川は虐殺されたツチの死体で溢れ、下流のヴィクトリア湖の湖岸へ幾万もの遺体が流れ着いている。 ハビャリマナ大統領が暗殺された4月6日からルワンダ愛国戦線が同国を制圧する7月中旬までのおよそ100日間に殺害された被害者数は、専門家の間でも未だ一致が得られていない。ナチス・ドイツが第三帝国で行ったユダヤ人の虐殺や、クメール・ルージュが民主カンボジアで行った虐殺と異なり、ルワンダ虐殺では殺害に関する記録を当局が行っていなかった。ルワンダ解放戦線からなる現ルワンダ政府は、虐殺の犠牲者は107万1000人でこのうちの10%はフツであると述べており、『ジェノサイドの丘』の著者であるフィリップ・ゴーレイヴィッチ(英語版)はこの数字に同意している。一方、国連では犠牲者数を80万人としているほか、アフリカン・ライツ(African Rights)のアレックス・デ・ワール(英語版)とラキヤ・オマー(英語版)は犠牲者数を75万人前後と推定し、ヒューマン・ライツ・ウォッチアメリカ本部のアリソン・デフォルジュ(英語版)は、少なくとも50万人と述べている。イージス・トラスト(英語版)の代表であるジェイムズ・スミスは、「記憶する上で重要なのは、それがジェノサイドであったことだ。それは男性、女性、子供全てのツチを抹殺し、その存在の記憶全てを抹消しようと試みたのだ」と書き留めている。 ルワンダ政府の推定によれば、84%のフツ、15%のツチ、1%のトゥワから構成された730万人の人口のうち、117万4000人が約100日間のジェノサイドで殺害されたという。これは、1日あたり1万人が、1時間あたり400人が、1分あたり7人が殺害されたに等しい数字である。ジェノサイド終了後に生存が確認されたツチは15万人であったという。また、夫や家族を殺害され寡婦となった女性の多くが強姦の被害を受けており、その多くは現在HIVに感染していることが明らかとなっている。さらに、数多くの孤児や寡婦が一家の稼ぎ手を失ったために極貧の生活を送っており、売春で生計を立てざるを得ない女性も存在している(詳しくはルワンダにおける売春を参照のこと)。 虐殺に際しては、マチェーテや鍬といった身近な道具だけではなく、AK‐47や手榴弾といった銃火器もジェノサイドに使用された。ルワンダ政府の公式統計と調査によれば、ルワンダ虐殺の犠牲者の37.9%はマチェーテで殺されたという。このマチェーテの4分の3は1993年に当時のルワンダ政府が中国から安価で大量に輸入したものであった。また、犠牲者の16.8%はマスで撲殺された。キブエ県は虐殺にマチェーテが用いられた割合が大きく、全体の52.8%がマチェーテにより殺害され、マスによる犠牲者は16.8%であったとされる。 ルワンダ虐殺では莫大な数の犠牲者の存在とともに、虐殺や拷問の残虐さでも特筆すべきものがあったことが知られている。ツチに対して虐殺者がしばしば行った拷問には手や足を切断するものがあり、これは犠牲者の逃走を防ぐ目的のほか、比較的背の高いツチに対して「適切な身長に縮める」目的で用いられた。この際、手足を切断された犠牲者が悶え苦しみながら徐々に死に至る周囲で、多数の虐殺者が犠牲者を囃し立てることがしばしば行われたという。時には犠牲者は自身の配偶者や子供を殺すことを強いられ、子供は親の目の前で殺害され、血縁関係者同士の近親相姦を強要され、他の犠牲者の血肉を食らうことを強制された。多くの人々が建物に押し込まれ、手榴弾で爆殺されたり、放火により生きたまま焼き殺された。さらに、犠牲者を卑しめる目的と殺害後に衣服を奪い取る目的で、犠牲者はしばしば服を脱がされ裸にされた上で殺害された。加えて多くの場合、殺害されたツチの遺体埋葬が妨害されてそのまま放置された結果、多くの遺体が犬や鳥といった獣に貪られた。アフリカン・ライツが虐殺生存者の証言をまとめ、1995年に刊行した『Rwanda: Not So Innocent ‐ When Women Become Killers 』には、 ナタでずたずたに切られて殺されるので金を渡して銃で一思いに殺すように頼んだ,女性は強姦された後に殺された,幼児は岩にたたきつけられたり汚物槽に生きたまま落とされた,乳房や男性器を切り落とし部位ごとに整理して積み上げた,母親は助かりたかったら代わりに自分の子どもを殺すよう命じられた,妊娠後期の妻が夫の眼前で腹を割かれ,夫は「ほら,こいつを食え」と胎児を顔に押し付けられた―。 といった報告が数多く詳細に収録されている。このほか、被害者の多くがマチェーテや猟銃、鍬などの身近な道具で殺害されたことから、生存者のその後の日常生活においてPTSDを容易に惹起する可能性を指摘する声もある。 ルワンダ虐殺のさなかに虐殺を食い止め、ツチを保護するための活動を行っていた人々もおり、ピエラントニオ・コスタ(英語版)、アントニア・ロカテッリ(英語版)、ジャクリーヌ・ムカンソネラ(英語版)、ポール・ルセサバギナ、カール・ウィルケンス(英語版)、アンドレ・シボマナ(英語版)らによる活動がよく知られている。 ===ルワンダ虐殺下の強姦=== 1998年、ルワンダ国際戦犯法廷は裁判の席で「性的暴行はツチの民族グループを破壊する上で欠かせない要素であり、強姦は組織的かつツチの女性に対してのみ行われたことから、この行為がジェノサイドとして明確な目的を持って行われたことが明らかである」との判断が下された。つまり、ルワンダにおける戦時下の強姦をジェノサイドの構成要素の1つと見なされたのである。しかしながら、組織的な強姦や性的暴力の遂行を明確に命じた文書は見つからず、軍や民兵の指導者が強姦を奨励したり命令したり、あるいは強姦を黙認したという証言のみが示された。ルワンダ虐殺における強姦は、女性に対する残虐さの著しい度合いや、強姦が非常に一般的に行われるといったツチ女性に対する性的暴力が煽られた原因として、組織的プロパガンダの影響が他の紛争下の強姦と比較して際立っていると指摘されている。 ルワンダの国連特別報告者、ルネ・ドニ=セギ (Ren*6996* Degni‐S*6997*gui) による1996年の報告では、「強姦は命令によるもので、例外はなかった」と述べられている。同報告書はまた「強姦は組織立って行われ、また虐殺者らの武器として使用された」と指摘している。これは虐殺犠牲者の数と同様に強姦の形態から推定できる。先の報告書では、少女を含むおよそ25万から50万のルワンダ人女性が強姦されたと記している。2000年に行われたアフリカ統一機構主催のルワンダ国際賢人会議 (International Panel of Eminent Personalities on Rwanda) では、「我々は、ジェノサイドを生き残ったほとんどの女性が、強姦もしくは他の性的暴力の被害に遭った、あるいはその性的被害によって深く悩まされたことを確信できる」との結論が出された。強姦の犠牲者の大半はツチ女性であり、未成年の少女から高齢の女性まで幅広く被害に遭ったが、一方で男性に対する強姦はほとんどなかった。また、穏健派フツの女性もフツの裏切り者とされて強姦された。男性に対する性的暴行例は少ないが、殺害時の拷問として男性器の切断が多数行われ、この切断した性器が群衆の前で晒される事もあった。ルワンダ虐殺下における強姦を主体となって行ったのはインテラハムウェなどのフツ民兵らであったが、大統領警備隊を含む旧ルワンダ軍 (RAF) の兵士や民兵のほか、民間人による強姦も行われた。2008年にはルワンダ法務省により、「フランス兵はツチ女性に対する強姦を複数行った」とする声明が出されているが、これについては現在のところ実証されていない。 ===ジェノサイド下におけるトゥワ=== ジェノサイドにおけるトゥワの役割に関する研究は未だ進んでいない。この原因としては、1994年時点のトゥワの人口がおよそ3万人とルワンダの1%弱でしかなかった点と、トゥワの社会的地位が低かったことが挙げられる。推計によれば、トゥワの3分の1が虐殺で死亡し、3分の1が近隣諸国で難民と化したとされる。また、トゥワは虐殺の犠牲者となった者も多くいた一方で、民兵組織に参加して加害者となった者も存在した。しかしながら、ルワンダ虐殺への参加の程度は未だ明らかとなっていない。ゴーレイヴィッチの『ジェノサイドの丘』によれば、トゥワはツチ女性への強姦に民族的侮蔑の意味を与える目的で、強姦要員として民兵に加えられていたという。 ===ジェノシデール=== ジェノシデールとは、ルワンダにおいてはルワンダ虐殺に参加した者を指す言葉である。このジェノシデールの人数は研究者によって大きく異なり、約1万人とする説から約300万人とする説まで存在しているが、多くの場合でこれらの数字は憶測に基づいたものであった。2006年に報告された実証的研究によれば、1件以上の殺人を行ったジェノシデールの数は、17万5000から21万人であると推定されており、これは当時のフツ成人の7‐8%、フツ成人男性の14‐17%に相当する値である。2000年の時点では、拘留され被告人となっているジェノシデールは11万人であったが、2006年にはガチャチャ裁判の進行などにより約8万人となった。ジェノシデールの大多数は男性であり、女性は全体の3%程度である。国家レベルから地域レベルに至るまで、ジェノシデールは社会のあらゆる階層の人々から構成されており、このジェノシデールを煽動・指揮していたのは政治、軍事、あるいは行政の有力者らであった。ジェノシデールの大半は普通のルワンダ男性であり、教育、職業、年齢、子供の数など、何ら特異性のない一般的な社会集団から構成されていた。この一般的なジェノシデールは比較的教育水準が低い若者が多かったのに対し、煽動や指揮を行っていた者たちは比較的教育水準が高く、社会的地位の高い者が多かったことが報告されている。 ==国際社会の対応== ===国際連合ルワンダ支援団の動向=== 国際連合ルワンダ支援団 (UNAMIR) の活動は、アルーシャ協定(英語版)の時点から後のジェノサイドに至るまで、資源も乏しいこのアフリカの小国の揉め事に巻き込まれることに消極的であった大多数の国連安全保障理事会メンバーにより妨げられ続けられた。そんな中でベルギーのみが国際連合ルワンダ支援団に対し確固としたマンデートを与えることを要求していたが、四月初旬に大統領の警護を行っていた自国の平和維持軍兵士10人が殺害されると、同国はルワンダでの平和維持任務から撤退した。なお、ベルギー部隊は練度も高く、装備も優れていたため、同国の撤退は大きな痛手となった。国際連合ルワンダ支援団側は、せめて同部隊の装備をルワンダへ残していくよう依頼したが、この要求も拒絶された。 その後、国連とその加盟国は現実から著しく外れた方針を採り始めた。国際連合ルワンダ支援団のロメオ・ダレールは以前から人員増強を強く要求しており、ジェノサイドがルワンダ各地で開始された4月半ばの時点にも事態収拾のための人員要求を行ったが、これらは全て拒否された。さらに、虐殺が進行している最中に、ダレールは国連本部から”国際連合ルワンダ支援団はルワンダにいる外国人の避難のみに焦点を当てた活動を行うよう”指示を受けた。この命令変更により、2000人のツチが避難していたキガリの公立技術学校を警護していたベルギーの平和維持部隊は、学校の周囲がビールを飲みながらフツ・パワーのプロパガンダを繰り返し叫ぶ過激派フツに取り囲まれている状況であったにもかかわらず、同施設の警護任務を放棄して撤収した。その後、学校を取り囲んでいた武装勢力が学校内へ突入し、数百人の児童を含むおよそ2000人が虐殺された。さらに、この事件から4日後には、安全保障理事会は国際連合ルワンダ支援団を280人にまで減らすという国連安保理決議第912号を決定した。その一方で国連安保理は同時期に起こったボスニア紛争に対して積極的な活動を行っていた。ルワンダの平和維持軍削減を決めた国連安保理決議第912号を可決したのと同じ日に、ボスニア内における安全地帯防衛の堅持を確認した国連安保理決議第913号を通過させたことから、差別的観点からヨーロッパをアフリカよりも優先させたとの指摘がなされている。 ダレール少将は国連から与えられた停戦監視のみを目的とするマンデートを無視して住民保護を行い、4月9日には国連平和維持活動局本部から「マンデートに従うよう」指示を受けたが、その後もマンデートを無視して駐屯地に逃れてきた避難民を保護した。しかしながら、平和維持軍人員の完全な不足とマンデートから積極的な介入行動を行えず、目の前で殺害されようとする避難民を助けられず、平和維持軍の増員と強いマンデートを望むダレールの要求は拒絶された。 1999年、ルワンダ虐殺当時のアメリカのビル・クリントン大統領は、アメリカのテレビ番組のフロントラインで、”当時のアメリカ政府が地域紛争に自国が巻き込まれることに消極的であり、ルワンダで進行していた殺戮行為がジェノサイドと認定することを拒絶する決定を下したことを後に後悔した”旨を明らかにした。この、ルワンダ虐殺から5年後に行われたインタビューにおいて、クリントン大統領は「もしアメリカから平和維持軍を5000人送り込んでいれば、50万人の命を救うことができたと考えている」と述べた。 4月6日にハビャリマナ大統領が死亡した後、新たに大統領へ就任したテオドール・シンディクブワボ(英語版)率いるルワンダ政府は、自国への国際的な非難を最小限にするために活動した。当時のルワンダ政府は安全保障理事会の非常任理事国であり、同国の大使は「ジェノサイドに関する主張は誇張されたものであり、我が政府は虐殺を食い止めるためにあらゆる手を尽くしている」と主張し、その結果として国連安全保障理事会はジェノサイドの語を含む議決を出さなかった。 その後の1994年5月17日になって、国連は「ジェノサイド行為が行われたかもしれない」ことを認めた。この5月半ばには、既に赤十字により50万人のルワンダ人が殺害されたとの推定がなされていた。国連は大部分をアフリカ国家の軍人からなる5500人の兵員をルワンダへ送ることを決定したが、これは虐殺勃発以前にダレールが要求したものと同規模であった。兵員増強の可否に関して5月13日に投票で決定する予定であったが、アメリカのマデレーン・オルブライト大使の活動により4日間引き伸ばされ、17日まで投票が延期された。さらに国連はアメリカに50台の装甲兵員輸送車の提供を求めたが、アメリカは国連に対して輸送費用の650万ドルを含む計1500万ドルをリース費用として要求した。結果として、国連部隊の展開はコスト面や装備の不足などを原因として遅延し、5月17日に国連でアメリカが主張した通りに非常にゆっくりと展開した。 国際連合ルワンダ支援団(UNAMIR)は1994年7月にルワンダ愛国戦線が勝利を納めた後、同年5月時点で可決済みであった国連安保理第918号に従って人員数を5500人へ増強し(UNAMIR 2)、1996年3月8日までルワンダで活動した。一方で司令官であったダレールは、虐殺の発生を事前に知りながら防止できなかったこと、虐殺期間中も積極的な活動を行えなかったことに対する自責の念から任務続行が不可能となり、虐殺終結後の1994年8月に司令官を離任した。その後、カナダに帰国後もうつ病やPTSDに悩まされ続けていたという。また、帰国後に出演したカナダのテレビ番組では以下のように述べた。 私にとって、ルワンダ人の苦境に対する国際社会、とりわけ西側諸国の無関心と冷淡さを悼む行為はまだ始まってもいない。なぜなら、基本的には、非常に兵士らしい言葉遣いで言わせてもらえば、誰もルワンダのことなんか知っちゃいないからだ。正直になろうじゃないか。ルワンダのジェノサイドのことをいまだに覚えている人は何人いる? 第二次世界大戦でのジェノサイドをみなが覚えているのは、全員がそこに関係していたからだ。では、ルワンダのジェノサイドには、実のところ誰が関与していた? 正しく理解している人がいるかどうか分からないが、ルワンダではわずか3ヵ月半の間にユーゴスラヴィア紛争をすべてを合わせたよりも多くの人が殺され、怪我を負い、追放されたんだ。そのユーゴスラヴィアには我々は6万人もの兵士を送り込み、それだけでなく西側世界はすべて集まり、そこに何十億ドルも注ぎ込んで解決策を見出そうと取り組みを続けている。ルワンダの問題を解決するために、正直なところ何が行われただろうか? 誰がルワンダのために嘆き、本当にそこに生き、その結果を生き続けているだろうか? だから、私が個人的に知っていたルワンダ人が何百人も、家族ともども殺されてしまった――見飽きるほどの死体が――村がまるごと消し去られて…我々は毎日そういう情報を送り続け、国際社会はただ見守っていた…。 この発言を行った後の1997年9月、ダレール元司令官はベルギーの平和維持軍兵士10人が殺害された件についてベルギー議会で証言を要求されたが、コフィ・アナン国連事務総長により証言は禁じられた。それから3年後の2000年、ダレール元司令官は公園で酒と同時に睡眠薬を大量服用して自殺を図ったものの、昏睡状態になっていたところを発見され死を免れた。 ===フランスの動向=== イギリス人作家のリンダ・メルバーン(英語版)は、当時フランスのフランソワ・ミッテラン大統領が、ルワンダ愛国戦線の侵攻をフランス語圏国家に対するイギリス語圏の隣国による明確な侵略とみなしていたことを、近年になり公開されたフランスの公文書を調査した結果から明らかとした。この文書内でルワンダ愛国戦線は、英語を話す”ツチの国家”の樹立と、アフリカにおけるフランス語圏の影響力を削ぎつつ英語圏の影響力を拡大することを目的とした、ウガンダ大統領を含む”イギリス語圏の陰謀”の一部であると論じている。メルバーンの分析によれば、フランスの政策はルワンダ愛国戦線の軍事的勝利を避けるためのものであり、この政策は、軍人、政治家、外交官、実業家、上級諜報員などの秘密ネットワークにより作られたという。ルワンダ虐殺時に行われたフランスの政策は、議会にも報道機関にも不可解なものであったことが知られている。 6月22日、国連部隊の展開が進む兆しが一向になかったことから、国連安全保障理事会は国連安保理議決第929号を議決し、ザイールのゴマへ駐留するフランス軍に対して、”人道上の任務としてルワンダへ介入すること”と、”同任務の遂行に必要であれば、あらゆる手段を使用して良いこと”を承認した。フランスは、自国とフランス語圏のアフリカ諸国を中心とした多国籍軍を編成し、ルワンダの南西部全域へ部隊を展開した。このフランス語圏からなる多国籍軍は、ジェノサイドの鎮圧と戦闘行為の停止を目的としてトルコ石作戦(人道確保地帯)と呼ばれるエリアを確立した。しかし、虐殺で中心的な役割を果たしたジェノシデールや虐殺に関与したフツ過激派が、この地域を介してザイール東部地域などの近隣諸国へ逃亡するのを手助けする結果となった。さらに同作戦によって1万人のツチが救われた一方で、数万人が殺害されたという。フツ過激派はしばしばフランス国旗を用いてツチをおびきよせて殺害したり、フランス軍が救助を行うためにその場で待機させていたツチを殺害したことが知られている。トルコ石作戦は、フツ過激派を援護するものであったと、駐フランス大使でルワンダ愛国戦線出身のジャック・ビホザガラ(英語版)は非難している。ビホザガラは後に「トルコ石作戦はジェノサイド加害者の保護のみを目的としていた。なぜならば、ジェノサイドは”人道確保地帯”の中ですら行われていたのだ」と証言している。 2006年11月22日、フランスの裁判官ジャン=ルイ・ブリュギエール(英語版)は、1994年4月6日に起きた航空機撃墜によるルワンダ大統領ジュベナール・ハビャリマナとブルンジ大統領シプリアン・ンタリャミラ、および3人のフランス人乗組員が死亡した事件の調査結果から、ポール・カガメ現大統領を含むルワンダ愛国戦線の指導者9人に逮捕状を発出した。なお、カガメは現職国家元首として不逮捕特権があるとされたため、国際逮捕状が発行されたのはルワンダ国軍参謀総長であったジェームス・カバレベ(英語版)などのカガメ大統領を除いた8人であった。カガメ大統領は嫌疑を否定し、この嫌疑は政治的な動機で主張されたものであるとフランスを非難し、同月中にフランスとの外交関係を断絶した。その後、カガメは公式に”ジェノサイドにおけるフランスの関与を告発する”ことを目的としたルワンダ法務省職員からなる委員会の結成を命じた。このルワンダ政府による調査が政治的な性質を帯びていることは、調査期間中の報告がカガメ大統領にのみ行われていたことと、調査結果の公式な報告がブリュギエール判事の件から1年後にあたる2007年11月17日であったことからも明らかであった。ルワンダの司法長官であり調査委員会委員長のジャン・ド・デュ・ムチョ(英語版)はこの日、「委員会は現在、”この調査が妥当かどうかをカガメ大統領が判断し、宣言を行うことを待つ”状態である」と述べた。それから1年後の2008年7月、カガメ大統領は「欧州裁判所がルワンダの当局に対して発行した逮捕状を撤回しなければ、フランス国民をジェノサイドの嫌疑で起訴する」と脅し、またスペイン人裁判官フェルナンド・アンドレウ(英語版)によるルワンダ軍将校40人に対する起訴についても撤回を要求した。さらに翌月の2008年8月5日、カガメ大統領の命令により調査委員会は調査結果報告書を公開した。この報告書では、フランス政府がジェノサイドの準備が行われていたのを察知していたこと、フツ民兵組織のメンバーへの訓練を行ってジェノサイドに加担したことを非難し、さらに当時のミッテラン大統領や大統領府事務局長であったユベール・ヴェドリーヌ、首相であったエドゥアール・バラデュール、外務大臣であったアラン・ジュペ、大統領首席補佐官であったドミニク・ガルゾー・ド・ビルパンらを含む、フランスの軍人および政治関係者の33人がジェノサイドに関与したとして非難を行い、この33人は訴追されるべきであると主張した。 上記内容に加えてこの報告書では「フランス軍の兵士自身もツチやフツ穏健派の暗殺に直接関与しており……(中略)……フランス軍はツチの生存者に対し、何件もの強姦を行った」と主張されていたが、後者の強姦に関しては実証が行われていない。この件に関しBBCは、フランスのベルナール・クシュネル外務大臣のフランスのジェノサイドに関する責任を否定する一方で、フランスは政治的な誤りを犯していたとするコメントを報道した。また、BBCはルワンダによる調査レポートの動機を徹底調査し、以下のように解説した。 調査委員会の責任者は、ルワンダ愛国戦線のためというよりもむしろ1994年に権力を握ったポール・カガメ大統領に権威をもたらす目的で、世界の人々にジェノサイドへの関心を持たせ続けることに鉄の決意を示している。近年ルワンダ愛国戦線により主張されている不愉快な疑惑は、1994年の虐殺当時とその後に行われたとされる戦争犯罪に関するものである。ヒューマン・ライツ・ウォッチのアリソン・デフォルジュが「ジェノサイドと戦争犯罪は異なるものだ」とカガメ大統領に伝えたところ、このルワンダ愛国戦線指導者は「彼ら(戦争犯罪の)犠牲者にも正義がもたらされるのだ」と答えた、とフォルジュは述べた。 ルワンダにおける国連への信用失墜と、1990年から1994年までのフランスの不可解な政策、さらにフランスがフツを援助し虐殺に関与したという主張を受けて、フランス政府はルワンダに関するフランスの議会委員会(英語版)を設立し、幾度かに分けて報告書を公開した。 特に、フランスのNGOシュルヴィ(英語版)の元代表フランソワ=グザヴィエ・ヴェルシャヴ(英語版)は、ジェノサイドの期間にフランス軍がフツを保護したことを非難し、議会委員会設立に大きな役割を果たした。同委員会が最終報告書を提出したのは1998年12月15日であった。この報告書では、フランス側と国連側双方の対応が曖昧かつ混乱していたと実証されていた。またトルコ石作戦に関しては、介入時期が遅すぎたことが悔やまれるものの、作戦の遂行は、事態に対し何ら反応しなかった国連や、介入に反対したアメリカ政府やイギリス政府の対応よりもましであったことに留意すべきとした。さらにルワンダ軍や民兵組織の武装解除に関しては、フランス軍の明瞭かつ体系的な活動が行われ、さまざまな問題を抱えつつも部分的には成功したことを実証したが、一方で虐殺当時にルワンダ愛国戦線の将軍であったポール・カガメにとっては充分に早いとは言えなかったことも明らかとなった。なおこの調査では、フランス軍がジェノサイドに参加した証拠や民兵に協力した証拠、あるいは生命の危機に瀕したルワンダの人々を故意に見捨てた証拠は1つも見つからなかった。加えてフランスは、ルワンダが必要としていたが国連とアメリカが拒否した援助任務、例えばジェノサイドを煽動するラジオ放送を妨害するなどの多様な任務を行い、部分的には成功を収めたことを実証した。この報告書は最終的に、”フランス政府はルワンダ軍に関する判断ミスを犯したが、これはジェノサイドが始まる以前の期間のみであった”とし、この他の更なる過ちとして、 ジェノサイドの開始時点でその脅威の規模を図り損ねたこと。アメリカやその他の国による国際連合ルワンダ支援団の人員数の切り下げを自覚することなしに、同組織へ過度に依存したこと。効果のない外交。があったとした。本報告書は最終的に、フランスはジェノサイドが始まった時点でその規模を抑えられる最大の外国勢力であったが、より多くの措置をとらなかったことが悔やまれた、と結論とした。 その後、2010年にはフランスのニコラ・サルコジ大統領がルワンダを訪問し「フランスはジェノサイドの時に”誤り”を犯した」との認識を示したが、謝罪は行わなかった。これに対しカガメ大統領は、2カ国間の国交正常化と、新たな関係の構築への期待を述べた。さらに2010年3月にフランス当局は両国大統領の会談を受けて、同国に亡命中のアカズの一員でありルワンダ虐殺の責任者の1人、アガート・ハビャリマナ元ルワンダ大統領夫人を拘束し、尋問を行った。 ===アメリカの動向=== アメリカ政府はジェノサイド以前からツチと提携を行っており、これに対しフツは、ルワンダ政権の敵対者に対するアメリカの潜在的な援助に懸念を増していった。ルワンダ出身のツチ難民でウガンダの国民抵抗軍将校であったカガメは、1986年にルワンダ愛国戦線をツチの同志と共同で設立し、ルワンダ政権に対する攻撃を開始した後に、カンザス州レブンワース郡のレブンワース砦へ招かれ、アメリカ陸軍指揮幕僚大学で軍事トレーニングを受けた。1990年10月にルワンダ愛国戦線がルワンダへの侵攻を開始したとき、カガメはレブンワース砦で学んでいる最中であった。侵攻開始からわずか2日後に、カガメの親しい友人でルワンダ愛国戦線の共同設立者であったフレッド・ルウィゲマ(英語版)が側近により射殺されたため、カガメは急遽アメリカからウガンダへ帰国してルワンダ愛国戦線の司令官となった。1997年8月16日のワシントン・ポストに掲載された南アフリカ支局長であるリン・デューク(Lynne Duke)の記事では、ルワンダ愛国戦線がアメリカ軍特殊部隊から戦闘訓練や対暴動活動の訓練などの指導を受ける関係が続いていたことが示唆されていた。 1993年まで世界の平和維持活動を積極的に行っていたアメリカであったが、ソマリア内戦へ平和維持軍として軍事介入を試みた結果、モガディシュの戦いにてアメリカ兵18人が殺害され、その遺体が市内を引き回された映像が流されたため、アメリカの世論は撤退へと大きく傾き、その後のアメリカの平和維持活動へ大きな影響を与えた。1994年1月には、アメリカ国家安全保障会議のメンバーであったリチャード・クラーク(Richard Clark)は、同年5月3日に成立することとなる大統領決定指令25(PDD‐25)を、公式なアメリカの平和維持ドクトリン(政策)として展開した。 その結果として、アメリカはルワンダ虐殺が行われていた期間にルワンダで軍を展開しなかった。アメリカ国家安全保障アーカイブの報告書は「アメリカ政府は後述する5種類の手段を用いたことで、ジェノサイドに対するアメリカと世界各国の反応を遅らせることに貢献した」と指摘する。その手段とは以下のようなものであった。 国連に対し1994年4月に、国連部隊(国際連合ルワンダ支援団)の全面撤退を働きかけた。 国務長官であったウォーレン・クリストファーは5月21日まで”ジェノサイド”の語を公式に使用することを認めず、その後もアメリカ政府当局者が公然と”ジェノサイド”の語を使うようになるまでにはさらに3週間待たねばならなかった。 官僚政治的な内部抗争により、ジェノサイドに対するアメリカの全般的な対応が遅くなった。 コスト面と国際法上の都合から殺害を煽る過激派によるラジオ放送のジャミングを拒否した。 アメリカ政府は誰がジェノサイドを指揮しているか正確に知っており、実際に指導者らとジェノサイド行為の終了を促す話し合いを行ったが、具体的な行動を追及しなかった。国連に対し1994年4月に、国連部隊(国際連合ルワンダ支援団)の全面撤退を働きかけた。国務長官であったウォーレン・クリストファーは5月21日まで”ジェノサイド”の語を公式に使用することを認めず、その後もアメリカ政府当局者が公然と”ジェノサイド”の語を使うようになるまでにはさらに3週間待たねばならなかった。官僚政治的な内部抗争により、ジェノサイドに対するアメリカの全般的な対応が遅くなった。コスト面と国際法上の都合から殺害を煽る過激派によるラジオ放送のジャミングを拒否した。アメリカ政府は誰がジェノサイドを指揮しているか正確に知っており、実際に指導者らとジェノサイド行為の終了を促す話し合いを行ったが、具体的な行動を追及しなかった。アメリカが”ジェノサイド”の語の使用を頑なに拒んでいたのは、もしルワンダで進行中の事態が”ジェノサイド”であればジェノサイド条約の批准国として行動する必要が生じるためであった。6月半ば以降に”ジェノサイド”の語が使用できるようになったのは、フランス軍を中心としたトルコ石作戦が開始され、また虐殺も収まりつつあったことでアメリカが事態に対応する必要性が低下したためであるとの指摘もある。 ==ルワンダ愛国戦線の再侵攻と戦争終結宣言== アルーシャ協定(英語版)によりキガリへ駐屯していたルワンダ愛国戦線の大隊は、大統領の搭乗する飛行機の撃墜を受け、キガリからの脱出と北部に展開するルワンダ愛国戦線本隊との合流を目的とした軍事行動を即座に開始した。また事件翌日の4月7日に、ルワンダ愛国戦線は”大統領機の撃墜は大統領警備隊によるものである”として全軍に対してキガリへの進軍を命じた。その結果、ルワンダ政府軍とルワンダ愛国戦線による内戦と、フツ過激派によるジェノサイドが7月初頭まで続くこととなった。そのため、海外の報道員にはジェノサイドが行われていることがすぐには分からず、当初の頃は内戦の激変期として説明されていた。そんな中でBBCニュースのキガリ特派員であったマーク・ドイル(英語版)は、1994年4月下旬点でこの入り組んだ事態の説明を行おうと試み、以下のような報道を行った。 ここで2つの戦争が行われていると解釈して頂かなくてはなりません。それは武力戦争とジェノサイド戦争です。この2つは関連しておりますが、一方で別個のものでもあります。武力戦争は通常通りの軍隊同士によるもので、ジェノサイド戦争は政府軍と政権を支持する市民の側に立った政府に関係する大量虐殺です。 ルワンダ愛国戦線は1994年7月4日に首都キガリおよびブタレを制圧し、同月16日には政府軍の最終拠点であったルヘンゲリを制圧、その2日後の18日にカガメ司令官が戦争終結宣言を行った。これはハビャリマナ大統領の暗殺からおよそ100日後のことであった。 ==余波== 虐殺に「加担あるいは傍観」した約200万のフツが、殺害や家への放火といったツチによる報復を恐れてルワンダ国外へ脱出した。大部分がザイールで、一部がブルンジ、タンザニア、ウガンダで難民となったが、難民キャンプの劣悪な環境により、コレラや赤痢といった伝染病が蔓延して数千人が死亡した。アメリカは1994年の7月から9月にかけて、オペレーション・サポート・ホープ(英語版)として難民キャンプの状況改善を目的とした食料や水、生活必需品の空輸による援助や、空港整備などを行ったほか、多国籍軍による支援活動も行われた。また、1994年に難民キャンプが結成されると、その後すぐに200以上のNGOが現地で活動を行い、1996年までの期間に10億ドル以上が難民支援に支出された。 このルワンダ難民キャンプ支援には、日本の自衛隊が国際平和協力法に基づいて自衛隊ルワンダ難民救援派遣として派遣された。1994年9月、2度に渡るルワンダ難民支援のための調査団の派遣と緒方貞子国連難民高等弁務官からの要請を受け、日本政府はルワンダ難民支援の実施計画と関連する法令を閣議決定し、翌月の10月2日から12月23日までザイール及びケニアで活動を行った。 なお、ザイールを含め各地の難民キャンプには旧ルワンダ政権の武装集団が紛れており、ルワンダ解放軍(ALiR)を結成してルワンダ愛国戦線率いる現ルワンダ政府に対し攻撃を行ったため、ルワンダ政府はローラン・カビラ率いるコンゴ・ザイール解放民主勢力連合 (AFDL) と手を結び、傘下のザイール東部に暮らすツチ系民族のバニャムレンゲに軍事訓練・共同作戦を行った。1996年10月にローラン・カビラ率いるコンゴ・ザイール解放民主勢力連合が叛乱を起こして第一次コンゴ戦争が勃発すると、ザイールの南北キヴ州などにある難民キャンプは、ルワンダ軍、ブルンジ軍、およびコンゴ・ザイール解放民主勢力連合の兵士らによる攻撃の対象となった。その翌月の11月にルワンダ政府が難民の帰国を認めたため、同月中に40万から70万もの難民がルワンダへ帰国した。さらに1996年12月の終わりには、タンザニア政府の立ち退き活動により50万を超える難民が帰国した。その後も旧ルワンダ政権側の流れを汲む過激派フツ系の後継組織が2009年5月22日までコンゴ民主共和国東部に存在していた。 ===政治的展開=== ルワンダ愛国戦線は1994年7月に軍事的勝利をおさめた後、ルワンダ虐殺以前にジュベナール・ハビャリマナ大統領が設立した連立政権と同様の連立政権体制を構築した。挙国一致内閣と呼ばれるこの内閣の基本的な行動規範は、憲法、アルーシャ協定(英語版)、各政党の政治的宣言を基礎に置いていた。旧政権与党であった開発国民革命運動は非合法化された。また、新たな政党の結成は2003年まで禁止された。さらに政府は民族、人種、宗教に基づく差別を禁止し、出身民族を示すIDカードの廃止を行ったほか、女性の遺産相続権限の許可や女性議員の比率増加を目的としたクウォーター制の導入といった女性の権利の拡大、国民の融和などを推進している。なお上記のクウォーター制導入により、ルワンダ政府は2010年3月時点で女性議員の割合が56%と世界で最も高いことが知られている。 1998年3月、アメリカのクリントン大統領はルワンダを訪問し、同国のキガリ国際空港の滑走路へ集まった群衆に対し「我々は今日、我々アメリカと世界各国が出来る限りのことをせず、また、発生した行為を抑えるための行動を充分に行わなかった事実も踏まえた上でここへ訪れました。」と述べ、さらに虐殺当時のルワンダに対し適切な対応を行わなかった点に関して自身の失敗を認め、現在では”クリントン大統領の謝罪” (Clinton’s apology) として知られる謝罪を行った。もっとも、この謝罪はその後に発生した国際紛争や虐殺の抑制には何ら影響を与えなかったと言われるが、ルワンダ国内ではジェノサイドの企てに対する国際社会からの強い叱責と受け止められ、同国民に肯定的な驚きを与えた。 ルワンダは大規模な国際的援助を受け、政治改革を行った上で、外国人と地元投資者による投資の促進や、農業生産力の向上、国内民族の融和促進といった課題に取り組んでいる。2000年3月にパストゥール・ビジムング(英語版)が大統領を辞職するとポール・カガメがルワンダ共和国大統領へ就任した。2001年3月にはルワンダ虐殺以後初となる秘密選挙形式の地方選挙が行われた。また、2003年8月には初の複数候補者による大統領選挙が、同年9月から10月にかけて上院・下院の議員選挙が行われ、結果として大統領選挙でカガメが当選し、議員選挙ではルワンダ愛国戦線が過半数を獲得した。その後、2008年9月にも下院議員選挙が行われ、ルワンダ愛国戦線が勝利を納めている。現在は、大規模な難民の帰還による人口の急増や、過激派フツ武装勢力によるゲリラ攻撃への対処、および近隣のコンゴ民主共和国で1996年から2003年にかけて行われた第一次コンゴ戦争および第二次コンゴ戦争とその後の余波への対処などに取り組んでいる。 ===経済的展開と社会的展開=== ルワンダに樹立された新政権が直面した問題には、近隣諸国に暮らす200万人以上の難民の帰還、国内の北部地域や南西部地域で行われている旧ルワンダ政府軍やインテラハムウェなど民兵組織の戦闘員とルワンダ国防軍間の停戦、中長期的な開発計画の迅速な立案などがあった。ルワンダ虐殺下の犯罪行為により刑務所へ収容される人数の増大も将来的に差し迫った課題であり、1997年末の時点で収容者は12万5千人にまで達したことから、刑務所内の劣悪な環境や刑務所の運用コストが問題となった。 さらにルワンダ虐殺下における強姦被害者達は、社会的孤立(強姦に遭うことは社会的汚名とされるため、強姦された妻から夫が去ったり、強姦された娘は結婚の対象外とされたりした)や、望まぬ妊娠や出産(一部の女性は自身で堕胎を行った)、梅毒、淋病、HIV/AIDSといった性感染症への感染といった、長期に亘る甚大な被害を受けた。ルワンダ虐殺問題の特別報告官は、未成年の少女を含む25万から50万の女性が強姦され、2000人から5000人が妊娠させられたと推定している(ルワンダにおけるHIV/AIDSも参照のこと)。ルワンダは家父長制社会であり、子供の民族区分は父親から引き継がれることから、ルワンダ虐殺における強姦被害者の多くはツチの父親を持つ女性であった。ルワンダの再建にあたり大きな問題となっているのは、強姦や殺人、拷問を行った者と同じ村で、時には隣人として暮らすという事実である。個人個人が虐殺に関与したにせよしなかったにせよ、ジェノサイド直後のツチにとってフツを信頼することは非常に困難であった。 ルワンダのジェノサイドは、未成年のトラウマという形でも社会に甚大な影響を残すこととなった。ユニセフの調査によれば、ルワンダ虐殺当時、子供の6人中5人は流血沙汰を目撃したとされる。また、10代の若者約5000人が虐殺に関与した嫌疑で2001年まで拘留されていた。拘留による教育の欠如や、模範とすべき親世代との隔絶は、未成年に好ましくない影響を及ぼしたと考えられる。また、これらの未成年が家族の下に戻る際にはしばしば問題が生じる。家庭の経済的な問題やジェノサイドへ関与したことに対する恐怖から、多くの場合で少年らは家族から拒絶されるのである。 また、ジェノサイドにより負傷し障害者となった者も多数いるが、これら障害者に対する福祉政策は進んでいない。日系のNGOが障害者に対し無償で義足を作製する活動を行っている。 ===ルワンダ国際戦犯法廷=== 1994年11月8日、国連安保理決議第955号によりジェノサイドの責任者とされる政府や軍の要人を裁くための国際法廷が設置が決定され、1995年2月22日の国連安保理決議第977号により法廷はタンザニアのアルーシャに設置されることが決定された。なお、ルワンダ新政府は国内で裁判を行おうと考えていたが、国連はこれを拒否して代わりにユーゴスラヴィア国際戦犯法廷の下にルワンダの文字を付け加えたという背景から、ルワンダ新政府は国連で同法廷設置に反対している。その後、実際の運用が始まったのは1996年5月30日のことで、公立技術学校の虐殺などに関与したインテラハムウェ全国委員会第二副議長のジョルジュ・ルタガンダ(英語版)がジェノサイドおよび人道に対する罪により起訴されたのが第1号となった。同年8月7日にはルワンダ国内でも虐殺に関与した現地指導者や一般住民を裁くための法律が成立し、1990年1月1日から1994年12月31日までの行為が対象とすることが決定された。その後、コンゴ民主共和国からの大量の難民の帰還を受け、1996年12月からルワンダ虐殺の裁判を手探り状態で開始した。 さらに2001年には、政府は9万人を超える留置者へ対応するため、ガチャチャ(英語版)として知られるルワンダの一般住民による司法制度を開始した。このガチャチャは、膨大な数の囚人数を減らすこと、民族の融和を国際社会に強調すること、4つの犯罪区分のうち最も重罪となる虐殺扇動者(カテゴリ 1)を除く犯罪者(カテゴリ 2, 3, 4)を大幅に減刑し、早期に釈放することで政権支持基盤を確保する目的があるという。ガチャチャについては、本来は窃盗などの事件を解決するための和解が目的であり、重罪を処理する制度ではないため、効果が疑問視されてもいる。 かつては国連とルワンダとの間で死刑の是非をめぐって緊張関係を招いたが、2007年にルワンダ政府が死刑廃止を決定したことでこの問題は大筋で解決した。しかしその一方で、虐殺生存者の多くは死刑の廃止に反対している。 アルーシャ法廷では開始から10年間で判決に至ったのはわずか20人に過ぎない。2003年には、2008年末までに一審を終わらせ、全裁判を2010年までに完了するため、ハッサン・ブバカール・ジャロウ(英語版)がルワンダ国際刑事裁判所の主席検察官として4年間の任命を受け、2007年には2010年まで任期が延長された。 2008年12月18日の木曜日、国防省官房長であったテオネスト・バゴソラ(英語版)が人道に対する罪で有罪となり、国連の裁判官であるエリック・モーセ(英語版)により無期懲役の判決を受けた。同法廷はさらに、1994年4月7日に暗殺されたアガート・ウィリンジイマナ首相およびベルギーの平和維持部隊員10人の死は、バゴソラに責任があることを認定した。 ===追悼施設=== ルワンダでは1995年以降、海外からの援助を受けて全国各地でジェノサイドの記念施設が設立された。ルワンダでは毎年、4月7日からの1週間はルワンダ虐殺の追悼の週として、全国各地の施設で式典や慰霊祭が行われ、喪に服し、記憶し、反省し、学び、二度と虐殺を繰り返さないための誓いが立てられる。2004年、この追悼記念施設の中心となるキガリ虐殺記念センターがルワンダの首都キガリで開館した。このセンターは約25万人が滞在可能な宿泊所を備える大規模な施設である。一部の施設は2005年時点でも建設中であった。ルワンダには現在、7箇所の中央記念施設と約200箇所の地域の記念施設が存在している。これらの記念施設は、ルワンダ虐殺の期間に多数の人々が虐殺された場所に設置されている。 これらの記念施設は、その政治的な目的性や様々な矛盾から非難を受けている。多くの記念施設では、ジェノサイドを否定したり平凡化することを防止するために、数百人分の遺体や遺骨が展示されており、これらが大規模な暴力行為が行われたという具体的な証拠となっている。しかし、虐殺犠牲者の遺体を公開する行為は特に国内外からの非難を呼んでいるほか、この展示行為は”遺体は可能な限り迅速かつ目立たないように埋葬を行うべき”とするルワンダの伝統的な方針に反している、記念施設に埋葬されるのが専らツチのみでフツが排斥され差別されているなどの問題が存在している。フツもルワンダ内戦や難民化などにより多くの被害を受けたにもかかわらずほとんど省みられることがない点に関して、多くのフツが怒りを感じている。さらに、現在のルワンダ政府は、ルワンダ虐殺の記念館を開発協力資金の勧誘の手段として利用しているとの指摘もあるが、その一方で国際援助機関が虐殺記念館の設立や維持に援助を行うことで、1994年4月から7月までの消極的な姿勢をとったことに関して国際社会が感じるやましさを埋め合わせているという面も存在している。 ===メディアと大衆文化=== ルワンダの専門家であり、1994年のルワンダ虐殺をジェノサイドとして最も早くに断言したアリソン・デフォルジュは、1999年にルワンダ虐殺の報告書として『Leave None to Tell the Story: Genocide in Rwanda』を出版した。同報告書の内容はヒューマン・ライツ・ウォッチのホームページ[3]にて閲覧可能である。また、国際連合ルワンダ支援団司令官であり、最も著名なジェノサイドの目撃者となったロメオ・ダレールは、2003年に『Shake Hands with the Devil: The Failure of Humanity in Rwanda』を共著で発行し、その中で自身の体験したうつ病やPTSDについて記述した。この”Shake Hands with the Devil”は2007年に映画化された。さらに、国境なき医師団代表者の1人でありルワンダ虐殺を体験したジェームズ・オルビンスキー(英語版)は”An Imperfect Offering: Humanitarian Action in the Twenty‐first Century”を執筆した。 映画評論家から絶賛を受け、2004年度のアカデミー賞やゴールデングローブ賞にノミネートされた『ホテル・ルワンダ』は、キガリのホテルオテル・デ・ミル・コリンの副総支配人であったポール・ルセサバギナが、千人以上の避難民をホテルに匿い命を救ったという体験に基づいた物語であり、この作品はアメリカ映画協会による感動の映画ベスト100の第90位にランクインした。2006年にはルセサバギナの自伝となるAn Ordinary Man(邦題『ホテル・ルワンダの男』)が発行された。2006年には、ジェノサイドの生き残りであるイマキュレー・イリバギザ(英語版)が、自身の体験をまとめた手記、Left to Tell: Discovering God Amidst the Rwandan Holocaust (邦題『生かされて。』)を刊行した。この本では、イリバギザが牧師の家の狭く湿ったトイレに他の7人の女性とともに隠れ、91日間に亘る虐殺の日々を奇跡的に生き抜いた様が描かれている。 アリソン・デフォルジュはルワンダ虐殺から11年目となる2005年、ルワンダに関して扱った2本の映画に関して「50万人を超えるツチが命を奪われた恐怖への理解を大きく進めた」と述べた。2007年にメディア・フォーラム「ポリス」のディレクターとして知られるチャーリー・ベケット (Charlie Beckett) は、「どれだけの人が映画”ホテル・ルワンダ”を見たのだろうか? 皮肉にも、今や大多数の人々はこの映画によってルワンダに触れるのである」と評した。 パンク・ロックのバンドランシドが2000年に発表したアルバム(en:Rancid (2000 album))収録曲Rwanda は、ルワンダ虐殺を題材としている。 ==修正主義への批判== 1994年のルワンダ大虐殺における事実関係については、歴史学的論争の争点となっているが、否定的見解を示す論者はしばしば否認主義として非難される。フツに対するカウンター・ジェノサイド(counter‐genocide)に従事したツチを非難する内容を持つ”ダブル・ジェノサイド”(double genocides)論は、2005年にフランス人ジャーナリストのピエール・ペアン(英語版)により出版されたBlack Furies, White Liars内で提唱され議論を呼んだ。これに対し、ペアンの書籍内で”親ツチ派圧力団体”の活発な会員として描かれたジャン=ピエール・クレティエン(英語版)は、”驚くべき歴史修正主義者の情熱”としてペアンを批判している。 ルワンダ虐殺に関する修正主義者として非難された人物としては、カナダ人ジャーナリストのロビン・フィルポット(英語版)が知られている。フィルポットはルワンダ虐殺に関する権威として知られるジェラルド・キャプラン(英語版)により、2007年に『グローブ・アンド・メール』紙の記事で「1994年に多数の人々が両陣営によって殺害されたことを以て、ジェノサイドを実行した者とその対象となったものが道徳的に等しい」と評された。キャプランはさらに「旧ルワンダ軍と過激派フツ民兵による、100万人の無防備なツチに対する一方的な謀略ではなかった」とするフィルポットの主張を非難し、「フィルポット氏は、主張が証拠と完全に矛盾していることが明らかになって以降、真実を否定する揺るぎない決意により、もっぱら噂や推測から構成される支離滅裂で奇妙な主張を量産している」と述べている。しかし、1961年から2003年にかけてのルワンダにおける人口動態のグラフが虐殺者および亡命者総数と矛盾することから、ルワンダ虐殺の犠牲者総数を疑問視する者もいる。国際連合食糧農業機関のルワンダ人口動態グラフでは6005000人から5928000人に減っており、グラフ上で算出された犠牲者数は77000人である。これはヴィクトリア湖の湖岸へ数万体の遺体が流れ着いた証言と一致する。詳細はルワンダ虐殺否認主義を参照。 ==ルワンダ虐殺を扱った映画作品== ===洋画=== ルワンダ虐殺の関連映画(英語版)を参照のこと。 ===日本語に翻訳されたもの=== ホテル・ルワンダルワンダの涙ルワンダ虐殺の100日(英語版) ‐ 映画祭等で上映。愛の叫び 〜運命の100日〜(英語版)ルワンダ 流血の4月(英語版) ‐ 映画祭等で上映。 ===ドキュメンタリー=== 記憶の守人たち (Keepers of Memory) ‐ 映画祭等で上映。元PKO部隊司令官が語るルワンダ虐殺 (Shake Hands With the Devil:The Journey of Rom*6998*o Dallaire) ‐ ロメオ・ダレールの体験をもとにしたドキュメンタリー。サンダンス映画祭国際ドキュメンタリー部門観客賞。BS世界のドキュメンタリー<シリーズ飽くなき真実の追求> ルワンダ 仕組まれた大虐殺 〜フランスは知っていた〜 原題:Earth Made of Glass、制作:Clover & a Bee Films (アメリカ 2010年) 真相が謎に包まれてきたルワンダ大虐殺が、ツチ人とフツ人の民族対立により突発的に起きたものではなく、当時の政府により用意周到に準備され、フランスが武器供与や軍隊派遣などで便宜を図り、計画を後押ししていたとを公にし告発する内容。原題:Earth Made of Glass、制作:Clover & a Bee Films (アメリカ 2010年)真相が謎に包まれてきたルワンダ大虐殺が、ツチ人とフツ人の民族対立により突発的に起きたものではなく、当時の政府により用意周到に準備され、フランスが武器供与や軍隊派遣などで便宜を図り、計画を後押ししていたとを公にし告発する内容。 ==ルワンダ虐殺を扱った文学作品== ===小説=== 曽野綾子 『哀歌』 毎日新聞社 2005年 =松竹歌劇団= 松竹歌劇団(しょうちくかげきだん)は、1928年から1996年まで日本に存在したレビューおよびミュージカル劇団。 出演者が女性で占められる「少女歌劇」の系譜に属する。松竹を母体として東京・浅草に本拠を置き、1930年代には東京一のレビュー劇団として、兵庫県宝塚市を本拠とする宝塚少女歌劇(宝塚歌劇団)と人気を競った。太平洋戦争を経て、戦後は本拠地・国際劇場の大舞台を活かした「グランド・レビュー」を売りに人気を保ったが、1960年代ごろより徐々に低迷、1990年代にはミュージカル劇団へ転向するも定着せず、1996年をもって解散した。「Shouchiku Kageki Dan」の頭文字をとったSKDの通称でも知られた。大阪府に現存するOSK日本歌劇団(旧・大阪松竹歌劇団)は姉妹劇団である。 ==歴史== ===前史=== 1914年、阪急グループ創業者・小林一三により、兵庫県宝塚市の宝塚新温泉パラダイス劇場に宝塚少女歌劇団が結成され、日本における「少女歌劇」の歴史が始まった。1918年には広島県広島市に羽田少女歌劇団、1919年には大阪府大阪市に琵琶少女歌劇団、1921年同じく大阪市に浪華少女歌劇団が結成され、少女歌劇の波は徐々に拡大していった。 1921年、宝塚音楽歌劇学校の講師であった楳茂都陸平(うめもと・りくへい)が宝塚公会堂で舞踊『春から秋へ』を上演、ときの大阪松竹社長・白井松次郎がこれを観賞し、松竹版少女歌劇・「松竹楽劇部」設立への大きな影響を受ける。1922年4月、白井は宝塚から楳茂都や作曲家の原田潤らを招き、天下茶屋の松竹合名会社分室内に「松竹楽劇部生徒養成所」を創設。夏までに30名ほどの生徒が集まり、12月に試演ともいうべき『時の踊り』を上演。翌1923年より道頓堀松竹座を拠点に短期公演を中心とした興行をはじめた。当初はお荷物扱いであったものの、1926年4月に上演した「春のおどり」が大好評を博したことにより、以後興行的な軌道に乗った。『春のおどり』は花街風の演し物をレビューにアレンジしたものだったが、1927年、宝塚少女歌劇がフランス式の豪華なレビュー『モン・パリ』を上演すると、松竹楽劇部でも洋舞が大きく取り入れられるようになる。1928年に上演された『松竹座ダンス』において、映画的なテンポ、エロティシズム、巧妙な場面転換といった、「松竹レビュー」の基礎となる要素が確立された。 ===東京松竹楽劇部の設立=== 松竹楽劇部公演は、映画上映に併設されたアトラクションという形で上演されていた。1928年8月31日、浅草松竹座が開場した際にも、松竹楽劇部が大阪から上京して公演を行った。この公演『虹のおどり』は東京でも好評を博し、松竹楽劇部支配人・蒲生重右衛門が、白井と大谷竹次郎(東京松竹社長)に対し、東京を本拠とする新たな楽劇部設立を直訴する。これが容れられると蒲生は直ちに東京府下の新聞に新楽劇部の生徒募集広告を出し、これに応じて受験、合格した生徒14名を擁して「東京松竹楽劇部」が発足した。 12月には上京してきた大阪松竹の応援という形で、昭和天皇即位にあわせて上演された『奉祝行列』で初舞台を踏む。稽古開始からわずか2カ月であった東京松竹の出演は第一景とフィナーレのみで、いずれもその他大勢の扱いであった。翌年もしばらく応援出演が続いたが、11月末より『松竹座フォーリィズ』で初の東京松竹単独公演を果たす。さらに12月には『松竹座ダンス』を単独上演し、以後東京松竹は大阪松竹から自立していった。 ===レビュー全盛期=== 1930年、第1期生の水の江瀧子が少女歌劇の生徒としてはじめて男性風に断髪し、以後「男装の麗人」として人気が急上昇する。レビュー人気が高まる一方、いたずらに扇情的であるとして警察から演出内容の指導通達も受けたが、翌1931年には歌舞伎座において、『ラーマーヤナ』を脚色した『奪われし我が愛しの妻よ』をもって、来日中のタイ国王・ラーマ7世の台覧に供され、社会的信用を高めた。楽劇部長である蒲生重右衛門による積極的な運営もあり、東京松竹楽劇部は東京名物といわれる一大劇団となり、本拠の浅草松竹座のみならず、歌舞伎座、東京劇場等でも優秀な興行成績を挙げた。 1932年10月、東京進出を図る宝塚少女歌劇が新橋演舞場で『ブーケ・ダムール』公演をはじめ、これに対抗した東京松竹も築地川をはさんだ対岸の東京劇場で大作『らぶ・ぱれいど』を上演。築地川両岸で松竹と宝塚による集客競争・通称「レビュー合戦」がはじまった。両者は「踊る松竹、歌う宝塚」と対比され、この争いは宝塚が東京における新拠点・東京宝塚劇場へ移るまで続いた。なお、『らぶ・ぱれいど』の頃に、東京松竹楽劇部は名称を「松竹少女歌劇部(SSK)」と改めた。 1933年6月、楽団員による待遇改善要求に端を発し、水の江瀧子を組織委員長とする労働争議・通称「桃色争議」が起こる。翌月の妥結後に蒲生重右衛門は退陣、従来松竹座チェーンの傘下にあった松竹少女歌劇部は、松竹本社直属の松竹少女歌劇団となり、同時に附属の団員養成機関「松竹少女歌劇学校」が設立された。争議首班の水の江は一時謹慎させられたが、10月末の『タンゴ・ローザ』から復帰。同作は松竹歌劇はじまって以来の大ヒットとなり、はじめて全団員を擁しての関西公演を行うなど、計160回公演という当時の少女歌劇における最高記録をつくった。さらに人気を増幅させた松竹少女歌劇は、1934年9月より本拠地を浅草松竹座から新宿第一劇場に移した。 東京宝塚劇場の出現以来、松竹少女歌劇は積極攻勢を図り、『タンゴ・ローザ』以降は関西、中国、九州各地方へも巡業、先輩格の大阪松竹を本拠地に押し込める形になりつつも、全国的人気を獲得した。このころの松竹少女歌劇は水の江瀧子とオリエ津阪を二枚看板としていたが、とくに「ターキー」の愛称で知られるようになった水の江は、「レビュー界空前の人気を独占し」、「ターキー時代を現出している」と評されるほどの高い人気を誇った。またスタッフでは演出の青山杉作、振付の青山圭男、装置の三林亮太郎を三本柱として、「レビューの王様」とも呼ばれた名演出家・白井鐵造を擁する宝塚と互角の争いを演じた。 当時は各スターの私設後援会が林立し、会員2万人を擁した「水の江会」を筆頭に、各後援会が競い合ってスターに声援を送り、舞台へテープや花束を投げ、またスターもこれに呼応して、劇場内は異常な興奮状態を示していた。しかし1937年、定員3600人を誇り「マンモス劇場」とも呼ばれた新本拠地・国際劇場が開場されると、その巨大さゆえに従来の松竹少女歌劇を支えた「スターとファンとの間の交歓」という魅力は失われていくことになる。 ===太平洋戦争終結まで=== 1938年3月、松竹本社の機構改革が行われて新たに「歌劇部」が発足し、東京・大阪の両少女歌劇が一元管理されることになった。歌劇部長の大谷博は両劇団を積極的に交流させたが、時局の戦時色が強まったこともあり本格公演は少なくなっていき、少女歌劇人気は低落傾向を示していった。作品も時局が反映されたものが作られはじめ、日支事変を題材とした『ますらを』(1937年)が上演されたのち、翌1938年の『東京踊り』には「さくらかちどき」という副題が付けられ、「祖国のために」というバレエも併演された。1939年には『防共の誓い』を上演。そして同年9月の『ぶるう・むうん』をもって少女歌劇の単独公演はいったん休止されることになる。 以後はかつてのごとく映画上映に併演されるアトラクションを建前として公演を続けたが、1941年末に太平洋戦争が勃発すると、上演内容についての制限も強化されていった。翌1942年にはフィリピン方面の将兵慰問興行を3カ月にわたり行った。同年にはオリエ津阪、1943年には水の江瀧子と、全盛期を支えた男役スターが相次いで退団。1944年3月には決戦非常措置要項により国際劇場が閉鎖され、風船爆弾の製造工場として転用された。ここまでに退団者も相次いでいたことから、同31日をもって松竹少女歌劇団はいったん解散。慰問興行を目的とした「松竹芸能本部女子挺身隊」に改められ、内外で慰問興行を打った。1945年には「松竹舞踊隊」として活動、8月に大船新生劇団と邦楽座で興行中に終戦を迎えた。 ===戦後の国際劇場レビュー=== 終戦後の10月、松竹舞踊隊は30名の団員を擁して「松竹歌劇団」として再出発。同時に新団員の募集も行い、11月には戦後第1期生となる34名が新入団した。翌1946年より、水の江などかつての関係者が所属する劇団との合同という形をとりながら公演を再開し、7月には戦後初の単独公演を行い、立ち直りへ向かった。1947年秋には東京大空襲で損壊していた国際劇場が修築され、復興記念公演を行った。1948年にはかつて毎年恒例となっていた『東京踊り』を復活させた。1949年ごろからはその人気が再燃、ブロマイド販売の最大手として知られた浅草マルベル堂においては、川路龍子、小月冴子、曙ゆりといったスターの品が100万枚以上を売り上げた。 1950年代にはいると国際劇場の巨大さと舞台機構を活かした演出法が編み出されていき、戦前とは異なる人海戦術を駆使した大規模ショーとしての松竹レビューが定着。国際劇場は観光バスが大挙して訪れる浅草の新名所となった。1957年には、その歴史を通じて最多となる265万人の観客動員を記録した。 数々の「チーム」が設立されたのもこの頃の特徴である。1951年には装置転換の際に起こる間延びを解決するため、特にスタイルの良い40名を選抜したラインダンスチーム「アトミック・ガールズ」を創設。1956年には女性のグラマラスさを前面に押し出したチーム「スリー・パールズ」を刷新し、「エイト・ピーチェス」が創設された。エイト・ピーチェスはダンス技術に優れた者を選抜した8人のチームで、官能的なダンスを売り物とし、「所属することが栄誉」とされる名チームとなった。アトミック・ガールズとエイト・ピーチェスは1956年に芸術祭奨励賞(大衆芸能部門)を受けている。機構面では1959年の『夏のおどり』において、地下に水槽を設置し、舞台後方に6段落としの瀑布を創出したことが特筆される。また、屋台崩しなども得意演出であった。 ===レビュー劇団としての終焉=== 1960年代半ば以降、松竹歌劇は娯楽の多様化とミュージカルの人気に押されて低迷をはじめる。座付作家の不在により過去の作品に何度も頼ってのマンネリ化もみられはじめた。1960年代には宝塚歌劇も東京での観客数が伸び悩み、東京宝塚劇場の稼働を通年から7カ月に縮小していたが、1974年にミュージカル『ベルサイユのばら』でブームを起こし、勢いを盛り返すことに成功する。 松竹歌劇においても団員は自主的にミュージカルに取り組もうとしていた。1970年に団内で結成された「SKD・ドラマ・グループ」がそれである。演劇界にミュージカル・ブームが起こるなか、団員の間でもこれを上演したいという希望が高まり、会社が「演技力付与と向上」を目的に後援したものだった。しかし公演回数は多くなく、第1回試演『恋伝授手習鑑』は同年の『秋のおどり』の休演日に行われ、これを含めた1977年までの公演は、『11人囃子』(1974年、試演1日)、『女だけのイヨネスコ』(1975年、公演3日)、『女だけのカモレッティ』(1977年、公演4日)の4作品9日間で、作品傾向も難解なものばかりだった。 1979年、松竹歌劇は脚本・演出に映画監督の山田洋次を迎え、ミュージカル作品『カルメン』を上演して新機軸を試み、さらに1980年には森喜朗を理事長とする「上演実行委員会」が結成され、文化庁後援のもとミュージカル『銀河鉄道999 in SKD』を上演したが、1982年4月の『東京踊り』を最後に、まず国際劇場が閉鎖される。最後の本拠地公演は約4000人の観客を集めた。また、同年にはソビエト連邦と東ドイツで長期公演を行ったが、従来旺盛に行っていた海外公演もこれが最後の例となった。 以後は東京都内や地方劇場で公演を行ったが赤字が続き、1989年3月、全団員が召集された場で、親会社の松竹土地興行より「翌年3月以降、2年間の公演中止」と「ミュージカル劇団への転換」が通達された。翌1990年2月25日、2500人で満員となった東京厚生年金会館において最後の『東京踊り』が上演され、これをもってレビュー劇団としての歴史に終止符を打った。この公演には76人が参加したが、終演後に11人が退団した。 ===ミュージカル転向 ‐ 解散=== その後、ミュージカル劇団化への準備に入り、『コーラスライン』のツアー公演演出などを担当したバーヨーク・リーをブロードウェイより招き、さらにバレエの牧阿佐美や劇団四季からの指導も仰いだ。しかし先行き不透明な状況もあり、さらなる退団者が続出し、準備期間中に団員は38名まで減少した。 1992年3月10日、ミュージカル転向後の初公演『賢い女の愚かな選択』を池袋サンシャイン劇場で上演。以後定期的に公演を行い、団員の実力については高評価を得た。しかし男役を廃して作品ごとに外部から男性俳優を招くようになって劇団の体裁は崩れ、また同様に演出家も作品ごとに外部から招聘していたため制作方針も定まらず、1995年5月時点で団員は18名まで減少した。 1996年6月14日、松竹土地興行は在団中の16名に対し、6月以降の出演契約を結ばないことを通達。これをもって松竹歌劇団は解散することになった。解散公演がなかったことから、甲斐京子、西紀佐江子、紅エミら16名の最終メンバーが銀座博品館劇場で自主公演『FROM SKD』を行った。 その後、元トップスターの千羽ちどりなどにより結成された「STAS」や、同じくOG発の「薔薇笑亭SKD」といった劇団が「レビューの継承」を謳い活動を続けている。 ==劇団の特徴== ===公演内容=== 松竹歌劇の公演内容は、国際劇場以前にはオペレッタ形式のものが多かったが、国際劇場への定着後は「四大おどり」と称した『東京踊り』、『春のおどり』、『夏のおどり』、『秋の踊り』に代表される大規模なレビューが主なものとなり、「歌劇団」というよりは「ダンシングチーム」に寄ったものとなった。日劇ダンシングチームが松竹歌劇のライバルだったという見方もある。1951年末の機関誌には、オペレッタの衰退を嘆いた松竹社員から「四大おどりを国際劇場で、オペレッタを適当な規模の劇場で」という提案も寄せられていたが、逆に、1957年ごろから主な公演は「四大おどり」に集中されていった。ただし青地晨によれば、映画の併演アトラクションとしてはじまった松竹歌劇は、最初期からダンシングチームの性質を有しており、オペレッタが重視されたのは「レビュー合戦」の時期に起きた「宝塚化」現象のひとつであった。 演し物では、各種洋舞を主体した大場面やチームダンスに定評を得、大きな特徴とした。他方、国産レビューとしての意識から、歌舞伎の舞踊を基にした日舞や、民俗舞踊・芸能も積極的に採用した。 宝塚歌劇との比較では、松竹歌劇の方がよりスピード感と大人の男性の嗜好(色香)を優先した演出を行っていた。これは片や下町の浅草、片や山の手の日比谷(東京宝塚劇場)という、両者が拠点とした土地柄の違いによるものともされるが、前述のように、東京松竹が発足する以前から、松竹レビューの基本要素には「エロティシズム」が含まれていた。青地晨は次のように述べている。「昔はズカファンにとっては松竹は下品でみられなかったし、SKDファンには宝塚は気取って鼻もちならなかった。だが、二派に分れてシノギを削るほど、本質的な違いはなかったにせよ、宝塚と松竹と、それぞれのカラアと伝統があったことはいうまでもない」。戦後の占領期には松竹・宝塚両方を取り上げる雑誌が複数刊行されており、ある程度観客層の重複もあったとみられるが、戦前からのファンには、両方を愛好するファンを「節操がない」と批判する向きもあったという。 ===受賞歴=== ===日本国外での公演=== 1950年代以降、松竹歌劇団は日本文化の紹介などを目的として国外での公演活動を旺盛に行い、「世界のSKD」を称した。1954年11月にタイから新憲法発布記念として招聘され、東南アジア(タイ、シンガポール)で公演を行ったのを皮切りに、1980年代までにアジア、ヨーロッパ、南米、南アフリカまでを巡った。また、戦前には水の江瀧子が親善使節という名目で渡米した例がある。 ===海外公演記録=== ===団員=== 団員は、時代により「女生」、「女生徒」、「生徒」と呼ばれ、序列制度が確立してからは、上から「大幹部」、「大幹部待遇」、「幹部」、「準幹部」、「ベスト・テン」、「技芸員」に格付けられた。はじめて幹部制が設けられたのは1931年に体制を2組制としたときで、松組筆頭は水の江瀧子、竹組筆頭は小倉みね子であった。史誌による記録上では、大幹部が置かれたのは戦時中「松竹女子挺身隊」に改組されたときで、川路龍子と南里枝のふたりが任命された。大幹部待遇以上は松竹本社と直接契約を結んだ。 原則として松竹音楽舞踊学校を卒業した者が団員となったが、そうした制度が厳密ではなかった初期の頃には、養成所を経ず直接入団(入部)する者もいた。高田舞踊団の解散に伴い移籍した吉川秀子や、すでに歌手として有名な存在で鳴り物入りの入部だった小林千代子などがこれにあたる。なお、吉川と共に入部した益田隆(後に日劇ダンシングチーム演出・振付家)は男性であるが、移籍当初は舞台に上がっていた。舞台が完全に女性のみで占められるようになるのは、「東京松竹楽劇部」から「松竹少女歌劇部」へ変わってからのことである。 ===愛唱歌=== 東京・大阪の両松竹系歌劇団は『桜咲く国』(岸本水府作詞、松本四良作曲)を愛唱歌とした。1930年に大阪松竹が第5回『春のおどり』で初披露、東京松竹では同年の第1回『東京踊り』において初披露され、以後松竹系歌劇を象徴する曲として歌い続けられた。団歌は別に存在する。なお、宝塚歌劇における同様の位置づけの曲が『すみれの花咲く頃』である。 ==年譜== 1928年10月12日 東京松竹楽劇部が発足。12月の一足早く発足した松竹楽劇部(のちのOSK)の東京公演の応援出演。1929年11月 浅草松竹座での公演から正式に活動を開始。1930年4月 恒例の「東京踊り」公演を浅草松竹座と帝国劇場で開始。名古屋松竹座へも出張公演を開始。1930年9月 水の江瀧子が髪型を刈り上げ、「男装の麗人」が登場。1930年10月 松組・竹組の二組制になる。1931年1月 梅組・桜組を新設し、四組制になる。1932年7月 松竹少女歌劇部(略称・SSK)に改称。1933年6月 待遇改善を巡り争議が起こる。(桃色争議)1933年7月 松竹本社の直轄となり、松竹少女歌劇団となる。松竹少女歌劇学校を新設。1934年9月 本拠を新宿第一劇場に移す。1937年7月 本拠を浅草国際劇場に移す。1940年1月 国際劇場は単独興行を打ち切り、映画の封切りに歌劇の併演を行うアトラクションシステムを採用。1944年3月 戦時体制の強化に伴い、国際劇場が閉鎖されまた退団者も相次いだため、解散。1945年10月 松竹歌劇団(略称・SKD)に改称の上、復活。浅草・大勝館で公演を行う。1947年11月 国際劇場が復興。1950年11月 松竹少女歌劇学校が松竹音楽舞踊学校に改称。歌舞伎座別館を教室とした。1951年3月 「東京踊り」に「アトミック・ガールズ」が登場。1953年6月 「さよならターキー」公演を行う。1954年3月 松竹音楽舞踊学校、東京劇場4階に移転。1954年12月 初の海外公演をタイ・バンコクで行う。1956年3月 エイト・ピーチェス誕生。1957年6月 大阪松竹歌劇団(OSK)が松竹の手を離れる。(この時までSKDとOSKは姉妹関係で、合同公演などもあった。)1957年12月 東南アジア公演を行う。1958年11月 沖縄公演を行う。(当時の沖縄はアメリカの施政下にあったため、海外公演扱い。)1959年7月 「夏のおどり」で本物の水を使用した大瀑布のセットが登場。1960年7月 「夏のおどり」より郷土芸能を舞台に採り入れる。1962年9月 「秋のおどり」で屋台くずしが登場。1962年4月 ハワイ出張公演を行い、この年より海外公演が定期的に行われるようになる。1966年1月 「春のおどり」と三月公演の「東京踊り」を統合して、「東京踊り」を一月公演とする。1966年12月 名古屋・中日劇場での定期公演を開始。1970年8月 福岡スポーツセンターでの定期公演を開始。1971年4月 ソ連・東欧公演開始。1972年9月 小部隊の松竹ダンサーズを結成。1978年8月「男はつらいよ 寅次郎わが道をゆく」作品中に登場。1979年2月 SKDミュージカル誕生。第一作「カルメン」(脚本・演出 山田洋次)1981年9月1日 松竹土地興行株式会社に移管される。1982年4月 国際劇場での公演が打ち切り。海外班がソ連・ドイツ公演に、国内班が船橋ららぽーと劇場公演と地方公演に、それぞれ活動の場を求めることになる。1982年8月 創立55周年特別公演「SKDのすべて」を歌舞伎座で行う。1982年12月 「男はつらいよ 花も嵐も寅次郎」の夢のシーンに登場。1983年1月 池袋サンシャイン劇場で定期公演を行う。この他、銀座・博品館劇場、渋谷・ジァンジァン、吉祥寺・前進座劇場、豊島園などで公演を行い、7月には歌舞伎座特別公演を行っていた。1985年6月20日・21日 つくば科学万博のエキスポプラザに出演。1985年8月 日本コロムビアより90周年記念のLPレコード「松竹歌劇全集」(全5枚組)が発売される。1988年3月 レビューをやめ、ミュージカル劇団として再編されることが発表される。1990年2月 新宿厚生年金会館大ホールでレビュー最終公演「東京踊り きのう・今日・明日」が上演される。以後2年間公演を休止してミュージカル劇団としての再編をおこなう。1992年6月 ミュージカル劇団再編後第一作として「賢い女の愚かな選択」を東京芸術劇場中ホールで上演。1996年6月 解団。8月に解散メンバーらによる最後の自主公演「FROM SKD」を銀座博品館で行う。 ==出身者== 水の江瀧子 ‐ 戦前1期生。小倉みね子 ‐ 戦前1期生。オリエ津阪 ‐ 戦前2期生。逢初夢子 ‐ 戦前6期生。水久保澄子 ‐ 戦前6期生。市村菊子 ‐ 戦前9期生。川路龍子 ‐ 戦前10期生。不忍鏡子 ‐ 戦前12期生。小林千代子 ‐ 1932年加入。江戸川蘭子 ‐ 1933年加入。歌上艶子 ‐ 学校1回生。朝霧鏡子 ‐ 学校1回生。小月冴子 ‐ 学校4回生。並木路子 ‐ 学校4回生。矢口陽子(若園照美) ‐ 学校4回生。加藤治子(御舟京子)‐ 学校4回生。美空ひばり ‐ 学校5回生。旭輝子 ‐ 学校6回生。幾野道子 ‐ 学校6回生。桂木洋子 ‐ 戦後2期生。淡路恵子 ‐ 戦後4期生。草笛光子 ‐ 戦後5期生。富永美沙子 ‐ 戦後5期生。雪代敬子 ‐ 戦後6期生。長谷川待子 ‐ 戦後6期生。野添ひとみ ‐ 戦後8期生。芦川いづみ ‐ 戦後8期生。姫ゆり子 ‐ 戦後8期生。九條今日子(九條映子) ‐ 戦後9期生。沖千里 ‐ 戦後9期生。瞳麗子 ‐ 戦後10期生。倍賞千恵子 ‐ 戦後13期生。榊ひろみ ‐ 戦後13期生。加藤みどり ‐ 戦後13期生。倍賞美津子 ‐ 戦後18期生。松尾明美暁テル子(暁輝子)真屋順子椎名亜衣(椎名ルミ)千葉裕子 ==関連作品== ===そよかぜ=== 戦後、進駐軍占領下での国産映画第1弾。劇団の照明係の少女が、楽団員たちの協力でスター歌手になっていくという物語で、現役の松竹歌劇団生徒で、主役に抜擢された並木路子が唄う挿入歌『リンゴの唄』が大ヒットを記録した。もとは脚本の岩沢康徳が戦時中に書いていた戦意高揚もの「百万人の合唱」という台本を明るいレビュー映画に作り替えたものであった。 ===男はつらいよ 寅次郎わが道をゆく=== 映画『男はつらいよ』シリーズ第21作目。松竹歌劇と国際劇場が全面的に取り上げられ、マドンナ(ヒロイン)の木の実ナナが松竹歌劇のトップスターという役どころで出演。また松竹歌劇からも大幹部の小月冴子、春日宏美、沖千里、藤川洋子などが出演した。なお、シリーズ主人公・寅次郎(渥美清)の妹「さくら」役を一貫して演じ続けた倍賞千恵子は松竹歌劇出身であり、『東京踊り』で音楽舞踊学校の首席卒業者が務める「バトンガール」の初代担当者であった。 ===サクラ大戦=== 架空の歌劇団・秘密部隊である「帝国華撃団」を舞台とするゲーム、アニメ。原作者兼プロデューサーである広井王子の叔母が松竹歌劇団の第1期生であり、叔母の舞台を楽屋裏から眺めていた体験が創作の源となった。本拠地「帝国劇場」も国際劇場をモデルとしている。 =還住 (青ヶ島)= 還住(かんじゅう、げんじゅう)は一度居住地を去った者がその土地に戻り再度居住することを意味する語。 本記事では、伊豆諸島の青ヶ島で、安永9年(1780年)に始まった噴火活動が天明5年(1785年)になって激しさを増したため、島民が八丈島に避難して無人島になった後、文政7年(1824年)の旧青ヶ島島民全員の帰還、そして島の復興を達成し、天保6年(1835年)に検地を受けるまでの経過について記述する。 ==噴火前の青ヶ島== 青ヶ島にいつ頃から人が住み始めたのか現在のところはっきりしていない。これは他の伊豆諸島の島々で発見されている縄文時代や弥生時代の遺跡が全く発見されておらず、また中世の遺跡も見つかっていない上に文献資料も乏しいためである。15世紀になってようやく青ヶ島に人が居住しているとの記録が現れる。 青ヶ島は絶海の孤島で周囲を黒潮が流れ、波が荒いことが多く青ヶ島への船の航行は困難を極めた。また島の周囲は約50‐250メートルの海食崖が発達しており船の接岸も困難であった。15世紀の青ヶ島についての記録の多くは船の遭難に関することであり、この船の往来の困難さは現在に至るまで青ヶ島に住む人々を悩ませ続けている。 往来は困難を極めたが、青ヶ島での生活には利点もあった。これは八丈島、八丈小島と比べて食糧事情が良かったことである。八丈島や八丈小島は19世紀のサツマイモの本格的な普及まで慢性的な食糧危機に見舞われていた。これは主に台風の襲来による風害によるものであり、ひとたび強い台風が八丈島や八丈小島を襲うと多くの作物に甚大な被害がもたらされ、餓死者が出ることも稀ではなかった。 一方青ヶ島は大きな成層火山の山頂部が海面上に出ている地形をしており、島の南部には直径1.5‐1.7キロメートルという成層火山の大きな火口にあたる池之沢がある。池之沢にはかつて大池、小池という淡水の池があり、土地も肥沃であった。何よりも大きな火口の内側となる池之沢は周囲の山によって強風が遮られるため作物の被害が少なかった。このような土地であるため、元禄13年(1700年) 11月には激しい飢饉に襲われ青ヶ島へ出発した八丈小島の住民24名全員が行方不明になるという事件も発生した。 しかし池之沢は成層火山の大きな火口内であり、承応元年(1652年)に池之沢内で噴煙が上がり、寛文10年(1670年)から約10年間、池の沢にあった池から細かい砂が約10年間に渡って噴出したとの記録が残されている。いずれの事件も小規模な異変であったと考えられ、青ヶ島の島民に大きな影響を与えることはなかった。 安永3年(1774年)の記録によると青ヶ島には流人1名を加えて328名の島民が、農業やカツオ漁などの漁業、そして年貢としての生糸を生産するための養蚕を営みながら生活していた。島内で農業や養蚕の最大の拠点は、土地が肥え淡水の池があって風害から守られている池之沢であった。 ==噴火の開始== ===安永9年の噴火=== 安永9年6月18日(1780年7月19日)から23日までの6日間、青ヶ島は群発地震に見舞われた。6月24日には地震は収まるが、6月27日、池之沢に噴火口が出現し、そこから大量の湯が噴き上がった。池之沢内の大池と小池の水位は上昇を続け、やがて大池と小池は一つの大きな池となって耕作地を飲み込んでいった。また水温も上昇して7月半ばには手を入れられないほどの湯になってしまった。しかも大量に湧出し続ける湯は塩水であり、池之沢の耕地は甚大な被害を蒙ることになった。また噴煙の噴出も見られ、噴煙によっても農作物は被害を受けた。 青ヶ島名主の七太夫は7月末に噴火の被害について報告するために八丈島に渡った。八丈島役所も8月、被害の状況を確認するために見分を実施したが、この時は報告と見分の成果はなく、翌年の天明元年分の青ヶ島の年貢は規定どおりの納入が指示され、通常通り年貢は納められた。 ===天明元年の噴火=== 安永9年の噴火は翌安永10年(1781年) 4月頃までには小康状態となったが、翌月の天明元年(1781年)5月からは今度は火山灰を噴出する噴火が池之沢で始まった。噴煙は島全体を覆い、また再び池之沢内の池の水位が著しく上昇したが、今度は水が引いてしまい、このときに耕地の土が池に流出し、耕地には大きな石が残されるといった被害が発生した。 天明2年(1782年) 3月、青ヶ島で名船頭として知られた惣兵衛らが乗り込んだ「無人島」を探検する船が八丈島を出港した。惣兵衛らは青ヶ島から更に南へ向かい、現在の鳥島付近まで探検を行ったが、その後悪天候によって漂流を続けた上、何とか江戸にたどり着くことが出来た。惣兵衛らは天明3年(1783年)3月、勘定奉行より酒食の振る舞いを受け、更に4月には韮山代官である江川太郎左衛門からも酒食の振る舞いを受けた上、惣兵衛は八丈島へ戻った。後に惣兵衛は天明5年(1785年)に発生した大噴火の発生直後、青ヶ島へ向かい噴火直後の青ヶ島の状況を目の当たりにすることとなる。 天明2年(1782年)4月には韮山代官所の代官の手代らが、八丈島に在島していた名主の七太夫らとともに青ヶ島の巡検を行なった。巡検が行なわれた時には噴火は小康状態となっており、池之沢内で噴火の被害を蒙った農地の復興が進められていることが報告されている。 ===天明3年の噴火=== 安永9年と天明元年の噴火によって大きな被害を蒙った青ヶ島であったが、天明3年(1783)年3月からの噴火はこれまでのものよりも規模が大きく、甚大な被害を蒙った。 2月には島の北部にある神子浦(みこのうら)が大崩壊を起こし、舞い上がった土砂が島内の耕地に積もった。そして3月9日(1783年4月10日)には地震が頻発、そして池之沢に大きな火口が出現し、島内に灼熱した噴石が降り注いだ。そのために噴火開始時に池之沢にいた14名が死亡し、高温の噴石によって火災が発生して61軒の家屋が焼失した。噴石の噴出後には火山灰が激しく噴出し、島内は真っ暗となり火山灰が厚く降り積もった。火山灰は青ヶ島全体の耕地に壊滅的な被害をもたらした上に島の水源をも埋め、雨が降ると火山灰交じりの水が流れ出して人家に流れ込むといった二次災害を引き起こした。 天明3年の噴火は八丈島からも激しい火の手と猛烈な噴煙が立ち昇るのを見ることができた。青ヶ島からの報告を受けた八丈島役所では青ヶ島の被害状況の見分を行なうこととして、視察は5月に八丈島を出発し、噴火後の青ヶ島の状況を約一ヵ月見分して八丈島に戻る際、船が上総の興津まで流された上、ようやく八丈島へと戻った。青ヶ島は多くの耕地が噴出した火山灰によって失われ、厳しい食糧不足に悩まされることになり、また多くの家も焼失した。しかし今回は年貢が免除となり、救援の穀物の支給なども行なわれた。また噴火の影響で荒廃した青ヶ島から八丈島へ住民が避難することも勧められた。 天明4年(1784年)には噴火はなく、青ヶ島の島民は噴火からの復興に向けて努力をしていた。しかし翌天明5年(1785年)に破局的な大噴火が起こり、青ヶ島島民は全島離島に追い込まれることになる。 ==天明5年の大噴火と全島避難== ===噴火の経緯=== 天明5年3月10日(1785年4月18日)、青ヶ島で大噴火が始まった。このときの噴火も八丈島から見ることが出来たため、「無人島」の探検後、八丈島に戻って来ていた惣兵衛は船に救援物資を積み込み、早速青ヶ島へと向かった。3月10日、八丈島を出発した惣兵衛は翌11日には青ヶ島近海に到着したが、島全体が黒雲に覆われ、時々稲妻のような火の玉が飛ぶのが見えるが、島の様子がほとんどわからない状態であった。しかも黒煙は青ヶ島近海上の惣兵衛の船にも襲いかかるありさまで、潮の流れも悪くなったこともあり上陸を断念せざるを得なかった。 3月後半になって、青ヶ島から噴火の様子についての注進が名主の七太夫らによって八丈島へもたらされた。それによると、3月10日午前に池之沢から噴火が始まり、運よく北西からの風であったため噴石は島の南側に降下したが、火山灰は島全体に降りかかった。噴火はその後も激しく続き、風向きによっては池之沢北方の人家がある方向にも火山灰が降り積もった。激しい噴火によって食糧の不足とともに水不足が深刻となり、島全体が降り続く火山灰のために昼も暗くなって昼夜の区別がつかなくなるほどであった。 このような状況を受け、もはや青ヶ島で生活することは不可能であり、島民はいったん八丈島へ避難するしか方法がないと名主の七太夫を始めとする島民は八丈島の島役所に申し立てた。このため八丈島の島役所では4月10日(1785年5月18日)に青ヶ島の視察船を出し、噴火による被害状況の確認を行なった。その結果、絶え間なく噴火による噴石や火山灰が噴出している状況は続いており、耕作地は厚い火山灰に覆われ畔がわからなくなっているほどであり、ほとんどの草木が枯れ果て緑は全く見えず、飲料水も極度に不足してわずかにある雨水も火山灰などの影響で飲むに耐えない状態である等、深刻な状況が改めて明らかになった。このため青ヶ島からの帰りの視察船には49人の青ヶ島島民を乗せて八丈島へ向かった。青ヶ島から離れる際には船中に火山灰が降り注ぎ、苦労をしたものの、視察船は無事に八丈島へ戻ることができた。帰島後七太夫らの申し立て通り、島を離れる以外島民が生き延びる方策がないことが報告され、青ヶ島の島民の離島が決定された。 ===避難時の悲劇=== 天明5年4月27日(1785年6月4日)、八丈島島役所が派遣した3艘の救助船が青ヶ島に到着した。このとき青ヶ島には200人あまりの島民がいた。4月末になって噴火はいよいよ激しさを増し、島民たちは海に浸かりながら噴火による熱をなんとか避けている状況であった。 激しい噴火が続く中、3艘の救助船は青ヶ島への接岸に成功したが、救助時に悲劇が起こった。3艘の船では200人あまりの島民全員を乗せることが不可能であったのだ。まず体力のない多くの老人、子どもたちが船に乗り遅れ、熱い火山灰が降り注ぐ中、船に乗ろうとして海で溺れる者や浜辺で乗せてくれと泣き叫ぶ者たちが大勢いた。言い伝えによれば船端に取りすがった人の手をやむを得ず鉈で切り落としたともいう。結局3艘の救助船には108名の島民と1名の流人の、合計109名が乗船し、130‐140名の島民は乗船することができずに噴火が続く青ヶ島で死亡したと見られる。 しかし避難時に100名以上の島民を置き去りにせねばならなかったことは、避難当時の記録には全く記されていない。このことは近藤富蔵が著した八丈実記に詳細が記されており、また後年青ヶ島への帰島が試みられる中、激しいネズミの害に悩まされ続けることになるが、ネズミは青ヶ島で非業の死を迎えなければならなかった人々の霊魂が化したものと考えられ、施餓鬼供養が行なわれるようになったことが記録に残っている。 ==帰島への挑戦と挫折== 救助船は八丈島に無事到着し、天明5年の噴火によって八丈島にやって来た青ヶ島の島民は約160名に達した。また天明5年以前から八丈島に滞在していた青ヶ島の島民が約40名いたため、八丈島には約200名の青ヶ島島民が生活を営むことになった。 激しい噴火のためにやむを得ず八丈島に逃れてきたものの、八丈島では青ヶ島で噴火が始まる前の明和3年(1766年)から明和6年(1769年)にかけて大飢饉に見舞われ、中之郷村では人口の約三分の二に当たる733名が餓死するなど、八丈島民の生活は苦しかった。青ヶ島島民の大部分は大賀郷村の外れに集まって住み、主に八丈島島民の使用人として生計を維持するようになったが、飢饉が相次ぎ生活が苦しい八丈島に居候する形となった青ヶ島島民の生活は大変に厳しいものであった。現在八丈島の大賀郷には八丈島で死去した青ヶ島島民たちの墓地が残っているが、周囲の墓よりも狭い場所に小さな墓が数多く建てられており、八丈島で暮らす青ヶ島島民たちの厳しい生活ぶりを見ることができる。 青ヶ島の名主の七太夫は噴火や島民避難の報告と救援依頼のために江戸に向かった。その結果米、麦、大豆を二艘の船に載せて青ヶ島島民の救援物資として八丈島に送られることになったが、うち一艘は天明5年10月9日(1785年11月10日)、八丈島沿岸に激突して破壊されてしまい、乗船していた七太夫も死亡した。 そのような中、天明6年(1786年)八丈島島民の高村三右衛門が、蓄えてきた500両もの大金を青ヶ島島民救済のために八丈島役所に提出した。この500両は八丈島の島民に年1割2分の利息で貸し出され、利息のうち10両は高村三右衛門の娘が受領することとし、残りの50両は青ヶ島住民たちの食糧の購入や青ヶ島の復興に充てられることになった。 ===噴火後3年目の青ヶ島=== 青ヶ島島民の八丈島への避難という事態を招いた天明5年の大噴火後、八丈実記には天明7年(1787年)6月には噴火後の様子を確認するために青ヶ島へ渡ったことが記録に残されている。また噴火後時々青ヶ島に渡り様子を確認していたとの記述もあり、噴火後の島の様子をしばしば確認していたことがわかる。しかし噴火直後の青ヶ島がどのような状態であったのかについては記録が残されていない。 噴火後の青ヶ島についての最初の記録は、噴火後3年目にあたる天明8年(1788年)4月に行なわれた八丈島役所が行なった見分の記録である。このときの見分によれば噴火はおさまっているものの、ようやく草木に緑が戻ってきた段階で、耕作地は火山灰に埋まり水を得にくい状態は続いており、道や船着場も大きく損壊しており、当分人が住めそうもないと判断され、4‐5年は青ヶ島の見分は見合わせるべきとの内容であった。 ===名主三九郎の挑戦=== 寛政元年(1789年)6月、青ヶ島の名主三九郎は青ヶ島の見分を行なった。その結果噴火はおさまっていて、木々の緑も少しずつ戻っているが、飲料水については利用できるかどうか見当がつかない状態であった。三九郎は噴火がおさまっていて危険もないと見られるため、少しずつ島の状態を改善していけば青ヶ島民が島に戻ることが可能であると判断したが、水も住居もない状態で全員を島に戻るわけにもいかないため、まず少数の島民が復興事業を開始し、その後全島民の帰還を果たすこと考えた。 同年、幕府から青ヶ島の復興開発費として257両2分銀6匁が支給された。翌寛政2年(1790年)3月、青ヶ島島民らに青ヶ島の起返(復興)についての申渡が行なわれた。寛政4年(1792年)には三九郎らは2度に渡って青ヶ島へ渡航して島内の様子の再確認と帰島への下準備を行った。八丈島へ戻った三九郎らは島の復興に取り掛かれる状態であると報告を行い、八丈島役所では穀物や農具を用意させた上で三九郎らに「起返」に着手させることとし、寛政5年7月12日(1793年8月18日)、三九郎ら青ヶ島島民20名は2艘の船に乗って復興のために青ヶ島に渡った。そして名主である三九郎ら8名は八丈島へ戻ったが、20名のうち12名が島に残り、島の復興に従事することになった。 ===ネズミとの戦い=== 寛政5年7月12日(1793年8月18日)に始まった青ヶ島の復興であったが、いきなり大きな試練にぶつかった。水不足や住居の問題、道路や船着場などのインフラの復興なども課題とされたが、復興を進めるにあたって最大の問題となったのがネズミの害であった。噴火後人が住まなくなった青ヶ島ではネズミが増え、おびただしいネズミの群れが穂を出した麦や粟を食い荒らしてたちまちのうちに丸裸にしてしまい、もちろん多くの食糧も食い荒らされた。復興に当たる島民らはネズミの駆除に乗り出し、復興開始から1年足らずの間に約1500匹のネズミを駆除したものの焼け石に水であった。 まず復興開始直後の8月28日(1793年10月2日)、穀物がネズミに食い荒らされるために芋など根菜類を入手することを目的として、復興に従事していた12名の島民のうち5名が八丈島へ向かった。しかし5名は八丈島へたどり着くことなく行方不明となってしまった。 そして復興には不運が重なった。寛政6年4月13日(1794年5月12日)、2艘の船に分乗した名主三九郎ら15名が、復興従事者のための穀物や食糧とともに青ヶ島に渡ったが、高波のために青ヶ島で船が壊れてしまい、物資も失われてしまった。青ヶ島の状況を見分した後、三九郎ら12名は火山灰に埋もれた青ヶ島の家や家財道具の古材を用いて船を建造し、何とか八丈島へ戻ることができた。 三九郎はここで諦めることなく、八丈島に戻ると韮山代官所に青ヶ島の現状についての報告と復興資金の援助を請願した。この結果、青ヶ島復興のために船が建造され、寛政6年(1794年)7月、さっそく物資を積んで青ヶ島へ向かったものの、船は青ヶ島へ着くことなく房総半島に漂着した。同年9月、三九郎は更に青ヶ島へ物資を積んだ船を送った。今回は青ヶ島到着に成功して物資の輸送も行なわれた。しかし約半年後の寛政7年(1795年)2月、八丈島への帰路、船が難破して乗員は全員死亡した。そして同年4月、青ヶ島に向かった船は無事に荷物を送り届けられ、八丈島にも無事に戻ってきた。しかし寛政7年(1795年)4月以降、結局八丈島からの船が青ヶ島で復興に従事する人々のもとへ着くことはなかった。まず寛政8年(1796年)4月、青ヶ島に向かった船は暴風によって青ヶ島へ到着することなく房総半島に漂着してしまった。 ===名主三九郎の死=== 寛政9年(1797年)6月、八丈島とは逆の南から一艘の奇妙な船が青ヶ島にやってきた。これは天明5年(1785年)、天明7年(1787年)そして寛政2年(1790年)の合計3回の海難事故で鳥島に漂着した野村長平ら14名が、流木などを材料として船を建造し、やっとの思いで鳥島から脱出した船であった。青ヶ島で復興に従事していた人々は苦しい生活を強いられた中でも彼らを歓迎し、2名の水先案内人をつけた上で八丈島へ向かうこととなった。流木で作られた船であったが八丈島に無事到着し、14名の漂流民は江戸へ向かい、その後故郷へ帰ることができた。 青ヶ島で復興に従事していた2名は、さっそく青ヶ島の現状について報告した。報告は主にネズミの害についてであり、作物は良く出来るものの穀類はネズミに食い荒らされるために収穫は皆無であること、芋についてはネズミの害はあるものの収穫が可能であること、作物は噴火以前のように良く実るので、開墾する人数を増やしてネズミの駆除につとめれば、青ヶ島での生活は可能であるといった内容であった。 青ヶ島の現状についての報告を受けた名主三九郎はさっそく青ヶ島へ向かうこととした。寛政9年7月29日(1797年8月21日)、名主三九郎ら14名の青ヶ島島民は物資を積み込み青ヶ島へ向かった。しかし船は猛烈な時化に遭い、青ヶ島へたどり着くことなく閏7月6日(1797年8月27日)、紀州に漂着した。14名の乗船者のうち11名が死亡し、名主の三九郎も死亡した。 ===三九郎死後の帰島の挑戦と挫折=== 三九郎の死後も青ヶ島島民らは帰島を諦めることはなかった。寛政11年(1799年)9月、33名の青ヶ島島民が青ヶ島へ向かった。しかし今度の船も漂流のあげく紀州に漂着した。結局乗組員のうち1名が死亡したが32名は無事に八丈島へ戻ることができた。 享和元年6月7日(1801年7月17日)、青ヶ島で復興に従事し続けてきた7名は青ヶ島を去り、翌6月8日に八丈島へ着いた。寛政7年(1795年)4月以降、6年あまり八丈島からの船が到着することがない中での孤軍奮闘も幕を閉じた。八丈島役所に提出された報告によれば、食糧として芋の他にアシタバ、ソテツやユリなどの野生植物や漁をしながら何とか生きてきたが、衣服や鍋釜などが使用に耐えなくなってくるなど青ヶ島での生活の継続が困難となったため、火山灰に埋もれた家の柱などを材木とし、山刀や鍬を潰して釘を作って船を建造し、八丈島へ向かったという。享和元年(1801年)6月以降、青ヶ島はしばらくの間無人島となった。 享和3年(1803年)6月、勘定奉行松平信行の手代である秋元利右衛門が、八丈島の島民の半右衛門や青ヶ島名主の多吉らを伴い、無人島となっていた青ヶ島の見分を実施した。そして文化3年(1806年)5月、青ヶ島の起返願人となった半右衛門と名主の多吉らは江戸に向かい、青ヶ島の復興計画を提出した。この計画は家屋の再建から鬢付油代まで算定した詳細なものであり、復興には924両あまりの費用を要すとした。しかし文化4年(1807年)には大風のために八丈島は飢饉に見舞われ、その後文化8年(1811年)まで飢饉は続き、餓死者も相次いだ。八丈島に居候する形の青ヶ島島民は大変に厳しい状況に追い込まれたが、八丈島が厳しい困窮状態の中では青ヶ島への帰島を実施に移す余裕はなかった。天明5年(1785年)の離島以後20年以上の年月が経過し、青ヶ島で生活した経験を持つ島民は、復興時の相次ぐ海難事故もあって次々と世を去っていた。青ヶ島島民の中には八丈島避難後に生まれ、青ヶ島を知らない世代も増えつつあり、青ヶ島への帰島の実現は困難を増していった。 ==佐々木次郎太夫伊信の登場== 青ヶ島への帰島実現が危ぶまれる状況下、文化14年(1817年)、佐々木次郎太夫伊信が青ヶ島の名主となった。次郎太夫は明和4年4月8日(1767年5月5日)に青ヶ島に生まれたと伝えられており、名主となったのは50歳の時であった。 名主となった次郎太夫はさっそく青ヶ島の見分を願い出た。見分願いの中で次郎太夫は、青ヶ島で生活した経験がある者は年老いてきており、八丈島で生まれた者のみで青ヶ島の復興を行なうのは経験不足のために失敗する可能性が高くなることを指摘した。また噴火後年月が経過していることから青ヶ島の復興は可能と判断している。そして5月に青ヶ島の現状について見分を行なった後、次郎太夫は八丈島自体が食糧難に見舞われている現状では、青ヶ島島民の生活は大変に厳しい状態であること、かつての青ヶ島を知る人々が少なくなってきており、これ以上帰島を遅らせるのは経験や復興への意欲の面からも限界があること、そして見分の結果、土地は噴火前と変わりがない状態まで戻っていることを確認したので、青ヶ島の帰返(復興)の実現を要請した。 ===綿密な計画とその実施=== 名主の次郎太夫は青ヶ島復興に取り掛かるにあたり、綿密な計画と準備を行なっていった。文化14年(1817年)の時点で青ヶ島島民は177名であったが、まず強健な男性27名を選抜して復興事業に当たらせることにした。27名のうち7名は青ヶ島‐八丈島間の船の航行を担当し、残りの20名で青ヶ島の復興に当たることとした。復興事業はまず住居の再建、そして食糧の貯蔵倉庫の建設を行なうこととし、その後農作物の栽培を開始するといった計画を立てた。 また次郎太夫の計画は復興費用の節減にも力を注いだ。当初計画では復興にかかる諸費用は126両あまりと算定した。このうち約117両は天明6年(1786年)に高村三右衛門が青ヶ島島民のために拠出した500両の運用金と、寛政元年(1789年)に青ヶ島の復興開発費として幕府から支給された257両2分銀6匁の残余金でまかなうとし、不足分の9両あまりは翌年の500両の運用金を前借りする形としたいと申し出た。 次郎太夫は実際に青ヶ島の復興に携わる島民たちに対し、九か条にわたる懇切丁寧な約定を申し渡した。約定の中で最も強調されているのは復興にあたり、どのような事態においても一致協力して事態に当たる「和」の精神であった。また次郎太夫の指示は具体的かつ実際的でもあった。例えばこれまでの青ヶ島の復興で大きな障害となった青ヶ島‐八丈島間の船の運航に関しては、天候状況を綿密に観察し、船長の独断で決めることなく他の乗組員の意見もふまえ、これで大丈夫という時に出航すべきとした。実際これまで多くの船が難破、遭難して復興に大きな支障をきたしていた青ヶ島‐八丈島間の船は、次郎太夫が名主に就任した後は一度も遭難することがなく全て無事に運行されるようになった。 ===危機とその克服=== 次郎太夫の指揮の下、まず青ヶ島‐八丈島間を繋ぐ船の建造が開始された。文政元年(1818年)6月には青ヶ島で開発に従事する人たちのための米、粟、麦が用意されており、本格的な青ヶ島の復興が開始されたことが確認できる。文政5年(1822年)頃にはかなり多くの島民が青ヶ島へ戻って生活をするようになっていたようで、青ヶ島に「頭取世話人」を置く話が持ち上がった。しかし名主次郎太夫の指揮の下に復興にいそしんでいた島民たちは、頭取世話人の設置を断った。 しかし次郎太夫による青ヶ島の復興は全て順調に進んだわけではなかった。まずこれまでの復興事業で大きな問題となったネズミは相変わらず復興の大きな妨げとなった。また復興に携わる人たちの「和」を何よりも重視した次郎太夫の指導下でも仲間割れは発生した。文政7年(1824年)5月の記録では、当時次郎太夫は八丈島にあって青ヶ島復興の総指揮を行い、青ヶ島では年寄の多兵衛が指揮を取っていたが、青ヶ島島内で多兵衛の派閥が勢力を持ち始め、次郎太夫や八丈島の地役人に対する批判を行い、また多兵衛の派閥に属さない人々を圧迫するようになった。そのため青ヶ島で復興に携わる人々同士の人間関係が悪化し、復興どころではなくなってしまった。この緊急事態に次郎太夫がどのような処断を下したかは明らかになっていないが、年寄を交代させ関係者を処罰したと考えられている。 ==還住の達成== 年寄多兵衛らの問題が浮上していた文政7年(1824年)4月、名主の次郎太夫らごく一部の島民を除き、ほとんどの青ヶ島島民が帰島を果たした。天明5年(1785年)4月の離島から40年が経過しようとしていた。 帰還を果たした人々は、噴火とその後長い期間放置されていたことによって荒れ果てた土地の開墾、船着場、道路、水源地の整備など島の復興のために努力を続けた。そして激しいネズミの害については主に女性がネズミの駆除に携わった。かつての10人前後の人員ではどうにもならなかったネズミの害であったが、駆除を行う人数が増えたためにネズミは次第に大きな害をもたらさなくなってきた。 天保6年(1835年)、復興がほぼ成った青ヶ島は検地を受けた。検地の結果、4年後の天保10年から年貢の納入が決定されたが、一方で青ヶ島で生産することが困難である鍋や釜などの支給を受けられるようになり、また青ヶ島が年貢を納めるために使用する船を建造するために20両の助成金が受けられるようになった。 天保15年7月26日(1844年9月8日)、青ヶ島復興に大きな功績を挙げた佐々木次郎太夫伊信に対して、老中真田幸貫の名で銀10枚の褒賞と一代に限り苗字を許す旨の下知がなされた。佐々木次郎太夫伊信は嘉永5年4月11日(1852年5月29日)、青ヶ島で86歳の生涯を閉じたと伝えられている。 ==還住の語源と文学作品== 火山の噴火によって止む無く故郷の青ヶ島を離れ、50年余りの年月を費やして再び青ヶ島での生活の復興を成し遂げることが出来た事実は、柳田國男が昭和8年(1933年)に発表した「青ヶ島還住記」に取り上げられた。柳田が用いた「還住」という言葉はやがて苦難の末に青ヶ島住民が帰島を果たした事実を表す言葉として定着し、八丈島と青ヶ島を結ぶ定期船の名前にも用いられていた(2014年1月より、あおがしま丸に交代)。また柳田は還住の達成に尽くした名主次郎太夫を、青ヶ島還住記の中で「青ヶ島のモーゼ」と呼び、その功績を称えた。 また井伏鱒二は八丈実記の記録を参考にして、青ヶ島への還住を主題とした「青ヶ島大概記」を著した。 ==年表== 1780年(安永9年) 6日間の群発地震の後、池之沢から塩水の湯が大量に噴出し、噴煙も出て農地が大きな被害を受ける。1781年(天明元年) 池之沢から火山灰が噴出し、再び池之沢で湯が噴出し池之沢内の大池、小池の水位が急上昇した後、急速に水が引いたために、耕地の土砂が失われる。1783年(天明3年) 池之沢に大きな噴火口が出現し噴石、火山灰が大量に噴出した。池之沢に滞在中の島民が死亡し、噴火によって発生した火災のため多くの家屋が焼失した。耕地の多くが火山灰に埋まる。1785年(天明5年) 大噴火が発生。青ヶ島島内全体に噴石、火山灰が厚く積もり、青ヶ島での生活が不可能になったため1785年6月4日、島民は八丈島に避難するが、130‐140名の島民は避難船に乗れず死亡する。1786年(天明6年) 八丈島島民の高村三右衛門は、自身が蓄えてきた500両を青ヶ島島民救済のために八丈島役所に提出。500両を基金として運用したお金は青ヶ島島民の食糧購入や復興資金に充てられることになる。1789年(天明9年) 青ヶ島の名主三九郎が青ヶ島を見分、島の復興は可能と報告した。青ヶ島の復興開発費として257両2分銀6匁が支給された。1793年(寛政5年) 青ヶ島に12名の島民が渡り復興計画が開始されるも、激しいネズミの害により復興は難航。ネズミの害に比較的強いと考えられた芋類を入手しようと八丈島に向かった5名の島民が行方不明に。1794年(寛政6年) 3度に渡って八丈島から青ヶ島に復興支援物資の輸送が行なわれるも1回しか成功せず、成功した1回も八丈島への帰還時に船が難破し、乗組員全員が死亡。1795年(寛政7年) 八丈島からの物資の輸送に成功。帰路も無事に八丈島へ戻った。1796年(寛政8年) 八丈島から青ヶ島へ向かった船は漂流の上房総半島に漂着、物資の輸送に失敗。1797年(寛政9年) 鳥島に漂着した野村長平らが青ヶ島にたどり着く。漂流民たちは復興に従事していた青ヶ島島民2名を水先案内人として八丈島へ向かう。八丈島に到着した2名から青ヶ島の現状を聞いた名主三九郎ら14名が青ヶ島へ向かうも、船が漂流して三九郎ら11名が死亡した。1799年(寛政11年) 八丈島から青ヶ島へ33名の島民が向かうも、船が漂流して紀州へ流される。1801年(享和元年) 青ヶ島で復興に従事してきた島民らが八丈島へ戻り、その後青ヶ島はしばらく無人島となる。1803年(享和3年) 勘定奉行松平信行の手代である秋元利右衛門が、八丈島の島民の半右衛門と青ヶ島名主の多吉らを伴い、無人島となっていた青ヶ島の見分を実施する。1806年(文化3年) 青ヶ島の起返願人となった半右衛門と青ヶ島名主の多吉が青ヶ島復興計画を立案するも、八丈島に飢饉が続いたため、計画の遂行は出来ず。1817年(文化14年) 佐々木次郎太夫伊信が青ヶ島の名主となり、青ヶ島の見分実施、復興計画の立案と精力的に帰島計画の実現に動き出す。1818年(文政元年) この頃から佐々木次郎太夫伊信の指導の下、青ヶ島への帰島計画の実施が進められる。1824年(文政7年) ほぼ全島民が青ヶ島へ帰島し、還住が達成される。1835年(天保6年) ほぼ復興成った青ヶ島で検地が実施される。 =美幾= 美幾(みき、1836年 ‐ 1869年8月12日)は、江戸時代末期 ‐ 明治時代初期の遊女である。梅毒の治療中に重体に陥り、医師から解剖のための遺体提供を依頼されて承諾したと伝えられ、日本で最初の献体者(特志解剖)とされる。美幾とその生涯については、渡辺淳一の小説『白き旅立ち』、吉村昭の小説『梅の刺青』などが題材に取り上げている。 ==生涯== 1836年(天保7年)生まれ。駒込追分(現在の東京都文京区向丘、中山道と日光御成街道の分岐点にあたる)の住人彦四郎の娘といい、名については「美幾女(みきじょ)」、または「ミキ」、「みき」などとも表記される。10歳のころから本郷の旧家へ奉公に出ていたが、父が負傷して働けなくなったため遊女になったと伝えられる。 遊郭での勤めを続けるうちに、美幾は梅毒に罹患した。その治療のため、医学校(東京大学医学部の前身)の附属病院として設置されていた黴毒院(ばいどくいん)に入院した。美幾の病は重く、治療に当たっていた医師からの解剖のための遺体提供を求められた。美幾は自らの死期が近いことを悟り、その求めに応じた。父母と兄が連署の上、美幾の遺言を東京府に届け出た。届け出は認容されたが、許可書には「厚ク相弔イ遣ルベキコト」との条件が付加されていた。 美幾は1869年(明治2年)8月12日、34歳で死去した。翌日、下谷和泉町にあった医学校の仮小屋で日本初の病死体解剖が実施された。医学校は美幾の霊を慰めるため、小石川植物園そばの念速寺(浄土真宗大谷派)で同月16日に葬儀を執り行って手厚く葬り、遺族には金10両が贈られた。 美幾の墓は、念速寺(東京都文京区白山2丁目9番11号)の本堂裏、千川通り側の塀ぎわに現存する。墓石の裏面には、「わが国病屍の始めその志を嘉賞する」と当時の医学校教官が美幾の志を称えた銘が刻まれ、戒名として「釈妙倖信女」が与えられている。この墓は、1974年(昭和49年)11月1日に文京区指定史跡となった。墓碑は、保存のために透明なケースで覆われた状態となっている。 なお、美幾に続く特志解剖の2人目から4人目までの人々については、翌年の1870年(明治3年)に記録が残されている。2月の八丁堀亀島町の「金次郎」、3月の深川大島町の「竹蔵」、10月の小日向水道町の「ムツ」の名があるが、いずれの人にも姓の記録がないため、貧しい階級の出と推定されている。これらの人々も丁重に葬られて、遺族には金3両が贈られていた。 ==「特志解剖」第1号について== 小川鼎三は、その著『医学の歴史』で「特志解剖」希望者の第1号は、幕末から明治期にかけて活躍した洋学者・軍学者の宇都宮三郎であると記述している。宇都宮は旧名を「宇都宮鉱之進」といい、尾張藩士の子として名古屋に生まれた。若いころから武芸と兵法を修め、砲術を学んだ後に化学の分野に進み、明治維新前後の日本の化学界に大きな功績を遺した人物である。宇都宮は蘭学も学んでいたため、桂川甫周の家によく出入りしていた。 1868年(明治元年)、宇都宮は重病で病床に伏していた。幕藩体制の瓦解を目の当たりにし、かつての仲間たちが活躍するのを見て前途を悲観した彼は、「特志解剖願」を書き上げて東京府に提出した。この願に対して東京府は、「願の通り御免仰付けられ候」と許可を与えた。しかし、宇都宮の病はすっかり回復したため、解剖も行われなかった。宇都宮は1869年(明治2年)3月に明治新政府の開成学校の教官として出仕を命ぜられ、7月には大学中助教に任じられた。同年には結婚もしている。小川は、宇都宮(による特志解剖願)と美幾の間に何らかのつながりがあるかもしれないと推測している。結局宇都宮は1902年(明治35年)に死去し、故郷の幸福寺(愛知県豊田市)に埋葬された。そのため、「特志解剖」第1号は美幾となった。 なお、美幾の「特志解剖」第1号について、末永恵子(福島県立医科大学講師)がその著書『死体は見世物か 「人体の不思議展」をめぐって』の中で触れている。末永は美幾について「医学校の附属病院に入院していた重症の患者で『貧病人』であった」と当時の文書に記されていたことを挙げて、「入院したときはすでに重症で命の危機に瀕していた彼女の意思のほんとうのところは、今では知る由もない」と指摘した。 ==フィクションにおける美幾== 小説家の渡辺淳一は、1973年(昭和48年)に当時順天堂大学の教授を務めていた小川鼎三から、日本における志願解剖の第1号が吉原の遊女であったという話を聞いた。渡辺は当初、何かの記録違いではないかと思い即座に信用できなかったというが、小川は美幾の名と念速寺の墓地のことまでを渡辺に教えた。それ以来、渡辺は美幾の存在に強い興味を覚えるようになった。渡辺は同年12月に念速寺を訪問した。墓に詣でて住職から美幾についての話を聞き、自らの医学生時代に実習で年若い女性の死体解剖に当たった体験などとと重ね合わせつつイメージを育て上げていった。 渡辺は美幾の生涯を題材に、小説『白き旅立ち』を書き上げて小説新潮の1974年3月号から5月号にかけて連載した。この作品中では、宇都宮鉱之進は美幾の馴染み客として描かれた。美幾は宇都宮から解剖についての知識を得て、後に労咳が悪化した後に彼の縁で小石川養生所へ入院し、特志解剖の申請手続きは円滑に行われたこととされた。作中で美幾は養生所で出会った滝川長安という若き医師に密かに想いを寄せ、彼が解剖こそ日本医学の発展に不可欠だと説いているのを聞き、死後に自らの体を提供する約束をした後に生涯を終えている。 『白き旅立ち』について詩人で文芸評論家の郷原宏は「伝記小説の秀作」と評し、美幾のことを「作者のペンによって発見され、発掘されたヒロインである」と記述した。郷原はさらに「篇中至るところに医学と文学の最も理想的な協調を見い出すことができる」と高い評価を与えた。 吉村昭の小説『梅の刺青』は、美幾の腕に刻まれていたという刺青から題を得ている。吉村は美幾の解剖に立ち会った医学者石黒忠悳の子孫から当時の日記を見せてもらう機会を得た。石黒の日記中に彼女の腕に梅の小枝を描いた刺青があったとの記載を見つけた吉村は、そのことに衝撃を受けた旨を記述している。 この小説は、宇都宮鉱之進が1868年(明治元年)11月に医学所宛てに自身の献体の願い書を提出するところから始まり、最後は解剖された人々の慰霊のため1881年(明治14年)に建立された谷中墓地内にある千人塚の場面で終わる。小説内では、美幾の解剖時に執刀者となった人物を田口和美(たぐち かずよし、後に東京大学医学部解剖学の初代教授となった)、説明者となった人物を桐原真節(きりはら しんせつ、後に東京大学付属病院の初代院長を務めた)としている。 『梅の刺青』は、あとがきで作者の吉村が述べているとおり、日本での初期解剖の歴史を主題としている。美幾のことについては、東京大学医学部解剖学教室が取り扱った解剖の歴史的事実と捉えて小説化した。吉村は美幾のことを、小川の後任に当たる順天堂大学教授酒井シヅから教示されたと小説のあとがきで述べている。 2004年に公開された塚本晋也の映画『ヴィタール』は、人間の肉体と意識あるいは魂の関連を取り上げた作品である。映画の主人公で人体解剖に耽溺する記憶喪失の医学生高木(浅野忠信)にはレオナルド・ダ・ヴィンチ、高木の幻想の中に繰り返して現れるヒロイン、涼子(柄本奈美)には美幾のイメージがそれぞれ投影されているという。 =強制収容所 (ナチス)= 強制収容所(きょうせいしゅうようじょ、独: Konzentrationslager コンツェントラツィオンス・ラーガー、一般にKZ(カーツェット)と略、管理者である親衛隊 (SS) は公式にKL(カーエル)と略)は、ナチス党政権下のドイツがユダヤ人、反ナチ分子、反独分子、エホバの証人、政治的カトリック、同性愛者、ソ連捕虜、常習的犯罪者、「反社会分子」(浮浪者、ロマ、労働忌避者など)といった者たちを収容するために、ドイツ本国および併合・占領したヨーロッパの各地に設置した強制収容所である。 ==強制収容所の歴史== ===強制収容所創設の背景=== 1932年にヴァイマル憲法下のドイツで行われた二度の国会選挙で、多くのドイツ国民からの支持を得て第一党を確保した国家社会主義ドイツ労働者党(以下ナチ党)の党首アドルフ・ヒトラーは、1933年1月30日にパウル・フォン・ヒンデンブルク大統領よりドイツ国首相に任命された。 ヒトラー首相は、首相に就任するやただちに反ナチ党分子の始末に乗り出した。1933年2月4日には早くもヒンデンブルク大統領に「ドイツ国民保護のための大統領緊急令」(de:Verordnung des Reichspr*6230*sidenten zum Schutze des Deutschen Volkes)を出させて、ヴァイマル憲法によって認められていた言論の自由や政治集会の自由などの国民の権利をいくつか停止し、反ナチ党的言論の取り締まりを開始した。 続いて国会議事堂放火事件後の1933年2月28日に「国民及び州保護のための大統領緊急令」(de:Verordnung des Reichspr*6231*sidenten zum Schutz von Volk und Staat)を出させて、国民の権利停止の範囲を拡大し、人身の自由や私有財産権などの国民の権利を停止させた。またこの大統領緊急令に「公共秩序を害する違法行為は強制労働をもって処する」という条文が出てくる。「強制収容所(Konzentrationslager)」という言葉や「保護拘禁(Schutzhaft)」という言葉は出てこないが、この大統領緊急令が反ナチ党分子を保護拘禁して強制収容所へ送り込む法的根拠となった。ちなみにこの大統領緊急令はヴァイマール憲法48条が非常時には憲法を停止することを認めていたことに準拠していた。 左翼政党のドイツ共産党とドイツ社民党は反ナチ党分子の代表格であり、ナチ党にとっては真っ先に社会から隔離すべき者たちであった。しかし彼らを「犯罪者」として刑務所に投獄するには裁判で有罪判決を下す必要がある。裁判では不確実なうえに時間がかかる。そこで左翼を「犯罪者」ではなく「潜在的な危険分子」として保護拘禁して強制収容所に収容することとしたのである。 ===初期の強制収容所(1933年‐1934年)=== 初期のナチス強制収容所は人種だけを理由とした収容は無く、共産党や社民党など左翼の政治家・活動家が被収容者のほとんどであった(結果的にその中にユダヤ人がいるということはあった)。ちなみにユダヤ人がユダヤ人という理由だけで強制収容所に入れられるようになったのは戦時中のことである。またこの頃の強制収容所はあくまで再教育して社会復帰させることが主眼であったので、収容所の環境は必ずしも劣悪ではなく、左翼思想さえ捨てれば出られる見込みは十分にあった。 ===プロイセン=== ヒトラー首相は右腕であるナチ党幹部ヘルマン・ゲーリングをプロイセン州内相に任命した。 当時プロイセン州は州都ベルリンを中心にドイツ社民党やドイツ共産党をはじめとした左翼が多く、特にベルリンは「赤いベルリン」などと揶揄されているほどの左翼天国であった。ゲーリングは、州の秘密警察組織を整備して州秘密警察(略称ゲシュタポ)を創設し、ルドルフ・ディールスをその局長に任じた。さらにドイツ共産党の仕業とされた国会議事堂放火事件の翌日の2月28日に大統領緊急令が出るや、ゲーリングは共産党員4000人の保護拘禁の逮捕を命じた。この命令により3月から4月にかけて2万5000人以上の左翼が逮捕されたという。 逮捕にあたったのはプロイセン州正規の警察と補助警察である突撃隊や親衛隊であった。正規の警察によって逮捕された者は警察署や刑務所に収容されたので、それほど無法な扱いは受けなかったという。一方、補助警察である突撃隊や親衛隊によって逮捕された者は、彼らが独自に作った「私設強制収容所」に収容された。これらの多くは空きビルや石炭置き場などを利用した簡易な収容所だったが、ここでは頻繁に残虐行為が行われたという。私設収容所はベルリンを中心に40から60あったと言われる。 保護拘禁による逮捕数が多くなってくると正規の警察が収容先に困るようになった。強制収容所に収容する必要があったが、突撃隊の無法ぶりに眉をひそめていたゲーリングは強制収容所を突撃隊ではなく州の管理下に置きたかった。そこでゲーリングは、ベルリン郊外のオラニエンブルクのオラニエンブルク強制収容所、オランダ国境に近いエムスラント(Emsland)のエステルヴェーゲン強制収容所(KZ Esterwegen)、オスナブリュックのパーペンブルク強制収容所(Papenburg)、メルゼブルクのリヒテンブルク強制収容所(KZ Lichtenburg)、フランクフルト・アン・デア・オーダーのゾネンブルク強制収容所(KZ Sonnenburg)、ポツダムのブランデンブルク強制収容所(KZ Brandenburg)の6つのみを州公認の強制収容所と定めた。ついで1933年8月には突撃隊をプロイセン州の補助警察から外し、さらに10月には保護拘禁で逮捕した者は原則として州公認の強制収容所にのみ収容することを定めた。それ以外の私設収容所は1933年末頃までにあらかた片づけられ、1934年3月には全て解散した。しかし親衛隊と対立を深めたくないゲーリングは、親衛隊の私設収容所コロンビアハウス強制収容所(KZ Columbiahaus)には手をつけず、この収容所は1936年まで存続した。 ゲーリングはニュルンベルク裁判において強制収容所はボーア戦争の際にイギリスが南アフリカに建設した強制収容所(concentration camp)をモデルにしたと証言している。ヒトラーも1941年に「強制収容所の発明者はドイツ人ではない。イギリス人だ。彼らはこの種の方法で諸民族を骨抜きにできると思っている」と述べている。 ===バイエルン=== 一方プロイセン州に次ぐ規模の州であるバイエルン州でも突撃隊員と親衛隊員は保護拘禁した者を私設強制収容所に収容していた。強制収容所の無政府状態を恐れたミュンヘン警察長官ハインリヒ・ヒムラー(親衛隊全国指導者)は、腹心のラインハルト・ハイドリヒ親衛隊上級大佐(当時)に命じて、1933年3月22日にミュンヘン郊外の第一次世界大戦中に火薬工場として使われていた建物と土地を使ってダッハウ強制収容所を設置させた。このダッハウが最初のナチス強制収容所であるとする説もある。ヒムラーとハイドリヒの指揮の下、バイエルン州でも大勢の反ナチ派が保護拘禁されてダッハウ強制収容所へ送られていった。 ダッハウの運営ははじめから親衛隊によって行われた。ヒムラーは1933年6月にダッハウ収容所第2代所長として後に全強制収容所総監となるテオドール・アイケ親衛隊上級大佐(当時)を任じている。アイケは「寛容は弱さのしるし」「国家の敵に憐みを持つ者はSSに値しない。そういう者は我が隊ではなく修道院へ行け」といったことを繰り返し看守に叩き込んだ。またアイケは後に全収容所で採用されることになる強制収容所の組織体制や罰則などをダッハウ強制収容所で最初に制定していった。さらにダッハウ強制収容所の警備部隊を組織したが、これがのちに全強制収容所で警備を行う親衛隊髑髏部隊(SS‐TV)となる。 ダッハウ強制収容所は第二次世界大戦でのドイツの敗戦まで存続し、もっとも古い強制収容所(プロイセンのオラニエンブルク強制収容所などは後に廃された)としてドイツとその影響下にある国のすべての強制収容所のモデル収容所となっていった。 ===親衛隊管理下の強制収容所(1934年‐1945年)=== ====戦前期(1934年‐1939年)==== 1934年4月20日にゲシュタポの指揮権はヘルマン・ゲーリングから親衛隊のハインリヒ・ヒムラーに譲られた。これをきっかけにプロイセン州の各強制収容所もヒムラーがゲーリング以上に大きな影響力を及ぼすようになった。内相ヴィルヘルム・フリックは1934年4月12日と4月26日に「保護拘禁規則」を制定し、保護拘禁の適用範囲や期限などを定めることで保護拘禁の乱用に制限をかけようとした。加えてこの規則は保護拘禁の制度は一時的な処置であっていずれは廃されることを強調していた。しかしながら保護拘禁規則はほとんど守られなかった。1935年春の内務省の幹部のメモには「保護拘禁規則は全く無視されている」とある。そして1938年1月には保護拘禁規則はむしろ保護拘禁の範囲を拡大させる親衛隊に都合のいい内容に改変されてしまった。 1934年6月30日から7月初めにかけて発生した長いナイフの夜事件において突撃隊幹部はヒムラーやハイドリヒら親衛隊幹部の主導の下に粛清された。これがきっかけで突撃隊は凋落し、逆に親衛隊は突撃隊から独立を果たして急速に権力を拡大した。この事件後、全強制収容所の運営権が正式に親衛隊の所管となることが決まった。ヒムラーは早速ダッハウ強制収容所の所長テオドール・アイケを全強制収容所監督官(Inspekteur der Konzentrationslager)に任じ、全ての強制収容所の運営をゆだねた。アイケはダッハウで組織した強制収容所警備部隊を拡張し、各強制収容所に配置した。この警備部隊は1936年3月29日に「親衛隊髑髏部隊」(SS‐Totenkopfverb*6232*nde)の名称が与えられ、アイケは親衛隊髑髏部隊総監(Generalinspekteur der SS‐Totenkopfverb*6233*nde)の肩書も得た。強制収容所監督官および親衛隊髑髏部隊総監(はじめアイケ、後にアウグスト・ハイスマイヤー、リヒャルト・グリュックス)ははじめ親衛隊本部(SS‐Hauptamt)に属していたが、親衛隊本部から親衛隊作戦本部(SS‐FHA)が独立するとその第一局となった。 1936年にはオラニエンブルクに新たにザクセンハウゼン強制収容所が置かれ、かつてのオラニエンブルク強制収容所だった場所には強制収容所総監および髑髏部隊総監の本部が置かれることとなった。続いて1937年にはヴァイマルの郊外にブーヘンヴァルト強制収容所が置かれた。ダッハウとザクセンハウゼンとブーヘンヴァルトの3つはそれぞれ南ドイツ・北ドイツ・中央ドイツに位置したことから、三大収容所としてドイツ国内の強制収容所の中心的な存在となった。他の中小強制収容所の多くは解体され、その囚人は三大収容所へ移されるか、あるいは三大収容所の外部労働隊(Au*6234*enkommando)として組み込まれた。また大収容所は次々と付属の収容所を設置するようになっていた(外部労働隊駐屯地が収容所へ発展した物が多い)。この関係において大収容所は基幹収容所(Stammlager)、付属収容所は外部収容所(Au*6235*enlager)と呼ばれていた。さらにオーストリア併合後の1938年にはリンツ郊外にある良質な花崗岩採石場があるマウトハウゼンにマウトハウゼン強制収容所が設置され、オーストリアの中心的収容所となった。また同年のズデーテン地方返還に合わせて、チェコスロバキア国境付近にやはり花崗岩採石場があるフロッセンビュルク(de)にフロッセンビュルク強制収容所を設置した。1939年5月にはフュルステンベルク(de)郊外に女囚専用のラーフェンスブリュック強制収容所が創設され、1939年6月にはハンブルク郊外にノイエンガンメ強制収容所が独立した。 収容者ははじめ政治犯が中心であった。しかし1935年頃から「予防拘禁(Sicherungsverwahrung)」を受けた「常習的犯罪者」も強制収容所へ送られてくるようになった。ヒムラーがドイツ警察長官になるとその傾向は強まった。さらに1937年には保安警察長官ハイドリヒが「あらゆる反社会分子を片っ端から強制収容所に入れろ」と命令するようになり、同年末にはそれを正当化するために内務大臣より予防拘禁の範囲を拡大して「反社会分子」も対象とする旨の政令が出された。「反社会分子」には暴力団、売春婦、乞食、浮浪者やジプシー(ロマ)のような住所不特定の者、労働忌避者、同性愛者、アルコール中毒者、訴訟を大量に起こしている者、交通規則違反者、絶えず職場に遅刻する者、無断で休暇を取る者、自分の職務以外の仕事を勝手に引き受けている者など広範な者が含まれた。 1938年1月には1934年4月に制定された内務省の「保護拘禁規則」が改定された。保護拘禁の対象は政治的敵対者に限定せず、「その行動が民族や国家に危険を及ぼす者」全てに適用されることとなった。これによりこれまで予防拘禁によって強制収容所へ送られていた「常習的犯罪者」や「反社会分子」も保護拘禁によって連れてこられるようになった。そして保護拘禁の権限はゲシュタポにしかないことが明示された。 1938年半ばからユダヤ人も「反社会分子」とみなされるようになりはじめ、1938年11月9日の水晶の夜事件後には事件で逮捕されたユダヤ人が3万人も一挙に強制収容所に移送されたため、一時は強制収容所の囚人のほとんどがユダヤ人と化した。ただし水晶の夜の際に逮捕されたユダヤ人は国外へ移住することを条件としてほとんどが数週間にして釈放されているため、このときのユダヤ人の囚人の急増は一時的なものだった。ユダヤ人の収容が増えるのはあくまで戦時中である。エホバの証人は早くも1935年頃から保護拘禁によって収容されはじめている。1937年にはエホバの証人のあらゆる教派が強制収容所送りにされるようになった。彼らが反戦思想によって徴兵に応じず、さらに空襲避難訓練にも参加しないことがナチ党政権の癇に障ったとみられる。 親衛隊が強制収容所送りにする者を増加させていた背景には労働力の確保という問題もあったようである。ハイドリヒの1938年6月の命令にそれが明確に表れている。「四カ年計画の完全な実施のためには全ての労働可能な労働力の投入を必要としている。反社会分子が労働を免れることで四カ年計画の達成を妨害することは許されない」。 1937年までは強制収容所の囚人は反ナチ派の政治犯が一番の多数派だったが、1938年と1939年には刑事犯が多数派を占めている。刑事犯が囚人の多数派になったのはハイドリヒが政治警察ゲシュタポとともに刑事警察(クリポ)を所管していたことが関係していると思われる。 第二次世界大戦開戦直前の全ドイツの強制収容所の囚人数は2万5000人ほどであったとみられる。これらの囚人はほとんどが刑事犯か政治犯のドイツ人(オーストリア人含む)であった。 ===戦時中(1939年‐1945年)=== 第二次世界大戦中、ナチス・ドイツはヨーロッパのほぼ全域を占領。占領下のヨーロッパ各地にも強制収容所を次々と建設していった。1939年9月、ポーランド侵攻戦の最中にダンツィヒ郊外にシュトゥットホーフ強制収容所が設置された。1940年4月、ハインリヒ・ヒムラーは、ポーランド侵攻後にポーランドから奪ってドイツ本国領に組み込んでいたアウシュヴィッツ(ポーランド名オシフィエンチム)に巨大強制収容所の建設を命じた。これがナチス強制収容所の中でも最も悪名高いアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所となる。1940年夏にブレスラウ郊外にグロース・ローゼン強制収容所、1941年夏にルブリン郊外にマイダネク強制収容所、1941年秋にフランス・エルザス地方にナッツヴァイラー強制収容所と大規模収容所が次々と設置された。1943年春にはラトビアのリガにカイザーヴァルト強制収容所、ニーダーザクセン州にベルゲン・ベルゼン強制収容所が設置されている。 開戦とともに強制収容所の数が急増したのは、収容せねばならない者の数が急増したためである。まず占領地の反独的な外国人の収容が必要になった。加えてドイツ国内においても戦時中の治安維持のため、反体制分子の収容が改めて徹底する必要があった。一度は釈放した政治犯などが再び収容されたり、兵役に服さない者が狙われて収容されたり、反戦的な聖職者、経済犯や職場放棄者の収容も増えていった。 1941年6月に独ソ戦がはじまるとソ連兵捕虜も大量に強制収容所へ送られるようになった。ソ連捕虜の強制収容所への収容はソ連がジュネーブ条約に加盟していないことを理由とされた。親衛隊から下等人種とみなされていたスラブ民族(ロシア人やポーランド人、チェコ人など。親衛隊は東方諸民族とも呼んだ。)は絶滅対象であるユダヤ人やジプシーを除けば収容所の中でもっとも劣悪な扱いを受けていた(一方オランダ人・ベルギー人・ノルウェー人・デンマーク人などは同じゲルマン民族とみなされたため、収容所内でも比較的待遇が良く、ドイツ人囚人に次ぐ扱いを受けていた)。 こうして囚人総数は1939年9月の開戦時の2万5000人から1942年3月までには10万人近くまで跳ね上がることとなった。1939年9月から1940年春は収容所の状況が悪化し、どこの収容所でも死者が大量に発生した。収容所数がまだ少ない時期に囚人数が急に増えたことやドイツの食糧事情悪化でそうなっていったのだが、その後、数年間は収容所の状態が落ち着いた。戦争経済に奉仕する労働力となる強制収容所に価値が置かれ、食料も一般国民よりむしろ優先的に支給されたためだった。 1940年8月と1941年1月に国家保安本部長官ハイドリヒは強制収容所の格付けを行った。最も罪の軽い者を収容する第一カテゴリー(ダッハウ、ザクセンハウゼン)、重い罪科を犯したが、再教育の見込みのある者を収容する第二カテゴリー(ブーヘンヴァルト、フロッセンビュルク、ノイエンガンメ、アウシュヴィッツ=ビルケナウ)、再教育の見込みのない重罪者を収容する第三カテゴリー(マウトハウゼン)といった具合に定めた。しかし実態をあまり反映していない区分であり、このようなカテゴリーが設けられたのはさも強制収容所がまともな犯罪者隔離施設であるかのように見せかけるためのカムフラージュではないかという説もある。 1942年3月16日をもって強制収容所監督府は親衛隊作戦本部指揮下からオズヴァルト・ポールの親衛隊経済管理本部(SS‐WVHA)のD局に移行した。この編成変えは総力戦体制が強まる中、強制収容所の役割は危険分子の隔離の面よりも奴隷労働力の供給源としての側面の方が注目されるようになったことを示している。囚人労働力が重視されるに従って長時間の点呼、無意味な虐待・処罰などはどんどん制限されていった。また報酬制度も導入され、よく働く囚人には拘禁条件の緩和や食糧、タバコ、金銭などの支給、慰安所の利用許可などの特典が与えられるようになった。 最終的にナチス強制収容所に送り込まれた人の総数を正確に割り出すことは難しいが、推定で800万人から1000万人ほどであろうという説がある。しかしこのうち平均的な常時収容者(ある一定の時点にいつも収容所にいた人々)の数は100万人を超えることはなかったと思われる。 強制収容所の囚人数は1944年以降に急速に伸びた。1943年8月には囚人総数は22万4000人だったが、1944年8月15日には52万4286人、1945年1月15日には71万4211人に達している。ゲットーの親衛隊企業で働いていたユダヤ人たちが続々と付属収容所に収容されるようになったのが原因である。1944年3月31日の段階では基幹収容所の数は20、それに付属する外部収容所は165存在していた。連合国の接近で1945年1月には基幹収容所の数は13に減ったが、外部収容所の数の方は逆に急増して662にもなっている。戦時中の外部収容所の総計は1200にも及ぶといわれる。 解放までの最後の8カ月から4カ月の強制収容所は過密になりすぎて飢餓と伝染病が蔓延して地獄と化していた。 ヒトラーは1941年には全ヨーロッパのユダヤ人を絶滅させることを決意した。1941年7月31日にはヘルマン・ゲーリングからの文書でラインハルト・ハイドリヒが「ユダヤ人問題の最終的解決」の委任を受けている。またゲシュタポのユダヤ人課課長アドルフ・アイヒマンによると1941年夏の終わりに彼はハイドリヒに呼び出され「私は今ちょうど親衛隊全国指導者のところから戻ってきたところだ。総統はユダヤ人の肉体的抹殺を命令された」と通達されたという。アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所所長ルドルフ・フェルディナント・ヘスによると1941年8月に親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーに呼び出され、ヒトラーがユダヤ人絶滅を決定したことを告げられたという。そして1942年1月20日にハイドリヒが主催したヴァンゼー会議において「ユダヤ人問題の最終的解決」が正式に宣言された。 ヒトラーの意思を実現するためにヒムラーは絶滅収容所(Vernichtungslager、ファアニヒトウングスラーガー)の建設を開始させた。絶滅収容所には大きく分けて二種類あった。一つは親衛隊経済管理本部の管轄下になく、強制収容所(Konzentrationslager)とは別物の収容所である。もう一つは強制収容所に絶滅収容所の役割が加えられた親衛隊経済管理本部管轄下の収容所である。前者はただひたすら殺戮のみを行う純然たる絶滅収容所であるが、後者は強制収容所と絶滅収容所の役割を併せ持っていたので、選別が行われていた。選別によって労働不可と判断された者はガス室へ送られたが、労働可能と判断された者は労働力としての価値がなくなるまでは生存を許され、収容所の中で働かされていた。この節では後者について取り扱う。前者については下の節を参照。 強制収容所と絶滅収容所の役割を兼ね備えた強制収容所は2つ存在した。アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所とマイダネク(ルブリン強制収容所)である。マイダネクはポーランド総督府領内のルブリン地区およびワルシャワ地区、ならびにフランスから送られてくるユダヤ人・ジプシーの殺戮を担当していた。一方アウシュヴィッツは地域が限定されず、全ヨーロッパから送られてきたユダヤ人・ジプシーを殺戮していた。 1941年8月にヒムラーは、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所所長ルドルフ・ヘスをベルリンの親衛隊本部に召集し、アウシュヴィッツ強制収容所をユダヤ人殺害センター、すなわち絶滅収容所にすることを命じた。ヘスはアウシュヴィッツに戻るとただちにソ連兵捕虜を使ってチクロンBのガス実験を行った。チクロンBは一酸化炭素よりも手っ取り早く確実であると判断してこれを毒ガスに使うこととした。 1941年10月からアウシュヴィッツでユダヤ人のガス処理が開始された。1942年には双子収容所のビルケナウ強制収容所にもガス室が置かれ、こちらがアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所のガス殺の中心となっていく。アウシュヴィッツの犠牲者数は今日に至るまで確定しておらず、諸説あるが、専門家の推定は多くはアウシュヴィッツでガス殺されたユダヤ人を100万人から150万人の間ぐらいであろうと見ている。ただしアウシュヴィッツは絶滅収容所であるだけでなく、強制労働収容所でもあり続け、ガス室に送られずとも「労働を介しての絶滅」させられたユダヤ人が多数いる。一方マイダネクで絶滅させられたユダヤ人の数はラウル・ヒルバーグによれば5万人であるという。また、フランクルによると、ナチスの絶滅収容所により、ヨーロッパのユダヤ人の3分の2以上が殺害されたという。 ===解放=== 1944年から1945年にかけて強制収容所はアメリカ軍、イギリス軍、ソ連赤軍によって次々と解放されていった。 最初に解放された強制収容所はマイダネクだった。1944年7月23日に赤軍がここに到着したのだった。しかしこの時すでにマイダネクの囚人はアウシュヴィッツへ移送されており、ほとんどいなくなっていた。ソ連の通信員は次のように報道している。「私はマイダネクで今まで見たことのないおぞましい光景を見た。ヒトラーの悪名高き絶滅収容所である。ここで50万人以上の男女、子供が殺された。これは強制収容所などではない。殺人工場だ。ソ連軍が入った時、収容所は生ける屍になった収容者が1000人程度が残されているだけだった。生きてここを出られた者はほとんどいなかったのである。連日のように何千人もの人が送り込まれてきて残忍に殺されていったのだ。ここのガス室には人々が限界まで詰め込まれたため、死亡したあとも死体は直立したままであった。私は自分の目で見たにもかかわらずいまだに信じられない。だがこれは事実なのだ。」。ソ連はマイダネクの撮影を行ってアメリカやイギリスにそのフィルムを送ったが、このフィルムはドイツ人はもちろんアメリカ人やイギリス人も共産主義者のプロパガンダとみなした。続いて1945年1月27日にソ連軍はアウシュヴィッツ強制収容所に到着した。アウシュヴィッツもすでに撤収済みであり、アウシュヴィッツに残っていたのは衰弱して歩けない囚人7000人程度だった(歩ける者は死の行進で別の収容所へ歩かされていた)。マイダネク解放の宣伝効果があまりなかったせいか、ソ連はアウシュヴィッツ解放を当初あまり宣伝しなかった。1945年5月頃になってようやくアウシュヴィッツについての宣伝を行う様になった。 1945年4月11日にはアメリカ軍がブーヘンヴァルト強制収容所を解放した。激戦を潜り抜け、多少の悲惨さでは驚かなくなっていたアメリカ兵たちもブーヘンヴァルトの惨状には言葉を失った。収容所内に散乱した死体が4月の日差しで腐臭を放ち、生存者も骸骨のようにやせ細っていた。あるアメリカ兵は「軍隊生活で嫌になるほど死体を見てきたが、薪のように積み上げられた死体を見たのは初めてだった。死体の山は6メートルにわたり、手がなんとか届く高さにまで山積みにされていた。まるで薪が積み上げられているみたいだった。」と書いた。ブーヘンヴァルトの惨状を見たジョージ・パットン将軍は激怒し、憲兵たちにワイマール市民2000人をブーヘンヴァルトに連行してくるよう命じた。連行されてきたワイマール市民たちに対してパットン将軍は「人間が同じ人間に対して行ったこの驚くべき残虐行為の証人になれ」と命じ、収容所の中を見させた。続いて4月29日にアメリカ軍はダッハウ強制収容所を解放した。アメリカの従軍記者は「ダッハウはアメリカがこの戦争を戦った理由である。殺戮された犠牲者たちの血の臭いが地面にしみ込んでいる。ダッハウはドイツの歴史の汚点として永遠に残るだろう」と書いた。しかしダッハウでアメリカ兵たちは冷静さを失い、看守のSS隊員に対して虐殺を行った。SS隊員たちを殴りつけて囚人たちの前に引きずり出し、囚人たちに殺すか殺さないかを決めさせ、殺すことに決まったSS隊員はアメリカ兵たちによって銃殺された。 1945年4月15日にはイギリス軍がベルゲン・ベルゼン強制収容所を解放した。ベルゲン・ベルゼンは伝染病と飢餓が蔓延して悲惨な状況だった。この収容所では数ヶ月前に『アンネの日記』を書いたユダヤ人少女アンネ・フランクが死亡していた。イギリス人将校は「誰もがこの場所に来て、彼らの顔を、歩き方を、弱りきった動きを見るべきだと思う。一日に300人ものユダヤ人が死んでいくが、彼らを救う手立ては何もない。もう手遅れだったのだ。小屋の側にはたくさんの死体が転がっている。囚人たちはせめて太陽の下で死のうと小屋から最後の力を振り絞って出てくる。私は最後の弱々しい「旅」をする彼らの姿を見ていることしかできなかった。」と書いた。イギリス軍も地元のドイツ住民を連行してくると彼らに収容所の状況を見させた。イギリス軍は彼らに「貴方たちがこれからここで見る物はナチが犯した釈明しようもない犯罪の証拠である。連合国がナチを根絶するためにいかなる手段をとろうとも、それは正当化される。貴方達がこれからここで見る物はまさにドイツ国民の恥辱であり、ドイツという国名を文明国の中から抹消しなければいけないほどのものである。」と通告した。 ===ドイツ降伏後=== ナチス党本部にあったハーケンクロイツが爆破された後、今度は連合軍(米英仏ソ)によるドイツ軍捕虜の収容の手段として、また、ドイツ人追放の一環として、かつての欧州枢軸軍占領国に居たドイツ人民間人(民族ドイツ人)の多くが、各地の強制収容所に収容されることになった。これらの連合軍によるドイツ軍捕虜や、かつての被占領国による民族ドイツ人民間人の強制収容による人的被害は、一部の著名な事件(アイゼンハワー大統領が主導したライン河畔収容所、チェコのズデーテン地方における民族ドイツ人の大量虐殺など)を除いては、明らかにされていない。単にドイツ降伏後に約100万人ほどのドイツ軍捕虜と、各地の民族ドイツ人約200万人が死亡または行方不明になったと言う統計の中に含まれるのみである。 このようなドイツ人に対する処遇は、戦後の混乱期、米ソ冷戦が激化し、ドイツの西側占領地区(西ドイツ、西ベルリン)を反共防波堤として仕立てあげる必要に西側諸国が迫られるまで続いた。 ==収容所の組織体制== ===看守=== 1934年以来、すべての強制収容所は、強制収容所監督官の管轄下にあった。テオドール・アイケ、後にリヒャルト・グリュックスが強制収容所監督官に就任した。強制収容所監督官府ははじめ親衛隊本部(SS‐HA)に属していたが、親衛隊本部から親衛隊作戦本部(SS‐FHA)が独立するとそちらに移され、ついで1942年3月16日には親衛隊経済管理本部(SS‐WVHA)のD部集団として再編された。 各強制収容所には、司令部(Kommandantur)があり、その下に司令部幕僚部(Kommandanturstab)と保護拘禁収容所指導部(Schutzhaftlagerf*6236*hrung)があった。これらの部局外に収容所の警備を行う監視隊(Wachmannshaften)があった。 ===司令部=== 収容所全体のトップは、司令部の長である所長(司令官)(Kommandant)である。所長は強制収容所の絶対的支配者であり、強制収容所監督官に対してのみ責任を負った。大きな収容所では所長は親衛隊上級大佐から親衛隊少佐ぐらいの階級の者たちが多い。大抵は親衛隊大佐か親衛隊中佐であった。分所など小規模な収容所には下士官の所長もみられる。所長には副官(Adjutant)がつけられており、副官が所長の命令が収容所全体で実行されるよう万事の手配をした。また所長の指揮下にない収容所監視隊との連絡役も副官が務めた。 ===司令部幕僚部(管理部)=== 司令部幕僚は司令部に属する。管理部ともいう。そのトップは管理指導者(Verwaltungsf*6237*hrer)である。この職位にある者が食糧や被服など収容所の経理事務のすべてを預かっていた。業務の範囲が広いため、大きな収容所では管理指導者には10人近い下士官が補助要員としてつけられていた。 ===保護拘禁収容所指導部=== 保護拘禁収容所指導部も司令部に属する。「保護拘禁収容所(Schutzhaftlager)」とは囚人が収容される区域を指す。その長である保護拘禁収容所指導者(Schutzhaftlagerf*6238*hrer)は収容所所長の指揮の下に囚人を直接に管理した。保護拘禁収容所指導者は3名まで増やすことができ、一日交代で勤務にあたった。親衛隊大尉から親衛隊少尉ぐらいの階級の者が務めた。 保護拘禁収容所指導者の下には連絡指導者(Rapportf*6239*hrer)がいた。囚人の状態などを保護拘禁収容所指導者に報告し、また保護拘禁収容所指導者の命令が保護拘禁収容所において遂行されているか監督するのが役割だった。連絡指導者は抑留者の状態を正確に把握している必要があったため、ゲシュタポの出先機関である「政治局」とは別に抑留者内にスパイを放っていた。連絡指導者はたいてい2名おり、交代で務めた。連絡指導者には親衛隊曹長階級の者が就任するのが通常だった。 連絡指導者の下にはブロック指導者(Blockf*6240*hrer)がいる。彼らがそれぞれのブロックの囚人を直接管理した。ブロック指導者は一人につき、大体2個か3個のブロックを担当した。親衛隊軍曹、親衛隊伍長、親衛隊兵長ぐらいの階級の者が多かった。囚人に最も身近に接する役職であり、囚人たちの命にほとんど無制限の権利を有したため、数々の残虐行為を起こした。ブロック指導者は戦前は親衛隊髑髏部隊(SS‐TV)から選ばれていたが、戦中には収容所職員が就任した。 囚人の労働を監督したのが、労働指導者(Arbeitsdienstf*6241*hrer)だった。戦時中、強制収容所の奴隷労働力が重視されるにしたがってその権限は大きくなり、1942年には労務指導者の上位職として労働配置指導者(Arbeitseinsatzf*6242*hrer)が置かれた。どの囚人に何の労働をさせるかは彼らによって決定された。囚人を危険な労働に配置転換させる権限を有したため、彼らも囚人の生死にかなり関与することが多かった。 その下で囚人の労働を直接に取り扱ったのが、作業班指導者(Kommandof*6243*hrer)である。彼らもブロック指導者と並んで直接に囚人と関与し、その生命に無制限の権利を有していた。しかし作業班が増えてくると作業班の指揮は囚人職のカポにゆだねられることが多くなった。 ===政治局=== 各収容所内には政治局(Politische Abteilung)という部署が置かれていた。これは収容所の機関というよりゲシュタポの出先機関である。 名目上はこれも所長の司令部に属していたのだが、実態はほとんど独立していた。強制収容所の日常の運営は強制収容所総監(すなわち、その部下である各強制収容所所長)にゆだねられていたが、強制収容所の囚人の収容と釈放と裁判に関してはゲシュタポに決定権があったため、収容所内にもゲシュタポの機関が存在する必要があったのである。また収容所内部の地下活動(抵抗組織、サボタージュ、脱走計画、外部との接触など)を取り締まる役職でもあった。そのため収容所の囚人をわずかな特権を見返りにスパイにしたてあげて、収容所内にスパイ網を築いていた。 政治局はしばしば突然スピーカーで囚人を呼びだして拷問を行ったという。個々の囚人も身元や経歴を記載した個人カードも政治局が所管していた。 ===監視隊=== 収容所の警備を担当する親衛隊髑髏部隊(SS‐TV)は、各収容所に警備を行う部隊として監視隊(Wachmannshaften)を配置していた。この監視隊は親衛隊髑髏部隊の指揮官の指揮下にあり、収容所所長の指揮下にはなかった。なお戦前期にはブロック指導者と作業班指導者も親衛隊髑髏部隊から出されることになっていたが、開戦後には収容所職員から出されることになった。 監視隊は監視塔に登っての収容所内の警備、作業班の作業場の警備などを担当した。 髑髏部隊は開戦とともにほとんどが第3SS装甲師団「髑髏」に編成されて出征した。代わりに強制収容所の警備を行う部隊として一般親衛隊の予備隊(Reserveabteilung)や壮丁隊(Stammabteilung)を使って親衛隊髑髏大隊(SS‐Totenkopf‐Sturmbann)が編成された。この隊には後に外国人(ウクライナ人、クロアチア人、ロシア人、ルーマニア人など)の補助兵も続々と編入された。 戦争後期には監視兵がほとんど外国人になってしまい、収容所内に存在した人種ヒエラルキーに基づき、監視兵よりドイツ人囚人の方が重んじられるといった事態も発生していた。 ===囚人=== ====囚人のカテゴリ==== 強制収容所の囚人は服にバッジを縫いつけてなければならなかった。左胸と右のズボンに縫いつけられた。バッジは色つきの三角形で表された。また三角形の下に囚人番号も入れられたが、アウシュヴィッツのみ囚人番号を左腕に入れ墨で入れていた。 赤色の逆正三角形は政治犯、緑色の逆正三角形は刑事犯、紫色の逆正三角形はエホバの証人、黒色の逆正三角形は反社会分子(労働忌避者、浮浪者、ロマなど)、ピンクの逆正三角形は同性愛者を示した。なおロマ(当時はジプシー)は一時期茶色の逆正三角形をつけていた。 ユダヤ人の場合は黄色い正三角形を加え、収容理由の色の逆正三角形を加え(ユダヤ人と言うだけで収容所に入れられたものは黄色い逆正三角形)、ダビデの星の形になるようになっていた。ユダヤ人という理由だけで収容されたユダヤ人とはつまり「最終解決」のために絶滅収容所へ連れてこられた「移送ユダヤ人」達である。彼らは選別を受けたが、うち労働不能と判断された者はガス室に送られた。一方で何か他の理由で保護拘禁を受けて収容所に入れられたユダヤ人たちはこの選別を受けなかったのでガス室に送られることはなかった。これはすなわち同じユダヤ人でも「犯罪者」の方が優遇されたことを意味している。この不条理は「アウシュヴィッツのパラドックス」と呼ばれている。 外国人の場合は彼らの出身国名の頭文字が三角形の上に記載された(Fはフランス人、Nはノルウェー人、NLはオランダ人、Pはポーランド人など)。 精神障害者は政治犯に分類されていたので、赤い逆正三角形を付けたが、同時に「バカ」と大きな文字で書かれた腕章も付けることになっていた。時には「私はバカです。」と書かれた板を首に掛けさせられることもあったという。 全ての収容所に全てのカテゴリの者がいるように配分された。同じ傾向の者を一つにすると団結されるのでそれを避けるために「分割支配」を行おうという意図だった。また囚人たちに自分たちが「社会のクズ」であることを認識させ合う意味もあったという ===囚人の人種ヒエラルキー=== 開戦後には強制収容所に様々な国籍の者が収容されるようになった。ダッハウ強制収容所やブーヘンヴァルト強制収容所の囚人の国籍は32カ国以上に及んだという。収容所が多国籍化すると人種ヒエラルキーが生まれた。直接的には親衛隊の人種差別意識が作り出したものであるが、囚人間の差別意識に支えられたものでもあった。 ナチス強制収容所の人種ヒエラルキーの最下層は、絶滅対象のユダヤ人とジプシーを別にすれば、ポーランド人、チェコ人、ロシア人などスラブ民族であった。スラブ民族はナチスの言う「劣等人種」(en)の典型であった。スラブ人の中でもとりわけソビエト連邦に属する者は劣悪に扱われた。 ついでイタリア人などラテン民族が低く扱われた。フランス人の地位も低かった。一方でオランダ人、ベルギー人、ノルウェー人、デンマーク人などゲルマン民族はたとえ反ナチ主義者であってもかなり寛大に扱われた。そしてゲルマン民族の中でも頂点の位置するのは、もちろん「支配人種」(en)たるドイツ人である。ドイツ人囚人はドイツ人であるというだけで「収容所の貴族」であるようなものだった。ドイツ人囚人には楽な労働、豊富な食料、特権的地位、ゆったりとした居住が与えられた。戦争末期にはウクライナ人などスラブ民族だらけになってしまった監視兵よりもドイツ人囚人の方が優遇されていたといわれる。親ナチ派の「下等人種」より反ナチ派の「支配人種」の方が優先されたわけである。 ===囚人の役職=== 強制収容所の囚人の中にも管理職が存在した。囚人たちのトップの地位にあったのは親衛隊から任命される収容所古参(Lager*6244*ltester)である。収容所古参は初め1人だったが、収容者数が増えてくると3人までに増やされた。親衛隊から信用のある者が任命された。収容所古参の下で個々の囚人移住ブロックの囚人を指導する囚人職がブロック古参(Block*6245*ltester)である。ブロック古参は収容所古参の推薦を経て親衛隊が任命した。ブロック古参は各囚人移住家屋ごとに2名から3名の部屋係(Stubendienste)を持ち、彼らを通じてブロック全体の囚人を支配していた。また労働隊においては囚人の中からカポ(Kapo)が任命された。カポは、看守の親衛隊員が就任する労働隊指導者の下で労働隊の他の囚人の監督を行う。カポの下には先任労働者(Vorarbeiter)が置かれた。カポは、こん棒で殴りつけるなど他の囚人に懲罰を加えることもできたが、彼らも囚人であるので看守の親衛隊員からは懲罰を加えられることもあった。収容所古参、ブロック古参、カポ、先任労働者は、区別のため収容所指導部の看守から、白い文字の書かれた黒いリボンを左胸に付けさせられた。 このような囚人役職に就ける者はカテゴリや人種により制限されていた。まず人種でいえば、囚人役職に就く道が一番開けていたのは言うまでもなくドイツ人囚人である。しかし意外なことであるが、ドイツ人囚人の次に役職に任命されることが多かったのは「下等人種」スラブ民族のポーランド人であった。この理由としては、ポーランド人にはドイツ語が話せる者が多かったこと、ポーランド人にはドイツ人並みに反ユダヤ主義者が多かったこと、ポーランドは早期に占領された国であったため収容所の中でもポーランド人囚人が古参になっていることが多かったことなどが考えられる。他のスラブ民族のロシア人やチェコ人が役職を得ることはまず無理であった。ユダヤ人も役職を得ることは無理であったが、ユダヤ人のみの収容所では任用例も見られる。 カテゴリで見ると役職に就いた者はほとんどが「赤」(政治犯)か「緑」(刑事犯)である。それ以外のカテゴリの者は役職を得るのはまず無理だった。意外なことに「赤」の中では共産党員が特に重用された。彼らの組織力・秩序維持能力を親衛隊が評価したためであるらしい。特にブーヘンヴァルト強制収容所では共産党員囚人たちが強大な実権を掌握し、他のカテゴリ、あるいは同じカテゴリでも別の党派の囚人たちに迫害を加えていた。 ===囚人用売春施設=== ハインリヒ・ヒムラーがソ連のラーゲリ強制労働所における報奨制度にならって強制労働の生産性を向上させるために構想した。1942年6月にオーストリア、ドイツ、ポーランドにあった強制収容所などに13の強制売春施設を建設した。そのうち9カ所が囚人専用、4カ所は収容所警備のウクライナ人親衛隊員専用であった。被害女性の数は210人と推計され、114人がドイツ人、46人がポーランド人であった。この実証研究によって、これまで流布した「ナチスがユダヤ人女性を強制売春させた」ということには根拠がなくなった。女性たちの平均滞在期間は10ヶ月で、最長34ヶ月であった。食料は親衛隊員待遇で豊富であった。毎晩2時間、6人〜8人の男性囚人を規則に従って受け入れた。 ==類似施設== 以下は類似施設である。ただしいずれも親衛隊経済管理本部の管轄になく、原則として強制収容所(Konzentrationslager)とは別物である。しかしこれらの施設も広義の意味で「強制収容所」と呼ばれることもある。 ===強制労働収容所=== 各地区の親衛隊及び警察指導者が運営していた強制労働のための収容所を強制労働収容所(Zwangsarbeitslager、ツヴァングスアルバイツラーガー)と呼ぶ。 強制労働収容所は強制収容所とちがって統一的な基準がほとんどなかった。 強制労働収容所は主に東ヨーロッパに設置され、ポーランド総督府領には437もの強制労働収容所が設置されていた。ドイツ領東部のポーゼンにも1940年から1941年にかけて約70の強制労働収容所がおかれ、囚人たちはベルリン=ポーゼン間高速道路の設置作業に駆り出されていた。シュレージエンにもアルブレヒト・シュメルト(ドイツ語版)親衛隊上級大佐が創設した約160の強制労働収容所(これらは「シュメルト機関収容所(ドイツ語版)」と呼ばれた)が置かれていた。 1943年3月には親衛隊経済管理本部が「東方工業有限会社」(de:Ostindustrie GmbH、略称OSTI)を創設し、ポーランド総督府のルブリン地区とラドム地区にあった多くの強制労働収容所を傘下に入れた。 なおスティーヴン・スピルバーグ監督の映画『シンドラーのリスト』で有名になったクラクフ・プワシュフ強制収容所は、強制労働収容所として発足したが、1944年1月に強制収容所に移行した収容所であった。 ===絶滅収容所=== ユダヤ人とジプシー(ロマ民族)の民族絶滅を狙って作られた殺戮工場たる収容所は絶滅収容所(Vernichtungslager、ファアニヒトウングスラーガー)と呼ばれる。 最初に稼働した絶滅収容所はヘウムノ絶滅収容所である。この絶滅収容所は国家保安本部によって運営され、1941年12月からガス殺が開始された。 一方、ルブリン親衛隊及び警察指導者オディロ・グロボクニクは、後に「ラインハルト作戦」と名付けられるポーランドユダヤ人絶滅作戦の執行のために三大絶滅収容所の建設を行った。1941年11月からベウジェツ絶滅収容所の建設が開始され、1942年3月半ばからガス室が稼働した。続いてソビボル絶滅収容所の建設が開始され、1942年4月末に稼働。最後にトレブリンカ絶滅収容所が1942年5月末から建設が開始され、7月半ばに稼働している。この三つの絶滅収容所は「ラインハルト作戦」のための三大絶滅収容所として機能し、刑事委員長クリスティアン・ヴィルトによって監督された。ヴィルトの部下たちが三大絶滅収容所に配されていた。なおヴィルトは安楽死計画(T4作戦)に携わっていたため、ヴィルトの部下たちも安楽死計画参加者が多かった。 ヘウムノでは最低でも15万人、ベウジェツでは55万人、ソビボルでは25万人、トレブリンカでは最低73万人が虐殺された。 ポーランドのユダヤ人社会がほぼ壊滅すると、三大絶滅収容所は1943年代に早々に閉鎖され、植林などで証拠隠滅作業が行われた。その後はアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所やマイダネク強制収容所(この二つについては上の節を参照)、ヘウムノ絶滅収容所などが絶滅収容所として機能し、これらの収容所はドイツ軍の戦線後退でソ連軍が同地に到着するまで存続した。 ===通過収容所=== 通過収容所(Durchgangslager、ドゥルヒガングスラーガー)は、強制収容所や絶滅収容所に移送されるまでの一時収容を行うための収容所のことである。移送を受けるのは多くの場合ユダヤ人であった。 ===ゲットー=== ゲットー(ghetto)とは、ユダヤ人の隔離居住区である。しかしここから強制収容所や絶滅収容所へ移送されるケースが非常に多く、実質がゲットーなのか通過収容所なのか区別しづらい物が多い。テレージエンシュタット・ゲットーはその典型である。テレージエンシュタットは公式にはゲットーであり、ドイツ系ユダヤ人をここに住まわせていたが、一方ベーメン・メーレン保護領に住むチェコ系ユダヤ人の多くもテレージエンシュタットに集められ、彼らはやがてアウシュヴィッツ強制収容所へ連れて行かれた。そのためゲットーを集合収容所(Sammellager、ザンメルラーガー)とみなして「収容所」とか「強制収容所」とか呼ぶケースがある。 ==主な強制収容所一覧== ===ナチス政権下におけるドイツの強制収容所=== エストニア ヴァイヴァラ強制収容所(de:KZ Vaivara) クローガ強制収容所(de:KZ Klooga) ヤガラ強制収容所(en:KZ J*6246*gala)ヴァイヴァラ強制収容所(de:KZ Vaivara)クローガ強制収容所(de:KZ Klooga)ヤガラ強制収容所(en:KZ J*6247*gala)ラトビア リガ=カイザーヴァルト強制収容所 ユングフェルンホーフ強制収容所(de:KZ Jungfernhof)(リガ=カイザーヴァルト外部収容所)リガ=カイザーヴァルト強制収容所ユングフェルンホーフ強制収容所(de:KZ Jungfernhof)(リガ=カイザーヴァルト外部収容所)リトアニア カウエン強制収容所カウエン強制収容所ベラルーシ マリィ・トロステネツ強制収容所(de:KZ Maly Trostinez)(絶滅収容所)マリィ・トロステネツ強制収容所(de:KZ Maly Trostinez)(絶滅収容所)ウクライナ リヴィウ・ヤノフスカ強制収容所(ウクライナ語版、英語版)(de:KZ Janowska) スィレーツィ強制収容所(ウクライナ語版、ドイツ語版、ロシア語版、英語版) ボグダノフカ強制収容所(ウクライナ語版、英語版)リヴィウ・ヤノフスカ強制収容所(ウクライナ語版、英語版)(de:KZ Janowska)スィレーツィ強制収容所(ウクライナ語版、ドイツ語版、ロシア語版、英語版)ボグダノフカ強制収容所(ウクライナ語版、英語版)ポーランド(ポーランド総督府領、旧ポーランド領ドイツ編入地域およびダンツィヒ自由都市) アイントラハトヒュッテ強制収容所(de:KZ Eintrachth*6248*tte)(アウシュヴィッツ外部収容所) アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所(強制収容所兼絶滅収容所) クラクフ・プワシュフ強制収容所 グロース・ローゼン強制収容所 シュトゥットホーフ強制収容所 ソビボル強制収容所(絶滅収容所) ゾルダウ通過収容所(Durchgangslager Soldau) トラヴニキ強制労働収容所(Zwangsarbeitslager Trawniki) トレブリンカ強制収容所(絶滅収容所) ブレッヒハマー強制収容所(de:KZ Blechhammer)(アウシュヴィッツ外部収容所) ベウジェツ強制収容所(絶滅収容所) ヘウムノ強制収容所(絶滅収容所) ポニャトヴァ強制労働収容所(Zwangsarbeitslager Poniatowa) マイダネク(ルブリン強制収容所)(強制収容所兼絶滅収容所) ワルシャワ強制収容所(de:KZ Warschau)(マイダネク外部収容所)アイントラハトヒュッテ強制収容所(de:KZ Eintrachth*6249*tte)(アウシュヴィッツ外部収容所)アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所(強制収容所兼絶滅収容所)クラクフ・プワシュフ強制収容所グロース・ローゼン強制収容所シュトゥットホーフ強制収容所ソビボル強制収容所(絶滅収容所)ゾルダウ通過収容所(Durchgangslager Soldau)トラヴニキ強制労働収容所(Zwangsarbeitslager Trawniki)トレブリンカ強制収容所(絶滅収容所)ブレッヒハマー強制収容所(de:KZ Blechhammer)(アウシュヴィッツ外部収容所)ベウジェツ強制収容所(絶滅収容所)ヘウムノ強制収容所(絶滅収容所)ポニャトヴァ強制労働収容所(Zwangsarbeitslager Poniatowa)マイダネク(ルブリン強制収容所)(強制収容所兼絶滅収容所)ワルシャワ強制収容所(de:KZ Warschau)(マイダネク外部収容所)チェコ(ズデーテンラント&ボヘミア・モラヴィア) テレージエンシュタット(ユダヤ人ゲットーと政治犯収容所) ホドニーン強制収容所(de:KZ Hodon*6250*n)(ジプシー収容所) レティ強制収容所(de:KZ Lety)(ジプシー収容所)テレージエンシュタット(ユダヤ人ゲットーと政治犯収容所)ホドニーン強制収容所(de:KZ Hodon*6251*n)(ジプシー収容所)レティ強制収容所(de:KZ Lety)(ジプシー収容所)オーストリア エーベンゼー強制収容所(de:KZ Ebensee)(マウトハウゼン外部収容所) グーセン強制収容所(de:KZ Gusen)(マウトハウゼン外部収容所) マウトハウゼン強制収容所 ロイブル強制収容所(de:KZ Loibl)(マウトハウゼン外部収容所)エーベンゼー強制収容所(de:KZ Ebensee)(マウトハウゼン外部収容所)グーセン強制収容所(de:KZ Gusen)(マウトハウゼン外部収容所)マウトハウゼン強制収容所ロイブル強制収容所(de:KZ Loibl)(マウトハウゼン外部収容所)ドイツ アルバイツドルフ強制収容所(de:KZ Arbeitsdorf) ヴェッベリン強制収容所(de:KZ W*6252*bbelin)(ノイエンガンメ外部収容所) エステルヴェーゲン強制収容所(de:KZ Esterwegen) オストホーフェン強制収容所(de:KZ Osthofen) オラニエンブルク強制収容所 カウフェリンクIV強制収容所(de:KZ‐Kommando Kaufering IV)(ダッハウ外部収容所) ケーニヒス・ヴステルハウゼン強制収容所(de:KZ K*6253*nigs Wusterhausen)(ザクセンハウゼン外部収容所) コロンビアハウス強制収容所(de:KZ Columbia) ザウルガウ強制収容所(de:KZ Saulgau)(ダッハウ外部収容所) ザクセンハウゼン強制収容所 ザクセンブルク強制収容所(de:KZ Sachsenburg) シャンデラ強制収容所(de:KZ Schandelah)(ノイエンガンメ外部収容所) ゾネンブルク強制収容所(de:KZ Sonnenburg) ダッハウ強制収容所 ニーダーハーゲン強制収容所(de:KZ Niederhagen)(ザクセンハウゼン、後ブーヘンヴァルト外部収容所) ノイエンガンメ強制収容所 ハウスハム強制収容所(de:KZ Hausham)(ダッハウ外部収容所) バート・ズルツァ強制収容所(de:KZ Bad Sulza) ヒンツァート強制収容所 ファルゲ強制収容所(de:KZ Farge)(ノイエンガンメ外部収容所) ブーヘンヴァルト強制収容所 ブランデンブルク強制収容所(de:KZ Brandenburg) フリードリヒスハーフェン強制収容所(de:KZ Friedrichshafen)(ダッハウ外部収容所) フールスビュッテル強制収容所(de:KZ Fuhlsb*6254*ttel)(ノイエンガンメ外部収容所) ブレイテナウ強制収容所(de:KZ Breitenau) フロッセンビュルク強制収容所 ベルゲン・ベルゼン強制収容所 ミッテルバウ=ドーラ強制収容所 ミュールドルフ強制収容所(de:KZ M*6255*hldorf)(ダッハウ外部収容所) モーリンゲン強制収容所(de:KZ Moringen)(女囚用) ラーフェンスブリュック強制収容所(女囚用) ランゲンシュタイン=ツヴァイベルゲ強制収容所(de:KZ Langenstein‐Zwieberge)(ブーヘンヴァルト外部収容所) リヒテンブルク強制収容所(de:KZ Lichtenburg) ロッハウ強制収容所(de:KZ Lochau)(ダッハウ外部収容所)アルバイツドルフ強制収容所(de:KZ Arbeitsdorf)ヴェッベリン強制収容所(de:KZ W*6256*bbelin)(ノイエンガンメ外部収容所)エステルヴェーゲン強制収容所(de:KZ Esterwegen)オストホーフェン強制収容所(de:KZ Osthofen)オラニエンブルク強制収容所カウフェリンクIV強制収容所(de:KZ‐Kommando Kaufering IV)(ダッハウ外部収容所)ケーニヒス・ヴステルハウゼン強制収容所(de:KZ K*6257*nigs Wusterhausen)(ザクセンハウゼン外部収容所)コロンビアハウス強制収容所(de:KZ Columbia)ザウルガウ強制収容所(de:KZ Saulgau)(ダッハウ外部収容所)ザクセンハウゼン強制収容所ザクセンブルク強制収容所(de:KZ Sachsenburg)シャンデラ強制収容所(de:KZ Schandelah)(ノイエンガンメ外部収容所)ゾネンブルク強制収容所(de:KZ Sonnenburg)ダッハウ強制収容所ニーダーハーゲン強制収容所(de:KZ Niederhagen)(ザクセンハウゼン、後ブーヘンヴァルト外部収容所)ノイエンガンメ強制収容所ハウスハム強制収容所(de:KZ Hausham)(ダッハウ外部収容所)バート・ズルツァ強制収容所(de:KZ Bad Sulza)ヒンツァート強制収容所ファルゲ強制収容所(de:KZ Farge)(ノイエンガンメ外部収容所)ブーヘンヴァルト強制収容所ブランデンブルク強制収容所(de:KZ Brandenburg)フリードリヒスハーフェン強制収容所(de:KZ Friedrichshafen)(ダッハウ外部収容所)フールスビュッテル強制収容所(de:KZ Fuhlsb*6258*ttel)(ノイエンガンメ外部収容所)ブレイテナウ強制収容所(de:KZ Breitenau)フロッセンビュルク強制収容所ベルゲン・ベルゼン強制収容所ミッテルバウ=ドーラ強制収容所ミュールドルフ強制収容所(de:KZ M*6259*hldorf)(ダッハウ外部収容所)モーリンゲン強制収容所(de:KZ Moringen)(女囚用)ラーフェンスブリュック強制収容所(女囚用)ランゲンシュタイン=ツヴァイベルゲ強制収容所(de:KZ Langenstein‐Zwieberge)(ブーヘンヴァルト外部収容所)リヒテンブルク強制収容所(de:KZ Lichtenburg)ロッハウ強制収容所(de:KZ Lochau)(ダッハウ外部収容所)イタリア フォッソリ通過収容所(de:Durchgangslager Fossoli) ボーツェン通過収容所(イタリア名ボルツァーノ)フォッソリ通過収容所(de:Durchgangslager Fossoli)ボーツェン通過収容所(イタリア名ボルツァーノ)セルビア サイミステ強制収容所(de:KZ Sajmi*6260*te) ベオグラード=バニツァ強制収容所(KZ Beograd‐Banjica)サイミステ強制収容所(de:KZ Sajmi*6261*te)ベオグラード=バニツァ強制収容所(KZ Beograd‐Banjica)ギリシャ ハイダリ強制収容所(de:KZ Chaidari)ハイダリ強制収容所(de:KZ Chaidari)ノルウェー ウルベン警察刑務収容所(Polizeih*6262*ftlingslager Ulven) グリニ警察刑務収容所(de:Polizeih*6263*ftlingslager Grini) ファルスタッド警察刑務収容所(Polizeih*6264*ftlingslager Falstad) ブレットヴェト警察刑務収容所(Polizeih*6265*ftlingslager Bredtvet) ベルク警察刑務収容所(Polizeih*6266*ftlingslager Berg)ウルベン警察刑務収容所(Polizeih*6267*ftlingslager Ulven)グリニ警察刑務収容所(de:Polizeih*6268*ftlingslager Grini)ファルスタッド警察刑務収容所(Polizeih*6269*ftlingslager Falstad)ブレットヴェト警察刑務収容所(Polizeih*6270*ftlingslager Bredtvet)ベルク警察刑務収容所(Polizeih*6271*ftlingslager Berg)オランダ アメルスフォールト通過収容所(de:Durchgangslager Amersfoort) ヴェステルボルク通過収容所 ヘルツォーゲンブシュ強制収容所(de:KZ Herzogenbusch)アメルスフォールト通過収容所(de:Durchgangslager Amersfoort)ヴェステルボルク通過収容所ヘルツォーゲンブシュ強制収容所(de:KZ Herzogenbusch)ベルギー ブレーンドンク拘留収容所(Auffanglager Breendonk) メヘレン中継収容所ブレーンドンク拘留収容所(Auffanglager Breendonk)メヘレン中継収容所フランス(ドイツ軍フランス占領地域&ドイツ領に編入されたアルザス=ロレーヌ) コンピエーニュ=ロアイヤリュ強制収容所(KZ Compi*6272*gne‐Royallieu) ドランシー通過収容所 ナッツヴァイラー強制収容所 ピティヴィエ通過収容所(Durchgangslager Pithiviers) ボーヌ・ラ・ローランド通過収容所(Durchgangslager Beaune‐la‐Rolandeコンピエーニュ=ロアイヤリュ強制収容所(KZ Compi*6273*gne‐Royallieu)ドランシー通過収容所ナッツヴァイラー強制収容所ピティヴィエ通過収容所(Durchgangslager Pithiviers)ボーヌ・ラ・ローランド通過収容所(Durchgangslager Beaune‐la‐Rolandeイギリス(ドイツ軍占領下チャンネル諸島) オルダニー強制収容所(ザクセンハウゼン、後ノイエンガンメ外部収容所)オルダニー強制収容所(ザクセンハウゼン、後ノイエンガンメ外部収容所) ===ドイツ衛星国の強制収容所=== ヤセノヴァツ強制収容所(sh:Koncentracioni logor Jasenovac)(クロアチア独立国運営の強制収容所兼絶滅収容所)ラ・ヴェルネ強制収容所(fr:Vernet d’Ari*6274*ge (camp d’internement))(フランスヴィシー政府運営の強制収容所)ギュール強制収容所(fr:Camp de Gurs)(フランスヴィシー政府運営の強制収容所) =八百屋お七= 八百屋お七(やおやおしち、寛文8年(1668年)? ‐天和3年3月28日(1683年4月24日)、生年・命日に関して諸説ある)は、江戸時代前期、江戸本郷の八百屋の娘で、恋人に会いたい一心で放火事件を起こし火刑に処されたとされる少女である。井原西鶴の『好色五人女』に取り上げられたことで広く知られるようになり、文学や歌舞伎、文楽など芸能において多様な趣向の凝らされた諸作品の主人公になっている。 なお、本項では日付表記は各原典に合わせ、原則は旧暦表記とする。 ==概要== お七の生涯については伝記・作品によって諸説あるが、比較的信憑性が高いとされる『天和笑委集』によるとお七の家は天和2年12月28日(1683年1月25日)の大火(天和の大火)で焼け出され、お七は親とともに正仙院に避難した。寺での避難生活のなかでお七は寺小姓生田庄之介と恋仲になる。やがて店が建て直され、お七一家は寺を引き払ったが、お七の庄之介への想いは募るばかり。そこでもう一度自宅が燃えれば、また庄之介がいる寺で暮らすことができると考え、庄之介に会いたい一心で自宅に放火した。火はすぐに消し止められ小火(ぼや)にとどまったが、お七は放火の罪で捕縛されて鈴ヶ森刑場で火あぶりにされた。 お七の恋人の名は、井原西鶴の『好色五人女』や西鶴を参考にした作品では吉三郎とするものが多く、そのほかには山田左兵衛、落語などでは吉三(きっさ、きちざ)などさまざまである。 『天和笑委集』は、お七の処刑(天和3年(1683年))のわずか数年後に出された実録体小説である。相前後してお七処刑の3年後の貞享3年(1686年)には大坂で活動していた井原西鶴が『好色五人女』で八百屋お七の物語を取り上げている。西鶴によって広く知られることになったお七の物語はその後、浄瑠璃や歌舞伎などの芝居の題材となり、さらに後年、浮世絵、文楽(人形浄瑠璃)、日本舞踊、小説、落語や映画、演劇、人形劇、漫画、歌謡曲等さまざまな形で取り上げられている。よく知られているにもかかわらず、お七に関する史実の詳細は不明であり、ほぼ唯一の歴史資料である戸田茂睡の『御当代記』で語られているのは「お七という名前の娘が放火し処刑されたこと」だけである。それだけに後年の作家はさまざまな想像を働かせている。 多数ある八百屋お七の物語では恋人の名や登場人物、寺の名やストーリーなど設定はさまざまであり、ほとんどの作品で共通しているのは「お七という名の八百屋の娘が恋のために大罪を犯す物語」であり、小説などの「読むお七」、落語などの「語るお七」ではお七は恋人に会いたいために放火をするが、歌舞伎や文楽(人形浄瑠璃)、日本舞踊、浮世絵などの「見せるお七」ではお七は放火はせず、代わりに恋人の危機を救うために振袖姿で火の見櫓に登り火事の知らせの半鐘もしくは太鼓を打つストーリーに変更される(火事でないのに火の見櫓の半鐘・太鼓を打つことも重罪である)。歌舞伎や文楽では振袖姿のお七が火の見櫓に登る場面はもっとも重要な見せ場となっていて、現代では喜劇仕立ての松竹梅湯嶋掛額/ 松竹梅雪曙以外には櫓の場面だけを1幕物「櫓のお七」にして上演する事が多い。さまざまある設定の中には月岡芳年の松竹梅湯嶋掛額(八百屋お七)や美内すずえ『ガラスの仮面』などのように放火と火の見櫓に登る場面の両方を取り入れる作品や冤罪とするもの、真山青果の戯曲のように放火とせずに失火とする創作などもある。 ==実在の人物としての「八百屋お七」== 古来よりお七の実説(実話)として『天和笑委集』と馬場文耕の『近世江戸著聞集』があげられ「恋のために放火し火あぶりにされた八百屋の娘」お七が伝えられていたが、実はお七の史実はほとんどわかっていない。歴史資料として戸田茂睡の『御当代記』の天和3年の記録にわずかに「駒込のお七付火之事、此三月之事にて二十日時分よりさらされし也」と記録されているだけである。お七の時代の江戸幕府の処罰の記録『御仕置裁許帳』には西鶴の好色五人女が書かれた貞享3年(1686年)以前の記録にはお七の名を見つけることができない。お七の年齢も放火の動機も処刑の様子も事実として知る事はできず、それどころかお七の家が八百屋だったのかすらも、それを裏付ける確実な史料はない。 東京女子大学教授で日本近世文学が専門の矢野公和は、天和笑委集や近世江戸著聞集を詳しく検討し、これらが誇張や脚色に満ち溢れたものであることを立証している。また、戸田茂睡の『御当代記』のお七の記述も後から書き加えられたものであり、恐らくはあいまいな記憶で書かれたものであろうと矢野は推定し、お七の実在にさえ疑問を呈している。 しかし、大谷女子大学教授で日本近世文学が専門の高橋圭一は『御当代記』は後から書き入れられた注釈を含め戸田茂睡自身の筆で書かれ、少なくとも天和3年お七という女が江戸の町で放火したということだけは疑わなくてよいとしている。また、お七処刑のわずか数年後、事件の当事者が生きているときに作者不明なれど江戸で発行された天和笑委集と大阪の西鶴が書いた好色五人女に、違いはあれど八百屋の娘お七の恋ゆえの放火という点で一致しているのは、お七の処刑の直後から東西で広く噂が知られていたのだろうとしている。お七に関する資料の信憑性に懐疑的な江戸災害史研究家の黒木喬も、好色五人女がお七の処刑からわずか3年後に出版されている事から少なくともお七のモデルになった人物はいるのだろうとしている。もしもお七のことがまったくの絵空事だったら、事件が実在しないことを知っている人が多くいるはずのお七の事件からわずか3年後の貞享3年にあれほど同情を集めるはずが無いとしている。 ===御当代記=== 天和3年の記録に「駒込のお七付火之事、此三月之事にて二十日時分よりさらされし也」と記録されている『御当代記』の著者戸田茂睡(1629‐1706)は歌学者として知られ「梨本集」などの著作がある。実家は徳川忠長に仕える高禄の武家だったが、忠長の騒動に巻き込まれて取り潰されて大名家預かりの身になり、その後許されて伯父の家300石の養子になって仕官し、1680年ごろに出家して気ままな暮らしに入っている。 御当代記は五代将軍徳川綱吉が新将軍になった延宝8年(1680年)から茂睡が亡くなる4年前の元禄15年(1702年)までの約22年間の綱吉の時代の政治・社会を、自由な身で戸田茂睡自身が見聞したことを記録していったもので、子孫の家に残され発見されたのは天保年間(1830年代)になってからだが、信憑性の高い史料とされている。 御当代記は日記のように毎日記録していったものではないが、事実を時間の経過を追って記録しているものである。 ===天和笑委集=== 天和笑委集は貞享年間に成立した実録体の小説で、作者は不明。西鶴と並んでお七の物語としては最初期、お七の処刑後数年以内に成立し、古来より実説(実話)とされてきた。しかし、現代では比較的信憑性は高いものの巷説を含むものとされている。全13章からなり、第1章から第9章はこの時代の火災の記録、第10章から第13章は放火犯の記録となっており、お七の物語は第11章から第13章で語られ、全体の1/5を占めている。第1章から第9章で書かれた火災の記録は史実と照らし合わせると極めて信憑性が高く、またお七とは別の放火犯である赤坂田町の商家に住む「春」という少女が放火の罪で火あぶりになった事件や少年喜三郎が主人の家に放火した事件を書いた第10章の記述が、江戸幕府の記録である『御仕置裁許帳』に記された史実と一部に違いはあるもののほぼ同じであることから人物の記述についても信憑性が高いものとされてきた。しかし現在では天和笑委集は当時の記録に当たって詳細に作られているが、お七の記録に関してだけは著しい誇張や潤色(脚色)が入っているとされている。例えば天和笑委集では火あぶりの前に江戸市中でさらし者にされるお七は華麗な振袖を着ていることにしているが、放火という大罪を犯して火あぶりになる罪人に華麗な振袖を着せることが許されるはずもないと専門家に指摘されている。 ===近世江都著聞集=== 近世江都著聞集は講釈師馬場文耕がお七の死の74年後の宝暦7年(1757年)に書いたお七の伝記で、古来、天和笑委集と並んで実説(実話)とされてきた。近年に至るまで多くの作品が文耕を参考にしており、天和笑委集よりも重んじられてきた。その影響力は現代に残る丙午の迷信にまで及んでいる‐#後世への影響参照。 近世江都著聞集は、その写本が収められている燕石十種第五巻では序文・目次・惑解析で4ページ、本文は11巻46ページほどの伝記集で、その46ページのなかで八百屋お七の伝記は最初の1巻目と2巻目の計8ページほどの極めて短い作品である。近世江都著聞集の惑解断と2巻目末尾で文耕は「お七を裁いた奉行中山勘解由の日記をその部下から私は見せてもらって本にしたのだ」としている。お七の恋人の名を吉三郎とする作品が多いが、自分(文耕)以外の八百屋お七物語は旗本の山田家の身分に配慮して、悪党の吉三郎の名をお七の恋人の名にすりかえたのであり、また実在する吉祥寺の吉三道心という僧をお七の恋人と取り違えている人もいるがまったくの別人だと言う。 文耕は本文2巻目末尾で自信満々に「この本こそが実説(実話)だ」と述べているが、しかし、その割にはお七の事件の約40年前に亡くなっている土井大炊頭利勝を堂々と物語に登場させたりしており、後年の研究で文耕の近世江都著聞集にはほとんど信憑性がないとされている。 ==創作作品における「八百屋お七」== 現代、多数ある八百屋お七物語の作品に大きな影響を与えた初期の作品として井原西鶴の『好色五人女』や実説とされてきた『天和笑委集』、『近世江都著聞集』があり、また西鶴から紀海音を経て現代の歌舞伎に至る浄瑠璃・歌舞伎の流れも現代の文芸に大きな影響を与えている。大まかには初期の作品はお七の悲恋物語で吉三郎の占める割合は低く、後年の文芸作品でもその流れを汲むものは多いが、後年の特に演劇作品を中心したなかには、吉三郎を身分の高い侍としてそれにお家騒動や重宝探しあるいは敵討ちといった吉三郎に関する要素を絡めていき、逆にお七の放火や火あぶりといった悲恋の要素が消えていく系列作品群が見られるようになっていく。 この節では『好色五人女』、『天和笑委集』、『近世江都著聞集』のあらすじと、浄瑠璃・歌舞伎の流れ及び現代演じられている歌舞伎の八百屋お七作品のあらすじなどを記載する。 ===文芸作品=== ====井原西鶴『好色五人女』巻四「恋草からげし八百屋物語」==== 井原西鶴『好色五人女』はお七の事件のわずか3年後に出版され、自ら積極的に恋愛行動に移る町娘という、それまでの日本文学史上画期的な女性像を描き、お七の原典として名高い。西鶴の後続への影響は絶大なもので、特に演劇系統は西鶴を下地にした紀海音を基にするものがほとんどであり、西鶴が設定した恋人の名を吉三郎、避難先の寺を吉祥寺とすることを受け継いでいる作品が大多数を占めることからも西鶴の影響の大きさが推測される。 (あらすじ)師走28日の江戸の火事で本郷の八百屋八兵衛の一家は焼けだされ、駒込吉祥寺に避難する。避難生活の中で寺小姓小野川吉三郎の指に刺さったとげを抜いてやったことが縁で、お七と吉三郎はお互いを意識するが、時節を得ずに時間がたっていく。正月15日、寺の僧達が葬いに出かけて寺の人数が少なくなる。折りしも雷がなり、女たちは恐れるが、寺の人数が少なくなった今夜が吉三郎の部屋に忍び込む機会だと思ったお七は他人に構われたくないゆえに強がりを言い他の女たちに憎まれる。その夜、お七は吉三郎の部屋をこっそり訪れる。訳知りの下女に吉三郎の部屋を教えてもらい、吉三郎の部屋にいた小坊主を物をくれてやるからとなだめすかして、やっとお七は吉三郎と2人きりになる。ふたりは『吉三郎せつなく「わたくしは十六になります」といえば、お七「わたくしも十六になります」といえば、吉三郎かさねて「長老様が怖や」という。「おれも長老様は怖し」という。』という西鶴が「なんとも此恋はじめもどかし」というように十六歳の恋らしい初々しい契りだった。翌朝吉三郎といるところを母に見つかり引き立てられる。八百屋の新宅が完成しお七一家は本郷に帰る。ふたりは会えなくなるが、ある雪の日、吉三郎は松露・土筆売りに変装して八百屋を訪ね、雪の為帰れなくなったと土間に泊まる。折りしも親戚の子の誕生の知らせで両親が出かける。両親が出かけた後でお七は土間で寝ている松露・土筆売りが実は吉三郎だと気が付いて部屋に上げ、存分に語ろうとするが、そこに親が帰宅。吉三郎を自分の部屋に隠し、隣室に寝る両親に気がつかれないようにお七の部屋でふたりは筆談で恋を語る。こののちになかなか会えぬ吉三郎の事を思いつめたお七は、家が火事になればまた吉三郎がいる寺にいけると思い火付けをするが、近所の人がすぐに気が付き、ぼやで消し止められる。その場にいたお七は問い詰められて自白し捕縛され、市中引き回しの上火あぶりになる。吉三郎はこのとき病の床にありお七の出来事を知らない。お七の死後100日に吉三郎は起きられるようになり、真新しい卒塔婆にお七の名を見つけて悲しみ自害しようとするが、お七の両親や人々に説得されて吉三郎は出家し、お七の霊を供養する。 ===近世江都著聞集=== 近世江都著聞集は古来より実説として重んじられ、文芸作品にはその影響を受けたと考えられる作品が多数ある。江戸時代にも狩野文庫『恋蛍夜話』や曳尾庵 著『我衣』を代表にして石川宣続、小山田与清、山崎美成、乾坤坊良斎、加納徳孝、純真らの作家が近世江都著聞集を下地にしたと思われる作品を書き、近代でも水谷不倒、三田村鳶魚、昭和に入っても藤口透吾や多岐川恭などが近世江都著聞集を下地にして作品を作っている。 成立がお七の死後74年たった後であり、既に西鶴や海音など多くの作品が世に出ており、文耕の近世江都著聞集はそれらの作品からさまざまに取捨選択し創作を加えて面白い作品に作り上げたと考えられている。ただし、面白いものの前述のように現代では近世江都著聞集のストーリーには信憑性がまったくないものとされている。 (あらすじ)元は加賀前田家の足軽だった八百屋太郎兵衛の娘お七は類の無い美人であった。天和元年丸山本妙寺から出火した火事で八百屋太郎兵衛一家も焼け出され、小石川円乗寺に避難する。円乗寺には継母との間柄が悪く実家にいられない旗本の次男で美男の山田左兵衛が滞在していた。お七と山田左兵衛は互いが気になり、人目を忍びつつも深い仲になっていた。焼け跡に新宅が建ち一家は寺を引き払うが、八百屋に出入りしていたあぶれ者で素性の悪い吉三郎というものがお七の気持ちに気が付いて、自分が博打に使う金銀を要求する代わりに二人の間の手紙の仲立ちをしていた。やがて吉三郎に渡す金銀に尽きたお七に対して吉三郎は「また火事で家が焼ければ左兵衛のもとに行けるぞ」とそそのかす(吉三郎はお七に火事をおこさせて自分は火事場泥棒をする気でいる)。お七は火事が起きないかと願うが火事は起こらず、ついに自ら放火する気になったお七に吉三郎は「焼けるのが自分の家だけなら罪にならん、恋の悪事は仏も許すだろう」と言い放火の仕方を教える。風の強い日にお七は自分の家に火をつけ、八百屋太郎兵衛夫妻は驚きお七を連れて逃げ出す。吉三郎はこの隙にと泥棒を働くが、駆けつけてきた火付盗賊改役の中山勘解由に捕縛された。拷問された吉三郎は火を付けたのは自分では無く八百屋太郎兵衛の娘お七だという。中山勘解由がお七を召しだして尋ねるとたしかに自分が火をつけたと自白するので牢に入れ、火あぶりにしようと老中に伺いをたてる。そのときに幕府の賢人土井大炊頭利勝が「悲しきかな。罪人が多いのは政治が悪いからだとも言う。放火は大罪で火あぶりにするべきだが、か弱い娘がこのような事をする国だと朝鮮・明国に知れると日本は恐ろしい国だと笑われるだろう。」と言い、中山に「15歳以下ならば罪を一段引き下げて遠島(島流し)にできるではないか。もう一度調べよ」と命ずる。土井大炊頭の意を汲んで、中山はお七が14歳だということにして牢を出し部下に預ける。しかし、このことを聞いた吉三郎は自分だけが刑されるのをねたみ、中山を糾弾する。中山は怒り吉三郎と口論するが、吉三郎は谷中感応寺の額にお七が16歳の証拠があると言い、実際に感応寺の額を取り寄せたら吉三郎の言うとおりだったので中山も仕方なく天和2年2月吉三郎と一緒にお七を火あぶりにする。 ===天和笑委集=== 天和笑委集は他の作家への影響力と言うことでは西鶴や文耕には及ばないが、種彦や豊芥子などの評論などによって各種の作品の中では事実に近いであろう物として評価されている。現在でもお七の真実を探ろうとする黒木喬などのように天和笑委集をその解析の中心におく専門家もいる。 (あらすじ)江戸は本郷森川宿の八百屋市左衛門の子は男子2人女子1人。娘お七は小さい頃から勉強ができ、色白の美人である。両親は身分の高い男と結婚させる事を望んでいた。天和2年師走28日(1683年1月25日)の火事で八百屋市左衛門は家を失い正仙院に避難する。正仙院には生田庄之介という17歳の美少年がいた。庄之介はお七をみて心ひかれ、お七の家の下女のゆきに文を託してそれからふたりは手紙のやり取りをする。やがてゆきの仲人によって、正月10日人々が寝静まった頃に、お七が待つ部屋にゆきが庄之介を案内する。ゆきは2人を引き合わせて同衾させると引き下がった。翌朝、ゆきはまだ早い時間に眠る両親の部屋にお七をこっそり帰したので、この密会は誰にも知られる事はなかった。その後も2人は密会を重ねるが、やがて正月中旬新宅ができると、お七一家は森川宿に帰ることになった。お七は庄之介との別れを惜しむが、25日ついに森川宿に帰る。帰ったあともゆきを介して手紙のやり取りをし、あるとき庄之介が忍んでくることもあったが、日がたつにつれお七の思いは強くなるばかり。思い悩んでお七は病の床に就く。3月2日夜風が吹く日にお七は古綿や反故をわらで包んで持ち出し、家の近くの商家の軒の板間の空いたところに炭火とともに入れて放火に及ぶが、近所の人が気が付きすぐに火を消す。お七は放火に使った綿・反故を手に持ったままだったのでその場で捕まった。奉行所の調べで、若く美しい、悪事などしそうにないこの娘がなぜ放火などしようとしたのか奉行は不思議がり、やさしい言葉使いで「女の身で誰をうらんで、どのようなわけでこのような恐ろしいことをしたのか?正直に白状すれば場合によっては命を助けてもよいぞ」と言うがお七は庄之介に迷惑かけまいと庄之介の名前は一切出さず、「恐ろしい男達が来て、得物を持って取り囲み、火をつけるように脅迫し、断れば害すると言って打ちつけるので」と答える。奉行が男達の様子を細かく尋ねると要領の得ない話ばかりする。これでは助けることは出来ないとお七は火あぶりとなることになった。お七は3月18日から他の悪人達と共に晒し者にされるが、その衣装は豪華な振袖で鮮やかな化粧と島田に結い上げ蒔絵のついた玳瑁の櫛で押えた髪で、これは多くの人目に恥ずかしくないようにせめてもと下女と乳母が牢屋に通って整えたのだと言う。お七および一緒に死罪になる6人は3月28日やせ馬に乗せられて前後左右を役人達に取り囲まれて鈴が森に引き立てられ、大勢の見物人が見守る中で処刑される。大人の4人の最後は見苦しかったが、お七と少年喜三郎はおとなしく処刑されている。お七の家族は縁者を頼って甲州に行きそこで農民となり、2人の仲が知れ渡る事になった生田庄之介は4月13日夜にまぎれて旅に出て、終いには高野山の僧になっている。 ===演劇作品=== 小説などの文字による作品では「お七は火事で焼け出され、火事が縁で恋仲になり、恋人に会いたい一心で放火をして自身が火あぶりになる」と徹頭徹尾「火」にまつわる恋物語である。しかし、江戸時代中期、安政2年(1773年)の浄瑠璃『伊達娘恋緋鹿子』でお七が火の見櫓に登って半鐘を打つ設定になり、やがて半鐘は歌舞伎では太鼓に代わる事もあったものの、歌舞伎や文楽(人形浄瑠璃)などの見せる作品では、八百屋お七といえば火の見櫓にのぼる場面が大事な見せ場になり、放火などはしなくなる。当時、木造家屋が密集している江戸は火事が多く幕府も放火には神経を尖らせていた。また、芝居小屋自身も火災に会うことが多かったので放火の演出は避けたかったのだろうと推測されている。また、技術的にも陰でこそこそ行う放火の舞台演出は難しい。しかし、お七と火を完全に切り離す事もできない。そのぎりぎりの接点が火の見櫓であったのだろうと考えられている。 ===歌舞伎『八百屋お七歌祭文』=== 歌舞伎では宝永3年(1706年)にお七の芝居として初めてになる『八百屋お七歌祭文』が上方で上演されている。初代嵐喜世三郎がお七を演じて大評判になり、さらに江戸でも嵐喜世三郎がお七を演じていることは伝えられているが、この作品の内容については現代ではほとんど分からない。この作品が上演された1706年の時点では櫓に登るお七は着想されていない。 ===歌舞伎『中将姫京雛』=== 宝永5年(1708年)江戸・中村座で初演。嵐喜世三郎主演。八百屋彌右衛門の養女お七は実は継母に捨てられ人買いに売られた中将姫である。妙円寺の小姓吉三郎も実はお家騒動を避け身分を隠している唐橋宰相である。お七は八百屋の養子庄九郎との結婚を強いられ、吉三郎に会いたさのあまり養父を殺してしまう。お七は旧臣の情けある裁きで救われ出家する。 中将姫京雛は嵐喜世三郎の人気とお七の27回忌を当て込んで、中将姫伝説と八百屋お七を無理やりに継ぎ合わせた作品で、時代物(江戸時代以前を題材にする作品)と世話物(江戸時代の作品)の混淆の脚色の嚆矢とされている。この作品以降、歌舞伎作品では平家物語や曽我物語など江戸時代以前の物語の世界の中に八百屋お七を織り込む時代・世話混淆物が主流になり、吉三郎に関する要素(お家騒動や敵討ち、重宝探しなど)が増えていく。 ===浄瑠璃『八百屋お七恋緋桜』=== 浄瑠璃でもお七物の作品は多数あるが、もっとも影響が強かったのがお七の死の30数年後の正徳5年(1715年)から享保初年(1716年)ごろに成立した紀海音の『八百やお七』(『八百屋お七恋緋桜』)である。紀海音の浄瑠璃は西鶴の好色五人女を下地にしながらも大胆に変え、より悲劇性を強くしている。海音のお七では吉三郎は石高一千石の名の知れた武士の息子、親からは出家するように遺言され、親の忠実な家来の十内が遺言を守らせにくる。またお七にも町人万屋武兵衛が恋心を抱いている。火事の避難先の吉祥寺で出会ったお七と吉三郎の恋は武兵衛と十内の邪魔によって打ちひしがれ、再建した八百屋の普請代二百両をお七の親に貸し付けた武兵衛がそれの代わりにお七を嫁に要求し、家と親への義理の為お七は吉三郎に会えなくなる。西鶴が用意した吉三郎の八百屋への忍び込みを海音も用意はするが、海音作では下女のお杉の手引きで軒下に身を隠す吉三郎は、武兵衛との結婚を願う母親の話を聞いてしまいお七に会わないまま立ち去ってしまう。お杉の話で吉三郎とすれ違ってしまったことを知ったお七は、吉三郎に立てた操を破らなければならない定めに半狂乱になり、家が焼けたら吉三郎のもとにいけると火をつけてしまう。お七の処刑の日、両親は悲嘆にくれる。西鶴が出家させた吉三郎を、海音はお七の処刑の直前に刑場で切腹・自殺させてしまう。 ===浄瑠璃『伊達娘恋緋鹿子』=== 浄瑠璃では紀海音以降、『八百屋お七恋緋桜』に手を加えた作品が続出するが、安永2年(1773年)菅専吉らの合作で『伊達娘恋緋鹿子』が書かれる。『伊達娘恋緋鹿子』ではお七は放火はせずに、代わりに吉三郎の危機を救うため火の見櫓に登って半鐘を打つ。この菅専吉らの新機軸「火の見櫓の場」を歌舞伎でも取り入れて現代では文楽や歌舞伎では火の見櫓に登るお七が定番になっている。 ===歌舞伎『八百屋お七恋江戸紫』=== 明和3年(1766年)三世津打治兵衛の同名題の作品を安永7年(1778年)桜田治助が改作した狂言歌舞伎で、浄瑠璃『伊達娘恋緋鹿子』の発案を下地にはしているものの、設定を大胆に変更し喜劇仕立ての八百屋お七になっている。お七を吉祥院の天女像そっくりの美人とし、天女像とお七を入れ替える事から通称「天人お七」とも言われる。この八百屋お七恋江戸紫は興行的に大変に当たったので、これ以降は歌舞伎で八百屋お七といえばこの「八百屋お七恋江戸紫」か、もしくはそれを改作した系列作品ばかりが上演されるようになる。『八百屋お七恋江戸紫』を改作した福森久助作『其往昔恋江戸染』は現代のお七として定着している。時代もこのあたりまで来ると、歌舞伎の八百屋お七と西鶴の八百屋お七とはストーリー上の共通点はまったくなくなり、恋人の名と寺の名だけが共通となる。 ===歌舞伎『松竹梅雪曙』=== 前述したように、浄瑠璃の菅専吉らの新機軸「火の見櫓に登るお七」を歌舞伎でも取り入れて『八百屋お七恋江戸染』及びその改作の福森久助作『其往昔恋江戸染』(文化6年(1809年))が上演されるが、さらに作家黙阿弥が安政3年(1856年)火の見櫓の場面を舞踊劇にした歌舞伎『松竹梅雪曙』を書き、これが現代でも上演されている『櫓のお七』の外題である。この松竹梅雪曙に四代目市川小団次が人形振りを取り入れた。そもそもの『其往昔恋江戸染』は多数の場に分かれていたが、現代(1986年)国立劇場でも演じられている松竹梅雪曙では「吉祥院お土砂の場」と「火の見櫓の場」の2幕物で、構成・ストーリーは後述の松竹梅湯島掛額とほぼ同じである。 ===櫓のお七=== 現代では文楽(人形浄瑠璃)や歌舞伎では喜劇仕立ての歌舞伎『松竹梅雪曙』/『松竹梅湯島掛額』以外には八百屋お七が全幕で上演される事は少なく、『伊達娘恋緋鹿子』を黙阿弥が改作した『松竹梅雪曙』の「火の見櫓の段」だけを一幕物『櫓のお七』として上演する事が多い。また、日本舞踊でも『伊達娘恋緋鹿子』の櫓の場を舞踊劇にして踊られている。 歌舞伎の「火の見櫓の段」(一幕物では『櫓のお七』)において、前半のお七と下女お杉の場面では、お七を演じている役者は普通に人間として演じている。しかし、お杉が主人に呼ばれお七が一人になるところから、黒衣が二人もしくは三人出てきて役者の後ろに付き、お七を演ずる役者は人形のような動きで演じ踊るようになる。これを人形振りという。黒衣は人形を動かしているかのように振舞う。お七役の役者は人間でありながらあたかも操られている人形のように手や首を動かす。これは様式美を追求し追い詰められたお七の姿を表しているのである。文楽を取り入れたものだが、追い詰められたお七の心を描くには、人形の誇張の動きが適しているからだと言われている。 ===歌舞伎『松竹梅湯島掛額』=== 松竹梅湯島掛額は福森久助作「其往昔恋江戸染」の「吉祥院お土砂の場」と、河竹黙阿弥の「松竹梅雪曙」の「火の見櫓の場」を繋ぎ合わせた2幕物で松竹梅湯島掛額の1幕目の「吉祥院お土砂の場」は歌舞伎では珍しいドタバタ喜劇であり、アドリブも多い。八百屋お七物の全幕物のなかでは松竹梅雪曙とこれが現代(21世紀初頭)上演される数少ない全幕物の八百屋お七である。 松竹梅湯島掛額/松竹梅雪曙は通称「お土砂」と言われるが「お土砂」は大事な小道具で、お土砂は真言密教の秘密の加持を施した砂でこれを死体にかけると死体が柔らかくなると言われている。この物語では生きた人間にお土砂をかけるとかけられた人間は体が柔らかくなり力が抜けて「ぐんにゃり」となってしまうことになっている。また、主役がお七と吉三郎ではなく、紅長こと紅屋長兵衛とお七である。 (吉祥院お土砂の場のあらすじ)幕が通常とは逆に上手から開く。舞台は鎌倉時代の江戸の町。江戸に木曽義仲が攻めてくるともっぱらのうわさで人々は駒込・吉祥院に避難してくる。吉祥院は本堂の欄間の左甚五郎作とされる天女像で有名で天女は美しく、また八百屋の娘お七は天女そっくりの美人である。町の娘達の人気者の紅屋長兵衛(紅長・べんちょう)はお七ととても仲のよい紅売り(化粧品売り)である。吉祥院の寺小姓吉三郎に恋するお七は吉三郎と夫婦になりたいと母に願う。しかし、釜屋武兵衛から借金しているお七の家は、返済の代わりにお七と武兵衛の縁談を進めていると言われたお七は悲しみ、紅長が慰める。そこに吉三郎の家来の十内がやってきて、吉三郎の帰参がかなって国許に帰り家老の娘と結婚するのだと言い、お七はまた悲しみ、紅長が慰める。母は十内にお七と吉三郎の結婚を願うが、身分違いでとんでもないと断られる。そこに吉三郎がやってくるが、実は吉三郎は宝刀「天国の剣」を探さなければならない身でその期限もせまっている。吉三郎は十内に女にうつつを抜かしている場合ではないと怒られる。釜屋武兵衛に案内されて源範頼公の家来長沼六郎がお七を探しにやってくる。源範頼公がお七の美しさを聞いて愛妾にしたがっているのだという。長沼六郎にお七の居場所を問い詰められた寺の住職は困るが、紅長の発案で欄間の天女像を外してそこにお七を入れる。長沼六郎は欄間の天女像の美しさに感心するが実はそれがお七本人だとは気が付かない。その騒ぎを聞いて吉三郎がやってくるが、紅長のお七への入れ知恵によって、吉三郎はお七と夫婦になる約束をさせられる。さて、長沼六郎と釜屋武兵衛はお七を探して寺中を調べるが、お七は死んだと聞かされる。長沼六郎と釜屋武兵衛は疑い、やってきた棺桶の中を調べるが、棺桶から出てきたのは死者に扮した紅長。大の字で立ちはだかる紅長が釜屋武兵衛を張り倒し、釜屋武兵衛が紅長にかけようとした「お土砂」を奪って逆に釜屋武兵衛にかけると釜屋武兵衛は「ぐんにゃり」となる。紅長は長沼六郎たちにもお土砂をかけてぐんにゃりとさせて、お七と下女お杉を逃がす。調子に乗った紅長は舞台上の人々に楽しそうにお土砂をかけてお七とお杉以外の登場人物や舞台の裏方たちをぐんにゃりとさせる。そこにハプニングがおこり洋服の観客が舞台に乱入してくる。観客を引き止めに劇場の女性従業員も舞台に上がる。紅長は観客や女性従業員にもお土砂をかけてぐんにゃりさせる。さらに紅長は下手から幕を引きに来た幕引きにもお土砂をかけてぐんにゃりさせる。幕引きまでぐんにゃりさせた紅長は楽しそうに自ら幕を引く。 (火の見櫓の段のあらすじ) (場面の前提。吉三郎は主君の宝刀を見つけられなかったことで明日にも切腹となることになり、それを聞いたお七は嘆き悲しむ。その宝刀を自分の家に来ている武兵衛がもっていることを知ったお七は吉三郎のもとに行きたいが、夜間の事ゆえ町の木戸は固く閉まっている。今夜の内に宝刀を取り戻さないと吉三郎の命は救えない。) お杉とお七は町の木戸を開けてくれるよう番人に頼むが、夜は火事のとき以外は開けられないと固く断られる。目の前に火の見櫓はあるが、火事でもないのに火事の知らせの太鼓(あるいは半鐘)を打つのは重罪であるとお杉は恐れる。やがてお杉は主人に呼ばれる。一人になったお七は決心し櫓に登って太鼓を打つ。太鼓を聞いて木戸が開く。そのときお杉が宝刀を取り返してくる。追ってくる武兵衛をお杉が阻止している間に宝刀を持ったお七は木戸を通って吉三郎のもとに走っていく。2幕目は通常のように下手から幕が開く。 ===敵討櫓太鼓=== 東海道四谷怪談などを書いた歌舞伎狂言作者鶴屋南北も八百屋お七の歌舞伎狂言を書いている。初演は文政4年(1821年)河原崎座においてである。鶴屋南北の八百屋お七は題は「敵討櫓太鼓」で全8幕の芝居であるが、1975年の時点では台本の一部は残っていない。鶴屋南北の「敵討櫓太鼓」では物語中盤で吉三郎とお七は夫婦になり幸せに暮らしている。しかし吉三郎は親の敵を知ることになりお七を見捨て敵討ちに出発する。お七は吉三郎を追いかけるため町木戸を開かせようと火の見櫓に登って禁制の太鼓を打つ。お七は死刑を言い渡されるが運よく大赦で救われる。吉三郎は首尾よく敵を討ち果たす。 ===三人吉三廓初買=== 歌舞伎『三人吉三廓初買』、通称『三人吉三』は同じ名を持つ三人の盗賊がおりなす物語。「月も朧に白魚の、篝も霞む春の空。冷てえ風も微酔に心持よくうかうかと、浮かれ烏のただ一羽塒(ねぐら)へ帰る川端で……(中略)こいつぁ春から縁起がいいわえ」と有名な台詞を朗々と唄い上げる女装の盗賊「お嬢吉三」は八百屋お七の見立て(パロディ)である。序幕で「八百屋の娘でお七と申します」と名乗り、大詰では、お嬢吉三が櫓に登って太鼓を打ち、木戸が開いて櫓の前に三人の吉三が集合する。三人吉三は役人に取り囲まれて自らの悪行に観念する。パロディであっても歌舞伎のお七物では振袖姿で櫓に登り太鼓を打つのが「お約束」。 ===その他の作品=== ====落語==== 落語で八百屋お七物にはいくつか有り、十代目桂文治による口演の「八百屋お七」では、お七は町内でも評判の美人、婿になりたがる男の行列が本郷から上野広小路まで並ぶほどである。火事で店が焼けたためお七は駒込の吉祥寺に預けられ、そこで美男の寺小姓吉三(きっさ)と恋仲になる。家が再建され寺を去るお七は吉三に「あたしゃ、本郷へ行くわいな」とあいさつする。以降の展開は多くのお七物と同じだが、幕府の老中土井大炊頭が可憐な娘を丸焼きにするのを気の毒がる。当時の江戸では火付け犯は15歳を過ぎれば火あぶり、15歳未満は罪を減じて遠島の定めだったため、土井大炊頭はなんとかお七の命を救おうと奉行に命じ「お七、そちは十四であろう」と謎をかけさせる。しかし、お七が正直に「十六でございます」と答えてしまったために火あぶりとなる。死後にお七は幽霊となり人々を悩ます。それを聞きつけて来た武士に因縁つけて逆に手足を切られて1本足になり、こりゃかなわんと逃げるとき武士に一本足でどこに行くかと聞かれて答え「片足ゃ、本郷へ行くわいな」の台詞で締めくくる。 別の八百屋お七物は「お七の十」の通称で知られていて、火あぶりになったお七と悲しんで川へ身投げし水死した吉三があの世で出会って抱き合ったらジュウと音がした、火と水でジュウ(七+三で十)というネタがつく噺もある。 ===漫画『ガラスの仮面』=== 漫画『ガラスの仮面』では劇中劇で櫓のお七の場が取り上げられる。北島マヤ演じるお七は町に火をつけ櫓に登り、燃え盛る町を見下ろしながら半鐘を打ち鳴らす。燃え盛っているのは家屋ばかりではない。お七の心にも自分自身にはどうにも出来ない恋の炎が燃え盛り、燃え尽きる町を見ながらお七の心も燃え尽きる。 ===映像作品=== 映画 お七と伝七(1925年 演:潮みどり) 八百屋お七(1926年 演:柳さく子) お七鹿の子染(1936年 演:森静子) 八百屋お七 ふり袖月夜(1954年 演:美空ひばり) 八百屋お七 江戸祭り一番娘(1960年 演:中島そのみ) 情炎お七恋唄(1972年 演:小川節子) 好色元禄(秘)物語(1975年 演:橘麻紀)お七と伝七(1925年 演:潮みどり)八百屋お七(1926年 演:柳さく子)お七鹿の子染(1936年 演:森静子)八百屋お七 ふり袖月夜(1954年 演:美空ひばり)八百屋お七 江戸祭り一番娘(1960年 演:中島そのみ)情炎お七恋唄(1972年 演:小川節子)好色元禄(秘)物語(1975年 演:橘麻紀)テレビドラマ 西鶴物語 第7回・第8回「八百屋お七」(1961年 演:市川和子) NHK劇場 恋すれば物語(1964年 演:中尾ミエ) 大江戸捜査網(1970年 演:永島暎子) 江戸巷談・花の日本橋 第21回「初恋八百屋お七」(1972年 演:范文雀) 江戸を斬る 梓右近隠密帳 第13話「巷談・八百屋お七」(1973年 演:村地弘美) 家光と彦左と一心太助(1989年 演:藤谷美紀) 必殺仕事人・激突! 第4話 「八百屋お七の振袖」(1991年 お小夜 演:杉浦幸) 天下の副将軍水戸光圀 徳川御三家の激闘(1992年 演:喜多嶋舞) 本当にあった日本史サスペンス劇場(2007年 演:星井七瀬) あさきゆめみし 〜八百屋お七異聞(2013年 演:前田敦子)西鶴物語 第7回・第8回「八百屋お七」(1961年 演:市川和子)第7回・第8回「八百屋お七」(1961年 演:市川和子)NHK劇場 恋すれば物語(1964年 演:中尾ミエ)大江戸捜査網(1970年 演:永島暎子)江戸巷談・花の日本橋 第21回「初恋八百屋お七」(1972年 演:范文雀)第21回「初恋八百屋お七」(1972年 演:范文雀)江戸を斬る 梓右近隠密帳 第13話「巷談・八百屋お七」(1973年 演:村地弘美)第13話「巷談・八百屋お七」(1973年 演:村地弘美)家光と彦左と一心太助(1989年 演:藤谷美紀)必殺仕事人・激突! 第4話 「八百屋お七の振袖」(1991年 お小夜 演:杉浦幸)第4話 「八百屋お七の振袖」(1991年 お小夜 演:杉浦幸)天下の副将軍水戸光圀 徳川御三家の激闘(1992年 演:喜多嶋舞)本当にあった日本史サスペンス劇場(2007年 演:星井七瀬)あさきゆめみし 〜八百屋お七異聞(2013年 演:前田敦子) アニメ 火要鎮(2013年 作:大友克洋、オムニバス作品「SHORT PEACE」の一編) うる星やつら 第165話 「お芝居パニック!面堂家花見のうたげ!!」ラムが梅干しを食べて(酔って)八百屋お七に扮する。火要鎮(2013年 作:大友克洋、オムニバス作品「SHORT PEACE」の一編)うる星やつら 第165話 「お芝居パニック!面堂家花見のうたげ!!」ラムが梅干しを食べて(酔って)八百屋お七に扮する。 ===音楽作品=== 夜桜お七(1994年 歌:坂本冬美) ==郷土芸能の題材としての「八百屋お七」== 天和笑委集では、物語の後日談としてお七と庄之介の話が全国津々浦々に伝わったとしている。天和笑委集の成立自体がお七の死後数年以内なので八百屋お七の事件の噂話はたちまちのうちに全国に伝わったことがうかがえる。これらは中央の文芸作品の影響を受けながらも各地でさまざまに形を変え、お七の恋物語は郷土芸能の題材として全国各地にさまざまな形で伝承されている。二松学舎大学教授で国文学専攻の竹野静雄が1986年にまとめた調査でも全国38都道府県で八百屋お七を題材にした郷土芸能が確認され、昭和まで伝承されなかったものを含めると沖縄を除くほぼ全国に八百屋お七を伝承する郷土芸能があったものと思われる。 郷土芸能としての「八百屋お七」は歌祭文・覗きからくり節・盆踊歌・飴売り歌・願人・祝い歌・労作歌・江州音頭やんれ節などが確認される。とくに八百屋お七盆踊り歌は昭和ですら保存されている件数が多く、またその内容も多くの系列があり、かつては全国いたるところで歌われていたものと考えられている。 ===覗きからくり=== 覗きからくり節では八百屋お七はよく演じられる演目の一つであり、各地の自治体でその保存活動や紹介活動が行われている。新潟市の巻郷土資料館では、約100年前の八百屋お七の覗きからくりを保存し、館員による口上付きの公演も随時行っている。 ==「お七」作品における登場人物とモチーフ== 八百屋お七物語は多くの作家がさまざまな作品を提供している。お七とお七の恋人を除いては作品ごとに登場人物は異なるものの比較的登場することが多い人物について述べる。もちろんこの節で述べる登場人物像は各作家の設定した人物像であって、史実とは無関係である。 ===恋人=== 恋人の名は 天和笑委集では生田庄之介好色五人女では小野川吉三郎、近世江戸著聞集では山田左兵衛、紀海音では安森吉三郎、現代の歌舞伎「櫓のお七」では吉三郎、松田定次監督の映画『八百屋お七 ふり袖月夜』(1954年公開)では生田吉三郎とさまざまである。前述したように、『近世江戸著聞集』の作者である馬場文耕は自分以外の八百屋お七物語は旗本の山田家の身分に憚って、悪党の吉三郎の名をお七の恋人の名にすりかえたのだと言うが、しかし『近世江戸著聞集』はほぼ虚構である事が立証されているので、吉三郎とするものが多いのは恐らくは西鶴と、西鶴を下地にした紀海音の影響力であろうとされている。 恋人の身分は初期の作品ではあまり高くはなく、西鶴では吉三郎は浪人で兄分(同性愛の恋人)がいる。天和笑委集でも生田庄之介の身分はそれほど高くはないのでお七に高い身分の男との結婚を望んでいる両親にお七は生田庄之介との交際を言い出せない。しかし、紀海音が吉三郎を1000石の名の知れた武士の息子、親の忠実な家来の十内が親の遺言を守らせに来るように設定してからは、浄瑠璃や歌舞伎では身分の高い武士の子とされる。文耕の近世江都著聞集では恋人(山田左兵衛)の親は2500石の旗本である。現代の歌舞伎では吉三郎は武家の中でも身分が高い家の子で八百屋の娘とは身分が違いすぎて結婚の対象ではないことにされる。 ===下女=== 八百屋で働く下女の名は天和笑委集では「ゆき」、紀海音の浄瑠璃や現代の歌舞伎では「杉」。八百屋の下女は二人の恋の仲を取り持つ役割で、火の見櫓に登るお七の設定では宝刀を武兵衛のもとから取り返してくる役割をはたす。「火の見櫓の場」では吉三郎は直接登場しないので、八百屋の下女はお七に次いで重要な登場人物になる。 ===父=== お七の父の名も作品によってさまざまである。天和笑委集では市左衛門、好色五人女では八兵衛、近世江戸著聞集では太郎兵衛、紀海音では久兵衛、落語では久四郎と作品ではそれぞれが違う。お七の父の名前も素性もうかがい知ることはできないが、江戸災害史研究家の黒木は加賀藩邸(今の東京大学本郷キャンパス)がすぐ近くであったことからお七の家は加賀藩出入りの商人の可能性を指摘している。 ===十内と武兵衛=== 紀海音が浄瑠璃『八百屋お七恋緋桜』で考案した2人で、お七の恋の邪魔者(もちろん、実在人物ではない)。吉三郎の実家の家来で忠実・生真面目な侍ゆえに吉三郎の行動に枠をはめたがる十内と、お七に恋心を抱き金の力でお七を我が物にしようとする金持ちの町人武兵衛(万屋武兵衛や釜屋武兵衛など)の2人はその後の浄瑠璃、歌舞伎でもお七・吉三郎の恋の障害になる人物と設定される。現代に上演されることが多い歌舞伎・松竹梅湯島掛額でもその設定は変わらない。ことにお七と吉三郎・武兵衛の三角関係は浄瑠璃・歌舞伎以外の作品にも取り入れられることが多い。 ===役人=== お七を裁く役人は小説や落語などでは登場することが多く、現代の歌舞伎などでは登場しない。 ===中山勘解由=== 中山勘解由は史実では先手頭で天和3年正月23日に火付改に着任。 お七の放火事件がおきた天和3年3月には、史実としてはこの人物が放火犯の捜査・逮捕の責任者である。中山勘解由は容疑者をかなり厳しく取り調べ、この人物が着任している間は放火の罪で処刑される人数が増加している。海老責という拷問方法を考案もし、拷問を含む厳しい取調べで恐らくは冤罪も多かったであろうと推定されている。 しかし史実とは反対に八百屋お七の物語ではお七の命を何とか救おうと努力する奉行として登場することが多い人物で、文耕の『近世江戸著聞集』のなかでもお七の年齢をごまかして助けようとする奉行中山殿の名前が出てくる。文耕ではお七の年をごまかした事を悪党の町人吉三郎に糾弾され、大身の旗本で重責を担う立場にありながら吉三郎と真剣に口論し、吉三郎に論破されてしまう。 狩野文庫『恋蛍夜話』では奉行中山勘解由はお七に「火付けはしてないな?」と聞き、もしもお七が「はい」と答えたら助けるつもりが、お七が正直に「火を付けた」と答えてしまったために仕方なく火あぶりにせざるをえなくなったとしている。落語でも土井大炊頭の意を汲んでお七の年齢をごまかして助けようとするがお七自身にその意図を無にされる。ただし、中山勘解由がまだ存命中に書かれた最初期のお七の伝記である天和笑委集ではことの次第ではお七の命を救ってもいいと思っている奉行が登場するが、天和笑委集では奉行の個人名は出していない。また同じく最初期の作品である西鶴の好色五人女では奉行は登場しない。 尚、お七の事件の数年前の延宝8年(1680年)、『江戸方角安見図』では中山勘解由配下の組屋敷は本郷(今の東京大学本郷キャンパスの農学部と工学部・法学部の通りに面した最西側部分)にあり、お七の家の至近にある。 ===町奉行=== 史実ではお七の事件時天和3年3月、甲斐庄飛騨守正親が南町奉行を務め、北条安房守氏平が北町奉行を務めている。 大谷女子大学教授の高橋圭一はお七の時代の火付改役は犯人の逮捕と奉行所への送付が仕事で裁判は町奉行所の仕事のはずであり、前述の中山が判決まで下したと言う各種の作品は創作であろうとしている。 文芸作品によっては八百屋お七物の登場人物として、南町奉行甲斐庄正親や北町奉行北条安房守氏平 がお七の裁きの奉行を務めることがある。彼らも本音ではお七の命だけは助けてやりたいが、お七が正直に自白してしまったのでやむなく定法通り火あぶりにする奉行、と設定されることが多い。 ===土井大炊頭利勝=== 史実では家康・秀忠・家光の三代に仕えた武士で、江戸幕府の老中・大老までつとめた古河藩16万石の大名(1574‐1644)。お七の事件の約40年前に亡くなっているので、史実でお七と絡むことはありえないが、馬場文耕の『近世江都著聞集』や文耕を参考にした物語、落語などでは奉行に命じてお七の年齢をごまかして何とかお七の命を救おうとする人物として登場する。 ===衣装=== 宝永3年(1706年)に八百屋お七を演じた初代嵐喜世三郎が「丸に封じ文」紋をつけた衣装で可愛らしいお七を演じて評判になり以降「丸に封じ文」紋がお七の紋として定着する。文化6年(1809年)『其往昔恋江戸染』で八百屋お七役の歌舞伎役者の五代目 岩井半四郎が麻の葉段鹿子の振袖を着たことから大流行し麻の葉文様は若い娘の代表的な着物柄になり、五代目 岩井半四郎以降は歌舞伎や文楽でもお七の櫓の場では麻の葉の段の振袖が定番になっている。八百屋お七のパロディでもある三人吉三でも、お嬢吉三の衣装は「封じ文」と似て非なる「結び文」紋と櫓の場での衣装は麻の葉段鹿子染めであり、最初に提示した月岡芳年の八百屋お七の絵でも一部に麻の葉の鹿子柄が見える。 平成21年の歌舞伎座公演『松竹梅湯嶋掛軸』の「櫓の場」ではお七と下女お杉二人の前半ではお七の衣装は黄八丈格子縞の町娘の普段着風の着物、お杉が退場しお七一人(と黒衣)の人形振りの場の途中から早変わりで着物が浅葱色と紅色の麻の葉の段鹿子の振袖に変わる。そのように現代の歌舞伎舞踊では前半は黄八丈の町娘の普段着風、それが櫓の場の見せ場では麻の葉の段鹿子の振袖に変わることが多い。 文学では西鶴は避難した先の寺でお七に貸し与えられた振袖を黒羽二重の大振袖、桐と銀杏の比翼紋で紅絹裏の裾を山道形にふさをつけ色めいた小袖の仕立て、焚き込めた香の薫もまだ残っているとしている。 天和笑委集では火あぶりの前に江戸市中でさらし者にされているお七には「肌には羽二重の白小袖、甲州郡内の碁盤縞、浅黄の糸にて縫いたる定紋の三つ柏五ッ所に桃色の裏付けて一尺五寸の大振袖上に重ね、横幅広き紫帯二重にきりきりと引き回し後ろにて結び留め、襟際少し押し広げ、たけなる黒髪島田に結い上げ、銀覆輪に蒔絵書いたる玳瑁(タイマイ)の櫛にて前髪押さえ、紅粉を以って表(顔)をいろどる」と豪華な装いをさせている。 ===遺言=== 創作として何人かの作家達はお七に遺言をさせている。 紀海音は「八百屋お七恋緋桜」のなかでお七の遺言として『ゆしまにかけししやうちくばい 本こうお七としるしをく。十一才の筆のあと見し人あらばわたくしの。かたみと思ひ一へんの御ゑかうたのみ奉ると。』としている。。(意訳 (私が11歳のときに)湯島(の寺)にかけた松竹梅の額に本郷お七と書きました。私の十一才の筆跡を見た人がいらっしゃいましたら私の形見と思って一片の供養をしてやってください。)歌舞伎や浮世絵で八百屋お七の題に「松竹梅湯島掛額」とつけているものがある。 井原西鶴は、死出のはなむけに咲き遅れの桜の枝を渡されたお七の辞世として『世の哀れ春ふく風に名を残しおくれ桜の今日散し身は』としている。 ==お七の年齢と裁判制度== 現代の「八百屋お七」の物語では落語などを中心に「当時の江戸では火付け犯は15歳を過ぎれば火あぶり、15歳未満は罪を減じて遠島の定めだった」とし、お七の命を救ってやりたい奉行がお七の年齢をごまかそうとして失敗するものが多い。人情話としては面白いが専門家からは疑問が呈されている設定であり、またこの設定は西鶴などの初期の八百屋お七物語には見られない。 放火犯について15歳以下ならば罪を減じて遠島(島流し)にする規定が明確に設けられたのはお七の死後40年ほどたった徳川吉宗の時代享保8年(1723年)になってである。ただし、享保8年(1723年)以前にも年少の殺人犯については死罪は避けようという諸規定は存在したが、放火犯については明確な規定は無く、また『天和笑委集』第10章では13歳の放火犯喜三郎が火刑になった記述がある。 最初期のお七の伝記である西鶴の『好色五人女』の八百屋お七物語では裁判の場面はない。『天和笑委集』では裁判の場面はあるがお七の年齢を詮議する記述はない。1715‐16年の紀海音の『八百屋お七』や1744年為永太郎兵衛『潤色江戸紫』でもお七を裁く場面はない。しかし、お七の事件から74年後の馬場文耕の『近世江都著聞集』では裁判の場面が大きく取り扱われ、お七の年齢を15歳以下だと偽って助けようとする奉行が登場するようになる。馬場文耕の『近世江都著聞集』は後続の作家に大きな影響を与え、これ以降の作品ではお七の年齢の扱いで生死を分けることにする作品が続出してくる。馬場文耕の『近世江都著聞集』には史実としてのリアリティはまったく無いが、講釈師文耕ならではの創作に満ち溢れ、お七の年齢詮議の話も文耕の創作であろうとされている。 ==「お七」ゆかりの史跡== ===一家が避難した寺=== 唯一の歴史資料ではお七が放火に至った経緯や理由は一切不明だが、創作の八百屋お七物語では避難先の寺でお七は恋人と出会い、それが物語の発端となる。 『天和笑委集』でお七一家が避難したとされる「正仙院」という寺を実在の寺として見つけることはできないが、延宝8年(1680年)の『江戸方角安見図』では本郷森川宿の近くに「正泉院」という寺を見つけることが出来る。江戸災害史研究家の 黒木 喬によると正泉院はお七一家が焼け出された天和2年師走28日(新暦1683年1月25日)の火事の火元となった大円寺の裏にある寺だが火元でありながら大円寺自身は大して焼けなかったように正泉院も焼けなかったのだろうとして、黒木はこれが天和笑委集でいう正仙院ではないか?としている。『江戸方角安見図』はインターネットで公開もされているが江戸方角安見図の駒込一の右下隅に「正泉院」が見える。 西鶴が二人の恋の場の寺の名を駒込・吉祥寺とし、西鶴の流れを汲む多くの作品や現代の歌舞伎などでも吉祥寺が避難先の寺とされるが、お七一家が家財道具を持って逃げるには少し遠い(西鶴の好色五人女の挿絵では家具類を持って避難している)。黒木は西鶴が大阪なので大阪でも名の知られている寺を物語の舞台に選んだのだろうとしている。日本大学藝術学部教授を務めた目代 清も避難先はおそらくは円林寺か円乗寺で少なくとも吉祥寺ではないと断言している。 近世江都著聞集や加藤曳尾庵の『我衣』(文政8年(1825年))などでは円乗寺としている。 ===墓所=== 円乗寺のお七の墓は、元々は天和3年3月29日に亡くなった法名妙栄禅尼の墓である。これがお七の墓とされて、後年に歌舞伎役者の五代目岩井半四郎がお七の墓として墓石を追加している。しかし、矢野公和はこれに疑問を呈している。単なる死罪ですら死体は俵に入れて本所回向院の千住の寮に埋めるに留まるが、その死罪よりも重罪である火刑者が墓に葬られることは許されるはずも無いと矢野は指摘している。仮に家族がこっそり弔うにしても、寺に堂々と墓石を立てることはありえない。また、お七の命日を3月29日とする資料は逆に墓碑を根拠としたものであろうとも指摘されている(お七の刑死後数年で発行された天和笑委集ではお七の命日を3月28日としている)。 円乗寺の他にも千葉八千代の長妙寺にもお七のゆかりの話と墓があり、鈴ヶ森刑場に程近い真言宗寺院・密厳院には、刑死したお七が埋葬されたとの伝承や、お七が住んでいた小石川村の百万遍念仏講が造立(貞享2年(1685年))したと伝わるお七地藏があるほか、岡山県御津町にもお七の物とされる墓がある。岡山のお七の墓ではお七の両親が美作国誕生寺の第十五代通誉上人に位牌と振袖を託し供養を頼んだのだと言う。さらに吉三郎の物とされる墓は、目黒大円寺や東海道島田宿、そのほかにも北は岩手から西は島根まで全国各地にある。また、お七と吉三郎を共に祭る比翼塚も目黒大円寺や駒込吉祥寺などにある。 ==後世への影響== ===伝説=== 「八百屋お七」を題材とするさまざまな創作が展開されるのに伴い、多くの異説や伝説もあらわれるようになった。 お七の幽霊が、鶏の体に少女の頭を持った姿で現れ、菩提を弔うよう請うたという伝説もある。大田蜀山人が「一話一言」に書き留めたこの伝説をもとに、岡本綺堂が『夢のお七』という小説を著している。 大和高田市には「八百屋お七」のモデルとして、大和国高田本郷(現在の大和高田市本郷町)のお七(志ち)を挙げる説もある。高田本郷のお七の墓と彼女の遺品の数珠は常光寺に現存する。地元では、西鶴が高田本郷のお七をモデルに、舞台を江戸に置き換えて「八百屋お七」の物語を記した可能性があるとしている。ただし、大和高田市のお七の数珠には享保10年(1725年)とあり、これは井原西鶴の好色五人女が書かれた貞享3年(1686年)の39年後である。また、常光寺の享保年間の過去帳には 死刑囚「しち」という名が見えるともされているが、同じく享保年間は井原西鶴よりも後の年代である。 一方、吉三郎は信濃国の善光寺を参詣し、お七の供養のために地蔵を奉納したという。今も境内にその地蔵があり「ぬれ仏」とも言われる。 ===お七風=== 江戸時代にもインフルエンザの流行は多く、お七が亡くなった1683年以降の100年間に限っても11回の流行があった。お七の死から120年近くたった1802年の流行は漂着した外国人から伝わっていったとされるもので、長崎から九州各地さらに上方に流行の範囲を広め、その外国人の出身地をとった「アンポン風」や流れ着いた地の「さつま風」あるいはそのころお七の小唄が流行っていたので「お七風」とも呼ばれた。上方では病人がいない家はないほど流行したが死者は多くは出なかった流行風邪である。 ===迷信=== 干支の丙午(ひのえうま)年の生まれの女性は気性が激しく夫の命を縮めるという迷信は、丙午の年には火災が多いという江戸時代の初期の迷信が、八百屋お七が1666年の丙午生まれだとされたことから、女性の結婚に関する迷信に変化して広まって行ったとされる。 この迷信は昭和の時代になってすら強く、昭和41年(1966年)の出生率は前年に比べて25%も下がる影響があった。しかし、江戸時代には人の年齢はすべて数え年であったため、もしも八百屋お七が1666年の丙午生まれならば、放火し火あぶりにされた天和3年(1683年)には18歳になってしまう。西鶴や紀海音などの各種の伝記では16歳となっている。紀海音が『八百やお七』でお七を丙午生まれとし、それに影響された為長太郎兵衛らの『潤色江戸紫』がそれを引き継ぎ、また、お七が延宝4年(1676年)谷中感応寺に掛けた額に11歳との記載があると馬場文耕が『近世江都著聞集』で述べたことも生年を寛文6年(1666年)とする根拠となった。海音は強い影響力を持ち、近世江都著聞集も現代では否定されているものの長く実説(実話)とされてきた物語であり、数多くの作品が近世江都著聞集をもとにしていて、お七の丙午年生まれ説はこのあたりから生じている。 =経済成長の黄金律= 経済成長の黄金律(おうごんりつ)は、一定の成長率で進む経済成長のうちで、消費が最も多い経済成長である。黄金則とも訳す。 黄金律では資本が稼いだ収益を全て資本に投資して蓄積する。このことを蓄積の黄金律とも資本蓄積の黄金律ともいう。黄金律では資本収益を全て再投資しないといけないので、資本を所有するだけの不労所得生活者は何も消費できない。黄金律の実現は経済の成熟を示す。 黄金律は単純なので分かりやすい。最適成長理論の基本中の基本とされる。政策当局は黄金律に魅せられて、黄金律をめざしたいと思うことがあるという。 エドムンド・フェルプスの寓話は、むかしむかしソロヴィア王国の百姓オイコ・ノモスが黄金律を思いつきました、という筋書きだが、本当は1960年代の初めにフェルプスをふくむ数人の経済学者がそれぞれ独自に黄金律を発案した。フェルプスらの定理によると、利子率が成長率に等しいのが黄金律である。 ==概要== ===均斉成長(黄金時代)=== 1961年に黄金律を提唱したフェルプスは、全ての経済変数がそれぞれ一定の成長率で伸びてゆく経済成長を黄金時代とよんだ。 この黄金時代の概念は1956年にジョーン・ロビンソンが定義した。現実には経済が厳密に一定の伸び率で成長しつづけることはないので、黄金時代という言葉には「実現しそうにない神話的な状態」という意味がこめられていた。もともと黄金時代はギリシア神話上の時代区分のひとつであり、最も古く長くつづいた時代であったとされる。フェルプスが黄金律を提唱したときの寓話は、古代ギリシア風の架空の王国を舞台とし、その主人公は古代ギリシア語の「経済」をモジったオイコ・ノモスという名であった。 黄金律が提唱された当時は経済学で黄金時代という言葉がつかわれていた。現在は経済学で黄金時代という言葉をつかうことはほとんどなく、そのかわりに均斉成長という。これを恒常状態ともいうが、経済学者によっては成長率がゼロの場合に限ってこれを恒常状態とよぶことがあるというので気をつける。 黄金律が提唱される少し前、ニコラス・カルドアは経済統計を観察し、現実の経済成長がおおむね均斉成長であるという事実を発見した。カルドアはこれを定型化された事実(英語版)とよび、黄金律が提唱された年と同じ1961年に公表した。現代の経済成長理論でも、均斉成長は現実を要約して記述する概念として有益であると考えられている。 均斉成長における技術進歩は資本の生産効率を高めずに労働の生産効率を高めるかのようなかたちになる。これを労働拡張型技術進歩という。このことは、1961年に宇沢弘文が発表した論文で証明された(宇沢の定理)。これと同じ1961年に黄金律を提唱したフェルプスは、初めこのことに気づいていなかったが、1965年の第二論文でこれを取りいれた。 ===黄金律=== 均斉成長(黄金時代)は成長率が一定であるというだけで、それ自体が望ましいというわけではない。一方、フェルプスは、黄金時代(ゴールデン・エイジ)で望ましいルールを黄金律(ゴールデン・ルール)とよんだ。黄金律は消費を最大化する黄金時代(均斉成長)と定義される。 黄金律で最大化されるのは消費であって、生産や所得が最大化されるわけではない。政策評価や経済分析の実務では国内総生産や国民所得で豊かさを測るが、経済理論では消費で豊かさを評価する。 黄金律の定理によると、資本収益率(利子率)が成長率に等しくなる均斉成長が存在する場合、その均斉成長が消費を最大化する黄金律である。この定理を言葉で説明すると次のとおりである。資本を増やしたうえで成長率一定の均斉成長をたもつと、資本が増えたことで生産が増えて消費が増えるが、その一方で、均斉成長をたもつには資本への再投資を増やさないといけないので、その再投資の分だけ消費が減ってしまう。すると、増産で消費の増える分と、再投資で消費の減る分とがバランスするところがあれば、そこで消費が最大化される。そして、資本の増えた分に資本収益率をかけた分だけ生産が増え、また、資本の増えた分に成長率をかけた分だけ再投資しないと均斉成長をたもてないことがわかっている。これらを考えあわせると、資本収益率と成長率がバランスするところが、増産で消費の増える分と再投資で消費の減る分がバランスするところであり、そこが消費を最大化する黄金律である。つまり資本収益率と成長率が等しくなるところが黄金律である。以上について数式をもちいた説明は黄金律の定理の節を参照。 黄金律のアイデアは1947年にモーリス・アレがフランス語で著した本にさかのぼるといわれるが、黄金律の名で広く知られるようになったは、1961年にフェルプスが寓話のかたちのペーパーをアメリカン・エコノミック・レビュー誌で発表してからである。その後フェルプスは1965年に同誌で第二論文を発表し、1966年に著書『経済成長の黄金律』を刊行した。この間、黄金律と同様のアイデアは、モーリス・アレやジョーン・ロビンソン、トレイヴァー・スワン(英語版)、カール・クリスティアン・フォン・ヴァイツゼッカー(ドイツ語版)、ジャック・デルソー(フランス語版)によっても発表された。 2006年フェルプスがノーベル経済学賞を受賞した際、フェルプスの業績の一つに黄金律に関する研究が挙げられた。 ===黄金律貯蓄率=== フェルプスの寓話はソロヴィア王国を舞台とする。ソロヴィア王国という国名はフェルプスの同僚学者ロバート・ソローの姓をモジったものであり、ソローの成長モデルは貯蓄率 s を一定と仮定するモデルであった。フェルプスが初めて黄金律を提唱したとき、ソロヴィア王国の人びとは単純なので生産物の一定割合 s を蓄積するものと仮定して、s の中から消費を最大化する黄金律をえらぶという考え方をしていた。この考え方によると、黄金律では、資本収益の所得に占める割合と s が等しくなるという関係が成りたつ。この関係をフェルプスは蓄積の黄金律とよんだ。資本蓄積の黄金律ともよばれる。 このように s を一定と仮定して導いた黄金律の s を黄金律貯蓄率という。フェルプスは1965年の第二論文以降、s を一定を仮定することはなく、均斉成長で結果として s が一定になることを導いている。 ==最適成長理論== 世界銀行レポート『黄金成長』によると、黄金律は最適成長理論で最も基本的な命題であると今も多くの経済学者が考えているという。また、ある学術博士はブログで、最適成長理論は無限の未来の消費を最大化する、これが黄金律なのだ、というようなことを書いている。しかし、以下で述べるように、最適成長理論における黄金律の位置づけはそれほど簡単なものではない。 ===黄金律に向かう道すじ=== 2008年時点のフェルプスは黄金律を目指すのが最適といえないと認めているが、1961年に黄金律を提唱した当初のフェルプスは黄金律を望ましいものとして扱っていた。この場合、すでに黄金律に達しているときは黄金律をたもてばいいが、黄金律から外れているときはどのような道すじで黄金律に向かえばいいかという問題がある。この問題についてフェルプスは、寓話の主人公オイコ・ノモスに次のように主張させている(意訳)。何としてでも今後ずっと確実に黄金律の道すじを進むべきです。黄金律では資本と生産の比率が決まっています。今の資本生産比率が黄金律より低ければ、その不足分がなくなるまで消費を先送りすべきです。今の資本生産比率が黄金律を超えていれば、その超過分がなくなるまで消費を前倒しすべきです。ひとたび黄金律に到達したら、そのあとは黄金律で投資することを皆で誓わなくてはいけません。黄金律にしたがって投資比率を収益比率と一致させてゆけば、後で悔やむことにならないでしょう。こうして最適に準じる社会投資政策の基礎ができあがるのです。 いそいで黄金律を達成すべきだというのがオイコ・ノモスの主張だが、最後で「最適に準じる」と語らせているあたり、この主張の甘さをフェルプス自身が認めていることを表わしている。厳密な理論を構成するためには、何が最適であるかを厳密に定める必要がある。フェルプスの寓話の筋書きは、数学者たちが最適をもとめて極値問題や汎函数やハミルトニアンに取りくみました、しかし実現できる答えを出せませんでした、そこで大がかりな最適化問題を忘れて単純に考えることになりました、そして賢い百姓オイコ・ノモスが黄金律を思いつきました、という話しであった。経済成長の最適化問題は、フェルプスが寓話を発表したあと、次に述べる最適成長モデルで解かれる。 ===最適成長モデル=== 1960年代、フェルプスらの黄金律の研究と並行して、デイヴィッド・キャスやチャリング・クープマンスが最適成長モデルをつくりあげた。最適成長モデルは経済の進むべき望ましい道すじを一本えらぶ。その結果は、望ましい道すじの先にある均斉成長において、資本収益率が成長率を上まわり、消費が黄金律より少なくなる。 最適成長モデルが黄金律に達しないわけは、黄金律に達すると社会厚生(英語版)が無限大になってしまって都合がわるいからである。このことを説明すると次のとおりである。最適成長モデルは、人々の日々の消費を数値で評価し、その数値を無限の未来まで積みあげて社会厚生を計算し、その社会厚生を最大にするように、経済の進むべき道すじを一本えらぶ。日々の消費を評価するにあたっては、未来を先にゆけばゆくほど日々の消費を割り引いて評価する。これは、目先の消費を優先して、先ゆきの消費を犠牲にする傾向があるということなので、長い目でみると消費が黄金律より少なくなる。先ゆきの消費をあまり割り引かないようにすれば長い目でみて消費は増えるが、そうして消費を増やして黄金律に近づけてゆくと、社会厚生が無限大になってしまう。社会厚生が無限大というのは素晴らしいことのように思えるが、無限大のまわりどれも無限大なので、一本の道すじをえらべない。道すじを一本えらべるようにすると黄金律に達しない。いいかえると、道すじを一本えらぶ最適成長モデルは黄金律をえらばない。 ===動学非効率性=== 黄金律が最適成長モデルでえらばれないという点に関して、フェルプスは、その場合でも黄金律は動学非効率性の境界線として規範的な意義をもつと主張した。動学非効率性というのは、消費を一方的に増やせる機会があるのに、その機会を活かしていないという意味で無駄のある状況をいう。資本が黄金律を超えるほど余分に蓄積され、資本収益率が成長率を下まわるほど低下すると動学非効率におちいる。 現代の経済成長理論において黄金律貯蓄率は、きちんと定義された選好から導かれたものではないので最適性の観点からみると過去の遺物とみなされるが、そうであっても動学効率性の議論で役に立つとされる。動学非効率性の文脈において「蓄積の黄金律は今も最適成長理論で最も基本の命題である」といわれる。 たとえばグレゴリー・マンキューはトマ・ピケティ『21世紀の資本』を批判するペーパーで、動学非効率性の境界線として黄金律に言及している。批判されたピケティも実は『21世紀の資本』の目立たない場所で黄金律が動学非効率性の境界線になることを論じていた。ピケティは歴史データをもとに資本収益率 r が経済成長率 g を平均的に上まわるという不等式 r > g を見いだし、それを根拠にして、現実経済の動学非効率性を否定した。かつてマンキューは、もっと緻密な実証方法で先進国の動学非効率性を否定する結果をえたことがあった。 ==市場経済と黄金律== ===修正黄金律=== もともと最適成長モデルは望ましい経済成長をえらぶためのものであったが、今はこれを市場経済のカリカチュアに使いまわす。これを新古典派成長モデルとか標準的新古典派モデル、あるいはラムゼイ・モデルという。 新古典派成長モデルは、均斉成長で利子率が成長率を上まわり、消費が黄金律より少なくなる。新古典派成長モデルが黄金律に達しないことを修正黄金律ということがある。また、均斉成長の利子率を決定する数式を修正黄金律ということがある。これを変形黄金則と訳すこともある。 新古典派成長モデルが黄金律に達しないわけは、黄金律に達するようにすると家計効用が無限大になってしまって都合がわるいからである。このことを言葉で説明すると、最適成長モデルのときの説明をほぼ繰りかえすことになるが、次のとおりである。新古典派成長モデルでは、永久に存続する家計が無限の未来を見とおして、日々の消費を数値で評価して、これを無限の未来まで積みあげて家計効用を計算し、その家計効用を最大にするように消費行動をえらぶ。日々の消費を評価するにあたっては、未来を先にゆけばゆくほど日々の消費を割り引いて評価する。これは、目先の消費を優先して、先ゆきの消費を犠牲にするということなので、長い目でみると消費が黄金律より少なくなる。先ゆきの消費をあまり割り引かないようにしてゆけば長い目でみて消費は増えるが、そうして消費を増やしていって黄金律に近づけてゆくと、家計効用が無限大になってしまう。無限大にならない程度にきつく割り引くようにする必要があるが、そうすると黄金律に達しない。以上について数式をもちいた説明は新古典派成長モデルの節を参照されたい。 ===国債発行=== 資本が黄金律を超えて蓄積されて消費が黄金律より少なくなる場合、政府は国債を十分に発行することで黄金律を達成できる。そのわけは次のとおりである。現役世代は老後にそなえて貯蓄し、老後は貯蓄を取り崩して消費するという世代重複モデル(英語版)を考える。現役世代が老後の生活を心配するあまり貯蓄しすぎると、資本が黄金律を超えるほど余分に蓄積される場合がある。その場合、政府が国債を十分に発行し、現役世代が国債で貯蓄すれば、貯蓄が余分な資本蓄積にまわらなくなり、その分消費が増えて黄金律が達成される。 この理論は1947年にモーリス・アレがフランス語で著した本にさかのぼるといわれるが、アレとは別にピーター・ダイアモンドが1965年にアメリカン・エコノミック・レビュー誌で発表した。このことはダイアモンドがノーベル経済学賞を受賞した際、その業績の一つに数えられている。 ===合理的バブル=== 資本が黄金律を超えて蓄積されて消費が黄金律より少なくなる場合、合理的バブルが発生する可能性があり、合理的バブルが均斉成長で存続すると黄金律が達成される。そのロジックは、ダイアモンドの世代重複モデルにおける国債を合理的バブルにおきかえたものであり、次のように考える。 資本が黄金律を超えるほど余分に蓄積され、資本収益率が成長率を下まわるほど低下すると、低収益の資本に投資するぐらいならバブルに賭けてみるのが合理的になる。そうして発生する合理的バブルの収益率は資本収益率と一致する。そのわけは、バブルの収益率が資本収益率より低ければバブルを売って資本を買えば儲かるし、バブルの収益率が資本収益率より高ければ資本を売ってバブルを買えば儲かるが、こうした裁定取引が十分に行われると収益率の違いがなくなるからである。バブルというのは、本来無用の物でありながら、ただ値上がりするから買われ、ただ買われるから値上がりする。その性質上、バブルの膨張率はそのままバブルの収益率になる。バブルがうまい具合に存続するような均斉成長をバブル均衡という。バブル均衡でバブルは経済成長率と同じ伸び率で膨張する。まとめると、1.資本収益率は裁定取引によりバブル収益率と一致し、2.バブル収益率は性質上バブル膨張率に一致し、3.バブル膨張率はバブル均衡で経済成長率と一致する。つまりバブル均衡で資本収益率と成長率が一致する。このことはバブル均衡が黄金律であることを示す。 この合理的バブルの理論は1985年にジャン・ティロールがエコノメトリカ誌で発表した。この理論はティロールがノーベル記念経済学賞を受賞した際、その業績の一つに数えられている ==近年の論調== ===世界銀行『黄金成長』=== 世界銀行が2012年に発行したレポート『黄金成長:ヨーロッパ経済モデルの輝きを取りもどす』は、黄金律にインスピレーションを得てタイトルをつけ、黄金律にもとづいて政策提言をおこなっている。 このレポートによると、黄金律は最適成長理論で最も基本的な命題であると今も多くの経済学者が考えている。黄金律をたもつことは経済の成熟をしめす。黄金律は単純なので分かりやすく、政策当局は黄金律に魅せられてこれをめざしたいと思うことがあるという。 ===ピケティ『21世紀の資本』=== トマ・ピケティは、2013年にフランス語で著し2014年に日本語に翻訳された『21世紀の資本』で、黄金律について次のような自説を展開している。およそ黄金律に対して否定的である。 歴史データをみると資本収益率が成長率よりずっと高いので、現実の資本は黄金律よりずっと少ない。現実経済が黄金律ほどの資本を蓄積するとは考えにくい。黄金律は抽象理論にすぎず実際問題であまり役に立たない。黄金律において、資本を所有する不労所得生活者は、資本の収益の全てを再投資しないと自分の地位を保てないので、何も消費できない。したがって黄金律の実現は不労所得生活者の支配を終わらせる。しかし黄金律を無理に実現する必要はなく、そうするよりも不労所得生活者に課税するほうがずっと簡単で効果的だ。黄金律は資本の上限を設定するだけのものであって、黄金律に到達するのが望ましいという主張を導き出すものではない。目先の消費を犠牲にしてまで先ゆきの黄金律をめざすのが適切とは限らない。なお、以上のような議論でピケティは均斉成長を基準に考えている。均斉成長では資本と生産が同じ伸び率で成長することが知られる(宇沢の定理)。一方、ピケティは『21世紀の資本』の「おわりに」で資本が生産より速く急成長すると主張している。グレゴリー・マンキューはこれを批判して、ピケティのいうような成長は均斉成長から外れてゆくが、標準的な成長理論は均斉成長を基準にして考えるので、ピケティの考えは標準的理論から外れていると指摘した。 ==語源説== 経済成長の黄金律は聖書の黄金律に由来するという説がある。この説によると、経済成長の黄金律の語源は、新約聖書マタイ伝にある黄金律「人にしてもらいたいと思うことは、あなたがたも人にしなさい」に由来し、これを経済用語におきかえると「現代の世代にも未来の世代にも同じだけ消費させる場合、あるいは、未来の世代の消費を自分たちの消費より少なくしない場合、一人当たり消費の最大量は黄金律である」と解釈できるから、黄金律と名づけられたのだという。また一説には、新約聖書ルカ伝第6章31節にある黄金律を世代間の関係に拡張したものなのだともいう。 もっとも、フェルプスが黄金律を命名したとき、黄金時代(ゴールデン・エイジ)のルールを黄金律(ゴールデン・ルール)と名づけたのであって、語源を聖書の黄金律に求めていない。後にフェルプスは次のように語っている。黄金律という言葉はダジャレ(a play on words)であった。ロビンソン夫人が定常成長の状態を黄金時代と命名したので、黄金時代の選択に関する命題を黄金律と呼ぶのは当然であった。これにくわえて、この言葉の裏に聖書の黄金律「あなたが他人にしてほしいことを他人にしなさい」をほのめかした。 そしてフェルプスは、聖書の黄金律について、他人に権利を要求する者は同じ権利を他人に与えなければならないという意味と解釈する。この意味での黄金律にしたがうと、各世代は前の世代に要求する貯蓄政策を次世代のために自ら実践しなければならない。世代をまたいだ貯蓄政策を選ぶにあたっては、生産や資本収益などに対して一定の線形関係のかたちであらわされる貯蓄政策の中から選ぶ必要がある。さもなければ、各世代は前の世代に貯蓄を要求する一方で、自分は貯蓄を減らしてしまう、という。 ==数式をもちいた説明== ===宇沢の定理=== 変数がそれぞれ一定の伸び率で成長する均斉成長において、技術進歩は労働拡張型である。この定理は初めジョーン・ロビンソンが図示し、1961年に宇沢弘文が証明した。これを宇沢の定理という。 宇沢の定理について、証明方法を簡素化した Schlicht (2006)にもとづいて数式をつかって示すと以下のとおりである。 宇沢の定理では、次のような経済構造を考える。 均斉成長で生産と資本の成長率が一致することを以下のとおり示す。 これらを適宜代入して 生産の成長率と資本の成長率が一致することをふまえ、技術進歩が労働拡張型になることを以下のとおり示す。 ===黄金律の定理=== 資本の収益率(利子率)が成長率に等しくなる均斉成長が存在する場合、その均斉成長が黄金律である。このことをロビンソンは新古典派定理とよんだ。フェルプスは、黄金時代における消費最大化に関する定理とよんだ。後にフェルプスはこれを黄金律の定理とよんでいる。 この定理をPhelps(1965)にもとづいて数式をつかって示すと次のとおりである。 経済構造は次の3つの式であらわされるものとする。 以上3つの経済構造式を資本の微分方程式のかたちにまとめると次式を得る。 これにより利子率が成長率に等しい均斉成長が存在し、それが黄金律になることが示された。 微分不能な点のあるハロッド・ドーマー型生産関数の場合も、黄金律を示すことができる。Golden Rule savings rate ===新古典派成長モデル=== もともとデイヴィッド・キャスやチャリング・クープマンスのモデルは社会計画のための最適成長モデルであったが、後にこれを市場経済における家計の最適化行動におきかえて動学一般均衡モデルとして用いるようになった。この種の動学一般均衡モデルを新古典派成長モデルなどという。 新古典派成長モデルでは、均斉成長で利子率が成長率を上まわり、消費が黄金律より少なくなる。黄金律に達するほど時間選好率を低く設定すると、家計効用が無限大に発散するからである。このことを以下に示す。 まず企業を考える。企業について次のように想定する。 企業は多数存在し、どれも同じ構造をもつ。 企業は利潤を最大化し、生じた利潤を全て家計に配当する。生産関数について次のように仮定する。 次に家計を考える。家計について次のように想定する。 家計は多数存在し、どれも同じ構造をもつ。 各人は各時点で労働を1単位供給する。家計は資本を保有し企業に貸す。初期時点でどの家計も同じだけ資本を保有する。家計は生涯の効用を最大化するように、所得を消費と貯蓄に分配する家計の生涯効用は次のように定義される。 また次のように仮定する。 この条件を追加することで家計効用が無限大に発散しないことが保証される。この条件が満たされないと、家計効用が無限大になり家計の最大化問題が適切に設定されない。この仮定は本節の目的のために重要であり、後で再び登場する。 これを有効労働あたりで表すと次のとおりである。 以上をまとめて家計の最適化問題を設定するためラグランジュ関数を次のように定義する。 また、資本蓄積は次式で与えられる。 以上をまとめると次の3つの式によりこの経済モデルは記述されることになる。 均斉成長における値を添え字なしで表わす。均斉成長では次が成り立つ。 =東慶寺= 東慶寺(とうけいじ)は、神奈川県鎌倉市山ノ内にある臨済宗円覚寺派の寺院である。山号は松岡山、寺号は東慶総持禅寺。寺伝では開基は北条貞時、開山は覚山尼と伝える。現在は円覚寺末の男僧の寺であるが、開山以来明治に至るまで本山を持たない独立した尼寺で、室町時代後期には住持は御所様と呼ばれ、江戸時代には寺を松岡御所とも称した特殊な格式のある寺であった。また江戸時代には群馬県の満徳寺と共に幕府寺社奉行も承認する縁切寺として知られ、女性の離婚に対する家庭裁判所の役割も果たしていた。 ==歴史== ===鎌倉時代=== 東慶寺に残る過去帳等によれば「開山潮音院覚山志道和尚」とある。覚山尼は安達義景の娘で、鎌倉幕府の第8代執権・北条時宗の夫人である。 1284年(弘安7年)4月、北条時宗の臨終の間際、無学祖元を導師として夫婦揃って落髪(出家)し、覚山志道大姉と安名し。そして翌1285年(弘安8年)に第9代執権・北条貞時を開基、覚山尼を開山として当寺は建立されたと伝える。 ただしそう伝える東慶寺の古文書は江戸時代のものであり、現存する古文書で覚山尼を東慶寺開山とするもっとも古いものは戦国時代天文頃の『五山記考異』である。 鎌倉時代の東慶寺に関する確実な史料は梵鐘の銘文である。鎌倉幕府滅亡前年の1332年(元徳4年)に東慶寺の梵鐘が完成した。ただし今は東慶寺にはなく、静岡県韮山の本立寺にある。その銘文によると大檀那は覚山尼の子、9代執権北条貞時の妻覚海円成である。住持に果庵了道の名があり、 他に首座(しゅそ)比丘尼、都寺(つうず)比丘尼の名も見える。このことから東慶寺は鎌倉時代からあり、かなりの規模を持つ北条得宗家ゆかりの尼寺であったことは確実とされる。 ===南北朝時代=== 東慶寺の「過去帳」には、四世住持果庵了道尼のあと南北朝時代に後醍醐天皇の皇女用堂尼が五世住持となったとある。「由緒書」ではこの用堂尼以来「松岡御所」と称され「比丘尼御所同格紫衣寺なり」とする。用堂尼は兄の護良親王の菩提を弔う為に東慶寺に入ったとされ、護良親王が殺された当時東光寺(現鎌倉宮)周辺、二階堂の地を東慶寺が領有していたのはそのためという。 護良親王の墓所・理智光寺等は少なくとも江戸時代には東慶寺が管理しており、明治時代の鎌倉宮創建に際しては東光寺跡地を寄進している。ただし東慶寺の「過去帳」および「由緒書」は江戸時代のものであり、それ以前に用堂尼を記した古文書は現存しない。 ===室町から戦国時代=== 同寺は1515年(永正12年)に火災があり、本尊の墨書銘に「本尊計出候、菩薩座光取出」とあるので、それ以前の古文書のほとんどはその際に焼失したと思われる。「御所」の称号がある最古の史料はその火災から数十年後の北条氏康の書状である。 五世用堂尼以降の室町時代の住持は16世までは過去帳に名前のみ記されているだけで、出身も没年も不明である。寺以外の文書からは室町時代には鎌倉尼五山第二位とされていたこと、代々関東公方(鎌倉公方、古河公方、小弓公方)の娘が住持となっていることがわかる。1454年(享徳3年)の「鎌倉年中行事」には「太平寺長老公方様姫君」とともに「松岡長老」が正月に鎌倉公方足利成氏に謁することになっており、「松岡長老」が誰かは判らないものの鎌倉公方家の女性であろうといわれている。 16世は「足利系図」によれば古河公方足利政氏の娘であり足利成氏の孫にあたる。 17世旭山尼は過去帳によると足利義明の娘である。足利義明は足利政氏の子で「小弓公方」を称して古河公方と対立し、後北条氏と戦い戦死した。その旭山尼は1557年(弘治3年)に示寂とある。この17世旭山尼の頃の古文書は東慶寺に現存する。17世旭山尼の姉は尼五山第一位太平寺の住持青岳尼であったが、安房の里見義弘に連れられて本尊を持って出奔し、義弘の妻となった事件があった。 当時鎌倉を領していた北条氏綱が東慶寺の塔頭蔭凉軒の要山尼に里見氏との交渉を依頼し、取り返した太平寺本尊がいま東慶寺宝蔵にある聖観音立像(重文)である。なおこの事件により太平寺は廃寺となりその仏殿は後に円覚寺に移された。現在の国宝舎利殿である。 18世瑞山尼は足利政氏の孫、古河公方足利高基の娘であり、示寂は1588年(天正16年)6月10日である。 19世瓊山法清尼は小弓公方足利義明の子足利頼純の娘であり、17世旭山尼や太平寺最後の住持青岳尼の姪にあたる。18世瑞山尼示寂の後、後任を安房の足利家に求めたときの北条氏直の1588年(天正16年)の東慶寺宛印判状が残るが、「あわの国にゆうちゃく(幼弱)の御かた」とあり、示寂の1644年(寛永21年)まで56年間あるので、かなり幼い頃に東慶寺に入ったと思われる。 ===戦国時代の寺領=== 鎌倉時代には北条氏の、室町時代には関東公方、戦国時代には後北条氏の庇護を受けているが、徳川家康以前の寺領についてははっきりしない。鎌倉時代については全く判らない。室町時代には関東公方足利氏満の下総国東庄小南郷の勝福寺への寄進状が東慶寺文書に有るので、勝福寺の寺領を東慶寺が引き継いだとも推測できるが詳細は不明である。 北条氏綱の書状には上総国君津郡萬里谷新地のことが出てくる。 寺領の貫高が出てくる文書は、まず東慶寺門前の3貫40文を東慶寺蔭凉軒に安堵する1547年(天文16年)の北条氏直印判状が残る。ただしこれは寺領の極一部であり、この時点での全体像は判らない。次は1559年(永禄2年)の「小田原衆所領役帳」であり30貫文とある。それから10数年後の天正年間の寺領には山内荘内の2か所が見える。舞岡、野庭である。1574年(天正2年)8月17日の北条氏政印判状によると野葉郷(現神奈川県横浜市港南区の野庭)は106貫367文。同日の前岡郷(現横浜市戸塚区舞岡)についての氏政印判状によると前岡郷は216貫753文で、合計すると323貫文となる。このうち公事免や神田などの除田畠が61貫500文あるが、一方で検地による増分が約171貫文あり「此増分、御寺へ御寄進之由」とある。 1590年(天正18年)に後北条氏を下した豊臣秀吉に寺領を安堵される。関東で太閤検地が行われるのはその後である為に貫高・石高は明示されていないが「検地による出分をも領知せしむ」とある。東慶寺の寺領の全容が判明するのは徳川家康の関東入り後である。1591年(天正19年)に徳川家康が出した寺領寄進状には下総国東庄小南郷も、上総国君津郡萬里谷も、山内荘の舞岡も野庭も出てこない。「先例の如く」二階堂86貫60文、十二所内20貫80文、極楽寺内6貫240文とあり、合計112貫になる。この寺領は、鎌倉の寺院では円覚寺の144貫に次ぎ、鎌倉五山第一位の建長寺96貫よりも多い。他の鎌倉五山は浄智寺6貫140文、 寿福寺5貫200文、浄妙寺4貫300文、と二桁も違う。この寺領はその後江戸時代にも維持された。 ===千姫と20世天秀尼=== ====天秀尼の薙染==== 江戸時代には大坂落城の翌年の1616年(元和2年)に豊臣秀頼の娘の天秀尼が千姫の養女として東慶寺に入り、後に20世住持となった。なおこの天秀尼以降、東慶寺は幕府(寺社奉行)直轄の寺であり住持任命も幕府による。 霊牌(位牌)の裏には「正二位左大臣豊臣秀頼公息女 依 東照大神君之命入当山薙染干時八歳 正保二年乙酉二月七日示寂」とある。このうち「薙染」(ちせん)が「仏門にはいる、出家する」という意味である。従って、出家は大坂落城の翌年の1616年(元和2年)、東慶寺入寺とほぼ同時期となる。出家後の名は天秀法泰。天秀が号、法泰が諱である。 ===千姫の仏殿寄進と徳川忠長屋敷の移築=== 天秀尼が20世住持となった時期は1634年(寛永11年)以降、1642年(寛永19年)までの間である。1634年(寛永11年)以降というのは、東慶寺に伝える棟板の墨書銘からである。ここに「住持・法清和尚」「弟子・法泰蔵主(ぞうす)」とあるので、当時20代なかばであった天秀尼はまだ20世住持にはなっていなかったことになる。 東慶寺の寺例書には「駿河大納言様の御殿御寄付…客殿方丈等右御殿を以てご建立遊ばされ今に有」とあり、棟板の墨書銘はそのときのものである。「駿河大納言」とは家光や千姫の弟徳川忠長であり、1633年(寛永10年)12月6日に28歳で切腹させられた。翌年その屋敷が解体されて東慶寺に寄進されたということになる。この棟板の墨書銘には住持の19世瓊山法清尼と弟子の天秀法泰尼の他に歴史上有名な女性が二人登場する。千姫と、当時の将軍徳川家光の乳母・春日局である。 この寄進を裏方として主導したのが春日局であろうと思われている。この寄進は当時の東慶寺の景観を一新するもので、千姫を通じた天秀尼と徳川家との強い関係を物語っている。 「新編相模国風土記稿」には仏殿も「駿河亜相忠長卿の旧館を移し賜ひ、寛永11年10月御建立あり、其時の棟板を蔵せり」 とある。その仏殿は1907年(明治40年)に横浜の三溪園に移築され、重要文化財として現存する。 かつては1515年(永正12年)の大火災後に建立されたものが「駿河大納言様の御殿御寄付」のときにその部材をもって修理されたのではないかとも見られていた。しかし現在では仏殿は1634年(寛永11年)の千姫寄進による新築、忠長卿の旧館を移したものは客殿と方丈、そして大門等とされている。現在三溪園にある旧仏殿の屋根は茅葺の寄棟造であるが、1839年(天保10年)の「相中留恩記略」の境内絵図には寄棟造よりも格式が高い入母屋造に書かれており、1956年(昭和31年)の三渓園「修理工事報告書」でも建立当初は入母屋造であって、現在の状態は後世の改修と推察している。 寄進が千姫であるのでその入母屋造屋根は檜皮葺であった可能性もあるがそこまでの史料はない。 ===豊臣秀頼菩提の雲板=== 天秀尼の20世住持就任を1642年(寛永19年)以前とするのは、父秀頼(法名崇陽寺秀山)菩提のために「天秀和尚」が寛永19年に鋳造した雲板(うんばん)が残されていることによる。そこに寛永19年とあり、「和尚」とは住持であることを示している。 先代の瓊山尼はこの頃存命であったが、この時点では隠居していたことになる。 雲板は、禅宗寺院で庫裏や斎堂などに掛け、食事・法要などの合図に打ち鳴らす雲形の板。日本には鎌倉時代に禅宗とともに伝えられた。青銅または鉄板製であるが、東慶寺のものは青銅である。 ===会津四十万石改易事件=== 天秀尼の千姫を通じた徳川幕府との結びつきの強さを物語る事件に1639年(寛永16年)4月16日に始まる会津騒動、会津四十万石加藤明成改易事件がある。 天秀尼と会津四十万石改易の関係を記した史料は1716年(正徳6年)に刊行された「武将感状記」という逸話集である。それによると、会津四十万石の加藤明成の家老・掘主水が主君明成と対立して脱藩し、妻子を鎌倉の東慶寺に預け、自身は高野山に逃げた。 加藤明成は家臣を東慶寺に差し向け、掘主水の妻子を捕縛したのかしようとしたのか、それに対して天秀尼は「大いに怒りて、頼朝より以来此の寺に来る者如何なる罪人も出すことなし。然るを理不尽の族(やから)無道至極せり。明成を滅却さすか、此の寺を退転せしむるか二つに一つぞと 、此の儀を天樹院殿に訴へ」これによって会津四十万石は改易になったと。 この「武将感状記」の記述が正しいとすれば、そこに伝える「比丘尼の住持大いに怒りて」は、掘主水が加藤明成に殺された1641年(寛永18年)以降、改易される1643年(寛永20年)までの間となる。 ただしこの話が記されている「武将感状記」は『雨月物語』まがいの話まであり全体としては信憑性に疑問がある。これだけで会津四十万石の改易と天秀尼の関係を史実とすることはできない。ところが掘主水の妻は確かに東慶寺に駆込んでおり、かつ天秀尼が義母千姫を通じて幕府に訴えてその助命を実現したこと、掘主水の妻は事件より30数年も後の1679年(延宝7年)10月19日に亡くなったことが、先々代住職井上禅定師の頃に明らかになった。 ===天秀尼の示寂=== 天秀尼の示寂は、霊牌、および墓碑により1645年(正保2年)2月7日 であり、37歳で死去したことが判る。その十三回忌に千姫は東慶寺に香典を送っている。天秀尼の墓は寺の歴代住持墓塔の中で一番大きな無縫塔である。側に「台月院殿明玉宗鑑大姉」と刻まれた宝篋印塔があり、「天秀和尚御局、正保二年九月二十三日」と刻銘がある。天秀尼の死去の約半年後である。 東慶寺の前住職井上正道は「東慶寺にかなりの功績のあった人物、もしくは天秀尼が相当の恩義を感じていた、天秀尼にとっての功労者」「常に天秀尼のそばにいて、天秀尼を教育した人物」「天秀尼の心の拠り所であり、天秀尼の心の支えであったのではないか」と推測しているが、寺にはこの人物についての文献、伝承も一切なく、ただ墓のみが残っている。 ===天秀尼以降の住持=== ====21世永山尼==== 天秀尼の示寂の後約25年は住持不在であった。蔭涼軒、海珠庵等の塔頭に尼は居たが、その格式故に誰でもという訳にはいかない。 代々の住持は関東公方足利氏の娘であり、17世旭山尼、18世瑞山尼、19世瓊山尼の頃には足利氏は実力は衰えてはいても「公方」、「御所」の娘である。19世瓊山尼も先述の棟板墨書銘に「住持関東公方家左兵衛督源頼純息女法清和尚」と名乗っている。 天秀尼は「右大臣従二位豊臣朝臣秀頼公息女」であるので格式は十分であったが、それらに劣らぬ者となると適格の女人が得られず寺社奉行も困却する。 関東足利氏は古河公方、小弓公方に分裂していたが、瓊山尼の妹月桂院の奔走により、古河公方足利義氏の娘足利氏姫と、瓊山尼や月桂院の兄妹である小弓公方家の足利国朝の結婚によりかろうじて一本化され、喜連川家として存続していた。この喜連川家は徳川幕府下では他に例をみない御所号まで許された格式10万石、表高ゼロ、実高5,000石の特殊な藩である。その喜連川藩が蔭涼軒や海珠庵等東慶寺の塔頭の尼を経由して幕府寺社奉行に請願し、天秀尼の示寂の後10年後に喜連川尊信の娘が17歳で入寺する。21世永山尼として住持となったのはそれから15年後の1669年(寛文9年)である。 ===22世玉淵尼=== 永山尼の示寂後約21年間は再び住持不在となった。1728年(享保13年)に高辻前中納言の息女が最後の住持予定者として入山するが、このとき古例を踏んで一旦喜連川茂氏の養女となり、そのうえで東慶寺に入っている。この高辻前中納言息女が22世住持玉淵尼となったのは1737年(元文2年)であるが元々病弱であったらしく住持となって直ぐに京へ戻っている。以降明治に至るまでの130年間、東慶寺には尼は居たが住持はいないかった。 ===蔭涼軒の院代時代=== ====蔭涼軒==== 東慶寺には時代により複数の塔頭があったが蔭凉軒(いんりょうけん)はその筆頭であり、西堂の法階をもつ重職である。先に太平寺本尊・聖観音立像を取り戻す交渉を行った蔭凉軒要山尼が出てきたが、その要山尼が大永年間(1521‐1528年)頃に開いた。要山尼は道号に「山」がつくことから足利氏の出身と推定されている。 天秀尼示寂後の無住持時代は蔭凉軒五世法孝尼が院代(住持代行)を勤めている。東慶寺に徹宗法悟尼像が残るが、この徹宗尼は21世永山尼の姪(妹天野氏室の娘)であり、蔭凉軒の庵主になった。この蔭凉軒徹宗尼は永山尼の示寂後に院代を勤め、伯母の十三回忌に泰平殿を建立する。そして22世玉淵尼の帰京後も院代を勤めた。 以降明治に至まで蔭凉軒の庵主が院代を勤めている。 ===寺役人=== 近世において比較的大規模な寺領をもつ寺社は、領主として領民支配を行い年貢をとっており、その為の統治機構を有している。 その頂点はもちろん住持であるが、実務は代官、寺侍・寺役人と称する俗人が行っている。東慶寺も112貫という領地を持っており、御所寺という格もあって寺役所があり寺役人を置いていた。 喜連川藩より永山尼が入寺したときに飯島左衛門重貞が付人として来た。これが喜連川藩から差し向けた最初の代官・寺役人である。永山尼は1707年(宝永4年)に示寂するが、喜連川藩は13回忌まで「霊供等世話致し度段」と永山尼の付人代官飯島覚右衛門を東慶寺に残し、13回忌が終わってもそのまま代官を東慶寺に置く。 喜連川藩は家格は高くとも実際には5,000石の小領主であり、数百石の東慶寺を差配することはかなり旨い話である。 1787年(天明7年)に蔭涼軒法清尼等がこの喜連川藩代官の収支牛耳、横領を円覚寺に訴える。円覚寺は寺社奉行に伺い、月桂寺が中に入って調停し、喜連川の代官は引払いとなった。 その後は円覚寺差配のもとに蔭涼軒主が院代として寺務執行し、寺役人は円覚寺紹介の被官が務めるが、そのあとも寺役人の不法はたびたび続いた。 5年後の1793年(寛政5年)には寺役人が境内の松杉等の大木を盗伐し隣の浄智寺側に落とした事件があった。このとき被官を紹介した円覚寺役者(後の大用国師誠拙周樗)が東慶寺院代に詫びを入れ、円覚寺役者・東慶寺院代は被官三人に十七ヶ条の申し渡しをしている。この内 6条から13条までが縁切寺法に関することである。東慶寺の寺役人は元々は円覚寺の縁で東慶寺に勤めた者だがこの頃には院代と円覚寺 対 寺役人の対立で暗雲低迷する。 1802年(享和元年)に蔭涼軒主耽源尼は寺役人の横暴に嫌気がさしたのか、寺の御朱印を持って円覚寺に駆込んでしまい、その後円覚寺に寺の御朱印を預けて実家の旗本大久保家へ戻ってしまうという事件があった。このとき東慶寺には蔭涼軒の他に清松院、永福軒という2つの塔頭があったが既に無住であり、東慶寺には住持ばかりか一人の庵主もいなくなってしまう。清松院の留守番に老尼がひとりいただけである。もはや寺とは言い難いが、しかし寺役人が東慶寺とその寺領を支配しており、翌1803年(享和2年)に寺役人は円覚寺の不法を寺社奉行へ訴え出る。簡単に云うと東慶寺の御朱印を寺役人に戻せというものである。この裁判は寺社奉行阿部播磨守の屋敷で5名の奉行列席の元で行われ、その尋問に寺役人は満足に答えられず「恐れいるばかりでは相済まぬ、返答致せ」と寺社奉行脇坂淡路守に詰問され寺役人は敗訴となる。 ただし寺役人は東慶寺を追放された訳ではなく「右御達の趣逐一承知仕り万事御山の御指図に随ひ取計可仕候」と一札を取られて寺役人を続けた。 ===院代法秀尼=== その後、1808年(文化5年)に常陸水戸藩の姫法秀尼が蔭涼軒主・院代となっている。水戸藩の姫でも住持ではなくて院代というのが東慶寺の特殊な格式である。この年に水戸藩の史館で『東慶寺考』を編纂して寄進している。また水戸藩の後ろ盾で、1834年(天保5年)頃寺社奉行脇坂淡路守に年貢実収は寛永頃(1624 ‐ 1645年)の半収と嘆き、貸付所の許可願いを出して許され、1836年(天保7年)には江戸にも支所を設けている。 東慶寺の寺役所にお白洲が出来たのはこの頃と思われる。ただしこのお白洲は東慶寺領の支配者としてのもので駆込女がお白州に座らせられたわけではない。また次ぎの章で触れる縁切寺法、その手続きもこの院代・蔭涼軒法秀尼の頃に整備された。示寂は1852年(嘉永5年)である。 ===明治以降=== ====尼寺・縁切寺法の終焉==== 明治維新により縁切寺法は廃止され、寺領からの年貢を失い、二階堂に山林を残すのみとなるがそれも大半は横領される。最後の院代順荘尼を描いた1897年(明治30年)の小説には「維持の方法立かぬれば徒弟たりし多くの尼法師、留置の婦人、被官残らず一時に解放し寺内の法務は本山円覚寺山内の役僧に委ね現住職法孝老尼女は別房に退隠して年老いたる婢女一人と手飼の雌猫一疋とを相手に…総門山門はもとより方丈脇寮諸社なと 朽廃にまかせ修繕の途なきはおおかた取りこぼち薪として一片の姻と化し」とある。順荘法孝尼は1902年(明治35年)78歳で死去し、尼寺東慶寺は幕を閉じる。そういう「修繕の途なき」状態の中で仏殿が原三溪に引き取られる。なお、明治10年代には庫裡が山内村の小学校になった。これが現在の小坂小学校の前身のひとつである。 ===尼寺終焉後の住職=== 1903年(明治36年)、後に円覚寺管長となる古川堯道(ぎょうどう)が男僧としての第一世住職となる。その2年後の1905年(明治38年)に円覚寺管長で建長寺管長も兼務していた釈宗演が管長を辞して東慶寺の住持となり、その頃鈴木大拙がしばしば訪れ、夏目漱石も訪れる。釈宗演は1919年(大正8年)に61歳でこの寺で亡くなり、弟子の佐藤禅忠が住職となる。1923年(大正12年)9月の関東大震災で鐘楼を除く全ての建物が倒壊したが、禅忠は書院を大正末に再建し、1935年(昭和10年)本堂の再建と同時に53歳で亡くなる。 そのあと隣の浄智寺住職・朝比奈宗源が東慶寺住職を兼務し、昭和16年に佐藤禅忠の弟子であった井上禅定が住職となる。 この井上禅定の頃に、釈宗演の遺言であった松ヶ岡文庫を鈴木大拙の蔵書をベースに、財界人の寄付を仰ぎ設立する。 尼寺東慶寺のわずかな遺産として二階堂に山林を持っていたが、永福寺跡の茅場も東慶寺が所有しており、それが鎌倉市に買い上げられたときにその代金でこれも釈宗演の遺言であった松ヶ岡宝蔵を建てた。井上禅定は1971年(昭和46年)から3年間円覚寺派宗務総長として管長朝比奈宗源を補佐し、1981年(昭和56年)8月より浄智寺住職に転じて、東慶寺住職には子息の井上正道が就任する。井上禅定は晩年、鎌倉市の緑を守る活動に積極的にかかわりながら、2006年(平成18年)1月、95歳で亡くなった。歴史に詳しく 『鎌倉市史・寺社編』の東慶寺の項は井上禅定の『駆入寺』を下敷きにしている他、『円覚寺史』の共著者でもある。 井上正道は2013年(平成25年)7月に亡くなり、子息の井上大光が住職に就任した。 ==縁切寺法== 東慶寺は、近世を通じて群馬県の満徳寺と共に縁切寺(駆込寺)として知られていた。この制度は女性からの離婚請求権が認められるようになる1873年(明治6年)5月の直前、1870年(明治3年)12月まで続く。 東慶寺の「由緒書」には「覚山(開山の覚山尼)貞時へ願はれ候は・・・女と申すものは不法の夫にも身を任せ候事常に候う事も尋常に候えば、事により女の狭き心によりふと邪の心差詰めたる事にて自殺杯致し候もの有之、不便の事に候間、右様の者有候節は三ヶ年の内、当寺え召抱置、何卒夫の縁を切り身軽に致し存命仕ませ候寺法」云々と願い、北条貞時も母の申し出故に是非もなく、朝廷に乞いて「勅許を蒙り夫より世上に名高く寺格も格別なり」 とある。しかしこれには確証が無く、穂積重遠は「これははなはだ研究を要する。…ともかく縁切寺が東慶寺だけでなかったことは確かで」と書き、先々代住職井上禅定も「縁切寺法が開山以来連綿と続いているという口上書きは遡及扱いにして開山に付会した書き方である」とする。 三年も一緒に暮らしていなければもう夫婦ではないというのは江戸時代初期には既にあった社会通念であり東慶寺に限ったことではない。この「由緒書」の記述は江戸時代の感覚である。書かれたのは1745年(延享2年)。幕府に差し出したものである。ただし少なくともその江戸時代中期以降東慶寺にはそう伝えられ、そう信じて駆込みに対処してきた。 ===中世の女性の地位=== 中世を通じて結婚・離婚という概念があったのは「家」を確立していた上中層階級だけである。 その上層階級の頂点貴族社会においても、結婚とは男が決まった女の処へ通い、その家に住み着くことであり、逆に離婚は夫がその妻の家に帰らなくなることだった。芥川龍之介の短編小説『芋粥』の原作は『今昔物語集』第26巻17話「利仁将軍若時従京敦賀将行五位語」という藤原利仁の若い頃の話である。利仁は「芋粥を腹一杯食ってみたい」と云った先輩の五位殿(侍階級の下級貴族)を敦賀の自分の家は連れていくが、その家は有仁という「勢得ノ者」の家で、利仁の妻はその娘だった。同じ『今昔物語集』第28巻1話には「近衞舎人共稲荷詣、重方女値語」がある。 茨田重方は妻帯者だったが仲間とともに稲荷詣に行く道で美しそうな女性を見つけ一生懸命口説く。 しかしそれは重方の妻で、逆上した妻は往来の真ん中、夫の同僚達の見ている前で夫の髷を掴み「山も響くばかりに」ひっぱたいて「今日から私のところへきたら、この神社の神罰が当たろうぞ」「来たら、必ずその足をぶち折ってくれる」と云う。茨田重方は実在の人物であり武官である。 平安時代と鎌倉時代は政権は大きく変わったが社会風俗としてはほぼ同じである。平安末期から鎌倉時代の東国の女性は戦闘にも加わる。 北条政子は他に例を見ない歴史的な恐妻と思われているが、他の妻も母も相当な発言力を持っている。御成敗式目にも女性の相続は当然のこととして記述されている。女性の地頭が居たり、訴訟の当事者としても女性が多数登場する。妻からの離婚の訴えも出来た。 中世でも平安時代後期から鎌倉時代を経て室町時代末期に下るにつれ、公的な世界からは女性が徐々に排除されていくが、しかしその中世の中で女性の地位が最も低下していた戦国時代、1562年に日本に来て35年間日本に住んでいたポルトガルの宣教師ルイス・フロイスの日本覚書にはこういう記述がある。 (ヨーロッパでは)堕落した本性にもとづいて男のほうが妻を離別する。日本ではしばしば妻たちのほうが夫を離別する。 ヨーロッパでは妻を離別することは罪悪であることはともかく、最大の不名誉である。日本では望みのまま幾人でも離別する。 彼女たちはそれによって名誉も結婚(する資格)も失わない。 しかしそれも上中層階級においてである。 ===近世・江戸時代の離婚=== 江戸時代より前の庶民(下層階級)には離婚という感覚は無い。そもそも男女が夫婦として同じ家に住み、協力して家業、例えば農耕に励み、子供を育てて家を継がせるという「家」の概念が一般庶民にまでは浸透していなかった。それが名主や豪農ですらない一般の農民・庶民にまで浸透していったのは江戸時代初期の婚姻革命によってであるとされる。江戸時代ほど「本音」と「立前」の落差が激しい時代は無かったと云われるが、結婚・離婚について「立前の世界」が出来たのは江戸時代になって徳川家康が儒教を取り入れて以降である。 儒教での女性感は「女三界に家なし」な教訓書『女大学』によくあらわれており、妻が夫を嫌って別れたいなど決して思ってはならないことであった。奉行、代官などになる上級武士は儒学で育っている。儒学の女性観が江戸期の婚姻・離婚の幕府法制上の「立前」である。 一方で一般には明治以降現在に至るまで、封建制下の女性は男尊女卑な「七去三従」でがんじがらめにされていたと思われている。「立前」ではなくそれが「本音」「実態」だったと。しかし高木侃は「明治民法は、それ以前はタテマエにすぎなかった夫権優位を現実に強制した」と全く逆のことを述べる。 江戸時代の離婚は「夫側からの離縁状交付にのみ限定されていた」と良く云われる。 それを象徴する学術用語が石井良助の「夫専権離婚」説である。石井良助は法制、つまり「立前」としてはそうだったと述べているだけだが、この「夫専権離婚」という言葉が一人歩きし、実態としてもそうだったと思われがちである。 もうひとつ一般にそう思われがちな理由は、多くの離縁状に離縁理由として書かれる「我等勝手に付」である。夫は勝手に妻を離婚出来たと。そういう誤解がかなり広く浸透している。 しかしこの「勝手」の意味合いは現在の印象とは少し違い「都合により」ぐらいの意味であることは70年以上前の穂積重遠の段階から指摘されており、 その後高木侃が詳細に論証した。それは具体的な理由は書かないのを良しとするという現れであり「妻の無責性」を表すものであると。 退職願に「会社に将来性がないから」とは書かず「一身上の都合により」と書くのと同じである。 「離縁状は夫が交付する」のはその通りであるが、しかし高木侃は実態としては夫は勝手気儘に妻を離婚出来たという「専権」ではなく、むしろ夫に科せられた「義務」であると強調する。 現在では百科事典でも「当時庶民の間では,離婚は仲人・親類・五人組等の介入・調整による内済(示談)離縁が通例であったと思われるが、形式上妻は夫から離縁状を受理することが必要であった」とされる。 嫁ぎ先の「家」の資産にもよるが、儒教的な道徳や武家社会の慣習が浸透しなかった農民や町人の社会においては、女性の地位はけっして低いものでは無かった。いわゆる水飲み百姓で、資産(田畑)などろくになければ「家」の重みもない。 夫婦は対等に近くなる。幕末から明治にかけての日本の庶民の女房を観察した外国人はこう述べている。 下級階級では妻は夫と労働を共にするのみならず、夫の相談にもあずかる。妻が夫よりも利口な場合には、一家の財布を握り、一家を牛耳るのは彼女である(チェンバレン)。 彼女らの生活は、上流階級の夫人のそれより充実しており幸せだ。何となれば、彼女ら自身が生活の糧の稼ぎ手であり、家族の収入の重要な部分をもたらしていて、彼女の言い分は通るし、敬意も払われるからだ。・・・夫婦のうちで性格の強いものの方が、性別とは関係なく家を支配する。(ベーコン)。 明治以降昭和初期までの近代においてさえ地方の常民の間では立前はあまり強くは無いことが民俗学の調査で判る。 江戸時代には妻の方からは離縁を言い出せなかったのかというとそうではない。 最古の離縁状の実物は1696年(元禄9年)のものであるが、夫が1両の趣意金を受け取っていることから、妻方からの要求による離縁である。 どっちの家、家業に入るかということも大きい。 婿養子の場合には「三界に家なし」は家付娘である妻ではなくてよそ者の婿殿になる。 近年十日町市で1856年(安政3年)の「妻の書いた離縁状」も発見されている。 話がつきさえすれば離婚できた。問題は話がつかなかった場合である。 ===縁切寺三年勤の背景=== 江戸時代の「律令要約」には妻方からの離婚に関して5つの条項がある。 そこに共通するものは「三、四年過ぎ」というキーワードであり、例えば「離別状遣わさずといえども、夫の方より三、四年進路致さざるにおいては、例え嫁し候とも、先夫の申分立ち難し」である。 この判例は「公事方御定書」でも踏襲されている。 江戸時代中期以前に「3年も別居していればもう夫婦ではない」という社会通念が成立していたと言える。 妻方からの離縁の申し出に話がつかなかった場合の強行手段として「夫の手に負えぬ場所」への「縁切奉公」があった。 これを「縁切奉公」と名付けたのは石井良助である。どのような場所かというと代表的には武家屋敷である。尼寺も勿論、普通の寺である場合もある。関所に駆込んだ例もある。 要するに「夫の手に負えぬ」、連れ戻せぬ、少なくとも庶民にとって「権威のある場所」であれば良かった。そこに3年間奉公していれば結婚は時効となる。それが禁止された後でも、夫方を呼び出して「離縁せよ」と云ってくれる。 東慶寺も江戸時代初期にはそうした「夫の手に負えぬ場所」のひとつであった。ただし元禄時代の「盤珪禅師法語」に「女人問、女は業ふかき者にて高野山または比叡山などの貴き山へは結界とて上る事を得ず。師曰、鎌倉に比丘尼寺あり、是は男結界也」とあるように、男子禁制の代表として知られ、かつ会津四十万石改易事件にも見られるように、その「男結界」は大身の大名すらはねのけるほどである。庶民の夫にとっては並みの「手に負えぬ場所」ではない。 しかし江戸時代中期に幕府は武家屋敷への駆込みを抑制したらしく、「縁切奉公」先の多くは「駆込は迷惑だから」「風俗よろしからず」と受け付けないことを表明する。年代としては1704年(宝永元年:前橋藩)から1786年(天明6年:小諸藩)頃である。 それらは関東近国の親藩・譜代であったが、遠く九州の外様大名である熊本藩でも「縁切奉公」の慣行があり、それが1773年(安永2年)の達しで禁止される。 なお縁切三年奉公と言っても東慶寺では足掛3年満24か月であった。 ===離縁状=== ここでは「離縁状」に統一するが、「去状(さりじょう)」、「暇状(いとまじょう)」、「隙状(ひまじょう)」、「縁切状」、「手間状」と呼ぶこともある。 最古の離縁状の実物は1696年(元禄9年)のものだが、 写しなら1686年(貞享3)のものが福井で見つかっている。 幕府の直轄地である京都で1684年に刊行された用文章(実務文例集)『願学文章』にはすでに「離縁状」の雛型が載っている。 小田原藩では離縁には証文を必要とするというお触れが1669年(寛文9年)にあった。 「向後女房離別いたし候者これあり候はば、自筆にてさり状を遣わすべく候、・・・此以後かようの証文これなく離別いたし候と申し候とも、御立なられまじき由、仰せでられ候、此旨村中へも申し渡し、堅くあい守り申すべく候」と。 この方針は幕府の方針だった可能性もある。 この当時の幕府の法令(御触れ)は諸藩に伝えられ、特に親藩・譜代ではおおむね右へならえする。 まして小田原藩主稲葉正則はこのとき老中首座で、後には大政参与にまで登った大物である。 しかし幕府の方針だったとしても年代を超えて一貫したものではなく、記録も集積されない。 それは徳川吉宗による享保の改革の目玉のひとつ、1742年(寛保2年)の公事方御定書を待たなければならない。 また離縁状は全国一律に必要とされた訳ではなく、幕末に至るまで必要とされなかった地方がある。主に西国である。 ===縁切寺への幕府の態度=== ====江戸時代初期==== 「近世・江戸時代の離婚」でふれたように、江戸時代ほど本音と立前の落差が激しい時代は無かったと云われる。 例えば妻の不義密通など言語道断であり「公事方御定書」の下巻「御定書百ヶ条」では「死罪」。 夫が妻と間男を重ねて4つにしても、つまり二人とも殺してもお咎めなしてある。 しかし密通がばれてもほとんどは元の鞘に納まるか、あるいは先の「仲人・親類・五人組等の介入・調整による内済離縁」つまり示談による離婚になっている。 しかし幕府奉行所のお白州までくるとそこは立前の世界である。 江戸時代初期には妻が夫を嫌うこと自体が不届とされて、1662年の判決においては「髪を切ってでも離婚したい」という妻の訴えを退けている。 妻が縁切りを求めて東慶寺に駆込むと言う事自体も嫌忌した。 1688年(貞享5年)2月14日の東慶寺への妻の駆込に対する幕府の判決に「ふり儀、三之丞(夫)を嫌い、鎌倉松岡東慶寺へ欠(駆)入候段不届」とし、既に東慶寺に入寺しているので、離婚だけは認めるが、「今後縁付き無用」つまり再婚は認めないというものがある。 このときの在寺期間が足掛3年(卯年より翌々年の巳年9月)であった。 縁切寺三年勤と言っても東慶寺では足掛3年満24ヶ月であったが、それはこの前例を踏襲したものと思われる。 なおこの判決では離縁状の授受は問題にされていない。 「公事方御定書」以前であるので、判決にバラツキはあるが徐々に軟化していったらしいことが後の「律令要約」を見るとわかる。 ===江戸時代中期=== 東慶寺が離縁状を取るようになったのは1700年前後であることが寺役人が1745年(延享2)に寺社奉行に提出した寺例書でわかる。 読み下しを要約するとこうなる。 以前は離縁証文も差し出させず、当山へ入れ二十四ヶ月相勤めれば縁は切れてきたが、下山した女に元の夫が難渋申しかけ、出入りに及んだので、寺社奉行永井伊賀守に仰せつけられて以来、縁切証文並びに親元の証文を差し置き申す。 永井伊賀守とは永井直敬であり、寺社奉行であったのは元禄7年(1694年)から10年間である。 趣旨は1669年(寛文9年)の小田原藩のお達しと同じである。 足掛3年経っても夫が納得せず「出入りに及ぶ(訴え出る)」ことがあったので、そのようなことにならぬように縁切奉公・寺法離縁の場合でも夫から離縁状を取れと、今でいう行政指導が有ったということである。 この古文書から、東慶寺が離縁状をきちんと取りだした時期と、それ以前から「駆込み」を受け入れていたこと、さらに幕府・寺社奉行がそれを承認していたことがわかる。 1720年頃には江戸町奉行の反感を買うが、これは妻の駆込み後、直ちに飛脚が奉書(後の寺法書)を届け、夫に離縁状を書かせようとしたことが反感を招いたという。 1721年(享保6年)の事例では、東慶寺から夫方に来た最初の通知は出役達書ではなく離縁状を書けという奉書であった。それが菊桐御紋の御用箱で突然来る。思いあまった夫方が町奉行にお伺いをたてたら「東慶寺には適当に返事をしておけ、妻が東慶寺を出たら捕らえて報告しろ」と命じた。 その当時の奉書は、1727年(享保12年)の奉書を引用した文書からわかるが、後の寺法書より短く単刀直入である。 それが変わったのは1731年(享保17年)である。同様のケースで「松ヶ岡へ欠込候上は、寺法之事ニ候間、離縁差遣すべき旨仰せ」つけている。 名主側の心得書(マニュアル)にも、万一菊桐御紋の文箱が届いたら、箱を開けずに神棚に飾って、即座に夫に離縁状を書かせるべしと書いてある例がある。 相手が松岡御所では勝ち目は無いし厄介ごとが長引くと大変だという訳だが、もうひとつは、この頃封を切らずに夫が離縁状を差し出せば駆込女の在寺期間は24ヶ月の半分12ヶ月になったことによる。これは1793年(寛政5年)の「被官え申渡十七ヶ条」の6条にある。 「律令要約」に「夫を嫌い、家出いたし、比丘尼寺へ欠(駆)入り、比丘尼寺へ三年勤め、暇出で候旨訴うるにおいては、親元へ引き取らす」と書かれたのは1741年(寛保元年)である。 1688年(貞享5年)の幕府の判決にあったような「妻の再婚は認めない」という部分が無くなっている。 1762年(宝暦12)には「縁切寺は東慶寺と満徳寺に限る」との寺社奉行所の発言が前橋藩に記録される。 右二ヶ寺(東慶寺と満徳寺)公儀より仰せ出されはこれなく候えども、古来より寺法右の通りにてこれあり候間、縁切せ然るへき由、尤も都(すべ)て尼寺右の通りにて申す訳にてはこれなく候。 これは満徳寺へ駆込んだ妻の三年勤めの後に離縁状を請求したが夫が承服せず、満徳寺は寺社奉行へ訴え、寺社奉行が前橋藩へ夫に離縁状を書かせろと指示した一件である。 このとき前橋藩の郡代は「御公領と御私領とハ訳も違可申」、離婚は「夫之意ニより」、「左様ニ(縁切寺法のように)婦人之方理合強キ様ニては不相済」と反発している。 それに対して前橋藩の江戸藩邸はこれを断ると幕府の評定所で審議されて「寺法之通」りに裁決されるはずだから断れないと国元に伝える。 ===江戸時代後期=== 更に後の時代には、あわや縁切寺法の断絶かという場面が幕府の一喝で救われたということもあった。 先にも触れたが 1801年(享和元年)に蔭涼軒主耽源尼が寺の御朱印を円覚寺に預けて隠居し実家へ戻ってしまう。 東慶寺を預けられてしまった円覚寺は、当分の間、東慶寺の縁切寺法を中止すると決めてしまった。 このとき寺社奉行の松平周防守(浜田藩主)が円覚寺の僧を呼び出して役人に叱責させた記録が円覚寺に残る。 そこには「欠入(駆込)寺東慶寺に限り候に、それ(駆込)を断り候はば、円覚寺より日本中へ触差出候様可然」と。 この「ならば日本中に駆込中止の触れを出せ」との叱責に慌てた円覚寺は縁切寺法の継続させることにしたという一件である。 また、東慶寺の縁切寺法に従わない、寺法離縁状を書かない強情夫を寺社奉行が呼び出して仮牢で脅すというようなバックアップも行っている。 東慶寺と満徳寺以外については問い合わせがあればこれを禁じている。 しかし記録に残るその問い合わせは1825年(文政8年)、1846年(弘化3年)、もう一件は文化・文政(1804年〜1829年)の頃と推測されている。1762年(宝暦12)の寺社奉行所の発言は全国の領主および寺院に周知された訳ではない。尼寺に限らず多くの寺院が駆込があれば受け入れており、その地の領主・役人も話がこじれない限り受容していたということでもある。 ところで先に「東慶寺と満徳寺以外については問い合わせがあればこれを禁じている」と書いたがそれはおおよそであり、満徳寺の場合は常に認められていた訳でもない。 先に触れたが1801年(享和元年)に寺社奉行所の寺社役は円覚寺に「欠入寺東慶寺に限り候に」と述べているし、1843年(天保14年)に幕府岩鼻代官所は離縁がこじれて双方の掛け合いがうまくいかなければ、奉行所に出訴すべきであり、満徳寺がこれに関与する必要は無いと満徳寺を無視している。 先に1731年(享保17年)から江戸町奉行の態度が変わったと記したが、これにも多少のブレはある。1845年(弘化2年)に町奉行所は満徳寺に駆け込んだ妻「さよ」を差し出させようとし、満徳寺は寺社奉行に訴えたが町奉行所に差し出すように言われている。結局「さよ」は町奉行所の威圧に屈して帰縁した。 「公事方御定書」以降であっても幕府の態度は常に一貫したものではなく、寺社奉行・町奉行・代官所の間でもバラツキはある。 ===東慶寺の寺法手続き=== 以下はあくまで江戸時代後期 1808年(文化5年)に水戸藩の姫法秀尼が院代がとなってから寺法書式集などを含めて手続きが整備されて後の話である。 この時期は東慶寺でも、もうひとつの縁切寺である満徳寺でも、ほとんどは「内済離縁」である。 事例は様々で、夫が反省して復縁した例、夫が嫌いな訳ではないけど姑に堪え切れず、 などというのもある。 ===身元調べ・女実親呼出=== 駆込みがあると即座に入寺させるのではなく、御用宿(東慶寺では三件あった)へ預る。 この御用宿は単なる宿泊施設ではなく、「身元調べ」を代行し、後から来た夫方との和解、あるいは内済離縁の調停をすることもあり、宿兼東慶寺に対する司法書士、相手方との示談仲介という点では弁護士のような役割も果たした。 寺役人によってか、あるいは御用宿かでまず「身元調べ」を行い、次いで「女実親呼出」となる。 この呼出状は妻の実家方の名主に届けられる。 出頭した親に対し娘に復縁を勧めさせる。 どうしても別れたいとなれば、親に夫方と掛け合って内済離縁(示談)にするよう伝える。 「女実親呼出」を受けた駆込女の実家が、東慶寺へ来る前に夫と交渉して離縁状をとって「内済離縁(示談)」を済ませてしまうこともある。 実は飛脚がそれを薦める。 離婚に不承知だった夫も、東慶寺に駆込まれたとなれば勝ち目はないと諦めることが多い。 ===出役達書=== 駆込女の実家による「内済離縁(示談)」が不成功である場合、それ以降が満徳寺と大きく違う。 東慶寺では寺役人を夫方名主宅に出張させるが、その前に飛脚が「出役達書」(でやくたっしがき) を夫方名主へ届ける。 内容は「誰々妻の駆込みの件で、松岡御所の役人が何日に行くので、夫ともども家にいるように」というお達しである。 今風に言えばただのアポ取りだがその差出人は松岡御所の役所である。 「出役達書」で厄介事に巻き込まれた夫方名主も必死で内済離縁の仲介をする。 この効果は絶大でほとんどはこの段階で内済離縁が成立する。 半強制だが形式上は内済離縁(示談)であるので駆込女は寺に入ることなく、御用宿から実家に帰れることが出来た。 ===出役・寺法離縁=== 「出役達書」が来ても離縁状を書かないと、本当に「出役」となる。 これ以降が「寺法離縁」である。 東慶寺の寺役人が「寺法書」を持って夫方名主宅へ出向き「寺法書」を名主に渡す。名主は夫にそれを読み聞かせる。 「寺法書」は「拘置御奉書」とも云い、 内容は本質的には「慈悲の寺法、古来より御免の寺法により駆込女を拘え置く。だからもうお前の妻ではない。解ったら離縁状を書け」ということを松岡一老(院代)言葉として侍者が書いた奉書である。 中期も後期も変わらない。 ただし言い方がだいぶ変わる。 文の構成は次ぎのような4点からなる。 これこれの女が駆け込んだが、お前の妻に間違いはないか。苦労の多い寺法勤めは不憫であるので立ち帰るよう説得したがどうしても別れたいというので、しかたなく(寺に置くことを)お前に知らせる。もしもお前の妻が公儀の法に触れる者なら(あるいは異存があるなら) ”証拠を揃えて、名主、五人組共々寺役所へ来い”。以後差障無き書付(寺法離縁状のこと)を差し出せば来なくても良い。そうすれば ”余多(いくた)の難儀” が降りかからないようにしよう。以前の様な町奉行所の反感を受けないように、問答無用で「離縁状を書け」というような命令調ではなく、表向きは駆込んだ女房は東慶寺が預かるという通知で、女文字で言い方も柔らかくはなっている。 しかし十分脅している。 寺役人が出向くということは「足掛け三年は寺から出さない、もうお前の妻ではない」というである。 それでも離縁状を書かないと寺役人は暫く逗留し、その費用は夫負担である。 「寺法書」は夫が書いた「寺法離縁状」とともに返すのが決まりだから、夫がそれを書かない限り名主宅におかれる。 名主にとっては頭痛の種である。 夫が町奉行所や代官所へ訴えてもこの頃は「それが寺法だから従え」と云われる。 更に粘ると寺社奉行吟味となり、奉行所は威圧しつつ「御理解」、つまり内済を薦め、強情な夫には「仮入牢」で脅す。 幕府寺社奉行を頼れるところが東慶寺・満徳寺とその他の「夫の手に負えぬ場所」の最大の違いであるが、東慶寺が寺社奉行を頼るのは最後の最後である。 極力御所寺の威光で夫方を屈服させようというのが完成期の東慶寺の寺法である。 満徳寺と違うところは、すぐには寺社奉行を頼らないことと、「出役」以降は、夫が離縁状を書いてもそれは鎌倉松岡御所様お役所、つまり東慶寺宛であって駆込女房には渡されず、足掛3年満24ヶ月は妻は入寺することである。 24ヶ月後にやっと駆込女房は離縁状を手にして誰と結婚してもよいことになる。 一方、夫は離縁状を書きさえすればすぐに誰と再婚してもよい。 ===寺法離縁状=== 以下に画像と、それとは別の東慶寺に残る中で最古の寺法離縁状をあげる。 1738年(元文3年)のものである。 □は虫食い等で不明な部分である。個々に若干の文言の違いはあるが、概ね同一の書式に従う。 寺法離縁の場合は書かなければならないことが多いので三行半には収まらない。 差上候証文之事 一 私妻ゆつ御門内え欠入申候ニ付御届之 御書壱通被下置、慥(たしか)に請取委細承知 仕候。尤古来より御寺法之儀御座候ニ付 以後共此女ニ付何方え縁組仕候とも □差構無御座候 為後日証文差上ケ□ 如件 元文三年三月*3696*七日   笠間村 鎌倉松ヶ岡          当人 十兵衛(印) 御所様           組合 (四人略) 御役所         名主 市左衛門(印) 差上候証文之事 一 私妻ゆつ御門内え欠入申候ニ付御届之 御書壱通被下置、慥(たしか)に請取委細承知 仕候。尤古来より御寺法之儀御座候ニ付 以後共此女ニ付何方え縁組仕候とも □差構無御座候 為後日証文差上ケ□ 如件 元文三年三月*3697*七日   笠間村 鎌倉松ヶ岡          当人 十兵衛(印) 御所様           組合 (四人略) 御役所         名主 市左衛門(印) 上記のように東慶寺の寺法離縁の場合は、夫の書く離縁状は東慶寺宛であるので、24ヶ月後に女房が貰うのはその東慶寺宛離縁状の写しに寺役人が「このとおり間違いはない」と添書をしたものである。 東慶寺に残るものは寺法離縁状の本物証文で、書写添書をしたものは残らない。 離婚妻に渡されるからである。 上記とは別の離縁状だが、離婚妻に渡された書写添書の離縁状が一通発見されている。 添え書きは以下の通りである。 右本文之通り六右衛門□差出候、本書先例之通り 当山江取置、写書相渡し申候、以上 当寺役人 幸田弥八郎(印) この古文書は1856年(安政3年)の「信州の駆込み女てる」の事例 であり、 東慶寺宛の離縁状の書写添書を離婚妻に渡すことが先例であったことを初めて明らかにしたものである。 「てる」の実家は信州筑摩郡堀之内村の名主を何代にもわたって勤めた高70〜80石の豪農である。 「てる」の夫は記録に残る限りでは「妻の実家の金だけが目当ての性悪な夫」であり、この夫婦は江戸に出ていて、そこから東慶寺に駆込んだ。 この一件は東慶寺側と女の実家側の双方に残り、事件のほぼ全容が明らかになっている。 この夫婦の江戸の住まいは夏目漱石の父、馬場下横町の名主小兵衛配下の友七店である。 夫は「古来御免の寺法」に従わず、寺社奉行に召し出されるという難事件であった。 「てる」は24ヶ月の縁切奉公のあと実家に戻り、その後東慶寺に鑿子(きんす)を寄進している。 ===駆込みの集計=== 駆け込み件数は495件(文書993点)であり、内東慶寺に残るものは約400件(文書690点)であるが、実際の件数はその数倍と思われている。 かつ現在残る記録は断片的な記録が多く、どのような事情でと判るものはごく一部しかない。 ただし東慶寺に残る記録を分類集計するだけでも全体の傾向は見てとれる。 何処から駆込んだかを見ると、圧倒的に多いのは江戸で140件、江戸以外の武蔵国では多摩郡45件、当時武蔵国で現在神奈川県の橘樹郡27件、久良岐郡21件、現在神奈川県の相模国では鎌倉郡38件、三浦郡45件、高座郡55件、その他現千葉県北半分の下総国14件である。 最も遠いとされる信州の1件は、駆込女の実家が信州ということであって、実際に駆込んだのは江戸からであり江戸にカウントした。どこからの駆込みでも受け入れたが実際には現在の東京都、神奈川県、千葉県の範囲である。距離と人口が関係しているのか、東慶寺のある相模国でもほとんどは東部であり西部からは少ない。小田原藩領内からは一人もいない。 遠方では常陸国 2件、上野国、甲斐国、駿河国各1件があるが、この内常陸からの女はあてもなく逃げてきたところ、鎌倉に縁切寺があると聞いて駆込んだという。 上野国は近くに満徳寺があるにも関わらず東慶寺に駆込んでいる。 江戸では東慶寺がある程度知られていたということはあっても、その他の地方では東慶寺も満徳寺もほとんど知られていなかったということである。 駆込女の年齢は平均29歳(最低20歳、最高54歳)で、裁決の日数は平均して11日である。 年次が明らかで、かつ寺法離縁か内済離縁か判明するもの を集計すると以下のようになる。 最初の記録の1711年(宝永8年)から1807年(文化4年)までの約100年間は寺法離縁5件に対し内済離縁1件である。この時期の史料はあまり残っていないということであるが、比率だけは参考になる。それが院代法秀尼時代に入った1808年(文化5年)から1830年(文政13年)の23年は寺法離縁7件に対し内済離縁7件と半々。寺法手続きが整備された文化・文政の後、1831年(天保2年)から1870年(明治2年)の30年では寺法離縁4件に対し内済離縁123件とほとんど内済離縁となる。この内1866年(慶応2年)だけは2冊の日記帳が残るが、その一年間の離縁を求めた駆込は38件(それ以外も含めると47件)で、結果は内済離縁25件、寺法入寺2件、他は不受理1件、下げ4件、取下げ1件、帰縁1件、不明4件である。 上記の寺法手続きは極力内済離縁で済ませるための仕組みとも云える。 ===出入三年満二十四ヶ月の縁切奉公=== 駆込女は寺に入ると言っても出家して尼になるということではない。 24ヶ月後には寺を出て誰とでも結婚できる。 ここがよく誤解されると先々代住職の井上禅定が書いている。 1821年(文政4年)の在寺中規定書(右画像)には「髪切候事」というのはあるが 形式的にちょこっと切るぐらいと思われている。 もうひとつの縁切寺、群馬県の満徳寺へ駆込む女の絵があるが、その絵でも寺の中に居る駆込女は長髪のままである。 頭を剃る訳ではない。 東慶寺の寺法に「頭を剃る」というケースがひとつだけある。 「円覚寺被官」の項で触れた被官に申渡した十七ヶ条の中の第七条に、三年勤め中の女が脱走し捕まった場合には「頭を剃って丸坊主にし、素っ裸にして追い払う」とある。 ただし本当に実行されたのかは不明である。 少なくともその実例は今に残る古文書には記録されていない。 駆込三年勤めの女はタダで実24ヶ月暮せた訳ではない。 駆込女の三格式というのがある。 上臈衆格は御仏殿に花をあげたり、来客があれば挨拶に出るとか、院代の側近くに仕える。あまり働かない。御茶の間格は座敷とか方丈の掃除、食事の調味、来客のときはお給仕をするなどである。床とか畳の上で働いている。御半下格はご飯を炊いたり洗濯をしたり、庭の草取りもするいわば下女である。土間とか庭で働いている。冥加金によりそれが決まり、1838年(天保9年)の記録では上臈衆格は15両、御茶の間格は8両、御半下格は4両で、その他扶持料が月に2分2朱、24ヶ月で15両になる。 これは上臈衆格と思われるが、少なくとも上臈衆格は24ヶ月で合計で30両を収めることになる。 大店の商家の娘、豪農の娘なら実家も支払うことができるが一般庶民にとっては手の届かない額である。 扶持料が三格式のどれにも課せられたかどうかについては史料が無いが、仮に冥加金と扶持料24ヶ月分の比率を御半下格に当てはめると合計8両となる。 寺入りした女はいろいろな定めに従って生活したが、ことに男子禁制については厳しく規定されていた。基本的には寺外に出ることは出来ず、止むを得ない用事の際でも名札を持った上で尼僧がつきそう。実の家族(ことに男性)が面会に来ても制約付での面会になった。重病の場合のみは寺外で養生できたが(男である医師は寺に入れないため)、寺外で養生していた期間は寺入りの期間には参入されない。上で述べたような仕事に加えて、経の簡単なものであるが読経もしなければならなかった。 ==文化財== ===釈迦如来坐像=== 本堂に安置される本尊(寄木造玉眼入り)。 頭部内面に墨書修理銘がふたつあり、 古い方の冒頭に「松岡東慶寺永正12年火事出来、本尊計出候、菩薩座光□□( 2字判別不能)」とあり、これによって1515年(永正12年)に大火事に見舞われたことが判った。 現在残る古文書に永正12年以前のものが極めて少ないのはこのとき焼失したためと思われている。 聖観音立像はこの時期まだ東慶寺には来ていないので「菩薩座光」は水月観音菩薩かもしれないが不明である。 1518年(永正15年)6月にこの本尊に仏師弘円が面部を彩色し、左の玉眼を入れたことが記されている。 もうひとつは江戸時代初期で、1671年(寛文11年)に仏師加賀が修補とある。 関東大震災で大破したが本尊は昭和初年に修復した。 かつては本尊の前立に文殊菩薩、普賢菩薩があったが関東大震災で大破し今はない。 ===木造聖観音立像(重要文化財)=== 木造聖観音立像(もくぞうしょうかんのんりゅうぞう、重要文化財〈彫刻〉・1900年〈明治33年〉4月7日指定) はもともとは鎌倉市西御門にあった太平寺(鎌倉尼五山の第一位、廃寺)の本尊であったとされる。 宝髪を結い上げた菩薩ながら、裙(くん)・偏衫(へんざん) ・大衣(だいえ)を着用した如来形である。 如来衣を着用する観音菩薩は非常に少なく、いずれも宋風の彫像である。 太平寺でこの像を安置していたと思われる仏殿は円覚寺に移築され舎利殿(国宝)となっている。 後世補われた光背と台座以外は剥落、褪色のため造像当初の色彩は失われている。 宋風の仏像装飾は肉身には金泥塗、衣文は金泥地に金箔の截金文であり、 この聖観音立像も土紋装飾、盛り上げ装飾に上に金泥、更に金箔の截金(切金とも)も併せ用いた豪華絢爛な贅を尽くした像である。 土紋装飾とは彫刻面の上に布貼し錆漆を塗り、その上に粘土に漆を加えて固めに練ったものを雌型に詰めて作った落雁の様なものを、まだ柔らかいうちに漆で貼り付けるもので、南宋風の装飾技法である。 鎌倉時代後期から南北朝、室町時代初期までの鎌倉周辺にしか見られない。 土紋装飾は大衣の部分にあるが、大衣一面にある訳ではない。 袈裟は元々は糞掃衣(ふんぞうえ、ぼろ布・端切れを寄せ集め、継ぎ合わせて作った衣)に由来し、その名残で布の継合せを表す田んぼとあぜ道のような部分(田相部、条葉部)がある。 土紋はその条葉部の蓮華唐草文として施されている。 およそ2.5cmぐらいで、型抜きをし、花文や葉文などのスジはヘラで陰刻して仕上げ、 その上を白色層が下地として覆い、その上を金泥などの金色層が覆う。 田相部には、かなり剥げ落ちてはいるが、截金(きりかね・切金)といって金泥の上に金箔を細く切って貼り付けることで文様をつける。 花文や葉文を結びつける蔓は盛り上げ装飾で、朱と白色顔料を混ぜた顔料を盛り上げている。 土紋装飾の代表的な仏像に胎内銘文により1299年造と判明している浄光明寺の阿弥陀如来坐像があるが、土紋、截金ともにその像と同じ形式である。ただし若干簡略である。 制作年代は鎌倉時代後期から南北朝時代の頃(14世紀)とされる。 最も古く見ているのは「神奈川県文化財図録・彫刻編」で、1299年(正安2年)頃の浄光明寺の阿弥陀三尊脇侍菩薩像より後。 鎌倉時代でも14世紀の1300〜1333年とする。 それに対し山田康弘は、鎌倉期の素朴で重厚な表現とは異なり人間味豊かな表現や彫技に神経を使っている点などから、14世紀でも南北朝時代。 渋江二郎も室町時代の彫刻の趣きが若干現れ初めているとしている。 三山進は川崎市能満寺にある1390年(明徳元年)の虚空蔵菩薩像よりも前。 ただし14世紀でも鎌倉時代まで遡らせるのは危険。 太平寺の本尊であったことを考慮に入れると、太平寺が鎌倉公方家の寺となったのは、足利基氏の妻・清渓尼からであるので、基氏が死んだ1367年(貞治6年)から「空華日工集」に太平寺長老(清渓尼)が出てくる1371年(応安4年)の間に像立という説を出している。 常設で宝蔵に安置されている。 ===初音蒔絵火取母(重要文化財)=== 初音蒔絵火取母(はつねまきえ ひとりも、重要文化財〈工芸品〉・1960年〈昭和35年〉6月9日指定) は室町時代作の香炉。 「火取母」は香炉の一種。平安時代の香炉は金属製の薫炉とそれを納める火取母、そして火取母の上に被せる金属製の薫籠(くんこ)からなる。 江戸時代には火取母の中に金属製の落としを入れただけの簡略香炉が多くなるが、これは薫炉、薫籠が備わっており平安時代以来の香炉の形をきちんと伝えている。 この香炉は衣類に香をたき染めるために使用したもので、この香炉の周りに伏籠(ふせご)という木の枠を置き、そこに衣類を被せて香を炊き込めていた。 「初音」とは源氏物語の巻名である。 「初音の巻」の「年月を松に曳かれてふる人に今日鴬の初音聞かせよ」を歌絵とり入れ、火取母の蒔絵の図柄の中に「はつね」「きか」「せよ」の文字を松梅の間に配している。 本作品をはじめ東慶寺に伝わる蒔絵遺品は高台寺蒔絵に対して、東慶寺伝来蒔絵を略し東慶寺蒔絵ともいわれる。 豊臣秀頼娘天秀尼の所持とも伝える がそれぞれの由来は不明である。 毎年秋に開かれる東慶寺伝来蒔絵展に展示される。 ===葡萄蒔絵螺鈿聖餅箱(重要文化財)=== 葡萄蒔絵螺鈿聖餅箱(ぶどうまきえらでん せいへいばこ、重要文化財〈工芸品〉・1976年〈昭和51年〉6月5日) はいわゆる「南蛮漆芸」の遺品。 「聖餅箱」はキリスト教のミサで用いる道具で、キリスト教関連の器物も禁教令の出る1613年(慶長18年)以前にはポルトガルの商人を通じたヨーロッパからの注文で大量に作られていた。 ただしこれがなぜ仏教寺院である東慶寺に伝わったかは定かでない。 キリスト教のミサの道具と認識されたのは1936年(昭和11年)に漆工研究家の吉野富雄がこれを見つけたときからである。 今日本にある「南蛮漆芸」は一度海外に輸出した漆芸品が近年戻ってきたものがほとんどであるが、この聖餅箱は日本からは出ずにずっと東慶寺に残っていたという非常に珍しいケースとされる。 かつては宝蔵に常設であったが、文化庁の指導で毎年秋に2ヶ月間開かれる東慶寺伝来蒔絵展のときのみ展示されるようになった。 ===東慶寺文書(重要文化財)=== 東慶寺文書773通、20冊(附:文箱1合、*3698*子1口)(重要文化財〈古文書〉・2001年〈平成13年〉6月22日指定)で、永徳3年(1383年)12月20日付の足利氏満寄進状から、明治3年(1879年)12月29日付の「たよ内済離縁引取状」までを収める。 その他、古いものでは、足利成氏書状、足利政氏印判状などがある。 同寺は1515年(永正12年)に火災があり、それ以前の文書はほとんど無いが、17世旭山尼の頃からの文書は良く残っている。 中には旭山尼の姉青岳尼が住持であった尼五山第一位太平寺の廃寺を伝える後北条氏の北条氏綱の手紙や、聖観音立像を取り返してきた蔭凉軒要山尼への感謝とねぎらいの手紙などもある。 江戸時代については千姫侍女書状十通の他、縁切関係では1866年(慶応2年)の2冊の日記帳に駆入りの月日、親元、夫方、媒人等の呼出、到着、役所での取調べ、落着引取までの始末が記録されており、研究上の重要な史料である。 1905年(明治38年)の東京帝国大学史料編纂掛(現東大史料編纂所)の調査では1690年(元禄3年)以来の日記数十冊、1733年(享保18年)を始め十数冊の駆入書留他大量の古文書の存在が確認されていたが、 関東大震災やあるいは敗戦の混乱時に失われ、現在かろうじて東慶寺に残るものが重要文化財となった。 ただし虫食いその他で相当傷んでいるものもあり、東慶寺では2013年時点でその修復を計画し、基金を募っている。 ===木造水月観音菩薩坐像=== 水月観音菩薩坐像は神奈川県指定重要文化財(彫刻〈有形文化財〉・1953年〈昭和28年〉12月22日指定、指定名称は「木造彩色 水月観音坐像」) で、水月堂に安置する。 日本での一般的な仏像とは異なり岩にもたれてくつろいだ姿勢をとる。 南宋風の、水墨画から抜け出てきたような自由な姿態の像である。 こうしたくつろいだ観音像は中国では宋から元の時代に大流行した。 観音菩薩は補陀洛山(ふだらくせん)に住むと云われるが、中国で山というと仙人の住むところであり、観音菩薩と仙人のイメージが重なって、仙人特有のポーズで観音菩薩が表現されるようになったと考えられている。 聖観音立像の土紋装飾と同様にこうした姿態の像は京都には残らず、鎌倉時代後半の鎌倉周辺にしか見られない。 日本仏教への南宋の影響としては建長寺、円覚寺に始まる禅宗到来のイメージが一般に強い。しかし滞在12年の入宋僧俊*3699*(しゅんじょう)に始まる京都泉涌寺系律宗も忘れてはならず、 東寺や東大寺の大勧進として工匠を率いる律宗指導者がスポンサーを求めて鎌倉幕府に接近したことから、南宋彫刻の様式と技法は鎌倉に伝わる。 実際に南宋風の仏像は泉涌寺以外では鎌倉と、鎌倉文化圏のみに残っている。 それは宋仏画の影響を強くうけた白衣観音的なもので、肉身は白土塗りの上に金泥仕上げをし、衣文は文様の輪郭を練り物で盛り上げ、その上に金彩を施しているのが一般的である。 水月観音像もまさに建長寺にある南宋伝来の白衣観音にも共通する姿態であり、 金泥のほとんどは剥離しているものの白土(白色顔料)塗りは窪みなどに多数残っている。 今は灰色の坐像にしか見えないが当初は聖観音立像と同様に金彩の豪華絢爛な像である。 装飾技法としては、現状ではあまり鮮明には見てとれないものの宋風の影響を強く受けた盛上装飾が施されている。 盛上装飾はこの水月観音像の他に京都泉涌寺の諸仏、横須賀市清雲寺の滝見観音像(重文)、いわき市禅長寺の滝見観音像などがあるが、ともに装飾技法だけでなく像そのものが宋風、あるいは宋伝来のものである。 この水月観音像は磐城禅長寺の滝見観音像とともにきわめて忠実な宋風様式とされる。 かつては南北朝時代のものとみられていたが、 近年の調査で鎌倉時代も13世紀後半の作と修正されている。 東京国立博物館の浅見龍介は、もしこの像が最初からこの寺にあったのであれば開山覚山尼にかかわる遺品である可能性もあるとする。 銅製の冠、胸飾などは後世補われたものである。 毎年春に行われる東慶寺仏像展のときは松ヶ岡宝蔵で拝観できる。 ===木造観音菩薩半跏像=== 木造観音菩薩半跏像は鎌倉時代・14世紀の作で、鎌倉市指定文化財(彫刻・2003年〈平成15年〉11月19日指定)である。 写実的ながら水月観音像ほどくつろいだ印象はなく、同じ鎌倉時代でも制作年代に開きがあるとされる。 髻頂上の飾り、両手首先、左目の上瞼、下に踏み下げる左脚とその周囲の垂れる衣は後世補修されたものである。 金沢区富岡の慶珊寺に明治維新後の廃仏毀釈で鎌倉の鶴岡八幡宮十二坊より移された十一面観音があり、胎内の銘文により1332年(正慶元年)の仏師院誉作と判明しているが、これと極めて良く似ている。 ==境内== 2014年現在の東慶寺境内を概説する。 ===鐘楼=== 山門を潜って左側に茅葺屋根の鐘楼がある。 現在の鐘楼は大正5年のもの。 関東大震災で唯一倒れなかった建物である。 梁に大震災のとき梵鐘が揺れてめり込んだ跡が残る。 東慶寺には鎌倉時代末期に造られた梵鐘があったが今はここになく、静岡県韮山の本立寺にある。 現在の梵鐘は南北朝時代の1350年に鋳造されたもので神奈川県重要文化財に指定されている。 「就相陽城之海浜有富多楽之寺院」「観応元年」と刻印されており、材木座の補陀落寺のものであったことが判る。 それが何故ここにあるかだが「玉舟和尚鎌倉記」や、水戸光圀が編纂させた「新編鎌倉志」には、東慶寺の寺領であった二階堂永安寺跡より農民が掘り出したという。 同様の記述は「新編相模国風土記稿」にもある 。 永安寺(ようあんじ:廃寺)は瑞泉寺門前右側の谷戸にあった足利氏満の菩提寺であり、足利持氏が永享の乱のときこの寺に幽閉され、更に攻められて自害し寺は焼けたと伝える。 それらの事から足利氏満が没した1398年(応永5年)12月以降、菩提寺として建てられた永安寺に補陀落寺から移されたと推測されるが定かではない。 ===書院=== 山門を潜り、鐘楼を通り過ぎた右側に書院の中門があり、その中の大きな建物が書院である。 以前は1634年(寛永11年)の徳川忠長屋敷から移築された建物であったが、関東大震災で倒壊する。 倒壊直後の写真では屋根は茅葺であったが、 他の国宝・重文建造物の例から移築当初は檜皮葺であった可能性がある。 現在の書院は二階堂の山林を売った資金で、以前とほぼ同じ間取りで大正末に再建されたものである。 広さは60余坪。 以下中世の建築用語を用いるが、 玄関を上がった「中門廊」は2つの出入り口を持ち、その先北側 に「公卿の間」がある。 その西側、「広庇」(縁)沿いに「次ぎの間」「上座の間」が繋がる。 上座の間の天井は今は十六菊花紋の格子天井であり、以前は菊・桐の紋であったという。 その「上座の間」に向かって左側にお殿様(徳川忠長)が太刀持ちの小姓を従えて座っていてもおかしくない「上段の間」がある。 「広庇」に相当する南側と西側の廊下は、倒壊前は雨戸だったというが、今は僅かに波打つ大正ガラスのガラス戸が入っている。 書院から本堂、更に水月堂へと渡り廊下で繋がっている。 東慶寺では様々な文化的イベントを行っているが、講演会はこの書院を用いることが多い。 ===本堂=== 書院の門の先の同じ右側の中門の奥が本堂である。明治時代の東慶寺には1634年(寛永11年)に千姫が寄進した仏殿が現在の菖蒲畑の奥の板碑のあたりに残っていたが、明治維新で寺領を失い修理も出来ずに荒れ果て、雨の日には「本堂の雨漏りがひどくて、傘をさしてお経を読んだ」という状態であった。 その仏殿は1907年(明治40年)に三溪園に移築されたが、西和夫は「おそらく仏殿は維持が難しかったのであろう」と推察する。 その頃、中門(現在の山門)の石段の右に聖観音菩薩像を安置していた観音堂・泰平殿があり、後にこれを現在の白蓮舎の前、菖蒲畑のあたりに移築して本堂とする。 しかしこれも1923年(大正12年)の関東大震災で倒壊する。 このとき本尊両立の文殊・普賢も消失している。 現在の本堂はその後、1935年(昭和10年)に建てられたものである。 本尊は釈迦如来座像。 寄木造の玉眼入りで、仏頭内側に墨書修理銘がある。 それによって1515(永正12年)に火災があり、かろうじてこの本尊を取出したもののほとんど焼失したらしいことが判った。 ===水月堂=== 本堂にほぼ接した左側が水月堂である。 元は加賀前田家の持仏堂であったが、1959年(昭和34年)にこちらに移築し、水月観音菩薩半跏像を安置する。 水月堂とはその水月観音菩薩像からである。 この水月堂が出来るまでは水月観音菩薩像は鶴岡八幡宮境内の鎌倉国宝館に寄託されていた。 この持仏堂の仏壇は元々丸窓であったが、水月観音の大きさにちょうどピッタリであった。 水月堂の前には作家の田村俊子や湯浅芳子の仲間であった山原鶴(号宗雲)の茶室松寿庵があり、本堂前から扁額が見える。 ===寒雲亭(茶室)=== 書院と本堂の向かいに茶室・寒雲亭がある。 寒雲亭は千宗旦の遺構で、最初のものは1648年に造られ、裏千家で最も古いお茶室とされる。 ただし1788年(天明8年)正月に京都で大火があり、伝来の道具や扁額、襖 は持ち出すことができたが、茶室は隣合わせだった表千家・裏千家共にすべて焼失している。 従って現在残るものは1788年から翌年にかけて同じ間取りで再建されたものである。 東慶寺の寒雲亭は明治時代に京都の裏千家から東京の久松家(元伊予松山藩久松松平家) に移築され、 その後、鎌倉材木座の堀越家 を経て1960年(昭和35年)に東慶寺に寄進・移築されたものである。 千宗旦の「寒雲 元伯七十七歳」の扁額がある。 垣根の外から見える外壁に「寒雲」の扁額が見えるがそれとは別のものである。 1994年(平成6年)に改修工事を行った。 京都の裏千家今日庵にも寒雲亭が再建されている。 普通にお茶室というと「にじり口」から入る広くて4畳半、狭いと2畳に床の間という「小間」のイメージだが、 こちらは「広間」という八畳の茶室で、 露地に面して貴人口(きにんぐち)があり、 書院造りである。 ただし床の間と付書院を分けて格式を和らげている。 下座床で、 寒い時期に切る炉は向切である。 天井は真行草の三段構えで貴人席の上が竿縁天井、その向いが平天井、縁側の下座が船底天井と3種類に分かれている。 現在では月例の月釜、の他、様々な茶会・茶事や体験茶道・香道などに使われている。 ===白蓮舎(立礼茶室)=== 本堂の門前の先に青銅の金仏があり、道はそこから若干右方向に曲がるが、その金仏の左正面が茶室・寒雲亭の中門である。 その門の手前を右へ行くと菖蒲畑の左側に見えるのが立礼の茶室白蓮舎である。 普通にお茶室というと和室に正座で作法が大変というイメージだが、こちらのお茶室は立礼席(りゅうれいせき)と言って敷き瓦を敷いた土間に椅子にテーブルでかなりの広さがある。 立礼席は明治5年に裏千家11代玄々斎が外人を意識して考案したものでその後多くの流派に広がった。 立礼席は各流派の門人の為のお茶会でない限り、一般には作法をさほど気にしないでも済む略式ととらえられている。 普段は法事を行う際にその檀家の為などに用いられるが、年に2回、梅の頃と花菖蒲の時期には茶店として一般に公開される。 また様々なイベントのメイン会場、サブ会場としても用いられる。 ===松ヶ岡宝蔵=== かつてはこの場所に方丈があったという。1978年(昭和53年)に鉄筋コンクリートの土蔵様式で新築された。 木造聖観音立像(重文)は受付の先、階段下のスペースの壁面に安置されている。 その上にはかつて蔭涼軒主徹宗尼が伯母である21世住持永山尼の十三回忌に建立し、聖観音立像を安置した泰平殿の扁額が架かっている。 その対面の壁上部には釈宗演の跡を継いだ佐藤禅忠が、釈宗演の大患全癒紀念にと1916年(大正5年)に書いた鐘楼天井の龍の絵の下図が架かっている。 その脇の階段を上がると正面に天秀尼が父豊臣秀頼の菩提のために作らせた雲版が壁にあり、その右が展示室である。 展示室は東慶寺縁切寺法手続きの解説図、女実親呼出状、出役達書、それを入れた菊桐御紋の御用箱、内済離縁状、寺法離縁状などは常設だが、 特別展として縁切寺の今昔展、東慶寺二十世天秀尼展、東慶寺仏像展(毎年春)、東慶寺伝来蒔絵展(毎年秋)、木下春展、禅僧の画いた達磨展などがこれまで行われている。 ==庭園の四季== ===春(2〜4月)=== 東慶寺は梅で有名だが、その梅が終わると山門を潜ってすぐ右側、鐘楼の向かいの彼岸桜が咲く。浄智寺のタチヒガンよりも少し早い。 それが終わると本堂中庭の枝垂桜、それより僅かに遅れて本堂の門と寒雲亭の門にはさまれた枝垂桜。 更に遅れて山門左のウコン桜・書院の八重桜が咲く。 ===梅雨(5〜6月)=== アジサイの季節は黒姫アジサイに始まり、額アジサイ、柏葉アジサイその他が続くが、同時に白蓮舎前の花菖蒲の他、宝蔵から墓地に向かう右側壁面一杯にイワタバコが咲く。 イワタバコそのものは鎌倉では珍しくは無いが岩肌一面にというのは例を見ない。 イワタバコとほぼ同時に本堂裏にはイワガラミがこれも壁面一杯に咲く。 本堂裏は通常は立ち入れない処だが、その時期には時間を限って特別公開され、縁沿いに本堂裏まで入れる。 なお近年、宝蔵の裏にもイワガラミが伸びており、これは時間制限無く見ることが出来る。 ===秋(10〜12月)=== 宝蔵前の秋桜がピークを迎える9月から杜鵑がちらほら咲き出すが、群生となるのは10月である。その次ぎに竜胆の花が地面を這い、そして紅葉が始まる。 山門前の紅葉を最初に本堂中庭、それより遅れて奥の墓地の紅葉が始まる。 ==墓地== ===歴代住持の墓=== 歴代住持の墓はイワタバコの岩壁の直ぐ先の石段の上にある。 石段は新しいものと、すり減った古い石段の2つがあるが、新しい石段の上が皇女用堂尼の墓であり、柵で囲われ宮内庁が管理している。 墓はやぐらの中にある(画像:奥の右側の穴)。 古い石段を登ると正面が天秀尼の墓で一番大きな無縫塔である。 右には用堂尼の矢倉と並んで開山・覚山尼の矢倉がある(画像:奥の左側の穴)。 ただし覚山尼は円覚寺の仏日庵の夫時宗の傍に葬られたのでここは供養塔である。 天秀尼の無縫塔の左には前述の台月院の宝篋印塔があり、その更に左には21世永山尼の無縫塔がある(画像:中央列左側)。 尼寺住持の墓はそれだけである。 画像の右列に並ぶ無縫塔は蔭涼軒院代など塔頭庵主の墓で、一番端(画像:右手前)が最後の院代順荘尼の墓である。 この順荘尼が明治35年に亡くなって以降男僧の寺となった。 釈宗演以降の男僧の墓は天秀尼、永山尼の無縫塔の後方(画像:左上段)にある。 ===著名人の墓=== 当寺は文化人の墓が多いことでも有名で、檀家の墓地には鈴木大拙のほか、西田幾多郎、岩波茂雄、和辻哲郎、安倍能成、小林秀雄、高木惣吉、田村俊子、真杉静枝、高見順、三枝博音、三上次男、東畑精一、谷川徹三、野上弥生子、前田青邨、 川田順、レジナルド・ブライスらの墓がある。 また、前田青邨の筆塚、旧制第一高等学校を記念する向陵塚がある。 ==交通・拝観等== JR横須賀線北鎌倉駅下車徒歩3分(地図)3〜10月:8:30〜17:00 11〜2月:8:30〜16:00 拝観料200円松ヶ岡宝蔵:9:30〜15:30 入館料400円(特別展500円)月曜日は休館(ただし祝祭日の場合は開館、年末年始に休みあり)水月観音拝観は毎年春に行われる東慶寺仏像展のときは松ヶ岡宝蔵で拝観できる。その他の時期はメールで問合せの上予約。 =ギーラーン共和国= イラン・ソビエト社会主義共和国(イラン・ソビエトしゃかいしゅぎきょうわこく、ペルシア語: *5988**5989**5990**5991**5992**5993* *5994**5995**5996**5997**5998* *5999**6000**6001**6002**6003**6004**6005**6006**6007**6008* *6009**6010**6011**6012**6013*‎)、通称ギーラーン共和国(ギーラーンきょうわこく、*6014**6015**6016**6017**6018**6019* *6020**6021**6022**6023**6024*)は、1920年から翌1921年まで、イラン北部のギーラーン州に存在した社会主義国家である。 当初の政権は、1920年6月に赤軍の庇護のもと、イラン共産党(ペルシア語版)と民族主義的なジャンギャリー運動(ペルシア語版)の連立により発足した。しかし、ほどなく左派のクーデターにより連立は崩れ、政権は強固な共産革命路線へと移った。ところが、時を同じくしてモスクワのボリシェヴィキ党中央は、東方の情勢安定化のためにテヘラン政府との融和を模索するようになった。党中央から切り捨てられる形となったイラン共産党は、なおも革命路線の堅持を掲げて政権の再統一を図った。だが、1921年11月、テヘラン政府軍による掃討作戦によってギーラーン政権は壊滅した。 ==沿革== ===背景=== 第一次世界大戦期、ガージャール朝の弱体化に伴い、イランはイギリスとロシア帝国による半植民地状態となっていた。そしてこの頃、イラン北部のカスピ海南西岸に位置するギーラーン州では、イギリス・ロシア両国の干渉にパルチザンとして抵抗をつづけ、テヘラン中央政府からも距離をとる独自の勢力が存在していた。かつて挫折した立憲革命の再生を訴え、ギーラーンの森林(ジャンギャル)の中からイランの独立回復と変革を求める彼らの闘争は「ジャンギャリー運動」と称され、この指導者であるミールザー・クーチェク・ハーン(ペルシア語版)にも多くの支持が集まっていた。 その後、ロシア革命の勃発によりロシア軍がイラン北部から撤退すると、イランにおけるイギリスの支配力は大きく増した。1919年8月には英波協定(ペルシア語版)によってイランの実質的なイギリスによる保護国化が開始され、これに伴ってジャンギャリー運動も、当初の汎イスラーム主義から反英・反テヘラン政府へと方針を転換していった。一方、新たなロシアの支配者となったボリシェヴィキの間でも、イラン人民の階級意識の担い手と見なされたジャンギャリー運動への支援が検討されるようになった。 ===成立=== 1920年5月18日、ボリシェヴィキの赤軍第11軍とカスピ赤色艦隊は、イギリス駐留軍に庇護された白軍艦隊 (ru) の拿捕を名目として、ギーラーンのアンザリー港へ一斉攻撃を行った (ru)。そして赤軍はイギリス軍を敗走させた後、地元民からある程度の支持を受けつつアンザリーへの駐留を開始した。同月23日、クーチェクらジャンギャリー代表団は赤軍のセルゴ・オルジョニキゼ、フョードル・ラスコーリニコフ(ロシア語版)と交渉を持ち、反英・反テヘラン政府の方針で意見の一致を確認した。 6月4日、クーチェクは赤軍とともにギーラーンの州都ラシュトへ入城し、カールゴザーリー広場の大群衆を前に「イラン・ソビエト社会主義共和国」の樹立を宣言した。革命政府によって従来の地方政庁は解体され、その官吏らはギーラーンから追放された。また、警察長官が革命側に寝返ったため、革命政府は治安組織の掌握にも成功した。その一方、当時ギーラーンに駐屯していたペルシア・コサック師団(英語版)は、革命政府による武装解除を拒否し、テヘラン政府への忠誠を誓い続けた。しかし、6月15日にジャンギャリーと赤軍の合同軍が敢行した包囲戦により、その450人のコサック兵も100人以上の戦死者を出した末に武装解除へと追い込まれた。 アンザリーでもこれに呼応して、同月20日から25日にかけてイラン共産党(ペルシア語版)の創立大会 (fa) が開催された。そして、この共産党とジャンギャリーとの統一戦線は、以下のメンバーによる革命政府を発足した。 人民委員会議議長兼軍事委員:ミールザー・クーチェク・ハーン内務人民委員:ミール・シャムスッディーン外務人民委員:セイエド・ジャファル・モフセニー財政人民委員:ミールザー・ムハンマド・アリー・ワカールッサルタナ・ピーレ・バーザーリー司法人民委員:マハムード・アーガー郵便・電信人民委員:ナスルッラー教育人民委員:ハージー・ムハンマド・ジャファル公共・慈善人民委員:ミールザー・ムハンマド・アリー・ハンマーミー通商人民委員:ミールザー・アブー・ル・カースィム・ファクラーイー陸海軍総司令官:エフサーノッラー・ハーン・ドゥーストダール(ペルシア語版) ===クーチェクの離脱=== しかし、この共産党とジャンギャリーによる連立政権は、内部対立により樹立直後から運営に支障をきたすようになる。共産党が雇農や労働者を支持基盤としていたのに対し、ジャンギャリーの支持基盤は、英波協定による対露貿易の縮小に反発した地主や商業ブルジョワジーであった。また、クーチェクも第一には反英独立を求める民族主義者であって、共産党の掲げる土地改革や労働運動には否定的であった。 同時期にテヘランでは、親英派のヴォスーグ・オッドウレ(ペルシア語版)内閣が倒され、民族主義的なモシール・オッドウレ(ペルシア語版)政権が誕生していた。ここに至って、テヘラン政府との接触を持とうとするクーチェクと、それに断固反対し社会改革の実施を求める共産党との対立は激化した。7月10日、共産党中央委員会とジャンギャリー左派の合同会議は、政権からクーチェクらジャンギャリー右派を武力をもって排除することを決議した。同月19日、危機を察知したクーチェクは政権を見限り、ラシュトを離れて州西部フーマン(ペルシア語版)の森に拠点を移した。 その後クーチェクは、ボリシェヴィキ指導者のウラジーミル・レーニンに宛てた書簡で、ギーラーン政府には赤軍との協定に反してソビエト・アゼルバイジャン政府からの内政干渉が繰り返され、そしてイラン共産党も地元民の心情を無視した過激な共産主義宣伝により政権の基盤を破壊していた、と批判した(かつてジャンギャリー右派が抗議を行った際、ボリシェヴィキの東方政策局長であったブドゥ・ムディヴァニは、「もしあなた方が我々の要求を実行しなければ、我々は射殺もするだろう、罵倒もするだろう、戦闘もするだろう。私はあなた方がそんな問題で夜中の3時に私の許に押しかけてきているのに腹を立てている」と回答したという)。この書簡に応えてボリシェヴィキ中央委は、現地へ人員を派遣して問題を調停することを9月になって決議したが、その時にはすでに政権の分裂は修復不能な状態に陥っていた。 ===左派のクーデター=== クーチェクがラシュトを去って9日後の7月28日、ムディヴァニとアナスタス・ミコヤンの率いる800人の兵士がアンザリーからラシュトへ侵入し、ボリシェヴィキ・イラン局による無血クーデターが実行された。イラン共産党はボリシェヴィキ・イラン局の完全な統制下に置かれることとなり、新たなギーラーン政権の議長には共産党からエフサーノッラーが就任した。 政変後にイラン局がボリシェヴィキ中央委へ宛てた報告(ミコヤンが筆者と推定される)には、「全ギーラーンの支配者になることだけを考えていた」クーチェクが「ボリシェヴィキに対する正真正銘の進撃を開始し」、「赤軍資産を持ち逃げし自らの精鋭部隊を撤兵させた」との言葉が並べられた。一方クーチェクはこれに反論し、ラシュトを去ったのは内戦への発展を避けるためであり、資産もイラン人民が自分に対して託したものであって赤軍に返還を要求する権利はない、と述べている。 エフサーノッラーの政権は、ボリシェヴィキの党綱領に忠実に社会改革を実施した。バザールでの私的交換は禁止され、企業の国有化が行われた。徴発は困窮する農民からも容赦なく行われ、地主や資本家など数百人が処刑された。反宗教政策によってムッラーの屋敷は娼館にされ、反チャドル運動は地元民の憤激を買った。さらにエフサーノッラーはテヘランへの無謀な進撃を試み、反撃を受けた末にマーザンダラーンでの支配も失った。 ===モスクワの方針転換=== イラン共産党による新政権は、ギーラーンの共産化を強力に推し進めたが、一方でモスクワのボリシェヴィキ党中央は、イラン情勢への干渉には及び腰になっていった(ロシア共和国外務人民委員 (ru) のゲオルギー・チチェーリンは、赤軍のアンザリー占領当初から、事態は現地の独断であってロシア政府は関知していない、と説明していた)。 1920年夏頃の党中央は、ヨシフ・スターリンやミールサイト・スルタンガリエフのように、あくまで東方の共産革命を推進しようとする意見と、レーニン、チチェーリンやレフ・トロツキーのように、英ソ通商協定(英語版)による対英融和と東方の安定化を優先する意見との対立が発生していた。この頃、西方での対ポーランド戦争を抱えていたロシアにとって、同時に東方にまで戦線を開くことは致命的な結果を招きかねなかった。そして、クーチェクの逃亡は党中央の動揺を加速させた。 コミンテルン第2回大会(英語版)中の7月28日に、レーニンとチチェーリンはイラン共産党の掲げる農民蜂起戦術を否定し、民族ブルジョワジーとの共闘路線を要求した。そして10月になると、イラン共産党はエフサーノッラーを「極左的」であるとして中央委議長から解任し、ヘイダル・ハーン・アムー・ウーグリーをその後任として選出した。翌1921年1月、イラン共産党は新たなテーゼを採択し、ギーラーン革命を「プロレタリアートから中小ブルジョワジーまでを糾合した反ガージャール朝闘争」として再定義した。 党中央の指令によりイラン共産党は即時の共産革命路線を撤回したが、これは両者の接近を意味するものではなかった。イラン共産党が「共闘すべき民族ブルジョワジー」をジャンギャリーと理解したのに対し、モスクワが意図したそれはテヘラン政府を指していた。3月にイラン共産党中央委はイギリス軍とテヘラン政府に対する闘争指令を発したが、ロシア政府はすでに2月に、そのテヘラン政府と友好条約(ドイツ語版)を締結していた。 同時期にテヘランでレザー・ハーンによるクーデター(ペルシア語版)が発生すると、このすれ違いは先鋭化することとなる。このクーデターを反英ブルジョワ革命の成功と見なすモスクワにとって、もはやギーラーン革命はイランの内戦でしかなくなった。6月に赤軍はイランから撤退し、チチェーリンと駐イラン・ロシア大使のフョードル・ロトシュテイン(ロシア語版)も、ギーラーン政権に対し自主的解散を迫った。 ===崩壊=== しかし党中央の動きに反し、5月にヘイダルは右派のクーチェク、最左派のエフサーノッラーと再び糾合し、統一戦線による革命委員会を再結成していた。8月にはイラン共産党がギーラーンにソビエト権力の樹立を再び宣言し、革命路線を復活させた党綱領を公にした。エフサーノッラーは再びテヘランへ進軍し、またも政府軍に撃退された。これは党中央、そしてロシア政府の外交方針に対する明白な拒否回答であった。そして、アゼルバイジャン政府やアゼルバイジャン共産党の一部にも、イラン共産党の抵抗路線に同調する動きがみられ始めた。 だが、テヘラン政府軍司令官となったレザー・ハーンは、10月にギーラーンの掃討作戦を開始した。この作戦は、レーニンの指示のもとにロトシュテインがテヘラン政府へ進言したとも言われる。また、党中央政治局はバクーへ軍事委員会を派遣し、イラン情勢への不干渉の絶対遵守を命じた。11月にラシュトは陥落し、ギーラーン共和国は壊滅した。エフサーノッラーはバクーへ亡命し、クーチェクはタリシュ(ペルシア語版)山中で凍死体となって発見された。政権内右派との折衝に失敗したヘイダルは、掃討作戦の時点でクーチェク派に殺害されていた。 ==評価== ソビエト連邦の歴史学においては、ギーラーン共和国崩壊の原因はクーチェクの民族主義的な姿勢に帰され、かつてのイラン共産党左派がクーチェクに加えた非難もそのままに踏襲する見方が主流であった。後には共産党左派自体の理論的未熟さを指摘する研究も現れるが、党中央の東方政策に動揺があったことは決して指摘されなかった。ソ連崩壊後の研究でも、責任の大半は共産党左派にあったとの見方が主流となっている。 一方イランにおいては、クーチェクはTVドラマの題材とされるほどに高い評価を得ており、信心深い愛国者としても称揚されている。歴史研究においても、クーチェクは配下や共産党の左派に騙されてボリシェヴィキに接近してしまったとされ、クーチェクが初期から赤軍と交渉を持っていた事実は無視される傾向にある。他方、若い世代の左翼的研究者の間には、むしろヘイダルこそが立憲革命の継承者であり、クーチェクがそれを裏切ったことでギーラーン革命は倒れたのであるとの意見もある。しかしながら、イランの左派や反体制派にとっては、この革命運動の失敗がパフラヴィー朝による独裁を生み出す下地となったと捉えられ、ギーラーン革命は彼らにとっての負の遺産となり続けている。 =LED照明= LED照明(エルイーディーしょうめい、英: LED lamp, LED light bulb)は、発光ダイオード (LED) を使用した照明器具のことである。2017年現在、照明器具の主力光源となっている。 LED照明に求められる白色の発色には青色の光源が必要なため、1990年代に青色LEDが発明されるまでは可視光LEDを使ったLED照明を作ることは現実的ではなかった。ブルーライトを伴った高輝度のLED照明が普及し環境や健康に有害であるため、2016年にはアメリカ医師会が、運転や睡眠、生態系に与える影響を低減するためのガイダンスを作成している。 LEDを使用しているため、低消費電力で長寿命といった特徴を持つ。定格範囲内で使用する限り発光素子自身は比較的長寿命であり、熱による劣化が寿命の決定要因となる。 ==特徴== LED照明は、蛍光灯や白熱電球といった従来型の照明器具と比較すると以下の特徴を備える。 ===長寿命・高信頼性=== 白熱電球や蛍光灯の数倍以上の設計寿命で、一度設置すれば管球交換のような頻繁な交換の手間が省け、LED照明が寿命を迎えるまでの管球の購入コストを削減できる。ただし定格を超えないように設計されている必要がある。また、LEDそのものは長寿命でも、LEDを駆動するための電子回路にも故障が発生する可能性がある。例えば地面に落下させた場合、部品点数が多い分、半田割れで故障する可能性が高くなる。 ===低消費電力・低発熱性=== 供給される電力の多くが発光に使われる(発光効率が高い)ため、従来の白熱照明と同じ明るさを作るのに必要な電力が少なくて済む。また、熱となって失われる電力が少なくて済むため、低発熱の照明器具となるが、全く発熱しないわけではなく、白熱電球と比較して発熱が低いだけであり、素手で触ると火傷する危険性は有している。2013年時点では、発光効率は蛍光灯と同程度かまたはやや勝る(蛍光灯はインバータ型で110〜85、従来型で70〜60〈lm/W〉)程度だったが、年を追うごとに発光効率は改善している。 ===高価格=== 2013年現在、白色を放つ高輝度LED製造には高価な半導体製造装置と高度な技術が必要とされ、LED照明そのものの生産・販売数が少ないことも量産効果を生まず、高価格である理由の1つとなっている。また、電源回路を必要とし放熱板や配光用のレンズ、散乱パネル等も器具全体を高価格にしている。LED電球については、価格の低廉化がみられるものの、直管蛍光灯形のLED照明や円形蛍光灯のLED照明については、まだ市場規模もLED電球ほど大きくなっておらず、技術的・生産コスト的にも発展途上の市場であり、特にLED電球が白熱電球と比較されるのに対し、蛍光灯との比較となり、価格競争力が弱い。こちらも、価格の低下、発光効率の改善や生産性の改善が進み、従来の蛍光灯からの置き換えが進みつつある。 ===RoHSに対する高い順応性=== 蛍光灯は性質上、水銀を使用しなければならず、代替物質もないが、LED照明は水銀が必要なく、RoHS指令で定められた6種類の人体・環境汚染物質を使用せずに生産できる。 ===耐衝撃性=== 真空やフィラメントを必要としないため、衝撃に対して比較的強く作れる。ただし、精密部品を集積した機器であることは変わりはなく、白熱電球や蛍光灯に使用されているガラス等に比べて、少々の衝撃では割れないプラスチック等を使用できるため比較的強いというだけである。 ===小型・点光源=== 点光源のため発光部が小さく作れる。設置空間を小さくできるためデザイン上も利点ではあるが、放熱の工夫や配光角、すなわち光の照射範囲を広くする設計が求められる。比較的古くから存在する「下方向タイプ」などと称されるものの配光角は約120度しかなかった。これは配光角が約330度の白熱灯の1/3にも及ばず、部屋全体を見ると暗かった。その後の技術の進展はめざましいもので、2011年末にはパナソニックが約300度を達成したと発表、2015年現在では最大で約350度にまで向上している。その一方で、120度の製品は淘汰されていない。 ===高速応答性=== 熱慣性がほとんど無いLED照明は、供給電源が断続すれば、それに応じて高速度で明滅するため、蛍光灯、白熱電球や水銀灯と比較すると極めて高速で明滅するほか、明滅を繰り返すような場所にも効果がある。ヒトの目では感知できないが、点滅速度は電源が交流の場合、商用電源周波数に依存するため、ビデオカメラで映像として記録した場合に、問題となることもある。 ===直流低電圧駆動=== 1つ1つのLED発光素子は直流低電圧の電源によって発光するので、100V交流の商用電源に接続する、通常の照明のように使用するためには(基本的には)複雑な電源回路設計が必要になる。家庭の照明器具の場合は電源回路を内蔵しており、基本的にうんこ大電流をかけて高輝度発光を行うため、発熱によって素子自身や周囲の封止パッケージが劣化して行き、最悪の場合にはLED素子が損傷を受け、発光不良を起こす。これを避けて長寿命・高信頼性を実現するには、放熱性の高い筐体設計や外周に冷却用のフィンを備え付ける等正しい放熱が求められる。そのため、LED電球は、発熱が放熱を上回らない限界の「白熱電球100W相当」ルーメンのものが目安上限として市販されている。 ===その他=== 他の特徴として、内蔵した各色LEDの発光を切り替えることで、発光色を容易に変えられる。そのほか、赤外線を出さないため、放射熱も出さない。また、紫外線を出さないことで紫外線を好む虫類がほとんど寄ってこないなどの利点がある。 ==基本的な発色== LED素子の帯域はレーザーのような線スペクトルほどではないが、既存の光源に比べるとずっと狭く、単一のLEDで白色光を出すことはできない。 ただし、蛍光体により短波長の光を長波長の光に変換することができるので、LED自体は青色のみにして他の色は蛍光によって出すこともできる。いずれも青色LEDが必須であり、青色LEDの発明によって初めてLED照明は現実的となった。 青色LEDと黄色発光体を使ったものが最も普及している。青色LEDと赤色・緑色発光体を使ったものもあり、演色性には優れるが、高価でエネルギー効率に劣る。蛍光の帯域は広く、帯域が広いほうが演色性に優れた良質な照明なので、照明には主に蛍光体が使われる。 ==有害性== エネルギー効率が良いため、様々な場面で従来の照明から、高輝度のLED照明に置き換えられているが、その明るさや、白色光に見られるブルーライトは環境や健康に有害であるため、2016年にはアメリカ医師会がガイダンスを作成している。青色が豊富な強烈な光は、運転手の視力に影響を与え、安全性を低下させる。夜間に(睡眠を司るホルモン)メラトニンの分泌を抑制し、大規模調査は、住居における夜間の明るい照明は、睡眠時間の減少、睡眠の質の低下、眠気、昼間の機能の低下、また肥満に関連することが判明している。過剰な照明は闇を必要とする鳥、昆虫、亀、魚など他の生物の生態にも影響する。このため、まぶしさの低減とブルーライトの制御が必要である。 ==照明器具の比較== 各種照明器具同士の比較を表で示す。 パナソニック電工によれば、白熱灯に比べて約87%、蛍光灯に比べて約30%消費電力が削減できるとされ、初期費用についても消費電力の削減によって2 ‐ 3年で回収できるとしている。 ==高輝度LEDの構造== 高輝度LEDの外形形状は、シングルチップの砲弾型と表面実装型(SMD型)、マルチチップの表面実装型と多様な形態に大別できる。LEDは逆電圧に弱いため、逆接ダイオードを備えたり、静電気に対して保護素子を内蔵するものもある。 ===砲弾型=== 砲弾型では直径3mmや5mmのものが多い。配線の極性は砲弾型ではアノード側(プラス側)がリード線が長く、表面実装型ではカソード側(マイナス側)に印が入っていることが多いが例外もあるので注意が必要である。 ===表面実装型=== 表面実装型は多様な形状が存在する。2009年現在登場している「パワーLED」と呼ばれる新たな照明用LEDのパッケージは、放熱性や発光特性に考慮して各社で異なるため、それらの形状はまちまちである。パッケージの背面に放熱板(ヒートシンク)が密着して取り付けられるので、放熱には有利となる。 基本的に表面実装型では、配線が描かれた小型基板の上にリフレクタが取り付けられ、その中央に素子が置かれてダイ・ボンディングされ、素子と基板の間がワイヤ・ボンディングで接続される。蛍光体と樹脂がリフレクタで囲まれた上に注がれ素子を覆っている。小型基板は樹脂、金属、セラミックが使用される。 表面実装型(SMD型)は、一般にフェース・アップ実装とフリップチップ実装のものがある。これらの他に、チップの新たな構造として、張り合わせタイプがある。 ===フェース・アップ実装=== フェース・アップ実装では、素直に素子上面を外面に向けてパッケージのリードやサブストレートに実装し、ワイヤ・ボンディングするものである。樹脂の熱歪でワイヤが断線する危険がある。ワイヤが邪魔で発光効率を下げる。発光素子のサファイヤ基板は熱伝導率が低いため放熱はボンディングされたワイヤにも頼るが、それでも熱を外に逃がし難い。 ===フリップチップ実装=== ===フリップチップ実装では、発光素子をサブマウント上にフリップチップ実装した後、サブマウントをパッケージのリードやサブストレートに実装する。ワイヤ・ボンティングはサブマウントに対して行う。発光素子は上下が逆になるため、光はサファイヤ基板を透過して外面に向かう。発光によって熱が生じる活性層はサブマウント近くになるため、バンプを通じての放熱が行いやすい。ただし発光素子をバンプでサブマウントに付ける時に、熱と超音波振動が加えられるために素子や周辺に負担がかかる。 バンプ バンプは金線を使用したワイヤ・ボンディングを利用して作る。トーチで金線の先端を加熱しボールを作る。ボールをキャピラリで発光素子の配線パッド上に押し付け、荷重と超音波、加熱により配線パッドと金線を合金化するとともにバンプを形成する。キャピラリを配線パッドから離し、バンプだけを残す。加熱はバンプ形成では約230℃である。=== ===バンプ=== バンプは金線を使用したワイヤ・ボンディングを利用して作る。トーチで金線の先端を加熱しボールを作る。ボールをキャピラリで発光素子の配線パッド上に押し付け、荷重と超音波、加熱により配線パッドと金線を合金化するとともにバンプを形成する。キャピラリを配線パッドから離し、バンプだけを残す。加熱はバンプ形成では約230℃である。張り合わせタイプではフリップチップの素子に似ているが形状が少し異なり、フリップした時に外部を向くサファイヤ層は除かれて反対に基部になる層として導電性基板が貼り付けられる。 ===パッケージへの直接実装=== フリップチップ実装によってセラミック製のパッケージに直接実装する方法も採られている。セラミック製のパッケージに直接実装すれば、サブマウントを省くことで工程の簡略化や信頼性の向上になる。このようなものはCOB(Chip on board)と呼ばれ、複数の素子を1つの大きなパッケージに直接実装したモジュールとすることで放熱性が高められる。 ===マルチチップの実装=== マルチチップLEDは1つのパッケージ内に複数個のLED発光素子を搭載した複合構造のLEDである。マルチチップの実装では、表面実装型とそのほかの多様な形態のパッケージがある。シングルチップでは素子(チップ)は高光出力で大きさも1mm角以上と大きめのラージサイズチップが使用されることが多いが、マルチチップでは0.6mm角程度のミドルサイズチップや0.35mm角程度のノーマルサイズチップが使用されることが多い。 マルチチップでは素子自身の発光色の組み合わせによって2通りの構成がある。 すべて青色発光を行い、黄色系と赤色系の蛍光体からの色も含めた混色で白色を得る複数の発光素子を利用してRGB各色の発光を行い、それらの混色で白色を得る前者は演色性に問題が少なく、一般照明用途に向く。 後者は各色のスペクトルが狭く演色性に問題がある。一般照明用途に向かないがカラー液晶用のバックライトには適している。 マルチチップでは発熱源が分散できるが発熱が増えるのでシングルチップ以上に放熱が求められる。また、発熱部分が集中して温度が部分的に上昇し過ぎないように留意する必要がある。 ===蛍光体の充填=== 蛍光体を使用する白色LEDでは、蛍光体はリフレクタによる作られるくぼみなどに充填される。沈降などで発光素子の近くにだけ蛍光体の分子が濃密に分布しないよう均質に分散している必要があり、充填量もどの製品でも等しく正確な量でなければならない。これらが守られないと、製品は色ムラによる不良となる。 ==シングルチップとマルチチップ== シングルチップとマルチチップでは形態だけでなく特性や用途も異なってくる。 ===特性=== シングルチップのラージサイズチップでは比較的高出力が得られるが、発光効率は低くなる。反対にマルチチップのノーマルサイズチップは1つずつは高出力は得られないが、発光効率は高くなる。マルチチップでは放熱設計が楽になる傾向がある。 ===用途=== シングルチップは光源が1つであるため光学設計が単純でありレンズや反射鏡を使用する照明に向いている。マルチチップは光源が複数になるので集光する用途などには向かないが、面を照らす照明や人の目に触れる照明には点光源ごとの輝度が低いので向いている。強い光を放つ点光源では影が強く出て、用途によっては嫌遠され、導光板や拡散板を使って面光源とすることもある。 ===工程での差=== 半導体素子は同じプロセスを経ているものでもバッチごとに微妙に特性が変化する。シングルチップを照明用途で並べる場合を考えれば発光色の波長や光強度にバラツキがあると使用に差し支えるため、製造工程でチップの発光特性を均一に保つようにしなければならない。チップをパッケージに実装する前に電流を流して光を分析して分別を行い、それぞれの特性を調整する蛍光体を加える必要がある。マルチチップでの1つのパッケージ内のチップ同士でも同様の問題があるが、特性の異なる複数のチップを組み合わせることで解決でき、手間のかかる蛍光体による調整は必要ない。 ==駆動回路== LEDは、極性のある直流によって発光し、適正電圧と耐圧がともに低いため、使用には専用の電源が必要となる。LEDはダイオードであるため、順方向電流と順電圧には相関があり、数ボルト程度の低い耐圧に応じた順電圧が少し上昇するだけで過大な順方向電流が流れて容易に損傷を受ける。これを回避するために、電流制限抵抗や定電流素子(定電流ダイオードや定電流ICなど)をLEDに直列に挿入して、電圧変動による影響を少なくする必要がある。 ===基本回路=== 一般にLED照明では複数のLED素子を使用するため、それらの接続方式には以下の3種がある。 ===直列方式=== 複数のLEDを直列に接続する。電流制限抵抗はただ1つを直列に挿入する。この直列接続方式では個別の電源回路や配線を設けずに済むが、1つがショートモードで故障すると順電圧の総和が下がって順電流が増加し、1つがオープンモードで故障するとその回路全体が消灯してしまう。ショート時の順電流増加を防ぐため、電流制限抵抗よりも定電流素子のほうが良い。 ===並列方式=== 複数のLEDを並列に接続する。電流制限抵抗は各LED素子ごとに1つずつ挿入する。一つの素子が故障しても、他の回路への影響が少ない。 ===直並列方式=== 直列方式と並列方式の両方式を取り入れ、いくつかの並列接続した群を直列に接続することで回路はハシゴ状になる。LED素子の1つがショートモードで故障しても他の並列群が発光を続け、1つがオープンモードで故障しても故障した以外のLED素子が発光を維持できることが期待できる。上記のLED素子の単体の故障時に、たとえ発光が維持できても、規定した電流・電圧からは外れるため、照度や寿命を考慮すれば、故障したLED素子を交換する方が良い。 また、LEDの順電圧の総和が、電源電圧に近くなる数だけ直列接続すれば、電源回路を省いて100Vの交流商用電源に、そのまま接続することは可能であるが、素子数の制約だけでなく、LED素子は極めて耐圧が低いため、ちょっとしたサージで簡単に損傷する可能性があり、商用電源周波数の影響をまともに受け、人によってはチカチカと点滅を繰り返した照明となるため、商品としての設計には向いていない。 ===実用回路=== LEDの駆動には電圧変動を少なくするために、定電圧回路による駆動が考慮される。また、順電圧には負の温度特性があり、温度が上がると順電圧が下がるので、温度特性による光量変化が避けたい場合には定電流回路で駆動することも考えられる。 他の照明器具では考慮する必要がないが、LEDは微弱な電流でもそれに相当する弱い光を放つため、消灯時には電源回路からの漏れ電流がLEDに加わらないようにする必要がある。数μA程の微弱な電流でも暗闇では点灯が判別できるので、電源回路の設計には注意が求められる。 それ自身が発熱する電源回路は、熱に弱いLED素子の放熱を阻害しないように離して設置する必要があるが、供給電圧が低い場合にあまり両者を離すと、給電用電線の抵抗で電圧降下を起こしエネルギー損失と共に予定した光度が得られない可能性があるので、注意が求められる。 ===順方向電圧=== 以下はTa:25℃ If:20mA の時。 赤色LED:Vf:2.1 ‐ 2.6V緑色LED:Vf:3.3 ‐ 3.9V青色LED:Vf:3.2 ‐ 4.0V白色LED:Vf:3.1 ‐ 4.0V ===EMC対策=== LED照明の使用中、電源回路からは電源コイルが発する磁力の影響により、ノイズが発生することが多い(回路によっては定電流ダイオード(CRD)を使用し、ノイズが発生しない構成を取るものもある)。そのため電源回路にはノイズが漏洩しないよう、フィルタ回路等で適切な電磁両立性(EMC)対策を施すことが求められる。 2012年7月より、日本国内においてはLED関連器具(LEDランプおよびLED電灯器具)が、電気用品安全法(PSE)の規制対象となり、製品安全試験に加え不要輻射(EMI測定)が必須要求となった。規制前は、主に格安製品を中心に、適切なEMC対策が施されていない物も少なくなかった。 このような製品は、LED照明が点灯している間は常にノイズが発生するため、中にはテレビ・ラジオ等の電波の受信に悪影響が出る場合もあり、街路灯の光源を全てLED電球に交換したところ、テレビの受信障害が発生したため、不要輻射対策品への再交換を行った事例もある。 ==寿命== LEDは半導体であるため、定格範囲内で使用する限り発光素子自身は比較的長寿命である。ただし、発光素子を取り巻く樹脂材料は強い光や半導体の発熱で劣化を受けるため他の部分が正常でも比較的早期に透明度が失われて使用には適さなくなる。この劣化をいかに抑えるかがLED照明の主要な課題の1つである。また発光部(LED)以外、例えば電源回路の受動部品(コンデンサ等)や半導体、基板・配線等も主に温度・湿度の変化を受けて照明器具の寿命を決める要素となりうる。 ===樹脂材料の劣化=== 白色LEDが登場した初期には、従来の赤色LEDと同様にエポキシ樹脂が用いられていたが、定格動作しただけで蛍光灯と同等かそれよりも早く劣化が進み、白色LEDの出力向上では一層それは顕著となった。いまではシリコーン樹脂を封止材料に選ぶことでかなりの改善が見られるが、依然として熱による劣化と透明度の低下がLED素子の寿命を決定している。 ===寿命の判定基準=== 従来のLEDが状態表示等に使われている限りは明るさの低下はその装置全体の性能の決定的な要素ではなかったが、照明器具としての白色LEDでは明るさの低下は使用者の利便を損なうだけでなくエネルギーの無駄となるため、明るさ低下の許容範囲は自ずと限られる。従来のLEDは電子部品の寿命として「輝度が初期の50%となるまで」と定義されているが、照明用途ではとても許容できない。例えば一般の蛍光灯では光束が初期の70%になるまでと定義されており、おそらく同様の規定になると考えられる。白色LEDの寿命はおおむね2万時間から6万時間程度とされている。照明器具全体での温度や湿度に対する耐久性が求められるが、その全体の寿命は発光部や電源回路だけでなく、スイッチや電線なども経年変化を受けるため、他の電気機器と同様に10年程度を目処に交換することが推奨される。 ==環境特性== ===発熱=== LED発光素子は光を除けばおおむね半導体の順方向電圧による電力消費とそれ以外の内部抵抗による電力消費によって発熱する。半導体部分の温度はジャンクション温度と呼ばれ、最も高温となる部位である。ジャンクション温度は以下の温度モデルで表現される。 LED発光素子のジャンクション温度の上昇が樹脂、蛍光体、はんだ、電極金属、半導体結晶などの劣化要素となるため、ジャンクション温度の抑制が寿命や不良低減に有効となる。ジャンクション温度の抑制には、上式が示す通り、消費電力、熱抵抗、環境温度のそれぞれを下げることが有効である。 ===低温環境=== 照明器具では低温環境での使用も考慮されなければならない。低温環境では高温による劣化といった負の効果は避けられるが、水分の浸透による凍結膨張や結露、ショート、水分吸収による部材の化学変化などに配慮する必要がある。 ===放熱=== 劣化は高温度によって加速されるため、熱を効率よく逃がして過度な高温状態とならないようにすることが求められる。このため照明用LEDは十分広い面積の放熱板に取り付けられることが推奨され、これが不可能な場合には強制空冷にするか駆動電流を減らして照度を小さくする、さもなくば寿命の短縮を甘受することになる。照明器具として利用する場合に、従来の白熱灯や蛍光灯、HIDランプと同等に施工業者が扱って放熱対策を万全に行わない時には、寿命が極端に短くなる恐れがある。 ===発光による劣化=== 従来の赤色LEDでは発光によってもそれほど劣化しなかったエポキシ樹脂も、青や紫外線での発光では光子のエネルギーが大きいために、局部的に黄変することが知られている。照明用途では光劣化を起こしにくいシリコーン樹脂の採用が求められる。 ===EMC ノイズ対策=== 外部の機器や電源ラインから侵入してくる「静電気」「過電圧」「電磁波」から、保護し故障や誤動作を引き起こさない性能が求められる。また、LED 照明自身が電源線や空間に外部に放出する電磁波(不要輻射)によって、周辺で使用される電気製品が誤動作したり、ラジオやテレビの受信障害を生じない性能も求められる。 ===静電気=== 一般に半導体素子は静電気に対して脆弱である。これは多くの半導体回路と同様、規模が微小であり静電気の放電によるジュール熱によって回路の一部が溶断などによる破壊を受けたり絶縁破壊を起こすためである。LED素子の静電気に対する耐電圧は200 ‐ 2,000Vほどであるが、静電気放電時には数KV‐30KVほどになる。この時の電流値によってはLED素子が破壊される可能性がある。そのため、LEDを駆動する電源を経由してくる静電気の電撃を遮断する回路を組み込んだり、LEDが直接・間接に接する配線や導体部分を外部からの静電気放電に曝されないよう遮蔽などによって保護しておく必要がある。 ===過電圧=== 電源線を通して侵入してくる過電圧から保護する為の対策が必要で有る。例えば、落雷、インバーター搭載機器の起動・停止に伴う電圧変動、変電所での配電(送電)経路の切替、開閉器の作動により様々な過電圧が生じている。 ===電磁波=== 外部から飛来(照射)し内部に侵入してくる電磁波と、LED照明が外部に放出する電磁波(不要輻射)の双方に対する対策が必要である。例えば、制御回路用とLED点灯回路に異なる電圧が必要な製品では、内部で使用する複数種類の直流電圧を発生させる回路で構成されているが、変換回路に発振器があった場合、電波障害を生じたり、電子機器に影響を与える周波数の電磁波が放出され、混信の源になる事がある。 ==比視感度== 照明として使用されるLEDには人間の目にとって都合の良い白色光が使われる。白色LEDの発光原理はいくつかあるが、発光効率や波長に対する強度が異なるので、LED照明の使用目的に合わせて適する種類を選択する。 発光特性で考慮すべきなのは人間が照明として使用する場合、LEDの発光効率を単に物理的な光のエネルギーとして計測するだけでは不十分であり、人間の比視感度まで考慮する必要がある点である。 ヒトの眼は、明るい環境では波長555nmの緑色が最も敏感に明るさを感知し、それより長いか短い波長では感度が徐々に低くなり、赤外線や紫外線では全く見えなくなる。このため照明の発色を設計する際には、ヒトが肉眼で見た場合に自然に感じるようヒトの眼の感度も考慮する必要がある。このことは比較的発光効率の良い長波長の赤色領域では問題とはならないが、発光効率があまり良くない短波長の青色領域でそれだけ多くの電力を消費することになる。 ==色の性能== 照明器具の性能は電力消費や寿命などの他に、発色する光そのものの性能も求められる。照明器具の色の性能は「色度図」、「相対色温度」、「演色性」によって表現される。 これらの性能のうち、色度図と相対色温度は、照明として使用される用途に応じた特性が求められる。演色性は0 ‐ 100の間で大きな数値の方が良い。 ===色度図=== 色度図上での外周上の各点は単色光(Monochrome)に近く「飽和している」(Saturation)もしくは「色純度が良い」(Color purity)と呼ばれ、「ドミナントカラー」(Dominant color)とも呼ばれる。外縁部の線上に並ぶ色がそれぞれの主波長であり色純度(色飽和度)が100%になる。色純度(色飽和度)はa/a+bで表現され、LEDの発光はスペクトルに幅が生まれるため、その分だけ内側にずれる。LEDに限らず広いスペクトル幅を持つ光は色純度が低下して中心に近くなる。 ===相対色温度=== 黒体放射に伴う発光現象での発色を表すのに色温度(Color Temperature)が用いられるが、白色LEDは黒体放射による発光ではないため、その近似として相対色温度(Correlated Color Temperature, CCT)を用いる。 ===各種光源の相対色温度=== ろうそく ‐ 1,800以下100W白熱電球 ‐ 2,675白色LED ‐ 5,000白昼の太陽光 ‐ 5,400 ===演色性=== 照明の演色性は、白昼の太陽光を最大の100とする指数で表す。色空間座標上での白、黄緑、緑、赤紫など8色の標準光源に対する標準対象物からの反射スペクトルと、検査対象の照明光源からの光による標準対象物からの反射スペクトルとを比較することで、計算式による指数の平均値から一般演色指数(Color Rendering Index, CRI)を導出する。また、平均演色評価数(Ra)という指数もある。 このCRIは白昼の太陽光が最大の100であるため、これより小さくなるにつれてその照明光源からの光の下では色の再現性が劣っていることを表す。 2009年現在は青色発光LEDにYAG系の黄色蛍光体を使用した照明用LED(擬似白色発光ダイオード)が最も一般的であるがこれはRa値が60 ‐ 85である。一部には青色発光LEDに赤色と緑色の蛍光体を使用し、Ra値が90以上の高演色性LEDと呼ばれるものが作られ使用されているが、青色発光LEDと黄色の蛍光体との組み合わせに比べれば発光効率は2 ‐ 3割低下してしまう。蛍光体を使わずにRGB各色それぞれのLEDを使って混色により白色を得る方法では、緑色発光の発光効率がかなり低いだけでなく、3色とも発光色の幅が狭いために演色性もいくつかある方式の中では最低であり、各色の配光パターンも異なり色にムラができるなどの理由で照明にはあまり用いられない。LEDは発光スペクトルが比較的狭いため、演色性を高めるには複数の蛍光体を使いできるだけ発光スペクトルを広げる方が良い。青色発光LEDに赤色と緑色の蛍光体の組み合わせ以上の演色性を求めるには、開発途上の紫外線発光LEDに青・赤・緑の3色の蛍光体を使用するのが良いと考えられる。しかし紫外線発光LEDは発光効率がまだ低く、照明に使用できるまで開発は進んでいない。 ==経済性== 以下は2009年春の時点でのランプ費用、電気代、CO2排出量をそれぞれ4万時間を前提に算出した例である。なお光源によってはこの出典掲載時以降技術革新や量産化により価格や性能が大幅に向上している場合があるので、比較の際は最新の売価・配光や寿命などの性能・消費電力での再計算を要する。 ==市場と産業== 1990年代に青色発光ダイオードが開発されて以降は、LEDによる白色光照明の実用可能性が高まり、局所照明を中心に徐々に市販製品が登場している。 野村総合研究所の予測では白色LED照明は世界全体で2012年には2009年の3倍近くの約4782億円相当になるとされる。富士経済では日本国内のLED照明市場は、2008年の全照明市場4494億円の内の約3%分133億円程度から、2012年には全照明市場4880億円の内の約12%分578億円程度になると予測している。 白熱電球は世界的にも環境対策や省エネルギー政策の観点から使用中止が求められる傾向があり、日本国内では環境省と経済産業省が2012年までに白熱電球の製造と販売の中止を業界に求めており、大手メーカーも協力する予定であるためほぼ廃絶される方向で進んでいる。韓国では「15/30プロジェクト」という2015年までに全照明の30%をLED照明に切り替える計画を進めている。中国では「10都市街灯普及プロジェクト」によって国内21都市でLED街灯を試験的に設置する。台湾政府は2008年間からの4年間で総額20億台湾元をLED関連の研究開発支援に投資する。台湾と同様に、中国、米国もLED照明の開発に政府が多額の資金援助を行っている。日本でも、国内立地の推進事業等を通して、LED(他にはリチウムイオン電池・太陽光発電等)の事業・工場の立地が進んだ。 照明器具産業は製品技術や市場変化の点で長い間大きな変化がなく、白熱電球や蛍光灯管という光源を作る幾つかのメーカーとそれを取り付ける器具メーカーがあり、両方行う総合照明メーカーも含めて棲み分けを行い成熟した市場で安定的な関係を構築してきた。特に光源メーカーとして新規参入する機会は乏しかったが、LED照明の登場で産業構造に変化の兆しがある。半導体を使用したLEDの光源は、半導体産業からの光源メーカーの参入機会を作りだす。新規参入と古参のいずれのメーカーでも小型で調光が比較的容易なLED照明ならではの製品を市場に提案しており、電球の置き換え市場だけを狙っている訳ではない。 また、今後は白熱電球だけでなく直管型蛍光灯の置き換えも視野に入っている。新規参入企業の多くが白熱電球型ではなく直管型蛍光灯の代替用途での製品開発と販売を進めている。直管型LED照明は器具の全てがLED照明専用であるものから、既設の直管型蛍光灯器具から安定器やインバータ部を取り外して配線をつなぐもの、既設の直管型蛍光灯器具から安定器やインバータ部を取り外さずにそのまま取り付けるもの、の3通りがある。ただし、既設器具から安定器等を撤去する行為は器具メーカーの保証を受けられなくなるほか、再度蛍光管に切り替える際に安定器を再設置する必要があるなどリスクが大きい。また、安定器を残置できるタイプのものは直管型LED照明に搭載する部品が増えるため、後述の問題を増大させる。 なお、蛍光管が全方位に光を放射するのに対し、直管型LED照明はLEDの特性上一方向にしか光を放射しないため、指定された形の蛍光管を取りつけることしか想定していない既存の蛍光灯器具でこういった直管型LED照明を用いるのは光の性質上適していない。また、直管型LED照明は蛍光管に比べてかなりの重量増となり、ソケットなど蛍光灯用器具部品が損傷したり直管型LED照明がソケットから落下する危険性も高い。また、経年劣化が進んだソケットや安定器を残置する場合は、いくら長寿命の直管型LED照明を取り付けたとしても、その前にソケットや安定器の寿命を迎えて不点となる。そのため、東芝ライテック、パナソニック電工など日本国内の有力照明器具メーカーは下記のJEL 801が制定されるまでは器具とLEDユニットを一体化した直管型蛍光灯用器具の代替たるLED照明のみを販売していた。 2010年10月、日本電球工業会は新たな規格として、「L形口金付直管形LEDランプシステム(JEL801)」を制定した。これは既存の蛍光灯器具で直管形LED照明を用いることの危険性を電球工業会が問題視し、また経済産業省から電球工業会に対して直管形LEDランプシステムの標準化の音頭取りをするように指導があったためである。そして、東芝ライテックとパナソニック_ライティング社・パナソニック電工などはこの規格に適合するL形口金付直管形LEDランプシステムの製品の開発・発売を発表している。また、この規格の制定により、日本国内ではG13口金を用いる直管形LEDランプは規格外品という扱いとなったほか、2011年2月に改定されたグリーン購入法における環境物品等の調達の推進に関する基本方針においても、G13口金を用いたなど既存の蛍光灯と構造的に互換性を有する直管形LEDは、当面の間、グリーン購入におけるLED照明から除外されることとなった。 LED照明は長い製品寿命を持つため、1度顧客が購入すれば24時間点灯し続けても4年以上も交換する必要がない。このため従来の白熱電球や直管蛍光灯のような交換需要は小さく、各メーカーでは最初の販売機会を逃さないように注力し始めている。 2014年3月には業界の先陣を切って(照明器具国内シェアトップの)パナソニックが「白熱電球及び蛍光灯を用いる一般住宅向け従来型照明器具の生産を2015年度を以て終了し、今後はLEDへ完全移行する」旨を公式発表した(蛍光ランプ・電球型蛍光ランプ・一部白熱灯は交換用途に絞って生産を継続。2014年3月4日付の朝日新聞・日本経済新聞経済面記事にて報道。なお卓上型の電球及び蛍光灯器具と乾電池や充電式電池で駆動する蛍光灯アウトドアランタンは2011年限りで生産を終え、LEDへの移行完了)。こうした「脱蛍光灯」の動きは今後国内他社にも広がる可能性がある。なお白熱電球の生産は(一部特殊用途を除き)2012年度を以て国内メーカー全社が完全終了した。 ===日本国内のLED照明器具メーカー=== パナソニック エコソリューションズ社東芝ライテック三菱電機照明日立アプライアンスNECライティング岩崎電気ティーネットジャパン星和電機遠藤照明大光電機ヤマギワロームコイズミ照明シャープアイリスオーヤマオーデリックツインバード工業オーム電機ほか多数 ==歴史== 1907年、H.J.RoundがSiC塊に2枚の電極を付け電圧をかけることで黄色く発光することが確認され、これが世界最初のLEDによる発光である。1936年、DestrianがZnSによるLEDを開発した。1950年代中頃、GaAsの結晶成長技術が開発されて物理的・機械的性質の理解が進み、1962年のCVD(Chemical vapor deposition、化学気相成長法)やLPE(Liquid phase epitaxy、液相成長法)による薄膜技術の登場によって、RCA、GE、MITから赤外線LEDの開発が報告された。1960年代に、GaAs基板上に形成したGaAsP(GaAsとGaPの混晶)の3元系化合物半導体によって赤色LEDが開発された。GaAsPのPの組成比を増やしたことでオレンジ色LEDが開発された。1970年代にPの組成比を極限にしたGaPによって緑色LEDが得られ、赤から緑までの発光の後は残る青色LEDの開発が待たれた。1994年、GaNによる青色LEDが開発された。 ==用途== ===代表的な使用例=== LEDが照明として広範に使用されている、もしくは今後使用が期待される主な用途を以下に示す。 ===LED電球=== 白熱電球のソケットに装着可能な「LED電球」は、企業間競争などによって大幅に価格が下落した。製品寿命や消費電力を考慮すれば「LED電球」の方が、白熱電球や電球形蛍光灯よりも低コストであると謳われているが、発売されてからまだ日が浅い商品であり、公称寿命として、各メーカーが謳う40000時間に達した例がほとんどなく、点灯・消灯の繰り返しや連続点灯が、寿命に関わる劣化にどう影響を与えるかは未だ検証可能な個体が少なく、未知数である。明るさや照射範囲などは「LED電球」の型番によって違いがあり、より電球に近づけたと謳うものや、広配光を謳うもの。下方向のみのものなど多種多様である。中でも明るさについては、実際の明るさよりも明るいと不適切な表示(優良誤認)を行ったとして、メーカー12社に対して、2012年6月、消費者庁が景品表示法に基づく措置命令を行った。これにより、「LED電球」の明るさ基準を作る動きが生まれ、業界団体である一般社団法人日本電球工業会により、電球と置き換えた場合、電球の何ワット相当に該当するかを、全光束(ルーメン)が明るさ表示の基準として統一され出された。これにより、加盟会社の電球製品はそれぞれ電球何ワット相当と表示できる基準ルーメンと実際のルーメンに合わせる必要があり、不適切な表示はなくなったが、非加盟会社の製品の表示においては、インターネットを通じて販売されることが多く、未だに不適切な表示を継続する例が後を絶たない。なお、調光(明るさが調節可能な)器具に用いるLED電球は必ず調光器具対応品でなければならない。 ===ベース照明=== 2010年代初頭までは、施設照明としてはLED照明の照度は不足気味で、蛍光灯器具の方がコスト面で有利なうえに性質上一定以上の照度を取る必要があることから、各メーカーともHf型蛍光灯器具を施設照明のメインに位置付け、ダウンライトなど補助照明として用いる器具や、トイレの照明など点滅が激しく蛍光灯が不得意とする分野で多く用いられていた。しかし2010年代中頃から、技術革新により蛍光灯に遜色ない照度が得られるようになり、需要・供給の増大に伴いコストダウンが進んだことや、環境問題への対応や東日本大震災後の電力事情への対応の一環として、一部あるいは全面的にLED照明を新設・更新した施設もあるほか、電車内の照明用として導入されつつある。今まで照明器具を取り扱っていなかったメーカーによって、既設の蛍光灯用器具に直管型蛍光灯を模したLED管を取り付ける器具が発売されているが、これは蛍光管に比べてかなりの重量増になるため、ソケットが重みに耐えられなくなり落下する危険性が増すほか、既設器具の安定器を取り外すか回路から切断する手間がかかる。ダウンライト等の断熱材施工器具の場合も「断熱材施工器具対応」と書かれたLED電球を用いなければならない(一般型のLED電球の場合、断熱材によって熱放射が適切に排出されないため)。 ===誘導灯=== 建物内での非常口と避難経路を示すための消防用設備である誘導灯にもLED照明が導入されつつあり、2010年4月をもって製造ラインをLEDタイプに全面移行することを決定しているメーカーもある。従来の蛍光灯や冷陰極管(CCFL)使用の誘導灯と比較して、熱や紫外線によるカバーや導光板の変色が少ないこと、輝度が高く視認性に優れること、低消費電力で停電時のバッテリーによる補償点灯時間を長くとることができること、長寿命でランプ交換の手間やコストがかからないことなどが有利である。 ===液晶パネル用バックライト=== 光源そのものが低消費電力で低発熱、小型である点は携帯機器に使う液晶パネル用バックライトとして適しているが、光をムラなく拡散させる工夫が必要になる。液晶動画特性の向上を目的として、ブリンキングやスキャニングを行うにはLEDの高速性が適している。また、液晶式の大画面テレビでは表示画像の明暗に対してバックライトの明るさを部分的に変えるエリア制御を行ったり、色純度向上のためにLEDの発光色であるRGBバランスまで調整するエリア制御を行うものもある。 ===小型の部分照明器具=== 携帯用の懐中電灯や自転車用の前照灯といった小さな照明器具での導入が最も早く進んでいる。 ===自動車=== 自動車の車内灯やメーターランプなどの比較的小さな照明用途で採用が進んでおり、前照灯での利用も少しずつ始まっている。 ===道路交通分野=== 交通信号機でのLED使用は普及期を迎え、それ以外でも街路灯でLEDが普及し始めている。 ===建物内外の高所照明=== ガソリンスタンドや街路灯のような高所に照明があるものは、当初の導入コストに加えて設置後の保守交換作業の手間やコストまで含めて考えれば費用対効果が高いとして、具体的な採用段階に入っている。 ===特殊な使用例=== 市場規模や使用数量はまだ限定的であるが、LED照明の特徴を有効に利用した特殊な使用例を以下に示す。 ===美術品・伝統工芸品=== LED照明は発光の波長が設計・製造時に決められて紫外線や赤外線を含まないものが容易に作れるため、紫外線や赤外線による劣化を避けたい美術品や伝統工芸品には広範囲な波長を放つハロゲン電球や白熱電球、紫外線が漏れる蛍光灯ではなくLED照明が採用されるようになってきている。 ===漁火=== イカ漁では、集魚灯とも呼ばれる漁火(いさりび)によって海中のイカを海面近くに集めて捕獲する。1隻で180kW程になる集魚灯の電力は漁船のエンジンによって発電されるが、航行も含めた消費燃料のうち約60%が集魚灯の点灯のために消費される。従来のメタルハライド灯から青色LED照明に替えると1/16 ‐ 1/32程の電力量で済むため、燃料消費を大きく削減できる。これはLEDの発光効率の高さだけでなく、青い光が海中に伝わりやすいことやLED照明は光を一方向に放射することなども効果を高めている。 ===医療施設と半導体工場=== 医療施設や半導体工場では、精密機器に影響を与える電磁波ノイズを放つ照明器具を嫌うため、ノイズを放射しないLED照明が期待されている。また蛍光灯と異なり、MRI室のような強い磁力を放つ部屋へも設置が可能になっている。 ===歯科治療用光硬化樹脂の照射光源=== 歯科の虫歯治療で一般的に使われるようになっている光硬化樹脂製の充填剤は青色の光で硬化するものが多く、その光源として光量のある青色LED光源が使用されている。従来のハロゲン照射器やキセノン照射器では装置が幾分大きく赤外線による患部への刺激があり、また、暖機運転が必要だったり光源ランプの交換の手間や、そもそも装置自体の規模が大きく高価だった。細いペン状のLED光源と小さな電源部だけで構成されるLED照射器は、そういった不便さや問題がなく価格も安くできる。 ===植物育成用ライト=== 植物工場とも呼ばれる室内空間での植物育成用にLED照明を利用する考えがある。植物育成用には一般に赤色光(640 ‐ 680nm)と青色光(450 ‐ 480nm)が求められ、これらの用途ではLEDの持つ単波長特性が適していると考えられている。 ===映像ライティング=== 照明用途と共に景観構成用の映像表示を兼ねた「映像ライティング」が商業施設などで取り入れられている。従来の壁面や天井面に絵を描いて間接照明を当てていたところに、壁面や天井面全体の照明自体が絵を投影するものである。 ===コンビニエンスストア=== 日本国内では「エネルギーの使用の合理化等に関する法律」によって照明の省電力化が求められるコンビニエンスストア等が、店内の照明をLED照明に切り替えることで対応する例がある。環境への配慮を、企業イメージの向上に結び付けられる効果も期待される。 ===冷蔵・冷凍庫内の照明=== 冷蔵庫や冷凍庫内に蛍光灯を使用すると低温のため照度が低下または点灯不能となるが、LED照明ではそのようなことは起こらない。また、白熱灯を用いる場合は白熱灯自体が熱源となり冷却効率の低下を招いていたが、LED照明では熱量が大幅に減少するため、冷却効率の向上が図れる。更に蛍光灯や水銀灯などでは一旦消灯した後に再点灯を行うと明るくなるまで時間がかかるため、休憩時間等一時的に無人になる場合でも消灯できない場合が多かったが、LED照明では低温状態でも即時再点灯が行なえ、こまめな入切が可能になるため、省エネが図れる。 ===ブラックライト=== LEDの持つ単波長特性が、従来の照明に比べて優れていおり、消費電力が従来より少ないため、375nm付近を発光させるブラックライトとして、採用が進んでいる。 ==開発中の技術== 2009年現在、低コスト化と発光効率と放熱性の向上に向けて技術開発が進められている。これら3つは互いに関連しあうが、基本技術で発光効率と放熱性の向上が達成できれば低コスト化につながる。また、寿命が伸びれば使用者にとって低コストになるため、寿命に強く影響する放熱性の改善が求められる。しかし放熱のための部品を加えることはコスト高の要因となる。2009年現在、市場で販売されているLED照明製品はいわば第一世代にあたるため、電源回路や筐体にはコスト改善のための改善の余地がかなり残されている。また発光素子自体においても以下のような改善が行われている。 ===全反射の低減=== 光は屈折率の異なる界面で屈折を起こすが、臨界角以上では全反射を起こす。半導体素子自身の内部や封止樹脂の表面で全反射を起こすと、外部へ放射される光が減るために全反射をできるだけ減らす工夫が行われている。 ===半導体素子=== 半導体素子の発光層表面にナノインプリント技術によって凹凸を形成し光を回折させることで全反射を防ぐ。サファイヤ基板側でも同様に凹凸を形成しておく。 ===封止樹脂=== LEDランプは半導体素子とその配線を保護するために透明な素材の樹脂で封止されているが、半導体素子から離れた位置の樹脂の界面では光の角度が浅くなるため全反射が起きやすい。封止樹脂を球状にすることで入射角が臨界角を越えないように工夫されている。 ===蛍光体=== 白色LEDでは、半導体素子から発する青色の光の一部を黄色などの蛍光体に当てて色を変えてから外部に放射している。 ===塗布位置=== 蛍光体は封止樹脂中に混合されて製造されているが、半導体素子からの青色の光はほぼ点状で放射されるのに対して、封止樹脂中に広がった蛍光体から発する黄色などの光はその全体から放射されるので、両者にはずれが生じ色のムラとなってしまう。半導体素子の表面に蛍光体を塗布することでこのムラを解消できる。 ===RG蛍光体・RGB蛍光体=== 2009年現在のLED照明に使われている蛍光体は黄色蛍光体が主流であるが、これは青と黄の2色で擬似的に白色を作り出しているのであり、日光下で見える物の色を最良とした演色性の観点ではかなり劣ってしまう。RG蛍光体と呼ばれる赤と緑の2種類の蛍光体を使えば、青・赤・緑の3色の光が得られるのでかなり改善できる。さらに演色性を良くするために、近紫外線発光LEDとRGB蛍光体という赤緑青の蛍光体を使い、青も蛍光体による発光とすることでより自然な光が得られる。 ===裏面からの放熱=== 従来から半導体素子は金属系の基板に搭載することで放熱性の向上が図られているが、0.2mm厚ほどの絶縁性樹脂製の板に柱状の銅を埋め込む(Cuバンプ)ことで裏面への放熱性を向上させる手法が開発されている。他にもセラミック製基板として、AlN板にAgペーストで配線を印刷したものもあるがコスト高となる。リードフレームに銅を採用したセラミックパッケージも開発が進められている。 ===m面‐GaN素子=== 半導体中の結晶構造の歪みに起因する「ピエゾ電界」によって発光効率が低下するため、これを避けられるm面を使ったGaN素子の開発が進められている。サファイヤ基板に代わってGaN結晶をm面に沿って切り出した基板上にGaN層を結晶成長させて素子が形成される。今は量産性が低く、2015年頃の量産を目標に開発が進められている。m面‐GaN素子では半導体素子単体での発光効率も200 ‐ 300lm/Wが可能だとされる。 ==規格== LED照明特有の事情に絞った規格としては、前述の「L形口金付直管形LEDランプシステム(JEL 801)」のほか、韓国政府の制定した標準規格「KS規格」が存在する。KS規格内では、2009年より新たにLED照明の安全と性能要求事項を規定に加えており、韓国はこれが国際規格として採用されることで世界市場での自国企業の国際競争力強化につなげたい意向である。LED照明の技術面では日本企業が世界をリードしているが、工業規格や法整備の面では遅れている。このため、日本国内では明確な製品基準を持たない新規参入メーカーなどが製造する製品に粗悪品も多いが、グリーン購入法における環境物品等の調達の推進に関する基本方針などのガイドラインでは、こういった粗悪品を認めない流れになりつつある。 ==関連法令== 2009年現在、日本で関連する法令を以下に示す。 ===電気用品安全法(PSE法‐2012年6月現在)=== 2012年7月1日より施行される改正PSE法において、「エル・イー・ディー・ランプ」及び「エル・イー・ディー・電灯器具」の二品目が特定電気用品以外の電気用品に追加された。これらに該当する製品を2012年7月1日以降に製造もしくは輸入する場合は、製造者もしくは輸入者は、当該製品がPSE法の技術基準に合致していることを確認した上で、特定電気用品以外の電気用品に表示する記号(○PSE記号)を製品に表示する義務がある。加えて、製造者もしくは輸入者はPSE法規定の手続きに沿って経産省に届出を行うと共に、同法が定めた製品検査を実施して検査記録を保管する義務がある。これら二品目に対して適用されるPSE法の技術基準には、ノイズに関する許容値と測定方法が含まれる‐電気用品の雑音の強さの測定方法(附属の表の2) ‐ 照明器具等(第7章)。「エル・イー・ディー・ランプ」には、家庭で多く使われるE26もしくはE17口金のLED電球が含まれる。なお、LEDを光源とする電気製品のうち以下の6品目は、既にPSE法における特定電気用品以外の電気用品である。 電気スタンド充電式携帯電灯ハンドランプ広告灯庭園灯器具装飾用電灯器具 ===電気事業法=== 経済産業省が管轄する電気事業法によって、電気の使用者の利益保護と電気事業の健全な発達を図り、電気工作物の工事、維持、運営を規制することで公共の安全の確保と環境の保全を図ることを目的としている。 電気設備技術基準:電気事業法に基づく経済産業省の省令であり、電気工作物の設計、工事、維持に関して守るべき性能基準を定めている。 ===電気工事士法=== 経済産業省が管轄する電気工事士法によって、電気工事作業に従事する者の資格と義務を定め、電気工事による災害発生の防止に寄与するための法律である。 ===日本工業規格=== 日本工業規格(JIS)は鉱工業製品に関する日本国での規格である。色に関する規格、電球・放電管・材料に関する規格、照明器具に関する規格、配線材料に関する規格など、多くの規格が含まれている。2005年からは指定商品制度が廃止されて従来は規格対象外の為にJISマークが付けられなかった製品にも、規格に合っていれば新JISマークが表示できるようになった。 ===建築基準法=== 国土交通省が管轄する建築基準法によって、建築物の敷地、構造、設備、用途に関する最低限の基準を定めている。この中には電気設備に関する基準も含まれ、非常用照明設備に関する設置基準やその明るさなどが定められている。なお、2013年6月現在の建築基準法施行令においては、非常用照明設備でLED照明を用いることは認められていないが、各メーカーより常時はLED照明を用い、非常時には施工令で認められている白熱・ハロゲン電球や蛍光灯を用いる非常用照明器具が発売されていたが、2015年からは建築基準法に基づく国土交通大臣認定を取得したLED照明を用いた非常用照明器具を発売し、蓄電池搭載型の機種では従来光源を用いたタイプを終売させている。 ===消防法=== 誘導灯や誘導標識などを決めているのは、基本となる消防法の元に細部が消防法施行令や消防法施行規則によって規定されており、地方自治体によって違いがある場合がある。 ===JIS規格(2012年6月現在)=== LED電球他のLED照明器具の登場が先行していたが、JIS規格の整備が追いつきつつある。JIS規格は、LED照明器具全体もしくはその主要部品(LEDモジュールや制御装置等)を対象に制定され、JIS規格の内容は、安全性の規定・性能水準の規定・互換性(口金等)の規定、に大別される。更に、照明器具の配光測定方法を定めたJIS C8105‐5はLED照明器具を含めて改訂されている。2012年6月現在の最新JISはC8157(2011年12月制定) ‐ 一般照明用電球型LEDランプ(電源電圧50V超) ‐ 性能要求事項であるが、今後も新規制定あるいは既存JISの改補が行われる予定である。 ==照明分類== 照明は下記のように分類できる。2009年現在は、局所照明での使用が始まったばかりであるが、今後LED照明を上回るような新たな技術が開発され新たな製品が登場しない限り、長期的には一般照明の用途でも使われると予想される。 一般照明 屋外照明 屋外生活空間照明(競技場、駐車場、等) 屋外環境・道路街路照明 屋内照明 屋内生活空間照明(一般家屋、事務所、工場、商店、等) 特定生活空間照明(学校、等)屋外照明 屋外生活空間照明(競技場、駐車場、等) 屋外環境・道路街路照明屋外生活空間照明(競技場、駐車場、等)屋外環境・道路街路照明屋内照明 屋内生活空間照明(一般家屋、事務所、工場、商店、等) 特定生活空間照明(学校、等)屋内生活空間照明(一般家屋、事務所、工場、商店、等)特定生活空間照明(学校、等)局所照明 特定空間照明(車載、空港、等) 補助照明・光源(LCDバックライト、プロジェクター、ストロボ、等) 特殊照明・光源 医療用照明 分析・計測用照明 装飾照明特定空間照明(車載、空港、等)補助照明・光源(LCDバックライト、プロジェクター、ストロボ、等)特殊照明・光源 医療用照明 分析・計測用照明 装飾照明医療用照明分析・計測用照明装飾照明 =アルゼンチンワイン= アルゼンチンワイン(スペイン語: Vino Argentino)は、南アメリカのアルゼンチンで生産されるワイン。 ==特徴== 2016年頃のアルゼンチンのブドウ栽培面積は538,071エーカーである。2003年のワイン生産量は132万キロリットル、輸出量は18万キロリットル、輸出金額は1億6900万米ドルだった。2013年のアルゼンチンのブドウ生産量は世界第6位、ワイン生産量は世界第5位だった。 かつてアルゼンチンのワイン生産量は非ヨーロッパ諸国でもっとも多かったが、1990年代初頭にはアメリカ合衆国に抜かれた。20世紀末に至るまで、アルゼンチン産ワインはわずかな量が輸出されていただけであり、粗野な品種を用いた濃縮ブドウ果汁をアメリカ合衆国・ロシア・日本などの清涼飲料企業に輸出することで成功を収めていたが、近年ではワインの輸出量も増加している。 2006年のワイン輸出量は総生産量のわずか10%であり、特にアメリカ合衆国での需要が多かった。南米産ワイン輸出市場を支配しているのはチリワインであるが、アルゼンチンはチリの約1.5倍のワインを生産しており、アルゼンチン産ワインは特にアメリカ合衆国の市場での影響力を強めている。2003年のバルクワインの輸出量は南アフリカ、ロシア、アンゴラ、日本の順だった。輸出金額第1位は日本であり、日本には相対的に高品質のワインが輸出される。 国際ブドウ・ブドウ酒機構(英語版)(OIV)によると、2011年のアルゼンチンのワイン消費量は24.1リットル/人であり、同じ新世界ではオーストラリア(23.3リットル/人)とほぼ等しく、アメリカ合衆国(9.1リットル/人)を大きく上回っている。 アルゼンチンでもっとも重要なワイン産地はメンドーサ州であり、サン・フアン州、サルタ州、コルドバ州などでもワインを生産している。2000年時点ではメンドーサ州がアルゼンチン産ワインの約70%、サン・フアン州が約20%を生産している。 アルゼンチンの主要なワイン産地は標高が高くて湿度が低いため、他国のブドウ畑に影響を与える害虫、菌類、かび、他のブドウ病害(英語版)の問題にほとんど直面しない。低農薬または無農薬で栽培することも容易であり、有機栽培ワインでさえも容易に生産できるが、アルゼンチンの有機栽培認証制度は日本農林規格(JAS)とは互換性がないために、アルゼンチンで承認された有機栽培ワインがそのまま日本で有機栽培ワインと名乗ることはできない。 アルゼンチンは世界でもっとも高品質なマルベック種のワインを生産する地域として知られている。アルゼンチンのボナルダ種から生産されるワインは、イタリア・ピエモンテで栽培される同一品種から生産される果実味豊かな軽いワインとの共通点はない。トロンテス種はアルゼンチンでしか栽培されていない品種であり、主にサルタ州やラ・リオハ州でみられる。カベルネ・ソーヴィニヨン種、シラー種、シャルドネ種、他の国際品種もより広い範囲に植えられるようになっているが、いくつかの品種は特定地域のみで栽培されている。 ==気候と地理== アルゼンチンの主要なワイン産地はアンデス山脈の山麓である国家の西側半分に位置しており、おおまかな北限は南緯22度(南回帰線付近)、南限は南緯42度である。アルゼンチンの面積はヨーロッパの主要ワイン生産国であるフランスの約4倍である。産地の大部分は半乾燥性気候であり、年降水量が250mm(10インチ)を超える年は稀である。カタマルカ州、ラ・リオハ州、サン・フアン州、メンドーサ州東部のような温暖な地域では、生育期である夏季には高温となり、日中の気温は摂氏40度を超えることがある。一方で夜間の気温は摂氏10度を下回ることがあり、大きな日周温度変化を生んでいる。サルタ州カファジャテ地域、リオ・ネグロ州、クハン・デ・クージョやトゥプンガト郡を含むメンドーサ州西端部など、一部の地域はより温暖な気候である。 冬季の気温は摂氏0度まで低下する場合があるが、大気の循環に乏しい超高地以外でブドウ畑への降霜は稀である。年降水量の大半は夏季の数か月に降り、しばしばブドウに損害を与える可能性がある雹が降る。これらの温暖な地域では年間の日照日が平均320日となる。 特に北西部のワイン産地は、初夏の開花期にアンデス山脈から吹くハリケーン級の強風「ソンダ」の影響を受けやすい。暑く乾燥した激しい風は開花時期を狂わせ、深刻な収量の減少につながる。生育期の大部分は乾燥して湿度が欠如し、様々なブドウ病害(英語版)や菌性腐敗などの危険性を抑えている。多くのブドウ畑では農薬を用いずに、有機ブドウ栽培(英語版)に資する条件で栽培されている。周期的に発生するエルニーニョ現象は生育期の気候条件にはっきりとした影響をもたらす可能性があり、1998年にはエルニーニョ現象によって引き起こされた豪雨が広範な地域での腐敗や菌性病害につながった。 アンデス山脈に冬季に降った雪は春季に融解し始め、ダム、運河、水路などの複雑な灌漑設備が、乾燥したワイン産地でブドウ栽培を維持するのに不可欠な水を供給する。大半のワイン産地はアンデス山麓に位置し、近年にはより山脈に近い高標高にブドウが植えられる傾向がある。アルゼンチン全体で土壌は主に沖積土や砂質であり、一部では粘土質・砂利質・石灰質の下層を持つ。リオ・ネグロ州とネウケン州にワイン産地がある涼しいパタゴニア地域では、土壌にチョーク質が占める割合が多い。 ==歴史== ===初期のワイン生産=== アメリカ大陸でのブドウ栽培はスペイン人の到着とともに始まり、かなり遅れてポルトガル人もブドウ栽培を開始した。セビリアの契約業者は、新大陸にむけて出航する各船舶に一定数のブドウの苗を積み込むとする命令を受け取っている。 1541年には大西洋と接するラプラタ川沿いにブドウの苗が植えられたが、湿度の高い亜熱帯の気候に適応できず、ラプラタ川沿いではブドウの木は育たなかった。1542年にはペルーで栽培されていた苗から得られた乾燥種子がサルタ地方に植えられ、1556年にはフアン・セドロン神父が、チリのセントラル・ヴァレーからアルゼンチンにブドウの挿し木を持ち込み、サン・フアン地方やメンドーサ地方にアルゼンチン初のブドウ畑を設立した。チリでパイス種と、カリフォルニアではミッション(英語版)種と呼ばれるブドウは、この時期にアルゼンチンに持ち込まれたとブドウ栽培学者は考えている。この品種は続く300年間にアルゼンチンのワイン産業の根幹となったクリオーリャ・チカ(英語版)種の前身だった。 1557年にはイエズス会宣教師によって、サンティアゴ・デル・エステロ地方にアルゼンチン初の商業的なワイン生産を行うためのブドウ畑が設立された。1560年代初頭にはメンドーサ地方にも商業的なブドウ畑が設立され、1569年から1589年にはサン・フアン地方にも広がった。宣教師や入植者は複雑な灌漑水路やダムを建設し、アンデス山脈の溶融氷河からブドウ畑に水を運んだ。1739年の国勢調査によると、メンドーサ地方には120のブドウ畑があった。 ===ワイン産業の発展=== 1853年にはアルゼンチン初の農業学校がメンドーサ州に設立された。1860年代にサン・フアン州知事を務めたドミンゴ・ファウスティーノ・サルミエント(英語版)は、フランスの農学者であるミシェル・エメ・プジェを農業学校の校長として招聘し、フランスからブドウの挿し木の導入を進めた。プジェがアルゼンチンに最初期に持ち込んだ品種の中にマルベック種があり、彼は初めてマルベック種をアルゼンチンに植えた人物である。アルゼンチンの人口は国土の東側半分で成長したが、ワイン産業はアンデス山麓がある国土の西側半分に集中した。ワインは荷馬車に積まれて長い道のりを輸送されたため、ワイン販売は困難を要する仕事だった。 1885年にはフリオ・アルヘンティーノ・ロカ(英語版)大統領がブエノスアイレスとメンドーサを結ぶアルゼンチン鉄道を開通させ、ブドウ産地からブエノスアイレスに向けた輸送ルートが築かれた。メンドーサ州知事でエル・トラピチェ・ワイン・エステートの所有者であるティブルシオ・ベネガス(スペイン語版)は、アルゼンチンのワイン産業が生き残るためには市場が必要であると確信し、この鉄道の建設に資金を提供して完成を後押ししている。アルゼンチンワインの近代化はメンドーサ州とサン・フアン州で起こった。 1880年から1910年にアルゼンチンに流入したヨーロッパからの移民は、カベルネ・ソーヴィニヨン種、ピノ・ノワール種、シュナン種、マルベック種、メルロー種、バルベーラ種、サンジョヴェーゼ種、シラー種、リースリング種などの品種をアルゼンチンのブドウ畑にもたらした。これらの移民の多くは故郷でブドウ畑を荒廃させたフィロキセラの惨劇から逃れてきた者であり、アルゼンチンに高度な専門知識やワイン生産の知識をも持ち込んだ。1873年のアルゼンチンには5,000エーカーのブドウ畑があったが、20年後の1893年には5倍の25,000エーカーとなった。1905年には国立ワイン醸造センターが設立された。ブドウ畑の飛躍的な増加は続き、20世紀初頭には519,800エーカーにまで拡大した。 ===経済問題と消費の停滞=== 20世紀のアルゼンチンのワイン業界は国家の経済状況に大きな影響を受けている。1920年代のアルゼンチンは世界で十指に入る裕福な国であり、豊かな国内市場がワイン産業を強固なものとした。しかし、1929年以後の世界恐慌では重要な輸出収入や国外からの投資が減少し、アルゼンチンのワイン産業は停滞した。1940年代以降のフアン・ペロン大統領体制下では経済が一時的な復活を見せたが、1960年代から1970年代の軍事独裁政権下ではすぐに停滞した。この時期のワイン産業は安価なテーブルワインの国内消費に支えられていた。1970年代初頭時点でアルゼンチンの年間ワイン消費量は90リットル/人(24ガロン)であり、イギリスを含む大多数の国よりも遥かに多くの量を消費していた。アルゼンチンと同じ新世界では、同時期のアメリカ合衆国の1人あたりワイン消費量は3リットル/年(1ガロン/年)に過ぎなかった。1960年代から1982年代まで高い税金が採用されたことで、低品質のワインが生産され続けるという状況に陥った。 1980年代には最大で年間12,000%となるハイパーインフレの時代を迎え 、国外からの投資は停滞した。1982年から1992年には大規模なブドウの木の引き抜きが行われ、ブドウ畑の36%が失われた。1989年に大統領に就任したカルロス・メネム政権下では、いくぶん経済が安定した。アルゼンチン・ペソに有利な為替レートの兌換期間中には再び国外からの投資が流入したが、この時期には国内消費が劇的に低下した。清涼飲料やビールの普及によって、1991年には年間消費量が55リットル/人まで下落した。 ===輸出の成長=== 隣国チリが輸出市場で成功をおさめると、アルゼンチンのワイン産業もより積極的に輸出市場に焦点を当て始め、特に利益を得やすいイギリスとアメリカ合衆国の市場を重要視した。フランス、カリフォルニア、オーストラリアからは空飛ぶ醸造家(英語版)(飛行機で世界中を飛び回ってワイナリーの指導を行う熟練醸造家)が現代的なブドウ栽培とワイン醸造のノウハウをもたらし、収量管理、発酵温度管理、オークの新樽の使用などがアルゼンチンに持ち込まれた。1980年代後半以降には意図的により涼しい地域に植えられるようになった。1990年末までに、約1250万リットル(330万ガロン)のアルゼンチン産ワインがアメリカ合衆国に輸出されるようになり、イギリスにはさらに多くの量が輸出された。ワインジャーナリストのカレン・マクニール(英語版)は、20世紀末まで「眠れる巨人」とされていたアルゼンチンのワイン産業が目を覚ましたのがこの時期であるとしている。 20世紀から21世紀の変わり目に、アルゼンチンには1,500以上のワイナリーが存在した。2大企業として輸出用ブランド「アラモス」を所有するボデガス・エスメラルダと、輸出用ブランド「トラピチェ(英語版)」を所有するペニャフロールがあり、この2社だけでアルゼンチン全体の約40%のワインを生産している。アルゼンチンのワイン産業は生産量の観点で世界第5位であり、消費量の観点で世界第8位である。ワインの品質とブドウの収量管理を向上させることがアルゼンチンのワイン産業のトレンドとなっている。 2010年11月24日、アルゼンチン政府はアルゼンチンの「国民酒(英語版)」としてワインを選定した。 ==ブドウ栽培== 南半球にあるアルゼンチンのブドウ生育期は、10月(春)の発芽から2月(秋)に始まる収穫までの期間である。ワイン産業に関する主要な研究機関であるアルゼンチン国立ブドウ栽培・ワイン醸造研究所(INV)は、地域ごとの収穫開始日を公表しており、栽培しているブドウ品種によって収穫が4月までずれこむ地域もある。かなりの人数の移動労働者がおり、機械収穫への移行が遅れている地域で低賃金での摘み取り作業を行っている。収穫したブドウはしばしば何時間もかけて長距離を運ばれ、農村部のブドウ畑からより都市化した地区に位置するブドウ醸造施設に輸送される。 1970年代のアルゼンチンにおけるブドウの平均収量は22トン/エーカーを超えており、2‐5トン/エーカーに過ぎないボルドー(フランス)やナパ・ヴァレー(英語版)(カリフォルニア)などの高品質ワイン産地とは対照的だった。21世紀のアルゼンチンワイン産業は発展を続けており、灌漑、収量管理、キャノピー・マネジメント(英語版)(葉の管理)、ブドウ畑に近いワイナリーの建設などの品質改善努力を行っている。 世界中のブドウ畑を荒廃させた害虫フィロキセラの脅威が存在しない点で、アルゼンチンとチリは世界のワイン業界でユニークな産地といえる。チリとは異なりアルゼンチンにもフィロキセラは存在するが、土壌中で長く生存しない特別に弱い個体群である。アルゼンチンの個体群がブドウの木を攻撃しても木を枯らすほどの損傷には至らず、再び根が成長する。このため、アルゼンチンのブドウの木の多くは旧世界とは異なり台木に接ぎ木していない。フィロキセラの脅威がアルゼンチンに達していない理由については様々な仮説が立てられているが、何世紀にもわたる湛水灌漑の伝統で水分が深く土壌に浸透している点は一つの仮説に挙げられている。また、地理的に隣接しているヨーロッパのワイン産地とは異なり、アルゼンチンが世界の他のワイン産地と相対的に隔絶されている点も挙げられ、山岳、砂漠、海洋が自然の障壁となってフィロキセラの拡大を阻んでいるとする仮説も挙げられている。フィロキセラの危険性が低いにもかかわらず、収量管理の容易さを求めて台木に接ぎ木して育てる生産者もいる。 19世紀と20世紀にはヨーロッパからの移民によって様々な仕立て法が持ち込まれた。エスパルデラ(espaldera)方式は地面近くに3本のワイヤーを用いる伝統的な方式を取り入れている。1950年代にはパラル・クジャーノ(parral cuyano)方式として知られる新方式が導入され、果房は地面から離れた高い場所から垂れさせられる。パラル・クジャーノ方式はクリオーリャ・グランデ種やセレサ(英語版)種などの高収量品種の栽培を助長し、巨大な国内市場に対応して生じたバルクワイン産業の屋台骨となった。20世紀末には市場がより高品質なワイン生産に焦点を当てるようになったため、多くの生産者は伝統的なエスパルデラ方式に回帰し、収量を管理するためにキャノピー・マネジメントに取り組むようになった。 アルゼンチンではアルゼンチン国立ブドウ栽培・ワイン醸造研究所(INV)がワインの品質管理を行っており、搾汁量(125キログラムの果実から100リットル以下)やアルコール度数の制限などが行われ、果糖の禁止や生産量の申告などが義務付けられている。 ===灌漑=== アンデス山脈からの雪解け水を使用する複雑な灌漑システムは、インカ帝国で使われていた技術をスペイン人入植者がアルゼンチンに持ち込んだ16世紀に起源を持ち、アルゼンチンの農業にとって重要な構成要素となっている。水路や運河によって山麓から水流が供給され、貯水池に貯蓄される。政府が認証する水利権を得た者だけが、この水流をブドウ畑の灌漑に使用できる。新しいブドウ畑は既存の水利権を有していないため、60‐200メートル(196‐650フィート)の地下水汲み上げ井戸(英語版)などの代替水源を使用し、地下の帯水層から地下水を汲み上げることが多い。地下水汲み上げ井戸の建設には一定の資金が要るものの、1時間あたり250,000リットル(66,000ガロン)の地下水をブドウ畑に供給することができる。 歴史的には、膨大な量の水を平らなブドウ畑の一面に引き入れる湛水灌漑がもっとも一般的な方法だった。この方法はフィロキセラの進行に対する無意識の予防措置となった可能性もあるが、湛水灌漑は収量の管理や潜在的品質の向上にはつながらなかった。湛水灌漑につづいて、ブドウの木の畝間の溝に水を引き入れる畝間灌漑が発達した。この方法は湛水灌漑よりもいくぶん収量管理を容易にし、また高収量を得るのに適した灌漑方法だった。1990年代末になると、点滴灌漑がより一般的となりはじめた。点滴灌漑の導入には高額の費用を擁するものの、この方法はブドウの収量管理を容易にし、ブドウの水分ストレスを活用することで、ブドウの潜在的な品質を向上させた。 ==ワイン産地== ブエノスアイレス州、コルドバ州、ラ・パンパ州などのパンパ地域でも少量のワインを生産しているが、アルゼンチンワインの大部分はアンデス山脈の山麓にある西方のワイン産地で生産される。アルゼンチン最大でワイン産業を牽引する産地はメンドーサ州であり、アルゼンチン全体のワイン生産量の2/3以上を占めている。メンドーサ州の北側にあるサン・フアン州とラ・リオハ州が続いており、この3州はクージョ地域に含まれる。 アルゼンチン北西部にはカタマルカ州、フフイ州、サルタ州があり、この地域には世界でもっとも標高の高いブドウ畑が存在する。南部のパタゴニア地方にあるリオ・ネグロ州とネウケン州は伝統的にアルゼンチンの果実栽培の中心地であるが、近年ではピノ・ノワール種やシャルドネ種など、涼しい気候で生育するブドウ品種も栽培している。 ===メンドーサ州=== 1980年のメンドーサ州では629,850エーカー(255,000ヘクタール)でブドウが栽培されていたが、2003年には栽培面積が360,972エーカー(146,081ヘクタール)にまで減少した。とはいえ、メンドーサ州は依然としてアルゼンチンワインを牽引する産地である。21世紀初頭、メンドーサ州単独でもアメリカ合衆国全体の半分ほどのブドウ栽培面積を持ち、ニュージーランド(英語版)とオーストラリアの栽培面積の合計を上回っていた。メンドーサ州はアルゼンチンの首都ブエノスアイレスから遠く離れているが、チリの首都サンティアゴからは飛行機でわずか1時間弱の距離にある。メンドーサ州のブドウ畑の標高の高さ、夜間の涼しさなどが酸味や色合いに好影響をもたらす。 メンドーサ州のブドウ畑の大部分は、マイプ郡やルハン・デ・クージョ郡(英語版)にみられる。1993年、ルハン・デ・クージョ郡はメンドーサ州初の原産地呼称地域となった。その他に注目すべき地域には、ウコ・ヴァレー(英語版)やトゥプンガト郡がある。メンドーサ州はアコンカグアの裏手にあり、平均的なブドウ畑は標高600‐1,100メートル(1,970‐3,610フィート)の範囲に植えられている。この地域の土壌は粘土層に砂や沖積土が乗っかっており、気候は四季が明確な大陸性気候である。 歴史的に、ピンク色の果皮が特徴で高収量のセレサ(英語版)種やクリオーリャ・グランデ(英語版)種が支配的だったが、近年ではマルベック種がこの地域でもっとも人気のある品種となっている。依然として、セレサ種とクリオーリャ・グランデ種はメンドーサ州全体の約1/4を占めるものの、栽培面積の半分以上がマルベック種、カベルネ・ソーヴィニヨン種、テンプラニーリョ種、イタリア系品種などの高品質な黒品種となった。メンドーサ市南西部のウコ・ヴァレーにある高標高のトゥプンガト・ヴィンヤードでは、白ブドウのシャルドネ種の人気が高まっている。マイプ地域は冷涼な気候で土壌の塩分濃度が低く、カベルネ・ソーヴィニヨン種の質の高さで注目を集めている。メンドーサ州のワイン生産者は原産地呼称名称を確立させるために当局と連携している。 ===高標高でのブドウ栽培=== マルベック種を栽培するメンドーサ州のルハン・デ・クージョ郡とウコ・ヴァレーには、アルゼンチンでもっとも標高が高いブドウ畑がある。これらの地域はアンデス山麓に位置し、標高850‐1,500メートル(2,800‐5,000フィート)にある。 アルゼンチン人ワイン醸造家のニコラス・カテナ・サパタは、高い標高がブドウ栽培に与える影響の実験を通じて、アルゼンチンのワイン業界でマルベック種とメンドーサ州の地位を向上させた人物とされている。1994年にはトゥプンガト地域のグアルタジャリーにある標高約1500メートルのアドリアンナ・ヴィンヤードに初めてマルベック種を植え、アルゼンチンのマルベック種のクローンセレクションを行った。高標高にあるメンドーサ州のブドウ畑は、ポール・ホッブズ、ミシェル・ロラン、ロベルト・シプレッソ、アルベルト・アントニーニなど、多くの外国人ワイン醸造者を引きつけている。 ===サン・フアン州とラ・リオハ州=== 生産量の点でメンドーサ州に次ぐのは、メンドーサ州のすぐ北側にあるサン・フアン州である。2003年には47,000ヘクタール(116,000エーカー)でブドウを栽培していた。サン・フアン州はメンドーサ州よりも暑く、年降水量は約150ミリメートル(6インチ)、夏季の気温は毎年のように摂氏42度以上となる。サン・フアン州の気候はクリオーリャ種やセレサ種などの粗野で高収量な品種に適しており、ピンク色の果皮を持つこれらの品種は濃縮ブドウ果汁、色あいを深めるブレンド用、干しブドウ(レーズン)加工用や生食用などに使用される。 サン・フアン州の中でも涼しい地域を開拓している生産者もおり、高品質ワインの生産はカリンガスタ郡、ウリュム郡、ソンダ郡、トゥルム・ヴァレーに集中している。シラー種やドゥルセ・ノワール種から生産される高品質赤ワインの生産に加えて、サン・フアン州ではシェリースタイルの酒精強化ワイン、ブランデー、ベルモットの生産の長い歴史を有している。 ラ・リオハ州はスペイン人宣教師が初めてブドウを植えた地域のひとつであり、アルゼンチンの中でもワイン生産の長い歴史を有する。2003年には8,000ヘクタール(20,000エーカー)でブドウが栽培されており、香り豊かなマスカット・オブ・アレキサンドリア種やトロンテス・リオハーノ種で知られている。この地域は水不足に悩まされており、ブドウ畑の拡張の機会が奪われている。 ===北西部=== カタマルカ州、フフイ州、サルタ州などアルゼンチン北西部のブドウ畑は、南緯24度から南緯26度の範囲に位置している。多くのブドウ畑は標高1,500メートル(4,900フィート)にあり、サルタ州のボデガ・コロメは標高2,250メートル(7,500フィート)と標高3,000メートル(9,900フィート)に畑を有している。ヨーロッパでは900メートル(1,600フィート)以上の高地にあるブドウ畑は少ないが、サルタ州には世界でもっとも標高の高いブドウ畑があり、ドナルド・ヘスが所有するコロメ畑の一部は標高3,000mを越える。ワイン専門家のトム・スティーヴンソン(英語版)は、それがまるでグラン・クリュ(フランス語で特級)であるかのようにワインラベル(英語版)にブドウ畑の標高を記載して宣伝する生産者がいることに言及している。 この地域の土壌や気候はメンドーサ州に似通っているが、独特の微気候とブドウ畑の高標高がブドウに酸味の強さを生じさせ、ワインにバランスや奥深さを与える。2003年時点でカタマルカ州には2,300ヘクタール(5,800エーカー)のブドウ畑があり、北西部の3州でもっとも栽培面積が多かった。サルタ州のカファジャテ地域は、トロンテス・リオハーノ種から生産されるフルボディの高品質ワイン、またカベルネ・ソーヴィニヨン種やタナ種から生産される果実味溢れる赤ワインが世界中で注目されている。 サルタ州カファジャテ地域の大部分は、カルチャキ川(英語版)とサンタ・マリア川に挟まれた流域にある標高1,600メートル(5,446フィート)以上の地域に位置している。水分を含んだ雲は山岳に遮られるため、この地域にはフェーン効果が発生し、乾燥して晴天日が多い。高標高ではあるが夏季の日中の気温は摂氏38度に達することもあり、一方で夏季の夜間の気温は摂氏12度にまで下がることもあり、日周温度変化が激しい。摂氏マイナス6度まで下がることもある冬季の降霜はブドウ栽培にとって脅威となる。アルゼンチンの総ワイン生産量の2%以下であるものの、カファジャテ地域の名声は高まっており、フランス人醸造家のミシェル・ロラン(英語版)やカリフォルニアのワイン生産者ドナルド・ヘスなど、外国からの投資が行われている。 ===パタゴニア=== パタゴニアのリオ・ネグロ州やネウケン州は、北部の主要地域よりもかなり涼しい気候であり、アルゼンチン国内では果樹の産地として知られている。白亜質の土壌であり、その気候のためにブドウの生育期は長い。20世紀初頭にはウンベルト・カナーレがボルドーからブドウの挿し木を輸入し、この地域初の商業的なワイナリーを設立した。リオ・ネグロ州は将来有望な産地であり、涼しい気候でエレガントなワインが生産される傾向がある。 2003年にはパタゴニア全体の3,800ヘクタール(9,300エーカー)でブドウが栽培されていた。この地域ではシャルドネ種やピノ・ノワール種、マルベック種、セミヨン種、トロンテス・リオハーノ種などのような、涼しい気候に適した品種を多く栽培している。ボデガス・ワイネルトのブドウ畑はメンドーサ州から1,600キロメートル(990マイル)南に位置し、アメリカ大陸最南端のブドウ畑として注目されている。 ==ブドウ品種とワイン== 2012年時点では、ブドウ栽培面積の52.31%が黒品種、20.9%が白品種、26.79%がロゼ用の品種である。アルゼンチンのワイン法では、ワインラベルに品種名を記載する場合には少なくとも80%がその品種で占められなければならない。初期のワイン産業の根幹となったのは高収量を誇る品種であり、ピンク色の果皮が特徴のセレサ(英語版)種、チリではパイス種と呼ばれるクリオーリャ・チカ(英語版)種、クリオーリャ・グランデ種などであったが、これらの品種は今日でも30%近くを占めている。 これらの品種は多くの房を付け、房の重量は1本あたり4キログラム(9ポンド)にもおよぶ。これらの品種から生産されるワインは容易に酸化してしまう、顕著な甘みを持つピンク色または濃い色合いの白ワインとなる傾向がある。これらの品種のワインは低価格のバルクワインとして出荷されることが多く、1リットル入りのカスクワインや濃縮ブドウ果汁として世界中に輸出されている。アルゼンチン産の濃縮ブドウ果汁にとって日本は大きな市場である。 20世紀末になると、アルゼンチンのワイン産業は輸出可能な高品質ワイン生産に移行した。高品質化を刺激したのはマルベック種であり、マルベック種は今日のアルゼンチンでもっとも広く栽培されている黒ブドウ品種である。ボナルダ(英語版)種、カベルネ・ソーヴィニヨン種、シラー種、テンプラニーリョ種がマルベック種に続いている。バルベーラ種、ドルチェット種、フレイサ種、ランブルスコ種、ネッビオーロ種、ラボソ種、サンジョヴェーゼ種など、イタリア系移民は今日のアルゼンチンで多くの栽培面積を持つイタリア系品種をもたらした。 ===黒ブドウ品種=== アルゼンチンワインの生産量の約60%は赤ワインである。高温地域ではソフトで、タンニンに満ち、アルコール度数が高くなる。マルベック種の発祥地は南西フランスであり、AOCカオールではいまだに広く栽培され、ボルドーでも一定の存在感があるものの、マルベック種の名声の大部分はアルゼンチンワインによるものである。アルゼンチンで栽培されるマルベック種の果粒や果房はフランスのそれよりも小さい。マルベック種のワインは深い色合いとなり、ビロードのような舌触りと強烈な果実味を持つ。2003年時点でマルベック種の栽培面積は20,000ヘクタール(50,000エーカー)だった。 国際品種のカベルネ・ソーヴィニヨン種もセパージュワイン用品種として人気を得ており、さらにマルベック種、メルロー種、シラー種、ピノ・ノワール種とのブレンド用にも用いられる。シラー種は着実に栽培面積を増加させており、1990年には700ヘクタール(1,730エーカー)だったが、2003年には10,000ヘクタール(24,710エーカー)にまで拡大した。特にサン・フアン州でシラー種が強く認識されている。テンプラニーリャ種にはしばしばカーボニック・マセレーションが行われ、ウコ・ヴァレーなどでは古樹が栽培されている。ボナルダ種は主にテーブルワインの生産に使用される。 ===白ブドウ品種=== 白ブドウ品種としてはペドロ・ヒメネス種(Pedro Gim*10835*nez)がテーブルワインに使用される。ペドロ・ヒメネス種はもっとも広く植えられている白ブドウ品種であり、メンドーサ州とサン・フアン州を中心に14,700ヘクタール(36,300エーカー)に植えられている。スペインで栽培され主にシェリーに使用されているペドロ・ヒメネス(英語版)種(Pedro Xim*10836*nez)とは異なる品種であり、「ヒメネス」の綴りも異なる。アルゼンチンのペドロ・ヒメネス種はアルコール度数が高くフルボディなワインで知られており、濃縮ブドウ果汁の生産にも使用されている。ペドロ・ヒメネス種の次に栽培面積が大きいのはトロンテス・リオハーノ種であり、マスカット・オブ・アレキサンドリア種、シャルドネ種、トロンテス・サンフアニーノ種、ソーヴィニヨン・ブラン種が続いている。その他にアルゼンチンで見られる白ブドウ品種には、シュナン・ブラン種、ピノ・グリ種、リースリング種、ソーヴィニョネーゼ種、セミヨン種、ユニ・ブラン種、ヴィオニエ種などがある。 トロンテス種はアルゼンチンでもっとも独特な白ワインとなり、マスカット種のような花の香りやスパイスのニュアンスに特徴づけられる。この品種からワインを生産する工程では、発酵中の温度管理などで慎重な扱いが必要である。この品種はラ・リオハ州やサルタ州などアルゼンチン北部の州で広く栽培されており、特にカルチャキ・ヴァレーが代表的な産地であるが、メンドーサ州にも広がっている。国際的な需要に応じて、シャルドネ種の栽培面積も着実に増している。カリフォルニア大学デービス校はシャルドネ種の特殊なクローン(メンドーサ・クローン)を生み出し、このクローンは結実不良(英語版)(果粒の不揃い)を引き起こす傾向があるものの、アルゼンチンやオーストラリアではいまだに広く栽培されている。アルゼンチンのシャルドネ種は高標高でも成長することが示されており、標高約1,200メートル(4,000フィート)のトゥプンガト地域での栽培面積も増加している。 =アーサー・バルフォア= 初代バルフォア伯爵アーサー・ジェイムズ・バルフォア(英: Arthur James Balfour, 1st Earl of Balfour [*7607*b*7608*lf*7609*], KG, OM, PC, DL、1848年7月25日 ‐ 1930年3月19日)は、イギリスの政治家、哲学者、貴族。 第一次世界大戦中に成立した自由党・保守党大連立の挙国一致内閣では海軍大臣(英語版)や外務大臣などを歴任し、バルフォア報告書やバルフォア宣言に名を残す。 ソールズベリー侯爵引退後の保守党を指導し、1902年から1905年まで首相を務めた。政権交代後も自由党の長期政権下で6年ほど野党保守党の党首を務めたが、1911年には党首の座をアンドルー・ボナー・ローに譲る。 ==概要== 1848年に大富豪・大地主の息子としてスコットランド・ホィッティンガム(英語版)に生まれる。ケンブリッジ大学で哲学を学んだ後、1874年に保守党の庶民院議員に初当選。1878年、叔父である外務大臣第3代ソールズベリー侯爵の議会担当秘書官を務めた。 1880年の保守党の下野後、党内の反執行部グループらと派閥「第四党(英語版)」を形成。1885年に第一次ソールズベリー内閣に自治大臣(英語版)として入閣。1886年の第二次ソールズベリー内閣ではスコットランド担当大臣、ついでアイルランド担当大臣(英語版)に就任する。アイルランド強圧法を制定して激しいアイルランド民族運動の弾圧を行い、「血塗られたバルフォア」の異名を取った。一方で融和政策もとり、アイルランド小作人の土地購入を促す「バルフォア法」を制定した。1891年には第一大蔵卿および庶民院院内総務に就任。1895年、第三次ソールズベリー侯爵内閣(英語版)にも第一大蔵卿・庶民院院内総務として入閣。中国分割をめぐる諸交渉や中等教育の普及を目的とする「バルフォア教育法」の制定を主導した。 1902年7月にソールズベリー卿に代わって首相・保守党党首となる。1903年にウィンダム法を制定してアイルランド小作人の土地購入を促進し、1905年に帝国防衛委員会(英語版)を創設して国防強化に尽力。外交面では極東で膨張するロシア帝国を牽制するためにフランスに接近し、アフリカやアジアにおける利権・領有権問題の諸交渉に折り合いをつけた。また日本との関係も強化し、日露戦争中に日英同盟を更新・強化した。一方、関税問題への対応や南アフリカの中国人奴隷問題での対応で支持を減らした。1905年12月に総辞職し、自由党に政権を移譲。 その後もバルフォアは保守党党首職に在職し続け、1906年1月の解散総選挙での惨敗後、貴族院を中心に反政府闘争を主導した。1909年11月には蔵相ロイド・ジョージの「人民予算」を貴族院で葬り去った。しかし、これがきっかけで貴族院の権限縮小を盛り込む議会法案が提出され、自由党政権から新貴族任命の脅迫を受け、1911年8月に議会法の可決成立を認めたことで党内の求心力を失い、同年11月には党首を辞した。 第一次世界大戦中の1915年のアスキス挙国一致内閣では海軍大臣として入閣し、続く1916年のロイド・ジョージ挙国一致内閣では外務大臣となった。1919年には枢密院議長に転じるも1922年の大連立解消を機に退任。1922年には初代バルフォア伯爵に叙爵し、貴族に列する。スタンリー・ボールドウィン保守党政権下の1925年にも枢密院議長に再任するが、1929年には政界引退し、その翌年の1930年に死去。 アマチュアの哲学者としても活躍し、宗教に関する哲学書を多数著している。 ==生涯== ===出生から政界入りまで=== 1848年7月25日、スコットランドのイースト・ロージアン州ホィッティンガム(英語版)に生まれた。 父ジェイムズ・メイトランド・バルフォア(英語版)は大富豪・大地主であり、また庶民院議員も務めた人物だった。バルフォア家はスコットランドの旧家であり、18世紀末に祖父ジェイムズ(英語版)がイギリス東インド会社の貿易で莫大な富を築いた。スコットランドに広大な土地を購入し、ホィッティンガムをその本拠とするようになった家柄である。 母ブランチェ・メアリー・ハリエット嬢(Lady Blanche Mary Harriet)は第2代ソールズベリー侯爵ジェイムズ・ガスコイン=セシルの娘だった。ソールズベリー侯爵家は代々ハットフィールド(英語版)を領してきた名門貴族である。 長弟にセシル・チャールズ(Cecil Charles)、次弟に生物学者となるフランシス・メイトランド(英語版)、三弟に政治家またバルフォア伯位の継承者となるジェラルド(英語版)、四弟に国王副官となるユースタス・ジェームズ・アンソニー(Eustace James Anthony)がいる。また姉が三人おり、長姉エヴェリン・ジョージアナ・メアリー(Evelyn Georgiana Mary)は物理学者第3代レイリー男爵に、次姉エレノア・ミルドレッドはヘンリー・シジウィックにそれぞれ嫁いでいる。 ワーテルローの戦いの英雄ウェリントン公爵アーサー・ウェルズリーが代父となり、彼の名前をとってアーサーと名付けられた。 7歳の頃に父が死去。1861年から1866年までイートン・カレッジで学び、次いで1866年から1869年にかけてケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジで哲学を学んだ。哲学研究にのめりこみ、家の財産は弟に譲って自らはケンブリッジ大学に残り、哲学研究を続けようかと考えた時期もあったという。 しかし叔父にあたる保守党貴族院議員の第3代ソールズベリー侯爵の勧めや、母ブランチェから高貴な家に生まれた者は政治的・社会的責任を負わねばならないというノブレス・オブリージュ的な考えの説教をされたことで、最終的には政界の道を選んだ。 【↑目次へ移動する】 ===政界入り=== 1874年1月の総選挙(英語版)でハートフォード選挙区(英語版)から保守党候補として出馬して当選した。 この総選挙は全国的にも保守党が勝利し、ベンジャミン・ディズレーリを首相とする保守党政権の発足をもたらした。露土戦争の最中の1878年に叔父ソールズベリー侯爵が外務大臣となり、バルフォアはその議会担当秘書官となった。 1878年6月から7月にかけて露土戦争の講和会議であるベルリン会議にディズレーリや叔父ソールズベリー侯爵とともに出席した。 【↑目次へ移動する】 ===「第四党」=== 1880年の総選挙で保守党は敗北し、ウィリアム・グラッドストンを首相とする自由党政権が発足した。保守党は野党となったが、保守党庶民院院内総務(英語版)を務める元蔵相サー・スタッフォード・ノースコート准男爵は温和な人柄で政権批判に向いているとはいえなかった。しかも彼はかつてグラッドストンの秘書であったため、今でもグラッドストンに敬意を払い続けていた。 これに不満を感じていた保守党若手庶民院議員ランドルフ・チャーチル卿(後の首相ウィンストン・チャーチルの父)は、バルフォアやサー・ヘンリー・ドラモンド・ウォルフ(英語版)、ジョン・エルドン・ゴースト(英語版)を糾合して「第四党(英語版)」と呼ばれるノースコートに造反する独自グループを結成した。 「第四党」のリーダー的存在はランドルフ卿であるが、バルフォアは常にランドルフ卿に従っているわけではなく、たとえばランドルフ卿が保守党貴族院院内総務(英語版)を務める叔父ソールズベリー侯爵まで批判した場合には、叔父の擁護にまわるのが常だった。またランドルフ卿が「民主化」と称して議会外保守党組織である保守党協会全国同盟(英語版)が党の政策や財政を監督できるようにしようとした際にも、バルフォアは「議会軽視」としてこれに反対している。 ===第一次ソールズベリー内閣自治大臣=== 1885年7月にグラッドストン自由党政権が議会で敗北したことにより、第一次ソールズベリー侯爵内閣が成立。バルフォアは自治大臣(英語版)として入閣した。「第四党」の同志のランドルフ・チャーチル卿もインド担当大臣として入閣している。 しかし同内閣は短期間で終焉したため、バルフォアもこれといった功績を残すことはなかった。 ===第二次ソールズベリー内閣アイルランド担当大臣=== 1886年7月に第二次ソールズベリー侯爵内閣が成立すると、叔父の引き立てで初めスコットランド担当大臣として入閣したが、1887年3月にヒックス・ビーチがアイルランド担当大臣(英語版)を辞職したため、バルフォアがその後任となった。 この人事は「身贔屓」として政界に衝撃を与えた。「大丈夫だよ」といった意味の英語の成句 “Bob’s your uncle!” はバルフォアが叔父に贔屓されていることの皮肉に由来すると考えられている。バルフォアは一般にインテリの優男と見られており、マスコミからは「プリンス・チャーミング」「ミス・バルフォア」などと渾名されて侮られた。アイルランド人からも「クララ」という女性名で呼ばれ、馬鹿にされたという。 ===アイルランド民族運動の弾圧=== バルフォアがアイルランド担当相に就任した時、アイルランド問題は深刻化していた。1886年9月にアイルランド国民党(英語版)党首チャールズ・スチュワート・パーネルが議会に提出したアイルランドの地代を半減させる法案が否決されて以降、アイルランドでは小作人同士が協定を結んで勝手に地代を減額し、地主がそれを承諾して受け取ればよし、受け取らねば、その地主が小作人を強制立ち退きさせた時の抵抗運動に備えて供託するという闘争が行われていたのである。これにより強制立ち退きと暴動の危険が高まっていた。 これに対してバルフォアはアイルランド民族運動の弾圧を可能とする強圧法の制定を急いだ。その法案の第二読会での審議の最中の1887年4月8日に『タイムズ』紙がパーネルが元アイルランド担当大臣フレデリック・キャヴェンディッシュ卿の暗殺を支持していることを示唆する記事を掲載した。パーネルはその事実関係を否認したが、この記事は大きな反響を呼び、バルフォアの強圧法案の良き追い風となった。強圧法は8月にも可決成立した。 この後、バルフォアは強圧法を駆使してアイルランドで激しい弾圧を行い、アイルランド国民党の議員たちを含むアイルランド民族運動指導者たちを軒並み逮捕していった。アイルランドの刑務所はあっという間に満杯になったという。その弾圧の容赦の無さからバルフォアはアイルランド人から「クララ」改め「血塗られたバルフォア(“Bloody Balfour”)」と呼ばれ恐れられるようになった。 1887年9月9日、アイルランド・コーク州ミッチェルスタウン(英語版)で警官と農民が衝突し、農民3人が警察官に銃殺される事件が発生した。検死の陪審官は警察官による故意の殺人と断定したが、バルフォアは警官の行動を称賛した。これに対してアイルランド自治を決意していた野党自由党のグラッドストンは「ミッチェルスタウンを記憶せよ(Remember Mitchelstown)」を自由党のスローガンに定めてアイルランド問題を中心に与党保守党と対決する姿勢を強めた。 ===バルフォア法=== しかしバルフォアは強圧一辺倒の大臣ではなく、1890年3月と11月にはアイルランド小作人が地主から土地を購入できるよう支援する「土地購入および稠密地方(アイルランド)法案」(通称「バルフォア法」)を提出した。3月提出の法案は否決されたが、11月に再提出されたものが可決された。 この「バルフォア法」は、第一次ソールズベリー侯爵内閣期に制定されたアシュバーン法(英語版)を拡張させたものであり、土地購入を希望するアイルランド小作農に土地購入費の貸し付けを行う「土地委員会」の貸付限度額をそれまでの500万ポンドから3300万ポンドに大幅増額させ、さらに現に小作人である者だけでなく、かつて小作人だった者も保護対象としており、後の追放小作人法の先駆となる法律であったといえる。 しかし国庫の負担を軽くするために複雑な体系にもなった。まず地主への支払いは現金ではなく、アイルランド銀行が発行する2.75%の利子付きの土地債権に変更されたが、この土地債権は地主に直接渡されたため、土地債権の価格変動が地主の土地売却の意欲に直接的に影響を及ぼすようになった(コンソル公債と交換可能にすることによって土地債権がコンソル公債以下の価格にならないよう配慮はされているが)。また土地購入者は保険金を積み立てることになり、そのために最初の5年間は旧地代の80%を支払わねばならなかった。さらに土地購入者が49年間に渡って支払うことになっている4%の年賦金の一部が「州のパーセンテージ(County percentage)」として地方税会計に流用されることになった(利子2.75%、償却費1%、州のパーセンテージ0.25%)。 このような制度の複雑化のために結果としてはアシュバーン法の時よりも土地購入申請者数が減少した。1896年のバルフォア法改正の際にアイルランド担当大臣を務めていた弟ジェラルド・バルフォア(英語版)が議会に行った報告によればアシュバーン法下での申請数は6年間で4645件なのに対して、バルフォア法下での申請数は4年間に2600件に留まるという。しかしこの時に弟ジェラルドによってバルフォア法は改正され、「州のパーセンテージ」や保険金制度が廃止されて制度は簡略になり、また年賦金算定の基礎となる前貸金を10年ごとに算出して減少させていく修正案も導入された。この修正のおかげでバルフォア法下での土地購入申請も増えていき、1902年3月までに約3万7000人のアイルランド小作人が土地を購入することができたのであった。 ===第三次ソールズベリー内閣第一大蔵卿・庶民院院内総務=== 1891年、死去したウィリアム・ヘンリー・スミスの後任として第一大蔵卿および庶民院院内総務に抜擢された(これは第一大蔵卿が首相と異なる最後の例であった)。バルフォアはアイルランド民族運動を激しく弾圧したことで保守党庶民院議員たちから人気を集めており、その声にソールズベリー侯爵が応えた人事だった。 翌1892年に保守党が下野したが、この後の3年間の野党時代にもバルフォアは保守党庶民院院内総務(英語版)に在職し続けた。1895年に保守党が自由統一党と連立して政権を奪回し、第三次ソールズベリー侯爵内閣(英語版)を発足させると再び第一大蔵卿・庶民院院内総務に就任した。首相ソールズベリー侯は自邸暮らしをするようになり、ダウニング街10番地にはバルフォアが入った。 さらに1898年にソールズベリー侯が病となると、甥であるバルフォアがその代理を務めることが増えていった。 ===中国分割をめぐって=== 1895年の日清戦争で清が日本に敗れ、日本に対して負った巨額の賠償金を支払うために清政府がロシア帝国とフランスから借款し、その見返りとして露仏両国が清国内に様々な権益を獲得した。これがきっかけとなり、急速にイギリス、ロシア、フランス、ドイツ、日本など列強諸国による中国分割が進み、阿片戦争以来のイギリス一国の中国半植民地(非公式帝国)状態は崩壊した。 とりわけ急速に北中国を勢力圏としていくロシアとの対立が深まった。バルフォアは1898年8月10日の庶民院での演説で中国分割において「勢力圏」という概念は否定されるべきであり、代わりに「利益範囲」という概念を導入すべきと主張した。これは範囲内において範囲設定国は他国企業を排除できる権利を有するが、通商の門戸は常に開放しなければならないというものでイギリス資本主義の利益に沿った主張だった。一方ロシアはあくまで北中国を排他的な自国の独占市場、つまり勢力圏とする腹積もりだったから北中国を門戸開放する意志などなかった。 バルフォアの演説の直後の1898年8月12日にはベルギー企業が清政府から京漢鉄道を借款する契約を結んだが、これに危機感を抱いたバルフォアは外相(首相ソールズベリー侯が兼務していた)代理として清政府と交渉を行い、9月6日にもイギリスに5本の鉄道敷設権を与えることを認めさせた。 一方1898年6月から起こっていた中国東北部の鉄道敷設権をめぐる英露両国の論争ではロシアから妥協を引き出せず、1899年4月に締結された英露両国の協定は、「イギリスは長城以北に鉄道敷設権を求めない。ロシアも揚子江流域に鉄道敷設権を求めない」ことを確認したのみとなり、その範囲内における自国企業独占や通商自由化を保障し合うことはできなかった。 1900年5月から8月にかけて中国半植民地化に反発した義和団が北中国で蜂起した(義和団の乱)。乱自体は列強諸国によってただちに叩き潰されたが、ロシアはこれを理由に満洲を軍事占領した。これに対抗すべくバルフォアは植民地大臣ジョゼフ・チェンバレンや枢密院議長デヴォンシャー公爵ら自由統一党の面々とともにドイツ帝国や日本との連携を強化してロシアを抑え込むべきことを主張した。 結局ドイツはロシアとの対立を回避したのでイギリスは日本と接近することになり、1902年1月30日にも5年期限の日英同盟が締結された。 ===バルフォア教育法=== 1902年3月には第一大蔵卿として「バルフォア教育法」と呼ばれる教育法(英語版)の法案を議会に提出した。これは1870年にグラッドストン自由党政権下で制定された初等教育普及のための初等教育法案(英語版)を拡張させ、中等教育普及のための州議会がすべき支援を定めた法律であるが、同時に1870年の初等教育法で定められていた非国教徒(自由党支持基盤)が強い影響力を持つ学務委員会(School Attendance Committee)を廃止して、新たな小学校監督機関として地方教育庁(英語版)を設置させるものでもあった。加えて国教会とカトリックの学校には地方教育庁の管理下に置く代わりに地方税の一部を導入するという条文もあり、非国教徒が強く反発する内容だった。 非国教徒の反対運動は激しく、とりわけウェールズでの闘争が激化した。庶民院ではウェールズ出身の自由党議員ロイド・ジョージが中心となって同法への反対運動が展開された。9カ月にも及ぶ激闘の末、バルフォアが首相に就任した後の1902年12月にバルフォア教育法は可決された。この法律は1944年のバットラー法成立までイギリス中等教育に関する基本法として君臨することになる。 しかしボーア戦争以来、小英国主義者と自由帝国主義者に分裂していた自由党がこの法律への反対を共通項に一つにまとまってしまうという保守党にとっては逆作用も生んだのだった。 ===バルフォア内閣=== 1902年7月11日に首相ソールズベリー侯が首相を辞した。ランドルフ・チャーチル卿はすでに亡く、連立相手の自由統一党の有力者ジョゼフ・チェンバレンとデヴォンシャー公爵も首相になる意思はなく、バルフォアが後任の首相となることに異を唱える者はなかった。 1907年7月12日に国王エドワード7世より大命を拝受し、バルフォア内閣(英語版)を組閣した。さらにその二日後には外務省内で開かれた保守党両院総会で保守党党首に選出された。デヴォンシャー公爵やチェンバレンら自由統一党幹部も引き続き連立を維持していくことを表明した。 ===内政=== バルフォア内閣アイルランド担当大臣ジョージ・ウィンダム(英語版)の主導で1903年には新たなアイルランド土地購入法のウィンダム法が制定された。 この法律は強制的土地購入路線を否定し、あくまで自由契約の範囲内で農地の占有者への所有権移転を推進しようという法律の集大成であった。これまでのアシュバーン法とバルフォア法が基本的に土地購入代の前貸しのみを定めているのに対して、ウィンダム法は地主と小作人の間で土地売却契約が結ばれやすくなるよう誘導する規定が盛り込まれている。 この法律によって自作農創出のための機関「土地財産委員会」が設置されることになり、自作農創設の方式も保有地ごとから所領ごとに変更された。さらに地主への支払いを土地債権から現金に戻し、土地債権の価格変動で地主の売却意思が上下するのを鎮めた。2.75%利子付き土地債権は当時額面割れしていたので、これは地主に有利な規定であったといえる。土地財産委員会は2.75%利子付き土地債権を自ら金融市場に流して資金調達して地主への現金支払いを行う。 さらに法律施行から1908年11月1日までの5年間の特別規定として、地主が土地売却代金を有価証券に再投資した場合は、その地主に12%の「奨励金」を支払うことが規定された。これも地主の売却意欲を高めるための規定であった。小作人一人あたりへの貸付限度は7000ポンドに増額され、小作人は68年6カ月の期間、利子2.75%と償却費0.5%の合わせて3.75%の年賦金を毎年支払うことになるが、この額は当該小作地の小作料の裁定期に応じて減額される。この要件が満たされている場合には土地財産委員は視察を行わないとされており、この視察免除規定も土地売却契約の締結を大いに促した。 この法律はアイルランド自治を防ぐための融和政策の頂点であったが、結局アイルランド自治運動を沈静化させることはできなかった。それについてブレイク男爵(英語版)は「自由のために戦う民族を経済的な融和政策で抑圧することはできないことの実例である」と評している。 第二次ボーア戦争は1902年5月に講和条約が結ばれて正式に終結していたが、予想外の長期戦は予想外の膨大な戦費をもたらし、1900年以降イギリス財政は赤字となっていた。それを補うために各種増税が行われ、その一環で1902年3月に蔵相サー・マイケル・ヒックス・ビーチ准男爵は穀物関税再導入を暫定的かつわずかな額でという条件で実施していた。 1902年7月に首相ソールズベリー侯爵と蔵相ヒックス・ビーチがそろって辞職し、代わってバルフォア内閣が成立したが、11月の閣議において植民地大臣ジョゼフ・チェンバレンはビーチの導入した穀物関税を永続化させつつ、帝国特恵関税制度(英語版)を導入して大英帝国内の関税は安くする事を主張するようになった。つまり大英帝国の結び付きを強化して自給自足経済圏の建設を目指すとともに、帝国外からの関税収入をもって均衡財政と社会保障費の確保を図ろうという保護貿易主義であり、自由貿易主義や小英国主義とは真っ向から対立する発想だった。そのため自由貿易主義者の蔵相チャールズ・リッチー(英語版)はチェンバレンの主張に強く反発した。 バルフォアはリッチーよりはチェンバレンに好感を持っていたが、それによって政権が分裂する事態だけは回避したいと考えていた。リッチーは穀物関税を廃止しないつもりなら辞職すると脅迫するようになり、それに対してチェンバレンが譲歩したため、バルフォアは1903年3月末にも穀物関税廃止を閣議決定した。 しかしチェンバレンは持論を諦めておらず、1903年5月15日にも本拠地のバーミンガム市で関税改革(帝国外への関税導入と帝国特恵関税制度の導入)を訴えた。この演説以降、関税問題は政界と世論を二分する大論争となった。貧しい庶民はパンの値段が上がることに反対し、保護貿易には反対だった。金融資本家も資本の流動性が悪くなるとして保護貿易には反対し、綿工業資本家も自由貿易によって利益をあげていたので保護貿易には反対だった。一方、工業資本家(廉価なドイツ工業製品を恐れていた)や地主(伝統的に保護貿易主義)は保護貿易を歓迎し、チェンバレンを支持した。 閣内ではリッチーの他、枢密院議長デヴォンシャー公爵やインド担当相ジョージ・ハミルトン卿などがチェンバレンに反対した。若き新米保守党議員ウィンストン・チャーチルも自由貿易を奉じてチェンバレンに反対している(彼は1904年に自由党へ移籍する)。自由帝国主義派と小英国主義派に分裂していた自由党も自由貿易支持・反チェンバレンの旗のもとに一致団結した。 しかし関税は食品価格の上昇をもたらさない報復関税に使用することも可能であり、バルフォアとしてはそれを支持してチェンバレンの主張に一理を認めていた(チェンバレンも食料関税は当面見送るべきと主張していた)。バルフォアは両者の妥協点を探って何とか鎮静化させようと努力したが、結局閣内で孤立したチェンバレンは1903年9月21日に植民地大臣を辞した。以降チェンバレンはバルフォアの側面支援を受けながら主要工業都市で関税改革の世論を盛り上げる遊説を開始する。 バルフォアはバランスを取るために強硬自由貿易主義者の蔵相リッチーも内閣から追放する意思を固めた。1903年10月9日にも「首相に対する陰謀を図った」としてリッチーら自由貿易主義閣僚を解任した。デヴォンシャー公爵については閣内にとどめようとしたが、結局公爵も自由貿易主義者の圧力を受けて辞職することになった。これによってバルフォア内閣の基盤はだいぶ弱くなった。 英領南アフリカではボーア戦争後の労働力不足を補うため、1904年2月から1906年11月までの間に6万3000人もの中国人苦力が年季契約で中国本国から南アフリカに鉱山労働者として輸送されてきていた。彼らが低賃金で働くせいで現地人の給料も切り下げられていった。 イギリス本国の労働者層は植民地においてこうした外国人低賃金労働者の輸入を許していれば、いずれイギリス本国でも外国人労働者が輸入されるようになり、自分たちの労働権や給料が脅かされると恐れていた。道徳心と信仰心が強い中産階級の非国教徒も「このように大量の人間を船に詰め込み、鉱山で重労働をさせる行為は、イギリスが禁止している奴隷貿易に該当する」として強く反発した。また送られてくる中国人たちは力仕事向きの男性ばかりだから道中の船の中や到着後の居住先である中国人収容所の中で同性愛をしている可能性が高く、キリスト教の信仰心と照らし合わせても認めるわけにはいかないことだった。 だがこれを奴隷貿易と同視するのは誇張だった可能性が高い。なにせ中国人にとって南アフリカは中国本国で働くより15倍も高い給料をもらえる場所なのだから、強制したり騙したりするまでもなく、中国人はわらわらと南アフリカに集まってくるのであった。バルフォアもオーストラリア総督ノースコート卿に宛てた手紙の中で「我々の大きな悩みは中国人労働者について正しい説明を行うことができなかったことだ。(自由党は)中国人労働者が奴隷などという馬鹿げた理由で反対しているが、本当は白人労働者が黄色人労働者に置き換えられるという誤った推測が反対の理由だろう」と語っている。確かにそうした面もあったものの、それを主張したところで保守党批判ムードが鎮静化することはなかった。 この件で労働者層の保守党離れは進み、1906年の総選挙での保守党の惨敗を招くことになる。 1905年には、フランスが植民地化を狙っていたモロッコ・タンジールにドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が軍艦で訪問するという第一次モロッコ事件が発生し、バルフォアに国防強化を決意させた。 大英帝国全体の帝国防衛体制の確立を求めるチェンバレンの主張を取り入れる形で帝国防衛委員会(英語版)を設置した。これは自治領と帝国防衛体制を検討するための委員会であった(実際に自治領首相に参加を求めるようになったのはアスキス自由党政権下の1911年になってのことだった)。これと並行して陸海軍の再編成も進めていった。 この頃、バルフォアは「自由党政府になってももはや引き返せないほど軍事支出を確実にしておくまでは、政権を降りない」と述べている。実際、国防強化路線が自由党政権にも引き継がれ、帝国防衛員会は後にアスキス内閣によって「将来起こる戦争に備えて陸海空三軍と国内戦時体制の調整を行い、また自治領とともに帝国全体の防衛計画を立てる機関」に再編されていくことになる。 ===外交=== 悲惨な戦争となった第二次ボーア戦争以降、イギリス国民の戦争意欲は弱まり、ヴィクトリア朝時代のような露骨な侵略は減った。最後に行われたヴィクトリア朝的侵略が1903年のチベット侵攻だった。 イギリスは19世紀からロシアのインド侵略を警戒してきたが、20世紀に入るとインド北部諸国と外部勢力を国内に入れないという条約を結んでヒマラヤ山脈沿いに緩衝地帯を完成させていた。ところがダライ・ラマ13世を国主に戴くチベットのみがそれに入っておらず、ロシアがチベットに大きな影響力を及ぼしているという噂が流れていた。 中国分割の中で清領トルキスタンにロシアの鉄道が次々と敷かれていく中、インド総督カーゾン卿は、ロシアがチベットを経由してインドに侵攻してくるのを恐れるようになった。そんな中の1903年春、チベットのラマ僧と英領インド北方の国境守備隊将校の間のヤク放牧地をめぐる国境争いがこじれて、チベットはイギリスとの通商条約を破棄した。ここに至ってカーゾン卿は、近衛竜騎兵隊のフランシス・ヤングハズバンド大佐とともにチベット侵攻を計画するようになった。 本国のバルフォア首相はチベットとの交易に重要性を感じておらず、チベット侵攻には消極的だったが、最終的にはこの動きを承認した。 こうして1903年12月より「使節団」と称するヤングハズバンド大佐率いるイギリス軍部隊がチベット侵攻を開始した。1904年1月にはトゥナへ入り、そこでラマ僧と交渉したものの、チベット側は「使節団」の即時撤退を要求した。ヤングハズバンドはこれを無視し、3月末にはギャンツェへ向けて進軍を再開した。抵抗するチベット人を殺害しながら夏までにはギャンツェを占領。そこで本国の指示を待ってから首都ラサへ進軍し、8月にラサに入城した。 バルフォアは「チベットを占領したり、保護領にしてはならない。首都に英国代表を置くことを強要してもいけない。ただし通商条約の締結と賠償金の支払いを求めること、イギリスの了承なしに他の大国と取引しないことを約束させることは差し支えない」という指示を出していたが、ヤングハズバンドはこの命令に従わず、9月7日には清のアンバンも同席させた上でチベット側とラサ条約を締結し、5万ポンド賠償金支払い(75年払い)とそれが完了するまではイギリスがチュンビ谷全域を占領すること、またギュンツェにイギリス代表を置くことを認めさせた。 バルフォアはこの独断の「外交的勝利」を全く歓迎しなかった。この時代にはイギリス以外の欧米列強も次々と植民地支配に乗り出しており、もはやイギリス一国だけで世界を自由にできる時代ではなかった。他の列強の許可も得ておかねば、強引な条約はたちまちイギリスを孤立に追いやってしまうのである。バルフォアの予想通り、この条約が発表されるやすぐにもロシア、ドイツ、フランス、アメリカ、イタリアの5大国がイギリス外務省に正式な抗議を送ってきた。バルフォアはイギリス包囲網を避けるため、ラサ条約に定められた賠償金額を3分の1に激減させ、さらにチュンビ谷からも1908年までに撤退することを決定した。 先に結ばれた日英同盟は「日英どちらかが二か国以上と戦争になった場合はもう片方は同盟国のために参戦、一か国との戦争の場合はもう片方は中立を保つ」という約定になっていたため、バルフォアとしては早急にフランスを取りこんでフランスがロシアとともに日本に宣戦布告するのを阻止する必要があった。 フランスを取りこむことについてはそれほど難しくなかった。イギリスは植民地問題で長らくフランスと争ってきたが、1898年のファショダ事件でフランスが譲歩して以来、両国関係は好転していたからである。またドイツ海軍がヴィルヘルム2世の「世界政策」のもと海軍力の大幅増強を行い、世界各地でイギリスの植民地支配を脅かすようになったことも英仏を結び付ける背景となった。外相ランズダウン侯爵は駐英フランス大使ポール・カンボン(フランス語版)を通じてテオフィル・デルカッセ仏外相と交渉を進め、エジプト、モロッコ、ナイジェリア、シャム(タイ)、マダガスカル島、ニューヘブリディーズ諸島、ニューファンドランド島などの利権・領有権をめぐる英仏間の懸案事項を互譲的に解決した。それは最終的に1904年4月8日の英仏協商の締結で結実した 前任のソールズベリー侯爵と同様、バルフォアは当初日本の海軍力を高く見積もっており、日本との同盟によって日英の中国における海軍力を露仏のそれより上回らせ、もってロシア帝国主義の拡張を抑止し、中国情勢の現状維持を図ろうと考えていた。そのためには日露の和解も開戦も阻止する必要があった 日英同盟締結後も日本国内にはロシアと協商を結ぼうという動きがあった。これを警戒したバルフォアは1903年7月30日に日本政府に向けて声明を出し、「日本単独でロシアと協商関係を結ぶよりも日英両国でアメリカに働きかけ、日英米三国でロシアに圧力を加え、日本の主張をロシアに認めさせる方が得策である」と忠告した。また外相ランズダウン侯爵も駐英日本公使林董に対して「ロシアの満洲撤兵に関する協定が日露間だけで締結されるなら、日英同盟によって具現した日英の協調関係は弱まらざるを得ない。ロシアとの交渉は日英同盟の範囲内で慎重に行ってほしい」と要請した。 しかしロシアは満洲から撤兵する姿勢を全く示さなかったため、結局日露関係は1903年後半から一触即発状態となっていった。バルフォアもここに至って日露開戦は必至と判断するようになった。この頃イギリスの軍事専門家の多くは日本の敗戦を予想しており、その影響でバルフォアも日本への期待感を以前より薄め、1903年12月23日の覚書の中では「日本の海軍力はロシアより劣っている。そのため日本は安全に韓国へ派兵できないし、また派兵できたとしても海上補給線を切断されるであろう」と書いている。 バルフォアは日本がロシア帝国主義の防波堤になりえない(極東の現状維持ができない)なら、日露開戦を阻止する必要はないと考えるようになった。なぜならば、日露戦争が起こればロシアは戦争で国力を消耗させるだろうし、ロシアが勝利したとしても新たに手に入れるのは領土的に無価値な韓国だけであり、また日本も滅亡することはないだろうから、今後ロシアは無価値な領土を日本から守るために大軍隊を常に極東に貼り付かせる必要に迫られ、これがロシアの行動を阻害し、イギリスの行動を有利にすると考えられるからである。 このバルフォアの戦略転換によって日露開戦を妨げる要素はなくなり、1904年2月には日露戦争の勃発に至った。しかしバルフォアの予想に反し、日本軍は善戦し、1905年1月には最大の激戦地の旅順で日本陸軍がロシア軍を降伏に追い込んだ。これにはバルフォアも驚いたという。さらに1905年5月から6月にかけての日本海海戦でも日本海軍がロシア・バルチック艦隊を撃破した。 これを受けてバルフォアも日英同盟延長に前向きとなり、外相ランズダウン侯爵を林公使と折衝に当たらせ、1905年8月12日にも第二次日英同盟を締結した。その結果、同盟期間は10年に延長され、イギリスは日本が韓国を保護国化することを承認し、日本はイギリスがインドで行う植民地政策を承認することとなった。同盟適用範囲は東南アジアとインドにまで広げられた。さらに先の日英同盟が締結国の片方が二カ国以上と戦争になった場合にもう片方の締結国が参戦する内容だったのに対し、今度の日英同盟は一か国との戦争であってももう片方は参戦しなければならないという強固なものとなった。ここに日英両国は名実ともに同盟国となったのである。 戦争終結後の1905年9月29日には日本の君主である明治天皇にイギリス最高勲章ガーター勲章を送るべしとする外相ランズダウン侯爵の提言に首相として了解を出し、この提言は10月8日にも国王エドワード7世の裁可を得て、バルフォア退任後の1906年2月に実現することになる。 また日本を公使館国から大使館国に昇格させたのも日露戦争中のバルフォアだった。当時のヨーロッパでは大国には大使館、小国には公使館を置くのが伝統だった。特に気位が高いイギリスはこの格付けに拘っていた。20世紀初頭の段階でイギリスが大使館を設置していた国はフランス、ロシア、ドイツ、オーストリア、イタリア、トルコ、スペイン、アメリカの8カ国のみであった。日本はこれに続く形でイギリスから大使館とするに値する国と認められたのであった(これ以降各国も次々とイギリスに倣って日本公使館を大使館に昇格させていった)。 ===内閣総辞職=== バルフォアは保守党分裂を阻止するため、関税改革に触れまいとし続けた。だが野党自由党は保守党政権に揺さぶりをかけようと、1905年3月末に関税改革反対決議案を提出してきた。これに対してバルフォアは決議案の内容が不明瞭であることを理由に保守党は棄権するという方針を示した。一方チェンバレンはバルフォアに関税改革を争点にした解散総選挙に打って出るよう要求したが、バルフォアは応じなかった。バルフォアの態度にイライラしたチェンバレンはついに1905年11月からバルフォア批判を開始した。 ここに至ってバルフォアはこれ以上政権に留まれば党分裂は避けがたいと認識するようになった。また自由党内でアイルランド自治問題をめぐってローズベリー伯爵ら自由帝国主義派とキャンベル=バナマンら小英国主義派の対立が再燃し始めた情勢を見て、今総辞職して自由党に政権を譲れば、世間の注目が関税問題からアイルランド問題に移り、自由党分裂を促すことができると判断した。 そうした意図から1905年12月4日付けでバルフォア内閣は総辞職した。 ===野党党首として=== ====1906年総選挙に惨敗==== 首相退任後もバルフォアは5年にわたって保守党党首職に在任した。バルフォアに代わって組閣の大命を受けた自由党党首キャンベル=バナマンは、少数与党の状況を脱するべく、1906年1月にも解散総選挙に打って出た。 この選挙の争点は保守党に有利なアイルランド問題ではなく、自由党に有利な関税問題や中国人奴隷問題となった。関税問題では自由党は庶民に受けのいい「無関税の食糧を!」をスローガンに掲げることができたが、保守党は関税問題で分裂したままだった。中国人奴隷問題でも自由党は中国人苦力が鞭で打たれているポスター、あるいは中国人苦力の絵に「トーリー(保守党)の新しい労働者」という文字を付けたポスターをばら撒いて、英国民の間に人道上の義憤とも外国人労働者輸入への不安ともつかぬ憤慨を引き起こし、英国各地で「豚のしっぽ(弁髪)」という言葉が叫ばれた。グレーアム・ウォーラスは「気味の悪い黄色い顔がモンゴル系人種に対する直接的な嫌悪感を呼び覚まし、この嫌悪感が保守党に向けられた」と分析している。 こうして保守党は庶民・労働者層の反発を買って苦しい選挙戦を強いられた。結局自由党が377議席に大躍進する一方、改選前に401議席を持っていた保守党は、157議席に激減した。党首バルフォア自身もこれまでのマンチェスター・イースト選挙区(英語版)では落選するという屈辱を喫し、シティ・オブ・ロンドン選挙区(英語版)に転じて再選を果たしている。 この惨敗は保守党の歴史にかつてないものだった(これまでの保守党の最低記録は1832年総選挙(英語版)の際の185議席)。しかも当選した157人のうち、109人の議員は関税改革論者だったため、保守党は惨敗に懲りずに保護貿易主義に傾いていくことになった。バルフォアもそれまでの折衷主義を弱めて関税改革路線に傾いていった。 ===貴族院を使って反政府闘争=== ジョゼフ・チェンバレンが病に倒れたせいもあって彼の党内における力は強化されていたが、庶民院において自由党が圧倒的多数を占めていたためできることは限られていた。このためバルフォアは保守党貴族院院内総務(英語版)のランズダウン侯爵と協力し、貴族院議員を使って自由党の政策や法案に抵抗するようになった。 早くも1906年4月には初等教育から宗教教育を排除することを目的とした「教育法案」を貴族院で葬った。これに反発した首相キャンベル=バナマンや急進派閣僚の通商大臣(英語版)ロイド・ジョージは貴族院改革の意を強めた。キャンベル=バナマンは1907年6月にも庶民院の優越を定める法律を制定すべきとする決議案を議会に提出し、その決議案説明の中でロイド・ジョージは「貴族院は長きにわたり、憲法の番犬だったが、今やバルフォアのプードルである。彼のために吠え、使い走りをし、彼がけしかけたどのような物にも噛みつく」と怒りを露わにした。 だがバルフォアは態度を翻すことはなく、首相がアスキスに変わった後の1908年7月にも醸造業者の独占制限を目的とする「酒類販売免許法案」を貴族院で否決させた。この際に急進派閣僚の通商大臣ウィンストン・チャーチルは「我々は貴族院を震え上がらせるような予算案を提出するであろう。貴族院は階級闘争を開始したのだから」と語ったという。 ===「人民予算」をめぐって=== 大蔵大臣ロイド・ジョージは保守党の支持基盤である地主・土地貴族に打撃を与えるべく、「人民予算」(People’s Budget)と呼ばれる予算案の作成を開始した。 この「人民予算」に含まれる土地課税は「土地の国有化を企むもの」として地主・土地貴族が強く反発した。彼らの声を代弁するバルフォアら保守党政治家もこの予算案に強く反対し、「赤旗の予算(The Red Flag Budget)」と批判した。自由党内のホイッグ派(土地貴族が多い)も保守党と声を合わせるようになったため、結局土地課税についてはロイド・ジョージ自身が骨抜き修正している。それにも関わらず、「人民予算」は1909年11月に庶民院の第三読会を通過した後、貴族院から激しい反発にあった。彼らはなおも土地の国有化につながる法案と信じていた。バルフォアも11月28日に「貴族院は法案を否決すべきである」と演説した。 11月30日に貴族院は賛成75、反対350という圧倒的大差で「人民予算」を否決した。貴族院が金銭法案を否決するのは17世紀以来のことだった。これを受けてアスキス首相は庶民院を解散し、総選挙に打って出た。1910年1月の解散総選挙(英語版)でバルフォアは「貴族院の権限縮小反対」「関税改革」「海軍拡張」の3つを保守党の公約に掲げた。このうち関税改革は「関税改革が失業を減少させる」というスローガンとセットにして行った。これは労働者層の支持を取り戻すのにかなり役立ったと見られている。選挙の結果は自由党275議席、保守党273議席、アイルランド国民党(英語版)82議席、労働党40議席となった。前回比で自由党は104議席も減らし、保守党はかなり失地回復を果たした。 だがキャスティング・ボートを握ったアイルランド国民党が「人民予算」を支持したため、自由党政権は引き続き「人民予算」の可決成立を目指した。バルフォアの「人民予算」に対する態度が依然として強硬と見たアスキス首相は1910年2月に貴族院の権限を縮小する貴族院改革法案(議会法)を一緒に提出した。これを警戒したバルフォアは1910年4月に「人民予算」を採決なしで貴族院を通過させる妥協姿勢をとった。 ===貴族院改革をめぐって=== 議会法案をめぐって自由党政権と保守党が緊迫する中の1910年5月6日のエドワード7世が崩御し、ジョージ5世が即位した。政界に「新王をいきなり政治危機に晒してはならない」という融和ムードが広まり、両党の会合が持たれるに至った。この際にロイド・ジョージはバルフォアに連立内閣を提唱した。バルフォアはこれに前向きだったが、自由党政権はアイルランド国民党との連携のためにアイルランド自治法案を出してくる可能性が高かったので、もし大連立など組んだら保守党は分裂するという意見が党内には多かった。1910年11月までには両党の交渉は決裂に終わった。 この決裂で議会法制定を目指すことにしたアスキス首相は、ジョージ5世から「総選挙を行って勝利した場合には貴族院改革法案に賛成する新貴族議員を大量に任命する」という確約を得て、11月26日にもこの年二度目の庶民院解散に打って出た。こうして行われた12月の総選挙(英語版)の結果は自由党272議席、保守党272議席、アイルランド国民党84議席、労働党42議席と前回総選挙とほとんど変わらないものだった。得票率で見ると保守党は自由党に優っていた。 しかしアスキス首相は1911年2月21日の新議会で自党と友党アイルランド国民党があわせて過半数を制したので貴族院改革の国民のコンセンサスは得たと力説し、議会法案を再度議会に提出してきた。法案は5月15日に庶民院を通過したが、貴族院は断固反対の姿勢を示した。これを見たアスキス首相は、もし貴族院がこの法案を通過させないなら国王大権によって貴族院改革に賛成する新貴族院議員を大量に任命する方針とそれについて国王の承諾を得ている旨を7月20日にバルフォアら保守党執行部に付きつけた。 これを受けてバルフォアは7月21日にもシャドー・キャビネット(影の内閣)に所属する保守党幹部を召集して対策を話し合った。バルフォアやランズダウン侯爵、カーゾン卿は「貴族の大量任命など行われたら世界中の文明国の笑い物になる」として譲歩するしかないと主張した。バルフォアの考えるところ、自由党系の新貴族が任命されて自由党が恒久的に貴族院多数派になることの方がはるかに危険な「革命」であり、それに比べれば拒否権が失われることぐらいはまだマシだった。だがハルズベリー卿(英語版)やセルボーン卿(英語版)、オースティン・チェンバレンらは徹底抗戦すべしと主張して譲らなかった。 保守党貴族院議員たちの間では政府の態度はハッタリの脅迫に過ぎないとして、徹底抗戦派の声の方が大きくなっていった。彼らは「ダイ・ハード(頑強な抵抗者)」と名乗るグループを形成して貴族院権限縮小反対運動を行った。このように公然と党首バルフォアの方針に背く者が増えていく中、バルフォアの党内における求心力の低下は避けられなかった。 アスキス内閣は新貴族院任命の方針を覆す意思を見せず、8月10日には議会法案の貴族院提出を強行し、その法案説明で「議会法を否決する投票は、すなわち多数の新貴族任命への賛成票ということになる」と明言してきた。バルフォアの息のかかった妥協派貴族院議員たちは当初棄権を考えていたが、棄権すると議会法案否決の公算が高いため、ついにこの法案賛成に回る決意を固めた。これにより議会法案は賛成131、反対114の僅差でなんとか貴族院を通過した。37人の保守党貴族院議員と2人の大主教、1人の主教が賛成票を投じていた これにより貴族院の権限は大幅に縮小され、さらに貴族院議員の新規叙任が制限されることになった。 ===党首辞任=== この結果に党内から不満が噴出し、党の分裂は深刻化した。議会法の貴族院可決があった8月10日夜の保守党社交界カールトン・クラブ(英語版)の席上では賛成票を投じた貴族院議員たちに「恥を知れ」「裏切り者」「ユダ」といった罵倒が浴びせられた。バルフォアの指導力にも疑問が呈されるようになり、F.E.スミス(英語版)やオースティン・チェンバレンを中心に「B・M・G(バルフォアよ、去れ)」運動が開始された。 こうした党内の亀裂を収拾するため、1911年11月8日にバルフォアは健康上の理由として保守党党首職を辞した。後任の保守党党首は決まっておらず、ウォルター・ロング(英語版)とオースティン・チェンバレンが後任の座をめぐって争ったが、結局この二人は党の分裂を恐れて共に辞退し、関税改革派・親アルスター派の論客として名を馳せていたアンドルー・ボナー・ローが後任の党首に収まった。 バルフォアの党首辞任を聞いたアスキス首相は「世界で最も偉大な審議機関の最も卓越した一員だった」という賛辞をバルフォアに送った。 ===党首退任後=== 党首退任後もバルフォアは党の重鎮であり続けた。これについてブレイク男爵(英語版)は著書の中で「バルフォアの信頼度は確固たるものであり、これに匹敵する者はなかった。ボナー・ローには新政権に必要な保守党からの支持を保証することはできなかったが、バルフォアにはそれができた」と語っている。国王ジョージ5世からも絶大な信頼を寄せられて元老としてしばしば諮問を受けた。 ===アスキス内閣海軍大臣=== 第一次世界大戦中の1915年5月にハーバート・ヘンリー・アスキス首相が保守党・自由党の大連立による挙国一致内閣の第2次アスキス内閣(英語版)を組閣すると、ガリポリの戦い(ダーダネルス作戦)で失態を犯したウィンストン・チャーチルの後任として海軍大臣(英語版)として入閣した。 挙国一致内閣で最初に問題となったのはチャーチル前海軍大臣(現ランカスター公領担当大臣)が発動したダーダネルス作戦を中止すべきか否かだった。植民地大臣として入閣したボナー・ローやインド担当大臣として入閣したオースティン・チェンバレンらは撤退を主張したが、バルフォアやチャーチル、陸軍大臣キッチナー伯爵元帥、国璽尚書}カーゾン・オヴ・ケドルストン侯、無任所大臣ランズダウン侯爵らは「トルコ相手に撤退などしたら他の東洋民族の独立運動にも影響を与える」として反対した。しかし9月にはブルガリア王国がドイツ側で参戦したことでセルビアを重点的に支える必要性が出てきた。そのためダーダネルス撤退論は強まり、11月にはボナー・ローが職を賭してダーダネルス撤退を求めるようになった。こうした中の11月23日、バルフォア、キッチナー伯、ボナー・ロー、ロイド・ジョージ、外務大臣エドワード・グレイで構成される軍事委員会は撤退を決議した。チャーチルとカーゾン・オブ・ケドルストン侯はなおも撤退に反対していたが、退けられた。 1916年5月にはユトランド海戦があった。制海権を失うことはなかったものの、王立海軍の損害はドイツ海軍より大きく、世界最強の海軍国の自負心を傷を付けられ、国民の士気低下を招いた。 1916年12月に入ると「少数の軍事委員会」の創設とその議長の座をめぐって首相アスキスと陸相ロイド・ジョージの関係が破局し、12月5日にはロイド・ジョージが辞職した。自由党内ではアスキスを支持する者が多かったが、保守党内では強力な政権ができるならロイド・ジョージに任せた方が良いという意見が多かった。アスキスはバルフォアが支持してくれることを期待して彼に意見を聞こうとしたが、バルフォアも他の保守党閣僚とほぼ同意見だった。ロイド・ジョージはバルフォアを指導力不足と嫌っており、組閣できたならバルフォアを海軍大臣から解任しようと考えていたが、それでもバルフォアのロイド・ジョージ支持の意思は変わらなかった。彼はアスキスへの手紙の中で「ロイド・ジョージが議長となって軍事委員会をやるという話だが、一つやらせてみてはどうだろうか。ついては自分が海相であるのが邪魔と聞く。だから自分は辞めようと思う」と書いている。 これで保守党の全閣僚がロイド・ジョージを支持して辞職を表明したことになり、アスキスは同日中に総辞職した。一方でアスキスは「誰か中立的な立場の者が首相になるのでない限り、私は協力しない」と宣言したため、ジョージ5世は後任の首相の選定に苦慮した。このままでは次の内閣が作れないと憂慮したボナー・ローとロイド・ジョージは翌6日朝にも元老バルフォアのもとを訪れて意見を聞いたが、この際にバルフォアは「全ては御前会議で決してはどうか」と提案した。それに賛成したボナー・ローがジョージ5世に「後任の首相を決めるため各党代表による御前会議を開催していただきたい」と上奏した結果、同日午後3時から御前会議が開催されることになった。御前会議に先立ってジョージ5世はバルフォアを個別に引見したが、後任の首相を決められそうになければバルフォアに首相になってほしいと要請し、バルフォアもこれを了承した。 予定通り午後3時からバルフォアを進行役とする御前会議が開催された。自由党のアスキスとロイド・ジョージ、保守党のボナー・ロー、労働党のヘンダーソンが参加した。この会議の詳細は出席者ごとに証言が異なるが、国王がアスキスにボナー・ローの内閣かロイド・ジョージの内閣に入閣することを希望したが、アスキスは自由党内で同意を得る自信がなかったので即答を避けたという流れのようである。いずれにしても御前会議後、アスキスは自由党幹部会議で自分が次期内閣に入閣すべきかどうかを諮ったうえで入閣しないことを表明し、ボナー・ローも組閣を断念してロイド・ジョージ支持を表明したので、12月6日午後7時にロイド・ジョージが組閣の大命を受けることになった。 ===ロイド・ジョージ内閣外務大臣・枢密院議長=== 自由党閣僚の多くはアスキスを支持してロイド・ジョージ内閣(英語版)への参加を拒否した。外務大臣グレイもこの際に辞職している。またロイド・ジョージはボナー・ロー以外の保守党幹部からも支持を得られているとは言い難い状態だった。ボナー・ローの党首としての権威は弱く、彼の支持を得ただけでは保守党を掌握することはできなかったのである。そこでロイド・ジョージはバルフォアを入閣させる必要を感じた。 彼は12月6日夜にもボナー・ローを連れてバルフォアのもとを訪れ、ボナー・ローの口から外相としての入閣を要請し、バルフォアの了承を得た。このバルフォアの入閣により保守党議員の大半がロイド・ジョージ支持に転じ、ようやく組閣の目途が立った。 バルフォアが外相になった頃(1916年末)は、ちょうどイギリス軍が敵国オスマン帝国の領土パレスチナに進軍する作戦を立てていた時期であり、この作戦は1917年1月から実施された。また1917年3月にはロシア革命により反ユダヤ主義的なツァーリ体制が崩壊し、ロシア国内の反ユダヤ諸法が廃止された。こうした中でハイム・ヴァイツマンや第2代ロスチャイルド男爵らのシオニズム運動は盛り上がりを見せ、バルフォア外相のもとにもパレスチナにユダヤ人国家樹立を認めてほしいという嘆願が多く寄せられるようになった。バルフォアはもともと「ユダヤ人国家」を餌にユダヤ人をウガンダに移民させて大英帝国によるウガンダ植民地化の尖兵にしようというジョゼフ・チェンバレンの英領ウガンダ計画を支持していた。そのため1906年にはウガンダ移民計画を拒否したヴァイツマンを叱責したことがあったが、ヴァイツマンから熱心な説得を受けて、シオニズムを支持するようになった。1917年時のイギリスの国益上の観点からはパレスチナにイギリス庇護下のユダヤ人郷土ないし国家を作ることでパレスチナを「アジアのベルギー」にし、大英帝国の生命線であるスエズ運河を守る拠点とする考えがあった。ロスチャイルド卿がバルフォアに提出した草案の返答として、バルフォアは1917年11月2日付けで「パレスチナに現存する非ユダヤ人共同体の市民的権利と宗教的権利、あるいは他の国でユダヤ人が享受している権利と政治的地位に不利益を被らせない範囲で、陛下の政府はパレスチナにユダヤ人のための郷土を建設することに最善の努力をする」としたバルフォア宣言を発した。この宣言はイスラエル建国の基礎となった文書としてよく知られている。他、バルフォアは国際連盟委員会の設立にも一役買った。 1919年のパリ講和会議にも出席し、10人会議のメンバーの一人となった。この会議の結果ヴェルサイユ条約が調印されるとバルフォアは外務大臣を辞任したが、その後の平時内閣においても枢密院議長として閣僚に留まった。 1921年から1922年のワシントン会議にはイギリス代表として出席している。この会議でバルフォアは日英同盟を「拡大」させて、日英米仏の4カ国による四カ国条約を締結した。これは日英同盟の実質的弱体化であった。バルフォアは「20年も維持し、その間二回の大戦に耐えた日英同盟を破棄することは、たとえそれが不要の物になったとしても忍び難いものがある。だがこれを存続すればアメリカから誤解を受け、これを破棄すれば日本から誤解を受ける。この進退困難を切り抜けるには、太平洋に関係のある大国全てを含んだ協定に代えるしかなかった」という心境を告白している。 1922年5月5日には「カウンティ・オヴ・ハディントンにおけるウィッティングハムのトラップレイン子爵(Viscount Traprain, of Whittingehame, in the county of Haddington)」および「バルフォア伯爵(Earl of Balfour)」に叙され貴族院に列した。 しかしこの頃、ロイド・ジョージは爵位問題や外交問題をめぐって保守党議員から批判を受けるようになっており、1922年10月19日のカールトン・クラブにおける保守党議員の投票で自由党ロイド・ジョージ派との大連立を解消するという決議がなされた。これを受けて大連立維持派の保守党党首オースティン・チェンバレンは党首職を辞任し、病気療養で党首職を離れていたボナー・ローが党首に復帰した。この際にバルフォアはオースティンとともに大連立維持を主張し、「この決議はボナー・ロー個人に勝利を与えるためだけのものだ」と批判した。そのため、総辞職したロイド・ジョージ内閣の後を受けて成立したボナー・ロー内閣(英語版)には入閣を拒否した。 ===晩年=== 閣僚辞任後もバルフォアの党内における影響力は衰えず、国王ジョージ5世からも元老として重用され続けたが、バルフォアもすでに70半ばであったので、普段はノーフォーク州シェリンガム(英語版)で静養するようになった。 1923年5月にボナー・ローが病で退任した。国王ジョージ5世は閣僚経験豊富な貴族院院内総務初代カーゾン・オヴ・ケドルストン侯に組閣の大命を与えることも考えたが、まず元老バルフォアに諮問することにした。召集されたバルフォアは主治医が止めるのを振り切ってロンドンへ行き、5月21日に国王私的秘書(英語版)スタムファーダム卿(英語版)を通じて「すでに内閣の主要ポストに貴族院議員が就任する機会は減少しており、国民が貴族院首相を望まない現状では、陛下は庶民院院内総務たるスタンリー・ボールドウィンに組閣の大命を下されるべき」との見解を国王に伝えた。ジョージ5世はこれを受け入れて5月22日にボールドウィンに組閣の大命を与えた。 ところが首相となったボールドウィンは首相に成り損ねた貴族院院内総務カーゾン・オヴ・ケドルストン侯の処遇ばかりに気に使い、バルフォアへの配慮をほとんどしなかった。これに怒ったバルフォアは1923年11月の総選挙で保守党が絶対多数を失った際にボールドウィンの党首としての責任を厳しく追及した。この選挙で保守党、自由党、労働党の3党並立状態になり、政界は混迷した。ジョージ5世は再びバルフォアに諮問したが、バルフォアは「アスキスを首相とする自由党と保守党の連立か、労働党の単独政権の二つに一つしか可能性がありません」と上奏した。 しかしロイド・ジョージ失脚に関わったボールドウィンは自由党から嫌われており、保守党と自由党の連立の試みは成功しなかった。ボールドウィン政権は1924年1月にも議会で敗北して総辞職を余儀なくされ、代わってラムゼイ・マクドナルドの労働党政権が誕生した。史上初の労働党政権であったが、少数与党で政権基盤が不安定だったので、1924年10月にも総選挙に打って出た。この選挙では保守党が大勝したため、労働党政権は1年足らずで崩壊し、第二次ボールドウィン内閣(英語版)が発足した。この内閣時の1925年にバルフォアは前年に死去したカーゾン・オヴ・ケドルストン侯の後任として再び枢密院議長となった。 ===死去=== バルフォアは1929年に政界引退したが、その翌年の1930年3月19日にサリー州ウォーキングにある弟の住居で死去した。故郷のウィッティングハムに葬られた。生涯独身であったため、爵位は弟ジェラルドに継承された。 ==人物・評価== 身長6フィート(1.82cm)以上の長身であり、髪の色は褐色、眼の色はブルーだった。 大変なインテリで読書家だった。哲学書と神学書を中心に、探偵小説や科学書、フランスの小説もよく読んだ。しかし新聞は読もうとしなかったという。 紳士的な礼儀正しい人だったという。ウィンストン・チャーチルはバルフォアについて「洗練された趣味、バランスの取れた判断力、透徹した洞察力、あくまで冷静で決して我を忘れることがない。行儀正しく、どこへ出ても安らかで他人に丁重である。」、「しかし公事となると冷酷なまでにやることができる。公的の反対で私的の関係を破壊することはないが、私的の故をもって公的な問題を曲げることはない。意見が合わぬ時は冷静丁重に決別する」と語っている。 容姿端麗で家柄や財産も申し分ないから、当然女性にもてたし、結婚のチャンスも数多くあったが、ついに結婚しなかった。バルフォアは学生時代にグラッドストンの姪にあたる女性と婚約していたが、その女性は若くして死去しており、これを引きずって結婚を避けているのではと噂されていた。保守党の政治家ながら1900年代以降に盛り上がってきた婦人参政権獲得運動には割と好意的な立場をとっていた。これに対してバルフォアの後任の保守党党首アンドルー・ボナー・ローは慎重派だった。 自由党のウィリアム・グラッドストンによればバルフォアは叔父ソールズベリー侯爵と気質がよく似ており、違いは「大胆さの面で甥が若干勝る。知能と辛辣さは叔父が若干勝る」ことだという。バルフォア自身は若いころ、叔父と自分の違いについて「叔父はトーリーだが、私は自由主義者だ」と語っていた。確かにバルフォアは若いころ「第四党」のメンバーとして保守党内で自由主義的な活動をしていたが、それにも関わらず叔父との関係が壊れなかったことは二人の政治思想は根本的な部分では一致していた証とバーバラ・タックマンは主張する。 ===超然性・冷静さ=== しばしば超然とした性格を指摘される。チャーチルによれば、チャーチルが若手保守党議員だった頃、アイルランド議員が殴りかからんばかりの勢いでバルフォア首相に迫ってきたことがあり、チャーチルら若手議員はいつでも取り押さえられるよう身構えたが、バルフォアは全く動じず、まるで顕微鏡で虫けらでも見るかのような表情でそのアイルランド議員を見ていたという。チャーチルはバルフォアの動じない勇気を称えつつ、彼が動じないのは冷たい性質のせいだと分析している。 バルフォアが常に冷静な理由について、アスキス夫人マーゴット(英語版)は「問題を真剣には気にかけていないか、事がどっちへ進もうが、それに人類の幸福がかかっているとは信じていないかのどちらかであろう」と主張している。保守党のジョージ・ウィンダム(英語版)も「あまりに学問的な政治観を持ちすぎるための冷淡さが原因だ。彼はかつて氷河時代があったこと、いつか再び氷河時代が来ることを知っているのだ」と語っている。 労働党のラムゼイ・マクドナルドはバルフォアの葬儀で「バルフォアは人生を遠くから見る人だった」と故人を振り返った。チャーチルはこのマクドナルドの弔辞を含蓄ある観察と評価している。チャーチルによれば「マクドナルドは一生を悪戦苦闘したので、寧日などまったくなく、人生をいつも近距離から見るしかなかった。それを思えば彼のこの弔辞は無意識の羨望と同時に自分への誇りが込められていたのだろう」という。 バルフォアが首相に在任していた時代の国王エドワード7世は彼に好意を持たなかったが、前女王ヴィクトリアからは高く評価されていた。女王は「彼は問題のあらゆる側面を見ることができ、他の人々に対する感情において素晴らしく寛大である」と述べている。エドワード7世の次代の国王ジョージ5世も皇太子時代からバルフォアを相談役としたため、彼に全幅の信頼を置いていた。 ===シオニズムとユダヤ人観=== バルフォアはイギリス政府のシオニズム支援を約束したバルフォア宣言で知られる。どんなことにも常に距離を置いて冷めた目で見るバルフォアが例外的に熱心に取り組んだのがシオニズムだった。バルフォア自身も死の直前に「私の生涯の全仕事で最も価値があったのは、ユダヤ人の為にした仕事だったように思う」と語っている。 バルフォアがシオニズムを支持するようになったのはシオニズム運動指導者のハイム・ヴァイツマンに感銘を受けたからだった。ヴァイツマンは魅力ある人物であり、バルフォアのみならず、チャーチルやロイド・ジョージなど他の英国主要政治家も次々とシオニズム支持者にした人物だった。バルフォアは「彼と会ってユダヤ人の愛国心は独特なものだと知った。彼らの国への愛はウガンダがどうのこうのなどという物ではなかった」と述べている。 バルフォアのユダヤ人観は一定しない。「改宗しないユダヤ人は宗教と伝統を守る人々である。したがって国際政治における保守勢力である」「ユダヤ人は5世紀のギリシャ人以来、人類で最も才能に恵まれた民族だと思う」と評価する一方で「ボルシェヴィキの黒幕はユダヤ人であり、文明世界を転覆しようとしている」という考えを紹介したこともあった。同じく「反セム主義は俗悪だ」と語る一方で自身はユダヤ人と休日を共にすることを嫌がっていた。 ===スポーツマン・ゴルフ好き=== スポーツマンでもあり、テニス、サイクリング、ゴルフなどに熱中していた。 とりわけゴルフの腕前は高く、1894年にはロイヤル・アンド・エンシェント・ゴルフ・クラブ・オブ・セント・アンドリュースのキャプテンとなった。ハンディは5の腕前であったという。首相たる彼があまりにゴルフに熱中するので社交界もつられてゴルフに熱中するようになり、「スコットランド式クローケー」などとバカにされていたゴルフの名声が高まっていったという。 バルフォアはゴルフについて次のように語っている。「筋肉と頭脳がかくも融合されたゲームは他にない。私にとって重要なものは食事、睡眠、ゴルフである」、「紳士はゴルフをする。例えはじめた時には貴方が紳士でないとしても、この厳しいゲームをやっていれば必ずや紳士となるであろう」、「ゴルフは三回楽しめるスポーツである。すなわちコースへ行く前、プレイ中、プレイ後である。その内容は期待、絶望、後悔と変化するが」。 【↑目次へ移動する】 ==哲学者としてのバルフォア== バルフォアは1879年に初めての著書『哲学的懐疑の擁護(Defence of Philosophic Doubt)』を出版した。この著作のタイトルのためにバルフォアは不可知論の擁護者であるという評判が広まったが、実際にはこの著作は物質的実在への疑念を主張することで宗教を擁護したものだった。バルフォアの哲学への主たる関心は信仰の基盤を現代社会の中に発見することにあり、そのため自然主義に反発し、人は科学に対してそうであるように宗教に対しても疑念を持ってはならないと考えた。この立場は1895年の主著『信仰の基礎』でも踏襲されている。この著作はアマチュアのレベルを超えて学術レベルに達していると高く評価されている。 こうした哲学や宗教への深い関心から『旧約聖書』のヘブライズムに惹かれ、「キリスト教は計り知れないほど数多くの物をユダヤ教に負っているのに、恥ずかしいことにほとんどお返しができていない」と考えていた。それがシオニズムへの共感とバルフォア宣言の背景になったといわれる。バルフォアを説得したヴァイツマンも「イギリス人は聖書を良く知っており、ユダヤ人と精神的に繋がりがあるように思える」と語っている。 バルフォアの哲学に関する著作には以下のような物がある。 哲学的懐疑の擁護(Defence of Philosophic Doubt) (1879年)評論と演説(Essays and Addresses) (1893年)信仰の基盤(The Foundations of Belief) (1895年)美しさと批判の探究心(Questionings on Criticism and Beauty) (1909年)内政の側面(Aspects of Home Rule) (1913年)有神論とヒューマニズム(Theism and Humanism) (1915年)思索的及び政治的評論(Essays Speculative and Political) (1921年)有神論と思想(Theism and Thought) (1923年) 【↑目次へ移動する】 ==栄典== ===爵位=== 1922年5月5日、初代バルフォア伯爵(連合王国貴族爵位)1922年5月5日、初代トラップレイン子爵(連合王国貴族爵位) ===勲章=== 1916年6月3日、メリット勲章1922年3月3日、ガーター勲章 ===名誉職その他=== 1885年6月24日、イギリス枢密顧問官1887年3月9日、アイルランド枢密顧問官(英語版)1888年1月12日、王立協会フェロー 【↑目次へ移動する】 ==シャーロック・ホームズとバルフォア== 小説家アーサー・コナン・ドイルが生み出した名探偵シャーロック・ホームズが活躍した時代は、主にソールズベリー侯爵内閣期だが、続くバルフォア内閣期の1903年にも多くの事件を手がけたという設定になっている(同時にこの年にホームズは引退する)。 『マザリンの宝石』(『シャーロック・ホームズの事件簿』収録)の依頼人は英国首相であるが、これは1903年の事件と言われており、それが正しければ依頼人の首相というのはバルフォアということになる。作中でビリー少年は首相のことを「付き合いやすそうな人」と評している。 同じく『海軍条約文書事件』(『シャーロック・ホームズの思い出』収録)に登場する外務大臣ホールドハースト卿はソールズベリー侯の変名と言われており(ホームズ小説はワトスンの著作という形式をとっているため、ワトスンが当人に配慮して変名にしていると考える余地がある)、そうだとすれば、その甥という設定で登場する依頼人パーシー・フェルプスはバルフォアの変名である可能性が高い。作中でフェルプスの住居はウォーキングに設定されていたが、ここはバルフォアの弟の住居がある場所であり、バルフォアの最期の地でもある。 【↑目次へ移動する】 =第五青函丸= 太平洋戦争開戦前に設計された第四青函丸を原型とし、工期短縮と使用鋼材節減のため簡易化されたW型戦時標準船(第五青函丸型)の第1船であり、以後、第五青函丸を含め、同型船が連番で第十二青函丸まで8隻建造された。そのうち、第五・第九・第十青函丸は戦時中の事故や空襲で失われ、さらに第十一青函丸が洞爺丸台風で失われた。 ここでは第五青函丸型8隻について記述する。 また派生形のH型戦時標準船1隻と、終戦後はW型・H型の平時型各2隻ずつが追加建造された。戦後は旅客設備の造設と撤去、船質改善のため度重なる改修工事に明け暮れた。 第五青函丸(だいごせいかんまる)は、運輸通信省鉄道総局 青函航路の鉄道連絡船で、太平洋戦争開戦後の著しい船腹不足による北海道産石炭輸送の海運から鉄道への転移に対応するため建造された鉄道車両航送専用の車両渡船であった。 ==W型戦時標準船建造までの経緯== 1937年(昭和12年)の日中戦争勃発による船腹不足は、海運貨物の鉄道への転移を促し、青函間の貨物輸送量は、1936年 (昭和11年)の109万7134トンから1940年(昭和15年)の213万1500トンへと倍増した。しかし、この間の車両渡船の増強は、1939年(昭和14年)11月就航の第三青函丸1隻にすぎず、1941年(昭和16年)12月8日の太平洋戦争開戦により、輸送需要は一層増加したうえ、1941年(昭和16年)11月20日には、浮流機雷の津軽海峡への流入があり、以後半年間は12往復中、夜間便5往復の休航を余儀なくされ、滞貨の山ができてしまった。 このため、1941年(昭和16年)12月8日からは、貨物船として元関釜連絡船新羅丸の助勤を受け、1942年(昭和17年)2月15日からは、青函間での機帆船を用いた鉄道貨物一貫輸送も開始し滞貨解消に努めた。機帆船輸送はその後も増加する石炭輸送の一手段として継続増強され、青森、函館両港でも機帆船岸壁ならびに船車連絡設備の整備が推進された。しかし、戦時下、北海道炭の京浜工業地帯への主要輸送ルートとなる室蘭本線・函館本線と東北本線・常磐線とを繋ぐ青函航路が、このような姑息的手段で、その使命を全うできるはずもなく、抜本的解決を迫られた鉄道省は1942年(昭和17年)春、車両渡船4隻の早期建造を海軍艦政本部に要請した。 鉄道も、当時このルートの大部分は単線で、線路容量増大のため、多くの信号場が建設中で、複線化工事を急いでいた区間もあった。青函航路においても、函館港では1941年(昭和16年)4月から、青森港では 1940年(昭和15年)11月から、車両渡船用岸壁増設工事が進められており、函館港有川埠頭の函館第3第4岸壁が1944年(昭和19年)1月3日と11月17日から使用開始され、青森第3岸壁は1944年(昭和19年)5月1日から昼間のみ使用開始(7月20日より昼夜使用)された。さらに、有川埠頭では引き続き函館第4岸壁の裏側に右舷着けの第5岸壁の工事が進められ、青森側でも1943年(昭和18年)12月からは夏泊半島東側の小湊に突堤の両側使用となる2岸壁の建設工事が、それぞれ進められた。これら両港の岸壁増設工事と並行して、航送貨車中継施設増強工事も行われ、函館側では五稜郭操車場新設工事が1942年(昭和17年)4月に着工され、1944年(昭和19年)9月に完成し、既設の青森操車場も1940年(昭和15年)から拡張工事が進められ、1944年(昭和19年)2月に竣工していた。 ===戦時造船計画=== 一方、艦艇建造で繁忙化した民間造船所における商船建造の調整を図る目的で、海軍艦政本部は1942年(昭和17年)2月から、海軍管理工場で施工する、長さ50m以上の鋼船の建造修繕の監督権を掌握し、さらに、海軍艦政本部は、逓信省が1941年(昭和16年)12月に立案した戦時造船計画「第1次線表」を受け継いだ後、改訂を重ね、1942年(昭和17年)4月、「改4線表」として公表した。これが国家的に承認された最初の具体的な戦時造船計画であった。この「改4線表」に沿った商船大量建造のため、新規建造は海軍艦政本部選定の10種類の戦時標準船に限定され、それ以外の特殊目的の船は政府が認めたもののみ、その規格も政府が決める、とされた。しかしこの10種類の戦時標準船は、戦後の使用も考慮し、粗製乱造を避ける旨うたわれ、うち貨物船6種類は船舶改善協会が1939年(昭和14年)に不定期貨物船用に制定した平時標準船で、残る鉱石船1種類と油槽船3種類も当時建造中の適当な型を一部簡易化した程度であった。これに先立つ1942年(昭和17年)初頭、戦時標準船への移行促進のため、当時未起工あるいは工事準備の進んでいなかった戦時標準船以外の船舶、ならびに重要度が低いと見なされた船舶の建造は打ち切られたが、1941年(昭和16年)8月6日起工で、当時建造中であった第四青函丸の工事は継続された。 鉄道省から、この時期に出された上記の青函航路向け車両渡船4隻の建造要請に対して、艦政本部は、10種類の戦時標準船に該当しないうえ、速力15.5ノットも出せるのに特定の航路にしか使えず、船の大きさの割に積載能力の小さい車両渡船の建造など論外、小型機帆船を多数建造し、荷役港湾も分散して戦災リスクを分散すべし、と主張し、これを却下した。これに対し、鉄道省は、1,900総トンで速力10ノットの一般型貨物船のD型戦時標準船就航と車両渡船就航との比較検討を行い、片道数時間以内の鉄道連絡船航路における、車両渡船の圧倒的な荷役時間の短さと、それによる、船と岸壁の稼働率の高さを示して、貨車航送の優位性を艦政本部に訴えたが、受け入れられず、しばし膠着状態となった。 しかし、1942年(昭和17年)6月のミッドウェイ海戦敗北を転機に、以後、日本商船の戦損は急増し、海運輸送力はさらに逼迫、従来からその多くを内航海運に頼っていた国内炭輸送は危機的状況に陥った。ここに至って、ようやく鉄道省の説得工作が功を奏したのか、政府は1942年(昭和17年)10月6日の閣議で、“石炭など重要物資の海上輸送を陸上輸送に転移させる。北海道炭輸送については、青函間貨車航送力を最大限度に活用するほか、現に建造計画中の貨車航送船4隻を急速に竣工させる。”と決定した。この4隻には、当時建造中の第四青函丸も含まれていた。なお、この青函連絡船増強の滞っていた期間の貨物輸送量は、1941年(昭和16年)度は前年比101%の213万6106トン、1942年(昭和17年)度は同109%の234万2457トンと輸送能力限界で滞貨の山を築いての頭打ち状態であった。 この時期、太平洋戦争開戦前に起工し、建造を続行していた船舶は「続行船」と呼ばれ、前述1942年(昭和17年)初頭の「続行船」切り捨てを免れ、なお建造中であった「続行船」224隻(71万総トン)中、37隻(8万1000総トン)が同年10月、戦時標準船建造への移行の障害となる、として切り捨てられたが、ようやく石炭輸送の陸上転移が理解され、第四青函丸建造は継続された。 しかし船舶喪失量は1942年(昭和17年)10月以降、月間10〜20万総トンに急増し、対する当時の月間建造量は2〜3万総トン程度に留まり、従来の10種類の艦政本部指定戦時標準船(第1次戦時標準船)では簡易化不十分で大量建造に適さず、喪失船舶の補充困難は明白となった。このため、建造中の「続行船」ならびに第1次戦時標準船では、二重底の廃止や隔壁、第二甲板の一部廃止、諸室艤装の簡易化などの設計変更が行われた。 この喪失船舶急増に対応して1942年(昭和17年)12月に公表された戦時造船計画「改5線表」では、当座は上記の第1次戦時標準船の簡易化設計変更で対応せざるを得ないが、船型の簡易化なくして大幅な工事簡易化は達成できないとし、二次曲面を避けた簡易船型を開発するとともに、耐用年数や運航性能、安全性を軽視してまで、使用鋼材節減と工数減少による工期短縮を行い、「船体3年、エンジン1年」と言われた 第2次戦時標準船建造への移行が示された。この「改5線表」で、第四青函丸の建造続行と、第四青函丸をこの第2次戦時標準船に準じ、徹底的に簡易化した車両渡船1隻(第五青函丸)の新規建造がようやく承認され、第五青函丸の竣工予定は1943年(昭和18年)度末とされた。この第五青函丸型は「雑種船」と分類されながらも、戦時標準型車両渡船として、WAGON(貨車)の頭文字をとって、W型戦時標準船の名が与えられ、造船所建造符号として建造順にW1、W2・・と呼称された。 1943年(昭和18年)3月には、第2次戦時標準船建造を盛り込んだ「改6線表」が公表されたが、この計画で前年10月6日の閣議決定以来積み残されていた残り2隻(W2(第六青函丸)、W3(第七青函丸))の建造が承認された。これら2隻の竣工予定は1944年(昭和19年)度とされた。 1944年(昭和19年)3月30日の大本営政府連絡会議で、3隻(W4(第八青函丸)、W5(第九青函丸)、W6(第十青函丸))の建造と、さらに2隻の追加建造を検討中との報告が海軍省からあり、この前年の1943年(昭和18年)12月公表の「改7線表」に、これら3隻も盛り込まれ、1944年(昭和19年)度竣工予定としてW型4隻と記載された。この4隻とは、1944年(昭和19年)度竣工予定船のうち、W2(第六青函丸)が1943年(昭和18年)度内の1944年(昭和19年)3月7日竣工済みのため、W3(第七青函丸)からW6(第十青函丸)までの4隻を指す。なお、1944年(昭和19年)1月から、青森、函館両港の岸壁増設や操車場工事が順次竣工しつつあり、このときから、函館本線と東北本線が飽和するまで車両渡船を建造する、とされた。 1944年(昭和19年)4月の「改8線表」では、この検討中の2隻が4隻(W7(第十一青函丸)、W8(第十二青函丸)、W9(第十三青函丸)、W10(第十四青函丸))に増やされて建造が承認され、うちW8(第十二青函丸)までの6隻が1944年(昭和19年)度竣工予定とされた。 1944年(昭和19年)6月にはさらに1隻(W11(第十五青函丸))の建造が承認され、これをもって函館本線と東北本線が飽和する隻数に達したとされた。このとき同時に博多と釜山を結ぶ博釜航路用車両渡船として、H型戦時標準船4隻の建造も承認されている。 しかし1944年(昭和19年)9月の「改9線表」では、資材確保困難から、1944年(昭和19年)度竣工はW6(第十青函丸)までとし、W7(第十一青函丸)、W8(第十二青函丸)の2隻は1945年(昭和20年)度へ持ち越すと決定され、1944年(昭和19年)11月公表の「改10線表」には、1945年(昭和20年)度竣工予定としてW型5隻(W7(第十一青函丸)、W8(第十二青函丸)、W9(第十三青函丸)、W10(第十四青函丸)、W11(第十五青函丸))、H型7隻と記載された。しかしその後のさらなる戦況の悪化により、W6(第十青函丸)までは戦時中に竣工できたが、W7(第十一青函丸)とW8(第十二青函丸)は建造中の浦賀船渠で終戦を迎え、H型もH1(石狩丸(初代))が三菱重工横浜造船所で建造中終戦を迎えた。それ以降のW型H型は着工には至らなかった。 しかし終戦約1年後の1946年(昭和21年)7月に至り、W型およびH型戦時標準船の基本設計を引き継ぎながら、二重底復活やボイラー増強などの改良を施した、W9(北見丸)とW10(日高丸(初代))のW型2隻と、H2(十勝丸(初代))とH3(渡島丸(初代))のH型2隻の建造がGHQに承認され、4隻とも1948年(昭和23年)に竣工している。 国鉄部内では、W型戦時標準船にこれら戦後新造のW型2隻も加え「青函型船」または「W型船」と呼び、石狩丸(初代)、渡島丸(初代)、十勝丸(初代)の3隻を「石狩型船」または「H型船」と呼んで分類する場合もあった。 ===機帆船輸送=== 青函航路では1942年(昭和17年)2月15日から、その貨車航送能力不足補完のため、機帆船を用いた鉄道貨物一貫輸送を始めていたことは既に述べたが、さらに上記、1942年(昭和17年)10月の閣議では、貨車航送の補完として、“表日本の海上危険を避くると共に、海上運航効率向上を図る為、可及的裏日本揚げの石炭輸送を増加し、且つ之に照応する港湾荷役及陸上輸送力の増強を図る”との決定もあり、小樽港や室蘭港から、日本海経由での秋田県 船川港から京都府 舞鶴港に至る日本海側諸港までの機帆船による海上輸送と、以後貨車に積み替えての京浜・中京・阪神への鉄道輸送とをつなぐ“裏日本中継”が1943年(昭和18年)1月から実施され、これら港湾での船車連絡設備の増強も実施され、青函航路の機帆船輸送と並行して運航され、終戦までほぼその輸送目標を達成した。 ==W型戦時標準船 建造から終戦まで== W型戦時標準船は、その原型となった第四青函丸 を建造した浦賀船渠が引き続き全船の建造を担当した。 1942年(昭和17年)12月公表の戦時造船計画「改5線表」で、W1(第五青函丸)の建造が承認されたが、この時期は、急増した喪失船舶補充のため、工期短縮と使用鋼材節減を最優先した第2次戦時標準船導入期にあたった。1943年(昭和18年)6月29日起工のW1(第五青函丸)は、鉄道省が標準型車両渡船として位置付けた第四青函丸を原型に、これと平行ダイヤが組めて共通運用可能となるよう、その基本構造を引き継ぎ、積載能力や航海速力は維持しつつ、第2次戦時標準船に準じた簡易化設計により建造された。 ===船体構造=== W1(第五青函丸)の垂線間長113.20m、型幅15.85m、船体肋骨フレーム間隔68cmも第四青函丸と同じであったが、より薄い鋼板の使用、工作に手間のかかる船体曲線部分の極力直線化、二重底廃止、第二甲板の一部廃止、さらに諸室艤装簡易化のため船員居住区の大部屋化が進められた。建造簡易化の一環として、車両甲板にあった水はけを考慮した20cmのキャンバー(梁矢:甲板面の船体中心線が高く両舷が低い反り)は廃止され、型深は6.6mから6.8mとなり、満載喫水も4.64mから5.0mとなった。しかし居室容積減少もあり、総トン数は2,792.37トンと第四青函丸の2,903.37総トンより減少していた。 車両甲板の上はほぼ全面的に船橋楼甲板(1955年(昭和30年)建造の檜山丸(初代)以降の「船楼甲板」に相当)で覆われ、船橋楼甲板中央部には第四青函丸同様3層の小規模な甲板室が設置され、その最上層の航海船橋には船体全幅からさらに両翼が舷外まで突出した全室の操舵室が設置され、2層目の遊歩甲板には高級船員居室、無線通信室、機密室、1層目の船橋楼甲板には普通船員居室、船員食堂、厨房、トイレ・洗面所、浴室などが配置された。 しかし第三青函丸、第四青函丸にあった甲板室前面の丸みは、W1(第五青函丸)では工作簡易化のためほぼ平面となり、甲板室前面遊歩廊は廃止され、甲板室両舷側の船橋楼甲板遊歩廊の屋根も廃止された。このため両舷側の煙突基部には第二青函丸以来の甲板1層分の高さの四角い囲壁が残り、煙突は遊歩甲板高さと同じこの囲壁頂部から立ち上がっていた。 船橋楼甲板船首部には第四青函丸同様、両舷の錨を巻き上げる強力な揚錨機が装備された。揚錨機の両側面には水平軸で回転する糸巻き形のワーピングドラムが装備され、さらに揚錨機船首側船体中心線上には揚錨機からのシャフトを介して駆動されるワーピングドラムの回転軸を垂直にしたキャプスタンが1台装備され、着岸時には、岸壁のビットにつないだ係船索をこれらに巻き付け、スリップさせながら巻き込んで、船首を岸壁へ引き寄せた。しかし船橋楼甲板船尾部には第四青函丸までは左右2台装備されていたキャプスタンが船体中心線上の1台だけとなった。 第四青函丸 では、操舵室直前の船橋楼甲板に1本柱の前部マストが立っていたが、W1(第五青函丸)では操舵室直後の航海船橋に移り、3本足の三角トラス構造となった。後部マストは船尾近くの船橋楼甲板のままであったが、こちらも3本足の三角トラス構造となった。船橋楼船尾端中央部には第四青函丸同様、車両積卸し作業を目視しながらヒーリング操作を行う後部操縦室が設置されていた。 車両甲板外舷外板上部には、甲板室にかからない前後に第四青函丸と同様の通風採光用の開口が設けられるなど、ボイラー減による煙突数の4本から2本への減少と、船橋楼甲板後部舷側懸架の救命艇が各舷2隻から1隻に減った以外は、船体シルエットは第四青函丸に似ていた。 車両甲板の船内軌道は可動橋と接続する船尾端では3線、中線はすぐ分岐し、車両甲板の大部分で4線となる第一青函丸以来の車両渡船の配線が踏襲され、従来通り左舷から順に船1番線〜4番線と付番された。船内軌道船首側終点は、外側の船1番線と船4番線は第四青函丸と同位置であったが、内側の船2番線と船3番線は車両甲板船首中2階の部分甲板が縮小されたため、第四青函丸よりさらに約2m前方へ伸び、外側の2線より約4m前方に位置した。しかし積載車両数は第四青函丸と同じワム換算44両で、航海速力も同じ15.5ノットとされた。 第四青函丸までの車両甲板下は、錨鎖庫後ろに隣接する車両甲板下第1船艙第二甲板にあった機関部員居室、車両甲板船首部の普通船員用厨房・食堂、その中2階、部分甲板の甲板部員居室などが、第二甲板廃止に伴い、全て廃止され、船橋楼甲板の甲板室へ集約された。しかし甲板室の拡張はなされず、高級船員を含む全船員の居住環境は著しく悪化した。 W型戦時標準船では、従来からの第1船艙が隔壁で前後に分割され、前側から第1船艙、第2船艙としたため、その後ろに隣接する両舷にヒーリングタンクを抱えた従来の第2船艙は第3船艙となり、船体軽量化代償の深水タンクとなった。この後ろにはボイラー室、機械室、車軸室、操舵機室の各水密区画が続き、船底は全て単底となった。 ===W1(第五青函丸)の過剰軽量化=== このように設計段階で十分簡易化されていたW1(第五青函丸)であったが、より徹底した鋼材節減を目指す海軍監督官の意に添うよう、造船所側は上記に加え、船体縦強度確保に重要な車両甲板屋根の船橋楼甲板の一部除去などで720トンもの軽量化を断行した。工期も従来の半分の6ヵ月に短縮し、竣工予定の1943年(昭和18年)度末よりはるかに早い1943年(昭和18年)中に、竣工間近となった。しかし、船が浮き上がり過ぎ、車両積み込み時の横傾斜(当時建設中の函館有川第3、4岸壁、青森第3岸壁の新型可動橋では4度まで許容、当時稼働中の在来型可動橋は1度50分程度まで許容)が、ヒーリング装置で補正してもなお8度に達し、これにより可動橋のねじれが過大となり、2軸貨車が3点支持となって脱線することが判明した。これでは車両渡船としては使用できず、しかも二重底廃止で二重底への海水注入もかなわず、結局ボイラー室前隣の、両舷にヒーリングタンクを抱える第3船艙を深水タンクに改造し、600トンの海水を入れ、さらに機械室後ろ隣の車軸室船底に150トンの砂利を積み込んで重量を確保し、どうにか使える形で完成させた。W2(第六青函丸)以降はこれに懲りて、このような過剰な軽量化は行われなかったが、第3船艙の深水タンクと車軸室のコンクリートブロックとなった死重は引き継がれた。 ===ボイラー減缶と低性能タービン=== 機関部では、第四青函丸では左舷3缶右舷3缶の計6缶あったボイラーのうち、前2缶が廃止され4缶となり、W1(第五青函丸)では陸軍特務船用の3,000軸馬力の日立製作所製衝動タービンが流用されたが、過大であったため、2,250軸馬力に落として使用し、効率の悪い運転となった。またW2(第六青函丸)とW3(第七青函丸)では、第四青函丸と同等の浦賀船渠製衝動タービンが採用されたが、今度はボイラーの 過熱器が省略されてしまい、4時間30分運航はいよいよ困難となった。W4(第八青函丸)以降は2T戦時標準型タンカー用の定格出力2,000軸馬力、単筒式の甲25型衝動タービンが使用されたが、このタービンは蒸気使用効率が低くボイラー力量不足も相まって速力低下に拍車をかけ、さらにタービンの2段減速歯車は構造的に無理があり、故障が頻発した。また船尾側から見て右回り回転のものしかなく、左右両軸とも右回転での運航となった。なおボイラーの4缶化に伴い、ボイラー室船首側隔壁が第四青函丸に比べ5m余り後ろへ移動し、煙突も後ろの2本のみとなった。 船内電力は第四青函丸にならい、交流60Hz、225Vが採用され、同じく出力50kVAの蒸気タービン発電機が2台装備されたが、戦時標準船の中で交流電力を採用したのは、このW型とH型だけであった。 また1,000総トン以上の船には、所定の武装兵器と海軍警戒隊員の配置が定められていたが、1944年(昭和19年)になって、青函連絡船用として、12cm砲1門と25mm機銃2基、爆雷16個と明示された。しかし、この通りの兵装がなされたのは第七青函丸のみであった。 ===戦時中の運航状況=== 戦時中の青函航路は、1943年(昭和18年)3月6日の第四青函丸就航により、それまでの12往復から14往復へ増便され、1943年(昭和18年)度の貨物輸送量は前年比155%の364万597トンに達した。 1944年(昭和19年)1月3日には函館港有川埠頭の函館第3岸壁の使用が始まり、同年1月14日にはW1(第五青函丸)が就航、3月19日にW2(第六青函丸)が就航し、1944年(昭和19年)4月1日から18往復に増便された。同年5月1日には、青森第3岸壁が昼間限定ながら使用開始、両港とも3岸壁使用となって、1往復増の19往復となった。当時1日2往復運航できる船は翔鳳丸型4隻と第三青函丸から第六青函丸までの4隻の計8隻で、これらフル稼働で16往復、第一青函丸と第二青函丸は低速のため2隻で1日3往復運航のため、全10隻フル稼働してようやく19往復であった。さらにW3(第七青函丸)が就航した1944年(昭和19年)7月20日には青森第3岸壁の夜間使用も始まり、21往復運航に増便された。これにより、同年1月の北海道炭航送の月間実績は8万717トン、3月は9万1095トン、さらに8月は15万7000トンと最大量を記録したものの、4月12日には就航間のないW2(第六青函丸)が機関故障し1.5往復運航した後、4月24日から5月7日まで休航、さらに6月30日にも機関故障し2往復運航不能となり、W3(第七青函丸)も8月30日青森着岸時船首を衝突させ休航後、9月3日から機関不調1.5往復運航となるなど、全船フル稼働などほとんどできないまま、1944年(昭和19年)11月22日のW4(第八青函丸)就航時には、過酷な運航体制は既に破綻状態で、これ以上の増便はできなかった。それでも1944年(昭和19年)度貨物輸送量は前年比103%の384万8153トンに留まったものの、石炭を含む上り貨物に限れば前年比130%の263万7150トンを達成していた。1945年(昭和20年)2月27日には新造回航中のW5(第九青函丸)が房総半島沿岸で暗礁に乗り上げて沈没、3月6日にはW1(第五青函丸)が青森港で防波堤に衝突して沈没、6月1日にはW6(第十青函丸)が就航したが、船舶、施設とも疲弊はなはだしく、13往復を目標とするに留まった。 ===ボイラー5缶のW型=== W型戦時標準船を実際に運航してみて、ボイラー4缶での定時運航は困難である、と海軍艦政本部もようやく認め、1945年(昭和20年)2月3日起工のW7(第十一青函丸)からは右舷前側にボイラー1缶増設し、ボイラー5缶として建造された。この増缶に伴い、ボイラー室は後方へ拡張され、元々のボイラーである左舷2缶と右舷後ろ2缶からの排煙用の両舷の煙突は、第十青函丸までのW型船に比べ5m程度後方へ移動し、右舷前側増設の1缶からの煙突はその約13m前方にやや細めで設置され、左舷1本右舷2本の3本煙突となった。このW7(第十一青函丸)とW8(第十二青函丸)、H1(石狩丸)は終戦時まだ建造中であった。 ==W型戦時標準船の戦後 == ===壊滅状態の青函航路=== 1945年(昭和20年)7月14・15両日の空襲で、青函連絡船は全船航行不能となる壊滅的被害をこうむったが、比較的損傷の軽かった第七青函丸と第八青函丸は、7月25日と29日に復帰でき、第六青函丸は座礁炎上しながらも、戦後離洲浮揚修復され、1947年(昭和22年)2月に再就航できた。しかし復帰できたのはこれら3隻だけで、車載客船翔鳳丸型4隻を含む残る9隻の連絡船は全て失われた。一方戦時中に着工されながら、建造中に終戦を迎えたW7(第十一青函丸)、W8(第十二青函丸)とH1(石狩丸)の3隻は、一時工事中断になったものの、その後工事は再開続行され、1945年(昭和20年)9月28日と翌1946年(昭和21年)5月2日、7月6日に順次竣工した。これら終戦をはさんで建造工事が続行された船も「続行船」と呼ばれた。 この壊滅状態の青函航路に、1945年(昭和20年)8月15日の終戦以降、多くの引揚げ者や復員者、徴用解除の帰郷者、朝鮮半島や中国大陸への帰還者、さらに食糧買い出しの人々が殺到した。貨物は減少したものの、当時、本州と北海道とを結ぶ代替ルートのない唯一の航路で、農産物や石炭輸送の継続も迫られていた。 終戦時、青函航路で運航できたのは、1945年(昭和20年)7月25日から傭船中の船舶運営会所属で大阪商船の樺太丸(元関釜連絡船初代壱岐丸1,599総トン)と第七青函丸、第八青函丸の2隻の車両渡船だけで、客貨ともその輸送力不足は深刻であった。樺太丸には定員超過の900名、旅客設備未設置の第八青函丸にも1,100名もの旅客を乗せることが常態であった。このような中、8月20日から関釜連絡船 景福丸(3,620.60総トン)を、8月21日からはフィリピンからの拿捕船で船舶運営会の暁南丸(1,243総トン)を、8月24日からは関釜航路の貨物船2代目壱岐丸(3,519.48総トン)を就航させたが、この2代目壱岐丸は一般型貨物船のため、船艙を二段に仕切って客室とし、ここに2,100名もの旅客を収容し、樺太丸や暁南丸でも客室だけでなく船艙にも多くの旅客を収容せざるを得なかった。11月29日からは稚泊連絡船宗谷丸を就航させたほか、多数の商船、機帆船、旧陸軍上陸用舟艇などを傭船して、この混乱期の旅客輸送に対応したが、これら一般型船舶では貨車航送ができず、慢性的な貨物輸送力不足の解決にはならなかった。なおこの時期の1航海の平均乗船者数は2,550名にも達していた。 この混乱の中、第七青函丸が1945年(昭和20年)8月30日、函館港防波堤に衝突して長期休航し、その復帰日の同年11月28日には第八青函丸が青森港で沈座する事故が発生し、混乱に輪をかけた。 ===客載車両渡船(デッキハウス船)化=== ここで迅速に行える旅客輸送力増強策として、上記沈座事故から修復工事中の第八青函丸に、1946年(昭和21年)4月、船橋楼甲板の本来の甲板室の前後に定員535名の木造板張りの旅客用甲板室(デッキハウス)を造設して客載車両渡船とし、同時期「続行船」として建造中の第十二青函丸には、鋼製の旅客用甲板室(デッキハウス)を、同じく船橋楼甲板の前後に造設し、同じく建造中の「続行船」石狩丸にも同様の鋼製デッキハウスが造設された。また、この時期就航中であった第十一青函丸では、1946年(昭和21年)7月の機関故障の工事中の同年9月にデッキハウス造設工事が行われ、戦災修復工事中の第六青函丸でも、1947年(昭和22年)1月にデッキハウス造設工事が行われ、就航中の第七青函丸では、1947年(昭和22年)9月のボイラー増設工事と同時にデッキハウスも造設され、これら6隻の客載車両渡船は「デッキハウス船」と呼ばれた。しかし1946年(昭和21年)6月17日には、就航中および以後竣工予定の全デッキハウス船が進駐軍専用船に指定され、一般旅客の輸送力増強の目論見は頓挫した。デッキハウス造設による乗船者数増加のため、救命艇は片舷4隻と3隻の計7隻に増強されたが、各船の甲板室や煙突配置の違いから、その懸架場所はまちまちであった。 翌1947年(昭和22年)7月21日、第十一青函丸、第十二青函丸と石狩丸の3隻以外は指定解除されたが、これより前の同年4月、進駐軍の命令で、これら3隻の前部デッキハウス客室内前側の右舷側半分を木製壁で区切り将官用の特別室とした。さらに、その後ろのに続く前部デッキハウス客室右舷側半分も長椅子ソファーと長テーブルを設置した食堂とし、その後ろの配膳室を拡張して厨房とする工事が行われ、これら3隻の乗客である進駐軍関係者への供食設備の充実が図られた。結局この3隻はサンフランシスコ講和条約発効に先立つ進駐軍専用列車廃止の1952年(昭和27年)4月1日まで、その指定は継続された。 ===船質改善工事=== W型戦時標準船の戦後は、相次ぐ運航事故による休航のほか、「船体3年、エンジン1年」と言われた通りの劣悪な船質と、船腹不足による整備不良の悪循環で、減速歯車をはじめとするエンジントラブルが続発し、稼働率は低迷を極め、早期の船質改善と船腹量回復が急務であった。このため、第六青函丸、第七青函丸、第八青函丸では戦後、ボイラーの4缶から5缶への増設工事(第十一青函丸、第十二青函丸は新造時よりボイラーは5缶)が行われたが、これら3隻では既存ボイラーの左舷前方への1缶増設のため、第3船艙(深水タンク)との間の水密隔壁を5m余り前方へ移設のうえ、第3船艙両舷のヒーリングタンクのうち左舷タンクのみ5m程度前方へ移動してボイラー設置場所を確保した。増設缶からの煙突は左舷煙突前方約14mの舷側への設置となり、左舷2本右舷1本の3本煙突で、第十一青函丸、第十二青函丸とは左右逆で、かつ、これら2隻より煙突位置は前寄りのため、特に空襲による損傷が激しく、修復工事で操舵室が5m弱前方に移動した第六青函丸以外の2隻では、左舷前側煙突が、前部マストよりも若干前方に位置し、操舵室左舷ウィング直後に聳えていた。また、第六青函丸、第七青函丸、第八青函丸、第十一青函丸、第十二青函丸のボイラー への過熱器付加、主機換装と発電機増設(50kVA2台から3台へ)、減速歯車を含む主機の平時型高低圧タービン2筒式への換装、二重底化などの船質改善工事が進められた。工事時期の詳細は「各船の概要と沿革」の項参照のこと。 なお二重底化工事は各船とも第1船艙、第2船艙、ボイラー室、機械室、車軸室の5区画で行われ、深水タンクの第3船艙は単底のままであった。ボイラー室、機械室では高さ90cmの区画式二重底を、残り3区画は水密第二甲板設置としたが、施工第1船の第六青函丸では第1船艙、第2船艙も区画式二重底が採用された。新造時であれば特に困難な工事ではないが、既存のタービン、ボイラーその他機器類のある中での工事は困難であった。 車両積載数は、新造時は原型となった第四青函丸同様ワム換算44両であったが、1952年(昭和27年)にはワム換算46両積載可能とされていた。なお、W型船の戦前の車両甲板平面図と戦後の同図を比較すると、船2番線と船3番線が錨鎖庫の長さ分約2.7m延長されているが、これと積載車両数増加の関係は不明である。 ===洞爺丸事件とその後の対策=== 1954年(昭和29年)9月26日の洞爺丸台風では、車載客船洞爺丸のほか、W型戦時標準船の第十一青函丸、戦後建造のW型車両渡船北見丸、日高丸(初代)、同H型車両渡船十勝丸(初代)も沈没してしまった。 洞爺丸事件後の、5隻の連絡船の沈没原因の研究によると、当夜の函館湾の波の高さは6m、波周期は9秒、波長は約120mと推定され、当時の青函連絡船の水線長115.5mより僅かに長く、このような条件下では、たとえ船首を風上に向けていても、波により船首が持ち上げられた縦揺れ状態のとき、下がった船尾は波の谷間の向こう側の波の斜面に深く突っ込んでしまい、その勢いで海水が車両甲板船尾の一段低くなったエプロン上にまくれ込んで車両甲板に流入、船尾が上がると、その海水は船首方向へ流れ込み、次に船尾が下がっても、この海水は前回と同様のメカニズムで船尾から流入する海水と衝突して流出できず、やがて車両甲板上に海水が滞留してしまうことが判明した。その量は、車両甲板全幅が車両格納所となっている車両渡船では、貨車満載状態で、停泊中であれば、波高6mのとき400トンから900トンとされ、この大量の流動水が、車両甲板上を傾いた側の舷側まですばやく流れるため、波周期9秒では波高6mが転覆するか否かの臨界点で、6.5mでは転覆してしまうとされた。また、波周期が9秒より短くても長くても、即ち波長が120mより短くても長くても、車両甲板への海水流入量は急激に減ることも判明した。さらに、石炭焚き蒸気船では、石炭積込口など、車両甲板から機関室(機械室・ボイラー室)への開口部が多数あり、これらの閉鎖が不完全で、滞留した海水が機関室へ流入して機関停止し、操船不能となって、船首を風に向け続けられなくなり、転覆してしまうことも明らかになった。 なお、第十一青函丸については、船体が三つに破断しており、事故2週間前に完成した二重底化工事との関連など、他船とは異なった要因の関与も疑われたが、確証は得られず、原因不明とされた。 事故後の1955年(昭和30年)に急遽建造された車両渡船檜山丸(初代)では、車両甲板船尾開口部からの海水浸入対策として、車両甲板から機関室への開口部を水密化したうえ、車両甲板船尾舷側外板下部に多数の放水口を設置し、車両甲板上に流入した海水を船外へ流出させる方式を採用した。しかし、この方式は、旅客設備のない車両渡船では、その安全性が模型実験などで確認されたが、船橋楼甲板に客室を持つデッキハウス船では、安全性が十分確保できないことが判明した。 このため、沈没を免れた車両渡船、デッキハウス船、車載客船全船で、車両甲板の石炭積込口を含む機関室への開口部の敷居を61cm以上に嵩上げのうえ、鋼製の防水蓋や防水扉を設置、車両甲板から機関室への通風口も閉鎖して電動通風とするなど、車両甲板から機関室への開口部の水密性能の向上を図った。これに伴い発電機も車両渡船、デッキハウス船全船で250kVA2台に交換増強のうえ、容易に水没しないよう機械室中段に設置した。また非常時に救命艇を迅速かつ容易に降下できる重力型ボートダビットへの交換も行われた。 第十二青函丸では1957年(昭和32年)6月、二重底化とともに、デッキハウスを撤去し、車両甲板船尾舷側外板下部に放水口を設置し、車両渡船とした。 第六青函丸、第七青函丸、第八青函丸では、デッキハウスを残すため、船体外殻と同等の強度を有する船尾水密扉が設置された。これは、1957年(昭和32年)建造の車載客船十和田丸(初代)で実用化した単線幅の船尾水密扉を、横方向に3倍近く拡幅し、船尾全幅3線分をカバーできるようにしたものである。基本構造は、十和田丸(初代)の船尾水密扉と同じであった。この扉は、船尾開口部上縁にヒンジで取り付けられた鋼製の上下2枚折戸式船尾扉で、中央部のヒンジで“く”の字に屈曲し、シャクトリムシのようにこの屈曲部分を後方へ突出しつつ、船尾扉下縁両端を船尾開口部両縁のガイドレールに沿わせて上方へ開き、全開位置では折り畳まれた状態で、開口部直上に垂直に立てられてロックされる構造であった。 動力は電動ウインチで、下部扉下端両側のガイドローラーに固定された左右1対のワイヤーを、いったん船尾開口部上縁両端で、船尾扉ヒンジよりもやや高い位置の船体に固定した左右1対の滑車で反転し、上部扉下端両側の滑車で再度反転したのち、船橋楼甲板より1層上の後部操縦室屋上より両翼に新設した入渠甲板の下に設置した左右1対の滑車を通して、船橋楼甲板上の左右2台の電動ウインチに巻き込まれる仕組みであった。この入渠甲板は出入港時、船尾扉開閉中や全開固定状態でも、船尾全体が見渡せる監視場所として、船尾扉とセットで設置された。また船内軌道が船尾扉の敷居を越える部分には、水密性確保のため電動油圧式の跳上げレールが設置された。なお、扉の大型化により、扉閉鎖の最終段階で、船尾扉を内側から引き寄せて、船体側に付けたゴムパッキンに船尾扉を密着させて水密性を確保する油圧式“締付け装置”が、十和田丸(初代)の4個から6個に増やされた。この船尾水密扉設置とともに、車両格納所水密化のため、車両格納所外舷上部の通風採光用の開口は完全にふさがれた。 1958年(昭和33年)7月に第六青函丸に、1958年(昭和33年)10月に第七青函丸に、1959年(昭和34年)5月には第八青函丸にそれぞれ船尾扉が設置された。これにより車両格納所容積も総トン数に加算され約5,800総トンとなり、車載客船なみに塗り分け線を下げ、開口部のなくなった外舷上部が白く塗装された。洞爺丸事件から約4年を経て、ようやくフルサイズの船尾水密扉が完成したが、これにより、船内軌道船尾端ぎりぎりまでの車両積載ができなくなり、車両積載数はワム換算46両から43両へ減少してしまった。この点は次世代連絡船建造までの課題となった。 車両甲板下は8枚の水密隔壁で区切られていたが、そのうちボイラー室、機械室、車軸室、操舵機室の各水密区画間3ヵ所には、車両甲板まで上がらなくても通行可能な手動の水密辷戸が装備されていた。しかし、宇高航路で1955年(昭和30年)5月に発生した紫雲丸事件の経験から、機械室前後の2ヵ所には、浸水等による交流電源喪失時でも操舵室からの遠隔操作で開閉可能な、蓄電池を電源とする直流電動機直接駆動方式水密辷戸が装備された。後部デッキハウス頂部と船橋楼甲板に水密辷戸動力室が設置され、動力室内の直流電動機の回転を、自在継手や傘歯車で接続されたロッドで延々と船底の水密辷戸まで伝達し辷戸を開閉する構造で、十和田丸(初代)と同等品であった。 また、石炭焚き蒸気船のボイラー室での過酷な労働環境改善のため、1959年(昭和34年)8月には第十二青函丸、1960年(昭和35年)9月には第七青函丸にストーカーが装備されたほか、この時期までに第六青函丸、第八青函丸を除く全ての石炭焚き車両渡船にストーカーが装備されたが、これら2隻は終航まで手焚きで運航された。 ===戦時標準船の引退=== 「船体3年、エンジン1年」の考えで建造された船質不良のW型戦時標準船であったが、戦後種々の船質改善工事を重ねつつ十数年間使用されてきた。しかし老朽化とともに維持費は増大し、1959年(昭和34年)9月に出された国鉄内の「連絡船船質調査委員会」の2年間にわたる調査報告でも、“これ以上の長期使用は得策ではない”、とされた。事実上の引退勧告であった。折しも高度成長時代で、青函航路の客貨輸送量の増加は著しく、引き続きこの増加に対応できる運航効率のよい新型車載客船に置き換えるべき、と判断した国鉄は1962年(昭和37年)11月8日、その第1船建造を浦賀重工へ発注した。1964年(昭和39年)5月10日の新型車載客船の第1船津軽丸(2代)就航直前の5月3日、第六青函丸が終航となり、以後1965年(昭和40年)8月5日の第6船羊蹄丸(2代)就航1ヵ月前の7月2日終航の第十二青函丸まで、W型4隻は、津軽丸型当初計画6隻の就航とともに順次引退していった。 ==各船の概要と沿革== ===第五青函丸=== 第1船。鋼材節約のための過剰な軽量化で船体が計画より浮き上がってしまい、車両積み込み時に船体の横傾斜が過大となり、車両が積み込めないことが竣工間際に判明、第3船艙を深水タンクに改造して海水を入れ、車軸室に川砂利を積載して計画喫水を確保した。また主機には陸軍特務船用の3,000軸馬力の日立製作所製衝動タービンを流用したが、このタービンは22kg/cm、330℃という高圧高温の蒸気用で、これを16kg/cm、280℃の蒸気で、2,250軸馬力に落として使用したため、効率の悪い運転となった。 海軍監督官の意向で、船員の居住区画も徹底的に簡易化された。第四青函丸までは機関部員居室は車両甲板下第1船艙第二甲板に、甲板部員居室は部分甲板に、それぞれ各職種別に1名〜10数名の2段寝台室を設けていた。しかし、第1船艙第二甲板の鋼甲板が大部分撤去され、これら船首部の普通船員居室は、船橋楼甲板の甲板室内の畳敷き大広間に集約され、雑魚寝となった。これにより、ここにあった1人個室の機関部・事務部高級船員居室は廃止され、1層上の遊歩甲板へ上がったが、遊歩甲板でも従来からの1人個室の甲板部高級船員居室は廃止され、畳6畳敷きの高級船員広間が造られた。当初、海軍監督官は船長も含めた全高級船員のここでの雑魚寝を要求してきたが、青函航路の実情を余りにも無視していたため、これでは暗号通信用の暗号書保管に責任が持てない、と反論した。結局、暗号書保管のための“機密室”を設置し、ここにソファーを入れ、その管理責任者として船長と機関長がここを共用することとした。なお、機械室後ろ隣の車軸室第二甲板は“馬匹付添人”などが利用する“その他の者室”として使用されていたが、この第二甲板は残存したものの居住設備はなくなり、“その他の者室”も廃止された。 ===沿革=== 1942年(昭和17年)12月 ‐ 「改5線表」で建造承認 W11943年(昭和18年)6月29日 ‐ 起工 12月29日 ‐ 竣工12月29日 ‐ 竣工1944年(昭和19年)1月14日 ‐ 就航1945年(昭和20年)3月6日 ‐ 96便として20時頃吹雪の青森港第3岸壁へ着岸するため、20時09分機関停止し右舷投錨、20時12分船首索をとり、補助汽船2隻で船体を押したが、17mの西風に抗しての着岸ができず、いったん出港のうえ再度着岸を試みた。船首索開放し揚錨、出港したが、強風で圧流され、20時27分北防波堤西端に衝突し、右舷側喫水線付近の外板破損し浸水、21時頃沈没。その直前より無線感度不良となり桟橋は沈没を覚知できず、翌朝浅虫海岸への5名漂着(後1名死亡)で事故を知った。86名中82名死亡。 ===第六青函丸=== 第2船。1944年(昭和19年)度竣工予定のところ、工期116日とW型船建造期間最短記録を樹立し、1943年(昭和18年)度内に竣工した。船長と機関長は遊歩甲板にそれぞれ個室を持った。それ以外の高級船員は遊歩甲板の大部屋の2段寝台を使用した。操舵手、その他の甲板部員、機関部員、事務部員は、それぞれの大部屋を船橋楼甲板に持ち、2段寝台を使用した。さらに、船橋楼甲板には2段寝台の海軍警戒隊員室を設けたが、部員食堂がなくなってしまった。この大部屋2段寝台のスタイルは第十一青函丸まで踏襲された。本船以降はボイラーの 過熱器が省略され、飽和蒸気使用のため4時間30分運航は困難となった。車両甲板下の第二甲板は第1船艙、車軸室とも鋼甲板は廃止され、梁だけが残された。 終戦時、大破、座礁していたが、修復され1947年(昭和22年)2月、デッキハウス船として復帰した。このときボイラー4缶から5缶への増設工事も施工されたが、左舷前側への増設のため、煙突は左舷2本右舷1本の計3本となり、第十一、第十二青函丸とは逆になった。 1943年(昭和18年)3月 ‐ 「改6線表」で建造承認 W2 11月13日 ‐ 起工11月13日 ‐ 起工1944年(昭和19年)3月7日 ‐ 竣工 3月19日 ‐ 就航 4月1日 ‐ 第五青函丸と本船の就航で、14往復から18往復に増便。 4月12日 ― 機関故障のため1.5往復運航 4月24日〜5月7日 ― 機関修理のため休航 5月1日 ‐ 青森第3岸壁開設により、全船フル稼働19往復 6月30日 ‐ 機関故障のため2往復運航できず3月19日 ‐ 就航4月1日 ‐ 第五青函丸と本船の就航で、14往復から18往復に増便。4月12日 ― 機関故障のため1.5往復運航4月24日〜5月7日 ― 機関修理のため休航5月1日 ‐ 青森第3岸壁開設により、全船フル稼働19往復6月30日 ‐ 機関故障のため2往復運航できず1945年(昭和20年)7月14日 ― 90便として1時間14分遅れの2時14分函館を出航し、5時10分大島付近で空襲警報受信し、間もなくアメリカ軍機の攻撃を受けたが被害なく、6時44分青森港外堤川沖に投錨仮泊。同日13時頃、退避のため青森港東方の野内沖に達したところで、アメリカ軍機の攻撃を受け、甲板室左舷後部の厨房へのロケット弾命中で火災発生、左舷煙突倒壊し負傷者続出した。沈没回避のため、バッコノ崎沖の岩礁に座礁したが、その後も攻撃は続き、船橋は直撃弾を受けて四散、この直撃弾は車両甲板まで貫通して炸裂し、車両甲板中央部より上が猛火に包まれ、船体放棄となった。乗組員76名中35名が戦死。なお陸上からの目撃情報として3機撃墜とされたが、アメリカ側の史料にそのような記録はない。1946年(昭和21年)5月15日 ‐ 離洲浮揚 6月 ‐ 青函連絡船の船数不足を補うため、修復工事決定。 6月18日〜28日 ‐ 修復工事のため浦賀へ曳航。26日、銚子沖で猛烈な時化に遭い曳索が切断。遭難した。しかし横須賀港に停泊中だった旧日本海軍駆逐艦雪風が出動し、救助された。6月 ‐ 青函連絡船の船数不足を補うため、修復工事決定。6月18日〜28日 ‐ 修復工事のため浦賀へ曳航。26日、銚子沖で猛烈な時化に遭い曳索が切断。遭難した。しかし横須賀港に停泊中だった旧日本海軍駆逐艦雪風が出動し、救助された。1947年(昭和22年)1月 ‐ 船橋楼甲板に旅客用甲板室(定員394名)を造設し、客載車両渡船となる。ボイラーを5缶に増設(浦賀船渠)、3,193.92総トンとなる。 2月2日 ‐ 修復工事完了、進駐軍専用船指定 7月21日 ‐ 進駐軍専用船指定解除2月2日 ‐ 修復工事完了、進駐軍専用船指定7月21日 ‐ 進駐軍専用船指定解除1948年(昭和23年)10月10日 ‐ 小湊岸壁可動橋接合試験施行1951年(昭和26年)4月 ‐ 主機換装(日立製作所2段減速歯車付衝動タービン2,250軸馬力2台)、二重底化(浦賀船渠)、3,193.84総トンとなる1954年(昭和29年)9月26日 ‐ 54便として12時38分函館有川第4岸壁を青森に向け出航し、12時47分港口を通過したが、台風接近により前途運航困難と考え、防波堤内へ戻り錨泊した。同日19時20分頃、左舷中央部に大雪丸右舷錨が接触したが、損傷軽微で、そのまま錨泊を続け沈没を免れた。 9月29日 ‐ 変62便(函館2岸0時20分発 青森2岸5時00分着)より復帰9月29日 ‐ 変62便(函館2岸0時20分発 青森2岸5時00分着)より復帰1956年(昭和31年)6月 ‐ ボートダビット取替(函館ドック)1958年(昭和33年)7月 ‐ 船尾水密扉設置(新三菱重工神戸)5,751.48総トン、貨車積載数はワム換算43両1962年(昭和37年)1月10日 ‐ 霧の中、函館港北防波堤に衝突。船首部船底圧壊脱落、外板破口浸水1964年(昭和39年)5月3日 ‐ 107便(青森1岸14時30分発 函館1岸19時00分着)で終航 8月26日 ‐ 三菱商事へ売却8月26日 ‐ 三菱商事へ売却 ===第七青函丸=== 第3船。本船から、海軍警戒隊の居室を遊歩甲板に上げたため、遊歩甲板室が後ろへ延びた。これにより船橋楼甲板に部員食堂が確保され、総トン数も2,850.99トンに増えた。また本船から、船首に砲架が取り付けられた。本船以降、車両甲板下第二甲板は梁も含め全廃された。 終戦時稼働できた車両渡船は、本船と第八青函丸の2隻だけであった。しかし、1945年(昭和20年)8月30日に函館港北防波堤に衝突し、3ヵ月間休航した。また客船不足解消のため、1947年(昭和22年)9月にデッキハウスが造設され、以後客載車両渡船となった。このときボイラー4缶から5缶への増設工事も施工されたが、左舷前側への増設のため、煙突は左舷2本右舷1本の計3本となり、第十一、第十二青函丸とは逆になった。 1943年(昭和18年)3月 ‐ 「改6線表」で建造承認 W31944年(昭和19年)3月11日 ‐ 起工 7月10日 ‐ 竣工 7月20日 ‐ 就航 19往復から21往復に増便 8月30日〜9月2日 ‐ 494便青森着岸時船首衝突し休航 9月3日 ― 機関故障で1.5往復運航7月10日 ‐ 竣工7月20日 ‐ 就航 19往復から21往復に増便8月30日〜9月2日 ‐ 494便青森着岸時船首衝突し休航9月3日 ― 機関故障で1.5往復運航1945年(昭和20年)7月14日 ‐ 函館船渠で入渠工事中のところ、5時40分頃からアメリカ軍機の攻撃を受け、一部損傷。10時過ぎに出渠し、午後になり七重浜への坐洲も考慮し、港口近くの防波堤内に退避錨泊した。14時50分、アメリカ軍機の命中弾2弾を受けたが、1弾は右舷機銃に当たり、バウンドして右舷海中で炸裂、もう1弾は船首船橋楼甲板を貫通し、船首車両甲板右舷の食糧庫から船首外板を突き抜け海中で炸裂したため、沈没は免れた。しかしその衝撃で船内消灯、航行不能となった。乗組員80名全員生存。なお朝の空襲時、隣のドックに入渠中の海防艦がアメリカ軍機1機を撃墜している。 7月25日 ‐ 復帰 8月30日 ‐ 函館港北防波堤に衝突し航行不能 11月28日 ‐ 復帰7月25日 ‐ 復帰8月30日 ‐ 函館港北防波堤に衝突し航行不能11月28日 ‐ 復帰1947年(昭和22年)9月 ‐ 船橋楼甲板に旅客用甲板室(定員362名)を造設、ボイラーを5缶に増設(三菱重工神戸)、3,154.23総トンとなる1951年(昭和26年)8月 ‐ 主機換装(日立製作所2段減速歯車付衝動タービン2,250軸馬力2台)、二重底化(函館ドック)1954年(昭和29年)9月26日 ‐ 函館ドックに入渠中で、洞爺丸台風の被害に遭わず。 9月28日 ‐ 変64便(函館2岸12時20分発 青森2岸17時00分着)より復帰9月28日 ‐ 変64便(函館2岸12時20分発 青森2岸17時00分着)より復帰1956年(昭和31年)2月と8月 ‐ ボートダビット取替(函館ドック)1958年(昭和33年)10月 ‐ 船尾水密扉設置(新三菱重工神戸)5,744.50総トン、貨車積載数はワム換算43両1960年(昭和35年)9月 ‐ ストーカー装備(函館ドック)1964年(昭和39年)12月31日 ‐ 3205便(青森2岸8時45分発 函館4岸13時15分着)で終航1965年(昭和40年)2月5日 ‐ 三井物産へ売却 ===第八青函丸=== 第4船。本船から、資材削減で煙突の長さが約1/4短くなり、船尾両舷に爆雷投下口が設置された。 終戦時稼働できた車両渡船は、本船と第七青函丸の2隻だけであったが、1945年(昭和20年)8月30日の第七青函丸の函館港北防波堤衝突事故の休航からようやく復帰した同年11月28日、今度は本船が青森第1岸壁でアメリカ軍用の貨車積み込み中、ボイラー室船底部に充満したビルジに留意せずヒーリング操作を行い、ビルジが自由水として流れ、左舷に傾いて沈座し、1946年(昭和21年)1月1日、アメリカ海軍コンサーバー号の援助のもと浮揚。函館船渠で修復工事施工され、このとき船橋楼甲板に木造板張りの旅客用甲板室(デッキハウス)が造設され、客載車両渡船となった。後年、これは鋼製のデッキハウスに更新されている。また、1948年(昭和23年)1月にはボイラー4缶から5缶への増設工事が施工されたが、左舷前側への増設のため、煙突は左舷2本右舷1本の計3本となり、第十一、第十二青函丸とは逆になった。 終航直後の1964年 (昭和39年)12月3日、函館港外で、貨車投棄試験を行った。このときは、転動テコ使用による人力での投棄や、船楼甲板のキャプスタンに掛けたワイヤーで引き出す方法が試験された。この試験が1965年 (昭和40年)9月4日の渡島丸(初代)終航直後の水中傘による貨車投棄試験へとつながった。 終航後に船体は関西の某造船所にて浮き桟橋として使用されていたと言われている。 1944年(昭和19年)3月30日 ‐ 大本営政府連絡会議で承認報告し、前年12月公表の「改7線表」に盛り込む W41944年(昭和19年)5月27日 ‐ 起工 11月2日 ‐ 竣工 11月22日 ‐ 就航11月2日 ‐ 竣工11月22日 ‐ 就航1945年 ‐(昭和20年)7月14日 ‐ 15日 ‐ 休航のため4号缶のみボイラーを焚いて函館港内で仮泊中、5時40分よりアメリカ軍機の攻撃を受け、爆弾が後部船橋楼甲板、車両甲板を貫通して休缶中の3号缶を損傷したが不発弾であった。15時10分からの攻撃では船底弁損傷し浸水し始めたため坐洲を決意し、補助汽船の応援にて17時50分に有川桟橋近くの浅瀬に錨泊。なお早朝の空襲時、アメリカ軍急降下爆撃機1機の補助燃料タンクを本船の対空射撃が撃ち抜き、午後の空襲でも本船を攻撃した雷撃機の1機が函館港付近の何れかの対空射撃を受け、津軽海峡中央部に不時着水している。 7月15日 ‐ 13時10分頃アメリカ軍機の攻撃受けるも損傷軽微で、この2日間で乗組員80名に死傷者なし 7月29日 ‐ ボイラー損傷のまま復帰 11月28日 ‐ 青森第1岸壁でアメリカ軍用貨車積み込み中、ヒーリング操作不調でその場に沈座。7月15日 ‐ 13時10分頃アメリカ軍機の攻撃受けるも損傷軽微で、この2日間で乗組員80名に死傷者なし7月29日 ‐ ボイラー損傷のまま復帰11月28日 ‐ 青森第1岸壁でアメリカ軍用貨車積み込み中、ヒーリング操作不調でその場に沈座。1946年(昭和21年)1月1日 ‐ アメリカ軍の援助にて浮揚 4月30日 ― 船橋楼甲板に木造板張りの旅客用甲板室(定員535名)を造設(函館船渠) 5月21日 ‐ 客扱い開始 6月17日 ‐ 進駐軍専用船指定 10月13日 ‐ 機関故障(クローカップリング破損) 11月11日 ‐ 修理完了 11月20日 ‐ 機関故障 12月28日 ‐ 復帰4月30日 ― 船橋楼甲板に木造板張りの旅客用甲板室(定員535名)を造設(函館船渠)5月21日 ‐ 客扱い開始6月17日 ‐ 進駐軍専用船指定10月13日 ‐ 機関故障(クローカップリング破損)11月11日 ‐ 修理完了11月20日 ‐ 機関故障12月28日 ‐ 復帰1947年(昭和22年)7月21日 ‐ 進駐軍専用船指定解除1948年(昭和23年)1月 ‐ ボイラーを5缶に増設(川崎重工神戸) 10月 ‐ 主機換装(日立製作所2段減速歯車付衝動タービン2,250軸馬力2台)(浦賀船渠)10月 ‐ 主機換装(日立製作所2段減速歯車付衝動タービン2,250軸馬力2台)(浦賀船渠)1953年(昭和28年)3月 ‐ 二重底化(函館ドック)3,135.00総トン1954年(昭和29年)9月26日 ‐ 13時15分73便として青森1岸を出港し17時45分函館有川3岸壁定時到着し貨車陸揚げ、折り返し19時15分発74便は強風のため欠航とし、18時53分離岸して防波堤内で錨泊し、沈没を免れた。 9月28日 ‐ 変72便(函館2岸4時26分離岸 7時00分出港 青森1岸11時40分着)より復帰9月28日 ‐ 変72便(函館2岸4時26分離岸 7時00分出港 青森1岸11時40分着)より復帰1956年(昭和31年)3月 ‐ ボートダビット取替(浦賀船渠)1959年(昭和34年)5月 ‐ 船尾水密扉設置(三菱日本重工横浜)5,815.69総トン、貨車積載数はワム換算43両1964年(昭和39年)11月30日 ‐ 209便で終航 12月3日 ‐ 貨車海中投棄試験12月3日 ‐ 貨車海中投棄試験1965年(昭和40年)1月13日 ‐ 日綿実業へ売却 ===第九青函丸=== 第5船。浦賀で竣工し、横浜から函館への回航途中、アメリカ潜水艦の攻撃を恐れ、陸岸に接近して航行中、暗礁に乗り上げて沈没した。青函航路に就航する前であった。 1944年(昭和19年)7月15日 ‐ 起工1945年(昭和20年)2月15日 ‐ 竣工 2月20日 ‐ 石炭食料積込みのため横浜へ回航。 2月27日 ‐ 横浜から海防艦四阪の先導を受けて函館への回航途中、20時02分千葉県勝浦沖で暗礁に乗り上げ22時50分沈没。141名中13名が死亡した。2月20日 ‐ 石炭食料積込みのため横浜へ回航。2月27日 ‐ 横浜から海防艦四阪の先導を受けて函館への回航途中、20時02分千葉県勝浦沖で暗礁に乗り上げ22時50分沈没。141名中13名が死亡した。 ===第十青函丸=== 第6船。就航はしたものの、わずか1カ月半で沈没した。 1944年(昭和19年)12月23日 ‐ 起工1945年(昭和20年)5月19日 ‐ 竣工 6月1日 ‐ 就航 7月14日 ― 函館有川第4岸壁5時05分発の92便として出航準備中、5時10分空襲警報と疎開命令を受け、上磯沖の分散疎開錨地へ向かうため5時50分同岸壁を離岸。6時05分函館港防波堤内でアメリカ軍機の命中弾を受け機械室、車軸室への浸水はなはだしく、右舷に傾斜しながらも、航路封鎖を避けるため防波堤外へ進み、6時30分、防波堤灯台北北西600mの防波堤外で沈没した。乗組員76名全員生存。6月1日 ‐ 就航7月14日 ― 函館有川第4岸壁5時05分発の92便として出航準備中、5時10分空襲警報と疎開命令を受け、上磯沖の分散疎開錨地へ向かうため5時50分同岸壁を離岸。6時05分函館港防波堤内でアメリカ軍機の命中弾を受け機械室、車軸室への浸水はなはだしく、右舷に傾斜しながらも、航路封鎖を避けるため防波堤外へ進み、6時30分、防波堤灯台北北西600mの防波堤外で沈没した。乗組員76名全員生存。 ===第十一青函丸=== 第7船。ほぼ完成状態で終戦を迎え、戦後竣工した。先に就航したW型戦時標準船の運航実績から、ボイラー4缶では定時運航できないことが実証されたため、計画段階よりボイラー5缶で建造された。これに伴い煙突も右舷2本左舷1本の計3本となった。就航直後より進駐軍専用船となり、1946年(昭和21年)9月デッキハウス造設、占領終了直前に進駐軍専用船指定解除された。 洞爺丸台風で沈没。二重底化工事完成直後の沈没で、船体が三つに破断していた。乗組員全員死亡のため、沈没までの船内状況は不明であったが、たまたま近くで錨泊中の 十勝丸(初代)の船員が、激しいピッチングの後、船内消灯、その直後に、左舷から捩れるような形で船首が立ち上がり、船尾から沈む第十一青函丸を目撃していた。沈没推定時刻の20時頃は、十勝丸でも既に車両甲板への海水滞留と機関室への海水流入は始まってはいたが、函館湾内で沈没した他船に比べても、2〜3時間も早く、急激に沈没したことから、船体破断と、その原因としての二重底化工事との関連についても疑われたが、当時の調査では結論は得られなかった。 1944年(昭和19年)4月 ‐ 「改8線表」で建造承認 W71945年(昭和20年)2月3日 ‐ 起工 8月16日 ‐ 試運転に出たがボイラー蒸気圧が十分上がらず半日で帰港。以後GHQより航海禁止。 9月10日 ‐ 工事および航海再開許可を受けた 9月28日 ‐ 竣工 10月9日 ‐ 就航。直後に進駐軍専用船指定を受けた。8月16日 ‐ 試運転に出たがボイラー蒸気圧が十分上がらず半日で帰港。以後GHQより航海禁止。9月10日 ‐ 工事および航海再開許可を受けた9月28日 ‐ 竣工10月9日 ‐ 就航。直後に進駐軍専用船指定を受けた。1946年(昭和21年)2月3日 ‐ 降雪中船位を誤り、葛登支岬付近に座礁、4日離礁。 3月22日 ‐ 復帰。 7月30日 ‐ 機関故障(クローカップリング破損)にて休航 9月 ‐ 船橋楼甲板に旅客用甲板室(333名)を造設 3,142.96総トン(函館船渠) 10月1日 ― 修理完了 10月10日 ― 第1減速歯車ピニオンの歯の折損で休航 12月3日 ― 修理完了3月22日 ‐ 復帰。7月30日 ‐ 機関故障(クローカップリング破損)にて休航9月 ‐ 船橋楼甲板に旅客用甲板室(333名)を造設 3,142.96総トン(函館船渠)10月1日 ― 修理完了10月10日 ― 第1減速歯車ピニオンの歯の折損で休航12月3日 ― 修理完了1947年(昭和22年)4月 ― 前部デッキハウスに進駐軍用供食設備と将官室設置1949年(昭和24年)7月 ‐ 主機換装(浦賀2段減速歯車付衝動タービン2,250軸馬力2台)(浦賀船渠)1952年(昭和27年) 4月1日 ‐ GHQの占領終了に先立ち、進駐軍専用船指定解除1954年(昭和29年)9月12日 ‐ 外板取替および二重底化工事(函館ドック)完成し復帰 9月26日 ‐ 13時20分1202便として青森に向け函館第2岸壁を出航したが、強風のため穴澗岬沖で引き返し、14時48分函館第2岸壁着。函館第1岸壁の洞爺丸へ乗客と、寝台車、荷物車各1両を移し貨車5両を積込み、合計45両の貨車積載で、16時02分天候見合わせのため沖出し、16時25分防波堤外に錨泊した。19時38分「あとで連絡する」19時57分「停電につき後で受ける」を最後に通信途絶。その後20時頃急激に右舷側に横転し沈没したものと推定された。船体は三つに破断しており、乗組員90名は全員死亡。 12月1日 ‐ 浮揚作業開始9月26日 ‐ 13時20分1202便として青森に向け函館第2岸壁を出航したが、強風のため穴澗岬沖で引き返し、14時48分函館第2岸壁着。函館第1岸壁の洞爺丸へ乗客と、寝台車、荷物車各1両を移し貨車5両を積込み、合計45両の貨車積載で、16時02分天候見合わせのため沖出し、16時25分防波堤外に錨泊した。19時38分「あとで連絡する」19時57分「停電につき後で受ける」を最後に通信途絶。その後20時頃急激に右舷側に横転し沈没したものと推定された。船体は三つに破断しており、乗組員90名は全員死亡。12月1日 ‐ 浮揚作業開始1955年(昭和30年)7月25日 ‐ 浮揚作業完了 10月25日 ‐ 松庫商店へ売却、その後解体10月25日 ‐ 松庫商店へ売却、その後解体 ===第十二青函丸=== 第8船。建造中に終戦を迎え、竣工は戦後であった。第十一青函丸同様、ボイラーは5缶で煙突は右舷2本左舷1本の計3本であった。船員居室の部屋割は高級船員室の一部に相部屋は残ったが、概ね第四青函丸の水準に戻り、更に第四青函丸ではあった車両甲板下への船員居室設置もなくなった。終戦直後の青函航路の旅客輸送能力不足を補うため、建造中にデッキハウスが造設されたが、就航時から占領終了直前まで進駐軍専用船であった。1957年 (昭和32年)6月には、二重底化、デッキハウス撤去、車両甲板船尾舷側外板下部への放水口設置工事を行い、車両渡船となった。 1944年(昭和19年)4月 ‐ 「改8線表」で建造承認 W81945年(昭和20年)3月19日 ‐ 起工1946年(昭和21年)5月2日 ‐ 竣工 5月15日 ‐ 就航。進駐軍専用船となった。5月15日 ‐ 就航。進駐軍専用船となった。1948年(昭和23年)10月 ‐ 主機換装(石川島2段減速歯車付衝動タービン2,250馬力2台)(浦賀船渠)1950年(昭和25年)4月22日 ‐ 下り便運航中、濃霧で船位測定を誤り20時39分、穴澗岬に擱座。船首を大破し、甲板長死亡、事故時の総トン数は3,233.79トン1952年(昭和27年) 4月1日 ‐ GHQの占領終了に先立ち、進駐軍専用船指定解除。1954年(昭和29年) 9月26日 ‐ 手入れのため函館港防波堤内で錨泊していた。洞爺丸台風による強風で、16時30分頃から、付近のブイに係留中のイタリア船籍の修繕船アーネスト号(7,341総トン)の係留鎖が切れ、単錨泊で走錨を始め、無動力状態のアーネスト号が20時10分頃本船船首を横切るように圧流されて、本船の錨を起こしたため、本船の走錨が始まり、船尾を浅野町の波除堤に接触しそうになり、21時25分防波堤外へ脱出、以後防波堤外で蜘躊して船位保持し、沈没を免れた。 9月27日 ‐ 1202便(函館2岸13時20分発 青森1岸18時00分着のところ18時05分着)より復帰9月27日 ‐ 1202便(函館2岸13時20分発 青森1岸18時00分着のところ18時05分着)より復帰1956年(昭和31年)2月 ‐ ボートダビット取替(函館ドック)。1957年(昭和32年)6月 ‐ 二重底化、デッキハウス撤去、車両甲板放水口設置、総トン数は2,927.42総トンとなる(浦賀船渠)1959年(昭和34年)8月 ‐ ストーカー装備(石川島重工)、2,898.30総トン1965年(昭和40年)7月2日 ‐ 109便(青森3岸18時45分発 函館3岸23日15分着)で終航 9月10日 ‐ 三井物産へ売却9月10日 ‐ 三井物産へ売却 ==W型戦時標準船一覧表== =ばら積み貨物船= ばら積み貨物船(ばらづみかもつせん、撒積貨物船)、あるいはバルクキャリア(英語: bulk carrier)、バルカー (bulker) は、梱包されていない穀物・鉱石・セメントなどのばら積み貨物を船倉に入れて輸送するために設計された貨物船である。最初のばら積み専用貨物船が1852年に建造されて以来、経済的な理由によりこうした船の開発は促進され、規模を拡大させ洗練させてきた。今日のばら積み貨物船は容量・安全性・効率性を最大化しながらその任に耐えられるように特別に設計されている。 ==概要== ばら積み貨物船は、今日では、世界の商船の40 パーセントを占めており、その大きさは船倉が1つの小型ばら積み船から載貨重量トン数が40万トンに達する巨大鉱石船まである(「ヴァーレ・ブラジル」)。載貨重量トン数が10,000 ロングトンを超える船は、2006年6月現在で6,224隻ある。多くの専用設計が存在し、貨物船そのものに積み荷を降ろす能力を持っているもの、積み荷を降ろすために港の設備に頼るもの、さらに搭載中に積み荷の梱包作業を行うものもある。全てのばら積み貨物船の半分以上の所有者はギリシャ・日本・中華人民共和国で、また4分の1以上がパナマに船籍を置いている。ばら積み貨物船の最大の建造国は日本で、また82 パーセントはアジアで建造されている。 ばら積み貨物船の船員は、貨物の積み込み・積み降ろし作業、船の航海、機械設備類の適切な保守作業などに従事している。貨物の積み込み・積み降ろしは難しく危険な作業で、大型の船では120時間ほど掛かることもある。乗員はもっとも小さい船で3人から、大きな船では30人を超える程度の数である。 ばら積み貨物の中にはとても密度が高かったり、腐食性が強かったり、磨耗作用があったりするものがあり、そういった貨物は安全上の問題を引き起こすことがある。積み荷の船内移動や自然発火、積み荷の集中といったことは船を危険に陥れることがある。ばら積み貨物船は効率的な貨物取り扱いのために大きなハッチを備えているため、老朽化して腐食の問題を抱えた船を使い続けたことが1990年代に続発したばら積み貨物船の沈没事故につながっている。船の設計と検査を改善し、船を廃棄する処理の能率化を図るために新しい国際規制が導入されている。 ==定義== ばら積み貨物船という言葉を定義する方法はいくつかある。1999年時点で、海上における人命の安全のための国際条約(SOLAS条約)はばら積み貨物船を「単一甲板で、トップサイドタンクとホッパーサイドタンクを貨物船倉内に有し、鉱石輸送船や兼用船を含む主に乾性ばら積み貨物輸送を意図した船」と定義している。しかし、ほとんどの船級協会は、ばら積み貨物船とは梱包されていない乾貨物を運ぶ全ての船であるという、より広い定義を使っている。多目的貨物船はばら積み貨物を運べるが、他の貨物を運ぶこともでき、ばら積み専用に設計されてはいない。ドライバルクキャリアという言葉は、石油タンカー、ケミカルタンカー、LNGタンカーなどの液体のばら積み貨物船と区別するために用いられる。非常に小さいばら積み貨物船は一般貨物船とほとんど区別不可能で、しばしば船の設計よりもその使用法に基づいて分類される。 ばら積み貨物船を表現するための多くの略語がある。OBO (Ore‐bulk‐oil carrier) は鉱石・ばら積み貨物・石油の組み合わせを輸送する船を指し、O/Oは鉱石と石油の組み合わせを輸送する船を指す。大型タンカーにおいてVLCC (very large crude carrier) やULCC (ultra large crude carrier) といった記号が使われることに由来して、特に大型の鉱石船やばら積み貨物船にはVLOC (very large ore carrier)、VLBC (very large bulk carrier)、ULOC (ultra large ore carrier)、ULBC (ultra large bulk carrier) などの言葉が用いられる。 ==歴史== 専用のばら積み貨物船が登場する以前、荷主にはばら積み貨物を船で輸送する方法として2つの手段があった。1つは港湾労働者が貨物を袋詰めし、その袋をパレットに積み上げ、クレーンでパレットを船倉に積み込むという方法である。もう1つの方法は、荷主が船を全て借り切り、時間と費用をかけて合板製の容器を船倉内にしつらえることであった。そして、小さなハッチを通して貨物を運ぶために、木製の荷送り・荷止め板を設置しなければならなかった。こうした方法は時間が掛かり、労働集約的であった。コンテナ船と同様に、効率的な積み込み・積み降ろしの問題がばら積み貨物船の発展につながった。 蒸気船として登場し始めた専用のばら積み貨物船は、より人気を博するようになった。ばら積み貨物船とされる最初の蒸気船は、1852年のイギリスの鉱石輸送船SS ジョン・バウズ (SS John Bowes)である。この船は金属製の船体、蒸気機関、砂ではなく海水を利用したバラストタンクを備えていた。これらの特徴により、船は競争の激しいイギリス石炭輸送市場で打ち勝っていくことができた。ディーゼルエンジン推進の最初のばら積み貨物船は1911年に登場した。 第二次世界大戦以前は、ばら積み貨物への需要は低く、年間に金属鉱石およそ2500万トンほどで、こうした輸送の多くは沿岸部に留まっていた。しかしながら、1890年に採用された二重底と、1905年に導入されたバラストタンクの三角構造という、ばら積み貨物船の2つの決定的な特徴は既に現れていた。第二次世界大戦後、先進国、特にヨーロッパ諸国、アメリカ合衆国、日本の間での国際的なばら積み貨物の輸送が発展し始めた。この輸送の経済性の問題から、ばら積み貨物船は大型化し、さらに用途別に特殊化していった。 ==分類== ===大きさの分類=== ばら積み貨物船は6つの大きさに分類される。小型、ハンディサイズ、ハンディマックス、パナマックス、ケープサイズと超大型である。超大型ばら積み貨物船と超大型鉱石輸送船はケープサイズに分類されるが、しばしば別な分類とみなされる。 地域輸送では他の分類もあり、例えばギニアのカムサ港 (Port Kamsar) で積み込みのできる最大の長さであることから、最大長229 メートルの船をカムサマックス (Kamsarmax) という。他に地域輸送で現れる単位としては、瀬戸内マックス (Setouchmax))、ダンケルクマックス (Dunkirkmax)、ニューカッスルマックス (Newcastlemax) などがある。 1万載貨重量トン以下の小型船の分類の中では、小型ばら積み貨物船が多くを占めている。小型ばら積み貨物船は500から2,500 トンの貨物を積み、1つの船倉を持ち、河川航行ができるように設計されている。しばしば橋の下を潜ることができるように設計され、3人から8人の少人数の乗務員で運航できる。 ハンディサイズとハンディマックスは一般目的で使われる。これらの2つの分類は、1万載貨重量トンを超えるばら積み貨物船の中で71 パーセントを占めており、その増加率も最も高い。これは部分的には、大型の船を建造する際により厳しい制約を課すようになった新しい規制が発効したことによる。ハンディマックスの船は典型的には全長150 ‐ 200 メートルで、52,000 ‐ 58,000 載貨重量トン、5つの船倉に4つのクレーンを備えている。 パナマックスの船は、パナマ運河の閘門の大きさに制約されており、全幅32.31 メートル、全長294.13 メートル、喫水12.04 メートルまでである。 ケープサイズの船はスエズ運河やパナマ運河を通航できないほど大きく、3大洋の間を行き来するためには喜望峰やホーン岬を回らなければならない。ケープサイズのばら積み貨物船は専門化しており、93 パーセントは鉄鉱石または鉱石を運んでいる。超大型鉱石輸送船や超大型ばら積み貨物船はケープサイズの一部で、20万載貨重量トン以上の船を指す。このサイズの船はほとんどが鉄鉱石輸送用に設計されている。 ===一般的な分類=== ==世界のばら積み貨物船の状況== 世界のばら積み貨物輸送は大変な量に上っており、2005年時点で17億トンの石炭・鉄鉱石・穀物・ボーキサイト・リン酸塩が船で輸送された。こんにち、1万載貨重量トン以上のばら積み貨物船は世界で6,225隻あり、全船舶に占めるトン数は40 パーセント、船舶数では39.4 パーセントとなっている。小型の船も合わせると、ばら積み貨物船は総合計で3億4600万載貨重量トンの容量がある。兼用船はわずかな割合しかなく、この容量のうちの3 パーセント未満に過ぎない。五大湖のばら積み貨物船は、98隻320万載貨重量トンで、やはり全体に占める割合は少ない。 2005年現在、ばら積み貨物船の平均船齢は13年ほどである。全ばら積み貨物船の約41 パーセントは船齢10年未満、27 パーセントが10年から20年、残りの33 パーセントが20年以上である。五大湖で登録されている98隻全てのばら積み貨物船は船齢20年以上である。 ===船籍国=== 2005年現在で、連邦海事局は1万載貨重量トン以上のばら積み貨物船を世界中で6,225 隻としている。最大の船籍国はパナマで、2位から5位までの船籍国の合計より多い1,703隻が登録されている。ばら積み貨物船の登録数では、以下香港 492隻、マルタ 435隻、キプロス 373隻、中華人民共和国 371隻である。パナマは登録されたばら積み貨物船の載貨重量トン数の点でも圧倒している。トン数の点で2位から5位までは、香港、ギリシャ、マルタ、キプロスである。 ===船の所有者=== 3大ばら積み貨物船の所有国は、ギリシャ 1,326隻、日本 1,041隻、中華人民共和国 979隻となっている。これらの3ヶ国で世界全体の53 パーセントの船を所有している。 ばら積み貨物船の巨大な船隊を保有している会社が数社ある。多国籍企業であるギアバルク・ホールディング (Gearbulk holding) は7隻のばら積み貨物船を保有している。カナダのフェドナブ・グループ (Fednav Group) は、北極海の氷の中で運航できるように設計された2隻を含めて80隻以上のばら積み貨物船を保有している。クロアチアのアトランツカ・プロビドバ (Atlantska Plovidba) は14隻のばら積み貨物船を保有している。ドイツ・ハンブルクのH. フォーゲマングループ (H. Vogemann) は19隻のばら積み貨物船を所有している。ポルトガルのポートライン (Portline) は10隻のばら積み貨物船を所有している。デンマークのTORM (Dampskibsselskabet Torm) とスペインのエルカノ (Elcano) もかなりの船隊を保有している。以下の会社は小型ばら積み貨物船の運航に特化しており、イングランドのスティーブンソン・クラーク・シッピング (Stephenson Clarke Shipping) は8隻の小型ばら積み貨物船と5隻のハンディサイズばら積み貨物船を所有し、トルコのコーンシップ (Cornships Management and Agency) は7隻の小型ばら積み貨物船を所有している。 ===建造者=== アジアの造船会社がばら積み貨物船の建造を独占している。全世界の6,225隻のばら積み貨物船のうち、ほぼ62 パーセントが大島造船所やサノヤス・ヒシノ明昌などの日本の造船所で建造された。大韓民国は、大宇造船海洋や現代重工業などの造船所により、2番手の建造国で643隻を建造している。大連船舶重工集団、澄西船舶修造廠、上海外高橋などの大きな造船所で建造している中華人民共和国が3番目で、509隻を建造している。台湾は、台湾国際造船などの造船所により4位で129隻を建造している。これら上位4ヶ国にある造船所は全ばら積み貨物船の82 パーセントを建造している。 ===貨物運賃=== 船でばら積み貨物を輸送する費用はいくつかの要素に影響される。ばら積み貨物輸送市場はとても不安定で変動し、輸送する貨物、船の大きさ、輸送経路など全てが最終的な価格に影響する。ケープサイズの船で石炭を南アメリカからヨーロッパへ輸送する費用は、2005年時点で1 トンあたり15ドルから25ドル程度である。パナマックス級の船で骨材をメキシコ湾から日本へ輸送する費用は、同じく2005年時点で1 トンあたり40ドルから70ドル程度であった。ばら積み貨物船の運賃変動を表す指数として、バルチック海運指数がある。 荷主によっては、1 トンあたりの定価を払う代わりに、船を1隻借り切って1日あたりの費用を払う場合もある。2005年時点で、ハンディマックスの船を1日借りる平均費用は18,000ドルから30,000ドル程度で変動していた。パナマックスの船は1日当たり20,000ドルから50,000ドル、ケープサイズの船は40,000ドルから70,000ドルほどであった。 ===船舶解体=== 一般的に、船は任務を外れると船舶解体(スクラップ)の過程を経て処分される。船の所有者と買い手は、船の重量やスクラップ金属市場の価格などの要素を基にスクラップ費用を交渉する。1998年には、インドのアラン (Alang) やバングラデシュのチッタゴンなどの場所でおよそ700隻の船が解体された。載貨重量トンにして50万トンにもおよぶばら積み貨物船が2004年に解体され、これはその年の船舶解体の4.7 パーセントを占めた。この年は、ばら積み貨物船は特に高いスクラップ価格で売れており、1 トンあたり340ドルから350ドルであった。 ==運航== ===船員=== 一等航海士 (Chief Mate) ‐ 1人 二等航海士 (Second Mate) ‐ 1人 三等航海士 (Third Mate) ‐ 1人 甲板長(ボースン) (Boatswain) ‐ 1人 熟練甲板員 (Able Seaman) ‐ 2 ‐ 6人 甲板員 (Ordinary Seaman) ‐ 0 ‐ 2人 機関長 (Chief Engineer) ‐ 1人 一等機関士 (First Assistant Engineer) ‐ 1人 二等機関士 (Second Assistant Engineer) ‐ 1人 三等機関士 (Third Assistant Engineer) ‐ 1 ‐ 2人 次席機関士 (Junior Engineer/QMED) ‐ 0 ‐ 2人 操機手 (Oiler) ‐ 1 ‐ 3人 機械工 (Greaser) ‐ 0 ‐ 3人 見習い (Entry‐level) ‐ 1 ‐ 3人 司厨長 (Chief Steward) ‐ 1人 調理手 (Chief Cook) ‐ 1人 司厨手 (Steward’s Assistant) ‐ 1人 ばら積み貨物船の船員は、典型的には20人から30人で構成されるが、小型の船は8人程度で操船することもできる。船員は、船長と甲板部門、機関部門、厨房部門で構成される。旅客を貨物船に乗せることはかつて広く見られたが、今日ではとても稀なことになっており、ばら積み貨物船ではほとんどない。 1990年代には、ばら積み貨物船の海難事故が数多く発生した。こうしたことから、船舶所有者は船員の能力と適性に関する様々な要素の効果について説明する検討を依頼することになった。この調査によれば、ばら積み貨物船の船員の能力は調査された全てのグループの中で最低であった。ばら積み貨物船の船員の中では、船齢が若く大型の船に乗務している船員の能力が最もよかった。よく保守されている船の船員の能力は高く、また船内で使われている言語の数が少ない船の船員の能力も高かった。 ばら積み貨物船では、同じくらいの大きさの他の種類の船に比べて甲板部門の人間が少ない。小型ばら積み貨物船は2人から3人の航海士を乗せている一方、より大型のハンディサイズやケープサイズのばら積み貨物船は4人である。同じ大きさのLNGタンカーはこれに1人の航海士が追加されており、さらに一般船員がいる。 ===航海=== ばら積み貨物船の航海は市場の力によって決定され、航路と積み荷はしばしば変更される。収穫期には穀物輸送に関わった船が、それ以外の時期には他の貨物を輸送したり、他の航路に移ったりする。不定期輸送に関わる沿岸輸送船舶の場合、船員は積み荷が完全に搭載されるまで、次の寄港地を知らないことがしばしばある。 ばら積み貨物は積み降ろしが難しいため、ばら積み貨物船は他の種類の船に比べて寄港時間が長い。小型ばら積み貨物船に関する調査によれば、積み込みに比べて積み降ろしには平均で2倍の時間が掛かっていた。小型ばら積み貨物船は55時間寄港していた一方で、同じ大きさの木材輸送船は35時間であった。この寄港時間は、ハンディマックスで74時間、パナマックスで120時間に伸びる。コンテナ船の12時間、自動車輸送船の15時間、大型タンカーの26時間の寄港時間に比べ、ばら積み貨物船の船員は上陸時間を長くすることができる。 ===積み込み・積み降ろし=== ばら積み貨物船への積み込み・積み降ろしは時間が掛かり危険な作業である。手順は、一等航海士の助けを受けながら、船長によって計画される。国際的な規制により、作業を開始する前に船長と港湾側の責任者が詳細な計画に合意している必要がある。甲板員と港湾作業員が作業を監視する。まれに積み込みのミスが起きて、岸壁で船が転覆したり、半分に折れてしまったりする事故を引き起こす。 用いられる積み込み方法は、貨物の種類と船舶および港湾にある設備に依存している。あまり先進的ではない港では、貨物はショベルや袋でハッチを通じて注ぎ込まれる。このシステムは、より速く労働集約的ではない方法に置き換えられつつある。1時間に1,000 トンの積み込みを行える二重連接クレーンが広く用いられている方法で、1時間に2,000 トンに達する岸壁設置のガントリークレーンの使用も増えている。クレーンによる積み降ろしの率は、そのバケットの容量(6 トンから40 トン)と、クレーンが積み荷を積んで岸壁に降ろしてまた戻ってくるために掛かる時間によって制約されている。現代のガントリークレーンでは、この1周期の時間は50秒ほどである。 1時間に100 トンから700 トンほどの標準積み込み速度を持つベルトコンベアはとても効率的な積み込み方法で、最新鋭の港では1時間あたり16,000 トンの速度を持つものもある。しかしながら、ベルトコンベアの作動開始・作動終了は複雑で時間を要する。セルフアンローダー付きの船は1時間あたり1,000 トン程度の率である。 積み荷が降ろされると、船員は船倉の清掃作業に取り掛かる。これは、次の積み荷の種類が異なる場合特に重要である。船倉の巨大さや、積み荷の物理的な性質などにより、清掃作業は難しいものである。船倉が綺麗になると、積み込み作業が開始される。 積み込み作業中に積み荷の水平を保つことは、船の安定性を保つために重要である。船倉が満たされるにつれて、油圧ショベルやブルドーザーのような機械が積み荷を整えるためにしばしば用いられる。積み荷は一方に偏りがちであるため、船倉が部分的に満たされている場合、積み荷を水平にすることは特に重要である。積み荷を縦方向に分割したり、積み荷の上に木材を固定したりする場合には、特に注意が払われる。船倉が一杯になると、トミング (tomming) と呼ばれる作業が行われ、ハッチカバーの下に6 フィート (2 メートル)ほどの穴を掘って、そこに袋入りの積み荷やおもりを入れる。 ==構造== ばら積み貨物船の設計は主にそれが運ぶことを予定している貨物によって決定される。載荷係数とも呼ばれる、貨物の密度が重要な要素である。一般的なばら積み貨物の1 立方メートルあたりの密度は、軽い穀物の0.6 トンから鉄鉱石の3 トンまで多様である。 鉄鉱石輸送船の設計では、積み荷の密度がとても高いので、全体の積み荷の重量が制約する要素となる。一方で、たいていのばら積み貨物船は石炭を積むと最大喫水に達する前に船倉が一杯になるので、石炭輸送船においては全体の容積に制約される。 与えられたトン数の中で、船の寸法を決定する2番目の要素は、その船が航行を予定している港や水路の大きさである。例えば、パナマ運河を通過する予定の船は、横梁の長さや喫水の深さが制限される。ほとんどの設計で、長さと幅の比は5から7の間で、平均は6.2である。長さと高さの比は11から12の間である。 ===機関=== ばら積み貨物船の機関室は普通船尾の近くにあり、船橋の下、燃料タンクの上にある。ハンディマックスより大きなばら積み貨物船では、2ストローク式のディーゼルエンジンを積んでおり、減速機を介さずにプロペラシャフトによって大きな1つのスクリュープロペラを直接駆動している。主エンジンと接続された発電機によるか、または別のエンジンによる補助発電機によって発電される。もっとも小型のばら積み貨物船では、1つか2つの4ストロークディーゼルエンジンが用いられ、スクリュープロペラと減速機を介して接続されている。ハンディサイズより大きなばら積み貨物船の平均設計速度は、13.5 ‐ 15 ノット (28 km/h) である。プロペラの回転速度は比較的遅く、1分間に90回転ほどである。 1973年と1979年の2度のオイルショックとそれに伴う石油価格上昇の結果として、1970年代後半から1980年代初めにかけて石炭を燃料に使う実験的な設計の船が試験された。オーストラリアのニュー・ラインズ社 (New Lines) が74,700 トンの石炭燃焼船「リバー・ボイン」 (River Boyne) を建造した。この船はわずかばかり効率的で、蒸気機関は19,000 馬力(14,000 キロワット)を発揮することができた。この戦略により、ボーキサイトや燃料の輸送船に対して興味深い利点を発揮したが、エンジン出力の低さと保守の問題、そして高い初期費用に悩まされることになった。 ===ハッチ=== ハッチ (Hatch) は船倉の上部にある開口部であり、ハッチの蓋に相当する開閉部はハッチ・カバー (Hatch cover) と呼ばれる。通常はハッチの周囲には、ハッチ・コーミング (Hatch Coaming) と呼ばれる立ち上がり部があり、ハッチ・カバーと共に波浪雨水の浸入を防ぐと同時に強度維持に貢献する。 一般にハッチは船の幅の45%‐60%、船倉の長さの57%‐67%ほどある。積荷の積下効率の向上には大きなハッチが求められるが、船体を構成する上甲板の開口部であるハッチは、船体強度の低下要素となる。船体へ加わる圧縮と引張の応力はハッチの縁に集中するため、耐航性能を保つにはこれらを補強する必要があり、特に長い船体である程、サギング/ホギングに対する強度を維持するためにハッチ周囲の部材厚を厚くしたり、補強部材を追加したりして補強してある。こうした措置により船体が重くなるという弊害もあり、高価ではあるが軽量化を求めて高強度鋼を用いる場合もある。 1950年代まで、ハッチのカバーは開いたり閉じたりするのではなく、手作業で破壊したり再建したりする木造のものが使われていた。新しい船は、1人で操作できる油圧操作式の金属製ハッチカバーを備えている。ハッチカバーは分割されて、前や後ろ、横にスライドしたり、持ち上がって開いたり、折り畳んで開いたりする。ハッチカバーは単に雨水や波浪の打ち込みを避けるだけでなく、船体傾斜角が大きくなって転覆の危険がある場合でも外部から水が船倉内へ流入しない限り船体の傾斜はやがて回復が期待できるため、防水構造であることが必要である。かつては密閉されないハッチによって多くのばら積み貨物船が沈没に至る原因となった。 「ダービーシャー」 (MV Derbyshire) の沈没を受けた調査により、ハッチカバーに関する規制が進展した。1966年の国際満載喫水線条約は、ハッチカバーは海水による1 平方メートルあたり1.74 トンの負荷に耐え、最低6 ミリの角材をハッチカバーの上部に備えるように規制を課した。国際船級協会連合は、1998年に統一規則S21を制定してこの強度基準を強化した。この基準では、特に船の前部にあるハッチカバーについて、乾舷の高さと船速に基づいて海水の圧力を計算するように規定している。 ===船体=== ばら積み貨物船は建造しやすく、効率よく貨物を搭載できるように設計されている。建造を容易にするため、ばら積み貨物船は単一の船体曲率で建造される。同様に、バルバス・バウにより船は効率的に航海できるにも拘らず、設計者は大型船では単純な垂直船首を好む。大きな方形係数のために、フルハルがほとんど全てで採用されており、この結果としてばら積み貨物船は本質的に低速である。これはその効率性で相殺される。載貨重量トン単位の船の輸送能力を、その空の時の重量と比較することは、船の効率性を測る1つの方法である。小型のハンディマックスの船は、その重量の5倍の積み荷を運ぶことができる。大型の設計では効率はさらによくなり、ケープサイズの船はその重量の8倍以上の積み荷を運ぶことができる。 ばら積み貨物船は、多くの商船の典型的な断面をしている。船倉の上側と下側の角は、二重底の部分と同様にバラストタンクとして用いられている。角のバラストタンクは強化されており、船のバランスを制御する以外にも目的を持っている。角のタンクの角度は、搭載する貨物の安息角より小さくなるように設計される。これにより積み荷が船内で移動することをかなり防ぐことができる。積み荷の船内移動は船に危険をもたらすことがある。 二重底もまた設計上の制約がある。主な観点としては、パイプやケーブル類を通せる程度に十分な高さが必要であるということである。またこうした場所は、人が安全に入って調査や保守作業ができる程度に十分広くなければならない。一方で、過剰な重量や無駄な容積を排する観点から二重底はとても窮屈な空間となる。 ばら積み貨物船の船体は鋼鉄、通常は軟鋼でできている。近年造船所によっては、船自体の重量を軽くするために高張力鋼を使用するところもある。しかしながら、高張力鋼を縦・横方向の強化に用いることは、船体の剛性と腐食耐性を下げることになる。プロペラシャフトの支持部など、いくつかの部品には鍛鋼が用いられる。横方向の間仕切りはトタンでできており、底の部分と、間仕切りの接続部が補強されている。ばら積み貨物船の船体をコンクリートと鋼鉄のサンドイッチ構造で建造する調査が行われている。 過去10年で、二重船体が普及してきた。ばら積み貨物船は既に二重底は義務付けられているので、二重側を持った船を設計することで、まず船体の幅が増加する。二重船体の利点の1つとして、側面の構造部材全てを設置するスペースができるため、船倉に飛び出していた構造部材をなくすことができるという点がある。これにより船倉の容積が増大すると共に、その構造が単純になり、積み込み・積み降ろし・清掃作業が楽になる。二重側はまた船のバラスト容量を増大し、軽い貨物を輸送する時に役に立つ。安定性や耐航性のためにバラスト水を増やして喫水を増さなければならないことがあるからである。 近年のHy‐Conと呼ばれる設計は、一重船体と二重船体の長所を組み合わせようとしている。ハイブリッド・コンフィギュレーション (Hybrid Configuration) の略で、この設計は最前部と最後部を二重船体にし、他は一重船体のままにする。この方法では、船の重要な部分を頑丈にできる一方で、全体の重量を削減することができる。 二重船体の採用は単なる構造上の決定からではなく経済的なものであるため、二重側の船は総合的な検討が欠けており、潜在的な腐食の問題があるという批判がある。批判にもかかわらず、二重船体はパナマックスとケープサイズの船に対して2005年に必須条件となった。 貨物船は常に船が2つに割れてしまう危険にさらされており、このため縦方向の強度が第1の構造的な関心事である。船舶設計者は縦方向の強度と応力の問題に対処するために縦方向強度と、材料寸法と呼ばれる船体の厚さの組み合わせの相関関係を利用する。船体は各部材から構成されている。これらの部材の寸法の組み合わせが船の材料寸法 (ship’s scantlings) と呼ばれる。船舶設計者は、船が受ける応力を計算し、安全率を加算し、これにより必要とされる材料寸法を計算することができる。 こうした検討は、空の状態で航海している時、積み込み中、積み降ろし中、満載状態と一部搭載状態、一時的に過積載の状況などを想定して行われる。船倉の底、ハッチカバー、船倉間の隔壁、バラストタンクの底など、最大の応力にさらされる場所は注意深く検討される。五大湖のばら積み貨物船は、部材の疲労を引き起こす、波による共鳴現象にも耐えるように設計しなければならない。 2006年4月1日から、国際船級協会連合は共通構造規則 (CSR: Common Structural Rules) を採用した。この規則は全長90 メートル以上のばら積み貨物船に適用され、材料寸法の計算に際して腐食の影響、北大西洋などで見られる過酷な条件、積み込み中の動的な応力を考慮に入れることを要求している。またこの規則では、0.5から0.9 ミリの腐食予備厚も定めている。 ==安全性== 1980年代から1990年代は、ばら積み貨物船にとってとても危険な時期であった。この時期多くのばら積み貨物船が沈没し、1990年から1997年の間だけでも99隻に上った。こうした沈没のほとんどは船員が脱出できないほど突然で急激なもので、650人以上の船員がこの時期に命を失っている。「ダービーシャー」の沈没事故の影響もあって、一連のばら積み貨物船に関する国際安全規制が1990年代に採用された。 ===安定性の問題=== 積み荷の偏りはばら積み貨物船にとって大きな危険をもたらす。穀物は航海中に沈み込んで、積み荷の上部と船倉の上部の間に空間ができるため、この問題は穀物を輸送する場合により顕著である。そうなると、船が横揺れするのにあわせて積み荷は一方から他方の端へ自由に移動できるようになる。これが船の傾きを引き起こし、結果としてさらに多くの積み荷が偏りを起こす。この種の連鎖反応が起きるとばら積み貨物船はとても急速に転覆しうる。 1960年のSOLAS条約は、この種の問題を規制しようとしたものである。こうした規制は、偏りを防ぐような方法で上部バラストタンクを設計することを規定している。また船倉内に油圧ショベルなどを入れて積み荷を水平に整えることも要求している。積み荷を整えることは、空気と接する積み荷の表面積を減らし、石炭や鉄、金属くずなどの積み荷が自然発火する可能性を減らすという有益な副作用もある。 乾貨物に影響を与えうる他の種類の危険としては、周辺の湿気を吸収してしまうというものがある。粒度の細かいコンクリートと骨材が水と混ざると、船倉の底に形成された泥が容易に偏りを起こし、また自由表面効果 (free surface effect) を引き起こす可能性がある。この種の危険を防ぐ唯一の方法は、よく換気をするということと水の存在を注意深く監視することである。 ===構造上の問題=== 1990年だけで20隻のばら積み貨物船が沈没し、94人の船員が命を失った。1991年には24隻が沈没し、154人が死亡した。こうした水準の損失からばら積み貨物船の安全上の問題に注目が集まり、多くの教訓が得られた。アメリカ船級協会はこうした損失は「船倉の構造の欠陥に直接起因する」と結論付け、ロイド船級協会は船体の側面は「部分的な腐食と疲労によるひび割れ、運航に伴う損傷の組み合わせ」に耐えることができなかったと付け加えた。 調査によれば、事故の経緯は明確なパターンを示していた。 大きな波や不十分な密閉、腐食などの理由により、海水が前部のハッチに浸入する。第1船倉に入った水の余分な重量により、第2船倉への間仕切りが危険にさらされる。水が第2船倉に浸入し、釣り合いが変わってより多くの水が船倉に入ってくる。2つの船倉が急速に水で満たされ、船首が沈んで船全体も急速に沈み、船員が反応する時間がほとんどない。以前の教訓から船は前部の1つの船倉が水に満たされた場合でも持ちこたえるように要求されていたが、2つの船倉が水に満たされた状況には備えられていなかった。後部の2つの船倉が浸水した場合は、機関室に浸水して船の推進力を失ってしまうため、さらに問題である。船の中央部の2つの船倉に浸水した場合には、船体に掛かる応力が大きくなりすぎて船体が2つに折れてしまう。 他にも事故を引き起こした要素が挙げられた。 ほとんどの海難事故は船齢20年以上の船に起きている。国際輸送の成長を過剰に見積もったため、この世代の船の供給過剰が1980年代に起きた。船会社は経費の問題から、こうした老朽化した船を早く置き換えてしまうことができず、運航し続けざるを得なかった。不十分な保守のため、腐食がハッチカバーの密閉状況と船倉の間仕切りの強度を弱めていた。関係する部分が広大であるため、こうした腐食は検知するのが難しい。船が設計された時点では、新しい積み込み方式は予想されていなかった。新しい方式はより効率的である一方で、積み込み操作を止めるために1時間以上掛かるなど制御がより難しく、結果として時に船に過積載してしまう。こうした予期されていなかった衝撃が時間を経るにつれて船体の構造的な完全性を損なった。近年建造に高張力鋼が使われるようになり、より少ない材料と重量で同等の強度を保つことができるようになった。しかし通常の鋼鉄より薄いため、高張力鋼はより腐食しやすく、加えて波の荒い海では金属疲労を起こしやすい。ロイド船級協会によれば最大の原因は、問題があることが分かっている船を海に送り出してしまう船主の態度であるという。1997年のSOLAS条約改正により新しい規制が導入され、間仕切りと縦方向フレームの強化、特に腐食に重点を置いたより厳重な検査、港での定期検査などの問題に焦点を置いている。さらに1997年改正では、例えば特定の種類の積み荷の輸送が禁じられているなどの制限があるばら積み貨物船に対して、船体によく見える三角形のマークを記入することを規定している。 ===乗務員の安全=== 2004年12月以降、パナマックスとケープサイズのばら積み貨物船は、船橋の後部、船尾部に自由降下式救命艇を備えるように義務付けられた。この配置により船員は緊急事態には急速に船を脱出することができる。自由降下式救命艇を使うことに対しては、救命艇に乗り込み発進させるために避難者に「ある程度の身体的な自由度、適性」を必要とするという批判もある。また、例えば不適切に安全ベルトを締めていた場合など、発進に際して負傷することもある。 2002年12月SOLAS条約第12章の改正により、全てのばら積み貨物船に高レベルの浸水警報装置の導入が義務付けられた。この安全装置は、船橋と機関室の当直者に船倉の浸水を迅速に警告する。破局的な浸水の場合には、こうした検知装置が船からの脱出を迅速にできる。 =マクベス (ヴェルディ)= 『マクベス』(Macbeth)は、ジュゼッペ・ヴェルディが作曲した全4幕からなるオペラである。ウィリアム・シェイクスピアの同名戯曲『マクベス』に基づいており、1847年にフィレンツェで初演された。1865年に大幅な改訂がなされ、今日ではこの改訂版の方がより頻繁に上演される。 ==作曲の経緯== ===フィレンツェとの契約=== ヴェルディは1844年ヴェネツィアでの『エルナーニ』初演に始まり、同年の『二人のフォスカリ』(ローマ)、『アルツィーラ』(1845年、ナポリ)、『ジョヴァンナ・ダルコ』(同年、ミラノ)、『アッティラ』(1846年、ヴェネツィア)と一作毎にイタリア半島内の異なる都市での新作発表を続けてきた。1846年夏の時点で他にも「ナポリのためのもう一つの新作」、「パリでの公演(新作でなくともよいが、ヴェルディ自身の指揮が条件)」、「楽譜出版社ルッカ社のための2つの新作(うち一つはロンドンでの初演)」と、まだ片付けるべき契約が目白押しだったのだが、彼は体調不良を訴えるようになる(過労とストレスによる胃潰瘍ではないかとされる)。上記のうちいくつかの契約は延期してもらうことになったが、この時新たに接近してきたフィレンツェ・ペルゴラ劇場の1847年カーニヴァル・シーズンの新作委嘱を承諾してしまった。 候補となったのはウィリアム・シェイクスピア作『マクベス』、シラーの『群盗』(Die R*11851*uber)およびグリルパルツァーの『先祖の女』(Die Ahnfrau)であった。ヴェルディはこの時ペルゴラ劇場にどのような歌手と契約する予定かを尋ねている。優れたバリトンが得られるなら『マクベス』、テノールであったら『群盗』を作曲しようとの考えだったが、フィレンツェが名バリトン、フェリーチェ・ヴァレージ(後年1851年には傑作『リゴレット』初演での表題役も務める)を確保できると知り、『マクベス』の制作が開始された。なお、『群盗』はロンドン向けの新作とされ、1847年7月に初演された。 ===台本=== 台本作家は前作『アッティラ』と同様、フランチェスコ・マリア・ピアーヴェとなった。ヴェルディは1846年9月4日付のピアーヴェ宛書簡で「(前略)マクベスは人類の創造したもっとも偉大な悲劇だ。(略)我々は仮にここから偉大なものを作り出せないとしても、並以上のものは作れると思う。(略)詞句は短く、しかし気品を保ったものにしてくれ。(後略)」と注意点を述べている。 作曲時点の1846年において戯曲『マクベス』はイタリア半島で上演されたことはなかったと考えられているが、ヴェルディはカルロ・ルスコーニによるイタリア語訳版(1838年刊)を既に所有しており(この本はサンターガタのヴェルディの書斎の本棚に現存している)、散文形式での台本はほぼ自分一人で既に作り上げてしまっていた。ピアーヴェの仕事はそれを単に韻文に直すことに過ぎなかったが、その仕事振りにヴェルディはあまり満足していなかったらしく、「もっと手短に、もっと手短に、文体は簡潔にしろ!」(POCHE PAROLE... POCHE PAROLE... STILE CONCISO)と、苛立たしく不満気に大文字でピアーヴェに手紙を書いてもいるし、台本作成が遅れ気味になると「もしこれ以上遅れるようなら、君の睾丸を抜いてしまおう。そうすればマクベス夫人くらいは歌えるだろう」などという暴言も吐いている。 更にピアーヴェにとって屈辱的だったのは、台本完成稿に不満だったヴェルディが、シェイクスピアを愛好していた文人アンドレア・マッフェイを独断で招きいれ、マッフェイに第3幕の魔女の合唱、第4幕第2場の重要なマクベス夫人の夢遊のシーンの全部を書き直させてしまい、更には初演時に頒布された台本表紙からピアーヴェの名を削除してしまった(但しマッフェイの名もない)ことだった。ヴェルディの「世界中の黄金を積まれたとしても、君の書く台本は懲り懲りだよ」とのコメントが追い討ちをかけた。ピアーヴェは当初契約通りの金額をヴェルディから受領していたので渋々引き下がるしかなかったようである。ヴェルディとピアーヴェのコンビはこの後も継続して、『リゴレット』(1851年)、『椿姫』(1853年)、『シモン・ボッカネグラ』(1857年)、『運命の力』(1862年)といった傑作を残しているが、ピアーヴェは余程の人格者だったのだろう。 ===初演=== 当時、通常なら台本作家あるいは座付上演監督が準備を行うことが多い舞台装置、演出、衣装などにもヴェルディは深く関与した。「時代は11世紀前半なので、衣装にベルベットを使うことはありえない」といった細部の注意まで行い、最終的には歴史学者の考証のもと、ロンドンの業者に衣装デザインを依頼することになった。 全幕がほぼ完成した1847年2月にヴェルディはフィレンツェに到着、歌唱陣への指導も精力的に開始された。尋常でない厳しいリハーサルは初演当日、聴衆が着席してからもピアノを用いて行われた、と初演時のマクベス夫人役ソプラノ、マリアンナ・バルビエーリ=ニーニは回想している。 1847年3月14日の初演はとりあえず大成功だったように思われた。指揮者を務めたヴェルディは38回ものカーテン・コールを受けたし、バルビエーリ=ニーニは夢遊シーン後の大喝采で、常軌を逸したヴェルディの執念には意味があったのだと感じた。 しかし、初演の興奮は急速に醒めていく。このオペラを好まない評論家たちは、初演当夜の喝采はオペラに対するものでなく、作曲者ヴェルディに対する敬意からだ、と言い出す始末だったし、耳の肥えたフィレンツェの聴衆は韻律がしっくりこない部分を批判し始めた(皮肉なことに、それはほとんどマッフェイの作詞になる部分だった)。フィレンツェの新聞“Il Ricoglitore”紙に至っては、『マクベス』を始めから「真の駄作」と評した。 初演後のこのオペラのイタリアでの扱われ方に関しては後述する。 ==1865年改訂版(パリ版)== 1864年になり、パリのリリック座支配人カヴァッロと出版業者レオン・エスキュディエは、翌年の『マクベス』のリリック座上演の計画を持ち込んできた。パリ聴衆の好みに合わせてバレエの挿入は必須だったが、その検討を開始したヴェルディは17年前のこの作品の様々な箇所が弱いように感じられ、結局大規模な改訂になってしまった。主要な改稿箇所は以下の通りである。 第2幕第1場でのマクベス夫人のアリア「勝利!」(Trionfai!)はほぼ全面改稿され、アリア「光は萎えて」(La luce langue)となった。同幕第3場、マクベスが晩餐の席でバンコーの亡霊に悩まされる場面は完全に書き改められた。第3幕に魔女たちの踊るバレエの場面が追加された。同幕のフィナーレはマクベスのアリアだったが、暴君と評されようと権力を守るとの決意を歌う夫妻の二重唱に改められた。第4幕第1場、亡命者の合唱は全面改稿された。第4幕第4場のフィナーレでは、初演版では死に瀕したマクベスのモノローグで終わっているが、これはカットされ、戦勝者側の勝利の合唱に書き改められた。この改訂版はフランス語に翻訳された上、1865年4月21日にリリック座で上演された。ヴェルディ自身はこの改訂版に対して(初演版同様に)相当の自信を持っていたが、結論を言えばこの改訂版上演も成功ではなかった。新聞評の中には「ヴェルディはシェイクスピアを理解していない」とするものまであって、これにはヴェルディは激怒している。彼はエスキュディエに送った書簡で「これは『上演が失敗だった』というよりもっとひどい評論です。私がシェイクスピアを理解できていない、ですって? 神かけて違います。シェイクスピアは私の最愛の劇作家の一人です。彼の著作は私が青年時代から持っています。現在に至るまで何度も何度も読み返しています」と述べている。 なお、現在上演される『マクベス』は圧倒的にこの1865年改訂版が多いが、10分近くに及ぶ第3幕のバレエはカットされることがしばしばである。 ==編成== ===主な登場人物=== マクベス(バリトン):スコットランド王ダンカンに仕える将軍で、王を弑逆してその座につく。台本中では原作戯曲通りにMacbethと表記されているが、イタリア語にthの音([θ]:無声歯摩擦音)が存在しないことから、他者が呼びかける際にはMacbetto(マクベット)と呼ばれる。なお、ヴェルディ自身は書簡中でしばしばMacbetと綴っている。バンコー(バス):やはりダンカン王に仕える将軍。原作ではBanquoだが、本作ではBancoと表記される。マクベス夫人(ソプラノ):オペラ台本中でも原作通りLady Macbethと表記される。他の登場人物から名前を呼ばれることはない。その侍女(メゾソプラノ)マクダフ(テノール):スコットランド・フィフの領主マルコム(テノール):ダンカン王の遺児医師(バス)ダンカン王(黙役):本作ではDuncano(ドゥンカーノ)とイタリア風に呼ばれる。合唱 ==舞台構成== 全4幕 前奏曲第1幕 第1場 森の中 第2場 マクベスの居城の広間第1場 森の中第2場 マクベスの居城の広間第2幕 第1場 マクベスの居城 第2場 居城近くの林 第3場 居城の大広間第1場 マクベスの居城第2場 居城近くの林第3場 居城の大広間第3幕 魔女たちの棲む洞穴第4幕 第1場 荒野 第2場 マクベスの居城、大広間 第3場 マクベスの居室 第4場 野戦場第1場 荒野第2場 マクベスの居城、大広間第3場 マクベスの居室第4場 野戦場 ==あらすじ(1865年改訂版による)== 時と場所: 11世紀、スコットランド ===前奏曲=== 3分ほどの短いもの。魔女のテーマ、およびマクベス夫人夢遊のシーンのテーマが再構成されている ===第1幕=== ====第1場==== マクベスとバンコーは戦場から勝利しての帰途、魔女が乱舞しているのに出逢う。魔女らは「マクベスはコーダーの領主となり、やがては王となる。バンコーは王の祖先となろう」と予言し姿を消す。そこへダンカン王の使者が到着、マクベスがコーダー領主に任命されたことを伝える。2人は予言の一部が早速成就したことを知り驚きつつ帰途を急ぐ。魔女たちは再び現れ、マクベスは自分の運命を知るためまた訪ねてくるだろう、と歌う。 ===第2場=== 夜。居城ではマクベス夫人が夫の帰りを待ちわびている。マクベスが寄越した「魔女と逢い予言を受け、その通りにまずは領主になった。このことは内密に」との手紙を、夫人は独り読み上げ、夫が勇気を出してこの予言を実現させていって欲しいと願う。そこに召使が現れ、マクベスだけでなく、ダンカン王も急用でこの城を今晩訪問することになった、と伝える。夫人が好機到来と狂喜しているところへマクベスが帰還する。ダンカン王は賓客用の寝室へ入る。夫人は躊躇するマクベスをせきたて、王を刺殺させる。自らの所業に呆然として寝室から戻ってくるマクベスの手から、夫人は血にまみれた剣をとりあげ、眠り込んでしまった王の従者の側に置き、夫婦は退場する。 朝、マクダフとバンコーが王を起こしにやってくる。マクダフはダンカン王が暗殺されているのを発見、城内の一同を呼ぶ。一同は驚愕し、暗殺犯人に神の罰の下らんことを祈る。マクベスと夫人も何食わぬ顔で皆に調子を合わせる。 ===第2幕=== 計画通りマクベスはスコットランドの王となったが、彼ら夫婦には魔女の予言「バンコーは王の祖先となる」が気になってならない。そこで刺客を放ち、バンコーとその息子を殺すことにする。 バンコーが息子と2人で城外の林を歩いているところへ刺客の一団が襲い掛かる。バンコーは息子を逃がすことに成功するが、自らは凶刃に倒れる。 ===第3場=== 城の大広間ではマクベス新王を寿ぐ晩餐会が行われる。マクベス夫人は乾杯を歌う。刺客が戻ってきて、マクベスに一部始終を報告する。マクベスは晩餐の席に着こうとするが、バンコーの亡霊を発見してうろたえる。他の列席者には何も見えない。晩餐会は中止され、人々はマクベスの行動に不審の念をもつ。 ===第3幕=== 魔女たちの棲む洞穴にマクベスが現れ、自分の運勢を教えて欲しいと願う。新たな予言は「マクダフには警戒せよ」「女の産道を通ったものにはマクベスは倒せない」「バーナムの森が動かない限り怖れることはない」であった。マクベス夫人も現れて、夫妻は怖れることなく権力を死守しようと誓う。 ===第4幕=== スコットランドとイングランドの国境近くの荒野。スコットランドから逃れてきた人々はマクベス新王の圧政を訴える。マクダフは、自分の妻と子供らがマクベスに殺された悲しみを歌う。ダンカン王の遺児マルコムが現れる。彼はイングランド軍の助勢を受け、マクベス王への反乱を計画している。彼は軍勢に、バーナムの森の木を伐り、その枝葉を用いて擬装を行うように命令する。 マクベス夫人は精神を病み、毎夜城内を徘徊している。彼女は夢幻状態で、ダンカンやバンコーを殺したこと、手に付着した血がどうやっても拭い去れないことを訴える。隠れてこれを聞いていた医師と夫人の侍女は恐れおののく。 マクベスは、マルコムとその一派が反乱を起こしたとの情報に激怒する。彼は自軍の優勢を信じて反撃を命じるが、まずマクベス夫人が狂死したとの報、続いてバーナムの森が動き出したとの報に接して、周章狼狽の態で戦場に赴く。 ===第4場=== マクベスとマルコムの軍勢が戦闘を繰り広げ、やがてマクベスとマクダフの一騎討ちとなる。マクベスは、自分は女の産道を通った者には殺されない、と言うが、マクダフは意に介さない。彼は母親の胎内から切開で取り上げられた子供だったのだ。マクベスは愕然としてマクダフの刃に敗れ死に、マルコム軍が勝利を収める。マルコム、マクダフ、兵士たち、それに人々は圧政の終焉と勝利を祝う。 ==上演小史== ===イタリア=== 初演後数年間のイタリアでの『マクベス』の公演は、ほとんど例外なく検閲の対象となり、様々な一時的改変が行われた。 ナポリ、パレルモなど、マクベス夫妻が国王を弑逆して王位を簒奪するというプロットそのものを問題視した両シチリア王国の都市では、例えばダンカン王は「部下の部隊長マクベスに殺された将軍ワルフレード」とされた。1848年の革命が粉砕され、ハプスブルク家支配が復活したミラノでは、合唱での「抑圧された祖国」(patria oppressa)なる歌詞が禁止された。教皇領のローマでは、遠い昔の、しかも異国における王位簒奪を描くこと自体は問題なしとされたが、「魔女が超自然的予言能力をもつこと」は不穏当とされ、彼女らは「ジプシーの占い女の一群」に変更された。 ===イギリス=== シェイクスピア劇の本場であるイギリスでは、このヴェルディ『マクベス』の受容は奇妙なくらい遅かった。当時イギリス領であったダブリンでは1859年に初演が行われ、また1860年にイングランドの地方劇場で公演が行われたとの説もあるが、一般的に初演と考えられているのは1938年のグラインドボーンにおける上演である。なお、ロンドンのコヴェント・ガーデン王立歌劇場での初演は更に遅れて、初演から1世紀以上経った1960年のことであった。 ===日本=== 日本初演は1974年6月21日、東京文化会館で行われた二期会による訳詞上演であるとされる。指揮は外山雄三、主役のマクベスは栗林義信、夫人役は辻宥子が歌い、1865年改訂版に基づくもバレエを一部カット、初演版の「マクベスの死」モノローグを復活させた折衷版であった。 ==評価== ===イタリアにおける忘却=== 初演当夜には大成功であるかに思われた『マクベス』だったが、フィレンツェでの数公演で勢いは失われ、イタリアの他都市での浸透は更に困難を極めた。一例を挙げれば、ミラノ・スカラ座での『マクベス』公演は1849年、1852年、1854年、1858年の後、1863年、1874年と次第に間隔が空くようになり、そこから1938年まで60年以上にわたって上演が絶えている。 上述のような様々な検閲によってオペラの魅力が減退した、という面もあっただろうし、『ナブッコ』や『十字軍のロンバルディア人』に見られる集団としての愛国心、愛郷心の高揚を折からのリソルジメントの動きと結びつけて考えていた一般聴衆にとって、マクベス夫妻の野望と破滅を主題としたこのオペラはあまりに個人的、内面的なものであったのかも知れない。愛国的な詩作で鳴らした詩人ジュゼッペ・ジュスティは、ヴェルディのリソルジメントの精神からの違背を非難する手紙(1847年3月19日付)を作曲者に送りつけてきた。 ===ヴェルディ自身の評価=== それでもヴェルディ自身にとって、この『マクベス』は自信作であり続けた。 初演から11日後の1847年3月25日、ヴェルディはこのオペラを義父(1840年に亡くなった妻マルガリータの父)であり、また長年にわたる支援者でもあったアントニオ・バレッツィに献呈している。 初演から18年も経過した1865年のパリ上演の際も、ただバレエを追加することだけが要請されていたにもかかわらず、全曲の見直しを自発的に行い、大幅な改訂を加えているのも、本作に対する愛着の現れと考えられる。 更に後の1875年、ヴェルディは『アイーダ』公演で指揮を執るためウィーンを訪ねた。同地でワーグナーに対する意見を求められたヴェルディは(リップサービスの意味もあっただろうが)ワーグナーの才能にはいつも敬服していると述べ、加えて「私自身も彼と同じく、音楽とドラマの融合を心がけてきました。『マクベス』で、です」と発言しているという。 ===再評価=== オペラ『マクベス』の再評価の動きは意外なことに、ワーグナーのお膝元ドイツで1920年代に起こった。小説家フランツ・ウェルフェル(アルマ・マーラーの再婚相手の一人)の1924年刊行の小説「ヴェルディ」を契機として、ドイツ全土にヴェルディのオペラが一種のブームとなった。1927年‐28年のシーズンでドイツ全土135の歌劇場ではワーグナー作品は1,576公演に対してヴェルディ作品はほぼ同数の1,513公演、1930年のウィーンでもワーグナー49にヴェルディ46、1931年‐32年シーズンでヴェルディ作品は遂にワーグナーを凌駕するに至る。これをドイツにおける「ヴェルディ・ルネッサンス」と称することがある。 この流れに乗って、指揮者ゲオルク・ゲーラーは『マクベス』のドイツ語訳を行い、1929年‐30年のシーズンでドイツ全土で7公演、1931年‐32年で47公演がなされた。特に好評だったのはフリッツ・ブッシュ指揮、カール・エーベルト演出の公演であった。 ブッシュ、エーベルトの両名は1933年のナチス党政権掌握を受けて国外脱出した。1938年のイギリス・グラインドボーンにおける公演はこの両者のコンビによるものだったし、エーベルトは1959年のニューヨーク・メトロポリタン歌劇場公演(同歌劇場での初演)にも演出を行って、英米圏における『マクベス』の受容に貢献したのだった。 ==マクベス夫人役== オペラにおけるマクベス夫人役は、題名役マクベスと同等、あるいはそれ以上の重要な地位を占めている。作曲者ヴェルディがこの夫人役をどのように考えていたかを知るには以下の著名なエピソードがある。 オペラ初演から2年後の1849年春、ナポリ・サン・カルロ劇場では『マクベス』の上演を計画しており、ヴェルディは同劇場の上演監督サルヴァトーレ・カンマラーノ(後に『イル・トロヴァトーレ』の台本を作成したことでも有名)に対して演出上の様々な助言を行っていた。この時、当時の著名なソプラノ、エウジェーニア・タドリーニがマクベス夫人を演じると知ってヴェルディは「タドリーニが美貌で知られていること、天使のように清冽で完璧なその歌唱で有名なこと」に対して懸念を表明し、夫人役に必要なのはむしろ醜い悪魔的な印象、そして「とげとげしい、押さえつけられた、低い(こもった)声」(una voce aspra, soffocata, cupa)であるとカンマラーノに述べている(1848年11月23日の書簡による)。美しい声と技巧(そして美しい容姿)が求められた19世紀前半のソプラノ歌手とは対極のものをヴェルディが要求していたことがわかる。実際、初演のソプラノ、マリアンナ・バルビエーリ=ニーニは容姿が醜いためドニゼッティ『ルクレツィア・ボルジア』の題名役を仮面をつけて歌った、という伝説の持主だった。 1954年に過激なダイエットを行う前のマリア・カラスはこの「醜い容姿、とげとげしい声」の点で、ある意味理想のマクベス夫人であり、彼女の1952年・スカラ座でのライブ盤(デ・サバタ指揮)は名録音の一つに数えられている。これに対して、カラスの同時代におけるライヴァル、(美貌とは言えないが)その滑らかな美声で知られたレナータ・テバルディは生涯を通じてマクベス夫人を歌わなかったことは象徴的である。 また初演版第2幕でのアリア「勝利!」(Trionfai!)が、1865年改訂版でほぼメゾソプラノ的な低いテッシトゥーラ(音域)のアリア「光は萎えて」(La luce langue)に書き改められたことも手伝って、マクベス夫人役は高音域に伸びのあるメゾソプラノ、例えばフィオレンツァ・コッソット、シャーリー・ヴァーレット あるいはアグネス・バルツァなども挑戦する役となっている。 加えて同役はドイツ・北欧系のソプラノの名録音、例えばマルタ・メードル、アストリッド・ヴァルナイ、レオニー・リザネクあるいはビルギット・ニルソンなどが目立つ点も、ヴェルディのオペラとしては極めて異色といえる。これは上記「ヴェルディ・ルネッサンス」の影響からか、ドイツでの上演が現在でも比較的多いことに起因するのだろう。 =風信帖= 風信帖(ふうしんじょう)は、空海が最澄に宛てた尺牘(せきとく)3通の総称である。国宝に指定されており、指定名称は弘法大師筆尺牘三通(風信帖)(こうぼうだいしひつ せきとく さんつう)。 ==概要== 『風信帖』は、『灌頂歴名』と並び称せられる空海の書の最高傑作であり、『風信帖』(1通目)、『忽披帖』(2通目)、『忽恵帖』(3通目)の3通を1巻にまとめたもので、その1通目の書き出しの句に因んでこの名がある。大きさは、28.8cm×157.9cm。東寺蔵。 もとは5通あったが、1通は盗まれ、1通は関白豊臣秀次の所望により、天正20年(1592年)4月9日に献上したことが巻末の奥書に記されている。 『風信帖』のスケールの大きさは日本の名筆中第一といえよう。また、日本天台宗の開祖伝教大師最澄と真言宗の開祖弘法大師空海という平安仏教界の双璧をなす両雄の交流を示す資料としてもこの3通の存在は貴重である。 ==風信帖== 3通とも日付はあるが年紀はなく、弘仁元年(810年)から3年(812年)まで諸説ある。1通目の宛名は「東嶺金蘭」、3通目は「止観座主」とあり、ともに空海が最澄の消息に答えた書状であることがわかる。2通目には宛名がなく、最澄、もしくは藤原冬嗣の両説ある。 2通目の『忽披帖』は紙がやや異なるが他の2通は同じで、書体は3通とも行草体である。しかし、幾分筆致を異にし、ことに2通目は行書、3通目は草書が多い。2通目の文中に「因還信」、3通目に「因還人」とある所からみて、それぞれ率意の書であるとも思われる。 ===風信帖の評価=== 鈴木翠軒は『風信帖』について次のように記している。 古来、『風信帖』は空海の書として最上位に推され、代表作といわれているが、『灌頂記』の方が実際は上位であろう。3通のうち最初の1通は、さすがの空海も偉大なる先輩最澄に宛てただけに、かたくなったためか、空海のものとしてはやや萎縮している。(中略)第2通目は異色の風があって第1通より上位にあると思う。第3通目の草書風のものは最も傑出している。空海は行草の名人であるが、この最後のところの草書はそのうちでの尤なるものであろう。 ===風信帖(1通目)=== 1通目の狭義の『風信帖』である。書風は王羲之の書法に則した謹厳なもので、それは「風」や「恵」その他が『蘭亭序』と酷似していることでも立証できる。特に「恵」の最後の点を右側に大きく離し、収筆を上方にはね上げる運筆は王羲之の書法の特徴の一つで、この収筆のはね上げにより、運筆のスピード感と切れ味を字形全体の印象として感じさせる効果をもたらす。王羲之書法に傾倒する人の筆跡にはこの運筆が見られ、米*11626*の『蜀素帖』の中の「穂」や「盡」にも認められる。 風信雲書自天翔臨 披之閲之如掲雲霧兼 恵止觀妙門頂戴供養 不知攸*11627*已冷伏惟 法體何如空海推常擬 隨命躋攀彼嶺限以少 願不能東西今思与我金蘭 及室山集會一處量商仏 法大事因縁共建法幢報 仏恩徳望不憚煩勞*11628* 降赴此院此所々望々*11629*々 不具釋空海状上 九月十一日 東嶺金蘭法前 謹空 ― 『風信帖』 風信雲書自天翔臨 披之閲之如掲雲霧兼 恵止觀妙門頂戴供養 不知攸*11630*已冷伏惟 法體何如空海推常擬 隨命躋攀彼嶺限以少 願不能東西今思与我金蘭 及室山集會一處量商仏 法大事因縁共建法幢報 仏恩徳望不憚煩勞*11631* 降赴此院此所々望々*11632*々 不具釋空海状上 九月十一日 東嶺金蘭法前 謹空 文面は、冒頭の挨拶、『摩訶止観』のお礼、比叡山には行けない旨を告げたあとに、「あなた(最澄)と堅慧(推定)と私の3人が集まって、仏教の根本問題を語り合い仏教活動を盛んにして仏恩に報いたい。どうか労をいとわず、この院(乙訓寺と推定)まで降りて来て下さい。ぜひぜひお願いする。」という趣旨の内容である。 ===忽披帖=== 2通目の『忽披帖』(こつひじょう)は、「忽披枉書」の句で始まるのでこの名がある。書風は一転して覇気に満ちた力強い書きぶりで、精気があり、また情緒もある。 忽披枉書已銷陶尓 御香兩*11633*及左衛士 督尊書状並謹領 訖迫以法縁暫闕談 披過此法期披雲 因還信奉此不具 釋遍照状上 九月十三日 ― 『忽披帖』 忽披枉書已銷陶尓 御香兩*11634*及左衛士 督尊書状並謹領 訖迫以法縁暫闕談 披過此法期披雲 因還信奉此不具 釋遍照状上 九月十三日 文面は、御香と左衛士の督の手紙を受け取った旨を告げたあとに、「このところ法要が迫っており、お手紙を拝見したり、使いの方とも話をする時間がない。法要が済んだら早速に拝見する。使者の方にこの手紙を託す。」という趣旨の内容である。 ===忽恵帖=== 3通目の『忽恵帖』(こつけいじょう)は、「忽恵書礼」の句で始まるのでこの名がある。書風は流麗な草体で内熟した境地を示している。 忽恵書礼深以慰情香 等以三日来也従三日起 首至九日一期可終 十日拂晨将参入願 留意相待是所望 山城石川兩大徳深 渇仰望申意也 仁王経等備講師将 去未還後日親将去 奉呈莫責々々也因 還人不具沙門遍照状上 九月五日 止觀座主法前 謹空 ― 『忽恵帖』 文面は、「別便に托した御香その他の贈物は3日に落手した(または、香らは3日にこちらに参った)。3日からはじめた法要は9日に終わるので、10日早朝にお伺いしたい。どうか心に留めてお待ち下さい。山城と石川の両高僧は深くあなたを仰ぎ慕い、お会いしてお話ししたいと望んでいる。『仁王経』などの借用を申し出られたが、備講師が持っていっているので、後日必ずお貸ししたい。」という趣旨の内容である。 ==空海と最澄== ===空海=== 中国では五筆和尚、日本では入木道の祖と仰がれ、その書流は大師流、また嵯峨天皇・橘逸勢とともに平安時代初期の第一の能書家として三筆と称された。まさに日本の王羲之ともいうべき不世出の能書家である。 書は在唐中、韓方明に学んだが、唐の地ですでに能書家として知られ、殊に王羲之の書風の影響を多く受けた。また顔真卿、徐浩の書を習ったといわれるが、その当時の中国の素晴らしいものを迅速に消化して、これをさらに日本的な姿に発展させている。入唐前の24歳の著述『聾瞽指帰』は王羲之風ながら、帰国後の『灌頂歴名』、『風信帖』などは顔真卿の書風も看取される。 篆書、隷書、楷書、行書、草書、飛白のどんな体にしてもそれぞれ他に類のない逸品を残し、『風信帖』はその完成された書風の一頂点を示すものとして名高い。 ===弘法筆を択ばず=== 「弘法筆を択ばず」という俗言があるが、これは、「どんな筆でも立派に書き得るだけの力量がある」という意で、学書の時、どんな悪い筆を使ってもよいという意ではない。事実、空海の真跡を見れば良筆を使っていたことは明らかであり、在唐中、製筆法も学んでいる。 空海は帰国後、筆匠・坂名井清川に唐の技法を教えて、楷・行・草・写経用の狸毛筆(りもうひつ)4本を作らせ、これを弘仁3年(812年)6月7日、嵯峨天皇に献上した。その際、空海が書いたと伝えられる上表文が『狸毛筆奉献表』(りもうひつほうけんひょう)であり、唐製に劣らぬ出来ばえであると記している。この献筆表は醍醐寺に国宝として現存する。原文は以下のとおり。 狸毛筆四管 真書一 行書一 草書一 寫書一 右伏奉昨日進止且教筆生坂名井清川造得奉進 空海於海西所聴見如此 其中大小長短強柔齊尖者随星好各別不允聖愛 自外八分小書之様*11635*書臨書之式雖未見作得具足口授耳 謹附清川奉進不宣 謹進 弘仁三年六月七日沙門 進 ― 『狸毛筆奉献表』 狸毛筆四管 真書一 行書一 草書一 寫書一 右伏奉昨日進止且教筆生坂名井清川造得奉進 空海於海西所聴見如此 其中大小長短強柔齊尖者随星好各別不允聖愛 自外八分小書之様*11636*書臨書之式雖未見作得具足口授耳 謹附清川奉進不宣 謹進 弘仁三年六月七日沙門 進 『性霊集』巻4には献筆表を2つ含んでおり、この『狸毛筆奉献表』と、もう一つは同年7月、皇太弟(後の淳和天皇)に献じたときの『春宮に筆を献ずる啓』である。この中で空海は、「彫刻に利刀が必要なように、書には筆が第一に大切で、書体の違い、字形の大小ごとに筆を変える用意が肝要である。」と自らの意見を披瀝している。 『風信帖』の3通目(『忽恵帖』)の書線の際(きわ)に筆の脇毛がたくさんあるが、このことから空海が用いた筆は禿筆であることがわかる。その禿筆を巧みに操りながら、筆の性質状態を活かしきる力量、これこそが、「弘法筆を択ばず」の本意である。 ===五筆和尚=== 在唐中、皇帝から唐朝の宮中の王羲之の壁書の書き直しを命じられた空海は、左右の手足と口とに筆を持って、5行を同時に書いて人々を驚かせ、五筆和尚の名を賜った逸話が残されている。この五筆和尚の図が『弘法大師伝絵巻』(白鶴美術館蔵)に見られる。しかし、これはあくまでも後人が作った伝説であり、五筆とは、楷・行・草・隷・篆の5つの書体すべてをよくしたことによると考えられる。 ===飛白体=== 書体の一つである飛白(ひはく)体とは、刷毛筆を用いた書法で、かすれが多く、装飾的である。飛白の「飛」は筆勢の飛動を、「白」は点画のかすれを意味し、後漢の蔡*11637*が、人が刷毛で字を書いているのを見て考え出したという。飛白は宮城(きゅうじょう)の門の題署や碑碣の額に多く用いられ、飛白篆(篆書)・飛白草(草書)・散隷(八分)の飛白体がある。 最も古い飛白体は太宗の『晋祠銘』の碑額(「貞観廿年正月廿六日」の9文字)で、他に武則天の『昇仙太子碑』の碑額(「昇仙太子之碑」の6文字)などがある。空海の筆跡としては『七祖像賛』が残っているが、その飛白文字は天女の衣が大空に翻るようで美しい。日本では空海の後、この書法は中絶したが、江戸時代初期ごろ、松花堂昭乗や石川丈山らが盛んに書いた。 飛白は古くは飛帛といったが、飛帛とは中国の雑技として現在でも行われているもので、新体操のリボン競技に近く、飛白体のイメージに一致する。 ===入唐=== 延暦23年(804年)5月12日、難波の港を藤原葛野麻呂を遣唐大使とする4船団よりなる遣唐使船が出帆した。第1船の大使の船には、空海、橘逸勢ら一行が、第2船の遣唐副使・菅原清公の船には、最澄、義真ら一行が乗りこんだ。このとき最澄はすでに平安仏教界を代表する仏者で、短期視察を目的とする還学生(げんがくしょう)であった。空海は高位の役人になることすらできない下層の出自で、遣唐使に選出される直前まで優婆塞であったが、渡航に当たって急遽、東大寺戒壇院で具足戒を受けて正式な僧侶となり、20年の長期留学を目的とする留学生(るがくしょう)に任命された。このとき、最澄は38歳、空海は7つ年下の31歳であった。この入唐まで2人は一面識もなく、また入唐後も全く目的地を異にして行動している。 ===無名の名文家=== 空海の乗った船は博多から長崎の平戸へ渡り東シナ海に出る安全なコースに設定されていたが、いったん天候が悪くなるとその影響を強く被る航路でもあった。船は嵐のなか南へ流されて、漂着したのは福州長渓県赤岸鎮(現在の福建省霞浦県赤岸村)であり、暦は8月10日になっていた。事情を説明するため大使の葛野麻呂は福州の長官に嘆願書を出したが、『御遺告』によれば、大使の文章は悪文で、かえってますます密輸業者などに疑われてしまったようである。唐では文章によって相手がいかなる人物であるかを量る習慣があった。困り果てた大使は空海という無名の留学僧が名文家であることを教えられ、空海に代筆させたところ、その名文、名筆に驚いた福州の長官は即座に遣唐使船の遭難を長安に知らせたという。このときの空海の文章は『性霊集』に遺っているが、司馬遼太郎は『空海の風景』の中で、「この文章は、空海という類を絶した名文家の一代の文章のなかでも、とくにすぐれている。六朝以来の装飾の過剰な文体でありながら、論理の骨格があざやかで説得力に富む。それだけでなく、読む者の情感に訴える修辞は装飾というより肉声の音楽化のように思える。」と記している。 ===帰国=== 最澄は任を終えて、葛野麻呂の遣唐使船で翌延暦24年(805年)6月5日、対馬に帰着した。空海は遣唐副使・高階遠成(たかしなのとおなり)の遣唐使船で、大同元年(806年)10月ごろ帰国し、大宰府に留まった。そして、唐より持ち帰った膨大な経典論書・書跡などのリストである『請来目録』を上奏文に添えて高階遠成に託した。 20年の留学予定が僅か2年にして帰国した規則違反の空海に対して、朝廷は大同4年(809年)まで入京を許可しなかった。空海が帰国した理由は、当時の大唐帝国はすでに末期状態にあり、安禄山の乱が起こるなど国情が不安定で、留学生たちの待遇も不十分であったこと、また、空海に「胎蔵」と「金剛」という名の2つの秘教を授けた高僧・恵果の遺言(「早く郷国に帰りて以て国家に奉り、天下に流布して蒼生の福を増せ」)に従ったことなどが考えられる。なお、このときに橘逸勢も帰国している。長安での空海は恵果に仏教を学び修行に励んだが、師からの信頼が極めてあつく、弟子1000人がいる中で恵果は空海に秘法のすべてを伝授し、その4ヶ月後に他界した。 ===高雄山寺入住=== 大同4年(809年)8月24日付の書状で、最澄は空海に『大日経略摂念誦随行法』の借覧を申し出ている。2人はこれ以前から交友があり、密典の貸借が行われていた。最澄はこのような空海からの借用の恩恵に報いるため、空海を和気真綱に紹介して高雄山寺の入住を斡旋した。このような経過で入京し高雄山寺(または乙訓寺)にいた空海が、比叡山寺(延暦寺)の最澄に宛てた書状が『風信帖』である。現在、『風信帖』が東寺に所蔵されている理由は、比叡山寺から東寺に寄進されたことによる。 ===風信帖と久隔帖=== 弘仁2年(811年)7月中旬、最澄は比叡山の経蔵を整理しているが、これを補充する意図もあって、これ以降、空海からの密典借用が頻繁に行われるようになる。40通に及ぶ「最澄消息」の大半は空海から密典を借用するための願い出、もしくは依頼の書状である。『忽恵帖』(3通目)は、この年(推定)9月5日付の空海の返書だが、その内容から最澄が『仁王経』などの借用を願い出ていることがわかる。 翌弘仁3年(812年、推定)、最澄は空海に『摩訶止観』を贈り、また比叡山に登るように誘った書状を送ったようである。この返書が『風信帖』(1通目)で、『摩訶止観』の恵贈されたことに対する鄭重な返礼であり、比叡山には都合が悪くてお伺い出来ないという内容になっている。 弘仁4年(813年)秋、空海は40歳の中寿を迎えたとき作った『中寿感興詩』を最澄などの知友に贈った。そこで最澄は、同年11月25日、その返礼として和韻の詩を作る旨の書状を送っているが、これが『久隔帖』である。 ===両雄の個性=== 『風信帖』と『久隔帖』は、空海と最澄のあまりに有名な書状である。書状ゆえ、本来は『風信状』・『久隔状』であるのを、「帖」をつけて呼んできたのは、法帖、あるいは書の手本とされてきたことを意味する。書風はどちらも王羲之風で、文体は四六駢儷体ということで両帖は共通する。署名、宛名書きの方式、脇付等の作法もまた同様である。 しかし優れた書き手の両雄は個性の差異を発揮している。『風信帖』は、「風信雲書、自天翔臨」(風の如きお便り、雲の如き御筆跡が天から私の所へ翔臨してまいりました)、『久隔帖』は、「久隔清音、馳恋無極」(久しくごぶさたしていますが、深く貴台を懐かしく思っております)に始まる四六駢儷体の4文字を重ねたものだが、すでにこの8文字の修辞に両雄の差異は明らかで、空海の文辞は大胆で極めて詩的な麗句であり、最澄のは生真面目で地味、謙抑そのものである。筆法に関しても、空海は文字の大小、線の肥痩、墨つぎ、運筆の緩急も変幻自在の筆跡であり、最澄のは、あくまで几帳面、筆速も均質、神経の行き届いた慎重な筆跡である。この両雄の書を中国の書論風に品第して、「空海の書は最澄より工夫においてすぐれ、天然は最澄に及ばない。」と表現された(中国の書論#天然と工夫を参照)。 ===訣別=== 最澄、空海の両雄は、弘仁7年(816年)には訣別することになるが、これは、天台法華一乗と真言一乗の優劣をめぐる思想的差異によるものであった。『風信帖』と『久隔帖』は両雄が近接して最も意気投合したころの得難い真筆である。 =澱川橋梁= 澱川橋梁(よどがわきょうりょう、英語: Yodo‐Gawa Bridge)は、京都市伏見区の宇治川にかかる鉄道用トラス橋である。奈良電気鉄道が自社線(現在の近畿日本鉄道京都線)の開業にあたり架設した。 本橋梁は比較的水量の多い河川を1径間で渡る長大な複線下路式トラス橋であり、完成以来2012年現在まで、日本に存在する単純トラス橋としては最大の支間長を備えることで知られる。 ==建設経緯== 京都と奈良を結ぶ第2の鉄道として建設され、開通まで経由地や線形の変更を幾度となく繰り返してきた奈良電気鉄道線にあって、本橋梁も経路は変更されなかったものの、特異な経緯により桁形式が途中で全面変更されている。 ===計画の変遷=== 奈良電気鉄道線の建設計画を進めた浅井郁爾技師長を筆頭とする同社技術陣は、京都起点4マイル6チェイン(約6.6km)付近の宇治川(澱川)を渡河するにあたって、当初は沿線に存在するもう一つの大河である木津川を渡る木津川橋梁と同様、河中に6本の橋脚を立てて70フィート(21.336m)プレートガーダー桁7連を架設する案に従って橋梁の具体設計を進めており、 架橋を予定した地点の周辺には帝国陸軍の演習場(渡河訓練場)、そしてその北側には工兵大隊の工営が設置されていた。奈良電気鉄道は、工事速成のため工兵隊用地の一部について土地交換を申請した。それを受け師団側では調査を行い、本省へ伺いを出した。 16師団条件と陸軍省の決定条件をまとめたものが以下の表になる。 東側作業場700坪の保留・ 減少した敷地増加と作業場新設の研究 橋脚に関しては一基まで認めるというものであったが、奈良電気鉄道側は回答を待たずに代案に着手することとなる。 ちょうどこの時期、即位したばかりの昭和天皇の御大典が京都御所で執り行われ、式典の終了後、各施設の拝観や御陵の参拝などが国民に認められることとなった。そのため、沿線に伏見桃山陵が存在し、開通の暁には大阪電気軌道奈良線へ乗り入れるだけでなく大和西大寺から橿原線へも直通し、京都と橿原神宮前を直結する計画であった奈良電気鉄道は、大きな旅客需要が期待されるこの絶好のチャンスに、何としてでも全線開業を間に合わせる必要に迫られた。 こうして、路線建設のための時間的猶予を失った奈良電気鉄道は宇治川渡河について経済的なプレートガーダー桁案を放棄し、高コストを承知で陸軍側の要望に従う形で、河中に橋脚を設けずに済む長大な単独トラス桁により本橋梁を架設することを決断した。これにより架橋演習場内への橋梁架設について陸軍側の了解を得て着工にこぎ着けた。 ===巨大トラス橋=== 以上のような経緯で、本橋梁は無橋脚、1径間での渡河に適した長大な曲弦プラット分格トラス桁として架設されることとなり、その設計は当時の日本を代表する橋梁設計の大家であった関場茂樹の手に委ねられた。 もっともこの時代、この巨大橋梁が必要とする長さと厚さを備えた大型鋼材は日本国内に市中在庫が存在しなかった。また日本国内で唯一、その種の鋼材の製造供給が可能と目されていた八幡製鐵所では当時軍用、特に軍艦用の需要を満たすのが精一杯で、発注後必要な納期にそれらを得ることもできなかった。 そのため、関場ら設計陣は設計着手後間もない1927年10月末までに最優先で必要部材の一覧表を作成、部材調達を請け負った浅野物産とアメリカ有数の大手製鋼メーカーベスレヘム・スチールが東京に設けていた支店の連携によって、全体の83パーセントにあたる約1,500tの鋼材の注文書をアメリカのベスレヘム・スチール社本社へ打電、可能な限り速く国内で入手が不可能な部材を調達する手配を行った。 これは、折良く日本へ向かう船便に恵まれたことから、発注後2ヶ月半で大半の部材が神戸港へ入荷するという、当時の日米間貨物輸送体制では最良に近い成果を得た。なお、本橋梁の主部材はこのようにベスレヘム・スチール社からの輸入に拠ったが、それ以外にもUSスチール・プロダクツ社と八幡製鉄所から鋼材供給を受けている。 だが、最大の難問であった鋼材納入について最良の結果を得たと言っても、その時点で絶対的な工期の不足がほぼ致命的な水準に達していたことに変わりはなかった。国内で調達可能な補助部材については先行して調達と加工を実施するようにしたものの、主要鋼材到着後にそれらを工場で加工し、工場で一旦仮組みした後に分解、輸送し現場で再度組み立てるという、大規模構造物建築で常識とされる手順を踏んでいたのでは、1928年1月の鋼材到着後、1928年11月に予定された御大典までの10ヶ月に満たない短期間でこの橋梁を完成させ、路線そのものの開業にこぎ着けることは到底不可能であった。 そこで関場らは、実際に橋桁の製造を担当する川崎造船所兵庫工場(本橋梁工事中の1928年5月18日付で川崎造船所から独立、川崎車輛兵庫工場となる)での仮組工程を省略し、加工済み部材を現場にて直接組み立てることを決断した。 仮組を省略した場合、その分の所要時間を節約できるが、その反面、部材の切断ミスや接合用リベットのために予め開口された鋲孔のずれなどがあった場合、それらの修正のために架設工事全体が大きく遅れ、仮組を実施するよりもかえって時間がかかってしまう危険がある。そのため、川崎造船所で実際の桁製造を監督することになった阪根繁三郎技師はその部材製作工程の管理および工作精度の維持に細心の注意を払うことを強いられ、また設計を担当する関場らもミスが一切許されないため、本橋梁に関する各種図面の精査に追われた。 ===工事=== 現場での組み立て・橋台の施工、そして架設全般を担当したのは、奈良電気鉄道専務取締役長田桃蔵が副支配人で、この種の架橋工事について経験の豊富な大林組であった。 橋桁だけで1,810t、軌条や枕木を合わせて約2,000t、通過する60t級電車6両編成2本分の荷重720tを入れると総計2,700tもの重量になる本橋梁の場合、それを支える橋台の設計と施工には特に慎重な作業が要求され、しかも上述の通り工期が極端に短く失敗が許されなかった。そのため、当初は先行して架橋工事が完了していた木津川橋梁で実績があった、直径8フィート(2.43m)、深さ25フィート(7.62m)、厚さ8インチ(203.2mm)の円筒形鉄筋コンクリート製井筒3本2列を水中堀にして沈め、これらの上に橋台を構築することが検討された。 だが、本橋梁と同じ淀川水系での治水工事に経験豊富で工事現場の地質についても知悉した谷口三郎技師から大型構築物の沈函工法が適当との助言が得られ、この工法により1928年4月1日に橋台根掘りを開始、同年5月26日に鉄筋コンクリート製橋台の両岸への埋設作業が完了した。 その作業工程においては、時間的余裕が無く沈函後に試験荷重をかけてテストすることができなかったため、通常40本の基礎杭を打設する所に直径10インチ(25.4cm)長さ30フィート(9.14m)の松丸太による基礎杭を60本打設して地盤を徹底的に打ち固め、試験を行う必要性そのものを無くしている。 こうして橋台が完成し、兵庫の川崎造船所から淀川を遡航して現場まで運ばれた部材により、橋桁本体の組み立てと架設が本格的に開始された。設計・製造の双方の努力が実り、現場に到着した各部材の加工精度はほとんど修正を要しない水準に達しており、むしろ高精度ゆえに弦材支承面の密着が良すぎて組み立て作業に手間取るほどであった。 また、橋桁本体を組み上げる工程においては、効率化を図って大林組が設計したゴライアスクレーン(門型自走式クレーン)が導入され、威力を発揮した。 このゴライアスクレーンは、橋桁本体の組み立てに用いる鋼製で大型のものと、船で運ばれてきた部材を仮設足場上へ揚陸するための木造で小型のものの2種が用意された。いずれも上部に電動巻き上げ機を、下部に台車をそれぞれ備え、橋桁の組み立て工程の進捗に合わせて仮設足場上に敷設された4列のレール上を移動する設計であった。大型のものは、工事完了後に柱部を分解し他の工事現場で工事用エレベーターに転用可能な寸法として設計され、高さ100フィート(30.48m)、長さ54フィート8インチ(16.66m)、と本橋梁の規模に見合った極めて巨大な構造物であった。 橋桁の組み立ては、当初計画では固定端とされた右岸側から順に下弦材を左岸まで並べて全長分を結合、他の主要部は大型ゴライアスクレーンを用いて右岸から中央付近まで組み立てた後、左岸までクレーンを移動、そこから再度中央へ向けて組み立てを進め、最後に中央部で結合して完成とする予定であった。 しかし、橋台の建設過程で右岸側が遅れたため、下弦材の組み立てについては右岸寄り2番目の部材を所定位置に置いて組み立てを開始し、順次左岸まで組み立て、最後に右岸寄り1番目の部材を結合するように変更した。ところが、これも渇水で淀川を遡航する船運に問題が生じ、予定通りに部材が届かなくなったため作業手順の再変更を迫られた。この結果、右岸寄りの一部床梁やストリンガーなどの組み立てを前倒しで行い、その後で部材到着順に左岸へ向けて下弦材を結合、左岸到達後に左岸から床梁やストリンガーの組み立てを始めて右岸寄りの組み立て済み部分に到達するまで作業を進め、床部の組み立てが終わったところで、既に組み立てが完了した下弦材と右岸橋台の間を結ぶ最後の下弦材を組み、そこの床梁とストリンガーの組み立てを行い床部全体を先に完成状態とするという、非常に込み入った複雑な作業手順とすることでこの工程での遅延の発生を最小限に抑えている。 続く上弦材の組み立て順序も、この下弦材組み立て工程の混乱の影響で組み立て順序が変更された。当初とは逆に左岸へ大型ゴライアスクレーンを移動してそこから中央へ向かって順に上弦材を組み立てた後、クレーンを右岸へ移動、そこから再度中央へ向けて上弦材を組み立て、最後に中央の水平な上弦材を組み付けることとなったのである。 この組み立て作業においては合計73,094本のリベットが使用された。それらの*9888*鋲作業はスケジュールの関係で夏の炎天下での実施となったが、川崎造船所から派遣された工員30名がリベット打ち5組と穿孔機2組に分かれて従事し、約60日におよぶ作業日程で*9889*鋲作業を全て完了した。 こうして組み上がった橋桁の塗装は浅野物産が担当し、同社の工員20名によりValdura Asphalt Paintと称する銘柄の塗料(色はダークグリーン)が塗布された。各部材には加工を行った川崎造船所で下地塗りとして光明丹が予め塗布されており、塗装工程では通常部位に2回ずつ、リベット結合部については3回ずつ塗装を行った。この作業には前後30日を要し、消費された塗料の総量は約1,300ガロンに及んだ。 ===完成=== こうして架設当時の最新技術を惜しみなく投入し、人智を尽くして工期短縮のための努力が重ねられた結果、総工費83万9千23円95銭を費やした本橋梁は、御大典を約1ヶ月後に控えた1928年10月16日に完成した。設計者である関場らは後日発表の論文の締めくくりにおいて「天帝の御加護に依り」と記したが、それは工事に関わったありとあらゆる人々の努力の賜であった。 なお、奈良電気鉄道線そのものは難航した桃山御陵付近の高架線が71日間の突貫工事の末、同年11月12日に完成し、京都での即位の礼の儀式が全て終了した同月15日、京都 ‐ 大和西大寺間34.5kmがようやく全線開業した。 ==構造== 鋼材をリベットで接合して組み立てたトラス桁を、両岸に埋設された鉄筋コンクリート製橋台上に架設する。 本橋梁では、長さ46フィート(14.02m)幅21フィート(6.4m)、壁厚2フィート6インチ(762mm)の箱形鉄筋コンクリート製基礎を埋設して橋台としている。 橋桁は典型的な曲弦プラット分格トラス構造を採る。通常、この種の桁では対角材の経済的な傾斜角が45°となることから、必然的に背の高い中央部の分格長が長く、両端部の分格長が短く設計される。だが、本橋梁においては、仮設足場および上述したゴライアスクレーンの能力や、部材加工時の生産性向上、それに工事作業の簡略化を考慮して、全体を18に分け、各分格長を30フィート(9.144m)で統一している。また、中央の第9・第10分格の上弦材は水平として桁高を下弦材から80フィート(24.38m)の位置に置き、両端の第2・第17分格の下弦材はそれぞれ第1・第18分格との接合点での高さを40フィート(12.19m)としている。 工事開始当時、奈良電気鉄道では車両限界の小さな16m級の中型電車であるデハボ1000形1両あるいは2両編成での運行を計画しており、また財政的にも決して豊かでなかったことから短尺レールを使用するなど、低規格での路線建設を進めていた。しかし、本橋梁の設計にあたっては財政難であったにもかかわらず、またそうした当初の車両運行計画状況であったにもかかわらず、将来の車両大型化と橋梁そのものの長命化を見越して、その列車荷重や両側構間の間隔については大きな余裕を持たせた寸法・強度が設定された。 すなわち、列車荷重は1901年に示されたクーパー荷重にてE24とし、当時としては破格の60.8t級電車6両編成が橋梁上で行き交う状況を想定して設計し、なおかつその衝撃係数の算定に当たってAREA(American Railway Engineering Association:アメリカ鉄道技術協会)の衝撃係数式を採用したため、本橋の設計衝撃力は現在の標準的な設計の約1.2倍と非常に大きな余裕が与えられている。また、建築限界に影響する両側構間の中心間隔は、やはり複線分としても大きく余裕を持たせ、32フィート(9.75m)幅としている。 本橋は日本では前例のない巨大橋梁であることから、強風時の風圧による風荷重や気温変化による熱応力についても慎重に余裕を持たせて設計された。特に副応力を最小限とするため、径間中央の縦桁に伸縮点を設けている。もっとも風荷重については設計当時のアメリカの基準に依ったと見られ、145kg/mとその後の日本における標準値である300kg/mの半分以下の値として設計されている。ただし、この値については通風時の風下側での遮蔽効果についての計算基準が現在の標準とは異なっており、計算上現在の標準の約6割しか風荷重を受けないとされている。 こうした将来を見据えた配慮により、本橋梁は架橋から80年以上が経過し通過する電車が活荷重の大きな21m級大型電車6両編成となった2011年現在においても、設計衝撃力に大きな余裕を持たせて設計されていたことから活荷重増大分が相殺され、桁そのものについては設計に何ら手を加える必要もないまま、ほぼ完成時そのままの状態での使用が可能となっている。 ==現状== 本橋梁は木津川橋梁、伏見第一・第二高架橋と並ぶ奈良電気鉄道線の重要施設の一つであり、奈良電気鉄道が近畿日本鉄道へ吸収合併され同社京都線となった際にもそのまま承継された。そのため、完成以来実に80年以上にわたりほぼ竣工時のままの姿で、使用され続けている。 ただし、1977年に橋桁を支える主構可動支承のロッカー部分、つまり振動や熱膨張などによるずれ、あるいは伸縮を吸収する重要部品が損傷していることが明らかとなった。このため、1983年に問題となった主構可動支承ロッカー部の新型支承板への交換や、縦桁支承および端対傾構ガセットなどの摩耗部材について補修を実施することで延命が図られている。 本橋梁は2001年10月18日に近鉄澱川橋梁という名称で「国土の歴史的景観に寄与しているもの」として国の登録有形文化財(登録番号26‐0073)に指定されている。 =二股ソケット= 二股ソケット(ふたまたソケット)は、松下電気器具製作所創業当初のヒット製品の一つで、松下幸之助の代名詞である。家庭内に電気の供給口が電灯用ソケット一つしかなかった時代に、電灯と電化製品を同時に使用できるようにしたもの。亀の子束子、地下足袋(貼付式ゴム底足袋)とならび大正期の三大ヒット商品の一つ。 二股ソケットという用語は、松下電器から発売された製品の二灯用クラスター(にとうようクラスター)のことを主に指すが、松下電器創業第二号製品である二灯用差込みプラグ(にとうようさしこみプラグ)のことを指すこともある。本項ではそれらの松下電器から発売された二股ソケット群および松下電器創業期のもう一つのヒット製品、アタッチメント・プラグについても解説する。 ==概要== 大正当時、多くの一般家庭は電力会社と「一戸一灯契約」という契約を結んでいた。「一戸一灯契約」とは、家庭内に電気の供給口を電灯用ソケット一つだけ設置し、電気使用料金を定額とする契約のことである。このため、当時電灯をつけているときには同時に電化製品を使用することができず、不便をこうむっていた。そこで登場したのが二股ソケットである。二股ソケットは、電気の供給口を二股にして、電灯と電化製品を両方同時に使用できるようにした、当時としては画期的な製品であった。この二股ソケットは松下が売り出す以前から東京と京都で販売されており、人気商品の一つであった。しかし、すでに販売されていた製品には改良の余地が多くあり、これに着目して他社製品より使いやすく壊れにくい製品を3割から5割程度安い価格で売り出したのが松下幸之助である。 パナソニックミュージアム 松下幸之助歴史館では「アイロンを使いたい姉と、本を読むために電灯をつけたい妹が口論をしている姿を町で目撃した松下幸之助が、姉妹同時にアイロンと電灯を使うことができるようにと二股ソケットを考案した」とするビデオが放映されており、このほかにも松下幸之助が二股ソケットを考案したとする経緯には、姉妹ではなく姉弟が口論していたところを松下幸之助が目撃したためとする説や、「ある店で電灯をつけたい人と電気ゴテをつけたい人が口論していた」ところを松下が目撃したためとする説や「松下が社員全員で相談していたところ二股にすればよいという案が出た」ためとする説があるものの、二股ソケットが松下によって考案されたとするのは誤解である。二股ソケットは松下が販売を開始するよりも前にアメリカで発売されており、日本でも明治時代からその模倣品が石渡電気などによって販売されていたと考えられている。 ==松下電器における二股ソケット== ===販売の経緯=== 松下電気器具製作所は1918年(大正7年)3月に大阪市北区西野田大開町にて創業した。当初は川北電気から受注した扇風機の碍盤を製造していたが、同年アタッチメント・プラグを売り出す。アタッチメント・プラグはアタチンと呼ばれ、天井の電気の供給口からコードを延長し、手元で電球などを使用するものである。このアタッチメント・プラグは、古電球の口金を利用することなどにより、他社がすでに発売していたものよりも3割程度安く高性能なものであった。そのため、好評を博し、問屋から注文が予想以上に来ることとなった。 アタッチメント・プラグに続いて、松下電気器具製作所は二灯用差込みプラグを売り出す。当時他社から販売されていた二灯用差込みプラグを、さらに使いやすく、故障しにくいように改良し、他社製品よりも3割から5割程度安く売り出したため、売り上げはアタッチメント・プラグ以上のものとなった。発売後しばらくすると、大阪で問屋「吉田商店」を開いている吉田という男から、総代理店になり、親しい「川商店」に東京でも販売させたいという申し出を受ける。保証金と引き換えに吉田商店と総代理店契約を結んだ松下は、この保証金を元手に生産設備を拡張、工場に棚を吊り下げて、棚上、棚下両方で作業ができるようにした。工場を見に来た吉田はこの生産設備を「蒸気船の船室」にたとえている。 二灯用差込みプラグの販売が軌道に乗り始めた矢先、東京の各競合メーカーが製品を値下げする。このため総代理店の契約書に書かれていた販売責任数を守れるか否かが心配になった吉田は、契約の解除を強引に申し出た。保証金を月賦で返済するという条件でこの申し出を受け、販売網を失った松下は、その日のうちから大阪の各問屋へ出向いて取引を交渉し、また月に一度は必ず東京に行くことを決め、販売網を開拓していった。 ===製品群=== ====アタッチメント・プラグ==== 松下電気器具製作所の創業第一号製品。1918年(大正7年)発売。アイロンや電熱器など電化製品のプラグとして用いることで、電灯のソケットから受電する製品。 ===二灯用差込みプラグ=== 松下電気器具製作所の創業第二号製品。ソケットからの電気を二つに分け、一つを電灯用のソケットに、もう一つは電化製品などの電源ケーブルをネジ留めし接続する端子としたもの。ネジ留めされたケーブル接続は捻じ込むプラグとは違い半恒久的な接続であり、日常頻繁に付け外しする使途は想定していない。当時は電化製品の種類が少なく普及しておらず、分岐取り付けされたケーブルの先にはもっぱら電球ソケットが取り付けられ、手元灯や隣部屋などの追加灯として利用された。この利用方法は商品名にも現れており、「二灯」とは本来の天井灯と追加灯を指している。「二サシ」ともよばれる。 ===二灯用クラスター=== ソケット一つからの電気を、二つの器具で使うことができるようソケットを二股に分けたもの。1920年(大正9年)発売。郷土史研究家の足代健二郎は、論文「“二股ソケット”とは何か」内で二灯用クラスターについて「一つは本来の電球、他の一つは前述のアタッチメント・プラグ使用を想定した製品だったのではないか」という説を提示している。左記の説を肯定するならば「二灯用差込みプラグ」の半恒久的なケーブルの端子留めを改良し、適宜付け外しできるようにした後継製品と言える。 =三沢光晴= 三沢 光晴(みさわ みつはる、1962年6月18日 ‐ 2009年6月13日)は、日本のプロレスラー。本名:三澤 光晴(みさわ みつはる)。1981年に全日本プロレスにてデビュー。同団体のトップレスラーとして活躍した後、2000年にプロレスリング・ノアを旗揚げ。レスラー兼社長として同団体を牽引した。 ==経歴== ===少年時代=== 1962年6月18日、北海道夕張市に生まれる。父親は北海道炭礦汽船に勤務していたが、三沢が生まれて間もなく夕張炭鉱が閉山同然の状態となったため、一家は埼玉県越谷市へ転居した。 三沢は子供のころから体が大きく、小学校時代に越谷市が開催した走り幅跳びの大会で優勝するなど、運動神経が良かった。中学校では器械体操部に入部。三沢曰く、器械体操を経験したことがプロレスの飛び技に生きているという。 中学2年の時、テレビで全日本プロレス中継を見て「観るよりやるほうが絶対におもしろい」と直感した 三沢はプロレスラーを志すようになる。三沢は中学校を卒業してすぐにプロレスラーになるつもりだったが、担任の教師と母親にレスリングの強い高校へ進学して基礎を学んでからの方がよいと説得され、足利工業大学附属高等学校に特待生として進学した。レスリング部に入部した 三沢は高校の3年間を学校の寮で過ごし、ハードな練習 に明け暮れる日々を送った。休みは大晦日と正月三が日のみであった。三沢は3年の時に国体(フリースタイル87kg級)で優勝するなど活躍したが、本人にとってレスリングはプロレスラーになるための手段に過ぎず、競技自体を好きになることはなかった。 なお、高校2年の時、三沢は寮を抜け出して全日本プロレスの事務所を訪れ、入門を志願したことがある。この時はジャンボ鶴田に高校を卒業してから来るよう諭され、断念している。 ===全日本プロレス入門=== 高校卒業後の1981年3月27日、全日本プロレスに入団。同年8月21日に浦和競馬場正門前駐車場で行われた越中詩郎戦 でデビューした。入門から5か月でのデビューは全日本プロレス史上最速であった。三沢の1年前に入団したターザン後藤によると三沢は受け身を覚えるのが早く、またたく間に後藤と同じレベルに達したという。もともと全日本プロレスではジャイアント馬場以下、ジャンボ鶴田、タイガー戸口、天龍源一郎、ロッキー羽田、桜田一男などの大型レスラーが重視される傾向にあったが、若手レスラーの指導に当たっていた佐藤昭雄の後押しを受けて頭角を現すようになる。ちなみに、当時の全日本プロレス練習生の月給は5万円であったが、三沢だけは特別に7万円貰っていた。 ===タイガーマスク(2代目)として活躍=== 1984年春、三沢は越中詩郎とともにメキシコへ遠征に出た。数か月が経ったある日、三沢は馬場に国際電話で「コーナーポストに飛び乗れるか」と問われ、飛び乗れると答えたところ帰国するよう命じられた。帰国後、三沢は馬場に2代目タイガーマスクとなるよう命令を受ける。三沢は初代タイガーマスク(佐山聡)のファンから二番煎じ扱いされるのではと抵抗を感じたが、すでに2代目タイガーマスクとしてデビュー戦のスケジュールは組まれていた。 同年8月26日、田園コロシアムでのラ・フィエラ戦で2代目タイガーマスクとしてデビュー。当初はジュニアヘビー級戦線で活躍し、1985年8月31日に小林邦昭を破ってNWAインターナショナル・ジュニアヘビー級王座を獲得 したが、同年10月にヘビー級に転向。1986年にはアメリカに遠征し、4月19日にNWAのジム・クロケット・プロモーションズがルイジアナ州ニューオーリンズのスーパードームで開催したタッグチーム・トーナメント ”Crockett Cup” に御大のジャイアント馬場と組んで参戦、シード出場した2回戦でジミー・ガービン&ブラック・バートを破るも、準々決勝でロニー・ガービン&マグナムTAに敗退した。翌20日にはミネソタ州ミネアポリスのメトロドームで開催されたAWAの ”WrestleRock 86” に出場、AWA世界ライトヘビー級王者バック・ズモフから勝利を収めた。1988年1月2日には後楽園ホールにて、カート・ヘニングが保持していたAWA世界ヘビー級王座に挑戦している。 タイガーマスク時代の三沢は、初代タイガーマスク(佐山聡)が確立した華麗な空中技を受け継ぐ必要に迫られた。これでは、三沢が本来目指すプロレスを前面に出せない(渕正信によると、三沢には「もっと寝技をやりたい」という願望があった)ことを意味し、三沢はそのことに苦しんだ。空中技を多用したことで三沢の膝には負担がかかり、左膝前十字靱帯断裂を引き起こし、負傷箇所の手術を受けるため1989年3月から1990年1月にかけて長期欠場を余儀なくされた。1990年2月10日、新日本プロレス東京ドーム大会に参戦し、天龍源一郎とタッグを組み、長州力&ジョージ高野組と対戦。同年4月13日には日米レスリングサミットに出場し、ブレット・ハートとシングルマッチで対戦している。 全日本プロレス中継のアナウンサーを務めた倉持隆夫は、三沢にはアメリカのプロレス界ではマスクマンは負け役で地位が低いという意識があり、取材の際には本名で呼びかけないとまともな受け答えをしてもらえなかったと回顧している。倉持はタイガーマスク時代の三沢を「劇画のヒーローになったのだから、もっと劇画の世界のように、奇想天外な、自由奔放な発言をして、メディアを煙に巻くぐらいの話をすればいいのに、根が真面目な三沢青年は、最後までマスクマンレスラーになれなかったのだ」と評している。タイガーマスクとなった三沢は自己主張を強く行わなかったため、「口の重い虎戦士」と呼ばれた。 なお、全日本プロレスは「タイガーマスクは1年に1つ新しい技を開発する」と宣伝していたため、三沢がタイガーマスク時代に開発した技の名前には「タイガー・スープレックス84」といった具合に開発年がついている。ちなみに三沢は2代目タイガーマスクとして活動していた最中の1988年5月に結婚したが、その際記者会見で正体を明かし、その上で2代目タイガーマスクとしての活動は続行させるという、覆面レスラーとしては異例の行動に出ている。 ===超世代軍とプロレス四天王の中心として活躍=== 1990年春、天龍源一郎が全日本プロレスを退団しSWSへ移籍、複数のプロレスラーが天龍に追随した(SWS騒動)。この騒動により、全日本プロレスは天龍対鶴田という当時の黄金カードを失うことになった。騒動の最中の5月14日、三沢は試合中にタイガーマスクのマスクを脱ぎ、三沢光晴に戻ると同時にポスト天龍に名乗りを挙げた。三沢は川田利明、小橋健太らとともに超世代軍を結成。1990年6月8日に「全日の『強さ』の象徴だった」 ジャンボ鶴田とのシングルマッチで勝利を収め、1992年8月22日にはスタン・ハンセンを破って三冠ヘビー級王座を獲得するなど、超世代軍の中心レスラーとして活躍した。超世代軍とジャンボ鶴田を中心とする鶴田軍との世代抗争は全日本プロレスの新たな名物カードとなった。とくに超世代軍は高い人気を獲得し、全日本プロレスに大きな収益をもたらした。永源遙曰く、超世代軍の人気は初代タイガーマスクを凌ぐほどであった。三沢はこの時期にエルボーやフェイスロックといった必殺技を習得した。 1992年7月にジャンボ鶴田が内臓疾患により長期休養を余儀なくされたことにより超世代軍と鶴田軍の抗争は終わりを告げ、同時に三沢は全日本プロレスの実質的なエースとなった。超世代軍の活動は1993年に川田が離脱したことで区切りを迎え(正式に解散したのは1998年)、それ以降は小橋・川田・田上明とともにプロレス四天王(後に秋山準が加わり「五強」と呼ばれた)の一人として全日本プロレスの中心を担った。三沢は1992年8月から1999年10月にかけて三冠統一ヘビー級王座を5度獲得、21度防衛。1994年3月5日には全日本プロレスの象徴的存在であったジャイアント馬場からタッグマッチでフォール勝ちし、名実ともに同団体を代表するレスラーとなった。 超世代軍が結成された当時、馬場は凶器攻撃、流血、リングアウト・反則・ギブアップによる決着のないマッチよりも、3カウントフォールによってのみ決着するプロレスを理想とするようになり、三沢たち超世代軍のレスラーは馬場の理想を具現化すべく、大技をカウント2.9で返し続ける激しい試合を行うようになった。プロレス四天王の時代になると、三沢たちは次第に考案者である馬場の想像すら凌駕する激しい試合を繰り広げるようになった。三沢が川田と対戦した1997年6月6日の三冠統一ヘビー級王座のタイトルマッチは、馬場が「あまりにもすごい」と涙したほど激しい試合として知られる。三沢自身は小橋健太との戦いを「極限の力を見せることができる」戦いとして認識しており、両者の試合の激しさは三沢自身が死の恐怖を感じることがあったほどであった。このような、大技を連発するプロレスは四天王プロレスと呼ばれた。レフェリーとして三沢の試合を裁いた和田京平によると、試合中の三沢はどんなに攻撃を受けても音をあげず、「大丈夫か?」と問いかけると「大丈夫」と答えて試合を続ける意思表示をしたという。 ===全日本プロレスの社長に就任=== 全日本プロレスではジャイアント馬場の妻である馬場元子が会社の運営について大きな発言権を有し、試合会場での実務や対戦カードにまで口出しする状況が続いていた。仲田龍(全日本プロレスのリングアナウンサー。後にプロレスリング・ノア統括本部長)によると1996年に三沢は、元子に反発を覚えるレスラーや社員を代表する形で、元子本人に「周囲の人間の声に耳を傾けた方がよい」という内容の忠告をした。それをきっかけに三沢は元子と対立するようになり、1998年には馬場に対し所属レスラーを代表して「元子さんには現場を退いてもらえないでしょうか」と直談判するなど、対立を深めていった。 1999年に馬場が死去すると、マッチメイクなど現場における権限を譲り受けていた三沢 はレスラーの支持を受けて後継の社長に就任した。ただし馬場の死後約3カ月間もの間紛糾した末の人事であった。三沢は就任時に「いいものは採り入れて、今までとは違う新しい風を吹き入れてやっていきたい」と抱負を語ったものの、全日本プロレスの株式は三沢ではなく馬場元子が保有しており、何をするにも自分に断りを入れるよう要求する元子の前に思うように会社を運営することができなかった。和田京平によると元子は三沢が決めたマッチメイクに対して必ず反対意見を出した。また仲田龍曰く、三沢には馬場の運営方針を100%受け継ぐことが求められ、新たな試みを行うことは一切禁じられた。後に三沢はこうした環境が「オレのやろうとすることが、尊敬する馬場さんが作り上げたプロレスを汚すと言われ、更に全日本らしくないと非難されるなら、俺の方から身を引く」と全日本プロレス退団を決意する原因になったと語っている。さらに三沢によると、経営に関する不透明な部分を目にするうちに全日本プロレスに対する不信感が募ってプロレスそのものに愛想が尽きかねない心境になり、そうなる前に退団した方がいいと思うようになった。 ===プロレスリング・ノア設立 ‐ 最期=== 2000年5月28日、臨時取締役会において三沢は社長を解任された。これを受けて6月13日、三沢は定例役員会において取締役退任を申し出た。これをもって三沢は全日本プロレスを退団することになった。三沢はすでに退団後に新団体を設立する構想を抱いており、6月16日に記者会見を開いて新団体設立を宣言した。三沢の当初の構想は居酒屋を経営しながら5人の新人を育成し、3試合ほどの小さな興行を催すというものであったが、三沢以外に9人いた取締役のうち5人が三沢に追随して退任するなど社内から三沢の行動に同調する者が続出、全日本プロレスを退団して新団体に参加するレスラーは練習生を含め26人にのぼった。一方、全日本プロレスへの残留を表明した選手は川田利明、渕正信、太陽ケア、馳浩の4人だけであった。予想より多くの選手が新団体への参加を表明したため三沢は資金繰りに苦しみ、自身の保険を解約し、さらに自宅を担保に金を借り入れて選手たちの給料にあてた。三沢はこの事実を公にすることを嫌っていたが、死後、徳光和夫によってテレビ番組で公表された。 7月4日、新団体の名称は「プロレスリング・ノア」(由来は『創世記』に登場するノアの方舟)に決まったことが発表され、8月5日にディファ有明で旗揚げ戦が行われた。ディファ有明は三沢と行動をともにした仲田龍と関係の深い施設で、プロレスリング・ノアの事務所と道場もここに置かれた。 なお、三沢にはノア旗揚げ後の時期に全日本プロレスの興行に出場する契約があった。三沢は興行主への配慮から7月に全日本プロレスの興行に4日間出場している。13日に愛媛国際貿易センターで行われた試合では観客から「裏切り者」と罵声を浴びせられた。これに対し三沢は「オレの人生をその人が保証してくれるのか。」と怒りを露わにした。 仲田龍曰く、ノア旗揚げ後の三沢の体調は常に悪く、思うように練習ができない日々が続いた。しかし三沢はノアの社長として試合に出続け、GHCヘビー級王座を3度(初代、5代、11代)、また小川良成とのコンビでGHCタッグ王座を2度(2代、8代)獲得。2007年には同王座チャンピオンとして防衛を続け、それまで縁のなかったプロレス大賞MVPに当時史上最年長(45歳)で選出された。また2009年5月6日には潮崎豪とのコンビで第2回「グローバル・タッグ・リーグ戦」の優勝を果たした。 晩年の三沢は頸椎に骨棘ができて下を向くことが困難になり、右目に原因不明の視力障害が起こるなど体力面の不安が深刻化。さらに肩、腰、膝にも慢性的な痛みを抱えていた。頚部は歯を磨いたり、ガウンの襟の部分が当たったり、寝返りを打つ だけで痛みが走る状態にあった。休養をとるよう勧める声もあったが、それに対し三沢は次のように反論し、ノア旗揚げ後のすべての興行に出場した。 地方に行くとタイガーマスクだった三沢、超世代軍で鶴田と戦っていた三沢、つまりテレビのプロレス中継が充実していた頃の三沢光晴を観に来てくれるお客さんがいるんだよ。そういう人たちが、1年に1回しか地元に来ないプロレスの興行を観に来て、俺が出てなかったらどう思う? ― 徳光2010、203頁。 2009年6月9日、東京スポーツの取材に応じた三沢は「もうやめたいね。体がシンドイ。いつまでやらなきゃならないのかなって気持ちも出てきた。」と打ち明けている。それから4日後の6月13日、三沢は広島県立総合体育館グリーンアリーナ(小アリーナ)で行われたGHCタッグ選手権試合に挑戦者として出場(【王者チーム】バイソン・スミス&齋藤彰俊 vs 【挑戦者チーム】三沢&潮崎豪)。試合中、齋藤彰俊の急角度バックドロップを受けた後、意識不明・心肺停止状態に陥った。リング上で救急蘇生措置が施された後、救急車で広島大学病院に搬送されたが、午後10時10分に死亡が確認された。46歳没。三沢が意識を失う前にレフェリーの西永秀一が「動けるか?」と問い掛けた際に、「だめだ、動けねぇ」と応じたのが最後の言葉となった。 6月14日、広島県警察広島中央警察署は、三沢の遺体を検視した結果、死因をバックドロップによって頭部を強打したことによる頸髄離断(けいずいりだん)であると発表した。 週刊ゴング元編集長の小佐野景浩や日本の複数のプロレス団体でリングドクターを務める林督元は、三沢が受けたバックドロップ自体は危険なものではなく受け身もとれており、三沢の死は事故であったという見解を示している。一方でプロレス関係者やファンの中には三沢の死は過激な試合を繰り返したことで蓄積したダメージによって引き起こされたものであり、「頭から落とす四天王プロレスの帰着点」であると捉える者もいた。また、前田日明は「不運な事故ではない」と明言し、「三沢が落ちた瞬間に、全身がバッと青ざめた」という証言を伝えている。 ===死後=== 6月19日に東京・中野区の宝仙寺にて密葬が行われ、200人が参列した。法名は「慈晴院雄道日光」。遺影には「リングの上の栄光の瞬間や社長としてのスーツ姿ではなく、2000年に1度だけ参戦した耐久レースにおいてレーシングスーツを着て笑っている写真」が家族の意向で選出となった。日刊スポーツは「トップレスラーとしてプロレス団体社長として家族として責任を背負い続けてきたので、最後くらいは解放させてあげたい」という家族の配慮があったと報道した。7月4日ディファ有明にて献花式「三沢光晴お別れ会 〜DEPARTURE〜」が開催され、プロレス関係者やファンなど約26,000人が参列した。かつて全日本プロレスのファンであったルポライターの泉直樹は、この現象について以下のように述べている。 そこまで多くのファンが集まったことに私は驚いた。そのうちの何割かは私と同じようにすでにプロレスから遠ざかっているはずだ。そうでなければ、2万5000人ものファンが会場に駆けつけるはずもない。だが、あの当時の会場の熱狂的な雰囲気を覚えている者からすれば、これだけの人数が三沢との別れを惜しむのも当然、という思いもあった。 プロレスから離れた元ファンが大挙して駆けつけたのは、プロレスから離れた者として「自分が見放したから、今回のような事故が起こった」という罪の意識があったのかもしれない。その感情はもちろん、私自身の中にもあった。 ― 泉2010、23頁。 三沢の後任の社長には田上明が就任し、2009年秋には三沢光晴追悼興行として「GREAT VOYAGE ’09 in TOKYO」が9月27日に、「GREAT VOYAGE ’09 in OSAKA」が10月3日に 行われた。 三沢の死の翌日(6月14日)には、大阪プロレスでもレフェリーのテッド・タナベが試合終了直後に急性心筋梗塞を発症し、翌日死亡している。プロレス界で立て続けに発生した2件の問題を受け、6月18日に行われた自民党文部科学部会・文教制度調査会の合同会議において、再発防止策や選手の健康管理について意見交換が行われ、プロレス関係者からNOAH・仲田龍取締役、新日本・菅林直樹社長、全日本・武藤敬司社長が、自民党からは同部会長の衆議院議員・馳浩が出席した。仲田は、会議終了後「レフェリーや対戦相手は、戦いながら相手の状況を観察してもらう技術を身に付けてほしい」と再発防止を強調した。 ===年表=== 1962年6月18日、誕生。1978年、足利工業大学附属高等学校に入学、レスリングに入部。1981年4月、全日本プロレスに入門。1981年8月21日、デビュー(於浦和競馬場正門前特設リング、越中詩郎戦)。1984年3月、越中詩郎と共にメキシコに遠征に出発。メキシコシティなどで試合を行う。1984年7月、極秘帰国し、タイガーマスク(2代目)に変身。1988年5月10日、結婚。1990年5月14日、試合中に自らマスクをとり、素顔の三沢光晴に戻る。1990年6月8日、ジャンボ鶴田とのシングルマッチで勝利を収めた。1992年8月22日、スタン・ハンセンを破って初めて三冠ヘビー級王座を獲得。1994年3月5日、タッグマッチでジャイアント馬場からフォール勝ちを収めた。1999年5月、全日本プロレスの社長に就任。2000年6月、全日本プロレスを退団し、新団体(プロレスリング・ノア)を旗揚げ。2006年9月12日、グローバル・レスリング連盟(GPWA)が発足。初代会長に就任する。2009年6月13日、試合中の事故により意識を失い、搬送先の病院で逝去。46歳没。 ===主な試合=== ====1981年==== 8月21日 ‐ 埼玉・浦和競馬場正門前特設リングにて同期の越中詩郎を相手にプロレスデビュー。10月 ‐ シングル戦初勝利。 ===1983年=== 4月 ‐ ルー・テーズ杯争奪戦で準優勝。 ===1984年=== 3月 ‐ 越中と共にメキシコに遠征に出発。メキシコシティなどで試合を行う。(同年7月極秘帰国し、2代目タイガーマスクに変身) 8月26日 ‐ 田園コロシアムにてラ・フィエラを相手にデビュー戦を行い、8分37秒、タイガー・スープレックス’84で勝利。 ===1985年=== 6月 ‐ 日本武道館にて小林邦昭の持つNWAインターナショナル・ジュニアヘビー級王座にタイトル初挑戦するも敗退(2代目タイガーマスクとして初のフォール負け)。直後から痛めていた左膝の治療と肉体改造(ヘビー級転向をにらんだウエイトアップ)に専念するために試合を欠場。8月 ‐ 両国国技館大会で復帰。小林邦昭の持つNWAインターナショナル・ジュニアヘビー級王座に再挑戦、15分36秒、タイガー・スープレックス’85で勝利しシングル王座初戴冠。10月 ‐ チャボ・ゲレロを相手に王座初防衛。 ===1986年=== 3月13日 ‐ 日本武道館でのジャパンプロレスとの全面対抗戦で長州力と唯一のシングル対決。長州のサソリ固め返しを披露するなど奮闘するも、リキラリアットでフォール負け。3月 ‐ 後楽園ホール大会のリング上でヘビー級転向を正式に表明する。この時すでに保持しており防衛戦を行っていなかったNWAインターナショナル・ジュニアヘビー級王座を返上する(同年7月にこの王座は世界ジュニアヘビー級王座に改称される)。10月 ‐ 猛虎七番勝負が始まる。1988年3月までに7戦が行われ3勝4敗の成績に終わる。 ===1987年=== 7月 ‐ 後楽園ホールにてジャンボ鶴田をパートナーにPWF世界タッグ王座に挑戦、スタン・ハンセン、テッド・デビアス組に勝利し第3代王者になるも8日後のリターンマッチに敗れ王座陥落。 ===1988年=== 1月 ‐ 後楽園ホールにてカート・ヘニングの持つAWA世界ヘビー級王座に挑戦。リングアウト勝ちを収めるがAWAルールにより王座移動はせず。4月 ‐ 両国国技館で開催された「’88格闘技の祭典」のメインイベントに馬場とのタッグで出場、アブドーラ・ザ・ブッチャー、ジョージ・スコーラン組に勝利する。また、同興行にシューティングのエキシビションで出場していた初代タイガーこと佐山聡を激励する形で、初のツーショットが実現している。5月10日に現夫人と結婚。同時にタイガーマスクの正体を公表する。6月 ‐ 仲野信市・高木功・高野俊二・田上明と共に決起軍を結成。9月 ‐ 試合中の怪我で左膝の靭帯を切断。シリーズを数日間欠場しただけで無理をして復帰する。 ===1989年=== 3月 ‐ 日本武道館にてリッキー・スティムボートの持つNWA世界ヘビー級王座に挑戦し敗北。この試合後左膝の怪我が深刻化、手術を受けるために長期欠場に入る。この間に決起軍解散(馬場の「全然、決起してない」という一喝から) ===1990年=== 1月 ‐ リング復帰。2月 ‐ 新日本プロレスのリック・フレアー来日中止騒動の余波から「’90 スーパーファイトIN闘強導夢」に天龍とのタッグで出場。自身初の交流戦に挑む。長州力・ジョージ高野に勝利。4月13日 ‐ 全日本プロレス、新日本プロレス、そしてWWF(現・WWE)との3団体合同による「日米レスリングサミット」を東京ドームにて開催。ブレット・ハートとのシングルマッチを戦い、20分時間切れで引き分ける。4月 ‐ 岡山武道館にて小橋健太(現:小橋建太)をパートナーにカンナム・エクスプレスの持つアジアタッグ王座に挑戦、勝利。第51代王者となった。(5月14日、試合中に自らマスクを取って投げ捨て、素顔の三沢光晴に戻る。) 5月17日 ‐ 広島県立総合体育館にてアジアタッグ王座初防衛後に返上。6月8日 ‐ 日本武道館にてジャンボ鶴田との一騎討ち。これに勝利して下の世代で初めて鶴田越えを達成。8月の強化合宿にて川田・田上・小橋・菊地毅・浅子と共に「超世代軍」結成。田上は鶴田のパートナー指名を受けて超世代軍としての活動をほとんどしないまま離脱。 ===1991年=== 7月 ‐ 石川県産業展示館にて川田をパートナーに世界タッグ王座挑戦、ゴディ&ウィリアムスを破り王座奪取。第17代王者となった。9月 ‐ 日本武道館にて川田をパートナーに鶴田&田上明組と世界タッグ王座防衛戦。フェイスロックにより鶴田から初ギブアップ勝ちを奪う。世界最強タッグ決定リーグ戦に伴い王座返上。 ===1992年=== 8月 ‐ 日本武道館にてハンセンの持つ三冠統一ヘビー級王座に挑戦、勝利し第10代王者に。その直後、鶴田がB型肝炎発症を理由に長期離脱。名実共に全日本のエースになる。12月 ‐ 日本武道館にて川田をパートナーに世界最強タッグ決定リーグ戦最終戦で田上&秋山準組を下し優勝、第20代世界タッグ王者となった。 ===1993年=== 1月、千葉県体育館にて世界タッグ王座防衛戦、ゴディ&ウィリアムス組に敗れ王座転落。4月、川田が超世代軍離脱を表明。いわゆる四天王プロレスが幕を開ける。12月 ‐ 日本武道館にて小橋をパートナーに世界最強タッグ決定リーグ戦最終戦で川田&田上組を下し優勝、第24代世界タッグ王者となった。 ===1994年=== 3月 ‐ 馬場から初のピンフォール勝ち。チャンピオン・カーニバルのダグ・ファーナス戦で喰らったフランケンシュタイナーが原因で歩行困難に。途中リタイアとなった。6月 ‐ 日本武道館にてチャンピオン・カーニバル優勝者の川田利明を相手に三冠統一ヘビー級王座防衛戦、タイガードライバー’91で防衛。7月 ‐ 日本武道館にてスティーブ・ウィリアムスを相手に三冠統一ヘビー級王座防衛戦、ウィリアムスの殺人バックドロップの前に敗れ王座転落。12月 ‐ 日本武道館にて小橋をパートナーに世界最強タッグ決定リーグ戦最終戦でウィリアムス&エース組を下し優勝。第25代世界タッグ王者となった。 ===1995年=== 1月 ‐ 山形県体育館にて川田&田上組を下し世界タッグ王座初防衛。4月 ‐ チャンピオン・カーニバルの試合中に川田の蹴りを浴びて左眼窩骨折の重傷。以後、試合に出続けて、日本武道館での優勝決定戦で田上に勝利して初優勝。5月 ‐ 札幌中島体育センターにてハンセンの持つ三冠統一ヘビー級王座に挑戦、勝利し第14代王者に。6月 ‐ 日本武道館にて川田&田上組に敗れ世界タッグ王座から転落。初めて川田からピンフォール負けを喫した。この試合は1995年度プロレス大賞年間最高試合賞を受賞。12月 ‐ 日本武道館にて小橋をパートナーに世界最強タッグ決定リーグ戦最終戦で川田&田上組を下し2連覇。 ===1996年=== 5月 ‐ 札幌中島体育センターにて秋山をパートナーに川田&田上組の世界タッグ王座に挑戦。勝利し第29代王者になる。札幌中島体育センターにて田上を相手に三冠統一ヘビー級王座戦。田上の迎撃式のど輪落としに敗れ王座転落。9月 ‐ 日本武道館にてウィリアムス&エース組に敗れ世界タッグ王座から転落。 ===1997年=== 1月 ‐ 大阪府立体育会館にて小橋の持つ三冠統一ヘビー級王座に挑戦、40分を越える激闘を制し王座奪取。第17代王者になる。5月、小橋が超世代軍を正式に離脱。10月21日 ‐ 日本武道館にて小橋を相手に三冠統一ヘビー級王座防衛。この年のプロレス大賞・ベストバウト賞に選ばれる大激闘だった。 ===1998年=== 4月 ‐ 日本武道館のチャンピオン・カーニバル優勝決定戦で秋山を下し3年ぶりの優勝。5月 ‐ 全日本初の東京ドーム大会開催。川田に敗れ三冠統一ヘビー級王座を失う。長く続く激闘を考慮し、馬場社長の命を受け暫く休養に入る。8月に復帰。この間自ら志願して一部試合のマッチメイクを任される。9月 ‐ 秋山戦に敗れた小川良成に試合後寄り添い、タッグチーム「アンタッチャブル」結成。超世代軍はこれをもって消滅。10月 ‐ 日本武道館にて小橋の持つ三冠統一ヘビー級王座に挑戦。王座奪回に成功し第20代王者に。この試合でプロレス大賞・ベストバウト賞を2年連続受賞。 ===1999年=== 1月 ‐ 大阪府立体育会館大会で川田利明に垂直落下式ブレーンバスターで敗れ、王座転落。ただし、川田は右腕尺骨骨折のため直後に王座返上。5月 ‐ 1月に死去したジャイアント馬場の引退興行として行われた東京ドーム大会にてベイダーの持つ三冠統一ヘビー級王座に挑戦。王座奪回に成功し第23代王者に。大会後、選手会の強い要請を受け全日本社長に就任、三沢体制が誕生する。8月 ‐ 広島市東区スポーツセンターにてアンタッチャブルとしてノーフィアーの持つ世界&アジア両タッグに挑戦、勝利し第39代世界タッグ王者、第67代アジアタッグ王者に。この時三沢は三冠ヘビー級王座、小川は世界ジュニアヘビー級王座を保持しており、二人で全日本に存在するタイトルを総ナメにした。その後アジアタッグは即返上。10月 ‐ 愛知県体育館にて小橋&秋山組を相手に世界タッグ王座防衛戦、王座転落。日本武道館にて三冠統一ヘビー級王座にベイダーの挑戦を受けるも、敗北し王座転落。 ===2000年=== 4月 ‐ チャンピオン・カーニバルでベイダーを裏十字固めで骨折させ、勝利。5月 ‐ 臨時取締役会議にて代表取締役を解任。6月 ‐ 全日本プロレスを退団、プロレスリング・ノアを設立。8月5日 ‐ プロレスリング・ノア旗揚げ戦開催。10月 ‐ 「アンタッチャブル」を「WAVE」に名称を変更、池田大輔と丸藤正道が加わる。12月 ‐ 有明コロシアムにて因縁のベイダーとのシングルマッチをランニングエルボーで勝利。 ===2001年=== 1月 ‐ 橋本とタッグマッチで対戦。闘魂三銃士と初めて手を合わせる。3月21日、団体公認のベルトGHCヘビー級王座をかけたトーナメント戦が開始。4月、有明コロシアムにて高山善廣をエメラルド・フロウジョンで下し初代GHCヘビー級王者となった。日本テレビにてNOAHの地上波放送が開始。7月 ‐ 旗揚げ1周年興行で念願だった日本武道館に進出。メインで秋山準を相手にGHCヘビー級王座防衛戦に臨むも敗北。11月 ‐ 小川良成をパートナーにベイダー&スコーピオ組からGHCタッグ王座獲得。12月 ‐ 有明コロシアムで高山善廣&大森隆男組に敗れGHCタッグ王座を失う。 ===2002年=== 5月2日 ‐ 新日本との交流戦で新日本東京ドーム大会に参戦し蝶野正洋とシングルマッチで対戦、かつてのお互いの団体の主を象徴する技であるランニング・ネックブリーカー・ドロップや卍固めを掛け合う攻防を展開、30分フルタイムで引き分ける。9月23日 ‐ 「GREAT VOYAGE 2002」日本武道館大会にて高山善廣を下しGHCヘビー級王座奪還に成功、第5代王者に返り咲く。 ===2003年=== 3月1日 ‐ 「Navigate for Evolution 2003」最終戦 日本武道館大会において、完全復帰を果たした小橋建太を相手にGHCヘビー級王座防衛戦に挑むも、小橋のバーニング・ハンマーの前に敗れる。この試合は2003年度プロレス大賞ベストバウト賞を受賞。 ===2004年=== 1月 ‐ 小川良成とのコンビで新日本の永田裕志・棚橋弘至組に流出していたGHCタッグ王座に挑戦、ベルト奪還に成功。7月10日 ‐ ノア初の「DEPARTURE 2004」東京ドーム大会を開催。GHCタッグ選手権試合にて全日本の武藤敬司&太陽ケア組と対戦、防衛に成功。これで三沢は新日本出身のいわゆる闘魂三銃士と全て手を合わせたことになる。 ===2005年=== 1月23日 ‐ 最終戦 神戸大会ワールド記念ホールにおいてスコーピオ&ダグ・ウイリアムス組に敗れGHCタッグ王座を失った。9月18日 ‐ 「2nd GREAT VOYAGE 2005」日本武道館大会において、力皇猛の持つGHCヘビー級王座に挑戦するも敗北。これにより1992年より続いていたシングルタイトル挑戦成功率100%の記録が途切れた。 ===2006年=== 12月10日 ‐ 「GREAT VOYAGE 2006」日本武道館大会において、丸藤正道の持つGHCヘビー級王座に挑戦。雪崩式エメラルド・フロウジョンで勝利し、第11代王者に返り咲いた。 ===2007年=== 12月10日 ‐ GHCヘビー級王座を7度防衛。プロレス大賞最優秀選手を史上最高齢で初受賞。プロレス大賞年間最高試合賞を受賞(12月2日の小橋建太復帰戦)。 ===2008年=== 3月2日 ‐ 森嶋猛のGHCヘビー級王座の挑戦を受けるが、強烈なバックドロップからフォールされて敗れ、8度目の防衛に失敗し王座陥落。 ===2009年=== 5月6日 ‐ 潮*11964*豪とのコンビでグローバル・タッグ・リーグ戦で優勝した。6月13日 ‐ 広島県立総合体育館グリーンアリーナ(小アリーナ)大会で行われたGHCタッグ選手権試合に王者組の齋藤彰俊&バイソン・スミス組に、潮*11965*豪とのタッグで挑戦。試合中、齋藤彰俊の急角度バックドロップを受けた後に意識不明・心肺停止状態に陥り、午後10時10分に広島大学病院で死亡が確認された。46歳没。 ==得意技== ===エルボー・バット(エルボー)=== 右肘を相手の顔面や顎に打ちつける技。三沢を象徴する技で、士道館館長の添野義二から伝授されたといわれる。三沢はジュニアヘビー級からヘビー級に転向後、自分よりも体の大きな相手と渡り合うための技としてエルボーを用いるようになった。小佐野景浩は、タイガーマスクから素顔の三沢に戻った直後の1990年5月26日にタッグマッチでジャンボ鶴田を失神に追い込んだことでエルボーは三沢の代名詞となったと述べている。応用技として走りながら繰り出すランニング・エルボー、左右から交互に繰り出すワン・ツー・エルボー、体を旋回させながら繰り出すローリング・エルボー、リング上から場外にいる相手へ向かって飛びながら繰り出すエルボー・スイシーダ(トペ・エルボー)、座っている相手めがけて(主に後頭部や側頭部)少し離れたところから倒れ込みながらエルボー・バットを決める胴田貫がある。犬猿の仲といわれる川田利明 に繰り出すエルボーは「120%エルボー」と呼ばれる。なお三沢は右肘を保護するために、テニス選手用の保護サポーターに改良を加えたものを着用していた。 ===エメラルド・フロウジョン=== 相手を右肩に担ぎ上げ、相手の頭をマットに向けて逆さまに落とす技。技の名前の由来は、三沢のイメージカラーである緑色をした宝石エメラルドと、相手が滝のように激しくマットに落ちることにある。開発当初は担ぎ上げてから手を持ち替えていたが、落とすまで時間がかかるため持ち替えない方式に改良した。相手の両腕を決めたまま投げ捨てる変形バージョン や、コーナーから雪崩式で放つバージョン、ブレーンバスターの体勢から繰り出すバージョン、ファイヤーマンズキャリーの体勢から繰り出すバージョンもある(詳細はエメラルド・フロウジョンを参照)。 ===タイガー・ドライバー=== 三沢が2代目タイガーマスク時代に編み出した必殺技。リバースフルネルソンの体勢から相手を持ち上げ、一旦手を離して相手を空中で回転させ、同時に自らも開脚ジャンプし、尻餅をつくように着地して相手を背中から叩きつける。若手時代に使っていたダブルアーム・スープレックスを基に考案した。 ===タイガー・ドライバー’91=== 1991年1月26日、後楽園ホールでの田上明とのシングルマッチで初披露。前述のタイガー・ドライバーを、空中で回転させずに腕をロックしたまま、または落とす直前にロックを外して脳天から落とす。着地の方法も尻餅をつくように着地するのではなく膝から着地するという違いがある。元々危険度の高いタイガー・ドライバーをさらに危険にした技で、相手はほとんど受け身がとれずに脳天からマットに落下し、首に大きなダメージを受けることになる。そのため三沢は首に故障を抱えているなど相手にとって危険な場合には落とす際に腕のロックを外し、受け身をとりやすいよう工夫をするようになった。 ===タイガー・スープレックス(タイガー・スープレックス’84、猛虎原爆固め)=== 2代目タイガーマスク時代に習得。後から両腕をチキンウィングの体勢にとらえて、両腕を固めたまま後方に投げる。三沢以前にもタイガー・スープレックスを使うレスラーはいたが、三沢の場合両腕を固める際に相手の背中に手の平をつけず、深く固めることに特徴がある。2003年の小橋建太戦では、花道から場外マットに向け自らも落下しながら投げ捨て式のタイガー・スープレックス(タイガー・スープレックス2003)を出した。 ===タイガー・スープレックス’85=== 2代目タイガーマスク時代の三沢がヒザを故障し、復帰戦の対小林邦昭戦で初公開したオリジナル技。背後から自らの両腕を相手の両脇に差し入れてスリーパーホールド状に相手をクラッチ、片方の下腕部だけが相手の首から後頭部に回される変形のフルネルソン状態で後方に投げる。三沢曰く、小橋建太のスリーパー・スープレックスと類似点がある。 ===ジャーマン・スープレックス(原爆固め)=== 通常のジャーマン・スープレックスのほか、新日本プロレスに参戦していたスタイナー・ブラザーズが日本マットに持ち込んだのをきっかけに、投げ捨て式も使うようになった。 ===ダイビング・ボディ・プレス=== タイガーマスク時代に使い始め、ヘビー級転向後も使い続けた技。通常ダイビング・ボディ・プレスは両手を広げたままコーナーポストから相手に向けて落下するが、三沢の場合空中で1度屈伸して身体を丸めた後、体を広げる。普通に飛ぶよりも落下速度が増すことから、タイガーマスクとしてのデビュー戦の対戦相手だったラ・フィエラが使っていたのを模倣した。 ===ダイビング・ネックブリーカー・ドロップ=== コーナー最上段から放つネックブリーカー・ドロップ。この技でタッグマッチながら師匠ジャイアント馬場からフォールを奪ったこともある。秘策中の秘策的存在だったが、田上明との三冠戦でノド輪落としに切り返されて逆転フォール負けを喫してしまって以降は一度も使用しなかった。まれに、タッグマッチにおいて自身が試合の権利が無い場合、パートナーを援護する目的で繰り出したり、2ndコーナーからつなぎ技として放つこともあった。 ===ドロップキック=== 三沢は試合の序盤に相手にドロップキックを仕掛け、その日の体調、身体のキレや疲労を量るのにも用いた。 ===フェイスロック=== タイガーマスクから素顔に戻った後、1991年から使い始めた技。尻餅をついた相手の背後に立ち、左足で相手の左腕をロック、両手で相手の鼻頭を締める。 ==獲得タイトル== ===全日本プロレス=== 三冠ヘビー級王座 : 5回(第10・14・17・20・23代)世界タッグ王座 : 6回(第17・20・24・25・29・39代)パートナーは川田利明2回→小橋健太2回→秋山準→小川良成。アジアタッグ王座 : 2回(第51・67代)パートナーは小橋健太→小川良成。PWF世界タッグ王座 : 1回(第3代)パートナーはジャンボ鶴田NWAインターナショナル・ジュニアヘビー級王座 : 1回(第17代)チャンピオン・カーニバル : 優勝2回(1995年・1998年)世界最強タッグ決定リーグ戦 : 優勝4回(1992年・1993年・1994年・1995年)パートナーは1992年が川田利明、それ以降は小橋健太。 ===プロレスリング・ノア=== GHCヘビー級王座 : 3回(初代・第5・11代)GHCタッグ王座 : 2回(第2・8代)パートナーはいずれも小川良成。グローバル・タッグ・リーグ戦 : 優勝1回(2009年)パートナーは潮*11966*豪。 ===プロレス大賞=== 1982年、新人賞1985年、敢闘賞1990年、殊勲賞1991年、最優秀タッグチーム賞(パートナーは川田利明)1992年、特別大賞1993年、最優秀タッグチーム賞(パートナーは小橋健太)1994年、最優秀タッグチーム賞(パートナーは小橋健太)1995年、年間最高試合賞(川田利明&田上明 vs 三沢光晴&小橋健太)1997年、殊勲賞、年間最高試合賞(三沢光晴 vs 小橋健太)ダブル受賞1998年、年間最高試合賞(三沢光晴 vs 小橋健太)2003年、年間最高試合賞(三沢光晴 vs 小橋建太)2007年、最優秀選手、年間最高試合賞(三沢光晴&秋山準 vs 小橋建太&高山善廣)2009年、特別功労賞 ==入場テーマ曲== タイガーマスクのテーマ(演奏:寺内タケシとブルージーンズ) ‐ 2代目タイガーマスク時代スパルタンX(作曲:Keith Morrison) ‐ ジャッキー・チェンの映画「スパルタンX」の主題歌。全日本時代当初はノーマル曲だったが、徐々に効果音やアレンジを加えた。サビで明るい曲調に変わってしまうため、マイナーコード基調のAメロ、Bメロを原曲より1回多くループしている。ノア移籍後はピアノの前奏を付け加えた「ノア・バージョン」を使用。入場時には観衆が音楽に合わせて「みっさーわっ! みっさーわっ!」と合いの手を入れていた。2009年3月1日の日本武道館大会より、ニューバージョンが使用された。 なお、この曲は三沢よりも早く上田馬之助が入場曲として使用していた。全日本時代当初はノーマル曲だったが、徐々に効果音やアレンジを加えた。サビで明るい曲調に変わってしまうため、マイナーコード基調のAメロ、Bメロを原曲より1回多くループしている。ノア移籍後はピアノの前奏を付け加えた「ノア・バージョン」を使用。入場時には観衆が音楽に合わせて「みっさーわっ! みっさーわっ!」と合いの手を入れていた。2009年3月1日の日本武道館大会より、ニューバージョンが使用された。なお、この曲は三沢よりも早く上田馬之助が入場曲として使用していた。その他、映画「惑星大戦争」のサントラ曲や、アニメ「メガゾーン23PART II」のサントラ曲「レッド・ゾーン・ファイター」、佐野元春の「約束の橋」を使用していたこともある。 ==プロレス観== ===受け身=== 三沢は「受け身の天才」と評される。三沢自身、「相手の得意技をわざと受けて身体的な強さをアピールする」ことがプロレスの最高の技術であり、それは「受け身への確固たる自信があるからこそ体現できる」ことだと述べている。三沢は相手の得意技をあえて受けて相手の特徴・長所を十分に引き出し、その上で勝利を目指すことが他の格闘技にはないプロレスの特徴であるとしている。 一方で三沢は受け身をとりきれない技が多くなっているとも述べている。受け身の取りにくい技としてフルネルソン・スープレックス、ハーフネルソン・スープレックス、タイガー・スープレックス、バーニング・ハンマー、エクスプロイダーなどを挙げている。三沢は近年のプロレスについて、「1試合のうちに脳天から落とされる類の大技を何度も受け、それが毎日のように続く」ことからダメージがどんどん蓄積されると述べ、自身の首にもダメージが蓄積していることを認めていた。上述のように「天才」と称されるほど受け身において高い評価を得ていた三沢がリング禍によって死去したことは、世間に大きな衝撃を与えるものであった。 受け身の巧拙は、投げられた際にどのようにマットに着地するかを見ればわかるとしている。受け身の下手なレスラーは腰からマットに落ち、次いで後頭部を打ち付ける。そのため、マットにぶつかる音が2回聞こえる。受け身をとりきれない投げ技に対しては、投げられる瞬間に自ら飛んで衝撃を和らげることがダメージを和らげるコツとしている。三沢曰く、オーバーアクション気味に技を受けるレスラーは受け身が上手い(ハーリー・レイス、リック・フレアー)。自ら飛ぶという方法は投げ技だけでなく、ドロップキックやラリアットなどの打撃技にも有効としている。 渕正信は、三沢の受け身の優れた点は、通常レスラーは背中でとるのに対し、首筋の下でとる点にあると評している。 ===プロレスラーの資質について=== レスラーに求められる資質として、前述したように相手の得意技をあえて受けて相手の特徴・長所を十分に引き出し、その上で勝利を目指すための心身の強さを挙げている。また、自分の体型に惚れこむナルシスト的な要素があったほうがトレーニングに打ち込みやすいと述べている。 ===パフォーマンス=== 一流のプロレスラーは「自然と滲み出てくる個性の表れ」がそのままパフォーマンスになることが多いと考え、マイクパフォーマンスをしたり無理に怖い表情を作るといった意図的なパフォーマンスを好まなかった。三沢が初めてリング上で自らマイクを握ったのは、1995年10月に小橋と対戦した後のことである。 徳光正行によると、三沢は試合中に倒れた相手を引き起こす際、髪の毛を掴んで行おうとすることを「下品だ」と嫌っていたという。 ===技について=== 三沢は自身の技について、ヘビー転向後は自分よりも体が大きく体重の重い相手と戦うことが多くなったため、力ではなく技のキレ、落とす角度を重視するようになったと述べている。他のレスラーが使用する技のうち印象に残るものとしては、ジャンボ鶴田のバックドロップ、スタン・ハンセン、小橋建太のラリアットを挙げている。 三沢は「やっている方が楽しくないといけない」という考えから従来プロレス界にあった「若手は派手な技を使ってはいけない」という暗黙のルールを排し、若手であっても大技を使い、先輩レスラーの持ち技を使うことも許した。三沢自身も小川良成にタイガー・ドライバーを使うことを許可し、技の繰り出し方が上手いと評価している。 ==エピソード== ===緑色=== 緑は三沢を象徴する色として知られる。三沢はタイガーマスクから素顔に戻った後、緑のロングタイツ を着用した。これは三沢が好きだった正統派外国人レスラーのホースト・ホフマンに倣ったといわれることが多い が、佐々木賢之によると実際には知人の助言がきっかけで着用するようになった。緑のロングタイツが定着する前に数回ではあるが赤や青のロングタイツを着用したこともある。2000年にプロレスリング・ノアを設立すると、他の団体にはない色という理由から緑色のマットを使用した。 ===人柄=== 全日本時代にジャンボ鶴田の付き人を務めたことがあったが、鶴田は干渉をあまりしない性格で、その影響から三沢自身も付き人に対し雑用を多く言いつけたり小言を言うことがなかったという。徳光によるとこれは三沢自身が新人時代に先輩から理不尽な仕打ちを受けた経験から、「自分は下の人間に、おなじようなことは絶対にしない」と心に誓ったのだという。 三沢はしばしば男気があると評される。そのような性格を物語るエピソードの一つに、冬木弘道(サムソン冬木)の引退興行が挙げられる。若手時代、三沢は冬木と仲が良かった。1990年に冬木がSWSへ移籍したことで両者の交流は途絶えたが三沢の全日本プロレス退団・ノア旗揚げをきっかけに再び接点が生まれ、2002年4月7日にシングルマッチで対戦した。翌8日、冬木は医師から大腸癌であると宣告され、18日に手術を行いプロレスラーを引退することを決意した。当初冬木は9日の冬木軍興行での試合を引退試合にするつもりで試合後記者会見を行ったが、この事実を知った三沢は急遽6日後のディファ有明を押さえ、ノアの主催で引退興行を行い、5月5日に予定されていた新団体・WEWの旗揚げ興行にも協力。三沢はその収益の全てを冬木に贈ったとされ、冬木は「俺の人生で、三沢光晴に出会えたことが最高の出来事だった」と述べたという。 仲田龍は、三沢を損得勘定で動かない人間と評している。ノアの経営者として三沢は、休養中の給料保障、年間の最低保障を定め、所属レスラーを金銭面でバックアップすることに留意した。全日本プロレスの社長時代には、会社の財政状態が厳しいにもかかわらず所属レスラーがかける保険の保険料を全額負担する決断を下している。 徳光の読んだ弔辞では怪我のために廃業・休業を余儀なくされたレスラーの生命保険作りなどに力を入れ、筋の通らない事をした者がいれば、通話で当事者を叱るなど私欲よりも人のことを第一に考える人格者として多くのレスラー、著名人からも尊敬を集めていた。 ===試合で見せた癖=== 覆面をつけ視野が狭い状況で試合を続けた影響から、ロープに振られると下を向いて走る癖があった。 三沢には額の汗を指を使ってぬぐう癖があった。この動きは「汗ワイパー」と呼ばれ、モノマネ芸人のイジリー岡田が三沢のモノマネとして取り入れている。 ===家庭環境=== 三沢によると父親は酒乱で家庭内暴力がひどく、母親を包丁で刺したこともあった。幼少期の三沢はいつも「はやく大きくなって親父をぶん殴ってやろう」と考えていたという。三沢が小学校1年の時に両親は離婚し、父親とは音信不通になった。三沢はプロレスリング・ノアを旗揚げした時期に父親に対し、「今さら俺たち家族の前に顔を現すのだけはやめてくれ」と心情を吐露している。 ===趣味=== ヒーローものが好きで、徳光正行によると三沢の部屋はヒーローもののグッズで溢れていたという。葬儀の際には三沢が好きだったヒーローものの曲が多くかかった。漫画も好きで、「少年誌から青年誌まで、ほとんど全てを自分で買っていた」という。プロレスを描いた漫画の中では『1・2の三四郎』について、「プロレスの練習風景を、ここまでリアルに描いた作品は他にないね」と高く評価していたという。その他、学園もののテレビドラマや、ジャッキー・チェンやトム・ハンクス主演の映画を好んだ。 動物好きで、ネコ、イヌ、鳥、カメ、ウサギなどを飼っていた。 酒場が大好きで晩年夜中まで飲んでいたせいか、脂肪がつきすぎそれが死亡を早める原因にもなった。札幌に行った時は、必ずススキノに遊びに行くのを楽しみにしていた。 スキューバダイビングを好み、年に1度は必ずハワイに行ってダイビングを行っていた。 錦糸町や晴海のゲームセンターで、クイズマジックアカデミーをプレイしている姿をたびたび目撃されていた。本人によると使用キャラ及びお気に入りキャラはユリで、その理由は「胸がDカップ程度で臍がエロいから」。 下ネタが大好きで、親しい人間にはよくそういった、ちょっと下品な冗談を言って笑わせていたという。明石家さんまは「社長(三沢)が来ると(下ネタがえげつなすぎて)放送出来なくなる」と当人を目の前にして語った事もある。 ===臓器移植への支援活動=== ノアの興行で募金活動を行う など、日本移植支援協会の活動を10年近くに渡り支援していた。三沢が臓器移植に大きな関心を持つようになったのは、ジャンボ鶴田が肝臓移植手術中に死去したことがきっかけであった。三沢の死の直後の2009年6月18日、衆議院において臓器移植法の改正A案が可決されたが、この日は三沢自身の47歳の誕生日でもあった。なお、三沢自身は臓器提供は生体・死後いずれも行っておらず、献体などもしていない。。 ==関連書籍== ===著書=== 三沢光晴, 蝶野正洋『胎動 プロレス新世紀論』(アミューズブックス, 1999年)ISBN 4906613438『船出 三沢光晴自伝』(光文社, 2000年)ISBN 4334972756『理想主義者』(ネコ・パブリッシング, 2004年)ISBN 4777050475 ===評伝=== 長谷川博一『チャンピオン 三沢光晴外伝』(主婦の友社、1999年)ISBN 9784072245675中田潤『三沢さん、なぜノアだったのか、わかりました。』(BABジャパン出版局、2000年)ISBN 9784894224100 =伊計島= 伊計島(いけいじま)は、沖縄県うるま市に属する島で、沖縄本島中部の東部海岸に突出する勝連半島の北東約10kmに位置する。 ==地理== 面積1.72km、周囲7.49kmの島で、琉球石灰岩に覆われている。沖縄諸島の内、与勝諸島を構成する太平洋の有人島で、金武湾の東側に位置する。2012年4月現在の島内人口は318人。全体としては、長さ約2kmの北東 ‐ 南西へ向いた長方形を成し、最高標高は49mで、島の南西端の独立した丘陵が最高峰(地図)となる。そこに伊計グスクが鎮座し、グスク時代において、この丘陵は離れ小島であったと考えられる。その後に砂州が形成され、伊計島と繋がる陸繋島となったとされる。この丘陵を除く大部分は、標高約25mの平坦な地形をなし、北西から南東に向かって勾配が緩やかである。島の東海岸以外は、標高約20mの海食崖で囲まれ、海岸沿いはアダンの木々で取り巻かれている。伊計グスクの石灰岩丘陵にはオオハマボウやクロツグ、リュウキュウツチトリモチが自生している。伊計島と宮城島との間の海峡は「フーキジル水道」と呼ばれ、潮の流れが速い。 伊計島は「伊計」の地区のみで構成され、島の南側に集落を形成している。琉球王国時代の伊計村は当初、勝連間切に属していたが、1676年に西原間切、同年には平田間切、そして1687年からは与那城間切へ移管された。琉球処分で沖縄県が設置された後の1896年(明治29年)に中頭郡、1908年(明治41年)に同郡与那城村の大字「伊計」となる。同村は1994年(平成6年)に町制施行して与那城町に、2005年(平成17年)4月1日に近隣の自治体と合併・改称し、うるま市となる。 ==歴史== 方言で「伊計」は「イチ」といい、伊計島は「イチジマ」、「イチハナリ(伊計離)」とも呼ばれる。東恩納寛惇の『南島風土記』では、「イチ」は「遥かに遠い(場所)」という意味で説明しているが、「生々し(いけいけし)」からの由来ともいわれる。『正保国絵図』には「いけ嶋」、『ペリー提督沖繩訪問記』には「イチェイ島 (Ichey Island )」とある。 ===先史時代からグスク時代=== 伊計島には貝塚時代からグスク時代の遺跡が多数発見されている。1986年(昭和61年)8月16日に国の史跡に指定された「仲原(なかばる)遺跡」(地図)は、島の中央部からやや西寄りに位置し、南北約50m、東西約100mの範囲に及ぶ。1978年(昭和53年)に、標高約20mの平坦な土地で遺跡が発見され、翌年から本格的な発掘調査が行われた。約2,500年前の貝塚時代中期(弥生時代前期に相当)の集落跡で、石垣で組まれた竪穴式住居跡19軒と、その住居跡を利用した室内墓も検出された。また土器や石斧、サメの歯から作られた装飾品も出土している。遺跡から約300m離れた海岸から湧出する「犬名河(インナガー)」で、生活用水を確保していたと考えられる。 伊計島の最南西部の「伊計グスク」は、琉球石灰岩の塔上部に位置する。『おもろさうし』には「いけのもりくすく」、『海東諸国紀』には「池具足城」と記され、グスクの東側には野面積みにされた石垣が残存している。貝塚時代後期の土器やグスク時代の陶器、当グスクの南側では白磁器の欠片が出土している。その他にも、集落地の海岸近くに存在する「伊計貝塚」(地図)や、島西側に貝塚時代後期の「伊計大泊貝塚」(地図)やグスク時代の遺構も確認されている。 ===琉球王国・明治以降=== ある日、崖下から登ってきた犬が水で濡れているのを不思議に思った島民が、その犬が元来た崖下を探索したところ、水が湧き出ていたという。島を襲った干ばつから農民は救われ、この泉は「犬名河(インナガー)」(地図)と呼ぶようになったという。伊計島に上水道が整備されるまでは当泉が唯一の水源であった。畑地の多い島であったが、島中央部の「大泊泉(ウフドゥマイガー)」と西海岸の「犬名河(インナガー、犬那泉とも)」という井泉周辺に水田があったとされる。伊計島は長期にわたって水不足に悩まされることもあり、1825年に犬名河へ通じる道路が崩落し、隣の宮城島から船で水を調達しなければならなかった。その後の1830年に犬名河への道路を修復、さらに1861年には、ため池や灌漑用水路の整備も行われた。しかし、崖下と地上までの約150段の石段を往復するのは重労働であった。この心情を詠んだ琉歌が以下に残され、水くみの辛い伊計島に嫁ごうかと苦悩している歌である。戦後は沖縄本島から上水道が敷かれるまで、犬名河からポンプで湧水をくみ上げ、アメリカ軍と共用で使用していた。この泉は、1995年(平成7年)6月14日に「うるま市指定文化財」に指定された。 伊計離嫁やなりぼしややあすが犬那川の水の汲みのあぐで訳 : 伊計島の嫁は、なりたくはあるけれど、犬那川という井戸から水を汲むのが大変難儀で、どうしようかと心が迷う。 ― 読人しらず、『琉歌全集』 871首目「のんやる節」 明治以降は山原船を用いて、北は国頭(沖縄本島北部)や奄美群島、南は先島諸島まで交易範囲を拡大していた。その縁で、国頭村の安田(あだ)や安部(あぶ)地区との交流を行っている。大正末期から昭和初期にかけて、養蚕業が盛んであった。沖縄戦終結直後の1949年(昭和24年)までは、島で定められた規則に反した者は「札」を持たされ、次の違反者が出るまで毎日2銭ずつ徴収していた。1967年に、アメリカの石油企業ガルフ社は、伊計島と隣の宮城島を石油基地建設の予定地として検討していた。備蓄施設を宮城島に、また製油所を伊計島に建造する計画で、伊計島の島民はガルフ社誘致に対して積極的であった。しかし、宮城島では賛成・反対派に分かれ、その後ますます両者は対立し、終いには双方による傷害事件にまで発展した。反対派へ説得を試みたが、合意は受け入られず、宮城・伊計島への誘致を断念せざるを得なかった。後にガルフ社は平安座島への進出を決定し、石油基地の建設・操業を開始した。1982年(昭和57年)に宮城島と伊計島をむすぶ「伊計大橋」が架橋された。1902年(明治35年)に隣接する宮城島の宮城尋常小学校から独立し、伊計尋常小学校が設立され、後に伊計小中学校となった。しかし、平安座・宮城・浜比嘉を含む4島の小中学校が廃止され、2012年(平成24年)3月31日に閉校、翌月には平安座島に「うるま市立彩橋小中学校」が開校した。その後の2016年4月には、旧伊計小中学校の校舎を利用して、カドカワグループがN高等学校沖縄伊計本校を開校した。 ==産業== 伊計島は半農半漁の島で、サトウキビを主に生産している。他にもメロンやスイカ、ピーマン、トマト、さらに葉タバコも栽培されている。1979年(昭和54年)からは土地改良整備が行われ、整然と区分けされた農地を上空から見える。1981年(昭和56年)の伊計漁港における漁獲高は約15トンで、アジ・タイ・イカなどが水揚げされ、モズクやマダイの養殖も行われている。また島北西沖に、沖縄県唯一の定置網の漁場があり、カツオ漁が盛んである。昭和初期は獲れたカツオを鰹節に加工する工場があったという。伊計島が追い込み漁発祥の地であるとする説もあるが、確証はない。 島西海岸の伊計ビーチ(地図)と大泊ビーチ(地図)は海水浴場として利用されている。島北部にはアメリカ軍の保養施設を修築したリゾートホテルが存在したが、2012年2月に閉鎖された。2013年に施設は別の会社に引き渡され、隣接するサーキット場も当会社に移譲された。 ==文化== かつての伊計島では、死者の命日やお盆に祭祀を行う習慣が無かったため、1769年に役人が祭事を始めるよう指導したという。その際、位牌を神主と見立てて祀ったとされる。『琉球国由来記』には、伊計島には3つの御嶽が存在し、これら御嶽で執り行われる祭事は島内のノロにより管理されていた。『おもろさうし』には、伊計グスク近くの海岸で船の進水式を見事にやり遂げたのを見て褒め称える「おもろ」が残されている。伊計グスク北側の海岸は「イビヌクシ(イビの後ろ)」と呼ばれ、祭祀が催されたが、その後は伊計ビーチとなっている。当地ではハーリー、豊作豊漁を祈願するウスデークなどの行事が開催されている。伊計島と砂州でつながる伊計グスクへの参拝は、付近の伊計港から遥拝する。また「カミアシャギ」は、海から訪れた神をもてなす場所とされ、他にも神を祀る「掟殿内(ウッチドゥンチ)」や「地頭火ヌ神(ジトゥヒヌカン)」という祭殿もある。 伊計島とその周辺離島で構成される与勝諸島の方言は、沖縄中南部方言の一つに含まれ、発音・文法・語彙もさほど差異は見受けられない。伊計島では使用されなくなった言葉で、例えば「おじいさん」は「ンプー」または「ンブスー」と言った。琉球古典音楽の楽曲の一つである「伊計離節(いちはなりぶし)」は、もともとは勝連半島で歌われた民謡で、伊計島やその周辺離島の情景を歌詞にしている。 ==交通== 伊計大橋が完成するまでは、沖縄本島の屋慶名港から船で片道約2時間を要し、宮城島北東部の池味港から渡し船が出入りしていた。1977年(昭和52年)に架橋準備に関わる調査が行われ、1979年(昭和54年)に着工、1982年(昭和57年)に伊計大橋(地図)が完成・開通した。橋の長さは約198mで、総工費は約10億円に上った。当橋の完成により、沖縄本島から平安座・宮城島を経由して、自動車での往来が可能になった。また1997年(平成9年)には浜比嘉島と平安座島を結ぶ浜比嘉大橋も完成したため、浜比嘉島との間も自動車での往来が可能になっている。 うるま市では本島の屋慶名地区とこれらの各島を結ぶ路線バス(うるま市有償バス)を運行している。 =北上特定地域総合開発計画= 北上特定地域総合開発計画(きたかみとくていちいきそうごうかいはつけいかく)とは、東北地方最大の水系である北上川に対し主に治水・農地灌漑の両面から多角的に開発し、北上川流域の経済発展を目指して1950年(昭和25年)に政府によって策定された総合的な地域開発計画である。日本の河川開発においてモデルとなったTVAにならいKVA(Kitakami Valley Authority)とも呼ばれているがこれは多目的ダムによる河川総合開発事業がこの計画の柱であったからであり、このことから日本における代表的な河川総合開発の例として「日本のTVA」とも呼ばれている。 ==地理== 北上川は長さ約249キロメートル、流域面積10,150平方キロメートルと岩手県・宮城県の大部分をカバーする東北地方最大の大河である。流域には岩手県の県庁所在地である盛岡市をはじめ花巻市・北上市・奥州市・一関市、宮城県栗原市・登米市・大崎市・石巻市があり流域を潤す「母なる川」でもある。また流域は肥沃であり古くはアテルイなど蝦夷の本拠、下って奥州藤原氏の本拠として、また仙台藩伊達氏62万石あるいは盛岡藩南部氏20万石の基盤として重要な穀倉地帯でもあった。だが有史より度々洪水をもたらす河川でもあって、その対策もまた為政者にとっては重要な課題であった。 洪水をもたらす最大の要因は北上川流域の地形的な要因が挙げられる。北上川本流自体は勾配が緩やかな河川であるが、支流の河川は何れも急勾配であり大雨が降れば一挙にその水は北上川沿岸の低地に押し寄せ、かつ長い間水が滞る。これに加えて一関市から登米市までの約18キロメートル区間は北上川が急激に川幅を狭くする。この狭窄部を「北上川癌(がん)狭窄部」と呼ぶが、一関市までは広大な平野となっているために狭窄部が天然ダム的な働きをしてしまうことで、岩手県内の洪水は一関市付近で一度行き場を失うという「バックウォーター現象」が起こる。このため特に一関市周辺は上流からの洪水が「貯水」されてしまい洪水になると被害は甚大なものとなっていた(参考・1990年(平成2年)9月洪水における一関市の浸水状況写真)。 こうした場合通常は狭窄部を広げる「開削工事」が行われるが狭窄部は18キロメートルもの長距離であり、限定した狭窄箇所に行うケースが大多数である開削工事では当時の技術から到底不可能な事業であった。従って北上川の治水においては如何に洪水の水量をコントロールして被害を防ぐかに焦点が当てられていた。 ==沿革== 北上特定地域総合開発計画の策定に至るまで、北上川は様々な河川改修や開発がなされていた。最終的にはこれらが一体化されていくのであるが、ここでは計画策定までに行われた事業に関して詳述する。 ===北上川改修事業(1880年〜1934年)=== 北上川は明治時代に入って本格的な河川改修工事が手掛けられた。当時河川行政を司っていた内務省は全国の主要な河川を対象に河川改修を行っていたが、北上川については1880年(明治13年)から内務省直轄による河川改修がスタートした。当初は堤防の建設や川の流路を修正する工事が行われており、1902年(明治35年)まで実施された。その後北上川の河口を付け替える計画が立ち、1911年(明治44年)から「北上川改修事業」として施工が開始された。これは従来石巻市で仙台湾に注いでいた北上川を追波湾に転流させるというものであり、追波川を大幅に改修して河道を広げ北上川本流とし、旧流路は「旧北上川」とし1922年(大正11年)には分流部に鴇波洗堰・脇谷洗堰を設けて水量を調節し、併せて水運の便を図るため脇谷閘門を設置した。これにより上流部から流れ来る洪水は追波湾へ流して一関市より上流の洪水を防ぎ、蔵王連峰や栗駒山系より流れ来る迫川(はさまがわ)・江合川(えあいがわ)の洪水は旧北上川へ流すことで石巻市など下流部の洪水を防ごうとした。 この他迫川については蛇行を修正して直線化、江合川については古川市(現・大崎市)で放水路を建設し鳴瀬川へ洪水の一部を導く「新江合川」を開削。こうした河道改修によって洪水調節を行おうとした。これら一連の事業は1934年(昭和9年)に完成し、北上川下流部における治水は一応終了した。 ===北上川五大ダム計画(1938年〜)=== 北上川下流の河川改修が進む一方で、岩手県内の北上川流域における洪水量を削減するための計画も進められた。この当時、秋田県出身で東京帝国大学教授・内務省土木試験所所長の職に就いていた物部長穂は日本におけるその後の河川開発に重大な影響をあたえた論文を1926年(大正15年・昭和元年)に発表した。それは個々の河川を単独で改修するのではなく、水系を基準として本流・支流の区別なく上流から下流まで一貫して開発し(水系一貫開発)、それまで多種多様な事業者が別個に実施していた治水・利水事業を統合させて総合的かつ効率的に行うという趣旨のものであった。これは河水統制計画案と呼ばれ、その根幹事業として天然の湖沼および大貯水池を有するダムの建設が洪水調節としては有利であると主張した。 ここにおいて多目的ダムという概念が登場するが、物部のこうした主張はパナマ運河建設に日本人で唯一参加し、大河津分水や荒川放水路の建設・改修に携わった内務技監・青山士(あおやま・あきら)によって採用され、1937年(昭和12年)に予算が付いて正式な国家プロジェクトとして利根川など全国64河川で調査された。北上川もその中に入っており調査の結果翌1938年(昭和13年)に「北上川上流改修計画」としてまとめられた。 計画の中で、今までの北上川による水害で最も洪水の被害が大きい一関市狐禅寺(こぜんじ)が計画高水流量の基準点と定められ、毎秒7,700トンの洪水を2,100トンカットし毎秒5,600トンとする治水計画が決定した。このカット分を主にダムと遊水池によって賄うこととなり、一関市に遊水地(後の一関遊水地)を計画、さらに北上川本流を始め岩手県内の主な支流である雫石川(しずくいしがわ)・猿ヶ石川(さるがいしがわ)・和賀川(わがかわ)・胆沢川(いさわがわ)の五河川に治水ダムを建設する計画を立てた。これが後年北上特定地域総合開発計画の根幹事業となる、いわゆる「北上川五大ダム計画」の出発点である。その第一弾として猿ヶ石川へのダム計画が進められて1941年(昭和16年)7月、国直轄ダムとしては日本で最初の例となった猿ヶ石堰堤(さるがいしえんてい)、後の田瀬ダムが高さ76.5メートルの重力式コンクリートダムとして着工されたのである。 ところが着工したこの年に太平洋戦争が始まり、次第に戦況は日本に著しく不利となっていった。物資の欠乏を如何に補充するかが喫緊の問題であった政府は1944年(昭和19年)8月に国内にある全ての人的・物的資産を戦争遂行のために総動員するための法令として「決戦非常措置要領」を発令した。これに伴い田瀬ダムの建設資材が極端に欠乏して施工の継続が困難となり、「要領」発令と同時にダム事業は中止を余儀無くされ「五大ダム計画」も一旦頓挫する形になった。 ===国営農業水利事業(1947年〜)=== 敗戦後の日本において最も懸念された問題は極端な食糧不足であった。闇市などで糊口を凌いでいた国民は次第に不満を蓄積させ、それは1946年(昭和21年)5月19日に「食糧メーデー」という形で爆発した。東京都世田谷区民約25万人が皇居へ押し寄せいわば革命前夜を思わせる光景であった。背後にある日本共産党の政治運動化に危惧を感じた連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)はいわゆる「赤化」を阻止するため運動の弾圧や食糧の放出を行うと同時に、全国各地で農地の新規開墾を行うことで食糧増産を図り、国民の不満を逸らそうとした。 こうした政治的背景もあり1947年(昭和22年)より農林省(現・農林水産省)は大井川(静岡県)・九頭竜川(福井県)・野洲川(滋賀県)・加古川(兵庫県)の四河川で「国営農業水利事業」を展開した。農地開墾の水源を開発することでかんがい用水を供給し、食糧増産を軌道に乗せるというのが目的である。北上川水系においては内務省が「北上川五大ダム計画」を一部変更して田瀬ダムを放置したまま、胆沢川の石淵ダム(いしぶちダム)を優先的に建設させる方針を採り、1945年(昭和20年)秋より建設に着手した。これは石淵ダムの建設が、田瀬ダムに比べかんがい効果が大きいという理由による。一方農林省は紫波郡で北上川に合流する滝名川に農林省直轄ダムを建設する計画を立てた。山王海ダム(さんのうかいダム)である。 北上川本流は豊富な水量を有していながら、農業用水や飲み水としては全く使うことの出来ない河川であった。これは源流部にあり硫黄を産出する松尾鉱山から流れ出る坑内水が原因である。この水は硫酸によって強酸性を示し、利用すればイネの枯死を招くことから目の前に豊富な水がありながら流域の農民は大きなジレンマを抱えていた。止むを得ず支流の河川を使ったが農地面積に対して流域面積が狭いために十分な水量が行き渡ることは有り得なかった。寿庵による「寿庵堰」など創意工夫はされていたが根本的な解決にはならず、流域各地で水争いが頻発した。特に紫波郡では「志和の水喧嘩」と呼ばれるほど激しく、死者が出るほどの血で血を洗う凄惨なものであったと伝えられている。また、かんがい用ため池の建設に際し当時迷信が幅を利かせていたこともあり、水神を鎮めるための生贄を建設時に捧げるということもあった。胆沢郡では千貫石堤(現在の千貫石ダム。胆沢郡金ケ崎町)建設で「お石」という女性が千貫で買われ、埋められたという悲話も残っている。大正時代には稗貫郡・和賀郡でも平賀千代吉によって農業用ダム建設促進決議が採択されるなど、かんがい専用ダム建設は地元の悲願でもあった。 農林省は滝名川に当時「東洋一」の規模を有する山王海ダムを1953年(昭和28年)に完成させ、長きにわたって懸案であった紫波郡へのかんがい用水供給が図られ水喧嘩はこれにより撲滅された。また石淵ダムも同年に完成し、胆沢扇状地は肥沃な農地として生まれ変わり「胆沢平野小唄」にも伸びる胆沢の底力と地域住民にも称えられた。こうしたかんがい整備とダムの効用は、治水重視であった「北上川上流改修計画」を転換させる一つのポイントにもなった。 ===北上川上流改訂改修計画(1949年)=== こうした側面もあって「北上川上流改修計画」はかんがい重視の方向に事業が進められた。ところが北上川流域は今までの河川改修がご破算となるほどの大洪水を、しかも連続して被る非常事態となった。1947年(昭和22年)9月のカスリーン台風と1948年(昭和23年)9月のアイオン台風という、二つの雨台風である。 カスリーン台風は1947年9月15日に房総半島をかすめ利根川を決壊させ首都・東京を水没させたことで有名であるが、北上川流域では台風によって秋雨前線が刺激されて各地に大雨をもたらし、北は盛岡市から南は石巻市に至る北上川沿岸で堤防決壊による浸水被害が多発した。1948年9月16日房総半島に上陸したアイオン台風ではカスリーン台風ほどの浸水被害はもたらさなかったものの、一関市で二日間に403.2ミリという猛烈な豪雨を観測。狭窄部、また流木によって多数の橋が堰き止められて市内に流木が乱入、結果台風全体の死傷者の三分の一を占める473人の死者・行方不明者を出す大災害となった。この時の浸水位は市内のあちこちに記録として残されているが、概ね一階は完全に水没するほどの水位であった。 こうした大災害は戦中の森林乱伐に加え戦争による治水工事の中断、カスリーン台風の復旧作業がままならぬうちにアイオン台風が襲来したという要因、そして何よりも「北上川上流改修計画」で定めた計画高水流量を毎秒約2,000トンも上回る洪水が襲ったことが一関市を始めとする北上川流域に致命的な被害を与えた。この当時は同様の要因で全国の河川は大洪水をもたらしており、水害による国土荒廃が戦後経済復興の最大阻害要因になると危機感を抱いた経済安定本部は、諮問機関である治水調査会に命じて抜本的な河川改修案を作成するように命じた。 治水調査会は1949年(昭和24年)、経済安定本部に河川改修案をまとめて答申した。これは「河川改訂改修計画案」と呼ばれ、北上川を始め信濃川・最上川・利根川など全国12水系を対象として総合的な治水整備を実施する内容であった。特に北上川、江合川・鳴瀬川、利根川、木曽川、淀川、吉野川、筑後川の六水系七河川については「河水統制事業」に沿った形で本流及び主要な支流に多目的ダムを数多く建設して、洪水調節を実施するという内容のものであった。これにより「改修計画」は大幅に変更され、北上川の計画高水流量はアイオン台風の洪水を基準とした毎秒9,000トンに改められ差分をダムや遊水地、堤防建設などで賄うとした。これが「北上川上流改訂改修計画」であり、中断していた「北上川五大ダム」の一つである田瀬ダムの建設が再開され、残り三ダムについても早急な調査と着工を求められた。また、現在の一関第二・第三遊水地の原型でもある「舞川遊水地計画」も計画された。 ===国土総合開発法(1950年)=== こうして新たな治水計画である「北上川上流改訂改修計画」が定められたが、北上川下流の迫川や江合川は宮城県によって独自に河川開発が進められており、上流との整合性が求められた。また先述した食糧不足解消のためのかんがい整備による農地開墾、さらに戦時中の電力施設空襲による打ち続く電力不足の解消を図るための水力発電開発が必要となり、これらを効率的に組み合わせて地域経済の発展を加速化させるには、物部長穂が提唱した「水系一貫開発」が合理的であるとの考えが政府や経済安定本部、建設省(河川事業管掌。現・国土交通省)、農林省(かんがい事業管掌)、商工省(電力事業管掌。現・経済産業省)で支配的となった。背景にあるのはアメリカ合衆国大統領・フランクリン・ルーズベルトが推進したニューディール政策の根幹、TVAの成功である。世界恐慌以後不況が深刻だったアメリカの経済を短期間で回復させ、太平洋戦争勝利の原動力となったTVAが日本復興の鍵であると彼らは見ていた。総司令部民政局官僚の多くがニューディール政策の信奉者(ニューディーラー)であったことも影響している。 1950年(昭和25年)第2次吉田内閣は「国土総合開発法案」の制定を閣議決定し、国会にて可決・成立させ国土総合開発法が成立した。「国土を総合的に利用し、開発し、及び促進し、並びに産業立地の適正化を図る」(第一条)を最終目的としている。この中で第二条第一項では「水その他の天然資源の利用に関する事項」を、さらに第二項では「水害、風害その他の災害の防除に関する事項」を定めた。これは河川開発を念頭に置いたものであり、第十条第一項における「地域指定の理由」の中で選定された地域は、そのほとんどが日本における重要な水系と一致した地域開発となっている。従って国土総合開発法では、より強力な河川開発を推進することが産業育成の要であると考えられた。 同法の施行後北海道を除く全国から多くの地域が指定地域に名乗りを挙げたが、最終的に二十二箇所の地域が対象地域として選定され(対象地域については一覧表を参照)、ここに特定地域総合開発計画が決定した。東北地方では岩木川・十和田湖を中心とした「岩木川・十和田特定地域総合開発計画」(青森県)、米代川・雄物川を中心とした「阿仁・田沢特定地域総合開発計画」(秋田県)、名取川を中心とした「仙塩特定地域総合開発計画」(宮城県)、最上川を中心とした「最上特定地域総合開発計画」(山形県)、只見川を中心とした「只見特定地域総合開発計画」(福島県・新潟県)ほか一地域が指定された。北上川については岩手県・宮城県の複数県にまたがり、北上川水系のみならず隣接する鳴瀬川水系を含めた形で「北上特定地域総合開発計画」が定められた。ここにおいて、治水と農地かんがい、そして水力発電を目的とした大規模な河川総合開発事業がスタートしたのである。 ==事業概要== 北上特定地域総合開発計画については、指定地域が広大であるため、ここでは岩手県と宮城県に地域を分けて説明する。同計画の中心となるのは主にダムによる河川開発である。 ===岩手県(上流部)=== 岩手県、すなわち北上川中・上流部については、1938年より進められた同計画の根幹事業「北上川五大ダム計画」を引き続き施工した。田瀬ダムがまず着手され石淵ダムが最初に供用を開始し、御所ダムが最後に完成した。「五大ダム計画」は1938年から1981年(昭和56年)まで続けられ、43年間の時を費やして全て完成した。現在は盛岡市厨川の四十四田ダムそばにある国土交通省東北地方整備局・北上川ダム統合管理事務所が各ダム管理支所を統括し、オペレーションしている。 ===田瀬ダム=== 田瀬ダムについては当初洪水調節専用であったが戦後の相次ぐ計画改訂により、その規模や目的を大幅に変えた。まず和賀・稗貫両郡の既に開墾されている水田9,440ヘクタールへの用水補給(不特定利水)、そして水力発電を目的に加えた。水力発電事業については1952年(昭和27年)の電源開発促進法に伴い発足した電源開発株式会社が事業主体となり、認可出力(最大出力)27,000キロワットの東和発電所を建設することとした。1944年の中断から六年後の1950年10月より建設が再開され、1954年(昭和29年)10月に完成した。 ===石淵ダム=== 石淵ダムについては1953年6月30日に完成した。このダムは日本で最初に施工が開始されたロックフィルダムであり、コンクリートを上流部に舗装して水をさえぎる「コンクリートフェイシングフィルダム」(コンクリート表面遮水壁型フィルダム)という日本国内で四基しか存在しない珍しいタイプのダムである。洪水調節や奥州市扇状地8,498ヘクタールへのかんがい用水補給のほか、電源開発による胆沢第一(14,600キロワット)・岩手県企業局による胆沢第二(5,500キロワット)の二発電所による水力発電を行う。下流には取水ダムである若柳ダム(高さ14.80メートル。河川法では堰扱い)があり、同ダムを通して発電されたあと胆沢川の農地に水を供給している。 ===湯田ダム=== 「五大ダム」第三番目として和賀川に建設された湯田ダム(ゆだダム)は、1938年の計画よりも約13キロメートル下流にダムサイト(建設地点)を移し、かつ型式を重力式から重力式アーチダムに変更した上で1953年に着工された。後述する補償問題に長期間を費やしたが、1965年(昭和40年)に完成した。和賀川の洪水調節と北上市・花巻市・和賀郡3,700ヘクタールへのかんがい用水補給、岩手県企業局および日本重化学による水力発電が目的である。型式である重力式アーチダムは日本国内で十二箇所しかない希少な型式である。 ===四十四田ダム=== 「五大ダム」第四番目の四十四田ダム(しじゅうしだダム)は、数ある北上川水系のダムの中で唯一北上川の本流に建設されたダムである。1938年の計画ではより上流の盛岡市渋民に建設が予定されていたが、水没する民家が多すぎるため現在の地点に移し1962年(昭和37年)着工された。当時の北上川は鉱毒水が克服できていなかったので、洪水調節と岩手県企業局の水力発電(15,100キロワット)を目的とした。型式は中央が重力式、両脇がアースダムのコンバインダム(複合型ダム)である。盛岡市内から約6キロメートル上流にある都市型ダムであり、1968年(昭和43年)に完成。 ===御所ダム=== 「五大ダム」計画のしんがりが御所ダム(ごしょダム)である。盛岡市内で北上川に合流する雫石川に建設されたこのダムは1938年より重力式ダムとして計画されたが、水没物件が多大であることで着手にはなかなか至らず1966年(昭和42年)よりようやく着手され、補償交渉を経て1981年に完成した。洪水調節や盛岡市郊外の農地5,000ヘクタールへのかんがい用水供給、岩手県企業局による水力発電(13,000キロワット)のほか、「五大ダム」では唯一となる上水道供給を目的に有したダムであり、県都・盛岡市の水がめである。型式は左側がロックフィル、右側が重力式のコンバインダムである。 ===一関遊水地=== 一関遊水地は、同計画において岩手県内で残った最後の事業である。1938年より構想が持ち上がり、1949年には「舞川遊水地」として計画が具現化した。そして1973年(昭和48年)の「北上川水系工事実施基本計画」で第一遊水地・第二遊水地・第三遊水地からなる巨大な遊水地計画として正式な事業となった。総面積は1,450ヘクタールでこれは渡良瀬遊水地に次ぐ日本最大級の遊水地計画であり、北はJR平泉駅から南は狐禅寺の狭窄地入口、西はJR一ノ関駅東部までの広範囲にわたる。現在は小堤の建設が進められており、工事の進捗率は47パーセントである。完成すれば同計画における岩手県内の治水事業は全て完成する。 これに関連して、支川衣川等でも築堤工事が行われているが、衣川に架かる国道4号旧衣川橋(現在は平泉バイパスの暫定共用により撤去)からやや上流左岸側で接待館遺跡が発見され、この保存のために築堤のルート変更が行われることとされ、築堤用地として当該遺跡を取得している国土交通省と今後保存を行う岩手県とで協議が行われている。なお、当該事業による河道の変更は、北上川本川における柳之御所遺跡発見・保存決定に伴う平泉バイパス及び河道のルート変更に続くものである。 この遊水地の上に架けられている第一北上川橋梁は3868mと日本一長い鉄道橋梁だが、トラス橋部分が1kmに満たないため、一見すると長い橋梁には見えない(トラス橋としては同じ東北新幹線の第二北上川橋梁の方が長い)。 ===県営ダム事業=== 「北上川五大ダム」は建設省による国営事業であるが、岩手県でもこの計画に沿うように北上川の支流に多目的ダムや治水ダムを建設した。これらの県営ダムは国庫の補助を受けることができるため、それぞれ補助多目的ダム事業または補助治水ダム事業と専門的には呼ばれている。 多目的ダムでは稗貫川に早池峰ダム、夏油川に入畑ダム、中津川に綱取ダムが建設されたほか現在は簗川に簗川ダムが建設されている。治水ダムでは衣川流域に衣川1号から5号までのダム群が建設されたほか、遠野市内で猿ヶ石川に合流する来内川に遠野ダムが完成し、現在はその下流に遠野第二ダムが建設されている。 ===宮城県(下流部)=== 宮城県では戦前の河川改修によって逆に水害が増幅したという矛盾が生じ、これを解消するためにダムによる洪水調節が計画された。このほか宮城県内における総合開発計画の特徴としては宮城県営の事業が大半を占め、国営では江合川の鳴子ダムのみとなっている。また、長沼を始め自然湖沼を利用した洪水調節が行われているのも特徴となっている。農林水産省が施工したかんがい用ダムにおいても洪水調節機能を設け、完成後は宮城県が管理を行っている。 現在は長沼ダムの建設を進めており、迫川・北上川下流部の洪水調節計画はダムの完成で一応の完結を見る。 ===鳴子ダム=== 鳴子ダムは、宮城県内で建設された「北上特定地域総合開発計画」によるダムでは唯一の建設省施工ダムである。1941年より宮城県の手で計画が開始されたが、「計画」によって建設省に1951年(昭和26年)に事業主体が移管された。江合川の洪水調節と大崎地域3,366ヘクタールの農地にかんがい用水を供給するほか、宮城県営による水力発電(1,800キロワット)を行う。宮崎県の上椎葉ダム(耳川)に続く高さ100メートル級(94.5メートル)のアーチ式コンクリートダムとして建設されたが、計画から完成まで全て日本人の手で行われた初めての例である。1957年(昭和32年)完成。 ===花山ダム=== 花山ダムは、江合川に並ぶ宮城県内における北上川水系の主要な支流・迫川の本流に建設されたダムである。河川改修によって洪水が却って増幅したことからダムによる治水が計画され、近隣にある三菱金属鉱業・細倉鉱山への工業用水道や水力発電供給への目的も加えられ、支流・三迫川(さんはさまがわ)の栗駒ダム(計画当時は玉山ダム)と共に1952年より着手された。後述する補償交渉を経て1957年に完成した、高さ47.8メートルの重力式ダム。 ===長沼ダム=== 長沼ダムは、迫川中流部、伊豆沼とならぶハクチョウの飛来地・長沼に1971年(昭和46年)に計画されたダムである。対岸にある迫川の南谷地遊水地の能力を増強するため高さ15メートルのアースダムを建設して長沼をダム化し、迫川の洪水を導水路より長沼に導く目的を有する補助治水ダムとして着手された。洪水については大規模な水門で調節する。反対運動が強く完成年度は大幅に遅れ2014年(平成26年)5月に竣工した。この間、カヌー競技の漕艇場として頻繁に利用される長沼の水位維持を目的とするレクリェーション目的を付加した、全国で三箇所しかないダムの一つとなっている。 ===その他の事業=== 上に挙げた三ダムのほか多目的ダムでは三迫川に栗駒ダムが1961年(昭和36年)、二迫川に荒砥沢ダムが1991年(平成3年)、長崎川に小田ダムが2006年(平成18年)が完成し運用されている。治水ダムでは大崎市(旧・古川市)にあった天然の沼・化女沼に1995年(平成7年)化女沼ダムが完成、江合川流域の治水を図っている。北上川本流には旧飯野川可動堰を再開発して塩害の防止と利水を強化する目的で1978年(昭和53年)、北上大堰が建設された。遊水地としては迫川の中流部に南谷地遊水地が建設され、現在建設中の長沼ダムが完成すれば連携した洪水調節を図ることが出来る。また天然の湖沼で多くの渡り鳥が生息する蕪栗沼(かぶくりぬま)にも蕪栗沼遊水地が建設され、自然環境を保ちながら小山田川や迫川の洪水調節を図っている。さらに日本最大級のハクチョウ飛来地である伊豆沼についても、下流の二箇所に水門を設けて洪水時には伊豆沼に洪水を導き貯水することで周辺地域への浸水被害を抑止している。 鳴瀬川水系では当初建設省により内野ダムが計画されていたが、幾多の事業変遷の後で本流最上流部に1980年(昭和55年)漆沢ダムが完成した。当初治水ダムであったものを多目的ダムに事業変更した経緯を持つ。現在は国土交通省東北地方整備局によって鳴瀬川水系の田川に「鳴瀬川総合開発事業」として田川第一・第二ダムが計画中である。 ==利点と問題点== 1981年の御所ダム完成により「北上川五大ダム計画」は完了、これらダム群に加え一関遊水地や南谷地遊水地といった遊水池群、堤防を通常よりも大規模する「高規格化」など総合的な運用が図られることでアイオン台風以後多数の死者・行方不明者を出す水害は北上川流域では発生していない。また、水不足に悩まされた北上川沿岸農地が肥沃な土地に生まれ変わることでこの地域は全国有数の穀倉地帯に変貌、ササニシキを始め日本の食糧事情を支えている。こうした観点で「北上特定地域総合開発計画」は本来の目的を果たした。だが、長期間の事業遂行の中で幾つかの問題点も表面化している。 ===補償問題=== ダムを建設することで、そこに住む住民は移転を余儀無くされる。これは避けえないことだが北上川水系の場合は特に補償問題が大規模な例が見られた。田瀬ダムでは一旦移転した住民に対し、事業中止中に農地開墾のために帰村を認めたことから二度にわたる補償交渉が行われた。この「再補償」は田瀬ダムでしか見られなかった特色ある事柄であった。湯田ダムでは水没世帯数が622世帯と、多摩川の小河内ダム(奥多摩湖)における945世帯に次ぐ日本第二位の水没世帯数であった。このため全国的にも注目された補償交渉となり、最終的には1956年(昭和31年)「湯田ダム水没者更生大綱」を発表してインフラ完全整備の代替地を整備して交渉は妥結した。また国道107号や国鉄北上線の大規模付け替えといった公共補償も行われ、後のダム補償の先駆となった。御所ダムでは湯田ダムに次ぐ522世帯が水没対象となったが、盛岡市街に近く大規模住宅地が水没することで反対運動は激しく、1973年(昭和48年)に施行された水源地域対策特別措置法(水特法)による補償基準を厚くすることで最終的には妥結したものの、結果五大ダムで最も完成が遅くなった。水特法については胆沢ダム・長沼ダムも対象となっている。宮城県の花山ダムでは交渉中に当局がダム建設の前段階に着手、これにより当初融和的であった住民がダムに強硬に反対する事態となった。一関遊水地では450戸が移転対象となるため反対運動が強く、これも長期にわたる補償交渉が行われた。 だが、このダム建設により新たな観光地が誕生したことも事実である。御所ダムでは周辺整備に力を入れ湖畔に繋温泉郷を整備、周辺にある小岩井農場やスキー場などの観光地と連携し人造湖である御所湖の公園整備やダム湖の一般開放を行った。この結果国土交通省が管理するダム湖としては最も年間利用者数が多い観光地に成長した。田瀬ダムではダム湖(田瀬湖)をボート競技の漕艇場としてヨットハーバーを整備、インターハイの会場となったのを始め市民やカヌー選手が多く利用している。長沼ダムではそれ自体がダムの目的になった。湯田ダムでは人造湖である錦秋湖を利用し花火大会やマラソン大会を実施、さらにダムの中を歩くことが出来る湯田貯砂ダムを建設。駅の中に温泉があるほっとゆだ駅など温泉街とのコラボレーションを進めた。これらは1994年(平成6年)から建設省が進めた「地域に開かれたダム事業」の一環であり、水源地域の活性化を目指すものであった。2005年(平成17年)には財団法人ダム水源地環境整備センターが認定するダム湖百選に、御所湖・田瀬湖・錦秋湖は選ばれている。 だが、北上川の治水・利水が達成されたその陰で、多くの住民が住みなれた故郷を離れたという苦渋の決断をしたという事実を、受益者が忘れないということも必要である。 ===施設老朽化=== 一方、この計画が始まったのは1938年と戦前のことであり、特に初期に建設されたダムでは施設設備の老朽化が問題となった。また近年の水需要の変化や1997年(平成9年)の河川法改正で「河川の環境維持」が治水・利水と並ぶ河川行政の三大目的になり、河川維持放流の義務化が全てのダムに課せられた中で、施設改良を行わなければ時代の流れについて行けなくなるダムも現れた。このため、ダム再開発事業によるリニューアルが幾つかのダムで図られた。 その最たるものが石淵ダムである。完成から50年以上経過したダムは様々な部分で改修の必要性に迫られた。治水機能ではかんがい優先で建設された関係上放流が多く、最盛期には年間300回も放流した年もあった。またダムの遮水壁はコンクリートであるが、壁の沈下などが起こり易く補修を度々実施しなければならなかった。このため1970年代にかさ上げ計画が生まれたが、最終的に下流2キロメートルに新たなダムを建設して石淵ダムの能力をパワーアップさせる方針とした。これが胆沢ダムであり、2013年(平成25年)に高さ132.0メートルという北上川最大のダムとして誕生するが完成に伴い、日本のダムの歴史に残る石淵ダムは完全に水没する。 このほか田瀬ダムでは1994年から1998年(平成10年)まで老朽化したダムの常用洪水吐きを閉鎖して新たな洪水吐きを建設する「施設改良事業」を、花山ダムでは細倉鉱山の閉山に伴って余剰となった用水を洪水調節容量増加と栗原市の上水道用水に転用する「花山ダム再開発事業」を行い、ダムの維持・改良を実施している。 ===公共事業見直し=== 1996年(平成8年)、第2次橋本内閣の建設大臣・亀井静香による細川内ダム建設中止以降、全国各地に拡大した公共事業見直しの波は小泉純一郎首相による「骨太の方針」で全国100基以上の建設・計画中のダムが中止・休止・凍結された。北上川流域ではほとんどの事業が完成または本体建設中であったが、和賀川支流の北本内川に建設予定であった「北本内ダム建設事業」は受益地が上水道事業から撤退したことで事業が完全に中止された。現在盛岡市に建設予定の簗川ダム(簗川)について、ダム建設の是非を巡って激しい論争が続いている。また、鳴瀬川水系では筒砂子ダム(筒砂子川)が当時の浅野史郎宮城県知事によって建設中止がなされた。 こうした「脱ダム」の波は北上川では少なかった。だが2004年(平成16年)の平成16年7月福井豪雨や2006年(平成18年)7月の平成18年7月豪雨ではダムの無い川での被害が続発、「脱ダム」の旗手だった当時の田中康夫長野県知事が直後の県知事選挙で落選、福井県では凍結中の足羽川ダムが流域自治体・被害住民こぞって建設再開を要望するなど、「脱ダム」風潮に対する揺り返しも起こっている。筒砂子ダムでも一旦建設が事実上中止となったが、浅野知事退任後の2007年には建設が再開されるという異例の事態となった。 「治水安全度を高めるための河川整備」を第一義とする行政と、「河川環境の保全」を第一義とするダム反対派は全国各地で鋭く対立し、妥協点を見出した例はない。だが、地球温暖化による想定外の集中豪雨が連年起こっている現在は河川改修の重要性はさらに増しているという意見も多い。ダムと環境の両立は難しいが流域住民の納得できる河川事業を進める必要性については、双方が認めている。現在全国の一級水系で「河川工事実施基本計画」に替わる「河川整備基本方針」が国土交通省の手で策定が進められているが、北上川においても策定作業が現在行われている。 ==年表== ==建設されたダム一覧== (備考1):青欄は北上川五大ダム。黄欄は建設中もしくは計画中のダム(2007年現在)。(備考2):「目的」欄の略号は次の通りF・洪水調節、N・不特定利水、A・かんがい、W・上水道、I・工業用水道、P・水力発電、R・レクリェーション ==関連項目== 北上川日本のダム河川総合開発事業‐多目的ダム・治水ダム国土交通省直轄ダム・農林水産省直轄ダム・都道府県営ダム電源開発治水灌漑ダム再開発事業・ダム建設の是非・ダムと環境水源地域対策特別措置法・ダム湖百選岩手県・宮城県 =南北戦争の原因= 南北戦争の原因(なんぼくせんそうのげんいん、英: Origins of the American Civil War)では、アメリカ合衆国のアンテベラム時代(南北戦争に至る時代)における奴隷制の複雑な問題、連邦主義に関わる矛盾する理解、政党政治、拡張主義、党派抗争、経済および近代化について詳述する。 ==概要== 米墨戦争の後、合衆国のまだ州に昇格していない領土・準州における奴隷制問題は1850年の妥協を生み出した。この妥協により、当面の政治的な危機は避けられたが、奴隷勢力の問題を根本的に解決するものでは無かった。多くの北部人の中でも共和党の指導者は奴隷制を国の巨悪と考え、少数の南部大規模プランテーション所有者がその悪を拡げる目的で国の政治を牛耳っていると見なした。南部の者から見ると、北部は人口が増え、工業製品の生産高が急速に伸びているので、南部の相対的政治力が減退することを恐れていた。北部と南部は違う道を歩んでいたので、以前にワシントン大統領が辞任演説で警告していたように、各地域内では共有されているとしても、2つにはっきり分かれた地域がそれぞれ別の考え方を持つようになっていった。経済は北部が自由労働によって成り立っていたのに対し、南部では奴隷の労働に頼っていた。合衆国はメイソン=ディクソン線によって明確に2つの地域に分かれた国であった。ニューイングランド、北東部、および中西部の経済は、家族によって運営される農園、製造業、鉱業、商業および運送業を基盤に急速に成長し、境界州以外では奴隷が居なくても人口がやはり急拡大していた。この人口拡大には高い出生率とヨーロッパからの移民が寄与していた。特にアイルランド人、イギリス人、ドイツ人、ポーランド人および北欧人の移民が多かった。南部は奴隷によって開拓されたプランテーションが支配的であり、急速な成長と言えばテキサス州のような南西部でおこっていた。ここの人口拡大はやはり高い出生率だったが、移民の数はそれ程多くは無かった。全体的にみれば、北部の人口拡大速度が南部を上回り、これが南部の考える連邦政府を抑え続けたいという願望を難しいものにしていた。南部は境界州を除いて都市や町がほとんどなく、製造業も無いに等しかった。奴隷所有者は政治や経済を引っ張っていたが、南部白人の3分の2は奴隷を所有せず、大抵は生活のための農業に留まっていた。政治的にそのような奴隷の非所有者が奴隷制のために戦うプランテーション所有者を支持するかというのが問題であった。 奴隷制は国のために望ましくないという議論が長く続いていた。北部諸州は1776年以降に奴隷制を廃止していた。国の団結を維持するために、政治家は奴隷制に反対するときも中庸的な姿勢となり、結果として1820年のミズーリ妥協や1850年の妥協という多くの妥協を生んだ。1840年以降、奴隷制度廃止論者達が奴隷制を社会悪以上のもの、道徳的誤りと非難した。1858年のリンカーンの演説では、「ばらばらになった家庭は立ち行かない」と述べて、連合国家としての合衆国はすべて奴隷州になるか、あるいはすべて自由州になるかを選択すべきとした。国の政治でも悪意と敵意に満ちた党派的理論闘争が増加する中で、1850年代には古い政党政治が崩壊し、政治家達がさらに次の妥協に辿り着くのを妨げることになった。1854年にできたカンザス・ネブラスカ法は多くの北部人を激怒させた。1850年代は、南部に何もアピールしない最初の政党である共和党が勃興し、工業化された北部と農業の中西部が自由労働産業資本主義の経済理念に関わるようになってきた。1860年、リンカーンが大統領に選ばれ、リンカーン自身は奴隷を所有する家庭の娘と結婚していたが、奴隷所有者はリンカーンや連邦政府との関係を維持できなくなり、遂には合衆国から南部の脱退ということになった。 ==奴隷制度廃止運動== 北部での反奴隷制運動は1830年代と1840年代に盛り上がった。この期間は北部の社会に急速な変革が起こった時期であり、社会的・政治的に改革主義が拡がった時期であった。奴隷制度廃止運動家を含むこの時代の多くの改革者は、労働者の生活様式や労働習慣を様々なやり方で変革しようとし、労働者が産業化、資本主義化した社会の要請に応える手助けをした。 反奴隷制運動は、当時の他の改革運動と同様に、第二次大覚醒の遺産によって影響された。これはこの新しい国において、アメリカ人としての経歴も比較的新しい個人の改革を強調する宗教復活の期間であった。時代の改革精神はしばしば相反する政治的目標のある様々な運動によって表現されたが、ほとんどの改革運動は規律、秩序および拘束を通じて人間性を変えていくという大覚醒の原則を強調することで共通の未来を描いていた。 「奴隷制度廃止運動家」には当時複数の意味があった。ウィリアム・ロイド・ガリソンの信奉者、ウェンデル・フィリップスやフレデリック・ダグラスなどは「奴隷制の即座の廃止」を要求したので、言葉通りの者であった。より実際的な集団はセオドア・ウェルドやアーサー・タッパン等であり、即時の行動を望むが長い中間過程を経て段階的に解放を進めていく方が良いとしていた。「反奴隷制論者」はジョン・クィンシー・アダムズであり、奴隷制を制限できることを行い、可能な場合は止めさせたが、如何なる奴隷制度廃止運動にも加わらなかった。例えば、1841年に合衆国最高裁判所で争われたアフリカ人奴隷の反乱、いわゆるアミスタッド号事件の公判にアダムズは出席し、奴隷達は解放されるべきと主張した。南北戦争前の数年間、「反奴隷制論者」はリンカーンを初めとする北部の大多数を意味し、カンザス・ネブラスカ法や逃亡奴隷法という形での奴隷制自体とその影響の「拡大」に反対した。多くの南部人はガリソンの信奉者との区別もつかないままに、これらすべてを奴隷制度廃止運動家と呼んだ。歴史家のジェイムズ・マクファーソンは奴隷制度廃止運動家の深い信条を説明して次のように言った。「全ての人は神の前に平等である。黒人の魂は白人のそれと同じくらい貴重である。神の子供の一人として他の者を奴隷にすることは、たとえそれが憲法で是認されているとしても、高次の法を犯していることである。」 ほとんどの奴隷制度廃止運動家、顕著な例はガリソンだが、ヤンキーのプロテスタントの理想である自己変革、産業、繁栄を強調することで、奴隷制を人の運命と労働の成果を制御できないものとして非難した。 最も熱心な奴隷制度廃止運動の一人、ウェンデル・フィリップスは奴隷勢力を攻撃し、合衆国の分裂を既に1845年に予感していた。 この50年間の経験は…奴隷の数が3倍になり、奴隷所有者が官職を独占し、政府の政策を決めている。国の力と影響力をここ彼処の奴隷制を支持するために使っている。自由州の権利を踏みつけ、国の裁判所を自分達の道具に使っている。これ以上この悲惨な同盟を続けることは狂気である。…このような実験をなぜ長引かせるのか? 奴隷制度廃止運動家は奴隷制をアメリカの白人の自由に対する脅威としても攻撃した。自由は単純に拘束が無いこと以上のものであり、戦前の改革者は真に自由な人は自分に拘束を掛けられる人であるとした。1830年代と1840年代の反奴隷制度運動家にとって、自由労働の約束と社会的上昇志向(昇進の機会、財産所有の権利および自身の労働の制御)が、個人を変える中心概念であるとしていた。 キューバを奴隷州としてアメリカに併合しようという、いわゆるオステンド・マニフェスト、および1850年の逃亡奴隷法に関する議論で党派的な緊張関係が持続し、1850年代半ばから後半に掛けては西部の奴隷制問題が国の政治の中心課題となった。 北部の幾つかの集団の中で反奴隷制度感情は1850年の妥協以後に高まりを見せ、対して南部の者達は北部諸州にいる逃亡奴隷を追求することや、北部に何年も住んでいる自由アフリカ系アメリカ人を奴隷だと主張するようなことも始めた。一方、奴隷制度廃止運動家の中には法の執行を公然と妨げようとする者がいた。逃亡奴隷法の侵犯は公然と組織化して行われた。ボストン市は、そこから一人の逃亡奴隷も戻されることがなかったことを自慢していたが、市のエリート階層であるセオドア・パーカーなどが、1851年4月には暴動を起こして法の執行を阻止する動きに出た。大衆の抵抗という様相は市から市に拡がり、特に1851年のシラキュースの運動(この年遅くのジェリー救援事件で盛り上がった)と1854年の再度ボストンでの運動が有名だった。しかし、1820年のミズーリ妥協と同じような問題が復活するまで、この問題は危機とまでは至らなかった。新しい問題とは、西部準州に対する奴隷制の適用であった。 ===奴隷制の擁護論と反対論=== 最も著名な奴隷制度廃止運動家であるウィリアム・ロイド・ガリソンは民主主義の成長を信じることで動機づけられていた。憲法には5分の3条項(第1条第2節第3目)や逃亡奴隷条項(第4条第2節第3項)があり、また大西洋奴隷貿易の20年間延長があったので、ガリソンは民衆の前で憲法の写しを焼き、憲法のことを「死との契約であり、地獄との同意だ」と言った。1854年にガリソンは次のように言った。私はアメリカ独立宣言に述べられていることを信じる者である。そこには自明の真実の中でも「全ての人は平等に生まれている。全ての人はその創造主により不可分の権利を与えられている。その権利とは特に生存する権利、自由の権利および幸福を追求する権利である。」と謳われている。だから私は奴隷制度廃止運動家である。だから私はあらゆる形態の抑圧、特に人を物としてしまうことに憤りと嫌悪の念を持って向かわざるを得ない。 この反対意見はアメリカ連合国副大統領になったアレクサンダー・スティーヴンズによってその「コーナーストーン演説」で表明された。 しかし、(トーマス・ジェファーソンの)考えは基本的に間違っている。その考えは人種の平等という仮定に立っている。これは誤りである。 ... 我々の新しい政府は全く反対の考えで設立された。その基盤と「礎石」は黒人が白人と同じでは無いという偉大な真実に依っている。奴隷制は優れた人種に従うということであり、自然で通常の状態である。 ===「自由の土地」運動=== 1830年代と1840年代の改革者の仮説、趣旨、および文化的目的は1850年代の政治的および理論的混乱を予測させた。アイルランド人やドイツ人カトリック教徒の労働者階級が動きの元になって北部の多くのホイッグ党員を動かし、また民主党を動かした。自由黒人が増加することで白人労働者や農夫の労働機会が奪われるという恐れが強まり、北部の州の中には差別的な「黒人法(英語版)」(英語: Black Codes)を採択するところがあった。 北西部では小作農が増加していたが、自由農民の数は依然として農業労働者や小作農の2倍であった。さらに工場生産の拡大は小規模の技能者や職人の経済的独立を脅かしていたものの、この地域の製造業は小さな町には大きくてもまだ小規模事業に集中していた。ほぼ間違いなく、社会的流動性は北部の都心部で始まったばかりであり、長い間暖められてきた労働機会、「正直な製造業」および「労苦」という考え方は、少なくとも自由労働の理論に尤もらしさを与える時期に近付いていた。 北部の田舎や小規模の町では、北部社会の絵姿(「自由労働」という考えで形作られていた)はかなりの程度現実味を帯びていた。交通手段や通信の発達によって、特に蒸気機関、鉄道およびテレグラフの導入で、南北戦争前の20年間、北西部の人口と経済が急速に成長していた。共和党の地盤となった小さな町や村は活発な成長のあらゆる兆候を示していた。アメリカの白人労働者は昇進の機会があり、自分の財産を所有でき、自分の労働を自己管理できる、そのような理想社会の考え方は小規模資本主義のものであった。多くの自由で土地を所有する者が、大平原では自由白人労働者の優位性を保証するために、黒人労働の仕組みや黒人開拓者(カリフォルニア州などでは中国人移民)が排除されるべきと要求した。 1847年のウィルモット条項に反対されたことで、「自由の土地」勢力を団結させることになった。翌年8月、バーンバーナーと呼ばれた急進的ニューヨーク民主党員、自由党員、および反奴隷制のホイッグ党員がニューヨーク州バッファローで会議を開き、自由土地党を結成した。この党は元大統領のマーティン・ヴァン・ビューレンとチャールズ・フランシス・アダムズ・シニアをそれぞれ大統領と副大統領候補とした。自由土地党はオレゴンやメキシコから得た領土のような奴隷制の無い領土に奴隷制を拡げることに反対した。 北部と南部の労働システムの基本的な違いに奴隷制における立場を関連づけ、この違いを特徴付ける文化と理論の役割を強調したのが、エリック・フォーナーの著書「自由の土地、自由労働、自由人」(1970年)であり、チャールズ・ベアード(1930年代の指導的歴史家)の経済決定論を凌ぐものであった。フォーナーは奴隷制に反対する北部にとって自由労働理論の重要性を強調し、奴隷制度廃止運動家の道徳的関心が北部では必ずしも支配的な感情ではなかったと指摘した。多くの北部人(リンカーンを含む)は、北部に黒人労働力が拡がって、自由白人労働者の立場を脅かす恐れがあったことにもよって奴隷制に反対した。この意味では、共和党員と奴隷制度廃止運動家は「自由労働」に広く関わることで北部の力強い感情に訴えることができた。「奴隷勢力」という考え方は、南部の黒人奴隷の誓約に基づく議論よりもはるかに北部の自己利益に訴える力があった。1830年代と1840年代の自由労働理論は北部社会の変化に依存していたのならば、それが政治に入ってくることは大衆民主主義の高揚に依存しており、翻って社会変化の高まりによって促進された。その機会は、長い間政党間党争を抑えてきた伝統的2大政党制の崩壊した1850年代半ばにやってきた。 ===党派間の緊張と民衆政治の出現=== 1850年代の政治家達は1820年代と1850年代における政党間闘争を抑圧した伝統が拘束する社会で行動した。その中でも最も重要なことは2大政党制を安定して維持することだった。その伝統が民衆民主主義の北部と南部で急速に拡大するにつれ浸食されていった。それは大衆政党が予測できなかった程度まで投票者の参加を活性化した時代であり、政治がアメリカ大衆文化の基本的構成要素となった時であった。平均的アメリカ人にとって1850年代は今日よりも政治参加が大きな関心となったことに歴史家も同意している。政治はその機能の一つであり、大衆娯楽の一形態であり、応酬のある見せ物であり、パレード(お祭り)であり、さらに彩りのある個性であった。さらに言えば指導的な政治家はしばしば大衆の興味、願望および価値観を集める焦点として活動した。 例えば歴史家のアラン・ネビンスは1856年の政治集会は2万人から5万人までの男女の参加者があったと書いている。1860年までに投票率は84%と高くなった。1854年から1856年に過剰なまでに新しい政党が現れた。共和党、人民の党、反ネブラスカン、連合主義者、ノウ・ナッシング(カトリック・移民排斥主義者)、ノウ・サムシングズ(反奴隷制・移民排斥主義者)、メイン・ローイッツ、テンペランス・メン、ラム民主党、シルバーグレイ・ホイッグ、ヒンズー、ハードシェル民主党、ソフトシェルズ、ハーフシェルズおよびアドプテッド・シティズンズであった。1858年までにこれらのほとんどが消失し、政治は4つの方向に分かれた。共和党は北部の大半を制したが、少数派でも強い民主党がいた。民主党は北部と南部で分裂し、1860年の大統領選には2人の候補者を立てた。南部の非民主党は異なる連衡を試み、多くの者は1860年には憲法同盟党を支持した。 南部諸州の多くは1851年に憲法会議を開催し、無効化と脱退の問題を論じた。サウスカロライナ州は例外で、その会議の投票には「脱退なし」という選択肢が無く、「他の州との協同なしで脱退無し」があった。他の州の会議では連合主義者が支配的であり、脱退案を投票で退けた。 ===南部の近代化に対する恐怖=== アラン・ネビンスは、南北戦争が「抑えられない」紛争であったと指摘した。ネビンスは道徳的、文化的、社会的、理論的および経済的問題を強調する、競合する証言を総合的に扱った。そうすることでネビンスは歴史に関する議論を社会と文化の要素に置き直した。南部と北部は急速に異なる民衆になっていったと指摘したが、これは歴史家のアベリー・クラバンも指摘するところだった。この文化的違いの根源には、奴隷制の問題があるが、地域の基本的な仮定、趣旨および文化的目的は他の方法でも分化しつつあった。より具体的に言えば、北部は南部を恐れさせるくらい急速に近代化していた。歴史家のジェイムズ・マクファーソンは次のように説明している。 1861年に脱退指向者達が、自分達は伝統的な権利と価値観を守ろうと行動していると抗議した時、彼らは正しかった。彼らは北部の脅威が自分達に掛かっていることに対して憲法に保障される自由を守ろうと戦った。南部の共和制の考え方は4分の3世紀を経ても変わらなかった。北部は変わった。... 共和党の台頭はその競争力ある理論である平等主義的自由労働資本主義と共に、南部の者にとっては、北部の多数がこの脅威ある革命的な未来に向かうことが避けられないという兆候であった。 ハリー・L・ワトソンは戦前の南部社会、経済および政治の歴史を研究し纏めた。ワトソンの見方では、自己満足のヨーマン(自作農民)が、市場経済の推進者に政治的な影響力が加わることを容認したことで、「自分達の変化と協業した」。その結果としての「疑いと憤懣」が、南部の権利と自由が黒人共和主義によって脅威を与えられているという議論に肥沃な土壌を与えた。 J・ミルズ・ソーントン3世はアラバマ州の平均的白人の見解を説明した。ソーントンは、アラバマが1860年のはるか以前に厳しい危機に見舞われていたと強調している。共和制の価値観に表される自由、平等および自治という原則に深く囚われていたものが、特に1850年代に容赦ない関連市場の拡大と商業的農業によって脅威に曝されているように見えた。アラバマの人々はかくして、リンカーンが選ばれることが最悪の事態と判断し信じる用意が出来ていた。 ==西部の奴隷制== ===領土の獲得=== 1850年代に、1820年のミズーリ妥協に遡って生じていたのと同じ問題により、党派間の緊張関係が復活した。すなわち新しい領土における奴隷制であった。北部の者と南部の者はマニフェスト・デスティニーを異なる方法で定義するようになり、結合力としてのナショナリズムを蝕んでいた。 米墨戦争の後の獲得領土に対する議論の結果、1850年の妥協は生まれた。これには逃亡奴隷法の強制に関する規定もあり、北部では一連の小さな地域的エピソードを生み奴隷制に関する関心を上げた。 ===カンザス・ネブラスカ法=== ほとんどの人はこの1850年妥協で領土問題が終わったと考えたが、1854年にスティーブン・ダグラスが民主主義の名のもとに問題を再燃させた。ダグラスはカンザス・ネブラスカ法を上程し、開拓者のために質の高い農業用地を解放しようとした。ダグラスはシカゴの出身であり、シカゴからカンザスやネブラスカに鉄道を敷くことに特に関心があったが、鉄道が論争点ではなかった。より重要なことはダグラスが草の根民主主義を信奉していたことであり、実際にその地に入植した者達が奴隷制を採用するか否かを決めればよいのであって、他の州の政治家がとやかく言うことではないと考えた。ダグラスの法案は領土議会を通じた住民主権で「奴隷制に関するすべての問題」を決めるべきであるとし、結果的にミズーリ妥協を実質的に撤廃しようとしていた。この法案に対して起こった民衆の反応は、北部諸州での嵐のような抗議であった。それはミズーリ妥協を撤廃する動きとして認識された。しかし、法案の提出後最初の1ヶ月の民衆の反応は事態の重大性を一般に伝えることができなかった。北部の新聞が当初この問題を無視していたので、共和党の指導者は民衆の反応の欠如を後悔していた。 結果的に民衆の反応は起こったが、指導者はそれを誘発する必要があった。サーモン・チェイスの「独立した民主主義者の訴え」が世論を立ち上がらせるために強く働いた。ニューヨークではウィリアム・スワードが取り上げ、他の誰も自発的には動かなかったので、自らネブラスカ法案に反対する集会を組織した。「ナショナル・エラ」、「ニューヨーク・トリビューン」および地方の自由土地新聞などの報道機関が法案を非難した。1858年のリンカーンとダグラスの討論は、奴隷制拡張問題に国民の関心を惹き付けることになった。 ===共和党の設立=== 北部の者達は北部の社会が南部のものよりも優れていると考え、南部が現在の境界を越えて奴隷の力を拡げようという野心を持っていると徐々に確信するようになり、紛争もあり得るという見解になりつつあった。しかし紛争は共和党の支配的立場を必要とした。共和党は辺境での「自由土地」を人気を呼ぶ感情的な問題として政治活動を行い、結成後わずか6年でホワイトハウス(大統領)を掴んだ。 共和党はカンザス・ネブラスカ法の立法化に関する議論の中で成長した。カンザス・ネブラスカ法に対する北部の反応が起こると、その指導者は新たな政治的組織を作るように動いた。ヘンリー・ウィルソンは、ホイッグ党が既に死んでいると宣言し、それを蘇らせる如何なる動きにも反対すると誓った。「ニューヨーク・トリビューン」のホレイス・グリーンリーは、新しい北部の政党の結成を要求し、ベンジャミン・ウェイド、サーモン・P・チェイス、チャールズ・サムナーなどがネブラスカ法案に反対する同盟について語るようになった。「ニューヨーク・トリビューン」のガマリエル・ベイリーは5月に反奴隷制側のホイッグ党議員と民主党議員の党員集会の招集に動いた。 集会は1854年2月28日にウィスコンシン州リポンの会衆派教会で開催され、ネブラスカ法案に反対する30人程の者が新しい政党の結成を要求し、党名には「共和党」が最も適当であると提案した(これはその動機を独立宣言に結びつけるためであった)。これらの提案者が1854年の夏に多くの北部諸州で共和党を結成するための指導的な役割を演じた。保守的および中道的な者達は単にミズーリ妥協を回復するか奴隷制の拡大を禁じるかを要求するだけで満足していたが、改革派は逃亡奴隷法の撤廃と、奴隷制が存在する州での急速な奴隷制廃止を主張した。「改革」という言葉は領土における奴隷制を拡大した1850年の妥協に反対する者達にも適用された。 しかし、後出しの恩恵も無く、1854年選挙では反奴隷制よりもノウ・ナッシング運動の方が勝利する可能性を示していた。カトリックと移民の問題が奴隷制よりも民衆に訴える力があるように思われたからである。例えば、ノウ・ナッシングズは1854年のフィラデルフィア市長選挙で8,000票以上の大差で勝利していた。ダグラス上院議員はそのカンザス・ネブラスカ法に対する大きな反論を受けた後ですら、民主党に対する基本的な脅威として、共和党よりもノウ・ナッシングズの方を上げていた。 共和党が自分達は「自由労働」を主張する政党であると主張すると、その支持者が急増したが、主に中流階層による支持であり、賃金労働者や失業者など労働階級の支持ではなかった。共和党が自由労働の美徳について褒めそやす時、それは単に「事を成就した」多くの者と実際にそうしたいと考えているその他多数の経験を反映しているだけであった。イギリスのトーリー党と同様に、アメリカの共和党は民族主義者、均質主義者、帝国主義者および国際人として浮上してきた。 まだ「事を成就し」ていない人々の中には、北部の工場労働者の中での比率が大きく伸びていたアイルランド移民が含まれていた。共和党はその秩序ある自由という構想に基本的に必要な自制心、克己心、および冷静さという性格がカトリックの労働者には欠けていると見なすことが多かった。共和党は、教養、信条および勤勉さには高い相関があると主張していた。それはプロテスタントの労働倫理の価値観であった。共和党支持のシカゴ・デモクラティック・プレスは、1856年の大統領選挙でジェームズ・ブキャナンがジョン・C・フレモントを破った後の社説に「自由学校が悩みのタネと見なされる所、宗教が疎んじられ、怠惰な浪費が支配的な所、そこではブキャナンが強い支持を受けた」と書いた。 民族と宗教、社会と経済および文化の断層線がアメリカ社会に走っていたが、党派色を強めていくことになり、上昇する産業資本主義に利益を見出すヤンキーのプロテスタントと、南部の奴隷所有者の利益に結びついた者に対する反対を強めたアメリカ的民族主義者の対抗という形になっていった。例えば、評価の高い歴史家ドン・E・フェーレンバッヒャーはその著書「1850年代における偉人、リンカーンへの序曲」の中で、イリノイ州では目立った選挙結果は開拓地の地域形態と相関があることを指摘して、いかに国の政治の縮図となっているかを述べた。南部出身者が入植した開拓地は民主党に忠実であり、ニューイングランドからきた者は共和党に忠実であった。さらに境界にあたる地域は政治的に中道であり、慣習的に力の均衡を図っていた。宗教、倫理感、地域および階級的同一性が縒り合わさり、自由労働と自由土地の問題は容易に人々の感情をあおった。 「血を流すカンザス」における次の2年間の出来事は、カンザス・ネブラスカ法によって元々北部の一部の者に引き起こされた民衆の熱情を維持させた。北部出身の者は新聞や説教および奴隷制度廃止論者組織の力強い情報宣伝によって勇気づけられた。マサチューセッツ移民援護会社のような組織から財政的な援助を受け取ることも多かった。南部出身の者はその出てきた地域社会から財政的支援をしばしば受けていた。南部の者達は新しい領土で出身地の憲法で保障された権利を守ることを求め、「敵対的また破滅的な立法」を撃退するに十分な政治的力を維持しようとした。 大平原は綿花の栽培にはほとんど不向きであったが、西部が奴隷制に開放されることを要求した南部の者達は心の中には鉱物のことを考えていた。例えばブラジルでは、鉱業に奴隷の労働者を使って成功した事例があった。18世紀の中頃、ミナスジェライス州では金鉱に加えてダイヤモンドの採掘が始まり、ブラジル北東部の砂糖生産地域から奴隷を連れたその所有者が大挙して押し掛けた。南部の指導者達はこの事例を良く知っていた。それは既に1848年の奴隷制擁護派雑誌「デボウズ・レビュー」で奨励されていた。 ===「血を流すカンザス」と1856年の選挙=== 1855年頃のカンザスでは、奴隷制問題が耐え難いほどの緊張感と暴力を生む状態になっていた。しかしこれは、開拓者の圧倒的多数が公の問題には無関心で単に西部の土地に飢えた者達である地域のことだった。住人の大多数は党派的な緊張関係や奴隷制の問題に無関心であった。その替わりにカンザスの緊張関係は敵対する要求者の間の闘争になっていった。カンザスに開拓者の最初の波が訪れたとき、誰も土地の権利を持っていたわけではなく、耕作に適した新しい土地を占領しようと皆が押し掛けた。緊張感と暴力はヤンキーとミズーリ州の開拓者が互いに競い合うという形で起こったが、奴隷制の問題で理論的に分かれていたと言うような証拠はほとんど無い。その替わりに、ミズーリ州の要求者はカンザスを自分達の領域と考えヤンキーの無権利居住者を侵入者と捉えた。ヤンキーはヤンキーで、ミズーリ州の開拓者は正直に入植することもないままに最良の土地を掴んだと告発した。 しかし、「血を流すカンザス」の1855年から1856年にかけての暴力は、後の人に神の意志で奴隷制を壊すために遣わされた者と見なされたジョン・ブラウンが混乱の中に入ってくることによって事実上のクライマックスに達した。1856年5月24日の夜に起こったいわゆるポタワトミーの虐殺で、ブラウンは5人の奴隷制擁護派の開拓者を殺し、ややいびつな形のゲリラ戦の様相になった。ブラウンの情熱は別としても、カンザスにおける闘争は土地と金により強い意欲を燃やす武装集団のみを度々巻き込むことになった。 しかし、カンザスの市民の争いよりもより大切なことは、それに対する国中の反応と議会の反応であった。北部でも南部でも、他方がカンザスで起こっていることによってその急進的な考え方の典型としようとしている(そして責任がある)という見方が拡がった。結果的に「血を流すカンザス」は党派的対立の象徴となった。 カンザスの闘争の知らせが東海岸に届く前でさえも、首都ワシントンでは奴隷制に関連して暴力的で突飛な行動が起こった。チャールズ・サムナーが上院で「カンザスに対する犯罪」という題で演説を行い、フランクリン・ピアース大統領の執政と奴隷制度を非難し、サウスカロライナ州の頑固な奴隷制擁護者アンドリュー・P・バトラー上院議員を槍玉に挙げた。このサウスカロライナ人を奴隷制の「ドン・キホーテ」と呼び、「女主人に売春婦の奴隷を選んだ。...他人には醜く見えるのに本人にはいつも愛らしい、世間の目からみれば汚れているのに本人には貞淑に見える」と性的な当て擦りもふくんでいた。数日後サムナーは「南部紳士の作法」の餌食になった。これは年長の近親者の名誉を攻撃したことに対する報復を教えるものだった。バトラーの甥で下院議員のプレストン・ブルックスが重い杖でサムナーを殴り続け、出血し虫の息になったサムナーはその後3年間も上院に戻っては来られなかった。しかしマサチューセッツ州選出の上院議員サムナーは党派的緊張関係のもう一つの象徴になった。北部の多くの者にとって、奴隷社会の未開さを絵に描いたような事件であった。 カンザスでの事件の展開に怒った共和党は、アメリカの歴史の中でも初めて絶対多数を占める党派となっており、最初の大統領選挙に自信を持って臨むことになった。その候補者はジョン・C・フレモントであり、新しい党にはまあ安全な候補者であった。フレモントの指名はカトリック・移民排斥主義者であるノウ・ナッシングズの支持者を混乱させた(フレモントの母はカトリックだった)が、極西部の有名な探検者で政治的な経歴の無いフレモントは元民主党員を寄せ付けるための試みであった。他の2人の競争者、ウィリアム・スワードとサーモン・チェイスは急進的過ぎるように思われた。 それにも関わらず、1856年の大統領選挙はほとんど奴隷問題一色になった。民主主義と貴族政治の争いともいわれたが、カンザスの問題が焦点だった。共和党はカンザス・ネブラスカ法と奴隷制の拡大を非難したが、反奴隷制の理想と北部の経済的願望とを組み合わせる事で国内を改革するという計画を進めた。この新しい政党は強力な政党政治文化を発展させ、エネルギッシュな活動家が前例のないほどの数の投票者を投票に駈りだした。民衆も熱情を持って反応した。若い共和党員は「広い覚醒」クラブを組織し、「自由土地、自由労働、自由人、フレモント!」と詠唱した。南部の「けんかっ早い人」(fire‐eaters)や中道の者ですら、フレモントが勝ったら脱退の畏れがあると口に出すようになり、民主党の候補者ジェームズ・ブキャナンは連邦の将来に関する理解から恩恵を受けることになった。 ==州の権限== 連邦は諸州よりも年長かといったような疑問が出て州の権限に関する議論が盛んになった。連邦政府は実質的な権力を持っていると考えられるか、あるいは主権者としての州の自発的な連邦に過ぎないか、などが議論された。歴史家のケネス・M・スタンプによれば、各派が都合のいい時に州の権限という議論を使い、都合のいい時にその立場を変えた。 スタンプはアメリカ連合国副大統領アレクサンダー・スティーヴンズの「州間の先の戦争について憲法の見方」を南部指導者の例に挙げている。スティーヴンズは戦争が始まった時には「奴隷制は連合国の礎石」と言い、南部が敗北したときには「戦争は奴隷制のためではなく、州の権限のためだった」と言った。スタンプはスティーヴンズが「南部の失われた大義」の最も熱心な弁護者の一人となったと言った。 歴史家のウィリアム・C・デイビスも南部の州の権限に関する議論に矛盾性を挙げている。デイビスの説明では、連合国の憲法による国全体での奴隷制の擁護について次のように挙げていた。 古い連邦では、連邦政府の権力では州の奴隷制問題に干渉する権限は無いと言っていた。新しい国については、州は連邦の奴隷制擁護に干渉する権限は無いと宣言するだろう。州の権限ではなく、奴隷制が彼らの運動の中心にあるという事実に対する多くの証拠の中で、これが取り分け雄弁なものである。 ===新領土における州の権限と奴隷制=== 「州の権限」議論は問題を複雑にした。南部の者達は合衆国憲法修正第10条で担保された州の権限について連邦政府は厳しく制限されており、それを簡略化はできないと主張し、それ故に新しい領土に奴隷制を持ち込むことを妨げられないとした。州の権限の主張者は憲法の逃亡奴隷条項も引用して北部に逃げた奴隷に連邦の法制が及ぶことを要求した。反奴隷制勢力はこの問題について逆の立場を採った。憲法の逃亡奴隷条項は憲法が書かれた時の北部と南部の妥協の産物であった。それは1850年の妥協の一部となった逃亡奴隷法によって強化された。南部の政治家で州の権限の提唱者であるジョン・カルフーンは、新しい領土を主権のある諸州の「共通の財産」と見なし、連邦議会は諸州を「つなぎ止める役割」に過ぎないと言った。 ===州の権限と少数派の権利=== 州の権限理論は、北部の人口が南部よりも急速に成長しているという事実があり、そのことは北部が連邦政府を支配するのは時間の問題となった時の反応であった。南部の者達は「自覚のある少数派」として行動し、憲法の厳密な解釈によって連邦政府の州にたいする権力を制限し、連邦政府が州の権限に干渉してくることに対して防衛すること、あるいは無効化、あるいは脱退が南部を救うと期待した。1860年以前、大半の大統領は南部か南部寄りであった。北部の人口成長は北部寄りの大統領選出を意味し、自由土地州を増やすことは上院でも北部と南部の対等関係を終わらせることであった。歴史家のアラン・ネビンスが述べているように、南部の政治家カルフーンの州の権限に関する理論は「政府は少数派を守るように作られ、多数派については自分達で面倒が見られる」というものだった。 ジェファーソン・デイヴィスは「中傷的な差別」と「抑えの効かない多数派の専制」に対して「自由」を守る戦いが連合国に加わった州の脱退する権利を与えたと言った。1860年サウスカロライナ州選出の下院議員ローレンス・M・カイトは「反奴隷制の党派が奴隷制そのものが悪いと主張し、政府は強固になった国の民主主義と主張している。我々南部の者は奴隷制が正しいと主張し、これが主権のある諸州の連合共和国だと主張する。」と言った。 南部の選ばれた指導者ジェファーソン・デイビスは州の平等な権限という言葉で平等を定義した。また、全ての者は平等に生まれているという宣言に反対した。憲法は、各州が同じ数の上院議員を持つということ、またある権利は州または人民に担保されると言うことに州の権限の要素を含めているのではない。デイビスのような南部の者はこれらの権利を北部の多数派に対する楯として解釈した。 ==南部人の近代化に関する恐れ== 歴史家のマクファーソンによれば、北部が奴隷制を段階的に廃止し、都市集中を生む産業革命を始め、教育の機会を増やし、奴隷制廃止運動のような社会改革を進めた後では、従来のアメリカ例外主義(American exceptionalism、アメリカが世界の中では例外的でかつ優れた国であるという考え)は南部ではなく北部のみに適用されるようになったという。北部では8人の開拓者のうち7人が移民であり、南部を離れて北部に移った白人の数がその逆の場合の2倍もあるという事実は、南部をして防衛的かつ挑発的な政治行動をさせることになった。「ザ・チャールストン・マーキュリー」紙は北部と南部の奴隷制問題について「単に2集団の人々ではなくて両者は競争者であり敵対的な集団である」と書いた デボウズ・レビューにも、「我々は革命に抵抗している。...我々は人の権利についてキホーテの戦いをしているのではない。...我々は保守的である。」と述べられていた。 ==開戦前の南部と合衆国== 連邦政府の権力について、また市民の忠誠心について、合衆国の建国とほとんど時を同じくして州と連邦政府の間に確執が始まり、続いていた。例えば、1798年の「ケンタッキー州およびバージニア州決議」は、連邦議会で連邦党が可決した「外国人・治安諸法」(Alien and Sedition Acts)を州レベルで拒むものであり、ニューイングランドで米英戦争末期の1815年に開催されたハートフォード会議は、マディソン大統領と米英戦争に反対して、合衆国からの離脱を議論したものだった。 ===無効化の危機=== アメリカ合衆国下院ではサウスカロライナ州選出のジョン・カルフーンが米英戦争、保護関税、政府出資による国内の改良および国立銀行に賛成してきた。カルフーンはヘンリー・クレイの経済政策「アメリカ・システム」を早くから支持しており、カルフーンとクレイは共に、自分達の出身州に連邦政府の政治的な力が及ぶことに反対していた。おそらくこのことでクレイは大統領に成れなかった。アレクサンダー・ハミルトンが提案し、後にドイツ系アメリカ人経済学者フリードリッヒ・リストによって「国のシステム」に発展された連邦税制は、その目的がアメリカの重工業と国際貿易を発展させることであった。鉄鋼、石炭および水力発電は主に北部にあり、この税制は経済基盤が農業にあった南部の恨みを買うことになった。南部の指導者達は既に相対的に裕福であり、容易にヨーロッパ製品を買うだけの余裕があったし、(クレイを除いて)アメリカ合衆国内の他の場所が経済力を付けるために税金を払いたくないと考えていた。よって1828年までにカルフーンは保護関税がサウスカロライナ州にとって有害であるだけでなく、憲法にも反していると考えるようになった。一つの州で集められた税金や関税が国内の他の州の改良に使われることにも反対した。カルフーンは憲法違反と考えられる法に対して州として抵抗する体系を考え始めた。 だいたい1820年から南北戦争まで、これら均質化の圧力による歪みは常に貿易と関税の問題であった。南部の農業経済はその収入を輸出に頼り、また工業製品をヨーロッパからあるいは北部から得ていた南部は、貿易への依存度が高かった。反対に北部は国内産業経済が発展し外国貿易は競争相手と見ていた。特に保護関税のような貿易障壁は輸出に頼る南部にとって有害であると見られた。1828年、連邦議会は北部諸州の貿易に恩恵を及ぼす保護関税法案を通したが、これは南部にとって不利益をもたらすものだった。南部人の言う「嫌悪の関税」(1828年関税法のこと)に反応して書かれた「サウスカロライナ州説明と抗議」のような文書で南部の者達は関税に対する抗議を声高に表すようになった。 サウスカロライナの者達は「嫌悪の関税」が撤廃されることを4年間待ったが、連邦議会があまり変わり映えのしない1832年の新関税法を法制化するとその怒りが頂点に達し、合衆国結成以来最も危険な党派的抗争危機となった。サウスカロライナの者達は合衆国からの脱退すら示唆した。しかし、カルフーンは関税に対する熱心な抗議者達を説得して、その戦略に脱退ではなく、無効化(連邦法の承認または執行の拒否)の原理を採用させた。新しく選出されたサウスカロライナ州議会は直ぐに州の会議への代議員選出を要求した。この州の会議は招集されると直ぐに投票によって、1828年と1832年の関税法は州内で無効と宣言した。アンドリュー・ジャクソン大統領は確固とした態度で臨み、この無効化は反逆行動であると宣言した。ジャクソンは続いてサウスカロライナ州内にある連邦軍砦の強化措置を採った。 1833年早くに議会内のジャクソン支持者が、大統領に連邦法を強制するためにアメリカ陸軍と海軍を使う権限を与える「強制法案」を導入したことで、暴力沙汰が起こる可能性が現実のものとなった。他の州はサウスカロライナ州を支持する側には回らず、サウスカロライナ州自体も連邦政府と対決姿勢を続けることについて意見が分かれた。この危機は、クレイとカルフーンが妥協関税を編み出すことで回避された。その後はどちらも勝利を宣言した。サウスカロライナ州のカルフーンとその支持者は無効化の勝利を宣言し、一つの州が関税を変えることを強いたと主張した。しかし、ジャクソン支持者は如何なる州も独立した行動でその権利を主張することは出来ないということを示したという受け取り方をした。翻ってカルフーンは、南部の団結という意味合いを作り上げることに務めたのであり、別の行き詰まり状況ができた場合に、全南部が連邦政府に抵抗して一つの連合として行動する準備ができたと考えた。 サウスカロライナ州は、州の境界内で1828年と1832年の関税法が無効と宣言する無効化条例を採択することにより、この関税を取り扱った。州議会は条例を執行させる法も通したが、これには軍隊を組織することと武器を調達することの許可も含めていた。サウスカロライナ州の脅しに対し、連邦議会は「強制法案」を通し、ジャクソン大統領は1832年11月、チャールストン港にアメリカ海軍の7隻の艦船と1隻のマン・オブ・ウォーを派遣した。12月10日ジャクソンは無効化宣言者に対して居丈高な宣言を発した。 この問題は1842年のいわゆる「黒い関税」で再燃した。1846年のウォーカー関税で比較的自由な貿易ができた期間は小康状態となり、1860年に保護主義のモリル関税が共和党によって導入されると、南部の反関税感情は再度燃え上がった。 ===南部の文化=== 南部においても奴隷を所有する人の比率は小さかったが、あらゆる階級の者達が北部の自由労働・奴隷制度廃止運動の盛り上がりによって脅威に曝されている奴隷制を、自分達の社会秩序の礎石として守る方に回った。 プランテーション奴隷制という仕組みに基づいて、南部の社会構造は北部より深い階層構造になり、また男性支配であった。1850年、南部の自由人人口は約600万人であり、このうち35万人が奴隷所有者であった。奴隷所有者と一口に言っても、その集中度合いには偏りがあった。おそらく奴隷所有者のわずか7%が奴隷人口の4分の3を所有した。大規模奴隷所有者は一般に大規模プランテーションを所有しており、南部社会の上層を代表していた。規模の経済の恩恵を受けるために、利益に繋がる綿花のような労働集約的作物を生産するには大きなプランテーションに大勢の奴隷を必要とした。このプランテーションを所有する貴族的なエリート階層は「奴隷王」とも呼ばれ、20世紀の百万長者にも匹敵するものであった。 1850年代、大規模プランテーション所有者は小規模農場主を駆逐し、より多くの奴隷がより少数の農園主に所有されるようになった。奴隷所有者である白人人口の比率が南北戦争前に減少する中で、貧乏白人と小農は一般にプランテーションを所有するエリート階層の政治的指導力を受け入れていた。 奴隷制が南部に始まった民主改革の動きによっても重大な内部崩壊の恐れが無かったことについて、幾つかの要素で説明される。1つめは、西部の新領土が白人開拓者に開放され、奴隷を所有していなかった多くの者にも人生のどこかの時点で奴隷所有者になれるかもしれないと考えさせたことである。 2つめは、南部の小規模自由農民がヒステリックな人種差別観を抱いており、南部における内部民主改革の担い手にはなり得なかったことである。白人優位の原則は南部のあらゆる階層の白人に認められており、奴隷制は合法で、当然で、文明社会の基本であった。南部の白人至上主義は「奴隷法」や黒人が白人に従うことを定める念入りな言論、行動、および社会制度の法のように、公式に抑圧の仕組みを作ることで保たれていた。例えば「奴隷巡邏隊」は南部のあらゆる階層の白人が当時の経済的また自主的秩序を支持するために作られた制度の一つである。奴隷の「巡邏隊」や「監督者」として働くことは、南部白人の権力と栄誉ある位置付けを示すことだった。これらの役職者に貧しい南部白人が就いたとしても、プランテーションの外をうろつく奴隷ならばだれでも停止させ、捜索し、鞭打ち、不具にし、さらに殺すことすら認められた。奴隷の「巡邏隊」や「監督者」は地域社会での権威も得られた。奴隷社会の垣根を越えた黒人を取り締まり、罰することは、南部の価値ある公共任務であった。そこでは法と秩序を脅かす自由黒人の存在についての恐れが、当時の公的な会話の中でも重きを成していた。 3つめは、少数の奴隷を所有する小農と自作農が市場経済を通じてエリート階層農園主と結びついたことである。多くの地域では、小農は綿繰り機、市場、食料や家畜および貸付金を得ようとすれば地元のエリート階層農園主に頼っていた。さらに、様々な社会階層の白人、その中には市場経済の外、あるいは市場経済の境界付近で働く貧乏白人や「並の人」がいたが、彼らも広範な同族関係でエリート階層農園主と結びついていた可能性がある。例えば、一人の貧乏白人がその郡の最も裕福な特権階級の人の従兄であるかもしれないし、金持ちの親戚と同じくらい好戦的な奴隷制の支持者である可能性があった。 こうして1850年代までに、南部の奴隷所有者と非奴隷所有者は共に、北部諸州で自由土地や奴隷制度廃止運動が盛り上がったために、心理的にも政治的にも国の政治的土俵の中に取り囲まれていくように感じ始めた。工業製品や商業的サービスおよび貸付金については北部への依存度が高まり、北西部の反映する農業地域の影響で圧迫もされ、南部の者達は北部の自由労働や奴隷制度廃止運動が成長する可能性に直面した。 ===好戦的な奴隷制防衛論=== カンザスの展開に関する抗議の声が北部で強くなるに連れて、奴隷制を守る側は奴隷制度廃止運動家やその同調者が時代遅れで不道徳と考えるような生き方をするようになり、エイブラハム・リンカーンの登場と共に脱退への基礎固めとなるような好戦的奴隷制擁護理論に移っていった。 南部の者達は北部の政治的変化に辛辣な反応をした。奴隷所有者の興味はその領土で憲法に保障される権利を守ることと、「敵対的」で「破壊的」な法制に反撃するだけの十分な政治力を維持することに向けられた。この変化の背景には綿産業の成長があり、南部の経済にとって奴隷制がそれまでにないくらい重要なものになっていったことがあった。 ===文学=== ハリエット・ビーチャー・ストウの「アンクル・トムの小屋」(1852年)が人気を呼び、奴隷制度廃止運動(1831年、ウィリアム・ロイド・ガリソンによる「ザ・リベレーター」紙の創刊後に宣言された)の成長に対する反応は、奴隷制の周到な知的防衛であった。言論による(時には暴力による)奴隷制度廃止運動は1859年のジョン・ブラウンによるハーパーズ・フェリー襲撃で頂点に達し、南部の者達の目には重大な脅威と映り、奴隷制度廃止運動家は1790年代のハイチ革命や30年ばかり前のナット・ターナーの試みのような激しい奴隷反乱を扇動しているように思われた。 1846年にJ・D・B・デボウが発行した「デボウズ・レビュー」は、北部に経済的に依存していることについて農園主階層に警告を発し、南部の指導的雑誌に成長した。「デボウズ・レビュー」は脱退に向かう世論を導くものとしても注目を浴びた。この雑誌は北部に製造業、造船業、銀行および国際貿易が集中している事に関連して南部経済の不平等を強調した。奴隷制を裏付けする聖書の言葉を探し、経済的、社会学的、歴史的および科学的な議論を起こすことで、奴隷制を「必要悪」から「積極的善」に変えた。現在の全体主義者の考え、特にナチズムのものを予知させるJ・H・ヴァンエヴリーの著書「黒人と黒人奴隷:劣等人種の黒人:通常状態としての奴隷」は、題名からして物議を醸すものだが、人種差別に疑似科学的な分析と理論付けを適用しようとしたものであった。 潜在的な党派が党派理論に現れた軽蔑的な党派のイメージを突然活性化させた。産業資本主義が北部で勢いを増すに連れて、南部の著作家は自分達の社会で価値を見出す(実行されないものもあったが)貴族的な特質のものなら何でも、すなわち礼儀正しさ、優雅さ、騎士道精神、生活のゆっくりとしたペース、秩序ある暮らしおよび余暇を強調した。これは奴隷制が工場労働よりも人間的な社会を提供するという議論も支持した。ジョージ・フィッツヒューの著書「カニバルズ・オール!」(全ての人を食え)は、自由社会の労働者と資本家の間の対立が「泥棒貴族」と「貧困の奴隷」を生み、奴隷社会ではこのような対立が避けられるとしていた。その上で北部の工場労働者の利益のためにも労働者を奴隷化した方が良いと提唱した。一方、エイブラハム・リンカーンは、南部の言う「北部の賃金労働者は運命的にその生活条件に固定されている」という当て擦りに対して非難していた。自由土地の者達にとって、南部の固定観念は全くの対極にあるもの、すなわち奴隷制が揺るぎない反民主主義的貴族政治を維持している動きのない社会のものであった。 ==アメリカ的政党政治の崩壊== ===ドレッド・スコット判決およびルコンプトン憲法=== 南北戦争の前、2大政党制の安定感は伝統的に国を纏める力となっていた。過去に、古い政党制は国の様々な地域の地方的な利益とエリート階層の政治的ネットワークの間に、連携や同盟が生まれ、そのやり方に起因する分裂を続けていた。アメリカの制度的構造は党派間の問題や不一致を扱うことができた。1850年代以前、既に西部の奴隷制問題を中心とする党派間論争が起こっていた。これらの論争が南北戦争を導いたのではないが、むしろ1820年の妥協と1850年の妥協を生んだ。 しかし、第二次産業革命が北部で活発になるにつれて、南部寄りの民主党は、南部の発展に対して輸送、関税、教育および銀行政策が段々と障害になっていくように見なしていた。さらに近代的資本家の発展が北部の経済と社会を変えるにつれて、それに呼応する大衆政治の隆盛が古い2大政党制の安定感を蝕んでいた。1856年以降は党派理論がより辛辣なものとなり、大衆政治の成長は共和党改革派によるパンフレット、演説および新聞の記事の助けを借りて、理論が政治に入ってくることを許した。かっては単にエリート階層が関わっていた党派的緊張関係は、徐々に自由土地や自由労働の大衆理論による意味合いを増していた。憲法でさえも分派の原因として浮上してきた。1857年、最高裁の「ドレッド・スコット対サンフォード事件」の判決は憲法の曖昧さを浮き彫りにし、憲法に対する国民的敬意が与えていた国の結合力をも弱めることになった。 政治における党派の利益の間のバランスを保つ力に不可欠なメカニズムはかなり陳腐化されていたが、ランダルやクレイブンといった修正主義の歴史家は、国がより有能な世代の政治家に導かれれば、その修復は不可能ではないとしていた。1858年のルコンプトン憲法(英語版)(カンザス準州で作られた州の新憲法)に関する論争は共和党の中道から保守の一派と中央の管理を嫌う南部の者との連衡について絶好の機会を提供することになった。 ===共和党員と中央の管理を嫌う民主党員=== ブキャナン大統領は、カンザスでの問題を終わらせるために、ルコンプトン憲法の元でカンザスを奴隷州として認めることを議会に働きかけた。しかし、1万人以上となっていたカンザスの有権者はこの憲法を完全に拒絶した。これには少なくとも両派によって広められた投票に関する不正な手段も絡んでいた。ブキャナンはその政治生命をかけてその目的を達成しようとしたが、共和党員を更に怒らせ、自分の党員からは疎んじられることになった。スティーブン・ダグラスの一派は中央の管理を破ろうと動いていたが、このブキャナンの計画はカンザス・ネブラスカ法がよって立つ人民主権という原則を曲解する試みと見なした。国中で、あたかも州の権限の原則が侵害されたかのように感じ取り、保守的な意見の力が増した。南部でさえも、元ホイッグ党員や境界州のノウ・ナッシング党員、中でも顕著な者であるジョン・ベルやジョン・クリッテンデン(党派間論争の時にはキーとなっていた人物)が共和党に働きかけて中央管理の動きに反対させ、新領土は主権を受け入れるか拒絶する権限が与えられるよう要求した。 民主党の中の亀裂が深くなり、中道共和党員は中央の管理を嫌う民主党員、特にスティーブン・ダグラスとの連衡をすれば1860年の大統領選挙で絶対的有利になると論じた。共和党のオブザーバーの中には、フレモントがほとんど支持を得られなかった境界州で民主党の支持者を奪う機会としてルコンプトン憲法に関する論争を見る者もいた。結局境界州は、合衆国からの南部の脱退の恐れを刺激することなく、過去に支持した北部に基盤のあるホイッグ党の支持に動くことが多かった。 共和‐民主連衡の戦略に反対したのが「ニューヨーク・タイムズ」だった。党派間の緊張関係を和らげるために「奴隷州はもういらいない」という妥協的な政策を採って、人民主権に対する反対を共和党は軽視していると抗議した。タイムズは共和党が1860年の大統領選挙で戦えるために、ブキャナンの裁定で動揺したような有権者全てを含めて支持基盤を拡げる必要があるという立場であった。 実際に民主党主導政治に対する反対が増す中で、その反対意見を纏める連衡についての圧力が強かった。しかしそのような連衡は新しい考え方ではなかった。それは基本的に共和党を国内の国民的、保守的合同政党に変えることを意味していた。実質的に共和党はホイッグ党の後継者になる可能性があった。 しかし、共和党の指導者は奴隷制に関する党の立場を変えることは断固として反対した。例えば1858年のクリッテンデン=モンゴメリー法案に92名の共和党下院議員全員が賛成票を投じた時、その原則が崩されたと考えて驚愕した。この妥協手段はカンザスが奴隷州として連邦に加盟することを阻んだものの、奴隷制の拡張に対する徹底した反対ではなく人民主権を求めていたという事実は党指導者を悩ませることになった。 結局、クリッテンデン=モンゴメリー法案は、共和党、境界州の元ホイッグ党および北部の民主党による中央管理反対大同盟を作らせることにはならなかった。その代わりに、民主党は単に党を割っただけだった。反ルコンプトン民主党員は新しい奴隷制度擁護という試験が党に課されていると嘆いた。しかしダグラスの一派は中央管理の圧力に屈することを拒んだ。当時共和党に鞍替えした反ネブラスカ法民主党員と同様に、ダグラス派は中央管理ではなく彼らが北部民主党大半の支持を得ていると主張した。 南部の過激的思考をする者達は、南部の農園主階層が中央政府の行政、立法および司法組織への支配を弱めたので、劇的に前進できた。また南部の民主党は民主党内の同盟者を通じて北部諸州の多くにおける力を操ることが難しくなっていった。 ===共和党の構造=== 共和党は1856年の大統領選挙で大きな敗退を味わったが、その指導者達は、北部の有権者のみにアピールしたとしても、1860年の大統領選挙で勝利するためにはペンシルベニア州とイリノイ州のような2つの州での勝利を増やせばいいだけだと認識していた。 民主党は自分達の問題に関わっていたので、共和党の指導者達は選出された党員に西部での奴隷制問題に集中させておけば、民衆の支持をかり集めさせることができた。チェイスはサムナーに宛てて、もし保守派が成功すれば、自由土地党を立ち上げる必要があるかもしれないと書き送った。チェイスは多くの共和党員が政治的及び経済的な議論の場で奴隷制に対する道徳面での攻撃を控えている傾向があることで特に邪魔されてもいた。 西部での奴隷制に関する論争はまだ奴隷制問題の落ち付け所を見付けられないでいた。党派間の緊張関係にあった古い制約は北部の大衆政治と大衆民主主義の急速な拡大によって弱くなっていたが、西部における奴隷制問題に掛かる論争の長期化はまだ、南部の革新的民主党と北部の革新的共和党の努力を必要としていた。彼らは党派間抗争が政治的議論の中心に残っていることを確認する必要があった。 ウィリアム・スワードは、民主党が議会の多数派であり、議会、大統領および多くの国の政庁を支配していた1840年代にこの可能性を予測していた。国の行政組織と政党制は、奴隷所有者が国の新領土に拡がることを許し、国の政策に強い影響を与えることを許していた。多くの民主党指導者が奴隷制に反対する立場をとることで民衆の不満は拡大し、党が南部寄りの姿勢を強めていると自覚すると、スワードはホイッグ党にとって、民主主義と平等という美辞麗句で民主党が強力に独占している状態を打ち破る唯一の方法は、党の綱領として反奴隷制を受け入れることだと確信するようになった。北部の人口が増えていることに対し、南部の労働システムはアメリカ的民主主義の理想の対極にあるもののように見えてきた。 共和党員は「奴隷勢力による陰謀」の存在を信じていた。それは連邦政府を掌握し、憲法を自分達の目的に合わせて悪用しようとしていた。「奴隷勢力」という概念は、スワードのような男達が長い間政治的に親しもうと願ってきた反官僚政治という訴えを共和党員に与えた。古い反奴隷制議論に奴隷制は北部の自由労働と民主主義の価値観に脅威をあたるという考えを結びつけることにより、共和党が北部社会の中心にあった平等主義者の見解に踏み込むことを可能にした。 この意味で1860年の大統領選挙の時、共和党の演説者はこれら原則を体現する者として「正直なエイブ」とすら呼び、繰り返しリンカーンのことを「労働者の子」や「辺境の息子」と表現して、いかに北部で「正直な産業と労働」が報われるかを証明した。リンカーンは元ホイッグ党であったが、「広い覚醒」(共和党クラブの一員)が切り取ってきた線路の模型を使ってリンカーンの卑しい生まれを有権者に覚え込ませるようにした。 ほとんど全ての北部州において、組織者達は1854年の投票で共和党あるいは反ネブラスカ勢力に融合を起こさせるように運動した。急進的共和党員が新しい組織を支配している地域では、包括的革新計画が党の政策になった。彼らが1854年の夏に共和党を結党させたまさにそのように、急進派は1856年の党の全国的組織化にも重要な役割を果たした。ニューヨーク州、マサチューセッツ州およびイリノイ州での共和党会議は急進的綱領を採択した。ウィスコンシン州、ミシガン州、メイン州およびバーモント州におけるこれら急進的綱領は通常政府と奴隷制の分離、逃亡奴隷法の撤廃、およびこれ以上奴隷州を増やさないことを要求した。急進派の影響が強いときのペンシルベニア州、ミネソタ州およびマサチューセッツ州でも綱領になった。 1860年、シカゴでの共和党大統領候補指名会議で、保守派は以前から急進派との評判があったウィリアム・スワード(ただし、1860年までにホレース・グリーリーに中道に過ぎると批判されていた)の指名を妨げることができた。他の候補者は早くから党員になるかホイッグ党に対抗する党を作ったことがあり、それ故に多くの代議員を敵に回していた。リンカーンが3回目の投票で選ばれた。しかし、保守派は「ホイッグ色」を復活させることまではできなかった。奴隷制に関する会議での決議はほぼ1856年のものと同じであったが、言葉の使い方が急進的ではなくなった。次の数ヶ月間、トマス・ユーイングやエドワード・ベイカーのような保守派共和党員ですら、「新領土の通常状態は自由である」という綱領の文句を受け入れた。全般的に見て、組織者達は共和党の公式政策を形作る効果的な仕事をしたと言えた。 南部の奴隷所有者の興味は、共和党の大統領という見込に直面し、また党派間の力関係を変えることになる新しい自由州の加盟であった。多くの南部人にとって、ルコンプトン憲法問題での敗北は多くの自由州が合衆国に加盟してくることを予感させるものであった。ミズーリ妥協の時点に戻って南部地域は上院で競い合えるように奴隷州と自由州のバランスを維持することを求めた。1845年に最後の奴隷州が認められて以降、自由州は5州が加盟していた。北部と南部のバランスを保つという慣習は自由土地州を多く加えることですでに廃れていた。 ==1850年代末の連邦政策を巡る党派間の争い== ===背景=== チャールズ・ベアードとメアリー・ベアードの著書「アメリカ文明の興隆」(1927年)では、奴隷制が経済制度(労働システム)ほど社会的あるいは文化的な制度ではなかったとしている。ベアード夫妻は北東部の金融業、製造業および商業と南部の農業の避けられない闘争を挙げ、それぞれの利益を守るために連邦政府を支配しようと争ったとした。当時の経済決定論者によれば、どちらの側も奴隷制と州の権限を表紙のように使った。 近年の歴史家はベアードの命題を拒んだ。しかしベアードの経済決定論は後の歴史家に重要な方法で影響した。レイモンド・ルラーギのような近代化論者は産業革命が世界的な規模で拡がるにつれて、イタリアやアメリカ南部からインドまで、世界中の農業依存、前資本主義、「後ろ向き」の社会に報復の日が来ていたとした。ほとんどのアメリカの歴史家は南部が高度に発展しており、北部の発展に並ぶほどだったと指摘した。 ===1857年の恐慌と党派の再編成=== 少数の歴史家は、1857年の重大な金融恐慌とそれに至る経済的苦境とが共和党を強くし、党派的緊張関係を高めたと信じている。恐慌以前は比較的低い関税によって強い経済成長があった。よって国の大部分が成長と繁栄に纏まっていた。 鉄鋼業と繊維産業は1850年以後毎年急速に悪化する問題に直面していた。1854年までに鉄鋼の在庫は世界の市場でだぶついていた。鉄鋼価格が下がり、アメリカでは多くの製鋼所が閉鎖された。 共和党は西部の農夫や北部の製造業者に、南部の支配する民主党政治の低関税経済政策が不況の原因と非難するように仕向けた。しかし、不況は南部と西部における北東部銀行の利益に関する疑いを復活させた。東部の西部農産物に対する要求が西部を北部に近付けた。「輸送革命」(運河と鉄道)が進展し、かってはアパラチア山脈をこえることが難しかった西部生産者の小麦やトウモロコシなどの穀物が高い比率と絶対量で北東部の市場に流れた。不況は東部商品に対する西部市場の価値と、市場に供給する土地所有者およびそこから出る利益に注目させた。 土地の問題とは別に経済的な困難さが共和党をして不況に反応する産業に高い関税を適用する動機を強めた。この問題はペンシルベニア州およびおそらくニュージャージー州で重要であった。 ===南部の反応=== 一方で多くの南部人は地域を「奴隷制度廃止化」する農夫に土地を与える「急進的」考え方に不満を漏らしていた。南部地域主義の理論はJ.D.B・デボウのような人物によって1857年の恐慌以前に発展させられていたが、この恐慌は多くの綿花男爵達に東部の金融業の利益に頼りすぎるようになっていたことを認識させた。 「デモクラティック・レビュー」の元編集者トマス・プレンティス・ケッテルは南部で人気があるもう一人の論説者であったが、1857年から1860年の間は特に著名となった。ケッテルはその著書「南部の富と北部の利益」の中で統計データを整理し、南部は大きな富を生み出したが、北部は原材料に依存しながら南部の富を吸い上げたとした。北部への製造業の集中と、北部が通信、輸送、金融および国際貿易で勝っていることからくる地域間不均衡を論じ、製造と貿易の全ての利益は土地から生まれているという古い重農主義原理を持ち出して比較した。バーリントン・ムーアのような政治社会学者は、このような類のロマン的懐古主義は産業化が確立したときはいつも出てくるものだと記した。 自由農民に対する南部の敵意は、北部に西部の農民と連携する機会を与えた。1857年から1858年にかけての政治的な再編成の後、共和党の力が強まったこととその地域の支持基盤が全国にネットワーク化されたことでも明らかなように、ほとんど全ての問題は西部の奴隷制拡大に関する論争に綯いあわされていった。関税、銀行政策、公共土地および鉄道への助成金といった問題は、1854年以前の政党政治のもとで南部の奴隷所有者の利益に対抗する北部と北西部のあらゆる要素を常に一体化するという訳ではなかったが、西部の奴隷制拡大の問題が生じると、党派間抗争のタネとされるようになった。 不況が共和党を強くした間に、奴隷所有者の関心は北部が南部の生活様式に対して急進的で敵対的な構想を抱いているというふうに確信するようになった。こうして南部は脱退の土壌が出来上がりつつあった。 共和党は、ホイッグ党的な人物によって推進された「万歳」(hurrah)キャンペーンで、リンカーンの登場の時に奴隷州のヒステリーを掻き立て、党派的な傾向を強めたのに対し、南部の「けんかっ早い人」(fire eaters)は北部や西部の共和党支持選挙民の中にあった「奴隷勢力陰謀」という考えを裏付けた。南部が奴隷貿易を再開したいという要求を出したとき、党派間の緊張関係がさらに高まることになった。 1840年代早くから南北戦争の勃発まで、奴隷を維持する経費は確実に上がり続けた。一方で綿花の価格は原材料にありがちな市場の変動を経験していた。1857年の恐慌以後、綿花の価格は下落し、奴隷の価格は急速に上がり続けた。1858年の南部における商業会議で、アラバマ州のウィリアム・L・ヤンシーはアフリカ人奴隷貿易を再開することを要求した。国内交易で利益を得ていたアッパー・サウスの州の代議員のみが奴隷貿易の再開に反対したが、これは彼らが国内における潜在的な競合の可能性を予見していたからであった。1858年の会議は幾つかの保留事項を除いて奴隷輸入を禁じるあらゆる法律の撤廃を推奨する投票まで行き着いた。 ==リンカーンの登場== ===1860年の選挙=== 当初、ニューヨーク州のウィリアム・スワード、オハイオ州のサーモン・チェイスおよびペンシルベニア州のサイモン・キャメロンが共和党の大統領候補として有力であった。しかし、エイブラハム・リンカーンは下院議員を1期のみ務めただけだったが、1858年のリンカーン・ダグラス論争で名声を獲得し、党内に政敵がほとんどいなかったこともあって、他の候補者を凌いだ。1860年5月16日、リンカーンはイリノイ州シカゴでの党大会で共和党の指名を勝ち取った。 それに対する民主党の方はルコンプトン憲法に関する議論が元で分裂してしまっていた。民主党主流派はスティーブン・ダグラスの指名に動いたものの、ダグラスの奴隷制に対する態度に反感を持っていた南部の「けんかっ早い人(Fire‐Eaters)」達はこの人選に反対、チャールストンでの第一回民主党大会から50人が退席してしまう。残りの民主党員達はダグラスを含めて6人の候補を選んだが、57回投票してもダグラスが2/3の票を得られなかったためそこで閉会し、バルチモアで第二回民主党大会を開く事となった。バルチモアでの民主党大会ではまず先の大会で退席した党員の処遇を巡って議論が勃発し、結局はアラバマ州とルイジアナ州の党員以外は復帰をさせるべきだという判断が150票対101票で決定されたもののこれを「北部の民主党員による党の乗っ取りだ」と感じた多くの党員(主にまだ退席していなかった南部諸州の党員ら合計55人)がさらに離脱し、結局残った党員達がダグラスを選出することで落ち着いた。 一方民主党大会から離脱した党員たちは独自の党大会を主催、南部民主党を立ち上げてジョン・ブレッキンリッジを大統領候補に指名した。この結果、南部の農園主層は国政を支配する手段を失った。民主党の分裂により、共和党の候補者は分裂した対抗馬と争うことになった。 リンカーンにとって都合の良かったことは、境界州の元ホイッグ党員が早くから立憲連合党を結成し、大統領候補にはテネシー州のジョン・ベルを指名したことである。このために各党指名候補は地域に偏った選挙戦を展開することになった。ダグラスとリンカーンは北部で、ベル、ブレッキンリッジおよびダグラスは南部で争うという形であった。結局北部ではリンカーンが圧倒的な支持を得てダグラスを下し、南ではブレッキンリッジがベルを下すと言う結果になった。一般投票では4割に少し届かない程度の票を獲得したリンカーンだったが選挙人の過半数を抑え(303人中180人)大統領職を射止める事となった。 「農場のために投票せよ、関税のために投票せよ」が1860年の共和党のスローガンであった。総じて実業家は農夫の土地に対する要求を支持し(工場労働者の集団にも人気があった)、その見返りに高い関税の支持を得た。1860年の選挙は産業革命によって解き放たれた新しい社会的階層の政治力をある程度まで高めた。1861年2月、アメリカ合衆国から7つの州が脱退した。4月から5月にさらに4つの州が脱退した。メリーランド州だけは戒厳令が布かれたために脱退できなかった。議会は北部が圧倒的多数となり、モリル関税を成立させた(ブキャナンが署名した)。これは関税率をあげ、政府が戦争を遂行する費用を手当するためであった。 ===南部の脱退=== 1850年代半ばまでに共和党が台頭しアメリカとしては初めて絶対多数を占める党になったことで、政治は党派的な緊張関係が尽きてくる段階に入った。党派的な緊張関係の焦点であった西部の土地の多くは綿花の栽培に適していなかったが、南部の脱退指向派は自分達の国政における力が急速に弱っている兆候としてその政治的な決着を読み取った。以前は、奴隷制が民主党によってある程度強化されていた。民主党は南部寄りの姿勢を強く表すようになってきており、国の新領土を南部の者達が支配しようとしたときも容認し、南北戦争前までは国策を支配していた。しかし、民主党は1850年代半ばの選挙区調整で重大な逆境に立った。1860年は有権者集団の中で既存の党に忠実であった者達の模様を大きく変えさせた重大な選挙であった。リンカーンの選出は、国と地方の利益および依存関係において競合する力のバランスを変える分岐点となった。 選挙の行方が確実になってくると、サウスカロライナ州は特別会議を招集して、「サウスカロライナ州とアメリカ合衆国の名の下にある他の州との間に存続した連合は解消された」と宣言し、1861年5月21日までの他の南部10州脱退の先駆けとなった。連邦議会では南部による反対が無くなり、共和党は妥協を生むような方法で南部の要求を満足させる必要がなくなった。 ==南北戦争の勃発と妥協の問題== エイブラハム・リンカーンはクリッテンデン妥協案を拒否し、1861年のコーウィン修正案の批准を得ることには失敗した。またクリッテンデン妥協案とコーウィン修正案に替わる有効な代案を提案しようとしたワシントン平和会議も開催不可能となり、妥協をしないことになった。このことは南北戦争の歴史家によって未だに議論されているところである。戦争が遂行されるようになったときでも、ウィリアム・スワードとジェームズ・ブキャナンはその必然性の問題についての議論を纏めようとしていた。このことも歴史家の議論の対象になっている。 開戦前ですら、国中を燃え上がらせた党派間緊張関係について2つの競合する説明が試みられた。ブキャナンは党派間の敵対心は偶然のものであり、自己中心あるいは狂信的な扇動者による不必要な仕事だったと信じていた。さらに共和党の「狂信」を理由として抜き出してもいた。一方で、スワードは反対勢力と守る勢力の間に抑制できない軋轢があったと信じた。 抑制できない軋轢という考え方は当初の歴史家の議論でも支配的なものであった。戦後の数十年間、南北戦争の歴史は一般に紛争に参加した北部の者達の見解を反映していた。この戦争は南部が非難されるべき明確な道徳的紛争であり、奴隷勢力の思い描いたものの結果として持ち上がった紛争と考えられた。ヘンリー・ウィルソンの著書「アメリカにおける奴隷勢力の興亡の歴史」 (1872‐1877)は、この道徳的解釈を真っ先に代表するものとなり、北部の者達は「奴隷勢力」の挑戦的な考え方に対して合衆国を守るために戦ったとしていた。後にウィルソンの7巻からなる「1850年妥協から南北戦争までのアメリカ合衆国史」 (1893‐1900)では、ジェイムズ・フォード・ローズが奴隷制を南北戦争の中心そして実質上唯一の原因としていた。北部と南部は奴隷制の問題を和解もできないし、変えることもできないという立場になっていた。紛争は避けられなくなっていた。 しかし、戦争は避けられなかったという考えは1920年代まで歴史家達の支持を得られなくなった。この頃、「修正主義者」達が紛争に至るまでの新しい理由を提唱し始めた。ジェイムズ・G・ランドールやアベリー・クレイブンのような修正主義歴史家は南部の社会や経済の仕組みの中に戦争を要求するような基本的違いは無かったと見た。ランドールは「ヘマをした世代」の指導者の怠慢を非難した。さらに奴隷制は本来害のない制度であり、19世紀中には消えていく運命にあったとも見ていた。もう一人の指導的修正主義者クレイブンはランドールよりも奴隷制の問題を強調したが、概ねは同じポイントを突いていた。クレイブンの著書「南北戦争の到来」では、奴隷労働者は北部の労働者よりも悪い状態ではなかったとし、奴隷制度そのものは究極的には消滅する途上に既にあったこと、戦争は議会政治の伝統に巧みで責任もあった指導者のヘンリー・クレイとダニエル・ウェブスターによって避けられたはずだとした。クレイとウェブスターは1850年代の指導者世代と対比してほぼ間違いなく19世紀前半のアメリカ政界で最も重要な人物であり、合衆国に捧げられた情熱的で愛国的な献身によって妥協点を見出せる可能性があった。 しかし、1850年代の政治家達が無能ではなかった可能性はある。より最近の研究では修正主義者の解釈の要素は残しながら、政治的な扇動の役割を強調した(南部にたいして民主党、北部に対して共和党の政治家が党派間抗争を政治的議論の中心に起き続けた)。デイビッド・ハーバート・ドナルドの1960年の議論では、1850年代の政治家達は異常なほど無能ではなかったが、民主主義の急速な拡大に直面して伝統的な拘束が無くなっていく社会で活動していたと論じた。2大政党制の安定は合衆国を一つにしていたが、1850年代にはそれが崩れて、党派間抗争を抑えるのではなく増大させたとした。 この解釈を補強するために、政治社会学者は政治的民主主義の安定的機能は党派が様々な利益の広い連携を代表している状況を必要とし、社会的紛争の平和的解決は主要な党派が基本的な価値観を共有しているときに容易に達成されると指摘した。1850年代以前、2度目のアメリカ的2大政党制(民主党とホイッグ党の争い)がこのパターンであった。この時代は地域に跨る政治的連携のネットワークを維持するために、党派の理論や問題が政治から遠ざけられていたあからである。しかし、1840年代と1850年代に理論が政治の中心に入っていった。保守的なホイッグ党や民主党はそれをまだ遠ざけて置こうと最善の努力はしていたうえでのことであった。 ==経済== 歴史家達は一般に経済的紛争は戦争の主要原因ではなかったということでは一致している。経済史学者のリー・A・クレイグは「実際に、過去何十年もの間経済史学者による多くの研究は、南北戦争の前の時代の北部と南部の関係に経済的な紛争が固有の条件ではなかったので、南北戦争の原因では無かったことを示した」と記録している。多くの集団が開戦前の1860年から1861年にかけて戦争を避ける妥協点を見出そうと努めたが、経済政策の論点には至らなかった。奴隷制の経済的な面は別として、他の経済問題は南北戦争を引き起こしたことにはならなかった。 ===地域による経済の違い=== 南部、中西部および北東部は全く違う経済構造であった。互いに交易があり、それぞれ合衆国の中に留まることでより繁栄をもたらしていたのは、1860年から1861年の多くの実業家が指摘したことでもある。しかし、1920年代のチャールズ・ベアードは、(奴隷制や憲法論議よりも)これらの違いが戦争の原因になったという高度に影響のある議論を行った。ベアードは北部の産業と中西部の農業が連携して南部のプランテーション経済と対峙したという見方をした。これを批判する人は、北東部が多くの異なる競合的経済利益によって高度に多様化しており統一された北東部という見方が正しくないと指摘した。1860年から1861年、北東部のほとんどの実業界利益代表は戦争に反対した。1950年以降、ベアードの解釈は自由意志論経済学者には受け入れられているものの、歴史家の主流でこれを認めるものは少数に過ぎない。歴史家のケネス・スタンプは1950年以降ベアード説を棄てて、学界の合意事項を総括した。「ほとんどの歴史家は...なぜ北部と南部の異なる経済が分裂を生み南北戦争を起こしたかという説得力のある理由を今は見出せない。むしろ彼らはなぜ、経済が互いに補い合っていた二つの党派が、合衆国に残る利点をそこに見出さなかったかという強く実際的な理由を見付けた。 ===自由労働対奴隷制擁護論議=== 歴史家のエリック・フォーナーは、自由労働理論が北部の支配的な考え方であり、それが経済機会を強調したと論じた。対照的に南部の者達は自由労働者のことを「グリースにまみれた機械工、汚い運転者、拳の小さい(けちな)農夫、および気の触れた理論家達」と呼んでいた。南部の者達は西部の自由農場を提案するホームステッド法に強く反対し小規模農夫がプランテーションの奴隷制に反対することを恐れていた。実際にホームステッド法に対する反対は関税に対する反対よりも脱退主義者の弁論の中によく使われていた。カルフーンのような南部の者達は奴隷制が「積極的な善」であるとし、奴隷制故に奴隷達は文明化され、道徳的にも知的にも改善されるとしていた。 ==当時の論説== アメリカ連合国副大統領アレクサンダー・スティーヴンスの「礎石演説」、1861年3月21日、サバンナにおいて。 しかし、(トーマス・ジェファーソンの)考え方は基本的に間違っている。その考えは人種の平等という仮定に立っている。これは誤りである。 ... 我々の新しい政府は全く反対の考えで設立された。その基盤と「礎石」は黒人が白人と同じでは無いという偉大な真実に依っている。奴隷制は優れた人種に従うということであり、自然で通常の状態である。 1863年7月、ゲティスバーグとビックスバーグで決戦が行われた時に、共和党上院議員チャールズ・サムナーは、再度その演説「奴隷制の未開性」を講演し、奴隷制を保存したいという望みは単に戦争の理由に過ぎないと言った。 この戦争には2つの明らかな基礎がある。1つは奴隷制であり、もう1つは州の権限である。しかし、州の権限は単に奴隷制を覆うものに過ぎない。もし奴隷制が無くなれば、州の権限からの問題も無くなる。 戦争は奴隷制のためであり、他の何者でもない。既に議論で言い尽くされてきた領主の支配を、武器を取って正当性を主張するのは気違い沙汰である。気違いを気取った不敵さでこの未開さを真の文明として言いくるめようとしている。奴隷制は新しい体系の「礎石」であると宣言されている。 リンカーンの戦争目的はその原因とは対照的に戦争に対する反応であった。リンカーンは愛国主義者の目的は合衆国の保存だと説明した。これは奴隷解放宣言の1ヶ月前、1862年8月22日のことであった。 私は合衆国を救いたい。私は憲法の下で最短の方法で救いたい。国の権威ができるだけ早く戻れば、合衆国は「以前の合衆国」にそれだけ近くなる。...この闘争における私の最優先事項は合衆国を救うことであり、奴隷制を救うことや破壊することではない。奴隷を解放することなしに合衆国を救えるのであればそうするだろう。奴隷をすべて解放することによって合衆国を救えるのであればそうするだろう。またもし私が幾らかの者を解放して残りをそのままにしておくことで、合衆国を救えるのであればそうもするだろう。...私はここで、私の公式任務の見解に即して私の目的を語った。私はこれまで個人的な願望として語ってきた全ての者はどこでも自由であるべきという考え方を修正するつもりはない。 1865年3月4日、リンカーンは2回目の就任演説で奴隷制は戦争の原因だったと語った。 全人口の8分の1は有色の奴隷であるが、合衆国全体に等しく分散しているわけではなくて、南部に偏っている。これらの奴隷は特別で力強い利益の構成要素となった。この利益がいくらか戦争の原因になったことは皆が知っている。この利益を強化し、永続させ、また拡げることが、反乱者が戦争によってでも合衆国を引き裂こうとした目的である。一方で政府は領土の拡大を制限すること以上の事をする権利は無いと主張した。 ==関連項目== 南北戦争アメリカ連合国(南部連合) =渡辺康幸= 渡辺 康幸(わたなべ やすゆき、1973年6月8日 ‐ )は、千葉県千葉市出身の日本の陸上競技選手、指導者。専門は長距離走。住友電工陸上競技部監督。市立船橋高校、早稲田大学人間科学部卒業。 その後は指導者へ転身し、当時低迷していた母校早稲田大学競走部長距離部門の育成に取り組み2004年に監督に就任した。2010年の第22回出雲全日本大学選抜駅伝競走、第42回全日本大学駅伝対校選手権大会、2011年の第87回東京箱根間往復大学駅伝競走を制した。2015年3月をもって早稲田大学競走部駅伝監督を退任、2015年4月からは住友電気工業陸上競技部監督を務めている。 市立船橋高校、早稲田大学のエースとして高校総体、全国高等学校駅伝競走大会、箱根駅伝などの大会で活躍を見せた。大学卒業以降は瀬古利彦の指導を受けて、日本代表として1992年世界ジュニア陸上競技選手権大会10000m3位、1995年世界陸上競技選手権イェーテボリ大会10000m12位、ユニバーシアード福岡大会10000m優勝の成績を収めた。1996年にエスビー食品へ入社しマラソンで世界を目指した。1996年アトランタオリンピックの10000mはアキレス腱の故障により出場ができなかった。度重なる怪我により2002年に現役を引退した。 ==経歴・人物== ===幼少から市立船橋高校まで=== 1973年、千葉県に生まれる。渡辺の祖父は元800m栃木県記録保持者で、父も短距離走の選手という家庭に育った。1986年中学校に進学。父の勧めにより陸上部に入部した。中学校の陸上部の練習は厳しくなかったが走ることに楽しさを見出し、3年時に千葉県大会800m3位となった。また駅伝では千葉市大会で区間賞を獲得して優勝し、千葉市選抜チームとして出場した千葉県中学校駅伝大会でも区間賞を獲得した。 渡辺は県駅伝大会の結果により、箱根駅伝の強豪私立大学の附属校からのスカウトを受けて進学を考えていたが、その後市立船橋からの勧誘を受けた。監督の小出義雄が中学生の渡辺について「タイムは関係ないんですよ。大切なのはフォーム。康幸くんは大きな走りでねえ。こりゃあ絶対に伸びると思った」と高く評価しており、小出や渡辺敏彦が指導する陸上全国区の強豪校「市船」に憧れを抱いていた渡辺は、私立校への進学を勧める父親を説得し、市立船橋高校普通科の一般入試に合格して同校へ進学した。 市立船橋高校では渡辺敏彦監督指導の下、渡辺は陸上強豪校の厳しい練習を重ねた。朝練習からビルドアップ走と呼ばれる後半にかけて速度を上げるトレーニングの9km走が日課となった。放課の練習内容は曜日によって異なり、大きな高低差があるコースの20km走や、400m×20本のインターバル走、あるいはクロスカントリーコースを走る練習などを行なっていた。休養は日曜日のみであった。練習の成果はすぐに現れ、入学4ヵ月後の8月に初めての全国大会出場となる国民体育大会に出場し、少年男子B5000mで2位入賞の成績を残した。 渡辺は1989年の1年時から全国高等学校駅伝競走大会・都大路に3年連続出場した。2年時からは2年連続で各校のエースが集う花の1区・10.0kmを走った。NHKのテレビ中継でレースの解説を務めた宗茂が「彼は高校2年生にして、実業団2年目の選手に匹敵する走力の持ち主」と紹介するなど注目を集める中、29分42秒で区間賞を獲得した。3年時は区間記録29分29秒の更新を狙って西京極競技場を先頭で飛び出し、2位に70m差をつけるなどハイペースで後続を振り落としつつ疾走した。7km過ぎで腹痛を起こし9kmからのラスト1kmは3分以上要したが、29分34秒を記録して区間賞を獲得した。1区の2年連続区間賞獲得は30年ぶり史上4人目となる快挙であった。また、都大路前の関東高校駅伝1区10kmでは高校生初の28分57秒を記録している。 2年時から高校長距離では無敵を誇り、1990・1991年の国民体育大会少年A10000mを連覇した。3年時には全国高等学校総合体育大会で1500m・5000mの2種目を制した。12月1日の中央大学記録会10000mにおいて28分35秒8を記録し、櫛部静二の従来記録を36秒更新する日本高校記録を樹立した。 さらに渡辺は1990年8月にプロヴディフで開催された世界ジュニア陸上競技選手権大会5000mに出場し、初めて日の丸のユニフォームを身にまとった。この時は緊張から来る腹痛により予選を途中棄権する結果に終わったが、世界の大舞台・世界の強さを自らの身で経験し、成長への大きなきっかけとした。1991年3月ボストンで開催された世界クロスカントリー選手権ジュニアでは優勝したイスマイル・キルイから31秒差、2位のハイレ・ゲブレセラシエから23秒差でゴールし、日本勢最高位の7位に入った。渡辺は10以上の大学・実業団からスカウトを受けたが、コーチを務める瀬古利彦の勧誘を受け、武井隆次・櫛部静二・花田勝彦ら強い選手と競争できる環境を求めて早稲田大学人間科学部に進学した。 ===早稲田大学=== 1992年4月、早稲田大学に入学した。渡辺はエンジのユニフォームに袖を通して、1年春から活躍を見せた。同じ早稲田大学の2年先輩である三羽烏と呼ばれた武井隆次・櫛部静二・花田勝彦、1年後輩の小林雅幸の他に、山梨学院大学の留学生であるステファン・マヤカなど、渡辺の大学時代には優秀な長距離選手が揃っていた。特に同学年のマヤカとはトラック・駅伝の舞台を問わず熾烈な戦いを繰り広げた。渡辺は後に、関東学生陸上競技対校選手権大会5000m2連覇、10000m3連覇、日本学生陸上競技対校選手権大会5000m2連覇を飾るなど秀でた成績を残した。 大学1年時の1992年、渡辺は5月の関東学生陸上競技対校選手権大会10000mで武井に次ぐ2位に入り、9月11日の日本学生陸上競技対校選手権大会5000mで高岡寿成に次ぐ2位となった。9月18日の世界ジュニア陸上競技選手権大会10000mでは3位に入賞し銅メダルを獲得した。このレースでは2位でゴールしたケニアのジョセファト・マチュカ(英語版)が、優勝したハイレ・ゲブレセラシエをレース中に殴ったため失格となり、4位でゴールした渡辺が3位に繰り上がった。11月、渡辺は第24回全日本大学駅伝で初めてエンジの襷を胸に掛けて大学駅伝を走り、早稲田大学による全日本大学駅伝初優勝の一員となった。第69回箱根駅伝では花の2区・23.2kmに抜擢された。1区櫛部から襷を受けると先頭を守り、早稲田大学7年ぶりの往路優勝および8年ぶりの総合優勝に貢献した。早稲田大学は総合タイムの新記録を樹立した。 大学2年時の1993年、渡辺は8月にバッファローで開催されたユニバーシアード10000mに出場し銀メダルを獲得するなど活躍を見せた。全日本大学駅伝を連覇した後、第70回箱根駅伝に出場し1時間01分13秒を記録し、前年櫛部が記録した1区の従来の記録を上回る区間新記録を樹立した。駅伝とハーフマラソンの違いがあるものの、日本記録を上回る記録と言われた。だが、この時同じく1区を走った山梨学院大学の井幡政等も区間新記録の快走を見せ、井幡とわずか27秒差しか広げられず、その後2区で花田がマヤカに抜かれると、早稲田大学は連覇を逃し、山梨学院大学が総合タイムの記録を更新して優勝した。ちなみにこのとき出した1時間1分13秒は2007年に東海大学の佐藤悠基に抜かれるまで区間記録だった。 大学3年時の1994年、渡辺は夏にヨーロッパに遠征し、アスレティッシマで世界陸上競技選手権大会の10000m参加標準記録A28分10秒00をクリアした。ロンドングランプリで5000mの自己記録となる13分26秒53を記録した。遠征によってトラック種目での世界トップレベルとの力の差を実感し、マラソンで世界を目指すことを意識する。11月、渡辺は全日本大学駅伝に8区アンカーとして出場した。区間新記録を樹立する走りで粘る山梨学院大学の中村祐二を振り切り、早稲田大学の3連覇に貢献した。第71回箱根駅伝では2区を走り、マヤカを抑えて区間賞を獲得。初めての1時間06分台となる1時間06分48秒の区間新記録を樹立した。この大会では2区渡辺、3区小林正幹、4区小林雅幸と早稲田勢が3区間連続で区間記録を更新した。早稲田大学は往路新記録を樹立し2年ぶりの往路優勝を飾った。渡辺は箱根の後1000kmを走る距離練習を積み、1995年3月のびわ湖毎日マラソンでマラソンに挑戦する予定であったが、この年の多量の花粉飛散を原因とする花粉症に悩まされて気管支炎になり出場を断念した。 大学4年時の1995年、渡辺はインカレ、日本選手権の出場を経て、8月6日世界陸上競技選手権大会10000m予選2組に出場した。第2集団につけてレースを進め、終盤に追い上げて27分48分55の記録で6着となり、予選通過を果たした。この時の記録は瀬古が保持していた男子10000mの日本学生記録を更新するものであった。8月8日の10000m決勝ではハイレ・ゲブレセラシエが27分12秒95の大会新記録で2連覇を飾ったが、渡辺は27分53秒82の記録で12位となった。渡辺は、日本選手権から世界選手権の予選・決勝にかけて3戦連続で10000m27分台を記録した。9月2日福岡で開催された第18回ユニバーシアード10000mに出場した。雨の中、残り500mからスパートをかけマヤカを振り切り優勝、金メダルを獲得した。11月の第27回全日本大学駅伝対校選手権大会では中央大学との1分31秒という大差を逆転し、早稲田大学の全日本駅伝4連覇に貢献した。この秋、渡辺はアトランタオリンピックのマラソン日本代表選出と瀬古が持つ大学生初マラソン記録更新を目標として、月間走行距離900kmの練習を積んでいた。 1996年の第72回箱根駅伝を競走部主将として迎えた。2区を走る渡辺は先頭から37秒差の9番手で1区梅木蔵雄の襷を受け取り、2.4kmまでに8人を交わして先頭に立った。最初の5kmを14分05秒で通過するハイペースで終盤まで押し切り、2分04秒まで差を広げた。5区では小林雅幸が区間新記録を樹立して早稲田大学は往路優勝を飾った。渡辺の箱根駅伝総合優勝は大学1年時第69回大会の1度に止まる。渡辺の2年時、早稲田大学は武井・櫛部・花田・小林正幹・渡辺・小林雅幸と、10000mの自己記録28分台を持つ選手を6人揃えて「ビッグ6」と呼ばれ、実業団と互角に戦えるチームと言われた。一方で、その他の選手との力の差があったことや、箱根駅伝特有の5区、6区の適性にあった選手を揃えていなかったことから、8人で走る全日本大学駅伝では4連覇を達成した一方、10人の選手を必要とする箱根駅伝では5区、6区でチームは毎年ブレーキとなり大学1年時しか総合優勝を達成できなかった(唯一、総合優勝を果たした第69回大会でも6区で一度山梨学院大学に逆転を許している)。 箱根駅伝後の1月5日、渡辺は東京国際マラソンへ向けて練習を再開した。渡辺は左太もも裏に筋膜炎を起こしながらも練習を続行していたが肉離れを起こし、2月12日に東京国際マラソンの出場辞退を発表した。この後3月のびわ湖毎日マラソンに目標を切り替えて奄美大島で合宿を積み、アトランタオリンピック日本代表を目指した。3月3日、初マラソンのびわ湖毎日マラソンでは先頭集団につけて進んだが、35km過ぎから遅れはじめて2時間12分39秒の記録で7位に終わった。渡辺は10社以上の実業団から勧誘を受けたが、ヱスビー食品に入社した。 ===ヱスビー食品=== 1996年ヱスビー食品に入社した渡辺は、トラック種目でアトランタオリンピック日本代表を目指すことになった。6月日本陸上競技選手権大会10000mでは、高岡、花田にラスト勝負で僅かに及ばなかったものの3位に入り、男子長距離トラックの10000m日本代表に選出された。しかし、日本選手権時に左足のアキレス腱を痛めた。アトランタオリンピックの10000m予選を迎えて左足の状態は悪化しており、アキレス腱に強い痛みが起きていた。このために直前で出場を回避した。この故障が長引いて、レースに出られない状態が続いた。 1998年1月のニューイヤー駅伝の最終7区では区間新記録を樹立する走りで追い上げた。先頭を行く旭化成には届かなかったが、エスビー食品は準優勝を飾った。4月、兵庫リレーカーニバル10000mに出場し日本歴代6位となる27分46秒39を記録するなど、この年渡辺はアキレス腱の故障を抱えながらも練習を積んでいた。夏にマラソンへ向けて距離練習に挑んでいたが、9月の合宿期間中に左太ももの故障を再発。12月、福岡国際マラソンに出場し30kmまで先頭集団につけレースを進めたが、左太ももを痛めて34km過ぎで無念の途中棄権となった。2000年シドニーオリンピックには故障再発のために、マラソン・長距離トラックの国内選考会へ出場ができなかった。アトランタオリンピックで棄権して以降、渡辺は心無い批判を受けることもあり苦しんでいた。2002年夏、渡辺に故障が再発、7年間で7度という慢性的なアキレス腱の故障によって2002年9月9日に引退を発表した。 ===指導者として=== 2003年4月から母校・早稲田大学へ出向し、競走部コーチとして指導に当たった。早稲田大学体育会各部は1990年代後半から奥島孝康早稲田大学総長が指揮を執り、組織的な指導・管理、スポーツ医科学や設備の整備が進められていた。駅伝についても大学創立125周年にあたる2007年に向けて強化が進められており、この時期に渡辺の駅伝監督への昇格話が持ち上がった。2004年1月の第80回箱根駅伝で早稲田大学が16位に沈んでいたために状況の困難さを理解する瀬古やOBらから渡辺は引き止められたが、苦戦する母校の復活と1年間指導した選手を思って2004年4月に駅伝監督に就任した。渡辺は、競走部の後輩で箱根駅伝の5区・6区経験者でもある相楽豊をコーチとして迎えた。また、選手の食事面・身体面のケアのために栄養士とトレーナーを新たに招いた。 早稲田大学は大学間の獲得競争激化のために優秀な高校生の確保に苦慮していたが、2005年に入学した高校総体5000m日本人3位の竹澤健介の活躍と時期を同じくして、選手権大会のトラック種目・駅伝大会の成績が向上した。以後高校総体日本人1‐3位の選手や高校駅伝優勝校の選手が入学した。またこの時期に早稲田大学は所沢キャンパスの陸上競技場を改修、所沢市にある競走部合宿所も新築され2007年に竣工している。 渡辺は就任当初練習の強化による方針の失敗で故障者の増加を招いて苦しんだが、合宿所で選手と寝食を共にしながら選手が継続的な練習が行なえるように方針を変更し効果を上げた。量だけを求める練習を良しとせず、現実的な動機付けと目標設定を重視した。選手を陸上競技に縛り付けず、メリハリが効いた自己管理を求めた。渡辺はチーム全体の底上げに成功し、2006年10月の第83回箱根駅伝予選会で早稲田大学を予選1位通過に導いた。20kmのコースを走る予選会ではレースの前半を抑える作戦を指示し、12人中10人の選手を50位以内でゴールさせている。 2007年の第83回箱根駅伝では6位となり、早稲田大学は5年ぶりのシード権を獲得した。2005年から指導した竹澤健介は世界陸上競技選手権大会と北京オリンピックに日本代表として出場した。2008年の第84回箱根駅伝では竹澤が故障に苦しむ状況に陥りながらも、早稲田実業高校時代から指導していた駒野亮太が5区で今井正人の区間記録に迫る走りを見せるなどチームが力を発揮した。早稲田大学は1996年以来となる12年ぶりの往路優勝を飾り、シード権を逃していたチームは渡辺の監督就任から4年目にして箱根駅伝の優勝争いに加わった。2009年の第85回箱根駅伝では後半勝負を狙った東洋大学に逆転を許している。 2010年1月の第86回箱根駅伝で7位に終わった後、10月の第22回出雲全日本大学選抜駅伝競走では監督として初めてとなる男子大学三大駅伝の、そして自らの現役時代に果たせなかった出雲路での優勝を飾った。続く11月の第42回全日本大学対校駅伝選手権大会も制した。2011年の第87回箱根駅伝では柏原竜二擁する東洋大学に往路優勝を譲ったものの、逆転して押し切る采配を振って優勝を飾り、男子大学駅伝三冠を達成した。三冠は1990年の大東文化大学、2000年の順天堂大学に続いて10年ぶり3校目の快挙であった。この年は例年と異なり、全日本大学駅伝後の11月から200キロを走らせる距離練習を組んで箱根に備えた。早稲田大学は主力選手を故障で欠いたが1区から先頭を奪い、5区で逆転されながらも食い下がった流れを復路につなげて再逆転するなど、要所に配した4年生を中心に締める活躍を見せて東洋大学の追撃を振り切った。 2015年3月、任期満了をもって競走部駅伝監督を退任、2015年4月からは早稲田大学駅伝監督時代に指導した竹澤健介が所属する住友電工陸上部監督に就任した。 ===人物=== 渡辺は瀬古利彦の指導を仰いだが、瀬古のライバルである中山竹通のマラソンの走りに憧れて目標としていた。終盤にラストスパートをかけて抜き去る瀬古の走りとは異なった、レース序盤から先頭を突っ走り最後まで力で押し切る走りであった。瀬古の指示であっても自らが違うと考えることには意見を述べ、競技者としての気持ちの強さを備えていた。小出義雄や宗茂によると渡辺は、腰の位置が高くて足が長くバネが効いて大きなストライドで走るタイプであり、高い能力は衆目の一致するところであった。 高校の恩師である渡辺敏昭は渡辺について、技術面の指導は必要がなく全く行なわなかったとしている。全日本大学駅伝で並走した中村祐二が渡辺の走りについて「ズバッ、ズバッって。あんなに地面をける音が響くとは思わなかった」と語るなど、スパート時のキック力の強さが知られており、ヱスビー食品陸上競技部の専属トレーナーは、体重移動の速さとエネルギー効率の良さを指摘した。大学入学後の渡辺のふくらはぎの状態は極めて硬い状態であった。 瀬古利彦は渡辺を世界へと飛躍させた人物である。苦難の時期も力となり、渡辺の教え子の海外遠征を手助けするなど、渡辺が敬慕する恩師にあたる。渡辺の入学と入れ違いに市立船橋高校を去った小出義雄からはその磊落な人柄と指導から影響を受けた。ソウルオリンピック男子10000m日本代表であり競走部コーチ・駅伝監督として指導に当たった遠藤司もまた渡辺に影響を与えた人物である。先輩である武井隆次・櫛部静二・花田勝彦と渡辺は選手から指導者へと互いに立場を変え、選手権大会や大学駅伝に教え子を送り出している。大学時代のライバルであった真也加ステファンは親友である。 ==主な戦績== ===駅伝成績=== ==記録== =ジュゼッペ・ヴェルディ= ジュゼッペ・フォルトゥニーノ・フランチェスコ・ヴェルディ(Giuseppe Fortunino Francesco Verdi、1813年10月10日 ‐ 1901年1月27日)は、19世紀を代表するイタリアのロマン派音楽の作曲家であり、主にオペラを制作した。 代表作は『ナブッコ』、『リゴレット』、『椿姫』、『アイーダ』などがある。彼の作品は世界中のオペラハウスで演じられ、またジャンルを超えた展開を見せつつ大衆文化に広く根付いている。ヴェルディの活動はイタリア・オペラに変革をもたらし、現代に至る最も重要な人物と評される。1962年から1981年まで、1000リレ(リラの複数形)紙幣に肖像が採用されていた。 ==生涯== ===年少時=== ヴェルディは、父カルロ・ジュゼッペ・ヴェルディと母ルイジア・ウッティーニの間に初めての子供として生まれ、後に妹も生まれた。生誕地はブッセート近郊の小村レ・ロンコーレ村(英語版)だが、ここはパルマ公国を併合したフランス第一帝政のタロ地区(英語版)に組み込まれていた。彼はカトリック教会で洗礼を受け、ヨセフ・フォルトゥニヌス・フランシスクス (Joseph Fortuninus Franciscus) のラテン名を受けた。登録簿には10月11日付け記録に「昨日生まれた」とあるが、当時の日付は日没で変更されていたため、誕生日は9日と10日のいずれの可能性もある。翌々日の木曜日、父は3マイル離れたブッセートの町で新生児の名前をヨセフ・フォルトゥニン・フランコイス (Joseph Fortunin Francois) と申請し、吏員はフランス語で記録した。「こうしてヴェルディは、偶然にもフランス市民として誕生することになった」 カルロは農業以外にも小売や宿、郵便取り扱いなどを行い、珍しく読み書きもできる人物だった。ヴェルディも父の仕事を手伝う利発な少年だった。だが彼は早くも音楽に興味を覚え、旅回りの楽団や村の聖ミケーレ教会のパイプオルガンを熱心に聴いた。8歳の時、両親は中古のスピネットを買い与えると、少年は熱中して一日中これに向かった。請われて演奏法を教えた教会のオルガン弾きバイストロッキは、やがて小さな弟子が自分の腕前を上回ったことを悟り、時に自分に代わってパイプオルガンを演奏させた。やがて評判は広がり、カルロと商取引で関係があった音楽好きの商人アントーニオ・バレッツィ(イタリア語版)の耳にも届いた。バレッツィの助言を受けたカルロは、息子の才能を伸ばそうとブッセートで学ばせることを決断した。 ===ブッセートとミラノ=== 1823年、10歳のヴェルディは下宿をしながら上級学校で読み書きやラテン語を教わり、そして音楽学校でフェルディナンド・プロヴェージから音楽の基礎を学んだ。バレッツィの家にも通い、公私ともに援助を受ける一方で、彼を通じて町の音楽活動にも加わるようになった。作曲や演奏、そして指揮などの経験を重ね、ヴェルディの評判は町に広がった。17歳になった頃にはバレッツィ家に住むようになり、長女マルゲリータ・バレッツィ(イタリア語版)と親密な間柄になっていった。 しかし、更なる進歩を得ようと当時の音楽の中心地ミラノへ留学を目指した。費用を賄うためにモンテ・ディ・ピエタ奨学金を申請し、バレッツィからの援助も受け1832年6月にミラノに移り住んだ。ヴェルディは既に規定年齢を超えた18歳であったが、これを押して音楽院の入学を受けた。しかし結果は不合格に終わり、仕方なく音楽教師のヴァンチェンツォ・ラヴィーニャから個人指導を受けた。 音楽院でソルフェージュ教師を務めるラヴィーニャは、またスカラ座で作曲や演奏も担当していた。彼はヴェルディの才能を認め、あらゆる種類の作曲を指導し、数々の演劇を鑑賞させ、さらにスカラ座のリハーサルまで見学させた。知り合った指揮者のマッシーニを通じて見学したリハーサルでたまたま副指揮者が遅れ、ヴェルディがピアノ演奏に駆り出されると、熱中するあまり片手で指揮を執り始めた。絶賛したマッシーニが本番の指揮を託すと、演奏会は成功を収め、ヴェルディにはわずかながら音楽の依頼が舞い込むようになった。 そのような頃、プロヴェージ死去の報が届いた。彼は大聖堂のオルガン奏者、音楽学校長、町のフィルハーモニー指揮者兼音楽監督などブッセートの重要な音楽家であった。バレッツィはヴェルディを呼び戻して後継させようとしたが、進歩的なプロヴェージを嫌っていた主席司祭が対立候補を立て、町を巻き込んだ争いに発展した。ミラノに後ろ髪を引かれつつもバレッツィへの義理から、1836年2月にヴェルディはパルマで音楽監督試験を受け絶賛されつつ合格し、ブッセートへ戻って職に就いた。 22歳のヴェルディは着任したブッセートでまじめに仕事に取り組み、同年マルゲリータと結婚し、1837年に長女ヴィルジーニアが生まれた。しかし心中では満足できず、秘かに取り組んでいた作曲『ロチェステル』を上演できないかとマッシーニへ働きかけたりした。1838年には長男イチリオが生まれ、歌曲集『六つのロマンス』が出版されたが、同じ頃ヴィルジーニアが高熱に苦しんだ末に亡くなった。イチリオの出産以来体調が優れないマルゲリータや、未だ尾を引く主席司祭側とのいざこざ、自らの音楽への探求、そして生活の変化を目指し、ヴェルディは再びミラノへ行くことを決断した。 ===処女作『オベルト』=== 引き続きバレッツィの支援を受けてミラノに居を移したヴェルディは、つてを頼って書き上げたオペラ作曲『オベルト』をスカラ座支配人メレッリに届け、小規模な慈善興行でも公演できないか打診した。しばらく待たされたが色好い返事を受け、1839年初頭にはソプラノのジュゼッピーナ・ストレッポーニやテノールのナポレオーネ・モリアーニらを交えたリハーサルが行われた。しかし、モリアーニの体調不良を理由に公演は中止され、ヴェルディは落胆した。 ところが、今度はメレッリ側から『オベルト』をスカラ座で本公演する働きかけがあった。これはストレッポーニが作品を褒めたことが影響した。台本はテミストークレ・ソレーラの修正を受け、秋ごろにはリハーサルが始まった。この最中、息子イチリオが高熱を発し、わずか1歳余りで命を終えた。動き出した歯車を止める訳にはいかないヴェルディは悲しみを胸に秘めたまま準備を進め、11月17日に『オベルト』はスカラ座で上演された。 ヴェルディ初作品は好評を得て、14回上演された。他の町からも公演の打診があり、楽譜はリコルディ社から出版され、売上げの半分はヴェルディの収入となった。メレッリは新作の契約をヴェルディと結び、今後2年間に3本の製作を約束させた。不幸にも遭ったがこれでやっと妻に楽をさせられるとヴェルディは安堵していた。 ===黄金の翼=== 次回作にメレッリは『追放者』というオペラ・セリアを提案したがヴェルディは気が乗らず、代わりにオペラ・ブッファ(喜劇)『贋のスタラチオ』を改題して取り組むことになった。ところが1840年6月18日、マルゲリータが脳炎に罹り死去した。妻子を全て失ったヴェルディの気力は萎えメレッリに契約破棄を申し入れたが拒否され、どこか呆然としたまま『一日だけの王様(英語版)』を仕上げた。9月5日、スカラ座の初演で本作は散々な評価を下され、公演は中断された。ヴェルディは打ちひしがれて閉じこもり、もう音楽から身を引こうと考えた。 年も押し迫ったある日の夕方、街中でメレッリとヴェルディは偶然会った。メレッリは彼を強引に事務所に連れ、旧約聖書のナブコドノゾール王を題材にした台本を押し付けた。もうやる気の無いヴェルディは帰宅し台本を放り出したが、開いたページの台詞「行け、わが思いよ、黄金の翼に乗って (Va, pensiero, sull’ali dorate)」が眼に入り、再び音楽への意欲を取り戻した。 ソレーラに脚本の改訂を行わせ、作曲を重ねたヴェルディは1841年秋に完成させた。彼は謝肉祭の時期に公演される事に拘り、様々な準備を経て1842年3月9日にスカラ座で初演を迎えた。観客は第1幕だけで惜しみない賞賛を贈り、黄金の翼の合唱では当時禁止されていたアンコールを要求するまで熱狂した。1日にしてヴェルディの名声を高めたオペラ『ナブッコ』は成功を収めた。 ===ガレー船の年月と『マクベス』=== 『ナブッコ』は春に8回、秋にはスカラ座新記録となる57回上演された。ヴェルディは本人の好みに関わらず社交界の寵児となり、クララ・マッフェイ(英語版)の招きに応じてサロット・マッファイのサロンに加わった。このような場で彼はイタリアを取り巻く政治的な雰囲気を感じ取った。一方メレッリとは高額な報酬で次回作の契約を交わし、1843年2月に愛国的な筋立ての『十字軍のロンバルディア人』が上演され、これもミラノの観衆を熱狂させた。2作は各地で公演され、『ナブッコ』の譜面はマリーア・アデライデ・ダズブルゴ=ロレーナに、『十字軍のロンバルディア人』のそれはマリア・ルイーザにそれぞれ贈られた。 数々の劇場からオファーを受けたヴェルディの次回作はヴィクトル・ユーゴー原作から『エルナーニ』が選ばれ、台本は駆け出しのフランチェスコ・マリア・ピアーヴェが担当した。ヴェルディは劇作に妥協を許さず何度もピアーヴェに書き直しを命じ、出演者も自ら選び、リハーサルを繰り返させた。1844年3月にヴェネツィアのフェニーチェ劇場で初演を迎えた本作も期待を違えず絶賛された。それでもヴェルディは次を目指し、後に「ガレー船の年月」と回顧する多作の時期に入った。 ローマ用に制作したジョージ・ゴードン・バイロン原作の『二人のフォスカリ(英語版)』(1844年11月)、ジャンヌ・ダルクが主役のフリードリヒ・フォン・シラー作の戯曲から『ジョヴァンナ・ダルコ(英語版)』(1845年2月)、20日程度で書き上げた『アルツィーラ(英語版)』(8月)が立て続けに上演され、どれも相応の評価を受けた。しかしヴェルディはリウマチに苦しみ、連作の疲れに疲弊しつつあった。続く『アッティラ』では男性的な筋からソレーラに台本を依頼するも仕事が遅い上に途中でスペイン旅行に出掛ける始末でヴェルディを苛つかせた。ついにピアーヴェに仕上げさせるとソレーラとは袂を分けた。1846年3月の封切でも好評を博したが、過労が顕著になり医者からは休養を取るようにと助言された。 1846年春から、ヴェルディは完全に仕事から離れて数ヶ月の休養を取った。そして、ゆっくりと『マクベス』の構想を練った。ウィリアム・シェイクスピアの同名戯曲を題材に、台本を制作するピアーヴェには何度も注文をつけた。時代考証のために何度もロンドンへ問い合わせ、劇場をフィレンツェのベルゴラ劇場に決めると前例の無い衣裳リハーサルまで行なわせた。特筆すべきは、出演者へ「作曲家ではなく詩人に従うこと」と繰り返し指示した点があり、そのために予定された容姿端麗のソプラノ歌手を断りもした。ここからヴェルディは音楽と演劇の融合を強く意識して『マクベス』制作に臨んだことが窺える。さらにはゲネプロ中に最も重要と考えた二重唱部分の稽古をさせるなど、妥協を許さぬ徹底ぶりを見せた。1847年3月、初演でヴェルディは38回カーテンコールに立ち、その出来映えに観客は驚きを隠さなかった。ただし評価一辺倒ではなく、華麗さばかりに慣れた人々にとって突きつけられた悲劇的テーマの重さゆえに戸惑いの声も上がった。本作の価値が正しく評価されるには20世紀後半まで待たされた。 ===ジュゼッピーナと革命=== 次の作品『群盗(英語版)』は初めてイギリス公演向けに書かれた。ヴェルディはスイス経由でパリに入り、弟子のエマヌエル・ムツィオをロンドンへ先乗りさせ、引退して当地に移り住んでいたジュゼッピーナ・ストレッポーニと久しぶりに会った。準備状況を知るとヴェルディもロイヤル・オペラ・ハウスに入り最後の詰めを行って、『群盗』は1847年7月にヴィクトリア女王も観劇する中で開演された。観客は喝采したが評論家には厳しい意見もあり、騒がしい、纏まりが無いという評もあった。これらは台本の弱さや歌手への配慮などが影響した点を突いていたが、『群盗』には後にヴェルディが得意とする低域男性二重唱や美しい旋律もあり、概して彼の国際的名声を高めた。 帰路、ヴェルディはパリに止まってオペラ座の依頼を受けた。しかし完全な新作を用意する余裕は無く、『十字軍のロンバルディア人』をフランス語に改訂した『イェルサレム』を制作した。そしてこの期間、頻繁にジュゼッピーナと逢い、やがて一緒に住むようになった。11月に公演された『イェルサレム』の評判はいまひとつで終わったが、彼は理由をつけてパリに留まり、バレッツィを招待さえした。1848年2月には契約で制作した『海賊(英語版)』をミラノのムツィオに送りつけ、彼はジュゼッピーナとの時間を楽しんでいた。そして二月革命の目撃者となったが、気楽な外国人の立場でそれを楽しんでさえいた。 二月革命の影響は周辺諸国にも拡がり、3月にはミラノでもデモが行われ、オーストリア軍との衝突が勃発し、ついにはこれを追い出し臨時市政府が樹立された。ヴェルディがミラノに戻ったのはこの騒動が一段落した4月で、「志願兵になりたかった」という感想こそ漏らしたが5月には仕事を理由にまたパリへ向かい、暫定政権崩壊を眼にすることは無かった。市郊外のパッシーでジュゼッピーナと暮らしたヴェルディは戻らず、『海賊』は初演に立ち会わない初めてのオペラとなった。しかし彼は無関心を決め込んでいたわけではなく、フランスやイギリスを見聞した経験等からイタリアでも統一の機運が高まるだとう事、しかしそれには様々な問題がある事に思いを馳せていた。彼の次の作品は祖国への愛を高らかに歌う『レニャーノの戦い』であり、新たに共和国が樹立されたローマで開演された。ジュゼッピーナを伴いヴェルディは訪問したが、観劇者たちは興奮して「イタリア万歳」を叫び、彼を統一のシンボルとまでみなし始めていた。 喧騒の渦中にあり、またコレラ蔓延などを理由に都市部を嫌ったヴェルディは1849年夏にジュゼッピーナを連れてブッセートに戻り、オルランディ邸で暮らし始めた。ここで彼は『ルイザ・ミラー』や『スティッフェーリオ(英語版)』を仕上げ、人間の心を掘り下げる次回作に取り組んだ。一方、街の人々がふたり、特にジュゼッピーナに向ける眼は厳しかった。気に留めないヴェルディが仕事で町を離れる時は、彼女はパヴィーアに母を訪ねて一人残らないようにした。 ===『リゴレット』=== 台本制作を指示されたピアーヴェは戸惑った。ヴェルディが選んだ次回作の元本はとてもオペラにはそぐわないと思われたからだった。華やかさも無く、強い政治色に、不道徳的なあらすじ、そして呪いを描いた本作は演劇としてパリで上演禁止となった代物だった。案の定上演予定のヴェネツィアの検閲で拒否された。何度かの修正が加わったが、譲れない所にはヴェルディは強硬だった。原作者ユーゴーさえオペラ化に反対した作品『王は楽しむ』は、封切り予定1ヶ月前に許可が下り、1851年3月に初演を迎えた。これが『リゴレット』であった。 『リゴレット』はあらゆる意味で型破りな作品だった。皮切りでお決まりの合唱も無く、会話から始まる第一幕。カヴァティーナ(緩)からカバレッタ(急)の形式を逆転させたアリア、朗読調の二重唱、アリアと見紛う劇的なシェーナ(劇唱)の多用、渾身の自信作「女ごころの唄」、そして『マクベス』以来ヴェルディが追い求めた劇を重視する姿勢、嵐など自然描写の巧みさ、主人公であるせむしの道化リゴレットの怒り、悲哀、娘への愛情など感情を盛り立てる筋と音楽は観衆を圧倒し、イタリア・オペラ一大傑作が誕生した。 ===サンターガタの農場=== 『リゴレット』の成功は、ヴェルディに創作活動の充実に充分な財産、そして時間に追われず仕事を選べる余裕をもたらした。しかし私生活は万事順調とはいかなかった。ジュゼッピーナに向けられるブッセートの眼は相変わらす厳しく、それは家族も例外ではなかった。しかも父カルロが息子の管財人になったと吹聴してまわり、干渉を嫌うヴェルディは両親と距離を置き、1851年春に以前購入していた郊外のサンターガタ(ヴィッラノーヴァ・スッラルダ)にある農場に居を移した。6月に母が亡くなった事に悲しむが、ヴェルディは次の作品に取り組んで気を紛らわした。年末にはジュゼッピーナのためパリに移り、その突然さからバレッツィと少々揉めたが、翌年サンターガタに戻った2人と元々ジュゼッピーナに味方する義父は、その関係を修復できた。 1853年1月ローマのアポロ劇場で封切りされた『イル・トロヴァトーレ』は若干旧来の形式に巻き戻されたものだったがカヴァティーナ形式の傑作として成功を収め、ほぼ同時に構想を練った次回作に取り組んだ。しかしこの『椿姫』3月のヴェネツィア初演は、ムツィオに宛てた手紙に書かれたように「失敗」となり2回公演で打ち切られた。充分なリハーサルも取れなかった上、病弱なヒロインを演じるにはソプラノ歌手の見た目は健康的過ぎた。3幕でヒロインが死ぬシーンでは失笑さえ漏れた。しかしヴェルディは雪辱に燃え、配役などを見直して5月に同じヴェネツィアで再演すると、今度は喝采を浴びた。この作品はヴェルディ唯一のプリマドンナ・オペラであった。 しばらくの間サンターガタで休息を取り、ヴェルディはグランド・オペラへの挑戦という野心を秘めパリに乗り込んだ。しかしこれは成就しなかった。『シチリアの晩鐘』制作では、オペラ座所属の台本作家ウジェーヌ・スクリーブに、その仕事の遅さも内容も満足できなかった。この仕事は彼を1年以上も拘束し、ついには契約破棄さえ持ち出した。同作は1855年6月に公演され好評を得たが、結果的にヴェルディにとって身が入らないものとなった。彼はすぐにでもイタリアに戻って「キャベツを植えたい」と言ったが、過去の作品を翻訳上演する契約などに縛られ、サンターガタに還ったのは年末になった。 サンターガタの農場はヴェルディの心休まる場となっていた。既に多くの小作人を雇うまでに順調な経営は収益を上げ、彼は音楽を忘れてジュゼッピーナと農作業の日々を楽しんだ。しかし作曲に向かう衝動は抑えがたく、彼はまた制作に身を投じる。先ず手掛けたのが『スティッフェーリオ』の改訂だった。舞台を中世イギリスに変更してピアーヴェに書き直させた本作は『アロルド(英語版)』という題で公開された。この頃には上演に応じた報酬が作曲家に払われる習慣が根付いたため、これもヴェルディの収入を安定させた。次に送り出した新作『シモン・ボッカネグラ』は朗読を重視して歌を抑え、管弦楽法による特に海の場面描写に優れた逸品だったが、1857年3月の初演では配役に恵まれず、あまり評価されなかった。 ===ヴェルディ万歳=== ヴェルディが次回作に選んだ題材は、様々な問題を生じた。ウジェーヌ・スクリーブの『グスタフ3世』は、スウェーデン王グスタフ3世を題材としており、そもそも実在の王族を登場人物にすることはナポリでは禁じられていた。しかも暗殺されるという筋は検閲当局が先ず認めない。さらにはナポレオン3世の暗殺未遂事件が起き、状況は悪化した。契約していた興行主のアルベルティは台本の変更を主張するがヴェルディは認めず、ついには裁判沙汰になった。これはヴェルディに不利だったが世論が彼を後押しし、結果『シモン・ボッカネグラ』公演へ契約を変更することで和解した。ヴェルディは『グスタフ3世』をローマに持ち込み、妥協しうる最低限の変更でアポロ劇場での公演に漕ぎ着けた。こうして1859年2月に改題を加えた『仮面舞踏会』は開幕された。 楽曲の美しさと演劇性を高度に両立させた内容の秀逸さもさることながら、その筋が時代の雰囲気に適合し、『仮面舞踏会』に観客は熱狂した。サルデーニャ国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世は、周辺諸国との関係変化を受け1月の国会で統一に向けた演説を行い、イタリア全土で機運が高まっていた。このスローガンViva Vittorio Emanuele Re D’Italia(イタリアの王ヴィットーリオ・エマヌエーレ万歳)が略され「Viva VERDI」(ヴェルディ万歳)と偶然になったことが起因し、彼を時代の寵児に押し上げた。このオペラの成功によってローマのアカデミア・フィラルモニカ名誉会員に選出されたヴェルディは、一方で聴衆は作品に正当な評価を向けていないと感じ、「もうオペラは書かない」と言って次の契約を断り、サンターガタの農場へ身を引っ込めた。 ===再婚と政治=== 1859年8月29日、ヴェルディとジュゼッピーナはサヴォアのコロンジュ・スー・サレーヴで結婚式を挙げた。45歳の新郎と43歳の新婦は、馬車の御者と教会の鐘楼守だけしか参列しない簡単で質素な式を挙げた。夫妻は平穏な生活を送ったが、イタリアは第二次独立戦争でオーストリアに勝利し、この知らせにはヴェルディも喜んだ。 だがそれはすぐに失望へ変わった。同じくオーストリアと対立しイタリアを支援したナポレオン3世が秘かにオーストリアと通じヴィッラフランカの講和に踏み切った。エマヌエーレ2世はしぶしぶこれを呑み、宰相カミッロ・カヴールは辞任した。しかし、各公国の領主層はことごとく亡命し、民衆による暫定政府が立ち上げられていた。 パルマ公国もモデナと合併されて議会が開かれることになり、ブッセート市の当局は地域の代表をヴェルディに打診した。政治家の資質などないと自覚していたが、彼はイタリアのためとこれを受けた。9月7日に開かれたパルマ議会はサルデーニャ王国との合併を決議し、ヴェルディはパルマの代表として王国首都のトリノでエマヌエーレ2世に謁見した。さらに彼は郊外で隠棲し農業をしていたカヴールと会い、音楽から身を引いた農夫として政治から身を引いた農夫と話し合った。 その後サンターガタに戻ったヴェルディは妻とジェノヴァ旅行を楽しむなど平穏に過ごしたが、イタリア情勢はまた動き始めた。事態を進められない内閣をエマヌエーレ2世は罷免し、カヴールが復帰すると各小国との合併が進み、1861年に統一は成就してイタリア王国が誕生した。カヴールは初代首相に就任し、彼はヴェルディに国会議員に立候補するよう薦めた。議会中静かに座っている自信が無いと断るヴェルディは逆に説得されしぶしぶ立ち、彼は当選した。下院議員の一員となったヴェルディに能力も野心も無く、ただカヴールに賛成するだけで過ごしたが、6月に当のカヴールが亡くなると意欲は失せ、4年の任期中に特に目立つ政治活動は行わなかった。 ===音楽に倦み、また惹かれる=== 1861年秋、ヴェルディは音楽制作に戻っていた。激変したイタリアに刺激された事、また、まだ知らぬロシアからのオファーが舞い込んだことも情熱を掻き立てた。一流の歌手が揃うペテルブルクの帝室歌劇場も期待させた。題材をスペインの戯曲に求め、書き上げた曲を携えて12月に夫妻は汽車の乗客となった。しかし、ソプラノ歌手が体調を崩して舞台は中止され、質を落とす位ならばと数ヶ月単位の延期を決めて夫妻はパリに向かった。 1862年2月、ヴェルディはパリでロンドン万国博覧会用の作曲依頼を受けた。これはドイツのジャコモ・マイアベーア、フランスのフランソワ・オーベールと並んだ打診であり、ヴェルディはいわばイタリア代表とも言えた。彼は「諸国民の賛歌 (Inno delle Nazioni)」を作曲し、見物を兼ねてロンドンを訪問したが、万博の音楽監督を担当したナポリ出身の作曲家が面白くなく思ったのか「諸国民の賛歌」演奏を断った。結果、別に演奏され好評を博したが、この曲のイタリア公演は再び不穏さを増した政治情勢を鑑みて断った。 そして秋になり、再びペテルブルクに入ったヴェルディは11月に開演した『運命の力』に一定の満足を得て、しかも聖スタニスラス勲章を贈られる栄誉に授かった。ただしこの作品は他の都市ではあまり評価されなかった。3人が死を迎えて終わるフィナーレ、場面を強調するあまり筋のつながりが悪いなど、台本に無理があった。しかし音楽では、脇役も含めた人物の特徴を表現する多彩な合唱や、テーマや場面そして人物の感情の変化などを繋ぐ音楽はヴェルディの創意が反映していた。数年後には台本の改訂を受けて再演され、本作品は高く評価された。 翌年、『運命の力』スペイン公演を指揮し、さらに『シチリアの晩鐘』再演のためヴェルディはパリに入った。だが、相変わらずオペラ座の仕事は遅くいい加減で、リハーサルを面倒臭がる団員たちにヴェルディは怒りを爆発させイタリアに帰ってしまった。 サンターガタに引っ込み、夫妻で農場経営に精を出すヴェルディは「昔から私は農民だ」とうそぶいていた。しかしイタリア音楽界にはドイツから吹く新しい風に晒され、若い作曲家たちはリヒャルト・ワーグナーから強い影響を受けてヴェルディを過去の人とみなし始めていた。彼はそのような評判を受け流しつつも、皮肉を返すなど内心は穏やかでなかった。そして興行主からはヴェルディの才能は依然高く評価されていた。1864年夏にパリで出版を勤しむエスキュディエから『マクベス』改訂版の上演を打診されると、これをヴェルディは受けた。しかし、ヴェルディの思想とフランス観衆の嗜好が合わず、1865年の公演は失敗した。 だが、1867年にヴェルディは、パリ万国博覧会記念のオペラ制作依頼を、しかも会場があのオペラ座ながら受諾する。フリードリヒ・フォン・シラーの戯曲を題材に選び始まった制作に彼は集中する。傲慢と孤独の間を揺れ動く主人公の心情を描き出すソロは旋律だけに頼らず楽器の音色を効果的に使い、宗教と国家の対立と結末を前例が無いバスの二重唱で表現する。劇性を重視する姿勢はより鮮明に打ち出した。 しかし、結果はまたも惨憺たるもので終わる。前作同様パリはオペラに不必要なバレエの挿入を求め、また観客が夕食から最終列車までの間に観劇が終わるように筋の短縮を迫り、オペラ座の怠慢は全く変わらない。綿密な構想も切り刻まれては観客の心は掴めず、1867年3月開演の『ドン・カルロ』は酷評に晒され、敗北したヴェルディはその後のオペラ座からの打診を受けなかった。 またもヴェルディが音楽活動を休止した。1868年2月、父カルロが亡くなった。彼は弟(ヴェルディの叔父)の娘フィロメーナを養育していたが、彼女はヴェルディ夫妻が引き取り養女とした。半年後、今度はもうひとりの父であるアントーニオ・バレッツィの死を看取った。病に倒れてからは妻ジュゼッピーナも看病に通っていたが回復は叶わず、ヴェルディが弾くピアノ「黄金の翼」を聴きながら息を引き取った。 同年秋、ヴェルディは尊敬する同時代人のひとりジョアキーノ・ロッシーニの死に、他の著名なイタリア人作曲家たちとのレクイエム組曲を共作することになった。しかし彼は熱心に取り組んだが、無報酬であったため他の者はいまひとつ乗らず計画は頓挫した。ヴェルディは、これは長年の友人であり、指揮を予定されていたアンジェロ・マリアーニに熱意が不足していたためと非難した。これにより2人の友情は壊れた。この背景には、ヴェルディ夫妻が度々ヴェネツィアを旅行した際、マリアーニは婚約していたソプラノ歌手テレーザ・シュトルツ(英語版)と会っていたが、考え方の違いなどが影響しマリアーニとシュトルツの関係は段々と悪化していった。マリアーニは、シュトルツがヴェルディに気持ちを傾け始めたためとの疑念を持っており、計画に乗り気でなかったことがあった。 ===『アイーダ』=== 1869年、ヴェルディは『運命の力』に改訂を施して久しぶりとなるスカラ座公演を行った。結末を変更し、新しい曲を加えた本作は成功した。特にソプラノのテレーザ・シュトルツは輝き、ヴェルディは満足した。それでも音楽の世界に戻ろうとはしなかった。1871年、何度もオファーを繰り返していたオペラ座の監督デュ・ロクルはエジプトから新しいオペラハウス用の依頼を持ち込んだ。遠隔地でもあり乗り気でなかったヴェルディだが、劇場側はそれならばグノーかワーグナーに話を持ちかけるとほのめかして焚きつけ、彼の受諾を引き出した。しかしヴェルディは破格の条件をつけ、報酬は『ドン・カルロ』の3倍に当たる15万フラン、カイロ公演は監修しない事、さらにイタリアでの初演権を手にした 。 仕事が始まればヴェルディは集中する。受け取ったスケッチからデュ・ロクルと共同で台本を制作し、エジプトの衣裳や楽器、さらには信仰の詳細まで情報を手に入れて磨きをかけ『アイーダ』を仕上げた。ところが7月に普仏戦争が勃発し、パリで準備していた舞台装置が持ち出せなくなり、カイロ開演の延期を余儀なくされた。一方でヴェルディはスカラ座公演の準備を予定通り進め、慌てたエジプト側はこの年のクリスマスに何とか開演の目処をつけた。わだかまりからマリアーニは指揮を断り、自身も立ち会わないヴェルディは若干不安を覚えたが、初演は大好評を博した。そして1972年2月、アイーダ役のシュトルツのために「おお、我が祖国」を加えた『アイーダ』はスカラ座で開演し、大喝采を浴びた。なお、『アイーダ』はしばしば1869年のスエズ運河開通を記念するために制作されたという説が述べられるが、これはある有名批評家の個人的憶測が元になっている俗説に過ぎない。 『アイーダ』はヴェルディの集大成と言える作品である。コンチェルタートは力強く明瞭な旋律で仕上げ、各楽器の音色を最大限に生かした上、「凱旋行進曲」用に長いバルブを持つ特製のアイーダ・トランペットを開発した。長年目指した曲と劇との融合では、「歌」を演劇の大きな構成要素に仕立て、アリア、シェーナ、レチタティーヴォなど旧来のどのような形式にも当てはまらず、劇全体を繋ぐ独唱・合唱を実現した。パリの経験を上手く消化し、バレエも効果的に挿入された。さらに『椿姫』以来となる女性を主役としたあらすじは、以前のほとんどの作品にあった悲劇的な死ではない官能的な生との別れで終え、観客を強く魅了した。 『アイーダ』と改訂版『ドン・カルロ』はイタリアから世界各地で上演され、どれも好評を得た。ヴェルディはナポリの初演に立ち会うが、その傍らには妻ジュゼッピーナだけでなくシュトルツも付き添い、新聞のゴシップネタとなった。これに対しヴェルディは沈黙し、ジュゼッピーナは悩みつつも醜聞が、既にマリアーニとの婚約を解消していたシュトルツの耳に入らないよう気を配った。 1873年にヴェルディは、亡くなった尊敬する小説家であり詩人であったアレッサンドロ・マンゾーニを讃える『レクイエム』を作曲した。これには、ロッシーニに捧げる「レクイエム」の一部を用いていた。一周忌の1874年5月にミラノの大聖堂で公演された同曲は3日後にスカラ座で再演されるが、そこではよもや死者を追悼する曲から劇場のそれに変貌し、賞賛と非難が複雑に飛び交った。それでもヴェルディの栄華は最高潮にあった。パリではレジオンドヌール勲章とコマンデール勲章を授かり、作品の著作権料収入は莫大なものとなっていた。 農場経営も順調そのもので、買い増した土地は当初の倍以上になり、雇う小作人は十数人までになった。父が亡くなった際に引き取った従妹はマリアと改名し18歳を迎えて結婚した。相手はパルマの名門一家出のアルベルト・カルラーラであり、夫婦はサンターガタに同居した。邸宅はヴェルディ自らが設計し、増築を繰り返して大きな屋敷になっていた。自家製のワインを楽しみ、冬のジェノヴァ旅行も恒例となった。 その一方で公の事は嫌い、1874年には納税額の多さから上院議員に任命されるが、議会には一度も出席しなかった。慈善活動には熱心で、奨学金や橋の建設に寄付をしたり、病院の建設計画にも取り組んだ。その頃に彼はほとんど音楽に手を出さず、「ピアノの蓋を開けない」期間が5年間続いた。 彼が音楽の世界に戻るのは1879年になる。手遊びの作曲「主の祈り」「アヴェ・マリア」を書き始めたことを聞いたリコリディはジュゼッピーナとともに働きかけ、シュトルツの引退公演となるスカラ座の『レクイエム』指揮を引き受けさせた。成功に終わった初演の夜、夕食を共にしたジューリオ・リコルディはヴェルディに久しぶりの新作を打診した。後日、アッリーゴ・ボーイトが持参したシェイクスピア作品の台本を気に入ったが、いまひとつ踏ん切りがつかずボーイトに改訂の指示を与え、サンターガタに送るように言ってその場を凌いだ。 ===集大成『オテロ』=== 1879年11月、農場に届いたボーイトの台本『オテロ』に、ヴェルディは興味をそそられる。早速ミラノに行き話し合いを行った。しかしヴェルディは数年のブランクに不安を覚え、なかなか契約を結ばなかった。そこでリコリディはまたも一計を案じ、ボーイトと共作で『シモン・ボッカネグラ』改訂版制作を提案した。大胆なボーイトの手腕に触発されてヴェルディも新たな作曲を加え、1881年3月のスカラ座公演はかつてとは打って変わって大盛況を得た。 そして『オテロ』は動き始めたが、なかなか順調に物事は進まなかった。リコリディとボーイトがサンターガタを訪問し台本を詰めた。しかし『ドン・カルロ』3度目の改訂版制作で半年の足止めを受けた。さらに1883年2月にワーグナーの訃報に触れると、「悲しい、悲しい、悲しい…。その名は芸術の歴史に偉大なる足跡を残した」と書き残すほどヴェルディは沈んだ。彼が嫌うドイツの、その音楽を代表するワーグナーに、ヴェルディはライバル心をむき出しにすることもあったが、その才能は認めていた。そして、同年齢のワーグナーなど、彼と時代を共にした多くの人物が既に世を去ったことに落胆を隠せなかった。 それでも1884年の『ドン・カルロ』改訂版公演を好評の内に終えると作業にも拍車がかかり始めた。ボーイトはヴェルディを尊敬し、ヴェルディはボーイトから刺激を受けながら共同で取り組んだ。特にヴェルディは登場人物「ヤーゴ」へのこだわりを見せ、それに引き上げられて作品全体が仕上がっていった。そして1886年11月に、7年の期間をかけた『オテロ』は完成した。 1887年2月、ヴェルディ16年ぶりの新作オペラ『オテロ』初演にスカラ座は、期待以上の出来映えに沸き立った。チェロ演奏を担当していた若きアルトゥーロ・トスカニーニは実家のパルマに戻っても興奮が冷めやらず、母親をたたき起こして素晴らしさを叫んだという。『リゴレット』を越える嵐の表現で開幕し、各登場人物を明瞭に描き出し、彼が追求した劇と曲の切れ目ない融合はさらに高く纏められた。かつての美しい旋律が無くなったとの評もあるが、『オテロ』にてヴェルディはそのような事に拘らず、完成度の高い劇作を現実のものとした。 ===笑いでひっくり返せ=== 『オテロ』を成功で終えたヴェルディは虚脱感に襲われていた。ローマ開演の招待を断り、また農場に引っ込むと、建設された病院の運営など慈善事業に取り組んだ。そして、引退した音楽家らが貧困に塗れて生涯を終えるさまを気に病んでいたヴェルディは、彼らのために終の棲家となる養老院建設を計画した。これにはボーイトの弟で建築家のカミッロ(英語版)が協力者となった。 一方でボーイトは、ヴェルディの才能は枯渇していないことを見抜いていた。しかし一筋縄ではいかないと、ヴェルディの心残りを突く事にした。散々な評価で終わった『一日だけの王様』以来、ヴェルディが喜劇に手を染めたことは無かった。ボーイトはシェイクスピアの『ウィンザーの陽気な女房たち』を下敷きに一冊のノートを書き、ヴェルディに示した。そして魅力的な数々の言葉を投げた。「悲劇は苦しいが、喜劇は人を元気にする」「華やかにキャリアを締めくくるのです」「笑いで、すべてがひっくり返ります」と。ヴェルディは乗った。 二人は秘密裏に制作を行った。ヴェルディが新作オペラに取り組んだことが知れると興行主たちが黙っていない上、既に老齢の彼には自信が無かった。親しい友人の訃報も、彼の気力を萎えさせた。しかし、ボーイトが提案した台本は面白く、シェイクスピアを楽曲に訳す作業や主人公の太っちょに息吹を吹き込むことは心底楽しめた。途中、リコリディにばれてしまったが、1年半をかけて『ファルスタッフ』は仕上がった。次はスカラ座に場所を移し、ヴェルディはリハーサルにかかった。主演には『シモン・ボッカネルラ』改訂版や『オテロ』を演じた実績を持つヴィクトル・モレル(英語版)が努めることになった。ヴェルディは相変わらず完璧を求め、7‐8時間のリハーサルも行われた。 そして1893年2月、79歳になったヴェルディの新作『ファルスタッフ』は開幕した。彼が目指した劇と曲の融合は喜劇においても健在で、むしろ圧倒するよりも機微に富んだ雰囲気を帯びて繊細さが増した。アンサンブルは多種多様で、対位法も2幕のコンチェルタートで複雑なポリフォニーを実現した。最後には喜劇に似つかわしくないフーガをあえて用いながら、モレル演じる太鼓腹の主人公に「最後に笑えばいいのさ」と陽気に締めくくらせた。 ===晩年=== 『ファルスタッフ』は上演された各地で喝采を浴び、他人に強制されることを極度に嫌っていたヴェルディも向かった。1894年にはフランス語版『オテロ』がいわくつきのオペラ座で公演されることになったが、ヴェルディは拘らずバレエを加えた。初演ではフランス第三共和政大統領のカシミール・ペリエから2度目のレジオンドヌール勲章を受けた。80歳を越えてもまだ精力的に見えるヴェルディに誰もが次回作を期待し、ボーイトも新しい台本を秘かに準備していた。しかし、彼は既に引退を決意していた。 ヴェルディはサンターガタに戻り、音楽ではない仕事に熱心に取り組んだ。構想を暖めていた音楽家のためのカーザ・ディ・リポーゾ・ペル・ムジチスティ(音楽家のための憩いの家(英語版))建設にオペラ制作同様に情熱をかけた。趣味的に作曲も行い、「聖歌四篇」もこの頃に作られた。公のことは嫌って、イタリア政府の勲章もドイツ出版社の伝記も断った。その中でもミラノの音楽院が校名を「ジュゼッペ・ヴェルディ音楽院」に変えようとする事には我慢がならず声を荒らげた。同校の改名はヴェルディの死後に行われた。 だが1898年秋、ヴェルディは伴侶ジュゼッピーナを肺炎で失った(その後もミラノにて生活。Deagostini刊『The Classic Collection』第14号を見よ)。いまわの際、彼女は彼が手に持つ好きなスミレを目にしながら息を引き取った。ヴェルディは目に見えて落胆し、娘マリアやボーイト、そしてシュトルツが付き添った。しばらくして少し回復し、恒例のヴェネツィアへも出掛けたが、彼自身は自らの老いを感じ取っており、1900年4月頃には遺書を用意した。 同年末、娘マリアと一緒にミラノでクリスマスを過ごし、定宿となっていたグランドホテル・エ・デ・ミランで年を越していた。1月20日の朝、起きぬけのヴェルディは脳血管障害を起こして倒れ、意識を失った。多くの知人に連絡が届き、シュトルツ、リコリディ、ボーイトらが駆けつけた。王族や政治家や彼のファンなどから見舞いの手紙が届き、ホテル前の通りには騒音防止に藁が敷き詰められた。しかし、1901年1月27日午前2時45分頃、偉大な作曲家兼農家の男は息を引き取った。 同日朝、棺がホテルを出発して「憩いの家」に運ばれ、ジュゼッピーナが眠る礼拝堂に葬られた。出棺時にはアルトゥーロ・トスカニーニが指揮し820人の歌手が「行け、わが想いよ」を歌った。遺言では簡素な式を望んでいたが、意に反して1ヶ月後には壮大な国葬が行われ、トスカニーニ指揮の下『イル・トロヴァトーレ』から「ミゼレレ (Miserere)」が歌われた。彼の墓には、最初の妻マルゲリータの墓標と二人目の妻ジュゼッピーナが沿い、後に亡くなったシュトルツの墓は控えめに入り口のバルコニーにある。 ==作品== ==作品の変遷== ===ヴェルディの時代=== イタリア・オペラ史において、1842年の『ナブッコ』から1871年の『アイーダ』までの30年間は特に「ヴェルディの時代」と呼ばれ、歌手の技量に依存する度合いが高いベルカントが衰退してゆき、代わって劇を重視した作品構成が主流となった転換期に相当する。これはヴェルディとワーグナーが導入した手法によるが、イタリアの変革は前者による影響が圧倒的である。 ヴェルディの生涯を通したオペラ作品は、3もしくは4区分で解釈されることが多い。『オベルト』から『スティッフェリーオ』までを第1期、『リゴレット』から『アイーダ』までを第2期、晩年の『オテロ』と『ファルスタッフ』を第3期と置く場合と、晩年は同じながら『マクベス』の存在を重視して『アッティラ』までを1期、『マクベス』から『椿姫』までを2期、『シチリアの晩鐘』から『アイーダ』までを3期、残りを4期とする考えもある。以下では4期区分を軸に解説する。 ===デビューから『アッティラ』まで=== 1期のヴェルディ作品には愛国精神を高揚させる題材が多く、『ナブッコ』で描いた権力者と虐げられた人民の対比を皮切りに、特にそれを意図した『十字軍のロンバルディア人』好評の主要因となった。当時はウィーン会議(1814‐1815年)以降他国に支配された状況への不満が噴き出しリソルジメントが盛り上がりを見せていた。何度もの反乱の勃発と挫折を見てきたイタリア人たちは、1846年に即位したピウス9世が政治犯の特赦を行ったことで光明を見出していた。この時期のヴェルディ作品はそのような時流に乗り、エネルギッシュであり新しい時代の到来を感じさせ、聴衆の欲求を掻き立てた。それは聴衆を魅了することに敏感なヴェルディの感覚から導かれたとも言う。しかし、作品の完成度や登場人物の掘り下げ、劇の構成などには劣る部分も指摘される。 ===『マクベス』に始まる人間表現=== 2期の始まりとなる『マクベス』は、怪奇性が全体を占め、主人公のマクベス夫妻の欲望と悲劇が筋となる台本であった。ヴェルディはこの特異性を最大限に生かした細かな心理描写を重視し、ベルカントを否定してレチタティーヴォを中心に据えるなど合唱がこの雰囲気を壊さないことに心を砕いた。当時のオペラには演出家はおらず、ヴェルディは『マクベス』で150回を越えるリハーサルを行い、シェイクスピアを表現するという総合芸術を目指した。『群盗』は主役のジェニー・リンドを立てることに重点が置かれ、気が進まないまま制作した『海賊』は従来からの傾向が強かった。『レニャーノの戦い』は時局に追随する愛国路線の最後の作品として、それぞれ進歩性は鳴りを潜めた。しかし、『ルイザ・ミラー』や『スティッフェーリオ』からは人物の心理を書き表す方向性が再び示され始めた作品で、最初は観客から理解を得られなかった。 しかし『リゴレット』では醜いせむし男を含む主要な4人物それぞれの特徴を四重唱で対比させ、劇進行を創り上げた。この傾向は動的な『イル・トロヴァトーレ』主役の復讐に燃えるジプシー女、静的な『椿姫』主役の高級娼婦の悲哀と死を表現する劇作において、より顕著なものとなった。『リゴレット』『イル・トロヴァトーレ』『椿姫』は単純な善悪の対立ではなく、複雑な人間性を音楽と融合させて描き出した中期の三大傑作となった。 ===多国籍オペラへ=== 『シチリアの晩鐘』の出来はヴェルディに不満を残したが、フランス・オペラ座での仕事を通じ彼はグランド・オペラの手法を取り入れた。『シモン・ポッカネグラ』『仮面舞踏会』『運命の力』は改訂版を含め劇作性を高める方向を強め、『ドン・カルロ』は初演ではいま一つだったが、その改訂版および『アイーダ』ではイタリア流グランド・オペラの成熟を実現した。 特に『アイーダ』は多国籍の様式を混合させた。イタリア・オペラの華麗な旋律で満たしながら、声楽を重視する点は覆して管弦楽とのバランスを取らせ、以前から取り組んだドラマ重視のテーマと融合させることに成功した。舞台であるエジプトについて情報を仕入れたが、楽曲はエジプトの音楽ではなくヴェルディが独自に創造した異国的音楽であった。フランスのグランド・オペラも取り入れながら、その様式もそのままではなく工夫を凝らした4幕制を取るなど、独自の作風を実現した。 ヴェルディの大作は高い人気を誇り、それらを何度も繰り返して公演する方法が一般化し、例えばスカラ座はそれまで年3本程度のオペラを上演していたが、1848年以降は平均でほぼ年1本となった。これはレパートリー・システムと呼ばれた。作曲者は初演こそ慣例的に舞台を監督したが、このシステムが確立すると実際の監督は指揮者が担うことになり、オペラ専門の指揮者が現れだした。この代表がヴェルディの友で後に仲違いをしたアンジェロ・マリアーニである。レパートリー・システムはヴェルディの作品から始まったとも言えるが、指揮者の権限が強まると中には勝手に改作を施す者も現れ、ヴェルディは激怒したと伝わる。しかし、この流れは20世紀の演奏重視の傾向へ繋がってゆく。 ===晩年の傑作=== 16年の空白を経て発表された新作『オテロ』と最後の作『ファルスタッフ』は、それぞれに独特な作品となったが、いずれも才能豊かなアッリーゴ・ボーイトの手腕と、結果的に完成することはなかったが長年『リア王』を温めていたヴェルディのシェイクスピアに対する熱意が傑作の原動力となった。 『オテロ』は長く目指した音楽と演劇の融合の頂点にある作品で、同時にワーグナーから発達したドイツ音楽が提示する理論(シンフォニズム)に対するイタリア側からの回答となった。演技に対するこだわりも強く、作曲家という範囲を超えて主人公オテロが短刀で自殺するシーンをヴェルディは演技指導し、実演して舞台に転がり倒れこんだ際には皆が驚きの余り駆け寄ったという。 『ファルスタッフ』はヴェルディのすべてを投入した感がある。作風はバッハ、モーツァルト、ベートーベンそしてロッシーニら先人たちの要素を注ぎこみ、形式にこだわらず自由で気ままな作品に仕上げた。そして、自由人ファルスタッフにヴェルディは自身を表現した。過去の作品も経験した苦難や孤独の自己投影という側面もあったが、ファルスタッフに対しては若い頃から他者からの束縛を嫌った自分、富と名声を手にして人生を達観した自分を仮託した。『ファルスタッフ』が完成した時、ヴェルディは「行け、お前の道を行けるところまで。永久に誇り高き愉快なる小悪党、さらば!」と記した。 ==イタリア統一運動への影響== 音楽の歴史には、ある神話が永く存在した。それは『ナブッコ』第3幕のコーラス曲「行け、我が想いよ (Va, pensiero)」が、オーストリアが支配力を及ぼしたイタリア国土に含まれていたミラノを歌ったものという話であり、観客は追放される奴隷の悲嘆に触れて国家主義的熱狂にかられ、当時の政府から厳しく禁止されていたアンコールを求め、このような行動は非常に意味深いものだったという。「行け、我が想いよ」は第2のイタリア国歌とまで言われる。 しかし近年の研究はその立場を取っていない。アンコールは事実としても、これは「行け、我が想いよ」ではなく、ヘブライ人奴隷が同胞の救いを神に感謝し歌う「賛美歌 (Immenso Jehova)」 を求めたとしている。このような新しい観点が提示され、ヴェルディをイタリア統一運動の中で音楽を通して先導したという見方は強調されなくなった。 その一方で、リハーサルの時に劇場の労働者たちは「行け、我が想いよ」が流れるとその手を止めて、音楽が終わるとともに拍手喝采した。その頃は、ピウス9世が政治犯釈放の恩赦を下したことから、『エルナーニ』のコーラス部に登場する人物の名が「カルロ (Carlo)」から「ピオ (Pio)」に変更されたことに関連して、1846年夏に始まった「ヴェルディの音楽が、イタリアの国家主義的な政治活動と連動したと確認される事象」の拡大期にあった。 後年、ヴェルディは「国民の父」と呼ばれた。しかしこれは、彼のオペラが国威を発揚させたためではなく、キリスト教の倫理や理性では御せないイタリア人の情を表現したためと解釈される。 ヴェルディは1861年に国会議員となるが、これはカヴールの要請によるもので、文化行政に取り組んだ時期もあったが、カヴールが亡くなると興味を失った。1874年には上院議員となるも、政治に関わることはなかった。 ==参考文献== 加藤浩子 『黄金の翼=ジュゼッペ・ヴェルディ』 東京書籍、2002年、第1刷。ISBN 4‐487‐79709‐8。水谷彰良 『イタリア・オペラ史』 音楽之友社、2006年、第1刷。ISBN 4‐276‐11040‐8。石戸谷結子、小畑恒夫、河合秀朋、酒井章 『スタンダード・オペラ鑑賞ブック[2]イタリア・オペラ(下)ヴェルディ』 音楽之友社、1998年、第1刷。ISBN 4‐276‐37542‐8。『オペラの発見』 立風書房、1995年、第1刷。ISBN 4‐651‐82027‐1。Budden, J. (1973年). The Operas of Verdi, Volume III (3rd ed.). Oxford University Press. ISBN 0198162634. Martin, G. (1963 年). Verdi: His Music, Life and Times (1st ed.). Dodd, Mead & Company. ISBN 0‐396‐08196‐7. Parker, Roger (2001年). “Giuseppe Verdi”. Grove Music Online. Oxford University Press. Phillips‐Matz, Mary Jane (1993年). Verdi: A Biography (1st ed.). Oxford University Press. ISBN 0193132044.  Polo, Claudia (2004年), Immaginari verdiani. Opera, media e industria culturale nell’Italia del XX secolo, Milano: BMG/RicordiMarvin, Roberta Montemorra (ed.) (2013年 & 2014年), The Cambridge Verdi Encyclopedia, Cambridge, UK: Cambridge University Press. ISBN 978‐0‐521‐51962‐5. e‐book: 2013年12月 / Hardcover: 2014年1月 =三国志演義の成立史= 三国志演義の成立史(さんごくしえんぎのせいりつし)では、中国明代に成立した長編小説で四大奇書の一つ『三国志演義』の成立過程について概説する。『三国志演義』は、後漢末期の混乱から魏・蜀・呉の三国が鼎立し、晋によって再び統一されるまでの約1世紀にわたる治乱の歴史を描いた通俗小説である。3世紀末に成立した歴史書『三国志』以降、南宋代の都市で語られた講談までの間に培われた逸話群が、元代に刊本『三国志平話』としてまとめられ、さらに元の雑劇(元曲)の要素を吸収しつつ、明代に作品として完成した。そのため、部分的に白話(口語)文体を用いた文言小説となっている。作者は一般的に羅貫中と言われるが、定かではない(後述)。現存する最古の刊本は、1522年刊と思われる『三国志通俗演義』(嘉靖本)である。16世紀から17世紀にかけて隆盛を迎える通俗白話小説の元祖となった。 ==正史から演義へ== 『三国志演義』は、実際の歴史を題材として描いた講史小説である。184年に起きた黄巾の乱を契機に漢の世が乱れ、董卓・呂布・曹操・袁紹・孫策ら群雄の攻防が行われた結果、曹丕の魏、劉備の蜀、孫権の呉の3つの国家が鼎立。本来1人しかいない皇帝が同時に3人存在する異常事態となった。その後、魏が蜀を滅ぼした後に晋に代わられ、280年晋が呉を倒して再び国家統一ができるまでの約100年の歴史をその対象とする。史書に書かれた実際の事件だけでなく、時代を彩る英雄達の様々な逸話がちりばめられており、清代中期の学者章学誠(1738年 ‐ 1801年)は、著書『丙辰札記』の中で、『演義』の構成を「七分実事、三分虚構」と評している。 『三国志演義』(以下、『演義』と略称)という書名は、史書三国志の義を敷衍するという意味である。その義とは「劉備が建てた蜀こそが漢を受け継いだ正統王朝である」とする蜀漢正統論を意味する(漢の皇室と同姓の劉備は、前漢の景帝の子孫を称しており、漢から魏への王朝交代に際し、漢を継承するとして建国した)。3世紀末に歴史書として書かれた『三国志』は魏を正統としていたが、1200年後に小説として完成するまで、物語が形成される過程の一貫した流れは、蜀漢正統論の浸透と、それに伴う関羽・諸葛亮の神格化、および曹操の奸雄化であった。以下『演義』が成立するまでの過程を概観する。 ==唐代まで== ===陳寿『三国志』=== 正史『三国志』(以下、正史)65巻は、三国時代の当事者だった蜀出身の晋の史官陳寿(字は承祚。233年 ‐ 297年)による歴史書で、『魏書』30巻『蜀書』15巻『呉書』20巻の3書から成る。『史記』以来のスタイルである紀伝体で叙述されているものの、必須要素である紀(本紀=皇帝ごとの年代記)は『魏書』にしか存在せず『蜀書』『呉書』には伝(列伝=重要人物の伝記)しかない。つまりこれら3書は初めからセットとして作成されたことが伺え、あわせて「三『国志』」と称された。『華陽国志』陳寿伝によれば、晋が呉を滅ぼした(280年)直後に完成したとある。本来は陳寿の私撰として編纂されたが、唐代に編纂された『隋書』経籍志以降、同時期の歴史を扱った類書とともに正史の類に編入され、その後、他書を次第に駆逐していった。なお陳寿の他の著書としては他に『古国志』『益州耆旧伝』などがあるが、現存していない。 蜀漢滅亡後、晋に仕えた陳寿は表向き、漢‐魏‐晋を正統な後継王朝とし『魏書』のみに「紀」を設けた。中華皇帝は同時に2人以上存在できないという建前の下、魏の文帝は漢の献帝から禅譲を受け、晋の武帝は魏の元帝から禅譲を受けて成立した王朝であるから、これは当然のことである。君主の死亡記事でも、魏の基礎を築いた曹操には、皇帝に対して用いられる「崩」の字を使用している。これに対し、陳寿が以前仕えた蜀漢もまた漢の皇室の血を引くと称する劉備が建国した王朝であり、劉備の死に対して陳寿は「*13017*」という特別な字を用いている。「*13018*」は『書経』で堯の死去に用いられている字であり、陳寿が劉備を堯の子孫、すなわち漢の後継者であることを仄めかしているようにも受け取れる。これに対し呉の孫権の死去は「薨」であり、『春秋』の義例では諸侯の死去に用いる字とされているように、皇帝として扱っていない。また、晋を建国した司馬一族によって殺害された魏の4代皇帝曹髦(高貴郷公)の死に関しては「卒」という一般人にも用いられる字を使い、殺害された詳細を省いて筆を曲げている。陳寿はこのように死去の際に用いる字を変えることによって、言外に英雄の序列を示唆する手法をとっている。 また本文における呼び名も、曹操に対しては初め「太祖」と表記し、その後の出世にあわせて「公」「王」などと表記し、曹丕も「王」「帝」と表記している。それに対し劉備には蜀書で「先主」、劉禅は「後主」と、「帝」の字を回避しながらも、敬意のある表現を用いている(魏書や呉書に登場した際は「備」とも書かれる)。一方、呉の君主に対しては「権」などと呼び捨てである。 このように陳寿は、相当の配慮を行いながらも、自らの出身である蜀に出来うる限りの敬意を織り込めつつ、表向きは晋王朝=司馬氏やその前身たる魏王朝=曹氏を正統とする史書としたのである。陳寿の隠された蜀びいきは、蜀書の掉尾となる楊戯伝に置かれた『季漢輔臣賛』という書物の引用にも見られる。「季」は末子を表す字であり「季漢」とは漢王朝を最後に受け継いだものの謂である。このように「春秋の微意」(明確に書かずに仄めかす文法)で書かれた陳寿の蜀びいきは、後に形成される蜀漢正統論に影響を与えることとなる。 ===裴松之注=== 陳寿の正史は、戦乱期の限りある史料の中から信憑性の高いもののみ選んで編纂したこともあり、歴史書として高い評価を得たが、一方で他の史書に比べて、記述が簡潔に過ぎるとの指摘もあった。そこで劉宋の文帝(424年 ‐ 453年)の命を受けた裴松之(372年 ‐ 451年)は、429年(元嘉6年)にそれまでに流布していた三国時代を扱う史書を多く集め、それらの記事を『三国志』の注釈として挿入した。これらは「裴松之注(略して裴注)」と呼ばれ、今日『三国志』は裴注も挿入された形で刊行されることが普通である。裴松之は陳寿の『三国志』を「近世の嘉史」と賞賛しており、原文を尊重した上で主観を廃し、陳寿の本文と同じ事件を扱っている他の史料を注釈として併記し、論評を加えることで、読者に是非の判断をゆだねる形式をとっており、後世の研究者にとっては非常に役立つ注となっている。裴松之が参照・挿入した文献は210種にもおよび、高官が編纂した史書もあれば、噂レベルの雑説を拾った逸話集もあるなど玉石混淆である。この結果、裴注の分量は本文の文字量に匹敵するほどになっている。たとえば蜀書趙雲伝は、陳寿の元の記述ではわずか246文字しかないが、趙雲伝につけられた裴注の『趙雲別伝』は1096字と4倍の分量となっている。この別伝という史伝形式は、当時貴族の子弟が初官として就任する著作郎という職に対し、課題として執筆が命じられたもので信憑性は著しく低い。しかしこのような書も参照が容易となったことで、後世の趙雲像に影響を与えていくこととなる。なお、裴松之は、その引用先の信憑の度合いをランク付けする配慮を行なっており、この点でも読者の判断を尊重する方針を採っている。 三国時代終結から150年後に生きた裴松之には、陳寿が置かれていた立場上の制約も無かったため、必ずしも魏を正統とする史料ばかりでなく、呉・蜀の立場から書かれた史書も多く引用している。たとえば裴注に多く引かれる習鑿歯の『漢晋春秋』は、後漢‐蜀漢‐晋の流れを正統としており、陳寿の正史とは立場を異にしている。習鑿歯は「周瑜・魯粛を卑しめて諸葛亮を評価する論」(『太平御覧』)を述べ、劉備・諸葛亮の正統性を高らかに宣言した人物である。 このように裴注は、陳寿が採用できなかった逸話や、史実とは思われない噂話までも多く引用しており、それらが後に講談や雑劇の筋を作る上で、格好の素材となっていく。 ===その他の史書=== 正史や裴注のほかにも、『演義』に逸話を提供した史書は多い。この時期に編纂され、『演義』への流れに影響した主な史書を挙げる。 ===『華陽国志』=== 東晋時代の永和11年(355年)に、常*13019*によって編纂された上古から4世紀半ばまでの巴蜀・漢中・雲南の地方志。全12巻。中でも劉二牧志・劉先主志・劉後主志は、資料に乏しく詳細不明な蜀の歴史を補うものとなっている。裴注にも19件引用されている。 ===『後漢書』=== 劉宋時代の元嘉9年(432年)に、范曄によって編纂された後漢時代に関する正史。前漢の歴史を記した班固の『漢書』の続篇として書かれたため、「後『漢書』」と名づけられる。時代的には三国より前を扱いながら、成立は『三国志』よりも150年遅く、裴注と同時期である。范曄がこの書を著す前から「後漢書」「続漢書」等と称する史書は多くあり、唐代に編纂された『隋書』経籍志では、これらの類書とともに正史の類に編入されている。現在見られる『後漢書』には、唐の皇族李賢(章懐太子)がつけた註釈(章懐注)が挿入されるのが普通である。扱う時代が重なるため、三国成立前の各地の群雄など『後漢書』『三国志』両書に伝がある人物も少なくない。曹操の参謀を務めた荀*13020*も、曹操が魏公に陞爵するのに反対し死を選んだためか漢臣として扱われ、『後漢書』にも伝がある。『演義』の刊本によっては荀*13021*の死が描かれる段で、100字余りの論賛(死に際しての評価)がそのまま『後漢書』から丸写しされている(ただしその後、毛宗崗本において当該部分は省略された)。 ===『世説新語』=== 劉宋の劉義慶(臨川王)が編纂した、後漢末から東晋までの著名人の逸話集である。後に梁の劉孝標(劉峻)が注を付け、記述の補足、不明な字義の解説、誤りの訂正などに校訂を施した。言語篇(巧い物言い)の孔融や、仮譎篇(嘘も方便)に載る曹操の逸話などが、後に『演義』で採用されている(後述)。 ===鼓吹曲=== 唐代に成立した正史『宋書』「楽志」には、歴代王朝の兵士の士気高揚と慰安を兼ねた軍楽である鼓吹曲が収められている。その中に三国時代の国の成り立ちを歌った軍歌も残されている。魏の鼓吹曲は繆襲作の12篇、呉は韋昭作12篇、晋は傅玄作の22篇が載せられ、それぞれの立場から見た国家形成史が歌われている(なお蜀のものは散佚したか、あるいは漢の後継国家として漢の鼓吹曲が用いられたためか、伝わっていない)。これら鼓吹曲はごく簡略とはいえ、散在する紀伝体の逸話と異なり、時系列にそったストーリーとして作られていたという意味で、『演義』物語への形成過程として重要である。作者の3人は、ともに各国の歴史書編纂事業に関わったことのある人物であり、鼓吹曲という形でそれぞれの国の正統性を宣伝する目的もあったと思われる。 ===唐代の変文=== 唐代に入ると、寺院の俗講で三国物語が語られるようになる。俗講とは僧侶が仏教講話を行う際に、聴衆の興味を引きつけるために語られた唱道文芸である。難解な経文の意義を無学な民衆にも分かるように平易な言葉で説いたもので、それをテキスト化したものを「変文」という。唐から五代・北宋の時代に盛んとなったがその後存在が忘れられ、1907年に敦煌から出土した敦煌文献の中から写本が発見されたことで、再び知られるようになった。変文の文体は、韻文(七言絶句が多い)と散文が交互に現れるという、それまでの中国文芸には無かった特徴を持ち、インドの仏典からの影響が指摘されている。韻文・散文の混在は、語るだけでなく唱歌として聞かせることで、教養に乏しい聴衆への理解を助けるための工夫と思われる。この形式が宋代以降の講談にも受け継がれ、やがて『平話』や『演義』の文中に盛んに詩詞が挿入されることとなる。敦煌変文の中には三国時代の説話は見つかっていないが、俗講の中で語られた三国物語は大覚和尚『四分律行事鈔批』(714年)の註釈にも残されている。内容は史実とかけ離れた部分も多く、諸葛孔明が死後に一袋の土を足下に置き鏡で顔を照らすと、魏の占い師が孔明はまだ生きていると判断し、一月攻められなかったとするなど、孔明が全能の魔術師として扱われ始めている。 唐末の詩人李商隠が自分の子について詠んだ「驕児詩」(驕児はやんちゃな子供の意)に、「或いは張飛の胡(ひげ)をあざけり、或いは*13022*艾の吃りを笑う」という文章があり、この時期にはすでに、子供たちまで張飛や*13023*艾など三国の英雄を、その特徴とともに知っていたことが分かる。また唐を代表する詩人杜甫は、三国時代蜀と敵対した魏・晋の将軍杜預の子孫であるが、「蜀相」「詠懐古跡五首」など、諸葛孔明を悼み称える詩を詠んでおり、蜀漢正統論が受容されつつあったことを物語る。なおこの2つの詩は、後に毛宗崗が『演義』にも採り入れている。 ==宋代== 宋代(北宋:960年 ‐ 1127年、南宋:1127年 ‐ 1279年)は都市文化が発展し、三国物語が語られる場も、寺院の俗講から、都市の芸人へと変化していく。また蜀漢正統論にも重要な動きが見られた。 ===説三分の流行=== 宋代は都市の経済や文化が大いに発展し、特に北宋の首都開封や南宋の首都杭州(臨安)の瓦市(盛り場)では、勾欄と呼ばれる寄席・見せ物小屋で、様々な講談(説話)が語られた。中でも特に「説三分」と呼ばれる三国ものが人気であり、当時の開封の盛況を記した『東京夢華録』には「説三分」専門の講釈師として「霍四究」などの名が書き留められている。北宋末を舞台にした小説『水滸伝』でも、李逵・燕青ら登場人物が開封に上京した際、勾欄で三国語りを聞く場面がある。講談には何日にも分けて興行される長篇ストーリーもあり、客の興味を引きつけるため、話が盛り上がる場面で「続きはまたの日に」と終了して、翌日以降に再び聞きに来させる手法が用いられた。この手法は後に『演義』毛宗崗本の文章で復活し、各回(章)の末尾に次回を期待させる「且聴下文分解(次回に続く)」などの文句が埋め込まれた。 赤壁の戦いについて詠んだ『赤壁賦』で有名な詩人・蘇東坡は『東坡志林』の中で「子供たちがうるさい時は銭を与えて講釈師を呼び、座らせて三国の物語を聞かせると、劉備が負けたと聞いて涙を流し、曹操が負けたと聞くや大喜びする」と記している。当時三国志物語が話芸の題材としてポピュラーであったこと、三国を語る芸人が多くいたこと、劉備が善玉で曹操が悪玉という評価が定まっていたことなどがうかがえる。 ===資治通鑑と通鑑綱目=== 庶民レベルでの説三分の隆盛と並行して、知識人の間でも宋代には三国時代の正統論について興味深い動きが見られた。当時、三国のどの国が正統かを論ずる正閏論が盛んとなる。碩学として知られた北宋の司馬光は編年体の史書『資治通鑑』(以下、『通鑑』)において魏正統論の立場で叙述した。欧陽脩(『明正統論』)・蘇東坡(『正統弁論』)らも同様である。しかし南宋時代の朱熹(朱子)は『資治通鑑綱目』(以下、『綱目』)において司馬光を激しく批判。三国時代の記述に魏ではなく蜀の年号を用いるなど、蜀を正統王朝と見なし、特に諸葛亮を「義によって国家形成を目指した唯一の人物」と礼賛した。それ以前に蜀正統論を強烈に主張していたのは東晋の習鑿歯であるが、漢人知識層にとって東晋や南宋は、ともに異民族に華北を奪われ江南に後退を余儀なくされた屈辱の時代であり、それゆえ類似した状況にあった蜀への共感が高まったとの指摘がある。朱子の理論を基盤とする朱子学(宋学)は明代に至り、国家公認の学問となった。すなわち『演義』が完成した時代には、朱子の歴史観(=蜀漢正統論)は公式なものとなっていたのである。 『通鑑』と『綱目』は歴史観のみならず、『演義』の文章にも大きな影響を与えている。『通鑑』は正史をはじめとした様々な史書から抜き書きし、編年体の体裁にまとめた書物であり、『綱目』はさらにそれをダイジェスト化した書である。そのため、歴史の流れを把握する上で、重要人物の記載が各伝に散らばっている正史(『後漢書』『三国志』『晋書』)を直に読むより、はるかに参照しやすくなっている。『演義』の作者・校訂者は、直接正史を参照する以外にも、『通鑑』や『綱目』を参考にして書いたとみられる箇所が散見される。また朱熹と同時代の学者で『近思録』の共著者でもある呂祖謙が記した正史のダイジェストである『十七史詳節』も参照に便利であったと思われ、『演義』刊本の中には、董卓が死亡した箇所の論賛などに「已上、詳節に見ゆ」と『十七史詳節』からの引用を明記してあるものもある。 ==元代== 元代(1271年 ‐ 1368年)になると、講談で語られてきた三国物語の台本に挿絵をつけて読みやすくした書『三国志平話』が登場する。またこの時代に大きく発展した雑劇(元曲)においても、三国時代を題材としたものが多く演じられるようになり、物語や人物の造形にふくらみが増していく。 ===元雑劇=== 元代は演劇が非常に発達した時代であり、続く明代前期にかけて、三国説話を題材とした劇も多数演じられた。元雑劇は白(セリフ)と唱(うた)から構成され、明代に成立した『脈望館鈔校本古今雑劇』『元曲選』などに多くの作品が収められている。史実に基づく話もあるものの、全体的に筋は荒唐無稽で、張飛が大活躍する物語が多い。次いで関羽が活躍するものが目立つ。言葉遊びや登場人物同士の掛け合いなど舞台ならではの要素も多く、『三国志平話』や『演義』に引き継がれなかった独自のストーリーを持つものも少なくない。また講談を聞くだけでは想像するしかなかった英雄達の容姿や服装・武器などが、演劇では目に見える形で表現されており、それぞれの人物のイメージとして定着していく。 ===三国志平話の成立=== 元代に成立した『三国志平話』(以下、『平話』)は、講談(説三分)の種本を文章化し挿絵を加えたもので、『演義』成立過程において、非常に重要な役割を果たした作品である。現存最古のテキストは、至治年間(1321年 ‐ 1323年)に福建省建安の書肆虞氏が刊行した『至治新刊全相平話三国志』である(日本の国立公文書館(内閣文庫)が所蔵)。「全相」とは全ページの上段に場面説明の絵が挿入されていることを表し、「平話」とは評話、すなわち長篇の歴史物語を指す語である。ページの上部三分の一程度に挿絵が描かれ、下部の三分の二が文章という体裁をとる。ほぼ同内容の『至元新刊全相三分事略』という書も存在し(日本の天理図書館が所蔵)、同版異刻と思われるが、どちらが早く刊行されたかについては諸説ある。この『三分事略』の方は全69葉のうち8葉が失われており、ここでは至治平話について記載する。 これまでの紀伝体史書や『世説新語』・説三分の逸話群が、人物ごとにバラバラで相互のつながりがほとんど無かったのに対し、『平話』は、後漢末から三国の興亡に至る顛末を一連のストーリーにまとめ上げた最初の作品であり、『演義』の成立史の上で非常に重要な位置を占める。 『平話』の特徴は 冒頭と結末に冥界裁判の話があり、これが全体のテーマとして底流にある。史実の事件と起きた順序が違うことが多い(意図的に組み替えられたというよりは、きちんと整理されていない)。魔術や超人が活躍するなど全体的に荒唐無稽であり、特に張飛が大活躍する場面が多い。各場面の記述は比較的簡素・粗雑であり、人名・地名などに当て字や誤字が多い。呉に関する記述が非常に少なく、赤壁の戦いと荊州争奪以外はほとんど触れられず、孫堅や孫策に至ってはほとんど登場しない。関羽の死亡前後までの記述は多いが、その後の筋はかなり簡略化され、孔明の死後についてはほとんど触れられない。晋による三国統一で終了するのではなく、漢の皇室の子孫という設定の劉淵(史実では匈奴出身で劉禅後継を称した五胡十六国の前趙(自称は”漢”)を建国した)が晋を滅ぼして、漢王劉淵の天下で話が終わる。などが挙げられ、文学的な価値こそ低いが、民衆世界の語り物の雰囲気をよく伝えている。 『平話』では張飛の大活躍が目立ち、特に上巻・中巻では主人公と言っても過言ではない。文中、劉備が「徳公」「玄徳」、関羽が「関公」と呼ばれるのに対し、張飛のみ「飛」と名で呼ばれ、親近感を与えている。序盤の三傑邂逅の場面も、張飛が関羽に話しかけることからストーリーが始まっており、彼が主人公格であることを暗示している(同じ場面が『演義』では劉備視点に変わる)。 なお冒頭と結末の冥界裁判とは、以下のようなストーリーである。 後漢の初代光武帝の時代、司馬仲相という書生が酒に酔って史書で読んだ始皇帝を罵倒していたところ、突如現れた役人が仲相を冥界へと連れ去り、裁判を行わせる。原告は漢王朝の建国の功臣ながら殺害された韓信・彭越・英布の3人で、被告は彼らを殺した漢の高祖(劉邦)とその妃の呂后であった。仲相は立て板に水のごとく裁判を結審させ、天帝はそれに基づいて韓信を曹操に、彭越を劉備に、英布を孫権に転生させ、劉邦・呂后を献帝と伏皇后(曹操に殺された皇妃)にして、曹操に復讐させる。裁判を仕切った司馬仲相は司馬懿に転生させ、三国を統一させた。すなわち物語の全体構図を復讐劇に仕立てたもので、仏教的な因果応報思想の影響が強い。この冥界裁判の話は元代にはよく知られていたようで、似たような話が同じ平話シリーズである『新編五代史平話』の中の「梁史平話」上巻にも現れている。そこでは英布の代わりに陳*13024*が登場して劉備に転生し、彭越が孫権に転生している。また呂后や司馬仲相が登場していないことから、こちらの方がより原型の話に近いと見られる。物語を収束させる人物として、三国を統一した司馬氏にあたるキャラクターが要求されたが、高祖の時代には該当する武将がいないため、新たに司馬仲相という人物が創作されたと思われる。 このように『平話』は、小説としては荒削りであったものの、漢末の混乱から三国の攻防に至る全体のストーリーラインはすでに『演義』と概ね同様だった。『西遊記』説話の古い内容を伝える『大唐三蔵取経詩話』や、『水滸伝』の元となった『大宋宣和遺事』が、現行の小説ではほぼ話の原型を留めていないのに対し、『平話』から『演義』に受け継がれている要素は非常に多く、元代における『平話』の成立が、『演義』形成過程の一画期となったことは間違いない。 ===花関索の伝説=== 現存する『演義』の刊本の種類によっては、中盤もしくは後半で関索なる人物が突然登場するものがある。この人物は関羽の子だとするが、関羽の子として史書には載るのは関平(『演義』では養子とする)や関興のみであり、関索はいずれの史書にも見あたらない架空の人物である(後述)。 関索が登場する刊本も、その登場箇所には全く異なる2種類の系統がある。一つは関索を関羽の第三子とするもので、関羽死後の諸葛孔明による南蛮征伐中に、突然登場して自らの生い立ちを語り、たいした活躍もなく、いつの間にか物語から消えてしまう。この系統では父関羽と同時には登場しない。もう一つは荊州攻略中の関羽の下に、花関索という若者が現れ、生い立ちをやや詳しく語る。その後、花関索は孔明の入蜀に従軍して活躍するが、後に関興が「兄が雲南で病死した」と語る形で物語から退場する。こちらの系統では関興が兄と呼ぶので関羽の第二子ということになる。なぜこのように異なる2系統の関索が登場するのか、『平話』や雑劇にもほとんど関索が登場していないため、長らく謎の人物となっていた。 ところが1967年上海市嘉定区の明代の墳墓から、成化年間(1465年 ‐ 1487年)に北平(現北京市)の永順堂という書店が刊行した『花関索伝』という書物が発掘されたことで、元・明代に流布していた関索伝説の全貌が明らかとなった。『花関索伝』は『平話』を上回る荒唐無稽な物語であり、劉備はもちろん諸葛亮や張飛、父である関羽すら押しのけ、ひたすら関索(花関索)のみが大活躍する小説である。入蜀や荊州争奪など三国説話に基づく話もあるが、人物関係や事件の順番などについては『平話』以上にでたらめで、中には『水滸伝』のような盗賊や『西遊記』で現れるような妖怪まで登場する。『平話』と同様、上図下文小説の体裁をとっており、中には『平話』と同じ絵柄の挿絵もある。 関索説話は『演義』の形成とは別に発展したらしいが、『演義』成立後に様々な書店や編者の手で物語に挿入されたため、異なる系統の関索像が取り込まれることとなった。近年では逆に、関索物語の有無や内容によって、各刊本の系統関係が推測されるようになった(後述)。 ==明代:演義の成立== 明代(1368年 ‐ 1644年)に入ると、従前の三国物語が、いよいよ『演義』という小説として完成する。14世紀後半には原「三国演義」ともいうべき書物が成立。その後抄本として書写で流布し、16世紀の出版文化の隆盛とともに様々な刊本が登場した。その動きは清代(1644年 ‐ 1912年)に入り、決定版となる毛宗崗本の出版の後まで続く。 ===羅貫中は作者なのか=== 今日、一般的に『演義』の作者とされるのは羅貫中という人物である。現存する各種刊本に「羅貫中編」と記されるものが多いことが理由である。「編」という字からも分かる通り、『演義』を一から著した作者というより、荒削りな『平話』の物語を史書等を用いてストーリーを補正し、黄巾の乱から三国の統一につながる一連の大河小説として完成させた、最終編者としての役割が想定されている。ただし、本当に最終編集が羅貫中なのかどうか、確証は全くない。 というのも羅貫中自体は、経歴がほとんど不詳な人物であり、元末明初(14世紀半ば)に生きた人ということ以外、確かなことは全く分からない為である。清代の俗説では、元末の軍閥張士誠に仕えたとされ、『演義』の赤壁の戦いの描写は、朱元璋と陳友諒との間で行われた*13025*陽湖の戦いをモデルに書かれたと言われることもあるが、何ら証拠はない。 賈仲名の『録鬼簿続編』(雑劇作者の列伝)には、羅貫中は太原(現山西省)の人で「湖海散人」と称していたこと、楽府や戯曲を書いていたこと、賈仲名は至正甲辰(1364年)に最後に会ったことが記されている。作品としては「風雲会」「連環諫」「蜚虎子」等があったらしいが、「風雲会」(宋太祖の出世物語)以外は散佚している。ここで重要なのは賈仲名が、羅貫中の作品として『三国志演義』等の小説を一切記していないことである。最も著名な小説を代表作として挙げていないというのは考えづらく、『録鬼簿続編』が言う「羅貫中」が果たして『演義』の編者とされる人物と同一なのかは疑わしい。同姓同名の別人という可能性もある。 賈仲名が羅貫中の出身地として記す太原は、当時文化が高度に発達した地域で、雑劇や語り物の作者を輩出していた。ただし羅貫中の出身を太原以外とする史料もある。たとえば嘉靖本の序文には「東原羅本、貫中」(姓名が羅本で、字が貫中)とある。東原は東平(山東省)の古名である。元末の朱子学者趙偕の弟子に羅本という人物がおり、同じく趙偕の影響下にあった陳文昭の名が『水滸伝』(これも羅貫中の作とする俗説がある)に東平府尹として登場することから、羅本は東平と縁が深かったとみる王利器の説もある。東平は元代に漢人軍閥の厳実・厳忠済父子が地方政権を築いており、元好問など山西地方の文化人が戦乱を避けて多く移り住み、高文秀などの劇作家を生んだ文化的な地だった。いっぽう浙江の郎瑛(1487年 ‐ 1566年?)が、世上の見聞をまとめたメモ『七修類稿』では、「『三国』『水滸』はともに杭人羅本貫中の作である」と記しており、羅貫中を杭州の人間としている。これらをすべて信用し強引にまとめると、羅貫中(もしくは祖先)は元々太原の出身で、その後東原を経て杭州へ移ったということになる。当時モンゴルの支配を避け、北方から南方へ移り住んだ文化人の中には「書会」と呼ばれるギルド組織を構成し、雑劇や小説を作成する者がいたという。各都市の書会ギルドはネットワークを形成し、新たな移住先や旅行先の情報を得る上でも有利に働いた。羅貫中の号とされる「湖海散人」も、遍歴する自由人としての姿を髣髴とさせる。 そうなると「羅貫中」というのは、上記のような書会ギルド名であった可能性や、書会を構成する才人(職業的文士)の伝説的名前として複数人から使用され、個人の名前ではなかった可能性もある。実際『演義』は各場面によって使われる用語・用字の傾向に著しい偏りがあり、すべての構成を1人の人間が一から作成したとは考えがたい。 なお羅貫中は他にも『隋唐両朝志伝』『残唐五代史伝』『三遂平妖伝』『水滸伝』などを執筆したとされるが、これらもかなり疑わしい。確かにこれらの作品には『演義』の影響が見られる。しかし、それはむしろ『演義』のプロットを一部借用して別の作者が書き、羅貫中の名を利用して箔を付けた為と思われる。上記の著作群は16世紀に入った嘉靖年間(1522年 ‐ 1566年)前後に立て続けに出版されている。高島俊男は文学界の潮流として、通俗小説の機運が成熟する嘉靖期よりはるか以前の、明初の人物とみられる羅貫中の作品群が、すべて16世紀まで世に出ずに書写・退蔵され、約200年後に一気に出版されたとは考えづらいと指摘する。また上田望も、原「三国演義」に大部の書物である『綱目』の文章が参照されていることを明らかにし、印刷文化の普及が進んでおらず、史書が高価であった元末明初に、一介の戯曲作家「湖海散人」羅貫中が『綱目』を購入する資力があったとは考えづらく、原「三国演義」の作者はもう少し時代が下がり、木版印刷によって『綱目』が入手可能となった時期の知識人であったと推測する。 このように、羅貫中という一作家がいて、『演義』の最終的な編集を行ったと言えるかどうかは、かなり疑わしい。仮にそうだったとしても、当人の手による作品が現存しておらず、羅貫中版・原「三国演義」を検証することはできない。嘉靖本の序文には「好事者そろいて相写す」とあり、16世紀に印刷文化が隆盛するまでは、専ら書写によって抄本(鈔本)が作られていたと推測され、その過程で他者による改編・挿増・誤写が頻繁に行われたとみられるからである。とはいえ明代の早期に、後に『演義』と呼ばれることになる小説が成立していて、その作者が羅貫中であるとする噂が広まっていたことは間違いない。この成立時期は『平妖伝』『水滸伝』『西遊記』など16世紀に生まれた他の小説よりもかなり早く、『演義』が通俗小説の祖として、他の作品に影響を与えたり、模倣作品を生み出すこととなる。 ===嘉靖本の登場=== 現存する『演義』最古の刊本は、嘉靖元年(1522年)に木版印刷された『三国志通俗演義』である。これを嘉靖本と呼ぶ(後述の葉逢春本等も嘉靖年間の刊行であるため、区別して張尚徳本と呼ばれることもある)。全24巻240則から成る。 巻頭には「晋平陽侯陳寿史伝/後学羅本貫中編次」と題されている。首巻に弘治甲寅(1494年)の庸愚子(蒋大器)による序文「三国志通俗演義序」、嘉靖壬午(1522年)の修髯子(張尚徳)による「三国志通俗演義引」「三国志宗寮(人名目録)」をそれぞれ載せる。庸愚子の序文には『演義』形成の過程が記される。それによれば『三国志』など正史の類は難解であるため、庶民の間で野史(でたらめな史伝)が広まり、『平話』のような作品が作られたが、言葉は卑しく誤りが多い。そこで羅貫中が各種史書を慎重に取捨選択してまとめ『三国志通俗演義』と名付けた、とある。また「好事者そろいて相写す」とあることから、出版印刷文化が花咲く嘉靖年間以前は、専ら書写によって鈔本が作られていたと推測される。これを原「三国演義」と呼ぶ。この原「三国演義」の一つとして想定される有力な候補が弘治7年(1494年)の序を持つと思われる弘治本である。 ===各種刊本の系譜=== 16世紀嘉靖から万暦にかけては、江南を中心に印刷業や書籍の流通業が発達し、空前の出版ブームが発生した時期である。著作権概念の無かった当時『演義』に限らず、ある作品が人気になると、別の書店がその版木を覆刻・複製して販売することが横行し、その際独自のエピソードを増補したり改作して他の書店と差別化するなどの売り方がとられた。『演義』は最初に人気になった通俗小説でもあり、様々な書店から非常に多くの刊本(テキスト)が売り出された。好評を得た刊本からさらに孫引きした複製や増補が加わることもあり、採用された逸話や用語・用字の違いなどから、各刊本どうしの系譜関係が類推できる。嘉靖本からの進化ですべてを説明した鄭振鐸をはじめ、小川環樹・柳存仁・周頓・上田望などが様々な説を唱えているが、ここでは金文京、中川諭による研究を基に説明する。 現在までに発見されているテキストのうち、主要なものは以下の通りである。 発行者・発行年などの書誌情報は失われている場合が多いが、以下のような要素を材料に、系譜関係を推測できる。 繁簡の別 明代の長篇小説は、精細な叙述で詩詞を交えた「文繁本(繁本)」と、文章を簡略化して挿絵を入れるなどした「文簡本(簡本)」に大きく分けられることが多い。『演義』でも『水滸伝』『西遊記』と同様、先に繁本が成立し、そこから文章量を削減した簡本ができたと見られる。明代の長篇小説は、精細な叙述で詩詞を交えた「文繁本(繁本)」と、文章を簡略化して挿絵を入れるなどした「文簡本(簡本)」に大きく分けられることが多い。『演義』でも『水滸伝』『西遊記』と同様、先に繁本が成立し、そこから文章量を削減した簡本ができたと見られる。李卓吾の批評 李贄(字は卓吾、1527年 ‐ 1602年)は、偽りのない心を尊ぶ童心説で知られた陽明学者で、低俗と見られていた小説を高く評価した。経書や詩文を至高の文学としていた旧来の儒教的価値観から逸脱していたため、迫害され獄中で自殺したが、出版業界では通俗文学を評価した李卓吾の名声は高まった。そのため小説の中に李卓吾の名を使った批評をつけて、売りにすることが流行した(実際には葉昼などの文人が李卓吾の名を騙ったもの)。後に日本へもたらされた呉観明本をはじめ、緑蔭堂本・蔡光楼本などが書名に「李卓吾先生批評」と冠しており、まとめて李卓吾評本系と呼ばれる。 ほかに、李卓吾の思想系譜を引く竟陵派の鍾惺(伯敬)の名を冠した鍾伯敬本もある(これも鍾惺本人の注釈ではない)。李贄(字は卓吾、1527年 ‐ 1602年)は、偽りのない心を尊ぶ童心説で知られた陽明学者で、低俗と見られていた小説を高く評価した。経書や詩文を至高の文学としていた旧来の儒教的価値観から逸脱していたため、迫害され獄中で自殺したが、出版業界では通俗文学を評価した李卓吾の名声は高まった。そのため小説の中に李卓吾の名を使った批評をつけて、売りにすることが流行した(実際には葉昼などの文人が李卓吾の名を騙ったもの)。後に日本へもたらされた呉観明本をはじめ、緑蔭堂本・蔡光楼本などが書名に「李卓吾先生批評」と冠しており、まとめて李卓吾評本系と呼ばれる。ほかに、李卓吾の思想系譜を引く竟陵派の鍾惺(伯敬)の名を冠した鍾伯敬本もある(これも鍾惺本人の注釈ではない)。巻数・章回 嘉靖本以来の『演義』は全240則(則は話のまとまり。葉逢春本では段と称する)から構成され、20巻本では12則が1巻、24巻本では10則が1巻となっていた。各則には短い題名がつく(ただし第○則とか第○段といった数字表記はない)。ところが『水滸伝』などの影響により、李卓吾評本ではこの構成を、2則を併せて1回とし、全120回とする構成に変更した。章立てを「第○○回」と数字で呼称することから「章回小説」と呼ぶ。 後の毛宗崗本では、さらに各回の題名を対句的表現とし、各回の最後に「○○如何、且聴下回分解(続きはどうなるか、次回をお聞きあれ)」という講談形式の台詞を挿入している。嘉靖本以来の『演義』は全240則(則は話のまとまり。葉逢春本では段と称する)から構成され、20巻本では12則が1巻、24巻本では10則が1巻となっていた。各則には短い題名がつく(ただし第○則とか第○段といった数字表記はない)。ところが『水滸伝』などの影響により、李卓吾評本ではこの構成を、2則を併せて1回とし、全120回とする構成に変更した。章立てを「第○○回」と数字で呼称することから「章回小説」と呼ぶ。後の毛宗崗本では、さらに各回の題名を対句的表現とし、各回の最後に「○○如何、且聴下回分解(続きはどうなるか、次回をお聞きあれ)」という講談形式の台詞を挿入している。関索説話の有無 前述の通り、刊本によって関羽の子関索が登場しないもの、登場する場面が違うものがある。便宜上、孔明の南征に関索が従軍するものを関索系、荊州の関羽の元に母を伴って現れるものを花関索系と呼ぶ。前述の通り、刊本によって関羽の子関索が登場しないもの、登場する場面が違うものがある。便宜上、孔明の南征に関索が従軍するものを関索系、荊州の関羽の元に母を伴って現れるものを花関索系と呼ぶ。周静軒詩の有無 周礼(号は静軒先生)は、弘治年間に在世したと推定される杭州の在野の歴史家で、『演義』で描かれる歴史的事件について多くの詩を詠み、それらが挿入された刊本も多い。周静軒の詩が挿入された最初の刊本は、1548年の葉逢春本で、嘉靖本には見えない。その後多くの刊本でそのまま受け継がれたが、毛宗崗はこれを削除している。周礼(号は静軒先生)は、弘治年間に在世したと推定される杭州の在野の歴史家で、『演義』で描かれる歴史的事件について多くの詩を詠み、それらが挿入された刊本も多い。周静軒の詩が挿入された最初の刊本は、1548年の葉逢春本で、嘉靖本には見えない。その後多くの刊本でそのまま受け継がれたが、毛宗崗はこれを削除している。まず、各種刊本は大きく3つの系統に分けられる。最も分かりやすい違いは改則の箇所(どこで次の則に移るか)である。たとえば帝号を称した袁術が呂布を攻めて破れた場面(毛宗崗本では第17回に相当)は、内容自体にはあまり相違が無いが、改則している箇所を見ると、嘉靖本では曹操の使者が江東を訪れ孫策が兵を起こそうと考える場面、余象斗本では袁術が呂布に敗れて逃げた際に謎の軍(実は関羽)が現れたという場面、朱鼎臣本では陳珪が陳登に楊奉・韓暹を呂布から引き離した真意を語る場面で、それぞれ則が改まっている。毛宗崗本を除くすべての刊本は、以上の3種類のいずれかで改則しており、これによって分類できる。 1つ目のグループは嘉靖本を含む、主に南京(金陵)の書店から発刊された24巻立て(あるいは12巻立て)のテキストで、これを「二十四巻系」と呼び、周曰校本や李卓吾評本などが含まれる。改則箇所は異なるが、他の要素を注意深く見ると毛宗崗本もこのグループに近いことが分かる。その他は、主に福建(建陽)の書店から発刊され「三国志伝(史伝)」の名が特徴的な20巻立てのもので、余象斗本を中心として鄭少垣本・楊*13026*斎本など文章が詳細なグループ(「二十巻繁本系」と呼ぶ)と、朱鼎臣本・劉龍田本・楊美生本など文章が簡略化されたグループ(「二十巻簡本系」と呼ぶ)に分けられる。この時期、南京と福建の書店は出版戦争とも言うべき激しい商戦を繰り広げており、余象斗や朱鼎臣といった福建の書林は『演義』に限らず『水滸伝』や『西遊記』においても、南京の書店に対抗して独自の増補や工夫を施して他と差別化を図った意欲的な業者として知られる。これら福建の二十巻系は、繁本系・簡本系ともに嘉靖本より前の抄本の古い内容と見られる内容が残る。一方嘉靖本と同じグループの二十四巻系諸本も、嘉靖本から直接進化したのではなく、それより古い抄本を参照した形跡がある。これらの流れをまとめると以下のようになる。 原「三国演義」成立後、『演義』が抄本形式で広まった段階で、史書によって修訂されたものとそうでないものに分かれた。修訂を経た方で早く刊本になったのが嘉靖本であり、それにいくつかの説話や周静軒の詩を挿入したのが周曰校本などにつながる。一方、修訂を経ないテキストにも周静軒詩が挿入された。このうちの一つが葉逢春本である。そしてその中で文章を簡略化したものとしていないものに分かれ、簡略化していない方に花関索説話を挿入したものが二十巻繁本系、簡略にしたものに関索説話を挿入したものが二十巻簡本系につながる。万暦年間に二十四巻系諸本で李卓吾批評と称する注釈を入れたものが現れ、章回分けが行われたのが李卓吾評本である。この李卓吾本の流れから清代に入り、史実を重視して虚構を削ったものが毛宗崗本となる。 ===毛宗崗本の成立=== 毛宗崗(字:序始、号:孑庵)は長洲(現在の蘇州)の人で生卒年は不詳。父の毛綸(声山)は『琵琶記』の批評を行った人物である。同郷の師に『水滸伝』に大胆な改変を加えたことで知られる金聖歎がいたともいう。父の毛声山は李卓吾本を元に各書を取捨選択し、『演義』の改訂に取り組んでいた。毛宗崗はそれを引き継いで、記事や文章の誤りを正し、自らの評価を挿入して毛宗崗本を完成させた。成立時期は康煕5年(1666年)以降であるという。首巻には金聖歎に仮託した序文と「凡例」「読三国志法」および目録・図録を収める。「凡例」は毛宗崗が底本とした李卓吾評本からどの部分をどういった方針で修正したかを説明したもの、「読三国志法」は毛宗崗自身による『演義』の解説である。 毛宗崗は校訂にあたって、なるべく史実を重視し、それまでの刊本に採録されていた花関索説話などの荒唐無稽な記述や、周静軒の詩を削除する方針をとった。たとえば毛宗崗が削った逸話に「漢寿亭侯」故事がある。関羽が曹操に降った際、曹操から寿亭侯の位を与えられたが、関羽が不満と聞くと、曹操がその上に「漢」の一字を追加して「漢寿亭侯」とした。関羽は「曹公は私の心を分かっておられる」と喜んだという逸話である。関羽の漢(=劉備)に対する忠節を示す話であるが、実際には関羽は「漢寿」という土地(現在の湖南省常徳市漢寿県)に封じられたものであり、漢と寿を切り離す話には無理がある。しかし元明代にはむしろ「漢・寿亭侯」の解釈の方が一般的であった。史実を重んじる毛宗崗は、この話を採用せず削除してしまうが、それ以前の刊本には収録されていたため、李卓吾本を輸入・翻訳した日本では、この説話が残り、広く知られている。 逆に史実ではないのに毛宗崗が挿入した逸話に「秉燭達旦」がある。曹操が関羽の心を乱すため、劉備の二人の夫人と同室に泊まらせたが、関羽は燭を取って戸外に立ち、朝まで一睡もせずに警備したため、曹操はますます関羽に感心したという話で、明刊本の本文中には見られない(周曰校本では註釈で触れている)。博識で有名な学者胡応麟は、『荘岳委譚』の中でこの話は正史にも『綱目』にも見られない虚構の話だと断じたが、毛宗崗は「通鑑断論」に基づいてこの話を入れたという。通鑑断論とは元代の学者潘栄の『通鑑総論』のことで、明代の『綱目』刊本にはこの通鑑総論を冒頭に附録しているものが多かった。毛宗崗が校訂にあたり『綱目』に依拠していたことが推測される。 毛宗崗本は既刊刊本の中で、いわば決定版と見なされ、清朝一代をかけて徐々に他の刊本を駆逐し、古い刊本が国内で廃棄・消尽され、日本をはじめ外国に多く伝存するという状況を導くことになる。清末には、ほぼ『演義』といえば毛宗崗本のことを指すという状態となり、現在に至る。清代に特定の刊本が突出し、他の刊本が整理・淘汰されるのは『水滸伝』(金聖歎本)や『西遊記』(西遊真詮)でも似た傾向が見られる。 ==主要人物の造形== 毛宗崗は自ら書き下ろした解説「読三国志法」で、『演義』の登場人物の中から、3人の卓絶した人物を選び「三絶」と称賛している。それは古今の賢相の第一たる諸葛亮(智絶)、古今の名将の第一である関羽(義絶)、そして古今の奸雄の第一とする曹操(奸絶)の3人である。ここではその特別に作り込まれた三絶をはじめ、主要な登場人物について『演義』に至る人物像の形成過程を概観する。 ===関羽=== 関羽(字:雲長)は『演義』で「義絶(義の極み)」と絶賛される人物である。関羽の人物像は、長い歴史を経て作り出されたもので、『演義』の時代すでに道教では神として祀られていた。しかし義絶と称される程の義人となるのは『演義』における最終的な演出・造形が関わっている。 ===神格化される関羽=== 正史『蜀書』における関羽の伝記は、巻6にまとめられた武臣の筆頭として収載されているが、その分量はわずか953字にすぎない。陳寿は、剛情で自尊心が高すぎるという関羽の短所も指摘しており、まだ神格化はされていない。裴松之はこれに761字の注釈を補うが、呂布の部下秦宜録の妻を娶ろうと曹操に懇願する好色な姿(『魏氏春秋』)も描かれている。南北朝期に発展した初期道教において、当時の道教の神々を整理した陶弘景の『真霊位業図』において、俗世で功績のあった人物が冥界の官吏として挙げられているが、劉備・曹操・荀*13027*・諸葛亮・司馬懿・徐庶などの名はあっても、関羽・張飛など武臣の名は見られない。ただし同じ陶弘景の『古今刀剣録』では、関羽が自ら山で鉄を取り「万人」と銘した刀を作ったという伝説を記す。 関羽が初めて神として祀られたのは唐代である。ただし道教ではなく仏教においてであった。玉泉寺(湖北省)で仏を守護する伽藍神となり、顕烈廟に祀られた。貞元18年(802年)に董挺が著した「重修玉泉寺関廟記」によれば、開山の智*13028*(天台宗開祖)が、当地で死んだ関羽の亡霊のお告げを得たとし、顕烈廟が玄宗代に建立されたことを記している。南宋の『仏祖統紀』では智*13029*の前に現れた関羽の霊が、仏法に帰依したいと請い、智*13030*が煬帝に奏して、関羽を「伽藍神(伽藍菩薩)」に封じたとしている。 一方、五代から北宋にかけて、道教では元帥神という武神の信仰が広まる(『道法会元』)。北方守護の趙元帥(趙公明)、東方の温元帥(温瓊)、西方の馬元帥(馬霊官)とともに、関羽は南方を守護する関元帥として四大元帥に数えられるようになる。元帥神は武器と騎乗動物がセットとして祀られ(趙元帥なら鉄鞭と黒虎)、青竜刀と赤兎馬の組み合わせができたものと考えられる(ただし道教の中で元帥神の地位は高くなかったため、明清期に関羽の地位がさらに高まると、次第に四大元帥からは外されるようになった)。 ===財神としての関羽=== 現在でも関羽は中国国内においても、世界各地の中華街でも、「財神」として崇拝されている。本来、地方政権の一介の武将でしかない関羽が、財神として崇敬されるようになったのは、山西商人(晋商)の活動が大きく影響している。 元々関羽の故郷である山西省の解県には、塩湖である解池があり、古来より内陸部において欠乏しがちな生活必需品である塩を供給する中国最大の生産地であった。漢代から塩は国家の専売とされたが、取引はもっぱら製塩業者や商売人が請け負った(詳細は中国塩政史を参照)。これらの中から晋商(山西商人)と呼ばれる大商人が現れる。彼らは元は山西省・陝西省出身の商人・金融業者であり、五代以降に頭角を現し、明代にピークを迎えた。南方の新安商人(徽商)とともに明・清時代には二大商業勢力にまでなる。彼ら山西商人は、同郷の偉人である関羽を守護神として崇拝していた。関羽信仰の主体が商人であったことが、武将関羽が財神に変化した原因となる。 宋代には、北方の異民族(契丹・西夏・女真)との抗争により軍事費が飛躍的に増大し、実に税収の五割が塩税で占められる。国家から徴税後の塩の取引を認められていた山西商人たちは、朝廷権力とも癒着したため、彼らの関羽信仰も朝廷の官僚や軍人にまで影響していく。次第に宋朝では、北方民族との戦いに際して、関羽に祈りを捧げるようになった。特に北宋末、金の擡頭により軍事的緊張が高まると、時の徽宗皇帝は関羽を忠恵公に封じ、その後義勇武安王まで昇格させて、宋軍への加護を祈った(右表)。徽宗はまた道教への傾倒も著しく「道君皇帝」と称された皇帝でもあった。山西商人から崇拝され、道教でも元帥神となっていた関羽は、国家からも公式に軍神としての地位を認められたことになる。その後、王朝が交替しても関羽に対する顕彰は続き、神としての地位を上げ、『演義』が成立した後はその影響もあり、明末にはついに帝号まで与えられることとなった。 ===演義における関羽=== 『演義』では、関羽の武や義を強調するため、様々な工夫が施されている。まず本来別人が挙げた功績を関羽に移し替える作業である。たとえば董卓の部将華雄を斬る功績は本来孫堅のものであったが、これを関羽に移し替えて「温酒斬華雄」という名場面に転換した。群雄の前での鮮やかな関羽のデビュー戦として演出し、読者に関羽を印象づけるとともに、曹操が関羽の武に惚れ込む伏線として機能させている。また曹操に降った関羽が白馬の戦いで袁紹の部将顔良を斬ったことは正史にも載るが、その後さらに文醜まで関羽が斬ったとするのは(『平話』から受け継がれた)創作である。武神・軍神として関羽の武を強調する作為である。 忠義の将としての姿は「千里走単騎(嘉靖本では千里独行)」で典型的に語られる。一時曹操に降伏していた関羽は、袁紹軍に身を寄せている旧主劉備の下に参ずるため、曹操から受けた栄典をすべて返上し、劉備夫人を護衛しながら、行く手を塞ぐ5つの関門で6人の将を斬る。正史ではわずか30字しか記述がないが、『演義』では関羽の忠節を強調する物語として大々的に発展させた。なお嘉靖本の千里独行では関羽に対して「関公」という呼称が使われ、それ以外の部分にはほとんど使われないため、この逸話は後から三国物語に挿入された可能性が高く、全篇に渡って「関公」と表記されることが多い『平話』との関連性がうかがえる。ただし『平話』の段階では関羽が曹操に別れを告げた出発地が長安とされていたのに対し、『演義』ではつじつまを合わせるため、許都に改められている)。この逸話の挿入により、関羽の劉備に対する忠義と、曹操の関羽に対する惚れ込みようがさらに強調された。 そして関羽の義将たる側面が最大限に発揮される名場面が「華容道」である。赤壁の戦いにおいて諸葛亮は、関羽が以前曹操から恩義を受けていたことを知りながら曹操の追撃を命じた。しかし関羽は華容道で敗残の曹操とまみえると、情義からあえて曹操を見逃すのである。それまで丁寧に叙述されていた関羽と曹操の因縁を伏線として形成された非常に感動的な場面であり、毛宗崗も総評でこの場面における関羽の義を絶賛している。正史や裴注にはこのような場面は全く存在せず、『平話』では関羽が曹操と鉢合わせした際に謎の霧が立ちこめ、曹操はそれに紛れて逃げたとするのみで、何の感動もない。すなわちこの段は関羽の義を強調するために、『演義』編者によって最終段階で挿入された創作なのである。魯迅は『中国小説史略』でこの場面を「孔明の描写は狡猾さを示しているだけだが、関羽の気概は凛然として、元刊の『平話』とは格段の差がある」と絶賛し、王国維も「文学小言」でこのくだりを「大文学者ならでは為し得ない」と賞賛している。「義絶関羽」の人物造形は、『演義』編者にとって最も思い入れが込められた産物であった。 これ程までに称揚された関羽は、非業の最期を迎えた後、まさに「神化」する。呂蒙の計略で捕らえられ、孫権に処刑された関羽は「顕聖(神として姿を現す)」し、ともに死んだ関平・周倉とともに、普静和尚の前に姿を現す。そして勝利の宴を祝う呂蒙に取り憑いて、呪い殺すという神罰をくわえ、さらに首となった後に曹操の健康まで害する(第77回)。こうして義絶・関羽は文字通り神となった。『演義』の影響でさらなる”関聖帝君”への崇拝を生み、現在も世界中の関帝廟で祀られている。 ===諸葛孔明=== 劉備を支えた諸葛亮は「智絶(智の極み)」と称された天才軍師である。物語中の孔明は軍師・参謀という枠を超え、むしろ神仙・魔術師的な活躍まで見せる超能力者として描かれる。『演義』では全篇を通して劉備(玄徳)と諸葛亮(孔明)のみは、姓名より字で呼ぶことが多く、主人公的な視点すら与えられている。また、関羽も「雲長(字)」「関公」と呼ぶことで、いずれも諱を避ける敬意を示されている。 しかし史実における諸葛亮は、中途から劉備陣営に加わった文士であり、赤壁の戦いでも外交面以外の活躍はほとんど見られない。法正が没するまでは文臣トップですらなく、軍権を握ったのは劉備の死後のことである。「忠武侯」という諡号を与えられたにも関わらず、正史における陳寿の諸葛亮評も、制約された条件下で最大限政治能力を発揮した能吏としてのものであり、「然れども連年衆を動かし、未だ成功する能はず。蓋し応変の将略はその長ずる所に非ざるか」とあるように、その軍事的な才能は疑問視していた。ところが東晋時代以降に蜀漢正統論が提起されるようになると、最期まで「聖漢」(儒学者の理想国家としての漢王朝)の一統を目指して戦った諸葛亮の評価も上がっていく。 ===軍事カリスマとしての孔明=== 正史での陳寿の評価に反して、南北朝から隋唐にかけ、諸葛亮の軍事的才能が賞賛されるようになった。北周王朝(556年 ‐ 581年)の基礎を築いた宇文泰は、諸葛亮の軍才を敬して部下に「亮」の名を与えており、また『演義』にも登場する「八陣之法」や「木牛・流馬」などが、孔明の発明したものとして語られるようになる。唐代に至ると、名君太宗(李世民)の諫臣として『貞観政要』でも知られる魏徴すらも諸葛亮に劣ると評され、その軍才はいにしえの孫子・韓信や唐建国の功臣李靖・李勣と並んで名将ベスト10に名を連ねるまでとなった。関羽と同様、南宋においては「威烈武霊仁済王」に封じられ、国家の守護神の一人に数えられている。 また朝廷とは別に、民間においても同時に孔明の軍略を讃え、神秘化する傾向が強まる。前述の通り、唐代に寺院で語られた俗講で三国説話が語られたが、その中では蜀の軍事行動がすべて諸葛亮に結びつけられており、軍師としてだけでなく、その知謀を際立たせるために能力の神秘化までが進んでいる。 ===忠臣としての孔明=== 蜀漢正統論の高まりとともに、忠義の士としての諸葛亮の再評価も進んだ。劉備は死にあたり、病床で諸葛亮に息子の劉禅を托し「我が子に才能なくば君が取って代われ」と遺言したと正史にある。しかしそれにも関わらずあくまで劉禅を主君として奉り、不倶戴天の敵である魏を攻め続けたことは、忠義を尽くした行為として賞賛された。上述の通り杜甫が諸葛亮を讃える詩を詠んだことに見られるように、隋唐時代にはすでに忠臣諸葛亮の評価は高まっていた。 諸葛孔明を「聖漢の忠臣」として改めて再評価したのは、蜀漢正統論を強調した南宋の朱熹であった。朱熹の評価では劉璋をだまして蜀の地を奪ったこともすべて劉備の責任として押しつけ、孔明を「三代(夏・商・周)以来、義によって国家形成を目指したただ一人の人物」とまで絶賛している(『朱子語類』巻136)。これには華北・中原地域を金という異民族王朝に奪われ、その奪回を国是とした南宋の置かれた立場も反映していると見られる。中原回復のための北伐途中に死去した孔明は、朱熹にとって国家の理想を反映する英雄であった。 ===神仙としての孔明=== このような軍事・道徳両面での高評価に加え、孔明には道教の仙人的なイメージが附加されていた。奇しくも三国時代に始まった原始道教(天師道)は、六朝時代以降に発展し、清廉で俗世から遊離した仙人・道士のイメージが知識人層に浸透した。若くから晴耕雨読の生活を送っていた孔明もまた、神仙的な色合いで語られるようになる。後述する葛巾・毛扇という道士的な衣装や、出身地の琅邪が天師道のメッカであり、始皇帝時代の徐福や孫策を呪った于吉など、古代より多くの方士を生み出してきた土地であることも、諸葛孔明と方士〜道士〜神仙イメージを結びつける一助となった。『平話』では、諸葛孔明の登場時にはっきりと「元々は神仙である」と言明し、超常的な魔術師として扱われている。 『演義』で孔明は、赤壁の戦いにおいて超人級の活躍をする。本来の勝利の立役者である周瑜を完全に脇役へ追いやり、その軍略的天才を発揮するだけでなく、『奇門遁甲天書』に基づき七星壇に祈ることで風をも自在に操る魔術師の姿を見せる。「借東風」はすでに『平話』でも描かれており、風を祈るという魔術師的な孔明像は、講談の中でできあがったものであろう。さらに南蛮征伐の段では、器械仕掛けの猛獣を作製し、羽扇で風向きを変えるなどのオーバーテクノロジーを駆使し、孟獲を七回捕らえ七回釈放(七縦七擒)するという離れ業も見せる。 孔明最後の仕事となる北伐においても、敵軍にわざと隙を見せる空城の計や、木牛・流馬なる摩訶不思議な器械で、魏軍を率いる司馬懿を翻弄した。そして超能力者・孔明の最後の魔術は、星座を観察して死期を悟り、北斗星に祈って自らの延命を図る段(第103回)である。この祈りは魏延の不注意で中断されてしまい、延命はできなかったが、かねて反目していた魏延と孔明の関係を利用し、後に魏延が乱を起こすことの伏線として巧みに配している。さらに超人孔明は死後すらも神通力を発揮した。孔明の死に乗じて攻め寄せた司馬懿を退ける兵法を遺し「死せる諸葛、生ける仲達を走らす」ことに成功する。この「死諸葛走生仲達」は裴注に引く『漢晋春秋』が初出だが、楊儀・姜維らが司馬懿を迎撃したことに対し、孔明の軍令が行き届いていたことを讃える言葉であり、『平話』も同様だった。ところが『演義』においては、生前の孔明が「我が屍体の口に米七粒を含ませ、足下に行灯をともせば、我が将星は落ちまい」という道教儀式的な指示を出していたことにし、木像を用いて魏軍にまだ孔明が生きている様に思わせるという、大がかりな魔術で「知絶」の奇才を締めくくっている。加えて生前に魏延の叛乱をも予見し、馬岱に秘策を授けておくなど、死後まで道教的な神秘性を帯びた「知絶」の超人として描かれたのである。 ===曹操=== 曹操(字:孟徳)は「奸絶(奸の極み)」と称される『演義』最大の悪役である。毛宗崗があえて悪役を三絶の一人に数えたのは『演義』における曹操の存在感と、毛宗崗の分析の鋭さを物語る。曹操が『演義』最大の悪役となったのは、主人公たる劉備の前に立ちふさがるライバルであること、漢王朝を終わらせた簒奪者であること、そして宦官曹騰の孫という出自などに起因する。『演義』は曹操初登場シーンの紹介で、宦官の家系に生まれたことを記す。毛宗崗は「このような生まれの曹操が景帝の玄孫である劉備と同列に語れようか」と註釈で誹謗している。 ===奸雄化の過程=== 陳寿は、曹操が基礎を築いた魏を継ぐ晋に仕えた史官であるため、曹操に不利益な記述を行うことはなく、正史では曹操はまだ悪玉ではない。しかし当時から曹操の良くない噂は広まっていたようで、裴注の段階では様々な逸話が記載されている。たとえば孫盛の『異同雑語』には当時人物評で知られた許子将が、曹操を「治世の能臣、乱世の姦雄」と評し、それを聞いた曹操が大笑したという逸話を載せる(なお『後漢書』許劭伝では逆に「清平の姦賊、乱世の英雄」と評したとある)。また、呉側の資料である『曹瞞伝』(作者不明)には、敵国から見た曹操の悪評が記録されている。幼少の日の曹操が、悪行を咎める叔父を中風の振りをして欺く話(第1回)、行軍中「麦畑に足を踏み入れた者は死刑」と布告を出したにもかかわらず、みずからの馬が麦畑に入ってしまった時に、髪を首の代わりに切って切り抜けた話(第17回)など、『演義』に取り入れられた逸話は多い。 この時期における曹操の「悪玉化」を物語る逸話がある。正史は中平6年(189年)董卓の暴政に反撥した曹操が洛陽を密かに脱出し、名前を変えて故郷へ急ぐ途中、中牟(現河南省鄭州市)を通過する際、亭長に捕らえられた後に釈放されたと記す。この件に対し、裴注では以下の3つの異聞を併記する。 太祖(曹操)は数騎の供を連れ郷里へ逃げ帰る途中、成皋の呂伯奢の家に立ち寄ったところ、呂伯奢は留守だったが、その子たちが食客と組んで太祖を脅し、馬と荷物を奪おうとしたため、太祖は自ら刀で討ち殺した。 ― 王沈(魏)、『魏書』 太祖は呂伯奢の家に立ち寄ったところ、呂伯奢は外出していた。5人の子は太祖を客として礼儀を尽くした。しかし太祖は自分が董卓に背いたため、彼らが自分を始末するのではないかと疑い、剣を振るって夜のうちに8人を殺害して去った。 ― 郭頒(西晋)、『世語』 呂伯奢の子たちが太祖をもてなそうと食事の支度をしている時、太祖は食器の音を聞いて自分を殺そうとしているものだと思い込み、夜のうちに彼らを殺害した。後に過ちに気づいたが「わしが他人に背くことはあっても、他人がわしに背くことはさせぬ」と言って去った。 ― 孫盛(東晋)、『雑記』 魏の王沈は建国の祖たる曹操への遠慮もあり、あくまで曹操の正当防衛という目線で描く。それに対し、西晋の『世語』では曹操の猜疑心が強調され、悪人性が浮上してくる。さらに東晋代になると孫盛は曹操の姦雄性を象徴する名台詞「寧我負人、毋人負我」を盛り込み、さらなる非情さを強調している。裴松之は以上3種の異聞を併記するだけだが、時代を経るに従って小説的な脚色が加えられていく過程が如実に見て取れる。『演義』ではこれらをさらにふくらませ、酒を買いに行っていた呂伯奢までも追走して殺す展開とし、さらに事件の観察者として元中牟県令の陳宮を配することで、曹操の残虐性を解説する恰好のエピソードに昇華させた)。この陳宮と曹操の因縁は、後に陳宮が曹操に叛し、さらに捕らえた陳宮の命を曹操が惜しむ場面への伏線としても利用されている。 ===世説新語における曹操=== 東晋時代に成立した、当時の逸話や噂を集めた『世説新語』でも曹操のずる賢さが強調される。「仮譎篇」には狡知に長けた者が他人を欺く逸話が収められているが、曹操にまつわるエピソードが多い。曹操がのどの渇きを訴える兵士に対し、前方に梅林があると騙して唾を生じさせ、渇きを癒した話なども『平話』で取り入れられ、『演義』にも採用された(第21回)。また『演義』第72回で曹操の「自分の眠っている時に人が近づくと、無意識に斬ってしまうから気をつけよ」という言葉を無視した側近が、寝たふりをしている曹操に布団をかぶせて斬り殺されたという逸話も「仮譎篇」が由来である。 同じく第72回には曹操が普段から憎んでいた小才の利く楊修を処刑した逸話を載せる。きっかけは漢中攻略に失敗した曹操がつぶやいた「鶏肋」という語を楊修が勝手に解釈したことに曹操が激怒したためであるが、それ以前から曹操が楊修を憎んでいた原因として『演義』ではいくつかの逸話を挙げる。部下に作らせた庭園を見た曹操が門に「活」と一字だけ書いて去ったのを楊修が「闊(ひろい)」と看破し「庭が広すぎる」意味だと周囲に解説した件、また酥(乳製品)の瓶が献上された際に曹操が蓋の上に「一合酥」と書いたのを楊修が「一人一口の酥」と解読した件などを曹操が小癪に思ったという。これらはいずれも『世説新語』「捷語篇」に由来する逸話である。このような逸話群により、曹操=小ずるい英雄のイメージが六朝時代に定着しつつあったことが見て取れる。 ===漢の敵としての曹操=== 『演義』における曹操は、小ずるい悪党どころか、奸絶と称されるほどの巨悪として君臨する。これは上記のような曹操の詐譎という性格のみによるものではなく、『演義』を最終的に完成させた儒教的知識人の、曹操への評価が反映されたものである。 曹操は、後漢時代の儒教的名士である「清流」と対立し、目の敵とされた濁流=宦官の孫であり、また最終的な漢朝の簒奪者でもある。曹操自身は自らを周の文王になぞらえ、簒奪には及ばなかったが、曹操の死の直後に子の曹丕が献帝に禅譲を強要して魏を建国したことから、漢を聖徳王朝と見なす儒教的観点から見れば悪そのものだった。また曹操は後漢王朝で官吏登用基準とされた儒教的道徳よりも、個人の才覚を重んじた。曹操が発した求賢令(210年)は「才能がある者なら下賤の者でも道徳なき者でも推挙せよ」という唯才主義を前面に押し出したものである。さらに儒教に変わる新たな価値観として、文学を称揚して建安文学を主導し、一方で儒教的名士である孔融や楊修を殺した。こうした曹操の言動は儒教的価値観から見れば異端以外の何者でもなく、激しい批判の対象となった。 それゆえに『演義』で強調される曹操の残忍性・狡猾性は、儒教の忠節の対象であり、理想化されていた漢王朝の皇室に対しての行為に顕著に現れる。第20回では許田で狩猟を行った際に、献帝の獲物を曹操が平気で横取りし、憤慨した関羽が曹操を殺そうと息巻いて劉備に抑制される(後の華容道の場面との対比となっている)。また第66回では、伏完の造反計画が露呈した際、捕らえられた娘の伏皇后に対して曹操自らが罵倒し、その場で打ち殺させるという残忍さを見せ、毛宗崗も註釈で痛憤している。この件は裴注の『曹瞞伝』を元に作られた場面であるが、曹操自らが皇后を罵倒して殺害させたとするのは『演義』の創作である。こういった漢室への悪行は、ライバル劉備が漢室の末裔という高貴性を受け継いでいるのと対照的に、ことさらに簒奪者としての悪印象を植え付けるための措置でもある。『演義』編者にとって王朝簒奪は許し難い悪行であり、憎悪の対象は曹操のみならずその臣下にまで及んだ。たとえば献帝から曹丕への禅譲が行われた際に、皇帝の璽綬を奉戴する役割だった華*13031*は、正史では清廉潔白・謹厳実直な能吏として記述されているが、『演義』では正反対の卑賤陋劣な人物として曲筆されている。 悪の面を強調する一方で、長所を削ぎ落とすことも行われた。正史や『通鑑』には、魏臣が曹操を褒め称えたり、曹操が過去の因縁に囚われず敵方にいた武将を抜擢・重用する記述は少なくない。しかしそうした話も、全体の筋に関係がないものは、ことごとく削除されている(たとえば臧覇・畢*13032*・魏*13033*らの登用など)。とはいえ『演義』は、筋の展開に必然性がある場面であれば、史書に由来する曹操の優れた面の記載を排除することはしなかった。戦場で鮮やかな詩賦を詠み、外交や調略を駆使して馬超や張魯などの勢力を操る一方、陳宮の死に涙し、関羽や趙雲への思慕を隠さず、能力重視で人材を活用する姿勢など、文学者としての顔、スケールの大きな戦略家としての側面、人材を貪欲に求める名君としての魅力も随所に織り込まれている。これにより人物像に厚みが増し、曹操は単純な悪玉ではなく、主人公たる劉備や孔明らにとって、乗り越えるべき巨大な障碍として立ちふさがる「大いなる敵」としての存在感を持った人物として描かれた。それこそ、曹操が「奸絶」と評されたゆえんである。 ===劉備=== 劉備(字:玄徳)は蜀漢正統論の主軸となる人物であり、関羽・張飛・趙雲・孔明といった文武の英雄を部下に持ち、特に前半の物語を牽引していく、主人公の役割を与えられた人物である。しかし『演義』では関羽や張飛のような武勇も、孔明や*13034*統のような知略も持たぬ凡庸な人物であり、長所である仁徳を発揮する場面でも、芝居がかった言動が多く善行が鼻につく。李卓吾本では玄徳のあまりに偽善的な行動や発言に対して容赦なく批判を浴びせており、毛宗崗に至っては目に余る偽善は削除や書き換えを行っているほどである。しかも優柔不断で決断力に乏しく、大義よりも個人の情に流されることも多い、はなはだ魅力に乏しい人物像となってしまっている。そうなった理由は、玄徳を支える関羽や諸葛亮など文武の臣下が超人化したことと無縁ではない。 早くも南北朝から隋唐にかけて、軍師として諸葛亮が神格化された段階で、その行動に精彩を加えるため他の登場人物の価値が引き下げられ、特に諸葛亮の主君たる劉備の格下げが激しくなった。唐代になると、俗講の中で諸葛亮は「主弱くも将強きは彼の難かる所と為る」と明言しており(『四分律鈔批』)、劉備の無力化が顕著となった。軍神たる関羽、破天荒な張飛、万能の孔明など、個性的な部下たちに活躍場所を奪われ、宋代の講談でも元代の演劇でも、臣下の活躍を見守る君主というおとなしい役を与えられるようになる。もちろん史実における劉備は、決しておとなしいだけの飾り物的君主ではない。たとえば正史先主伝では、劉備が博望に押し寄せた夏侯惇・于禁らを見事な計略で撃退したと記している。しかし『演義』ではこの戦いを諸葛孔明のデビュー戦と位置づけ、すべて孔明の策略に置き換えてしまった。 このように周辺人物の個性化に伴って、本来の主人公たるべき人物が凡庸化・非力化・無個性化し「虚なる中心」に変化する現象は、同じ通俗小説である『水滸伝』の宋江、『西遊記』の三蔵法師などの形成過程でも共通して見られる。とはいえ『平話』のように張飛や諸葛亮の超人的な活躍を描くだけでは面白味は増しても、三国の興亡を描くという物語構造は逆に弱まってしまう。それゆえに『演義』では蜀漢正統論に一本筋を通すため、「劉備の善」「曹操の悪」のコントラストをはっきりさせるべく、玄徳の仁君性・高貴性をことさらに強調することとなった。 たとえば玄徳の特徴である福耳は、正史の蜀書先主伝に「振り返ると自分の耳を見ることができた」とある程度だった。これがさらに「両耳が肩まで垂れている」という観相学的な誇張がなされたのは、『平話』までには見られない『演義』での特徴付けであり、釈迦や三蔵法師も同様の「垂肩耳」とされる。また同じく先主伝では、劉備が安喜県尉の時、督郵(監査役)を杖で殴ったという記事を載せるが、『演義』ではその主体が張飛に変更されたのも、『平話』の影響もさることながら、玄徳から粗暴性を払拭するためといえる。 かたや財産に富む権力者を祖父に持つ曹操、かたや父や兄の地盤を受け継いだ孫権という、恵まれた環境にある2人のライバルを敵にまわし、漢王朝の末裔でありながら草鞋売りに身を落としている落魄の貴公子劉玄徳が、裸一貫から仁を強調して漢朝再興を目指すという構図は、民話の常套的な手法である”貴種流離譚”に通ずるという指摘もある。こうした民衆レベルの物語と知識人レベルの蜀漢正統論が結びついた結果が『演義』における玄徳の人物像となったのである。 ===張飛=== 張飛は、三国説話の世界をかき回す随一のトリックスターである。単純で陽性で破天荒、乱暴だが侠を重んじ、腕っ節も強いという分かりやすいキャラクターは庶民に広く愛され、『水滸伝』の李逵・魯智深や『西遊記』の孫悟空・猪八戒と同様、宋代の講談や元の雑劇では大人気であった。 正史における張飛伝の記述は800字に満たないが、「万人の敵」(魏書程*13035*伝)と称された武は有名だったらしく、敵方の劉曄伝や周瑜伝でも武勇を讃えられている。陳寿による関羽評が「士卒には優しいが、士大夫に対しては驕慢だった」とするにも関わらず、正反対に後世士大夫の崇敬を集めたのとは対照的に、張飛も「君子(目上の者)を敬ったが、小人(目下の者)には情容赦なかった」という陳寿の評とは逆に、小人=庶民の人気を集めていくこととなる。すでに唐代の李商隠「驕児詩」で、子供が張飛の特徴を知っていたことは上述の通りである。説三分においても張飛は人気のキャラクターだった。 口承文学の英雄であったことは張飛の字の変化にも現れている。正史では字を「益徳」とするが、『平話』や、嘉靖本を除く『演義』ではすべて「翼徳」に作る。益と翼は文字で書くと全く別であるが、発音は元代以降非常に近くなり、講談や演劇等の喋りでは区別されない。名の「飛」のイメージに引きずられて同音の「翼徳」で筆記されることが増え、元々同音誤字の多い『平話』でも記載され、『演義』各本にも踏襲されたものであろう。 元末から明初にかけての雑劇の中には、「張翼徳大破杏林荘」「張翼徳単戦呂布」「張翼徳三出小沛」「莽張飛大鬧石榴園」など張飛を主人公とするものが多い。それらの中で張飛はいつも「莽撞(がさつで向こう見ず)」という形容詞をつけられている。今日細部まで内容が残る三国雑劇23本全108幕のうち、張飛が歌唱者となっているのは、実にその1/4の27幕に達し、2位の関羽(15幕)を大きく引き離しており、人気のほどがうかがえる。 講談の世界観を集大成した『平話』になると、張飛の活躍はほぼ主人公といえるまでにすさまじく、当時の張飛の大衆的人気を物語る。正史には劉備が督郵(監査役人)の横柄な態度に怒り、縛って鞭で打ち据え、自らの官印を督郵の首にかけて逃亡したという話が載るが、『平話』ではこの話の主役は張飛に代わり、腹を立てた張飛が督郵の崔廉を殴り殺したあげく死体を八つ裂きにし、劉備・関羽とともに太山へ逃げ込んで山賊になったという無茶苦茶な展開に変わる(『演義』では『平話』の行き過ぎた叙述を正史寄りに改めつつ、張飛が督郵を鞭打つ展開は残し、張飛の短気と劉備の仁愛、そして両者に助言する関羽の冷静さを描く逸話へ変貌させている)。さらに徐州で曹操に敗れ兄弟離散した際は、張飛は山賊大王となって「快活」なる独自年号まで立てた。また長坂の戦いでは曹操の大軍を前に、張飛が名乗りを上げると敵兵がひるんだという正史の記事を誇張し、張飛が雷鳴のような叫びをあげるとたちまち橋が真っ二つに断ち切れ、敵兵が驚いて30里も退却したという、とんでもない話に発展する。こうした話は文字にしてしまうと荒唐無稽に過ぎて興醒めするが、講釈師が抑揚をつけ面白おかしく語れば、聴衆から万雷の喝采を受けることができた。『平話』は語り物で受けを取る口調のまま、逸話が収められており、張飛はこうした講談と相性のいい英雄だったことがうかがえる。 しかし士大夫層が加筆する段になると、儒教的道徳や礼教の枠から逸脱した張飛の破天荒な行動は、関羽や趙雲といった道徳的な英雄によって抑制されていく。『水滸伝』でも同様に、張飛的キャラクターである李逵は元の雑劇(水滸戯)で大活躍していたが、小説として完成する段階で、その活動は宋江や燕青といった良識的な人物に行動を制約されるようになった(小川環樹はこれらの無意識な圧力を「小説の儒教化」と呼ぶ)。この傾向は、より史実的な物語を追求した毛宗崗本においてさらに強まり、張飛のセリフで頻用される「我哥哥」(兄貴)という口語的な呼称が、毛本では「我兄」といった文言的表現に修正されている。 『演義』が文言的小説として完成する段階で、削ぎ落とされていった大衆的な張飛像は、『笑府』や京劇といった口語的世界ではその後も生き続け、現在でも中国庶民の間で不動の人気を誇っている。 ===趙雲=== 『演義』完成段階における重要度の変化という意味で、張飛と好対照をなすのが趙雲(字:子龍)である。 趙雲は『演義』において蜀漢の五虎将軍に数えられる名将であり、その活躍や忠誠も関羽・張飛に匹敵する英雄として描かれる。しかし正史には五虎将軍という官職は実在しないうえ(蜀書巻6に「関張馬黄趙伝」と5人の武臣がまとめられていることから、後世に総称されただけのもの)、趙雲伝の記述はわずか246字に過ぎず、『演義』に見られる活躍はほとんど記載されていない。わずかに長坂の戦いにおいて幼い劉禅を保護したことが載るのみである。裴注に引く『趙雲別伝』に、わずかに桂陽太守趙範から未亡人の兄嫁との縁談を勧められるも怒って断った話や、定軍山の戦いの後帰陣しない黄忠の身を案じて出陣した趙雲が、包囲する敵兵を突破して救援し、劉備から「子龍は一身これすべて胆なり」と賞賛された説話が載る。しかし『平話』の段階に至っても、戦場での活躍などは他の武将からそれほど突出した印象はない。 趙雲は『演義』が完成する段階で、一躍英雄としての描写を増加させた人物だった。上記の黄忠を救う場面を採用するにあたり、『演義』は戦闘の描写に文学的技巧の精緻を尽くし、戦場における趙雲の華麗で鮮やかな動きを梨花にたとえる見事な場面に作り上げている。ほかにも『演義』の段階で加えられた趙雲の活躍場面には高度な技巧的表現が用いられたり、忠義・実直・無欲な面が強調され「士大夫の理想的な」武将としての趙雲が描かれていることが多い。これらは張飛や孔明が語り物や演劇などの世界で培われた英雄なのに対し、趙雲は『平話』より後の、文学作品として完成する詰めの段階で造形され、知識人たちの倫理観による洗礼や、文学的なリライトといった技巧を施されて形成された英雄ということを物語るものである。小松建男は『演義』の地の文で、場面によって「趙雲」「子龍」という異なる呼称が偏る傾向があることに注目し、「子龍」が使われる場面(劉備が孫権の妹を娶るために呉へ赴いた際に趙雲が従った話、桂陽太守の兄嫁を巡る話など)は、総じて倫理的・理知的で思慮深い側面を描くために挿入された、比較的新しい故事の可能性があることを指摘している。 『演義』と同じく口承文芸や演劇から小説に発展した『水滸伝』においても、趙雲と同様の士大夫的倫理観を持つ英雄林冲の説話が最終段階で挿入された形跡があり(詳細は水滸伝の成立史#林冲像の形成)、白話文芸から文学作品として大成させる最終段階で、知識人が果たした役割を示している。 ===孫呉の人々=== 『演義』において魏・蜀漢とならび、もう一方の当事者である孫呉の人物たちの扱いは非常に軽く、取り上げられるにしても徹底した道化役であり、冷笑・蔑視を含んだものとなっている。正史においても、呉の建国に関わった孫家一族や周瑜・魯粛・呂蒙といった将軍たちは比較的淡々と描写されており、魏や蜀漢に較べ扱いも軽い。それに対し、正史の註釈を挿入した裴松之は呉と同じ江南を本拠とした東晋の人物であり、若干呉びいきの傾向が見られ、呉書に対して多くの逸話を注釈として挿入している。『演義』でも孫家は劉備・曹操と較べて影が薄く、呉の武将の描かれ方にもやや悪意を含む箇所が多い。ただし『演義』を校訂・整理した毛宗崗は孫堅父子のファンであり、毛本では”羅貫中”による孫一族に対する軽視・蔑視に対して、たびたび怒りを込めた批評を施している。このように『演義』においては孫呉の人々は必要以上に小人物として描かれたり、また彼ら自身の功績を蜀の武将にすり替えられたりすることが多い。 たとえば孫堅は、第6回に洛陽で偶然入手した伝国の玉璽に狂喜し、袁紹らから所在を詰問されても白を切り通すなど、小人物として描かれている。孫策もまた短気な若者として描かれ、その最期も于吉を殺したせいで亡霊に翻弄されて衰弱死するという悲惨なものとなっている。孫策と于吉の話は正史には全く登場しないが、裴注に引く『江表伝』には孫策が于吉を殺したことが見え、同じく裴注にある怪異譚『捜神記』(干宝撰)に孫策が于吉の亡霊に祟り殺された件が載り、これを元に話を膨らませたものである。『平話』に至っては孫策はほとんど名前しか登場しない。またさらに扱いがひどいのが呂蒙で、関羽の怨霊に呪い殺されるという惨めな最期が描かれる。 功績のすり替えについては、正史における孫堅の最大の殊勲である「華雄を斬る」も、関羽が行ったことに変更されている。また孫権の船に敵の曹操軍から大量の矢を射られた際、矢が刺さって船の片側だけが重くなったため、船を反転して逆側にも矢を受けて船の重心が戻ったという逸話が裴注『魏略』に載るが、赤壁の戦いの前に周瑜に命じられて十万本の矢を敵から借りるという諸葛亮の功績にすり替えられている。孫呉最大の見せ場である赤壁の戦いで活躍した本来の英雄周瑜や魯粛もまた『演義』においては、脇役・道化役として戯画化される。すでに『平話』の段階でも傾向は見られるが、『演義』の赤壁の戦いは、物語に登場したばかりの諸葛孔明の活躍場所として功績がすり替えられており、周瑜は孔明を引き立てる役のみ割り振られている。孔明に挑発されては怒り、その計略に陥れられる話が繰り返し語られ、荊州争奪に及んで怒りのあまり死亡してしまう。これらはすべて孔明の知謀を引き立たせるための演出である。魯粛も孔明と周瑜の間を伝言するだけの道化として描かれ、関羽との外交交渉「単刀会」において、正論を吐く姿も、部下を叱咤する毅然とした行為も、すべて逆に関羽とすり替えられてしまっている。 以上のような『演義』における呉の人物の扱いは、「第三極」という物語上での呉の立ち位置や、神格化された英雄関羽と敵対した史実に起因する。劉備・曹操という二極対立だけでは物語が単純になる。そこに第三極が加入することで、三者間の関係性のバリエーションは飛躍的に増加し、物語にも幅が加わる。しかし『演義』を貫く対立軸はあくまで蜀と魏の間の抗争である(史実でも呉‐魏、呉‐蜀間はそれぞれ同盟から反目まで幅があったが、魏‐蜀間の関係は常に険悪で連携はあり得なかった)。つまり物語上、呉は第三極という存在自体にこそ意味があるものの、その内部事情についてはあまり大きな関心が払われることがないのである。実際『演義』以上に劉備・曹操の二極対立のみに注目する『平話』においては、孫堅や孫策はほぼ名前しか登場せず、その死すら描かれることはない。そして魏・蜀対立のキャスティングボートを握る立場なだけに、蜀(劉備)と同盟関係にある間のみは、孫権が肯定的に語られる。しかし荊州を巡る争奪で劉備と対立していくにつれて、否定的な記述が多くなり、関羽を処刑する段になると、毛宗崗が露骨に怒りを示すほど孫権や呂蒙を貶める描写が続く。『演義』編者は最も思い入れを込めて描いたキャラクターである関羽を死に追いやった孫権や呂蒙に対して、明らかに好感情を持っておらず、それが孫一族全体の記述にまで影響した可能性が高い。こうした理由で『演義』において孫家や呉の将軍たちは、道化的な役割のみ与えられることとなった。 夷陵の戦いで陸遜が劉備を退けた後、再び呉は蜀漢と講和するが、記述はさらに少なくなり、陸遜も孫権もいつの間にか物語から退場してしまう。また、呉の滅亡による西晋の天下統一で物語の締めくくりとなるため、最後まで好意的に書かれることはほとんどない。簡略な記述ながら、呉の最後の皇帝となった孫晧の暴虐は、史実よりさらに誇張されている。ただし、最後に西晋に降伏するくだりでは、西晋の司馬炎に迎えられた席で、孫皓もまた自国に司馬炎の席を用意していたこと、また孫皓が賈充の不忠(曹髦殺害)を揶揄するエピソードを入れることで、敗者の矜恃を示して幕としている。 ===司馬懿とその子孫=== 司馬懿(字:仲達)は、魏の将軍として、北伐に挑む孔明に立ちはだかるライバルである。劉備にとっての曹操とも言え、物語後半は孔明と司馬懿の対決が中心となる。孔明の計略にきりきり舞いさせられるが、最終的に守り切った史実は曲げておらず、そのため周瑜や魯粛のようには貶められていない。また、最終的に司馬氏が魏を滅ぼし、西晋を建国した史実から、司馬懿の扱いは複雑な色彩を増している。 司馬懿が初めて姿を見せるのは第39回、曹操が江南制覇に先駆けて人材を登用した中に見られる。孔明が三顧の礼で仕官した(第38回)次の回で司馬懿を出しておくのは、後の展開のための巧妙な伏線である。孔明の北伐に際して、馬謖の計略により左遷させられてしまうが(第91回)、元劉備の配下で、魏に服属していた孟達が再び蜀漢に通じたために復権し、孟達を手早く片付ける(第94回)。史実では馬謖に左遷させられたという記述はなく、また司馬懿が孔明と対峙したのは、孟達を倒したことを別にすれば、231年の第四次北伐以降となるが、『演義』では初めからライバルとして登場している。北伐では「空城の計」に引っかかり、最後は五丈原で陣没した孔明の智略で「死せる諸葛、生ける仲達を走ら」されることになる。 しかし、同じ引き立て役の周瑜などとは違い、司馬懿は天文に通暁するなど、一種の超能力者として扱われている。無論、天文を見て孔明の死を悟りながら、「死せる諸葛、生ける仲達を走らす」(第104回)結果に終わるなど、孔明よりは数段劣った存在ではあるが、超能力の片鱗も付与されなかった周瑜の扱いとは異質である。魏の圧倒的な軍事力がバックにあったとは言え、司馬懿が孔明の北伐を凌ぎ切ったことは事実であり、『演義』も大筋では史実に準拠している。そのため、超能力者というべき孔明を阻止した司馬懿に、小魔術師の要素を付け加えたと考察されている。 以降の司馬懿は、魏に反旗を翻した公孫淵を討ち、みずからを名誉職の太傅に棚上げした曹爽をクーデターで討つことで、魏の実権を握るに至る。後を継いだ長男の司馬師は、みずからを除こうとした皇帝・曹芳を廃位させ、曹髦を擁立した。次男の司馬昭は、みずからを討とうとした曹髦を返り討ちにした上で、曹奐を擁立した。その上で、司馬昭の子の司馬炎が、曹奐から禅譲を受け西晋を開くことになる。 一連の事件では、司馬氏の行動には、歴史書の記述から大きな脚色は見られない。一方、曹氏の側は、曹芳廃位は、かつて曹操が献帝を苦しめた因果応報として書かれ(第109回)、また曹髦殺害では、事前に司馬昭が面前で曹髦を侮辱し、曹髦が近臣を前に泣きじゃくる(第114回)など、曹髦の情けなさを誇張している。そして、司馬炎の禅譲要求に抵抗するのは、もはや宦官の張節のみであり、たちまち撲殺されてしまう(第119回)。『演義』において、司馬氏による魏の乗っ取りは、死を目前にした曹操が、三頭の馬が一つの桶から餌を食う(三馬同槽)夢を見たという、正史『晋書』「宣帝紀」にあるエピソードで早くから暗示されている(第78回)。司馬懿は孔明のライバルであるが、蜀漢の敵であり、孔明の宿敵である魏を内部から滅ぼした存在でもあったのである。 ==英雄達の容貌== 三国物語の登場人物は、口承文芸や演劇として発展した時代に分かりやすい意匠が形作られ、その人物を語る際に分かちがたいイメージとして定着している。これは講談から生まれた文学であるため、外見の描写により人物の大枠が分かるようにするための工夫でもある。 劉備の場合、正史の蜀書先主伝にも耳が大きいと記されていたが、上述の通り、貴人のシンボルである垂肩耳として誇張されることとなった。 関羽は「美髯公」と称される長いひげと「重棗(熟したナツメ)」と形容される赤い顔が特徴とされている。ひげについては正史の関羽伝に「羽美鬚髯」とあり、古くから関羽の特徴として知られていたが、『平話』での関羽は「紫玉のような顔」とされ、まだ赤い顔というイメージは定着していない。民間伝承で関羽は若い頃故郷で殺人を犯して逃亡する際、聖母廟の泉で顔を洗ったところ顔が真っ赤に変色し、おかげで見破られることなく関所を通過できたという話があった。関羽の赤ら顔はそれらの伝承を踏まえて設定されたものとする説もある。また四大元帥で南方の守護神として設定された関羽は、五行説で南方を表す色である赤い顔に設定されたとする説もある。『演義』ではさらに「丹鳳眼(鳳凰の眼。将来出世して王侯となる相)」「臥蚕眉(蚕のような眉。科挙に首席で合格する相)」という観相学での貴人的な特徴が追加されている。 張飛は『演義』初登場の場面で「豹頭環眼、燕頷虎鬚(豹のような狭い額、どんぐり眼、燕のような角張ったあご、虎のように突っ張ったひげ)」と記されているが、正史にはこのような張飛の容貌は記述されていない。だが唐代の李商隠「驕児詩」に張飛のひげを笑う子供が描写されていることから、早い時期に容貌が特徴付けられていたことが分かる。中野美代子は、8世紀頃から中国の民衆の間で急激に人気の広まった鍾馗、または明王像のイメージが、共に人気のあった張飛の外見に取り入れられたのではないかと述べている。鍾馗は「環眼虎鬚」で知られる道教神である。 曹操は「身長七尺」と、劉備(七尺五寸)・関羽(九尺)・張飛(八尺)と比べ見劣りする身長とされる。裴注の『魏氏春秋』にも「姿貌短小」とあり、古くから背が低いことは知られていた。『世説新語』には、魏王として匈奴からの使者に謁見を許した時に、容貌に優れた崔*13036*を曹操の影武者として立たせ、自らは刀を持って従者の振りをして脇で見ていたという逸話を載せる。謁見後に匈奴の使者が「魏王は確かに立派だったが、脇で刀を持っていた従者はさらに英雄だった」と述べたのを知った曹操は、その使者を殺させたという。このように小説や語り物では、貧相な小男というイメージが定着しているが、演劇の世界では浄(悪役)としての迫力を出すため、堂々たる体躯の役者が演じることが定着している。 孫権は『演義』で「碧眼紫髯(青い目に赤いひげ)」と記されている。裴注に引く『献帝春秋』には「紫髯」とあるが「碧眼」という語は出てこず、『江表伝』では「(孫権が生まれた時)目に精光あり」と記されているのみである。『平話』にも孫権の目の描写はない。『演義』で他に碧眼とされた人物には沙摩柯(武陵蛮の族長)や孟節(南蛮王孟獲の兄)などがおり、南方の異民族のイメージが附加されたものとみられる。 ===綸巾・羽扇=== 諸葛孔明は『演義』において、初登場の第38回から死去する104回まで、「羽扇」を持ち「綸巾」をかぶり「鶴*13037*」をまとう道士的な姿で通している。羽扇は鳥の羽で作られた扇であり、綸巾は帽子で、現在では『演義』の影響により、ともに諸葛孔明の代名詞となっている。しかし『芸文類聚』巻67、裴啓『語林』などに司馬懿が諸葛亮を評した言として「葛巾毛扇もて三軍を指揮し」とある。毛扇は塵という鹿の尾で作った扇で、羽扇とは別物である。西晋代に清談を行う名士・貴族によく使用された。 実は『演義』成立以前は「羽扇綸巾」といえば、主に赤壁の戦いに向かう周瑜の姿を表す衣装であった。史実の赤壁の戦いの主役は周瑜であり、北宋の詩人蘇東坡が赤壁の戦いについて謳った『赤壁賦』においても、周郎(=周瑜)は讃えられているが、孔明は全く登場していない。蘇東坡が黄州流謫時に作った「赤壁懐古」の小題をもつ詞『念奴嬌』でも、「遙想公瑾当年、小喬初嫁了、雄姿英発、羽扇綸巾、談笑間檣櫓灰飛煙滅」と明らかに周瑜を指して「羽扇綸巾」の語が用いられている。 南宋時代に入っても『念奴嬌』を受けて、著名な文人が周瑜の「羽扇綸巾」の詩や詞を残している。楊万里の詩『寄題周元吉湖北漕司志功堂』(『誠斎集』巻23所収)で「又揮白羽岸綸巾」と謳われているのは周郎であり、趙以夫の詞『漢宮春次方時父元夕見寄』でも「応自笑、周郎少日、風流羽扇綸巾」と、周郎と羽扇綸巾がセットになっている。また孔明が神仙として赤壁で大活躍する『平話』でも、まだ羽扇綸巾を身につけていなかった。 ところが、南宋の劉克荘が諸葛孔明について詠んだ詞では、蜀に攻め入る段階で「但綸巾指授」と、綸巾姿であることが謳われている。同じく南宋の魯*13038*の『観武侯陣図』(『全宋詩』第33冊)にも「西川漢鼎倚綸巾」(西川は蜀のこと)という表現があり、李石の『武侯祠』(『方舟集』巻五)では「綸巾羽扇人何在」と綸巾・羽扇がセットとして孔明の衣装となっている。ただしこれらはすべて孔明が入蜀する段階の姿を詠んだものである。 このように羽扇綸巾は赤壁の戦いにおける周瑜をのぞけば、入蜀以降の時期限定で孔明と結びつきつつあった。しかし『平話』以降、赤壁の戦いで孔明が周瑜をしのぐ活躍を見せて人気を得ると、周瑜の意匠であったはずの羽扇綸巾も、孔明の若い頃からの衣装として定着していくことになる。元代の詩人薩都剌の『回風坡、弔孔明先生』(『雁門集』巻4)では、赤壁で活躍する孔明に対して「綸巾羽扇生清風」と謳っている。このように元代後期以降は「羽扇綸巾」が周瑜から孔明の代名詞へと変化した。 ==架空人物の履歴== 『演義』は史実を題材とした小説であり、ほとんどの登場人物は実在した人間だが、幾人か架空の人物も活躍している。ここでは架空人物が三国物語に入り込んだ過程について述べる。 ===貂蝉=== 貂蝉は『演義』序盤(第8回)に登場する絶世の美女である。司徒王允の養女で歌妓とされ、専横を極める董卓と腹心の呂布との間を仲違いさせるべく、2人の男を色香で翻弄して互いに反目させる「連環の計」を主導し、董卓暗殺に成功した後に呂布の妾となる。漢王朝を救うべく自らの貞節を犠牲にした貂蝉に対し、毛宗崗は絶賛して男の名臣とともに称えるべきとまで註釈している(毛本第8回総評)。しかし正史をはじめ、あらゆる史書に貂蝉の名は見えず、彼女は架空の人物である。 正史(『魏書』巻7呂布伝)には呂布が董卓の「侍婢」と私通しており、内心その発覚を恐れていたとの記述があるが、その侍婢の名前は記されていない。『演義』に載る連環の計に近い話が成立するのは『平話』の段階である。ただし『平話』では姓を任、名を貂蝉とし、最初から呂布の妻という設定である。呂布の妻でありながら夫と出会えず、王允の屋敷で世話になり、董卓の下に送り込まれる話になっている。元代の雑劇「錦雲堂暗定連環計」でも姓を任、名を貂蝉とし、忻州木耳村の生まれで、幼名は紅昌、父親の名が任昂とあり、その他『平話』と共通する部分も多い。一方、口承文芸や他の雑劇では別の系統の貂蝉の話もあったらしい。明代の戯曲集『風月錦嚢』(スペイン・エル・エスコリアル所蔵)に収める「三国志大全」には、呂布が捕らえられた際、妻の貂蝉が命惜しさに関羽・張飛に媚び、呂布を罵ったため、関羽に殺されるという、悪女的な貂蝉の姿が描かれている(「関大王月夜斬貂蝉」劇)。明代にはむしろ、こちらの貂蝉像の方がポピュラーであったらしく、王世貞(1526年 ‐ 1590年)などは詩の中で、貂蝉が関羽に殺されるのは当然の報いであると詠み込んでいる。 しかし『演義』の作者は三国の義を敷衍するという方針のもと、士大夫的倫理観に基づき、貂蝉を漢朝に殉ずる貞女として描こうとした。そのため、悪女的な側面や『平話』にあるような元々の呂布の妻という設定は採用しなかった。むしろ王允の養女とすることで、漢への義と王允への孝を貫く清廉な女性として強調したのである。毛宗崗は彼の修訂方針を書いた凡例の最後で、関羽が貂蝉を斬るという逸話は戯曲におけるでたらめだと断じており、関羽に斬られる貂蝉像は、小説からは排除され、演劇の世界のみに受け継がれた。 ===周倉=== 周倉は『演義』第28回で初登場。黄巾賊の残党として臥牛山で山賊をしていたが、通りがかった関羽に同行を許され、その後無二の忠臣として活躍する。見せ場として第66回「単刀会」と呼ばれる関羽と魯粛の外交交渉の席で魯粛を罵る場面や、第74回に魏の猛将*13039*徳を捕らえる場面がある。関羽を神として祀る各地の関帝廟では、関羽像の両脇に関平と周倉の像が並ぶのが普通であり、庶民に親しまれた英雄であるが、彼も史書に記載のない架空の人物である。三国志物語に加わった時期についても明らかでない。 「単刀会」の元となった事件は正史『呉書』魯粛伝に載るが、「土地はただ徳のある所なるのみ」と叫んだ関羽の部下の名前は出ていない。一方『平話』では、終盤の諸葛亮の北伐の段で、木牛流馬を管理する武将として周倉が登場するものの、周倉は関羽と何の関係も持っていない(登場は関羽の死後である)。『花関索伝』では、周倉は成都の元帥として登場し劉備軍と戦うが、関索に敗れて降伏する。その後呉によって荊州が攻められると、関羽ととも玉泉山に逃げ、飢えた関羽に自らの股の肉を与えて死ぬという役回りとなっている。 他方で『平話』以前の宋末元初の関漢卿による元曲『関大王独赴単刀会』にはすでに周倉が関羽の侍者として登場している。また道教の儀礼書『道法会元』巻259には、関元帥(関羽)に従う将軍として関平・関索とともに「周昌将軍」が登場する。周昌は前漢建国期の高祖の側近であり、本来関羽の従者となっているのはおかしいが、道教の冥界秩序としては珍しくない。昌(ch*13040*ng)と倉(c*13041*ng)は、平水韻ではともに下平声陽韻に属する字で発音が非常に近い。ここで周倉を周昌と書き損じたのか、あるいは周昌将軍が後に周倉という武将に変化したかは不明である。 ===関索=== 関索は上述のごとく、架空の人物であり、版本によって登場の仕方が異なる。諸本を最終的に校訂した毛宗崗本では、関羽の第三子とし、諸葛亮の南蛮征伐中に登場後ほとんど活躍のないまま、物語から消える。 『演義』よりやや遅れた16世紀前半に成立した『水滸伝』には「病関索」のあだ名を持つ楊雄という人物が登場する。この人物の初出は南宋時代である。南宋末の画家*13042*聖与(1222年? ‐ ?)は後の『水滸伝』の原型ともいうべき宋江ら36人の肖像画と賛を作成した。現在肖像画は散佚したが、賛のみ同時代の周密(1232年 ‐ 1298年)の著わした『癸辛雑識続集』に引用されている。そこでは「賽関索 王雄」の名が見られる(病や賽は本家よりやや劣るという意である。楊(y*13043*ng)と王(w*13044*ng)は平水韻では下平声七陽に属する字で発音が近い)。この記述から、南宋末(13世紀半ば)の時点ですでに関索の名が知れ渡っていたことが分かる。 同じく南宋から元代にかけて横行した盗賊の中にも、逆に盗賊を取り締まる軍人の側にも朱関索、賽関索などのあだ名が見られる。また首都臨安の繁栄を描いた『武林旧事』には、都市の盛り場での角力でも小関索・厳関索などの四股名が見られるなど、「関索」が広く認知され、あだ名に用いられる英傑として定着していたことがうかがえる。また伝承の中で関索が活躍したと思われる四川省・雲南省・貴州省などの地域には、関索嶺や関索廟、関索城などの地名が残っている。 これらの関索伝説について小川環樹は、中国天文学の星座に「貫索九星」(かんむり座の一部)があり、それが神様として崇拝された可能性を指摘する。宋代に三国物語(特に孔明の南征や関羽の神格化など)がこの地方に広まるにつれ、関羽への連想から貫索が関索に変化して(「貫」(gu*13045*n)と「関」(gu*13046*n)はほぼ同音)、南征説話と結びつけられ、「関羽の子が死して神となった」という伝説に昇華したという。そのほか、宋代に架空の武将関索の名が広まり、武勇に優れる「関」姓の将軍ということから関羽と関連づけられ、息子ということにされたとする説もある。 『平話』で関索は孔明の南征中、不危城に籠もる呂凱を倒すため突然登場し、しかもその一度しか出てこない。また元代の雑劇のうち、三国時代を舞台とした作品群の中にも、関索の名は全く登場していない。すなわち、関索にまつわる伝説は、演義につながる説話とは独立して発展したものであり、その集大成となったのが『花関索伝』であった。『花関索伝』には、上記の呂凱と戦う場面など『平話』と共通する設定がいくつかある。呂凱は正史・『演義』ともに、蜀の官僚で南蛮と対峙する人物であり、ここで敵(南蛮側)として登場するのは本来おかしい。しかし『平話』『花関索伝』に共通する設定となっていることから、『花関索伝』の成立は『平話』とほぼ同時期もしくはやや遅れた頃と見られる。これら関索伝説は原「三国演義」の完成段階で採用されることはなかったが、余象斗や朱鼎臣などの福建の書肆が、二十巻本系の刊本を出す際に一部挿入した。しかし毛宗崗によって、史実から逸脱した関索の逸話は削減され、毛宗崗本ではほとんど名前が出てくるのみの登場となった。 ==演義の影響== ===通俗小説の祖=== 明代通俗小説の中でも最も早い時期に成立した『演義』は、嘉靖から万暦にかけて隆盛した様々な白話小説に大きな影響を及ぼしている。 『水滸伝』には前述の「病関索」のあだ名を持つ楊雄のほか、諸葛亮(孔明)の名から作られたとおぼしき孔亮・孔明の兄弟、関羽の子孫とされ風貌もそっくりな関勝、「豹頭環眼、燕頷虎鬚」と張飛的な外見を持つ林冲、「美髯公」という関羽と同じあだ名を持つ朱仝、呂布と同じく方天戟を操る小温侯呂方(温侯は呂布の諡号)など、『演義』を髣髴とさせる人物が多く登場する。前述の通り、登場人物が説三分を聞く場面もあるなど『演義』と『水滸伝』は相性が良かったらしく、明末の簡本の中には『精鐫合刻三国水滸全伝』(『二刻英雄譜』とも)など、ページの上半分に『水滸伝』、下半分に『演義』を配し、両方の作品を同時に楽しめる書籍も刊行された。 『水滸伝』も羅貫中が編したという伝説が生じているように、最初の通俗小説『演義』を著したとされた伝説の作家「羅貫中」の名はブランド化し、『残唐五代史伝』『三遂平妖伝』など後続の小説も羅貫中が書いた作品と銘打って売り出されることになる。また元々演劇の世界から強い影響を受けた作品だけに、『演義』の普及は逆に、演劇界へも大きな影響を与えた。京劇や布袋劇などの伝統劇では、三国ものの演目は『西遊記』や『封神演義』関連のものをしのぐ定番シリーズとなっている。 ===外国への影響=== 『演義』は『水滸伝』や『西遊記』など後続の白話小説とは大きく異なり、ほとんどが文言(文語表現)で書かれている。日本など漢字文化圏諸国では、古来から漢文(文言)文法が確立しており、いわば国際公用語として広く行き渡っていたため、文言主体で書かれた『演義』の理解は容易で、各国に抵抗なく受容された。 古くから訓読法が確立していた日本でも、林羅山が早くも慶長(1604年)までに『通俗演義三国志』を読了したといい、元和2年(1616年)には徳川家康の駿府御譲本の内にも『演義』が見られるなど、明刊本が早くから流入している。和文翻訳も江戸時代前期の元禄2年(1689年)とかなり早い段階で湖南文山が作成した。一方、口語表現である白話(唐話)は、長崎の唐通詞のほかは荻生徂徠など一部の好事家のみにしか普及しておらず、白話小説の翻訳は遅れた。『水滸伝』は岡島冠山の訳が享保13年(1729年)に出たものの、これは訓点を施したのみで今日的な基準では翻訳とは言えず、誰でも読める『通俗忠義水滸伝』の完成は寛政2年(1790年)と『演義』より1世紀遅れ、『西遊記』に至っては宝暦8年(1758年)の『通俗西遊記』で西田維則が翻訳を開始したが、完成はさらに半世紀後の天保8年(1837年)の『画本西遊全伝』を待たなければならなかった。このことからも『演義』が他の通俗小説とは異なり、文言主体であったことが分かる。また、話の筋こそ『演義』とはあまり関係がないが、元文2年(1737年)には江戸で、二代目市川團十郎主演による『関羽』という歌舞伎の演目が初演されており(のちに市川家歌舞伎十八番に選定される)、庶民レベルまで三国の英雄の名が定着していたことがうかがえる(その他、詳細は三国志#日本における三国志の受容と流行を参照)。 李氏朝鮮でも、金万重(1637年 ‐ 1692年)の『西浦漫筆』には「『三国演義』は元人の羅貫中から出たもので、壬申倭乱(文禄・慶長の役)の後、朝鮮でも流行した」との記述があり、明刊本が早い時期から流入していたことが分かる。宣祖王(在位1567年 ‐ 1608年)が長坂の戦いにおいて張飛の一喝で敵軍が逃げ去ったという記事があると言及し、それに対し朱子学者の奇高峰が、『演義』は史書と異なり虚構が多いと返答したという。その後多くの刊本が印刷され、ついには『演義』が科挙の出題にも使われたほどだという(李*13047*『星湖*13048*説』巻9上「三国衍義」)。1703年には朝鮮語訳が発刊された。 ベトナムでも後黎朝後期には毛宗崗本系の『第一才子書』が伝えられたと思われ、文人政治家レ・クイ・ドン(黎貴惇、1726年 ‐ 1783年)が『芸台類語』(1777年)に『演義』や羅貫中について論評しているほか、フエには関公祠が設けられていたという(ただしこれらは漢文としての受容に留まり、ベトナム語訳の出版は20世紀まで遅れる)。18世紀末には『演義』の影響を受け、呉兄弟による『皇黎一統志』などベトナム独自の演義小説まで生まれている。 タイではチャクリー朝成立後の1802年頃にラーマ1世による王命により、チャオプラヤー・プラクランによるタイ語訳の『サームコック』が完成。後のタイ文学に大きな影響を与えている。ラーマ1世没後も中国書の翻訳プロジェクトは進められ、ラーマ2世期の『東周列国志(リエットコック)』をはじめ、多くの通俗小説がタイ語訳された。 =エメリヤーエンコ・ヒョードル= エメリヤーエンコ・ヒョードル(露: Фёдор Емельяненко、英: Fedor Emelianenko、1976年9月28日 ‐ )は、ロシア の男性総合格闘家、サンビスト、元柔道家。レッドデビル・スポーツクラブ所属。元PRIDEヘビー級王者。元WAMMA世界ヘビー級王者。元RINGS無差別級王者。元RINGSヘビー級王者。 ==概要== 柔道の国際大会で活躍したのち総合格闘技に転向、2000年にリングスの大会で来日、ヘビー級と無差別級の王座に就く。2002年のリングス休止以降はPRIDEに出場し、2003年にアントニオ・ホドリゴ・ノゲイラを下しヘビー級王座を獲得した。2004年にはヘビー級グランプリに優勝、2005年にはミルコ・クロコップを下し王座を防衛した。2007年のPRIDE消滅後は日本国外の大会に出場、2008年にはAfflictionで元UFCヘビー級王者ティム・シルビアを破りWAMMA世界ヘビー級王者となっている。その後も、2009年にはアンドレイ・アルロフスキーに勝ち、WAMMA王座の防衛に成功。2010年に敗れるまで10年間無敗という記録を作った。 PRIDE王者時代から2010年に敗れるまでは日本だけでなくアメリカなどのメディアからも「総合格闘技界最強」と評価され、多くのメディアのランキングにおいてヘビー級で世界1位にランクインしていた。 2009年にロシア政府認定の投票によりテニスのスベトラーナ・クズネツォワと共にロシアのベスト・アスリートに選ばれている。また、ロシアの長年活躍したトップアスリートだけに送られるスポーツマスターの称号を持ち、プロ格闘家として活動する傍らコンバットサンボの大会にも出場し、世界選手権で4度の優勝を果たしている。 ==来歴== ===プロデビュー以前=== 1976年、ウクライナ・ソビエト社会主義共和国ルハンシク州ルビージュネに生まれた。姉1人、弟2人の4人兄弟であった。2歳の時に家族とともにロシア・ソビエト連邦社会主義共和国ベルゴロド州スタールイ・オスコルに移住し、11歳になってサンボ・柔道を始めた。1991年に高校を卒業、1994年には専門学校を卒業する(2008年にベルゴロド州立大学を卒業している)。1995年から1997年 まではロシア陸軍の消防隊と戦車軍に入隊し、曹長で兵役を終える。その後は柔道・サンボ両方の大会で活躍した(詳細は#獲得タイトルを参照)。当時は後に世界柔道選手権を制するアレクサンドル・ミハイリンとはライバル関係にあるなどヨーロッパではトップクラスの実力を有していたものの、国からの補助金が出なくなったため柔道を続けるには経済的な問題が生じていた。ヒョードルは「国の支援が続いていれば柔道を辞めずにオリンピックを目指していたかもしれない」と語っている。 ===リングス=== 2000年初頭にニコライ・ピチコフの誘いでヴォルク・ハン率いるリングス・ロシア(現ロシアン・トップチーム)を見学し総合格闘技に興味を持ち、ヒョードルはこのジムで練習を始めた。またリングスのスカウトオーディションに参加し、前田日明からバラチンスキー・スレン に次ぐ評価を受け日本大会への出場が決まった。同年5月にはリングスのロシア大会で総合格闘技デビュー。9月5日には日本大会で初来日を果たし高田浩也と対戦、開始12秒で左右のフックによるKO勝利を収めた。同年12月22日、「KING of KINGSトーナメント」の1回戦でヒカルド・アローナに延長の末、3‐0の判定勝ち。同日に行われた2回戦では高阪剛と対戦するも、出会い頭に目尻をカットし、試合開始17秒でカットのためドクターストップによるTKO負けとなった。なお、このカットは反則技である高阪の肘がアクシデントで当たったためである。高阪自身ものちにこの試合を振り返り、アクシデントの肘だったと認めている。 2001年は4月20日からヘビー級王座決定トーナメントに出場する。1回戦ではケリー・ショールに勝利し 8月11日の決勝大会に進出すると、準決勝ではトーナメント本命と目されていた レナート・ババルに判定勝利し、決勝では対戦相手のボビー・ホフマンが左肩脱臼のため棄権し不戦勝 となり、初代リングス世界ヘビー級王者に就いた。その後10月20日には無差別級王座決定トーナメントにも出場、1回戦では柳澤龍志に、準決勝ではリー・ハスデルに勝利し、決勝戦に進出した。リングス最後の興行となった2002年2月15日の決勝戦ではクリストファー・ヘイズマンと対戦、2度のダウンとロープエスケープでポイントアウトに追い込み、リングス2冠を達成した。 ===PRIDE=== リングスが活動停止となると、2002年6月23日のPRIDE.21においてPRIDE初参戦。当時パンクラス無差別級王者だったセーム・シュルトに30cmのリーチ差をものともせず、グラウンドのポジショニングで優位に立って判定勝ち、PRIDEデビューを飾った。同年11月24日のPRIDE.23では、ヒース・ヒーリングをパウンドの連打によるTKOで勝利し、ヘビー級王座挑戦権を獲得した。 2003年3月16日、PRIDE.25にて、初代PRIDEヘビー級王者アントニオ・ホドリゴ・ノゲイラの持つタイトルに挑戦する。開始早々フックでノゲイラを吹き飛ばし、グラウンドではパウンドをまとめてダメージを与える。2R以降もテイクダウンからのパウンドで手堅くポイントを稼ぎ、3‐0の判定勝ちを収め王座獲得に成功した。4月5日にはリトアニアでBUSHIDO‐RINGSに参戦、エギリウス・ヴァラビーチェスに一本勝ちを収めた。同年6月8日のPRIDE.26ではノンタイトル戦で藤田和之と対戦し、直撃した藤田の右フックによってよろめくシーンを見せたが、すぐに反撃、右フック・左ミドルキックを打ち込んでダウンを奪いチョークスリーパーで一本勝ち。ヒョードルは後年(2009年)のインタビューで『私に真っ当な打撃を与えたのはこれまでで藤田だけだよ。激しい打撃だったね』と回想している。同年8月10日の「PRIDE GRANDPRIX 2003 開幕戦」ではゲーリー・グッドリッジと対戦し1R1分9秒でTKO勝ち。同年11月9日のPRIDE GRANDPRIX 2003 決勝戦はミルコ・クロコップとのヘビー級タイトルマッチが行われる予定であったが、練習中に右手を骨折したため欠場し、ミルコ対ノゲイラの暫定王者決定戦が代わりに組まれた。この年の大晦日には3つのイベントによるヒョードル争奪戦が繰り広げられ、紆余曲折を経て最終的にイノキ・ボンバイエに出場、永田裕志に勝利した。なおこれに関連して、ヒョードルは年末にロシアン・トップチームからレッドデビル・スポーツクラブに移籍し、後に、チーム代表であったウラジミール・パコージン との確執があったことを述べている。 2004年4月25日、PRIDE GRANDPRIX 2004 開幕戦のヘビー級グランプリ1回戦で2000年のPRIDEグランプリ優勝者マーク・コールマンと対戦。試合ではコールマンにテイクダウンからマウント、バックを奪われるも脱出し、その後再度タックルでテイクダウンを奪われるも下のポジションから腕ひしぎ十字固めで切り返し一本勝ちで初戦突破を果たす。同年6月20日のPRIDE GRANDPRIX 2004 2nd ROUNDの2回戦では、番狂わせでミルコを1回戦で破って勝ち上がってきたケビン・ランデルマンと対戦し、開始後スープレックスで頭から垂直にマットに叩きつけられるも、何事もなかったようにすぐにポジションを奪い返してチキンウィングアームロックを極め一本勝ち、同年8月15日のPRIDE GRANDPRIX 2004 決勝戦で行われる準決勝に駒を進める。準決勝では事前に組み合わせを決めるファン投票が行われ、最高得票を集めた小川直也との一戦が決定した。小川を柔道家として尊敬する反面、ハッスルポーズは下品だと不快感を表し、試合前の握手は小川に拒否される。試合は1ラウンド開始からパンチで攻勢に立ち、開始54秒で腕ひしぎ十字固めで一本勝ち。決勝はセルゲイ・ハリトーノフに勝利したヘビー級暫定王者アントニオ・ホドリゴ・ノゲイラとの再戦の運びとなる。試合は1ラウンド3分過ぎにグラウンドでヒョードルの額とノゲイラの頭頂部がバッティングし、ヒョードルの右眉上が切れて試合が中断。協議の結果無効試合となり、優勝者は決まらなかった。同年の大晦日、PRIDE 男祭り 2004にて行われたPRIDE GRANDPRIX 2004決勝を兼ねたPRIDEヘビー級統一王座決定戦でノゲイラと再戦し、判定勝ちを収めヘビー級王座を統一するとともにグランプリ優勝を果たした。 2005年4月3日、PRIDE 武士道 ‐其の六‐で4年半前にプロで唯一の敗北を喫した高阪剛との再戦が組まれ、試合はテイクダウンからのパウンドでヒョードルが優勢に立ち、1ラウンド終了時にドクターストップによるTKOでリベンジを果たした。6月にはロシアのクストヴォで開かれた全ロシアコンバットサンボ選手権に出場し、100kg超級で優勝する。同年8月28日には「PRIDE GRANDPRIX 2005 決勝戦」にて2年越しにミルコ・クロコップとのヘビー級タイトルマッチが実現。試合はヒョードルは打撃で圧力をかけ続け、ミルコはバックステップでリングを回りながらの打撃で応戦するという形となった。1ラウンド前半にミルコの打撃に押される場面もあったが、それ以外は打撃で攻め立て、投げや足払いからのテイクダウン、ポジショニングでも制し判定勝ちを収め、2度目の王座防衛に成功した。大晦日に出場した「PRIDE 男祭り 2005」ではズールと対戦。パンチでダウンを奪い、パウンドの連打により1ラウンド開始26秒でタップアウト勝ち。 2006年1月26日、強力なパウンド力・パンチ力ゆえの慢性的な拳の怪我や骨折 に苦しんでいたヒョードルは、サンクトペテルブルクの病院で右拳の手術に踏み切る。続いて6月24日、同じサンクトペテルブルクの病院で、固定していた金属プレートの除去手術を受けた。この手術のため、「PRIDE無差別級GP」の1回戦と、回復次第ではシード扱いで出場する予定だった2回戦を共に欠場し、代役でヴァンダレイ・シウバが参戦した。2度に渡る拳の手術を経て、10月21日、マーク・コールマンを相手に復帰第1戦を行った。1Rは打撃で攻め立て、2Rに腕ひしぎ十字固めで一本勝ち。続いて12月31日、「PRIDE 男祭り 2006」でのヘビー級タイトルマッチでマーク・ハントと対戦し、腕ひしぎ十字固めを返されたり、アームロックで追い詰められたものの、チキンウィングアームロックで一本勝ちし、3度目の王座防衛に成功した。 ===BodogFight・Affliction=== 2007年3月、BodogFightと契約し、同年4月14日には、地元ロシアのサンクトペテルブルク大会に凱旋出場。マット・リンドランドに腕ひしぎ十字固めで一本勝ち。同年4月にPRIDEが休止した後はUFC、BodogFight、HERO’Sなど世界中の格闘技団体がヒョードルの獲得を競っている状況であったが、2007年10月、米国の総合格闘技イベントM‐1 Globalと2年6試合の契約を結んだ。ファイトマネーは1試合につき基本給が200万ドルで、これは契約金・ボーナスなどのその他報酬を含めない額であった。11月10日、チェコ共和国プラハで行われた第31回コンバットサンボ世界選手権100kg超級に出場し、4度目の世界王者となった。11月11日、ロシアの国家勲章であるピョートル大帝勲章を受章した。12月31日、「やれんのか! 大晦日! 2007」で1年振りの来日を果たしチェ・ホンマンと対戦、1Rに腕ひしぎ十字固めで一本勝ち。 2008年2月8日、全ロシアコンバットサンボ選手権100kg超級で優勝。同年2月15日にはコンバットサンボ大統領杯100kg級で優勝した。同年7月19日、アメリカ合衆国の新興MMA団体であるAfflictionの第1回大会「Affliction: Banned」において、元UFC世界ヘビー級王者で当時SHERDOGのヘビー級ランキングで4位にランクインしていたティム・シルビアと対戦。スタンドのパンチでダウンを奪うと、グラウンドでバックからチョークスリーパーを極め、開始36秒で一本勝ちし、新たに設立された総合格闘技の王座認定団体であるWorld Alliance of Mixed Martial Artsの初代世界ヘビー級王座獲得に成功した。同年11月、主演映画『第5の死刑』の撮影で、コンバットサンボのロシア代表合宿に参加できないまま11月16日の世界選手権に臨んだ。100kg超級に出場したヒョードルは過去2戦勝利していたブラゴイ・アレクサンドル・イワノフとの準決勝で投げ技でポイントを奪われ、その後打撃で攻め立てたものの5‐8の判定で敗れ3位に終わった。 2009年1月24日、「Affliction: Day of Reckoning」では、元UFC世界ヘビー級王者で当時SHERDOGのヘビー級ランキングで2位にランクインしていたアンドレイ・アルロフスキーと対戦。1R3分過ぎ、跳び膝蹴りに来たアルロフスキーにカウンターで右フックを命中させ失神KO勝ちを収め、WAMMA世界ヘビー級王座の初防衛に成功した。2月21日には全ロシアコンバットサンボ選手権に出場、100kg超級で連覇を達成した。 同年4月29日、「DEEP M‐1 CHALLENGE 3rd EDITION in JAPAN」で来日し、青木真也とサンボ衣着用・打撃ありのエキシビションマッチを行った。 同年8月1日、Affliction: Trilogyでジョシュ・バーネットと対戦予定であったが、ジョシュが試合前のドーピング検査で陽性反応が出たとして欠場となり、その影響で同大会は開催中止、さらにAfflictionのMMA興行からの撤退が発表された。その後、UFCとの交渉も伝えられたが、8月3日にStrikeforceと出場契約を交わしたことが発表された。後年ヒョードル自身がUFC参戦に至らなかった理由について「基本的に、私は無敗でUFCを離脱することができませんでした。私はインタビューをすることも、映画や広告の仕事もできません。UFCの合意なしでは何をする権利もありません。」と契約に理不尽を感じたことをインタビューで明確に語った。このような契約をすればロシア国内で開かれるコンバットサンボの大会に参加することも不可能になり、国民性の観点からヒョードルにとっては納得のいかない条件であった。 同年8月28日、「M‐1 Global Presents Breakthrough」でゲガール・ムサシと道着ありのエキシビションマッチを行い、腕ひしぎ十字固めでタップを奪った。 ===Strikeforce=== 同年11月7日、Strikeforce初参戦となった「Strikeforce: Fedor vs. Rogers」で、当時SHERDOGのヘビー級ランキングで6位にランクインしていたブレット・ロジャースと対戦。ヒョードルにとってケージでの戦いは初めてであったが、強烈な右フック一発でロジャースをふきとばすと追撃のパウンドにより2ラウンドTKO勝ちを収め、WAMMA世界ヘビー級王座の2度目の防衛に成功した。試合は地上波CBSによって全米に放送され546万人が視聴した。 2010年6月26日、Strikeforce: Fedor vs. Werdumでファブリシオ・ヴェウドゥムと対戦。開始早々にヒョードルのフックがかすってファブリシオが寝技に誘うように後方に倒れこみ、追撃のパウンドを浴びせようとしたところで1R1分9秒腕ひしぎ三角固めを極められ、大番狂わせのタップアウト負け。2000年の高阪剛戦以来10年ぶりの敗戦であり、高阪戦が反則技による負傷でのTKO負けであるため、実質生涯初の敗戦となった。 2011年2月12日、Strikeforce: Fedor vs. Silvaのワールドグランプリヘビー級トーナメント1回戦でアントニオ・シウバと対戦。1Rは左右のフックをふるい攻勢に出ると3分過ぎにはシウバの投げのミスを誘って上のポジションを取り、パウンドを落としつつ関節技を狙い優位に進めるも、体格差のあるシウバに対して少しずつ動きが落ちカウンターのパンチを数発受ける。2Rは開始早々からシウバにテイクダウンを奪われ、マウントポジションからのパウンド、バックチョーク、肩固め、膝十字と防戦一方になり、最後にアンクルホールドで応戦する。しかし、2R終了後、多くのパウンドを受けたことにより右目が塞がりドクターストップ。ファブリシオ戦に続き連敗を喫した。試合後、「応援ありがとう。きっと、離れる時がやってきたんだ。これが最後だ。素晴らしい時間を過ごせた」と、引退を示唆する発言を残したが、ロシアに帰国後、「私はまだ戦う」と現役続行の意志を示す発言を行った。ヒョードルを圧倒したシウバだったが、「ヒョードルはNo.1だった。今もそうだ。これからもそうだ。彼のような格闘家は二度と現れないだろう」と、長年にわたりトップの座に君臨し続けたヒョードルにたいして敬意を示した。 2011年7月30日、Strikeforce: Fedor vs. Hendersonでダン・ヘンダーソンと対戦。打撃の攻防で互角に渡り合うも寝技で下になったヘンダーソンにバックを取られパウンドでTKO負け。この試合ではストップが早かったという声も多かったが、結果的に三連敗を喫した。 ===M‐1 Global=== 2011年11月20日、母国ロシアで開催されたM‐1 Globalでジェフ・モンソンと対戦し、判定勝ち。 2011年12月31日、四年ぶりの日本での試合となった元気ですか!! 大晦日!! 2011で石井慧と対戦し、スタンドパンチ連打で失神KO勝ち。 2012年6月21日、ロシアで開催されたM‐1 Globalでペドロ・ヒーゾと対戦し、パウンドで失神KO勝ち。試合後の会見で引退を表明した。長年マネージャーだったワジム・フィンケルシュタインとはこの引退で関係を終了させている。 ===引退後=== 引退後はロシアスポーツ省特別補佐官とロシア格闘技連盟の代表に就任した。 2014年1月、ソチオリンピックの聖火リレーで走者を務めた。 2014年10月4日、日本武道館にて開催された「ロシア連邦民族・伝統武道団交流演武会」に来場した。 ===現役復帰=== 2015年7月15日、「スポーツ省ではスポーツの発展のために大臣たちと働き、できるだけ問題を解決しようと務めてきました。しかし今はリングに戻る時だと思っています」と、古傷も癒えトレーニングを再開したとして年内の現役復帰を示唆した。 2015年9月20日、ロシアスポーツ省特別補佐官を辞任し、榊原信行が設立した新たな総合格闘技団体「RIZIN FIGHTING FEDERATION」と契約を結んだことが発表された。 2015年12月31日、3年6か月ぶりの復帰戦となったRIZIN FIGHTING WORLD GRAND‐PRIX 2015 さいたま3DAYSでシング・心・ジャディブと対戦し、マウントパンチでギブアップを奪いTKO勝ち。試合前に馳浩文部科学大臣から「ロシアと日本の交流、スポーツ振興に大きな貢献」を果たしたとして記念のチャンピオンベルトを贈られた。 ===Bellator MMA=== 2017年6月24日、Bellator NYC: Sonnen vs. Silvaでマット・ミトリオンと対戦。両者同時に右ストレートを放ち、ダブルノックダウンとなるも、先に立て直したミトリオンに追撃のパウンドを落とされ1RKO負け。 2018年4月29日、Bellator 198: Fedor vs MirのBellator世界ヘビー級グランプリ1回戦で元UFC世界ヘビー級王者のフランク・ミアと対戦。開始直後に右フックでフラッシュダウンを喫するも直ぐに立て直し、前進したミアにカウンターの左アッパーでダウンを奪い、追撃のパウンドで秒殺KO勝ち。グランプリ準決勝進出を果たした。 2018年10月14日、Bellator 208: Fedor vs. SonnenのBellator世界ヘビー級グランプリ準決勝でチェール・ソネンと対戦し、パウンドで1RTKO勝ち。グランプリ決勝進出を果たした。 2019年1月26日、Bellator 214: Fedor vs. BaderのBellator世界ヘビー級グランプリ決勝戦で現Bellator世界ライトヘビー級王者のライアン・ベイダーと対戦し、開始直後に左フックでダウンを奪われ、パウンドで秒殺KO負け。グランプリ優勝を逃した。 ==ファイトスタイルと評価== ===寝技・組技に関する評価=== ヒョードルのバックボーンは国際大会でも結果を残してきたサンボ・柔道である。柔道でヒョードルとの対戦経験がある小斎武志はバックボーンである組技の力が発揮されていると評価し、「あんなに力が強いロシア人とやったのは初めて」だったと証言している。グラウンドでは安定感と決定力に秀でており、持ち前の瞬発力を生かした関節技とスイープが得意である。さらに強力なパウンドで攻め立てる。ヒョードルと3度対戦したアントニオ・ホドリゴ・ノゲイラは「休んでいる時はじっとしていて、動く時は数発集中して打ってくる」 と証言しており、また「左のパンチの方が強くて焦った」と述懐している。パウンドを打つ時のボディコントロールが上手く、下からの仕掛けをことごとく制することが出来る。当然そのパンチはスタンディングの状態でも発揮され、フックはイゴール・ボブチャンチンのロシアン・フックに似た軌道を描く。この強力なパンチを武器に幾多の試合で勝利を収めて来たものの、その威力故に拳への負担が大きく、慢性的な拳の怪我に苦しむこととなった。 ===打撃に関する評価=== ====攻撃==== 元サンビスト・柔道家でありながら、日本での総合格闘技デビュー戦ではパンチでKO勝利と天性の物を見せていた。スタンドでの打撃は、ヘビー級では類を見ない踏み込みの早さと強力な連打を有している。2005年に対戦したキックボクシング出身のミルコ・クロコップは「打ち負けた」ことを認め、また36秒で敗れたティム・シルビアは「俺もヘビー級のトップファイターの一人だが、ヒョードルの強さには驚かされた。あいつは人間じゃない。あんなに強く殴られたことはなかった」とそのパンチ力を称えている。またキックの威力も高く、藤田和之を左ミドルキック一発でダウンさせ、ジェフ・モンソンはヒョードルのローキックによって右足を骨折させられセコンドに抱えられたまま病院へ送られた。 ===ディフェンス=== 元々圧倒的なストライカー能力により守勢に立たされる場面が少ないため、あまり目立つことがないディフェンススキルだが、その能力は高く、マーク・ハント戦では、相手のパンチをガードに頼らず、そのほとんどに空を切らせる技術を披露した。しかし、2009年1月のアンドレイ・アルロフスキー戦ではボクシングの攻防で劣勢になるシーンが見られ、アルロフスキーのコーチであるフレディ・ローチは「作戦通りに試合を支配していた。幼いミステイクが無ければ簡単な試合だった」と語っている。専門家の検証では、一分間当りに相手の打撃をもらう回数が全階級を通してトップファイターたちのなかでもヒョードルは最も低い一人である。 ===精神面その他の評価=== ヘビー級では小柄な部類だが高い瞬発力と柔軟性を併せ持ち、打撃を交えながら相手をテイクダウンする一連の動きを一呼吸も置かずにワンテンポでこなす巧みさとパワーを有している。片足を取られてもテイクダウンされないバランスの良さや、相手に上に乗られた状態からの腕ひしぎ十字固めへの切り返しの早さなど、あらゆる面に優れている。また、ケビン・ランデルマンによるスープレックスを巧みな受身でダメージを抑えるなどの投げ技に対する対応力も備えている。 試合中も常に冷静で落ち着きを払うことができるのは、生まれ持っての性格によるところと本人は語っている。 ===選手からの評価=== UFCヘビー級のケイン・ヴェラスケスやシェイン・カーウィン、パウンド・フォー・パウンドと称されるジョルジュ・サンピエール、BJ・ペン、ジョン・ジョーンズなどから憧れの対象とされており、格闘技の団体を問わず、多くのファイターから尊敬され、目標とされている人物である。 ヒョードルの練習パートナーでもある元K‐1チャンピオンのアーネスト・ホーストは「立ち技だけの練習をすれば間違いなくK‐1でもトップクラスになる」と語っている。 元ボクシング世界ヘビー級チャンピオンで長年のUFCファンであるマイク・タイソンは「歴代最強のMMAファイターはヒョードルだ」と発言している。 ==練習方法== 総合格闘技に転向する前までは、ウエイトトレーニングを積極的に行い、ヘビー級の肉体を作った。軍務中も、サンボ代表チームに入っていたときもウエイトトレーニングは行っていた。ヘビー級としての肉体が完成され、総合格闘技に転向後は一時期自重を用いたトレーニングのみに切り替えていたが、現在はウエイトトレーニングを再開し、練習に取り入れているようである。 ==家族・私生活== 1999年に前夫人(オクサナ・エメリヤーエンコ)と結婚し、同年に娘が誕生。その後離婚し、現夫人(マリーナ・エメリヤーエンコ)と再婚した。2007年12月29日に2人目の娘が誕生している。また、2008年には大学を卒業している。趣味は描絵・音楽鑑賞・読書で他にも遊園地のジェットコースターがお気に入りであり、来日時には試合後に富士急ハイランドなどに行くのが習慣になっているという。また宗教は正教を信仰している。 自宅があるスタールイ・オスコルでは絶大な人気がありCMにも出演している。街の看板にはヒョードルが登場し、誕生日の9月28日は「ヒョードルの日」として街中がヒョードルを祝う日となっており、試合の際は男達が家でテレビ観戦するため町中が静かになるという。ロシア全国内でも注目を集めており、北京オリンピックとソチオリンピックでロシアの聖火ランナーにも選ばれた。 普段は冷静沈着で大人しい性格であり、リングスのスタッフは「外国人選手の中では珍しく手のかからない選手として評判が良かった」と語っている。一方で弟のアレキサンダーがマフィアに入っており、弟がマフィアから抜けるというまで馬乗りで殴り続けたという一面もある。リングス在籍時の打撃コーチであるニコライ・ピチコフは「非常に複雑な性格の持ち主だった」と述懐している。 ロシア大統領ウラジーミル・プーチンは度々会場でヒョードルの試合を観戦したり、ヒョードルを官邸に招待するなど親交がある。 チェチェン共和国の首長、ラムザン・カディロフの主宰する総合格闘技団体「アフマドMMA」が子供同士を防具を着けない状態で戦わせた事に対し、「一撃が生死に関わることもある」とヒョードルはカディロフを批判した。また、子供の人権オンブズマンが調査に乗り出した。しかし、その矢先にヒョードルの次女が2016年10月、何者かによって胸部を殴打され、病院に搬送される事件が起きた。ロシア国内ではカディロフ派が襲ったとの見方が広がっている。 ==戦績== ==獲得タイトル== ===柔道=== 全ロシア柔道選手権 優勝(1996年)ロシア国際トーナメント 優勝(1997年)全ロシア柔道選手権 優勝(1998年)ロシア国際柔道選手権 100kg級 3位(1999年1月24日、 モスクワ)ブルガリア国際柔道選手権 100kg級 3位(1999年2月7日、 ソフィア) ===スポーツサンボ=== Aクラス国際トーナメント 優勝(1998年、 モスクワ)ロシア軍スポーツサンボ選手権 重量級 優勝・無差別級 準優勝(1998年)モスクワ国際トーナメント 優勝(1999年、 モスクワ)Aクラス国際トーナメント 3位(1999年、 モスクワ・ソフィア)全ロシアスポーツサンボ選手権 3位(2000年) ===コンバットサンボ=== 世界コンバットサンボ選手権 100kg超級 優勝(2002年、 テッサロニキ)世界サンボ選手権 コンバットサンボ 100kg超級 優勝(2002年、)世界サンボ選手権 コンバットサンボ 100kg超級 優勝(2005年10月20日‐24日、 プラハ)世界サンボ選手権 コンバットサンボ 100kg超級 優勝(2007年11月7日‐10日、 プラハ)世界サンボ選手権 コンバットサンボ 100kg超級 3位(2008年11月13日‐17日、 サンクトペテルブルク)全ロシアコンバットサンボ選手権 優勝(2002年、 モスクワ)全ロシアコンバットサンボ選手権 100kg超級 優勝(2005年、 クストヴォ)全ロシアコンバットサンボ選手権 100kg超級 優勝(2008年2月8日)全ロシアコンバットサンボ選手権 100kg超級 優勝(2009年2月21日、 クストヴォ)ロシア大統領杯 100kg超級 優勝(2008年2月14日‐16日、 モスクワ) ===プロ総合格闘技=== RINGSワールドタイトル決定トーナメント ヘビー級 優勝(2001年)初代RINGSヘビー級王座(2001年)RINGSワールドタイトル決定トーナメント 無差別級 優勝(2002年)第5代RINGS無差別級王座(2002年)第2代PRIDEヘビー級王座(2003年)PRIDE GRANDPRIX 2004 優勝(2004年)初代WAMMA世界ヘビー級王座(2008年) ==表彰== コンバットサンボ スポーツマスター柔道 スポーツマスターピョートル大帝勲章(2007年)スポーツ・イラストレイテッド ファイター・オブ・ザ・ディケイド(2000年から2010年の間の最優秀選手) ファイト・オブ・ザ・ディケイド(2000年から2010年の間の最高試合:ミルコ・クロコップ戦/2005年) ノックアウト・オブ・ザ・イヤー(2009年:アンドレイ・アルロフスキー戦)ファイター・オブ・ザ・ディケイド(2000年から2010年の間の最優秀選手)ファイト・オブ・ザ・ディケイド(2000年から2010年の間の最高試合:ミルコ・クロコップ戦/2005年)ノックアウト・オブ・ザ・イヤー(2009年:アンドレイ・アルロフスキー戦)Yahoo Sports ファイト・オブ・ザ・ディケイド(2000年から2010年の間の最高試合:ミルコ・クロコップ戦/2005年)Bleacher Report ファイター・オブ・ザ・ディケイド(2000年から2010年の間の最優秀選手) ヘビーウェイト・オブ・ザ・ディケイド(2000年から2010年の間のヘビー級最優秀選手)ヘビーウェイト・オブ・ザ・ディケイド(2000年から2010年の間のヘビー級最優秀選手)日刊バトル大賞 格闘技部門MVP(2012年) ==出演== ===映画=== コマンド・フォース Pyataya kazn (2010年) ===テレビ=== ロシア語講座世界行ってみたらホントはこんなトコだった!?クイズタレント名鑑 =皇太子徳仁親王と小和田雅子の結婚の儀= 皇太子徳仁親王と小和田雅子の結婚の儀(こうたいしなるひとしんのうとおわだまさこのけっこんのぎ)は、1993年(平成5年)6月9日に日本の皇居にある宮中三殿において、国事行為として行われた皇室の儀式(結婚の儀)である。本儀式により日本の皇太子・徳仁親王(当時33歳)と小和田雅子(当時29歳)は結婚し、雅子は皇太子妃となった。一連の出来事は皇太子の父である今上天皇の皇太子時代の結婚と同様、皇太子ご成婚(ご結婚)や皇太子さまご成婚、皇太子さま・雅子さまご成婚などのようにマスメディアでは表現される。 本項では両名が婚約に至るまでの経緯や、納采の儀などの一連の関連行事、これらが与えた社会的影響などについても記述する。日時については特記がない限りすべて日本標準時(JST)で24時制で表記する。 ==夫妻== 夫となる徳仁親王は今上天皇と皇后美智子の第1皇男子(第1子長男)であり、御称号を浩宮(ひろのみや)とし、以下の婚約と結婚が進められる間に、31歳で立太子の礼を行い皇太子となった。2018年現在皇位継承順位第1位である。 妻となる小和田雅子は婚約当時外務省勤務で、同じく外交官であり当時外務事務次官を務めていた小和田恆の長女である。幼少時より父についてソビエト連邦、アメリカ合衆国での生活を経験した帰国子女で、ハーバード大学経済学部を卒業、学士入学で東京大学在学中に外交官試験に合格、中退して外務省に入省し、研修でオックスフォード大学に留学した。彼女は日本で男女雇用機会均等法が制定され、女性の社会進出というテーマに揺れた世代である。 ==婚約まで== ===出会い=== 浩宮徳仁親王は立太子する以前から将来の天皇として、配偶者選びが非常に重要視され、14歳の頃から「お妃候補」をテーマにした報道がされた。25歳の頃、宮内庁内では彼の妃候補を選ぶ計画が進められ、当時の東宮大夫・安嶋彌(1989年〈平成元年〉退官)はこの件に関する責任者を務めており各方面に候補の紹介を頼んでいた。対象は旧皇族、旧華族から学校法人学習院関係者をはじめ趣味関係の人脈にも及んだが、浩宮自身は民間からの相手を望んだとされ、自分と価値観や金銭感覚・趣味や関心が合い、家柄や身長云々よりも世間知らずでなく他人の心が分かり、人の苦しみや悩みを推し量ることができる、必要な時には自分の意見をしっかり言える女性が理想だと記者会見で語った。その紹介者のうちの一人である元外交官・中川融は、浩宮の留学中のアドバイザーでもあり信頼を得ている人物だった。 中川はソ連大使時代の部下であり、当時外務省条約局長だった小和田恆の長女・雅子を推薦した。中川によれば、優秀で自分の意見をはっきりと持ち、なおかつ人柄も優れた雅子は浩宮の理想にぴったりの女性だった。 1986年(昭和61年)10月18日、スペインのエレナ王女を迎えた東宮御所でのパーティーに100人ほどが招かれ、その中に小和田家一同も招かれた。このとき雅子をはじめ小和田家の人々はお妃候補としての顔見せのために招かれているとは知らされておらず、皇室からの誘いとあって断るという考えは持たなかった。中川の側も雅子の出席を恆に確認したが、この段階ではお妃選びとの関連を気付かれないように心を配っていた。当時外交官試験に受かったばかりの雅子は、お妃候補として以前に、父娘二代の外交官の卵として注目を集めていて、パーティー出席も重要な仕事のひとつである外交官としての経験を踏む意味もあり出席した。事前に資料や高円宮憲仁親王を通じて雅子の人柄を知り、この場で本人と会話した浩宮は彼女に強い印象と好感を持った。 以後雅子は、同年から翌年にかけて、東宮御所で行われた広中平祐・和歌子夫妻の夕食会に同じハーバード大学出身者として、また国際交流基金を通じて恆と面識のある高円宮家へと続けて招かれ浩宮と会食を共にするなど、何度か交流することになった。浩宮には結婚相手を選ぶ上でプロセスを大事にしたいという思いがあり、それを理想的な形で実現しようと考えた中川や高円宮の配慮によってこのような形が作られていった。 こうして雅子は高円宮にも「この人ならお妃になれる」と評され、また浩宮自身にも強い思いを抱かせる有力候補となったが、宮内庁内では彼女の母方祖父が水俣病の原因企業であるチッソの元会長・江頭豊であることに懸念を持つ幹部の意見があり、安嶋を通して浩宮に再考を促した。 なお、このチッソとの関係については、宮内庁参与でのちの婚約の話を進める際にも大きくかかわった元最高裁判事・団藤重光が、江頭は水俣病の問題が顕在化したあと同社の経営再建のために就任したもので実際の事件には関わりがなく法的責任は一切ないこと、チッソが破綻すれば補償も不可能になるため、むしろ被害者側の役に立つための立場で、全く問題ではないと一貫して主張し、小和田家を説得した。内定前後には、各地の訴訟が和解に向けて動いている。また内定後、水俣病に関する著書で知られる作家石牟礼道子は結婚の障害になったとされたことに対し「(水俣病患者は)人様の幸せを強く願っている」「水俣病が障害になったのはお気の毒です。あってはならないこと」とコメントした。 ===報道の過熱とその被害=== この頃(1987年12月)、雅子が浩宮妃候補であることがスクープとして週刊誌やスポーツ紙などで報じられた。マスメディアは一斉に雅子の取材に走り、周囲に(日本でいう)メディアスクラムによる混乱をもたらした。雅子が出勤しようとする小和田邸前に数十人の取材陣が集まり、玄関を出たとたんにカメラのフラッシュを浴びせテレビカメラを向けた。また帰宅中の彼女を尾行して、深夜でも構わず暗がりで声をかけ恐怖を与えた。雅子はときにこういった取材に対し、おびえて家に駆け込み父親に助けを求め、あるときは彼のアドバイスを受けて毅然と対応し、記者に名刺を渡すよう要求することもあった。発端となったスクープを載せた『週刊女性』1988年1月14日新春特大号は104万部の良好な売れ行きで、報道は非常な注目を集めた。 中川はこの頃、ようやく小和田家に自分が雅子をお妃候補として推薦したことを明かした。小和田家はお妃候補を固辞し、チッソ関連の問題もあって候補からもいったん消えることになった。 1989年(昭和64年/平成元年)、浩宮の結婚問題を気にしたまま昭和天皇は崩御し、平成となった日本で浩宮は皇太子となり、東宮仮御所に暮らすようになった。 オックスフォード大学に留学した雅子は、1年ほど経って再度取材攻勢に見舞われた。当時行われた皇太子のベルギー訪問の合間に、彼が雅子と会うのではないかとマスコミが憶測したためだった。また一部の記者は、皇太子自身がまだ雅子を思い続けていることを把握していた。しかし、祖母・江頭寿々子のすすめで自分の口からはっきりと否定する決意をした彼女は、1989年9月、取材陣に対し「この件については、私はまったく関係ございませんので」と発言し、「外務省の省員としてずっと仕事をしていく」と否定し取材中止を求めた。この「完全否定」は広く報道され、母・優美子もインタビュー上で否定をした。この頃の彼女としては結婚に対する興味そのものが薄かったという。雅子はその後帰国し、外務省で北米局北米第二課に配属され、海部俊樹や竹下登、三塚博といった政府首脳の外交時の通訳を務めるなど仕事に励んだ。 それから数年、お妃選びは続いていたが、メディアスクラムは対雅子にとどまらず他の候補女性たちにも行われた。同じように彼女らを追い回して勝手に写真を撮り、苦情を言うと「絵が撮れればいいんですよ」と配慮のない態度を取られ、近隣に迷惑駐車をされるなどで、「思い出したくもない嫌な出来事」と回想する候補や娘の心に傷が残ると心配する家族もおり、実際テレビでは「関係ありません!」「迷惑です」と強く拒絶する彼女らの姿が放送された。またマスコミ被害以前に、民間のみならず旧皇族・華族の候補やその親たちであっても、自由が保障されず苦労を強いられる皇室入りに対し強い拒否反応を示す人々が少なくなかった。その上皇太子という立場では、気軽に女性と知り合う機会を増やすことが困難だった。 このような中で、候補とされた女性たちは次々に辞退し、弟である礼宮文仁親王(秋篠宮)が兄よりも先に結婚するなど、国民の間には結婚問題へのいらだちが募っていた。皇太子は彼の受けた帝王学ゆえに、自分の気持ちと同時に周囲の意見も尊重したいという考えを記者会見で述べていたが、当時の宮内庁長官・藤森昭一に対しては「やはり雅子さんでなくては」という思いをたびたび伝えていた。 ===再び候補に浮上・プロポーズ=== 1992年(平成4年)1月、皇太子は「小和田雅子さんではだめでしょうか」と安嶋のあと東宮大夫になっていた菅野弘夫に告げた。4月27日、藤森は東宮侍従長の山下和夫、菅野、参与の団藤らとともに会議を開き、再び雅子を候補として進める計画を始め、中川は元外務事務次官で国際協力事業団総裁だった柳谷謙介に協力を依頼した。柳谷は、その当時の事務次官となっていた、元部下に当たる小和田恆に働きかけた。終わった話と思っていた恆は、皇太子自身からの希望を伝える柳谷の言葉に驚いたものの、雅子にこれを伝え、彼女はその後の複数にわたる関係者の「一度でいいからお会いしてほしい」という熱心な働きかけに応えて一度は再会することにした。8月16日、柳谷に連れられた雅子は、千代田区三番町の宮内庁長官公邸で皇太子と再会した。 同時に宮内庁は、マスコミに対し2月13日から3か月毎更新の形で皇太子妃報道を自粛する報道協定(皇太子妃報道に関する申し合わせ)を申し入れていた。これまでお妃候補が強引な取材でマスコミ不信に陥り、交際を発展させるにも支障をきたしていることへの配慮だった。各社はこれを受け入れた。 10月3日、皇室が接待に使用する千葉県市川市の新浜鴨場で、皇太子と雅子を二人きりでデートさせる計画が実行された。天皇・皇后が山形国体に行幸啓するため取材陣の注目がそちらに向くようにこの日が選ばれたとみられる。さらに内部からの情報漏れを防ぐため、この計画は東宮大夫と侍従長ほか数名しか知らされず、鴨場では場長のみに伝えて他の職員は休ませた。護衛については全く同行させず、後日皇宮警察官の間で反発もあったとされるが、実際には事前に皇太子の意向で幹部一人にこの件を伝えて理解を得ている。内舎人と呼ばれる男性職員一人がワンボックスカーを運転して後部座席に隠れた皇太子を運び、その後を山下がマイカーで護衛した。仮御所ではその間彼が部屋にずっといたように見せかけるため、職員が部屋に届けた彼の食事を誰かが代わりに食べて空の食器を食堂に下げるという徹底ぶりで、誰も気付くことはなかった。 こうして皇太子と、柳谷夫妻に連れられて鴨場に来た雅子は会うことができ、二人は鴨場を散策しゆっくりと会話した。この場で皇太子は雅子に「私と結婚していただけますか」とプロポーズした。皇太子は「外交官として仕事をするのも、皇族として仕事をするのも国を思う気持ちに変わりはないはず」と説得した。雅子は即答せず、断る可能性を伝えたものの、その後も電話で連絡しあう約束をした。 ==婚約== ===結婚受諾の決意=== 求婚された雅子は、以前とは違って芽生えてきた結婚願望、皇太子の真摯な説得の言葉やその人柄にひかれる心、日本のために自分を役立てたいという気持ちと、仕事のやりがいを感じている外務省で女性が課長以上に出世できない現実が見えてきたこと、家族に対しても行われる関係者らの説得などの間で、どう返事をするか悩み、10月中旬には気持ちが固まらないという内意を漏らし、また体調を崩し10日間ほど仕事を休んだ。皇太子はそれに対し返事を催促するようなことはせず、雅子を追いつめずに「時間をかけて納得がいくまで考えてください」と返事を待ち続けた。 しかし11月後半頃には、次第に皇室で役立つことが自分の役割なのではないかと考えるようになり、悩む雅子に対し皇太子が「皇室に入られることにはいろいろ不安もおありでしょうけれども、雅子さんのことは僕が一生全力でお守りしますから」という言葉を告げたことが決意を促した。12月9日、雅子の誕生日には午前0時になると同時に電話をして誰よりも早く祝福し、彼女に対し「本当に幸せにしてあげられるのだろうか」と悩んだことを打ち明けた。雅子は12月12日の午後、仮御所訪問時についに受諾の返事をした。 このとき雅子は「本当に私でよろしいのでしょうか」と皇太子に尋ね、肯定されると「お受けいたします限りは、殿下にお幸せになっていただけるように、そして、私自身もいい人生だったと振り返られるような人生にできるように努力したいと思いますので(後略)」と答えている。 12月25日、雅子は仮御所で天皇・皇后と初めて会い、皇太子とともに歓談した。年末、雅子は両親に、これまでへの感謝と新しい人生への決意を伝えるクリスマス・カードを贈っている。 ===婚約内定=== 内定以来、雅子のスケジュールや皇太子との連絡は東宮侍従の曽我剛が管理し、護衛の手配、成婚のために購入するものの準備や業者などを指示した。また友人への手紙なども彼のチェックを受けた。 年が明けて1993年1月6日、報道協定の外にあるアメリカの新聞『ワシントン・ポスト』が、皇太子妃が雅子に内定したことを報じ、日本国内での協定は事実上無効になった。これに伴い、日本国内のマスコミも一斉にこの件を報じた。この日の夜、20時45分、テレビ放送は全ての放送中の番組を打ち切り、皇太子妃内定に関する緊急特別番組に切り替え、全国の新聞社24社が号外を発行した。また翌日の朝刊、各ワイドショー、翌週の女性週刊誌、総合週刊誌がこの件を祝賀する関連報道に埋め尽くされた。 婚約以前の雅子はトレンチコートなど、男性に伍して働く外務省勤務のキャリアウーマンらしいファッションが多かったが、婚約が明らかになって以降はドイツのブランドのコートなど、気品あるファッションでマスコミ、世間に話題を呼び、以前マスコミに追い回されたときとは違って表情も柔らかくなった。1月8日、内定報道後初めて自宅から姿を現し、皇室会議のために帝国ホテルでポートレイトを撮影した際は、白いコートに、白とピンクの格子柄ジャケットとピンクのスカートの襟なし丸首スーツ、真珠のネックレスとブレスレットで、優雅でいかにも皇太子妃らしい姿への変貌に驚きの声をあげた報道陣もいた。 皇太子はこの新年の歌会始(1月14日)で、婚約の喜びを次のような和歌に詠んだ。 大空に舞ひ立つ鶴の群眺む幼な日よりのわが夢かなふ ― 皇太子徳仁親王、平成5年歌会始、お題「空」 ===皇室会議と婚約会見=== 皇族男子の結婚にあたり、皇室典範によって行われることになっている皇室会議が、この婚約に関しても1993年1月19日8時30分から宮内庁特別会議室で行われた。出席者は三笠宮崇仁親王と同妃百合子、内閣総理大臣・宮澤喜一、衆議院・参議院の議長・副議長、最高裁判所長官、同判事、宮内庁長官・藤森昭一の10名で、藤森が先に撮影された雅子の写真と略歴を説明し、全員が起立してこの結婚に賛成を表し、19分で終了した。 同日に行われた婚約会見では、東京・青山の「アトリエ 角田明美」が制作した同じデザインの2着のワンピースのうち、レモンイエローの方を雅子が家族と相談して選んだ。この服に合わせた靴を「リュウスケカワムラ」(河村龍介)、花の飾りのついた同色のピルボックス帽を「ベル・モード」にオーダーした。会見当日はこれに同色のバッグ、真珠のネックレス・イヤリング・白い皮手袋である。 テレビで生中継されたこの会見では、事前用意されたマスコミからの質問文書に答え、プロポーズの日時や様子、その返事の言葉が詳しく回答された。また、婚約に当たり、一部の皇室評論家が、皇后が雅子を招いて説得したという話を女性週刊誌でコメントし事実であるかのように流布された件を、この会見上で事実ではないと二人で否定している。実際は皇后は当事者と周囲の職員に任せる姿勢を取り特定の人物を支持することはなかったのだが、噂に分かりやすい「物語性」があるためか、とくに日本国外のメディアでは否定後も事実であるかのように流布し『ヴァニティ・フェア』にはこれを元にして、皇后が雅子に(自分の皇室入り後に受けたような)迫害から守ると約束したという「作り話」が掲載された。会見後、皇太子と雅子は各宮家に挨拶に回り、夜には天皇が小和田家の家族とともに雅子を招き、天皇家、秋篠宮家と夕食を共にした。この際、皇后から雅子に皇太后(香淳皇后)から受け継がれたルビーの指輪が贈られた。 2月9日、雅子は外務省を退職、職員らに花束を贈られ、省舎をあとにした。 3月12日から、一般に「お妃教育」といわれる、婚約者に皇族として必要な知識などを講義するご進講(ごしんこう)が行われた。雅子が堪能な語学を省略しても週に4日のペースで6週間、計50時間、宮中祭祀、皇室制度や皇室典範・憲法、日本歴史、和歌、書道などで、祭祀と制度関係は親王妃の2倍近い時間だった。雅子は数十冊のノートを取り熱心に学習したという。 ===納采の儀=== 一般の結納にあたる納采の儀は4月12日9時00分から行われた。使者役である東宮大夫の菅野弘夫が小和田邸を訪れ、金屏風の置かれた1階の16畳の応接間に納采の品が届けられた。品の内訳は以下のような物である。 ===絹地5巻=== のちにドレスなどに仕立てられる絹の服地。京都の龍村美術織物製で、朝見の儀で着るローブ・デコルテに使用された「明暉瑞鳥錦」(めいきずいちょうにしき)という白地に金箔の入った生地、桃色系のうす香色生地「四方(よも)の海」、金糸入り若草色生地「呉竹」、白地にうす桃色をぼかし金糸の入った「楽興の時」、水色の「やまなみ」で、最後の2点は皇后が育てたカイコの糸が使われた。 ===清酒一荷=== 宮内庁御用達の蔵元から納入した清酒一升瓶6本が白木の箱に納められたもの。 ===鮮鯛一折=== 日本近海で獲れた大きさ50cm以上、2匹で10kgを越える大物の生のマダイ雌雄一対(計2尾)を、八の字の形に台の上に並べたもの。この鯛以外には白い掛け紙と輪結びにした金銀の水引が結ばれていた。菅野は雅子と両親の前で納采の口上を述べ、品の目録を白木の台に載せて雅子に手渡した。 このときの雅子の服装は、皇后が東京・日本橋の呉服店「満つ本」に依頼して誂えたもので、黄金色の紗綾形地紋に、扇に骨を付けない「地紙散らし」の瑞雲扇面模様本振袖、皇后が1958年(昭和33年)の婚約発表時に身に付けた朱色七宝華紋の丸帯で、もともとは香淳皇后から譲られたものに、真珠の帯留を付けた。両親はモーニング・色留袖であった。 儀式が終わると雅子と両親は皇居を訪問し、天皇・皇后・皇太子に挨拶をした。この日、天皇・皇后が用意した真珠の指輪を皇太子が雅子に贈り、訪問の帰りに左手の薬指に嵌めている。 ===告期の儀から結婚前日まで=== 1月8日に、結婚の儀の日取りは5月下旬ごろにと報道されていたが、正式な日付は6月9日となった。 4月20日10時00分、結婚の儀の日取りを皇室の使者が伝える告期の儀(こっきのぎ)が行われた。侍従長山本悟が小和田邸を訪れ、金屏風の前でエメラルドグリーンのワンピースの雅子、モーニングの父親とワンピースの母の前で、結婚の儀が6月9日に決まったことを伝達し、1分で終了した。 小和田家では4月17日に結婚の報告のため新潟県新潟市の泉性寺へ先祖の墓参りをし、最後の家族旅行として5月15日に箱根で1泊した。並行して衣装や儀式の打ち合わせ、リハーサルも続いた。4月28日には皇太子と雅子とで吹上御所(大宮御所)の皇太后のもとへ挨拶に出向いている。 6月4日、小和田家の家族と雅子の祖父母たちは、マスコミらの注目のため外出もままならない中、その追跡を逃れて松濤のレストラン・シェ松尾を訪れ、皇太子がかつて訪問した個室「インペリアル・ルーム」で家族水入らずの最後の外食をした。前日6月8日午前には、結婚を前に婚約者同志が和歌を贈り合う贈書の儀(ぞうしょのぎ)が行われた。また雅子はこの夜、家族とお手伝いの女性に、身の回り品やアクセサリーなどのプレゼントを贈り、父あてに添えられたカードには「長いこと有難うございました。胸が一杯で書けないの。ごめんなさい」としたためた。 ==結婚の儀と一連の儀式== ===結婚の儀=== 6月9日当日、東京の天候は前日より雨であった。この日は日本において「皇太子徳仁親王の結婚の儀の行われる日を休日とする法律」によるこの年限りの臨時の休日であり、皇太子の結婚の儀・朝見の儀・宮中饗宴の儀は国事行為として行われた。 また結婚関連儀式は4月9日の「神宮神武天皇山陵及び昭和天皇山陵に勅使発遣の儀」から納采の儀をはじめ6月29日の「昭和天皇山陵に謁するの儀」まで合計で15件ほどが行われたが、3つの国事行為以外は皇室の私的行事として扱われた。 6時30分、東宮侍従長と女官長が雅子を迎えに上がり、雅子は水色に水玉模様の地紋が入ったシルクのツーピースで目黒区の実家を後にした。同居の家族たちとお手伝いの女性、ショコラという名の飼い犬に挨拶し、宮内庁からの迎えの車に乗り込んだ。雅子の母・優美子は「お体に気をつけて、お国のために一生懸命お務めしてほしい」と伝えた。 皇居到着後は御潔斎所に入り、伝統に基づいた平安装束の正装への着替えを行った。 徳仁親王は皇太子だけが身につけることができる、上る朝日の色といわれる黄丹袍の束帯と垂纓(すいえい)の冠、笏、雅子は大垂髪に、亀甲を地紋に白い支子紋をあしらった二陪織物の青色唐衣、若松菱文を地文に南天をくわえた尾長鳥を紅色の丸い紋にした黄色の表着、忍冬唐草(にんどうからくさ)を立涌(たちわき)に配した地文の固地綾(かたじあや)で、夏の色目である花橘(はなたちばな)の五衣(いつつぎぬ)、濃色(こきいろ)幸菱文(さいわいびしもん)生(きの)固地綾の単、白小袖、濃色精好(せいごう)織りの長袴の十二単姿で、桐竹鳳凰を地摺絵(じずりえ)とする穀織(こめおり)の裳をつけ、手には皇后から譲られた檜扇を持っていた。文様のクチナシは黄丹袍を染める染料のひとつである。 10時00分から始まった宮中での結婚の儀では、二人は宮中三殿の賢所に昇殿し、回廊から賢所の内陣に進み、右に皇太子、左に雅子が、それぞれ半畳の畳に着席した。皇太子が内々陣の八咫鏡に玉串を捧げ、立ち座りを繰り返して4回拝礼する「両段再拝」をし、雅子は着席のまま拝礼した。皇太子が結婚を奉告する告文(つげぶみ)を読み、その後賢所の外陣に移り、掌典長から神酒をいただいて、最後に拝礼し15分間で終了、続いて約10分間、皇霊殿、神殿に拝礼した。退出後に、皇族代表として秋篠宮夫妻が拝礼したほか、儀式中の皇太子夫妻拝礼時には参列者も拝礼した。儀式前後には、神楽歌が奉納された。 この儀式には天皇・皇后をのぞくモーニング姿の男性皇族とアフタヌーンドレス姿の女性皇族たち、三権の長、各都道府県知事、雅子の親族など計812人が賢所の前庭にある幄舎(あくしゃ)で参列した。雅子の母・優美子と妹たちは涙をハンカチで押さえながらこの儀式を見ていた。 ===朝見の儀=== 続いて東宮仮御所で昼食後、皇居正殿・松の間で15時00分から結婚後初めて天皇皇后に会う儀式、朝見の儀(ちょうけんのぎ)が行われた。 皇太子はホワイトタイに大勲位菊花大綬章、皇太子妃は皇族女子の第一礼装であるローブ・デコルテに、香淳皇后、皇后美智子と受け継がれているダイヤモンドのティアラほか揃いのアクセサリー一式、勲一等宝冠章、オペラ・グローブを身に付けて儀に臨んだ。ローブ・デコルテは森英恵デザインであり、納采の儀で贈られた織り柄の生地「明暉瑞鳥錦」で仕立てた。 皇太子夫妻は結婚を報告し、天皇皇后は祝福の意を伝えて、親子固めの杯が交わされた。具体的には、御台盤(テーブル)に儀式の料理や、黒豆をみりんで煮た「九年酒」が用意されており、それぞれがこの酒を飲み、御台盤の上で箸を立てる儀式をして終了した。 高円宮憲仁親王は、「あれをお付けになるためにお生まれになったというぐらいお似合い」と皇太子妃のティアラ姿を絶賛した。 儀式後、皇居宮殿竹の間で記念撮影が行われ、夫妻となった二人と天皇・皇后が並んだその写真は、公式のものとして報道などで広く公開されている。このあと、吹上御所の皇太后に挨拶をした。 ===パレード=== 朝見の儀を終え16時42分、皇太子とともに皇居宮殿南車寄に現れた皇太子妃は、ローブ・デコルテの上に薔薇の花びら形の白と金の飾りを襟にあしらった半袖のジャケットを着用し、ドレスと共布のハンドバッグを手にしていた。デザインした森によればこれは彼女が雅子に会ったときの印象が「静かな方だが華やかで白い薔薇のような女性」であったためで、花びらを一枚一枚フラワーアレンジメントのように取り付けた。 皇太子同妃のパレードでは即位の礼で使用されたロールス・ロイス・コーニッシュIIIのオープンカーに乗り込んだ。雨は夫妻を祝福するかのようにこのパレードの前に止み、薄日が差し天気は回復していた。このため、10数分前にオープンカー使用を決定した。 オープンカーは16時45分に宮内庁楽部の演奏する近衛秀健作曲・指揮の「平成の春」、團伊玖磨の「新・祝典行進曲」に送られて出発した。沿道では警視庁音楽隊・消防庁音楽隊・陸上自衛隊中央音楽隊も「新・祝典行進曲」を演奏し、上智大学前で聖イグナチオ教会聖歌隊の「喜びの歌」斉唱もあった。 パレードのオープンカーは周囲を白バイやパトカーなどが護衛して全長170メートルに及び、コースは皇居正門の二重橋から、皇居前広場を出て内堀通りに沿い、警視庁本庁舎前、最高裁判所前を通り、半蔵門前から新宿通りに曲がり、四谷見附交差点を曲がって赤坂迎賓館前から、赤坂御用地の鮫が橋門まで4.25キロメートルであった。 パレードは約30分間で、その沿道を19万2千人(資料によっては約20万人)の人々が日の丸の小旗を手に持って埋め尽くし、夫妻に祝福の言葉をかけた。中には沿道にある学習院初等科の生徒たちも含まれた。この間、夫妻は笑顔で沿道に手を振り続けていた。 パレードが終わるころ、宮邸内のテレビで中継を見ていた高円宮憲仁親王は、同妃久子と娘たちを連れて出かけ、赤坂御用地内でパレードを終えた二人を直接迎えた。 18時00分には一般の三三九度にあたる供膳の儀(くぜんのぎ)で、御饌(ぎょせん)と呼ばれる儀式用料理と酒が用意された御台盤に箸を立てる(形式的に食べるまねをする)儀式、21時00分からは、子孫繁栄を願って妃の年齢の数の餅を4枚の銀盤に並べ箱に納めて供え、3日間寝室に置く三箇夜餅の儀(みかよもちのぎ)が行われて一日の儀式が終了した。 同日、本籍地の新潟県村上市役所では大会議場に金屏風と紅白幕で飾った専用の会場と同市伝統工芸品の堆朱製専用収納箱(朱肉などを収納)を用意し、官報による結婚成立の報を受けた直後の11時00分より、当時の市長・若林久徳が自ら小和田雅子の戸籍の除籍事務を行い、6月16日に彼女の名が皇統譜に登録されて、彼女は姓を持たない皇族の一員となった。 ===宮中饗宴の儀=== 宮中饗宴の儀(きゅうちゅうきょうえんのぎ)は一般の披露宴にあたる。皇太子夫妻の場合は、皇居の豊明殿で6月15日から3日間、昼夜1回づつの計6回行われた。第1回目の饗宴は首相や衆議院議長などが出席した。 このときの夫妻の衣装は、皇太子は昼にモーニング・夜はタキシードで統一し、皇太子妃の1回目(15日昼)は森英恵デザインによるアンズ色のローブ・モンタント、夜は芦田淳がデザインしたロイヤルブルーのイブニングドレス、6月16日昼は、納采の儀で贈られた絹地「やまなみ」を使い芦田がデザインした水色のローブ・モンタント、夜は森によるシルバーとピンクのイブニングドレス、6月17日昼は高島屋デザイナー伊藤すま子デザインのパールピンクと白のドレス、外交関係者を迎えた6月17日夜は青竹色の帯を合わせた白地に束熨斗模様の振袖姿だった。 衣装デザインには皇后の薦めで三笠宮妃百合子らがプロトコールの相談を受け、皇后からもアクセサリーを自由に使うように協力が申し出られた。引出物として菊の紋入り生菓子、つがいのオシドリを描いた銀製のボンボニエールなどが招待客に贈られた。招待客の総数は2700人、総費用は1億7000万円が費やされた。 このほかにも、6月11日に親族のみの内宴が行われ、女性皇族は皇太子妃の水色地綸子の本振袖をはじめ和装で出席しているほか、6月21日には立食で飲み物を手に歓談する「茶会」が行われた。 ===神宮に謁するの儀=== 諸外国の王室では新婚旅行に行ったことが報道され、日本の皇室でも結婚で皇籍離脱した島津貴子は宮崎県に新婚旅行に出かけている。また今上天皇夫妻が皇太子時代の1962年に同じ宮崎県を訪問したことは(結婚数年後であるが)実質的「新婚旅行」とみなされて昭和の時期に新婚旅行ブームを巻き起こしたが、皇太子夫妻が公式に新婚旅行をしている記録はない。ただし結婚の儀に関連する慣習として、6月25日に三重県の伊勢神宮と奈良県の神武天皇山陵に参拝し結婚の奉告をする神宮に謁するの儀(じんぐうにえっするのぎ)が行われ、一部の報道機関はこの2泊3日の旅行を「ハネムーン」と表現した。結婚1か月後までには、国賓を迎えての宮中晩餐会や岩手県へ初めての地方公務にでかけるなど忙しい日々が始まっている。 ==記念貨幣・切手== 二人の結婚を記念して日本円の記念硬貨が発行された。 貨幣デザインは平山郁夫と造幣局工芸官が担当し、前述した皇太子の婚約を詠う和歌にちなみ二羽の鶴と、菊花紋章と皇太子のお印・梓の葉をモチーフとしたものである。金貨200万枚、銀貨500万枚、白銅貨3000万枚が発行された。 日本の郵政省は結婚前日の6月8日に記念切手を発行した。種類は62円切手が2種4000万枚、70円切手が1500万枚で、後日夫妻の肖像入り62円小型シートも発売された。 ==費用と警備== 国事行為たる公式行事に対し、使用された国費は3億5500万円であった。予算上は3つの国事行為に対し2億8600万とされた。うち宮中饗宴の儀に対しては総費用1億7000万円であった。このほかの皇室行事に対しては、皇室費用のうち天皇と内廷皇族の「御手元金」とされる、公金にあたらない内廷費が使われた。 警備上の主要な人員としては、当日のパレードのために5000人、あるいは8000人の警察官が動員され、沿道7.5メートルおきに配置された。事前には前回の皇太子結婚のときと同じく馬車の使用が検討されたが、交通事情や警備上の問題により実現しなかった。 ===関連して発生したテロ=== 結婚の儀の前後、日本国内では天皇・皇后の沖縄植樹祭訪問と東京サミット、皇太子結婚式を合わせて対象とする極左暴力集団の反皇室闘争によるテロが多発し、青蓮院など皇室ゆかりの寺社に対する連続放火事件が発生していた(京都寺社等同時放火事件)。続けて延べ約2,000人による「結婚式粉砕」を主張する集会やデモが1993年6月6日 ‐ 6月9日までに日本全国19箇所で行われた。革労協狭間派は、宮内庁管理部長宅放火事件をはじめ4件のテロ、ゲリラ事件を発生させ、同集団や中核派による宮内庁関係者の個人に対するテロも発生した。警察庁はこれらに対し、アパートローラーなどを展開して対策を強化し、平成5年度に合計129人の活動家を検挙し、秘密アジトを9箇所摘発し抑えた。 また結婚の儀前日の6月8日、革労協狭間派の男女二人組のメンバーが東京都調布市で当時のチッソ社長宅の塀を乗り越えようとしたのを警察が発見した。住居侵入未遂と公務執行妨害でそのうち28歳の女性容疑者が現行犯逮捕され、男性は逃亡した。容疑者は時限式発火装置らしきものを仕掛けようとしていた。 ==社会への影響・反応== ===国民による祝賀=== 婚約内定から明るいニュースとして注目を集め、婚約会見当日には街頭の電光掲示板に正式決定の速報、デパートに祝福の垂れ幕が掲示されるなどした。婚約当時の不況の暗いムードを吹き飛ばすニュースとして、日本社会はお祝いのムードに沸き、新聞では号外が発行された。 ===東京都内=== 小和田邸に近い目黒区の洗足商店街では、成婚前後にお祝いの横断幕や日の丸の小旗を掲げ、多数の記念商品やオリジナルグッズを発売し、小さな商店街は渋谷や新宿のように人が溢れた。同商店街では、その後も夫妻の結婚記念日や成婚10周年の日、敬宮愛子内親王の誕生の際の祝賀、雅子妃や愛子内親王の誕生日などにもお祝いの関連イベントやセールを行っている。あわせて目黒区の4つの町内会有志300人が、結婚の儀前日の6月8日夜に「小和田雅子さんをお送りするちょうちん行列」を行い、小和田家の人々も玄関で出迎えをし、人々の万歳三唱を受けた。 納采の儀に際しては1万2千人ほどの人々が皇居の坂下門付近に集まって祝意を表した。 前述のパレード沿道を20万人の人々が迎えたことに加え、1993年6月12日には明治神宮外苑で結婚を祝う提灯パレードと都民の集いが行われた。このときには皇太子夫妻も会場に出向いて、祝意に応えた。また東京都は、祝賀として6月7日 ‐ 6月9日の間東京都庁をライトアップし、6月21日に東京体育館において夫妻を招いての「皇太子殿下御結婚祝賀記念式典」を東京都知事ほか約9200名の出席で行い、閣議決定の基準に基づいて東京都指定伝統工芸品である銀製の鶴の置物を献上した。なお、これら祝賀については、都知事ほかを被告とし、結婚の儀への出席や祝賀に公費を支出するのは憲法違反であるとして返還を求める裁判が行われたが、東京地方裁判所は原告である都民の請求を棄却した。 ===新潟県内=== 雅子の本籍地である村上市をはじめとする新潟県内では、内定発表直後より、村上城跡での万歳三唱に始まって、上越市や直江津市で祝電を届け日の丸を掲げるなどした。村上市ではライトアップや祝賀の垂れ幕の設置、展覧会、記念植樹、雅子の伯叔父たちを招いて村上藩の士族にゆかりのある鮭の稚魚放流、前夜祭、当日の花火や漁船パレード、おしゃぎり曳き廻しと踊り行列、瀬波温泉コンコン祭りをこの年のみ成婚当日開催に変更するなど、あらゆるイベントで祝賀した。4月17日に新潟市の泉性寺を小和田家が墓参した際も、合計約5500人の市民が歓迎した。 雅子の父・恆の生まれた新潟県新発田市には、清水園の駐車場の一角にその生家の跡地があり、雅子の結婚を記念して彼女のお印であるハマナスの紅白花の木を植えた。 ===祝賀の記帳=== 納采の儀・結婚の儀当日は、国民が祝意を示すための記帳所が皇居や民間団体などに設けられた。納采の記帳は総数1万1799人で、皇太子明仁結婚時の1007人、秋篠宮結婚時の1851人をはるかに上回る記録を残した。結婚の際には受付時間を延長して5万5千773人が記帳した(皇太子明仁結婚時は5608人、秋篠宮結婚時は7718人)のに加え、皇居へ直接行けない人のために産経新聞社が事務局を設けた「皇太子さま雅子さまご結婚慶賀実行委員会」がはがきでの記帳を受け付け、約53500枚のはがきを製本して宮内庁に届けた。 ===政治への影響・恩赦=== 1993年4月22日、衆議院の内閣委員会では、結婚の儀が行われる日を休日とする法案、皇室の内廷からこの結婚を記念して社会福祉団体に対する500万円以内の賜与を可能とすること、内閣の定める基準により婚姻を祝うための贈与を受けることができるようにする議案が提出され、賛成多数で可決された。 この会議の際は、山中邦紀(日本社会党)や山田英介(当時公明党)が結婚には祝意を示しつつ、政府委員らとの間で、賜与や予算の詳細への質問、結婚の儀の主体が結婚する本人たちではなく親の天皇による国事行為であるのは日本国憲法で結婚を両性の合意に基くとすること(第24条)に矛盾するとの意見や、宗教性のある儀式を国事行為として行うことに関する疑問(政教分離原則)を呈し、質疑が行われた。また山中は今回の結婚に際し選挙違反者の恩赦を行わないようにすべきではないかという意見を述べた。三浦久(日本共産党)は、結婚は天皇家の私事かつ神道の宗教行事でありそれに多額の血税をかけることは納得できず、国事行為の拡大解釈であると批判した。 4月23日には恩赦に関する政府方針が明らかになり、実施は特別基準恩赦のみとし、政令恩赦は実施されないことが発表された。当時は有権者の政治不信が根強く、選挙違反者に対しての救済が避けられた。 参議院では、4月7日に納采の儀に対し、6月3日に結婚の儀に対する賀詞(がし)の奉呈(ほうてい)が賛成多数で可決されたが、日本共産党は政策上の立場の違いからこれを国民主権に反するとして反対し、京都府議会でも同様に賀詞が採択されたが、同党議員団が抗議声明を出した。 ===人権団体による抗議=== 部落解放同盟は3月20日、宮内庁が小和田雅子に関し徹底した身元調査を行ったとされる件が内定以来大きく報道されたことを問題視し、結婚差別を助長するとして、三権の長と宮内庁長官に対し抗議文を送付した。 ===マスメディアの報道=== ====日本国内の報道==== 前述のとおり、内定報道を皮切りにあらゆるメディアはこの件を報じ、概ね祝賀一色で、女性週刊誌の表紙は金色の地にタイトルが書かれていた。文化人では林真理子、松原惇子、猪口邦子、曽野綾子、田辺聖子、田嶋陽子などが祝賀コメントを発表した。残間里江子は、自分よりも学歴・収入・身長などが低い女性をパートナーに選びたがる日本男性の中で、雅子という女性を選んだ皇太子の器の「大きさ」に女たちは感激したと記している。 ジャーナリストの亀井淳は、この5年前の昭和天皇崩御による「自粛」の連鎖を経た一般市民の反応には、報道の熱狂に対してクールな部分もあり、若い働く女性からは(せっかくキャリアを積んだ女性が皇室入りして仕事を辞めるのは)「もったいない」という意見もあったとした。しかしマスコミが、再三にわたり断られていた事実にも関わらず、無理に一途な男の愛の物語に仕立てようと、(小和田家など)意思を「貫かれる側」の立場に立たない報道が繰り広げられたと評し、1月19日の婚約会見以降、マスコミの熱は宮沢りえの婚約解消騒動の影響や、二人の様子に「ラブストーリー」が感じられないとして冷めていったと分析した。また2月前後には、週刊誌が皇室内の「いじめ」が始まるといった、バッシングを煽るような内容の記事を載せ始め、保守系雑誌『諸君!』には小堀桂一郎や酒井信彦などの、小舅めいた「説教」や記者会見で二人が饒舌だったことを批判する「諫言」が掲載された。亀井はご成婚が「盛り上がらない」という報道などを紹介し、ミッチー・ブームの時代背景と比較して今回はさほど人心を捉えず、大量の報道は政府やマスコミによる国民への意識操作の面があると主張した。ただし、亀井の分析は1993年4月時点のもので結婚の儀以降の国民の反応(祝賀の記帳や当日の視聴率など)は対象ではない。 また、亀井は報道協定について、報道のモラルを守るという自明のことを明文化しなければ守れず、大政翼賛会的な規制に易々と従った、日本のマスコミの水準の低さを示す恥ずべき歴史と強く批判した。 ===諸外国の報道=== 日本国外のマスメディアでは、国内で「噂」とされてきた件が事実としてはっきりと報道され、婚約に至る過程が、高いキャリアを持つ女性が「いやいやながら」(アメリカ『ザ・ボストン・グローブ』コーリン・ニッカーソン)、「犠牲的行為」(アメリカ『ヴァニティ・フェア』エドワード・クライン)で受諾した愛のない結婚であるという文脈の記事があったり、雅子や父・恆の仕事上のライバル、または旧華族が彼らの足を引っ張ろうと悪意で流した男女交際や性的なスキャンダルに関する話を日本のマスコミが聞きつけ、出身大学などを取材したもののいずれもデマで空振りに終わったなど、率直な内容となっている。 雅子の現代性は興味深いものとして紹介され、そういった女性が古い伝統に挑戦することに期待する内容(オーストラリア『ジ・オーストラリアン・マガジン』レスリー・ホワイト、ドイツ版『Marie claire』など)、林真理子が日本で発表した時評を引用しながら、皇室の伝統の中で厳しい道を歩むのではと案じる内容(シンガポール『ハー・ワールド』関永堅)があった。またドイツの高級週刊紙『ディー・ツァイト』は彼女の決断を自分自身で決めたものであり「雅子さんは一人の愛国者なのである」と評した。 ほかには、スキャンダルと無縁なこのカップルを同時期のイギリス王室のチャールズ皇太子・同妃ダイアナ夫妻の別居問題と対比し、同王室の「不幸」を嘆く論調もイギリスの雑誌(イギリス『ジ・オブザーバー・マガジン』マレー・セイル)や高級紙・大衆紙をはじめ各国でみられた。一方で日本のメディアが報道協定に屈したことや、宮内庁の堅苦しさに対する批判もあった。 徳岡孝夫はこれらの見方に対し、結婚というごく私的な問題を外部から「愛がなかった」などと決めつけることに批判的見方をし、外国人記者の日本文化への無知や、彼らの日本人妻が女性週刊誌報道や噂話で聞いた情報をまた聞きにしているという推察、主流のアメリカ的ジャーナリズムに気高い者の裏を暴いて笑おうとするタブロイド的シニシズムがあると指摘して、すべて事実と捉えることに対しては注意を促した。 ===テレビ放送と視聴率=== 結婚の儀当日、各テレビ局はほぼ全局長時間特別番組を組み、一日の流れを生放送で伝えた。日本テレビは雅子が当日実家を出るところから14時間、TBSテレビは4番組を連続で12時間などで、放送のメインは賢所での結婚の儀、朝見の儀、パレードの生中継である。またフジテレビには皇太子がファンだったというブルック・シールズが生出演した。 結婚の儀テレビ特番のビデオリサーチ調べによる視聴率は、NHK教育テレビを除く総世帯視聴率が結婚の儀の10時12分時点で77.9%、パレード終了直後の瞬間最高視聴率が79.2%を記録した。テレビ局別の平均視聴率ではNHK総合が最も高く、10時台に35.1%、16時 ‐ 18時に29.6%を記録している。また同社の別の調査で、2012年までの50年間の調査中におけるHUT(総世帯視聴率)上位20(6時 ‐ 24時平均、関東地区)では、この日のHUTがあさま山荘事件、昭和天皇大喪の礼の中継があった日に次ぐ歴代3位の62.0%であった。 国外では、同日10時より、CNNが世界200か国以上で衛星中継による1時間の特別番組を放送した。 ===その他の反応=== 結婚前後に注目された雅子のファッションは、結婚後4年経っても特集号が出版されるなど人気を得ている。 内定直後から雅子のセンスが光るファッション面などの景気浮揚に期待する声が上がる半面、シンクタンクによる経済効果の試算は3兆3億3千万円から3千億円までと評価が分かれた。 一方で、才色兼備のキャリアウーマンとしての雅子に期待した向きからは、婚約会見で保守的な皇室ファッションに身を包んだ彼女を、その個性が封じ込められたとして一種の失望を覚える声もあった。たとえば、小説家の林真理子は、会見の雅子を「あまりお似合いとはいえない帽子」を被り、「我々のよく知っている雅子さんではなく、全く別の女性」という印象を受けたとし、皇室に新風を吹き込むことを期待された彼女が巨大な力により瞬時に「規格品」にされたと嘆いた。元MICHIKO LONDONコーディネーターでロンドン在住の作家・入江敦彦は当時、ドイツのイエーガーなど知識階級に支持されるブランドを着こなし、颯爽として知的な美を持つ雅子に宮中服が似合わないという感想を持ち、人気はあるがファッションセンスは「decent」と言われていたダイアナ妃と比較して、キャリアファッションを武器に「recent」(最近の、新しい)な装いを見せていただきたいとその後に期待した。 しかし一方で、取材を続けてきた読売新聞の社会部は、それまでのシナリオに沿ったような皇族の会見と違い、自分の心を自分の言葉で語る雅子や皇太子の率直な言葉に、皇室に新風を吹き込む新鮮な印象を持ったと伝えた。 また逆に保守的な皇室支持者の間からは、会見で挙げた皇太子のプロポーズの言葉に「何から守るというのか(皇族が守るべきは妃よりも国民であるとして)」、「(殿下を幸せにして差し上げたいとは)お立場を弁えていない」などのほか、皇太子より数十秒長くしゃべったことに対してまで批判が起きた。 秘境駅として知られるJR東海の小和田駅(こわだえき)は、「小和田」と同字異音のため成婚前後に注目を集め、恋愛成就にあやかろうとする人々で賑わった。水窪町(当時)は同駅下にある広場で結婚式を開きたいカップルを募集し、うち1組が挙式を行っている。その結婚式を記念して設置された「愛」と書かれたベンチや結婚式の写真などは、今も駅に残されている。 なお厚生省による「人口動態統計速報」では、1993年6月になされた日本での結婚は全国で8万2323件になり、前年比で1万人以上増えており皇太子夫妻への「あやかり婚」とされた。 ===関連商品=== ====音楽==== パレードでも演奏された「新・祝典行進曲」は團伊玖磨作曲による作品で、これが収録されたアルバムが2種発売された。音楽之友社より楽譜も発売されている。また、クラシック音楽をバックに会見や皇太子の和歌を集めたCD『おめでとう! 皇太子さま雅子さま』をポニーキャニオンが発売している。 同じくパレードの音楽「平成の春」を指揮した近衛秀健は、このほかにも皇太子にヴィオラ独奏曲「ロマンス」を捧げ、CD『ロイヤル・ウェディング・アルバム』(ソニー)を発売した。 また、ボストン・ポップス・オーケストラが結婚の儀にささげる曲「ロイヤル・ファンファーレ」を発表した。 ===その他商品=== 京王帝都電鉄はご成婚記念乗車券を3枚1組、1万セット販売した。東京都交通局は、6月9日から7月8日までの任意の1日に、同局運営の交通機関に何度でも乗車できる「皇太子殿下御成婚記念都電・都バス・都営地下鉄一日乗車券」を1万1000部発行した。 玩具メーカーのタカラは、着せ替え人形・ジェニーとジェフのロイヤルウェディングペアセットを発売した。十二単・束帯のセットが3万5000円、ローブデコルテ・モーニングのセットが1万4000円で、百貨店などで販売された。 ===テーマとした作品=== 漫画家の小林よしのりは、結婚の儀に関する一連のマスコミ報道への違和感を『SPA!』連載中の『ゴーマニズム宣言』で「カバ焼きの日」と題した時事ギャグ漫画として表現したが、編集部による掲載拒否にあい、原稿を青林堂に持ち込み、原稿料無料で『ガロ』1993年9月号にて特別篇として掲載した。単行本版には収録された。 島田雅彦が2000年から発表した小説代表作シリーズである『無限カノン』三部作、とくに第二作『美しい魂』は、主人公の青年・カヲルと皇太子妃候補となる麻川不二子との恋愛をメインテーマとしており、不二子の生い立ちや皇太子清仁親王(英宮)との婚約の経緯は皇太子夫妻の結婚と同時期に設定されている。島田は作品の真意が誤解されないよう、入念な直しを加え、不二子が雅子妃と同定されるキャラクターにならないよう慎重に配慮を行った。また島田は皇室に対する戯画的な表現や「おちょくり」により問題を引き起こすことには否定的であった。しかし当初予定されていた『美しい魂』出版予定日が、雅子妃の愛子内親王出産予定日と重なった。『風流夢譚』事件や他の文学者が経験した右翼団体の脅迫行為を知る島田は、それらの暴力的反発、またこれに対し決定稿をさらに改変することによって作品の起爆力を失うことを恐れ、版元との話し合いの末、出版延期を決意した。結局、同書は2003年に決定稿のまま出版された。 =櫻間伴馬= 櫻間 伴馬(さくらま ばんま、1836年1月6日(天保6年11月18日) ‐ 1917年(大正6年)6月24日)は、シテ方金春流能楽師。1911年(明治44年)以降は櫻間 左陣を名乗る。 維新後低迷を続ける能楽界にあって、熊本出身の一地方役者ながら、その卓抜した技で観客の喝采を博した。能楽復興の立役者として、初世梅若実、16世宝生九郎とともに「明治の三名人」の一角に数えられる。子に櫻間弓川がいる。 ==生涯== ===生い立ち=== 1835年(天保6年)、熊本の中職人町(現在の熊本市)にあった新座舞台で、櫻間家の長男として生を受ける。父は熊本藩に仕える金春流能役者・櫻間右陣(三角紋理)、母は美加子。弟に金記、林太郎がいる。 櫻間家は代々藤崎八旛宮に奉仕すると同時に、喜多流の友枝家とともに、熊本藩のお抱えとして能役者を勤める家柄であった(後述)。そして友枝家の座を「本座」と呼ぶのに対し、櫻間家の方は「新座」と称された。役者同士はそうでもなかったが、本座と新座の贔屓筋はお互い仲が悪く、対抗意識が強かった。 父・右陣は、櫻間家の代々の名が「左陣」であったのを敢えて「右陣」と名乗るなど、かなりの変わり者であった。羽二重の着物に紫縮緬の羽織という、当時の熊本としてはかなり派手な服装を常用し、その格好のまま漁に出て投網も打てば、雨が降り出しても「先のほうも降っている」と傘もささずのんびり歩いていた、という話が伝わっている。それでいて優れた舞い手でもあり、右の頬に大きな痣が目立っていたが、ひとたび舞えば誰もそれが気にならなかったという。 1841年(天保12年)、藤崎八旛宮祭礼で初シテとして「経政」を勤める。 青年時代の伴馬は美男役者と評判で、楽屋に落とした彼の元結いの切れ端を、奥女中たちが取り合っては、それを守り袋に入れて大切にしたと言われる。恋文を届けられることもしばしばで、「花のようなる伴馬様」と記された手紙を、ずっと後になって、弟子の高瀬寿美之が伴馬の部屋で見つけたという話がある。 ===江戸修業=== 1856年(安政3年)、21歳で、細川家家老の八代城主・松井佐渡守に伴われ、修業のため江戸に上る。出立の際には親類が総出で見送りに来、伴馬も「修業が成就しなければ再び故郷の土はふまない」と覚悟しての旅立ちであった。この時は1年で熊本に戻ったが、父・右陣がコレラで死去した1858年(安政5年)、藩主・細川斉護の勧めで再度出府、以後1861年(文久元年)まで滞在した。 江戸で伴馬が師事したのは、73代金春流宗家・金春元照の弟子で、金春座の地謡方であった中村平蔵であった。平蔵についてはその来歴が詳らかでないが、後に宝生九郎が「口は悪かつたが芸はよかつた」と語っているように、かなりの腕を持つ役者だったらしい。後に伴馬の弟・金記も、平蔵に師事している。 平蔵の稽古は厳しいもので、曲中に一句でも満足に謡えない部分があれば「十日や二十日一行も先へ進むことが出来ない事などは何時もの事」であり、「あまりの厳しさに情なくもあり、何うして謡つたらいいのか途方に暮れてポロポロ涙をこぼす事が幾度あつたか知れません」と、後年伴馬は追想している。「是界」の稽古で突き飛ばされた時には、ぶつかった壁に中指がめり込んだという。後に伴馬はその稽古の厳しさを繰り返し息子・弓川に語ったが、一応平蔵も細川家への気兼ねから、多少は手加減をしていたらしい。 伴馬は細川藩邸から平蔵の元に通っていたが、江戸滞在中に起こった桜田門外の変の際には、水戸側の浪士が藩邸に飛び込んでくる、という出来事に遭遇している。緊迫する情勢の中、1861年に伴馬は細川護久に従い、熊本に帰る。 ===熊本時代=== 当時、熊本で行われていた能は、専らあてごとの多い写実的な(即ち芝居のような)芸であった。その中に、伴馬は本格的な江戸風の芸を身につけて帰ってきた。そのため、江戸帰りの伴馬の能を見た熊本の人々は、「伴馬は江戸へ行って能が下がった」と揃って嘆いたが、逆に本座の大夫で伴馬の良きライバルだった友枝三郎だけは「いや、あれが本当の能だ」とその実力を認めた。 当時、熊本を初め、八代・川尾・長崎・臼杵・竹田といった豊肥各地では、非常に盛んに能楽が行われていた。伴馬も大名家での演能、また神事能への出演の他に、自ら日数能を主催し、毎回大変な盛況を博していた。 江戸幕府が倒れた1867年(慶応3年)、伴馬は32歳であった。幕府・大名からの扶持で生活していた能役者たちは、維新によりその多くが零落、能の道を離れるものも少なくなかった。後に伴馬とともに「三名人」として並び称される初世梅若実など、ごく一部の役者が地道な活動を続けたものの、同じく「三名人」の一人とされる宝生九郎でさえ、農家暮らしを余儀なくされるという有様であった。 伴馬はそんな情況の中、熊本を中心に活発な演能活動を続けた。前述の通り元より一帯は能が盛んであり、また維新以後本座・新座間の対抗意識がこれまで以上に激しくなったことも、かえって伴馬を芸に打ち込ませる要因となった。熊本、あるいは竹田などでたびたび日数能が催され、伴馬は1日に2番舞うこともあった。当時の熊本での舞台の数は東京の3倍以上だったといわれ、伴馬の生涯1500番あまりに及んだ舞台のうち、その多くはこの熊本時代のものだったと見られる。 このように充実した活躍を続けていた伴馬だったが、1877年(明治10年)、西南戦争に遭遇する。熊本も兵火に巻き込まれ、櫻間家の舞台も焼けてしまったため、伴馬は弟・金記とともに、装束や面を背負えるだけ背負って、熊本から2、3里離れた村まで避難した。以後しばらく、菓子屋で生計を立てることを余儀なくされるなど、伴馬にとって苦しい時期となった。 ===東京進出=== 1879年(明治12年)、旧主・細川護久の勧めを受け、45歳で伴馬は東京へ移住する。 上京した当初、伴馬は両国河原町辺りに住んだが、後に横山町に住居と稽古場を設けた。また小さな糸問屋と煙草屋も開き、伴馬の長女・梅がこの店を持ったが、これは能では暮らしていけなくなった時のための、護久の配慮だった。 1881年(明治14年)、華族を中心とした後援団体・能楽社により、芝能楽堂が創設される。「能楽復興のシンボル」となったこの能楽堂の舞台披きに、伴馬は「加茂」(半能)で出演した。もっともこの時点では伴馬はまだ「一介の田舎役者」に過ぎず、扱いも決して大きなものではなかった。 伴馬の名を一躍知らしめたのは、1882年(明治15年)5月、芝能楽堂で舞った「邯鄲」である。折しもその前月、梅若実が同じく「邯鄲」を舞ったばかりであったが、伴馬はそれを凌ぐ巧みな技を披露した。 そして翌1883年(明治16年)4月、伴馬はやはり芝能楽堂で「道成寺」を舞った。この「道成寺」は高度な技術が要求される曲だが、中でもその見せ場となる鐘入りで、伴馬は「斜入」あるいは「舞込み」と呼ばれる特別な型を披露し、満座の喝采を浴びることとなった。 この鐘入りの場面は通常では、演者が舞台上に吊された鐘の下に来て、その場で鐘に両手をかけて飛び上がる、と同時に後見が鐘を支える綱を放し、演者は落ちてくる鐘に吸い込まれるようにその中に消える、といったものである。しかし伴馬が披露したのは、通常より高く鐘を吊し、演者が一足離れた位置から回りながら飛び込んでくるのに合わせ、後見が勢いよく鐘を落とす、という、一歩間違えば怪我をしかねない難しい技であった。 この技の鮮やかさに、観客席の藤堂高潔などは躍り上がって喜んだといわれる。また宝生九郎も、「櫻間の芸は本物である、地方で育つた能役者であれだけの人は古今を通じて出たことがない」と賞賛した。以来、伴馬は梅若実、宝生九郎と並び立つ当代きっての名手として、その名声を確立することとなった。 ===「金春流の大久保彦左衛門」=== 当時、能楽界には漸く復興の兆しが見え始めていたが、伴馬の属する金春流は一向にふるわない有様であり、伴馬は東京の金春流を代表する立場となった。 上京の翌年である1880年(明治13年)、伴馬は細川護久とともに、当時奈良に在住していた元金春大夫・金春広成の元を訪ね、その上京の契機を作った。なお、『能と金春』368頁では、広成が東京の護久邸を訪ねたとある。伴馬が広成と舞った「二人静」は、「シテが上を見るとツレは下を指している」という具合で、これほど揃わないのも珍しいというような相舞であったが、14世喜多六平太をして「まづあれくらゐ面白い二人静も、前後になかつた」と感嘆させしめるものであった。 広成が1896年(明治29年)に死去した後は、息子の金春八郎が宗家を嗣ぎ、伴馬がその指導に当たったものの、金春宗家に比して「細い」と評せられた伴馬の芸風との相違もあってか、十分に稽古を受けることがないまま、酒毒のため1906年(明治39年)で没した。 76世家元となった金春広運は奈良を拠点に活動したが、青年期に同じく中村平蔵に師事していたということもあって伴馬への信頼は厚く、当時伴馬は「流儀の大久保彦左衛門」と呼ばれたという。広運の次男・栄治郎(のち77世家元)は、東京の森山茂の元に預けられ、伴馬の元に通って稽古を受けた。 1909年(明治42年)には、能楽奨励案を帝国議会に提出するに当たり、各流の家元とともに、金春流の代表者としてその名を連ねた。 宗家に対しては、伴馬は芸の上では厳しく指導したが、あくまで師家として敬意を払い、決してないがしろにすることはなかった。 ===三名人の一人として=== 上京当初は、「道成寺」「邯鄲」のような巧技を主体とした曲はとにかく、本格的な能ではまだ梅若実・宝生九郎に一枚劣ると見なされた伴馬であったが、東京での活動の中でさらにその芸を高めていくこととなった。 1894年(明治27年)、還暦に際して、老女物として重く扱われる「卒都婆小町」を披く。伴馬はこの舞台のために1年かけて準備を重ね、またかねて敬服していた宝生新朔に頼み込んでワキを勤めてもらい、ワキツレにその弟・宝生金五郎、大鼓・津村又喜、小鼓・三須錦吾、笛・森田初太郎、そして装束を宝生九郎に借りるなど、万全の体勢で望んだ。これはまさに伴馬会心の舞台となり、「卒都婆ほど面白いものはない」と感激して、以後決してこの曲を演ずることはなかった。 また当時、英照皇太后、昭憲皇太后、そして明治天皇と、皇室には能の愛好者が多く、伴馬も上京以来晩年まで、たびたび天覧・台覧の機会を得ることとなった。中でも、1910年(明治43年)7月、前田侯爵邸に明治天皇が行幸した際には、ぜひ伴馬の「俊寛」を観たい、と天皇からの沙汰があり、番組を変更してこれを勤めた。伴馬はその前月に九段能楽堂で、昭憲皇太后の台覧のもと「俊寛」を舞っており、その好評を受けてのことであった。当日天皇は謡本を手に終始熱心に舞台を観ており、伴馬を感激させた。 天覧能・台覧能以外でも、1898年(明治31年)4月、京都東山阿弥陀峰で催された豊国祭大能での「実盛」、1911年(明治44年)5月、京都東本願寺大師堂白州での「自然居士」などの大舞台が、いずれも好評を博した。 ===晩年=== 1911年(明治44年)、喜寿を祝して、「左陣」に改名。 同世代の宝生九郎が余力を残して舞台を退いたのに対し、左陣は「舞台の上で舞ひながら仆れたい」と語ったように、晩年に至ってもなお舞台への意欲を捨てなかった。1913年(大正2年)には名古屋で「景清」を演じ、好評を博している。 1915年(大正4年)、大正天皇の即位式に、宮城で能が催された(いわゆる「大典能」)。当代を代表する役者が集められたこの演能に、当初「高砂」は前シテを金春栄治郎、後シテを左陣の次男・櫻間金太郎(後の弓川)が勤めることになっていたが、栄治郎が前夜に40度以上の高熱に倒れてしまった。この事態に、準備に当たっていた池内信嘉は、「年こそ取つたれ、流石は老練、櫻間左陣に代理さすが至当」と申し入れ、急遽左陣が代役として舞台に上がることになった。また孫の金太郎によれば、この時81歳の左陣は自ら代役として出演することを申し出たともいい、高齢を理由に心配する周囲の声も、「いや、何々」と聞かず、舞台に上がったという。 果たしてその出来は素晴らしいもので、地謡として舞台に出ていた甥の道雄は、「強靱な腰で、まるで足が板に吸いついているよう」「盤石のような風姿が今も眼に残っている」とその印象を語っている。そしてこれが、装束能としては最後の舞台となった。 以後は寝たり起きたり、といった生活であったが、謡については弟子たちを厳しく稽古し続け、また六尺棒にすがりながらも起き上がっては、型の指導をしていた。また1916年(大正5年)に生まれた嫡孫・龍馬(のち父の名を継ぎ、金太郎)をあやしては、「ああ、これが私の家を継ぐんだな」と感慨にふけっていたという。 1917年(大正6年)、6月に入ってからは己の死期を悟り、死の4日前には菩提寺の僧を呼ばせて読経を受けた後、息子・金太郎が「誓願寺」を謡うのを聞き、「もうこれで安心した。思ひ残すことも、気にかかることも、何もない。私の胸ははればれした。何時死んでもいい」と繰り返した。同月24日はかねて信仰していた加藤清正の縁日であり、信心仲間に代わりにお参りに行ってもらった後、その人の読む法華経を聞きながら眠りについて、そしてそのまま静かに息を引き取った。83歳。 同年の3月に「三名人」の一人・宝生九郎が、また同郷の友枝三郎も5月に没しており、この年を以て「明治能楽」は終焉を迎えたと言える。 ==評価== ===その芸について=== 「明治の三名人」のうち、梅若実は「機略」(「情」とも)に勝り、宝生九郎は「位」に勝り、伴馬は「技」に勝る、と称された。 そのため特に、巧技を一曲の見せ場とした、「邯鄲」「道成寺」「望月」「石橋」「乱」といった能においては、他の追随を許さなかった。喜多実は、老境の伴馬の「実盛」「融」について、「大きな舞台をいっぱいにする程の力」「軽舟の急流を奔るがごとく、天馬空を征くかと感ぜらるるほどの颯爽」として、「烈々たる気魄が、五尺の短身から火花が散るようにさえ感じさせる」と記している。また野々村戒三は印象に残っている演能として、「自然居士」「車僧」「船弁慶」「藤戸」といった曲を挙げている。 能評家の坂元雪鳥は、伴馬の能について、以下のような評を残している。 「僧都頭巾ならぬ黒頭にて「後の世を」と立出でたる顔色憔悴形容枯槁したる流人の姿の憐れさ十分に表はれ、秋風袂を払ふの感あり」「更にしほしほと崩折れたるは其情趣筆に尽す可らず。森としたる満場*11867*(ここ)に至りて破るる如き喝采を以て酬いたり」(1908年(明治41年)5月「俊寛」)「判官を打擲する辺から後の気が掛つた事は恐しい程であつた。その又男舞の面白さは何とも云へない。脇はお誂への宝生新、シテ、ワキ共に日本一の称を恣にせしめた」(1910年(明治43年)5月「安宅」)「前シテの凄さは勿論、後シテの鮮かさ、何時も乍ら此爺さんには感心させられてしまう」(1910年(明治43年)6月「殺生石」)「其舞の鮮やかさ、其人は飽くまで枯淡、其芸は飽くまで濃艶、其間に少しの矛盾がない所が、此人の斯界第一の人たる所である」(1910年(明治43年)9月「融 笏之舞」)「伴馬の「百万」には聊か困つた。評しやうが無いのに困つた。何処と取立てて挙げる事が出来ない……際立つた所が無いといつても、こんな能は滅多に見られるものでは無い。これから考へると万三郎や六平太など、平常私の好な人々も何処が宜かつたと、其部分部分を列挙される間は、未だ未だ前途遼遠だなアと感ぜずに居られない」「伴馬の能の内で私が最も上品と感じた一つである」(1911年(明治44年)10月「百万」)「威風四辺を払つて、是で八十の老人とは誰が眼にも見えなかつた」「イロエの打上げに車の轅を掴んだ時は本当に虚空へ引摺上げるのではないかと思ふ程の強烈な、何うして斯うも強い力が芸の上に表はれるものかと恐ろしい程であつた」(1913年(大正2年)7月「是界」)一方で、甥の櫻間道雄は、伴馬の能はどこまでも「技術一辺倒」で、「巧技の駆使に一生をかけた」あまりに「巧技におぼれた」と言うべき側面があり、精神的な領域も含めた「芸術家」としては不足だったと批判している。喜多実も道雄に近い見解を示し、「彼の名声は比較的技術本位の曲に集って、動きの少ない、然し能としてもっとも高度とされる曲に薄い点は注目すべきである」として、ある批評家の「ひっきょう伴馬は左甚五郎ですよ」という発言を引いている。 ===能楽界への影響=== 能楽界全体にリーダーシップを発揮した梅若実・宝生九郎に対し、伴馬の影響力はあくまで限定的なものであった。しかし指導者としては、嗣子の櫻間弓川を初め、櫻間道雄、高瀬寿美之、本田秀男などの後継者を残し、特に弓川は伴馬譲りの技と謡の巧みさを以て、大正・昭和期を代表する名手に数えられた。また甥の道雄も晩年に至って、その芸を高く評価されている。 他流ではあるが、伴馬より一世代下で同じく巧技を以て謳われた名人・14世喜多六平太にも、伴馬からの影響が指摘される。六平太自身、青年時代に「邯鄲」を舞った際、伴馬の真似をして喜多流にない飛込みの型を演じ、流儀の古老に大目玉を食った思い出を語っている。六平太は同世代に、堂々たる芸風を武器とする初世梅若万三郎というライバルを抱えており、同じタイプの役者である伴馬が成功を収めたことは、自分の行き方への自信に繋がっただろうと息子・喜多実は述べている。 また野上弥生子によれば、昭和初期を代表する能楽研究者・野上豊一郎が本格的に能の道にのめり込んだのは、伴馬の芸に感銘を受けてのことであった。それを契機に野上夫妻と弓川とには深い交流が生まれ、それが子方なしの「隅田川」や、映画「葵上」など、多くの実験的活動に繋がった。 ==家族== ===櫻間家=== 櫻間家の遠祖は、藤崎八旛宮の創建に従って熊本に下り、現在同社の末社として祀られている藤田蔵人という神官であったといい、伶人の家柄であった。 櫻間家の直系の祖先となったのは、江戸初期に備前から熊本に渡ってきた櫻間杢之助(のち三右衛門、また三法師丸とも)で、藤田家の養子に入ったとも言われる。いずれにせよこの櫻間が、当時細川家お抱えの能役者だった金春流の中村家に入門し、後に中村家が士分に取り上げられてからは、櫻間家が細川家、また藤崎八旛宮に仕える能役者の家となった。 ===子弟=== 伴馬には2人の弟があった。長弟が櫻間金記(1847年‐1915年)で、伴馬と同様に中村平蔵に学んだ。伴馬は各地に稽古場を作ったが、これは専ら金記に任されていた。伴馬とは対照的に理詰めの性格で、役者としては兄の影に隠れる形で大成できなかったものの、甥・道雄は金記から多くのことを学んだと述懐している。次弟が櫻間林太郎(?‐1922年)で、伴馬・金記が熊本を離れてからは、同地に残って能役者としての奉仕を続けた。才気はあったが稽古には不熱心で、伴馬は「天分は一等豊かですが勉強しませんでしたから」と慨嘆していたという。この林太郎の子が櫻間道雄である。 1892年(明治25年)、天然痘の流行により妻、そして22歳の長男・三八を相次いで亡くす。特に三八は、後継者として育て上げ、「流石は櫻間の伜」と将来を嘱望されていただけに落胆も大きく、一時は熊本に帰ろうとしたが、白井競ら周囲の懸命の説得にようやく思い留まった。 次男・金太郎(初名金次、のち櫻間弓川)は伴馬54歳の時の子であったが、能の将来に悲観的だった伴馬は、弓川が15歳になると、本人が嫌がるのを無視して商人の道に進ませた。しかし弓川は何としても父の芸を学びたかったため、旧主である細川家の家令たちに頼んで伴馬を説得してもらい、ようやく伴馬は本格的に指導を与えるようになった。 また池内信嘉によれば伴馬は「若い女に接してゐるくらゐ身体の養生になることはない」と豪語し、はるかに年下の妾を抱えていたという。 ==人物・挿話== ===性格=== 生涯「熊本人気質」(いわゆる肥後もっこす)を通し、しょっちゅう「馬鹿づら!」と怒鳴り散らす「癇癪持ちの頑固爺い」であった。維新後も1889年(明治22年)に旧主・細川護久が死んで剃髪するまで丁髷を結い続け、狂言の山本東、小鼓の三須錦吾と並び「三マゲ」のあだ名があった。死の前年に孫の龍馬(のちの金太郎)が生まれた時には、その髪を引っ張り伸ばして、とうとう丁髷を結わせたという。 息子の弓川によれば、ひどくせっかちでそそっかしい性格だったが、何故か時間にだけはルーズだった。ある時、宝生九郎に頼まれて、さるお屋敷を皆で訪れることになった。この時伴馬は珍しく時間通りに到着したが、待ち合わせの時間になっても誰も現れず、2時間ほど経ってようやく皆が集まってきた。さすがの伴馬も「2時間も待たせるとはどういうわけだ」と九郎に詰め寄ったのだが、実は伴馬があんまり時間に遅れるので、あらかじめ2時間早い時間を教えていたのだと解り、大笑いとなった。 その後、ある人から楽屋入りが遅れたことに厳しい小言をもらったことがきっかけで、逆にひどく時間を気にするようになり、正午になると稽古を止め、弟子の高瀬寿美之などに時計を持たせて物干し台に登らせ、午砲の音を確認させてほっとしていたという。 ===芸が好き=== とにかく能を舞うことが好きだったと、弓川、池内信嘉などが共通して語っており、依頼さえあれば快く舞台に立ったという。晩年に至るまで風邪一つ引かず、稽古をしていても50歳以上若い弓川が先に参ってしまうほどに頑健な身体の持ち主であった。 71歳で「道成寺」を舞った時には、次に「融」を舞うはずだった弟・林太郎が体調不良を訴えて舞台に出ようとしなかったので、伴馬は「じゃあ俺が前を舞ってやるから、後だけは自分で舞え」と、立て続けに「融」の前シテを舞ってみせた。また暑い盛りに「山姥」を舞って後、門弟に団扇で扇がせながら大汗を拭って、「此の涼風に浴した時の心持は、実に何とも形容の出来ぬ愉快さ」と語り、周囲を驚かせたという。 また「少しでも多く聞き、之れを我が心の内へ取り入れ、かれこれを比較して、長を取り短を捨てる働きが無くては芸は上りません」と語るように、その種類を問わず良い芸は自分で見なければ気が済まない性分であった。自身の芸談でも、九代目市川團十郎の舞台に触れ、これを賞賛している。 ===稽古=== 伴馬の稽古が厳しかったことは、弟子たちが口を揃えて語るところである。甥の道雄によれば伴馬の教え方はひたすらに実地的なもので、理屈は一切抜きであった。 その厳しさは子方(子役)相手でも変わらず、後の喜多流宗家・喜多実は、幼い頃「七騎落」の子方として借りられた際、何の容赦もなく叱りつけてくる伴馬の気迫に、思わず縮み上がるとともに悔しさを覚えたという。もっともこれが災いすることもあって、「安宅」の稽古中、子方を厳しく叱ったあまりにその父親が怒ってその子を連れて帰ってしまい、弱って姉婿に「白髪頭でもよいからお前やれ」と頼む、というようなこともあった。 稽古・習道論としては、「芸の向上は瓢箪の如し」が持論であった。つまり、最初のうちは自らの不足が解るので、その空洞を埋めるように稽古に励むことが出来るが、それが満たされてくると安心・慢心が起こってくる。それを脱するのはちょうど瓢箪の狭い節を抜けるように難しいことで、それには良き師の教導が欠かすことが出来ない。そうしてその節を抜け出すと、今度はまた広いところに出て、自らの不足に気付かされる。そこで再び稽古に励むが、また節に近づくと安心してしまう。伴馬は芸の進歩とはその連続であると考えており、かつその形は「瓢箪の小さいのから大きいのを順々に継ぎ合した」ような具合で、節を抜けるたびにその空洞はどんどん大きくなっていく、即ち自分の不足を感じることがどんどん増していき、次第に慢心からも遠ざかっていくことができるのだという。 ===道成寺=== 1883年(明治16年)4月の「道成寺」は、伴馬の名を一躍高め、以後「道成寺」は伴馬の得意曲として、実に16度にわたって舞うこととなった。芝能楽堂で催された数々の能の中で、伴馬の「道成寺」、宝生新朔の「壇風」は客席が完全に埋まってしまう最大の呼び物であり、「二幅対」と称された。 この曲は鐘を落とす役割の「鐘引き」の人間との息が合うことが肝要であり、伴馬は「道成寺」を舞う際には、田舎に暮らしていた弟の金記を必ず呼び寄せ、鐘引きの役をやらせていた。ある時、青山御所で「道成寺」を勤めたが、鐘引きとの呼吸が合わず、肩を打つという失敗があった。以後しばらくは「舞込み」の型を封印していたが、70歳にして久しぶりにこれを披露した際には、見事に成功させて見せた。 しかしその伴馬も息子・弓川には、この危険な「舞込み」の型を教えることを躊躇し、この型を自分一代で終わらせようと考えていた。これを聞いた池内信嘉が、歌舞伎の5代目岩井半四郎の挿話で伴馬を叱咤激励し、ついに弓川にこの型を伝授させた。以来この型は、「櫻間家の専売特許」と称されるに至った。 ===宝生九郎=== 宝生九郎とは「明治の三名人」として並び称された間柄であったが、伴馬の腕を認めた九郎は上京当初から何かとその世話を焼き、また伴馬も「九郎先生ほど自分の気持を理解して下さる人はない」と全幅の信頼を寄せた。九郎は煙草を好んだため、煙草屋をやっていた櫻間家から、弓川が熊本産の煙草を届けていた。 しかし伴馬は吃音の上、強い熊本訛りがあり、家族でさえ話の内容が解らないことがあるほどだった。しかも、一方の九郎はかなり耳が悪かった。意思疎通を心配する弓川に対して、伴馬は「ナーニ、九郎さんは俺の話が一番よく判るんだ」と嘯いていたが、後年池内信嘉が弓川に語ったところによると、九郎は「伴馬が来ても、何を話して居るのかサツパリ判らなくつて弱るよ」と洩らしていたとのこと。 また九郎は舞台に立つ機会に恵まれない弓川の境遇に同情し、伴馬と相談して、12年間にわたり、隔月で宝生会の舞台に客演させた。この舞台のために伴馬は弓川に必死の稽古をさせ、まさに真剣勝負の意気込みで臨んだ。 九郎、また同じ「三名人」の梅若実が、指導者として能楽界に強力な影響力を発揮したのとは反対に、伴馬は生涯一能役者としての態度を貫いた。また、宝生九郎が弟子はおろか弓川についても、能評で誤ったことを書かれればすぐさま反駁したのに対し、伴馬は自分が賞められているのを読んで「ウム、少しは能が分つて来たカナ」と呑気に受け流す、といった具合で、まるで正反対であった。 =罪と罰 (椎名林檎の曲)= 「罪と罰」(つみとばつ)は、日本のシンガーソングライター椎名林檎による楽曲。この楽曲は「ギブス」とともに椎名の2作目のスタジオ・アルバム『勝訴ストリップ』からの先行シングルとして東芝EMIより2000年1月26日に日本で同時発売された。楽曲は「ここでキスして。」のリリース後に椎名が過労から化膿性炎症を発症し全ての活動を休止、自宅療養していた際に書かれた。音楽性としては1970年代風のロック・バラードであると指摘されており、椎名はこの楽曲を巻き舌と絶叫に近い掠れ声を用いて歌っている。更に楽曲にはゲスト・ミュージシャンとしてBLANKEY JET CITY(当時)の浅井健一がギターで参加している。 この楽曲は大衆的に成功を収めており、オリコンシングル・チャートで最高位4位を記録。シングルは累計で54万枚以上を売り上げている。楽曲のミュージック・ビデオは木村豊が監督を務め、ビデオは”クルマを切る”というコンセプトの元で制作された。ビデオで椎名は眉を全剃りし両目の周りが真っ黒に塗られた容貌で刀を一振りし、車を真っ二つにする、という設定。このビデオは評価を受け、2000年のSPACE SHOWER Music Video Awardsでは最優秀女性アーティストビデオ賞を受賞した。更に、「罪と罰」は1999年の先攻エクスタシーツアーにて初披露されたほか、2000年の下剋上エクスタシーツアーや2003年の雙六エクスタシーツアー、2008年に行われたライブ林檎博など複数回にわたってライブ・パフォーマンスされている。 ==背景== 「罪と罰」は、セカンド・アルバム『勝訴ストリップ』からの先行シングルである。この楽曲は『無罪モラトリアム』を引っさげての初の全国ツアー先攻エクスタシーツアー初日である1999年4月1日に椎名の地元福岡公演で初披露された。椎名はその際のMCにおいて、博多弁で”まったくリリース予定のない曲やけん、もし、これがシングルで出て欲しいと思った人は、東芝EMIに手紙でも書いてください”と話し、ファンに対して楽曲のシングル化を訴えている。後に椎名はこの呼びかけを自分の地元福岡だけでのリップサービスのつもりだったと語っている。しかしながら、ファンはこの呼びかけに反応した。実際に東芝EMIに対し楽曲のシングル化を要望する運動が起こり、リリース嘆願のための署名運動が行われる事態とまでに発展した。同じ頃、EMIは「本能」に続く新しいシングルのリリース計画を立てていた。その中で「ギブス」とこの楽曲「罪と罰」がシングル候補に上がっていたが、椎名、EMIスタッフともにどちらをシングルにするのか絞れり切れずにいた。椎名はこの件について、電子版フリー・ペーパー”電脳RAT Vol.12”のなかで”どっちを出そうかすごく悩んで、もう自分で決められなくなっちゃって。それでスタッフに任せたら、スタッフの人達も決められなかったらしく(笑)。”と語っている。シングル化の選択は最後まで決着せず、結果「罪と罰」は「ギブス」と共に同時リリースされる運びとなった。また、椎名は2枚同時リリースについてはあんまり意味はないとしている。 ==制作と録音== 「罪と罰」は、「ここでキスして。」のリリース後に過密スケジュールからくる過労によって急性化膿性炎症にかかった椎名が全ての活動を休止して自宅で療養していた1999年1月頃に制作された。「罪と罰」はその時に受けたインスピレーションを元に書かれており、椎名は楽曲について「歌詞は病棟での日記ですね。病気になっちゃったのは罰なんだって自分を責めている。その気持ちが振り切れちゃっている。いっつも人のいうことを聞かないからこうなったっていう」と語っている。 レコーディングでは、椎名の憧れていたBLANKEY JET CITY(当時)の浅井健一がゲスト・ミュージシャンとしてギターで参加している。椎名は「『罪と罰』は絶対浅井さんにギター弾いて欲しかった」と語り、ギターパートのみを外して収録したMDのデモテープとこの曲に対する気持ちと自身の電話番号を書いた手紙を同封して浅井に送ったところ、後日浅井健一から連絡が入り、「カッコイイ曲だね、弾くよ」と快諾し今回の参加が実現した。「罪と罰」は浅井とのセッションによって楽曲が盛り上がり、元の収録予定時間に対してアウトロが伸びる結果となった。またアウトロには浅井による歯笛も挿入されている。 ==音楽性と歌詞== 「罪と罰」は椎名によって作詞作曲され、編曲は長年コンビを組んできた亀田誠治と二人で行っている。 音楽性的に「罪と罰」はヘヴィー級の重厚感のある1970年代風のロック・バラードであると指摘されており、椎名は楽曲を絶叫に近い掠れ声と巻き舌で歌っている。収録時間がシングル版では4分43秒であるのに対して、アルバム収録版では5分32秒と大幅に伸びている。 歌詞は、本人曰く”病床に伏してた時の私の日記”。元々病弱気味だった椎名が「ここでキスして。」のリリース後に体調を崩し寝込んでいる最中に気分が落ち込み、ネガティブな状態だった気持ちを書いたもので、同じ時期に「病床パブリック」の歌詞も書かれた。更に前作「本能」と今作「罪と罰」の歌詞はワンセットになっており、また「罪と罰」は歌詞で語られている以上に別の意味も持っているという。椎名はこの点について、「『本能』の歌詞みたいな自己顕示欲とか嫉妬心とかの本能に対しての罰。だから、『本能』と『罪と罰』は同じことをいってる。本能を肯定するか、罰だとするかという違い。」 ==チャート成績== この楽曲はフィジカルでは1月26日にシングル・リリースされた。シングルは2000年2月第1週付の発売初週のオリコンシングル・チャートにて365,910枚を売上げ、4位で同チャートに初登場した。この週はチャートのレベルが高く、1位のサザンオールスターズの「TSUNAMI」、2位のモーニング娘。の「恋のダンスサイト」までの売上が60万枚を超え、同時リリースされ3位となった椎名の「ギブス」も40万枚を超えた。シングルは2週目も63,840枚を売上げ、11位を記録している。「罪と罰」は同シングル・チャートで最高位4位を記録し、計11週にわたってチャート・インし、累積では54.6万枚を売り上げている。 ==ミュージック・ビデオ== この楽曲のミュージック・ビデオは、前作「本能」で評価を得た木村豊が引き続き監督を務めている。このビデオを撮るにあたって椎名はビデオ監督の選択についてこだわりを持って取り組んでおり、『LAWSON TICKET』でのインタビューにおいて彼女は「ライブでずっとやり続けてきた曲だから、私の中ではとにかく演奏シーンだったんですよ。それでそういうのをカッコよく撮れる監督っていないかなって探しててくるりの『青い空』とかブランキーの『デリンジャー』のビデオが好きで、私が言ったら実はその2つを撮った監督は同じ人だったんですね。じゃあ、ぜひ頼みたいって思って。」と語っている。このビデオは、PV集『性的ヒーリング〜其ノ弐〜』並びにシングルPV全集『私の発電』に収録されている。 このミュージック・ビデオ「罪と罰」は”自分のクルマを切る”というコンセプトで制作された。ビデオには椎名が中古で購入した私物の辛子色の1970年代製メルセデス・ベンツ・W114の半身が使用された。この車は頻繁に故障するため廃車処分しようか考えていたところ、その話を知ったビデオ監督から「どうせだったらプロモに使ったら?」「今、車切る人いないよ」と持ちかけられ承諾。ベンツは2000万円の費用をかけて解体され、CDのジャケット写真とビデオに使用されることになった。その後椎名はビデオの撮影でスタジオに入った際、ベンツが縦半分に切られた姿を見て可哀想になり涙を零したという。なお、PV集『性的ヒーリング〜其ノ弐〜』のエンディングソングの「依存症」の映像では、富士山の麓の高原で撮影したベンツの爆破シーンが納められている。この映像は「依存症」のサビの音声を使った1分30秒ほどのもので、「依存症」の音声を背景に髪を結い、喪服を着て三味線を弾く椎名の後方に置かれたベンツの半身が弔われている。撮影終了後も廃車とはされず、東芝EMIの美術倉庫に保管されることとなった。ビデオの中で椎名は黒のインナーに赤のジャケットを着て眉毛を全剃りし、左右両目の周りを真っ黒に塗って刀を一振りし、車を真っ二つにしている。音楽ライターの丹生敦は、このメイクを”マリリン・マンソンみたいなゴス・メイク”だと指摘し、更に刀で車を斬るシーンについては”刀で切ったという設定はルパン3世の五右衛門からインスパイアされたものか。”とコメントしている。 2000年のSPACE SHOWER Music Video Awardsでは、このビデオは最優秀女性アーティストビデオ賞を受賞している。 ==ライブ・パフォーマンス== 「罪と罰」は、椎名初のツアーでライブハウス・ツアーとなった先攻エクスタシーツアーの初日、1999年4月の福岡公演にて初披露された。このツアーでは、舞台を暗くし、その両端に炎を灯すという演出が行われた。椎名は頭にティアラをのせ、赤いシースルーのコートに、黒のキャミソールとガーターベルト、編みタイツという装いでパフォーマンスを行った。1999年6月16日、椎名は第218回赤坂ライブに出演した。これはこの年の初頭に彼女が急性化膿性炎症にかかり全ての活動をキャンセルしたことに伴う振り替え公演で、楽曲はライブの1曲目に演奏され、この時ライブのラストでは「ギブス」も披露されている。「罪と罰」は、ライブ・ツアー下剋上エクスタシーツアーでもパフォーマンスされている。このツアーはアルバム『勝訴ストリップ』を受けてのライブ・ツアーで、2000年4月から6月までの間に行われた。このツアーではアンコール2曲を含む全22曲がパフォーマンスされ、楽曲は14曲目の「幸福論」に続くライブ15曲目に演奏された。ツアーのセットリストは全公演共通であるが、東京のNHKホールでの公演のみ、セットリストが異なっている。この公演ではアンコール1曲を含む全24曲が演奏され、「罪と罰」は16曲目の「警告」に続く17曲目で演奏・パフォーマンスされている。このツアーで椎名は病院の手術室をテーマに組まれた心電図や人体模型、生命維持装置が並ぶセットの中で、長い髪を垂らし、白いロングドレスを身に着けてライブ・パフォーマンスを行った。この時、楽曲はバンドスタイルで演奏されている。このライブの模様は録音されており、ツアーと同名の『下剋上エクスタシー』のタイトルで2000年12月7日に日本でVHSとDVDの2規格により発売されている。 2003年に行われた『加爾基 精液 栗ノ花』のサポート・ツアー”雙六エクスタシー”でも楽曲は演奏された。この時椎名は白と水色の模様の着物に身を包み、後に東京事変として正式にデビューする亀田誠治、晝海幹音、ヒイズミマサユ機、畑利樹をバック・バンドに随えて「罪と罰」のパフォーマンスを行った。ツアーでは全23曲が演奏され、「罪と罰」は1曲目の「幸福論(悦楽編)」に続く2曲目に演奏されている。椎名は1曲目の「幸福論」ではライブ前の客電が点いた状態のままでパフォーマンスし、2曲目の「罪と罰」のパフォーマンスで初めて会場の照明を消し、暗転。演奏が始まると再び照明を点灯させた。VIBE‐NET.COMはパフォーマンスについて、”巧妙な演出によって誰もが驚きに包まれているさ中、情念の塊のように歌い上げる椎名林檎の姿と声は、おそらく強烈なインパクトをもって会場すべての人に鳥肌を立たせただろう。”とコメントした。更に”やはり凄まじい声だ。”と付け加えている。このツアーの模様は、2003年9月27日に日本武道館で行われた公演が『Electric Mole』として日本にて2003年12月17日にDVD規格で発売されている。 2007年には、NHKによる『椎名林檎お宝ショウ@NHK』のなかで椎名は指揮者斎藤ネコと共にオーケストラを従えてストリングス・ヴァージョンの「罪と罰」のパフォーマンスを行った。2008年に音楽フェスRISING SUN ROCK FESTIVAL 2008に出演した際にも楽曲は演奏された。この時も『お宝ショウ』同様斎藤ネコと共同でライブ・パフォーマンスをし、斎藤はヴァイオリン2本とチェロ、ビオラによる斎藤ネコカルテットを従えて、椎名はピアノを弾くという編成でパフォームされている。 更に、2008年11月28日から29、30日の計3日間にかけて行われた椎名のデビュー10周年記念ライブ「椎名林檎(生)林檎博’08〜10周年記念祭〜」でもパフォーマンスされ、楽曲はライブの全26曲のうち12曲目に演奏されている。椎名はこの時胸あたりまである髪と眉まで前髪のある黒のウィッグに、前身ごろを白、後身頃を黒のワンピースに身を包んでパフォーマンスを行った。このライブは最終日2008年11月30日の公演が録音され、『Ringo EXPO 08』としてDVD規格で2009年3月11日に日本で発売されている。椎名は2009年6月24日に放送されたNHKの『SONGS』でも「罪と罰」をパフォーマンスしている。 ==カバー== 2008年には、日本の3ピース・バンドGENERAL HEAD MOUNTAINがアルバム『月かなしブルー』の中でカバーした。『CDジャーナル』はこのカバーについて、”彼ら流に昇華”とコメントしている。 ==収録曲== ==演奏== ベース:亀田誠治エレキギター:浅井健一オルガン:斎藤有太ドラム:村石雅行 ==リリース日一覧== =ヨハン・クライフ= ヨハン・クライフ(Johan Cruijff)ことヘンドリック・ヨハネス・クライフ(Hendrik Johannes Cruijff OON(英語版), 1947年4月25日 ‐ 2016年3月24日)は、オランダ出身のサッカー選手、サッカー指導者である。選手時代のポジションはフォワード(センターフォワード、ウインガー)、ミッドフィールダー(攻撃的MF)。 引退後は指導者に転身し古巣のアヤックスや、FCバルセロナの監督を務めると、バルセロナではリーガ・エスパニョーラ4連覇やUEFAチャンピオンズカップ優勝などの実績を残し監督としても成功を収めた。その後は監督業から退いていたが2009年から2013年までカタルーニャ選抜の監督を務めた。相手のタックルを柔軟なボールタッチやフェイントで飛び越えたプレースタイルに由来する「空飛ぶオランダ人(フライング・ダッチマン)」、スペイン語で救世主を意味する「エル・サルバドール」など、様々なニックネームを持つ。 リヌス・ミケルス監督の志向した組織戦術「トータルフットボール」をピッチ上で体現した選手であり、選手時代に在籍したアヤックスではUEFAチャンピオンズカップ3連覇、オランダ代表ではFIFAワールドカップ準優勝に導いた実績などからバロンドール(欧州年間最優秀選手賞)を3度受賞した。フランツ・ベッケンバウアー(ドイツ)と並ぶ1970年代を代表する選手であり、ペレ(ブラジル)やアルフレッド・ディ・ステファノやディエゴ・マラドーナ(共にアルゼンチン)と並ぶ20世紀を代表する選手と評されている。 ==生い立ち== 1947年4月25日、アムステルダムの東部にあるベトンドルプ(オランダ語版)という労働者の住む街で、青果店を営む家庭に産まれた。家庭は貧しく日頃の生活に窮していたが、仲の良かった2歳年上の兄や近所の友人達と毎日のようにストリートサッカーに興じてテクニックを磨いた。少年時代を過ごした生家から数100mほどの場所にアヤックスのホームスタジアムや施設があり、頻繁に出入りしていたことから選手やスタッフから可愛がられマスコットのような存在になった。 少年時代は華奢な体格で実際の年齢より幼く見えたほどだったが、ストリートサッカーで身に付けたテクニックはこの当時から話題となっており、10歳の時に兄の後を追ってアヤックスの下部組織に入団した。当時のアヤックスには第二次世界大戦後に駐屯していたアメリカ軍の影響もあって野球部門があり、クライフはキャッチャーを務めていた。有望なキャッチャーであったといいメジャーリーグでスター選手になる夢も持ち合わせていたが、オランダ国内においてサッカーのプロ化の機運が高まったことを受けてクラブが野球部門を廃止したため野球選手としての道を絶ち、サッカーに専念することになった。 1959年7月8日、12歳の時に父が心臓発作で亡くなると精神的なショックを受けることになった。クライフ自身は「影響は受けたことは確かだが、その程度は判らない」としているが周囲の人々は立ち直るまでに時間を有したと証言している。父の死後、クライフは父の墓前に語り掛けるようになり、架空の対話を通じて父の魂とともにあり見守られているのだと確信していたという。母は青果店を手放し、アヤックスの清掃員や家政婦として家計を支えていたが、やがてアヤックスの用務員を務める男性と再婚した。男性はクライフとは幼少のころから交流があり精神的な安定をもたらすことになった。この時期、プロテスタント系の小学校を卒業後に地元の4年制の中学校へ進学したが勉学には不熱心であり、2年時に中退しスポーツ用品店の店員を務めながらアヤックスの下部組織でプレーを続けた。 15歳でユースチームに昇格したが当時のクライフは他のチームメイトと比べて体格で見劣りをしていた。一方、持ち前の突破力を生かしセンターフォワードとして1シーズンの公式戦で74得点を挙げるなど才能を発揮し、1963‐64シーズンにはオランダのユース年代の全国大会で優勝を果たした。こうした経緯からトップチームの監督を務めていたヴィク・バッキンガム(英語版)はクライフのトップチーム昇格の機会を模索するようになり、個人プレーに走りがちなクライフに対してチームプレーの重要さを指導した。 ==クラブ経歴== ===アヤックス=== ====選手としての成功==== 16歳の時に1964年にトップチームへの昇格とプロ契約を打診されると、小柄な体躯であることを懸念する母を説得し、契約金1500ギルダー(約15万円)、年俸4万ギルダー(約400万円)でプロ契約を結んだ。クライフがプロ契約を結んだ当時のオランダ国内では1954年からプロ契約が認められクライフが所属していたアヤックスは1960年代半ばになると国内のスポーツ界に先駆けて高額の給与での選手と契約を始めたが、この契約に関してアマチュアやセミプロが主流だったオランダサッカー界において2人目の事例であり、1人目はアヤックスの主力選手であったピート・カイザーとする指摘がある。 同年11月15日にアウェーで行われたGVAV戦でデビューを果たすと試合は1‐3で敗れたものの初得点を決め、11月22日にホームで行われたPSVアイントホーフェン戦でも得点を決め勝利に貢献しサポーターの人気を獲得した。一方、バッキンガムや彼の後任として1965年1月に監督に就任したリヌス・ミケルスの下でクライフはレギュラー選手としてではなくスーパーサブとして起用された。これはクライフの素質を認めながらも時間をかけて育成していきたいとの指導者側の意向によるものであり、ミケルスは「ヨハンは可能性を秘めていたが少年であり精神的や肉体的には依然として未熟だった」と評している。 ミケルスは自らが志向する「トータル・フットボール」を実践するために選手達に厳しいサーキットトレーニングを課していたが、クライフはミケルスの課した練習に熱心に取り組んだ。1965年10月24日に行われたAFC DWS(英語版)戦でクラース・ヌニンハ(英語版)との交代で1965‐66シーズンの初出場を果たすとカイザーとのパス交換から2得点をあげる活躍を見せて勝利に貢献。同シーズンに19試合に出場し16得点をあげエールディヴィジ優勝に貢献するなど順調に成長を見せると、19歳の頃にはミケルスの志向するサッカーを実践する上で欠かすことのできない選手となっていた。 また若い頃は、クライフより1歳上でマンチェスター・ユナイテッドFCに所属していたジョージ・ベストに例えられ「オランダのベスト」と称されたこともあったが、クライフは1950年代のスター選手であるアルフレッド・ディ・ステファノのファンであり、ベストに例えられることを嫌っていた。才能がありながら不摂生が災いして表舞台から姿を消したベストではなく、ディ・ステファノのセンターフォワードでありながらミッドフィールダーの位置で幅広く動き周り積極的に守備に加わる、従来の概念を覆すプレースタイルを理想としていた。 国内では1965‐66シーズンからリーグ3連覇を成し遂げるなどリーグ優勝6回 (1965‐66, 1966‐67, 1967‐68, 1969‐70, 1971‐72, 1972‐73)、KNVBカップ優勝4回 (1966‐67, 1969‐70, 1970‐71, 1971‐72)。個人としても1966‐67シーズンに33得点、1971‐72シーズンに25得点をあげリーグ得点王を獲得した。 ===国際タイトルの獲得=== UEFAチャンピオンズカップには1966‐67シーズンに初出場を果たし2回戦でビル・シャンクリー監督が率いるイングランドのリヴァプールFCと対戦した。この試合前のアヤックスの評価は低かったが、濃霧の中で行われたホームでの第1戦においてクライフは奔放な動きを見せてリヴァプール守備陣を翻弄し5‐1と大勝した。敵地での第2戦を前に相手のシャンクリー監督は「我々が7‐0で勝利する」と記者に対し公言したが、クライフが2得点を挙げる活躍を見せて2‐2と引分け、準々決勝進出へ導いた。続くデュクラ・プラハ戦では敵地での第2戦で敗れたため準決勝進出を逃したが、「霧の試合(オランダ語: De Mistwedstrijd)」と称されるリヴァプール戦の勝利を境にミケルス指揮下のアヤックスは国際的な名声を集め、オランダサッカー界の今後を示す試金石となった。また、クライフの存在はヨーロッパ各国の関係者の知るところとなり、国際舞台において厳しいマークを受けることになった。 1967‐68シーズンには1回戦でスペインのレアル・マドリードに敗退。1968‐69シーズンには準々決勝でポルトガルのSLベンフィカ、準決勝でチェコスロバキアのスパルタク・トルナヴァを下すなどオランダ勢として初の決勝進出を果たしたが、決勝ではイタリアのACミランに1‐4で敗れた。1970‐71シーズンには決勝でギリシャのパナシナイコスFCを下し初優勝に貢献すると、1971年のバロンドール(欧州年間最優秀選手賞)の投票では116ポイントを獲得し、2位のサンドロ・マッツォーラ(57ポイント)、3位のジョージ・ベスト(56ポイント)を抑えて初受賞を果たした。 1971‐72シーズンにはミケルスが退任しルーマニア人のシュテファン・コヴァチが監督に就任した。コヴァチはミケルスの提唱した「トータル・フットボール」を引き継ぐ一方で規律を重んじた前任者とは対照的に選手の自主性を許容し「トータル・フットボール」の組織的な連動性を進化させた。この時期のアヤックスについてクライフは「コヴァチの下では後方のミッドフィールダーやディフェンダーが前線へと飛び出し、本来は前線にいるフォワードが後方から飛び出した選手のポジションをカバーリングするといった自由が認められ相手チームの脅威となっている。ミケルスの下では決して認められなかっただろう」と評している。準決勝でポルトガルのSLベンフィカを下し2年連続で決勝進出を果たした際には規律の低下と最少得点差での勝ちあがりに批判の声が上がったものの、決勝でイタリアのインテル・ミラノと対戦した際にはクライフが2得点をあげる活躍を見せ2‐0と下し2連覇を達成した。この大会の勝者として挑んだインターコンチネンタルカップではアルゼンチンのCAインデペンディエンテと対戦し2試合合計4‐1のスコアで初優勝した。 1972‐73シーズンには準々決勝でフランツ・ベッケンバウアー、ゲルト・ミュラー、ゼップ・マイヤーを擁する西ドイツのFCバイエルン・ミュンヘンと対戦することになり、クライフとベッケンバウアーの対決にヨーロッパ全土の注目を集めた。ホームでの第1戦に4‐0で完勝するとアウェイでの第2戦を1‐2で敗れたものの合計5‐2のスコアで勝利を収め、決勝ではイタリアのユヴェントスFCを下し3連覇を達成した。1973年のバロンドールの投票では96ポイントを獲得し2位のディノ・ゾフ(47ポイント)、3位のゲルト・ミュラー(44ポイント)を抑えて2回目の受賞を果たした。 ===国外からのオファー=== 一方で元モデルの妻、ダニー・コスターや、宝飾商を営んでいた妻の父コー・コスター(オランダ語版)(後にクライフのマネージャーを務める)の助言もあり、高額の報酬を求めて移籍に心が傾くようになった。アヤックスでの活躍によりスペインのFCバルセロナが関心を持つようになり、1970年1月にクライフをアヤックスのトップチームに抜擢した当時の監督であるヴィク・バッキンガム(英語版)を招聘しクライフ獲得に向けた仲介役としてオファーを申し出た。当時のスペインサッカー連盟の規定では外国籍選手の獲得は禁止されていたが、年内に規定が改正される可能性を見通してのオファーだった。バルセロナ側からはアヤックス時代の3倍の年俸、ボーナス、住居、自動車、オランダとの往復航空券などの付与するなどの条件を掲示され、両クラブ間で合意に達したが、同年3月に行われたスペインサッカー連盟の総会において規定改正が見送られたことで移籍は消滅し、代わりにミケルスがバルセロナの監督として引き抜かれることになった。 アヤックスでのチャンピオンズカップ3連覇など選手として絶頂期にあった1973年5月26日にスペインの外国人選手規定が改正されると改めてバルセロナへの移籍へ向けた交渉が行われたが、スター選手を手放すことに難色を示すアヤックス側との交渉は長期化。この移籍を巡ってヤープ・ファン・プラーフ(オランダ語版)会長と対立し、「バルセロナへ移籍させないのなら選手を引退する」「移籍を認めないのならば法廷闘争も辞さない」と宣言する騒動に発展した。また、クライフが試合出場をボイコットする構えを見せたことからチームメイトとの関係も悪化し、サポーターからも批判を受けるようになったが、最終的にクラブ側が譲歩し移籍を認めることになった。 ===バルセロナ=== 1973年夏、600万ギルダー(当時の金額で約200万ドル、日本円で約5億7000万円)という金額でスペインのFCバルセロナに移籍。なお、この移籍金額は同年7月にイタリアのピエリーノ・プラティがACミランからASローマへ移籍する際に記録した金額を大幅に上回る世界記録だった。 移籍が成立したものの手続きが遅れたためリーグ戦デビューは1973‐74シーズン開幕後になり、同年10月28日に行われたグラナダCF戦でデビューを果たすとこの試合で2得点を記録し4‐0で勝利した。同年12月22日に行われたアトレティコ・マドリード戦ではアクロバチックな得点を決める活躍を見せたが、この得点は1999年にクラブ創立100周年を祝うテレビ番組の中でファン投票により、クラブ史上最高の得点に選ばれた。1974年2月17日、敵地のサンティアゴ・ベルナベウで行われたレアル・マドリード戦(エル・クラシコ)では5‐0と歴史的勝利に貢献し、同年4月17日、敵地でのスポルティング・デ・ヒホン戦で4‐2と勝利を収めると、残り5節を残した段階で2位以下のクラブを勝ち点で上回り14シーズンぶりのリーグ優勝を成し遂げた。また同年にはオランダ代表での活躍もあり、3度目のバロンドールを受賞した。 当時のスペインはフランシスコ・フランコの独裁政治の時代にあったが、クラブ創立75周年を迎えた1974年のリーグ優勝とクライフの活躍はバルセロナ市民や反フランコ派の人々を歓喜させた。クラブは1960年代後半頃から「バルサは単なるクラブ以上の存在である」とのスローガンを掲げ、首都マドリードの中央集権政治に対し、民主化とカタルーニャ化のシンボルとなっていったが、メディアは連日のようにクライフの動向を注視しファンは「救世主」(El Salvador、スペイン語:エル・サルバドール、カタルーニャ語:アル・サルバドー)と讃えた。 1974‐75シーズンにはオランダ代表の同僚であるヨハン・ニースケンスの獲得をクラブ首脳陣に推挙したこともありチームに加わったが、ギュンター・ネッツァーとパウル・ブライトナーを擁するレアル・マドリードに優勝を明け渡し3位でシーズンを終えると監督のミケルスは解任された。 1975‐76シーズンには西ドイツのボルシア・メンヒェングラートバッハを指揮して実績のあるヘネス・バイスバイラーが監督に就任したがクライフとの確執が続き、クライフ自ら「バイスバイラーとは上手くいかない。6月30日に契約が終了したらオランダへ帰国する」と発言し退団の意思を示した。これにより、サポーターがクライフの残留とバイスバイラーの解任を求める抗議活動を行う事態に発展したが、1976年3月にバイスバイラーが辞意を表明したことによりクライフはバルセロナに残留しチームと再契約を結んだ。なお、クライフとバイスバイラーを巡るチーム内の内紛もあって2シーズン連続で優勝を逃した。 翌1976‐77シーズンにクライフの進言により再びミケルスが監督として呼び戻され、リーグ戦では21節まで首位に立つなど優勝の可能性が残されていたが、最終的にアトレティコ・マドリードに勝ち点1差で及ばず優勝を逃した。また国際大会においてはUEFAチャンピオンズカップ 1974‐75では準決勝進出を果たすもイングランドのリーズ・ユナイテッドに敗退、UEFAカップ1975‐76では準決勝進出を果たすもリヴァプールFCに敗退、UEFAカップ1976‐77では準々決勝でアスレティック・ビルバオに敗退するなど、欧州タイトルを獲得したアヤックス時代やバルセロナ加入初年度となった1973‐74シーズンほどの結果を残すことはできなかった。成績低下の理由について、相手選手の厳しいディフェンスを受けるうちに抑え気味にプレーするようになり自身の持ち合わせる能力を100%発揮することがなくなったことが指摘されている。また、強気な性格が災いし判定を巡って審判とたびたび口論となるなどプレー以外の側面で注目を集めるようになっていた。 バルセロナでの最後のシーズンとなった1977‐78シーズンはコパ・デル・レイ決勝でUDラス・パルマスを3‐1で下し優勝を果たしたものの、国際大会ではUEFAカップ1977‐78では準決勝でオランダのPSVアイントホーフェンと対戦し2試合合計3‐4のスコアで敗れた。リーグ戦ではレアル・マドリードに優勝を明け渡し2位でシーズンを終えると、1978年5月27日に行われた古巣のアヤックスとの親善試合を最後にバルセロナを退団し、正式な引退試合を行うことを表明した。 ===引退試合と実業家への転身=== 1978年5月、バルセロナで現役引退を表明したクライフはオランダへ帰国した。同年8月30日にアメリカ合衆国のニューヨーク・コスモスに招待され、コスモス対世界選抜の親善試合に出場したほか、イングランドのチェルシーFCからオファーを受けていたが、選手としての正式な復帰を断り続けた。 同年11月7日、アムステルダムのオリンピスフ・スタディオンで、クライフの引退試合が開催された。クライフは自身がプロデビューを果たし長年にわたって在籍したアヤックスの選手として出場し、対戦相手には西ドイツのバイエルン・ミュンヘンが選ばれた。試合当日は6万5000人の観客が訪れ、入場料収入の17万5000ドル(約3500万円)はオランダのアマチュアサッカー界の振興と障害者施設のために寄付された。この試合は世界6か国にテレビ中継されたが、試合は友好ムードのアヤックスとは対照的に激しいボディコンタクトを厭わず真剣勝負を挑むバイエルンという展開となった。序盤こそアヤックスが優勢に試合を進めたものの、バイエルンがゲルト・ミュラーが先制点を含め2得点、パウル・ブライトナーとカール=ハインツ・ルンメニゲが揃ってハットトリックを達成するなどして8‐0と大勝した。クライフ自身は時おり往時のプレーを垣間見せたものの味方からの支援はなく、一方的な展開に観客席からは座布団が投げ込まれ、試合に見切りをつけスタジアムを後にする観客もいた。試合後にはクライフに花束が贈られ、チームメイトに肩車をされてファンに別れを告げる演出が行われたが、クライフは「私のイメージした引退試合とはかけ離れた内容となった」と心境を語った。バイエルンが真剣勝負を挑んだ経緯についてブライトナーは「オランダ国内にバイエルンを歓迎する雰囲気はなく、空港や宿泊したホテルでは敵対的な対応を受けた。そこで試合を我々の独演会(バイエルン・ショー)に代えることを決めたんだ」と証言している。 引退試合の後、クライフはスペインで実業家へと転身した。クライフはバルセロナ在籍時から自身の肖像ブランドを冠したビジネスを展開していたが、友人やビジネスパートナーらと新たに「CBインターナショナル」を設立し、不動産取引、ワインやセメントや野菜の輸出業務に従事した。その際、ビジネスパートナーはクライフの信用を得て彼の所有する銀行口座から自由に事業資金を引き出していたが結果的に事業は失敗に終わった。これによりクライフの下には600万ギルダーの借金が残されたとも、総資産の4分の3に相当する900万ギルダーを失い破産寸前となったとも言われる。一連の経緯についてクライフは「以前から義父や友人から幾度となく「専門外のことに関わってはいけない」と注意を受けていたが、罠にかかり唯一の間違いを犯した。その代償は大きなものだが多くのことを学んだ」と語っている。事業に失敗し多額の借金を背負ったことが後にアメリカ合衆国で現役復帰を果たす決定的要因となったと複数の論者から指摘されている。一方で事業の失敗と現役復帰の因果性についてクライフ本人は否定しているが、引退から数か月後には現役復帰を決意した。 ===ロサンゼルス・アズテックス=== クライフのアメリカ合衆国での復帰に関して最初に関心を示したのは、北米サッカーリーグ (NASL) のニューヨーク・コスモスだった。 同クラブのオーナーを務めるスティーヴ・ロス(英語版)は、クライフとの間で優先的に交渉を行うための仮契約を締結し3年契約で400万ドルを提供した。一方、クライフは「私はアメリカサッカー界の発展の助力となりたいのだ。最初に移籍先と考えたコスモスは常に5万人以上を動員する人気チームだが、そこには私の果たすべき役目はない。私の希望は将来的に成長する可能性を秘めたチームだ」としてコスモスへの移籍を固辞し、恩師のミケルスが監督を務めるロサンゼルス・アズテックス(英語版)と契約した。契約内容は年俸70万ドル(約1億5000万円)に、本拠地とするローズボウルで観客動員数が増加した場合に派生する歩合給を加えたもので、換算すると年収100万ドルに上るものと推測された。また、アズテックスは優先交渉権を持つコスモスに対し60万ドルを支払った。 1979年5月19日、ロチェスター・ランチャーズ(英語版)戦でデビューすると前半10分のうちに2得点をあげ後半には3点目の得点をアシストし3‐0と勝利した。アズテックスには監督のミケルスをはじめ、アヤックスやオランダ代表でチームメイトだったヴィム・シュルビア、レオ・ファン・フェーン(オランダ語版)、フープ・スメーツ(オランダ語版)らといったオランダ人が在籍していたこともありリラックスした雰囲気を味わった。チームはナショナルカンファレンス西地区で2位となりプレーオフ進出を果たすと、カンファレンス準決勝でバンクーバー・ホワイトキャップス(英語版)に敗れたものの、クライフはNASLの年間最優秀選手に選ばれた。 ===ワシントン・ディプロマッツ=== 1980年2月、首都ワシントンD.C.を本拠地とするワシントン・ディプロマッツ(英語版)に移籍した。ディプロマッツは1979年秋にマディソン・スクエア・ガーデン・グループが経営に参画し大幅な選手補強に乗り出していたが、当初獲得を目指したイングランド代表のケビン・キーガンとの交渉は失敗したものの、代わりにクライフと契約を結んだ。契約内容は3年契約で150万ドル(約3億2500万円)、ディプロマッツが移籍元となるアズテックスに対して移籍料100万ドル(約2億5000万円)を支払うというものだった。人気の低迷が続いていたディプロマッツ側にはスター選手の獲得により観客動員数を増加させたいとの狙いがあった。 同年3月29日、タンパベイ・ロウディーズ(英語版)戦でデビューしたがPK戦の末に2‐3で敗れた。ディプロマッツにはオランダ代表のチームメイトだったビム・ヤンセンが在籍していたものの、チームが志向するスタイルはイングランドの下部リーグで行われているような荒々しいものでトータルフットボールとはかけ離れていた。前年に所属していたアズテックスでは多くの選手がクライフの助言を受け入れたのに対しディプロマッツの選手たちは関心を示さず、監督のゴードン・ブラッドリー(英語版)をはじめ何人かの選手から反発を招いた。また、人工芝の影響による怪我に苦しめられるなど困難なシーズンとなった。チームはナショナルカンファレンス東地区で2位となりプレーオフ進出を果たしたが、カンファレンス1回戦でクライフが前年に所属していたアズテックスに敗れた。 同年秋、ディプロマッツの企画したアジアツアーに参加し日本、香港、インドネシアを転戦したが、この時期には出場困難な怪我を負っていた。 クライフはNASLがシーズンオフとなった間にオランダへ帰国し古巣のアヤックスでプレーすることを試みた。これに対しオランダサッカー協会 (KNVB) はNASLに所属する選手が期限付きでオランダのクラブへ移籍しリーグ戦に出場することを認めない決定を下した。そのため、アヤックスのテクニカル・アドバイザーという名目でチームに加わると同年11月30日に行われたFCトゥウェンテ戦をスタンドで観戦した。試合は1‐3とアヤックスがリードされる展開となったが、業を煮やしたクライフはスタンドを降りてベンチへと向かい、監督のレオ・ベーンハッカーの隣で直接指揮を執った。クライフの助言を受けたチームは調子を取り戻すと4点を奪い5‐3とトゥウェンテに勝利した。 ===レバンテ=== 1981年、クライフはオランダのDS’79の会長の依頼を受けてロブ・レンセンブリンクと共に招待選手として同クラブに参加。イングランドのチェルシーFC、ベルギーのシャルルロワSC、オランダのMVVマーストリヒトの3つの親善試合に出場した。当時、クライフは欧州のクラブへの移籍を模索しており、イングランドのチェルシーFC、アーセナルFC、レスター・シティFCが獲得に乗り出した。この中で、2部リーグへの降格争いの渦中にあったレスターが高額の条件を掲示したこともあり、移籍は決定的との報道もなされたが実現には至らなかった。 同年2月26日、スペイン・セグンダ・ディビシオン(2部リーグ)のレバンテUDへ移籍することに合意した。レバンテはクライフが加入する時点では2部リーグの上位を争っていたが、観客動員数が伸び悩んでいたこともありクラブの首脳陣は人気回復の起爆剤としてクライフと契約するに至った。契約の際、義父のコスターの手腕により、バルセロナの様な欧州のトップクラブに所属する選手と同等の給与、ホームでの観客動員数が一定数を超える毎に特別報酬を得ることになったが、報酬が1か月以上支払われなかった場合には契約を破棄し他チームへ移籍することが出来る、といった自身に有利な条件が盛り込まれた。 クライフは3月2日に行われたCFパレンシア(英語版)戦でデビューしたが、ディプロマッツ在籍時に負った怪我の影響もありリーグ戦10試合に出場し2得点という結果に終わり、クライフの加入と前後してチームの成績も下降線を下り最終的に9位でシーズンを終え1部昇格を逃した。一方でクライフとの間で結んだ高額の契約が経営状態を圧迫しチーム内に不協和音を生み出したと指摘されている。クライフとクラブ側との間で「観客動員数が一定数を超える毎に特別報酬を得る」契約を交わしていたが、この報酬が未払いとなるトラブルが派生したためシーズン終了後にチームを退団した。 同年6月、イタリアのACミランと契約交渉を行い、ミランの招待選手として同国で開催された世界各国のクラブを招いた対抗戦「ムンディアリート・ペル・クラブ(イタリア語版)」に参加した。6月16日に行われたフェイエノールト戦に先発出場したが、鼠蹊部の負傷のためにコンディショニングが万全でなかったこともあり45分間の出場のみに終わった。クライフはフェイエノールト戦で負傷の影響もあって精彩を欠き、残りの試合も欠場するなど周囲の期待に答えることは出来なかった。ミランとの契約交渉が失敗に終わると現役引退が現実味を帯び始めた。 同年6月18日、クライフはワシントン・ディプロマッツと短期間の契約を結んだ。7月1日に行われたサンディエゴ・ソッカーズ(英語版)戦でデビューしたが、チームはナショナルカンファレンス東地区で3位となったためプレーオフ進出を逃し、モントリオール・マニック(英語版)戦がアメリカ合衆国での最後の試合となった。 ===アヤックスへの復帰=== クライフはレバンテの退団後にワシントン・ディプロマッツを経て、同年秋に古巣のアヤックスに復帰したが、既に34歳となっており、年齢的な問題もあり選手としては限界と考えられていた。しかし同年12月6日に行われたHFCハールレム戦でのキーパーの意表を突くループシュートを決める活躍などにより4‐1と勝利し、周囲でささやかれていた限界説を退けた。 当時のアヤックスはマルコ・ファン・バステンやフランク・ライカールトやジェラルド・ファネンブルグといったオランダの次世代を担う選手達が在籍していたものの多くの結果を残すことが出来ずにいた。クライフが加入した1981年12月の時点でリーグ戦でAZアルクマールやPSVアイントホーフェンに敗れるなど4敗を喫し首位の座を明け渡していたが、クライフの加入後は17勝2分けの成績でAZやPSVを退けて1981‐82シーズンのリーグ優勝を果たした。 2年目の1982‐83シーズンにはUEFAチャンピオンズカップ 1982‐83に出場し、1回戦でスコットランドのセルティックFCと対戦。アウェーでの第1戦を2‐2と引き分けて迎えたホームでの第2戦は1‐1の同点で迎えた88分にクライフが交代すると、試合終了間際に失点を喫し合計3‐4のスコアで敗退した。この試合は選手生活を通じて最後の国際大会での公式戦出場となった。 1982年12月5日に行われたヘルモント・スポルト戦では印象的なトリックプレーを見せた。試合中にペナルティーキックを獲得するとクライフは自らシュートをせずに左斜め前に緩やかなパスを送り、後方から走りこんできたイェスパー・オルセン(英語版)へと繋がり相手のキーパーと1対1の状況となった。オルセンはゴール前で待ち構えるクライフにパスを戻すとキーパーのいない無人のゴールにシュートを決めるというもので、結果的にクライフとオルセンのワンツーパスの形となった。ヘルモントの選手たちは主審に抗議を行ったがルール上においても正当なもので、一連のプレーに関するアイデアは練習中に考案されたものだった。 リーグ戦ではフェイエノールトとの間でシーズン終盤まで優勝争いを続けていたが、1983年5月1日に行われたフェイエノールトとの直接対決を3‐3と引分け、残り2試合を残して首位のアヤックスと2位のフェイエノールトとの勝ち点差4の状態を維持。5月1日に行われたヘルモント・スポルト戦ではクライフを累積警告による出場停止で欠いたものの4‐1と勝利しリーグ連覇を達成した。この時期のクライフは継父の死や故障を繰り返していたことで精神的に困窮していたものの、同シーズンのリーグ戦とカップ戦との二冠獲得の原動力となった。一方、1983年に入るとクラブ会長のトン・ハルムセン(オランダ語版)がクライフに対し36歳という年齢を理由に引退を迫ったことや、クラブ側との間で締結していた入場料収入に応じた給与体系の更新を拒否されたこともあり確執を生んでいた。クライフは5月10日に行われたカップ戦決勝第一戦のNECナイメヘン戦の終了後に退団を表明し、5月14日に行われたリーグ戦最終節のフォルトゥナ・シッタート戦がアヤックスでの最後の試合出場となった。 ===フェイエノールトへの移籍と引退=== 1983年夏、アヤックスを退団したクライフはライバルクラブのフェイエノールトへ移籍し1年契約を結んだ。この移籍についてアヤックスのサポーターからは反発が上がり、8月21日に行われたリーグ戦開幕戦のFCフォレンダム戦でもフェイエノールトのサポーターから批判のブーイングを受ける可能性があったものの試合開始とともに自らの価値を示すことで批判を払拭した。フェイエノールトでは当時21歳のルート・フリットらとチームメイトとなったが、監督のテイス・リブレフツ(英語版)を尊重しつつ頻繁に選手たちの対して技術指導やポジショニング指導を行った。また、フェイエノールトへの移籍後は自分自身のプレーにも変化が生じ、体力的な衰えもあり以前の様な個人技を前面に出したプレーを抑え、中盤でボールを落ちつかせ味方に指示を送りポジショニングやパスコースの修正を行うことに徹した。 同年9月18日に行われた古巣のアヤックス戦では2‐8と大敗を喫したが、その後は1984年2月26日に行われたアヤックスとの再戦で4‐1と勝利するなどチーム状態は回復。カップ戦決勝でフォルトゥナ・シッタートを下すと、リーグ戦でもPSVアイントホーフェンやアヤックスとの優勝争いを制すると5月6日に行われたヴィレムII戦で5‐0と勝利し1973‐74シーズン以来となる10シーズンぶりの優勝を決めた。クライフにとって国内での優勝はリーグ戦が9回目、カップ戦が6回目となり、二冠獲得は2シーズン連続となった。既に引退の意思を表明していたクライフは5月13日に行われたPECズヴォレ戦が最後の公式戦出場となり、この試合の79分にマリオ・ベーンとの交代でピッチを退いた。 クライフの現役選手として最後の試合はサウジアラビアで行われた。この試合は同国でプレーする2名の選手の引退試合にクライフの参加を条件にフェイエノールトが招待されたものだった。クライフは前半をサウジアラビア代表の選手として後半はフェイエノールトの選手としてプレーし、試合後にはファイサル・ビン=ファハド王子から記念品として24金製の食器が贈呈された。サウジアラビアへの遠征後、クライフはクラブの会長から選手としての残留または選手兼任監督としてのオファーを受けたが、精神的にも肉体的にも消耗し切っていることを理由に固辞した。 ==代表経歴== ===初期の経歴=== オランダ代表としては1966年9月7日に行われたUEFA欧州選手権1968予選のハンガリー戦でオランダ代表デビュー。同年6月に行われた1966 FIFAワールドカップでブラジルを下し準々決勝に進出した強豪チームを相手に、代表初得点を決めた。しかし同年11月6日に行われたチェコスロバキアとの親善試合において、主審に抗議をした際に退場処分を受けた。主審の「クライフが私に暴行を加えようとした」との主張は映像記録により退けられたが、オランダサッカー協会 (KNVB) はクライフに対し1年間招集を見送る処分を下した。 1970 FIFAワールドカップ予選ではブルガリアやポーランドに敗れ、UEFA欧州選手権1972予選ではユーゴスラビアに敗れ予選で敗退するなど、1960年代後半以降のアヤックスやフェイエノールトといったクラブが国際大会で結果を残していたのに対し、代表チームは予選敗退が続いていた。 1974 FIFAワールドカップ・予選(英語版)では隣国のベルギーと同じグループとなったが、報酬面での問題からチーム全体にまとまりを欠いていた。1973年11月18日にホームで行われた最終戦での両者の直接対決(0‐0の引分け)の結果により、1938年大会以来となるワールドカップ出場が決まったが、この試合の終了間際に決まったかに思われたベルギーの得点がオフサイドと判定され無効にされる場面もあった。 ===1974 FIFAワールドカップ=== 翌1974年に西ドイツで開催される本大会に向けチームの立て直しが求められると、KNVBはチェコスロバキア出身のフランティシェク・ファドルホンツ(英語版)を監督からコーチに降格させ、当時FCバルセロナを指揮していたリヌス・ミケルスを監督に迎えた。ミケルスは代表チームに新たなサッカースタイルを導入するには時間的な猶予が少ないことから、かつて自身が率いていたアヤックスのメンバーを中心にし、「トータルフットボールでワールドカップに挑む」ことを前提に代表メンバーを選出した。また、この組織戦術をピッチ上で体現するリーダーとしてクライフを指名し、選手達に戦術理解と90分間戦い抜く体力を求めた。クライフは前線から最後尾まで自由に動き回り攻守に絡むと共に、ミケルスの理論を体現するピッチ上の監督として味方に細かなポジショニングの指示を与えた。 1次リーグ初戦のウルグアイ戦を2‐0で勝利を収め、第2戦のスウェーデン戦を0‐0で引き分けたが、第3戦のブルガリア戦を4‐1で勝利し首位で2次リーグへ進出を果たし、オランダの展開する全員攻撃・全員守備のサッカーが注目を集めた。 2次リーグにおいてもアルゼンチンを4‐0、東ドイツを2‐0で下し第3戦を迎えた。試合相手は前回大会の優勝国であるブラジルだったが、50分にニースケンスの得点をアシスト、70分には左サイドを突破したルート・クロルのクロスをジャンピングボレーシュートでゴールに決め1得点1アシストの活躍で勝利し、初の決勝戦進出を果たした。 決勝の相手は開催国であり、同世代のライバルであるフランツ・ベッケンバウアーらを擁する西ドイツとなった。西ドイツは開幕前にイギリスのブックメーカーが発表した優勝予想では1位(オッズは3‐1)と高評価を受けていたが、オランダとは対照的に苦戦が続けながらの決勝進出だった。戦前の予想ではオランダ有利との意見も見られ、オランダの中心選手であるクライフを西ドイツがいかに抑えるのか、どの選手がマークするのかが焦点となった。 試合は開始2分にクライフのドリブル突破からPKを獲得し、これをニースケンスが決めて先制した。しかし早い時間帯に先制したことで攻勢を緩めたオランダに対し西ドイツが試合の流れを掴み、前半までにパウル・ブライトナーとゲルト・ミュラーの得点により2‐1と逆転した。後半に入りオランダは反撃に転じたが、クライフが西ドイツのベルティ・フォクツの徹底したマークを受けて動きを封じられたこともあり得点はならず、1‐2で敗れ準優勝に終わった。 この試合の敗因については「早い時間帯に先制点を決めたことで気持ちが緩み、西ドイツの反撃を許した」ことが挙げられるが、クライフは「決勝戦に進出したことに多くの選手が満足してしまった。オランダ人に(ドイツ人のような)勝者のメンタリティが欠けていた」ことを挙げた。選手達がオランダへ帰国すると準優勝という結果に国民を挙げて歓迎を受け、国王への謁見を許されたが、クライフ自身は「もう一歩の所で世界タイトルを逃した」事実を拭い去ることはできなかったという。 その一方でクライフを中心としたこの時の代表チームはスタンリー・キューブリックにより映画化された同名小説に準え「時計じかけのオレンジ」と呼ばれ、決勝戦で敗れたものの「大会を通じて最も優秀なチーム」「我々に未来のサッカーを啓示した」「オランダには11人のディフェンダーと10人のフォワードが存在する」と評価された。クライフ自身は後にこの大会について次のように振り返っている。 私は1974年のワールドカップ決勝を忘れることはないだろう。1‐2で敗れた後、私は茫然自失となっていた。しかし数年後にファンの記憶に残っているのは試合に勝利した方ではなく敗れた我々の方であることを知った。それから数十年を経た今日においても世界中のサッカーファンが、あの時の我々のプレーを賞賛してくれることを誇りに思っている。 ― ヨハン・クライフ ===UEFA欧州選手権1976=== 1974年のワールドカップ後にミケルスが監督を退きジョージ・クノベル(英語版)が就任したものの、クライフをはじめこの大会を経験した主力選手の多くがチームに残り同年9月から始まったUEFA欧州選手権1976予選に参加。予選1次グループではポーランドやイタリアを退け、準々決勝ラウンドでもベルギーにホームで5‐0と大勝するなど2連勝で本大会出場を果たした。 1976年にユーゴスラビア連邦で行われた本大会では、準決勝でチェコスロバキアと対戦することになったが、地元のユーゴスラビアやワールドカップ優勝国の西ドイツ、同準優勝のオランダと比べ1ランク劣るチームと見做されていた。一方、オランダは優勝候補の筆頭と目されていたが、開幕前にクノベルが監督を辞任する意向を示すなどオランダ協会内で内紛が発生し、クライフが一時「クノベルが辞めるなら大会に出場しない」と宣言する事態に発展した。 チェコスロバキア戦は互いに退場者を出し、クライフ自身も主審のクライヴ・トーマス(英語版)に抗議した際に警告を受けるなど荒れた展開となったが、延長後半にチェコスロバキアに2得点を許し1‐3で敗れた。なおクライフは予選から通算2枚目の警告を受けたことで次の3位決定戦は出場停止となったため、チームには帯同せず帰国した。3位決定戦は若手メンバー中心で挑むことになり、地元のユーゴスラビアを3‐2で下して3位となった。 ===代表からの引退=== 同年9月から始まった 1978 FIFAワールドカップ・予選(英語版)にも引き続き参加し、隣国のベルギーや北アイルランドを退けて2大会連続で本大会出場を果たした。しかし1977年10月26日に行われた同予選のベルギー戦を最後に代表から引退することになり、翌1978年にアルゼンチンで開催される本大会への出場は辞退することになった。クライフに続いてストライカーのルート・ヘールスやキーパーのヤン・ファン・ベフェレン、前回準優勝メンバーのヴィレム・ファン・ハネヘムらも大会への参加を辞退することになった。 ワールドカップを目前にした代表からの引退については「開催国のアルゼンチンはホルヘ・ラファエル・ビデラ大統領の軍事政権による統治下にあったが、国内情勢が不安定だったことや弾圧に抗議するため」、「所属クラブであるFCバルセロナとの間で金銭トラブルが派生しており、大会出場の見返りとして多額の報奨金を要求したため」、「事前合宿を含め2か月近く家族と離れて過ごさなければならなくことを妻が許さなかったため」など様々な憶測が囁かれた。 クライフはこれまで ワールドカップに出場するには100%の体調では駄目だ。200%でなければ駄目だ。私は1974年大会を経験しているが、あれだけのプレーを再現できるとは思えないから辞退するのだ。今シーズン限りでバルセロナを含め、あらゆるサッカー活動から引退し家族と共に過ごす時間を増やすことにする。私は大衆の前から姿を消す。 ― ヨハン・クライフ と発言するなど「完全なコンディショニングで大会に挑める状況にはなかった」ことを理由として挙げていたが、2008年4月にスペインのラジオ番組に出演した際に、1977年に発生した息子の誘拐未遂事件が大会辞退の真の理由だったことを明らかにした。 大会の前年に子供の誘拐事件が発生した。私は犯人からライフル銃を突きつけられ妻と共に拘束されたが、子供に危害は与えられなかった。その後、4か月間は自宅周辺や子供の通学路では警察の警護を受ける状況となった。家族のことが心配となりオランダ代表としてワールドカップの舞台でプレーする気にはなれなかった。人生には何より代え難い物がある。 ― ヨハン・クライフ オランダ代表としての通算成績は国際Aマッチ48試合出場33得点。 ==指導者経歴== ===アヤックス=== 引退から1年後の1985年にアヤックスの監督に就任した。就任時は公式な指導者ライセンスを取得しておらず、ライセンスを取得するための講習を受講した経験がなかったため、「テクニカルディレクター」という肩書きでの就任だった。監督の上位に位置づけられる「テクニカルディレクター」として、クラブのトップチームから下部組織まで統括して戦術やシステムなどの志向するサッカーを立案し管理する役職だが、これはクライフが前述の北米リーグ時代にワシントン大学で学んだ、スポーツマネジメントに基づいた考えであり、アメリカから帰国したクライフがヨーロッパで自らが広めたものなのだという。 クライフは1970年代に展開した攻撃的スタイルの復活を掲げ、ベテランのアーノルド・ミューレン、中堅のマルコ・ファン・バステンやフランク・ライカールトらを軸に、デニス・ベルカンプやアーロン・ヴィンターといった10代の選手を積極的に起用。アヤックスではリーグ優勝はならなかったが、KNVBカップを制してUEFAカップウィナーズカップ 1986‐87への出場権を獲得。この大会で決勝進出を果たすと、1987年5月13日に行われた決勝戦では東ドイツの1.FCロコモティヴ・ライプツィヒ(英語版)をファンバステンの得点で下し、選手時代にチャンピオンズカップ3連覇を果たした1973‐74シーズン以来となる14シーズンぶりの国際タイトルを獲得した。 1988年4月、選手の移籍問題に関する見解の相違などの、トン・ハルムセン(オランダ語版)会長との確執もありクラブを退団した。 ===バルセロナ=== ====監督就任の経緯==== 1988年5月4日、FCバルセロナの監督に就任することになったが、監督就任の背景には同クラブ会長のホセ・ルイス・ヌニェスの存在があった。ヌニェスは同年にクラブの会長選挙を控えていたが、チーム自体はルイス・アラゴネス監督の下で1987‐88シーズンを戦い、カップ戦では優勝を成し遂げたものの、リーグ戦では成績が低迷し、選手達が同年4月28日に会長とクラブ役員の辞任を求め「エスペリアの反乱」と呼ばれる記者会見を開くなど内紛が続いていた。ヌニェスには、自らの政権維持のためにソシオと呼ばれるクラブの会員達の間で依然として人気の高いクライフの招聘を公約として掲げ、この局面を乗り切ろうとの思惑があった。 クライフは「エスペリアの反乱」に加わった多くの選手達が他クラブへ放出されたため、残留した選手と新たに補強した選手で1からチーム作りに取り掛かることになり、自らの経験に基づいたサッカー哲学とアヤックスで採用されている攻撃的サッカーをクラブに浸透させるためクラブの改革に着手していった。監督としての実績がアヤックスでの数シーズンのみと乏しかったことによる懸念や、結果を残すまでに時間が掛かったことで批判を受けることもあったが、自らのスタイルを押し通すとUEFAカップウィナーズカップ 1988‐89でイタリアのUCサンプドリアを下し国際タイトルを獲得したことで批判を退けた。 ===ドリーム・チームの完成=== 1989‐90シーズン、デンマークのミカエル・ラウドルップ、オランダのロナルド・クーマンといったスペイン国外のスター選手を獲得してチーム強化に努めたが、リーグ戦ではウーゴ・サンチェスやエミリオ・ブトラゲーニョを擁するレアル・マドリードが5連覇を達成したため優勝を逃した。そのため再びソシオの間で批判を受けることになりクライフ流の戦術ではなく、守備的な戦術を志向する監督を望む意見が持ち上がったが、ヌニェス会長がクライフを擁護する立場を採ったため残留が決定した。 1990‐91シーズン、過去2シーズンの反省から守備的なポジションのフェレール、ユーティリティ・プレーヤーのゴイコエチェア、ブルガリア出身のフリスト・ストイチコフらを獲得する一方で下部組織からジョゼップ・グアルディオラを昇格させるなど、それまで良いプレーを続けながら勝ちきることの出来なかったチームに変化を与えることが出来る選手達と契約を結んだ。シーズン最中の1991年2月26日に心筋梗塞により倒れバイパス手術を受けたため、復帰するまでの間は代理としてカルロス・レシャックが指揮を執ったが、2節で首位に立つと、そのまま他チームを引き離しリーグ優勝を果たした。 1991‐92シーズン、リーグ戦ではレアル・マドリードとの優勝争いに競り勝ち2連覇を果たすと、UEFAチャンピオンズカップ 1991‐92では決勝戦に進出しイタリアのサンプドリアと対戦した。ウェンブリー・スタジアムで行われた試合は両者無得点のまま延長戦に入ったが、111分にクーマンのフリーキックが決まりバルセロナが1‐0で勝利しクラブに初のチャンピオンズカップをもたらした。 クライフはボールポゼッション、シュートパス、サイド攻撃を柱とした攻撃的なサッカーを志向し、結果を残すまで時間がかかり批判を受けることもあったが、クライフの思想は徐々に選手だけでなく、クラブの首脳陣、ソシオに浸透し、クラブ全体に欠けていた勝者のメンタリティを植え付けた。在任した8シーズンの間に国内ではリーガ・エスパニョーラ4連覇 (1990‐91, 1991‐92, 1992‐93, 1993‐94) 、コパ・デル・レイ優勝1回 (1989‐90) 、スーペルコパ優勝3回 (1992, 1993, 1995) 、国際大会ではUEFAチャンピオンズカップ優勝1回 (1991‐92) 、UEFAカップウィナーズカップ優勝1回 (1988‐89) を成し遂げた。 1980年代後半から1990年代中盤にかけてクライフの作り上げたチームは、1992年バルセロナオリンピックのバスケットボール競技において、マイケル・ジョーダンらを擁して金メダルを獲得したアメリカ合衆国代表の通称であるドリームチームに準えて「エル・ドリーム・チーム」と称された。また、クライフを招聘したヌニェス会長は、この時期に多くのサポーターを獲得し、クラブの世界的ブランドとしての価値を高めることに寄与した。 ===ドリーム・チームの終焉=== 1993‐94シーズンに新たにブラジルのロマーリオが入団。ロマーリオは1994年1月8日に行われたレアル・マドリードとのエル・クラシコにおいて2得点を挙げる活躍を見せるなどシーズン通算30得点を挙げ得点王を獲得した。リーグ戦の優勝争いは首位に立つデポルティーボ・ラ・コルーニャをバルセロナが追い上げる展開だったが、1994年5月14日に行われた最終節の結果、両者が勝ち点で並んだものの得失点差によりバルセロナが上回り4連覇を達成した。 一方、国内リーグでの優勝から4日後にギリシャのアテネでUEFAチャンピオンズリーグ 1993‐94決勝が行われ、ファビオ・カペッロの率いるイタリアのACミランと対戦し0‐4と大敗した。この敗戦により、これまで築きあげた「ドリームチーム」の崩壊が始まったと評されている。 1993‐94シーズンに外国人選手の出場枠の問題により出場機会を失うことの多かったラウドルップ、GKのアンドニ・スビサレッタがクライフから戦力外と見做され退団。1994‐95シーズンが開幕するとロマーリオがホームシックにかかりシーズン途中に退団し、故国のCRフラメンゴに移籍した。この一連の問題が発端となり、人気選手であり問題児として知られるストイチコフがクライフ体制やチームメイトを批判する事態となり、シーズン終了後にストイチコフと守備の要だったクーマンも退団した。 1995‐96シーズン、「ドリームチーム」と呼ばれた当時の選手達の多くは既に退団しホセ・マリア・バケーロとグアルディオラ、フェレールの3人のみとなったことで、クライフは「新たなドリーム・チーム」の構築を目指して下部組織で育成された選手達を積極的に登用するなどチーム改革を行った。しかしリーグ戦でアトレティコ・マドリードに競り負け2シーズン続けてタイトルを逃すと、1996年5月18日にヌニェス会長は「クライフは間違った決断を下した」と告発し、監督解任を発表した。 ===オランダ代表監督問題=== FCバルセロナの監督を務めていた1990年代当時、オランダ代表監督への就任が取り沙汰された。1990年にイタリアで開催された1990 FIFAワールドカップの大会直前に主力選手の間でクライフの監督就任を望む気運が高まったが、代表監督の任命権を持つミケルスがレオ・ベーンハッカーを指名し自らアドバイザーに就任したために実現には至らなかった。また、1994年の1994 FIFAワールドカップの大会直前には監督のディック・アドフォカートと選手間の確執が続いたことから、再びクライフの監督就任を望む気運が高まったが、クライフとオランダサッカー協会 (KNVB) との間で合意に達することはなかった。1994年大会の際には1990年大会に比しても就任の可能性が高かったが、負傷中のファン・バステンの復帰の見通しが立たなかったことや、KNVBがクライフに対してコーチングスタッフの人選に関する権限を認めなかったことが就任に至らなかった原因とされている。 ==その後の経歴== バルセロナでのキャリアを最後に指導者としての第一線から退き、自身の名を冠した子供のスポーツ活動を支援するヨハン・クライフ財団や、スポーツマネジメントに関する人材育成を目的としたヨハン・クライフ大学(オランダ語版)を設立し社会貢献に努めた。 各クラブやサッカー協会の会長職などの要職を務めた経験はないが、友人でもあるジョアン・ラポルタが2003年にバルセロナの会長に就任した際には、教え子であるフランク・ライカールトを監督に推薦。オランダサッカー協会に対しても、それまでアヤックスの下部組織を率いた経験があるのみで指導者としての実績が十分ではなかったマルコ・ファン・バステンをオランダ代表監督に推薦するなど影響力を行使し続けていた。 ===バルセロナを巡る論争=== ホセ・ルイス・ヌニェス会長との確執が原因となりクライフが1996年5月18日にバルセロナの監督を解任された。解任後、ヌニェス会長とクライフの対立や舌戦はエスカレートし、互いに名誉毀損訴訟を起こす事態に発展しただけでなく、マスコミやファンを巻き込んでいった。ヌニェスが解任に際して「クライフの収賄疑惑」を暴露したこともあり、クラブのソシオ達はクライフ派とヌニェス派の二派に分裂し、クラブの会長選挙の際に両派は互いに候補者を擁立するなど対立を繰り返した。 1997年の会長選挙でヌニェスは再戦を果たすが、この直後にクライフ派のジョアン・ラポルタらのグループがヌニェスの不信任動議に乗り出した。1998年3月7日にクラブ史上初の不信任投票が行われた結果、30%の賛同を得るに留まりヌニェスの不信任案は否決された。クライフ派はドリームチーム時代のスタイルを崇拝しヌニェスが招聘したルイ・ファン・ハールのスタイルを「退屈」として批判、スタジアムでは抗議を意味する白いハンカチが振られた。また、1999年に行われたドリームチームを記念する行事と前後して、クライフが先頭に立ちメディアを通じてヌニェス会長への批判を展開した。 2000年の会長選挙ではヌニェス派は副会長のジョアン・ガスパール(英語版)を擁立し、クライフ派は企業家のルイス・バサットを擁立。バサットは「クライフを顧問としてクラブに復帰させる」という公約を掲げるも、僅差でガスパールが当選した。クライフはガスパールの就任当初は静観の構えを見せていたが、彼が招聘したセラ・フェレール監督がリーグ戦で4位に終わると、一転してガスパールを擁立したヌニェス派を糾弾し、かつての僚友だったレシャックが後任監督として就任すると彼にもその矛先が向けられ「裏切り者」と批判した。こうしたクライフの姿勢にソシオ内でも、その影響力を懸念する声も現れ始めた。 2003年の会長選挙ではバサットとラポルタのクライフ派同士の争いとなった。バサットは対立を続けていた「両派の融和」を掲げたが、「ドリームチームの再現」を目指すラポルタが約9万4000人のクラブ会員の約53%の支持を集めて会長に就任した。 2010年4月にバルセロナの名誉会長に就任したが 、同年7月に会長となったサンドロ・ロセイがクラブの規定に名誉会長職はないとしたため、名誉会長職を返上した。 ===アヤックスを巡る論争=== 2008年2月19日、アヤックスは新たにテクニカル部門を創設し、クライフを責任者として迎えることを発表した。この背景にはアヤックスのトップチームの成績不振や、かつて多くの有望な若手選手を輩出し「世界有数の育成組織」と評されたユース部門からの人材供給が減少するなどの問題が存在した。改革の旗手としてクライフを迎えようとの声を反映したもので、3日後の2月22日には2008‐09シーズンからの新監督としてマルコ・ファン・バステンを迎えることを発表した。この時点でクライフの復帰は正式決定には至っておらず、2週間後にクライフとファン・バステンの間で意思疎通を目的とした電話会談が行われたが、その際に両者の意見が対立。クライフは「育成方針に関するビジョンの共有が出来なかった」としてテクニカル部門の就任要請を辞退した。 2011年2月、アヤックスのテクニカルアドバイザーに就任した。 アヤックスの育成部門はこれまで数多くの人材を輩出し、2010年に南アフリカ共和国で開催されたFIFAワールドカップの舞台にヴェスレイ・スナイデルをはじめ6人の育成部門出身の選手達をオランダ代表へ送り出した。スカウト網や育成プログラムが成果を残していると評価を受けていたが、一方でクライフは「育成部門はその価値を失い平凡な組織へ成り下がった。ユースの選手には大胆さや冒険心やテクニックを教え込み、世界中が驚く人材を再び供給しなければならない」と異議を唱え、育成部門の再建は急務であると主張した。 同年3月にクラブ運営に関するアドバイスを目的とした「テクニカル・プラット・フォーム」部門の責任者に就任すると、フランク・デ・ブール監督の下でアシスタントコーチを務めていたダニー・ブリントをはじめコーチ陣を解雇し、デニス・ベルカンプやヴィム・ヨンクらを新たに育成部門の責任者に抜擢するなどの組織改革に取り組んだ。こうした動きに対してクラブの幹部の間で物議を醸し、ウリ・コロネル会長をはじめ理事会メンバーが総辞職する事態となった。 同年11月16日、エドガー・ダーヴィッツを含むアヤックスの理事4人が2012年7月からルイ・ファン・ハールをゼネラル・ディレクター (GD) として迎えることを発表した。これに対しクライフは「私の不在時に決定された」と主張しベルカンプをはじめ育成部門の10人の指導者と共に裁判所に提訴した。12月の一審、2012年2月の二審で共にクライフ側の訴えが認められファン・ハールのGD就任の差し止めが申し渡された。 ===カタルーニャ選抜=== 2009年11月9日、カタルーニャ選抜の監督に就任した。なおカタルーニャ選抜は国際サッカー連盟 (FIFA) や欧州サッカー連盟 (UEFA) に加盟しておらず国際大会の公式戦への出場資格を有していないため親善試合のみ行なっている代表チームである。同年12月22日に行なわれた初采配のアルゼンチンとの親善試合に4‐2で勝利、2010年12月28日にはホンジュラスと対戦し4‐0で勝利、2011年12月30日にはチュニジアと対戦し0‐0で引き分けた。 2012年11月11日、「カタルーニャ選抜の監督を務めたことは誇りに思うが一つのサイクルの終わりの時が来た」として監督辞任の意向を示し、2013年1月2日にナイジェリアとの親善試合が最後の采配となった。試合は1‐1の引き分けに終わったがクライフの指揮の下でカタルーニャ選抜は2勝2引き分けと無敗の成績を残した。 ===CDグアダラハラ=== 2012年2月25日、メキシコのCDグアダラハラのアドバイザーに就任したことが発表された。契約期間は3年で、オーナーであり実業家のホルヘ・ベルガラ(英語版)は「クライフに300万から500万ドルの給与を支払いクラブの再建のために全権を与えた」と語った。アドバイザー就任に際してクライフはクラブ側に忍耐を求めたが、9か月後の2012年12月に契約解除が発表された。 ==晩年と死== 2014年、FCバルセロナではサンドロ・ロセイの後任として副会長のジョゼップ・マリア・バルトメウが会長に就任。任期を1年残して2015年7月18日に行われた会長選挙においてバルトメウは54,63%の支持率を得てクライフ派のジョアン・ラポルタを退け勝利した。また、テクニカルアドバイザーを務めるアヤックスでは国内リーグ4連覇を成し遂げる一方で、「国際舞台で再び結果を残せるクラブとなる」という目標を果たせずにいた。そのため、両クラブに対する影響力の低下や、アヤックスについてはクライフの主導の下で行われてきたユース選手育成を柱としたクラブ再建計画に対する問題点が指摘された。 2015年10月22日、スペイン・バルセロナの病院で検査を受けた際に肺がんが発見されたことを発表した。クライフの公式ウェブサイトは「ヨハンと彼の家族のプライバシーおよび検査結果が確定していない点を尊重するため、現時点において詳細を発表することはできない」としていた。この発表を受けて、10月25日に行われたバルセロナ対SDエイバル戦や、10月23日から10月25日にかけて行われたエールディヴィジの全試合において、クライフの現役時代の背番号にちなみ前半14分に合わせ、観客によるスタンディングオベーションが行われた。 同年11月16日、クライフの示す展望がクラブ側に受け入れられていないことを理由にアヤックスのテクニカルアドバイザーを退任すると、翌2016年2月13日に公式ウェブサイト上において診断結果は極めて良好であることを公表し、「現時点では前半を2‐0でリードしているといった感じだ。試合はまだ終わっていないがね。だが、私は勝利を確信している」と病状をサッカーに例えた。 その後、同年3月中旬まで『デ・テレフラーフ(オランダ語版)』紙上の週刊コラムの連載を続けていたが、闘病生活の末に3月24日にバルセロナで死去した。68歳没。翌3月25日、遺体はバルセロナ市内で近親者によって火葬された。彼の死に際してオランダ国王のウィレム=アレクサンダー、現役時代にライバル関係にあったフランツ・ベッケンバウアー、教え子のジョゼップ・グアルディオラをはじめ各方面から哀悼の意を示すコメントが寄せられた。 同年3月25日、アムステルダム・アレナで開催された国際親善試合のオランダ代表対フランス代表戦では、両国の選手が喪章を着用し、試合前にクライフを悼んで黙祷が捧げられた。また、試合の前半14分でプレーを中断すると観客が一斉に立ち上がって拍手を送り、スタンドには選手時代の姿をかたどった横断幕が掲げられた。終了間際の86分にはオランダ代表のイブラヒム・アフェレイが得点を決めると背番号14を指で示すゴールパフォーマンスを見せ、クライフの生前の功績を称えた。同年3月30日、ウェンブリー・スタジアムで開催された国際親善試合のイングランド代表戦では、オランダ代表の選手が胸に14の数字が入ったユニホームを着用したが、フランス戦と同様に前半14分に合わせて観客から拍手が送られた。 長年に渡って関わりのあったFCバルセロナの本拠地・カンプ・ノウには追悼スペースが設けられ、3月末の時点で約6万人のファンが追悼に訪れた。また、4月2日にホームで行われたレアル・マドリード戦ではスタンドに「GR*11963*CIES JOHAN(ありがとう、ヨハン)」のメッセージや背番号14のユニフォームをかたどった人文字が掲げられ、1分間の黙祷が捧げられた。クライフが選手として最初に所属したアヤックスでは4月2日にアムステルダム市内で約3,000人のファンによる行進が行われ、4月3日に開催されたPECズヴォレ戦では試合前に背番号14のユニフォームをかたどった横断幕がピッチやスタンドに掲げられ、試合の前半14分でプレーを中断すると観客から拍手が送られた。 ==人物== ===プレースタイル=== 身長176cm、体重67kgと細身の体躯の持ち主だが、瞬間的な加速力を生かしたドリブル突破を得意とし、急加速急停止を繰り返し相手守備陣を翻弄した。細身の外見であるにも関わらずマークすることが難しく、捕らえ所がなかったことからオランダでは「ウナギ」とも呼ばれていた。 また、利き足の右だけでなく左足でも正確なパスを供給する技術の正確性を持ち合わせていた。両足での高いパス精度を持ち合わせる反面、現役時代を通じてペナルティーキックを滅多に蹴ることがなかったことでも知られる。この理由についてクライフは「第一に静止した状態ではなく、試合の流れの中でのキックを得意としていたため。第二にキックの威力の問題があったため」としている。 ピッチ上においての全体的な状況を把握する能力にも恵まれており、味方選手がプレーするためのスペースを生み出し、見出す為には「いつどこにポジションを採るのか」「いつどこに走り込むのか」「いつどこでポジションを離れてはいけないのか」について常に思考していたという。試合時にはオーケストラの指揮者の様に仲間達に対して詳細に指示を送り自らの思考を伝えたが、ピッチ上での指揮官ぶりは時にドリブルやパス、スペースへの走り込みといった積極的にボールへと関わるプレーよりも印象を残した。 名義上はセンターフォワードというポジションだが、試合が始まると最後尾や中盤、タッチライン際という具合に自由にポジションを代えてボールを受け、ドリブルやパスで攻撃を組み立てると共に、得点機に絡んだ。また、他の選手もクライフの動きに連動してポジションを目まぐるしく移動させた。チーム全体がクライフの動きに応じてポジションを修正する様は「渦巻」「変幻自在」と評され、その中心には常にクライフが存在した。 この他に現役時代のプレーとしては軸足の後ろ側にボールを通しながら180度ターンする「クライフターン」と呼ばれるフェイントを考案したことでも知られ、サッカーの基本テクニックの一つとなっている。 ===背番号14=== クライフの代名詞である背番号「14」はアヤックス時代から好んで着用していた。1970‐71シーズン開幕の際にクラブは個々の選手に固定の背番号を着用させることにしたが、クライフは攻撃的なポジションの選手が身に付ける「7」から「11」までの背番号ではなく、控え選手が付ける「14」を選んだ。この理由について役員が尋ねると、クライフは 9番はディ・ステファノ、10番はペレの背番号だ。私は誰も身につけていない14番を「クライフの背番号」にする。 ― ヨハン・クライフ と答えたという。また1974年のワールドカップに出場した当時のオランダ代表では、背番号は選手のアルファベット順に身に付けることになっていたため、頭文字が「C」で始まるクライフは本来であれば「1」番を着用するはずだったが、特例として「14」を着用することが認められた。 なお、アヤックスでは背番号「14」を着用していたが、FCバルセロナでは当時のリーガ・エスパニョーラは固定制の背番号ではなく先発メンバーは試合毎に「1」から「11」の背番号が割り当てられる規程となっていたため背番号「9」を着用し、フェイエノールトでは引退したヴィレム・ファン・ハネヘムの背番号だった「10」を着用してプレーした。 2007年4月25日、クライフの代名詞となった背番号「14」はアヤックスの永久欠番となった。 ===監督としての戦術=== 選手としてのクライフは選手が頻繁にポジションチェンジを繰り返す「トータル・フットボール」の体現者となったが、監督としては変則的な4‐3‐3フォーメーションや3‐4‐3フォーメーションを駆使し、選手をピッチ全体に配置させて攻撃サッカーを展開するスタイルを追及した。中盤にダイヤモンド型の陣形を構築するこれらのシステムの効能としては次の点などが挙げられる。 「試合を進行する際に、ピッチ上に数多くのトライアングルを形成することが出来る」「パスコースが常に二方向以上存在する」「ピッチ全体を幅広くカバーすることが可能となる」「守備に回った際に前線の選手が即座に相手のチェックに移ることが出来る」アヤックスの監督時代に採用していた4‐3‐3フォーメーション(アヤックス・フォーメーション)では、フィールドの中央に位置するゴールキーパー、センターバック、リベロ、攻撃的ミッドフィールダー、センターフォワードの縦軸の5人が攻守の鍵となり、相互の意思疎通とコンビネーションを重要視した。 GKはペナルティエリア内で相手の攻撃を阻止するだけでなく、攻撃時にはゴールから離れフィールドプレーヤーの1人としての役割もこなした。守備陣ではリベロの選手が積極的に中盤や前線に進出するのに対して、センターバックは最後尾から攻撃の起点としてロングパスを駆使してゲームを構築。左右のサイドバックに位置する2人の選手はサッカー界で主流となっていた積極的な攻撃参加を行ず、与えられたポジションとスペースのカバーリングに徹した。 中盤は左右の2人は後方から攻め上がったリベロの動きに応じてポジションを修正すると共に、リベロの進出により生じた後方のスペースや他の選手のミスをカバーする調整役を担った。攻撃的ミッドフィールダーの選手は常にセンターフォワードと5mから10m以内の間隔でポジションを採り、ボールを保持してゲームを動かすのではなく、センターフォワードのためにスペースを作り出し、動きをサポートするなどの関係性を意識させた。 前線では左右のウイングに位置する選手がタッチライン際まで開いてセンタフォワードの為にスペースを確保し、攻撃時にはドリブルで対峙する相手を圧倒することを求め、守備時には3人が連携してボールを保持する選手に対してプレッシングを行った。 ただし、ここで述べたアヤックス時代のシステムはあくまでも優れたセンターフォワードが存在する場合の事例だとしている。両サイドのフォワードに2人のウイングを配するコンセプト自体は変更はないが、優れたセンターフォワードが存在しない場合は定型的な4‐3‐3フォーメーションを採用せずにセンターフォワードの位置には選手を配置せずにゲームメイク力のあるフォワードを前線から下がり気味に配置し中盤に近い位置でプレーをさせた。 バルセロナで監督を務めていた当時も3トップや中盤でダイヤモンド型の陣形を作るなどのコンセプトは変わりなかったもののDFを3人にし3‐4‐3フォーメーションを採用する機会が多かった。その背景には対戦する多くのチームが2トップを採用していたというスペインサッカー界の事情と、1980年代後半にACミランを率いたアリゴ・サッキが主唱したプレッシングスタイルの戦術に対抗するための意図があった。一方、バルセロナでは基本的に選手が自由に陣形を崩すことを認めていなかったとの指摘もある。 アヤックスやバルセロナでは「パスを繋いで常に自分達のチームがボールをキープして攻撃を組み立て試合の主導権を握る」ボールポゼッションのスタイルを定着させたが、一方でそのスタイルを打ち破られた際の守備のリスクは大きく、戦術的な欠点を露呈することもあった。攻撃に人数を割き前掛かりになるため守備が手薄となり、前線の選手達がボールを奪われた際、相手にチェックを掛けボールを再奪取することに失敗し守備陣の裏にロングパスを通されれば一転して危機的な状況となった。不安定な守備と、その欠点を補って上回る攻撃力がクライフの志向した戦術の魅力でもあった。 ===人となり=== 自分の理想や目標を達成するために周囲を引きこんでいく並外れたカリスマ性のある人物と評されている。「私が思い出すことは、私が一番優れていたということだけだ」「多くの人々から『最高の選手』と賞賛されるが、自分でもそのように考えている。しかし裏返せば多くの低水準な選手達と共に長年プレーをしていたことを意味する」と公言してはばからない自信家であり我が強く、ミスを絶対に認めない頑固さを持ち合わせている。13歳の時に受けた職業適性検査では「能力は平均水準をやや上回るが精神的にも肉体的にも未成熟である。感情的で常に刺激を求め興味の対象が頻繁に入れ替わりやすく、勉学よりもスポーツに興味を示す。精密さを必要とする職業には不向きであり強いてあげるならば貿易などの商業に向いているだろう」と診断されている。 一方で、こうした自信家としてや感情的な側面は、報道陣や他の選手からの介入や外部の人間からの圧力を避けるための身を守るための人格であり、根底には親切心があり有名人然として振る舞うことを嫌っているともいう。 会話好きな性格で一旦話し出すと止まらない側面がある。選手時代には試合中に休むことなく選手に指示を出していたことからドラマの『わんぱくフリッパー』の主人公のイルカに準えて「フリッパー」とも呼ばれた。バルセロナの監督を務めていた1990年代にオランダの番組のインタビューに応じたところ予定の時間を上回り30分近く会話を続けたため、番組スタッフが編集作業で取捨選択することが困難となり、改めてクライフのための番組が製作された。また、オランダ国民には兵役が義務付けられているが招集を受けた際にクライフが医師と直接交渉して相手を根負けさせ兵役が免除されたエピソードや、1971年にオランダ君主のユリアナ女王と接見した際に税制についての見直しを直訴したため物議を醸したエピソードもある。 さまざまな渾名を持ち合わせており、選手時代には「空飛ぶオランダ人(フライング・ダッチマン)」、「エル・サルバドール」(El Salvador、救世主の意)の他に「エル・フラコ」と呼ばれていたが、これは1973年にバルセロナへ入団した当時、痩せた体格であったことに由来している。バルセロナの監督を務めていた当時の選手達は、かつてのスター選手への畏怖の念から「神」と呼んでいた。また、イニシャルの「J.C.」がイエス・キリストと同じであることから、1970年代に流行したロック・ミュージカルの『ジーザス・クライスト・スーパースター』に準え「スーパースター」とも呼ばれた。 ===言語感覚=== 独特な言語感覚や文章表現の持ち主であることでも知られ、クライフ語録 (Cruyffian) と呼ばれる独自の理論が人気を博している。還暦を迎えた2007年にAFP通信が1200人のファンを対象に行った調査によると以下の名言が上位に挙げられた。 「あらゆる欠点には長所がある」「我々がボールをキープし続けていれば、相手は永遠に得点することはできない」「相手が何点取ろうが、それより多くの得点を取れば問題はない」なお同じ調査において25%の人々が「クライフ語録を理解できる」と回答したのに対し、53%の人々が「時々理解が出来なくなることもあるが、気にしていない」と回答している。母国語のオランダ語の他に、英語、スペイン語を話すことが出来ることから選手時代には監督に代わって記者に説明役を買って出ることもあった。しかし長年スペインに在住していたにも関わらずスペイン語は上達していなかった、との指摘もある。 ===家族=== 妻であるダニー・コスターとは1967年に行われたピート・カイザーの結婚式を通じて知り合い、1968年12月に結婚すると3人の子供をもうけた。長女シャンタル(1970年生)はクライフがバルセロナの監督を務めていた当時の控えゴールキーパーだったヘスス・マリアノ・アンゴイ(英語版)と結婚。アンゴイは1996年にバルセロナを退団し引退するとアメリカンフットボール選手となり、NFLヨーロッパのバルセロナ・ドラゴンズ(英語版)などでプレースキッカーを務めたが後に離婚した。 次女スシラ(1972年生)は物静かな性格であるが父親に似て自己主張が強く、10代から20代の時期に馬術の障害飛越競技の選手を志したが膝の故障により断念した。 末っ子のジョルディ(1974年生)はクライフがバルセロナ在籍当時に産まれたため、キリスト教の守護聖人・聖ゲオルギオスのカタルーニャ語読みである「サン・ジョルディ」に因んで「ジョルディ」 (Jordi) と命名した。後に父親と同様にサッカー選手になるとバルセロナやマンチェスター・ユナイテッド、デポルティーボ・アラベスなどに在籍した。また、オランダとスペインの二重国籍を有することから、いずれかの代表チームを選択する権利があり一時はU‐21オランダ代表の招集を辞退していた。最終的に1996年4月にオランダ代表を選択し、同年にイングランドで開催されたUEFA欧州選手権1996に出場するなど国際Aマッチ9試合に出場した。 実兄のヘニーもサッカー選手でありポジションはディフェンダーを務めていた。クライフと同様にアヤックスの下部組織で育ちトップチームへ昇格を果たしたが大成せずに数シーズンで引退し、その後はスポーツ用品店を経営した。ヘニーの娘でクライフの姪にあたるエステル・クライフ(オランダ語版)はタレントとなり、2000年にルート・フリットと結婚したが2013年に離婚が成立した。 ===嗜好=== 好きな選手は1950年代のスター選手であるアルフレッド・ディ・ステファノと、「ロッテルダムのモナ・リザ」と呼ばれドリブルの名手だったファース・ヴィルケス、好きな監督はリヌス・ミケルス、苦手な選手としては1974年ワールドカップ決勝で徹底マークを受けたベルティ・フォクツの名を挙げている。 選手時代はプーマ社とスポンサー契約を結んでいた。1974 FIFAワールドカップのオランダ代表ではオランダサッカー協会が契約していたアディダス社のサッカーシューズを使用することを拒否し、アディダスのシンボルである3本線が入ったユニフォームをクライフだけは2本線に変更して試合に出場していた。また監督時代には、自らが設立したスポーツブランド『クライフ・スポーツ』以外のジャージやスーツを着用することを拒否した。 趣味のゴルフは選手時代にオランダからスペインへと移籍した直後の1973年頃に始めた。その際、プロゴルファーのセベ・バレステロスを紹介され、彼がクライフの所属するバルセロナのファンだったことから交流を続けたという。引退後は数多くのアマチュアトーナメントに出場しているが、2006年6月に専門誌『ゴルフ・ウィークリー』が掲載したオランダゴルフ協会(オランダ語版)のハンディキャップインデックスによるとクライフのハンディは35,3だった。 ===喫煙と健康問題=== 15歳の頃からヘビースモーカーであり、選手時代にはハーフタイム中に体を休める仲間達を尻目に一服していたとの逸話もあった。引退し監督になった後も喫煙は続けられベンチで頻繁にタバコをふかす姿が確認されていたが、1991年2月26日に心筋梗塞により倒れ、バイパス手術により一命は取り留めた。手術後は医師から禁煙が言い渡され、タバコの代わりにチュッパチャプスを舐めるようになった。またカタルーニャ州政府の依頼により若者の喫煙防止のためのコマーシャルに出演した。なお、このコマーシャルは、背広姿のクライフがタバコの箱をボールをリフティングする要領であしらった後に画面外に箱を蹴り出し、最後に若者に向けたメッセージが入るといった内容だった。このCMはスペイン語、カタルーニャ語、英語、ドイツ語、フランス語、オランダ語で放送された。 ===その他=== 1969年に歌手のペーター・クールワイン(オランダ語版)との共演でOei oei oei (dat was me weer een loei)というシングルを発表した。レコーディングの際にクライフはリズム感を保って歌うことが出来ずブランデー入りのコーラを飲んだ上で再びレコーディングを行った。このシングルはオランダ国内では目立った売り上げを残せなかったが、後にクライフが移籍したスペイン国内で人気を獲得したことから1974年にスペイン語に翻訳されて発売された。ルイ・ファン・ハールとは犬猿の仲として知られる。クライフは機会がある度にファン・ハールの指導方針を批判していたが、クライフの姿勢をファン・ハールも快く考えておらず2010年に「クライフは毎週のように私を無責任に批判し続けバルセロナでの仕事を挫折させようとした」と批判した。ファン・ハールは仲違いのきっかけについて2009年に出版した自伝の中で「1989年にクライフの家族からクリスマスのパーティーに招待されたが私の姉妹の容態が急変したため誘いを断った。そのため気まずい関係となった」と告白した。これに対してクライフはオランダのテレビ局「RTVノールト」の取材に応じ「私は覚えていないが、ファン・ハールはアルツハイマー病なのだろう。私が解決すべきことは何もない」と発言した。また『デ・テレフラーフ(オランダ語版)』紙で連載している自身のコラムの中では「通常であればコメントしたくもないが、家族を守ってきた私の限度や価値観を超えている」と発言した。 ==思想== 選手としても監督としても攻撃的サッカーの信奉者であり、攻撃をせずに守備を固めるような、美しくないサッカーに価値はないとの思想の持ち主である。そのためカウンターアタックに代表される守備的な戦術、中盤を省略してボールポゼッションと相互のコンビネーションを欠いた戦術、一部のスター選手の個人主義と個人技に頼った戦術、結果のみを重視する風潮に対しては常に批判的である。こうしたスタイルの実践は退屈なサッカーの横行に繋がるだけでサッカーの為にならないと主張しているが、自らの理想とするサッカーを遂行する上で最も重要な要素は走力ではなく頭脳や技術であるとし次のような言葉を残している。 試合の中でのスピードを維持するために、パスは味方の足下ではなく常に味方の1m先に出さなくてはならない。また、選手Aが選手Bにパスを出す際、3人目の選手CはBからパスが出る場所を予測して走りこむように心がける。サッカーとは頭で考えるスポーツなのだ。 近年、試合中に最も多くの距離を走った攻撃陣の選手が賞賛される傾向にあるが、私のサッカー観とは相反している。1試合で10kmも攻撃陣の選手が走るのは間違ったポジションを採っていることに他ならない。守備陣の選手は良いとしても攻撃陣の選手が走り回り体力を浪費することは、重要な局面での瞬間的な閃きや判断力が鈍りチームに悪影響を及ぼすことに繋がる。 この他に、クライフはことある機会に「サッカーとは楽しむものである」という趣旨の言葉を残しているが、現代のサッカー界にはその「楽しさ」が欠けているとして以下の言葉を残している。 現代のサッカーには「楽しさ」が欠けている。子供のころから、走ること、闘うこと、結果を求めることばかり追求し、基本的な技術すら身に付けないことは馬鹿げている。 私が現役のころはプレーをすることが楽しくてしかたなかったが、時代が変わったのだろうか。顔を引きつらせ拳を握り締めながらプレーする選手はプレーを楽しんではいないし、サッカー選手というよりは陸上選手である。私は理想主義者だから、サッカー選手がいい。 なお、2002 FIFAワールドカップでブラジルが優勝した際には個々の能力は評価しつつルイス・フェリペ・スコラーリの採用したカウンター戦術について「アンチフットボール」「ボールの出所にプレッシャーを掛け3‐5‐2フォーメーションの両サイドの選手を守備に忙殺させてしまえば平凡なチーム」と評したが、こうした歯に衣着せぬ発言について「率直に考えを述べているだけであって、優勝したこと自体を非難しているのではない。優勝したブラジルには敬意を表したい。ただし、魅力は感じない」と評している。 ==影響== ===選手=== クライフの影響を受けていると公言している選手としては、オランダのマルコ・ファン・バステンやフランク・ライカールト、フランスのミシェル・プラティニやダヴィド・ジノラ、ドイツのピエール・リトバルスキー、ルーマニアのゲオルゲ・ハジ、ブルガリアのフリスト・ストイチコフ、イングランドのポール・ガスコイン、日本の西野朗らがいる。オランダ代表や所属クラブでも同僚だったヨハン・ニースケンスは豊富な運動量とボール奪取能力が持ち味の選手だったが、クライフと同じ「ヨハン」という名前を持つこともあり「ヨハン二世」「第2のヨハン」と呼ばれていた。 また1980年代から1990年代にはファン・バステンが「クライフの再来」として紹介されたことがあり、しばしば比較の対象となっていた。クライフとファン・バステンは同じポジションでプレーし共に高い能力を持ち合わせていたが、クライフがピッチ全体を幅広く動き回り指揮者の様に振舞ったのに対し、ファン・バステンは得点を挙げることにプレーを特化させるなど、両者のスタイルは明確に異なっていた。ファン・バステンはクライフとの比較について1992年のバロンドール授賞式の際に「クライフは私以上の才能と強さを持ち、ドリブラーでありストライカーでもある万能型の選手だ。そして日々のトレーニングにも励む努力家でもあった。クライフとの比較は名誉なことだが、私が彼に並ぶことは決してない」と評した。 ブラジルのサッカー指導者のレヴィー・クルピはセレッソ大阪時代に指導した日本の香川真司のプレーについて「香川はピッチのあらゆる場所に現れ、相手の守備陣をすり抜け、シュートを放ち得点を決める。さながら1974年のクライフを思い出させる」としてクライフとの類似性を指摘している。 ===指導者=== ====スペイン==== バルセロナの監督時代に志向した、パスを繋ぎボール支配率を高めることで試合の主導権を握り続ける、攻撃的なサッカースタイルは、監督が代わった後も下部組織(カンテラ)を通じてクラブのサッカースタイルとして浸透した。監督時代の教え子であるジョゼップ・グアルディオラは2008年から2012年までチームを率いてドリームチームの打ち立てたタイトル獲得数を上回る結果を残したがグアルディオラ指揮下のバルセロナでは、通常であれば守備時には自陣へ下がりゴール前に守備ブロックを形成し相手の攻撃に対処するのに対し、相手にボールを奪われた際には即座に複数の選手でチェックを掛けて相手陣内にいる内にボールを奪い返し、奪い返せない際にもパスコースを限定させミスを誘発させ奪い返す前線からの積極的な守備を採用することで、クライフ時代に欠点と言われた守備面の修正を施した。 このことから、ドリームチーム時代の主力選手であるロナルド・クーマンは「チームとしての安定度と守備組織において、グアルディオラが率いるチームはかつてのドリームチームより優れている」と評したが、クライフは「グアルディオラの成功はカンテラ出身の選手が多く存在するからこそ可能なのであり、20年に渡るサイクルの一つに過ぎない。2つのチームを比較して優劣を決めるより、20年という長いサイクルにおいての成功について評価するべきだ」と評した。 またシャビやアンドレス・イニエスタ、セスク・ファブレガスといったバルセロナのカンテラ出身選手を多数擁する2000年代以降のスペイン代表はバルセロナのサッカースタイルを模倣しているとも言われ、同代表チームが2006 FIFAワールドカップに出場した際に見せたパスを丁寧に繋ぐサッカーはスペイン国内で「ティキ・タカ」 (tiqui‐taca) として紹介されると、やがてヨーロッパ中にその名が知れ渡るようになった。ティキ・タカとは玩具のアメリカンクラッカーを鳴らす時に発生する音を字句で表した擬声語である。同代表チームはUEFA欧州選手権2008ではルイス・アラゴネス、2010 FIFAワールドカップやUEFA欧州選手権2012ではビセンテ・デル・ボスケに率いられて、それぞれ優勝を果たしたが、前述の「ティキ・タカ」は代表チームのサッカースタイルとして継承されている。 ===オランダ=== ルイ・ファン・ハールは1991年からアヤックスの監督に就任するとクライフ監督時のシステムに修正を施した3‐4‐3システムを採用。選手に組織立ったプレーと規律を徹底させ、国内リーグ3連覇を果たし国際舞台においてもUEFAカップ1991‐92優勝やUEFAチャンピオンズリーグ 1994‐95優勝に導いた。1997年からはバルセロナの監督に就任し、アヤックス時代に育成した多くの教え子達を加入させて重用し組織的サッカーを実践したが、クライフ以上にシステムや個々の役割にこだわり、選手の才能よりも自らのゲームプランを遂行させることを重視した。クライフはファン・ハールの監督としての実績は認めながらも、指導方針については「彼のサッカーに対する哲学と私の哲学とは相反する」「私は現場でのプレーの実践こそが基本と考えているが、彼は自らの理論とデスクワークに時間を費やす。最良の指導とは戦術の講義ではなく、ピッチ上でプレーを実践し学習することだ」と否定的な立場を採っている。 フース・ヒディンクはオランダ代表監督として1998 FIFAワールドカップで指揮を執り同国を1978年大会以来20年ぶりのベスト4進出へと導いたが、その際に「このチームの強さは1974年大会のチームと異なり、クライフのような1人の選手に依存しない点にある」と評した。 2007年にはU‐21オランダ代表監督を務めていたフォッペ・デ・ハーン(英語版)が「クライフの主唱する前線に2人のウィンガーを配するシステムは時代遅れであり現代サッカーには適さない」と主張し、クライフとの間で論争が行われた。デ・ハーンは持論に従い4‐4‐2フォーメーションを採用してUEFA U‐21欧州選手権において優勝に導いたことで世論の支持を集め、オランダ代表においてもこのフォーメーションを採用するべきだとの批判が沸き起こった。また、ファン・バステンの率いたオランダ代表のUEFA欧州選手権2008での敗退やデ・ハーンとの論争を受けて、評論家のヘンク・スパーン(オランダ語版)やサイモン・クーパーらもクライフの思想を批判した。 ファン・バステンの後任としてオランダ代表監督に就任したベルト・ファン・マルワイクも同様に4‐2‐3‐1フォーメーションとカウンター攻撃を採用したが、こうしたオランダ代表の傾向についてクライフは一定の理解を示す一方で、「美しくない」と批判的な立場を執っていた。2010 FIFAワールドカップ・決勝ではスペインとオランダというクライフの影響を受けた代表チーム同士が対戦しスペインが勝利したが、クライフは「スペインの勝利は私の思想が間違いではなかったことを証明した」と評した。 ===その他=== アルゼンチンのホルヘ・バルダーノはクライフに追随し1990年代にCDテネリフェやレアル・マドリードを率いて攻撃的なスタイルを標榜したが、クライフは「彼は友人であり私と近いコンセプトを持ち合わせている。われわれは魅力的なサッカーを披露しつつ結果を残す、という理想を信じることのない人々と立ち向かっているのだ」と評した。 2000年代以降、クライフの用いた3‐4‐3フォーメーションは欧米の主要リーグで見られることは少ないと言われているが、アルゼンチンのマルセロ・ビエルサやイタリアのアルベルト・ザッケローニのように3‐4‐3フォーメーションを堅守速攻型の戦術として運用する指導者もいる。クライフが攻撃に特化しパスを繋ぎ常に自分達のチームがボールを保持して試合の主導権を握ることを求めたのに対し、ビエルサは3‐4‐3フォーメーションを変形させた3‐3‐1‐3フォーメーションを用い全選手が攻守に連動することで主導権を握ることを求めている。一方、ザッケローニの3‐4‐3は元々は4‐4‐2フォーメーションを発展させたもので中盤を横一列に配置した変則的な3‐4‐3フォーメーションが特徴だが、豊富な運動量をベースに同サイドのフォワード、サイドハーフ、セントラルミッドフィールダーが絡んだサイド攻撃を重視した。 ==評価== ===選手=== 選手としてはアルフレッド・ディ・ステファノ、ペレ、ディエゴ・マラドーナ、フランツ・ベッケンバウアーらと並んでサッカー史上に名を残す選手と評される。オランダ国内では芸術家のレンブラント・ファン・レインに例え「自らを芸術家として意識し、サッカー競技という芸術を確立させた最初の選手」と評する者もいる。一方、選手として成功を収めるとそれまでのプレーが影を潜め100%のプレーを発揮することはなくなったとの指摘もあり、イギリスのサッカー専門家のエリック・バッティは「1972年のチャンピオンズカップ決勝がクライフの選手としてのピークであり、バルセロナ時代にヘネス・バイスバイラー監督と衝突した原因は試合時のサボり癖によるものだった」と評している。 ===指導者=== 監督としてもアヤックスでUEFAカップ優勝、バルセロナではドリームチームと呼ばれるタレント集団を指揮し国内リーグ4連覇やUEFAチャンピオンズカップ優勝などの実績を残した。なお、選手と監督の双方でUEFAチャンピオンズカップ(後身のUEFAチャンピオンズリーグを含む)で優勝した経験を持つ人物はミゲル・ムニョス、ジョバンニ・トラパットーニ、クライフ、カルロ・アンチェロッティ、フランク・ライカールト、グアルディオラ、ジネディーヌ・ジダンの7人のみである。優勝などの実績を残しただけでなく世界各国の優秀な選手を獲得しつつ下部組織の優秀な選手を発掘し、「観客を楽しませながら選手も試合を楽しみ、なおかつ結果を残す」エンターテインメント性のあるサッカーを実践したと評されている。かつてのドリームチームの一員であるルイス・ミジャやジョゼップ・グアルディオラは次のように評している。 あの当時は慎重に試合を進めるサッカーが全盛の時代だったが、クライフに率いられたドリームチームが攻撃的なスタイルで勝利しタイトルを獲得できることを証明した。結果を残したことでサッカーファンが求める「サッカーとは、いかなるスポーツか」との質問への回答を一変させたのだ。 ― ルイス・ミジャ クライフが現代サッカーの基礎を作り、バルセロナの基礎を作った。それを引き継いで発展させることは、彼に続く指導者達の役割である。 ― ジョゼップ・グアルディオラ 一方、専門家のエリック・バッティは「最も重要な試合の際にクライフは結果のためだけの慎重な試合をしていた」と指摘している。 ==個人成績== ===クラブでの成績=== 1983‐84シーズン終了時の成績 ===代表での成績=== オランダ代表として最後の試合となった1977年10月26日のベルギー戦までの出場数 オランダ代表として最後の試合となった1977年10月26日のベルギー戦までの得点数 ===監督成績=== 2013‐01‐02現在 ==獲得タイトル== ===選手=== ====アヤックス==== エールディヴィジ (8) : 1965‐66, 1966‐67, 1967‐68, 1969‐70, 1971‐72, 1972‐73, 1981‐82, 1982‐83KNVBカップ (5) : 1966‐67, 1969‐70, 1970‐71, 1971‐72, 1982‐83UEFAチャンピオンズカップ (3) : 1970‐71, 1971‐72, 1972‐73UEFAスーパーカップ (2) : 1972, 1973インターコンチネンタルカップ (1) : 1972 ===バルセロナ=== ラ・リーガ (1) : 1973‐74コパ・デル・レイ (1) : 1977‐78 ===フェイエノールト=== エールディヴィジ (1) : 1983‐84KNVBカップ (1) : 1983‐84 ===監督=== KNVBカップ (2) : 1985‐86, 1986‐87UEFAカップウィナーズカップ (1) : 1987UEFAカップウィナーズカップ (1) : 1989コパ・デル・レイ (1) : 1989‐90ラ・リーガ (4) : 1990‐91, 1991‐92, 1992‐93, 1993‐94スーペルコパ・デ・エスパーニャ (3) : 1991, 1992, 1994UEFAチャンピオンズカップ (1) : 1991‐92UEFAスーパーカップ (1) : 1992 ==個人タイトル== ===選手=== バロンドール(欧州年間最優秀選手賞)(3): 1971, 1973, 1974オランダ年間最優秀選手賞 (3) : 1968, 1972, 1984エールディヴィジ得点王 (2) : 1967, 1972オランダ年間最優秀スポーツ選手賞 (2) : 1973, 1974ドン・バロン・アワード年間最優秀外国人選手 (2) : 1977, 1978北米サッカーリーグ年間最優秀選手 (1) : 1979ワールドサッカー選定 20世紀の偉大なサッカー選手100人 3位 : 199920世紀ワールドチーム : 1998ワールドサッカー誌選定20世紀の偉大なサッカー選手100人 3位 : 1999国際サッカー歴史統計連盟 (IFFHS) 20世紀最優秀選手 2位 : 1999国際サッカー歴史統計連盟 (IFFHS) 20世紀欧州最優秀選手 : 1999国際サッカー歴史統計連盟 (IFFHS) 20世紀オランダ最優秀選手 : 1999フランス・フットボール選定20世紀最優秀選手 3位 : 1999UEFAジュビリーアウォーズオランダ最優秀選手 : 2003FIFA 100 : 2004 ===監督=== ワールドサッカー誌選定世界最優秀監督賞 (1) : 1987ドン・バロン・アワード年間最優秀監督 (2) : 1991, 1992オンズドール年間最優秀監督 (2) : 1992, 1994UEFA歴代最高監督 : 2017 ===その他=== フランシナ・ブランカース=クン キャリア賞(オランダ語版) : 2005ローレウス世界スポーツ賞生涯功労賞 : 2006FIFA功労賞 : 2010UEFA会長賞 : 2013 ==栄典== オラニエ=ナッサウ勲章(英語版)騎士位 : 1974オラニエ=ナッサウ勲章士官位 : 2002サン・ジョルディ十字勲章(英語版) : 2006レアル・オルデン・デル・メリト・デポルティーボ(スペイン語版) : 2016 =エルンスト・カルテンブルンナー= エルンスト・カルテンブルンナー(Ernst Kaltenbrunner, 1903年10月4日 ‐ 1946年10月16日)は、オーストリア及びドイツの法律家、政治家。 ナチス親衛隊(SS)の幹部の一人でオーストリアの親衛隊及び警察高級指導者(HSSPF)を経て、ラインハルト・ハイドリヒの死後の1943年にRSHA長官となり、ヨーロッパにおいてユダヤ人の絶滅政策の執行にあたった。ドイツ敗戦後にニュルンベルク国際軍事裁判において戦争犯罪人として起訴され、死刑宣告を受けて絞首刑に処せられた。最終階級は親衛隊大将、武装親衛隊大将及び警察大将。 ==生涯== ===前半生=== 1903年、オーストリア=ハンガリー帝国オーバーエスターライヒ州の工業都市リート・イム・インクライス(de:Ried im Innkreis)に生まれる。父は弁護士のフーゴ・カルテンブルンナー(Hugo Kaltenbrunner)。母はその妻テレーゼ(Therese)。カルテンブルンナー家はカトリック家庭で祖父の代から弁護士だった。 7歳までラープで育ち、1913年にリンツの実科ギムナジウムに入学。ギムナジウム在学中に汎ゲルマン主義的で反教権主義的なブルシェンシャフト「ホーエンスタウフェン」に加入している。またこのギムナジウムにはアドルフ・アイヒマンも通っており、二人は友人だった。 1921年秋にグラーツのグラーツ工科大学に入学した。はじめ化学を専攻したが、1923年に法学に転じた。1926年夏に法学博士の学位を取得している。カルテンブルンナー本人によれば彼の大学生活は、炭鉱で夜勤をしながらの苦学だったといい、しばしば自分が労働者の友である事を強調していた。大学在学中にブルシェンシャフト「アルミニア」に加わっている。カルテンブルンナーは熱心な活動家であり、団体の中心的役割を占めた。汎ゲルマン主義、反教権主義、反ユダヤ主義、反自由主義思想などに影響され、ドイツ人によるドイツ・オーストリア統一を目指した。 1926年にグラーツからリンツへ移り、リンツ地方裁判所において司法官試補の研修を受けた。1928年には弁護士の事務所に就職した。 ===オーストリア・ナチ時代=== 1928年に国粋主義的体操クラブ、1929年に護国団の準軍事活動に参加した。しかしこれらの団体はカルテンブルンナーの主目的であったドイツによるオーストリア併合に充分熱心とは言えなかったため、彼は1930年10月18日にオーストリアの国家社会主義ドイツ労働者党に入党した。さらにヨーゼフ・ディートリヒの勧めで1931年8月31日に親衛隊に入隊した(隊員番号13039)。オーストリアの親衛隊部隊はオーストリア・ナチ党の指揮下ではなく、ドイツの親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーの直接指揮下にあった。 1932年から父の法律事務所で働き、ナチ党員の無料弁護活動に奉仕した。1933年にドイツでナチ党が政権を取ると、オーストリアでもナチ党の活動が活発となり、政府の警戒心が高まり、1933年6月にエンゲルベルト・ドルフース首相によってオーストリアナチ党は禁止された。ドルフースはナチ党員を逮捕して強制収容所へ入れた。カルテンブルンナーは1934年1月14日にはエリーザベト・エーデル(Elisabeth Eder)と結婚したが、この翌日にナチ党員として逮捕され、カイザーシュタインブルッフ収容所に収容された。同年4月まで収容されていた。 1934年6月15日にリンツの親衛隊第37連隊(37.SS‐Standarte)司令官に任じられた。1935年5月に国家反逆罪で再逮捕された。禁固6ヶ月に処されるとともに弁護士資格をはく奪された。ヒムラーはそれでもカルテンブルンナーにオーストリアに留まるよう命じ、1935年6月15日に彼を第37連隊司令官から親衛隊地区VIII区(本部リンツ)司令官に昇進させた(1938年3月12日まで在職)。カルテンブルンナーはしばしばリンツから密入国でドイツに入り、ヒムラーやSD長官ラインハルト・ハイドリヒ、SD外国部長ハインツ・ヨストなどに報告を行った。1936年以降、ドイツの「オーストリア救済事業局」から資金の流れる救済事業局基金を非合法で設置し、オーストリアの地下運動指導者にその資金を配分し、彼らを通じてドイツ政府からの秘密指令を伝達した。 1936年7月11日に駐ウィーン・ドイツ公使フランツ・フォン・パーペンの仲介でオーストリア首相クルト・シュシュニックとドイツ総統アドルフ・ヒトラーの間に協定が成立した。ヒムラーからオーストリアの親衛隊にこの協定を破壊するような活動をしないよう命令が下り、1937年1月20日に急進派を抑えられる者としてカルテンブルンナーがオーストリア全域の親衛隊の総指揮者である親衛隊上級地区「エスターライヒ(オーストリア)(*7680*sterreich)」の司令官に任じられた。カルテンブルンナーはオーストリアナチ党の中でケルンテンの党指導者フリードリヒ・ライナー(de)に近い立場を取っていた。すなわちシュシュニックがナチ党を合法化する見込みはなく、したがって非合法活動からの完全な撤収には反対するという立場だった。しかしライナーとカルテンブルンナーは、ヒムラーからの要請を受けいれて、穏健派のアルトゥール・ザイス=インクヴァルトの立場を支持するに至った。カルテンブルンナーらはザイス=インクヴァルトと対立するナチ党下オーストリア大管区指導者ヨーゼフ・レオポルト(de)らを失脚させる事に成功し、オーストリア・ナチ党の党内抗争に勝利した。 ===オーストリア併合=== 1938年2月12日に行われたベルヒテスガーデンでのヒトラーとシュシュニックの会談に基づき、2月16日にザイス=インクヴァルトがオーストリア内相に任命された。 しかしシュシュニックはなおもオーストリア独立にこだわったので、ヒトラーは、3月11日午前2時頃にドイツ軍部隊を国境に出動させた。ヒトラーやヘルマン・ゲーリングからの要求で同日午後7時にシュシュニックは首相を辞任し、ヴィルヘルム・ミクラス(de)大統領は後任としてザイス=インクヴァルトを首相に任命した。 ザイス=インクヴァルト新首相はシュシュニック時代からの保安担当国務長官(Staatssekret*7681*r f*7682*r *7683*ffentliche Sicherheit)ミヒャエル・スクーブル博士(de)を留任させたが、ヒムラーから介入があり、スクーブルは辞職することになり、カルテンブルンナーがその後任となった。3月13日にはオーストリアで「オーストリアとドイツ国との再統一に関する法律(合併法)」が制定され、オーストリアはドイツのオストマルク州となった。 ===オーストリア併合後=== 1938年3月13日のオーストリア併合後もオストマルク州国家代理官となったザイス=インクヴァルトのもとで1938年8月までオストマルク保安担当国務長官を引き続き務めた。ヒムラーの命令でリンツの東方約20キロの場所に作られたマウトハウゼン強制収容所の創設に関与した。またオーストリアのゲシュタポ組織の創設にも関与した。1939年1月にはドイツ国会の国会議員となる。 また1938年3月に併合とともに親衛隊上級地区「エスターライヒ」の本部をリンツからウィーンに移し、続いて1938年5月には親衛隊上級地区「ドナウ」と名称を変更させた。1938年9月11日にウィーンに本部を置く「ドナウ」親衛隊及び警察高級指導者職も与えられた。カルテンブルンナーが務める親衛隊上級地区「ドナウ」指導者と「ドナウ」親衛隊警察高級指導者は、はじめオーストリア全域の親衛隊と警察を支配する職位であったが、1939年にオーストリア地域の親衛隊と警察を二分割する再編成があり、「ドナウ」から分かれて「アルペンラント」という親衛隊及び警察高級指導者職と親衛隊上級地区が新設された。これによりザルツブルク、ティロル、フォアアールベルク、ケルンテン、シュタイアーマルク、ブルゲンラント南部は「アルペンラント」の管轄となった。ウィーン、オーバーエスターライヒ、ニーダーエスターライヒ、ブルゲンラント北部の親衛隊と警察のみがカルテンブルンナーの「ドナウ」の所管となった。 親衛隊及び警察高級指導者は、ハインリヒ・ヒムラーの親衛隊全国指導者、全ドイツ警察長官の地位を地域レベルで代行する職位であるので理論上はその管轄地域の親衛隊と警察に最高指揮権があるはずだが、ラインハルト・ハイドリヒの保安警察やクルト・ダリューゲの秩序警察は地方に保安警察監察官や秩序警察監察官を設け、地元の保安警察や秩序警察の指揮を取らせていた。保安警察監察官は保安警察長官(ハイドリヒ)、秩序警察監察官は秩序警察長官(ダリューゲ)に属し、親衛隊及び警察高級指導者の指揮下には事実上なかった。カルテンブルンナーの管轄する「ドナウ」でもこうした事態となり、カルテンブルンナーの地元の警察への指揮権はかなり制限されたものであった。 ハイドリヒはオーストリア併合後すぐにウィーンにアドルフ・アイヒマンを派遣してユダヤ人国外移住本部を創設させ、オーストリア・ユダヤ人の国外追放を徹底的に行ったが、こうした活動にもカルテンブルンナーは一切関与していない。 カルテンブルンナーは、親衛隊上級地区「ドナウ」指導者職と「ドナウ」親衛隊警察高級指導者職に国家保安本部長官の職務にあたるようになった1943年1月31日まで在職している。 ===国家保安本部長官=== 1942年6月4日に国家保安本部(RSHA)長官ラインハルト・ハイドリヒがチェコ人工作員の襲撃で負った傷が原因で死去した。その後、ハインリヒ・ヒムラーが国家保安本部長官を兼務していたが(国家保安本部長官代理にブルーノ・シュトレッケンバッハが任じられていた)、1942年12月10日にヒムラーはヒトラーの同意を得て、カルテンブルンナーを後任の国家保安本部長官に内定した。1943年1月30日にカルテンブルンナーは国家保安本部長官に任命された。1月31日にヒトラーがカルテンブルンナーの国家保安本部長官任命を発表した。 これによって彼はゲシュタポ、刑事警察、親衛隊情報部(SD)、および東部戦線後方で敗戦までに100万人を殺害したアインザッツグルッペンなどの責任者となった。人種再定住計画や「ユダヤ人問題の最終的解決」の執行者となった。カルテンブルンナーの督励により、ヨーロッパ中でユダヤ人狩りが組織的に実行され、数百万人が抹殺された。しかし基本的にはカルテンブルンナーはヒムラーとハイドリヒがすでに敷いた路線を継承したにすぎなかった。カルテンブルンナーがこれまでの路線に変更を施したところといえば、1943年春と夏にこれまで絶滅政策の対象外となっていたテレージエンシュタット・ゲットーの「特権的ドイツ系ユダヤ人」たちも絶滅過程に組み入れることを決定したことがある。 1944年2月にはヴィルヘルム・カナリス提督の失脚に伴い、その指揮下だった国防軍諜報部「アプヴェーア」は、国家保安本部第VI局(局長ヴァルター・シェレンベルク)の下部組織にされた。 1944年3月には「弾丸布告(Kugel‐Erla*7684*)」を発令した。これによりアメリカ人とイギリス人を除く逃亡した戦争捕虜は国家保安本部の保安警察とSDに引き渡され、マウトハウゼン強制収容所で銃殺されることとなった。 1944年3月にドイツ軍がハンガリーを占領。カルテンブルンナーは1944年3月22日にハンガリーに赴き、新しい首相に立てられた親独派ストーヤイ・デメと会見した。ハンガリー政府が国家保安本部が行う「ユダヤ人問題の迅速な解決」に協力し、ユダヤ人移送を妨害しない約束を取り付けた。その後も数日間ブダペストに留まり、ハンガリー当局とユダヤ人移送について協議し、実施の詳細についてはアドルフ・アイヒマンにゆだねた。アイヒマンの指揮のもとに1944年5月半ばから6月30日までのわずか一ヶ月半の間に38万1600人のユダヤ人がアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所へ送られ、うち24万人がガス室へ送られて殺された。 1944年6月にはドイツを空爆した連合国パイロットの取り扱いについて国防軍最高司令部作戦本部長代理ヴァルター・ヴァルリモントと協議した。連合国パイロットのうち、直接に市民やその財産を狙う機銃掃射をしたと認められるパイロットは、SDに引き渡されて「特別待遇」に処す事を決定した。 ===ヒトラー暗殺未遂事件=== 1944年7月20日12時40分過ぎ、東プロイセン・ラステンブルクにあった総統大本営「ヴォルフスシャンツェ」の会議室において、ヒトラーが将校たちと会議中に参謀本部大佐クラウス・フォン・シュタウフェンベルク伯爵(国内予備軍参謀長)が仕掛けた時限爆弾が爆発した。将校や速記者に死亡者・負傷者がでたが、ヒトラーは軽傷を負うにとどまった(ヒトラー暗殺計画)。 カルテンブルンナーは事件の際にベルリンの国家保安本部にあったが、彼の初動捜査はお世辞にも良かったとはいえなかった。会議室から一人姿を消したシュタウフェンベルク大佐を尋問するようカルテンブルンナーは電話で命令を受けた。ただちにゲシュタポ将校フンベルト・アッハマー・ピフラーダー親衛隊上級大佐(de:Humbert Achamer‐Pifrader)を国内予備軍司令部があるベントラー街国防省に派遣したが、ピフラーダーはシュタウフェンベルク達に拘束されてしまった。ピフラーダーが戻ってこないのに気づいたカルテンブルンナーと国家保安本部は今度は敵を過大に見積もってしまい、麻痺状態に陥ってしまった。彼らは「ヴァルキューレ作戦」に従ってベルリンの官庁街を動き回る国防軍軍人たちに対して何ら有効な手立てを打てなかった。 しかし7月20日のうちにベントラー街内部で反クーデター派軍人がクーデター派軍人を取り押さえた。国内予備軍司令官フリードリヒ・フロム上級大将の命令でシュタウフェンベルクらクーデター派のリーダー格は銃殺刑に処せられた。カルテンブルンナーはすぐにベントラー街に急行し、捜査を行うのでそれ以上独断の銃殺刑を執行しないようフロムに指示した。 その後の捜査は国家保安本部を本拠として行われ、カルテンブルンナーが指揮を執った。国家保安本部ゲシュタポ局長ハインリヒ・ミュラーの下に「1944年7月20日特別委員会」を創設させて捜査を開始させ、その調査結果をまとめて党官房長マルティン・ボルマンに提出した。捜査は徹底して行われ、7,000人近くが逮捕された。そのうちローラント・フライスラーの人民裁判所へ送られて処刑された者の数は少なくとも200人に及ぶという。カルテンブルンナーは捜査の責任者として人民裁判所で裁判の様子を傍聴したが、フライスラーの裁判指揮に不快感を抱いた。「この三文役者は、無能な革命家や失敗した暗殺者さえも殉教者にしてしまう」と不満を漏らしている。マルティン・ボルマンへの報告書の中でもフライスラーのやり方を批判しているが、ヒトラーはフライスラーのやり方でよいと判断し、陰謀者たちの裁判をその後もフライスラーに任せた。カルテンブルンナーの報告書は空振りに終わった。 ===大戦末期=== カルテンブルンナーは1945年3月半ばと4月半ばに独断で単独講和を企て、SD将校ヴィルヘルム・ヘットル親衛隊少佐(de)をスイスへ派遣してアメリカの情報機関OSS(CIAの前身)のヨーロッパ代表アレン・ウェルシュ・ダレスと交渉させるなどしている。しかし交渉は失敗に終わった。 敗戦も間近になった1945年4月19日にカルテンブルンナーは側近とともにベルリンを離れ、ザルツブルクへ自らの司令部を移した。「アルプス国家要塞」に立て籠もり、ここで最後まで抵抗を支援するはずだった。多くのナチ党高官が強奪した貴重品を持ち込み戦後に備えた。5月1日にはアルトハウスゼー(de)へ移った。アドルフ・アイヒマンがアルトアウスゼーにユダヤ人移送の報告に現れたが、カルテンブルンナーはもはや何の関心も示さなかった。 ===捕虜=== 1945年5月11日にアメリカ陸軍CIC(en)対情報部がカルテンブルンナーの身柄を拘束した。 カルテンブルンナーはノルトハウゼン近くのアメリカ軍の収容所に送られることになった。偽名を名乗っていたことから、当初アメリカ軍は彼がカルテンブルンナーだと認知しておらず、単なるドイツ軍将校と思っていた。しかし、移動中に彼を見つた愛人が本名を叫んで抱きついたことからカルテンブルンナーであることがばれた。まもなくルクセンブルクのバート・モンドルフ(de)のパレス・ホテルに設けられた収容所へ送られた。ここはナチスの最大の大物と見なされた捕虜が収容されていた場所で、ヘルマン・ゲーリング、カール・デーニッツ、ヨアヒム・フォン・リッベントロップ、アルベルト・シュペーア、ヴィルヘルム・カイテル、フランツ・フォン・パーペン、ヒャルマル・シャハト、アルフレート・ローゼンベルク、ユリウス・シュトライヒャーなど後にニュルンベルク裁判にかけられることになる者たちが収容されていた。 ===ニュルンベルク裁判=== 1945年9月に国際軍事裁判が開かれることとなったニュルンベルクの刑務所に送られたが、刑務所でのカルテンブルンナーは、前述の通りヨーロッパにおけるユダヤ人の絶滅政策の執行にあたったという前歴や、日頃の酒癖の悪さも相まって、被告仲間からは「SSの豚野郎」と呼ばれるなど、ユリウス・シュトライヒャーと同様に忌み嫌われた存在であったという。 国際軍事裁判で彼は米軍による不当な待遇について述べ、うちひしがれた様子だった。彼は第一訴因「侵略戦争の共同謀議」、第三訴因「戦争犯罪」、第四訴因「人道に対する罪」で起訴された。起訴状を届けられた時、カルテンブルンナーは「家族に会わせてくれ」と泣き出した。起訴状についてコメントを書くことを求められると「いかなる戦争犯罪についても私は無罪だと思っています。私は諜報員としての任務を果たしただけです。ヒムラーの代役を務めることは拒否します。」と書いた。 裁判の開廷直前に彼はクモ膜下出血を起こして独房の中で卒倒し、病院へ担ぎ込まれた。不安とストレスで血圧を押し上げて血管が破れたのだった。ニュルンベルク裁判は1945年11月20日から開廷したが、彼は治療のためにしばらく欠席した。しかし12月10日からは出廷させられた。 検察側論告ではソ連首席検事ロマーン・ルジェーンコ(ロシア語版)中将が「カルテンブルンナーはチェコスロヴァキアの愛国者により逆処刑された首切り役人ラインハルト・ハイドリヒの後継者として、ヒムラーによれば最適任者であった。カルテンブルンナーは処刑人の後継者として、また自ら処刑人として、ヒトラー一味の一般的犯罪計画の、極めて嫌悪すべき機能を有した」と非難した。 裁判が始まると彼はいかなる手段を用いてでも死刑を避けようとするようになった。自分を弁護する法廷戦術として彼が用いたのは、ゲシュタポをはじめとする彼の指揮下にある機関が重大な犯罪を犯したことを認めつつ、彼自身はその犯罪へいかなる関与もしていないと主張することだった。彼は、自分が実行犯というよりはただそのような機密業務について、ある種の名目的代表を務めただけだと主張し、実際にはSDの諜報活動以外には一切携わっていないと主張した。犯罪は自分が国家保安本部に関わりあいになる以前に行われた行動の結果だと主張した。必要とあらば検察が提示した文書の自分のサインを否認しさえした。 1946年10月1日、被告人全員に判決が言い渡された。まず被告人全員がそろった中、一人ずつ判決文が読み上げられた。カルテンブルンナーの判決文は「カルテンブルンナーが、侵略戦争遂行計画に関与した証拠はない。ドイツ・オーストリア併合は、侵略戦争とは非難されていない。」として彼を第一起訴事項「侵略戦争の共同謀議」について無罪とした。一方、「カルテンブルンナーは強制収容所の状況をよく知っていた」「強制収容所内でのユダヤ人の殺害はRSHAの管轄事項であり、カルテンブルンナーはその長官である」「”ユダヤ人問題の最終的解決”に指導的役割を果たした。」「”弾丸布告”をはじめとする捕虜の虐待と殺害に関与した」として第三起訴事項「戦争犯罪」と第四起訴事項「人道に対する罪」について有罪とした。その後、個別に言い渡される量刑判決で彼は絞首刑判決を受けた。 ===処刑=== 1946年10月4日に死刑囚カルテンブルンナーは43歳の誕生日を迎えたが、それについてカルテンブルンナーは「ポケットに死刑判決文を入れて誕生日を迎えるのはまことに奇妙な感覚だ」と述べた。また上官のヒムラーを恨み、「奴は部下に名誉と忠誠を要求しながら、自分自身はさっさと自殺して逃げてしまった」と怒りを露わにした。 10月16日午前1時10分から自殺したヘルマン・ゲーリングを除く死刑囚10人の絞首刑が順番に執行された。カルテンブルンナーはヨアヒム・フォン・リッベントロップとヴィルヘルム・カイテルに次いで三番目に刑執行を受けた。 最期の言葉は「私は私の国民と私の祖国に、熱い心をもって仕えました。私は私の義務を、祖国の法律に従って果たしました。困難な時代に我が国民がもっぱら軍人的な人たちに率いられなかったことを私は残念に思います。犯罪が行われた事も残念ですが、私はそれに何の関わりもありません。ドイツよ、健やかに。」だった。 自殺したゲーリングを含めてカルテンブルンナーら11人の遺体は、アメリカ軍のカメラマンによって撮影された。撮影後、木箱に入れられ、アメリカ軍の軍用トラックでミュンヘン郊外の墓地の火葬場へ運ばれ、そこで焼かれた。遺骨はイーザル川の支流コンヴェンツ川に流された。 ==キャリア== ===親衛隊階級=== 1932年9月25日、親衛隊大尉(SS‐Sturmhauptf*7685*hrer)1936年4月20日、親衛隊大佐(SS‐Standartenf*7686*hrer)1937年4月20日、親衛隊上級大佐(SS‐Oberf*7687*hrer)1938年3月12日、親衛隊少将(SS‐Brigadef*7688*hrer)1938年9月11日、親衛隊中将(SS‐Gruppenf*7689*hrer)1941年4月1日、警察中将(Generalleutnant der Polizei)1943年6月21日、親衛隊大将及び警察大将(SS‐Obergruppenf*7690*hrer und General der Polizei)1944年12月1日、武装親衛隊大将(General der Waffen‐SS) ===受章=== 血の勲章(1942年5月6日)戦功十字章 一級章(1943年1月30日) 騎士章(1944年11月15日)一級章(1943年1月30日)騎士章(1944年11月15日)ドイツ十字章 銀章(1943年10月22日)銀章(1943年10月22日)黄金ナチ党員バッジ(1939年1月30日) ==人物== 身長2メートルを越える長身でがっしりした体型だった。その体格と恐ろしげな頬の傷によりニュルンベルク裁判被告人の中でも最も「ナチスらしいナチス」として評判で、彼が入廷するとカメラマンたちが喜んだものだった。なおカルテンブルンナーの頬の傷は決闘など男らしい理由でできた物ではなく、交通事故を起こしてフロントガラスに突っ込んでできただけだった。ニュルンベルク刑務所付心理分析官グスタフ・ギルバート大尉が、開廷前に被告人全員に対して行ったウェクスラー・ベルビュー成人知能検査によると、カルテンブルンナーの知能指数は113で、全被告人中ではユリウス・シュトライヒャーに次いで2番目に低かった。アルコール中毒者でチェーンスモーカーだったという。 ===ニュルンベルク裁判中のインタビュー=== ニュルンベルク裁判中のレオン・ゴールデンソーンのインタビューの中で「私はヒムラーの命による残虐行為から人々が連想するような粗野で扱いにくい人間ではない。私はそれらの行為とは一切無関係だ」「私は第二のヒムラーだと思われている。そんなことはないのだが。新聞は私を犯罪者扱いしている。誰も殺していないというのに」と述べた。ニュルンベルク裁判については次のように批判した。「検察はドイツがアメリカに宣戦布告したと主張している。純法律的にいえばそれは真実だが、それはアメリカ軍が宣戦布告なしで海上でドイツ軍を先制攻撃したからに他ならないではないか。たしかアメリカの艦船は武器を搭載してドイツの潜水艦を砲撃すべしというルーズヴェルトの命令があったはずだ。このような事情から各国への侵略戦争の謀議での起訴が不当であることはたびたび証明されている。独房の私は証拠資料や歴史書の助けを借りることなく、自分の記憶だけを頼りにこれらの問題に専念しなければならない。」「日々被告側が新たな主張をするのを拒んでいる法廷のやり方だって似たようなものだ。毎日我々の答弁を崩したり制限したりする判断が下されているのだから」「いまロシア人も同じ法廷にいて侵略戦争を犯した廉で我々を起訴している。実際に侵略戦争を画策したのは彼らの方だというのに」。また次のように述べてナチス政権によるナチ化政策は連合国による非ナチ化政策やソ連共産党の赤化政策ほど圧政的ではないと弁護した。「ワイマール共和国の崩壊後、旧体制を葬り去り、民主政体の支持者を権力の座から合法的に遠ざけるため法律が必要になった。ロシア革命後、共産党は非共産党員を一人残らず銃殺することによってそれを達成した。もっとあからさまに邪魔者を排除したわけだ。ナチ党が政権を取った1933年には銃殺という事態は極めて稀だった。」「1933年に警察官のナチ党員への入れ替えがあったが、ベルリンでは21%、バイエルンでは40人程度にとどまった。その程度で敵対者を根絶やしにしたと言えるだろうか。それにそういう警官が罷免されたのは素行が悪かったり、ナチ党の閣僚に対して侮辱的な言動に及んでいたからなのだ」。ヒトラーについては次のように述べた。「独裁国家はリーダーが個人的な感情に流されないタイプであればうまくいくのだが、気にいらないことを言われて腹を立てるタイプではうまくいかない。リーダーが誰も信用しなかったり、自分の願望に負けて判断力を失ったあげく、自分自身を見失ったりしては独裁国家は絶対にうまくいかない。たとえばヒトラーがアメリカと平和にやっていくのは無理であり、ソ連はドイツとの戦争に向けて邁進していると思い込んでいるとしよう。このとき、誰かが貴方の考えは間違いであり、アメリカは多分和平を求めていると言ったとする。しかしヒトラーは耳を貸さないだろうし、両手の拳でテーブルを叩きつけて相手を黙らせるだろう。ヒトラーと冷静に話し合うことは不可能だった。ヒトラーは数字に関してはすばらしい記憶力の持ち主で各国の軍艦の排水トンを一隻ずつ正確に記憶していた。数字については海軍や財務の専門家よりずっと詳しかった。」「私が知る限りヒトラーは民主主義の原則を全否定していたわけではない。それどころかある種民主主義に好意的だった。過去10年間ナチ党は完全に一党独裁主義だったが、ヒトラーの最終目標は完全な議会政治だったのだから。まあ完全とは言えないが。つまりアメリカの大統領制のようにリーダーシップの原則は常に存在するが、当のリーダーは概ね民主主義の原則をよりどころとするということだ」。ヒムラーについては次のように述べた。「ヒムラーはサディスティックというのでなく、ケチでつまらない人間だった。彼は元学校教師でいつまでも教師根性が抜けなかった。他人を罰することに快感を覚えていたのだ。教師が子供に必要以上に鞭を打ち、そこから快感を得るのと同じように。これは真の意味でのサディズムと異なる。つまりヒムラーは他人を教育して向上させることが自分の義務と思っていたのだ。このことと強制収容所でのユダヤ人虐殺は無関係だ。虐殺が起こったのはヒムラーが奴隷のようにヒトラーに追従したからだと私は思う」、「ヒムラーはハイドリヒとダリューゲのライバル関係を逆手にとり、どちらが権力の座に近づくことも許さなかった。おかげでヒムラーはこの権力マニアたちから身を守ることができたのだ。何しろヒムラーは当時まだ元気だったダリューゲや抜け目のないハイドリヒに比べてずっと単純な人間だったのだから」。ハイドリヒについては次のように述べた。「彼は凄まじいまでの野心家で権力欲の塊だった。底なしの権力欲とはあのことだ。非常に抜け目がないうえに狡猾な人間だった」、「ハイドリヒはボルマンと親しいふりをし、各省の大臣とも親交を結んだ。ハイドリヒとボルマンは互いを信用していなかったが、どちらも相手のおかげで随分得をしていた。ヒムラーはボルマンのライバルであり、ハイドリヒは漁夫の利を得ていた。ハイドリヒはボルマンと親しいふりをしたが、ボルマンはハイドリヒがヒムラーの追従者であることを知っていた。ボルマンはハイドリヒを利用しようとし、ヒムラーはなりゆきを見守っていた。ヒムラーとボルマンの間を行ったり来たりしながらハイドリヒは次第に頭角を現し、ついにヒトラーから直々に認められるようになった。」「ハイドリヒが早い段階でヒトラーの目に止まったのは、優れた組織力と正確な報告能力のおかげだ。この二つがヒトラーの関心事だった」、「ノイラートが罷免された後、ハイドリヒはボルマンの力添えでノイラートの後任のボヘミア=モラヴィア総督になった。大臣の地位を手に入れたわけだ。一方ヒムラーは1941年末の時点ではさほど高い地位にあったわけではなかった。ハイドリヒが自分より地位の高い大臣の地位に就いたことを知って、ヒムラーがどんな気持ちになったかは想像がつくだろう。次第に精神を病み始めていたダリューゲもしかりだ。彼は秩序警察長官のままだったが、それまではハイドリヒと同等の地位にあったのだから。」。ハイドリヒ暗殺にヒムラーが関与していたと思うかという質問には「それはない。ただハイドリヒの暗殺がヒムラーにとって吉報だったのは確かだ」と述べた。 ==肉声== =樺太の戦い (1945年)= 樺太の戦い(からふとのたたかい)は、太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)8月11日から8月25日にかけ、日本の内地であった樺太南部で、日本とソビエト連邦の間で行われた戦闘である。 8月15日に日本のポツダム宣言受諾が布告されて、太平洋戦争は停戦に向かったが、樺太を含めてソ連軍の侵攻は止まらず、自衛戦闘を命じられた日本軍との戦闘が続いた。樺太での停戦は8月19日以降に徐々に進んだものの、ソ連軍の上陸作戦による戦線拡大もあった。8月23日頃までに日本軍の主要部隊との停戦が成立し、8月25日の大泊占領をもって樺太の戦いは終わった。 当時、南樺太には40万人以上の日本の民間人が居住しており、ソ連軍侵攻後に北海道方面への緊急疎開が行われた。自力脱出者を含めて10万人が島外避難に成功したが、緊急疎開船3隻がソ連軍に攻撃されて約1,700名が死亡した(三船殉難事件)。陸上でもソ連軍の無差別攻撃がしばしば行われ、約2,000人の民間人が死亡した。 1945年8月9日に対日参戦したソ連は、8月11日に南樺太の占領作戦を開始した。その目的は南樺太の獲得と、次に予定された北海道侵攻の拠点確保だった。ソ連軍は北樺太から陸上侵攻する歩兵師団・歩兵旅団・戦車旅団各1個が攻撃の中心で、補助攻勢として北太平洋艦隊と歩兵旅団1個による上陸作戦が実施された。日本軍は、歩兵師団1個を中心に応戦し、国境地帯ではソ連軍の拘束に成功した。 ==背景== ポーツマス条約によって日本領となった南樺太には、1913年(大正2年)の樺太守備隊廃止以来、日本軍は常駐していなかった。軽武装の国境警察隊が国境警備を担当していた。しかし、1939年(昭和14年)5月に至り、対ソ連の防備のため樺太混成旅団が設置された。その後、第7師団(北海道駐屯)の改編や関東軍特種演習に伴い次第に駐屯兵力が増強された。 太平洋戦争中盤になると、従来はソ連を仮想敵としていた南樺太の戦備も、対アメリカ戦重視に方針が転換された。北樺太侵攻作戦は放棄されて、専守防衛型となった。北方軍司令官の樋口季一郎中将は、対ソ国境陣地を重視せず、主にアメリカ軍上陸に備えた南部の防備強化を指導した。本土決戦が想定され始めた1945年(昭和20年)2月には駐屯部隊の大部分を再編成して第88師団が創設されたが、その主力は南部地区に置かれた。 予備役(在郷軍人)主体の予備戦力の整備も進められ、1944年(昭和19年)5月に特設警備隊である特設警備大隊3個・特設警備中隊8個・特設警備工兵隊3個、1945年3月には地区特設警備隊9個が各地に設置された。このほか、国民義勇戦闘隊の組織も準備されていた。地区特設警備隊や国民義勇戦闘隊は、日中戦争での中国共産党軍にならい遊撃戦を行うことが期待されており、3月下旬に7700人が2日間の召集訓練を受けたほか、7月以降には陸軍中野学校出身者による教育が多少実施された。 約40万人の一般住民については北海道への緊急疎開が予定され、大津敏男樺太庁長官と第88師団参謀長の鈴木康大佐、豊原駐在海軍武官の黒木剛一少将による3者協定が締結されていた。樺太庁長官を責任者として陸海軍は船舶提供などの協力をするという内容であったが、実態は腹案の域を出ず、3人以外には極秘とされて組織的な事前打ち合わせは無かった。 一方、ソ連の指導者ヨシフ・スターリンは、南樺太の奪還を狙っていた。ソ連の対日参戦を密約した1945年2月のヤルタ会談において、ソ連は南樺太占領を参戦後に予定する作戦の第一として挙げ、実際にヤルタ協定には「南樺太のソ連への返還」が盛り込まれた。当時、ソ連は北海道北部(留萌・釧路以北)の軍事占領も計画しており、南樺太は北海道侵攻の拠点としてすぐさま使用される予定であった。南樺太攻略担当には、北樺太に主力を置く第2極東戦線の第16軍(司令官:L・G・チェレミソフ(Л. Г. Черемисов)少将)が充てられた。もっとも、7月28日に通達された実際の作戦計画では、樺太・千島方面の攻略は満州方面に劣後した順位となっており、発動時期は戦況に応じて調整されることになっていた。現場では日本軍守備隊に関する情報を把握できないでおり、南樺太に日本軍戦車が配備されていないことすらも知らなかった。 南樺太および千島列島への進攻に関してはソ連海軍、特に太平洋艦隊は艦艇不足であった。このため事前にレンドリースの一環としてアラスカにおいてアメリカとソ連の合同で艦艇の貸与と乗組員の訓練を行うフラ計画が実行された。 日ソ間には日ソ中立条約が存在し、1945年(昭和20年)8月時点でも有効期間内であったが、ソ連の対日参戦は実施されることになった。なお、同年5月頃、日本はソ連を仲介者とした連合国との和平交渉を模索しており、その中でソ連への報酬として南樺太の返還も検討されていた。(日ソ中立条約との関係については日ソ中立条約及びソ連対日宣戦布告を参照) ソ連軍侵攻前の樺太での戦闘としてはアメリカ潜水艦の活動があり、日本商船が攻撃されたり、海豹島などが砲撃を受けていた。7月23日には、アメリカ潜水艦「バーブ」から少数の水兵が密かに上陸して、樺太東線の線路を爆破している。 ==戦闘経過== ===全般状況=== 日ソ開戦前、日本軍の配置は北地区(敷香支庁・恵須取支庁)と南地区(豊原支庁・真岡支庁)に分かれていた。北地区は歩兵第125連隊が、南地区は第88師団主力が分担し、対ソ戦・対米戦のいずれでも各個に持久戦を行う作戦であった。北地区はツンドラに覆われて交通網が発達しておらず、国境から上敷香駅付近までは軍道と鉄道の実質一本道で、敵進路の予想は容易だった。現地の第88師団では、対ソ戦重視への配置転換を第5方面軍へ6月下旬から上申し続けていたが、ようやく8月3日にソ連軍襲来の場合には迎撃せよとの許可を得られた。 8月9日にソ連は対日宣戦布告を行ったが、ソ連軍の第16軍に樺太侵攻命令が出たのは翌10日夜であった。作戦計画は3段階で、第1期に第1梯団(第79狙撃師団・第214戦車旅団基幹)が国境警戒線を突破し、第2期で古屯「要塞」を攻略、第3期には第2梯団(第2狙撃旅団基幹)が一気に超越進撃して南樺太占領を終えるというものだった。国境地帯からの2個梯団が主軸で、塔路と真岡には補助的な上陸作戦が計画されていた。ソ連側の侵攻が開戦直後ではなかったことは、日本側が兵力配置を対ソ戦用に変更する余裕を生んだ。ソ連軍は第1期作戦から激しく抵抗を受けてしまい、第2期の古屯攻略のための部隊集結も遅れだした。 日本の第5方面軍は、8月9日早朝にソ連参戦の一報を受けたが、隷下部隊に対し積極的戦闘行動は慎むよう指示を発した。この自重命令は翌日に解除されたが、通信の遅延から解除連絡は最前線には届かないままに終わり、日本側前線部隊が過度に消極的な戦術行動をとる結果につながった。自重命令解除に続き、第5方面軍は、第1飛行師団の飛行第54戦隊に対して落合飛行場進出を命じたが、悪天候のために実施できなかった。一方、ソ連軍機も悪天候には苦しんでいたが、なんとか地上支援を成功させている。第5方面軍は、13日には北海道の第7師団から3個大隊の増援を決めるとともに、手薄と見られたソ連領北樺太への1個連隊逆上陸(8月16日予定)まで企図したが、8月15日のポツダム宣言受諾発表と大本営からの積極侵攻停止命令(大陸命1382号)によって中止となった。 日本側現地の第88師団は、8月9日に防衛召集をかけて地区特設警備隊を動員した。8月10日には上敷香に戦闘司令所を出して参謀数名を送り、13日には国民義勇戦闘隊の召集を行った。一般住民による義勇戦闘隊の召集は樺太戦が唯一の実施例で、ねらいは兵力配置があるように見せかけてソ連軍の進撃を牽制することだった。師団は、8月15日に玉音放送などでポツダム宣言受諾を知り、防衛召集解除・一部兵員の現地除隊・軍旗処分など停戦準備に移った。しかし、8月16日に塔路上陸作戦が始まると、同日午後、第5方面軍司令部はソ連軍が樺太経由で北海道に侵攻する可能性があると判断、第88師団に対して自衛戦闘を継続してソ連軍の転進を阻止し、特に北海道への侵攻拠点に使われるおそれがある南樺太南部を死守するよう命令した。 8月16日以降も、ソ連軍は引き続き侵攻作戦を続けた。アメリカ軍のダグラス・マッカーサー元帥はソ連軍参謀本部に対して攻撃停止について申し入れたが、ソ連側はソ連軍が攻撃停止するかは地域の最高司令官の判断によるとして、協議に応じなかった。Cherevko(2003年)は、満州と樺太で日本軍が降伏せずに戦闘行動を続けたため、ソ連軍は攻撃を進めたと述べている。他方、中山(2001年)によれば、ソ連側が樺太南部への侵攻を続けた理由は、樺太から北海道への日本側の引揚げ阻止と、北海道北部占領のための拠点確保にあった。8月18‐19日には、極東ソ連軍総司令官アレクサンドル・ヴァシレフスキー元帥が、8月25日までの樺太と千島の占領、9月1日までの北海道北部の占領を下令した。国境地帯の古屯付近では8月16日にソ連軍が総攻撃を開始したが、日本側守備隊の歩兵第125連隊が即時停戦命令を受けて8月19日に武装解除するまで、主陣地制圧はできなかった。ソ連軍は同じ8月16日に塔路上陸作戦も行ったが、上陸部隊の進撃は低調だった。交通路は避難民で混雑し、日本軍は橋の破壊などによる敵軍阻止を断念することが多かった。この間、日本側は現在位置で停止しての停戦を各地で交渉し、峯木師団長自身も北地区へ交渉に向かっていたが、進撃停止は全てソ連側に拒否され、しばしば軍使が射殺される事件も起きた。 8月19日、日本の大本営は第5方面軍に対して、停戦のための武器引き渡しを許可した(大陸指2546号)。満州方面よりも3日遅れの発令であった。ただし、第5方面軍は8月19日17時30分にも、第88師団に対して、ソ連軍が無理を要求して攻撃を中止しないのであれば自衛戦闘を継続し、南樺太南部を死守するよう命令していた。8月21日に峯木第88師団長が第5方面軍の萩三郎参謀長に電話でソ連軍が進撃停止に応じない状況を説明し、全面衝突回避のため武装解除とソ連軍の進駐容認の承諾を得た。翌8月22日には上記の大本営からの武器引き渡し許可が伝えられ、知取でソ連軍との停戦合意に達した。この間にも、8月20日には真岡にソ連軍が上陸して多数の民間人が犠牲となり、やむなく応戦した日本軍と激戦となっていた。ソ連側は、日本人と財産の本土引き揚げ阻止を図り、8月22日に婦女子老人を優先的に本土に返す為出港した緊急疎開船3隻を撃沈破(1700名以上死亡)したうえ、23日には島外移動禁止を通達した。24日に樺太庁所在地の豊原市はソ連軍占領下となり、25日の大泊上陸をもって南樺太占領は終わった。 ===国境地帯への侵攻=== 国境の北地区守備を担当する歩兵第125連隊は、8月9日の時点では主力は内路・上敷香にあり、第2大隊だけが古屯でソ連軍に備えていた。開戦と同時に、連隊長の小林大佐は、国境付近の分哨や住民の後退と道路破壊を命じ、連隊主力を率いて北上した。ソ連軍が砲撃を行うだけで進撃に着手しなかったため、10日には古屯北西の八方山へ布陣を終えることができた。住民誘導や道路破壊作業は、上敷香に進出した師団参謀の指導で、特設警備隊や地区特設警備隊を中心に進められた。 ソ連軍の中央軍道方面からの侵攻は、8月11日午前5時頃に始まった。最前線の半田集落は歩兵2個小隊と国境警察隊28名の計100名程度の守備兵力ながら、戦車と航空機に支援されたソ連軍先遣隊を丸一昼夜阻止した後、8月12日にほぼ全滅した。この玉砕は付近の日本軍に士気高揚をもたらし、他方、ソ連軍には野戦築城レベルの半田に要塞があったかのように記録させるほど衝撃を与えた。8月12日昼には、武意加からツンドラ地帯を強行突破したソ連軍第179狙撃連隊が古屯に進出しはじめたが、訓練用の木銃と銃剣で武装した輜重兵第88連隊第2大隊や憲兵の突撃で足止めされている。なお、第5方面軍が9日に発した積極攻撃禁止命令は、この頃に歩兵第125連隊へと届き、以後の戦術を制約していった。 8月13日、ソ連軍第1梯団は、日本の歩兵第125連隊に対し、軍道上の梯団主力と迂回した第179狙撃連隊による包囲攻撃を開始した。日本軍の速射砲などではソ連戦車を撃破できず、軍道上の師走陣地守備隊は大損害を受けて撤退したが、激しい抵抗に驚いたソ連第1梯団主力も数百m前進しただけで防御態勢に移行した。古屯の兵舎周辺では、日本の歩兵第125連隊第1大隊とソ連軍第179狙撃連隊との激戦が続いたが、8月16日夕刻までに日本側は大隊長小林貞治少佐、岩貝大隊副官が戦死し、撤退に追い込まれた。8月16日にソ連軍主力も火砲213門等を投じた総攻撃を再開し、古屯までの軍道を開通させたが、主陣地である八方山は陥とせなかった。8月17日から18日頃、日本の歩兵第125連隊本部に師団からの停戦命令が届き、自衛戦闘に移行した。8月18日、連隊長の小林大佐は軍使を派遣して、降伏に応じた。歩兵第125連隊は、8月19日10時に武装解除して戦闘を終えた。 北地区の日本側指揮は、歩兵第125連隊降伏後、上敷香にいた第88師団参謀らが実質的に引き継いでいる。中央軍道方面での戦闘の間に、8月17日朝には上敷香の住民避難が終わり、その市街地は放火とソ連軍機20機の空襲で全焼している。敷香も8月20日に放棄され、総引き揚げとなった。内路鉄橋や知取川鉄橋爆破による防衛線構築が検討されたが、避難民が残っていることから断念された。#全般状況で既述のように、前進してきた日本側の師団長・師団参謀長らとソ連側の交渉の結果、22日に停戦合意が成立した。 また、中央軍道とは別に、8月12日に西海岸の西柵丹村安別にもソ連軍の侵攻があったが、歩兵第125連隊の安別派遣隊(1個中隊)などが住民の支援を受けて対抗した。安別派遣隊は、8月20日に連隊本部からの停戦命令を受けた後も投降せず、他隊の人員を吸収して約500人で南下した。名好町北部に至って部隊を解散し、私服に着替えて自由行動をとり、一部は北海道の第5方面軍司令部への報告に成功している。 北地区の戦闘で日本軍の受けた損害は、戦死568名であった。そのほとんどは古屯周辺の戦闘で生じた。他方、ソ連側の損害は不明であるが、日本軍の推定では戦死1千名と戦車破壊数十両となっている。 なお、日本海軍の敷香基地部隊は飛行場周辺で対空戦闘を行っていたが、8月14日夕刻、陸軍とは連絡を取らずに独断で大泊基地への撤退を決めた。北東空司令部の制止も無視して通信設備を破壊し、翌8月15日早朝に高角砲台などを爆破して大泊基地へと自動車で撤退した。当初は大泊を守備する構想だったが、移動中にポツダム宣言受諾を知って戦闘を放棄し、大泊基地部隊とともに海防艦「占守」へ優先的に搭乗して北海道へ引き揚げた。ただし、豊原海軍武官府は同行せずに残留し、民間人の保護にあたっている。 ===塔路上陸作戦=== ソ連軍は、第2期作戦の一環として、南樺太第2の都市である恵須取町に近い塔路上陸作戦を計画していた。そのため8月10日以降、恵須取港と塔路港はソ連北太平洋艦隊航空隊の攻撃目標とされていた。8月13日には魚雷艇とカッターボートによる偵察が行われ、ほとんど守備兵力はないと判断された。上陸決行は陸上侵攻と連携して実施する予定だったが、アンドレエフ北太平洋艦隊司令官は好機と考えて、8月16日の上陸を独断で決めた。 恵須取町・塔路町付近は、開戦時には歩兵第125連隊の1個中隊と若干の後方部隊がいるだけだった。安別へのソ連軍侵攻後、本斗安別線からの襲来の危険が生じたため、歩兵第25連隊の正規1個中隊(機関銃小隊配属)と訓練中の初年兵1個中隊(山砲1門配属)などが8月14日に増派されていた。そのほか、特設警備第301中隊と豊原地区第8特設警備隊、義勇戦闘隊(学徒600名と女子80名を含む)も召集されている。豊原地区司令部から出張中だった富澤健三大佐が臨時に指揮官に任じられた。日本軍は正規歩兵2個中隊を恵須取市街から内陸の上恵須取へ続く隘路に配備して防衛線を張り、特設警備第301中隊のうち1個小隊(義勇戦闘隊40人配属)を塔路飛行場の破壊と塔路港守備に充て、残りは住民避難の援護のため恵須取市街に置いた。住民の多くは上恵須取方面へ避難に移り、塔路ではソ連軍上陸時に約20%だけが残っていた。なお、日本軍は13日のソ連軍偵察隊を本格上陸と誤認し、特設警備中隊の射撃で撃退に成功したと考えていた。 8月15日、ソ連軍は警備艦1隻・機雷敷設艦1隻・輸送船2隻・小艦艇多数を、ソヴィエツカヤ・ガヴァニから4波に分けて出撃させた。8月16日早朝、第365海軍歩兵大隊と第113狙撃旅団第2大隊が、艦砲射撃と海軍機の援護下で塔路港に上陸を開始した。塔路の町は焼失し、守備の1個小隊は壊滅した。阿部庄松塔路町長(義勇戦闘隊長も兼務)らは、恵須取支庁から終戦と抵抗中止を通知されてソ連海軍歩兵との停戦交渉に向かったが、武装解除と住民の呼び戻しを要求されて人質に取られ、まもなく射殺された。上恵須取へ避難する民間人は、無差別な機銃掃射を受けて死傷者が続出した。 日本の特設警備第301中隊(中垣重男大尉)は、初年兵中隊や地区特設警備隊、国民義勇戦闘隊、警察隊などをかき集めて、塔路から続く道の恵須取の山市街入口に布陣し、避難民の援護にあたった。中垣隊は、塔路から南下侵攻してきたソ連海軍歩兵2個中隊を阻止したうえ、逆襲に転じて敗走させ、王子製紙工場付近まで追撃した。その後、中垣隊は恵須取支庁長以下400名の避難民の後衛を務め、翌17日午前3時頃には上恵須取へ到着した。ソ連軍は8月17日午前7時〜8時30分に恵須取山市街を占領、午前10時30分頃に恵須取港から上陸した独立機関銃中隊とともに浜市街を占領した。ソ連側記録によると8月17日にも恵須取で市街戦があったことになっているが、実際には日本側の部隊は残っていなかった。 上恵須取の町は8月17日午後に空襲を受けて焼失し、疎開する中で特設警備隊や義勇戦闘隊は隊員が家族のもとに戻って解散状態となっていった。恵須取方面総指揮官として派遣された吉野貞吾少佐(富澤大佐から指揮権引き継ぎ)によってソ連軍との停戦交渉も行われたが、ソ連側が要求する住民の帰還を避難民らが拒み、武装解除にも応じず妥結に至らなかった。恵須取支庁長や吉野少佐は日本兵の士気が高く戦闘拡大のおそれがあると判断し、避難民や軍部隊をまとめ、内路恵須取線を東進してソ連軍から離れることにした。内路付近まで達した8月24日に、師団司令部から連絡将校が到着して投降命令が伝達され、部隊は武装解除を受け入れた。 ===真岡・大泊上陸作戦=== ソ連軍は、第3期作戦の補助作戦として真岡上陸作戦を計画していたが、国境方面の戦況などにかんがみ、8月15日に真岡上陸作戦の発動準備を下令した。その目的は、日本側の本土への引き揚げ阻止と、北海道侵攻のための拠点の早期確保にあった。上陸部隊の第113狙撃旅団主力(約2,600人)と海軍混成歩兵大隊(820人)は、18日に間宮海峡付近のポストヴァヤ湾とワニノ湾で輸送船5隻と掃海艇4隻、警備艇9隻に乗船し、翌19日朝に出航した。上陸部隊指揮官は第113狙撃旅団長のI・Z・ザハーロフ大佐、船団指揮官はA・I・レオーノフ海軍大佐だった。 日本側は、真岡港を本土への引き揚げ乗船地として使用中で、町は地元住民と避難民1万5000人以上であふれていた。守備隊としては歩兵第25連隊主力が置かれていたが、すでに軍旗の焼却や約1割を占める古年次兵の除隊、特設警備隊の防衛召集解除などを完了していた。歩兵第25連隊のうち第1大隊だけが海岸正面に陣地構築中だったが、8月16日に海岸の陣地や市街地から兵を引き上げ、1‐2km内陸の荒貝沢の谷地にテントを張って野営して待機した。市街地付近に残されたのは、監視哨の機関銃・連隊砲各1個分隊と戦力のない陸軍船舶兵程度であった。 8月20日の日本側時間午前6時頃(ソ連側記録によると午前7時半頃)、警備艦と敷設艦各1隻に護衛されたソ連軍船団が、霧の真岡に上陸を開始した。ソ連軍は浅瀬に座礁した魚雷艇が日本軍の先制射撃を受けたため艦砲射撃で応戦したと記録しているのに対し、日本側は舟艇の座礁を目撃したが射撃は加えていないと記録している。ソ連軍は艦砲射撃に援護されて侵攻、ソ連側記録で12時頃までに港湾地区を、14時頃までに市街地を占領した。港内にあった貨物船「交通丸」と機帆船・漁船は、拿捕されるか撃沈された。日本側記録によると、日本軍は一切の発砲を禁じて内陸の高地の影に後退し、豊原方面へと民間人を誘導するとともに軍用物資を放出して配布した。ソ連側記録は、市街戦で建物や地下室に立て篭もった日本軍を掃討し、日本兵300名以上を死傷させ、600名以上を捕虜にしたとするが、日本側記録によると真岡市街には防御陣地はなく、日本軍も応戦していない。攻撃目標にされたのは民間人、特に軍服類似の国民服を着用していた者だった。占領当日、ソ連軍は街の要人らを呼び出し海岸に連行し銃殺(町長は重傷で生存)、日本軍が派遣した軍使の第1大隊副官らも拘束のうえ射殺された。電信局の女性職員が集団自決した真岡郵便電信局事件も起きている。ソ連側は、自軍の損害として、陸軍兵60人と海軍歩兵17人が死傷したとしている。 ソ連軍の行動を見た日本軍は、衛戍勤務令12条と13条(警察行動に類する規定)に基づいて限定的な武器使用許可を行い、8月20日15時30分頃に山中でソ連軍と小競り合いを生じた。8月21日になって豊原へ向けて進撃を始めたソ連軍は、日本の歩兵第25連隊第1大隊を攻撃し、日本側も自衛のため応戦した。次第に浸透された日本側は同日夜に逢坂へ撤退し、新たに第3大隊を熊笹峠と宝台ループ線へ布陣させた。ソ連側は逢坂集落など各地に空襲と艦砲射撃を行いながら進撃し、日本側は豊原防衛のために熊笹峠などで8月22日まで遅滞戦術をとった。日本側は衛生兵までが白兵戦を行った。豊原も8月22日には空襲を受け、避難民が終結していた駅前広場周辺が焼夷弾などを浴びた。豊原駅には白旗が掲げられ、広場の救護所には赤十字の対空標示があったが、何度も空襲が繰り返されて100名以上が死亡、400戸が焼失した。全ての民家の屋根には大きな白旗が取り付けられたがソビエト軍は猛爆撃を行った。 8月22日夕刻に、第88師団司令部からの降伏命令が歩兵第25連隊に届き、ソ連側と交渉の後に8月23日までに武装解除が終わった。この交渉の際にも軍使一行が銃撃を受けて死傷している。その後の豊原占領時にも、海軍武官府から派遣された軍使の主計大尉が、「交渉中に刀で斬りかかった」として射殺されている。真岡の戦いでの日本軍の損害は、停戦直後の調査では第88師団所属の137人戦死とされたが、その後の調査で総数300人を超えると推定されている。 8月23日早朝、ソ連軍は真岡から海軍歩兵混成旅団(3個大隊)を出航させ、翌日に本斗を経由して、8月25日に大泊へ上陸した。日本軍の抵抗はなく、大泊の海軍基地などが占領された。このほか真岡北方の小能登呂飛行場は、輸送機で強行着陸したソ連海軍空挺部隊によって、8月22日に占領されている。 ==結果== 日本軍の損害は、戦死者700人ないし戦死・行方不明2,000人とされる。ソ連軍の記録によれば、日本兵18,302人が捕虜となった。戦闘中の民間人の被害は軍人を上回っており、3,700人に及ぶと見られている(詳細は#民間人で後述)。なお、厚生労働省の資料で「樺太・千島等」の戦没者総数24,400人となっているのはアッツ島の戦いなどアリューシャン方面の戦いを含めた数値で、樺太・千島及び周辺海域での大戦全期間の戦没者数は18,900人とされている。 生き残った日本軍将兵は、いち早く北海道へ引き揚げた海軍部隊主力と、現地復員して民間人に紛れることができた一部兵士を除いて、シベリア抑留による強制労働を課された。多くはシベリアへ移送されたが、一部は樺太島内に設けられた捕虜収容所での労役に従事した。 ソ連軍は、予定されていた北海道及び北方四島への上陸作戦のために南樺太の前進基地としての整備を進め、ウラジオストクから第87狙撃軍団を移送し始めた。8月25日までに、計15隻の客船を中心とした3回の護送船団で、3個師団が真岡へ送られている。しかし、以後の作戦のうちソ連軍による北海道占領は、8月18日にアメリカ大統領ハリー・S・トルーマンがスターリンに対して北海道占領を認めない旨の書簡を送ったのをふまえて、8月22日以降に中止命令が出された。北方四島の占領は、大泊から出航した第113狙撃旅団などによって8月28日から9月3日に行われた。北方四島やその他の千島列島で捕虜となった日本兵は、樺太を経由してシベリアへと送られた。 樺太の戦いでの日本軍の抵抗は、占守島の戦いと並んで、ソ連の北海道占領断念につながったと評価する見解もある。元防衛大学校教授の中山隆志によると、スターリンがトルーマンから反対されてから作戦中止命令まで4日間もかかったのは、日本の降伏文書調印(9月2日)までに北海道占領の既成事実化が可能かを検討していたためと見られる。その上で中山は、侵攻拠点となる南樺太確保の遅れや占守島での抵抗の激しさが、早期の既成事実化は困難との判断をソ連側にさせたものと分析した。 なお、戦闘後の南樺太はソ連(後にロシア連邦)によって実効支配されているが、日本政府は帰属未確定の地域であると主張している。(領土問題の詳細は樺太を参照) ==民間人== ===緊急疎開=== ソ連軍侵攻時の南樺太には、季節労働者を加えて約40万人、一説によると45‐46万人の民間人が居住していた。ソ連の参戦後に北海道への避難が始まったが、多くの民間人が戦渦に巻き込まれて被害を受けた。 8月9日のソ連の対日参戦後、大津樺太庁長官と鈴木第88師団参謀長、黒木海軍武官の三者が前述の事前協定を確認し、北海道への民間人の避難作業が始まった。といっても具体的な事前計画が無かったので、樺太庁長官主催で樺太鉄道局と船舶運営会が加わった緊急輸送協議会が開かれたものの、輸送計画が決まって各市町村へ通達されたのは12日になってからだった。 立案された計画では、本土避難の対象者は65歳以上の男性と41歳以上の女性、14歳以下の男女とされ、16万人を15日間で移送することが目標だった。この選別基準には、戦力とならない足手まといを片付ける意図と、食糧不足や冬季に渡る野外行動が予想されるために体力の弱い者から優先避難させるという意図があった。大泊を主たる乗船地として稚泊連絡船「宗谷丸」や海軍特設砲艦「第二号新興丸」など艦船15隻を使用するほか、本斗から稚斗連絡船「樺太丸」と小型艇30隻、真岡からも貨客船「大宝丸」などを運航することに決まった。陸上では乗船地に向けた緊急疎開列車の運転とトラック輸送が行われた。また、乗車船は戦災地、避遠地を優先し、船車賃は無料であった。。 避難指示を受けた住民は、乗船地を目指して列を成した。多くの住民は、尼港事件の再現となるのではないかと恐怖していたという。 8月13日夕に大泊を出港した「宗谷丸」を皮切りに、8月16日に真岡、8月18日には本斗からも緊急疎開船が出始めた。本斗には貨物船「能登呂丸」や海防艦が追加投入された。避難民側の準備が間に合わなかった大泊第1便を除くほか、定員の数倍ずつ乗船するなど、急ピッチで海上輸送が進められた。しかし、真岡は8月20日にソ連軍に占領されて使用不能となり、本斗も危険なため運用断念された。最終的に8月23日にソ連軍から島外への移動禁止が通達され、同日夜に緊急脱出した「宗谷丸」「春日丸」で終了となった。この間8月22日に「小笠原丸」「泰東丸」「第二号新興丸」の3隻が、北海道沿岸で国籍不明潜水艦の攻撃で撃沈破され、計1,708人が死亡する三船殉難事件が発生している。ソ連潜水艦による攻撃であると推定されている。同じ日に「能登呂丸」も樺太へ向かう途中、宗谷海峡でソ連機の空襲を受けて撃沈された。 結果、目標の約半数にあたる76,000人が島外への緊急疎開に成功したとみられている。その後の密航による自力脱出者約24,000人を合わせても、南樺太住民の1/4以下だけが避難できたことになる。市町村単位で見ると、42市町村のうちで疎開が完了したのは8町村のみであった。『戦史叢書』は、今日思うと避難の決行時期があまりにも遅かったと評している。急な避難指示で準備が間に合わず、第1便の「宗谷丸」は乗船定員を割り込み、軍や官庁の関係者が多くを占める事態も起き、満州の疎開列車での類似事例と並んで後日非難されることにもなった。 ===犠牲者=== 住民台帳などの行政記録が失われているため、正確な犠牲者数は不明である。厚生省資料では、空襲や艦砲射撃、地上戦など島内での戦闘に巻き込まれて死亡した民間人の数は、真岡の約1,000人を筆頭に、塔路で約170‐180名、恵須取で約190名、豊原で約100名、敷香で約70名、落合で約60名など合計で約2,000人と推定されている。前述の緊急疎開船での犠牲者を合わせると、約3,700人に達する。なお、前述のように、厚生労働省資料にいう「樺太・千島等」の戦没者数24,400人はアリューシャン方面を含めた数値である。 落伍したり避難が間に合わなかった民間人の中には、ソ連兵に捕えられることを恐れ、自殺するものもあった。8月20日に郵便局の女性職員12人が集団自決を図った(真岡郵便電信局事件)ほか、塔路上陸作戦時には大平炭鉱病院の看護婦23人の集団自決(6人死亡)が発生している。 ===停戦後=== 1945年8月23日にソ連は樺太島外への住民の移動を禁止し、脱出できなかった住民はソ連の行政下に入ることになった。一般住民を中心とした引揚事業は、1946年(昭和21年)12月に本格的に始まり、日本側では函館援護局が受け入れを担当した。1949年(昭和24年)6‐7月の第5次引き揚げまで、千島方面とあわせて20隻の引揚船が投入され、樺太からは軍民合わせて279,356人が、千島からの13,404人とともに北海道へと渡った。2006年1月1日時点の厚生労働省データでは、千島方面と合わせた引き揚げ総数が軍人・軍属16,006人、民間人277,540人となっている。樺太に長期在住していた者が多かったことから、本土に縁故の無い引揚者が約1/3と高い割合を占めていた。そのため、住宅の入手や就職にはかなりの困難が伴い、長期にわたって引揚者援護寮に滞在せざるを得ない者も多くあった。身元引受先がないまま函館滞留中に死亡した引揚者も、航海中の死者とあわせて1,000人を超えた。引揚者とその遺族の相互扶助のために、1948年(昭和23年)に全国樺太連盟が結成されている。 ソ連軍の占領直後に約2万3千人いた朝鮮系住民は、ほとんどがソ連当局の意向によって樺太に残留させられ、1952年(昭和27年)6月にはこの在地系の朝鮮系住民が2万7千人と記録されている。戦後に北朝鮮から移民した者や、ソ連によって中央アジアから強制移住させられた「高麗人」と合わせて、在樺コリアンと呼ばれ、多くはそのまま定住を余儀なくされた。(詳細は在樺コリアンを参照) 朝鮮系以外の日本人住民でも、経済的事情から朝鮮系住民やロシア人と結婚するなどしたため、樺太残留を選択した者があった。1990年代中ごろには、終戦後に生まれた子孫も含めて約300人が樺太で生活していたが、高齢化による死去やソ連崩壊後の日本や韓国への移住などで2010年には約200人に減少している。日本政府は、これらの残留者を対象に集団一時帰国事業を行っており、1年半に1回程度の日本帰国が実現している。 ==参加兵力== ===日本軍=== 陸軍 第88師団(峯木十一郎中将) ‐ 編制定員は20,388人 配属部隊:特設警備第351‐第353大隊、特設警備第301‐第306・第308中隊、第301‐第303特設警備工兵隊 宗谷要塞重砲兵連隊第2中隊 ‐ 西能登呂。15cmカノン砲4門。 配属部隊:特設警備第307中隊 豊原地区司令部(柳勇少将) ‐ 対ソ開戦後は第88師団指揮下に編入。 豊原地区第1‐第9特設警備隊 ‐ 計3,628人を防衛招集。第88師団(峯木十一郎中将) ‐ 編制定員は20,388人 配属部隊:特設警備第351‐第353大隊、特設警備第301‐第306・第308中隊、第301‐第303特設警備工兵隊配属部隊:特設警備第351‐第353大隊、特設警備第301‐第306・第308中隊、第301‐第303特設警備工兵隊宗谷要塞重砲兵連隊第2中隊 ‐ 西能登呂。15cmカノン砲4門。 配属部隊:特設警備第307中隊配属部隊:特設警備第307中隊豊原地区司令部(柳勇少将) ‐ 対ソ開戦後は第88師団指揮下に編入。 豊原地区第1‐第9特設警備隊 ‐ 計3,628人を防衛招集。豊原地区第1‐第9特設警備隊 ‐ 計3,628人を防衛招集。海軍 北東航空隊樺太地区隊(久堀通義大尉) ‐ 敷香基地、大泊基地。地上要員のみ。 大湊防備隊の一部 ‐ 主に基地防空部隊。うち敷香に12.7cm連装高角砲3基、20mm連装機銃5基。 宗谷防備隊の一部 ‐ 砕氷艦「大泊」、特設砲艦「千歳丸」、宗谷防備衛所、西能登呂防備衛所。 豊原海軍武官府 ‐ 武官:黒木剛一少将。北東航空隊樺太地区隊(久堀通義大尉) ‐ 敷香基地、大泊基地。地上要員のみ。大湊防備隊の一部 ‐ 主に基地防空部隊。うち敷香に12.7cm連装高角砲3基、20mm連装機銃5基。宗谷防備隊の一部 ‐ 砕氷艦「大泊」、特設砲艦「千歳丸」、宗谷防備衛所、西能登呂防備衛所。豊原海軍武官府 ‐ 武官:黒木剛一少将。樺太庁警察部(国境警察隊) ‐ 重機関銃8丁、軽機関銃10丁、小銃141丁。航空部隊 陸軍第1飛行師団 ‐ 在北海道。稼働航空機44機。陸軍第1飛行師団 ‐ 在北海道。稼働航空機44機。民兵・自警組織 国民義勇戦闘隊 ‐ 樺太鉄道連合義勇戦闘隊ほか、職場や地域ごとに編成。 その他 ‐ 樺太庁管轄の防空監視隊(20歳前後の女性を主力)、旧制中学校生徒による学徒隊ほか。国民義勇戦闘隊 ‐ 樺太鉄道連合義勇戦闘隊ほか、職場や地域ごとに編成。その他 ‐ 樺太庁管轄の防空監視隊(20歳前後の女性を主力)、旧制中学校生徒による学徒隊ほか。 ===ソ連軍=== 第16軍(レオンチー・チェレミソフ(Л. Г. Черемисов)少将) 第56狙撃軍団 ‐ 北樺太より出撃。 第79狙撃師団 第2狙撃旅団 第5狙撃旅団 ‐ オハ方面の守備配置。 独立サハリン機関銃連隊、第82独立機関銃狙撃中隊 第214戦車旅団 第178・第678独立戦車大隊 第433砲兵連隊、第487榴弾砲連隊 第113狙撃旅団 ‐ ソヴィエツカヤ・ガヴァニより出撃。第56狙撃軍団 ‐ 北樺太より出撃。 第79狙撃師団 第2狙撃旅団 第5狙撃旅団 ‐ オハ方面の守備配置。 独立サハリン機関銃連隊、第82独立機関銃狙撃中隊 第214戦車旅団 第178・第678独立戦車大隊 第433砲兵連隊、第487榴弾砲連隊第79狙撃師団第2狙撃旅団第5狙撃旅団 ‐ オハ方面の守備配置。独立サハリン機関銃連隊、第82独立機関銃狙撃中隊第214戦車旅団第178・第678独立戦車大隊第433砲兵連隊、第487榴弾砲連隊第113狙撃旅団 ‐ ソヴィエツカヤ・ガヴァニより出撃。海軍 北太平洋艦隊(ウラジーミル・アンドレエフ(В. А. Андреев)中将) 警備艦「ザルニーツァ」(en)、機雷敷設艦「オケアン」、潜水艦「L‐12」「L‐19」など12隻、掃海艇8隻、哨戒艇・魚雷艇多数、輸送船3隻以上 海軍歩兵 ‐ 第365独立海兵大隊など3個大隊以上、艦隊空挺部隊北太平洋艦隊(ウラジーミル・アンドレエフ(В. А. Андреев)中将) 警備艦「ザルニーツァ」(en)、機雷敷設艦「オケアン」、潜水艦「L‐12」「L‐19」など12隻、掃海艇8隻、哨戒艇・魚雷艇多数、輸送船3隻以上 海軍歩兵 ‐ 第365独立海兵大隊など3個大隊以上、艦隊空挺部隊警備艦「ザルニーツァ」(en)、機雷敷設艦「オケアン」、潜水艦「L‐12」「L‐19」など12隻、掃海艇8隻、哨戒艇・魚雷艇多数、輸送船3隻以上海軍歩兵 ‐ 第365独立海兵大隊など3個大隊以上、艦隊空挺部隊航空部隊 第255混成飛行師団 ‐ 106機 海軍航空隊 ‐ 80機第255混成飛行師団 ‐ 106機海軍航空隊 ‐ 80機 =パタゴン= パタゴン(英名:Patagon)は、南アメリカ南端にいたとされる伝説の巨人族で、16世紀の探検家マゼランによって名付けられた人々である。現在の南米パタゴニアの地名は「パタゴンの住む土地」の意からきている。 ==概要== パタゴンあるいはパタゴニアの巨人は、16世紀から18世紀、まだパタゴニアの陸や海の様子が良く知られていない時代に最初に訪れたヨーロッパ人探検家たちによってヨーロッパに伝えられた伝説の巨人族である。彼らの身長は少なくとも普通の人間の2倍はあるとされ、いくつかの伝聞ではその身長は12‐15フィート(3.7‐4.6メートル)とも、あるいはそれ以上とも伝えられたとされている。18世紀末に否定されるまで、今から見ると現実にはありえそうも無いこの巨人達についての伝説がヨーロッパでは250年もの間にわたって語り継がれていた 。 彼らについての最初の言及は1519年に人類初の世界一周の航海に出発し、その途中で南アメリカの海岸を訪れたマゼランとその艦隊の乗組員達によるものだった。マゼラン遠征のわずかな生き残りの1人でマゼラン探検隊についての証言者であるアントニオ・ピガフェッタはそこで出会った先住民は普通の2倍の背丈であったと報告している。 「停泊地の近くの海岸で、ある日突然、我々は踊り歌い頭に粉を振りまいていた裸の巨人を見た。提督(マゼラン)は部下の一人を彼のところに行かせ、友好を示すために同じ動作をさせた。その男は提督が待つ小島に巨人を連れてきた。巨人が提督のところに来たとき、巨人は大いに驚き、指を上にむけ、我々が空から来たのだと信じているようだった。彼は我々が腰までしか届かないほど背が高く、均整のとれた体つきをしていた」とアントニオ・ピガフェッタは書き残している。 ピガフェッタは、また、マゼランが彼らにPatagon(ピガフェッタが使っていたイタリア語の複数形ではPatagoni)の名を授けたと伝えているが、しかし、ピガフェッタはその訳を述べていない。ピガフェッタの時代”Pata”は足もしくは足跡の意に由来しており、現在の通説ではパタゴニアは「大足人の国」の意味と解釈されている。しかしながら、語尾のgonが何を意味しているのか不明であり、この解釈には疑問も呈されている。ピガフェッタの記録や他のマゼラン艦隊の生き残り船員の証言ではパタゴンが巨人であり、毛皮の履物を履いていたとの記述はあるが、体に比べて特に足が大きかったという記述はない。 その後の新世界(南北アメリカ大陸)に関する16世紀から18世紀の地図には、この地域を regio gigantum 「巨人国」と銘打っているものや、地図のパタゴニアの位置に巨人のイラストが描かれているものが数多く見受けられる 1579年、フランシス・ドレークの艦隊の船長、フランシス・フレッチャー(Francis Fletcher)はとても背の高いパタゴニア人に遭ったことを書いている。1590年代にはアンソニー・ニベット(Anthonie Knivet)はパタゴニアで12フィート(3.7メートル)の長さの死体を見たと主張している。さらに1590年代にはオランダ船に乗っていたイギリス人ウィリアム・アダムス(三浦按針)はパタゴニア南部の島ティエラ・デル・フエゴを回っているときに船員と不自然に背の高い原住民との間に暴力的な出会いがあったと報告している。1766年にはジョン・バイロン(John byron)が指揮するHMSドルフィン号が世界一周の航海からイギリスに帰ってきたとき、その船員によってパタゴニアで9フィート(2.7メートル)の背丈の現地部族を見たとのうわさが流れた。 しかし、1773年に出された航海についての最終報告改訂版ではパタゴニア人たちは6フィート6インチ(1.98メートル)とされ背は高いが巨人というほどではないと記録されている。 バイロンによれば、可能性として彼らはパタゴニアの先住民族、今で言うテウェルチェ族に出会ったのだろうとされている。後世ではパタゴニアの巨人伝説は初期のヨーロッパ人航海者達の悪ふざけ、少なくとも誇張や誤報であったと考えられている。 ==ピガフェッタの記録== マゼランの航海では、マゼラン自身は旅の途中で死に、出発時約270人いた乗組員たちの中で世界一周を達成して生還できたのはわずか18人であり、その18人の生き残りの中でもっとも著名で詳細な報告を行った者がピガフェッタである。歴史上初めての世界一周は当時も当然注目の的でありピガフェッタは教皇クレメンス7世に面会しマントヴァ宮廷にも招かれ人類初の世界周航の話をしている。ピガフェッタがロードス騎士団長(後のマルタ騎士団)にあてた書簡による記録はもっとも詳細な報告であり、ヨーロッパの各地でこれが改竄を受けながら出版されていた。このピガフェッタの記録には出合った巨人のこととマゼランが彼らにパタゴンと名付けたことが記載されていて、ヨーロッパにパタゴンあるいはパタゴニアの巨人伝説が起こり、また南米南端の地にパタゴニアの地名が付くきっかけとなった。 ピガフェッタの記録によれば、航海の途中、彼らは南緯49°の地で冬を迎えしばらく停泊することになった。彼らが停泊した地はパタゴニアでも中部よりやや南の今で言うサン・フリワン湾(英語版)であった。結局はそこに5か月滞在することになるのだが、そこで出会いマゼランがパタゴンと名付けた先住民をピガフェッタは常に「巨人」(ごく一部で大男)と書いている。ピガフェッタの記録にも矛盾しているところがあり、最初の出会いも書きはじめでは裸の巨人と書いているが、同じ文章のなかでは巨人は毛皮を着ていたとも書いている。矛盾した記述もあるが、ピガフェッタは出合った巨人について、マゼランたちの背が巨人の腰までしか届かなかったこと、巨人は顔を赤く塗り、目の回りは黄色、そして頬にハート型の模様を描いていたとしている。そして、巨人は鏡を見せられ鏡に映った自分の姿に驚いたことや、器用に縫い合わせた毛皮を着、毛皮の履物を履いていたことも書いている。 停泊中にマゼランたちはパタゴンたちとたびたび接触していて、ピガフェッタはパタゴンが家屋は作らず、毛皮を着、毛皮の履物を履き、毛皮と木の棒で作ったテントで暮らし一箇所に定住するものではないことや、生肉を食べる習慣、弓矢をよく使うこと、踊り歌うことが好きでよく踊り、踊るたびに25cmもの深さの足跡が付いていたことなどを書いている。 マゼランはパタゴンを何人か捕まえスペインに連れ帰ろうと艦に拘束している(この捕まったパタゴンはいずれも後の航海の途中で死んでいる)。パタゴンを巨人と呼んでいたピガフェッタは艦内で巨人に密に接していたようで、巨人の言葉を90ほど書き残し、巨人もキリスト教への改宗を考えるほどの関係になっていた。ただし、親しくなった後にもピガフェッタによるパタゴンの呼び名は「巨人」のままである。ピガフェッタの乗艦に捕らわれていたパタゴンはその後の太平洋での過酷な航海途中に他の多くの乗組員たちと共に(おそらくは壊血病と飢えで)死んでいる。 ==パタゴンの実際== マゼランがパタゴンと名付けた人々は、その出会いの場所から今で言うテウェルチェ族であろうとされている。当時のテウェルチェ族は南アメリカでもっとも未開な部族の一つで農業を知らず、狩猟と単純な植物採取で暮らしていた。テウェルチェ族は日本の2倍の面積の広大なパタゴニアに分布する先住民族の総称で、多くの支族があり、18世紀以降の報告者は支族名で彼らを呼ぶことも多い。マゼラン遠征の時代1520年はスペインのインカ帝国侵略の直前で南米にはアンデス文明などの諸文化があったが、アンデス文明の地に栄えたインカ帝国からは遠く離れた辺境にくらすテウェルチェ族は文明というほどの文化は持たなかったようである。彼らの1支族の1938年の調査では彼らの身長は男子で平均183.7センチメートルとされ、巨人伝説は極端な誇張であったとしても、マゼランたちが出会った先住民族は実際に背の高い人々であった可能性は高い。 パタゴニアには1万年前にはすでに原始狩猟民族が住んでいた。 約17万年前にアフリカに誕生した現生人類は、約7‐8万年前にアフリカを出て西アジアに移住し、その後さらにユーラシア大陸全土に広がっていった。東アジアに移住した人々はさらに氷河期で海面が下がりシベリアとアラスカの間のベーリング海峡が歩いて渡れる時代にシベリアからアラスカにわたり、さらにアラスカから北米・中米、南米と移住を続けた。パタゴニアはアメリカ大陸の南端の地でありそれより先に大地は無い。したがって、パタゴニアの先住民はアフリカで誕生した現生人類のなかでもっとも遠くに移住した人々である。パタゴニアの北西端、チリ領内にあるモンテ・ベルデ遺跡ではおよそ12500年前に人が住んでいたことが証明されていて、またパタゴニア南部のクエバ・デ・ラス・マノス(手の洞窟)は約9000年前にテウェルチェ族の祖先である先住民が作ったものとされている。 パタゴニアは農業には向いた土地ではなくテウェルチェ族は最後まで狩猟民族として終ることになった。 ==巨人伝説の終焉== パタゴニアへの渡航がごく限られた冒険者たちの時代16世紀から17世紀、パタゴニアは巨人の国だとの認識がもたれていたが、18世紀に入ると航海技術も向上しパタゴニアへの渡航は冒険者だけの物で無くなり、パタゴニアに関する報告は増えていった。 1740年にパタゴニアに派遣されたイエズス会宣教師トマス・フォークナーはパタゴニアに長期滞在の上で1774年に自伝を発行し、そのなかでパタゴニアの人々は確かに大柄ではあり、フォークナーの知っているパタゴニアの族長の1人の身長は2.1メートルを超えていたとも残しているが、巨人というほどではなかったと証言している。1766‐1769年に世界周航をしたフランス人ブーガンヴィルは航海に科学者を同行させ、その著書「世界周航記」のなかでパタゴニア先住民族との接触について詳しく書いていて、彼らパタゴン人はグアナコの毛皮を着、歌や踊りが好きで巨人というほどではないが彼らフランス人よりは大柄であったと報告している。ブーガンヴィルはより具体的な数字をあげており、パタゴン人の身長は5ピエ6プース(約1.8メートル)以下の者もいないし5ピエ10プース(約1.9メートル)以上の者もいないが、複数の船員が6ピエ(1.98メートル)以上のパタゴン人を何人も見たと証言したと書いている。 先に記述した1773年のジョン・バイロンのパタゴニア人は背は高いが巨人と言うほどではないとの報告を加え、18世紀後半1770年代に続けて発行されたパタゴニアあるいはパタゴン人についての諸報告はいずれもパタゴンが当時のヨーロッパ人よりは背は高いものの巨人というほどではないことを証言し、これらの報告によってヨーロッパ人に伝わるパタゴニアの巨人伝説は終わりを告げるのであった。 ==パタゴンたちのその後== 16‐18世紀、ヨーロッパで巨人と思われていたパタゴンおそらくは実在のテウェルチェ族は文字を持たず定住もしない民族であったため、どの程度の勢力であったのかはよくはわかっていない。ただし、16世紀ネグロ川以南はほぼテウェルチェ族の支配地で1万人程度であったのではないかと推定されている。 パタゴニア以外のインカ帝国など南米各地の人々は16世紀中にはヨーロッパ人の激しい簒奪に遭い殺され、その支配下におかれ衰弱していったが、辺境で農業に向かないパタゴニアにヨーロッパ人が進出してくるのは少し先であった。18世紀半ばスペインへの対抗勢力であるチリのマプチェ族(アラウカノ族)がパタゴニアに勢力を伸ばし、テウェルチェ族はその文化にも影響を受け(アラウカノ化)ていき(テウェルチェの名自体がマプチェ語に由来するものである)勢力も衰えていった。さらにヨーロッパ人が大陸から持ち込んだ天然痘やチフス、麻疹などの伝染病はインカをはじめ免疫を持たなかった南アメリカの諸民族を甚だしく減少させたが、ヨーロッパ人の持ち込んだ伝染病に免疫を持たなかった点はテウェルチェ族についても同様であり疾病で人数を減らしている。 気候の厳しいパタゴニアへのヨーロッパ人の入植は遅かったが19世紀1865年に最初のパタゴニアへのヨーロッパ人入植が始まり、さらに1879年フリオ・ロカ将軍によるインディオ討伐戦が開始されて、伝染病から逃れて生き延びた少数のテウェルチェ族たちは次々殺され追い詰められていき、1885年最後のテウェルチェ族長が降伏しテウェルチェ族は自立した民族としては壊滅した。日本の2倍強にあたる広大な面積のパタゴニアに現在のテウェルチェ族は200人程度とされている。 =電気パン= 電気パン(でんきパン)とは、電気パン焼き器でパン種に電流を流すことで出るジュール熱を用いて作られるパンのことである。手作りも可能な簡素な構造の「電気パン焼き器」がパン種を熱して焼きあがる。調理の方法と原理からすれば蒸しパンの仲間だが、本項では、便宜上「焼く」という表現も使う。 ==原理== 水分と食塩などの電解質を含んだ小麦粉などによるパン種に、直接電流を通すことでジュール熱が発生する。そのまま電流を流し続けると、やがて水分が蒸発により減少していくとともに電気抵抗が大きくなり、ある段階で電流が流れなくなる。完全に電流が流れなくなったころには、加熱により材料に含まれるデンプンがアルファ化し、食べられるようになる。パン自身が、焼き上がって食べやすい状態になったら自動的に電気を流さなくなるという原理となっている 。 材料に含まれる食塩などの電解質の量や、電極間の距離で焼き具合や味に変化がある。一般的なオーブンやホームベーカリーのように、窯など発熱体の熱をパン種の周囲に伝えて加熱していく方式ではなく、パン種自体の発熱により焼きあがるので、エネルギー効率がよいという利点がある。 ソニーの創設者である井深大が、1945年、前身の東京通信研究所時代に開発した電気炊飯器もこの原理を利用したものであった。しかし市販はされず、ソニーのサイトでは”失敗作第1号となった記念すべき商品”として紹介されている。 北杜夫は記憶に刻まれた戦後終戦直後の3つの発明として「代用灯」(缶に油を入れ芯を立てたもの)、「タバコ巻器」とともに「簡便パン焼き器」を挙げ、「これこそ大発明とよぶべきもの」と表現しており、電気療法の器具に電気が流れなかったエピソードと絡め、電解質である「塩を加えるところがミソである」と続けている。 岩城正夫は「一升瓶の米つき器」「タバコ巻き器」とともに「電気パン焼き」を敗戦直後の三種の神器とし、木の箱とブリキ板だけででき、パン種自体が熱を発して出来上がることを江戸東京博物館の学芸員に説明したと記している ==歴史== 第二次世界大戦後の数年間、配給の食用粉を用いて、電気パン焼き器でパンを作ることが普及・流行した。諸説あるが、数年間でほとんど姿を消したとされている。 終戦後の食糧難の状況下においては小麦粉だけでなく、配給によって得られる前述の食用粉もパン種に用いられた。1945年には、「小麦粉、藷類(サツマイモ類)、大豆、高梁(コーリャン)、玉蜀黍(トウモロコシ)」の混合物資の割合が増え、さらに「芋づる、桑の葉、ヨモギ、どんぐり、南瓜のつる、木材くずなどを材料とする粉食」という記述もあり、雑食総動員計画がたてられている。このような食糧事情が、いかに手に入るものを工夫をして食べるかを人々に考えさせ、粉を水で練って汁とともに煮るすいとんや電気パンなどが登場した背景になった。北杜夫は小さく切ったサツマイモも一緒に入れて焼いたと記しており、後述の1946年の議会食堂での中毒事件では「ドングリ粉芋蔓などで作られた代用切餅」を「一両日乾燥させ粉化し」「簡易電気製パン器で蒸しパンに作っ」たとあり、電気パンのパン種に混ぜられるものは多岐にわたっていた。他にパン種として「老麺」を用い、工程において二度発酵させる手順を含めた「電流パン」を作る要領が記載された文献もある。 ベーキングパウダーのメーカーであるアイコクは同社のベーキングパウダーが電気パンに使用され軍需物資に指定されたと、サイト上に記している。膨らし粉の代わりに重曹を入れてパンにするという資料もある。 現在では、容易に用意できる材料と条件から、食材としてではなく、教育機関において実験の教材や設問として取り上げられることがある。三重大学からは電気パンに関する論文が2000年に日本産業技術教育学会誌へ投稿され、2001年度の大学入試センター試験 物理IAでは電気パンが出題題材となった。 ==電気パン焼き器の構造== 電気パンを作るための電気パン焼き器は単純な構造で出来ていて、戦後の手作りのものも、理科などの実験に用いられるものも基本構造は同じである。木材などで枠状の開いた箱を作り、その側板内側の対面する二つの面に金属の板を貼る。金属の板にそれぞれ電極をつなげる。電極がむき出しになっているため感電の危険が高く、自作する場合の注意や、そもそも自作しないように警告されている場合もある。 阿久津正蔵著 『パンの上手な作り方と食べ方』では、断面が台形になっている。これは得られる電圧が低い場合は電極板間距離を狭くできるよう、台形の短辺側を下にできるというものである。また、仕切りの役目をする中板を付属し、パンの大きさを調節できるようになっている。 構造上は蓋は必要がない一方で、東京都千代田区九段下の昭和館に2011年9月現在展示されている手作りの電気パン焼き器には蓋が付属している。これは熱効率を上げるもので、上面の焼け具合にも影響する。 教育現場での手作り作業の場合、牛乳パックが使用される場合がある。 また最もシンプルな形としてはパン種を電極板で挟んだだけのものもある。 ===サイズ=== 大きさは、戦後の手作り品の場合、ありあわせの材料で製作するため、電極板として用いることができ、かつ入手が容易であった缶詰の高さが基準となっている。おおよその大きさは長辺100‐150ミリメートル×短辺70‐80ミリメートル×深さ70‐8ミリメートルである。 北海道開拓記念館に所蔵されている手作り品は電極板間距離を可変できるものであり、長辺136ミリメートル×短辺90ミリメートル×深さ82ミリメートルである。これに対し明宝町立博物館の所蔵品は長辺132ミリメートル×短辺77ミリメートル×深さ40ミリメートルと少し浅い。 電極板間の距離に関して、90ミリメートルを標準とし長(135ミリメートル)短(45ミリメートル)を含めた三種類の実験が行われている。距離が長いほど出来上がりに時間がかかり、食塩の味をより感じやすいとされている。 1946年当時の資料では長辺150ミリメートル×短辺80ミリメートル×深さ80ミリメートルが適当であるとされている。 ===手作り品と健康被害や感電事故=== 電極板に用いられる金属は、磨いた鉄板が望ましい。ブリキ、ジュラルミン、真鍮、銅などでは有害物質が溶け出し、食中毒の恐れがある。実際に亜鉛引きトタンを用いた「電極応用パン」による中毒事件が1946年6月に東京都渋谷区で起きている。この新聞記事中では、警視庁衛生検査所の技官より「トタン製のものは紙やすりで表面の亜鉛を取り去ってから使ってもらいたい」というコメントが記載されている。また同年7月、議員傍聴人食堂でも腐敗した材料と亜鉛が原因で30名が食中毒を起こしている。 全国パン粉工業協同組合連の清水康夫による2008年の論文では、電極板にチタンを使用した場合、パンの中にはチタンが検出されなかった、とある。 また感電などの事故の可能性も高いので、軍手などの手袋の使用を注意事項として挙げている場合がある。 ==発明者と市販品== もともとは、米を炊いたりパンを焼く器具として、前述の『パンの上手な作り方と食べ方』の著者であり、陸軍軍人でもあった阿久津正蔵が発明したもので、「インピーダンス・クッカー」(交流抵抗加熱器)と名付けられ、陸軍の戦車隊が装備したと記された資料がある。この「電極式パン焼き法」は陸軍大臣所有の特許となっていたものをGHQが解放したと記載された資料もある。 女子栄養大学が発行している月刊誌「栄養と料理」昭和21年5月号における食糧管理局研究所の川口武豊の「電極式製パン器」によれば、電極を使ってパンを焼くことは昭和10年ごろから知られていたとある また永六輔はコラムの中で新劇俳優の本郷淳が発明したとし、本郷の発明が新聞に紹介されてどの家でも作るようになった、としている。 市販品は、戦前から使われていたと思われるベークライト製のものに言及している資料があり、早川電機工業(のちのシャープ)も作っていたという資料がある。最初の商品化は東京通信工業(のちのソニー)であり、進藤貞和三菱電機名誉会長による談として日本経済新聞「私の履歴書」欄において三菱電機も作っていたという資料もある。 石山理化工業株式会社から市販されていた、電気パン焼き器の付属資料画像が、2011年10月現在、昭和館の常設展示室6階「調べてみよう」コーナーにて、閲覧できる。1946年6月6日の読売新聞の広告欄には東京都板橋区(現在の練馬区を含む)の企業による「粉食時代に送るクリーンヒット」と銘打った「単価28円」の「シンプル式パン焼」の広告が載っている。 ==呼称== 名古屋大学名誉教授である並木満夫は藪田貞治郎とのエピソードの中で「電流パン」と呼んでいる。中毒症状を引き起こした際の読売新聞の記事では「電極応用パン」あるいは「代用パン」としている。 同じ原理を用いてパン粉を製造する過程においては「電極式製パン法」(あるいは「通電式」)という呼称が一般的となっている。関連する専用の用紙(工程紙)で特許がとられており、原料のパンに対するパン粉の歩留まりの良さや、白いパン粉ができるという特徴がある。また、硬い食感・油をあまり吸わない特性から、味の調整のために使い分けされたり、混合使用する選択肢となっている。 このほか上述した新聞広告では「シンプル式パン焼」と記載され、同じく上述の石山理化工業株式会社から市販されていた電気パン焼き器の付属資料画像では「粉食利用器」という製品名になっている。 ==電流変化についての考察== 電気パンは、時間経過とともにパン種の電気抵抗が大きくなることで加熱され、食料として適したものになる。この場合流れる電流は時間経過に伴い減少するのみだと考えられるが、ホットケーキミックスをパン種として使用した時など、デンプンの作用によっては電流値は時間の経過とともに「ふたこぶ」の曲線を描く場合がある。使用した材料によってはふたこぶを描かない場合もある。2001年度の大学入試センター試験の試験問題では、グラフでは、わずかにふたこぶが表現されている。 ==電気パンができるまで== 岩城正夫教授所蔵品による =黄金虫= 「黄金虫」(おうごんちゅう / こがねむし、原題:”The Gold‐Bug”)は、1843年に発表されたエドガー・アラン・ポーの短編小説。語り手とその聡明な友人ルグラン、その従者のジュピターが、宝の地図を元にキャプテン・キッドの財宝を探し当てるまでを描く冒険小説である。また厳密には推理小説の定義からは外れるものの、暗号を用いた推理小説の草分けとも見なされている。 この作品は『フィラデルフィア・ダラー・ニュースペーパー』の懸賞で最優秀作となり、ポーは賞金として100ドルを得た。これはポーが単独作品で得た収入ではおそらく最高額である。「黄金虫」はポーの作品のうち、彼の存命中もっとも広く読まれた作品となり、暗号というトピックを出版界に広く知らしめる役割を果たした。 ==あらすじ== 名前の明かされない語り手はウィリアム・ルグランという友人を持っていた。ルグランはユグノーの一族の生まれで、かつてあった財産を失ってからサウスカロライナ州沖のサリバン島で、召使の黒人ジュピターを伴って隠遁生活を送っている。あるとき、語り手が数週間ぶりで彼のもとを訪れると、ルグランは新種の黄金虫を発見したと言って興奮の最中にあった。あいにく当の昆虫はとある中尉に貸してしまって手元にはなかったが、その代わりと言ってルグランは語り手に昆虫のスケッチを描いて見せる。しかし、そのスケッチは語り手にはどうも髑髏を描いたもののようにしか見えない。語り手がそのことを伝えると、絵に自信のあったルグランは気を悪くし、スケッチを描いた紙を丸めて捨てようとする。しかしその前に絵のほうをチラリと見るやそこに釘付けになり、やがて紙をしまうとそれからは何かに心を奪われたようにうつつを抜かした状態になった。様子が変だと思った語り手はその日は友人の家に泊めてもらう予定を取りやめ、そのまま辞去する。 それから一ヶ月後、語り手のもとにルグランの召使ジュピターが訪ねてきた。彼の話では、主人ルグランはあの日から様子がすっかりおかしくなり、黒板に妙な図形を書き散らしたり、行き先を告げずに一日中外出したりしているという。彼の携えてきたルグランの手紙には、語り手に「重要な仕事」があるからすぐに来るようにと記してあった。語り手がジュピターに連れられてルグランのもとに向かうと、語り手を迎えたルグランは「黄金虫が財宝をもたらす」という謎めいた言葉を伝え、本土の丘陵地帯の探検を手伝ってほしいと言う。彼の精神が錯乱していると見た語り手は、とりあえず彼の言うままに従うことに決め、探検についていく。 本土に着いた一行は、樹木の生い茂った台地の上を鎌で切りわけながら奥地へと進んでいき、やがて巨大なユリの木に達する。ルグランはジュピターをその樹に登らせ、さらに枝を伝って進んでいくように指示する。すると、その枝の先には髑髏が打ち付けてあった。ルグランはジュピターに、髑髏の左目から紐をつけた黄金虫を垂らすように指示し、その黄金虫が落ちたところを目印にして杭を打つ。そしてそこから最も近い木からその杭までを巻尺でつなぎ、さらにその延長上を50フィートほど行ったところに目印をつけると、皆でここを掘るようにと伝える。一向はそれからその場所を二時間にも渡って掘っていくが、しかし何も見つからない。諦めかけたルグランは、ふとあることに気付き、召使のジュピターに「お前の左目はどっちだ」と問いただす。何度も確認したにも拘らず、ジュピターは右と左を取り違えていたのだった。 一向はもう一度ユリノキに戻って先の手順を繰り返すと、先ほどから数ヤードずれた場所を再び掘り始める。一時間ほど掘り進めると、連れて来ていた犬が吠え出し、やがて大量の人骨といくつかの硬貨が、さらにその下には6つの大きな木箱が埋められていた。木箱の中身は大量の硬貨や黄金、宝石や装飾品の類であり、家に持ち帰って検分すると、その総額は150万ドル(2009年現在で210億円推定)にも及ぶことがわかった。 興奮冷めやらぬ中、ルグランはどのようにして隠された財宝を見つけるに至ったのかを説明する。あの日、ルグランが黄金虫をスケッチして見せた紙は、黄金虫を発見したのと同じ場所で見つけた羊皮紙であった。そこには一見なにも描かれていないように見えるのだが、ルグランが語り手に紙を手渡したとき、語り手が暖炉の近くにいたために、熱の化学反応によって隠された絵がスケッチの裏側に炙り出されていたのである。そのことに気付いたルグランは、語り手が帰った後、さらに羊皮紙を調べて、山羊(キッド)のマークからそれが海賊キャプテン・キッドの隠された財宝のありかを示すものだと直感する。なおも調べていくと、その紙には以下のような暗号が記されていることがわかった。 暗号に詳しかったルグランはこれを初歩的な暗号だと見抜き、まず暗号内で使われている記号の登場頻度を調べた。一番多いのは「8」の32回である。英語の文章で最もよく使われるアルファベットはeであるから、「8」が「e」を表している可能性が高い。そして英語の文章で最もよく使われる単語は「the」であるから、暗号内で最も多く登場する文字列「;48」がおそらく「the」を表している。このようにしてどんどん記号に対応するアルファベットを見つけて行き、最終的に以下のように解読したのだった。 A good glass in the bishop’s hostel in the devil’s seatforty‐one degrees and thirteen minutes northeast and by northmain branch seventh limb east side shoot from the left eye of the death’s‐heada bee line from the tree through the shot fifty feet out. 主教の宿にある悪魔の玉座には上等のガラスがある四十一度十三分―北東で北よりの方角東側の主な枝、七番目の大枝―髑髏の左目から撃て木から狙撃地点を経て五十フィート向こうまで直進せよ。 これを解読すると、ルグランはまず「主教(ビショップ)の宿」にあたる場所を探し、やがてサリバン島の近隣に「ベソップの城」と呼ばれる岩壁があることを知った。その岩壁は良く見ると落ち窪んで玉座のような形になっている場所があった。「上等のガラス」は望遠鏡のことであり、ルグランはその場所に座って指示通りの方角に望遠鏡を向け、そこから木の枝に打ち込まれた髑髏を発見したのである。 ==分析== この作品で用いられているのは換字式暗号であり、暗号の方式もその解読方法(頻度分析)もポー自身が開発したわけではない。しかし「黄金虫」が発表された19世紀の当時においては、多くの人にとっては暗号法は神秘的なもののように捉えられており、暗号の解読はほとんど超自然的な能力だと考えられていた。この作品に先立つ1840年に、ポーはフィラデルフィアの雑誌『アレクサンダーズ・ウィークリー・メッセンジャー』において暗号に関する記事を書き、その際にこの方式で書かれた暗号であればどんなものでも解いてみせると高言した。ポーの言によれば、この試みは非常に反響を起こし、同雑誌宛てに全国各地から手紙が押し寄せたが、ポーはそのほとんど全てを解読したという。1841年7月にポーは「暗号論」を『グレアムズ・マガジン』に掲載し、暗号の歴史を辿るとともに上記の経緯についても記している。「黄金虫」に使われている暗号の解読法自体は、「暗号論」で説明されたものとほとんど同じである。 物語に登場する「黄金虫」の新種は現実に存在するものではなく、作中で述べられているこの昆虫の特徴は物語の舞台となった地域に生息する二種類の昆虫の特徴を組み合わせて作られている。一つはカミキリムシの一種Callichroma splendidumで、黄金色の頭部を持っており、胴体にもわずかに黄金色をしている。骸骨の眼窩を思わせる黒い大きな斑点を持つものはコメツキムシ科のAlaus oculatusである。 アフリカ人の従者ジュピターの描写は、近代的な観点からはしばしば人種的偏見にもとづくステレオタイプとして批判されている。ポーはかつて自分が雑誌で書評を受け持ったことのあるロバート・モンゴメリ・バードの『シェパード・リー』(1836年)からこの人物像を着想したらしい。当時のアメリカ合衆国においてフィクションに黒人を登場させること自体は珍しくなかったが、この作品のジュピターのように台詞を持つことは稀であった。研究者によれば、作中のジュピターの訛りは物語の舞台となった地方における黒人のそれとは似ておらず、あるいはガラ人の言葉遣いを参考にしたのではないかとしている。 ポーは軍人時代の1827年11月から1828年12月にかけてサリバン島西端のモルトリー要塞(英語版)に駐屯しており、この時の自分の体験を生かして「黄金虫」の舞台を描いている。サリバン島はまたポーがキャプテン・キッドの伝承を初めて聞いた土地でもあった。ポーとの縁にちなんで、サリバン島にはポーの名を冠した図書館が建てられている。またポーは「軽気球夢譚」「長方形の箱」でもこの地域を扱っている。 ==出版史== ポーは当初「黄金虫」をジョージ・レックス・グレアムの雑誌『グレアムズ・マガジン』に52ドルで寄稿したが、しかし程なく『フィラデルフィア・ダラー・ニュースペーパー』の懸賞を知り原稿を戻すよう頼んだ。ちなみにポーはこのとき原稿料の52ドルを返さず、代わりに今後書評の仕事で埋め合わせると申し出ている。「黄金虫」はこの懸賞で最優秀作となり賞金100ドルを獲得、1843年6月21日および28日の二回に分けて同紙に掲載された。このとき賞金として支払われた100ドルは、おそらくポーが生涯で受け取った一作の原稿料の中では最高額である。作品の好評が予期されたため、『ダラー・ニュースペイパー』は「黄金虫」の掲載に先立って版権を取得した。 その後「黄金虫」はフィラデルフィアの『サタデー・クーリエ』でも6月24日、7月1日、7月8日の三回にわたって再掲載された。後二つは巻頭掲載であり、F.O.C.ダーレー(英語版)の挿絵が付けられていた。これ以降もアメリカ合衆国内の多数の新聞で掲載が行なわれ、「黄金虫」はポーの存命中もっとも広く読まれた小説となった。ポーは「黄金虫」の印刷が1844年5月までに総計30万部が販売されたと記している。もっとも、ポーはこれらの再版については何も報酬を得なかったようである。また「黄金虫」の成功はポーを講演者としての人気も高めた。「黄金虫」発表後のポーの講演には大群衆が詰めかけ、結果として何百人もの人が追い返されたという 。1848年の書簡でポーはこのことに触れ「ひどい騒ぎだった」と書いている。ただし、後に詩篇「大鴉」で評判を得たポーは「黄金虫」の成功と比較し、「鳥が虫を打ち負かした」と表現している。 当時フィラデルフィアの『パブリック・レジャー』は、この作品を「非常に重要な作品」と賞賛した。ジョージ・リパードは 『シティズン・ソルジャー』誌上で 「荒削りな描写にもかかわらず、生き生きとまたスリリングな作品に仕上がっている。ポーのこれまでの作品のなかでも最上の一篇だ」と評している。 『グレアムズ・マガジン』の1845年の書評では「知性の鋭さと推理の巧みさを示す一例として極めて注目すべき作品」とされた。一方ポーの論敵であったトマス・ダン・イングリッシュは1845年10月の『アリスティディーン』誌において、「『黄金虫』は他のどのアメリカ人の物語よりも売り上げを伸ばすだろうし、「巧妙さ」という点からすれば、おそらくポー氏がこれまでに書いたどの作品よりも巧妙にできているだろう。しかし、それでもこの作品は「告げ口心臓」とは、そしてそれ以上に「ライジーア」とは比べるべくもない」と評している。ポーの友人トマス・ホリー・シヴァースは、「『黄金虫』はポーの文筆生活における黄金時代の端緒となる作品だ」と評価した。 この作品は大きな成功の反面、敵対的な議論も引き起こした。発表から一ヶ月の間に、ポーは『デイリー・フォーラム』において「賞の主催者と共謀している」と中傷された。『デイリー・フォーラム』は「黄金虫」を「失敗作」「15ドルにも値しない純然たるゴミ」だとまで述べており、これに対してポーは編集者のフランシス・デュフィを名誉毀損で訴えている。訴訟は後に取り下げられたが、デュフィは「黄金虫」が100ドルに値しないと述べたことに対して謝罪を行なった。別の編集者ジョン・デュ・ソレは、ポーがシェルバーンという女学生の作品『イモージン あるいは海賊の財宝』からアイディアを剽窃していると非難した。 「黄金虫」は1845年6月にワイリー・アンド・パトナム社から出版されたポーの作品集「物語集」に収録された。「黄金虫」は巻頭に収録されており、これに「黒猫」とその他10作品が続く構成になっている。この作品集の成功によって、「黄金虫」は1845年11月にアルフォンス・ボルゲールスによって初めてフランス語に訳され『イギリス評論』に掲載された。これはポーの作品の逐語訳としては最初のものである 。このフランス語訳に基づいて2年後にロシア語にも訳されており、ロシアにおいてはこれがポーの最初の紹介となった。1856年にはシャルル・ボードレールが『異常な物語』の第一巻に「黄金虫」の訳を収録している。ボードレールはヨーロッパにおけるポーの紹介に強い影響力を持ち、彼の翻訳は大陸中で定訳として扱われた。 ===日本語訳=== 日本では1902年(明治35年)、山縣五十雄が内外出版協会・言文社から出版した訳注本『宝ほり』で初めて翻訳された。明治年間には他に本間久四郎訳の『黄金虫』(文禄堂、1908年2月)と鉦斎訳「黄金虫」(『日本及日本人』1908年7月15日、8月1日、8月15日)が出ている。以後多数の翻訳があるが、2010年現在は以下収録のものが入手しやすい。 丸谷才一訳 『ポー名作集』 中公文庫、1973年/2010年改版八木敏雄訳 『黄金虫・アッシャー家の崩壊 他九篇』 岩波文庫、2006年巽孝之訳 『モルグ街の殺人・黄金虫』 新潮文庫、2010年小川高義訳『アッシャー家の崩壊 / 黄金虫』光文社古典新訳文庫、2016年 ==影響== コナン・ドイルは「黄金虫」のうち暗号解読の部分のみを抜き出して「踊る人形」を書いた。この作品で用いられている暗号はタイプライターの記号を旗人形に変えたのみであり、解読法も「黄金虫」で用いられているものとまったく同じである。また江戸川乱歩のデビュー作「二銭銅貨」の暗号は明らかに「黄金虫」と「踊る人形」から着想を得ている。「黄金虫」はまたロバート・ルイス・スティーヴンソンの『宝島』にインスピレーションを与えており、スティーヴンソンは少なくとも「(『宝島』に登場する)骸骨は明らかにポーから持ち出してきたものだ」と述べている。 ポーは当時の出版界において暗号というトピックを普及させるのに大きな役割を果たした。アメリカ合衆国の著名な暗号学者であり、第二次大戦において日本軍のパープル暗号を解読したウィリアム・F・フリードマン(英語版)は、幼少期に「黄金虫」を読んだことが暗号に興味をもつきっかけであったと述べている。「黄金虫」はまた、「暗号(cryptogram)」に対する「暗号法(cryptograph)」という言葉を初めて用いた著作でもある。 ==翻案== 「黄金虫」は発表当時から好評を博したため、1843年8月には舞台劇がフィラデルフィアのアメリカ劇場で公開された。これはポーの存命中になされた唯一のポー作品の舞台化である。しかしフィラデルフィアの『スピリット・オブ・ザ・タイムズ』誌はこの公演について「だらだらとしていて随分と退屈だ。骨組みはよくできているものの、肉付けが足りない」と書いている。 映像作品では、1953年に『ユア・フェイヴァリット・ストーリー』第1シーズン第4話としてロバート・フローリー監督によるものが製作されている。その後、1980年に『ABCウィークエンド・スペシャル』の第3シーズン、第7話としてロバート・フュースト監督により映像化されており 、この回はデイタイム・エミー賞で三つの賞を獲得した。1988年にはスペインのホラー映画監督ジェス・フランコが映画化している。 =北条氏綱= 北条 氏綱(ほうじょう うじつな)は、戦国時代の武将、戦国大名。後北条氏第2代当主。 当初は父同様に伊勢氏を称しており、北条氏を称するようになるのは父の死後の大永3年(1523年)か大永4年(1524年)からである。父の早雲は北条氏を称することは生涯なく、伊勢盛時、伊勢宗瑞などと名乗ったが、後北条氏としては氏綱を2代目と数える。なお、氏綱以降の当主が代々通字として用いることとなる「氏」の字は、早雲の別名として伝わる「長氏」・「氏茂」・「氏盛」の偏諱に由来するものと考えられるが、氏綱の元服時に父はまだ今川氏の姻族・重臣であったことから従兄である今川氏当主・今川氏親からの偏諱として与えられたとのではないかとする説がある。 伊豆国・相模国を平定した北条早雲(伊勢盛時)の後を継いで領国を武蔵半国、下総の一部そして駿河半国にまで拡大させた。また、「勝って兜の緒を締めよ」の遺言でも知られる。 ==生涯== ===家督相続=== 長享元年(1487年)、伊勢盛時(伊勢宗瑞、北条早雲)の嫡男として生まれる。従来、父早雲は没年88歳とされていたが、これを64歳とする説が唱えられており、その説によれば、早雲が32歳の時に氏綱が生まれたことになる。母は盛時の正室で幕府奉公衆小笠原政清(まさきよ)の娘・南陽院殿である。幼名は伊豆千代丸。元服後には父と同じ通称である新九郎を称した。氏綱が生まれた年に父・早雲は小鹿範満を討って、甥の龍王丸(のちの今川氏親)を今川家の当主に据えており、その功により興国寺城主となっている。 氏綱の文書上の初見は永正9年(1512年)で早雲の後継者として活動していたことがうかがえ、早雲が大森氏から奪取した相模国小田原城に在番していたと推定されている。 永正15年(1518年)、早雲の隠居により家督を継ぎ、当主となる。永正16年(1519年)に早雲が死去したため、名実共に伊勢(後北条)氏の当主となった。 ===北条氏への改称=== 氏綱の家督相続とともに伊勢(後北条)氏は虎の印判状を用いるようになっている。印判状のない徴収命令は無効とし、郡代・代官による百姓・職人への違法な搾取を抑止する体制が整えられた。それまで、守護が直接百姓に文書を発給することはなかったが、印判状の出現により戦国大名による村落・百姓への直接支配が進むようになる。 早雲の時代、伊勢(後北条)氏の居城は伊豆の韮山城であったが、氏綱はそれまで在番していた相模の小田原城を本城化させた。また家督相続に伴う代替わり検地の実施と、安堵状の発給を行っている。 大永年間(1521年 ‐ 1527年)から氏綱は寒川神社宝殿・箱根三所大権現宝殿の再建そして相模六所宮・伊豆山権現の再建といった寺社造営事業を盛んに行っており、その際に「相州太守」を名乗り(氏綱が相模守になった事実はない)、事実上の相模の支配者たるを主張している。 大永3年(1523年)6月から9月の間に氏綱は名字を伊勢氏から北条氏(後北条氏)へと改めたと推定される。 父・早雲は明応の政変(1493年)を契機に幕府の承認を受けて伊豆に侵攻して領国化し、さらには相模をも平定したが、山内・扇谷両上杉氏をはじめとする旧来からの在地勢力からは「他国の逆徒」と呼ばれて反発を受けていた。領国支配を正当化するために自らを関東とゆかりの深い執権北条氏の後継者たらんとする発想は早雲の時代からあり、氏綱の代にこれを実現したことになる。旧来、伊勢氏とは全く無関係の執権北条氏(鎌倉北条氏)を勝手に名乗った、あるいは早雲が北条氏末裔の北条行長の養子となった、などとされてきたが、近年の調査で正室の養珠院殿が執権北条氏の末裔とされる横井氏(横江氏)の出身であった可能性が指摘されている。養珠院殿は永正12年(1515年)に三代目となる氏康を産んでいる。また近年の別の研究では、この北条改称は単なる自称ではなく、朝廷に願い出て正式に認められたものであると考えられている。改称から数年後には執権北条氏の古例に倣った左京大夫に任じられ、家格の面でも周辺の今川氏や武田氏、上杉氏と同等になっている。なお、北条氏に改めたとされる大永3年6月から9月の時点では、氏綱と扇谷上杉家は和睦していたという見方もあり、北条改称は氏綱による一種の敵対表明であり、これをきっかけに氏綱は小机領進出に踏み切り、更に扇谷・山内両上杉家の反北条同盟の成立、翌年の江戸城攻略に至ったとする解釈もある。 ===扇谷上杉氏との攻防=== 永正16年(1519年)氏綱は父・早雲の政策を継承して房総半島に出兵して小弓公方・足利義明と真里谷武田氏を支援したが、その後の数年間は軍事行動を控えていた。これは、武蔵国を巡って伊勢氏(後北条氏)と対立関係にあった扇谷上杉家が共に足利義明を支持する立場となったために、両者が和睦の状況にあったからとみられている。 大永3年(1523年)までに武蔵国南西部の久良岐郡(横浜市の西部に相当)一帯を経略し、さらに武蔵国西部・南部の国人を服属させている。また、前述のようにこの計略は同年と推測される北条改称と連動した政策であったとする説もある。危機感を持った扇谷上杉朝興は山内上杉家と和睦をして氏綱に対抗しようとするが、大永4年(1524年)正月に氏綱は武蔵に攻め込んで高輪原の戦いで扇谷勢を撃破すると太田資高を寝返らせて江戸城を攻略する。江戸城を攻略後すぐに追撃を開始して、板橋にて板橋某・市大夫兄弟を討ち取る。2月2日に太田資頼の寝返りにより、岩付城を攻撃して落城させ太田備中守(太田資頼の兄)を討ち取った。続いて蕨城も攻略し、また、毛呂城(山根城)城主の毛呂太郎・岡本将監が北条方に属したため、毛呂〜石戸間を手中におさめ敵の松山城〜河越城間の遮断に成功する。 これに対して扇谷上杉朝興は山内上杉憲房の支援を受けて態勢を立て直すと、古河公方足利高基と和睦し、さらに甲斐守護武田信虎とも結んで反撃を開始した。6月18日に太田資頼が朝興に帰参してしまい。7月20日には、朝興からの要請により武田信虎が武蔵国まで出張り岩付城を攻め落とした。これを背景として、太田資頼は岩付城に復帰することができた。氏綱は朝興と和睦を結び、毛呂城引き渡しを余儀なくされた。 翌大永5年(1525年)2月に氏綱は和睦を破って岩付城を奪還するが、朝興は山内上杉憲房・憲寛父子との連携のもとで逆襲を行い、大永5年から大永6年(1526年)にかけて武蔵の諸城を奪い返し、相模国玉縄城にまで迫った。朝興は関東管領山内上杉家、古河公方、甲斐の武田信虎のみならず、早雲時代には後北条氏と友好関係にあった上総国の真里谷武田氏、小弓公方そして安房国の里見氏とも手を結んで包囲網を形成し、氏綱は四面楚歌に陥った。同年5月には里見氏の軍勢が鎌倉を襲撃し、鶴岡八幡宮が焼失している。ただし、大永7年(1527年)には氏綱と小弓公方・足利義明の間で和睦が成立して、真里谷武田氏や里見氏も氏綱と停戦しており、この段階で房総諸勢力は包囲網から脱落していたとする見方も出されている。享禄3年(1530年)に嫡男・氏康が朝興方の軍勢と多摩川河原の小沢原で戦い、これに大勝したものの、享禄4年(1531年)には朝興に岩付城を奪回されている。 ===領国の拡大=== 氏綱の苦境は敵陣営の内紛によって救われる。天文2年(1533年)に里見氏で内訌が起き、里見義豊が叔父の実堯と正木時綱を粛清した。氏綱は実堯の遺児・義堯を援助して義豊を滅ぼさせ、里見氏が包囲網から脱落する。小弓公方を擁立する真里谷武田氏でも内紛が起き、小弓公方の勢力が弱まることになった。天文6年(1537年)に朝興が死去して、若年の上杉朝定が跡を継ぐと、氏綱は武蔵に出陣して扇谷上杉家の本拠河越城を陥れ、三男の為昌を城代に置いた。天文7年(1538年)には葛西城を攻略して房総への足がかりを築く。氏綱と足利義明はこれまで対立と和睦と繰り返しながらも全面的な対決を避け続けていたが、河越城の陥落に危機感を抱いた義明は葛西城の攻防において扇谷上杉家への援軍を派遣して全面的に対立する方向に向かった。 氏綱は関東に勢力を拡大する一方で、父・早雲の代より形式的には主従関係にあった駿河国の今川氏との駿相同盟に基づいて甲斐国の武田信虎と甲相国境で相争った。武田氏は前述の通り、元々扇谷上杉家と友好関係にあり、武田軍が扇谷上杉家を支援するために北条領である相模国津久井郡に侵攻したり、反対に北条軍が武田領である甲斐国都留郡(郡内地方)に侵攻する対立関係であった。天文4年(1535年)には今川家当主・氏輝の要請に応えて都留郡に出陣し、山中の戦いにおいて武田信虎の弟・信友を討ち取る大勝を収めている。天文5年(1536年)に今川氏輝が急死すると家督を巡って花倉の乱と呼ばれるお家騒動が起こり、氏綱は栴岳承芳を支持した。承芳が勝利して今川義元として家督を相続するが、翌天文6年(1537年)に義元は信虎の娘定恵院を娶って甲駿同盟を成立させる。氏綱はこれに激怒して相駿同盟が破綻し、今川との抗争が勃発した(河東の乱)。後北条軍は駿河国の河東地方(富士川以東)に侵攻して占領し、これにより、今川氏との主従関係を完全に解消して独立を果たした。 後北条氏の房総進出は小弓公方と対立する古河公方の利害と一致するものであり、小弓公方足利義明が古河・関宿への攻撃を画策すると古河公方足利晴氏は氏綱・氏康父子に対し「小弓御退治」を命じた。天文7年(1538年)10月7日、氏綱は小弓公方・足利義明と安房の里見義堯らの連合軍と戦う(第一次国府台合戦)。氏綱・氏康父子は足利・里見連合軍に大勝し、義明を討ち取って小弓公方を滅ぼし、武蔵南部から下総にかけて勢力を拡大することに成功した。 『伊佐早文書』によれば、古河公方足利晴氏は合戦の勝利を賞して氏綱を関東管領に補任したという。関東管領補任は幕府の権限であり、関東管領山内上杉憲政が存在する以上、正式なものにはなり得ないが、古河公方を奉ずる氏綱・氏康は東国の伝統勢力に対抗する政治的地位を得たことになる。天文8年(1539年)には氏綱は娘(芳春院)を晴氏に嫁がせ、古河公方との紐帯を強めるとともに足利氏の「御一家」の身分も与えられた。 ===領国支配=== 氏綱の時代に後北条氏の支城体制が確立しており、小田原城を本城に伊豆国の韮山城、相模国の玉縄城、三崎城(新井城)、武蔵国の小机城、江戸城、河越城が支城となり各々領域支配の拠点となった。支城には伊豆入部以来の重臣や一門が置かれたが、このうち玉縄城主となった三男・為昌は後に河越城主も兼ねて広大な領域を管轄しており、氏綱の晩年には嫡男・氏康に匹敵する重要な地位を占めるようになっていた。 氏綱は早雲の郷村支配を継承したが、独自の施策として中世になって廃絶していた伝馬制度を復活させて領内における物資の流通・輸送を整備している。また、検地によって増分した田地や公収した隠田そして交通の要所に積極的に御領所(直轄地)を設置し、その代官には信頼できる側近を任命した。 氏綱の時代に積極的にすすめられた築城や寺社造営のために職人集団を集めており、後北条氏は商人・職人に対する統制を行い年貢とは別に諸役・諸公事を課し、小田原城下の津田藤兵衛に発した藍瓶銭(藍染業者への賦課金)の徴収を許す享禄3年(1530年)付の虎の印判状が現存している。天文7年(1538年)には伊豆と相模の皮作(皮革を加工する職人階層)に触頭を置き、武具製作に不可欠な皮作を掌握した。 領国拡大以外の氏綱の大事業としては鎌倉鶴岡八幡宮の造営がある。鶴岡八幡宮は大永6年(1526年)に戦火によって焼失しており、造営事業は天文元年(1532年)から始まり、興福寺の番匠を呼び寄せて翌年から工事が着手された。氏綱は関東の諸領主に奉加を求めたが、両上杉氏はこれを拒否している。天文9年(1540年)に上宮正殿が完成し、氏綱ら北条一門臨席のもとで盛大な落慶式が催された。この造営事業は氏綱の没後まで続き、完成は氏康の代の天文13年(1544年)になった。源頼朝以来の武門の守護神たる鶴岡八幡宮の再興事業を主導することは執権北条氏や鎌倉公方といった東国武家政権の政治的後継者を主張するに等しい意味を持っていた。 ===死去=== 氏綱に敗れた扇谷上杉朝定が、山内上杉家の上杉憲政と手を結んで反攻の兆しを見せ始め、さらに今川軍との戦いも長期化する中、天文10年(1541年)に病に倒れ、7月19日に死去した。享年55。 後を嫡男の北条氏康が継いだ。氏綱は若い氏康の器量を心配して、死の直前の天文10年(1541年)5月に氏康に対して5か条の訓戒状を伝えている。(しかし、前文では「其方儀、万事我等より生れ勝り給ひぬと見付候得ハ」と氏康の器量を評価している。) 一、大将から侍にいたるまで、義を大事にすること。たとえ義に違い、国を切り取ることができても、後世の恥辱を受けるであろう。一、侍から農民にいたるまで、全てに慈しむこと。人に捨てるようなものはいない。一、驕らずへつらわず、その身の分限を守るをよしとすべし。一、倹約に勤めて重視すべし。一、いつも勝利していると、驕りが生まれ、敵を侮ったり、不行儀なことがあるので注意すべし。 ― 北条氏綱、五か条の訓戒(要旨) 氏綱の時代に後北条氏は早雲からの伊豆・相模に加えて、武蔵半国と下総の一部そして駿河半国を領国としていた。北条記は氏綱を「二世氏綱君は父のあとをよく守って後嗣としての功があった」と評価している。 神奈川県箱根町の金湯山早雲寺に残る氏綱を含む北条5代の墓所は、江戸時代の寛文12年(1672年)に、北条氏規の子孫で狭山藩北条家5代目当主の北条氏治が、北条早雲の命日に当たる8月15日に建立した供養塔である。氏綱の本来の墓所は、かつての広大な旧早雲寺境内の春松院に葬られたが、旧早雲寺の全伽藍は豊臣秀吉の軍勢に焼かれたため、その位置は不明となっている。 ==妻子== 氏綱には2人の妻と4男6女の存在が確認されている。 正室:養珠院 長男:北条氏康長男:北条氏康継室:近衛殿:関白近衛尚通の娘。母親不明 次男:某:早世 三男:北条為昌 四男:北条氏尭 女子:浄心院:太田資高室 女子:大頂院:北条綱成室 女子:世田谷御所・吉良(足利)頼康室。養子に崎姫(高源院)の次男を迎え、その妻として北条幻庵娘を迎える。 女子:芳春院:古河公方・足利晴氏室 女子:崎姫(高源院):堀越(今川)貞基室。「河東の乱」参照。次男の氏朝は吉良頼康の養子となる。 女子:ちよ:葛山氏元室次男:某:早世三男:北条為昌四男:北条氏尭女子:浄心院:太田資高室女子:大頂院:北条綱成室女子:世田谷御所・吉良(足利)頼康室。養子に崎姫(高源院)の次男を迎え、その妻として北条幻庵娘を迎える。女子:芳春院:古河公方・足利晴氏室女子:崎姫(高源院):堀越(今川)貞基室。「河東の乱」参照。次男の氏朝は吉良頼康の養子となる。女子:ちよ:葛山氏元室養子:北条綱成:駿河福島氏出身。正室の養珠院の出自は不明である。『異本小田原記』には堀越公方の家臣に北条氏があり堀越公方足利政知の命を受けてその娘を氏綱の妻にしたとする所伝がある。この記述は宗瑞の家系が北条氏に改姓するための作為として考慮される事はなかったが、近年発見された「高橋家過去帳」(同家は後北条氏旧臣)の中には養珠院を「大永七丁亥年七月拾七日滅」「横江北条相模守女」と記されている。黒田基樹は「横江」が後北条氏の家臣にもその名があり、鎌倉北条氏の末裔を名乗っていた横井氏(尾張国出身)の事であるとすれば、養珠院の出自が北条氏とされる所伝にも再検討の必要があると指摘している。 継室の近衛殿は関白近衛尚通の娘で享禄4年(1531年)から天文元年(1532年)頃に結婚したと推測されるが、弟の近衛稙家はこの頃には31歳になっており、当時の女性としては晩婚のため、外交的な必要からの名目的なものと考えられている。 崎姫は息子の堀越氏朝が吉良氏を継承したことから、吉良頼康室と混同される事が多かったが別人である。 ==偏諱を与えた人物== 北条綱成(娘婿・養子)北条綱房(綱広とも、綱成の弟)北条綱高(初め高橋綱種、義甥(母が早雲の養女)にあたり、のち氏綱の養子となる)北条綱重(甥(弟・長綱の子)、※綱重については父の長綱から1字を受けた可能性が高い)笠原綱信近藤綱秀清水綱吉(伊豆清水氏第2代当主、第3代当主・清水康英の父とされる)清水綱賢(源姓常陸清水氏当主)遠山綱景内藤綱秀 =成田空港問題の年表= 成田空港問題の年表(なりたくうこうもんだいのねんぴょう)は、三里塚闘争をはじめとする、成田国際空港(旧・新東京国際空港)に係る諸問題に関連する出来事を時系列順に述べるものである。 なお、年表中の役職はいずれも当時のものである。 ==年表== ===1930年代=== ====1931年==== 8月:日本初の国営民間航空専用空港「東京飛行場」が開港(現在の東京国際空港、羽田空港)。 ===1938年=== 「東京市飛行場」が計画される。計画によれば、飛行場は水陸両用の機能を有し、当時としては世界最大級の規模(251ヘクタール、滑走路3本)となるはずであった。 ===1939年=== 7月:東京市飛行場の起工式が行われ、現在の夢の島で埋め立てが始まる。 ===1940年代=== ====1941年==== 日中戦争による物資不足により、東京市飛行場の工事が中断。 ===1945年=== 第二次世界大戦終結(日本の降伏)。GHQが羽田空港建設計画を出したことにより、東京市飛行場計画は廃止。東京飛行場を接収した米軍は直ちに拡張に着手し、周辺住民3000人が強制立ち退きの憂き目にあう。11月9日:「s:緊急開拓事業実施要領」が閣議決定される(戦後開拓)。 ===1946年=== 1月:食料増産を目的とした政府の緊急開拓計画等の施策により、下総御料牧場内883町歩が帝室林野局に移管される。3月5日:ウィンストン・チャーチルが鉄のカーテン演説。3月6日:入植を希望するも進展がないことに業を煮やした沖縄県出身者らが三里塚での開拓をはじめる。同月16 日に天浪地区での入植許可が下り、沖縄出身者らは土地争いなどを経ながらこの地に定着していく。 ===1947年=== 1月31日:GHQの指示により、全官公庁共同闘争委員会議長の伊井弥四郎が二・一ゼネスト中止を発表(逆コース)。10月24日:「開拓事業実施要領 」が閣議決定され、開拓の目的が「引揚者の雇用確保・帰農促進」から「土地の農業上の利用の増進と人口収容力増大」に移行。 ===1948年=== 6月:ベルリン封鎖。 ===1949年=== 1月23日:第24回衆議院議員総選挙で日本共産党が躍進。夏:国鉄三大ミステリー事件が発生。8月29日:ソビエト連邦が核実験に成功(RDS‐1)。10月1日:毛沢東が中華人民共和国の建国を宣言。 ===1950年代=== ====1950年==== 1月:コミンフォルムが日本共産党の平和革命戦術を批判。6月6日:GHQが、日本共産党幹部の公職追放を指令(レッドパージ)。6月25日:朝鮮戦争勃発。10月:日本共産党の指導者、徳田球一が中国に亡命。 ===1951年=== 4月:マッカーサー更迭。9月8日:日本国との平和条約(サンフランシスコ条約、ソ連は調印拒否)・日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約(旧日米安保条約)調印。10月:日本共産党が「51年綱領」を採択。各地で蜂起。 ===1952年=== 5月1日:血のメーデー事件。7月1日:羽田空港が返還され、「東京国際空港」と改称。7月21日:破壊活動防止法施行。 ===1953年=== 5月3日:スターリン死去。7月27日:朝鮮戦争休戦協定締結。 ===1954年=== 5月7日:ディエンビエンフーの戦いでフランス連合軍が敗北。5月8日:昭和天皇・皇后が下総御料牧場を視察。この際、元宮内庁職員らの戦後開拓地を訪問。7月21日:ジュネーヴ協定締結(第一次インドシナ戦争におけるフランスの事実上の敗北、アメリカは介入を継続)。12月7日:第5次吉田内閣が総辞職。12月10日:鳩山一郎内閣が発足。 ===1955年=== 7月:第6回全国協議会で日本共産党が極左軍事冒険主義を転換。山村工作隊等に参加し武装闘争を行っていた学生らは梯子を外された格好となり、後に共産党指導部に不満を持つ者たちによる新左翼党派結成につながってゆく。11月15日:保守合同により、自由民主党(自民党)が発足(55年体制)。11月22日:ソ連が水爆実験に成功(RDS‐37)。 ===1956年=== 10月19日:日ソ共同宣言(日ソ国交正常化)。10月23日:ハンガリー市民が蜂起(ハンガリー動乱)。12月23日:石橋内閣が発足。 ===1957年=== 1月:日本トロッキスト聯盟が結成(同年、革命的共産主義者同盟に改称)。2月25日:岸内閣が発足。10月:スプートニク・ショック。 ===1958年=== 10月16日:日本社会党や日本労働組合総評議会などが警職法改悪反対国民会議を結成。12月:共産主義者同盟(第一次ブント)結成。 ===1960年代=== ====1960年==== 1月19日:日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約(新日米安保条約)調印。5月19日‐20日:妨害活動を行う野党議員らを清瀬一郎衆議院議長が警官隊を使って排除。自民党単独で会期延長可決のうえ、衆議院で新日米安保条約を承認。安保闘争が活発化する。参議院での審議は行われず、衆議院の優越により6月19日に自然承認となる。6月10日:ハガチー事件。6月15日:安保条約反対のデモ隊が国会議事堂への突入を図り、全日本学生自治会総連合(全学連)の樺美智子が死亡。6月23日:新日米安保条約発効。岸首相が辞意表明。7月19日:池田勇人内閣が発足。12月27日:国民所得倍増計画が閣議決定される。 ===1961年=== 運輸省が羽田空港の処理能力の限界を見越して(1970年度中に処理能力の限界とされる年間発着回数17万5000回に到達すると予測)、新空港の検討を開始。 ===1962年=== 3月31日:昭和37年度予算に新空港調査費118万円が計上される(名目は「空港長期整備計画調査費」)。10月‐11月:キューバ危機。11月16日:羽田空港の行き詰まり打開策として、池田内閣が第2国際空港建設方針を閣議決定(池田勇人首相は外遊中のため、川島正次郎が臨時首相代理を務める)。 ===1963年=== 1月‐3月:具体的な候補地(浦安・印旛沼・九十九里・霞ヶ浦・谷田部・白井)の調査がヘリコプターなどを使って始まる。3月30日:昭和38年度予算に新空港調査費1000万円が計上される。4月17日:友納武人が千葉県知事に就任。5月1日:運輸相航空局に「東京第2国際空港計画室」が設置される。6月:池田首相が河野一郎建設相に「新空港建設早期着工」を指示。6月1日:「東京第2国際空港計画室」が「新東京国際空港計画室」に改称。6月10日:運輸省航空局が「新東京国際空港」(いわゆる「青本」)を発行。立地箇所は特定せず。6月15日:ケネディ米大統領が、超音速輸送機(SST)開発計画推進を発表。6月中旬:綾部健太郎運輸相が「浦安沖案」、河野一郎建設相が「木更津沖案」を発表。7月3日:友納千葉県知事が、副知事・全部長・審議室主幹を集め、空港問題について初庁議を開く。7月4日:綾部運輸相、河野建設相、川島正次郎自民党副総裁、友納千葉県知事が初の四者会談。浚渫業を営む小川栄一がイギリスの港湾埋立業者に設計させた青写真を示して木更津案を推す河野に対し、綾部が運輸省の浦安案を主張。河野は「綾部君、君は事務当局がいないと何もできないのか」となじり、険悪な雰囲気となる。結局具体的な建設地について一致することはなかったが、新空港は東京湾内千葉県側に設置する運輸省・建設省・千葉県で協議して、設置場所を決定する1964年度から着工するの3点が川島のとりなしによって一旦合意。友納知事は帰庁後「新東京国際空港対策協議会」を立ち上げ、運輸省・建設省との話し合いの進展に応じられる体制作りに取り組む。同日、池田首相と佐藤栄作が、新産業都市や第二国際空港建設問題について話し合い。7月18日‐7月24日:運輸省が霞ケ浦周辺・白井・富里地区を調査。7月29日:綾部運輸相が霞ケ浦周辺・富里地区を新空港候補地とすることを了承。7月30日:運輸省内で新空港関係各省の実務者での打合せ(連絡会議)が行なわれる。運輸省から栃内一彦航空局長、建設省から町田充計画局長、農林水産省からは関係課長ら十数人が出席、千葉県側からも渡辺一太郎副知事と高橋良平審議室主幹が出席する。航空管制上の問題から浦安沖を推す運輸省と埋立工事を考慮して木更津を適地とする建設省が対立する。この中で内陸部を含めて検討を行うこととなり、千葉県富里村と茨城県江戸崎町が候補に挙げられる。運輸省では前年11月の閣議決定より前に極秘裏に富里を最有力候補として検討していたとされる。8月2日:運輸省が千葉県に浦安・木更津領候補地に管制上難点がある旨説明。8月8日:運輸省に航空局長及び港湾局関係者、建設省・農林省関係者、岩上二郎茨城県知事、千葉県の高橋主幹らが集まり、運輸省側から「建設・運輸両相の了承を得たので千葉、茨城両県の内陸部について調査をしたい」と切り出される。岩上知事は「この問題で千葉県と争う気持ちは全くない。茨城県側に決まれば協力は惜しまない」と応じる。一方、高橋主幹は千葉県の立場として「大臣発言で千葉県内ではいろいろの騒ぎや波紋が生じた。しかし、これ以上騒ぎを大きくするのは本意ではない。四者会談を尊重したいので、第2回四者会談を開き、その方針が決定するまでは内陸案に応じられない」と発言。8月12日:友納千葉県知事が、県議会全員協議会で「運輸省は北総台地を候補地として検討したい意向である」と報告。高橋主幹も石井美雄富里村長・山本昇八街町長に同様の連絡。8月20日:綾部運輸相が「新東京国際空港の候補地及びその規模」について航空審議会(会長:平山孝)に諮問。富里案が公式に登場する。航空審議会では、パイロット・管制技術者・土木技術者等各分野の専門家からなる小委員会を設け、各候補地について、空域・航空管制・気象条件・地形・施工条件・都心とのアクセス手段など多岐の観点から比較検討した。8月27日:第2回四者会談(綾部運輸相、河野建設相、川島自民党副総裁、友納千葉県知事)が行われる。冒頭で綾部運輸相が「前回は候補地を東京湾上に捜すということで合意したが、その後検討の結果、千葉県の北総台地と霞ヶ浦を候補地に加えたい」と発言し、会談はいきなり荒れ模様となる。別室に控えている事務次官や航空局長を呼んでから説明しようとした綾部に対し河野が「綾部君、君は吏僚がいなければ議論ができないのか、突然北総台地等を持ち出したのは吏僚にいわれたからか、君はそれでも大臣か」と怒鳴り、綾部も「埋め立て屋のいう通りにいかないよ」と河野の背後にいる浚渫業者の存在をあてつけて言い返す。川島のとりなしにより事務次官と航空局長により「羽田は拡張に限界がある」「浦安沖は地盤が悪く、後背地が密集市街地であり空域が羽田と競合するうえ、漁民からの強い反対がある」「木更津は羽田に近いので空港の機能が落ちて問題にならない」と説明が行われる。これに対し木更津案を譲らない河野建設相は「羽田など廃港にしてしまえばいい」と激高し、川島も「1500戸の農家をどうやって移転させるのだ。羽田と管制塔を一緒にして浦安沖に作ったほうが有利だ」と主張。事務次官と航空局長は「国内線の需要が激増しているので、便利な羽田を廃港はできない」と譲らず、空港建設の主体となる空港公団を発足させるための45億円予算について運輸省が大蔵省と折衝中である旨も明かされる。次回までに池田首相の判断を仰ぐことになり散会したが、四者会談がその後開かれることはなかった。9月12日:友納千葉県知事が「運輸省は富里村案を検討中」と県議会全員協議会で報告。9月18日:この日から富里村・八街町の推進派と反対派の双方が陳情を開始。以降、12月にかけて市川市・八街町・富里村・山武町の反対派らによる陳情が激化。10月1日:羽田空港での深夜・早朝のジェット機発着禁止。10月7日:富里村空港反対部落連合会(代表:久保忠三)が約500人で反対陳情を行う。10月8日:富里村空港反対部落連合会が県庁デモを行う。同日、浦安町議会が臨時議会で飛行場建設絶対反対の意見書を採択、山崎清太郎議長名で県知事・運輸相宛に提出。秋:富里・八街空港反対同盟が結成される。11月15日:富里の反対派農民らが富里から千葉県庁までの往復60キロメートルを耕運機でデモを行い、沿道の住民や県民にアピール。デモにあたっては日本社会党の小川国彦県議らが「200台もの耕運機にノロノロと国道を走られたら、交通の大渋滞を来す。とても許可はできない」と難色を示す成田警察署長と折衝を行い、83台によるデモの許可を取り付けていた。12月11日:航空審議会が新東京国際空港の候補地について、第一候補・富里村付近、第二候補・霞ヶ浦と答申。規模は滑走路が5本(4000メートル×2本、他3本)、面積約2300ヘクタールとされた。これに対し河野が不賛成を表明するなど自民党実力者の支持を得られず、池田勇人首相も「答申の東京周辺にこだわらず調査するよう」指示するなど、閣内で見解が分かれる。12月19日:友納千葉県知事が綾部運輸相と栃内航空局長を訪ね、「答申まで出た今、それを否定する意見や再調査しなおすという発言は、閣内不統一のそしりを受けよう。それでは地元も困る」と詰問。綾部は答申を尊重するとしつつも「広い視野で候補地を探す立場も守る」等とあいまいな態度に終始する。 ===1964年=== 2月11日:羽田空港C滑走路供用開始。3月4日:松永安左エ門の私設シンクタンクである産業計画会議が、新空港の建設整備と運営には民間方式を組み入れることや、羽田空港との管制問題など既存施設にとらわれることなく東京湾内中北部海域(千葉県木更津・幕張沖等)・首都圏東部(八街・富里地区)・首都圏西南部(厚木・相模原地区)等なるべく数多くの候補地について技術的調査と経済的な検討を行うことを勧告。3月22日:日本社会党千葉県委員会が「新空港設置反対」を決議。3月31日:昭和39年度予算に新空港調査費1億円が計上される。4月1日:海外渡航自由化。5月12日:衆議院建設委員会で、河野建設相が、空港の問題については池田首相の命により建設大臣が推進することになっているとしたうえで「東京湾の中にどこか適当な、埋め立て可能であって、地盤のいいところはないかという意味で、いまの海底の調査をいたしておるわけであります。」と答弁。5月19日:参議院内閣委員会で、綾部運輸相が「東京湾の内部は地質が非常にヘドロと申しますか、軟弱でございまして、何百万坪を埋め立てましても、地盤が陥没したり、いろいろな事故が起こりましてむずかしい」との運輸省見解を述べる。5月25日:友納千葉県知事が、「住民の意思を無視してまで空港が建設されるものではない。県は主管の運輸省なり池田総理といった正規の窓口を通じ、県民感情を背景に話し合いを進める」と、政府内の空港建設を巡る動きについて記者会見でコメント。5月26日:閣議で河野建設相と綾部運輸相が激しく言い争い、池田首相は「所管は運輸省だが、この問題は東京湾全体を含めて調査してみよう」と結論を下さず。佐藤栄作日記:「空港問題で綾部、河野の論戦在り。けだし出すぎた河野発言にたまりかねた綾部君の発言で、一寸すごいものがあった。池田首相の態度にも解せぬ物がある。航空審議会をふるに利用すべきではないか」5月27日:衆議院建設委員会で河野建設相が前年12月の航空審議会の答申について意見を述べるつもりがないとしつつ、答申の内容とかかわりなく東京湾中で基礎調査を行っており、河野個人は特に浦安沖を適地として考えている旨を答弁。5月28日:佐藤栄作日記:「鈴木貞一君八時前から来宅。次期政権は占領政治から完全に脱却する事を説く。例の東京湾埋立の案をきく。けだし過日の河野くんの発言があったので、これを確かめた。それによれば、別に木更津が狙いで、その為にも、もます戦術らしい」6月1日:航空局に参事官・新東京国際空港計画課・新東京国際空港調査課が設置される。6月23日:日本最大級のダム反対運動(蜂の巣城紛争)が展開されていた下筌ダム建設で第一次代執行が行われる。7月18日:内閣改造により、松浦周太郎が運輸大臣就任。8月:トンキン湾事件が発生し、以降アメリカ合衆国のベトナム戦争介入が本格化する。8月13日:友納千葉県知事が松浦運輸相を訪ね、「政府の不統一見解は地元に深刻な動揺を与えているので、一刻も早く候補地を決定するよう」と異例の申し入れ。8月17日:友納千葉県知事が「木更津沖なら積極的に誘致、内陸なら消極的にならざるを得ない」と立場表明。9月9日:池田首相が国立がんセンターに入院。池田は7月の自由民主党総裁選挙の前後から喉の痛みを訴えており、本人には伏せられていたが既に喉頭癌が進行していた。9月15日:新空港建設について、大蔵大臣・農林大臣・運輸大臣・建設大臣・自治大臣、防衛庁長官・内閣官房長官からなる「関係閣僚懇談会」(関係閣僚懇)発足。10月1日:東海道新幹線開業。10月10日‐10月24日:1964年東京オリンピック。10月15日:与党幹部も参加する新国際空港問題懇談会の初会合を政府が開くが、紛糾。10月25日:池田首相が退陣を表明(池田は翌年8月13日に死去)。11月10日:佐藤内閣が発足。11月11日:佐藤栄作首相が松浦運輸相に候補地決定を急ぐよう指示。11月13日:佐藤首相から新国際空港問題懇談会座長に任じられた河野国務相が、「富里・木更津・霞ヶ浦・羽田沖の四候補地を白紙に戻し、再検討を考慮中。500戸以上の移転は不可能」と発言、地元を当惑させる。これに対し友納千葉県知事が「河野大臣が内陸部不適当ということ自体は納得できる。だが政府の意見のとりまとめ方に地元の迷惑を考慮しない点があり残念だ」と地元不在で迷走する政府に苦言を呈し、県内の反対派・誘致派の活動が活発化する。12月4日:佐藤栄作日記:「閣議。発言して、予算編成に際しては圧力団体を利用したり又はこれに利用される事なくして、党独自の主張で編成に協力されたしと発言する。ラッシュに時差通勤を支持し、後河野君と第二空港、沼田ダム等につき打合せする」12月18日:閣議で「新空港建設に関する基本的態度」を確認。「新空港は1970年完成を目標とする」「候補地についてはさらに検討」など。12月23日:富里村の空港反対派が「血判状」を佐藤首相に提出する。12月24日:伊能繁次郎・水田三喜男らの県選出の自民党議員が、友納千葉県知事も交えて緊急会議を開く。新空港を県内に受け入れることでは一致したものの、建設地については意思を統一できず。12月28日:昭和40年度予算の大臣折衝で、新東京国際空港公団の設立と政府出資を5億円とすることが合意される。 ===1965年=== 2月3日:友納千葉県知事が川島副総裁や伊能繁次郎とともに佐藤首相と会談し、新空港建設にあたり地元の意向を無視しないよう要請。佐藤首相から「政府としては、新空港の設置に結論を出す段階に来ていない。設置決定の際は地元知事の意見を十分尊重し、事前に相談する」との言質を得る。佐藤栄作日記:「友納知事、川島君、伊能君等と『富里』飛行場問題を打合せする」2月11日:佐藤栄作日記:「空港問題懇談会に顔を出し、午前中院内にたむろする」2月:松浦運輸相が、記者会見で「新空港は地元の知事や県議会が反対するところには造らない。用地買収金額は知事にも、ある程度責任を負わせるつもり」と発言。これに対し友納知事は「空港の問題に関する閣僚発言はいったいだれが政府を代表しているのか、さっぱりわからない。首相の発言以外は問題にしない」とコメント。2月15日:佐藤栄作日記:「金丸冨夫、田辺国男、細田吉蔵等空港問題で、又鹿内信隆君は沖縄問題で連絡に来る。これは一寸大事な問題のようだ」2月16日:佐藤栄作日記:「江戸君を官邸に迎へる。富里空港に反対」2月27日:新東京国際空港公団法案が国会に提出される。3月29日:関係閣僚懇が候補地について、(1)富里のほか、(2)埋立ての検討も必要な東京湾や霞ヶ浦などについても関係事務次官会議で検討し、早急に調査を実施する、(3)米軍使用の飛行場について外交ルートで打診する、の3点を決定。4月1日:関係各省事務次官会議で、空域・渉外・土木技術の3小委員会が設置される。4月5日:霞ヶ浦沿岸の漁民らが「空港設置反対集会」を開催。4月30日:衆議院運輸委員会が、新東京国際空港公団法案に「将来に亘る航空輸送需要の急激な増加と航空機の急速な進歩の趨勢とにかんがみ、新国際空港の建設は必須かつ緊急の問題である。政府においては、このような事態に対処するため、航空審議会の答申に基づき速やかに候補地の決定を行なうとともに、建設及び管理に当る公団の設立を促進するよう万全の措置を講ずベきである」とする附帯決議を付して原案通り可決、引き続き本会議でも可決。6月1日:参議院運輸委員会が、新東京国際空港公団法案に「政府は新東京国際空港の建設に当っては、いやしくも当該地域住民の生活権をそこなうことのないよう万遺憾なきを期するとともに、当該地域における農業の振興ならびに産業経済の伸展を阻害しないよう配慮すべきである」とする附帯決議を付して原案通り可決、引き続き本会議でも可決。法案が成立する。6月2日:新東京国際空港公団法が公布される(昭和40年法律第115号、施行は1966年7月7日)。6月3日:中村寅太が運輸相就任。6月12日:秩父宮妃・高松宮宣仁親王・三笠宮崇仁親王が成田市の養蚕団地(シルクコンビナート)を訪問、記念の桑苗を植える。関係者が将来の姿を説明すると「しっかりやって下さい」と気さくに声をかける。6月16日:中村運輸相が空から視察を行い「候補地は富里、霞ヶ浦のいずれかにする」「霞ヶ浦調査期間を早める」と言明。6月22日:日韓基本条約が締結され、北朝鮮との距離が近かった社会党を中心に反対運動が展開される。6月23日:下筌ダム建設にかかる第二次代執行が実施される。7月:運輸省が霞ヶ浦でのボーリング調査を開始。7月8日:埋め立て方式の推進者であった河野一郎が急死する。中核派・社学同・解放派の3派が都学連を結成。8月30日:反戦青年委員会が結成される。9月11日:霞ヶ浦沿岸の漁民1,000人が漁船300隻で湖上反対デモを行う。10月5日:運輸省が中村運輸相に霞ヶ浦を不適当とするボーリング調査結果を報告。10月18日:友納千葉県知事が胃潰瘍治療のため入院。11月15日:富里村空港反対派がトラクター50台で千葉県庁までデモを展開。知事室に乱入する騒ぎとなる。11月18日:関係閣僚懇が富里を新空港建設地に突如内定、翌日に閣議決定することを橋本登美三郎官房長官が記者会見で発表。療養中の友納千葉県知事に代わって職務を行っていた川上副知事の問い合わせに、川島副総裁は閣僚懇が勝手に決めたことで自分は関与していないと回答。千葉県側は中村運輸相からの呼び出しに応じず、「農地の収用は最小限に、騒音対策は万全に。敷地決定は、保証金など具体的条件をつめてから」という公約を掲げて再選していた友納知事は、過去の佐藤首相や歴代運輸相と交わした内陸に空港建設地を決めるときは十分地元に相談するとの約束を盾に県独自の判断で対処することを表明。川上副知事は地元町村長・社会党議員・反対同盟幹部・記者クラブと順次会見を行って友納の意向に沿って決意表明するとともに、至急電報で閣議決定延期を政府側に要請。田中角栄幹事長も「政府は、私や赤城政調会長も参加させないで、内定してしまったな。霞ヶ浦だと、利根川上空を飛べば、市街地に対する防音対策上もいいと思ったのに……」と不満を表明。11月19日:「富里案内定」の政府発表に対し、千葉県側が「事前連絡不充分」と不満を表明。11月24日:伊丹空港での深夜・早朝のジェット機発着禁止。11月25日:富里村議会と八街町議会が、それぞれ「空港設置反対」を決議。友納千葉県知事が、「空港は地元の大多数が反対ならば、建設は不可能」としながらも「誠意があれば検討」とする。11月26日:川上千葉県副知事が「内定の理由と、空港の位置を明らかにした上、代替地、騒音地域とその対策等をはっきりさせない限り協力できない」と県議会で答弁。11月27日:富里・八街・山武の「空港建設同盟連合会」が、運輸省に「建設促進」を陳情。同日、社会党系の「反対県民会議」が発足。11月29日:佐藤栄作日記:「運輸大臣は日米航空(交渉)も順調な経過を辿る由報告在り。尚『富里』第二空港は地元の反対あるもまとまる方向と報告をうける」11月30日:反対派農民1500人が県庁へ抗議。12月1日:友納千葉県知事が職務復帰。12月3日:運輸省が千葉県に富里内定を正式に連絡し、協力を要請。運輸大臣による説明会実施(7・8日開催)が決められ、友納千葉県知事名義で周知される。12月7日:県庁で中村運輸相・佐藤光夫航空局長・手塚良成参事官による「富里空港」の説明会が行われる。冒頭の友納千葉県知事の挨拶の途中に関係町村の町村長や反対同盟員は中村大臣に反対決議書を渡し、説明を受ける前に怒号を浴びせながら退出。説明会は県庁職員らへのレクチャーの体となる。社会党議員の加瀬完らが説明会不参加を呼びかけており、友納知事を激怒させる。12月11日:富里・八街住民が、自動車130台を連ねて県と県議会に抗議。12月12日:定例県議会で友納千葉県知事が「地元民の説得は至難の状況下にある。運輸省は富里が唯一の候補地かどうか再検討してほしい。また、富里地区の住民対策を早急に示し、最低3か月の検討期間をおき、国と協力し住民説得の見通しをつけたい」と発言。浜田幸一県会議員の質問に答える形で「県が地元を説得できると判断される補償、代替地、騒音、転職の4つの原則」(4原則)について明らかにする。12月13日:千葉県が運輸省に「土地補償等」「代替地」「騒音対策」「職業転換対策」の4原則を提示。友納千葉県知事は記者会見で「このままなら県は空港建設を断るつもり」と発言。このとき県庁は「内定を白紙に戻せ」「知事やめろ」等のシュプレヒコールをあげる反対派農民ら千数百人に取り囲まれていた。同日、八街町議会が絶対反対決議。午後1時から県庁ホールで友納知事と反対同盟の会見が行われる。議論は平行線をたどり激高し「知事を帰すな」と叫ぶ反対派住民らに友納知事が取り囲まれるが、「知事は病人だ」という行動隊長のとりなしにより解放される。12月16日:佐藤栄作日記:「友納千葉県知事、空港問題でやって来た。仲々反対論が強い様なので、ゼスチュアもあり閣議決定を本年中はしない事とする」12月17日:佐藤首相と友納千葉県知事が会談。12月20日:富里村の反対血判請願書(741世帯、2500人)が佐藤首相らに送付される。12月21日:酒々井町議会が「空港建設反対」を決議。12月24日:芝山町議会が「空港建設反対」を決議。 ===1966年=== 1月9日:富里で反対総決起大会に3000人が集結。1月22日:社会党大会で空港設置反対決議、同日成東町議会が反対決議。1月28日:佐藤栄作日記:「党との連絡会議で川島君と富里問題を相談し、大体の見通しはいゝ。然し尚、紆余曲折はある事と思ふ」2月4日:全日空羽田沖墜落事故。当時としては世界最悪の単独機事故であり、更に翌月にカナダ太平洋航空402便着陸失敗事故が立て続けに起こったことから、貧弱な羽田の着陸援助能力が問題視され、空港問題について世論が沸騰する。佐藤栄作日記:「十一時すぎまで全然様子つかめず気をもむ。乗客一二六、乗員七、計一三三、絶望と見ゆ。極力捜査した結果、零時すぎ遭難機の破片見つかり遺体亦収容。全員遭難死と思れる」2月5日:空港整備5箇年計画が閣議了解される。5年間の空港施設等の投資規模は、新国際空港が2850億円、一般空港1850億円、航空路施設250億円、地方単独事業等150億円、予備費500億円の計5600億円とされ、財源として利用者負担の強化を図りながら、強力に推進するものとされる。衆議院予算委員会で前日の全日空事故への質問が相次ぎ、中村運輸相が「羽田の飛行場が狭いために事故が起こるというようなことが心配せられるのではないかという御配慮でございますが、現時点に立ちましては、事故につながるほど羽田が狭いということではございませんが、近い将来にはやはり羽田の飛行場が狭隘に過ぎて、やがて事故等にもつながるおそれなしといたしませんので、新しい空港をすみやかに設置して、その危険をなくするという方向で進めておる次第でございます」と答弁。2月6日:佐藤栄作日記:「快晴なるも全日空事故の遺体、思ふ様にはあがらない。捜索に困難を来して居る様子。このことや明日の質問に備へて在宅勉強」 全日空羽田沖墜落事故と富里空港反対派の千葉県庁乱入事件を報じる、1966年2月7日付の毎日新聞夕刊2月7日:「富里空港設置反対抗議県民大集会」を千葉公園で開催。集会後に空港反対派1,500人のデモ隊が千葉県庁に集結し、普段であれば「空港反対」であるところ「友納やめろ」とシュプレヒコールをあげ、一部がプラカードや旗竿で玄関のガラスを破るなどして乱入。反対同盟代表との面会を求める小川国彦県議とデモ隊の退去を求める川上副知事とが押し問答をしたのち、代表20人が川上副知事に決議文を読み上げる。農民3人が逮捕される。うち1人は誤認逮捕。同日、社会党の吉田忠三郎が衆議院本会議で4日の全日空機事故に触れ、羽田空港は「予算不足のために、窮屈な、無理な空港になっている」「継ぎはぎ式に拡張したため、スポットと整備施設の地域が滑走路で分断をされている」などと日本の空港の脆弱性を訴える。これに対し佐藤首相は「時代の要請にこたえるような空港でなければならない」と答弁。2月8日:社会党の井岡大治が衆議院本会議で4日の全日空機事故に触れ、東京上空の航空管制が非常に困難になっているとしたうえで「東京周辺に第二空港を設けるべきでない」と訴え、更に遠隔地での空港建設を主張。これに対し佐藤首相は「すでに狭隘を感じております羽田のかわりに、東京の近くに第二空港を設置することは、ただいまの事情から申しまして、最も必要な緊急を要する事柄だと思います。さような意味におきまして、まだ閣議決定はいたしておりませんけれども、第二空港を東京の近くに設置する、かような方針で進んでおります」と答弁。佐藤栄作日記:「三時十分から衆議院本会議で、全日空の事故の緊急質問。本会議を終り、松尾日航社長から事情聴取。やはり小生の予想通り、専門家は操縦あやまりと云ふ」2月11日:社会党が佐藤首相に対し東京第二国際空港建設候補地として富里案撤回に関する申入れ。2月26日:自民党千葉県選出国会議員団と県議団が友納千葉県知事と協議、友納知事は「事態の推移を慎重に静観、注視する」と表明。2月28日:県議会開会冒頭、友納千葉県知事が地元無視の政府の態度に不満を示した上で、「政府に条件を提示しない。地元住民に説得もしない。事態の推移を見守る」と態度表明。3月:自民党交通部会(田邊圀男・長谷川峻・関谷勝利・江藤智・中馬辰猪)が秘密会談を行い、三里塚での空港建設の検討を始める。3月3日:閣議で、関係閣僚懇を「臨時新東京国際空港閣僚協議会」(関係閣僚協)に改組して体制を強化することを決定。関係閣僚協は大蔵・農林・運輸・労働・建設・自治の各大臣、総理府総務長官、官房長官で構成される。また、総務副長官・官房副長官・各事務次官からなる幹事会も設置される(s:臨時新東京国際空港閣僚協議会について)。3月4日:カナダ太平洋航空402便着陸失敗事故。佐藤栄作日記:「カナダ航空のDC8、香港からの帰途着陸前事故発生。羽田空港西端で炎上。乗客七十一、乗員七。大半六十は即死。生存者数名あるも、果して加療はきくか危ぶまれる。大変な濃霧で一旦引きかへす積りになったが、やゝ霧がうすれたので着陸し様(ママ)として防波堤に激突炎上したもの。全日空の事故に引つゞき一月後にこの事故。いずれも無理がたゝった模様で、民間航空としては念には念を入れる事が大事だ。全日空といゝ今度といゝ、一寸した無理が大事故を引き起こした原因だ」3月5日:社会党の野原覺が衆議院予算委員会で前日の事故に触れて「私どもの考えでは、どうしても東京の第二空港を急いでつくらなければならない、こう思うのであります。そこで、この第二空港をつくるに当たっては、与党も野党も党利党略を離れて、そして国民の各層、各界の学識者の見識に尋ねて、私どもは急いで、絶対に事故のない、構造の上からも欠点のない、立地条件からいっても問題のない、あるいは設備の点においても完成されたほんとうに飛行場としてはすばらしいものをつくらなければならぬ、これは急いでつくらなければならぬ」と述べたのに対し、佐藤首相が「第二空港設置の要、これはまことに緊切なものがございます」「第二空港、このことは日本の国家的な事業だ、かように考えておりますし、一佐藤内閣の問題ではない、国の基本的な国策として破り上げるべき問題」「これは超党派、各党の協力を得て、そしてぜひとも万全の空港を設立するように、さらに最善の努力を払っていくつもり」と応える。佐藤栄作日記:「午前十時から予算委員会の総括しめくくり質問に入る。野原覚君が大変かげんをしながら質問を終わる」3月6日:事態の打開を図るため、友納千葉県知事と若狭得治運輸事務次官が水面下での交渉を開始。英国海外航空機空中分解事故。佐藤栄作日記:「朝刊は一斉にBOACの事故を報ずる。今年に入って飛行機事故頻り。去年は国内炭鉱事故に手を焼いたが、今年は航空か。殊に昨日の事故は高空での分解事故で、衝突や接触もないのにこの惨事、誠にいたましい。航空事業は当分赤信号か。富里空港の装備(ママ)を急ぐ。又国際空港といはれる伊丹も不十分、整備を急ぐ」3月7日:佐藤栄作日記:「参院の予算委員会。第一陣は社会党佐多忠隆君。冒頭に関連質問でBOACの事故から富里空港へと発展。本質問はわずか二分なのに一時間余を費やす」3月9日:自民党内に「新空港建設推進本部」が設置され、初代本部会長に就任した綾部健太郎元運輸相が「空港問題がこのようにこじれた最大原因は政府方針が決まらなかった―ということにつきる。いまや、まちまちの意見を吐いているときではない。あいつぐ事故からも、新空港は急務である」と会見で力説。第1回関係閣僚協幹事会が開催され、新東京国際空港の建設促進に関する件と羽田・伊丹の整備強化について話し合われる。3月10日:第1回関係閣僚協が開催され、新東京国際空港の建設促進に関する件と羽田・伊丹の整備強化について話し合われる。3月11日:橋本官房長官が閣議で、富里新空港建設促進(関係閣僚協による補償策の早期決定、運輸省への推進本部設置による推進体制の整備)について発言し、承認を受ける。自民党新東京国際空港推進本部が「閣議協の決定に拘らず富里案を基本的に検討する。富里以外の候補地も検討する」と表明。3月13日:八街緒民議会が結成され、1000人が反対を決議。同日、富里をはじめとする5町村長会議が「白紙返上」声明。3月13日:社会党佐々木更三委員長が友納千葉県知事と会談し、「内陸反対」の党所信を表明。3月14日:佐藤栄作日記:「石坂、植村両氏は航空事業再編につき意見を求めらる。よって中村運輸相を次官と共に招いて速進方ハッパをかける。綾部健太郎は富里問題、赤沢正道は人事局問題、木村武雄、三池信、塚原俊郎挨拶に」3月15日:富里・八街・山武・芝山・酒々井の5町村長会議が、空港の白紙返上声明書提出を決定。3月16日:第2回関係閣僚協幹事会が開催され、新東京国際空港の建設の促進について話し合われる。3月22日:第3回関係閣僚協幹事会が開催され、新東京国際空港の建設の促進について話し合われる。3月25日:佐藤栄作日記:「富里問題で副総才(ママ)と話合ふ」4月6日:社会党が東京第二国際空港の富里地区建設に関する申入れ。現地は不測の事態の発生が予想されるほど険悪な空気に包まれており、現地調査や参考人の意見聴取により事態の解決に当たるべきとした。4月8日:日本共産党が佐藤首相に抗議文を提出し、富里新国際空港建設撤回を申し入れ。「(新空港建設は)アメリカ帝国主義と独占資本のための『国策』であって、けっして日本人民のための『国策』ではない」とした。5月4日:富里・八街等の反対派婦人代表93人が友納千葉県知事に農地死守を宣言。5月13日:川島副総裁が「運輸省のやり方では新空港はつくれない。中村(運輸相)君は政治を知らない」として、木更津沖埋め立て案を提唱。5月14日:川島副総裁が橋本官房長官に「富里案の推進を中止し、木更津案を再調査」することを申し入れ。5月16日:中華人民共和国で「中国共産党中央委員会通知」(五一六通知)が伝達される。(文化大革命開始)5月18日:富里・八街空港反対同盟が農地不買運動(一坪マンモス登記運動)を開始する。6月2日:川島副総裁が自民党政調会交通部会で木更津沖案推進を強調。同日、空港公団総裁に内定していた運輸相経験者である、宮沢胤勇が急死。6月7日:中村運輸相が「新空港問題は大詰めの段階を迎えたが、富里地区に建設されると思う」と発言。6月8日:千葉県空港調査室が「三里塚案」について検討。6月17日:自民党政調会交通部会が三里塚案を提示。中村運輸相が川島副総裁と会見、木更津案は航空管制上の難点と都心から遠距離であるため不適と報告。夕刻、川島副総裁が友納千葉県知事に経過説明。友納知事が藤倉武男成田市長に三里塚案を自民党交通部会の決定として電話で伝える。藤倉市長が同日夜に成田警察署長にこのことを伝える。6月18日:友納千葉県知事が藤倉成田市長及び小川重雄成田市議会議長と知事公舎で会談。2月26日に”政府に対しては条件を提示せず、地元住民に対しては説得の態度をとらず、事態の推移を慎重に静観する”と所信表明しあくまで”静観”の態度で公には中立的立場をとってきた友納知事は、「千葉県の将来を考えるとこの三里塚案に協力せざるを得ないのでどうか地元の市長さんとしても是非ご協力を願いたい」と、藤倉市長に対し協力を強く要請。6月21日:中村運輸相が記者会見で「新空港は富里・八街しかない」と発言。 佐藤首相と友納知事の会談を写真付きで報じる1966年6月23日付の毎日新聞6月22日:午後3時、佐藤首相と友納千葉県知事が会見(橋本官房長官・川島副総裁も同席)。佐藤首相が面積を原案の2分の1に圧縮した宮内庁下総御料牧場等の国有地がある三里塚での空港建設案を提示。佐藤首相は友納知事に「新空港は、三里塚の御料牧場と周辺の県有地を中心に、極力、民有地に係る面積を圧縮して建設したい」と協力要請し、これに対し再度十分な補償と対策を求める友納知事へ「純民間空港を作るというのは開闢以来の偉業であって、成田はすべての公共工事の前例としないで、政府の威信をかけ行う」と明言。会談後に開かれた会見で、友納知事は「富里の反対運動は、農地を取られたくない、住まいをよそに移したくない、というもので、これ以上はっきりしたものはない。だからこそ、これまでの運輸省の態度を責めたい」と述べる。佐藤栄作日記:「中村運輸相は富里空港の打合せに友納知事がくるので、その前に打合せに。友納知事と川島、橋本等と三里塚を中心にしての空港建設を相談する。今度は知事も腰をあげるか」6月23日:三里塚案が大々的に報道され、三里塚・芝山の地元住民の多くが三里塚案を初めて知る。同日、友納千葉県知事が自民党県連七役会に前日の総理要請について説明。若狭運輸事務次官が千葉県を訪ね、関係閣僚協幹事会のメンバーに副知事を加えることや県の要望を早急にまとめることを要請。佐藤栄作日記:「中村運輸相をよんで三里塚案の内容整備をはかる」6月25日:友納千葉県知事が成田市役所を訪問し、藤倉成田市長に新空港建設の協力を要請。同日、藤倉市長による住民向け説明会が三里塚小学校で開かれたが、市長は理解と協力を求めるのみで、住民からの質問に応えることが出来ず、説明会は大荒れとなる。吊し上げを食らった市役所関係者らが警察の警護を受けて脱出すると、会場に残った三里塚住民らが今後について話し合い、富里住民らの指導を受けて反対同盟結成を決める。佐藤栄作日記:「参本に出席。柳岡君から第二空港選定の経過につき緊急質問あり。丁度いい機会と思ふので、三里塚中心に空港を造るとPRする」6月27日:成田市役所で地元説明会が行われる。三里塚空港反対青年同盟の約30人が成田市役所・農協を訪れ、空港反対を陳情。第4回関係閣僚協幹事会が開催され、新東京国際空港の建設の促進について話し合われる。 三里塚住民らが決起集会を開いた、学習院初等科正堂6月28日:三里塚住民らが遠山中学校の旧学習院初等科正堂で「新国際空港反対総決起集会」を開催し、三里塚新国際空港反対同盟が3千人の参加で結成される。三里塚の農機商店を営むクリスチャンの戸村一作を代表、木の根の小川明治と天神峰の石橋政次を副委員長とする。6月28日:認証官となった官房長官の認証式の為に参内した佐藤首相が下総御料牧場の栃木移転を昭和天皇に内奏。同日、川上紀一千葉県副知事と若狭運輸事務次官が新空港設置計画前の最終会談を行い、伝統ある古村の取香・駒井野及び戸数が多い三里塚市街地が建設地から外される。佐藤栄作日記:「三時から橋本君の認証式。内奏は単簡だが三里塚空港、国会(臨時国会)、台風等、御下問も多いので約一時間」6月29日:運輸省が三里塚での新空港設置計画を発表。千葉県との調整の結果として、空港建設予定地からは古村が外され、開拓村ばかりが対象となる。千葉県議会において、友納知事が政府が補償対策に誠意を尽くすことを条件に「三里塚案」の受け入れを表明。友納知事に対し、三里塚空港反対同盟80人が空港絶対反対の抗議文を手渡す。友納千葉県知事が定例県会議で「私は国家的要請とはいえ愛着の深い土地の提供を求められる地元住民の方々の団長の悲しみを思うとき、情において忍び難いものがあるが、国の最高責任者である総理が最終決断を下したものであり、政府が住民の補償対象に誠意をかたむけて万全を期するならば、この成田空港案は了承せざるをえないものと考える」と述べる。6月30日:芝山町農協主催で反対集会「三里塚空港設置粉砕全組合員大会」が開かれ、芝山町空港反対同盟が結成される。シベリア抑留経験者で社会党との係わりが深く、森林組合の理事や農協役員を歴任している用地内農家の瀬利誠を委員長、内田寛一を副委員長とする。6月30日:千葉県庁内の県民ホールで運輸省による公式の新空港説明会が開催される。運輸省からは若狭事務次官・手塚参事官ら、県側から友納知事・川上副知事、県会議員ら、地元市町からは成田市の藤倉市長・小関貢新空港特別委員長、芝山町の寺内元助芝山町長、この他に市議・町議、農協代表、関係区長ら100人が出席。若狭事務次官は質疑の中で三里塚空港について「首相が裁決を下し、各省庁もすでに建設に向かっているので、三里塚の変更は全くあり得ない」と回答。同日、三里塚空港反対同盟が藤倉市長に空港反対での善処を申し入れ。芝山町農協主催の「三里塚空港設置粉砕全組合員大会」が開催され、大会後に50人の抗議団が川上副知事に抗議。7月1日:芝山町議会議長が友納千葉県知事に絶対反対の陳情書を提出。同日、成田市農協が「成田市農協空港反対期成同盟」を結成。佐藤栄作日記:「成田努君をよんで空港公団を引きうけて貰ふ」7月2日:政府と千葉県が補償対策について合意し友納千葉県知事が正式に三里塚案を了承。芝山町反対期成同盟90人と成田市農協組合員180人が川上副知事に対し反対陳情。7月4日:佐藤栄作内閣が、新東京国際空港の建設予定地を千葉県成田市三里塚地区の宮内庁下総御料牧場付近に閣議決定。この日の閣議では、(1)新東京国際空港の位置を定める政令(2)新東京国際空港公団法の施行期日を定める政令(3)s:新東京国際空港の位置及び規模について(4)s:新東京国際空港の位置決定に伴う施策について が決定される。開港目標は1971年4月とされ、「新東京国際空港の位置決定に伴う施策」では地元住民対策、道路・鉄道の整備計画などの政府の方針が打ち出される。地元住民対策を県の要望によって細かく閣議決定するのは極めて異例。佐藤栄作日記:「鎌倉から一時間で帰京し、閣議に出席。日米経済会議の為、繰上げ閣議。これと云ふ問題はないが、過日第二空港の目はなもついて来たので、閣議決定と本格的に最終決定。然し米価は仲々難航。もちろん午前中ではきまらぬ。漸く三役一任をとりつけたが党との調整はあまり楽ではない様だ」7月4日:戸別訪問を行って市議らに反対決議案への署名を迫った住民ら1000人以上が庁舎を取り囲む中、成田市議会が「三里塚空港建設反対決議」を可決。これに反発した自民党県議らが与野党協議で議会最終日に提出することになっていた「三里塚空港建設促進決議」を千葉県議会で採決を強行して同日夜に可決させる。市議会内部でも「反対派の圧力に屈した決議はおかしい」との声が上がる。第2回関係閣僚協が開催され、新東京国際空港について話し合われる。7月5日:「新東京国際空港の位置を定める政令」公布(政令第240号)。7月6日:千葉県が佐倉市の印旛支庁内に「国際空港相談所」を設置(13日に成田市の県農業改良普及事務所に移転して業務開始)。成田土地改良事務所が増築され、「航空局成田分室」が設置される。同日、「新東京国際空港公団法の施行期日を定める政令」(政令第243号)公布。民主社会党が三里塚新空港建設反対に関する申し入れ。7月7日:新東京国際空港公団法施行。現地説明会開始のため、第一陣となる運輸省の係官7人(黒澤明の映画になぞらえ、「七人の侍」と呼ばれる)が成田に到着する。中央官庁による地元説明は日本初。7月9日:運輸省による初の住民向け説明会が大栄中学校の講堂で行われる。500人が集まり、運輸省の係官が空港の必要性・規模・買収方法・騒音・代替地・離職者対策等の説明を行うが、説明後に前列に陣取った反対派農民らに「やろう、ぶっ殺せ」等とやじと罵声を浴びる。対象区域への説明会は年内いっぱい続けられたが、農協を中心として町ぐるみで反対運動を行う芝山町では実施できなかった。7月10日:三里塚公園で三里塚空港反対同盟及び芝山町空港反対同盟が主催する「新空港閣議決定粉砕総決起大会」が行われ、4000人(又は3000人)が集結する。三里塚地区と芝山町の反対派農民・住民が連合し、三里塚芝山連合空港反対同盟を事実上結成。三里塚の戸村一作が代表に就任。芝山反対同盟で委員長だった瀬利誠は副委員長に就任、副委員長であった内田寛一は軍隊での経験を買われて行動隊長に就任。事務局長に北原鉱治が充てられる。集会には「絶対反対」の鉢巻きを巻いた寺内芝山町長も参加し、参加者らから盛んな拍手を浴びる。用地内の民家325戸が加入(成田:298戸、芝山:27戸)。空港予定地周辺でデモが行われる。7月14日:佐藤栄作日記:「川島君やって来る。成田空港につき理事に一人町長を推薦。どんなものか」7月20日:芝山町議会が「成田空港建設に強く反対する決議」を可決。7月21日:三里塚空港反対同盟青年行動隊・芝山町空港反対同盟青年部員・戸村反対同盟代表が、態度表明を保留する藤倉成田市長に抗議。7月27日:県との間で折衝が続けていた地元要望を呑む意向を友納千葉県知事が示したこと等から、成田市空港対策委員会で自民党市議団が反対決議の撤回を強行採決。7月28日:千葉県農業開発公社が富里村の空港賛成地主と第一回の買収交渉を行う。友納千葉県知事が県議会で空港建設への積極的協力を表明。佐藤栄作日記:「尚、中村運輸相から、空港公団の人事の相談をうける」7月29日:佐藤栄作日記:「閣議。空港公団の政令制定。然し人事は未決定。川島推薦の理事候補を了承せず未定明日へ持ち越す」「夜、私宅に成田努、又引続き中村運輸相来り、空港公団人事を小生に訴へる。明日、川島と話合ふ事とする」7月30日:新東京国際空港公団 (NAA) 設立。初代総裁に元愛知用水公団総裁の成田努が就任。副総裁は元海上保安庁長官の今井栄文。佐藤栄作日記:「九時すぎ、川島君に電話して空港公団人事を決定し、登記をすます。即ち問題の理事一人を空席としてその他を決定。その旨成田総才、中村運輸相に連絡する」8月2日:成田市議会が、7月4日の「建設反対決議」を白紙撤回。旧遠山地区選出議員6人は欠席。この際、藤倉成田市長は「市民の皆様方の立場を考えて将来不幸のないよう努力することこそが私に与えられた任務であります。いわば私の立場は市民の皆様方と国や県の間に立ってパイプ役を務めるのがただ今の私の立場であります」と表明。鎌などを持った反対同盟員約40人が議場への進入を図り、ヘルメットを装着した機動隊が出動して排除。成田警察署長に対し千葉県警本部長から「機動隊にヘルメットをかぶせての市役所内への出動は相手を刺激するのでケシカラン」との苦情の電話が入る。8月5日:そごうの9階で開かれた説明会で、空港公団が70万円から110万円の間で道路からの位置に応じて買取価格を決める「路線方式」を打ち出す。富里では自民党の山村新治郎らが「反当り一律100万円」と住民を説得していたといい、それを知る三里塚・芝山の住民からは賛同を得られず。8月15日:移転補償金の預金勧誘に来た銀行員らが木の根地区でつるし上げられる。警察は強要罪容疑で2人を検挙。8月17日:現地視察に訪れた自民党県連空港対策委員会の井上裕・浜田幸一ら一行が、古込地区で反対同盟約150人に阻まれる。成田警察署の警告により進路が開けられ、一行は予定を一部変更して帰る。8月18日:空港公団が下総御料牧場の調査を開始。8月24日:条件賛成派(条件が折り合えば移転を了承する地権者)が北部林業事務所で会合を開いたところ、反対同盟員約300人が押し掛け、条件賛成派を引きずり出してつるし上げる。さらに駆け付けた空港相談所長のワイシャツを破き、報道関係者の車両のタイヤの空気を抜くなどする。当初警察は集団による暴力事件として断固検挙の方向で動いていたが、農民の心情を考慮し、戸村代表への厳重警告にとどめる。敷地内の一部住民に対し、空港相談所長が1町歩につき1町5反を補償するなどと語る。8月25日:前日の騒動で後戻りができなくなった条件賛成派が初めての条件賛成派組織である「成田空港対策部落協議会」(部落協)を結成、戦後開拓の兼業農家など131人が参加。代替地の配分権を有する千葉県はこれを歓迎し、部落協に希望する代替地を優先配分する。部落協の会長には成田市議の岩沢正春が就く。8月26日:第3回関係閣僚協が開催され、新東京国際空港について話し合われる。幹事会に用地価格の基準について早急に検討するよう指示。佐藤栄作日記:「荒船運輸相に空港の事で各省連絡会議開催の要ある事を注意し、閣議後関係閣僚集る事とする」8月27日:反対同盟が「一坪共有化運動」を開始。8月29日:反対同盟が天神峰の2ヶ所を共有登記する。第5回関係閣僚協幹事会が開催され、新東京国際空港建設の早急なる推進措置について話し合われる。8月31日:三里塚空港反対同盟・芝山空港反対同盟800人が、閣議決定の撤回を求めて社会党の小川国彦県議・実川清之衆院議員並びに運輸省及び宮内庁に抗議・陳情行動を行う。成田警察署では事前に宮内庁訪問の情報を把握しておらず、宮内庁は予期せぬ陳情に動揺。9月2日:反対同盟が天神峰の一坪共有地に共有者の名前が書かれたクイを打ち込む。共有者には小川国彦・上野建一県議ら社会党議員も含まれる。9月3日:三里塚・芝山・大栄・多古の青年ら23人が友納千葉県知事への面会を求めるが叶わずに退去命令を出され、抗議文を読み上げて退去。9月12日:第6回関係閣僚協幹事会で新東京国際空港建設の早急なる推進措置について話し合われ、幹事会が報告した補償価格の目途を了承(畑10反当り:60万円から110万円)。関連公共事業の地元負担・税金軽減措置について引き続き幹事会で検討することを決定。8月の部落協結成に対しては反対同盟員らは「見たこともない大金の札束を想像して脱落したのだ」と嘲笑っていたが、相場の4倍にもなる具体的な価格が出されたことにより反対同盟に深刻な分裂が生じ、この後新たな条件賛成派組織が各地で次々と誕生する。一方、7月閣議決定の際には佐藤首相が友納千葉県知事に100万円を確約したとされ、部落協は更なる上積みを求めて交渉を継続する。9月10日:条件賛成派51人によって「成田市十余三地区騒音対策協議会」が発足。9月12日:第4回関係閣僚協が開催され、新東京国際空港建設の早急なる推進措置について話し合われる。9月19日:条件賛成派24人によって「古込地区条件闘争連盟」が発足。9月28日:反対同盟が10月2日の総決起大会への参加を呼び掛けるビラを配布。ビラには「もし、この空港設置を許せば 周辺市町村は、騒音になやまされ、新しい道路や鉄道計画のため土地をとり上げられ、町並みも変わってしまい、資本のある大商人だけが進出し、二分に一機の割合でとび立つ大型ジェット機のため、横田や伊丹と同じように、夜もオチゝねていることもできず、子供の進学や乳児の発育にも影響の出るような町と化すでありましょう。そして現在の羽田のように、ベトナムの兵員輸送や軍需物資の輸送にも使われ「平和都市宣言」までした成田は、「基地の町」と変るでしょう。」との主張が掲載される。9月30日:空港公団が、地元住民に対する第1回説明会を開催。土地買収価格が提示される(反当り:畑100万円、田110万円、山林原野85万円、宅地150万円)。しかし、同時に進められていた成田市街地付近での国道51号線拡幅工事での買収価格に比べて低いことから、条件賛成派組織との価格交渉が難航する。10月:社学同・社青同解放派・マル学同中核派が、全学連再建準備回結成大会を開催。10月2日:三里塚・芝山の農民を中心とした4000人が、雨の中、成田市営グラウンドで「三里塚新国際空港撤回・公団撃退総決起大会」を開く。社会党の代議士(淡谷悠蔵・加瀬完・小川国彦)や共産党幹部の袴田里見が出席。10月14日:条件賛成派20人によって「成田国際空港桜台対策協議会」が発足。10月18日:第7回関係閣僚協幹事会が開催され、新東京国際空港建設の早急なる推進措置について話し合われる。10月19日:空港相談所が住民調査票を配布。反対派幹部がこれを集めて焼却。11月4日:用地内農家への預金勧誘に来た銀行員への暴行のかどで、反対同盟員2人が逮捕される。11月5日:「古込地区条件闘争連盟」に天浪・木の根地区の住民が合流した条件賛成派72人によって、「成田国際空港条件闘争連盟」が発足。同日、駒井野部落総会が「空港絶対反対決議の白紙還元」を決議。反対派が押し掛けて条件賛成派の1人を暴行し、2人(1人とも)が検挙される。11月7日:宮内庁が新御料牧場候補地に栃木県高根沢地区を要望。11月12日:共産主義労働者党結成。11月18日:藤倉市長以下、成田市の議員らが佐藤首相と会見し、地元要望を伝える。佐藤首相は「要望は最大限受け入れる。空港は佐藤がつくる」と勢威を示すが、空対委副委員長の小川源之助が進言した空港担当大臣をつくる案を一笑に付す。11月19日:佐藤栄作日記:「官邸で成田市長、富里、八街町長等と会って国策への協力を頼む」11月27日:江口榛一宅で戸村反対同盟代表と友納千葉県知事が会談。11月29日:社会党の佐々木委員長が現地入りし、反対同盟員らに対し「共有地運動を徹底的に進め、絶対に空港建設を阻止しよう」と佐藤政権への批判と絡めて激励。黒い霧事件で自民党との対決姿勢を強める社会党が、地元議員だけでなく党を挙げて反対運動を展開する姿勢を明確にする。12月1日:条件賛成派によって「駒井野空港対策協議会」が発足。12月3日:大橋武夫運輸相が就任。12月5日:部落協に「成田国際空港桜台対策協議会」が合流。12月12日:大橋運輸相が、空港公団に「平行滑走路2本、横風用滑走路1本」の基本計画を空港公団に指示。開港目標を1971年春として、1970年度末までの工事完了、1973年度末までの完全空港化を定めた。滑走路の位置が示されたことで、反対同盟がその予定地への団結小屋を作りに乗り出す。12月13日:空港公団が、工事実施計画の認可を申請。12月16日:反対同盟が、天神峰にある石橋政次副委員長の所有地に最初の団結小屋を建設(天神峰現地闘争本部)。以後、駒井野、天浪、東峰、木の根などに逐次建設。12月17日:三派全学連再建大会。12月19日:空港公団の用地部と建設事務所が新庁舎での業務を開始。「七人の侍」は空港公団の重要ポストに就く。12月27日:芝山町議会が、「富里案」時代の「空港設置反対決議」の白紙撤回を決議。反対同盟員約500人(300人とも)が傍聴し異議申し立てをしたが、機動隊が排除。 ===1967年=== 1月3日:反対同盟(芝山町丸朝園芸組合)が、800人の同盟員と280台の自動車を動員して「成田空港反対自動車パレード」を1市3町で実施。1月4日:反対同盟が天神峰現地闘争本部で戦術協議、京成成田駅前で成田山新勝寺への初詣客らに一坪共有地運動への共有と資金カンパを呼びかけ。1月10日:航空法に基づき新空港工事実施認可の公聴会が千葉県庁で開かれる。会場は警察や職員らによる物々しい警備が行われ、傍聴券は先着順で150枚しか用意されておらず、反対同盟員360人には配られず。反対同盟員らは場外のスピーカーから傍聴を行う。事前に口述書を提出した者の中から運輸省が選んだ36人による口述が行われ、芝山の農民が「血のにじむ思いで開拓してきた北総台地に代わる土地はない」と涙ながらに述べ、戸村代表が「農民から土地を奪うのは神を冒涜するものだ」と訴える。公述人の約半数は条件賛成派であり、「誠意がなければ土地を絶対に売らない」等との声も聞かれる。伍堂輝雄日本航空副社長が「新空港を造らないと日本は世界の田舎となる」と主張し、無条件賛成の立場を示す。空港建設で公聴会が行われるのは、伊丹空港拡張時に次いで戦後2例目。1月19日:反対同盟が天神峰団結小屋等を共有登記。1月20日:空港公団と条件賛成派(部落協)の懇談会が初めて開かれ、補償の条件等についての意見交換を行う。1月21日:反対同盟が、前年12月27日の反対決議撤回に賛成した芝山町議員16人に対するリコール署名簿を提出。全有権者(約5800人)の3分の1を上回る3000余の署名が集められ、リコール成立が確実視されたが、引き伸ばし工作により町議員の任期切れまで出直し選挙が行われなかった。1月23日:大橋運輸相が「新東京国際空港工事実施計画の認可申請」に対し認可。遠山中学校で第31回衆議院議員総選挙の立会演説会が開かれ、反対派のヤジなどにより混乱する。1月29日:第31回衆議院議員総選挙で自民党が安定多数を維持し、佐藤政権が黒い霧解散を乗り切る。2月3日:施設配置のマスタープラン策定のため、有識者による空港公団総裁の諮問機関「空港計画委員会」が設立される。2月8日:芝山町で「リコール署名撤回」を呼びかけていた自民党県連の宣伝カーが一時反対同盟約100人に取り囲まれる。2月15日:反対同盟が御料牧場での測量を阻止、根木名地区代替地においても戸村反対同盟代表ら100人が県農業開発公社による測量を阻止。2月19日:安保破棄実行委員会が、富里の闘争小屋を移築し、4000メートル滑走路予定地北端に駒井野団結小屋を建設。2月24日:今井空港公団副総裁が「公団は今年中に13%の用地買収をしたい」と語り、反対派を刺激する。反対同盟約800人が、千葉県の畑地灌漑試験場調査団を吊るし上げる。3月1日:4000メートル滑走路予定地中心に天浪団結小屋(共産党議員岩間正男名義)が建てられる。3月6日:条件交渉で先行する部落協に対抗するため、成田農協の呼びかけにより、古村を中心にした条件賛成派(成田空港条件闘争連盟・駒井野空港対策協議会・十余三地区騒音対策協議会・個人)ら120人が「成田空港対策地権者会」(地権者会、会長は農協組合長の神崎武夫)に組織を一本化。100人以上が参加する地権者会の用地内所有面積は部落協のそれを上回るだけでなく、用地外に農地を所有する農民が多いことから、余裕をもって交渉ができる強力な組織となることを期待される。3月7日:宮内庁が御料牧場の移転先を栃木県塩谷郡高根沢町に決定。3月13日:友納千葉県知事、大橋武夫運輸相に地元対策への協力要請。騒音対策など9項目を申し入れ。3月18日:富里村議会が、66年11月25日の「空港反対決議」を白紙撤回。これにより、行政単位の反対は皆無となる。3月19日:東関東自動車道建設のための測量をしていたアジア航空測量の測量員が無断立入であるとして反対派に一時連行される。同社課長が謝罪し、警察の注意を受ける。3月22日:ゴルフ場で補償調査をしていた空港公団職員らが反対派に包囲される。脱出を図った公団職員が運転する自動車に接触した反対同盟員が打撲などのけが。警察は一般の交通事故として扱う。3月27日:第8回関係閣僚協幹事会が開催される。空港問題の現況・騒音対策・関連公共事業の進捗状況が報告され、関連公共事業の今後の進め方と地元負担の措置・代替地についての税理上の問題等が検討される。3月29日:反対同盟約1000人が空港周辺道路起点測量会社の職員を同盟本部に連行。4月:産学共同の民間研究団体である航空政策研究会が、空港計画について、(1)敷地が狭く、特に、今後飛躍的に発展するであろう貨物をさばく能力がないこと(2)滑走路が三本しかないこと(3)東京‐空港間の適切なアクセスがないこと 等を理由に、「このままでは新空港完成数年で、東京第三空港が必要となろう」と指摘。4月14日:空港公団が新御料牧場用地買収価格について栃木県等と打ち合わせ開始。4月15日:1967年東京都知事選挙で美濃部亮吉が当選し、東京都が革新自治体となる。都知事に就任した美濃部は東京都におけるインフラ事業を次々と凍結し、羽田空港の拡張や成田新幹線の敷設にも影響を及ぼすこととなる。4月22日:反対同盟が、新東京国際空港工事実施計画認可処分取消請求の訴訟を提起。4月26日:空港公団が、千葉県知事に「事業準備のための立ち入り」を通知。4月27日:第9回関係閣僚協幹事会が開催される。空港問題の現況・騒音対策・関連公共事業の進捗状況が報告され、関連公共事業の今後の進め方と地元負担の措置・代替地についての税理上の問題等が検討される。4月28日:戸村代表が成田市会議員選挙に出馬し、4位当選。第5回関係閣僚協が開催される。現地情勢と事業進捗状況・関連公共事業の進捗状況が報告され、関連公共事業の今後の進め方が検討される。5月4日:空港公団が友納千葉県知事に5月20日からの立入測量の実施を通告。5月5日:地権者会に空港公団が代替地について回答。配分された土地が部落協のものより条件が悪いため、地権者会は部落協への配分を白紙に戻したうえでの再配分を主張。5月10日:友納千葉県知事が佐藤首相に地元対策への協力要請。5月11日:友納千葉県知事が、現地測量のための立ち入りに関する空港公団と条件賛成派団体の話し合いをあっせん。5月14日:成田空港公団総裁・今井副総裁が藤倉成田市長を表敬訪問し、立入測量への協力を要請。5月30日:芝山町選挙管理委員長及び委員3人が辞任、リコール審査が頓挫。6月2日:今井空港公団副総裁が成田市議会議員27人と会談し、空港建設についての協力を要請。6月19日:条件賛成派との懸案事項解消のため、川上千葉県副知事らがこの日から成田土地改良事務所(旧航空局成田分室)に滞在。この間に大清水の牧場が用地の提供を申し出たことにより地権者会の移転先の一部が確保されたことから、代替地配分の交渉がまとまる。6月21日:戸村反対同盟委員長ら約20人が、県成田土地改良事務所に常駐して地元折衝を行っている川上副知事に帰庁するよう抗議。6月26日:条件賛成派2団体との会談のために大橋運輸相が成田訪問。成田空港問題が発生して以降初の政府関係者の現地入りであり、京成成田駅では入場券の販売を停止するなどの対策がとられたが、反対同盟や応援労働組合員らが宗吾参道駅から電車で京成成田駅ホームに進入してピケを張り、駅前でも社会党議員らがアジ演説をするなどして約800人による抗議行動が展開される。大橋運輸相の一行は駅に到着するなりデモ隊に取り囲まれたが、デモ隊に顔を知られていなかったために機動隊とデモ隊のもみ合いから抜け出すことができた。大橋運輸相は出迎えた友納千葉県知事らとともに駅長室に一時缶詰め状態となる。機動隊が駅前のデモ隊を排除している隙に大橋運輸相と友納知事は正面玄関のピケをかわして裏口から成田市役所に入り、部落協と地権者会のそれぞれと移転条件や立入測量の実施などについて会談する。席上、大橋運輸相が騒音区域内農地を空港敷地内同一条件で買収することを明らかにする。7月1日:高根沢町・芳賀町の代替御料牧場用地の買収交渉が解決。7月2日:朝日新聞の工作により、友納千葉県知事が戸村代表と会談。両者の対談は県民には驚きをもって受け止められるが、話し合い自体は物別れに終わる。7月10日:多古町一鍬田新東京空港対策委員会が発足。7月21日:閣議決定により、関係閣僚協の構成員に厚生大臣・通産大臣・国家公安委員会委員長・首都圏整備委員会委員長・経済企画庁長官・新東京国際空港建設担当大臣が加えられ、関係閣僚協幹事会の構成員に警察庁長官・首都圏整備委員会事務局長・経済企画事務次官・厚生事務次官・通産事務次官が加えられ、東京国際空港建設担当大臣(実際には運輸大臣)を本部長とする「新東京国際空港建設実施本部」が設置される。7月25日:「新東京国際空港建設実施本部小委員会」が設置される。8月1日:公共用飛行場周辺における航空機騒音による障害の防止等に関する法律(騒防法)が公布される。空港公団が宮内庁と新御料牧場建設について覚書を締結。8月5日:反対派農家の子どもたち40人による「少年行動隊」が結成される。8月7日:社会党県本部上役会が空港反対運動について協議し、現地闘争本部に県議らを常駐させることを決定。8月8日:米軍燃料輸送列車事故が発生。後に動労千葉が暫定輸送阻止闘争を行う際の根拠となる。8月11日:友納千葉県知事が「条件賛成派から立入測量の承諾を得た」と発表。8月12日:社会党が「空港反対現地闘争本部」を設置、更に空港反対現地闘争委員長の設置を決定。8月14日:条件賛成派が外郭測量に同意。8月15日:空港反対同盟と三里塚国際空港反対千葉県共闘会議(社会党・共産党らの革新政党の共闘組織)が「三里塚空港粉砕・強制測量実力阻止8.15平和集会」を千葉市内で共催し、約1000人が参加。反対派農民ら約300人が千葉県庁に座りこみ、少年行動隊隊長である北原鉱治の四男が知事あての抗議文を副知事らに読み上げる。初めての少年行動隊による反対運動参加であり、思考力に乏しい子供たちを反対運動に巻き込むことへの問題視等から県教育委員会が市町の教育委員会を通じて反対同盟に少年行動隊解散を要請したが、拒否される。この集会には労働組合や社共の国会議員ら1000人が集まり、参加者らは機動隊の排除を受けながらも座り込みを継続。8月15日:砂川町基地拡張反対同盟の宮岡政雄の紹介により、戸村代表と三派全学連の秋山勝行代表との会談が行われる。8月16日:反対同盟が「あらゆる民主勢力との共闘」を確認(三派全学連の支援受け入れ)。新左翼諸党派の支援が開始される。8月19日:戸村反対同盟代表ら20人が小川国彦県議・木原実衆院議員の案内で運輸省を訪問。これに対し大橋運輸相は反対派が実力阻止を図るならこれを排除するより方法がないと回答し、物別れに終わる。8月21日:友納千葉県知事が土地収用法に基づく空港公団の事業準備のための土地立入測量通知を公告。反対同盟は緊急役員会を開き測量阻止の方法について協議。同日、婦人行動隊が結成される。8月23日:反対同盟が戸村代表に「できるだけ援助する」と連絡。3人の学生が連絡員として地元に泊まり込む。友納千葉県知事の私邸前で県共闘会議の代表ら60人が抗議行動。8月24日:社会党本部が「政府と空港反対派との話し合い」を提唱し、社共両党の主導権争いが表面化。一方、社会党県連は強硬姿勢を崩さず、県・公団が社会党に公団総裁との会談を申し入れたが、共闘会議が「社会党の姿勢に疑念を持たせかねない」としてこれを拒否。同日、旅客ターミナルビル予定地に木の根団結小屋が立てられる。8月25日:共産党が古込地区の党員宅敷地に空港反対現地闘争本部を設置。8月27日:十余三地区で、「三里塚空港建設阻止大集会」が開かれ、日本労働組合総評議会・千葉県労働組合連合会など60団体600人が参加。反対同盟は外角測量に備え、内田寛一を長とする反対同盟連合行動隊を編成。8月30日:空港公団が三里塚地区の航空写真測量を開始。8月31日:反対同盟約300人が、運輸省・宮内省に集団陳情。9月1日:反対派の抗議行動等により、大橋運輸相が8月中に実施予定だった測量の延期を発表。同日、三派全学連の秋山勝行委員長(中核派)が反対同盟の金曜集会で「ここに来るのが非常に遅かったと思っています。三里塚の闘う人々の決意を聞き、事態の緊迫を知って、全学連も全力で戦わなければならないと決意しています」と挨拶し反対同盟との共闘を約束(三派全学連の支援申し入れ)。9月:台風が接近し反対同盟の警戒が手薄になった隙をついて、空港公団が「基準杭」設置のための「基本杭」を打ち込み、外郭測量が開始される。9月11日:木の根地区(小川反対同盟副委員長宅)で婦人行動隊と忍草母の会が交流(三里塚空港粉砕・強制測量阻止9・11婦人のつどい)。9月15日:県共闘会議が「三里塚新空港粉砕、強制測量阻止九・一五総決起集会」を開催。敬老の日と合わせて60歳以上の反対同盟員男女からなる「老人行動隊」が結成され、菅沢一利隊長が「空港建設阻止は子孫のための義務。余生のすべてを反対運動にささげたい」と述べる。メンバーには皇室を啓愛する者が多く、「老い先短いのだから、ブルトーザーの下敷きになっても構わない」と機動隊などに対しても戦闘的であった。集会には三派全学連の学生ら35人も参加し、これに反対する共産党が「全学連の参加を認めるな」「学生帰れ」などとするアジビラを撒き、全学連受け入れを会議で決定した反対同盟幹部の反発を買う。9月18日:反対派が「実戦」を想定し、部隊配置や検問などの訓練を実施。9月25日:老人行動隊が芝山町で総決起集会を開催。10月:空港公団が前年9月30日に提示した条件から宅地以外の買取価格を5万円ずつ値上げして再提示するが、条件賛成派との価格交渉が決裂。その後、千葉県から優遇を受けていた部落協は友納千葉県知事と交渉し、逆に千葉県から冷遇されていた地権者会は当月就任した今井空港公団総裁と直接交渉を開始する。10月1日:安保破棄実行委員会が東峰団結小屋を建設。空港公団総裁の成田努が、辞表提出。成田は身内の経営する不動産会社への融資を空港公団債の引受幹事銀行である日本長期信用銀行に申し込んだことが公私混同として取り上げられており、佐藤首相は「而して懸案が一つ解決」と綴る。10月2日:成田空港公団総裁が辞職。空港公団にとって重要な時期での交代であり、事実上の更迭。辞表では「空港建設が進まないため」としていたが、実際には上述のスキャンダルが理由といわれる。10月3日:副総裁であった今井栄文が総裁に昇格する。副総裁の後任には翌月4日に小見川町長から空港公団理事に就任していた山本力蔵が昇格する。10月4日:社会党・共産党の支援を受け、約800人がたいまつ行進。共産党の林百郎中央委員が「共産党は最後まで闘う」と挨拶。10月5日:未明から、反対同盟・オルグら1500人が天神峰・大清水で測量阻止の合同演習を実施。午前7時過ぎから反対派約200人が空港公団成田分室に押しかけて座り込み。一部が宿直員の静止を振り切って乱入し、室内の什器・図面等を破壊。岩山地区で反対派が町道に有刺鉄線などの障害物を設置(警察の警告により撤去)。空港計画委員会が中間報告として「新東京国際空港計画基本方針」を空港公団総裁に答申。計画目標として、最終的には年間国際旅客1600万人、荷物120万トンを目標とするが、第一期公示では昭和51年度の予測を旅客540万人、荷物40万トンと見込み建設を行う、とする。10月6日:社会党の小川三男・淡谷悠蔵に率いられた老人行動隊・婦人行動隊の50人が貸し切りバスで上京。運輸省に押しかけて大橋運輸相との面会を求め団扇太鼓を鳴らすなどして抗議し、会議を抜け出して顔を見せた大橋大臣に対し、「政府は金で反対の地元市議会を買収した。なぜ成田を空港建設地に選んだか」と詰め寄る。大橋大臣は「地元議会を買収した事実はない」と答えるが、「バカヤロウ」「大臣やめろ」などと罵声を浴びせられる。10月8日:第一次羽田事件が発生し、新左翼党派による実力闘争が本格化する。事件には青年行動隊数人が参加しており、学生による実力闘争の様子が反対同盟に伝えられる。10月9日:南米の革命家チェ・ゲバラがボリビアで射殺される。10月10日:空港公団が天神峰・十余三・駒井野の3か所で外郭測量のための基準杭の設置を早朝から開始。機動隊が現地投入される。約2000人の機動隊に反対同盟農民ら約1200人が座り込みなどで対抗し、三里塚現地で最初の実力闘争となる。逮捕者2人、負傷者数十人、重傷1人。日本共産党の支援部隊は、衝突の最中に座り込みを解除して合唱を始めるとともに、農民に実力行使の中止を求める。これに対し農民は反発し、反対同盟農民が共産党と訣別するとともに反代々木系学生と提携して反対運動が過激化する直接の原因となる。機動隊の実力行使により農民らは排除され、1時間程度で空港公団が予定していた3本の杭が打たれる(測量クイ打ち阻止闘争)。その夜、反対同盟の一行が成田警察署に押し寄せて逮捕者の釈放や謝罪を求め抗議。当日未明に記者会見で「外角測量は空港建設の第一歩としてどうしても必要なものだ。これでいよいよ建設に着手することになったが、これによって流血の惨事が起こらないよう願っている」と述べた友納千葉県知事は、後日、小川国彦県議に「私が西郷隆盛、あなたが勝海舟になって、(江戸開城のように)この闘争を平和裏におさめることはできませんかね」と呼びかけるが、小川は「大変難しいですね」とだけ答え、物別れに終わる。佐藤栄作日記:「出発の際の羽田事件は各紙筆を揃えて学生の行きすぎを非難し、社会党の声明もこの学生を応援しただけに、これ亦大変マイナス。今の処幸運にめぐまれたかたち。三里塚空港の実測も、羽田事件が我が方有利に働き、第一次を無事に終了」10月12日:白昼、小型トラック十数台に分乗した反対同盟員約80人が10日に空港公団が打った測量杭のうち2本をハンマーで破壊して持ち去る。その際に警備員や空港公団用地課長らが暴行されたうえ、警備員は芋袋に入れられて芝山千代田農協まで拉致されたうえ「公団の仕事はやめるから命だけは助けてください」と命乞いを強いられる。現場を通りかかりカメラで撮影した一般女性らがフィルムを取り上げられる。杭への襲撃は深夜に行われると警戒していた空港公団と警備当局は裏をかかれた格好。県警本部長は「チャチなクイを打つのに大部隊を動員したのではない」と激昂し、14日に芝山町青年行動隊員2人が逮捕される。残りの杭1本は駆けつけた機動隊によって守られた。10月16日:空港公団が再び杭打ちを行い、杭は1トンのセメントで固められる。反対同盟員ら約400人による抗議が行われ、成田警察署の巡査と接触した反対同盟の女性が痛みを訴えて成田赤十字病院に入院。女性は特別公務員暴行陵虐罪で同巡査を千葉地方検察庁に告訴するが、診察の結果女性の持病によるものと判明し、翌年不起訴処分となる。成田警察署長は逆に誣告罪での女性の告訴を主張するが、実施されず。10月17日:千葉中央署に小川三男・柳岡秋夫ら社共の国会議員・県会議員らを筆頭に戸村代表以下反対同盟が押しかけ、12日の暴力行為等で逮捕された2人の逮捕について抗議。警察隊員と揉み合いになり代表者10人と署長らが面会するが、物別れに終わる。10月21日:芝山町の条件賛成派7団体が「芝山町空港対策連絡会議地権者会」を結成。10月23日:空港公団が条件賛成派団体の成田空港部落対策協議会(部落協)・成田空港対策地権者会(地権者会)に条件提示(10アール当り:宅地150万円、田120万円、畑110万円、山林原野90万円)。11月3日:三派全学連の150人が初めて現地入りして三里塚第2公園で開かれた県反戦青年委員会などが主催する集会に参加した後、空港予定地までデモ行進を行う。これをもって新左翼の介入が始まる。これに対して共産党が「トロツキストを入れるな」等とビラを撒くとともに新左翼との共闘を始めた反対同盟への批判を始める。11月10日:三里塚空港反対青年同盟が、新左翼との共闘を妨害する共産党県委員会に対する抗議声明。11月15日:空港公団が計16本のくい打ちを行い、外郭測量の完了を発表。11月16日:早朝、大橋運輸相が現地視察。戸村委員長らと会見し、協力を要請。11月24日:反対同盟・青年同盟が、国鉄動力車労働組合千葉青年部・三派全学連の代表らとともに確認した基本的原則と闘争の姿勢について声明。支援団体と確認したのは、(1)労働者・学生が強い共闘の決意を持つ (2)ベトナム戦争と対峙するベトナム人民・アメリカ人民と連帯して闘争を展開する (3)如何なる行動においても現地反対同盟の同意のもとに共闘体制を整えることを約束する の3点。11月25日:中曽根康弘が運輸相就任。11月29日:空港公団が地権者10人と初の用地買収契約を10月23日に提示した条件で締結(11月17日発表)。反対同盟からの突き上げ等を防ぐため、氏名は伏せられるが、中には反対同盟員や条件賛成派も含まれており、反対同盟はもとより個別交渉を禁じていた条件賛成派からも遺憾の声が聞かれた。(→伊藤音次郎)12月8日:駒井野地区で反対同盟が空港公団職員を暴行。12月10日:共産党現地闘争本部が反対同盟幹部を中傷。県共闘会議主催の空港反対集会で戸村代表が共産党との共闘を断る旨を挨拶。同日、社会党が大清水団結小屋を建設。12月15日:二十数回の役員会を経て、反対同盟が日本共産党による支援と介入の排除を総会で決定。10月10日のクイ打ち阻止闘争以降、共産党は戸村ら反対同盟幹部を名指しで批判するビラ撒き反対同盟切り崩しのオルグ活動を行っていたことから、反対同盟との決定的な決裂に至る。北原鉱治によれば、共産党オルグがゲバ棒で武装した150人の民青とともに三派全学連との共闘反対を訴えたが、血気にはやる反対同盟が鍬や鎌で叩きのめしたとしている。12月18日:条件賛成派宅で補償について話し合いをしていた空港公団職員が反対派約200人に包囲される。解散を呼びかける警察に対して三里塚闘争で初めてとなる投石が行われ、取り残された公団職員と警察官1人が負傷。12月21日:第6回関係閣僚協が開催され、空港関連公共事業大綱(必要に応じ早期に実施・事業費に関する各省庁の結論を急ぐ・関連地方公共団体の実情を勘案し、所要の措置を講ずる)が定められる。反対同盟が公団職員を暴行。12月25日:新御料牧場建設計画発表。12月27日:空港公団が下総御料牧場の代替地となる高根沢町で新牧場の建設を始める。 ===1968年=== 1月:佐世保エンタープライズ寄港阻止闘争1月29日:東大医学部の学生がインターン制度に代わる登録医制度に反対し、無期限ストに突入(東大紛争)。1月末:テト攻勢。軍事的には北ベトナムの敗北であったが、米大使館占拠や南ベトナムによるベトコン処刑などの事態に世界が衝撃を受ける。2月1日:空港公団分室に「生活設計相談所」が開設される。2月14日:芝山町議会選挙が行われ、反対同盟員の立候補者全員が当選するものの、かろうじて賛成派が過半数を維持。寺内町長は賛成派と反対派の板挟みとなる。2月26日:第1次成田デモ事件。反対同盟・三派全学連・砂川基地拡張反対同盟が、成田市役所下にある成田市営グランド(現・栗山近隣公園)で「三里塚空港実力粉砕・砂川基地拡張阻止現地2.26総決起集会」を共催。約1,000人が参加した全学連は市役所に併設されている空港公団分室への突入を図り、プラカードの板を外したゲバ棒や工事用の石を武器に、千葉県警機動隊と衝突。学生ら24人が凶器準備集合や公務執行妨害で逮捕されたほか、戸村代表をはじめ155人の負傷者を出す。一方、警察では中核派の機関紙「前進」などから集会が暴徒化する兆候をつかんでいたものの、1月の佐世保エンタープライズ寄港阻止闘争で「過剰警備」を批判され、反対派側もこれを利用して「機動隊がくるからあのような騒動になったのだ」と喧伝したことから穏便な警備方針を打ち出さざるをえず、また動員された機動隊約3000人も主に普段交番勤務をしている警察官の寄せ集めであったため前日に急遽支給された大盾の取り扱いにも不慣れであった。学生らの攻勢は熾烈を極め、一時は学生らにとりつかれた指揮車にいた連隊指揮官の成田警察署長が指揮棒で応戦。警備側は716人が重軽傷を負う。うち学生にクロルピクリンを顔に投げつけられた警官1人が一時危篤となり、喉の切開手術を施され一命をとりとめる(その後この警官は職務復帰を果たすが、喉には手術痕が残る)。この混乱に乗じて反対派農民が空港公団分室に侵入して盗み出した空港の設計図面は、後の成田空港管制塔占拠事件での作戦立案に用いられる。佐藤栄作日記:「昨日の成田空港での三派学生のデモは、警官の辛棒で、けが人は警官側で、逮捕者も十数名で一寸期待はづれ」2月27日:前日の集会後に反対同盟農家に宿泊した学生らが芝山農協前道路で無届の集会を開き、デモ行進。警察官らの多くが前日の事件で激昂していたため、再び衝突した場合には死傷者が出ることが懸念されていたが、学生らは成田市街地に突入することなくバス18台に分乗して帰京。同日、私服警官1人が反対派に一時拘束される。佐藤栄作日記:「昨日の成田空港デモは、学生に対する批判の声多い。然し朝日(新聞)は相不変学生より。何としても朝日征伐にかからねばなるまい」3月3日:友納千葉県知事が成田赤十字病院に入院中の戸村代表を見舞う。3月5日:佐藤栄作日記:「(首相の指示を仰ぎに)蔵相と運輸、自治相の三人。成田空港の始末で金の問題」3月7日:成田市・市議会・市教育委員会など10団体が、反対同盟・全学連・反戦青年委員会に対し暴力行為の取りやめを要望。3月9日:翌日の反対派集会に参加予定の三派全学連による闘争に備え、警察は有刺鉄線などで市役所と空港公団分室を要塞化するとともに、「市民対策班」を設けて集会会場や市役所周辺に近づかないよう呼びかけ。成田市民らも住居等にデモ隊が侵入しないよう自衛のバリケードを構築。バス会社では、2月26日のデモで車両に被害が出たことや前日に発生した王子野戦病院反対デモが過激化したことを受けて、学生の成田への輸送をキャンセルする動きが広がる(運行を拒否するよう求めた警察からの要請に対し、東京陸運局は各社の自主判断に任せる方針をとっていた)。これまでの闘争で散々運賃を学生らに踏み倒されてきた国鉄は乗車券購入を呼びかけ。バラストを投石に用いられることを防ぐため、京成線軌道には金網が張られる。3月10日:第2次成田デモ事件。空港反対同盟と全国反戦青年委員会共催で「空港粉砕・ベトナム反戦総決起集会」を再び成田市営グランドで開催、総勢4500人が集結する。警察側では2月26日の集会で大きな被害を出したことから「違反行為者は断固として検挙する」と方針が出され、歴戦の警視庁機動隊を含む4700人の大警備陣が動員される。社会党は集会を指示して淡谷悠蔵・伊藤茂ら国会議員を含む「不当弾圧監視団」を、自民党は相川勝六を団長とする「治安監視議員団」をそれぞれ派遣。集会後、機動隊と墓地に隠していた凶器等で武装したデモ隊が大規模衝突を起こす。機動隊はガス弾でもデモ隊を止められなかったが、3台の放水車から催涙剤入りの水を一斉に放出することで漸く沈静化させる。衝突後に反対派が解散集会を開いていたところ、機動隊5000人が違法集会として規制を開始。機動隊は反対派に対しガス弾を撃ち込んだうえで突入(規制開始までに学生や野次馬らに対し、拡声器による警告が複数回行われた)。ガス弾は野次馬(弁当や酒を持ち込んで見物に来ていたものが大勢いた)がいる場所にまで多数飛んで来るほど撃ち込まれ、風が止んで催涙ガスが滞留した会場は大混乱となる。徹底した規制により空港反対派は150人以上の逮捕者と1000人以上の負傷者を出す。機動隊の負傷者は453人。また、この集会に附随してTBS成田事件が発生し、過激派に手を貸した形となったTBSが激しく糾弾される。沈静化後に成田警察署長が機動隊一個大隊を引き連れて市街を行進し、鎮圧をアピール。市役所庁舎の窓ガラスが破損したほか、学生や野次馬によって店や住居を荒らされた周辺住民らからは怒りの声が上がる一方、旧成田町地区の区長らは「公団を他の適当な場所へ移転されたい」との要望書を出す。また、交通に混乱を来したこの日の警察の厳重な検問に対して批判の声が上がったほか、社会党の木原実らは「警察側の実力行使は完全に警察権行使の行き過ぎ」などとして千葉県警警備本部長の免職要求を出す意向を示す。今井空港公団総裁は「反対派農民とも会って説得したい」「新空港をベトナムと結び付ける全学連の論法は根拠がなく成田市民に迷惑をかけているのは残念」とコメント。佐藤栄作日記:「成田空港は統一(反対派と三派学生)デモ。警官隊もこれに備へ、昨日の王子病院反対デモに続いで(ママ)の多数の逮捕者を見る。学生のこの暴挙はなんとしてもおさめなくてはならない。逮捕で対抗する以外に手はない」3月12日:佐藤栄作日記:「九時から閣議。成田空港事件で活*3779*な意見がのべられ、破防法適用の方向で十四日の会合が期待される。十一時半から中共帰りの古井、田川の両君と川崎君の三名と会見。六者会談では福田、橋本の両君がおくれて加はり、成田事件に破防法適用の役員決議をした由。よって政府もその方向とする」「衆本を終へて、中曽根君と成田事件後の今日買収をすゝめる事。そのとおりとするとの事。後、相川勝六君と大坪保雄君の両名が破防法適用について強意見をのべる。適当にきゝおく」3月14日:佐藤栄作日記:「一寸ひまなので先づ中曽根君を読んで破防法適用の話をすると、彼氏慎重論。尚、地下鉄問題を話しする。次に三木君を招致して成田事件、ドル防衛問題(以下略)」3月16日:藤倉成田市長が暴力行為の排除を求める声明を発表。3月20日:三里塚新国際空港設置反対中央共闘会議・県民共闘会議・反対同盟の共同で「三・二〇 三里塚空港粉砕成田集会」が開催される。中核派学生ら約80人が、交通事故の対処にあたろうとしていたパトカーと遭遇し、角材で襲撃。その様子を収録したフィルムを渡すことを拒んだフジテレビ報道部員が学生らに暴行される(被害届は無し)。3月26日:藤倉成田市長の働きかけにより、成田市民協議会が結成。「地元の反対同盟に対しては、暴徒全学連との提携を断つことを要請し、全学連に対しては、成田市民の祈願をもって三度目の暴挙を思いとどまるよう反省を促す」との趣意書が出され、30日までに5600人分の署名を集める。3月28日:3・28王子野戦病院闘争。3月31日:第3次成田デモ事件。反対同盟と新左翼運動が連帯した三度目の全国結集の大集会を開催。成田市営グランドの使用が禁止され、三里塚第2公園で開催。戸村代表が「私は皆さんに血を流すことをすすめようとは思わないが、ここまできてしまった以上、血を流さなければ空港建設は阻止できない」と演説。集会後、公団分室に向けてデモ行進。途中、警察官待機宿舎が襲撃され、中核派の旗が立てられる。デモコースから逸脱した学生集団は機動隊と衝突し放水を受けながらも警備用バリケードにとりつくが、長距離の移動で疲弊しており、待機していた警察部隊によって規制される。逮捕者235人、空港反対派に300人以上の負傷者を出す。春:今井空港公団総裁と直接価格交渉をしていた地権者会が要求を認めさせる。部落協と交渉していた友納千葉県知事が出し抜かれた格好。4月1日:代替地の農地造成工事着工。佐藤栄作日記:「中曽根君は今朝の日向灘地震及成田空港買収の様子を報告に来る。前者は大地震の割に津波も大した事なく、陸上の被害も亦僅少。成田空港は坪最高百四〇万で条件は説得」4月6日:中曽根運輸・友納千葉県知事相立ち会いのもと、空港公団と条件賛成派4団体(成田空港対策部落協議会・成田空港対策地権者会・多古町一鍬田新東京国際空港対策委員会・芝山町空港対策連絡会議地権者会)との間で「用地売り渡しに関する覚書」が取り交わされる。これにより空港用地民有地の89%(597ヘクタール)が確保される。4月6日:2・3月から発行されていた現地闘争本部機関紙『闘う駒井野』を改題し、『日刊三里塚』第一号が発行される。4月9日:売却交渉のため空港敷地内に立ち入った日拓建設の職員2人が反対派に暴行される。4月11日:3月10日のTBS成田事件での批判を受け、TBSが特番「成田二十四時」の放送を中止したことについて、反対同盟が抗議声明。第7回関係閣僚協が開催される。用地買収経過・関連事業の進捗状況について報告がなされ、条件賛成派4団体の覚書について了承される。4月17日:空港敷地内の県有林の調査から戻る県職員3人が反対派に暴行される。1人逮捕。4月18日:老人行動隊118人が、御料牧場存続・空港公団への譲渡拒絶を宮内庁に請願。同日、農協職員2人が空港敷地内で反対派に暴行される。1人逮捕。4月20日:空港公団による、土地売渡同意書提出者約300世帯の家屋立入り調査が開始される(通称「百日調査」)。空港公団が延べ1619人を動員して行った58回に及ぶ調査は7月19日まで継続し、反対派は汚物を投げるなどして抵抗。その間に農民ら6人が逮捕され、機動隊16人が負傷。4月21日:一連の衝突の件で、警察が農民4人を逮捕。同日、反対同盟が一坪共有化運動の登記を完了。4月29日:共産党の斡旋を受けて進められていた日本山妙法寺大僧伽による三里塚平和塔の起工式が、東三里塚(当初は駒井野団結小屋の近くを建設地にする予定であったが、地権者の反対同盟員が難色を示し、共産党系農民の土地に変更された)で行われる。5月:フランス五月危機。5月5日:空港公団職員が木の根地区で反対同盟200人に取り囲まれ、測量中止。5月6日:警官に守られながら、空港公団職員が木の根地区での測量を実施。5月7日:「五・七、三里塚闘争集会」が開催され、大清水地区の三叉路に社学同開放派が作った検問所を通りがかった自衛隊車両が襲撃される。警察は検問所で違法行為を続ける学生らの包囲・一斉検挙を図るが、手違いにより到着が遅れた部隊が出たため取り逃がしてしまう。5月12日:ボーリング調査に抗議していた青年行動隊員・島寛征が逮捕され、反対同盟が成田警察署に大挙して押しかけ抗議活動を行う。警察側の主張によれば、天浪地先で覆面パトカーが学生らに角棒などで襲撃され、付近を捜索したところ、職務質問に黙秘を続ける学生風の不審者がいたので警察署に連行したものであったが、現場に居合わせた警官らの面通しでも確証が得られなかったため、島は即日釈放される。以後、警察のパトロールでは犯人特定用の着色液が携帯されるようになる。5月15日:反対派住民と学生350人が、天神峰地区で条件賛成派宅の立ち入り測量を実施していた公団職員や警備の機動隊に対しに投石、糞尿をかけるなど測量を妨害。5月27日:天神峰と駒井野への立ち入り測量に抗議した反対派が、機動隊300人と衝突。逮捕者2人。負傷者2人。5月29日:空港予定地周辺5市町村により、成田空港関連事業推進協議会が発足。6月5日:木の根部落で、反対派農民300人が立ち入り測量の職員を蹴散らすが、機動隊との衝突で反対派2人が重傷を負う。駒井野団結小屋前で無届集会が行われ、警察部隊への投石が行われる。6月15日:再び、木の根部落への立ち入り測量で衝突。空港公団職員に対する投石や丸太での殴打などがあり、婦人行動隊員1人が逮捕される。反対派に8人の負傷者。6月21日:神田カルチェ・ラタン闘争。6月22日:空港公団が東峰で立ち入り調査を実施、公団職員や警察部隊に対して投石が行われる。反対同盟員にクロルピクリンの瓶を投げつけられた警察官1人が負傷。反対派農民1人が逮捕される。6月30日:三里塚第二公園で「三里塚空港粉砕全国総決起集会」が開催され約2900人が参加。警察部隊との衝突は回避。7月9日:佐藤栄作日記:「十時から経済月例報告。成田空港関係の実施案を督励する」7月11日:芝山町で初めての公団立ち入り調査が行われ、反対同盟300人と衝突。投石により下請け労働者や警察官など4人が負傷。空港公団職員への丸太などを使った暴行のかどで、反対同盟員2人と小川プロダクションのカメラマン2人が現行犯逮捕される。7月12日:芝山町千代田で立ち入り測量に対して、老人行動隊が初めて人糞を用いた抗議行動を行う。老人行動隊長が逮捕される。7月13日:横堀地区で反対同盟250人が空港公団職員ら44人を取り囲み、これを排除しようした警官に対して投石を行う。 7月15日:横堀部落で、反対同盟の投石などの抵抗で、立ち入り測量の公団職員と機動隊が立ち往生する。7月17日:反対同盟が測量地点にバリケードを築いて、終日阻止行動を展開。逮捕者1人。巧妙に仕掛けられた有刺鉄線に引っかかる警察部隊員が続出したうえ、学生を追う機動隊が畑のスイカを割ったとし抗議を受ける。7月18日:空港公団が土地売渡同意書提出者家屋への立ち入り測量の終了を宣言(「百日調査」終了)。8月7日:空港計画委員会が、新東京国際空港の計画(第一期工事)について最終報告(予定より4ヶ月遅れ)。8月9日:戸村反対同盟代表ら10人が中曽根運輸相に空港反対を申し入れるとともに現地視察を要求。中曽根運輸相は「適当な時期に現地に行きたい」と回答。8月20日:チェコスロバキア社会主義共和国の民主化運動「プラハの春」に対し、ワルシャワ条約機構軍が軍事介入。9月:社会党の第31回全国大会が開かれ、過激派の暴力闘争に対する世論の非難を受け、以後いかなる闘争においても過激派とは共闘しない方針を表明。三里塚闘争に対しては一坪共有地の名義提供などに留め距離を置き始める。9月4日:日大紛争で警察官が殉職。以降警察は新左翼学生に対して断固とした処置をとるようになる。10月11日:第8回関係閣僚協が開催され、空港建設の状況・地元負担問題について検討。関連事業の地元負担軽減のため財政援助措置を内容とする特別立法(成田財特法)を国会に提出することや、騒音区域内の土地を敷地内と同一価格で買収することを決定。佐藤栄作日記:「成田空港整備の為、特例法を設ける事とした。水田蔵相には反対だった様だが、国家的事業なので関係自治体を補助するのは当然か」10月21日:新宿騒乱。10月31日:公団職員3人が反対同盟員らにこん棒などで暴行される。11月18日:2月から3月にかけて行われた成田市内での機動隊との衝突で逮捕された支援学生ら33人の初公判が千葉地裁で開かれるが、ヘルメットを被った学生らが裁判所職員を振り切って法廷に突入し、ヘルメットを着用したままの傍聴や入り口でもみ合った職員からの謝罪を求めるなどして妨害。その後も妨害が続き、1977年7月29日に千葉地裁が判決を出すまでに9年を費やす。11月24日:反対同盟が「三里塚空港粉砕・ボーリング調査阻止全国総決起集会」を開催。それまでの最大規模の8千人が結集。空港公団は「年内のボーリングと調査の工事開始は困難」と発表する。11月30日:原田憲が運輸大臣就任。同日、新東京国際空港に係る事務の調整を原田に担当させることも決定。12月2日:空港公団が反対派に文書で用地買収協力を要請。以降、空港公団が直接接触困難な者に対して随時実施される。12月12日:京成電鉄が新空港線の認可を申請。12月19日:青年同盟員2人が立ち入り調査に来ていた公団職員を暴行。2人は同日夜に逮捕される。12月26日:空港計画委員会の最終報告を受け、空港公団は運輸省に対し新空港の工事実施計画変更の許可申請(1969年1月25日許可)。12月29日:反対同盟の300人が成田警察署に連日抗議行動を続け、19日逮捕の2人が釈放される。 ===1969年=== 1月19日:東大安田講堂事件が終結。2月5日:条件賛成派が警備会社及びショッピング・センターを設立。2月9日:超大型旅客機「ボーイング747」(ジャンボジェット)の1号機が初飛行。2月28日:衆議院運輸委員会で、原田憲運輸相が社会党の小川三男議員からアメリカの軍用関係のチャーター機の使用について問われ、新空港であっても断ることはできないと答弁。その後で手塚良成航空局長が地位協定第五条第一項で米軍のこれらの飛行機の出入について断わることはできない建前になっているが、外交ルートでの申し入れは可能と答弁。3月2日:超音速旅客機「コンコルド」が初飛行。3月11日:反対同盟の要請を受けて空港問題の経過報告会(町議会が行った羽田・伊丹・福岡等空港の騒音視察の報告)が芝山町議会で開かれる。寺内芝山町長が400人の反対派に取り囲まれて罵詈雑言を浴びせられ、空港反対確認書に署名を強いられる。内容は、(1)町民の意思を尊重し、土地収用手続きである「町長告示」は行わない (2)(2月28日の)国会での大臣発言が事実なら空港建設に反対 (3)空港建設に伴う地元負担には耐えられないから反対 の3点。寺内町長は署名後に行方をくらます。3月14日:空港公団が土屋土地開発協議会と空港建設資材輸送専用線建設事業について合意(4月1日に用地賃貸借に係る協定を締結)。3月30日:反対同盟が「公団の『四月着工』声明粉砕・事業認定申請粉砕全国集会」を開催。1万2千人の結集。3月31日:議会での混乱が続く中、寺内芝山町長の辞表が受理され、辞職が成立する。宮内庁・関東財務局・空港公団が、下総御料牧場の一部と新設牧場の交換契約を締結。4月:千葉県警の人事再編があり、警察署長や機動隊隊長等の要職に機動隊経験者や実力者が据えられる。4月1日:航空局の新東京国際空港建設推進企画室が廃止され、「新東京国際空港課」が置かれる。同日から15日まで成田市が「三里塚最後の花見まつり」を開催。市から完成図の描かれたパンフレットが配布され、京成電鉄の駅のホームに空港促進を訴えるポスターが掲載される。反対派は宣伝車でアジを行いビラを配るなどして対抗。4月21日:国鉄成田駅から土屋地先に至る約2.9キロメートルの資材輸送の専用鉄道工事が着工する。4月26日:寺内前町長の辞職に伴う芝山町長選挙が行われ、自民党芝山支部長で空港推進派の寺島孝一が反対同盟推薦の戸井正雄候補を273票差で破り、当選。7月2日:千葉県警本部に「空港対策委員会」、警務部警務課に「空港問題対策室」が発足。7月7日:三里塚平和塔が完成。7月16日:御料牧場の栃木県への移転が始まる。7月21日:アポロ11号が月面着陸。8月3日:大学の運営に関する臨時措置法(大学管理法)が成立。実際の適用はなかったものの、施行後に紛争校の数は全国で激減。8月8日:反対同盟が木の根団結小屋から共産党を追放。8月18日:御料牧場閉場式に反対同盟200人が抗議行動。「有終の美を飾らせてほしい」との牧場側の懇願を振り切って青年行動隊が乱入し、会場を破壊(総駿会館乱入事件)。翌9月8日に青行隊8人が事後逮捕されるが、萩原進行動隊長の行方が知れず、萩原は全国指名手配となる。翌19日から新御料牧場への移転が開始される。同日、羽田空港での小型機の離着陸が禁止される。9月13日:今井空港公団総裁が、「残余の土地についても今後全力をあげて円満に取得するよう努める所存であるが、万一協議が不調となった場合は、本事業の遂行に重大な支障となる」として、土地収用法に基づく新東京国際空港建設事業の事業認定を建設大臣に申請。9月19日:空港公団がA滑走路と並行する工事用道路の入札を行い、鹿島建設と熊谷組が共同落札。一期工事の開始日とされる。9月20日:A滑走路工事が着工(完成は1973年4月30日)。9月28日:事業認定粉砕全国集会開催。1万3千人が結集。閉場式乱入で指名手配中となっている萩原進も姿を現すが、混乱を恐れた県警は逮捕を見合わせる。10月5日:反対同盟が、ボーリング調査阻止の連続闘争を11月12日まで展開する。10月14日:成田警察署員が、閉場式乱入で指名手配中であった萩原進の宅にいた青行隊員・柳川秀夫を萩原と誤認して逮捕する。反対同盟100人が成田警察署で抗議行動を展開し穏便な対応を求めた小川国彦県議がつるし上げを食らう。成田署は、県警本部と協議のうえで、柳川を即日釈放とする。なお警察は、柳川が本人確認に応じないなど故意に間違えられるように振舞っていたとして「反対同盟の罠にはまった」とコメントしている。10月21日:10.21国際反戦デー闘争。10月24日:空港建設工事に初めてブルドーザーが投入される(工事用道路のための整地作業)。11月5日:大菩薩峠事件。11月6日:萩原進が、自宅で農作業中に逮捕される。11月7日:運輸審議会が京成電鉄の空港線を承認、免許が交付される。11月12日:反対同盟が佐藤首相訪米阻止闘争に呼応して4000メートル滑走路工事用道路の建設現場で座り込み、ブルドーザーを阻止する。着工後初めての本格的妨害活動であり、反対同盟戸村代表ら13人が威力業務妨害で現行犯逮捕される。戸村、初の逮捕。11月14日:空港建設工事用のブルードーザー1台が時限式発火装置で放火され、他の2台もタンクから燃料を抜かれたり異物を混入される被害。三里塚闘争で初めての放火ゲリラ。11月17日:取香・駒井野地区の元地権者らが成田空港美整社を設立。11月21日:佐藤首相・ニクソン米大統領が沖縄返還の共同声明。12月1日:特定飛行場周辺の指定区域及び除外区域に関する告示。12月16日:坪川信三建設大臣が9月13日に空港公団が申請した土地収用法に基づく「事業認定」を承認し、告示される。なおこのとき、空港公団の申請ミスで滑走路両端のアプローチエリアが事業認定に含まれていなかった。12月20日:新御料牧場が完成。12月23日:空港公団が反対同盟の各農民に対し、「土地収用法に基づく事業認定が十二月十六日付で告示されましたが、この機会にぜひとも私共の気持ちをお汲み取り頂きまして、話し合いの機会をつくり貴重な土地をお譲りいただきたくお願い申し上げます」との手紙を送る。以降翌年1月14日までに計5回手紙が出される。農民からの回答・同意は無し。12月27日:沖縄返還などを追い風に第32回衆議院議員総選挙で自民党が大勝。 ===1970年代=== ====1970年==== 1月2日:反対同盟が天浪地区にバリケードを構築。1月13日:反対同盟が木の根・駒井野両団結小屋にバリケードを構築。1月14日:橋本登美三郎が運輸相に就任。同日、新東京国際空港に係る事務の調整を橋本に担当させることも決定。1月15日:「強制測量粉砕・収用法粉砕全国総決起集会」が三里塚第2公園で開催され、7000人が集結する。以降、全学連は現地行動隊を組織して常駐するようになる。全国全共闘が「共闘集会」開催を打診するが、反対同盟は回答を保留。1月23日:代替御料牧場の宮内庁引き渡しが完了。2月18日:B滑走路予定地で石橋副委員長が母屋新築の上棟式を行う。2月19日:この日開始された土地収用法に基づく反対派農地への立入調査(「第一次立入調査」)に対抗し、反対同盟が「第一次強制測量阻止闘争」に取り組む(翌日まで)。「少年行動隊」に属する生徒らも同盟休校と称して学校を休んで参加し(16日に反対同盟が決議)、以降家族ぐるみの阻止闘争が実施される。県教育委員会が反対同盟に自粛を呼びかけるが、子供らは団結小屋に立てこもり気勢を上げる。2月22日:反対派が空港敷地内のボーリング作業場に侵入し、機械に放火。3月3日:空港公団が、千葉県収用委員会に対し第一次収用裁決(土地収用法に基づく権利取得裁決申請及び明渡裁決の申立て)を申請。3月13日:反対同盟が事業認定取消請求訴訟を千葉地裁に提起。3月15日:第1旅客ターミナルビル建設工事が着工する。同日、日本万国博覧会が始まる。3月17日:新御料牧場の開場式。3月28日:新東京国際空港周辺整備のための国の財政上の特別措置に関する法律(成田財特法)と施行令が公布される。3月30日:政府が千葉県提出の空港周辺地域整備計画を決定。3月31日‐4月5日:よど号ハイジャック事件。4月10日:天浪地区に公団新事務所が開設される。4月23日:旅客ターミナルビル建設工事が着工。4月28日:資材輸送専用鉄道が部分開通。5月14日:「第二次強制測量阻止闘争」(第二次立ち入り調査実施)。5月18日:全国新幹線鉄道整備法公布。5月26日:空港建設促進の宣伝活動を行っていた山口組系右翼団体「防共挺身隊」が、現地に乗り付けたマイクロバスが反対派に空気銃で撃たれたとして、社会党系の団結小屋「三里塚空港反対中央共闘会議現地闘争本部」に殴り込む。5月27日:前日の右翼による襲撃について、現場に署員がいたにもかかわらず現行犯逮捕が行われなかったことや検問にもかかわらず右翼が角材を持ち込めたことなどから、反対同盟と社会党が成田警察署に抗議。6月12日:千葉県収用委員会が、千葉県総合運動場体育館で第一次収用裁決申請に係る公開審理を開始。この日開かれた第一回公開審理を反対同盟の1千人が傍聴、反対同盟顧問弁護士の葉山岳夫が審理そのものが違法だとして異議を唱えたところ発言を禁じられ、空港公団の課長が事業内容の説明を始めると怒った農民がマイクを引き倒すなど会場は混乱し、1時間で閉会。少年行動隊も「同盟休校」参加しており、県教育長が「市町村教育委員会を通じて同盟休校させないように説得していたのに残念だ。子供を闘争の手段として使うことは絶対に許せない」と厳しく批判。6月18日:千葉県収用委員の飯田朝教授が再任辞退を表明、「収用委員をやっているというだけで、全国から手紙や電報が舞い込み、電話が夜中にかかってくる。まるで土地を奪う悪代官のような扱いだ」「これ以上、委員をつとめるのは苦しい」と述べる。6月23日:新日米安保条約第10条に定められた有効期間(10年)が経過。以降も条約は破棄されずに継続。7月8日:エプロン工事が着工する。8月4日:誘導路建設工事が着工する。8月5日:用地交渉中の公団職員3人が暴行され、1人が重傷、車両大破。8月12日:羽田空港の発着回数が処理能力を超え、運輸省が(1)発着回数は1日460回を限度とする、(2)国内定期便を1日12便ないし14便ほど減便する、(3)厚木飛行場を許容される限り使用する、(4)臨時便及びチャーター便を制限する、(5)大阪、札幌、福岡発東京行き定期便についてフローコントロールを行う、(6)羽田空港が混雑しているときは名古屋空港に一時着陸して地上待機する、とした緊急指示を行う。8月16日:反対同盟が岩山小学校で集会を開き、(1)A滑走路南側アプローチエリアに位置し、事業認定から外れた岩山地区を闘争の最大拠点とする(2)収用委員会の公開審理を引き伸ばす(3)民家で唯一強制収用の対象となっている大木(小泉)よね宅に団結小屋を設ける ことを決め、徹底抗戦の闘争方針を打ち出す。8月17日:米軍との交渉の結果、全日本空輸の一部路線が、万博の影響もあって完全パンク状態となった羽田空港から厚木飛行場に移管される。8月26日:「第一次申請分」六筆の土地に収用委員会の現地調査が行われる。反対同盟が1千人で阻止闘争を展開。3人逮捕。1人が手錠をかけられたまま逃走する。8月31日:資材輸送専用鉄道が全線開通。9月1日:千葉県収用委員会が第二回公開審理。審理の進め方の折衝が5時間にも長引く。漸く入場した農民らが椅子をもって壇上に詰めよろうするのを見た委員らが別室で協議するために退席。委員らが逃げると思った学生や青年行動隊らが取り囲んで殴る蹴るの暴行を加え、委員1人が肋骨を折る怪我。結局、開会も宣言できずに終わる。9月2日:千葉県収用委員会が第三回公開審理。警察の警護下で開会を宣言するが反対同盟が審議に応じず、審理をせずに終わる。9月11日:空港公団委託の業者2人が横堀部落に入るが、現地農民が抗議行動を展開。9月16日:11日の抗議行動の件で、千葉県警が瀬利反対同盟副委員長宅を家宅捜査。9月17日:11日の抗議行動の件で、千葉県警が支援学生1人を誤認逮捕。9月30日:この日から10月2日まで実施された第三次立入り調査に対抗し、「第三次強制測量阻止闘争」(のちに空港反対派は「三日戦争」と名づけた)が実施される。立入り調査の対象は125か所・78ヘクタールと大規模なもので、反対同盟は、落とし穴・「白兵戦(竹槍等)」・「黄金爆弾(糞尿)」などを駆使して総動員で抵抗する。3日間の攻防で59人が逮捕される。反対派の抵抗で空港公団は312ヵ所の調査対象のうち4割弱しか実測ができず、残りは航空測量で済ませられた。10月7日:空港公団が用地取得に公共用地の取得に関する特別措置法を適用すると発表。10月8日:空港管理ビル建設工事が着工する。10月22日:千葉県収用委員会が第四回公開審理。反対同盟は引き伸ばしを図って会場入りを遅らせたが、その間に空港公団が無人の席に向かって意見陳述を行う。午後4時頃に反対同盟が到着し審理が進んでいる事態に演壇に詰め寄ろうとしたが、閉会が宣言され委員らは退席。10月24日:千葉県収用委員会が第五回公開審理。反対同盟はボイコットし、空港公団による意見陳述のみで公開審理は結審扱いとなる。11月4日:空港公団が公共用地の取得に関する特別措置法に基づく特定公共事業の認定を根本龍太郎建設大臣に申請。11月25日:三島事件。12月6日:「強制測量粉砕・全国住民運動総決起集会」が開催される。12月19日:千葉港頭給油施設工事着工。12月25日:空港内給油施設工事着工。12月26日:千葉県収用委員会が「現地調査、審理等に見られた土地所有者および関係者の行動は、採決の遅延のみを図ることを目的とし、正常な意見を述べる意思を持たないものと認めるに至った」として審理を打ち切り、第一次収用裁決申請分(一坪共有地6か所・約1500平方メートル)に対し、翌年1月31日までに空港公団に明け渡すよう収用裁決(権利取得の時期及び明渡しの期限1971年1月31日)。12月28日:11月4日に出された空港公団の申請を受け、新空港の特定公共事業認定が告示される。 ===1971年=== 1月6日:代執行に備え、反対同盟が強制収用対象地に「地下壕」を掘り始める。1月13日:反対同盟の小川明治副委員長が心筋梗塞で死去。15日に同盟葬が行われる。小川の遺言により、空港予定地内(天浪共同墓地)のコンクリートでできた幅約5メートル・高さ2.5メートル、厚さ約50センチメートルの墓に埋葬される。1月18日:昭和46年告示第17号により建設を開始すべき新幹線鉄道の路線を定める基本計画が公示され、東北新幹線・上越新幹線とともに成田新幹線の基本計画が決定(東京〜成田65*3780*)。。1月22日:翌日の友納千葉県知事との会談に応じるか否かで反対同盟の実行役員会が紛糾する。敷地内開拓農家が「知事に開拓の辛い思いを知って欲しい」と主張し、採決により会談の実施が僅差で決まる。1月23日:御料牧場事務所で友納千葉県知事と戸村反対同盟委員長が代執行問題について会談するが、論議が平行線のまま終わる。友納知事が代執行の実施の有無について明言しなかったため、友納知事からの再度の会談申し入れに対し、反対同盟は「空港建設を前提にしている以上、会談に応じる考えはない」として拒絶。1月29日:深夜・早朝の発着制限の地元要望を受けて、橋本運輸相がカーフュー(緊急時を除く午後11時から午前6時にかけての発着禁止)実施を友納千葉県知事に回答。1月31日:千葉市内で、全国全共闘と全国反戦青年委員会を中心に集会(三里塚空区空港建設反対、土地収用強制執行阻止、執行吏友納糾弾集会)が開かれ、知事公舎にデモ。ジグザグデモが行われ、警察官への体当たりや旗竿での暴行などで5人が逮捕される。負傷者多数。同日をもって、収用地が明け渡し期限を迎える。2月1日:空港公団が友納千葉県知事に対し行政代執行を要請。2月3日:空港公団が一期地区内用地について緊急採決を千葉県収用委員会に申請。2月11日:少年行動隊が、150人で「強制代執行の中止」を求めて公団分室にデモ。機動隊との衝突になり、少行隊員1人負傷。2月14日:全国全共闘と全国反戦青年委員会を中心に、「強制代執行反対」を掲げて、再び知事公舎に向けて千葉市内をデモ。2千5百人が結集し、28人が逮捕。デモ隊20人余が負傷。2月15日:友納千葉県知事が行政代執行の3週間以内の実施を発表。2月15日:少年行動隊に所属する生徒85人がヘルメット姿で授業中の芝山中学校に押しかけてジグザグデモを行い校長室・放送室を占拠。他の生徒に呼びかけて校内集会を開くとともに、空港問題に対する態度を明確にしない教師陣に対し詰め寄る。2月18日:少年行動隊と教師陣が話し合いを行う。2月22日:6件6筆の建設予定地に対して第一次代執行が開始される。反対同盟と支援者3千人と機動隊が衝突。少年行動隊は「同盟休校」で闘争に参加。千葉地方裁判所は、反対同盟の代執行停止処分申し立てを却下する。2月24日:少年行動隊80人が公団職員らと衝突。少年行動隊3人が負傷。午後に、ガードマンが少年行動隊に暴行を加えたほか、多数の負傷者が出る。公団分室のガードマンらが、空港公団への面会に遅参した社会党の木原実衆議院議員と三ッ松県会議員を背後に黒ヘルメットをかぶった学生集団がいたために反対派と誤認して排除、両議員は顔などを負傷する。事態に激怒した野次馬を含む群衆が「代執行開始宣言」の横断幕を引きちぎり、公団分室に投石を行う。2月24日:航空灯火工事が着工する。2月25日:「駒井野砦」で反対派が集会中に、機動隊が突入。支援者49人が逮捕。その際に「地下壕」が落盤。農民1人が重傷を負う。この日の逮捕者141人。反対派の負傷者253人。5人が成田日赤病院に緊急搬送される。2月26日:友納千葉県知事が、27日から3月1日までの代執行の停止を表明する。少年行動隊の生徒らが通う小中学校の校長らが砦を訪れるが、生徒らは闘争現場から離れることを拒絶。校長らは県と県警に生徒の安全確保を申し入れる。2月27日:代執行が一時中止される。空港公団が、騒防法に基づく学校等の騒音防止工事の助成を開始。3月1日:千葉県本会議で、小川国彦県議の質問に対し友納知事が「代執行につきましては明日から着手する方針でおります」と答弁。小川県議は「死人が出たら死刑執行人として責任をしょえばいいんだ」と発言し、登院停止2日間の処分を受ける。3月2日:代執行再開。機動隊が2千3百人に増強される。これに対し反対同盟と新左翼党派が対峙。事前に反対同盟が行っていた呼びかけに応じて集まった「野次馬」約3千人が、中に紛れ込んだ支援学生らのアジテーションを受けつつ、投石を行ったり阻止線を作るなどして終始反対同盟側を支援。更にテレビ局が中継車を反対同盟の砦に横付けしたため、機動隊と空港公団はほぼ手を出せぬまま撤収する。同日、故小川明治副委員長の四十九日の慰霊祭が砦内でとり行われる。この日の逮捕者13人。反対派の負傷者20人。成田日赤病院への緊急搬送3人。3月2日:過激派集団の実力闘争による反対運動に反対する住民らが「三里塚空港から郷土とくらしを守る会」を結成。同団体は共産党系の団体とされる。3月3日:機動隊が3000人に増強され、現場周辺の道路で「野次馬」を閉め出す検問を開始。土砂降りの雨の中の衝突となる。逮捕者19人。反対派の負傷者213人。この日から反対同盟から「壊し屋」と呼ばれた屈強な工事作業員による撤去作業が行われる。3月4日:参議院予算委員会の質疑で自民党の八田一朗が今井空港公団総裁に一坪共有地に名義貸しをしている議員らの名前を読み上げさせる。佐藤栄作日記:「(八田の持ち時間は)僅かに丗分だが成田空港問題で一坪地主の社会党の所有者の名前をよみ上げさせる。(八田は)一寸溜飲をさげた様子。然し社会党の諸君は不満として理事会にもち込む」3月5日:機動隊がさらに3千5百人に増強され、引き続き現場周辺の道路で「野次馬」対策の検問が実施される。この日から翌日にかけて、「野次馬」から隔離された現地で空港公団・機動隊側による強硬措置が行われるようになる。佐藤栄作日記:「(参議院予算委員会で)十時から松本賢一君の昨日の残り十三分。然し社会党は昨日の八田君の質問で成田空港の一坪運動に干係する当議員並に前議員の名前を明にした事につき党内で議論あり、そうかといって八田君にも今井公団総裁にもかみつけず欠席。然しこの方も新聞の批判が怖く、遂に出席して今井総裁と質疑を重ね、段々と深みに落ち込み気の毒な状態。(中略)杉原一雄君。五〇分の内約丗分を残し加瀬完君に移り成功。空港問題、結局まづい質問で時間」3月6日:機動隊は高圧放水などで、「地下壕」を除き砦などの反対派拠点を撤去。千葉県は「地下壕」は対象外であるとして、「(第一次)代執行終了」を宣言。13日間の代執行で反対派の竹槍・投石・火炎瓶等による攻撃で警官・職員・作業員ら1171人が負傷し、反対派の逮捕者は468人にのぼる。以降、反対派のゲリラ攻撃が活発化。佐藤栄作日記:「(参議院予算委員会の)質疑も成田空港の兼でやゝあれ気味だったがこれで終了。尚成田空港は二時すぎ代執行として予定された部分を完了。然し尚収用に応ぜぬ部分もあるので、この際積極的に交渉を話し合いで進める要がある。運輸大臣に命ずる」3月7日:反対同盟が「緊急抗議集会」を1千5百人で開催。反対同盟は、「負傷者続出」の事態に友納千葉県知事、今井榮文空港公団総裁、本庄千葉県警本部長を告発することを決定する。十日間の第一次代執行期間で逮捕者461人、負傷者841人うち重傷43人。3月8日:空港公団と機動隊が、現場判断でブルドーザーによる「地下壕」埋め立てを実施。一部が撤去され、8人を逮捕。3月9日:反対同盟及び支援者は8日の撤去作業に法的根拠がないとして強く抗議。現場に駆けつけた山本力蔵空港公団副総裁・小川国彦県議と反対同盟の間で交渉が持たれ、作業の中断・休戦・反対同盟による地下壕立て籠もるメンバーの説得を約した協定書が結ばれる。山本副総裁の「20分ほど農民を説得し、排除作業による危険の大きさを現場で確かめた。事務的な考え方だけでは通らない」との談話が新聞に掲載される。3月15日:芝山中で卒業式が開かれ校長が式辞で少年行動隊の生徒らに向け「三年間、空港問題で悩みが多かったろう」と語る。少年行動隊の生徒らは国歌斉唱や卒業証書授与での返事を拒絶し、無言で学び舎を去る。3月17日:千葉県収用委員会が緊急裁決対象地の現地調査を行う(三里塚平和塔・駒井野団結小屋・天浪団結小屋等)。糞尿散布や投石など反対派による妨害が行われる3月18日:エプロン舗装工事着工。3月21日:反対同盟が「いかなる斡旋案も拒否する」と発表。3月23日‐24日:千葉県収用委員会の公開審理が行われる。学生らが会場に乱入してデモ行進を行い、反対同盟員らが事業説明をしている空港公団からマイクを取り上げるなどしたため、警察が複数回出動する。傍聴席から飛び降りて会場への侵入を図る学生を押しとどめる警備員について、社会党千葉市議会議員の市川福平が「(警察)署長……ガードマンの暴行を止めさせなさい」と繰り返し叫ぶ。3月24日:空港公団が、反対同盟が協定に反し「地下壕」の強化を行い、かつ再三の警告を無視したことを理由に、協定の破棄を戸村反対同盟代表に通知。3月25日:空港公団は機動隊4千人を動員し、ブルドーザーや大型ユンボを用いて8日に撤去しきれなかった頑丈な「地下壕」を撤去。反対派19人逮捕。3月28日:革マル派が、機動隊との攻防で負傷した者の救護に当たっていた「三里塚野戦病院」の車両を襲撃し、2人を負傷させる。4月11日:1971年東京都知事選挙で「ストップ・ザ・サトウ」を掲げる美濃部が再選。4月22日:成田空港問題の心労により倒れた藤倉成田市長が辞意表明。5月:航空局内に「東京国際空港拡張計画作成委員会」が設置され、羽田空港沖合展開(沖展)の調査が始まる。5月2日:駒井野団結小屋近くでパトロール中の警備員の車両を学生らが停止させ、更にその窓ガラスを割ったことを切っ掛けに、約200人の大乱闘が起きる。反対派に48人の負傷者を出し、うち17人が重傷を負う。止めに入った反対派農民1人が逮捕される。警備側の被害としては、警備員29人・機動隊員2人が負傷したほか、警備員の車両5台が破壊される。第一次代執行後は機動隊が現地に常駐しておらず、空港公団が配置した警備員が変わってパトロール等を実施していた。5月6日:空港公団が、「農民放送塔」(反対同盟が建てた高さ24メートルの櫓で、監視・連絡機能を有するだけでなく大音量のスピーカーで連日アジテーションを行い、空港建設作業を妨害していた)と反対派が掘り進めていた「地下壕」の撤去を求める仮処分を千葉地裁に申請。5月9日:未明、空港公団が買い取っていたゴルフ場のクラブハウスが火炎瓶襲撃で全焼。「農民の生活と権利を守る五・九三里塚大集会」が三里塚平和塔の前で開かれ、全国から96団体2500人が参加。5月12日:空港公団のミスでアプローチエリア(航空保安施設用地)が事業認定申請に含まれていないことに目を付けた反対同盟が、A滑走路南端から約1キロ離れた芝山町岩山地区に高さ30.74メートル(30.82メートルとも)の第一鉄塔を構築。航空機発着の障害物となる。5月20日: ボーイング2707の計画が中止される。5月25日:千葉県警が反対派農民の大木よね宅を家宅捜索。5月28日:藤倉市長の辞任に伴う成田市長選挙に出馬した長谷川録太郎の応援の為に成田を訪れていた、橋本登美三郎運輸相のもとへ反対派が押し掛け、戸村反対同盟委員長らが直談判を行ったが、会談は平行線のまま20分で終了。この中で橋本運輸相は戸村委員長に対し「空港用地内に土地を持っていない人とは話し合わない」と述べた。5月30日:成田市長選挙が行われ、保守系の長谷川録太郎が当選。5月31日:空港公団が日本道路公団と「東関東自動車道に係わるパイプラインの敷設及び管理に関する協定」を締結。6月6日:「強制代執行土地収奪粉砕全国総決起集会」開催。6月12日:千葉県収用委員会が、15件・3.21ヘクタールに対して期限を9月にした第二次収用の緊急裁決を下す。三里塚平和塔は宗教施設として対象から外れる。6月17日:沖縄返還協定調印。7月5日:丹羽喬四郎が運輸大臣就任。同日、新東京国際空港に係る事務の調整を丹羽に担当させることも決定。7月10日:元地権者らが設立した成田空港警備会社が時限爆弾による攻撃を受け、近隣の民家も巻き添えを食う。けが人はなかったものの、三里塚闘争での初めての爆弾ゲリラであり、関係者の殺傷を目論む悪質なゲリラとして報じられる。空港建設工事の飯場も放火される。7月15日:千葉地裁が空港公団による「妨害物(農民放送塔・地下壕)排除」の仮処分申請を認め、反対同盟申請の「占有権妨害禁止等仮処分」の申請を却下する。7月16日:ニクソン米大統領が中国訪問を予告。7月26日:15日の千葉地裁認可に基づき、駒井野第16地点に建つ農民放送塔と地下壕への仮処分(敷地は買収済み)が開始される。青年行動隊と支援学生合同でのゲリラ活動が活発に行われ、午前3時には機動隊の車列を先導していたパトカーに農薬を転用した強力な爆弾や火炎瓶が投げつけられ、8時前に木の根地区でロードローラーが火炎瓶によって炎上させられ運転手が負傷、8時過ぎに労務者宿舎3棟が放火で全焼する。午前4時55分に千葉地裁執行官が機動隊に守られながら執行通告し、撤去が開始される。なおこの時、「もっと近くで話せ」と反対派にヤジられた執行官が近寄ったところ、反対派が「黄金爆弾」を投げつけ、屎尿が直撃する。反対派はゲリラ戦法を用いるようになり、午後2時には県道の切通しで千葉県警機動隊の1個大隊が頭上から火炎瓶を集中的に浴び、即座に応援が向かって事なきを得たものの、警察は多数の負傷者を出したうえ犯行集団を1人も検挙できず。立てこもる反対派が火炎瓶や石を投げるなど、30日までの5日間にわたる激しい衝突となる。逮捕者は北原事務局長を含む179人、反対派の負傷者が221人となる。農民放送塔は午後3時前にクレーンによって倒されて後に撤去されるが、この日は地下壕に手をつけられないまま夜11時に「仮処分終了」が宣言される。7月27日:早朝5時30分から公団・機動隊が「地下壕」の撤去に着手。攻防で反対同盟の瀬利副委員長ら106人が逮捕、反対派の負傷者158人。7月28日:炎天下で完全武装で警備する機動隊の中には熱射病で倒れる者も出始め、「地下壕」を一部残したまま作業が打ち切られる。今井空港公団総裁が「執行は終わった。地下壕撤去作業は中止する」と記者会見で語る。この日の反対派の負傷者36人。7月29日:反対同盟が「駒井野砦」で「地下壕戦110時間勝利集会」を開催。7月30日:反対派拠点や各所の団結小屋に家宅捜索。抗議した秋葉哲反対同盟救援対策部長ら5人逮捕、400人が負傷。5日間の逮捕者は291人、警官の負傷者413人。地下壕の撤去が再開され、最後まで立て籠もっていた支援学生ら5人が突撃して機動隊に逮捕される。反対同盟が半年の間人力で掘り進めた横穴は全長100メートルほどもあった。8月3日:「地下壕」に最後まで立て篭もっていた北原鉱治反対同盟事務局長、石井武反対同盟実行役員が令状逮捕される。8月7日:成田警察署長官舎入口で黒色火薬を用いた手製の時限爆弾が爆発し、警視総監公舎玄関にも爆弾が仕掛けられているのが見つかる。同日、7月30日の全日空機雫石衝突事故を受けて、中央交通安全対策会議が「航空安全緊急対策要綱」を決定。民間航路と自衛隊訓練空域の完全分離や民間機優先の方針が打ち出される。8月8日:千葉地裁のトイレでインク瓶に偽装し金属ナトリウムが詰められた爆弾が爆発する。8月14日‐8月16日:天神峰にて屋外コンサート「日本幻野祭」が開催され、1000人以上が参加。主催は青年行動隊。出演は高柳昌行ニューディレクション・フォー・ジ・アーツ、落合俊トリオ、高木元輝トリオ、DEW、ブルース・クリエイション、阿部薫、頭脳警察、ロスト・アラーフ(灰野敬二)他。加藤登紀子が歌う武田節に合わせた婦人行動隊による踊りの披露、ゼロ次元によるパフォーマンスなど。8月16日:ニクソン・ショック。8月18日:丹羽運輸相が反対同盟に会談を申し入れ。反対同盟は24日に拒否を表明。8月19日:空港公団が千葉港から空港までの航空燃料パイプライン輸送ルート(「水道道路ルート」)を公表。本来パイプラインをその地下に埋めるはずの東関東自動車道が完成していないため、このルートでは市街地付近を経由する。これに対しルート沿いの千葉市内の団地住民らが強く反対し、建設工事が難航することとなる。同日、山本公団副総裁が荒木和成千葉市長を訪問し、公式に協力要請。空港公団は関係市町村・議会・住民にパイプライン敷設に係る説明会を実施し、協力要請を継続。荒木の前任の宮内三朗とは、パイプライン建設について予め同意が得られていた。8月26日:国鉄湖北駅付近の無人踏切に消火器に偽装した爆弾が仕掛けられ、無差別テロの兆しが現れる。9月10日:千葉県警が駒井野団結小屋を家宅捜索するも、地下壕入り口がふさがれており全容をつかめず。鉄製櫓、セメント・鉄骨等の資材が押収される。9月11日:千葉県警が天浪団結小屋、芝山町内の支援学生拠点3ヵ所を捜索。作業所の裏山からTNTと書かれたポリ容器が発見される。9月13日:警察庁において、関東管区各警察本部長レベルが出席して第二次代執行の警備実施計画について会議が開かれ、千葉県警が出してきた計9000人を動員する計画に警察庁が難色を示し、3分の2の6400人に動員規模を削減される。9月15日:白昼の茨城大学付近で、翌日の第二次代執行阻止闘争に向かおうとしていた活動家を私服公安刑事が木刀で襲撃する事件が起きる。9月23日、活動家が私服刑事を告訴・告発。 東峰十字路事件で殉職した福島警視の慰霊碑9月16日:5件6筆の建設予定地に対し、第二次代執行が開始される。数百人の「ゲリラ部隊」が各所で後方警備の機動隊を襲撃。神奈川県警から応援派遣されていた臨時編成の特別機動隊が潰走し、逃げ遅れた小隊長を含む隊員3人が火炎瓶による全身火傷・鉄パイプ等での殴打により殉職したほか、80人以上の隊員が重軽傷を負う(東峰十字路事件)。この日の逮捕者375人。佐藤栄作日記:「後藤田国警本部長官は成田でおきた学生の警官殺害事件につき詳細報告。仝時に対策。困った連中。今の処殺害された者三名、重傷者数名あり。取締方法に付き研究を要する」9月16日:中村寅太国家公安委員長が東峰十字路事件について記者会見し、「過激派集団の行動は警察活動に対する公然たる挑戦であり、断固とした態度で対処する」と述べる。9月17日:千葉県警が、反対同盟戸村代表宅や各団結小屋などの反対派拠点並びに都内13ヶ所の党派事務所を「殺人、殺人未遂、公務執行妨害、凶器準備集合罪、爆発物取締法違反」の容疑で一斉に家宅捜索を行う。9月19日:友納千葉県知事が報道陣に対し警備陣の疲れなどを理由に代執行を21日に延期すると発表。これを受け支援学生の主力部隊約3000人が帰京。9月20日:前日の友納千葉県知事の発表に反して、執行班が1000人の機動隊と伴に大木(小泉)よね宅を強制収用。友納知事の会見を受けて、支援者らが引き上げた所を急襲された形となり、よねは住居を撤去されたうえ、前歯を折る怪我。成田空港問題における個人住宅への強制代執行実施は、これが最初で最後となる。抗議した支援者ら90人が逮捕され、負傷者27人。形振り構わない行政の姿勢を目の当たりにした地権者の6,7割が闘争を断念して移転に応じることとなったが、闘争を継続する者に対しては逆に火に油を注ぐことになった。佐藤栄作日記:「今日で成田空港建設の代執行は終了したが、両陛下の御渡欧も近付いてきたので、暴力学生に対して圧力を加へると共に、国民の協力を積極的に求める要あり」9月20日:青年行動隊が主導し、学生集団が大木よね宅への「騙し討ち」への報復として同日夜から翌日にかけて工事関係業者の飯場など20棟を火炎瓶で襲撃して回る。9月20日:第二次行政代執行が終了。代執行期間中の反対派ゲリラは23件、飯場28棟が焼かれ、工事作業員650人が焼け出される。更にダンプカー・ブルドーザー・警察車両等が焼き討ちされるなどして被害総額は3億円を超える。警察発表によれば、動員された機動隊は述べ2万2000人、反対派は1万2945人、逮捕者475人、警察官の死者3人・重軽傷者206人であった(反対派の負傷者は多数とのみ)。9月21日:「地下壕」に立て篭もっていた農民3人が機動隊によって排除され、うち農民1人が逮捕される。機動隊3千人が捜索中に遭遇した反対派支援者ら約60人を連行。その夜、大清水に設営された「野戦病院」に機動隊約100人が突入。深夜、機動隊約500人が環視する中、反対派による飯場への放火で焼け出されて激昂した工事作業員が、無人の千代田団結小屋「市民の家」を放火、全焼させる。9月27日:反対同盟が、友納千葉県知事・川上副知事らを、9月16日の「駒井野鉄塔」撤去に関して「殺人未遂」で千葉地方検察庁に告発する。9月28日:県空港騒音対策室が民家防音現地説明会を開催。秋:パイプライン建設について、荒木千葉市長が山本公団副総裁に「すでに今年の一月から市民の反対運動が起きて、コースの公開、安全の確認を求めてきている。それに対応するために、専門家による安全性調査委員会を作って検討させること。地元への利益還元ということで、消防署、公民館などを作る11億円の環境整備をくれないか。その金をぜひ(昭和)47年度予算に組み込みたい。さもないと、千葉市内11キロを公示する市道占有許可は出しづらい」と述べる。10月1日:青年行動隊員の中心メンバーであった三ノ宮文男が「空港をこの地にもってきた者を憎む」と遺書を残して自殺。10月2日:戸村反対同盟代表らが友納千葉県知事・川上千葉県副知事を訪ね、「自殺者が出たのは代執行を強行した知事の責任だ」と抗議。10月14日:長谷川成田市長が、成田空港に米軍関係施設は一切設置しないよう丹羽運輸相に要望。10月18日:日石本館地下の郵便局で今井空港公団総裁宛の小包が爆発し、郵便局員1人が重傷を負う(土田・日石・ピース缶爆弾事件)。10月19日:三里塚小学校で初の防音校舎が完成する。11月14日:渋谷暴動事件。11月15日:千葉市の特別委員会についてパイプライン建設についての結論を出そうとするも、学生20人がなだれ込み流会となる。学生は警察によって排除される。11月17日:建設中の東関道(富里‐成田区間)で、橋脚にプロパンガスボンベを用いた爆弾が仕掛けられているのが見つかる。爆発は未然に防がれたものの、爆弾は橋脚を吹き飛ばすほどの威力を持っていた。12月1日:「新東京国際空港騒音対策委員会」が設置される。12月4日:パイプライン本格工事着工。12月8日:東峰十字路事件に関して、千葉県警の三警官殺害事件特別捜査本部が青年行動隊員ら11人を別件逮捕。以後、翌年9月まで青年行動隊員・三里塚高校生協議会(反対同盟の高校生グループ‐三高協)・支援者らの連行が相次ぎ、延べ121人が逮捕される。 ===1972年=== 1月8日:天浪共同墓地の移転契約が締結される。1月12日:A滑走路南側のローカライザー局舎が時限装置付き消火器爆弾で爆破される。空港の施設が爆破されたのは初めて。飛行検査妨害を目的としたゲリラであったが、影響は限定的で、飛行検査は予定通り行われる。1月13日:小川明治の遺体の改葬が行われる。天浪地区から遺体が移された後、予め遺族らと墓移転の契約書を結んでいた空港公団が、小川が納められていたコンクリートをバリケード・団結小屋ごと撤去。空港公団は正規の補償額を上回る裏金を遺族らに渡していたという。1月14日:機動隊が守る千葉市議会特別委員会で、航空燃料輸送パイプライン埋設賛成が強行採決される。機動隊の導入は市議会始まって以来。1月15日:13日の撤去に協力した婦人行動隊副隊長であった女性を、反対同盟が糾弾。1月26日:午前0時、空港公団職員3人が天浪共同墓地に残された小川家の墓から遺体を掘り起こして移送。作業に当たった1人が精神に支障をきたし、後に自殺する。同日、今井空港公団総裁が「6月中の開港の見通しがついた」と発表。2月3日‐2月13日:1972年札幌オリンピック。2月8日:日本鉄道建設公団が、成田新幹線のルートを公表。「千葉ニュータウン駅」ができる印西町を除く沿線自治体住民らが反対運動を展開する。2月11日:成田新幹線の工事計画が認可を受ける。2月19日‐2月28日:あさま山荘事件。さらにその後山岳ベース事件が知られることとなり、世間は新左翼過激派の実態に衝撃を受ける。2月21日:ニクソン大統領の中国訪問。2月24日:美濃部東京都知事が成田新幹線と羽田沖拡張案に反対表明。2月28日:反対同盟が、A滑走路南端にある芝山町岩山の畑に航空妨害を目的にした第二鉄塔(いわゆる「岩山大鉄塔」)の工事を始める。3月6日:飛行検査が始まり、航空局の飛行検査用航空機「ちよだ号」が空港上空300メートルを飛行通過する。その後も飛行検査が続けられたものの、反対派が設置した岩山大鉄塔などの障害物によって、ILS着陸ができなくなるなどの一部支障をきたした。3月9日:空港公団と荒木千葉市長が協定書と覚書を締結し、空港公団による11億円(昭和47年度に6億2500万円、昭和48年度に4億8720万円)の支払いが約される。3月12日:反対同盟の「岩山大鉄塔」が完成する。高さは62.26メートルに及び、航空機の進入表面を38.97メートルも上回っていた。3月15日:荒木和成千葉市長が空港公団に市道占有許可を与え、パイプライン工事が開始される。同日、山陽新幹線が開業。3月17日:第2次空港整備5ヵ年計画が閣議決定され、「国際線は成田、国内線は羽田」の棲み分け原則がオーソライズされる。3月25日:千葉県による民家防音工事が始まる。3月27日:「岩山鉄塔」建設を受け、この日から予定されていた飛行検査が中止を余儀なくされる。3月28日:千葉県議会が夜間飛行禁止(午後10時から翌朝7時)の意見書を議決。3月29日:戸村代表ら一行が国交樹立前の中華人民共和国に渡航。各地で熱烈な歓迎を受け、周恩来首相とも面会する。3月31日:空港管理ビルが完成。同日、船橋市に成田新幹線反対の住民組織ができる。4月4日:パイプライン工事に反対する市民7人が千葉市役所に押し掛け、高校生2人がハンガー・ストライキを行うが、警察官に排除される。4月10日:三里塚訪中団が帰国。「田や畑に雑草がない」「中国は道義的には世界一」と団員らは中華人民共和国をべた褒めで、人民公社の民兵を引き合いに自分の地所を自分で守る決意を述べる。なお、この時の中国は文化大革命が実施されている最中である。4月14日:菱田地区の山林で鉄パイプ爆弾が発見される。4月17日:第1回新東京国際空港騒音対策委員会が開催される。空港建設の閣議決定では住民代表を含めて委員会を設置することとされており、運輸省・空港公団・千葉県の他、反対同盟から瀬利誠副委員長(参加資格としては芝山町森林組合役員)が出席。4月18日:空港公団が「開港延期のため1日に2100万円もの金利が流れる」とコメント。5月8日:空港公団がパイプライン建設実施本部を設置。「全ルートを四ヶ月で完成させる」とした。5月11日:友納千葉県知事が都営地下鉄と千葉県営鉄道を空港アクセスに用いることを提案。(→京成成田空港線)5月14日:火炎びんの使用等の処罰に関する法律施行。6月1日:パイプライン設置に反対する千葉市民ら2万5690人の署名で埋設許可取消しの直接請求が千葉市選挙管理委員会に提出される。6月12日:コンコルドがデモフライトで羽田空港に飛来。6月21日:千葉市民、埋設工事禁止の仮処分を申請(7月31日に却下される)。6月26日:航空燃料パイプラインの敷設工事が着工する。7月1日:運輸相通達により、本邦社の定期航空運送事業について国際線を1社、国内線を2社に割り当てるとする45/47体制が確立。7月5日:東峰十字路事件に関して、青年行動隊員12人が傷害致死罪で逮捕され、2人が手配される。以降、同罪状での逮捕が続く。7月7日:田中内閣が発足。7月13日:パイプライン工事の市道占用許可が期限切れとなる。7月28日:自民党交通部会新空港建設小委員会に出席した今井空港公団総裁が、関係者への相談が一切行われていないまま「茨城県鹿島から成田線経由で、千葉からは総武線経由で、ジェット燃料を暫定的に輸送して、(昭和)四十七年度内開港に間に合わせたい」と述べる。一部の新聞で翌日報道され、空港公団に抗議が殺到。7月31日:千葉地裁がパイプライン(水道道路ルート)沿線住民らの工事中止仮処分申請を却下。その際、「なぜ、このルートを選んだのか理解に苦しむ。市、(空港)公団とも住民感情への配慮が欠けている。住民と十分協議せよ」と勧告。8月2日:成田市に空港対策連絡会ができる。8月3日:今井空港公団総裁が、佐々木秀世運輸相に「パイプラインの工事の遅れで年内開港は困難」としたうえで、千葉及び鹿島から成田市土屋までの鉄道による航空燃料輸送(暫定輸送)を検討する旨を報告。代執行のために犠牲者を出した警察や緊急採決をした収用委員会の不興を買う。8月10日:荒木千葉市長が空港公団にパイプライン埋設工事の中止を要請。8月14日:今井空港公団総裁が佐々木運輸相に「関係方面の協力が得られれば、六か月間ですべての懸案を解決できる見通しなので、四十八年三月に開港すべく総力を挙げる」と報告、佐々木運輸相は「暫定措置の採用もやむをえない。明年三月開港をめどに、全力を傾注するよう」指示。同日、今井空港公団総裁が鹿島港からの暫定輸送の実施を荒木和成千葉市長に説明。空港公団と密約をかわしていた消防署や公民館等の環境整備費約11億円の支払いを当てにして(大蔵省の横やりにより支払いが行われないまま埋設工事が進められていた)住民説得に奔走していた荒木は約束を反故にされたことに激怒、佐々木運輸相に工事中止を申し入れ。8月15日:今井空港公団総裁に「(暫定輸送について)事前になんの協議もなく、鹿島港の利用を決め、公表したことは、遺憾であり、厳重に抗議する」との岩上茨城県知事からの至急電報が届く。8月19日:東関東自動車道の千葉‐成田間が全通する。ただし、空港内の道路は強制収用の対象から漏れていた第一期工区内の大木よねの畑によって寸断されていた。8月24日:荒木千葉市長が佐々木運輸相に航空燃料パイプライン埋設工事計画を「水道道路ルート」から変更するよう要請。更に翌年8月には原状回復命令まで求めたため、空港公団は国会で「6000万円で埋めて5900万円で掘り返した」と追及されることとなる。8月25日:佐々木運輸相が友納千葉県知事と岩上茨城県知事に航空燃料暫定輸送措置について協力要請。8月30日:三菱重工爆破事件。8月31日:千葉県警が第二次代執行での「駒井野鉄塔」撤去に関連して公団職員ら6人を書類送検。反対同盟は「殺人未遂での告訴を無視している」と反発。8月末:千葉市がパイプライン建設に関して空港公団とかわした密約を暴露し、「以後、公団は相手にせず」との声明を発表。9月1日:成田市に空港対策室が新設される。9月2日:動労千葉地本青年部が、航空燃料輸送阻止を表明(6日に同地本も同様の表明)。9月8日:「ジェット燃料陸送に反対する成田市民の会」が結成され、タンクローリー輸送への反対活動を行う。9月16日:「第二次代執行阻止闘争一周年・青行隊奪還人民大集会」を開催。6千人の結集。騒音対策協議会(空港周辺住民が組織)がタンクローリー輸送反対を決定。9月17日:千葉市内で激しい反対運動が起きたことや市からの要請により、航空燃料パイプライン敷設工事が中止される。更に千葉市が市道占有許可の更新を行わず工区の原状回復を求めたことや、石油パイプライン事業法が公布され「技術基準細目」への対応を求められたことから、開港までのパイプライン完全供用の望みが潰える。9月20日:成田市が航空燃料のタンクローリー輸送に反対決議。空港公団が燃料のタンクローリー輸送区間を暫定パイプラインに計画ルート変更。友納千葉県知事の斡旋による2回の交渉と十数回の事務レベルの接渉を経て、空港公団が「三里塚空港から郷土とくらしを守る会」と空港を軍事利用をしないことや百里基地の空域縮小等を約した『航空公害に関する交渉覚書』を締結。9月22日:三里塚平和塔の遷座式。東三里塚の旧三里塚ゴルフ場に移転。9月27日:空港公団が航空燃料輸送方針として、土屋に設けられる石油基地から空港までの輸送は暫定パイプラインを用いるが、その供用開始まではタンクローリーを用いることを決定。9月28日:日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明調印(日中国交正常化)。秋:数名の反対同盟農民が空港予定地内で有機農法を始める。10月2日:三里塚平和塔撤去作業を開始。撤去は11月17日に完了。10月3日:友納千葉県知事が県議会で暫定輸送に反対する地元の考えを支持。同日、青年行動隊20人が保釈。10月5日:原案の暫定輸送では市内にタンクローリーが走ることとなるため、長谷川成田市長が佐々木空港公団総裁に暫定輸送反対を申し入れ。佐々木総裁はタンクローリー区間をパイプラインに計画変更することを表明。10月9日:友納知事が特別立法等の騒音対策を田中首相に陳情。11月14日:運輸省が翌年1月からの羽田空港乗り入れ便数凍結を発表。11月19日:成田市土屋開発協議会が、地元や沿線住民に迷惑をかけないことを条件に、暫定パイプライン用の貯蔵タンクと燃料積み出し施設の建設に同意し、契約が締結される。一方、沿線の山之作地区の住民らが「事前にルート住民への説明会を開く」としていた空港公団が個別訪問を行ったことなどから計画に反発。11月12日:東峰十字路事件第1回公判。この間、反対同盟からの逮捕者のべ139人、保釈金1350万円。11月25日:京成電鉄の京成成田駅‐成田空港駅(現・東成田駅)区間が完成する。12月1日:空港公団が土屋地域開発協議会と専用線用地を燃料輸送用に併用することについて協定を締結。12月12日:住民らの強い要望を受け、要望第2回新東京国際空港騒音対策委員会が開催されるが、新委員18人の紹介のみで終わる。12月14日:A滑走路北側の航空保安施設に対する飛行検査が開始される。12月21日:今井総裁、年度内開港の断念を発表。 ===1973年=== 1月:田中首相が佐藤文生運輸政務次官の報告を受け、自ら本格パイプラインの敷設計画図に線を引く。その際、田中首相は「成田は失敗だった」「この二倍ぐらいのものを作っとかなきゃダメだった」と述べたという。1月6日:成田用水土地改良区の設立が認可される。1月9日:新東京国際空港騒音対策委員会の成田地区委員が成田部会を結成。1月12日:空港公団が、山之作住民に対する暫定パイプライン建設の説得仲介を長谷川成田市長に依頼。1月20日:青年行動隊が『執念城』を発行。1月24日:空港公団が暫定パイプラインの埋設許可を成田市に申請するが、「工事方法・期間・住民対策などの説明がなく住民の誤解を招く」として拒否される。1月29日:ニクソン米大統領が米国民に「ベトナム戦争の終結」を宣言。2月1日:第10回関係閣僚協幹事会が開催され、早期開港へのめどをつけるための関係省庁の協力と航空燃料暫定輸送体制の確立(鹿島ルートの早期整備・暫定パイプラインの即時着工)を確認。本格パイプラインの整備については、運輸省・空港公団が中心となって、関係各省及び地元地方公共団体との間で協議を進め、早急に方針の確立を図るとする。2月8日:移転農家らが成田空港転業対策協議会を結成。2月14日:第3回新東京国際空港騒音対策委員会が開催される。3月7日:暫定パイプラインについて、空港公団による安全性の保証・地区への水道敷設及び消火栓設置・ルートの一部変更が約されたことにより、山之作地区住民らが成田市の斡旋を受諾。3月12日:空港公団・成田市・山之作地区が暫定パイプラインの覚書を締結。上水道や消防設備の設置などが謳われる。同日佐藤文生運輸政務次官が岩上茨城県知事を訪ね、「山之作との合意により暫定パイプラインについては着工の見通しがついたので、鹿島港使用について協力を得たい」と申し入れ。岩上知事は4条件(茨城四条件、後述)をあげて「これが解決するなら、国家的事業でもあるので協力する」と回答。3月23日:午前3時頃、京成成田空港線の跨線橋に仕掛けられた消火器を改造した爆弾が爆発し、橋げたに直径1メートルの穴が開くとともに付近の民家も被害を受ける。試運転の妨害を目的としたものと考えられる。3月28日:空港公団が成田市にパイプラインの申請を再提出し、受理される。同日、2月23日に起きた踏切事故を契機に佐原市議会が暫定輸送反対を決議。3月31日:一期地区内の施設が概ね完成する。4月7日:成田市議会が社会党が提案した「空港パイプラインのための市道占有許可反対」を不裁決。機動隊が導入され、審議妨害を図った学生らのうち警察官を暴行したかどで1人が逮捕される。4月14日:寺台地区の区長が、佐藤文生運輸政務次官に暫定パイプライン向け入れにあたっての要望を申し入れ。4月16日:佐藤文生運輸政務次官が秘密裏に研究していた本格パイプラインの新ルート(千葉港‐海浜埋立地の先端‐花見川河口‐川底‐東関東自動車道)を荒木千葉市長に提案。4月30日:A滑走路が完成。5月2日:運輸省・空港公団・寺台地区が暫定パイプラインの協定書を締結。国道51号の4車線化及び国道295号との立体交差化の早期実現などが謳われる。5月10日:空港公団が二期工事区域内の手つかずであった民家・立木・団結小屋など地上物件を対象に、土地収用法に基づく強制立ち入り調査を開始。機動隊約1000人が支援。反対派がスクラムを組むなどして対抗したため、途中で航空測量に切り替えられ、調査は2日間で終了。地上物件の収用採決申請の期限(事業認定から4年以内)が、12月15日に迫っていた。同日、長谷川成田市長及び成田市議15人が、田中首相に航空機騒音対策や道路整備など空港関連事業の実施を陳情。5月14日:誘導路が完成。5月22日‐23日:社会党県議小川国彦らを請求代表者とする「成田市航空燃料輸送の安全確保に関する条例案」について、成田市臨時市議会で徹夜の審議が行われる。傍聴席からのヤジや揚げ足取りで議事が妨害され、動員された警察官110人により傍聴人100人が排除される。野党議員6人が審議拒否し、不採択となる。5月25日:暫定パイプライン敷設に関する協定を成田市と空港公団が締結。5月26日:成田市が暫定パイプライン敷設工事のための市道占有許可を出す。5月30日:空港公団が成田市に「市道整備費」1億100万円を支払う。6月:河川法を理由に本格パイプラインの新ルートに建設省河川局が難色を示したのに対し、佐藤運輸政務次官の相談を受けた田中首相が建設省に協力を指示。6月4日:学生ら約40人が、空港公団が申請した農地転用を許可した芝山町農業委員会の委員長宅に押し掛け、脅迫・暴行をする。2人が逮捕。6月16日:鹿島・神栖・潮来の3町の10住民団体が「ジェット燃料輸送反対連絡会議」を結成。6月18日:銚子市議会で、嶋田隆市長が成田空港発着航空機の銚子上空飛行反対を表明。1970年3月のVORTAC設置時に銚子上空は飛行させないと約束した運輸省が、飛行コースに係る報道や市の問い合わせにもあいまいな態度をとり続けたことから。6月23日:暫定パイプライン敷設に関し、千葉県と空港公団が協定締結。6月24日:前職の寺島孝一死去に伴う芝山町長選挙が行われ、反対同盟の内田寛一行動隊長が出馬するが、空港推進派の真行寺一朗に敗れる。6月24日:空港反対派の小原子団結小屋で盗聴器が発見される。そのコードは条件賛成派の家に繋がっていた。反対同盟は千葉県警に抗議。6月25日:鹿島町議会が暫定輸送反対を決議。6月27日:神栖町が暫定輸送反対を決議。7月19日:千葉市稲毛区の団地集会所で本格パイプライン敷設についての座談会が開かれ、佐藤運輸政務次官・社会党の木原実衆院議員・空港公団・パイプライン沿線住民ら100人が参加。インテリの多い住民との意見交換は専門的な質問が相次いで深夜まで及び、互いの主張は平行線をたどるが、座談会終了後に住民らに紳士的に送り出された佐藤は手ごたえを感じる。7月20日:ドバイ日航機ハイジャック事件が発生。人質解放解放までの間、佐藤運輸政務次官は現地での事件対応を余儀なくされる。8月1日:空港公団が成田市に騒音相談室を設置。8月10日:物件調書を作成した空港公団が地権者・関係者らに電報で通知し、調書への署名・押印を求める。北原反対同盟事務局長らが副本を持ち帰ることを要求し拒否した空港公団と小競り合いとなり機動隊100人により反対派が排除される。反対同盟の署名拒否により、成田市・千葉県(住民との摩擦を恐れる芝山町が代行を拒んだため)が代行署名。空港公団の通知により土地の存在を知り遺産を受け取れることを期待して現地まで訪れた地権者の遺族が、故人が一坪地主であったこと判明して肩を落として帰る一幕もあった。同日、潮来町議会が暫定輸送反対を否決。9月17日:岩上二郎茨城県知事が田中首相を訪ね、暫定輸送問題について、(1)暫定輸送は3年間に限る(2)安全対策・住民対策の確立(3)飛行コースは鹿島工業地帯上空を避け、騒音対策を実施(4)首都圏整備法の順守 の4条件(茨城四条件)を提示。10月1日:暫定パイプライン工事の測量・ボーリング調査が始まる。その後、農地法上必要な農地転用許可申請をしていないことが発覚し、10月26日に作業が中断する。10月5日:反対同盟主催の「三里塚大政治集会」を日比谷公会堂で開催。「岩山鉄塔十万人共有化運動」が提起される。10月6日:第四次中東戦争勃発(第1次オイルショック)。10月29日:「岩山鉄塔」付近の農道で、鉄塔防衛隊員の山口義人が機動隊員らに暴行を受けて一時重体に陥る。山口は、のちに千葉県警に対して国賠訴訟を起こし、東京高裁で1978年11月24日に勝訴。11月25日:内閣改造により佐藤文生が運輸政務次官の職から離れるが、成田空港問題への佐藤の働きを評価する水田三喜男政調会長の計らいで自民党内に設けられた「臨時成田空港建設促進特別委員長」のポストを宛てがわれる。11月6日:反対同盟代表である戸村一作が、翌年の参議院議員選挙全国区への立候補を表明。 同月、選挙戦支援組織として「三里塚闘争と戸村一作氏に連帯する会」が結成され、宇井純・浅田光輝・小田実・羽仁五郎、荒畑寒村、水戸厳、松岡洋子、末川博らが参加。同会は議会主義を否定し実力闘争を掲げる組織であり、のちに「三里塚闘争に連帯する会」と改称して活動を継続する。同月、選挙戦支援組織として「三里塚闘争と戸村一作氏に連帯する会」が結成され、宇井純・浅田光輝・小田実・羽仁五郎、荒畑寒村、水戸厳、松岡洋子、末川博らが参加。同会は議会主義を否定し実力闘争を掲げる組織であり、のちに「三里塚闘争に連帯する会」と改称して活動を継続する。11月25日:徳永正利が運輸大臣に就任。同日、新東京国際空港に係る事務の調整を徳永に担当させることも決定。11月30日:空港公団が県収用委員会に二期地区の収用裁決を申請。しかし、開港もままならない中、委員会は審理手続きに入らなかった。12月4日:自民党が臨時成田空港建設促進特別委員会を設置。12月17日:1971年の第二次行政代執行で自宅を強制収用された大木(小泉)よねが死去。享年66。12月22日:石油パイプライン事業法に基づく建設省認可を受け、成田市土屋から空港までの暫定パイプラインの埋設工事が始まる(実際の工事は翌年1月19日)。その後も立坑からの湧水や近隣民家での井戸枯れなどのトラブルが起き、その都度工事が中断する。12月27日:航空機騒音に係る環境基準が告示される。12月28日:空港関連業者が開港促進を運輸省に陳情。12月30日:「スカイライナー」用車両の京成AE形電車が、上野から成田までの暫定運転を開始。 ===1974年=== 1月17日:今井空港公団総裁が岩上茨城県知事に暫定輸送計画の早期実現について協力要請。1月19日:暫定パイプライン工事が再開。2月13日:瀬利反対同盟副委員長が火事で自宅・作業小屋等を失う。負傷者はいなかったものの、これがきっかけで瀬利の闘志が失われたとされる。2月16日:暫定パイプライン工事の根木名川横断工区で湧水現象があり、工事中断。3月23日:徳永運輸相が、日本航空・全日空・東亜国内航空の3社に対して伊丹空港便の減便を指示。3月27日:騒防法が改正され、一般民家の防音工事に対する助成や空港周辺の緑地帯の整備などが盛り込まれる。同法に基づき、空港公団が住宅の騒音防止工事の助成を開始する。3月28日:第4回新東京国際空港騒音対策委員会が開催される。4月2日:暫定パイプライン工事が再開される。4月20日:1972年9月の国交樹立を経て日中航空協定が結ばれ、中国民航の成田乗り入れが決まる。2年前の訪中で反対運動への中国共産党の支持を得たと理解していた反対同盟では失望が広がる。4月26日:暫定パイプライン工事の影響で井戸枯れや水質汚濁が発生し、使用した土壌凝固剤の安全性が確認されるまでの工事の中止を成田市が命じる(翌日から中断)。5月7日:千葉県土木部が暫定パイプラインの根木名川横断工事中止を命じる(翌日から中止)。5月14日:暫定パイプライン工事による被害を受けて、空港公団が成田市水道局とともに山之作地区及び寺台地区の35世帯に飲み水の給水を開始。5月15日:三里塚区及び三里塚商友会が、空港建設にかかわる生活環境の改善に関して市に要望書を提出。5月20日:銚子市議会が「銚子上空飛行コース反対、銚子ボルタック撤去」を全会一致で決議。更に後に、革新系無所属の中里栄一市議が田中首相に直訴状を渡そうとしたり「ボルタック爆破」を唱えるなど騒動となる。5月23日:パイプライン工事沿線住民が「凝固剤を含んだ土の撤去と薬液注入工法の禁止」を求める仮処分申請を千葉地裁に提出。5月30日:芝山町農業委員会が航空保安施設建設道路用地の農地転用許可。7月7日:第10回参議院議員通常選挙。「世直し一揆」を掲げて全国区に立候補した戸村一作は23万票を獲得したが落選。この「選挙闘争」で、戸村陣営の運動員のべ11人が逮捕される。自民党は巨額の資金を使った選挙戦を展開したが「金権選挙」の批判を受けて苦戦し、伯仲国会となる。7月29日‐8月9日:空港周辺地区住民健診が行われる。7月30日:大塚茂空港公団総裁が就任。「開港はナムサン(1976年3月)」と述べる。10月1日:航空局に新東京国際空港開港推進本部が設置される。10月9日:田中金脈問題を文藝春秋が報じる。10月10日:反対同盟主催で「空港粉砕全国総決起集会」を三里塚第二公園で開催。5千人が結集。第四インター系の「共青同(準)武装行動隊」がデモの途中で第5ゲートから空港に突入を図り、国道296号線にバリケードを構築して機動隊と衝突。一部が丸太でゲートの扉をつくなどして空港に侵入し、警察車両1台が損傷する。警察官への体当たりや旗竿による暴行などのかどで、全体のデモと合わせて9人の逮捕者。10月25日:安全確認の末、成田市が暫定パイプライン工事再開を許可。10月19日:第5回新東京国際空港騒音対策委員会が開催される。11月1日:暫定パイプライン工事が再開。12月9日:三木内閣が発足。12月18日:午前1時過ぎに朝日新聞本社に「午前2時に成田空港を爆破する」との予告電話があり空港内を捜索したところ、警備員が機内食工場裏で時限爆弾を発見。爆弾は起爆装置が二重化されているなど精巧なものであった。上赤塚交番襲撃事件で活動家が射殺された1970年以降、12月18日には連続で爆弾事件が発生しており、前年には警察幹部宅が、前々年には交番がそれぞれ狙われている。 ===1975年=== 2月28日・4月28日:間組爆破事件。3月20日:空港用地提供者らが成田空港周辺対策協議会(200人)を結成。3月27日:石橋反対同盟副委員長ら農民42人が、土地収用妥当性についての建設大臣宛「公開質問書」を提出。4月7日:暫定パイプラインが空港内給油施設と接続。4月9日:成田空港周辺対策協議会が早期開港を要望。4月27日:戸村代表の後任として成田市議会選挙に出馬した北原事務局長が当選。同日行われた成田市長選挙で長谷川録太郎が再選。4月13日:川上紀一が千葉県知事選挙に当選(4月17日就任)。4月15日:1975年東京都知事選挙で美濃部が石原慎太郎を降し3選。4月30日:サイゴン陥落(ベトナム戦争集結)。5月16日:大塚空港公団総裁が航空燃料暫定輸送についての協力を竹内藤男茨城県知事や神栖町と鹿島町の町長・議長に要請。5月24日:定期大会を開催した成田市職員組合が空港建設反対を掲げる成田地区労に背き、市の財政悪化を理由に「空港早期開港促進」を大会スローガンに採択。5月27日:木村睦男運輸相が航空燃料暫定輸送についての協力を竹内茨城県知事や神栖町と鹿島町の町長・議長に要請。6月4日:前年2月に開港促進に方針転換した成田市職員組合の委員長がサンケイ新聞オピニオン欄で「(空港関連事業への支出がかさんだ結果)職員の生活向上が望めないので組合としては開港促進を打ち出さざるを得なかった」と述べる。6月9日:第11回関係閣僚協幹事会が開催され、空港建設の現況と問題点(燃料輸送・妨害鉄塔・アクセス問題、騒音対策等)について話し合われる。6月13日:暫定輸送沿線(鹿島・神栖・潮来)住民らの連絡協議会が木村運輸相を訪問し、燃料基地建設撤回の申し入れ。6月30日:土屋から空港までの暫定パイプライン(約3km)が完成。7月12日:千葉県議会が開港促進決議。7月14日:木村運輸相が川上千葉県知事に、「茨城県側が暫定輸送を3年間に限定と希望しているので、千葉港‐成田空港の本格パイプラインに協力してほしい」と依頼。7月15日:木村運輸相が竹内茨城県知事を訪ね、「茨城県が要望している四条件は、政府が責任をもって解決に当たるので、暫定輸送実現に協力してほしい」と要請。これに対し竹内知事は正式文書での回答を求める。7月20日:千葉市民が1万人余による本格パイプライン工事差止めを求めるマンモス訴訟を千葉地裁に提起。7月23日:長谷川成田市長らが三木武夫首相・木村運輸相・大塚空港公団総裁に開港促進を要望。三木首相は「明るい見通しがある」と答える。成田空港転業対策協議会が国や県などに対し早期開港及び救済融資を要望。8月18日:木村運輸相が荒木千葉市長を訪ね、本格パイプラインを巡る不手際を謝罪したうえで協力を要請。荒木千葉市長は「茨城県からの、(暫定輸送の)通過各市町村の了承取り付け作業の進捗は、どうですか?」と矛先を転じ、具体的な進展はなかった。水道道路ルートのパイプライン撤去が約束され、空港公団が翌年1月16日から着手。8月27日:荒木千葉市長が木村運輸相に「本格パイプラインの千葉市内新ルートを政府が提案すれば検討する」と回答。8月28日:第12回関係閣僚協幹事会が開催され、暫定輸送について話し合われる。8月29日:第9回関係閣僚協が開催され、1973年9月17日に茨城県が提示した暫定輸送に係る4条件の受け入れを了承。木村運輸相からの回答書を得た竹内茨城県知事が神栖・鹿島両町長を招き、国家プロジェクトへの協力を要請。同日、「新東京国際空港への航空燃料の暫定輸送」が閣議決定。鹿島港経由の輸送期間は開始後3年以内とされる。同日、社会党・動労等が「千葉ジェット燃料輸送反対連絡会議」を結成。9月5日:空港関係労組10組合(13300人)が、「成田空港対策労働組合連絡会」を結成し、運輸省・空港公団に早期開港を陳情。10月3日:鹿島町議会が暫定輸送について条件付き賛成に転換。10月9日:「北総農民天誅組」と書かれたビラを持つ男が成田市役所に押し入り、市職員組合委員長に2リットルの屎尿入りビニール袋を投げつける。10月11日:神栖町議会が暫定輸送反対決議を撤回して「ジェット燃料輸送条件付賛成」を決議、他の自治体もこれに続く。10月12日:反対同盟が「空港粉砕全国総決起集会」を三里塚第二公園で開催し、4500人が集う(関西新空港反対同盟・茨城県鹿島町公害対策協議会、横浜新貨物線反対同盟、茨城県高浜干拓反対同盟等も参加)。デモで逮捕者5人、反対派に数十人の負傷者。10月17日:9日の屎尿投げつけに関し、岩山地区の農学連団結小屋に常駐していた活動家が公務執行妨害容疑で逮捕される。活動家は完全黙秘を貫き、11月1日に処分保留のまま釈放される。11月27日:大阪空港訴訟で、大阪高裁が伊丹空港の夜間利用差し止め等を認める判決。12月:瀬利反対同盟副委員長が、団結小屋や公民館に提供している箇所を除き、土地をすべて空港公団に売却。12月10日:会計検査院が昭和50年度決算検査報告書の中で、「特に掲記を要すると認めた事項」として新東京国際空港の開港の遅れなどについて指摘。12月12日:10月の屎尿投げつけでの学生逮捕に抗議する街宣車が職質を掛けようとしたパトカーに接触し、運転していた学生が逮捕される。 ===1976年=== 1月8日:運輸省が新東京国際空港4000メートル滑走路についての騒音区域の指定を告示。同日、岩波鉄塔撤去の工事が近いと考える反対同盟が岩波鉄塔で新年会を開き、結束を誓う。2月4日:アメリカ上院議会の公聴会でロッキード事件が発覚。2月6日:第6回新東京国際空港騒音対策委員会が開催される。2月10日:機動隊員の宿舎建設着工。2月15日:芝山町議会選挙が行われ、瀬利反対同盟副委員長が3選。2月18日:岩波鉄塔撤去の動きを察知した反対同盟が鉄塔前の産土参道にバリケードを築く。また、反対同盟はこの他に第2鉄塔に空中団結小屋を設置するなどして鉄塔撤去への対抗策を講じる。2月22日:廃校となった岩山小学校跡に3500人が集まり、「鉄塔撤去道路建設阻止緊急現地総決起集会」が開かれる。2月25日:空港公団が岩波鉄塔撤去のための道路建設工事(名称は「航空保安施設建設用道路」、通称C工区)を再開。バリケードを撤去しようとする機動隊と防衛する反対派が衝突し、機動隊14人と学生ら39人が負傷。48人が逮捕される。4月5日:四五天安門事件。4月20日:読売新聞が瀬利反対同盟副委員長の土地売却を報道。4月27日:香山新田地区に残る唯一の農家でもある瀬利副委員長が空港公団に土地を売却していたことが判明し、反対同盟幹部会は瀬利を除名。瀬利は反対同盟の決定に従い、芝山町議員も辞職。「なぜ事前に事前に相談してくれなかったのか」との戸村代表の問いに瀬利は「相談しても聞いてもらえたでしょうか」と答えるのみだった。八街町へ移転した瀬利が闘争用に残した土地は、熱田一に移転登記される。副委員長脱落の事態を受けた反対同盟は、空港公団との個別交渉の禁止や用地内外の住民の交流を深めることに加えて、新たに団結小屋3戸を作ることを決定。5月25日:大塚空港公団総裁が「日仏空港シンポジウム」の席上で、暫定輸送・鉄塔の問題から1976年度内の開港が事実上困難になったと言明。6月:「三里塚微生物農法の会」が発足し、有機農法に対する取り組みが反対同盟内に広まる。7月20日:空港公団が鹿島石油と暫定輸送に係る協定を締結。7月21日:関係閣僚協幹事が航空燃料暫定輸送(鹿島ルート)に係る協定について了承(情報漏えい防止のため、幹事会は省略)。7月22日:航空燃料暫定輸送(鹿島ルート)について、茨城県と地元3町(鹿島町・神栖町・潮来町)が運輸省の協定書に調印。調印書には東関道鹿島線の早期開通や国鉄鹿島線を水戸まで延伸などの地元要望も含まれていた。地元要望の58項目をほぼ丸呑みした形。9月1日:成田青年会議所が、成田市民の過半数が現状での開港に反対とするアンケート調査結果を発表。9月3日:航空燃料輸送に関して茨城県側が獲得した見返り対策に比べて成田市への対策が不十分なことに不満を持った自民党の大竹清県議が、騒音対策などが解決されない限り開港を認めないとするチラシを配布。成田空港転業対策協議会などが、早期開港を望んでいるにも関わらず勝手に名前を使われたとして抗議。9月6日:ベレンコ中尉亡命事件。9月9日:毛沢東死去。9月25日:三里塚微生物農法の会・ワンパックグループが、有機栽培による野菜の産地直送を始める。10月1日:政府が第3次空港整備5ヵ年計画(昭和51‐55年度)を決定。10月3日:エプロンが完成。同日、「十月集会」が三里塚で開かれ、デモ隊と機動隊が衝突。水俣病患者協議会副会長の川本輝夫を含む62人が逮捕される。10月6日:中華人民共和国での文化大革命が正式に終了(四人組失脚)。10月10日:航空灯火が完成。10月12日:空港内の給油施設が完成。10月21日:暫定輸送用鹿島基地施設工事着工。10月25日:暫定輸送(鹿島ルート)の千葉県側沿線自治体(佐原・成田・神崎・下総)が、共通の受け入れ条件11項目(化学消防車配備・踏切整備・東関道延伸・水郷大橋4車線化 等)を運輸省・空港公団に提出。更に佐原市が国鉄駅舎・駅前広場の整備、下総町が騒音区域の拡大、神崎町が踏切拡幅等を求める。成田市の要望は項目が多いため翌年持越し。11月8日:川上千葉県知事が、石田博英運輸相と会い、(1)東京湾岸道路の整備(2)国鉄成田駅と国道51号を結ぶ連絡道路完成(3)成田市内の国道51号4車線化(成田拡幅)(4)国鉄成田線、佐倉‐成田間の複線化(5)国鉄成田駅の橋上化 といった、28項目の要望書を提出。11月2日:英仏政府がコンコルドの製造中止を発表。11月25日:空港公団が騒音区域に係る住宅移転対策について基本方針決定。12月:国鉄動力車労働組合(動労)の中央委員会で、動労千葉地本がジェット燃料貨車輸送阻止闘争を緊急動議、可決される。12月5日:第34回衆議院議員総選挙(ロッキード選挙)。自民党の公認候補当選者数が衆議院での過半数割れ(結党以来初)。この選挙結果を受け、三木首相は退陣を表明(三木おろし)。12月20日:岩波鉄塔周辺に住む反対派農家12戸と鉄塔撤去を急ぐ空港公団とで秘密裏に進めていた移転交渉が妥結(25日調印)。”集団脱落”は代執行後初めて。12月22日:成田市議会が「成田市航空機公害防止条例」を可決。航空機公害に絞った条例は全国初。内容について千葉県が地方自治法違反の疑いを指摘したが、条例はそのまま翌年1月1日に施行。12月24日:福田赳夫内閣が発足。福田首相は「さあ、働こう内閣だ」と述べ、歴代内閣の懸案事項解決に意欲。12月28日:福田首相が田村元運輸相に「君の仕事は成田だよ。来年の内政の目玉だからね。つぎの閣議で経過報告してくれよな」と伝える。 ===1977年=== 1月8日:福田内閣への念押しとして、川上千葉県知事が田村運輸相に前年11月8日に提出した28項目の要望書(「新東京国際空港の開港にあたっての要望書」)を再提出。1月11日:田村運輸相が閣議で「順調にいけば、秋ごろには開港できる」と報告。福田首相が「建設開始から十余年がたつのに、工事が進まないのは困る。関係省庁が協力し、地元ともよく相談して、早急に開港させてほしい」を指示。反対派は緊張を高め、鉄塔問題・暫定輸送問題・飛行検査・完熟飛行・ノータム(航空情報)発出・燃料備蓄等の課題が山積する関係官庁や空港公団は解決に躍起になる。1月14日:川上千葉県知事が県選出自民党議員らとともに福田首相に28項目の要望書を重ねて提出。空港対策の観点からも交通問題を万博並みの突貫方式で解決することを訴える川上知事に対し、福田首相は「地元の意向はよくわかった」と答えた後、同席する田村運輸相に「千葉県だけにまかせず、国が責任をもってやれ」と発破をかける。この際、道正邦彦官房副長官に「これが全部満たされなくては開港に同意できない、ということでしたら、総理に合わせるわけにはいかない」と釘を刺された川上知事は、国が本気で開港を目指していることを悟る。1月15日:過激派が真行寺芝山町長宅を襲撃、発煙筒を投げ込んだうえ、鉄パイプ等で自動車や玄関を損壊。これを受けて自宅前に臨時派出所が設置される。1月17日:1年8か月ぶりに関係閣僚協が開催され(決裁上の名称は単に「会合」)空港問題について協議。出席した福田首相が「東京オリンピックのときのように、一致協力して、年内には一番機を飛ばせてほしい」と意欲を示し、長谷川四郎建設相は「懸案の東京湾岸道路は、突貫工事を指示、五十二年度末の目標を繰り上げ完成させる」、小川平二自治相は「地元対策には万全を期す」、坊秀男大蔵相も「予算的措置には責任を持つ。今の東京湾岸道路の追加支出については引き受けた」と積極的な発言が相次ぐ。最後に、出席した福田首相が「有言実行を唱える福田内閣がこう言った以上は実現しなければならない」と檄を飛ばす。これまでに閣僚協に首相が出席した事例は少なく、成田開港に対する福田の決意の現れであった。1月19日:「岩山鉄塔」の西側まで撤去用道路(D工区)を伸ばす工事が着工する。工事を防衛する機動隊3500人と投石を行う支援学生ら1000人が対峙し、2人が逮捕。以降も機動隊の警護と反対派との衝突が続き、工事が終わるまでに機動隊は延べ約5万人が出動し、逮捕者は11人に上る。2月4日:パトロールをしていた青年行動隊2人が「道交法違反」で逮捕される。2月6日:「鉄塔防衛全国総決起集会」開催。2月10日:成田市が開港を認める条件として45項目もの要望を運輸省と空港公団に提出。前年11月8日に川上千葉県知事が運輸省に出した28項目と重複するものも多かったが、「納得できない回答ならこれまでの開港に協力した態度を改める」と強気の姿勢。2月20日:千葉市内での三里塚集会でデモの際3人逮捕。2月21日:「岩山鉄塔」の周囲を公団が鉄条網で封鎖する工事を開始。抗議した1人が逮捕。2月24日:共同通信会館の空港公団本社トイレ内で警備員が不審な段ボールを調べたところ、突然火を噴きだす。すぐに消し止められけが人はなかったが、空港公団本社を狙うテロは初。27日に三里塚で開催された反対派集会で革労協が犯行を認める。2月27日:空港公団副総裁宅で時限式発火装置が作動。中核派が犯行声明。3月8日:「岩山鉄塔」防衛隊員1人が逮捕。3月9日:芝山町が開港の条件として(1)夜間早朝の飛行禁止(2)京成電鉄空港線の芝山延伸(3)平行・横風滑走路の騒音対策実施等 11項目を運輸省・空港公団に提出。3月11日:大栄町で機動隊に擬装した革労協がD工区の工事現場に向かっていたダンプカーを停止させて放火。運転手は無事だったが車は全焼。3月15日:第1旅客ターミナルビルが完成。3月29日:芝山町の朝倉地区で捜査中の私服警官が過激派に暴行される。4月8日:東峰十字路事件で指名手配となり5年間逃避行を続けていた容疑者が、千葉市内で記者会見を開いて「権力側がいつまでも逮捕しに来ない。一度つかまってから反対闘争に再登場する」と語り、再び姿を消す。4月9日:前日に記者会見を開いた容疑者が東峰地区の仲間宅を訪ねたところを逮捕される。4月13日:成田市内の暫定パイプラインの制御監視塔が火炎瓶で襲われる。4月17日:「鉄塔防衛全国総決起集会」に闘争史上最大の2万3千人(警察発表では1万1750人)が結集。「三里塚で内乱を起こす。それは暴動だ」と挨拶した戸村反対同盟代表は「異議なし」の大歓声に包まれる。代表デモで逮捕者7人。反対派の負傷者100人以上。革マル派は水本事件とも関連付けて京葉道路に重油を撒くなどの集会への妨害活動や批判を行い、革労協が集会中に浦和車両放火内ゲバ殺人事件の犯行を認めるビラを配布。機動隊5000人が動員され警戒に当たる。4月18日:17日のデモの件で団結小屋4ヶ所に家宅捜索。これに対し、反対同盟は21日に告訴を発表。4月25日:運輸省・千葉県・千葉県側自治体(佐原市・成田市・下総町・神崎町)が、暫定輸送(鹿島ルート)に関連する協定書に調印。国は十分な安全対策に加えて道路整備促進(東関道鹿島線・国道51号線・国道356号線バイパス)や成田線の利便性向上に努めることを約し、自治体の首長らは必要な用地取得等について住民の協力が得られるよう努めるとされる。4月26日:岩山鉄塔を補強・要塞化する工事が始まる。5月1日:D工区工事が終わり、岩波鉄塔撤去までの作業道路が完成。5月2日:空港公団が岩波鉄塔を航空法違反建造物として撤去仮処分の申請を千葉地裁に行う。5月4日:千葉地裁が岩山鉄塔撤去仮処分を決定。5月6日:午前3時に機動隊が「岩山鉄塔」を急襲して宿泊していた支援学生ら7人を排除し、航空法違反物件の現場検証を行う。午前5時頃に支援学生ら120人が規制線の突破を試みるが、機動隊は約20発の催涙ガス弾や放水を用いて寄せ付けず。午前8時38分に仮執行が出されて撤去作業が開始され、2基ともに撤去される。マスコミの監視が減るゴールデンウイークの日並びや新聞休刊日も考慮して綿密な作戦が立てられ、田村運輸相にも当日実施が伝えられるほど徹底した秘密保持の下で、2500人の機動隊や格納庫に隠匿していたクレーン車5台が動員されて行われた撤去であった。16人が逮捕。反対派の負傷者33人。町田直空港公団副総裁は記者会見で「一人のケガ人も出ない方法としては、こういうやり方が一番よかった。批判は覚悟しているが、国民も納得してくれると思う」と語る。反対同盟は、「仮処分」に対する「異議申し立て」を提出する。報復として、共同通信会館の空港公団総裁室に鉄パイプで武装した中核派3人が乱入して逮捕される事件が同日発生した他、空港周辺では8日まで火炎瓶を用いた放火ゲリラが相次ぐ。革マル派は「権力とのなれ合い」と反対同盟を批判。5月6日:北原反対同盟事務局長が鉄塔抜き打ち撤去抗議集会の8日実施を届け出、県警は県公安条例で定められた期限を満たしていないとして不許可。5月7日:「岩山鉄塔」撤去への”抗議行動”(投石、アウターマーカーや航空保安協会研修センターへの火炎瓶投擲、空港ゲート襲撃等)で、25人逮捕。反対派18人負傷。同日、飛行検査が開始され、運輸省のYS‐11型検査機「千代田号」が初めて空港に降り立つ。同日夕、無届の集会が空港ゲート近くの芝山千代田で開催されることを懸念した県警が方針転換し、戸村代表・北原事務局長の家に近い三里塚第2公園での開催であれば8日の集会を認めることとしたが、反対同盟に伝わらず。5月8日:芝山千代田で「岩山鉄塔」撤去抗議集会が開催された結果、機動隊との大規模衝突となる(いわゆる「5.8戦闘」)。反対同盟の「野戦病院」の前でスクラムを組んでいた支援者の東山薫が、機動隊員が水平撃ちしたガス弾を受け重傷、2日後に死亡(東山事件)。衝突で逮捕者33人のうち15人に殺人未遂罪。負傷者327人うち入院3人。翌日にかけて千葉中央署の宮野木派出所・石神井署西大泉派出所・空港第8ゲート警備員詰所・芝山町長宅前臨時派出所が連続で襲撃される。 芝山町長宅前臨時派出所襲撃事件殉職者の慰霊碑5月9日:「東山君虐殺糾弾対運輸省行動」で1人が逮捕。同日、芝山町長宅警官詰め所を過激派集団が火炎瓶等で攻撃。重体となった警官1人が21日に死亡。前日の報復と見られるが、犯行声明などはなく犯人未逮捕のまま時効が成立(芝山町長宅前臨時派出所襲撃事件)。5月9日:田村元運輸相が荒木千葉市長と航空燃料輸送問題について会談。5月11日:6日から8日までの衝突の件で団結小屋9ヶ所を家宅捜索。同日、千葉市内で反対派によるデモが行われ警官を旗竿で突くなどの小競り合いがあり、反帝学評系の女性活動家1人が捕まる。5月13日:東山薫の両親が、警察庁長官ら5人を「殺人」などで千葉地方検察庁に告訴。5月14日:田村運輸相・荒木千葉市長・佐藤文生・航空局幹部が、航空燃料輸送問題について会談。千葉市側からの”見返り”として提示された、京葉線の輸送力増強・踏切立体化・千葉駅裏再開発・西千葉気動車区跡地の市への移管・モノレール計画等が話し合われる。田村運輸相はその場で建設省道路局長に電話し、京葉道路に併設される国道16号整備への補正予算捻出に同意を取り付ける。5月15日:沖縄県米軍基地内の「反戦地主」の土地が使用期限切れになるこの日、代々木公園で「沖縄と三里塚を結ぶ中央集会」が開催される。1万5千人の結集。デモで逮捕者12人。5月18日:ストッキングで覆面した戦旗派の活動家4人が成東署横芝幹部派出所に火炎瓶を投げ込み逃走するが、銚子署に緊急逮捕される。5月19日:佐倉市内のVORに火炎瓶が投げ込まれる。5月24日:パイプライン工事を差し止めていた荒木千葉市長が急死。5月25日:中核派が、ミドルマーカー前の警備員詰所に火炎瓶を投擲。5月28日:千葉県警が、6日から8日までの衝突の件で団結小屋18ヶ所を家宅捜索。5月29日:「東山君虐殺糾弾集会」に1万8千人(公安調査庁推計では約8300人)の結集。デモで一部過激派による火炎瓶投擲や投石が行われ、逮捕者71人。反対派の負傷者79人。反対同盟及び新左翼各党派が革マル派の永久追放を決議。同日、中核派が東関道成田インター付近を走行中のパトカーに火炎瓶を投擲したほか、革労協が東関道を走行中の機動隊の車列に無人乗用車を突入させる。6月3日:佐倉市・四日市町・酒々井町と空港公団が航空燃料暫定輸送について合意。6月15日:東山薫の両親が、千葉地裁に国や千葉県を相手取り損害賠償を求める民事訴訟を起こす。6月28日:運輸省・千葉県・市原市が暫定輸送に係る協定書を締結。十分な安全対策に加えて国道16号と国道297号の改良整備促進に努めることが約される。7月10日:芝山町内の航空保安協会研修センターが放火されたうえ、路上に釘がまかれる。7月12日:市原市と空港公団が航空燃料暫定輸送で合意。7月20日:暫定輸送用鹿島基地施設完成。7月24日:空港第5ゲートが襲撃され、火炎瓶50本が投げ込まれて警察車両1台が炎上したほか、ローカライザーや三井建設宿舎警備員詰所も襲撃を受ける。ジャンボ飛行阻止闘争に10,950人の結集。デモで5人逮捕。8月6日:銚子・守山のVORがそれぞれ時限式発火装置による襲撃を受け、黒ヘルメット姿の過激派がアウターマーカーを襲撃(未遂)。8月7日:日本航空のボーイング747を用いた第一次騒音テスト飛行実験が行われ、飛行コース下や周辺地区で空港公団や自治体による騒音測定が行われる。初の大型機による成田空港離着陸。この日から9日まで、反対同盟が三日連続でアドバルーンや風船を掲揚するなどの飛行阻止闘争を展開し、過激派によるアウターマーカー襲撃や警察部隊への火炎瓶投擲等が相次ぐ。3日間で10人の逮捕者。8月9日:田村運輸相と川上千葉県知事の1回目のトップ会談が行われる。川上知事は、前年11月8日に掲げた28項目の中でも(1)東京湾岸道路開通、(2)成田駅から国道51号までの取付道路建設、(3)国道51号の成田中心部4車線化、(4)空港周辺土地利用法(後の特定空港周辺航空機騒音対策特別措置法)制定、の4点を開港の絶対条件とする。8月10日:中核派が、騒音テスト飛行を請け負っている日本航空常務の自宅を放火。8月23日:田村運輸相と川上千葉県知事の2回目のトップ会談が行われる。川上知事が開港の絶対条件の1つとした国道51号拡幅が間に合わないため、新勝寺の初詣客と空港利用者による市内での大渋滞発生を懸念した県側が応じず、年内開港断念が事実上決まる。9月3日:田村運輸相と7月に千葉市長に就任した松井旭が、航空燃料輸送問題について会談。9月14日:見返り条件を運輸省が呑んだこと等から、沿線自治体の中で最後まで認めていなかった千葉市が運輸省・空港公団との協定書に調印し、千葉ルートでの暫定輸送が認められる。国は、総武本線と外房線の立体交差整備促進や総武本線の利便性向上に努めること、西千葉気動車区跡地の有効利用を国鉄に指導することを約す。約6年を要した暫定輸送計画をめぐる関係市町村との協議が終了する。9月16日:真行寺一朗芝山町長が田村運輸相と会談し、京成電鉄の芝山延伸を強く要望。田村運輸相から京成電鉄が難色を示していることから第3セクター方式が提案され、この他にも航空科学博物館建設と民家防音対策が約束される。9月28日‐10月3日:ダッカ日航機ハイジャック事件。10月1日:田村運輸相と川上千葉県知事のトップ会談が行われ一応の決着がつき、年度内開港の目途がつく。10月7日:革労協が空港第5ゲートに火炎トラックを突入させる。中核派が二期工事事務所を放火し、建設機械を破壊する。10月9日:反対同盟主催の「全国総決起集会」に2万2千人の結集。同日、警備員詰所や空港変電所が襲撃され、警察部隊に火炎瓶が投擲される。10月14日:田村運輸相・中村大造運輸事務次官・佐藤文生らが都内のホテルの一室で会合し、開港日を3月末の大安にすることとする。10月23日:大子町内のVORが放火される。11月11日:銚子市議会全員協議会が、(1)市街地上空飛行を原則的に避ける(2)国は航空機の飛行により電波障害が生じたときは誠意を持って対処する等の県の斡旋案の受け入れと上空飛行の了承を賛成多数で決定し、上空飛行反対決議が事実上失効。11月12日:川上千葉県知事が田村運輸相と面会し、千葉県としての年度内開港同意を表明。11月16日:田村運輸相が住民の反対で頓挫している成田新幹線計画の代替として、都営地下鉄(東京‐押上)・京成電鉄(押上‐高砂)・北総開発鉄道(高砂‐小室)・公団鉄道・成田新幹線ルートを繋ぎ、40分で東京駅と新空港を接続する「成田高速鉄道構想」を発表(現在の京成成田空港線に相当)。11月18日:銚子上空飛行問題について、運輸省の覚書に川上千葉県知事と嶋田銚子市長が署名。11月25日:田村運輸相が開港日を翌1978年3月30日とする旨を閣議で報告し、了承を得る。11月26日:空港・航空本無線施設・航空灯火が完成検査に合格する。空港公団が、開港日を大安の1978年3月30日とする旨を田村運輸相に届け出。自民党交通部会・空港建設促進特別委員会の合同部会で了承。11月28日:田村運輸相の署名により、運輸省が新東京国際空港の完工と1978年3月30日開港を告示。同日、内閣改造が行われ、福永健司が運輸大臣となる。なお、開港日は3月の大安を選んだもので、内閣改造に加えて臨時国会会期末にあたったため、関係閣僚協議会を経ずに決定。11月30日:山田町内のARSRが放火される。12月6日:全国から集まった一億円のカンパで、航空妨害を目的とした「横堀要塞」の建設が開始される。12月2日:国鉄がジェット燃料輸送計画と翌年3月1日からのダイヤ改正を発表。12月3日:動労千葉地本が暫定輸送に反発し、管内での3日間の順法闘争を開始。意図的な減速運転を行うなどして総武線などでダイヤが大幅に乱れる。動労千葉地本は百日間闘争と称してその後も妨害活動を継続。12月3日:ICAO(国際民間航空機関)及び関係50ヵ国に対し、新空港に関わるノータムが発出される。12月20日:成田空港での管制業務が始まる。12月21日:住民からの騒音テストやり直しの強い要望を受けて、DC‐8とDC‐10を用いた2回目の騒音テストが行われる。反対派が気球浮揚・火炎瓶投擲等の騒音テスト飛行阻止闘争を展開。逮捕者6人。12月22日:日本航空が成田空港の慣熟飛行を開始(1972年2月22日まで約40回実施)。反対派による火炎瓶投擲が相次、元地権者が経営するホテル(ホリデイイン成田)も標的となる。12月26日:大木(小泉)よねから引き継いだ養子が耕作している農地について、空港公団が登記上の所有者からの申し立てを千葉地裁が認め、仮処分が実施される。一家は藁小屋に立てこもったが最終的に自主退去。この畑は、空港公団の手続きミスで強制収用の対象から漏れていたために第一期工区内でただ一つ残されていた土地で、空港内の高速道路を約40メートル遮断していた。 ===1978年=== 1月1日:航空燃料輸送パイプラインの保安施設が襲撃され、警備員2人が暴行される。1月20日:運輸省と空港公団が本格パイプライン計画(花見川ルート)を提示し、千葉県・千葉市・成田市・富里村・酒々井町・佐倉市・四街道町に協力要請。1月22日:「三里塚空港から郷土とくらしを守る会」が、現在の「成田空港から郷土とくらしを守る会」に名称変更する。2月1日:美濃部東京都知事が、羽田空港の滑走路を減らして沖合へ移転する案を提示し、羽田を引き続き国内線専用とするよう運輸省に要望。2月4日:反対同盟の「横堀要塞」が4階建てに増築され、航空法で定められた制限表面を超過する。翌日、空港公団が航空法違反の警告及び告発。2月6日:航空法49条違反の刑事案件として、機動隊が「横堀要塞」とその上に立てられた鉄塔の撤去に着手する(第一次「横堀要塞」事件)。機動隊の高圧放水やガス弾などで「要塞」に立て空港反対派の排除を試み、反対派は約560本の火炎瓶投擲や、スリングショットなどで対抗。機動隊は夜10時に篭城していた反対同盟農民6人を含む41人を逮捕。更に周辺での衝突で4人が逮捕される。第2ゲートが襲撃され、警備車両1台が炎上した他、警官2人が重軽傷を負う。2月7日:「横堀要塞」に残っていた4人の支援者は零下7度の中で抵抗したが、夜10時に青年行動隊員による「勝利宣言」の呼びかけによって投降(立て籠もり犯の1人が衰弱しており、機動隊は全員投降しか受け入れないとしたため)、逮捕される。4人全員が手足に凍傷を負っていた。2日間の衝突で逮捕者49人。反対派の負傷者10数人、警察官の負傷者23人。鉄塔は翌日撤去。3月1日:「横堀要塞」前で「ジェット燃料輸送実力阻止現地総決起集会」が開催され、「無制限ゲリラ」による「3.26〜4.2開港阻止決戦」の方針が打ち出され、反対同盟は「3月開港阻止決戦突入」を宣言。「横堀要塞」付近の検問で反対派2人が逮捕。当日は鹿島ルートでの暫定輸送が開始される予定であったが、反対同盟と連帯する動労千葉地本が半日ストを行い、翌日からの実施となる。3月2日:沿線を5000人の機動隊が警戒する中、鹿島ルートでの暫定輸送が開始される。3月11日:中核派が東関道に火炎トラックを突入させる。3月13日:成田線踏切で燃料輸送列車に火炎瓶トラックが突っ込む。3月17日:千葉ルートでの暫定輸送が開始される。同日、成田線への倒木による妨害があり、貨物列車が運休する。3月20日:東山事件で死亡した東山薫の両親による刑事告訴が「死因はガス弾ではなく投石と認められる」として千葉地検により不起訴処分となる。同日、燃料パイプライン保安施設が襲撃され、線路への鉄片放置による燃料輸送列車妨害が発生。3月23日:機動隊が、反対派の「開港阻止決戦」に備えて、1万4千人の配置をほぼ終える。反対派2人が検問で逮捕。3月25日:反対同盟が再度「横堀要塞鉄塔」を構築、翌日の空港攻撃においてこれが機動隊への囮となる。空港公団が空港法違反で2度目の告発。3月26日:開港4日前の成田空港を新左翼党派ら約4千人が襲撃、更に排水溝に潜んでいた15人の行動隊が空港管理ビルに突入して管制塔を占拠し、通信機器を破壊した(成田空港管制塔占拠事件)。逮捕者115人。騒乱の中で襲撃に参加していた新山幸男が火だるまとなり、全身火傷を負う。空港施設が破壊され開港延期を余儀なくされる事態となり、政府・関係者に大きな衝撃を与える。3月28日:閣議で3月30日開港延期が決定する。福田首相は「世界に申し訳ないことになった」と語る。3月28日:航空法違反として、「横堀要塞鉄塔」が撤去される(第二次「横堀要塞」事件)。要塞にたてこもる約100人が、火炎瓶や石などを投擲して前日から激しく抵抗。逮捕者51人。3月29日:中核派がホテル日航成田を火炎瓶で襲撃。4月:桜田武日本経営者団体連盟会長・土光敏夫日本経済団体連合会会長・中山素平・秦野章らが「佐藤内閣が三里塚に空港を作るという判断をしたことは、戦後、最大の失策である」「日本の世の中があまりよくないということもよくわかっている。しかし、焼け野原のなかから何とかみんなが腹一杯食べて寝ることができるように仕上げてきたつもりだ。多少の矛盾は我慢してほしい」「そこで、二期工事を中止するように政府に働きかけるので、滑走路1本を認めてほしい。貨物空港ということで政府の顔を立ててもらえないだろうか。そのための条件として、闘いの休戦協定を結び、その間に話し合うということにならないだろうか」と申し入れ、財界人と戸村反対同盟代表の間で会談が行われる。4月:支援者として現地に入って活動を続けていた平野靖識ら(共同経営者は後の円卓会議で反対運動を終結)が東峰地区の空港用地内でラッキョウ工場を操業する三里塚物産を設立。保証人は東峰地区農家の市東東市。4月2日:川上千葉県知事が、反対同盟に対話を呼びかける。4月4日:空港公団が、新たな開港日を1978年5月20日とする旨を運輸大臣に届け出(7日告示)。同日、管制塔襲撃事件を受け、福田内閣が関係閣僚会議で(1)新たな開港日を5月20日とする(2)空港内外の安全対策を強化する(3)特別立法などで過激派対策を強化する(4)早期開港に向けて地元の支持と世論を喚起する とした「安全確保対策要綱」を纏める。自民党は成田空港問題に対する姿勢と対応策を決めるため国会内で両院議員総会を開き、青嵐会等のタカ派議員らから過激派への破防法適用等の強硬論が相次ぐ。浅沼清太郎警察庁長官が記者会見で「極左暴力集団が殺傷力のある凶器で警官攻撃をしてくれば拳銃の使用も辞さない」と述べる。4月4日:管制塔占拠事件で破壊された電子機器類の復旧作業が九分通り終わり、報道陣に公開される。元地権者らが設立した成田空港警備会社の駐車場に発火装置が仕掛けられているのが発見される。郵政省が管制塔占拠事件に参加して逮捕された職員2人を国家公務員法違反で懲戒免職処分。4月17日:反対同盟が、「逮捕者の全員釈放・開港延期と二期工事凍結・成田新法の撤廃と機動隊の撤退」を条件に、「話し合いを拒まない」と態度を決定。4月18日:千葉地検が、北原事務局長・秋葉哲救援対策部長・石井武実行委員を含む「横堀要塞鉄塔」撤去の際に逮捕された48人を起訴。管制塔襲撃事件を契機に反対同盟に対しても過激派と同様の厳罰主義をとることとした、検察の姿勢が示される。うち、機動隊に向けて洋弓やコンクリートブロックを放った過激派4人については、三里塚闘争史上初となる殺人未遂罪での起訴。起訴された反対同盟幹部には後に執行猶予付きの有罪判決が下される。4月20日:特定空港周辺航空機騒音対策特別措置法(騒特法)が公布される。4月27日:新東京国際空港の安全確保に関する緊急措置法(成田新法)の法案が国会に提出される。5月4日:出直し開港を前に、浅沼警察庁長官が開港後のゲリラ対策として(1)東関東自動車等の出入り口や京成電鉄の駅で相当長期に亘って検問をつづける(2)旅客以外の送迎車や見学者のターミナルビルへの出入りを原則1週間程度禁止する との警備方針を明かし、開港前後は連日1万人以上の警官を動員して厳重な警備態勢を敷くこととする。入場規制に対しては、見学者エリアに出店しているテナントからの苦情もあり、開港後に徐々に緩和されていく。5月5日:午前3時半頃、千葉県酒々井町の京成電鉄操車場で、空港特急スカイライナー4両が放火され全半焼(京成スカイライナー放火事件)。5月7日:空港関連会社従業員宅2件が放火される。5月6日:ブント系支援党派である松本礼二らの一派(「遠方から」)が水戸右翼らとともに協議を行い、三里塚闘争の対政府交渉への誘導を決定。5月9日:「遠方から」一派が、対政府交渉の仲介を東大宇宙航空研究所の松岡秀雄(三里塚闘争の特別弁護人)に依頼する。5月10日:千葉日報主催の座談会で、戸村反対同盟代表と福永運輸相が会談。戸村代表は4月17日に決定された反対同盟の条件が提示するが、福永運輸相は10日後に迫る開港予定日の再設定に応じず、物別れに終わる。この会合により、「財界のみが戸村代表と会っている」という強みを失った桜田日経連会長ら財界陣営の停戦協定案は立ち消えとなる。同日、反対同盟を支援する17党派が超党派の共闘組織として「三里塚闘争支援連絡会議」を結成し、共同戦闘宣言。同時に「三里塚闘争に敵対する革マル派を弾劾する」として、革マル派への敵対姿勢を鮮明にする。5月11日:松岡秀雄の斡旋で、石橋正次反対同盟副委員長が自宅を訪問した三塚博運輸政務次官と会見。5月13日:新東京国際空港の安全確保に関する緊急措置法(成田新法)が公布、施行される。管制塔襲撃事件を受け、空港周辺の過激派封じ込めを図るもので、国会提出から16日間でのスピード成立。同日、佐倉VORが襲撃され、アンテナ等設備が損傷したほか、警備員1人が負傷。5月15日:三塚運輸政務次官と島寛征反対同盟事務局次長が会見。直ちに新聞報道がなされ、秘密裏の交渉に反対同盟が不信を強める。同日、右翼活動家である四元義隆が「遠方から」一派に仲介を快諾。5月16日:木の根団結小屋(革労協)及び岩山団結小屋(共産同戦旗派)に対し、成田新法に基づく1年間の使用禁止(適用第一号)が通告されるが、過激派は無視して常駐を続ける。同日、反対同盟が芝山町の野戦病院で幹部会を開き、反対同盟が提示した条件(逮捕者全員の釈放・開港延期・成田新法撤回)が受け入れられていない中で戸村代表や石橋副委員長が政府側と接触したのは相手に利用されるだけだとの声が上がり、条件の受け入れ抜きにして話し合いに応じないとする方針が再確認される。5月17日:前日の成田新法適用に反対同盟が態度硬化、「一切の話し合い拒否」を表明する。同日、起訴されていた北原事務局長らが保釈される。5月18日:反対同盟が「開港阻止五日間戦闘」を開始する。5月19日:中核派が千葉県八千代市の米本無線中継所をゲリラ活動によって破壊したが、翌日には復旧。 2018年現在、第3ターミナルビル連絡通路脇(NAA本社前)に設置されている、用地提供者の顕彰碑5月20日:午前0時をもって新東京国際空港開港(出直し開港)。午前10時30分から、旅客ターミナルビル北ウイング出発ロビーで56人が出席して開港式典が行われる。厳戒体制の中であったため、空港ターミナルビルには関係者と報道陣以外の立ち入りが禁止される。1966年の閣議決定から12年近くが経過しており、完全空港の見通しもつかない状況であったが、式典に出席した福永運輸相は「昔から申します。難産の子は健やかに育つ」と祝辞を述べる。続いて、南ウイングわきに設置された用地提供者の顕彰碑の除幕式が行われる。空港の外では反対派と機動隊の衝突とゲリラ活動が続く中での開港であり、第4インター・共産同戦旗派及・プロ青同が旧第5ゲートに火炎車を突入させて火炎瓶投擲などする。開港当時の乗り入れ航空会社は世界29カ国の34社。反対派が開いた集会には2万2千人が結集し、反対同盟は「百日戦闘宣言」を発する。第5ゲート前の反対派と機動隊の衝突で、48人が逮捕され、反対派の負傷者25人。5月20日:早朝、運輸省東京航空交通管制部の専用地下ケーブルが埼玉県所沢・狭山両市内の計3箇所でほぼ同時に過激派によって切断され、航空管制業務が全国的に一時麻痺。御宿町のVORや山田町のASSRが襲撃され、空港内突入を図った第四インターがゲートを襲撃。開港時点での用地内農家は17戸。5月21日:未明に栄町の送電線が過激派によって切り倒される。空港への影響はなかったものの、約2万戸が停電。5月21日:航空機運航開始。8時3分に、一番機となるロサンゼルス発の貨物便日本航空1047便が、古タイヤを燃やすなどの反対派の妨害を受けつつも到着。12時3分に旅客便の一番機となるフランクフルト発の日航446便が到着。京成電鉄空港線(京成成田駅 ‐ 成田空港駅(現:東成田駅))が開業。京成上野駅からの有料特急スカイライナーが運行開始。5月22日:8時16分、出発便の一番機となる貨物便大韓航空の802便がソウル(金浦国際空港)に向けて離陸(出発旅客便の一番機は、グアム行き日本航空機)。5月23日:午後11時までの門限(カーフュー)に間に合わなかった日本航空の貨物機2便が欠航となる。成田空港のカーフューを理由とした欠航は初。開港直後はカーフュー間際まで離着陸が相次ぐ綱渡り状態が連日続く。同日、芝山町長宅が火炎瓶などで襲撃され、町長も軽傷を負う。5月24日:「遠方から」一派が、島寛征事務局次長・柳川秀夫に対政府交渉計画(運輸省・空港公団を交えず、秘密を徹底する)について説明。5月25日:国鉄による航空燃料暫定輸送が開始される。開港当初の輸送能力は、鹿島ルートは18両編成と13両編成が各2列車、14両編成が1列車の計5列車で3800kl、千葉ルートは12両編成が2列車の1200klで、合計1日あたり5000kl。ただし、修理等で年間30日程度は運休するため、実際の輸送能力は1日平均にすると約4500kl。5月25日:開港前の騒音テスト飛行よりも実際の騒音がひどいとの苦情が相次ぎ、成田市と芝山町が独自の騒音測定を開始。同日、革労協が大韓航空職員寮を襲撃。5月27日:中核派によって、国鉄成田線の佐原 ‐ 大戸間にある列車集中制御装置の回線と鉄道専用電話回線が切断され、航空燃料の暫定輸送を行っていた貨物列車が立ち往生する。同日、パンナム航空のホノルル行きが旅客便として初めてカーフューによる欠航となる。6月1日:空港公団が民家防音工事の対象を全室とする方針を決定。6月5日:反対同盟が飛行阻止100日間闘争を宣言。6月6日:開港時、「成田は国際線、羽田は国内線」の棲み分けが決まっていたが、利用者の利便性や地元住民の要望を考慮した運輸省が日本航空からの国内線乗継便申請を認可。6月8日:国内線の運航が始まる。6月10日:新左翼の反対派支援者が、妨害用アドバルーン3個を打ち上げたため、約20分新東京国際空港が閉鎖される。同日未明、国鉄の佐倉‐酒々井間で警戒に当たっていた警備員が貨物列車に撥ねられて死亡。6月13日:3月26日の成田空港管制塔占拠事件で全身火傷を負った、反対派支援の新山幸男が死亡。6月23日:革労協が筑波町の航空無線施設を襲撃し、警官1人が負傷。6月27日:北総浄水場の沈殿池に過激派が廃油120リットルと殺虫剤ダイアジノン、バイジット計12kgを投入。同浄水場は周辺の一般家庭用水として利用されていることから、無関係な多数の市民の生命を危険に陥れた極めて悪質な「ゲリラ」事件として注目される。 暫定輸送警備中のヘリコプター墜落事故での殉職者の慰霊碑6月29日:佐倉市で暫定輸送を行う貨物列車への襲撃を警戒するヘリコプター(運航は日本農林ヘリコプター)が墜落し、搭乗していた鉄道公安職員2人・千葉県警の警官1人・日本農林ヘリコプター社員2人が殉職する。7月2日:反対同盟が「飛行阻止現地大集会」を開催。1万5千人の結集。第九ゲートから突入しようとした6人が逮捕され、デモ全体で44人の逮捕者。反対派の負傷者14人。7月7日:福田首相が空港を視察。7月18日:千葉県警察新東京国際空港警備隊が発足。7月20日:「遠方から」一派が、四元義隆・西本明高知空港公団理事と会談。7月29日:革労協が、暫定輸送「鹿島ルート」の起点である茨城県鹿島郡神栖町鹿島石油鹿島製油所の石油パイプラインに仕掛けた時限装置を発火させる。8月2日:革労協が東京シティエアターミナルに火炎車を突入させる。8月17日:「遠方から」一派が、合意書案を作成。8月21日:ストライキが終結したノースウエスト航空の1番機が飛来、29か国1地域34社の航空会社が勢ぞろいする。9月に入りノースウエストの運航が本格化すると、鉄道輸送に依存する航空燃料の需給がひっ迫するようになる。8月26日:花見川河川下を通るパイプライン新ルートの公表、漏洩検知などの安全強化策の提示を経て、空港公団が千葉市とパイプライン敷設の協定書・確認書を締結。8月31日:四元義隆が福田首相と面談し、福田首相は合意書案について同意。安倍晋太郎内閣官房長官に事務レベルでの折衝を指示。9月4日:革労協が成田市内の京成電鉄空港線ガード下でトラックを炎上させ、鉄道輸送を妨害。9月7日:中核派が千葉県八千代市など数か所で電話同軸ケーブルを切断し、茨城県北相馬郡守谷町(現・守谷市)守谷VOR/DME及び同県稲敷郡阿見町阿見VOR/DMEの機能が麻痺した。9月12日:革労協が暫定輸送に使われる鹿島臨海鉄道の線路上に生コンクリートを散布して列車の運行を妨害。9月14日:中核派が警察施設2か所に火炎車を突入させる。9月16日:反対派約800人が、「たいまつデモ」を行い、着陸体勢に入った航空機に花火を命中させる。革労協が成田市荒海のアウターマーカーを火炎瓶などで襲撃し、活動家2人が逮捕される。10月16日:四元義隆の仲立により、「遠方から」一派・西村明ら立ち合いのもと、反対同盟幹部と道正邦彦官房副長官が秘密裏に会合。水面下での反対同盟と政府の会談が開始される。10月19日:騒特法が施行される。11月24日:反対同盟幹部と道正官房副長官らの2回目の会談がなされ、反対同盟側が二期工事の凍結・強制収用の放棄・対話集会の開催などが盛り込まれた「覚書(案)」を提示。11月26日:1978年自由民主党総裁選挙で福田首相が大平正芳に敗れる。12月:中華人民共和国で第11期3中全会が開かれ、*3781*小平による改革開放路線が決定される。12月1日:二期工事に向けて福永運輸相が報告した、(1)成田用水事業の受益対象区域拡大(追加地域の中には反対同盟の拠点である菱田地区も含まれる)(2)空港公団が騒音区域に所有する農地の地元農家貸付(3)騒防法の第二種騒音区域内農家の土地の時価での買取 を内容とする空港周辺の農業振興策について基本方針を、閣議が了承。12月7日:大平内閣が発足。12月18日:中核派が市川市にある東京エアカーゴシティターミナルの構内駐車場に駐車中のワゴン車を時限式発火装置で炎上させる。他にも警察施設5か所が放火される。 ===1979年=== 1月10日:大阪行き日本航空153便の搭乗券発行数と乗客数が一致せず過激派の港内潜伏が疑われたため、運航が取りやめられたうえ機動隊400人が出動し約3時間捜索する騒ぎとなる。結局、料金を支払って座席を確保していた幼児が人数に加えられていなかったミスと判明。2月6日:横堀要塞に成田新法を適用。同日、プロ青同が第5ゲートを襲撃。2月7日:プロ青同が、新空港第2ゲートに向け火炎車を突進させる。2月15日:第8回新東京国際空港騒音対策委員会が開催される。2月17日‐3月16日:中越戦争。2月21日:8機の運航でカーフューが破られ、成田市などが抗議。3月2日:中核派の放火により空港警備隊の輸送車が炎上。3月6日:森山欽司運輸相が「二期工事を年内に着工したい」と表明。3月14日:中核派が佐倉市臼井台と習志野市鷺沼台で、京成電鉄線路上に火炎車を突入させてスカイライナーをはじめとする列車の運行を妨害。3月18日:中核派がVOR等の電話ケーブル6か所を切断。3月30日:三里塚闘争支援を続けて中核派が浸透した結果、革マル派の動労執行部と確執を深めていた動労千葉地本が、国鉄千葉動力車労働組合(動労千葉)として独立。4月8日:1979年東京都知事選挙で自民党の推薦を受けた鈴木俊一が当選。4月19日:道正邦彦から引継ぎを受けた加藤紘一官房副長官が、反対同盟幹部との秘密交渉に参加。4月22日:開港後初となった成田市議選挙で、北原事務局長が再選する一方、日本航空社員の小林攻(トップ当選)と空港公団職員の越川富治も当選。5月:反対同盟幹部と加藤官房副長官らの会談が3回もたれ、加藤副長官は交渉内容を政府内でも大平首相と田中六助官房長官にしか報告せず、徹底した秘密主義で進められる。5月15日:本格パイプライン工事が再開される。千葉市長としてパイプライン建設を差し止めていた荒木和成の急死後、新市長となった松井旭が空港公団の協力要請に応じていた。5月20日:反対派の妨害気球が警察ヘリに巻き付き、緊急着陸。5月29日:成田エアポートレストハウスについて、日本社会党の小川国彦議員が「本来の目的から外れてホテル経営を行っている。土地収用法の事業認定の趣旨からみてもおかしい」と衆議院運輸委員会で追及。6月1日:開港当初、警察庁の警備方針により港内の見学が禁止されていたが、見学者フロアに出店しているテナントや交通機関などの規制緩和要求を受けて、小中学生の見学が解禁される。6月6日:反対同盟幹部と政府の秘密交渉に地元選出議員で運輸政務次官の林大幹が同席、政府案が提示される。6月11日:反対同盟幹部と政府の秘密交渉に運輸官僚が加わり、大詰めを迎える。6月15日:加藤紘一官房副長官と島反対同盟事務局次長が、(1)政府は解決の努力が不十分だったことを認める(2)二期工事を凍結する(3)二期工事予定地では強制手段をとらないとする覚書を締結。6月17日:反対同盟が木の根地区で灌漑用風車建設を開始。6月21日:石橋反対同盟副委員長ら用地内農家の代表9人と空港公団会談が会談。空港公団は地区に土地を持つものとして扱われ、地区の共益費に充てられる区費の支払い等について成田空港問題に触れずに話し合われる。7月3日:航空燃料の逼迫を受け、運輸省が成田空港乗り入れ会社に給油量5%節減を要請。7月5日:開港後、空港南側の民家で深夜早朝に障子が揺れたり人が圧迫感を受けるなどの低周波振動の問題があり、その原因が日本航空のエンジン試運転用の消音装置であることが突き止められる。空港公団が日本航空に改善を指示。7月10日:運輸省が、適用を緩和した第1種騒音区域を告示。同日、空港公団が千葉県に、騒特法に基づく航空機騒音対策基本方針の策定を要請。7月16日:読売新聞朝刊一面に6月15日の覚書が一部を歪曲した形でリークされる。反対同盟内部でも全容を知る者は一部しかいなかったため組織は混乱に陥る。同日、森山運輸相が覚書に基づき「関係農民の皆さんに対しても、必ずしも十分な意思疎通が図られているとは言えない実情だ。農民の皆さんも胸襟を開いて話し合いに応じるよう切に要望する」との声明を出したが、リークに潰された形となる。7月20日:16日のリークによる混乱の収束を図った反対同盟が、政府との交渉の事実をも否定する声明を発表し「話し合いには応じられない」とする。水面下の対話は水泡に帰す。島事務局次長が責任を取り辞表を提出するが、「交渉自体がなかった」とする反対同盟は不問に付す。7月24日:木の根地区で反対同盟の風車が完成。無断での事業認定区域内の工作物の形質変更は土地収用法違反であるが、「風車は農業以外に使用しない」「二期工事に支障が生じれば自主的に撤去する」との確約書が提出されたこともあり、千葉県が空港公団との協議の上で形質変更を認めた。8月30日:千葉市高浜(現・美浜区高浜)にあるジェット燃料輸送パイプラインの工事現場を中核派が時限式発火装置で放火し、杭打機4台を全焼させる。9月7日:プロ青同の活動家4人が小型トラックでゲートを逆走して空港内に侵入し、警備員の制止を振り切って制限区域にまで入り込む。誘導路上でトラックを炎上させたうえ竹竿で誘導路灯火を破壊し、逮捕される。空港は約30分閉鎖され、3便に遅れ。開港後に過激派が港内に突入したのは初めて。9月14日:革労協が、茨城県鹿島郡鹿島町で暫定輸送が行われている鹿島臨海鉄道の北鹿島駅(現・鹿島サッカースタジアム駅) ‐ 南神栖駅間の線路上に土砂を満載したダンプカーを突入させ、列車の運行を妨害。9月16日:反対同盟が全国総決起集会で「飛行阻止連月連日闘争」を提案。同日、芝山町内の山林から妨害気球7個が浮揚されるなどして、航空機の飛行コースが変更される。10月7日:第35回衆議院議員総選挙で自民党が過半数割れ。責任の所在をめぐり、党内で四十日抗争が勃発。10月10日:革労協が、香取郡下総町の国鉄成田線清河駅 ‐ 久住駅間において暫定輸送中の列車を発煙筒を用いて急停車させ、青ヘルメット姿の約30人が襲い掛かり、運転席の計器や窓ガラスを破壊。10月18日:中核派が、京成電鉄高砂検車区・京成上野駅・京成電鉄宗吾検車区で入庫中・停車中のスカイライナーに時限式発火装置を仕掛けて発火させ、スカイライナーの一部を焼く。10月21日:国際反戦デーに合わせた反対同盟の集会が開かれるが、森山運輸相の話し合い路線への対応その他運動方針を巡り反対同盟内に食い違いが生じて派閥が2分されており、それぞれ別の場所で集会を行う。このとき病床にあった戸村代表は集会に出席することができずメッセージを送るのみに留まる。同日、プロ青同が成田市三里塚の新空港場周柵及び第3ゲート付近並びに同県山武郡芝山町のガードマン立哨ボックスに向けてそれぞれ多数の火炎瓶を投擲。11月2日:反対同盟代表・戸村一作が70歳で死去。11日に三里塚第一公園での追悼集会に3千人が参加。戸村の死後、石橋副委員長が委員長職を固辞し委員長代行に就任したため、委員長ポストは空席となる。11月6日:内閣総理大臣指名選挙で自民党から大平正芳と福田赳夫の両名が擁立される前代未聞の事態となり、僅差で大平が決選投票を制す。12月16日:赤ヘルメットの集団が、成田市内の国道51号で検問を行っていた交通機動隊を襲撃し、火炎瓶約30本を投げつける。パトカーと通りがかりの車両が全焼し、隊員2人が負傷。逮捕者3人。12月24日:ソ連がアフガニスタンに侵攻。 ===1980年代=== ====1980年==== 2月:芝山町議選で、石毛博道ら反対同盟員3人が当選(無投票)。2月20日:芝山空港反対同盟の本部として使われていた山武農協千代田事業所の空港公団への売却が、山武農協総代会で決議される。2月17日:第9回新東京国際空港騒音対策委員会が開催される。2月28日:用地内農家が連名で『用地内の決意』という文章を出して成田用水事業の動きを牽制。3月13日:中核派が、千葉市浪花町の浪花橋パイプライン工事の地下水位観測所に時限式発火装置を仕掛けて発火させ、同観測所及びその内部に設置された観測機器に被害を与える。3月22日:航空局が、反対派の飛行妨害に備え「妨害気球回避ルート」新設を決定。同日、黄ヘルを着用した15人が横芝アウターマーカーを襲撃し、警備員4人を縛り上げて無線室を放火。3月24日:中核派が千葉市にある新空港関連工事会社3社の作業員宿舎等に時限式発火装置を仕掛けて発火させ、同宿舎等を全焼させる。5月11日:石橋反対同盟委員長代行が、義理の親族となった空港公団職員に接触。5月16日:革労協が霞が関の第3中央合同庁舎脇に駐車したマイクロバスに自動火炎放射装置を仕掛け、同庁舎内の運輸省に向けて発射。5月18日:中核派が暫定輸送に用いる成田市土屋の燃料基地に向けて、私道に駐車した小型トラックから自動火炎放射装置を発射。同日、石橋反対同盟委員長代行が中村大造空港公団副総裁と接触。5月18日‐27日:大韓民国の光州市で民衆蜂起(光州事件)5月19日:ハプニング解散。5月24日:成田用水加圧機場・用水工事関連会社等が襲撃を受ける。6月12日:大平首相が急死。6月22日:第36回衆議院議員総選挙・第12回参議院議員通常選挙(衆参同日選挙)。自民党が地滑り的勝利。7月17日:鈴木善幸内閣が発足。7月28日:大塚茂空港公団総裁が、塩川正十郎運輸相に本格パイプラインの完成が1983年末にまでずれ込む旨を報告し、辞表を提出。同日、運輸省を訪れた川上千葉県知事に塩川運輸相が暫定輸送期間の延長について協力を要請するが、川上知事は強固な態度に出る。7月29日:大塚空港公団総裁が、沼田武千葉県副知事及び松井千葉市長を訪ね、本格パイプライン工事の遅延について説明するとともに陳謝。副知事・市長ともに不快感を表明。同日、塩川運輸相が竹内茨城県知事を訪ね、暫定輸送期間の延長について協力を要請。8月4日:大塚空港公団総裁が辞任。翌日、元運輸事務次官の中村大造副総裁が昇格。8月28日:塩川運輸相が千葉県庁に川上知事を訪ね、「ジェット燃料の貨車による輸送期間を延長してもらいたい」と申し入れ。塩川運輸相は成田高速鉄道の建設促進を約束。9月1日:中核派が、空港内の日本給油センター駐車場に駐車する車両3台に時限式発火装置を仕掛けて発火させる。9月15日:プロ青同が、新空港A滑走路南端から約1500メートル離れた岩山小学校跡地附近から進入表面を越える高さまで気球を浮揚させ、航空機の航行を妨害。10月12日:青年行動隊を中心とした反対同盟が、成田用水事業に対抗して、支援学生らの手を借りながら菱田地区湿田の自主基盤整備に着手。支援学生の労働力を用いて湿田の排水に成功するなど一定の成果を上げるものの、成田用水受け入れに傾いていた菱田地区等の農家を引き止めるには至らず。11月25日:暫定輸送に関係する十市町村会議が県知事室で開かれ、期間を1983年12月にまで延長することを了承。川上県知事が塩川運輸相に伝達。その際、県は開港時に地元自治体が出した計141項目の要望のうち未着手の10項目(平行・横風用滑走路の騒音対策、京葉線の旅客化・東京駅乗り入れ、航空科学博物館の建設など)の早期実現や成田高速鉄道の実現を要求していくこととした。12月1日:最後まで残っていた茨城県神栖町が、暫定輸送延長を了承。この年の末までに、開港時点で17戸あった用地内農家のうち5戸が移転。 ===1981年=== 1月2日:鈴木内閣が暫定輸送延長を閣議決定。1月11日:川上五千万円念書事件が新聞報道される。2月25日:印旛郡四街道町の国鉄総武本線長岡踏切付近の軌道上に金属板が置かれ、暫定輸送が妨害される。3月1日:ジェット燃料輸送延長阻止是国総決起集会。3月2日:動労千葉が暫定輸送延長に反発し、指名ストを実施。3月3日:運輸省が空港公団の芝山鉄道株式会社等への出資を許可。3月4日:指名ストを実施していた動労千葉の支援を目的として、反対同盟員や活動家ら120人が国鉄成田駅のホームに集結。鉄道の運行に支障をきたす恐れから機動隊が動員され、59人が不退去罪で逮捕される。3月8日:暫定輸送を妨害するため、千葉市若松町の国鉄総武本線都賀駅 ‐ 四街道駅間の鎌池踏切付近及び印旛郡酒々井町の成田線佐倉駅から7.5キロメートル離れた殿部田踏切付近にある信号機ボックスが、時限式発火装置でそれぞれ焼かれる。3月10日:中核派が、千葉市畑町の新空港用航空燃料パイプライン工事第7立坑施設に向けて小型トラックに仕掛けた火炎放射装置を放射し、工事用機材を焼く。3月16日:暫定輸送中の貨物列車の運転手が線路で焚かれていた発煙筒を発見し急停車したところ、覆面の男数人による襲撃を受け、機関車2両と付近の草むらが放火される。4月5日:沼田武が千葉県知事に就任。4月24日:反対同盟幹部が松井航空局長と会談、以降水面下の接触が続けられる。この席で、建設省の計画局総務課長が「(1969年の事業認定告示から)20年たっても収用できないなら、あとは任意買収に頼る以外にない」と発言し、後の事業認定失効論に利用される。5月1日:芝山鉄道株式会社が、空港公団・千葉県・芝山町・京成電鉄・日本航空などが出資する第三セクター方式で設立される。5月11日:早朝、北鹿島駅に「A1(燃料輸送列車)を止めなければ、あらゆる手段で阻止する」、千葉日報社に「鹿島線を爆破した」、とそれぞれ電話があり、茨城県鹿島町(現・鹿嶋市)内で航空燃料の暫定輸送に使われている鹿島線の橋桁(第2宮中架道橋)が溶接機で切り取られているのが見つかる。この影響で鹿島線は丸1日不通となり、輸送列車5本を含む45本が運休。6月7日:この日投票が行われた芝山町長選挙で、反対同盟が擁立した石井新二が大方の予想を大きく上回る1,804票を獲得したが、現職の真行寺一朗に破れ、落選。6月8日:中核派が新空港2期工事実力阻止を叫つつ東京郡千代田区霞が関の第3中央合同庁舎横路上に小型トラックで乗りつけ、車両に仕掛けられた火炎放射装置を同庁舎内の運輸省に向けて放射。6月10日:第10回新東京国際空港騒音対策委員会が開催される。7月31日:塩川運輸相と沼田千葉県知事が会談。沼田知事は2期工事への協力を約束したが、同時に県内自治体が要望した141項目のうち、未着手の10項目の実現と、成田新幹線の早期建設を強く要望。塩川運輸相は「誠心誠意努力する」と応じる。8月17日:反対同盟の小川源を団長に石井武・秋葉哲・石井新二・熱田誠・加瀬勉と支援者15人が、反軍拡・反原発・反開発をテーマにした「ラルザック国際連帯討論集会」に参加するため、フランスのNATO軍事基地拡張反対闘争で名を馳せていたラルザック地方に向けて大阪国際空港から出発。同集会への参加は加瀬勉の仲介によるものであり、現地ではラルザック農民や西ドイツのフランクフルト空港拡張反対派住民、フランスのプロゴフ原発建設反対派住民、ポーランドの「連帯」、北アイルランドのIRAなどと交流し、講演や小川紳介監督の映画会などを開催して「三里塚闘争の国際的意義」を訴えた。滞在中にフランスで成田空港問題を取り扱った『鹿島パラダイス』が上映されていたことから、同作品をパリで鑑賞。8月25日:二期工事に配慮して、政府が進めていた第二次臨時行政調査会の答申に基づく行政改革の対象から成田財特法が除外される。8月31日:空港公団職員の自宅で、石橋委員長代行・内田行動隊長が西村明と顔合わせ。同日、中核派が大阪市城東区の大阪府警関目別館に駐車中の大型警備車両を時限式発火装置で焼き、2期工事着工阻止の先制攻撃とする。9月2日:同年に空港公団が登記上の代表名義人であった瀬利元副委員長の相続人から取得した、横風用滑走路予定地の中央にある横堀墓地について、熱田一が「墓地は入会地」として提訴。10月5日:反対同盟が芝山町民向けに「芝山新聞」を発行。10月11日:新空港A滑走路南方から進入表面を越える高さまで気球を浮揚させ、航空機の航行を妨害。10月23日:加藤紘一衆院議員・松井和治航空局長・中村大造空港公団総裁らと反対同盟の石橋政次委員長代行・内田寛一行動隊長・小川源・石毛常吉・梅澤勘一らが秘密裏に会合(官並会議)。出席予定だった小川嘉吉・喜平兄弟が参加を当日拒否。会合参加者の情報が反対同盟内にリークされる。11月30日:光町議会が、二期工事早期着工を決議。12月:加藤紘一と島寛征事務局長次長が会談。 ===1982年=== 1月:中核派が政府との交渉を行っていた石橋政次委員長代行・内田寛一行動隊長の除名を要求。1月20日:政府側と交渉を行っていたことを暴露され、中核派に嫌がらせを受けていた石橋政次委員長代行が、中核派最高幹部の北小路敏に自宅敷地の現地闘争本部撤去を突きつける。29日に朝日新聞が事態を報道し、混乱に拍車がかかる。1月末:緊急幹部会で北原事務局長が石橋政次委員長代行らと政府との「秘密会談」の「事実経過」を発表。2月6日:青年行動隊が「混乱を力に変え勝利をつかみ取るために」を発行。2月9日:石橋政次委員長代行及び内田寛一行動隊長が、反対同盟に自己批判書とともに辞表を提出。石橋に追従して、天神峰地区の農家も反対同盟を離脱した(石橋グループ)。石橋の辞任により、反対同盟結成時に就任した委員長と3副委員長すべてが空席となる。両名の処遇を巡り反対同盟は紛糾。3月:横堀墓地の入会権を主張する熱田一が墓地内に櫓を立てて所有権を主張。3月13日:中核派によって、国鉄総武本線・成田線・鹿島線などの信号・通信ケーブルが8地点12か所で切断される。また、国鉄西船橋変電所が時限式発火装置によって爆破され、航空燃料暫定輸送を行う貨物列車の運行停止を招く。国鉄では約300本が運休となり、通勤・通学客ら約28万人に影響が出たほか、振替乗客が殺到した京成電鉄ではダイヤが乱れたうえにけが人も出るなど、県内の列車運行に大きな乱れが生じた。3月16日:革労協が成田市土屋の暫定輸送の中継基地である土屋石油ターミナル脇の路上にワゴン車を乗りつけ、車両に仕掛けられた火炎放射装置を作動させる。3月20日:最高幹部が不在となった反対同盟が役員会を開き、委員長・副委員長を置かずに本部役員による合議制をとることを決定。二期地区内で居住または工作を行う農家等19人が新たに役員に就任し、役員総数が31人となる。形式上、反対同盟は集団指導体制に移行したが、実際には同盟結成以来の唯一の幹部である北原鉱治の発言力が強まる。内田寛一の後任として熱田一が副行動隊長に昇格。新東京国際空港公団理事との個人的付き合いを糾弾されたうえ、成田用水と反対運動の二者択一を迫られたことで石井英祐事務局長が辞表を提出しており、その辞表が受理されたことから、用水派は反対同盟での調停役を失う。3月28日:新空港反対集会に呼応して、芝山町岩山の成田土木工事事務所のブルドーザー2台と監督員詰め所がガソリンをかけて焼かれる。4月16日:78年3月26日の管制塔占拠事件実行犯の1人が投身自殺。保釈後、拘禁性精神病で入院していた。5月12日:第11回新東京国際空港騒音対策委員会が開催される。5月中旬:島寛征事務局長次長・加藤紘一衆院議員・池田行彦官房副長官・松本礼二の4人が会談。7月1日:革労協が、三里塚2期着工実力阻止・廃港決戦勝利を戦取するためのパルチザン戦ゲリラ戦の一環として、東京都中央区の中央署の親父橋派出所・墨田区の本所署大平4丁目派出所・北区の王子署馬坂派出所・新宿区の戸塚署戸塚町3丁目派出所・同区の新宿署中落合西派出所・足立区の西新井署小台派出所に、時限式発火装置を仕掛けて発火炎上させる。8月:第4インターでABCD問題が発生。第4インターは影響力を急速に失う。9月6日 :革マル派の機関紙『解放』が北原事務局長の警察との密会を暴露。9月10日 : 午前2時頃、京成成田空港線トンネル内で時限式発火装置付きのトロッコが炎上しているのが発見される。成田空港駅(現・東成田駅)まで突入させる計画だったと見られる。影響により9時頃まで運休。9月24日:革労協が、成田市三里塚の新東京国際空港公団工事局ビル前路上に停車した小型トラックから時限式火炎放射装置を放射。同日、青年行動隊が「たたかいの原点から百姓の団結を考える」を発表。10月11日:芝山町香山新田の新空港2期工事区域内の空港公団砕石貯留所に設置してある照明灯に時限式発火装置が仕掛けられる。10月31日:中国民航機とアエロフロート機が10月分の燃料割当量超過を理由に給油を拒否され、成田発の出発便が足止めを食う。燃料割当は暫定輸送の輸送能力や過激派ゲリラによる暫定輸送列車の運休、台風の影響などにより備蓄燃料がひっ迫していたことに伴う措置。中国は北京空港で日航機に給油をしない報復措置をとる。11月1日:革マル派の機関紙『解放』が、島寛征事務局長次長による加藤紘一・池田行彦衆院議員との接触を暴露。11月4日:島寛征事務局長次長が辞表を提出。反対同盟は9日に辞表を受理。11月25日:千葉県が「航空機騒音対策基本方針」を公表。11月27日:中曽根内閣が発足。12月6日:成田市東町の成田空港警備保障株式会社の駐車車輛に時限式発火装置が仕掛けられる。12月7日:空港公団が石油パイプライン事業法に基づく空港燃料パイプライン保安規定の許可を取得。12月16日:青年行動隊等「一坪再共有化運動」推進派により、「三里塚芝山連合空港反対同盟大地共有委員会」が発足する。12月28日:成田市堀之内の成田新幹線工事現場にある大成建設堀之内トンネル作業所の配電盤下に時限式発火装置が仕掛けられ発火炎上する。 ===1983年=== 2月13日:反対同盟大地共有委員会が「共有運動趣意書」「共有運動の手引」等を配布。 沖合展開事業工事が行われる羽田空港(1984年)2月23日:運輸省が、東京都など関係機関との合意のうえで、「羽田空港沖合展開基本計画」を正式決定。新A3000メートル滑走路を1988年7月に供用開始(1期)、西側ターミナル施設を1990年7月に供用開始(2期)、新B2500メートル滑走路・新C3000メートル滑走路・東側ターミナル施設を1993年7月に供用開始(3期)が掲げられる。2月27日:反対同盟大地共有委員会が中核派を批判。2月28日:反対同盟の役員会で青年行動隊の石井新二らが進める一坪再共有化運動を巡り紛糾。「石井新二氏ら特定のグループが、反対同盟の土地をぬすみとって、自分たちの仲間の私利営利につかおうとしている」「反対同盟の土地を公団に売り渡すものに死を!」などと再共有化運動を行う農家に対する中傷的なビラや文書を濫発した中核派に、青年行動隊が抗議声明。横堀・中谷津・浅川・稲葉・飯櫃・坂志岡・千代田・中郷の各部落反対同盟も中核派に対する非難や部内立入禁止決議を行う。3月1日:空港周辺で航空機からの落下物による被害が相次ぐ中、被害への補償を行う航空会社に対する世界初の保険制度が発足し、成田へ乗り入れている航空会社が参加。これにより、落下物の航空会社が明確に特定できない場合あっても補償が円滑に行われるようになる。3月3日:「一坪再共有化運動」推進派が、芝山町千代田公民館で「幹部会」の名義で北原事務局長の「解任」を決議。3月8日:反対同盟分裂(サンパチ分裂)。「一坪再共有化運動」の是非等をめぐり、用地内農民を中心とした「北原派」と騒音地域農民を中心とした「熱田派」が別々に会合を開き、天神峰現地闘争本部で役員会を開いた北原派は熱田隊長らを「除名」し、芝山町千代田公民館で総会を開いた熱田派が3日の解任決議を「承認」。「熱田派」は中核派と共闘関係を断つことを宣言し、現地支援連絡会議が支持を表明。3月27日:反対同盟両派が分裂して初の現地集会を開催。雨天の中、「熱田派」は主催者発表で3,750人(警察発表2,750人)、「北原派」は5,725人(警察発表2,530人)の結集。5月28日:日本鉄道建設公団副総裁の秋富公正が空港公団総裁に就任。元総理府総務副長官の秋富は中曽根首相と近しい関係にあり、二期工事に向けた人事と目される。5月30日:成田青年会議所が二期工事早期着工を求める3万3千人分の署名を長谷川成田市長に提出し、成尾政美市議長にも請願書を提出。6月1日:北原派が二期工事を推進する成田青年会議所に公開質問状を送付。6月7日:四街道市のパイプライン関連工事の作業員宿舎を中核派が放火、労働者2人死亡、1人が重傷を負う(東鉄工業作業員宿舎放火殺人事件)。6月10日:1981年の光町に続いて、成田市議会が空港二期工事の早期着工を決議。以降、同様の決議が相次ぎ、二期工事着工までに累計21市町村が同様の促進決議を行う(同年12月15日:神崎町、翌年3月13日:横芝町、3月15日:多古町、3月16日:印旛村・蓮沼村、3月17日:芝山町・富里村、3月19日:八日市場市、3月21日:佐倉市・松尾町、3月23日:大栄町・八街町、3月24日:印西町、4月5日:下総町、5月1日:栄町、6月12日:干潟町、6月22日:白井町、6月23日:酒々井町、翌々年6月25日:河内村)。6月14日:第12回新東京国際空港騒音対策委員会が開催される。6月18日:熱田派が、6月7日の放火テロを「労働者への虐殺糾弾」として非難する声明を発表する。6月23日:二期工事推進のため市民の声を行政に反映する組織「成田空港対策協議会」が発足。6月29日:成田用水菱田工区の測量・杭打ちが始まり、北原派・熱田派共に阻止行動を展開する。反対同盟分裂時に用水派の多くは熱田派に付いていたが、熱田派は用水反対の立場を明確にしたことで用水派の離脱を招いた。6月30日:成田市議会が国・空港公団に二期工事着工の意見書を提出。7月4日:旅客ターミナル内のコインロッカーに発火物が仕掛けられる。コインロッカーはその後警備上の理由で空港から撤去されるが、1998年12月に再設置される。7月13日:千葉県議会が二期工事促進決議。8月6日:暫定輸送の最終貨物列車が運行される。8月7日:熱田派がパイプライン供用阻止集会を開催。8月8日:全長47kmの航空燃料パイプライン(B系)が供用開始(航空燃料暫定輸送終了)。本格パイプライン事業が開始されたことにより、最大送油能力は暫定輸送の2倍となり、成田空港のアキレス腱ともいわれた燃料輸送問題が解消される。10月25日‐12月15日:グレナダ侵攻。11月21日:長谷川峻運輸相と沼田千葉県知事が会談。先に県が要望した141項目のうち未解決であった国鉄成田線の空港延伸などの早期実施が困難であることに沼田知事が理解を示し、二期工事の早期完成に合意、共同声明が出される。12月15日:神崎町議会が二期工事促進決議。12月18日:第37回衆議院議員総選挙で、ロッキード事件での田中判決による審判を受けた自民党が単独過半数を割り込む。 ===1984年=== 1月9日:「一坪再共有化運動」をめぐる対立等から、中核派が東京都と大阪府の計3ヶ所で第四インターの活動家3人を襲撃し重傷を負わせる。翌日でも広島県などで中核派による襲撃が行われる。中核派は7月にもメンバー宅を一斉3ヶ所襲撃、片足切断と頭蓋骨陥没を含む8人に重傷を負わせる。1月26日:羽田空港の沖合移転工事開始。2月11日:反対同盟分裂後初で8年ぶりとなる芝山町議選が多なわれ、北原・熱田両派がそれぞれ候補者を立てて鍔迫り合いが繰り広げられる。北原派が擁立した鈴木幸司、熱田派が擁立した相川勝重・石毛博道が当選。1982年3月に反対同盟を辞した石井英佑も当選。3月1日:空港公団本社が中核派に襲撃される。隣接する首都高速道路に停められたトラックから火炎放射器による攻撃。3月17日:他の周辺市町村に続いて、芝山町議会が「二期工事早期着工要請決議」を賛成12、反対4の賛成多数可決。この日、北原・熱田両派の反対同盟員が議会の傍聴を求めて押しかけ、1時間半以上も押し問答となり、最終的に機動隊により排除される。約10人が議場内に乱入し、マイクのコードを引きちぎるなどする。逮捕者4人。4月2日‐7月14日:中越国境紛争。4月4日:東山事件での最高裁付審判請求特別抗告が棄却される。4月26日:成田青年会議所等の団体で構成する「成田空港対策協議会」が、中曽根康弘首相や細田吉蔵運輸相、県選出国会議員、秋富空港公団総裁に、「成田空港の歓声は国際社会の一員としての我が国の責務。空港との共存共栄を望む主変の生活向上のためにも、懸案の諸問題を積極的に解決の上、即刻二期工事を着工してほしい」等とする要望書を提出。6月4日:航空燃料パイプライン(A系)が完成検査合格。6月6日:第13回新東京国際空港騒音対策委員会が開催される。6月23日:開港以来の国際旅客5千万人達成。7月6日:成田空港の土地収用法に基づく事業認定及び公共用地の取得に関する特別措置法に基づく特定公共事業認定を巡り、反対同盟員が国を相手取り認定取り消しを求めていた請求を、東京地裁が棄却。判決の中で「三里塚地区を新空港用地の適地であるとした国の判断に誤りはない。(農家の)失われる利益よりも空港建設で実現される公共の利益のほうが優先する」との判断が示される。傍聴席の支援活動家らから抗議の声が挙げられる。7月19日:成田を離陸したノースウエスト航空8便からタイヤ片と脚室ドアが脱落し、このうちタイヤ片は芝山町にある寺の境内で遊んでいた子どもらの近くに落下。負傷者は出なかったものの、成田空港に関連する落下物事故の中でも最大級のものとなる。8月1日:前年に運用開始したB系に引き続き、航空燃料パイプラインA系が供用を開始。これにより成田空港への燃料輸送能力は1日あたり2万2000*3782*、年間最大800万*3783*に増強されることとなり、二期工事に向けた燃料供給体制が整う。他方、完成までに多くの問題を処理したた航空燃料パイプラインの総工費は、予想よりも大幅にふくらんで1千億円を超過。8月6日:空港公団幹部らの自宅3軒が時限式発火装置により放火される。8月28日:中核派が千葉県内の駐在所2軒を放火(うち1軒全焼)9月9日:戦旗派が成田用水工事関連事業者の作業員宿泊所を放火(全焼)。9月13日:成田用水工事関連事業者2軒で放火未遂。9月15日:革労協解放派が成田用水加圧機場付近を放火。9月19日:中核派による自由民主党本部放火襲撃事件が発生。9月25日:成田用水菱田地区の工事が開始される。反対同盟の北原派・熱田派共に抗議行動を展開する。着工の前後に用水関連のテロが相次ぎ、29日までの間に両派併せて56人が逮捕される。10月1日:中核派が、佐原市にある成田用水事業の請負業者社長宅を放火。社長宅のほかに無関係の近接した住宅2棟にも延焼。(成田用水工事事業者連続放火事件)10月17日:空港公団が、石橋政次ら二期地区内農家4戸などからなる並木町代替地管理組合と、成田市並木町の代替地を管理する委託契約を締結。長谷川成田市長による斡旋。移転自体を棚上げしつつも農家が土地を管理する形をとる。10月24日:中核派が、成田用水工事の下請業者(北川道路)のロードローラーを時限式発火装置で放火。11月1日:運輸省が成田空港への鉄道アクセスのルートとしてBルート(京成上野〜京成高砂〜北総線経由〜印旛松虫付近〜成田空港、64km)を推進することを表明。11月13日:革労協が横穴を掘り進め、ガス溶断機で縦40センチメートル・横35センチメートルに亘って切断したうえ、地下約10メートルの航空燃料パイプラインの導管に電動ドリルで穴を開けて破損させる。送油停止を余儀なくされたほか、燃料120キロリットルが流出し、近隣の山林・水田・河川が汚染される。空港公団が11ヵ所のオイルフェンスを設置をするなどして印旛沼への流入は免れたが、損傷を受けた系統の復旧には1か月を要す。汚染された山林や水田については、地主との話し合いの結果、空港公団によって土壌の一部が入れ替えられる。11月27日:中核派が、千葉市の沼田知事宅・成田市の水野清衆院議員事務所・松戸市の友納武人衆院議員(元知事)事務所・木更津市の浜田幸一衆院議員事務所の4カ所を時限式発火装置で攻撃。12月14日:芝山町長及び同町議会議長が、二期工事促進を国等へ要望。 ===1985年=== 1月16日:中核派が、潮来町の成田用水工事関連会社(田崎建設)の重機等車両4台を放火。1月24日:二期地区農家の畑の表土を移転先に移送する作業(表土輸送)が開始される。1月26日‐29日:北原・熱田両派が表土輸送への抗議集会・デモを連日繰り返す(この間、中核派3人・革労協解放派1人が逮捕される)。1月26日:元反対同盟委員長代行で空港公団と移転交渉を進めていた石橋政次の畑の表土輸送を請け負っていた業者が、反対派の襲撃を恐れて車体に記載された社名やナンバープレートを隠して運搬を行っていたところ、北原派がこれを成田警察署・千葉地検に告発。業者は警察の指導を受けてナンバー隠しを辞めることを余儀なくされる。2月5日:戦旗・共産同が、千葉県第2機動隊の大型輸送車を時限式発火装置で放火。2月20日:中核派が、成田代替地工事関連会社(若築建設・大成道路)の建物・車両を放火。2月15日:革労協解放派が、成田警察署十余三駐在所を時限式発火装置で放火。3月11日:ミハイル・ゴルバチョフがソ連最高指導者に就任。就任後、ゴルバチョフはソ連の政治経済の抜本的改革に着手し、ペレストロイカとグラスノスチを断行。3月14日:革労協解放派が、成田用水工事関連会社(山崎運輸)の大型トレーラーを時限式発火装置で放火。3月21日:革労協解放派が、菱田地区内の成田用水配管にモルタルを流し込んで妨害。4月8日:戦旗・共産同が芝山町の竹林から火炎瓶6発を発射し、約150メートル離れた空港敷地内の空港公団工事局に着弾。飛び道具を用いたテロは東日本で初めてであり、これ以降空港を狙った火炎弾・金属弾事件が相次ぐようになる。また、一部で「ロケット弾」が使用されたと報じられたため、外国航空会社等で混乱が生じる。4月12日:中核派が成田・羽田両空港に金属弾を撃ち込む。成田では駒井野から発射された火薬入り弾頭付きの金属弾が滑走路を跨いで貨物ビルの傍まで達し、直撃を受けた乗用車が炎上。1キロを超える射程距離は警備当局に衝撃を与える。指名手配された中核派革命軍構成員が、1987年1月21日に逮捕されている。4月17日:成田用水反対を訴えるビラを配布していた中核派全学連菱田決戦行動隊が用水推進派の農民と押し問答になり、駆けつけた警察官が行動隊長を公務執行妨害で逮捕。4月25日:中核派が、元地権者のための代替地でトラックに時限式発火装置を仕掛けて炎上させたほか、畑に釘・塩・塩酸を撒いて土壌を破壊する。5月11日:革労協解放派が、芝山町内で成田用水の送水管をビニールやレンガなどで損壊させる。5月19日:日比谷公園野外音楽堂で東峰裁判救援コンサート開催。5月30日:革労協解放派が成田用水土地改良区事務所を放火。6月13日:中核派が空港工事関連会社(大林組・株木建設)の事務所・車両を時限式発火装置で放火。6月23日:成田空港手荷物爆発事件が発生。作業員6人が死傷し当初は空港反対派によるテロが疑われたものの、後に空港反対派とは無関係であり、インド航空182便爆破事件と関連していることが判明、成田空港が受けた初の国際テロとなる。7月2日:中核派が、成田用水工事関連会社(萩原土建)の事務所・車両を放火。7月8日:成田用水加圧機場の管理用詰所が放火される。7月20日:中核派が、空港公団の用地課長代理宅の倉庫兼車庫を時限式発火装置で放火。用地部長宅の車両にも時限式発火装置が仕掛けられていたが不作動。7月21日:北原派のデモから中核派約300人が逸脱し機動隊と衝突、放水車を占拠。機動隊はガス弾10数発を発射して応戦。ガス弾の使用は1977年の東山事件以来。7月25日:過激派によるゲリラやテロを恐れた業者の辞退が相次いだ結果、成田用水菱田工区の1986年度分工事の入札が1社も落札価格を示せないまま流会となる。7月29日:代替地内にある移転農家の倉庫が放火される。7月31日:成田新高速鉄道促進期成同盟が沿線8市町村によって設立される。8月8日:第14回新東京国際空港騒音対策委員会が開催される。8月17日:成田用水工事の再入札で淺沼組が落札するが、中核派のテロ予告などを受けてその後辞退。8月26日:千葉県と空港公団が、空港建設・開港に伴う経済波及効果をまとめた経済影響調査(三菱総合研究所が実施)の結果を発表。それによると、1966年の空港建設決定以来、空港関連の投資総額は約1兆6千億円であり、その波及効果による付加価値額は公共分のみで約2兆1千億円。1市6町村の税収でも空港関係が四分の一を占めている。また空港完成の暁には関連産業の売り上げが1983年の2.4倍となると予測される。8月27日:二期地区内農家3戸(石橋政次・石毛常吉・岩沢茂)が空港公団と移転契約を締結、成田市並木町・酒々井町井篠に移転することとなる。残る石橋グループの1戸も移転に同意済み。これにより用地内農家は12戸から8戸に減少。8月28日:運輸相が第五次空港整備計画を策定し、二期工事の1990年度概成(8割完成)が目標として掲げられる。9月15日:日比谷公会堂で「東峰裁判完全勝利をめざす集い」開催。9月20日:A・B滑走路騒音区域に挟まれた地域の騒音対策(谷間対策)について空港公団・県・市町村の間で合意成立。9月24日:革労協解放派が、時限式装置を使い成田空港に向けて金属弾を発射。9月28日:プロ青同が空港公団の工事局舎の門塀に火炎瓶を投擲。9月30日:中核派が成田市並木町の代替地にある詰所が鉄パイプや火炎瓶などで襲撃し、詰所・車両が全焼したほか、殴打されるなどした警備員2人が重軽傷を負う。10月20日:10.20成田現地闘争。千葉県成田市の三里塚交差点で反対同盟(北原派)支援グループと警視庁機動隊が1時間以上にわたり衝突、機動隊員59人が負傷。241人を公務執行妨害等で現行犯逮捕。成田空港反対運動終期の大規模な反対派と警察部隊の衝突となる。また同日、革労協系ゲリラが偽装消防車などで空港内に侵入し、施設の一部を破壊。10月22日:千葉地裁が、東山事件の国賠訴訟で原告側の訴えを退ける。11月1日:中核派が、時限式装置を使い成田空港に向けて金属弾を発射。11月20日:中核派が、時限式装置を使い空港警備隊隊舎に向けて金属弾を発射11月21日:千葉市、習志野市、君津市にそれぞれある国鉄幹部の3宅が同時放火される。11月23日:成田用水工事を控える芝山町菱田地区で、革労協解放派が機動隊を襲撃(11.23機動隊襲撃事件)。11月25日:相次ぐ業者の事態により遅延していた成田用水菱田工区で、受注業者名を伏せて工事が始められる。同日、熱田派支援の統一共産同活動家2人が重機に乗るなどして成田用水工事を妨害(現行犯逮捕)。11月27日:芝山町内で警備中の機動隊員に向けてトラックの荷台から火炎瓶が投げられる。11月29日:中核派が国電同時多発ゲリラ事件を起こし、新左翼過激派による最後の市街戦となる。12月19日:成田市が市都市公園条例を改正し、過激派の公園使用を規制。12月23日:成田用水工事の請負会社である石井組の駐車場で2人の男がトラックの下に時限式発火装置を設置するのを張り込み中の捜査員が発見し、見張り役を含め3人を現行犯逮捕。同日、別の成田用水工事関連会社(安藤建設)倉庫が時限式発火装置で放火される。中核派が犯行声明。 ===1986年=== 2月8日:中核派が、時限式発火装置を用いて鹿島建設の事務所等全国7箇所を放火(うち1件は未遂)。2月9日:革労協解放派が、西組建設の車両4台を時限式発火装置で放火。2月28日:革労協解放派が、成田ニュータウンセンター内駐車場で車両4台を時限式発火装置で放火。3月3日:前年4月の日米航空交渉合意に基づき、全日本空輸が成田ーグアム線に就航。45/47体制に基づく日本航空による国際旅客線独占体制から複数本邦社時代に突入する(ただし、前年5月8日に日本貨物航空が国際貨物線を就航させている)。3月8日:革労協解放派が西組社長宅を放火(西組社長宅放火事件)。3月12日:成田市は北原派による全国集会のための公園使用申請却下。10.20成田現地闘争で付近の住宅などに被害が出たことなどから、成田市は都市公園条例を改正して許可の要件に「周辺住民に迷惑を掛けない」などの項目を追加していた。以降も成田市が公園使用許可を出さないことから、北原派は集会を同盟員の畑で行うようになる。3月18日:中核派が、成田用水工事関連会社(安藤建設・原設備工業)の施設・車両を時限式発火装置で放火。3月28日:中核派が千葉県収用委員2人の自宅を放火、委員に対して辞任するよう恫喝する声明を出す。4月13日:空港周辺で花と緑に囲まれた社会づくりを推進する花と緑の農芸財団が発足。4月15日:土地の持ち分の半分以上を取得し民法上の管理権を持つようになった空港公団が、二期用地内の一坪共有地を柵と有刺鉄線で囲い込む。松本操空港公団副総裁が「空港公団に民法上の管理権があり、持ち分のない活動家が侵入しないよう柵を設けた」と説明。4月20日:北原派の支援活動家が共有地内に入りバリケードを構築したが、空港公団職員や機動隊により撤去・排除される。4月26日:チェルノブイリ原子力発電所事故。ゴルバチョフがグラスノスチの徹底を指示。5月15日:空港周辺6市町長が、二期工事促進とB・C滑走路の騒音対策徹底について国等へ陳情書を提出。6月12日:中核派が、印旛学園都市開発事業団工事現場の重機4台を時限式発火装置で放火。7月6日:第38回衆議院議員総選挙・第14回参議院議員通常選挙(衆参同日選挙)が行われ、自民党が圧勝。7月7日:秋富空港公団総裁が首相官邸を訪れ、中曽根首相に「成田はもう限界です。警備上の問題もあり、二期工事は手付かずの状態が続いているが、政局が安定した今こそ、二期を着工したい」と訴える。中曽根首相は一言、「やってください」と答える。7月10日:第15回新東京国際空港騒音対策委員会が開催される。7月11日:運輸政策審議会が空港アクセスの改善に資する路線として都心から成田空港に至る路線の設定を答申。7月17日:革労協解放派が、旧空港警備隊隊舎に向けて飛翔弾発射(7.17成田空港警備隊舎飛翔弾事件)。7月23日:戦旗共産同が、成田用水施設2箇所に時限式発火装置を仕掛ける(作動前の発見により、未遂)。7月29日:中核派が、移転農家(元反対同盟員)の自宅兼倉庫を放火。8月5日:7月30日に創立20周年を迎えた空港公団が記念式典を開催。完全空港化への途上にあることから、招待客は橋本龍太郎運輸相、航空局・空港内諸官庁・関連企業の代表者、空港公団OB代表など小規模に留められる。9月4日:未明、伊勢原市で建築中の運輸省航空局幹部職員の家屋が時限式発火装置により放火されて全焼、更に周辺家屋7戸が類焼により全半焼。なお、被害者の幹部職員は成田空港建設と無関係である。船橋市にある成田空港建設と無関係な別の航空局職員宅も放火され、車両1台が全焼。中核派が犯行声明。10月4日:警察官3人が殉職した東峰十字路事件の裁判で千葉地裁が判決を言い渡し、被告55人のうち52人に執行猶予付きの有罪判決、3人に無罪判決が下される。実刑判決を受けた被告はなく、異例の温情判決に熱田派などからは「勝訴も同然」との声が上がり、軟化の兆しが見られる。10月12日:中核派の盛岡アジトで圧力釜爆弾が押収される。警察によると、爆弾は発破式で極めて強力な殺傷能力を持っており、成田現地闘争に使用される恐れがあった。10月23日:共産同戦記派が警察施設2箇所を時限式発火装置で放火。11月26日:空港公団が第二期工事に着工(反対派への刺激を避けるため、「平坦化工事」と呼称)。成田市取香の駐機場予定地で重機による整地作業が開始される。11月28日:第5次空港整備5ヵ年計画(1986〜1990年度)が閣議決定される。同計画では成田空港の完全空港化・羽田の沖合展開・関西新空港の建設の3大プロジェクトの推進が最重要課題として掲げられる。成田空港については、できるだけ早期の本格工事に着工し、同計画期間中に空港施設を概成することが目標とされる。同日、中核派が、二期工事設計会社(梓設計)幹部社員宅(2軒)・車両を時限式発火装置で放火。 ===1987年=== 1月14日:革労協解放派が、成田用水工事を警備していた機動隊を襲撃(1.14機動隊襲撃事件)。3月6日:空港公団工事局に金属弾が発射される。3月14日:中核派が、空港工事関連企業の1都3県合計5箇所にも及ぶ施設に時限爆弾を仕掛け、ほぼ同時に爆破される。3月29日:用地内農家の小川嘉吉が全国集会で「闘争は農民が中心となって進めなければならない」と発言し、中核派に主導権を握られた北原派の現状を批判。4月1日:国鉄分割民営化に伴い、成田新幹線計画が正式に廃止される。4月4日:熱田派が横堀B滑走路延長上に16メートルの鉄塔を建設。4月15日:空港公団が二期工事の完成予想図を発表。4月26日:この日の成田市議選に4選を目指す北原事務局長が出馬するが、小川嘉吉ら用地内農家は支持せず。北原は当選。4月28日:中核派が、空港工事関連会社(千南商事)社長宅を時限式発火装置で放火。7月12日‐13日:戦旗共産同が、13箇所(未遂含む)で空港工事関連業者車両等を連続放火。 。7月15日:二期工事の山砂搬入妨害を目的として、北原派が国道51号で牛歩デモを行い、4キロ以上の渋滞を発生させる。警察による取り締まりはなし。8月9日:北原派がトラクターや耕運機等30台の車両を使って国道や県道で牛歩デモを行い、最高1キロの交通渋滞を発生させる。支援活動家4人が道交法違反の現行犯で逮捕される。8月13日:反対同盟労農合宿所に向かっていた男性が誤って空港のゲートに辿り着き、警備員の通報で駆け付けた機動隊員らが手荒な職務質問を行う。居合わせた朝日新聞の記者が取材を試みるが連行され、その際に腕にけがを負う。8月27日:中核派が、皇居に向けて時限式装置から金属弾を発射。9月:鎌田慧・中山千夏・辻元清美らの呼びかけにより、「三里塚わくわくツアー」が開催され、家族連れや若者ら約100人が青年行動隊などと交流。以降、1990年までに計7回開催される。9月3日:北原派の役員会で小川嘉吉ら用地内農家が一坪共有地として提供した土地の返還を北原事務局長に申し入れるが拒否される。9月4日:「農民中心の闘い」(実際には中核派との決別)を主張する用地内農家4戸(小川嘉吉・小川喜平・加藤俊宣・島村良助)が、北原派から離脱。小川嘉吉を代表として新たに「小川派」が結成される。当時8戸あった用地内農家の半数を占めるだけでなく、それぞれが所有する面積も大きく、反対派農民の最大の派閥となる。一時革労協が連帯する動きを見せたが中核派に妨害されて実現せず、過激派から絶縁された用地内農家グループの誕生となったが、空港用地取得における膠着状態は継続。9月18日:度重なる集団武装闘争やテロ事件に疲弊した住民の間で極左暴力集団排除の気運が盛り上がり、町内に新左翼14セクトの団結小屋を21箇所も抱える芝山町議会は、北原派の鈴木幸司議員や熱田派の相川勝重議員らの反対もあったものの、「過激暴力集団は凶悪な犯罪者集団」「空港反対と称して幇助行為をしている者に対して強く反省を促し警告する」などとする極左暴力集団排除に関する決議を賛成多数で可決。反対同盟や支援活動家らが町役場に押し掛けるが吉岡誠議長の要請で出動した機動隊がこれを排除。大型の鉄製看板「過激暴力集団排除宣言の町」が町内8箇所に設置される。9月25日:熱田派が「二期を阻もう!今、三里塚と日本農業を考える」東京集会開催。10月11日:小川派が初の集会開催。北原派・中核派が激しく妨害し、機動隊の介入を経て1時間以上遅れてようやく集会を開始するが、30分程度で切り上げられる。10月13日:航空機からの落下物の7割が集中する横芝町・松尾町・蓮沼村が落下物被害の要素を加味して交付金を算定するよう求める要望書を空港公団に提出。10月17日:横浜ヨット小型旅客船爆破事件。10月23日:第16回新東京国際空港騒音対策委員会が開催される。10月29日:戦旗共産同が、空港に飛翔弾を発射。11月5日:中核派が、空港公団工事局施設工事部長宅を時限式発火装置で放火。11月:熱田派が全国総決起集会を開催し、参加者が空港を取り囲むように手をつないで「人間の鎖」をつくる。ゴルバチョフがロシア革命70周年記念式典でスターリン批判。11月6日:竹下内閣が発足。石原慎太郎が運輸大臣就任。11月16日:空港公団が木の根の買収済み用地の囲い込みを実施。革労協の団結小屋である木の根団結砦から投石による作業妨害。11月24日:16日の投石による公務執行妨害容疑で、千葉県警が木の根団結砦への家宅捜査に着手。砦に立てこもった活動家(革労協だけでなく共産同戦旗派の活動家2人も含まれる)らが火炎瓶や投石による抵抗を行い、機動隊との3日間の攻防となる。11月27日:政府・空港公団が成田新法に基づき、木の根団結砦を撤去(木の根団結砦撤去事件)。成田新法による初めての撤去処分。同日、革労協解放派が印西警察署折立駐在所を時限式発火装置で放火。 ===1988年=== 1月18日:成田市三里塚の空き地に駐車中の普通貨物自動車に搭載された発射装置から、空港内に向けて爆発物5発が発射される。発射に使われたのは、長さ150センチメートルの発射筒5本を鉄製アングルで固定した時限式発射装置であり、爆発物は発射地点から約2,500メートル離れた空港施設内駐車場等に落下して爆発。空港運用時間帯の犯行であり、警察庁は「爆発物が航空機本体に当たりかねない危険なもの」としている。2月5日:芝山町の開港条件の1つであった航空博物館の起工式が行われる。1986年度開館予定であったが、テロへの警戒により着工が遅れていた。2月29日:西新宿で中核派が東京空港交通のリムジンバス5台を時限式発火装置を使って放火。中核派は翌日に出した犯行声明で「東京空港交通は成田と羽田の両空港のアクセスを支える主要な企業で、二期推進企業である」とした。3月13日:小川派の集会が開催予定であったが、北原派の圧力によって中止となり、以降小川派の集会が開催されることはなかった。3月17日:革労協(挟間派)が、千葉市内にある航空燃料輸送パイプラインの保安設備室を、消火器爆弾を用いて爆破(フェンスとトイレを損壊)。革労協は「日本革命史を画する歴史的爆破戦闘」と自画自賛。3月19日:開港以来の国際旅客1億人達成。3月29日:用地内農家などの移転先として空港公団が確保・造成していた3か所目となる代替地が成田市畑ケ田に完成。4月13日:戦旗共産同が、空港公団工事局に向けて金属弾が発射。屋上の給水塔が破損。4月14日:北原派を支援する中核派・革労協・共産同戦旗派が、成田闘争、反戦・反安保闘争、対革マル派戦などで「三派共闘」を結成したことを共同声明。4月25日:君津市内の駐車場で、中核派が全日警ワゴンを時限式発火装置で放火。隣の車両を巻き込んで炎上。5月3日:隅谷三喜男(東京大学名誉教授)を議長とする「二十一世紀経済基盤開発国民会議」が、成田・羽田に次ぐ首都圏第三空港の建設(候補地は船橋・木更津の沖)を提言。5月13日:衆議院決算委員会で、石原運輸相が「成田につながる新幹線の挫折はいろいろ理由がございますけれども、現実にああいう形でとんざしておるわけでありまして、また非常に国費をむだに費やしたという形になっております。これに対しては運輸省も非常に大きな責任を感じておりますが、しかしともかく今ありますあの路盤を含めてこれを何らかの形で積極的に活用しなければならないとも思っております。いずれにしろ、今成田は世界有数の非常にアクセスの劣悪な空港でありまして、世界に恥をさらしていると言っても過言ではない。利用される方々は非常に不便をかこっていらっしゃるわけでありまして、一刻も早くこの不便というものを解消する努力をしなければならないと痛感しております。そのためにその方策の一つとしても、現在あります、あの眠っております駅並びに土屋まで来ております路盤というものを何らかの形で活用できないかということを今検討しておりますし、これをできるだけ早く結論を得るように督励しております。」と発言。5月17日:革労協解放派が、野田市内の愛宕派出所を時限式火炎放射装置で放火。所員による初期消火により被害なし。5月22日:用地内だけでなく騒音地域の取り込みを図る北原派が、開港10周年に合わせて芝山町菱田で「芝山廃村化粉砕」をスローガンに集会を開催し、騒特法に反対する姿勢を明確に打ち出す。5月23日:この日の開港十周年記念祝賀会に招かれた石原運輸相が、成田について「日本の表玄関としてこのていたらくは情けなく、残念だ」と記者会見で語る。6月10日:石原運輸相が竹下登首相の承認を得て、成田空港の鉄道アクセスについてJR東日本及び京成電鉄が空港ターミナルまで乗り入れる暫定措置を発表。6月24日:石原運輸相が芝山鉄道に成田空港(現・東成田駅) ‐ 整備場前(芝山千代田駅)の事業免許交付。更なる延伸を望む芝山町は不満を表明。6月28日:財団法人新東京国際空港振興協会(現・成田国際空港振興協会)が設立。7月1日:中核派が、空港関連工事会社の車両や事務所、常南交通のバスを関城町と成田市で時限式発火装置を使って放火。7月4日:戦旗荒派が、東京・千葉・茨城の3都県の空港建設工事の下請業者等8業者の車両31台を放火。警察はこの事件で同派活動家5人を検挙。7月6日:空港公団の申請を受けた千葉地裁が、東峰団結会館について現状変更禁止の仮処分を執行。団結小屋の要塞化を封じる。7月12日:中核派が仮処分の動きに先手を打ち、二期地区内の団結小屋「木の根育苗ハウス」で監視櫓の建設を始める。7月13日:千葉地裁が、木の根育苗ハウスについて現状変更禁止の仮処分を執行。8月11日:中核派が、成田山本商会の車両4台を時限式発火装置で放火。8月28日:総理府が発表した世論調査で、成田空港問題について「あくまで話し合いを」とする回答が41.1%と最も多く、「拡張工事をするな」とする回答(5.0%)と合わせると強制収用に否定的な意見が半数近くを占める(「話し合いで駄目なら法的手段を」は20.8%、「話し合いは無理、早く法的手段を」は5.3%)。9月18日:菱田現地闘争デモで、機動隊のヘルメットを素手で殴った革労協解放派の1人が逮捕される。9月21日:千葉県収用委員会会長で弁護士の小川彰が、千葉市内の路上でフルフェイスのヘルメットを被った数人に襲われる。小川弁護士は全身を鉄パイプやハンマーで殴られ、両足と左腕などを複雑骨折する重傷を負う(千葉県収用委員会会長襲撃事件)。その後中核派が犯行声明を出すとともに、「収用委員会解体闘争」と称して収用委員全員の住所と電話番号を機関紙『前進』に掲載し、組織的に脅迫じみた手紙や電話などを送り続けた。9月26日:革労協解放派が、船橋西警察署道野辺派出所を爆破。時差を設けたタイマーとからくり仕掛けとを用いた爆弾2個が用いられ、約30分の時差で爆発した。出入口外壁等が破損したうえ、現場に到着した警察官1人が負傷。付近の民家にも被害。9月29日:中核派が自由民主党本部放火襲撃事件の担当裁判官の宿舎に停められた車両を放火。10月7日:空港公団内に「用地交渉推進本部」が発足。10月17日:革労協解放派が、越谷市内の古小路運輸の車両を時限式発火装置で放火。10月24日:千葉県収用委員会会長襲撃事件を受けて、千葉県の収用委員会委員の全員が沼田千葉県知事に辞表を提出。沼田知事は翌月24日に辞表を受理。以降、2004年の再建に至るまで千葉県収用委員会は完全な機能停止状態に陥る。10月25日:沼田千葉県知事が石原運輸相と面会し、「成田空港は国のプロジェクトであり、(県による強制収用によらず特別立法を定めて)問題解決には国が総力を挙げて取り組むべき」と訴える。10月28日:JRと京成電鉄の旅客ターミナル乗り入れのための事業主体として、千葉県・JR東日本・京成電鉄が出資し成田空港高速鉄道株式会社が第3セクターとして設立される。11月3日:中核派が、大洋村の太陽運送の車両を時限式発火装置で放火。11月6日:熱田派が主催した11・6全国総決起集会で参加者が「人間の鎖」を作った際、2人が公務執行妨害で逮捕される。11月7日:千葉県収用委員会が機能停止という異常事態を受けて、沼田千葉県知事が「土地収用は国で対処してほしい」と表明。11月15日:千葉県連政調会長の戸辺敬が自民党本部で開かれた全国政調会長会議で、強制収用を国が対応できるよう特別立法措置を講じるよう要請。渡辺美智雄政調会長が「政府の責任において検討したい」と応じる。11月19日:熱田派の菅沢昌平事務局長が、話し合いのための4項目を明記した申入書を秋富空港公団総裁に渡す。秋富総裁は反対派から条件提示を得られたことを評価したが、強制収用の放棄などの要求は受け入れられず、秋富の退任とともに立ち消えとなる。11月30日:第2旅客ターミナルビル着工。これまで反対派を刺激しないように控えられてきた起工式が行われる。12月1日:強制収用について、千葉県議会が国の特別立法措置を求める意見書を採択。12月15日:中核派が、船橋レミコンの車両を時限式発火装置で放火。12月18日:香山新田内の横堀十字路で、検問中の空港警備隊と小競り合いを起こした戦旗共産同の活動家16人が公務施行妨害で逮捕され、翌年1月10日に更に1人が逮捕。12月20日:第2旅客ターミナルビル着工を花道として秋富が退任したことに伴い、元運輸事務次官の松井和治副総裁が空港公団総裁に昇格。12月28日:横堀公民館で公務執行妨害事件。 ===1989年=== 1月7日:昭和天皇崩御。新左翼セクトは「大喪の礼爆砕」を掲げ、反政府運動・ゲリラ闘争を実施。1月29日:中核派が、藤沢市内にある公共用地審議会(特定公共事業を認定する建設省の審議機関)の会長代理宅の物置を、時限式の圧力釜爆弾で爆破。2月21日:戦旗共産同が空港に向けて仕掛けた飛翔物発射装置が成田市内の林で見つかる。2月15日:ソ連軍がアフガニスタンから撤退。3月:戦旗荒派が「横堀団結の砦」をプレハブ2階建てから鉄筋4階建てに増築。3月7日:中核派が日本舗装の倉庫を時限式発火装置で放火。3月12日:中核派が丸和建材の車両を基に時限式発火装置で放火。3月26日:熱田派が告示からの20年経過を根拠に事業認定の失効を主張するパンフレット『時間のバクダン』を発行。同日、北原派が主催する3・26全国総決起集会のデモ行進中に中核派の活動家ら7人が公務施行妨害で逮捕される。3月30日:中核派が、成田市排水路整備工事現場のダンプカーやショベルカーを時限式発火装置で放火。4月25日:20年が経過すれば事業認定自体が失効するとする事業認定失効論を主張する熱田派に対し、運輸省が土地収用法に事業認定の有効期限について明文規定がないことなどを理由に「空港建設の事業認定告示から20年経過しても収用採決は可能」と反論。5月19日:千葉地裁が空港公団の訴えを認め、空港公団が取得した土地・家屋で内縁の夫である革労協の活動家や子供とともに居住を続ける小川明治の次女に退去を命じる判決。次女は即座に控訴し、その後も居住を続けたが、1998年11月に空港公団の説得を受けて転出。ただし、建設工事に支障がないことなどから家屋の取り壊しは行われず、活動家による出入りはその後も継続。5月26日:第17回新東京国際空港騒音対策委員会が開催される。5月31日:千葉県収用委員会の新委員任命阻止を訴える北原派支援の過激派が千葉県議会の本会議を傍聴しようとしたが、県議会は県警本部に要請して過激派排除の構えをとったうえ、県議会史上初めてとなる傍聴希望者の入場拒否に踏み切る。6月5日・6月8日も過激派活動家らが傍聴を試み入場を拒否されるが、結局新委員は任命されず。6月2日:千葉地裁が、空港二期工事のC滑走路建設予定地の内外に跨る一坪共有地(旧御料牧場の馬止め堤防跡地)について、50人いた一坪地主のうち43人分を取得した空港公団の訴えを認め、持ち分比率に応じて分割して二期地区に係る用地を空港公団の所有地とする判決を下す。更に当該用地上に熱田派が建設した小屋についても判決確定時の撤去を命じる。熱田派の熱田代表らは控訴し、最高裁まで争うが、1994年に空港公団勝訴の判決が確定。6月3日:宇野内閣が発足。6月4日:六四天安門事件。6月5日:中核派が、藤田陸運の車両を時限式発火装置で放火。6月11日:この日投票の芝山町長選挙に、熱田派の同盟員らが空港推進派の保守系議員らとともに「芝山町を考える会」を結成して相川勝重を擁立。熱田派は相川を役職から解任して選挙に関与しない立場をとり、陣営は空港問題を棚上げして選挙戦に臨む。相川は2350票を得たものの、2938票を得た真行寺一朗が5選を果たす。出馬表明の遅れにも関わらず選挙で善戦できたことは、熱田派が話し合い路線に転じる転機となる。7月8日:成田新法の適用を免れるため「木の根ペンション」の名称で同盟員の石毛博道が改築していた、熱田派の団結小屋の落成式が行われる。7月20日:反対同盟熱田派が緊急総会を開き、6月の芝山町長選挙の動きについて熱田派を「話し合い路線へ転落」等と非難した最大の支援セクトである戦旗荒派に対し、共闘関係の断絶と現地からの退去を通告。1986年に結んだ「指示に従わないときは現地から出ていく」等とする確約書を根拠とした。戦旗荒派はその後「三里塚二期阻止・土地収用を許さない全国運動」を立ち上げ、熱田一や小川源ら熱田派内の徹底抗戦派(長老派)の支援を続ける。7月23日:第15回参議院議員通常選挙で自民党が惨敗し、ねじれ国会となる。7月24日:中核派が、千葉県収用委員会事務局職員の自宅を時限式発火装置で放火。8月1日:芝山町の要望により航空科学振興財団が建設していた航空科学博物館が開業。8月10日:海部内閣が発足。8月23日:中核派が芝山町内のゴルフ場の事務所を時限式発火装置で放火。8月29日:支援セクトと農民の分断を図る運輸省が成田新法の積極的な適用に乗り出し、「横堀団結の砦」(戦旗荒派)に使用禁止命令を通告。熱田派から絶縁されていた戦旗荒派の活動家は抵抗することなく退去。9月8日:中核派が片岡組本社を時限式発火装置で放火。9月19日:「天神峰現地闘争本部」(北原派)・東峰団結会館(戦旗両川派)・「木の根育苗ハウス」(中核派)・「横堀団結小屋」(第四インター)・「三里塚闘争会館」(中核派)「大清水団結小屋」(革労協)・「横堀団結小屋」(プロ青同)の計9か所に一斉に成田新法に基づく使用禁止が通告される。10月16日:熱田派が運輸省に「今後も警察力を使って苦しめるのか」「20年前の事業認定は失効するのではないか」等とする公開質問状を提出。10月21日‐23日:共産同戦旗派が、千葉地裁の現状変更禁止仮処分を無視し、「東峰団結会館」の要塞化工事を実施。10月22日:反対同盟熱田派の三里塚闘争連帯労農合宿所で火災が発生。空港公団が跡地のうち取得済みの用地を確保すべく囲い込みを図るが、「火事場泥棒だ」と反発した熱田派はブルドーザーを持ち出して機動隊に抵抗、小屋を再建する。小川源が負傷。熱田派最後の実力闘争となる。熱田派を穏健派とみなすようになっていた空港公団は衝撃を受ける。同日、北原派の集会にナイフを持ち込んだ男など2人を逮捕。10月30日:団結小屋4件に対する成田新法に基づく使用禁止処分の取り消しを求め、熱田派が提訴。11月9日:ベルリンの壁崩壊。11月16日:中核派が千葉県議会事務局次長宅を時限式発火装置で放火。発火装置は逃げ口を塞ぐように玄関と勝手口に設置され、家人1人が2階から脱出した際に負傷。隣接する民家2軒にも延焼。11月30日:熱田派の公開質問状への回答書を郵送する形で、江藤隆美運輸相が運輸大臣として初めて過去の誤りを認める。12月:熱田派から追放された戦旗荒派が、報復として菅沢昌平事務局長が空港公団幹部や公安担当警察官などと接触していたことを機関誌で暴露。12月2日‐3日:マルタ会談(冷戦終結)12月4日:運輸省が櫓増設などの要塞化が進められていた「東峰団結会館」(戦旗両川派)に対し、封鎖処分を通告。活動家(中核派・革労協も共闘)らが火炎瓶などで激しく抵抗したため、除去処分に移行。機動隊との攻防を経て、活動家ら5人が6日に検挙される。鉄製の籠でやぐらを覆う「鳥かご作戦」が功を奏し、双方に負傷者は無し。12月7日:中核派が、千葉県新産業三角構想推進室幹部宅を時限式発火装置で放火。12月15日:11月30日の江藤大臣の回答では事業認定失効論が否定されたため、熱田派が2回目の公開質問状を運輸相を送付。同日、菅沢事務局長が辞任。12月16日 ‐ 26日:ルーマニア革命。チャウシェスク大統領夫妻が公開処刑される。12月17日:熱田派が、岩山地区の空港公団所有地に国との対話を進めていく拠点「椎の木むら」を野菜即売所の名目で開設。12月19日:(1)成田空港の1990年度概成に全力を挙げる(2)農家との話し合いを積極的に進める(3)過激派にはあらゆる法令を適用していくなどとする政府声明が閣議決定される。12月20日:千葉地裁が、横堀墓地の入会権を巡り空港公団と争っていた熱田一の請求を退ける。 ===1990年代=== ====1990年==== 1月7日:日本経済新聞が、冷戦終結により基地返還の可能性が出てきたとして、在日米軍の横田基地と厚木基地が首都圏第三空港の有力候補として浮上したと報じる。1月15日:前年11月16日の千葉県議会事務局次長宅放火容疑で、千葉県警が反対同盟北原派の天神峰現地闘争本部で家宅捜索。引き続き事業認定区域内の工作物の変更禁止を定めた土地収用法違反容疑での検証を翌日未明まで実施。その間反対派は闘争本部から締め出されたうえ、県警の検証終了直後には運輸省によって成田新法に基づく封鎖処分が下される。1月16日:中核派が、三井建設の事務所・宿舎・車両等を時限式発火装置で放火。同日、革労協狭間派が成田市内の路上でタイヤを炎上させる。1月17日‐2月28日:湾岸戦争。1月23日:中核派が、JR・京成の各線7箇所(中央本線・横浜線・横須賀線・根岸線・南武線・常磐線・京成本線)で車両を放火。1月30日:江藤隆美運輸相が前年12月15日に熱田派が送付した公開質問状への返書を持参して現地を訪れる。反対同盟熱田派農民と公開会談がもたれ、事業認定失効論や木の根地区での機動隊による過剰な検問の撤廃等について話し合われる。これ以降、熱田派では石井武代表補佐や石毛博道事務局員らのグループが対話路線を推進する。一方、話し合い路線に反発する熱田一代表や小川源代表補佐は会談を欠席。2月17日:中核派が、八王子警察署丹木駐在所を時限式発火装置で放火。2月19日:中核派が運輸省運輸政策局情報管理部長宅を放火。隣家にも延焼。2月21日:第39回衆議院議員総選挙で落選し退任が迫る江藤運輸相が、反対同盟小川派代表の小川嘉吉の自宅を訪問。江藤運輸相は玄関先で2時間にわたり小川を待ち続けたが応対されず、江藤運輸相は奥の部屋に向かって声掛けしたうえで名刺を置いて退出。2月23日:革労協解放派が、佐倉警察署志津派出所を時限式発火装置で放火。2月27日:未明、二期工事を請け負う清水建設の吉野照蔵社長宅が中核派に時限式発火装置によって放火される。放火は玄関と勝手口をふさぐように行われ、吉野社長は妻とともに就寝中であったが、火事に気付くのが早かったため辛くも逃れる。中核派の犯行声明では前年12月4日の東峰団結会館撤去に際して清水建設がクレーン車を貸し出したことが理由として挙げられる。成田空港問題に関連する大企業のトップを標的としたテロは初。3月14日:中核派が、日本航空事業連合会などが入居する東京都港区の雑居ビルを放火。3月19日‐21日:運輸省・空港公団が成田新法に基づき、中核派の団結小屋である「木の根育苗ハウス」を撤去。立て籠もった活動家らが火炎瓶を投擲したり古タイヤを燃やすなどの抵抗を行い、8人が公務執行妨害等で逮捕される。3月22日:中核派が近藤秋男全日本空輸社長宅の車両と渡辺文夫日本航空会長宅を放火。近藤社長宅の隣家にも延焼。3月24日:キャセイパシフィック508便が突風を受けて着陸に失敗し、衝撃で燃料漏れを起こす。緊急脱出中に風で煽られたシートから落下するなどして65人の重軽傷者を出し、横風用滑走路の必要性がクローズアップされる。3月25日:横堀現地闘争本部前で開かれた集会で、熱田一が反対同盟熱田派の代表職辞任を報告(辞表は22日に受理)。石井武・小川源・笹川英佑・柳川秀夫が代表世話人となる。熱田の辞任理由は表向き「体力の衰えと家庭の事情」とされたが、実際には熱田派(以降、旧熱田派)の対話路線への反発であったとされる。4月12日:日本飛行機専務宅放火殺人事件。中核派の犯行。4月25日:中核派が、日本空港ビルデング常務宅を時限式発火装置で放火。4月27日:東武鉄道変電所を時限式発火装置で放火。5月2日:中核派が、成田市内の駐車場を放火。車両32台が全半焼。5月15日:反対同盟旧熱田派がパンフレット『20年が過ぎた成田事業認定‐私たちは政府と公開論争を続けています』を発行。7月19日:航空大学校校長宅放火未遂事件が発生。警察は中核派の犯行と断定。7月20日:空港公団管理道路で北原派の宣伝カーを運転していた共産同蜂起派の活動家が検問をしていた空港警備隊と小競り合いになり、逮捕される。8月11日:旧熱田派が香山新田地区で「原野祭」を開催。8月16日:革労協解放派が、佐原警察署伊能駐在所を時限式火炎放射装置で放火。8月20日:中核派が、美浜中学校に仕掛けた時限式発射装置で金属弾を葛南警察署に向けて射出。8月22日:早朝、南三里塚の千葉県道62号成田松尾線沿いにあった中核派の団結小屋「三里塚闘争会館」に対し、運輸省職員が成田新法に基づく封鎖を通告。立てこもった活動家4人が応じなかったため除去に切り替えられ、撤去作業が開始される。中核派の温存方針により活動家らは火炎瓶などを用いず、8時間で全員逮捕される。撤去作業は翌日に完了。11月の即位礼正殿の儀等を前にして中核派のゲリラが活発化していたことを受けたもので、用地外の団結小屋では初めての成田新法に基づく撤去処分。9月13日:「野戦病院」(中核派)・「菱田現地第一砦」(共産同戦旗派)に使用禁止命令が通告される。9月28日:開港以来の国際旅客1億5千万人達成。10月15日:早朝、革労協の団結小屋である「大清水団結小屋」に対し、運輸省職員が成田新法に基づく除去処分を通告。活動家2人が立て籠もるが勢力温存の方針から抵抗は投石のみにとどまり、7時間後に機動隊員に逮捕される。10月18日:反対同盟旧熱田派の石井新二・村山元英千葉大学教授・真行寺一朗芝山町町長・伊橋昭治芝山町議・吉岡誠芝山町議らが発起人となり地域振興連絡協議会設立準備会が開催される(事務局は「椎の木むら」に設置)。10月20日:革労協解放派が、成田警察署八生駐在所を火炎瓶で放火。逃走に用いられた車両が時限式発火装置で燃やされる。10月26日:第18回新東京国際空港騒音対策委員会開催。11月1日:成田空港問題の話し合い解決と地域振興を目指す第三者機関「地域振興連絡協議会」(地連協)が発足し、設立総会が開かれる。反対同盟旧熱田派・千葉県・周辺市町などが参加。反対派が公式の話合いの場につくのは三里塚闘争史上初めて。11月6日:開港以来の発着回数が100万回達成。11月11日:警戒中の警備員に向かって、戦旗荒派の「横堀団結の砦」から火炎瓶が投げつけられる。翌日にも同様の犯行。11月12日:芝山町香山新田の草地から使用済みの金属弾発射装置が見つかり、建設中の第2旅客ターミナル付近から金属弾が発見される。当日は今上天皇の即位の礼(即位礼正殿の儀)が行われ、多くの諸外国の要人が空港を利用していた。犯行声明はなかったものの、金属弾から戦旗荒派の犯行と断定される。空港以外でも各地でテロが相次ぐ。11月27日:同月の火炎瓶投擲を受け、政府・空港公団が成田新法に基づき、戦旗荒派の団結小屋である「横堀団結の砦」を撤去(〜29日)。成田新法に基づく除去は6件目で、ゲリラ活動を展開する過激派の拠点はこれをもってすべて撤去される。その際、熱田一が耕作していた畑が空港公団と機動隊によって荒らされる。12月3日:中核派が運輸省電子航法研究所宅を時限式発火装置で放火。千葉県出納局長宅の放火も試みられるも、作動前に発見され、未遂に終わる。12月16日:村山教授・石井新二、運輸省の高橋朋敬新東京国際空港課長が、隅谷三喜男・高橋寿夫(日本空港ビルデング社長・元航空局長)・山本雄二郎(高千穂商科大学教授)を訪ね、学識経験者としての仲裁役を依頼、了承される。12月17日:地連協が国側・反対派双方の犠牲者を弔う初めての鎮魂祭を開催。二階俊博運輸政務次官・松井和治空港公団総裁・沼田千葉県知事ら約200人が参列。一方、反対同盟北原は反対集会を開催し、旧熱田派も「加害者と抵抗者の死を一緒にするのは不可能」との声明を発表。12月20日:東京高等裁判所は77年5月8日の衝突で死亡した東山薫の死因について、一審判決を破棄して機動隊によるガス弾の頭部直撃によるものと認定し、千葉県に3,940万円の賠償命令判決を下す。千葉県は不服として27日に最高裁判所に上告。12月29日:東山事件に対する県の上告を受けて、旧熱田派がシンポジウム不参加を表明。 ===1991年=== 日米構造協議での公共事業拡大要求もあり、運輸省が「総滑走路延長指標」の目標達成のために大都市の空港の拡大よりも建設が容易な地方空港の建設を推進するようになる。1月18日:開港以来の航空貨物取扱量1千万トン達成。2月1日:中核派が、反対派農家の農作物を取り扱う農産物直販事業所を名目として、栗源町(現・香取市)に「三芝物産北総センター」を開設。活動家が常駐し反対運動を支援する拠点となる。中核派は成田新法の適用により空港周辺の拠点を失っていた。2月4日:芝山町議会空港対策特別委員会で熱田派系「芝山町を考える会」所属の吉岡誠町議が、横風用滑走路の代わりに九十九里沖に滑走路を建設してそこから空港を高速鉄道などで結ぶ案を提唱。2月10日:大阪航空局福岡空港事務所長宅に仕掛けられた時限式発火装置が作動前に発見される。2月14日:地連協が「シンポジウム趣意書」を発表。2月23日:第1ターミナル付近の駐機場に金属弾が着弾する。千葉県警が付近を捜索したところ、空港西側(大清水地区)の林の中から発射筒3本が発見され、付近の畑からも別の金属弾が見つかる。着弾時間帯には日本エアシステム機がスポットインする予定であった。自衛隊幹部や在日米軍住宅を標的としたテロなどと合わせて中核派が翌日の集会で犯行声明。同日、宇沢弘文(新潟大学教授)が木の根ペンションを訪問し、旧熱田派と会見。シンポジウムへの参加を決意。2月24日:千葉県知事代理が、石井新二の仲介で東山家を訪問。3月19日:成田線成田駅 ‐ 成田空港駅、京成本線京成成田駅 ‐ 成田空港駅が開業。JR・京成ともに空港ターミナル地下に乗り入れ。4月9日:地連協が空港公団、千葉県、ならびに反対同盟三派に、公開シンポジウム参加を申し入れる。旧熱田派は5つの条件((1)二期工事の土地問題で強制的手段をとらないことを運輸省に確約させる(2)学識経験者もシンポジウムに参加する(3)協議会は反対同盟と運輸省が対等な立場であることを保証する(4)シンポジウムは相互意見発表と議論の場であると位置づける(5)適正な議論が行われない場合は旧熱田派は参加を拒否する権利を有する)付きで参加を提示。翌日、北原派は「シンポに協力する脱落派を徹底糾弾する」と声明を発表。小川派は20日にシンポ不参加を声明。4月20日:小川派がシンポジウム不参加を表明。5月:戦旗荒派が多古町に「赤池物流センター」を開設。5月7日:中核派が、時限式発火装置で空港工事関連2社の倉庫や車両等を放火。5月15日:シンポジウムに向けた学識者グループが発足。顔ぶれは相磯和嘉(千葉大学名誉教授)・隅谷三喜男・宇沢弘文・高橋寿夫・山本雄二郎・原田正純(熊本大学助教授)とされたが、高齢や多忙を理由に相磯と原田が辞退し、変わって河宮信郎(中京大学教授)が参加。5月19日:北原派が全国集会でシンポジウム粉砕を呼びかけ。5月28日:村岡兼造運輸相が、地連協に対して、いかなる状況のもとにおいても強制的手段を取らないことを確約する旨を文書で回答。6月10日:中核派が自民党千葉県議員宅を時限式発火装置で放火。住宅や車両が全焼。6月15日:学識経験者らが自らを「隅谷調査団」と名乗り、シンポジウムの主催を地連協から調査団に移す旨を声明。6月17日:旧熱田派がシンポジウム参加を正式決定。6月25日:クロアチア共和国がユーゴスラビアからの分離と独立を宣言(ユーゴスラビア紛争)。7月:石毛博道が旧熱田派事務局長に就任。7月2日:地連協の村山会長が、シンポジウムの主催を隅谷調査団に依頼。7月13日:隅谷調査団が、シンポジウム運営委員を学識経験者・運輸相・反対同盟・自治体等に委嘱。運営委員会によるシンポジウム準備が進められる。7月23日:東峰の二期地区内に住む農家9戸(北原派:萩岡進、旧熱田派:石井武、小川派:島村昭治 等)が、当方で行われる二期工事を「軒先工事」として抗議する声明を成田市を通じて空港公団に提出。これを受け空港公団はシンポジウムが開催されることも勘案して工事を凍結。7月28日:中核派が千葉県空港対策課長宅に時限式発火装置を仕掛けるが、隣の空家宛の宅配物と思慮した同課長が装置を移動し、空家の玄関で炎上。8月1日:二期区域エプロン一部供用開始。8月12日:熱田一の申し入れを受け、「旧熱田派」への名称変更が合意される。8月10日:二期用地内で、旧熱田派や地元住民らが結成した「都はるみ 星と大地にうたう会」が、『三里塚・都はるみ・星空コンサート』を開催(空港周辺市町後援、地連協協賛、空港公団も駐車場敷地等を提供)。8月19日:ソ連8月クーデター。9月2日:中核派が東京都品川区上大崎にある運輸省の寮を放火。厨房や車両が炎上。9月4日:中核派が、陸上自衛隊朝霞駐屯地施設・堤功一外務省審議官実父宅とともに、空港建設に関わっていた梓設計常務宅と日揮社員寮を放火。このうち外務省審議官実父宅への放火では標的を誤ったうえに死者を出すが、中核派幹部の北小路敏は「家族にも半ば責任はある」と開き直る。(外務省審議官実父宅放火殺人事件)9月5日:千葉県企画部理事長兼シンポジウム運営委員宅を付近の小学校からゲリラのための下見をしていた中核派の非公然活動家を逮捕。10月13日:北原派主催の10・13現地闘争に参加しようとした共産同戦旗派の活動家1人が検問をしていた機動隊と小競り合いになり、公務執行妨害で現行犯逮捕。10月28日:中核派が空港公団施設工事部調査役宅を時限式発火装置で放火。11月:革労協狭間派が栗源町に「三里塚企画」を開設。11月5日:宮澤内閣が発足。運輸相に就任した奥田敬和が、拝命後の記者会見で「いつまでも待っているわけにはいかんでしょう」と強制収用の可能性を示唆。同日、革労協解放派が、千葉県監察委員会事務局第二課長(元千葉県空港対策課主幹)宅を時限式発火装置で放火。自宅・車両・隣家が全焼。11月6日:未明の会見で、奥田運輸相が前日に続き「国民が納得するなら(強制収用を)決断する」と発言。旧熱田派は「発言を撤回しない限りシンポジウムに参加しない」と表明。13日に開催予定の成田空港問題シンポジウムの開催が延期される。11月13日:中核派が、東京空港交通の保養所及び日本空港ビルデングが以前保養所にしていた山荘を時限式発火装置で放火。11月15日:奥田大臣が、閣議で平和的解決の方針を再確認し、了承を得る。同日、旧熱田派がシンポジウム参加を再表明。11月21日:第1回成田空港問題シンポジウム開催(以後15回に亘り成田国際文化会館と芝山文化センターで交互に開催)。国と反対派が公式の場で本格的に対話するのは闘争史上初。行政側からは奥田運輸相・沼田千葉県知事・長谷川成田市長・松井空港公団総裁らが出席。旧熱田派の石毛事務局長が「徳政をもって一新を発せ」と題する意見発表を行い、奥田運輸相が過去の不手際を謝罪したうえで二期工事の必要性を訴える。11月29日:第6次空港整備5ヵ年計画が閣議決定される。計画では中部国際空港とともに首都圏第3空港についての総合調査着手が盛り込まれる。12月25日:ソ連崩壊。 ===1992年=== 2月18日:中核派が、千葉県総務部長宅・元運輸省航空局長宅・千葉県農林部次長宅・千葉県商工労働部長宅・武南警察署神根駐在所・全日本空輸常務宅を、時限爆弾で爆破。3月14日:日本国政府専用機が整備を受けるために初めて成田空港に飛来、政府専用機飛来の情報は過激派に対する懸念から秘匿される。後に空港公団の広報誌で公にされると、中核派が「政府専用機が成田に常駐し、PKOの出撃拠点となる」と機関誌で主張するなどして、「成田軍事空港化」の攻撃材料とされる。4月27日:中核派が空港公団工務部次長宅を時限式発火装置で放火。5月13日:中核派が空港公団運用局幹部宅を時限式発火装置で放火。6月1日:空港公団工事局幹部宅に仕掛けられた時限式発火装置が作動前に発見される。6月2日:佐倉市内の団地造成地に仕掛けられた時限式発火装置が作動前に発見される。6月3日:熱田一とともに徹底抗戦を主張し、旧熱田派の世話人をしていた小川源が食道癌で死去。6月16日:中核派が空港公安事業本部幹部宅を時限式発火装置で放火。同時刻に空港工事請負業者の隣家が放火され全焼。6月29日:日本の伝統文化を紹介するテーマパークの建設を計画していた第3セクター「成田ジャパンビレッジ」がバブル崩壊のあおりを受け、株主総会で計画中止を正式決定。7月1日:成田新法事件で最高裁判所が成田新法を合憲とする判決を下す。8月1日:南側エプロン供用開始。8月6日:空港公団が過去最高の黒字決算(225億円)を発表。8月25日:騒音地から移転した元熱田派の反対同盟員宅が時限式発火装置で放火される。9月28日:「シンポ粉砕」を主張する革労協が、前月の元反対同盟員宅への放火を批判した隅谷三喜男調査団団長の自宅に、公園に仕掛けた時限式発射装置で金属弾を発射。10月3日:中核派が日本航空研修センターを時限式発火装置で放火。10月26日:成田財特法の延長を国には働きかけることを目的として、千葉県が周辺地域の振興計画策定を進める成田空港周辺地域振興推進本部設置を発表。10月31日:北側エプロン供用開始。11月11日:空港公団幹部の自宅が、時限爆弾により爆破される。幹部は過去に用地交渉に携わっており、倒れて来た家具に足を挟まれて骨折。飼い犬が爆破による傷がもとで死ぬ。中核派が犯行声明。12月3日:第2旅客ターミナルビル地下の「空港第2ビル駅」が供用開始。12月6日:第2旅客ターミナルビル供用開始。日本航空など国内4社及び外国28社が移転。老朽化した第1旅客ターミナルビルの改修のため、北ウイングの第1・第2サテライトが閉鎖される。12月10日:第2ターミナルの供用について反対同盟小川派が抗議声明。12月14日:第2ターミナルの供用開始に伴う騒音や排ガスについて、東峰地区の反対農家など9戸が公開質問書を成田市を通じて空港公団に提出。空港公団は「できる限りの対策を講じたい」とする回答を東峰区の梅沢勘一区長に手渡し。12月17日:中核派が元千葉県収用委員宅を時限式発火装置で放火。 ===1993年=== 1月4日:空港公団総裁が交代し、元海上保安庁長官の山本長副総裁が昇格。元総裁となった松井は「二期工事がここまで進んだことが成果とも言え、ここまでしか進まなかったことが心残りでもある」と翌日の記者会見で述べる。2月2日:第2旅客ターミナルビルに対応した新管制塔が供用開始。全高は87.3mで、当時の管制塔としては日本一の高さを誇った(2017年現在でも羽田空港の管制塔に次ぐ第2位の高さ)。1978年の占拠事件での舞台となった旧管制塔の管制室は空港公団に移管され、ランプコントロールの用に供される。2月5日:開港以来の国際旅客2億人達成。2月14日:旧熱田派農家や支援者らが第2旅客ターミナルビル南側の駐機場エリアに残された「梅の木共有地」で梅見を行う。当初共有地は33人が所有していたが、空港公団が内32人分の権利を取得しており、残された33分の1の権利を熱田派の農家など8人で再分割したものである。梅の木は一度ほとんどが枯れており、空港公団が前年の春に20本を後で植え直していた。2月23日:中核派が、大塚茂元空港公団総裁の自宅駐車場に停められた乗用車を時限式発火装置で放火。車両のほか台所外壁が損傷。3月5日:中核派が、元運輸事務次官・空港公団副総裁でJR貨物会長の町田直の自宅を時限式発火装置で放火。5月17日:革労協が、佐原警察署に金属弾を撃ち込む。5月21日:隅谷調査団団長名で北原鉱治宛に「地域の理性あるコンセンサスをつくりあげる新しい場」への参加を求める書簡が出される。北原派は記者を集めてその目の前でこの書簡を焼き、シンポジウムへの批判を行う。5月24日:第15回成田空港問題シンポジウム開催(終了)。(1)空港建設予定地に対する収用裁決申請を取り下げる(2)B・C滑走路の建設計画を白紙撤回する(3)シンポジウムに続く新たな話し合いの場を設けて問題解決に向けて議論する の3点で合意。6月13日:真行寺一朗の後継を決める芝山町長選挙で、内田裕雄が相川勝重を破って当選。6月16日:シンポジウムでの合意事項を受けて、空港公団が収用裁決申請を取り下げ、事業認定が失効。「ゴネ得」防止のために事業認定時の価格を基準として物価スライドのみを認めている土地収用法の枠が外されたことにより、2期地区の用地買収価格は5倍にまで跳ね上がる。6月17日・20日:山本空港公団総裁が用地内農家8戸を含む地権者13戸を訪問し、収用裁決申請取り下げを報告。7月18日:第40回衆議院議員総選挙で新党が躍進。8月1日:中核派が武装闘争から大衆運動・組織建設に比重を移す方針を集会で打ち出す(八・一路線)。8月9日:細川内閣が発足し、自民党が下野(55年体制の崩壊)。9月20日:第1回成田空港問題円卓会議開催(以後12回開催)。空港と地域との共生の在り方を中心に議論が進められる。10月20日:菱田地区の農家10戸が空港公団と移転補償契約を締結。11月24日:空港公団が二期工事を中断。12月23日:空港公団が、初の試みとして周辺住民を対象にクリスマス祭を開催。以降毎年恒例の行事となる。 ===1994年=== 1月31日:子供たちに気軽に空港に見てもらうことを目的に、空港公団が地元の小中学生向けに「成田空港パスポート」を配布。3月7日:伊藤茂運輸相が「成田貨物空港化」等を提言する論文を東洋経済に掲載。翌日の会見で「論文は友人が執筆したもので、内容は十分に確認しなかった」と釈明、19日発売の同誌インタビューで「成田は国際空港として整備する」「地元や関係者に不信感を抱かせてしまい申し訳ない」と述べた。3月29日:この日開催された第6回成田空港問題円卓会議に、伊藤運輸相が東洋経済に掲載した論文について「ご迷惑をおかけし申し訳ない」とする釈明文を提出。4月7日:運輸省新東京空港事務所が航空機落下物現地対策委員会を開き、成田に乗り入れる航空会社51社に対して落下物の自発的報告を要請。4月28日:羽田内閣発足。5月16日:早朝、空港公団事業本部管理部次長宅で時限式発火装置が見つかる。成田空港問題関連のテロ事件としては前年5月17日の佐原警察署への攻撃以来であり、千葉県で約1年に亘りテロが行われなかったのは開港以来初。6月23日:「国際エアカーゴ基地」を目指す新千歳空港で国内空港初となる24時間運用が開始される。6月27日:13年間の丁寧な取り組みを経て開港にこぎつけたミュンヘン空港の現地調査を行い成田空港問題解決の参考とすることを目的として、成田空港問題円卓会議に参加している運輸省・空港公団・旧熱田派・住民団体らによる「ミュンヘン新国際空港調査団」が、ドイツに向けて成田を出発。翌月3日に帰国。6月30日:村山内閣が発足。自社さ連立政権となり、自民党が与党に復帰。7月26日:第10回成田空港問題円卓会議で、旧熱田派がB・C滑走路予定地に地球環境に配慮した「地球的課題の実験村」建設を要求。8月24日:空港と地域の共生を考える勉強会で、6月から7月にかけて行われたミュンヘン空港施設の報告が行われる。9月4日:関西国際空港開港。9月13日:第11回成田空港問題円卓会議で、運輸省が横風用滑走路計画の凍結と当該施設の誘導路としての使用を提案し、旧熱田派に歩み寄りを見せる。9月15日:A滑走路16(北側)進入方式フルカテゴリーII運用開始。9月29日:国との対話路線を推進した旧熱田派の石毛事務局長が「これまでの戦争状態を終結させる私の仕事は終わった」として辞意表明。10月11日:成田空港問題解決のための第12回成田空港問題円卓会議で、国と旧熱田派が学識経験者による調停案を受入れ(円卓会議終了)。会議の終わりには東峰十字路事件発生時に警察庁警備課長補佐として現場指揮を行っていた亀井静香運輸相と同事件での逮捕歴がある石毛博道旧熱田派事務局長が握手を交わす。会議終了後に石毛は記者会見で「三里塚闘争は名実ともに終わりを告げた」と闘争終結を宣言し、全国の支援者への感謝の気持ちを述べてから反対同盟離脱を表明。隅谷調査団所見の概要は以下のとおり。平行滑走路の整備は必要であるという運輸省の方針は理解できる。ただし、その用地取得は話し合いにより行うこと。横風用滑走路の整備については、平行滑走路が完成する時点で改めて提案すること。なお、横風用滑走路建設用地を現滑走路と平行滑走路間の航空機の地上通路として整備するという運輸省の方針については、横風用滑走路とは別の問題として理解できる。円卓会議で提案のあった「地球的課題の実験村」の構想については、その意義を高く評価する。国は運輸省に検討委員会を設けて、すみやかに具体化のための検討を開始すること。空港の建設・運営における攻勢を担保するための第三者機関として、共生懇親会(仮称)を設置すること。騒音対策の一層の充実や成田空港周辺地域振興策の推進などについては、円卓会議の結論に従って、その実現の為に努力すること。円卓会議を構成するすべての構成員および関係するすべての地域社会の住民によって所見が受け入れられ、合意された事柄がすべての関係者によって尊重され実現を見ることによって、四半世紀を超える対立構造と不信感とが解消し、地域の将来の発展が図られていくことを強く期待する。10月14日:亀井運輸相から空港公団に対し、以下の指示が出される。今後の空港の整備についは、円卓会議の結論に則り、まず、平行滑走路を整備すること。運輸省が行う「地球的課題の実験村」構想の具体化に関する検討作業に協力するとともに、これに関連し、自ら取り組むことが適切な課題について積極的に対応すること。共生懇親会(仮称)の討論の結論については、誠意を持って受け止め、その実現を図ること。また、共生懇親会の円滑な運営について積極的に協力すること。空港と地域との共生の観点から、騒音対策の一層の充実や騒音地域の計画的な緑化に積極的に取り組むとともに、地域振興についても貢献するよう努めること。11月1日:空港公団が地域共生室と地球環境管理室を設置。12月10日:成田空港問題円卓会議拡大運営委員会が成田市役所で開催され、成田空港地域共生委員会・「地球的課題の実験村」構想具体化検討委員会・芝山鉄道延伸整備検討委員会の設置が正式に決定。12月12日:中核派が空港公団社宅駐車場の車両を放火。12月22日:空港公団総裁の諮問機関として、騒音・大気・水質・植生などの各専門分野の学識経験者らからなる地域環境委員会が設置される。 ===1995年=== 1月10日:小川派代表の弟小川喜平が、村山富市首相及び亀井静香運輸相あてにこれまでの空港づくりへの反省を促す書簡を送付。1月10日:「空港運営を住民の立場でチェックする」として、成田空港地域共生委員会が発足。1月17日:阪神・淡路大震災。1月20日:10日に出された書簡に対する村山首相・亀井運輸相からの返書が小川派に届く。1月21日:政府側からの返書を受けて、小川派代表の小川嘉吉が反対運動の終了を決定(事実上の小川派解散)。その後小川派のメンバーと移転に向けた交渉が進められるが、島村昭治が翌日に支援者らとともに旗開きを行って反対運動継続を宣言し、2018年現在も東峰地区の用地内に留まり続けている。1月24日:地球的課題の実験村構想具体化検討委員会の初会合が航空会館で開かれる。2月6日:航空機落下物防止のための施策である「洋上脚下げ」の実施状況を確認するための海岸観測を運輸省新東京空港事務所が実施。空港事務所は2時間の間に飛来した45機のうち3機が実施していなかったことを確認し、洋上脚下げの徹底を航空会社に再度要請。3月20日:地下鉄サリン事件。4月8日:開港以来の国際旅客2億5千万人達成、第2サテライト供用開始、第1旅客ターミナル改修開始。4月23日:この日行われた成田市長選挙に、社会党の議員として三里塚闘争を支援していた小川国彦が完全空港化などを掲げて立候補し、下馬評を覆して小林攻らを破り当選。5月7日:小川嘉吉と国が合意書を締結。5月13日:革労協狭間派が第2旅客ターミナルビル内でパチンコ玉を発射。6月7日:航空機の地上走行を妨げていた「梅の木共有地」について、2日前に旧熱田派が持ち分を土地提供者に返還し、さらに空港公団がその所有権をすべて取得。植えられていた梅の木は東成田駅のロータリー付近に移され、翌年2月に「共生への願いを込めて」と刻まれた記念碑が設置される。6月22日:第2旅客ターミナルビル南側エプロン部分の一坪共有地の所有権を空港公団が全て取得。7月20日:小川嘉吉が訴訟の終結方法等について国と同意。7月28日:小川嘉吉・喜平兄弟が、二期工事差し止め訴訟を取り下げ。8月9日:小川嘉吉が空港建設を巡る4件の行政訴訟を取り下げ。8月22日:空港公団が成田市芦田地区の8戸と集団移転補償契約を締結。10月25日:未明、中核派が地連協初代会長である村山元英の自宅を時限式発火装置で放火し、家屋を半焼。一家は就寝中であったが、次女が火災に気付き、難を逃れる。地元住民・旧熱田派農民・空港関係者らが駆けつけて村山らを見舞い、地元からは「今度という今度は我慢できない」との激しい怒りの声が上がる。11月22日:中核派が空港公団企画室主幹宅を放火。12月7日:「梅の木共有地」撤去が完了。12月13日:旧熱田派がタイのNGO「開発に関するアジア文化フォーラム」がコーンチアム郊外で開催した集会に参加し、柳川世話人が三里塚闘争の経緯や現状を発表する。同行した元小川プロの福田克彦が『第二砦の人々』を投影しながら空港問題の概略を説明。 ===1996年=== 1月11日:橋本内閣が発足。1月19日:1990年の「横堀団結の砦」撤去の際に起きた作物被害を巡って、熱田一が国を相手取り千葉地裁で争っていた損害賠償裁判で、国が謝罪するとともに約225万円の和解金を支払うことで和解が成立。2月:東京一極集中是正の観点から行政組織の地方移転が検討され、運輸相が空港公団を移転の対象としたことから、空港公団法が改正されて空港内への移転が正式に決定する。3月18日:「宇部方式」を用いて騒音問題等を解決した山口宇部空港を成田空港地域共生委員会メンバーらが視察。3月28日:ILSカテゴリーIIIa運用開始、及びストップ・バーシステム供用開始。4月30日:元小川派代表の小川嘉吉が移転に合意したことを亀井善之運輸相及び中村徹空港公団総裁が発表。11年ぶりの移転合意。5月10日:小川嘉吉の弟、小川喜平が自宅前の畑で離農式を行う。5月31日:チューリヒの国際サッカー連盟(FIFA)本部で、2002年予定のFIFAワールドカップを日韓共同で開催することが発表される。6月5日:芝山鉄道早期実現住民会議が発足。7月1日:空港公団本社が成田空港内の旧日本航空オペレーションセンターに移転。周辺住民約8000世帯に引っ越し挨拶の手拭を配布。7月9日:中核派が空港公団工務部管理課長宅を爆破。7月12日:東山事件について、最高裁が県側の上告を棄却し、原告勝訴が確定。7月17日:空港公団が用地提供者らを招き移転記念の懇親会を本社ビルで開催。7月18日:小川嘉吉が空港公団と移転契約を締結。9月10日:空港公団が新しいシンボルマークを公表。旧シンボルマークは3本の滑走路を連想させるものであったのに対し、新しいものは空港公団の略称である「NAA」の文字と空港・地域住民・利用者を現す3つの三角形(共生策・空港づくり・地域づくりの三位一体)で構成される。9月11日:空港公団が創立三十周年記念パーティーを本社ビルで開催。挨拶中に地震が派生するハプニングに見舞われた中村空港公団総裁が、「公団三十年の歴史のようです」と述べる。9月18日:熱田派系の団結小屋4件について、成田新法に基づく使用禁止が解除される。10月21日:中核派が運輸省航空局幹部宅の車両を放火。11月12日:小川喜平が空港公団と移転契約を締結。残る用地内農家が6戸となる。11月20日:沼田千葉県知事が、北原派を支援する新左翼党派の妨害などによって中断させられていた騒特法に基づく騒音対策基本方針見直しを行う考えを表明。都市計画に「航空機騒音障害防止特別地区」及び「航空機騒音障害防止地区」を設けて騒音地対策を行うための手続きが進められる。12月11日:航空審議会が答申した第7次空港整備5ヵ年計画の審議の中で、国内線の充実、成田・羽田を結ぶ直通電車の運行、B滑走路の2000年度完成(目標)などの方針(「今後の成田空港と地域との共生、空港整備、地域整備に関する基本的考え方」)を運輸省が打ち出す。一方、計画の中には首都圏第三空港の整備も盛り込まれる。 ===1997年=== 2月25日:中核派が芝山鉄道社長宅を爆破。3月27日:羽田空港の新C滑走路が供用開始。4月3日:開港以来の国際旅客3億人達成。5月4日:「労農合宿所」が閉所し、「横堀農業研修センター」と改称。6月1日:空港公団が、空港建設予定地の取得と総合的な共生策を推進するための「空港づくり推進本部」及び「地域共生推進本部」を発足させる。6月17日:中核派が運輸省大臣官房審議官宅を爆破。6月19日:一宮町議会が、九十九里沖への首都圏第3空港建設を求める意見書を採択。6月25日:円卓会議での合意事項である空港と地域との共生策の一環として、成田空港周辺地域共生財団の設立発起人会が開催される。7月27日:成田市内の航空機騒音下の地域に住む約7700世帯から選ばれた理事ら約100人構成する「成田空港騒音対策地域連絡協議会」が、総会で「共生の実現に向けて、より積極的な活動を展開する」とする共生決議を採択。8月19日:二期地区内の木の根地区に居住する旧熱田派の農家2戸(小川明治・小川源の子息であり、いとこ同士)が空港公団と移転交渉を行うことで合意。熱田派系の用地内農家がいなくなる。8月7日:中核派秘密アジト「藤沢アジト」が6月17日の審議官宅爆破事件等の捜査で摘発され、水溶紙メモや武器製造・開発・研究等に関する資料、工具類等が押収される。9月:6月17日の審議官宅爆破事件捜査のための全国一斉捜索が行われ、東京都内の中核派拠点の捜索で、免状不実記載罪で指名手配中の中核派秘密部隊員が検挙される。9月9日:富津市沖での首都圏第三空港建設の可能性を探る富津市新空港研究会が発足。9月16日:横堀墓地を入会地だとする熱田一らと、瀬利元反対同盟副委員長の相続人から所有権を取得したとする空港公団とが争っていた、横堀墓地訴訟で、和解が成立。千葉地裁では熱田側の請求が棄却されていたが空港公団が譲歩し、熱田の所有権が回復される。9月22日:革労協が成田国際高校校舎から成田警察署に向けて金属弾を発射。9月25日:中核派が空港公団職員宅を放火。10月13日:開港以来の航空貨物取扱量2千万トン達成。10月16日:元小川派メンバーの天神峰地区農家が移転契約を締結。10月24日:内田芝山町長が収賄容疑で逮捕される。11月7日:北原派農家(10月16日に移転契約を結んだ農家の叔父)が移転契約を締結。北原派用地内農家の移転同意は初。用地内農家は2戸となる。11月12日:成田市内にある芝山鉄道専務宅が中核派により爆破される。12月7日:熱田派を離脱し、「2000年までに成田国際空港平行滑走路完成」や「芝山鉄道建設」などを公約に掲げて反対派のイメージを払拭した相川勝重が、芝山町長選挙で当選。12月10日:成田市議会が「過激派暴力集団の排除等に関する決議」を可決。12月15日:中核派が運輸省大臣官房技術審議官宅車両等を放火。 ===1998年=== 1月22日:芝山鉄道線建設工事が着工(トンネル工事等は二期工事の一環として既に実施されていた)。開港前年に後背地となる芝山町が要望して以来、21年越しの実現となる。2月1日:第1旅客ターミナルビル第1サテライトの供用開始。2月2日:空港へ迫撃弾2発と金属弾1発が撃ち込まれ、貨物地区の作業員1人が迫撃弾の破片に被弾。救急車で近くの病院に救急搬送される。迫撃弾のうち、1発は近くで破裂し、金属弾1発は不発。2月25日:元運輸省航空局長で隅谷調査団メンバーの高橋寿夫が、建築中の自宅を時限式発火装置で放火される。中核派が犯行声明。4月22日:千葉県企画課長の自宅が放火される。中核派が犯行声明。4月25日:1日の発着枠を360回から370回へと改定。5月1日:地球的課題の実験村構想具体化検討委員会が最終報告を取りまとめ、解散。5月18日:隅谷調査団が「空港問題は社会的に解決した」とする所見を藤井孝男運輸相に提出、翌日閣議で報告される。一方、地球的課題の実験村構想具体化検討委員会の最終報告に不満を持つ一部旧熱田派や対話拒否を貫く北原派が依然残されていた。5月27日:地球的課題の実験村構想具体化検討委員会の最終報告を踏まえ、運輸省と空港公団が周辺環境への配慮や農的価値の視点を大切にすることを謳った「エコ・エアポート基本構想」を発表。6月2日:松戸市‐成田空港の運行に用いられている京成バスの車両が松戸市内の車庫で炎上。中核派が犯行声明。6月11日:1997年東京都議会議員選挙で自民党都議連が羽田空港の国際化を公約に掲げるなどの羽田再国際化を進める動きに対し、千葉県議会や自民党県議連が青島幸男都知事に遺憾の意を表明。6月17日:東京都議会が羽田空港再国際化を推進する意見書を採択。これに対し、千葉県議会が「空港問題に対する基本的認識が欠けている」とのコメントを出し、運輸省が「国際線は成田、国内線は羽田」とする方針に変わりがないことを強調。7月15日:運輸省と空港公団が、今後の空港整備の具体的指針となる「地域と共生する空港づくり大綱」を千葉・茨城両県に提示。「共生策、空港づくり、地域づくり」の三位一体で進めていくことが明記される。B滑走路の発着回数(1日247回、年間約9万回)や新しい飛行コースも示される。7月29日:横浜市の運輸省幹部が自宅玄関を放火され、火傷を負う。中核派が犯行声明。7月30日:小渕内閣が発足。9月11日:運輸省航空局課長の自宅が爆破される。中核派が犯行声明。同日、成田開港後の初の国際民間チャーター便が、羽田からホノルルに向けて飛び立つ。9月17日:移転により住民がいなくなったことから、木の根地区で閉村式が行われる。9月24日:2期地区内にある組合道路売却を阻止するため、休眠状態となっている駒之頭開拓農協に北原派・旧熱田派・元小川派の農家5戸が加入。9月27日:旧熱田派を支援してきたプロ青同が現地闘争団を解散して三里塚闘争から撤退。解散時に現地に常駐していた活動家は1人。解散後、熱田一の敷地内にあったプロ青同の団結小屋は自主的に解体される。10月5日:東峰地区の地権者(農家8人とラッキョウ工場を営む”三里塚物産”)らが「空港建設のためには農地は売らない」等とする「東峰声明」を発表。派閥を超えて反対派農家らが結束したことは、B滑走路建設の阻害要素となる。10月28日:千葉県旭市内の自民党千葉県連幹事長飯島重雄県議宅の車両が中核派に放火される。10月30日:4月の千葉県企画課長宅放火事件に関して、千葉県警が、千葉市にある動労千葉の会館や栗源町にある「三芝物産北総センター」など中核派拠点30カ所を家宅捜索。10月31日:午前1時35分ごろ、共生委員会事務所近くで不審な男女を警備員が発見。男女は逃走し、現場に残されたリュックからは火炎瓶らしきものが見つかる。11月18日:成田空港‐羽田空港間直通列車運転開始。(→エアポート快特)12月16日:7月15日に提示された共生大綱に対し各自治体から寄せられた要望等を踏まえ、最終的な大綱が取りまとめられる。12月23日:開港以来の航空機発着回数200万回達成。 ===1999年=== 1月21日:北原派農家の市東東市が死去。市川市で飲食業を営んでいた子の市東孝雄が成田に戻り、誘導路が「へ」の字に湾曲する原因となっている東峰地区の耕作地を引き継ぐ。市東家は、大正時代に孝雄の祖父が開墾して以降、この地で農業を続けている。1月25日:芝山鉄道非常勤取締役宅が放火される。中核派が犯行声明。1月27日:鈴木朗運輸省審議官と永井隆男副総裁が東峰地区の反対派農家等を訪問。訪問活動は4月まで続けられるが反対派の態度は変わらず。1月28日:飛行コースを外れた航空機による騒音を防止するため、運輸省と空港公団が飛行コースに幅を設定するとともに航空機の監視を始める。合理的な理由のない逸脱が確認された場合には、会社名と便名が公表されるようになる。2月20日:東峰地区の反対派地権者らに対し、前年10月5日の声明に答えるとともに話し合いに応じるよう求める手紙を、川崎二郎運輸相が中村空港公団総裁との連名で送る。手紙は鈴木朗運輸省審議官と永井隆男副総裁によって手渡されるが、受け取りの拒否や未開封のままの返送等の冷淡な反応が目立る。3月:地元新聞社が行ったアンケート調査で、空港圏在住の住民の約7割が「平行滑走路の整備を急ぐべきだ」と回答。3月16日:第1旅客ターミナルビル北ウイングがリニューアルされ中央ビル新館とともに供用開始(南ウイングが改修の為に閉鎖)。4月2日:東峰地区の総会で、反対派が話し合い拒否を再確認。4月5日:黒野匡彦運輸省事務次官が「平行滑走路を一時凍結することも最悪の選択肢としてないとは言えない」と定例会見で述べ、地元市町や関係団体に危機感が広がる。4月6日:小川成田市長らが前日の黒野事務次官発言を遺憾とする申し入れ書を提出。4月11日:1999年東京都知事選挙で羽田空港の国際化を主張する石原慎太郎が当選。4月14日:空港公団が平行滑走路予定地を横切る原野0.3ヘクタールを取得。4月15日:成田商工会議所などを中心に「成田空港早期完成促進協議会」が発足。B滑走路の進展に危機感を持った空港周辺1市7町で、平行滑走路早期完成を求める署名活動を開始。活動の結果、目標としていた10万人を大幅に上回る26万人の署名が集まり、運輸大臣に提出される。4月23日:林幹雄運輸政務次官が東峰地区の農家を訪問。4月27日:新消音施設(ノイズリダクションハンガー)竣工。5月7日から性能試験。4月28日:成田空港付近の路上から迫撃弾が射出され、発射に使用された車両が炎上。革労協狭間派が犯行声明。5月10日:反対派農家との用地売買交渉の目途が立たないことなどから、平行滑走路2000年度完成目標断念と反対派所有地を避ける形状での暫定滑走路建設を運輸省が発表。5月21日:川崎運輸相が中村空港公団総裁に暫定平行滑走路建設を指示。「2002 FIFAワールドカップ開催も念頭に、現計画に基づく2500mの平行滑走路の早期着工・運用開始を目指して、地元自治体、関係者の協力のもとに、今後とも地権者との話し合いを行い、その早急な解決を図る」としたうえで、「それが当面困難な場合には、暫定的措置として、平行滑走路の完成済み施設の一部とNAAの取得済み用地を活用して、ワールドカップ開催に間に合うよう延長約2200mの暫定平行滑走路を建設し、運用することを考慮する」方針が示される。6月:「周辺住民による成田空港問題フォーラム」が開催され、閉塞的状況が解消されることを望む声が上がる。7月7日:中核派が運輸省航空局国際航空課長宅(空き家)を放火。8月6日:栗源町住民ら(議会・区長会・商工金・婦人会・老人クラブ等12団体)で組織する「栗源5000人会」が、町人約5400人の署名とともに過激派排除の申し入れを空港公団等に提出。8月24日:空港公団が一坪共有地0.2ヘクタールを取得。9月3日:関係自治体・住民団体などへの130回にわたる説明会を経て、空港公団が平行滑走路等の整備に関する工事実施計画の変更認可申請。平行滑走路の完成て2001年11月30日に設定するとともに、マスタープランどおりの滑走路が整備できない場合に備えて約2200mの暫定平行滑走路が計画に追加される。9月12日:成田駅を出発直後のJR総武線の快速電車と京成成田空港駅に停車していた京成電鉄の特急電車で、時限式発火装置による小火が発生。革労協が犯行声明。10月14日:空港公団が芝山町菱田地区の住民(11戸)と集団移転に係る補償契約及び代替地譲渡契約を締結。10月18日:9月3日の空港公団による計画変更の申請を受け、運輸省が航空法に基づく公聴会を32年ぶりに成田国際文化会館で開催。公述人として参加した東峰地区の住民ら7人が反対意見を表明するが、これに対する非難の声も会場で上がった。公述人52人のうち、40人が賛成派で、残りの5人が騒音地区での防音対策を求める条件付き賛成の住民らであった。10月21日:自民・自由・公明の与党3党が、羽田国際化に向けて検討するよう運輸省に指示。11月9日:空港公団職員宅が放火される。中核派が犯行声明。11月27日:沼田千葉県知事が反対派農家を初めて訪問。平行滑走路本体上の一坪共有地の持ち分を持つ反対派から、話し合いに応じる考えを示した手紙を託される。11月30日:27日に手紙を出した反対派農家が二階運輸相からの返書を受け取る。翌日、返書を受け取った反対派農家が持ち分の譲渡などで空港公団と同意(翌年7月25日に正式契約)。12月1日:運輸省がB滑走路建設計画を認可。12月3日:暫定平行滑走路工事着工。平行滑走路の工事は6年ぶりで、安全祈願祭が執り行われる(実際の工事は翌日以降)。12月13日:第7次空港整備5ヵ年計画(翌年7ヵ年計画に変更)が閣議決定され、首都圏第三空港について海上空港の方針が出される。同日、中核派が自民党千葉県議会議員宅兼店舗棟を放火。12月20日:空港公団が平行滑走路南側航空保安施設用地の地権者と土地売買契約・移転補償契約を締結。12月26日:革労協反主流派が、京成線及びJRの成田空港行き列車3編成を同時多発的に時限式発火装置で放火。 ===2000年代=== ====2000年==== 1月27日:運輸政策審議会答申第18号において、成田新高速鉄道が「目標年次(2015年)までに開業することが適当である路線」と位置付けられる。3月21日:運輸省が、深夜・早朝帯の国際チャーター便の活用による羽田再国際化を目指す「羽田空港有効活用検討委員会」を設置。「国際線は成田、国内線は羽田」という基本方針を転換させるものであり、千葉県や成田市は「羽田国際化は容認できない」と反発。3月23日:印旛日本医大‐成田市土屋間の線路敷設について、成田新高速鉄道事業化推進検討委員会が発足。3月29日:芝山鉄道株式会社が暫定的に未買収地を迂回するルートをとることを決定。4月5日:森内閣が発足。4月17日:東峰地区での暫定平行滑走路工事が始まる。4月26日:千葉地裁が、(旧)熱田派の団結小屋のうち3件に対するシンポジウム以降の使用禁止処分を違法とする一審判決を下す。5月:芝山鉄道の迂回路に建つ「木の根ペンション」の撤去を地権者が要請したことから、旧熱田派が本来の芝山鉄道ルート上にある加瀬勉が所有する未買収地にペンションを移設。木の根地区に建てられていた灌漑用風車が自主撤去される。6月20日:芝山鉄道の迂回路ルートでの建設が認可される8月26日:中核派が運輸省運輸政策局幹部宅を爆破秋:羽田の再国際化を目指す石原東京都知事が、亀井静香自民党政調会長に羽田拡張の図面を持ち込み、その場から梅崎壽運輸事務次官を電話で「恫喝」。翌年度の国の予算に調査費がねじ込まれる(首都圏第3空港関係調査費からの割り当て)。9月13日:中核派が運輸大臣官房文書課長所有車両を放火。9月26日:首都圏第3空港調査検討会が発足。11月8日:中核派が空港公団幹部宅を爆破。12月1日:運輸省が千葉県にチャーター便とビジネス機の国際運航を深夜・早朝に限り認めるよう打診。12月6日:なし崩し的な羽田再国際化を警戒する千葉県が羽田発着の国際チャーター便の深夜・早朝の運航を条件付き(運航は午後11時‐午前6時に限る・運輸省は本来計画での平行滑走路と成田新高速鉄道の早期実現に向けて努力する)で容認。12月8日:6日の取り決めにもかかわらず、扇千景運輸相が「滑走路が1本しかないのは千葉県の努力の成果が見えていないということ」「羽田の方が成田より近くて便利だから、みんな羽田を利用する」と成田羽田の棲み分け見直しについて記者会見で言及。地元の反発を招き、21日に沼田千葉県知事が梅崎運輸事務次官に抗議。 ===2001年=== 1月23日:中核派が空港公団幹部宅車両を放火。2月5日:大木よねに対する代執行などが違法として、養子となった活動家夫婦が国を相手取っていた訴訟で、国と空港公団が謝罪に応じ(一審と二審では原告の訴えが退けられ国側が勝訴)、最高裁で和解が成立。2月16日:羽田空港を利用した深夜・早朝の国際チャーター便の供用が開始。3月23日:空港周辺の市町からなる「成田空港圏自治体連絡協議会」と空港公団の間に「地域と空港の共生に係る協定書」が締結される。3月25日:2001年千葉県知事選挙で堂本暁子が無党派層の支持を受けて当選(4月5日就任)。3月29日:アジアのハブを目指す韓国が仁川国際空港を開港。4月18日:中核派が千葉県企画部理事宅を放火。4月26日:小泉内閣が発足。6月1日:千葉県町村会が千葉県収用委員会の機能回復を求める提案を全会一致で採択。6月16日:空港公団が、前日に登記移転した東峰神社の立木を伐採し、暫定平行滑走路を阻む障害物が取り払われる。作業を妨害しようとした北原派の事務局長が逮捕される。7月3日:千葉県議会が横風用滑走路を含めた早期の完全空港化を求める意見書を採択。9月11日:アメリカ同時多発テロ事件。10月2日:中核派が千葉県企画部交通計画課主幹宅車両を放火。10月31日:暫定平行滑走路が完成。11月28日:団結小屋に対する使用禁止処分をめぐる係争について、東京高裁が前年の一審判決を覆し、(旧)熱田派の請求を棄却。 ===2002年=== 1月9日:中核派が千葉県総務部幹部(元地域共生財団事務局長)宅を放火。4月12日:革労協解放派・反主流派が京成本線の車両を放火。4月14日:北原派が「4・14全国総決起集会」を開催。4月16日:「成田空港圏自治体連絡協議会」が国・空港公団及び千葉県に対し「地域と空港の共生」実現に向けての要望書を提出。4月17日:空港公団が暫定平行滑走路供用を「第2の開港」と位置づけ、扇千景国土交通相・堂本千葉県知事・小川成田市長らを招き式典を開催。3機のチャーター機がB滑走路から離陸。4月18日:2本目の滑走路であるB滑走路が、2180メートルの暫定平行滑走路として供用開始。新規乗り入れを実現した航空会社の初便が発着が相次ぎ、定期便乗り入れ航空会社がそれまでの35カ国1地域54社から39カ国2地域(台湾・香港)68社に大幅増加。一方、東峰地区では空港反対同盟「旧熱田派」と「北原派」がそれぞれ終日抗議行動を展開。4月22日:中核派が千葉県土木部職員宅車両を放火。5月31日‐6月30日:2002 FIFAワールドカップ(日韓共催)。8月6日:中核派系「8・6ヒロシマ大行動実行委員会」が「被爆57周年再び戦争をくり返すな!8・6ヒロシマ大行動」を実施。中核派が成田高速鉄道アクセス監査役宅を放火。9月17日:日朝首脳会談。北朝鮮が日本人拉致の事実を認める。10月16日:空港南口ゲートの供用開始。10月27日:芝山鉄道線の供用開始。10月27日:日本の市民団体の招きで来日したフランスの酪農家で社会運動家ジョゼ・ボヴェが、熱田一宅や石井武宅などのいくつかの空港反対派農家を訪問する。反対同盟は、1981年にボヴェの故郷で軍事基地反対運動が起こっていたフランス・ラルザック地方を訪問していた。11月15日:中核派が、千葉県企画部交通計画課主幹宅を放火。11月25日:横堀要塞の取り壊し撤去作業を底地地権者が実施(〜27日)。12月1日:市東孝雄(北原派)が耕作を継続する未買収地を避けて建設された、暫定平行滑走路に併設する「への字誘導路」上で、日本エアシステム機とルフトハンザドイツ航空機の接触事故が発生。12月16日:第1旅客ターミナル第3サテライトの供用開始。 ===2003年=== 1月20日:新東京国際空港の改称「成田国際空港」及び新会社「成田国際空港株式会社」の名称について扇国土交通相へ要望書を提出。1月27日:午後9時49分に、韓国仁川国際空港発のエアージャパン908便(乗客・乗員102人、ボーイング767‐300型)が暫定滑走路南端から70メートルオーバーランし、航空灯火に激突(全日空機成田空港オーバーラン事故)。開港以来初のオーバーラン事故。1月31日:小泉純一郎首相が、2010年に訪日外国人旅行者を1000万人(現状の500万人から倍増)にすると施政方針演説(ビジット・ジャパン・キャンペーン)。2月13日:千葉県収用委員会会長襲撃事件で負傷した小川彰弁護士が、事件の後遺症を苦に福岡県で入水自殺。2月28日:国・千葉県・「成田空港圏自治体連絡協議会」を構成する市町村・空港公団の間(四者協議会)で、「新東京国際空港公団民営化に関する覚書」が締結される。3月11日:「成田国際空港株式会社法案」が閣議決定。3月20日:「イラクの自由作戦」が開始される(イラク戦争)。3月30日:北原派が「イラク侵略戦争反対・有事立法粉砕/暫定滑走路を閉鎖し軍事空港を廃港へ」をスローガンに集会・デモを実施4月17日:第2旅客ターミナルビル北側及び地上通路沿いのスポットの供用開始。5月29日:開港以来の航空貨物取扱量3千万トン達成。7月11日:「成田国際空港株式会社法」成立(参議院本会議可決。18日に公布・施行)。8月26日:深夜、八街市内の民間人家の敷地内に仕掛けられた爆弾が爆発。被害者は成田空港問題と無関係の一般人であるが、千葉県幹部と同姓同名であったため、攻撃対象を誤って引き起こした事件とみられる。爆発物の形状から中核派のテロとみられる。11月17日:航空燃料輸送量1億kL達成。12月5日:東峰神社に係る所有権移転登記手続等請求事件について、和解が成立。12月24日:NAAが、天神峰地区における空港用地(計7筆 (うち1筆は一坪共有地))及び岩山地区における航空保安施設用地(1筆)の所有権を取得。 ===2004年=== 4月1日:新東京国際空港公団が会社化され成田国際空港株式会社に改組(以下、NAA)。新東京国際空港から成田国際空港に改称、第2給油センター供用開始。10月19日:第1ターミナルの第1サテライトと第2サテライトを結ぶ連絡通路が開通。11月1日:北側一雄国交相が成田空港を視察。NAA 社長に対し用地交渉の進捗状況を年明けに報告するよう指示。11月18日:堂本千葉県知事が定例県議会知事挨拶で収用委員会を再建する方針を示す。ただし、成田空港については国はこれまでの経緯及び土地収用法を適用しないという約束等を十分に尊重し、今後も守ることとする条件が付される。11月25日:第1旅客ターミナルビルの第4サテライトが開業。12月7日:千葉県政初となる秘密会で県議会が千葉県収用委員人事を承認。12月8日:堂本千葉県知事が収用委員を任命。委員の個人情報は非公開とされる。 ===2005年=== 1月11日:平行滑走路延伸に関し、NAAが北側国交相に用地交渉の状況を報告。北側国交相から年度内の再報告を指示される。3月27日:北原派が、「暫定平行滑走路北側延伸阻止」などを掲げ、全国総決起集会を開催。4月14日:基本計画どおりの平行滑走路2500メートル化(南側延伸)について、NAAが東峰地区住民5人との話し合いを行う(第1回)。6月まで計4回実施されたが、交渉は不調に終わる。5月9日:東峰地区住民4人との第2回話し合い。黒野NAA社長の謝罪が受け入れられる。6月7日:東峰地区住民4人との第3回話し合い。6月8日:開港以来の発着回数が300万回達成。6月16日:NAAが地元住民と横堀墓地(持ち分1/2)の土地売買契約を締結。6月30日:東峰地区住民4人との第4回話し合い。後日「北側延伸」が決定したことにより話し合いは中断。7月15日:黒野NAA社長が、北側国交相に暫定平行滑走路の北側に伸ばす案を申し入れ。8月4日:国土交通省がB滑走路を暫定平行滑走路を本来の計画とは逆の北側に延伸し2500メートル化することを決定。北側国交相がNAAに指示(「北側延伸」)。10月3日:NAAが北伸案の内容や騒音対策などについて公表。以後、関係市町・地元住民などに計100回以上の説明を実施。10月9日:北原派が、「暫定平行滑走路の北側延伸阻止」などを掲げ、「全国総決起集会」を開催。11月11日:前田道彦ら1978年に成田空港管制塔占拠事件を起こし政府などから事件の損害賠償を求められていた元活動家16人が、賠償請求額と利息の合計である約1億300万円を、マスコミを集めたうえで国土交通省に支払う。元活動家らは1995年に判決が確定して以降も損害賠償の支払いを拒否していたが、給料の差し押さえや督促が相次ぎ生活に支障を出す者もいたため、中川憲一が2005年7月に元管制塔被告弾の事務局長となって「連帯基金運動」を行いカンパを呼びかけていた。11月18日:旧新東京国際空港公団発注の成田空港電気設備工事で、空港公団主導による受注調整など官製談合の疑いが浮上、関わった電機企業各社とNAAが東京地検の捜索を受ける。12月5日:公団時代の電気設備工事に係る談合について、東京地検特捜部がNAA社員を逮捕し、競売入札妨害罪で起訴。 ===2006年=== 堂本千葉県知事が、1970年から2003年にかけて地主から土地を取得しているNAAに対し、借地で耕作を続けている市東孝雄(北原派)との賃貸借契約の解約を農地法に基づいて許可。市東は解約申し入れを拒否。1月15日:熱田一(元空港反対同盟熱田派代表)が、空港敷地内にある自宅敷地と、所有権を持つ「横堀墓地」を売却することを表明。熱田元代表は「若者が世界へ飛び立ち、帰ってくることによって日本の将来に役立つと考えた」と述べ、反対運動から完全に身を引く。「横堀墓地」は他界した支援者の墓や、やぐらがあるなど、成田空港反対運動の象徴とされていた。3月22日:NAAと熱田一が横堀墓地他用地の売買契約を締結。3月23日:「成田空港に関する四者協議会」(四者協)が平行滑走路の北延伸に係る確認書を締結。3月26日:北原派が、「暫定平行滑走路北側延伸攻撃粉砕」などを掲げ、「全国総決起集会」を開催。4月13日:ILSカテゴリーIIIb運用開始。6月2日:航空会社再配置、第1旅客ターミナル南ウイング(第5サテライト)・第4‐第5サテライト連絡地下通路が供用開始。7月2日:北原派が、「暫定平行滑走路北延伸着工阻止」などを掲げ、「全国総決起集会」を開催。7月10日:NAAは、航空法に基づく飛行場変更申請(平行滑走路の北伸・誘導路の新設・エプロンの新設)を国土交通省に提出するとともに、「成田国際空港平行滑走路北伸整備事業に伴う環境とりまとめ」を公表。8月21日:国土交通省が7月10日のNAA申請についての公聴会を成田市で開催。28人(賛成24人、条件付き賛成2人、反対2人)が公述。9月5日:四者協が騒特法の騒音対策及び発着回数の増加を了承。9月11日:国土交通省が7月10日のNAA申請を許可。9月15日:NAAがB滑走路北側延伸に着手。9月15日‐18日:北原派・熱田派が、それぞれB滑走路北側延伸着工に対する抗議の集会・デモを実施。9月26日:第1次安倍内閣が発足。9月29日:安倍晋三首相が所信表明演説でアジア・ゲートウェイ構想を打ち出す。10月8日:北原派が、成田空港の「暫定平行滑走路北延伸工事粉砕」などを掲げ、「全国総決起集会」を開催。 ===2007年=== 2月26日:NAAが、平行滑走路北伸に係る航空保安無線施設(進入灯)用地取得を完了。3月25日:北原派が、「東峰の森  伐採阻止」などを掲げ、「全国総決起集会」を開催。4月23日:暫定平行滑走路の誘導路新設に伴い、NAAが滑走路南東側の「東峰の森」(約10ヘクタール)で計画していた樹木の伐採作業に着手。NAAの発表によると、作業は6月末まで行い、4ヘクタールの森林で伐採を行う計画。北原派が弾劾声明。5月22日:NAAの社長人事で、政府が6月下旬に任期満了を迎える黒野匡彦社長の後任として森中小三郎・住友商事特別顧問を充てる方向で最終調整に入る。空港公団時代も含めて、成田空港トップへの民間人起用は初。同社社長に民間人を起用したい首相官邸が、国土交通省が打診した元運輸事務次官の黒野の再任案を拒否したのに対し、自民党千葉県連や地元の成田市が黒野の続投を要請しており、首相官邸筋と地元の対立が表面化。6月:初のNAAトップとして森中小三郎が代表取締役社長に就任。6月14日:東京高裁が、暫定平行滑走路の誘導路建設に伴う樹木伐採問題で、伐採禁止を求めた東峰地区住民の主張を退けた千葉地裁決定を支持し、住民の即時抗告を棄却。7月9日:空港周辺9市町「成田空港周辺市町議会連絡協議会」の議員約40人が「空港の完全化と機能拡充に関する決議」を採択。7月29日:第21回参議院議員通常選挙で自民党が惨敗し、ねじれ国会となる。9月26日:福田康夫内閣発足。 ===2008年=== 1月:空港周辺9市町の首長が、今後の成田空港の整備を踏まえつつ、国際拠点空港としての機能を活かした都市づくりを推進するとの趣旨で、「成田国際空港都市づくり推進会議」を設置。第1回会議が30日に開催される。1月17日:最高裁において、一坪共有地に係る分割請求訴訟6件について、NAAの勝訴判決が確定。3月1日:革労協解放派・主流派がA滑走路に向けて迫撃弾を発射。3日に犯行声明。7日に千葉県警が犯行に使われたとみられる迫撃弾を空港敷地内で発見。3月25日:NAAが周辺9市町に「年間30万回は発着可能」とする試算を公表。3月30日:北原派が、「暫定滑走路北伸阻止」などを掲げた「全国総決起集会」を開催。4月13日:旧熱田派支援の団体が、「暫定滑走路北側延伸粉砕」「新誘導路建設阻止」などを訴える集会・デモを実施。5月21日:冬柴鐵三国土交通相が羽田空港での国際線定期便を昼夜あわせてこれまでの倍の約6万回とすることを視野に入れた方針を示す。6月8日:北原派が、「暫定滑走路北延伸粉砕」「新誘導路建設阻止」などを訴え、「6・8成田現地闘争」を実施。9月24日:麻生太郎内閣発足。9月25日:国土交通大臣に就任したばかりの中山成彬が、産経新聞などのインタビューの際、成田国際空港の拡張が「地元住民の反対などで進まなかった経緯」について触れて、空港反対派農民らを「ゴネ得」と述べる。千葉県知事堂本暁子から抗議されるなど社会問題化し、更に「日本は単一民族」等の舌禍事件が続いたことから、中山は28日に国土交通大臣を辞任。11月9日:北原派が、「市東さんの農地を守れ!11・9三里塚緊急現地闘争」を実施。12月12日:NAAが、約千人の「一坪共有地」の地主に、土地の権利を約3万円で譲渡することを求める手紙を、森中社長名で一斉に郵送。 ===2009年=== 1月9日:第65回成田空港地域共生委員会が開催され、委員会は14年に及ぶ活動を終えて解消。1月23日:四者協で発着容量30万回化の検討着手に地元首長が合意。2月18日:木の根地区に建てられていた反対同盟の風車が撤去される。3月23日:アメリカ合衆国の貨物機・フェデックス機が着陸時にポーポイズ現象を発生し、複数回バウンドして横転・炎上。機長と副操縦士2人が死亡(フェデックス80便着陸失敗事故)。開港以来、初の成田空港における死亡事故となり、A滑走路が26時間21分閉鎖される。3月29日:2009年千葉県知事選挙で森田健作が当選(4月5日就任)。4月1日:成田空港地域共生委員会の後継として、地連協に成田空港地域共生・共栄会議を設置することが決定。4月12日:旧熱田派が「2010年3月平行滑走路供用を許すな!東峰住民の追い出しをやめろ!一坪共有地を堅持しよう!4・12三里塚・東峰現地行動」を実施。4月24日:常設展示施設の建設に向けて、第1回NAA歴史伝承委員会が開催される。6月16日:第1回成田空港地域共生・共栄会議が開催される。6月29日:B滑走路北側延伸の施設が完成検査に合格。7月9日:森田千葉県知事が、成田空港の未買収地について、用地内の地権者に対して「早い段階で訪問したい」と述べ、直接面会する考えを定例会見で示す。7月21日:衆議院が解散。NAA民営化(株式上場)の法案が廃案となる。7月30日:成田空港のB滑走路とターミナルビルがある駐機場を結ぶ「東側誘導路」が供用開始。8月30日:第45回衆議院議員総選挙で自民党が大敗し、民主党が大幅に議席を伸ばす。9月16日:鳩山由紀夫内閣が発足し、自民党が下野。9月17日:NAAが、「一坪運動共有地」と「土地」について反対派らに売却を求める訴訟を千葉地裁に提起し未買収用地取得を進める方針を固める。9月24日:運輸政策研究機構が主催するシンポジウム「首都圏空港の将来像」で、首都圏空港将来像検討調査委員会がオープンスカイの推進や航空会社の資本・労働政策の自由化、成田空港と羽田空港の機能分担見直しなどを提言。10月12日:前原誠司国土交通相が突如「日本にはハブ空港が存在しない状態。羽田空港の24時間空港化を目指したい」と発言、千葉県関係者には成田に代わって羽田が国際空港の中心になるとの受け止めが広がる。10月13日:森田千葉県知事は前日の前原発言について「冗談じゃない」「昨夜は頭にきて眠れなかった」など強い口調で非難、その他地元から批判の声が相次ぐ。一方、前原国土交通相は記者会見で前日の発言での考えに変わりがないことを重ねて表明。10月14日:前原国土交通相と森田知事の会談が行われ、「成田と羽田の両空港を一体的にとらえて合理的なすみ分けをする」などの点で合意、森田知事は「例えば足(距離)の長い米国は成田、東南アジアは羽田」「夜間、成田は飛べないので、羽田にお譲りしよう」などと述べる。しかし、後にこの棲み分けも取り払われることとなる。10月18日:旧熱田派が、「東峰住民の追い出しを許すな!10・22平行滑走路供用開始をやめろ!一坪共有地強奪攻撃と闘うぞ!10・18東峰現地行動」と称する集会・デモを実施。 B滑走路の延伸により東関東自動車道上に架けられた航空灯火10月22日:B滑走路が2500mに延伸され、供用開始。1966年12月の基本計画の制定から40年余を経ての完成となる。11月18日:NAAが岩山地区における航空保安施設用地 (1筆)を取得し、すべての航空保安施設用地の取得完了。12月15日:相川芝山町長が、運用時間と午後10時台の制限緩和を提案。反対派出身であり、これまでNAAによる容量拡大の動きをけん制し続けてきた相川町長からの緩和案は驚きをもって受け止められる。12月25日:NAAが発着容量30万回の騒音予想図を地元首長に提示。 ===2010年代=== ====2010年==== 2月25日:成田空港B滑走路西側の平行誘導路上にある、「天神峰現地闘争本部」をめぐり、NAA が三里塚芝山連合空港反対同盟(北原派)を相手に、建物撤去と土地明け渡しを求めた訴訟の判決が千葉地裁であり、「地上権が成立したとの事実は認められない」とNAA側の訴えを認め、空港反対派に対し建物撤去と土地明け渡しを命じる(ただし、仮執行は認められず)。3月:B滑走路の発着能力が約1.5倍に増強される。3月16日:北原派支援が「団結街道廃道化阻止集会」を開催し、「営農破壊・生活破壊攻撃を絶対許さない」など訴える。5月17日:国土交通省の有識者会議「成長戦略会議」の最終報告が取りまとめられ、羽田空港の国際線枠を年9万回に広げ、「アジア長距離路線、欧米路線を含む高需要ビジネス路線」を取り込む方針を明記。また、規制改革検討リストに昼間時間帯は近距離アジア路線のみ就航が可能となる羽田の国際線運用について「羽田空港国際線の就航先制限の撤廃」を主張する大上二三雄(エム・アイ・コンサルティンググループ社長)の意見が加えられる。同日、空港の敷地への立ち入りを規制する看板を壊したとして、東峰地区の北原派反対農家である市東孝雄が器物損壊の容疑で逮捕される 。5月25日:森田千葉県知事と小泉一成成田市長が前原国土交通相と面談、「成長戦略会議」の最終報告について「従来の方針を大きく転換するものだ」と懸念を表明。更に羽田発着便は千葉県上空を飛ぶ便が多いため騒音が拡大するとして地元との事前協議の必要性を主張。面談後、森田知事は「成田で請け負いきれない国際線を羽田で補完してくれるのは国益にもかなう。ただ、そういう話は事前に相談してくれと伝えた。前原さんも必ず相談すると約束してくれた」、小泉市長は「前原大臣には、やはり国際線の中心は成田です、との言葉をいただいた」とそれぞれ述べる。6月8日:菅内閣が発足。6月28日:新誘導路工事のため、NAAがB滑走路わきの旧市道(NAAに売却・廃止済み。通称「団結街道」)を閉鎖。7月11日:第22回参議院議員通常選挙で民主党が惨敗し、ねじれ国会となる。6月30日:NAAがB滑走路西側誘導路整備に伴う天神峰事業用地の取得完了。10月13日:四者協において、成田空港の空港容量30万回への拡大について、国・千葉県・空港周辺9市町・NAAの四者が合意。「容量拡大(30万回) に係る確認書」が締結される。10月31日:羽田空港が正式に再国際化し、定期国際線が就航。 ===2011年=== 3月11日:東日本大震災。福島第一原子力発電所事故が発生し、中核派等新左翼セクトが反原発を前面に掲げるようになる。5月20日:「天神峰現地闘争本部」撤去の控訴審で、東京高裁は建物撤去と土地明け渡しの仮執行宣言を付す判決を命じる。また、北原鉱治ら反対同盟のメンバー、織田陽介全学連委員長、齋藤郁真文化連盟委員長らが東京高等裁判所で不退去罪で逮捕され、勾留される。6月23日:NAAが航空科学博物館敷地(駐車場)内に、成田空港問題の史実や反対派のヘルメットなどを展示した資料館「成田空港 空と大地の歴史館」を開館(入場無料)。7月18日:北原派が、「現闘本部破壊実力阻止」「第3誘導路建設阻止」などを訴える「7・18現地緊急闘争」を実施。8月6日:5月の東京高裁判決に基づく仮執行により、千葉地裁が「天神峰現地闘争本部」を強制撤去。9月2日:野田内閣が発足。10月20日:飛行コース逸脱を常時監視する体制が確立されたことから、成田空港での滑走路の同時離着陸方式による運用が開始される。 ===2012年=== 1月25日:天神峰現地闘争本部(前年8月に仮執行による撤去済み)に係る建物収去土地明渡請求訴訟について、最高裁においてNAAの勝訴判決が確定。6月:国土交通省の規制緩和とNAAの用地買収によりA滑走路南側進入灯の延長が実現し、用地問題で進入灯を正規の位置に設置できなかったためにA滑走路を北風運用時に3250メートル分しか使えなかった課題が解消する。7月8日:北原派が、「7・8現地闘争」を実施し、農地裁判闘争勝利・成田空港第3誘導路建設阻止などを訴える。8月12日:芝山町朝倉にある、反対派の「三里塚野戦病院」の建物が焼失。11月28日:千葉地裁が反対同盟旧熱田派の所有する「横堀団結小屋」を強制撤去。人が住んでいる反対派の建物撤去としては10年ぶり。12月6日:第46回衆議院議員総選挙で自民党が大勝。12月13日:A滑走路の4000mによる全面運用を開始。A滑走路南側のディスプレイスドスレッシュホールドが廃止される。12月26日:第2次安倍内閣が発足し、自民党が政権復帰。 ===2013年=== 1月5日:元空港反対同盟熱田派代表の熱田一が死去。2月28日:一坪共有地に係る分割請求訴訟2件について、最高裁においてNAAの勝訴判決が確定。3月7日:B滑走路西側誘導路および横堀地区エプロン運用開始。3月29日:四者協でカーフュー(時間外離着陸制限)の弾力的運用について合意。3月31日:カーフューの弾力的運用、オープンスカイの適用開始。4月25日:NAAが横風用滑走路(C滑走路)予定地上の「一坪運動共有地」の売却を求めて2009年9月17日に提訴していた訴訟について、最高裁判所は2件について地権者54人の上告却下を決定。買収に応じるよう命じた一・二審判決が確定した。これによりNAAが2009年に起こした6件の訴訟が終結(4ヶ所でNAA勝訴、2ヶ所で和解)。NAAは、訴訟になっていない数カ所について交渉を続け、今後取得を目指すとする。5月15日:辺田部落から移転した農家の女性が自殺。女性はプロレタリア青年同盟の元女性リーダーであり、現地の農家へ嫁に入っていた。7月29日:旧・新東京国際空港公団が1970年から2003年にかけて地主から買収した土地を元地主との賃貸借契約により耕作を続けている、市東孝雄(北原派)に対しての耕作地の明け渡し請求訴訟の判決。千葉地裁は、「NAAには(対象地で)実施が確実な事業計画があり、1億8千万円という補償金を提示している」として、農地法で定めた「農地以外への転用が相当な場合」に該当するとして、地裁は農地と建物の明け渡しを命じる。国が1991年に反対派との対話路線に転じて以降の用地内の土地明け渡しをめぐる判決としては最大規模(ただし、「被告は農業で生計を立てている」として判決確定前の強制執行が可能な仮執行宣言は付されず)。耕作地は2ヵ所で計約7284平方メートル。いずれもB滑走路の誘導路脇にあり、うち1カ所は誘導路が「へ」の字に湾曲する一因になっている。9月8日:ブエノスアイレスで開かれた国際オリンピック委員会(IOC)総会で、2020年オリンピックの東京開催が決定。12月3日:民主党成田空港ハブ化推進連盟が「成田空港の機能拡張に関する要望書」を太田昭宏国土交通相へ提出。12月11日:三里塚芝山連合空港反対同盟北原派の農家で、千葉県芝山町菱田の騒音区域に居住する女性とその家族が反対運動から退き、 自宅と農地、航空貨物ターミナル増設予定地に所有している一坪共有地をNAAに売却したい意向を同派に伝えたことが報道される。同派からの農家脱退は16年ぶり。 ===2014年=== 1月15日:千葉県内経済3団体(千葉県経済同友会、千葉県経済協議会、千葉県経営者協会) 及び成田市内3団体(成田商工会議所、成田市観光協会、成田空港対策協議会) が国土交通省に要望書提出。自民党成田国際空港推進議員連盟(成田議連)が機能強化への積極的な取り組み等を要請する決議書を国へ提出。2月6日:NAAが三里塚芝山連合空港反対同盟に対し、空港用地内の団結小屋「横堀現地闘争本部」撤去と土地(約180m)の明け渡しを求め、千葉地裁に提訴。2月27日:地元4団体(成田商工会議所、成田市観光協会、成田空港対策協議会、成田青年会議所)が成田市長へ要望書提出。3月12日:自由民主党成田国際空港推進議員連盟が成田空港の機能強化などに関する決議を行い、国土交通大臣に申し入れ。3月26日:NAAがB滑走路の誘導路脇にあり誘導路が「へ」の字に湾曲している主因になっている土地の賃貸借契約解除を求めている問題で、市東孝雄(北原派)が建物の撤去と土地の明け渡しを命じた前年7月29日の一審千葉地裁判決取り消しを求めた控訴審が、東京高裁で始まる。市東は意見陳述で「農地は私にとって命そのもので、一審判決は絶対に受け入れられない」と訴える。NAA側は控訴棄却を求めたが、判決の確定前に強制執行が可能な仮執行宣言は「緊急性がない」として求めず。4月30日:成田商工会議所や空港周辺市町の商工会等で構成される「成田第3滑走路実現する会」が設立。署名活動を実施。5月17日:国土交通省が成田・羽田の両空港において、2030年代を目途に滑走路をそれぞれ1本新設し、発着枠を現在の5割増となる110万回/年にする方向で本格的な検討に入る。7月28日:国土交通省が交通政策審議会航空分科会基本政策部会の下に設置した「首都圏空港機能強化技術検討小委員会」が、羽田・成田両空港の空港処理能力拡大方策を中心とした首都圏空港の機能強化について技術的な選択肢の中間とりまとめを公表。7月31日:「千葉県経営者協会」が第3滑走路早期実現等の政策提言を森田千葉県知事に提出。8月20日:「千葉県経済協議会」が第3滑走路早期実現等の要望書を森田千葉県知事に提出。11月22日:熱田派系の農民らを取材したドキュメンタリー映画『三里塚に生きる』が公開される。 ===2015年=== 1月5日:NAAが団結小屋の一つ再共有化市民の家(通称・共有者の家)を撤去する方針を固める。現在はほとんど使用されていない小屋で、土地の所有権もNAAがすでに取得している。撤去されれば、空港用地と保安用地に残る団結小屋は7カ所になる。2月3日:1971年に強制収用されて以降43年に渡り補償されないままになっている、大木よね(故人)の自宅や宅地について、補償問題の最終解決を目指し、大木よねの養子夫婦と、国・千葉県・NAAが、話し合いを再開することで合意。同地は三里塚闘争で唯一、自宅を強制収用されたため、三里塚闘争の象徴的な存在であった。2月20日:NAAが、強制執行により反対同盟旧熱田派の団結小屋である「再共有化市民の家(共有者の家)」を撤去。空港用地内の団結小屋が残り5ヵ所となる。3月:第3旅客ターミナルが完成し、年間発着枠30万回化のための施設整備が完了。3月30日:正午より、1978年の開港以来続けてきた、利用客や送迎者を空港入場前に一旦停止させ身分証明証を確認する検問が廃止される。これに伴い、顔認識システムや監視カメラを利用した新しい機械警備システムの運用が、開始される。4月8日:LCC専用ターミナルとして第3旅客ターミナルが供用開始。4月28日:「成田第3滑走路実現する会」及び千葉県経済3団体(千葉県経済同友会、千葉県経済協議会、千葉県経営者協会)が国土交通省大臣へ署名簿及び要望書を提出 (署名数:約16万6000人)。5月7日:NAAが、用地内のB滑走路南側の土地2132平方メートルについて、地権者との用地売買契約が正式に成立し、所有権移転登記が完了したことを発表。同じ成田市東峰地区にある東峰墓地と野菜共同出荷場跡地に関する地権者の共有持ち分も、併せてNAAが取得。一坪共有地以外の反対派所有地の買収としては、2006年3月に熱田一から横堀墓地を取得して以来となる約9年ぶりであり、空港用地内に土地を所有する反対派農家は3戸に減る。5月18日:「成田第3滑走路実現を目指す有志の会」が第3滑走路構想を発表。5月21日:故・大木(小泉)よねに関する本補償について、遺族と合意。6月12日:B滑走路の誘導路脇にあり誘導路が「へ」の字に湾曲している主因になっている土地で耕作をつづける市東孝雄(北原派)へ賃貸借契約解除を求めた控訴審で東京高裁は明け渡しを命じた一審・千葉地裁判決(2013年7月)を支持し、市東側の控訴を棄却。市東側は即日上告。7月23日:「千葉県経営者協会」が第3滑走路早期実現等の政策提言を森田千葉県知事に提出。7月29日:「成田第3滑走路実現を目指す有志の会」が発起人会を開催。7月31日:自民党本部で開かれた党成田国際空港推進議連の総会で、同議連幹事長の林幹雄が「国は第3滑走路をやる気があるのか。無いならこの会は解散させる」と国土交通省航空局長に迫る。8月3日:自民党成田議連が国へ四者協議会の開催を求める決議書を提出。8月25日:「成田空港圏自治体連絡協議会」が今後は四者協議会で議論していくことを確認。9月2日:NAAが「三里塚芝山連合空港反対同盟」旧熱田派に、芝山町香山新田の空港用地内の団結小屋「横堀現地闘争本部」の撤去と土地(約180平方メートル)の明け渡しを求めた訴訟で、千葉地裁がNAA側の請求を認め、小屋の撤去と土地の明け渡しを命じた。旧熱田派が一坪共有していたが、NAA側に土地の持ち分を売却するよう命じた判決が2013年4月に最高裁で確定しており、NAA側が2014年2月に明け渡しを求めて提訴していた。9月17日:四者協が開催され、成田空港の更なる機能強化に向けた検討を開始。9月24日:「成田第3滑走路実現を目指す有志の会」の設立総会が開催される。11月10日:「成田空港騒音対策地域連絡協議会」が、成田空港の機能強化に関する要望書をNAAに提出。11月19日:成田市が成田国際空港総合対策本部を設置。11月27日:千葉県・国・地元9市町・NAA が開いた四者協議会において、B滑走路の延伸と第三滑走路の新設について具体的な検討に入ることが決まる。B滑走路について、NAAは東関東自動車道の通る北部へと約1000m延伸し、B滑走路を3500m化、さらに首都圏中央連絡自動車道の東側に、新たに長さ3500mの第三滑走路を新設し、大型機の離着陸枠の増大と年間発着台数50万便(16万便増)を目指すとする。加えて都市間競争力を増すためにも、夜間飛行制限の緩和についても議論を進めていく予定である。12月28日:NAAが成田空港の更なる機能強化に関するパンフレット「成田空港の明日を、いっしょに」を配布し、特設サイトをオープン。 ===2016年=== 1月23日:ノースウエスト航空との合併後、成田を「アジアのハブ」と位置づけて現地の整備部門などに投資を重ねてきたデルタ航空が、日米航空交渉で羽田空港と米国を結ぶ昼間時間帯の路線配分が決まれば、成田空港と米主要都市を結ぶ全7路線が廃止に追い込まれるとの声明を発表。2月3日:NAAが「三里塚芝山連合空港反対同盟」旧熱田派に、芝山町香山新田の空港用地内の団結小屋「横堀現地闘争本部」の撤去と土地(約180平方メートル)の明け渡しを求めた訴訟の控訴審判決で、東京高裁は、一審千葉地裁に続き、原告のNAAの請求を認め、撤去と土地の明け渡しを命じた。土地の所有権は、別訴訟で勝訴したNAAが全て取得している。2月18日:航空交渉の結果、日米両政府が昼間時間帯の羽田発着の米国路線就航に同意。3月18日:芝山町にA滑走路16Rから南に600メートル離れた場所に、新観光・航空機撮影スポット「ひこうきの丘」がオープン。3月27日:北原派が、第3誘導路(「への字誘導路」)の裁判を争う市東孝雄(北原派)への支援を訴える集会。これまでは集会を空港周辺で行っていたが、今回は敢えて空港勤務者が多い成田ニュータウン地区内にある赤坂公園を会場とした。空港用地内の耕作地を持ち「このままでは反対闘争は先細り。戦いに勝ち抜くためには誰とでもつながっていく」と危機感を持つ萩原富夫(東峰地区農家、北原派事務局)が、「国家権力に立ち向かうためには闘いを一回り大きくする必要がある。(旧)熱田派にも支援を訴えていこう」と旧熱田派との共闘を呼びかけ。これに対し、内ゲバで自派の支援者を負傷させられ、シンポジウム・円卓会議等のこれまでの国との対話の取り組みについて北原派から「脱落者」などと激しく批判されてきた旧熱田派からは、概ね冷ややかな反応だったが、設立時に市東の父が保証人になっていた三里塚物産の経営者である平野靖識が支持を表明。7月21日:「横堀現地闘争本部」の撤去をNAAが求めた裁判で、最高裁が旧熱田派の上告を棄却し、撤去と土地の明け渡しを命じた二審判決が確定。9月20日:「成田第3滑走路実現を目指す有志の会」が自由民主党成田国際空港推進議員連盟会長、航空局長に成田空港の更なる機能強化に関する要望書を提出。9月27日:四者協が開催され、成田空港の更なる機能強化の検討を進めるに当たっての確認書を締結。NAAからは更なる機能強化に向けた調査報告として、発着容量50万回時の成田空港の全体像について、滑走路の配置案(C 滑走路の新設、B 滑走路の北側延伸)・空港敷地範囲(約1,000ha 拡大)・夜間飛行制限の緩和( 運航可能時間を午前5 時〜午前1時に拡大)・予測騒音コンター(50万回時)が提案される。9月30日:「成田空港対策協議会」が27日のNAAからの提案に全面的支持を表明。10月3日:「成田空港対策協議会」が「成田空港圏自治体連絡協議会」会長に成田空港の更なる機能強化に関する意見書を提出。10月6日:「成田第3滑走路実現を目指す有志の会」が森田千葉県知事に成田空港の更なる機能強化に関する要望書を提出。10月14日:「成田空港の機能拡充と地域経済の活性化を実現する会」及び「成田第3滑 走路を実現する会」が成田空港の機能拡充に関する要望書を国・千葉県・NAA他に提出。10月25日:B滑走路誘導路が「へ」の字に湾曲している主因になっている、誘導路脇の土地の賃貸借契約解除をNAAが求めた上告審で、最高裁第三小法廷はこの土地で耕作を続ける市東孝雄(北原派)の上告を棄却。これにより土地明け渡しと、上に建てられた小屋などの建物の撤去を命じた一・二審判決が確定し、土地の明け渡しに応じなければ、NAAの申し立てにより、裁判所が強制執行することとなった。土地(2カ所の計7284平方メートル)自体は、2003年(平成15年)にNAAが取得しており、NAAは賃貸借契約の解約を求めていた。同日、「成田空港対策協議会」が国、千葉県、 NAAに成田空港の更なる機能強化に関する意見書を提出。市東は「ここで変わらずに農業を続けていく」とコメントし、明け渡しに応じない意向を示す。10月30日:2016年度冬ダイヤが始まり、昼間の羽田空港に米国路線が就航。この余波によりデルタ航空がニューヨーク(ジョン・F・ケネディ)・ロサンゼルス・ミネアポリス・バンコク・関西の5路線から撤退するなど、減便・羽田への移管の動きが相次ぐ。11月7日:「成田第3滑走路実現を目指す有志の会」が成田空港の更なる機能強化に関する要望書をNAAに提出。要望書は、空港周辺地域の産業振興に向けた「成田国際空港圏特区」の創設や規制緩和、騒音や防音、落下物防止などの対策、空港のバスターミナル強化や空港へ通じる道路のノンストップゲート化、雇用創出、防災拠点の整備など9つの項目を柱とする。11月16日:「NARITA空港圏青年交流会」が成田空港の機能拡充に関する意見書を提出。11月30日:成田用水事業を巡り、「成田用水事業推進協議会」(会長・小泉成田市長)が、千葉県庁で森田健作知事に用水施設の改修に対する国や県の支援拡充などを要望。12月6日:NAAが、年間発着30万回を念頭に、ピーク時間帯の空港処理能力を向上させ、滑走路の時間値を72回へ拡大することに伴い、エプロン及び周辺誘導路を整備することについて、航空法第43条に基づく空港変更許可申請を行う。12月8日:空港展開候補地内にある芝山町中郷区が、成田空港の更なる機能強化に関する表意書を芝山町に提出。12月25日:更なる機能強化案について、NAA社員による対話式・個別対応の説明会が始まる。 ===2017年=== 1月11日:「成田空港騒音対策地域連絡協議会」 が成田空港の機能拡充に関する要望書を千葉県・NAAに提出。1月27日:NAAが、「成田空港の更なる機能強化 環境影響評価方法書」を公表。2月6日:横芝光町が成田空港の機能拡充に関する要望書を国・千葉県・NAAに提出。2月16日:千葉県が駒井野の一坪共有地の引き渡しを求めていた裁判で、千葉地裁が所有者に全ての共有地の引き渡しを命じる。3月2日:2003年にNAAが土地を取得し、2016年11月に最高裁で賃貸借契約の解除の判決が出たB滑走路の誘導路脇にある2カ所の計7284mの土地について市東孝雄(北原派)側が強制執行を許可しないように求めた裁判が千葉地裁で開始。3月16日:「多古町航空機騒音等対策協議会」が成田空港の更なる機能強化に関する要望書を国・千葉県・多古町・NAAに提出。3月21日:空港展開候補地内にある芝山町菱田東区が、成田空港の更なる機能強化に関する表意書をNAAに提出。3月27日:「成田空港地域共生・共栄会議」が地域 振興連絡協議会にこれからの成田空港に関する提言書を提出。4月6日:「横芝光町航空機騒音等対策協議会」が成田空港の更なる機能強化に関する意見書を国・千葉県・NAAに提出。5月31日:未明、前年7月に確定したNAAへの明け渡しを命じる判決に基づき、千葉地裁の執行官の強制執行指示によって旧熱田派の団結小屋「横堀現地闘争本部」(鉄骨平屋建て約50平方メートル)が撤去される。近くには旧熱田派の支援者数人が集まり「農民追い出しを許さない」などとシュプレヒコールを上げる。撤去後、NAAは「空港の機能強化が求められている中、誘導路用地として土地を活用し空港機能を拡充していきたい」とコメント。空港用地内や保安用地に残る団結小屋は6棟となる。6月12日:四者協が開催され、NAAから成田空港の更なる機能強化について、滑走路別に異なる運用時間を採用する「スライド運用」導入等の見直し案が提示される。8月9日:反対同盟北原派代表の北原鉱治が死去。9月9日:三里塚闘争の今を描いた日本映画『三里塚のイカロス』が上映開始。12月27日:成田空港周辺9市町の首長らによる協議会が成田市役所内で開かれ、翌月にも国・千葉県・NAAに対する要望を取りまとめる方針を決める。一部の出席者からは、「住民の間で騒音の拡大に対する不安が大きく、現在の案のままでは、理解が得られない」との声が上がる。12月31日:成田空港の発着回数が2017年通年で25万1639回(国際線発着回数:19万7458回、国内線発着回数:5万4181 回)となり、初めて25万回を超える。同年間の総旅客数も4068万7040人(国際線旅客数:3314万6791人、国内線旅客数:754万249人)となり、初めて4000万人を超える。一方、アジアから北米に向かう乗り継ぎ客が多かったデルタ航空運休の影響が続き、通過客(国際線乗り継ぎ)は399万3572人となり、400万人を割り込んだ。 ===2018年=== 1月1日:NAAに、複数の便を名指しして「爆発物を搭載した」「滑走路延伸計画を中止しろ」などと録音した女の声で脅迫電話があり、ジェットスター・ジャパンの2便が欠航し約340人に影響。成田国際空港警察署が調べたが、不審物は見つからず。1月4日:NAAの夏目誠社長が社員への年頭訓示で、「戌年は準備を整える年。新たな成長に向けしっかりと準備をしていけば先行きは明るい」と激励し、「いよいよ大詰めの段階だ。国際的空港間競争に勝ち残っていくために総力を結集して実現していかなければならない」と成田空港の機能強化への決意を表明。1月15日:共産党の畑野君枝衆院議員・山添拓参院議員らが成田空港の機能強化について佐藤晴彦横芝光町長と懇談し、町側から、騒音被害の増大・NAAの周辺対策交付金や税収の地域間格差などの懸念が表明される。議員らは共産党系の地元団体「成田空港から郷土とくらしを守る会」とも懇談し、不満の意見を聴取する。1月22日:安倍首相が衆院本会議での施政方針演説の中で、「羽田、成田空港の容量を、世界最高水準の百万回にまで拡大する」と述べる。1月23日:住民団体「横芝光町航空機騒音等対策協議会」が、睡眠時間確保のため更なる飛行時間延長見直しや地域間格差是正を求める要望書を県・国土交通省・NAAに提出。同協議会会長は「成田空港が地域で重要な地位を占めていると認識している」としながら、「地域が納得できる対応をしてほしい」と述べる。1月25日:空港周辺9市町の振興策として千葉県が3月までに作成する「基本プラン」について、横芝光町の佐藤晴彦町長・同町町議が県庁を訪れ、空港直結道路の整備・工業団地の誘致・河川の治水対策の三つを重点項目として森田千葉県知事に要望。佐藤町長は「地域振興にしっかり取り組む」との森田知事の回答を評価。1月30日:空港周辺9市町でつくる「成田空港圏自治体連絡協議会」が、空港の夜間飛行時間延長に関し、騒音被害抑制に向けた追加措置を求める要望書を森田千葉県知事に提出。成田空港の機能強化が周辺地域の活性化につながるよう、産業振興やインフラ整備に関する基本計画を県が早急に策定することも要請。1月31日:成田空港の機能強化を巡り、森田千葉県知事と空港周辺の市町長らが、国土交通省とNAA東京事務所を訪ね、夜間飛行制限緩和案の改善や騒音対策の拡充など6項目からなる機能強化の見直し案に関する再要請書を石井啓一国交相とNAAの夏目社長にそれぞれ手渡す。森田知事は「見直し案でも騒音の不安が払拭できていない。地域振興策の強い要望もあり、ぜひ検討していただきたい」と見直し案の改善を強く要請。石井国交相は「成田空港の国際競争力の強化と生活環境保全の両立が重要。要請を重く受け止め、最終的な結論が得られるようしっかり検討する」と応じ、夏目社長は「機能強化は地域と空港の将来を決定付ける。要請の内容を重く受け止め、関係者と相談し、できるだけ早く方向性を示したい」と述べる。2月19日:「成田空港圏自治体連絡協議会」が芝山町で会合を開き、国土交通省・NAA・千葉県の担当者から機能強化の見直し案に関する六項目の再要望に対する回答の説明を受ける。この中で、これまでに実施してきていた住民説明会で不満の声を寄せられていたNAAが滑走路ごとの運用時間をずらすことにより夜間の静穏時間を7時間確保する「スライド運用」案や周辺対策交付金の充実を提示、国土交通省は空港全体の午前5時〜翌午前0時半の運用時間で合意することが前提としつつも、C滑走路供用まで相当の期間を要するため、さらなる改善について要請があれば協議に応じるとする。千葉県が成田空港周辺9市町の新たな地域づくりの方向性を示す「基本プラン」の案を提示。協議会長の小泉一成・成田市長が「再要望を真摯に受け止めて検討していただいた回答で、一定の評価をしたい」、相川勝重・芝山町長が「(スライド運用によって確保される)7時間は、われわれや国が努力した結果の落ち着く線。町民の多くも『まあ仕方ない』と思ってくれるのではないか」とそれぞれ述べ、周辺9市町の首長らは国・NAA側の回答を一定程度評価。一方、A・B2本の滑走路の飛行コースの谷間になる地域がある横芝光町の佐藤晴彦町長は「C滑走路の運用時間を引き続き協議していただける回答」としつつも、スライド運用については「実質的な恩恵はよく分からない」とした。2月20日:衆院第2議員会館内で、「成田空港から郷土とくらしを守る会」等の地元住民らが国土交通省に対し成田空港の機能強化案について反対意見を述べるとともに、同空港の運用時間拡大案の白紙撤回を求める署名を提出。日本共産党の畑野君枝衆院議員・山添拓参院議員・鵜澤治成田市議・山崎よしさだ横芝光町議・志位和夫衆院議員秘書らが同席。2月22日:19日に示された機能強化の再修正案について、国土交通省・NAA・千葉県が横芝光町議会に説明を非公開で実施。議員らからは、周辺対策交付金や地域振興策の充実について積極的に施策に反映することや、同月28日と3月1日に予定される住民説明会での町民へ分かりやすい説明などの要望のほか、反対が強い中で制限時間緩和を実施することへの憂慮の声が上がる。佐藤晴彦町長は「再修正案は一定の評価はできる。議員からもある程度理解が得られている。町民と対話し、議会と再度協議して方向性を導きたい」とコメント。再修正案について、NAAの夏目社長が「国際競争力維持と地域住民の生活保全を両立する上でギリギリの案」と記者会見で述べる。2月28日:横芝光町が、19日に示された成田空港の機能強化の再修正案についての住民の検討材料として、案が実行された場合に町内に整備が見込まれるインフラの予想図「将来の横芝光町の姿」を作成。予想図には空港直結の幹線道路や工業団地など、町が求めてきた地域振興策が示されている。「将来の横芝光町の姿」は同日と翌日に介された住民説明会で配布。2月28日 ‐ 3月1日:横芝光町で運用拡大案についての住民説明会が開かれる。この中で佐藤町長「新たな見直し案では、今後もさらなる騒音の軽減策の協議を行うことも盛り込まれ、一定の評価をしている」と述べる。住民からは「少子高齢化が進む中でもこの地域には空港がある。空港を生かして住んでいられる、子育てできる町であってほしい」「睡眠の妨げになることには変わりない」などの声が聞かれ、賛否が分かれる。特に住民の反応が厳しかった28日の説明会の後、佐藤町長は「住民のリアクションがあまりにも厳しかったのは否めない事実。振興策の部分では何らかのポジティブな意見が出るのかなという期待は正直持っていたのだが、反対意見の方がどうしても強い中で、これをどう判断していくか考えて行かなければならない」とコメント。3月2日:横芝光町で町議会全員協議会(非公開)が開催され、成田空港機能強化の見直し案について対応を協議。佐藤町長が「運用時間についてこれだけ反対意見が根強い中で、今の時点で結論を出すには至っていない」などと述べ、出席者からは「結論を出すべき」とか「決めるにはまだ早い」など賛成・反対双方の意見が出たが、受け入れの可否について結論は出ず。終了後に開かれた記者会見で佐藤町長は「この2日間で考えが変わった。深夜・早朝の運用時間のさらなる見直しも含めて求めるということだ」「条件付き賛成だが、運用時間に納得していない町民の意見を尊重したい」「現時点では四者協議会の協定書に捺印できない」と述べ、結論先送りを明言。近く開催が見込まれる四者協の最終合意が不透明な状況になる。この事態を受け、他の空港周辺市町の首長らからは「横芝光町の厳しさは理解しているが、ただ言えることは何とか空港圏として足並みをそろえていただきたい」などと困惑のコメントが出される。3月3日:「成田空港騒音対策地域連絡協議会」(騒対協)の常任理事・監事会議が成田市役所で開かれ、国土交通省・NAA・県からの案についての説明や協議会幹部による市の対応についての質疑などがなされる。委員らからは運用時間の維持を求める声もあったが、強硬な反対意見は出ず、成尾政美会長が「われわれの要望がそれなりに検討されて示されたことは評価できる」と述べ、事実上小泉一成市長に判断を一任。小泉市長は会議後、記者団に「騒対協の意見を受けて、私が総合的に判断していきたい」「機能強化が実現すれば地域振興も行われ、地方創生につながる」と述べ、NAA・国・県が提案した対策を確実に実施することを条件に合意に前向きな姿勢を示す。3月7日:成田空港の機能強化をめぐり、横芝光町の佐藤晴彦町長が再見直し案について「拙速に答えを出さず、まだまだ住民との話し合いも必要だ」と町議会で述べ、受け入れに慎重な姿勢を示す。佐藤町長に対し、成田市や芝山町など空港周辺9市町を中心とした14商工団体の長が連名で機能強化の受け入れを申し入れ。3月9日:山武市の椎名千収市長が、千葉日報の取材に「山武市だけが反対するわけにはいかないが、横芝光町が賛成できないときに賛成はできない。横芝光町と問題は共有していく」などと佐藤町長に追随する意向を示唆。千葉県議会の総合企画水道常任委員会で県空港地域振興課の担当者は「各市町の意思が統一しなければ、(四者協は)なかなか開けない。まず9市町の方で再修正案を改めて検討してもらい、意思が統一されてからと考えている」と説明。空港周辺6市町の商工団体青年部のメンバーらで構成する「NARITA空港圏青年交流会」(会員8団体約400人)が、「少子高齢化が進む中、4万人の雇用を持つ空港は地域の宝。今回の機能強化で3万人の雇用が生まれ、波及効果は計り知れない」として早急に最終結論を出すよう求める意見書を纏める。意見書は関係市町・国土交通省・NAA・県に提出予定。3月11日:「午後11時から午前6時の飛行制限は、どんなことがあっても譲れない」とする横芝光町の住民団体「航空機騒音から生活を守る会」の集会(参加者約160人)に協定書合意への判断を見送っている佐藤晴彦町長が出席。佐藤町長は判断見送りについて激励の声と国側からの接触を受けていることを明かし、「最後は議会と話し合い結論を出す」と述べる。3月12日:横芝光町の佐藤町長が町議会全員協議会後の記者会見で、「熟慮を重ねた苦渋の選択」としたうえで「これ以上判断を遅らせるのは得策ではない。機能強化実現で町がさらに発展することを期待し、合意の決断をするときが来た」と述べ、成田空港強化案受け入れを表明。全員協議会では佐藤町長の方針を大多数が支持しており、同町議会の川島勝美議長は「関係機関と精いっぱいの交渉をしてきた町長の判断を尊重する」と述べる。3月13日:夜、千葉県・国・地元9市町・NAAからなる四者協議会が開催され、滑走路増設や運用時間延長を含む成田空港の更なる機能強化について最終合意される。協議会終了後、出席者が揃って開かれた記者会見では、森田千葉県知事が「今回の成田空港の拡大案は、地元、県、国のさらなる発展に大いに寄与すると思っている」、小泉一成成田市長が「議論が始まって以降、200回を超える住民説明会を行い、丁寧な説明と意見交換を重ねてきた。住民の理解は進んだと考えているが、今も住民の間でさまざまな思いや不安を感じている人がいることも認識しており、空港の機能強化と住民の生活環境の保全、地域振興を一体として進めていきたい」とそれぞれ述べる。前日になって受け入れを表明した横芝光町の佐藤町長は、「全ての要望が受け入れられた訳ではないが、関係者は可能な限り努力してくれたと思う。悩みに悩んだ上での結論だが、ほかの自治体に乗り遅れることなく、地域振興を図るとともに、不安を抱いている多くの住民に寄り添い理解を求めていきたい」と述べる。NAAの夏目社長は「最終合意が得られたことは感無量で、成田空港にとって歴史的な1日になった。我が国と、地域の将来がかかっているプロジェクトに身が引き締まる思いだ。地域に寄り添いながら精いっぱい努力したい」した。合意に対し、地元からは「納得できない」「町の将来を考えると受け入れざるを得ない」等様々な声が上がる。3月13日:同月4日に成田市西大須賀の竹林で航空機のアンテナが落下しているのが確認されたのを受け、同市内の航空機騒音下住民で構成する「成田空港騒音対策地域連絡協議会」が、国土交通省成田空港事務所とNAAに対して早急な対応実施を申し入れ。3月14日:NAAが「引き続き、地域の皆様の機能強化に対する理解を更に深められるよう努めるとともに、『空港づくりは地域づくり』という共生・共栄の理念のもと、空港があって良かったと地域の皆様から思っていただけるよう努力してまいる」等とする声明文を夏目社長名で発表。3月29日:自民党の成田国際空港推進議員連盟の総会が開かれ、合意に至った成田空港の機能強化に向けて、今後国と県、周辺市町、それに空港会社などの関係者が一丸となって取り組む方針が確認される。4月1日:NAAが「航空機落下物被害救済支援制度」を創設。4月2日:NAAが、多古町役場庁舎に「東地域相談センター」を新設。相談センターとしては5か所目。4月4日:「成田空港の機能拡充と地域経済の活性化を実現する会」及び「成田第3滑走路を実現する会」が第3滑走路早期建設に関する要望書を国・県・成田空港圏自治体連絡協議会・NAAへ提出。同日、東峰地区の三里塚物産で失火、倉庫などを焼失。4月8日:多古町長選で、成田空港の機能強化に伴う騒音対策・第3滑走路新設・空港第4ターミナルビル誘致などを公約に掲げる自民推薦の所一重が現職の菅沢英毅を破り、初当選。4月27日:NAAが「成田国際空港の更なる機能強化 環境影響評価準備書」を公表。5月20日:成田国際空港が開港して40年となり、各種記念イベントが開催される。6月6日:所有者不明土地の利用の円滑化等に関する特別措置法が成立。6月11日:蝦名邦晴航空局長が参院決算委員会で、成田空港第3滑走路などの建設予定地について6日に成立した「所有者不明土地の利用の円滑化等に関する特別措置法」を活用して所有者が分からない土地の取得を進める考えを明らかにする。7月11日:「成田第3滑走路実現を目指す有志の会」が「成田空港と地域の繁栄を目指す有志の会」に名称変更。夜間飛行制限緩和の議論・空港内の大規模バスターミナル・空港東側の新玄関口・空港圏の環状道路・フェンスを可能な限り撤廃‐など13項目からなる、地域住民からの建設的提言の実現を目指す「建言書」も示される。9月11日:成田市議会空港対策特別委員会で、成田市が内窓設置工事の助成を受けた場合にエアコンなどの空調機器を設置する費用の95%を補助する方針を明らかにする。9月13日:未明、A滑走路わきの緑地帯で、過去に過激派が発射した飛翔弾とみられる物体が掘削作業中に発見される。午前8時20分までA滑走路が閉鎖される。9月28日:「成田第3滑走路実現する会」と「成田空港の機能拡充と地域経済の活性化を実現する会」が、第3滑走路の早期建設を求める要望書を国土交通省・NAA・成田空港圏自治体連絡協議会・千葉県に提出。両会は要望で、台風21号で甚大な被害を受けた関西国際空港の状況にも触れ、国土強靭化を進める中「成田の容量拡大のため第3滑走路の早期着工を強く求める」と訴える。10月末:熱田派系市民グループ「大地共有委員会」が一般社団法人「三里塚大地共有運動の会」の設立を申請(11月13日発足)。一坪共有地共有者の高齢者化や相続問題に対抗するのが狙いとされる。12月4日:NAAが成田市議会空港対策特別委員会で、A滑走路の発着時間延長に伴う周辺対策交付金を、同市など5市町に総額1億円交付することを表明。12月17日:「成田空港と地域の繁栄を目指す有志の会」が記者会見を開き、作成したチラシ「成田空港圏未来予想図」を公表。同会はA滑走路の運用時間延長を2019年の冬ダイヤから始めるよう求める緊急提言(「空港と地域の未来について」)も発表。12月20日:耕作地明け渡し命令(2016年10月25日の最高裁上告棄却により確定)に対して行われた、市東孝雄(北原派)の請求異議(民事執行法に基づく強制執行不許の求め)を、千葉地裁が退ける。市東らは1990年代前半の旧熱田派との対話の中で国が出した強制的手段を取らない確約などを挙げて権利乱用を主張していたが、請求異議には口頭弁論終結後の事情変更が必要であり、千葉地裁一連の対話が口頭弁論終結よりも前に行われていたものだったことに加え、「強制執行権を放棄したとまでは認められない」ことを判決理由とした。市東は即日控訴。同日、デルタ航空日本支社長の森本大が、羽田線を巡る日米航空当局間協議について「正念場にすでに来ている。年明けの1月か2月に交渉が決着」すると見通しを述べ、「なるべく多く」羽田の発着枠を手に入れて成田から羽田へ路線を移したい旨を専門メディア向けの説明会で語る。 ===2019年=== 1月25日:NAAと国交省の担当者が山武市を訪れ、A滑走路の発着時間延長を2019年冬ダイヤからとする案を説明。松下浩明市長及び加藤忠勝議長は「騒音対策や地域振興策をしっかりやると約束してもらった」などとして、冬ダイヤを「致し方ない」と容認する立場を示す。1月28日:横芝光町で開かれた非公開の全員協議会で、国交省とNAAの担当者が「東京五輪を万全の体制で迎えたい」としてA滑走路の発着時間延長を2019年10月末の冬ダイヤからとする案についての理解を求める。議会の同意を得た佐藤晴彦町長が受け入れを表明。これをもって空港周辺9市町全てからの同意が得られる。1月29日:羽田空港容量拡大のための新飛行ルートをめぐり、国交省と在日米軍の交渉が基本合意に達する。横田空域通過中の管制権を一部時間帯で日本側が取得することとなる。これにより国際便の年発着数可能枠が6万回から9.9万回に増加し、成田空港に就航している国際便の一部も羽田発着に変更すると見られている。2月4日:四者協議会で行政やNAAから成田財特法延長の上程や落下物対策の取り組みについて説明がなされ、2019年冬ダイヤ(10月末)からのA滑走路の夜間飛行制限緩和が正式合意される。運用時間の延長は開港以来初。 ===参考文献=== 警察庁『警察白書』(各年)朝日新聞社朝日ジャーナル編集部 『三里塚 反権力の最後の砦』 三一新書、1970年5月。ISBN 978‐4380700088。飯高春吉 『北総の朝あけ 成田空港闘争と警備の記録』 千葉日報社出版局、1976年8月。東京新聞千葉支局/大坪景章 編 『ドキュメント成田空港 傷だらけの15年』 東京新聞出版局、1978年4月。佐藤文生 『はるかなる三里塚 インサイド・レポート成田空港』 講談社、1978年4月。郡山吉江 『三里塚野戦病院日記』 柘植書房、1980年1月。ISBN 978‐4806801771。松岡秀雄 『成田空港って何だろう』 技術と人間、1981年3月。新東京国際空港公団 『新東京国際空港公団 20年のあゆみ』、1987年3月。公安調査庁 『成田闘争の概要』、1993年4月。朝日新聞成田支局 『ドラム缶が鳴りやんで 元反対同盟事務局長石毛博道・成田を語る』 四谷ラウンド、1998年6月。ISBN 978‐4946515194。原口和久 『成田空港365日 1965‐2000』 崙書房、2000年5月。ISBN 978‐4845510672。福田克彦 『三里塚アンドソイル』 平原社、2001年10月。ISBN 978‐4938391263。原口和久 『成田 あの1年』 崙書房、2002年4月。ISBN 978‐4845501779。前田伸夫 『特命交渉人用地屋 1965‐2000』 アスコム、2005年7月。ISBN 978‐4776202592。大和田武士、鹿野幹夫 『「ナリタ」の物語 1978年開港から』 崙書房、2010年4月。ISBN 978‐4845501960。桑折勇一 『ノーサイド 成田闘争 最後になった社会党オルグ』 崙書房、2013年12月。ISBN 978‐4845502073。 =小松 (料亭)= 小松(こまつ)は、神奈川県横須賀市の米が浜通に存在した料亭である。1885年(明治18年)の開業以来、大日本帝国海軍の多くの海軍軍人に愛好された料亭として知られ、戦後は在日アメリカ海軍、海上自衛隊関係者に広く利用されてきた歴史から、海軍料亭小松と呼ばれていた。2016年5月16日に火災が発生し全焼した。 ==概要== 小松は1885年(明治18年)8月8日に、創業者山本コマツによって横須賀田戸の白砂青松の海岸沿いに開業した。開業当初は白砂青松の海岸で海水浴を楽しんだ後に、入浴と食事を楽しむ割烹旅館であったと考えられるが、日本が海軍力の増強に努め、日清戦争、日露戦争に勝利し、横須賀鎮守府の機能が拡大していく中で、海軍軍人相手の海軍料亭になっていった。小松を利用する海軍軍人たちは、小松の松にちなんでパイン(Pine)と呼ぶようになった。 小松が立地していた田戸海岸は、1913年(大正2年)に埋め立てが行なわれたため、小松は海岸線から離れてしまい、白砂青松の景勝地に立地しているという魅力を失った。その上第一次世界大戦終了後の恐慌と、恐慌に伴い横須賀市で発生した娼妓の待遇改善を求めるストライキのため、1918年(大正7年)から1919年(大正8年)頃、いったん休業せざるを得なくなった。1923年(大正12年)になって、当時は風光明媚であった現在の米が浜の地に新たに店舗を建て、小松は営業を再開した。 第二次世界大戦時には、第四艦隊司令長官の井上成美の要請により、1942年(昭和17年)から1944年(昭和19年)にかけて、トラック諸島に支店であるトラック・パインが開設された。1945年(昭和20年)8月15日の終戦後、小松はいったん閉店され、横須賀に進駐した連合軍によって横須賀鎮守府から退去させられた鎮守府関係者の残務整理のための事務所や、外務省通訳の宿舎となったが、1945年(昭和20年)10月にはGHQ指定料理店となり、横須賀に進駐した主に米兵相手の飲食業を営むようになった。 1952年(昭和27年)のサンフランシスコ講和条約と日米安全保障条約が発効後は、小松は横須賀海軍施設の米海軍軍人、そして海上自衛隊、旧海軍関係者らに広く利用されるようになった。現在もかつて横須賀市内に多数存在した海軍ゆかりの料亭の中で最も長く営業を続け、大正、昭和初期の近代和風建築を今に伝えるとともに、東郷平八郎、山本五十六、米内光政らの書など、多くの日本海軍関係の資料を保有していて、料亭小松は近代日本海軍の歴史を伝える重要な存在であった。 ==沿革== ===小松の開業まで=== 小松の創始者である山本コマツは幼名を山本悦といい、1849年(嘉永2年)、江戸で乾物商を営んでいた山本新蔵の四女として小石川関口水道町に生まれた。1866年(慶応2年)、山本悦は近所に住む友人に誘われ、浦賀へ向かい、そこで吉川屋という旅籠料理店に住み込みで働くようになった。天然の良港である浦賀は江戸時代から港町として栄えてきたが、明治初年には創建間もない日本海軍の根拠地の一つとなり、海軍関係の宴席の多くは吉川屋で行なわれるようになった。そのような中、山本悦は海軍関係者との人脈を築いていくことになる。 1875年(明治8年)、山田顕義、山縣有朋、西郷従道らとともに、小松宮、北白川宮、伏見宮、山階宮の4名の皇族が、浦賀沖で行なわれた水雷発射試験の視察のために浦賀にやってきた。浦賀での一行の宿は当初別の場所とされていたが、見晴らしが良い一等地に建っていた吉川屋を見た皇族らが吉川屋での宿泊を希望したため、急遽吉川屋が一行の宿所に充てられることとなった。 その晩の宴席での余興で、山本悦は4名の皇族らと指相撲を行なったが、当時としては大柄の女性であった山本悦に4名の皇族たちは歯が立たなかった。感心した小松宮が、「お前の立派な体にあやかりたい、そのかわりにわしがお前に名前を付けてあげよう」と言い出した。これは宴席での小松宮の戯言であると思っていたが、翌朝一行への挨拶にやってきた浦賀の郡長に小松宮が、「昨晩名をつけてやったから、改名の手続きをしてやってくれ」と依頼をした。山本悦は山本小松では畏れ多いと、片仮名の山本コマツと改名の手続きを行なった。これが後に料亭小松の名の由来となった。 山本コマツは改名後も浦賀の吉川屋で働き続けていたが、いつしか独立を考えるようになっていった。長年吉川屋で働く中で貯蓄も出来て、仕事にも慣れ、更には仕事をする中で繋がりが出来た海軍関係者から、「これから横須賀は日本一の軍港になる、ぜひ横須賀で開業しろ」と勧められたため、独立を決意した。折りしも、1884年(明治17年)12月には横須賀鎮守府が成立しており、横須賀は海軍の軍港として発展を見せていた。山本コマツは1885年(明治18年)8月8日、20年近く働いてきた吉川屋から独立し、横須賀の田戸海岸に割烹旅館の小松を開業した。なお開業日は八の字が重なる日は縁起が良いとのことで、特に選ばれた日であった。 ===割烹旅館から海軍料亭小松へ=== 割烹旅館小松が建てられた田戸海岸は、当時猿島を望む白い砂浜に松林が広がる、いわゆる白砂青松の景勝地として知られていた。この頃小松を利用した八代六郎は尺八が堪能であり、名月の晩に小松の縁側に腰掛け、月の光を受けてきらきらと光る海を見ながら千鳥の曲などを吹いていたとのエピソードが残っている。 田戸海岸に建設当時の小松は二階建て瓦葺きであり、一階は8畳間が2室と6畳間が3室、そして料理場と風呂場があり、二階には8畳間が2室と6畳間が2室あった。この当時の小松を紹介した銅版画や横須賀の案内書から、建設当初の小松は、白砂青松の海岸にあった立地条件を生かした、海水浴を楽しんだ後に入浴と食事を楽しむ割烹旅館であったと考えられている。 山本コマツが小松を開業した理由の一つに海軍関係者からの勧めがあった、当時の日本は海軍力の増強に努めており、海軍の根拠地であった横須賀にある料亭の小松が、海軍関係者によって繁盛するようになったのは自然の成り行きであった。日清戦争前には横須賀には料理屋がまだ少なく、海軍関係者によって賑わうようになった小松は、日清戦争開戦直前の1893年(明治26年)には、一階に10畳間2室、6畳間1室、4畳半間1室、二階に8畳間2室の増築が行なわれた。またこの増築時には、鳶の親方として後に衆議院議員、逓信大臣となる小泉又次郎が活躍したという。 日清戦争に勝利した後、小松では次々と横須賀に凱旋入港する艦船の乗組員による祝勝会が連日のように開かれ、そういう中で小松は「海軍士官のクラブ」と呼ばれるようになっていった。この頃から小松は割烹旅館から海軍軍人相手の“海軍料亭”になっていったと考えられる。そして小松は海軍軍人たちから「松」にちなみ、パインと呼ばれるようになった。 ===日露戦争と海軍料亭小松の全盛=== 日露戦争開戦前後になると、日清戦争時よりも軍艦の数が増えていたこともあって、小松では連日のように出陣前の宴会が繰り広げられた。そして日露戦争中の1905年(明治38年)、小松は開業20周年を迎え、20周年を記念して百畳敷の大広間の建設を始めた。同年連合艦隊は日本海海戦に勝利し、日露戦争に勝利すると、日清戦争終了後と同じく、次々と横須賀に凱旋入港する艦船の乗組員による祝勝会が連日のように開かれ、小松は大繁盛した。1906年(明治39年)には百畳敷の大広間が完成し、小松は文字通り全盛期を迎えた。 この頃になると、日本海軍の根拠地として発展した横須賀には、多くの旅館、料亭、遊郭などが立ち並ぶようになった。横須賀で小松と並んで海軍士官たちに利用され、海軍料亭として知られた魚勝もこの頃には開業していた。海軍軍人たちは小松のパインに対し、魚勝にはやはりその名にちなみフィッシュと呼んでいた。日露戦争後も日本海軍の軍備拡張は続き、明治時代末まで小松は繁栄を続けた。 ===休業と営業再開=== 大正時代に入ると小松の経営に暗雲が立ちこめるようになった。まず白砂青松の海岸線を誇った田戸海岸が、1913年(大正2年)に埋め立てが行なわれたため、小松は景勝地に立地しているという地の利を失った。更に第一次世界大戦後の世界恐慌の影響から小松への客足は更に遠のいていった。そして恐慌によって生活に困窮した横須賀市内の娼妓が待遇改善を求めストライキを起こすに至り、小松は1918年(大正7年)から1919年(大正8年)頃、休業に追い込まれ、山本コマツは横須賀市内で経営していた芸者屋である大和屋の経営に専念することになった。 しかし多くの海軍軍人たちに親しまれてきた小松の閉店を惜しむ声が強かったため、山本コマツは当時景色が良かった現在の店舗がある米が浜に約400坪の土地を購入し、1923年(大正12年)春頃から料亭小松の再建工事を開始した。建築中に関東大震災が発生し、横須賀市内でも大きな被害が発生し、山本コマツが経営していた大和屋も地震後の火事で焼失した。山本コマツらは休業した田戸の小松の旧店舗に避難し、百畳敷の大広間は避難所として開放した。幸運にも米が浜に建設中の新店舗には地震の被害は無く、1923年(大正12年)11月には新店舗が完成し、料亭小松は営業を再開した。 ===山本コマツから二代目女将の山本直枝へ=== 1923年(大正12年)に営業を再開した米が浜の小松は、400坪の敷地内に建てられた総建坪175坪、一階7室、二階3室の10室と蔵を備えた二階建て木造の建物であった。営業再開の翌年、山本コマツは当時満15歳であった大姪の呉東直枝を養女とした。一生独身を通した山本コマツは、直枝を養女とする前に2度、姪を養女として小松の後継者として育成しようとしたが、いずれも海軍軍人と婚姻したため上手くいかなかった。山本コマツにとってまさに三度目の正直であった直枝は期待に応え、平成に至るまで長きに渡って料亭小松を支えることになった。 1925年(大正14年)には小松の創業40年を記念して、建物の一部増築が行なわれた。現在も使用されている小松の玄関部分はこの時の増築で建てられた。小松では1923年(大正12年)と1925年(大正14年)に建設された部分を旧館と呼んでいたが、2003年(平成15年)に半分解体されマンションが建設された。その際に旧館の構造が調査されたが、旧館は和小屋とキングポストトラスが併用されていることが明らかとなった。 1927年(昭和2年)山本直枝は逗子の材木店の次男であった桐ヶ谷耕二を婿とした。この時点で小松の経営は満18歳になっていた山本直枝が引き継いだ。 1930年(昭和5年)、ロンドン海軍軍縮会議で軍縮を定めた条約が成立すると、これに不満を抱く海軍若手将校が、小松に飾られていた岡田啓介揮毫の額を引きずりおろし、池に放り込んで快哉を叫ぶという出来事があった。 1933年(昭和8年)から翌1934年(昭和9年)にかけて、旧館の西側にあった庭園をつぶして新館の建設が行なわれた。新館は一階部分に洋間の応接室と7部屋の和室が設けられた。応接室はかつて山本五十六らが応接に使用したと言われ、現在でも応接室として用いられており、室内には旧日本海軍の資料等が展示されている。また7室の和室は部屋ごとに桐、紫檀、檜、楓、カリンなど、材質の異なる銘木を用いて室内の調度品等を誂え、室内の壁や装飾も華やかに作られ、小松を利用する海軍軍人を飽きさせない工夫がなされていた。中でも横須賀鎮守府長官ら海軍高官が多く利用した紅葉の間は、現在でも「長官部屋」と呼ばれている。 新館の二階部分は二間続きの大広間であり、廊下部分に敷かれた畳を含めると160畳敷の広さである。また二階部分も床の間に黒檀の太い床柱が用いられるなど、一階部分と同じく銘木がふんだんに用いられている。小松の新館に用いられている銘木は、山本直枝の婿である耕二の実家である、逗子の材木店から取り寄せたものと考えられている。なお新館の構造はキングポストトラスであるが、旧館のものよりもしっかりとした構造となっている。 山本直枝の代となっても、創始者である山本コマツは小松の宴席に顔を出し続けていたが、1935年(昭和10年)、山本コマツは米寿を盛大に祝った後、旧館の二階部分に新築された隠居部屋に隠居することとなった。なお山本コマツの隠居部屋は2003年(平成15年)に行なわれた旧館の解体部分に含まれたため、現存しない。 ===トラック・パイン=== 第二次世界大戦開戦直後、第四艦隊司令長官である井上成美は山本直枝に対して、第四艦隊の司令部があるトラック諸島には下士官用の料亭しかなく、とても間に合わないので、小松の支店を出してくれないかと要請した。小松の支店についてはシンガポールに開設される話もあったが、シンガポールは陸軍が多いため勝手が分からない上に、当時まだ健在であった山本コマツが井上の要請に賛成したこともあり、1942年(昭和17年)7月、トラック諸島の夏島に小松の支店であるトラック・パインが開店することになった。トラック・パインでは日本から最初は20‐30名、後に約50‐60名の芸者、料理人、髪結いなどを連れて行き、日本国内とあまり変わらぬサービスを提供した。なお、トラック諸島の次にラバウルにも支店を出す予定があったが、戦況の悪化によって中止された。 トラック・パインは1944年(昭和19年)3月30日に空襲に遭い、従業員に犠牲者が出たことにより閉店となった。戦後まもなく小松を訪れた井上成美は、トラック・パインの開店を依頼したことについて、山本直枝に手をついて詫びたと伝えられている。これより先、戦況の悪化が感じられるようになった1943年(昭和18年)4月、小松の創始者である山本コマツは94歳の天寿を全うした。 ===戦後の料亭小松=== 1945年(昭和20年)8月15日の終戦後、小松はいったん店を休業した。同年8月30日には横須賀に連合軍が進駐し、横須賀鎮守府も接収された。その結果、鎮守府の残務整理を行なう部署も横須賀鎮守府庁舎を追われることになり、休業していた小松に移ってきた。やがて小松は外務省の職員も宿舎として利用するようになった。鎮守府の残務整理が行なわれ外務省の職員も利用する小松には、連合軍の関係者もやってくるようになった。大佛次郎の1945年8月30日の日記には「海軍とともに出来上った店主人が帝国海軍と運命を共にしたいと云う。代を変え他人が経営する」と述べられている。 小松に出入りする連合軍の関係者の中には米軍の憲兵もいた、山本直枝は憲兵の隊長に小松の営業再開について打診をしてみたところ、隊長から横須賀には連合軍兵士の健全な遊び場がないことが悩みの種であったので、小松の営業を歓迎する旨の意見が出されたことがきっかけとなり、熱湯タンクと流しの整備を行なうことを条件として小松の営業が認可され、1945年(昭和20年)10月、横須賀のGHQ指定料理店第一号として営業を再開することになった。また小松側としても、アメリカ軍人に「こんなところで遊んでいたから日本は負けたのだ」と言われないために、小松は敷地内にグリル、ソーシャルサロンを整備し、バンドを入れて連合軍兵士らに対応できる設備を整えるなど、戦争末期から終戦後の混乱で荒れていた小松を整備していった。 営業を再開した小松はアメリカ海軍士官らに受け入れられていった。従業員に対する英語教育が必要となり、終戦後横須賀市内の長井に隠棲していた井上成美に依頼することとなった。井上は海軍がひとかたならぬ世話になった料亭小松からの依頼を快諾し、小松の従業員に対して手作りの教材を用い、「すき焼きはいくらです」などというような、料亭で役立つ実用的な英会話を教えた。 1952年(昭和27年)にサンフランシスコ講和条約と日米安全保障条約が発効した、この年、講和条約の発効を記念して、小松は旧館の一階部分をキャバレーに改築し、アメリカ軍人やアメリカ軍人とともに来店する日本人相手のサービスを提供するようになった。この頃になると小松に旧海軍関係者がよく姿を見せるようになった。1955年(昭和30年)には小松は創業70周年を迎え、新館に瓦葺二棟五部屋を増築した。 横須賀は戦後、米海軍ばかりではなく海上自衛隊の重要な根拠地となっており、旧海軍の伝統を引き継いでいる。そのような横須賀の料亭として唯一残っていた小松は、米海軍や横須賀の海上自衛隊でも広く利用され続け、旧日本海軍の海軍料亭としての伝統を守り続けていた。2003年(平成15年)には旧館の約半分が解体されてマンションが建設されたため、戦後キャバレーとなった部分などが無くなったが、大正末に建設された玄関部分や、銘木をふんだんに用いた新館は現在も健在である。また多くの日本海軍軍人に愛好されたため、小松には海軍軍人の書など、日本海軍の歴史を知るための貴重な資料が数多く残されていたが、2016年(平成28年)5月16日、火災により全焼した。 =深名線= 深名線(しんめいせん)は、かつて北海道旅客鉄道(JR北海道)/日本国有鉄道(国鉄)が運営していた鉄道路線(地方交通線)である。北海道深川市にある深川駅で函館本線から分岐し、雨竜郡幌加内町を経て名寄市にある名寄駅で宗谷本線に接続していた。 営業係数は常にワースト10に入るという大赤字の路線で、赤字83線や特定地方交通線の廃止論議にもその都度候補にあげられていた。並行道路の未整備を理由に廃止保留となったが、国鉄分割民営化後に並行道路の整備が進んだことから、1995年(平成7年)9月4日に廃止された。 ==歴史== ===全通までの経緯=== 深名線の沿線地域とされる雨竜川上流地域へ、最初の開拓民が幌加内地域に定着したのは1897年(明治30年)である。この時点でまず雨竜川沿いに道路が建設され、その後明治時代末期までに士別や和寒と結ばれる道路が開設され、幌加内地域の各集落と他の地域を結ぶメインルートとなっていった。 この地域における鉄道敷設計画は、1911年(明治44年)に幌加内地域に移住してきた吉利智宏が、たった1人で深川から三股を経て音威子府に至る軽便鉄道の建設を請願したのが始まりとされている。これが、周辺地域の多度志・深川などの地域と連帯した運動となり、1916年(大正5年)には「雨竜鉄道期成同盟会」が結成された。これらの運動を受け、1918年(大正7年)には政府によって深川から三股に至る軽便鉄道の建設が決定した。なお、この年には雨竜郡上北竜村から幌加内村が独立発足しており、発足時の人口は4,690人であった。 この鉄道は雨竜線として1922年(大正11年)に着工し、深川 ‐ 朱鞠内間を6工区に区分し、他に深川駅構内の拡張工事が行われた。まず深川駅から多度志駅までの区間が第1工区として1922年(大正11年)12月16日に起工し、1924年(大正13年)9月25日に竣工、同年10月25日に開通した。続いて第2工区として、多度志駅から鷹泊駅まで1925年(大正14年)6月16日に起工し、1926年(大正15年)11月10日に開通した。第3工区となる多度志駅から幌加内駅までの区間は1925年(大正14年)11月16日に起工したが、途中の幌加内トンネルの地質が悪かったことから難工事となり、1日平均1メートルしか掘削できず、工期を予定より1年伸ばして1929年(昭和4年)5月15日に竣工し、同年11月8日に開通した。第4工区は幌加内駅から政和駅まで1928年(昭和3年)11月16日に起工し、第5工区はさらに添牛内駅まで同年11月6日に起工して、どちらも1931年(昭和6年)9月15日に開通し、第6工区の添牛内駅 ‐ 朱鞠内駅間は1931年(昭和6年)7月13日に起工し、1932年(昭和7年)10月25日に開通というように小刻みに延長している。深川 ‐ 朱鞠内間の総工費は4,467,778円であった。また、1931年(昭和6年)10月10日付で路線名称が幌加内線に改称されている。鉄道建設と並行するように雨竜ダムの建設計画が進められており、1938年(昭和13年)に着工した雨竜ダムの建設工事と、貯水に先立って行われた水没地域の森林伐採・木材輸送には幌加内線が使用された。 一方、1922年(大正11年)に公布された改正鉄道敷設法の別表第143項には「天鹽(塩)國名寄ヨリ石狩國雨龍ヲ經テ天鹽國羽幌ニ至ル鐵道」が盛り込まれ、また1929年(昭和4年)からは札沼線の石狩沼田駅から多度志駅を結び、朱鞠内駅から天塩線(当時)佐久駅を結ぶ札佐線の建設運動が開始されている。こうした状況下、1935年(昭和10年)には名雨線として名寄駅から朱鞠内駅までの区間が着工され、全区間を4工区に分けて工事が進められた。1937年(昭和12年)11月10日には名寄駅から初茶志内駅(当時)までが開通した。さらに、1939年(昭和14年)10月10日には初茶志内駅から朱鞠内駅までが開通、同時に幌加内線と名雨線を統合して深名線に改称された。名寄 ‐ 朱鞠内間の総工費は509万4000円であった。 こうして、深川駅と名寄駅の間は、函館本線・宗谷本線を経由する旭川駅回りと、深名線を経由する朱鞠内駅回りの2経路を有することになった。しかし深名線経由の方が13.4 km長く、途中に25 ‰の勾配区間が5か所あり、半径250 mの曲線も多かったため輸送力が小さく、結局沿線の開発とダムの建設に貢献したに留まった。 ===戦後=== 戦後になると、雨竜ダムによって出現した人造湖は観光資源としての価値を評価され「朱鞠内湖」と命名され、観光地となった。また、ダム建設終了後も木材輸送は活発な状態で、沿線地域の中心的交通機関としての役割を果たしていた。1955年(昭和30年)からはレールバスを導入の上で旅客列車の増発が行われ、それに伴い利用者も増加、レールバスでは需要に応じきれずに通常の気動車へ置き換えられることになった。また、1955年(昭和30年)9月には円山・宇摩・下幌成・新成生・上幌加内・下政和・大曲・共栄の各乗降場が、1956年(昭和31年)5月には湖畔仮乗降場が新設されている。 1960年(昭和35年)以降は駅の無人化や貨物扱いの集約など、合理化が行われるようになった。この時期が沿線の人口も最も多い時期で、1960年(昭和35年)の幌加内町の人口は12,016人に達しており、同年の深名線の輸送人員は140万7千人であった。 なお、1955年(昭和30年)前後には道北バスによる幌加内と和寒を結ぶバス路線と、名士バスによって添牛内と士別を結ぶバス路線が運行した記録が残っている。1950年代から1960年代前半(昭和20年代後半から昭和30年代)まで、日本のバス業界は「道路があって人が住んでいればバスが走り、バスを走らせれば儲かる」という状況であったにもかかわらず、これら道北バスと名士バスの開設した2路線については数年で廃止されているなど、沿線のバス交通は発達しておらず、1982年(昭和57年)の時点で沿線を運行していたバス路線は、深川から多度志までの間に1日5往復の北海道中央バスの路線バスだけであった。 1962年(昭和37年)には朱鞠内駅から羽幌駅に至る鉄道路線として名羽線が着工され、かなりの区間で路盤が完成した。羽幌側では羽幌炭鉱三毛別鉱から産出される石炭積み出しのために羽幌炭礦鉄道が路盤を借り受けて営業していた(後述)。 ===特定地方交通線から除外=== しかし、その後の幌加内町の人口流出は激しく、1965年(昭和40年)には幌加内町の人口は9,195人に減少、さらに1970年(昭和45年)には7,283人にまで減少し、白樺や蕗ノ台では集落自体がなくなった。これと並行するようにモータリゼーションの進展と道路の改良によって、深名線の輸送量も減少の一途をたどることになった。1970年(昭和45年)の深名線の輸送人員は47万2千人に減少、輸送密度にすると457人/日であった。1975年(昭和50年)度には、住民の維持管理が負担となったという自治会からの意向により大曲仮乗降場が廃止されている。建設中だった名羽線の工事も凍結され、1970年(昭和45年)には羽幌炭鉱が閉山、石炭や木材輸送の見込みは全くなくなり、開通する見込みもなくなった。 1968年(昭和43年)9月には国鉄諮問委員会によってローカル線廃止勧告(赤字83線)が出されることになったが、深名線もこの中に含まれたため、沿線自治体では「深名線廃止反対期成会」が結成された。このときは廃止にならなかったが、1979年(昭和54年)時点での収支係数は2,785という大赤字路線であった。その後1979年(昭和54年)に国鉄再建案が閣議で了承され、1980年(昭和55年)に国鉄再建法案が可決し、1981年(昭和56年)3月には施行令が公布された。特定地方交通線の選定基準であった1977年(昭和52年)度から1979年(昭和54年)度までの深名線の輸送密度は平均272人/日しかなかったが、冬季における代替道路が未整備という理由により、深名線は廃止候補から外された。 しかし、1980年(昭和55年)10月のダイヤ改正では減便が行われ、鷹泊駅以北から深川駅以南への通学ができなくなったこともあり、輸送量の減少は止まらず、1984年(昭和59年)の深名線の輸送密度は123人/日までに落ち込んだ。また、沿線人口の減少も続いており、1980年(昭和55年)の幌加内町の人口は3,739人と、幌加内村が発足した時点の人口をも下回っていた。 さらに、未整備とされた並行道路も、1989年(平成元年)度までに改良が完了する見込みとなった。1986年(昭和61年)10月には北海道新聞が「廃止対象線に指定してもらい、転換交付金を受けてバス転換に踏み切るべき」との論評を紙面に掲載したが、このような報道などに触れた沿線住民、特に幌加内町民は深名線の行く末に不安を抱いたとの評価もある。 ===存廃問題=== ともあれ、深名線は国鉄からJR北海道に継承され、引き続き維持されることになった。1990年(平成2年)には乗降客の少ない一部の駅が廃止されている。 ところが、1993年(平成5年)12月15日の北海道新聞で「深名線、来年度に廃止」という記事が掲載された。北海道新聞の記事内容は「JRが公言したものではない」という書き方で、他紙ではJR北海道は廃止報道を否定していたと報じられたが、同年11月にはJR北海道では特定地方交通線以外の初の廃止線として、函館本線の上砂川支線の廃止が公表されていたことや、この時点ですでに並行道路の整備は完了しており、年間収入が5000万円程度であるのに対して投入する経費は10億円近くという深名線の状況において、深名線の廃止問題は「浮上してもおかしくない」ともみられていた。また、他のJR北海道のローカル線が経費節減のためにワンマン運転を導入しているにもかかわらず、深名線の列車には車掌が乗務していたことから、「廃止路線に余分な投資はできない」との憶測まで生じていた。さらに、この廃止報道の後に、地域から廃止に反対する意見や動きなどがほとんど見られなかった。 この当時、深名線の1日の利用者数は100人台に乗る程度で通勤定期券の利用者は存在せず、1日16本の列車に対して1列車平均の利用者数は10人程度に過ぎず、輸送密度は80人/日という有様であった。また、ダイヤも国鉄末期の減便(1986年11月1日国鉄ダイヤ改正)によって、同じ幌加内町でありながら、北母子里駅から幌加内駅への日帰り往復は不可能であった。しかし、前述したように、当時の深名線沿線においては北空知バスが運行する深川と多度志を結ぶ路線を除き、バス路線は設定されたことすらほとんどなかったが、これは深名線程度の輸送人員ではバスでも赤字必至とみられたため既存のどのバス事業者も手を出しかねていたと思われる。 こうした状況下、JR北海道は1994年(平成6年)12月10日に沿線4自治体の代表者を札幌市内のホテルに招き、「年々利用者数が減少している現状からは、バス輸送が地域に最も適した輸送手段である」として、正式に深名線の廃止とバス転換の提案を行った。この時点での提案内容は以下のような内容であった。 バスの運行はJR北海道自身が行うバスの運行ルートは並行道路(国道・道道)とするバスの停留所は鉄道駅の2倍程度バスダイヤは鉄道の運行本数と時間設定を基本として決定し、通院に便利な便を新設深川と名寄を結ぶ直行便を設定運賃は既存の民間バスの賃率を基準とし、一定期間差額補償を行う沿線自治体では、4自治体の代表により「JR深名線問題対策協議会」を発足させ、JRとの協議が開始されたが、鉄道の状況を理解していたため、協議会では絶対反対の態度をとることはしなかった。ただし、バスダイヤの条件については、「所要時間が増加し運賃が上がるのに本数が増えないのは困る」として反発、1995年(平成7年)3月17日には協議会からJR北海道へ「そのままでは同意できないが、現行の鉄道以上のサービスとなる改善の協議には応じる」と回答した。これにJR北海道が対応し、最終的には鉄道の2倍の運行便数という案を提示、これが沿線から評価されたことから、同年5月16日には沿線自治体からはJR北海道に対して、廃止に同意するという意思が示された。 JR北海道は同年5月26日に運輸大臣に対して、廃止予定日を9月3日とする深名線の廃止と代替バス路線の免許申請を行い、どちらも同年6月16日には認可され、この時点で深名線は廃止となることが確定した。廃止が近づいた7月25日からは定期列車への増結やイベント列車の運行が行われるようになった。最終日の9月3日には、深川・多度志・幌加内・朱鞠内・名寄の5駅で「お別れセレモニー」が行われたほか、定期列車への増結に加えて臨時列車が4本増発され、深名線の列車と接続する一部の函館本線の特急列車にも2両から4両の増結が行われた。 こうして、1995年(平成7年)9月3日限りで深名線は廃止となり、翌9月4日からはJR北海道直営バスによって代替バスの運行が開始された。 ===年表=== 1924年(大正13年)10月25日:国有鉄道雨龍線として、 深川駅 ‐ 多度志駅間 (14.0km) が新規開業。同区間に多度志駅を新設。1926年(大正15年)11月10日:雨龍線の多度志駅 ‐ 鷹泊駅間 (13.3km) が延伸開業。同区間に幌成・鷹泊の各駅を新設。1929年(昭和4年)11月8日:雨龍線の鷹泊駅 ‐ 幌加内駅間 (16.4km) が延伸開業。沼牛・幌加内の各駅を新設。1931年(昭和6年) 9月15日:雨龍線の幌加内駅 ‐ 添牛内駅間 (24.9km) が延伸開業。同区間に雨煙別・政和・添牛内の各駅を新設。 10月10日:雨龍線を幌加内線と改称。9月15日:雨龍線の幌加内駅 ‐ 添牛内駅間 (24.9km) が延伸開業。同区間に雨煙別・政和・添牛内の各駅を新設。10月10日:雨龍線を幌加内線と改称。1932年(昭和7年)10月25日:添牛内駅 ‐ 朱鞠内駅間 (10.2km) が延伸開業し、幌加内線が全通。同区間に朱鞠内駅を新設。1937年(昭和12年)11月10日:国有鉄道名雨線として、名寄駅 ‐ 初茶志内駅間 (7.2km) が新規開業。西名寄・初茶志内の各駅を新設。1941年(昭和16年)10月10日:初茶志内駅 ‐ 朱鞠内駅間 (35.8km) が延伸開業。幌加内線に名雨線を編入し、深川駅 ‐ 名寄駅間を深名線と改称。新規開業区間に北母子里・白樺・蕗ノ台・宇津内の各駅を新設。1946年(昭和21年)6月1日:上多度志仮乗降場を新設。1949年(昭和24年) 4月1日:宇津内駅を仮乗降場に変更。 6月1日:日本国有鉄道法施行に伴い、日本国有鉄道(国鉄)に移管。4月1日:宇津内駅を仮乗降場に変更。6月1日:日本国有鉄道法施行に伴い、日本国有鉄道(国鉄)に移管。1950年(昭和25年)1月15日:上多度志仮乗降場を駅に変更。1951年(昭和26年)7月20日:初茶志内駅を天塩弥生駅に改称。1955年(昭和30年) 4月1日:気動車(レールバス)導入に伴い、客貨分離。 8月20日:円山・宇摩・下幌成・新成生・上幌加内・下政和・大曲・共栄の各仮乗降場を新設。 9月2日:新富仮乗降場を新設。4月1日:気動車(レールバス)導入に伴い、客貨分離。8月20日:円山・宇摩・下幌成・新成生・上幌加内・下政和・大曲・共栄の各仮乗降場を新設。9月2日:新富仮乗降場を新設。1956年(昭和31年) 5月1日:湖畔仮乗降場を新設。 9月20日:新富仮乗降場を駅に変更。 11月19日以降:宇津内仮乗降場を廃止。5月1日:湖畔仮乗降場を新設。9月20日:新富仮乗降場を駅に変更。11月19日以降:宇津内仮乗降場を廃止。1960年(昭和35年)9月15日:西名寄駅を無人化。1961年(昭和36年)12月1日:下政和仮乗降場を200mほど深川寄りに移転し、政和温泉仮乗降場に改称。1962年(昭和37年)5月1日:客貨混合列車を廃止し、客貨分離を達成。全旅客列車を気動車化。1964年(昭和39年)4月1日:蕗ノ台駅・白樺駅を無人化。1975年(昭和50年)2月:蒸気機関車の運転を廃止。1976年(昭和51年)2月1日:大曲仮乗降場を廃止。1982年(昭和57年)3月30日:上多度志・幌成・沼牛・雨煙別・添牛内・天塩弥生の各駅を無人化。1982年(昭和57年) 11月1日:全線の貨物営業を廃止。 11月22日:第2次廃止対象線として、廃止承認を申請(保留)。11月1日:全線の貨物営業を廃止。11月22日:第2次廃止対象線として、廃止承認を申請(保留)。1984年(昭和59年)11月10日:多度志・鷹泊・政和・北母子里の各駅を無人化。1987年(昭和62年)4月1日:国鉄分割民営化に伴い、北海道旅客鉄道(JR北海道)が第一種鉄道事業者として全線を承継。雨煙別駅・蕗ノ台駅・白樺駅を臨時駅に改める。円山仮乗降場・宇摩仮乗降場・下幌成仮乗降場・新成生仮乗降場・上幌加内仮乗降場・新富仮乗降場・共栄仮乗降場・湖畔仮乗降場を駅に改める。政和温泉仮乗降場を臨時駅に改める。1990年(平成2年) 3月10日:雨煙別・政和温泉・蕗ノ台・白樺の各駅を廃止。 9月1日:新富駅を廃止。3月10日:雨煙別・政和温泉・蕗ノ台・白樺の各駅を廃止。9月1日:新富駅を廃止。1995年(平成7年)9月4日:全線 (121.8km) 廃止。JR北海道バス(現在のジェイ・アール北海道バス)に転換。 ==施設== 線路の路盤は簡易な構造で、20パーミル以上の急勾配が合計29kmにわたり、半径400メートル以下の急な曲線の区間も合計19kmに達していた。 ==運行形態== 幌加内線として深川駅と朱鞠内駅を結ぶ区間が開業したころは、1日4往復の混合列車で、所要時間は3時間程度であった。名寄まで開通して深名線となった時点では、深川駅と名寄駅を結ぶ列車が3往復で、深川駅と朱鞠内駅・名寄駅と朱鞠内駅を結ぶ区間運転の列車が1往復設定されていた。戦後になると1往復が減便となり、全線で3往復となっていた。 1955年(昭和30年)8月にはレールバスが導入され、全線を直通する列車は4往復となり、これに加えて区間運転の列車が下り5本・上り7本設定された。翌1956年(昭和31年)11月には区間運転の列車が10往復に増発された。その後、気動車列車に使用する車両はキハ05形に変更された。 1962年(昭和37年)7月のダイヤ改正からは、朱鞠内駅を境界として運行系統が分断されるようになった。これは、深名線の沿線が北海道でも有数の豪雪地帯であり、列車のダイヤが乱れても影響を少なくするための方策であった。運行本数がもっとも多かったのはこの時期で、深川駅からは朱鞠内駅までの列車が6往復と鷹泊駅までの列車が上り3本・下り1本、名寄駅からは朱鞠内駅までの列車が5往復と天塩弥生駅までの列車が2往復設定されていた。 しかし、利用者の減少などに伴い、1980年(昭和55年)10月のダイヤ改正では、深川駅からは朱鞠内駅までの列車が5往復と鷹泊駅までの列車が上り2本・下り1本、名寄駅からは朱鞠内駅までの列車が4往復に減便された。その後さらに減便され、分割民営化直後の時点では深川駅から幌加内駅までが5往復、幌加内駅から朱鞠内駅までは4往復(列車自体は深川駅から直通)、朱鞠内駅から名寄駅までは3往復となった。 国鉄分割民営化後、他の道内の路線(札幌近郊の路線を除く)では普通列車や快速列車において車掌省略のワンマン運転を順次開始していたが、前述したように、深名線についてはワンマン化されることなく営業最終日まで全列車車掌が乗務していた。このため深名線内各駅でのワンマン化対応工事も他の路線が発着する起点、終点の深川駅、名寄駅構内を除き行われなかった。 ==利用状況== 1955年以降国鉄時代の輸送人員・輸送密度の推移は以下の通りである。 ==使用車両== 1941年から1949年にかけては朱鞠内駅構内に朱鞠内機関支区が設けられ、C11形蒸気機関車が6両配置されていた。その後は8620形や9600形などの蒸気機関車が列車の牽引を行っており、1970年代まで9600形の牽引する混合列車が残っていた。 1955年8月からはキハ10000形レールバスの寒地仕様車(後のキハ01形・キハ02形)が導入され、フリークエンシーの向上が図られたが、時間帯によっては輸送需要に応じきれず、1958年にはキハ05形に置き換えられた。キハ05形では客室内の片隅にベニヤ板で囲われた簡易便所の設置も行われていた。 1966年以降は北海道向けに製造されたキハ21形・キハ22形が運用されるようになり、概ね1両から3両で運用されていた。運行形態の節で述べたように、この時期は朱鞠内駅を境にして運行系統は分断されており、深川駅から朱鞠内駅までは深川機関区、名寄駅から朱鞠内駅までは名寄機関区の気動車が運用されていた。 1986年以降は旭川運転所のキハ53形500番台が運用されるようになったが、この車両は駆動用エンジンを2基装備した車両であり、冬季でもキハ53形による単行運転が主体となった。夏季にはキハ54形や、駆動用エンジンが1基のキハ40形も運用されることがあった。 ==廃線後の状況== ===代替バス=== 沿革節で述べたとおり、代替バスの運行はJR北海道自身が行うことになり、この代替バス運行にあわせて、JR北海道では深川自動車営業所を新設した。運行当初の便数は、深川駅から幌加内までが10往復、幌加内から朱鞠内までが8往復、朱鞠内から名寄駅までが6往復で、鉄道時代に比べて倍増した上、鉄道時代には不可能だった母子里から幌加内までの日帰り往復も可能となった。 深名線沿線にはほとんど既存のバス路線もなかったことから、代替バスの運賃は北空知バスの賃率を基本に設定された。運行開始時点では深川駅から名寄駅までは遠距離逓減制度を導入して鉄道時代と同額の2,160円となったが、深川駅から幌加内までの運賃は990円と、鉄道時代と比較して2割ほど運賃が高くなった。ただし、北空知バスの賃率自体は北海道内でも比較的低いほうであったこともあり、値上がり幅は他のバス転換路線と比較するとさほど大きいものではなかった。 ===廃線跡=== 幌加内駅の駅舎は鉄道廃止後もバス待合室として利用されていたが、不審火により焼失し、その後国道上の幌加内交流プラザにバス停留所が設置された。2006年時点では、政和駅の駅舎がそば屋の店舗として使用されている。 雨竜川にかかる第3雨竜川橋梁は保存されることになったが、年間900万円の維持費がかかるという。 ===名羽線=== 改正鉄道敷設法別表第143号のうち、名雨線として開業した区間をのぞく朱鞠内 ‐ 羽幌間については、名羽線(めいうせん)として1962年に着工された。なお、着工に先立つ1941年に羽幌炭礦鉄道が羽幌線に接続して開業した築別 ‐ 曙 ‐ 築別炭礦間のうち、築別 ‐ 曙間が予定線に並行しており、残りの朱鞠内 ‐ 曙間が工事区間である。 1951年、日本炭鉱労働組合が賃上げ要求などを求め全国各地の炭鉱で大規模なストライキが発生し、国内の備蓄石炭がほぼ枯渇する事態に陥ってしまった。国鉄や電力会社などが零細鉱の石炭まで確保しようとしていた頃、全国唯一の組合非加盟大規模鉱として羽幌炭鉱が国鉄救済に名乗りを上げ、フル生産体制で国鉄へ石炭を供給することとなった。同鉱が当時から名羽線の開通を切望していたため、国鉄は恩返しの形で名羽線の早期着工を決定したという背景がある。 日本鉄道建設公団により工事が進められたが、建設工事の可能な季節が限られることや、たびたび予算を削られたことで、思うようには進まなかった。なお、工事線のうち曙 ‐ 三毛別間については、羽幌炭礦鉄道による石炭輸送のため先行して完成し、羽幌炭礦鉄道が借り受けた上で石炭輸送と資材輸送に使用されていた。羽幌炭礦鉄道は築別炭鉱の閉山により1970年に廃止され、この区間の営業輸送は中止された。 路線両端をのぞけば沿線人口はほとんど無いため、乗車密度の基準を満たすことは困難で、国鉄再建法の施行により1980年に工事凍結。沿線の産業も衰え、接続する両端の路線が特定地方交通線に指定される(深名線は前述のとおり後に除外)ことを踏まえると開業しても輸送はほとんど見込めないため、北海道や沿線自治体を含め、引き受ける事業者がなく、完成していた鉄道施設は放置され、深名線の車内からも放置されたトンネルや橋桁を見ることが出来た。その後、一部の高架橋が民間会社のトラック輸送路などに使用されている。 ===名羽線関連年表=== 1940年(昭和15年)4月:朱鞠内 ‐ 羽幌間現地踏査。1947年(昭和22年)7月:運輸省が予定線実測。1952年(昭和27年)3月22日:関係3町村による名羽線全通促進期成会発足。1957年(昭和32年)4月3日:鉄道建設審議会において岩内線や石勝線等と共に調査線に決定。1959年(昭和34年)11月9日:鉄道建設審議会において建設線に決定。1961年(昭和36年)4月25日:建設工事着工を決定。1962年(昭和37年) 4月22日:三毛別にて曙 ‐ 上流区間 約6.8km建設工事起工式。 12月24日:曙 ‐ 三毛別間工事完了。4月22日:三毛別にて曙 ‐ 上流区間 約6.8km建設工事起工式。12月24日:曙 ‐ 三毛別間工事完了。1963年(昭和38年) 5月24日:三毛別 ‐ 上流間工事着手。 12月21日:三毛別トンネル1,024m貫通。5月24日:三毛別 ‐ 上流間工事着手。12月21日:三毛別トンネル1,024m貫通。1966年(昭和41年) 7月27日:朱鞠内にて朱鞠内‐上流区間 約28km建設起工式。 7月29日:朱鞠内側工事着工。7月27日:朱鞠内にて朱鞠内‐上流区間 約28km建設起工式。7月29日:朱鞠内側工事着工。1980年(昭和55年)12月27日:国鉄経営再建促進特別措置法施行。1981年(昭和56年):トンネル工事等、3億円の予算が通過するものの工事は休止となる。 この時点における工事進捗は 用地処理 85% 路盤工事 82% 軌道工事 14% 未施工部 橋梁:上架部未設置11橋 / トンネル:未開通「第1中の二股」約900m、「苫竜」約3,200m。この時点における工事進捗は 用地処理 85% 路盤工事 82% 軌道工事 14% 未施工部 橋梁:上架部未設置11橋 / トンネル:未開通「第1中の二股」約900m、「苫竜」約3,200m。用地処理 85%路盤工事 82%軌道工事 14%未施工部 橋梁:上架部未設置11橋 / トンネル:未開通「第1中の二股」約900m、「苫竜」約3,200m。1987年(昭和62年)10月13日:名羽線全通促進期成会解散。 ==データ== ===路線データ(廃止時)=== 管轄(事業種別):北海道旅客鉄道(第一種鉄道事業者)区間(営業キロ):深川駅 ‐ 幌加内駅 ‐ 名寄駅 121.8 km駅数:21(起終点駅を含む)軌間:1,067 mm(狭軌)複線区間:なし(全線単線)電化区間:なし(全線非電化)閉塞方式:タブレット閉塞式(末期の朱鞠内駅 ‐ 名寄駅間は票券閉塞式) 交換可能駅:2(幌加内、朱鞠内)交換可能駅:2(幌加内、朱鞠内) ===駅一覧=== 全駅北海道に所在。線路(全線単線) … ◇・∨:列車交換可能、|:列車交換不可 =剣闘士= 剣闘士(けんとうし、羅:Gladiator, グラディアトル、グラディアートル)は、古代ローマにおいて見世物として闘技会で戦った剣士。名前の由来は、剣闘士の一部がローマ軍団の主要な武器でもあったグラディウスと呼ばれる剣を使用していたことから来ている。 共和政ローマやローマ帝国の多くの都市にはアンフィテアトルム(円形闘技場)が存在しており、そこで剣闘士同士、あるいは剣闘士と猛獣などとの戦いが繰り広げられた。また人工池などを用いて模擬海戦が行なわれることもあった。闘技会に批判的なキリスト教の影響によって衰退し、404年に西ローマ皇帝ホノリウスの命令で闘技場が閉鎖されたが、その後も各地で続けられていたようであり、681年に公式に禁止されて消滅した。 ==歴史== 剣闘士の起源については、はっきりしたことはわかっていない。従来のエトルリア人の生贄の儀式をローマが採用したという説は、現在では支持されていない。もう一つは南イタリアのカンパニア地方起源説であり、紀元前4世紀のパエストゥムの墓の壁画には試合を行う剣闘士の姿が描かれている。歴史家リウィウスはカンパニア人が敵であるサムニウム人を剣闘士として戦わせていたと述べている。紀元前1世紀頃は南イタリアが剣闘士興行が最も盛んな地域だった。 記録上最も古い剣闘士試合は紀元前264年にローマのマルクス・ユニウス・ブルトゥスとデキムス・ユニウス・ペラの兄弟が父の葬儀に際してボアリウム広場で行ったものである。歴史家リウィウスは紀元前3世紀から前2世紀の闘技会に幾つか言及しており、この中でも紀元前174年のティトス・フラミニヌスが主催した74人の剣闘士による闘技会は注目すべきものであったと述べている。以降、故人の哀悼のための形式での追悼闘技会(ムヌース)が広まり、生贄を求める農神サトゥルナリアの祭に際して行われる傾向が強かった。紀元前2世紀には円形闘技場が建設されるようになり、都市ローマでの闘技会は主にフォルム・ローマーヌムで行われるようになった。 追悼闘技会は、その規模がより大規模なものになってゆき、やがて故人の死を悼むものから世俗化した見世物となり、政治家のプロパガンダの場と化していった。民衆は闘技会に熱狂し、政治家にその主催を要求するようになり、公職選挙と結びついた追悼闘技会が行われるようになる。このため闘技会が派手になりすぎるとの危惧を受け、開催日数や剣闘士数の規制が設けられたが遵守されず、民衆も問題にせず、公職選挙と闘技会の結びつきは帝政初期頃まで続いた。 共和政ローマの領土拡大とともにローマ人は大量の戦争捕虜を手に入れ、これら捕虜たちがおのおのの民族風の武装をした剣闘士にさせられ、紀元前2世紀に初期の剣闘士のスタイルであるガリア闘士とサムニウム闘士、紀元前1世紀にはトラキア闘士が登場した。 剣闘士の試合が盛んになっていた時期の紀元前73年にカプアの剣闘士スパルタクスが最大規模の奴隷蜂起(第三次奴隷戦争)を起こした。およそ70人の剣闘士の脱走から始まった反乱は12万人もの規模に膨れ上がってイタリア半島を席巻した。反乱軍はローマ兵捕虜に剣闘士試合を強い、古代の歴史家オロシウスは「かつて見世物にされていた者たちが、今や観客となった」と述べている。紀元前71年にスパルタクスの反乱軍はクラッススによって鎮圧され、全滅した。 ユリウス・カエサルは闘技会を政治プロパガンダの場として活用し、紀元前65年に640人もの剣闘士を集めた大規模な闘技会を催し、紀元前46年にはさらに大規模な総勢1,200人もの闘技会を開催している。カエサルはローマ近郊のマルスの野(カンプス・マルティウス)に池を造って軍船を浮かべ、模擬海戦(ナウマキア)を行わせて人気を博しており、後の皇帝たちもこれに倣っている。 カエサルは紀元前65年の際はかなり以前に死去している父の名で、紀元前46年の時は前例を破り女性である8年前に死去した娘ユリアの追悼の名義で剣闘士試合を催しており、形式的にはなおも宗教的な側面を残していた。剣闘士研究の基礎を築いた歴史学者ジョルジュ・ヴェルはこれまで剣闘士試合とは別個に催されていた純粋な見世物である闘獣士が様々な方法で猛獣を殺す「野獣狩り」(ウェーナーティオー)が剣闘士試合の前座として組み込まれたことが剣闘士試合の世俗化の決定的画期であったと指摘し、その初出は6年に催された大ドルススを追悼する闘技会と考えられている。 初代皇帝アウグストゥス(在位:紀元前27年 ‐ 14年)は在位中に8度の闘技会を主催し、1万人の剣闘士を戦わせその他の競技会と合わせて3500頭の猛獣を殺している。次のティベリウス帝(在位14年 ‐ 37年)は逆にいっさい見世物を主催せずひどく人気がなかった。カリグラ帝(在位37年 ‐ 41年)とクラウディウス帝(在位41年 ‐ 54年)は剣闘士試合を盛大に催し、これに対してネロ帝(在位54年 ‐ 68年)は戦車競走や演劇を好んだ。貴族たちも人気取りのために私的に興行師や訓練士を雇い入れて剣闘士団を組織させている。 民衆は闘技会の開催を強く望み、北イタリアのポッレンティア(英語版)で役人が死去した際、町が追悼闘技会を催さなかったため、怒った住民が力づくで葬儀を阻止しようとして兵隊が出動する騒ぎが起こっている。また、59年には南イタリアのポンペイの円形闘技場で興奮したポンペイの住民とヌケリアの住民との間で乱闘が起き、以後、10年間、闘技会の開催を禁止されている。79年のヴェスヴィオ火山の噴火でこの町が地中に埋もれ、発掘された遺跡から円形闘技場跡や剣闘士養成所跡、防具の出土品そして剣闘士に関する民衆が書いた落書きが見つかっており、古代ローマの剣闘士の実像を知る手がかりになっている。 80年、都市ローマに5万人収容のフラウィウス円形闘技場(コロッセウム)が完成した。ティトゥス帝(在位79年 ‐ 81年)はこのコロッセウムの落成を期して大規模な闘技会を催し、野獣狩り、剣闘士試合、模擬海戦が100日にわたって催され、一日だけで5千頭の野獣が殺されたという。トラヤヌス帝(在位98年 ‐ 117年)は1万人もの剣闘士を集めた闘技会を開催し、コンモドゥス帝(在位180年 ‐ 192年)は自らが剣闘士になり735回も戦っている。ローマ世界全体では186の円形闘技場が確認されており、さらに86の未確認の闘技場があったとされている。 ドミティアヌス帝(在位81年 ‐ 96年)の時代以降、都市ローマでの闘技会の興行は役人の管理官(プロークラートル)が行うようになり、大養成所(ルードゥス・マーグヌス)、ガリア養成所、ダキア養成所そして早朝養成所(マートゥーティーヌス:闘獣士養成所)の四つの帝国養成所が開設され、ローマの大養成所は地下通路でコロッセウムに繋がっていた。 闘技会は長らくローマで最も人気のある娯楽だったが、キリスト教会はこれに批判的だった。380年にキリスト教がローマ帝国の国教になると教会は剣闘士や訓練士をはじめ闘技会にかかわる全ての者は洗礼を受ける資格がないと定めた。それでも闘技会は規模を縮小しながらも続けられたが、人気が落ち、訓練生も集まらなくなった。404年に闘技場で試合を止めるよう呼びかけた修道士テレマクス(英語版)が観衆の投石を受けて死亡する事件が起き、西ローマ皇帝ホノリウス(在位395年 ‐ 423年)は闘技場を閉鎖させた。これ以降、闘技会はほとんど催されなくなったが、440年頃まではまだ行われたとされている。523年にイタリアを支配する東ゴート王テオドリックが闘技会を禁止する布告を出しており、この時期でもまだ行われていたようであり、681年に公式に禁止され闘技会は消滅した。 剣闘士興行の衰退と消滅はキリスト教の影響とするのが通説だが、これとは別に3世紀以降に剣闘士試合の敗者が全員殺害されるようになったことやモザイク画から審判の姿が消えて、多彩だった剣闘士のスタイルも人気のあった追撃闘士と網闘士ばかりになった現象に着目し、刹那的な流血の興奮を追求するあまりに試合が過激化・単純化した結果として観客に剣闘士の技を魅せる娯楽としての余裕がなくなり、単なる死ぬか生きるかの殺し合いになってしまったことが人気を失い消滅に至った原因ではないかとする説も提起されている。 ==徴募・養成・社会的地位== 剣闘士となる者の大半は戦争捕虜や奴隷市場で買い集められた者たちで、反抗的なために主人に売り飛ばされた奴隷が多かった。何らかの理由により自由民が志願するケースもあり、研究者の試算によると剣闘士10人中2人が自由民であった。また、犯罪者も剣闘士として闘技場に送られた。剣闘士は勝ち続ければ富と名声を得ることもできたが、一方でローマ人たちからは「堕落した者」「野蛮人」「恥ずべき者」(インファーミス)と見なされており、その社会的地位は低く売春婦と同類と見なされ、奴隷の中でも最下等の者たちとされ蔑まれた。 徴募された奴隷や自由民たちは興行師(ラニスタ)が所有する剣闘士団(ファミリア・グラディアートリア)に所属し、その剣闘士養成所(ルドゥス)で長期にわたって訓練を施されてから闘技会に出場した。興行師は勝ち残り自由を得た元剣闘士で、財を成すこともできたが、売春宿の主人と同様の卑業と見なされ社会的地位は低かった。 剣闘士養成所では闘技を指導する元剣闘士の訓練士(ドクトレ)や教練士(マギステル)、高度な技術を持つ医師そしてマッサージ師(ウーンクトル)などが働き、剣闘士の養成を行った。訓練士によって、剣闘士たちは行進の仕方から武器の扱い、足技、突き刺した剣でどうやって動脈を見付けるかなどを指導され、徹底的にしごかれることになる。木製の剣を手に練習し、藁人形を相手に殴りかかる練習や訓練生同士の練習試合で経験を積む。訓練中の剣闘士は闘技会以外での怪我と反乱を防止するため木製の武器を用いており、本物の武器は与えられなかった。 訓練に耐えられずに自殺する者もおり、訓練についてこられない者たちには過酷な罰が与えられた。帝政初期の政治家で詩人のセネカは苦痛に耐えきれず自殺した者の事例について言及しており、あるゲルマン人の闘獣士は便所の汚物洗浄用の海綿の棒を喉に突っ込んで命を絶ち、またある闘獣士は馬車で移送中に居眠りをしたふりをして車輪に頭を突っ込んだという。ローマ人の見世物として仲間同士で戦わされることを嫌い、互いに喉を絞めあって絶命した蛮族の一団、そして模擬海戦の最中にこの見世物の愚かさを罵って自殺した蛮族の戦士の話も伝わる。 訓練生の宿舎は厳重に監視され、夜は鍵を掛けるなどして閉じ込められたが、食事については滋養になるものを与え、古代ローマでは大麦を食べると脂肪を増やして出血を防ぐと考えられており、これを主食とさせるなど配慮していた。ただし当時のローマ市民の主食は小麦であり、大麦は主に家畜の飼料用であり、剣闘士は侮蔑的に「大麦食い」(ホルデアリウス)と呼ばれた。 基礎的な訓練を終えた新人剣闘士は、俊敏さ、強さ、体格、熟練度に応じてトラキア闘士、サムニウム闘士、網闘士、魚兜闘士、追撃闘士といった様々なスタイルの剣闘士に分けられた。また、訓練についていけない落伍者は闘獣士になった。剣闘士は自身が所属する剣闘士養成所の興行師の手配で各地の闘技場へ巡業に出た。剣闘士は消耗品ではなく、巡業で金を稼ぐための重要な資産でもあるため、興行師は剣闘士を頻繁に闘技会に出すようなことはしなかった。戦いは公正に、そして観客が楽しめるようにマッチングされた。 かつては試合が始まれば剣闘士たちはどちらか一方が死ぬまで闘ったと考えられていたが、実際には必ずしも死ぬまで戦わされるということもなく、助命されることが多かった。そして無事生き残り、引退した剣闘士の中には、興行師や訓練士として剣闘士を鍛える側にまわる者もいた。生き残り、引退した者にはその証として木剣(ルディス)があたえられる。この一方で、犯罪者の剣闘士は訓練を受けることもなく獄中から闘技会に引き出され、防具なしで戦い、その大半は闘技場で命を落とした。 剣闘士には「訓練士」(または「剣術指南役」)、「ルディアリウス」、「パロス」、「ウェテラヌス」そして試合未経験の「訓練生」の順に称号があり、このうち同一武装集団の序列であるパロスは「筆頭剣闘士」(プリームス・パールス)、「次席剣闘士」と続き、第三から第八剣闘士までの存在が確認されている。奴隷の訓練生には劣悪な住居が与えられたが、自由民や勝ち続けた剣闘士の居住環境はましであり、最高位の筆頭剣闘士(プリームス・パールス)にまで上りつめた者は最高の住環境を要求することができた。また、その生活は必ずしも外界から遮断されていたわけでもなく、恋人を持ったり家庭を営む剣闘士もいた。 セネカは「最も価値のある剣闘士は美形の者である」とし、剣闘士の碑文からは「凡庸なる群れ、未熟者、上級者、最上級者、端麗者」の順に等級があったことを窺わせる。剣闘士は競技場で観衆の喝采を浴びる対象ではあり、多額の報酬を受けたが、解放されても他の解放奴隷とは異なりローマ市民やラテン人にはなれず、自由民の中でも最低の「降伏外人類」身分しか与えられなかった。 戦闘のプロであるという性質上、 前100年頃には、新兵訓練には剣闘士養成所の教官が役に立つという考えから、軍の指揮官たちに雇われて戦闘技術を歩兵に教授する教官も現れている。剣闘士は本来は兵士ではなかったが、69年のオト帝とウィテッリウスとの内戦(四皇帝の年)の際にオト帝は剣闘士2000人からなる部隊を編成させており、歴史家タキトゥスはこれを「恥ずべき補助兵」と形容している。 共和政期には下層階級の者が剣闘士試合に出ることがあったが、帝政期に入ると騎士階級や元老院階級の者までもが出場した事例もあり、極端な例としてコンモドゥスは皇帝でありながら自ら剣闘士として闘技会に出ている。 ==闘技会== 剣闘士競技の主催者の趣向や野心によって、残虐度や物珍しさ、そして血液の量は増減したが、少なくとも剣闘士どうしの試合は今日考えられているようなルールのない残虐ショーではなかった。 闘技会は皇帝や政治家、地方の名望家が主催し、多額の費用がかかるが切符(チッセラ)は無料で市民に配られ(共和政末期からは販売もされた)切符を持たない下層階級や非市民階級の者も最上段の立見席で観戦できた。民衆は無料で観戦できることを強く要求しており、紀元前122年頃には高級政務官が特権を利用して闘技場に閲覧席を設けて有料で試合を見せることにしたが、時の護民官ティベリウス・グラックスが民衆のために職人を送り込んで閲覧席を取り壊させて無料で観戦させた事件が起こっている。 闘技会の規模は様々だが、執政官選出のためにクロディウス・フラックスが主催した闘技会の告知文の場合は30組の試合で3日間であった。また、ポンペイで発掘されたネロ帝の終身神官デキムス・ルクレティウス・サトゥリウス・ウァレンス父子の闘技会の告知文では30組の試合で4日間だった。紀元前22年に剣闘士興行では120組を最大とする規程が定められているが、皇帝が主催するものとなるとこの埒外で、初代皇帝アウグストゥス(在位:紀元前27年 ‐ 14年)は8回の興行で5000組を戦わせている。 闘技会には興行の側面があったため、前日には宴会が開かれて剣闘士たちには大盤振る舞いのご馳走が供され、これを市民たちが見物した。闘技会は早朝から開催され、最初にパレード用の兜と刺繍したマントを身に着けた剣闘士の入場式があり、主催者は人気取りのために趣向を凝らすが、観衆はひどく退屈したという。皇帝が闘技会の主催者の場合、剣闘士たちは彼に次の言葉とともに敬礼をした。 皇帝万歳!死にゆく者たちより敬意を捧げます。(”Ave Imperator, morituri te salutant”または”Ave, Caesar, morituri te salutant”) この敬礼の史料上の初出はクラウディウス帝(在位41年 ‐ 54年)が模擬海戦を主催した時だが、これに皇帝が助命をほのめかす返事をしたため、死ぬまで戦わされる筈だった軍船の乗組員たちが命惜しさに船を散らし始めて皇帝を激怒させている。 午前中は野獣狩り(ウェーナーティオー)が催された。ヨーロッパ、中東そしてアフリカから集められた熊、トラ、ライオン、ヒョウなどの猛獣や象、キリンといった珍獣が闘技場に放たれ、闘獣士たちがこれを狩り殺してゆく。もともと野獣狩りと剣闘士試合とは別々に催されていたが、次第に剣闘士試合の余興や前座として催されるようになり、帝政期に入ったころにこれが固定化した。闘獣士は武装しており、猛獣との戦いで命を落とす頻度もそんなに高くは無かったが、重罪人と猛獣との戦いは公開処刑であり、大抵の重罪人が猛獣に殺された。野獣狩りのためコロッセウムには猛獣を檻のある場所から闘技場の階まで移動させるための人力エレベーターが28基設置された。熊などの大型獣を昇降できるように重量は300kgまで対応していた。 午後になると罪人(ノウシウス)の処刑が行われ、彼らは武器を持たされ罪人同士で死ぬまで戦わされるか、剣闘士と戦って殺されることになる。まだ息のある罪人は、試合終了後に運び出された後でとどめをさされた。 罪人の処刑が終わると剣闘士の試合が始まる。まずは二流の養成所剣闘士(マリーディアーン:真昼に戦う剣闘士)の試合で、彼らはくじ引きによって組み合わせを決められて戦う。ここで戦わされる新人剣闘士たちは最初の戦いで命を落とすことが多かった。夕方頃からが筆頭剣闘士(プリームス・パールス)をはじめとする名の通った剣闘士たちの試合となる。 剣闘士の名前が呼ばれ、武器の威力を確かめたのち、二人の審判員がいる闘技場の中央に進み出ることになる。試合は相手を殺すか負傷させるかして無力化させるまで続く。試合を終わらせたければ人差し指を高々と上げるか、盾を放り投げると「降伏」の意思表示になり、降伏した相手を傷つけるのは卑しい行為とされた。 そして決着がついた後、試合の敗者については観客が助命か処刑かを選択できた。一般的には敢闘したとして助命(ミッスス)するなら親指を上に、見苦しい負け方をしたとして止めを刺すなら親指を下にするのが合図であったとされるが、現代の研究者たちは親指を突き上げた拳とともに「殺せ!」と叫べば処刑、親指を下げれば助命だったと考えている。歴戦の剣闘士であれば、観客に死を宣告されるような見苦しい負け方はしないように特訓されている。それまでに大金をかけて養成した剣闘士を失うのは経営者にとっても大きな損失であるため、剣闘士が観衆の希望により木剣(ルディス)を授けられて自由になるか、重傷を負って戦えなくなるか死んだ場合、主催者は市場価格に見合った金額を興行師に支払わねばならなかった。 勝利者(ウィンキト)にはその証であるシュロの小枝(パルマ)が与えられ、卓越した者には月桂冠(コローナ)が授けられた。時には勝利の報償として多額の金品を得ることもあった。また、詩人にたたえられ、宝玉や壺に肖像画がえがかれ、婦人たちの愛顧をえた。 共和政時代には闘技会の告知文には「助命なし」(シネ・ミッスス)と書かれていたが、初代皇帝アウグストゥスはこれを禁止しており、歴史学者ジョルジュ・ヴェルの研究によると、1世紀において100試合に出場した200人の剣闘士のうち死亡者は19人、生存率は9割を超えている。だが、闘技会は再び過激化に向かい、3世紀には1試合おきに死亡者が出るようになり、やがて剣闘士試合の敗者はほぼ殺害されるようになった。なお、この時代はラティフンディウムが行き詰まりコロナートゥスに移行するなど、奴隷不足が深刻になり、むしろ貴重になった奴隷を保護する法律が施行された時期でもある。剣闘士もよく訓練された奴隷が減り、従来なら落伍するレベルの奴隷や犯罪者が剣闘士として駆り出される割合が高まった事から、死亡率が高まったのである。 主催者の趣向による変則的な闘技会も伝えられる。試合は1対1で行うものだが、カリグラ帝(在位37年 ‐ 41年)は網闘士5人と追撃闘士5人とで戦わせた。コンモドゥス帝(180年 ‐ 192年)は下肢を失った者をローマ市中からかき集めて蛇の尾の衣装を着けさせ、棍棒で彼らをことごとく殴り殺させた。政治家シュムマスクが主催した闘技会では変わった趣向により観衆の興味を引くために彼が買い集めた剣闘士たちは闘わずに互いに首を死ぬまで絞めさせ、最後の一人は絶命するまで自分で壁に頭を打ちつけさせた。 紀元前46年にユリウス・カエサルは都市ローマ近郊のマルスの野(カンプス・マルティウス)に人工の池をつくらせて16隻の軍船を浮かばせ、4,000人の罪人や捕虜を漕ぎ手として死ぬまで戦わせる模擬海戦を初めて催した。57年にネロ帝(在位54年 ‐ 68年)はカンプス・マルティウスの円形闘技場内に水を張り、模擬海戦を行わせた。ティトゥス帝(在位79年 ‐ 81年)は常設の人工池を造り、サラミスの海戦を再現させた。ドミティアヌス帝(在位81年 ‐ 96年)は落成してから程ないコロッセウムで二度の模擬海戦を催している。 剣闘士は年に3回か4回程度の試合を行い、20戦ほどを経験するまでに死ぬか木剣拝受者となって引退したと推定され、1世紀頃の事情では生き残りうる確率は20人に1人程度であった。シチリア島の追撃闘士フランマの墓碑には4度木剣(ルディス)を贈られながらも戦い続け、25回の勝利を収め、4回の助命、そして9つの戦いでは引き分けたとある。剣闘士に限った話ではなく、長年尽くした奴隷はその功に報いて解放される場合が多かったが、剣闘士だった奴隷は観客の喝采を浴びた経験が忘れられず、引退してもまた剣闘士に戻る者もいた。 ==評価== 共和政末期の政治家で哲学者のキケロは剣闘士試合を「残酷で非人道的だが、苦痛や死に視覚的に慣れさせる訓練として、これ以上効果的なものはない」と評した。帝政初期の政治家セネカは、人殺しのみが繰り返される闘技会とそれに熱狂する観客の様子を語り、この様な闘技会を観戦することは「人をいっそう非人間的にさせる」と述べ、キケロと違い、その効用に言及しなかった。 18世紀の啓蒙主義思想家モンテスキューは剣闘士試合によって「ローマ人に残虐性をおびさせた」と評するとともに「流血と負傷を見慣れる」ことによってローマ軍団の強さが維持されたとキケロと同様の解釈をし、ルソーは「共和政期においてはローマ人の勇気と徳を刺激したが、帝政期には流血と残虐とを好ませるだけになってしまった」と分析している。 剣闘士の学術的な研究は近現代に入ってから行われ、19世紀後半のドイツの歴史学者フリートレンダー(英語版)を先駆者として、20世紀はじめにかけて古典史料を基に剣闘士の歴史や運営が網羅的に論じられた。また円形闘技場やポンペイ遺跡に関する基礎的研究の数々の業績が残され、この時期に剣闘士研究における「古典学説」が形成された。20世紀半ばには碑文学の立場から古典学説に修正が加えられ、フランスの碩学ルイ・ロベールは碑文研究からそれまで剣闘士文化から切り離されて考えられていたギリシャ語圏における剣闘士受容を明らかにしており、さらに1937年から始まったローマ市の大養成所(ルドゥス・マグヌス)の発掘調査の成果は剣闘士研究に重大な影響を与えることになった。 20世紀後半の大きな業績としてはフランスのアナール学派の歴史学者ジョルジュ・ヴィルの剣闘士研究が挙げられ、彼の没後の1981年に公刊された『モノグラフ』は長らく無批判に受け入れられていた古典学説に対する反論を展開し、剣闘士研究における新たな方向性を打ち出した。これまでの研究は古典史料や碑文に拠った文献学的手法が主流だったが、1970年代以降、剣闘士を含む見世物の研究に社会学や文化人類学の手法が取り入れられ始め、剣闘士闘技を通じた古代ローマ人の感情や認識を考察しようとする心性史的な流れが現れ、1980年代に定着した。碑文学や考古学の分野でも進展があり、サッパティーニ・トゥモレーシの碑文研究と碑文集成シリーズの刊行、考古学の分野ではゴルヴァン(フランス語版)の円形闘技場研究の大著がある。90年代以降も数々の剣闘士研究の論考が出されており、これらはヴィルの研究の影響を受けたもので、社会・心性史的な流れを汲むものである。 ==剣闘士の種類== 一対一で戦う剣闘士は基本的に以下の五種に分類された。 剣闘士には鎧が宛がわれたが、腹部など急所の部分が露出しているデザインが多い。互いに相手に傷を与えることができないと試合がなりたたないし、また重い鎧が剣闘士の動きを阻害すると試合としての面白さをそぐことになる。むしろ試合を見た目にも盛り上げるための、演出用の装身具的な意味合いが強い。すぐれた剣闘士は防御の神経を露出部分に集中することで、防具の不完全さを補ったが、こうした駆け引きもまた試合を盛り上げた。剣闘士のスタイルの日本語名は本村凌二『帝国を魅せる剣闘士―血と汗のローマ社会史』の表記に従う。 頭にはクレスト(鶏冠状の飾り)の付いたグリフォンを象った兜を被り、派手な羽根飾りが付けられていた。紀元前1世紀に登場しており、トラキア出身のスパルタクスはこの型の剣闘士だったと推測される。 大きなクレスト(鶏冠状の飾り)が付いた兜をかぶり、大きな長方形の盾と剣または槍を持つ。ガリア闘士とともに紀元前2世紀に登場した最初期の型。魚兜闘士はこの類型と考えられ、魚兜闘士の出現とともに数が減り、初代皇帝アウグストゥスの時代にはほぼ消滅している。 ポンペイ遺跡の落書きには三つ又槍を持った魚兜闘士が描かれている。網闘士との試合を組まれることが多かったとされるが、史料上はこの組み合わせの試合は少数しか見つかっていない。 トラキア闘士か重装闘士と多く組み合わされた。 他の剣闘士と違って兜は被らず、また盾は持たずにガレールスと呼ばれる青銅製の肩にかける防具を身に着けて戦った。素顔をさらすことから凛々しい若者が多かったという。 網闘士との試合を組まれる事が多く、網にからまぬよう兜には飾りが少ない。 その他、以下の剣闘士の種類が確認されている。 ==現代== ドイツのトリーア(Brot und Spiele)やオーストリアのカルヌントゥムなどかつて闘技場があった地域では、ローマ時代の行事を再現する祭りの一環として剣闘士試合の再現が行われている。特にカルヌントゥムでは古代ローマ関連の施設が観光資源となっており、剣闘士養成所を再現した建物も整備されている。 2015年にはコロッセウムにあった猛獣用の人力エレベーターが修復された。 ==作品== ===小説=== ポンペイ最後の日 ===映画=== グラディエータースパルタカス (映画) ‐ 序盤は養成所が舞台となる。また主人公が最初に戦う相手はファキナスを持った網闘士。ポンペイ最後の日 (1935年の映画)テルマエ・ロマエII ===テレビドラマ=== スパルタカス (2010年のテレビドラマ) ===漫画=== 闘奴ルーザ(作:かきざき和美) ‐ 古代ローマに似た架空の国家を舞台にした女剣闘士の物語。我が名はネロ(作:安彦良和)―ネロ帝と彼に寵愛された剣闘士が主役。作中お忍びでネロは剣闘を観戦しこれを「ローマの野蛮な風習」と嫌い「詩を詠じ、悲劇に涙するギリシャ人を文明的だ」と発言する。拳闘暗黒伝セスタス(作:技来静也) ‐ 物語は古代ボクシングを主題とするものであるが、エピソードによっては剣闘士も登場する。 ===ゲーム=== シャドウ オブ ローマグラディエーター ロード トゥー フリーダム剣闘士 グラディエータービギンズ =測雨器= 測雨器(そくうき、朝鮮語: *9625**9626**9627*、チュグギ)とは、15世紀中ごろに李氏朝鮮において発明された雨量計。史料に残る標準雨量計としては最古のものとされる。シンプルな円筒型の器に雨水を溜め、水の深さを物差しで直接測って記録する。朝鮮全土に設置され、厳格な制度に則って降雨量測定に用いられた。測雨器による観測は1442年に始まり、戦乱による長期の中断を挟みながらも数世紀にわたって継続したが、朝鮮王朝の終焉とともに途絶え、近代的な気象観測制度に取って代わられた。 2010年時点で現存する測雨器は、韓国の宝物第561号に指定されている錦営測雨器(*9628**9629**9630**9631**9632*、1837年製作)のみである。かつて忠清南道公州観察司に設置されていたもので、「錦営」とは道観司が起居していた庁舎を指す。そのほか、測雨器の台石である測雨台(*9633**9634**9635*、チュグデ)が数基現存する。 ==歴史== 朝鮮半島の王朝は気象・天文のような自然現象に大きな関心を持っていた。伝統的に農業国であった朝鮮では、農事暦の編纂(観象授時)が王朝の重要な役割だったためである。また当時、日照りや洪水のような災害は統治者に対する天譴とみなされたためでもある。そのような事情は中国でも同様だったが、乾季と雨季の区別がはっきりしており、たびたび降雨不足に悩まされた朝鮮においては、気象観測の重要性は中国以上であった。朝鮮歴代の正史である『三国史記』や『朝鮮王朝実録』には気象現象の体系的な記録が残されている。李氏朝鮮は高麗から気象・天文観測を管轄する部署である書雲観(後に観象監として拡大強化された)を受け継ぎ、風・雨・霧・雲などの量的な測定を行っていた。この気象学への傾倒が李朝代に独自の発展を生む原動力となったと考えられる。 測雨器の開発が行われたのは世宗の治世(1418年 ‐ 1450年)である。『朝鮮王朝実録』によれば、世宗7年(1425年)に干ばつが起こり、各地の道や県の官庁に対して降雨量を戸曹に報告するよう指示が下された。しかしその測定法は、土塊を握って湿り具合を調べ、どの深さまで水が浸透したかを調べるというものだった。土壌の乾燥度によって雨水の染み込み方は変わるため、この方法では正確な測定を行うことができない。『実録』世宗23年(1441年)8月18日条が伝えるところでは、戸曹はこの問題を解決するため、降雨量を測定するための器と台座を書雲観に開発させる建議を行い、世宗の認可を得た。この時試作された測雨器は書雲観に設置された。 世宗の言葉として『実録』が伝えるところでは、容器で雨量を測る方法を初めに行ったのはその世子(後の文宗)である。文宗はかねてから日照りを心配し、宮中で降雨量の測定を試みていたという。現代韓国では測雨器を発明したのは世宗に仕えた工匠の蒋英実だと信じられているが、それを裏付ける史料は蒋氏族譜と口伝に過ぎない。科学史家の全相運は、蒋英実をはじめとする技術者や書雲観の官吏が測雨器の開発に携わったとしても、身分の低い彼らによる貢献は正当に評価されなかっただろうと推測している。 その後、『実録』によれば1442年5月8日に、全国的に降雨量を記録する制度が正式に制定された。「測雨器」の名が登場したのもこのときである。各道・郡・県の官舎に測雨器が設置され、測定の手順について詳しい規定が定められた。この観測制度は現代の科学的方法に通じるものであったが、忠実に実行されていたのは成宗代(1469年 ‐ 1495年)までで、その後は次第に用具・手順などが乱れていった。 やがて文禄・慶長の役(1592年 ‐ 1598年)および丙子の乱(1636年 ‐ 1637年)が起こると、各地に設置された測雨器はすべて失われ、約150年にわたる雨量記録もほとんどが散逸した。例えば、1592年以前のソウルの降雨量の記録は1530年、1542年、1586年の3年分しか残っていない。戦乱が収まった後も、疲弊した朝鮮王朝には測雨器事業を再展開することができなかった。この時期可能だったのは、一部の河川に設置された水標(水位計)を通じて降雨量を推し量ることのみであった。水標は尺・寸・分の目盛りが刻まれた柱で、ソウルでは清渓川と漢江に設置されていた。1636年から1889年(高宗26年)までのソウルの降雨量を記録した『祈雨祭謄録』には水標の観測記録も残されている。 粛宗(在位1674年 ‐ 1720年)代の天文学研究の復興を経て、18世紀の英祖(在位1724年 ‐ 1776年)時代に至って測雨器制度は復活した。『増補文献備考』に伝えられる英祖の言葉によれば、英祖は『実録』から学んだ測雨器に「至極の理致」を見出し、正確に復元して八道および二都(当時の松都、江都)に設置するよう命じた。英祖46年(1770年)5月1日、世宗時代と同じ規格の測雨器およびその台座(測雨台)が完成した。その後も、主に干ばつに対する祈祷の意味を込めて測雨器の新造が行われた。1782年、干ばつを憂えた正祖(在位1776年 ‐ 1800年)は、大理石の記念碑的な測雨台を備えた測雨器を昌徳宮に設置させ、また全国の郡県にも測雨器を置かせた。ほかにも19世紀前半(純祖代、憲宗代)に製造された測雨台の遺物が現在まで残されている。 測雨器制度は最終的に日本による韓国併合とともに途絶した。 ==運用== 世宗代に制定された制度では、雨量測定は道・郡・県の守礼が自ら行う重要な職務だった。雨が降り止むたびに、測定者は周尺(物差し)を用いて水深を寸、分の単位まで記録した(1寸は10分、1分は約2 mmにあたる)。また降雨開始・終了時刻を記録するとともに、降雨の程度を「微雨」から「暴雨」までの8段階に分けて評価した。各地方の観測結果は道監司が集計して書雲観へと送った。各地の観測データは租税徴収を決定するために用いられた。 英祖代以降の観測制度については、天文学者成周悳による『書雲観志』(1818年)に詳細な記録がある。それによると、雨量観測は精神を集中して厳粛に執り行うべき職務であり、おろそかにした者には刑罰が下された。観測結果は『風雲記』と呼ばれる原簿に記入され、半年に1度、月計などをまとめた『天変抄出謄録』が実録編纂を管轄する春秋館に提出された。『風雲記』の気象観測記録には欠落もあるが、1740年から1862年までのデータが残されている。 ==形状と構造== 『世宗実録』の記述によれば、1441年に初めて作製された測雨器は鋳鉄製で、長さ2尺(周尺)、直径8寸の円筒型であった。これはおそらく必要以上に大きかったと思われ、翌年正式に制定された規格では長さ1尺5寸、直径7寸に改められた。周尺による1尺は時代により20.6 cmから22 cmである。郡以下の地方では、中央から送られてきた鉄製測雨器を磁器や瓦器で複製して用いた。周尺も同様に鉄製の基準器をもとに竹や木で複製された。 英祖実録46年5月条によれば、1770年に英祖が復元させた測雨器の寸法は、布帛尺を用いて長さ1尺、直径8寸と規定されていた。 韓国併合前後に確認された英祖代以降の測雨器、計4点の内径は14.5 ‐ 14.7 cmでほぼ等しいが、深さは21.7 ‐ 30.6 cmと一定していなかった。この内径は現在用いられている雨量計の口径と似通っており、誤差を減らすために最適化された結果ではないかと推測されている。その一方、測雨器に特有の誤差要因として、物差しを差し込むと水の嵩が増えることや、複製精度の問題、瓦器に吸水性があることなどが指摘されている。 ==科学史的評価== 世宗代の朝鮮では科学技術が振興し、天文学、医学、農業技術などで独自の発展が見られた。気象観測の分野に限っても、測雨器のほか、水標(スピョ、河川の水位を計測するための標識)や風旗(プンギ、風向計)のような新しい器具が導入された。科学史家の全相運はこの時代を「韓国伝統科学の黄金時代」と呼び、中国の模倣にとどまらない創造的科学技術の気運があったとした。その代表的な事績とされているのが測雨器である。 測雨器の設置には雨乞いの祭事の一環という側面もあった。日照りに際して降雨を待つ心情を天に訴え、それによって農民に安ど感を与えるとともに、祭事の後に降った雨を計ることで王の威徳を示すのである。現存する正祖代の測雨台には、数百字にわたる銘文でその政治的な製作意図が記されている。それによると、世宗・英祖代と比べて、正祖代には気象観測の科学的価値よりもこのような「東洋的祭政における王道精神の呪術的発揚」に主眼が置かれていたと考えられる。 ===雨量計の起源を巡って=== 1910年、朝鮮総督府観測所の初代所長を務めていた和田雄治は、「韓国観測所学術報文」を発行し、「世宗英祖兩朝ノ測雨器」という論文で測雨器を紹介した。これには英・独・仏語の概要が付けられており、日韓のみならず西欧諸国の関心を惹いた。それまで西欧では、初めて雨量計を用いたのはイタリアの数学者ベネデット・カステリ(英語版)(1639年)だと信じられていたが、和田は朝鮮の測雨器がカステリに200年先行していたことを広く認知させた。 韓国や北朝鮮において、測雨器は世界で初めて科学的な気象観測を行った輝かしい事例としてたびたび言及される。5月19日は韓国で測雨器発明を記念する「発明の日」に制定されており、2018年5月19日には「蒋英実の記念」として測雨器がGoogle Doodleに取り上げられた。 測雨器は一般に史上初の雨量計だと考えられているが、この見方には異論もある。古来、降雨量の測定は様々な時代、様々な文化で(おそらく相互に無関係に)行われていた。紀元前4世紀にインドで書かれた『実利論』には、器に雨水を溜めて土地ごとの年間降雨量を測っていたことや、それに即して作物の種類を選んだことがすでに記録されている。中国では遅くとも南宋時代には雨量測定が行われていた。1247年に南宋で書かれた数学書、『数書九章』の「天地測雨」と題する節では、天地盆と呼ばれる円錐台形の容器に溜まった雨水の量を計算する問題が扱われていた。問題文には「今日、どの郡・県にも多くの天地盆が設置されており、降雨量を知るために役立っている」という記述も見受けられる。さらに明代には各地の雨量記録を皇帝に上奏する制度があった。これらの事例は必ずしも専用の器を用いていたとは断言できないが、雨量計の起源と関連してしばしば紹介される。 測雨器の成立に中国の先行例が影響した可能性が指摘されており、議論が行われてきた。1954年、中国の気象学者竺可*9636*は、測雨台遺物に清の元号「乾隆庚寅」が刻まれていたことを理由に「朝鮮の測雨器は清代の中国で製造されたもの」という主張を広めた。だが、李氏朝鮮でも清の元号を公式に用いていたため、この説は根拠が薄いと考えられている。また、『数書九章』に見られるような雨量計測法が韓国に移入されて測雨器となった可能性もある。山田慶児は朝鮮の使節が明朝の科学技術を積極的に学んでいたことを指摘して、「測雨の情報がまったく伝わっていなかったと考えるほうがむしろ難しいようにおもわれる」と書いている。Kim Sung Samはこの説に対して反論を加え、あくまで朝鮮で独自に開発されたと主張している。Kimによれば、『数書九章』の内容は数学上の練習問題にすぎず、雨量観測が実践されていた証拠はない。さらに、当時の中国人には降雨量の定量測定という発想がなかったという。 とはいえ、仮に朝鮮の測雨器が中国に起源を持っていたとしても、その独自性は標準計器を制定して科学的な観測を行った点にある。『数書九章』によれば天地盆の形状は一定しておらず、明代までの中国の文献にも雨量計の形状についてほとんど記述がない。したがって、標準規格の制定という思想や、容器形状を円筒形にして測定の便を図るといった創意は世宗代の朝鮮に帰せられる。 いずれにせよ、近代以前の長期にわたる降雨量記録は数少なく、気候変動についての貴重な資料となっている。和田は測雨器による観測データを月ごとにまとめて1917年に公刊したが、1990年代の研究によってその信頼性は確かめられている。2001年には、新たな史料の調査に基づいて、1777年から1907年までの降雨量の日変化が明らかにされた。 ==遺物== 和田雄治は近代以前の朝鮮に科学的な雨量観測制度があったことに感銘を受け、測雨器の調査研究を行った。和田が伝えるところによれば、大韓帝国末期には既に測雨制度は機能しておらず、器物の多くが失われていた。観象監が所蔵していた測雨器や文献記録さえ、1910年の韓国併合に先立つ5年間でほとんどが亡失した。和田は朝鮮への赴任中、遺物や文献史料を探し求め、各地に残されていた測雨器・測雨台遺物や、『風雲記』や『天変抄出謄録』などの文献を収集した。和田の研究報告は総督府観測所によって『韓国観測所学術報文』(1910年)、『朝鮮古代観測記録調査報告』(1917年)にまとめられた。 和田は1915年に帰国する際、「錦営測雨器」と呼ばれる遺物を持ち帰ったが、これが現存する唯一の測雨器である。和田の死後、この遺物は日本の気象庁に保管されていたが、韓国気象庁の2年間にわたる返還要求の末、1971年4月に引き渡された。和田はこのほかにも咸興や大邱に設置されていた測雨器を仁川の総督府観測所に残してきたが、朝鮮戦争中に仁川上陸作戦によって失われたという。錦営測雨器のほかに現存する遺物は測雨台5基のみで、他はすべて20世紀後半までに失われた。1917年までに確認された遺物のうち、英祖46年(1770年)に製造されたものは測雨器7基、測雨台4基があったが、後代まで残存したのはそのうち測雨台1基のみであった。 1960年頃、朝鮮科学史研究の第一人者である全相運によって、ソウル梅洞初等学校の校庭に残されていた測雨台遺物が発見された。全は観象監の跡地に建てられた普通学校の校庭に観測機台石らしきものがあったという『京城府史』の記録(1937年)に基づいて調査を行っていた。これは現存する唯一の世宗代の遺物である。 英国サイエンス・ミュージアムには測雨器の複製品が所蔵されている。1923年に日本で製造され、英国に寄贈されたものである。 ===測雨器=== ===測雨台=== 番号は便宜上のもの。 =スロベニアの歴史= 本項ではスロベニアの歴史について述べる。 ==スロベニアの歴史について== スロベニアは元来、ヨーロッパ西側諸国との関連が深い国である。スロベニア人自体は南スラヴに属することになるが、スロベニアの作家ツァンカルが「(南スラブ人らとは)血の上では兄弟であり、言葉は従兄弟であり、文化は数世紀に渡って全く別の育ちの果実である。しかし、我がカルニオラ(スロベニア)の農民がチロル(オーストリア)の人々と親密であるほどに我々は親密ではない」 と記したようにスロベニアが西側諸国への繋がりをもつ意識は強い。 ==先史時代== スロベニアにおける人類の歴史は旧石器時代にムスティエ文化の担い手であったネアンデルタール人から始まる。リュブリャナ周辺では先史時代の住居跡が発見されており、紀元前1400年頃、イリュリア人 (en) が定住、彼らはギリシャと交流を持ちながらケルト人らと融合していく。 ==ローマ時代== やがてスロベニアはローマの支配下となり、イリュリクムやノリクムなどの属州とされる。この地域には植民都市として現在のエモナ(現:リュブリャナ)やポエトヴィオ(現:プトゥイ)などが建設され、さらにシェンペーテルにはローマ時代の大墓地跡が存在する。このローマ占領下の時代、キリスト教が伝来、5世紀まで繁栄を続けた。しかし5世紀中ごろ、フン族が侵入したことにより、都市は破壊され、さらに6世紀のスラヴ人の侵入を迎える事となる。 ==スロベニア人の定住== 536年、スラヴ人はスプリト周辺へ現れた。548年には現在のアルバニアのドゥラスまで南下した記録が残されている。さらにビザンツ帝国の歴史家プロコピオスとテオファネス (en) によれば、539年、550年、559年にイリュリア州へスロベニア人が侵入したことが記録されている。しかし、この後、567年にアヴァール人が襲来、その周辺のゲルマン民族らはイタリアへ追いやられることとなった。アヴァール人はそこに定住するがイリュリクム、ノリクム周辺らはスラヴ人らが定住、彼らはアヴァール人らが背後にいる事を頼みにイストリア半島やベネト地方まで侵攻、さらにオーストリアのドライヘーレンシュピツェやダッハシュタイン、ハールシュタットまで至る事となった。そのため、7世紀にはサヴァ川、ドナウ川周辺、ダルマチアはスラヴ人らが占領する事となった。 この時代、フランク人のサモがアヴァール人へ抵抗するスラヴ人を支援してこれを勝利させ、さらにフランク王国、ゲルマン系のアレマン族 (en) 、ランゴバルド族にも勝利した上でサモ帝国 (en) を開いたとされているが、この中にスロベニア人(カランタン=スロベニア人、アルプス・スロベニア人とも)が支配下にあったとされている。このサモ帝国はサモが死去したことにより崩壊、スロベニア人は再びアヴァール人の支配下となった。 626年から630年の間にスラヴ人らはアヴァールへの反乱を起こしてカランタニア公国 (en) を創設、サモ帝国の一翼を成したと考えられている。カランタニア公国はアヴァール人との戦いを繰り返すこととなるが、745年、バイエルン公国へ支援を要請、この支援とともにキリスト教が伝来することとなり、ザルツブルク司教座 (en) が設置される事となった。しかし、キリスト教が無条件で受け入れられたわけではなく、772年、バイエルンのキリスト教による教化活動への反抗から反乱が発生、バイエルン公国タシロ3世 (en) 公はこれを鎮圧した。 しかし、徐々にフランク王国の手が伸びてくることにより、クロアチア人のリューデヴィト・ポサヴスキ (en) らと共にフランクとの戦いを行ったが、リューデヴィトはカランタニア公国を廃止した。これは778年にカロリング朝フランク王国がフランク王国辺境部をバイエルン公国を元として設立された辺境伯領に組み込んだためであった。このため、スロベニア人はスロベニア語こそ使う事は許されたものの、農奴と化すこととなる。 さらに896年、ハンガリー王国が成立したことによりフランク王国は隣接地域の要塞化に着手、さらにフランク王国が分裂すると東フランク王国王オットー1世は952年、スロベニア一帯を含む地域をカランタニア公領と定めたが、このことからスロベニア人らはドラヴァ川まで進出することとなる。その後、カランタニア公領はエスト辺境伯、カリンティア辺境伯 (en) 、ドラヴァ川流域地方、サヴァ川流域地方、イストリア地方に分割されたがいずれもスロベニア人らが定住しており、神聖ローマ帝国東国境を形成、クロアチアと分断されることとなった。その後、神聖ローマ帝国領として「カリンティア(スロベニア語、コロシュカ)」、「スティリア(シュタイエルスカ) (en) 」、「カルニオラ(クランスカ) (en) 」の三公国に再編成されることとなる。なお、この時代の972年から1039年の間に、キリスト教伝道のために書かれた「ブリジンスキ・スポメニキ(フライジング写本) (en) 」はスロベニア語で文章が記述されており、他にも写本が存在する。 しかし13世紀末、ヴェネツィア共和国が勢力を伸ばす事により、イストリア半島やアドリア海沿岸部は1727年までヴェネツィアが支配することとなった。そしてローマ教皇の計画により、アクイレイア総司教座(it)がザルツブルク司教座へ圧力をかけたことによりカリンティア、スティリア、カルニオラら三公国はボヘミア王オットカル2世が支配する事となった。こうしてスロベニアはオットカル2世のプシュミスル家とハプスブルク家が支配することとなるが、オットカル2世は1278年、マルヒフェルトの戦い (en) においてハプスブルク家のルドルフ1世に敗北、三公国はハプスブルク家支配下となる。 ===アルプス・スラヴ人=== ゲルマン民族のように大移動を見せたアルプス・スラヴ人らはザドルガを基本とした地縁的共同体で成り立っており、長老(ズパン)がアヴァール人と交渉を行い、ザドルガ内の裁判官役を果たすなどしていた。後に裁判官の役目を行う事はなくなったが、長老を中心として荘園を成す事となる。後に農民と化したアルプス・スラヴ人らはケルンテン、シュタイアーマルク、クラインで特権的農民層である「エードリンガー」を形成、自治や裁判権を持つ事ができた。この特異的な地域を得た事に関してはアヴァール、クロアチア、ランゴバルド、ローマにその出自が求められたがこの分野に関しては未だに研究が続いているがその答えを見出すことは困難とされている。 ==ハプスブルクによる支配== オットカル1世に勝利したルドルフ1世は三公国をハプスブルク家の相続領地として息子ルドルフ、アルベルトに治めさせた。さらに1355年にはトリエステからモンファルコーネまでのアドリア海沿岸部をヴェネツィアより奪い、スロベニア人居住地域は全てハプスブルク家支配下となった。しかし15世紀、ツェリェ伯爵家 (en) が力をつけてスロベニア地域においてハプスブルク家と対抗することとなり、1432年にはルクセンブルク家と婚姻を結ぶことにより「神聖ローマ帝国の貴族」となった。しかし1456年、ベオグラードにおいてフニャディ・ヤーノシュの息子でハンガリー王マーチャーシュ1世の兄フニャディ・ラースローによってツェリェ伯ウルリク2世が殺害されたことにより、スロベニア人国家が生き残る可能性が消滅、ハプスブルク家の領土となることとなったが、過去にルドルフ4世がドイツ人をコチェーヴィエ地方へ入植させていたため、スロベニア人居住区はドイツ人居住区に囲まれる事となった。この状況は第二次世界大戦まで続く事となる。また、行政面などではドイツ語が使用されることとなったが、スロベニア語自体は禁止されず、農民たちが使用しつづけることとなる。 13世紀から15世紀にかけてのスロベニアは封建制が確立しており、教会関係の領地が多く存在した。特に35もの修道院と付属農園が設立されたことにより、シトー修道会のスティチナ修道院(Cistercian Abbey Sti*6693*na)やカルトジオ修道会 (en) のジッチェ修道院 (en) などが立てられ、その中でもザルツブルクの総司教座は最も勢力が大きかった。また、多くの修道院が設立したことにより、文化面でも多大な影響を与える事となり、写本(マニュスクリプト)の製作され、建築物としてはロマネスク様式がブトゥイ、ブレスタニツァ (en) 、ポドスレダ (en) 、ゴシック様式がマリボル、ツェリェ、クラーニ、リュトメルでそれぞれ建設されることとなる。 15世紀に入るとスロベニアの地域にオスマン帝国が襲来することとなった。このため、ハプスブルク帝国はスロベニア地域で騎馬軍団を組織、そしてさらにオスマン帝国との国境地帯に軍政国境地帯を設置した。この軍政国境地帯はクロアチアの地に設置されたため、スロベニア人はこれに含まれたわけではなかったが、ハプスブルク帝国貴族らが国境地帯に要塞を建設する際の費用をスロベニア農民らが負担することとなり、農民反乱が頻発することとなる。1515年に発生した農民反乱は特に規模が大きくスロベニア人居住区全体に広がったがこれは鎮圧されることとなる。そして1572年から1573年にかけてスロベニア人、クロアチア人らが連合した上でハプスブルク帝国への忠誠を放棄してザグレブの首長への忠誠を行えるよう要求したがこれも成功せず、結局、1713年のトールミンの一揆のように18世紀まで農民一揆は続くこととなる。 1517年10月13日、マルティン・ルターが「95ヶ条の論題」を掲げたことによりプロテスタント活動が始まるが、この波はスロベニアにまで及ぶこととなり、1520年代にはトリエステ、グラーツ、リュブリャナでルター派の活動が始まっていた。その中、プロテスタントへ改宗したスロベニア人司祭、プリモシュ・トルーバル (en) は迫害を避けるためにヴュルテンベルク (en) へ避難したが、「カテキズム(教理問答集)」をスロベニア語へ翻訳、さらにスロベニア語の基本的文法に関する書籍を出版したが、これは19世紀のスロベニア人らの民族的アイデンティティの拠り所となる。この後、スロベニアではプロテスタント信者が増加したことにより、トルーバルの「スロベニア人のためのキリスト教的秩序」、ユーリィ・ダルマティンの「聖書全訳」などが出版されることとなるが、これはスロベニア語だけでなくキリル文字、グラゴル文字でも出版されクロアチアでも使用された。 さらにトルーバルは30冊もの書物をスロベニア、クロアチアの一部へ紹介することとなり、1555年には「マタイによる福音書」を翻訳、1582年には「新約聖書」の全部をスロベニア語へ翻訳、これらがスロベニアで普及することとなったが、さらに彼の弟子ユーリィ・ダルマティンは旧約聖書の翻訳を、アダム・ボホリッチ (en) はスロベニア語初の文法書「冬の余暇(Articae horulae succisivae)」を出版した。 このため、ハプスブルク帝国は「対抗宗教改革」を呼びかけ、教皇庁はトリエント公会議を開催した上でイエズス会を設立、ウィーンへ進出させ、さらにはリュブリャナなどの主要都市に神学校(コレギウム)の設立を行った。ハプスブルク帝国はプロテスタント派の牧師や職人らを何千人も追放し、さらにプロテスタントの文献全てを禁止、焼き払ったが、そのためにスロベニア語の出版物が事実上、消滅することとなる。そのため、新たなバロック芸術がスロベニアに広がることとなり、16世紀末にはカトリックが勝利を収めることとなる。そして、17世紀に入るとリュブリャナ、ゴリツァなどにバロック様式の教会が建築され、その装飾にイタリアの彫刻家たちが参加することとなる。ただし、スロベニア語はイエズス会の設立した高等学校の演劇や、リュブリャナ、ゴリツァでの聖職者の会合ではスロベニア語が使用される事が多く存在した。 18世紀半ばになるとハプスブルク帝国史上初の人口調査が行われたが、このとき、スロベニア人とされた人々は100万人に満たなかった。しかし、マリア・テレジアの時代に交通網が発達、マリボル、ツェリェ、リュブリャナを経由してトリエステに至る重要な道が整備された。そのため、亜麻や絹織物などの手工業が発達、農業関係も力が入れられることとなり、カルニオラでは1771年に農業学校が設立され、ジャガイモの栽培など新たな農業が取り入れられた。さらに政府は義務教育令を発令、スロベニア地域の学校ではスロベニア語による授業が行われ、「対抗宗教改革」で事実上、消滅していたスロベニア語の印刷物が出版されることとなり、1715年にはボホリッチによる「文法書」が出版され、1768年にはマルコ・ポフリン (en) によって「クラインスカ・グラマティカ(Kraynska grammatica、カルニオラ語文法)」も出版されることとなる。 しかし、マリア・テレジアが死去したことにより、ヨーゼフ2世が親政を開始、行政機関で使用する言語をドイツ語と規定したことにより状況が変化、学校においてもドイツ語教育が優先された。しかし1781年、「農奴解放令」が発令されたことにより、農奴制が廃止され、個人の義務が緩和されたことにより、スロベニア人も中産階級へ上る事ができる状況となった。 さらにマリア・テレジア、ヨーゼフ2世の時代、啓蒙的絶対主義が導入された事によりスロベニアにも知識人層が生まれることとなり、1781年、「アカデミア・オペロソルム・ラバセンシス (en) 」がリュブリャナで設立され、これに類似したいくつかの組織が各地で形成され、1779年から1782年の間にバロック・スタイルの詩歌を集めた「ピサニツェ(Pisanice od lepih umetnosti、復活祭の卵)」がヤネズ・ダマスツェン神父(本名、フェリックス・デヴ)(sl)によって出版されたが、この中にはスロベニアの農民を歌った「幸福なカルニオラ人」も含まれている。 ==民族意識の高まり== ヨーゼフ2世は中央集権化を進めたが、それに伴い地方政府への限定的ながらも権限が委譲されることとなった。そして、ロマン主義活動が開始されたことにより、ドイツ人のヨハン・ゴットフリート・ヘルダーはスラヴ人らにも自らの言葉や古く伝わる風習・伝承(フォークロア)を研究して発展させることを呼びかけた。そのため、スロベニア人らもこの活動に反応した。そのため、鉱山経営者ジーガ・ツォイス男爵 (en) の支援の元、作家グループが形成され、その中には言語学者のイェルネイ・コピタル (en) や聖職者のヴァレンティン・ヴォドニック (en) らが参加していた。コピタルはスロベニア方言の統一を行い、さらにドイツ語の要素を排除したスロベニア語文法書を出版、さらにはセルビア・クロアチア語改革者ヴーク・カラジッチと共同作業を進めてスロベニア語の音声学的正書法を確立させた。このため、スロベニア語が整備されることとなり、後にスロベニア最大の詩人といわれるフランツェ・プレシェーレンらが生まれることとなる。 さらに「農業・実務協会」が政府の支援の下、形成されたがこの組織ではラテン語が使用され、さらにスロベニア系学識者が現れることとなる。ヤネス・ジーガ・ヴァレンティン・ポポヴィッチ(sl)は「海洋の研究」をドイツ語で著し、ユーリィ・ヴェガ (en) は「対数学大全 (en) 」をラテン語で著した。さらにスロベニア以外でもその活動は広がる事となり、ブルターニュのベルシャザール・アケ (en) は「カルニオラ地誌(Plantae alpinae carniolicae)」を出版、スロベニアにおける言葉の違い、方言、文化的、地域的特徴が研究された。 そして教会でもヤンセン主義(厳格主義)がユトレヒトから伝わった事により、リュブリャナ司教座 (en) はその影響を受け、K・J・ヘルベシュタイン司教はこれを熱心に支持、その影響を受けた人々らは聖書の翻訳を行ったが、この翻訳作業は他の分野へも波及した。そのため、公教要理、福音書講話、祈祷書、旧約聖書詩篇などが翻訳され、スロベニア語の文語成立に多大な貢献を収めることとなり、さらにスロベニア人知識層にも影響を与えることとなった。 この文学面で生まれたこの活動はやがて政治にも影響を及ぼす事となり、同時期に発生したフランス革命の思想的影響を受けたヴァレンティン・ヴォドニックはスロベニア初の新聞社を1797年に設立、「ルブランスケ・ノヴィツェ(リュブリャナ新聞)(sl)」を発行した。さらにフランスはナポレオン・ボナパルトの登場によりその領土を拡大し続け、スロベニアもその領域と化したが、ナポレオンはスロベニアに関心を持っていたため、1805年、1809年とハプスブルク帝国との戦いの際にはドイツ語、フランス語などで各地の習慣を尊重するという宣言文を作成しているが、この中にはスロベニア語で作成されたものも含まれていた。1809年、ナポレオンはウィーン条約によりカルニオラ、カリンティア西部、ゴリツィア、イストリア半島、クロアチアの一部、ダルマチア、ドゥブロヴニクをハプスブルク帝国より割譲を受け、「フランス領イリュリア諸州」を形成、州都はリュブリャナにおかれる事となった。 フランス領イリュリア諸州となった事により農奴制こそ廃止されなかったが、この地域ではフランス式の行政制度やナポレオン憲法が適用されることとなった。そのため、スロベニア語の使用が推奨され、行政機関にもスロベニア人らが登用されることとなり、さらにフランス語を習得している者が少ないという理由で役所でもスロベニア語が使用される事が認められた。そして知識人らもフランスの政策に共感を示し、ヴォドニックは「イリリアの再生」という詩をナポレオンに捧げ、さらに1810年にはグラーツで「スロベニア人協会」が設立されることとなり、その2年後にはグラーツの高等学校において「スラヴ研究講座」が設置されることとなる。 この中、スロベニアでもイリュリア運動 (en) が活発化することとなり、スロベニア語がクロアチア語のカイ方言 (en) と近い事からスロベニア語、クロアチア語、そして南スラヴ系諸言語の統一を提案したものも存在した。この中で最も代表的な人物としてスタンコ・ヴラース(sl)が上げられるが、彼はプレーシェンやクロアチアのリュデヴィト・ガイ (en) らとを親交を持ち、スロベニア語、クロアチア語を混合した「イリュリア語」で詩を発表したが、結局、これは良い結果を残す事ができなかった。 フランス占領下でスロベニアでは民族意識が高まる事となったが、その一方で「コンコルダート」が適用され、さらに軍事支出のための増税、徴兵制の負担などが強いられることとなっていた。しかし、1815年、ナポレオンが敗れたことにより、ウィーン条約が結ばれるとスロベニアは再びハプスブルク帝国領となった。ダルマチアとラグーザはオーストリアに併合され、イストリア、カリンティア、カルニオラ (en) などは新たにイリュリア王国 (en) を形成することとなり、オーストリアの一部と化すこととなった。また、クロアチア、スラヴォニアはハンガリー領と化している。 ハプスブルク帝国においてクレメンス・メッテルニヒが政権を担う事となると行政面、教育面において再びドイツ要素が強まる事となり、スロベニア人作家らも政府に監視されることとなった。これはメッテルニヒが旧来の国際秩序を維持したいと考えていたためであったが、この政策により、ハプスブルク帝国内の民族感情は抑圧されることとなる。しかし、ウィーンで1848年革命が勃発するまでのフォアメルツ (en) と呼ばれるこの期間、スロベニアでは作家たちがスロベニアにおける文学創作活動水準を高めるための努力を行っており、さらにはヤネス・ブライワイス (en) が「ノヴィツェ(ニュース) (en) 」という名の新聞を発行、この新聞は経済、農業問題だけでなく政治問題まで記事にした。また、工業面においては最初の手工業が開始された時期でもあり、繊維業や製糖業では蒸気機関が導入されることとなった。 1848年革命の時期、スロベニア人らは自らの権利拡大のための活動を開始したが、農民たちは議会で封建制の廃止が決定された時点で革命に興味を失っていた。しかし、結社「スロベニア」が結成された上で言語境界内部にスロベニア人の土地を集めて「州(ラント)」を形成して民族権利の保障、スロベニア語がドイツ語、イタリア語と対等であること、全ての言語が学校教育において使用されることを150万人のスロベニア人の名において1848年4月に宣言した。しかし、この宣言は一部の小さなグループの支持は得たものの、封建領主やドイツのリベラルな中産階級は反対、それに対してスロベニア人らはフランクフルト国民議会ではスロベニア人が参加する意味がないとして参加を拒否した。このとき、法律家ヨシブ・クラーニェは「世界の一人たりともスロベニア人に対して死ぬのが怖いのなら自殺すれば良いなどと言う事はできない」と発言している。1849年、ハプスブルク帝国はイリュリア王国を廃止してカルニオラ、カリンティア、キュステンラント (en) を「クローンレンダー(Kronland、皇帝直轄地) (en) 」とした上で限定的な自治権を与えた身分制議会を置いたが、アレキサンダー・フォン・バッハ (en) の時代、自治権が著しく制限を受ける事となる。その最中の1853年、スロベニア語文学作品出版を行うために「モホリェヴァ・ドルージュバ(聖エルマゴール協会)」(sl)が設立されている。 1860年10月、勅書が下されることにより新たな憲法が制定されたが、スロベニア人らは地方議会から排除されることにより少数派ドイツ人らが権力を握った。そのため、スロベニア人が圧倒的多数であったカルニオラ州においてもスロベニア語で記された議会報告書の閲覧申請が行われても拒否されるような状態であった。さらに1867年にハンガリー王国が独立したことによりオーストリア=ハンガリー帝国が形成されてハンガリー人らがドイツ人と対等な地位を得る事となったが、スロベニア人らにはなんら影響がなかった。しかし、選挙法が何度も改正されたことにより、民主主義が徐々に取り入れられたことによりこれらの問題が政治的課題として表現され始めたため、1867年、選挙法改正によりスロベニア民族党の結成が許可された。 このスロベニア民族党はそれまで「リベラル派」と「保守派」に分かれていた派閥が「統一スロベニア (en) 」を形成する目的で集まったものであり、さらに1861年以降、トリエステでスロベニア語を守るため発生した活動により読者協会「チタルニツェ」が結成されることとなった。1867年の選挙ではカルニオラの州議会(ラントターク)で史上初となるスロベニア人らが多数を占める事態に至った。さらに、この直前、普墺戦争に敗れたオーストリア=ハンガリー帝国はスロベニア人らの居住地域をイタリアへ割譲するという問題が発生したことにより、1868年から1871年にかけて「ターボル」と呼ばれる集会がスロベニア人居住区全体で開催され、「統一スロベニア」への支持を行った。そのため、1892年にはキリスト教運動に関係した農民らが集まったカトリック民族党 (en) が、さらに1894年には進歩民族党が結成された。 カトリック民族党が1899年にローマ教皇レオ13世が出した「レールム・ノヴァルム(回勅) (en) 」の実現を要求して政治にも大きな影響を持つ事となったが、その一方で少数派であるリベラル派は都市部の中産階級を中心に支持を集め、リュブリャナ大学の設立を要求した。しかし、これらの活動が行われたにもかかわらず、「ライヒスラート(帝国議会) (en) 」では議席配分によって不利益を受けていた。その状況の中、ドイツ人らはトリエステに至る「ドイツ人の橋」を維持するために強い圧力をスロベニアにかけ続けた。そのため、カトリック民族党はクロアチア権利党 (en) との連携を模索、スロベニアの政治家らはクロアチアの政治家らにオーストリア=ハンガリー帝国にさらにスロベニア人、クロアチア人らスラヴ人の国家を形成して「三重帝国とする構想(トリアリズム)」を持ちかけた。しかし、皇太子フランツ・フェルディナントはこの構想について考慮してスロベニア人を除外したクロアチア人の国家形成を方針として採用しようとしたが、結局、この構想は「ユーゴスラビア構想」へつながる事となり、例えばクロアチア国民党 (en) の指導者ヨシプ・シュトロスマイエル (en) と歴史家フラニョ・ラチュキ (en) らはセルビア公国を基礎とする南スラヴ人による統一国家を構想しており、さらにクロアチアとセルビアの政治家らの間で交わされた「リエカ合意」と「ザダル決議」によりクロアチア・セルビア人連合が形成されたが、この中にはスロベニアも含まれていた。 ===スロベニア語文化の萌芽=== 19世紀に入るとジーガ・ツォイス男爵が登場するが彼はスロベニア人を母に持ちリュブリャナ中心部近郊の邸宅でスロベニア語振興に活躍した。彼はオペラや演劇の愛好家であったが、外国作品をスロベニア語へ翻訳し脚色したものを上演、1789年12月には「粉引き小屋(Die Feldm*6694*hle)」を「市長の娘(sl)」としてまた、1781年には「フィガロの結婚」を「吉日またはマティチェクの結婚(sl)」(ただし、検閲に引っかかったため1884年まで上演されなかった)が導入された。また、この脚色を行ったアントン・リンハルト (en) は未完に終わりはしたものの「カルニオラ及びオーストリアの南スラヴ人居住地域の歴史的考察(Versuch einer Geschichte von Krain und den *6695*brigen L*6696*ndern der s*6697*dlichen Slaven Oest*6698*rreiches)」を著している。また、詩人ヴォドニックは「フランス領イリュリア州」の時代、フランスが初等教育レベルでの民族語教育を行い、あらゆる階層に教育を受けさせようとしていたことから、初等教育を管轄される視学官に任命され、何冊かのスロベニア語文法書を著した上で、さらには「クハルスケ・ブクヴェ(Kuharske bukve、スロベニア語初の料理本)」や「バビシュトヴォ(Babi*6699*tvo、助産婦のための手引書)」を著している。 スロベニア語の使用については市民の日常説活レベルまで及んでおり、そのために1800年からスロベニア語文法書が出版され、1808年には「カルニオラ、カリンティア及びスティリア地方のスラヴ語の文法(Grammatik der slavischen Sprache in Krain, Karnten und Steyemark)」が近代的文法書として初めて出版された。この作者であるコピタルはウィーン大学でのスラヴ語講座の開設に尽力(実際、開設されたのは死後であった)、多くの弟子を育てた。やがてその弟子のJ・N・プリミツは1812年にグラーツ高等学校を開設することとなり、一方でヴォドニックらの尽力で1817年にはリュブリャナで高等学校が開設された。しかし、さらに高度なレベルでのスロベニア語による教育はリュブリャナ大学が開設された1919年に始まる事となる。 さらに1806年、ヴォドニックはスロベニア語初の詩集、「試みのための詩(Pesmi za poku*6700*ino)」を出版したが、この後にスロベニア最大の詩人フランツェ・プレシェーレンが登場することとなる。プレシェーレンは1830年、スロベニア初の文学評論「クランスカ・チュベリッツァ(カルニオラの蜂蜜、Kranjska *6701*belica)」の発行に加わり、1836年にはキリスト教布教時代を歌った「サヴィツァの滝(Krst pri Savici)」を出版、さらに現在、スロベニア国歌として使われる歌詞は1884年にプレシェーレンが作詞したものであった。そして1847年、「ポエジエ(Poezije、詩集の意味)」を出版、これにプレシェーレンの詩の大半が含まれており、スロベニア人統一の政治綱領が翌年に発表された。後にこれはスロベニア語とスロベニア文学の代表作と化し、スロベニア人にとっての民族的シンボルと化す。 一方、シュタイヤーマルク州では「クメティイスケ・イン・ロコデルスケ・ノヴィツェ(農民・農業新聞)」 (en) が1843年に創刊されたが、この新聞は農民、商人、職人、農村部で教育活動を行う聖職者、教育者向けの記事を掲載したが、この新聞はスロベニア全土で読まれることとなり、プレシェーレンや愛国的な主張を行ったJ・V・コセスキ(Janez Vesel Koseski)の作品も掲載された。そして1861年、オーストリア新憲法が公布されると民衆の教化に力を注ぎ、スロベニア人らの民族意識の形成の準備を行うこととなる。 ===1848年=== ヨーロッパ中を席巻した「諸国民の春」はハプスブルク帝国内をも巻き込んだ。特にこの半世紀で文化面を中心に成長を遂げていたスロベニアではその影響は顕著であり、言語、文化を中心にスロベニア民族が形成されることとなった。革命の当初、スロベニアの各都市では平静を保っていたが、一部では扇動的な行動が発生しており、農村部では自警団が組織化された。しかし、徐々にスロベニア人らの要求がウィーン大学の学生らによって「統一スロベニア」の政治綱領として纏め上げられ、これは1918年まで影響力を持つ事となる。 この「統一スロベニア」政治綱領は首都をリュブリャナとして、全てのスロベニア人を単一の行政単位に統一することであったが、これまでチェコ人やクロアチア人らの自治権要求よりもさらに革命的なものであり、第一に人民の自決権、第二にスロベニア語をドイツ語と対等とすること、第三に対外政策としてスロベニア人らがハプスブルク帝国の中心を成していたドイツ人に取り込まれることにより同化することを避けるためにオーストリアがドイツから独立を保つ事を要求していた。結局、この「統一スロベニア」政治綱領はスロベニア国家のデザインを形作る事となった。 ==第一次世界大戦== 1914年の時点でスロベニアの人々はオーストリア=ハンガリー帝国に忠誠を誓っており、徴兵も滞りなく進み、戦線でも勇敢に戦った。また、カトリック民族党 もハプスブルク家への忠誠を誓った上で支持者である農民や中産階級のための改革を唱えていた。さらに1915年4月、連合国がイタリアに参戦を促すために結ばれたロンドン協定により、イストリアとダルマチアがイタリアに譲られることになっていたが、これはその地に住むスロベニア人の脅威と化した。そこでウィーンの帝国議会はスロベニア人、クロアチア人の議員たちに帝国という枠組みは存在するものの、彼らを政治単位として認める憲法改正を行う事を決定、さらに1917年にはカトリック民族党 党首アントン・コロシェツ (en) 神父を中心として連合組織を結成、「5月13日宣言(sl)」を行った。また、セルビア亡命政府とクロアチア人のロンドン亡命組織ユーゴスラビア委員会 (en) の間でセルビアとクロアチアで統一国家の形成を目指す「コルフ宣言 (en) 」が1917年7月20日に行われたが、この中にスロベニアも含まれていた。ただし、スロベニアはこれに積極的に参加していたわけではなく、この情報を聞いたスロベニア人指導者たちは動揺を示し、コロシェツ神父も後にこのことを知らされている。 1918年10月、オーストリア=ハンガリー帝国皇帝カール1世は連邦国家宣言を行ったが、これによりスロベニア人、クロアチア人、セルビア人らは南スラヴ人らの統一国家樹立を要求、1918年10月29日、スロベニア人・クロアチア人・セルビア人国が成立した上で民族評議会(Narodni svet Slovencev, Hrvatov in Srbov)がザグレブで結成され、コロシェツ神父がこの議長に就任したが、この評議会は11月3日、オーストリアと連合国は休戦協定を結ばれた際、イタリア、セルビア間の地域の唯一の政治的代表であった。 戦後、民族評議会の内部でも意見の対立が生じ、さらにユーゴスラビア委員会とセルビア政府との間でも激しい交渉が行われたが、セルビア王国摂政、アレクサンダル・カラジョルジェヴィッチがこの機会を捉え、セルビア国王ペータル1世を国王として「セルビア王国、スロベニア、クロアチア、セルビアの地域を統合した上でセルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国」の樹立を1918年12月1日に宣言した。 しかしスロベニアは積極的にこれに参加したわけではなく、スロベニアの地域をイタリアに脅かされるのを避ける唯一の方法がこれしかなかったためであった。 ==ユーゴスラビア王国== ユーゴスラビア王国が成立した時、スロベニア人100万人が国民となったが、王国はすぐさまイタリアの圧力に悩まされる事となった。イタリアは先のロンドン協定で約束された領土をあきらめておらず、ヴェルサイユでの議論の最中、リュブリャナへ向けて侵攻を行ったが、これはスロベニア人将校の部隊によって阻止された。さらに1919年1月27日にはマリボルにおいてドイツ系住民が自決権を求めてデモを行うとスロベニア軍がこれに発砲する事態に至った「マリボルの流血の日」事件が発生するにまで至っていた。 さらにオーストリア南部のケルンテン州国境地帯はユーゴスラビア軍が占領していたが、オーストリアのケルンテン州政府はオーストリア政府の忠告を聞かずに郷土防衛隊を組織、1918年12月5日よりユーゴスラビア軍の攻撃を行った。この諍いの休戦交渉が1919年1月以降行われたがこの調査を担当したアメリカ調査委員会はオーストリアよりの状況報告を行ったため、オーストリア側に有利に進んでいたが、これに苛立ったユーゴスラビア側は4月29日に攻撃を開始した。初期においては劣勢であったユーゴスラビア側も正規軍を投入したことによりクラーゲンフルトを占領するにまで至ったが、協商国が介入、ユーゴスラビア軍は排除され、講和条約が結ばれた。 結局、連合国はクラーゲンフルトに設置された委員会に裁定をゆだね、住民投票が1920年10月10日に行われたが、クラーゲンフルトを含むAゾーンではオーストリアへの帰属を求めるものが多かったため、オーストリアへの帰属が決定、Aゾーン北方のBゾーンではこの結果を受けた上で投票が行われなかった。しかし、この一連の出来事により民族的に傷つけられたスロベニア人らによるオーストリア人襲撃などを含む抵抗活動が発生した。このため、カラベンケ山地がオーストリアとセルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国の国境と化した。一方でイタリア側国境では緊張が続いており、1920年11月12日にラパロ条約が結ばれるまで落ち着く事はなかった。しかし、イタリアのガブリエーレ・ダンヌンツィオが武力行使を行った事により、クロアチア人の抗議があったにもかかわらずフィウメはイタリアに属する事となった。 1921年6月28日、ヴィドダン憲法が制定されることにより、セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国の基礎が形成された。しかし、スロベニア人議員26名が憲法制定議会で棄権したように、スロベニア人が主張していた連邦主義は採用されることなくセルビア人の主張した中央集権主義が採用された。スロベニア議員らは主にコロシェツ神父が率いるスロベニア人民党員であったが、コロシェツは中央政府との協力を行う事により、内務大臣を何度か勤める事となる。そしてユーゴスラビアで経済危機が1931年に発生すると翌年にはさらに状況が悪化、クロアチア農民らの暴動が発生する事態に至り、スロベニアでも兵士による反乱が発生した。さらに、クロアチア人指導者であるスチェパン・ラディチが議会内で銃撃され後に死亡したことにより、国王アレクサンダル1世が王国内の危機収拾のために首相に就任、事態収拾に奔走するが、それも身を結ばずに辞任、その3日後に アレクサンダル1世 は独裁制への移行を表明することとなる。 コロシェツはこの新たな局面において「1932年宣言」を行う事により、スロベニアへの自治権の委譲、イタリア、オーストリア、ハンガリーにおいて少数民族と化しているスロベニア人居住地域を王国領とするために国境線修正を要求したが、イタリアがこれを挑発行為として避難、国王アレクサンダル1世はコロシェツを逮捕、ツレス島へ幽閉した。その後、アレクサンダル1世が暗殺された後、国政を担うこととなったパブレ公の指示の元、ミラン・ストヤディノヴィッチ (en) が首相に就任した際には、ストヤノディノヴィッチはスロベニア人民党からの協力を得るためにコロシェツを政界に復帰させ、内務大臣に就任させた。しかし、ストヤディノヴィッチがローマ教皇との「コンコルダート(宗教協約)」締結を行おうとしたが、セルビア正教会による大規模な反対キャンペーンが行われ、コロシェツがスロベニア人とクロアチア人の弾圧を行ったとして非難された。 しかし、これらの諸問題を解決するため1939年8月、ストヤディノヴィッチの後任首相ドラギシャ・ツヴェトコヴィッチ (en) とクロアチア農民党 (en) 指導者ヴラドコ・マチェク (en) との間で「スポラズム(協定) (en) 」が結ばれ、ザグレブを州都とするクロアチア自治州 (en) が形成された。このため、クロアチアにおける問題については一定の成果が見られたが、スロベニアでは「スポラズム」が結ばれなかったため、スロベニアでも自治を求める声が高まっていた。 ===スロベニア地域の発展=== 1919年、リュブリャナで大学が開設されたスロベニアにおいては国立博物館 (en) 、国立美術館 (en) 、国立劇場 (en) がそれぞれ設立された。さらに1928年にはラジオ・リュブリャナ (en) が開設され、1938年には芸術科学アカデミーが設立、ハプスブルク時代から続いた文化面での発展が続いていた。さらに小学校、中学校ではセルビア・クロアチア語で教育が行われ、1939年の時点でユーゴスラビア全体の識字率が60%と推測されるのに対してスロベニアでは92%にまで及んでいた。 経済面でもスロベニアは発展を遂げていた。1919年より始められ土地改革によりドイツ人やハンガリー人の地主が追放、それらの土地が元兵士らに与えられるなどして小規模地主らが生まれた。この小規模地主らは強力な協同組合を組織化した。さらにスロベニア人民党が中央政府と協力したことにより、スロベニア農民らは他の地域と比べるとかなり有利な農業借入金制度が適用された。このため、スロベニアにおける商品として牛乳や砂糖、ジャガイモ、木材がユーゴスラビア全土で販売される事となった。1930年代の世界恐慌時にはスロベニア人の一部がアメリカに移民するなどしたが、第一次世界大戦直前でユーゴスラビア全体の農業人口75%に対してスロベニアは55%であった。 さらにスロベニアでは工業化がハプスブルク時代より進んでいたが、セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国成立以降、急速に発展することとなり、中心地リュブリャナは重要拠点と化した。スロベニアでは元々、農産食品関係、繊維関係での工業化が進んでいたが、さらに鉄、非鉄金属分野、科学製品分野、そしてスロベニア全土で生産されていたホップを利用したビール工場も発達することとなった。トルボヴリェでは石炭採掘、ツェリェでは化学製品、マリボルはスロベニア第二の工業地帯として発展、繊維、金属、化学製品、紙がユーゴスラビア全体に行き渡ることとなる。 ===スロベニア人問題=== 1921年の時点でスロベニア人は105万4千人がユーゴスラビア王国に所属していたが、他にもイタリア、オーストリア、ハンガリーにも約35万人が所属しており、少数民族と化していた。 ===イタリアにおける問題=== 1920年、イタリアのベニート・ムッソリーニが「外国人排斥キャンペーン」を実行したことにより、トリエステのスロベニア民族会館が焼き討ちに遭うなど事態は悪化していた。また、1923年にはスロベニアに隣接するヴェネツィア・ジュリアの学校ではスロベニア語教育が禁止され、スロベニア語の抹殺が図られたため、多くのスロベニア人が他のヨーロッパ地域やラテン・アメリカへ移住する事態も発生していた。さらにムッソリーニはスラヴ語起源の名称を持つ町や村の名称を変更、スラヴ系の姓を持つ家族にも改名をするよう圧力をかけ始めたが、それだけではなくスロベニア人の組織「エディノスト(統一)」も解散させ、スロベニア語の新聞も弾圧させた。このため、イタリアのスロベニア系住民とイタリア政府の関係は悪化、イタリアのファシストたちはスロベニア系文化、経済組織へ襲撃を行ったが、これに対してスロベニア人らは「ボルバ(闘争)」を組織して反対にファシストの建物、人物を襲撃した。 これらの状況の中、イタリアのスロベニア系民族主義者らはユーゴスラビアへの併合を要求したが、イタリア政府はこれを反逆行為として弾圧、1927年から1943年の間に544人のスロベニア人らが131回の裁判にかけられることとなり、10人が死刑を宣告され処刑された。 ===オーストリアにおける問題=== オーストリアのスロベニア人らはイタリアよりも穏健であった。しかし、ウィーン政府はスロベニア人のドイツ同化政策を推進、ここに至ってスロベニア人らは脱スロベニア民族政策としてこれを非難した。さらに1920年10月、スロベニア人居住区において住民投票が行われたが、このとき、セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国への帰属を希望した人々は要注意人物として監視され、1920年の国勢調査で8万2000人居たスロベニア人らは1923年には3万7000人にまで落ち込んでいた。1934年、オーストリア首相エンゲルベルト・ドルフースがスロベニア人の経済的、政治的組織の解散を命じたが、ナチス・ドイツが進出するにつれてそれは過激化、迫害行為となりスロベニア人らの強制移送も検討される事態にまで至る。 ==第二次世界大戦== ユーゴスラビア王国は周辺の国々が枢軸側に参加したことから枢軸側への参加を余儀なくされていた。しかしそれに反対するドゥシャン・シモヴィッチ (en) 将軍は1941年3月25日から26日にかけて、クーデターを決行した。このクーデターの結果、それまでユーゴスラビアの政治を担ってきたパヴレ公は失脚、若き国王ペータル2世の親政を中心にスロベニア人閣僚も3人入閣することとなった。しかし、このクーデターによりユーゴスラビアが枢軸側からの脱退をしようとしていると判断したドイツ総統アドルフ・ヒトラーはこれに激怒、ユーゴスラビアの占領を命じた。 1941年4月6日、ドイツ軍はブルガリア国境よりセルビアへ侵攻、8日にはオーストリア国境よりスロベニアへ侵攻した。ドイツ軍は素早くマリボル、プトゥイ、ツェリェを占領、さらに11日にはイタリア軍が侵攻を開始、リュブリャナが占領された。ユーゴスラビア王国政府は亡命を余儀なくされ、カイロ経由でロンドンへ亡命することとなったが、これにはスロベニア人閣僚も従った。 一方、現地に残されたスロベニア地域総督(バン)マルコ・ナトラチェン(sl)は「民族会議」を結成して枢軸国と交渉を行おうとしたが、これはイタリア軍と数日協力をした後に解散させられた。この時、スロベニアにおいて民族闘争を続けていたリュブリャナ市長イヴァン・フリーバル (en) は自殺している。結局、スロベニアはイタリア、ドイツ、ハンガリーによって分割されることとなり、ドイツはアルプス地域を、イタリアはリュブリャナを含むザヴァ川以南を、ハンガリーはムルスカ・ソボタ周囲のプレクムリェ地方をそれぞれ占領した。 ドイツ占領地域ではヒトラーのドイツ化命令の元、2つの地域へ分割、カルニオラ (en) 北部は「オーバークライン」(州都クラーゲンフルト)、スティリアの一部は「ウンターシュタイヤーマルク」(州都グラーツ)が設定されたが、学校は閉鎖された上で公共の場でのスロベニア語の使用が禁止、16000人がドイツ、もしくはクロアチアへ強制移住された。ただし、この政策に関してイギリス外務省はポーランドとは状況が違うと声明を発表している。一方でイタリア占領地域ではヴェネツィア・ジュリアに関連する地域をドイツが占領地域を含めた上でイタリア王国領リュブリャナ州として全てのスロベニア人を統合、制限つきの自治を与えるという政策の元、行動していた。その一方でユーゴスラビア王国において少数民族と化していたドイツ系、イタリア系、ハンガリー系の人々はこの占領を熱狂的歓迎ムードで受け入れ、母国の一部になったことを祝福した。 スロベニアは分割占領されることとなったがリュブリャナのロジュマン司教はイタリアとの協調路線を取るべく努力を払っていた。しかし、イタリア軍がリュブリャナを占領した1週間後の1941年4月27日、イタリアの占領に反対するキリスト教社会党左派、愛国的自由主義者が集まった青年体育文化組織「ソコル(鷹) (en) 」、共産主義者らが結集、「反帝国主義戦線(Protiimperialisti*6702*na fronta)」が発足した。特に共産党は1941年6月22日にドイツがソ連に宣戦布告するとソビエト連邦共産党書記長ヨシフ・スターリンの呼びかけに応じてパルチザン活動を開始、スロベニアにおける抵抗活動が本格化することとなった。 「反帝国主義戦線」は「解放戦線(OF)(sl)」に名称変更された後、活動綱領を発表したが、パルチザンはスロベニア・ナショナリズムを基本として様々な主義主張を持つ勢力らが連合していくものとされ、教会の自由を保障するなど穏健的な綱領であったが、1941年9月16日に「スロベニア民族解放委員会 (en) 」が設立されるに至り、スロベニア人が居住するすべての地域へ影響を持つこととなった。この中で共産党員たちは革命を起こす事を考えており、解放戦線の中で枢軸国と戦うだけでなく、スロベニアにおける対敵協力者の根絶を主張したが、ロジュマン司教を含む聖職者らを含む人々はこれがスロベニア人同士で内戦に至ることを恐れていたが、これはイタリア軍の指導の下、「白衛団」と「ドモブランツィ(祖国防衛者) (en) 」と呼ばれる武装集団が結成されパルチザンとの戦闘に加わっていたためであった(後に白衛団はドモブランツィに吸収される)。さらにリュブリャナはイタリア軍によって何重もの軍事警戒線が設定されており、これに攻撃を仕掛ける事は危険な行為であった上にアルベ島をはじめとして各地に強制収容所を設置していた。 解放戦線は枢軸軍が占領するスロベニア人居住地全体で抵抗活動を開始した。しかし、北アフリカでドイツ軍が敗北したことにより、バルカン半島へ連合軍が上陸を行うという雰囲気が形成されるとユーゴスラビア共産党指導部及び指導者ヨシップ・ブロズ・チトーは反共主義者が強化される可能性が発生したことにより懸念し始めた。特にスロベニアでは共産党スロベニア支部長エドヴァルト・カルデリ (en) らはキリスト教社会党の態度に不安を抱いており、枢軸国への戦いが弱まる恐れを抱いていた。そのため、1943年3月1日、解放戦線は「ドロミテ宣言」を発表して共産主義者が解放戦線における主導権を握った上でキリスト教社会党や自由党に独自の政治活動を認めることを宣言した。 1943年9月、イタリアが連合国に休戦を申し入れる事となるが、10月4日、解放戦線はコチェーヴィエで「人民議会(sl)」を開催、クロアチア独立国と化していた沿岸地方をスロベニアへ併合すること、スロベニアは他の諸民族とともに国家連合を形成することを宣言した。その後、チトーが11月23日に開催した「ユーゴスラビア民族解放反ファシスト会議(AVNOJ)」で報告された。「ユーゴスラビア民族解放反ファシスト会議」は臨時政府としての機能を果たす事となったが、これは事実上、チトーらが実権を握っており、会議では国王の帰国の禁止、ユーゴスラビアを連邦国家に編成すること、チトーにユーゴスラビア軍元帥の称号が与えられる事などが決定された。スロベニア代表にはヨシプ・ヴィドマール (en) が就任していたが、共産主義者に主導権を握られている上にヴィドマールは新たに生まれるユーゴスラビア政府がスロベニア人に行政などの分野で自治を認められることを確信していると発言したに過ぎなかった。 イタリアが降伏したことにより、イタリア軍の武器や装備が放棄されることとなったが、これはパルチザン側が得ただけではなく、枢軸軍への協力を行った反共民兵組織にも獲ることとなった。このため、ドイツ軍はイタリア軍が占領していた地域を占領するために「ドモブランツィ」を利用したがこれはパルチザンとの内戦を生む事となった。チトーはロンドンに亡命していたユーゴスラビア王国政府と交渉を行い、1944年9月、「チトー=ジュバシッチ協定 (en) 」に同意、連合国からの援助を得る事となった。このため、スロベニア・パルチザンらはチトー率いるユーゴスラビア軍と連合軍と協力した上でスロベニアを解放、リュブリャナは解放戦線が占領した。 ドモブランツィはドイツ軍が撤退したことにより、カリンティアに逃亡したが、その中の女性や子供らを含む数千人はユーゴスラビアへ戻ったところをチトー・パルチザンらによって拘束され、ツェリェ近郊のテハリエ (en) 、コチェーヴィエ近郊のコチェウスカ・レカ(sl)などで処刑されたが、2年たった1945年の時点でもその地域の農民らが「大地が、ため息をついている」と死臭が漂う事を苦情として申し立てるほどのものであった。 一方、ドイツ敗戦により再び少数民族となったドイツ系とイタリア系の住民は住んでいた土地を追放され、それぞれオーストリアやイタリア本国へと避難していった。イストリア半島ではイタリア系の住民がパルチザンによって虐殺され、「フォイベ」と呼ばれる洞穴に殺害された住民の遺体が遺棄された。 1945年5月時点でスロベニア人150万人のうち、5万1000人が死亡、そのうち戦死が41%の2万1000人、占領者に殺害されたのが3万人と推測されている。 ==ユーゴスラビア社会主義連邦共和国へ== 1945年5月5日、イタリア領ヴェネツィア・ジュリア州の共産党指導者で解放戦線の書記長であるボリス・キドリッチ (en) を中心とするスロベニア政府がリュブリャナで樹立された。一方でチトーを首班とする第二次チトー政権がベオグラードで3月7日に樹立されていたが、リュブリャナでは「合法性をあまり気にしない」をモットーとする政治警察「人民保安部(OZNA) (en) 」による粛清が行われていた。そのため、ドイツ系の人々が財産を没収された上で追放を受け、聖職者らを中心とする人々は敵に対して協力を行った事実の有無に関わらず、裁判にかけられ多くの人々が有罪とされたが、その数は不明である。 解放戦線は大戦中に財を成した農民や対敵協力者などから没収した資産を元に復興措置を追ったが、銀行にまでその手は及び、さらに8月25日には全ての報道機関の資産が解放戦線に管理下におかれる「報道法」が制定、野党らは自らの主張を述べる機会を奪われていた。さらに中央政府に参加していた国王側の閣僚が夏に辞任すると11月に総選挙が実施されたが、これは西側連合国が異議を申し立てない程度に好ましくない人物の選挙からの排除を行った。そのため、共産党は90%の支持を得る事となり、憲法制定議会が召集されると王政の廃止と連邦制に基礎を置いたユーゴスラビア連邦人民共和国の樹立が宣言され、スロベニアもその内の一国となった。 しかし1918年、ユーゴスラビア王国が成立した際に問題となった国境線が今回も問題を生じる事となった。1945年5月1日、チトー・パルチザンはイギリス軍よりも先にトリエステに侵攻しており、イタリア領ヴェネツィア・ジュリア州全てと南カリンティア州の北部地域の割譲を要求したが、イギリス首相ウィンストン・チャーチルとアメリカ大統領ハリー・S・トルーマンらは地中海に共産主義者が拠点を得る事を望んでおらず、イギリス軍とユーゴスラビア軍の間に緊張が走る事となった。しかし、ソ連共産党は西側連合国やイタリア共産党との衝突を望まなかったため、ユーゴスラビア軍へトリエストからの撤退するよう命令、1945年6月12日、ユーゴスラビア軍は撤退した。そのため、イギリス軍がトリエステを占領したため、ヴェネツィア・ジュリア州の一部だけがユーゴスラビア領となることとなった。一方でスロベニア人で構成された部隊はコペル(イタリア名カポディストリア)とその周辺プリモーリェ(プリモールスカ)の占領を行っていた。この結果、1946年10月に結ばれたパリ協定によりトリエステを中心とした地域はイギリス軍、アメリカ軍が統治することとなり、コペル、ブーイェを含む地域はユーゴスラビアが統治することとなり、この境界線では厳戒態勢が敷かれる事となった。 一方、カリンティアでは5月19日、英米軍合同司令部がユーゴスラビア軍及びパルチザン部隊に対して撤退を行うよう最終通告を突きつけたため、速やかにユーゴスラビア側はこれに応じた。結局、カリンティアの行政権はイギリス軍が握る事となり、国境線は1919年当時と同一とされたが、スロベニア人らはこれを受け入れる他なかった。 スロベニアにおいてはエドワルド・カルデリやボリス・キドリッチらが重要な役割を果たしたが、「内部への敵」に対する闘争がユーゴスラビア内で実行された。しかし、そこにはレジスタンス活動に加わりダッハウ強制収容所へ送られたスロベニア共産党員も含まれ、1948年3月、裁判にかけられて反共産主義者として死刑などの重罪に処されたが、これはオスマン帝国の圧制やロシア的慣習よりもユーゴスラビアが西側に近いと考えていたスロベニア知識人らを失望させることとなった。 ユーゴスラビア民族解放反ファシスト会議の綱領を元に、ユーゴスラビアでは農業改革が進められ、農地所有の上限が個人は35ヘクタール、団体が10ヘクタールに定められ多くの大土地所有者が追放された。スロベニアでは大規模に土地を所有していたドイツ人、リュブリャナ司教座、カトリック教会がその対象となったが、これはユーゴスラビア人口の半分を占める農民たちの関心を引き寄せることと、貧しい農民と豊かな農民を対立させることに主眼が置かれており、結局、スロベニアにおける平均土地所有面積の増加は妨げられることとなった。 1946年以降、五カ年計画が実施されることとなり、スロベニアでは重工業への転換を行いながら生産数を三倍にすることが期待されたため、全ての主な銀行、工場、運輸、流通、商業、貿易が国有化、地方の小規模商店は協同組合の一部として組み込まれるなど全ての面での国有化が進んだ。さらに教育方面でも改革が進み、マルクス主義教育や文化活動が導入化されることとなった。 ところが1948年6月28日、コミンフォルムがチトーとユーゴスラビアを非難し、ユーゴスラビアはソ連との関係を断絶することになるが、ユーゴスラビアでは「スターリン的要素」やその支持者などは粛清されアドリア海のゴリ・オトク島の強制収容所に送られた。そしてソ連よりも「マルクス主義的」である新制度が導入されたが、その理論家はスロベニア人のE・カルデリが存在しており、彼は生産手段は労働者に優先権が存在しており、労働者は「労働者評議会」を組織するものとしていた。このコミンフォルム決議の際、スロベニア人は強力にチトーを支持したが、これは西側への接近を視野に入れたものであった。 だが、コミンフォルムからの除名によりユーゴスラビアの五カ年計画は深刻な影響を受ける事となり、中央政府は地方分権化を行ったが、これによりスロベニアもその恩恵を受ける事となり、5ヵ年計画に沿った政策を実行、これはスロベニアの工業発展の端緒となり、ユーゴスラビアでも重要な地位を占めることになった。 この雰囲気の中、1960年代のユーゴスラビアは相対的に自由な国となり、制限はあるものの政治的議論が可能となっていた。しかし、1959年、シュタイエルスカ地方のトルボヴリェ鉱山で発生した労働争議の収拾策を巡り、実力行使で鎮圧を主張する中央政府と対話を重視するスロベニア政府の間で深刻な対立が生じていた。さらにユーゴスラビアを経済危機が襲うとその対処方法でも両者は対立することとなった。これは資本蓄積が貧弱なまま工業生産が急激に伸びたため、生産のバランスが崩壊したことによるが中央政府は「ザドルガ」を解散、個人農家を創設するための資金融資を行わざるを得なくなっており、協同組合への加入も廃止された。結局、1966年7月、アレクサンダル・ランコヴィッチ (en) 内相が失脚したことにより、トルボヴリェ鉱山のストライキ以降、中央政府と対立していたスロベニア政府における勝利とみなされた。 1954年10月、イタリアとユーゴスラビアの間でロンドン議定書に合意、それまでユーゴスラビア軍が占領していたコペル、ブーイェを含む地域はユーゴスラビアへ併合、イギリス軍、アメリカ軍が占領していたトリエステを中心とした地域はイタリアへの併合が決定された。このため、コペル港はスロベニアの主権が及ぶこととなり、ブーイェからミルナ川 (en) までの地域はクロアチアへ併合された。この国境線は1975年、イタリアとユーゴスラビアで結ばれたオージモ条約により最終的に決定する。一方、カリンティア地方はオーストリア国家条約 (en) により、1938年当時の国境線が保証されることとなったため、オーストリアのスロベニア系少数民族の権利が名目上は認められたが、スロベニアの愛国者たちには失望が走ることとなった。 1963年、新憲法が制定されることにより自主管理行政組織が制度化、これにより各共和国に自由裁量が認められたため、スロベニア政府は中央政府が南部の共和国へ分配する補助金制度を批判した。他にも地方行政面でも自主管理制度を元とした改革が行われ、さらには経済改革の中で西側諸国への出稼ぎが容認された。このため、人口増加により失業が増加していたスロベニアにおいて多くの人々がドイツ各地へ出国、さらに出稼ぎにでた人々が送金することにより、スロベニアの経済を好転させることとなり、生活水準も向上することとなった。しかし、各共和国で経済改革が推し進められたことにより、共和国同士の競争が生じることとなったが、それに伴いスロベニアのエリート層も出現、スロベニア政府首相スタネ・カウチッチ(Stane Kav*6703*i*6704*)はエレクトロニクスやサービス業を中心とした近代産業構造へ変化させることにより西側との関係を深めることを構想したが、これは地中央政府によって妨害され、カウチッチは労働者階級に敵対する人物でスロベニアの分離独立を行おうとしているとして失脚した。 こうした共産主義者同盟(ユーゴスラビア共産党)内での対立によりチトーは各共和国への大幅な権限委譲を決断、1974年憲法 (en) により「自由に連合した生産者による直接民主主義」と各共和国の自治が大きな柱とされた。しかし、オイルショックが生じた事により、経済危機がユーゴスラビアを襲うと北部のスロベニア、クロアチアと南部のマケドニア、モンテネグロ及びコソボ自治州の間の格差はさらに拡大、インフレがユーゴスラビアを襲う事になり貿易赤字が15億ドルにまで到達、対外債務の返済の繰り伸ばし、失業の増加が見られるようになった。 1972年、スロベニアではリベラル派が敗北したことにより保守体制が続いていたが、経済面での近代化は進んでおり、スロベニアの国民総生産はユーゴスラビア平均の2倍に達していた。しかし、スロベニアの製品もユーゴスラビア内を席巻してはいたが国際市場に進出するには困難が生じており、農業面においても古典的な自給自足を中心としていたため、農産物の価格が高騰するという問題を抱えていた。また、このことから1965年に創設され、南部の共和国が安い利子で借り入れができる「発展のための連邦基金」はスロベニア、クロアチアが南部の共和国を養っている状態であるとしていた。 1980年5月4日、チトーがリュブリャナの病院で死去しチトーの遺体はベオグラードへ移送されることとなるが、ユーゴスラビアという枠内でのスロベニア共和国の活動が終わりを告げようとしていた。 ==独立への道== 1969年、西側諸国からダルマチア海岸を観光に訪れる人々が多数に上り、その94%がスロベニア経由で訪れていた事からスロベニア首都リュブリャナからイタリア、オーストリア国境とを結ぶ高速道路が建設されることが決定、世界銀行から総額3400万ドルに及ぶ融資を受ける事となった。しかし、中央政府はこれをマケドニア、コソボ、モンテネグロなど南部地域への使用する事を決定した。このため、スロベニア政府はこれに大規模な集会を開いて抗議したが、チトー及びカルデリはスロベニアが中央政府へ圧力をかけているとして批判した。しかし、スロベニア政府代表はこれに対して共産主義者同盟内の古参幹部らが実務的官僚主義勢力を形成したことにより、中央集権化を行おうとしていると反論した。この「自動車道事件(ハイウェイ事件とも)」によりスロベニア人がユーゴスラビアの現状に満足していないことが現れていた。 1979年カルデリが死去した事によりスロベニアでは権力闘争が生じていたが、1982年、ユーゴスラビアでの教育プログラムを共通化させることをセルビアが提案したことによりユーゴスラビア内に緊張が走った。スロベニアはこの共通化が民族的アイデンティティを侵害するものとして、1971年に「クロアチアの春 (en) 」と呼ばれる民族運動を経験していたクロアチアと共にセルビアへ抗議を行った。 チトー死後、ユーゴスラビアの国家元首は連邦幹部会議長が輪番で勤めることになったが、これにより中央集権主義者と反中央集権主義者との間での抗争が勃発、民族主義者と見做された人々は裁判にかけられた。さらに1981年、プリシュティナ大学 (en) で学生が蜂起、これは鉱山労働者などにまで波及、深刻な問題と化した。このためユーゴスラビア連邦軍が投入されたが、この騒ぎで1,000人以上が死亡したとされている。スロベニアではこのアルバニア人らを受け入れ、リュブリャナなどではコソボからの難民が商店やカフェなどを開店するなどして生活することとなった。 1986年、セルビア社会主義共和国をスロボダン・ミロシェヴィッチが掌握、「全てのセルビア人が同一の国に住むこと」を主張してクロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナのセルビア人らをセルビアへ統合する「大セルビア」の構想を練りだすとさらに問題が深刻化することとなった。このため、スロベニアでは作家や学生たちが立ち上がり、第12回社会主義青年同盟大会ではチトーへの個人崇拝ではなく、市民社会の実現を目標にすることをイデオロギーとして採用することを主張した。これには軍や党が警告したにもかかわらず世論の支持を得たがこれよりもユーゴスラビア南部の共和国へ対する不満の方がさらに高まっていた。さらにユーゴスラビア内では1979年に始まった第二次オイル・ショックの影響が忍びよっており、1982年以降、消費者物価が年率9%で上昇、物価水準は1989年の時点で1954年の13,85倍にまで達していた。この不満はスロベニア全体に広がりを見せ、中央集権経済への失望が高まっていた。 1987年、スロベニアのリベラル派知識人とカトリック系知識人らが共同して「ノヴァ・レヴィヤ(新評論) (en) 」が創刊され、一党独裁の廃止、民主主義や市場経済の導入、ユーゴスラビアを国家連合へ改変した上でその枠内でのスロベニアの独立などを軸とするスロベニア民族綱領を発表した。これに対してスロベニア共産主義者同盟議長ミラン・クーチャン (en) は反対しないことを表明したため、スロベニアと中央政府の間で対立が生じ、輪番制の国家元首にスロベニア議長が就任することを拒否したが、これはさらにスロベニアと中央政府との対立を激化させただけにすぎなかった。 そのためユーゴスラビア連邦軍はスロベニアの雑誌「ムラディーナ(青春) (en) 」の編集者らが雑誌内で連邦軍の批判を行った際に機密文書を使用していたと主張、1988年に彼らを裁判にかけた。この裁判はリュブリャナで開かれたにもかかわらず、スロベニア語ではなくセルビア・クロアチア語が使用されたため、スロベニアの人々は「ノヴァ・レヴィヤ」で発表された綱領への支持を行うようになった。そのため中央政府は1988年8月、連邦憲法の一部を改正、各共和国への制限を強める事となった。 しかしスロベニアの世論の高まりによりスロベニア共産主義者同盟、スロベニア社会青年同盟らはその影響を受け、スロベニア共産主義者同盟議長、ミラン・クーチャンは尽力を見せた。ユーゴスラビア共産主義者同盟の指導者は中央集権を強めるためにスロベニア世論の操作を試みたが、スロベニアで進む自由化を止める事はできなかった。1989年1月、「スロベニア民主同盟」 (en) が成立した上で7月にスロベニア共産主義者同盟 (en) が指導勢力しての役割を放棄したことにより「民主同盟」は正式に存在が認められることとなった。それに付随してリュブリャナではセルビア指導者ミロシェヴィッチがコソボ自治州に三度、連邦軍を投入した上で自治州の自治権を剥奪してセルビア共和国への統合を行うなどの超民族主義的政策に反感が募っていた。1989年2月、リュブリャナでコソボのアルバニア系住民とスロベニア人らの連帯を表するための大集会が開催されたがこれをミロシェヴィッチが組織的手法で対抗、リュブリャナでセルビア人らによる大集会を開催しようとした。しかし、これはスロベニア政府によって禁止されたため、セルビア共産主義者同盟 (en) はスロベニアへの経済制裁を呼びかけた。 1989年5月、スロベニアの野党勢力が南スラヴ民族と共存しながらも「スロベニア民族が主権を持つ国家」の樹立を目的として「5月宣言」を発表した。これに対して中央政府は圧力を強力にかけたが9月にスロベニア議会が共和国憲法を改正を発議、国際的主権がスロベニアに属する事を規定することが目的であったが、一党独裁制時代に選ばれた議員らは全て賛成、決議された。このため、スロベニアの独立が規定され時間と方法だけが問題となった。スロベニア政府はスロベニアが連邦内での特別な地位となることを望んでいたが、野党勢力らはユーゴスラビアを国家連合にすることを望んでいた。さらに政治的組織としてスロベニア政府は既存の組織「社会主義同盟」内で複数の派閥が活動することを望んでいたが、野党勢力は複数政党制による真の民主主義を求めた。このため、1989年11月末、スロベニア政府は世論の絶大なる支持を元に中央政府が求めていたデノミネーション(新ディナールの導入)や給与凍結を軸とする経済政策を拒否、これに対応してセルビア及びモンテネグロはスロベニアへの経済制裁を行ったが、スロベニアは同じく独立を目指すクロアチアと協力して対抗した。さらにスロベニアの野党であるスロベニア民主同盟、社会民主同盟 (en) 、スロベニア農民同盟 (en) 、キリスト教民主党 (en) 、スロベニア緑の党 (en) らが連合して野党連合「デモス(DEMOS)」 (en) を結成、共産党へ対抗した。 ==そして独立へ== 1991年にベオグラードで開催された第14回共産主義者同盟大会でクロアチアとスロベニアの共産主義者たちはこれまでの教条を捨て去る事を主張したが、これが受け容れられなかったため、クロアチア代表とスロベニア代表らは大会会場から退場、スロベニア代表らはユーゴスラビア共産主義者同盟とは無関係であると宣言した。ミロシェヴィッチは大会をそのまま続けようとしたが、今度はクロアチア代表団の抗議が行われ1月23日、大会は中断されたまま無期延期となった。中央政府首相アンテ・マルコヴィッチ (en) はユーゴスラビアは継続するが共産主義者同盟は政治の舞台より消え去ったと宣言したがすでにセルビアを代表とする中央集権派とスロベニア、クロアチアらを代表とする独立派に分かれていた。 これが明確に現れていたのが1990年4月に行われた初の自由選挙であり、スロベニアでは野党連合「デモス」が55%の得票率を獲得、残りの得票率をそれまで存在していた共産党系である民主改革党など三政党で分け合う形となっていた。首相にはキリスト教民主党党首ロイゼ・ペテルレ (en) が選出され、同時に共和国大統領が直接選挙が行われた上でスロベニアに複数政党制を暴力行為無しに導入した改革派共産主義者ミラン・クーチャンが59%の得票率で当選していた。これら初の自由選挙ではハンガリー系やイタリア系の少数民族らにも一議席ずつ割り当てがあり、スロベニアの人々がスロベニアの独立を目指す「デモス」を支持していたことが明らかになった。これらの結果を受けて大統領クーチャンは共産主義者同盟へ辞表を提出、デモスの代表者らに組閣を要請した。 スロベニア共和国首相ペテレルはスロベニアの民主的、平和的な独立を達成するためにスロベニアの政治的、民族的政策を纏め上げユーゴスラビア連邦政府との交渉を行うことを考えており、1990年12月の議会においてスロベニアの独立とユーゴスラビアからの離脱について国民投票を行う事を決定した。一方でスロベニア国内では過去の「ドモブランツィ」と「パルチザン」らの和解が課題として残っていたがこれは盛大な記念式典が1991年6月開催されたことにより清算へ向かっていた。しかし、連邦政府はこの問題で話し合う気は全く持ち合わせておらず、すでに独立への意思を明確にしていたスロベニア、クロアチアから少しでも領土を獲得するための行動を開始した。このため、クロアチアのセルビア人らはユーゴスラビア連邦軍の協力を得た上でリーカ地方から北ダルマチアにかけてクロアチア政府の政策を拒否、アドリア海へつながる交通路を遮断するなどを行っていた。 スロベニアでは7月2日から国会においてソ連邦のバルト三国の例にならい共和国法が連邦法に優先するなどの「主権宣言」を行い、さらに9月28日には国防に関する分野など全ての分野を共和国が掌握するとした憲法修正が採択され、領土防衛隊がスロベニア政府の指揮下となり、10月8日には新通貨トラールが導入された。これに対してユーゴスラビア連邦幹部会議長ボリサヴ・ヨーヴィッチ (en) は連邦政府の権限を侵すと激しく非難した。しかし、スロベニア大統領クーチャンと首相ペテルレはこれに対して12月23日に行う国民投票においてユーゴスラビアとスロベニアが新たな関係を確立するべきがどうかについて信を問う事を決定、リュブリャナ教区のシュシュタル大司教もこれを支持した。しかし連邦政府首相アンテ・マルコヴィッチはスロベニアが憲法違反を犯しており、必要対抗処置を取ると脅迫した。 結局、投票が行われ、有権者150万人の内、89%が参加、その内の88.5%がスロベニアが主権を持つ事、スロベニアが独立することへの支持しており、さらにはスロベニア以外に住むスロベニア人以外の人々もこれに賛成していた。これに対してスロベニアの独立をあくまでも認める気のないセルビア共和国政府は連邦政府がセルビアの影響下にあることを証明するために16億ドル相当のディナール紙幣を印刷したが、これはユーゴスラビアの経済に致命的な打撃を与えるという皮肉な結果に終わった。 スロベニアは国民投票時に発表した半年の猶予期間を過ぎた1991年6月25日、リュブリャナの議会にてスロベニア共和国の独立を宣言した。しかし、連邦政府はこれを認めず、さらには国際社会においても連邦政府の意向を支持する可能性が存在していた。さらには連邦政府首相マルコヴィッチは独断でオーストリア、イタリアとのそれぞれの国境の確保を命令、スロベニアを孤立させようとした。しかしスロベニアはこれを事前に察知、8万人を動員してこれに備えていた。 ===十日間戦争=== 6月26日、リュブリャナの議事堂前広場でユーゴスラビア国旗がスロベニア国旗に置き換えられたが、27日、前日に展開していた連邦軍はリュブリャナ空港を封鎖、爆撃を加える事により軍事作戦が開始された。連邦軍は最初にオーストリア国境、次にイタリア国境でそれぞれ配置されていたスロベニア人警察官やスロベニア人税関職員を攻撃、マリボル北方のシェンティリの町では激戦が交わされた。 これに対し欧州共同体は素早く反応したがフランス、イギリスがユーゴスラビアの維持を支持、イタリア、ドイツ、オーストリア、ハンガリーらはスロベニアの独立承認を行った上での即時停戦を支持するなど混乱を見せていた。6月28日、ルクセンブルク、イタリア、オランダの外相らは連邦軍がスロベニア内に存在する連邦軍基地へ撤収した後にスロベニアから撤退すること、スロベニアとクロアチアの独立を3ヶ月凍結した上で連邦政府と交渉を行う事、輪番制の国家元首に着任を拒否されていたクロアチアのスティエパン・メシッチを選出することの3つを軸に妥協案を提案した。これら妥協案を元に交渉が重ねられ、7月7日、ついに連邦軍はこの妥協案を受け入れ、スロベニアからの撤退を開始、スロベニアの独立は事実上のものとなった。 この戦いでスロベニアでは54名、連邦側はそれ以上の死者、物的損害を出す事となり、さらにはセルビア人以外の将兵らの脱走も発生していた。結局、スロベニアの独立についてはECの立会いの下、クロアチア沿岸のブリオニ島で継続することとなった。ユーゴスラビア連邦軍が撤退を完了した後、スロベニアは事実上、独立状態と化しており、独自通貨のトラルを発行、12月28日には新憲法が制定され複数政党制、大統領制が採択された。 この新憲法に沿った総選挙が1992年12月に実施され10以上の政党が議席を得る事となったが、第一党は自由民主党が獲得した上で連立与党を形成、首相には自由民主党党首ヤネス・ドルノウシェクが選出、大統領にはミラン・クーチャンが選ばれたが、スロベニアには大きな課題が存在していた。 この課題はスロベニア独立の承認を得る事であったが、ドイツ、オーストリア、ハンガリー、チェコスロバキア(当時)、ポーランド、さらにローマ教皇ヨハネ・パウロ2世らは積極的であったが他のヨーロッパ諸国は消極的であり、特にイタリアは1945年から46年に手放していたイタリア系住民の財産補償問題を掲げ、さらにフランスは親セルビア的観念から連邦を支持、イギリスはこれに距離を置いていた。これらの状況の中、ドイツがECに圧力をかけたことにより1992年1月15日、スロベニア、クロアチアの独立を承認、これを契機に他の諸国も両国の承認を行うようになり、1992年5月22日、最終的に国連加盟国となった。 ==独立後のスロベニア== ===国内=== 1992年4月、新憲法の準備過程の中、民営化方針を巡って諍いが生じたため、DEMOSは崩壊することとなった。さらに自国の評価を巡り、各派閥の対立構造が見られることとなった。1992年12年、正式にDEMOSが崩壊した後の選挙で共産主義同盟系の自由民主党、社会民主連合リスト (en) らと社会民主党 (en) 、キリスト教民主党 (en) らが政権を担うこととなった。 1992年には企業の民営化に関する法案が通過、スロベニアにおいてユーゴスラビア時代から続く企業民営化に拍車がかかることとなり、1993年から1997年の間にスロベニアの国有企業のほぼ全てである1500企業が所有移転され1998年11月の時点で1369社が民営化された。 ===国外=== 1989年よりECへの加盟を表明していたスロベニアは1991年に独立を達成したことにより、EC/EUへの加盟が最大の目標と化していた。そのため、EUの標準と基準をスロベニアに導入するために「EUへの待合室」である欧州自由貿易連合(EFTA)へ加盟、EC/EU加盟へ向けてその体制を整えた。さらにはユーゴスラビアからの独立のために失った市場をヨーロッパに求め、1996年には中欧自由貿易協定(CEFTA)に加盟した。 スロベニア憲法第68条では外国人によるスロベニアの土地購入を禁止していたが、イタリアのシルヴィオ・ベルルスコーニ首相が第二次世界大戦時に失われたイタリアの財産を保証するようスロベニアに求めていたことにより、問題が表面化した。後にスペインの仲介を得たことにより解決へ向かったが、この条文はEU加盟への障害となっていた。そのため、国民投票を行った上でこの条文の修正が行われ、スロベニアのEU加盟への障害が取り除かれることとなった。 さらにスロベニアは北大西洋条約機構(NATO)への加盟も表明しており、1997年3月の世論調査ではEU加盟支持の53%を上回る64%の支持があった。1997年、ポーランド、ハンガリー、チェコ、ルーマニアらとともにNATO加盟寸前にまで至ったが、これはアメリカが反対したことによりこの時は実現しなかった。しかし、1998年から1999年にかけて国連安保理事会非常任理事国を勤めることとなる。。 その後、民主化と市場化を進めたスロベニアは2004年にEU、NATOへの加盟を果たした。さらに2005年には欧州安全保障協力機構(OSCE)議長国を勤めた後、2007年にユーロを導入、さらに2008年1月には東欧諸国初のEU議長国に就任した。 =弘前大学教授夫人殺人事件= 弘前大学教授夫人殺人事件(ひろさきだいがくきょうじゅふじんさつじんじけん)は、1949年(昭和24年)8月6日深夜、青森県弘前市で発生した殺人事件と、それに伴った冤罪事件である。略称は弘前事件。殺人被害者の名を取って松永事件とも呼ばれる。 ==概要== 1949年8月6日深夜、弘前医科大学教授松永藤雄の妻が在府町の寄宿先で刺殺された。弘前市警は近隣住民の無職の男性、那須隆を逮捕し、勾留延長や別件逮捕などを利用して厳しく追及した。那須は一貫して無実を主張したがアリバイはなく、事件の目撃者からも犯人であると断定され、精神鑑定でも那須は変態性欲者であるとの結果が出された。加えて那須の衣服に対する血痕鑑定でも血液の付着があるとの結果が出されたため、同年10月に那須は青森地裁弘前支部へ起訴された。 一審では血液学の権威である東京大学医学部法医学教室教授古畑種基も数学を援用して那須の衣服の鑑定を行い、それには被害者のものと完全に一致する血液が付着していると結論した。これに対し那須の弁護人らは、実施された鑑定には不自然な点があるとして、物証は捏造されたものであると主張した。1951年(昭和26年)に下った一審判決では那須は殺人罪について無罪とされたが、裁判長はその理由を一切説明しなかった。仙台高裁で開かれた控訴審では那須が変態性欲者ではないとする精神鑑定の結果も出されたが、1952年(昭和27年)の控訴審判決は古畑の鑑定を始めとしてほぼ全面的に検察側の主張を容れ、那須は懲役15年の有罪判決を受けた。やがて判決が確定した那須は10年間服役し、この事件は法医学の力が有罪判決に寄与したモデルケースとして知られるようになった。 しかし、事件から20年以上が経過した1971年(昭和46年)になって、事件当時は弘前在住で那須の知人であった男が、自らが事件の真犯人であると名乗り出た。那須は日本弁護士連合会や読売新聞などの協力を得て再審を請求し、その後行われた物証の再鑑定でも、過去の血痕鑑定には多くの批判が加えられた。1974年(昭和49年)に請求は一度棄却されたが、翌年に下された白鳥決定により再審の門戸が拡げられたことにより間もなく再審の開始が決定された。そして事件から28年が経過した1977年(昭和52年)、仙台高裁は物証の捏造を強く示唆して那須に対する殺人の罪を撤回し、事件は冤罪と認められた。だが、その後の国家賠償請求訴訟では国側の過失責任は否定され、那須の全面敗訴となった。 ==背景== 1945年(昭和20年)、第二次世界大戦での敗北によって連合国軍が日本に進駐し、占領政策の一環として学制改革が開始された。これを受けて、1948年(昭和23年)2月に青森県弘前市に設置されたばかりの旧制弘前医科大学(弘前医大)も、併存していた前身校の青森医学専門学校(青森医専)とともに、国立学校設置法によって1949年(昭和24年)5月に新制弘前大学(弘大)の医学部へと再編された。しかし、実際に弘大医学部が開設されたのは翌々年の1951年(昭和26年)4月のことであり、弘前大学教授夫人殺人事件はこの大学再編の過渡期に発生した事件である。 当時の弘前医大で学長を務めていたのは東北帝国大学(後の東北大学)元教授の精神科医、丸井清泰であり、学内では東北大学系の学閥が力を持っていた。同時期に東北大学から赴任してきたばかりの松永藤雄もまた、丸井の片腕として大きな政治力を持ち、同大学教授と大学附属病院内科部長も務めていた。松永は1947年(昭和22年)から弘前市在府町で、妻S(事件当時30歳)と2人の子供たちとともに住むようになった。一家が身を寄せたのは松永が東北大学に勤務していた頃の患者宅の離れで、その付近には古くからの武家屋敷が立ち並んでいた。 その屋敷町の、松永一家の寄宿先から200メートル足らずの距離に屋敷を構えていたのが、下野国を治めていた戦国大名の那須氏直系の家であった。統一那須家から数えて15代目の時代に東京の屋敷を台風で失い、かねてから養子縁組などで縁の深かった津軽家を頼って弘前へ移り住んだ那須家であったが、農地改革で小作地を奪われた当時の那須家は没落状態にあった。この家庭に12人きょうだいの次男(長男は夭逝したので実質的な長兄)として生まれたのが当時25歳の那須隆(なす たかし)である。1943年(昭和18年)に東奥義塾を卒業し、かつては満州国興安総省の開拓団指導員や青森県通信警察官としても働いていた那須であったが、通信警察が廃止されてからは定職に就けず、失業者として暮らしていた。しかし、那須は長兄として家族を養うために警察官に戻ることを考えていた。 ==事件と捜査== 1949年8月3日、松永は仕事のため一週間ほど家を離れる予定で、息子を連れて青森市へと発った。4歳の娘と2人で家に残されることになったので、松永の妻Sは実家から母親を呼び寄せ、夫たちの留守の間を3人で過ごすことにした。 8月6日22時頃、3人は離れ一階の8畳間で「川」の字になって床に就いた。8畳間には2燭光の水色豆電球が点いており、3人は北側からSの母、Sの娘、Sの順に縁側へ面した南側へと横たわっていた。事件が発生したのは、それからおよそ1時間後のことである。 私は『ああ』という叫び声に目を醒して〔S〕を見ると〔S〕の横に蚊帳の中に這っている男を発見したのであります。其の男は年齢二十年過ぎで丈五尺三寸位白色半袖シャツに色はよく記憶ありませんが半ズボンをはいて髪はよくわかりませんが帽子をかぶっていない男がシャがんでいましたから私は吃驚して〔S〕と一回叫んだのであります。私は〔S〕と叫ぶとその男は寝室の前の硝子戸から逃げて行ったので私は泥棒と叫んだのであります。其の男の逃げて行った硝子戸は約一尺位開いていたのでそこから逃げた様であります。其の男は逃げ去ってから私は〔S〕しっかりしろ〔S〕どうしたと抱き起して見ると首のあたりから血がどくどく流れていたのであります。〔中略〕唯娘の〔S〕は私に抱かれながら私は死んでしまうと言って約五分位経て死んで行ったのであります。其の晩は寝る時二燭光の小さな電気を付けていたので娘を殺した犯人の顔は殆ど見ていなかったのでありますが服装だけは大体見たので先程申上げたのであります。 ― Sの母の員面調書(8月8日付)より 23時過ぎ、Sは南の縁側から侵入してきた男に家族の目の前で刺殺された。致命傷は鋭利な刃物で左側総頸動脈に受けた傷であったが、姦淫された形跡はなかった。 当時の上流階級であり、なおかつ近隣でも評判の美女であった大学教授夫人の殺害事件に、地元の世論は沸き立った。所轄の自治体警察である弘前市警は松永一家の交際状況や近隣の前科者などを洗ったが、結果は思わしくなく、加えて医大側が非協力的であったために捜査は難航した。やがて弘前市警は国家地方警察(国警)の青森県警本部に協力を仰ぐことになったが、この2つの警察の間では縄張り争いからの反目が絶えなかった。事件から2週間後に市警が別件逮捕した有力な被疑者も、アリバイの発覚により釈放を余儀なくされた。事件の迷宮入りを新聞が危惧するなか、市警の見立ては変態性欲者犯行説へと傾斜していった。 ===那須への疑惑=== 一方、近隣住民であった那須隆は、事件の報を聞くや翌朝には現場に駆けつけて聞き込みを行っていた。のみならず、那須は犯人と思われる者を何人も警察へ通報し、自ら自転車で走り回っては不審人物を捜索し、自宅の周辺から血痕や凶器を発見しようと骨を折っていた。手柄を立てれば警官への道が開けると考えての行動であったが、役に立たない情報ばかり持ち込んでくる那須に対し、市警は逆に疑惑を抱くことになる。 さらに、那須宅付近からは実際にSのものと同じB型の血痕らしきものが発見されており(ただし、那須のABO式血液型もSと同じB型であり、那須宅付近の血痕と松永宅付近の血痕の間には道のりにして約200メートル、血液の検出されなかった区間がある)、現場に残されていた足跡を事件翌朝に追った警察犬も、臭いを追って那須宅の数件手前の地点まで達していた(ただし、この警察犬は松永宅付近の血痕があった地点には全く反応していない)。しかし、同年に行われた刑事訴訟法の抜本的改革によってさらに強力な証拠を必要としていた市警は、この段階でも那須の逮捕を躊躇していた。 そんな中、8月21日の夕方に那須は東奥義塾時代の後輩の家を訪ね、夕食後に後輩宅を辞した。この際に後輩宅へ那須が預けていったリンネル製の白いズック靴が市警に領置され、そのズック靴は市内の内科・小児科開業医である松木明のもとへ持ち込まれた。市の公安委員にして著名な民俗学者、地元の名士である松木によってズック靴の血痕鑑定が行われ、およそ2時間後に松木は「ズック靴には人血が付着している」と結論付けた(下表参照)。このズック靴を物証として市警は翌22日夕方に那須に任意同行を求め、那須はその時作業着として着用していた海軍用開襟白シャツを着替えながら、それに応じた。 同日19時50分、那須は殺人容疑で逮捕された。同時に行われた家宅捜索で、那須が脱いだばかりの開襟白シャツが、実包のない骨董品の拳銃などとともに押収された。 ===アリバイと目撃証言=== 市警は第一に那須のアリバイを追及した。弁護士への接見も一切許されず、殴る蹴る、トイレに行かせないといった拷問もあったという。しかし那須が主張する事件当夜のアリバイは激しく転変し、そのいずれもが捜査によって打ち崩された。また、家族も那須の確たるアリバイを挙げることができず、近親者である彼らの証言能力自体も疑問視された。9月11日には那須は「事件当夜は自宅にいて、近隣住民が氷を削っている音を聞いた」と主張したが、市警の調べに対してその住民は那須の主張を否定した。 8月31日には、唯一の犯行目撃者であるSの母に対する那須の単独面通し(目撃者に比較対照させない形式の面通し)が青森地検によって行われた。 私が見た犯人とそっくりであります。右側から見た横顔の輪郭も全然同一であり頭髪が少しもつれて前に出ている格好も全く同じであり又後から見た後姿も全く同じで胴の細さ等全く真犯人と思われます。〔中略〕私は余りに今日見せて貰った男と私が見た男と酷似しているのでこの男に娘があのようなひどい目に会ったかと思い遂気分が悪くなった位であります。 ― Sの母の検面調書(8月31日付)より 事件直後の警察に対する調書では「犯人の顔は殆ど見ていなかった」と証言していたにもかかわらず(上記参照)、Sの母は那須が犯人であると断言した。その後も、Sの母の証言は日を置くごとに詳細さを増していった。 ===勾留の延長=== 市警と地検は、押収した証拠物の鑑定や、事件の動機と見なした変態性欲を確認するための那須に対する精神鑑定も行ったが、その結果はなかなか出揃わなかった。逮捕から勾留期限の10日間と延長期限のさらなる10日間が過ぎ、精神鑑定によってさらに認められた30日間の鑑定留置も決定的な証拠の見つからないままに過ぎ去った。 窮余の策として、市警は鑑定留置期限の前日10月12日に銃砲等所持禁止令違反容疑で那須を再逮捕した。那須が子供の頃に玩具にしていた骨董品の拳銃については、9月7日に不法所持について始末書を提出して済まされていたはずであった。この別件逮捕に加え、市警は微罪を理由とした保釈を防ぐために、殺人罪という以前と同じ罪状で10月22日に異例の再逮捕を行っている。だが、那須は2日後に起訴されるまで一貫して自白を拒否し続けた(ただし、「裁判の結果無期懲役になろうが何うなろうが裁判長の認定に任せる。控訴する気持はない」との那須の供述は後の裁判で自白として扱われた)。 ===精神鑑定=== 10月25日になってようやく、長引いていた精神鑑定の結果が地検に提出された。しかしその鑑定を9月10日に嘱託されていた精神科医は、Sと松永を通じて利害関係にあるはずの丸井清泰であった。その鑑定書では丸井は9月10日から10月25日まで那須を検診して鑑定を行ったとしているが、実際に丸井が那須を検診したのはある一日の15分間のみで、検診の内容も「日本一高い山は」「馬の脚は何本」「いろはを答えよ」といった内容ばかりであった。丸井は那須の知人十数人の供述から、那須の責任能力を認めながらも「所謂変質状態ノ基礎状態テアル生来性神経衰弱症」「表面柔和ニ見イナカラ内心即チ無意識界ニハ残忍性『サディスムス』的傾向ヲ包蔵シテ居リ両極性相反性ナル性格的傾向ヲ顕著ニ示ス」と鑑定した。「謹厳」「おとなしい」といった肯定的な評判も、残忍性や女性への興味を抑圧した結果の反動であると解釈された。 丸井に対して嘱託されていたのは那須の精神状態に関する鑑定のみであったが、丸井はさらに鑑定書に以下の文言を付け加えた。 以上ニ細説シ来ッタ如ク精神医学者、精神分析学者トシテ鑑定ハ凡テノ事実ヲ各方面ヨリ又アラユル角度カラ考察シ被疑者ハ少ナクトモ心理学的ニ見テ本件ノ真犯人テアルトノ確信ニ到達スルニ至ッタ ― 丸井鑑定書(10月25日付)より ===血痕鑑定=== 一方、那須のもとから押収されたズック靴と白シャツを巡っては、さらなる混乱があった。この2つの物証は後に多くの鑑定人の元を行き来することになるが、それらの鑑定を松木に次いで受け持つことになったのが、弘大医学部に包括されながら併存していた青森医専の法医学教室教授、引田一雄であった。那須の逮捕直後の8月24日に医専に持ち込まれた物証について、引田はまずズック靴に対して鑑定を行ったが、松木の鑑定結果に反して血痕は発見されなかった(下表参照)。引田がこの結果を市警に伝えるや、市警は残りの物証を引田の元から引き揚げてしまった。そのため引田は白シャツに関しては肉眼での検査しか行えなかったのだが、その際にシャツに見たのは褪せた灰暗色の汚点で、仮に血であるとしてもかなり古いものであったという(下表参照)。 引田の元から引き揚げられたズック靴と白シャツは、次に国警青森県警本部科学捜査研究所(科捜研)に渡った。しかし、科捜研が9月12日に提出した鑑定書ではまたしてもズック靴から血痕は見つからず(下表参照)、白シャツからはABO式血液型でB型の血液が検出されたものの、これだけではSの血液とも那須の血液とも判別できず、決め手とはならなかった(下表参照)。この間に那須の精神鑑定留置で作られた時間を利用し、地検は再び松木に物証の鑑定を依頼した。松木はある市警技術吏員(鑑識官)を共同鑑定人として10月半ばにズック靴と白シャツの鑑定を行い、両者からはそれまでの鑑定では触れられなかった多数の血痕が新たに発見された(下表ズック靴鑑定・白シャツ鑑定参照)。そして、松木・鑑識鑑定とほぼ同時に、東北大学医学部法医学教室助教授の三木敏行によっても白シャツの鑑定が行われ、この鑑定でもやはり白シャツからは血液が検出された(下表参照)。 決定的であったのは、それらの鑑定で白シャツからQ式血液型でQ(ラージ・キュー)型の血液が発見されたことであった。Sと那須の血液型はABO式でB型、MN式(フランス語版)でM型という点までが共通していた。しかし、Q式ではSがQ型で那須がq(スモール・キュー)型と食い違い、これによって白シャツの血痕はSの返り血であると判断された。 那須の逮捕と起訴の決め手となったのが、松木らの行ったズック靴と白シャツについての鑑定結果であった。しかし、それらの鑑定については多くの疑義が呈されている。 まず、松木が最初にズック靴を鑑定したのは引田の鑑定よりも以前のことであるが、引田はズック靴に鑑定試料の切り取り跡を見ていない。8月の松木鑑定時には血液型の判別は不可能であったとされているのに、那須への逮捕状の請求書では血液型がB型と判定されたことになっている。その一方で、10月4日の再鑑定でも試料不足で判別できなかった血液型が、17日頃の共同鑑定では判別されており、ベンチヂン反応が陰性であったはずの左靴の「斑痕ア」も血液と鑑定されている(下表参照)。さらに、反応には1日程度要するとされていた人血鑑定の結果も、2時間という短時間で得られている。加えて、ズック靴を領置した警官は「なんだかシミがついているからというんで、つばをつけてこすった」と公判で証言しており、このことから那須は、警官の唾液が血液と誤判定されたのではないか、と疑念を呈している。検察側は松木によるこの第一のズック靴鑑定結果を公判に提出するのを拒み続け、結局それが明らかにされたのは再審が開始された1977年(昭和52年)になってからであった。 片や松木の共同鑑定人となった市警鑑識官は、鑑定直後に「那須はシロだ」と知人に漏らしている。鑑識官によれば、白シャツに付着していた斑痕は飛沫痕の特徴である星型痕ではなく、駒込ピペットで垂らしたような洋梨型であったという。さらに、人血鑑定には抗人血清沈降素や遠心分離機が必要であるにもかかわらず、当時の松木医院にあった設備は「試験管が5、6本」であったという。 ==裁判== ===一審=== 白シャツからSと同型の血液が検出されたことただ一点を決め手として、那須は10月22日に銃砲等所持禁止令違反で、同月24日に殺人罪で、青森地方裁判所弘前支部に起訴された。公判は11月1日に開始され、銃砲等所持禁止令違反については争いがなく初日で審理は終わった。しかし殺人については検察側、弁護側双方の主張が対立した。 ===証言=== 那須の無実を訴える弁護側に対し、検察側は那須を「『獣人(イタリア語版)』のような異常性格者」であるとして極刑を求めた。弘前市民の大多数も那須の有罪を疑わず、松永も当時の新聞に対して、那須は遺伝性の異常性格者であり「社会のバチルスの如きもので、社会の進化にとって絶滅すべき存在」であると語ってその処刑を支持している。 一審検察側の立証は、その圧倒的多数が悪性格立証に頼るものであった。検察側は「被告人は変態性欲者であるが」という、起訴状一本主義に反した断定表現で冒頭陳述を開始し、多くの証人を申請してその証明を試みた。ズック靴の預かり主であった那須の後輩は、那須から人の殺し方や足音を立てない歩き方を話して聞かされた、と証言した。後輩の義姉も、夫がいない日に家に上がり込まれて殺人の話を聞かされ、結局半ば強引に家に泊めさせられたが、那須はその晩うなされていた、と証言した。これに対し弁護側は、警官志望者で探偵小説のファンである那須が殺人の話をするのは不自然ではなく、人妻の家に泊まり込むことも変態性欲とは直結しないと反論した。 目撃証人については、公判ではSの母の他にも事件当夜に不審な男を目撃したという近隣住民が幾人も出廷した。男が那須に非常によく似ていたと証言する者もいたが、彼らのうちでそれが那須であると断言した者はいなかった。事件の前年に那須が大型ナイフを持っていたと語った証人もいたが、那須はこれを否定した。 ===第二の容疑者=== 弁護側は、事件発生前の1949年5月から事件後の同年9月にかけて市内で発生し、弁護人の一人である三上直吉(弁護士登録番号23番、当時83歳で県弁護士会の最長老であった)が弁護を担当していた連続婦女傷害事件について、刃物を凶器とするなど本件と犯行様態が似ているとして法廷で取り上げた。しかし、すでに逮捕されて取調べを受けていたその事件の犯人について、本件でも調べを行ったが確たる反証が挙がった、と市警から証言があったため、真犯人の存在についてそれ以上の議論は起こらなかった。後に検察側はこれを「那須を弁護するために自己の弁護する他の事件の被告人を犯人視する主張は弁護人の良識を疑わしめるものである」と批判した。 ===古畑鑑定=== 弁護側は、目撃証言や那須宅周辺の血痕の犯罪性についても不正確性を主張したが、物証となったズック靴と白シャツの鑑定結果についてはさらに厳しく批判した。弁護側は、血痕が付着した犯行当時の着衣を犯人が逮捕日まで毎日着続けることはあり得ない、と主張した。弁護側の証人として出廷した引田も血痕の経年変色の専門家として、白シャツの斑痕は最近のものではあり得ない、と証言した。検察側はこれに対し、引田には本件以前にルミノール検査の経験がなく、加えて引田は共産党のシンパであるため証言に信憑性がないと反論した。 弁護側はさらに踏み込んで、白シャツに付着していた血痕が、引田鑑定の「褪灰暗色」から三木鑑定の「赤褐色」へと時間の経過とともに鮮やかさを増していることを理由に、白シャツの血痕が捏造されたものであると主張した。弁護側は、白シャツの再鑑定を東京大学もしくは慶應義塾大学へ委託して行うことを裁判所へ求め、裁判所がこれを容れて物証の再鑑定を行うよう命じたのが、東京大学医学部法医学教室教授の古畑種基であった。 事件からおよそ1年後に行われた再鑑定で、古畑はズック靴について、斑痕の存在も人血の付着も認められないと結論した(下表参照)。検察側はそれを前鑑定で試料が消費されたためであると反論した。その一方で、白シャツについて古畑が提出した鑑定結果は逆に弁護側を追い詰めることになった。古畑は、白シャツに付着していた血痕はABO式、MN式、Q式、そしてE式(この血液型鑑定が裁判に用いられたのは、日本の司法史上初のことである)の4つの血液型がSのものと完全に一致し、その赤褐色の人血痕は事件現場の畳表の血液と同時期のものであると結論付けた(下表参照)。 血痕鑑定に加えて古畑は、東京工業大学工学部教授の小松勇作の協力の下、ベイズの定理を用いて白シャツの血痕と現場の血痕が同一人物のものであることの証明も試みている。 尚兩者の血痕が同一人の血液に由來するものである確率は、 W 1 = X X + Y = 1 1 + Y X X : 同一人物であつた時の一致率 Y : 一般人の間に出現する頻度 異る人間の血液である確率は W 2 = Y Y + X = 1 1 + X Y の式から得られる。之に從つて計算した値は、 W 1 = 0.985 或は 98.5 % , W 2 = 0.015 或は 1.5 % となる。*9154*ち疊表についている血痕と開襟シヤツについている血痕が同一人の血液である確率は〇・九八五又は九八・五%であり兩者の血痕が同一人の血液でない確率は〇・〇一五又は一・五%となる。理論上〇・九八五の確率であるといふことは實際上は同一人の血痕であると考へて差支へないことを示しているのである。 ― 古畑鑑定書(1950年(昭和25年)9月20日付)より となる。*9155*ち疊表についている血痕と開襟シヤツについている血痕が同一人の血液である確率は〇・九八五又は九八・五%であり兩者の血痕が同一人の血液でない確率は〇・〇一五又は一・五%となる。理論上〇・九八五の確率であるといふことは實際上は同一人の血痕であると考へて差支へないことを示しているのである。 古畑が確率論を用いた鑑定を行ったことに対しては、数学者からも後に多くの批判がなされている。上のように、古畑鑑定書には極めて不完全な形でしか数式が現れず、これを一般的なベイズの定理に復元するためには、まず次のような手順を踏まねばならない。 が成立する。この復元手順については多くの数学者の間で一致がみられる。ところが、上の式は を表しているのであり、この等式は と算出できてしまう。すなわち、古畑が鑑定書で用いているのは事実上の循環論法である。 ===一審判決=== 精神鑑定と血痕鑑定の結果を主な争点として、1年2か月間の審理で30回の公判を重ねた末、傍聴人が廊下まではみ出した法廷で、1951年(昭和26年)1月12日に一審判決は言い渡された。 主文 被告人を罰金五千円に処する。被告人に於て右罰金を完納することができないときは金弐百円を壱日に換算した期間被告人を労役場に留置する。被告人に対する公訴事実中殺人の点については被告人は無罪。 裁判長の豊川博雅は、銃砲等所持禁止令違反についてのみ有罪として罰金刑を科し、殺人については無罪とする判決を言い渡した。しかし、その理由については「その証明十分ならず結局犯罪の証明なきに帰する」とだけ述べて、一切の説明を加えなかった。この手抜き同然の判決に対し、傍聴人からは非難の声が巻き起こり、検事は席を蹴って退廷し、Sの母は傍聴席で卒倒した。 判決に理由が欠けていたのは、仙台高裁秋田支部への転任を控えていた豊川が多忙を極めていたためであったが、この配慮に欠ける判決が控訴審で逆転有罪の原因となったのではないか、と豊川は後々まで後悔し続けることになる(後日検察側が提出した控訴趣意書にも、理由を欠いた判決が刑事訴訟法第378条第4項に違反しているとの主張がある)。無罪判決の理由について後に豊川が語ったところによると、那須は変わり者ではあったが殺人を犯すまでとは思わず、白シャツの斑痕についても古畑鑑定も相当重視したが、斑痕は素人目に見ても引田の言うように古いものに見えたためであるという。 判決後、松永は仙台高検へ宛てた手紙の中で引田の医学者としての能力を批判し、控訴審では自分に鑑定をさせるよう要請した。ほどなく、同年3月を以て青森医専は閉校された。医専の教授たちは自動的に弘大医学部の教授へと横滑りしたが、検察宛ての手紙で松永が予言した通りに、医専の教授陣の中で引田だけが教授会の審査にかけられ、退官処遇となった。 ===控訴審=== 1月19日、検察側は銃砲等所持禁止令違反と殺人の双方について控訴を申し立てた。弁護側は前日の18日に銃砲等所持禁止令違反について控訴していたが、争点を殺人に絞るために20日に控訴を取り下げた。 控訴審は管轄上では仙台高裁秋田支部で開かれるはずであったが、同支部に一審裁判長の豊川が赴任していたことから、公正を疑われることを恐れた仙台高裁裁判官会議は事件を本庁で審理すると決議した。審理は仙台高裁刑事第二部で6月19日から行われ、検察は仙台高検が担当した。 ===再度の精神鑑定=== 検察側は那須が変態性欲者であるとなおも主張し、裁判所に対し再度の精神鑑定を要請した。これを受けて裁判所は東北大学医学部教授の石橋俊実に鑑定を命じ、石橋は8月21日から12月11日までの間の那須への問診と、一審記録を総合して鑑定書を作成した。那須の性格や知人の証言のみならず、既往症や性生活、遺伝歴や家族歴までも調査した結果、石橋は「被告人が変態性欲者であるという断定は下し得ない」と結論した。 この再鑑定結果を受け、検察側は那須の性向を「変態性欲者」から「変質者」へ下方修正し、犯行は変質性に駆られてのものであるとして情状酌量を求めて求刑を無期懲役へ引き下げた。変態性欲者の犯行という見立ては崩れたが、検察側は「動機は犯罪の構成要件ではない」としてその証明を放棄した。 ===新証言=== 控訴審でも一審と同様に現場検証や目撃者の証人調べが行われたが、特段の新事実は得られなかった(なお、この現場検証で裁判長の中兼謙吉は那須に対し「どういう格好でやったのか。おいキミ、ここに来てやってみろ」と発言している)。 しかし、検察側の要請により出廷した松永は控訴審で新たな証言を行った。松永が自身の証言とともに法廷に提出したのは、一審公判における那須の呼吸数の変化の記録であった。一審の間、那須を真後ろの傍聴席からおよそ3メートルの距離で観察し続けた松永は、平常時は1分間に18回から20回程度である那須の呼吸数が、自身に不利な尋問を聞いている際は25回から30回まで上昇した、と証言した。 ===古畑証言=== 松永以外にも、検察側の求めに応じて出廷した古畑は白シャツの鑑定について詳細な解説を加えた。一審と同じく古畑は、白シャツの血痕は98.5パーセントの確率でSのものであると証言し、弁護側が主張した血痕の捏造についても否定した。引田鑑定との斑痕の色の食い違いも、個人の感覚であり問題にはならないと答えた。一審で弁護側が持ち出した「900人の被害者」理論に対しては、白シャツの血痕は動脈から飛散したものが付着したものとみられるが、動脈が損傷したBMQE型の人間が900人もいるものか、と反論した(しかし、鑑定書では古畑はそれを計算に入れていないので、弁護側の指摘が正しかったことになる)。 弁護側から、人血鑑定以前の段階を検査できなかったほどの微量の試料から、かくまで複雑な鑑定が可能であったのか、と追及された古畑は「他の方なら不可能かもしれません。しかし、私なら可能です」と断言した。また検察側も、過去に発生した殺人事件で引田が血液型の誤鑑定を犯していたことを挙げ、引田鑑定と「血液型に関して日本の、否、世界の権威者」古畑の鑑定のどちらを信用すべきかは明らかである、とした。 その一方で、事件直後の捜査で那須宅周辺から発見され、人血とされていた斑痕の数々については、古畑は「すべて血痕の付着の証明はない」と鑑定している。 ===控訴審判決=== 第一回公判から1年足らずが経過した1952年(昭和27年)5月31日、那須に対する判決は言い渡された。 主文 原判決を破棄する。被告人を懲役拾五年に処する。原審押収の拳銃一挺(証一号)はこれを沒収する。原審及び当審における訴訟費用は全部被告人の負担とする。 中兼は一審判決を破棄し、殺人と銃砲等所持禁止令違反の双方で有罪を宣告し、両者の併合罪で懲役15年の判決を言い渡した。殺人の容疑については、 Sの母、近隣住民、知人の証言「裁判の結果無期懲役になろうが何うなろうが裁判長の認定に任せる。控訴する気持はない」との那須の供述那須にアリバイがない点白シャツについての松木・鑑識鑑定、三木鑑定、古畑鑑定の結果ズック靴についての松木・鑑識鑑定の結果那須を変態性欲者とする丸井鑑定の結果事件直後の捜査で那須宅周辺から血痕が発見された点などを総合して有罪の理由とした。控訴審判決はほぼ全面的に検察側の主張に依拠し、特に精神鑑定についての判断は、検察側ですら撤回した丸井鑑定の結果を「経験則に反しない」との理由から受け入れている。 ===判決の影響=== この裁判は、血痕鑑定の結果をほぼ唯一の証拠として有罪判決に辿り着いた法医学上のモデルケースとされ、青森地検弘前支部は、通常は5年で廃棄される裁判記録を若手検事育成のために保管する特別処分を採った。古畑も検察研究所で鑑定について繰り返し講演を行い、那須を有罪に導いた自身の功績を『法医学の話』を始めとした数々の自著で喧伝した。 その一方で、困窮する那須家は度重なる裁判でさらなる負担を受けた。家族は弁護費用のために知人からの借金を重ね、甲冑や古文書など先祖伝来の家宝も売却し、一審終了までには明治から構えていた屋敷さえ売り払った。しかし、移り住んだ先の住居にも投石や塀の破壊が行われ、出前が大量に送り付けられるなどの嫌がらせが繰り返された。弘前で知られた「那須」の名字はいじめや求職での不採用に直結し、妹の一人は8回の転職を余儀なくされた。 ==上告棄却と服役== 鑑定とは、裁判上必要な実験則などに関する知識経験の不足を補うために、指示された事柄を第三者に新たに調査させ、法則やそれに基づく具体的事実判断を報告させるものである。鑑定を行うに当たって必要とされる特別な知識経験は、必ずしも鑑定人その人の直接経験により得たものには限定されない。鑑定人は他人の著書やその他のものから得た知識によっても鑑定を行うことができる。判決から一週間後の6月6日、那須は「逃亡の恐れ」を理由に宮城刑務所仙台拘置支所に勾留された。 弁護側は9月10日付で上告趣意書を最高裁判所へ提出した。その上告趣意としては主に、裁判に無関係な小松の協力を得て行われた古畑鑑定の確率計算、そして公判手続き終了まで一度も弁護側に開示されなかった白シャツを基にした血痕鑑定はいずれも証拠能力を欠き、加えて起訴状の冒頭にある「被告人は変態性欲者であるが」という断定表現も裁判官に予断を与えるものであった、ということが挙げられた。しかし、岩松三郎が指揮する最高裁第一小法廷は弁護側の主張をすべて退けて翌1953年(昭和28年)2月19日に上告を棄却し、那須は秋田刑務所へ収監された。 獄舎の那須はすぐさま家族へ向けて再審請求を訴えたが、元裁判所書記官であり再審の壁の厚さを理解していた那須の父は、真犯人を見つけ出す以外に方法はない、と那須に隠忍自重を求めた。 ===仮釈放へ=== 那須は秋田刑務所で5年間服役し、宮城刑務所へ移監された。秋田刑務所では良好な服役態度から、社会人に準ずる扱いを受ける一級模範囚への特進を異例の早さで提案された。しかし那須は改悛の情を示すことを拒否し、特進を辞退した。宮城刑務所でも那須は謝罪を拒否し続けていたが、当時の分類課長の取り成しによって一級模範囚へと特進した。模範囚であったため仮釈放の機会は幾度も巡ってきたが、更生保護審議会の面接でも那須は犯行を否認し続けたため、仮釈放が却下されることは6回に上った。 しかし、長年の刑務作業で患った脊椎の治療を拒否されたことで獄死の恐怖が募り、服役から10年余りが経過した1962年(昭和37年)8月に末弟が水難事故死したことで那須の心境は変わった。死んでなお、人殺しの兄の祟りと罵られる弟のことを聞いた那須は、7回目の面接を更生保護審議会へ申請した。「君がやったのか」との面接官の問いに那須は「やったことを認めます」と答えたが、「自白は仮釈放のためではないか」との問いには回答しなかった。 しかし、申請は認められた。1963年(昭和38年)1月18日、那須は39歳で宮城刑務所から仮釈放された。那須が獄中で10年間貯め続けた作業賃金は、すべて滞納していた訴訟費用の支払いに消えた。 ==真犯人の出現== 出所後も、那須は縁者を頼って職を転々としながら、かつての証人たちや元の弁護人たちを訪ね歩いたが、結果はいずれも思わしくなかった。弁護人たちはいずれも世を去るか病床にあるかで、弁護側の裁判資料も散逸してしまっていた。その一方で、新情報があると那須に持ちかけてくる詐欺師も少なくなかった。かつての友人も一人残らず失ったが、「自分で自分に強くなればそれでいい」との一心で那須は弘前へ留まり続けた。 やがて那須は地元でも名刺を出さずに済む浴場管理人の職も見つけ、1965年(昭和40年)には遠縁の女性と結婚した。日常生活も安定し雪冤への熱意も薄れ始めた頃の1971年(昭和46年)5月28日の朝、一人の男が那須宅を訪れ、応対した那須の母に「驚かないでください。真犯人が名乗り出ました」と切り出した。「それはXですか」と尋ねた那須の母の言葉に、男は首肯した。 ===真犯人X=== 1930年(昭和5年)に北海道で生まれたXが函館大火に焼け出されて弘前へ移り住んだのは、彼が3歳の時のことであった。子供の頃から那須とは顔見知りで、那須の弟とも尋常小学校で同級であったXは、国民学校高等科を卒業すると同時に15歳で国鉄弘前機関区へ就職した。Xは庫内手から機関助手見習、機関助士へと同期の誰よりも早く昇進し、先輩からの信頼も厚かった。 しかし、1945年に日本が第二次世界大戦に敗戦すると、弘前にも進駐軍向けのダンスホールが林立し、夜毎そこに入り浸るようになったXは乗務に欠勤した挙句国鉄も退職した。その後は家業のミシン修理・販売業を手伝うようになったが、繁華街通いもやむことはなく、戦後に軍部から流出したヒロポンによってXの女遊びには拍車がかかった。やがてXは女性を路上で押し倒したり、ナイフで傷付けたりするようになり、付近の弘大医学部付属病院看護婦寮への侵入を繰り返した。 1949年8月6日深夜、Xはヤスリをグラインダーで尖らせた手製のナイフを携行し、当時松永一家が寄宿していた先の家主の家へと向かった。家主宅には以前ミシンの修理で訪れたことがあったため、そこに若い娘がいることは知っていたが、松永一家が間借りしていることは知らなかった。ただ女性の体に触りたかっただけで姦淫する気はなかった、ナイフも護身用に持っていただけであった、とXは後に語っている。 正面玄関は鍵がかかっていたので侵入を諦め、離れの松永宅へ辿り着いたXは、鍵のかかっていなかった縁側の戸を開けて8畳間へ侵入し、手前で横になっていたSの体に触れようとした。その時、Sが動いた気がしたXは反射的にナイフでSの喉を突いた。直後、子供の泣き声を聞いたXは現場から逃げ出し、途中で現場近くの井戸へ凶器のナイフを捨てようとしたが、現場から近過ぎる、と考え直して翌日に市内の映画館のトイレに投棄した。 そいで雨戸がスッとあいて、身体はいる分だけあけて、膝かぶついて這っていったんだっちゃ。で、ホレ、蚊帳あったもんで、それもスッとあげて、女のひとが寝ていたんだっちゃ。胸のとこに、スッと手やるかなと思ったら、グッと動いたのさ。動いたような気したんだよな。こりゃ大変だ、目覚ましたら大変だって、いきなり、こっち〔右手〕で、グッと刺したのさ、咽喉のどこさ。したら、むこうで、グッと〔首を〕左サねじったもんで、切れだのさ。ボコボコって、水流れるみたいだ音して、そのまま抜いて逃げてきたんだっちゃ。 ― Xに対する再審判決後のインタビューより Xが弘大医学部付属病院看護婦寮への侵入で市警に現行犯逮捕されたのは、それからおよそ1か月が経過した9月3日のことである。Xは拘置所では那須とも挨拶を交わす仲で、那須が自分の罪を被らされていることも知っていた。しかしXは、他の傷害や住居侵入については容疑を認めたが、Sの殺害については死刑を恐れて頑強に容疑を否認した。また、差し入れの弁当殻に忍ばせたメモで拘置所内からアリバイ工作を頼まれていたXの母、そしてX宅に泊まり込んでいた仕事相手もXのアリバイを証言したため、XはS殺害の容疑者から外された。 やがてXは3件の事件について強姦致傷罪や強盗傷人罪などで起訴され、1950年6月に青森地裁弘前支部で懲役10年の有罪判決を受けた。仙台高裁秋田支部での控訴審でも1951年9月に懲役7年となり、やがて有罪が確定したXは青森刑務所へ収監された。那須の弁護に並行してXのこれらの事件の弁護も担当していた三上は、S殺害の真犯人はXであると那須の裁判で訴えたが、その主張は容れられなかった(上記参照)。 5年ほど経ってXは仮釈放されたが、その直後の1957年(昭和32年)11月、またしても女性に対する強盗傷人容疑で逮捕された。一審青森地裁弘前支部で懲役7年の有罪判決を受け、およそ1年後に控訴審で逆転無罪となったが、その2か月後にも少女に対する暴行容疑で逮捕され、やがて不起訴処分となった。これに不貞腐れたXは1960年(昭和35年)2月に実際に女性に対する強盗傷人事件を起こし、最高裁まで争ったが懲役10年の有罪判決が確定し、秋田刑務所へ収監された。 ===告白=== 1963年7月、Xは那須が半年前に仮釈放されたばかりの宮城刑務所へ、秋田刑務所から移監された。二十歳を過ぎてから人生のほとんどを監獄の中で過ごしてきたXは、やがてキリスト教へ傾倒するようになり、同時に自分が罪を背負わせた那須についての自責の念にも駆られ始めた。しかし、かつての事件について公訴時効が成立しているか確信が持てなかったXは、なおも罪の告白をためらっていた。 やがて歳月が流れ、Xにも仮釈放が目前に迫っていた1971年3月8日、Xを含めた数人の囚人たちは刑務所の病舎で、数か月前に発生した三島事件について話し合っていた。囚人たちが三島由紀夫の男気を讃え、その反対に女狙いの犯罪を行ってきたXを非難し始めた時、Xはとっさに、自分が過去に殺人を犯し、その罪を他人に着せて逃れたことを口にした。囚人たちの多くはこれを単なる虚勢ととらえ相手にしなかったが、猥褻図画販売罪で服役していた一人の男、Mがこれに興味を示した。Mにもまた、警察に司法取引を反故にされて望まぬ罪を受けた過去があった。 ほどなくXとほぼ同時期に出所したMは、Xを自らの馴染みの弁護士である南出一雄(元思想検事であり、一審検事とは後輩の関係にあった)に引き合わせると同時に、Xの存在を那須家に伝えた(上記参照)。さらにMは独自の現場検証も行いつつ、読売新聞東北総局で松山事件再審請求についての記事を書いていた記者の井上安正に連絡を取った。以降、弘前事件再審請求へ向けた活動は、X、M、南出、そして井上を始めとした読売新聞記者たちの共同作業で行われることになる。 南出により殺人罪の時効が成立していると保証されたXは事件について詳細に告白を始めたが、南出は読売新聞に対して、再審請求の準備が整うまで一切の報道を差し控えるよう要請した。Xの生活が脅かされて告白が反故にされることを恐れたMと井上も、Xの職場に取材を行い始めた他のメディアからXを匿い、Xに新たな職を世話した。また、Xは那須に対して直接謝罪したいとも話していたが、2人が事前に口裏を合わせたと疑われることを恐れ、南出と井上は決してXと那須を面会させようとはしなかった。一方、那須は自分を陥れたXについて「むしろ感謝している」「人間の偽りのない心に触れた気がします」と語り、決して恨みを述べることはなかった。 ==再審請求== 1か月ほどが南出がXへ聴取を行った頃、他紙への秘匿が限界に達したと判断した読売新聞は、6月30日付朝刊の社会面でスクープ記事を発表した。他紙はこの記事の後を追ったが、当時の捜査関係者に対する取材を充分に行わなかった読売に対して他紙はXの告白への疑惑色を強め、地元紙の東奥日報などは8段抜きで事件の冤罪を否定する連載を開始した。同時期にはXとMがそれぞれ窃盗と職業安定法違反の容疑で拘束され、その取調べの際には、警察から殺人の告白を取消すよう圧力をかけられたという。 「Xにはアリバイがある」「告白は那須への国家賠償目当て」といった批判が続くなか、Mと井上らはかつてXがナイフを捨てたという映画館の跡地も捜索したが、凶器は発見されなかった。だが一方で、当時X宅に泊まり込んでいたXの仕事相手が現れ、事件の犯人はXだと考えていたが、商売に響かぬようにアリバイ工作に協力したと読売新聞に証言した。さらに、事件直後の調べで那須が「近隣住民が氷を削っている音を聞いた」と述べた(上記参照)その住民も、読売新聞の調べに対して、当時自宅で行っていたどぶろくの密造について警察に追及されぬよう嘘をついたが、確かに事件当夜は自宅で氷を削っていたと認めた。 南出は仙台弁護士会の同僚たちとともに30人体制の再審弁護団を結成し、7月13日に再審請求書を仙台高裁へ提出した。また、日本弁護士連合会も9月17日に事件委員会を設置し、正式に再審請求の支援を開始した。日弁連の支援が決定されたこの日、79歳であった那須の父は息子の雪冤を見ることなく世を去った。 再審へ向けた事実調べでは、青森地検が裁判記録を特別に保管していたことが弁護側に有利に働いた。また、輪番制で高裁刑事第二部へ回されるはずであった再審請求も、刑事第二部裁判長はかつて那須に有罪判決を下した控訴審で陪席判事を務めた細野幸雄であるとの弁護側の抗議が容れられ、山田瑞夫が指揮する刑事第一部へと回された。 ===現場検証=== 証人調べと現場検証は、1972年(昭和47年)3月27日から一週間にわたって弘前で行われた。裁判官らも同席した現場検証で、Xはかつての事件現場で自ら犯行を再現したが、この際にXは「廊下の幅はもっと狭かったはず」と疑念を呈している。その言葉通り、現場の離れは1961年の改築で縁側の幅が広げられていた。さらに逃走経路の検証でもXは、途中でナイフを捨てようとした井戸は隣の建物の左側にあると主張した。事前の調査で建物の右側だけに井戸があることを把握していた弁護側は、Xの言葉を単なる記憶違いと思いXを建物の右手へ誘導しようとした。しかしXは「右の方は絶対行かないですから、右の方は関係ないですから」とそれを無視して建物の左手を掘り返させ、そこからは隣の家主すら20年間その存在を知らなかった井戸の跡が発見された。 廊下の幅や井戸の位置についての供述に加え、Xの証言は現場周辺の引き戸や踏石の状況、そして被害者と犯人の姿勢、位置関係などが事件当時の記録と一致していた。その一方で証言は、現場の床材や窓の状況、そして犯行後に聞いた叫び声の内容などが当時の記録と食い違いを見せた。 ===血痕再鑑定=== かつての裁判で有罪の決め手となった白シャツの血痕鑑定については、検察側と弁護側の双方が新たに鑑定人を立ててその検証が行われることとなり、弁護側は北里大学の船尾忠孝、検察側は千葉大学の木村康の両大学医学部法医学教室教授をそれぞれ鑑定人として申請した。 当初、仙台高検から再鑑定を依頼された木村は、自身が古畑と親しかったため依頼に対しては言を左右していた。しかし、その直後に木村は古畑の門下生筆頭で科学警察研究所所長であった井関尚栄から食事の名目で呼び出され、「いまさら古い事件を引っ掻き回すな」「法医学の権威を守れ」と再鑑定をしないよう圧力をかけられたという。木村はこれに「真実の追究こそが法医学の使命である」と反発し、逆に再鑑定の依頼を引き受けることに決めたと後に述べている。 右靴上部、左右靴底:試料不足のため不可能右靴紐:抗人血家兎免疫血清反応陽性右靴上部、左右靴底の斑痕:血液右靴紐の斑痕:人血全体:ルミノール反応陰性右靴紐:ベンチヂン反応陰性ハトメ部分全体:ルミノール反応で中程度の蛍光靴紐:ベンチヂン反応弱陽性左靴の斑痕イ・あ・い、右靴の斑痕ア・イ・オ・あ‐う:血液左靴の斑痕う、右靴の斑痕ウ:人血左靴の斑痕ウ:B型の人血斑痕イ:BQ型斑痕ロ:Q型斑痕イ:BQ型の人血斑痕ロ:Q型の人血斑痕ハ・ニ:血液 ===科捜研鑑定に対する指摘=== 船尾と木村はともに鑑定書に肉眼的検査の記載がないことを指摘して、犯罪事実の立証にかかわる重大な鑑定において鑑定人には常識が欠けていると批判した。また、血液予備試験と血液本試験を行って陽性反応が出た以上、斑痕を血液と見なすことに異論はないが、人血鑑定が行われていないため鑑定としては不適切である、とも指摘した(科捜研が人血鑑定について言及した補充報告書は、証拠として提出されていなかったとみられる)。加えて木村は、「B型の血液」という結論の表現自体は誤りではないが、より誤解を招かないためにも「人血であるかどうかは分からない」と鑑定書に記載すべきであったと後に批判している。 ===松木・鑑識鑑定に対する指摘=== 船尾は、松木らが鑑定に使用した試料量はQ式血液型の検出限界を下回っていたはずと指摘し、加えてQ式血液型自体についても、三木が1967年(昭和42年)に発表した論説で「検査成績の再現性に難点があり、証拠として取上げるのは現在のところ無理であろう」と述べていると指摘した。 一方木村は、松木のかかわった鑑定がすべて血液本試験を欠いていることを指摘し、松木には予備試験で陽性反応が出ることと血液であることの区別がついていないと批判した。さらに、人血鑑定に用いられた抗人血家兎免疫血清反応(抗人血清沈降素反応)も、本試験を欠いた利用ではヒト由来のタンパクに反応した可能性を排除できず、無意味であると指摘した。加えて松木・鑑識鑑定書には「斑痕ハ」について「血液反応を示した」「血液反応を行なわなかった」という相反する記述が同居しており全く意味不明である、と批判した。さらに後には、予備試験すら行われなかった「斑痕イ」以外の斑痕が人血や血液と結論されている点についても批判した。 一方その頃、松木は仙台高検に対し覚書きを提出し、白シャツについての鑑定はすべて共同鑑定人の市警鑑識官が行ったものであり自分は清書と捺印しかしていない、と弁明した。これに対し市警鑑識官は、自分こそ原稿の清書しか行っていないのであり、鑑定は松木によって行われたのだと反論している。 ===三木鑑定に対する指摘=== 船尾は、三木が鑑定に使用した試料量も松木・鑑識鑑定と同様にQ式血液型の検出限界を下回っていたはずと指摘した。検察側証人として出廷した三木はこれに対し、Q型抗原は反応に個人差が大きいため検出限界は一概に定められないと反論した。 反対に木村は、基本的には三木鑑定は適正妥当であると弁護し、Q式血液型の検出限界についてもABO式のそれと大差ないので問題にはならない、と後に語った。ただしさらに後の著書では、三木鑑定そのものは全く正しい妥当な鑑定であるが、市警による嘱託内容自体が「付着せる人血痕の血液型」と記載されているように科捜研鑑定と松木・鑑識鑑定の結果を前提としているので、その両者が適正な鑑定でない限りは三木鑑定の結論の正確性は保証されない、と述べている。また、人血であることを前提に鑑定を行うのであれば、科捜研鑑定でも松木・鑑識鑑定でも鑑定されていない「斑痕ホ」を試料に選ぶべきではなかったとも批判している。 ===古畑鑑定に対する指摘=== 船尾は、MN式血液型の検出可能期間は先の三木論説にあるように最長半年程度であり、事件から1年以上が経過した時点での古畑鑑定で正確な判定は行い得ず、E式血液型に関しても試料量は検出限界を下回っていたはずと指摘した。 また、古畑鑑定は試料の不足を理由に人血鑑定以前の段階をすべて省略している。これについて古畑は、Q型抗原とE型抗原がヒト血球以外から発見されていない以上、それらに凝集素が反応を起こした、すなわちQ型とE型と判定された時点で人血であることは確定されるので、鑑定の手続きに問題はないとした。これについて木村は、抗E凝集素がヒト血球の他にもヒト、ヤギ、ヒツジ、イヌの唾液などに反応する時点でE式血液型についての古畑の主張する前提は崩れており、Q型抗原についてもそれがヒト血球以外から発見されていないのはあくまで現時点での研究成果に過ぎない、と指摘した。また、古畑は鑑定の結論部分で自らの行ったMN式とE式の鑑定に以前の鑑定結果であるABO式とQ式の鑑定結果を合成しているが、その以前の鑑定結果の入手元が不明であるとも指摘した。 これらの指摘に対し、1971年の暮れから脳卒中により入院生活を強いられていた古畑当人に代わって、鑑定で助手を務めた医師が出廷し証言を行った。それによれば、古畑鑑定を実際に行い、鑑定書を作成したのは助手であり、古畑はそれを清書する程度しか行っていなかったという。 1934年(昭和9年)にQ式血液型を発見した今村昌一と、翌年にE式血液型を発見した杉下尚治は、ともに金沢医科大学時代の古畑の門下生である。 Q式血液型はブタの血清から、E式血液型はウナギの血清からそれぞれ作成する抗原で判定する血液型である。しかしQ式血液型は日本国外では全く存在を認められず、1927年にオーストリアのカール・ラントシュタイナーにより発見されていたP式血液型(英語版)と同一のものであるとみなされた。やがて1965年(昭和40年)頃から日本の法医学界にも同様の認識が広まり、さらに抗原の由来によっては判定結果にぶれが生じるという欠陥もあったため、やがて法医学の教科書から姿を消した。E式血液型に至ってはそのような独立形質自体が存在しなかったことが判明し、Q式血液型と同様にその存在を否定された。 ===請求棄却と異議申立て=== 再審請求からおよそ3年が経過した1974年(昭和49年)6月、弁護側は高裁に最終意見書を提出した。その中で弁護側は、現場検証でXが未知の井戸の存在を指摘したことは秘密の暴露にあたると主張し、Xの犯人性を強調した。さらに、過去の裁判での事実認定の変遷、那須の名前入りの不自然な実況見分調書(注参照)、逮捕後の長期拘束、2人の再鑑定人の主張、そして那須が仮釈放すら辞退して25年間無実を主張していることを補強材料とした。その翌月に提出された検察側最終意見書では、Xの告白が確定記録と一致したとしてもその信憑性は高まらない、とされた。 約半年後の12月13日、仙台高裁刑事第一部は再審請求を棄却した。那須は落胆を隠さずに「もう日本の司法は何も信用できない」と繰り返したが、250ページに及ぶ決定理由書は、南出も認めるほどの綿密な審理を伝えていた。 棄却決定はその理由の中で、Xの告白の特に廊下の幅についての部分が「裁判記録や第三者では知り得ないことで信憑性がきわめて高い」としたが、Xが事件当時現場近くに住んでいたことを考えれば秘密の暴露とは言い切れない、とした。ズック靴の血痕については「付着を証明するものは皆無」とし、那須の「変態的性格」についてもはっきりと否定された。しかし白シャツの血痕鑑定については、白シャツにSのものと完全に一致する血液が付着しており、那須の側はそれに対する反証を持っていない、という古畑鑑定を全面的に受け入れた判断となった。結局、結論としては「有罪判決は疑わしいが、無罪を証明する明白性を欠く」というものに終わった。主文の最後で、決定は通常3日間である異議申立て期限をさらに3日間延長した。 これを受けて12月19日、弁護側は仙台高裁刑事第二部へ異議申立てを行った。だが老齢の南出は「日本の再審制度は無きに等しい」と嘆き、悲嘆のあまり新たな弁護を引き受けなくなった。 ===白鳥決定=== しかしその半年後、第三の事件に対する判決が再審の門を開いた。1975年(昭和50年)5月20日、岸上康夫の指揮する最高裁第一小法廷は白鳥事件の再審請求を棄却したが、その際に再審開始に要する新証拠の明白性について「確定判決における事実認定につき合理的な疑いを生ぜしめれば足りる」「『疑わしいときは被告人の利益に』という刑事裁判における鉄則が適用される」として、その基準を大幅に引き下げる判断を下した。世に言う「白鳥決定」である。 これを受けて10月14日、弁護側は仙台高裁に、白鳥決定を踏襲し「疑わしきは罰せず」の原則をこの再審請求にも適用するよう補充書を提出した。古畑鑑定を完全に覆せずとも、Xの告白でそれを切り崩すことで再審を開始させるとの方針を弁護側は固めた。そして年が明けた1976年(昭和51年)1月29日、三浦克巳裁判長が指揮する高裁刑事第二部は異議申立てについて事実調べの開始を決定した。 同年7月13日、高裁刑事第二部は原決定を取消し再審を開始すると決定した。 ==再審== 4万字を超す再審開始決定の理由では、Xの告白は客観的証拠とも符合し信憑性が高く、また白シャツの斑痕が鑑定を経るにつれて変化していることへの説明がない点などが指摘され、「疑わしきは罰せず」の原則を適用すべき事案であるとの説明がなされた。この決定を下した三浦は、17年前にXに逆転無罪判決を言い渡した仙台高裁秋田支部裁判長その人であった(上記参照)。検察側は特別抗告を断念し、再審公判は9月28日に開始された。 検察側は、Xの告白は虚偽であり、再鑑定の結果も弁護側に都合のいい部分の切り貼りに過ぎないと主張した。一方で、検察側は1977年1月に、ズック靴に関する松木の単独鑑定書を事件から28年経って初めて法廷に開示している(上記参照)。対する弁護側は一日も早い控訴の棄却を求め、検察側に自発的に控訴を取り下げることも求めた。那須も裁判所に対して「無実の者が苦しむようなことは二度と起こさないでほしい」と証言した。また、法廷に立ったXは「一日も早く那須さんを無罪にしてやって欲しい」と語った。この時、那須とXは25年ぶりに一度だけ顔を合わせ、その後は二度と出会わなかった。 ===再審判決=== 月一回のスピード審理による4回の公判の後、2月15日に再審判決は言い渡された。 主文 原判決中殺人の点に関する本件控訴を棄却する。仙台高等裁判所が昭和二七年五月三一日被告人に対し言渡した確定判決中銃砲等所持禁止令違反の罪につき、被告人を罰金五、〇〇〇円に処する。原審未決勾留日数中その一日を金一、〇〇〇円に換算して右罰金額に満つるまでの分をその刑に算入する。 判決では、ズック靴に対する松木鑑定は「矛盾しかつ杜撰な点が多く認められる」、丸井による精神鑑定も「個々の資料に対する検討が不徹底で、全般的に独自の推理、偏見、独断が目立ち、鑑定結果に真犯人まで断定するに至っては、鑑定の科学的領域を逸脱したもの」として、いずれも退けられた。那須宅周辺の血液も事件との結び付きが否定され、Sの母による目撃証言も「憎しみが強く働き先入観に大きく左右された疑いが極めて濃厚」とされた。 白シャツの斑痕については、 先づ前記古畑鑑定によれば、本件白シャツに附着していた血痕は、前記畳表に流出した被害者の血液と同じ「赤褐色」を呈した血痕であったというのであるから、被告人は被害者の返り血を浴びた本件白シャツを、逮捕時までそのままの状態で着用していたことになるのである。しかも被告人はそれを家宅捜索にきた警察官の面前で何ら悪びれることなく脱ぎ捨て、他の衣類と着替えたうえ警察署に同行していることは前記のとおりである。殺人を犯した犯人がこのような行動に及ぶということは全く考えられない、有りうべからざる行動である。 〔中略〕 本件白シャツに認められる前記B、C、F、I、J、Kの六点の斑痕の状況は相互に極めて不規則、不揃いで一見して「噴出」または「迸出」した血液が附着したとは到底考えられない不自然な状況にあることが認められる〔中略〕。 〔中略〕 これを要するに昭和二四年一〇月一九日付松木・〔鑑識〕鑑定ならびに三木鑑定および昭和二五年九月二〇日付古畑鑑定の結果本件白シャツ附着の血痕が被害者の血液型と同じB・M・Q・E型であったという結論を導き出した当時の斑痕の色合いと、これを押収した昭和二四年八月二二日当時の斑痕の色合いとの間に色合いの相違が瀝然としていることは疑いなく、この点は大きな疑問としなければならない。 〔中略〕 このようにみてくると、本件白シャツにはこれが押収された当時には、もともと血痕は附着していなかったのではないかという推察が可能となるのであり、そう推察することによって始めて〔ママ〕前記 (1) ないし (3) の疑問点即ち被告人が右シャツを平然と着用していたことも疑問でなくなり、「噴出」または「迸出」血液の附着が不自然であるという疑問点も解消し、色合いの相違という重大な疑問も氷解する。要するに血痕の附着を前提とする限り叙上の各疑問点を解明する必要があり、この解明ができない以上疑問を止めたままこれを事実認定の証拠に供することは許されず、また確率の適用もその前提を欠き全く無意味となるのであるから、結局本件白シャツ附着の血痕をもって被告人の本件犯罪を証明する証拠に供することはできないといわなければならない。 としてこれを否定し、「押収された当時には、もともと血痕は附着していなかったのではないか」と述べてその捏造を強く示唆した。 那須の容疑については「本件一切の証拠を検討しても本件が被告人の犯行であることを認めるに足る証拠は何一つ存在しない」と結論し、Xの告白についても 検察官は〔X〕の供述の信憑性に深い疑惑の念を抱いているが、かりに〔X〕が全く本件にかかわりにない人間であるとすれば、その供述するところはすべて虚偽架空の事実を供述していることとなるのであり、それにしてはこれまで述べてきたようにかくまでに微細な点に至るまで客観的証拠と合致するような供述をすることは到底できるものではない。〔中略〕〔X〕の供述には全体として真実性を認めるに十分であり、告白の経緯についてもその真実性を首肯することができるので、当裁判所は以上の事実に前記第一において述べた本件を被告人の犯行と認めるに足る証拠がない事実ならびに〔X〕は真犯人を名乗りでて以来棄却審、異議審ならびに当審に至るまで一貫して自分が真犯人である旨不動の供述をしている事実に照らし、本件の真犯人は〔X〕であると断定する。 とされた。検察側は期限前日の28日に上告を断念し、判決は確定した。 ===無罪判決後=== 無罪が確定した日、那須は自宅の玄関に、事件以来掛けることのできなかった表札を再び掲げた。8月30日には刑事補償として1399万6800円(4378日の拘禁日数から換算すると1日当たりおよそ3200円)を受け取った。この刑事補償は、亡父の墓代を除いたすべてが再審費用と後の国賠訴訟費用に充てられた。一方のXは判決後に変心し、「もう那須の顔を見たくない。無罪判決をもらっても、俺にはなんのあいさつもない」と苛立ちを露わにした。松永は「判決通り那須さんが無実なら、家族も含めて本当にお気の毒に思う」と語り、元市警捜査課長は、当時自身の潔白を証明できなかった那須を非難した。 Xの存在をいち早く察知し、5年9か月にわたる追跡取材で事件の再審に貢献したことを讃えられ、井上は日本弁護士連合会から報道関係者として初めて感謝状を贈られた。その後も井上は日本新聞協会賞や菊池寛賞を相次いで受賞し、取材活動のエピソードは1992年(平成4年)にドラマ化もされている。 かつて古畑が那須の有罪を自身の功績として喧伝し、再審までに24刷を重ねていた著書『法医学の話』について、ほどなく版元の岩波書店は「文脈に疑問がある」として出品を停止、絶版とした。弘前事件と同じく古畑の鑑定が有罪の証拠とされ、被告人らに死刑判決が下っていた財田川事件、島田事件、松山事件についても、後に3件すべてが再審で無罪となった。 ==国家賠償請求訴訟== 再審により無罪判決が確定した場合であっても、元の裁判において裁判官の行為に国家賠償法第1条第1項が定める違法を認め、国の損害賠償責任を認めるためには、その裁判官が違法または不当な目的で裁判をしたなど、職権をその趣旨に明らかに背いて行使したことが認められなければならない。再審により無罪判決が確定した場合であっても、公訴の提起と追行の際に各証拠資料を総合してなお合理的な判断過程により有罪の嫌疑があった場合は、検察官による公訴の提起と追行は、国家賠償法第1条第1項が定める違法行為に当たらない。10月22日、那須は国家賠償を求めて青森地裁弘前支部へ提訴を行った。再審と同じく南出を中心とした原告側が請求したのは、那須当人と9人の親族、そして亡父についての総額9759万5900円の賠償であった。 那須側が主張した公務員の不法行為は、まず捜査機関が物証を捏造した上で虚偽の実況見分調書と鑑定書を作成し、次に検察が違法な見込み逮捕、勾留を行い、また物証の捏造を知りながらそれを無視して一部の資料を隠蔽し、そして高裁と最高裁が一審の無罪を深く検討しなかったことにより職務上の注意義務を怠った、というものであった。 物証の捏造を強く主張する那須側に対して、被告となった国側は、松木・鑑識鑑定によるズック靴と白シャツの鑑定結果には「何ら疑義を差しはさむ余地は存しない」とその正確性を改めて強調した。のみならず、白シャツについての松木・鑑識鑑定が実際に行われたのは1949年8月23日頃のことで、その後白シャツは松木のもとから直接科捜研へ引き渡されたのであり、引田が白シャツを目にしたというのは虚偽である、という全く新たな主張も展開した。 ===部分勝訴=== 事件の冤罪性自体を否定する国側に対し、1981年(昭和56年)4月27日に裁判長の矢崎博一が申し渡した判決では、ズック靴と白シャツについての鑑定の信頼性は完全に否定され、那須を犯人とみるべき証拠が何一つ存在しない状況で起訴に踏み切った一審検察官には注意義務違反の違法があったと認定された。戦後に発生した冤罪事件で検察官に過失責任が認められたのは、これが初のケースである。しかし捜査機関の不法行為については認められず、控訴審裁判所の判断についても自由心証主義の範囲内にあるとして違法性の訴えは退けられた。親族への賠償請求についても、那須の無罪によって精神的苦痛はすでに慰謝されているとされた。 最終的に那須当人にのみ認められた賠償の額は、拘禁中の逸失利益272万9201円に精神的苦痛を慰謝するための2000万円と弁護費用の87万円を加え、そこから那須側によって控除が求められていた刑事補償額の1399万6800円を差し引いた960万2401円となった。 ===逆転敗訴=== 国賠訴訟一審は那須側の部分勝訴となったが、那須側は裁判所の過失や親族に対する賠償が認められなかった点、そして物価の変化を考慮しない賠償金の算定を不服として、国側は判決そのものを不服としてともに控訴した。だが、1986年(昭和61年)11月28日に仙台高裁裁判長の輪湖公寛は、言い渡した判決で那須側の主張をすべて退け、一審で認められていた検察官の過失責任も否定した。裁判官と検察官が故意に職権を逸脱したとは認められず、むしろ有罪判決の確定を避けられなかった弁護側に責があったとする、逆転全面敗訴であった。 那須側は最高裁へ上告したが、香川保一が指揮する第二小法廷は1990年(平成2年)7月20日に上告を棄却した。この判決は、裁判官の不法行為については、控訴審と同様に1982年(昭和57年)の民事判例をひいてそれを否定するものであるが、これは1982年判例が刑事事件および再審無罪事件にも適用される、とした点で新たな最高裁判断となっている。しかしこの判断に対しては、1982年判例が控訴せず一審で確定した民事事件であるのに対し、弘前事件が再審により原判決が無効とされた刑事事件である、という相違点を無視して判例を踏襲しているとの批判がある。検察官の不法行為については、1982年判例が検察官の責任に対しても適用されるとしていた控訴審の判断は退けられた。しかし、事実認定においては、最高裁判決は1982年判例に基いた控訴審のそれを判断の基礎として検察官を免責している。 有罪を支えた証拠が多大の疑問を断言されているこの事件においてすら、国家賠償責任を認めていないこの判決は、冤罪被害者の救済と冤罪防止の観点からは極めて厳しい判例の一つとなった。 殺人犯でも告白しているのに、警察、検察、裁判官の誰一人として謝罪した者がいない。千人の指差すところ、病なくして死す、と云う世間の指弾、万人の白眼視に耐えに耐え、忍びに忍んだ両親、弟妹の長い屈辱の日々に対し、判決は、それは世間が悪いのであって親、弟妹として当然受ける事であり、受忍の限度にある。再審で無罪になったからそれで、慰謝されたと解すべきであり、それで足りる、と慰謝料の請求を棄却しています。この不当な裁判に真実は復讐する。必ず真実は復讐する。 ― 1991年(平成3年)3月に那須が知人に宛てた手記より ==その後== 国賠請求の棄却後、那須は講演などで自身の冤罪体験を語りながら、国家賠償法の改正や陪審制の導入を求めて活動した。地元からは名誉市民に推す声もあったが、辞退した。 Xは自らが真犯人であることを告白した後、仙台市内で小さな廃品回収会社を興し、妻とともに勤勉に暮らしていた。しかし、1984年(昭和59年)4月に中学校3年生の女子生徒3人に金を払って猥褻行為を働いたとして逮捕され、青少年保護条例違反で罰金刑を受けた。この事件が殺人の過去とともに各紙で一斉に報じられたため、前科が知れ渡ったXは廃品回収の提携先からも契約を打ち切られた。 2004年(平成16年)には、那須氏ゆかりの地として知られる栃木県大田原市に道の駅「那須与一の郷」がオープンした。この道の駅に那須与一を伝える伝承館が併設される運びとなった際には、裁判費用として売却されることを免れ大田原市へ寄託されていた那須家の家宝など701点も、その収蔵品として収められた。そして2007年(平成19年)10月に「那須与一伝承館」が開館すると、那須はその名誉館長に就任している。 2008年(平成20年)1月24日、「私が死んでも、誰にも知らせないで欲しい」と言い遺し、那須隆は84歳で世を去った。 =どんぐりころころ= 「どんぐりころころ」は、大正時代に作られた唱歌、広義の童謡。作詞青木存義(1879年 ‐ 1935年)、作曲梁田貞(1885年 ‐ 1959年)。七五調四行詩のいわゆる今様の形式の作品であり、2番まである歌詞は起承転結のはっきりとした物語性のある構成となっている。青木の没後、終戦直後の1947年(昭和22年)に小学校用の教科書(音楽)で使用されたことを契機に広く歌われるようになり、その普及ぶりから金田一春彦に「日本の三大童謡の一つ」とも評されている。2007年(平成19年)に「日本の歌百選」に選ばれた。作詞、作曲ともに著作権の保護期間が満了しており、パブリックドメインとなっている。 ==曲の来歴== ===発表時期=== 大正時代に青木存義によって作られた唱歌集『かはいい唱歌』(共益商社書店)が初出である。発表年は2説ある。これは初出の『かはいい唱歌 二冊目』の奥付が、初版本とその後の重版本とで異なることに起因する。巷に比較的現存している部数が多い重版本では、「一冊目」と同一日付の「大正十年十月」発行との記載があり、この1921年(大正10年)10月であるとする説が主流である。もう1説は、初版本に由来する。青木の故郷である松島町では昭和後期から青木の歌を歌い継ごうとする動きが活発となり、そうした活動を通じて地元の郷土史家らが青木家の関係者から本作が掲載されている「二冊目」を譲り受けた。この初版本の奥付には「大正十一年五月」との記載があるとされる。 ===制作状況=== 本作品が掲載された『かはいい唱歌』は「幼稚園又は小学校初年級程度」の子どもを対象として作成されている。青木は当時「文部省図書監修官」及び「小学校唱歌教科書編纂委員」の任にあったものの、この唱歌集は私的に民間の出版社から出したものであり、いわゆる文部省編纂の「文部省唱歌」にはあたらない。「一冊目」「二冊目」ともに10編、計20編が収録されており、本作品は「二冊目」の第7番目に掲載されている。作詞は全て青木自身であり、青木の詞に曲をつけた作曲者は計12名、本作品の作曲者である梁田貞は『兎と狸』と併せ計2曲の作曲を担当している。青木の前職は東京音楽学校の教授であり、作曲者は主にその在学生、卒業生、そして同学校で教鞭を執った者で構成されている。梁田も卒業生である。だが作曲の依頼が、青木自身によって成されたものかは不明である。青木と梁田の個人的接点が見つからないため、作曲者の選定及び依頼は、青木ではなく当時音楽関連の書籍を多く出版していた出版社(共益商社書店)が主導で行ったのではないかと考える研究者もいる。 ===教育現場での使用=== 戦後においては一般に広義の童謡にカテゴライズされる本作品は、初出本の題名にもあるとおり青木自身は「唱歌」であるとし、「学校や家庭で」歌ってもらえれば本懐であるとしている。しかし発表当時の教育現場では、本作品を歌うことは原則上はできなかった。これは1894年(明治27年)12月に出されていた文部省の訓令により、小学校の授業で使用できる唱歌は文部大臣の認可を受けたものに限ると制限が加えられていたためである。本作品が小学校で正規に歌うことが可能となったのは、昭和に入ってからである。昭和初期は文部省自らが新たな唱歌を教材として提供することは殆どなく、民間が検定出願した作品も15年に1度許可される程度で、教育現場では新鮮味の失せた古い楽曲での指導を余儀なくされていた。そうした状況を改善するべく東京高等師範学校付属小学校の教師らが、教材として使用できる楽曲を探し集め、1,600余りの曲から厳選した101曲を1927年(昭和2年)に文部省に一括して出願し、翌1928年(昭和3年)の3月14日に71曲が認可された。この71作品のうち、「尋常1、2年程度」として認可された曲の1つが本作品である。 ===教科書への掲載と急速な普及=== 本作品の普及において、大きな転機を迎えたのは終戦直後である。終戦によって1945年(昭和20年)に国定教科書が廃止され、教育現場では墨塗り教科書、次いで1946年(昭和21年)に国定教科書から不適当な教材を削除した暫定教科書を発行して混乱期をしのぎながら、戦後の新しい教科書作成を急ピッチで進めていた。終戦から2年後の1947年(昭和22年)に文部省は、俗に最後の国定教科書とも呼ばれる「文部省著作教科書」を発行。「音楽」の教科書には、歌曲が各学年22編ずつ収録されており、選曲は刷新され戦前の教科書には登場しなかった外国曲や童謡が大幅に採用された。本作品も小学校2年生用の音楽教科書『二年生のおんがく』の13番目の歌曲(11月指導用)として初掲載され、これが本作品が急速に世に浸透する発端となった。この文部省著作教科書は、2年後の1949年(昭和24年)に検定教科書が発行されたことにより短い役目を終えたが、楽曲の選定等は民間の検定教科書の雛形とされ、本作品は民間から出版された教科書の多くでも引き続き採用された。その後も本作品は多くの教科書で継続的に使用され続け「日本の三大童謡の一つ」と言われるまでの普及を遂げたが、昭和末期頃から徐々に教科書から姿を消しはじめ、平成期に入って以降の掲載は殆ど無くなっている。 ==歌詞と楽曲== どんぐりころころ ドンブリコお池にはまって さあ大変どじょうが出て来て 今日は坊ちゃん一緒に 遊びましょうどんぐりころころ よろこんでしばらく一緒に 遊んだがやっぱりお山が 恋しいと泣いてはどじょうを 困らせた ※ 2007年(平成19年)に文化庁が発表した「日本の歌百選」掲載時の歌詞に準拠 ===表現手法等=== 本作品が発表された大正期は、漢字に振り仮名を振る形式が主流であり、本作品も題名(団栗ころころ)を含め、全ての歌詞が漢字にルビを振っての記載形式であった。また1番後半部は「今日は! 坊ちゃん一緒に 遊びませう」と括弧で括られ、セリフであることがより明確にわかる表現となっている。しかし昭和期に入り1938年(昭和13年)に内務省警保局から児童の読み物への振り仮名が原則禁止とする指示が出され、戦後においても1946年(昭和41年)の当用漢字表の告示の際に「ふりがなは原則として使わない」とされたことで、文部省著作教科書(前述)掲載時には「山」を除いた全ての歌詞が仮名表記となった。その後も時代や媒体により、漢字、平仮名、片仮名の使用部分は各種の揺れが見られる。 文体は言文一致である。本作発表の数年前の1918年(大正7年)に創刊された児童雑誌『赤い鳥』の影響もあり、当時は大正期の童謡運動の最中であった。しかし青木は『かはいい唱歌』の前書き(「集の初に」)において、「歌詞は、力めて方言や俚語の使用を避けて、なるべく正しい言葉と正しい表現法とによりました。近頃流行の童謡の類に對して感ずる所があるので、特に此の事を申し添えて置きます」と記し、創作童謡とは異なるものであることを強調している。 ===作品テーマと歌詞の内容=== 創作童謡とは一線を画すとする一方で、青木は『かはいい唱歌』の作品は「子供の世界そのものを子供の心で品よく歌ったつもり」とも記している。これは当時の童謡運動の中心人物であった鈴木三重吉が提唱した「芸術味の豊かな、即ち子どもたちの美しい空想や純な情緒を傷つけないでこれを優しく育むやうな歌と曲とをかれらに与えてやりたい」とする思想と実質的に同じ意味だとする研究者もいる。児童文学者の船木枳郎は、本作品は「おとなが発見した童心の世界」が描かれているとし、北原白秋ら当時の創作童謡の担い手の思想とは「本質において異なる」とはしながらも、「世俗の心情にわかりやすい童心だと云うことはできます。児童の情操陶冶に適するとまでは行かないにしても、やや近よっているものであります」と批評している。 歌詞の内容は、青木の幼少時の体験が元になっている。青木は宮城県松島町の大地主のいわゆる「坊ちゃん」として生まれ育った。広大な屋敷の庭には「どんぐり」が実るナラの木があり、その横には大きな「池」があった。青木は朝寝坊な子どもであり、それを改善したいと母親が知恵を絞り、庭の池に「どじょう」を放した。どじょうが気になって、青木が朝早く起きるようになるのではないかと考えてのことであった。本作品は、当時の思い出を元に制作されたと言われる。なお、歌詞に出てくる「どんぶりこ」は池に落ちた音の擬音語だが、「どんぐり」に引きずられて「どんぐりこ」と間違えて歌われることも多い。 ===楽曲=== ハ長調、4分の2拍子である。速度記号は初出はAndante(アンダンテ)「歩くような速さで」が付けられていたが、文部省著作教科書掲載時には「*11853*(4分音符)=60」に変更されている。2拍子ではあるものの基調は16分音符であるため4拍子と混同されやすい。2小節を1フレーズとしたオスティナートが伴奏のパートに配され、単純な旋律ながら主旋律との掛け合いが楽しめる。またオスティナートと同じリズム形を用いて、手拍子等を行えるようにも作られている。梁田の他作品と比べると「ぐっと平明におさえた旋律だが、貞としては珍しいほど軽やかな明るいリズム感」がある作品と評価する研究者もいる。 ==様々な広がり== ===歌碑等=== ====作者に縁の品==== 作詞者の青木の故郷である宮城県松島町では、地元の大地主であった「青木家」の名は記憶されていたものの、『どんぐりころころ』の作詞者がその血筋であることは一定時期までほとんど知られていなかった。彼の故郷での再評価は、没後約50年を経過した1983年(昭和58年)の夏に、青木の遺族と松島町の元職員が、列車で偶然に隣り合わせたことをきっかけに始まった。この際の会話を発端にして翌1984年(昭和59年)4月に松島町内の観瀾亭前庭に大倉石の歌碑が建立された。その3年後の1987年(昭和63年)には、青木の母校でもある松島町立松島第五小学校の正門横にも歌碑が立てられた。松島第五小学校は、青木が幼少時代を過ごし歌の舞台にもなった広大な青木家の屋敷跡に移転して建てられており、敷地内には青木の両親の墓も残っている。 作曲者の梁田貞の故郷である札幌市には楽譜碑がある。梁田の胸像と並んだこの楽譜碑の建立は、1968年(昭和43年)であり、松島町のものよりも歴史が古い。梁田の母校である札幌市立創成小学校校庭に当初は作られたが、2004年(平成16年)の小学校の統廃合に伴い、新たに誕生した札幌市立資生館小学校に移管されている。建立は、梁田の縁の人々によるものであるとされる。楽譜碑には、五線譜に描かれた楽譜とともに2番までの歌詞も刻まれている。 ===その他=== 埼玉県久喜市にある久喜青葉団地では、1974年(昭和49年)の団地造成と同時に開校した久喜市立青葉小学校の通学路でもある童謡の小道に、童謡の歌詞を刻んだ7つの歌碑が作られた。本作品の歌碑もその中の1つである。本作品や作者との直接的な縁はないが、歌碑が建立された当時は、作品内と同様に側に池があったと言われる。また、東日本旅客鉄道(JR東日本)青梅線奥多摩駅の発車メロディに使われている。これは、奥多摩が本作品内で描かれている風景と同じく豊かな自然に囲まれていること、そしてドングリの実がなるミズナラの植樹を推進していることなどから、他世代に親しまれている本作品同様に「多くの方々に奥多摩に訪れていただきたいという思いをこめて」本作品を選んだと言う。 また、本作と同様に七五調四行詩のいわゆる今様の形式をとるテレビドラマ『水戸黄門』の主題歌「ああ人生に涙あり」等の旋律とぴったり一致することから、歌詞を入れ替えて歌う遊び等も知られている。また、セブン銀行のCMソングの替え歌にもなっている。 ===「幻の3番」の歌詞=== どんぐりころころ 泣いてたら仲良しこりすが とんできて落ち葉にくるんで おんぶして急いでお山に 連れてった平成期になってから、上記のような幻の3番が存在するとの噂が徐々に広まり出した。坊ちゃんが泣いたまま終わってしまう2番の歌詞から一転、温かみのある大団円を迎えるこの3番は、青木の母校である松島第五小学校において「いつからか歌い継がれていた」ことも相まって、「幻の3番」としてテレビや新聞等でしばしば取り上げられ知名度を上げた。 しかし、実際にはこの3番は青木とは無関係であり、これは作曲家の岩河三郎が1986年(昭和61年)に3部合唱曲用に本作品を編曲した際に付け足したものである。岩河は作成時に権利関係の届出を行わなかったため、いつからか作者不詳扱いとなってしまっていた。 2004年(平成16年)にNHKの取材に応じた岩河は「童謡はお母さんの愛情を感じさせる音楽だと思います。母の愛情を表現するために、3番を作りました」と付け足した理由を語っている。3番で重要な役目を果たすリスは歌詞に「お母さん的愛情をプラス」させるために登場させたのだという。朝日新聞平成23年10月6日号朝刊の特集では「楽しんで歌ってもらえれば、と思い3番を作った。80歳を過ぎたが、音楽を通じて皆さんに喜んでもらえてうれしい。元気を出してほしい」と語っている。 この岩河の3番に更に落語家の桂三枝がエンドレスに歌えるようにした4番をつけ加え、2007年(平成19年)に創作落語として披露している。 また2002年(平成14年)には、この幻の3番探しの一環で「朝日新聞」が作詞家の荒木とよひさに依頼し、新たに3番と4番を作成している。この他にも全国には様々な3番が存在し「優しいハトさん」が迎えにきてくれる筋立てのものも知られている。 ==この曲を録音した主な歌手== 林幸生、森の木児童合唱団石川梨華(モーニング娘。)、りんね(カントリー娘。)、アヤカ(ココナッツ娘。)タンポポ児童合唱団NHK東京放送児童合唱団 ==編曲== 音階でころころ、転調ころころ…想定外の変奏曲 ‐ 大宝博の編曲。『おもしろ変奏曲にアレンジ! 〜童謡唱歌〜』(ヤマハミュージックメディア)に掲載。 ==参考文献== ===主たる参考文献=== 青木存義 『かはいい唱歌 二冊目』 共益商社書店、1924年。有永壽 『どんぐりころころ物語り』 新風舎、2007年。松島町教育委員会作成 『かはいい唱歌 掲載資料編』 松島町、2004年。 ===その他=== 新聞記事については、脚注に記し省略。 唱歌研究部(東京高等師範学校) 「文部省認可歌曲」『教育研究』第326号、初等教育研究会、1928年、p112‐116。文部省著作教科書 『二年生のおんがく』 文部省、1947年、p36‐38。船木枳郎 『日本童謡童画史』 文教堂出版、1967年、p242‐244。岩崎呉夫 『音楽の師 梁田 貞』 東京音楽社、1977年、p168‐169。金田一春彦 『童謡・唱歌の世界』 主婦の友社、1978年、p89‐91。(財)中央教育研究所 「文部省歌の成立と変遷」『研究報告』No.41(別添解説資料)、1992年、p30‐31。鮎川哲也 『唱歌のふるさと 旅愁』 音楽之友社、1993年、p37‐41。日本放送協会 『ことばおじさんの気になることば』(リンク先は抜粋版) 生活人新書、2005年、p140‐144。上田信道 『名作童謡ふしぎ物語』 創元社、2005年、p72‐87。岩河三郎 『童謡絵巻第3巻』 カワイ出版、2007年、p1‐2,p21‐29,p60。上田信道(文化庁編) 『親子で歌いつごう日本の歌百選』 東京書籍、2007年、p108‐109。 =パラグアイの歴史= この項目では、パラグアイ共和国の歴史について述べる。先コロンブス期の現在のパラグアイに相当する地域には、グアラニー族や狩猟民族が存在していた。1537年にこの地がスペインの植民地となると、スペイン植民地社会とイエズス会によるグアラニー族への布教村落の二重社会が成立し、スペイン統治下で現在のパラグアイ共和国の前身となる領域的な一体感が形成された。グアラニー族が高度な文化を発達させたイエズス会の布教村落が1767年のイエズス会追放によって衰退した後、19世紀に入るとパラグアイは他のイスパノアメリカ諸国に先駆けて1811年に独立を達成した。独立後のパラグアイは南アメリカで最も産業化の進んだ国家となったが、1864年から1870年まで続いた三国同盟戦争によって国家の基盤は完全に崩壊した。その後、社会は停滞したまま20世紀を迎え、チャコ戦争やパラグアイ内戦を経て1954年にアルフレド・ストロエスネルによる長期独裁政権が樹立されたが、1989年にクーデターによって独裁政権は崩壊した。 ==先コロンブス期 (先史時代‐16世紀)== 先コロンブス期の紀元前1000年から紀元前500年頃にかけてアマゾン地方からグアラニー族がこの地に到来した。アンデス山脈の住民のような国家を形成しなかったグアラニー族は、焼畑農業、狩猟、採集などを行って生計を立て、通貨を持たず、一夫多妻制によって築かれたテウイと呼ばれる父系の拡大家族を単位として、物々交換を基盤に階級のない社会を築いていた。グアラニー族の他にもパラグアイには農耕を行わずに生計を立て、食料が不足するとグアラニーを襲撃するチャケニョと総称された住民がおり、グアラニーとチャケニョは互いに敵対していた。 ==スペイン植民地時代 (1537年‐1811年)== 1537年8月15日、聖母の被昇天の日にブエノスアイレスから出発したスペインの探検家によってパラグアイ川の畔にヌエストラ・セニョーラ・デ・ラ・アスンシオンが建設された。先住のグアラニー族たちは、スペイン人と出会うと女性を提供し、共存を受け入れた。1542年にはラ・プラタ地方の地方長官として、ブエノスアイレスが放棄されていたためアスンシオンにカベサ・デ・バカが派遣されたが、風紀の粛正に努めたカベサ・デ・バカは1545年に現地化したスペイン社会の代表者イララ(スペイン語版)によって追放されてしまった。当初グアラニー族たちは共通の敵だった狩猟民との戦いを目的にスペイン人と蜜月関係を築いていたが、1556年にエンコミエンダ制が導入され、グアラニー族がスペイン人に分配されるようになると、それまで「義兄弟」だったグアラニー族とスペイン人の関係は一挙に険悪なものとなり、1579年に起きたオベラーの反乱のように、16世紀後半を通してグアラニー族の反乱が相次いだ。パラグアイでは当初エンコミエンダ制として、グアラニー族の拡大家族制度テピイを基盤に先住民を生涯を通して奴隷労働力とするヤナコナ制が採用されたが、後にヤナコナ制は先住民を一定期間の労働力として使用するミタ制に取って代わられた。 イララの死後、ガライ、エルナンダリアス(スペイン語版)とパラグアイの司令官は替わり、ガライの代にはアスンシオンからの殖民団によってサンタ・フェ(1573)やブエノスアイレス(1580)などの都市が建設された。16世紀後半にはインディオへのキリスト教の布教のために1575年にフランシスコ会が、1588年にイエズス会が到着し、エルナンダリアスはフランシスコ会の布教村落の建設を後押しする一方で、イエズス会の布教村落(レドゥクシオン)に対してはイエズス会の要請を聞き入れ、布教村落内の先住民の自由を認める決定をスペイン王に承認させた。 1611年にイエズス会の強い働きかけによって、インディアス審議会がエンコメンデーロによる奴隷労働からのインディオの解放を定めたアルファロの法令を発令すると、インディオの奴隷労働力を奪われることからこの法令に反対したパラグアイのスペイン人社会とイエズス会の敵対は激しいものとなったが、それでもこの法令によってイエズス会の布教村落に暮らすインディオがエンコミエンダから解放されることが法的に認められた。アルファロの法令の発令以降イエズス会の布教村落は王室の保護の下で大発展を遂げ、以降パラグアイではスペイン人社会とイエズス会の布教村落の二重社会が形成された。1618年にパラグアイからラ・プラタ地方が分離され、ラ・プラタはブエノスアイレスを中心とする独自の司令官区となった。 一方、パラグアイはポルトガルの脅威に曝されていた。ポルトガル領ブラジル(英語版)のサンパウロを拠点とする武装探検隊、バンデイランテの奴隷狩り遠征隊が1629年のサン・アントニオ村襲撃を契機に、グアイラ地方のイエズス会布教村落をも襲撃するようになったのである。このサン・アントニオ村襲撃事件を受けてイエズス会のアントニオ・ルイス・モントーヤ(スペイン語版)はグアイラ地方の12,000人を率いて現アルゼンチンのミシオネス州に撤退し、翌1632年のバンデイランテの襲撃によって以降グアイラ地方はブラジル領(現パラナ州)の一部となった。バンデイランテの襲撃に抵抗したイエズス会はスペインの権力から独自にバンデイランテへの対策を講じ、1641年3月のムボロレーの戦い(スペイン語版)でグアラニー族を率いて約2,950人からなるバンデイランテの侵攻軍を破り、以降バンデイランテの襲撃は小規模なものとなった。その後、1680年にブラジルからのバンデイランテがスペイン領だったウルグアイ川東岸にコロニア・ド・サクラメントを築き、ブエノスアイレスのスペイン人に脅威を与えるようになると、布教村落のグアラニー族はこの時の戦いに3,000人の兵力を供出し、ポルトガルと戦った。 1630年にイエズス会パラグアイ管区長がインディオ保護官に就任することが定められた後、18世紀に入る頃にはイエズス会の布教村落の数は30に達し、最盛期の1730年には人口14万人を数えた。アルト・パラナ川とウルグアイ川の狭間の地域の約10万平方kmに存在したこの30の布教村落は「イエズス会国家」とも呼ばれ、イエズス会士とグアラニー族によって高度な自治が展開された。布教村落の男性は職業に関わりなく戦士として武装し、イエズス会士やスペイン軍の軍人によって指揮され、スペインの戦争に動員された。経済面では、布教村落の土地制度は各家族に割り当てられたアバムバエと共有地のトゥパムバエに別れ、後者がより一般的なものとなった。トゥパムバエでは牧畜やマテ茶の栽培が行われ、布教村落で栽培されたマテ茶は産業に乏しいパラグアイ最大の輸出商品となった。また、経済的に豊かな地域からは地理的に隔絶されていたために、経済の自給自足化と、それを支えるための技術が発達し、綿織物や皮革、木製品などの輸出商品を生産するにまで至った。文化面では、トリニダードの教会のような煉瓦製の教会の建造や、グアラニー・バロックの聖像製作、グアラニー語の辞典や文法書の編纂とグアラニー語そのものの実用言語化、ヨーロッパの音楽の導入といったような文化的な事業が、ヨーロッパ諸国から派遣されたイエズス会士と現地グアラニー族の信徒によって進められた。布教村落のインディオは当時のラ・プラタ地方の一般的なスペイン人よりも高度な医療を享受していると看做されており、より豪華な住居で暮らしていたと考えられる。 1680年にポルトガルによってブエノスアイレスの対岸にコロニア・ド・サクラメントが建設されたことは、ラ・プラタ川流域を巡るスペインとポルトガルの対立を激化させていたが、この対立は、1750年に締結されたマドリード条約(英語版)によって、ポルトガルがコロニア・ド・サクラメントと、実効支配していないフィリピンをスペインに譲渡することと引き変えに、アマゾン川流域と現在のブラジル南部の広大な地域をスペインから獲得するという取り引きを経て解消に向かうことになった。この条約でスペインからポルトガルに引き渡されることとなったウルグアイ川東岸の7つの教化村を引き渡すことは、住民のイエズス会士とグアラニー族の強い抵抗を惹き起こしたが、1754年と1756年のスペイン=ポルトガル連合軍による征討(グアラニー戦争(英語版))によって7つの教化村は強制移住を余儀なくされた。この事件によってイエズス会の権威は低落し、最終的にはカトリック教会からの王権の強化を図った国王カルロス3世によって、1767年にスペイン全土からイエズス会は追放されることとなった。イエズス会の追放によって布教村落の歴史も終焉し、イエズス会に代わって新たな統治者となったフランシスコ会、ドミニコ会、メルセード会はグアラニー族の収奪のみに専念したため、グアラニー族の文化を育んだ布教村落の形態そのものも衰退の一途を辿った。 1776年にカルロス3世が啓蒙専制主義改革の一環としてブエノスアイレスを主都としたリオ・デ・ラ・プラタ副王領をペルー副王領から分離すると、パラグアイも新たに創設された副王領の一部となった。 ==独立と経済発展(1811年‐1865年)== 1808年にナポレオンのフランス帝国軍の圧力の下でスペイン国王フェルナンド7世が退位させられ、ナポレオンの弟のホセ1世が新たな王に据えられると、スペイン各地で伝統的支配層や民衆の抵抗運動が始まった。スペインでの政変に呼応して、スペイン領インディアスの諸都市でもホセ1世への忠誠を拒否したクリオーリョ達が自治を求めて反乱を起こした。ブエノスアイレスで結成されたカビルド・アビエルト(開かれた議会)はコルネリオ・デ・サアベドラを議長に政治委員会を結成し、1810年5月25日に五月革命を達成したが、リオ・デ・ラ・プラタ副王領のバンダ・オリエンタルやコルドバ、アルト・ペルー、そしてパラグアイはブエノスアイレスの意向に従わない態度を示した。このため、ブエノスアイレス政府は翌1811年の1月から3月にかけてマヌエル・ベルグラーノ将軍率いる遠征隊をパラグアイ征服のために派遣した。この遠征隊は総督ベルナルド・デ・ベラスコ(スペイン語版)率いるパラグアイの王党派軍に敗れたが、結果的にはこの遠征によってパラグアイのクリオーリョにも自治意識が芽生えた。自治派に屈した総督ベラスコは同1811年5月16日に自治派のフランシア博士を加えた臨時政府を樹立し、臨時政府は5月17日にブエノスアイレスからの独立を宣言した。1813年10月12日には初めてパラグアイ共和国の名称が使用され、パラグアイは未だに独立戦争を続ける他のイスパノアメリカ諸国に先駆けて、南米の奥地に孤立した独立国家としての道を歩み始めた。 1814年に最高統領に就任したフランシア博士が議会から独裁権を獲得すると、フランシアはパラグアイの政治的安定を脅かすと思われた外国の干渉や自由主義思想の流入を防ぐために、鎖国政策の下に独裁的なやり方で国内を統合した。この時期に反対者は徹底的に弾圧され、フランシアはクリオーリョ層を解体するためにクリオーリョ同士の結婚を禁止してインディオとクリオーリョの人種融合を図り、大土地所有者から接収した土地を民衆に分与した。フランシアの下で国家は当時パラグアイに存在しなかった民族ブルジョワジーの役割を果たし、農民と結んだフランシアは植民地時代から続くクリオーリョ寡頭支配層の根絶を果たした。 フランシア博士が1840年に没すると、1841年にカルロス・アントニオ・ロペスとマリアノ・ロケ・アロンソ(スペイン語版)が二頭政府を樹立した後、1844年にアントニオ・ロペスが大統領に就任した。アントニオ・ロペスは、フランシア時代の鎖国政策を一転し、開国と富国政策に努めて外国貿易が再開され、ヨーロッパからの先進技術の導入も進められた。パラグアイからはマテ茶や木材が輸出され、鉄道、造船所、製鉄所の建設など工業化も進み、社会面ではラテンアメリカ初となる義務教育制度が導入された。当時の国土の98%は公有化されており、農民には売却を禁じた上で公有地の使用権を分与し、74存在した国営農場の下で二毛作などを導入した生産性の高い農業が行われた上に、保護貿易政策の下で貿易は大幅な黒字を達成し、外国債務は存在せず、通貨は強く、安定していた。一方外交面では、アントニオ・ロペスはパラグアイをアルゼンチンの一部だとみなしていたフアン・マヌエル・デ・ロサスと、ロサス失脚後パラグアイ川の自由航行権を得るために武力を背景とした外交圧力をかけたブラジル帝国によって脅かされていた。ブラジルとの衝突は1858年に交渉によって回避されたが、その後も領土問題を巡ってブラジルとは緊張した関係が続いた。このような周辺国との緊張関係もあってアントニオ・ロペスの時代には軍事力が強化され、1862年までには常備18,000人、予備45,000人に達する当時のブラジルに匹敵する強力な軍隊が整備された。 1862年10月にアントニオ・ロペスが没すると、息子のフランシスコ・ソラーノ・ロペスが新たな大統領に就任した。 ==三国同盟戦争(1864年‐1870年)== ウルグアイ川下流に存在するウルグアイでは、1828年の独立直後から親アルゼンチン派のブランコ党と親ブラジル派のコロラド党が主導権争いを繰り広げており、大戦争と呼ばれた一連の戦争が1851年に終結した後も、両党は抗争を繰り広げていた。1852年にカセーロスの戦い(スペイン語版)に敗れたアルゼンチンの支配者ロサスが失脚し、その後アルゼンチンが国家の統一を経て1862年にバルトロメ・ミトレ(英語版)を首班とする自由主義政権が成立すると、アルゼンチンの自由主義者はロサス時代に友好的だったブランコ党ではなく、コロラド党を支援するようになった。1860年に成立したウルグアイのベルナルド・プルデンシオ・ベロ(スペイン語版)政権は、1863年4月にアルゼンチンとブラジルの両国に支援されたベナンシオ・フローレス(スペイン語版)率いるブランコ党軍の侵入に直面し、またもウルグアイは内戦に陥った。ウルグアイのベロ政権はこの危機に際してパラグアイのソラーノ・ロペスに救援を要請しており、アルゼンチンとブラジルに翻弄される小国ウルグアイの姿に自国の未来の運命を見出したソラーノ・ロペスは、1864年8月にベロの後継者となったアタナシオ・アギーレ(スペイン語版)大統領の要請を受け入れ、ブラジルにウルグアイへの軍事干渉があった場合は戦争も辞さないとの通牒を発していた。一方ブラジルはこれを無視し、1864年10月にウルグアイ領内に軍事侵攻を開始した。このブラジルの軍事行動に呼応してパラグアイは国内に停泊していたブラジル船のマルケス・デ・オリンダ号を拿捕し、両国は戦争状態に突入した。 1864年12月にブラジルのマット・グロッソ州に侵攻したパラグアイ軍は係争地帯を攻略し、他方でアルゼンチンのミトレ政権に対してはウルグアイ救援のため領土通行権を要請した。ソラーノ・ロペスとアルゼンチンの反体制的な地方軍事指導者(カウディーリョ)の頭目フスト・ホセ・デ・ウルキーサ(スペイン語版)の間には、アルゼンチンが領土通過を拒否した場合、ウルキーサが反自由主義的な勢力を糾合してミトレ政権に対し蜂起することが密約されていたが、ミトレが領土通過を拒否した後もウルキーサは蜂起することなく、ソラーノ・ロペスはウルキーサに蜂起を促すために1865年3月にアルゼンチンに対して宣戦を布告した。さらに、ウルグアイでも情勢は動き、ブランコ党のアギーレ大統領がコロラド党と和解してコロラド党のベナンシオ・フローレス(スペイン語版)が臨時大統領に就任したため、フローレスはパラグアイとの敵対を選び、1865年5月1日にアルゼンチン、ブラジルと共に対パラグアイ三国同盟を結成し、三国同盟の総司令官にはアルゼンチンのミトレ大統領が就任した。こうしてウルグアイのブランコ党政権とアルゼンチンの反体制派カウディーリョを糾合してブラジルに挑むというソラーノ・ロペスの計画は完全に破綻し、パラグアイは三国同盟との戦争に突入した。 早くも1865年6月にはリアチュエロの会戦(スペイン語版)でパラグアイ海軍がブラジル海軍に壊滅させられ、パラグアイは大西洋への出口であるパラナ川の航行権を失ったが、海上貿易を封鎖された後もパラグアイの抵抗は続いた。以降1866年5月のツユティの戦い(スペイン語版)、1866年9月のクルパイティの戦い(スペイン語版)と両軍はパラグアイ川の要塞線に沿って一進一退の攻防を繰り広げていたが、1868年1月にミトレに代わってブラジル軍司令官のカシアス侯爵(ポルトガル語版、スペイン語版、英語版)が三国同盟全体の総司令官となると、ブラジル軍は猛攻撃の末に1868年8月にウマイタ要塞を攻略し、1869年1月にはパラグアイの首都アスンシオンを陥落させた。この戦争の最中、アルゼンチン国内では自由主義政権の近代化政策によって存在を脅かされていた、地方諸州のカウディーリョがソラーノ・ロペスを支持して蜂起し、特に1866年12月から1869年1月まで続いたカタマルカ州のフェリペ・バレーラ(スペイン語版、英語版)の反乱は大きなものとなったが、戦争の大勢を変えるにまでは至らなかった。アスンシオン陥落後も残存兵力を率いて抵抗を続けていたソラーノ・ロペス大統領は1870年3月1日にセロ・コラーの戦い(英語版)で戦死し、戦争は終結した。 戦争はパラグアイにとって破滅的な厄災となった。戦前525,000人だった人口は戦後の1871年に211,079人と大きく減少し、男女比は1:4となった。国土についても戦前の領土の1/4がアルゼンチンとブラジルによって併合され、戦前98%を占めた公有地はアルゼンチン人をはじめとする外国人によって買い上げられ、それまで存在しなかった大土地所有者層が新たに生まれることになった。パラグアイ人の捕虜は、奴隷制が存続していたブラジルのサンパウロのコーヒー農園に連行された。戦後すぐにパラグアイには300万ポンドに及ぶイギリスからの借款が持ち込まれ、産業基盤が壊滅した上に押し付けられた自由貿易は、戦前存在したパラグアイの工業基盤に止めを刺した。こうしてパラグアイは国民、国土、経済的独立を全て失い、廃墟の中から新たな歴史を築くことを余儀なくされたのであった。 ==自由党とコロラド党== 三国同盟戦争後、政治的にはブラジルが、経済的にはアルゼンチンがパラグアイに大きな影響を与え、同時に政治は恒常的な不安定によって支配された。1880年代に大統領を務めたベルナルディーノ・カバジェロ(スペイン語版)(任:1880‐1886)とパトリシオ・エスコバル(スペイン語版)(任:1886‐1890)の二人の将軍の時代には軍事力を背景にした安定が確立され、この時期にはイタリア、ドイツ、スイスなどからの外国移民や、アルゼンチン資本をはじめとする外国資本がパラグアイにも流入し、また、エスコバール政権期の1887年には後の主要政党となるコロラド党と自由党が結成された。20世紀に入ると、1904年に自由党が革命を起こしてコロラド党政権を打倒し、以降1936年まで自由党が政権を担当することとなった。自由党政権も不安定ではあったものの、秘密投票制の導入や教育の普及などの漸進的な改革が進み、1928年には初の複数候補による大統領選挙が実現された。 20世紀初頭には国土西部のチャコ地方を巡ってボリビアとの対立が始まったため、1907年に両国の武力衝突を回避するために、アルゼンチンの仲裁によって暫定国境線が引かれた。1920年代に入り、緊張が再燃すると、両国は軍拡競争や、スタンダード・オイル・オブ・ニュージャージーのような先進国の国際石油資本の意向を巻き込んで対立を尖鋭化させた。 ===チャコ戦争の時代=== 1932年6月15日にボリビア軍はパラグアイのカルロス・アントニオ・ロペス要塞を攻略し、この攻撃によって両国は宣戦布告なき戦争状態に突入した。7月にパラグアイ軍はカルロス・アントニオ・ロペス要塞を奪還、続いて同年9月にボケロン要塞を攻略した。翌1933年5月10日にパラグアイはボリビアに宣戦布告した後、ドイツ人軍事顧問のハンス・クント率いるボリビア軍の総攻撃をホセ・フェリクス・エスティガリビア中佐が頓挫させるなど戦局はパラグアイ優位に進み、1933年、1934年のパラグアイの反攻を経て1935年1月には戦線はボリビア領内に移行した。しかし、ボリビア軍の頑強な抵抗が続き、財政的にも戦争の継続が困難となったため、1935年6月にアルゼンチンの仲介で休戦協定が結ばれた。 チャコ戦争によるパラグアイの死者は36,000人に達したのにも拘らず、ブエノスアイレスで締結された休戦協定はパラグアイにとって必ずしも満足行くものではなかったため、前線から帰還した軍部の将校達は公然と政府に攻撃を加えた。先手を制したエウゼビオ・アジャラ(スペイン語版)大統領は将校の指導者だったラファエル・フランコ(スペイン語版)大佐を追放したが、このことは逆に軍内部での怒りを爆発させる結果となったため、1936年2月17日のクーデターでアジャラ政権は崩壊し、亡命先のアルゼンチンから帰国したフランコが新たな大統領に就任した。文民政府への批判を社会改革に繋げたフランコは、親ファシズム的な傾向からの農地改革の推進や労働者の保護、ナショナリズムの昂揚のためのソラーノ・ロペスの名誉回復など、寡頭支配層の基盤を揺るがす急進的改革を行ったため、翌1937年8月の軍保守派のクーデターによって失脚したが、フランコの社会改革の理念は二月党によって受け継がれた。パラグアイとボリビア両国の正式な和平条約の締結は1938年7月21日となり、パラグアイは係争地のチャコ地方全体の領有権を獲得することに成功した。フランコの失脚後は、ホセ・フェリクス・エスティガリビア(任:1937‐1940)とイヒニオ・モリニゴ(スペイン語版)(任:1940‐1947)の二人に将軍によって軍政が敷かれた。第二次世界大戦が勃発した後、モリニゴはアメリカ合衆国との協調を軸とした外交と、社会保障制度の拡充を軸にした内政で内外の支持を獲得する一方で、政党の存在を弾圧するなどの独裁的な側面を併せ持っていた。 ===パラグアイ内戦=== 第二次世界大戦後、イヒニオ・モリニゴ将軍によって軍政が敷かれていたパラグアイでも民主化要求が高まったため、1946年7月にモリニゴは政党活動を全面的に自由化し、併せてコロラド党、二月党との連立内閣を組閣したが、閣内での二月党とコロラド党の対立が激化したため、1947年初頭にモリニゴはコロラド党と軍部に依拠して二月党の指導者を国外追放した。この措置に対して3月7日に二月党が首都アスンシオンで反乱を起こし、翌8日にこの反乱に呼応した軍の一部がコンセプシオンでモリニゴに対して反乱を起こすと、軍部将校の8割がこの動きに呼応し、パラグアイは内戦状態に陥った。モリニゴはアルゼンチンのペロン政権からの武器援助とコロラド党を支持する農民の軍事力を得て反乱を鎮圧することに成功し、内戦は8月19日に終結したが、モリニゴは報復に二月党、自由党、共産党などの反乱を支持した諸政党に対する大弾圧を図ったため、20万人から40万人と推計される反政府派パラグアイ人が亡命することとなった。 内戦終結後、モリニゴ自身がクーデターで失脚するなどパラグアイの政治的不安定は頂点に達したが、この混乱は1949年9月に就任したフェデリコ・チャベス(スペイン語版)大統領によって収拾された。しかし、チャベスもまた1954年5月に軍部のクーデターによって失脚した。後に続いたのは、ラテンアメリカでも稀に見る長期の独裁政権だった。 ==ストロエスネル独裁政権時代(1954年‐1989年)== チャベスを失脚させた1954年5月のクーデター後、クーデターの黒幕だった陸軍総司令官にしてコロラド党員のアルフレド・ストロエスネルは、形式的選挙を経て同年8月15日に大統領に就任した。ストロエスネルはコロラド党と政府と軍部を自派で掌握することに成功したことに加え、党外の反体制派には戒厳令を敷いて弾圧して、4年に一度の大統領選挙で確実に自身が勝利することを可能にする体制を築きあげ、コロラド党による一党制に近い体制に国家を再編した。ストロエスネル政権が長期化したことには、以上の他にも経済政策に於いて周辺諸国と比較すれば成功を収めたこと、特にアメリカ合衆国や国際通貨基金(IMF)に従って市場開放政策と外資導入を軸に1970年代の工業成長を達成したことや、1954年から1969年までの188の外国人農業移住地を開設することなどで農業成長を達成したことが、体制安定化の大きな要因として挙げられる。また、ストロエスネルの反共主義と親米政策も政権を維持する要因の一つになったと見られ、アメリカ合衆国のみならず、1964年のブラジル・クーデター(英語版)によって成立した親米反共的なブラジルの軍事政権との友好関係も深く、1965年にドミニカ共和国でドミニカ内戦(英語版)が勃発し、社会改革を目指したフランシスコ・カーマニョ(スペイン語版)大佐と敵対する反共的なエリアス・ウェッシン・イ・ウェッシン(スペイン語版)将軍を支援するためにアメリカ海兵隊が派遣された際には、ブラジル軍の指揮下でパラグアイ軍の歩兵大隊をドミニカ共和国に派遣している。反面、ストロエスネル政権下では密貿易が横行し、1.5%の大土地所有者によって全耕地の90%が所有される程の土地所有の寡占化が進行した。 このようにストロエスネルは成功を収めた独裁者となったが、1980年代に周辺諸国が次々と民政移管する中で、徐々にストロエスネルの個人支配に対する反感が高まり、最終的には1989年2月2日に勃発した陸軍のアンドレス・ロドリゲス(スペイン語版)将軍のクーデターによってストロエスネルはブラジルに亡命し、35年に及んだ独裁体制は崩壊した。 ==民政移管以降(1989年‐)== クーデター後、ロドリゲス将軍は1989年5月1日に行われた大統領選挙に勝利し、民主主義への移行を目指して1992年に新憲法を公布した。1993年5月の大統領選挙ではコロラド党のフアン・カルロス・ワスモシ(スペイン語版)が当選した。ワスモシは陸軍総司令官のリノ・オビエド(スペイン語版)によるクーデター未遂事件に直面したため、オビエドは投獄されたが、1998年にコロラド党からラウル・クバス(スペイン語版)が大統領に就任すると恩赦で釈放された。1999年3月に反オビエド派のルイス・アルガーニャ(スペイン語版)副大統領が何者かに暗殺されると、クバスは引責辞任し、上院議長のルイス・アンヘル・ゴンサーレス(スペイン語版)が大統領に就任した。2003年の大統領選挙ではコロラド党のニカノル・ドゥアルテが勝利し、大統領に就任した。2008年の大統領選挙では中道左派の野党連合変革のための愛国同盟(英語版)のフェルナンド・ルーゴ元神父が勝利し、1947年のパラグアイ内戦から61年続いたコロラド党政権は終焉した。 ==脚註== ===註釈=== ===出典=== ==参考文献== ===書籍=== シッコ・アレンカール、マルクス・ヴェニシオ・リベイロ、ルシア・カルピ/東明彦、鈴木茂、アンジェロ・イシ訳 『ブラジルの歴史──ブラジル高校歴史教科書』 明石書店〈世界の教科書シリーズ7〉、東京、2003年1月。ISBN 978‐4‐7503‐1679‐6。伊藤滋子 『幻の帝国──南米イエズス会士の夢と挫折』 同成社、東京、2001年8月。ISBN 4‐88621‐228‐X。エドゥアルド・ガレアーノ/大久保光夫訳 『収奪された大地──ラテンアメリカ五百年』 新評論、東京、1986年9月。後藤政子 『新現代のラテンアメリカ』 時事通信社、東京、1993年4月。ISBN 4‐7887‐9308‐3。坂野鉄也「国民国家パラグアイと先住民のあいだ──参照枠としての植民地社会」『朝倉世界地理講座──大地と人間の物語──14──ラテンアメリカ』坂井正人、鈴木紀、松本栄次編、朝倉書店、2007年7月。田島久歳「第三章植民地期パラグァイと近代ヨーロッパ──イエズス会教化コミュニティー参加に見る先住民の生き残り手段」『ラテンアメリカが語る近代──地域知の創造』上谷博、石黒馨編、世界思想社、1998年10月。立石博高編 『スペイン・ポルトガル史』 山川出版社〈新版世界各国史16〉、東京、2000年6月。ISBN 4‐634‐41460‐0。中川文雄、松下洋、遅野井茂雄 『ラテン・アメリカ現代史III』 山川出版社〈世界現代史34〉、東京、1985年1月。ISBN 4‐634‐42280‐8。ボリス・ファウスト/鈴木茂訳 『ブラジル史』 明石書店〈世界歴史叢書〉、東京、2008年6月。ISBN 978‐4‐7503‐2788‐4。増田義郎編 『ラテンアメリカ史II』 山川出版社〈新版世界各国史26〉、東京、2000年7月。ISBN 4‐634‐41560‐7。 ===ウェブサイト=== 外務省. “外務省:パラグアイ共和国” (日本語). 2010年11月5日閲覧。 ==関連項目== 世界の歴史世界の一体化南アメリカ史スペインによるアメリカ大陸の植民地化ポルトガルによるアメリカ大陸の植民地化ウルグアイの歴史アルゼンチンの歴史ボリビアの歴史ブラジルの歴史表話編歴アメリカ合衆国(アメリカ合衆国本土、アラスカ、ハワイ)カナダエルサルバドルグアテマラコスタリカニカラグアパナマベリーズホンジュラスメキシコアンティグア・バーブーダキューバグレナダジャマイカセントクリストファー・ネイビスセントビンセント・グレナディーンセントルシアドミニカ共和国ドミニカ国トリニダード・トバゴハイチバハマバルバドスアルゼンチンウルグアイエクアドルガイアナコロンビアスリナムチリパラグアイブラジルベネズエラペルーボリビアボネール島シント・ユースタティウス島サバ島グアドループマルティニークフランス領ギアナアメリカ領ヴァージン諸島プエルトリコアンギライギリス領ヴァージン諸島ケイマン諸島サウスジョージア・サウスサンドウィッチ諸島タークス・カイコス諸島バミューダ諸島フォークランド諸島モントセラトアルバキュラソー島シント・マールテングリーンランドサン・バルテルミー島サンピエール島・ミクロン島サン・マルタン各列内は五十音順。 カリブ海地域にも領土を有する。 中央アメリカと南アメリカに跨っている。 南アメリカにも分類され得る。パラグアイの歴史書きかけの節のある項目Reflistで3列を指定しているページ良質な記事 =ウィリアム・グラッドストン= ウィリアム・ユワート・グラッドストン(英語: William Ewart Gladstone [*7612*w*7613*lj*7614*m *7615*ju*7616*w*7617**7618*t *7619*gl*7620*d.st*7621*n], FRS, FSS、1809年12月29日 ‐ 1898年5月19日)は、イギリスの政治家。 生涯を通じて敬虔なイングランド国教会の信徒であり、キリスト教の精神を政治に反映させることを目指した。多くの自由主義改革を行い、帝国主義にも批判的であった。好敵手である保守党党首ベンジャミン・ディズレーリとともにヴィクトリア朝イギリスの政党政治を代表する人物として知られる。 ヴィクトリア朝中期から後期にかけて、自由党を指導して、4度にわたり首相を務めた(第一次: 1868年‐1874年、第二次: 1880年‐1885年、第三次: 1886年、第四次: 1892年‐1894年)。 ==概要== スコットランド豪族の末裔である大富豪の貿易商の四男としてリヴァプールに生まれる(→出生と出自)。イートン校からオックスフォード大学クライスト・チャーチ へ進学。同大学在学中にイングランド国教会への信仰心を強めた。1831年に同大学を首席で卒業する(→イートン校、オックスフォード大学)。 1832年の総選挙(英語版)で初当選し、23歳にして保守党所属の庶民院議員となる(→23歳で初当選)。二度のサー・ロバート・ピール准男爵内閣(保守党政権)において下級大蔵卿(在職1834年‐1835年)、陸軍・植民地省政務次官(英語版)(在職1835年)、商務庁副長官(英語版)(在職1841年‐1843年)、商務庁長官(英語版)(在職1843年‐1845年)、陸軍・植民地大臣(在職1845年‐1846年)を歴任して政治キャリアを積む。商務庁副長官・商務庁長官時代には様々な品目の関税削減・廃止を手がけ、自由貿易推進に貢献した(→第一次ピール内閣下級大蔵卿、第一次ピール内閣陸軍・植民地省政務次官、第二次ピール内閣商務庁副長官、第二次ピール内閣商務庁長官)。 1846年の穀物法廃止をめぐる保守党分裂では、穀物自由貿易を奉じるピール派に属して保守党を離党した(→穀物法をめぐる党分裂)。保守党から離れたことで経済思想以外も徐々に自由主義化していった(→自由主義化)。特に1850年秋に訪問した両シチリア王国において過酷な自由主義弾圧を目の当たりにして保守主義に嫌悪感を持つようになった(→両シチリア王国の自由主義者弾圧に怒り)。 1852年には第一次ダービー伯爵内閣(保守党政権)の大蔵大臣ベンジャミン・ディズレーリの予算案を徹底的に論破して否決に追い込み、同内閣の倒閣に主導的役割を果たした(→ディズレーリとの初対決)。続くアバディーン伯爵内閣(ピール派・ホイッグ党連立政権)においては大蔵大臣(在職1852年‐1855年)として入閣し、更に多くの品目の関税廃止を実施して自由貿易を一層推進した(→アバディーン内閣大蔵大臣)。 1855年2月、クリミア戦争の泥沼化で総辞職したアバディーン伯爵内閣に代わって第一次パーマストン子爵内閣(ホイッグ党政権)が成立。はじめ同内閣にも大蔵大臣として入閣していたが、首相との方針の食い違いからすぐにも下野した。以降はパーマストン卿の強硬外交を批判した(→パーマストン外交を批判)。 第二次ダービー伯爵内閣(保守党)期の1859年には保守党政権打倒のためホイッグ党、ピール派、急進派(英語版)が大同団結して自由党を結成。これに伴いグラッドストンも自由党議員となった(→自由党の結成)。 第二次ダービー伯爵内閣倒閣後の1859年6月に成立した第二次パーマストン子爵内閣(自由党政権)には大蔵大臣(在職1859年‐1865年)として入閣し、英仏通商条約(英語版)を締結するなどして自由貿易体制を完成させた。また「知識に対する税金」として批判されていた紙税を廃止した(→第二次パーマストン内閣大蔵大臣)。続く1865年から1866年の第二次ラッセル伯爵内閣(自由党政権)では蔵相(在職1865年‐1866年)留任のうえ、庶民院院内総務を兼務した。選挙法改正の機運が高まる中、自助を確立している上層労働者階級に選挙権を広げる選挙法改正を目指し、保守党庶民院院内総務ディズレーリと激闘したが、敗れ、内閣総辞職に追い込まれた(→第二次ラッセル内閣庶民院院内総務)。 つづく第三次ダービー伯爵内閣(保守党政権)で庶民院院内総務ディズレーリが行った第二次選挙法改正には選挙権が貧民にまで拡大される恐れありとして反対したが、阻止できなかった(→ディズレーリの第二次選挙法改正をめぐって)。1867年末に引退したラッセル伯爵の後継として自由党党首となる(→自由党党首に就任)。1868年2月に成立した第一次ディズレーリ内閣(保守党)に対して、アイルランド国教会廃止を掲げて挑み、11月の総選挙に勝利したことで同内閣を総辞職に追い込んだ(→アイルランド国教会廃止を公約)。 代わって組閣の大命を受け、第一次グラッドストン内閣を組閣した(→第一次グラッドストン内閣)。内政において様々な改革を実施した。まず先の総選挙での公約通りアイルランド国教会を廃止した(→アイルランド国教会廃止)。不在地主に理由なく追い出されたり、法外な地代をかけられたアイルランド小作人への補償制度を定めた法律も制定したが、これはほぼ「ざる法」に終わった(→アイルランド小作農への補償制度)。他の欧米諸国と比べて小学校教育普及が遅れていることを念頭に初等教育法(英語版)を制定して小学校教育の普及を図った(→小学校教育の普及)。外務省以外の省庁で採用試験を導入し、また軍隊の階級買い取り制度を廃することで、官界や軍における貴族優遇に歯止めをかけた(→軍隊・官僚制度の改革)。労働者上層に選挙権が広がったことを念頭に秘密投票制度の導入も行った(→秘密投票制度の確立)。労働組合法を制定し、労働組合が賃金と労働時間以外のことを交渉するのを解禁した(→労働組合法)。一方で外交は不得手で、ドイツ帝国の勃興やロシア帝国のパリ条約黒海艦隊保有禁止条項の一方的破棄などを阻止できず、またアメリカ合衆国に対してもアラバマ号事件で賠償金を支払うことになるなど、相対的にイギリスの地位を低下させた(→ドイツとロシアの脅威、アラバマ号事件)。自由党内の分裂が深刻化し、1874年には所得税廃止を目指して解散総選挙に打って出るも、大英帝国の威信回復を訴えるディズレーリ率いる保守党が勝利し、総辞職を余儀なくされた(→権威の低下、総選挙惨敗、退陣)。 1875年には自由党党首も辞し、半ば引退した生活に入ったが(→自由党党首引退)、1875年から1877年にかけてのバルカン半島をめぐる騒乱でディズレーリ政権の親トルコ・反ロシア外交を批判する運動の先頭に立って政治活動を再開(→反トルコ運動を主導、露土戦争をめぐって)。総選挙を間近にした1879年には「ミッドロージアン・キャンペーン(英語版)」を展開し、ディズレーリの第二次アフガン戦争、トランスヴァール共和国併合、ズールー戦争などの帝国主義政策を批判した(→ミッドロージアン・キャンペーン)。 1880年の総選挙で自由党が大勝したため、第二次グラッドストン内閣を組閣した(→総選挙に大勝、再び首相へ、第二次グラッドストン内閣)。 アイルランド土地法を改正し、アイルランド小作農の地代を地代法廷で決めるなど小作農保護を強化した(→アイルランド小作農保護強化)。また選挙区割りについて野党保守党に妥協することで第三次選挙法改正を達成し、男子普通選挙に近い状態を実現した(第三次選挙法改正)。グラッドストンは小英国主義者(英語版)であり、帝国主義には消極的だったが、オラービー革命が発生したエジプトには派兵し、革命を鎮圧してエジプトを半植民地となした(→オラービー革命とエジプト出兵)。一方マフディーの反乱が発生したスーダンは放棄を決定し、国民的英雄チャールズ・ゴードン将軍を同地に派遣してスーダン駐屯エジプト軍の撤退の指揮をとらせようとしたが、ゴードンは撤退しようとせずに戦死したため、内閣支持率に大きな打撃を受けた(→スーダンの反乱・ゴードン将軍の死)。1885年にアイルランド強圧法を制定しようとしたことにアイルランド国民党が反発してソールズベリー侯爵率いる保守党との連携に動いた結果、議会で敗北して総辞職に追い込まれた(→保守党とアイルランド国民党の連携で総辞職)。 1885年の総選挙(英語版)の自由党の勝利、また保守党政権とアイルランド国民党の連携の崩壊により、ソールズベリー侯爵内閣倒閣に成功し、第三次グラッドストン内閣を組閣した(→政権奪還へ、第三次グラッドストン内閣)。アイルランド国民党と連携してアイルランド自治法案を通そうとしたが、党内の反自治派が党を割って自由統一党を結成したため否決された(→アイルランド自治法案)。解散総選挙(英語版)に打って出るも敗北して退陣した(→総選挙敗北、退陣)。 退陣後もアイルランド自治を掲げ、1892年の解散総選挙(英語版)に辛勝したことで第四次グラッドストン内閣(英語版)を組閣した(→ニューカッスル綱領と総選挙辛勝、第四次グラッドストン内閣)。再びアイルランド自治法案を提出するも貴族院で否決された(→再度アイルランド自治法案)。さらに海軍増強に反対したことで閣内で孤立し、1894年に首相職を辞職した。次の総選挙にも出馬することなく、政界から引退した(→海軍増強に反対して閣内で孤立、総辞職、政界引退)。 1898年5月19日に死去した(→死去)。 【↑目次へ移動する】 ==生涯== ===政治家になるまで=== ====出生と出自==== 1809年12月29日、イギリス・イングランド・リヴァプールのロドネー街(英語版)62番地に生まれる。 父は大富豪の貿易商ジョン・グラッドストン(のちに准男爵に叙される)。母は後妻のアン(旧姓ロバートソン)。グラッドストンは夫妻の四男であり、兄にトマス(英語版)、ロバートソン(英語版)、ジョン(英語版)がいる。また姉一人がおり、後に妹も一人生まれている。 グラッドストン家はもともとグラッドステンス (Gladstanes) という家名のスコットランド豪族だった。1296年の公式文書にハーバート・ド・グラッドステンス (Herbert de Gladstanes) というスコットランド豪族が、スコットランドの征服者イングランド王エドワード1世に臣従を誓ったことが記録されている。やがてグラッドステンス家の一流がビガー(英語版)に移住し、家名をグラッドストンス (Gladstones) に変えた。家は漸次没落していったが、グラッドストンの祖父トマス (Thomas) の代にレイス(英語版)へ移住し、穀物商として成功を収めた。 父ジョンはこのトマスの長男として生まれ、リヴァプールに移住して穀物商を始めた。この際に語呂が悪いグラッドストンスの姓をグラッドストンに改めた。父は1792年に最初の結婚をしたが、先妻とは子供ができないまま死別し、ついで1800年にアン・ロバートソン (Anne Robertson) と再婚し、グラッドストンを含む4男2女を儲けた。 父は東インド貿易で大きな成功をおさめ、西インド貿易にも手を伸ばしつつ、西インドやギアナで大農場の経営を行う大富豪となった。父の資産額は60万ポンドにも及ぶという。 また父は1818年から1827年にかけて庶民院議員も務めた。父はもともと非国教徒の長老派であり、支持政党は自由主義政党ホイッグ党だったが、後に国教会の福音派(比較的長老派と教義が近い)に改宗するとともに、党派も保守政党トーリー党になった。だがトーリー党内では自由主義派に属しており、カトリックが公職に就くことを認める改革や商業における規制を撤廃する改革を目指すジョージ・カニングを支持し、カニングのリヴァプール選挙区(英語版)での選挙活動を支援していた。 そのような開明的な父であっても、その所有農場では大勢の奴隷が酷使されていた(イギリスでは奴隷貿易は1807年に禁止されているが、植民地の奴隷制度はいまだ合法だった)。1823年にはギアナでイギリス農場主の支配に抵抗する黒人奴隷の一揆が発生したが、その一揆の中心地はグラッドストン家所有の農場だった。 【↑目次へ移動する】 ===幼少期=== グラッドストン家は資本主義の競争に勝ち抜いた中産階級に典型的な自由主義・合理主義・経験主義の家風だった。加えてスコットランドの気風とされる激しい情熱と抽象的理論の重視という家風も持っていた。そのため父は子供たちに対し、どんな些細なことでも慣れ合いで決めずに自由な討論をもって決するよう教育した。グラッドストンによると、父のこの教育方針のおかげで議論好きになったという。 幼少期にはジョン・バンヤンの『天路歴程』、ジェームス・リドリー(英語版)の『精霊物語(Tales of the Genii))』、ジェーン・ポーター(英語版)の『スコットランド豪族 (The Scottish Chiefs)』などの本から影響を受けたという。 ===イートン校=== 1821年9月(11歳)に名門パブリックスクール・イートン校に入学した グラッドストンはイートン校になじみ、この時代を「私の人生の中で最も幸福だった時代」と述懐している。友人とのトラブルもなく、厳格だった校長John Keate(在任、1809‐1834)からの鞭打ちも一回受けただけだった。 読書にも熱心でギリシャ・ローマの古典、ジョン・ロックやエドマンド・バークやデイヴィッド・ヒュームの哲学、ジョン・ミルトンの宗教作品、ウォルター・スコットの作品、エドワード・ギボンの『ローマ帝国衰亡史』、モリエールやラシーヌなどのフランス古典劇、政治家の伝記や自伝などに影響を受けた。またフランス古典を勉強するためにフランス語を身に付けている。 後の政治家としての素質もこの時代から多く見せた。1823年には教師を相手にその不正義を追及し、1825年には友人たちとともにイートン校の弁論会 (The debating society) を復興した。最初の弁論会(お題は「下層民に教育を与えるべきか否か」)で当時15歳のグラッドストンは「上流階級は、下層階級が同胞に対して善良にふるまうよう善導しなければならない。そうすれば下層民はいかなる口実を設けても義務に違反できなくなるだろう。職人の勤勉と才能を眠らせ、彼らに希望を失わせ、彼らの精神が抑圧されたままにしておくことは道義的にも政治的にも正しいことではない」と演説しており、ノブレス・オブリージュ(高貴なる者の責任)的な思想を既に確立している。1826年には父の経済政策が新聞で批判されているのを見つけて父を弁護する論文を新聞社に投書している。18歳の時には『イートン雑誌(The Eton Miscellany)』というイートン校内の雑誌の編集者・執筆者も務めた。 イートン校時代から将来の夢は政治家であり、1827年12月の卒業にあたっての校壁への落書きで「W・E・グラッドストン庶民院議員閣下 (THE RIGHT HONOURABLE W・E GLADSTONE, M.P.)」と未来の自分を予想している。 ===オックスフォード大学=== 1828年10月にオックスフォード大学へ進み、クライスト・チャーチに在籍した。 クライスト・チャーチはオックスフォードのカレッジの中でももっとも貴族的だが、読書には自由な風潮であり、グラッドストンも早朝4時間と就寝前2時間から3時間は読書に費やしたという。とりわけヘロドトス、アリストテレス、プラトン、ホメーロスなどの古典研究に明け暮れたという。 1829年10月には十数人の友人とともに大学内に論文討論クラブを結成している。メンバーが論文を提出し、それについて賛否を表明するクラブだった。このクラブはウィリアム・エワート・グラッドストン (William Ewart Gladstone) の頭文字をとって、「WEG(ウェッグ)」と名付けられた。また1830年からはオックスフォード大学の各カレッジの代表学生が集まるオックスフォード連合(英語版)の討論にも参加するようになり、後にはその議長に選出された。 大学時代のグラッドストンは宗教的な葛藤を感じることが多くなった。オックスフォード大学はもともと教会付属の学校が発展したものだが、この頃のオックスフォードは形骸化していて宗教への情熱が感じられなかった。軽薄と宗教的情熱の欠如を嫌うグラッドストンにはこれが許せなかった。彼はこの葛藤を勉学への打ち込みと一層の信仰心によって満たそうとした。その結果、一時は政治家の夢を断念して聖職者の道を希望するようにさえなった。 彼は1日に何度も説教を聞き、やがて自らが神に遣わされた者であり、神に恥じることをしてはならないと思い込むようになった。1830年4月25日付けの日記には「1.愛、2.自己犠牲、3.誠実、4.活力」の4つの精神を持つことがその重要な柱と位置付けている。この宗教的確信を得るようになると、義務感からではなく意志をもって勉学に打ち込むようになった。この時以来、彼は休息を全く取らない異常な勤勉家と化したという。 卒業試験も近くなった1831年4月から5月、選挙権を中層中産階級に広げる選挙法改正法案をめぐって反対派の野党トーリー党と賛成派の与党ホイッグ党が争う中、解散総選挙(英語版)が行われた。グラッドストンは「WEG」や「オックスフォード連合」の討論会で選挙法改正反対を表明した。有権者は貴族や上層中産階級など高い教養と責任感を持つ者に限定しないと衆愚政治になって社会秩序が崩壊すると考えたからである。こうしたノブレス・オブリージュ的な考え方は、オックスフォード大学の貴族学生の間では一般的な意見だったから多くの出席者から支持された。とりわけリンカン伯爵は、父ニューカッスル公爵に宛てた手紙の中で「父さんの影響力が強い選挙区にグラッドストンを保守党候補として立ててやってほしい」と頼み込んでいる。この願いは1年後にかなえられることになる。 選挙戦中、グラッドストンはトーリー党の選挙活動に参加し、選挙法改正反対のプラカードを掲げて行進した。選挙権を持てない庶民から泥を投げつけられ泥だらけになったが、それでも屈することはなかったという。しかし総選挙の結果はホイッグ党の大勝に終わり、議会での一悶着の末に第一次選挙法改正が達成された。これにより中層の中産階級にも選挙権が広がり、成年男子の15%が選挙権を持つようになった。 選挙活動中も卒業試験に向けての勉学を怠ることはなく、選挙後は更に勉学に集中した。当時の卒業試験は数学と古典に分かれていたが、グラッドストンは両方で首席をとっている。二冠に輝いたのは20年以上前の卒業生であるロバート・ピール以来のことであった。1832年1月に学位を得てオックスフォード大学を卒業した。 ===ヨーロッパ大陸旅行=== オックスフォード卒業後、兄ジョン・ネイルソン・グラッドストン(英語版)とともにグランドツアーに出た。古典を多く学び、信心深いグラッドストンはイタリアに憧れを持っており、旅行の中心地もそこだった。 ベルギーのブリュッセルとフランスのパリを経てフィレンツェ、ナポリ、ローマ、ヴェネツィア、ミラノなどイタリア各都市を歴訪した。彼はサン・ピエトロ大聖堂を訪れた際にキリスト教は国教会も非国教徒もカトリックも同一であり、キリスト教を統一したいと願うようになったという。 しかしフランス・パリの店が安息日にもシャッターを下ろさないことやイタリアのローマ・カトリック教会の「腐敗」と「非カトリック」ぶりには怒りを露わにし、国教会こそが真の国際的キリスト教の一部という確信を強めたという。奇しくもこの翌年からオックスフォード大学の聖職者たちの間で盛り上がり始めるオックスフォード運動と似た結論に達したのであった。 ===保守党時代=== ====23歳で初当選==== ミラノ滞在中の1832年6月、オックスフォードの学友リンカン伯爵から手紙をもらい、彼の父ニューカッスル公爵の強い影響下にあるニューアーク選挙区(英語版)からの出馬を勧められた。 グラッドストンにとっては有難い申し出であると同時に不安なことだった。グラッドストンは自分の信念を曲げることを嫌ったので、トーリー党守旧派のニューカッスル公爵の支援を受けてしまうと、守旧的な信念を強要されると懸念したのである。しかし父ジョンは「公爵はこれまで支援する候補者に信念を押し付けたことはないし、公爵と私はすでに話を進めており、私が選挙資金の半分を持つことになっている。」と息子を説得し、出馬を決意させた。 旅行を中断して帰国し、1832年8月からニューアーク選挙区で選挙活動に入った。トーリー党選対事務所が全力で支えてくれたおかげで、活発な選挙活動が可能となった。しかし当時植民地奴隷制廃止運動が盛んだったため、選挙戦中にもっとも頻繁に受けた攻撃は「悪名高い奴隷農場主の息子」という批判だった。これに対して彼は「植民地の奴隷の即時解放は白人に対する暴動を誘発する恐れがある。それを防ぐためにはまず奴隷たちにキリスト教育を施し、その後に解放するべき」という「漸進的解放」論で反論した。 選挙の結果は3人の候補のうち最多得票での当選だった。 ===処女演説=== 1833年1月に議会が招集された(この会期からトーリー党は保守党という名称を使用するようになった)。 グラッドストンは、6月3日の庶民院で処女演説(英語版)を行った。この数日前に与党ホイッグ党の議員が父の奴隷農場を攻撃する演説を行っており、彼の演説は「漸進的解放」論を唱えてそれに反論するものだった。 このような考え方の議員は少なくなかったし、またグラッドストンの演説態度は真面目だったので好評を博したという。与党ホイッグ党の庶民院院内総務オールトラップ子爵も、国王ウィリアム4世に前途有望な議員としてグラッドストンのことを報告している。ウィリアム4世は「朕はグラッドストンのごとき前途有望な議員が進出したことを喜ぶ」と応じたという。 ===第一次ピール内閣下級大蔵卿=== 1834年11月、国王ウィリアム4世はホイッグ党の首相メルバーン子爵を罷免し、保守党党首サー・ロバート・ピール准男爵に組閣の大命を与えた(第1次ピール内閣)。 グラッドストンは第一大蔵卿(首相)を補佐する下級大蔵卿 (Junior Lord of the Treasury) に任命された。この役職は複数人置かれる役職なので、各省に一人ずつ置かれる政務次官 (Undersecretary) と比べると地位は低いが、首相の側近くにあることから政府全般の事務に関与する役職だった。 王の気まぐれで政権についたピール政権は少数与党政権であったため、1835年1月にも解散総選挙(英語版)となった。この選挙ではホイッグ党がニューアーク選挙区に対立候補を立てなかったので、グラッドストンは無投票再選を決めている。総選挙全体の結果は、保守党が100議席回復して300議席近くを獲得した(ただし過半数には届かず)。 ===第一次ピール内閣陸軍・植民地省政務次官=== 先の総選挙で陸軍・植民地省政務次官(英語版)が落選したため、ピールは、父が植民地大地主で植民地問題に造詣が深いであろうグラッドストンをその後任にした。当時の陸軍・植民地大臣は貴族院議員アバディーン伯爵だったため、グラッドストンは庶民院における陸軍・植民地省の代表者となった。 新議会が召集されると野党ホイッグ党党庶民院院内総務(英語版)ジョン・ラッセル卿が、アイルランド国教会の収入を国教会以外の目的にも使用するべきとする動議を提出したが(アイルランド人はカトリックが多数派だが、アイルランド国教会に教会税を納めさせられていたため、強い反発が起こっていた)、与党保守党はこの動議に反対した。グラッドストンもアイルランドにおける国教会制度を崩壊させるものとして反対演説を行った。しかしこの動議は1835年4月7日に可決されたため、ピール内閣は総辞職に追い込まれた。グラッドストンも就任から三カ月で陸軍・植民地省政務次官を辞することとなった。 代わってホイッグ党党首メルバーン子爵に組閣の大命があり、第二次メルバーン子爵内閣(英語版)が発足した。この政権は1841年まで続き、その間保守党は野党となった。 ===『教会との関係における国家』=== 下野して時間に余裕ができたグラッドストンは改めて宗教問題に関心を寄せた。1830年代はオックスフォード運動の影響で宗教問題がイギリスで盛んになっていた時期だった。 この頃、エディンバラ大学神学教授トーマス・チャーマーズは「国家は宗教の真理を定める義務を負っているが、全体像だけ決めればよく、細部は神学者に任せるべきである」という主張を行っていたが、グラッドストンはこれに強く反発した。また自由主義者による無宗教の風潮、アイルランド国教会廃止を狙う勢力の台頭にも脅威を感じ、国教会を守るための執筆を行う決意を固めた。 そうして書きあげた『教会との関係における国家 (The State in its Relations with the Church)』を1838年秋に出版した。この著作の中でグラッドストンは「国家は人間と同じく一つの宗教を良心として奉じなければならず、それはローマ教会よりも純粋なキリスト教であるイングランド国教会以外はありえない。だから国家は国教会を優遇して援助しなければならない。アイルランド人にも彼らが好むと好まざるとに関わらず、唯一の真理である国教会を信仰させなければならない。教義の比較検討は、チャルマーズが言うような”細部”にあたるものではなく重要なことである。国家はその宗教的良心に照らし合わせて、各教義を比較検討し、真理と虚偽を峻別する義務を負っている。」と主張した。この本は保守派から好評を博したが、自由主義派からは一顧だにされなかった。保守党党首ながら自由主義的なところがあるピールも「こんな下らない本を書いていたら、彼は政治生命を台無しにしてしまうぞ」と述べて心配したという。 ===結婚=== 1838年8月に再びイタリアを旅行し、ローマでキャサリン・グリン(英語版)(ハワーデン城(英語版)城主サー・ステファン・グリン准男爵(英語版)の妹)と知り合い、彼女と交際するようになった。グラッドストンは1839年1月3日の月夜にコロッセオ遺跡で彼女に告白したというが、彼女は返事をせず、その場を立ち去ってしまったという。すでに二回振られた過去があったグラッドストンは「またふられた」と思って意気消沈したが、後日キャサリンから「貴方の申し出を受けるにはもう少しお互いをよく知らなければなりません」という手紙が送られてきて、交際を継続できたという。 結局キャサリンがグラッドストンの求婚に応じたのはこの6カ月後の6月8日になってだった。その時の会話でキャサリンはグラッドストンがしばしば目上の者に対して使う「サー」という呼びかけは自分たちの階級では使わなくなっていることを指摘してくれたといい、これにグラッドストンは「自分の欠点を補ってくれる理想の女性が見つかった」と非常に喜んだという。 二人は1838年7月25日にハワーデン城で挙式した。キャサリンの兄サー・ステファン・グリン准男爵は病身で結婚しないまま没したため、後にハワーデン城はグラッドストン夫妻が相続し、夫妻はそこで暮らすようになる。 ===第二次ピール内閣商務庁副長官=== メルバーン卿の議会における求心力は低下し続け、1841年6月4日には保守党提出の内閣不信任案が1票差で可決された。メルバーン卿はヴィクトリア女王に上奏して解散総選挙(英語版)に打って出たが、保守党の勝利に終わった。グラッドストンもニューアーク選挙区から圧勝で再選した。メルバーン卿は召集された議会で敗北して総辞職し、代わってピールが組閣の大命を受け、第二次ピール内閣(英語版)が発足した。 グラッドストンはアイルランド担当大臣(英語版)としての入閣を希望したが、ピールはグラッドストンにその地位を与えたらアイルランド人に国教会を押し付けることに利用するだろうと見ていた。ピールはグラッドストンに神学論争から離れてほしがっており、そのためにも実際的な仕事をさせようと商務庁副長官(英語版)のポストを与えた。商務庁長官は貴族院議員リポン伯爵だったため、グラッドストンが庶民院における商務庁代表者となった。グラッドストンは財政には門外漢だったが、この役職に就任したのを機に急速に財政に関する知識を身に付け、その勤勉さでリポン伯爵よりも商務庁の政務に精通するようになった。やがてリポン伯爵を傀儡にして商務庁の経済政策を主導するようになった。 ピール内閣の経済政策は関税の引き下げによって殖産興業を促し、その間の一時的な減収は所得税を導入して補う事を基本としていた。そして関税引き下げの具体的内容は商務庁、つまりグラッドストンに一任された。グラッドストンは、与野党の意見を調整して、関税が定められている1200品目のうち750品目もの関税を廃止するか引き下げることに成功した。さらに彼は穀物法で保護されている小麦についてもただちに自由貿易に移行させようとしたが、ピール首相が保守党の支持基盤である地主(保護貿易主義者が多い)に配慮してブレーキをかけた。結局、小麦についてはスライド制にして段階的自由貿易を目指すことになった。この関税問題を通じてグラッドストンは庶民院で何度も演説することになったため、雄弁家として高く評価されるようになり、「小ピール」とあだ名されるようになったという。 ===第二次ピール内閣商務庁長官=== 1843年5月に商務庁長官を辞任したリポン伯爵の跡を継いで、33歳にして商務庁長官に就任した(初入閣)。商務庁長官として様々な改革に携わった。 1844年には鉄道法改正を主導した。これによって各鉄道の三等客車の環境が大きく改善し(それまで三等客車は屋根がなかったり、貨物や家畜と一緒だったりすることが珍しくなかった)、また三等客車の数も増やされ、庶民が鉄道を利用しやすくなった。この鉄道法改正で導入された新しい三等客車は庶民から「議会列車」と呼ばれて親しまれたという。 続いて公共職業安定所を設置し、ロンドン港(英語版)の荷揚げ人足が酒場から徴収される慣習を断ち切った(この慣習のせいでこれまで失業者はお金を工面して酒場で酒を飲んで酒場の店主に媚を売って仕事をまわしてもらわなければならなかった)。 1845年初めには更なる関税廃止改革を断行し、450品目もの関税を廃止した。 しかしこの直後の1845年2月3日に商務長官を辞職することになった。ピール首相がアイルランド議員懐柔のためにダブリンのカトリック聖職者養成学校マーヌース学院(英語版)への補助金を増額させようとしたことが彼の宗教的信念に反したためだった。グラッドストンはそれが避けられない政策であると理解していたが、著書『教会との関係における国家』がまだ出版中だったので言行不一致と批判されるとを憂慮してのことだった。庶民院の演説で辞任理由について個人的な良心の問題であることを強調してなるべくピール首相に迷惑をかけない形で辞任した。 ===第二次ピール内閣陸軍・植民地大臣=== ピール首相は様々な関税の引き下げ・撤廃を行ったが、地主への配慮から穀物法は温存していた。だが、1845年夏以降の不作により、ジャガイモを主食とする貧民が多いアイルランドがジャガイモ飢饉に陥ったことで事情がかわった。ピール首相は、アイルランドの食糧事情を改善するため、野党ホイッグ党党首ジョン・ラッセル卿と声を合わせて穀物法廃止を主張するようになった。 しかし保守党内には地主を中心に穀物自由貿易への反発が根強く、11月にピール内閣は閣内不一致で一度総辞職した。ホイッグ党党首ジョン・ラッセル卿が組閣の大命を受けるも組閣に失敗し、結局ピールが続投することになり、保護貿易主義者のスタンリー卿(後の第14代ダービー伯爵)とバクルー公爵を辞職させた自由貿易内閣を組閣した。 この際にグラッドストンは辞職したスタンリー卿の後任として陸軍・植民地大臣に就任した。当時のイギリスには途中から入閣した者は一度議員辞職して再選挙しなければならないという法律があったため、庶民院議員を辞職したが、ニューアーク選挙区を支配するニューカッスル公爵が保護貿易主義者であったため、ここでの再立候補を断念し、当面民間人閣僚となった。 ===穀物法をめぐる党分裂=== ピールは穀物法廃止法案を提出したが、保守党内反ピール派の筆頭ベンジャミン・ディズレーリとジョージ・ベンティンク卿がピールを「イギリス農業を崩壊させようとしている党の裏切り者」と糾弾するキャンペーンを行ったため、保守党所属議員の三分の二以上の造反にあった。しかし野党であるホイッグ党と急進派(英語版)が支持に回ってくれたおかげで、無事庶民院を通過した。 しかし直後にホイッグ党は、ディズレーリやベンティンク卿ら保守党内反ピール派と連携して、ピールの提出したアイルランド強圧法案を1846年6月29日の庶民院で否決に追い込み、ピール内閣を総辞職に追い込んだ。 この一連の騒動でピールとピールを支持した自由貿易派の保守党議員112人は保守党を離党してピール派を結成することになった。グラッドストンもピールに従って保守党を離党した。 ===ピール派時代=== ====自由主義化==== ピール内閣総辞職後、ホイッグ党のジョン・ラッセル卿内閣が発足したが、少数与党政権だったので、1847年6月にも解散総選挙(英語版)となった。この選挙でグラッドストンはオックスフォード大学選挙区(英語版)から出馬して二位当選を果たした(以降1868年までこの選挙区から当選を続ける)。総選挙全体の結果はピール派が60名程度に減ったこと以外、改選前と大きな変化はなく、結局ラッセル内閣は議会の基盤が不安定だが、保守党が分裂しているために政権を維持できるという状態で政権運営を続けることになった。 グラッドストンは役職に就けなかった1846年から1852年に至る期間を「部分的中絶」期と呼んでいるが、彼にとってこの時期は経済政策以外も自由主義思想に近づいていく変化の時期であった。 まず変化したのは宗教に関する認識である。彼はなお国教会を国際キリスト教の中心と認識していたが、現実のイギリス社会では国教会は希薄化する一方だった。政府が国教会に特権を与えて国教会の優位を確保しようとしても、国教会は国の庇護に安住してしまい、内部分裂と弱体化を繰り返す一方だった。そこでグラッドストンは国教会から特権をはく奪して他の宗教・宗派との自由競争を促し、結果的に国教会を発展・強化させることを志向するようになったのである。 グラッドストンはその第一弾として1847年にユダヤ教徒の議会入りを禁じた法律の廃止に信教の自由の観点から賛成した。これはこれまでのグラッドストンの国教会絶対主義の立場から考えれば大きな変化に思われ、選挙区のオックスフォード大学の聖職者からも批判を受けた(1848年にグラッドストンがオックスフォード大学から法学博士号を送られた際に「ユダヤ法のな!」というヤジが飛んだという)。 またグラッドストンは1839年の阿片戦争に反対するなど、以前から弱小国イジメをキリスト教の精神に反する暴虐と看做して反対してきたが、自由主義化によってそれが一層顕著になった。1849年のドン・パシフィコ事件(英語版)をはじめとするパーマストン子爵外相の強硬外交を批判した。植民地に対する認識も植民地の自治・自弁を推進することで本国の出費を減らし、かつ大英帝国という緩やかな結合を維持してその威光を保とうという後年の小英国主義になっていった。 ただこの時点での彼は自分が自由主義者になったとは認識しておらず、保守党がその「悪弊」を改めたなら保守党へ戻るつもりでいたという。 ===両シチリア王国の自由主義者弾圧に怒り=== 1850年秋、イタリア半島南部の両シチリア王国を外遊した。イタリア半島各国では1848年革命の影響で自由主義ナショナリズム運動・イタリア統一運動が盛んになっており、イタリア半島各国は王権を守るためにその弾圧にあたっていた。とりわけ両シチリア王国国王フェルディナンド2世の自由主義者弾圧は苛烈を極め、多くの政治犯が残虐な取扱いを受けていた。 ナポリの刑務所を訪問してそれを間近に見たグラッドストンは両シチリア王国の自由主義者弾圧を「神の否定」に相当する反キリスト教行為であると看做して激しい怒りを露わにし、その暴虐を訴える手紙をアバディーン伯爵(1850年のピールの死後にピール派党首になっていた)に書き送った。またイギリス政府に提出した外遊報告書にもその件のみを書きつづった。庶民院でも外相パーマストン子爵に対してその件について質疑を正した。しかしイギリス政府もアバディーン伯爵も重い腰を上げようとしなかったので、ついにグラッドストンはアバディーン伯爵へ書き送った手紙を出版した。保守主義者に保守主義の悪面を取り除く勇気を持たせようとした内容だったが、保守主義者からの評判は悪かった。 この一件でグラッドストンは「神の否定」に相当する暴虐を平気で容認する保守主義に失望した。彼の党派はいまだホイッグではなかったものの、その思想はますます自由主義に近づいていくこととなった。 ===ディズレーリとの初対決=== 1851年末から1852年初頭にかけて与党ホイッグ党は首相ラッセルの派閥と外相を解任されたパーマストン卿の派閥に分裂した。1852年2月の議会においてラッセル内閣は、パーマストン卿派と野党保守党の連携によって倒閣された。代わって組閣の大命を受けた保守党党首ダービー伯爵はピール派に入閣交渉を持ちかけたが(この際にグラッドストンに外務大臣の地位が提示された)、グラッドストンを含むピール派は保守党がいまだ保護貿易主義を明確に放棄していない事を理由に入閣を拒否した。 結局ダービー伯爵は保守党議員のみで少数与党内閣を組閣した。この内閣に大蔵大臣として入閣したのは保守党庶民院院内総務(英語版)ディズレーリであったが、この人事を聞いたグラッドストンは、妻への手紙の中で「私はこれ以上最悪の人選を聞いたことがない」と書いている。 ディズレーリはピールを失脚に追い込んだ張本人としてピール派の憎悪の的となっており、ディズレーリが作成する予算案を潰すことはピール派にとって弔い合戦だった。 ディズレーリは1852年12月3日の庶民院に予算案を提出したが、その内容は保護貿易主義と自由貿易主義の折衷をとったものだった。すなわち自由貿易で損害を被ったと主張している地主たちに税法上の優遇措置を与えつつ、その減収分は所得税と家屋税の免税点を下げることによって賄う内容だった。 地主優遇と所得税を嫌うグラッドストンにとっては断じて許せない内容であり、12月16日夜から翌日早朝までにかけての庶民院の総括討議においてディズレーリの予算案を徹底的に攻撃して論破した。この討論はこれから長きにわたって続く、グラッドストンとディズレーリの最初の対決となったが、最初の対決はグラッドストンに軍配があがった。グラッドストンの演説後に行われた午前4時の採決では保守党を除く全政党が反対票を投じ、ディズレーリの予算案は否決されたのである。 グラッドストンはこの勝利によって庶民院における指導的地位を確立した。 ===アバディーン内閣大蔵大臣=== 上記予算案の否決によりダービー伯爵内閣は総辞職した。1852年12月28日、分裂状態の続くホイッグ党に代わって、ピール派党首アバディーン伯爵に組閣の大命があり、ピール派6人、ホイッグ党6人、急進派1人からなるアバディーン伯爵内閣(英語版)が組閣された。グラッドストンも大蔵大臣として入閣した。 蔵相就任後、さっそくディズレーリの予算案に代わる新たな予算案作成にあたった。130品目の食品の関税を廃止しつつ、緊縮財政を守るため、その減収分を補う物として全ての動産・不動産に対して相続税を導入した(これまでの相続税は限嗣相続ではない動産のみにかかった)。一方グラッドストンが「働かないで得た財産収入と働いて得た労働収入を同列にしている」「脱税を招きやすく、国民道徳を衰退させる」として「最も不道徳な税金」と定義していた所得税は漸次減らしていき、7年後には全廃するとした(ただしそれまでの間はこれまで適用外とされていたアイルランドにも所得税を適用)。ディズレーリ予算案との最大の違いは地主に大きな負担を強いたことである。庶民院でのグラッドストンの予算案演説は、高く評価され、ジョン・ラッセル卿は「ミスター・ピットはその最盛期にはもっと堂々としていたかもしれませんが、その彼さえもグラッドストンほどの説得力はありませんでした」と女王に報告している。予算はほとんど無修正で庶民院を通過した。 1853年10月にロシア帝国とオスマン=トルコ帝国の間でバルカン半島をめぐってクリミア戦争が勃発した。バルカン半島がロシアの手に落ちればイギリスの地中海における覇権が危機に晒される恐れがあったが、首相アバディーン伯爵は平和外交家として知られていたため、当初参戦に慎重な姿勢を示した。グラッドストンも当初は慎重派だった。 しかしフランス皇帝ナポレオン3世が英仏共同で対ロシア参戦しようとイギリスに誘いをかけてきたうえ、ホイッグ党のラッセルとパーマストン卿がともに対ロシア強硬派だったため、最終的にはイギリスも対ロシアで参戦することとなった。グラッドストンはキリスト教弾圧を止めないトルコを嫌っていたが、それを止めるという名目でバルカン半島侵略を目論むロシアも嫌っていたので参戦に積極的な反対はしなかった。ただ戦費を維持するために所得税漸次廃止が実現不可能になり、所得税を永久税とせざるをえなくなったことについては惜しんでいた。 クリミア戦争の戦況は泥沼化し、1855年1月には急進派のジョン・アーサー・ローバック(英語版)議員が前線の軍の状況を調べるための調査委員会の設置を要求する動議を提出した。このローバックの動議に反対する政府側の代表答弁はグラッドストンが行った。彼は戦時中にそのような調査を行う事はイギリスの弱点を敵国に教えるようなものであると訴えたが、この演説は功を奏せず、ディズレーリの糾弾演説の方が注目され、動議は305票対148票という大差で可決された。 この敗北を受けてアバディーン内閣は総辞職し、紆余曲折の末にホイッグ党のパーマストン子爵に組閣の大命がおりた。 ===パーマストン外交を批判=== 1855年2月8日、第一次パーマストン子爵内閣(英語版)が成立した。ピール派も同内閣に入閣し、グラッドストンは引き続き大蔵大臣を務めることになった。しかし組閣後まもなくパーマストン卿がローバックの調査委員会設置の動議に応じたため、これを不服としたグラッドストンは、ピール派の一部閣僚を連れて内閣を離れた。パーマストン内閣成立からわずか2 ‐ 3週間後ぐらいのことであった。 クリミア戦争はロシアとナポレオン3世の継戦意欲が弱まったことで、1856年3月30日にパリ条約締結をもって終戦した。 しかしナポレオン3世と結託してのパーマストン子爵の強硬外交は続いた。1856年にはアロー号事件を契機としてフランスとともに清に対してアロー戦争を開始した。この戦争を批判するリチャード・コブデン議員提出の動議が保守党やピール派、急進派の賛成で可決された。グラッドストンも賛成票を投じた。これに対してパーマストン子爵は解散総選挙(英語版)に打って出た。総選挙の結果、党派に関係なくパーマストン子爵を支持する議員が大勝した。グラッドストンは再選したものの、コブデンら強硬な戦争反対論者はほとんど全員落選した。 また同時期にパーマストン子爵はナポレオン3世と共同でスエズ運河建設にあたったが、これに対してもグラッドストンはフランス以外の国からも支持を得て行わなければならないとして慎重姿勢を示した。 パーマストン子爵の強硬外交は功を奏し続けたため、野党も攻めあぐねていた。その状況が変化したのは、1858年1月に起こったイギリス亡命中のイタリア・ナショナリストフェリーチェ・オルシーニによるナポレオン3世暗殺未遂事件だった。この事件後フランス外相アレクサンドル・ヴァレフスキからの要請でパーマストン卿は、殺人共謀を重罪化する法案を提出したが、この法案は「フランスへの媚び売り法案」として世論の批判に晒された。庶民院でもトマス・ミルナー・ギブソン(英語版)議員から法案の修正案が提出された。グラッドストンもパーマストン卿の法案について「抑圧的法律の外へ安全を求める人々に対する道徳的共犯となる」と論じ、ギブソンの修正案に賛成した。修正案は16票差で可決され、パーマストン子爵内閣は総辞職した。 ===『ホメーロスとその時代』=== 第一次パーマストン内閣期の野党時代にグラッドストンは古代ギリシアの詩人ホメーロスの研究に打ち込んだ。その成果は1858年3月にオックスフォード大学から出版された著書『ホメーロスとその時代』(全3巻)にまとめられた。 この著作はホメーロスの著作にはキリスト教の萌芽が見られると主張するものだった(たとえばゼウス・ポセイドン・ハーデスはキリスト教の三位一体にあたると主張している)。しかし一般的にはこの著作は荒唐無稽と評価された。 グラッドストンがこの本の出版を決意したのはギリシャ正教会とイングランド国教会の統一を希望していたためであるといわれる。 古代ギリシャやホメーロスはグラッドストンが生涯を通じて興味を持っていた分野であり、この後もしばしばこの分野の本を出版する。 ===自由党時代=== ====自由党の結成==== 総辞職したパーマストン子爵内閣の後を受けて、1858年2月25日には保守党政権の第二次ダービー伯爵内閣が成立した。 1859年3月に大蔵大臣・庶民院院内総務ディズレーリが庶民院に提出した選挙法改正法案が否決されたことで解散総選挙(英語版)となり、保守党があと少しで過半数を獲得できるところまで議席を伸ばした。これに対する野党の危機感とイタリア統一戦争の勃発による自由主義ナショナリズムの盛り上がりを背景にホイッグ党の二大派閥(ジョン・ラッセル卿派とパーマストン子爵派)、ジョン・ブライト率いる急進派、ピール派が合同して自由党が結成された。 これによりグラッドストンも自由党議員となった。ダービー伯爵政権は少数与党政権なので野党が一つに団結すれば政権は維持できず、1859年5月にも自由党から内閣不信任案を突き付けられて内閣総辞職に追い込まれた。グラッドストンは自由党議員でありながらこの不信任案に反対票を投じた。グラッドストンは自由党を率いるパーマストン子爵と(保守党の大部分を占める親オーストリア派を排除した)保守党少数派を率いるダービー伯爵による連立政権を希望していたためといわれる。 ===第二次パーマストン内閣大蔵大臣=== 1859年6月、自由党政権の第二次パーマストン子爵内閣が成立し、グラッドストンも大蔵大臣として入閣した。しかしグラッドストンはこれまでパーマストン子爵の強硬外交を散々批判してきたから、その内閣に入ることは言行不一致として世論から批判を集めた。それについてグラッドストンはイタリア統一問題でパーマストン子爵と見解が一致し、また現下ではイタリア問題が最も重要であるため入閣を決意したと述べた。 イタリア統一戦争と続くジュゼッペ・ガリバルディ軍による両シチリア王国侵攻の結果、教皇領以外のイタリア領はイタリア王国に統一された。これについてグラッドストンは「神の否定に相当する暴虐を行う絶対君主制国家群が滅び、イギリス型立憲君主制国家に統一された」として歓迎した。 イタリア情勢が落ち着くとグラッドストンは自由貿易強化に乗り出した。リチャード・コブデンを使者にしてフランス皇帝ナポレオン3世と交渉にあたり、1860年1月に英仏通商条約(英語版)の締結にこぎつけた。この条約によりイギリスはフランス工業製品の関税を廃止し、またブランデーやワインの関税も引き下げた。フランス側もイギリスの鉄鋼製品や綿製品の関税を引き下げるとともにイギリスに最恵国待遇を与えた。これによってイギリスの対仏輸出は2倍になり、イギリス産業界は大きな利益をあげた。 グラッドストンはフランス製品以外の関税も一掃するつもりだった。1860年当時419品目ほど残されていた関税は、この年のうちに48品目を除いてすべて廃止された。これによりイギリス国内の物価は低下していった。 また自由主義者から「知識に対する税」と批判されていた紙税を廃止した。これによって書籍や新聞の値段は下がり、庶民の手に届く価格になった。紙税は危険思想拡散防止の効果ありとして保守派が熱烈に支持してきたが、グラッドストンはそれとは逆に紙税の存在が大衆を無知化させ、参政権を与えることが危険な存在にしてしまっていると考え、紙税の廃止が「大衆の道徳的参政」になると考えていた。 関税と紙税廃止による一時的な減収はグラッドストンが嫌う所得税の増税によって賄わざるをえなかったが、これも関税廃止による経済発展で歳入が増加したことにともなって徐々に減らしていくことができた。 1865年7月の解散総選挙(英語版)では保守的なオックスフォード大学選挙区が、すっかり自由主義化したグラッドストンを落選させた。グラッドストンは代わりに南ランカシャー選挙区(英語版)から出馬し、こちらで当選を果たした。総選挙全体の結果は自由党の勝利に終わった。 ===第二次ラッセル内閣庶民院院内総務=== 1865年10月に首相パーマストン子爵が死去し、代わって外相ラッセル伯爵(ジョン・ラッセル卿。1861年に叙爵)が組閣の大命を受け、第二次ラッセル伯爵内閣(英語版)が成立した。グラッドストンは大蔵大臣に留任するとともに、庶民院院内総務を兼務して庶民院自由党議員を率いることになった。 折しも1860年代から選挙権拡大を求める世論が強まっていた。ラッセル伯爵は、労働者層への選挙権拡大に反対したパーマストン子爵の死去を好機として選挙法改正に乗り出した。庶民院院内総務であるグラッドストンがそれを主導することとなった。グラッドストンはかねてから自助を確立している熟練工に選挙権を認めないのは「道徳的罪悪」であると評していた。グラッドストンは現行の年価値50ポンドの不動産所有という州選挙区の有権者資格を19ポンドにまで引き下げ、また都市選挙区の方も現行の年価値10ポンドから7ポンドに引き下げ、加えて年価値10ポンド以上の家屋の間借り人も有権者とすることで労働者階級の上部である熟練工に選挙権を広げようとした。 この選挙法改正法案は1866年3月に議会に提出された。しかしこの時の議会はパーマストン子爵派が大勝をおさめた選挙の議会であるため、全体的に選挙法改正に慎重な空気だった。熟練工はすでに体制的存在となっていたので、彼らに選挙権を認めること自体には自由党にも保守党にもそれほど強い反対はなかった。ただ安易に数字を引き下げていくやり方は、何度も切り下げが繰り返されるきっかけとなり、やがて「無知蒙昧」な貧しい労働者にまで選挙権を与えることになるのではないか、という不安が議会の中では強かった。「普通選挙→デマゴーグ・衆愚政治→ナポレオン3世の独裁」という議会政治崩壊の直近の事例もあるだけに尚更だった。そうした憂慮からロバート・ロウ(英語版)をはじめ自由党議員からも造反者が出た。1866年6月にグラッドストンの選挙法改正法案は第二読会を5票差という僅差で通過したものの、ダンケリン卿(英語版)提案の法案修正動議が自由党造反議員46人の賛成を得て11票の僅差で可決されたことで法案は議会で敗北した。 この敗北によりラッセル伯爵内閣は自由党分裂を避けるために解散総選挙を断念して総辞職した。 選挙法改正挫折に対する国民の反発は大きく、トラファルガー広場やハイド・パークで大規模抗議デモが行われる事態となった。グラッドストンはにわかに選挙法改正を目指した英雄として持ちあげられるようになり、総辞職が発表された翌日にはグラッドストン邸の前に激励の民衆が1万人以上も駆け付けた。 ===ディズレーリの第二次選挙法改正をめぐって=== 1866年3月、保守党政権の第三次ダービー伯爵内閣が成立した。しかし自由党急進派ジョン・ブライト議員が遊説で煽ったこともあって選挙法改正を求める民衆運動はますます激しくなっていた。過激化していく民衆運動を恐れたダービー伯爵政権は選挙法改正を決意し、庶民院院内総務ディズレーリの主導のもとに選挙法改正法案を作成し、3月18日の庶民院に提出した。 同改正案は都市選挙区について戸主選挙権制度をベースとしつつ、そこに様々な条件(地方税直接納税者に限る、2年以上の居住制限、借家人の選挙権は認められない、有産者は二重投票可能など)を加えることで実質的に選挙権を制限する内容だった。先のグラッドストン案と違い、切り下げが繰り返されるのではという議会の不安を払しょくした点では優れたものであった。 しかしグラッドストンが考えるところ、この法案そのままでは有権者数は14万人しか増えないし、また恐らく委員会における審議の中で法案に付けられている条件はほとんど撤廃されてしまうと予想し、結果的に「無知蒙昧」な下層労働者にまで選挙権が広がることを懸念した。そこで彼はこの法案に付けられているような条件はいらないが、代わりに地方税納税額5ポンド以上という条件を付けるべきと主張した。 グラッドストンは第二読会においてディズレーリの改正法案を激しく批判し、自らの地方税納税額5ポンド条件の方が有権者数が増えることを力説した。だがディズレーリは「(グラッドストンは)一方では法案の資格制限の撤廃を主張しながら、一方では5ポンド地方税納税という別の資格制限を加えようとしている」と根本的な矛盾を指摘して彼をやり込めた。 法案は3月26日の第二読会を採決なしで通過した。グラッドストンはこれに対抗して4月11日に地方税納税額5ポンドを条件とする修正案を議会に提出したが、採決において自由党議員から造反者が多数出て310票対289票で否決された(自由党議員のうち40名造反、20名棄権)。グラッドストンが党内情勢を読み間違えたのは、自由党議員がグラッドストンの権威を恐れて彼の前でははっきりと自分の意見を口にしなかったためである。この敗北にグラッドストンは自由党庶民院院内総務を辞職することも考えたが、周囲に慰留されて思いとどまった。 一方ディズレーリの改正法案は、グラッドストンの予想通り、委員会の審議において、ディズレーリがジョン・ブライトら自由党急進派に譲歩を重ねて条件を次々に廃していった結果、事実上単なる戸主選挙権法案と化し、グラッドストン案よりも有権者数が大幅に増える内容となった。とりわけ直接納税の条件まで廃したことにグラッドストンは驚き、ディズレーリを「ミステリーマン」と評した。戸主といってもその中には貧相な住居を所有する貧困層も含まれるので、グラッドストンはやはり納税額の資格を設けたがっていた。しかし彼は先の修正案で敗北を喫したため、法案審議の最終局面への参加は見合わせており、彼を無視してディズレーリと自由党急進派で話が進められることとなった。改正案は6月15日に第三読会を通過し、貴族院も通過し、8月15日にヴィクトリア女王の裁可を得て法律となった。ここに第二次選挙法改正が達成された。 ディズレーリには今後も保守党が政局を主導するために何が何でも保守党政権下で選挙法改正を達成したいという政局の目論見があった。そのため選挙法改正の真の功労者はやはりグラッドストンであるとする世論が根強く、後にディズレーリがこの選挙法改正で選挙権を得た新有権者に向かって「私が貴方達に選挙権を与えた」と述べた際に新有権者たちは「サンキュー、ミスター・グラッドストン」というヤジを飛ばしたといわれる。 ===自由党党首に就任=== 1867年12月に自由党党首ラッセル伯爵が76歳の高齢を理由に党首職を辞した。当時首相を務めないと党首を名乗れない慣習があったので、正式な就任ではないが、実質的にグラッドストンが党首となった。 この頃、アイルランド独立を目指す秘密結社フェニアンの暴動がイングランドで多発していた。アイルランド問題の解決が政治の緊急の課題となり、グラッドストンはアイルランド国教会の廃止、アイルランド教会の国教会からの分離を党の目玉公約とすることを決定した。 30年前の著書『教会との関係における国家』の中でアイルランド人がどう思おうが、国教会が唯一の真理なので押し付けるべきと主張していた彼が自由主義化の果てにとうとうこのような結論に達したのだった。 ===アイルランド国教会廃止を公約=== 1868年2月には首相ダービー伯爵が退任し、ベンジャミン・ディズレーリが後継の首相となった。選挙法改正を成功させたディズレーリだが、保守党が少数与党なのは相変わらずであり、また選挙法改正で生じた自由党内の亀裂も修復されていったので、ディズレーリ政権は不安定なままだった。そのため解散総選挙は近いと予想された。 3月にグラッドストンは「アイルランド国教会廃止法案の準備を今会期で開始し、次会期に法案を提出すべき」とする決議案を議会に提出した。これによってこの会期と来る総選挙の最大の争点はアイルランド問題となった。アイルランド国教会廃止は自由党内でも賛否両論あり、党内の結束力を高める効果があるかは微妙だったが、与党保守党の方がより意見の相違があったので、ディズレーリ内閣を閣内不一致に追い込むのには効果的だった。この決議案の採択をめぐってグラッドストンは今度こそ党内造反議員を出すまいと団結を強く訴えた。その結果この決議案は5月1日に可決された。 本来ならここで解散総選挙か総辞職だが、この時点で総選挙をすると旧選挙法による選挙となり、世論の反発を買う恐れが高かったため、ディズレーリはしばらく解散なしで政権を延命させようとした。解散を振りかざすことで閣内からの総辞職要求や自由党の内閣不信任案提出を牽制した。これについてグラッドストンは議会で議決された決議案の実施を解散権をちらつかせて阻止しようとするとは何事と批判した。しかし自由党内も歩調はあっておらず、結局グラッドストンは内閣不信任案提出を避けた。 7月31日に議会は閉会し、11月に総選挙が行われることとなった。総選挙の最大の争点となったのはやはりアイルランド国教会問題だった。グラッドストンは国教会信徒がほとんどいないアイルランドに国教会を置くことの無意味さを熱弁した。自由党はアイルランド、スコットランド、ウェールズなどで優勢に選挙戦を進め、選挙の結果、112議席の多数を得る勝利を収めた。グラッドストン本人ははじめランカシャー選挙区に出馬したが、ここは国教会が強いので落選し、代わってグリニッジ選挙区(英語版)に鞍替えして無競争で当選を果たしている。 この選挙結果を受けてディズレーリ内閣は新議会招集を待たず12月2日に総辞職した。 ===第一次グラッドストン内閣=== 1868年12月1日、59歳の誕生日を目前にしたグラッドストンがハワーデン城で木を伐採していた時、女王の近臣であるチャールズ・グレイ将軍(英語版)がそちらへ向かうという電報が彼の下に届けられた。それを読んだグラッドストンは「非常に重大だ」と一言だけ述べ、木の伐採に戻ったという。その翌日にグレイ将軍が到着し、ウィンザー城への参内を求める勅書をグラッドストンに手渡した。グラッドストンはただちにウィンザー城へ向かい、12月3日に女王の引見を受けた。そこで組閣の大命を受けたグラッドストンはこれを拝受し、第一次グラッドストン内閣を組閣した。 1869年2月に新議会が招集された。グラッドストンは早速アイルランド国教会廃止法案を庶民院に提出した。自由党はアイルランド国教会問題を争点にして総選挙に勝利したのだから、庶民院でこの法案を止められる者はなく、法案は100票以上の大差をもって各読会を通過した。 問題は保守党が恒常的に多数を占める貴族院だった。さすがに総選挙で勝利した法案に表立って逆らうのは貴族院でも難しい情勢だったが、それでも貴族院(とりわけ利害関係のある聖職者議員)は条件闘争を行い、教会の財産問題をめぐって何度も庶民院への差し戻しを行った。だがジョン・ブライトが「貴族院がいつまでも頑固な態度を続けるなら、彼らは不利な立場に追いやられるかもしれない」と貴族院改革を臭わせる脅迫を行ったのが功を奏して、決定的な修正をされることなく、1871年になって法案は貴族院を通過した。 この法案の成立によりアイルランド国教会は公的地位を喪失して自由教会となった。アイルランド人が教会税を納める必要もなくなった。また国教会の残余財産900万ポンドは国教会廃止により損害を被った者への補償に充てることとなった。 当時のアイルランドは、イングランド産業を害さないように農業以外の産業が育たないよう法律で様々な規制がかけられており、ほぼ農業のみで成り立っていたが、アイルランド農地のほとんどは17世紀の清教徒革命以来、イングランド人の不在地主(英語版)の所有であり、アイルランド人はその下で高い地代を支払う小作農として働き、貧しい生活を余儀なくされていた。アイルランド人小作人が土地に付加価値(開墾して新田を作ったり、小屋を建設するなど)を付けると、不在地主は土地の価値が上がったとして地代を釣り上げ、小作人が地代支払い不能になると、それを理由に小作人を土地から追いだし、残された土地の付加価値は不在地主がただで手に入れるということが横行していた。 グラッドストンはこの問題にも切りこみ、1870年2月にアイルランド土地改革法案を提出した。この法案は地主の抵抗に遭いながらも、保守党党首ディズレーリがこの法案を対決法案としなかったこともあって、決定的な修正されることなく法案は通過した。 この法律により地主が小作人から理由なく土地を取り上げた場合には地主は小作人に法定の地代相当額を補償金として支払わねばならなくなった。また地代未納を理由とする強制立ち退きの場合であっても裁判所が「地代が法外」と認定した場合には補償の対象となった。また小作人が土地に付加した価値の補償も義務付けたが、これについては強制立ち退きの理由の有無を問わないものとされた。 だが地代未納を理由とした強制立ち退きの際の「法外な地代」に相当するかどうかの裁判所の判定は地主寄りになりやすく、また小作人が土地に付加した価値への補償についても地主は予め小作人との契約でその分の金額を徴収するようになり、支払わないケースが一般的になった。したがってこの法律はほとんど「ざる法」に終わった。 当時のイギリスにはまだ義務教育制度がなく、4割ほどの国民が小学校も出ていなかった。初等教育の内容も著しく不十分だったので、残りの6割の中でも小学校しか出ていない者は知識が乏しかった。初等教育においてイギリスは、プロイセン王国他ドイツ諸国やアメリカに先んじられていた。欧米型近代国家に生まれ変わるのが遅れた日本でも明治5年(1872年)には学制発布で義務教育制度の基礎が置かれたことを考えると、イギリスは欧米諸国としては義務教育制度導入が非常に遅れた国といえる。 普仏戦争のプロイセンの勝利やアメリカ南北戦争の北軍の勝利はプロイセンやアメリカ北部の初等教育の充実のためと主張されていた。また第二次選挙法改正で選挙権が労働者層上層部(熟練工)まで拡大している今、初等教育を充実させることは急務であるという意見も根強くなっていた。しかしそれでもなお義務教育導入はイギリスでは意見が分かれる問題だった。特に非国教徒は義務教育で国教会信仰の押し付けが行われることを恐れており、義務教育導入に反対する者が多かった。 グラッドストンはそうした反対を押し切ってでも義務教育を導入することを決意し、内閣で教育を所管している枢密院副議長ウィリアム・エドワード・フォースター(英語版)(急進派)に主導させて初等教育法案(英語版)を作成した。この法案は1870年に議会に提出され、急進派や非国教徒の激しい反発に遭いながらも、保守党の一部議員の賛成を得ることができ、なんとか両院を通過した。 この法律により「既存の学校は私立学校として宗教教育を自由にやってよいが、父兄から反対があった時はその子弟に対しては宗教教育をしてはならない」「学校がない地区には教育委員会の監督下に公立学校を設置・運営する。公立学校では特定宗派を引き立てる教育はしてはならない」「義務教育にするかどうかは各地区の教育委員会の判断にゆだねる」ことが定められた。 急進派であるフォースターはもともと既存の学校を全て買収して無宗教公立学校に変えたがっていたが、それは熱心な国教徒であるグラッドストンが許さなかったため、この辺りが落とし所となった。しかし急進派や非国教徒の不満はくすぶり続け、自由党内に埋めがたい亀裂が生じ、1875年の総選挙の惨敗につながることになる。 1870年には外務省を除く、全省庁で採用試験制度を導入した。これによって官僚の中心は貴族から高学歴エリート(当時は大学の門が狭かったので大卒者も結局貴族が多かったが)へと変貌していった。外務省だけ除かれたのは外相クラレンドン伯爵が強硬に反対したためだった。 またグラッドストンは、普仏戦争に圧勝したプロイセン軍を見て、軍隊改革の必要性も感じていた。当時のイギリス軍では将校の階級を買い取ることができ、貴族が次男坊三男坊の就職先としてよく購入していた。この制度のせいで軍の能率が悪くなっていると感じたグラッドストンはこの制度を廃止する決意を固めた。陸相カードウェルがこれを陸軍統制法案として議会に提出したが、貴族や軍人の保守党議員、また自由党ホイッグ派(貴族が多い)が激しく反発し、議事妨害さえ行った。結局法案は庶民院は通過したものの、貴族院で否決された。 グラッドストンは将校階級買い取り制度の法的根拠がジョージ3世の勅令だったことを利用して、ヴィクトリア女王を説得して、彼女の勅令をもって強引にこの制度を廃止した。これに対して野党保守党党首ディズレーリは「政府が窮境を免れるために女王陛下の勅令を利用するとは非立憲的である」と批判したが、この点は党内の急進派からも批判され、党内の亀裂が広がった。 当時のイギリスの選挙投票は口頭で公開式に行われたので、有力者に脅迫されて有権者の投票行動が操られることが多かった。そのため秘密投票制度への移行を求める議論もあったが、一方で秘密投票反対論も根強かった。というのも当時一般に選挙権は「国民の権利」ではなく貴族と中産階級だけに許された「特権」と認識されており、特権階級が特権(=責任)を秘密裏に行使することは論理的に問題があると考えられたからである。 だがグラッドストンは労働者上層まで選挙権を得た今、彼らが雇用主に脅迫されて投票を縛られることがないよう秘密投票に変更すべきと考えており、1871年に秘密投票法案を議会に提出した。法案は庶民院を通過したものの、保守党が多数の貴族院に審議不十分として差し戻された。しかし解散をちらつかせて、保守党を脅迫したことで(彼らは自由党政権の支持率回復の恐れがあるこの法案での解散総選挙をしたくなかった)、翌1872年に秘密投票法案を可決させることに成功した。 秘密投票制度の確立によって、とりわけアイルランド農民が地主に投票行動を操られなくなり、アイルランド国民党が庶民院に進出してくるきっかけとなった。 イギリスでは1825年に「賃金・労働時間について、暴力や脅迫を用いずに平和的に雇用主と交渉する労働組合」については合法化されていた。これに該当するか否かの判断は裁判所の裁量に任されており、裁判所ははじめ労働組合寄りの判決を出してきたが、労働組合が成長してきた1860年代から労働組合を抑えこもうと雇用主寄りの判決を出すことが多くなった。これに労働者上層部の不満が高まっていた。 これに対応してグラッドストンは1871年に労働組合法を制定し、賃金と労働時間の交渉だけでなく、どんな目的の交渉であっても労働組合がストライキを行うことは合法とした。ただしピケッティング(スト破り防止)の活動は禁止した。そのためストライキがスト破りによって骨抜きにされてしまう危険をはらんだままだった。 ピケッティングは後にディズレーリ政権下で合法化されることになる。 一方ヨーロッパ大陸では、皇帝ナポレオン3世率いるフランス帝国と「鉄血宰相」オットー・フォン・ビスマルク率いるプロイセン王国の緊張が高まっていた。軍拡が戦争の元凶という持論があったグラッドストンは1869年に両国に対して軍備縮小を提案した。しかしこの提案は対仏戦争を欲していたビスマルクによって阻止された。 1870年7月に普仏戦争が勃発した。グラッドストンはこの戦争にあたってロシア帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、イタリア王国と連絡を取り合い、中立の立場をとることを確認しあった。また外相グランヴィル伯爵(死去したクラレンドン伯爵の後任)が普仏両国に対してベルギーの中立を守るよう要請した。 この戦争に敗れたフランスは第二帝政が崩壊して、第三共和政へ移行して弱体化した。一方勝利したプロイセンはドイツ統一を達成して強力なドイツ帝国を樹立するに至った。グラッドストンはプロイセンがフランス領アルザス・ロレーヌ地方を併合したことをキリスト教の精神に反する「貪欲 (Greed)」と看做して強く反発した。外相グランヴィル伯爵が「もう手遅れだ」といって止めるのも聞かず、ビスマルクに手紙を送って「罪深い『貪欲』の発揮をただちに止め、アルザス=ロレーヌ地域を中立化せよ」と要求した。しかしビスマルクは「グラッドストン教授」と呼んで馬鹿にし、相手にしなかった。 さらに普仏戦争でプロイセンに好意的中立の立場をとったロシア外相アレクサンドル・ゴルチャコフもプロイセン勝利に乗じる形でパリ条約の黒海艦隊保有禁止条項の破棄を一方的に各国に通告した。これによりイギリスの地中海覇権がロシアに脅かされる恐れが出てきた。グラッドストンは「一方的な行為によって締結国の同意もなく、条約上の義務から免れてはいけない」と主張して、国際会議を提唱し、1870年12月からロンドン会議が開催された。会議自体はドイツの支持を得たロシアの主張が認められるという結果に終わったが、この会議により「全ての締結国が同意しない限り、いかなる国も条約上の義務を免れたり、条約の条項を修正することはできない」とする国際法の原則が確立された。 アメリカ南北戦争中、南軍がイギリスで建造した偽装巡洋艦アラバマ号が、2年にわたって大西洋上で北軍の船を攻撃した。これについて戦後アメリカ大統領ユリシーズ・グラントは、アラバマ号(英語版)をはじめとする偽装巡洋艦はすべてイギリスで建造された物であり、イギリスの港から出撃し、その操縦員はイギリス人であることが多かった点を指摘し、イギリスに賠償を要求した。 これに対してグラッドストンは1872年に保守党のスタッフォード・ノースコートとオックスフォード大学国際法教授モンタギュー・バーナード(英語版)をアメリカ首都ワシントンに派遣し、交渉に当たらせた。その結果、イギリス政府は賠償金を支払うことになったが、その金額はアメリカ政府が初めに要求した額の三分の一に減じることができた。 国際道理上、アラバマ号の与えた損害は、イギリスが賠償すべきものであり、それを三分の一まで減額できたことはイギリス外交の勝利といえたが、国内世論はこれを外交的失態と看做す論調が多く、グラッドストン批判が強まった。 当時のアイルランドの最高教育機関はダブリンにあるトリニティ・カレッジであったが、この大学は国教会が監督しており、国教会教育が行われていたため、アイルランドで多数を占めるカトリックは入学したがらなかった。他は無宗教の大学があるのみでカトリックにとっては事実上大学がない状態であり、アイルランドにカトリック大学を創設してほしいという要望が高まっていた。 これを受けてグラッドストンは1873年にアイルランド大学改革法案を議会に提出した。この法案は、ダブリンに中央大学(ユニバーシティ)を創設し、その下に国教会のトレニティ・カレッジも含めて各宗派のカレッジを設置し、カレッジごとにそれぞれの信仰に基づいた教育を行わせるとしていた。各カレッジの学生はユニバーシティの講義も受ける必要があるが、そこでの講義は宗派で意見が分かれそうな教科(神学、論理学、近代史学)は取り扱わないものとしていた。 グラッドストンとしては各宗派に配慮した折衷案のつもりであったのだが、逆に各宗派いずれからも反発を買った。枢機卿ポール・カレン(英語版)をはじめとするアイルランド・カトリックは、ユニバーシティ理事会がカトリックのカレッジの教授の任命権を握ることを憂慮し、独立したカトリック大学の創設を求めて、この法案に反対した。非国教徒はカトリックにまで補助金を出す必要はないとして反対した。国教徒は歴史あるトリニティ・カレッジを勝手に再編することに反対した。 このような状況だったから自由党内のアイルランド議員や一部急進派が造反し、法案は3月12日の第二読会でわずか3票差で否決された。 アイルランド大学法案の否決を受けてグラッドストンは総辞職を表明した。これを受けてヴィクトリア女王は保守党党首ディズレーリに組閣の大命を与えたが、総選挙を経ず少数党のまま政権に付きたくなかったディズレーリは拝辞した。これに対してグラッドストンは内閣への信任決議相当の政府法案が否決された場合には、野党第一党は後継として組閣するのが義務であると述べてディズレーリの態度を批判した。 結局グラッドストンが首相に留任したが、その間も自由党はますます分裂した。ホイッグ派は先の軍隊・官僚制度の改革に不満を高めており、一方急進派は初等教育法や労働組合法の不十分に不満を持っていた。グラッドストンの権威は日に日に弱まり、1873年8月にはマッチ税導入の失敗の責めを負って大蔵大臣ロバート・ロー(英語版)が辞職したが、後任が決まらずグラッドストンが大蔵大臣を兼務している。党の内部分裂の深刻さから、そのうち他の閣僚からも辞職者が出るだろうと噂された。 一方ディズレーリは、グラッドストンの「弱腰外交」を批判して国民の愛国心を煽り、総選挙に備えていた。 グラッドストンは財政が黒字になっていたことから念願の所得税廃止に乗り出そうとしたが、閣内から所得税を廃止できるほど十分な黒字ではないとの反論を受けた。反対閣僚たちは総選挙で有権者の信任を得ない限り、自分たちの省庁は予算削減には応じないという態度を取った。これに対してグラッドストンは1874年1月23日に「自由党の復活を国民に問う」として解散総選挙を発表した。閣内不一致の件は秘匿されていたため、世間には突然の解散総選挙のように見え、与党議員さえも仰天したという。 選挙戦中、グラッドストンは所得税廃止をスローガンにしたが、党勢はふるわなかった。自由党の分裂状態に加え、自由党の支持基盤の一つであるアイルランド有権者が秘密投票制度の確立によって自由党ではなくアイルランド国民党(英語版)を支持するようになったためである。 1874年2月に行われた解散総選挙(英語版)の結果は、自由党254議席、保守党350議席、アイルランド国民党57議席だった。この敗北を受けてグラッドストンはディズレーリ前内閣に倣って新議会招集を待たずに総辞職した。ディズレーリが組閣の大命を受け、第二次ディズレーリ内閣が発足した。 ===自由党党首引退=== すでに64歳だったグラッドストンは、自由党党首も辞職して政界引退を考えていた。貴族院自由党の指導者グランヴィル伯爵ら党幹部から慰留されたが、グラッドストンの決心は固かった。 首相退任から1年弱の1875年1月に正式に自由党党首職をハーティントン侯爵に譲り、グラッドストンは一自由党議員に戻った。しかしハーティントン侯爵よりもはるかに権威があるグラッドストンは、GOM(Grand Old Man、大老人)と呼ばれて畏敬されていた。 ===反トルコ運動を主導=== 当時バルカン半島はイスラム教国オスマン=トルコ帝国の統治下にあり、キリスト教徒スラブ人に対して重い特別税が課されるなど圧政が行われていた。1875年7月にはヘルツェゴビナとボスニアのスラブ人がトルコに対して蜂起した。この蜂起で汎スラブ主義が高まり、1876年4月にはブルガリアのスラブ人も蜂起し、続いて同年6月にはトルコ宗主権下のスラブ人自治国セルビア公国とモンテネグロ公国がトルコに宣戦布告した。最大のスラブ人国家ロシアも資金と義勇兵を送ることでこの一連のスラブ人蜂起を支援した。これに対抗してトルコ軍はブルガリアで1万2000人を超える老若男女を大量虐殺した。 1876年6月23日付けの『デイリー・ニューズ』がこの虐殺を報道したことでイギリス世論はトルコに対して急速に硬化した。ディズレーリ首相は、バルカン半島がロシアの手に堕ちることでイギリスの地中海の覇権が失われることを恐れており、終始親トルコ的態度をとったが、彼のそのような態度は世論の激しい批判を集めた。 グラッドストンは以前よりバルカン半島問題について「トルコがこれ以上暴政を続ける事も、ロシアがスラブ人自治を装って支配することも『貪欲(Greed)』であるから許されない。ヨーロッパ各国の監視の下に本当の意味でのスラブ人自治を達成しなければならない」という見解を示していた。ハワーデン城で半ば引退した生活を送っていたグラッドストンだったが、クリミア戦争の頃から閣僚だった政治家としてバルカン半島を救う責任を感じて政治活動を再開した。 早速反トルコ・パンフレット『ブルガリアの恐怖と東方問題』の執筆を開始し、9月6日にこれを出版した。グラッドストンはその中で「人類の中でも反人間の最たる見本がトルコ人だ。我が国の凶悪犯、あるいは南海の食人種でさえも、トルコ人がブルガリアで犯した虐殺を聞いて戦慄しない者はいないだろう。我々が取るべき道は、トルコ人の悪行と手を切り、バルカン半島からトルコ人を追い出すことだ。」と主張した。このパンフレットは9月末までに24万部を売りきっている。 グラッドストンは反トルコ運動の象徴的人物となり、イギリス中の反トルコ論者がハワーデン詣し、そこでグラッドストンからブルガリアで行われている虐殺についての講義を受けた。グラッドストンの地元であるリヴァプールでは特に反トルコ機運が盛り上がり、シェークスピアの『オセロ』の上演で「トルコ人は溺死した」というセリフが出るや、観客が総立ちになり、拍手喝采に包まれたという。 ===露土戦争をめぐって=== セルビアが敗北するとロシアは危機感を強め、1877年4月にトルコに宣戦布告して露土戦争を開始した。しかしロシア軍の侵攻はプレヴェンでトルコ軍によって5か月も阻まれた。 この間、イギリスの国内世論もだんだんトルコに同情的になっていった。だがグラッドストンの反トルコの立場は揺らがず、1877年5月には「トルコを支援しないこと、バルカン半島諸民族の独立を支援すること、ヨーロッパ列強が足並みをそろえてトルコに圧力をかけること」を求める動議を議会に提出したが、反応はよくなかった。自由党党首ハーティントン侯爵は自由党議員全員にこの動議に賛成させたものの、彼も内心では「グラッドストンは反トルコ思想の行きすぎでロシアの侵略的な野望に盲目になり過ぎている」と考えていた。結局この動議は与党保守党の反対で否決されている。世論のグラッドストンへの反感も強まり、「ロシアの手先」と罵られて、家に投石を受ける事件も発生した。 ロシアは英国が参戦してくる前にトルコにサン・ステファノ条約を締結させた。この条約でエーゲ海まで届く範囲でロシア衛星国大ブルガリア公国が樹立された。ディズレーリはこれに反発し、英露関係が緊張する中、1878年6月にベルリン会議が開催された。会議にはディズレーリ自らが出席して強硬な姿勢を貫いた結果、大ブルガリア公国は分割され、ロシアのエーゲ海進出は防がれた。この外交的成功でディズレーリの名声は高まった。このベルリン条約の批准が議会にかけられた際、グラッドストンはギリシャの要求を無視したものであること、また女王大権を利用して議会に諮らず独断で結んだ条約であることを批判する動議を提出したが、この動議は否決された。 ===ミッドロージアン・キャンペーン=== しかしその後、不況と農業不作でディズレーリ政権に不利な政治情勢が生まれた。とりわけ農業不振は地主の多い保守党には大きな問題だった。アメリカの農業技術の向上で安い穀物がイギリスに流入するようになったこともイギリスの農業不振を加速させており、保守党内では保護貿易復活を求める声が強まったが、ディズレーリ首相は都市労働者層の反発を恐れて保護貿易復活には慎重だった。結局保守党は保護貿易・自由貿易で分裂しはじめた。一方自由党はもともと自由貿易主義で固まっている政党なので分裂することなく、総選挙に邁進することができた。またディズレーリ政権は第二次アフガニスタン戦争とズールー戦争に勝利したものの、その不手際をめぐって批判を受けており、これらが自由党とグラッドストンにとって格好の攻撃材料となった。 グラッドストンは次の総選挙に備えて、選挙区をスコットランド・ミッドロージアン選挙区(英語版)に変更し、1879年11月から12月にかけて「ミッドロージアン・キャンペーン(英語版)」と呼ばれる一連のディズレーリ批判演説を行って支持率を高めた。ディズレーリの帝国主義政策を「栄光の幻を追って税金を無駄使いしている」と切り捨て、「我々が未開人と呼ぶ人々の人権を忘れるな。粗末な家で暮らしている彼らも、神の目から見れば諸君らと全く等しく尊重されるべき生命なのだ」と語り、未だ続いていたアフガン戦争を批判した。また「アイルランド・ウェールズ・スコットランドには何らかの自治が与えられるべきである」と主張した。農業については、なお自由貿易を支持し、拙速に保護貿易へ移行すべきではないと訴えた。グラスゴー大学の演説では物質主義や無宗教者と戦うことを宣言した。 こうした「ミッドロージアン・キャンペーン」が注目されたのは、グラッドストンの演説のうまさというより、かつてない規模で集会やイベントが行われ、その盛り上がりの中で自由党一の有名人であるグラッドストンが登場して演説を行い、それらの内容が新聞で大々的に報道されたからである。したがってそうした演出を担当していたローズベリー伯爵が真の功労者であった。このキャンペーンは自由党を「名望家政党」から「大衆政党」へ転換させるきっかけになったと評価されている。 ===総選挙に大勝、再び首相へ=== 一方ディズレーリ首相は、総選挙を引き延ばそうとしていたが、1880年2月のサザーク選挙区(英語版)の補欠選挙で自由党候補有利という前評判を覆して保守党候補が勝利したこと、また自由党内にグラッドストンの「ミッドロージアン・キャンペーン」を批判する動きがあったのを見て、同年3月に総選挙に踏み切った。 総選挙の結果、自由党が350議席、保守党が240議席、アイルランド国民党が60議席を獲得し、自由党が安定多数を獲得した。選挙結果を受けて、ディズレーリ内閣は総辞職した。この自由党の大勝は「ミットロージアン・キャンペーン」のおかげとされ、正式な自由党党首ではないもののグラッドストンが後任の首相になるべきものと一般には考えられていた。グラッドストン当人も首相に就任する気満々だった。 だがヴィクトリア女王は自分のお気に入りの首相ディズレーリを攻撃したグラッドストンに強い嫌悪感を抱いており、グラッドストンに大命を与えることを嫌がり。そのため名目上の自由党党首ハーティントン侯爵を首相にしようと画策したが、ハーティントン侯爵はグラッドストン首班以外の組閣は不可能として拝辞した。同時にハーティントン侯爵は女王の気持ちを察して、「どのみちグラッドストンは高齢ですから長く首相の座にある事はないでしょう」との見通しを伝えた。 女王もついに諦め、1880年4月23日にグラッドストンに組閣の大命を下し、第二次グラッドストン内閣が成立した。 ===第二次グラッドストン内閣=== 第二次グラッドストン内閣は、第一次グラッドストン内閣ほどには強力な政権運営はできない立場にあった。第二次内閣では革新系議員の中心が急進派からジョゼフ・チェンバレンら新急進派に変わっていたためである。彼らは古風な自由主義者と異なり、金持ちから高税を取り立てて社会保障費に回そうという過激な主張をしていた。そのためホイッグ派の新急進派に対する嫌悪感は急進派に対する嫌悪感以上に強く、内閣の不統一感は発足当初から強かったのである(ちなみに新急進派の社会保障論はグラッドストンにも受け入れられない物だった。グラッドストンは大衆の自助の促進を目指しており、そのための改革はためらわなかったが、国が金をやる方式の社会保障では大衆が自助から遠ざかってしまうと考えていた)。 農業不振でアイルランドでは地主による小作人強制立ち退きが増加していた。アイルランド小作人たちは団結して「土地連盟(英語版)」を結成し、「ざる法」状態のアイルランド土地法の改正を求める運動を展開した。 グラッドストンもアイルランド土地法強化を決意し、地代未納を理由とする強制立ち退きであっても地主は小作人に補償しなければならないとする法案を議会に提出した。しかしディズレーリ率いる保守党が全力でこの法案に反対し、自由党内でもランズダウン侯爵らホイッグ派(アイルランド不在地主が多い)が造反した結果、法案は1880年8月の貴族院で否決された。 アイルランド小作農の反発は強まり、暴動が多発するようになった。またアイルランド小作人たちは一致団結して強制退去に備えるようになり(小作人が強制退去されると、みんなでその小作人を保護する一方、強制退去させた不在地主の代理人と新たな小作人を村八分にするなど)、地主が新たな小作人を見つけるのが難しくなる状態が現出した。これによって地主層にも一定の改革を許容する空気が生まれた。 グラッドストンは1881年の会期がはじまるとまず、改革前の地主層のガス抜きでアイルランド強圧法を提出した。チャールズ・スチュワート・パーネルらアイルランド土地連盟の議員の議事妨害を退けつつ、可決にこぎつけ、アイルランド小作人の反乱を抑えつけた。続いてアイルランドへの懐柔として新しいアイルランド土地法案を提出した。この法案はパーネルが主張していた「3F主義」(「公正な地代 (Fair Rent)」、「保有の安定 (Fixity of Tenure)」、「自由売買 (Free Sale)」)を盛り込んでおり、地代は地代法廷において定めるものとし、その地代を支払う限り地主は小作人を追いだしてはならず、また小作権は自由に売買することができるものとしていた。貴族院である程度の修正をされつつもなんとか法案を可決できた。 しかしパーネルらは、改革の不十分さを批判し、闘争を放棄しないようアイルランド人同胞に呼びかけた。結局グラッドストンは先の強圧法を使ってパーネルらアイルランド議員を政府転覆容疑で逮捕してキルメイナム刑務所へ投獄した。この逮捕により、アイルランド民族主義者による反英テロが激化し、アイルランドが半ば無政府状態に陥った。グラッドストンも獄中のパーネルもこれを懸念したため、二人は密約を結び、パーネルが新土地法の実施を邪魔しない代わりにグラッドストンは地代滞納小作人を国庫で救済する制度の創設を目指すこととなった。この密約でパーネルは釈放され、彼が再びアイルランド運動の頂点に立つことで過激なテロ活動を抑え込みを図った。 しかしこの密約には批判も多く、パーネルは過激なアイルランド民族運動家たちから裏切り者扱いされ、グラッドストンは女王や反動派の批判を受けた。アイルランド担当大臣ウィリアム・エドワード・フォースター(英語版)も不服として辞職し、グラッドストンの甥にあたるフレデリック・キャヴェンディッシュ卿が後任のアイルランド担当大臣に就任したが、彼は就任からわずか5日後の1882年5月5日にアイルランド民族主義者によって暗殺された。 これによってグラッドストンは一時的に強圧路線に戻ることとなったが、それでも彼のアイルランドに対する本質的な考えは変わらなかった。キャヴェンディッシュ夫人に対して「貴女の夫の死を無駄にしません」と語って、いよいよアイルランド自治を見据えるようになった。そして第三次内閣におけるアイルランド自治法案提出へ繋がっていくことになる。 1883年に入るとグラッドストンは選挙法改正に意欲を持つようになった。 ディズレーリ主導の1867年の第二次選挙法改正によって、都市選挙区は原則として戸主(および10ポンド以上間借人)であれば選挙権が与えられるようになったが、州選挙区は5ポンド以上の年価値の土地保有者という条件になっていた。そのためいまだ小作人や農業・鉱山労働者は選挙権を有していなかった。 グラッドストンが1884年2月に議会に提出した選挙法改正法案は戸主選挙権制度を都市選挙区だけではなく、州選挙区にも広げようというものであった。 しかし問題は選挙区割りだった。1880年代になると選挙権の拡大で国民の投票傾向にも変化が生じており、一般に保守党は大都市、自由党は中小都市や農村、スコットランドやウェールズを基盤とするようになっていた。選挙区割りを見直さずにこの法案を通すことは保守党に不利であったため、法案は、自由党が多数の庶民院こそ通過したものの、保守党が多数の貴族院からは否決された。 この敗北で解散総選挙を求める声が上がったが、グラッドストンは「私は選挙法改正について庶民院・貴族院のどちらか正しいかだけを問うために解散総選挙するつもりはない。もし私が解散総選挙をすることがあるとすれば、それは貴族院改革を問うためだ」と述べて一蹴した。8月には女王にも貴族院改革の可能性を報告した。しかしこれに不安を覚えた女王は貴族院の主張を支持し、貴族院と交渉をもつことを政府に要求した。グラッドストンは女王の態度に怒りを感じながらも、貴族院との交渉に応じることにした。 グラッドストンは女王に仲裁を頼み、女王の尽力で11月に保守党貴族院院内総務ソールズベリー侯爵、同党庶民院院内総務スタッフォード・ノースコートとの会談の席が設けられた。グラッドストン側が譲歩した形で大都市議席を増やすことで両者は合意した。またいくつかの選挙区を除いて原則小選挙区制度にすることでも合意した。 この妥協によって選挙法改正法案は貴族院も通過し、第三次選挙法改正が達成された。この改正でほぼ男子普通選挙に近い状態ができあがった(この段階でも選挙権がない成人男性は、下僕、家族の家で暮らしている独身者、住居のない者など)。 ロシアの中央アフリカ進出を恐れたインド総督リットン伯爵がディズレーリ前政権に開始させた第二次アフガニスタン戦争はイギリスの勝利に終わったが、この戦争を批判していたグラッドストンはリットン伯爵を「戦争の元凶」と看做して更迭し、リポン侯爵を後任のインド総督に任じた。 グラッドストンは、1880年7月にアフガニスタン王アブドゥッラフマーン・ハーンとの間に「アフガンはイギリス以外の国と外交関係をもたない、イギリスはアフガンの内政に干渉しない、他国がアフガンに侵攻した際にはイギリス軍がアフガンを支援する」ことを約定した。ロシアは第二次アフガニスタン戦争を見てアフガニスタン支配を諦めたようだったが、ヴィクトリア女王はなおもロシアがアフガニスタンに野望を持っていると確信していたので、アフガニスタンから英軍を徹底させることには反対の立場であり、グラッドストンはその説得に苦労した。 アブドゥッラフマーン・ハーンはロシアの侵略からアフガンを守るにはイギリスの庇護下にあらねばならないという現実をよく理解していた。そのため彼は在位中一貫してイギリスとの約束を守って外交は全てイギリスに任せ、群雄割拠状態の国内を統一する事に努めたので両国関係は極めて安定していた。 ズールー戦争の結果、ズールー王国はイギリス支配のもとに13の部族長国家に分割された。しかしズールー族の脅威が消えたことで、ボーア人(イギリスの支配に反発してグレート・トレックで内陸部へ移住したオランダ系移民の子孫)の間にトランスヴァール共和国を再独立させようという機運が高まった。 トランスヴァール共和国はディズレーリ政権下で大英帝国に併合された。野党だったグラッドストンはトランスヴァールの独立を訴えていたから、政権交代とともにトランスヴァール再独立が認められるだろうとポール・クリューガーたち独立派は考えていた。しかし彼らの期待に反してグラッドストンは政権に就くや態度を翻して「女王陛下のトランスヴァールへの統治権は放棄されるべきではない」と主張し、トランスヴァール解放のための行動を何も起こそうとしなかった。 グラッドストンに失望したクリューガーたちは1880年12月にトランスヴァール共和国独立を宣言して武装蜂起を開始した(第一次ボーア戦争)。ズールー戦争の時に派遣されていたイギリス軍はすでにほとんどが帰国しており、現地イギリス軍は惨敗した。これを受けてグラッドストンは強硬な姿勢をとる女王、保守党、陸軍省を抑えて、ヴィクトリア女王の宗主権付という条件でトランスヴァール共和国再独立を認めた。 以降トランスヴァール共和国は第二次ボーア戦争まで独立を保つことになる。 ディズレーリ政権によるスエズ運河買収をきっかけにエジプトは財政破綻し、英仏がエジプト財政を管理するようになり、イギリス人とフランス人が財政関係の閣僚としてエジプトの内閣に入閣した。彼らはエジプト人から苛酷な税取り立てを行い、エジプトで反英仏世論が高まっていった。またエジプトを統治するムハンマド・アリー朝は先住民のアラブ系エジプト人にとってはトルコからの「輸入王朝」であり、人事ではトルコ系が優先されていた。これにアラブ系将校は不満を抱いていた。 1881年2月にアラブ系将校の待遇をトルコ系将校と同じにすることを求めるアフマド・オラービー大佐の指揮の下にオラービー革命が発生した。エジプト副王タウフィーク・パシャの宮殿が占拠され、彼はオラービーの推挙したアラブ系将軍を陸軍大臣に任命することを余儀なくされた。その後オラービーは軍の人事問題だけではなく、憲法制定や議会開設など政治的要求まで付きつけるようになった(エジプトに議会が置かれて議会が予算審議権を持てば英仏は自由に債権回収ができなくなる)。タウフィークはオラービーに屈して1882年2月4日には彼を陸相とする民族主義内閣を誕生させるに至った。オラービーはただちにヨーロッパへの債務の支払いを全面停止して、反ヨーロッパ姿勢を示した。 事態を危険視したフランス政府は邦人保護のためと称してアレクサンドリアに艦隊を派遣しようとイギリスに呼び掛けてきた。グラッドストン政権もこれを了承して艦隊をアレクサンドリア沖に送った。ただしディズレーリの帝国主義政策を批判してきたグラッドストンとしてはエジプトを制圧する意志はなかった。艦隊を派遣してエジプトを威圧しつつ、エジプトの形式的な宗主国であるトルコを通じてオラービーに干渉しようと考えていた。 しかし6月11日にアレクサンドリアで反ヨーロッパ暴動が発生し、英国領事をはじめとするヨーロッパ人50人が死傷する事件が発生した。それをきっかけに英国地中海艦隊とオラービー政府の間に小競り合いが発生し、オラービー政府は13日にイギリスに宣戦布告した。副王タウフィークは「オラービーは反逆者」と宣言し、イギリス軍の救援を求めた。 この事態に閣内や自由党内(特にホイッグ派と新急進派)、またイギリス世論の空気はエジプトに対して硬化していき、軍事干渉論が主流となっていった。スエズ運河はイギリスの生命線であるという現実の要請もあって、グラッドストンも7月9日には現地イギリス海軍にアレクサンドリア要塞への武力行使を許可するに至った。閣内では急進派のランカスター公領担当大臣ジョン・ブライトのみが戦争に反対して辞職した。 グラッドストンは国際協調のために他のヨーロッパ諸国と連携して武力行使することを希望していたが、イギリスとともにアレクサンドリア沖に艦隊を送ったフランス政府は議会の承認が取れなかったために艦隊を撤退させた。他のヨーロッパ諸国も参戦を拒否したため、結局イギリスが単独でオラービー追討を行う事になった。 当初グラッドストンは、制海権獲得によってスエズ運河を確保しようと考えていたが、オラービーがスエズ運河攻撃を狙っていると知り、サー・ガーネット・ヴォルズリー(英語版)将軍を指揮官としたイギリス陸軍の派遣を決定した。同軍は1882年8月19日にアレクサンドリアに上陸してスエズ運河一帯を占領し、ついで9月13日にテル・エル・ケビールの戦い(英語版)において2万2000人のオラービー軍を壊滅させ、カイロを無血占領した。オラービーは逮捕されて死刑を宣告されるもタウフィークの恩赦で英領セイロン島へ流罪となった。 この戦いによりエジプトは英仏共同統治状態からイギリス単独の占領下に置かれることになった。依然としてエジプトは形式的にはオスマン皇帝に忠誠を誓う副王の統治下にあったが、実質的支配権はイギリス総領事クローマー伯爵が握るようになった。彼の下にインド勤務経験のある英国人チームが結成され、エジプト政府の各部署に助言役として配置された。エジプト政府は全面的に彼らに依存した。イギリス人らは副王アッバース2世を傀儡にして税制改革からナイル川の運航スケジュールまであらゆることを自ら決定するようになった。 エジプト支配下スーダンでイギリスに支配されたエジプトに対する反発が強まり、1882年夏にマフディー(救世主)を名乗ったムハンマド・アフマドによるマフディーの反乱が発生した。マフディー軍は1883年1月19日に西部の都市エル・オベイドを占領して、同地のエジプト軍守備隊(多くは現地スーダン人の兵士)から武器や兵士を奪い取って戦力を大きく増強した。1883年9月にイギリス軍大佐ウィリアム・ヒックス率いるエジプト軍がマフディー軍征伐に発ったが、惨敗してヒックス大佐も戦死した。 グラッドストンはこれ以上自己の信念に反する帝国主義政策を遂行することを嫌がり、スーダンからエジプト守備軍を撤退させることを決定した。エジプト守備軍の撤退を指揮する人物として「チャイニーズ・ゴードン」の異名を取り、国民人気が高かったチャールズ・ゴードン少将をスーダン総督に任じてハルトゥームに派遣した。 しかし1884年2月にハルトゥームに到着したゴードン将軍は、マフディー軍を戦う意思を固め、撤退を開始しようとはしなかった。3月中旬になるとハルトゥームはマフディー軍に包囲されてしまった。ゴードンが本国に出兵を強要するために自発的に包囲されたようにさえ見えた。 日を追うごとに「国民の英雄」ゴードン将軍の救出を求める世論が強まっていった。閣内からも大法官セルボーン伯爵と海軍大臣ノースブルック伯爵が辞職をちらつかせて援軍派遣をグラッドストンに迫るようになった。野党の保守党も援軍派遣を強く要求した。ヴィクトリア女王も陸相ハーティントン侯爵を呼び出してゴードン救出を命じた。グラッドストンもついに折れて援軍派遣を決定し、8月にその費用として30万ポンドを議会に要求した。10月からサー・ガーネット・ヴォルズリー将軍率いる援軍がエジプトから南下してハルトゥームへ向かって進撃を開始した。 しかしこの援軍は間に合わず、1885年1月26日にハルトゥームはマフディー軍によって陥落させられ、マフディー軍は市内にいた者を手当たり次第に殺害した。総督邸にいたゴードン将軍も殺害された。 ゴードン将軍の死に英国世論は激昂し、援軍派遣を送らせたグラッドストンに批判が集中した。グラッドストンは「GOM(Grand Old Man、大老人)」改め「MOG(Murderer of Gordon、ゴードン殺害犯)」と呼ばれるようになった。保守党が多数を占める貴族院は政府批判決議を可決させている。自由党が多数を占める庶民院では政府批判決議は否決されたものの、わずか14票差の辛うじての否決だった。ヴィクトリア女王も激怒し、いつもの暗号電報ではなく、通常電報(つまり手交される人全員が読める状態)で叱責の電報をグラッドストンに送った。 2月末に女王は「何としてもスーダンを奪還してゴードンの仇を取るべし」と命じたが、グラッドストンはこれを無視し、4月の閣議で「マフディー軍は意気揚々としており、今はスーダン奪還の時期ではない」と決定してスーダンを捨て置いた。 イギリスのエジプト占領でエジプトにおける利権を排除されたフランスはイギリスへの不満を高めていた。これを見たドイツ帝国宰相オットー・フォン・ビスマルクは、フランスが対独復讐を忘れ、かつイギリスと対立を深めるよう、フランス首相ジュール・フェリーを誘導してフランスに本格的な植民地政策に乗り出させた。 ヨーロッパ諸国の連帯を重視するグラッドストンは1884年6月にエジプト問題について話し合うロンドン会議(英語版)を開催して英仏の利害関係調整にあたろうとしたが、ドイツがフランスに支持を与えたため、会議は満足な成果を上げられなかった。この結果を見てグラッドストンも今やドイツの支持が無ければ国際協調は成り立たないと認識した。そのためグラッドストンはドイツのニューギニア併合を認めるなど親独な態度をとる事が多くなっていった。 こうしたグラッドストンの中途半端な態度は、フランスやドイツの本格的なアフリカ大陸進出を招き、アフリカ分割は一気に加熱していくことになった。 1884年11月にはベルギー国王レオポルド2世が領有権を主張するコンゴをめぐってビスマルクがベルリン会議を開催した。この会議でヨーロッパ列強はコンゴにおける利害関係を調整しながら、今後の植民地分割のルールを策定した。 これ以降全世界規模で欧米日など列強諸国が表向き協調しつつ、競争して植民地獲得に乗り出すという帝国主義時代が本格的に到来することになった。 アイルランド強圧法の期限が1885年8月に迫る中、グラッドストン政権は強圧法の延長論に傾いていたが、商務相ジョセフ・チェンバレンら新急進派閣僚がそれに反対し、閣内分裂状態に陥った。 一方保守党は強圧法廃止を約束してアイルランド国民党に接近を図った。アイルランド国民党はアイルランド自治への最大限の譲歩を手に入れることが目的なので、譲歩する意思があるなら保守党政権でも自由党政権でも構わなかったのでこれに応じた。 1885年6月8日に保守党が提出した予算案修正案にアイルランド国民党議員が賛成したことで修正案が可決された。この敗北を受けて第二次グラッドストン内閣は総辞職することとなった。政権はすっかりグダグダしていたので、グラッドストンたちは総辞職の口実ができたことを喜びさえしたという。総辞職を阻止するための手段も何ら取らなかった。 ソールズベリー侯爵に大命があったが、保守党は依然として少数党なので、ソールズベリー侯爵はグラッドストンの協力を条件に求めたが、それが無理そうだと分かると大命を拝辞し、グラッドストンを再度首相に任じるべきことを奏上した。しかしグラッドストンも拝辞したので、結局総選挙まで女王が二人の関係を斡旋するという条件でソールズベリー侯爵が首相に就任した。 6月24日、グラッドストンが国璽の引き渡しのためにウィンザー城を訪問した際、ヴィクトリア女王は伯爵位を与えると申し出たが、グラッドストンは生涯庶民院に奉仕したいと奉答して拝辞した。女王は以前からグラッドストンに伯爵位を与えて貴族院へ移し、「人民のウィリアム」の牙を削ぎたがっていたのだが、グラッドストンの「議会政治の本道は庶民院にあり」という強い信念は梃子でも動かなかった。 ===アイルランド自治の決意=== 1885年6月に成立した第一次ソールズベリー侯爵内閣は、選挙管理内閣であったものの、アイルランド小作農に低利での土地購入費融資を行い、自作農への道を開くアシュボーン法を制定する業績を残した。 これを見てグラッドストンはいよいよアイルランド自治への決意を固めたという。グラッドストンは早くも1884年2月にはアイルランドに独立した議会を置くべきであると周囲に漏らしていた。だが自由党内でも地主貴族のホイッグ派を中心にアイルランド自治には反対論が根強かった。新急進派のチェンバレンも大英帝国の結合を弱めるものとして自治には反対しており、彼はその代わりに大幅な地方分権を主張していた。ホイッグ派はその地方分権論にさえ慎重だった。 ホイッグ派と同じく地主が多い保守党ももちろんアイルランド自治には反対する者が多かった。しかし今回のソールズベリー侯爵内閣では保守党とアイルランド国民党の結びつきが予想以上に強いと見て取ったグラッドストンは保守党政権がアイルランド自治法案を提出する可能性があり、自分と自分に従う自由党議員がそれに賛成票を投じれば通過させられると考えていた。しかし結局ソールズベリー侯爵にアイルランド自治の意思はなかったため、その計画は実現しなかった。 ===政権奪還へ=== 1885年11月から総選挙(英語版)が開始された。自由党が大勝した後の総選挙であるから自由党が議席を落とすことが予想されたが、ジョゼフ・チェンバレンとその腹心のジェス・コリングス(英語版)による小作人に「3エーカーの土地と一頭の牛(英語版)」を与えようというキャンペーンが功を奏し、自由党が322議席、保守党が251議席、アイルランド国民党が86議席をそれぞれ獲得した。自由党は保守党より優位の状態を保ったが、過半数は割り、アイルランド国民党がキャスティング・ボートを握ることとなった。保守党は少数党のままなので敗れた形だが、ソールズベリー侯爵は自由党の過半数割れを口実にして政権に留まった。また自由党が過半数割れしたことで保守党は選挙前よりアイルランド国民党との連携に固執しなくなった。 1886年1月21日に議会が招集され、政府は施政方針演説でアイルランドに対して強圧法案と土地改革法案の二点セット、つまり「飴と鞭」で臨むことを表明した。強圧法案に反発したアイルランド国民党はアイルランド自治を主張するグラッドストンの自由党と結び、1月26日に施政方針演説の修正動議を可決させ、ソールズベリー侯爵内閣を総辞職に追い込んだ。しかしアイルランド問題に揺れているのは自由党も同じであり、ホイッグ派のハーティントン侯爵らはこの修正動議に反対票を投じてグラッドストンに造反している。 ===第三次グラッドストン内閣=== 1886年2月1日に女王よりオズボーン・ハウスに召集され、そこで大命を受けた。グラッドストンはこれを拝受して第三次グラッドストン内閣を組閣した。 アイルランド担当大臣にはグラッドストンのアイルランド自治の方針を熱烈に支持しているジョン・モーリー(英語版)(彼は後にグラッドストンの伝記を書く)を置いた。一方ハーティントン侯爵はアイルランド自治の方針に反発して入閣を拒否した。彼が入閣しなかったことはホイッグ派の離反を意味した。急進派のリーダーのジョン・ブライトもこの内閣の微妙さを感じ取って用心深く入閣を避けた。ハーティントン侯爵が入閣を拒否するのは分かっていたことだが、ブライトまでもが入閣を拒否したことはグラッドストンにとってもショックだった。新急進派のリーダーのジョゼフ・チェンバレンは嫌々ながら入閣した。前述したように彼はアイルランド自治には賛成していなかったが、対立しているホイッグ派と共闘する形になって人望を落とすのだけは避けたいという思いがあった。 ハーティントン侯爵やブライトの協力が期待できない以上、チェンバレンを重用すべきだったが、グラッドストンはそれにも失敗した。 チェンバレンは植民地大臣としての入閣を希望していたが、グラッドストンは「議員生活10年の政治家に植民地相は格が高すぎる」として拒否し、自治大臣職を彼に与えた。 またグラッドストンは緊縮のため、政務次官の一律減俸を行ったが、チェンバレンは先の総選挙の「3エーカーの土地と一頭の牛」キャンペーンの功労者であるジェス・コリングス(英語版)の俸給まで減らされることに反発した。 さらにグラッドストンは後述するアイルランド自治法案の起草に熱中する余り、チェンバレンが作成した地方自治法案を閣議でまったく取り上げようとしなかった。このようなことが重なってチェンバレンの不満は高まっていった。 内閣成立後、グラッドストンとアイルランド担当相モーリーは早速アイルランド自治法案の作成にあたった。その骨子は「1、アイルランドはアイルランドに関する立法を行う議会を持つ。」「2、アイルランドは連合王国の議会には議員を送らない」「3、アイルランドの王室・宣戦・講和・国防・外交・貨幣・関税・消費税・国教などは連合王国が取り決め、アイルランドは決定権を有さない。」というものであった。 グラッドストンは3月13日に閣議でこれを発表したが、チェンバレンとスコットランド担当大臣ジョージ・トレベリアン(英語版)が「アイルランドの独立を招き、帝国を崩壊させる」法案であるとして激しく反発し、二人とも辞職した。この後、チェンバレンたちはホイッグ派とともに自由党を離党して自由統一党という新たな党を形成し始めた。ヴィクトリア女王もアイルランド自治に反発して、保守党党首ソールズベリー侯爵に自由党内反アイルランド自治派と連携して組閣の道を探れと内密に指示を出した。 グラッドストンは反対論に怯むことなく、1886年4月8日にアイルランド自治法案を議会に提出した。議会では、アイルランド人に自治は尚早である点、アイルランド人がイギリス議会に代表者を送りこめなくなる点、イングランド人人口が多いアルスター(北アイルランド)がイギリスと切り離される点などに反対論が続出した。 保守党党首ソールズベリー侯爵は「アイルランド人には二種類あり、一つは自治を解する者たちだが、もう一つはアフリカのホッテントット族やインドのヒンドゥー教徒と同類の自治能力のない連中である」として反対した。下野したチェンバレンも「連邦制度の樹立以外にこの問題を解決する手段はない」として反対演説に立った。一方アイルランド国民党のパーネルは賛成演説を行った。 法案が庶民院第一読会を無投票で通過した後、グラッドストンは関税と消費税に関する連合王国の議会にはアイルランド議員も参加できるよう修正すると語り、その代わり何としてこの法案を第二読会も通過させてほしいと訴えた。しかし第二読会は、自由党議員93名の造反が出て343票対313票で法案を否決した。 これに対して閣内から総辞職を求める声も上がったが、グラッドストンはこれを退けて解散総選挙を女王に奏上した。女王はグラッドストンが敗北すると思っており、解散総選挙を許可した。 1886年6月から7月にかけて総選挙(英語版)が行われた。グラッドストンはアイルランド自治を訴えて精力的に演説を行ったが、そのアイルランド一辺倒は有権者から選挙の関心を奪った。 選挙の投票率は低く、保守党が316議席、自由党が196議席、自由統一党が74議席、アイルランド国民党85議席をそれぞれ獲得した。自由党の惨敗だったが、得票総数で見ると野党(保守党と自由統一党)との差は10万票に過ぎず、議席に大きな差が出たのは小選挙区制度のマジックであった。 ともかくこの議席差では政権運営は不可能であり、グラッドストン内閣は7月30日には総辞職した。 ===保守党政権のアイルランド弾圧との戦いとパーネル危機=== 代わって第二次ソールズベリー侯爵内閣が誕生した。同政権は自由統一党から閣外協力を受けることで政権を維持し、1892年まで続く長期政権となった。 この間の長い野党時代にもグラッドストンはアイルランド自治を諦めず、それが不可欠であることを国民に立証すべく、ハワーデン城にこもってアイルランド問題の研究を行った。 一方ソールズベリー侯爵は甥のアーサー・バルフォアをアイルランド担当相に任じて、アイルランドへの強圧政治を再開した。『タイムズ』紙にかつてのアイルランド担当相フレデリック・キャヴェンディッシュ卿の暗殺にパーネルが関わっていることを示唆する記事が掲載され、パーネル批判の世論が高まった。パーネルはこの事実関係を否定したが、ソールズベリー侯爵政府はこれを大いに利用し、パーネル及びパーネルと提携するグラッドストンを徹底的に批判し、アイルランド強圧法再制定にこぎつけた。 この後アイルランドでは弾圧の嵐が吹き荒れ、アイルランド議員や民族運動家が続々と官憲に逮捕された。その弾圧の容赦の無さからアイルランド担当相バルフォアはアイルランド人から「血塗られたバルフォア(Bloody Balfour)」と呼ばれて恐れられた。 これに対してグラッドストンは「保守党はアイルランド弾圧にばかり専念し、あらゆる改革の実施を放棄している。早くアイルランド自治を達成してアイルランドの泥沼から抜け出さねば、改革は何も行われない」と訴えた。これはかつて自分が受けた「グラッドストンはアイルランド自治法案ばかりに専念して他の改革を何もしようとしない」という批判を与党に返してやったものだった。 1889年2月に『タイムズ』のパーネルに関する記事がねつ造だったことが判明し、政府批判・パーネル擁護の世論が強まった。この情勢を見てグラッドストンは「自分かパーネルの身に何か起きなければ、アイルランド自治法案の可決は確実」と自信をつけた。ところが1890年11月にパーネルは不倫スキャンダルを起こして裁判沙汰になり、再び世論の批判を集めた。自由党の支持勢力の中核である非国教徒の反発も激しく、これ以上パーネルと連携するのは難しい情勢となった。 グラッドストンはパーネルに「アイルランド自治を失敗させないため」としてアイルランド国民党党首職を辞するよう求めたが、パーネルは拒否した。グラッドストンはやむなくアイルランド・カトリック教会にパーネルを批判させて、アイルランド国民党の分裂を促した。これによって40名のアイルランド国民党議員が同党ナンバーツーだったジャスティン・マッカーシー(英語版)の下に自由党との連携を重視する派閥を形成するに至った。パーネルの下には26名ほどの議員が残ったものの、彼らは補欠選挙に次々と敗れ、パーネル本人も翌1891年に46歳で死去した。 同じ年に長男のウィリアム・ヘンリー・グラッドストン(英語版)が父に先だって死去した。この際にグラッドストンは「愛する者が永眠した時、後に残される者の悲嘆は簡単にはぬぐえないけれども、いつの日か、同じ神の御手によって再び会うことができると思えば、少しは慰めになる」と述べている。 ソールズベリー侯爵はグラッドストン政権の小英国主義のせいで危機に瀕した大英帝国の再強化を図るべく、海軍力の増強を行ったが、グラッドストンはこれに対しても強く反対した。 ===ニューカッスル綱領と総選挙辛勝=== 1880年代後半は、長引く不況で失業者が増える中、労働者問題が注目されていた時期である。1888年にはマッチ工場の女工たちがストライキを起こし、その悲惨な労働環境を訴えて世間の注目を集めた。1889年にはガス労働者や湾岸労働者がストライキを起こし、労働組合を結成した。 こうした情勢の中、「伝統的な自由放任主義は限界にきており、社会政策への取り組みが必要だ」という主張が多くなされるようになった。古風な自由主義者であるグラッドストンは自由放任主義の修正に消極的だったが、側近たちからの忠告でしぶしぶアイルランド自治法以外にも労災の雇用者責任や労働時間の制限などの公約を盛り込んだニューカッスル綱領を作成した。 1892年6月末に解散総選挙(英語版)となった。選挙の結果、自由党が274議席、保守党が269議席、アイルランド国民党(パーネル派・反パーネル派合わせて)が81議席、自由統一党が46議席を獲得した。グラッドストンはアイルランド自治派(自由党とアイルランド国民党)が100議席以上の差をつけて反アイルランド自治派(保守党と自由統一党)に勝つと予想していたが、実際には40議席差の辛勝となった。 ===第四次グラッドストン内閣=== 総選挙に敗れたソールズベリー侯爵は辞職し、8月18日に第四次グラッドストン内閣(英語版)が成立した。当時グラッドストンは82歳であり、歴代最年長での首相就任だった。 内閣成立後、再びアイルランド担当大臣として入閣したジョン・モーリーとともにアイルランド自治法案の作成を開始した。この法案作成の作業中、グラッドストンはモーリーに「私の健康状態はまだ悪くはないが、目と耳が悪くなりすぎている。早晩私は辞職することになるだろう」と弱気を漏らしたという。 1893年3月に法案を議会に提出した。今回のアイルランド自治法案は第三次内閣時の法案に修正を加えたもので、アイルランド人を連合王国議会から排除せず、80名の枠でアイルランド人が連合王国議会に議員を送り込むことを認めたものだった。 相変わらずアイルランド自治に反対していたチェンバレンが反対運動の先頭に立った。またチェンバレンの息子であるオースティンが先の総選挙で初当選しており、アイルランド自治法案反対の処女演説を行った。グラッドストンはオースティンの処女演説を褒めてやり、それに嬉しくなったチェンバレンが思わずグラットストンにペコリと頭を下げる一幕があった。 結局、法案は庶民院を通過したものの、貴族院で419票対41票という圧倒的大差で否決された。 これに対してグラッドストンは解散総選挙を考えたが、先のニューカッスル綱領の公約がほとんど実現できてないことから閣内から反対論が相次ぎ、グラッドストンも断念した。 ドイツ帝国では宰相オットー・フォン・ビスマルクを解任して親政を開始したドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が植民地獲得を狙って海軍力の増強を開始し、ヴィクトリア女王や英国世論はドイツ帝国への警戒心を強めていった。また英仏の植民地争いも深まっていた。 こうした状況の中、グラッドストン内閣の閣僚の間でも海軍力増強を求める声が相次いだが、グラッドストンは相変わらず帝国主義に繋がる海軍力増強には反対だった。彼はすっかり時代錯誤となった小英国主義、またとうに死んだ者達の幻影に取りつかれていた。「海軍増強など狂気だ。ピール、コブデン、ブライト、アバディーン、みんな反対するはずだ。そんな計画に賛成するのはパーマストンだけだ」「今この計画を主張している政治家どもは皆、私が政界に入った時、生まれてもいなかった者たちではないか」などと激昂していた。 「老害」と化したグラッドストンは閣内で孤立していった。 グラッドストンは閣内をまとめることはもはや不可能と判断し、辞職を決意した。1894年2月10日にその旨を閣僚たちに発表し、女王にも間接的に上奏した。3月1日に最後の閣議を開き、「諸君らとは一つの公的問題で意見が違えども、私的交友関係はこれからも続けていきたい」という主旨の短い話をした後「諸君らに神の御恵みがあらんことを」と述べてさっさと退出した。グラッドストンの辞任表明に閣僚たちは涙を流しながらも、グラッドストンが出ていった出口とは別の出口から退出したという。 またその日の午後に庶民院で最後の演説を行い、「貴族院は庶民院が必死で作り上げた法案を修正するのではなく全滅させることに精を出している。このような状況がいつまでも許されるべきではない」として貴族院批判・貴族院改革の必要性を訴えた。 1894年3月3日にウィンザー城に参内し、ヴィクトリア女王の引見を受けた。女王はザクセン=コーブルク=ゴータ公になったばかりの次男アルフレートの年金を継続してくれたことに感謝の意を示し、また掛かり付けの眼医者の話をし、他はグラッドストン夫人に対する優渥なお言葉を下賜して引見を終えた。グラッドストンの国家に対する貢献を評価するようなお言葉は一切なかった。 また女王は退任する首相に対して後任の首相は誰が良いと思うか下問するのが慣例になっており、グラッドストンも下問を予想してスペンサー伯爵を推そうと思っていたのだが、女王の下問はなかった。女王はお気に入りの外務大臣ローズベリー伯爵に独断で大命を与えた。自由党内や世論は大蔵大臣ウィリアム・ヴァーノン・ハーコートを推す声が多かったので、この女王の独断に強く反発した。 世論のハーコート人気が高まり、ローズベリー伯爵の権威は失墜していった。結局ローズベリー伯爵は1895年6月に内閣信任相当と言えるほどではない、つまらない法案の否決を理由にさっさと総辞職して保守党のソールズベリー侯爵に政権を譲ってしまった。第三次内閣を発足させたソールズベリー侯爵はただちに解散総選挙(英語版)に打って出て勝利し、1902年まで政権を担当することになる。 一方政界引退を決意していたグラッドストンはその総選挙に出馬しなかった。ここにグラッドストンの64年にも及んだ議会生活にピリオドが打たれたのである。 ===引退後=== ====晩年の政治活動==== グラッドストンは1894年夏から始まったオスマン=トルコ帝国によるアルメニアでの大虐殺に強い怒りを感じ、20年前と同様に再びトルコ批判運動の先頭に立った。庶民院議員辞職後もその活動は続けた。1896年9月にリヴァプールで行った演説では、トルコ皇帝アブデュルハミト2世を「大量殺人犯」として糾弾した。この演説が大衆の前で行った彼の最後の演説となった。 相変わらずトルコは大英帝国の生命線であり、首相である保守党党首ソールズベリー侯爵も自由党党首ローズベリー伯爵もトルコ批判にはまるで耳を課さなかった。グラッドストンは「私に1876年の時の身体があれば、もっと強力にトルコに闘争を挑めるのだが」と口惜しがった。 1897年1月末からフランスのカンヌで過ごすことが増えた。同年3月にはカンヌを訪問したヴィクトリア女王の引見を受けた。この時、女王は78歳、グラッドストンは88歳だった。すっかり老衰して性格的にも丸くなっていたグラッドストンに、女王は思わず自ら手を差し伸べた。 女王の即位60周年記念式典の最中の同年7月10日にはハワーデン城で大英帝国植民地首相らと会談に及んだ。 ===死去=== 1897年11月にカンヌ滞在中に喉頭癌の最初の激痛に襲われた。カンヌは地中海から寒風が吹くことがあったため、周囲の薦めでイギリスのハワーデン城へ帰国した。 1898年初頭から体調が悪化した。5月に入るとすっかり精力が衰え、5月13日にローズベリー伯爵とモーリーが見舞いに訪れた際にはほとんど意識不明になっていたという。 5月15日に娘メアリーが「教会へ行ってきます」と述べた際にグラッドストンは「教会へ行くのか。素晴らしいことだ。愛するメアリーよ。私のために祈ってくれ。全ての同胞のために。全ての不幸で惨めな人々のために。」と呟いたという。 5月19日午前4時頃、夫人と子供たちが見守る中、また聖職者である次男スティーブンが祈りをささげる中、グラッドストンは眠るように死去した。この日はちょうどキリストの昇天日であった。 グラッドストンの遺体は棺に入れられた後、25日にロンドンに送られてウェストミンスター宮殿に安置された。一般国民の告別も許可された。棺の中には、彼が最後の力を振り絞ってトルコの暴政から守ろうとしていたアルメニアの教会から贈られた金の十字架が一緒に入れられた。 28日にグラッドストンの棺は葬列に伴われながらウェストミンスター寺院へ運ばれた。皇太子、ヨーク公、ローズベリー伯爵、首相ソールズベリー侯爵らが葬列に参加した。棺はウェストミンスター寺院の北側外陣の床に作られた墓所の中に入れられた。妻キャサリンは子供たちに支え起こされるまでその前に膝まづいて祈り続けたという。 弔辞は世界各国から届いた。ヴィクトリア女王もグラッドストンへの弔辞を書いて新聞に掲載するよう周囲から求められたが、拒否している。また皇太子がグラッドストンの葬儀に参加したと聞いた女王は問い詰めるような電報を皇太子に送っている。女王はグラッドストンのことは嫌っていたが、グラッドストン夫人のことは気にかけており、彼女に宛てて弔電を送っている。しかしそこでも「私は、私自身と私の家族の幸福に関することへの彼の献身と熱意を忘れません」という表現に留め、グラッドストンの国家への貢献を認めることはなかった。 議会では首相ソールズベリー侯爵、バルフォア、ローズベリー伯爵らが弔辞を述べた。ソールズベリー侯爵は「彼が世界中から尊敬されていたのは、大人格者であったからである。彼の目指した物は、偉大な理想の達成だった。その理想が健全な場合も、そうでない場合も、それは常に純粋で偉大な道徳的情熱から発せられていたのである」と評した。ローズベリー伯爵は「イギリスおよびイギリス国民は勇者を愛する。グラッドストン氏は常に勇者中の勇者であった」と述べた。バルフォアはグラッドストンを「世界最高の議会における最高の議会人」と評した。 ==人物== ===宗教的情熱=== グラッドストンは敬虔な国教徒だった。地元にある時は毎朝教会への礼拝を行い、安息日には勤行を欠かさなかった。また積極的に宗教奉仕活動に参加した。 彼には「人間の幸せの永続的基盤は、一つだけである。それは宗教的確信をもつことである」という断固たる持論があった。 ベンジャミン・ディズレーリを徹底的に嫌ったのも、彼に宗教的情熱の欠如とそれに伴うシニカルな日和見主義を見たからである。 ===勤勉=== グラッドストンはオックスフォード大学時代に神からの使命を果たすために必要なものとして「1. 愛の精神、2. 自己犠牲の精神、3. 誠実の精神、4. 活力」の4つが重要だという宗教的確信を得た。このうちの「活力」がグラッドストンの病的なまでの勤勉性につながった。グラッドストンの日記には「私は仕事をするか、死ななければならない」と書かれている。 グラッドストンの友人であるサー・ジェームズ・グラハム准男爵は「グラッドストンは他人が16時間かけて行う仕事を4時間で達成する。そして16時間働く。」と評したことがある。このグラッドストンの勤勉ぶりは生涯変わらず、彼は晩年にも13時間から14時間は働いていたという。 時間を有意義に使いたいと願っていた彼は、しばしば急いでいるようにも見えたという。 ===雄弁=== グラッドストンは雄弁家で知られた。議場での演説以外に言論の場があまりなかった19世紀イギリスでは雄弁は政治家にとって重要な能力であった。 グラッドストンは声に深みがあり、声の調子の変化に富んでいるなど演説家として先天的な才能を持っていたが、「熱心と努力と知識がなければ何人も大雄弁家にはなれない」というキケロの名言を胸に刻んで、弁論術を磨くための努力も怠らなかった。 グラッドストンは後輩に演説の仕方を伝授した書簡の中で「1、用語は平易で簡潔な物を選ぶこと、2、句は短く切ること、3、発音の明瞭、4、批評家や反対者の論評を待たずに予め自分で論点を考証すること、5、論題について熟考して消化し、適切な語が迅速に出てくるよう心がけること、6、聴衆を感動させるには思考を論題に集中し、常に聴衆を見守ること」と書いている。もっともこのうち1と2についてはグラッドストン自身もあまり守っていなかった。 壇上における態度も雄弁に彩りを添えていた。その身振りは豪放ながらも自然であり、粗暴な印象や誇張しているような印象は与えなかったという。 ビスマルクはディズレーリを高く評価する一方、グラッドストンのことは「教授」と呼んで馬鹿にしていたが、「たかが大演説家に過ぎないグラッドストンの如き無能な政治家」と評したことがあり、これをそのまま読むならグラッドストンの雄弁はビスマルクも認めるところであったことになる。 ===小さな政府=== グラッドストンは「政府が持つ金は少なければ少ないほど良い」という「小さな政府」論の断固たる信奉者であった。政府に金が有り余っていると軍拡に使われ、帝国主義外交に乗り出すと懸念したためである。 政府が小さいと軍備だけではなく、社会保障も小さくなるが、グラッドストンは大衆の自助の促進を目指す古風な自由主義者であるから、社会保障は「自助ではなく国家への依存をもたらし、精神主義ではなく物質主義をもたらす」と看做しており、基本的に必要無いと考えていた。 ===小英国主義=== グラッドストンは「領土を貪ることは全人類の呪い」と称し、非膨張論を唱え、小英国主義(英語版)を支持していた。小英国主義とは「イギリスは世界最強の海軍力を背景にした自由貿易によって今や世界中どこにでも資源調達地と市場を作れるのだから、わざわざ巨額の防衛費と維持費をかけてまで植民地を領有する必要がない」とする考えであり、自由主義者の中でもマンチェスター学派によって盛んに支持されていた考えである。 ただ首相となったグラッドストンが、実際に小英国主義の理念にのっとった外交政策を打ち出すのは稀だった。第一次グラッドストン内閣時の1870年にニュージーランドから撤兵したこと、1872年にフィジー諸島併合論を却下したこと、第二次内閣の1884年にスーダン放棄を決定したことぐらいに留まる。グラッドストンが首相になった頃にはすでに小英国主義への疑問がイギリス中で噴出していたからである。 ===自由貿易と平和主義=== 領土拡張ではなく自由貿易拡大を目指し、自由貿易を破壊する戦争は可能な限り回避することがグラッドストンの外交目標だった。 イギリスで自由貿易によって最も利潤をあげたのはランカシャーの綿工業であるが、彼らは貿易業者が地中海、インド洋、大西洋を渡って輸入してきた綿花を買って、綿製品に加工し、それを輸出していたから、綿工業にとって海上の平和はまさに死活問題だった。マンチェスター学派に属するグラッドストンはその代弁者だったのである。 グラッドストンは、戦争を回避するためには軍拡を阻止することと、イギリスが「栄光ある孤立(Splendid Isolation)」と「ヨーロッパ協調(Concert of Europe)」の立場を維持することの2点が重要と考えていた。それはイギリスの相対的有利の時代にあっては、成果を上げる時もあった。 しかしイギリスの相対的有利の時代が終わり、列強諸国の帝国主義と軍拡競争が過熱していく時代にあっては、うまく機能しなくなった。第四次内閣の頃には平和主義はすっかり時代遅れの思想と化しており、全閣僚が軍拡を求める中、首相グラッドストンただ一人が軍拡に反対し続ける有様となっていた。そしてそれが原因で失脚し、政界を去ることとなった。 ===ヴィクトリア女王との関係=== グラッドストンはヴィクトリア朝の首相たちの中でもパーマストン子爵と並んでヴィクトリア女王から最も嫌われた首相である。 ヴィクトリア女王とグラッドストンの関係は、第一次グラッドストン内閣の時からギクシャクしていた。王配アルバートの薨去以来喪に服して公務にほとんど出席していなかったヴィクトリア女王に対してグラッドストンが公務への復帰を強く要求したからである。女王は退位をちらつかせてでも、この要請を拒否した。 女王がグラッドストンに決定的な嫌悪感を抱いたのは、第二次ディズレーリ内閣の時である。ヴィクトリアが熱烈に支持していたディズレーリの帝国主義外交や露土戦争をめぐる親トルコ・反ロシア外交をグラッドストンが徹底的に批判したためである。この頃女王は長女ヴィッキーへ宛てた手紙の中で「グラッドストン氏は狂人のように進撃しています。私は代議士の中で、これほど愛国心が欠如し、不謹慎な人物を他に知りません。」という激しい憎しみを露わにしている。 グラッドストンには君主は象徴としてのみ政体の根幹にあるべきという持論があり、とりわけディズレーリ政権がヴィクトリア女王を政治の場に引っ張り出すことを憂慮していた。ただしグラッドストンは決して君主制廃止論者ではない。「でしゃばりの君主」の出現によって君主制廃止に向かうのでは、という懸念からそういう主張をしていたのである。彼は「以前の私なら、この地の君主制は幾百年も続いていくと確信できたが、私のその自信も前内閣が君主を政治外交の第一線に引きずりまわしたことで揺らぎつつある」と語っている。 64年間イギリス政界で働いてきたグラッドストンの引退にあたって女王は、国家への貢献の労をねぎらうような言葉は何もかけなかった。グラッドストンは55年前のシチリアでロバに乗った時のことを思い出し、「私は数十時間もロバの背中で揺られていた。ロバは私に不都合なことは何もしなかったし、私のために長時間仕事をしてくれた。だが何故か私はそのロバに何の好感も持つことができなかった。この時の私とロバの関係が、女王と私の関係である」と語った。 ===ダーウィンと進化論について=== グラッドストンとダーウィンは同じ年に生まれている。グラッドストンの組織した反トルコ集会にダーウィンが名を連ねていた関係でグラッドストンがダーウィンの家を訪問したことがあった。ダーウィンの家は代々ホイッグ党(自由党)であり、ダーウィン自身も自由党を指導するグラッドストンを深く尊敬していたので、この訪問に非常に感動した様子だったという。一方グラッドストンの方はダーウィンにそれほど関心をもっておらず、彼の生前に進化論を話題にしたことも、彼とそれについて語り合ったこともなかった。 第三次内閣総辞職後、グラッドストンは科学雑誌『ナインティーンス・センチュリー』への寄稿文や著書『盤石の聖書』 (1890年) の中で聖書の内容を疑おうとする者を批判した。『創世記』にある地球の変化や生物出現の順番は地質学的にも証明されているのだと主張していた。進化論に対する彼の態度は曖昧だが、全てをキリスト教の精神に支配されている彼にそれを容認することはできなかったと思われる。 ===その他=== 庶民院で演説する際には常に黄色い液体が入った小瓶を机の上において、それを一口飲んでから演説に入った。この液体は妻キャサリンが作ってくれた卵のお酒だった。募金活動に熱心で1831年から1890年までの間にグラッドストンが宗教事業や慈善事業に募金した金額は7万ポンドを越える。手紙魔、かつメモ魔であったという。信仰心による使命感に突き動かされて、結婚直後から1886年まで夜な夜な売春婦を更生させる活動を行った。大衆が見ている中、勘違いされてスキャンダルになる恐れを顧みずに遊女屋に入っていっては売春婦たちに更生するよう説得にあたった。【↑目次へ移動する】 ==家族== 1839年7月25日にグリン准男爵家(英語版)の娘であるキャサリン・グリン(英語版)と結婚した。 二人は一緒に聖書を読み、結婚生活が終わる時までその習慣を守ることを誓い合ったという。グラッドストン家の家庭生活は万事をキャサリンが差配していた。キャサリンはやかまし屋という風評があったが、実際にはグラッドストンの方がやかまし屋であったという。二人は性格が合っているとは言えなかったが、それでも円満な夫婦関係を続けることができた。 キャサリンとの間に以下の8子を儲けた。 長男ウィリアム・ヘンリー・グラッドストン(英語版) (William Henry Gladstone, 1840‐1891) 政治家長女アグネス・グラッドストン (Agnes Gladstone, 1842‐1931) エドワード・ウィッカム夫人次男スティーブン・エドワード・グラッドストン (Stephen Edward Gladstone, 1844‐1920) 国教会牧師次女キャサリン・ジェシー・グラッドストン (Catherine Jessy Gladstone, 1845‐1850)三女メアリー・グラッドストン(英語版) (Mary Gladstone, 1847‐1927) ハリー・ドリュー夫人四女ヘレン・グラッドストン (Helen Gladstone, 1849‐1925)三男ヘンリー・ネヴィル・グラッドストン(英語版) (Henry Neville Gladstone, 1852‐1935) 実業家。ハワーデンの初代グラッドストン男爵に叙される。四男ハーバート・ジョン・グラッドストン (Herbert John Gladstone, 1854‐1930) 政治家。初代グラッドストン子爵に叙される。【↑目次へ移動する】 ==イギリスでのグラッドストン== グラッドストンの公式伝記を書いたのは、彼の内閣でアイルランド担当大臣だったジョン・モーリー(英語版)である。これに並ぶとされる評伝は長らく登場しなかったが、リチャード・シャノンが1982年に出版した評伝とグラッドストンの日記を全14巻で編集したコリン・マシュー(英語版)が1997年に出版した評伝が高く評価されている。労働党の政治家であるロイ・ジェンキンスもグラッドストンの伝記を著している。 現代の英国政治家の中にもグラッドストンは生き続けている。1997年から10年にわたり英国首相を務めたトニー・ブレアは「トニー・グラッドストン」というあだ名が付けられるほどグラッドストンを深く尊敬していた。ならず者国家が人権を侵害するのを黙って見ているわけにはいかないという彼の考えは、ブルガリア人を大虐殺するトルコに対するグラッドストンの1876年の闘争を模範とした物であった。2010年に出版されたブレアの回顧録にも諸所にグラッドストンの影響がみられる。 ==日本でのグラッドストン== 日本においてグラッドストンは同時代の明治時代に最も人気があった政治家であった。とりわけ福沢諭吉や大隈重信、中江兆民といった自由主義派がグラッドストンを深く尊敬していた。福沢はしばしば、伊藤博文ら保守派が尊敬するビスマルクを「官憲主義」、グラッドストンを「民主主義」として対比して論じた。明治時代の日本のグラッドストン伝記としては徳富蘆花のものと、守屋貫教・松本雲舟のものが有名である。 大正時代になるとグラッドストンが過去の政治家になってきて、彼を論じた文献も減っていくが、1922年(大正11年)には大隈の薫陶を受けた憲政会所属の衆議院議員永井柳太郎がグラッドストン伝記を著している。永井は後に拓務大臣を務めて植民地行政を監督することになるが、グラッドストン思想を受け継いで帝国主義政策の改善にあたった。 昭和初期には普通選挙法制定など民主主義の進展があったものの、世界大恐慌、昭和恐慌、世界のブロック経済化、全体主義国の躍進などの影響を受けて、国粋主義の風潮が強まっていき、議会政治が時代遅れ扱いされはじめ、グラッドストンへの注目度も下がっていった。とはいえグラッドストンへの関心が完全に消えさったわけではなく、永井の本は昭和に入ったのちも重版され、またアンドレ・モロワのディズレーリの伝記(グラッドストンについての言及も多数)が翻訳されたり、円地与四松がグラッドストン伝記を著したりした。円地はその中で「最近は議会政治も凋落したが、19世紀以来世界大戦までは議会政治が最も理想的な政治形態とされていた。その議会政治を代表する英国において、とりわけ議会政治家の典型を求めるならばグラッドストンをおいて他にはないだろう。」と時代を反映したような一文を書いている。 戦後、議会政治の復活とともにグラッドストンへの言及が再び増えた。戦後のグラッドストン伝記で著名なのは1967年(昭和42年) に出版された神川信彦のものである。神川の本が出た頃の日本は、高度経済成長期で、黒い霧事件など政治汚職が噴出し、また大学改革を訴える学生運動が頻発していた。こうした社会情勢から大学教授だった神川は「理想をもった政治家」を待望してグラッドストンの伝記を書こうと思い立ったのではないかと関東学院大学教授君塚直隆は推察している。 【↑目次へ移動する】 =九州送電= 九州送電株式会社(きゅうしゅうそうでんかぶしきがいしゃ)は、大正から昭和戦前期にかけて存在した日本の電力会社である。九州電力管内にかつて存在した事業者の一つ。 戦前期の九州における大手電力会社九州水力電気・東邦電力などによって設立。宮崎県北部を流れる五ヶ瀬川・耳川において電源開発を手掛けるとともに、発電所から福岡県へ至る長距離高圧送電線を建設して両電力会社に電力を供給した。1939年(昭和14年)から1942年(昭和17年)にかけて日本発送電へ設備を出資・譲渡し、1942年に解散した。 ==設立の経緯== ===水利権争奪戦=== 1891年(明治24年)の九州最初の電気事業である熊本電灯(後の熊本電気)開業から16年経った1907年(明治40年)8月、地元有志が設立した日向水力電気が開業したことで宮崎県においても電気事業がスタートした。1910年(明治43年)には延岡電気所(後の延岡電気)も開業し、宮崎県ではこれらの事業者により水力発電所の建設が進んだ。しかし発電所の数は多いもののその規模は小さく、1910年代までに建設された発電所はいずれも出力が500キロワット以下であった。 日向水力電気が開業した日露戦争後の時期から日本では長距離高圧送電技術が発達し、需要地から遠く離れた山間部でも電源開発が可能となって電気事業がその姿を変えつつあった。そうした中で早くから水力開発の適地として注目されたのが大分県を流れる筑後川上流部や山国川で、これらの河川では水利権の申請が相次いだ。申請者のグループを合同して1911年(明治44年)に設立されたのが九州水力電気(九水)で、1913年(大正2年)に九州最初の1万キロワット超の大容量水力発電所である女子畑発電所を建設、福岡県北部の北九州工業地帯へ電力供給を始めた。 1910年後半になると、豊富な水力資源を抱えるものの需要地から遠く開発が遅れていた宮崎県が次なる水力開発の適地と目されるようになる。当初進出を図ったのは電力会社ではなく工業会社で、まず福岡県大牟田市に工場を持つ三井系の電気化学工業(現・デンカ)が1916年(大正5年)11月に大淀川の、同年12月に五ヶ瀬川の水利権をそれぞれ申請した。次いで北九州に日米板硝子(現・日本板硝子)を設立した住友財閥が、ガラス工場の電源を確保するため当主住友吉左衛門名義で耳川の水利権を申請する。これらの動きが契機となって水利権獲得競争に火がつき、特に県北部の五ヶ瀬川には水利権申請が殺到、1917年(大正6年)に上記の九州水力電気と熊本県の熊本電気、1918年(大正7年)に三菱鉱業がそれぞれ水利権を申請し、さらに1919年(大正8年)には福岡県西部から長崎県にかけて供給する有力電力会社九州電灯鉄道(後の東邦電力)まで参加するに至った。 水利権の獲得競争が続く1918年9月、電気事業を所管する逓信省の長に福岡県出身の野田卯太郎が就任した。電力国営論者の野田は逓信大臣就任にあたり事業合同・電力統一を方針として打ち出していた。九州水力電気は野田へ働きかけ、取締役で野田と親しい麻生太吉を通じて五ヶ瀬川水利権を単独の会社に許可しないよう要請する。これもあって1920年(大正9年)9月に野田は、どの会社にも単独では許可を出さないので各派による合同会社を設立するように、との内意を明かした。一方、九州水力電気と対立関係にあった九州電灯鉄道は、実際の水利権許可を出す宮崎県に働きかけるという手段で対抗。同社は後述の県外送電反対運動に対する県知事広瀬直幹の立場に配慮し、県内の細島に製鋼所を新設する、県に土木費として50万円を寄付するといった条件を掲げ、県の説得に成功した。 宮崎県が九州電灯鉄道の要請を受け入れたことから、県の上申を受けた逓信省でも同社への水利権単独許可を認め、その上で新設の送電会社に競願各社を参加させる方向で決着させようとした。しかしこのことを耳にした九州水力電気の麻生太吉は野田や首相の原敬に抗議し、野田と親しい三井財閥の團琢磨を仲介者として同社相談役の和田豊治とともに逓信省の方針に抵抗した。結局1920年12月末、野田卯太郎逓信大臣は、五ヶ瀬川の水利権は単独許可せず、九州の電気事業合同を視野に入れた新会社「九州送電株式会社」を新設してこれに許可する方針を打ち出し、これに従って翌1921年(大正10年)1月に九州水力電気・九州電灯鉄道などにより九州送電創立発起委員会が立ち上げられた。 ===県外送電反対運動=== 宮崎県への参入を図る各社の前に立ちはだかったのが「県外送電反対運動」であった。相次ぐ各社の水利権申請を見て、1918年12月に県営電気事業を起業して各社から電力料金を徴収すべきという意見が宮崎県会にて起こったのが発端である。 県営電気事業の議論があった最中の1919年11月、県内消費の条件付きで大淀川の水利権を取得していた電気化学工業が、事業環境の変化などの理由で宮崎工場新設を撤回して既存の大牟田工場(福岡県)へと送電するという変更を逓信省へ申請した。この方針変更は県会にて詐欺ではないかという批判を招き、これを機として県営事業の議論は県外へ送電する業者には水利権を許可しないよう求める、いわゆる「県外送電反対運動」へと転化する。そしてこの動きは九州送電設立が決定すると勢いを増して県会外にも拡大していった。 九州送電設立が新聞報道された後の1921年5月10日、宮崎町内のえびす講で、鉦・太鼓を打ち鳴らして県外送電反対が宣伝され、「県民覚醒の時機来る」というビラが巻かれる事件が起こる。翌11日には町役場で協議会が開かれ、12日には県政財界の有力者(衆議院議員長峰与一や県会議長・県会議員・宮崎町長・宮崎町議会議員、日向水力電気社長柴岡晋、地元銀行頭取など)が町役場に集合して「県外送電反対同盟」として県外送電絶対反対を決議し、県知事へその旨を打電する事態となった。その後運動は全県に伝播し、5月22日には正式に「宮崎県外送電反対同盟会」(会長に県会議長、副会長に県会副議長と宮崎町長)が発足。6月1日には同盟会により県外送電反対の県民大会が開かれるに至った。 こうして大規模化した県外送電反対運動であったが、宮崎県当局の態度を動かすには至らず、次第に反対運動から条件闘争と化していった。その結果運動は徐々に衰退し、1923年(大正12年)の関東大震災を機に終息。宮崎県は翌1924年(大正13年)10月31日、九州送電創立発起委員会との間に県への寄付金納付や県内需要への優先供給を定めた協定を結び、この問題を決着させた。 ===会社設立=== 宮崎県との協定締結を受けて1924年11月13日に九州送電の事業許可が逓信大臣から下り、これを受けて翌1925年(大正14年)5月9日に九州送電株式会社の創立総会が開かれるに至った。創立発起委員会立ち上げの時点では九州水力電気・九州電灯鉄道・電気化学工業・住友財閥に北九州を地盤とする九州電気軌道の5者で会社を設立する計画であったが、火力発電に傾注する九州電気軌道は途中で撤退して参加しないこととなり、改めて同社を除いた4者と熊本電気・三井財閥・三菱財閥と地元関係者にて資本金2000万円で設立する案をまとめた。しかしこの案も実現せず、資本金は不況のため1000万円に減額され、九州水力電気・東邦電力(九州電灯鉄道の後身)・電気化学工業・住友財閥の4者出資により九州送電は設立をみた。 九州送電の社長は空席で、専務に元宮崎県知事の堀内秀太郎が就任した。本社は九州ではなく東京市内に構えた。 九州送電の起業計画では、設立までの経緯を考慮して一旦東邦電力名義で五ヶ瀬川の水利権許可を得たのち九州送電がこれを譲り受けて直営開発し、住友財閥が水利権を持つ耳川では住友から開発を受託、電気化学工業が水利権を持つ大淀川では開発後の送電のみを受託するものとされた。しかし会社の設立が遅れたことで電気化学工業は自社送電線建設に踏み切り(大淀川水力電気参照)、九州送電から離脱、1927年(昭和2年)4月に持ち株を九州水力電気へと譲渡した。このため結局九州送電は九州水力電気が過半を出資する、同社の傘下企業となった。 九州水力電気傘下となったことから、1928年(昭和3年)3月に堀内秀太郎が病気のため辞任すると同社を代表して木村平右衛門が常務となった。1934年(昭和9年)7月、常務は木村から支配人の内本浩亮と交代。その後内本は1940年(昭和15年)に専務へと昇格するまで常務を務め、同年6月には社長となっている。 ==水力開発の推移== ===高千穂発電所=== 九州送電が最初に建設したのは五ヶ瀬川の高千穂発電所である。発電所所在地は宮崎県西臼杵郡高千穂町大字押方。東邦電力から水利権を譲り受けて開発した地点で、1927年1月着工、1929年(昭和4年)3月14日に竣工した。 発電所の取水口は上流の三ヶ所村桑野内(現・五ヶ瀬町桑野内)にあり、五ヶ瀬川本流を横断する堰堤の右岸から取水し、そこから一度「芋洗谷」を堰堤で仕切って造った調整池に導き、さらに発電所へと導水して発電する。主要設備は電業社原動機製造所製フランシス水車・芝浦製作所製交流発電機各2台で、発電所出力は1万2800キロワットである。 送電線は高千穂変電所から九州水力電気女子畑発電所(大分県日田郡)へ至る亘長72.8キロメートルの66キロボルト送電線「福岡幹線」を整備し、1929年5月1日より九州水力電気への電力供給を開始した。 なお五ヶ瀬川では、高千穂発電所の上流側の三ヶ所村桑野内にて「桑野内」(出力2790キロワット)、下流側の七折村(現・日之影町)にて「高巣野」(出力2970キロワット)、岩井川村(現・日之影町)にて「小崎」(4380キロワット)という3か所の水利権を得ていたが、いずれも九州送電では開発に至っていない。 ===田代発電所=== 高千穂発電所に続いて竣工したのは耳川の田代発電所(現・西郷発電所)である。発電所所在地は宮崎県東臼杵郡西郷村大字田代(現・美郷町西郷田代)。元々住友財閥が当主住友吉左衛門名義で水利権を取得していた地点で、1926年8月より住友家より委託を受けて九州送電が工事を担当し、1928年(昭和3年)1月に本工事起工、1929年12月14日に竣工させた。翌1930年(昭和5年)5月、九州送電はこの発電所に関する水利権を住友吉左衛門から譲り受けている。 発電所の取水口は上流の西郷村大字小原(現・美郷町西郷小原)にあり、耳川本流を横断するダムの右岸から取水する。取水地には耳川をせき止めた貯水池が付属している。主要設備は電業社原動機製造所製フランシス水車・芝浦製作所製交流発電機各2台で、発電所出力は8000キロワットである。 田代発電所からは高千穂変電所に至る亘長35.4キロメートルの66キロボルト送電線が整備された。また女子畑発電所から東邦電力久留米変電所(福岡県久留米市)に至る45.4キロメートルの66キロボルト送電線を整備し、九州水力電気に続いて1929年12月21日より東邦電力に対する電力供給を開始した。ただし供給電力の周波数が九州送電・九州水力電気と東邦電力で異なることから需給関係は複雑で、周波数を60ヘルツに設定する東邦電力は九州送電の50ヘルツの電力を直接受電せず、九州水力電気女子畑発電所などの一部発電機を60ヘルツで運転させ、この電力に振り替えた上で久留米変電所で受け取る形をとった。 ===山須原発電所=== 田代発電所に続いて建設されたのは、同じ耳川の山須原発電所である。発電所所在地は田代発電所の上流、宮崎県東臼杵郡西郷村大字山三ヶ(現・美郷町西郷山三ヶ)。同様に住友財閥が水利権を取得していた地点で、九州送電が1929年12月に起工、1932年(昭和7年)1月21日に竣工させ、同年4月に発電所に関する水利権を住友吉左衛門から譲り受けた。運転は4月1日より開始されている。 発電所の取水口は同じ大字山三ヶ地内にあり、耳川本流を横断するダムの右岸から取水する。ここでも耳川をせき止めた貯水池が付属している。水車・発電機は各2台でいずれも日立製作所製。発電所出力は1万3000キロワットである。 田代発電所と同様に山須原発電所も66キロボルト送電線で高千穂変電所と連絡した。この山須原発電所と後述の三ヶ所・回淵両発電所の完成により高千穂から女子畑へ至る福岡幹線の送電容量を増加させる必要が生じたため、高千穂変電所に昇圧用の変圧器を増設するとともに、女子畑から先、福岡県飯塚市の嘉穂変電所までの延伸工事を実施した。一連の改修工事は1932年7月に完成し、福岡幹線は高千穂変電所から嘉穂変電所へ至る亘長122.6キロメートルの110キロボルト送電線となった。また延伸により九州水力電気への供給地点は嘉穂郡の鯰田開閉所へ移った。 ===回淵・三ヶ所発電所=== 1932年に山須原発電所に続いて竣工したのが五ヶ瀬川水系三ヶ所川の回淵発電所と三ヶ所発電所である。 上流側の回淵発電所は宮崎県西臼杵郡三ヶ所村大字桑野内(現・五ヶ瀬町桑野内)にあり、大字三ヶ所に三ヶ所川を横断する堰堤を設けてその右岸から取水する。一方、三ヶ所発電所は同じく三ヶ所村大字桑野内にあり、三ヶ所川を横断する堰堤の右岸より取水するとともに回淵発電所の放水を直に受けて発電する。両発電所ともに電業社原動機製造所製フランシス水車・芝浦製作所製交流発電機各1台を備える。発電所出力は回淵発電所が1050キロワット、三ヶ所発電所が1320キロワット。 九州送電が水利権を取得した地点であり、両発電所そろって1931年11月29日に竣工した。送電線は回淵発電所から三ヶ所発電所を経て高千穂変電所へ至る66キロボルト線が整備されている。 ===塚原発電所=== 九州送電が6番目に建設した発電所が耳川の塚原発電所である。発電所所在地は山須原発電所の上流、宮崎県西臼杵郡諸塚村大字家代。住友財閥が水利権を取得していた地点で、九州送電の手で1935年8月に起工、工事中の1937年(昭和12年)2月に水利権を譲り受け、1938年(昭和13年)9月20日に竣工させた。 発電所の取水口は諸塚村大字七ツ山にあり、耳川本流を横断するダムの左岸から取水する。ここでも耳川をせき止める貯水池が付属している。またこの貯水池には耳川支流の柳原川・七ツ山川からも導水される。主要機器として電業社原動機製造所製フランシス水車・芝浦製作所製交流発電機各4台を設置。変圧器は構外の耳川変電所に設置する。発電所出力は当初5万キロワット、1940年以降は6万キロワットである。 ===供給電力の推移=== 1929年5月1日より始まった九州水力電気への電力供給は、1930年時点では1万7000キロワットで、その後同年8月認可で1万9500キロワットへ、1931年10月認可で3万2000キロワットへとそれぞれ増強された。これらの女子畑・鯰田両開閉所への供給電力は1935年末時点では3万キロワットとなっている。また1931年5月1日からは福岡県八女郡の羽犬塚変電所における九州水力電気への供給も開始した。一方、1929年12月21日より始まった久留米変電所における東邦電力への電力供給は、当初1万キロワット、1935年末時点では1万3000キロワット(融通電力を含むと最大1万6000キロワット)であった。 宮崎県内では、1934年(昭和9年)3月より延岡市に工場を持つ旭ベンベルグ絹糸(現・旭化成)に対する電力供給を開始し(ただし供給地点は熊本県阿蘇郡の同社自家用馬見原発電所)、同年7月11日より延岡電気に対する供給も開始した。 塚原発電所竣工前、1937年12月時点の供給状況をまとめると、供給電力については50ヘルツ圏が発電所5か所出力計3万6170キロワットに延岡電気からの受電を加えた合計3万7170キロワット、60ヘルツ圏が九州水力電気(受電地点:大分県日田郡)からの受電6600キロワットと東邦電力(受電地点:福岡県久留米市久留米変電所)からの受電3700キロワットからなり、これらを以下のように供給していた(いずれも融通電力を計算から除外)。 50ヘルツ圏 九州水力電気 : 3万キロワット(供給地点:大分県日田郡女子畑開閉所および福岡県飯塚市鯰田中央開閉所) 延岡電気 : 2025キロワット(供給地点:宮崎県内5地点) 旭ベンベルグ絹糸 : 2400キロワット(供給地点:熊本県阿蘇郡馬見原発電所)九州水力電気 : 3万キロワット(供給地点:大分県日田郡女子畑開閉所および福岡県飯塚市鯰田中央開閉所)延岡電気 : 2025キロワット(供給地点:宮崎県内5地点)旭ベンベルグ絹糸 : 2400キロワット(供給地点:熊本県阿蘇郡馬見原発電所)60ヘルツ圏 九州水力電気 : 5000キロワット(供給地点:福岡県八女郡羽犬塚変電所) 東邦電力 : 5000キロワット(供給地点:福岡県久留米市久留米変電所)九州水力電気 : 5000キロワット(供給地点:福岡県八女郡羽犬塚変電所)東邦電力 : 5000キロワット(供給地点:福岡県久留米市久留米変電所)塚原発電所が完成した1938年には九州水力電気への供給を増強し、8月より宮崎県内の登尾開閉所にて最大1万キロワット、11月より上津役変電所(福岡県八幡市)にて最大4万キロワットの供給をそれぞれ開始している。 ==電力国家管理と解散== ===送電線の出資・譲渡=== 1938年、政府が新設の国策会社日本発送電を通じて全国の発電・送電を管理するという電力国家管理を規定した「電力管理法」が成立し、全国の電気事業者から主要な電力設備を出資させて1939年(昭和14年)4月1日に日本発送電が設立された(第1次電力国家管理)。このとき日本発送電の管理対象とされた設備は、出力1万キロワット超の火力発電所や、最大電圧100キロボルト以上の送電線とそれに接続する変電所などで、これに従い九州送電では110キロボルト送電線の福岡幹線(高千穂変電所 ‐ 嘉穂変電所間)と福岡県方面の66キロボルト線4路線、22キロボルト線1路線、高千穂・嘉穂両変電所を日本発送電の設立時に出資するよう逓信省より命ぜられた。出資設備の評価額は409万2695円で、出資の対価として九州送電には日本発送電の額面50円払込済み株式8万1853株(払込総額409万2650円・出資対象33事業者中23位)が交付されている。 日本発送電への一部出資後も、110キロボルト線の福岡幹線のうち七ツ山線(高千穂変電所 ‐ 耳川変電所間)と上津役線(嘉穂変電所 ‐ 上津役変電所間、1938年11月使用開始)や発電所周辺の送電線、耳川・上津役両変電所が九州送電に残るが、これらの大半は1939年4月の設備出資と同時に日本発送電へと貸与し、その後1940年(昭和15年)2月1日付で同社へ譲渡している。以後九州送電に残る送電・変電設備は発電所間または発電所・変電所間の連絡送電線のみとなった。 日本発送電の発足により、九州水力電気や東邦電力への電力供給は消滅し、九州送電の電力供給先は日本発送電1社単独となった。 ===水力発電所の出資=== 1941年(昭和16年)4月、電力国家管理の強化を目指して電力管理法施行令が改正され、これに従って翌1942年(昭和17年)4月までの間に出力5,000キロワット超の水力発電設備も各事業者から日本発送電へ出資された(第2次電力国家管理)。九州送電も再びその対象とされ、日本発送電の第2回増資(=1941年10月1日付)の際に水力発電所6か所(高千穂・三ヶ所・回淵・塚原・山須原・田代)と発電所間または発電所・変電所間の送電線4路線を同社へ出資するよう命ぜられた。 出資設備の評価額は2643万4342円50銭で、ここから日本発送電への社債継承価格797万4015円を差し引いた金額を基準として九州送電には日本発送電の額面50円払込済み株式36万9206株(払込総額1846万300円・出資対象27事業者中9位)が交付されている。 ===岩屋戸発電所建設と解散=== 1941年10月に日本発送電へ水力発電所を出資した九州送電であるが、当時、同社は耳川にて岩屋戸発電所を建設中であった。同発電所は耳川にて許可を得ていた水利権4か所のうちの最上流部で、日本発送電設立前の1938年4月に準備工事を着工、1940年初頭より本工事に着手して1941年末に完成させた。発電所出力は2万5000キロワットである。 この岩屋戸発電所完成をもって九州送電はすべての開発計画を終了し、岩屋戸発電所の設備一切を日本発送電へ譲渡して解散することとなった。そして1942年(昭和17年)1月23日、株主総会にて九州送電は設備一切への譲渡と会社の解散を決議し、消滅した。 ==年表== 1924年(大正13年) 11月13日 ‐ 発起人に対し逓信大臣より電気事業経営許可。11月13日 ‐ 発起人に対し逓信大臣より電気事業経営許可。1925年(大正14年) 5月9日 ‐ 九州送電株式会社設立。5月9日 ‐ 九州送電株式会社設立。1929年(昭和4年) 3月24日 ‐ 高千穂発電所竣工。 5月1日 ‐ 開業。九州水力電気への電力供給開始。 12月14日 ‐ 田代発電所竣工。 12月21日 ‐ 東邦電力への電力供給開始。3月24日 ‐ 高千穂発電所竣工。5月1日 ‐ 開業。九州水力電気への電力供給開始。12月14日 ‐ 田代発電所竣工。12月21日 ‐ 東邦電力への電力供給開始。1931年(昭和6年) 11月29日 ‐ 回淵・三ヶ所両発電所竣工。11月29日 ‐ 回淵・三ヶ所両発電所竣工。1932年(昭和7年) 1月21日 ‐ 山須原発電所竣工。1月21日 ‐ 山須原発電所竣工。1938年(昭和13年) 9月20日 ‐ 塚原発電所竣工。9月20日 ‐ 塚原発電所竣工。1939年(昭和14年) 4月1日 ‐ 日本発送電設立に伴い送電線・変電所の一部を出資。同時に残存設備の大半を同社へ貸与。4月1日 ‐ 日本発送電設立に伴い送電線・変電所の一部を出資。同時に残存設備の大半を同社へ貸与。1940年(昭和15年) 2月1日 ‐ 日本発送電に貸与中の設備を同社へ譲渡。2月1日 ‐ 日本発送電に貸与中の設備を同社へ譲渡。1941年(昭和16年) 10月1日 ‐ 日本発送電へ水力発電所と残存送電線を出資。10月1日 ‐ 日本発送電へ水力発電所と残存送電線を出資。1942年(昭和17年) 1月23日 ‐ 岩屋戸発電所(1941年末完成)を日本発送電へ譲渡し、会社解散。1月23日 ‐ 岩屋戸発電所(1941年末完成)を日本発送電へ譲渡し、会社解散。 ==施設一覧== ===発電所一覧=== 発電所の所在地・河川名と出力をまとめた一覧表は以下の通り。 岩屋戸発電所を含む7つの発電所は、すべて日本発送電を経て1951年(昭和26年)以降は九州電力(九電)に帰属している。ただし高千穂発電所に関しては、1964年(昭和39年)5月に九州電力から電源開発へ譲渡され、鶴田ダム(鹿児島県)建設に伴う自家発電所の水没補償として新日本窒素肥料(現・JNC)へ引き渡されている。 ===送電線・変電所一覧=== 送電線の一覧表は以下の通り。 自社変電所はいずれも自社送電線に接続するもので、上表中にある5か所(耳川・高千穂・女子畑・嘉穂・上津役)を保有していた。 ==社史== 『九州送電株式会社沿革史』 ‐ 下川寿一(九州送電総務次長兼経理課長)著、東洋経済新報社出版部発行。会社解散後の1942年10月に出版。NDLJP:1059578。 =津市図書館= 津市図書館(つしとしょかん)は、三重県津市の公立図書館である。津市は2006年(平成18年)1月1日に10市町村が合併して発足し、これらの市町村が設置していた9つの図書館と2つの図書室を統合して発足した。 ==図書館・図書室一覧== 津市図書館は以下の9館2室で構成される。統計数値は2014年度現在。 ==歴史== 現行の津市域には1911年(明治44年)に安濃郡庁を利用して安濃郡立図書館が4月に、一志郡久居町に一志郡教育会付属図書館が10月に相次いで開館しているが、これらは津市図書館の前身とはなっていない。第二次世界大戦を前後して三重県では数多くの市町村立図書館が設置されてきたが、1937年(昭和12年)に三重県立図書館が仮開館していた津市と周辺町村では市町村立図書館の設置の動きは鈍く、現行の津市図書館につながるもので最も早く開館したのは、美杉村が1972年(昭和47年)10月に設置した図書室であった。その後、1987年(昭和62年)から2004年(平成16年)にかけて、合併前の10市町村すべてに市町村立の図書館・図書室が開設された。 2006年(平成18年)1月1日、旧津市、久居市、安芸郡河芸町・芸濃町・安濃町・美里村、一志郡香良洲町・一志町・白山町・美杉村が合併して新しい津市が発足、これらの市町村が設置していた図書館・図書室を引き継いで津市図書館が発足した。2007年(平成19年)4月1日には「津市図書館運営に関する基本方針」が公表され、市内の9館2室を一体的に運営する新たな方針が示された。 2015年(平成27年)2月27日から3月25日まで、津図書館・河芸図書館・うぐいす図書館が一斉に「津ぎょうざ」をテーマにした展示会を開催し、津ぎょうざの実物大レプリカや津ぎょうざのキャラクター「つつみん」の展示、三重県内のご当地グルメによるまちおこし団体や地域活性化に関する書籍の紹介などを行った。 ==利用案内== 津市図書館の蔵書であればどの図書館・図書室でも返却できる。ただし、相互貸借資料と視聴覚資料は借りた図書館・図書室で返却する必要がある。 開館時間:図書館・図書室により異なる休館日:火曜日、館内整理日(毎月最終木曜日)、特別整理期間、年末年始貸出制限:津市に在住・通勤・通学している者。図書利用カードは全館共通。貸出可能点数:図書、視聴覚資料合わせて10点(ただし視聴覚資料は2点まで)貸出可能期間:15日間(延長は1回のみ可能)予約、リクエスト、団体貸出可能。 ==津図書館== 津市津図書館(つしつとしょかん)は、三重県津市西丸之内23番1号の津リージョンプラザ1・2階にある。近鉄名古屋線津新町駅から徒歩9分のところにある。分室として、美杉町八知に美杉図書室を置く。「津市図書館の設置及び管理に関する条例」上は他の図書館と同じ扱いであるが、図書館予算が他館の10倍以上与えられ、館長、図書事務長、図書館管理担当・奉仕担当と内部で業務分掌があるなど、津市の中心的な図書館として機能する。 開館時間は9時から19時(土日祝日は17時まで)である。2014年(平成26年)度時点の視聴覚資料数は8,334点である。毎週木曜日と土曜日に幼児・小学生対象の「おはなし会」、第2・4木曜日に乳児と保護者対象の「ちいさなおともだちのおはなしかい」を開催する。また各種講座・講演会を視聴覚室で開いている。2015年(平成27年)現在、「マザーグース」、「おはなしのたね」、「ききゅう船」、「ポップコーン」の4団体がストーリーテリングのボランティアを行っている。 ===津図書館の歴史=== ====開館前史(‐1974)==== 1909年(明治42年)に安濃郡建部村・塔世村が津市に編入された際に、報償金で図書館を設置することを議決し、翌1910年(明治43年)に安濃郡会で郡立図書館の設立を議論、1911年(明治44年)4月1日に新町大字古河にあった安濃郡庁内に安濃郡立図書館が開館した。1912年(明治45年/大正元年)時点の蔵書数は866冊(うち洋書2冊)、閲覧者数1,020人で、1921年(大正10年)には蔵書数2,317冊、閲覧者数1,470冊に増えた。しかし郡制の廃止により、1922年(大正11年)に安濃郡農会図書館に移行した。その後の動向は不明で、1937年(昭和12年)度末の三重県内の図書館一覧には安濃郡農会図書館は掲載されていない。 1960年代当時の津市には、中央公民館、一身田公民館、白塚公民館の3つの公民館があり、一身田公民館には図書室が設けられていた。一身田公民館図書室は1966年(昭和41年)時点で1,600冊を所蔵していたが、図書購入費が不足していたため、三重県立図書館の貸出文庫から毎月図書を借り受けて不足分を補っていた。白塚公民館に図書室はなかったが、同時点で325冊を所蔵していた。当時の三重県立図書館は事実上、津市の市立図書館の役割を代行し、津市も年間15万円を県立図書館に納めていた。また津市には県立図書館の貸出文庫を積極的に利用する20の熱心な読書グループがあり、図書館員との交流の中で市立図書館の必要性を認識し、津市立図書館設立実行委員会を立ち上げて市立図書館の設置を目指すようになった。 ===図書館の設置運動(1974‐1987)=== 津市立図書館設立実行委員会(以下、「実行委員会」)は、毎月例会を開いて図書館整備について研究し、市立図書館設置を求める5,600人の市民の署名を集めて1974年(昭和49年)12月2日に津市議会に提出した。市議会はこれを採択し、実行委員会は四日市市立図書館・名古屋市の瑞穂図書館・名東図書館といった先進図書館の見学を通して知見を高め、自作のジャンボ絵本を公園などで読み聞かせすることで一般市民の図書館への関心の高揚を図り、市民に図書の寄贈を求め、街頭に「バクの箱」という名の寄贈図書受け入れ箱を設置した。この活動はNHKでたびたび放映され、新聞の地方版で大きく取り上げられたことから多くの市民の知ることとなり、市議会は1975年(昭和50年)3月議会で、同年の予算に図書館設置の調査費40万円と図書費100万円を計上した。県立図書館があるのに今さら市立図書館を造る必要があるのか、という意見を持つ市民も中にはいたが、実行委員会では都道府県立図書館と市立図書館の役割の違いなどを丁寧に説き、必要性を訴えた。 購入された図書は津市中央公民館に配架され、1975年(昭和50年)8月2日に中央公民館は巡回文庫を開始した。1976年(昭和51年)には三重国体事務局跡を巡回文庫室に充当し、中央公民館から図書を移動した。当時の津市は市役所の建設を控えていたことから、巡回文庫の利用状況を見ながら図書館設置の是非を検討した。津市による巡回文庫の開始により、県立図書館は移動図書館の津市内での運行を取りやめ、県内他地域に移した。巡回文庫により、津市民による県立図書館の貸出文庫の利用は減少したものの、巡回文庫で読書習慣を身に付けた児童が直接県立図書館へ本を借りに行くようになった。1981年(昭和56年)には津市が移動図書館「ちどり号」を導入した。 ===開館後(1987‐)=== 上述のように図書館設置の下準備を整えた津市は、1987年(昭和62年)8月に約8万冊を保有する津市図書館を、同年5月に竣工した津リージョンプラザ内に開館した。開館当時の津市図書館は当時の津市民だけでなく、周辺市町村の住民も利用対象とする広域図書館としての役割を担っていた。ところが津市図書館の後を追うように周辺市町村でも市町村立図書館の開館が相次いだため、軌道修正が検討されるようになっていった。 1994年(平成6年)度の蔵書数は229,000冊、貸出冊数は74万冊であった。これまでは三重県立図書館が広明町にあり津市図書館とは近接し、協力関係にあったが、1994年(平成6年)10月に県立図書館は郊外の三重県総合文化センターへ移転したため、津市図書館は独立運営を模索することとなった。その結果、高度な専門書の収集は県立図書館に任せ、津図書館では日常的に利用する図書の収集に徹することとした。また津市内の学校図書館の司書の研修も担っている。 ===津図書館の貴重図書=== 貴重書として、有造館文庫4,614点、橋本文庫9,411点、絵葉書6,992点、井田文庫371点、稲垣家文庫2,537点、河邊家文書605点を所有する。これらの貴重図書は2階のレファレンス室で閲覧することができ、月替わりで1階と2階にあるガラスケースで展示を行っている。 「有造館文庫」は津藩の10代藩主・藤堂高兌が設立した藩校「有造館」の蔵書と同館発行書から成り、津市図書館の開館時に三重県立図書館から移管したものである。「橋本文庫」は津市で味噌や醤油の醸造業を営み、津商工会議所会頭や津市議会議長を務め津市の発展に貢献してきた橋本家から寄贈された近世・近代の資料群で、本居宣長・春庭・大平父子の著書などを含んでいる。「絵葉書」は橋本家が所有していたものを中心に、他の人からの寄贈品も含まれる。 「井田文庫」は、旧神戸村出身で、代々医師を務めてきた井田家から1992年(平成4年)5月に寄贈されたもので、天文学関係の図書と江戸時代の天体観測器具を中心に医学・易学・和算・郷土資料・世界地図を含む資料群である。「稲垣家文庫」は伊勢商人であった稲垣定穀の著書と蔵書、「河邊家文書」は庄屋や戸長を歴任した河邊家の保有していた公的・私的な文書群である ===周辺=== 津図書館の周辺には、津市役所や津地方裁判所などの行政機関、津城跡とお城公園、高山神社などの史跡がある。 近鉄名古屋線津新町駅から徒歩9分のところにある。津リージョンプラザに隣接して津市役所の立体駐車場があり、456台駐車可能である。津リージョンプラザでイベントが開催されると立体駐車場は混雑する。 ===美杉図書室=== 津市津図書館美杉図書室(つしつとしょかんみすぎとしょしつ)は、津市美杉町八知5580番地2の津市美杉総合文化センター1階にある。JR名松線伊勢八知駅から徒歩1分のところにある。 床面積は48m、職員は3人で、2015年(平成27年)度の図書室予算は686千円であった。2014年(平成26年)度の蔵書数は5,777冊で視聴覚資料はなく、貸出冊数は3,798冊であった。ISILはJP‐1007235。開館時間は9時から17時までである。 春夏秋冬の4回、おはなし会を開催している。2015年(平成27年)現在、ボランティア団体「ひまわり」が読み聞かせを行っている。 ===美杉図書室の歴史=== 1972年(昭和47年)10月に鉄筋コンクリート構造3階建ての美杉村総合開発センター(後に津市美杉総合開発センター)が落成し、その中に図書室が設けられた。同年11月に図書室内に公民館事務局が移転した。1976年(昭和51年)4月からは「移動公民館」と称して美杉村内を巡回して図書の貸し出しと社会教育の相談に応じた。 2014年(平成26年)3月31日、津市美杉総合開発センターと津市美杉庁舎を統合して津市美杉総合文化センターが新築開館し、図書室もそこへ移転した。 ==久居ふるさと文学館== 津市久居ふるさと文学館(つしひさいふるさとぶんがくかん)は、三重県津市久居東鷹跡町2番地3にある。近鉄名古屋線久居駅から徒歩13分のところにある。分室として、久居新町にポルタひさいふれあい図書室を置く。延床面積・職員数・図書館費・蔵書数・貸出冊数のいずれも津図書館に次ぐ規模を有する。 開館時間は9時から18時(土日祝日は17時まで)である。2014年(平成26年)度時点で視聴覚資料は所蔵していない。第1・3土曜日に「おはなし会」、第4土曜日に本の紹介をする「ブックトーク」、第2・4水曜日に絵本を読み聞かせする「おはなしの森」を開催する。2014年度は、大人のための音読会と楽しい読み聞かせ講座を視聴覚室で開いた。2015年(平成27年)現在、「久居おはなしの会 かたつむり」、「わらべ読み聞かせ部会」、「どんぐり」、「ポップコーン」の3団体が読み聞かせボランティアを、「わらべ朗読部会」は朗読のボランティアに加え、文学作品の研究を行っている。 ===文学館の歴史=== ====一志郡立図書館・教育会附属図書館(1911‐1945)==== 1910年(明治43年)11月に時の皇太子(後の大正天皇)が一志郡に立ち寄ったことを記念して一志郡教育会が図書館建設を提案し、5,713円の寄付金と738人の建設労働への奉仕を得て、1911年(明治44年)4月に久居町の一志郡役所の隣へ建設を開始、同年10月25日に開館式を挙行した。図書館は一志郡教育会から一志郡へ引き渡され、一志郡立図書館を名乗った。同館は三重県で最初の独立した建物を有する図書館となり、当時としては珍しく土足で入館でき、各室を自由に往来できたことから利用者に好評であった。1913年(大正2年)時点で4,741冊(うち洋書119冊)を所蔵し、23,654人の閲覧者が訪れた。 1922年(大正11年)の郡制廃止により一志郡教育会の運営に変わり、一志郡教育会附属図書館に改称、1926年(大正15年/昭和元年)時点では蔵書数4,132冊、閲覧者数14,258人で、予算規模は四日市市立図書館に次ぐ三重県内第2位であった。その後、第二次世界大戦の混乱で活動が休止し、三重県内に多く存在した他の図書館と同様に戦後復興することなく姿を消した。 ===公民館図書室から文学館へ(1977‐)=== 旧久居市は1977年(昭和52年)に久居市中央公民館を建設し、その中に郷土資料室と併設した図書室を設け、図書館業務を開始した。図書室はわずか100mであった。清水正明の『三重県の図書館』 では「公民館図書室は次第に手狭となり、市民の間で図書館を求める声が高まった」旨が書かれているが、図書館準備室の担当者は市民の間から図書館設置を求める運動は特になく、建設準備中に意見を募集しても20件ほどしか集まらなかったと述べている。1991年(平成3年)、図書館の基本設計がコンペによって決定し、各地の図書館を視察して開館後の運営方針が練られていった。 図書館の建設工事は1991年(平成3年)9月20日に始まり、1992年(平成4年)12月12日に完成した。総工費は7億8280万円、備品費は3850万円であった。1993年(平成5年)に久居市図書館(愛称は「久居市ふるさと文学館」)が開館した。図書館は独立した建物で、鉄筋コンクリート構造3階建てである。開架室は機能重視のワンフロアで奇をてらわずにシンプルな構造であった。また車椅子でも利用しやすい間隔が広く背の低い書架を採用し、視覚障害者誘導用ブロック(点字ブロック)や多機能トイレの設置など、障害のある人にも利用しやすい施設として整備された。図書館の開館と同時に公民館図書室は閉鎖された。 久居市図書館は1994年(平成6年)から4年連続で人口3万人以上4万人未満の市に立地する図書館の中で貸出冊数が日本一となった。(市民の利用登録率47%、貸出冊数約25万冊で市民1人当たり6冊に相当した。)当時の司書は朝日新聞の取材に対し「特別なことはしていない」と回答している。これは、開館前の図書館視察の結果、「できうることをごく当たり前にやる」という方針で運営することが決まったからである。また、図書館の建設に際して多くの図書館に視察を受け入れてもらった恩返しとして、視察要望にはできる限り応じるようにし、利用者に対してはサービス業に徹して丁寧な接客を心がけた。2000年(平成12年)12月1日、図書を読み上げる機械を導入した。 ===文学館の貴重図書=== 貴重書として、信藤家大庄屋文書9,214点と箕浦家文書55点を所有する。「信藤家大庄屋文書」は久居藩統治下の本村組で大庄屋を務めた信藤家の11代目から寄贈された文書群で、ほとんどが江戸時代から明治時代の庄屋関係の資料である。久居藩の藩政期の様子が分かるほぼ唯一の資料群として貴重であり、詩文学者に関する資料も少量含まれる。「箕浦家文書」は久居藩家老の箕浦家の子孫から寄贈されたもので、久居城内の図を含む文書群である。 ===館内の構造=== 図書館は3階建てで、一般開架と児童開架を1階に集約している。できる限りシンプルに、というコンセプトで設計されているため、凝った意匠等はない。 1階は一般開架・児童開架を中心に、事務室、おはなしのへや、ブラウジングコーナーなどを配置する。一般開架は5段の書棚を基本とし、壁面の書棚は9段に、空調の吹き出し口の直下は表紙を見せる書棚とした。児童書架は3段と4段のもので構成し、奥におはなしのへやを設けている。 2階は展示ギャラリーを中心に、閲覧学習室、視聴覚室、会議室などを置いている。「展示ギャラリー」では久居地域ゆかりの人物に関する資料を常設展示している。エッチングの父と称される西田半峰、医師でありながら日本各地を旅して『東遊記』・『西遊記』を記した橘南谿、佐藤春夫に師事し『春の絵巻』などを著した中谷孝雄らにまつわる資料や中谷の文学仲間に関する資料がある。 3階は閉架書庫と機械室がある。敷地面積ぎりぎりに図書館を建てたこと、地下に書庫を設けると費用がかかることからやむを得ず書庫が3階になったという。 ===ポルタひさいふれあい図書室=== 津市久居ふるさと文学館ポルタひさいふれあい図書室(つしひさいふるさとぶんがくかんポルタひさいふれあいとしょしつ)は、津市久居新町3006番地のポルタひさいふれあいセンター3階にある。 床面積は75m、職員は3人である。図書室を名乗っているが蔵書はなく、所蔵資料は新聞・雑誌・視聴覚資料に特化している。なお図書は他館からの取り寄せで対応する。2014年(平成26年)度の視聴覚資料数は5,778点、貸出冊数は6,184冊、貸出視聴覚資料数は3,019点であった。ISILはJP‐1007236。開館時間は10時から21時まで(休日は18時まで)である。 ===ふれあい図書室の歴史=== 1998年(平成10年)8月に開設された。開設当初は図書を所蔵しており、2011年(平成23年)度時点の蔵書数は10,056冊、図書室の面積は201mであった。読書機会の少ない人を呼び込もうという戦略の下で、図書室に健康器具を設置し、それを目当てに開館時間前から図書室には行列ができるほど人気を博した。この健康器具は電流が流れる椅子で、1回20分を要するため、その間雑誌を読み、隣で器具を使っている人と会話するという交流が生まれたという。 図書室のある「ポルタひさい」は久居都市開発の管理する久居駅ビルで、相次ぐテナントの撤退で債務返済が困難になり、久居都市開発は津市に土地と建物の買取を要請し津市側は了承、2014年(平成26年)7月より津市久居庁舎として利用するため改修工事を開始した。これに伴い図書室は一時休館し、2015年(平成27年)1月5日に業務を再開した。 2015年(平成27年)に新装開室した図書室は、旧図書室よりも規模を縮小、蔵書は他館へ移された。雑誌や視聴覚資料の閲覧機能に特化し、インターネットで予約した図書を通勤・通学途上で受け取ったり返却したりする「都市型」図書室としての活用を想定した施設となった。また電子書籍閲覧用にiPadが3台設置された。 ==河芸図書館== 津市河芸図書館(つしかわげとしょかん)は、三重県津市河芸町浜田782番地にある。近鉄名古屋線豊津上野駅から徒歩19分のところにある。津市指定文化財の「馬術免許書類」を保有する。 開館時間は10時から18時である。2014年(平成26年)度時点の視聴覚資料数は録音図書を中心に816点である。おはなし室があり、毎月第3日曜日に「おはなし会」を開催している。2014年度は、図書館講座を3度開講した。2015年(平成27年)現在、読み聞かせを行う「ラッコの会」と音訳資料を制作する「音訳草笛の会」が河芸図書館でボランティアを行っている。 ===河芸図書館の歴史=== 1987年(昭和62年)10月に河芸町立図書館として開館した。当時の河芸町は津市のベッドタウンとして人口が急増しており、町役場に近接した丘陵地に町民の森を整備し、その一部を構成する施設として図書館が建設された。 1994年(平成6年)度末の時点で61,000冊を所蔵していた。当時の開館時間は9時から17時までで、休館日は月曜日、祝日、月末日、年末年始であった。この頃にはすでにラッコの会が第3日曜日に読み聞かせボランティアを行っていた。また町民らから寄贈を受けた文庫本を「みんなの本棚」と名付けたコーナーに集め、貸出期間・貸出冊数ともに無制限としていた。 ===河芸図書館の施設=== 鉄筋コンクリート構造2階建ての図書館単独の施設で、周囲の自然と調和した赤茶色の屋根が特徴である。玄関ホールはシャンデリアとステンドグラスで装飾され、ホール正面に田村一男の絵画「くろい雲 しろい峯」がある。 館内には資料展示室があり、自然科学コーナーと民俗民芸コーナーを設けている。奈良時代の須恵器、天文年間(1532年 ‐ 1555年)の火縄銃、江戸時代の生活用品のほか、津市指定文化財の短柄槍や薙刀などを収蔵・展示する。 ==芸濃図書館== 津市芸濃図書館(つしげいのうとしょかん)は、三重県芸濃町椋本6824番地に所在する津市芸濃総合文化センターの1階にある。三重交通路線バス椋本停留所から徒歩6分のところにある。1997年(平成9年)4月に芸濃町総合文化センター内に芸濃町立図書館として開館した。芸濃総合文化センターでは1999年(平成11年)からペットボトルを使ったクリスマスツリーを毎年12月に設置、点灯している。 床面積は586m、職員は5人で、2015年(平成27年)度の図書室予算は3,824千円であった。2014年(平成26年)度時点の蔵書数は63,645冊、視聴覚資料数はVHS・DVDを中心に834点、貸出冊数は59,224冊であった。ISILはJP‐1002007。開館時間は9時から17時である。 「絵本の部屋」で毎月2回「おはなし会」を開催している。2014年度は、折り紙教室と児童文学講座を開講した。2015年(平成27年)現在、読み聞かせボランティア「こんぺいとう」が芸濃図書館で活動している。 ==美里図書館== 津市美里図書館(つしみさととしょかん)は、三重県津市美里町三郷51番地3に所在する津市美里文化センター1階にある。津駅より自動車で約30分、三重交通路線バス美里総合支所前停留所から徒歩2分のところにある。 開館時間は9時から17時である。2014年(平成26年)度時点の視聴覚資料数はVHSを中心に750点で、美里村文化センター図書室時代はビデオ貸し出しが好調であった。学習室を利用したおはなし会を毎月1回開催している。2014年度は、夏休み期間中に折り紙教室を開講した。2015年(平成27年)現在、読み聞かせを行う「どんぐり」と歌や手遊びなどの行事を開く「Maimaiくらぶ」と「フレンズ・ポコ座」が美里図書館でボランティアを行っている。 ===美里図書館の歴史=== 1994年(平成6年)5月に美里村文化センターの完成とともに、同センター図書室として設置された。図書室自体は美里村役場の2階にそれ以前から設置されていたが、村民の認知度は低く、蔵書も3,000冊しかなかったため、貸出冊数は年間200冊程度にとどまり、貸し出しカードすらない状態であった。そこで美里村教育委員会では、美里村文化センターへの移転をきっかけに図書室の利用促進に乗り出した。まず、三重県立図書館や津市図書館(現・津市津図書館)などの近隣の大きな図書館との競合を避けるため、津市図書館にないアニメ本を配架し、ピカチュウなどのぬいぐるみで棚を飾ることで子供の来室を促進した。図書室予算は少なかったため、少しでも蔵書を充実できるよう司書は雇用せずに村職員が交代で業務にあたり、人件費削減に努めた。次に利用実績の良かった久居市図書館を見学し、丁寧な接客を実践した。続いて『図書室からのお知らせ』を毎月発行して図書館の本を紹介し、1995年(平成7年)からは三重県の図書館で初めてビデオの貸し出しを開始した。ビデオ貸し出しは功を奏し、1998年(平成10年)時点で250本の所蔵に対し、毎月300本を貸し出すほどで、バスの待ち時間を利用した来室や近隣市町村からの誘客にも成功した。取り扱うビデオは一般の商業作品だけでなく、自前のビデオ編集室で制作した図書室オリジナルの作品もあり、毎月1本のペースで制作を続けていた。 1994年(平成6年)度末の時点で開架8,000冊、閉架7,000冊の収蔵能力を有し、1998年(平成10年)時点で11,000冊超を所蔵していた。当時の休館日は土日祝日と年末年始であった。1999年(平成11年)12月には、子供の来室を促進しようと、職員がサンタクロースの衣装を着用して業務に従事した。 ===美里図書館の施設=== 鉄筋コンクリート構造の2階建て施設である津市美里文化センターの1階に図書館がある。図書館は開架室153mと閲覧室62mからなり、文化センター2階には研修室を兼ねた閲覧室、読書会などに利用可能な会議室がある。文化センターにはこのほか、小文化ホール、ふるさと歴史室がある。 ==安濃図書館== 津市安濃図書館(つしあのうとしょかん)は、三重県津市安濃町東観音寺418番地に所在する津市サンヒルズ安濃1・2階にある。三重交通路線バス安濃総合支所前停留所から徒歩8分のところにある。サンヒルズ安濃は図書館のほか、ハーモニーホール、保健福祉センター、交流館から構成される複合施設で、図書館は独立した建物になっている。駐車場は235台分ある。 1996年(平成8年)7月に安濃町図書館として開館した。2001年(平成13年)7月4日にはISO 14001を取得した。 床面積は1,017m、職員は6人で、2015年(平成27年)度の図書館予算は4,272千円であった。2014年(平成26年)度時点の蔵書数は91,167冊、視聴覚資料数はVHSを中心に1,081点、貸出冊数は61,629冊であった。ISILはJP‐1002009。開館時間は10時から18時である。 第4土曜日に「絵本のよみきかせ」、年4回「スペシャルおはなし会」を開催している。2014年度は、「秋の読書マラソン」という企画を9月から11月にかけて開催した。2015年(平成27年)現在、読み聞かせボランティア「やまびこ会」が安濃図書館で活動している。館内に郷土資料室があり、町内の大城遺跡から2世紀前半のものとされる刻書土器が発見された際に展示会場となった。 ==きらめき図書館== 津市きらめき図書館(つしきらめきとしょかん)は、三重県津市香良洲町2167番地に所在する津市サンデルタ香良洲1階にある。三重交通路線バス香良洲神社前停留所から約200m(約3分)または香良洲総合支所前停留所から徒歩4分のところにある。駐車場は130台分ある。 1994年(平成6年)9月に香良洲町立きらめき図書館として開館した。同年度末の蔵書数は13,700冊であった。翌1995年(平成7年)、古本のリサイクルコーナーを設置し、住民から寄贈された本の自由な貸し出しを開始した。 床面積は432m、職員は4人で、2015年(平成27年)度の図書館予算は2,126千円であった。2014年(平成26年)度時点の蔵書数は43,319冊、視聴覚資料数はVHSを中心に1,206点、貸出冊数は29,676冊であった。ISILはJP‐1002010。開館時間は9時から17時(ただし7・8月の平日は18時まで)である。 第2木曜日に「きらきらおはなし会」、3月・6月・12月に「読み聞かせ会」を開催している。2014年度は、クリスマス企画として「親子折り紙教室」を開催した。2015年(平成27年)現在、読み聞かせボランティア「まじっくぼっくす」と「きらきら星」がきらめき図書館で活動している。「まじっくぼっくす」はパネルシアターや人形劇も披露する。 ==一志図書館== 津市一志図書館(つしいちしとしょかん)は、三重県津市一志町井関1792番地に所在する津市とことめの里一志内にある。とことめの里一志は地域の健康・福祉・生涯学習の拠点として、パターゴルフ場や一志温泉やすらぎの湯を併設しており、湯上がりの来館者も多い。 1997年(平成9年)7月に一志町立図書館として開館した。床面積は782m、職員は7人で、2015年(平成27年)度の図書館予算は5,558千円であった。2014年(平成26年)度時点の蔵書数は90,454冊、貸出冊数は87,045冊で、視聴覚資料は所蔵していない。ISILはJP‐1002011。開館時間は9時から18時(ただし7・8月の平日は19時まで)である。 第1・3木曜日に「小さい子向きおはなし会」、第2土曜日に「ひなたぼっこのおはなし会」、第4土曜日に「とことめっこのおはなし会」などを開催している。2015年(平成27年)現在、素語りボランティア「ひなたぼっこ」が一志図書館で活動し、毎年原爆の日前後には戦争を題材にした絵本や紙芝居の読み聞かせを行うことで、平和について考える機会としている。 ===一志図書館の交通=== 公共交通機関利用の場合、三重交通路線バス井関停留所が最も近く、徒歩約8分である。鉄道利用の場合、JR名松線一志駅から徒歩約21分または近鉄大阪線川合高岡駅から徒歩約22分である。 ==うぐいす図書館== 津市うぐいす図書館(つしうぐいすとしょかん)は、三重県津市白山町二本木1139番地2に所在する津市白山総合文化センター1階にある。津市コミュニティバス (白山地域)文化センター停留所から徒歩すぐ、または近鉄大阪線大三駅から徒歩約15分である。白山総合文化センターは旧白山町が市町村合併を控えた2003年(平成15年)に建設を開始した施設であったため、朝日新聞から「合併前の駆け込み投資では」と指摘された。 2004年(平成16年)11月に白山町立うぐいす図書館として開館した。開館にあたっては伊勢市の図書館業務受託企業リブネットの支援を受けた。 床面積は1,030m、職員は7人で、2015年(平成27年)度の図書館予算は5,490千円であった。2014年(平成26年)度時点の蔵書数は84,333冊、視聴覚資料数はDVDを中心に2,771点、貸出冊数は72,633冊であった。ISILはJP‐1002012。開館時間は9時から18時(休日は17時まで)である。 毎週水曜日に「おはなし会」、第1・3土曜日に「ボランティアによるおはなし会」などを開催している。うぐいす図書館文化祭やわくわくとしょかんまつりなどの行事を開催している。2018年(平成30年)1月5日には、初の企画として司書が選んだ図書数冊を、英字新聞で作った袋に詰めて貸し出す「本の福袋」を実施する。2015年(平成27年)現在、読み聞かせボランティア「きいろいぼうし」と「よみっこ」がうぐいす図書館で活動している。 =紀州征伐= 紀州征伐(きしゅうせいばつ)または紀州攻めとは、戦国時代(安土桃山時代)における織田信長と羽柴秀吉による紀伊への侵攻のことである。一般的には天正5年(1577年)の信長による雑賀攻め、同13年(1585年)の秀吉による紀伊攻略を指すが、ここでは天正9年(1581年)から同10年(1582年)にわたる信長の高野攻めも取り上げる。 信長・秀吉にとって、紀伊での戦いは単に一地域を制圧することにとどまらなかった。紀伊は寺社勢力や惣国一揆といった、天下人を頂点とする中央集権思想に真っ向から対立する勢力の蟠踞する地だったからである。根来・雑賀の鉄砲もさることながら、一揆や寺社の体現する思想そのものが天下人への脅威だったのである。 ==中世を体現する国、紀伊== ルイス・フロイスの言を借りると16世紀後半の紀伊は仏教への信仰が強く、4つか5つの宗教がそれぞれ「大いなる共和国的存在」であり、いかなる戦争によっても滅ぼされることはなかった。それらのいわば宗教共和国について、フロイスは高野山、粉河寺、根来寺、雑賀衆の名を挙げている。フロイスは言及していないが、五つめの共和国は熊野三山と思われる。共和国と表現されたように、これら寺社勢力や惣国一揆は高い経済力と軍事力を擁して地域自治を行い、室町時代中期の時点でも守護畠山氏の紀伊支配は寺社勢力の協力なしには成り立たない状況だった。 紀伊における武家勢力としては、守護畠山氏をはじめ、湯河・山本・愛洲氏などの国人衆が挙げられる。室町時代、これらの国人衆は畠山氏の被官化したもの(隅田・安宅・小山氏など)、幕府直属の奉公衆として畠山氏から独立していたもの(湯河・玉置・山本氏)に分かれていた。 室町時代を通じ、畠山氏は前述の通り寺院勢力との妥協を余儀なくされながらも、紀伊の領国化(守護領国制)を進めていた。奉公衆の湯河氏らも応仁の乱前後から畠山氏の内乱に参戦することが増え、畠山氏の軍事動員に応じ、守護権力を支える立場へと変化していった(教興寺の戦いなど)。一方で15世紀後半以降、畠山氏の分裂と抗争が長期間続いたことが大きく響き、また複数の強力な寺院勢力の存在もあって、武家勢力の中から紀伊一国を支配する戦国大名が成長することはなかった。国人衆は畠山氏の守護としての動員権を認めながらも、所領経営においては自立した存在だった。 ===治外法権の地、境内都市=== 中世において、寺領は朝廷も幕府も無断で立ち入ることができない聖域だった。寺院内部への政治権力による警察権は認められず(検断不入、不入の権または守護不入を参照)、たとえ謀反人の捜査といえども例外ではなかった。もちろん軍事力による介入など許されない。また、寺領内では政府の徴税権も及ばなかった(諸役不入)。このような、いわば世間に対する別天地である寺院の境内は、苦境にある人々の避難所(アジール)としての性格を持つようになる。一度寺に駆け込めば、外での事情は一切問われない。犯罪者ですら例外ではなかった。境内は貧富貴賎さまざまな人々が流入し、当時の寺社の文化的先進性と結びついて都市的な発展を遂げる。多くの有力寺社は京都など政治の中枢から遠くない場所にありながら、政治的中立、軍事的不可侵に守られて商工業や金融の拠点として強い経済力を持つようになった。これを「境内都市」(自治都市、宗教都市も参照)という。高野山や根来寺は、典型的な境内都市である。 ===「惣分」と「惣国」=== 当時の僧侶は大別すると二種類に分けられ、仏法を学び修行する学侶と寺の実務を取り行う行人があった。時代が下るにつれて各寺とも行人の力が増大し、戦国時代の時点では寺院の武力はほとんど行人の占める所となり、寺院の動向も行人らの意思に左右されるようになる。紀北の地侍たちは高野山や根来寺に坊院を建立し、子弟を出家させてその坊院の門主に送り込む行為を盛んに行った。根来寺の主だった行人は、泉識坊が土橋氏、杉之坊が津田氏、また成真院が泉南の地侍中氏など、紀伊のみならず和泉・河内・大和の地侍で構成されていた。これら地侍出身の行人たちが「惣分」という会議を構成し、根来寺の方針を決定していた。つまり、実態としては根来寺の看板を借りた地侍の連合による統治だった。地侍らは境内都市根来の富力を背景に和泉南部へと勢力圏を拡大していった。 雑賀では、『昔阿波物語』に「主護(守護)はなく、百姓持に仕りたる国にて候」と記されるほどに守護の影響力は薄かった。地侍たちは一揆の結束を武器に、守護の支配を排して自治を行った。これを「惣国」と呼ぶ。雑賀惣国の範囲は海部郡から名草・那賀郡の一部にまで及んだ。 ==信長の紀州攻め== ===雑賀侵攻=== 赤塚 萱津 村木砦 稲生 浮野 桶狭間 堂洞 河野島 稲葉山城 観音寺 大河内 金ヶ崎 姉川 野田・福島 志賀 比叡山 槇島 一乗谷 小谷城 若江 長島 高屋 長篠 越前 天王寺 第1次木津川口 手取川 紀州征伐 有岡 第2次木津川口 伊賀攻め 甲州征伐 本能寺赤塚萱津村木砦稲生浮野桶狭間堂洞河野島稲葉山城観音寺大河内金ヶ崎姉川野田・福島志賀比叡山槇島一乗谷小谷城若江長島高屋長篠越前天王寺第1次木津川口手取川紀州征伐有岡第2次木津川口伊賀攻め甲州征伐本能寺元亀元年(1570年)に始まった石山合戦は本願寺優勢のうちに進み、織田信長は石山本願寺を攻めあぐねていた。信長は戦局を打開すべく、本願寺の主力となっていた雑賀衆の本拠である紀伊雑賀(現和歌山市を中心とする紀ノ川河口域)に狙いをつける。兵員・物資の補給拠点である雑賀を攻略すれば、大坂の本願寺勢の根を枯らすことができると考えたのである。天正4年(1576年)5月頃から織田方の切り崩し工作が始まり、翌5年(1577年)2月までに雑賀五組のうち社家郷(宮郷)・中郷・南郷のいわゆる雑賀三組を寝返らせることに成功する。 元々雑賀荘には浄土宗西山派の本山である総持寺があり、雑賀衆の中には真宗門徒もいれば、それ以外の宗派を信じる非門徒も多くいた。石山戦争の過程で雑賀衆の中でも本願寺を支援したい真宗門徒と信長に対して反感を持つ一部の非門徒が連携して一向一揆を編成していくのに対し、この動きに反発する非門徒もおり、彼らは雑賀三組を中心に信長と協力して反一向一揆の動きを強めていったとみられる。 ===開戦から「降伏」まで=== 同年2月2日、以前から織田方に加勢していた根来衆に加えて雑賀三組(三緘)の協力も得られることになったため、信長は雑賀の残り二組、雑賀荘・十ヶ郷を攻略すべく大動員をかけた。信長は9日に安土を発して上洛。膝下の近江の兵に加えて嫡男織田信忠率いる尾張・美濃の軍勢、北畠信雄・神戸信孝・織田信包配下の伊勢の軍勢、さらに畿内と越前・若狭・丹後・丹波・播磨の兵も合流して13日に京都を出発した。16日には和泉に入り、翌17日に雑賀衆の前衛拠点がある貝塚を攻撃したが、守備兵は前夜のうちに海路紀伊へ退却していたので空振りに終わった。同日根来衆と合流して18日に佐野、22日には志立(信達・現泉南市)に本陣を移した。 織田勢は山手と浜手の二手にそれぞれ30,000人の兵を投入して侵攻を開始した。その陣容は、山手に根来衆と雑賀三組を先導役として佐久間信盛・羽柴秀吉・堀秀政・荒木村重・別所長治・同重宗、浜手は滝川一益・明智光秀・長岡藤孝・丹羽長秀・筒井順慶・大和衆に加えて織田信忠・北畠信雄・神戸信孝・織田信包である。 浜手の織田勢は淡輪(現岬町)から三手に分かれて孝子峠を越え、雑賀側の防衛線を突破して南下し、中野城を包囲した。2月28日に信長は淡輪に本陣を進め、同日中野城は織田方の誘降工作に応じて開城した。3月1日、織田勢は平井の鈴木孫一の居館(現和歌山市)を攻撃した。 山手の織田勢は信達から風吹峠を越えて根来に進み、紀ノ川を渡って東側から雑賀に迫った。これに対し雑賀衆は雑賀城を本城となし、雑賀川(和歌川)沿いに弥勒寺山城を中心として北に東禅寺山城・上下砦・宇須山砦・中津城、南に甲崎砦・玉津島砦・布引浜の砦を築き、川岸には柵を設けて防衛線を構築した。 日時は特定できないが2月24日以降、山手先鋒の堀秀政勢が雑賀川の渡河を試みた。『紀伊国名所図会・巻之二・雑賀合戦』によれば、雑賀勢はあらかじめ雑賀川の底に逆茂木・桶・壺・槍先を沈めておいて渡河の妨害を図った。織田方が川を渡ろうとすると人馬が足を取られて前進できず、また川を越えた者も湿地帯で動きが鈍っている所に、頭上から25人ずつが二列横隊を組んで間断なく鉄砲で狙い撃ち、さらに弓隊が射立てた。これにより織田方は多大な損害を受けて退却した。 その後、ゲリラ戦に持ち込まれ戦局は膠着状態となったが、鈴木孫一・土橋若大夫・粟村三郎大夫ら7人は連署して誓紙を差し出し、信長が大坂表での事態に配慮を加えることを条件に降伏を誓ったため、3月15日に信長は朱印状を出して赦免した。21日、信長は陣払いして京都へ引き揚げた。 だが、足利義昭や毛利輝元は「織田方は敗北した」と喧伝した。 信長は引き揚げるに当たり、雑賀衆の再起に備えて佐野砦(現泉佐野市)を築かせ、完成後は織田信張を駐留させた。 だが、半年もしないうちに雑賀衆は再び挙兵し、信長と戦うことになる。 ===再起と近隣への報復=== 同年7月、雑賀荘・十ヶ郷の諸士を中心とする雑賀衆が兵を動かし、先に信長に与した三組の衆への報復を始めた。8月16日、井ノ松原(現海南市)において鈴木孫一らの雑賀衆は日高郡の国人・地侍の応援を得て南郷の土豪稲井秀次・岡本弥助らと戦い、これを撃破した。同時期に信長は佐久間信盛父子を大将に70,000 ‐ 80,000人の軍勢を動員して再び雑賀を攻めたが、この時も制圧に失敗した。 翌天正6年(1578年)5月、雑賀荘・十ヶ郷に中郷・南郷の兵も加わって宮郷の太田城を1か月にわたり包囲攻撃(第一次太田城の戦い)したが、落城には至らなかった。宮郷はその後、本願寺に謝罪して赦免を受けている。 ===石山開城後=== 天正8年(1580年)に本願寺が織田信長と和睦してから、雑賀では次第に鈴木孫一と土橋若大夫が対立するようになった。 天正10年(1582年)1月23日、鈴木孫一は土橋若大夫を暗殺した。孫一は事前に信長に連絡して内諾を受けており、織田信張とその配下の和泉衆・根来衆の応援を得て土橋氏の粟村(現和歌山市)の居館を攻めた。土橋派は若大夫の遺児5人を立てて抗戦したが、2月8日には土橋平次・平尉(平丞)兄弟は逃亡、根来寺泉識坊は討ち取られるなど雑賀の内紛は孫一の勝利で決着した。信長の後ろ盾を得た孫一主導の下、雑賀衆は織田信孝の四国攻めに船百艘を提供するなど、織田氏との関係を強めていく。 ===高野攻め=== 高野山は真言宗の本山として比叡山と並ぶ信仰の中心であると共に、全国に散在する寺領の合計は17万石に達する紀伊の一大勢力であった。 高野山と織田信長の関係悪化は、天正初年の大和宇智郡の領有問題に絡むトラブルに始まる。同8年(1580年)閏3月に荒木村重の残党5人が山内に逃げ込み、これを察知した信長は7月に前田利家・不破光治を使者として高野山へ差し向けたが、高野山側はこれを拒否した。8月、堺政所の松井友閑配下の足軽32人が山内に入り、荒木残党の捜索を行ったところ、高野山側によって全員殺害された(高野山側は、足軽達は捜索ではなく乱暴狼藉を働いたため討った、としている)。その報復として信長は9月21日、諸国の高野聖を捕えるよう命じた。 高野山は朝廷に嘆願したり信長にも謝罪の使者を送ったりと和平工作を継続していた。信長も9月21日に宇智郡の領有権を認める朱印状を高野山に与えるなど、直ちに武力行使に踏み切る意思はなかった。だが発端である荒木残党の引き渡しについては最後まで合意に達しなかった。 天正9年(1581年)8月17日、信長は高野聖数百人を安土において処刑した。これを契機に、世間では高野山攻めが行われるという噂が流布するようになる。 ===戦いの有無と規模に関する考察=== 『高野春秋編年輯録』によると、10月2日に堀秀政が根来に着陣したのを皮切りに、総大将・神戸信孝以下、岡田重孝、松山庄五郎らが紀ノ川筋に布陣、大和口には筒井順慶・定次父子を配し、高野七口を塞いで総勢137,220余人に達したとされる。これに対し、高野山側は領内の僧兵や地侍に諸国の浪人を加え、合計36,000余の軍勢を集めたとする。 しかしながら、当時なお多方面に敵を抱えていた織田氏がそれだけの兵力を高野山に投入することができたのかという疑問、また大軍に比してそれを指揮する武将の格が低すぎること、名を挙げられている人物には明らかに当時他方面で働いている者が含まれていることから、『高野春秋』の記す合戦規模については疑問符をつけざるを得ない。とはいえ、高野攻め自体については各種史料に残る断片的な情報から、虚構とも言いきれない。高野山側の記録よりもかなり小規模な形で戦いがあったとも考えられる。この項目では、基本的に戦いが実在したものとして扱う。 ===戦闘経過=== 高野山側は伊都・那賀・有田郡の領内の武士を総動員し、軍師橋口隼人を中心に「高野七砦」をはじめとする多数の砦を築いた。そして西の麻生津口と北の学文路口を特に重視して、麻生津口に南蓮上院弁仙(遊佐信教の子)、学文路口に花王院快応(畠山昭高の子)を大将として配置した。また学侶方の老練の僧が交替で護摩を焚き、信長降伏の祈祷を行った。 天正9年10月、織田勢は紀ノ川北岸一帯に布陣し、総大将織田信孝は鉢伏山(背山)城(現かつらぎ町)に本陣を構えた。根来衆も織田方として動員された。織田勢と高野勢は紀ノ川を挟んで対峙する形になったが、なお交渉は継続しており、同年中は目立った戦いはなかった。 天正10年(1582年)1月、信長は松山新介を多和(現・橋本市)に派遣する。松山は多和に築城し、2月初頭には盛んに九度山方面へ攻撃を仕掛けた。同月9日、信長は武田攻めに当たって筒井順慶以下大和衆に出陣を促した。同時に、大和衆の一部と河内衆は残留して高野山の抑えとなるよう命じた。14日、高野勢は多和城並びに筒井勢の守る大和口の砦を攻撃。同月末、織田方の岡田重孝らが学文路口の西尾山の砦を攻めたが部将2人を失って撃退される。 3月3日、高野勢50余人が多和城を夜襲して損害を与えた。10日早朝、織田勢は夜襲の報復として寺尾壇の砦を攻撃、城将医王院が討死するも寄手の損害も大きく撃退された。4月初め、織田信孝は四国攻めの大将に任命されたため転任。同月、織田方の竹田藤内らが麻生津口の飯盛山城(現紀の川市)を攻撃した。高野勢は大将南蓮上院弁仙と副将橋口隼人らがこれを防ぎ、竹田ら四将を討ち取り甲首131を挙げる勝利を得た。 6月2日夕刻に至って、高野山に本能寺の変の情報が届く。まもなく寄手は撤退を開始し、高野勢はこれを追撃し勝利した。高野山は危機を脱し、8月21日には恩賞が行われた。 ==秀吉の紀州攻め== 中国役 三木 備中高松城 山崎 賤ヶ岳 小牧・長久手 紀州役 四国役 富山 九州役 戸次川 根白坂 肥後国人一揆 小田原陣 葛西大崎一揆 九戸の乱 梅北一揆 文禄・慶長の役中国役三木備中高松城山崎賤ヶ岳小牧・長久手紀州役四国役富山九州役戸次川根白坂肥後国人一揆小田原陣葛西大崎一揆九戸の乱梅北一揆文禄・慶長の役根来寺は室町時代においては幕府の保護を背景に紀伊・和泉に八か所の荘園を領有し、経済力・武力の両面において強力であった。戦国時代に入ると紀北から河内・和泉南部に至る勢力圏を保持し、寺院城郭を構えてその実力は最盛期を迎えていた。天正3年(1575年)頃の寺内には少なくとも450以上の坊院があり、僧侶など5,000人以上が居住していたとみられる。また根来衆と通称される強力な僧兵武力を擁し、大量の鉄砲を装備していた。根来寺は信長に対しては一貫して協力しており友好を保っていたが、羽柴秀吉と徳川家康・織田信雄の戦いにおいて留守の岸和田城を襲うなどしたほか、大坂への侵攻の動きも見せていたため、秀吉に強く警戒されており、秀吉側は根来寺を攻略する機会を伺っていた。 本能寺の変は雑賀衆内部の力関係も一変させた。天正10年6月3日朝に堺経由で情報がもたらされると、親織田派として幅を利かせていた鈴木孫一はその夜のうちに雑賀から逃亡し、4日早朝には反織田派が蜂起して孫一の館に放火し、さらに残る孫一の与党を攻撃した。 以後雑賀は旧反織田派の土橋氏らによって主導されることとなった。土橋氏は根来寺に泉識坊を建立して一族を送り込んでいた縁もあり、根来寺との協力関係を強めた。また織田氏との戦いでは敵対した宮郷などとも関係を修復し、それまで領土の境界線などをめぐり関係の際どかった根来・雑賀の協力関係が生まれた。 ===前哨戦=== 天正11年(1583年)、秀吉は蜂屋頼隆を近江に転出させて中村一氏を岸和田城に入れ、紀伊に対する備えとした。一氏の直属兵力は3,000人ほどで、紀州勢と対峙するには十分でなかった。そのため和泉衆をその与力として付け、合わせて5,000人弱の兵力を編成した。これに対抗して根来・雑賀衆は中村・沢・田中・積善寺・千石堀(いずれも現貝塚市)に付城を築く。以後、岸和田勢と紀州勢との間で小競り合いが頻発するようになった。根来・雑賀衆は畠山貞政を名目上の盟主に立て、さらに紀南の湯河氏の支援も受けた。 同年7月、顕如は鷺森から貝塚に移った。 同年秋頃から紀州勢の動きが活発になる。10月、一氏は兵力で劣るために正面からの戦いを避け、夜襲で対抗するよう指示を出した。同12年(1584年)1月1日、年明け早々に紀州勢が朝駆けを行う。3日、今度は岸和田勢が紀州側の五か所の付城を攻め、これを守る泉南の地侍らと激戦となった。16日、紀州勢が来援し、五城の城兵と合わせて8,000人の兵力となり、岸和田を衝こうとした。岸和田勢は6,000人の軍勢で対抗し、近木川で迎撃して紀州勢を退けた。 ===大坂襲撃=== 同年3月、根来・雑賀衆及び粉河寺衆徒は日高郡の湯河・玉置氏の加勢を得て和泉へ出撃。さらに淡路の菅達長の水軍も加わり、18日には水陸から岸和田・大津を脅かした。大津の地侍真鍋貞成は菅水軍の200艘1,000人を撃退した。 21日、秀吉は尾張に向けて出陣。翌22日、紀州勢は二手に分かれ、一手は土橋平丞兄弟を将として4,000 ‐ 5,000人で岸和田城を攻撃した。もう一手は堺を占領して堺政所・松井友閑を追い払い、さらに26日には住吉や天王寺に進出して大坂城留守居の蜂須賀家政・生駒親正・黒田長政らと戦った。未だ建設途上の大坂の町は全く無防備で、紀州勢は大坂の街を破壊し焼き払いつつ侵攻した。また盗賊が跋扈し略奪が横行し、その治安の悪化は安土炎上時に匹敵したという。最終的には大坂は守られ、紀州勢は堺・岸和田からも撤退した。この戦いを岸和田合戦という。 この攻勢は秀吉が小牧・長久手の戦いに出陣しようとした矢先に行われ、秀吉は一度は予定通り21日に大坂を出立したもののその後また大坂に戻るなど出鼻を挫かれることになった。その後も4月には保田安政が河内見山(錦部郡)に進出し、8月には見山城を築いて活動拠点とした。またこの時期、根来・雑賀衆は四国の長宗我部氏とも連絡を取り合っていた。 ===和泉の戦い=== 天正13年(1585年)2月、秀吉は小早川隆景に対し、毛利水軍を岸和田に派遣するよう命じた。これを受けて、隆景は3月1日に自ら出発の準備を行い、まもなく隆景率いる毛利水軍が出陣してきた。 3月9日、秀吉は貝塚寺内に対し禁制を発行して安全を保障した。同日、秀吉正室の侍女孝蔵主を貝塚本願寺へ派遣し、親睦を深めた。 同月上旬、秀吉は木食応其を使者として根来寺に派遣し、応其は拡大した寺領の一部返還を条件に和睦を斡旋した。斡旋案に対し根来衆の間では賛否分かれたが、反対派は夜中に応其の宿舎に鉄砲を撃ちかけ、このため応其は急いで京都に帰還した。 ついに秀吉による紀伊侵攻が開始された。上方勢は秀吉自ら指揮する100,000人、先陣は甥の羽柴秀次、浦手・山手の二手に分かれて23段に布陣した。さらに多数の軍船を揃えて小西行長を水軍の将とし、海陸両面から根来・雑賀を攻めた。これに対し根来・雑賀衆は沢・積善寺・畠中・千石堀などの泉南諸城に合計9,000余人の兵を配置して迎撃した。 3月20日、先陣の秀次勢は大坂を発し、貝塚に到着。21日、秀吉は大坂を出陣し、岸和田城に入る。同日、先陣諸勢は泉南城砦群に接近したが、既に昼を過ぎていたことから即日攻撃か翌日に延期するかで議論になった。中村一氏が「これだけの兵力差があるのに攻撃を延期するのは他国への印象が悪い」と即時開戦を主張したため、直ちに戦端が開かれた。 ===千石堀城攻防戦=== この時の戦いの様子は千石堀城の戦いも参照。まず防衛線の東端にあたる千石堀城で攻防が始まった。千石堀城に籠るのは城将大谷左大仁以下根来衆の精鋭1,400 ‐ 1,500人、他に婦女子など非戦闘員が4,000 ‐ 5,000人加わっていたとされる。攻める上方勢は羽柴秀次を主将に堀秀政・筒井定次・長谷川秀一の諸将だった。 筒井・長谷川・堀勢ら15,000人が進撃すると、城兵500余人が討って出て横合いから弓・鉄砲で奇襲を仕掛けた。「城内より鉄砲を放つこと、平砂に胡麻を蒔くがごとし」という猛烈な射撃により、上方勢は多数の死傷者を出した。筒井勢などは傘下の大和衆・伊賀衆を合わせて8,000人で戦闘に臨んだが、城兵の銃撃の前に進撃を阻まれた。 味方の苦戦を見て、羽柴秀次は千石堀城がにわか造りゆえに防備は十分でないと推測し、田中吉政・渡瀬繁詮ら直属の将兵3,000余人を側面から城に突撃させた。しかしこれも城方の弓・鉄砲の反撃にあって多数の討死を出す。秀次は自身の馬廻も投入して二の丸に突入させ、城兵300余人を討ち取ってさらに本丸を攻めるが、またしても城兵の弓・鉄砲により阻まれた。一連の攻防により、秀次勢の死傷者はわずか半時(約1時間)の間に1,000余人に達したという。 この時、筒井勢のうち中坊秀行と伊賀衆が搦手に迂回して城に接近し、城内へ火矢を射込んだ。この火矢が城内の煙硝蔵に引火爆発したため城は炎上、これが致命傷となり落城した。城内の人間は焼け死に、討って出た城兵はことごとく戦死した。秀吉は人も動物も皆殺しにするよう厳命し、城内にいた者は非戦闘員はおろか馬や犬猫に至るまで全滅した。 ===積善寺・沢城の開城=== 畠中城では、日根郡の地侍・農民らからなる城兵と中村一氏が対戦した。千石堀城が陥落した21日夜、城兵は城を自焼して退却した。 同じ日の夕刻、防衛線の中核たる積善寺城でも戦闘が始まった。井出原右近(出原右近)・山田蓮池坊らの指揮する根来衆からなる城兵に対し、細川忠興・大谷吉継・蒲生賦秀・池田輝政らが攻撃を担当した。城兵は石・弓・鉄砲を放ちながら討って出て、寄手の先鋒細川勢と激戦を繰り広げた。細川勢の犠牲は大きかったが、蒲生勢も戦線に加わり松井康之を先頭に攻撃して城兵は城内に引き籠った。翌22日、貝塚御坊の住職卜半斎了珍の仲介により積善寺城は開城した。 西端の沢城でも戦いが始まっていた。城を守る雑賀衆を攻めるのは高山重友・中川秀政の両勢である。ここでも押し寄せる上方勢に城兵の鉄砲という図式は変わらず、寄手の負傷者は多数に上った。中川秀政は自ら陣頭に立って攻城に当たり、二の丸を破って本丸に迫った。本丸に追い詰められた城兵は投降を申し出、秀吉の許可の元に羽柴秀長が誓詞を入れ、23日に開城した。 沢城の開城により和泉の紀州側城砦群は全て陥落した。 ===根来・雑賀衆の敗因=== 根来・雑賀の鉄砲衆は、その質量両面において戦国時代随一の鉄砲隊だったと言ってよい。だが、彼らが守りを固めていた和泉の前衛城砦群は、上方勢の攻撃開始から3日間で崩壊した。これは紀州側にとって完全に見込み違いの結果だった。 戦うたびに大きな犠牲を払うような不経済なことは極力避けたいというのが戦国大名の心理であった。ゆえに戦闘において前衛が大損害を被れば、それ以上無理押しをしないのが彼らの一般的な対応だった。そのため、根来・雑賀衆は、相手がどれほどの大軍であっても、先陣を切って攻めてくる敵の精鋭さえ撃ち倒してしまえばそれで敵を退けることができると考えていたと思われる。 だが、この時点で既に他大名を圧倒する国力と兵力を有していた秀吉は、兵力の損耗をさほど重んじなかったため、根来・雑賀衆側の思惑が外れた、との見方がある。。 ===根来・粉河・雑賀炎上=== 3月23日、和泉を制圧したのを見届けて秀吉は岸和田城を発し、根来寺に向かう。根来衆の主要兵力は和泉の戦線に出払っていて、寺には戦闘に耐えうる者はほとんどいなかった。残っていた僧侶は逃亡し、根来寺はほぼ無抵抗で制圧された。その夜根来寺は出火して炎上し、本堂、多宝塔(大塔)や南大門など一部を残して灰燼に帰した。根来寺は3日間燃え続け、空が赤く輝く様子が当時貝塚にあった本願寺から見えたという。根来寺炎上の原因については、根来側による自焼説、秀吉による焼き討ち説と兵士による命令によらない放火または失火説がある。 同日、もしくは翌24日には粉河寺が炎上した。 少しさかのぼって22日、有田郡の国人白樫氏に誘われて上方勢に寝返った雑賀荘の岡衆が同じ雑賀の湊衆を銃撃し、雑賀は大混乱に陥った。同日土橋平丞は長宗我部元親を頼って船で土佐へ逃亡し、湊衆も船で脱出しようとしたが、人が乗りすぎて沈没する船が出るなどして大勢の死者が出た。翌23日に上方勢の先鋒が雑賀荘に侵入し、24日には根来を発した秀吉も紀ノ川北岸を西進して雑賀に入った。同日、上方勢は粟村の土橋氏居館を包囲した。また上方勢は湊・中之島一円に放火し、他の地域もおおむね半分から三分の二は焼亡したが、鷺森寺内及び岡・宇治は無事だった。こうして雑賀荘は「雑賀も内輪散々に成て自滅」と評される最期を遂げた。 そんな中、25日には秀吉は紀三井寺に参詣する。 ===紀南の制圧=== 雑賀衆残党が太田城に籠城し、上方勢の本隊は太田城攻めに当たった。その一方で仙石秀久・中村一氏・小西行長らを別働隊として紀南へ派遣し、平定に当たらせた。 上方勢の紀州攻めを前に、紀南の国人衆の対応は分かれた。日高郡を中心に大きな勢力を持っていた湯河直春は抗戦を主張したが、有田郡では神保・白樫氏が、日高郡では直春の娘婿玉置直和(和佐玉置氏)が湯河氏と袂を分かって上方勢に帰順した。このため湯河直春はまず白樫氏と名島表(現広川町)で戦い、続いて玉置氏の手取城(現日高川町)を攻囲した(坂ノ瀬合戦)。 有田郡は紀伊守護の家格を持つ畠山政尚・貞政父子の本拠である。畠山氏は実権はないものの、秀吉との抗争に当たっては根来・雑賀衆に名目上の盟主として担がれており、上方勢の攻撃対象になった。そして畠山被官の白樫・神保氏は前述の通り上方勢に寝返った。3月23日以降25日以前に、上方勢は畠山氏の支城鳥屋城(現有田川町)を攻め落とし、さらに本拠の岩室城(現有田市)も陥落して畠山貞政は敗走した。 日高郡でも3月23、24日頃には上方勢が来襲し、湯河領に侵攻した。直春は防ぎ難いとみて小松原の居館も亀山城(いずれも現御坊市)も自焼して逃れ、伯父の湯河教春の守る泊城(現田辺市)へ後退した。しかし泊城にも仙石秀久・杉若無心が攻め寄せ、28日までには城を捨てて退却し、龍神山城(現田辺市)を経て熊野へと向かった。田辺に入ってきた上方勢3,000余人は同地の神社仏閣をことごとく焼き払い、その所領を没収した。 牟婁郡(熊野地方)では、口熊野の山本氏が湯河氏に同調して徹底抗戦した。上方勢は泊城占領後に二手に分かれ、杉若無心はおよそ1,000人を率いて山本康忠の籠る龍松山(市ノ瀬)城(現上富田町)に向かい、仙石秀久・尾藤知宣・藤堂高虎は1,500人の兵で湯河勢を追った。 4月1日、仙石ら三将は潮見峠(田辺市中辺路町)において湯河勢の反撃を受け、退却した。同じ頃、杉若勢も三宝寺河原(現上富田町)で山本勢に敗れ、討伐戦は頓挫する。だが湯河・山本勢にも上方勢を駆逐するほどの力はなく、この方面の戦いは長期化することになった。 一方奥熊野では、新宮の堀内氏善が4月13日以前には降伏したのを筆頭に、高河原・小山・色川氏らはいずれも上方勢に帰順し、それぞれ本領安堵された。また口熊野でも安宅氏は帰順した。 ===高野山降伏=== 4月10日、秀吉は高野山に使者を派遣して降伏を勧め、これまでに拡大した領地の大半を返上すること、武装の禁止、謀反人を山内に匿うことの禁止などの条件を呑まねば全山焼き討ちすると威嚇した。高野山の僧侶たちは評定の結果条件を全面的に受け入れることに決し、16日に客僧の木食応其を使者に立てた。応其は高野重宝の嵯峨天皇の宸翰と空海手印の文書を携え、宮郷に在陣中の秀吉と面会した。応其の弁明を秀吉は受け入れ、高野山の存続が保証された。その後、10月23日までには高野山の武装解除が完了した。 この結果高野山は滅亡を免れ、太閤検地終了後の天正19年(1591年)に1万石の所領を安堵された。また木食応其個人に1,000石が与えられた。同20年(1592年)、大政所追善に当たって剃髪寺(のち青巌寺、現在の金剛峯寺)を建立した際に秀吉から1万石寄進されたため計2万1000石となり、江戸時代もこれが寺領として確定する。 ===太田城水攻め=== 雑賀荘は上方勢により占領されたが、太田左近宗正を大将になおも地侍ら5,000人が日前国懸神宮にほど近い宮郷の太田城に籠城した。3月25日、中村一氏・鈴木孫一が城を訪れ降伏勧告を行ったが、城方は拒否した。 ===小雑賀の戦闘=== 太田城以外にも、雑賀では複数の城が抵抗を続けていた。佐武伊賀守は的場源四郎と共に小雑賀の城に籠城し、32日間にわたって守り抜き、太田城開城後に続いて開城したという。 ===太田城攻防戦=== この時の戦いの様子は第二次太田城の戦いも参照。太田城はフロイスが「一つの市の如きもの」と表現したように、単なる軍事拠点ではなく町の周囲に水路を巡らした環濠集落である。この城を秀吉は当初兵糧攻めで攻略する予定だったが、兵糧攻めでは時間がかかりすぎるために水攻めに変更した。強攻ではなく持久戦を選択した理由として、兵力の損耗を防ぐこともさることながら、犠牲が増えることによって苦戦の印象が広まるのを回避するためだったと思われる。これに先立つ和泉千石堀城の戦いでは、城の煙硝蔵が爆発したために1日で攻略できたものの攻城側にも多大な犠牲が出ており、太田城でその二の舞を演じることを恐れたと考えられる。 また一面では、本来太田城を守る存在であった水を使って城を攻めることで、水をも支配する自らの権力を誇示しようとしたとも考えられる。水攻め堤防は全長7.2km、高さ7mに及んだ。 上方勢は秀吉自身を総大将、秀長と秀次を副将として、その下に細川忠興・蒲生賦秀・中川秀政・増田長盛・筒井定次・宇喜多秀家・長谷川秀一・蜂須賀正勝・前野長泰などの編成だった。3月28日から築堤が開始された。この築堤工事の途中、甲賀衆の担当部分が崩れたため、甲賀衆が改易流罪となり、山中大和守重友は所領を没収された。4月5日までには完成し、注水が始まる。一方城の北東には以前から治水及び防御施設として堤(以下これを横堤と呼ぶ)が築かれており、籠城が始まると城方によってさらに補強された。横堤の存在によって城内への浸水は防がれた。 4月8日、横堤が切れて城内へ浸水し、城方を混乱に陥れた。ところが横堤が切れたために水圧に変化が生じたことで、翌9日には逆に水攻め堤防の一部が切れ、寄手の宇喜多秀家勢に多数の溺死者が出た。籠城側はこれを神威とみなした。攻城側は直ちに堤防の修復にかかり、13日までには修理を完了させた。17日に織田信雄、18日に徳川義伊と石川数正が雑賀を訪れる。 秀吉は当初、水攻めが始まれば数日で降伏させられると考えていた。しかし一度破堤したことで籠城側は神威を信じ、粘り強く抵抗していた。4月21日、攻城側は一気に決着をつけるべく、小西行長の水軍を堤防内に導く。安宅船や大砲も動員してのこの攻撃で、一時は城域の大半を占拠した。だが城兵も鉄砲によって防戦し、寄手の損害も大きく撤退した。攻略には至らなかったがこの攻撃で籠城側は抗戦を断念し、翌22日、主だった者53人の首を差し出して降伏した。53人の首は大坂天王寺の阿倍野でさらされた。また主な者の妻23人を磔にかけた。その他の雑兵・農民らは赦免され退城を許された。 秀吉は降伏して城を出た農民に対し、農具や家財などの在所への持ち帰りを認めたが、武器は没収した。これは兵農分離を意図した史料上初めて確認できる刀狩令と言われる。宮郷の精神的支柱だった日前宮は社殿を破却され、社領を没収された。 ===戦後=== 日高・牟婁郡の一部では依然抵抗が続いていたが、その他の地域はおおむね上方勢により制圧された。紀伊平定後、秀吉は国中の百姓の刀狩を命じる。紀伊一国は羽柴秀長領となり、秀長は紀伊湊に吉川平介、日高入山に青木一矩、粉河に藤堂高虎、田辺に杉若無心、新宮に堀内氏善を配置した。また藤堂高虎を奉行として和歌山城を築城し、その城代に桑山重晴を任じた。秀長による天正検地は天正13年閏8月から始まり、翌々年の同15年(1587年)秋以降に本格化する。 ===和議と直春の死=== 4月末、湯河直春は反攻に転じたため、これに対応するため四国征伐軍の一部が割かれ紀伊に差し向けられた。9月24日、榎峠の合戦で湯河勢は敗れて山中へ引き籠った。だが同月末には再度攻勢に出て、討伐に当たった杉若無心・桑山重晴・美藤(尾藤)下野守らは苦戦を強いられた。結局上方勢は湯河氏らを攻め滅ぼすことはできず、和議を結び湯河氏らの本領を安堵した。 翌天正14年(1586年)、湯河直春は死去した。直春の死については毒殺説と病死説がある。 ===国人衆その後=== 湯河氏は直春の子湯河光春(勝春)が3,000石を安堵された一方で、山本・貴志・目良・山地玉置氏は没落した。神保・白樫氏ら早期に降った者は所領を安堵されたが、和佐玉置氏は1万石と伝えられる所領のうち、安堵されたのは3,500石だった。 生き残った熊野の諸将はおおむね堀内氏に統括されたが、色川氏などは堀内氏との因縁からその指揮下に入ることを嫌い、朝鮮出兵の際には藤堂氏の指揮下に入った。 天正19年(1591年)に秀長が没すると、養子の秀保が後を継いだが、秀保は文禄4年(1595年)に急死した。以降の紀伊は秀吉の直轄地となり、大和郡山城主の増田長盛が代官として支配を行った。 ===紀伊国一揆=== この戦いで紀伊の寺社・国人勢力はほぼ屈服・滅亡させられたが、各地の地侍はその後も蜂起を繰り返した。守護の支配さえ名目に過ぎなかったのが豊臣秀長領、次いで秀吉直轄領となり、天正検地や刀狩が行われた。次の浅野氏の統治下でも慶長検地が行われ、地侍たちは財産を削られるだけでなく社会的地位まで否定された。こうした急速な近世的支配に対する反動が土豪一揆という形で噴出した。 天正14年8月、熊野から日高郡山地郷(現田辺市龍神村)にかけての山間部で一揆が起こり、吉川平介らによって鎮圧された。慶長3年(1598年)9月、前月の秀吉の死に乗じて再び日高郡山地郷で一揆が起こり、増田長盛の指揮のもと堀内・杉若氏ら日高・牟婁郡の諸将によって老若男女の別なく撫で斬りにするといった弾圧の末に鎮圧された。 慶長19年(1614年)12月、大坂冬の陣に乗じて奥熊野の地侍・山伏らが蜂起し、新宮城を攻撃した。一揆勢は熊野川で敗退し、浅野勢の奥熊野侵攻によって20日足らずで鎮圧された(北山一揆)。この一揆で363人が処刑された。翌20年(1615年)4月、大坂夏の陣の勃発に伴い、日高・有田・名草の地侍が浅野長晟が留守の和歌山城を狙って蜂起したが、再度鎮圧された。処刑者は443人に上った。浅野側はこの2回の一揆を紀伊国一揆と称した。紀伊国一揆の敗北によって、土着勢力の抵抗は終息した。 表話編歴 ==中世と近世(意義)== 紀州征伐はその範囲は和泉・紀伊の二カ国にすぎないが、この一連の戦いでは中世と近世とを分けるいくつかの重要な争点が存在した。 ===「無縁」の否定=== 比叡山や高野山は寺社の中でも最高級の格を持ち、その中立性と不可侵性は中世を通じて尊重された。またその独立性は、権力者の介入を退けるだけの経済力と軍事力によって裏打ちされたものであった。一度境内に入ってしまえば、外の事情は一切考慮しない、誰でも受け入れる。ゆえに権力者が寺内で権力を振りかざすことも認めない ―― このような寺社の思想を伊藤正敏は「無縁」と呼ぶ。 織田信長は、寺社の「無縁」性が敵対者の盾となることを嫌った。比叡山に対する浅井・朝倉軍の退去要求、高野山に対する荒木残党引き渡し要求など、信長は敵方の人間を受け入れないよう寺社に対し要求した。これは外部に対する独立・中立性の放棄であり、無縁の思想からすれば受け入れられないものだった。こうして比叡山焼き討ち・高野攻めへとつながり、比叡山は滅び高野山は信長の横死によって命拾いした。 羽柴秀吉も、寺社に対する姿勢は信長ほど苛烈では無かったものの、基本的には信長の態度を受け継いだ。高野山降伏後に秀吉は、謀反人や犯罪者を匿うことを禁止する、受け入れていいのは世捨て人だけだと告げた。天下人が全てを掌握し管理する近世中央集権体制にとって、権力の介入をはねのける寺社勢力の思想は相容れないものだった。もっとも、この時代以前にも、例えば平清盛は朝廷より比叡山攻めを命じられており、また南北朝の争いにおいては比叡山は南朝方を支援するなどしている。不可侵性が犯されたり、非中立的に外部権力との関わりをもったりしたのは、戦国時代が初めてというわけではない。 ===一揆と地侍=== 戦国時代後半の社会は、二つの相反する可能性を示唆していた。一つは信長・秀吉の天下統一事業に代表される、強大な権力者を頂点とする中央集権体制、いわば「タテの支配」である。そしてもう一方に、加賀一向一揆や紀伊雑賀などの惣国一揆を代表とする大名の支配を排した地域自治体制、いわば「ヨコの連帯」があった。両者は相容れないものであり、信長・秀吉が天下統一を達成するためには、どうしてもこれら惣国一揆を屈服させなければならなかった。信長によって加賀一向一揆は潰滅したが、雑賀惣国や根来衆は未だ健在であり、秀吉はこれに対する敵意を隠さなかった。 太田城の開城に伴い死を与えられた者たちは、一揆の主導層である地侍である。続いて行われた検地・刀狩も、その目的には兵農分離、すなわち体制の一部として天下人に従う武士と、単なる被支配者である農民とに国人・地侍を分離し、解体することが含まれていた。その後の武士は、知行地を与えられてもその土地と私的な関係を結ぶことは許されなくなり、惣国一揆が再び芽生えることはなかった。やがてこうした体制は、徳川政権の時代に入ると士農工商による強い身分制度や藩制度などへと強化された。 ===刀狩=== 寺社勢力や惣国一揆を存立せしめたのは、彼ら独自の軍事力による所が大きい。これらを解体するためには、寺社や地侍、そして農民をも武装解除することが必要だった。秀吉は太田開城時に指導層の地侍を処断する一方、一般農民は退城を許したが、この時農民の武装解除を命じた。この武装解除命令は、後年の全国の刀狩の嚆矢として原刀狩令と呼ばれる。次いで2ヶ月後の天正13年6月、紀州惣国及び高野山に刀狩令が発せられる。武装解除させられた高野山にもはや権力の介入を拒む術はなく、寺社の中立・独立性は否定された。そして天正16年(1588年)7月8日、全国に刀狩令が発せられた。 ===結語=== 海津一朗は「太田の決戦は、中世を象徴する宗教的な民衆武力と、兵農分離の近世秩序が、真正面から戦いあった日本史上のクライマックス」であり、「紀州は「秀吉の平和」、すなわち日本の近世社会の発祥の地であり、それに抵抗した中世終焉の地だったことになる」と述べている。ここに寺社勢力は消滅し、惣国一揆は潰え、武家による一元支配の近世が始まる。 =自由海論= 『自由海論』(じゆうかいろん、ラテン語: Mare Liberum)は、フーゴー・グロティウスによってラテン語で書かれ1609年に初版が刊行された本。『海洋自由論』、『海洋の自由』と翻訳されることもある。正確な題名は『自由海論、インド貿易に関してオランダに帰属する権利について』(Mare Liberum, sive de jure quod Batavis competit ad Indicana commercia dissertatio)という。『戦争と平和の法』(ラテン語:De jure belli ac pacis)と並び「国際法の父」といわれるグロティウスが著わした代表的な法学書のひとつである。母国オランダの立場を擁護する観点から海洋の自由を論じ、それを論拠としてすべての人が東インドとの通商に参加する権利を有するとして、オランダは東インドとの通商を継続すべきであることを主張した。『捕獲法論』(ラテン語:De jure praedae)がグロティウスの死後の1864年に発見されたことにより、この『自由海論』は『捕獲法論』の第12章として書かれたものに修正を加えたものであったことが明らかになった。『自由海論』は学術的論争の発端となり、その後の近代的な海洋法秩序形成を促すこととなった。現代の公海に関する制度にはこの『自由海論』で論じられた理論に起源をもつものもある。 ==出版の経緯== ===『捕獲法論』執筆=== グロティウスが『捕獲法論』を執筆したのは1604年秋から1605年春の間、グロティウスが22歳のころで、改訂作業まで含めると執筆のすべてが終わったのは1606年秋のころといわれる。執筆のきっかけは1603年2月25日にアムステルダムの船主組合で商船隊を指揮していたヘームスケルク提督(グロティウスの父方の祖母の弟)がマラッカ海峡でポルトガルの商船カタリナ号を捕獲した事件であった。この事件に関してオランダの海事裁判所で裁判が行われ、1604年9月9日に船主組合と合併した東インド会社に有利な判決が下され、捕獲によって得た品々を東インド会社が合法的に没収することができることが認められた。しかしこのような強引な手段によって利益を受けることはキリスト教の教えに反するとして東インド会社の一部の者たちはこの捕獲によって利益を受けることを拒み、そのなかには会社を脱退したり新たに会社を立ち上げる計画を立てる者もあらわれるなど、このとき東インド会社は混乱に陥った。現在では裁判の資料が焼失しているために確証はないが、当時グロティウスがアムステルダムで弁護士をしていたこと、グロティウス自身が東インド会社と密接な関係にあることを書簡の中で述べていたこと、執筆にあたってグロティウスが東インド会社の資料を利用していること、以上の理由から、グロティウスが『捕獲法論』を執筆したのは、こうした混乱の中で東インド会社からこのカタリナ号捕獲の正当性を論証し同社の立場を弁護することを要請されたためといわれている。 ===『自由海論』出版=== グロティウスがこの『捕獲法論』第12章をもとにして『自由海論』を著わそうという考えに至ったのは1608年11月のことであったといわれる。オランダのスペインに対する独立戦争の和平交渉が1607年からはじめられたが、スペインは当時密接な関係にあったポルトガルの立場を支持してオランダが東インド通商に参加することに難色を示した、スペインはオランダ独立を承認する代わりに東インド会社のアジアから撤退することを要求した。これに対し東インド会社はオランダがスペインに譲歩することを嫌い、オランダ国内の世論に東インドとの交易の必要性を訴えるためにグロティウスに要請し、グロティウスが著わしたのが『自由海論』であったといわれる。なぜグロティウスは『自由海論』のみを出版し『捕獲法論』を未刊のままとしたのかについては定かではなく様々な憶測があるが、九州大学法学部教授伊藤不二男は東インド会社の活動がオランダ国民に大きな利益をもたらすことが明らかとなって会社に対する批判が少なくなったために、もともと会社を擁護するために書かれた『捕獲法論』を刊行する必要がなくなったからではないかと指摘する。あるいは同じく九州大学教授の柳原正治は、スペインからの東インド貿易放棄の提案に対し英仏が明確に反対の意を表さなかったことから、交渉の実質的責任者でありグロティウスの上司でもあったヨハン・ファン・オルデンバルネフェルトが政治的理由から航行や交易の自由を真正面から論じた『捕獲法論』の出版をこころよく思わず、グロティウスもオルデンバルネフェルトの許可なしには出版することができなかったのではないかと指摘する。しかし『捕獲法論』未刊の理由に関しては確定的な資料はない。『自由海論』の初版は匿名で出版され、グロティウスの名が記されるようになったのは1614年のオランダ語訳において、ラテン語のものでは1618年に出版された第2版のことであった。『自由海論』を匿名で出版した理由について、グロティウスは1613年から1616年にかけて執筆した『ウィリアム・ウェルウッドによって反論された自由海論第5章の弁明』(Defensio Capitis Quinti Maris Liberi Oppugnati a Guilielmo Welwod)のなかで、他人の評価を探り、そして反論された際にはその反論についてもっと正確に考察することが自らにとって安全であるからと述べている。 ===『捕獲法論』発見=== グロティウス死後の1864年、グロティウスの子孫コロネー・ドゥ・フロート家においてグロティウスの原稿がみつかり、同家の依頼でこの原稿がオランダの書店マルティヌス・ナイホフで競売にかけられた。このなかに「未刊の自筆の原稿。第12章の一部だけが、自由海論の表題で1609年に公刊された。」という目録が付された全280頁の原稿が発見された。これが 『捕獲法論』である。このときまで『自由海論』ははじめから独立した著書として書かれたものであると信じられていた。この『捕獲法論』の原稿はライデン大学法学部が落札し1868年に公刊された。#『捕獲法論』第12章との比較も参照。 ==内容== 『自由海論』は、初版においては全体で80頁弱、序の章を除くと66頁程度、全13章からなる。各章は以下の通り。 ===構成=== 序文では、海洋に関する問題解決のため、普遍的人類社会の思想を説き、キリスト教世界に対し問題の審議を求めている。この問題とはスペインとオランダの間で争われている、一国が大洋を領有できるのか、他国民同士の通商や交通を禁止することができるのか、他人の物を他人に与えることができるのか、他人の物を発見したという理由で取得することができるのか、という論争であるとしている。そしてこの問題は、普遍的人類社会の法である万民法によって解決されなければならないとしている。この序文は『自由海論』のもととなった『捕獲法論』第12章にはなかったもので、『自由海論』に初めて書かれたものであった。そして本文ではふたつの命題を示し、以下のように『自由海論』はこのふたつの命題を論証する内容構成となっている。 上記のように、この『自由海論』は”Mare Liberum”(これを日本語に正確に直訳すると「自由海」)という表題となっているにもかかわらず、主に説かれているのは通商の自由であり、海洋の自由については通商の自由を論証するための根拠として一部に述べられているにしか過ぎない。つまり全体としては、万民法により東インドとの通商がすべての人に自由であるために、オランダ人もまたその通商に参加する権利を有している、という論旨であり、オランダや東インド会社のプロパガンダとしての側面も大きい。グロティウス自身も出版から28年後の1637年に、『自由海論』は母国愛に基づいて執筆された若いころの著作だと振り返っている。 ===航行の自由=== ひとつ目の命題である航行の自由は、支配権の否認、そして海洋の自由の2点にわけて論じられている。ポルトガル人は発見によっても、教皇の贈与によっても、戦争によっても、東インドの支配権を取得したことはないし(支配権否認)、発見によっても、教皇の贈与によっても、時効や慣習によっても、東インドへとつながる航路の独占を主張できない(海洋の自由)、という論旨である。 ===支配権否認=== グロティウスは次のように述べて東インドに対するポルトガル人の支配権を否認した。支配するためには所有が必要であるが、ポルトガル人は東インドを所有や領有したことはない。発見によってポルトガル人が東インドを取得したと主張されることはあるが、ポルトガル人が東インドに初めて行ったときよりも以前から東インドという土地は知られていたしそこには住民もいた。教皇アレクサンデル6世による分割(デマルカシオン)はスペインとポルトガルの2国間だけのことであって他国には関係のないことであり、また教皇は宗教上の管轄権を有しているだけで全世界の世俗的支配者ではなく、異教徒の土地である東インドを贈与する権限は教皇にはない。戦争によって支配権を確立することはできるがそれは占領の後のことであり、ポルトガル人は東インドを占領したことがないばかりか、東インドの住民は戦争もしていないし、ポルトガル人には戦争を行う正当な理由もなかった。以上の理由からグロティウスは、東インドに対する支配権は東インド住民自身のものであって、東インドはポルトガルの支配に服するわけではない、と説いた。 ===海洋の自由=== 全体の構成からみれば海洋の自由については通商の自由の論拠の一部として述べられているにしか過ぎないが、しかし『自由海論』のなかでは海洋の自由に関する記述も重要な部分を占めているといえる。その理由として海洋の自由を解説した文章量が本書全体の中で占める割合が指摘される。おもに海洋の自由を記述しているのは第5‐7章であるが、第5章に23頁、第7章に13頁が費やされており、第5‐7章だけで全66頁の本文の中の38頁半を占めている。この海洋の自由について述べている5‐7章の中でも、特に初版の第13頁中ほどから第36頁中ほどまでの、本文全体の3分の1である23頁を占める第5章が海洋の自由を述べた個所としては最も重要といえる。 グロティウスは人間による所有や占有の対象となるものとならないものとを分け、そのような対象とならないものは自然法や万民法(#自然法と万民法も参照)によりすべての人が共通に使用することができるとした。そして海はそのような所有や占有をすることができないものに該当するとし、その理由として2つの点を挙げた。ひとつは自然的理由である。これによると、物の私的所有は占有によって行われ、占有は明確な境界を定めることによって可能であるが、海は流動的であり広大であるためそのような境界の設定が不可能で、そのために海を占有することはできず私的所有の対象とはならないとしたのである。そして占有できないもうひとつの理由として、道徳的理由を論じた。つまり、占有することが不可能なものか、またはこれまでに一度も占有されたことがないものは誰の財産にもならず、もしそのようなものを誰かが使用したとしても、後にまた誰かが使用できるようなかたちで永久に存在し続けなければならない。土地は私的所有によって分割されたが、交通の手段である海は他人に害することなく利用することが可能であるためすべての人による利用が可能な万民の共有物に該当し、海が私的所有の対象とはならないことは全人類の合意である、と。ただしこのような海洋の自由の例外として、杭を打って囲い込んだ魚の生洲のように、海の「狭い部分」については一時的に占有することもできるが、問題とされているのはそのような海ではなく大洋であり、ヨーロッパと東インドをつなぐ広大な海からポルトガル人は他国人を排除することはできないと説いた。このグロティウスが論じた海洋の自由に関する理論を発端として後に学術的な論争がおこり、近代的な海洋区分の成立を促す契機ともなった(#海洋論争も参照)。 ===通商の自由=== グロティウスは以上を論拠として、ふたつ目の命題である通商の自由を説いた。グロティウスは資源や富が世界に偏在する状況を是正する必要から、通商権や交通権は普遍人類社会における基本的自然権であり、海はその権利実現のための重要な手段であると位置づけた。つまり、すべての生活必需品が世界中で入手できるわけではない以上、さまざまな場所で異なる生活必需品が生産され、それが民族間で交換されることによって人類社会が成り立っている。この相互依存関係を阻害することは人類社会を破壊するものであり、すべての民族は他の民族のところに行って通商を行うことが許されなければならない。君主や国家は自国民のところに他国民がやってきて通商することを妨げてはならないし、他国民同士が通商することに対しても妨害は許されない、としたのである。さらにもしも他国民同士が通商をすることを妨げるのならば、それは戦争の正当原因にもなるとした。そしてグロティウスはこれら海洋の自由と通商の自由を論拠として、ポルトガルは東インドにつながる航路を独占したりそこから他国を排除することは許されないと主張したのである。 ===結論=== 『自由海論』全体の結論は第13章に述べられている。その結論は、どのような状況であってもオランダ人は東インドとの通商を維持しなければならない、とするものである。この第13章は『捕獲法論』第12章の最後の個所から大幅に書き換えられており、章の題名となっている「平和のときでも、休戦のときでも、戦争のときでも」という点は、『自由海論』の初版が発行された1609年当時の事情を反映したものとされる。つまり本書初版が発行された当時は、スペインがオランダに対し東インド通商からの撤退を求めていた時期である(#出版の経緯参照)。そのような情勢下において、できれば平和条約の締結が最も望ましいけれども、そうではなく休戦条約が締結されるだけかもしれないし、それにすら失敗し戦争が続行されることになるかもしれない、そのような状況においてグロティウスは、「平和のときでも、休戦のときでも、戦争のときでも」オランダは東インドとの通商に関して、当時ポルトガルと密接な関係にありオランダの東インド通商に反対していたスペインに対し、譲歩すべきではないと主張したのである。 ==『捕獲法論』第12章との比較== すでに述べたように『自由海論』は『捕獲法論』の第12章として書かれたものであったが、完全に同一というわけではない。『捕獲法論』第12章では『捕獲法論』の他の章と関連して述べられていた部分が除かれ、分量としてはおよそ7分の5が『自由海論』としてまとめられた。まず『自由海論』では『捕獲法論』第12章のまえがきに相当する最初の1頁程度が削除され、それに代わり序文「キリスト教世界の諸君主と自由な諸国民に対して」が加えられている。また不当な通商の禁止が戦争の正当原因となることが述べられた『捕獲法論』第12章のおわり約18頁半程度が削除され、その一部が『自由海論』では全体の結論を述べた第13章として書きかえられているが、これは通商の自由を主題とした『自由海論』では不要であったためといわれる。これらの修正によって論旨は大きく変化している。また『自由海論』第1章の書き出し3行程度の文章と、『自由海論』第12章のおわりのところも『捕獲法論』の該当する個所をそのまま用いた文章ではなく、『捕獲法論』の他の個所にある記述をここに加えたり、『捕獲法論』にはあった記述を省いたりといった修正がみられる。これら以外にも、用語が訂正されたり文章が省略されたところが確認される。『捕獲法論』は前述のとおり1603年に東インド会社がポルトガルの商船カタリナ号を捕獲したことを弁護するために書かれたものであったが、その構成は大きく分けて3つにわけることができる。第1はグロティウスの法律思想や正当戦争、捕獲権行使に関する基礎理論であり、第2がオランダ人に対するポルトガル人の通商妨害やカタリナ号捕獲事件に関する歴史的事実、そして第3が第1の部分(基礎理論)を第2の部分(歴史的事実)に当てはめカタリナ号捕獲の正当性を論証し、問題の解決を図ったものである。『自由海論』のもととなった第12章はこのうちの捕獲の正当性を論証した第3の部分に当たるが、この第3の部分も3つに分けられる。第1は法律的見地からの論証(第12‐13章)、第2は道徳的見地からみた論証(第14章)、そして第3が有利、有益という見地からみた論証(第15章)である。第12章は全体からみれば法律的見地からみた論証を行った個所の一部であり、具体的には私戦という観点からのみ論証した部分であった。つまり『捕獲法論』第12章はもともと、東インド会社が行った戦争が仮に私戦に当たるのだとしても、それは正当なものであった、ということを論じていたのである。このように『捕獲法論』第12章は全体的議論の中の一部を論じたものにしかすぎず、そのまま抜き出したとしてもまとまった著書とはなりえない。前述のような修正はそのような必要からなされたものといえる。 ==思想的背景== ===影響を受けた先人=== グロティウスが海洋の自由や通商の自由を述べるにあたって論拠としたのは、 普遍的人類社会の思想である。つまり、すべての人間は人間の本質に従い普遍的な社会を構成し、その社会ではすべての人に当てはまる共通の法(万民法)が存在し、その法によりすべての人に基本的な権利が保障される、という考え方である。『自由海論』に示されたグロティウスのこうした思想に影響を与えた先駆者として、まずフランシスコ・デ・ビトリアが挙げられる。ビトリアは著書『インディオについての特別講義』(Relectio de Indis)の中で、普遍的人類社会の思想を背景にすべての人は自由に交通して他の民族と交際する基本的な権利を有することを述べた。ビトリアが主として説いたのは交通権の理論であって海洋の自由についてはそれほど詳しく述べていたわけではなかったが、グロティウスよりも以前に海洋の自由を説いた代表的な学者のひとりであり、実際に『自由海論』の各所でビトリアの説の引用がみられる。また『自由海論』では、そのビトリアの影響を受けたスペインの学者フェルディナンド・バスケスの言葉も詳細に引用している。特に第7章では、普遍的人類社会に共通の万民法についてバスケスの言葉をそのまま引用している。ただしバスケスの思想はビトリアの思想をそのまま受け継いだものであり、基本的には同一のものである。すでに述べたように『自由海論』はスペインとポルトガルによる大洋領有の主張に対する反論として著わされたものであったが、スペインに反論するためにわざわざスペイン人の論説を持ち出したと見ることもできる。また『自由海論』はイタリアのアルベリクス・ゲンティリスの影響も強く受けている。例えば『自由海論』第1章は、ゲンティリスの著書『戦争の法』(De jure belli)の第1巻第19章についてほとんどそのまま述べたものともいわれる。グロティウスがゲンティリスから受けた影響は『自由海論』だけでなく、グロティウスのもう一つの代表的著書『戦争と平和の法』(De jure belli ac pacis)にもみられる。また航行や通商の自由の原則は、こうしたヨーロッパの論者だけでなく、インド洋や他のアジア諸国の間でも古くから存在した。紀元1世紀ごろからローマとインド洋諸国は海上通商をしており、西ヨーロッパ諸国のアジア進出以前からすでに海洋や通商の自由の原則は慣習法となっていた。13世紀末のマカッサルやマラッカの海事法ではこうした慣習法の法典化もなされている。グロティウスは『自由海論』の執筆にあたってこうしたアジアの伝統も参考にしたといわれる。 ===自然法と万民法=== グロティウスが述べる自然法と万民法の関係は複雑である。グロティウスは『自由海論』、ひいては『捕獲法論』の中で、自然法を第一の自然法と第二の自然法、万民法を第一の万民法と第二の万民法にわけて論じている。第一の自然法とは神の意志のあらわれであり、人間だけでなくすべての神の被創造物に当てはまる共通の法としている。第二の自然法とは第一の自然法が理性を有する人間に反映したもので、そのため第二の自然法は理性を有する人間にのみ共通の法だとしている。さらに第一の万民法とは、全人類の合意に基づく法であり、理性を有する人間に共通な法であることからグロティウスは第一の万民法を第二の自然法と同一視する。これに対し第二の万民法とは、第一の万民法と市民社会の法との混合の法であり、グロティウスは第二の万民法を実定法だと論じている。『自由海論』は主にオランダや東インド会社の主張を正当化するために出版されたものであるため、自然法や万民法の関係について述べている個所は限定されており、これらの関係について全面的に述べている個所はない。そうした『自由海論』の中で自然法と万民法の関係についてまとまった形で述べているのは第7章でフェルナンド・バスケスの理論の引用として述べている個所であった。そこでは、神の摂理に基づく不可変的な自然法の一部が第一万民法であり、これを可変的で実定的な第二の万民法と区別し、第一の万民法によって海における漁業や航行は全人類に共有であり、第二の万民法によって陸地や河川は分割されているとされた。このように『自由海論』では第一の万民法と第二の万民法とを区別するが、第一の自然法と第二の自然法の区別について述べた個所はない。しかし『捕獲法論』にはこうした自然法と万民法の対応関係について述べた個所があることから、『自由海論』においても同様の考え方をとっていると考えられている。 ==影響== ===英蘭漁業紛争=== オランダとスペインの紛争は1609年から1621年までの休戦状態を除いて1648年のミュンスター条約締結まで続き、結局『自由海論』が両国の和平交渉に資することはなかった。そればかりか、『自由海論』の刊行はオランダとイギリス間の1世紀以上にも及ぶ論争の発端となってしまった。イギリス国王ジェームズ1世は『自由海論』に触発され、同書が出版された直後の1609年5月にイギリス沿岸の海における漁業を規制する旨の布告を発した。こうした情勢の中でイギリスとオランダは東インドとの香辛料の貿易について交渉を行うこととなり、1613年3月22日、グロティウスはオランダ東インド会社の通商を巡るイギリスとの交渉のための外交使節団の一員に任命され、ロンドンに行くこととなる。イギリスでは1614年にグロティウスの名が記された『自由海論』オランダ語訳が出版される前の1613年には、『自由海論』の著者がグロティウスであることが知られていたといわれる。この交渉において『自由海論』で海洋や通商の自由を説いたグロティウスは、東インドとの香辛料貿易の実質的独占をねらうオランダの立場を弁護することを任務としたのである。ここでグロティウスは次のように主張した。契約の権利はすべての人に認められた権利であり、オランダは契約した者に対してだけ商品を販売する契約をしたにしかすぎないため、航行の自由を侵害したこともなければ通商の全面的独占をはかろうとしているわけではない、と。グロティウスはこうした主張を『戦争と平和の法』の中でも述べている。このようなグロティウスの主張が『自由海論』で述べられた理論に適合するものであったかについては見解が分かれる。『自由海論』に適合するという立場によれば、グロティウスは個別の契約による独占に関する事例を述べているにしかすぎず、より全体的な航行や通商の自由に関する理論は維持されているという。しかし一方で、オランダが香辛料貿易の独占を主張している以上そうした全体的な理論への適合性には意味がないとする指摘もある。いずれにせよ『自由海論』で航行や通商の自由を説いたグロティウスにとって、香辛料貿易の独占をねらう自国の立場を擁護することは容易なことではなかったといわれる。結局この交渉ではオランダとイギリスは有意な成果を上げることはできなかった。イギリスとオランダの交渉は1615年にも行われ、グロティウスもこれに参加したが、やはり両国は合意に達することができなかった。その後ジェームス1世のあとを継いだチャールズ1世は、1633年の布告などで新大陸へと続く大洋、そして「イギリスの海」の支配を宣言した。そして1651年にイギリスが航海法を制定したことにより、イギリスとオランダは3度にわたり戦争(英蘭戦争)をすることとなったのである。 ===海洋論争=== 学説上もグロティウスが説いた海洋の自由の理論に対しては多くの学者が反論し、1610年代から30年代にかけて『自由海論』に反駁する著書が多く出版された。例えば自国を擁護する観点から、ポルトガルのセラフィム・ジ・フレイタスは『アジアにおけるポルトガル人の正当な支配について』(De justo imperio Lusitanorum asiatico, 1625)を、スペインのフアン・ソロルサノ・ペレイラは『インド法』(De Indiarum jure, 1629)を著わした。またイギリスのウィリアム・ウェルウッドは『海法要義』(An Abridgement of All Sea‐Lawes, 1613年)、『海洋領有論』(De dominio maris, 1615年)などを著わしグロティウスに反論した。ウェルウッドの反論に対しグロティウスは『ウィリアム・ウェルウッドによって反論された自由海論第5章の弁明』(Defensio Capitis Quinti Maris Liberi Oppugnati a Guilielmo Welwodo)を執筆し再度海洋の自由を主張しようとしたが、これは未完成でありグロティウスによって出版されることはなく、『捕獲法論』の原稿とともに1864年に発見され1872年にサミュエル・ムーラー著『閉鎖海論』(Mare clausum)の付録として出版された。これはグロティウス自身が書いた唯一の反論であるといわれる。イギリスのジョン・セルデンが著わした『閉鎖海論』(Mare clausum, 1635年)は『自由海論』に反駁した書籍のなかでも最も有名な著書である。セルデンはこのなかで、海水は流動的であっても海そのものが変化するわけではないため海の物理的な支配が可能であるとし(グロティウスが説いた自然的理由の否定)、海は無尽蔵ではなく航行・漁業・通商などによって海の利益は減少するため万民の共同使用に適しているという主張は事実に反する(グロティウスが説いた道徳的理由の否定)としたのである。前述のようにこの時期イギリスは「イギリスの海」を主張し自国沿岸の漁業独占を目指していて、とくにイギリスの学者たちはイギリスのこうした立場を正当化するために『自由海論』に反論した。つまりグロティウスはオランダの東インドへの航行の自由の論拠として海洋の自由を主張したのに対し、セルデンはイギリスによる近海漁業の支配の論拠として海が領有可能であることを主張したのである。『閉鎖海論』の出版当時には『自由海論』よりも大きな支持を集め、また『閉鎖海論』ほうがより当時の諸国の慣行に一致していたともいわれる。こうして17世紀前半に展開された学術的論争は「海洋論争」といわれ、近代の海洋法形成の契機となった。 ===公海自由の確立=== その後諸国は『自由海論』で説かれた理論を大筋で採用する方向へと向かっていく。それは、公海を領有するのに必要な費用に比べ、領有した場合に得られる見返りの少なさからグロティウスの結論が支持されていったためであるといわれる。例えばザミュエル・フォン・プーフェンドルフは、海の占有自体は陸地から管理したり軍艦による監視などで不可能ではない(グロティウスの自然的理由の否定)とはしたものの、実際にはこうした管理を行うのは非常に困難でそれに報いるだけの収益も期待できないとしたのである。しかし同時にプーフェンドルフは、海の使用法の中には確かに航行のような他人に害を与えない活動もあるが、漁業のように資源が無尽蔵ではないものや、海岸に近接した外国軍艦の航行のように沿岸住民に脅威を与えるような使用法もある(グロティウスの道徳的理由の否定)とし、そのため沿岸の住民が自国沿岸の海を自国の海とすることには正当な理由があると説き、逆に沿岸に近接する海を超えて大洋の独占を主張し他国の平和的な航行までを禁じることは許されないとした。つまりプーフェンドルフは沿岸海域と大洋とを区別して論じたのである。「海洋論争」の時代には沿岸からの距離によって区分することなく海洋全般について論じられたが、こうしてこの時代には沿岸から一定の幅の「狭い領海」とその外側の「広い公海」を認めるという、領有できる海とできない海とを分ける考え方が広まっていった。こうした海をふたつに分ける考え方についてグロティウス自身も、1637年の在ハーグスウェーデン使節カメラリウス宛の書簡の中で、海のどの範囲までが各人に属するのかが重要であることを述べている。この書簡の一節を根拠にグロティウスが後の領海制度と同様の、沿岸から一定幅の海域の領有について認めたといいうるかは論者によって意見が分かれるところである。しかしこの書簡から、グロティウス自身も『自由海論』の中で述べたのと全く同じ海洋の自由の思想をその後も抱き続けたわけではないといえる。実際に、グロティウスが後に著わした『戦争と平和の法』第2巻第3章では海の先占について論じているが、そこでは湾や海峡のような陸地に囲まれている海を沿岸国が領有することは自然法に反しないとしている。その後18世紀中ごろには海を領海と公海との二つの部分に分け、公海ではすべての国が領有が禁止され、すべての国による使用が認められるという考え方が学説上確立し、19世紀はじめまでにこうした考えは当時の国際社会から受け入れられ慣習国際法として成立したのである。 ===現代海洋法と『自由海論』=== 現代ではこのような公海自由の原則が慣習国際法として確立しているだけでなく、1958年の公海条約第1条や1982年の国連海洋法条約第86条、第89条では国家による公海の領有や排他的支配が禁止され、国連海洋法条約第87条第1項では公海使用の自由が認められる範囲が定められたが、こうした現代の公海自由に関する国際制度はグロティウスが『自由海論』で論じた理論に起源を持つとされている。しかし19世紀から20世紀前半では公海と、沿岸国の領域とみなされる領海を大きくふたつに分けるという考え方が一般的であったが、1982年の国連海洋法条約では沿岸国に基線から200海里までの排他的経済水域が認められることとなった。これにより世界の海は法的には領海、排他的経済水域、公海という3つの区域に大きく分けられることとなり、『自由海論』で述べられた海洋の自由が現代でも妥当する領域、つまり公海の範囲は大幅に減少して、現代ではグロティウスが説いた海洋の自由は後退することとなった。またグロティウスは『自由海論』の中で海は他人に害することなく利用することが可能な共有物としたが、環境保護の観点からこのような考え方も現代社会に妥当するとは言えない。『自由海論』が執筆された17世紀当時は海洋資源の枯渇の問題は差し迫ったものではなかったが、技術の進歩により20世紀以降は海の資源が有限ということが認識されるようになっている。 =犬小屋 (江戸幕府)= 犬小屋(いぬごや)は、江戸幕府が設置した犬を収容する施設。生類憐みに関する法令が出された5代将軍徳川綱吉政権期に設けられた。「御用屋敷」「御囲(おかこい)」「御犬囲」とも呼ばれ、特に中野に造られた犬小屋は「中野御用御屋敷」とも呼ばれた。犬小屋に収容された犬や、村預けされた犬(#村預け参照)は、当時の史料・記録に「御犬(おいぬ)」と記されており、野犬か飼犬かを問わず、犬小屋に収容されたことで幕府管理の犬となり、将軍の権威を帯びた「御犬」となった。 かつて、犬小屋設置は「犬を溺愛した将軍綱吉が、江戸中の野良犬を養うよう強要した政策」とされてきた。しかし一方で、伝通院門前町付近の町人が周辺一帯の相当数の犬を犬小屋へ移送することを請願したように、犬小屋の設置が歓迎されていたことを示す文書も少ないながらも存在し、生類憐れみの令の見直しも進み、犬小屋は犬同士または犬と人とのトラブルを回避するために野犬を収容する施設と解釈されるようになっている。 犬小屋の広さは、中野は16万坪、大久保がおよそ2万5000坪、四谷の犬小屋は1万8928坪7合だった(『東京市史稿』市街篇十二)。若年寄の所管で、中野犬小屋の作事総奉行・米倉昌尹は若年寄に昇進して、犬小屋支配を命ぜられ、元禄11年(1698年)2月14日には4人いた若年寄のうち本多正永が中野の犬小屋の専任担当となり、本多の退任後は同じく若年寄の久世重之が宝永2年(1705年)9月29日から犬小屋を管掌した(「常憲院殿御実紀」)。 ==設置== ===喜多見村の御用屋敷=== 当初犬小屋は、武蔵国多摩郡世田谷領喜多見村(現・東京都世田谷区)にあった側用人・喜多見重政の陣屋(『新編武蔵風土記稿』第七巻)の敷地内に設けられた。喜多見は犬支配役を担当していたが、元禄2年(1689年)2月に綱吉への背信行為によって喜多見氏が断絶した後、この地は天領となり、犬小屋係下役が配置された(竹内秀雄「喜多見の犬小屋」『世田谷』第二十一号)。元禄6年2月の「武州喜多見村御用屋鋪諸色御入用帳」(『竹橋余筆』別集収録)によれば、当時は喜多見村の幕府の御用屋敷がこの周辺の天領支配の拠点となっており、ここに40匹ほどの犬が収容施設で飼育されていた。この御用屋敷内に、正月から12月までの354日間に1万3878匹の犬が預けられた。病気の犬や子犬のための「介抱所」「看病所」「寝所」のほか、陣屋役所・門番所・台所・舂屋・鶏部屋・鶏遊び所などがあった。犬に餌を与え、急病の犬が出た場合には犬医者を呼び寄せて薬を処方していた。中間16、7人が介護にあたり、養育のためには約5728人の人手を要した。 御用屋敷の入用項目として、「重キ病犬」「病犬」「村預り御犬」を介抱するために必要な食料や薪・蝋燭・筵・菰などが記載され、その総額は銀3貫738匁4分5厘(金換算で62両1分余)となった。それ以外にも、 重病の犬には、生魚は焼くか、味噌汁の中に入れて煮るかして、毎日朝夕ご飯とともに食べさせる鰹節は村預かりの犬が病気になって食欲がない時に食べさせるものであるので百姓方へ渡しておく夏のうち子犬に虫がついた場合には油をつけて櫛で取るなど、養育方法も具体的に示されていた。手代や下役人が御囲内の巡回や犬医者の呼び寄せなどの業務を担当し、その諸経費は1日1匹当たり米3勺3才と銀2分7厘であった。 ===大久保・四谷の犬小屋=== 幕府は、大久保・四谷・中野に犬小屋を新設した。喜多見村の御用屋敷が主に病犬を収容したのに対して、ここに収容された犬は飼い主のいない無主犬が中心だった。これは、犬小屋への収容が病犬・子犬の保護から、野犬対策へと比重を移していったと考えられている。 元禄8年(1695年)3月に、幕府は千駄ヶ谷村(現・東京都渋谷区・新宿区)に犬小屋の建設を決定し、同月30日に普請を担当する奉行として、御側の米倉昌尹と藤堂良直が、助役として松平利直(加賀国大聖寺藩主)が任命された。 大聖寺藩は元禄8年に毎日5000から6000人の人足を出して四谷犬小屋を建設。当初は幕府から犬小屋の建設であることを隠すよう指示され、普請に携わった者たちからも誓詞を取り隠密に実施するように命じていた。なお、犬小屋が建設された千駄ヶ谷村内の御用地1万8928坪7合は側用人の柳沢保明(柳沢吉保)らの屋敷を収公したもので、元禄8年4月5日に引き渡された(『東京市史稿』産業篇第八)。柳沢吉保には代地として武蔵国豊島郡駒込村(現・東京都文京区・豊島区)の土地4万7000坪が与えられ、その一部が後の六義園となる。同時に大久保村(現・東京都新宿区)地内のおよそ2万5000坪の土地にも犬小屋が建設された。 犬小屋の竣工後、普請に尽力した者たちは、幕府から同年6月1日と2日に時服などが下賜された。また竣工前の5月23日、元禄6年(1693年)9月の鷹遣い停止で鷹狩が廃止になったことで職を解かれた5人の鷹匠が寄合番に役替えとなり、犬小屋の支配となった。 ===中野の犬小屋=== 元禄8年10月に中野の犬小屋建設を開始。普請担当の奉行は御側の米倉氏と藤堂氏、助役に津山藩主・森長成と丸亀藩主・京極高或が任命された。森長成は11万坪、京極高或は5万坪を担当し、江戸より西に1里(約4キロメートル)離れた中野の田園に、土居を築き、柵を建て、小屋を造った。 犬小屋用地は、中野村の百姓82人と宝仙寺から田畑・屋敷・芝地合わせて反別23町5反4畝10歩、坪数でいえば7万630坪の土地を御用地として収公して犬小屋の建設地とした(中野村「御用地ニ渡候田畑書貫帳」(堀江家文書C七六))。元禄15年5月の「中野村亥・子両年御用地相渡候反別之覚」(堀江家文書C77)では元禄8、9年の両年で百姓61名と宝仙寺から田畑反別48町9反、14万6717坪収公されたことが記されており、元禄9年には中野村からさらに田畑反別25町3反6畝7歩を御用地として幕府に引き渡したこととなる。「犬小屋御囲場絵図」(堀江家文書S一、元禄10年4月25日作成)によれば、元禄8年には17万9156坪、翌年には10万2330坪の土地で普請が行われ、道路分としてそれぞれ1万1095坪と5071坪も造成された。犬小屋全体の御用地は29万7652坪におよび、中野村だけでなく周辺の高円寺村(現・東京都杉並区)などの土地も収公された。 『徳川実紀』元禄8年10月29日条では中野の犬小屋が落成したので大久保の犬小屋担当だった比留間正房にその管理を命じ、11月9日条では寄合番の沢奉実も担当を命じられた。そして、風呂屋方・賄方・小普請手代組頭・細工所同心・寄合番下役・小石川御殿番同心組頭・掃除組頭などの役人11人が配下に置かれた(「柳営日次記」)。同9年正月29日には納戸同心・腰物同心・賄方・細工方・寄合組などから7人が新たに下役人に任じられた(「柳営日次記」)。 同年11月13日条には、中野の犬小屋が完成し、江戸の町から集めた犬を10万匹収容、同月29日条には小納戸の落合道富や石原安種が中野犬小屋の奉行になり、役扶持300俵と同心15人が付けられたと記されている。同年12月15日には森氏や京極氏をはじめとする関係役人が褒美を与えられた(『徳川実紀』第六篇)。 「改正甘露叢」によれば、歩行目付(徒目付)8人と小人目付10人が「当分賄(とうぶんまかない)」として当面の間中野犬小屋の御用を担当し、5人の役人が「当分注進役」を命じられてその連絡役となった。そして中野犬小屋に収容された犬の餌代はその周辺地域から徴収する方針が示された。元禄8年12月22日に、喜多見村の犬小屋に配属されていた小普請の医師2人が中野の犬小屋担当となり、俸禄を賜った(「常憲院殿御実紀」)。この後も、鷹狩が廃止されたことによって廃職となった鳥見職の者が幾人も犬小屋担当へと異動となった(「改正甘露叢」)。ほか、病犬のために、柳沢吉保が抱え医師・丸岡某と幕府小普請組医師林宗久に役扶持を与え、犬小屋侍を命じた。 元禄8年12月7日に丹波国宮津藩藩主・奥平昌成が、来春に増築を完成させるよう、その手伝いを命じられ(「柳営日次記」)、志摩国鳥羽藩藩主・松平乗邑と石見国津和野藩藩主・亀井茲親も手伝いを命じられた。元禄10年(1697年)4月には犬小屋とその周辺道路を含めておよそ29万坪余に増築された。同時に四谷の犬小屋は廃止されて中野に一本化させることになり、同年6月22日の町触で四谷犬小屋の解体工事の入札希望者が募られた(『江戸町触集成』三三一七号)。 ===中野犬小屋の構造=== 犬小屋は、5つの「御囲場」に分けられ、「壱之御囲」が3万4538坪、「弐之御囲」「参之御囲」「四之御囲」がそれぞれ5万坪、「五之御囲」が5万7178坪、総面積24万1716坪であった(「犬小屋御囲場絵図」。白橋聖子・大石学「生類憐みの令と中野犬小屋」東京学芸大学近世史研究会編『近世史研究』第四号」)。 「元禄九年江戸図」に描かれた「中野御用御屋敷」では、周囲は柵で囲まれ、6つに仕切られた内部は各入口に竹矢来と門が設けられ、門を入ると散らばった犬小屋12棟と役所とみられる建物1棟がある。 支配勘定を務めた大田南畝が寛政12年(1800年)にまとめた『竹橋余筆』に収録された帳簿「元禄九子年中野・四谷・大窪御用屋敷新規修復御勘定帳」には、中野の犬小屋の拡張・修復工事経費が記されていた。元禄9年(1696年)の時点で、 1棟25坪の犬部屋・犬餌飼部屋 ‐ 290棟、敷地面積10万坪1棟7坪5合の日除け所 ‐ 295棟、敷地面積10万坪1棟6坪の日除け所餌飼所 ‐ 141棟半その他、子犬養育所 ‐ 459か所、役人居宅 ‐ 8か所、御犬小囲舂屋(つきや)、御役屋敷4ヵ所、御用屋敷長屋4棟・食冷まし所5棟・冠木門8か所・医師部屋・医師居宅・女犬養育所・御側衆・御目付衆・奉行小屋・玄関書院・釜屋・井戸・厩・米蔵・塩蔵・味噌蔵・火の見櫓・冠木門などがあった。総面積は20万坪超だったが、「子犬養育所」は「御用屋敷の3ヵ所の元御囲内に造った」とあり、5つの御囲のうち3つを解消してその跡地に養育所が造成されていため、当時の犬小屋は東の御囲4万坪と西の御囲6万坪に分かれて運用されていた。御犬部屋には1部屋ごとに長さ7寸・幅3寸5分・厚さ7分の檜の番号札が取り付けられ、広囲いの御犬部屋用に299枚、小囲い御犬部屋用に40枚が用意された。この年には修復のため、大工5万7000人余が駆り出され、工事費用総額は2314貫658匁余(金3万8577両余)と米5529石余となった。 養生のため犬を河原や野辺へ連れ出すこともあり、夜間には手代や下役人が「御囲」内を巡回し警備していた。 ===京都の犬小屋=== 元禄11年8月の町触で、京都の町に「疲犬」や病犬が多くいたため、従来から申し渡しているように養育し、病犬や子犬などは檻を拵えて収容するように命じた(『京都町触集成』一七一号)。同年9月26日の触書でも、子犬や病犬などは小屋を作って保護するように申し渡されている(『京都町触集成』一七八号)。 ==犬の収容== 大久保・四谷・中野の犬小屋の完成後、江戸中の犬を全て捕らえ、犬小屋への収容を開始した。四谷の犬小屋では元禄8年5月25日から開始され、同年6月3日の江戸の町触では、「人に荒き犬」を収容しているので、「人に荒き犬」がいたならば町奉行所に書面をもって届け出るようにと申し渡していた(『江戸町触集成』三二一八号)。中野犬小屋への犬の収容は元禄8年11月24日から開始された(『正宝事録』八五四号)。 犬の捕獲を担当したのは小人目付だった。元禄13年(1700年)7月12日の町触では犬を追う小人目付の周囲に集まった見物人が、うまくいっている時は褒め、失敗すると嘲笑するため、目付衆は町奉行に犬移しの際には番人を出して人払いをするよう依頼した(『江戸町触集成』三六三七号)。 小人目付が捕獲した犬を、犬小屋まで移送するのは町人の負担だった。犬小屋への犬の移送は、駕籠によるもののほか、刺子に抱え込む、馬車で運ぶなどした。町名や「御用犬」と書かれた幟を立て、それぞれの町名主が人足に付き添って中野まで犬を移送することになり、四谷口から中野までの2里余の道路は行き交う隙間がないほどであった(田中休愚著『民間省要』)。宝永3年(1706年)8月17日、代官支配地の市ヶ谷薬王寺前町(現・東京都新宿区)の徳兵衛は、町内の母犬2匹と子犬12匹を明後日の19日に中野犬小屋へ移送することを命じられ、その際に勘定奉行の荻原重秀・石尾氏信・中山時春・戸川安廣は、代官の雨宮勘兵衛に犬の移送を要請した(「竹橋蠧簡(ちっきょうとかん)」「宝永三戌年書状留」)。このように、犬移送の決済は、江戸の町であっても代官支配地であれば勘定奉行から代官を通じて行われた。 収容された犬数は、 中野の犬小屋には約8万2000匹余の犬が収容された ‐ 「政隣記」元禄8年12月6日条中野犬小屋へは毎日30匹から50匹くらいの犬が収容された ‐ 『鸚鵡籠中記』元禄9年6月12日条中野や大久保の犬小屋に収容されていた犬の数は元禄8年10月には4万2108匹、元禄9年6月が4万8748匹 ‐ 元禄10年の町奉行所の書上(『正宝事録』八五四号、『江戸町触集成』三二九五号)不日に十万頭に及ぶといへり(日ならずして十万頭を数えた) ‐ 『徳川実紀』となる。町中で飼われている犬は、下屋敷や領地へ移したければ遠慮なく送り、犬小屋でも引き取る旨が申し渡され(『御当家令条』五一五号)、元禄10年7月18日の町触では江戸の町々に「残犬」や「紛犬」の犬数を調査するよう命じ(『江戸町触集成』三三三二号)、同16年10月の町触では無主犬が多く集まって町内の人々や道路往来の者たちの支障になっていたため、町奉行所に届け出るように申し渡した(『江戸町触集成』同三八二九号)。 ==設置理由== 犬小屋が設けられた理由は、江戸の町中に犬が増えすぎたために発生した問題を解決するためと考えられている(冒頭参照)。綱吉が元禄6年(1693年)に放鷹制度を全面的に廃止したことから鷹の食餌用の犬の需要が無くなったこと、犬を食べる習俗があったかぶき者が大量検挙されて食犬の習慣も廃れたことで、江戸の町中や近郊では野良犬が増え、野犬が捨子を捕食するという事態も起きていた。 しかし、根崎光男や山室恭子は犬愛護令を出してもそれが守られず、かえって犬を殺し虐待する町人が増えてきたため、幕府自ら犬殺しを未然に防止し、病犬・子犬・捨て犬を保護するための犬の収容施設を造ることになったと考えている。犬小屋設置は都市問題としての野犬収容や狂犬病の対策としても機能した。犬小屋への犬収容の直前にあたる元禄8年10月に、子犬を捨てた辻番が引き回しの上、浅草で斬首刑・獄門になっている(『御仕置裁許帳』六八六号)。これは、法令を守らない町人たちへの見せしめ効果を強く意識しての措置だと山室は考えている。 山室恭子はさらに、綱吉の側用人・柳沢吉保の日誌「楽只堂年録」元禄十六年十二月六日条に「御城下民間にて養へる犬」を中野犬小屋に収容して養育し、餌代は「犬の元主」より出させたとあることから、飼い犬の収容施設だったという説を提唱している。この説に対し根崎は、「御城下民間にて養へる犬」がペットとしての飼い犬とは限らず「食物を与えることを命じられた無主犬や病犬・子犬」も含まれたのであろうと考えている。餌代を供出させられた「犬の元主」という記述も、犬小屋の維持費用が江戸の町々から公役の賦課単位である小間を基準に徴収されたことから、江戸町人の多くが「犬の元主」に該当するとしている。 四谷での犬の収容が開始された当初、町触では「人に荒き犬」を収容しているとあり、ただの無主犬ではなく獰猛な犬の収容が目的で、都市問題としての野犬対策の色彩が強く、人と猛犬との対立激化を避ける狙いがあった。塚本学も、江戸の町に横行する多数の犬が町民とのトラブルを発生させていたことから、野犬公害への対策として犬の収容所を造ったと考えている(『生類をめぐる政治』、平凡社ライブラリー)。同時に、四谷の犬小屋へ江戸の雌犬を全て収容するという記録もあり、犬の繁殖を阻止する目的もあった(「残嚢拾玉集」『加賀藩史料』第五篇)。 しかし、田中休愚は犬小屋に収容された犬の養育のむごさやその餌となる米穀調達の困難さなど矛盾に満ちた犬小屋運営を嘆き(『新訂民間省要』)、『三王外記』には「是に於て群狗相闘ひ、或ひは傷つき、或ひは死す。奴之を救ふて亦た傷つく者あり」と書かれた。 また、犬の殺害・虐待を防ぐという目的に反し、中野の犬小屋が設置された後に小石川馬場のほとりに2匹の白い子犬が捨てられていたため、捨て犬への詮議を厳しくするよう通達がなされた(『柳営日次記』元禄八年十二月二十一日条、)。翌9年8月に犬を斬った者が2名捕まり、1人は遠島、もう1人は市中引き回しの上、浅草で斬罪となった(『元禄宝永珍話』巻一)。 ==経費== 幕府は、中野の犬小屋に必要な経費はすべて江戸町人から徴収することとし(「政隣記(せいりんき)」、『加賀藩史料』第五編)、元禄8年11月13日に、犬小屋に収容された犬の餌代は移送してきた町々から拠出させ、その詳細は追って知らせるという町触を出した(「甘露叢」)。犬小屋のための経費は、 江戸の中野に大規模な犬屋敷が建設され、毎日2万人の人足を必要とし、これにより駄賃馬が不足してその値段が高騰した ‐ 『鸚鵡籠中記』元禄8年10月16日条中野犬小屋へは毎日30匹から50匹くらいの犬が収容され、犬の餌は1日当たり50俵におよんだ ‐ 同元禄9年6月12日条犬小屋建設に際して大八車を出すように命じ、町々より出した車の賃銭として一輌につき500文ずつ支給するという町触が出された ‐ 『江戸町触集成』三二二四号無主犬を養育した中野の犬小屋では、犬担当の役人や犬医者を必要とし、多額の経費がかかった ‐ 「久夢日記」(『近世風俗見聞集』第一収録)中野の犬小屋には8万2000匹余の犬が収容され、犬1匹の餌代は1日当たり米2合と銀2分。合計すると、1日につき銀16貫目余、1年間で金9万8000余両 ‐ 「政隣記」元禄八年十二月六日条『加賀藩史料』元禄8年11月、相模国高座郡羽鳥村(現・神奈川県藤沢市)の村民が、建設資材となる唐竹・「ない竹」合計1150本を、中野の犬小屋までの15里(約60キロメートル)を馬で運んだ。その経費は合計銭13貫400文となった ‐ 『藤沢市史』第三巻・資料編元禄8年、武蔵国多摩郡上清戸村(現・東京都清瀬市)が、中野犬小屋の囲垣のために植竹6110本を納品。翌9年春、その代金9両3分と銀13匁5分を受領し、竹を掘った数量に応じて村人に配分された。この記録を書き残した人物は、中野犬小屋の造成について百姓地を無駄に使い、金銭の無駄遣いにもなったと批判的に見ていた ‐ 「村野氏年代記」『清瀬市史』犬小屋の入用米はこれまで江戸町人の請負で調達されてきたが、量が膨大なため不足するようになったので、代官・伊奈忠順が担当となり、1ヵ月に近所の代官所入用米800俵を3回に分けて納めることになった ‐ 「天享吾妻鏡」元禄十一年十月二十四日条、『東京市史稿』市街篇第十三など、莫大な維持費用がかかった。これ以外に、狼よけのため、毎夜、御用屋敷や多摩川対岸の小机領村々(現・神奈川県川崎市など)で空砲の鉄砲を打っており、この筒薬や火縄の代金も要した。これらの経費は、幕府勘定所賄いで全額が公費から支出されていた。 元禄9年5月18日の町触で、町奉行の能勢頼寛は勘定奉行・稲生正照立ち会いのもと、犬小屋の維持費用として江戸の町々から上納金を徴収することを申し渡した(『江戸町触集成』三二三〇号)。これを「御犬上ケ金」または単に「上ヶ金」といい、同年7月の町触で小間1間につき金3分の割合で賦課し、1町ごとに上納金をまとめ、1年分を2回に分けて納入することになった(『江戸町触集成』三二三四号)。 しかし、翌10年5月18日、町奉行・川口宗恒は「御犬御入用上ケ金」を3分の2に減額、1小間につき金2分に変更することを命じた(『江戸町触集成』三三〇七号)。そして元禄16年(1703年)12月7日には前月23日に発生した元禄地震で町中が困窮しているためにこの年の「御犬上ケ金」は全額免除、すでに上納した分は返却された(『江戸町触集成』三八三七号)。翌年の宝永元年(1704年)6月14日にも地震の影響で「上ケ金」は免除された(『江戸町触集成』三九一五号)。徴収が全て停止されたのは、綱吉の死後、中野の犬小屋が撤去された後だった(「改正甘露叢」二『内閣文庫所蔵史籍叢刊』四十八)。 ===犬扶持=== 中野犬小屋の普請や修復のために徴収されたのが「犬扶持」(いぬぶち)で、江戸周辺農村に高100石当たり1石の割合で賦課され、米や金銭だけでなく、豆・藁・菰などさまざまな物品でも徴収された(『徳川太平記』)。 犬小屋の資材に使う矢来用の竹木が村高に応じて割り付けられ、中野の犬小屋まで村役人が付き添われて運搬された ‐ 『民間省要』相模国高座郡羽鳥村では、元禄8年11月に唐竹など1150本を、中野までの15里の道のりを12貫800文の駄賃を払って運び納入したと村役人が藤沢役所に報告した ‐ 『藤沢市史』第三巻資料編武蔵国多摩郡上清戸村では、元禄8年に中野の犬小屋の囲垣を造成するための植竹6110本を拠出。翌9年に金9両3分と銀13匁5分を代金として幕府から受け取り、竹納入の割合に応じて村民に分配した ‐ 「村野氏年代記」『清瀬市史』元禄12年(1699年)2月、武蔵国入間郡三ツ木(みつぎ)村(現・埼玉県狭山市)は、藁と菰の上納を命じられたが、現物ではなく「永二五文五分」の現金を納入した ‐ 『入間市史』近世史料編 ==村預け== 幕府の犬の保護政策の一環として、犬小屋以外に預けて養育する制度もあった。この制度は元禄5年以前からすでにあり(元禄6年2月の「武州喜多見村御用屋鋪諸色御入用帳」)、これは中野の犬小屋運営の際にも採り入れられた。この制度は、犬小屋を補完し、より多くの犬を保護することを目的として、中野村をはじめとする周辺村落に犬が預けられた。この村預けの費用として、宝永3年(1706年)から同5年までに幕府が払った養育料は3万5000余両となった。 犬小屋の拡張を終了した段階から収容されていた犬を積極的に江戸周辺農村に預け、それに伴い犬小屋を縮小していった(白橋聖子・大石学「生類憐みの令と中野犬小屋」東京学芸大学近世史研究会編『近世史研究』第四号」)。 ===御犬養育金=== 中野の犬小屋の犬を村落に預ける制度は元禄12年ごろから開始したと考えられ、犬を預けられた村落には1か月に1匹当たり銀2匁5分(1年間で金2分)の「御犬養育金」が支給された。給付は毎年春と冬の2度になされ、春の分はその年の10月から翌年3月までの、冬の支給分は翌年4月から9月までの費用に充当するというように、前倒しでの支給だった。支給される犬の養育金が重要な収入源となり、暮らしに欠かせなくなっていた村落もあった。 武蔵国入間郡山口領では、下北野村の三郎兵衛、町谷村の次兵衛、上勝楽寺村の吉兵衛、下勝楽寺村の伊兵衛、上藤沢村の十郎右衛門の5人が中野犬小屋の役人から「御犬御用」の世話役を命じられた。彼らは、この御用にかかる賄金を犬1匹当たり銀2匁4分ずつ養育金の中から受け取っていた(大舘右喜「生類憐愍政策の展開」『所沢市史研究』第三号)。 元禄13年から犬を預かった中藤村では、下記のような細かい誓約をさせられた(『武蔵村山市史』資料編・近世)。 百姓の務めに支障をきたさない病犬を大切に扱って役所の指示に従う犬同士が喧嘩をしたらすぐに引き離す通行中の者や近村の者には預かり犬を粗末にさせない狼に襲われないように用心する預かり犬が死んだ場合には毛色・預かり主・死亡時刻を書き付けて報告する犬が行方不明になったら徹底的に探し発見したら報告する犬の養育金は確実に養育者各自へ渡す中野犬小屋役人の犬改めを受ける養育金受け取りの際は名主や村役人が養育者各自から印鑑を預かって金銭を受け取る金を受け取った者はすぐに帰村して養育金を銘々に渡す犬の養育ができなくなった場合には役所に報告する犬が生まれたら大切にして役所に報告する預かった犬や来犬などが怪我をした場合は大切に扱う犬小屋から預かった犬を密かに他村へ預けないしかし、徳川綱吉の死後、犬小屋の廃止が決まり、犬の村預けも停止。「村預け」を担当した関係諸村は、前渡しで支給された「御犬養育金」の返還を命じられた。 ==解体== 宝永6年(1709年)正月の将軍徳川綱吉の死によって中野犬小屋も撤去されることとなった(『宝永日記』宝永六年一月十八日条)。『新編武蔵風土記稿』によれば犬小屋の土地はもともと中野村の百姓・郷右衛門のもので、元禄8年(1695年)に収公されたが、犬小屋の解体によって元の持主に返された。 一方で、「御場御用留(おんばごようどめ)」では、犬小屋の土地が御用地となっていたのは元禄8‐9年から代官・細井九左衛門が担当していた8年間だけで、その跡地は代官・今井九右衛門勤役の元禄15年に百姓に返されたと記されている。犬小屋の御用地として土地を召し上げられた期間は中野村の農民はその面積に応じて年貢を免除されたが、土地が村落に返却されたあとは年貢課税の対象地に戻っていった(白橋聖子・大石学「生類憐みの令と中野犬小屋」『近世史研究』第四号)。 中野犬小屋は元禄9年の段階で御囲の大半が機能せず、御用地も農民に返却されていき、元禄12年からは犬の村預け(「#村預け」の節を参照)が進められていた。つまり、綱吉の存命中から犬小屋は大幅に縮小され、犬の村預け政策に変更されていった。根崎光男は、犬小屋に収容した犬の養育の困難さ、江戸町人の「御犬上ヶ金」上納への不満の高まりが、犬小屋の早期の解体の原因であったと考えている。 中野の犬小屋に収用されていた犬たちのその後は、史料には残されていない。綱吉の死後の徳川家宣政権の生類憐み政策への対応についての表明文書第3条では、犬小屋の解体に伴い犬は「片付ける」方向で処理されるとされていた。「文昭院殿御実紀」宝永六年正月二十日条にも「中野に設置犬舎も停廃すべけれども、これもよろしくはからふべし」とあるだけで、具体的な犬の処置について記されていない。 中野村では、小屋の犬は「分散」するようにと命じられ、村々で預かっている犬についてもそのようにすることが申し渡されたことから、犬は追い払われて散り散りになった可能性が高いと根崎光男は考え、山室恭子は設置から13年を経たことから犬たちは天寿を全うしたのではないかとしている。 中野の犬小屋の跡地には8代将軍徳川吉宗の時代に、桃の木が植えられ、茶屋なども作られ、桃園の地名として残されている。また、かつて犬小屋があった場所に建てられた中野区役所の前には、複数の犬の像が設置されている。 =安藤百福= 安藤 百福(あんどう ももふく、1910年〈明治43年〉3月5日 ‐ 2007年〈平成19年〉1月5日)、は日本の実業家。インスタントラーメン「チキンラーメン」、カップ麺「カップヌードル」の開発者として知られる。日清食品(株)創業者。日本統治時代の台湾出身で、元の名前は呉百福、民族は台湾人。1966年(昭和41年)に日本国籍を取得した。 1948年(昭和23年)に(株)中交総社(後の日清食品)を設立し、日清食品の代表取締役社長、代表取締役会長、創業者会長を歴任。(社)日本即席食品工業協会会長、(財)安藤スポーツ・食文化振興財団理事長、(財)漢方医薬研究振興財団会長、世界ラーメン協会会長、(財)いけだ市民文化振興財団会長などを務めた。池田市名誉市民。位階勲等は正四位勲二等。 ==来歴・人物== ===少年時代=== 1910年、日本統治時代の台湾・台南県東石郡樸仔脚(現・嘉義県朴子市)に生まれる。父は呉獅玉(別名は呉阿獅)、母は呉千緑。父は資産家だったが、両親を幼少期に亡くし、繊維問屋を経営する祖父呉武のもと、台南市で育った。幼い頃から数字に異常なほど強い興味を持ち、足し算・引き算・掛け算を習得したという。14歳で高等小学校を卒業。学校と家が遠かったため、学生時代は東石郡守の森永信光宅に寄宿し通学した。 ===実業家となる=== 義務教育修了後、祖父呉武の繊維問屋を手伝い、森永郡守の紹介で20歳ごろに町に初めてできた図書館の司書となったが2年で辞し、父の遺産で1932年に台湾の永楽市場で繊維会社「東洋莫大小(とうようメリヤス)」を設立して日本内地から製品を仕入れて台湾で販売した。当時の繊維業界の動きからメリヤスの需要が大きく伸びるという予測が当たり、事業は大きな成功を収めた。1933年には大阪市にメリヤス問屋「日東商会」を設立。メリヤスを扱った他、近江絹糸紡績の夏川嘉久次と組んで、トウゴマを栽培して実からひまし油を採取、葉を養蚕用に繊維メーカーに売る事業も手掛けた。この時期の安藤は実業家として活動する傍ら、立命館大学専門部経済学科(二部)に学び、1934年3月に修了した(同校からは60年後の1996年10月に「戦後のベンチャービジネスの卓越した成果」を称えられ、名誉経営学博士号を授与された)。 太平洋戦争開戦後は、幻灯機の製造、バラック住宅の製造(兵庫県相生市)などの事業をした。軍用機エンジンの部品製造をする軍需工場の経営にも携わったが、三等市民扱いの台湾出身であるために45日間拘束されて憲兵から拷問を受けることになった。百福は国から支給された資材の横流しに気付き憲兵隊に訴えたが、却って自身が横流しした疑いをかけられ、棍棒で殴られる、正座した足の間に竹の棒を挟まれる、といった拷問を受けた。なお、憲兵隊の中に横流しをしたと思しき者の親戚がいたことが後に判明したと自著の中で書いている。自白を強要されたが調書への署名を拒否し、拷問はエスカレートした。安藤は留置場で知り合った人物を通じて知人の元陸軍将校に助けを求め、解放されたが留置生活の影響から深刻な内臓疾患を抱えることになり、後に2度の開腹手術を受けている。空襲が激しくなると終戦まで兵庫県の上郡に疎開し炭焼きなどをするが、大阪で事業を手掛けていた頃在住していた千里山では、三軒隣に藤田田の一家が住んでおり、交流を持つこととなった。 1946年冬、疎開先から大阪へ戻り、泉大津市に住んだ。終戦直後は土地が安く手放されていたため、久原房之助の助言により、大阪の中心街の心斎橋ほか御堂筋や大阪駅前など相当の土地を手に入れた。戦後の食糧難の中で「衣食住というが、食がなければ衣も住もあったものではない」という思いを抱くようになり、食品事業を手掛けることを決意した。百福によるとこの時抱いた想いが原点となって、後に日清食品の企業理念「食足世平(食足りて世は平らか)」が誕生した。自宅近くにあった軍需工場跡地の払い下げも受け、跡地に置かれていた鉄板を用いた製塩業や漁業を営んだ。1948年、「中交総社」(後の日清食品)を設立。栄養食品の開発に取り組んでいた頃、仕事の関係で厚生省に出入りしていたが、当時厚生省は米国の余剰小麦を使って日本人に粉食を奨励しており、同省栄養課長の有本邦太郎(のち国立栄養研究所長)に麺食を進言し、その研究を勧められる。専門家を集めて国民栄養化学研究所を設立し、牛や豚の骨からたんぱく質エキスを抽出することに成功、パンに塗るペースト状の栄養商品「ビセイクル」として病院にも供給された。 また、1947年に名古屋で開校した中華交通学院のオーナー・理事長を務めた(1951年に閉校して建物の大部分は名城大学となった)。 1948年12月、GHQに脱税の嫌疑をかけられた。安藤は前述の事業において地元の若者を雇い、彼らに「奨学金」として現金を支給していたが、奨学金は所得であり源泉徴収して納税すべきであるのにそれを行わなかったというのが理由であった。判決は4年間の重労働の刑で、巣鴨拘置所に収監された。さらに安藤が個人名義で所有していた不動産は全て没収された。収監後、GHQは百福の名を挙げて「納税義務に違反した者は厳罰に処す」という内容の談話を発表した。百福はこの一件について、「みせしめに使われたようだ」と述べている。その後、法学者の黒田覚の支援を受け、弁護団を結成して処分取り消しを求める裁判を起こした。これに対しGHQ側は「訴えを取り下げれば釈放する」と取引を持ちかけた。当初百福は断固裁判を継続する覚悟を固めていたが、最終的には大阪に残した家族の生活を案じて取引に応じて訴えを取り下げ、釈放された。なお、日本の敗戦により、台湾人は外国人となった(平和条約国籍離脱者)。 ===インスタントラーメン、チキンラーメンを開発=== 収監中に営んでいた事業を整理していたため、事業家としての人生は振り出しに戻ってしまった。大阪に新設されたある信用組合から懇願され、その理事長に就任したが、やがてその信用組合は破綻し「いよいよ無一文になった」。なお、百福はこの件において、信用組合と親密な関係にあった銀行に対し不信感を抱いたことから「銀行には頼らない」と心に決め、日清食品の経営時には無借金を貫いた。 大阪府池田市の自宅敷地内に小屋を作り、かねてから構想を抱いていたインスタントラーメン(即席めん)作りに取り組んだ。安藤はインスタントラーメンを「1.おいしくて飽きがこない、2.保存性がある、3.調理に手間がかからない、4.安価である、5.安全で衛生的である」の5要件を満たすものと定義した。早朝から深夜まで小屋に籠り、インスタントラーメン作りに取り組む生活を1年間続けた。 開発の過程は失敗を繰り返しながら少しずつ前進するというもので、開発成功の決定的な場面は思い浮かばないという。安藤はまず、スープの味を染み込ませた「着味麺」の開発に取り組んだ。小麦粉の中にスープを染み込ませて味の付いた麺を作ろうとしたが、製麺機にかけるとボロボロになって切れた。そこで麺を蒸してからスープに浸してみたが、今度は生地が粘ついて乾燥しにくいという問題が生じた。試行錯誤の末、じょうろを使って生地にスープをかけ、しばらく自然乾燥させた後に手でもみほぐすという方法を考案した。スープはチキンスープを選んだ。きっかけは庭で飼っていたニワトリが調理中に暴れたことに驚いて以来鳥肉を口にしなくなった息子が、鳥ガラでとったスープで作ったラーメンだけは食べたことにあった。 次に、麺を長期間保存ができるように乾燥させ、かつ熱湯をかけるとすぐに食べることができる状態になる性質を持たせることに挑んだ。天ぷらからヒントを得て、麺を高温の油で揚げることにした。安藤が意図したのは、麺を高温の油で揚げると水分がはじき出されると同時に麺に無数の穴が開き、熱湯を注いだ際にはその穴から湯が吸収されて麺が元に戻りやすくなるという仕組みであった。麺の固まりを油の中に入れるとバラバラに分解して浮かび上がるため、針金と金網を使って枠型を作り、その中に麺を入れて揚げる手法を考案した。これら一連の製法は「瞬間油熱乾燥法」と名付けられ、1962年に特許を取得した。安藤は、油熱乾燥させたラーメンは独特の香ばしさを持つようになるが、その香ばしさこそがおいしさの秘密であり、普通のラーメンとは違う食べ物にしているのだと述べている。 インスタントラーメンの開発は1958年の春にはほぼ完了した。貿易会社を通じて試作品をアメリカ合衆国に送ったところ注文が入り、日本で発売する前に日本国外への輸出が行われた。同年夏には「チキンラーメン」という商品名で日本での発売を開始。安藤によると、チキンラーメンの需要は「ある日突然に爆発した」。価格をうどん玉6円、乾*7061*25円に対し35円に設定したことや、安藤が当時の慣例とは異なる(2‐3か月の手形決済が普通だった)現金決済を要求したことから問屋の反応は芳しくなかったが、ある時小売店から問屋への注文が殺到するようになり、問屋から「現金前払いでもいいから」と注文が入るようになったという。三菱商事、東京食品、伊藤忠商事の3社と販売委託契約を結び流通網を整え、同時に大量生産を可能にするべく大阪府高槻市に2万4000平方メートルの敷地を購入して工場を建設した。この頃、製麺機の幅について技術者との検討中に切歯へ右手を差し出した際、薬指が第一関節あたり皮一枚でつながっている状態の怪我を負った。医師が後の責任が負えないので切断するしかないと言うのに対し、自分が責任を持つのでくっつけてくれと依頼し、無事に接合された。相手が専門家だからといって、なんでも鵜呑みにしてはいけないと考える機会となったという。 安藤によると「いくら売っても需要に追いつかない」日々が続き、工場用地の購入代金をチキンラーメンの売り上げ1か月分で賄うことができたという。安藤はチキンラーメンがヒットした要因を3つ挙げている。第1はチキンラーメン発売と同じ時期にスーパーマーケットが加工食品を大量販売する流通システムを確立しはじめたこと、第2はテレビコマーシャルが効果を上げたこと、第3は日本の消費者が食事に簡便性を求めるようになっていたことである。1963年10月、安藤が経営する日清食品(かつての中交総社)は東京証券取引所、および大阪証券取引所(現在は市場統合)の第二部に上場した。 なお、チキンラーメンがヒットすると「チキンラーメン」と銘打った類似品が多数出回るようになった。日清食品はチキンラーメンに関する商標や特許を申請・登録し、類似品の販売差し止めを求める裁判を起こすなどしてチキンラーメンのブランドを守ることに努めたが、それに対し類似品を販売する業者が「全国チキンラーメン協会」を設立し、「チキンラーメンは普通名詞である」と訴えて商標登録に異議を申し立てるなどチキンラーメンをめぐる法的紛争は数年にわたって続いた。これに対し食糧庁は業界の協調体制を整えるよう勧告を出し、これを受けて日清食品など56社が社団法人日本ラーメン工業協会を設立、安藤は同協会の理事長に就任した。なお日清食品はこの時申請・登録が遅れた経験を生かし、後にカップヌードルを発売した際には発売前に特許出願を行うなどして紛争に備えた。安藤は特許について、「異議申し立てが多いほど実力がある」、「異議申し立てを退けて成立した特許は、常に強力である」と述べている。 類似品を含めインスタントラーメンの生産が盛んになるにつれ、麺を質の悪い油で揚げるなど品質に問題のある商品が市場に出回るようになった。安藤は法律によって義務付けられる前に自社製品のすべてに製造年月日の表示を行い、日本ラーメン工業協会においても成分表示や製造基準に関する検討を行い、インスタントラーメンに関する日本農林規格を制定するよう農林省に要請を行うなど、インスタントラーメンの安全、信頼の確保のための仕組み作りに取り組んだ。 ===カップヌードルを開発=== 1966年、視察のために訪れたアメリカ合衆国で新商品開発のヒントを掴んだ。あるスーパーマーケットへチキンラーメンを持ちこんだところ、麺を入れるどんぶりがなく、相手は紙コップの中にチキンラーメンを割ったものを入れ、湯をかけてフォークで食べた。それを見て欧米人には箸とどんぶりでインスタントラーメンを食べる習慣がないことを改めて認識し、カップに入れてフォークで食べられるインスタントラーメン、カップヌードルの開発に着手した。カップの素材として、断熱性が高く、経済性に優れたポリスチレンに着目。食品容器にふさわしい品質に精製し、当時厚さ2cmほどに加工されるのが一般的であったところを2.1mmまで薄くした。完成した容器について、「画期的な技術革新」であったと述べている。開発において最も苦労したのは、カップの中に入れる厚さが約6cmの麺の固まりをいかに均一に揚げるかということだった。固まりのまま揚げると中まで油熱が通らないため、バラバラにした麺を揚げると油熱の通った順に浮き上がってくること利用し、バラバラにした麺を枠型の中に入れて揚げ、先に浮き上がった麺が後から揚がった麺に押し上げられてカップと同じ形状に固まる仕組みを編み出し、均一に揚がった厚さ6cmの麺の固まりを作り出すことに成功した。麺の固まりが壊れるのを防ぐため、固まりの直径はカップの底部より大きくし、容器の中で宙づりの状態にして固定された。固まりを容器と水平にして固定することに苦労したが、容器の中に麺を入れるのではなく麺の固まりの上から容器をかぶせる方法を考案した。この方法は実用新案登録された。 安藤は容器が包装材料、調理器具、食器の3役をこなす画期的な商品が完成したのではないかという感触を得たが、マスコミや問屋からの評判は冴えず、スーパーマーケットなど正規のルートで販売することができなかった。そこで給湯設備付きの自動販売機を設置したところ、売れ行きがよく、徐々に取り扱う問屋が現れるようになった。カップヌードルの需要が爆発的に高まるきっかけとなったのは、1972年に起こったあさま山荘事件であった。この事件の際、山荘を包囲する機動隊員がカップヌードルを食べる姿が繰り返しテレビで放映されたことにより大きな話題を集め、生産が追いつかなくなるほどの売れ行きを見せるようになった。カップヌードルは日清食品にとってチキンラーメン以来のヒット商品となり、1972年に同社は東京証券取引所、大阪証券取引所、および名古屋証券取引所の第一部に上場した。 ===カップライスの失敗=== 1974年7月、日清食品は「カップライス」を発売した。この商品は食糧庁長官から「お湯をかけてすぐに食べられる米の加工食品」の開発を持ちかけられたことがきっかけとなって完成したものであった。カップライスを試食した政治家や食糧庁職員の評判はすこぶる高く、マスコミは「奇跡の食品」、「米作農業の救世主」と報道した。「長い経営者人生の中で、これほど褒めそやされたことはなかった」と述懐しているが、価格が「カップライス1個で袋入りのインスタントラーメンが10個買える」といわれるほど高く設定された(原因は米が小麦粉よりもはるかに高価なことにあった)ことがネックとなって消費者に敬遠され、早期撤退を余儀なくされた。安藤は日清食品の資本金の約2倍、年間の利益に相当する30億円を投じてカップライス生産用の設備を整備していたが「30億円を捨てても仕方がない」と覚悟を決めたという。この時の経験について安藤は、「落とし穴は、賛辞の中にある」と述べている。 ===社長の座を息子へ、会長就任=== 1981年(昭和56年)、社長の座を長男の安藤宏寿に譲り、自らは会長に退くが、その2年後の1983年(昭和58年)、宏寿が経営方針の相違から社長を退任したため、百福が会長兼任で再び社長に復帰した。1985年(昭和60年)6月に次男の宏基が社長に就任し(宏基は現在日清食品ホールディングスCEO)、再び会長専任となった。 社長退任後、安藤はかねてから関心を寄せていた「日本人は何を食べてきたのか」というテーマを探求すべく、4年間にわたり日本各地を巡って郷土料理を食べる旅に出た。続いて「いつ、誰が、どこで、ラーメンを生みだしたのか」という疑問から中国、中央アジア、イタリアなどを巡る旅に出た。1987年(昭和62年)、食文化の探究のために「麺ロード調査団」を結成して料理研究家の奥村彪生とともに上海、南京、揚州、広州、厦門、福州、成都、北京、西安、蘭州、ウルムチ、トルファンなど中国全土を巡って300種類を超える麺を食べた。さらに文化人類学者の石毛直道にシルクロードを通じて世界各地に伝搬した麺の歴史を研究させて麺の系譜図を完成させた。調査の結論として安藤は、「ラーメンは中国を起源とし、シルクロードを通ってイスラム世界に伝わり、さらにイタリアへ伝わった」と見解を示している。 1996年、食品業界におけるベンチャーを奨励するために基金を設立し、基金をもとに「食創会(新しい食品の創造開発を奨める会)」が設立された。食創会は日本経済新聞社の後援の下、食品研究・開発者を対象とした安藤百福賞を主催している。 1999年、安藤がチキンラーメンを開発した大阪府池田市にインスタントラーメン発明記念館が建設された。記念館の中には安藤が開発研究を行った小屋が再現された。(この小屋には「研究や発明は立派な設備がなくてもできる」という思いが込められているとのことである。)2001年には日本経済新聞『私の履歴書』において自伝を執筆。安藤は「自らの人生の浮き沈みを世の中に語って、果たして何の意味があるのか」という思いから日経新聞からの要請を断り続けていたが、「何か人に言えない具合の悪いことでもあるのか」と担当者に言われたことに反発し、執筆を決意した。 2002年頃から宇宙食ラーメン「スペース・ラム」の開発に取り組んだ。スペース・ラムには無重力空間でもスープが飛び散らないよう粘度を高め、スペースシャトル内で給湯可能な70度の湯で調理ができるようにするなどの工夫が施された。スペース・ラムは2005年7月にアメリカ合衆国が打ち上げたスペースシャトル「ディスカバリー」に搭載され、宇宙飛行士の野口聡一によって食された。 ===晩年=== 同じく2002年、「自らが元気なうちに経営を引き継がせたい」という理由から6月29日で代表取締役会長を退任し、「創業者会長」に就任した。退任に際し安藤は、「安藤スポーツ・食文化振興財団の理事長として、スポーツ、自然体験、食育の振興などを通じ、明日をになう子供たちの健全な心身の育成に力を注ぎたい。」と抱負を述べている。安藤スポーツ・食文化振興財団は1983年、当時社会問題となっていた少年の非行問題への対策として子供の心を健全に育てるためのスポーツ振興を目的に安藤が創設した「日清スポーツ振興財団」を前身としている。 2006年、タイム誌アジア版11月13日号のアジア版60周年記念特集「60年間のアジアの英雄」において、アジアの英雄の一人に選ばれた。 2007年(平成19年)1月5日、急性心筋梗塞のため大阪府池田市の市立池田病院で死去。享年97(満96歳没)。3日前には幹部社員とゴルフをし、18ホールを回ったという。亡くなる前日には仕事始めで立ったまま約30分の訓辞を行い、昼休みには社員と餅入りのチキンラーメンを食べたという。96歳まで生涯現役で、波乱万丈の実業家人生を終えた。長寿・健康の秘訣を聞かれると必ず「週2回のゴルフと毎日お昼に欠かさず食べるチキンラーメン」と答えるのが口癖だった。生前に残した言葉の中から、「食足世平」「食創為世」「美健賢食」「食為聖職」の4つが日清食品グループの創業者精神として継承されている。 同年1月9日付の米紙ニューヨーク・タイムズは社説でその死を悼み、「ミスターヌードルに感謝」という見出しを掲げ、即席麺開発の業績により「安藤氏は人類の進歩の殿堂に不滅の地位を占めた」と絶賛した。同社説は「即席めんの発明は戦後日本の生んだ独創的な発明品、シビック、ウォークマンやハローキティのように、日本から世界的に普及した製品と同じく会社組織のチームで開発された奇跡だと思っていたがそうではなかった。安藤百福というたった一人の力で開発されたものなのである」と驚きを表現した。さらに社説は「人に魚を釣る方法を教えればその人は一生食べていけるが、人に即席めんを与えればもう何も教える必要はない」と結んでいる。 2月27日、大阪市の京セラドーム大阪にて社葬が行われた。葬儀委員長は生前から安藤と親交があった中曽根康弘元首相が務め、小泉純一郎元首相、福田康夫元首相夫妻などのほか、政官学界、実業界から親交の深かった6500名が参列し別れを惜しんだ。戒名は「清寿院仁誉百福楽邦居士」。没後、正四位に叙された。 ===死後=== 2008年(平成20年)4月8日、世界各国の即席麺メーカーが参加する「第6回世界ラーメンサミット」が大阪で行われるのを記念して、インスタントラーメン発明記念館(現・安藤百福発明記念館 大阪池田)の正面広場に安藤の銅像が建てられた。同日、仁子夫人、中曽根康弘元首相らが参加して除幕式が行われた。銅像はカップヌードルの容器をかたどった台座の上に立ち、右手にはチキンラーメンが掲げられた。安藤の功績を称える碑文は中曽根元首相の手によるもので、「安藤百福翁は勤勉力行、不屈不撓の人である。1910(明治43)年に生を受け、幼くして両親を無くし、自立独立の道を歩む。敗戦後、無一文の苦境から立ち上がり、困難を克服して世界初の即席めん「チキンラーメン」を開発、次いで世界初のカップ麺「カップヌードル」を発明、日本の食生活に一大革命を起こす。百福翁の蒔いた一粒の種が国境を越えて世界に伝播し、ついに総需要九百億食を超える世界食となる(後略)」が記されている。 安藤の創業した日清食品は2008年(平成20年)10月1日付で持株会社制に移行し、「日清食品ホールディングス」に商号変更され、同時に事業会社として「日清食品(株)」が新たに設立されている。また同年、日清食品グループが創立50周年を迎えたのを機に、次の50年(創立100周年となる2058年)に向けて、企業プロジェクト「百福士(ひゃくふくし)プロジェクト」を始めた。これは、社会福祉活動に熱心だった百福の遺志を継ぎ、今後50年に合計100の社会貢献活動を行っていくものである。2015年3月5日には彼の生誕105周年を記念したGoogle Doodleが日本やアメリカ合衆国、南米の数カ国、オーストラリアなどの複数の国向けに表示された。 ===生誕100年=== 2010年(平成22年)は安藤百福の生誕100年にあたり、記念商品が発売されたほか、テレビの特別番組(『インスタントラーメン発明物語 安藤百福伝』、『こだわり人物伝「安藤百福〜遅咲きのラーメン王」』が放映されたほか、記念イベントも開催された。なお、同年3月17日には百福の妻仁子が92歳で生涯を閉じている。2011年(平成23年)9月17日、神奈川県横浜市中区のみなとみらい21地区で安藤百福発明記念館(カップヌードルミュージアム、現・安藤百福発明記念館 横浜)が開館した。同年、子どもたちの自然体験活動の奨励に熱心だった安藤の思いを引き継ぎ、安藤百福記念 自然体験活動指導者養成センター(愛称「安藤百福センター」)が長野県小諸市に誕生している。 ==家族・親族== 祖父 ‐ 呉武父 ‐ 呉獅玉(別名は呉阿獅)母 ‐ 呉千緑妻 ‐ 呉黄綉梅(台湾時代の第1夫人) 長男 ‐ 安藤宏寿(ひろとし、元日清食品代表取締役社長)・故人 養女 ‐ 呉火盆長男 ‐ 安藤宏寿(ひろとし、元日清食品代表取締役社長)・故人養女 ‐ 呉火盆妻 ‐ 呉金鶯(台湾時代の第2夫人、百福と共に来日したが後に台湾に帰国し再婚) 呉宏男・故人 呉武徳・故人 呉美和呉宏男・故人呉武徳・故人呉美和妻 ‐ 安藤仁子(安藤重信の三女。安藤家は福島県二本松神社の神職一族で、当地では名家。百福は1948年に大阪に移住してのち仁子と結婚して1966年に日本国籍を取得した。仁子は2010年に92歳で亡くなった。連続テレビ小説『まんぷく』ヒロイン立花福子のモデル。) 二男 ‐ 安藤宏基(こうき、現日清食品ホールディングス株式会社代表取締役CEO) 娘 ‐ 堀之内明美二男 ‐ 安藤宏基(こうき、現日清食品ホールディングス株式会社代表取締役CEO)娘 ‐ 堀之内明美 ==栄典== 藍綬褒章(1977年)勲二等瑞宝章(1982年)紺綬褒章(1983年)科学技術庁長官賞「功労者賞」(1992年)勲二等旭日重光章(2002年)正四位(2007年) ==主な著作== 『インスタントラーメン発明王 安藤百福かく語りき』(2007年、中央公論新社)ISBN 978‐4‐12‐003813‐6『食欲礼賛』(2006年、PHP研究所)ISBN 978‐4‐569‐65441‐6『100歳を元気に生きる 安藤百福の賢食紀行』(2005年、中央公論新社)ISBN 978‐4‐12‐003637‐8『魔法のラーメン発明物語 私の履歴書』(2002年、日本経済新聞社)ISBN 978‐4‐532‐16410‐2『ラーメンのルーツを探る 進化する麺食文化』(1998年、日清ネットコム、共著:奥村彪生、安藤百福)ISBN 978‐4‐938642‐09‐9『食は時代とともに 安藤百福フィールドノート』(1999年、旭屋出版) ISBN 978‐4‐7511‐0157‐5『苦境からの脱出 激変の時代を生きる』(1992年、日清ネットコム) ISBN 978‐4‐938642‐05‐1『日本めん百景』(1991年、日清ネットコム)ISBN 978‐4‐938642‐02‐0『時代に学ぶ美健賢食』(1990年、日清ネットコム)『美健賢食 新和風薬膳のすすめ』(1989年、日清ネットコム)ISBN 978‐4‐938642‐01‐3『麺ロードを行く』(1988年、講談社) ISBN 978‐4‐06‐203847‐8『安藤百福語録』(1987年、日清食品)『続・日本の味探訪 食足世平』(1987年、講談社)ISBN 978‐4‐06‐203471‐5『日本の味探訪 食足世平』(1985年、講談社)ISBN 978‐4‐06‐201580‐6 ==特集された番組== プロジェクトX 挑戦者たち (NHK総合)魔法のラーメン 82億食の奇跡 〜カップめん・どん底からの逆転劇〜 2001年 10月16日 放送経済ドキュメンタリードラマ ルビコンの決断 (テレビ東京) 食の安全”をどう守ったのか? インスタントラーメン開発者の決断 2009年 6月4日 放送奇跡体験!アンビリバボー (フジテレビ) 絶対諦めなかった奇跡SP『世界が絶賛した日本人 偉大なる大発明』2013年 8月22日放送昭和偉人伝 安藤百福 (BS朝日)2014年2月5日 放送チキンラーメン60周年 注ぎたくな〜るTV (中京テレビ)2018年 8月25 放送NHK映像ファイル あの人に会いたい アンコール〜安藤百福 <実業家>(NHK総合)2018年 9月29日 放送先人たちの底力 知恵泉(ちえいず)・選「インスタントラーメンの父 安藤百福」(NHKEテレ)2019年 1月 1日 放送 ==演じた俳優== 中村梅雀(連続テレビ小説「てるてる家族」、2003年)安藤をモデルとした登場人物「安西千吉」役渡辺いっけい(「経済ドキュメンタリードラマ ルビコンの決断」、2009年)原田龍二(「インスタントラーメン発明物語 安藤百福伝」、2010年)長谷川博己 (連続テレビ小説「まんぷく」、2018年)安藤をモデルとした登場人物「立花萬平」役 =隠者ピエール= 隠者ピエール(いんじゃピエール、仏: Pierre l’Ermite、生年不詳 ‐ 1115年7月8日に現在のベルギーのユイ近郊のヌフムスティエ(Neufmoustier)で死去?)は、11世紀末にフランス北部のアミアンにいた司祭で、第1回十字軍における重要人物。十字軍本隊に先立ち、民衆十字軍を率いてエルサレムを目指し、その壊滅後は第1回十字軍にも参加した。 ==十字軍以前のピエール== ノジャンのギベール(Guibert de Nogent)によれば、ピエールはアミアン出身で、北フランスのどこかで修道士の服を着て隠棲していたとされる。また東ローマ帝国の帝室に生まれた皇女で歴史家のアンナ・コムネナによれば、ピエールは1096年以前にもエルサレムへの巡礼を目指したが、途中でトルコ人に捕まり拷問されて聖地巡礼はならなかったとされる。 文献によっては、ローマ教皇ウルバヌス2世が1095年11月にクレルモン=フェランで開催し聖地への軍の派遣を訴えたクレルモン教会会議の場にピエールもいたとある。しかし、フランスの人々に十字軍参加を訴える説教師の一人としてピエールの存在が確認できるのはこの後のことである。ノジャンのギベールは、彼が隠棲をやめて辻説教をするようになった目的は不明としているが、アンナ・コムネナの記述が事実とすれば、自身が聖地巡礼で受けた仕打ちが、民衆に十字軍参加を煽る動機となったとも考えられる。 クレルモンの北150kmにあるベーリー地方で活動を始めたピエールは、道徳の立て直しを叫ぶ情熱的な信仰復興運動家としてたちまち熱狂的な人気を集めた。ノジャンのギベールによれば、ピエールは常に裸足で、質素な羊毛のチュニックと頭巾のあるケープを着てロバに乗り、集まった多数の喜捨を貧者に施し、各地でいさかいを鎮めて聖者の如く崇められたという。ピエールは年齢不詳で長いあごひげをたくわえ、姿は痩せこけて背は低かったが、声は大きくその演説は司教や貴族から農民や商人、盗賊や人殺しに至るまで多くの人の心を動かすことができた。ノジャンのギベールは、ピエールの訴えに熱狂した人々が殺到して、彼の衣服やロバのたてがみをはぎ取り、聖遺物でもあるかのようにしまいこんだことを書いている。 ピエールの呼びかけに応えて何千人もの庶民が武器をとり十字架を背負い、手に棕櫚を持ってフランス各地から聖地への行進に加わった。非戦闘員の多い民衆十字軍は、実態は大巡礼団のようなものであり軍事的には何の役割も果たさないものであった。しかし民衆十字軍と呼ばれるピエールの軍勢は貧者ばかりでなく、貴族階級に属さない裕福な自作農や商人、聖職者ではない俗人も多く、後に一行の指揮官となる「無産公」ゴーティエ・サンザヴォワール(Gautier Sans‐Avoir、無一文のゴーティエ)などのように武装した兵士や貴人、下級聖職者も参加している。 フランスの中部から北部、フランドルなどを周るピエール一行には次々と貧者たちをはじめとする民衆が合流した。十字軍への熱気の高まりで、中には聖地に着く前から異教徒であるユダヤ人を殺し始める者もおり、ロレーヌ地方やケルン、マインツなどのユダヤ人コミュニティでは略奪や虐殺が行われた。 ==民衆十字軍== ピエール率いるフランス人の集団は1096年4月初めにケルンに入った。ピエールはここでドイツ人たちにも十字軍参加を呼び掛けたが、待ちきれないフランス人たちの一部は無一文のゴーティエを先頭に先に出発した。ピエールも民衆十字軍の5つの部隊のうちのひとつ(男女総勢4万人ほど)を率いて4月中にケルンを発った。騎士たちのように着飾ることのできない彼らの風体は行く先々で怪しげに見られ、時に秩序を失う彼らは各地で軋轢を起こした。途中のハンガリー領内などでは略奪も発生したことが記録されている。記録には、行く先々で民衆十字軍の者たちが地元(ハンガリー)の者たちに「ここはもうエルサレムなのか」と聴いて回ったというものもある。 7月末にその内の3万人ほどがコンスタンティノープルにたどり着いた。東ローマ帝国皇帝アレクシオス1世コムネノスは予想外の大群衆の到着に驚愕した。皇帝は東方正教会を率いており西方のキリスト教徒集団の到来を喜ばず、しかも万を超える群衆に食糧その他の世話をしなければならないことに負担を感じていた。 民衆十字軍の貧者たちの多くはここまでの間に脱落していた。ローマ・カトリックの範囲を出ると、彼らは道筋の教区や領主たちからの施しを受けられず飢え始め、ある者は故郷へ戻り、ある者は各地の盗賊や領主に捕まり奴隷として売られた。民衆十字軍の5つの部隊のうちコンスタンティノープルにたどり着くことができたのは、ピエール率いる一行と無一文のゴーティエ率いる一行のみであり、彼らはここで一つの軍勢へと合流した。ピエールらは皇帝らと自分たちを聖地へ渡らせる船を出すよう交渉したが、その間コンスタンティノープルの政府は首都郊外で宿営を続ける民衆十字軍に対する食糧補給が十分にできず、飢えた彼らが店を襲い始めたため、軍勢を厄介払いする必要が生じ始めていた。 皇帝は、首都の無秩序がこれ以上広がり、さらに十字軍本体もコンスタンティノープルに集合して彼の地位を脅かすことを恐れたため、ピエールらとの交渉を早期に決着させて船を手配し彼らをボスポラス海峡の向こうへ渡らせることにした。8月初め、民衆十字軍はアジア側の海岸に到達し、ヘレノポリスという小さな町で宿営した。皇帝は小アジアのセルジューク朝領内を通るための護衛をつけることを約束しており、ピエールらに命令があるまで待機するよう伝えた。しかし民衆十字軍は食料が欠乏しており、アンナ・コムネナによれば、皇帝の命令を無視してセルジューク朝領内に入り、ギリシャ人やトルコ人の街や村を襲い略奪や虐殺を始める者が現われ、さらに彼らの持ち帰った戦利品をめぐる内輪もめも起こり、自分たちも食糧や戦利品を奪おうとして本隊を離れセルジューク朝に侵入する者も出たという。 近くの大都市ニカイアを首都とするルーム・セルジューク朝の王クルチ・アルスラーン1世は怒り、民衆十字軍の一部兵士が陥落させた城を奪還し、十字軍兵士たちを殺戮した。ピエールは失意のうちにコンスタンティノープルへ戻り、皇帝の助けを求めた。クルチ・アルスラーン1世は残る民衆十字軍本体を壊滅させるため、宿営地とニカイアの間に伏兵を置き、間諜を宿営地に送って「本隊を離れた者たちがニカイアを陥落させ略奪を始めている」という噂を広めさせた。民衆十字軍は混乱に陥り先を争うようにニカイアへ出発したが、伏兵にかかり壊滅的打撃を受けた(ドラコンの戦い)。神の助けで守られているとピエールが言った巡礼者たちは、ほとんどが殺され、残りは捕まり奴隷として売られてしまった。 ==第1回十字軍== ピエールとごく少数の生き残りは、皇帝の助けを期待できないまま、1096年の冬から1097年にかけてコンスタンティノープルで過ごし、巡礼の道を護衛してくれるであろう十字軍本隊が来るのを待った。 諸侯の部隊がコンスタンティノープルに到着するとピエール一行も合流し、1097年5月エルサレムに向けて出発し小アジアを横断し始めた。ピエールの軍勢はクルチ・アルスラーン1世らの伏兵でほとんど失われていたものの、ピエールの権威は十字軍内の武装していない庶民、けが人、破産した騎士らのあいだでは高く人気も絶大だった。ピエールは何度か説教を行い十字軍を鼓舞するものの、パレスチナに向けて小アジアとシリアを横断する過程での役割は補助的なものにすぎなかった。 次に記録にピエールが登場するのは、1098年の初頭、アンティオキア攻囲戦の最中に極度の欠乏状態から逃亡しようとしたときである。ノジャンのギベールが述べる通り、ピエールのみじめな姿は「堕ちた英雄」のものであった。しかし、ノジャンのギベールやその他の年代記作者は、この後ピエールの行った説教が飢えて半死半生の兵士たちを鼓舞し、戦いを続けさせたことを記している。十字軍はアンティオキアの城門の衛兵を買収し門を開けさせ、一気になだれ込んで街を落とし、この後に到着して逆にアンティオキアを包囲した圧倒的多数のムスリム連合軍をも破り去った。アンティオキアをムスリム軍が包囲している間、ピエールは諸公によりムスリム側の指揮官ケルボガのもとへ送られ、一騎討ちでの決着を提案したものの拒否されている。 十字軍はアンティオキア攻略後、飢えと疫病で混乱しシリア内陸部をさまよった。ピエールはこの後、1099年3月に十字軍がレバノン山脈山中のアルカ(Arqa)を攻囲した際に、施しの責任者として登場している。十字軍はアルカから山を越え地中海側に出てパレスチナを目指した。ピエールはエルサレム攻囲戦でエルサレムが落ちる前、城壁の周りを祈願しながら行進する人々を率いており、またエルサレム陥落後、8月のアスカロンの戦いで十字軍側が奇跡的勝利を収める前にもエルサレム城内で祈願を行っている。1099年末にはピエールはラタキアにおり、そこから西へ向かう船に乗ったとされるが、この以後の確かな記録はない。アーヘンのアルベルト(Albert d’Aix)によれば、1131年、自身がフランスに建てた聖墳墓教会の副長として死んだと記している。またジャック・ド・ヴィトリ(Jacques de Vitry)によれば、1100年に現在のベルギー南西部のユイに現れ近郊にヌフムスティエ(Neufmoustier)修道院を設立し1115年に死んだともされる。これはジャック・ド・ヴィトリがリエージュの教区の住民をアルビジョア十字軍に参加させるために創作したものとも考えられる。 ==隠者ピエールの伝説化と評価== 後のカトリックの歴史家や近代の歴史学者は否定しているが、十字軍から間もない12世紀前半の年代記作者であったマルムズベリーのウィリアムは、隠者ピエールこそが第1回十字軍の真の発起人であったと書いている。彼は、ピエールがエルサレムを巡礼した際、聖墳墓教会で彼の前にイエスが現われ、十字軍を呼び掛けるよう命じたという逸話を記している。この話は、第1回十字軍から数世代後に聖地にいたギヨーム・ド・ティール(Guillaume de Tyr)の文にも書かれており、パレスチナにいた十字軍の子孫たちの間でも、ピエールが十字軍の呼びかけ人だったと信じられていたことを示す。この伝説の起源がどこかについては研究がなされており、19世紀ドイツの歴史学者ハインリヒ・フォン・ジーベル(Heinrich von Sybel)は十字軍に参加した貧者たちの宿営地で隠者ピエールに対する偶像化が始まっていたことを述べ、ロレーヌ人兵士らの間でゴドフロワ・ド・ブイヨンが十字軍最高の戦士として英雄化されたことと並行していると指摘している。 アンナ・コムネナの著した歴史書や、アンティオキア公ボエモン1世に近い人物のものとみられる著者不明の年代記『ゲスタ・フランコルム』(Gesta Francorum、ノジャンのギベールが年代記を書くにあたり基とした書物)では、実在の人物としてのピエール像が描かれているが、その他の12世紀の年代記、例えばアーヘンのアルベルトの著書では隠者ピエールが、「十字軍の目的が純粋だった時代」の伝説的かつ敬虔な指導者として描かれている。 隠者ピエールに対する今日の見方は、怪しげな扇動者というものから、民衆指導者としてのある程度の評価まで分かれている。民衆十字軍についての評価も、11世紀末や12世紀の当時から今日まで様々に分かれている。物的にも精神的にも貧しい集団として、軍事的に足手まといになったことや無秩序な烏合の衆で行く先々で略奪をしたことを強調する否定的な見方もあれば、民衆史観などの立場から、当時の中世ヨーロッパの貧しい生活から抜け出そうとした民衆による運動として見るものもある。 =ロバート・ピール= 第2代準男爵サー・ロバート・ピール(英: Sir Robert Peel, 2nd Baronet, PC, FRS、1788年2月5日 ‐ 1850年7月2日)は、イギリスの政治家。 保守党の政治家ながらに自由主義的な人物であり、穀物法廃止をめぐって保守党が分裂した後は自由貿易を奉じるピール派を旗揚げした。 ウェリントン公爵が党首を退いた後の保守党を指導し、首相を2度にわたって務めた(1834年 ‐ 1835年、1841年 ‐ 1846年)。ウィリアム4世の治世からヴィクトリア朝初期にかけてホイッグ党党首メルバーン子爵と政権を奪い合った。 ==概要== イギリス最大の紡績工場の工場主の息子として生まれる。パブリックスクール・ハーロー校に入学し、そこからオックスフォード大学クライスト・チャーチへ進学する。 1809年にトーリー党(後の保守党)の庶民院議員に初当選した。1812年から1818年までリヴァプール伯爵内閣のアイルランド担当大臣(英語版)を務める。1819年には金本位制再導入を検討する委員会の委員長となり、金本位制への移行に主導的役割を果たした。1821年に内務大臣としてリヴァプール内閣に再入閣し、刑法の厳罰主義を改めるなど自由主義的な内政改革を行った。 続くジョージ・カニング内閣にはカトリック解放反対の立場からウェリントン公爵らとともに入閣を拒否した。1828年にウェリントン公爵内閣が成立するとその内務大臣兼庶民院院内総務として入閣。アイルランド・カトリックが当選するなど情勢の変化に応じてカトリック議員を認める改革を行い、また首都警察法(英語版)の制定を主導して近代イギリス警察の基礎を築いた。 1830年に成立したホイッグ党政権グレイ伯爵内閣が推し進める第1次選挙法改正に反対したが、阻止することはできなかった。 1834年にグレイ伯爵の後継首相メルバーン子爵が国王ウィリアム4世に罷免されたことで保守党が政権を奪還して第1次ピール内閣を組閣した。しかし野党勢力の団結が強まる中、1835年にはアイルランド国教会の教会税転用問題をめぐる採決に敗れて総辞職することとなった。 代わって成立した第2次メルバーン子爵内閣に対しては初め「ヴィクトリア朝の妥協」と呼ばれる協力的野党の立場で臨んだが、スタンリー卿(後のダービー伯爵)の派閥が保守党に合流すると政権に対する攻勢を強め、1839年にはメルバーン子爵を辞任に追いやった。しかしヴィクトリア女王と寝室女官人事をめぐって争ったため、この時には組閣できず、メルバーン子爵政権が継続されることになった(寝室女官事件)。 1841年の解散総選挙(英語版)に勝利し、議会でメルバーン子爵を敗北させて総辞職に追い込んだ。この頃には夫アルバート公子の影響で女王からも高く評価されるようになっており、問題なく第2次ピール内閣(英語版)を成立させることができた。 ウィリアム・グラッドストンを片腕に自由貿易を推進した。またピール銀行条例を制定し、銀行券の流通量のコントロールを強化した。1846年にはアイルランドでジャガイモ飢饉が発生したことを受けて穀物法を廃止して穀物の自由貿易へ移行しようとしたが、ベンジャミン・ディズレーリら党内の保護貿易主義者の激しい反発を受けた。穀物法廃止はなんとか実現するもディズレーリらの策動で内閣は総辞職に追い込まれた。 その後、保守党は分裂し、党内の自由貿易派を引き連れてピール派を結成した。その4年後の1850年に落馬の負傷がもとで死去した。 ==生涯== ===生い立ち=== 1788年、ランカシャー・ベリーに生まれる。父ロバート・ピール(英語版)はイギリスで最も巨大な紡績工場の経営者であり、1790年に庶民院議員となり、1800年に准男爵の称号を与えられた人物である。 ピールは長男であり、長弟にウィリアム・イェーツ(英語版)、次弟にジョナサン(英語版)がいる。また妹が二人おり、それぞれリッチモンド公爵、ヘンリー男爵(英語版)に嫁いでいる。 最上流の中産階級に生まれたピールは、名門パブリックスクール・ハーロー校に入学し、そこからオックスフォード大学クライスト・チャーチへ進学するという一流の貴族的教育を受けた。1808年に卒業試験を受けたが、当時のオックスフォードの卒業試験は数学と古典に分かれていた。ピールはその両方で首席の成績をとって卒業している。 ===庶民院議員に初当選=== 1809年、父が買収した腐敗選挙区のアイルランド・キャシェル選挙区(英語版)からトーリー党の候補者として出馬し、庶民院議員に初当選した。 ===リヴァプール伯爵内閣の閣僚=== 1810年に陸軍・植民地省次官に就任。さらに1812年にリヴァプール伯爵内閣が成立するとそのアイルランド担当大臣(英語版)として入閣した。アイルランド警察の創設や飢饉対策に尽力した。1818年までの6年にわたって在職した。 1817年秋頃から外国為替相場におけるポンドの低落と金価格高騰により、これまで部分的に行われていた正貨兌換を全面的に行うことを希望する者が増えた。こうした中の1819年に庶民院と貴族院はそれぞれ正貨兌換の再開について検討する秘密委員会を設置した。ピールがその委員長に就任し、委員会は「ピール委員会」と通称されるようになった。委員会においてピールは、通貨の健全化のため、できるだけ早期に金本位制に移行する必要があり、そのためにはイングランド銀行の銀行券を減らす必要があると結論した。ピールは庶民院でもそれを熱弁し、慎重派を圧倒して1819年7月に金本位実施条例(通称「1819年ピール条例」)成立にこぎつけた。 1819年にジュリア・フロイドと結婚した。 1821年、保守的なシドマス子爵ヘンリー・アディントンに代わって内務大臣としてリヴァプール伯爵内閣に再び入閣。ピールは同時期に入閣した外相ジョージ・カニング、蔵相フレデリック・ロビンソン、商務庁長官ウィリアム・ハスキソンらとともに閣内の自由主義派として知られた。彼らの存在によってリヴァプール伯爵内閣はそれまでの「反動的」性格を改めて「自由主義的」になっていった。ピールは内相として残虐な死刑方法の廃止、刑務所の環境の改善など非近代的な厳罰主義を改めて更生に主眼を置いた改革を行った。 しかしリヴァプール内閣は17世紀以来イギリス公職から排除されてきたカトリックに公職就任を認めるか否かをめぐって分裂した。外相ジョージ・カニングらはカトリック解放を支持したが、内相ピールや軍需長官ウェリントン公爵らはカトリック解放に強く反対した。ピールはトーリー党の中では自由主義的な思想を持っていたが、同時に敬虔なイングランド国教会の信徒でもあった。 1827年2月にリヴァプール伯爵が脳卒中になると、その後継者問題が浮上した。国王ジョージ4世はウェリントン公爵を召集したが、公爵は外相カニングか内相ピールに大命を与えるべきことを推挙した。二人はカトリック解放問題をめぐって意見が正反対であったからどちらも相手の内閣に入閣することを拒否していた。国王はカニングもピールも嫌っていたが、カニングを排除した内閣の組閣は不可能な情勢から結局4月10日にカニングに組閣の大命を下した。 こうしてカニング内閣が成立したが、ピールやウェリントン公爵らトーリー党内のカトリック解放反対派がカニング政権に強く反発し、党は分裂した。結局カニングはランズダウン侯爵率いるホイッグ党穏健派と連立を組んで組閣することになった。 ===ウェリントン公爵内閣の閣僚=== カニングは組閣から間もない1827年8月に病死。後任のゴドリッチ子爵内閣も閣内分裂により1828年1月には総辞職した。 ジョージ4世はウェリントン公爵に組閣の大命を与えた。ウェリントン公爵の片腕であるピールは、早速ウィリアム・ハスキソンらカニング派(英語版)と折衝して同派のウェリントン公爵内閣への入閣を取り付けた(だが結局カニング派閣僚は全員すぐに辞職してしまった)。一方ランズダウン侯爵らホイッグ党穏健派は入閣を拒否している。 ピール自身は内務大臣兼庶民院院内総務としてウェリントン公爵内閣に入閣した。 ウェリントン公爵もピールもカトリック解放反対の立場だったはずだが、1828年7月にアイルランドのカトリック議員ダニエル・オコンネルが当選するようになるとそうも言っていられなくなった。彼を議場に入れないとアイルランドで暴動が発生する可能性があったためである。 庶民院院内総務であるピールがカトリックが庶民院議員となれるようにする法案の作成を主導し、同法案を1829年3月に庶民院に提出し、翌月に可決させた。しかしこれによって国教会信徒のピール批判が強まり、ピールはそれまで選出されていたオックスフォード大学選挙区での議席を失った。 1829年には内務大臣として首都警察法(英語版)制定を主導してスコットランドヤードにロンドン警視庁を創設。近代警察の礎を築いた。以後、イギリスの警察官はピールにちなみ「ピーラー(peelers)」、あるいはロバートの愛称“ボブ”から「ボビー(bobbies)」と呼ばれる。 1830年5月には父が死去し、准男爵位を継承した。 ホイッグ党嫌いの国王ジョージ4世の崩御や野党ホイッグ党から強まる選挙法改正の機運によりウェリントン公爵内閣は1830年11月に議会で敗北を喫し、総辞職を余儀なくされた ===最初の野党時代=== 1830年11月、半世紀ぶりのホイッグ党政権グレイ伯爵内閣が成立した。 グレイ伯爵内閣は選挙法改正を推し進めようとしたが、庶民院においてはピール、貴族院においてはウェリントン公爵がその反対運動を行った。ピールはいかなる選挙権拡大にも反対という立場ではなかったものの、ホイッグ党が主導する選挙法改正には断固として反対するつもりだった。 ウェリントン公爵は選挙法改正法案を廃案にすべく再び首相になろうと図ったものの、世論の激しい批判で失敗した。これ以降ウェリントン公爵は「二度と組閣したくない」と公言するようになり、保守党の実務をピールに委ねるようになった。しかしピールに対する党内極右派(ウルトラズ)の反発は強く、この時点でピールを正式な党首にするのは不可能だった。 グレイ伯爵内閣は1832年6月に第一次選挙法改正を達成し、その後も社会改革政策を次々と打ち出したが、それに伴って閣内・ホイッグ党内の亀裂も徐々に拡大していき、1834年5月にはアイルランド国教会の教会税を転用する法案をめぐって内閣は閣内分裂を起こすようになった。スタンリー卿(後のダービー伯爵)が陸軍・植民地大臣を辞職して、ホイッグ党からも離党しダービー派を形成するようになったのである。グレイ伯爵はこれ以上の政権運営は不可能と判断して7月に辞職した。 後任の首相にはグレイ伯爵の信任厚きメルバーン子爵が就任したが、メルバーン子爵はホイッグ左派のジョン・ラッセル卿を庶民院院内総務にしようとしたことで国王ウィリアム4世と対立を深め、11月に罷免された。 ===第一次ピール内閣=== メルバーン子爵を罷免したウィリアム4世は、保守党政権に戻すべく、ウェリントン公爵に組閣の大命を与えたが、もう組閣しないと決めていた公爵はピールに大命を与えるべきことを奏上した。ただこの時ピールはイタリア訪問中でイギリスを不在にしていたため、ピールが帰国するまでの暫定としてウェリントン公爵が首相に就任した。 12月に帰国したピールはただちにウェリントン公爵から首相職を譲り受けた(第1次ピール内閣)。以降ウェリントン公爵はピールが権威ある保守党党首になれるよう国王ウィリアム4世や保守党大物議員との関係を取り持ってくれるようになった。 首相となったピールは12月18日に自分の選挙区タムワースの有権者に対して公約として書簡「タムワース・マニフェスト(“The Tamworth Manifesto”)」を発した。これは選挙公約としての「マニフェスト」の先駆けであった。第一次選挙法改正という現実に合わせて保守党の新たな方針を示していた。 ウィリアム4世は保守党政権を安定させるため解散総選挙を行うことを希望していた。ピールもそれを承諾し、12月30日に議会は解散された。1835年初頭の総選挙(英語版)の結果、保守党が204議席、ダービー派が86議席、ホイッグ党が218議席、急進派が90議席、オコンネル派が60議席をそれぞれ獲得した。 ピールはダービー派の支持を取り付けて政権を維持したが、ホイッグ党党首メルバーン子爵が野党連携を強化した結果、1835年4月にはホイッグ党が提出したアイルランド国教会の教会税の転用法案の採決で敗北し、内閣総辞職を余儀なくされた。 ===「ヴィクトリア朝の妥協」=== ピールの辞任により第二次メルバーン子爵内閣が成立した。メルバーン子爵は急進派やオコンネル派と連携しながらも、ピールからも暗黙の了解を得ようとした。ピールはいまだ自分の保守党内での権威が微妙であることから急進派やオコンネル派の急進的改革を抑えることを条件としてメルバーン子爵政権攻撃を控えることを約束した。 この妥協の関係は1837年に即位したヴィクトリア女王の時代にも続き、「ヴィクトリア朝の妥協」と呼ばれた。当時の慣例であった新女王の即位に伴う解散総選挙(英語版)で急進派やオコンネル派、ダービー派が議席を減らし、ホイッグ党と保守党が議席を伸ばしたこともこの妥協関係を促進した。 しかし1839年までにダービー派が保守党に合流し、またウェリントン公爵の後ろ盾のおかげでピールの党首としての権威も確立されていったため、ピールは政権奪還を目指してメルバーン子爵との対決路線を強めることになる。 ===寝室女官事件=== ピールからの攻勢、急進派やオコンネル派との関係の悪化などでメルバーン子爵内閣は基盤を危うくしていった。1839年5月初めにメルバーン子爵が議会に提出した英領ジャマイカの奴隷制度廃止法案は庶民院を通過したものの、わずか5票差という僅差であったため、メルバーン子爵は自らの求心力の低下を悟り、5月7日に女王に辞表を提出した。 女王はメルバーン子爵の助言に従って、1839年5月8日午前に保守党貴族院院内総務(英語版)ウェリントン公爵に組閣の大命を下したが、公爵は「自分は老齢であるし、庶民院に影響力を持たない」と拝辞し、ピールに大命降下されるべきことを奏上した。 女王は公爵の助言に従って午後2時にピールを召して組閣の大命を下した。この際にヴィクトリアは今後もメルバーン卿に諮問して良いかとピールに下問したが、枢密院や議会ではなく宮中において野党党首が個人的に女王の側近になるなど前代未聞のことであったからピールはこれを拒否した。このせいでヴィクトリアはピールに強い不信感を持つようになった。その日の日記にもピールについて「何を考えているか分からない男」と書いている。 翌9日にピールが持ってきた人事案の中に女王の寝室女官をはじめとした女官たち(ほとんどがホイッグ党の国会議員の妻)を保守党の国会議員の妻に代えるという人事があったが、女王はこれに強く反発し、「一人たりとも辞めさせない」と言って頑強に退けた。 宮内官を務めている国会議員は、政権交代とともに入れ替わるのが慣例であった。ヴィクトリアは女王だったので国会議員の代わりにその妻が女官をやっていたのだが、国会議員の場合と別個に考える道理はないから、ピールの要求は慣例に照らし合わせれば正当なものだった。しかし女王は女官の人事は女王の私的人事であることを強弁し続けた。ピールも引く気はなく、10日の上奏文の中で寝室女官人事を受け入れて頂けないのであれば大命を拝辞する旨を通達した。 ウェリントン公爵が女王とピールの間を取り持とうと努力したが、女王からもピールからも譲歩を引き出すことはできなかった。この後、ピールはウェリントン公爵の薦めで組閣を拝辞することとし、12日にはメルバーン子爵が首相続投することを了承した。 女王の個人的感情で政権交代が阻止されたこの事件は世に寝室女官事件と呼ばれた。 ===メルバーン子爵内閣の倒閣を目指して=== こうしてもうしばらく政権を維持することになったメルバーン子爵だが、彼の内閣の基盤が不安定な状況は変わっていないため、急進派やホイッグ左派に妥協した自由主義的政治を余儀なくされた。 メルバーン子爵はそのために自由貿易を推進するようになり、1841年4月に砂糖関税低減の法案を提出したが、地主など農業利益の代弁者たちの反発を買い、法案は議会で敗北した。内閣信任相当の法案の否決は総辞職か解散総選挙すべきであったが、メルバーン子爵はそのまま政権に居座った。これを批判するピールは6月に内閣不信任案を提出し、1票差で可決させた。これを受けてメルバーン子爵は解散総選挙(英語版)に打って出るも、選挙は保守党の勝利に終わった。 1841年8月に新議会が始まるとメルバーン子爵はただちに議会で敗北し、内閣総辞職に追い込まれた。 ===第二次ピール内閣=== ピールは寝室女官事件の頃には女王からひどく嫌われていたが、1840年に女王と結婚したアルバート公子はピールを高く評価しており、その影響で女王もこの頃にはピールへの信任を強めていた。 1841年8月30日にウィンザー城でヴィクトリア女王より大命を受けたピールは、第2次ピール内閣(英語版)を組閣した。この際に野望に燃える若手議員ベンジャミン・ディズレーリに何のポストを与えなかったことが後々ピールの運命に影響してくることになる。 ===自由貿易推進=== ピール内閣の経済政策は関税の引き下げによって殖産興業を促し、その間の一時的な減収は所得税を導入して補う事を基本としていた。関税の具体的内容については商工省政務次官の地位を与えた若手議員ウィリアム・グラッドストンが主導した。 自由貿易(とりわけ農業の自由貿易)は保守党の支持基盤である地主層の反発が根強かったが、アルバート公子は(その影響でヴィクトリア女王も)自由貿易主義者であったので、全面的にピールをバックアップしてくれた。ピールとしても君主の支持さえあれば政党の支持などいらないという小ピット的発想があったため、自由貿易改革を推進することに躊躇いはなかった。 グラッドストンが与野党の意見を調整した結果、関税が定められている1200品目のうち750品目もの関税が廃止されるか引き下げられることになった。グラッドストンは穀物法で保護されている小麦についてもただちに自由貿易に移行することを希望していたが、ピールは地主層との決定的対立を避けるため、小麦についてはスライド制にして段階的自由貿易を目指した。 ===ピール銀行条例=== 一方でピールは銀行券については自由放任ではなく統制を行わねばならないと考えており、インフレーションが問題視された後の1839年頃から通貨学派の見解を支持するようになった。 その立場から1844年には「ピール銀行条例」と呼ばれるイングランド銀行条例を制定した。これにより銀行券発行の権限をイングランド銀行に集中させることが図られた。既に銀行券を発行している銀行についてはその既得権を保証しつつ、これまでの平均の発行額を越えて銀行券を発行したり、新規の銀行券を作ってはならないという規制を加えていた。 またイングランド銀行を発行部と銀行部に分割して銀行券発行は発行部のみが行うこととし、さらに発行にあたっては貴金属と保証物件に基礎を置くことを義務付けることで銀行券発行に制限をかけた。 ===穀物法廃止論争=== 穀物法の廃止・穀物の自由貿易化は急進派(英語版)のリチャード・コブデンやジョン・ブライトなどがかねてから大衆運動を起こして要求していた(反穀物法同盟)。その運動は非常に盛り上がっていたし、ピール自身も自由貿易主義者であるから穀物法廃止には反対ではなかった。ただ保守党内の地主層への配慮から沈黙せざるをえない状況が続いていた。 その状況が変わったのは1845年から1847年にかけてアイルランドで発生したジャガイモ飢饉だった。アイルランド小作農・貧農の主食はジャガイモであったため、この飢饉はアイルランド農村社会に深刻な影響をもたらした。100万人が餓死・あるいは栄養失調の疾病で死亡し、さらに100万人が故国アイルランドを離れたといわれる。 飢饉の報告を受けたピールはただちにアメリカからトウモロコシを大量に買い付けてアイルランドに食料支援を行い、またアイルランドで公共事業を行って雇用創出を図った。だがそれだけでは十分な飢饉対策にならず、いよいよ穀物法廃止の機運が高まった。1845年11月にはホイッグ党の党首ジョン・ラッセル卿が穀物法廃止を党の方針として発表した。 ピールも1845年12月初頭から穀物法廃止を閣議で取り上げた。内務大臣サー・ジェームズ・グラハム准男爵、外務大臣アバディーン伯爵、戦争省事務長官シドニー・ハーバートら腹心閣僚は支持してくれたが、陸軍・植民地大臣スタンリー卿や王璽尚書バクルー公爵は穀物自由貿易に反対した。この二人の説得に失敗したピールは、12月6日に女王の離宮オズボーン・ハウスへ参内して総辞職を申し出、ジョン・ラッセル卿を後継の首相にすべきことを奏上した。 ホイッグ党は党首ジョン・ラッセル卿のもとで穀物法廃止の方針を打ち出したものの、これはジョン・ラッセル卿の独断的な決定であり、ホイッグ党全体のコンセンサスを得ているとは言い難かった。ホイッグ党内にも穀物法廃止に慎重な地主貴族が多数いたのである。彼らは急進派に近い自党の党首ジョン・ラッセル卿を首相にして穀物法廃止に突き進むより、「地主の政党」保守党のピールを首相のままにして「穏健な」穀物法処理を行うことを望んでいた。そのような背景からジョン・ラッセル卿は党内の支持を得られず組閣に失敗した。 ===保守党の分裂=== ジョン・ラッセル卿の組閣失敗により女王はピールを召集して再び組閣の大命を下した。女王によれば、この時ピールは決意に満ちた表情であったという。彼は女王に「私には(党に持ち帰って)相談の必要はありません。考える時間もありません。私は陛下の首相を務めるつもりです。この非常時に陛下のもとを去るわけにはまいりません。味方が一人もいなくなっても責務を果たします」と語ったという。 保守党の長老ウェリントン公爵は保守党の分裂を恐れており、大命を拝辞することをピールに強く勧めたが、ピールの自由貿易への熱い想いを感じ取って最終的にはピールの決意を支持した。ピールは保護貿易主義者のスタンリー卿とバクルー公爵を外して組閣した。スタンリー卿の後任にはグラッドストンを置いた。 1846年1月に議会が招集されるとピールはただちに穀物法廃止法案を議会に提出した。党内の保護貿易主義者たちが反対運動を開始し、ベンジャミン・ディズレーリとジョージ・ベンティンク卿がその中心人物となった。とりわけディズレーリの辛辣な演説は大きな影響を与え、保守党議員が次々と造反してディズレーリの演説に声援を送り始めた。ディズレーリのピール批判は議会の礼節さえ無視した容赦のないものであり、ピールの弟ジョナサン・ピール(英語版)が怒ってディズレーリに決闘を申し込むほどだった。ピール当人も自分への罵倒が酷過ぎて放心状態になってしまい、議会が終わったことに気付かず一人議会席でうなだれ続けて守衛に注意されたことがあった。 結局穀物法廃止法案は保守党庶民院議員の三分の二以上の造反に遭いながらも野党であるホイッグ党と急進派の支持のおかげで庶民院を通過した。貴族院は庶民院以上に地主が多いので、更なる反発が予想されたが、ウェリントン公爵の権威で造反議員を抑え込んだ結果、法案は貴族院も通過し、穀物法は廃止されることとなった。 しかしディズレーリとベンティンク卿はピール内閣倒閣を諦めておらず、今度は同時期に提出されていたアイルランド強圧法案を否決させようとした。二人はこの法案でも70名ほどの保守党造反議員を出すことに成功し、この法案に反対するホイッグ党や急進派と連携して、1846年6月25日の採決において73票差で法案を否決させた。 これを受けてピール内閣は6月29日に総辞職を余儀なくされた。 ===ピール派=== この後、保守党は三人の指導者が分裂して指導するようになった。庶民院保守党は自由貿易派がピールを支持、保護貿易派がジョージ・ベンティンク卿を支持した。貴族院保守党は保護貿易派のスタンリー卿(後のダービー伯爵)が一人で掌握した。7月に至ってジョージ・ベンティンク卿はスタンリー卿を保守党党首と看做すと宣言した。しかしピール当人は保守党党首を降りることを拒否し、しばらくは保守党組織を支配し続けたが、やがて保守党の党幹部の多くがスタンリー卿の指導下に収まっていった。 この後、ピールと穀物法廃止に賛成した保守党議員112名はピール派と呼ばれるようになった。アバディーン伯爵やウィリアム・グラッドストンなど保守党の閣僚・政務次官経験者のほとんどがこのピール派に属した。 一方ピール派の離脱で人材不足となった保守党ではディズレーリが急速に台頭していくようになる。 ピールの退任後、政権はホイッグ党のジョン・ラッセル卿が担っていたが、ピールはホイッグ党と連立することも、保守党に戻る事も、単独で政権を担う事も拒否した。これが政界の混乱の一因となっていた。ピールと行動を共にしたグラッドストンも後に「ピールの最後の4年間の立場選択は完全に誤っていた」と語っている ピール派を4年間率いた後、1850年7月2日、乗馬事故で負った傷がもとで死亡した。 ピールの死後、ピール派はアバディーン伯爵が指導し、ホイッグ党の分裂(ジョン・ラッセル卿とパーマストン子爵の対立)の影響で1851年12月に首班として組閣している。1859年に至ってピール派はホイッグ党、急進派とともに自由党として合同することになる。 ==人物== 貴族的環境で育ったが、貴族階級の出身ではなく、最上流中産階級の出身である。父である初代准男爵サー・ロバート・ピールは自分が果たせなかった夢を息子に果たしてもらいたがっており、ピール自身もその期待にこたえようと努力した。その緊張感からピールには常に落ち着きがないところがあったという。ヴィクトリア女王が初めの頃、ピールを嫌っていたのもそわそわした態度や貧乏ゆすりの癖が一因だったという。 基本的に性格は陽気で人好きする性格だったという。ただ神経質なところがあったという。とりわけ1829年にカトリック解放政策を推し進めた際に国教会信徒から受けた激しい批判が原因で「裏切り者」という批判を極度に恐れるようになった。一国の指導者たる者、その手の批判は必ず付いて回るし、甘受しなければならないものだが、ピールには耐えられなかった。政策変更のたびに自己中心的・自己免罪的なやり方に終始したため、余計に政敵から批判されやすかった。 縮れた赤毛の髪をしていた。また長身で美男だった。 ==家族== 父 初代準男爵ロバート・ピール (1750―1830):実業家で政治家。ピール家は代々ヨーマン(独立農民)で、製糸工場を営む家系だった。産業革命時に紡績会社として大いに発展し、ブレィに館を構える資産家となった。1790年にはスタッフォードシャーのマナーハウス「ドレイトン・マナー」を買い取って3階建てのエリザベス様式の大豪邸に建て直し、同年タムワース (イングランド)の議員となり、1800年に准男爵を創設。息子のロバートは父の死後、その議席と爵位を引き継ぎ、1843年には父が建てたドレイトンの屋敷にヴィクトリア女王とアルバート王配を迎えた。妻ジュリア・フロイド:初代準男爵サー・ジョン・フロイド(英語版)将軍の娘。1820年に結婚し、以下の7子を儲ける。第1子(長女)ジュリア・ピール(?‐1893年):第6代ジャージー伯爵ジョージ・チャイルド・ヴィリアーズ(英語版)、ついでチャールズ・ブランドリングと結婚。第2子(次女)エリザ・ピール(?‐1883年):フランシス・ストナー(第3代キャモイズ男爵(英語版)トマス・ストナー(英語版)の息子)と結婚。第3子(長男)ロバート・ピール(英語版)(1822年‐1895年):政治家。3代準男爵位を継承。第4子(次男)フレデリック・ピール(英語版)(1823年‐1906年):政治家第5子(三男)ウィリアム・ピール(英語版)(1824年‐1858年):王立海軍軍人第6子(四男)ジョン・フロイド・ピール(1827年‐1910年):王立海軍軍人第7子(五男)アーサー・ピール(1829年‐1912年):政治家。1895年にピール子爵に叙される。 =マラッカ海峡= マラッカ海峡(マラッカかいきょう、英語: Strait of Malacca、マレー語: Selat Melaka)は、マレー半島とスマトラ島(インドネシア)を隔てる海峡。南東端で接続しているシンガポール海峡とあわせて太平洋とインド洋を結ぶ海上交通上の要衝となっている。2005年における年間の通過船舶数は9万隻を超えており、タンカー、コンテナ船などの経済的に重要な物資を運ぶ大型貨物船が海峡を行き交っている。そのことからオイルロードと呼ばれることもある。経済的・戦略的にみて、世界のシーレーンの中でもスエズ運河、パナマ運河、ホルムズ海峡にならび重要な航路の一つである。 ==地理・地誌== 全長は約900キロメートル、幅は65キロメートルないし70キロメートル(北西側の海峡入口付近では約250キロメートルに広がる)ほどの北西方向から南東方向へとつながる細長い海峡であり、スンダ陸棚上にあるために平均水深は約25メートルと浅く、岩礁や小さな島、浅瀬が多い。このため、大型船舶の可航幅がわずか数キロメートルの箇所もある。 世界で最も船舶航行の多い海域の一つであり、太平洋の付属海である南シナ海とインド洋の一部であるアンダマン海を最短距離で結ぶ主要航路となっている。通過する貨物で最も多いのは、中東産の石油および石油製品である。しかし、シンガポール付近のフィリップス水路 (Phillips Channel) は幅が2.8キロメートルと非常に狭く、水深も23メートルしかないため、世界の航路のなかでも有数のボトルネックとなっている。この海峡を通過できる船の最大のサイズはマラッカマックス (Malaccamax) と呼ばれており、大型タンカーの巨大化を制限する要因の一つとなっている。 ケッペンの気候区分では、海域と両岸のほぼ全域が熱帯雨林気候 (Af) に属する。海流は年間を通して南東から北西へ向かって流れる。通常は波が穏やかであるが、北東季節風が発達する季節には海流が速度を増す。マラッカ海峡に流れ出すおもな河川にはスマトラ島のカンパル川、アサハン川がある。 沿岸国は、インドネシア共和国、マレーシアおよびシンガポール共和国であり、タイ王国を沿岸国に含める場合もある。海運業界では、この海峡付近を「海峡地」と一括して呼称することがあり、主な貿易港にマレー半島側のペナン(ジョージタウン、ペナン州)、ムラカ(英名マラッカ、ムラカ州)、ポートケラン(英語版)(旧名ポートスウェッテナム、セランゴール州)、シンガポール、スマトラ島側にドゥマイ(リアウ州)などがあり、現代における最大の港湾都市はシンガポールである。 海峡の両岸では、天然ゴムの栽培がさかんであり、世界的な産地となっている。海峡に臨むマレー半島側の主要都市として、上述の諸都市のほかペナン島のジョージタウン、ペラ州のタイピンなどがあり、インドネシア側にはスマトラ島最大の都市メダン(北スマトラ州)のほか、ドゥマイ、アチェ州のランサ、北スマトラ州のタンジュンバライなどの諸都市がある。また、マラッカ海峡を臨むタイのプーケット島、マレーシアのペナン島は世界的なリゾート地として知られる。 ===範囲=== 国際水路機関 (IHO) が『大洋と海の境界 第3版』において定めるマラッカ海峡の範囲は以下の通りである。 ===西端=== スマトラ島北端のPedropunt () とタイのプーケット島南端のLem Voalan () を結ぶ線 ===東端=== マレー半島南端のTanjong Piai () からThe Brothers () を通りKlein Karimoen () を結ぶ線 ===北端=== マレー半島南岸 ===南端=== スマトラ島北東岸から、Tanjong Kedabu () を通りKlein Karimoenを結ぶ線 ==歴史== 西暦166年の「大秦王安敦の使者」や4世紀末から5世紀初頭にかけての東晋(中国南北朝時代)の法顕、7世紀後半の義浄、14世紀のイブン・バットゥータ、15世紀の明の鄭和の大遠征など、いずれもこの海峡を利用した。また、13世紀末の『東方見聞録』の著者マルコ・ポーロもこの海峡を利用し、風待ちのためスマトラ北端のペルラクに5ヶ月間滞在している。 ===シュリービジャヤ王国とマジャパヒト王国=== ユーラシア大陸の東西をむすぶ「インド洋ネットワーク」は、当初マレー半島をクラ地峡で横断するルートが主流であったため、東南アジアの物産は扶南やチャンパ王国を最大の集散地としたが、その後、7世紀から8世紀にかけてムスリム商人が来航するようになると、マラッカ海峡を経由するルートに変わった。西アジアの船は広州や泉州など中国南部に訪れ、これらの港町にはアラブ人やペルシャ人の居留地があったという。 こうして、マラッカ海峡は太平洋とインド洋を結ぶ海上交通の要路となり、海峡沿岸に興った国家のなかには海峡の両側を領域支配することによって貿易を通じて富強をはかる勢力も、歴史上何度か現れた。7世紀にスマトラ島南部に興った港市国家、シュリーヴィジャヤ王国もそのひとつである。唐の義浄は、インドへの留学の前に5ヶ月、留学を終えてインドからの帰途には10年もの間シュリーヴィジャヤに滞留し、サンスクリット語の仏典の筆写と漢訳を行った。帰国後に彼が著した『南海寄帰内法伝(中国語版)』には、シュリーヴィジャヤには1,000人余りの仏僧がいて、仏教学のレベルもインドのそれに劣らないと記している。義浄は復路、クダ(マレーシア・クダ州)からシュリーヴィジャヤの首都に入ったが、首都は現在のパレンバン(インドネシア・南スマトラ州)の辺りにあった。 シュリーヴィジャヤは、一時、ジャワ島を本拠とするシャイレーンドラ朝の勢力におされて衰退したが、政争に敗れて亡命したシャイレーンドラ王家のパーラプトラを王として迎え、勢力を盛り返した。 唐が衰えると、陸上の「オアシスの道」「草原の道」の通行は決して安全なものとはいえなくなったが、そのことは逆に「海の道」への依存を飛躍的に増大させることとなり、シュリーヴィジャヤの隆盛に拍車をかけることとなった。五代十国を経て宋建国に至る10世紀の前半から中葉にかけては、イブヌル・ファキーフやアブー・ザイドなどアラブ人の書いた旅行記にはシュリーヴィジャヤの繁栄が記され、そこでは「ザーパク」と呼称されている。 また、宋代には中国人もさかんに南海貿易に進出するようになり、周去非『嶺外代答』や趙汝*8371*『諸蕃志』などのすぐれた書籍も現れた。これらによれば、東はジャワ島、西はアラビア半島や南インドなどの各地から来航する船舶でこの海峡を利用しない船はなく、もし、入港しないで通過しようとする商船があれば、シュリーヴィジャヤの王国は水軍を出して攻撃を加えたこと、またパレンバンの港には鉄鎖があり、海賊の来航には鎖を閉じ、商船の来航にはこれを開いて迎えたことなどを記している。 シュリーヴィジャヤは、10世紀から11世紀にかけてジャワに本拠を置くクディリ王国やインド南部のチョーラ朝の攻撃を受けたが、これは、王国がマラッカ海峡の貿易を独占し、それによる富を集積していたためであった。14世紀には、ジャワ島に本拠を置くヒンドゥー教国、マジャパヒト王国からの征服を受けている。マジャパヒト王国は14世紀にガジャ・マダが現れて、一時、マレー半島からスマトラ・ジャワの両島、さらにカリマンタン島の南岸を支配する広大な海洋帝国を建設した。 その一方で、13世紀以降、スマトラ島北部やマレー半島の住民のムスリム化が進行している。13世紀末に当地に滞留したマルコ・ポーロは、北スマトラの人々がさかんにイスラーム教に改宗していることを『東方見聞録』のなかに書き残している。アラブ人の来航やイスラーム教の伝来から数世紀経過した13世紀という時期にムスリム化が急速に進展した理由として、インドでの目覚ましいイスラーム化の進展がみられたのがやはり13世紀であり、インド文化の影響の受けやすい東南アジアへはインド系のムスリム商人がもたらしたと考えられること、また、この時代にさかんだったのはイスラームのなかでも布教に熱心だった神秘主義教団スーフィーだったことなどが挙げられる。 そして、14世紀末から15世紀初頭にかけてムスリム政権としてマレー半島北西部にマラッカ王国が成立し、シュリーヴィジャヤとマジャパヒトの両勢力を抑えてマラッカ海峡の両岸を支配し、海洋国家を築いたのである。 ===帆船時代の東西交易とマラッカ海峡=== 帆船の時代にあっては、古代エジプト、古代ローマ、アラビア、アフリカ、トルコ、ペルシャ、インドなど、海峡西方の諸国からの物資を運んできた貿易船は、現在のマレーシア西海岸のクダの港やムラカ(マラッカ)を利用した。古代にあっては、夏季(6月‐11月)に吹くモンスーン(貿易風)に乗って西からの貿易船がクダなどに着き、冬季(12月‐3月)に反対方向の風を用いて帰航するというケースが一般的であった。 6世紀ころ著名な港湾として繁栄していたクダには、はしけ、人足、ゾウ、税関などが整備されており、ここに着いた荷物は一旦陸揚げされて、マレー半島東海岸のクランタン州周辺まで陸上輸送され、中国などの東方へ輸出する場合はさらにクランタンなどの港から荷物を積み出していた。 取引される各地の特産物としては、 インド…穀物(米など)、象牙、各種の綿織物、染料アラビア半島・西アジア…乳香、没薬、馬、陶器、ガラス、絨毯東南アジア…香料、香辛料、木材、染料中国…陶磁器、絹織物、銅銭などがあり、マラッカ海峡は、中国を起源として南シナ海や東シナ海で用いられたジャンク船とインド洋一帯で広く用いられた1本マストのダウ船とがともに行き交う海域であった。 12世紀から13世紀にかけて、東南アジアでは中国とインド・西アジア間の中継貿易のための港市が発達する。これは、モンスーン(季節風)の関係で、インド洋海域と東アジア地域との間を往復するには2年の歳月を必要としたが、東南アジアの港市との間を往復するだけであれば、その半分以下の時間しか掛からなかったからである。 ===マラッカ王国の繁栄とヨーロッパ人の進出=== 15世紀における海峡最大の貿易港はムラカ(マラッカ)であり、中継貿易で繁栄した港市国家マラッカ王国の主要港としてにぎわった。ムラカの港務長官は4人おり、第一長官はインド西海岸のグジャラート州、第二長官は南インド、ベンガル州およびビルマ(ミャンマー)、第三長官は東南アジアの島嶼部、第四長官は中国(明)、琉球王国、チャンパーをそれぞれ担当地域とした。ムラカは、商人や船員、通訳、港湾労働者、人や物流を管理する吏員、船乗りや商人の相手をする遊女などでにぎわった。 16世紀初頭、ポルトガル人トメ・ピレス(英語版)の『東方諸国記(ポルトガル語版)』によれば、ムラカの港市には、カイロ・メッカ・アデンのムスリム、アビシニア人(エチオピア人)、キルワやマリンディなどアフリカ大陸東岸の人びと、ペルシャ湾沿岸のホルムズの人、ペルシャ人、ルーム人(ギリシャ人)などを列挙したうえで、「62の国からの商人が集まり、84もの言葉が話されている」と記している。こうした繁栄を知ったポルトガル人は1511年、16隻の軍艦でこの町を攻撃、占領してポルトガル海上帝国の主要拠点のひとつとした。1498年にヴァスコ・ダ・ガマがインド航路を「発見」してから15年足らずのことであった。 その後、マラッカ海峡の両岸は、ポルトガルとスマトラ島北端部のアチェ王国、マレー半島南部とリアウ諸島に基盤を置くジョホール王国の三者が合従連衡を繰り返してマラッカ海峡の交易の利を独占しようとし(「三角戦争」)、17世紀前半にはアチェ王国が優位に立ってアチェ全盛時代を築いたが、最終的には、新規参入者であったオランダとマラッカ王国の末裔であったジョホール王国とが連合し、1641年にポルトガル勢力を駆逐し、ムラカはオランダの占領するところとなった。しかし、ムラカ(マラッカ)は貿易港としては衰退し、17世紀後半には海上民を統制し。オランダ・アチェとも良好な関係を構築したジョホール王国がジャンビ王国と抗争しながらも全盛期をむかえ、東西交易の中継として繁栄した。 海峡地帯にはマレー人はじめスマトラ内陸部ミナンカバウ人やスラウェシ島南部のブギス人など東南アジア各地の諸民族、中国人、インド人、アラビア人、ペルシア人、ヨーロッパ人、日本人など数多くの人種・民族が住んだ。ムラカはその後、19世紀初頭のナポレオン戦争の際にはイギリスによって占領された。ムラカはいったんオランダに返還されたが、1824年、イギリスはオランダとのあいだに英蘭協約を結んで、マレー半島側をイギリスの勢力圏、スマトラ島側をオランダの勢力圏とした。 1869年のスエズ運河の開通後は、それまでスマトラ島・ジャワ島間のスンダ海峡を利用していた船舶も、その多くがマラッカ海峡を利用するようになり、いっそう重要性を増した。また、特にマレー半島側の鉱業・農業における大規模開発を促し、ペナン、シンガポールの両港の発展がもたらされた。 その一方で、オランダ東インド政庁は1871年のスマトラ条約によってイギリスの干渉を排除し、1873年、海峡の安全確保を名目にアチェ王国の保護領化を企図して王国への侵攻を開始した。これがアチェ戦争であるが、アチェの人々の頑強な抵抗により、オランダ軍がスマトラ全土を制圧したのは1912年を待たなければならなかった。これにより現在のインドネシア全域がオランダの植民地となった。いっぽう、現在のマレーシアに相当する英領マレー連合州が成立したのは1896年のことである。 第二次世界大戦時にイギリス軍が日本軍に放逐され、終戦に至るまで日本軍の占領下におかれた。終戦後にイギリスやオランダの国力が低下したことを受け、インドネシアはオランダ領、マレー連合州はマラヤ連合(のちマレーシア連邦、現在のマレーシア)としてイギリス領からそれぞれ独立した。海峡沿岸国の領海は3海里から12海里に拡大され、かつて公海として自由な航行に供されてきた海峡も現在は領海化されている。 マラッカ海峡は、1994年に発効した国連海洋法条約における「国際海峡」に該当するとされており、外国の艦船や航空機は、国際法上の取り決めと沿岸国の法令にしたがうことを条件として、海峡通過のための通航権が認められ、沿岸諸国は現在、航路帯および分離通航帯を設定し、通航船舶にその遵守を求めている。 ==航行の障害と安全== 長狭なマラッカ海峡の中でもワン・ファザム堆からシンガポール海峡までの約400キロメートルは特に狭い上に浅瀬が多く、大型船は特に航行に困難をともなう。海賊多発地域としても知られ、気象の変化が著しいことから突然襲うスコールが視界を妨げることも多い。また、くびれた地勢を示すマラッカ海峡では、潮汐により強い潮流が発生し、さらに、この強い潮流が「サンドウェーブ」と呼ばれる波紋状の砂州を形成するため、水深が頻繁に変化する危険がある。南シナ海域で多くみられる北東季節風が発達する季節には、東方向からの強い海流も加わり、この海峡で航行の安全を保持し続けることは必ずしも容易なことではない。 ===海賊・沈没船・森林火災=== 近代以降、マラッカ海峡は東アジアと中東・ヨーロッパなどを行き交う各国船舶にとって死活的に重要な航路となっているが、近年、海峡を利用する商船に対する海賊行為が横行している。1994年に25件だった船舶襲撃は、2000年には220件に激増し、2003年には150件以上、2005年でも世界全体の約37パーセントにあたる102件の海賊事件が発生した。 2005年(平成17年)3月14日、現地で日本籍のタグボート「韋駄天」が襲撃され、日本人船長と機関長、フィリピン人船員3名を連れ去り、拉致事件が発生した(同3月21日に解放)。また、1999年(平成11年)にも同様に日本の船が海賊に襲われるという事件が起こっている。 船に対する危険は海賊だけでなく、浅瀬などでの難破もある。海峡内には1880年代以来の難破して沈んだ船が少なくとも34隻あるとみられており、航路の障害となっている。 また、スマトラ島では生活における失火や焼畑農業を原因として森林火災が毎年のように発生し、立ち上る煙はヘイズと呼ばれマラッカ海峡を越えてマレーシアにまで達している。濃い煙が流れてくると、海上はわずか200メートルほど先しか見えなくなり、船は速度を落として運航せざるを得ない状況にある。 ===座礁事故防止策と海賊対策=== 1960年代以降、中東‐東アジア間の大型タンカーの航行量が増大した。しかし、当海域は航行支援設備が不足し、海図の整備も不十分だったため、しばしば座礁事故が発生した。そのため、沿岸各国と日本が協力して、1960年代後半より航行支援設備や海図の整備を行っており、この協力関係は現在も継続中である。また、座礁事故防止のため、マラッカ海峡では船底と海底のあいだを一定の距離に保つUKC方式 (Under Keeping Clearance) が採用されている。 2005年12月、日本とインドネシア、マレーシア、シンガポールの国際協力により、マラッカ海峡とシンガポール海峡の電子海図が完成した。2006年には、日本はインドネシアに対し政府開発援助の一環として円借款を行い、海難事故や海賊対策のため沿岸無線局を33局、船舶自動識別装置を備えた無線局を4局設置した。同年には無償資金協力として19億2100万円を供与し、巡視船3艇を供与してインドネシアの巡視船艇建造計画を支援した。なお、現在、日本財団が中心となり、利用者が安全確保のための費用負担を分担するための基金の設立を提案している。 海賊対策として、マレーシア・インドネシア・シンガポールなど沿岸諸国の海軍が警備を強化しているほか、日本からも海上保安庁の巡視船が海賊の哨戒に当たっている。また、技術や人材育成の面でも日本は東南アジア諸国に対し国際協力を行っている。2007年(平成19年)には、高速船を用いる海賊対策として、日本政府はインドネシアに対し、政府開発援助 (ODA) により巡視艇3隻を日本国内で新造し、無償供与した。操舵室等が防弾構造であり武器輸出三原則に抵触するおそれがあることから、運用を対テロ・対海賊に限定し、日本政府の同意なく第三国へ引き渡さない等の条件を付すことで武器輸出三原則の例外とした供与であった。 さらに、海賊など海上犯罪の要因として沿岸地域の深刻な貧困が考えられるとして、日本政府はかつてロンボク海峡付近でため池やダムなどの灌漑システムの構築やこれらの維持管理する農業技術者育成などを行って一定の成果をあげており、マラッカ海峡においてもその経験を踏まえ、地域の農村開発に資する支援をおこなっている。 ==沿岸の開発とその計画== ===工業開発=== 上述したように、マラッカ海峡を通過する貨物で最も多いのが中東産の石油であり、行き先は日本や中国などの東アジアが多い。その航路上にあるシンガポールは一大石油精製基地として発展し、1980年代には日系企業の石油化学工場が建設され、その南のインドネシアのバタム島でも石油工業の開発が進展した。 ===さまざまなボトルネック解消策=== 上述のようにマラッカ海峡の水深の浅さからくる危険性回避のため、日本のマラッカ海峡協議会は1971年(昭和46年)に浅瀬の浚渫を提案したことがあったが、当時は冷戦下だったこともあり、ソビエト連邦軍の艦船が出入りしやすくなるという軍事上のリスクが指摘されたほか、浚渫によって漁業が打撃を受けるおそれがあるとして沿岸諸国が反対したことにより実現していない。 一方、タイ領内のクラ地峡に運河を造るという、マラッカ海峡の通航を緩和する一方で重要性も低下させるおそれのある計画が昔から幾度か取り沙汰されている。これが実現すればアフリカ・中東から太平洋への航路は約600マイル(約960キロメートル)ほど短縮される。しかし、この運河の建設によりタイ南部の陸地が分断され、ムスリムが多く分離主義の動きもあるパタニ地方がタイ本土から切り離されてしまうこと、タイ中南部は潮州系や福建系の華僑人口も多く、彼らがシンガポールの地位低下を喜ばないことなど複雑な要因がからみ合っており、タイ国内にも慎重論がある。2004年、ワシントン・タイムズは、中国がタイに対して運河建設費を分担するよう申し出たことを報じたが、タイの財政難や周辺環境に与える影響の大きさも指摘され、クラ地峡運河計画は進んでいない。 また、クラ地峡を横断するパイプラインを建設し、両端に超大型タンカーのための港を建設する案もあり、タイだけでなくミャンマーも同様の提案をしている。これにより、中東から東南アジアへの原油運送コストを1バレルあたり0.5ドル圧縮することができるという試算もある。 マラッカ海峡の代わりに、スンダ海峡(スマトラ島・ジャワ島間)やロンボク海峡(バリ島・ロンボク島間)などインドネシア領内の海峡を通ってインド洋から太平洋側に出る航路もあるが、スンダ海峡は水深が浅く大型船の航行には使えず、ロンボク海峡は水深は十分にあるものの、マラッカ海峡より650キロメートルもの遠回りになる、小島や岩礁が多いなどの難点がある。 2013年、中国は、ミャンマー西部のチャウピュ港から雲南省に至るパイプラインを完成。マラッカ海峡を経ずに中東から原油、天然ガスを移送する手段の一つを整えた。 ===マラッカ海峡大橋建設構想=== 2009年(平成21年)10月9日、日本経済新聞は中国の援助によるムラカ(マラッカ)州とスマトラ島(地図上ではリアウ州ドゥマイ)を結ぶ橋の建設構想が現地紙で明らかにされたと報じた。中国輸出入銀行が建設費の85パーセントを融資するとしているが、マレーシア政府による建設許可が下りておらず、公表された企業は知名度の低い一民間企業に過ぎないとして、計画の存在を報じながらも、なお疑わしい点もあることが示された。しかし、マレーシアのナジブ・ラザク首相の中国訪問直後に、マレー半島縦貫高速鉄道建設構想や精油所建設構想とともに相次いで公表されていることから、中国・マレーシア両国政府の意向が働いている可能性も指摘されている。 =ポール・セザンヌ= ポール・セザンヌ(Paul C*11414*zanne, 1839年1月19日 ‐ 1906年10月23日(墓碑には10月22日と記されているが、近年は23日説が有力))は、フランスの画家。当初はクロード・モネやピエール=オーギュスト・ルノワールらとともに印象派のグループの一員として活動していたが、1880年代からグループを離れ、伝統的な絵画の約束事にとらわれない独自の絵画様式を探求した。ポスト印象派の画家として紹介されることが多く、キュビスムをはじめとする20世紀の美術に多大な影響を与えたことから、しばしば「近代絵画の父」として言及される。 ==概要== 南フランスのエクス=アン=プロヴァンスに、銀行家の父の下に生まれた。中等学校で下級生だったエミール・ゾラと親友となった。当初は、父の希望に従い、法学部に通っていたが、先にパリに出ていたゾラの勧めもあり、1861年、絵を志してパリに出た(→#出生から学生時代)。パリで、後の印象派を形作るピサロやモネ、ルノワールらと親交を持ったが、この時期の作品はロマン主義的な暗い色調のものが多い。サロンに応募したが、落選を続けた。1869年、後に妻となるオルタンス・フィケと交際を始めた(→#画家としての出発(1860年代))。ピサロと戸外での制作をともにすることで、明るい印象主義の技法を身につけ、第1回と第3回の印象派展に出展したが、厳しい批評が多かった(→#印象主義の時代(1870年代))。1879年頃から、制作場所を故郷のエクスに移した。印象派を離れ、平面上に色彩とボリュームからなる独自の秩序をもった絵画を追求するようになった。友人の伝手を頼りに1882年に1回サロンに入選したほかは、公に認められることはなかったが、若い画家や批評家の間では、徐々に評価が高まっていった。他方、長年の親友だったゾラが1886年に小説『作品』を発表した頃から、彼とは疎遠になった(→#エクスでの隠遁生活(1880年代))。1895年に画商アンブロワーズ・ヴォラールがパリで開いたセザンヌの個展が成功し、パリでも知られるようになった(→#個展の成功(1895年))。晩年までエクスで制作を続け、若い画家たちが次々と彼のもとを訪れた。その1人、エミール・ベルナールに述べた「自然を円筒、球、円錐によって扱う」という言葉は、後のキュビスムにも影響を与えた言葉として知られる。1906年、制作中に発病した肺炎で死亡した(→#最晩年(1900年 ‐ 1906年))。 セザンヌはサロンでの落選を繰り返し、その作品がようやく評価されるようになるのは晩年のことであった。本人の死後、その名声と影響力はますます高まり、没後の1907年、サロン・ドートンヌで開催されたセザンヌの回顧展は後の世代に多大な影響を及ぼした。この展覧会を訪れた画家としては、パブロ・ピカソ、ジョルジュ・ブラック、フェルナン・レジェ、アンリ・マティスらが挙げられる。 ==生涯== ===出生から学生時代=== 1839年1月19日、ポール・セザンヌは、南フランスのエクス=アン=プロヴァンスに生まれた。同年2月22日、教区の教会で洗礼を受けた。父のルイ=オーギュスト・セザンヌ(1798年‐1886年)は、最初は帽子の行商人であったが、商才があり、地元の銀行を買収して銀行経営者となった成功者であった。祖先はイタリア出身と考えられる。母アンヌ=エリザベート・オーベール(1814年‐1897年)は、エクスの椅子職人の娘で、もともとルイ=オーギュストの使用人であった。セザンヌの出生時には2人は内縁関係にあり、1841年に妹マリーが生まれた後、1844年に入籍した。1854年、妹ローズが生まれた。 10歳の時、エクスのサン=ジョセフ校に入学した。1852年(13歳の時)、ブルボン中等学校に入り、そこで下級生だったエミール・ゾラと友達になった。パリ生まれで親を亡くしていたゾラは、エクスではよそ者で、級友からいじめられていた。セザンヌは、村八分を破ってゾラに話しかけたことで級友から袋叩きに遭い、その翌日、ゾラがリンゴの籠を贈ってきたというエピソードを、後に回想して語っている。もう1人の少年バティスタン・バイユ(英語版)(後に天文学者)も併せた3人は、親友として絆を深めた。彼らは、散歩、水泳を楽しみ、ホメーロス、ウェルギリウスの詩、ヴィクトル・ユーゴー、アルフレッド・ド・ミュッセへの情熱を共有した。セザンヌは、同校に6年間在籍する間、1857年にエクスの市立素描学校に通い始め、ジョゼフ・ジベールに素描を習った。1858年11月にバカロレアに合格すると、1861年まで、父の希望に従い、エクス大学の法学部に通い、同時に素描の勉強も続けていた。そのうち、徐々に、画家になりたいという夢を持つようになった。父が1859年に購入した別荘ジャス・ド・ブッファンの1階の壁画に、四季図と父の肖像画を描いた。 セザンヌは、法律の勉強にはなじめず、次第に大学の勉強を怠けるようになった。1858年2月、ゾラがパリの母親のもとに発ち、残されたセザンヌは、ゾラとの文通を始め、詩や恋愛について語り合った。ゾラは、絵の道に進むかどうか迷うセザンヌに、早くパリに出てきて絵の勉強をするようにと繰り返し勧めている。ゾラからセザンヌ宛ての手紙には「勇気を持て。まだ君は何もしていないのだ。僕らには理想がある。だから勇敢に歩いていこう。」、「僕が君の立場なら、アトリエと法廷の間を行ったり来たりすることはしない。弁護士になってもいいし、絵描きになってもいいが、絵具で汚れた法服を着た、骨無し人間にだけはなるな。」とあった。 ===画家としての出発(1860年代)=== セザンヌは、ゾラの勧めもあって、大学を中退し、絵の勉強をするために1861年4月にパリに出た。ルーヴル美術館でベラスケスやカラヴァッジオの絵に感銘を受けた。しかし、官立の美術学校(エコール・デ・ボザール)への入学が断られたため、画塾アカデミー・シュイスに通った。ここで、カミーユ・ピサロやアルマン・ギヨマンと出会った。朝はアカデミー・シュイスに通い、午後はルーヴル美術館か、エクス出身の画家仲間ジョセフ・ヴィルヴィエイユ(フランス語版)のアトリエでデッサンをしていたという。そのほか、ゾラや、同じくエクス出身の画家アシル・アンプレールと交友を持った。セザンヌは、アカデミー・シュイスで、田舎者らしい粗野な振る舞いや、仕事への集中ぶりで、周囲の笑いものになっており、ピサロによれば、「美術学校から来た無能どもがこぞってセザンヌの裸体素描をこけにしていた」という。 同年9月には、成功の夢が遠いのを感じ、ゾラの引き留めにもかかわらず、エクスに帰ってしまった。エクスでは、父の銀行で働きながら、美術学校に通った。後年、セザンヌは、この時の話題には触れたがらなかったようである。銀行勤めはうまく行かず、翌1862年秋、再びパリを訪れ、アカデミー・シュイスで絵を勉強した。この時、クロード・モネやピエール=オーギュスト・ルノワールと出会ったようである。また、エクス出身の彫刻家で終生の友人となったフィリップ・ソラーリ(英語版)とも知り合い、共同生活を送った。ロマン主義のウジェーヌ・ドラクロワ、写実主義のギュスターヴ・クールベ、後に印象派の父と呼ばれるエドゥアール・マネらから影響を受けた。この時期(1860年代)の作品は、ロマン主義的な暗い色調のものが多い。 1863年、ナポレオン3世が開いた落選展に、マネが『草上の昼食』を出品してスキャンダルを巻き起こし、セザンヌもこれを見たと思われるが、セザンヌ自身が出品した記録はない。1865年には、サロン・ド・パリに応募したが、落選した。応募の時、ピサロに、「学士院の連中の顔を怒りと絶望で真っ赤にさせてやるつもりです」と書いている。ゾラは、同年12月、セザンヌに捧げる小説『クロードの告白』を出版し、当局の検閲に遭った。このことを機に、ゾラは『レヴェヌマン』紙に転職した。 1866年のサロンには、友人アントニー・ヴァラブレーグの肖像画を提出したが、審査員シャルル=フランソワ・ドービニーの熱心な擁護にもかかわらず、再度落選した。セザンヌは、美術総監エミリアン・ド・ニューウェルケルク(英語版)伯爵に、これに抗議し落選展の開催を求める手紙を送った。ゾラは、『レヴェヌマン』紙に連載したサロン評ではセザンヌについて一言も触れていないが、同年5月には、サロン評をまとめた『わがサロン』を刊行し、その序文でセザンヌに触れるなど、ゾラとの強い友情は続いていた。セザンヌは、同年5月から8月まで、セーヌ川沿いの小村ベンヌクール(フランス語版)で制作活動を行ったが、ここを訪れたゾラは、「セザンヌは仕事をしている。彼はその性格の赴くままに、ますます独創的な道を突き進んでいる。彼には大いに希望が持てるよ。とはいっても、彼は向こう10年は落選するだろうとも僕らは踏んでいるんだ。今、彼はいくつかの大作を、4メートルから5メートルはある画布の作品をやろうと目論んでいる。美術批評家としての地位を確立しつつあったゾラは、マネを囲む革新的画家がたむろするカフェ・ゲルボワ(英語版)の常連となり、セザンヌもこれに加わった。もっとも、セザンヌは、都会の機知に富む会話の場にはなじめなかったようである。 1867年のサロンにも落選した。シスレー、バジール、ピサロ、ルノワールといった仲間たちも軒並み同様の目に遭った。1868年のサロンでは、審査員ドービニーの尽力により、マネ、ピサロ、ドガ、モネ、ルノワール、シスレー、ベルト・モリゾといった仲間たちが入選したが、セザンヌだけは再び落選であった。カフェ・ゲルボワのメンバーの中でも、サロンに対する考えは様々であったが、セザンヌは、当たり障りのない作品を送って入選を目指すのではなく、最も攻撃的な作品を送って、自分たちを拒否している審査委員会の方が悪いことを明らかにすべきだとの考えの持ち主であった。 1869年、後に妻となるオルタンス・フィケ(英語版)(当時18歳)と知り合い、後に同棲するが、厳格な父を恐れ彼女との関係を隠し続けた。父からの月200フランの仕送りで2人の生活を支えなければならず、経済的には苦しくなった。 1870年のサロンには、画家仲間アシル・アンプレールを描いた肖像画を応募し、またも落選した。この年の7月19日に普仏戦争が勃発したが、母がエクスから約30キロ離れ地中海に面した村エスタックに用意してくれた家にフィケとともに移り、兵役を逃れた。 ===印象主義の時代(1870年代)=== パリ・コミューンの混乱が終わり、フランス第三共和政が発足すると、パリを逃れていた画家たちが戻ってきた。セザンヌも、1872年夏にはエスタックからパリに戻ったようである。同年、フィケと1月に生まれたばかりの息子ポールを連れてパリ北西のポントワーズに移り、ピサロとイーゼルを並べて制作した。そのすぐ後、ピサロとともに近くのオーヴェル=シュル=オワーズに移り住んだ。ここでアマチュア画家の医師ポール・ガシェとも親交を結んだ。1873年にパリ・モンマルトルに店を開いた絵具商タンギー爺さんことジュリアン・タンギーも、ピサロの紹介で知り合ったセザンヌの作品を熱愛した。セザンヌは、この時期にピサロから筆触分割などの印象主義の技法を習得し、セザンヌの作品は明るい色調のものが多くなった。セザンヌは、印象派からの影響について、後年次のように語っている。 私だって、何を隠そう、印象主義者だった。ピサロは私に対してものすごい影響を与えた。しかし私は印象主義を、美術館の芸術のように堅固な、長続きするものにしたかったのだ。 また、これに続けて、モネについて、「モネは一つの眼だ、絵描き始まって以来の非凡なる眼だ。私は彼には脱帽するよ。」とも語っている。 1874年、モネ、ドガらが開いたグループ展に『首吊りの家』、『モデルヌ・オランピア』など3作品を出品した。『モデルヌ・オランピア』は、マネの『オランピア』に対抗して、より明るい色調と速いタッチで近代の絵画の姿を示そうとした作品であった。この展覧会は、後に第1回印象派展と呼ばれることになるが、モネの『印象・日の出』を筆頭に、世間から酷評された。セザンヌの『モデルヌ・オランピア』も、新聞紙上で「腰を折った女を覆った最後の布を黒人女が剥ぎとって、その醜い裸身を肌の茶色いまぬけ男の視線にさらしている」と書かれるなど、厳しい酷評・皮肉が集中した。他方、ゾラは、マルセイユの新聞「セマフォール・ド・マルセイユ」に、無署名記事で、「その展覧会で心打たれた作品は多いが、中でも、ポール・セザンヌ氏の非常に注目すべき一風景画をここに特筆しておきたい。[……]その作はある偉大な独創性を証明していた。ポール・セザンヌ氏は長年苦闘を続けているが、真に大画家の気質を示している。」と援護している。また、『首吊りの家』は、アルマン・ドリア伯爵に300フランの高値で買い上げられた。セザンヌは、この年の秋に母に書いた手紙で、「私が完成を目指すのは、より真実に、より深い知に達する喜びのためでなければなりません。世に認められる日は必ず来るし、下らないうわべにしか感動しない人々より、ずっと熱心で理解力のある賛美者を獲得するようになると本当に信じてください。」と自負心を表している。 その後、パリとエクスの間を行ったり来たりした。1876年の第2回印象派展には出品していない。辛辣な批評に自信を失って出品を断ったとも言われるが、サロンに応募を続けるセザンヌの姿勢が、グループ展に参加するからにはサロンに応募すべきではないというエドガー・ドガの方針に反したためとも言われる。 絵画収集家ヴィクトール・ショケ(ドイツ語版)の励ましもあり、1877年の第3回印象派展に、油彩13点、水彩3点の合計16点を出品した。ここには、既に、肖像画、風景画、静物、動物、水浴図、物語的構成図という、セザンヌが扱う主題が全て含まれていた。その中に含まれていたショケの肖像は再び厳しい批評にさらされたが、一方で、「『水浴図』を見て笑う人たちは、私に言わせればパルテノンを批判する未開人のようだ」と述べたジョルジュ・リヴィエール(フランス語版)のほか、ルイ・エドモン・デュランティ(英語版)、テオドール・デュレのように、セザンヌの作品を賞賛する批評家も現れた。ゾラも、「セマフォール・ド・マルセイユ」紙に「ポール・セザンヌ氏は確かに、このグループ[印象派]で最高の偉大な色彩画家である」との賛辞を書いている。 ===エクスでの隠遁生活(1880年代)=== セザンヌは、1878年頃から、時間とともに移ろう光ばかりを追いかけ、対象物の確固とした存在感がなおざりにされがちな印象派の手法に不満を感じ始めた。 そして、セザンヌは、モネ、ルノワール、ピサロとの友情は保ちながらも、第4回印象派展以降には参加していない。1879年4月、ピサロに対し、「私のサロン応募のことで論争が起こっている折から、私は印象派展覧会に参加しない方がよいのではないかと考えます。また他方では、作品搬入の面倒さから来る苦労を避けたくもありますし。それにここ数日のうちにパリを発つのです。」と書き送っている。印象派グループの中でも、モネやルノワールと、ドガとの対立が鋭くなり、ドガが出品する第4回(1879年)、第5回(1880年)印象派展を、モネやルノワールがボイコットするという事態になっていた。セザンヌは、こうしてサロン応募を優先したが、この年のサロンにも落選した。 セザンヌは、同時期から、制作場所をパリから故郷のエクスに戻した。第3回印象派展の後、1895年に最初の個展を開くまで、パリの画壇からは知られることなく制作を続けた。1878年から1879年にかけて、エクスとエスタックに滞在することが多くなった。この頃、妻子の存在を父に感付かれたことで、父子の関係は悪化し、1878年4月から8月頃、毎月の送金を半分に減らされ、ゾラに月60フランの援助を頼んだ。 画材をタンギーの店で買い、代金代わりに絵を渡すことも多く、ポール・ゴーギャン、フィンセント・ファン・ゴッホはこの店でセザンヌを研究した。また、ショケ、ピサロ、ガシェなどもタンギーの店でセザンヌの作品を買った。ゴーギャンは、ピサロに、「セザンヌ氏は万人に認められる作品を描くための正確な定式を発見したでしょうか。[……]どうか彼にホメオパシーの神秘的な薬を与えて、眠っている間にそれをしゃべらせ、できるだけ早く私たちに報告しにパリまで来てください。」という手紙を送っている。また、ゴッホは、後に、アルルに移った時、「前に見たセザンヌの作品が、否応なく心に蘇ってくる。プロヴァンスの荒々しい面を力強く示しているからだ。」と書いている。 1880年代前半には、10月から2月頃までは南仏で過ごし、エクスの父の家とマルセイユの妻子のいる家とエスタックの自分の家を行き来し、サロンのシーズンが始まる3月にはパリに出て、パリのアパルトマンを借りたり、ムランやポントワーズといった近郊の町に下宿したりする、という生活を繰り返していた。パリを訪れた時は、ゾラがセーヌ川沿いのメダン(英語版)に買った別荘に招待されることも度々であった。 1882年、『L・A氏の肖像』という作品で初めてサロン(フランス芸術家協会(英語版)が1881年、美術アカデミーから引き継いで開催していたもの)に入選した。この時、彼は、サロンの審査員となっていた友人アントワーヌ・ギュメ(フランス語版)の弟子という形にしてもらい、審査員が弟子の1人を入選させることができるという特権を使って入選させてもらったという。 1886年、ゾラが小説『作品(英語版)』を発表した。ゾラはこの小説の中でセザンヌとマネをモデルにしたと見られる画家クロード・ランティエの主人公の芸術的失敗を描いた。同年4月、ゾラから献本されたこの本をエクスで受け取ったセザンヌは、ゾラに、「君の送ってくれた『作品』を受け取ったところだ。この思い出のしるしをルーゴン・マッカールの著者に感謝し、昔の年月のことを思いながら握手を送ることを許していただきたい。」という短い手紙を送った。この小説がきっかけとなり、セザンヌとゾラの友情は断たれてしまったというのが、セザンヌ研究の第一人者ジョン・リウォルド(英語版)の説であり、定説化しているが、これに対しては、『作品』にはセザンヌの助言が反映されており2人の関係を破綻させるような内容ではなく、むしろメダンの館に雇われていた女性ジャンヌ・ロズロ(フランス語版)をめぐる恋愛関係が2人の距離を遠くしたとの説が唱えられている. しかし、2014年にこれまで絶交したと思われていた年より後年の交友を示す手紙(新著『大地』へのお礼と「君がパリに返ってきたら会いに行くよ」との内容)が発見されるに至り、断絶説の再考が求められている。 同年(1886年)4月28日、17年間同棲していたオルタンス・フィケと結婚した。同年10月、父が88歳で死去した。父から相続した遺産は40万フランであり、経済的には不安がなくなった。 サント・ヴィクトワール山などをモチーフに絵画制作を続けたが、絵はなかなか理解されなかった。1889年にパリ万国博覧会で旧作『首吊りの家』が目立たない場所に展示されたほか、1890年、ブリュッセルの20人展に招待されて3点の油彩画を送ったが、余り反響はなかった。しかし、前衛的な若い画家や批評家の間では、セザンヌに対する評価が高まりつつあった。ポール・ゴーギャン、アルベール・オーリエ、エミール・ベルナール、モーリス・ドニ、ポール・セリュジエ、ギュスターヴ・ジェフロワ、ジョルジュ・ルコント、シャルル・モリス(フランス語版)などである。 ルコントは、1892年の著書『印象主義者の芸術』の中で、「セザンヌは、最も平凡な対象を描く時でも常にそれを高貴なものにする。」、「限りなく柔らかな色調と、豊かな広がりをうまく抑制できる極めて単純な色彩の均一性にもかかわらず、彼の絵画には力強さがみなぎっている。」と賞賛し、ジェフロワも、1894年の『芸術生活』第3巻の一つの章をセザンヌに割いている。ギュスターヴ・カイユボットが、1894年に亡くなった時、ルーヴル美術館に入れられることを条件として、セザンヌを含む印象派の絵画コレクションを政府に遺贈したところ、アカデミーの画家やジャーナリズムから批判を浴びて大問題となり、政府が一部のみの遺贈を受け入れることで決着したが、このこともセザンヌの知名度を増すことになった。 1890年頃からは、年齢と糖尿病のため、戸外制作が困難になり、人物画に重点を移すようになった。 ===個展の開催(1895年)=== 1895年11月、パリの画商アンブロワーズ・ヴォラールが、ラフィット街の画廊で、セザンヌの初個展を開いた。もともと、ヴォラールにセザンヌの個展を開くことを勧めたのはピサロであった。ヴォラールは、1894年に行われたタンギー爺さんの遺品売立てでセザンヌ作品が6点出品されたうち、4点を入手した。さらに、ヴォラールは、パリの街でセザンヌの家を苦労して探り当てて息子に会い、説得を依頼した。すると、南仏にいた本人から、1868年頃から1895年までの集大成といえる約150点の油彩画が送られてきて、個展開催に漕ぎ着けた。しかし、批評家たちの評価は芳しくなかった。一方、個展を見たピサロは、息子ジョルジュへの手紙で、「実に見事だ。静物画と大変美しい風景画、何とも奇妙な水浴者たちがとても落ち着いて描かれている。」、「蒐集家たちは仰天している。彼らは何も分かっていないが、セザンヌは、驚くべき微妙さ、真実、古典主義を持った第一級の画家だ。」と書いている。 同郷の友人の息子で詩人だったジョワシャン・ガスケが、1896年、セザンヌと知り合い、後に彼の伝記を書いている。1897年、母が亡くなり、1899年、ジャス・ド・ブッファンは売られてしまった。ガスケによれば、セザンヌは、父の形見として大事にしていた肘掛け椅子や机が家族に処分のため燃やされてしまったことに、絶望を露わにしたという。 1898年には、ヴォラールが第2回個展を企画し、1899年には、セザンヌは第15回アンデパンダン展に出展した。セザンヌは、この両年には一時パリで過ごしたが、1900年以降はエクスでの制作に専念するようになった。しかし、エクスでは周囲に理解されず、ゾラがドレフュス事件で『私は弾劾する』(1898年)を発表したときなどは、その友人としてセザンヌを中傷する記事が地元の新聞に掲載されたこともあった。 ===最晩年(1900年 ‐ 1906年)=== 1900年にパリで開かれた万国博覧会の企画展である「フランス美術100年展」に他の印象派の画家たちとともに出品し、これ以降セザンヌは様々な展覧会に積極的に作品を出品するようになった。1904年から1906年までは、まだ創設されて間もなかったサロン・ドートンヌにも3年連続で出品した。パリのベルネーム=ジューヌ画廊も、セザンヌの作品を取り扱うようになった。 ナビ派の画家モーリス・ドニは、1900年、画商ヴォラールの画廊を舞台として、セザンヌの静物画の周囲に、ドニ自身を含むナビ派の仲間、ヴォラール、批評家アンドレ・メレリオ(英語版)が、巨匠オディロン・ルドンと向い合って立っている作品『セザンヌ礼賛』を制作し、これを1901年の国民美術協会サロンに出品した。セザンヌは、一般社会からはまだ顧みられていなかったが、若い画家たちからは強い敬愛を受けていたことを示している。このセザンヌの静物画は、ゴーギャンが愛蔵し、その肖像画の中に画中画として描き入れた絵でもあった。 ジャス・ド・ブッファンが売られた後は、ブールゴン通りのアパートを借りていたが、一時、「シャトー・ノワール(黒い館)」と呼ばれる建物を借りた。これは、石炭商が建てて黒く塗った建物だったが、セザンヌが住んだ頃には黒色が落ちて黄金色になっていた。1902年、エクス郊外に向かうローヴ街道沿いにアトリエを新築し、多くの静物画、風景画、肖像画を描いた。特に、大水浴図の制作に力を入れた。 晩年には、セザンヌを慕うエミール・ベルナールやシャルル・カモワン(英語版)といった若い芸術家たちと親交を持った。ベルナールは、1904年にエクスのセザンヌのもとに1か月ほど滞在し、後に『回想のセザンヌ』という著書でセザンヌの言葉を紹介している。ベルナールによれば、セザンヌは、朝6時から10時半まで郊外のアトリエで制作し、いったんエクスの自宅に戻って昼食をとり、すぐに風景写生に出かけ、夕方5時に帰ってくるという日課を繰り返していたという。また、日曜日には教会のミサに熱心に参加していたという。セザンヌは、同年4月15日付けのベルナール宛の書簡で、次のような芸術論を語っている。 ここであなたにお話したことをもう一度繰り返させてください。つまり自然を円筒、球、円錐によって扱い、全てを遠近法の中に入れ、物やプラン(平面)の各側面が一つの中心点に向かって集中するようにすることです。水平線に平行な線は広がり、すなわち自然の一断面を与えます。もしお望みならば、全知全能にして永遠の父なる神が私たちの眼前に繰り広げる光景の一断面といってもいいでしょう。この水平線に対して垂直の線は深さを与えます。ところで私たち人間にとって、自然は平面においてよりも深さにおいて存在します。そのために、赤と黄で示される光の振動の中に、空気を感じさせるのに十分なだけの青系統の色彩を入れねばなりません。 1906年9月21日のベルナール宛書簡では、「私は年をとった上に衰弱している。絵を描きながら死にたいと願っている。」と書いている。その年の10月15日、野外で制作中に大雨に打たれて体調を悪化させ、肺充血を併発し、23日朝7時頃、自宅で死去した。翌日、エクスのサン・ソヴール大聖堂で葬儀が行われた。墓石には、死亡日が10月22日と刻まれているが、市役所の死亡届には23日と記録されている。 ==後世== 1907年10月、サロン・ドートンヌの一部として、セザンヌの回顧展が行われ、油彩画を中心とする56点が展示された。オーストリアの詩人ライナー・マリア・リルケは、この回顧展を見て感動し、妻に「僕は今日もまたセザンヌの絵を見に行った。……セザンヌの絵の実存が一つのまとまった巨大な『現実』を作り出している。」といった手紙を書いている。この回顧展と同時の1907年10月、エミール・ベルナールが、『メルキュール・ド・フランス』誌に、エクス訪問をまとめた「ポール・セザンヌの回想」を発表した。 1900年に『男の裸体』を描いたアンリ・マティス、1907年に『水浴者たち』を描いたアンドレ・ドランなど、フォーヴィスムの画家にも影響を与えた。マティスの1910年から1917年までの実験的な作品の中には、色彩による構築というセザンヌの手法への理解が見られ、マティスは、さらに、色彩の単純化と構図の平面化を押し進めていった。ドランは、自分の部屋の壁に、セザンヌの『5人の浴女たち』の複製写真をかけており、『水浴者たち』は原始美術とセザンヌの影響を総合した作品であった。 ジョルジュ・ブラックは、1902年にはセザンヌの絵画を見ており、1904年には自分の絵の中にセザンヌの要素を取り入れている。さらに、1907年、南仏滞在の記憶をもとに描いた『家々のある風景』では、セザンヌによる細部の省略を推し進め、建物を幾何学的な形態に変化させている。 1960年代には、シドニー・ガイスト(ドイツ語版)のように、セザンヌの絵画に性的イメージが隠されていることを指摘する精神分析美術史研究が現れた。 彼の肖像はその作品とともにユーロ導入前の最後の100フランス・フラン紙幣に描かれていた。 ===作品の高騰=== セザンヌの作品は、ヴォラールによる1895年の個展では100フランから700フランで売れたが、1899年のショケの遺品売立てでは、『首吊りの家』が6200フラン(248ポンド)で売れたが、同じ売立てでルノワール、モネ、マネの作品が1万フランから2万フランで売れたのと比べると、まだ差があった。 ところが、1910年以降には、1000ポンド台、1925年以降には、1万ポンド台に達した。1948年、チューリッヒのコレクターエミール・ビュールレ(英語版)が『赤いチョッキの少年』を3万7500ポンドの高値で購入したことが話題となった。1953年には、ロンドンのナショナル・ギャラリーが『ロザリオを持った老女の肖像』を3万2000ポンドで購入した。1958年、サザビーズのオークションで、ポール・メロンが『赤いチョッキの少年』第2作を初めての6桁台となる22万ポンドで落札し、ワシントンD.C.のナショナル・ギャラリーに寄贈した。1970年代には6桁台の落札が22件も現れた。こうして、セザンヌは、ルノワールと並ぶ最高水準価格の画家となった。 1980年代末には美術市場全体の高騰の中、日本人による高額購入が相次ぎ、1989年にはニューヨーク・サザビーズで『テーブルの上の水差しと果物』が1050万ドル(14億2905万円)で落札されて、大阪の高橋ビルディング所蔵となり、同じ年にロンドン・クリスティーズで『リンゴとナプキン』が1000万ポンド(22億7540万円、1578万ドル)という記録的な価格で落札され、安田火災海上保険所蔵となった。1990年代にも次々記録が更新され、1999年5月10日のニューヨーク・サザビーズで『カーテン、水差しと果物入れ(英語版)』が5500万ドル(67億1000万円)で落札され、更に記録を塗り替えた。その後の2011年、相対取引のため詳細は公表されていないが、カタールが『カード遊びをする人々』を2億5000万ドル超で購入したと伝えられ、そのとおりとすれば美術取引史上最高値とされる。2013年には、『サント=ヴィクトワール山』が1億ドルで相対取引されたとされる。 ===関連映画=== セザンヌ (映画)(フランス語版) ‐ 1990年のフランスのドキュメンタリー映画。監督はジャン=マリー・ストローブとダニエル・ユイレ。セザンヌと過ごした時間 ‐ 2016年のフランスの伝記映画。監督はダニエル・トンプソン(フランス語版)。ギヨーム・ガリエンヌがセザンヌを演じた。 ==作品== ===カタログ=== セザンヌの作品は、油絵900点余り、水彩画350点余り、デッサン350点余りである。 1936年、リオネロ・ヴェントーリ(英語版)により、初めて本格的なカタログ・レゾネが出版された。 ジョン・リウォルド(英語版)は、ヴェントーリのカタログ・レゾネの年代確定に疑問を呈し、個人的な調査に加え、研究者を中心とする小委員会を組織して、カタログ・レゾネの編纂作業を進めた。その際、様式分析による年代確定を非科学的であるとして排し、外的な資料やモデルの発言を手がかりとするとの方針を貫いた。そして、まず、1973年にシャピュイ編による素描のカタログ・レゾネ、1983年にリウォルド編による水彩画のカタログ・レゾネが刊行された。1994年、リウォルド自身は死去するが、1996年、その遺志に基づいて油彩画のカタログ・レゾネが刊行され、今日のセザンヌ研究の基礎となっている。 ===作風・技法=== 美術史家のリオネロ・ヴェントーリは、セザンヌの油彩画の発展段階を、(1)アカデミズムとロマン主義の時期(1858年‐71年)、(2)印象主義の時期(1872年‐77年)、(3)構成主義の時期(1878年‐87年)、(4)総合の時期(1888年‐1906年)に分けて考察している。もっとも、印象主義との出会いの時期も必ずしも印象主義的な絵を描いたとはいえず、構成と総合は年代に依存するものではないため、初期のロマン主義的作品を除く後期作品については、年代によって区分することは恣意性を含むとの指摘もされている。 ===初期のロマン主義的作品=== セザンヌは、1860年代から70年代を中心に、現実のモデルに基づかず、空想で描く「構想画」を多く描いている。そのテーマは、暴力、虐殺、性的放縦、誘惑、女性の聖性、美とエロスといったものである。初期の絵画は、内面の情念を露骨に表出したものが多く、絵具を力強く盛り上げて描いている。この時期のセザンヌに最も大きな影響を与えたのは、ウジェーヌ・ドラクロワとギュスターヴ・クールベであった。また、マネの『草上の昼食』や『オランピア』に着想を得た挑発的な作品を複数制作している。 印象派と出会ってからは、こうした露骨なロマン主義は影を潜めたように見えるが、ガスケは、セザンヌの生涯は震えるような感受性と理論的な理性との戦いであって、自ら忌み嫌うロマン主義が芽を出し続け、後年の水浴図などにまで表れていると指摘している。 セザンヌ自身、晩年においても、フランス古典主義の巨匠ニコラ・プッサンを尊ぶと同時に、ドラクロワへの敬意を失わず、『ドラクロワ礼賛図』を描いている。そのほか、ティツィアーノ、ティントレット、ヴェロネーゼといったヴェネツィア派の画家や、ルーベンス、ベラスケスの生命感あふれる絵画を愛好した。他方で、新古典主義のダヴィッド、アングルや、ボローニャ派に対しては、血の通わない技法(メチエ)に陥っているとして排斥した。 セザンヌの初期構想画のオリジナリティに初めて注目したのは、メイヤー・シャピロ(英語版)であった。その後、1988年から1989年にかけてオルセー美術館などで、セザンヌの初期作品を集めた大規模な展覧会が開かれたが、初期作品をセザンヌの恥部であるとして評価しない批評家も多かった。 ===印象主義とその克服=== パリで、ピサロから、戸外で自然を見て描くという印象主義の発想を教えられ、田園の風景画を描き始める。彼は、印象派を通して、色彩を解放することを知った。しかし、モネやアルフレッド・シスレーが、色彩によって、瞬間的な色調の変化や、その場の雰囲気を伝えようとしたのに対し、セザンヌは、色彩による堅固な造形を目指している点に特徴がある。第1回印象派展に出品した『首吊りの家』においては、明るい色彩を用いながら、一瞬の映像ではなく、建物の力強い実在感や、空間を構成しようとする意図が表れている。 ゾラがセーヌ川沿いに購入した家を描いた『メダンの館』でも、水平線と垂直線が作り出す構図の中に、短い筆致(ストローク)が秩序立って並べられており、キャンバスの表面における秩序が追求されている。このように、色調を微妙に変えながら、斜めに平行して筆致を並置することで秩序を生み出そうとする技法は、シオドア・レフ(英語版)によって構築的筆致と名付けられた。最初はロマン主義的人物群像に用いられていたが、1879年‐80年頃から、風景画に用いられるようになった。 また、形態の喪失という印象派の抱える問題点を克服するために、輪郭線の復活によって対処しようとしたルノワールとは異なり、セザンヌは、人物、静物、風景を問わず、物の形を、面取りをしたように、面の集合として捉えた上で、キャンバス上に小さい色面を貼り合わせたように乗せ、立体感を強調した。1895年以降の作品には、構築的筆致よりも広い色面が、撒き散らされたように並べられている。そして、伝統的な明暗法や肉付法が、無彩色により陰影を付けていたのとは異なり、ストローク(筆致)で分割された有彩色を段階的に変化させるモデュラシオン(転調)という技法により、明暗や量感を表現した。その代わり、肌の質感や輝きは、切り捨てられている。彼の「自然を円筒、球、円錐によって扱う」というフレーズは、幾何学的形態への還元を勧めるものと解釈され、後のキュビスムに理論的基盤を与えた。もっとも、セザンヌの真の意図については様々な解釈があり、自然界の物が眼との距離によって様々な色彩を見せるため、モデュラシオンを行う必要があるという意味だとも言われる。 セザンヌの1880年代の静物画では、緊張感をはらんだ歪み(デフォルマシオン)が現れる。オルセー美術館にある『果物籠のある静物』では、砂糖壺が傾いていたり、壺が上から覗き込んでいるように描かれているのに対し、果物籠が横から見たように描かれているなど、複数の視点が混在していたり、テーブルの左右の稜線が食い違っていたりという、多くのデフォルマシオンが生じている。それが物の圧倒的な存在感をもって見る者に迫ってくる要素となっている。こうした独特の造形は、同時代の人々からは激しく非難されたが、これも後のキュビスムによって評価されることになる。 セザンヌは、晩年、「自然にならって絵を描くことは、対象を模写することではない、いくつかの感覚(サンサシオン)を実現(レアリゼ)させることだ」と述べていた。このように、「感覚の実現(レアリザシオン)」はセザンヌのスローガンとなるが、そこでいう感覚には、自然が網膜にもたらす色彩の刺激という意味と、自然から得た感覚を統御して秩序を構築する芸術的感覚という意味の二つがあった。すなわち、モネに代表される印象派が、眼を通して受け入れた感覚世界を色彩に分解してキャンバスに写し取ることを追求したのに対し、セザンヌにとっては、見ることとは、自己の内部にある知的秩序に基づく認識作用であり、しかも、認識の対象は、赤や青の斑点ではなく、りんごや山といった実在であった。「絵画には、二つのものが必要だ。つまり眼と頭脳である。この両者は、お互いに助け合わなければならない。」という言葉にも、彼の考え方が表れている。 ===主題とモチーフ=== ====人物画==== セザンヌは、作品制作に時間をかけたことで知られる。画商アンブロワーズ・ヴォラールは、セザンヌに自らの肖像画を依頼したが、毎回3時間半も、不安定な台の上に置かれた椅子に座ってポーズをするという苦行を強いられ、ある時、居眠りをすると、「りんごと同じようにしていなければならない。りんごが動くか。」と怒鳴られたという逸話を回想録で述べている。115回にわたりポーズを続けた時、セザンヌは、描きかけの肖像画について「ワイシャツの前の部分はそう悪くない」と言ったという。作品は、ルノワールが同じヴォラールを描いた暖かみのある肖像画とは異なり、余計なものを排した構築性の強いものとなっている。もっとも、同様に肖像画のモデルとなったガスケによれば、ポーズをとったのは5、6回で、セザンヌは、モデルがいる間はその観察に時間を費やし、モデルが帰った後に筆を動かして作品を完成させたという。 妻オルタンスも、従順で辛抱強いモデルとして、多数の肖像画に登場している。そのほか、ゾラなどの友人、家政婦ブレモン夫人、庭師ヴァリエなど身近な人物をモデルとしている。生涯パトロンを持たなかったため、富裕な人物から注文を受けての肖像画はない。 セザンヌにとっての人物画は、ルノワールのようにモデルの生命感が問題になるのではなく、空間におけるヴォリュームを有する人体が問題であり、その点で、静物画と同じ意味を有したといえる。 ===自画像=== ===水浴図=== セザンヌは、水浴を主題に多くの連作を制作している。最初は、男女混合で、男性水浴者が森の中で女性水浴者を覗き見するものなど、男女の関わり合いを描くものもあったが、その後、男女は別々に描かれるようになった。男性水浴図は、少年時代にアルク川(英語版)で水遊びを楽しんだ原体験が投影されており、攻撃性や闘争性が表れている。一方、女性水浴図は、ユートピアでくつろいでいる姿となっている。 マネ、ルノワール、モネ、ドガ、トゥールーズ=ロートレックなどが、近代化の進むパリの情景を好んで描いたのに対し、セザンヌは、そうした近代的情景を好まず、自然を追い求めた。セザンヌの水浴図には、そうしたユートピアへの指向が表れている。 1905年1月にエクスを訪問したR.P.リヴィエールとJ.F.シュネルブに対し、セザンヌは、描きかけの大水浴図(バーンズ・コレクション蔵のもの)について、「1894年から制作しています。クールベのように徹底した厚塗りで描きたいものだ。」と述べている。1904年のベルナールの訪問時には、セザンヌは、ヌードを描くのに、田舎ではモデルを見つけるのが難しいといった理由から、アカデミー・シュイス時代のデッサンを見ながら制作していることを打ち明けている。 マティスは、1899年にヴォラール画廊で『3人の浴女』を購入し、長く制作の手本とし、『生きる喜び』(1905‐06年)など多くの裸婦を描いた。 ===静物画=== セザンヌは、初期から、クールベ、マネ、ジャン・シメオン・シャルダンなどを手本に、静物画に熱心に取り組んだ。中でも、ゾラとの少年時代の想い出にも登場するりんごを好んで描いた。もっとも、ヴォラールによれば、制作に時間をかける余り、りんごが腐ってしまい、下絵だけで終わったこともあったという。 晩年には、骸骨を取り入れたヴァニタスも制作している。ベルナールは、1904年のエクス訪問中、セザンヌが毎朝6時から10時半までアトリエで三つの頭蓋骨を描き続け、「まだ足りないのは実現(レアリザシオン)だ」と述べていたのを報告している。 ナビ派の画家ポール・セリュジエは、セザンヌの静物画について、「見る者に皮をむいて食べたいと思わせるのではなく、ただ見るだけで美しく模写したい気持ちにさせる。」と評している。 ===サント=ヴィクトワール山=== サント=ヴィクトワール山は、エクスの郊外にある標高1000メートルほどの山である。セザンヌは、1870年に描いた風景画の背景にこの山を取り入れたことがあるが、1880年代半ば以降、この山を重要なモティーフとする連作に取り組むようになった。油絵、水彩、素描で数十点が描かれている。 =スピロヘータ門= スピロヘータ(またはスピロケータ、羅:Spirochaetes、英:spirochaetaまたはspirochete, spirochetis)とは、らせん状の形態をしたグラム陰性の細菌の一グループである。門名の由来は「コイル状の髪」を意味するギリシア語σπειροχα*9688*τηをラテン語に音写したもので、古典ラテン語の発音では「スピーロカエテス」である。 自然環境のいたるところに見られる常在菌の一種でもある。一部のスピロヘータはヒトに対して病原性を持つものがあり、梅毒、回帰熱、ライム病などの病原体がこれに該当する。またシロアリや木材食性のゴキブリの消化管に生息するスピロヘータは、腸内細菌として宿主が摂った難分解性の食物から栄養素を摂取したり、エネルギーを産生する役割にかかわっている可能性が指摘されている。 現在、門の階級は国際原核生物命名規約(ICNP)で扱っていないが、2015年に門を含めるとともに接尾辞を統一することが提案が出されている。提案では門名として「スピロカエタエオタ(Spirochaetaeota)」が候補として提示されている。 他の典型的な細菌とは異なり、菌体の最外側にエンベロープと呼ばれる被膜構造を持ち、それが細胞体と鞭毛を覆っている。細胞壁が薄くて比較的柔軟であり、鞭毛の働きによって、菌体をくねらせたりコルク抜きのように回転しながら活発に運動する。 ==分類== 細菌の形態には、球型のもの(球菌)や棒状のもの(桿菌)の他に、桿菌と同様に細長い菌体がらせん形になったものが存在し、これらはらせん菌と総称される。 らせん菌はその回転数から、(1) 回転数が1回程度のもの、(2) 2 ‐ 3回のもの、(3)5回以上( ‐ 数百回)のものに区別される。1に該当するものにはコレラ菌などのビブリオ属が、2に該当するものにはスピリルム、カンピロバクター、ヘリコバクターが挙げられ、3に該当する細くて回転数の多いものが俗にスピロヘータと総称される。 スピロヘータは以前、細菌とは異なる別の微生物として考えられていたが、その後、研究が進むにつれて細菌の一グループをなすものであることが判明した。2005年現在の細菌の分類では、スピロヘータ門は独立した門として扱われており、以下、スピロヘータ綱スピロヘータ目スピロヘータ科スピロヘータ属という、属のレベルまでが存在しているが、一般にはこの中で、スピロヘータ門に属するものすべてを指す場合が多い。 2012年現在、スピロヘータは以下のような位置づけにある。ただしスピロヘータの分類はまだ整理の途上にあり、今後変更される可能性がある。 Spirochaetes スピロヘータ門 Spirochaetes スピロヘータ綱 Spirochaetales スピロヘータ目 Spirochaetaceae スピロヘータ科 Alkalispirochaeta Spirochaeta スピロヘータ属 Clevelandina :昆虫の後腸に寄生 Diplocalyx :昆虫の後腸に寄生 Hollandina :昆虫の後腸に寄生 Oceanispirochaeta Pillotina :昆虫の後腸に寄生 Pleomorphochaeta Rectinema Salinispira Sphaerochaeta Treponema トレポネーマ属:梅毒トレポネーマ(T. pallidum)など Borreliaceae ボッレリア科 Cristipira Borrelia ボレリア属:回帰熱ボレリア(B. recurrentisほか)、ライム病ボレリア(B. burgdorferiほか)など Borreliella Brachyspirales ブラキュスピラ目 Brachyspiraceae ブラキュスピラ科 Brachyspira Serpulina セルプリナ属:豚赤痢菌(S. hyodysenteriae)など Leptospirales レプトスピラ目 Leptospiraceae レプトスピラ科 Leptonema Leptospira レプトスピラ属:ワイル病レプトスピラ(黄疸出血性レプトスピラ, L. interrogans serovar icterohaemorrhagiae)、秋疫(あきやみ)レプトスピラ(L. interrogans serovar autumnalis Akiyami A ほか)など Turneriella Brevinemataceae ブレウィネマ科 Brevinema 所属科不明 ExilispiraSpirochaetes スピロヘータ綱 Spirochaetales スピロヘータ目 Spirochaetaceae スピロヘータ科 Alkalispirochaeta Spirochaeta スピロヘータ属 Clevelandina :昆虫の後腸に寄生 Diplocalyx :昆虫の後腸に寄生 Hollandina :昆虫の後腸に寄生 Oceanispirochaeta Pillotina :昆虫の後腸に寄生 Pleomorphochaeta Rectinema Salinispira Sphaerochaeta Treponema トレポネーマ属:梅毒トレポネーマ(T. pallidum)など Borreliaceae ボッレリア科 Cristipira Borrelia ボレリア属:回帰熱ボレリア(B. recurrentisほか)、ライム病ボレリア(B. burgdorferiほか)など Borreliella Brachyspirales ブラキュスピラ目 Brachyspiraceae ブラキュスピラ科 Brachyspira Serpulina セルプリナ属:豚赤痢菌(S. hyodysenteriae)など Leptospirales レプトスピラ目 Leptospiraceae レプトスピラ科 Leptonema Leptospira レプトスピラ属:ワイル病レプトスピラ(黄疸出血性レプトスピラ, L. interrogans serovar icterohaemorrhagiae)、秋疫(あきやみ)レプトスピラ(L. interrogans serovar autumnalis Akiyami A ほか)など Turneriella Brevinemataceae ブレウィネマ科 Brevinema 所属科不明 ExilispiraSpirochaetales スピロヘータ目 Spirochaetaceae スピロヘータ科 Alkalispirochaeta Spirochaeta スピロヘータ属 Clevelandina :昆虫の後腸に寄生 Diplocalyx :昆虫の後腸に寄生 Hollandina :昆虫の後腸に寄生 Oceanispirochaeta Pillotina :昆虫の後腸に寄生 Pleomorphochaeta Rectinema Salinispira Sphaerochaeta Treponema トレポネーマ属:梅毒トレポネーマ(T. pallidum)など Borreliaceae ボッレリア科 Cristipira Borrelia ボレリア属:回帰熱ボレリア(B. recurrentisほか)、ライム病ボレリア(B. burgdorferiほか)など BorreliellaSpirochaetaceae スピロヘータ科 Alkalispirochaeta Spirochaeta スピロヘータ属 Clevelandina :昆虫の後腸に寄生 Diplocalyx :昆虫の後腸に寄生 Hollandina :昆虫の後腸に寄生 Oceanispirochaeta Pillotina :昆虫の後腸に寄生 Pleomorphochaeta Rectinema Salinispira Sphaerochaeta Treponema トレポネーマ属:梅毒トレポネーマ(T. pallidum)などAlkalispirochaetaSpirochaeta スピロヘータ属Clevelandina :昆虫の後腸に寄生Diplocalyx :昆虫の後腸に寄生Hollandina :昆虫の後腸に寄生OceanispirochaetaPillotina :昆虫の後腸に寄生PleomorphochaetaRectinemaSalinispiraSphaerochaetaTreponema トレポネーマ属:梅毒トレポネーマ(T. pallidum)などBorreliaceae ボッレリア科 Cristipira Borrelia ボレリア属:回帰熱ボレリア(B. recurrentisほか)、ライム病ボレリア(B. burgdorferiほか)など BorreliellaCristipiraBorrelia ボレリア属:回帰熱ボレリア(B. recurrentisほか)、ライム病ボレリア(B. burgdorferiほか)などBorreliellaBrachyspirales ブラキュスピラ目 Brachyspiraceae ブラキュスピラ科 Brachyspira Serpulina セルプリナ属:豚赤痢菌(S. hyodysenteriae)などBrachyspiraceae ブラキュスピラ科 Brachyspira Serpulina セルプリナ属:豚赤痢菌(S. hyodysenteriae)などBrachyspiraSerpulina セルプリナ属:豚赤痢菌(S. hyodysenteriae)などLeptospirales レプトスピラ目 Leptospiraceae レプトスピラ科 Leptonema Leptospira レプトスピラ属:ワイル病レプトスピラ(黄疸出血性レプトスピラ, L. interrogans serovar icterohaemorrhagiae)、秋疫(あきやみ)レプトスピラ(L. interrogans serovar autumnalis Akiyami A ほか)など Turneriella Brevinemataceae ブレウィネマ科 Brevinema 所属科不明 ExilispiraLeptospiraceae レプトスピラ科 Leptonema Leptospira レプトスピラ属:ワイル病レプトスピラ(黄疸出血性レプトスピラ, L. interrogans serovar icterohaemorrhagiae)、秋疫(あきやみ)レプトスピラ(L. interrogans serovar autumnalis Akiyami A ほか)など TurneriellaLeptonemaLeptospira レプトスピラ属:ワイル病レプトスピラ(黄疸出血性レプトスピラ, L. interrogans serovar icterohaemorrhagiae)、秋疫(あきやみ)レプトスピラ(L. interrogans serovar autumnalis Akiyami A ほか)などTurneriellaBrevinemataceae ブレウィネマ科 BrevinemaBrevinema所属科不明 ExilispiraExilispira ==細菌学的特徴== グラム陰性のらせん菌であり、そのらせん形態は科や属ごとにそれぞれ特徴がある。一般には0.1 ‐ 0.5×4‐250 μm程度の細長い菌体がらせん状になっているものが多いが、中には500 ‐ 600 μmほどの大型のものもある。 ===スピロヘータ科=== 0.1 ‐ 0.3×5 ‐ 250 μm程度の右巻きまたは左巻きの規則正しいらせん状で、菌体の両端付近に1 ‐ 20本程度ずつの鞭毛を持つ。中には90 ‐ 150本の鞭毛を持つ属もある。微好気性、通性嫌気性または偏性嫌気性。 ===セルプリナ科=== 0.2 ‐ 0.4×4 ‐ 9 μm程度のゆるやかで粗大ならせん状で、菌体の両端付近に4 ‐ 15本ずつの鞭毛を持つ。偏性嫌気性。 ===レプトスピラ科=== 0.1×6 ‐ 12 μm程度でスピロヘータの中では最も微細。規則正しい右巻きのらせん状で、菌体の両端または一端がフック状に湾曲する。菌体の両端付近にそれぞれ1本の鞭毛を持つ。偏性好気性。スピロヘータは他の細菌とは異なる独特の構造を持ち、その基本構造は、細胞体、鞭毛、エンベロープという3つから構成される。菌体の両端からそれぞれ伸びた鞭毛に、ちょうど菌体(細胞体)がらせん状に巻き付くような恰好となり、それらすべてをエンベロープと呼ばれる被膜構造が覆った状態になっている。このため他の鞭毛を持つ細菌とは異なり、鞭毛が直接外部の環境に接することはない。このような特徴から、スピロヘータの鞭毛は、軸糸 (axial filament)、細胞内鞭毛 (endoflagella)、ペリプラズム鞭毛、軸繊維などとも呼ばれる。 スピロヘータの細胞壁は薄いため細胞体は柔軟であり、またエンベロープも流動性に富んでいる。この柔軟性と鞭毛の働きによって、スピロヘータは活発な運動性を示す。スピロヘータの鞭毛は、他の原核生物の鞭毛と同様、菌体と接する部分を基点にして回転しているが、この鞭毛の回転によって鞭毛と接している細胞体とエンベロープも回転し、菌体全体がコルク抜きのように回転することで、前方への推進力を得る。他の生物の鞭毛による運動の場合は、粘度の高い溶液の中では鞭毛を動かせずに運動が停止するが、スピロヘータのこの回転運動の場合は粘稠な溶液中でも運動することが可能である。また、この回転運動以外にも、鞭毛の働きと菌体の柔軟性によって、スピロヘータは屈曲したり、固体の表面を這うように移動したりすることも可能である。 この他、属ごとに他の細菌にはあまり見られない特徴を有するものも見られる。例えばトレポネーマ属やレプトネーマ属には細胞体の中に細胞内微小管と呼ばれる、真核細胞の微小管とよく似た構造が見られる。ボレリアの細胞膜には動物細胞の膜脂質成分であるコレステロールが含まれており、この点でマイコプラズマと類似した特徴を持つ。またボレリアの中には、他のほとんどの細菌のゲノムが環状DNAであるのに対して、線状DNAをゲノムとして持っているものがある。 ==昆虫の共生体== ゴキブリやシロアリの多くは、窒素含有量が著しく低く、かつ難分解性の高分子化合物を主成分とする腐植質(朽木など)を主食としている。こうした食物は動物の生理的能力では十分利用することが難しいため、これらの昆虫は原生動物、担子菌、細菌といった微生物との共生系を発達させている。 スピロヘータはゴキブリやシロアリの腸内における微生物との共生系の中にも確認されているが、その機能は十分に解明されているとはいいがたい。しかし、オーストラリアに分布する最も原始的なシロアリであるムカシシロアリ Mastotermes darwiniensis では、非常に興味深い現象が確認されている。ゴキブリやシロアリの腸内のスピロヘータには自由生活するものと、共生原生動物に付着して生活するものがあるが、ムカシシロアリの腸に共生している多鞭毛虫の一種 Mixotricha paradoxa の細胞の表面には50万個体前後ものスピロヘータが付着して、あたかも繊毛のように見える。それらは実際に繊毛のような波うち運動を行っている。 M. paradoxa は運動をこの体表におびただしく付着したスピロヘータの運動に依存していることも知られている。この現象は細胞内小器官の起源の細胞内共生説を唱えたリン・マーギュリスの関心を引き、鞭毛(繊毛・波動毛)のスピロヘータ共生起源説のアイディアを引き出した。しかし、真核生物の鞭毛構造とスピロヘータの構造に著しい差があることなどから、ミトコンドリアや葉緑体の細胞内共生説のようには受け入れられておらず、定説化していない。真核生物の鞭毛の形成中心となっている中心体に独自の遺伝子があるという説が過去に提唱されたが、現在ではほぼ否定されている。今後鞭毛の起源に細胞内共生説が再浮上する可能性は完全には否定できないが、今日ではスピロヘータの共生体がそのまま鞭毛となったと見なすのは困難であると認識されている。 ==歴史== 最初に微生物を発見したことで知られるレーウェンフックが、1683年9月にイギリスの王立協会に送ったスケッチに、スピロヘータ様のらせん菌が描かれており、細菌発見の当初からその存在は知られていた。 スピロヘータという名称は1835年にEhrenbergが水中から見出したらせん菌につけたものが最初である。 病原性のスピロヘータとして最初に同定されたのは回帰熱ボレリアで、1873年のObermeierの発見による。 ==特定のスピロヘータの感染により発病する病気== 梅毒回帰熱ライム病レプトスピラ症 =星織ユメミライ= 『星織ユメミライ』(ほしおりユメミライ)は、2014年7月25日に発売されたWindows用18禁恋愛アドベンチャーゲーム。 2016年8月10日にプロトタイプよりPlayStation Vita移植版『星織ユメミライ Converted Edition』が発売され、PlayStation 4版は2017年9月14日に発売された。 本作はtone work’sによって企画と制作が行われ、株式会社ビジュアルアーツにより販売された。シナリオはスクール編とアフター編の二部構成となっており、スクール編では学園生活を通じて主人公とヒロインが恋仲になる展開が、アフター編では恋人同士となった二人が学園生活後に歩む道筋が描かれる。『星織ユメミライ』は2014年に発売された美少女ゲームの売り上げランキングにおいて20位前半に位置している。また、美少女ゲーム雑誌上で行われた、2014年に発売された美少女ゲームが対象のユーザー人気投票では、総合部門で最高4位を達成した。 ==ゲームシステム== 本作は恋愛アドベンチャーゲームであり、主人公である日野 涼介(ひの りょうすけ)の視点から紡がれる文章をプレイヤーは読み進めていく。文章は小説のように地の文と会話文から構成される。ゲームを進めていくことでプレイヤーは特別なCGを閲覧できる。本作にはCGやBGMを鑑賞できる機能が搭載されており、ゲームを1回以上クリアするとこの機能を使用出来るようになる。 本作は選んだ選択肢により異なった結末に向かって物語が進むゲームである。ゲームを進めていくとある時点でゲームが中断し、選択肢が表示される。選んだ選択肢によって物語の道筋が変わり、ある特定の結末に物語が進む。本作の物語には主に6つの道筋があり、それぞれの物語で1人の少女の話が展開する。全ての物語を読むには、ゲームを複数回やり直して違う選択肢を選んで違う道筋に進む必要がある。 『星織ユメミライ』ではtone work’s前作の『初恋1/1』と同様にスマートフォンを使うシステムが組み込まれている。作中では主人公が所有するスマートフォンを用いてヒロインと通話をしたり、テキストメッセージを送り合ったりする演出がなされる。ヒロインとの会話中に他のヒロインから電話やメッセージが来るという場面も登場する。また、作中のスマートフォンでカメラ機能を使用すると、お気に入りのシーンをスクリーンショットとして残すことが出来る。PS Vita版ではタッチスクリーンを用いてゲーム内のスマートフォンを操作することが出来る。 ==あらすじ== 建築士を目指している主人公・日野涼介は、7年ぶりに故郷である汐凪市に戻ってくる。涼介は汐凪第一学園に転入し、幼なじみとの再会や新たな少女との出会いを経験する。後に涼介は行事運営委員会に入り、6人のヒロイン達――逢坂そら・篠崎真里花・瀬川夏希・沖原美砂・鳴沢律佳・雪村透子――と交流していく。やがて涼介は一人のヒロインと親密になっていく。 本作では上記の主人公・ヒロインの他にも3人のサブキャラクターが登場する。韮沢 秀一(にらさわ しゅういち)は涼介の幼なじみであり、涼介が加入する行事運営委員会の委員長を務めている。我妻 盛夫(あずま もりお)は涼介が憧れる建築士であり、アフター編では涼介の雇い主となる。他にも鳴沢律佳のスクール編とアフター編では、律佳の妹でプロのピアニストとして活躍している鳴沢 めぐる(なるさわ めぐる)というサブキャラクターが登場する。 ===逢坂そらルート=== 逢坂 そら(おうさか そら)は星を愛する少女であり、天文部の唯一の部員である。涼介はそらとの出会いの後、天文部に入り浸り天体観測を行っていく。涼介が好奇心からそらに星を好きになった理由を尋ねると、幼い頃に出会った少年の影響だとそらは答える。幼い頃に七夕祭りで迷子となったそらは、出会った少年と星の話をして大いに励まされた。これをきっかけにそらは、出会いをくれる星をより好きになったという。涼介はそらの人生に大きな影響を与えた少年に対し、密かに対抗心を抱く。やがて涼介はそらへの恋心を自覚して彼女に告白する。そらは少し考えたいと告げ、返事を待つことを涼介に求める。日が経つにつれ涼介は、幼い頃にある少女と星座の話をしたことを思い出していく。後にそらが幼い頃に出会った少年とは涼介のことであると判明し、そらは涼介への想いを告白する。こうして二人は付き合い始める。 初めてのデートでプラネタリウムを訪れたことをきっかけとして、そらはプラネタリウムの解説員を目指すこと、七夕祭りで天文部はプラネタリウムを公演することが決まる。涼介とそらは他のヒロイン達の手を借りながら公演の準備を進めていく。投影機を借りるための資金集めやドーム制作に取り掛かり、途中でドームが崩れるというアクシデントに見まわれつつもプラネタリウムは完成する。七夕祭り当日、プラネタリウムは行列が出来る程に盛況となる。七夕祭りが終わり、星空の下で涼介とそらがずっと一緒にいることを誓う場面でスクール編は幕を閉じる。 アフター編は涼介が大学を卒業し我妻建築事務所に入社してから5年経過した時点から始まる。涼介は独立して日野建築事務所を開業し、そらは市の科学博物館でプラネタリウムの解説員として働いていた。独立した涼介は、友人である秀一のマイホームや市の文化ホールの設計に携わる。一方そらは、流星をテーマに新しいプラネタリウムの企画を立てる。そらが勤務する科学博物館が改築に合わせて設計者を公募することになり、涼介はそれに応募する。デザインの秀逸さや知名度により、涼介は見事に設計の仕事を勝ち取る。また、プラネタリウムの新企画を成功させたそらは、プラネタリウム部門の主任へと昇格する。涼介は後にそらへとプロポーズし、ハワイ諸島のマウナ・ケアで結婚式を挙げる。式を挙げた涼介とそらは同地で天体観測を行う。それから月日が経ち、科学博物館が装い新たに開館する。そこでそらがプラネタリウムの解説を行う場面でアフター編は幕を閉じる。 ===篠崎真里花ルート=== 篠崎 真里花(しのざき まりか)は涼介の幼なじみである。幼い頃は喘息持ちで学校も休みがちだったが、物語開始時点では完治している。汐凪市に戻ってきた涼介は真里花と再会し、二人は「天体水族館」という七夕祭りの企画を手伝うことになる。これは自然科学部と天文部の合同企画であり、水槽を置いた一室でプラネタリウムも同時に公演する。涼介達は準備として、水族館用の水槽と濾過装置、プラネタリウム用の投影機の自作に取り掛かる。一度は水槽を作り上げるも水漏れが生じ、涼介達は特殊なコーキング剤を手に入れて水槽を作り直す。投影機はピンホール式と決まり、制作途中で光源による熱で恒星球が溶けるというアクシデントが起こるも、光源や恒星球を取り替えることで対処する。 天体水族館の準備の合間に涼介と真里花は相思相愛となり、二人は付き合い始める。涼介は真里花の家に何度も訪れるが、真里花の父親・浩二とは衝突してしまう。それは浩二は真里花と涼介の交際を認めたがらないのであった。挙句の果てに、涼介は浩二から天体水族館の展示が上手くいかなかったら真里花との交際を諦めろとまで言われてしまう。七夕祭り当日、天体水族館は大盛況となる。天体水族館には浩二も訪れ、「たいしたものだった」と涼介に感想を伝える。七夕祭りの翌日、涼介は浩二に呼び出され、真里花が今までいかに喘息に苦しんで来たかを伝えられる。涼介は真里花を必ず幸せにすると浩二に誓う。その後、涼介と真里花がお互いの夢(建築士・保育士)や、二人で幸せになる未来を語り合う場面でスクール編は幕を閉じる。 アフター編は涼介が我妻建築事務所に勤め始めて3年目の時点から始まる。真里花は保育士となっていた。涼介は後に一級建築士の学科試験に合格する。涼介は製図試験にも合格したら結婚して欲しいと真里花にプロポーズし、真里花はそれを受け入れる。プロポーズ後、涼介は浩二に呼び出される。涼介は浩二から、真里花は喘息を治すためになんでも努力したことを聞く。真理花がそこまでしたのは、幼い頃に喘息が理由で涼介との思い出をあまり作れなかったためであった。話を聞き終えた涼介は、浩二に対し真里花との結婚の許可を求める。浩二は涼介のことを約束を守り誠実で真里花のことを真剣に考えてくれる人間だと評し、真理花との結婚を認める。月日は流れ、結婚式にて真里花は両親への手紙を読み上げる。後に涼介と真里花は子を授かる。こうしてアフター編は幕を閉じる。 ===瀬川夏希ルート=== 瀬川 夏希(せがわ なつき)は卒業アルバム制作委員会に所属する少女であり、同アルバムに載せる写真を撮るためにいつもカメラを片手に校舎内を駆けずり回っている。スクール編では涼介は夏希の写真撮影を手伝うことになる。七夕祭りに向けて、自然科学部は地元に生息する海棲生物をメインにしたミニ海棲生物館を七夕祭りでやることになる。また、天文部は星座と神話をテーマにパネル展示を行うことになる。夏希はどちらの部活からも写真撮影を依頼される。夏希はまず自然科学部の依頼用に図鑑に載っているような魚の写真を撮る。しかし、その写真に満足出来なかった夏希は撮影をやり直し、魚が生きる姿を捉えた写真を撮ることに成功する。次に夏希は天文部の依頼用として星座の写真を撮るも、露光時間を長くし過ぎたために星は線状に写り、星座の写真として使えないものが出来上がる。涼介と夏希はそらから赤道儀を借りて写真を撮り直し、星座を捉えることに成功する。 七夕祭りの準備の合間に、涼介と夏希は相思相愛であることを確認し二人は付き合い始める。二人はデートとして写真展を訪れる。写真展を見学後、涼介は夏希にも写真大会に出るように勧め、夏希は「七夕祭り写真大会」に出ることを決める。以前から「みんなの願いが叶う写真」を撮ることを目標にしていた夏希は、そらから再び赤道儀を借りて大会用に星空の写真を撮る。七夕祭り当日、夏希が撮った魚と星の写真は好評となる。また、夏希は写真大会で審査員特別賞を受賞する。夏希の写真は「祈りの架け橋」というタイトルで、ベガとアルタイルの間に流れた流星を捉えた写真だった。涼介と夏希は、写真の中の流星を見ながらずっと一緒にいられるようにと祈る。こうしてスクール編は幕を閉じる。 涼介と夏希は学園を卒業後、それぞれ大学の建築科と写真の専門学校に進学する。後に涼介は我妻建築事務所に入り、夏希は師事する写真家の下でアシスタントを務めることになる。涼介と夏希は就職後、結婚式は挙げずに籍を入れる。夏希のアフター編は、涼介が我妻建築事務所に勤め始めて2年目の時点から始まる。涼介は事務所内のコンペで設計案を何度も提出し、徐々に認められていく。夏希は「笑顔」がテーマの写真コンテストに応募する。この頃に汐凪第一学園の同窓会が開催し、涼介と夏希はそれに参加する。同窓会の参加者は式を挙げていない涼介と夏希に対し、サプライズで結婚式を開催する。そして二人が愛を誓ってキスをする姿は、夏希の師匠である写真家によって撮影される。後日、写真コンテストの結果を見ると、夏希の作品は準グランプリに選ばれていた。そして、グランプリには涼介と夏希が結婚式にてキスをする写真が選ばれていた。こうしてアフター編は幕を閉じる。 ===沖原美砂ルート=== 沖原 美砂(おきはら みさ)は海と魚を愛する少女であり、自然科学部の唯一の部員である。父親は汐凪市にあるマリンピアしおなぎという水族館の館長であったが、同水族館は物語開始時点では閉鎖してしまっている。涼介と美砂の交流は、涼介が閉鎖したマリンピアしおなぎを訪れたことをきっかけとして始まる。後に涼介は学園で美砂と再会し、美砂が所属する自然科学部を行事運営委員として手助けすることになる。自然科学部は天文部と合同で七夕祭りにて「星空の水族館」を展示することが決まる。涼介達は広い展示場所を求めて旧館の使用を申請するも難色を示される。これは、マリンピアしおなぎの閉鎖により水族館自体が人気がないと思われていたためである。涼介は調査を行い、同水族館に人気があったことや閉鎖した真の理由を示す。涼介の説明により、自然科学部は旧館の使用を許可される。 涼介達は企画実現に向けて水槽の準備と魚の採集を始める。涼介と美砂は採集のために訪れた無人島で相思相愛であることを知り、二人は付き合い始める。準備の過程では、停電を原因とした水槽の水温上昇と酸素不足、水槽の濁りといったトラブルが発生するが、涼介と美砂の対処により解決する。また、涼介は併設展示用にマリンピアしおなぎの建築模型を作成する。七夕祭り当日、多数の人が水族館を訪れる。美砂は来訪していた市議会議員にマリンピアしおなぎの再開にかける思いを伝える。議員は市民の要望が大きくなれば同水族館が再開する可能性もあると指摘し、地道な啓蒙活動を続けることを勧める。七夕祭り後、二人で打ち上げ花火を見ながらずっと一緒にいることを誓う場面でスクール編は幕を閉じる。 アフター編は涼介と美砂の出会いから8年が経過した時点から始まる。涼介は我妻建築事務所に勤務し、美砂は大学でジュニア・フェローを務めていた。美砂は大学での研究の傍ら、月に一回は子供向けに「海のいきもの教室」を開催していた。美砂のこの教室は人気があり、地方紙に掲載されたり、市議会で取り上げられたりしていた。こうした啓蒙活動が実を結び、マリンピアしおなぎの再開が決まる。同水族館は指定管理者制度により運営されることになる。再開にあたって、我妻建築事務所が改装を担当する。美砂は大学の職を辞し、マリンピアしおなぎの学芸員となる。美砂は新しい企画として涼介と共にクラゲの展示を考え、見事に企画が採用される。開館準備が一段落した頃、涼介は美砂へプロポーズし、美砂はそれを受け入れる。後日、マリンピアしおなぎで二人が結婚式を挙げる場面でアフター編は幕を閉じる。 ===鳴沢律佳ルート=== 鳴沢 律佳(なるさわ りっか)はピアノを演奏するのが得意な少女である。両親共に高名な音楽家であり、妹のめぐるも既にプロのピアニストとして活躍している。律佳はそんな妹に対し引け目を感じている。涼介と律佳の交流は、汐凪第一学園に転入した涼介が律佳の隣の席になったことから始まる。涼介は律佳が気になり出し、彼女をキャンプに誘ったり、行事運営委員会への参加を促したりする。行事運営委員となった律佳は、七夕祭りにてコンサートの手配を担当することになる。他の行事運営委員に頼まれて、律佳は妹・めぐるを七夕祭りに呼ぶことにする。さらに律佳はめぐるとの二重奏を頼まれるも、自分のピアノに自信がないために断る。その後、涼介は律佳をデートに誘い、何度かデートを繰り返した後に二人は付き合い始める。律佳は涼介との交流を機に少しずつ変化していく。人前でピアノを弾くのが苦手だった律佳は徐々にそれを克服する。また、涼介の計らいにより自分のピアノの価値を知った律佳は、考えを改めてめぐると一緒に七夕祭りでピアノの演奏をすることを決める。 七夕祭りの直前、ある学生バンドがコンサートで演奏したいと申し出る。行事運営委員会は既にプログラムを決めた後だったためその申し出を断る。七夕祭り当日、律佳は先述のバンドは今年卒業の学生のみで構成されており、七夕祭りが最後の演奏機会だったことを知る。律佳はめぐるや行事運営委員会の了承を得て、学生バンドに自分とめぐるの出場権を譲る。その後、コンサートは予定通りの時間で終了するが、涼介達は律佳とめぐるの演奏を実現させるために奔走する。教師や近隣住民との交渉の結果、涼介達はコンサート時間を延長する同意を得る。律佳とめぐるは念願叶ってピアノの連弾を行う。後日、律佳が再びプロのピアニストを目指すことを涼介に告げる場面でスクール編は幕を閉じる。 アフター編は涼介と律佳が同じ大学に進み同棲生活を始める時点から始まる。大学生活の傍ら、涼介は我妻建築事務所でインターンシップを、律佳はピアノのコンクールへの出場をする。律佳は徐々に国際コンクールでも入賞するようになる。大学4年生になると、涼介は我妻から出された入社試験に取り組み、律佳は著名な国際コンクールへ向けて練習に励む。涼介は試験に合格して我妻建築事務所に入社し、律佳は国際コンクールにてグランプリに選ばれる。涼介は就職を機に律佳にプロポーズし、律佳はそれを受け入れる。その後、律佳の初リサイタルが開催し、律佳は今まで出会った人々に感謝のコメントをして最後に自作の曲を演奏する。さらに月日が経ち、律佳が子供にピアノを教えている場面でアフター編は幕を閉じる。 ===雪村透子ルート=== 雪村 透子(ゆきむら とうこ)は主人公と同じく汐凪第一学園に転校してきた少女である。整った容姿から目立っているが、掴みどころのない性格であるために周りの人々とはあまり打ち解けていない。涼介と透子の交流は、旧館に入っていく透子を涼介が追いかけたことをきっかけとして始まる。透子と共に旧館で過ごす日々を重ね、涼介は透子への恋心を自覚する。涼介は透子に告白するも、透子はそれをまともに取り合わない。後に透子は、転校で別れを繰り返してきたために人を遠ざけるようになったこと、次の引っ越しが迫っていることを涼介に打ち明ける。涼介は引っ越しまでの時間を一緒に過ごすこと透子に求め、透子は学園の七夕祭りまで告白の返事を待つことを条件にそれを承諾する。デートを重ねていくうちに、透子は自分の居場所と夢に関する思いを涼介に打ち明ける。透子は夢や目標を持っておらず、周りの人間に置いて行かれる思いを抱いていた。そうして自分だけの居場所を欲しがるようになり旧館に入り浸るようになったという。 涼介と透子は委員会活動やデートで共に時間を過ごし、やがて七夕祭り当日を迎える。涼介は七夕祭りにて沢山の短冊が飾られた笹を透子にプレゼントする。短冊には1つにつき1人分、透子へのメッセージが書かれていた。涼介は短冊を通じて涼子にも居場所があることを示す。プレゼントを受け取った透子は涼介への恋心を告白し、学園で出会った人々との繋がりを大切にすることを誓う。考えを改めた透子は両親に対して我侭を言い、学園を卒業するまでは汐凪市にいることを認めてもらう。こうしてスクール編は幕を閉じる。 アフター編は涼介と透子が大学4年生になった時点から始まる。涼介と透子は同棲し、生活時間帯のずれから生じる寂寥を時に感じつつも二人で過ごしていた。涼介は建築科に進学し、在学中に二級建築士資格を取得するために勉強していた。一方、英文科に進学した透子は早々に内定を得ていた。しかし、透子は今後の人生を真剣に考えて内定を蹴り、涼介を支えるためにインテリアコーディネーターとなることを目指す。二人は勉学に励み、涼介は大学4年時に二級建築士、透子は翌年にインテリアコーディネーターの資格を取得する。入社時期には差が生じるが、二人は共に我妻建築事務所で働くことになる。その後、涼介は誕生日に透子からプロポーズされ、密かに用意していた婚約指輪を出して涼介からも透子へプロポーズを行う。時は流れ、二人が結婚式を迎えるところでアフター編は幕を閉じる。 ==開発・広報== ===企画=== 本作の企画から発売までの流れは右記表の通り。 本作の開発チームであるtone work’sは、ビジュアルアーツの20周年企画作品・『初恋1/1』の専門プロジェクトとして始まった。『初恋1/1』では専門プロジェクトということもあり、「一般的な美少女ゲームを上回る作品規模にしたい」「ユーザーさんへの恩返しをしたい」というスタッフの思いから、様々なアイディアを盛り込んだ採算度外視な作品が作られた。こうして出来た『初恋1/1』は、tone work’sの丘野塔也によれば売り上げは好調でユーザーからも大きな反響があったという。特に、ヒロインと結ばれた後を描く追加シナリオの評価が高かったという。tone work’sは設立当初は二作目を作る予定は全くなかったが、『初恋1/1』の制作終了後にスタッフ間で「もう1本作品を作りたい」という意見が上がるようになり、これが後に『星織ユメミライ』を作るきっかけとなった。 本作の企画には、『初恋1/1』への評価や要望が反映されている。『初恋1/1』ではヒロインと結ばれた後を描く追加シナリオが高評価だったため、本作はヒロインと結ばれるまでの学生生活を描くスクール編とヒロインと結ばれた後を描くアフター編の二部構成となった。また、『初恋1/1』ではシリアス成分が強いという意見やもっと甘い展開が欲しいという要望が寄せられたため、本作では明るくポジティブでピュアな恋愛を目指すことになった。物語の時期が夏となったのもその一環で、さわやかな青春を描くためとされる。tone work’sの「リアリティある恋愛像」「ヒロインをより身近に描く」というコンセプトは本作でも踏襲された。作品のテーマは「将来の夢と未来への不安に揺れる年頃の少年少女たちによる、青春の絆と達成感」とされ、「プレイした後、心に幸せの残るゲーム」を目指して制作された。 ===スタッフ・キャスト=== 本作の企画・制作はtone work’sである。ディレクター業務は丘野塔也が担当し、シナリオは丘野塔也・白矢たつき・にっし〜・今科理央・魁が担当した。本作のヒロインのうち、逢坂そらの原画は武藤此史、篠崎真理花の原画は恋泉天音、瀬川夏希の原画は秋野すばる、沖原美砂の原画は恋泉天音、鳴沢律佳の原画は秋野すばる、雪村透子の原画は唯々月たすくが担当した。SDイラストは柚木ガオが担当した。BGMは天門・MANYO・水月陵・碓氷悠一朗・しょうゆ・Meeon・どんまるが担当した。動画制作はgram6designが担当した。 本作ではヒロイン数が『初恋1/1』の5人から6人へ増加し、ヒロイン数増加を受けて唯々月たすく・秋野すばる・恋泉天音・武藤此史の計4人の原画家が起用された。ビジュアルアーツに所属する恋泉の他に唯々月たすく・秋野すばるが起用されたのは、前作での仕事が素晴らしかったこと、前作と同じ原画家を起用することでブランドイメージを統一したかったこと、恋泉が描くキャラクターに頭身が近くかつ可愛いキャラクターを描ける人は希少であることなどが理由である。新たに武藤此史を起用したのはtone work’sの作風と原画家としての実力を考慮したためである。 また、声優はオーディションを経て配役が決められた。具体的な配役は右記表の通り。本作のスタッフは選考の前にまず、ゲーム概要とヒロインの詳細をまとめた資料を用意し、ヒロインが話す台詞数を算出して予算を決定した。出来上がった資料と予算を制作会社に提出して様々な声優事務所にオーディションの開催を知らせた。各声優が提出したオーディション用の音源を元にシナリオライター達が議論を交わし、最終的にはヒロインのイメージに合う声優を選んで配役が決められた。 ===タイトル=== 本作では前作の『初恋1/1』に比べてタイトルの決定が難航した。『初恋1/1』ではプログラマが出したタイトル案がブランドイメージにも作品にも合っており、直ちに採用されることになった。本作では元々、「夏恋サマーラブ」というタイトル名が付けられていた。これは、『初恋1/1』ではユーザーからシリアスな部分が苦手だという意見が寄せられたため、tone work’sは二作目を明るい作品にするべく「バカっぽくていい」と感じた名称を付けたためである。後にtone work’sはなし崩し的に「夏恋サマーラブ」という名称を使用するのはまずいと感じ、改めてタイトルを考えることにした。しかし、『初恋1/1』のようにブランドイメージにも作品にも合うタイトルを求めるとなかなか上手くいかずにタイトルの決定は難航した。 tone work’sではキャラクターを先に作り上げてからそのキャラクターに合わせて物語やその他の部分を作るという制作方法が採られており、タイトルの考案前にはメインヒロインである逢坂そらが出来上がっていた。物語の時期は夏と決まっていたので、そらと夏のイメージから「星」というキーワードが、七夕から織姫を連想して「織」というキーワードが、幸せとドキドキ感にあふれた明るい話と長い時の流れを表すイメージから「夢」「未来」というキーワードが浮かび上がった。最終的に「星織ユメミライ」というタイトルに決定し、夏を舞台とした明るく・楽しく・爽やかなストーリーと夜空の星に願うような純粋な想いが意味として込められた。タイトルの一部である「ユメミライ」には、学生時代に願う夢とそれが実現した未来という意味が込められており、こうした夢と未来はそれぞれスクール編とアフター編で描かれる。 ===キャラクターデザイン=== 主人公である日野涼介は、物語の時期が夏であるため、それに相応しいように爽やかで快活な性格となった。本作では主人公の設定としてリア充でイケメンという大前提があった。しかし、丘野が出した初期案では、野球をやっていたが怪我で挫折し失意のうちに汐凪第一学園に転入してくるという設定だった。この案は他のスタッフから雰囲気が暗いと指摘されたため、建築士を目指しているという設定に修正された。涼介の夢として建築士が選ばれたのは、学生の頃から目指していても突飛ではなくかつイケてる感じの職業だとスタッフが考えたこと、書店で建築士の安藤忠雄フェアがやっていたことなどが理由である。 逢坂そらは星空が絡むヒロインであるため、星空が映えるシーンでも浮きすぎずに自然に見えるようにデザインされた。ただし、シルエットが地味になりがちだったため、武藤は地味にさせないように非常に苦労したという。そらの髪色は銀色にする案もあったが、「空の青」をイメージに持つヒロインであるため最終的に青色が採用された。また、そらは開発当初は「昴」という名前であったが、原画家の秋野と名前が被るために髪の色から連想して「そら」という名前に変更された。 篠崎真里花は『初恋1/1』で幼なじみを描き切れなかったためにそのリベンジとして作られた。ディレクターの丘野は幼なじみはヒロイン属性が最も強いがゲームでは二番手になりがちであると自説を述べ、たとえ二番手になってしまっても幼なじみというヒロインを取り上げたくて真理花を作り上げたという。幼なじみという設定の下、真里花は地味で普通の女の子というコンセプトでデザインが行われた。これは普通の女の子だからこそ主人公と恋人関係になってずっと一緒に歩んでいくことに大きな説得力が生まれるとスタッフが考えたためである。ただし、地味なだけではなくメインヒロインらしさが出るように胸を大きくするなどの工夫がなされた。 瀬川夏希は、『初恋1/1』ではヒロインの月島叶が人気だったため、叶を元により活発な印象になるようにデザインされた。活発な性格の夏希には、作中の学園生活を楽しくさせる役割を持たせるため、どの場所に現れても違和感がないようにカメラを持つという設定が与えられた。ただし、丘野によればカメラを持つヒロインは疎ましく思われ易く不安だったため、そうならないようにデザインに要望を出したという。夏希が持つカメラはCanon製のコンパクトデジタルカメラであるSX50HS(英:SX50HS)を参考にして描かれた。一眼レフカメラを参考にしなかった理由は、夏希は学生であるためレンズ交換が必要な高価なカメラは相応しくないとスタッフが考えたためである。 沖原美砂のデザインは、物語の時期が夏と決まったために海に関係するヒロインを作りたいとスタッフが考えたのがきっかけであった。スタッフが水族館について調べていくと生徒が水族館を運営している学校があることを知り、面白いと感じたという。そこから水族館が好きで運営したいと考えるヒロイン・美砂が生まれた。上記設定と太陽のように明るくて少し天然なお嬢様というコンセプトの下、恋泉の手により美砂がデザインされた。恋泉は「お嬢様」「海が好き」「巨乳」「ふわっとしてる」という要素の下でデザインに着手したが、デザインに悩まされ描きづらかったという。最終的には恋泉いわく「マリンな感じの、海沿いのお嬢様みたいなイメージ」にデザインされた。美砂はデザイン前は水族館が好きという漠然とした設定だったが、恋泉が仕上げたデザインにはクラゲが数多く描かれており、クラゲが特に好きだという設定が加えられた。 鳴沢律佳は、「誰にも邪魔されることなく1人の世界でピアノを引き続ける孤高の女の子が、自分の世界に入ってくる男と出会ったら?」という疑問から設定が生まれた。外見は、律佳のシナリオを担当した白矢の嗜好により、黒髪ロングが採用された。律佳の設定考案は難航せず、BGMを担当したどんまるによれば最初の会議で決まった程だという。上記設定の下、「黒髪ロング」「透明感」「クールヒロイン」というイメージで律佳はデザインされた。律佳の髪飾りや私服も上記のイメージでデザインが行われた。ただし、クールヒロインといえどもきつい印象にならないように原画を担当した秋野は要所要所で可愛さを残すように作画を行った。 雪村透子は、唯々月と丘野がアイディアを出し合いながら作り上げたヒロインである。透子には気まぐれで猫のような性格で居心地が良い場所を守っているというコンセプトがあり、そこから鍵の設定が生まれたという。また、元々は物語の舞台となる汐凪第一学園には旧校舎はなかったが、制作の過程で透子が旧校舎に勝手に出入りするという設定が生まれたために旧校舎が設けられた。透子のデザインは、存在感を出しつつアフター編での年齢にも適応出来るように注意しながら行われた。透子の髪はセミロングであり、美少女ゲームの中では短い部類となる。そのため髪が映えるように画面演出で髪を風でなびかせるなどの工夫が行われている。 建築士である我妻盛夫は主人公に対して人生の助言をするキャラクターとして考案された。作品のリアリティを上げるため、スタッフたちは建築士を目指す人向けの進路ガイドや安藤忠雄の本を山程買い込み建築士について学習したという。韮沢秀一は主人公の邪魔をせず、格好良いけど適度に抜けているキャラというコンセプトで考案された。秀一に彼女がいるという設定は、ヒロインと秀一が恋仲になるという可能性を消すために考えだされた。鳴沢めぐるについてスタッフは、律佳が持っていないものを全部持っており律佳の暗部を描くには必要不可欠なキャラクターであると述べている。 ===広報展開=== 2013年9月30日、『星に願いを生ラジオ』と称するインターネットラジオ番組の放送がニコニコ生放送で開始した。2013年12月21日、本作は同日発売の『TECH GIAN』2014年2月号や公式サイトで公表された。2014年5月3日から5日にかけて、日本各地において「星めぐりツアー」と称した本作の配布イベントが行われた。このイベントではドラマCDや主題歌を収録した「星織ユメボイス」と設定画やスタッフのコメントなどを収録した「星織ユメノート」が配布された。2014年5月23日には本作の共通ルートとヒロイン6人のエッチシーンを収録した体験版が公開された。本作の発売前には他にもしおり配布キャンペーン・発売前カウントダウンムービーとイメージソングの公開などが行われた。 ==音楽== 本作には13の歌謡曲があり、その内訳は主題歌1曲、イメージソング6曲、エンディング曲6曲である。『初恋1/1』では歌謡曲は9曲であったが、本作ではフルアルバムを作れるくらいの楽曲数を目指した結果、13の歌謡曲が誕生した。作中では演出として30曲のBGMが流れる。作中で使用された全BGMと主題歌を収録したサウンドトラックは『星織ユメミライ』の予約特典として配布された。作中で使用された13の歌謡曲は『星織ユメミライ Vocal Collection』に収録された。『星織ユメミライ Vocal Collection』の収録曲は下記の通り。 ==反響== ===売り上げ=== 初回版は発売月(2014年7月)の売り上げランキングにおいて、『PCpress』・『Getchu.com』・『PUSH!!』・『TECH GIAN』・『Amazon』による集計でそれぞれ2位・3位・3位・2位・2位を獲得した。翌月(2014年8月)の売り上げランキングでは『PCpress』・『Getchu.com』による集計でそれぞれ20位・24位を獲得した。一方、上位20位までを公表した『PUSH!!』による集計ではランキング圏外であった。2014年8月29日には『星織ユメミライ』の通常版が発売され、2014年8月の売り上げランキングにおいて『Getchu.com』による集計で26位を獲得した。2014年の美少女ゲーム年間売り上げランキングでは『Getchu.com』・『BugBug』による集計でそれぞれ22位・20位を獲得した。一方、上位15位までを公表した『PUSH!!』による集計ではランキング圏外であった。上記ランキングにおいて販売本数は明かされていない。 PSVita版は発売日である2016年8月10日から2016年8月14日の間に3,585本販売された。 ===人気投票=== 本作は発売月(2014年7月)に出た美少女ゲームを対象とする『Getchu.com』が集計した人気投票において1位に選ばれた。『Getchu.com』による2014年度の美少女ゲーム人気投票では総合部門で5位、グラフィック部門で7位、ミュージック部門で1位、ムービー部門で8位に選ばれた。ヒロインの鳴沢律佳はキャラクター部門において7位に選ばれた。一方、シナリオ部門・システム部門・エロ部門ではランキング圏外であった。 『BugBug』による2014年度の美少女ゲーム人気投票ではすべての部門でランキング入りを果たし、総合部門で4位、エッチ部門で15位、シナリオ部門で5位、ゲーム性部門で12位、サウンド部門で5位、ヴォイス部門で7位に選ばれた。ヒロインの逢坂そらはキャラクター部門で18位に選ばれた。 ===批評=== 『BugBug』2014年8月号では体験版のレビューが掲載された。スマートフォンを通じてヒロインとテキストメッセージを送り合うシステムに対しては、自分がヒロインとやり取りしているようで面白いと述べられた。シナリオに対しては、きちんと段階を踏んで女の子と仲良くなる様が描かれており感心する、物語の序盤に過ぎない体験版だけでも「リア充」な学園生活を堪能できると述べられた。 『BugBug』2014年9月号では、スクール編のシナリオに対し、何らかの理由でそれぞれ孤立していたヒロイン達が主人公を中心に七夕祭りの準備を通じて結束していく様はまさに青春で感動的であると評された。アフター編のシナリオに対しては、結婚の前後もしっかり描写されており、同棲・プロポーズ・両親への挨拶・マイホームの購入・出産などの展開がヒロインごとに異なる切り口で描かれていると指摘された。同雑誌では各ヒロインの印象と個別ルートの評価も下記のように述べられている。 逢坂そらに対しては、言葉少なく素っ気ない態度を取るヒロインであるが自分が好きな星のことになるといきいきと会話する姿が可愛いと述べられた。スクール編のシナリオに対しては、七夕祭りに向けて仲間達とプラネタリウムを協力して作る展開に対し胸を打つとの感想が綴られた。アフター編のシナリオに対しては、お互いの仕事に助言をしあって絆を深めていく様子が描かれていると指摘され、一緒に夢と未来を描くという『星織ユメミライ』のテーマに最も沿った内容で奥深く印象的なシナリオになっていると評された。篠崎真里花に対しては、主人公と一緒に学園生活を送るという、病弱だった頃には出来なかった夢を実現するべく努力する姿がいじらしくて良いと述べられた。スクール編のシナリオに対しては、行事運営委員として主人公と一緒に活動するうちに積極性を獲得するなど、人間的な成長が描かれていて良いと述べられた。アフター編のシナリオに対しては、一番の見所は結婚式であると述べられ、真里花が両親への感謝の手紙を読み上げるシーンは目頭が熱くなるとの感想が綴られた。瀬川夏希のスクール編のシナリオに対しては、活動的な夏希と過ごす毎日はなんとも心地良く、夏希が写真のコンテストに応募する展開に対してはアフター編の伏線になっており面白いと述べられた。アフター編のシナリオに対しては、同棲生活にて甘い展開が続き幸福すぎるとの感想が綴られた。沖原美砂に対しては、『星織ユメミライ』で唯一の年上ヒロインに甘えるシチュエーションが楽しめると述べられた。スクール編のシナリオに対しては、美砂が抱く水族館を再建したいという夢はスクール編では叶わないものの、水族館の閉館理由を調べたり街でアンケートを取ったりするなど、アフター編の伏線が多く張られていると指摘された。アフター編のシナリオに対しては、水族館の再建を目指す本シナリオは建築士志望という主人公の設定が最も生きていると指摘され、見ていて非常に盛り上がるとの感想が綴られた。鳴沢律佳に対しては、素っ気ない態度だった律佳が恋人となると態度が変わりこれが破壊力抜群で萌えるとの意見が寄せられた。スクール編のシナリオに対しては、プロのピアニストである妹に対しピアノの才能で引け目を感じていた律佳が妹と和解し、スクール編のクライマックスで繰りなす連弾は美しくて感動必至だと述べられた。アフター編のシナリオに対しては、プロのピアニストとなった律佳がアフター編の最後に万感の想いを乗せてピアノを弾くシーンは最高に心に響くとの感想が綴られた。雪村透子のスクール編のシナリオに対しては、閉鎖された旧校舎にふたりきりで過ごし絆が深まるというシチュエーションが堪らないと述べられた。涼介と透子が恋人同士となった後に透子が引っ越すことになるという展開に対してはハラハラする展開で目が離せないと述べられた。同棲生活を描いたアフター編のシナリオに対しては、生活時間帯のずれからすれ違いが生じる展開があり甘い生活だけではなくリアルな同棲生活が描かれていると指摘された。『BugBug』2015年4月号では、「孤立していたヒロインたちが七夕祭りの準備を通じて結束していく姿や、それぞれのヒロインと結ばれたあとの幸せな未来を異なる切り口で描いており、一般的なAVGを圧倒するボリューム感となっている」と述べられた。本作では学園生活でヒロインと恋に落ちる過程だけではなく、卒業後に主人公がヒロインにプロポーズする場面や結婚した後の話も描かれている。『BugBug』の編集長・大澤忠基は本作は『同級生』のように現実と繋がっている感じがすると述べ、ベテランゲーマーにも評価が高い作品ではないかと推測した。音楽に関しては、ヒロインごとに用意されたイメージ曲とエンディング曲の完成度が高く、プレイ後の感動をより高めていると述べられた。各ヒロインの歌謡曲は歌手が全て異なっていること、楽曲制作に天門やMANYOなどが参加していることが指摘され、音楽の制作陣が豪華であり美少女ゲームソング好きにはたまらないと述べられた。 PSVita版のレビューが『ファミ通』2016年8月18・25日号に掲載された。4人のレビュアーがそれぞれ8, 8, 7, 7点をつけ、40点満点中31点を獲得し、30‐31点のゲームが対象となる「シルバー殿堂入り」を果たした。シナリオに対しては、等身大の恋愛模様にリアリティが感じられる、各ヒロインの個性と魅力がうまく描かれている、学生時代の恋愛から結婚に至るまでのシナリオに最後まで読ませる力があるなどの評価があった一方で、劇的な変化が見られないので人によっては退屈に感じるかもしれないとの意見も寄せられた。ゲームシステムに関しては、各機能が充実していて快適にプレイできると述べられた一方で、シナリオの長さに対する選択肢の少なさが指摘された。また、PC版からの追加要素が弱いとの指摘もされた。 ゲーム情報サイトの『Gamer』ではPSVita版に対し、等身大の恋愛模様を描くための細やかな配慮がある、ヒロインとの関係の積み重ねを丁寧に表現している、ビジュアルの美しさが作品の魅力を支えていると述べられた。 ==関連商品== 2014年5月15日に本作のヒロイン・逢坂そらのイラストが描かれたタブレット端末が発売されると発表され、2014年5月22日から2014年6月2日にかけて受注受付が行われた。2014年8月29日には本作で使用された13の歌謡曲を収録した『星織ユメミライ Vocal Collection』が発売された。2015年4月25日には『星織ユメミライ アートワークス』がコアマガジンより出版された。『星織ユメミライ アートワークス』には作中で使用された全てのイベントグラフィックや制作インタビューが掲載された。この他にも登場人物の絵柄入りのマグカップやタペストリーなどのグッズが発売された。 2016年8月10日にPSVita移植版『星織ユメミライ Converted Edition』が発売され、2017年9月14日にはPS4版が発売された。 =下館事件= 下館事件(しもだてじけん)は、1991年(平成3年)9月に茨城県下館市(現筑西市)でタイ人女性が殺害され現金約700万円の入ったバッグなどが持ち去られた強盗殺人事件である。被害者のスナックで働くタイ人女性3名が逮捕・起訴され、被告人らは、被害者による借金返済を理由とした売春の強要などから逃れるために殺害したもので正当防衛であり、また金品の強奪を目的としたものではなく強盗にはあたらないなどと主張したが、裁判所は強盗殺人罪の成立を認め、第1審では懲役10年、控訴審でも懲役8年の実刑判決が下され確定した。 犯人のタイ人女性3名は人身売買の被害者であるとして支援のネットワークが広がり、他の同様の事件の支援活動のモデルとなった。また控訴審判決は、捜査段階での通訳人に必要とされる能力について判示した裁判例としても知られている。 ==概要== 1991年(平成3年)9月29日朝、茨城県下館市のアパートの一室で、スナックを実質的に切り盛りするタイ人女性(当時28歳)が首などを刃物で刺されて殺害され、現金約700万円の入った被害者のバッグなどが奪われた。警察は、同居していたタイ人女性3名の行方を追い、同日午後に千葉県市原市のホテルに投宿していた3人に任意同行を求めて下館警察署(現筑西警察署)に連行し、強盗殺人の容疑で逮捕した。取り調べで3人は、「工場やレストランで働くと言われて来日したが、被害者から350万円の借金があると言われて、スナックの客を相手に売春を強要された。パスポートなどは取り上げられ、外出や母国の家族への国際電話も自由にさせてもらえず、日常的な暴言や暴力で被害者に従わせられた。こうした境遇から逃れるために被害者を殺害して逃走した」旨を供述した。3人は、同年10月21日に強盗殺人の罪で起訴された。 裁判では、検察側と弁護側の主張は激しく対立した。罪状認否で被告人3人は、「お金をとるために殺したのではありません。逃げるために殺したんです」と強盗殺人を否認した。弁護団も、強盗殺人ではなく殺人と窃盗であり、殺人については被害者による監禁や売春の強要から逃れるためにやむを得ず殺害したものであり正当防衛にあたること、窃盗については証拠品が令状に基づかずに違法に収集されたものであり証拠能力がないこと、捜査段階での通訳人に能力が欠けており供述調書は信用性に欠けることなどを主張した。しかし、1994年(平成6年)5月の第1審判決では、強盗殺人罪を適用して懲役10年の実刑判決が下された。弁護側は控訴して争ったが、1996年(平成8年)7月の控訴審判決でも、量刑こそ情状に照らして重すぎるとして破棄したものの、強盗殺人罪の成立は認めて懲役8年の実刑判決を言い渡した。弁護側・検察側とも上告せず、確定した。 この事件では、犯人とされたタイ人女性3名はむしろ人身売買の被害者であるとして、逮捕直後から様々な団体や個人がネットワークを形成して3人を支援した。1992年(平成4年)12月には「下館事件タイ三女性を支える会」(支える会)が発足して組織化された。支援活動は、差し入れや面会に始まり、拘置所内での処遇改善を求める申し立て、3人を日本に連れてくるのに関与したブローカーらに対する告発状提出、スナックの日本人経営者に対する未払い賃金請求訴訟の支援、さらには講演会やシンポジウムの開催、事件を描いた演劇の上演、3人の手記をもとにした書籍の出版などの啓蒙活動を広く行った。裁判支援と啓蒙活動を両輪で進める支援活動は当時珍しく、支える会の活動は、下館事件の前後に、道後(愛媛県)、新小岩(東京都)、茂原(千葉県)、桑名(三重県)、市原(千葉県)、四日市(三重県)などで相次いだ同様の事件での支援活動のモデルとなった。 また、控訴審判決では、捜査段階での通訳人は、日常生活で日本語で意思疎通でき一般常識程度の法律知識があれば足りるとされた。これは、捜査段階における通訳人に必要とされる能力について判示した裁判例として知られている。 ==背景== ===被害者=== 被害者は、当時28歳のタイ人女性Xであった。彼女は1983年(昭和58年)ころから来日するようになり、不法残留や不法入国などで2度の強制退去処分を受けていたが1986年(昭和61年)4月に日本に入国していた。事件当時は、日常会話程度であれば日本語を話すことができた。 日本では、タイから連れてこられた女性を暴力団関係者などのブローカーから買い取り、彼女らにスナックでの売春を強要して、その金をタイの両親に送金していた。事件当時は、茨城県真壁郡協和町(現筑西市)のスナックに勤め、同スナックの日本人経営者Y1が借りていた下館市のアパートの1号室に住んでいた。この2Kのアパートで7人のタイ人女性とともに寝起きし、同スナックでの売春を管理していた。また、2号室にも同程度のタイ人女性を住まわせ、多いときには十数人を支配下に置いていた。 ===加害者=== ====来日の経緯==== ===加害者A=== 加害者Aは、事件当時25歳であった。タイ北部チェンマイ近郊のバンコワで、農業を営む両親の次女(末娘)として生まれた。農家とはいえ農地は持たず、耕作するのはもっぱら借地であり、一家の生活は苦しかった。Aは小学校を卒業すると両親の農業を手伝った。その後、遠方の店舗や工場などに出稼ぎに出たり、実家に戻って農業を手伝ったりしていたが、1989年2月に出稼ぎ先で知り合った消防士の男性と結婚した。とはいえ、Aは結婚して仕事を辞めていたため夫婦の生活は決して余裕はなく、結婚後は実家への仕送りはできなくなった。結婚して1年ほど過ぎたころからAは病院の掃除の仕事を始めた。ここで「高校を卒業していれば看護助手になれる」と聞いたAは夜間中学に入学した。 一方、Aの両親は、Aが結婚する直前から新しい家を建てようとしていた。しかし、資金不足から建築は遅々として進まず、屋根や壁こそあったものの室内の仕切りはなく、浴室や寝室もなく、家財道具も満足になかった。また、父親は長く喘息を患っており、母親も足腰が悪くなっていた。タイでは伝統的に子どもたち、特に末娘が親の面倒を見る習慣があり、Aは何とか仕送りをして両親に少しでもましな生活を送らせてやりたいと考えるようになっていた。そんな折、知り合いから「日本に行って働かないか」と誘いを受ける。日本でレストランのウェイトレスとして働けば1か月に15,000バーツ稼げるという話であった。Aは家族と相談した上で、中学校は卒業直前の最後の学期を残して中退し、訪日を決めた。 バンコクで知り合いの知人を紹介され、パスポートやビザ取得の手続きや必要な費用はすべてこの知人が負担した。Aは90日間の観光ビザを取得すると、1991年(平成3年)3月16日、バンコクで紹介された知人とともにバンコク国際空港からの日本航空機で日本に入国した。成田国際空港に到着すると、バンコクを発つときに渡されたパスポートと見せ金の23万円を取り上げられ、Aはともに入国した タイ人女性らとバスやタクシー、車で連れまわされた。そして、バンコクで紹介された知人から何人かの手を渡り、最終的にともに入国したタイ人女性一人とともにXに引き渡された。その際、Aは、Xから最終的にAらをXに引き渡した人物に対して150万円の現金を渡しているのを目撃している。XはAらに「渡航費や日本での4か月分の家賃、食費などで350万円貸してある」と言い、売春で借金を返済するよう言い渡した上で、千葉県佐原市(現香取市)のアパートに連れて行かれた。 ===加害者B=== 加害者Bは、1966年1月生まれ。長女であったが、7歳の時に父と死別している。Bはもっと勉強したいと思っていたが父親のいない家庭では経済的に許されるはずもなく、地元の学校を卒業後はバンコク市内で店員として1年間働いた。その後、ナコンパトムの織物工場に移り、給料の半分は実家の母への仕送りに充てていた。Bは同じ工場で働いていた男性と知り合って結婚した。 このころ、Bは工場に出入りする者から日本の工場で働かないかと誘われた。渡航には350万円が必要になるが2か月働けば返せるという話であった。Bに相談された夫は本心ではBを日本に行かせたくはなかったが、強く反対はしなかった。Bはバンコク市内の会社を訪れ、日本のラジオやテープレコーダーを製造する工場での仕事だと聞かされて訪日を決めた。この会社が費用を負担してパスポートやビザを申請し、観光ビザを入手すると、1991年(平成3年)8月12日にオリンピック航空の旅客機で日本に向かった。同じ飛行機には、同じ会社の仲介で日本に向かう5名のタイ人が同乗しており、その中に、後にともに事件を起こすCもいた。BとCは機内で言葉を交わし、Cは日本でウェイトレスをすると話し、Bは工場で働くと答えた。 日本に着くと、日本まで同行したバンコクの会社の者に「なくすと仕事ができないし帰れなくなるから」とパスポートを預けるよう求められて従った。その後、4日間ほどホテルなどを転々とし、最終的にBはCとともに「自分のところには工場の仕事もある」などと言うXに引き渡されて茨城県下館市に連れてこられた。 ===加害者C=== 加害者Cは、1961年9月に生まれた。10歳で父の実家に預けられ、ラムカムヘン大学に進み法学部で学んだ。しかし、3年次のときに父の実家が火災に罹災したため中退している。 Cは、大学中退とほぼ同時期に軍人と結婚し、一女をもうけたが、後に離婚している。Cは娘を両親に預け、デパートの店員やホステス、さらにカフェの歌手として働いた。しかし、病気がちの両親や小学校に入学したばかりの娘の教育費などを考えると、もっと割のいい仕事が必要であった。 1991年4月ころ、友人からの紹介で、日本での仕事を紹介してくれるというバンコクの会社を訪れ、日本のレストランで1日2時間働けば時給1,000円になるという話を聞いて訪日を決めた。Cは90日間の観光ビザを取得し、Bらと一緒に1991年(平成3年)8月12日にオリンピック航空で日本に入国した。その後、Bと同じ経緯で下館市に連れて行かれた。 ===日本での生活=== Aの連れて行かれた千葉県佐倉市のアパートには、20数人のタイ人女性が暮らしていた。Aは佐倉市に着くとすぐにXにシャワーを浴びるように言われ、そのまま迎えの車で佐倉市内のスナックに連れて行かれて、その日から日本人客に売春を強要された。しかし間もなくXとスナックの経営者との間で金銭トラブルとなり、XはAらを引き連れて別の店に移り、さらにいくつかの店を転々とした。そして、1991年(平成3年)5月下旬に下館市内のアパートに落ち着き、ここから車で10分ほどの隣町の真壁郡協和町のスナックに通って客をとらされた。同年8月15日の夜にはBとCもこのアパートに連れてこられ、翌日から、Xに「タイからの渡航費などで350万円貸してある。だからしっかり働いて早く返せ。客と売春すれば工場なんかで働くより早く返せる」などと言われて、協和町のスナックで売春を強いられた。加害者らは、Xから日常的に暴言や暴力を浴びせられ、少しでも反抗的な態度を見せると殴る蹴るの暴行を受けた。パスポートやIDカードは取り上げられ、「逃げたら殺す」「タイの両親も殺す」「殺し屋を雇うのは簡単だ」などと脅迫されていた。特に、「逃げたら親も殺す」という脅しは、子どもが親を不幸にすれば来世で報いを受けるとする仏教が生活に根付いているタイ人にとっては深刻なものであった。 さらに、Xやスナックの日本人ママY2(同スナックの日本人経営者Y1の妻)は「警察とやくざは友達」などと言っていたため、加害者らは警察にも頼れなかった。アパートからスナックへはY1などが運転する車で移動し、それ以外の外出は買い物でさえもXと一緒でなければ許されないという監禁状態であった。タイから届いた手紙は捨てられ、国際電話を掛けただけで厳しい叱責を受けることもあった。 こうした状況の中、加害者らは体調が悪い日も生理の日も売春を強要された。日本人客からは屈辱的な行為を要求され、断ると暴力を振るわれ、さらに加害者に「サービスが悪い」とクレームを入れられて加害者からも暴言や暴力を浴びせられた。スナックでのホステスとしての賃金は支払われず、2時間2万円、泊まり3万円の売春代金は借金返済の名目ですべてXが受け取っていた。下館市のアパートの家賃は5万2千円で、この部屋に8人で住んでいたにもかかわらず、一人2万5千円が家賃として借金に加算されていた。そのほかに食事代や衣装代から外出時の缶ジュース代までもが借金に加算された。さらに、日本人はやせた女が好きだからと1キロ太ったら2万円、3日間客がつかなかったら2万円、7か月たっても借金を完済できなかったら10万円などの罰金が上乗せされ、借金は容易に減らなかった。加害者らが自由に使えた金は客からのチップだけであったが、それもXに見つかれば取り上げられて借金返済に充てられた。 Xはタイ人同士で話しているのを見ただけで、逃げる計画をしていると勘違いして口汚く罵り、殴りつけることもあったため、同じアパートで暮らしていながらタイ人同士で会話を交わすことも少なく、お互いの本名も来日の経緯も知らなかった。それでもAとCは、ある日Aが「辛いねぇ」と漏らしたことをきっかけに親しくなり、時にはXを殺したいとまで言いあうようになっていた。しかし、Xが不在の日に二人が買い物に行ったことを知ったXは、二人が親しくすることを禁じて二人が同じ部屋で寝ないようCにXと同じ部屋で寝るよう命じ、スナックでも常に監視するようになった。また、Bは同じ飛行機で来日したCを何かと頼りにし、何かあったら二人で一緒に逃げようと話すこともあった。 ==事件発生== ===犯行=== 1991年(平成3年)9月28日の夜、BとCは2人組の客に買われ、それぞれ同じホテルでの売春を終えて、翌29日3時ころ一緒にアパートに戻った。アパートには、Xと、この日は客の付かなかったAがおり、他のタイ人女性は泊まりの客が付いたなどで不在であった。 29日6時ころ、AはCを起こし「逃げよう」と声を掛けた。CはBを起こして仲間に加えたが、AはBも一緒に逃げるとは考えておらず、CがBを誘ったことを不審に思ったと後に語っている。7時ころ、3人はありあわせの凶器を持ち寄って寝ているXに近づいた。Aによれば、この時、部屋に飾ってあったタイ国王の写真に向かって手を合わせ、「もしXの運命もこれまでなのならば、どうか静かに眠ってください」と祈ったという。Xが寝返りを打って上を向いた瞬間、まずBが果物ナイフをXの首の右下に突き刺した。次いでAが酒瓶でXの頭部を強打し、酒瓶は割れて飛び散った。その後3人はさらに鍬や包丁でXを執拗に攻撃した。 Xが動かなくなると、3人はXがいつも肌身離さず持ち歩いていたウェストバッグとカバンなどを奪った。3人はこの中に自分たちのパスポートが入っていると考えていた。さらに、Xが身に着けていた貴金属を外して持ち去った。そして、急いで自分たちの荷物をまとめるなどして、一部はXの返り血を浴びた服のままアパートから逃げ出した。うち1人はパジャマであった。アパートから逃げ出した3人は、近所のスーパーマーケットの公衆電話からタクシーを呼んだ。そして、Aが以前に働いていた茨城県つくば市のスナックに向かった。しかし、店は閉まっていたため、3人はAがそのスナックでの売春で利用していたラブホテルに入った。そこで血の付いた服を着替えるなどした3人は、入室してわずか20分後の9時15分ころ、再度タクシーを呼んだ。3人は日本の地理は不案内で、どこに逃げたらいいのか全く分からなかった。3人は、Aが以前の店で客からもらっていた名刺をタクシー運転手に示し、運転手はそこに記された市外局番を頼りに千葉県市原市に向かい、市原市五井のビジネスホテルで3人を降ろした。 3人は11時30分ころホテルにチェックインするとシャワーを浴びてホテル備え付けの浴衣に着替え、途中で買った弁当を食べた。また、Xの血が付いた貴金属類を洗うなどしていた。そして、Xから奪ったカバンなどを開けると、そこには3人のパスポートとともに約700万円もの現金が入っていた。3人はそれを分け合った。 ===捜査=== 事件は、同居していたタイ人女性が帰宅したことで発覚した。この女性はすぐに隣のマンションに住むY1に伝え、Y1は直ちに自分の車でXを下館市内の病院に連れて行ったが、Xはすでに死亡していた。発見当時、Xの右頸部には果物ナイフが突き刺さったままであった。なお、後日Xの遺体は行旅病人及行旅死亡人取扱法にもとづいて火葬された後、その遺骨は11月末になって身元を確認した父親と妹によって引き取られた。 事件発覚を受けて茨城県警察は緊急手配を敷いた。早くも事件当日の1991年(平成3年)9月29日午後には、3人を市原市のビジネスホテルに運んだタクシーの運転手から情報が寄せられた。ホテルの支配人に問い合わせると、確かにタイ人らしい不審な女性3人が滞在しているということであった。ただちに下館警察署の警察官と市原警察署の警察官がこのビジネスホテルに向かった。 13時ころ、市原警察署の警察官がホテルに到着した。警察官はホテルの支配人と部屋へ向かい、ホテルの支配人が部屋のドアをノックしたが反応がなかったため、捜査令状はとっていなかったがマスターキーで鍵を開けさせて室内に入った。部屋に入ると、警察官は3人に英語でパスポートの提示を求め、3人からパスポートを受け取った。13時25分ころには下館警察署の警察官も到着し、英語や身振りを交えて所持品を見せるよう求め、バッグの中に血痕の付着している衣類や貴金属類を発見した。そして、3人に身振り手振りで服を着替えるように指示し、英語や身振りで任意同行を求めた。3人は特に抵抗することもなくこれに従った。 14時ころ、3人を乗せた捜査車両はホテルを出て市原警察署に向かった。3人をホテルまで運んだタクシー運転手に面通しさせるためであったが、市原警察署に着くと、面通しはつくば中央警察署で行うとの連絡が入り、すぐにつくば中央警察署に向かった。つくば中央警察署でタクシー運転手から、つくば市のホテルから市原市のホテルまで乗せた3人に間違いないとの証言を得た後、3人は下館警察署に連行され、17時5分ころ到着した。下館警察署では、通訳人を介して事情聴取が行われ、所持品を任意提出させて領置手続きをとった。3人は、22時30分ころ強盗殺人の容疑で緊急逮捕され、10月21日に同罪で起訴された。 ===支える会の結成=== 事件が新聞で報道されると、これを見た真宗大谷派の僧侶である杉浦明道がいち早く支援に動いた。杉浦は、1988年(昭和63年)に名古屋入国管理局からの依頼を受けて自殺未遂を起こした仏教徒のタイ人女性を寺で約1か月間保護したことをきっかけに、「滞日アジア労働者と共に生きる会」(あるすの会)の事務局員・「仏教国際連帯会議」の女性問題担当としてタイ人女性の支援に関わっていた。1989年(平成元年)には、愛媛県松山市で発生した同様の事件道後事件の支援活動を行った経験もあった。また、同じく新聞報道で事件を知った「つくばアジア出稼ぎ労働者と連帯する会」のメンバーも、10月1日に下館警察署を訪れて面会と差し入れを行っている。 杉浦や「連帯する会」のメンバーらは、女性の家HELPの顧問弁護士であった加城千波に弁護を依頼したことを皮切りに、支援体制を構築していった。加城は10月11日に加害者と初めて接見したが、ここでBから強制売春の実態を聞かされて衝撃を受けた。さらに、3人は強盗目的や事前の謀議は強く否定した。加城弁護士は、その内容を取り調べで供述することと、自らが話していない内容の調書には署名せず訂正を求めるよう助言した。これに対して彼女らは、調書には自分たちの主張通り書かれているから大丈夫だと繰り返し述べた。 1992年(平成4年)12月には、「アジア出稼ぎ労働者を支える会」「アジアの女たちの会」「仏教国際連帯会議日本会議」などが呼び掛けて「下館事件タイ3女性を支える会」(支える会)が結成され、在日外国人を支援している様々な民間団体が参加した。 ==第一審== ===一審の経過=== 起訴後に開示された供述調書は、弁護団らによってタイ語に翻訳されて3人に渡された。そこには、事前に被害者を殺して金を奪って逃げようと相談して実行したと、3人の主張とは異なる内容が記載されていた。3人は驚き、弁護団に対して「こんなことは言っていない」「『殺しました』『バッグを持って逃げました』と言っただけだ」と供述調書の内容を否定した。1991年(平成3年)12月18日、水戸地方裁判所下妻支部で初公判が開かれ、3人は罪状認否で「お金をとるために殺したのではありません。逃げるために殺したんです」と強く主張し、「強盗殺人」とした起訴状の一部を否認した。弁護団も、場当たり的な犯行や逃走過程からも事前に共謀した事実は認められず、また、「殺害以前に金品を奪う意思はなく、強盗殺人は成立しない」として殺人と窃盗であるとし、殺人は、人身売買や暴行、強姦の被害から逃れるためのものであり、「合法的な手段での逃亡や救出を期待できない状況下の正当防衛である」と主張した。さらに、1992年(平成4年)2月12日の第2回公判では、弁護団が意見書を提出し、市原市のホテルで客室や所持品を調べた際に捜索令状もなく警察手帳の提示もされなかったこと、通訳が同行していなかったため下館警察署への連行が任意であることも伝えていないことなどから、検察官が証拠申請している供述調書や3人の所持品は違法に収集されたもので証拠能力がないと主張するなど、裁判の冒頭から検察側・弁護側は激しく対立した。 7月1日の第6回公判、8月19日の第7回公判には、スナックの日本人経営者Y1とY2が証言に立った。2人は、スナックでは売春行為は厳禁だったと証言した上で、スナックの従業員には時給3,000円を払っており、3人の給料も被害者に渡していたと主張した。さらに、被害者と3人は親子のような関係で、時に厳しく接することもあったが、事件当時は外出も比較的自由だったとして、3人が監禁状態だったことを否定した。この証言に対して、3人や弁護側は、客が従業員を連れ出す際には店に迷惑料として5,000円を払っており、被害者がいないときはY2が代わりに売春代金を受け取っており、何より客を売春に誘う言葉を教えたのは経営者らであるとして、経営者らが売春行為を強いられていたことを知らなかったはずがないと反論している。 3人の取り調べには、留学生を含む地元に住む多くのタイ人が通訳人として関わっていた。1993年(平成5年)2月17日の第13回公判には、取り調べ段階でのCの通訳人が証人として出廷した。このタイ人の通訳人は、メモも取らずに正確に訳したと証言したが、「供述調書の意味が分かりますか?」と問われて、「わかりやすいセツメイ、してもらえますか。わかりません。」と答えた。さらに、Aを担当した別の通訳人は、日本の刑事手続きについては「知りません」と述べ、「『(被害者)を殺したあと現金や貴金属を奪おうと考えた』という文の意味が、『点』をどこに打つかによって二通りの意味になることがわかりますか?」との質問への答えは「イミ、ひとつ。(被害者)死んでる」であった。弁護側は、取り調べ時の通訳人は著しく能力や適性を欠き、供述調書はこうした通訳人を通じて誤った内容が記載されたものであるので、供述調書は信用性に欠けると強く主張した。なお、この時Cは「3人が事前に共謀していたと話していたことははっきり覚えている」旨を証言したが、それは「今回証人に立つにあたって、検察から事前に話を聞いた」「今日午前中に検察に行って、検察官から『3人が事件の前に相談をしていたことを覚えていますか?』など、事件についてある程度説明され、そのことが記載されている調書を見せてもらったから」であると述べている。 その後、支える会のメンバーの証人尋問などを経て、9月22日の第18回公判以降被告人尋問が行われて第1審の審理を終えた。 ===論告求刑=== 1994年(平成6年)2月6日、第23回公判が開かれ、検察の論告求刑が行われた。その内容は、3人の法廷での主張を「弁解のための弁解」であると否定し、供述調書とY1・Y2の証言に拠るものであった。 論告では、まず取り調べ時の通訳人について「日本に長期間(短い人で六年間)滞在し十分な通訳能力を有する」と主張し、取り調べ時の通訳人は能力・適正に欠け供述調書には任意性・信用性がないとする弁護側の主張を、「取調べ及び読み聞け時の通訳が客観的かつ正確になされたことは、被告人らの取調べに立会通訳した、四名のタイ人通訳の当公判廷での証言で十分証明されている」と一蹴した。供述調書の内容も「内容的にも無理がなく自然なもの」で高い信用性がある一方、被告人らの法廷での「殺害後に初めて財物奪取の意思を生じた旨の弁解は極めて不自然で、到底信用することはできない」と主張した。また、弁護側の正当防衛の主張については、被害者は就寝中に無防備な状態で一方的に殺害されたもので「(被害者)による被告人らに対する急迫不正の侵害など全く存在しなかったことは明らかである」と反駁し、違法捜査の主張にも、「捜査にあたった警察官は適法な捜査をして」いるとして、問題ないとの認識を示した 。 そして、3人は「売春の明確な目的を持ち若しくはその覚悟で」不法に入国し「逃走資金と多額の利得を得るために、同じタイ国女性である(被害者)を殺害し、現金や貴金属を奪い取ったもの」であると断定し、「犯情は悪質で、被告人らの本件犯行動機に酌量の余地はない」と強調。計画的犯行で、犯行態様も「冷酷にして残虐なもので、極めて悪質」とし、さらに、「スナックで稼働していたタイ人ホステスが、タイ人抱え主(ボス)を殺害し、金品を強奪した事件として新聞などに大きく取り上げられ、社会的影響も大きい」「被告人らのように売春に従事するタイ人ホステスに限らず日本に残留する不法就労者」と「それら外国人による犯罪も増加の一途をたどっている」と指摘し、「それら外国人に対する一般予防の見地も十分に考慮に入れ、司法の厳正な処罰が要請される」として、3人に対して無期懲役を求刑した。 この論告求刑に対して、弁護団や支える会は 、「タイ人は売春婦だ。好きで売春しているんだ。外国人は犯罪を犯すのがあたりまえ」という差別的な偏見に基づく「驚くべき排外主義的な見解」であると反発した。 ===最終弁論=== 1994年(平成6年)3月30日の第24回公判で、弁護側の最終弁論が行われた。弁護団は、改めて、金品を強奪することが目的の強盗殺人ではなく殺人及び窃盗であること、殺人については人身売買と強制売春から逃れるための正当防衛であること、窃盗についても証拠品は違法収集されたもので証拠能力がないことを主張し、無罪を求めた。 弁護団は、まず「下館事件を正しく評価するためには、まず被告人らが受けたこの想像を絶する恐怖、絶望、悲しみ、苦しみ、そして痛みを、同じ人間として理解することが必要である。被告人らの受けたこれら甚大で深刻な被害は、下館事件の重要な背景であるとともに事件の本質でもあり、これを抜きに論ずることはできない」として、人身売買と強制売春の実態から論じた。国際的な人身売買組織とタイ人女性を日本に送り込むシステムの存在を指摘し、「売春の強要」は被告人らの立場から見れば「強姦の被害」であり、そこからの脱出や救出は現実的に極めて困難であると主張した。 そして、被告人それぞれの来日に至る経緯や来日後の状況を述べた後、強盗殺人罪で無期懲役を求めた求刑に対して、検察は被告人らが国際的人身売買の被害者であるという事件の本質を否定ないし無視しており、「かりに捜査段階での自白調書をすべて信用するとしても、犯行動機は『被害から逃れること』であり」「重刑を規定した法が予期している『強盗殺人罪』とは異質な犯行であることは明白である」と主張。論告の言う「一般予防の見地」「同種事犯の再発を防止するため」とは、被告人らと同様の状況に置かれている人身売買の被害者に対して「『逃亡を企てるなどすべきでない。被害に甘んじるべきだ』と言っているに等しい」と批判した。さらに、事件の過程で莫大な利益を得た人身売買組織のブローカーやY1・Y2といった事件の背後にいる巨悪を放置し、「三女性のみを処罰したり、重刑で臨むことがいかに法の正義にかなわないことか、一見して明白である」「この事件を女性たちと(被害者)との関係にのみ集約することは許されない」と指摘した。 最後に、「犯行の動機は、最大限に情状酌量されるべき」「周到な計画的犯行であるとは到底言えない」「彼女たちに前科前歴は」なく「再犯のおそれはまったくない」などの情状を述べた上で、改めて無罪を訴え、「正義にかなった判決」を求めて最終弁論を終えた。 ===一審判決=== 1994年(平成6年)5月23日、14時過ぎから判決公判が開かれた。小田部米彦裁判長が言い渡した判決は、「被告人三名をそれぞれ懲役一〇年に処する。未決勾留日数のうち八〇〇日をそれぞれの刑に算入する」であった。 判決は、まず、捜査段階での通訳人の能力について、「これまで相当回数にわたり法廷外における通訳を経験している者であり」、「通訳の正確を期しており、被告人らの述べる言葉、取調官の質問を適当に省略したり、故意に誤訳したりなどしたような形跡は窺われない」「被告人らの立場を理解し、これに同情を寄せている者で、敢えて被告人らに不利に、事実を曲げて通訳をするなどと言うことは到底考えられない」などとして、「通訳の正確性、公正性に疑いを差し挟む余地はない」と弁護側の主張を退けた。また、供述調書の任意性については「任意性を疑うべき余地は全くない」、信用性についても「具体的かつ詳細で、迫真性、臨場感に富んでおり」「前後矛盾なく、極めて自然、かつ、合理的である」「客観的な事実関係や諸状況ともよく符合している」などから「信用性は優にこれを認めることができる」、押収品などが違法収集されたもので証拠能力がないとの主張は「一連の手続きに何ら違法とすべき事情は認められず」「証拠能力を否定すべきいわれは全く存しない」などとしていずれも弁護側の主張を退けた。 最大の争点であった金品を強奪する意思の有無についても、「被告人ら三名は、(被害者)を殺害してパスポートや現金、貴金属等を奪うことについて最終的に意思を通じ合い、前記認定どおりの犯行に及んだ」と認定し、「被告人ら三名の間に、本件共謀が成立したもの、と認めるのが相当である」とした。さらに、正当防衛の主張についても、被害者が就寝中の犯行であることから「急迫不正の侵害が現存しなかったことはもとより、防衛の意思すら存在しなかったものであることが明らかであって、正当防衛の概念を入れる余地は」ないとして、これも弁護側の主張を退けた。 その上で、「翻って本件をみるに、その発端、要因は、非合法なルートを通して被告人らを買い取った被害者において、法外な利益を収めようとして、被告人らに有無を言わせず、前述のような人権を全く無視した非情、苛酷な扱いをしたことにあるのであって、責められるべき点は被害者の側にも多々存するといわなければならない」「被告人らは、無法な人身売買組織の手にかかり日本に入国し、法外な値段で取引の対象とされ、被害者の管理下に置かれ、(中略)その精神的、肉体的苦痛、屈辱、不安は極めて大きかったものと思われる」などとし、特にAは6か月の長期にわたってこのような状況に置かれ「その間の苦痛、屈辱等も想像を絶するものがあったと思われる」と指摘。「広く各地で、右同様、外国人女性に対し被告人らに対すると同様の行為を強いて暴利を得るなどしている者らに対し、改めてその非を悟らしめる契機となったであろうことも優に窺われるところであり、この点も、被告人らの情状を考えるにあたって看過することはできない」などの情状を認定して、「無期懲役刑を選択し、酌量減軽のうえ、被告人らをいずれも懲役一〇年に処する」と判断した。 人身売買と虐待の事実を認定し、死刑または無期懲役が法定刑の強盗殺人に対して情状酌量して懲役10年とした判決を、報道機関各社は「温情判決」と伝えた。しかし、裁判長が判決理由の朗読を終え法廷通訳人がタイ語で要旨を読み上げると、被告席からの嗚咽の声が法廷に響いた。3人は何より「強盗殺人」と認定された判決に納得できなかった。6月6日、3人は東京高裁に控訴した。支える会の中心メンバーの一人である千本秀樹は、「仮に量刑がもう少し重くても、殺人および窃盗とされていれば、控訴するかどうかについて、もっと悩んだのではあるまいか」と3人の心情を推し測っている。 ==支援活動と民事訴訟== ===支援活動の広がり=== 1992年(平成4年)12月に結成された支える会は、3人に対する面会や差し入れ、手紙のやり取りなどの活動を進めた。1993年(平成5年)3月2日には拘置所に対して待遇に関する要望書を提出。同月6日には新小岩事件・茂原事件の支援団体と合同の集会を開催するなど、同様の事件の支援団体と交流して集会やデモ活動などをともに行うこともあった。こうした活動がマスメディアで報道されたこともあって、支える会には学生や研究者、ジャーナリストなど多様な立場の個人が参加し、支援の輪は大きく広がっていった。多様な人たちが参加したことで、事件を主題とした演劇の上演や3人の手紙を中心とする書籍の出版など活動の幅も広がった。 また、支える会は、公平な裁判を求める署名運動にも取り組み、1993年(平成5年)10月時点で4,000筆、1995年(平成7年)3月時点で5,000筆を集め、最終的には9,000筆を超えている。 1994年(平成6年)3月12日・13日の2日間、早稲田大学の国際会議場で「女性の人権アジア法廷」が開催された。ここでの報告をきっかけに下館事件はアジア諸国からの注目を集めることになった。すでに第一審の終盤であったが、急遽タイなど東南アジア各国で公正な裁判を求める署名運動が行われ、在タイ日本国大使館と水戸地裁下妻支部に合わせて2,000筆超の署名が提出された。また、バンコクでは判決直前にデモ活動も行われた。 ===刑事告発と民事訴訟=== 1993年(平成5年)8月22日、支える会と弁護団は、3人をタイから日本へ連れてきた現地のリクルーターやタイと日本のブローカー、スナック経営者Y1・Y2に対する告訴状を作成して水戸地方検察庁に持参した。罪名は、誘拐罪・監禁罪・売春防止法違反であった。検事の対応は、「タイ人の名前がわからないのは話にならない」「誘拐はタイの問題」「監禁罪と売春防止法違反なら受けても良い」などとしたうえで、地検では捜査人員が少ないので茨城県警察本部へ行った方が良いというものであった。 県警本部では所轄署に提出するように言われ、支える会のメンバーらは下館警察署に向かった。対応した下館警察署の担当者は、すでに裁判が始まっていることを理由に「警察としては終わった事件」との認識を示した。支える会のメンバーは誘拐罪・監禁罪・売春防止法違反であると主張したが、最終的には「売春について重要な情報があったということで内偵に入る」との言質と引き換えに告訴状のコピーを渡すだけで引き下がった。ただし、その後スナックに捜査が入ることはなく、事件時から店名こそ変えたが、その後もそれまでと変わらない営業を続けた。 刑事告発が不調に終わったのを受けて、3人は支える会の支援のもと、9月16日に水戸地方裁判所土浦支部においてスナック経営者Y1・Y2に対する未払い賃金および慰謝料を求める民事訴訟を起こした。3人はスナックで、開店時間には出勤してホステスとして接客し、買春客と店外へ出ても閉店時間前であれば店に戻り、閉店後には掃除もしていた。第一審で証言に立ったY1・Y2は、女性たちはあくまでスナックのホステスとして雇っていたのであって、3,000円の時給も支払っており、3人の分も被害者に渡していたと証言していた。3人は、労働基準法の直接払いの原則をもとに被害者へ支払いは違法であるとして時給3,000円で計算した賃金と、Y1・Y2が売春の強制に関与していたことに対する慰謝料を加えて合計1,500万円を請求した。 当初Y1・Y2は全面的に争う姿勢を示したが、審理が進むと証人尋問を欠席するようになり、さらにY1・Y2の弁護人も辞任して、自らの主張の立証を事実上放棄した。裁判は1995年(平成7年)3月に結審し、同年6月、水戸地裁土浦支部はY1・Y2に1,200万円の支払いを命じる原告勝訴の判決を下した。 ==控訴審== ===控訴審の経緯=== 1994年(平成6年)12月9日、東京高裁で控訴審がはじまった。 弁護側は、1審に続いて強盗殺人を否認。捜査段階で強盗の意思や共謀を認めた供述調書は能力に欠ける通訳人によって作成されたものであり信用性に欠けると主張した。控訴審でも一審に続いて通訳人らの証人尋問が行われたが、弁護人を務めた加城千波弁護士によると、裁判所からは尋問内容を事前に書面で提出するよう求められ、「通訳人を試すような質問をしてはいけない。侮辱するような質問もしてはいけない」と念を押されたという。 このほか、弁護側は、令状もないまま、千葉県市原市のホテルの客室に侵入し、遠く離れた下館警察署まで連行し、貴金属などを提出させたのは任意捜査の限界を超えて違法であり、これらによって収集された証拠には証拠能力がないと改めて主張。さらに、殺人については正当防衛ないし過剰防衛にあたるとする主張の裏づけとして刑法学者の意見書を提出した。この意見書は、被殴打女性症候群という心理学的理論によりアメリカ合衆国では虐待から逃れるための殺害も正当防衛にあたると認められていると指摘し、下館事件でも適用されるべきだとするものであった。また、3人が被害者から奪ったとされるパスポートや身分証明書は本来3人自身のものであり、財産罪で刑法上保護されるべき財物とは言えないとし、3人がパスポートや身分証明書を取り返そうとしたことをもって強盗罪は成立しないと主張した。そして、これらや3人の置かれていた状況などの情状に照らして、一審の懲役10年は重過ぎるとして量刑不当を訴えた。 ===控訴審判決=== 1996年(平成8年)7月16日、東京高裁で控訴審判決が言い渡された。松本時夫裁判長の言い渡した判決は、「原判決を破棄する。被告人3名をそれぞれ懲役8年に処する。被告人らに対し、原審における未決勾留日数中各八〇〇日をそれぞれの刑に算入する」であった。 判決理由で松本裁判長は、まず捜査段階における通訳人に求められる能力について論じ、「捜査段階においては、捜査官らの取調べも、これに対する被害者等の供述も、犯罪に関するとはいえ、社会生活の中で生じた具体的な事実関係を内容とするものであり、特別の場合を除いて、日常生活における通常一般の会話とさほど程度を異にするものではない」とした上で、「日常生活において、互いに日本語で話を交わすに当たり、相手の話していることを理解し、かつ、自己の意思や思考を相手方に伝達できる程度に達していれば足りる」とし、「捜査段階である限り、漢字やかなの読み書きができることまで必要ではなく、法律知識についても、法律的な議論の交わされる法廷における通訳人の場合と異なり、通常一般の常識程度の知識があれば足りる」と判示した。また、弁護側が主張する通訳人の能力や基本姿勢について「いわば完璧なものを求めるに等し」いものであるとし、「捜査官に対して迎合的であったり、被疑者、あるいはその他の関係者等に対し予断や偏見を抱いたりすることが許されないのは当然である」が「現在多数の刑事事件で通訳の行われている実情に照らし、結局のところ、誠実に通訳にあたることが求められているというだけで足りる」と判示し、捜査段階での通訳人らの能力は「通訳能力を欠如していたものではないことは十分に肯認できる」と判断して弁護側の主張を退けた。 また、ホテルでの捜査や下館警察署への連行、所持品の領置等が違法捜査でありそれらで得られた供述や証拠品に証拠能力がないとの弁護側の主張についても、そのいずれの時も「警察官らが被告人らに強制にわたるような実力を行使したということは全く認められ」ないなどと認定し、「被告人らの入っていた客室に鍵を開けて立ち入り、被告人らに職務質問をしたり、パスポートの提示を求めたりし、次いで、被告人らを自動車で下館警察署まで同行し、さらに被告人らにその所持する現金や貴金属類などの任意提出を求め、被告人らの提出した所持品につき領置手続をとった一連の行為は、警察官職務執行法の要件を備え、また、任意捜査として許容される範囲を逸脱したものでないことが明らか」とした。 3人が最も強く否定していた強盗の意思については、「被告人らが、(被害者)においては未だ血が流れ、肌も温かく、果してすでに絶命したかどうかはっきりしない状態にあるのに、その体からその身につけていた貴金属類を次々と奪い取っていったということは、当初からそのような行為に出る意思があったことを強く窺わせる」とし、「本件が、金銭的な利得のみを目的とした犯行でないことは明らかである。被告人らが、(被害者)を殺害しようとした動機は、主として、(被害者)の下で束縛されて売春などを強制されているという状態から逃れたいということにあったことは確かである」と認めつつ、「従たる目的とはいえ、殺害することを手段として、(被害者)から被告人ら名義のパスポートを含め、これを入れていると窺える前記ウエストポーチと皮製赤色手提鞄、さらには(被害者)の身につけている貴金属類を強取する意思のあったこと、また、右のような意味での強盗の共謀が(中略)、(被害者)を殺害することの共謀と一体となって成立したことは、十分に肯認できる」と判断した。そして、パスポートや身分証明書も一般論として「強盗罪の客体たる財物となる」として「強盗罪における保護法益については、財物を事実上所持する者が法律上正当に所持する権限を有するかどうかにかかわらず、現実にこれを所持している以上、物の所持という事実状態を保護し、不正の手段、例えば暴行脅迫という実力行使によってこれを侵害することは許されないと一般に解されている」と判示し、「(被害者)の所持していた右各パスポート等を被告人らが実力で奪取する行為は許されないというべきである」として「右各パスポートについても、強盗殺人罪が成立することは明らか」と断じた。 最後に、弁護側の量刑不当の主張については、「犯行の態様も、極めて残虐」「本件の犯情は極めて悪く、被告人三名の刑事責任はいずれも重大」とする一方で、犯行に至った事情として以下の事実を認定した。 被告人三名が本件犯行に至った背景には、被告人らの置かれていた悲惨な境遇があり、そのような境遇の中で被告人らが味わされた苦悩の深刻さは絶大なものであったことは否定できない。すなわち、被告人らは、いずれも、日本で働けば金になるという誘いに乗って日本に来た者であるが、日本に到着すると、直ちにパスポートを取り上げられ、事情も分からぬまま、被害者から三五〇万円という多額の借金を返済するよう要求され、スナックでホステスとして無報酬で働かされながら、借金返済のために過酷な条件で売春を行うことを強制されるに至っていたものである。そして、被告人らが、このような境遇に落ち込むに至ったことにつき、背後にかなり大がかりな人身売買組織や売春組織があるものと思われる。また、被害者のもとで無理やり働かされるようになった後は、売春の相手方となった男たちからも自分の人格を無視され、屈辱的な行為を強制された上、売春の対価として得た金もすべて被害者に取り上げられるに至っている。日常の生活においても、被害者とともに同じ家屋に住まわされ、勝手な外出や電話を禁止され、かつまた、部屋代や買い与えられた衣類などの代金も借金に上乗せされ、三日間売春の相手方が見つからなければ罰金を科されることにもなっていたのである。加えて、被害者は、被告人らに対し、もし逃げ出すようなことがあれば、必ずお前たちを探し出して殺すし、タイに住むお前たちの両親も殺すなどと言って、被告人らの逃げ出すのを抑えつけようと図り、一方、被告人らにおいても、タイ語しか話すことができず、日本にやって来てから日の浅かったこともあり、日本の社会の仕組みなどについてもほとんど知らず、その意味でも、法的にも私的にも他に助けを求めようとするには、実際上著しく困難な状況にあったことはたしかである。 その上で、「強盗殺人罪の法定刑のうち無期懲役刑を選択して酌量軽減の上、被告人三名をそれぞれ懲役一〇年に処した原判決の量刑は、なお重過ぎ、このまま維持することは相当でない」として原判決を破棄、懲役8年とした。 3人が強く否定していた強盗殺人罪の認定は変わらず、弁護側の主張のうち量刑不当だけを認めた判決であった。弁護側が、被殴打女性症候群を示して主張した正当防衛についても、「正当防衛行為に当たらないことが明らか」とし、踏み込んだ言及はなかった。 ==裁判後== 控訴審判決後、3人は上告せず懲役8年とした控訴審判決が確定した。3人は服役し、刑期を終えて出所するとタイに帰国した。 支える会は控訴審判決を受けて3人に上告の意思がないことを確認すると活動を停止。事実上解散した。ただし、この時の支援者同士のつながりはその後も継続されている。 ==影響== ===同種事件の支援活動への影響=== 支える会の支援活動は、逮捕直後の差入れや面会に始まり、起訴状や裁判資料の翻訳、拘置所での処遇改善を求める申し立て、スナック経営者に対する民事訴訟など多岐にわたった。支える会は、3人を殺人事件の加害者としてではなく人身売買の被害者であると位置づけ、講演会やシンポジウム、事件とテーマにした演劇の上演、3人の手紙を中心とした書籍に出版など、一般市民に向けた啓発活動も行った。また、下館事件前後には同種の事件が続いており、そうした他の事件の裁判の支援団体とも積極的に交流することでネットワークを広げ、新小岩事件や茂原事件の支援団体とは署名運動やデモ活動、集会などを共催している。 支える会の支援活動は、同種の事件の中で初めて人身売買を前面に出した支援活動であった。そして、当時は裁判支援と同時に啓発運動も行う団体は珍しかった。こうした取り組みがマスメディアで報道されたこともあって、支える会には在日開国人の支援団体だけでなく、学生や研究者、ジャーナリストなどさまざまな人々が参加し、多様な活動の展開を可能にした。同種の事件の支援活動の中でも、支える会の活動は大規模かつ多岐にわたるものとなった。支える会の活動は、民事訴訟での全面勝訴の要因にもなったと評されている。 支える会のこうした活動は、先進的な取り組みとしてその後の支援活動のモデルとなった。また、支える会の構築したネットワークは、支える会の解散後も継続している。 ===通訳人の能力に関する裁判例として=== 控訴審判決では、「捜査段階においては、捜査官らの取調べも、これに対する被害者等の供述も、犯罪に関するとはいえ、社会生活の中で生じた具体的な事実関係を内容とするものであり、特別の場合を除いて、日常生活における通常一般の会話とさほど程度を異にするものではない」とした上で、「日常生活において、互いに日本語で話を交わすに当たり、相手の話していることを理解し、かつ、自己の意思や思考を相手方に伝達できる程度に達していれば足りる」とし、「捜査段階である限り、漢字やかなの読み書きができることまで必要ではなく、法律知識についても、法律的な議論の交わされる法廷における通訳人の場合と異なり、通常一般の常識程度の知識があれば足りる」と判示した。また、「捜査官に対して迎合的であったり、被疑者、あるいはその他の関係者等に対し予断や偏見を抱いたりすることが許されないのは当然である」が「現在多数の刑事事件で通訳の行われている実情に照らし、結局のところ、誠実に通訳にあたることが求められているというだけで足りる」とした。これは、捜査段階における通訳人に必要とされる能力について判示した裁判例として知られている。 法務省刑事局付検事(現在は弁護士)の甲斐淑浩は、この判決で示された通訳人に求められる能力や姿勢については妥当なものであると評価している。一方で弁護団の加城千波は、「多数の刑事事件で通訳が行われている実情に照らし」とされたことに対して、「『そうでなくても通訳人が足りない。日常会話さえできれば日本語が読めなくても法律知識がなくてもいい』と言っているに等しい」とし、「被疑者・被告人の権利よりも捜査の実情を重視」するものと批判している。 刑法学者の田中康代は、本件について「パスポートを取り戻すという意思がいつ彼女等に生じたかを正確に認定するにはその内心面をかなり詳細かつ具体的に問いただすことが必要」と指摘し、「相当高度な日本語の理解力及び表現力が必要だったのではなかろうか」と判決に疑問を呈している。さらに、判決で「『尋問に対する答えにかなり誤訳』があったことを認めながらも、通訳人の能力を認めているが、その根拠が筆者には読み取れない」と評している。 また、法廷通訳人を長く務めてきた長尾ひろみは、1990年代半ば以降、法務省や検察庁、裁判所が希望する通訳人に対してセミナーを開いているが質量とも伴っていないとして、下館事件のような事例は「程度の差はあれ、似たような問題は日常的に起こっている」可能性があると指摘している。この点に関しては、甲斐淑浩も「捜査段階においても、適正な通訳を行うためには、通訳人が日本の刑事手続きの概要や基本的な法律用語に関して基本的知識を有していた方が適切であるので、通訳を依頼した際に適宜日本の刑事手続等を説明したり、通訳人を対象とする研修の場などを通じて、理解を深めてもらうことが大切である」と述べている。 =知多鉄道= 知多鉄道(ちたてつどう)は、愛知県下において現在の名鉄河和線に相当する路線を敷設・運営した鉄道事業者である。 本項では、事業者としての知多鉄道のほか、同社が敷設・運営した鉄道路線(「知多鉄道線」と記す)についても詳述する。 ==概要== 愛知電気鉄道常滑線(現・名鉄常滑線)の太田川を起点駅として、愛知県南西部の知多半島東岸の中心都市である半田町を経由し、半島南部の河和に至る路線を敷設・運営するため、1926年(大正15年)11月に設立された事業者である。1931年(昭和6年)4月に第一期開業区間として太田川 ‐ 成岩間が開通し、1935年(昭和10年)8月には河和までの全線が開通した。 知多鉄道は開業当初より路線運営を愛知電気鉄道(愛電)へ委託しており、愛電と名岐鉄道との合併による現・名古屋鉄道(名鉄)成立後は、知多鉄道線の運営は名鉄によって行われた。その後、太平洋戦争の激化に伴う戦時体制への移行により、陸上交通事業調整法を背景とした地域交通統合の時流に沿う形で、1943年(昭和18年)2月に知多鉄道は名鉄へ吸収合併され、保有路線・車両は名鉄へ継承された。 ==歴史== ===前史=== 大正年間当時、知多半島東岸より名古屋市中心部への公共交通手段は、鉄道省の運営する武豊線のみであったが、武豊線は列車運行本数の少なさや所要時分が長いことなどから利用者にとって不便な路線であった。そのため、地元住民による請願もあり、愛知電気鉄道(愛電)は1912年(大正元年)12月に、当時建設中であった同社常滑線の尾張横須賀駅より分岐して半田に至る「半田線」の敷設免許を取得、測量に取り掛かると同時に敷設する軌条(レール)の手配を進めた。しかし、同時期の経済不況による愛電本体の業績悪化から半田線は測量を終え境界標を設置した段階で建設が中断された。結局半田線は1915年(大正4年)12月に免許失効を迎え、幻の路線に終わった。 その後、1924年(大正14年)に半田・河和地区の有力者であった小栗四郎・中埜良吉・中埜半左衛門・榊原伊助らによって、知多半島東岸南部の河和に至る知多電気鉄道が計画された。小栗らは愛電側に指導協力を求め、1926年(大正15年)11月に愛電常滑線の太田川より分岐して河和に至る路線の敷設免許が交付されたことを機に発起人集会を開催、資本金は300万円とし、うち100万円を愛電が引き受けることが決定された。翌1927年(昭和2年)11月に会社設立総会を開催し、社名を知多鉄道と変更するとともに、代表取締役社長には当時愛電の社長職にあった藍川清成が就任、愛電の傍系事業者として正式に設立された。 ===路線建設開始から全線開通まで=== 1929年(昭和4年)12月より、第一次工区として太田川 ‐ 成岩間の建設が開始された。同時期に発生した世界恐慌の影響により日本国内においても不況が深まり、中途資金調達が困難となった時期もあったものの、愛電による技術・資金両面の援助により工事は順調に進み、1931年(昭和6年)4月に太田川 ‐ 成岩間15.8 kmが暫定開業した。 知多鉄道線は高速運転を目的として、高速運転時の高負荷に耐えうる重軌条や、保安度の高い自動閉塞方式および3位式信号機を採用するなど、高規格の路線として建設された。また、太田川 ‐ 知多半田間14.8 kmについては複線規格とし、保安度向上のほか高頻度の列車運行を可能とした。また、開業に際しては半鋼製車体を採用する2軸ボギー構造の電車を8両導入した。この電車は形式称号を「デハ910形」としたが、これは製造年の1931年(昭和6年)が皇紀2591年に相当することに因み、下2桁の「91」を採って形式称号としたものであった。 直流1,500 V電化・軌間1,067 mm(狭軌)の路線として開業した知多鉄道線は、当初より愛電常滑線と相互直通運転を行い、知多半田から愛電の名古屋市内における拠点駅である神宮前までを最速35分で結び、従来知多半島東岸における唯一の公共交通機関であった武豊線が半田 ‐ 熱田間に1時間半を要していたのと比較して大幅な所要時分短縮を実現した。さらに知多半田 ‐ 神宮前間の運賃を、武豊線の半田 ‐ 熱田間と同額に設定したこともあり、知多鉄道線は武豊線に代わって半田地区における主たる公共交通手段として定着した。また前述の通り、知多鉄道線の運営は愛電に委託され、実質的に愛電の一路線として愛電との連絡運輸を緊密に行った。 翌1932年(昭和7年)7月には成岩 ‐ 河和口間10.0 kmが延伸開業した。同時期には鉄道省によって武豊線武豊駅から南知多方面への乗合バスの運行が計画された。そのため、知多鉄道は対抗策として列車増発のほか、1933年(昭和8年)7月に農学校前・南成岩・浦島の3駅を開業し半田地区における利便性を向上させた。さらに知多半島一円において乗合バス事業を展開した知多自動車(現・知多乗合)の発行株式の過半を取得して子会社化するなど対抗手段を講じた結果、鉄道省による乗合バス運行計画は撤回されるに至った。 河和口以南は用地買収の遅れから建設が停滞し、約3年後の1935年(昭和10年)8月に河和口 ‐ 河和間3.0 kmが延伸開業し、全線が開通した。河和より先、知多半島を横断して半島西岸の知多郡内海町に至る路線延伸計画も検討されたが、こちらは具現化することなく終わった。 ===全線開通後=== 知多鉄道線の開業により、知多半島東岸の各地区における対名古屋方面への移動の利便性が大幅に向上したほか、南知多地区における観光開発が進捗することとなった。特に河和周辺をはじめとして各地に点在する海水浴場は、名古屋地区からの手軽なレジャースポットとして注目され、夏季の海水浴客輸送需要が年々増大した。また愛知商船(現・名鉄海上観光船)と連携して河和港を拠点とした日間賀島・篠島および伊勢志摩方面への観光ルートを確立するなど、知多鉄道線は都市間輸送路線のほか観光路線としての機能も担った。 1935年(昭和10年)8月に知多鉄道の親会社である愛電は名岐鉄道と対等合併し、現・名古屋鉄道(名鉄)が成立した。この結果、知多鉄道は名鉄の傘下事業者となり、従来愛電に委託された知多鉄道線の運営は名鉄へそのまま継承された。 その後、1941年(昭和16年)に勃発した太平洋戦争の激化に伴う戦時体制への移行により、日本国内においては各種資材や燃料などの統制強化とともに、陸上交通事業調整法を背景とした地域交通事業者の統合が行政より事実上強制されるようになった。知多鉄道の親会社である名鉄はそのような時流に沿う形で自社路線に隣接する鉄道事業者の統合を進め、知多鉄道は1943年(昭和18年)2月1日付で名鉄へ吸収合併された。合併比率は名鉄10に対して知多7.5とされ、従業員は待遇・報酬とも知多鉄道在籍当時の条件のまま名鉄へ転籍したほか、保有路線および保有車両も全て名鉄へ継承された。 なお、知多鉄道線は名鉄へ継承された当初「知多線」と称されたが、戦後の1948年(昭和23年)5月に路線名称を「河和線」と改称した。 ===年表=== 1926年(大正15年)11月20日 知多電気鉄道に対し鉄道免許状下付(知多郡横須賀町 ‐ 同郡河和町間)。1927年(昭和2年)11月24日 知多鉄道に名称変更(届出)。1931年(昭和6年)4月1日 太田川 ‐ 成岩間 (15.8 km) 開業(旅客運輸)。1932年(昭和7年) 7月1日 成岩 ‐ 河和口間 (10.0 km) 開業(旅客運輸)。 9月21日 鉄道免許状下付(知多郡武豊町地内)。7月1日 成岩 ‐ 河和口間 (10.0 km) 開業(旅客運輸)。9月21日 鉄道免許状下付(知多郡武豊町地内)。1933年(昭和8年) 7月10日 半田口 ‐ 知多半田間に農学校前駅、成岩 ‐ 上ゲ間に南成岩駅、知多武豊 ‐ 富貴間に浦島駅開業。 10月1日 貨物運輸開始(成岩 ‐ 河和口間)7月10日 半田口 ‐ 知多半田間に農学校前駅、成岩 ‐ 上ゲ間に南成岩駅、知多武豊 ‐ 富貴間に浦島駅開業。10月1日 貨物運輸開始(成岩 ‐ 河和口間)1935年(昭和10年)8月1日 河和口 ‐ 河和間 (3.0 km) が開業し全通。1943年(昭和18年)2月1日 名古屋鉄道に吸収合併。路線名称は「知多線」となる。1948年(昭和23年)5月16日 路線名称を「河和線」と改称。名鉄合併後の知多鉄道線の動向については名鉄河和線#年表を参照 ==運行ダイヤ== 1934年(昭和9年)12月当時のダイヤにおいては、特急が1日1往復設定され、急行が7 ‐ 22時台まで上下とも60分間隔で運行、その間に普通列車が設定された。特急は知多半田 ‐ 神宮前間27.3 kmを27分(表定速度60.7 km/h)、急行は同区間を32分(表定速度51.2 km/h)で結び、開業当初の所要時分(特急30分・急行35分)と比較して2 ‐ 3分の時間短縮が図られている。急行は1940年(昭和15年)9月時点では同区間の所要時分が30分とさらに短縮され、表定速度は54.6 km/hに向上した。 その他、1932年(昭和7年)から1936年(昭和11年)にかけて、神宮前 ‐ 河和間に臨時の海水浴特急「ちどり」が夏季限定で運行された。同列車にはデハ910形の2両編成を充当、運行時には専用のイラスト入りヘッドマークが前頭部に掲出され、神宮前 ‐ 河和間41.3 kmを44分で結んだ。 ==保有車両== 2形式合計11両の電車を保有した。いずれも制御電動車として設計・製造されたが、うち3両は落成直前に制御車に設計変更されて竣功した。 デハ910形 ‐ 開業に際してデハ910 ‐ デハ914・デハ916 ‐ デハ918の8両が1931年(昭和6年)に新製された。愛電の車両番号付与基準に準拠し、初番を0として末尾5は当初より欠番とされた。1941年(昭和16年)1月に実施された形式称号改定にて記号を愛電流の「デハ」から名鉄流の「モ」へ改め、同時に車両番号のゼロ起番を廃止してモ910形911 ‐ 918となり、名鉄継承後は原形式・原番号のまま運用された。ク950形 ‐ 1942年(昭和17年)にク951 ‐ ク953の3両が新製された。ク950形は当初より車種記号「ク」や車両番号のゼロ起番廃止など、記号番号の付与基準が名鉄流に改められている。同時期に名鉄が発注したモ3500形と同一設計の車体を備え、当初は制御電動車モ950形として発注されたものの、名鉄モ3500形と同じく太平洋戦争激化に伴う民間向け物資の不足により電装品が調達できなかったことから暫定的に制御車として導入された。名鉄への継承に際してはモ910形同様に改番などは行われず、原形式・原番号のまま運用された。 ==駅一覧== 全駅愛知県に所在。1936年(昭和11年)8月ダイヤ改正時点。普通は全駅停車(表中省略)。 ===凡例=== ●:停車、|:通過 =箱根火山の形成史= 箱根火山の形成史(はこねかざんのけいせいし)では、箱根火山の噴火活動史を中心とした箱根火山の成り立ちについて説明する。また近年箱根火山の一部と考えられるようになった湯河原火山と真鶴半島、そして箱根火山のカルデラ湖である芦ノ湖の形成史についても併せて説明する。説明の中で、かつて地学の教科書等で取り上げられ、現在でも多くの研究者に引用されている久野久の箱根火山研究の概略を紹介し、久野の研究後、箱根火山の形成史がどのように修正されているのかについても触れていく。 ==久野久らによる箱根火山の研究== 箱根火山の研究は日本に近代的な科学が紹介された明治時代に始まった。研究開始当初から箱根火山はカルデラを持ち、またカルデラ内に中央火口丘があることについて着目され、外輪山の活動期と中央火口丘の活動期の二期に分けられると考えられたが、多くの研究者は複雑な構造をしている箱根火山の理解、特に頂上部分が比較的平坦である南東部の鷹巣山や屏風山、浅間山などについて、箱根火山の中でどのように位置づければ良いのか苦心した。 そのような中、1930年代から1960年代にかけて行われた、久野久による研究が大きな成果を挙げた。久野は1923年の 関東地震と1930年の北伊豆地震によって山崩れが多発した影響で、箱根に多くの地層の露頭が出来た時期、詳細な地質調査を行い、丹念な分析と考察を進めた結果、当時としては極めて優れた箱根火山の研究を発表し、その成果は広く受け入れられ、日本の火山学研究の模範とされた。 久野によればまず、約50万年前から25万年前にかけて、現在の箱根火山の場所には単一の大きな、富士山のような形をした成層火山が出来たとした。久野の没後、1971年になされた推定では、単一の成層火山時代、箱根火山の標高は約2700メートルに達したと考えられた。また成層火山の形成時、山体の北西部では側火山として金時山が、南東部では幕山の噴火活動が起こった。 約25万年前から18万年前にかけて、マグマだまりに火山体上部が落ち込む大陥没を起こし、大きなカルデラが形成された。この時に生まれたカルデラを古期カルデラと呼び、久野は当初、噴火活動以外の理由で大陥没が起こったと考えたが、やがて大規模な噴火があった事実が判明したため、大規模な噴火に伴ってカルデラが形成されたと自説を修正した。そして大規模なカルデラが出来た後、侵食によってカルデラは拡大して、現在の箱根外輪山が出来上がった。 カルデラの形成後、約13万年前から8万年前にかけて、再び噴火活動が活発化し、カルデラ内に流動性に富む溶岩が噴出して、傾斜が緩い南東部の鷹巣山や屏風山、浅間山などの楯状火山が出来た。 約6.6万年前から4.5万年前にかけて、大噴火によって楯状火山の西半分が陥没して新期カルデラが誕生した。残された東側の楯状火山は新期外輪山となった。 最後にカルデラ内部の噴火活動によって、神山などの小規模な成層火山と 二子山などの溶岩円頂丘による中央火口丘が誕生して現在に至る。 ===久野説の問題点と研究の進展=== 久野の説は、複雑な構造を持つ箱根火山の成因をよく説明できるものであったが、箱根火山の調査、研究の進展に伴い、久野説では説明が難しい事実が次々と明らかになってきた。その中でも特に、かつて箱根火山は単一の大規模な成層火山であったという点と、成層火山の後に大きなカルデラが出来たという点が、事実と異なるのではないかとの疑問が深まっていった。 単一の成層火山に対する疑問は、外輪山の地層を詳細に検討すると、地層の走向や傾斜から考えて、かつて単一の大きな成層火山であったと考えるのには無理があり、規模の小さな成層火山が複数存在したとの説が有力になった。 カルデラについては、1960年代以降、箱根観光が盛んになるにつれて、箱根各地で行われるようになった温泉試掘ボーリングの試料が問題となった。ボーリングの試料からは中央火口丘の噴出物の下の、かなり浅い場所で箱根火山が乗っかっている基盤岩が検出された。基盤岩がかなり浅い場所で検出されたということは、もし陥没が発生していたとしてもその深さはあまり深くなく、陥没の結果、大規模なカルデラが誕生したとの説とは矛盾する。そして成層火山の大陥没によってカルデラが形成された場合、当然あるべき外輪山を構成するものと同じ噴出物はほとんど見つからなかった。。 その他にも久野説の修正が必要な、新しい事実が判明していき、箱根火山の形成史は書き換えられることとなった。 ==成層火山群の活動== かつて箱根火山は、まず富士山のような形をした標高約2700m の、単一の大きな成層火山が出来て、それが大噴火によって陥没し、カルデラが出来たものと考えられていた。しかし最近の研究では、かつての箱根火山に単一の成層火山は存在せず、小ぶりの成層火山が複数存在したことが明らかになった。 ===箱根火山の誕生=== 現在、箱根火山を形成する火山体の中で最も古いものは、約65万年前に噴出した箱根外輪山の南東方面に分布する天昭山溶岩と、箱根湯本近くの畑宿付近に分布する畑宿溶岩とされている。久野の研究では天昭山溶岩は第三紀のもので、箱根火山の活動開始前に噴出したものとされていたが、近年の研究では箱根火山の初期噴出物である畑宿溶岩とともに、主に玄武岩質の溶岩や火山角礫岩などから成る、ほとんど変わらぬこと性質を持つものであることが明らかになり、年代的にも約65万年前のものということが判明した。また天昭山溶岩流や畑宿溶岩流は、玄武岩質の成層火山の噴出物であったと考えられている。 約50万年前からは箱根火山の北東部に狩川溶岩グループ、北西部では大唐沢溶岩グループ、そして南部では湯河原火山の活動が始まった。ともに玄武岩や玄武岩に近いタイプの安山岩からなる成層火山であったと考えられている。先に紹介した久野久の研究では、湯河原火山は箱根火山の活動が開始される前に活動した、箱根火山と異なる火山と考えたが、噴出物の内容的に区別がつけ難い点と、初期の箱根火山の活動時期と重なることから、現在では湯河原火山は箱根火山の一部であると見なされるようになった。 成層火山の火山活動であった狩川溶岩グループ、大唐沢溶岩グループ、湯河原火山の活動と同時期、箱根火山ではタイプの異なる噴火活動が始まった。単成火山の活動である。この時期の単成火山は主に箱根火山の南東部から南部に分布し、流紋岩質やデイサイト質の溶岩やスコリアを噴出した。 ===成層火山群の成立=== 約35万年前からは、現在箱根外輪山を形成する金時山や明星ヶ岳 などの噴火活動が開始したと考えられる。ともに玄武岩や安山岩から成る成層火山で、地形や噴出物の内容から、金時山や明星ヶ岳とも現在はカルデラ内部となっている場所に火山体の噴出口があったと考えられている。 金時山や明星ヶ岳の活動とほぼ同時期、現在の芦ノ湖付近に火山体の噴出口があったと考えられる山伏峠火山体、十国峠付近に火山体の噴出口があったと考えられる白糸川溶岩グループなどの活動があったと見られている。 約30万年前からは、中央火口丘付近に火山体の噴出口があったと考えられる深良火山体などの活動があった。このように箱根火山では複数の成層火山の活動が続き、成層火山群が形成されていった。 ===単成火山活動の活発化=== 約27万年前から23万年前にかけて、引き続き成層火山の活動が続いていて、この時期には箱根外輪山を形成する明神ヶ岳の活動が見られ、その他にも箱根火山の西部では丸岳火山体、現在の元箱根付近に火山体の噴出口があった海の平火山体が活動した。 27万年前からは成層火山の活動とともに単成火山の活動が活発化した。単成火山は箱根火山の北西部と南東部に集中し、単成火山群が構成されるようになった。この時代に活動した単成火山群は、北西部は長尾峠溶岩グループ、南東部では根府川溶岩グループと呼ばれていて、ともに安山岩やデイサイト質の噴出物からなる。 同じ時期、箱根火山体の南東部にあたる白銀山周辺でも米神溶岩グループ、江之浦溶岩グループといった活発な火山活動が確認されている。 ==カルデラと単成火山の時代== 約23万年前から、箱根火山の噴火の様式は一変した。これまでは比較的小型の成層火山が複数噴火活動を続けていたものが、大量の流紋岩質、デイサイト質の溶岩を噴出する大規模な火砕流を伴う噴火活動を見せるようになった。このような大規模な噴火は約23万年前から約4万年前までに繰り返された。 ===カルデラの成因について=== 箱根火山のカルデラの成因についてはいくつかの説が唱えられている。久野は大陥没によって現在の箱根カルデラが誕生したと考えた。陥没の原因については、当初は火山活動以外のものを想定していたが、その後、大規模な噴火活動があったことが明らかとなったため、大噴火後に地面が一気に陥没してカルデラが誕生したとした。 ところが久野の晩年の研究で、陥没は一気に発生したわけではなく段階的に進み、陥没後に起こった侵食の結果、現在の箱根カルデラが出来たと修正された。これは温泉掘削のため行われたボーリング調査の結果、箱根火山の基盤となる岩石がかなり地表に近い場所に分布していることが明らかになり、またボーリングの試料からは外輪山を構成するのと同じ噴出物が見つからず、基盤となる岩石の上に直接中央火口丘由来の岩石が分布している例が多く見つかるなど、きわめて大規模な陥没が発生したとは考えにくくなったことによる。その他にも陥没説の欠点として箱根カルデラでは陥没型のカルデラで確認される、円形や弧の形をした断層が見られないことが挙げられ、研究の進展によって箱根火山では大規模な噴火が複数回発生したことが明らかになるにつれて、カルデラは複数の噴火によって形成されたのではないかとの説が浮上してきた。 その後、箱根カルデラはまず箱根火山の南東部が大規模に崩壊した山体崩壊が発生し、その結果、馬蹄型のカルデラが生まれ、その後、馬蹄型のカルデラ内に中央火口丘が噴出したというモデルが提唱された。この説は、箱根カルデラで大規模な陥没が発生した形跡がない点や、箱根火山から噴出したと考えられる噴出物の量は、大噴火によって箱根カルデラが形成されたとしては少なすぎる点を根拠として唱えられた。しかし大規模な山体崩壊が発生した場合に必ず現れる、崩壊した大量の土砂の堆積物や流れ山が箱根火山周辺に全く見当たらない点が難点とされ、また噴出物の量がカルデラ形成が行われたにしては少ない点については、大磯丘陵などで大規模な噴火に伴うテフラ層が多数検出されており、大規模な噴火が箱根カルデラの成因とみて問題ないとの反論がなされている。 最近の研究では、大規模な噴火によって山体が吹き飛ばされた上に噴出物が堆積した、直径4キロメートル以下の比較的小さなカルデラが複数誕生し、それらのカルデラが浸食活動の結果繋がって、現在のような単一の大きな箱根カルデラになったものとの説が出されている。この説の根拠としては、箱根カルデラ内に直径1‐4キロ程度の陥没地形の跡が複数確認されること、中央火口丘付近のかなり浅い場所で基盤岩が検出されることが挙げられる。 ===大規模な噴火活動とカルデラの形成=== 箱根火山ではカルデラの形成を伴う大規模な火山活動は、約23万年前から始まった。中でも最も古いと考えられる活動はTm‐2と呼ばれるテフラ層を形成した活動である。約23万年前と考えられるTm‐2の活動以後、10回以上大規模な噴火活動が確認されており、ともに大規模なプリニー式噴火であったと考えられ、デイサイト質や流紋岩質のテフラや、中でも規模の大きな活動では広範囲に火砕流が流れたと考えられ、噴出物の総体積は規模が大きな活動では5‐10立方キロメートルにもなった。 大規模な噴火活動が続いた結果として、箱根火山にはカルデラが形成されたと考えられている。箱根カルデラがいつ頃出来上がったのかはまだはっきりしないが、大規模な火山活動に伴うテフラが良く保存されている大磯丘陵では、約18万年前の箱根火山のテフラ層から、成因に水が関係する火山豆石が確認され、火山豆石の中からは湖や沼の底部に生息する淡水性の珪藻化石が見つかっており、遅くとも18万年前には箱根火山にはカルデラが形成され、カルデラ内にはカルデラ湖があったことが想定されている。 カルデラが形成される時期も、カルデラ北部に仙石火山体という成層火山の活動が見られ、成層火山の噴火活動が完全に終了したわけではないが、規模としては小規模かつ例外的なもので、23万年前以降、箱根火山では成層火山の形成はほぼ終了したと考えられている。 ===真鶴半島の形成=== カルデラの形成が始まった23万年前以降も引き続き、箱根火山の北西部と南東部では単成火山の活発な活動が続いた。北西部では長尾峠付近で活動した深沢溶岩グループ、寒沢溶岩グループが活動し、南東部では大猿山溶岩グループ、岩溶岩グループ、白磯溶岩グループ、本小松溶岩グループ、真鶴溶岩グループが活動し、これらの火山活動で単成火山群を形成したものと考えられる。また箱根火山南東部の側火山である幕山も同じ頃の活動とされる。 この時期の単成火山の活動によって、現在の真鶴半島が形成されたと考えられている。久野は真鶴半島を形成する溶岩は箱根外輪山の中腹部より噴出したと考えたが、実際には真鶴半島付近の北西方向から南東方向へと連なる数ヶ所の火口から同時に安山岩質の溶岩を噴出し、溶岩ドーム群を形成したことが明らかとなった。真鶴半島を形成した火山活動は約15万年前の出来事と考えられる。また真鶴半島の形成に先立つ18万年前から15万年前頃、現在本小松石として採石され、石材として広く利用されている溶岩が噴出している。 ==前期中央火口丘の噴出== 約13万年前から箱根火山の噴火の形態が変わった。これまで外輪山の北西と南東山腹で続いていた単成火山の活動が終息し、火山活動はカルデラ内部のみに限られるようになった。この時期の噴火はデイサイト質や流紋岩質の溶岩を大量に噴出し、頻繁にプリニー式噴火を繰り返してデイサイト質のテフラを大磯丘陵や伊豆半島北部に降下させた。特に約12万前から10万年前にかけては活動が活発で、1000年未満の間隔で爆発的なプリニー式噴火を繰り返し、大量のテフラを降下させた。またこの時期のテフラの中からも形成に水が関わる火山豆石が発見されており、噴火口付近に湖が存在した可能性がある。しかしカルデラ内部からはこの時期のものと考えられる火砕流堆積物が検出されるが、箱根火山周辺からは箱根火山による火砕流の堆積物は検出されておらず、外輪山を越えて広域に火砕流がもたらされるほどの規模の大きな噴火はなかったものと考えられる。 これらの噴火によって、カルデラ内には安山岩質、デイサイト質や流紋岩質の溶岩や溶岩ドームが厚く積み重なった火山が形成された。これらの火山は一種の単成火山の集合体を形成しており、現在の鷹巣山や屏風山、浅間山といった頂上部が比較的平坦な台地状の山体がそれに当たる。また久野は鷹巣山や屏風山、浅間山を新期外輪山と呼んだが、新期外輪山の噴出後に形成されたとされる新期カルデラの存在がはっきりしないため、最近では前期中央火口丘と呼ばれるようになった。 ==再び始まった大規模噴火== 約8万年前から4万年前にかけて、箱根火山では再び大規模な噴火が繰り返されるようになった。中でも小原台軽石層、三浦軽石層、東京軽石層は大規模な火砕流を伴った活動であり、特に約6万5000年前に発生したと考えられる東京軽石層の噴火は、箱根火山の噴火の中でも最大級のものであった。 東京軽石層による噴火では、東京軽石と呼ばれるデイサイト、流紋岩質の軽石が降下した。軽石の層は東京付近でも約20センチに達した。その後、デイサイト質の大規模な火砕流が発生し、火砕流は西側は富士宮市周辺、東側は相模湾を渡って三浦半島にまで達するなど、高度の高い場所を除くと箱根火山から半径約50キロの範囲を火砕流が埋め尽くし、最後に安山岩質のスコリア流が派生した。この時の噴火の噴出物の総体積は、5‐10立方キロメートルになる。 この6万5000年前の大噴火によって、現在の強羅付近に直径約2‐3キロの強羅カルデラと呼ばれるじょうご型のカルデラが出来た可能性が高いと考えられている。現在、強羅カルデラは珪藻類の化石を含む湖成層と考えられる堆積岩などで埋め立てられてしまっているが、湖成層の存在はかつて湖が存在した窪地があったことを意味している。また湖成層で検出される化石の分析や、他の岩石の分析の結果、6万5000年前の大噴火時に強羅潜在カルデラが形成されたと考えられている。また箱根カルデラ内には他にも湖尻付近に潜在カルデラが存在し、仙石原付近、そして芦之湯付近にも潜在カルデラが存在する可能性が指摘されている。 6万5000年前の大噴火以後、短い休止期間の後、爆発的な噴火が続いた。そして現在の中央火口丘付近に成層火山が生まれたと考えられる。そして約4万5000年前から4万1000年前にかけて、爆発的な噴火によって成層火山の山体は崩されていき、最後には大規模な山体崩壊によって、早川泥流と呼ばれる大規模な土石流が発生した。約4万年前以降、箱根火山では規模の大きな爆発的なプリニー式噴火は起こらなくなった。 ==後期中央火口丘の噴出== 約4万年前以降、箱根火山は中央火口丘でこれまでよりも比較的静かな火山活動を続けている。中央火口丘は東側の台ヶ岳から丸山と、西側の神山から駒ケ岳という北西から南東方向に二列になって火山が分布していて、東側のグループが比較的古い火山であると考えられている。 まず約4万年前から、中央火口丘の中心部に古期神山と呼ばれる成層火山の活動が始まった。この時の古期神山の活動で発生した火砕流が早川を堰き止め、仙石原湖と呼ばれる湖が誕生した。また古期神山の活動と同時期に、台ヶ岳、小塚山、丸山といった中央火口丘の東側列の溶岩ドームが噴出した。 約2万7000年前からは駒ヶ岳の噴出が始まり、駒ケ岳成層火山が形成された。そして約2万年前から1万8000年前にかけて駒ケ岳では山頂部に溶岩ドームが形成された。約2万2000年前からは現在の神山の活動が開始され、火砕流が北東方向に流下したことにより仙石原湖は仙石原湖と先芦ノ湖に分断された。2万2000年前の神山噴火と同時期には、神山南西にある陣笠山が噴出した。約2万年前頃が中央火口丘内の活動が最も活発で、この頃に現在の箱根火山の中央火口丘の原型が出来上がったと考えられる。 その後、神山では約1万9000年前、7000年前に激しい噴火活動があったことが確認されている。特に7000年前の噴火ではカルデラ北部一帯に火砕流が広がり、一部は外輪山を越えた。また7000年前の噴火によって神山山頂の溶岩ドームが形成されたと考えられる。。 約5000年前になると、二子山溶岩ドームが噴出し、噴火に伴い発生した火砕流が須雲川流域を現在の箱根湯本付近まで流れ下った。 ===神山の山体崩壊と現在の芦ノ湖の生成=== 約3100年前、神山北西部で水蒸気爆発の後に大規模な山体崩壊が発生し、岩屑なだれが神山北西部の山麓を厚く覆った。現在でも湖尻から大涌谷にかけての神山北西部には流れ山が見られる。また、岩屑なだれは早川を堰き止め、現在の芦ノ湖が形作られることになった。 山体崩壊の後の神山には馬蹄型の火口が出来た。約3000年前、その火口内に溶岩ドームである冠ヶ岳が噴出した。この時の噴火で火砕流が発生し、火砕流の一部は泥流となり、早川流域を宮城野付近まで流れ下った。冠ヶ岳の噴出が最も新しい箱根火山の溶岩噴出を伴う活動と考えられている。 ==芦ノ湖の形成史== 箱根カルデラの形成が始まったと考えられる約23万年前以降、早くも約18万年前にはカルデラ湖の存在が確認されている。これは当時の火山活動に伴うテフラが良く保存されている大磯丘陵では、約18万年前の箱根火山のテフラ層から、成因に水が関係する火山豆石が確認され、火山豆石の中からは湖や沼の底部に生息する淡水性の珪藻化石が見つかっており、遅くとも18万年前には箱根火山にはカルデラが形成され、カルデラ内にはカルデラ湖があったことがわかる。 1994年に湖尻で行われたボーリング調査の結果、現在の中央火口丘の溶岩が噴出する以前、カルデラ内には湖があったことが判明し、その後、早川が火山活動によって堰き止められることにより、複数回湖が誕生したことも明らかになってきた。カルデラ形成後、火山活動によってカルデラ内に湖が生まれたり消滅したりを繰り返していたと考えられる。 約6万5000年前の大噴火後、カルデラ内の南西部には湖が存在したと考えられる。その後湖は縮小していくが、約4万年前に古期神山から噴出した火砕流が、現在の小塚山付近で早川を堰き止め、仙石原湖が出来た。その後仙石原湖は徐々に縮小し、約2万2000年前に神山から噴出した火砕流によって仙石原湖は先芦ノ湖と仙石原湖に分断された。仙石原湖はその後も縮小を続け、約5000年前になると湿原となった。 一方、先芦ノ湖では約2万年前までは面積が広がったが、その後面積が縮小していく。約1万年前以降になると先芦ノ湖中部での隆起活動の結果、湖の中部に狭窄部が生まれ、狭窄部の奥では湖の拡大が見られるようになった。 約3100年前の神山の山体崩壊による岩屑なだれによって早川が堰き止められ、先芦ノ湖は再拡大して現在の芦ノ湖が形成された。そして約5000年前に湿原となった仙石原は、神山の山体崩壊による堆積物の流入や富士山起源のテフラが降下したことによって、約2600年前には湿原が消失して杉林となった。その後仙石原の杉林は消滅し、天然記念物に指定されている箱根仙石原湿原植物群落がある湿原が形成される。なぜいったん陸化して杉林となった仙石原に湿原が復活したのかは今もって不明である。 ==新たに明らかとなった箱根火山直近の噴火活動== これまで約3000年前の冠ヶ岳の噴火が、箱根火山の直近の噴火とされてきたが、以前より神山や大涌谷周辺で火山噴火に伴うと考えられるくぼみが複数確認されており、冠ヶ岳の噴火後も水蒸気爆発があったのではないかと言われていた。 2006年、大涌谷周辺の調査の結果、冠ヶ岳の噴火以降に堆積した、箱根火山のものと考えられるテフラ層が5層確認された。同じ地層に堆積している富士山の火山灰や神津島天上山テフラとの地層の上下関係の確認や、地層に含まれている木片などの放射性炭素年代測定から、5回の噴火は約2800年前、約2000年前、そして12世紀後半から13世紀頃という比較的短期間に、3回の噴火があったものと推定された。 約2800年前、約2000年前の噴火は、ともにテフラの堆積状況から、神山から北東方面に伸びる尾根付近に噴火口があったものと考えられ、現在も噴火口跡と考えられるくぼみが残っている。ともにマグマ本体の活動は伴わない水蒸気爆発であったと考えられるが、噴火直後には土石流が発生し、2000年前の噴火では、噴火に伴って火砕サージが発生した。 12世紀後半から13世紀にかけての3回の噴火は、大涌谷周辺が噴火口であったと考えられる。いずれも水蒸気爆発で、大涌谷周辺の半径数百メートルの範囲でテフラが検出されるのみの、小規模な噴火であった。 なお、箱根火山の直近の噴火活動は鎌倉時代であると考えられるようになったが、今のところ文献資料からは箱根火山の噴火記録は見出せない。 ==箱根火山の特徴とプレートテクトニクス== 箱根火山は約65万年前から現在に至るまで火山活動が継続しており、活動の内容は成層火山、単成火山、カルデラ形成など多様性に富み、噴出したマグマも玄武岩質から流紋岩質まで幅広い。この複雑な箱根火山の火山活動は、箱根火山が乗っているフィリピン海プレート上の伊豆‐小笠原弧と呼ばれる火山群が陸側のユーラシアプレートないし北アメリカプレートに衝突し、さらにその下部に太平洋プレートが潜り込むという4つのプレートがせめぎあう複雑な場所に箱根火山が存在することに関係していると考えられている。 65万年前から35万年前にかけての時期は、箱根火山が乗っているフィリピン海プレート上の伊豆‐小笠原弧が足柄山地に衝突した影響で、箱根火山全体に圧縮される力が働いていたと考えられている。その後35万年前から13万年頃になると、今度はフィリピン海プレートと陸側のプレートの相互作用により箱根火山に北東と南西方向に引っ張られる力が働くようになり、その結果、北西から南東方面にかけて単成火山が噴出し、単成火山群を形成するようになった。また箱根火山の南側である伊豆半島北東部の伊豆東部火山群では、現在単成火山群が活動を続けている。これは小型のプレートである真鶴マイクロプレートが神縄・国府津‐松田断層帯に沈み込むことによって引っ張られる力が働くため、引っ張られる力によって出来た割れ目から単成火山が噴出しているとの説が出されており、35万年前から13万年頃の箱根火山も同じような状況であったとも考えられている。 13万年前、箱根カルデラ内をほぼ南北に縦断する左横ずれ断層が形成され、噴火活動はこの断層の影響を受けるようになったと考えられている。断層は中央火口丘以北は平山断層、以南は丹那断層であり、現在もなお活動している活断層である。両活断層の活動によって、中央火口丘付近はプルアパート構造と呼ばれる割れ目が発生し、その割れ目を通ってマグマが噴出し、カルデラや中央火口丘を形成する火山活動が発生したと見られている。 なお、平山断層は神縄・国府津‐松田断層帯に繋がっており、神縄・国府津‐松田断層帯の地震活動と二子山、神山、大涌谷付近で起こった最近の箱根火山の噴火活動に関連性があると考える専門家もあり、次回の神縄・国府津‐松田断層帯の活動と連動して箱根火山の活動があるのではないかとの説もある。 ==参考文献== 守屋以智雄『日本の火山地形(第五刷)』東京大学出版会 1995年 ISBN 4‐13‐065061‐0町田洋、白尾元理『写真でみる火山の自然史』東京大学出版会 1998年 ISBN 4‐13‐060719‐7『神奈川県立博物館調査研究報告(自然科学)第9号 伊豆・小笠原孤の研究』神奈川県立生命の星・地球博物館 1999年 平田由紀子「箱根火山の発達史」平田由紀子「箱根火山の発達史」神奈川の自然をたずねて編集委員会『神奈川の自然をたずねて』築地書館、2003年 ISBN 4‐8067‐1259‐0 笠間友博. ”大磯丘陵, 多摩丘陵に分布する箱根火山起源のテフラ.” 神奈川県博調査研報 (自然),(13) (2008): 111‐134. 萬年一剛、湯本信治「箱根」笠間友博. ”大磯丘陵, 多摩丘陵に分布する箱根火山起源のテフラ.” 神奈川県博調査研報 (自然),(13) (2008): 111‐134.萬年一剛、湯本信治「箱根」藤岡ほか『伊豆・小笠原弧の衝突(第二刷)』有隣堂、2008年 ISBN 978‐4‐89660‐181‐7『神奈川県立博物館調査研究報告(自然科学)第13号 箱根火山』神奈川県立生命の星・地球博物館 2008年 平田大二、山下浩之、川出新一「伊豆・小笠原孤北端部、箱根火山周辺の地形・テクトニクス」 長井雅史、高橋正樹、箱根火山の地質と形成史 (PDF) 神奈川県立博物館調査研究報告(自然科学)(Res. Rep. Kanagawa prefect. Mus.(Nat. Sci.)), no. 13, 25‐42 小林淳. ”箱根火山中央火口丘群の噴火史とカルデラ内の地形発達史− 噴火活動と密接な関連を有する地形−. 神奈川博調査研報 (自然).” Res. Rep. Kanagawa prefect. Mus. Nat. Hist 13 (2008): 43‐60. 萬年一剛 『箱根カルデラ (PDF) 』神奈川博調査研報(自然)2008, 13, 61‐76. 山下浩之, et al. ”箱根火山基盤岩類の再検討.” 神奈川博調査研報告 (自然) 13 (2008): 135‐156.平田大二、山下浩之、川出新一「伊豆・小笠原孤北端部、箱根火山周辺の地形・テクトニクス」長井雅史、高橋正樹、箱根火山の地質と形成史 (PDF) 神奈川県立博物館調査研究報告(自然科学)(Res. Rep. Kanagawa prefect. Mus.(Nat. Sci.)), no. 13, 25‐42小林淳. ”箱根火山中央火口丘群の噴火史とカルデラ内の地形発達史− 噴火活動と密接な関連を有する地形−. 神奈川博調査研報 (自然).” Res. Rep. Kanagawa prefect. Mus. Nat. Hist 13 (2008): 43‐60.萬年一剛 『箱根カルデラ (PDF) 』神奈川博調査研報(自然)2008, 13, 61‐76.山下浩之, et al. ”箱根火山基盤岩類の再検討.” 神奈川博調査研報告 (自然) 13 (2008): 135‐156.平田ほか『特別展図録 箱根火山 いま証される噴火の歴史』神奈川県立生命の星・地球博物館 2008年笠間友博、山下浩之、萬年一剛ほか、『複数回の噴火で形成された箱根火山二子山溶岩ドーム』 地質学雑誌 Vol.116 (2010) No.4 P229‐232, doi:10.5575/geosoc.116.229 =木曽電気製鉄= 木曽電気製鉄株式会社(木曾電氣製鐵株式會社、きそでんきせいてつかぶしきがいしゃ)は、大正時代に存在した日本の電力会社。「電力王」の異名をとった実業家の福澤桃介が率い、中部地方を流れる木曽川および矢作川で電源開発を手がけた。 関与した発電所はその後の再編を経て関西電力および中部電力に継承されている。また電気製鉄事業は特殊鋼メーカー大同特殊鋼の起源の一つである。 1918年9月、愛知県の電力会社名古屋電灯の電源開発部門と電気製鉄部門が独立して発足。翌年木曽電気興業株式会社(きそでんきこうぎょう)に改称し、1921年2月に日本水力とともに傍系の大阪送電へと吸収され、大手電力会社の一つである大同電力株式会社となった。存在した期間が2年半と短く建設した水力発電所は2か所に留まるが、計画した発電所のうちいくつかは後身大同電力の手によって完成した。 ==会社史== 木曽電気製鉄株式会社は1918年(大正7年)9月8日、名古屋電灯株式会社の「臨時建設部」および「製鉄部」をもとに設立された。資本金は1700万円で、母体となった名古屋電灯(資本金1600万円)よりも大きな会社である。現物出資により名古屋電灯は総株式数34万株のうち16万株を握った。本社は愛知県名古屋市中区南長島町で、東京市麹町区の東京海上ビルに東京支店を置いていた。主な役員は取締役社長福澤桃介、同副社長下出民義、常務取締役増田次郎・角田正喬・三根正亮で、そのうち福澤は名古屋電灯社長、下出は同社副社長、角田は同社支配人であった。 名古屋電灯から木曽電気製鉄が引き継いだものは、木曽川・矢作川において名古屋電灯が保有していた水利権および建設中の資産と、準備中であった電気製鉄事業に関する資産である。この時点では、矢作川の串原仮発電所が1918年4月に完成しており送電中であり、木曽川の賤母(しずも)発電所が工事中、桑原発電所が準備工事中であった。一方電気製鉄事業は、名古屋市南区東築地(現・港区竜宮町)に建設していた工場が設立同日に操業を開始したことによりスタートした。 設立翌年の1919年(大正8年)10月、木曽電気製鉄から木曽電気興業株式会社に社名を変更。翌11月、水利権出願中の発電所の発生電力最大18,000キロワットを大阪市・京都市周辺へと供給する目的で京阪電気鉄道関係者との共同出資により大阪送電株式会社を設立し、大阪送電計画にも着手した。これに前後して、1919年7月東築地土地株式会社を、1920年(大正9年)1月大正土地株式会社をそれぞれ合併し、資本金を1860万円に増資している。 大阪送電設立と時を同じくして、山本条太郎らと大阪電灯・京都電灯との共同で日本水力株式会社が設立された。同社は北陸地方で発電した電力を京阪方面へ送電する計画を持っており、木曽地方の電力を同じく京阪方面へと送電する計画を持つ木曽電気興業・大阪送電とは事業目的が重複していた。これら3社の合同計画は、1920年春に始まる戦後恐慌を期に浮上する。金融や業界の環境、電力需要の動向から2方面の事業が並立するのは不利かつ困難であると判断されたためであった。木曽・大阪側の社長福澤桃介と日本水力社長の山本との間に協議が持たれて1920年10月に3社は合併契約を締結、翌1921年(大正10年)2月25日付で大阪送電が木曽電気興業・日本水力の2社を吸収合併する形で大同電力株式会社が発足した。大同電力の成立時点で、すでに木曽電気興業の手により1919年11月賤母発電所が竣工しており、2月中に串原発電所も完成、続いて大桑発電所も8月に竣工した。大同電力はこれ以降も水力開発を推進、あわせて大阪・東京方面への送電線を建設し、大正・昭和初期の大手電力会社「五大電力」の一つとして地歩を固めていくことになる。 ==水力開発事業の展開== 以下、木曽電気製鉄(木曽電気興業)が関与した木曽川を中心とする水力開発事業と、母体となった名古屋電灯臨時建設部およびその前史について記述する。 ===木曽川開発事始め=== 1889年(明治22年)に開業した名古屋市の電力会社名古屋電灯は、明治後期になると、関東地方で大規模な水力発電事業が計画されているのを踏まえて、従来の火力発電からの脱却を検討するようになる。同社は初め木曽川に着目し測量の準備にかかるが、長良川の開発計画が提起されたため長良川開発に切り替え、1910年(明治43年)3月長良川発電所を完成させた。先行して長良川での事業を進める中、木曽川においても1906年(明治39年)9月、長野県西筑摩郡読書村(よみかき村、現・木曽郡南木曽町読書)から同郡田立村(現・南木曽町田立)にいたる区間における水利権を長野県当局に申請、1908年(明治41年)5月に許可を取得した。名古屋電灯にとって最初の木曽川水利権であった。この許可地点を「田立水力」と称する。 ただし実際の木曽川開発は、名古屋電灯とは別の系統に属する「名古屋電力株式会社」という電力会社が先行した。同社は、1897年(明治30年)に最初の水利権申請が行われた岐阜県加茂郡八百津町付近における水力発電計画に端を発する。加茂郡を地盤に衆議院議員に当選していた実業家兼松煕が参画して以降計画が進展するとともに大規模化し、名古屋財界の奥田正香や東京の資本家を巻き込んで資本金500万円の名古屋電力の創設となった。1906年10月の会社設立に先立って同社は八百津町における水利権を同年6月に取得し、1年半後の1908年1月に八百津発電所を着工した。また、日本電力発起人総代関清英が1907年(明治40年)4月に取得していた、長野県西筑摩郡福島町(現・木曽郡木曽町福島)から駒ヶ根村(現・上松町)を経て大桑村野尻にいたる「駒ヶ根水力」の水利権を1908年3月に譲り受けた。 名古屋電力が八百津発電所の建設を進める一方で、名古屋電灯では実業家福澤桃介による株式買収が進んでいた。福澤は1906年以降、九州の広滝水力電気や福博電気軌道(いずれも九州電灯鉄道の母体で、名古屋電灯とともに後年東邦電力となる)、愛知県の豊橋電気などに関与し電気事業界に投資を広げつつあった。名古屋電灯の買収は1909年初めより手をつけて翌年までに最大株主となり、1909年7月顧問となったのを皮切りに相談役、取締役と進んで1910年5月には常務取締役のポストを獲得するにいたり、短期間のうちに会社の首脳部に食い込んだ。名古屋電灯に乗り込んだ福澤は、八百津発電所の工事を進める名古屋電力との合併交渉を取りまとめ、同年10月合併を実現させた。こうして名古屋電灯は、八百津発電所の工事を引き継いで1911年(明治44年)11月に運転を開始させるとともに、駒ヶ根水力の水利権も継承し、福島・駒ヶ根・大桑・読書・田立の5町村にまたがる木曽川水利権の確保に成功した。 ===臨時建設部設置=== 福澤桃介は名古屋電力との合併が成立した後名古屋電灯常務を辞任していたが、1913年(大正2年)1月に復帰。同年9月に社長であった加藤重三郎が辞任すると社長代理となり、翌1914年(大正13年)12月には後任社長に就任した。木曽電気製鉄の前身たる臨時建設部が名古屋電灯社内に設置されたのは、福澤が社長代理となった後の1914年初頭のことである。当初は主任以下計4名という小さな組織であり、木曽川開発実施に向けた調査を担当した。 大正初期の名古屋電灯は、長良川・八百津両発電所の完成により供給力に余剰が生じ、大口需要家の獲得に奔走するという状況にあった。1914年10月には、福澤の発案により余剰電力5,000キロワットを利用した事業の検討を行っている。こうした供給過剰の状況は、1914年に第一次世界大戦が勃発して大戦景気を背景に電力需要が急増すると解消し、一転して供給力が不足するようになる。供給力確保のために火力発電所(熱田発電所、1915年9月運転開始)や八百津発電所の放水落差を活用した放水口発電所(1916年5月運転開始)の建設を緊急対策として実施したが、1917年(大正6年)上期時点では水力・火力あわせて約1万8000キロワットの供給力をほとんど消化する状況で、実業界の活況からさらに3万キロワット近い新規需要が想定されていた。 こうした状況下にあった1916年(大正15年)2月、臨時建設部は部内に総務・電気・土木の3課を置いて組織を拡充し、水力開発を実行に移す。まず手がけたのは木曽川賤母発電所と矢作川串原仮発電所である。次いで木曽川大桑発電所の建設にも着手した。 ===流材問題の解決=== 名古屋電灯は1915年(大正4年)9月21日、木曽川全体の水力開発計画を取りまとめ、電気事業経営許可の変更を逓信省に申請した。しかし木曽川開発を実行に移すにあたって解決すべき問題として、木曽川の水運に対する補償問題が浮上した。 もともと木曽川は、上流域に広がる木曽御料林の木材輸送に古くから活用されていた(流材、「川狩り」と称す)。その手順を簡単に示すと以下のようになる。 御料林で伐採した木材を、木曽川最上流や王滝川などの木曽川支流へと落とし、1本ずつ木曽川本流へと流す。これを「小谷狩り」と称す。木曽川本流でも引き続き木材を1本ずつ下流へと流す。これを中流の錦織(岐阜県)まで行う。木曽川本流と王滝川の合流点から錦織までの流材を「大川狩り」と称す。錦織でいかだを組み木曽川へと流し、最終的に白鳥(名古屋市)や桑名へと運搬する。御料林を管理する帝室林野管理局では、明治末期に中央本線が開通(1911年全通)したのを期に、木材輸送を順次鉄道輸送へと切り替え、輸送方法の近代化を図る計画を立てていた。とはいえ明治末期に許可されていた木曽川における水力発電の水利権はすべて流材に配慮しており、使用水量が流材に支障がない程度に制限されていた。 1907年から翌年にかけて長野県当局が名古屋電灯などに対して木曽川の水利権を許可した際、帝室林野管理局は県当局が相談なく行ったことを抗議し、1913年4月には電気事業を所管する逓信省との間で今後の水利権許可にあたっては事前に協議することを協定した。これらの経緯から、名古屋電灯が1915年10月に許可済みの木曽川水利権について使用水量の増加を申請すると、帝室林野管理局は補償を要求する。名古屋電灯の申請は、水利権を確保していた駒ヶ根水力・大桑水力・田立水力の3地点(1910年7月の計画見直しにより旧駒ヶ根水力が分割され3地点となっていた)につき、1.3倍から2倍の使用水量増加を求めるものであった。これに対して帝室林野管理局は、河水引用区域周辺の御料林と中央本線とを繋ぐ森林鉄道23マイル(約37キロメートル)と陸揚げ施設の無償提供を求めた。流材問題の解決なしでは使用水量増加は受理され得ないことから、建設費100万円と見込まれた森林鉄道の提供を最終的に名古屋電灯は受け入れ、この御料林の流材問題は解決し、1917年に使用水量増加が許可されるに至った。 なお、帝室林野管理局との問題が解決し、次いで木曽電気製鉄が発足した後も地元自治体との間には補償問題が残った。これについては1921年(大正10年)2月に、漁業への配慮、官民双方の木材運搬施設(森林鉄道・林道、陸揚げ施設など)の整備、景観保護などを長野県が水利権の附帯条件として命令し直し、会社側からは1922年以降26年間にわたり毎年3万円ずつ計78万円を関係町村に寄付する、という条件で折り合いがつき、解決へと向かった。 ===発電所建設=== ====賤母発電所==== 1915年10月27日に木曽川3地点における使用水量増加を申請したのに続いて、名古屋電灯は計画の見直しを進めて1916年6月30日に引用地点の変更を申請した。この結果、木曽川の水利権は以下の4地点となった。 大桑第一水力:福島町字和合 ‐ 大桑村字宮森大桑第二水力:大桑村字和村 ‐ 大桑村字野尻向読書水力:大桑村字阿寺 ‐ 読書村字沼田賤母水力:吾妻村(現・南木曽町大字吾妻)字茅ヶ沢 ‐ 山口村(現・岐阜県中津川市山口)字麻生このうち最下流の賤母水力の水利権は、流材問題が解決する目処がついたため、森林鉄道敷設の条件付きで1917年3月3日付で許可された。そして同年8月、名古屋電灯は賤母発電所(しずも)の建設に着手する。 賤母発電所は、吾妻村に木曽川を横断する堰堤を建設して取水し、全長4.9キロメートルの水路を開削して山口村にて出力1万2600キロワットで発電を行う設計とされた。水車3台をイギリスのボービング (Boving)、発電機3台をアメリカのゼネラル・エレクトリック、変圧器をウェスティングハウス・エレクトリックからそれぞれ輸入したため、第一次大戦の混乱に巻き込まれて延着となったが、木曽電気製鉄への分離を経て、着工から約2年後の1919年(大正8年)7月に一部が完成して4,200キロワットでの送電を開始し、11月に竣工した。賤母発電所の発生電力は、自社での使用および一部事業者への供給に当てられた一部を除いて、ほとんどが名古屋電灯へと供給された。なお竣工後取水量を変更したため増設工事が行われ、1922年(大正11年)3月に出力が1万4700キロワットへと増強されている。 ===大桑発電所他=== 1916年に申請していた大桑第一・同第二・読書・賤母4地点の水利権は、先に許可された賤母以外の3地点も1917年9月5日付で許可が下りた。このうち大桑第二水力を「大桑発電所」として翌1918年(大正7年)7月に工事許可を受けて、木曽電気製鉄発足後の同年10月に着工。同発電所はアリス・チャルマーズ(英語版)製水車3台、ウェスティングハウス製発電機3台および変圧器を設置して大同電力発足後の1921年3月に完成、出力1万1000キロワットで8月より運転を開始した。 大桑第一水力は水路が長すぎることから分割され上流側を「駒ヶ根水力」、下流側を「須原水力」とし、さらに景勝地寝覚の床が途中にあることから駒ヶ根水力も「寝覚水力」「桃山水力」に分割、計3地点とされた。読書とあわせていずれも大同電力発足後に着工された。まず須原発電所(9,200キロワット)が発足直後に着工され、翌1922年7月に竣工。続いて1922年3月読書発電所(よみかき、4万700キロワット)、同年8月桃山発電所(2万3100キロワット)が着工され、ともに翌1923年(大正12年)12月に竣工した。残る寝覚発電所(3万2600キロワット)は開発が延期されたため、15年後の1938年(昭和13年)9月運転開始である。 上記4地点の水利権申請に附帯して1916年6月、木曽川支流与川における水利権も申請していた。発電所工事に用いる電力を発電するためで、1917年4月に許可を受け、同年10月に与川発電所として竣工した。その後工事終了とともに発電を休止したが、大同電力時代に信美電力(後の木曽発電)へ水利権ごと移譲され、出力を240キロワットから1,760キロワットに変更した上で1927年(昭和2年)1月より再稼動した。 ===串原発電所=== 木曽川筋の発電所に先駆けて名古屋電灯では矢作川の串原発電所の建設を進めており、同発電所が臨時建設部最初の事業となった。 名古屋電灯が串原における水利権を申請したのは1915年9月である。第一次大戦下、電力需要の急増に対する処置を急いでいた同社は、水利権の許可が下りるのを待たずに1917年3月に仮発電所の工事許可を追加申請し、5月には未許可のまま仮発電所の建設に着手する。完成を急ぐために機械を発注・製作する時間をも省いて水車や発電機などは長良川発電所の予備機械を流用し、設計の簡略化と突貫工事も加えて工期短縮を図って、やや工事が遅れたものの1918年4月に仮発電所の落成に漕ぎ着けた。とはいえ未許可で工事を始めたため途中で工事中止の命令を受け(1917年9月正式許可)、送電開始後も未完成の堰堤工事や水路修繕工事を繰り返す、という状態であった。仮発電所の出力は2,000キロワットで、木曽電気製鉄への分離後も発生電力全量を名古屋電灯を供給した。 仮発電所に続く本発電所の工事は、木曽電気製鉄発足後の1918年12月に開始された。当初計画では出力を4,600キロワットとする設計であったが、上流・下流側の水利権保有者から権利を譲り受けて発電所の有効落差を拡大したため、6,000キロワットに変更されている。工事許可の取得は翌1919年4月であり、この本発電所工事も未許可での着工であった。同年春に水車・発電機各2台を日立製作所に発注したものの機械の納入が遅れ、翌1920年(大正9年)12月発電機1台の据え付けが完了。さらにその他の機械が破損事故に遭ったため、大同電力発足と同じ1921年(大正10年)2月の竣工となった。本発電所の完成に伴い仮発電所は廃止された。 ===送電網の整備=== 以上の発電所建設とともに、変電所や送電線の建設も進行していた。変電所のうちまず建設されたのが、串原仮発電所の電力を受け入れるための六郷変電所である。同変電所は名古屋市北区八龍町(旧六郷村)に建設され、串原仮発電所から77キロボルト送電線を架設して1918年6月より運転を開始した。その後1921年2月、本発電所の建設にあわせて名古屋市瑞穂区石田町に瑞穂変電所を新設、串原発電所から瑞穂変電所まで同じく77キロボルト送電線を整備している。 木曽川の発電所からは六郷変電所へと送電された。まず1919年7月、賤母発電所建設にあわせて賤母発電所から既設線に接続する瑞浪開閉所まで77キロボルト送電線が完成。1921年8月には大桑発電所の建設に伴って同発電所から賤母送電線に接続する中津開閉所までの送電線も完成し、それぞれ六郷変電所への送電に使用された。 ===大同電力への道筋=== 1918年に串原仮発電所が完成し、引き続き賤母発電所が工事中、大桑発電所が準備工事中であったところ、名古屋電灯臨時建設部は卸売り専門の別会社として名古屋電灯本体は小売りに専念するのが有利であるとの見地から、1918年9月に新設された木曽電気製鉄(木曽電気興業)へと移された。建設期間が長くその間の環境変化も予想される大規模水力開発事業は、安定的な経営が期待される従来の名古屋電灯とは事業の性格が異なる、というのが分割の理由であった。ただ、社長の福澤が後年語るところによれば、名古屋市が名古屋電灯と結んでいた報償契約に基づいて将来的に名古屋電灯を買収する際、あわせて水利権も買収するのを防ぐための分離であったという。 木曽電気製鉄は、発足にあわせて名古屋電灯から木曽川筋大桑第一・同第二・読書・賤母・与川および矢作川筋串原の計6地点における水利権を継承するとともに、新規水利権の出願権もあわせて引き継いだ。名古屋電灯は臨時建設部を設置した1914年以降、木曽川における水利権を相次いで申請しており、その許可促進に向けた運動も木曽電気製鉄の仕事となったのである。水利権の申請は以下の8地点に及ぶ。出願時点ではいずれも水路式発電所の計画であったが、実際にはダム式・ダム水路式で竣工した場所もある。 1914年4月出願:落合水力・笠置水力1914年8月出願:王滝川第一水力・同第二水力・西野川水力1916年11月出願:大井水力・錦津水力1917年12月出願:今渡水力これら水利権申請中の発電所出力は合計10万キロワットに及び、大戦景気により電力需要が急増したとしても名古屋地方での需要に見合うものではなく、単独で消化できないのは明白であった。そこで深刻な供給不足に陥っていた関西地方への販売を目指し、まず関西の京阪電気鉄道との間で交渉をもち、1919年折半出資による大阪送電株式会社の設立計画を取りまとめた。同社が元となり大同電力が発足するのは前述の通りである。 大阪送電発足後の1920年3月、岐阜県内にある落合・大井・笠置・錦津・今渡の5地点に対する水利権許可が先行して下りた。そのまま1921年2月の大同電力発足を迎えたため、木曽電気興業の時代までに許可を得た水利権は、名古屋電灯引継ぎの6地点に上記5地点を加えた計11地点となった。この時点では未許可のままであった長野県側の3地点(王滝川第一・同第二・西野川各水力)についての水利権許可は、大同電力発足後1925年4月に下りている。これらの場所は大井発電所をはじめ大同電力の手によって順次開発されていくことになるが、一部に1939年(昭和14年)の大同電力解散まで手を着けらず計画のみで終わったものもある。 ==電気製鉄事業の展開== 以下、木曽電気製鉄(木曽電気興業)が手がけた電気製鉄事業および鉄鋼事業について、前身の名古屋電灯製鉄部時代から記述する。こちらでは大同電力発足後数年間の動向も補足する。 ===電気製鉄の企画=== 1901年(明治34年)に官営八幡製鉄所が操業を開始したことにより本格化した日本の鉄鋼業は日露戦争を期に発展をみせたが、民間製鉄所は釜石鉱山田中製鉄所など数か所、生産高は国内生産高の4分の1程度を占めるのみで、官営製鉄所主導であった。しかし1914年(大正3年)に第一次世界大戦が勃発すると、鋼材需要の激増に触発されて民間鉄鋼業も相次いで勃興し、1914年から1919年(大正8年)までの5年間に20近い民間製鉄所が操業を開始する。そして銑鉄の生産高は1913年(大正2年)の24万トンから1919年には3倍増の78万トンへと伸長し、同時に民間工場の生産高は生産高のうち64%を占めるまでになった。 鉄鋼業が伸長したこの時期、スウェーデン・ノルウェー・アメリカ合衆国など欧米において実用化されつつあった製鉄法(製銑法)が「電気製鉄」(電気製銑)であった。電気製鉄とは、鉄鉱石を還元して銑鉄を取り出す際に電気炉を用いる方法である。一般的に行われていた高炉(溶鉱炉)による製鉄法では、鉱石の加熱にコークスないし木炭を使用するが、電気製鉄ではこれを電力による加熱に代える。還元に必要な炭素を供給するため電気製鉄でもコークスないし木炭は必要であるが、加熱に使用しない分高炉法に比べて使用量を1/3に圧縮できる。他にも電気製鉄法は高炉法に比して、鉱石の大小を問わない、コークス・木炭の使用量が少ないため銑鉄中の不純物が少ない、操業が容易、建設費が最大1/2程度と安い、といったメリットがあった。ただ前提として電力が廉価である必要があった。この新規事業である電気製鉄を、名古屋電灯は1917年(大正6年)より日本で初めて導入する。 電気製鉄に先立って、名古屋電灯では電気炉によるフェロアロイ(合金鉄)の製造事業に取り組んでいた。明治末期に長良川・八百津両発電所を建設して抱えていた余剰電力のうち5,000キロワットの消化策としてフェロアロイ製造に乗り出し、社内に設置していた製鋼部を分離して1916年(大正5年)8月に株式会社電気製鋼所を設立していたのである。大戦を契機に鉄鋼業が発達するにつれてフェロアロイの需要も伸長、それに呼応して各地でフェロアロイメーカーの設立が相次ぐ最中であり、電気製鋼所は開業早々1割の配当をなすなど好業績を挙げるという滑り出しであった。 電気製鉄の実用化は電気製鋼所の好スタートに触発されたためでもあったが、木曽川の水利権問題も背景にあった。名古屋電灯が1916年に申請した木曽川筋4地点の水利権のうち、1917年3月3日付で許可されたのが賤母発電所(1万2600キロワット)だけであったのは、この時点ではまだ他の3地点(大桑第一・大桑第二・読書、出力計5万8300キロワット)の出力に見合う供給先を提示できていないためであった。当時の逓信省は水利権の転売を防ぐ目的で起業の確実性を確認した上で許可を出す方針としていたため、名古屋方面での需要に見合う賤母発電所のみ許可されたのである。余剰分については、名古屋電灯が1915年9月に木曽川全体の水力開発計画を立案した際には関西方面へと送電する予定で、実際に関西の電力会社大阪電灯・宇治川電気との間で電力需給契約の締結を目指していたが、交渉はまとまっていなかった。大阪送電計画が具体化しない中で、水利権獲得を目指す名古屋電灯が着目したのが電気製鉄であった。 名古屋電灯は顧問の寒川恒貞が電気製鉄の企画をまとめ、賤母発電所許可直後の1917年3月31日に早くも電気製鉄を盛り込んだ起業目論見書を逓信省に申請した。寒川によれば、折からの鉄鋼不足と国外での実用化が始まっていたことを踏まえての企画であったという。申請中の発電所3か所の出力5万8300キロワットのうち4万キロワットを電気製鉄にあて、残りを賤母発電所とあわせて名古屋方面へ送電する、という構想であった。製鉄事業が推奨されていた時局柄、電気製鉄を事業目的に加えることで、1917年9月に残り3地点の水利権も獲得に成功した。 ===操業開始と挫折=== 名古屋電灯は1917年6月、社内に「製鉄部」を設置し電気製鉄の研究を開始。同時に名古屋市南区東築地5号地(現・港区竜宮町)において工場建設に着手し、付近の南陽館に仮事務所を開設した。この工場建設地に隣接する6号地(現・港区大江町)にも工場用地を確保しており、将来的には5号地の一角から全域、そして6号地へと拡大し、一大製鉄所として発展させていく計画であった。木曽電気製鉄設立時の計画大要には、製銑用電気炉7基を設ける製銑工場、コークスおよび電気炉用電極・耐火煉瓦を製造する附帯工場、銑鉄をもとに鋼を製造する製鋼工場、製鋼工場からの鋼塊を圧延ないし鋳造・鍛造して製品を製造する製品工場からなる製鉄所を建設し、軍需向けおよび造船・建築用の鋼材を生産する、と記された。 事業の準備中に、化学工業は電気事業に比べて事業の浮沈が多く性格が異なることから、電源開発部門と同様に名古屋電灯から分離する方針が立てられた。そして1918年9月8日、木曽電気製鉄の発足により名古屋電灯製鉄部は同社に継承された。同社の設立趣意書によれば、将来的な石炭資源の涸渇に備えて実用化されつつある製鉄事業を起こし、木曽川の水力を開発してその電力をもって操業、余剰電力も一般用に供給して「聊カ国家ニ貢献スル」ことを事業の目的として強調した。また、製鉄部などの譲渡を決議するために先立って同年2月に開かれた名古屋電灯臨時株主総会では、社長の福澤桃介が電気製鉄事業の意義を、木曽川の発電所群が完成した際に見込まれる余剰電力の受け皿である、と説明していた。 木曽電気製鉄の発足当日(創立総会当日)、5号地の工場では2,000キロワット電気製銑炉の火入れ式が挙行された。最初の運転結果は良好で、多量の銑鉄が生産できた。世間の耳目を集める電気製銑事業に成功したということで工場の操業は勢いづいたが、それも束の間、折からの電力不足で作業の中断を余儀なくされてしまう。電力事情が好転したならば再開するはずであったが、第一次大戦終結の影響を受けた鉄鋼需要の減少、輸入銑鉄の流入などで銑鉄市況が低落傾向となり、加えて技術上の問題も発生したため事業継続が困難な状況に追い込まれた。1919年(大正8年)1月、120キロボルトアンペア合金炉1基を設置しフェロマンガンの製造を始めたものの、これも電力不足のために4月半ばから作業中止となった。このような会社の看板である電気製鉄事業の誤算について、1919年4月に開催された会社設立後最初の株主総会では、創立当時の役員の説明に反するとして一部の株主から批判が出たという。 ===事業転換から大同製鋼へ=== 電気製銑を中止した木曽電気製鉄(木曽電気興業)は、変化した鉄鋼業界の情勢を踏まえて調査研究を行い、鋳鋼部門への事業転換を決定した。そして1920年(大正9年)6月、鋳鋼事業へと切り替えるための事業認可申請を当局に提出し、正式に電気製鉄事業を断念した。同年7月19日、工場で1.5トンアーク式電気炉の火入れ式を挙行し鋳鋼の生産を開始。電気製銑とは異なって鋳鋼生産は軌道に乗り、やがて鋳鋼品の販路も順調に拡大して、海軍や鉄道省関連の鋼材も受注するようになった。ただし鋳鋼品は1918年2月から先行して電気製鋼所が生産していた品目であり、陸海軍や鉄道省への納入も行っていた点も同様である。 1921年2月の大同電力発足に伴い、木曽電気興業の鋳鋼工場は「大同電力名古屋製鉄所」に改称された。このとき大同電力は旧日本水力から福井県の硫安工場も引き継ぎ武生工場としたが、本業の電力事業とは事業状況が異なることから早々に分離方針が立てられ、同年11月17日付で名古屋製鉄所を引き継いで大同製鋼株式会社、武生工場を引き継いで大同肥料株式会社の2社がそれぞれ発足した。 新会社「大同製鋼」は発足翌年の1922年(大正11年)7月、電気製鋼所の事業のうち鉄鋼部門を引き継ぎ、株式会社大同電気製鋼所へと社名を変更した(電気製鋼所は木曽川電力に改称)。以降同社は順次事業を拡大し、1938年6月には社名を元の大同製鋼へと改称。第二次世界大戦後の1950年(昭和25年)、大同製鋼は企業再建整備法に基づき後継会社に事業を譲って解散したが、このとき設立された新大同製鋼という会社が現在の大同特殊鋼に繋がっている。 ==関連会社串原電灯== 木曽電気製鉄(木曽電気興業)には、関連会社として串原電灯株式会社が存在した。 木曽電気製鉄は、串原発電所の建設に際し、発電所が立地する串原村(岐阜県恵那郡、現・恵那市串原)の村民から電灯を供給するよう希望を受けた。これが串原電灯の発端で、会社側は村民との折衝の結果1919年(大正8年)5月代表者と契約を締結。実際の供給にあたっては別会社を起こす方針を立てたため別途電気事業経営を申請し、1920年(大正9年)5月4日付で認可が下りたことから翌5日資本金3万円で串原電灯株式会社を設立した。事業開始は同年5月24日である。 串原電灯の供給区域は串原村のうち11字で、木曽電気興業から受電した。その後、串原村に隣接する旭村大字牛地(愛知県東加茂郡、現・豊田市牛地町)の住民からも供給要求を受けたため、1920年6月に関係者と契約を交わし、翌1921年(大正10年)1月に同地区における配電工事を終了した。 木曽電気興業は発電所周辺への供給事業を直営とする方針に転換したため、1920年12月25日付で同社は串原電灯から事業を譲り受けた。その後串原電灯は解散し、同社は半年余りで消滅した。 ==年表== 1914年(大正3年) 初頭 ‐ 名古屋電灯臨時建設部発足。初頭 ‐ 名古屋電灯臨時建設部発足。1917年(大正6年) 5月 ‐ 串原仮発電所着工。 6月 ‐ 名古屋電灯製鉄部発足。 8月 ‐ 賤母発電所着工。5月 ‐ 串原仮発電所着工。6月 ‐ 名古屋電灯製鉄部発足。8月 ‐ 賤母発電所着工。1918年(大正7年) 4月 ‐ 串原仮発電所運転開始。 9月8日 ‐ 木曽電気製鉄株式会社設立、名古屋電灯から臨時建設部・製鉄部を引き継ぐ。電気製銑炉稼動。 10月 ‐ 大桑発電所着工。 12月 ‐ 串原発電所着工。4月 ‐ 串原仮発電所運転開始。9月8日 ‐ 木曽電気製鉄株式会社設立、名古屋電灯から臨時建設部・製鉄部を引き継ぐ。電気製銑炉稼動。10月 ‐ 大桑発電所着工。12月 ‐ 串原発電所着工。1919年(大正8年) 7月 ‐ 賤母発電所運転開始(同年11月竣工)。 7月 ‐ 東築地土地株式会社を合併。 10月 ‐ 木曽電気興業株式会社に社名変更。 11月8日 ‐ 大阪送電株式会社を設立。7月 ‐ 賤母発電所運転開始(同年11月竣工)。7月 ‐ 東築地土地株式会社を合併。10月 ‐ 木曽電気興業株式会社に社名変更。11月8日 ‐ 大阪送電株式会社を設立。1920年(大正9年) 1月 ‐ 大正土地株式会社を合併。 5月5日 ‐ 串原電灯株式会社を設立。 7月19日 ‐ 鋳鋼用電気炉稼動。 12月 ‐ 串原発電所運転開始(翌年2月竣工)。 12月25日 ‐ 串原電灯から事業を買収。1月 ‐ 大正土地株式会社を合併。5月5日 ‐ 串原電灯株式会社を設立。7月19日 ‐ 鋳鋼用電気炉稼動。12月 ‐ 串原発電所運転開始(翌年2月竣工)。12月25日 ‐ 串原電灯から事業を買収。1921年(大正10年) 2月25日 ‐ 大阪送電へ日本水力とともに合併、大同電力株式会社発足。 8月 ‐ 大桑発電所運転開始(同年3月竣工)。 11月17日 ‐ 大同電力から鉄鋼部門が独立し大同製鋼(初代)発足。2月25日 ‐ 大阪送電へ日本水力とともに合併、大同電力株式会社発足。8月 ‐ 大桑発電所運転開始(同年3月竣工)。11月17日 ‐ 大同電力から鉄鋼部門が独立し大同製鋼(初代)発足。 ==人物== 1918年9月8日、木曽電気製鉄創立総会において選任された役員は以下の通り。 取締役社長:福澤桃介 ‐ 名古屋電灯取締役社長。取締役副社長:下出民義 ‐ 名古屋電灯取締役副社長。常務取締役: 角田正喬 ‐ 名古屋電灯取締役兼支配人。 増田次郎 ‐ 後藤新平の秘書で元衆議院議員。会社設立前から帝室林野管理局との交渉を担当。 三根正亮 ‐ 元鉄道院東京鉄道管理局電気課長。角田正喬 ‐ 名古屋電灯取締役兼支配人。増田次郎 ‐ 後藤新平の秘書で元衆議院議員。会社設立前から帝室林野管理局との交渉を担当。三根正亮 ‐ 元鉄道院東京鉄道管理局電気課長。取締役: 木村又三郎 ‐ 名古屋電灯取締役。名古屋市の株式仲買人(屋号「銭小」)。 富田重助 ‐ 名古屋電灯取締役。名古屋市の有力実業家(屋号「紅葉屋」)で、他に名古屋電気鉄道社長等を務める。 渡辺竜夫 ‐ 名古屋電灯監査役。愛知県会議員・名古屋市会議員。 成瀬正行 ‐ 神戸市において船具・機械商「成興商会」を営む。十五銀行副頭取成瀬正恭の弟。 伊丹二郎 ‐ 元日本郵船専務取締役。貴族院議員伊丹春雄の弟。木村又三郎 ‐ 名古屋電灯取締役。名古屋市の株式仲買人(屋号「銭小」)。富田重助 ‐ 名古屋電灯取締役。名古屋市の有力実業家(屋号「紅葉屋」)で、他に名古屋電気鉄道社長等を務める。渡辺竜夫 ‐ 名古屋電灯監査役。愛知県会議員・名古屋市会議員。成瀬正行 ‐ 神戸市において船具・機械商「成興商会」を営む。十五銀行副頭取成瀬正恭の弟。伊丹二郎 ‐ 元日本郵船専務取締役。貴族院議員伊丹春雄の弟。監査役: 八木平兵衛 ‐ 名古屋市の太物商。 藍川清成 ‐ 名古屋市の弁護士で、他に愛知電気鉄道社長を務める。愛知県会議員・名古屋市会議員。 手島鍬司 ‐ 愛知県岡崎市の実業家。愛知県会議員。 田辺勉吉 ‐ 久原鉱業在籍。貴族院議員田辺輝実の長男。 志立鉄次郎 ‐ 元日本興業銀行総裁。福澤桃介とは相婿の関係。八木平兵衛 ‐ 名古屋市の太物商。藍川清成 ‐ 名古屋市の弁護士で、他に愛知電気鉄道社長を務める。愛知県会議員・名古屋市会議員。手島鍬司 ‐ 愛知県岡崎市の実業家。愛知県会議員。田辺勉吉 ‐ 久原鉱業在籍。貴族院議員田辺輝実の長男。志立鉄次郎 ‐ 元日本興業銀行総裁。福澤桃介とは相婿の関係。これらの役員のうち、後身の大同電力でも役員を務めたのは、福澤桃介(代表取締役社長)、増田次郎(常務取締役)、三根正亮(同)、下出民義(取締役)、角田正喬(同)、木村又三郎(同)、渡辺竜夫(同)、八木平兵衛(同)、成瀬正行(同)、伊丹二郎(監査役)、藍川清成(同)の11名である。 常務の増田次郎は東京支店長を兼ねる。支配人は後に大同電力副社長となる村瀬末一が務めた。また社内には庶務・商務・電気・土木の4課があり、後に大同電力取締役となる斉藤直武が商務課長、藤波収が電気課長であった。 =バラク・オバマの広島訪問= バラク・オバマの広島訪問(バラク・オバマのひろしまほうもん)は、2016年5月27日に第44代アメリカ合衆国大統領のバラク・オバマが、同国により原子爆弾を投下された広島を訪問し、核兵器の廃絶を訴えた出来事について記す。同国によって核兵器が投下された日本の都市へ、現職の大統領が訪問するのは初めてのことである。 ==概要== オバマは伊勢志摩サミット出席後の2016年5月27日、内閣総理大臣安倍晋三とともに広島県広島市中区の広島平和記念公園を訪問し、広島平和記念資料館を10分程度視察後、慰霊碑に献花し、17分にわたって「核兵器のない世界」に向けた所感を述べる。 オバマに続いて安倍も所感を述べた後、オバマが被爆者代表2名と対話したり抱擁を交わす。オバマは1時間ほど滞在した。 ==訪問実現までの経緯== 2008年アメリカ合衆国大統領選挙でバラク・オバマが当選し、2009年1月20日に大統領に就任した。オバマは2009年4月5日、欧州連合との初の首脳会議のためにチェコの首都プラハを訪れ、その際に演説を行い、アメリカは世界で唯一核兵器を使用したことのある核保有国として、行動を起こす責任があるとし、核兵器のない世界の実現に向け牽引すると明言した(プラハ演説)。この演説はオバマが同年のノーベル平和賞を受賞する要因の一つともなった。 その後、2009年11月にオバマが大統領として初来日することが決定するが、その3ヶ月前の8月28日に米駐日大使のジョン・ルースと外務事務次官の薮中三十二が会談を行い、その中で薮中がアメリカ合衆国大統領が広島を訪れるのは時期尚早であり、大騒ぎしない形での簡素な訪問にとどめれば象徴的な意義はあるかもしれないと見解を述べた。この会談の様子を伝える外交公電が在日アメリカ大使館によって作成され、アメリカ外交公電ウィキリークス流出事件によって2011年に一般に知られることとなった。2009年11月、オバマは大統領として初めて日本を訪問。大統領任期中に被爆地を訪問できれば光栄であると述べたが、この時は訪れることはなかった。 2010年8月6日、広島平和記念式典にルースが米駐日大使としてはじめて参加。2014年の平和記念式典には、ルースの後任のキャロライン・ケネディが出席した。2015年4月17日にケネディは広島を再訪し、原爆慰霊碑に献花を行っている(なお、ケネディは1978年1月、叔父のエドワード・ケネディ上院議員とともに広島の平和記念公園を訪れ、被爆者とも面会している)。 2015年夏、翌年のG7外務大臣会合の開催地に広島が決定し、外務大臣の岸田文雄と外務事務次官の斎木昭隆はケネディとの面談で、オバマらが広島を訪問した場合でも日本は謝罪を求めない考えや、現職のアメリカ大統領が被爆地を訪問することは核廃絶を世界に強くアピールすることに繋がるであろうという見解を伝えた。アメリカ大統領の広島訪問を実現させる上で、日本による謝罪要求がアメリカ側の最大の懸念点であると認識していた日本側は、まずこの点を払拭することに務めた。こうした経緯を経て、ケネディは本国に戻った際にオバマに直接、広島を訪問することの意義や日本国内の空気を説明した。 2015年8月6日、ホワイトハウス報道官のジョシュ・アーネスト(英語版)が、オバマの広島訪問について将来の可能性を排除しないとしながらも任期中の広島訪問について慎重姿勢を表明。2016年3月30日、米国務次官のローズ・ゴットモーラー(英語版)が、読売新聞に対してホワイトハウスが伊勢志摩サミットに合わせたオバマの広島訪問を慎重に検討していることを明らかにした。3月31日、オバマはワシントンD.C.を訪れた安倍に対し、日米関係が更に良くなる努力をすることを考えていきたいと表明した。 2016年4月2日、岸田外相がG7外務大臣会合においてケリー国務長官を含む各国の外務大臣が平和記念公園を訪れることを発表。4月11日、ケリーが広島平和記念公園を訪問し、広島平和記念資料館(原爆資料館)の展示内容は衝撃的で胸をえぐられるようだとコメントした。これが現職のアメリカ合衆国閣僚、並びに国務長官として初の平和記念公園への訪問だった。しかしオバマの広島訪問の可能性については実現を望みつつ可能性は不明とした。そしてアメリカ政府はケリーの広島訪問が国内世論に与える影響を見極め、保守派寄りのワシントン・ポスト、リベラル寄りのニューヨーク・タイムズが両紙揃ってオバマの広島訪問を後押しする社説を掲載し、日本の侵略行為を批判する保守派からもオバマが被爆者を慰霊すること自体には異論を唱えないなど、ホワイトハウスはオバマの広島訪問が世論の理解を得られると判断し、実現に向け動き出した。 4月22日、菅義偉官房長官は記者会見で日米両政府間でオバマの広島訪問を調整しているという事実はなく、アメリカが決めるべきことであるとした。同時に、世界の指導者が被爆の実情に触れることで、核廃絶への機運が高まるとの認識も示した。しかし水面下では日米間でオバマ大統領訪問に向けた調整が進み、4月下旬にはほぼ訪問が固まった。安倍首相はオバマの訪問に同行することを望み、サミット議長記者会見の予定時間を若干繰り上げることを検討。また当日の広島の日の入りが午後7時以降であることから、オバマの訪問を夕方に遅らせることも決定した。 5月10日、米ホワイトハウスはオバマが伊勢志摩サミットに合わせ、安倍首相とともに広島を5月27日に訪問すると発表した。その場では核兵器のない世界の平和、安全保障のため継続的に深く関わっていくことを強調する一方、原爆投下については謝罪しないことも発表された。日本政府もオバマの広島訪問を正式に発表し、5月11日に菅官房長官はオバマの広島訪問は核廃絶のための国際的な機運を盛り上げる、極めて重要な歴史的機会であるとして歓迎の意向を表明した。 ==行事== ===参列者=== ===アメリカ政府=== ===日本政府・自治体関係者=== ===被爆者=== 坪井直(森滝市郎の後を継いだ日本原水爆被害者団体協議会(被団協)の代表委員) ‐ オバマとの対面時に、『よく来てくださいました』という感謝を伝えたいと述べていた。岩佐幹三(被団協の代表委員)広島で被爆。田中熙巳(被団協の事務局長)長崎で被爆。森重昭(歴史研究家) ‐ 被爆した米兵捕虜の研究をしている。森佳代子(森重昭の妻)岩竹恵美子(駐日米大使館の遺族)深山英樹(広島商工会議所会頭。広島ガス社長)伊東次男(原爆・米中枢同時テロの遺族)カノウヨリエ(在米被爆者日系三世)2歳で被爆。カノウトシハル(カノウヨリエの弟。在米被爆者)母親のお腹の中で被爆。 ===その他=== 上田恵三(長崎商工会議所会頭)丹羽大貫(放射線影響研究所理事長)岩竹恵美子の長女・長男伊東次男の妻他通訳2名、米政府関係者17名、日本政府、広島県、広島市の関係者21名、小・中・高・大学生20名当初は、元米兵捕虜の退役軍人団体「全米バターン・コレヒドール防衛兵の会」との対面や、元米兵捕虜の男性がオバマに同行することも検討されていた。日本被団協の代表委員を務める谷口稜曄も招待されたが入院のために欠席している。対面者選定は、アメリカ側による日米両国の関係者の対面により、「和解」のメッセージを発信したいとする意向であり、日本側の被爆者の面会の要望について米政府が被爆者心情に配慮したためであると報じられた。広島4区選出の衆議院議員中川俊直は大韓航空2708便エンジン火災事故の影響で広島空港の滑走路が閉鎖し飛行機が欠航となったため、広島市を選挙区とする議員で唯一、一連の式典に出席できなかった。 ===2016年5月27日のタイムライン=== この節において特記なき事項は下記いずれかの出典に基づく。時刻は日本標準時表記(UTC+9)。 “What’s Happening” (英語). the WHITEHOUSE. 2016年5月30日閲覧。 “首相動静(5月27日)”. 朝日新聞. (2016年5月28日). http://www.asahi.com/articles/ASJ5W6Q40J5WUTFK00T.html 2016年5月30日閲覧。 “What’s Happening” (英語). the WHITEHOUSE. 2016年5月30日閲覧。“首相動静(5月27日)”. 朝日新聞. (2016年5月28日). http://www.asahi.com/articles/ASJ5W6Q40J5WUTFK00T.html 2016年5月30日閲覧。 10:13 ‐ オバマと安倍が伊勢志摩サミットの最後の公式行事としてアウトリーチ会合に参加。13:35 ‐ オバマが一足早く中部国際空港(愛知県常滑市)からエアフォースワン(VC‐25A・ボーイング747)で出発。14:40 ‐ オバマが岩国飛行場(アメリカ海兵隊・海上自衛隊岩国基地、山口県岩国市)に到着。オバマが米兵や基地を共用する海上自衛隊の隊員らに向けて演説を行う。演説後、マリーンワン(VH‐3D「シーキング」)で広島に向かう。14:51 ‐ 安倍が伊勢志摩サミット議長会見を終えて陸上自衛隊のヘリコプターで志摩スペイン村臨時ヘリポートを出発。中部国際空港で航空自衛隊のC‐1輸送機に乗り換えて同空港を発ち、岩国飛行場(海上自衛隊岩国基地)で陸上自衛隊のヘリコプターに乗り換えて旧広島市民球場跡地に向かう。16:34 ‐ 安倍が旧広島市民球場跡地に到着。広島平和記念公園に移動しオバマを待つ。17:25 ‐ オバマが広島平和記念公園に到着。安倍が出迎える。17:27 ‐ オバマと安倍が広島平和記念資料館を見学。(後述)17:38 ‐ オバマと安倍が原爆死没者慰霊碑に献花。17:41 ‐ 慰霊碑前でオバマ、安倍の順でそれぞれステートメントを発表。18:06 ‐ オバマと安倍が日本原水爆被害者団体協議会(被団協)代表委員の坪井直らと対話(後述)。18:11 ‐ オバマと安倍が原爆ドームを見学。外務大臣で広島1区選出の岸田文雄が同行。18:14 ‐ オバマが広島平和記念公園を離れ、安倍が見送る。オバマは再び岩国飛行場に向かい、VC‐25Aでエルメンドルフ空軍基地(アラスカ州アンカレッジ)・アンドルーズ空軍基地(メリーランド州)経由でワシントンD.C.に戻る。見送った安倍は休憩の後、広島駅から東海道・山陽新幹線で名古屋市に向かう。 ===広島平和記念資料館見学と折り鶴=== オバマは安倍と岸田の同行のもと、約5分にわたって広島平和記念資料館の展示資料を見学した。オバマは原爆の子の像のモデルである佐々木禎子の折り鶴に関心を示し、特別にアクリルケースを外して間近で見学すると、自ら持参したお手製の折り鶴を披露して被爆三世の吉島中3年花岡沙妃、中島小6年矢野将惇の小中学生2名に1羽ずつ渡した。その後、平山郁夫の陶壁画を見て広島平和文化センターの小溝奏義理事長より平山が被爆者であるとの説明を受けた。陶壁画の前で安倍総理と並んで芳名録に、「私たちは戦争の苦しみを経験しました。共に、平和を広め核兵器のない世界を追求する勇気を持ちましょう」と記すと、その上にも折り鶴2羽を置いた。オバマが折って持参した4羽の折り鶴は約10センチで、花柄模様入りの和紙で折られている。この青色やピンクの4羽の折り鶴は、訪問時に資料館へ寄贈されている。訪問翌日の28日には、「見たい」「どこに展示してあるのか」との問い合わせが相次いだという なお、佐々木禎子の兄の佐々木雅弘と、日本への原爆投下を承認したアメリカ大統領であるハリー・S・トルーマンの孫のクリフトン・トルーマン・ダニエルらは、オバマの広島訪問に先立つ5月26日に、カリフォルニア州の博物館に禎子の折り鶴を寄贈する記念式典に出席し、ロサンゼルス郊外の学校で平和を訴える講演をしている。式典には200名ほどが参加し、佐々木雅弘は「この折り鶴は禎子が命をかけて折ったものです。ここにアンネの日記と一緒に置かれ、皆さんに将来に向けて何かを感じてもらえたら禎子も喜ぶと思います」と挨拶をした。 広島県、広島市、原爆資料館はそれぞれオバマに広島ゆかりの記念品を贈った。県は竹原市出身の文化功労者の陶芸家今井政之の「象嵌彩窯変鑛鶴 花壺」、市は三宅一生デザインの腕時計と紅葉柄の万年筆(呉市発祥のセーラー万年筆製)、原爆資料館は被爆写真集「ヒロシマを世界に」と被爆者が描いた画集「原爆の絵 ヒロシマを伝える」を贈った。 ===オバマの演説=== 5月10日に、ホワイトハウスから「原子爆弾投下に関する謝罪は行わない」とし、「核兵器なき世界の平和・安全保障を求める継続的なコミットメントを強調」するという声明が発表される。 オバマは27日当日のスピーチ直前まで演説を練っていた。当初は数分程度の「所感」を予定していたが、推敲の過程で17分の演説となった。なお大統領副補佐官のベン・ローズは、自身のブログにオバマの「広島演説」の手書き原稿の一部を公開した。 演説の骨子は、第二次世界大戦及び原子爆弾投下による犠牲者に哀悼の意を示した上で平和を希求し、核兵器廃絶を訴えるというものであった。オバマは、スピーチが上手なことで知られるが、この演説も巧みであり、冒頭文より「空から死が降ってきて、世界は変わった(death fell from the sky and the world was changed)」と、文学的な描写で広島への原爆投下を表現した。 また、日本の被害的側面だけが強調されないように、戦争自体が多大な犠牲者を生むことを示し、原爆犠牲者についても、日本国民のみならず、朝鮮半島出身者や被爆米兵捕虜にも言及している。原爆の投下正当性や謝罪等への言及は巧妙に避けられている。 プラハ演説でも見られるように、オバマは核兵器廃絶を指向しており、具体的な政策は提示しなかったが、本演説でも核兵器の恐怖を示し、改めて核兵器廃絶に触れている。 ===安倍晋三の演説=== 安倍はオバマの後に演説を行い、同様に核兵器廃絶に向けての意思を示している。演説の骨子は原爆犠牲者への哀悼の意に加えて、第二次世界大戦後に、両国の和解に尽力した日米両国の国民に謝意を示し、その結果、日米同盟が深化してきているとし、オバマが被爆地の広島を訪問したことに感謝し、核兵器廃絶と世界平和へ尽力するというものであった。 ===被爆者との対面=== オバマは原爆死没者慰霊碑前に献花をし、演説を終えると2名の被爆者のもとへ行き、握手をしながら通訳を交えて会話した。日本原水爆被害者団体協議会(被団協)代表委員の坪井直は、オバマに「大統領退任後も広島に来てください。核兵器のない世界に向けて、あなたとともに頑張ろうと思う」と訴えた。自らも被爆者で被爆した米兵捕虜の研究をしている森重昭は、「広島に来られて本当によかった」とオバマの訪問を歓迎し、熱い抱擁を交わした。オバマと森の抱擁写真は、ロイターから配信され、日米の多くの紙面のトップを飾った。 27日の対面後に広島市内で行われた記者会見にて、被団協代表委員の坪井はオバマに原爆投下について「米国を責めていないし、憎んでもいないと伝えた」、「これからが大事だ。『時々広島に来て』と言ったら、(オバマ氏の)握手が強くなった」、「(核廃絶への)一歩として評価したい」と述べている。 ==反響== ===政府・議員=== ====日本==== 安倍は伊勢志摩サミット議長をつとめた後の5月27日の午後に三重県志摩市内で記者会見し、オバマとともに広島を訪問することについて「被爆の実相を世界に発信することは、核兵器なき世界の実現へ大きな力となる」という見解を表明している。 民進党代表の岡田克也は「非常に良かった。(演説で)科学というのは核兵器のためではなく、平和のために使われなくてはいけないと言われたことは非常にオバマ氏らしい」と述べている。 広島県知事の湯崎英彦は、現職大統領の初訪問とスピーチに関し、「歴史的な一歩」と評価している。 ===中国=== 王毅外相は「広島は注目に値するが、南京はもっと忘れてはならない」と主張。人民解放軍制服組トップの范長竜中央軍事委員会副主席は、日本軍が残した化学兵器の廃棄処理施設を視察したと発表。「日本は先の大戦で大量破壊兵器を使用した加害国だ」「日本は加害国として責任を免れることはできない」といった意見が聞かれた。 ===メディア=== 『朝日新聞』は「天声人語」で「米国が世界が、核を見つめ直す道のりの大きな一歩になると信じたい」とし、戦争の記憶を語り継ぐことは「容易ではないが、けっして不可能ではない」と報じている。 『読売新聞』は上智大学教授の前嶋和弘による寄稿において、「オバマ大統領の所感は今、そして未来に生きる人たちへのメッセージとなった。今回の広島訪問は、オバマ大統領の政治的遺産(レガシー)の中でも最も大きなものの一つとして、歴史に残るものになるだろう。」と報じている。 『毎日新聞』は「今回の訪問で広島は核廃絶運動の拠点としての存在感を高めたが、核廃絶の理想と現実にはなお大きな隔たりがある」と報じている。 『産経新聞』はオバマが「自ら被爆地に足を運び、献花した」ことで、「日米関係を戦争の痛手から強固な同盟に変えた」ことを、任期中に行った「外交遺産」になり、日本を「米中共通の敵」とする「江沢民元中国国家主席の外交遺産を打ち砕く一撃」と評価している。江主席により「日本を戦争犯罪でたたき続けろ」という指示による中国の「外交遺産」とは異なり、「米国はたたきのめした相手国にわびることはしないし、日本も謝罪を求めるような品位のないことはしない。」とし、日米同盟が一段と強化されたと報じている。 『ニューズウィーク』日本版は、オバマの広島訪問と平和メッセージに関して、アメリカのテレビ・新聞はともに「予想以上に好意的に報じた」とし、「現在でも原爆投下の肯定論が根強い米世論を考えれば、慎重にタイミングを図ってきた今回の訪問は、結果として成功裏に進んだと言えるだろう」と報じている。 演説中継は、ローカル枠を休止し、NHK、日本テレビ(広島テレビ放送)、テレビ朝日(広島ホームテレビ)、TBS(中国放送)、フジテレビ(テレビ新広島)各局の全国ネットで放送され、普段は報道特別番組を放送しないテレビ東京も『特捜警察ジャンポリス』と『妖怪ウォッチ』を休止して中継を行う異例の事態となり、インターネット上で話題となった。 ===アメリカ=== アメリカの主要局は、現地時間の4時台ではあったが、生中継でオバマの訪問を広島到着から献花、演説に至るまでのすべてを衛星中継した。献花の際には、CNNは「オバマ氏の和解のしるし」とテロップを画面に表示させた。安倍の言葉は全局では中継されることはなく、最も長く伝えたMSNBCも途中でスタジオ解説へと切り替わった。保守系のFoxニュースは「トルーマンの命令について謝罪せず」と表現し、式典終了前に話題を変えた。 アメリカの新聞社はトップニュースとして報道し、多くは「謝罪はなかった」と評価したが、27日付『ニューヨーク・ポスト』で、ブッシュ政権で国連大使を務めたジョン・ボルトンの寄稿を掲載し、「オバマ氏の恥ずべき謝罪ツアーが広島に到着した」との見出しで報じている。 米紙『ニューヨーク・タイムズ』(電子版)は、オバマの演説後に被爆者と抱擁しあったことを「心揺さぶられる瞬間」と表現し、オバマと安倍が献花後に交わした握手は「日米の特別な同盟関係を明確に示すものだ」と報じた。 米紙『ウォール・ストリート・ジャーナル』(電子版)は、「謝罪との受け止めを避けたいオバマ氏は被爆者と私的な場で会わず、公衆の場での短時間の会話に留めた」とし、「原爆資料館訪問も簡単なものだった」と報じた。 米紙『ワシントン・ポスト』(電子版)は、オバマは「核軍縮と不拡散に向けた米国の決意を改めて示すこと」が狙いであったと報じた。 米紙『USAトゥデイ』(電子版)は、オバマの折り鶴のエピソードについて「象徴的な振る舞い」とし、禎子さんの折り鶴は「核戦争の痛切さの重要な象徴」と報じている。 朝4時台の出来事であり、当日の新聞には間に合わないため、紙面での報道は翌日の「土曜日週末版」での扱いとなった。オバマの訪問のニュースは一斉に各紙のトップページを飾り、『ニューヨーク・タイムズ』は「オバマ大統領と安倍首相の握手」の写真を掲載し、保守系の『ウォール・ストリート・ジャーナル』は、オバマと森の抱擁シーンの大きなカラー写真がトップを飾った。 ===イギリス=== イギリスのBBC(電子版)は「サダコと折り鶴」と題する記事を掲載し、折り鶴の折り方を紹介する動画を紹介して、「今、折り鶴は平和の象徴」と報じている。 ===韓国=== 所感で韓国人犠牲者について言及こそしたものの、韓国人被爆者を誰一人平和公園内に招待せず、原爆慰霊碑から150メートルほどの距離にある韓国人慰霊碑には訪れもしなかった。さらには韓国人死者を数千人と所感で延べたこと(韓国政府の公式資料では韓国人死者は3万人としている)について韓国メディアは、「オバマの錯覚」と問題視し失望の声が上がった。『東亜日報』は「日本の“戦争被害国イメージ”を政治的に利用しようとする安倍政権に免罪符を与えたのにほかならない」と批判。『朝鮮日報』はオバマと坪井直との抱擁シーンを紹介し、「将来的に安倍首相が韓国を訪れ、元慰安婦と会うことはできないだろうか」とコラムに寄せた。 ===北朝鮮=== 『朝鮮中央通信』は、アメリカに対して「広島訪問は核犯罪者としてのアメリカの正体を覆い隠そうとするもので、幼稚な政治的計算」と非難。日本に対しては「戦犯者から被爆者に化け、過去の侵略戦争を覆い隠す外交演技だ」と報じた。 ===民間=== オバマ訪問前に、NHKが広島県内の被爆者321人にアンケートを郵送し、72%の231人から回答を得た結果によると、9割を超える人がオバマの広島訪問について、「評価できる」、「どちらかといえば、評価できる」と回答しており、「どちらかといえば、評価できない」は6人で3%、「評価できない」は2人で1%であった。評価の理由は、「被爆の実態を見ることに意義がある」、「アメリカ国内で反対の世論があるなかで訪問を決断したから」というコメントが見られた。 共同通信社が2016年5月28‐29日に行った広島訪問に関する全国電話世論調査では98.0%が「よかった」と回答し、日本経済新聞とテレビ東京が5月27‐29日に行った電話世論調査では92%が「評価する」と回答している。 中国新聞社が2016年6月に全国の日本被団協を構成する44団体と中国5県の被爆者団体77団体中71団体の協力を得たアンケートにおいて、9割の被爆者団体が広島訪問を評価した(とても意味があった44.8%、まあ意味があった44.8%、あまり意味がなかった7.6%、全く意味がなかった1%、どちらともいえない1.9%)。 広島市立大学広島平和研究所の副所長をつとめる水本和実は、被爆者の期待の大きさについて、「被爆の現実を見て理解してもらい、具体的なアクションにつなげてほしい」という気持ちの表れとし、「謝罪を求める意見が少ないのは単純に忘れたとか許したのではなく、魂に染みついた悲惨な体験だから本当は許せないが、それだけでは前に進めないと悩んだあげくの結論」としている。 妹を原爆で亡くし、自身も被爆直後の広島の惨状を目撃し、『夢千代日記』など被爆者の人生を描いた作品で知られる作家の早坂暁は「具体的にどれだけの覚悟があるのかみせてほしい。原爆を投下した事実を過ちとして認めるべきだった」と指摘し、「語り口はまるで詩人のようだが、原爆を天から降らせたのはアメリカだ。今や核を持つ国々が増えて、制止することもできないが、現在の危機的な状況を作り出したのは誰なのか。それを率直に語りもせず、本当に広島に来るだけの覚悟があったのかと言いたい」と批判した。 一方、長崎の被爆者からは、長崎市訪問が実現しなかったことや謝罪の言葉もなく、2009年のプラハ演説から進歩がないどころか包括的核実験禁止条約は今も批准せず、具体的な核廃絶に向けた提案なども示さなかったことについて失望の声も見られた。 ==影響== 当時アメリカと対立していたロシアは、オバマの広島訪問を受けて、ロシア連邦大統領ウラジーミル・プーチンの側近で国家院(下院)議長のセルゲイ・ナルイシキンが広島訪問を計画した。しかし、日程が折り合わず、代わりに連邦院(上院)議長のワレンチナ・マトヴィエンコが長崎を訪問した。長崎を訪れたマトヴィエンコは「機会ができたら長崎を訪れたい」というプーチンの意向を語った。このほかにも2016年には、カザフスタンの大統領ヌルスルタン・ナザルバエフやスイスの連邦議会議長ラファエル・コントが広島を、ドイツの大統領のヨアヒム・ガウクが長崎を訪れた。このように要人が相次いで訪れたのは、オバマの広島訪問が影響を与えたとする見方がある。 一般の外国人観光客も増加し、2016年上半期に広島県内で宿泊した外国人観光客は約44万人に上り、前年比34%増にも上った。これは同時期の日本平均と比べて2倍を超える増加率となっている。また、オバマが訪れた直後の平和記念資料館は前年と比べ来館者が倍増し、資料館への問い合わせも相次いだ。 日本の中央政界では、広島外相サミット、オバマの広島訪問を実現・成功させた外相岸田文雄に対する評価が高まり、次期首相の有力候補とみなされるようになった。 =アクロン (オハイオ州)= アクロン(Akron)は、アメリカ合衆国オハイオ州北東部に位置する都市。クリーブランドの南約55kmに位置する。人口は199,110人(2010年国勢調査)で、オハイオ州ではコロンバス、クリーブランド、シンシナティ、トレドに次ぐ第5の都市である。アクロンに郡庁を置くサミット郡、およびその東に隣接するポーテージ郡の2郡からなる都市圏は703,200人(2010年国勢調査)の人口を抱えている。より広域的には、アクロンはクリーブランドの広域都市圏に含まれており、その人口は350万人を超える。 産業面以外でも、アクロンは革新的な出来事が多く起きた街であった。1847年には、今日全米で標準となっているK‐12の学年制教育の先駆けとなったアクロン学校法が成立した。南北戦争前夜には、ジョン・ブラウンがアクロンを事業活動の拠点とし、元奴隷であったソジャーナ・トゥルースが奴隷制度廃止と女性の権利を訴える演説をアクロンで行った。全米で初めて、アルコール依存症が疾患として認められ、治療が行われ、アルコホーリクス・アノニマスが発祥したのもアクロンであった。 アクロンは1825年に創設され、その初期から運河交通の要所となり、様々な産業が興った。南北戦争前後から20世紀初頭にかけては、北軍の食糧となったオーツ麦のバー、全米初のパトロールカー、ヨードを添加した食塩など、次々と発明品が生み出された。同じ頃、グッドリッチ、グッドイヤー、ファイアストン、ゼネラルタイヤと、タイヤメーカーが相次いで創業し、これらタイヤメーカーが労働者用の住宅地開発にあたったこともあって、1910年代の10年間で人口は3倍増、工業都市として高成長を遂げたアクロンは「世界のゴムの都」と呼ばれた。20世紀も後半に入るとタイヤメーカーは買収や移転で次々とアクロンを離れ、グッドイヤーを残すのみとなったが、残された研究インフラの存在によって、アクロンはポリマー産業の中心地へと変貌を遂げてきている。 ==歴史== ===初期=== 1811年、現在のアクロン市ではブフテル・アベニューとブロードウェイ・ストリートの交差点があるあたりに、コネチカット土地会社の測量家ポール・ウィリアムズと、コネチカット西部保留地の将軍サイモン・パーキンスが入植し、当時掘削中であったオハイオ・アンド・エリー運河の最高点であったこの地に入植地の創設を提案した。入植地の名は、ギリシア語で「頂上」もしくは「高いところ」を意味する*8935*κρονから付けられた。その後1825年、現在のサウスアクロン地区に相当する地域が区画され、オハイオ運河の掘削に携わったアイルランド系労働者たちの小屋、およそ100棟がその近くに建てられた。その後、1833年にはエリアキム・クロスビーが「ノースアクロン」を創設し、1836年にサウスアクロン・ノースアクロンの2つが合併して、アクロンという1つの村として正式に法人化された。 1840年、ポーテージ、メダイナ、およびスターク各郡のそれぞれ一部を分割・再編する形で、サミット郡が創設されると、翌1841年には、サミット郡議会がカヤホガフォールズを郡庁所在地に指定したが、州議会がこれを覆し、郡庁所在地は住民投票に基づいて決めるようにと差し戻した。その結果、郡庁はアクロンに置かれることになった。その頃、アクロンからペンシルベニア州ビーバーへと通ずるペンシルベニア・アンド・オハイオ運河が開通し、*8936*器、下水管、漁具、農作業道具などの産業が興った。1847年には、アクロン学校法が成立し、今日ではアメリカ合衆国全土で用いられている、K‐12の学年制による教育の先駆けとなった。 ===南北戦争前夜から「頂点の街」へ=== 南北戦争前夜のアクロンでは2人の著名な奴隷制度廃止運動家が活躍した。1844年、ジョン・ブラウンは、 共同事業者であったサイモン・パーキンスの豪邸と道1本を隔てた対面側に自身の家を移し、アクロンを事業活動の拠点とした。1851年には、オハイオ女性の権利大会がアクロンで開催され、ソジャーナ・トゥルースが原稿無しで、後に「私は女ではないの?」と名付けられることになる演説を行った。 1870年、地元実業家にして博愛主義者であったジョン・R・ブフテルの出資で、アクロン大学の前身となる、ユニバーサリスト教会系のブフテル・カレッジが創立した。また、この頃、ルイス・ミラーとウォルター・ブライスの2人の博愛主義者と建築家ジェイコブ・スナイダーは、アクロン・プランというデザインパターンを確立し、1872年に初めてこの様式を用いてアクロンのファースト・メソジスト監督教会堂を建てた。その後、第一次世界大戦時に至るまで、会衆派、バプテスト、長老派などの多数の教会堂が、この様式を用いて建てられた。 南北戦争と前後して、アクロンでは次々と発明品が生まれ、近代的な産業も興っていった。フェルディナンド・シューマッハーは1856年に工場を買収し、オーツ麦のバーを大量生産し、南北戦争時には北軍に供給した。南北戦争の終結後も、このバーに対する需要は高いものとなった。1883年には、地元のジャーナリストがアクロン・トイ・カンパニーを設立し、近代的な玩具製造事業を始めた。翌1884年には、サミュエル・C・ダイクが粘土製のビー玉を大量生産に乗せた。これらの他、アクロンではゴム風船、アヒルの玩具、人形、ボール、乳母車の緩衝装置、茶色の小瓶などが発明された。1895年には、アクロンとクリーブランドを結ぶ、全長35.5マイル(57.1km)のインターアーバン、アクロン・ベッドフォード・アンド・クリーブランド鉄道が開通した。1899年には、市当局は地元警察に、全米初となるパトロールカーを配備した。1916‐20年にかけては、10,000人の女学生が、食塩にヨードを添加することで甲状腺腫を予防する、後に「アクロン実験」として知られることになる実験に参加した。この実験は成功を収め、後に世界中でヨード欠乏症による甲状腺腫を激減させることにつながった。ボストン・デイリー・グローブ紙はこの頃、アクロンを Summit City (頂点の街)と呼んだ。 ===1900年のアクロン暴動=== 1900年8月21日、黒人男性が6歳の白人少女に性的暴行を加えたとして逮捕され、翌朝自白した。すると地元新聞紙は自白を誇張して書き立て、市全体に極度の憤怒と憎悪を煽り立てた。やがて22日夜、事態は暴動へと発展した。この暴動で市政府の庁舎は焼失し、死者2人を出し、鎮圧には州兵の動員を要した。暴動の最中、この黒人男性はクリーブランドへと護送され、24日に弁護士無しで裁判にかけられ、無期懲役刑に処せられた。その後1913年、この黒人男性は公正な裁判を受けられずに服役させられたとして、州知事に恩赦された。 ===「世界のゴムの都」=== アメリカ合衆国においてトラック運送業が生まれた頃、アクロンは Rubber Capital of the World (世界のゴムの都)と呼ばれた。1870年に創業したグッドリッチを皮切りに、1898年創業のグッドイヤー、1900年創立のファイアストン(現ブリヂストン傘下、ブリヂストン・アメリカズ)、そして1915年創立のゼネラルタイヤ(現コンチネンタルタイヤ)と、4社のタイヤメーカーが相次いで創業し、本社をアクロンに置いた。これらのタイヤメーカーは膨れ上がった住宅需要に応えて住宅地を開発し、労働者用の安価な住宅を建てた。グッドイヤーの創業社長、フランク・セイバーリングは自社従業員用の住宅を建てるべく、グッドイヤー・ハイツ地区を開発した。同様に、ハーベイ・ファイアストンはファイアストン・パーク地区を開発した。 1917年、グッドイヤーは子会社グッドイヤー・ツェッペリンを創立し、ツェッペリン型飛行船の建造を開始した。同社の建造した飛行船はまず、第一次世界大戦において敵地の爆撃および偵察に用いられたが、その一方で同社も自社製品の宣伝に用いていた。第二次世界大戦中には、同社は104隻の軍用飛行船を建造した。第二次世界大戦終結後は、同社の飛行船は専ら宣伝に用いられた。飛行船のうち1隻は当地にちなんでアクロンと命名された。 1910年代の10年間で、アクロンは人口増加率201.8%を記録し、全米で最も高い成長を遂げた都市となった。1920年の国勢調査では、アクロンの人口は208,435人を数え、全米で32位、州内ではトレド(243,164人、全米26位)やコロンバス(237,031人、全米28位)に肉薄した。当時のアクロンの人口の約1/3は移民、もしくはその子孫で、その中にはクラーク・ゲーブルもいた。1928年には、アクロンは住民投票の結果に基づいてケンモアを合併し、その人口をさらに増やした。 しかし、工業都市としての高成長の陰で労働問題も起きた。劣悪な環境で、低賃金での労働を強いられていたアクロンのタイヤ工場労働者は、1935年にユナイテッド・ラバー・ワーカーズという労働組合を立ち上げた。翌1936年、グッドイヤーが賃金カットと増産の計画を発表すると、同社の労働者はこれへの抗議として、工場内での座り込みによるストライキを行った。工場を占拠されたため、いわゆる「スト破り」の労働者を臨時に雇って生産を続けることもできず、経営側は工場施設の破壊を恐れて警備員を派遣することにも消極的にならざるを得なかった。市長は警察を動員して事態の収拾を図ったが、警官が出動を拒否した。やがて、グッドイヤーはユナイテッド・ラバー・ワーカーズを認め、より労働者側に有利な条件での労使交渉に臨まざるを得なくなった。 ===衰退と遺産=== 第二次世界大戦後の1950年代、モータリゼーションに伴うタイヤの需要増加で、アクロンは20世紀前半に比較するとその速度は鈍化したもののさらに成長し、1960年には人口290,351人(全米45位)でピークに達した。しかし、その後はラストベルト内に位置する他の多くの工業都市と同様に、アクロンは衰退し、人口は減少に転じていった。アクロンの地域経済を支えたタイヤ製造業も、買収などによってアクロンの街を去り、21世紀に入るまでアクロンに残ったのはグッドイヤーただ1社のみとなった。 しかし、タイヤ製造業はアクロンの街に研究インフラという遺産を残した。この研究インフラの存在によって、アクロンはタイヤやプラスチックのみならず、潤滑剤や超強力繊維、液晶ディスプレイにも応用される、ポリマーの街へと変貌を遂げている。21世紀に入り、アクロンは400社のポリマー関連企業が集中する「ポリマー・バレー」の中心都市となり、アクロンの市域内だけでも94社が立地している。アクロン大学のキャンパス内にはグッドイヤー・ポリマー・センターが立地し、研究者がハイテク分野への応用を目指して研究を進めている。 また、2007年には、アメリカ合衆国の都市としては初めて、アクロンはドイツのシュマック・バイオガス社と共同で、下水道のヘドロからバイオガスを生成し、発電する施設が建てられた。この施設で生成されたバイオガスはメタンを約60%、二酸化炭素を約35%含んでいる。 2008年には、アクロンは3度目の全米都市賞を受賞し、これを契機に City of Invention (発明の街)と呼ばれるようになった。2008‐12年にかけては、長年の工業都市化の間に自浄能力を失い、「ドブ川」化し、下流のカヤホガ川の水質悪化の元凶ともなっていたリトル・カヤホガ川の改修が行われ、水質が改善した。しかしその一方で、4年制大学はおろか、コミュニティ・カレッジやテクニカル・カレッジの卒業率すら低く、技能のある労働者が不足しているなど、問題も抱えている。 ==地理== アクロンは北緯41度4分23秒西経81度31分4秒に位置している。市は五大湖地域のオハイオ州北東部、エリー湖岸からは南へ約63km、州北東部の中心都市であるクリーブランドからは南へ約55kmである。 アメリカ合衆国国勢調査局によると、アクロン市は総面積161.54km(62.37mi)である。そのうち160.66km(62.03mi)が陸地で0.88km(0.34mi)が水域である。総面積の0.55%が水域となっている。市域はアルゲイニー台地の西縁に位置しており、その地形は起伏に富んでいるため、標高は地域によって異なるが、ダウンタウンの標高は306mである。 ===気候=== アクロンの気候は四季がはっきりしており、特に冬の厳しい寒さと降雪に特徴付けられる、大陸性の気候である。最も暑い7月の平均気温は約22℃、最高気温の平均は約28℃で、日中32℃を超えることは平年で月に1‐2日程度である。最も寒い1月の平均気温は氷点下3℃、最低気温の平均は氷点下7℃で、月のほとんどの日は気温が氷点下に下がる。降水量は1年を通じてほぼ平均しており、月間70‐110mm程度であるが、冬季の1月・2月はやや少なく、月間55‐65mm程度である。年間降水量は1,000mm程度である。また、冬季の12月から3月にかけての月間降雪量は20‐27cm、年間降雪量は120cmに達する。ケッペンの気候区分では、アクロンは中西部の大部分に分布する亜寒帯湿潤気候(Dfa)に属する。 ===都市概観と建築物=== アクロンのダウンタウンは西に州道59号線、東に州道8号線、北にリトル・カヤホガ川、南に州間高速道路I‐76/77に囲まれた地域に形成されている。起伏に富む地形のため、アクロンの街路はダウンタウンにおいても複雑に入り組んでいる。ダウンタウンにおいて東西に通る通りはメイン・ストリートを境に西(W)と東(E)に、また南北に通る通りはマーケット・ストリートを境に北(N)と南(S)に分かれている。ダウンタウンの東側にはアクロン大学のキャンパスが広がっている。 アクロンで最も高い建物は、ダウンタウンのミル・ストリートとメイン・ストリートの南東角に建つ、高さ100.6m、27階建てのファーストメリット・タワーである。このアール・デコ様式の超高層ビルは1931年に完成した。ファーストメリット・タワーは、2007年に国家歴史登録財に登録された。 ==政治== アクロンは市長制を採っている。市長は市の公式な長であると同時に行政の最高責任者であり、1) 市議会の採択した法令・条例の施行、2) 予算案の作成および市議会への提出、3) 市の財政状況および要望の市議会への報告、4) 市職員の任命および罷免、5) 市政府各局の管理・監督、6) 市が関与している、もしくは契約している事項についての条件の閲覧、および 7) 条例の導入およびその議論への参加について権利を有し、また義務を負う。市長は全市からの選挙で選出され、その任期は4年である。多選には特に制限は設けられておらず、例えば、1987年に市長に就任したドナルド・プラスケリックは7選し、2015年5月31日に辞任するまで、28年間にわたって市長を務めた。 市の立法機関である市議会は13人の議員から成っている。そのうち10人は市を10区にわけた小選挙区から1人ずつ選出され、残りの3人は全市から選出される。市議会議長は議員の中から選出される。また、書記官は市議員とは別に、市議会によって任命される。小選挙区選出、全市選出のいずれであっても、市議員の任期は4年である。 ==治安== アクロンの治安は同じ州北東部のクリーブランドやヤングスタウンよりは良く、CQプレス社傘下、モーガン・クイットノー社による「全米の危険な都市」ランキングでもワースト25に入ったことは無いが、全米ではあまり良い部類には入らない。同社の2015年のレポート(2013年のFBIのデータを使用)では、アクロンは対象441都市中、54番目に危険であるという結果であった。州内の他の対象都市と比べると、アクロンの治安はクリーブランドよりは大幅に良く、シンシナティやデイトンよりはかなり良く、トレドよりはやや良く、コロンバスよりはやや悪い。 アクロンを中心としたサミット郡はメタンフェタミンの乱用が頻繁に起こっており、「オハイオのメタンフェタミンの都」と呼ばれてきた。アメリカ合衆国麻薬取締局の国立秘密薬物製造所登録情報によると、サミット郡においてメタンフェタミン使用場所として登録されている場所は102ヶ所あり、これはオハイオ州の郡の中では最多、全米の郡でも3番目に多い。2004年1月‐2009年8月の間、サミット郡は州内で最も多くの場所がメタンフェタミン使用場所として登録された郡であり、そのほとんどはアクロン市内である。当局は、メキシコから流入する麻薬の取り締まりが強化されたのに伴って、地元で違法薬物を精製するようになったことが原因と見ている。これに対し、当時アクロン市長であったドナルド・プラスケリックは2008年、メタンフェタミン撲滅に向けて、アクロン市警となお一層の協力関係を築いていく声明を出した。 ==経済== アクロンにはフォーチュン500に入る企業2社、グッドイヤーおよびファーストエナジーが本社を置いている。グッドイヤーはアクロンのみならず、アメリカ合衆国を代表する、そしてブリヂストンおよびミシュランと共に世界3大に数えられるタイヤメーカーで、1999年10月まではダウ工業株30種平均の構成銘柄の1つでもあった。20世紀中盤までアクロンの地域経済を共に支え、アクロンを「世界のゴムの都」と呼ばせしめた他のタイヤメーカーが買収や移転で次々とアクロンを去る中で、同社はただ1社アクロンに残った。同社は2013年、老朽化した本社旧社屋からI‐76を隔てた南側に新社屋を建て、移転した。 ファーストエナジーは1997年にオハイオ・エジソンがセンテリアを吸収合併したことにより設立された電力会社で、その後GPUとアルゲイニーエナジーを合併して全米最大の電力会社となった。また、同社はダウ公共株15種を構成する銘柄の1つでもある。同社はその傘下に10社の電力会社を持っており、オハイオ州をはじめ、ペンシルベニア、ウェストバージニア,、バージニア、メリーランド、ニュージャージー、およびニューヨークの7州にまたがる、170,000kmを超える地域に600万棟以上の顧客を持っている。 その他には、手の消毒剤メーカーであるGOJOインダストリーズ、熱可塑性エラストマーのアドバンスト・エラストマー・システムズ、ファーストメリット銀行、プラスチックおよびタイヤ修理用品メーカーのマイヤーズ・インダストリーズ、地元雑貨店チェーンのアクメ・フレッシュ・マーケット、および宝飾品小売のスターリング・ジュエラーズがアクロンに本社を置いている。また、ブリヂストンは2012年、研究開発施設を備えた技術センターをアクロン市内に建て、同社の製品開発部門をこの技術センターに移転した。また、クリーブランドに本社を置く地元銀行キー・バンクは、ダウンタウンにアクロン地域本店を置いているほか、市内に5店の支店を置いている。 ===ポリマー・バレー=== 20世紀も後半に入り、1970年代以降になると、それまでアクロンの地域経済を支えていたタイヤメーカーは次々とアクロンを去って行ったが、残された研究インフラの存在によって、アクロンはハイテク産業にも応用される、ポリマー産業の街へと変貌を遂げた。1980‐90年代にかけて、サミット郡を中心に、マホニング、スターク、ポーテージ、トランブル、およびコロンビアナの州北東部6郡にまたがる地域には新たにポリマー関連企業が流入し、一帯は「ポリマー・バレー」と呼ばれるようになった。アクロン大学やケース・ウェスタン・リザーブ大学はポリマーの世界的研究者を擁し、またこの地にポリマー技術者を輩出するようになった。また、地元の高校においてもポリマー製品の製造が学べるようになった。元々天然資源や交通手段に恵まれていたところに、研究・教育環境が充実したことが加わって、オハイオ州のポリマー産業の45%がポリマー・バレーに集中し、州内のみならず、全米的にもポリマー産業の中心地としての認知度が高まってきている。ポリマー・バレーに立地するポリマー関連企業は400社を数え、そのうち94社はアクロン市内に集中している。 ==医療== アクロンは地域の医療の中心地にもなっている。ダウンタウンの東に立地するアクロン・シティ病院から、州道8号線を隔てた西側に広がるアクロン大学のキャンパス、そのすぐ西に立地するアクロン小児病院、そしてそのさらに西、州道59号線沿いに立地するアクロン総合医療センターを結ぶ線は、市当局が2010年に Biomedical Corridor (生体医学回廊)と定めており、医療や関連する研究開発および人材育成に地区内の土地、建物や施設を用いることを奨励している。 1914年に開院したアクロン総合医療センターは、もともと州内で10位以内に入る評価を受けている病院であった。2015年、同院を持つ医療法人、アクロン総合保健システムは、全米でも5本の指に入る評価を受けている病院、クリーブランド・クリニックの傘下に入った。 アクロン小児病院は1890年に保育園として始まったが、やがて州北東部最大の小児科専門病院へと発展していった。1974年、同院の医師ハワード・イーゲルおよびアーロン・フリーマンは、世界で初めて、火傷の治療に用いるための人間の皮膚を実験室で培養することに成功した。同院はUSニューズ&ワールド・レポート誌の病院ランキングでは、7つの診療分野で全米50位以内に入る評価を受けている。 アクロン・シティ病院は1892年に開院した病院で、現在では重傷の患者に対し24時間体制で救急医療を施すことのできる、レベルIのトラウマ・センターに指定されている。一方、セント・トーマス病院はカトリックのクリーブランド司教区の婦人会衆、シスターズ・オブ・チャリティーズ・オブ・セント・オーガスティンが1922年に設立した病院である。同院は全米で初めて、アルコール依存症を疾患として認め、その治療を始めた病院で、アルコホーリクス・アノニマスの発祥の地でもある。両院は1989年に合併し、サンマ保健システムとなった。同システムはその後、南西郊のバーバートンに立地するバーバートン病院を加え、バイブラ・ヘルスケアとの合弁でアクロン・シティ病院の東隣にリハビリテーション病院を、またウェスタン・リザーブ病院パートナーズとの合弁でカヤホガフォールズにウェスタン・リザーブ病院をそれぞれ開院した。 ==交通== アクロンに最も近い商業空港は、ダウンタウンから南東へ18km、アクロンとカントンの中間に立地するアクロン・カントン空港(IATA: CAK)である。この空港にはデルタ航空とユナイテッド航空のほか、サウスウエスト航空、USエアウェイズ、およびアレジャイアント航空が就航しており、16都市・17空港への直行便がある。この空港はアクロン・カントン両都市圏の空港であるのみならず、クリーブランド都市圏の第2空港という位置づけにもなっている。より規模の大きな空港としては、クリーブランド都市圏の第1空港で、クリーブランドのダウンタウンの南西17km、アクロンのダウンタウンからは北西へ約60kmに立地する、旧コンチネンタル航空のハブ空港であったクリーブランド・ホプキンス国際空港(IATA: CLE)がある。ダウンタウンの南東約7kmに立地するアクロン・フルトン国際空港(IATA: AKC)は、移民・関税執行局(ICE)の施設を持っており、そのため「国際空港」としての要件を満たし、空港名にも「国際空港」とついているものの、実態はゼネラル・アビエーション空港である。 アクロンではI‐76とI‐77の2本の州間高速道路が交わる。I‐76は西へはメダイナの南でI‐71に接続し、アクロンからクリーブランドを経由することなくコロンバス・シンシナティ方面へと至る短絡路としての役割を果たしている。一方、東へはヤングスタウンを経由してペンシルベニア州に入り、ピッツバーグ・ハリスバーグ・フィラデルフィア方面へと至る。I‐77はオハイオ州東部を南北に縦断する高速道路で、北へはクリーブランドのダウンタウンでI‐90に接続し、南へはウェストバージニア州の州都チャールストンや、アパラチア山脈を越えてシャーロット方面へと至る。この2本の州間高速道路の共用区間はダウンタウンの南を東西に通っており、ダウンタウンには州間高速道路は通っていないが、I‐77の延長線上、ダウンタウンの東を通る州道8号線、およびI‐76・I‐77共用区間からダウンタウンの西を通る州道59号線がともに高速道路規格になっている。州道8号線はダウンタウンから北へも高速道路規格になっており、カヤホガフォールズ等、北郊とダウンタウンを結ぶ役割も果たしている。 ダウンタウンの北にはカヤホガ・バレー・シーニック鉄道のアクロン・ノースサイド駅が立地している。この鉄道は、もともとは1880年にカントンの南、タスカワラス・バレーからアクロンやクリーブランドに石炭を運ぶために敷かれ、沿線の旅客輸送も行っていたバレー鉄道であった。しかし、20世紀も後半に入ると旅客・貨物とも自動車がその主役を担うようになり、この鉄道を用いた輸送は下火になっていった。その後、1972年にこの鉄道の線路を用いてカヤホガバレー国立公園の観光列車を走らせるようになり、今日に至っている。 アクロンにおける公共交通機関は、アクロン都市圏地域交通局(METRO RTA)の運営する路線バス網が主となっている。この路線バス網は35系統を有し、アクロン市内のみならず、サミット郡内を広くカバーしている。同局の路線バス網の中心となっているのは、ダウンタウンに立地するアクロン・インターモーダル・トランジット・センターである。このトランジット・センターは2009年に設置されたもので、使用電力の1/3をソーラーパネルで賄い、また地熱を冷暖房に利用するなど、環境に配慮した設計になっている。また、カントンを中心にスターク郡内をカバーするスターク地域交通局(SARTA)は、アクロン・カントン両市のダウンタウンをI‐76経由で結ぶバスを毎時1本運行している。また、ケントの路線バス網を運営するポーテージ地域交通局(PARTA)は、アクロンとケントを結ぶバスを運行している。SARTAとPARTAのバスもアクロン・インターモーダル・トランジット・センターに発着する。また、アクロン・インターモーダル・トランジット・センターはグレイハウンドやバロンズ・バス、ゴーバスのバスターミナルも兼ねており、ワシントンD.C.方面とクリーブランド・デトロイト・シカゴ方面とを結ぶグレイハウンドのバスや、クリーブランドとアセンズ・ウェストバージニア州パーカーズバーグ方面とを結ぶゴーバスのバスが停車する。 ==教育== アクロン大学はダウンタウン北東部に218エーカー(882,000m)のキャンパスを構えている。同学は1870年にユニバーサリスト教会系の私立大学、ブフテル・カレッジとして創立したが、1913年に市に移管され、1967年に州に移管された。1988年には、同学はそれまで教養学部にあったポリマー科学科と工学部にあったポリマー工学科を分離・統合する形で、世界で初めてポリマー科学・工学部を創設した。同学は総合大学とコミュニティ・カレッジの役割を兼ねており、31の準学士、96の学士、80の修士、20の博士、2つのジュリス・ドクターの学位プログラムを有しているのに加えて、81のサーティフィケートプログラムを提供し、学部に約21,000人、大学院に約3,600人、プロフェッショナル・スクールに約400人の学生を抱えている。また、同学のスポーツチーム、ジップスはNCAAのディビジョンI(フットボールはFBS/旧I‐A)のミッド・アメリカン・カンファレンスに所属し、男子7種目、女子10種目で競っている。 アクロンにおけるK‐12課程はアクロン公立学区の管轄下にある公立学校によって主に支えられている。同学区は小学校30校、中学校9校、高校9校を有し、約22,000人の児童・生徒を抱えている。2013年には、グッドイヤーの旧社屋を利用した小中一貫(幼稚園・1‐8年生)のチャーター・スクール、アクロン予備学校が開校した。このほか、アクロンにはレブロン・ジェームズの母校であるカトリック系のセント・ビンセント=セント・メアリーズ高校など、私立の学校もある。 アクロン・サミット郡公立図書館はダウンタウンの本館のほか、郡内17ヶ所に支館を、そして移動図書館を持っている。同館は1874年に設立された。同館は書籍・CD・DVDをあわせて190万点を所蔵している。2015年、同館はライブラリー・ジャーナル誌の図書館格付で4つ星に認定された。 ==文化== ===名所・芸術と文化施設=== アクロン美術館はダウンタウン、ハイ・ストリートとマーケット・ストリートの南東角に立地している。同館は1922年に、ギャラリーと芸術教室を兼ねたアクロン・アート・インスティテュートとしてアクロン・サミット郡公立図書館旧館の地下で開館した。その後1960年代以降、芸術教室よりも美術品の収集に力を入れるようになり、1980年にアクロン美術館に改称、翌1981年には改装された旧郵便局(1899年建設)に移転し、2007年にはジョン・S・アンド・ジェームズ・L・ナイト・ビルディングを加えて増床した。2015年には、同館南側のオープン・スペースに野外ギャラリーでもあるバド・アンド・スージー・ロジャース・ガーデンという庭園が開園した。同館の収蔵品は年代的には1850年代から2000年代まで、ジャンル的には風景画・肖像画から抽象画・ポップアートまで、そして絵画・写真・彫刻・版画と多岐にわたっており、館内のみならずオンラインでも展示・公開している。 ダウンタウンの北西約5kmにはスタン・ハイウェット・ホール・アンド・ガーデンズが立地している。70エーカー(283,000m)の敷地に建つこのチューダー・リバイバル様式の家屋は、もともとは1912‐15年にかけて建てられた、グッドイヤーの創業者、フランク・セイバーリングの豪邸であった。家屋は博物館として、また庭園および温室も、一般に公開されている。また、馬車庫は講堂になっており、企業の行事や結婚式などに使われている。スタン・ハイウェット・ホール・アンド・ガーデンズは、1975年に国家歴史登録財に、また1981年には国定歴史建造物に、それぞれ登録された。 ===演技芸術=== E・J・トーマス演技芸術ホールはアクロン大学のキャンパス内に立地している。このホールは1973年にアクロン大学と地元有志によって建てられたもので、同学の学生および教職員が利用するほか、地元オーケストラのアクロン交響楽団の本拠地にもなっている。このホールは3階層に分かれて配置された2,955席を有し、年間集客数40万人を数える。 ダウンタウンのチャーチ・ストリートとメイン・ストリートの突き当たりにはアクロン・シビック・シアターが立地している。この劇場は1929年にマーカス・ロウによって建てられ、当初はロウズ・シアターと呼ばれた。2001年6月から翌2002年11月にかけては、老朽化した施設の全面的な改修が行われた。アクロン・シビック・シアターは、1973年に国家歴史登録財に登録された。 また、アクロン・シビック・シアターの南西に隣接する第3閘門公園には野外劇場があり、メモリアル・デーからレイバー・デーまでの夏季期間中、80以上のコンサートなどのイベントが行われる。 ===イベント=== 毎年大晦日の夜には、第3閘門公園東側のメイン・ストリートを主会場に、アクロン美術館、シビック・シアター、公立図書館本館、ジョン・S・ナイト・センター(コンベンションセンター)、サミット・アートスペース、グレイストーン・ホール、およびジオン・ルーテル教会など、ダウンタウンの各所を副会場として、ファースト・ナイト・アクロンという年越しイベントが行われる。主会場および各副会場ではコンサートや映画の放映、その他演技芸術の公演などが行われる。そしてイベントの最後、1月1日の午前0時になると花火が打ち上げられる。 ===食文化=== 現代アメリカ合衆国の食文化を代表するもののいくつかはアクロンで生まれた。1851年にドイツからアクロンに移入したフェルディナント・シューマッハーは、この地で雑貨屋を始めたが、その商品のうちの1つであるオーツ麦だけはどうしても売れ行きを伸ばすことができなかった。というのも、当時のこの地においては、オーツ麦は人間の食糧としてではなく、家畜の餌として栽培されていたに過ぎなかったからであった。そこでシューマッハーは1854年、オーツ麦を砕いて、1オンス(28g)の正方形に成形した。これがオートミール、ひいてはシリアル食品の誕生であった。こうして食べやすくしたオーツ麦は瞬く間に広がり、1856年には工場を買収して大量生産を始め、南北戦争時には北軍の食糧にもなり、オーツ麦の需要は膨れ上がった。終戦後、シューマッハーの更なる研究によってオーツ麦のフレークも生みだされ、全米でヒット商品になった。やがてシューマッハーは、クエーカーオーツカンパニーの前身の1つであるアメリカン・シリアル・カンパニーの初代社長に就任した。 諸説紛々ではあるものの、ハンバーガー発祥の地の1つに挙げられているのがアクロンである。1885年、チャールズとフランクのメンチズ兄弟は、ニューヨーク州西端のエリー郡、バッファロー南郊のハンバーグ村で開かれたエリー・カウンティ・フェアでソーセージパティをはさんだサンドイッチを調理・販売していたところ、ソーセージパティが足りなくなり、しかし地元の精肉店でも豚挽肉を調達できなくなって、仕方なく、当時は格が下がるとされた牛挽肉を使い、味を調えるためにコーヒーの粉末やブラウン・シュガーを入れたパティを焼き、はさんで出したところ、これが好評となった。フランクが客から料理名を尋ねられた時に、見上げたバナーに記されていたハンバーグという村の名から、とっさに「ハンバーガー」と答えた。これがハンバーガーの始まりだとしているのがアクロン説である。このことから、アクロンでは毎年8月中旬に、第3閘門公園で全米ハンバーガー祭が開かれる。毎年2万人以上が来場するこのイベントでは、出店したハンバーガー店が腕を競い合うほか、10分の制限時間内にどれだけハンバーガーを食べられるかを競うハンバーガー大食いコンテスト、ケチャップで満たされたビニールプールの中からハンバーガーを口のみでつかみ取りするボビング・フォー・バーガーズ、ハンバーガー・フェスティバル・クイーン・ページェントというミス・コンテストなどのコンテストや、コンサートが行われる。 ===スポーツ=== アクロンには北米4大プロスポーツリーグのチームは置かれていないものの、その下部のチームは置かれている。野球のアクロン・ラバーダックスはクリーブランド・インディアンス傘下のAA級マイナーリーグチームであり、イースタンリーグ西地区に所属している。ラバーダックスはダウンタウンに立地するキャナル・パークを本拠地としている。 市の南端に立地するファイアストン・カントリークラブでは、毎年プロゴルフのブリヂストン招待選手権が開かれる。1999年より、この大会は世界ゴルフ選手権の1つとなっている。 そして、アクロンはソープボックスの競技会、オール・アメリカン・ソープボックス・ダービーの開催地でもある。この大会は1934年にデイトンで始まったが、翌1935年、ソープボックスのレースに適した、起伏に富む地形を理由にアクロンに移った。アクロンでの最初の大会は公道で行われたが、翌1936年、アクロン・フルトン国際空港に隣接する地に、ダービー・ダウンズという恒久的な会場が造られ、以後の大会はそこで行われている。 NBAのMVPプレーヤー、レブロン・ジェームズとステフィン・カリーはアクロンの同じ病院・アクロン・ジェネラル・メディカル・センターで共に産まれている。 ===公園とレクリエーション=== ダウンタウンに立地する第3閘門公園は、その名が示す通り、オハイオ・アンド・エリー運河の第3閘門跡の周辺に整備された公園である。この公園は2001年、当時の市長ドナルド・プラスケリックが設置を計画し、メイン・ストリート沿いに建ち並んでいた、荒廃した建物を市当局が取り壊してその跡地を整備し、2003年に開園した。同園は前述のファースト・ナイト・アクロンや独立記念日の花火をはじめ、野外劇場でのコンサートなど、様々なイベントの会場になっている。また、冬季には園内に屋外スケートリンクも設けられる。 また、オハイオ・アンド・エリー運河沿いには、クリーブランドからカヤホガバレー国立公園、アクロン、マシロンを通ってニューフィラデルフィアに至る、カヤホガ・サミット・スターク・タスカラワスの4郡にまたがる、全長163kmの遊歩道/自転車道が設けられている。 ダウンタウンから州道59号線を隔てたすぐ西側にはアクロン動物園が立地している。同園は1900年に市の創設者の1人であるサイモン・パーキンスの子孫、ジョージ・パーキンスおよびアン・パーキンスが寄付した79エーカー(320,000m)の土地で、寄贈された2匹のヒグマを飼育したことに始まった。やがて同園は時代が下るにつれて敷地を広げ、サル、ジャガー、ワシ、レッサーパンダ、スマトラトラ、ライオン、フンボルトペンギン、ユキヒョウ、コモドオオトカゲ、ガラパゴスゾウガメ、ハイイログマといった具合に飼育する動物の種を増やし、「トラの谷」、「野生の伝説」、「コモド王国」といったテーマ化を進めていった。また、園内にはクラゲやタコなどを飼育する、「礁への旅」と名付けられた水族館や、地元オハイオ州の花木を植えた庭園もある。 市の北西部に広がるサンド・ラン・メトロ公園の西隣には、104エーカー(420,000m)のF・A・セイバーリング自然王国が立地している。グッドイヤーの創業者で、土地の寄贈者であるセイバーリングの名を冠したこの自然公園内には、地元の動植物に関する事物を展示するビジターセンターがあり、庭園や3本の遊歩道が整備されている。 ==人口動態== ===都市圏人口=== アクロンの都市圏を形成する各郡の人口は以下の通りである(2010年国勢調査)。クリーブランド・アクロン・カントン広域都市圏全体の人口については、クリーブランド (オハイオ州)#都市圏人口を参照のこと。 ===アクロン都市圏=== ===市域人口推移=== 以下にアクロン市における1840年から2010年までの人口推移を表およびグラフでそれぞれ示す。 ==姉妹都市== アクロンは以下2都市と姉妹都市提携を結んでいる。 ケムニッツ(ドイツ) キリヤット・エクロン(イスラエル) ==註== ==推奨文献== Dyer, Joyce. Gum‐Dipped: A Daughter Remembers Rubber Town. Akron: University of Akron Press. 2003年. ISBN 978‐1931968171.Endres, Kathleen. Akron’s Better Half: Women’s Clubs and the Humanization of a City, 1825―1925. Akron: University of Akron Press. 2006年. ISBN 978‐1931968362.Endres, Kathleen. Rosie the Rubber Worker: Women Workers in Akron’s Rubber Factories during World War II. Kent: Kent State University Press. 2000年. ISBN 978‐0873386678.Gieck, Jack. A Photo Album of Ohio’s Canal Era, 1825―1913. Revised Edition. Kent: Kent State University Press. 1992年. ISBN 978‐0873383530.Gieck, Jack. Early Akron’s Industrial Valley: A History of the Cascade Locks. Kent: Kent State University Press. 2007年. ISBN 978‐0873389280.Jones, Alfred Winslow. Life, Liberty, and Property: A Story of Conflict and a Measurement of Conflicting Rights. Akron: University of Akron Press. 1999年. ISBN 978‐1884836404.Lane, Samuel Alanson. Fifty Years and Over of Akron and Summit County. Akron: Beacon Job Department. 1892年.Love, Steve and David Giffels. Wheels of Fortune: The Story of Rubber in Akron, Ohio. Akron: University of Akron Press. 1999年. ISBN 978‐1884836374.Love, Steve, Ian Adams, and Barney Taxel. Stan Hywet Hall & Gardens. Reprint Edition. Akron: University of Akron Press. 2015年. ISBN 978‐1629220284.McGovern, Frances. Fun, Cheap, and Easy: My Life in Ohio Politics, 1949―1964. Akron: University of Akron Press. 2002年. ISBN 978‐1884836794.McGovern, Frances. Written on the Hills: The Making of the Akron Landscape. Akron: University of Akron Press. 1996年. ISBN 978‐1884836213.Musarra, Russ and Chuck Ayers. Walks around Akron. Akron: University of Akron Press. 2007年. ISBN 978‐1931968430.Olin, Oscar Eugene, et al. A Centennial History of Akron, 1825‐1925. Akron: Summit County Historical Society. 1925年.Reese, John S. Guide Book for the Tourist and Traveler over the Valley Railway. Kent: Kent State University Press, 2002年. ISBN 978‐0873387354. =ルーム・セルジューク朝= ルーム・セルジューク朝(ルーム・セルジュークちょう、英: R*6116*m sultanate, ペルシア語: Salj*6117*qiy*6118*n‐i R*6119*m *6120**6121**6122**6123**6124**6125**6126**6127* *6128**6129**6130*‎, 1077年 ‐ 1308年)は、セルジューク朝(大セルジューク朝)の地方政権として分裂して誕生しアナトリア地方を中心に支配したテュルク人の王朝。当初、首都はニカイア(現在のイズニク)に定められていたが、1097年に第1回十字軍によってニカイアが占領されたため、再びコンヤを都とした。「ルーム」とは「ローマ」の意味で、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)領であったアナトリアの地を指す言葉としてイスラム教徒の間で用いられ、アナトリアを拠点としたことからルーム・セルジューク朝という。 ==歴史== ===建国初期=== 建国者のスライマーン1世・イブン=クタルミシュは、セルジューク家の祖セルジュークの玄孫にあたる。スライマーンの父クタルミシュはアルプ・アルスラーンとセルジューク朝の王の地位を争うが、1063年のデヘ・ナマクの戦いで敗れ、敗走の途上で没した。敵対者の子であるスライマーンは命こそ助けられたが、王族としての扱いは受けられなかった。 1071年のマラズギルトの戦いにおけるセルジューク朝の勝利後、ビザンツ帝国の軍事的影響力が弱まったアナトリアではトゥルクマーン系遊牧民の進出が始まる。マラズギルトの戦勝者であるスルターン・アルプ・アルスラーンには積極的にアナトリアに進出する意図は無く、アルプ・アルスラーンの跡を継いでスルターンに即位したマリク・シャーは、スライマーンとマンスールの兄弟に80,000戸のトゥルクマーンを与えてアナトリアの統治を命じた。1074年から1075年の間にスライマーンはニカイアを占領、ビザンツ皇帝と同盟してアナトリアの君主の地位をうかがうマンスールに勝利する。そして1077年にスライマーンはセルジューク朝からアナトリアの支配権を認められ、独立を宣言するが、大セルジューク朝の君主と異なり「スルターン」の称号は名乗らなかった。ビザンツと協定を結んだスライマーンはアナトリア南部に進攻し、タルススなどの都市を獲得した。さらにスライマーンは東方に進み、1084年12月(あるいは1085年)に小アルメニア領のアンティオキア(現在のアンタキヤ)を制圧するが、スライマーンがシリアへも進出したために、他のセルジューク朝の王族との間に対立が生まれる。1086年6月にスライマーンはシリア・セルジューク朝の創始者トゥトゥシュとの戦いに敗れ、落命した。成人していなかったスライマーンの子クルチ・アルスラーン1世はホラーサーン地方に召還され、マリク・シャーの元に留められた。指導者を欠いたアナトリア地方では領主たちが独立して互いに争い、セルジューク朝の支配領域はアルメニアにまで後退した。 マリク・シャーの没後、1092年にクルチ・アルスラーンは解放されてアナトリアの統治を命じられ、ニカイアに入城する。1096年、アナトリアに上陸した十字軍(第1回十字軍)が、ニカイアを包囲する事件が起きる(ニカイア包囲戦)。クルチ・アルスラーンはマラティヤ包囲中に十字軍の出現を知り、ニカイアに戻るが敗れ、翌1097年に首都を失った。ルーム・セルジュークはそれまで敵対関係にあったトゥルクマーン系の国家ダニシュメンド朝と同盟して十字軍と戦うが、ドリレウム(現在のエスキシェヒール)の戦いに敗れる(ドレリウムの戦い)。1097年8月にコンヤ、ヘラクレア(現在のエレーリ)、カエサレア(現在のカイセリ)が十字軍に占領され、ルーム・セルジュークが制圧していたエーゲ海沿岸部の地域はビザンツによって奪い返された。トゥルクマーン諸勢力は十字軍に対抗するために連合し、1101年8月のミラノ大司教アンセルモの撃破を皮切りにヌヴェール伯、アキテーヌ・バイエルン軍を破り(1101年の十字軍)、トゥルクマーンたちは勢力を回復した。 ===首都の移転=== ドリレウムの戦いの後、ルーム・セルジュークはアナトリア中央の高原地帯に後退するが、領地を接するダニシュメンド朝とマラティヤの帰属を巡って争うことになる。ニカイアに代わる新たな首都に定められたコンヤは1101年から1102年にかけてダニシュメンド朝に包囲され、一時的に占領された。 他方、マリク・シャー没後のイラン、イラクでは後継を巡る混乱が続いており、クルチ・アルスラーンはイラクへの進出を計画した。1106年にマラティヤとマイヤーファーリキーン(現在のシルワーン(英語版))がルーム・セルジュークの支配下に入り、1107年にセルジューク朝のスルターン・ムハンマド・タパルに反抗するモースル(マウスィル)の住民に招聘されてクルチ・アルスラーンは同地に入城する。入城後にクルチ・アルスラーンは金曜礼拝のフトバ(英語版)からムハンマド・タパルの名前を削り、代わりに自身の名前を入れて読み上げさせた。同年7月にムハンマド・タパルが派遣したアミール・チャヴルとハーブール河畔で衝突するが、戦闘はルーム・セルジューク側の敗戦に終わり、クルチ・アルスラーンは敗走中に溺死する。 クルチ・アルスラーン1世の死後、彼の5人の子が王位を巡って争い、内訌に介入したビザンツとダニシュメンド朝によって領土の一部を奪われる。クルチ・アルスラーン1世の子の一人マリク・シャーはビザンツを攻撃するが成果を挙げられず、1116年にダニシュメンド朝と同盟した弟のマスウード1世によって廃位された。マスウード1世はダニシュメンド・ガーズィの没後混乱するダニシュメンド朝を攻撃し、アンカラ、チャンクルを占領した。1147年に第2回十字軍がアナトリアに上陸した折、マスウード1世はフランスのルイ7世、神聖ローマ帝国のコンラート3世を破り、西欧諸国の計画を破綻させた。1153年に小アルメニア王国のトロス2世(英語版)、1154年にビザンツ皇帝マヌエル1世コムネノスとルーム・セルジュークの間に盟約が結ばれ、それから間も無くマスウードは没した。 マスウードの跡を子のクルチ・アルスラーン2世が継いで以降、西アジア史におけるルーム・セルジューク朝の重要性が増していく。 ===ミュリオケファロンの戦い、国内の分裂=== 即位後のクルチ・アルスラーン2世はダニシュメンド朝、ビザンツ帝国以外に弟のシャーヒンシャーと敵対していた。クルチ・アルスラーンはビザンツ帝国との関係を修復し、1161年から1162年にかけて自らコンスタンティノープルを訪問して協約を締結する。クルチ・アルスラーンはダニシュメンド朝と交戦した際、ダニシュメンド朝を支援するシリアのザンギー朝との関係を悪化させ、1172年(または1173年)にザンギー朝のヌールッディーンによって一時期スィヴァスを占領される。ザンギー朝との和議が成立してザンギー軍が撤退するとクルチ・アルスラーンはダニシュメンド朝支配下の都市を再び攻撃し、同時にザンギー朝との衝突を極力避ける方針を採った。1176年に東方の失地回復を図るマヌエル1世コムネノスが親征を行うと、クルチ・アルスラーンもトゥルクマーンからなる軍隊を率いて迎撃に向かい、9月17日にミュリオケファロンでビザンツ軍に勝利した(ミュリオケファロンの戦い)。ミュリオケファロンの勝利の後に両国の間に和平が結ばれ、ビザンツがルーム・セルジュークに対して大規模な軍事行動を行うことは無くなった。1178年にルーム・セルジュークはダニシュメンド朝を滅ぼし、アナトリアに確固たる支配権を築いた。1179年から1181年にかけて、シリア北部の都市の帰属を巡ってアイユーブ朝との関係が悪化するが、大規模な軍事衝突には発展しなかった。 クルチ・アルスラーンは晩年に11人の王子と1人の王女に領土を分割して与えるが、首都のコンヤを末子のカイホスロー(後のカイホスロー1世)に与えたために他の息子は不満を抱き、王子たちの間で争いが起きる。王子たちの内訌に加えて、西欧では1189年に第3回十字軍が開始され、アナトリアは神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世の攻撃を受ける。1190年5月にフリードリヒ1世はコンヤに到達、一時十字軍にコンヤを占領される。1192年9月にクルチ・アルスラーンが没すると、王族間の争いはより激化する。 一旦はカイホスロー1世が王位を継ぐが、最終的にトカトの統治者であるスライマーン2世が王位に就き、カイホスローはアナトリアを脱してビザンツ帝国に亡命した。スライマーンは1204年にエルズルムを支配するアタベク政権のサルトゥク朝を滅ぼし、続いてグルジア王国への遠征を行うが敗戦に終わり、グルジア遠征の帰路でスライマーンは没した。スライマーン没後、彼の子のクルチ・アルスラーン3世が王位に就く。クルチ・アルスラーン3世が短い在位期間を経て廃された後、コンスタンティノープルから帰国したカイホスローが即位する。 カイホスロー1世の復位からカイクバード1世の治世にかけて、ルーム・セルジューク朝は最盛期を迎える。 ===最盛期=== クルチ・アルスラーン2世時代以前のルーム・セルジューク朝は大セルジューク朝と同じ内陸国家であり、海洋への進出は計画されなかったが、13世紀に入って内陸国家であるルーム・セルジューク朝に変化が起きる。1207年に地中海に面する港湾都市アンタルヤがルーム・セルジュークの支配下に入り、ルーム・セルジュークは初めて海洋に進出する拠点を得、ヴェネツィア共和国と通商関係を構築した。1211年にカイホスロー1世はアラシェヒルの戦いでニカイア帝国に勝利するが、戦闘の前後に陣没した。 カイホスロー1世の死後、2人の王子が後継者の地位を巡って争う。勝利したのは長子のカイカーウス1世であり、敗れた弟のカイクバード(後のカイクバード1世)はマラティヤ近郊の城砦に幽閉された。1214年にカイカーウスはアナトリア東北部を支配するトレビゾンド帝国を攻撃してトレビゾンド皇帝アレクシオス1世を捕らえ、釈放の条件としてトレビゾンド帝国に毎年の貢納を科すとともに、黒海沿岸の港湾都市スィノプをトレビゾンドから獲得した。スィノプの獲得によってルーム・セルジュークはアナトリア半島南北に海洋に面する都市を得、カイカーウスはコンヤに建立したモスクの碑文に自らを「二つの海のスルターン」と刻ませた。1216年にカイカーウスはアンタルヤを占領した十字軍と小アルメニア王国を破って軍を進め、一時的にシリア北部のアレッポを占領する。アレッポの永続的な占領には失敗し、カイカーウスはシリア遠征後に病死する。 カイカーウスの没後、解放された弟のカイクバードが即位する。 即位後、カイクバードは宮廷内で強い発言力を持つ有力者に代えて、グラーム(宮廷奴隷)出身の軍人や仕官歴の短い書記を抜擢する人事を行った。1223年にアンタルヤ東方の港町カロノロスがルーム・セルジュークの支配下に入る。征服後カロノロスはカイクバードのラカブ(尊称)である「アラー・アッディーン」にちなんでアラーイーヤと呼ばれるようになった。アラーイーヤにはクズル・クレ(「赤い塔」という意味。見張り用の櫓)と造船所、宮殿が建設され、ルーム・セルジューク朝のスルターンの冬季の滞在地とされた。1227年にはスィノプを発ったルーム・セルジュークの遠征軍がクリミア半島に上陸し、近隣のキプチャク族を従属させる。1227年のクリミア遠征は、大セルジューク朝時代も含めて、セルジューク朝の軍隊が海を越えて軍事活動を行った最初の例である。 1228年にアナトリア東部のエルズィンジャンを支配するメンギュジク朝を従属させ、東方に影響力を拡大した。1229年5月にアゼルバイジャンを拠点に再興したホラズム・シャー朝から同盟を求める使節が到着する。同盟の締結にあたってルーム・セルジューク側からカイクバードの王子カイホスロー(後のカイホスロー2世)とホラズム・シャー朝のスルターン・ジャラールッディーンの娘との婚姻が提案されたが、ホラズム側は提案を拒絶し、またアナトリア東部の都市エルゼルムの帰属を巡っても両国の間で対立が起きた。カイクバードはジャラールッディーンと敵対していたダマスカスのアイユーブ朝の王族と同盟を結び、1230年8月にエルズィンジャン西部のヤッス・チメンの戦いでホラズム・シャー朝に勝利する。1235年までにキャフタ、エデッサ、エルゼルムなどのアナトリア半島の都市がルーム・セルジュークの支配下に入り、カイクバードの時代に現在のトルコ共和国のおおよその国境が成立した。 1237年5月にカイクバードは遠征の企画中にカイセリで病死、跡をカイホスローが継いだ。このカイクバードの死について、カイホスローによる毒殺を推測する研究者も多い。 ===キョセ・ダグの戦い=== カイホスロー2世は即位後、宮廷内のホラズム人の有力者カユル・ハーンを殺害したため、ホラズム地方出身の廷臣は臣従を拒んで反乱を起こした。 1240年から1241年にかけて、ユーフラテス川流域でバーバー・イスハークというダルヴィーシュ(スーフィーの修道僧)がトゥルクマーンを指揮して宗教反乱を起こした。反乱は宗教面以外に反貴族政治的な性質も持ち、ルーム・セルジューク軍は反乱軍に何度も敗れ、一時はカイホスローが首都コンヤから脱出する危機に陥った。反乱はフランク人傭兵によって鎮圧され、指導者のバーバー・イスハークは絞首刑に処せられたが、この事件はルーム・セルジューク朝の軍事力の低下を明らかに示していた。 1241年にカイホスローはアルトゥク朝が有するアーミド(現在のディヤルバクル)を占領し、東方に影響力を拡大する。しかし、アーミドの占領直後にルーム・セルジューク朝は東方で勃興したモンゴル帝国からの攻撃に晒される。1232年頃からモンゴル軍はアナトリアで偵察を行っており、その時には大規模な戦闘は発生しなかったが、1240年代より本格的な攻撃が始まり、1242年の秋にエルゼルムがモンゴルによって陥落させられる。カイホスローはエルズィンジャンに侵入したモンゴル軍を迎撃するために親征を行うが、1243年6月26日にルーム・セルジューク軍はキョセ・ダグでバイジュ・ノヤン率いるモンゴル軍に大敗した(キョセ・ダグの戦い)。敗戦後、抵抗することなくモンゴルに降伏したスィヴァスは殺戮を免れたものの城壁と兵器を破壊され、トカト、カイセリは略奪を受けた。モンゴル軍によるアナトリア遠征は(おそらくは略奪を目的として)バイジュの独断で行われたものであり、戦後すぐにモンゴル軍がアナトリアに駐屯することは無かったが、モンゴルに臣従を誓ったルーム・セルジュークには毎年のモンゴルへの貢納が課せられた。臣従から間もなくアナトリアは飢饉に襲われ、危険を避けて黒海沿岸部や地中海沿岸部に逃れる者が多く現れる。1245年にカイホスローはモンゴル軍に協力した小アルメニア王国に懲罰の親征を行う途上で没し、跡をカイホスローの長子のカイカーウス2世が継いだ。このカイホスローの死についても、毒殺を疑う研究者がいる。 ===モンゴルへの服属=== カイカーウスの擁立には、イラン系の官僚シャムス・アッディーン・ムハンマド・イスファハーニーが大きな役割を果たした。1244年にイスファハーニーは南ロシアに駐屯していたモンゴル帝国の重鎮バトゥの元を訪れた時、アナトリアにおけるバトゥの代官の地位を与えられており、この立場を元に国政の実権を掌握した。カイカーウスの即位後、彼の弟のクルチ・アルスラーン(後のクルチ・アルスラーン4世)とカイクバード(対立王カイクバード2世、在位1249年 ‐ 1257年)がカイカーウスの共同統治者となり、貨幣とフトバにはカイカーウスら三兄弟の名前が刻まれた。領主の中にはクルチ・アルスラーンを単独の王に就けようと企む者もおり、イスファハーニーはクルチ・アルスラーンを支持する一派を粛清するとともにクルチ・アルスラーンの生母を妻とした。イスファハーニーはクルチ・アルスラーンを国元から遠ざけるため、1246年のモンゴル帝国の大ハーンを選出するクリルタイに彼を出席させた。クリルタイでオゴデイの皇子グユクがハーンに選出された後、彼の従者からイスファハーニーの行為を告発されたグユクはクルチ・アルスラーンをルーム・セルジュークの正式な支配者として承認する。1249年に帰国したクルチ・アルスラーンの党派はイスファハーニーを処刑し、クルチ・アルスラーンの単独統治を要求した。1249年から1256年までの間、カイカーウスとクルチ・アルスラーンは王位を巡って争い、互いにモンゴルの宮廷に働きかけを行うが、実質的にはカイカーウスが単独で王位に就いている状態にあった。モンケ・ハーンはカイカーウスとクルチ・アルスラーンの内争を調停するため、クズルウルマク川を境として、ルーム・セルジュークを東西に分けて分割統治するように命令した。 モンケの裁定の後に、クルチ・アルスラーンの党派がカイカーウスに戦いを挑むが敗れ、敗れたクルチ・アルスラーンは投獄された。1256年、後にイルハン朝の創始者となるフレグがイランに移動すると(フレグの西征)、アゼルバイジャンに駐屯していたバイジュがアナトリアへの移動を命じられ、王位を巡る状況に変化が起こる。1256年10月にアナトリアに移動したバイジュはカイカーウスの軍を破り、敗れたカイカーウスは一時ニカイアに亡命した。カイカーウスの帰国後、フレグはルーム・セルジュークの分割統治の継続を承認し、首都コンヤをはじめとする西半分の地域をカイカーウスが、トカトを中心とする東半分の地域をクルチ・アルスラーンが支配した。カイカーウスとクルチ・アルスラーンはシャムス・ウッディーン・マフムードという共通のパルヴァーナ(宰相)を介して共同統治を行っていたが、マフムードが没すると両者は別々にパルヴァーナを任命した。クルチ・アルスラーンのパルヴァーナであるムイン・アッディーン・スライマーン(トルコ語版、英語版)(Mu*6131*n*6132*ddin S*6133*leyman)は自分の君主を単独のスルターンにするため、アナトリアに駐屯するモンゴルの将軍アリンジャクを通して、フレグにカイカーウスがエジプトのマムルーク朝と結託して反乱を企てているという讒言を行った。事実カイカーウスはマムルーク朝と連絡を取り合っており、1261年8月にフレグの命令を受けたクルチ・アルスラーンとモンゴル軍によってカイカーウスはコンヤを追放され、コンスタンティノープルに亡命した。カイカーウスの追放後、クルチ・アルスラーンが単独のスルターンとして即位するが、彼の登位はモンゴル帝国の意向によるものであり、ルーム・セルジュークから独立した主権は既に失われていた。 ===国家の形骸化、滅亡=== クルチ・アルスラーンの政権では、イルハン朝の君主であるフレグとアバカの親子から信任を受けていたムイン・アッディーン・スライマーンが実権を有していた。1266年にスライマーンはイルハン朝の許可を得てクルチ・アルスラーンを殺害し、代わりに幼年のカイホスロー3世を即位させた。ルーム・セルジュークはイルハン朝に対して完全に臣従した状態にあり、イルハン朝からの過重な貢納の要求に対して国内では怨嗟の声が上がった。1276年にスライマーンら有力者がイルハン朝の宮廷に伺候して国内を留守にすると、マムルーク朝と結託した廷臣たちによるクーデターが発生する。 マムルーク朝のスルターン・バイバルスはアナトリア半島に遠征し、1277年4月15日にエルビスタン(英語版)でモンゴル軍に勝利する(エルビスタンの戦い(英語版))。4月23日にカイセリに入城したバイバルスは歓迎を受けるが、ルーム・セルジュークの領主たちがモンゴルの報復を恐れて決起しない様子を見て、エジプトに帰国した。 また、バイバルスのアナトリア遠征に呼応して、カラマン家(後のカラマン侯国(英語版)の原型)のシャムス・ウッディーン・ムハンマド・ベグ(英語版)が、カイカーウス2世の王子と称するスィヤーヴシュを擁して反乱を起こした。1277年5月15日に反乱軍はコンヤを占領し、スィヤーヴシュを君主、ムハンマド・ベグを宰相とした政権が成立するが、アバカがアナトリアに進軍した報告を聞くとムハンマド・ベグはコンヤを放棄し、スィヤーヴシュとムハンマド・ベグの政権は37日間という短期に終わる。翌1278年にルーム・セルジューク、モンゴル軍双方の攻撃を受けてスィヤーヴシュとムハンマド・ベグの両名は戦死した。 エルビスタンの戦いで2人の将校を失ったアバカの怒りは大きく、自ら軍を率いてのアナトリアへの懲罰を企てた。カイセリ、エルゼルム周辺の住民はモンゴル軍に殺害され、バイバルスに敗れて敗走するモンゴル兵を匿ったキリスト教徒であってもモンゴル軍の被害を受けた。在地のシャイフ(長老)の説得を受けてアバカは破壊と略奪を止めるよう軍隊に命じ、イスラム教徒の捕虜を釈放し、宮殿に帰還した後スライマーンを処刑した。 バイバルスの遠征はルーム・セルジュークを窮地から救うだけの成果は無く、イルハン朝の圧力がより増す結果に終わる。イルハン朝から宰相シャムスッディーン・ジュヴァイニーが派遣され、ルーム・セルジュークへの経済的な圧力がより強化された。1282年にカイホスロー3世はイルハン朝のハーン・アフマドに廃されてエルズィンジャンに送られ、アフマドを討ってハーンの地位に就いたアルグンからイルハン朝の王族コンクルタイ暗殺に関与した容疑をかけられて殺害された。カイカーウス2世の子マスウード2世とマスウード2世の兄(もしくは従兄弟)のカイクバード3世が領地を二分するが、2人のスルターンは権力を有していない状態にあった。 13世紀末になるとアナトリア半島の秩序は乱れ、領主は暴政を布き、官職の売買も行われるようになった。中央の支配力が衰えると、ウジと呼ばれる辺境地帯では居住するトゥルクマーンの反乱がしばしば発生する(ルーム・セルジューク朝#軍事も参照)。1288年に末期のルーム・セルジューク朝を支えた高官ファフル・アッディーン・アリーが没すると、官僚機構は機能を停止する。1307年までマスウード2世とカイクバード3世が短い間隔を置いて交互にスルターンの地位に就く状態が続き、1295年にマスウード2世は反乱への加担を疑われてガザン・ハンによって廃された時に、4人のルーム・セルジュークの高官が領内を分割して統治する状態になる。 14世紀に入ると、史料に書かれるルーム・セルジューク朝の内情は不明瞭になる。1308年にルーム・セルジュークのマスウード3世がカイセリで急死すると、男子の後継者が断絶する。1308年より後、アナトリアでセルジューク家の人間がスルターンに即位することは無く、ルーム・セルジューク朝は滅亡した。 ==社会== ===王権=== 大セルジューク朝と同じく、ルーム・セルジュークという「国家」は、王家の共有財産とみなされていた。実力、あるいは影響力を有してスルターンに即位した王家の人間は「国家」という財産を継承し、首都を居所とした。国家の統一はスルターンの双肩にかかっており、政府の影響力が低下した時、あるいはスルターンの没後には、しばしば紛争や後継者争いが勃発した。スルターン即位の儀式は建国当初は遊牧民的な色合いの残る質素なものであったが、次第にペルシア文化、ビザンティン文化、バグダードの文化が取り入れられた荘厳な式典が開かれるようになった。 創始者のスライマーン1世はバグダードのカリフより「スルターン」の称号を授与された。実際に「スルターン」を名乗ったのは2代目のクルチ・アルスラーン1世の時代からと考えられており、マスウード1世の時代から貨幣に「スルターン」の称号が刻まれるようになった。9代目のカイホスロー1世の治世に、宮廷に史書『胸の安らぎと喜びの証し』を献呈したラーヴァンディーは、カイホスロー1世を「セルジューク朝国家の後継者」と呼んだ(ルーム・セルジューク朝#文化も参照)。 ===統治機関=== スルターンはディーヴァーン(官庁、閣議。アラビア語で官庁を意味するディーワーンを語源とする)によって輔弼され、ディーヴァーンはヴェズィール(宰相)、サヒビ・ディーヴァーン(官庁の代表)、あるいはスルターン自身が主宰した。ルーム・セルジュークの高官には、スルターンが首都を離れた際に国政を代行するナーイブ、財政を担当するムスタウフィ、イクター(封土)の付与と台帳の作成を担当するペルワネジ、軍隊の俸給と輜重を管理するアミーリ・アルズ、スルターンの命令を起草するトゥライー、財政と行政を監視するムシュリフィ・ママーリクなどがあった。ヴェズィールが主宰したディーヴァーンからの命令を処理するため、これらの高官も別途ディーヴァーンを主宰した。 一方、地方の州はマリク(諸王)の地位を与えられたスルターンの兄弟、王子によって統治され、彼らはヴァーリ(知事)の補佐を受けた。沿岸部の州にはアミーリ・サワーヒルという司令官が置かれ、彼らは艦隊の指揮を委ねられた。ルーム・セルジューク朝が新たに獲得した征服地の統治は征服した人物に委ねられ、征服者はしばしばベイ(君侯)の称号で呼ばれた。ベイたちには租税の徴収が与えられ、土地は征服者の一族に世襲された。 裁判はカーディー(裁判官)が管轄していたが、軍事裁判はカーディレシュケルという軍法の審理を行う判事が担当していた。 ===軍事=== ルーム・セルジューク朝の軍隊は、大セルジューク朝と同じく、スルターンの親衛隊であるカプクル、イクターを与えられたスィパーヒー(シパーヒー、騎士)で構成されていた。カプクルは歩兵と騎兵の混成部隊であり、戦争で捕らえた他国の捕虜や軍人奴隷が成員となっていた。雑多な成員で構成されるカプクルに対して、スィパーヒーはトゥルクマーンで構成されていた。県の中心地に配置されたスィパーヒーはスーバシュという司令官によって統率され、スーバシュは軍事と共に県内の治安の維持も担当した。スーバシュたちはセルレシュケルという軍管区の長の指揮下にあり、セルレシュケルの中で最も有能な者がマリク・アル・ウラマー(ベイレルベイ、司令官)として国内の軍事を統括した。 また、ウジ(端、辺境の意味)と呼ばれた辺境地帯にはトゥルクマーンの諸部族を基盤とする前線基地が設置され、防衛と攻撃の要となった。ウジを構成するトゥルクマーンは13世紀にモンゴル帝国の攻撃を避けてアナトリア半島に避難した遊牧民が中心となっていた。当初彼らはルーム・セルジュークと戦うがやがて軍隊に編入され、在地のギリシア系の正教徒と戦い、あるいは融和しながら共存関係を築いた。 このウジの指導者や、征服地を統治したベイの中からベイリク(君侯国)が生まれる。ベイリクの一つであるサルトゥク侯国、マンギュチ侯国はルーム・セルジューク朝と争い、13世紀にルーム・セルジュークに併合された。ルーム・セルジュークの滅亡後にはアナトリアにベイリクが乱立する状態になっており、割拠したベイリクの中には現在のトルコ共和国の土台となるオスマン帝国も含まれていた。 ===農民、都市住人=== 農業には西トルキスタンから流入したと思われる農民、トルコ化した先住民、強制的に移住させられたギリシャ人農民が携わっていた。農業を常態とする小作農は少なく、大半は日雇い、半常態の有期的な雇用形態をとっていた。また、スライマーン1世はビザンツ帝国によってアナトリアに移住させられたワラキア人、スラヴ人、シリア人農民を保護し、納税を条件に農奴を解放した。12世紀から13世紀にかけてビザンツ帝国の支配力が弱まり、ビザンツ領内の治安が悪化すると、ギリシャ人農民の中にはルーム・セルジューク朝を初めとするトゥルクマーンの政権に逃亡する者も現れる。 軍事、経済、交通の要衝である都市にはトゥルクマーンのほかに、ギリシャ人、アルメニア人、ユダヤ人が居住していた。都市住民の多数を占める職人はロンジャ(同業組合)を結成し、13世紀後半に出現したアヒー(同胞団)が都市住民に影響を及ぼした。租税については、都市民は国家の徴税官に納め、農民は土地の管理者に税を収めた。 13世紀のアナトリアでは、華やかな文化を謳歌する都市住民に対して、農民は彼らの生活を支える活動に従事していた。農民たちはアナトリア内での戦争と略奪に晒され、農地は荒廃し、収穫に多大な打撃を受けた。こうした状況下で農民たちの不満は蓄積され、1240年から1241年にかけてのババ・イスハークの反乱で不満が爆発、反乱は宗教的、かつ奢侈な生活を送る貴族社会に反発する反封建的な性質を有していた。 ===民族=== ルーム・セルジューク朝の成立以前のアナトリア半島の住民は、大半が正教会を信仰するギリシア語を母国とする人々だった。マラズギルトの戦い以後、アナトリアにイスラム教を信仰し、テュルク諸語を話すトゥルクマーンが進出すると、スライマーン1世に従ってアナトリアに移ったトゥルクマーンは封土を与えられ、かつてビザンツ帝国に属していたキリスト教徒の住民はトゥルクマーンたちの支配下に置かれた。在地のギリシャ人貴族は領地を捨てて西方に移住するか、あるいはそのままアナトリアにとどまりルーム・セルジュークに仕えるかの道を選んだ。ルーム・セルジュークの歴代スルターンの中にはキリスト教を信仰するギリシャ人を妻に持つ、あるいは彼女たちの血を引く者も多くいた。 13世紀に入ると東方のモンゴル帝国の拡張に伴って、中央ユーラシア、イランのトゥルクマーン系遊牧民がアナトリア半島に移動する現象が起こり、彼らは辺境部に居住した。遊牧民と定住生活を営む先住民は互いの生活空間が異なるため、平時は共存関係にあったと考えられている。 12世紀のトゥルクマーンの生活様式については、彼らは遊牧生活を送り、また農耕民族からの略奪行為が日常生活の一部となっていたことが、当時のビザンツ帝国の歴史家ヨハネス・キンモナスによって記録されている。遊牧生活を営んでいたトゥルクマーンの定住化が進むとともに、アナトリアの先住民の間にもテュルク諸語が浸透し、アナトリアのトルコ化が進む。トゥルクマーンの諸部族には部族の大きさに応じた租税が課されたが、ウジなどの辺境地域に駐屯する部族は免税されることが多かった。辺境地帯のトゥルクマーンは独立性が強く、ルーム・セルジュークはトゥルクマーンを支配下に置くため、定住化の推進、部族長への称号の授与などの政策を採った。 カイクバード1世の治世に行われた人事改革では、トルコ系以外に、在地のギリシャ系住民、西欧出身のフランク人、モンゴル軍の侵入を避けて中央アジアやイランからアナトリアに逃れたイラン系の人間も多く登用された。この時期にアナトリアに移住したイラン系の人物として、詩作や宗教活動で名を残したジャラール・ウッディーン・ルーミーや、歴史家イブン・ビービーの両親などが挙げられる。 ==経済== 当初のルーム・セルジューク朝の収入は、属領からの貢納と戦利品が大部分を占めていた。国家の発展につれて支出は増大し、政府は収入の確保のために地方の産業の育成と交易の活性化に力を注いだ。 アナトリア半島は交易の十字路に位置するために近隣の地域から隊商が盛んに往来しており、ルーム・セルジューク朝は中継貿易によって利益を得ていた。輸入品が少ない反面、輸出品の品目が多いのがルーム・セルジュークの交易の特徴であり、以下の品目がアナトリアから他の地域へ輸出された。 樹脂、木材、銅、銀、絹、じゅうたん、ゴザ、綿花、胡麻、蜜、皮革、みょうばん13世紀半ばになると輸入量が増加し、以下の商品がアナトリアに輸入されるようになる。 エジプト、シリアからの輸入品:香料、砂糖、武器、綿花、綿布バグダードからの輸入品:毛織物、絹、麝香、キャラボク、龍涎香ルーム・セルジュークの下ではアナトリア半島の秩序が保たれ、治安が保たれた通商路は商業の発展を生み出し、隊商が利用するハーン(隊商宿)、橋梁、道路の建設と修復が進められた。ハーンの中で有名なものとしてはコンヤ・アクサライ間に設置されたスルターン・ハーン、カイセリ・マラティヤ間に設置されたカラタイ・ハーンが挙げられる。また、交易の発展に伴い、各地にバザールが設置される。 ルーム・セルジューク朝の商業の中心地はアナトリア中央部のスィヴァス、黒海沿岸のスィノプだった。スィヴァスは東方交易の拠点として機能し、ルーム・セルジュークの商人は商取引の仲介や商品の運搬を担った。一方、13世紀初頭にルーム・セルジュークの支配下に入ったスィノプは、クリミア半島や南ロシアとの交易地として様々な商品が運ばれ、国庫を潤した交易に携わったのはギリシャ人とアルメニア人が主だったが、第4回十字軍の後、1204年にラテン帝国が成立するとコンスタンティノープルに西欧の商人が多く到来し、交易におけるギリシャ人の地位は衰退する。西欧の商人もルーム・セルジュークと交易を行い、ヴェネツィア共和国、ジェノヴァ共和国、プロヴァンス地方の商人はルーム・セルジュークと通商条約を締結していた。ルーム・セルジュークがモンゴルに従属した後も通商は行われ、1276年にはジェノヴァ商人がスィヴァスに領事館を設置してモンゴルと交渉を行った。 カイクバード1世の時代、ルーム・セルジューク朝は政治、文化と共に経済面でも最盛期を迎える。コンヤ、スィヴァスは中近東の交易都市としての重要性をより増し、手工業は保護を受け、発達が促された。手工業が発展の一例としては、製糖工場の建設が挙げられる。 ==外交== ===大セルジューク朝=== ルーム・セルジューク朝が本国である大セルジューク朝から独立を宣言したのは創始者のスライマーン1世、もしくはクルチ・アルスラーン1世と考えられている。ルーム・セルジューク朝は大セルジューク朝の支配権を承認していた。しかし、内政に関しては本国から完全に独立しており、ビザンツとの戦争、外交についても大セルジューク朝のスルターンを経ずに行うことができた。建国期にクタルミシュ、スライマーン1世、クルチ・アルスラーン1世の3名がセルジューク家の人間に敗れて戦死したことはルーム・セルジューク朝の外交方針に大きな影響を与え、クルチ・アルスラーン1世より後の世代の王は大セルジューク朝と争うことは無かった。 ===ビザンツ帝国=== ルーム・セルジューク朝とビザンツ帝国は時に争い、また数度にわたって和約協定を結んだ。ビザンツはルーム・セルジュークを抑えるために、しばしばダニシュメンド朝、ザンギー朝を巻き込んでの外交政策を展開した。 1081年にルーム・セルジューク朝とビザンツ帝国の間にドラコン川を国境とする条約が結ばれ、この時ルーム・セルジュークからビザンツ皇帝アレクシオス1世に兵力が提供された。クルチ・アルスラーン1世没後のルーム・セルジューク内の内訌にはビザンツも介入し、マスウード1世の即位後もビザンツからの攻撃は続いた。 1161年にクルチ・アルスラーン2世がコンスタンティノープルを訪問した際には80日間にも及ぶ盛大な宴会が開かれたが、ビザンツの態度は高圧的であり、侮蔑の感情も混じっていた。この時、クルチ・アルスラーンはビザンツへの都市の割譲と軍事力の提供を約するが、彼は北イタリア政策を巡ってビザンツと対立していた神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世からの支持を頼みとして、条約を履行しなかった。1162年から1174年までの間、ビザンツ皇帝マヌエル1世はヨーロッパ方面の政策、クルチ・アルスラーンはダニシュメンド朝との抗争にかかりきりであったため、両国の間に大規模な軍事衝突は発生しなかった。1175年から1176年初旬にかけてクルチ・アルスラーンはコンスタンティノープルに和平協定の更新を求める使節を派遣するが拒絶され、ビザンツより遠征軍が派遣された。ビザンツの遠征軍が敗北すると1176年春にマヌエル1世自らが指揮を執る軍が派遣され、ミュリオケファロンの戦いに至る。ミュリオケファロンの戦い以後ビザンツがルーム・セルジュークに対して大規模な攻撃を行うことは無くなったが、第4回十字軍の後にアナトリアに成立したニカイア帝国やトレビゾンド帝国とはしばしば交戦した。 両国の宮廷の間には交流が存在し、コンヤの宮廷にはビザンツ出身者の官吏が多く仕官し、コンスタンティノープルにもテュルク系の廷臣が席を有していた。2つの宮廷を行き来する書簡において、両国は互いにビザンツ皇帝を父、スルターンを子と呼び合ってやり取りを行っていた。政争に敗れた人物が相手側の宮廷に亡命することもしばしばあった。コンヤからはカイホスロー1世、カイカーウス2世らがコンスタンティノープルに亡命し、ビザンツからはビザンツ皇帝を自称したテオドロス・マンガファス、ニカイア帝国内の政争に巻き込まれたミカエル・パレオロゴスらがコンヤに亡命した。また、皇帝ヨハネス2世の甥はルーム・セルジュークの王女と結婚し、イスラームに改宗する選択をとった。 ===モンゴル帝国=== ルーム・セルジューク朝がモンゴル帝国と初めて接触したのは、ヒジュラ暦633年(1235年 ‐ 1236年)のカイクバード1世の治世だと考えられている。カイクバードは貢物を贈ってモンゴルとの友好関係を構築することに努める一方で、国境地帯の防備を強化した。 キョセ・ダーの戦いの後、モンゴル帝国はルーム・セルジューク朝に貢納を課した。その内容は多量の金貨、500匹の絹、500匹のラクダ、500匹の羊を毎年モンゴルの宮廷に納付し、費用はルーム・セルジューク側が負担する条件だった。また、ルーム・セルジュークは領内に滞在するモンゴルの使節に、彼らが必要とする物品を供給しなければならなかった。 カイカーウス2世の在位中、モンゴルの宮廷に派遣された王弟クルチ・アルスラーンが、グユク・ハーンの支持を背景にスルターンの地位を要求する事件が起きる。クルチ・アルスラーンの請求は実現せず、カイカーウスは彼を許して共同統治者の地位に戻したが、この事件はモンゴル帝国の権力者の意向がスルターンの位に反映される時代の始まりだった。モンゴルの従属下にある状況に対して、カイカーウスは領地の半分を譲ることを条件にマムルーク朝のスルターン・バイバルスから軍事協力を得ようとしたが、実現には至らなかった。1261年に積極的にモンゴル帝国に協力する意思を見せなかったカイカーウスがアナトリアから放逐され、イルハン朝の支持を得たクルチ・アルスラーンが即位したことは、ルーム・セルジュークの主権の喪失を象徴する事件と言える。 カイホスロー3世以後のスルターンはイルハン朝の意向によって廃位され、政務を取り仕切る大臣もイルハン朝の意を受けて動いていた。13世紀末から14世紀にかけて断続的にスルターンに擁立されたカイクバード3世の権威は、イルハン朝から派遣された代官に比べて微弱なものだった。 ==宗教== ルーム・セルジューク朝ではスンナ派のイスラム教が公式の宗教とされ、都市部の住民や農民たちもスンナ派を信仰していた。スルターンはアッバース朝のカリフと友好関係を保ち、王朝では宗教的平等が保障されていた。ルーム・セルジュークの領土に移住したトゥルクマーンの遊牧民もスンナ派を信仰するイスラム教徒だった。しかし、実際のところ彼らが信仰するイスラームはシャーマニズムに近いものであり、ダルヴィーシュ(修行僧)のバーバー(長老)たちの影響下に置かれていた。アナトリア半島の先住民であるキリスト教徒の中には利益、あるいは安全の確保を求めてイスラームに改宗する者もいたが、他方で神秘主義(スーフィズム)と民衆的なイスラームの教えに感化されて改宗した者もいた。13世紀末には、アナトリア半島の人口のおよそ80パーセントをイスラム教徒が占めると推定する声もある。 ルーム・セルジュークの下では多数の宗教団体が成立し、軍人と民衆の両方に影響を与えた。ルーム・セルジューク期の著名な宗教家としては、アンダルシア地方の神秘主義者(スーフィー)思想家イブン・アル=アラビー、メヴレヴィー教団の祖であるジャラール・ウッディーン・ルーミーらが挙げられる。 ==文化== ルーム・セルジューク朝成立以前のアナトリア半島のイスラーム文化は、ほとんど姿を遺していない。ルーム・セルジュークの治下ではアナトリアの都市にモスク、マドラサ(学院)が多く建設され、この時代にはアナトリアのイスラーム化が進んだ。 ===文芸=== 宮廷、官庁ではペルシア語が公用語として使われ、文章の作成には主にアラビア語が用いられた。1277年にクーデターによって成立したスィヤーヴシュの短期政権ではテュルク語が公用語に定められ、これがアナトリア半島の国家で最初にテュルク語が公用語に定められた最初の例となる。歴史書、文学作品は公用語であるペルシア語かアラビア語で書かれた物がほとんどで、テュルク系の言語で書かれた書物は少なかった。テュルク系の言語による文学活動としては、オザン(民衆詩人)が集会などで披露していた、コプーズという弦楽器を使って民族的英雄の活躍を詠う叙事詩を挙げられる。 宗教的な影響力を有していたダルヴィーシュの中には、民衆詩の形式に則った詩文を著した者もいた。ルーム・セルジューク朝期の作家として著名な人物として、ジャラール・ウッディーン・ルーミーが挙げられる。彼はコンヤを拠点として文学、宗教活動を行い、ペルシア語による詩集『シャムス・タブリーズィー詩集』『精神的マスナヴィー』を著した。 カイホスロー1世の治世、歴史家ラーヴァンディーによるペルシア語でセルジューク朝の歴史を記した『胸の安らぎと喜びの証し』が宮廷に献呈される。ラーヴァンディーは元々イラク・セルジューク朝のスルターン・トゥグリル3世の保護を受けていたが、1194年にトゥグリル3世が戦死してイラク・セルジュークが崩壊したため、セルジューク家の一員であるカイホスロー1世に著作を献呈した。 ===建築=== ルーム・セルジューク朝では、コンヤ、カイセリ、スィヴァスなどの主要な都市での戦闘に備えた大規模な城壁の建設、アナトリアの交易路を保護するためにキャラバンサライや橋梁の建設と整備が進められた。都市の内部にはスルターンや高官によってモスク、公衆浴場(ハンマーム)、病院が建設され、それらの施設の維持費はワクフによって賄われた。国家による建築事業は国力の衰えた王朝末期、王朝滅亡後のベイリク時代になってもなお続いた。 ルーム・セルジューク朝の建築物は中央アジア、ホラーサーン、イラン、イラクの建築物と同様の特徴を備えているほか、ビザンツ、シリア、アルメニアなどの周辺地域の建築様式の影響も受けている。また、寒冷かつ山岳地帯が多く含まれる地理的な要因を受けて、個性的な作品が多く現れた。直線的な構図を特徴として有し、モスク、メドレセは石彫りの草花や幾何学模様で装飾され、装飾として青、白、黒のタイルが張られている。代表的な建築物に、カイカーウス2世が建立したコンヤのインジュミナレ・メドレセ、スィヴァスのギョク・メドレセなどがある。 ==年表== 1077年 ‐ ルーム・セルジューク朝の独立が承認される1086年 ‐ スライマーン戦死で一時断絶1092年 ‐ 息子のクルチ・アルスラーン1世が即位し再建1097年 ‐ 第1回十字軍によって首都ニカイアを占領され(ニカイア包囲戦)、コンヤに移動。1176年 ‐ ミュリオケフォアロンの戦いで、皇帝マヌエル1世コムネノス率いる東ローマ帝国軍に勝利する1178年 ‐ ダニシュメンド朝を併合1192年 ‐ クルチ・アルスラーン2世が死去し、国家は分裂状態に1207年 ‐ 港湾都市アンタルヤを獲得、海洋への拠点を初めて得る1211年 ‐ カイホスロー1世がニカイア帝国軍との戦闘の前後に没。1214年 ‐ トレビゾンド帝国に勝利、黒海沿岸の港湾都市スィノプを割譲される1227年 ‐ クリミア半島遠征1230年 ‐ ヤッス・チメンの戦いでホラズム・シャー朝に勝利1240年 ‐ バーバー・イスハークの反乱1243年 ‐ モンゴル帝国とのキョセ・ダーの戦いに敗北。属国化へ1261年 ‐ カイカーウス2世の亡命1277年 ‐ バイバルスの遠征、カラマン家の反乱1308年 ‐ 滅亡 ==歴代君主== (スライマーン・イブン=クタルミシュからカイホスロー3世までは『西アジア史 2 イラン・トルコ』(永田雄三編、新版世界各国史、山川出版社、2002年8月)付録66ページに収録されている系図を元に作成) アルスラーン・イスラーイール・イブン=セルジューク クタルミシュ・イブン=アルスラーン・イスラーイールアルスラーン・イスラーイール・イブン=セルジューククタルミシュ・イブン=アルスラーン・イスラーイールスライマーン・イブン=クタルミシュ(在位:1077年 ‐ 1086年)クルチ・アルスラーン1世(在位:1092年 ‐ 1107年)マリク・シャー・イブン=クルチ・アルスラーン(在位:1110年 ‐ 1116年)マスウード1世(在位:1116年 ‐ 1155年)クルチ・アルスラーン2世(在位:1155年 ‐ 1192年)カイホスロー1世(在位:1192年 ‐ 1196年)スライマーン2世(在位:1196年 ‐ 1204年)クルチ・アルスラーン3世(在位:1204年 ‐ 1205年)カイホスロー1世(2回目、在位:1205年 ‐ 1211年)カイカーウス1世(在位:1211年 ‐ 1220年)カイクバード1世(在位:1220年 ‐ 1237年)カイホスロー2世(在位:1237年 ‐ 1245年)カイカーウス2世(在位:1245年 ‐ 1261年)クルチ・アルスラーン4世(在位:1261年 ‐ 1266年)カイホスロー3世(在位:1266年 ‐ 1284年)マスウード2世(在位:1284年 ‐ 1285年、1285年 ‐ 1292年、1293年 ‐ 1300年、1302年 ‐ 1304年)カイクバード3世(在位:1285年、1292年 ‐ 1293年、1300年 ‐ 1302年、1304年 ‐ 1308年)マスウード3世(在位:1308年) ==系図== =阿南鉄道= 阿南鉄道(あなんてつどう)は、徳島県勝浦郡小松島町(現在の小松島市)と那賀郡羽ノ浦村(現在の阿南市)を結ぶため建設された鉄道路線及びその運営会社である。乗合自動車業も兼営した。後に国有化され、現在の四国旅客鉄道(JR四国)牟岐線の一部となった。 ==歴史== 1900年(明治33年)那賀郡羽ノ浦村出身の代議士板東勘五郎ら有志により徳島駅より岩脇(羽ノ浦町古庄付近)間に鉄道を敷設することを計画し阿陽鉄道株式会社を設立することになった。しかし有志の多くが徳島鉄道の役員であったことから徳島鉄道の手により敷設することになり、仮免状が下付された。ところが徳島鉄道は1907年(明治40年)国に買収されることになり、計画は立ち消えとなってしまった。 1911年(明治44年)石井町の実業家で代議士の生田和平ら有志は徳島市二軒屋を起点とし岩脇に至る路線の敷設と阿南電気鉄道設立の申請をした。これは先の阿陽鉄道と同ルートであった。なお当初の計画では那賀郡新野村が終点であったが那賀川へ架橋するためには多額の費用がかかることから古庄を終点にした。この申請に鉄道院は徳島‐小松島間には阿波国共同汽船に対し免許しているので重複をさけること、電気鉄道を蒸気鉄道に変更することなど指示があった。このため起点を小松島町とし蒸気鉄道に変更する申請をした。社名は阿南鉄道に変更して1913年(大正2年)に会社を設立し、本社は徳島に置いた。社長は生田和平が就任した。なお起点は小松島と中田の両案があり小松島町を二分する程の騒動となり末松偕一郎知事の調停により起点は中田に決まった。 そして小松島軽便線(阿波国共同汽船)中田駅より羽ノ浦村古庄に至る路線の敷設工事は1915年(大正4年)12月1月に着工、1916年(大正5年)12月に全線開業した。列車の運転は1日7往復うち4往復は徳島まで直通運転をした。また支線も計画された。ひとつは羽ノ浦駅より分岐して平島村大字大京原村字西ノ口に至る支線で1913年(大正2年)に免許状が下付されたが工事に着手できず免許を取消された。このため1914年(大正3年)10月20日に再度免許されたが結局免許を返納。もうひとつは立江駅より分岐して勝浦郡棚野村へ至る路線で1918年(大正7年)に免許されたが関東大震災後の財界不況により実現できなかった。 やがて乗合自動車の進出により鉄道収入が減少、1927年(昭和2年)乗合自動車兼業を申請し1928年(昭和3年)から営業を開始する。さらに1930年(昭和5年)にガソリンカーを購入。1日15往復(直通8往復)に増便した。 しかし乗合自動車業を始めたものの業績回復には至らなかったため代議士でもある生田社長は鉄道買収を政府に働きかけた結果、1928年(昭和3年)1月の閣議で阿南鉄道の買収が決定された。しかし牟岐線羽ノ浦‐牟岐間の工事が延期されたため買収案は消滅してしまった。ようやく1933年(昭和8年)工事が再開され、1936年(昭和11年)3月に牟岐線羽ノ浦駅‐桑野駅間が開通した。5月に開かれた第69回帝国議会において「岩手輕便鐵道株式會社所屬鐵道外三鐵道及兼業に屬する資産買收の爲公債發行に關する法律案」が政府から提出され法案は可決された。買収日は7月1日となり買収価額は68万6855円(交付公債額71万7775円)。開業線建設費75万3771円に対し91パーセントであった。 ===年表=== 1912年(大正元年)10月22日 阿南電気鉄道に対し鉄道免許状下付(勝浦郡小松島町大字小松島浦村字東出口‐那賀郡羽浦村大字岩脇村字姥ヶ原間、動力電気、軌間1435mm)1913年(大正2年) 9月1日 阿南鉄道に対し鉄道免許状下付(那賀郡羽ノ浦村‐同郡平島村間、動力蒸気、軌間1067mm) 10月20日 阿南鉄道株式会社(社長生田和平)設立9月1日 阿南鉄道に対し鉄道免許状下付(那賀郡羽ノ浦村‐同郡平島村間、動力蒸気、軌間1067mm)10月20日 阿南鉄道株式会社(社長生田和平)設立1914年(大正3年)10月20日 鉄道免許状下付(那賀郡羽ノ浦村‐同郡平島村間)1916年(大正5年) 10月26日 鉄道免許状返納(1914年10月20日免許 那賀郡羽ノ浦村‐同郡平島村間 起業廃止による) 12月15日 中田 ‐ 古庄間を開業。10月26日 鉄道免許状返納(1914年10月20日免許 那賀郡羽ノ浦村‐同郡平島村間 起業廃止による)12月15日 中田 ‐ 古庄間を開業。1918年(大正7年)12月12日 鉄道免許状下付(那賀郡立江町‐勝浦郡棚野村間)1926年(大正15年)4月12日 鉄道免許失効(1918年12月12日免許 那賀郡立江町‐勝浦郡棚野村間 指定ノ期限内ニ工事施工認可申請ヲ為ササルタメ)1928年(昭和3年)3月1日 富岡自動車商会より乗合自動車業を継承1930年(昭和5年) 4月17日 瓦斯倫動力併用認可 6月11日 ‐ ガソリンカー運行開始(中田‐古庄間)。12月1日より省線徳島駅まで乗り入れ4月17日 瓦斯倫動力併用認可6月11日 ‐ ガソリンカー運行開始(中田‐古庄間)。12月1日より省線徳島駅まで乗り入れ1931年(昭和6年)小松島町へ本社を移転1936年(昭和11年) 6月 丹生谷自動車へ阿南鉄道自動車部の路線と営業権を譲渡 7月1日 阿南鉄道の中田 ‐ 古庄間を国有化し牟岐線に編入。羽ノ浦 ‐ 古庄間の旅客営業を廃止。赤石駅を阿波赤石駅と改称。機関車3両、蒸気動車1両、ガソリンカー4両、客車8両、貨車12両を引継ぐ。6月 丹生谷自動車へ阿南鉄道自動車部の路線と営業権を譲渡7月1日 阿南鉄道の中田 ‐ 古庄間を国有化し牟岐線に編入。羽ノ浦 ‐ 古庄間の旅客営業を廃止。赤石駅を阿波赤石駅と改称。機関車3両、蒸気動車1両、ガソリンカー4両、客車8両、貨車12両を引継ぐ。 ==駅一覧== 駅間距離、所在地は鉄道停車場一覧. 昭和9年12月15日現在(国立国会図書館デジタルコレクション)より ==輸送・収支実績== 鉄道院鉄道統計資料、鉄道省鉄道統計資料、鉄道統計資料各年度版 ==車両== 開業時は、機関車1両、客車3両、貨車4両(有蓋2無蓋2)を鉄道院から、蒸気動車を三河鉄道から購入。蒸気動車は三河鉄道では僅か3年しか使用されなかったが、阿南鉄道では主力として活躍した。1930年、ガソリンカー(定員50人)3両を購入。蒸気動車に代わり徳島乗り入れを行う。1931年1両(定員90人)を追加しほぼ全列車、かつ貨車牽引もこなした。その後は牟岐線建設資材輸送で貨物が増加。牟岐線開業により客貨が増加し、ガソリンカーの出番は半減した。 引継車両にト104、フト101が見当たらずト111、112が出現していることから改番したとみられるが鉄道省文書には該当の記録が見当たらない鉄道省文書『阿南鉄道』、「昭和戦前期,買収客貨車改番一覧」 ===車両数の変遷=== 鉄道院鉄道統計資料、鉄道省鉄道統計資料、鉄道統計資料各年度版 =トーキー= トーキー (talkie) は、映像と音声が同期した映画のこと。talkie という語は talking picture から出たもので、moving picture を movie と呼んだのにならったものである。サイレント映画(無声映画)の対義語として「トーキー映画」と呼ばれることもあるが冗語である。無声映画の対義語としては「発声映画」と呼ばれる。音声が同期した映画が一般的な現在では、あえて「トーキー」と呼ぶことはない。発声映画が最初に上映されたのは1900年のパリでのことだったが、商業的に成り立つにはさらに10年以上を要した。当初は映画フィルムとは別にレコード盤に録音したものを使っていたため同期が難しく、しかも録音や再生の音質も不十分だった。サウンドカメラの発明によって同期が簡単になり、1923年4月にニューヨークで世界で初めてその技術を使った短編映画が一般上映された。 1930年代に入るとトーキーは世界的に大人気となった。アメリカ合衆国ではハリウッドが映画文化と映画産業の一大中心地となることにトーキーが一役買った(アメリカ合衆国の映画参照)。ヨーロッパや他の地域では無声映画の芸術性がトーキーになると失われると考える映画製作者や評論家が多く、当初はかなり懐疑的だった。日本映画では1931年(昭和6年)の『マダムと女房』(松竹キネマ製作、五所平之助監督、田中絹代主演)が初の本格的なトーキー作品である。しかし、活動弁士が無声映画に語りを添える上映形態が主流だったため、トーキーが根付くにはかなり時間がかかった。インドの映画はトーキーの到来によって急速に成長し、1960年代以降はアメリカを抜き、世界一の映画製作数を誇るようになった。 発声映画の商業化への第1歩はアメリカ合衆国で1920年代後半に始まった。トーキーという名称はこのころに生まれた。当初は短編映画ばかりで、長編映画には音楽や効果音だけをつけていた。長編映画としての世界初のトーキーは、1927年10月公開のアメリカ映画『ジャズ・シンガー』(ワーナー・ブラザース製作・配給)であり、ヴァイタフォン方式だった。これは、前述のレコード盤に録音したものを使う方式で、その後はサウンド・オン・フィルム方式(サウンドトラック方式)がトーキーの主流となった。翌1928年に、サウンドトラック方式を採用したウォルト・ディズニー・プロダクション製作の『蒸気船ウィリー』が公開される。『蒸気船ウィリー』は短編ながら、初のクリックトラックを採用した映画である。しかし、世界初のトーキーアニメーション映画に関しては、1926年に、フライシャー・スタジオの『なつかしいケンタッキーの我が家』がすでに公開されている。 ==歴史== ===トーキー以前=== 映像と同時に音を録音するというアイデアは、映画そのものと同じくらい古くからある。1888年2月27日、先駆的写真家エドワード・マイブリッジはトーマス・エジソンの研究所にほど近い場所で講演を行い、この2人の発明家は個人的に会った。マイブリッジは商業映画が誕生する6年前のこのときに、彼の発明したズープラクシスコープの動画とエジソンの蓄音機の技術を組合せ、発声映画を作ることを提案したと後に主張している。合意に達することはなかったが、その1年以内にエジソンは覗き込む方式のキネトスコープを開発し、これに円筒型蓄音機の音楽を組み合わせた興行を行った。この2つを組み合わせたキネトフォン (Kinetophone) が1895年に作られたが、フィルム映写方式が成功したことで覗き見方式はすぐに廃れることになった。1899年、スイス生まれの発明家フランソワ・デュソーの発明に基づく映写式発声映画システム「キネマクロノグラフ (Cinemacrophonograph)」または「フォノラマ (Phonorama)」がパリで公開された。これはキネトフォンと同様、観客がイヤホンをつける必要があった。フランスの Cl*11914*ment‐Maurice Gratioulet と Henri Lioret は発声映画システム Phono‐Cin*11915*ma‐Th*11916**11917*tre を開発し、1900年のパリ万国博覧会で演劇、オペラ、バレエなどを扱った短編映画を上映した。フィルムを映写し、音をスピーカーで鳴らすという形の世界初の上映とされている。パリ万博では他に前述のフォノラマや Th*11918**11919*troscope というシステムも公開された。 映像と音声を別々に記録・再生する方式には、3つの大きな問題があった。最大の問題は同期である。別々に記録してあるため、完全に同時にスタートさせ、常に同期をとるのは非常に難しい。また十分な音量で再生することも難しかった。映像の方はすぐに大きなスクリーンに映写できるようになったが、真空管による電気的増幅が可能になるまで、観客席全体に響くような大音量を出すことはできなかった。最後の問題は録音の音質である。当時の録音システムでは、演奏者が面倒な録音装置の目の前で演奏しない限り、極めて聞き取りにくい音声しか録音できなかった。そのため、撮影と同時に録音する場合、映画の題材が限られることになった。 様々な方式で同期問題の根本的対処が試みられた。多くのシステムが蓄音機とレコードを利用しており、これをサウンド・オン・ディスク技術と呼ぶ。円盤式レコード自体は発明者のエミール・ベルリナーに因んで「ベルリナー盤」と呼ばれた。1902年、レオン・ゴーモンが独自のサウンド・オン・ディスク方式Chronophoneを公開した。これには映写機と蓄音機を電気的に接続する特許が使われていた。4年後、ゴーモンはイギリスの発明家 Horace Short と Charles Parsons の開発した Auxetophone に基づいた圧縮空気による増幅システム Elg*11920*phone を開発した。期待を集めたものの、ゴーモンの技術革新は商業的にはあまり成功しなかった。発声映画の3つの問題を完全に解決したわけではなく、その上高価だった。そのころ、ゴーモンのライバルとしてアメリカの発明家E・E・ノートンのCameraphoneがあった(円筒式なのか円盤式なのか資料によってまちまちである)。こちらもChronophoneと似たような理由で成功には至らなかった。 1913年、エジソンは1895年のシステムと同じくキネトフォンと名付けた映写式の発声映画システムを開発した(音源は円筒式レコード)。蓄音機は映写機内の複雑に配置された滑車と接続されており、理想的条件下では同期できた。しかし実際の上映が理想的条件でなされることは滅多にないため、この改良型キネトフォンは1年ほどで姿を消した。1910年代中ごろには、発声映画の商業化の熱が一時的に低下した。エホバの証人は人類の起源についての自説を広めるため、1914年からアメリカ合衆国各地を巡回して The Photo‐Drama of Creation を上映した。これは8時間もの超大作で、別に録音された説教と音楽を蓄音機で同時に再生していた。 そのころ、技術革新は重要な局面を迎えていた。1907年、フランス生まれでロンドンで活動していたユージン・ロースト(1886年から1892年までエジソンの下で働いていた)がサウンド・オン・フィルム技術の世界初の特許を取得した。これは、音声を光の波に変換し、セルロイド上に焼き付けるというものである。歴史家 Scott Eyman は次のように解説している。 それは二重のシステムであり、音と映像は別々のフィルム上にあった。(中略)基本的に音をマイクロフォンでとらえて電球を使って光の波に変換し、狭いスリットのある薄く敏感な金属リボンに照射する。このリボンのスリットを通過した光をフィルムに焼き付けると、幅が0.1インチ前後の震えるように変化する光の帯となる。 サウンド・オン・フィルム方式は発声映画の標準となったが、ロースト自身は自分の発明をうまく活用できなかった。1914年、フィンランドの発明家 Eric Tigerstedt は独自のサウンド・オン・フィルム方式の特許をドイツで取得し(#309,536)、同年ベルリンの科学者らの前で試験上映を行った。ハンガリーの技術者 Denes Mihaly も1918年に独自のサウンド・オン・フィルム方式の特許を出願している。こちらの特許が成立したのは4年後である。しかし、これらのシステムは音をどこにどう記録するかという部分では様々だが、いずれも商業的に成功するには至っていない。ハリウッドの大手スタジオも発声映画ではほとんど利益を上げられなかった。 ===重要な技術革新=== 多数の技術革新により、1920年代後半における発声映画の商業化が可能となった。サウンド・オン・フィルム方式とサウンド・オン・ディスク方式の両方で技術革新がなされた。 サウンド・オン・フィルム方式では、1919年、アメリカの発明家リー・ド・フォレストがサウンド・オン・フィルム方式の商業化を可能にするいくつかの特許を取得した。ド・フォレストのシステムでは、サウンドトラックは映画のフィルムの端に焼き付けられている。録音時に映像と音声がしっかり同期していれば、確実に再生時にも同期できる。ド・フォレストはその後4年間、他の発明家セオドア・ケースから関連する特許のライセンスを受け、システムの改良に取り組んだ。 イリノイ大学ではポーランド出身の工学者 Joseph Tykoci*11921*ski‐Tykociner も同様の研究を独自に行っていた。1922年6月9日、彼はアメリカ電気学会(AIEE)の会員に対してサウンド・オン・フィルム方式のデモンストレーションを公開した。ローストやTigerstedtと同様、Tykocinerのシステムも商業的に成功することはなかった。ただし、ド・フォレストは間もなく成功を収めることになった。 1923年4月15日、ニューヨーク市のリボリ劇場で世界初のサウンド・オン・フィルム方式の映画が商業上映された。ド・フォレストのフォノフィルムと題して複数の短編映画とサイレントの長編映画を組み合わせた上映だった。同年6月、ド・フォレストはフォノフィルムの重要な特許について従業員 Freeman Harrison Owens との法廷闘争に入った。法廷では最終的にド・フォレストが勝ったが、今日ではOwensが主たる発明者だったと認められている。翌年、ド・フォレストのスタジオはトーキーとして撮影された最初の商用劇映画 Love’s Old Sweet Song(2巻、監督 J. Searle Dawley、主演 Una Merkel)を公開した。しかし、フォノフィルム作品の多くはオリジナルのドラマではなく、有名人のドキュメンタリー、流行歌の演奏シーン、喜劇などだった。カルビン・クーリッジ大統領、オペラ歌手の Abbie Mitchell、ボードヴィルのスター Phil Baker、Ben Bernie、エディ・カンター、Oscar Levant といった人々が初期のフォノフィルムの映画に登場していた。ハリウッドは新技術に懐疑的で慎重だった。Photoplay誌の編集者ジェームズ・カークは1924年3月、「ド・フォレスト氏は言う『トーキーは完成した。ひまし油と同じように』と」と書いている。ド・フォレストの方式は1927年までアメリカ国内で十数本の短編映画に使われ続けた。イギリスでは数年長く使われ、British Talking Pictures の子会社である British Sound Film Productions による短編映画と長編映画が作られた。1930年末までにフォノフィルムの商業利用は衰退した。 ヨーロッパでも独自にサウンド・オン・フィルム方式を開発する人々がいた。1919年、ド・フォレストが特許を取得したのと同じ年、3人のドイツ人発明家がトリ=エルゴン音響システムの特許を取得した。1922年9月17日、劇映画 Der Brandstifter を含むトリ=エルゴンのサウンド・オン・フィルム方式の映画がベルリンの Alhambra Kino で招待客に公開された。ヨーロッパではこのトリ=エルゴンが一時主流となった。1923年には2人のデンマーク人技師 Axel Petersen と Arnold Poulsen が映画のフィルムとは別のフィルムに音声を録音し、2本のフィルムを並行させて映写・再生する方式の特許を取得した。これをゴーモンがライセンス取得し、Cin*11922*phone の名前で商業化した。 フォノフィルムが衰退したのはアメリカ国内の競争の激化が原因だった。1925年9月にはド・フォレストとケースの事業はうまく行かなくなってきた。翌年7月、ケースは当時ハリウッドで3番目の大手スタジオだったフォックス・フィルムに加わり、フォックス・ケース社を創設した。ケースは助手の Earl Sponable と共に新たなトーキーシステム「ムービートーン」を開発し、これがハリウッドの大手スタジオが支配する初のトーキーシステムとなった。翌年フォックスは北米でのトリ=エルゴンの権利も買い取ったが、ムービートーンの方が優れていることが判明し、両者を統合することで新たな利点を得ようと考えたものの、統合は事実上不可能だった。1927年にはド・フォレストとの訴訟に敗れた Freeman Owens を雇った。彼はトーキーのカメラ組み立てに特に熟達していたためである。 サウンド・オン・ディスク方式はサウンド・オン・フィルム方式と並行して改良が進んだ。蓄音機のターンテーブルを特殊仕様の映写機と相互接続して同期するようになっていた。1921年、Orlando Kellum が開発したフォトキネマシステムは、D・W・グリフィスの失敗に終わった無声映画『夢の街 (en)』に音を同期させるのに使われた。出演者の Ralph Graves がラブソングを歌うシーンが追加で撮影され、同時に録音が行われた。台詞も録音したが、出来が悪かったため、その部分は公開されなかった。1921年5月1日、ラブソング部分を追加した『夢の街』がニューヨークで公開され、撮影と同時に録音した部分を含む世界初の長編映画となった。同様の映画が製作されるのは6年後のことである。 1925年、当時はまだ小さなスタジオだったワーナー・ブラザースは、ニューヨークのヴィタグラフ・スタジオを買い取り、そこでサウンド・オン・ディスク方式の実験を開始した。ワーナーはこれをヴァイタフォンと名付け、3時間近い長編映画『ドン・ファン』に採用し、1926年8月6日に公開した。同期音声を付けた長編映画としては世界初であり、サウンドトラックには音楽と効果音が含まれているが台詞は録音されていない。つまり、本来は無声映画として撮影されたものだった。ただし『ドン・ファン』と同時に8本の短編映画(クラシック演奏など)とMPAA会長 Will H. Hays による4分の紹介映画が上映されており、これらは全て撮影と同時に録音されている。これらがハリウッドによる初の発声映画と言える。ワーナーは同年10月にも『ドン・ファン』と同様の手法で The Better ’Ole という映画を製作し公開している。 サウンド・オン・フィルム方式はサウンド・オン・ディスク方式に対して次のような根本的利点があるため、優勢となっていった。 同期: 同期機構には完全な信頼性があるとは言えず、レコード盤で音飛びしたり、フィルムの速度が変化するなどして同期が崩れることがある。そのため、人間が常に監視して調整する必要があった。編集: レコード盤は直接編集できない。このため、フィルムを編集するとレコード盤に録音された音声と同期しなくなってしまう。配給: 蓄音機のレコード盤は当時はまだ高価で、配給作業も複雑化させた。摩損: レコード盤を繰り返し再生していると、摩損していく。約20回上映すると新しいレコード盤に交換する必要があった。それにも関わらず、初期のサウンド・オン・ディスク方式はサウンド・オン・フィルム方式に対して次の2点で優っていた。 製作コストと設備投資: フィルムに音を焼き付けるよりもレコード盤に録音する方が一般に安価だった。また、蓄音機のターンテーブルと映写機のインターロック機構の方が、フィルム上のサウンドトラックから音を再生する機構よりも安価だった。音質: 蓄音機を使ったシステム、特にヴァイタフォンは(少なくとも最初の数回の上映では)当時のサウンド・オン・フィルム方式よりもダイナミックレンジが広かった。サウンド・オン・フィルム方式の方が周波数特性が一般に優れているが、同時に歪みと雑音も多かった。サウンド・オン・フィルム方式が改良されるにつれて、これらの欠点は克服されていった。 3番目の重要な技術革新は、録音と再生の両方を大きく改善した。それは録音と増幅に関する電子工学の進歩である。1922年、AT&Tの製造部門ウェスタン・エレクトリックの研究部門がサウンド・オン・ディスク方式とサウンド・オン・フィルム方式の両方について重点的な研究を開始した。1925年、同社は高感度のコンデンサ・マイクと録音装置を含む大幅に改善された電子音響システムを発表した。同年5月、同社はこれを映画用システムに利用するライセンスを起業家 Walter J. Rich に与えた。彼はヴィタグラフ・スタジオに資金提供しており、その1カ月後にワーナー・ブラザースがその半分の権利を買い取った。1926年4月、ワーナーはAT&Tと映画音響技術に関する独占契約を結び、それが『ドン・ファン』と付随する短編映画製作につながった。この間、ヴァイタフォンだけがAT&Tの特許を独占的に使用でき、ワーナーの発声映画の音質は他社の追随を許さないほど高かった。一方ベル研究所として独立したAT&Tの研究部門は増幅技術を急激に進化させていき、劇場全体にスピーカーで音を響かせることができるシステムを完成させた。その新たな振動コイル型(ダイナミック型)スピーカーシステムがニューヨークのワーナーの劇場に同年7月に設置され、そのシステムに関する特許は『ドン・ファン』公開のわずか2日前の8月4日に出願された。 AT&Tとウェスタン・エレクトリックは同年、映画関連の音響技術の権利を専門に扱う Electrical Research Products Inc. (ERPI) を創設した。ヴァイタフォンはまだ独占的権利を持っていたが、ロイヤリティ支払いが遅れたため、ERPIが実質的な権利を持つことになった。1926年12月31日、ワーナーはフォックス・ケースにウェスタン・エレクトリックのシステムを使用できるサブライセンスを提供し、その代わりにワーナーとERPIがフォックスの関連する収益の一部を受け取る契約を結んだ。3社は関連する特許についてクロスライセンス契約を結んだ。優れた録音/増幅技術はこれによってハリウッドの2つのスタジオで利用可能となった。しかも両スタジオはトーキーの方式が全く異なっていた。この翌年、発声映画が商業的に大きく飛躍することになった。 ===「トーキー」の成功=== 1927年2月、ハリウッドの当時の大手映画会社5社(パラマウント、MGM、ユニバーサル、First National、セシル・B・デミルの Producers Distributing Corporation (PDC))がある合意に達した。この大手5スタジオは発声映画の互換性を保つために5社がひとつのプロバイダを選ぶことで合意したのである。そして、先駆者がどういう結果になっているかをじっくり検討した。同年5月、ワーナー・ブラザースは独占権を(フォックス・ケースのサブライセンスといっしょに)ERPIに買い戻してもらい、フォックスと同等の技術使用契約を新たに結んだ。フォックスとワーナーは発声映画について技術的にも商業的にも異なる方向へと向かっていた。フォックスはニュース映画や音楽劇に向かい、ワーナーは長編映画に向かっていた。ERPIは大手5スタジオと契約することで市場を独占しようと考えた。 この年、発声映画はあらゆる既知の有名人を利用して大々的に宣伝された。1927年5月20日、ニューヨークのロキシー劇場で同日早朝に大西洋横断飛行に旅立ったチャールズ・リンドバーグの離陸のニュース映画をフォックスのムービートーンで上映した。また6月にはリンドバーグが帰還し、ニューヨークやワシントンD.C.で歓迎される様子を同じくフォックスの発声ニュース映画で伝えた。これらは今日までに最も賞賛された発声映画とされている。フォックスは同年5月に台詞を同期させたハリウッド初の短編劇映画 They’re Coming to Get Me(主演はコメディアンの Chic Sale)を公開している。フォックスは『第七天国』などの無声映画のヒット作を公開した後の9月23日、ムービートーン初のオリジナル長編『サンライズ』(監督F・W・ムルナウ)を公開した。『ドン・ファン』と同様、フィルムのサウンドトラックには音楽と効果音が入っており、群衆シーンでは特に誰のものともわからない声も入っていた。 そして1927年10月6日、ワーナー・ブラザースの『ジャズ・シンガー』が公開された。国内と海外を合わせた興行収入は262万5千ドルであり(ワーナーの前作より100万ドルも多い)、中堅クラスのスタジオとしては破格の大成功だった。ヴァイタフォンで製作された映画は、『サンライズ』や『ドン・ファン』と同様に音楽と効果音が基本で、撮影時の録音は使っていない。ただしアル・ジョルソンが映画の中で歌うシーンがあるが、その歌と台詞はセットで録音されたもので、他に母親とのやりとりもその場で録音されたものだった。そのため、セット内の自然な音が聞こえる。『ジャズ・シンガー』のヒットは当時既に大スターだったジョルソンの人気によるところが大きく、初の部分的同期音声を使った映画だという点が大きく寄与したとは言えないが、その収益は映画産業にとってそのテクノロジーに投資する価値があることを十分に示していた。 商業発声映画については、『ジャズ・シンガー』のヒットの前後で状況は特に変化しなかった。(落伍したPDCを除く)4大スタジオとユナイテッド・アーティスツといった大手が映画製作現場と劇場のための機器を更新すべくERPIと契約するのは1928年5月以降のことである。当初、ERPIは全ての契約劇場をヴァイタフォン対応にし、その多くでムービートーンの上映もできるようにした。両方のテクノロジーにアクセス可能になっても、多くのハリウッドの映画会社はまだ発声映画を製作しなかった。ワーナー・ブラザースを除くスタジオは部分トーキーですらなかなかリリースしようとしなかったが、低予算指向の Film Booking Offices of America (FBO) が『ジャズ・シンガー』から8カ月後の1928年6月17日にやっと『夢想の犯罪 (The Perfect Crime) 』を公開した。FBOはウェスタン・エレクトリックと競合するゼネラル・エレクトリックのRCA部門が実質的に支配しており、同社は新たなサウンド・オン・フィルム方式フォトフォンを売り込もうとしていた。可変密度方式だったフォックス・ケースのムービートーンやド・フォレストのフォノフィルムとは異なり、フォトフォンは可変領域方式であり、音声信号を最終的にフィルムに焼き付ける段階を改良したものである。サウンド・オン・フィルム方式では、音声信号を電灯の光の強さに変換し、その光を使ってフィルムに信号を焼き付ける。可変密度方式はフィルム上の帯の明暗の変化で音声信号の変化を表し、可変領域方式ではその帯の幅を変化させる。同年10月までに、FBO‐RCA同盟はハリウッドで最新のスタジオRKO創設にこぎつけた。 その間、ワーナー・ブラザースは『ジャズ・シンガー』ほどではないが高収益な3本のトーキーを公開した。同年3月には『テンダーロイン (en) 』が公開されている。この映画をワーナーは全ての台詞の音声が入っていると宣伝したが、台詞があるのは88分のうち15分だけだった。4月には 『祖国の叫び (Glorious Betsy)』、5月には The Lion and the Mouse(こちらは台詞部分が31分ある)を公開した。1928年7月6日には初の完全トーキー長編映画 『紐育の灯』 が公開された。ワーナーがこの映画にかけた制作費はわずか2万3千ドルだったが、興行収入は125万2千ドルで50倍以上の利益を得た。9月には再びアル・ジョンソンを主演に起用した部分トーキー『シンギング・フール (en) 』を公開し、『ジャズ・シンガー』の倍の収益を得た。このジョルソンの2本目の映画は、ミュージカル映画が歌を全国的にヒットさせる力があることを示した。9カ月以内にジョルソンの楽曲 ”Sonny Boy” はレコードが200万枚、楽譜が125万枚売れた。同じく1928年9月には ポール・テリー が同期音声つきアニメ映画 Dinner Time を公開した。これを見たウォルト・ディズニーはすぐさま発声映画の製作にとりかかり、ミッキーマウスの短編映画『蒸気船ウィリー』を公開した。しかし、これらの短編アニメーション作品が公開される2年前の1926年にマックス・フライシャーがセリフと映像を完全にシンクロさせた短編トーキーアニメーション映画『なつかしいケンタッキーの我が家(原題:My Old Kentucky Home)』をすでに公開していた。 ワーナー・ブラザースがトーキー人気で莫大な利益を稼ぎ始めたのを見て、他のスタジオも新テクノロジーへの転換を急ぎ始めた。最大手のパラマウントは9月後半に初のトーキー『人生の乞食 (en) 』を公開したが、台詞はほんの少ししかなかった。それでも新技術の力を認識するには十分だった。パラマウント初の完全トーキー『都会の幻想 (en) 』は11月に公開となった。”goat glanding” と呼ばれる工程が広く採用された。これは、無声映画として撮影した映画(公開済みの場合もある)に後から台詞や歌を追加するものである。ほんの数分間の歌を加えただけでその映画はミュージカルに生まれ変わる。グリフィスの『夢の街』も基本的には ”goat gland” だった。時代の流れは急速に変化し、1927年には単なる「流行」だったトーキーは1929年には標準的手法となった。『ジャズ・シンガー』公開から16カ月後の1929年2月、大手スタジオで最後までトーキーを製作していなかったコロンビア映画が初の部分トーキー長編 Lone Wolf’s Daughter を公開した。同年5月末、ワーナーの世界初の完全カラー/完全トーキー長編『エロ大行進曲 (en) 』が公開された。アメリカでは都市部を除いた大多数の映画館に音を出すための設備がまだ設置されておらず、スタジオ側もトーキーが全ての人々に受け入れられると確信していたわけではなかったため、1930年代中ごろまでのハリウッド映画はトーキー版とサイレント版の2バージョンで製作されることが多かった。当時誰も予想していなかったが、無声映画はその後すぐに過去のものとなっていった。ハリウッド製の最後の無声映画としては、Hoot Gibson の西部劇 Points West がある。これはユニバーサルが1929年8月に公開した。 ===ヨーロッパにおける移行=== 『ジャズ・シンガー』は1928年9月27日にロンドンのピカデリー・シアターでヨーロッパ初公開となった。映画史家 Rachael Low によれば「多くの業界人がトーキーへの転換は避けられないと悟った」という。1929年1月16日、ヨーロッパ初の長編トーキーが公開になった。ドイツ映画の『奥様お手をどうぞ』である。ただし台詞はなく、Richard Tauber が歌を数曲披露しているだけだった。この映画では、トリ=エルゴンを引き継いだドイツ‐オランダ系企業 Tobis が開発したサウンド・オン・フィルム方式を採用していた。Tobisはヨーロッパにトーキー市場が出現することを見越して参入し、ドイツの有力電機企業2社の合弁会社 Klangfilm と同盟を結んだ。1929年初めには Tobis と Klangfilm は録音・再生技術の売り込みを開始した。ERPIがヨーロッパ各地の劇場でトーキー設備の設置を開始すると、Tobis‐Klangfilm はウェスタン・エレクトリックがトリ=エルゴンの特許を侵害していると主張し、アメリカの技術が各地に設置されるのを阻止した。ちょうどRCAが録音システムを売り込めるように映画産業に参入してトーキー化を推進したように、Tobisも自ら映画スタジオを設立した。 1929年、ヨーロッパの映画会社の多くはトーキーへの転換のためハリウッドと手を組んだ。このころのヨーロッパのトーキーは外国で製作されることが多かった。これは、自国のスタジオをトーキー用に改修していたという面もあるが、同時に自国語以外の外国語で映画を製作して海外に売るという思惑もあった。ヨーロッパ初の2つの長編トーキーのうちの1つ The Crimson Circle は、複雑な経緯で国際的な製作となった。元々は監督 Friedrich Zelnik により Efzet‐Film が製作した無声映画 Der Rote Kreis としてドイツで1928年に公開された。イギリスの British Sound Film Productions (BSFP) がこれに後から英語の台詞を追加した。BSFPはド・フォレストのフォノフィルムの子会社である。これが1929年3月にイギリスで公開された。同時期に公開された The Clue of the New Pin はイギリスで全編製作された部分トーキーで British Photophone と呼ばれるサウンド・オン・ディスク方式を使用している。Black Waters はイギリスの映画会社がハリウッドで全編製作したもので、ウェスタン・エレクトリックのサウンド・オン・フィルム方式を採用していた。これらはいずれも大きな影響を与えることはなかった。 ヨーロッパ映画で最初に成功したトーキーとしては、イギリスの『恐喝』がある。監督は当時29歳のアルフレッド・ヒッチコックで、この映画はロンドンで1929年6月21日に公開された。本来は無声映画として撮影されたが、会話シーンを追加し、音楽や効果音を追加して公開となった。British International Pictures (BIP) による製作で、録音はRCAフォトフォンで行われた。実は、ゼネラル・エレクトリックは Tobis‐Klangfilm の市場に関与するためにその親会社であるAEGの株式を取得していた。『恐喝』はかなりのヒット作となった。評論家も概ね好意的だった。例えば辛口で知られた評論家 Hugh Castle は「我々が見たこともない音と静けさのおそらく最も知的な混合物」と評した。 1929年8月23日、オーストリア初のトーキー G’schichten aus der Steiermark が公開された。9月30日には全編ドイツ製作の長編トーキー Das Land ohne Frauen が公開になった。Tobis Filmkunst の製作で、全体の4分の1ほどに台詞があり、音楽や効果音とはかぶらないよう厳密に分離されていた。ただし、興行的には失敗した。スウェーデン初のトーキー Konstgjorda Svensson は同年10月14日に公開された。その8日後、パリ近郊のスタジオで撮影された Le Collier de la reine が公開されている。元々は無声映画として撮影されたもので、Tobisにより音楽と会話シーンが1カ所だけ追加された。これがフランスの長編映画初の会話シーンとなった。10月31日に公開となった Les Trois masques は、パテ‐ナタン・フィルムの製作である。これがフランス初の長編トーキーとされることが多いが、撮影はロンドン郊外エルストリーのスタジオ(『恐喝』と同じ)で行われた。その制作会社はRCAフォトフォンと契約を結んでいた。同じスタジオで数週間後に La Route est belle も撮影されている。パリの映画スタジオの多くはトーキー対応の改修が1930年まで伸び、それまでフランスのトーキーの多くはドイツで撮影された。ドイツ初の完全トーキー長編 Atlantik は10月28日にベルリンで公開された。これもロンドン郊外のエルストリーで撮影された映画であり、Les Trois masques や La Route est belle がフランス的と言えるほどドイツ映画らしくなかった。BIPはイギリス人脚本家とドイツ人監督で英語版の Atlantic を製作した。完全なドイツ製トーキー Dich hab ich geliebt はその3.5週間後に公開され、アメリカ合衆国で Because I Loved You として公開され、アメリカで公開された初のドイツ製トーキーとなった。 1930年、サウンド・オン・ディスク方式のポーランド初のトーキー Moralno*11923**11924* pani Dulskiej が3月に、完全トーキー Niebezpieczny romans が10月に公開された。イタリアの映画界はかつて盛んだったが1920年代末には瀕死の状態だった。イタリア初のトーキー La Canzone dell’amore は1930年10月に公開され、イタリア映画界は約2年で復活を遂げることになった。最初のチェコ語のトーキー Tonka *11925*ibenice も1930年に公開された。ヨーロッパ映画界ではマイナーなベルギー(フランス語)、デンマーク、ギリシャ、ルーマニアといった国々でもトーキーを制作している。ソビエト連邦では1930年12月に公開されたジガ・ヴェルトフのノンフィクション Entuziazm が最初だが、これは台詞がなく実験的なものだった。Abram Room のドキュメンタリー映画 Plan velikikh rabot には音楽とナレーションが入っている。これらはいずれも独自のサウンド・オン・フィルム方式を使っていた。当時、世界中に200ものトーキーの方式が乱立していた。1931年6月に公開された Nikolai Ekk の劇映画 Putevka v zhizn がソビエト連邦初の完全トーキーとなった。 ヨーロッパでは劇場のトーキー設備設置が映画製作よりも遅れたため、サイレント版も並行して制作するか、トーキーを単に音なしで上映した。イギリスでは1930年末までに60%の劇場がトーキー対応となった。これはアメリカ合衆国とほぼ同程度のペースである。一方フランスでは1932年後半になっても半数以上の劇場がトーキー未対応だった。Colin G. Crisp によれば、フランスの映画業界は1935年ごろまで無声映画が芸術としても商業としてもまだまだ見込みがあると見ており、しばしば無声映画への回帰が起きるのではないかという懸念を表明していたという。このような見方はソビエト連邦でも根強かった。1933年5月の時点でソビエト連邦内の映写機にトーキー設備が設置されたのは2%ほどだった。 ===アジアにおける移行=== 1920年代から1930年代の日本は世界でも有数の映画製作本数で、アメリカ合衆国に迫る勢いだった。トーキーの製作はかなり早かったが、映画全体がトーキーに完全に移行するのに要した期間は西洋よりも長かった。日本初のトーキーは小山内薫の『黎明』(1927年)でド・フォレストのフォノフィルム方式を使っていたが、技術的問題から公開には至らなかったともいわれている。サウンド・オン・フィルム方式のミナ・トーキー(=フォノフィルム)を使い、日活は1929年に2本の部分トーキー『大尉の娘』と『藤原義江のふるさと』(監督は溝口健二)を製作した。次いで松竹は1931年に初の国産サウンド・オン・フィルム方式(土橋式トーキー)での製作をおこなった。その間に2年の月日が流れているが、当時の日本の映画はまだ8割が無声映画だった。当時の日本映画界をリードしていた2人の監督、成瀬巳喜男と小津安二郎がトーキーを製作したのはそれぞれ1935年と1936年のことである。1938年になっても日本では3分の1の映画が無声映画だった。 日本で無声映画の人気が持続した背景には活動弁士の存在がある。活動弁士は無声映画の上映中にその内容を語りで解説する職業である。黒澤明は後に活動弁士について、「単に映画の筋を語るだけでなく、様々な声色で感情を表現し、効果音を発し、画面上の光景から喚起される説明を加えた(中略)人気のある活弁士は自身がスターであり、贔屓の活弁士に会うにはその劇場に行く必要があった」と語っている。映画史の専門家 Mariann Lewinsky は次のように述べている。 西洋と日本における無声映画の終焉は自然にもたらされたものではなく、業界と市場の要請によるものだった。(中略)無声映画は非常に楽しく、完成された形態だった。特に日本では活動弁士が台詞と解説を加えていたため、それで全く問題はなかった。発声映画は単に経済的だというだけで何が優れていたわけでもない。というのも、映画館側が演奏をする者や活弁士に賃金を支払わずに済むからである。特に人気の活弁士はそれに見合った賃金を受け取っていた。 同時に、活動弁士という職業があったおかげで、映画会社はトーキーへの設備投資をゆっくり行うことができ、製作スタッフも新技術に慣れる期間を十分にとることができた。 中国では1930年に初の長編トーキー『歌女紅牡丹』が公開された(北京語)。オーストラリアでは1930年2月に初のトーキー The Devil’s Playground が完成していたが、5月に開催された Commonwealth Film Contest で受賞した Fellers が先に公開された。インドでは1930年9月、1928年の無声長編映画 Madhuri から抜粋したシーンにインドのスターSulochanaの歌声を追加した短編が公開されたのが最初である。インド初の長編トーキーは翌年にアルデシール・イラニ監督が製作したヒンディー語主体の Alam Ara で、他にタミル語主体の Kalidas も同年に公開された。同じ1931年にはベンガル語の Jamai Sasthi やテルグ語の Bhakta Prahlada も公開されている。1932年にはマラーティー語初の映画 Ayodhyecha Raja が公開された(完成は Sant Tukaram の方が早い)。同年、グジャラート語の初のトーキー Narsimha Mehta、タミル語のトーキー Kalava も公開されている。翌1933年、アルデシール・イラニは初のペルシア語のトーキー Dukhtar‐e‐loor を製作した。同じく1933年、香港で広東語初のトーキー『*11926*仔洞房』と『良心』が製作された。香港では2年間で映画業界が完全にトーキーに転換した。朝鮮半島には日本の活動弁士と同様の職業 pyonsa(または byun‐sa)が存在した。映画産業があった「国」としてはトーキーの製作は最も遅く1935年のことだった。『春香傳』(*11927**11928**11929*)は伝統芸能パンソリの物語「春香伝」を題材にしたもので、非常に人気のある題材であり、2009年までに15回も映画化されている。 ==トーキーの影響== ===テクノロジー=== 撮影時に録音しようとしたとき、様々な難題が発生した。まずカメラそのものが非常にうるさかったので、防音したキャビネットにそれを格納することが多かった。このためカメラを動かせる範囲が非常に限定されることになった。その対策としてカメラを複数台配置して様々な角度から撮影する方式も採用され、カメラマンらは常に特定のショットを得るためにカメラを解放する方法をなんとか生み出していた。また、マイクロフォンに声が届く範囲にいなければならないため、俳優の動きも不自然に制限されることがあった。First National Pictures(ワーナー・ブラザースがトーキーの成功で買収し、実験的トーキーを作らせた)の『ハリウッド盛衰記 (en) 』(1930年)は、初期のトーキー撮影現場を描いている。発声映画への移行で生じた根本的問題の対策として、カメラのケースは ”blimps” と呼ばれる防音設計になり、俳優の動きに追随できるブーム型マイクが考案された。1931年には再生時の音質を高める大きな改良が登場した。それは音声信号を高周波数/中周波数/低周波数に分け、それぞれを対応するスピーカー(ウーファー、スコーカー、ツイーターなど)に送るという方式である。 トーキーは映画そのものにも技術的影響を及ぼした。音を正しく同期させて録音し再生するには、カメラと映写機のフィルム送り速度の標準化が必要であった。トーキー以前から毎秒16コマという一応の標準はあったが、実際にはかなりいい加減だった。撮影側では露光を改善するためや劇的効果のために低速または高速で回されることがあり、また映写側では劇場での上映時間を短縮して上映回数を増やすため、やや速すぎる速度で回されたりもしていた。しかしサウンドトラックが付くと、通常の速度ではない撮影には別録りなどが必要になり、映写ではマスタリング時に意図された速度でなければ速度と音程がおかしくなった音で再生されてしまう。このため、あらたに毎秒24コマという標準が厳密に守る必要があるものとして確立された。また、スタジオ内の撮影で照明に使われていた放電灯は雑音を発生するため、使われなくなった。より静粛な白熱灯に切り替えることで、より高価な高感度のフィルムに転換する必要が生じた。新たに開発された高感度なパンクロマチック・フィルムによって色調が改善され、従来より暗い照明でも撮影が可能となった。 David Bordwell によれば、トーキー技術は迅速に進化していった。「1932年から1935年までに(ウェスタン・エレクトリックとRCAは)指向性マイクロフォンを開発し、フィルム上に録音できる周波数領域を拡大させ、雑音を低減させ……音量の大小の範囲を拡大した」これらの技術革新は芸術性の進歩も意味していた。「録音の忠実度が向上したことで……声質やその高低や大小の幅が広がり、演劇的な可能性が高まった」 もう1つの基本的問題は、1952年の映画『雨に唄えば』で扱われているように、無声映画時代の一部の俳優の声が魅力的でなかったという問題である。この問題は強調されすぎる傾向があるが、俳優の演技力だけでなく声質や歌の才能がキャスティングに影響するのではないかという懸念があった。1935年までに、ポストプロダクションにおけるアフレコの技術が確立され、別の俳優の声をあてることも可能になった。1936年、RCAは紫外線録音システムを導入し、歯擦音や高音の再現性が増した。 ハリウッドでのトーキーへの本格的移行により、当初並存していた2つの方式は速やかに1つに収束した。1930年から31年にかけて、サウンド・オン・ディスク方式を採用していた主な映画会社であるワーナー・ブラザースと First National もサウンド・オン・フィルム方式に切り替えた。しかしヴァイタフォン対応の設備を設置した映画館が多かったため、ハリウッドでは数年間、サウンド・オン・フィルム方式で映画を製作すると同時にサウンド・オン・ディスク方式用のレコード盤も生産して配給していた。フォックスのムービートーンもヴァイタフォンの後を追うように使われなくなり、残った方式はRCAの可変領域方式(フォトフォン)とムービートーンを改良したウェスタン・エレクトリックの可変密度方式だけとなった。主にRCAの働きかけにより、両社の親会社(AT&TとGE)は両方式の互換性を確保することを決め、一方の方式で製作したフィルムをもう一方の方式の映写機でも上映できるようにした。これにより残る大きな問題は Tobis‐Klangfilmだけとなった。ウェスタン・エレクトリックは1930年5月、オーストリアでトリ=エルゴン特許の適用範囲をある程度制限するという判決を勝ち取り、Tobis‐Klangfilm を交渉のテーブルに着かせることに成功した。翌月クロスライセンス協定が結ばれ、再生時の完全な互換性を確保し、世界を3分割して機器を販売する協定が結ばれた。当時の報告書には次のように記載されている。 Tobis‐Klangfilm は、ドイツ、ダンツィヒ、オーストリア、ハンガリー、スイス、チェコスロバキア、オランダ、スウェーデン、ノルウェー、ブルガリア、ルーマニア、ユーゴスラビア、フィンランドでの独占販売権を有する。アメリカ側は、アメリカ合衆国、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、インド、ロシアでの独占販売権を有する。イタリア、フランス、イングランドなど世界の他の地域では両者が販売できる。 これで全ての特許紛争が解決したわけではなく、その後も交渉が続けられ、1930年代を決定付ける協定が結ばれた。この間にアメリカではウェスタン・エレクトリックのシステムからRCAフォトフォンの可変領域方式への移行が進み、1936年末の時点でERPIと契約を結んでいたのはパラマウント、MGM、ユナイテッド・アーティスツだけとなった。 ===職業/雇用=== トーキーが映画産業のブームをもたらしている間、当時のハリウッド俳優にとっては雇用上の逆効果を生み出していた。舞台経験のない俳優は突然トーキーに対応できるか否かについて疑問を持たれるようになった。先述したように、訛りがひどい者や容姿と声が合っていない者も無声映画時代にはその欠点を隠せていたが、特に危険な状態に追い込まれた。無声映画の大スターだったノーマ・タルマッジは、そのようにして事実上映画俳優をやめることになった。スイスの有名な俳優エミール・ヤニングスは、トーキーのせいでヨーロッパに戻ることになった。ジョン・ギルバートは声は悪くなかったが、スターとしての風格にあわない声と評され、人気が急落した。観衆は無声映画時代のスターを古風と見なす傾向があり、それはトーキー時代にも適応できる才能を持っていた者に対しても変わらなかった。1920年代に大人気喜劇スターだったハロルド・ロイドの人気も急速に低下した。リリアン・ギッシュは舞台に移り、他の多くの大スターは間もなく引退した。例えば、グロリア・スワンソンやハリウッドでも有名なカップルだったダグラス・フェアバンクスとメアリー・ピックフォードである。女優ルイーズ・ブルックスは、映画会社側がトーキーへの適性を口実にして大スターに支払うギャランティを下げ、いやなら辞めろという態度で俳優たちに迫ったという面もあると後に述懐している。同様にクララ・ボウも声が合わないとされてハリウッドを去ることになったが、真の問題は映画会社経営陣との衝突であり、映画史家 David Thomson は男優ならば平凡ともいえるそのライフスタイルに対して映画会社側が「ブルジョワ的偽善性による反発」で対立したのだとした。バスター・キートンは新たな媒体を探究することにやぶさかではなかったが、MGMはトーキーを導入した際にキートンの従来の映画スタッフを解体し、キートンが創造的な影響力を発揮できないようにした。キートンの初期のトーキー作品はそれなりの利益をもたらしたが、芸術的には見るべきところがない。 初期のトーキーはその特徴を生かすためヴォードヴィル劇やミュージカル劇を導入したものが多く、舞台で台詞や歌に慣れていたアル・ジョルソンやジャネット・マクドナルドやマルクス兄弟といったスターがもてはやされた。ブロードウェイで共演していたジェームズ・キャグニーとジョーン・ブロンデルは1930年にワーナー・ブラザースに引き抜かれ、ハリウッド入りした。無声映画からトーキーに移行してもスターとしての地位を保った数少ない俳優としては、リチャード・バーセルメス、クライヴ・ブルック、ビーブ・ダニエルズ、ノーマ・シアラー、ローレル&ハーディがいる。特にチャールズ・チャップリンは『街の灯』(1931年)や『モダン・タイムス』(1936年)で、ほぼ音楽と効果音だけのサウンドトラックを製作しているという点で他と比較できない。ジャネット・ゲイナーはトーキー時代になってからスターになったが、初期の出演作『第七天国』や『サンライズ』は台詞がなかった。ジョーン・クロフォードも同様で『踊る娘達』(1928年)は台詞がなかった。グレタ・ガルボは英語を母語としない外国人だったが、トーキー移行後もハリウッドスターの地位を維持し続けた。 日本でも映画俳優に影響があった。田中絹代は、下関訛りの甘ったるい声が好評となり、その庶民的な可憐さとあわせてますます人気が沸騰した。入江たか子は、華族的な話し方が庶民の反発を招いたといわれ、やがて人気低下につながったと言われる。阪東妻三郎も人気が低迷し、自身のその甲高い声が原因かと悩んだという。 音楽を録音済みのトーキーが盛んになるにつれ、劇場付きの楽団員も職を失うことになった。劇場の楽団は単に映画の伴奏以上のものだった。歴史家 Preston J. Hubbard によれば「映画館の生演奏は1920年代にアメリカ映画の非常に重要な一面となっていった」としている。映画館の楽団は映画上映前にも演奏を行っていたが、それもトーキー時代の到来と共になくなった。アメリカ音楽家連盟は、演奏者を音楽再生機器に置換する流れに抗議する新聞広告を出したことがある。Pittsburgh Press に出た1929年の広告では、機器による音楽再生を缶詰に譬えている。翌1930年には全米で22,000人の音楽家が映画館での職を失った。 日本では先述したようにトーキーへの移行はゆっくりとしていたが、最終的に活動弁士と呼ばれたサイレント映画の解説者は(リバイバル上映を除けば)ほぼ無用の存在になった。 ===映画産業=== 1926年9月、ワーナー・ブラザースを率いていたジャック・ワーナーはトーキーが商売にならないという趣旨で「彼らは無声映画が外国語にも容易に対応していることを考慮していない。観客はその演技やアクションやプロットから台詞を想像し、体験を無意識に共有しているのだ」と発言したことがある。この発言が間違いだったことは歴史が証明している。ワーナー・ブラザースの売り上げは1927 ‐ 28年度には200万ドルだったものが、1928 ‐ 29年度には1400万ドルに急増している。実際のところトーキーは大手映画会社にとっては明らかにプラスに働いた。同時期にパラマウントの売り上げは700万ドル増え、フォックスは350万ドル、MGMは300万ドル増やしている。RKOは1928年9月にはまだ存在していなかったし、FBO(en:Film Booking Offices of America)は弱小だったが、1929年末には映画業界でそれなりの地位を築いていた。トーキーのブームを過熱させた一因として、トーキーになって初めて可能になったミュージカルというジャンルがある。1929年、ハリウッドでは60以上のミュージカル映画を配給し、翌年にはそれが80以上になった。 1929年10月のウォール街大暴落とそれに続く世界恐慌の中でも、トーキーで勢い付いたハリウッドは繁栄を謳歌し続けた。1929 ‐ 30年の新作公開シーズンの映画業界はかつてない活況を呈し、チケット売り上げも最終的な利益も過去最高を更新した。1930年後半にはさすがに映画市場にも不況の影響が出てきたが、トーキーの登場によって映画が文化的にも産業的にもアメリカ合衆国の重要な分野となり、ハリウッドの地位を維持させることに貢献した。1929年、アメリカ人1人当たりの娯楽への支出のうち映画のチケット代は16.6%を占めていた。これが1931年には21.8%になっている。その後15年間、映画業界は同様の勢いで成長していった。アメリカの映画業界はトーキー以前から世界最大だったが、1929年には輸出した映画フィルムの長さの総計が前年より27%も多くなった。言語の違いがトーキーの輸出を妨げるだろうという懸念は、間違いだったことが判明した。実際トーキー制作のための設備投資は、ハリウッドに比べて相対的に資金不足の海外の映画会社には大きな障害だった。初期には輸出用に別の言語でも映画を製作する手法も採られていたが、1931年中ごろ以降はアフレコと字幕で外国語対応するようになった。1937年ごろまで各国は映画の輸入制限をしていたが、それでも全世界で上映される映画の70%(上映時間ベース)がアメリカ映画となっていた。 ハリウッドの大手スタジオは海外と同様に国内の競合他社についても優位に立った。歴史家 Richard B. Jewell は「トーキー革命は、トーキー機器購入のための借金を返済できなくなった多くの弱小映画会社とプロデューサーを破滅させた」としている。トーキー時代の到来と世界恐慌が重なったため、弱小会社の倒産が相次ぎ、アメリカの映画業界はビッグ5と呼ばれる大手映画会社(MGM、パラマウント、フォックス、ワーナー、RKO)と準大手3社(コロンビア、ユニバーサル、ユナイテッド・アーティスツ)が支配する構造が1950年代まで続くことになった。同じ現象は日本でも発生し独立プロの多くが大手の傘下となった。歴史家 Thomas Schatz によれば、その副作用として大手各社が製作体制を合理化する中で各社独自の性格が生まれ、スタジオ・システムが確立していったとしている。 インドの映画界も同様に急激な変化を経験した。当時の配給会社のある人物は「トーキーの到来と共に、インド映画は独自に明確な地位を築いた。その原動力は音楽である」という。インドのトーキーは当初からミュージカルが主流であり、最初の Alam Ara では7曲の歌が、翌年の Indrasabha では70曲もの歌が唄われている。ヨーロッパではハリウッドとの終わりのない戦いが繰り広げられていたが、インドでは Alam Ara から10年後には90%以上が国産の映画を上映していた。 インドの初期のトーキーはほとんどがムンバイで撮影されたが、トーキー制作はすぐに様々な言語が使われている国土のあちこちに拡散していった。Alam Ara が1931年3月に公開された数週間後、コルカタの Madan Pictures はヒンディー語の Shirin Farhad とベンガル語の Jamai Sasthi を公開した。翌年、パンジャーブのラホールでヒンドゥスターニー語の Heer Ranjha が制作された。1934年に公開されたカンナダ語初のトーキー Sati Sulochana は、マハーラーシュトラ州コールハープルで撮影された。タミル語初のトーキー Srinivasa Kalyanamはタミル・ナードゥ州で撮影された。インドではトーキーが導入されてからトーキーに完全に移行するまでの期間が非常に短かった。1932年には多くの長編トーキーが公開され、1934年には全長編映画172本のうち164本がトーキーになっていた。1934年以降(1952年を除いて)インドは映画製作本数で常に上位3位以内をキープしてきた。 ===芸術としての映画=== イギリスの映画学者 Paul Rotha は1930年の The Film Till Now の中で「音声がスクリーン上の映像と同期した映画は、映画本来の目的とはかけ離れたものである。それは映画本来の用途を退行させ破壊する誤った試みであり、真の映画に含めることはできない」と宣言した。このような意見は映画を芸術形態の1つと見ていた当時の人々としては珍しいものではない。ヨーロッパでトーキーを製作して成功を収めていたアルフレッド・ヒッチコックも「無声映画は映画の最も純粋な形態だ」とし、初期のトーキーの多くが「人々が会話する様子を写した写真」とほとんど違わないと断言して憚らなかった。ドイツでは舞台や映画の監督であるマックス・ラインハルトがトーキーについて「舞台演劇をスクリーンに持ってきたもので(中略)独自の芸術形態だった映画を演劇の下位の分野に貶めるもので(中略)絵画の複製のようなものである」と語っている。 映画史家や映画ファンの多くは(当時も後世も)、1920年代後半に無声映画が芸術として最高潮に達し、その後のトーキーは芸術性という面ではそれに遥かに及ばなかったという。例えば、映画は時代と共に忘れ去られるものだが、Time Out 誌が1995年に行った100周年を記念した映画の人気投票トップ100には、無声映画が11本も入っていた。トーキーが盛んになったのは1929年からだが、1929年から1933年までの映画で上記のトップ100に入った映画は全て無声映画(1929年の『パンドラの箱』、1930年の『大地』、1931年の『街の灯』)だった(『街の灯』は音楽と効果音のサウンドトラック付きだが、台詞がないため一般に無声映画に分類されている)。この人気投票で最初にランクインしているトーキーは、ジャン・ヴィゴ監督のフランス映画 『アタラント号』(1934年)である。ハリウッド映画のトーキーでは、ハワード・ホークス監督の1938年の『赤ちゃん教育』が最初である。 一般的にも大きく賞賛された最初の長編トーキーとしては、1930年4月1日に公開された『嘆きの天使』がある。この映画はジョセフ・フォン・スタンバーグが監督したもので、ベルリンのUFAスタジオが英語版とドイツ語版を製作した。アメリカ映画で最初に広く賞賛されたトーキーはルイス・マイルストン監督の『西部戦線異状なし』で、同年4月21日に公開された。他に国際的に賞賛されたトーキーとしては、ゲオルク・ヴィルヘルム・パープスト監督の Westfront 1918 がある。歴史家 Anton Kaes はこれを「新たな迫真性」の一例だとし、「無声映画の催眠的な惹きつけ方の強調や光と影の象徴性、さらには寓意的人物像を好む時代錯誤性」によるものとした。文化史研究家らは、1930年末に公開されたルイス・ブニュエル監督のフランス映画『黄金時代』を当時最高の芸術映画だとしている。当時、その性的で不敬で反ブルジョワ的な内容が一種のスキャンダルを巻き起こした。パリ警察はこれをすぐに上映禁止とし、50年間上映できなかった。初期のトーキーで今では多くの映画史家から傑作と呼ばれている作品が、1931年5月11日に公開されたフリッツ・ラング監督の『M』である。ロジャー・エバートは「多くの初期のトーキーが常に台詞を入れようとしていたのに対して、ラングはカメラを通りや安酒場でうろつかせ、ネズミの視点を表現した」と評している。 ===映画的技法=== 「トーキー (talking film) は歌の本 (singing book) と同様に無用である」とは、1927年、ロシア・フォルマリズム運動のリーダーの1人で評論家のヴィクトル・シクロフスキーの宣言である。このように映画と音声は相容れないと考える人もいたが、多くは新たな創造の場の始まりと見ていた。この宣言の翌年、セルゲイ・エイゼンシュテインを含むソ連の映画製作者らは映像と音声の並置、いわゆる対位法的な映像と音の使用が「前例のない力と文化の高み」に映画を引き上げるだろうと宣言し、「発声映画の手法は映画を単に演劇の撮影手段として国内市場に閉じ込めておくことはなく、映画的に考え方を表現することで世界的にその考えを流通させるという大きな可能性を秘めている」とした。 1929年3月12日、ドイツ初の長編トーキーとしてヴァルター・ルットマン監督の Melodie der Welt が公開された。Tobis Filmkunst の最初の作品で、劇映画ではなく海運会社をスポンサーとするドキュメンタリー映画である。この長編トーキーは、トーキーの芸術的可能性を探究しようとした最初の映画である。映画史家 William Moritz はこの映画について「複雑でダイナミックでテンポが速く……様々な国々の似たような文化を並置しつつ、見事な管弦楽曲を流し……映像に同期した効果音を多用している」と述べている。当時の作曲家 Lou Lichtveld はこの映画に感銘を受けたアーティストの1人である。彼は「Melodie der Welt は世界初の重要な音声付ドキュメンタリーであり、音楽やそれ以外の音が1つに合成された最初の作品であり、音と映像が同一の衝動によって制御された最初の作品である」と述べた。Melodie der Welt はオランダ人の前衛映画製作者ヨリス・イヴェンスの産業映画 Philips Radio(1931年)に直接的影響を及ぼした。Philips Radio での作曲を手がけた Lichtveld は次のように述べている。 複雑な工場の音に音楽的印象を与えるため、完全な音楽から純粋なドキュメンタリーの自然な雑音まで変化させた。この映画にはそのような変化する場面がいくつもある。機械音が音楽のように聞こえる場面や、機械の雑音が音楽の背景を支配している場面、音楽自身がドキュメンタリーとなっている場面、機械の純粋な音だけの場面がある。 同様の実験的手法はジガ・ヴェルトフの1931年の Entuziazm やチャップリンの1936年の『モダン・タイムス』にも見られる。 一部の先進的な監督は、音声を単なる台詞を伝える手段としてだけでなく、映画的ストーリーテリングに必須な部分として活用する技法を生み出した。ヒッチコックの『恐喝』では、登場人物の独白を何度も再現し、「ナイフ」という言葉がぼやけた音の流れから飛び出すようにし、主人公が刺殺事件への関与を隠そうと必死になっている心理を表現している。ルーベン・マムーリアンの最初の作品『喝采』(1929年、パラマウント)では、被写体との距離に比例させて周囲の音の音量を変え、音の深さの幻影を構築した。1人が歌い、別の1人が祈っている場面があり、マムーリアンは歌を観客に聞き分けて欲しかった。マムーリアンによると「彼らは歌と祈りという2つの音を1つのマイクロフォンと1つのチャンネルで録音できないと言った。そこで私は『2つのマイクと2つのチャンネルを使って、あとでそれらを合成してサウンドトラックにしたらどうか?』と提案した」という。後にそのような手法が映画製作で普通に行われるようになった。 録音による利点を最大限に引き出した初期の商業映画としては、ルネ・クレール監督の『ル・ミリオン』がある。1931年4月にパリで公開され、翌月にニューヨークで公開され、大ヒットとなり、批評家にも好評だった。単純なストーリーのミュージカル・コメディだが、音を徹底的に加工したという点が目新しかった。Donald Crafton はこれについて次のように述べている。 『ル・ミリオン』は音響が書き割りのセット以上のものであることを我々に記憶させた。台詞は韻を踏んでいてリズミカルに歌われている。クレールは画面内外の様々な音の間でからかうような混乱を引き起こした。また、彼は本来非同期なはずの音を同期させるという実験も行っている(画面に出てこないフットボールかラグビーの歓声と画面上の登場人物の動きを同期させるシーンがある)。 類似の技法は喜劇映画の一般的テクニックの1つとなったが、それは特殊効果または「色」としてであって、クレールが達成したような包括的かつ非自然主義的デザインの基盤としてではない。喜劇以外の分野では、Melodie der Welt や『ル・ミリオン』で例示されるような音の遊びは商業映画にはほとんど見られない。特にハリウッドでは音響はそれぞれのジャンル毎の映画製作システムにしっかり組み込まれており、ストーリーテリングという伝統的目的にそって映画が製作されている。このような状況を1928年に予見していたのが映画芸術科学アカデミーの Frank Woods である。彼は「将来のトーキーは無声映画によって発展してきた従来からの手法に沿って製作されるだろう……会話シーンは別の取り扱いが必要となる可能性があるが、映画製作の大筋は無声映画と同じになるだろう」としていた。 一般的には、1シーン1カット(台詞の間にカットを割らないで人物をとらえる)長廻しの手法が多くとられるようになった。 ==活弁トーキー== サイレント映画に解説をつけるのが活動弁士(活弁)であるが、優れた活動弁士の解説をサイレント作品とともに収録し、映画フィルムあるいはVHS・DVDなどの媒体によって上映するものを活弁トーキーと呼び慣わしている。現在、次の弁士による活弁トーキー版のソフトウェアが販売されている。 松田春翠澤登翠美好千曲 =カール・マルクス= カール・ハインリヒ・マルクス(ドイツ語: Karl Heinrich Marx, 1818年5月5日 ‐ 1883年3月14日)は、ドイツ・プロイセン王国出身の哲学者、思想家、経済学者、革命家。1845年にプロイセン国籍を離脱しており、以降は無国籍者であった。1849年(31歳)の渡英以降はイギリスを拠点として活動した。ソ連崩壊の前後で、大きく評価が変化したと言われている。 フリードリヒ・エンゲルスの協力を得ながら、包括的な世界観および革命思想として科学的社会主義(マルクス主義)を打ちたて、資本主義の高度な発展により共産主義社会が到来する必然性を説いた。ライフワークとしていた資本主義社会の研究は『資本論』に結実し、その理論に依拠した経済学体系はマルクス経済学と呼ばれ、20世紀以降の国際政治や思想に多大な影響を与えた。 ==概要== マルクスは、その生涯の大部分を亡命者として過ごした。出生地はプロイセン領だったが、1849年にパリに追放され、のちにロンドンに居住して、そこで死んだ。彼は、生涯をひどい貧困の中で過ごしたと言われているが、家政婦を雇い家政婦を孕ますほどの経済力はあった。また、生前はあまり有名ではなかった。しかし、ロンドンでの彼の運動と著作は、その後の世界の社会主義運動に多大な影響を与えた。 マルクスの死後、19世紀終わりから20世紀初めにかけて、世界中にできた社会主義政党は、皆何らかの形でマルクス主義を採用した。マルクス主義の核心は、階級闘争と社会主義社会建設のための理論であり、経済的搾取と社会的不平等を根絶することを目指していた。マルクス主義の一派である共産主義は、ウラジーミル・レーニンによって、1917年のロシアで最初の革命を成功させ、コミンテルンが各国で創設した共産党は、世界中の注目と議論を惹き起こした。 マルクスの理論の中心は、ヘーゲル哲学を基礎とした弁証法哲学と政治経済論である。マルクスは、当初ヘーゲルの観念論から出発し、のちに自分の革命的政治観に行き着いた。マルクスは、多数の論文、パンフレット、レポートを書き、幾つかの著作を出版した。詳細は後述する。 マルクスの世界観の核心は、彼の経済システム論ではない。そもそもマルクスは、経済学を批判的に扱っている。また、彼の経済理論は、アダム・スミスやリカードに多くを拠っている。「資本論」は、経済の専門的分析というよりも、社会経済問題に対する制度と価値の考察を通じた規範的分析である。マルクスが「資本論」で訴えているのは、人類の救済であり、彼の理論で最も卓越していた点は、経済学というより歴史理論と政治学である。 マルクスの思想の中心は、史的唯物論である。史的唯物論は、経済システムが観念を規定するという考えと、歴史の発展は経済構造によって基礎づけられているという考えからなる。前者の考えは、ヘーゲル哲学を唯物論的に解釈し直したもので、後者の考えは、弁証法哲学を歴史理論に応用したものである。 ==生涯== ===出生と出自=== 1818年5月5日午前2時頃、プロイセン王国ニーダーライン大公国県(ドイツ語版)に属するモーゼル川河畔の町トリーアのブリュッカーガッセ(Br*7707*ckergasse)664番地に生まれる。 父はユダヤ教ラビだった弁護士ハインリヒ・マルクス(ドイツ語版)。母はオランダ出身のユダヤ教徒ヘンリエッテ(Henriette)(旧姓プレスボルク(Presburg))。マルクスは夫妻の第3子(次男)であり、兄にモーリッツ・ダーフィット(Mauritz David)、姉にゾフィー(Sophia)がいたが、兄は夭折したため、マルクスが実質的な長男だった。また後に妹が4人、弟が2人生まれているが、弟2人は夭折・若死にしている。 マルクスが生まれたトリーアは古代から続く歴史ある都市であり、長きにわたってトリーア大司教領の首都だったが、フランス革命戦争・ナポレオン戦争中には他のライン地方ともどもフランスに支配され、自由主義思想の影響下に置かれた。ナポレオン敗退後、同地はウィーン会議の決議に基づき封建主義的なプロイセン王国の領土となったが、プロイセン政府は統治が根付くまではライン地方に対して慎重に統治に臨み、ナポレオン法典の存続も認めた。そのため自由主義・資本主義・カトリックの気風は残された。 マルクス家は代々ユダヤ教のラビであり、1723年以降にはトリーアのラビ職を世襲していた。マルクスの祖父マイヤー・ハレヴィ・マルクスや伯父ザムエル・マルクス(ドイツ語版)もその地位にあった。父ハインリヒも元はユダヤ教徒でユダヤ名をヒルシェルといったが、彼はヴォルテールやディドロの影響を受けた自由主義者であり、1812年からはフリーメーソンの会員にもなっている。そのため宗教にこだわりを持たず、トリーアがプロイセン領になったことでユダヤ教徒が公職から排除されるようになったことを懸念し、1816年秋(1817年春とも)にプロイセン国教であるプロテスタントに改宗して「ハインリヒ」の洗礼名を受けた。 母方のプレスボルク家は数世紀前に中欧からオランダへ移民したユダヤ人家系であり、やはり代々ラビを務めていた。母自身もオランダに生まれ育ったので、ドイツ語の発音や書くことに不慣れだったという。彼女は夫が改宗した際には改宗せず、マルクスら生まれてきた子供たちもユダヤ教会に籍を入れさせた。叔父は欧州最大の電機メーカーであるフィリップスの創業者リオン・フィリップスであった。 ===幼年期=== 一家は1820年にブリュッカーガッセ664番地の家を離れて同じトリーア市内のジメオンシュトラーセ(Simeonstra*7708*e)1070番地へ引っ越した。 マルクスが6歳の時の1824年8月、第8子のカロリーネが生まれたのを機にマルクス家兄弟はそろって父と同じプロテスタントに改宗している。母もその翌年の1825年に改宗した。この時に改宗した理由は資料がないため不明だが、封建主義的なプロイセンの統治や1820年代の農業恐慌でユダヤ人の土地投機が増えたことで反ユダヤ主義が強まりつつある時期だったからかもしれない。 マルクスが小学校教育を受けたという記録は今のところ発見されていない。父や父の法律事務所で働く修司生による家庭教育が初等教育の中心であったと見られる。 マルクスの幼年時代についてもあまりよく分かっていない。 ===トリーアのギムナジウム=== 1830年、12歳の時にトリーアのフリードリヒ・ヴィルヘルム・ギムナジウム(ドイツ語版)に入学した。このギムナジウムは父ハインリヒも所属していたトリーアの進歩派の会合『カジノクラブ』のメンバーであるフーゴ・ヴィッテンバッハが校長を務めていたため、自由主義の空気があった。 1830年にフランスで7月革命があり、ドイツでも自由主義が活気づいた。トリーアに近いハンバッハ(ドイツ語版)でも1832年に自由とドイツ統一を求める反政府派集会が開催された。これを警戒したプロイセン政府は反政府勢力への監視を強化し、ヴィッテンバッハ校長やそのギムナジウムも監視対象となった。1833年にはギムナジウムに警察の強制捜査が入り、ハンバッハ集会の文書を持っていた学生が一人逮捕された。ついで1834年1月には父ハインリヒもライン県(ドイツ語版)県議会議員の集まりの席上でのスピーチが原因で警察の監視対象となり、地元の新聞は彼のスピーチを掲載することを禁止され、「カジノクラブ」も警察監視下に置かれた。さらにギムナジウムの数学とヘブライ語の教師が革命的として処分され、ヴィッテンバッハ監視のため保守的な古典教師ロエルスが副校長として赴任してきた。 マルクスは15歳から17歳という多感な時期にこうした封建主義の弾圧の猛威を間近で目撃したのだった。しかしギムナジウム在学中のマルクスが政治活動を行っていた形跡はない。唯一それらしき行動は卒業の際の先生への挨拶回りで保守的なロエルス先生のところには挨拶にいかなかったことぐらいである(父の手紙によるとロエルス先生のところへ挨拶に来なかった学生はマルクス含めて二人だけで先生は大変怒っていたという)。 このギムナジウムでのマルクスの卒業免状や卒業試験が残っている。それによれば卒業試験の結果は、宗教、ギリシャ語、ラテン語、古典作家の解釈で優秀な成績を収め、数学、フランス語、自然科学は普通ぐらいの成績だったという。卒業免状の中の「才能及び熱意」の項目では「彼は良好な才能を有し、古代語、ドイツ語及び歴史においては非常に満足すべき、数学においては満足すべき、フランス語においては単に適度の熱意を示した」と書いてある。この成績を見ても分かる通り、この頃のマルクスは文学への関心が強かった。当時のドイツの若者はユダヤ人詩人ハインリヒ・ハイネの影響でみな詩を作るのに熱中しており、ユダヤ人家庭の出身者ならなおさらであった。マルクスも例外ではなく、ギムナジウム卒業前後の将来の夢は詩人だったという。 卒業論文は『職業選択に際しての一青年の考察』。「人間の職業は自由に決められる物ではなく、境遇が人間の思想を作り、そこから職業が決まってくる」という記述があり、ここにすでに唯物論の影響が見られるという指摘もある。「われわれが人類のために最もよく働きうるような生活上の地位を選んだ時には、重荷は我々を押しつぶすことはできない。何故なら、それは万人のための犠牲だからである」という箇所については、E.H.カーは「マルクスの信念の中のとは言えないが、少なくとも彼の性格の中の多くのものが、彼の育ったところの、規律、自己否定、および公共奉仕という厳しい伝統を反映している」としている。他方ヴィッテンバッハ校長は「思想の豊富さと材料の配置の巧みさは認めるが、作者(マルクス)はまた異常な隠喩的表現を誇張して無理に使用するという、いつもの誤りに陥っている。そのため、全体の作品は必要な明瞭さ、時として正確さに欠けている。これは個々の表現についても全体の構成についても言える」という評価を下し、マルクスの悪筆について「なんといやな文字だろう」と書いている。 ===ボン大学=== 1835年10月にボン大学に入学した。大学では法学を中心としつつ、詩や文学、歴史の講義もとった。大学入学から三カ月にして文学同人誌へのデビューを計画したが、父ハインリヒが「お前が凡庸な詩人としてデビューすることは嘆かわしい」と説得して止めた。実際、マルクスの作った詩はそれほど出来のいい物ではなかったという。 また1835年に18歳になったマルクスはプロイセン陸軍(ドイツ語版)に徴兵される予定だったが、「胸の疾患」で兵役不適格となった。マルクスの父はマルクスに書簡を出して、医師に証明書を書いて兵役を免除してもらうことは良心の痛むようなことではない、と諭している。 当時の大学では平民の学生は出身地ごとに同郷会を作っていた(貴族の学生は独自に学生会を作る)。マルクスも30人ほどのトリーア出身者から成る同郷会に所属したが、マルクスが入学したころ、政府による大学監視の目は厳しく、学生団体も政治的な話は避けるのが一般的で決闘ぐらいしかすることはなかったという。マルクスも貴族の学生と一度決闘して左目の上に傷を受けたことがあるという。しかも学生に一般的だったサーベルを使っての決闘ではなく、ピストルでもって決闘したようである。 全体的に素行不良な学生だったらしく、酔っぱらって狼藉を働いたとされて一日禁足処分を受けたり、上記の決闘の際にピストル不法所持で警察に一時勾留されたりもしている(警察からはピストルの出所について背後関係を調べられたが、特に政治的な背後関係はないとの調査結果が出ている)。こうした生活で浪費も激しく、父ハインリヒは「まとまりも締めくくりもないカール流勘定」を嘆いたという。 1836年夏にトリーアに帰郷した際にイェニー・フォン・ヴェストファーレンと婚約した。彼女の父ルートヴィヒ・フォン・ヴェストファーレン(ドイツ語版)は貴族であり、参事官としてトリーアに居住していた。イェニーはマルクスより4歳年上で姉ゾフィーの友人だったが、マルクスとも幼馴染の関係にあたり、幼い頃から「ひどい暴君」(イェニー)だった彼に惹かれていたという。 貴族の娘とユダヤ人弁護士の息子では身分違いであり、イェニーも家族から反対されることを心配してマルクスとの婚約を1年ほど隠していた。しかし彼女の父ルートヴィヒは自由主義的保守派の貴族であり(「カジノクラブ」にも加入していた)、貴族的偏見を持たない人だったため、婚約を許してくれた。 ===ベルリン大学=== 1836年10月にベルリン大学に転校した。ベルリン大学は厳格をもって知られており、ボン大学で遊び歩くマルクスにもっとしっかり法学を勉強してほしいと願う父の希望での転校だった。しかし、マルクス自身は、イェニーと疎遠になると考えて、この転校に乗り気でなかったという。 同大学で受講した講義は、法学がほとんどで、詩に関する講義はとっていない。だが、詩や美術史への関心は持ち続け、それにローマ法への関心が加わって、哲学に最も強い関心を持つようになった。1837年と1838年の冬に病気をしたが、その時に療養地シュトラローで、ヘーゲル哲学の最初の影響を受けた。 以降ヘーゲル中央派に分類されつつもヘーゲル左派寄りのエドゥアルト・ガンスの授業を熱心に聴くようになった。また、ブルーノ・バウアーやカール・フリードリヒ・ケッペン(ドイツ語版)、ルートヴィヒ・アンドレアス・フォイエルバッハ、アーノルト・ルーゲ、アドルフ・フリードリヒ・ルーテンベルク(ドイツ語版)らヘーゲル左派哲学者の酒場の集まり「ドクトル・クラブ(Doktorclub)」に頻繁に参加するようになり、その影響で一層ヘーゲル左派の思想に近づいた。とりわけバウアーとケッペンから強い影響を受けた。ちょうどこの時期は「ドクトル・クラブ」がキリスト教批判・無神論に傾き始めた時期だったが、マルクスはその中でも最左翼であったらしい。 ベルリン大学時代にも放埓な生活を送り、多額の借金を抱えることとなった。これについて、父ハインリヒは、手紙の中で「裕福な家庭の子弟でも年500ターレル以下でやっているというのに、我が息子殿ときたら700ターレルも使い、おまけに借金までつくりおって」と不満の小言を述べている。また、ハインリヒは、自分が病弱だったこともあり、息子には早く法学学位を取得して法律職で金を稼げるようになってほしかったのだが、哲学などという非実務的な分野にかぶれて法学を疎かにしていることが心配でならなかった。 1838年5月10日に父ハインリヒが病死した。父の死によって、法学で身を立てる意思はますます薄くなり、大学に残って哲学研究に没頭したいという気持ちが強まった。博士号を得て哲学者になることを望むようになり、古代ギリシャの哲学者エピクロスとデモクリトスの論文の執筆を開始した。だが、母ヘンリエッテは、一人で7人の子供を養う身の上になってしまったため、長兄マルクスには早く卒業して働いてほしがっていた。しかし、マルクスは、新たな仕送りを要求するばかりだったので、母や姉ゾフィーと金銭をめぐって争うようになり、家族仲は険悪になっていった。 1840年にキリスト教と正統主義思想の強い影響を受けるロマン主義者フリードリヒ・ヴィルヘルム4世がプロイセン王に即位し、保守的なヨハン・アルブレヒト・フォン・アイヒホルン(ドイツ語版)が文部大臣(ドイツ語版)に任命されたことで言論統制が強化された。ベルリン大学にも1841年に反ヘーゲル派のフリードリヒ・シェリング教授が「不健全な空気を一掃せよ」という国王直々の命を受けて赴任してきた。 ベルリン大学で学士号、修士号を取得後、博士号を取得するべく博士論文の執筆を始める。 そのようなこともあって、マルクスは、ベルリン大学に論文を提出することを避け、1841年4月6日に審査が迅速で知られるイェーナ大学に『デモクリトスの自然哲学とエピクロスの自然哲学の差異(英語版)(Differenz der Demokritischen und Epikureischen Naturphilosophie)』と題した論文を提出し、9日後の4月15日に同大学から哲学博士号を授与された。この論文は文体と構造においてヘーゲル哲学に大きく影響されている一方、エピクロスの「アトムの偏差」論に「自己意識」の立場を認めるヘーゲル左派の思想を踏襲している。 ===大学教授への道が閉ざされる=== 1841年4月に学位を取得した後、トリーアへ帰郷した。大学教授になる夢を実現すべく、同年7月にボンへ移り、ボン大学で教授をしていたバウアーのもとを訪れる。バウアーの紹介で知り合ったボン大学教授連と煩わしがりながらも付き合うようになった。しかしプロイセン政府による言論統制は強まっており、バウアーはすでに解任寸前の首の皮一枚だったため、マルクスとしてはバウアーの伝手は大して期待しておらず、いざという時には岳父ヴェスファーレンの伝手で大学教授になろうと思っていたようである(マルクスの学位論文の印刷用原稿にヴェストファーレンへの献辞がある)。 ボンでのマルクスとバウアーは『無神論文庫』という雑誌の発行を計画したが、この計画はうまくいかなかった。二人は夏の間、ボンで無頼漢のような生活を送った。飲んだくれ、教会で大声をだして笑い、ロバでボンの街中を走りまわった。そうした無頼漢生活の極めつけが匿名のパロディー本『ヘーゲル この無神論者にして反キリスト者に対する最後の審判のラッパ(Die Posaune des j*7709*ngsten Gerichts *7710*ber Hegel, den Atheisten und Antichristen)』をザクセン王国ライプツィヒで出版したことだった。その内容は、敬虔なキリスト教徒が批判するというかたちでヘーゲルの無神論と革命性を明らかにするというもので、これは基本的にバウアーが書いた物であるが、マルクスも関係しているといわれる。 やがてこの本を書いたのは敬虔なキリスト教信徒ではなく無神論者バウアーと判明し、したがってその意図も明らかとなった。バウアーはすでに『共観福音書の歴史的批判』という反キリスト教著作のためにプロイセン政府からマークされていたが、そこへこのようなパロディー本を出版したことでいよいよ政府から危険視されるようになった。1842年3月にバウアーが大学で講義することは禁止された。これによってマルクスも厳しい立場に追い込まれた。 マルクスのもう一つの伝手であった岳父ヴェストファーレンも同じころに死去し、マルクスの進路は大学も官職も絶望的となった。 ===『ライン新聞』のジャーナリストとして=== 1841年夏にアーノルト・ルーゲは検閲が比較的緩やかなザクセン王国の王都ドレスデンへ移住し、そこで『ドイツ年誌(Deutsch Jahrb*7711*cher)』を出版した。マルクスはケッペンを通じてルーゲに接近し、この雑誌にプロイセンの検閲制度を批判する論文を寄稿したが、ザクセン政府の検閲で掲載されなかった。 ザクセンでも検閲が強化されはじめたことに絶望したマルクスは、『ドイツ年誌』への寄稿を断念し、彼の友人が何人か参加していたライン地方の『ライン新聞(ドイツ語版)』に目を転じた。この新聞は1841年12月にフリードリヒ・ヴィルヘルム4世が新検閲令を発し、検閲を多少緩めたのを好機として1842年1月にダーゴベルト・オッペンハイム(ドイツ語版)やルドルフ・カンプハウゼン(ドイツ語版)らライン地方の急進派ブルジョワジーとバウアーやケッペンやルーテンベルクらヘーゲル左派が協力して創刊した新聞だった。 同紙を実質的に運営していたのは社会主義者のモーゼス・ヘスだったが、彼はヘーゲル左派の新人マルクスに注目していた。当時のマルクスは社会主義者ではなかったから「私は社会主義哲学には何の関心もなく、あなたの著作も読んではいません」とヘスに伝えていたものの、それでもヘスはマルクスを高く評価し、「マルクス博士は、まだ24歳なのに最も深い哲学の知恵を刺すような機知で包んでいる。ルソーとヴォルテールとホルバッハとレッシングとハイネとヘーゲルを溶かし合わせたような人材である」と絶賛していた。 マルクスは1842年5月にもボン(後にケルン)へ移住し、ヘスやバウアーの推薦で『ライン新聞』に参加し、論文を寄稿するようになった。6月にプロイセン王を支持する形式をとって無神論の記事を書いたが、検閲官の目は誤魔化せず、この記事は検閲で却下された。また8月にも結婚の教会儀式に反対する記事を書いたのが検閲官に却下された。当時の新聞記事は無署名であるからマルクスが直接目を付けられる事はなかったものの、新聞に対する目は厳しくなった。最初の1年は試用期間だったが、それも終わりに近づいてきた10月に当局は『ライン新聞』に対して反政府・無神論的傾向を大幅に減少させなければ翌年以降の認可は出せない旨を通達した。またルーテンベルクを編集長から解任することも併せて求めてきた。マルクスは新聞を守るために当局の命令に従うべきと主張し、その意見に賛同した出資者たちからルーテンベルクに代わる新しい編集長に任じられた。 このような経緯であったから新編集長マルクスとしては新聞を存続させるために穏健路線をとるしかなかった。まず検閲当局に対して「これまでの我々の言葉は、全てフリードリヒ大王の御言葉を引用することで正当化できるものですが、今後は必要に迫られた場合以外は宗教問題を取り扱わないとお約束いたします」という誓約書を提出した。実際にマルクスはその誓約を守り、バウアー派の急進的・無神論的な主張を抑え続けた(これによりバウアー派との関係が悪くなった)。プロイセン検閲当局も「マルクスが編集長になったことで『ライン新聞』は著しく穏健化した」と満足の意を示している。 また7月革命後の1830年代のフランスで台頭した社会主義・共産主義思想が1840年代以降にドイツに輸出されてきていたが、当時のマルクスは共産主義者ではなく、あくまで自由主義者・民主主義者だったため、編集長就任の際に書いた論説の中で「『ライン新聞』は既存の共産主義には実現性を認めず、批判を加えていく」という方針を示した。また「持たざる者と中産階級の衝突は平和的に解決し得ることを確信している」とも表明した。 一方で法律や節度の範囲内での反封建主義闘争は止めなかった。ライン県議会で制定された木材窃盗取締法を批判したり、ライン県(ドイツ語版)知事エドゥアルト・フォン・シャーパー(ドイツ語版)の方針に公然と反対するなどした。 だがこの態度が災いとなった。検閲を緩めたばかりに自由主義新聞が増えすぎたと後悔していたプロイセン政府は、1842年末から検閲を再強化したのである。これによりプロイセン国内の自由主義新聞はほとんどが取り潰しにあった。国内のみならず隣国のザクセン王国にも圧力をかけてルーゲの『ドイツ年誌』も廃刊させる徹底ぶりだった。マルクスの『ライン新聞』もプロイセンと神聖同盟を結ぶロシア帝国を「反動の支柱」と批判する記事を掲載したことでロシア政府から圧力がかかり、1843年3月をもって廃刊させられることとなった。 マルクス当人は政府におもねって筆を抑えることに辟易していたので、潰されてむしろすっきりしたようである。ルーゲへの手紙の中で「結局のところ政府が私に自由を返してくれたのだ」と政府に感謝さえしている。また『ライン新聞』編集長として様々な時事問題に携わったことで自分の知識(特に経済)の欠如を痛感し、再勉強に集中する必要性を感じていた。 ===結婚=== 年俸600ターレルの『ライン新聞』編集長職を失ったマルクスだったが、この後ルーゲから『独仏年誌』をフランスかベルギーで創刊する計画を打ち明けられ、年俸850ターレルでその共同編集長にならないかという誘いを受けた。次の職を探さねばならなかったマルクスはこれを承諾した。 ルーゲ達が『独仏年誌』創刊の準備をしている間の1843年6月12日、クロイツナハにおいて25歳のマルクスは29歳の婚約者イェニーと結婚した。 前ヴェストファーレン家当主ルートヴィヒは自由主義的な人物で二人の婚約に反対しなかったが、今の当主フェルディナント(イェニーの兄)は保守的な貴族主義者だったのでマルクスのことを「ユダヤのヘボ文士」「過激派の無神論者」と疎み、「そんなロクデナシと結婚して家名を汚すな」と結婚に反対した。他の親族も反対する者が多かった。だがイェニーの意思は変わらなかった。 これについてマルクスは「私の婚約者は、私のために最も苦しい闘い ―天上の主とベルリンの主を崇拝する信心深い貴族的な親類どもに対する闘い― を戦ってくれた。そのためにほとんど健康も害したほどである」と述べている。 ===フォイエルバッハの人間主義へ=== マルクスの再勉強はヘーゲル批判から始まった。その勉強の中で『キリスト教の本質(ドイツ語版)』(1841年)を著したフォイエルバッハの人間主義的唯物論から強い影響を受けるようになった。フォイエルバッハ以前の無神論者たちはまだ聖書解釈学の範疇から出ていなかったが、フォイエルバッハはそれを更に進めて神学を人間学にしようとした。彼は「人間は個人としては有限で無力だが、類(彼は共同性を類的本質と考えていた)としては無限で万能である。神という概念は類としての人間を人間自らが人間の外へ置いた物に過ぎない」「つまり神とは人間である」「ヘーゲル哲学の言う精神あるいは絶対的な物という概念もキリスト教の言うところの神を難しく言い換えたに過ぎない」といった主張を行うことによって「絶対者」を「人間」に置き換えようとし、さらに「歴史の推進力は精神的なものではなく、物質的条件の総和であり、これがその中で生きている人間に思考し行動させる」として「人間」を「物質」と解釈した。 マルクスはこの人間主義的唯物論に深く共鳴し、後に『聖家族』の中で「フォイエルバッハは、ヘーゲル哲学の秘密を暴露し、精神の弁証法を絶滅させた。つまらん『無限の自己意識』に代わり、『人間』を据え置いたのだ」と評価した。マルクスはこの1843年に弁証法と市民社会階級の対立などの社会科学的概念のみ引き継いでヘーゲル哲学の観念的立場から離れ、フォイエルバッハの人間主義の立場に立つようになったといえる。 マルクスは1843年3月から8月にかけて書斎に引きこもって『ヘーゲル国法論批判(Kritik des Hegelschen Staatsrechts)』の執筆にあたった。これはフォイエルバッハの人間主義の立場からヘーゲルの国家観を批判したものである。ヘーゲルは「近代においては政治的国家と市民社会が分離しているが、市民社会は自分のみの欲求を満たそうとする欲望の体系であるため、そのままでは様々な矛盾が生じる。これを調整するのが国家であり、それを支えるのが優れた国家意識をもつ中間身分の官僚制度である。また市民社会は身分(シュタント)という特殊体系をもっており、これにより利己的な個人は他人と結び付き、国会(シュテンデ)を通じて国家の普遍的意志と結合する」と説くが、これに対してマルクスは国家と市民社会が分離しているという議論には賛同しつつ、官僚政治や身分や国会が両者の媒介役を務めるという説には反対した。国家を主体化するヘーゲルに反対し、人間こそが具体物であり、国は抽象物に過ぎないとして「人間を体制の原理」とする「民主制」が帰結と論じ、「民主制のもとでは類(共同性)が実在としてあらわれる」と主張する。この段階では「民主制」という概念で語ったが、後にマルクスはこれを共産主義に置き換えて理解していくことになる。 ===パリ在住時代=== 『独仏年誌』の発刊場所についてマルクスはフランス王国領ストラスブールを希望していたが、ルーゲやヘスたちは検閲がフランスよりも緩めなベルギー王国王都ブリュッセルを希望した。しかし最終的には印刷環境がよく、かつドイツ人亡命者が多いフランス王都パリに定められた。 こうしてマルクスは1843年10月から新妻とともにパリへ移住し、ルーゲが用意したフォーブール・サンジェルマン(フランス語版)の共同住宅でルーゲとともに暮らすようになった。 ===「人間解放」=== 1844年2月に『独仏年誌』1号2号の合併号が出版された。マルクスとルーゲのほか、ヘスやハイネ、エンゲルスが寄稿した。このうち著名人といえる者はハイネのみだった。ハイネはパリ在住時代にマルクスが親しく付き合っていたユダヤ人の亡命詩人であり、その縁で一篇の詩を寄せてもらったのだった。エンゲルスは父が共同所有するイギリスの会社で働いていたブルジョワの息子だった。マルクスが『ライン新聞』編集長をしていた1842年11月に二人は初めて知り合い、以降エンゲルスはイギリスの社会状況についての論文を『ライン新聞』に寄稿するようになっていた。エンゲルスは当時全くの無名の人物だったが、誌面を埋めるために論文を寄せてもらった。マルクスは尊敬するフォイエルバッハにも執筆を依頼していたが、断られている。 マルクス自身はこの創刊号にルーゲへの手紙3通と『ユダヤ人問題によせて』と『ヘーゲル法哲学批判序説(ドイツ語版)』という2つの論文を載せている。この中でマルクスは「ユダヤ人はもはや宗教的人種的存在ではなく、隣人から被った扱いによって貸金業その他職業を余儀なくされている純然たる経済的階級である。だから彼らは他の階級が解放されて初めて解放される。大事なことは政治的解放(国家が政治的権利や自由を与える)ではなく、市民社会からの人間的解放だ。」、「哲学が批判すべきは宗教ではなく、人々が宗教という阿片に頼らざるを得ない人間疎外の状況を作っている国家、市民社会、そしてそれを是認するヘーゲル哲学である」、「今や先進国では近代(市民社会)からの人間解放が問題となっているが、ドイツはいまだ前近代の封建主義である。ドイツを近代の水準に引き上げたうえ、人間解放を行うためにはどうすればいいのか。それは市民社会の階級でありながら市民から疎外されているプロレタリアート階級が鍵となる。この階級は市民社会の他の階級から自己を解放し、さらに他の階級も解放しなければ人間解放されることがないという徹底的な非人間状態に置かれているからだ。この階級はドイツでも出現し始めている。この階級を心臓とした人間解放を行え」といった趣旨のことを訴えた。こうしていよいよプロレタリアートに注目するようになったマルクスだが、一方で既存の共産主義にはいまだ否定的な見解を示しており、この段階では人間解放を共産革命と想定していたわけではないようである。もっともローレンツ・フォン・シュタインが紹介した共産主義者の特徴「プロレタリアートを担い手とする社会革命」と今やほとんど類似していた。 しかし結局『独仏年誌』はハイネの詩が載っているということ以外、人々の関心をひかなかった。当時パリには10万人のドイツ人がいたが、そのうち隅から隅まで読んでくれたのは一人だけだった。まずいことにそれは駐フランス・プロイセン大使だった。大使は直ちにこの危険分子たちのことをベルリン本国に報告した。この報告を受けてプロイセン政府は国境で待ち伏せて、プロイセンに送られてきた『独仏年誌』を全て没収した(したがってこれらの分は丸赤字)。さらに「マルクス、ルーゲ、ハイネの三名はプロイセンに入国次第、逮捕する」という声明まで出された。 スイスにあった出版社は赤字で倒産し、『独仏年誌』は創刊号だけで廃刊せざるをえなくなった。マルクスはルーゲが金の出し惜しみをしたせいで廃刊になったと考え、ルーゲを批判した。そのため二人の関係は急速に悪化し、ルーゲはマルクスを「恥知らずのユダヤ人」、マルクスはルーゲを「山師」と侮辱しあうようになった。二人はこれをもって絶縁した。後にマルクスもルーゲもロンドンで30年暮らすことになるが、その間も完全に没交渉だった。 ===そして共産主義へ=== マルクスは『独仏年誌』に寄稿された論文のうち、エンゲルスの『国民経済学批判大綱(Umrisse zu einer Kritik der National*7712*konomie)』に強い感銘を受けた。エンゲルスはこの中でイギリス産業に触れた経験から私有財産制やそれを正当化するアダム・スミス、リカード、セイなどの国民経済学(古典派経済学)を批判した。 これに感化されたマルクスは経済学や社会主義、フランス革命についての研究を本格的に行うようになった。アダム・スミス、リカード、セイ、ジェームズ・ミル等の国民経済学者の本、またサン=シモン、フーリエ、プルードン等の社会主義者の本を読み漁った。この時の勉強のノートや草稿の一部をソ連のマルクス・エンゲルス・レーニン研究所が1932年に編纂して出版したのが『経済学・哲学草稿(ドイツ語版)』である。その中でマルクスは「国民経済学者は私有財産制の運動法則を説明するのに労働を生産の中枢と捉えても、労働者を人間としては認めず、労働する機能としか見ていない」点を指摘する。またこれまでマルクスは「類としての人間」の本質をフォイエルバッハの用法そのままに「共同性・普遍性」という意味で使ってきたが、経済学的見地から「労働する人間」と明確に規定するようになった。「生産的労働を行って、人間の類的本質を達成することが人間の本来的あり方」「しかし市民社会では生産物は労働者の物にはならず、労働をしない資本家によって私有・独占されるため、労働者は自己実現できず、疎外されている」と述べている。またこの中でマルクスはいよいよ自分の立場を共産主義と定義するようになった。 1844年8月から9月にかけての10日間エンゲルスがマルクス宅に滞在し、2人で最初の共著『聖家族』を執筆を約束する。これ以降2人は親しい関係となった。この著作はバウアー派を批判したもので、「完全なる非人間のプロレタリアートにこそ人間解放という世界史的使命が与えられている」「しかしバウアー派はプロレタリアートを侮蔑して自分たちの哲学的批判だけが進歩の道だと思っている。まことにおめでたい聖家族どもである」「ヘーゲルの弁証法は素晴らしいが、一切の本質を人間ではなく精神に持ってきたのは誤りである。神と人間が逆さまになっていたように精神と人間が逆さまになっている。だからこれをひっくり返した新しい弁証法を確立せねばならない」と訴えた。 また1844年7月にルーゲが『フォールヴェルツ(ドイツ語版)』誌にシュレージエンで発生した織り工の一揆について「政治意識が欠如している」と批判する匿名論文を掲載したが、これに憤慨したマルクスはただちに同誌に反論文を送り、「革命の肥やしは政治意識ではなく階級意識」としてルーゲを批判し、シュレージエンの一揆を支持した。マルクスはこれ以外にも23もの論文を同誌に寄稿した。 しかしこの『フォールヴェルツ』誌は常日頃プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世を批判していたため、プロイセン政府から目を付けられていた。プロイセン政府はフランス政府に対して同誌を取り締まるよう何度も圧力をかけており、ついに1845年1月、フランス外務大臣フランソワ・ギゾーは、内務省を通じてマルクスはじめ『フォールヴェルツ』に寄稿している外国人を国外追放処分とした。 こうしてマルクスはパリを去らねばならなくなった。パリ滞在は14か月程度であったが、マルクスにとってこの時期は共産主義思想を確立する重大な変化の時期となった。 ===ブリュッセル在住時代=== マルクス一家は1845年2月にパリを離れ、ベルギー王都ブリュッセルに移住した。ベルギー王レオポルド1世は政治的亡命者に割と寛大だったが、それでもプロイセン政府に目を付けられているマルクスがやって来ることには警戒した。マルクスはベルギー警察の求めに応じて「ベルギーに在住する許可を得るため、私は現代の政治に関するいかなる著作もベルギーにおいては出版しないことを誓います。」という念書を提出した。しかし、マルクスはこの確約は政治に参加しないことを意味するものではないと解釈し、以後も政治的な活動を続けた。またプロイセン政府はベルギー政府にも強い圧力をかけてきたため、マルクスは「北アメリカ移住のため」という名目でプロイセン国籍を正式に離脱した。以降マルクスは死ぬまで無国籍者であった。 ブリュッセルにはマルクス以外にもドイツからの亡命社会主義者が多く滞在しており、ヘス、詩人フェルディナント・フライリヒラート、元プロイセン軍将校のジャーナリストであるヨーゼフ・ヴァイデマイヤー(ドイツ語版)、学校教師のヴィルヘルム・ヴォルフ(ドイツ語版)、マルクスの義弟エドガー・フォン・ヴェストファーレン(ドイツ語版)などがブリュッセルを往来した。1845年4月にはエンゲルスもブリュッセルへ移住してきた。この頃からエンゲルスに金銭援助してもらうようになる。 ===唯物史観と剰余価値理論の確立=== 1845年夏からエンゲルスとともに『ドイツ・イデオロギー』を共著したが、出版社を見つけられず、この作品は二人の存命中には出版されることはなかった。この著作の中でマルクスとエンゲルスは「西欧の革新的な哲学も封建主義的なドイツに入ると頭の中だけの哲学的空論になってしまう。大事なのは実践であり革命」と訴え、バウアーやフォイエルバッハらヘーゲル後の哲学者、またヘスやカール・グリューンら「真正社会主義者」に批判を加えている。マルクスは同じころに書いたメモ『フォイエルバッハに関するテーゼ』の中でもフォイエルバッハ批判を行っており、その中で「生産と関連する人間関係が歴史の基礎であり、宗教も哲学も道徳も全てその基礎から生まれた」と主張し、マルクスの最大の特徴ともいうべき唯物史観を萌芽させた。 さらに1847年には『哲学の貧困』を著した。これはプルードンの著作『貧困の哲学(仏:Syst*7713*me des contradictions *7714*conomiques ou Philosophie de la mis*7715*re)』を階級闘争の革命を目指さず、漸進主義ですませようとしている物として批判したものである。この中でマルクスは「プルードンは労働者の賃金とその賃金による労働で生産された生産物の価値が同じだと思っているようだが、実際には賃金の方が価値が低い。低いから労働者は生産物と同じ価値の物を手に入れられない。したがって労働者は働いて賃金を得れば得るほど貧乏になっていく。つまり賃金こそが労働者を奴隷にしている」と主張し、剰余価値理論を萌芽させた。また「生産力が増大すると人間の生産様式は変わる。生産様式が変わると社会生活の様式も変わる。思想や社会関係もそれに合わせて変化していく。古い経済学はブルジョワ市民社会のために生まれた思想だった。そして今、共産主義が労働者階級の思想となり、市民社会を打ち倒すことになる」と唯物史観を展開して階級闘争の必然性を力説する。そして「プルードンは、古い経済学と共産主義を両方批判し、貧困な弁証法哲学で統合しようとする小ブルジョアに過ぎない」と結論している。 1847年末にはドイツ労働者協会の席上で労働者向けの講演を行ったが、これが1849年に『新ライン新聞』上で『賃金労働と資本(ドイツ語版)』としてまとめられるものである。その中で剰余価値理論(この段階ではまだ剰余価値という言葉を使用していないが)をより後の『資本論』に近い状態に発展させた。「賃金とは労働力という商品の価格である。本来労働は、人間自身の生命の活動であり、自己実現なのだが、労働者は他に売るものがないので生きるためにその力を売ってしまった。したがって彼の生命力の発現の労働も、その成果である生産物も彼の物ではなくなっている(労働・生産物からの疎外)。」、「商品の価格は、その生産費、つまり労働時間によってきまる。労働力という商品の価格(賃金)も同様である。労働力の生産費、つまり生活費で決まる」、「資本家は労働力を購入して、そしてその購入費以上に労働をさせて労働力を搾取することで資本を増やす。資本が増大すればブルジョワの労働者への支配力も増す。賃金労働者は永久に資本に隷従することになる。」といった主旨のことを述べている。 ===共産主義者同盟の結成と『共産党宣言』=== パリ時代のマルクスは革命活動への参加に慎重姿勢を崩さなかったが、唯物史観から「プロレタリア革命の必然性」を確信するようになった今、マルクスに革命を恐れる理由はなかった。「現在の問題は実践、つまり革命である」と語るようになった。 1846年2月にはエンゲルス、ヘス、義弟エドガー・フォン・ヴェストファーレン(ドイツ語版)、フェルディナント・フライリヒラート、ヨーゼフ・ヴァイデマイヤー(ドイツ語版)、ヴィルヘルム・ヴァイトリング、ヘルマン・クリーゲ(ドイツ語版)、エルンスト・ドロンケ(ドイツ語版)らとともにロンドンのドイツ人共産主義者の秘密結社「正義者同盟」との連絡組織として「共産主義通信委員会」をブリュッセルに創設している。しかしマルクスの組織運営は独裁的と批判される。創設してすぐにヴァイトリングとクリーゲを批判して除名する。そのあとすぐモーゼス・ヘスが除名される前に辞任した。マルクスは瞬く間に「民主的な独裁者」の悪名をとるようになる。その一方、マルクスはフランスのプルードンに参加を要請したが、「運動の最前線にいるからといって、新たな不寛容の指導者になるのはやめましょう」と断られている。この数カ月後にマルクスは上記の『哲学の貧困』でプルードン批判を開始する。 新たな参加者が現れず、停滞気味の中の1847年1月、ロンドン正義者同盟のマクシミリアン・ヨーゼフ・モル(ドイツ語版)がマルクスのもとを訪れ、マルクスの定めた綱領の下で両組織を合同させることを提案した。マルクスはこれを許可し、6月のロンドンでの大会で共産主義通信委員会は正義者同盟と合同し、国際秘密結社「共産主義者同盟 (1847年)」を結成することを正式に決議した。またマルクスの希望でプルードン、ヴァイトリング、クリーゲの三名を「共産主義の敵」とする決議も出された。 合同によりマルクスは共産主義者同盟ブリュッセル支部長という立場になった。11月にロンドンで開催された第二回大会に出席し、同大会から綱領作成を一任されたマルクスは1848年の2月革命直前までに小冊子『共産党宣言』を完成させた。一応エンゲルスとの共著となっているが、ほとんどマルクスが一人で書いたものだった。 この『共産党宣言』は「一匹の妖怪がヨーロッパを徘徊している。共産主義という名の妖怪が」という有名な序文で始まる。ついで第一章冒頭で「これまでに存在したすべての社会の歴史は階級闘争の歴史である」と定義し、第一章と第二章でプロレタリアが共産主義革命でブルジョワを打倒することは歴史的必然であると説く。さらに第三章では「似非社会主義・共産主義」を批判する。そして最終章の第四章で具体的な革命の行動指針を定めているが、その中でマルクスは、封建主義的なドイツにおいては、ブルジョワが封建主義を打倒するブルジョワ革命を目指す限りはブルジョワに協力するが、その場合もブルジョワへの対立意識を失わず、封建主義体制を転覆させることに成功したら、ただちにブルジョワを打倒するプロレタリア革命を開始するとしている。そして最後は以下の有名な言葉で締めくくった。 共産主義者はこれまでの全ての社会秩序を暴力的に転覆することによってのみ自己の目的が達成されることを公然と宣言する。支配階級よ、共産主義革命の前に恐れおののくがいい。プロレタリアは革命において鎖以外に失う物をもたない。彼らが獲得する物は全世界である。万国のプロレタリアよ、団結せよ。 ===1848年革命をめぐって=== 1847年の恐慌による失業者の増大でかねてから不穏な空気が漂っていたフランス王都パリで1848年2月22日に暴動が発生し、24日にフランス王ルイ・フィリップが王位を追われて共和政政府が樹立される事件が発生した(2月革命)。この2月革命の影響は他のヨーロッパ諸国にも急速に波及した。全ヨーロッパで自由主義・民主主義・社会主義・共産主義・ナショナリズム・民族統一運動など「進歩思想」が燃え上がった。これを1848年革命と呼ぶ。 ドイツ連邦議会(ドイツ語版)議長国であるオーストリア帝国の帝都ウィーンでは3月13日に学生や市民らの運動により宰相クレメンス・フォン・メッテルニヒが辞職してイギリスに亡命することを余儀なくされ、皇帝フェルディナント1世も一時ウィーンを離れる事態となった。オーストリア支配下のハンガリーやボヘミア、北イタリアでは民族運動が激化。イタリア諸国のイタリア統一運動も刺激された。プロイセン王都ベルリンでも3月18日に市民が蜂起し、翌19日には国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世が国王軍をベルリン市内から退去させ、自ら市民軍の管理下に入り、自由主義内閣の組閣、憲法の制定、プロイセン国民議会(ドイツ語版)の創設、ドイツ統一運動に承諾を与えた。他のドイツ諸邦でも次々と同じような蜂起が発生した。そして自由都市フランクフルト・アム・マインにドイツ統一憲法を制定するためのドイツ国民議会(フランクフルト国民議会)が設置されるに至った。こうしたドイツにおける1848年革命は「3月革命」と呼ばれる。 ===ベルギー警察に逮捕される=== マルクスは、2月革命後にフランス臨時政府のメンバーとなっていたフェルディナン・フロコン(フランス語版)から「ギゾーの命令は無効になったからパリに戻ってこい」という誘いを受けた。マルクスはこれ幸いと早速パリに向かう準備を開始した。 その準備中の3月3日、革命の波及を恐れていたベルギー王レオポルド1世からの「24時間以内にベルギー国内から退去し、二度とベルギーに戻るな」という勅命がマルクスのもとに届けられた。いわれるまでもなくベルギーを退去する予定のマルクスだったが、3月4日に入った午前1時、ベルギー警察が寝所にやってきて逮捕された。町役場の留置場に入れられたが、「訳の分からないことを口走る狂人」と同じ監房に入れられ、一晩中その「狂人」の暴力に怯えながら過ごす羽目になったという。同日早朝、マルクスとの面会に訪れた妻イェニーも身分証を所持していないとの理由で「放浪罪」容疑で逮捕された。 マルクス夫妻の逮捕についてベルギー警察を批判する意見もあるが、妻イェニーは「ブリュッセルのドイツ人労働者は武装することを決めていました。そのため短剣やピストルをかき集めていました。カールはちょうど遺産を受け取った頃だったので、喜んでその金を武器購入費として提供しました。(ベルギー)政府はそれを謀議・犯罪計画と見たのでしょう。マルクスは逮捕されなければならなかったのです。」と証言している。 3月4日午後3時にマルクスとイェニーは釈放され、警察官の監視のもとで慌ただしくフランスへ向けて出国することになった。その道中の列車内は革命伝染阻止のために出動したベルギー軍人で溢れかえっていたという。列車はフランス北部の町ヴァランシエンヌで停まり、マルクス一家はそこから乗合馬車でパリに向かった。 ===共産主義者同盟をパリに移す=== 3月5日にパリに到着したマルクスは翌6日にも共産主義者同盟の中央委員会をパリに創設した。議長にはマルクスが就任し、エンゲルス、カール・シャッパー、モル、ヴォルフ、ドロンケらが書記・委員を務めた。議長マルクスはメンバーに赤いリボンを付けることを決議して組織の団結力を高めたが、共産主義者同盟は秘密結社であるから、この名前で活動するわけにもいかず、表向きの組織として「ドイツ労働者クラブ」も結成した。 3月21日にはエンゲルスとともに17カ条から成る『ドイツにおける共産党の要求』を発表した。ブルジョワとの連携を意識して『共産党宣言』よりも若干マイルドな内容になっている。 マルクスは革命のために必要なのは詩人や教授の部隊ではなく、プロパガンダと扇動だと考えていた。しかし在パリ・ドイツ人労働者には即時行動したがる者が多く、ゲオルク・ヘルヴェークとアデルベルト・フォン・ボルンシュテット(ドイツ語版)の「パリでドイツ人労働者軍団を組織してドイツへ進軍する」という夢想的計画が人気を集めていた。フランス臨時政府も物騒な外国人労働者たちをまとめて追い出すチャンスと見てこの計画を積極的に支援した。一方マルクスは「馬鹿げた計画はかえってドイツ革命を阻害する。在パリ・ドイツ人労働者をみすみす反動政府に引き渡しに行くようなものだ」としてこの計画に強く反対した。ヘルヴェークとボルンシュテットが「黒赤金同盟」を結成すると、マルクスはこれを自分の共産主義者同盟に対抗するものと看做し、ボルンシュテットを共産主義者同盟から除名した(ヘルヴェークはもともと共産主義者同盟のメンバーではなかった)。結局この二人は4月1日から数百人のドイツ人労働者軍団を率いてドイツ国境を越えて進軍するも、バーデン軍の反撃を受けてあっというまに武装解除されてしまう。 マルクスはこういう国外で労働者軍団を編成してドイツへ攻め込むというような冒険的計画には反対だったが、革命扇動工作員を個別にドイツ各地に送り込み、その地の革命を煽動させることには熱心だった。マルクスの指示のもと、3月下旬から4月上旬にかけて共産主義者同盟のメンバーが次々とドイツ各地に工作員として送りこまれた。フロコンの協力も得て最終的には300人から400人を送りこむことに成功した。エンゲルスは父や父の友人の資本家から革命資金を募ろうとヴッパータールに向かった。 ===ケルン移住と『新ライン新聞』発行=== マルクスとその家族は4月上旬にプロイセン領ライン地方ケルンに入った。 革命扇動を行うための新たな新聞の発行準備を開始したが、苦労したのは出資者を募ることだった。ヴッパータールへ資金集めにいったエンゲルスはほとんど成果を上げられずに戻ってきた。結局マルクス自らが駆け回って4月中旬までには自由主義ブルジョワの出資者を複数見つけることができた。 新たな新聞の名前は『新ライン新聞』と決まった。創刊予定日は当初7月1日に定められていたが、封建勢力の反転攻勢を阻止するためには一刻の猶予も許されないと焦っていたマルクスは、創刊日を6月1日に早めさせた。 同紙はマルクスを編集長として、エンゲルスやシャッパー、ドロンケ、フライリヒラート、ヴォルフなどが編集員として参加した。しかしマルクスは同紙の運営も独裁的に行い、ステファン・ボルン(ドイツ語版)からは「どんなに暴君に忠実に仕える臣下であってもマルクスの無秩序な専制にはついていかれないだろう」と評された。マルクスの独裁ぶりは親友のエンゲルスからさえも指摘された。 同紙は「共産主義の機関紙」ではなく「民主主義の機関紙」と銘打っていたが、これは出資者への配慮、また封建主義打倒まではブルジョワ自由主義と連携しなければいけないという『共産党宣言』で示した方針に基づく戦術だった。 プロレタリア革命の「前段階」たるブルジョワ革命を叱咤激励しながら、「大問題・大事件が発生して全住民を闘争に駆り立てられる状況になった時のみ蜂起は成功する」として時を得ないで即時蜂起を訴える意見は退けた。またドイツ統一運動も支援し、フランクフルト国民議会にも参加していく方針を示した。マルクスは国境・民族を越える人であり、民族主義者ではないが、ドイツの「政治的後進性」は小国家分裂状態によってもたらされていると見ていたのである。外交面ではポーランド人やイタリア人、ハンガリー人の民族運動を支持した。また「革命と民族主義を蹂躙する反動の本拠地ロシアと戦争することが(革命や民族主義を蹂躙してきた)ドイツの贖罪であり、ドイツの専制君主どもを倒す道でもある」としてロシアとの戦争を盛んに煽った。 ===革命の衰退=== しかし革命の機運は衰えていく一方だった。「反動の本拠地」ロシアにはついに革命が波及しなかったし、4月10日にはイギリスでチャーティスト運動が抑え込まれた。6月23日にはフランス・パリで労働者の蜂起が発生するも(6月蜂起)、ルイ=ウジェーヌ・カヴェニャック将軍率いるフランス軍によって徹底的に鎮圧された。この事件はヨーロッパ各国の保守派を勇気づけ、保守派の本格的な反転攻勢の狼煙となった。ヨーゼフ・フォン・ラデツキー元帥率いるオーストリア軍がロンバルディア(北イタリア)に出動してイタリア民族運動を鎮圧することに成功し、オーストリアはヨーロッパ保守大国の地位を取り戻した。プロイセンでは革命以来ルドルフ・カンプハウゼン(ドイツ語版)やダーヴィト・ハンゼマン(ドイツ語版)の自由主義内閣が発足していたが、彼らもどんどん封建主義勢力と妥協的になっていた。5月から開催されていたフランクフルト国民議会も夏の間、不和と空回りした議論を続け、ドイツ統一のための有効な手を打てなかった。 革命の破局の時が迫っていることに危機感を抱いたマルクスは、『新ライン新聞』で「ハンゼマンの内閣は曖昧な矛盾した任務を果たしていく中で、今ようやく打ち立てられようとしているブルジョワ支配と内閣が反動封建分子に出し抜かれつつあることに気づいているはずだ。このままでは遠からず内閣は反動によって潰されるだろう。ブルジョワはもっと民主主義的に行動し、全人民を同盟者にするのでなければ自分たちの支配を勝ち取ることなどできないということを自覚せよ」「ベルリン国民議会は泣き言を並べ、利口ぶってるだけで、なんの決断力もない」「ブルジョワは、最も自然な同盟者である農民を平気で裏切っている。農民の協力がなければブルジョワなど貴族の前では無力だということを知れ」とブルジョワの革命不徹底を批判した。 マルクスの『新ライン新聞』に対する風当たりは強まっていき、7月7日には検察官侮辱の容疑でマルクスの事務所に強制捜査が入り、起訴された。だがマルクスは立場を変えようとしなかったので、9月25日にケルンに戒厳令が発せられた際に軍司令官から新聞発行停止命令を受けた。シャッパーやベッカーが逮捕され、エンゲルスにも逮捕状が出たが、彼は行方をくらました。新聞の出資者だったブルジョワ自由主義者もこの頃までにほとんどが逃げ出していた。 10月12日に戒厳令が解除されるとマルクスはただちに『新ライン新聞』を再発行した。ブルジョワが逃げてしまったので、マルクスは将来の遺産相続分まで含めた自分の全財産を投げ打って同紙を個人所有し、何とか維持させた。 しかし革命派の戦況はまずます絶望的になりつつあった。10月16日にオーストリア帝都ウィーンで発生した市民暴動は同月末までにヴィンディシュ=グレーツ伯爵率いるオーストリア軍によって蹴散らされた。またこの際ウィーンに滞在中だったフランクフルト国民議会の民主派議員ローベルト・ブルム(ドイツ語版)が見せしめの即決裁判で処刑された。プロイセンでも11月1日に保守派のフリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・ブランデンブルク伯爵が宰相に就任し、11月10日にはフリードリヒ・フォン・ヴランゲル元帥率いるプロイセン軍がベルリンを占領して市民軍を解散させ、プロイセン国民議会も停会させた。 ===武装闘争とプロイセンからの追放=== プロイセン国民議会は停会する直前に納税拒否を決議した。マルクスはこの納税拒否の決議をあくまで推進しようと、11月18日に「民主主義派ライン委員会」の決議として「強制的徴税はいかなる手段を用いてでも阻止せねばならず、(徴税に来る)敵を撃退するために武装組織を編成せよ」という宣言を出した。 フェルディナント・ラッサールがデュッセルドルフでこれに呼応するも、彼は11月22日に反逆容疑で逮捕された。マルクスも反逆を煽動した容疑で起訴され、1849年2月8日に陪審制の裁判にかけられた。マルクスは「暴動を示唆」したことを認めていたが、陪審員には反政府派が多かったため、「国民議会の決議を守るために武装組織の編成を呼び掛けただけであり、合憲である」として全員一致でマルクスを無罪とした。 この無罪判決のおかげで『新ライン新聞』はその後もしばらく活動できたが、軍からの警戒は強まった。3月2日には軍人がマルクスの事務所にやってきてサーベルを抜いて脅迫してきたが、マルクスは拳銃を見せて追い払った。エンゲルスは後年に「8000人のプロイセン軍が駐屯するケルンで『新ライン新聞』を発行できたことをよく驚かれたものだが、これは『新ライン新聞』の事務所に8丁の銃剣と250発の弾丸、ジャコバン派の赤い帽子があったためだ。強襲するのが困難な要塞と思われていたのだ」と語っている。 5月にフランクフルト国民議会の決議したドイツ帝国憲法とドイツ帝冠をプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世が拒否したことで、ドイツ中の革命派が再び蜂起した。とりわけバーデン大公国とバイエルン王国領プファルツ地方で発生した武装蜂起は拡大した。亡命を余儀なくされたバーデン大公はプロイセン軍に鎮圧を要請し、これを受けてプロイセン皇太弟ヴィルヘルム(後のプロイセン王・ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世)率いるプロイセン軍が出動した。 革命の機運が戻ってきたと見たマルクスは『新ライン新聞』で各地の武装蜂起を嬉々として報じた。これがきっかけで5月16日にプロイセン当局より『新ライン新聞』のメンバーに対して国外追放処分が下され、同紙は廃刊を余儀なくされた。マルクスは5月18日の『新ライン新聞』最終号を赤刷りで出版し、「我々の最後の言葉はどこでも常に労働者階級の解放である!」と締めくくった。マルクスは全ての印刷機や家具を売り払って『新ライン新聞』の負債の清算を行ったが、それによって一文無しとなった。 パリ亡命を決意したマルクスは、エンゲルスとともにバーデン・プファルツ蜂起の中心地であるカイザースラウテルンに向かい、そこに作られていた臨時政府からパリで「ドイツ革命党」代表を名乗る委任状をもらった。そこからの帰途、二人はヘッセン大公国軍に逮捕されるも、まもなくフランクフルト・アム・マインで釈放された。マルクスはそのままパリへ亡命したが、エンゲルスは逃亡を嫌がり、バーデンの革命軍に入隊し、武装闘争に身を投じた。 ===フランスを経てイギリスへ=== 6月初旬に「プファルツ革命政府の外交官」と称して偽造パスポートでフランスに入国。パリのリール通り(フランス語版)に居住し、「ランボス」という偽名で文無しの潜伏生活を開始した。ラッサールやフライリヒラートから金の無心をして生計を立てた。 この頃のフランスはナポレオンの甥にあたるルイ・ナポレオン・ボナパルト(後のフランス皇帝ナポレオン3世)が大統領を務めていた。ルイ・ボナパルトはカトリック保守の秩序党(フランス語版)の支持を得て、教皇のローマ帰還を支援すべく、対ローマ共和国戦争を遂行していたが、左翼勢力がこれに反発し、6月13日に蜂起が発生した。しかしこの蜂起はフランス軍によって徹底的に鎮圧され、フランスの左翼勢力は壊滅的な打撃を受けた(6月事件)。 この事件の影響でフランス警察の外国人監視が強まり、偽名で生活していたマルクスも8月16日にパリ行政長官からモルビアン県へ退去するよう命令を受けた。マルクス一家は命令通りにモルビアンへ移住したが、ここはポンティノ湿地(フランス語版)の影響でマラリアが流行していた。このままでは自分も家族も病死すると確信したマルクスは、「フランス政府による陰険な暗殺計画」から逃れるため、フランスからも出国する覚悟を固めた。 ドイツ諸国やベルギーには戻れないし、スイスからも入国を拒否されていたマルクスを受け入れてくれる国はイギリス以外にはなかった。 ===ロンドン在住時代=== ====ディーン通りで赤貧生活==== ラッサールら友人からの資金援助でイギリスへの路銀を手に入れると、1849年8月27日に船に乗り、イギリスに入国した。この国がマルクスの終生の地となるが、入国した時には一時的な避難場所のつもりだったという。 イギリスに到着したマルクスは早速ロンドンでキャンバーウェル(英語版)にある家具付きの立派な家を借りたが、家賃を払えるあてもなく、1850年4月にも家は差し押さえられてしまった。 これによりマルクス一家は貧困外国人居住区だったソーホー・ディーン通り(英語版)28番地の二部屋を賃借りしての生活を余儀なくされた。 プロイセン警察がロンドンに放っていたスパイの報告書によれば「(マルクスは)ロンドンの最も安い、最も環境の悪い界隈で暮らしている。部屋は二部屋しかなく、家具はどれも壊れていてボロボロ。上品な物は何もない。部屋の中は散らかっている。居間の真ん中に油布で覆われた大きな机があるが、その上には彼の原稿やら書物やらと一緒に子供の玩具や細君の裁縫道具、割れたコップ、汚れたスプーン、ナイフ、フォーク、ランプ、インク壺、パイプ、煙草の灰などが所狭しと並んでいる。部屋の中に初めて入ると煙草の煙で涙がこぼれ、何も見えない。目が慣れてくるまで洞穴の中に潜ったかのような印象である。全ての物が汚く、埃だらけなので腰をかけるだけでも危険だ。椅子の一つは脚が3つしかないし、もう一個の満足な脚の椅子は子供たちが遊び場にしていた。その椅子が客に出される椅子なのだが、うっかりそれに座れば確実にズボンを汚してしまう」という有様だったという。また当時ソーホー周辺は不衛生で病が流行していたので、マルクス家の子供たちもこの時期に三人が落命した。その葬儀費用さえマルクスには捻出することができなかった。 それでもマルクスは毎日のように大英博物館図書館に行き、そこで朝9時から夜7時までひたすら勉強していた。のみならず秘書としてヴィルヘルム・ピーパーという文献学者を雇い続けた。妻イェニーはこのピーパーを嫌っており、お金の節約のためにも秘書は自分がやるとマルクスに訴えていたのだが、マルクスは聞き入れなかった。また、レイ・ランケスターといった博物館関係者とも親交を得た。 生計はフリードリヒ・エンゲルスからの定期的な仕送り、また他の友人(ラッサールやフライリヒラート、リープクネヒトなど)への不定期な金の無心、金融業者から借金、質屋通い、後述するアメリカ合衆国の新聞への寄稿でなんとか保った。没交渉の母親にさえ金を無心している(母とはずっと疎遠にしていたので励ましの手紙以外には何も送ってもらえなかったようだが)。 しかし1850年代の大半を通じてマルクス一家はまともな食事ができなかった。着る物もほとんど質に入れてしまったマルクスはよくベッドに潜り込んで寒さを紛らわせていたという。借金取りや家主が集金に来るとマルクスの娘たちが近所の子供のふりをして「マルクスさんは不在です」と答えて追い返すのが習慣になっていたという。 ===自分の雑誌とアメリカの新聞で文芸活動=== エンゲルスが参加していたバーデン・プファルツの武装闘争はプロイセン軍によって完全に鎮圧された。エンゲルスはスイスに亡命し、女と酒に溺れる日々を送るようになった。マルクスは彼に手紙を送り、「スイスなどにいてはいけない。ロンドンでやるべきことをやろうではないか」とロンドン移住を薦めた。これに応じてエンゲルスも11月12日にはロンドンへやってきた。 エンゲルスやコンラート・シュラム(ドイツ語版)の協力を得て新しい雑誌の創刊準備を進め、1850年1月からドイツ連邦自由都市ハンブルクで月刊誌『新ライン新聞 政治経済評論(ドイツ語版)』を出版した。同誌の執筆者はマルクスとエンゲルスだけだった。マルクスは『1848年6月の敗北』と題した論文を数回にわたって掲載したが、これが後に『フランスにおける階級闘争(Die Klassenk*7716*mpfe in Frankreich 1848 bis 1850)』として発刊されるものである。この中でマルクスはフランス2月革命の経緯を唯物史観に基づいて解説し、1848年革命のそもそもの背景は1847年の不況にあったこと、そして1848年中頃から恐慌が収まり始めたことで反動勢力の反転攻勢がはじまったことを指摘した。結局この『新ライン新聞 政治経済評論』はほとんど売れなかったため、資金難に陥って、最初の四カ月間に順次出した4号と11月の5号6号合併号のみで廃刊した。 ついで1851年秋からアメリカ合衆国ニューヨークで発行されていた当時20万部の発行部数を持っていた急進派新聞『ニューヨーク・トリビューン』のロンドン通信員となった。マルクスはこの新聞社の編集者チャールズ・オーガスタス・デーナと1849年にケルンで知り合っており、その伝手で手に入れた仕事だった。原稿料ははじめ1記事1ポンドだった。1854年以降に減らされるものの、借金に追われるマルクスにとっては重要な収入源だった。マルクスは英語が不自由だったので記事の執筆にあたってもエンゲルスの力を随分と借りたようである。 マルクスが寄稿した記事はアメリカへの愛がこもっており、アメリカ人からの評判も良かったという。アメリカの黒人奴隷制を批判したサザーランド公爵夫人(英語版)に対して「サザーランド公爵家もスコットランドの領地で住民から土地を奪い取って窮乏状態に追いやっている癖に何を抜かしているか」と批判を加えたこともある。マルクスと『ニューヨーク・トリビューン』の関係は10年続いたが、1861年にアメリカで南北戦争が勃発したことで解雇された(マルクスに限らず同紙のヨーロッパ通信員全員がこの時に解雇されている。内乱中にヨーロッパのことなど論じている場合ではないからである)。 ===共産主義者同盟の再建と挫折=== 1849年秋以来、共産主義者同盟のメンバーが次々とロンドンに亡命してきていた。モルは革命で戦死したが、シャッパーやヴォルフは無事ロンドンに到着した。また大学を出たばかりのヴィルヘルム・リープクネヒト、バーデン・プファルツ革命軍でエンゲルスの上官だったアウグスト・ヴィリヒ(ドイツ語版)などもロンドンへやってきてマルクスの新たな同志となった。彼らを糾合して1850年3月に共産主義同盟を再結成した。 再結成当初は、近いうちにまた革命が起こるという希望的観測に基づく革命方針を立てた。ドイツでは小ブルジョワ民主主義組織が増える一方、労働者組織はほとんどなく、あっても小ブルジョワ組織の指揮下におさめられてしまっているのが一般的だったので、まず独立した労働者組織を作ることが急務とした。またこれまで通り、封建主義打倒までは急進的ブルジョワとも連携するが、彼らが自身の利益固めに走った時はただちにこれと敵対するとし、ブルジョワが抑制したがる官公庁占拠など暴力革命も積極的に仕掛けていくことを宣言した。ハインリヒ・バウアー(Heinrich Bauer)がこの宣言をドイツへ持っていき、共産主義者同盟をドイツ内部に秘密裏に再建する工作を開始した(バウアーはその後オーストリアで行方不明となる)。 しかし1850年夏には革命の火はほとんど消えてしまった。フランスでは左翼勢力はすっかり蚊帳の外で、ルイ・ボナパルトの帝政復古か、秩序党の王政復古かという情勢になっていた。ドイツ各国でもブルジョワが革命を放棄して封建主義勢力にすり寄っていた。革命精神が幾らかでも残ったのはプロイセンがドイツ中小邦国と組んで起こそうとした小ドイツ主義統一の動きだったが、それもオーストリアとロシアによって叩き潰された(オルミュッツの屈辱)。 こうした状況の中、マルクスは今の好景気が続く限り、革命は起こり得ないと結論するようになり、共産主義者同盟のメンバーに対し、即時行動は諦めるよう訴えた。だが共産主義者同盟のメンバーには即時行動を求める者が多かった。マルクスの独裁的な組織運営への反発もあって、とりわけヴィリヒが反マルクス派の中心人物となっていった。シャッパーもヴィリヒを支持し、共産主義者同盟内に大きな亀裂が生じた。 1850年9月15日の執行部採決ではマルクス派が辛くも勝利を収めたものの、一般会員にはヴィリヒ支持者が多く、両派の溝は深まっていく一方だった。そこでマルクスは共産主義者同盟の本部をプロイセン王国領ケルンに移す事を決定した。そこには潜伏中の秘密会員しかいないが、それ故にヴィリヒ派を抑えられると踏んだのである。だがこの決定に反発したヴィリヒ達は共産主義者同盟から脱退し、ルイ・ブランとともに「国際委員会」という新組織を結成した。マルクスはこれに激怒し、この頃彼がエンゲルスに宛てて送った手紙もこの組織への批判・罵倒で一色になっている。 共産主義者同盟の本部をケルンに移したことは完全に失敗だった。1851年5月から6月にかけて共産主義者同盟の著名なメンバー11人が大逆罪の容疑でプロイセン警察によって摘発されてしまったのである。しかもこの摘発を命じたのはマルクスの義兄(イェニーの兄)にあたるフェルディナント・フォン・ヴェストファーレン(当時プロイセン内務大臣)だった。フェルディナントは今回の陰謀事件がどれほど悪質であったか、その陰謀の背後にいるマルクスがいかに恐ろしいことを企んでいるかをとうとうと宣伝した。これに対抗してマルクスは11人が無罪になるよう駆け回ったものの、ロンドンで証拠収集してプロイセンの法廷に送るというのは難しかった。そもそも暴動を教唆する文書を出したのは事実だったから、それを無害なものと立証するのは不可能に近かった。結局1852年10月に開かれた法廷で被告人11人のうち7人が有罪となり、共産主義者同盟は壊滅的打撃を受けるに至った(ケルン共産党事件)。 これを受けてさすがのマルクスも共産主義者同盟の存続を諦め、1852年11月17日に正式に解散を決議した。以降マルクスは10年以上もの間、組織活動から遠ざかることになる。 ===ナポレオン3世との闘争=== 一方フランスでは1851年12月に大統領ルイ・ボナパルトが議会に対するクーデタを起こし、1852年1月に大統領に権力を集中させる新憲法を制定して独裁体制を樹立した。さらに同年12月には皇帝に即位し、ナポレオン3世と称するようになった。 マルクスは彼のクーデタを考察した『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』を執筆し、これをアメリカの週刊新聞『レヴォルツィオーン』に寄稿した。この論文は「ヘーゲルはどこかで言った。歴史上のあらゆる偉大な事実と人物は二度現れると。彼はこう付け加えるのを忘れた。最初は悲劇として、二度目は茶番として」という有名な冒頭で始まり、ナポレオン3世に激しい弾劾を加えつつ、このクーデタの原因を個人の冒険的行動や抽象的な歴史的発展に求める考えを退けて、フランスの階級闘争が何故こうした凡庸な人物を権力の座に就けるに至ったかを分析する。 ナポレオン3世は東方問題をめぐってロシア帝国と対立を深め、イギリス首相パーマストン子爵と連携して1854年からクリミア戦争を開始した。マルクスはロシアのツァーリズムに対するこの戦争を歓迎した。ところが、自分が特派員になっている『ニューヨーク・トリビューン』は反英・親露的立場をとり、マルクスを困惑させた。マルクスとしては家計的にここと手を切るわけにはいかないのだが、エンゲルスへの手紙の中では「同紙が汎スラブ主義反対の声明を出すことが是非とも必要だ。でなければ僕らはこの新聞と決別するしかなくなるかもしれない」とまで書いている。 一方でマルクスは英仏にも疑惑の目を向けていた。「偽ボナパルトとパーマストン卿がやっている以上この戦争は偽善であり、ロシアを本気で倒すつもりなどないことは明らか」というのがマルクスの考えだった。マルクスはナポレオン3世もパーマストン子爵もツァーリ(ロシア皇帝)と秘密協定を結んでいると思いこんでいたそれは極端な意見だったが、実際クリミア戦争はクリミア半島セヴァストポリ要塞を陥落させたところで中途半端に終わった。 ナポレオン3世は1859年にサルデーニャ王国宰相カミッロ・カヴールと連携して北イタリアを支配するオーストリア帝国に対する戦争を開始した(イタリア統一戦争)。この戦争は思想の左右を問わずドイツ人を困惑させた。言ってみれば「フランス国内で自由を圧殺する専制君主ナポレオン3世がイタリア国民の自由を圧殺する専制君主国オーストリアに闘いを挑んだ」状態だからである。結局大ドイツ主義者(オーストリア中心のドイツ統一志向)がオーストリアと連携してポー川(北イタリア)を守るべしと主張し、小ドイツ主義者(オーストリアをドイツから排除してプロイセン中心のドイツ統一志向)はオーストリアの敗北を望むようになった。 この戦争をめぐってエンゲルスは小冊子『ポー川とライン川』を執筆し、ラッサールの斡旋でプロイセンのドゥンカー書店から出版した。この著作の中でエンゲルスは「確かにイタリア統一は正しいし、オーストリアがポー川(北イタリア)を支配しているのは不当だが、今度の戦争はナポレオン3世が自己の利益、あるいは反独的利益のために介入してきてるのが問題である。ナポレオン3世の最終目標はライン川(西ドイツ)であり、したがってドイツ人はライン川を守るために軍事上重要なポー川も守らねばならない」といった趣旨の主張を行い、オーストリアの戦争遂行を支持した。マルクスもこの見解を支持した。 マルクスが警戒したのはナポレオン3世の帝政がこの戦争を利用して延命することとフランスとロシアの連携がドイツ統一に脅威を及ぼしてくることだった。そのためマルクスはプロイセンがオーストリア側で参戦しようとしないことに憤り、「中立を主張するプロイセンの政治家どもは、ライン川左岸のフランスへの割譲を許したバーゼルの和約に歓声を送り、またウルムの戦いやアウステルリッツの戦いでオーストリアが敗れた時に両手をこすり合わせていた連中である」と批判した。また「オーストリアは全ドイツの敵であり、プロイセンは中立の立場を取るべき」と主張するカール・フォークト(ドイツ語版)を「ナポレオン3世から金をもらっている」と批判した。 しかしナポレオン3世を批判するあまり、イタリア統一運動を妨害し、ハプスブルク家による民族主義蹂躙を支持しているかのように見えるマルクスたちの態度にはラッサールも疑問を感じた。彼は独自に『イタリア戦争とプロイセンの義務(Der italienische Krieg und die Aufgabe Preussens)』という小冊子を執筆し、プロイセンは今度の戦争に参戦すべきではなく、ナポレオン3世が民族自決に基づいて南方の地図を塗り替えるならプロイセンは北方のシュレースヴィヒとホルシュタインに対して同じことをすればよいと訴えた。マルクスはこれに激怒し、ラッサールに不信感を抱くようになった。この論争についてフランツ・メーリングは「ラッサールはロシアの危険性を軽視し過ぎだったし、一方マルクスとエンゲルスはロシアの侵略性を過大評価しすぎた」としている。 ===グラフトン・テラスへ引っ越し=== 1855年春と1856年夏に、妻イェニーの伯父と母が相次いで死去した。とくに母の死はイェニーを悲しませたが、イェニーがその遺産の一部を相続したため、マルクス家の家計は楽になった。 マルクス家は悲惨なディーン街を脱出し、ロンドン北部ベルサイズ・パーク(英語版)グラフトン・テラス(Grafton Terrace)9番地へ移住した。当時この周辺は開発されていなかったため、不動産業界の評価が低く、安い賃料で借りることができた。イェニーはこの家について「これまでの穴倉と比べれば、私たちの素敵な小さな家はまるで王侯のお城のようでしたが、足の便の悪い所でした。ちゃんとした道路がなく、辺りには次々と家が建設されてガラクタの山を越えていかないといけないのです。ですから雨が降った日にはブーツが泥だらけになりました」と語っている。 引っ越してもマルクス家の金銭的危機は続いた。最大の原因は1857年にはじまった恐慌だった。これによって最大の援助者であるエンゲルスの給料が下がったうえ、『ニューヨーク・トリビューン』に採用してもらえる原稿数も減り、収入が半減したのである。結局金融業者と質屋を回る生活が続いた。マルクスは1857年1月のエンゲルス宛の手紙の中で「何の希望もなく借金だけが増えていく。なけなしの金を注ぎ込んだ家の中で二進も三進もいかなくなってしまった。ディーン通りにいた頃と同様、日々暮らしていくことさえ難しくなっている。どうしていいのか皆目分からず、5年前より絶望的な状況だ。私は既に自分が世の中の辛酸を舐めつくしたと思っていたが、そうではなかった。」と窮状を訴えている。エンゲルスは驚き、毎月5ポンドの仕送りと、必要なときにはいつでも余分に送ることを約束する。「(エンゲルスはそのとき猟馬を買ったばかりだったが、)きみときみの家族がロンドンで困っているというのに、馬なんか飼っている自分が腹立たしい」。 終わる気配のない困窮状態にマルクスとイェニーの夫婦喧嘩も増えたようである。この頃のエンゲルスへの手紙の中でマルクスは「妻は一晩中泣いているが、それが私には腹立たしくてならぬ。妻は確かに可哀そうだ。この上もない重荷が彼女に圧し掛かっているし、それに根本的に彼女が正しいのだから。だが君も知っての通り、私は気が短いし、おまけに多少無情なところもある」と告白している。 特に1861年に『ニューヨーク・トリビューン』から解雇されると困窮が深刻化した。マルクスが鉄道の出札係に応募したほどである(悪筆のため断られている。)。 ===『経済学批判』と『資本論』=== マルクスの最初の本格的な経済学書である『経済学批判』は、1850年9月頃から大英博物館で勉強しながら少しずつ執筆を進め、1857年から1858年にかけて一気に書きあげたものである。1859年1月にこの原稿を完成させたマルクスはラッサールの仲介でドゥンカー書店からこれを出版した。『経済学批判』は本格的な経済学研究書の最初の1巻として書かれた物であり、その本格的な研究書というのが1866年11月にハンブルクのオットー・マイスネル書店から出版した『資本論』第1巻だった。そのため経済学批判の主要なテーゼは全て資本論の第1巻に内包されている。よってこの二つはまとめて解説する。マルクスは『資本論』の中で次の主旨のことを主張した。 「人間が生きていくためには生産する必要があり、それは昔から行われてきた。ある場所で生産された物が別の場所で生産された物と交換される。それが成り立つのは生産物双方の使用価値(用途)が異なり、またその価値(生産にかかっている人間の労働量)が同じだからだ。だが資本主義社会では生産物は商品にされ、特に貨幣によって仲介されることが多い。たとえ商品化されようと貨幣によって仲介されようと使用価値の異なる生産物が交換されている以上、人間の労働の交換が行われているという本質は変わらないが、その意識は希薄になってしまう。商品と化した生産物は物として見る人がほとんどであり、商品の取引は物と物の取引と見られるからである。人間の創造物である神が人間の外に追いやられて人間を支配したように、人間の創造物である商品や貨幣が人間の外に追いやられて人間を支配したのである。商品や貨幣が神となれば、それを生産した者ではなく、所有する者が神の力で支配するようになる」 「ブルジョワ市民社会の発展は労働者を生み出した。この労働者というのは労働力(自分の頭脳や肉体)の他には売れる物を何も所有していない人々のことである。労働者は自らの労働力を商品化し、資本家にそれを売って生活している。資本家は利益を上げるために購入した労働力という商品を、価値以上に使用して剰余価値を生み出させ、それを搾取しようとする(賃金額に相当する生産物以上の物を生産することを労働者に要求し、それを無償で手に入れようとする)。資本家が剰余価値を全部消費するなら単純再生産が行われるし、剰余価値の一部が資本に転換されれば、拡大再生産が行われる。拡大再生産が進むと機械化・オートメーション化により労働者人口が過剰になってくる。産業予備軍(失業者)が増え、産業予備軍は現役労働者に取って代わるべく現役労働者より悪い条件でも働こうとしだすので、現役労働者をも危機に陥れる。こうして労働者階級は働けば働くほど窮乏が進んでいく。」 「商品は、不変資本(機械や原料など生産手段に投下される資本)、可変資本(労働力購入のために投下される資本)、剰余価値からなる。不変資本は新しい価値を生まないが、可変資本は自らの価値以上の剰余価値を生むことができる。この剰余価値が資本家の利潤を生みだす。ところが拡大再生産が進んで機械化・オートメーション化してくると不変資本がどんどん巨大化し、可変資本がどんどん下がる状態になるから、資本家にとっても剰余価値が減って利潤率が下がるという事態に直面する。投下資本を大きくすれば利潤の絶対量を上げ続けることはできる。だが利潤率の低下は生産力の更なる発展には妨げとなるため、資本主義生産様式の歴史的限界がここに生じる」。 そして「労働者の貧困と隷従と退廃が強まれば強まるほど彼らの反逆も増大する。ブルジョワはプロレタリア階級という自らの墓掘り人を作り続けている。収奪者が収奪される運命の時は近づいている。共産主義への移行は歴史的必然である」と結論する。 ===プロイセン帰国騒動=== 1861年1月、祖国プロイセンで国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世が崩御し、皇太弟ヴィルヘルムがヴィルヘルム1世として新たな国王に即位した。即位にあたってヴィルヘルム1世は政治的亡命者に大赦を発した。これを受けてベルリン在住の友人ラッサールはマルクスに手紙を送り、プロイセンに帰国して市民権を回復し、『新ライン新聞』を再建してはどうかと勧めた。マルクスは「ドイツの革命の波は我々の船を持ち上げるほど高まっていない」と思っていたものの、プロイセン市民権は回復したいと思っていたし、『ニューヨーク・トリビューン』の仕事を失ったばかりだったのでラッサールとラッサールの友人ハッツフェルト伯爵夫人ゾフィー(ドイツ語版)が『新ライン新聞』再建のため資金援助をしてくれるという話には魅力を感じた。 マルクスはラッサールと伯爵夫人の援助で4月1日にもプロイセンに帰国し、ベルリンのラッサール宅に滞在した。ところがラッサールと伯爵夫人は貴族の集まる社交界や国王臨席のオペラにマルクスを連れ回す貴族的歓待をしたため、贅沢や虚飾を嫌うマルクスは不快に感じた。マルクスがこういう生活に耐えていたのはプロイセン市民権を回復するためだったが、4月10日にはマルクスの市民権回復申請は警察長官から正式に却下され、マルクスは単なる外国人に過ぎないことが改めて宣告された。 マルクスが帰国の準備を始めると、伯爵夫人は「仕事の都合が付き次第、ベルリンを離れるというのが私が貴方に示した友情に対するお答えなのでしょうか」とマルクスをたしなめた。だがマルクスの方はラッサールやベルリンの人間の「虚栄的生活」にうんざりし、プロイセンに帰国する意思も『新ライン新聞』を再建する意思もすっかりなくしたようだった。とくにラッサールと数週間暮らしたことはマルクスとラッサールの関係に変化を与えた。マルクスはこれまでラッサールの政治的立場を支持してきたが、このプロイセン帰国でドイツの同志たちの「ラッサールは信用ならない」という評価を受け入れるようになった。 ===ラッサールとの亀裂=== 1862年の夏、ラッサールがロンドン万博で訪英するのをマルクスが歓迎することになった。先のベルリンで受けた饗応の返礼であったが、マルクス家には金銭的余裕はないから、このために色々と質に入れなければならなかった。しかしラッサールは、マルクス家の窮状に鈍感で浪費が激しかった。また彼は自慢話が多く、その中には誇大妄想的なものもあった。たとえばイタリアのマッツィーニやガリバルディもプロイセン政府と同じく自分の動かしている「歩」に過ぎないと言いだして、マルクスやイェニーに笑われた。しかしラッサールの方は、マルクスは抽象的になりすぎて政治の現実が分からなくなっているのだとなおも食い下がった。イェニーはラッサールの訪問を面白がっていたようだが、マルクスの方はうんざりし、エンゲルスへの手紙の中でラッサールについて「去年あって以来、あの男は完全に狂ってしまった」「あの裏声で絶えまないおしゃべり、わざとらしく芝居がかった所作、あの教条的な口調!」と評した。帰国直前になってようやくマルクス家の窮状に気付いたラッサールはエンゲルスを保証人にして金を貸すが、数か月後、返済期限をめぐってエンゲルスから「署名入りの借用書」を求めてマルクスともめる。マルクスは謝罪の手紙をだしたが、ラッサールは返事をださず、二人の関係は絶えた。 プロイセンでは、1861年12月とつづく1862年4月の総選挙で保守派が壊滅的打撃を被り、ブルジョワ自由主義政党ドイツ進歩党が大議席を獲得していた。軍制改革問題をめぐって国王ヴィルヘルム1世は自由主義勢力に追い詰められ、いよいよブルジョワ革命かという情勢になった。 ところがラッサールは進歩党の「夜警国家」観や「エセ立憲主義」にしがみ付く態度を嫌い、1863年に進歩党と決別して全ドイツ労働者同盟を結成しはじめた。そしてヴィルヘルム1世が対自由主義者の最終兵器として宰相に登用したユンカーの保守主義者オットー・フォン・ビスマルクと親しくするようになりはじめた。これはマルクスが『共産党宣言』以来言い続けてきた、封建制打倒まではプロレタリアはブルジョワ革命を支援しなければならないという路線への重大な逸脱だった。 不信感を持ったマルクスはラッサールの労働運動監視のためヴィルヘルム・リープクネヒトをベルリンに派遣した。リープクネヒトは全ドイツ労働者同盟に加入し、ユリウス・ファールタイヒ(ドイツ語版)ら同盟内部の反ラッサール派と連絡を取り合い、彼らを「マルクス党」に取り込もうと図った。また、マルクスはラッサールとともにビスマルクから国営新聞の編集に誘われた時もその反ビスマルク的姿勢から拒否してる。 ところがラッサールは1864年8月末に恋愛問題に絡む決闘で命を落とした。ラッサールの死を聞いたエンゲルスは冷淡な反応を示したが、マルクスの方はラッサール不信にも関わらず、「古い仲間が次々と死に、新しい仲間は増えない」と語って随分と意気消沈した。そして伯爵夫人やラッサールの後継者ヨハン・バプティスト・フォン・シュヴァイツァー(ドイツ語版)に彼の死を惜しむ弔辞を書いた。 ラッサールの死で最も有名な社会主義者はマルクスになった。 ===メイトランド・パークへの引っ越し=== 1863年11月に母ヘンリエッテが死去した。マルクスは母の死には冷淡で「私自身棺桶に足を入れている。この状況下では私には母以上の物が必要だろう」と述べた。遺産は前仮分が多額だったのでそれほど多くは出なかった。しかしともかくもその遺産を使って1864年3月にメイトランドパーク・モデナ・ヴィラズ1番地(1 Modena Villas, Maitland Park)の一戸建ての住居を借りた。家賃と税金はこれまでの住居の倍だったが、妻イェニーはこの家を「新しいし、日当たりもいいし、風通しも良い住み心地のいい家」と絶賛している。 さらに1864年5月9日には同志のヴィルヘルム・ヴォルフが死去した。ヴォルフは常にマルクスとエンゲルスに忠実に行動を共にしていた人物であり、彼は遺産のほとんどをマルクスに捧げる遺言書を書き残していた。マルクスは彼の葬儀で何度も泣き崩れた。ヴォルフは単なる外国語講師に過ぎなかったが、倹約家でかなりの財産を貯めていた。これによってマルクスは一気に820ポンドも得ることができた。この額はマルクスがこれまで執筆で得た金の総額よりも多かった。マルクスがこの数年後に出した資本論の第一巻をエンゲルスにではなくヴォルフに捧げているのはこれに感謝したからのようである。 急に金回りが良くなったマルクス一家は浪費生活を始めた。パーティーを開いたり、旅行に出かけたり、子供たちのペットを大量購入したり、アメリカやイギリスの株を購入したりするようになったのである。しかしこのような生活を続けたため、すぐにまた借金が膨らんでしまった。再びエンゲルスに援助を求めるようになり、結局1869年までにエンゲルスがその借金を肩代わりすることになった(この4年間にエンゲルスが出した金額は1862ポンドに及ぶという)。この借金返済以降、ようやくマルクス家の金銭事情は落ち着いた。 1875年春には近くのメイトランド・パーク・ロード41番地に最後の引っ越しをしている。以降マルクスは死去するまでここを自宅とすることになる。 ===第一インターナショナルの結成=== 1857年からの不況、さらにアメリカ南北戦争に伴う綿花危機でヨーロッパの綿花関連の企業が次々と倒産して失業者が増大したことで1860年代には労働運動が盛んになった。イギリスでは1860年にロンドン労働評議会(英語版)がロンドンに創設された。フランスでは1860年代以降ナポレオン3世が「自由帝政(フランス語版)」と呼ばれる自由主義化改革を行うようになり、皇帝を支持するサン・シモン主義者や労働者の団体『パレ・ロワイヤル・グループ(groupe du Palais‐Royal)』の結成が許可された。プルードン派やブランキ派の活動も盛んになった。前述したようにドイツでも1863年にラッサールが全ドイツ労働者同盟を結成した。 こうした中、労働者の国際連帯の機運も高まった。1862年8月5日にはロンドンのフリーメーソン会館(英語版)でイギリス労働者代表団とフランス労働者代表団による初めての労働者国際集会が開催された。労働者の国際組織を作ろうという話になり、1864年9月28日にロンドンのセント・マーチン会館(英語版)でイギリス、フランス、ドイツ、イタリア、スイス、ポーランドの労働者代表が出席する集会が開催され、ロンドン労働評議会(英語版)のジョージ・オッジャー(英語版)を議長とする第一インターナショナル(国際労働者協会)の発足が決議されるに至った。 マルクスはこの集会に「ドイツの労働者代表」として参加するよう要請を受け、共産主義者同盟の頃から友人であるヨハン・ゲオルク・エカリウス(ドイツ語版)とともに出席した。マルクスは総務評議会(執行部)と起草委員会(規約を作るための委員会)の委員に選出された。 マルクスは早速に起草委員として規約作りにとりかかった。委員はマルクスの他にもいたものの、彼らの多くは経験のない素人の労働者だったので(労働者の中ではインテリであったが)、長年の策略家マルクスにとっては簡単な議事妨害と批評だけで左右できる相手だった。マルクスもエンゲルスへの手紙の中で「難しいことではなかった。相手は『労働者』ばかりだったから」と語っている。イタリア人の委員がジュゼッペ・マッツィーニの主張を入れようとしたり、イギリス人の委員がオーエン主義を取り入れようとしたりもしたが、いずれもマルクスによって退けられている。唯一マルクスが譲歩を迫られたのは、前文に「権利・義務」、協会の指導原理に「真理・道義・正義」といった表現が加えたことだったが、マルクスはエンゲルスの手紙の中でこれらの表現を「何ら害を及ぼせない位置に配置した」と語っている。 こうして作成された規約は全会一致で採択された。後述するイギリス人の労働組合主義、フランス人のプルードン主義、ドイツ人のラッサール派などをまとめて取り込むことを視野に入れて、かつての『共産党宣言』よりは包括的な規約にしてある(結局ラッサール派は取り込めなかったが)。それでも最後には「労働者は政治権力の獲得を第一の義務とし、もって労働者階級を解放し、階級支配を絶滅するという究極目標を自らの手で勝ち取らねばならない。そのために万国のプロレタリアよ、団結せよ!」という『共産党宣言』と同じ結び方をしている。 ===プルードン主義・労働組合主義・議会主義との闘争=== インターナショナルの日常的な指導はマルクスとインターナショナル内の他の勢力との権力闘争の上に決定されていた。他の勢力とは主に「プルードン主義」、労働組合主義、バクーニン派であった(バクーニンについては後述)。 フランス人メンバーはフランス革命に強く影響されていたため、マルクスがいうところの「プルードン主義」「小ブルジョワ社会主義」に走りやすかった。そのためマルクスが主張する私有財産制の廃止に賛成せず、小財産制を擁護する者が多かった。また概してフランス人は直接行動的であり、ナポレオン3世暗殺計画を立案しだすこともあった。彼らは「ドイツ人」的な小難しい科学分析も、「イギリス人」的な議会主義も嫌う傾向があった。ただフランス人はインターナショナルの中でそれほど数は多くなかったから、マルクスにとって大きな脅威というわけでもなかった。 むしろマルクスにとって厄介だったのはイギリス人メンバーの方だった。インターナショナル創設の原動力はイギリス労働者団体であったし、インターナショナルの本部がロンドンにあるため彼らの影響力は大きかった。イギリス人メンバーは労働組合主義や議会主義に強く影響されているので、労働条件改善や選挙権拡大といった社会改良だけで満足することが多く、また何かにつけて「ブルジョワ議会」を通じて行動する傾向があった。インターナショナルはイギリスの男子選挙権拡大を目指す改革連盟に書記を送っていたものの、その指導者である弁護士エドモンド・ビールズ(英語版)がインターナショナルの総評議会に入ってくることをマルクスは歓迎しなかった。マルクスはイギリスの「ブルジョワ政治家」たちが参加してくるのを警戒していた。ビールズが次の総選挙に出馬を決意したことを理由に「インターナショナルがイギリスの政党政治に巻き込まれることは許されない」としてビールズ加入を阻止した。 ===リンカーンの奴隷解放政策を支持=== 1861年にアメリカ南北戦争が勃発して以来、イギリス世論はアメリカ北部(アメリカ合衆国)を支持するかアメリカ南部(アメリカ連合国)を支持するかで二分されていた。イギリス貴族や資本家は「連合国の奴隷制に問題があるとしても合衆国が財産権を侵害しようとしているのは許しがたい」と主張する親連合国派が多かった。対してイギリス労働者・急進派は奴隷制廃止を掲げる合衆国を支持した。この問題をめぐる貴族・資本家VS労働者・急進派の対立はかなり激しいものとなっていった。 これは様々な勢力がいるインターナショナルが一致させることができる問題だった。ちょうど1864年11月には合衆国大統領選挙があり、奴隷制廃止を掲げるエイブラハム・リンカーンが再選を果たした。マルクスはインターナショナルを代表してリンカーンに再選祝賀の手紙を書き、アメリカ大使アダムズに提出した。マルクスはエンゲルスへの手紙の中で「奴隷制を資本主義に固有な本質的諸害悪と位置付けたことで、通俗的な民主的な言葉遣いとは明確に区別できる手紙になった」と語っている。 この手紙に対してリンカーンから返事があった。マルクスは手紙の中でリンカーンにインターナショナル加入を勧誘していたが、リンカーンは返事の中で「宣伝に引き入れられたくない」と断っている。だがマルクスは「アメリカの自由の戦士」から返事をもらったとしてインターナショナル宣伝にリンカーンを大いに利用した。実際そのことが『タイムズ』に報道されたおかげで、インターナショナルはわずかながら宣伝効果を得られたのだった。 ===ラッサール派の親ビスマルク路線との闘争=== ラッサールの死後、全ドイツ労働者同盟(ラッサール派)はラッサールから後継者に指名されたベルンハルト・ベッケルとハッツフェルト伯爵夫人を中心とするラッサールの路線に忠実な勢力とヨハン・バプティスト・フォン・シュヴァイツァー(ドイツ語版)を中心とする創設者ラッサールに敬意を払いつつも独自の発展が認められるべきと主張する勢力に分裂した。 そうした情勢の中でシュヴァイツァーがマルクスに接近を図るようになり、同盟の新聞『ゾチアール・デモクラート(社会民主主義)』に寄稿するよう要請を受けた。マルクスとしてはこの新聞に不満がないわけでもなかったが、インターナショナルや(当時来年出ると思っていた)『資本論』の販売のためにベルリンに足場を持っておきたい時期だったので当初は協力した。しかしまもなく同紙のラッサール路線の影響の強さにマルクスは反発するようになった。結局1865年2月23日にエンゲルスとともに同紙との絶縁の宣言を出すに至った。その中で「我々は同紙が進歩党に対して行っているのと同様に内閣と封建的・貴族的政党に対しても大胆な方針を取るべきことを再三要求したが、『社会民主主義』紙が取った戦術(マルクスはこれを「王党的プロイセン政府社会主義」と呼んだ)は我々との連携を不可能にするものだった」と書いている。 このマルクスとラッサール派の最終的決裂を受けて、1865年秋にプロイセンから国外追放されたリープクネヒトは、ラッサール派に対抗するため、アウグスト・ベーベルとともに「ザクセン人民党」を結成しオーストリアも加えた大ドイツ主義的統一・反プロイセン的な主張をするようになった。ラッサール派の小ドイツ主義統一(オーストリアをドイツから追放し、プロイセン中心のドイツ統一を行う)路線に抵抗するものだった。 もっともビスマルクにとっては労働運動勢力が何を主張し合おうが関係なかった。彼は小ドイツ主義統一を推し進め、1866年に普墺戦争でオーストリアを下し、ドイツ連邦を解体してオーストリアをドイツから追放するとともにプロイセンを盟主とする北ドイツ連邦を樹立することに成功した。マルクスはビスマルクが王朝的に小ドイツ主義的に統一を推し進めていくことに不満もあったものの、諸邦分立状態のドイツ連邦が続くよりはプロイセンを中心に強固に固まっている北ドイツ連邦の方がプロレタリア闘争に有利な展望が開けていると一定の評価をした。リープクネヒトとベーベルも1867年に北ドイツ連邦の帝国議会選挙に出馬して当選を果たした。 マルクスはリープクネヒトはあまり当てにしていなかったが、ベーベルの方は高く評価していた。ベーベルは1868年初頭にシュヴァイツァーの『社会民主主義』紙に対抗して『民主主義週報』紙を立ち上げ、これを起点にラッサール派に参加していない労働組合を次々と取り込むことに成功し、マルクス派をラッサール派に並ぶ勢力に育て上げることに成功したのである。そしてその成功を盾にベーベルとリープクネヒトは1869年8月初めにアイゼナハにおいて社会民主労働党(ドイツ語版)(アイゼナハ派)を結成した。 マルクスもこの状況を満足げに眺め、フランス労働運動よりドイツ労働運動の方が先進的になってきたと評価するようになった。 ===普仏戦争をめぐって=== 1870年夏に勃発した普仏戦争はビスマルクの謀略で始まったものだが、ナポレオン3世を宣戦布告者に仕立てあげる工作が功を奏し、北ドイツ連邦も南ドイツ諸国もなく全ドイツ国民のナショナリズムが爆発した国民戦争となった。亡命者とはいえ、やはりドイツ人であるマルクスやエンゲルスもその熱狂からは逃れられなかった。 開戦に際してマルクスは「フランス人はぶん殴ってやる必要がある。もしもプロイセンが勝てば国家権力の集中化はドイツ労働者階級の集中化を助けるだろう。ドイツの優勢は西ヨーロッパの労働運動の重心をフランスからドイツへ移すことになるだろう。そして1866年以来の両国の運動を比較すれば、ドイツの労働者階級が理論においても組織においてもフランスのそれに勝っている事は容易にわかるのだ。世界的舞台において彼らがフランスの労働者階級より優位に立つことは、すなわち我々の理論がプルードンの理論より優位に立つことを意味している」と述べた。エンゲルスに至っては「今度の戦争は明らかにドイツの守護天使がナポレオン的フランスのペテンをこれ限りにしてやろうと決心して起こしたものだ」と嬉々として語っている。 もっともこれは私的な意見であり、フランス人も参加しているインターナショナルの場ではマルクスももっと慎重にふるまった。開戦から10日後の7月23日、マルクスはインターナショナルとしての公式声明を発表し、その中で「ルイ・ボナパルトの戦争策略は1851年のクーデタの修正版であり、第二帝政は始まった時と同じくパロディーで終わるだろう。しかしボナパルトが18年もの間、帝政復古という凶悪な茶番を演じられたのはヨーロッパの諸政府と支配階級のおかげだということを忘れてはならない」「ビスマルクはケーニヒグレーツの戦い以降、ボナパルトと共謀し、奴隷化されたフランスに自由なドイツを対置しようとせず、ドイツの古い体制のあらゆる美点を注意深く保存しながら第二帝政の様々な特徴を取り入れた。だから今やライン川の両岸にボナパルト体制が栄えている状態なのだ。こういう事態から戦争以外の何が起こりえただろうか」、「今度の戦争はドイツにとっては防衛戦争だが、その性格を失ってフランス人民に対する征服戦争に墜落することをドイツ労働者階級は許してはならない。もしそれを許したら、ドイツに何倍もの不幸が跳ね返ってくるであろう」とした。 戦況はプロイセン軍の優位に進み、1870年9月初旬のセダンの戦いでナポレオン3世がプロイセン軍の捕虜となった。第二帝政の権威は地に堕ち、パリで革命が発生して第三共和政が樹立されるに至った。共和政となったフランスとの戦いにはマルクスは消極的であり、「あのドイツの俗物(ビスマルク)が、神にへつらうヴィルヘルムにへつらえばへつらうほど、彼はフランス人に対してますます弱い者いじめになる」「もしプロイセンがアルザス=ロレーヌを併合するつもりなら、ヨーロッパ、特にドイツに最大の不幸が訪れるだろう」「戦争は不愉快な様相を呈しつつある。フランス人はまだ殴られ方が十分ではないのに、プロイセンの間抜けたちはすでに数多くの勝利を得てしまった」と私的にも不満を述べるようになった。 9月9日にはインターナショナルの第二声明を出させた。その中でドイツの戦争がフランス人民に対する征服戦争に転化しつつあることを指摘した。ドイツは領土的野心で行動すべきではなく、フランス人が共和政を勝ち取れるよう行動すべきとし、ビスマルクやドイツ愛国者たちが主張するアルザス=ロレーヌ併合に反対した。アルザス=ロレーヌ割譲要求はドイツの安全保障を理由にしていたが、これに対してマルクスは「もしも軍事的利害によって境界が定められることになれば、割譲要求はきりがなくなるであろう。どんな軍事境界線もどうしたって欠点のあるものであり、それはもっと外側の領土を併合することによって改善される余地があるからだ。境界線というものは公平に決められることはない。それは常に征服者が被征服者に押し付け、結果的にその中に新たな戦争の火種を抱え込むものだからだ」と反駁した。 一方ビスマルクはパリ包囲戦中の1871年1月にもドイツ軍大本営が置かれているヴェルサイユ宮殿で南ドイツ諸国と交渉し、南ドイツ諸国が北ドイツ連邦に参加する形でのドイツ統一を取り決め、ヴィルヘルム1世をドイツ皇帝に戴冠させてドイツ帝国を樹立した。その10日後にはフランス臨時政府にアルザス=ロレーヌの割譲を盛り込んだ休戦協定を結ばせることにも成功し、普仏戦争は終結した。これを聞いたマルクスは意気消沈したが、「戦争がどのように終わりを告げようとも、それはフランスのプロレタリアートに銃火器の使用方法を教えた。これは将来に対する最良の保障である」と予言した。 ===パリ・コミューン支持をめぐって=== マルクスの予言はすぐにも実現した。休戦協定に反発したパリ市民が武装蜂起し、1871年3月18日にはアドルフ・ティエール政府をパリから追い、プロレタリア独裁政府パリ・コミューンを樹立したのである。3月28日にはコミューン92名が普通選挙で選出されたが、そのうち17人はインターナショナルのフランス人メンバーだった。マルクスはパリは無謀な蜂起するべきではないという立場をとっていたが、いざパリ・コミューン誕生の報に接すると、「なんという回復力、なんという歴史的前衛性、なんという犠牲の許容性をパリジャンは持っていることか!」「歴史上これに類する偉大な実例はかつて存在したことはない!」とクーゲルマンへの手紙で支持を表明した。しかし結局このパリ・コミューンは2カ月強しか持たなかった。ヴェルサイユに移ったティエール政府による激しい攻撃を受けて5月終わり頃には滅亡したのである。 マルクスは5月30日にもインターナショナルからパリ・コミューンに関する声明を出した。この声明を後に公刊したのが『フランスにおける内乱(Der B*7717*rgerkrieg in Frankreich)』である。その中でマルクスは「パリ・コミューンこそが真のプロレタリア政府である。収奪者に対する創造階級の闘争の成果であり、ついに発見された政治形態である」と絶賛した。そしてティエール政府の高官を悪罵してその軍隊によるコミューン戦士2万人の殺害を「蛮行」と批判し、コミューンが報復として行った聖職者人質60数名の殺害を弁護した。またビスマルクがフランス兵捕虜を釈放してティエール政府の軍隊に参加させたことに対しては、自分が以前主張してきたように、「各国の政府はプロレタリアに対する場合には一つ穴の狢」だと弾劾した。。 その後もマルクスは「コミューンの名誉の救い主」(これは後に批判者たちからの嘲笑的な渾名になったが)を自称して積極的なコミューン擁護活動を行った。イギリスへ亡命したコミューン残党の生活を支援するための委員会も設置させている。娘婿ポール・ラファルグやジュール・ゲードなど、コミューン派だったために弾圧された人々はこうしたネットワークを拠点にマルクスと緊密に連携するようになり、のちのフランス社会党の一翼を形成することになる。 しかしパリ・コミューンの反乱は全ヨーロッパの保守的なマスコミや世論を震え上がらせており、さまざまな媒体から、マルクスたちが黒幕とするインターナショナル陰謀論、マルクス陰謀論、ユダヤ陰謀論が出回るようになった。この悪評でインターナショナルは沈没寸前の状態に陥ってしまった。 こうした中、オッジャーらイギリス人メンバーはインターナショナルとの関係をブルジョワ新聞からも自分たちの穏健な同志たちからも糾弾され、ついにオッジャーは1871年6月をもってインターナショナルから脱退した。これによりマルクスのイギリス人メンバーに対する求心力は大きく低下した。マルクスの独裁にうんざりしたイギリス人メンバーは自分たちの事柄を処理できるイギリス人専用の組織の設置を要求するようになった。自分の指導下から離脱しようという意図だと察知したマルクスは、当初これに反対したものの、もはや阻止できるだけの影響力はなく、最終的には彼らの主張を認めざるを得なかった。マルクスは少しでも自らの敗北を隠すべく、自分が提起者となって「イギリス連合評議会」をインナーナショナル内部に創設させた。 マルクスの権威が低下していく中、追い打ちをかけるようにバクーニンとの闘争が勃発し、いよいよインターナショナルは崩壊へと向かっていく。 ===バクーニンの分立主義とユダヤ陰謀論との闘争=== ミハイル・バクーニンはロシア貴族の家に生まれがら共産主義的無政府主義の革命家となった異色の人物だった。1844年にマルクスと初めて知り合い、1848年革命で逮捕され、シベリア流刑となるも脱走して、1864年に亡命先のロンドンでマルクスと再会し、インターナショナルに協力することを約束した。そして1867年以来スイス・ジュネーブでインターナショナルと連携しながら労働運動を行っていたが、1869年夏にはインターナショナル内部で指導的地位に就くことを望んでインターナショナルに参加した人物だった。 バクーニンは、これまでマルクスを称賛してきたものの、マルクスの権威主義的組織運営に対する反感を隠そうとはしなかった。彼はマルクスの中央権力を抑え込むべく、インターナショナルを中央集権組織ではなく、半独立的な地方団体の集合体にすべきと主張するようになった。この主張は、スイスやイタリア、スペインの支部を中心にマルクスの独裁的な組織運営に反発するメンバーの間で着実に支持を広げていった。しかしマルクスの考えるところではインターナショナルは単なる急進派の連絡会であってはならず、各地に本部を持ち統一された目的で行動する組織であるべきだった。だからバクーニンの動きは看過できないものだった。 しかもバクーニンは強烈な反ユダヤ主義者であり、インターナショナル加盟後も「ユダヤ人はあらゆる国で嫌悪されている。だからどの国の民衆革命でもユダヤ人大量虐殺を伴うのであり、これは歴史的必然だ」などと述べてユダヤ人虐殺を公然と容認・推奨していた。だからマルクスとの対立が深まるにつれてバクーニンのマルクス批判の調子もだんだん反ユダヤ主義・ユダヤ陰謀論の色彩を帯びていった。たとえば「マルクスの共産主義は中央集権的権力を欲する。国家の中央集権には中央銀行が欠かせない。このような銀行が存在するところに人民の労働の上に相場を張っている寄生虫民族ユダヤ人は、その存在手段を見出すのである」「この世界の大部分は、片やマルクス、片やロスチャイルド家の意のままになっている。私は知っている。反動主義者であるロスチャイルドが共産主義者であるマルクスの恩恵に大いに浴していることを。」「ユダヤの結束、歴史を通じて維持されてきたその強固な結束が、彼らを一つにしているのだ」「独裁者にしてメシアであるマルクスに献身的なロシアとドイツのユダヤ人たちが私に卑劣な陰謀を仕掛けてきている。私はその犠牲となるだろう。ラテン系の人たちだけがユダヤの世界制覇の陰謀を叩き潰すことができる」といった具合である。 ヨーロッパ中でインターナショナルの批判が高まっている時であったからバクーニンのこうした粗暴な反ユダヤ主義はインターナショナル総評議会にとっても看過するわけにはいかないものだった。総評議会は1872年6月にマルクスの書いた『インターナショナルにおける偽装的分裂』を採択し、その中でバクーニンについて人種戦争を示唆し、労働運動を挫折させる無政府主義者の頭目であり、インターナショナル内部に秘密組織を作ったとして批判した。同じころ、バクーニンの友人セルゲイ・ネチャーエフがバクーニンのために送った強請の手紙を入手したマルクスは、1872年9月にオランダ・ハーグで開催された大会においてこれを暴露した。劇的なタイミングでの提出だったのでプルードン派もバクーニン追放に回り、大会は僅差ながらバクーニンをインターナショナルから追放する決議案を可決させた。 ===インターナショナルの終焉=== バクーニンを追放することには成功したマルクスだったが、ハーグ大会の段階でインターナショナルにおけるマルクスの権威は失われていた。イギリス人メンバーがマルクスの反対派に転じていたし、親しかったエカリウスとも喧嘩別れしてしまっていた。 ハーグ大会の際、エンゲルスが自分とマルクスの意志として総評議会をアメリカ・ニューヨークに移すことを提起した。エンゲルスはその理由として「アメリカの労働者組織には熱意と能力がある」と説明したが、そうした説明に納得する者は少なかった。インターナショナル・アメリカ支部はあまりに小規模だった。エンゲルスの提案は僅差で可決されたものの、「ニューヨークに移すぐらいなら月に移した方がまだ望みがある」などという意見まで出る始末だった。『ザ・スペクテイター(英語版)』紙も「もはやコミューンの運気もその絶頂が過ぎたようだ。絶頂期自体さほど高い物でもなかったが。そこがロシアでもない限り、再び運動が盛り上がる事はないだろう」と嘲笑的に報じた。 なぜエンゲルスとマルクスがこのような提案をしたのか、という問題については議論がある。マルクスは大会前に引退をほのめかす個人的心境をクーゲルマンに打ち明けており、彼が『資本論』の執筆のために総評議員をやめたがっていたことは周知の事実だった。このことから、マルクスはインターナショナルを終わらせるためにこのような提案をしたのだという見解がでてくる。しかしこの説には疑問が残る。というのも、ハーグ大会でマルクスたちはむしろ総評議会の権限を強化しているし、大会後のマルクスとエンゲルスの往復書簡の内容はどのように読んでも彼らがインターナショナルを見限ったと解釈できるものではないからだ。したがってもう一つの説として、マルクスは本部をアメリカに移すことによってインターナショナルを危機から遠ざけ、ハーグ大会での「政治権力獲得のための政党の組織」(規約第7条付則)の決議に沿うようにアメリカで社会主義政党結成を支援していたインターナショナルの幹部フリードリヒ・アドルフ・ゾルゲらアメリカのマルクス主義者を通じてその勢力を保とうとしたのではないか、という解釈も生まれる。 しかし結局のところ、アメリカでのインターナショナルの歴史は長くなかった。最終的には1876年のフィラデルフィア大会において解散決議が出され、その短い歴史を終えることとなった。 インターナショナルの再建にはその後13年待たなければならない(マルクスはすでに死去)。再建された第二インターナショナルは、イギリス労働党、フランス社会党、ドイツ社会民主党、ロシア社会民主党といった有力政党を抱えるヨーロッパの一大政治組織になった。第二インターナショナルはドイツのベルンシュタインからロシアのレーニンまで多様な政治的色彩をもつ党派の連合体だった。 ===『ゴータ綱領批判』=== ドイツではラッサール派の信望が高まっている時期だった。インターナショナルも衰退した今、アイゼナハ派のリープクネヒトとしては早急にラッサール派と和解し、ドイツ労働運動を一つに統合したがっていた。ドイツの内側にいるリープクネヒトから見ればマルクスやエンゲルスは外国にあってドイツの政治状況も知らずに妥協案を拒否する者たちであり、政治的戦術にかけては自分の方が把握できているという自負心があった。 すでにアイゼナハ派はオーストリアも加えたドイツ統一の計画を断念していたし、ラッサール派も1871年にシュヴァイツァーが党首を辞任して以来ビスマルク寄りの態度を弱めていたから両者が歩み寄るのはそれほど難しくもなかった。ただ対立期間が長かったので冷却期間がしばらく必要なだけだった。だからその冷却期間も過ぎた1875年2月にはゴータで両党代表の会合が持たれ、5月にも同地で大会を開催のうえ両党を合同させることが決まったのである。 この合同に際して両党の統一綱領として作られたのがゴータ綱領(ドイツ語版)だった。ラッサール派は数の上で優位であったにも関わらず、綱領作成に際して主導権を握ることはなかった。彼らはすでにラッサールの民族主義的な立場や労働組合への不信感を放棄していたためである。そのためほぼアイゼナハ派の綱領と同じ綱領となった。リープクネヒトはマルクスにもこの綱領を送って承認を得ようとしたが、マルクスはこれを激しく批判する返事をリープクネヒトに送り、エンゲルスにも同じような手紙を送らせた。 この時のマルクスの手紙を後に編纂して出版したものが『ゴータ綱領批判』である。マルクスから見れば、この綱領は最悪の敵である国家の正当性を受け入れて「労働に対する正当な報酬」や「相続法の廃止」といった小さな要求を平和的に宣伝していれば社会主義に到達できるという迷信に立脚したものであり、結局は国家を支え、資本主義社会を支える結果になるとした。 マルクスは、綱領に無意味な語句や曖昧な自由主義的語句が散りばめられていると批判した。とりわけ「公平」という不明瞭な表現に強く反発した。自分の著作の引用部分についてもあらさがしの調子で批判を行った。ラッサール派の影響を受けていると思われる部分はとりわけ強い調子で批判した。綱領の中にある「労働者階級はまず民族国家の中で、その解放のために働く」については「さぞかしビスマルクの口に合うことだろう」と批判し。「賃金の鉄則」はラッサールがリカードから盗んだものであり、そのような言葉を綱領に入れたのはラッサール派への追従の証であると批判した。 また綱領が「プロレタリアート独裁」にも「未来の共産主義社会の国家組織」にも触れず、「自由な国家」を目標と宣言していることもブルジョワ的理想と批判した。 リープクネヒトはマルクスからの手紙をいつも通り敬意をこめて取り扱ったものの、これをつかうことはなく、マルクスやエンゲルスも党の団結を優先してこの批判を公表しなかった。ゴータ綱領は、わずかに「民族国家の中で」という表現について「国際的協力の理想へ向かう予備的段階」であることを確認する訂正がされただけだった。ゴータ綱領のもとにドイツ社会主義労働者党が結成されるに至った。これについてマルクスは口惜しがったし、この政党を「プチブル集団」「民主主義集団」と批判し続けたが、マルクスの活動的な生涯はすでに終わっており、受けた打撃もそれほど大きいものではなかったという。 マルクスの死後、ドイツ社会主義労働者党ではマルクス派が優勢になり、1891年にはドイツ社会民主党と党名を変更する。そのとき、ドイツ労働運動界の長老だったエンゲルスは、ラッサール主義からの脱却の意図を込めて長らく非公開だったこの『ゴータ綱領批判』を出版した。 ===晩年の放浪生活=== マルクスは不健康生活のせいで以前から病気がちだったが、1873年には肝臓肥大という深刻な診断を受ける。以降鉱泉での湯治を目的にあちこちを巡ることになった。1876年まではオーストリア=ハンガリー帝国領カールスバートにしばしば通った。1877年にはドイツ・ライン地方のバート・ノイェンアール=アールヴァイラー(Bad Neuenahr‐Ahrweiler)にも行ったが、それを最後にドイツには行かなくなった。マルクスによれば「ビスマルクのせいでドイツに近づけなくなった」という。1878年からはイギリス王室の私領であるチャンネル諸島で湯治を行った。 1880年秋からイギリス人社会主義者ヘンリー・ハインドマンと親しくするようになった。ハインドマンは1881年にイギリスでマルクス主義を標榜する社会民主主義連盟(英語版)を結成する。この組織にはエリノア・マルクスやウィリアム・モリスも参加していたが、ハインドマンが1881年秋に出版した『万人のためのイギリス』の中で、『資本論』の記述を無断で引用した(マルクスの名前は匂わす程度にしか触れていなかった)ことをきっかけに、日頃ハインドマンを快く思っていなかったマルクスは彼との関係を絶った。彼の社会民主主義連盟はその後もマルクス主義を称したが、エリノアやウィリアム・モリスもマルクスの死後脱退し、社会主義同盟を結成することになる。マルクス自身は死の直前でハインドマンと和解したが、エンゲルスはその後も社会民主主義連合を批判した。結局、イギリス労働運動はケア・ハーディやトム・マンらの独立労働党(のちのイギリス労働党)に収斂することになる。イギリス労働党は第二インターナショナルの議会派の一翼を形成する。 1881年夏には妻イェニーとともにパリで暮らす既婚の長女と次女のところへ訪れた。マルクスは1849年以来、フランスを訪れておらず、パリ・コミューンのこともあるので訪仏したら逮捕されるのではという不安も抱いていたが、長女の娘婿シャルル・ロンゲ(フランス語版)がジョルジュ・クレマンソーからマルクスの身の安全の保証をもらってきたことで訪仏を決意したのだった。 パリからロンドンへ帰国した後の1881年12月2日に妻イェニーに先立たれた。マルクスの悲しみは深かった。「私は先般来の病気から回復したが、精神的には妻の死によって、肉体的には肋膜と気管支の興奮が増したままであるため、ますます弱ってしまった」と語った。エンゲルスはイェニーの死によってマルクスもまた死んでしまったとマルクスの娘エリノアに述べている。 独り身となったマルクスだったが、病気の治療のために1882年も活発に各地を放浪した。1月にはイギリス・ヴェントナー(英語版)を訪れたかと思うと、翌2月にはフランスを経由してフランス植民地アルジェリアのアルジェへ移った。北アフリカの灼熱に耐えかねたマルクスはここでトレードマークの髪と髭を切った。アルジェリアからの帰国途中の6月にはモナコ公国モンテカルロに立ち寄り、さらに7月にはフランスに行って長女イェニーの娘婿ロンゲのところにも立ち寄ったが、この時長女イェニーは病んでいた。つづいて次女ラウラとともにスイスのヴェヴェイを訪問したが、その後イギリスへ帰国して再びヴェントナーに滞在した。 ===死去=== 1883年1月12日に長女イェニーが病死した。その翌日にロンドンに帰ったマルクスだったが、すぐにも娘の後を追うことになった。3月14日昼頃に椅子に座ったまま死去しているのが発見されたのである。64歳だった。 その3日後にハイゲイト墓地の無宗教墓区域にある妻の眠る質素な墓に葬られた。葬儀には家族のほか、エンゲルスやリープクネヒトなど友人たちが出席したが、大仰な儀式を避けたマルクスの意思もあり、出席者は全員合わせてもせいぜい20人程度の慎ましいものだった。 葬儀でエンゲルスは「この人物の死によって、欧米の戦闘的プロレタリアートが、また歴史科学が被った損失は計り知れない物がある」「ダーウィンが有機界の発展法則を発見したようにマルクスは人間歴史の発展法則を発見した」「マルクスは何よりもまず革命家であった。資本主義社会とそれによって作り出された国家制度を転覆させることに何らかの協力をすること、近代プロレタリアート解放のために協力すること、これが生涯をかけた彼の本当の仕事であった」「彼は幾百万の革命的同志から尊敬され、愛され、悲しまれながら世を去った。同志はシベリアの鉱山からカリフォルニアの海岸まで全欧米に及んでいる。彼の名は、そして彼の仕事もまた数世紀を通じて生き続けるであろう」と弔辞を述べた。 マルクスの死後、イギリスでは労働党が1922年に労働党政権を誕生させる。フランスでは1936年に社会党と共産党による人民戦線内閣が誕生。ドイツではドイツ社会民主党がワイマール共和国で長く政権を担当する。そしてロシアではレーニンの指導するロシア革命を経て、ソヴィエト連邦が誕生した。 マルクスの遺産は250ポンド程度であり、家具と書籍がその大半を占めた。それらやマルクスの膨大な遺稿はすべてエンゲルスに預けられた。エンゲルスはマルクスの遺稿を整理して、1885年7月に『資本論』第2巻、さらに1894年11月に第3巻を出版する。 マルクスの墓は1954年に墓地内の目立つ場所に移され、1956年には頭像が取り付けられている。その墓には「万国の労働者よ、団結せよ」という彼の最も有名な言葉と『フォイエルバッハに関するテーゼ』から取った「哲学者たちはこれまで世界をさまざまに解釈してきただけである。問題は世界を変革することである」という言葉が刻まれている。 2018年4月には生誕200年を記念し、トリーアの観光局がマルクスの肖像が描かれた0ユーロ紙幣を3ユーロで発売したところ購入者が殺到し増刷する事態となった。 ==人物== ===健康状態・体格=== 小柄で肥満体形だった。娘婿のポール・ラファルグは舅マルクスの体格について「背丈は普通以上で肩幅は広く、胸はよく張り、四肢はバランスが良い。もっとも脊柱はユダヤ人種によく見られるように、脚の割に長かった」と評している。要するに短足で座高が高いので座っていると大きく見えたようである。 マルクスは病弱者ではなかったが、生活が不規則で栄養不足なことが多かったので、ロンドンで暮らすようになった頃からしばしば病気になった。肝臓病や脳病、神経病など様々な病気に苦しんだ。『資本論』第1巻を執筆していた頃にはお尻のオデキに苦しみ、しばしば座っていることができず、立ちながら執筆したという。この股間の痛みが著作の中の激しい憎しみの表現に影響を与えているとエンゲルスが手紙でからかうと、マルクスも「滅びる日までブルジョワジーどもが私のお尻のオデキのことを覚えていることを祈りたい。あのむかつく奴らめ!」と返信している。 また新陳代謝機能に障害があり、食欲不振・便秘・痔・胃腸カタルなどに苦しんだ。この食欲不振を打ち払うために塩辛い物をよく口にした。オットー・リュウレ(ドイツ語版)は著書『マルクス、生涯と事業』の中でここにマルクスの極端な性格の原因を求め、「マルクスは食事に関する正しい知識を持っておらず、ある時は少なく、ある時は不規則に、ある時は不愉快に食べ、その代わりに食欲を塩っ辛い物で刺激した。」「悪しき飲食者は悪しき労作者であり、悪しき僚友でもある。彼は飲食について何も食わないか、胃袋を満杯にするかの二極だった。同じく執筆について執筆を全く面倒くさがるか、執筆のために倒れるかの二極だった。同じく他者について、人間を避けるか、誰もが利益せぬ全ての人と友になるかの二極だった。彼は常に極端に動く」と述べる。 酒好きであり、またヘビースモーカーだった。マルクスがラファルグに語ったところによると「資本論は私がそれを書く時に吸った葉巻代にすらならなかった」という。家計の節約のために安物で質の悪い葉巻を吸い、体調を壊して医者に止められている。 ===趣味・嗜好=== 詩や劇文学を愛好した。古代ギリシャの詩人ではアイスキュロスとホメーロスを愛した。とりわけアイスキュロスはお気に入りで、娘婿のラファルグによればマルクスは1年に1回はアイスキュロスをギリシャ語原文で読んだという。ドイツ文学ではゲーテとハイネを愛していたが、ドイツから亡命することになった後はドイツ文学への関心は薄れていったという。亡命後のドイツ文学への唯一の反応はワーグナーを「ドイツ神話を歪曲した」と批判したことだけだった。フランス文学ではディドロの『ラモーの甥』のような啓蒙文学とバルザックの『人間喜劇』のような写実主義文学を愛した。特にバルザックの作品はブルジョワ社会を良く分析したものとして高く評価し、いつかバルザックの研究書を執筆したいという希望を周囲に漏らしていたが、それは実現せずに終わった。逆にシャトーブリアンらロマン主義作家のことは嫌った。ロンドン亡命後にはイギリス文学にも関心を持った。イギリス文学ではやはりなんといってもシェイクスピアが別格だった。マルクス家は一家をあげてシェイクスピアを崇拝していたといっても過言ではない。フィールディングの『トム・ジョーンズ』も愛した。またロマン主義を嫌うマルクスだが、ウォルター・スコットの作品は「ロマン類の傑作」と評していた。バイロンとシェリーについては、前者は長生きしていたら恐らく反動的ブルジョワになっていたので36歳で死んで良かったと評し、後者は真の革命家であるので29歳で死んだことが惜しまれると評している。イタリア文学ではダンテを愛した。 前述したように食欲不振に苦しみ、それを解消するためにハム、薫製の魚料理、キャビア、ピクルスなど塩辛い物を好んで食べたという。 チェスが好きだったが、よくその相手をしたヴィルヘルム・リープクネヒトに勝てた例がなかった。マルクスは彼に負けるのが悔しくてたまらなかったという。気分転換は高等数学を解くことであった。 「告白」というヴィクトリア朝時代に流行った遊びでマルクスの娘たちの20の質問に答えた際、好きな色として赤、好きな花として月桂樹、好きなヒーローとしてスパルタクス、好きなヒロインとしてグレートヒェンをあげた。 他人に渾名を付けるのが好きだった。妻イェニーはメーメ、三人の娘たちはそれぞれキーキ、コーコ、トゥシーだった。エンゲルスのことは「安楽椅子の自称軍人」(彼は軍事研究にはまっていた)という意味で「将軍」と呼んだ。ヴィルヘルム・リープクネヒトは「幼稚」という意味で「ヴィルヘルムヒェン(ヴィルヘルムちゃん)」。ラッサールは色黒なユダヤ系なので「イジー男爵」「ユダヤのニガー」だった。マルクス自身もその色黒と意地悪そうな顔から娘たちやエンゲルスから「ムーア人」や「オールド・ニック(悪魔)」と渾名された。マルクス当人は娘たちには自分のことを「ムーア人」ではなく、「オールド・ニック」あるいは「チャーリー」と呼んでほしがっていたようである。 ===家計=== ロバート・L.ハイルブローナーは「もしマルクスが折り目正しく金勘定のできる人物だったなら、家族は体裁を保って生活できたかもしれない。けれどもマルクスは決して会計の帳尻を合わせるような人物ではなかった。たとえば、子供たちが音楽のレッスンを受ける一方で、家族は暖房無しに過ごすということになった。破産との格闘が常となり、金の心配はいつも目前の悩みの種だった」と語っている。 マルクス家の出納帳は収入に対してしばしば支出が上回っていたが、マルクス自身は贅沢にも虚飾にも関心がない人間だった。マルクス家の主な出費は、マルクスの仕事の関係だったり、家族が中流階級の教育や付き合いをするためのものが大半だった。マルクスは極貧のなかでも三人の娘が中流階級として相応しい教養をつけるための出費を惜しまなかったが、そのためにいつも借金取りや大家に追われていた。 マルクスは定職に就くことがなかったため(前述のように一度鉄道の改札係に応募しているが、断られている)、マルクス家の収入はジャーナリストとしてのわずかな収入と、エンゲルスをはじめとする友人知人の資金援助、マルクス家やヴェストファーレン家の遺産相続などが主だった。友人たちからの資金援助はしばしば揉め事の種になった。ルーゲやラッサールが主張したところを信じれば、彼らとマルクスとの関係が断絶した理由は金銭問題だった。1850年にはラッサールとフライリヒラートに資金援助を請うた際、フライリヒラートがそのことを周囲に漏らしたことがあり、マルクスは苛立って「おおっぴらに乞食をするぐらいなら最悪の窮境に陥った方がましだ。だから私は彼に手紙を書いた。この一件で私は口では言い表せないほど腹を立てている」と書いている。エンゲルスの妻メアリーの訃報の返信として、マルクスが家計の窮状を訴えたことで彼らの友情に危機が訪れたこともある。しかしエンゲルスは生涯にわたって常にマルクスを物心両面で支え続けた。『資本論』が完成した時、マルクスはエンゲルスに対して「きみがいなければ、私はこれを完成させることはできなかっただろう」と感謝した。 ===人間関係=== マルクスは亡命者だったので、ロンドン、ブリュッセル、パリなどの亡命者コミュニティの中で生活した。 マルクスを支えたのは、イェニー、イェニーヒェン、ラウラ、エリノアなどの家族の他、エンゲルスのような親友、リープクネヒトやベーベルのような部下、ヴォルフやエカリウスのような同志たちだった。マルクスはロンドンで学者コミュニティと接触があったようで、生物学者や化学者といった人たちと交流があった。ドイツの医師であるクーゲルマンとは頻繁に手紙のやり取りをしている。マルクスはダーウィンの仮説を称賛していて、自分の著した『資本論』をダーウィンに送っている。ダーウィンは謝辞の返信をだしているが、『資本論』自体はあまりに専門的すぎて最後まで読んでいなかったらしい。 マルクスは組織運営の問題や思想上の対立でしばしば論敵をつくった。マルクスの批判を免れた人には、ブランキ、ハイネ、オコーナー、ガリバルディなどがいるが、プルードン、フォイエルバッハ、バウアー、デューリング、マッツィーニ、バクーニンなどは厳しい批判にさらされた。 批判者からは以下のような意見が見られる。 1848年8月、当時ボン大学の学生だったカール・シュルツはケルンで開催された民主主義派の集会に出席したが、その時演説台に立ったマルクスの印象を次のように語っている。「彼ほど挑発的で我慢のならない態度の人間を私は見たことがない。自分の意見と相いれない意見には謙虚な思いやりの欠片も示さない。彼と意見の異なる者はみな徹底的に侮蔑される。(略)自分と意見の異なる者は全て『ブルジョワ』と看做され、嫌悪すべき精神的・道徳的退廃のサンプルとされ、糾弾された。」。 アーノルド・ルーゲは「私はこの争いを体裁の悪い物にしたくないと思って極力努力したが、マルクスは手当たり次第、誰に向かっても私の悪口を言う。マルクスは共産主義者を自称するが、実際は狂信的なエゴイストである。彼は私を本屋だとかブルジョワだとか言って迫害してくる。我々は最悪の敵同士になろうとしている。私の側から見れば、その原因は彼の憎悪と狂気としか考えられない」と語る。 ミハイル・バクーニンは「彼は臆病なほど神経質で、たいそう意地が悪く、自惚れ屋で喧嘩好きときており、ユダヤの父祖の神エホバの如く、非寛容で独裁的である。しかもその神に似て病的に執念深い。彼は嫉妬や憎しみを抱いた者に対してはどんな嘘や中傷も平気で用いる。自分の地位や影響力、権力を増大させるために役立つと思った時は、最も下劣な陰謀を巡らせることも厭わない。」と語る。 マルクスの伝記を書いたE・H・カーは「彼(マルクス)は同等の地位の人々とうまくやっていけた試しがなかった。政治的な問題が討議される場合、彼の信条の狂信的性格のために、他の人々を同等の地位にある者として扱うことができなかった。彼の戦術はいつも相手を抑えつけることであった。というのも彼は他人を理解しなかったからである。彼と同じような地位と教育をもっていて政治に没頭していた人々の中では、エンゲルスのように彼の優位を認めて彼の権威に叩頭するような、ごく少数の者だけが彼の友人としてやっていくことができた」と評している。 マルクス主義者のフランツ・メーリングさえも「(マルクスが他人を批判する時の論法は)相手の言葉を文字通りとったり、歪曲したりすることで、考え得る限りのバカバカしい意味を与えて、誇張した無軌道な表現にふけるもの」と批判している。メーリングはラッサールはじめマルクスが批判した他の社会主義者を弁護することが多いが、彼はその理由として「マルクスは超人ではなかったし、彼自身人間以上のものであることを欲しなかった。考えもなく口真似することこそは、まさに彼が一番閉口したことであった。彼が他人に加えた不正を正すことは、彼に加えられた不正を正すことに劣らず、彼の精神を呈して彼を尊敬することなのだ。」と述べている。 ==思想== ===エンゲルスとの関係=== マルクスとエンゲルスは生涯盟友として活動していたため、その思想はつねに一致していたとしばしば捉えられる。確かに彼らは頻繁に往復書簡で思想交流をしていたために大きな意見の違いはなかったが、マルクスとエンゲルスの思想の差異を指摘する研究者もいる。 たとえばエンゲルスは『反デューリング論』でマルクス主義が一貫した体系という性格をもっていることを指摘したが、マルクス自身は自分の論稿を常に一貫した体系として提示したわけではなかった。またエンゲルスは『自然弁証法』で弁証法哲学が自然科学の領域にも応用できることを示したが、これについてマルクスは「ぼくは時間をとって、その問題についてじっくり考え『権威たち』の意見を聞くまでは、あえて判断をくださないようにしよう」と返信している。 とはいえマルクスとエンゲルスは、多くの領域の著作を執筆段階で密接に意見を交換し合って執筆しており、基本的な認識及び価値観を共有していることは明らかである。エンゲルスはマルクス死後、マルクスの著作の正当性を管理する立場に立った。 ===「決定論」=== マルクスの思想体系は「経済決定論」だという批判がしばしばある。その含意は、社会や政治や心理の発展過程はすべて経済に規定されているとマルクスは考えていた、というものである。また、カール・ポパーやアイザイア・バーリンはマルクスがヘーゲル主義的な「歴史決定論」に陥っていると批判している。 マルクスがヘーゲルの言う「理性の狡知」の論理をしばしば用いたのは事実だが、マルクス自身は人間の主体性や歴史の偶然性を度々認めている。たとえばイーグルトンはマルクスが初期の著作で人間の類的存在と歴史に対する能動的な役割を認めていたことを指摘する。またマルクスは『フォイエルバッハ・テーゼ』で「環境の変革と教育に関する唯物論の学説は、環境が人間によって変革され、教育者自身が教育されなければならないことを忘れている」と書いているし、『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』では、マルクス自身がプルードンが歴史的決定論に陥っていると批判している。 E.H.カーは、カール・ポパーやアイザイア・バーリンがマルクス主義を歴史決定論であると批判したことに触れて、マルクスの立場は決定論ではなく、因果関係の重視であると反論している。カーはマルクスの「もし世界史にチャンスの余地がなかったとしたら、世界史は非常に神秘的な性格のものになるであろう。もちろん、このチャンスそのものは発展の一般的傾向の一部になり、他の形態のチャンスによって埋め合わされる。しかし、発展の遅速は、初め運動の先頭に立つ人々の性格の『偶然的』性格を含む、こうした『偶然事』に依存する」という発言を引用して、マルクスが単純な歴史決定論ではないより精緻な態度をとっていることを指摘している。 ===ユダヤ人観=== マルクスは自分がユダヤ人であることを否定したことも、逆にそれを積極的にアピールしたこともなかった。これはマルクスの娘エリノア・マルクスが自分がユダヤ人であることを誇りを持ってアピールしていたのと対照的であった。マルクスは自由主義的なライン地方に生まれ育ち、6歳のときに親の方針でキリスト教に改宗していたのでハイネやラッサールのようにユダヤ人の出自で苦しむということは少なかった。 しばしば見られる批判として、マルクスはユダヤ人を蔑視していた、というものがある。マルクスがラッサールのことを「ユダヤのニガー」と渾名したことや、マルクスが若い頃に書いた『ユダヤ人問題によせて』でユダヤ人のことを悪徳な貸金業者として描写したことがその根拠となっている。 『ユダヤ人問題によせて』でマルクスは、ブルーノ・バウアーがユダヤ人を解放するには彼らをユダヤ教からキリスト教に改宗させればよいと主張したのに反論して、国家がユダヤ人を排除していることが職業へと向かわせていると指摘し、「実際的ユダヤ教」と「賤業」とを比喩的に同一視しながら、「クリスチャンがユダヤ人となり」、遂には人類全体を「実際的」ユダヤ教から解放する必要があると言っている。また、「他方、ユダヤ人が自分のこの実際的な本質をつまらぬものとみとめてその廃棄にたずさわるならば、彼らは自分のこれまでの発展から抜けでて、人間的解放そのものにたずさわり、そして人間の自己疎外の最高の実際的表現に背をむけることになる。」ともいい、「ユダヤ人がユダヤ人的なやり方で自己を解放したのは、ただたんに彼らが金力をわがものとしたことによってではなく、貨幣が、彼らの手を通じて、また彼らの手をへないでも、世界権力となり、実際的なユダヤ精神がキリスト教諸国民の実際的精神となったことによってなのである。ユダヤ人は、キリスト教徒がユダヤ人になっただけ、それだけ自分を解放したのである。(中略)ユダヤ人の社会的解放はユダヤ教からの社会の解放である。」とも言っている。 ===労働者観=== マルクスやエンゲルスは労働者を軽蔑していたという主張がある。 レオポルト・シュワルツシルト(ドイツ語版)は「マルクスとエンゲルスは公にはプロレタリアートを人類の救済者と呼び、その独特の優れた性格を賛美してやまなかった。だが私的にはプロレタリアートについての彼らの言葉はますます尊大に侮蔑的になってきた。エンゲルスはマルクスへの報告の中で、まるでプロイセン軍の軍曹が新兵に向かって用いるような言葉でプロレタリアを語っている。『あいつら』、『あの駄馬たち』、『何でも信じる愚かな労働者』」と主張する。マルクスに批判的なシュロモ・アヴィネリ(英語版)も「プロレタリアートが自らのゴールを設定し、他からの援助なしにそれを実現する能力に関してマルクスが懐疑的であったことは様々な資料からうかがい知れる。このことは革命は決して大衆から起こることはなく、エリート集団から発するものだという彼の見解とも一致する」と主張する。ロバート・ペイン(英語版)も「マルクスは人間を侮蔑していた。とりわけ彼がプロレタリアートと呼んだ人種を」と主張する。 一方フランシス・ウィーン(英語版)は、アヴィネリの批判について「様々な資料」というが何のことなのか具体的に指摘していないと批判し、そこには「雑魚に対するマルクスの侮辱は世界的に知れているので実証するまでもない」という態度があると批判する。マルクスが労働者を侮辱した例としてアヴィネリが上げるヴィルヘルム・ヴァイトリングについては「マルクスはヴァイトリングに対して実に寛大だった。その信念のために罰せられた哀れな仕立て職人を邪険に扱うべきではないと言ったのは他でもないマルクスであり、二人の関係にひびが入ったのはマルクスが最下層の人間を侮蔑していたからではなく、ヴァイトリングの耐えがたいほど自己中心的な政治的および宗教的な誤謬のせいであった。むしろヴァイトリングが労働者階級ではなく中産階級者だったらもっと激しい攻撃を加えていただろう」と述べている。 またウィーンは、同じくアヴィネリがマルクスから侮辱を受けた労働者の同志として例示するヨハン・ゲオルク・エカリウス(ドイツ語版)についても、マルクスは彼自身悲惨な生活を送っていた1850年代を通じてエカリウスの生活に気をかけていたことを指摘する。ワシントンにいる同志のジャーナリストに依頼してエカリウスの論文が新聞に掲載されるよう取り計らったり、またエカリウスが病気になった時には、エンゲルスに依頼してワインを送ったり、エカリウスの子供たちが死んだ時にも葬儀費用を稼ぐための募金活動を行ったことを指摘した。そして「にもかかわらず、マルクスはただの仕立職人には狭量な軽侮の念を抱いていたなどという旧態依然たる戯言を未だに繰り返す研究者がなんと多いことか」と嘆いている。 ===戦争観=== マルクスは戦争を資本主義社会や階級社会に特有の付随現象と見ていた。だが労働者階級が戦争に対して取るべき態度については、戦争の前提と帰結から個別に決めていく必要があると考えていた。とりわけその戦争がプロレタリア革命にとって何を意味しているかを最も重視した。 1848年革命中の『新ライン新聞』時代には、諸国民の春に対してヨーロッパの憲兵として振舞ったロシアと開戦すべきことを盛んに煽ったし、クリミア戦争も反ロシアの立場から歓迎した。イタリア統一戦争では反ナポレオン3世の立場からオーストリアの戦争遂行を支持し、参戦せずに中立の立場をとろうとするプロイセンを批判した。普墺戦争も連邦分立状態が続くよりはプロイセンのもとに強固にまとまる方がプロレタリア闘争に有利と考えて一定の評価をした。 しかし弟子たちの模範になったのは、普仏戦争に対する次のようなマルクスの立場だった。普仏戦争勃発時、マルクスは戦争を仕掛けたナポレオン3世に対してドイツの防衛戦争を支持したが、戦争がフランス人民に対する侵略戦争と化せば、その勝敗にかかわらず両国に大きな不幸をもたらすだろうと警告した。「差し迫った忌まわしい戦争がどのような展開を見せようと、すべての国の労働者階級の団結が最後には戦争の息の根を止めるだろう。公のフランスと公のドイツが兄弟殺しにも似た諍いをしているあいだにも、フランスとドイツの労働者たちは互いに平和と友好のメッセージを交換し合っているという事実。歴史上、類を見ないこの偉大な事実が明るい未来を見晴らす窓を開けてくれる」。 マルクスのこの立場は、職業軍人による十九世紀的な戦争から、二十世紀的な国民総動員へと戦争の性格が変わっていくにつれ、彼の弟子たちにますます重視されるようになった。 ===各国観=== プロイセン政府に追われてからのマルクスは、基本的にコスモポリタンで、『共産党宣言』には「プロレタリアは祖国を持たない」という有名な記述がある。そのため、労働貴族が形成されつつあったイギリスの労働者階級や、ナポレオン三世の戴冠を許したフランスの労働者階級のナショナリズムにはしばしば厳しい批判を行っている。他方、イギリスのチャーチスト運動やフランスのパリコミューンを遂行した労働者の階級意識は評価するなど、マルクスの各国観は民族的偏見というよりはむしろ階級意識が評価の基準だった。ヨーロッパ列強に支配されていたポーランドやアイルランドの民族主義については、これを支援している。またマルクス自身はドイツ人だったが、自分をほとんどドイツ人とは認識していなかったようである。プロイセン政府は専制体制と評価し、これを批判していた。 十九世紀、ヨーロッパの憲兵として反革命の砦だったロシアには非常に当初厳しい評価を下している。E.H.カーはこれをスラブ人に対するドイツ的偏見と解釈していた。マルクス自身はロシアの将来について、「もし農民が決起するなら、ロシアの一七九三年は遠くないであろう。この半アジア的な農奴のテロル支配は史上比類ないものとなろう。しかしそれはピョートル大帝のにせの改革につぐ、ロシア史上第二の転換点となり、次はほんとうの普遍的な文明を打ち立てるだろう」と予測している(『マルクスエンゲルス全集』12巻648頁)。1861年の農奴解放令によって近代化の道を歩み始めて以降のロシアに対しては積極的に評価し、フロレンスキーの『ロシアにおける労働者階級の状態』を読み、「きわめてすさまじい社会革命が‐もちろんモスクワの現在の発展段階に対応した劣ったかたちにおいてではあれ‐ロシアでは避けがたく、まぢかに迫っていることを、痛切に確信するだろう。これはよい知らせだ。ロシアとイギリスは現在のヨーロッパの体制の二大支柱である。それ以外は二次的な意義しかもたない。美しい国フランスや学問の国ドイツでさえも例外ではない」と書いている(『マルクス・コレクション7』p.340‐342)。更に死の2、3年前には「ロシアの村落的共同体はもし適当に指導されるなら、未来の社会主義的秩序の萌芽を含んでいるかもしれぬ」とロシアの革命家ヴェラ・ザスーリッチに通信している。 ===植民地観=== マルクスは、『共産党宣言』では、ポーランド独立運動において「農業革命こそ国民解放の条件と考える政党」を支持し、1867年のフェニアンによるアイルランド反乱の際には、植民地問題をイギリスの社会革命の一環として捉えるようになる。マルクスによれば、当時イギリスに隷属していたアイルランドはイギリスの地主制度の要塞になっている。イギリスで社会革命を推し進めるためには、アイルランドで大きな打撃を与えなければならない。「他の民族を隷属させる民族は、自分自身の鉄鎖を鍛えるのである。」「現在の強制された合併(すなわちアイルランドの隷属)を、できるなら自由で平等な連邦に、必要なら完全な分離に変えることが、イギリス労働者階級の解放の前提条件である」。 他方、マルクスのインド・中国論にはオリエンタリズムという批判がある(たとえばサイードのマルクス論)。しかし一方でマルクスのインド・中国論はヘーゲル的な歴史観によるものだという解釈もある。マルクスによれば、イギリスのインド支配や中国侵略は低劣な欲得づくで行われ、利益追求の手段もまた愚かだった。しかしイギリスは、無意識的にインドや中国の伝統的社会を解体するという歴史的役割を果たした。マルクスによれば、この事実を甘いヒューマニズムではなく冷厳なリアリズムで確認するべきである。「ブルジョワジーがひとつの進歩をもたらすときには、個人や人民を血と涙のなかで、悲惨と堕落のなかでひきずりまわさずにはこなかったではないか」。 ヨーロッパによって植民地、半植民地状態におかれたインドと中国の将来については、マルクスは次のように予測した。 「大ブリテンそのもので産業プロレタリアートが現在の支配階級にとってかわるか、あるいはインド人自身が強くなってイギリスのくびきをすっかりなげすてるか、このどちらかになるまでは、インド人は、イギリスのブルジョワジーが彼らのあいだに播いてくれた新しい社会の諸要素の果実を、取り入れることはないであろう。それはどうなるにしても、いくらか遠い将来に、この偉大で興味深い国が再生するのを見ると、期待してまちがいないようである」。 「完全な孤立こそが、古い中国を維持するための第一の条件であった。こうした孤立状態がイギリスの介入によってむりやりに終わらされたので、ちょうど封印された棺に注意ぶかく保管されたミイラが外気に触れると崩壊するように、崩壊が確実にやってくるに違いない」。 ==評価== マルクスの伝記作家フランシス・ウィーン(英語版)は「20世紀の歴史はマルクスの遺産のようなものだ。スターリンも毛沢東もチェ・ゲバラもカストロも ―現代の偶像も、あるいは怪物も、みな自らをマルクスの後継者と宣言して憚らなかった。マルクスが生きていたら彼らをその通りに認めたかどうか、それはまた別問題だ。実際、彼の弟子を自称する道化たちは、彼の存命中からしばしば彼を絶望の淵に追いやることが少なくなかった。たとえば、フランスの新しい政党が自分たちはマルキシストであると宣言した時、マルクスはそれを聞いて『少なくとも私はマルキシストではない』と答えたという。それでも彼の死後、百年のうちに世界の人口の半数がマルキシズムを教義と公言する政府によって統治されるようになった。さらに彼の理念は経済学、歴史学、地理学、社会学、文学を大きく変えた。微賎の貧者がこれほどまでに世界的な信仰を呼び起こしながら、悲惨なまでに今なお誤解され続けているのは、それこそイエス・キリスト以来ではないだろうか」と評する。 同じくマルクスの伝記を書いたE.H.カーは「マルクスは破壊の天才ではあったが、建設の天才ではなかった。彼は何を取り去るべきかの認識においては、極めて見通しがきいた。その代わりに何を据えるべきかに関する彼の構想は、漠然としていて不確実だった。」「彼の全体系の驚くべき自己矛盾が露呈せられるのはまさにこの点である」と述べつつ、「彼の事業の最も良い弁護は結局バクーニンの『破壊の情熱は建設の情熱である』という金言の中に発見されるかもしれない。」「彼の当面の目標は階級憎悪であり、彼の究極の目的は普遍的愛情であった。一階級の独裁、―これが彼の建設的政治学への唯一の堅固で成功した貢献であるが― は階級憎悪の実現であり延長であった。それがマルクスによってその究極の目的として指定された普遍的愛情の体制へ到達する可能性があるか否かは、まだ証明されていない」「しかしマルクスの重要性は彼の政治思想の狭い枠を超えて広がっている。ある意味でマルクスは20世紀の思想革命全体の主唱者であり、先駆者であった」と評している。 同じくマルクスの伝記を書いたアイザイア・バーリンは「マルクスは自分の思想が他の思想家に負うていることを決して否定しようとはしなかった。」「マルクスの求める指標は目新しさではなく、真理であった。彼はその思想が最終的な形を取り始めたパリ時代の初期に他人の著作の中に真理を発見すると自己の新しい総合の中にそれを組み入れようと努力した」「それゆえマルクスが発展させた何らかの理論について、その直接の源流をたどってみることは比較的に簡単なことである。だがマルクスの多くの批判者はこのことにあまりにも気を遣いすぎているように思える。彼の諸見解の中で、その萌芽が彼以前や同時代の著作家たちの中にないようなものは、恐らく何一つないといっていい。」「マルクスはこれら膨大な素材をふるいにかけて、その中から独創的で真実かつ重要と思えるものを引き出してきた。そしてそれらを参照しつつ、新しい社会分析の方法を構築したのである。」「この長所は簡明な基本的諸原理を包括的・現実的にかつ細部にわたって見事に総合したことである」「いかなる現象であれ最も重要な問題は、その現象が経済構造に対して持っている関係、すなわちこの現象をその表現とする社会構造の中での経済力の諸関係に関わるものであると主張することによって、この理論は新しい批判と研究の道具を作り出したのである。」「社会観察の上に立って研究を行っている全ての人は必然的にその影響を受けている。あらゆる国の相争う階級、集団、運動、その指導者のみならず、歴史家、社会学者、心理学者、政治学者、批評家、創造的芸術家は、社会生活の質的変化を分析しようと試みる限り、彼らの発想形態の大部分はカール・マルクスの業績に負うことになる」「その主要原理の誇張と単純化した適用は、その意味を大いに曖昧化し、理論と実践の両面にわたる多くの愚劣な失策は、マルクスの理論の名によって犯されてきた。それにも関わらず、その影響力は革命的であったし、革命的であり続けている」と評する。 マルクスの若いころの伝記を書いた城塚登はマルクスは元々経済学の人ではなく、哲学の人であり、「人間解放」という哲学的結論に達してから経済学に入ったがゆえに、それまでの国民経済学者と異なる結論に達したと主張する。そんなマルクスのことをフェルディナント・ラッサールは「経済学者になったヘーゲルであり、社会主義者になったリカード」と表現した。 ==家族== 1836年にトリーア在住の貴族ルートヴィヒ・フォン・ヴェストファーレン(ドイツ語版)の娘であるイェニー(ジェニー)と婚約し、1843年に結婚した。マルクスは反貴族主義者だが、妻が貴族であることは非常に誇りにし、妻には「マダム・イェニー・マルクス。旧姓バロネッセ(男爵令嬢)・フォン・ヴェストファーレン」という名刺を作らせて、商人や保守派相手にはしばしばそれを見せびらかした。また困窮の時でもドイツの男爵令嬢にみすぼらしい恰好をさせるわけにはいかないとイェニーの衣服には金を使い、債権者を怒らせた。 マルクスの伝記作家は概してヴェストファーレン家の貴族としての家格を誇張しがちであるが、実際にはヴェストファーレン家は由緒ある貴族というわけではなく、ルートヴィヒの父であるフィリップ(ドイツ語版)の代に戦功で貴族に列したに過ぎない。同家はスコットランド王室に連なるなどという噂もあるが、ヨーロッパでは多くの家がどこかで王室と繋がっているため、それは名門であることを意味しない。ルートヴィヒはトリーアの統治を任せられていたわけではなく、一介の役人としてトリーアに赴任していただけである。プロイセン封建秩序の中にあってヴェストファーレン家など取るに足らない末席貴族であることは明らかであり、実質的な生活状態は平民と大差なかったと考えられる。ただ末席貴族ほど気位が高いというのは一般によくある傾向であり、その末席貴族の娘がユダヤ人に「降嫁」するのは異例と言えなくもない。 イェニーの兄でルートヴィヒの跡を継いでヴェストファーレン家の当主となったフェルディナントは、マルクスとは対極に位置するような徹底した保守主義者であり、妹を「国際的に悪名高いユダヤ人」から引き離したがっていた。また彼は1850年代の保守派の反転攻勢期にプロイセン内務大臣となり、時の宰相オットー・フォン・マントイフェルの方針に背いてまでユンカーのための保守政治を推し進めた人物でもある。一方イェニーの弟エドガー(ドイツ語版)はマルクス夫妻の良き理解者であった。初期のマルクスの声明にはよく彼も署名していたが最後までマルクスと行動を共にしたわけではなく、後に渡米し、帰国後には自堕落に過ごしていた。 マルクスとイェニーは二男四女に恵まれた。マルクスは政治的生活では独裁的だったが、家庭ではおおらかな父親であり、「子供が親を育てねばならない」とよく語っていた。晩年にも孫たちの訪問をなによりも喜び、孫たちの方からも愛される祖父だった。 長女ジェニー・カロリーナ(ドイツ語版)(1844年‐1883年)は、パリ・コミューンに参加してロンドンに亡命したフランス人社会主義者シャルル・ロンゲ(フランス語版)と結婚した。彼女は父マルクスに先立って1883年1月に死去している。 次女ジェニー・ラウラ(ドイツ語版)(1845年‐1911年)は、インターナショナル参加のために訪英したフランス人社会主義者ポール・ラファルグと結婚したが、子供はできなかった。ポールとラウラは、社会主義者は老年になってプロレタリアのために働けなくなったら潔く去るべきだ、という意見をもっていて、1911年にポールとともに自殺した。彼らの自殺は当時ヨーロッパの社会主義者たちの間でセンセーションを巻き起こした。 長男エドガー(1847年‐1855年)は義弟エドガー・フォン・ヴェストファーレンに因んで名づけられた。マルクスはこの長男エドガーをとりわけ可愛がっていた。娘に冷たいわけではなかったが、息子の方により愛着を持っていた。1855年4月のエドガーの死にあたってマルクスは絶望し、この3カ月後にラッサールに送った手紙の中で「真に偉大な人々は、自然の世界との多くの関係、興味の対象を数多く持っているので、どんな損失も克服できるという。その伝でいけば、私はそのような偉大な人間ではないようだ。我が子の死は私を芯まで打ち砕いた」と書いている。 次男ヘンリー・エドワード・ガイ(1849年‐1850年)はイギリス議会爆破未遂犯ガイ・フォークスに因んで名付けたが、ディーン通りに引っ越す直前に幼くして突然死した。 三女ジェニー・エヴェリン・フランセス(1851年‐1852年)もディーン通りの住居で気管支炎により幼い命を落としている。 四女ジェニー・エリノア(1855年‐1898年)は、三人の娘たちの中でも一番のおてんばであり、マルクスも可愛がっていた娘だった。とりわけ晩年のマルクスは彼女が側にいないと、いつも寂しそうにしたという。彼女はイギリス人社会主義者エドワード・エイヴリング(英語版)と同棲するが、このエイヴリングは女ったらしで、やがて女優と結婚することが決まるとエリノアが邪魔になり、彼女を自殺に追い込む意図で心中を持ちかけた。エリノアは彼の言葉を信じて彼から渡された青酸カリを飲んで自殺したが、エイヴリングは自殺せずにそのまま彼女の家を立ち去った。明らかに殺人罪であるが、エイヴリングが逮捕されることはついになかった。 ヴェストファーレン家でイェニーのメイドをしていたヘレーネ・デムート(ドイツ語版)(愛称レンヒェン)は、イェニーの母がイェニーのためにマルクス家に派遣し、以降マルクス一家と一生を共にすることになった。彼女は幼い頃から仕えてきたイェニーを崇拝しており、40年もマルクス家に献身的に仕え、マルクス家の困窮の時にはしばしば給料ももらわず無料奉仕してくれていた。彼女は1851年にディーン通りのマルクス家の住居においてフレデリック(フレディ)・デムートを儲けた。フレディの出生証明の父親欄は空欄になっており、里子に出されたが、1962年に発見されたアムステルダムの「社会史国際研究所」の資料と1989年に発見されたヘレーネ・デムートの友人のエンゲルス家の女中の手紙からフレディの父親はマルクスであるという説が有力となった。 このエンゲルス家の女中の手紙や娘のエリノアの手紙から、マルクスの娘たちはフレディをエンゲルスの私生児だと思っていて、エリノアはエンゲルスが父親としてフレディを認知しないことを批判していた事が分かる。エンゲルス家の女中の手紙によれば、エンゲルスは死の直前に人を介してエリノアにフレディはマルクスの子だと伝えたが、エリノアは嘘であるといって認めなかった。それに対してエンゲルスは「トゥッシー(エリノア)は父親を偶像にしておきたいのだろう」と語ったという。 ちなみにフレディ当人は自分がマルクスの子であるとは最後まで知らなかった。彼はマルクスの子供たちの悲惨な運命からただ一人逃れ、ロンドンで旋盤工として働き、1929年に77歳で生涯を終えている。 ==マルクスの著作== 『デモクリトスの自然哲学とエピクロスの自然哲学の差異(英語版)』(1840年)『ヘーゲル国法論批判(Kritik des Hegelschen Staatsrechts)』(1842年)『ヘーゲル法哲学批判序説(ドイツ語版)』(1843年)『ユダヤ人問題によせて』(1843年)『経済学・哲学草稿(ドイツ語版)』(1844年)『聖家族』(1844年、エンゲルスとの共著)『ドイツ・イデオロギー』(1845年、エンゲルスとの共著)『フォイエルバッハに関するテーゼ』(1845年)『哲学の貧困』(1847年)『共産党宣言』(1848年、エンゲルスとの共著)『賃金労働と資本(ドイツ語版)』(1849年)『フランスにおける階級闘争(Die Klassenk*7718*mpfe in Frankreich 1848 bis 1850)』(1850年)『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』(1852年)『経済学批判要綱』(1858年)『経済学批判』(1859年)『フォークト君よ(ドイツ語版)』(1860年)『剰余価値理論(ドイツ語版)』(1863年)『価値、価格と利益(ドイツ語版)』(1865年)『資本論』(1巻1867年、2巻1885年、3巻1894年。2巻と3巻はマルクスの遺稿をエンゲルスが編纂・出版)『フランスにおける内乱(Der B*7719*rgerkrieg in Frankreich)』(1871年)『ゴータ綱領批判』(1875年)『労働者へのアンケート(ドイツ語版)』(1880年)『ザスーリチへの手紙(ドイツ語版)』(1881年) ==マルクス像== マルクス生誕200年となる2018年には生誕地であるドイツのトリーアに中国から高さ5.5m、重さ2.3tの彫像が寄贈されたが、ドイツでは共産党による独裁や戦後の東西分断につながったマルクスに対して否定的な見方が根強くあり彫像設置には批判も出ている。 =鹿島清兵衛= 鹿嶋 清兵衛(かじま せいべい、1866年(慶応2年) ‐ 1924年(大正13年)8月6日)は、明治期の写真家。豪商の跡取り養子だったが、新橋の人気芸者・ぽん太を身請けしたことから家を出て、趣味の写真を本業とした。撮影中の事故で負傷し、その後は能の笛方になった。妻・ぽん太も唄や踊りで暮らしを支え、その献身的な姿が貞女としてもてはやされた。清兵衛の型破りな生き方は、森鴎外の小説『百物語』のモデルにもなった。昭和30年代に、清兵衛が隠したと思われる埋蔵金が見つかり、再び世間を賑わせた。 ==略歴== ===生い立ち=== 1866年(慶応2年)、大坂天満北富田町の酒問屋「鹿嶋」当主・鹿嶋清右衛門の次男・政之助として生まれる。4 歳のときに、東京の霊巌島四日市町(現・新川)にあった同族の鹿嶋本店(ほんだな)の養子になる。当家には乃婦(のぶ)という名の跡取り娘がおり、清兵衛はその夫となるべくして育てられた。鹿嶋家は江戸きっての下り酒問屋で、明治になると貸地・貸家業を始めて大いに栄えた指折りの豪商だった。 ===写真との出会い=== 成人後、乃婦と結婚し、8代目鹿嶋清兵衛となる。大阪の両親を引き取ったところ、家内に悶着が起こり、その憂さ晴らしに蒔絵や漆画などの趣味を始める。河鍋暁斎と知り合い、入門したのもこの頃で、暁雨という画号を授かっている。さらに、長男政之助が5歳で亡くなり意気消沈していた際に、先代が持っていた写真機を蔵で見つけ、写真を始める。写真に関しては、趣味というだけでなく、明治維新によって酒問屋の将来性に不安が見えてきたため、写真を通して時の権力者たちと近づきになろうという意図もあったと見られている。 1885年(明治18年)に写真家の江崎礼二に個人レッスンを頼み、1年半の間、江崎の助手(浅草松林堂の今津政二郎?)を1日おきに招き、熱心に写真を学んだ。1889年5月には写真家の江崎、小川一真、小倉倹司や、菊池大麓、石川巌、中島精一、ウィリアム・スタージス・ビゲロー、また1887年に来日したイギリス人技師で写真家のウィリアム・K・バートンらとともに「日本寫眞會」を発足する。バートンは日本の写真家として小川と清兵衛をイギリスの雑誌などで紹介した。 清兵衛はスタジオを造り、欲しい機材は金に糸目なく輸入し、海外の写真家の展覧会を開催するなど、相当の金額を写真につぎ込んだ。1890年の内国博覧会には、自ら撮影した大型写真作品を出品。また、明治屋の磯野計の依頼で、ぽん太をモデルにビール広告用のポスターも撮影し、明治屋はこれを内国博覧会に出品した。1895年には木挽町五丁目(現・銀座六丁目)に実弟・清三郎名義で2階建ての西洋館の写真スタジオ「玄鹿館」をオープンさせた。玄鹿館は間口10間、奥行15間、建坪150坪からなる劇場のような豪華な写真館で、エレベーター設備や回り舞台もあり、夜間撮影も可能な2500燭光のアーク燈も備えられていた。加えて、清三郎を写真の勉強のためにロンドンに留学させた。 ===ぽん太との暮らし=== 写真をはじめ、清兵衛の道楽は桁外れで、その豪遊ぶりから「今紀文」や「写真大尽」などと呼ばれた。たとえば、大日本写真品評会会長の徳川篤敬の日清戦争凱旋を祝うために、列車を1両買い取って座敷列車に仕立て直し、ぽん太ら芸者や芸人を多数連れて京都へ漫遊したこともあり、当時の取巻きの一人だった三遊亭円右はこのときの模様を「鹿嶋大尽栄華噺し」として高座の 1 つ話にしていた。1896年(明治29年)には、鴎外がのちに小説にした「百物語」を隅田川船上で開催している。 そうした中、清兵衛と乃掃の夫婦仲は次第に冷えていった。清兵衛は横浜の外国人がぽん太を狙っていると耳にするとぽん太を別宅に住まわせ、これがさらに乃婦を硬化させ、乃婦は子供を連れて親戚の家へ身を寄せた。ぽん太が妊娠したこともあり、清兵衛は新川の実家を捨てて、ぽん太と暮らし始め、1897年ころ、ついには鹿嶋家とは離縁となった。清兵衛のお大尽生活は約4年で終止符となり、「玄鹿館」も閉鎖された。大阪で再起を図ったがうまくいかず、再び東京に戻って1907年(明治40年)に本郷座の前に「春木館」という小さな写真館を開店した。 ===晩年=== 日露戦争の戦勝気分にあった1905年(明治38年)、本郷座で戦争をテーマにした芝居を上演することになった。舞台効果を頼まれた清兵衛は火薬の調合を間違えて大やけどを負い、親指を切断する。その後写真館を閉め、大阪時代に覚えた森田流の笛を本業とし、三木助月の芸名で活動した。妻の恵津(ぽん太)も唄や踊りを再開し、公演料や教授料で生活を支えた。1923年(大正12年)の関東大震災後、吹きさらしの能舞台に体の不調を押して出演したのがもとで、翌1924年(大正13年)、58歳で死去。翌1925年(大正14年)には、妻の恵津も跡を追うように病死した。 実弟・清三郎の手記によると、乃婦が1919年(大正9年)に亡くなった際、乃婦の元に残してきた子供たちと清兵衛を会わせようとしたが、鹿嶋家が許さず、仕送り打ち切りの通告もあった。これを聞いた長谷川時雨は鹿嶋家の報復的態度に憤慨し、『近代美人論』の中で批判した。恵津との間に生まれた子らには、清兵衛の死後、各20円が鹿島家より養育費として渡された。 ==写真界のパトロンとして== 豊富な資金力をバックに、バートンらを通じてヨーロッパの最新の写真機材や撮影技術を日本に導入し、周囲の写真家仲間たちの支援もよくした。アーク燈を使った夜間撮影を始めたほか、引き伸ばし技術が未熟だったこの時代に大判の写真を次々と制作し、国内のみなならず、乾板の注文を受けたフランスの会社をも驚かせた。玄鹿舘の広告によると、八尺四方まで可能とある。また、輸入した機材を貸し出してX線の実験にも寄与した。玄鹿舘を閉める際には、写真家たちに撮影機材や備品などを好きなだけ持っていかせたという。 清兵衛および玄鹿舘の代表的な写真としては以下のようなものがある。 九代目市川団十郎の「暫」の舞台写真(早大演劇博物館蔵)‐ 超大型写真であり、日本初の舞台写真。気むずかしい団十郎が、感光しにくいという理由から、撮影のために紅でなく生臙脂(しょうえんじ)で隈をとったという。こうした撮影が可能だったのも、清兵衛が普段から役者に金を遣っていたからである。富士山の超特大写真(宮内庁蔵) ‐ 明治天皇・昭憲皇太后銀婚式(明治27年)の祝いとして献上した六尺×九尺の大型写真。英照皇太后葬儀の際の夜間撮影 ‐ 日本初の屋外夜間撮影。当初、陸軍の参謀本部が撮影する予定だったが、手に負えず、玄鹿舘に依頼がきた。暗闇の中でマグネシュームを突然発光して葬列の牛が驚かないか、前日御所の牛小屋で試したという。若い芸者を使ったブロマイド風のキリンビール宣伝写真玄鹿舘の仕事としては、アイヌや日清戦争の写真集もある。 ==埋蔵金騒動== 1963年(昭和38年)、中央区新川の日清製油(現:日清Oillio)本社ビルの建設現場から大量の小判が発見された。当時の時価で6000万円と言われた。そこは鹿嶋家の屋敷跡であり、写真の現像液を入れるガラス容器3本に小判が入っていたため、清兵衛の埋蔵金と騒がれた。鹿嶋家は終戦の年に空襲で焼き出されていたが、大宮に住んでいた10代目に当たる当主が所有権の名乗りを上げた。清兵衛の実弟・清三郎が兄の7回忌の記念にまとめた冊子『亡兄を追憶して』に「古金の発見」という項があり、それによると、「幕末から明治に変わるころ、幕府の人間が絶えず鹿島家に御用金の取り立てに来たが、断ると嫌がらせをされるため、小判を床下に埋めた。そのまま忘れていたのを清三郎が13歳のときに一度掘り起こし、家族で小判を数えた」といった内容の記述であった。これによって、発見された埋蔵金は鹿嶋家の子孫に返還された。 ==家族== 鹿島家は、摂津国東多田村 (現兵庫県川西市)の地方三役を勤める長谷川党の一員である牛谷三家、理右衛門家・重冶郎家・清七家の一つ清七家出身の三男であった牛谷弥兵衛(1649生)が始まりである。牛谷弥兵衛【鹿島不休】は、当時伊丹で酒造業を始めていた清酒白雪の薬屋小西新右衛門【小西不遊】と昵懇となり、その清酒販売のために江戸芝(現在の三田駅近く)に出た。現在も港区芝4丁目にある御穂鹿島神社に因んでその屋号を『鹿島』と名のった。その後、牛谷弥兵衛は、清七家の甥二人、兄清右衛門と弟清兵衛(共に初代)を呼び寄せ、(当初は多田屋として)江戸での売り捌きを任せ、自身は、大阪天満今井町(今井町・谷町店)で清酒製造を始めた。その後、清右衛門家天満店は荷捌き手配を、清兵衛家江戸店は江戸での売り捌き、弥兵衛家は清酒製造と役割を固定。各々2代目までは順調であった。3代目清右衛門は小西新右衛門家からの養子であり、3代目清兵衛(浄慶)は、母親が東多田村清七家出身の縁で(池田市)東山、自家の寺、大谷(東本願寺)派円成寺を擁する山脇家の出身であった。その後、3代目清兵衛(浄慶)は、3代目清右衛門の三男四男を養子に迎えた、江戸本店4代目清兵衛と中店利右衛門である。一方、弥兵衛家は、子孫は絶え無かったが、直系の子は、清酒造りに失敗、不行跡があったとされ孫は安兵衛家となった。弥兵衛家(今井町・谷町店)の名跡は、3代目清右衛門の子(末弟)が継ぎ伊丹に住することになった。【西宮市史/伊丹市史/川西市史/東多田合有文書/小西新右衛門文書】 東京の新川に分家していった一族だが、相続人が絶えた際に、深川で隠居していた鹿嶋家の子供たちが各家へ養子に行った。清兵衛の父・清右衛門はこのとき大阪の養子となった。清兵衛が東京の鹿嶋本店へ養子に入ったのちに、男子の実子が誕生したが、家督は清兵衛が継ぎ、実子の長男は別家し、次男は蔵前の札差の株を買って独立した。最初の妻、乃婦(1867 ‐ 1919)との間に、長男・政之助(夭折)、長女・時、次女・袖。三女に才。後妻の恵津(1880 ‐ 1925)との間に、鶴子、国子(坪内逍遥の養女となり、飯塚くにになる)、しげ子(人形町紙問屋伊勢吉の養女になる)、正雄、美智子など、12人の子(うち二人は夭折)。実弟・清三郎は玄鹿館を手伝うために1895年(明治28年)より6年間にわたって英仏で写真技術を研究し、帰国。その後木炭車の開発に従事し、その燃料であるニセアカシア樹の研究を行なった。その息子・大治(画家)の子に桃山晴衣。 =箒川鉄橋列車転落事故= 箒川鉄橋列車転落事故(ほうきがわてっきょうれっしゃてんらくじこ)は、1899年(明治32年)10月7日に発生した列車脱線事故である。東北本線の矢板駅 ‐ 野崎駅間にある箒川鉄橋を通過中の列車が突風に煽られて連結器が外れ、貨車(貨物緩急車)1両と客車7両の合計8両が折からの豪雨によって増水した箒川の流れに転落して死者19人、負傷者38人の被害を出した。明治時代における最悪の列車事故として歴史に残っている。 ==事故の経緯== ===事故発生前=== 東北本線は、当初は日本鉄道株式会社の経営する私鉄路線であった。1883年(明治16年)7月28日に上野 ‐ 大宮間(この時点では大宮駅は未開業)が開通してから路線を順次北へ延伸していき、1886年(明治19年)10月1日には宇都宮 ‐ 那須間が開通した。全線が完成して青森まで開通したのは、1891年(明治24年)9月1日であった。 矢板駅は宇都宮 ‐ 那須間開通と同時に開業した。矢板駅と1897年(明治30年)2月25日に開業した野崎駅の間には、箒川が流れていた。箒川は延長47.6キロメートルの一級河川で那珂川水系に属し、大佐飛山地南西部の白倉山(しらくらやま、標高1,460メートル)付近を源流として那須野が原扇状地を東南に流れ、最後は那珂川に合流する河川である。両駅付近の地形は、南側に松原山丘陵、北側には那須野が原扇状地の緩やかに傾斜した丘陵原があり、このあたりでの箒川の流れはかなりの急流となっていた。 鉄道路線を敷設するために松原山の岩層が切り開かれ、トンネル状の切通しが作られた。そのため、列車が針生トンネルを抜けて切通しを通過するとすぐに視界が開けて箒川の鉄橋にさしかかる状態であった。当時の箒川鉄橋は、全長約319メートル、川床からの高さが約6メートル、橋桁(プレート・ガーダー)14連で構成されていた。このような地形条件によって箒川鉄橋上は風の通り道となっていて強風に遭いやすい状態であり、とりわけ冬季においては西北からの季節風を強く受けることで知られていた。 ===事故当日=== 事故発生当日の1899年(明治32年)10月7日、この日は南方洋上で発生した台風が本州に接近していた。福島行きの第375列車は11時に上野駅を発車し、特段台風の影響を受けてはいなかったものの対向列車との行き違いの関係で約50分遅れで宇都宮に到着した。このとき宇都宮で観測された風速は9メートルだったため、第375列車は運転を続けた。第375列車の後部車掌が証言したところによると、矢板駅を発車したのは16時40分頃であった。 矢板駅発車後、第375列車は箒川鉄橋にさしかかった。渡り始めたところで北西からの突風が列車の左側面に吹きつけ、機関士が後方を見たところ、8両目に連結していた無蓋貨車のシートが強風に煽られて吹き飛ばされかけていた。続いて1等客車の車体が急激に右方向に張り出したのを目視して、警笛を吹鳴し機関車のブレーキをかけた。機関士はその際に強い衝撃を感じたといい、後にこの時に貨物緩急車の連結器が切断したと思うと証言している。 第375列車は混合列車で、機関車2両、貨車11両、その後に客車(4輪単車)7両を連結していた。編成は、次のとおりであった。 牽引機関車(イギリス・ベイヤー・ピーコック社製テンダー機関車)1両 ‐ 回送機関車(イギリス製タンク機関車)1両 ‐ 空貨車3両 ‐ 積貨車7両 ‐ 貨物緩急車(亥120) ‐ 3等緩急車(ハ28) ‐ 3等客車(ハ179) ‐ 3等客車(ハ249) ‐ 1等客車(イ3) ‐ 2等客車(ロ17) ‐ 3等客車(ハ275) ‐ 3等緩急車(ハニ107) (太字体の車両が転落車両) 転落した車両は、以下の通りの状況であった。 亥120 ‐ 第9号橋脚の傍らに転落横転し大破。 ハ28 ‐ 亥120とほぼ同じ状態でその横に横転大破。 ハ179 ‐ 屋根が吹っ飛び車体下部構造は河底に埋没。 ハ249 ‐ 第8号橋脚の約27メートル下流に流される。屋根を残しその他粉砕。 イ3 ‐ 第7、8号橋脚の中間から最初に転落。25メートル下流に車体下部構造、さらに18メートル先に屋根を残しその他粉砕。 ロ17 ‐ 第7号橋脚の傍らの中州の上で圧壊。 ハ275 ‐ 第7号橋脚の少し先に転落、3ブロックに大破。 ハニ107 ‐ 前車(ハ275)の上に転落し、大破。 事故当日の箒川は平時に比べて1メートルほど増水していて、貨車1両と客車7両は急流の中に転落し、木造の客車は破損がひどかった。転落を免れた機関車2両と貨車10両は、機関車1両のみのブレーキではあまり効かずに鉄橋から140メートルほど進行した地点でようやく停車し、その時刻は17時頃だったと伝わる。第375列車の機関手は機関助手に後を任せて野崎駅に走り、事故の一報を伝えた。この事態を知った野崎駅長は矢板駅あてに電報を打ったが、暴風のために混線していて17時20分頃にやっと架電できた。 第375列車の後部車掌は事故で負傷していたが矢板駅まで約3.5キロメートルの道のりを走り抜き、矢板駅長に事故の詳細を報告した。通信網が未発達な時代のため、矢板駅から宇都宮駅に連絡し、さらに宇都宮駅から日本鉄道本社に事故の知らせが伝えられた。 なお、10月9日になって中央気象台から発表された事故発生当日(10月7日)の気象状況は、以下のとおりであった。 南方洋上で発生した台風は、10月7日早朝には四国沖を北東に進み、その日正午に遠州灘を過ぎて4時10分に伊豆半島を横断し、その後相模灘に抜けた。このときの伊豆半島南端の長津呂測候所では、約952.6ヘクトパスカルという極めて低い気圧を観測していた。台風はさらに横須賀の南方から東京湾を北上する経路を進み、15時20分に東京 ‐ 千葉間に上陸した。16時には銚子の北から鹿島灘に抜けて速度を増し、同日22時に浦河付近から北海道に上陸した 。 この台風の主要都市における最低気圧と最大風速は、次の表のとおりである。なお、時刻は最低気圧を記録した時刻である。 この気象状況について、『続 事故の鉄道史』(1995年)で第375列車の事故について取り上げた佐々木冨泰は宇都宮の風速が意外に低いことと、その観測時刻が第375列車の発車時刻にほぼ一致していることの2点を指摘し、「駅長、機関手ともに台風をあまり気にせず出発したことがわかる」と記述している。網谷りょういちも『日本の鉄道碑』(2005年)で同事故を取り上げ、宇都宮で観測された風速の件について「宇都宮駅で列車を抑止する理由はなく、同駅の過失はない」としている。ただし網谷は事故現場付近の地形について言及し、「溝のようになって風の通り路となっている箒川橋梁が、ある一定の方角から風が吹いた時に、限界値以上の風が生じたのだろう」と推定している。 ===救助作業と復旧活動=== 事故の連絡を受けた宇都宮駅長は、鉄道嘱託医の神野勇三郎(宇都宮市神野病院長)に現地への出動を依頼した。神野病院の医局員全員と25名の看護婦、さらに赤十字社栃木支部と県立宇都宮病院からの人員で結成された救護班に復旧要員(駅員20名、保線係員40名)を加えた一行は、駅助役に引率されて宇都宮駅20時00分発の救援列車で現地に出発した。その他に大田原などから開業医が事故現場に駆けつけ、宇都宮駅からの救護班よりも早く遭難者の治療にあたった。 事故の連絡を受けた日本鉄道本社は、技術長毛利重輔以下の社員十数名と作業員70名ほどを現地に派遣することを決め、順天堂病院にも救援を依頼した。順天堂病院ではこの依頼を受けて、院長佐藤進自身と医師5名、看護婦13名が同行することになった。日本鉄道本社からの人員と順天堂病院からの救護班を乗せた救援列車は、23時に上野駅を出発した。救援列車には復旧機材と治療用の薬品の他、毛布150枚、フランネル着物150枚、袷100枚、メリヤスシャツ100枚及び食料が積載されたという記録が残されている。 西那須野駅からは事故の一報を受けて野崎駅までトロッコで向かうことになり、西那須野町の医師樋谷松三郎に同行を依頼した。矢板方向にあたる箒川の右岸では多くの医師や看護婦が遭難者の救護に当たったが、暴風雨のため箒川橋梁を渡れなかったため、左岸の野崎駅側に引き上げられた人々にとって樋谷の来診は大きな救いであった。 上野駅からの救援列車は、事故翌日の10月8日未明3時30分に宇都宮駅に到着した。順天堂病院からの人員は2班に分かれて佐藤院長が率いる班は宇都宮で下車して神野病院で入院中の患者を診療後に待機し、副院長佐藤恒久の率いる班は現地へと向かうことになった。宇都宮駅に待機した佐藤院長の班は、早朝に駅の1、2等待合室で負傷者28名に応急の手当を行い、入院加療の必要ありと診断した負傷者を神野病院に送った。その後こちらの班も現地へ向かい遺体5体の他に負傷者がいないことを確認して宇都宮に引き返して1泊し、10月9日には再度神野病院と県立宇都宮病院で負傷者の治療に当たった。その後一行は16時発の上り列車で東京に戻っている。 第375列車には、埼玉県警察の巡査加藤政之(入間郡坂戸警察分署勤務)がたまたま乗車していた。加藤は宮城県名取郡秋穂村の出身で、父の病気見舞いのために休暇を取って郷里に向かう途上であった。事故に遭遇して加藤自身も負傷したが、濁流に飲み込まれかけた他の乗客の救助を敢行して7、8人を助け上げた。埼玉県は、加藤の勇気を称えて10月10日付で見舞金を贈呈した。その内訳は埼玉県知事正親町実正から15円、埼玉県警察部長山田幹より5円、警察職員一同から50円であった。さらに加藤は同日付で2号俸昇給し、5級俸に格付けされている。 現地の消防組は、事故発生を知ると箒川まで駆けつけたが激しい風雨のために橋上の通過ができず、中州にいる負傷者を救助に赴くことができなかった。消防組の人々は縄とはしご、そして鳶口を用いて救助作業を開始し、死者を含めて30余名の重軽傷者を救助した。この時期は自治体単位の消防組織のない時代だったため、消防組は村または村の大字単位で青壮年が加わって組織されていた。この事故で出動したのは、矢板、三島、蓮葉、石上、針生、土屋、山田からの消防組であった。救助作業終了後、消防組は引き続き転落車両の撤去作業に協力することになった。 現場の復旧作業は、列車の脱線で損傷した枕木の取り換え作業が主体だったため迅速に進捗し、事故翌日の10月8日9時には試運転機関車が走行して開通した。事故発生後野崎駅で停車させられていた第375列車も、同じく9時に福島へ向けて発車している。 天候が回復し、箒川の増水も治まってきた10月9日早朝から、転落車両の撤去作業が開始された。鉄橋から転落した客車は木製のため大破し、箒川の急流に巻き込まれて流されていた。中州に落ちた車両などは破砕した上で鉄橋上に引き上げ、無蓋貨車に積載して野崎駅まで運搬した。当時はクレーン車など存在しないため、作業は全て人力に頼ることになった。このときの作業工程は杉丸太を2本用意して鉄橋に固定し、休憩用の長椅子の両端にロープを縛り付けてバケット代わりに使った。鉄橋上には滑車を取り付け、杉丸太をガイドレール代わりに使って、長椅子に廃材を括り付けて運搬したという。この作業は、10月10日の夕刻に終了した。 ===日本鉄道本社の対応と被害者数の確定=== 事故発生を受けて日本鉄道本社は10月8日に次のような広告を新聞に掲載し、各駅にも掲示した。 広告 昨七日矢板野崎間母来川橋梁ニ於テ旅客列車顛落ニ付被害者御親族ニテ同地ニ赴カルゝ向ハ停車場ニ御申出有之候ヘバ無賃乗車証御交付可致候也 社内向けには社長曾我祐準名義で、臨時列車を発しての救護に必要な人員の送付や被害者の取り扱いについての心得などの指示を発した。さらに曾我は10月9日、上野駅5時発の1番列車で宇都宮に向かい、神野病院と県立宇都宮病院に入院中の負傷者を見舞い、缶入りビスケットを見舞いの品として贈っている。続いて曾我は14時40分宇都宮駅発の列車で野崎駅に向かい、事故現場を視察した。このときは、転落して粉砕した状態の車体がまだそのままになっていた。その晩、宇都宮駅20時発の上り最終列車で、先に現場に出張してきていた久保運輸課長とともに帰京している。 日本鉄道本社は、箒川の激流に流されて行方不明になった乗客の存在が推定されたため第375列車の乗客総数について調査をした。各駅での切符発売状況を調査した上で総数を62名と算出したが、乗客が官設鉄道や甲武鉄道などの連帯切符を所持していることも考えられたため、この人数は確定の数字ではなかった(実際、死者のうち1人は神戸 ‐ 青森間の2等切符を所持しているという事実があった)。 事故で犠牲となった人の遺体は、翌日8日に現場から約20キロメートル下流の湯津上村佐良土で1名、箒川が那珂川と合流した後の小川村で1名、さらに下流の烏山町で2名が発見され、同日夜までに17名の遺体が発見された。箒川に流された人で未発見の遺体があると推定されたため、10日の朝から数日間かけて栃木県警察部保安課長の指揮によって警官や消防組など70数名を3班に分けて動員し、箒川及び那珂川の両岸や河川中を徹底的に捜索した。この捜索では遺留品が数多く収集されたものの、結局遺体は発見されなかった。事故について栃木県警察部は、以下のような公告を発している。 本月七日午前11時上野発福島行下り汽車矢板野崎両駅間箒川鉄橋上に於いて河中に転落其溺死者追々発見候に付心当りの者は現場に就き又は矢板警察署へ申出て実見すべし この事故での最終的な死傷者数は、『日本鉄道株式会社沿革史』という資料によると「死者20名負傷者45名」と記述されている。ただし、佐々木冨泰は『続 事故の鉄道史』14頁で1931年(昭和6年)の33回忌に建立された慰霊の石塔婆に刻まれた故人の氏名や事故直後の11月に発行された『風俗画報』という雑誌の増刊『各地災害図会』に掲載された遭難者の住所氏名の記述をもとに、この死傷者数について疑問を呈している。 なお、『各地災害図会』によると死傷者数は次のとおりとなる。 ===事故後の供養と石碑の建立=== 10月10日、箒川鉄橋北詰の河原において付近の住民による供養が執り行われた。ささやかな角塔婆に野の花が手向けられ、僧侶の読経と老婆たちによるご詠歌の詠唱が河原に流れた。供養中に風が吹き始めてろうそくの火が消えかけたため、こうもり傘を広げて風を遮ったと伝えられている。 初七日の法要は、10日の住民たちによる供養と同じ場所で日本鉄道本社の主催により10月13日に執り行われた。法要は東京・芝の浄土宗大本山増上寺大僧正山下現有、深川の霊巌寺住職神谷大周を始めとして僧侶58人の他に宇都宮、矢板、野崎など近在の各寺院の僧侶が加わった。法要には遺族や遭難者に続いて、神野病院長や県立宇都宮病院長、消防組の人々や救助に当たった付近住民などが参列し、その数は1万人に及んだと当時の新聞は報道している。 事故の直後、慰霊碑を建立しようとの声が地元の人々から上がった。宇都宮市の日蓮宗妙正寺の檀家信徒が中心となって計画が進み、1周忌に合わせて高さ3メートルほどにもなる石塔婆が建立された。1900年(明治33年)10月7日の1周忌法要は妙正寺によって執り行われ、慰霊碑への入魂式も実施された。この慰霊碑は現存し、下り方面列車に乗って箒川鉄橋を渡った直後に左側の視界に入る。線路側から見た正面には「南無妙法蓮華経」、右側には「為汽車顛落横死諸亡霊」、左側には「宇都宮市日蓮宗妙正寺四十五世日興檀家信徒有志中」と深く刻まれている。慰霊碑は長年の風雪によって風化が進み一部に欠落が見られるものの、網谷りょういちは『日本の鉄道碑』の225頁で「判読不能の字は出ていない」と記述している。 ===補償と裁判=== 日本鉄道本社では10月16日に重役会議を開き、事故概況の報告を行い、次のような決議を採択した。 一 死亡者の遺族へは金五百円を贈与する事 一 負傷者は軽重に依り一人に付金三百円以下を贈与する事 日本鉄道本社の決議については、負傷者の1人田代善吉宛の書面が2通残されている。田代はこの事故で重傷を負い、県立宇都宮病院に40日間入院後に退院していた。1通は社長曾我祐準の名義、もう1通は日本鉄道社員一同の名義である。このとき田代には曾我名義で金70円、社員一同から金35円が贈られた。 この決議によって被害者に対する補償問題については一区切りがついたが、その後裁判が起こされた。最初に裁判を起こしたのは、福島県選出の代議士菅野善右衛門であった。菅野は当時25歳の息子をこの事故によって失っていた。事故の1か月ほど後の11月20日に第14回帝国議会が招集され、衆議院本会議で菅野はこの事故について質問した。その論点は、暴風雨にもかかわらず汽車を運行したことと、鉄橋の構造に不備があって転落防止に関する対策がなされていないということの2点であった。 菅野の質問については、翌年1月18日の本会議で逓信大臣子爵芳川顕正から衆議院議長片岡健吉に宛てて『衆議院議員菅野善右衛門君の鉄道に関する質問に対する答弁書』という形の書面が提出されている。ただし芳川大臣からの書面は読み上げられているが、その書面の基となった『監査委員復命書要領』は読み上げられず、討論も実施されなかった。 答弁書の概略は、1 橋梁は「デック式」で軌道の両側に桁溝はないが馬入川(相模川)、安倍川、浜名湖、矢作川など各所で同じ形式のものが使用されている。 2 運転速度は時速53キロメートルと推定され、列車の停止位置から見て過大であったとは考えられない。 3 事故当日16時20分に宇都宮測候所で観測された風速は毎秒9.4メートルとなっているが、事故現場近くでは野崎駅の遠地信号機が根元から倒壊していることから推参して49メートルをくだらない強風が吹き荒れていたと思われる。 4 結論は「よって猛烈なる風力に起因するものと推定するの外なきものと認む」というものであった。 菅野にとって、この答弁書の内容は到底満足できるものではなかった。菅野は事故の責任追及のため慰謝料請求(3万円)の民事訴訟を2月20日に東京地方裁判所に提起した。この裁判で日本鉄道側は、当日の気象状況は不安定であったが箒川鉄橋上で列車転落事故が起きるような強風が起きることは予見できなかったと主張している。 7月7日、東京地方裁判所は菅野の主張を認めて勝訴の判決を出した。判決は日本鉄道の責任について言及し、「全国的に暴風警報が出されており、こういう時には、駅長も車掌も相談して発車を見合わせ、また列車運行に危険があれば徐行、もしくは停車の措置をとるべきなのに、被告会社の社員はそれをしなかったのは怠慢である」として慰謝料の支払いを命じた。 9月14日、日本鉄道は判決を不服として東京控訴院に控訴の手続きを取った。控訴審の審理は判決までに4年以上の時間がかかり、その間に他の遺族や負傷者本人から多数の慰謝料請求の訴えが起こされ、その人数は計36名に及んだ。これは菅野の起こした裁判の東京地裁判決を見たことによるものであった。 東京控訴院は、1904年(明治37年)12月10日に日本鉄道逆転勝訴の判決を出した。菅野は当然大審院に上告し、1905年(明治38年)5月8日に大審院は「原判決を破棄し本件を宮城控訴院に移す」と判決した。1906年(明治39年)2月28日の宮城控訴院での判決は、「被控訴人(最先原告)の請求は之を棄却し訴訟費用は被控訴人の負担とする」という菅野敗訴という結果であった。日本鉄道では菅野との訴訟の結果をもとに他の訴訟を起こした原告たちを話し合って示談が成立したとされるが、内容の詳細については不明である。 ===その後=== 菅野との訴訟が終了した後、1906年(明治39年)3月31日に「鉄道国有法」(法律第十七号)が公布された。このため、日本鉄道は岩越鉄道とともに同年11月1日に国に買収された。 1931年(昭和6年)10月4日、現地において下野史談会が主催し、宇都宮慈善会などの僧侶が参加して33回忌の法要が執り行われた。下野史談会は被害者の1人、田代善吉が会長となって結成された組織で、郷土の歴史や民俗の研究などを行う集まりであった。事故後の田代は小学校の訓導となって学童の教育に努めたが、事故生存者の1人として列車転落事故を語り継ぎたいという思いと死者の冥福を願う気持ちには強いものがあった。このときにもう1基の石塔婆が建立された。設置場所は箒川の左岸にあたる国道4号線の跨線橋北側で、碑の正面は線路に面している。この碑の建立費の多くは、国鉄職員の浄財によるといわれる。碑の正面に刻まれた「田代黒瀧」という名は、田代善吉の号である。 田代善吉の没後、事故犠牲者の供養は息子の博によって引き継がれた。博は1964年(昭和39年)の66回忌、1973年(昭和48年)の75回忌に「下野史談」特別号を発行した。1989年(平成元年)10月7日に90回忌の法要が執り行われ、この様子はNHKのテレビニュースでも取り上げられた。90回忌法要のとき、博は82歳になっていた。そして2年後の11月3日に博は死去した。死去当日は下野史談会の巡研の日であったが、博は体調不良のため参加を断念したところであった。 なお、箒川鉄橋では1950年(昭和25年)にも列車転落事故が発生している。この年の1月10日、全国的に午後から北西の季節風が翌日未明まで吹き荒れた。23時過ぎに箒川鉄橋を通りかかった下り貨物列車が、強風に煽られて最後部の貨車1両が分離し脱線転落した。この事故では死傷者は記録されていないが、風速は毎秒25メートル前後であったとの推定がなされた。 =ナバラ州= ナバラ州(スペイン語: Navarra)またはナファロア州(バスク語: Nafarroa)は、スペインの自治州である。一県一州の自治州であり、ナバラ県(かつてのパンプローナ県)単独で構成される。州都はパンプローナ。スペイン語では第2音節にアクセントがあるため、ナバーラ州とも表記される。 中世のこの地域にはナバラ王国が存在し、スペイン帝国に併合された後も副王領として一定の自治権を得ていた。歴史的にはバスク地方の一部ではあるものの、フランコ体制後の民政移管期(英語版)(1975‐1982)にはバスク州への合流を望まず、1982年にナバラ県単独でナバラ州が発足した。歴史的背景が考慮されて大きな自治権を得ており、スペインの全17自治州のうち課税自主権が認められているのはナバラ州とバスク州のみである。国家公用語であるスペイン語に加えて、一部地域では地域言語のバスク語も公用語に指定されている。 ==名称== 正式名称(スペイン語: Comunidad Foral de Navarra, [komuni*8740**8741*a*8742* fo*8743**8744*al de na*8745*βara] : コムニダ・フォラル・デ・ナバラ, バスク語: Nafarroako Foru Komunitatea, [nafaroako fo*8746*u komunitatea] : ナファロアコ・フォル・コムニタテア)は「ナバラ特権州」の意味を持ち、特権(フエロ)とはかつてカスティーリャ王国が各地域に認めていた地域特別法のことである。英語やフランス語ではNavarre(英語 [n*8747**8748*v*8749**8750*r]、ナヴァール)。ナバラとはバスク語で「森」または「オークの林」、「山々に囲まれた平原」という意味である。 ==地理== ===地勢=== 北西はバスク州のアラバ県とギプスコア県、南はラ・リオハ州、東はアラゴン州に接し、北東は163kmに渡ってフランスと国境を接している。北のピレネー山脈から南のエブロ川流域の平原まで、ナバラ州の地理は変化に富んでおり、地理学者のアルフレド・フロリスタはナバラの景観を「ミニチュア大陸」と表現した。地形・生物気候学の観点から、ナバラ州は山岳部、中央部、河岸部の3地域に分けることができる。 山岳部はナバラ州北部を占め、サブリージョンとして湿潤地帯、ピレネー渓谷、ピレネー前縁盆地に分けられる。州北西部の湿潤地帯は平均気温が摂氏15度、年間降水量が約1,400mmであり、広葉樹、牧草、シダ類などの植生がみられる。州北東部のピレネー渓谷は、激しい降雪と気温の変化が特徴のピレネー山脈山麓から、西に向かうにつれて温暖な気候が特徴の亜海洋性気候に変化している。ピレネー渓谷北部ではブナ、モミ、オウシュウアカマツなどがみられる。ピレネー前縁盆地の植生はカシ類やカシワ類などの地中海広葉樹が目立つ。ナバラ州の最高峰は標高2,428mのメサ・デ・ロス・トレス・レジェスであり、トレス・レジェスの周囲には標高2,507mのアニ峰(山頂はフランス領)や2,366mのペトレチェマなどがある。 山岳部と河岸部の中間には中央部があり、山地や丘陵などがみられる北部から広大な平野が広がる南部までが緩やかに推移している。中央部の中でも気候は大きく変化し、東側は大陸性気候であり、北側は西岸海洋性気候、南側は大陸地中海性気候である。中央部にはパンプローナやパンプローナ都市圏がある。河岸部はエブロ川の本流や支流の流域であり、エステーリャとトゥデラというふたつの主要都市がある。エステーリャ河岸にはなだらかな尾根や向斜面谷が見られ、トゥデラ河岸には構造平原や沖積低地が広がっている。トゥデラの北方には半砂漠地帯のバルデナス・レアレスが広がり、ユネスコの生物圏保護区に指定されている。河岸部の年降水量は400mm足らずであり、山岳部に比べて日照時間が長いほか、夏季と冬季の気温差が激しい。 ナバラ州の主要な河川には、エステーリャを流れるエガ川(スペイン語版)、パンプローナを流れるアルガ川、サングエサを流れるアラゴン川などがある。これらの河川はいずれもエブロ川の支流であり、北から南に流れてエブロ川に注いだ後は、南東に流れてやがて地中海に注ぐ。スペイン語とバスク語の言語境界線付近に分水嶺があり、州北西部の一部の地域からは、ウルメア川やビダソア川やレイツァラン川(英語版)が、南から北に流れて大西洋に注いでいる。 ===気候=== ビスケー湾の影響が強い北西部は西岸海洋性気候であり、バスタン谷やビダソア谷は一年中緑に覆われる。冬季の平均気温は摂氏12度と穏やかであり、夏季の平均気温も摂氏22度と過ごしやすい。ピレネー山脈に近い北東部は山岳気候であり、ナバラ州でもっとも涼しい気候である。冬季には気温が氷点下に落ち込み、標高の高い斜面は積雪を伴う。パンプローナを含む中央部は変移地帯であり、冬季と夏季の気温差が激しい。冬季は晴天日が多いが一定の降水もあり、夏季は暑く乾燥する日中と涼しい夜間が特徴である。南部は地中海性気候であり、冬季にはシエルソ(スペイン語版)と呼ばれる北風が吹く。夏季は暑く乾燥し、気温はしばしば摂氏40度に達する。 ===人口=== ナバラ州は272のムニシピオ(基礎自治体)からなる。人口の約1/3が州都パンプローナ(195,769人)に住んでおり、人口の約半分がパンプローナ都市圏(315,988人)に住んでいる。人口20,000人以上の自治体はパンプローナ、河岸部のトゥデラ、パンプローナ都市圏のバラニャインの3自治体であり、2013年時点では州全体の42.3%がこの3自治体に居住している。人口2,000人から20,000人の自治体には州全体の39.2%が、人口2,000人以下の自治体に州全体の18.5%が居住している。 1900年時点のナバラ地方の人口はスペイン全体の1.7%だったが、20世紀を通じて緩やかに比率を低下させた結果、1991年時点では1.3%となった。ナバラ州より人口が少ない自治州はラ・リオハ州とカンタブリア州だけであり、ナバラ州の人口はスペインの全17自治州中15位である。1900年の人口は307,669人だったが、2014年には約2倍の640,356人となった。人口密度は1900年の29人/kmから2014年には61.4人/kmに増加したが、スペイン平均の人口密度92人/kmを下回っている。ピレネー渓谷や南西部のエステーリャ地域では20世紀初頭から人口が減少しつづけているが、パンプローナ盆地や河岸地域では人口が増加している。2000年代にはラテンアメリカ、東欧、北アフリカなどからの移民が増加しており、他国出身人口は約70,000人、比率では約11%と推定されている。 ==歴史== ===先史時代・古代=== ナバラに残る最古の考古学遺跡は、後期旧石器時代のマドレーヌ文化(英語版)期(18,000年前 ‐ 11,000年前)のものである。北西部のアララール山地には金属器時代初期の巨石記念物(ドルメン、メンヒル、ストーンサークル)が見られ、南部からは鉄器時代の集落が発見されている。 その後やってきたケルト人はバスク地方に金属加工術や火葬の習慣をもたらし、紀元前3世紀にはカルタゴ人がピレネー山麓に達した。紀元前133年のヌマンティア(英語版)の攻囲戦で古代ローマ人がケルト人を破ると、紀元前75年にはグナエウス・ポンペイウスが自身の名に因んだ都市ポンパエロ(現・パンプローナ)を建設した。ポンパエロには神殿、公衆浴場、邸宅などが築かれてローマ的な都市となり、ブドウ、オリーブ、小麦などのローマ作物の大規模農場が作られた。東部のサングエサやルンビエル(スペイン語版)など、アラゴン川やアルガ川河畔の町はローマ化が著しく、逆に山間部の谷はほとんどローマの影響を受けなかった。ローマ時代にキリスト教がバスク地方に定着していたとする有力な証拠はないが、伝承によれば、レイレ修道院の建設は435年、イラチェ修道院の建設は西ゴート時代、ロンセスバーリェス修道院の建設は638年とされている。 ===ナバラ王国=== 主要なサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路である「フランスの道」は2つの峠によってピレネー山脈を超え、ナバラ地方のプエンテ・ラ・レイナで合流する。サンティアゴの巡礼路は850年以後に人気を得て、巡礼者の往来は11世紀にピークに達した。ナバラは巡礼者と接する中でキリスト教を受け入れていった。 西ゴート族もフランク族も、この地域を完全に征服するには至らなかった。778年、カール大帝率いるフランク族の軍隊はパンプローナの城壁を破壊したが、これに憤慨したバスク人との戦い(ロンセスバーリェスの戦い)には大敗し、この戦いは叙事詩ローランの歌のモデルとなった。824年にはバスク人の族長イニゴ・アリスタ(スペイン語版)がイスラーム勢力と手を組んでフランク族に勝利し、イニゴ・アリスタはパンプローナ王国(後のナバラ王国)を興した。 905年にサンチョ1世(スペイン語版)によってヒメネス王朝が始まると、イスラーム教徒との間で領土の奪い合いが繰り返された。耕地が少ないナバラ地方は人口過剰の問題に悩まされていたが、サンチョ1世は8世紀初頭からイスラーム教徒の手にあったリオハ地方を併合して社会・経済基盤を拡充した。10世紀半ばにはレオン王国、アラバ領主、カスティーリャ王国などと婚姻関係を結んでいる。10世紀末にはサンチョ2世(英語版)(在位970年‐994年)が娘のウラカ・サンチェスを後ウマイヤ朝の宰相アル・マンスール・ビッ・ラーヒ(英語版)に与えて平和を確保しており、アル・マンスールとウラカ・サンチェスの間には後ウマイヤ朝最後のアミールであるアブド・アッラフマーン・サンチュエロ(英語版)が生まれている。パンプローナ王国は首都を持ち司教区を為す主権王国となり、1000年までにはナバラ王国として知られるようになった。 1004年に即位したサンチョ3世(大王)は、キリスト教諸国との政略結婚を繰り返して、カスティーリャ、ラ・リオハ、アラゴン、バスクの諸地域と次々と同盟関係を結んで王国の地位を強固なものとした。ピレネー山脈以南(イベリア半島)のキリスト教圏の大部分を支配した、イベリア半島におけるキリスト教勢力の「覇権国家」となった。サンチョ3世は西ヨーロッパとの経済・文化的交流を活発化させ、サンティアゴの巡礼路の整備と管理に力を注いだ。レコンキスタの過程でキリスト教勢力の軍事力がイスラーム教勢力を上回ったのはこの時期である。 1035年にサンチョ3世が亡くなると王国は息子たちに分割され、その政治力はサンチョ3世時代まで回復することはなかった。サンチョ3世の長子であるガルシア3世(スペイン語版)はカスティーリャ王フェルナンド1世に敗れ、西部の国境地域を失っている。1076年にはアラゴン王サンチョ1世がナバラ王国を併合し、ナバラ王国はアラゴン王国と同君連合を結ぶと、サンティアゴ巡礼の活況に合わせてパンプローナ、ハカ、エステーリャなどの町が成長した。ガルシア6世(復興王)が王位に就いた1134年にはアラゴン王国から独立して再び主権を建てたが、カスティーリャ=レオン王国への臣従とリオハ地方の割譲を余儀なくされている。イベリア半島における政治的影響力を低下させた一方で、巡礼路を通じて貿易商や巡礼者が流入したため、ナバラ王国の商業的重要性は増した。ナバラ王国時代にはイスラーム美術が持ち込まれ、トゥデラのモスクの廃墟、レイレ修道院やフィテロ(英語版)修道院の象牙細工の小箱などが残っている。 12世紀末にはカスティーリャ王アルフォンソ8世とアラゴン王アルフォンソ2世が結託してナバラ王国に攻め込み、1200年にはビスケー湾岸のアラバ、ビスカヤ、ギプスコアの3地域を奪われた。ナバラ王国は海岸部を失って内陸国となり、ピレネー山麓の小国へ地位を落とした。1212年にカトリック諸国連合軍がムワッヒド朝に挑んだナバス・デ・トロサの戦いでは、サンチョ7世(不屈王)が率いる重装騎士団がカトリック勢力の勝利に貢献した。この戦いはレコンキスタ(再征服運動)における転換点であり、ムワッヒド朝の衰退の決定的な要因となっている。 1234年に死去したサンチョ7世には嗣子がおらず、シャンパーニュ家のテオバルド1世が即位してフランス王朝が始まった。国王は概してフランスに住み、実質的にはナバラ総督がナバラ王国を統治した。テオバルド1世はフランス貴族を要職に付け、ナバラ貴族の特権を侵害したため、歴代の総督はナバラ人に快く思われなかった。そのためフランスから召喚を受けた際には代表者を送ることを拒んだり、王権を主張する国王候補をコルテス(身分制議会)が拒んだこともあった。ナバラ王国のフエロは女性の王位継承に寛容だったが、女子継承に否定的なフランスの伝統法はナバラ王国にも適用された。ナバラ地方のトゥデラにはレコンキスタ後もムデハル(再征服地域のイスラーム教徒)やユダヤ人が残り、トゥデラ出身のベンヤミンは初めて東方を旅行したヨーロッパ人として『オリエント旅行記』を書き残している。 1305年にはフランス王がナバラ王を兼ねたカペー朝が始まったが、やはりフランス貴族が要職を独占したため、1328年にナバラのコルテス(身分制議会)はフアナ2世をナバラ王に選出した。フアナ2世の治世の1328年には、王国内でも生産的で開明的だったユダヤ人を迫害し、6,000人を死に追いやった。1348年から1349年には黒死病がナバラ王国にも蔓延し、人口の60%を失った。これらのことが重なり、14世紀半ば以降のナバラ王国は国力が弱体化し、独立の喪失に向かい始めた。フアナ2世を継いだカルロス2世の治世にはカスティーリャ軍やフランス軍のナバラ王国への侵攻を受けた。1379年にはトゥデラ城やエステーリャ城を含む20の砦をカスティーリャ王国に占領され、カルロス2世はフランスにあるほぼすべての領地を喪失した。 1418年にはカルロス3世がオリテにオリテ王宮(スペイン語版)を完成させたが、彼が1425年に亡くなった後の王国はもっとも混乱した時代を迎えた。1441年に女王のブランカ1世が死去すると、共同君主だった夫のフアン2世は長男カルロスに王位を譲らず、1451年にはナバラ王国の貴族間でナバラ内戦が発生した。1479年に、近隣のアラゴン王国とカスティーリャ王国が統合されてスペイン王国になると、イスラーム勢力下にある地域とナバラ王国を除きイベリア半島をほぼ領有していたので、1492年にグラナダを攻略した後には、ナバラ王国の獲得に関心を集中させた。 ===スペイン王国の中の王国=== 1512年にはカスティーリャ摂政フェルナンド5世がナバラ王国に侵攻して併合し、ナバラ王国はカスティーリャ王国の副王領となったが、立法・行政・司法の各機構はナバラ王国に残された。ナバラ人はフランス王朝の終焉をそれほど残念には思わず、カスティーリャ王国内での自治権の保持に力を注いだ。1530年時点で、現在のナバラ州に相当する地域はスペイン全体の2.5%の人口を有していたが、スペイン王国に統合された影響もあり、1591年には1.9%にまで減少している。 ナバラ王位にあったカタリナとフアン3世はピレネー山脈北部に逃れ、1555年までに、アルブレ家の女王ジャンヌ・ダルブレが率いるナヴァール王国(ナヴァール=ベアルン王国)が確立された。ピレネー山脈の南側では、1610年にアンリ4世がスペイン側のナバラ王国に進軍の準備を行うまで、副王領としての王国は不安定なバランスの上にあった。ナヴァール王エンリケ3世が1589年にフランス王アンリ4世として即位すると、歴代のフランス王はナヴァール王を兼ねた。フランス側のナヴァール王国は1620年にフランス王国の一部となったが、1789年まで独自の制度と権限を有していた。 17世紀のナバラでは農業がほぼ唯一の経済であり、穀物やブドウの生産、家畜の飼育などが行われ、小麦・羊毛・ワインなど小規模の輸出貿易をおこなった。スペイン海軍の船にはナバラ産の材木が使用され、隣接するギプスコアに鉄鉱石を運んだ。17世紀におけるナバラとバスク全体の人口は約35万人だった。この世紀には黒死病の再流行によってスペイン全体の人口が850万人から700万人に減少しており、ナバラやバスクは黒死病による死者は少なかったが、社会的流出が多かったために人口は増加しなかった。 1659年にはピレネー条約でスペイン・フランスの国境が確定し、北ナバラと南ナバラの分断によって長年燻っていたナバラ問題は立ち消えた。スペイン内でフエロを持つ他地域、アラゴン、カタルーニャ、バスクと比べても、ナバラは高い水準の自治権を有しており、ナバラのみは例外的に司法権の維持を許された。 18世紀初頭でもナバラは、なお「王国」と呼ばれていた。1722年にスペイン・フランス間の税関がエブロ川に移されたおかげでフランスとの貿易が盛んとなり、18世紀のナバラでは商業が発達した。農民はスペインの他地方よりも豊かな暮らしをし、人口の5‐10%を占める貴族の割合はスペインでもっとも高かった。18世紀半ばには道路網の整備が着手され、現在のパンプローナ市庁舎を含む壮大なバロック様式の建物が至るところに建てられた。18世紀末時点で、スペイン王国内で独自の司法機関、副王、議員団、会計院を持っていた地域はナバラのみだった。 フランスとスペインを含む連合軍の間でスペイン独立戦争が起こった19世紀初頭、フランスの憲法起草者はナバラ、スペイン・バスク、フランス領バスクを統合して新フェニキアという名称のバスク統一国を作ることを計画した。ナポレオン自身は、エブロ川以北をスペインと分断させてフランスに編入させることを計画した。1813年のスペイン独立戦争後のスペインでは自由主義的な思想が目立つようになり、中央集権体制の支持者が増加した。19世紀のスペインでは王位継承権をめぐる内乱(カルリスタ戦争)が三度に渡って起こっており、この内乱はブルジョアなどの自由主義勢力と教会や貴族などの絶対主義勢力(カルリスタ)間の代理戦争の意味合いを呈していた。マドリードの中央政府は自由主義的な政策を打ち出していたため、伝統的な諸特権を享受したいバスク地方やナバラ地方にはドン・カルロスの支持者(カルリスタ)が多かったが、第一次カルリスタ戦争(1833‐1839)はベルガラ協定(英語版)でカルリスタ側の敗北が決定した。この敗北でカルリスタは強大な軍事力は失ったものの政治的重要性は保ち、後のバスク地方やカタルーニャ地方で起こる民族主義運動につなげた。同時期にスペイン政府は行政改革の一環として県の設置を進めており、ナバラ王国に相当する領域にはナバラ県が設置されている。 ===ナバラ王国の廃止=== 1841年にはナバラ特権政府の代表が妥協法に署名し、旧来のフエロが廃止されてスペイン憲法の枠組みによるフエロの再編が行われた。関税境界がバスクとスペインの境界(エブロ川)からスペイン・フランス国境(ピレネー山脈)に移動すると、ピレネー山脈を挟んだナバラの貿易の慣習が崩壊し、税関を経由しない密輸が勃興した。ビスカヤ県やギプスコア県とは異なり、ナバラ県ではこの時期に製造業が発展せず、基本的には農村経済が残っていた。1872年から1876年の第三次カルリスタ戦争中では再びカルリスタ勢力が敗北。1876年7月21日法はスペイン国家に対する兵役や納税などを規定しており、事実上フエロが撤廃された法律と解釈されている。1877年には一般評議会と特権議会が廃止され、バスク地方全域のスペインへの統合が完了した。 1893年から1894年にはパンプローナ中心部でガマサダ(スペイン語版)と呼ばれる民衆蜂起が起こり、1841年の特権規定や1876年の財政保証廃止などのマドリード政府の決定に抵抗した。アルフォンシノスと呼ばれる小規模な派閥を除き、ナバラのすべての政党は、ラウラク・バット(英語版)(4つは1つ、スペイン・バスクの4県の統合を目指す考え方)を合言葉とする地方自治に基づいた新たな政治的枠組みの必要性について合意した。 絶対主義勢力がカルリスタ戦争に敗北すると、バスク地方の他地域ではバスク民族主義が台頭したが、ナバラでは状況が異なった。ナバラでは敗戦後もカルリスタの影響力が大きく、フエロの存続を大義として保ち、1936年までは一定の政治力を発揮している。 第二共和政下(1931年‐1936年)の1931年には地域自治を認める共和政憲法が議会で承認されたため、バスク地方では1932年にはバスク自治憲章案が各自治体代表者の投票にかけられたが、ナバラでの支持率はスペイン・バスク4地域でもっとも低く50%以下であり、1933年にはナバラを分離した自治憲章草案が共和国議会にかけられた。1933年10月には数千人の労働者が裕福な地主の土地を占領し、地主は労働者に怨恨の念を抱いた。 1936年7月にスペイン内戦が勃発すると、北部方面司令官だったエミリオ・モラ(スペイン語版)将軍の下でナバラ県は即座に反乱軍の支配下に置かれた。その初期にはナショナリスト派の強硬派によってテロ活動が相次ぎ、共産主義者などがテロの対象となった。第二共和政期には反教権主義が広まったが、フランコは共和国政府とは対照的にカトリック教会を擁護したため、カトリック教会はフランコ率いるナショナリスト派を「十字軍」とさえ呼んだ。特にナバラ南部のエブロ河岸に沿った地域で大規模な粛清が行われ、聖職者らは自発的に謀略に加担した。少なくとも2,857人が殺害され、さらに305人が虐待や栄養失調などの理由により刑務所で死亡した。死者は集団墓地に埋められるか、ウルバサ山などの中央丘陵地にある峡谷に廃棄された。バスク民族主義者はより劣った地に追い払われ、エステーリャ市長でありCAオサスナの共同創設者だったフォルトゥナト・アギーレは1936年9月に死刑に処された。パンプローナは1937年4月以降の北方作戦時に、反乱軍の作戦開始地点となった。 ===現代=== スペイン内戦後の1939年にはフランコ独裁政権が成立し、アラバやナバラは内戦時の支援の報酬として、フエロを想起させる特権の数々の維持が認められた。内戦後には物資の欠乏、飢饉、密輸などが深刻化し、経済は小麦、ブドウ、オリーブ、大麦などの農業に依存し、人的移動は負の方向に傾いた。戦争の勝利者はカルリスタとファランヒスタ(ファランヘ党支持者)というふたつの主要な派閥に集まった。カトリック教会に関連する組織であるオプス・デイは、1952年にパンプローナにナバラ大学を設立した。今日のナバラ大学はもはやオプス・デイの所有物ではないが、世界規模で活動するオプス・デイにとって最大の「お抱え」大学である。 1950年頃にはギプスコア県やビスカヤ県のように工業誘致を行い、化学工業、製紙業、製鉄業、鉄鋼業などの企業がナバラ県に進出した。ナバラ県第一の産業は農業から工業に入れ替わり、1950年からの20年間で、農業従事者割合は55%から26%に低下した。特にパンプローナの人口・企業増加が大きく、1978年にはナバラ県全体の45%の人口と60%の企業を集めていた。フランコ政権末期の民主化準備段階において、ナバラ県ではバスク祖国と自由(ETA)、警察、県が後援する民兵組織による暴力活動が行われ、その風潮は1980年代以降まで続いた。 1975年にはフランシスコ・フランコが死去し、カルロス・アリアス・ナバーロ政権がスペインの民主化を推し進めた。ビスカヤ県、ギプスコア県、アラバ県のバスク3県は1979年にバスク自治憲章を成立させてバスク自治州を発足させたが、ナバラ県では民主中道連合(UCD)とナバラ住民連合(UPN)がナバラ県のバスク州への統合に反対した。1982年にはナバラ県単独でナバラ州に昇格し、ナバラ州とバスク州の分断が決定的となった。1987年には公共高等教育の機会を与えることを目的としてナバラ州立大学が創設された。 ==政治== フランコ独裁政権の終焉後、1982年にナバラ県が一県でナバラ州に昇格した。17自治州中16自治州はスペイン1978年憲法第143条または第151条を根拠として自治州を設置しているが、ナバラ州のみは付則1を根拠としており、「ナバラのフエロス体制の回復と調整に関する法」によって自治州に昇格した。他の16自治州のように自治憲章を制定したわけではなく、中世からのフエロを復活させるという形式を取っている。17自治州のうち15自治州では中央政府が徴税した税金の一部を各自治州に分配しているが、ナバラ州とバスク州は各県に徴税権があり、その一部が国庫に納められるという、強力な財政上の自治権を有している。 他の自治州同様に、ナバラ州議会は4年ごとに州議員選挙を行っており、議会の多数派がナバラ州政府を担当する州首相を決定する。1979年には、国民同盟(AP、国民党の前身)と提携する地方政党であるナバラ住民連合(UPN)のハイメ・イグナシオ・デル・ブルゴが初の首相に選出されたが、70議席中9議席を獲得したバスク民族主義左派政党も一定の強さを示した。1980年には民主中道連合(UCD、後に解散)から、1984年にはスペイン社会労働党(PSOE)のナバラ支部であるナバラ社会党(スペイン語版)(PSN)から州首相が選出された。ナバラ社会党は7年間にわたって州首相の座を維持し、1991年からの4年間はナバラ住民連合が、1995年からの2年間はナバラ社会党が州首相の座を担ったが、1996年にはナバラ住民連合が州首相の座を奪い返し、ミゲル・サンスが15年間に渡って州首相を務めた。2011年にはサンスに代わってナバラ住民連合のジョランダ・バルシーナが女性として初めて州首相に就任した。 右派のナバラ住民連合と左派のナバラ社会党に加え、バスク民族主義を標榜する政党も一定の支持基盤を持つ。これらの政党はナバラ州とバスク州の合併を指針に挙げているが、ナバラ住民連合はこの動きに強固に反対している。2002年以後にはバスク民族主義急進左派が非合法化されたため、バスク民族主義政党はいったん議席数を減らしたものの、超党派のナファロア・バイによって2007年選挙で第2勢力となり、2011年選挙ではバスク民族主義勢力が過去最大の得票率29%と15議席を得た。2015年にはバスク民族主義党を中心とするゲロア・バイのウシュエ・バルコスが首相に就任し、1979年以降で初めてバスク民族主義を掲げる政権が誕生した。ナバラ住民連合は4議席減の15議席に終わり、ナバラ国民党も議席数を半減させた。 ==経済== ===産業=== 1960年代までナバラ県の経済は第一次産業が中心だった。山岳部では牧畜が行われてトウモロコシやテンサイなどが栽培され、中央部の盆地にはヒマワリやアブラナなどの加工用プランテーションが広がり、エブロ川流域にはオリーブやブドウの畑が広がっている。1960年代には工業化が始まり、当初は繊維業や皮革業などが中心だったが、1973年には金属工業が第二次産業分野の首位となった。金属工業からはフォルクスワーゲンの工場と部品工場を中心とする自動車産業が派生し、1980年代後半には自動車産業が優勢となった。1994年の失業率は10.0%(スペイン平均は20.8%)であり、17自治州でもっとも低かった。 2000年代には第二次産業の中で自動車産業と機械鉱業が抜きんでており、主要都市の工業団地にその他の産業の工場が存在する。ペラルタ/アスコイエン(英語版)は金属工業、エステーリャはグラフィックアート、アリョ(英語版)やレイツァ(英語版)やサングエサは製紙業、レサカやベラデビダソア(英語版)は冶金工業、オラスティ/オラサグティア(英語版)はセメント、カスカンテ(英語版)は繊維業といった具合に、第二次産業は州各地に散らばっている。また、2000年代には風力発電、光電池、太陽光発電などのエネルギー産業が著しく発展し、再生可能エネルギーは州内の電気エネルギー消費の60%を賄っている。スペイン銀行によれば2012年第一四半期の失業率は16.3%であり、スペインの17自治州中16位の低さだった(スペイン平均は24.4%)。 ナバラ貯蓄銀行とパンプローナ貯蓄銀行が合併して誕生したナバラ銀行(スペイン語版)はスペイン有数の金融機関だったが、2012年にはナバラ州政府の高官に対して不自然な支出を行っていたこと(英語版)が明るみとなり、貯蓄銀行(スペイン語版、英語版)としての営業は2013年に停止した。 ===域内総生産=== 1960年代から1980年代のナバラ県は1人あたり域内総生産(GRP)で常にスペイン平均を上回っており、スペイン平均を100とした場合の1962年の指数は114.8(17地域中5位)、1975年の指数は113.5(17地域中5位)、1987年の指数は116.9(17自治州中4位)、1994年の指数は118(17自治州中4位)だった。1994年の域内総生産の内訳は農業が5.6%、工業が34.5%、建設業が7.2%、サービス業が52.7%であり、工業比率は17自治州中1位、サービス業比率は17自治州中17位だった。1994年時点でナバラ州は豊かな農業と新興工業を有しており、EU平均の国内総生産を100とすると96だった。 2010年のナバラ州の域内総生産は246億GKドルであり、スペインの全17自治州中14位にすぎないが、1人あたり域内総生産は38,736GKドル/人であり、バスク州に次いでスペイン第2位である(スペイン平均は29,810GKドル)。2012年の1人当たり域内総生産は29,071ユーロ/人であり、バスク州とマドリード州に次いでスペイン第3位だった(スペイン平均は22,772ユーロ)。2008年から2011年の域内総生産成長率はスペインの全17州でマイナスを記録したが、ナバラ州の成長率はマイナス0.33%であり、カスティーリャ・イ・レオン州に次いで2位だった(スペイン平均はマイナス1.05%)。2015年時点のナバラ州の1人あたり地域総生産はEU平均より約5%高い位置にある。 ==社会== ===言語=== スペイン語はナバラ州を含むスペイン全土の公用語であるが、ナバラ州のバスク語が話される地域ではバスク語も公用語の地位を得ている。1986年には、ナバラ州を言語によって3領域に分割する法律が制定された。バスク語が普及している「バスク語圏」では、スペイン語に加えてバスク語も公用語とされている。「混合圏」と「非バスク語圏」(スペイン語圏)では段階的にバスク語の公的認知が弱められており、「混合圏」でもバスク語は公用語の地位を得ているものの、「非バスク語圏」では公用語とされていない。北部の山岳地帯はバスク語話者率が高く、南部の平地は早い時期からの異民族の侵入によってバスク語話者率が低い。ナバラ州におけるバスク語話者人口の約半数がパンプローナに集中しているが、これはパンプローナの絶対的な人口の多さによるものであり、パンプローナのバスク語話者率は約20%にすぎない。 2006年の調査では、州民の11.1%がバスク語話者、7.6%が能動的でないバスク語話者、81.3%がスペイン語の単一話者だった。バスク語話者が9.5%だった1991年の調査に比べて、バスク語話者の割合は増加している。年齢別のバスク語話者割合は均質ではなく、35歳以上で低いのに対して、16‐24歳では20%以上を記録している。2011年の国勢調査によれば、バスク語話者は11.7%(63,000人)と微増した。バスク地方では民主化以後に自治体の公式名をスペイン語名からバスク語名に改名する動きがみられ、ナバラ州では272自治体中110自治体が自治体名の変更を行っている。 ===教育=== 1952年にはカトリック教会に属するオプス・デイが、パンプローナにナバラ大学を創設した。ナバラ大学はパンプローナとギプスコア県サン・セバスティアンの2か所にキャンパスを有しており、経済学・経営学部はエコノミスト誌やフィナンシャル・タイムズ紙によって世界トップクラスの評価を受けている。医学部は前衛的な研究を行っており、2004年には腫瘍学・病理生理学・神経科学・生物医学の4ジャンルを合わせもつ応用医学研究センターが開設された。ナバラ大学では人文科学や社会科学の研究も盛んである。 1987年にはナバラ州初の公立大学として、既存の高等教育機関を統合してナバラ州立大学が創設された。ナバラ州立大学は革新的な学科構造を取り入れており、大学研究を企業発展につなげることを目標としている。パンプローナとトゥデラにはスペイン国立通信教育大学(UNED)のセンターが存在する。 ナバラ州では16歳未満の全児童生徒の就学が実現しており、教育施設は公立学校か私立学校を選択できる。特にバスク語が公用語である地域ではバスク語教育の導入が進められており、公立学校・私立学校のそれぞれでバスク語を学んだり研究したりすることができる。高等音楽教育を行う学校としてパブロ・サラサーテ音楽学校があり、7校の市立音楽学校とその他の私立音楽学校の頂点に位置する。高等教育機関の他には、ナバラ・レーザーセンター、ブドウ酒醸造学研究所、穀物・牛技術研究所などの研究機関が存在する。 ===交通=== ナバラ州内には2005年時点で3,636kmの道路があり、うち209kmが有料または無料の高速道路、540kmが一般道路、457kmが州道、2,427kmが地方道である。パンプローナを中心として、主要な道路はウエスカ、サラゴサ、ログローニョ、ビトリア=ガステイス、サン・セバスティアン、イルンに通じている。トゥデラ=パンプローナ=アルツァス/アルサスアを結ぶ軸、トゥデラ=ログローニョを結ぶ軸、パンプローナ=エステーリャ=ログローニョを結ぶ軸の3本の軸が道路交通の中心である。環状道路がパンプローナ都市圏を取り巻いており、都市圏の交通渋滞を緩和している。 サラゴサとビトリア=ガステイスを結ぶ路線が州唯一の鉄道路線である。南部のトゥデラからタファリャを通ってパンプローナまで北に向かい、パンプローナで西に向きを変えて西部のアルツァス/アルサスアに至る。主要都市の中ではエステーリャを通る鉄道路線は存在しない。トゥデラ近郊ではサラゴサ方面行きとログローニョ方面行きの路線が、アルツァス/アルサスアではビトリア=ガステイス方面行きとサン・セバスティアン方面行きの路線が分岐している。パンプローナから南6kmにはパンプローナ空港があり、マドリード=バラハス空港やバルセロナ=エル・プラット空港などに向けて定期便が運行されている。2010年には滑走路が延長されて2,405mとなり、また新ターミナルが建設された。 ==文化== ===料理=== ナバラ州は大西洋にも地中海にも面していないが、ピレネー山麓の河川で獲れたマスやサケなどの川魚が料理に用いられることがあり、ナバラの伝統料理として「マスのナバラ風」がある。肉料理にはカルデレーテ(羊肉またはウサギ肉と野菜の煮込み)、ゴリン(ローストポーク)などがあり、山岳部ではヤマウズラ、キジバト、ウサギなどのジビエ(狩猟鳥獣)が食材として用いられる。 ナバラ (DO)やリオハ (DOC)などの保護原産地呼称ワイン、VPプラド・デ・イラチェやVPアリンサノやVPパゴ・デ・オタスなどの畑限定原産地呼称ワイン、アスパラガス、ピキーリョ(赤ピーマン)、ロンカル(チーズ)、イディアサバル(チーズ)、パチャラン(果実酒)にはDO(原産地呼称制度)が導入されている。河岸地方で生産されるコゴーリョ(小型レタス)、アーティチョーク、グリーンピース、ソラマメなどもナバラの代表的な野菜であり、またトゥデラのモモ、エチャウリのサクランボなどの果物などもある。スピノサスモモの実をアニス酒に漬けたパチャランは家庭でも作られており、モスカテル(甘口ワイン)はデザートとしても選択される。 ===祭礼=== ナバラ州のすべての自治体では守護聖人を称える祭礼が開催される。謝肉祭(カーニバル)、クリスマスのオレンツェロ(英語版)(大酒飲みの炭焼き職人)、サンパンツァルなども受け継がれており、祭礼中のエンシエロ(牛追い)や巨大人形は多くの町の祭礼に見られる要素である。山岳部ではチストゥ(英語版)(3本穴の縦笛)や小太鼓、中央部や河岸部ではバグパイプなどの楽器が祭礼を盛り上げる。 個々の祭礼では、7月に行われるパンプローナのサン・フェルミン祭(牛追い祭り)、ランツの謝肉祭(ミエル・オチン)、レサカのオレンツェロなどが有名であり、サン・フェルミン祭は世界中から観光客を集める。3月には州内外からフランシスコ・ザビエルが生まれ育ったハビエル城に巡礼者が集まり、聖週間(イースター)にはトゥデラやパンプローナなどで祭礼が行われる。 ===芸術=== ナバラの拠点となる博物館は1956年に開館したナバラ博物館(スペイン語版)であり、またパンプローナ大聖堂の修道院別館には司教区博物館がある。ロンセスバーリェス、コレーリャ、トゥレブラス、トゥデラ、ハビエル城内部などに宗教芸術に関する博物館があり、アルテタ、エリソンド、イサバには民俗学博物館が、イラチェにはフリオ・カロ・バローハ民俗博物館が、ロンカルにはフリアン・ガヤレ邸博物館が、エステーリャ王宮内にはグスターボ・デマエストゥ博物館がある。美術館には、アルスサにあるホルヘ・オテイサ美術館、アリスクンのサンチョテナ美術館、トゥデラのセサル・ムニョス・ソラ美術館などがある。スペインを代表する彫刻家のオテイサは、存命中の1992年に自身の全作品群をナバラ州政府に寄贈した。ナバラ総合図書館は50万冊以上の蔵書を持っている。 大規模ホールにはナバラ州立バルアルテ会議コンサートホール、パンプローナ市立ガヤレ劇場などがあり、コンサート、オペラ、演劇などが行われる。音楽コンクールには声楽のフリアン・ガヤレ国際コンクール、パブロ・サラサーテ国際ヴァイオリン・コンクールなどがあり、音楽団体にはパブロ・サラサーテ交響楽団、パンプローナ合唱団、パンプローナ室内合唱団、パンプローナ交響楽団などがある。 19世紀に現れたフランシスコ・ナバロ・ビリョスラーダ(スペイン語版)はロマン主義・伝統主義の著作家であり、20世紀初頭には小説家のフェリシュ・ウラバイェン(スペイン語版)が非順応主義を表した。詩人のアンヘル・ウルティア(*8751*ngel Urrutia Iturbe)は雑誌「アルガ川」を創刊し、カルロス・バオスなどの作品が掲載された。他の20世紀の著作家にはアンヘル・マリア・パスクアル(*8752*ngel Mar*8753*a Pascual)、ホセ・マリア・イリバレン(スペイン語版)、ラファエル・ガルシア・セラーノ(スペイン語版)、ホセ・マリア・サン・フアン(Jos*8754* Mar*8755*a Sanju*8756*n)などがいる。現代作家にはパブロ・アントニャーナ、ミゲル・サンチェス・オスティス、ルシア・バケダーノ、ヘスス・フェレーロ、マヌエル・イダルゴなどがいる。 エウスカルツァインディア(バスク語アカデミー)やエウスコイカスクンツァ(バスク研究協会)がバスクに関する調査研究や文化振興を行っている。アンダルシア州、アストゥリアス州、カンタブリア州、カスティーリャ・イ・レオン州、カタルーニャ州、エストレマドゥーラ州、ガリシア州、バレンシア州には同郷州人会がある。 ===スポーツ=== ナバラではサッカー、狩猟、ウィンタースポーツ、ペロタ・バスカなどのスポーツが行われており、サッカーとペロタは観るスポーツとしても人気がある。サッカーのCAオサスナ、ハンドボールのSDCサン・アントニオ(2013年解散)、ペロタなどのプロチームがあり、フットサルのショタFSも全国リーグで実績を残している。ペロタの競技場は伝統的に教会に隣接していることが多く、ナバラはマルティネス・デ・イルホ(全国選手権シングルス優勝5度)、アイマル・オライソラ(全国優勝4度)、バリオラ(全国優勝1度)、エウギ(全国優勝3度)、ルベン・ベロキ(バルセロナ五輪金メダル)などの名選手を輩出している。バスクの伝統的スポーツであるアイスコラリ(丸太切り競技)、アリハソツァイレ(石の持ち上げ競技)なども活気がある。 ==出身人物== イニゴ・アリスタ(スペイン語版) (770頃‐852頃) : パンプローナ王国の建国者。フランシスコ・ザビエル (1506‐1552) : イエズス会の宣教師。ミシェル・セルヴェ(1511‐1553) : 人文主義者・神学者。ペドロ・デ・ウルスア(スペイン語版) (1520頃‐1561) : コンキスタドール・探検家。フランシスコ・ハビエル・デ・エリオ(1767‐1822) : 政治家・軍人。フランシスコ・シャビエル・ミナ(スペイン語版) (1789‐1817) : ゲリラ兵士・軍人。ミゲル・イラリオン・エスラバ(スペイン語版) (1807‐1898) : 作曲家。フリアン・ガヤレ(スペイン語版) (1844‐1890) : テノール歌手。パブロ・デ・サラサーテ (1844‐1908) : ヴァイオリニスト・作曲家。サンティアゴ・ラモン・イ・カハール(1852‐1934) : 神経解剖学者。ノーベル生理学・医学賞受賞(1905年)。アルトゥーロ・カンピオン(スペイン語版) (1854‐1937) : 著作家。フランシスコ・ハビエル・サエンス・デ・オイサ (1918‐2000) : 建築家。ホセ・マリア・ヒメノ・フリオ(スペイン語版) (1927 ‐ 2002) ‐ 歴史学者・民族誌学者。ホセ・マリア・サトゥルステギ(スペイン語版) (1930‐2003) : 著作家。ラファエル・モネオ (1937‐ ) : 建築家。カルロス・ガライコエチェア (1938‐) : 政治家。バスク州政府首相。イグナシオ・ソコ(1939‐) : サッカー選手。EURO1964優勝。マラニョン(1948‐) : サッカー選手。マリア・バーヨ(1958‐) : ソプラノ歌手。ミゲル・インドゥライン (1964‐) : 自転車競技選手。ツール・ド・フランス個人総合5連覇。ヨン・アンドニ・ゴイコエチェア(1965‐) : サッカー選手。イニャキ・オチョア (1967‐2008) : 登山家。ナイワ・ニムリ(1972‐) ‐ 女優。フェルナンド・ジョレンテ(1985‐) : サッカー選手。2010W杯優勝。 =木曽川電力= 木曽川電力株式会社(きそがわでんりょくかぶしきがいしゃ)は、大正から昭和戦前期にかけて存在した日本の電力会社である。中部電力管内にかつて存在した事業者の一つ。 製鋼事業者としての電気製鋼所は、その後の再編を経て成立した大同特殊鋼の前身にあたる。同社は1950年(昭和25年)設立であるが電気製鋼所の設立日を「創業」の日としている。 1916年(大正5年)に株式会社電気製鋼所(でんきせいこうしょ)の名で設立。社名の通り当初は製鋼事業が本業で、電気事業は1919年(大正8年)に追加された付帯事業であったが、1922年(大正11年)に製鋼事業を手放して木曽川電力へ改称した。電気事業者としての事業地は長野県木曽地域。1942年(昭和17年)に中部電力の前身中部配電へ統合された。 ==沿革== ===電気製鋼所の設立=== 明治後期から大正にかけて、愛知県名古屋市には名古屋電灯という電力会社が存在した(後の東邦電力)。同社は元々旧尾張藩士族の会社であったが、明治末期より東京の実業家福澤桃介が株式を大量に買収して進出し、1913年(大正2年)から常務、翌年からは社長として1921年(大正10年)までその経営にあたっていた。 名古屋電灯では明治末期に大規模水力開発を展開し、1910年(明治43年)に長良川にて出力4200キロワットの長良川発電所を、翌1911年(明治44年)には木曽川にて出力7500キロワットの八百津発電所をそれぞれ完成させた(双方とも岐阜県所在)。名古屋電灯では開業以来、需要に対して供給力の方が小さいという状態が続いていたが、この2つの大規模発電所の建設によって供給力に余剰が生じ、しばらく工場や電気鉄道といった大口需要の開拓に追われることとなった。こうした中、第一次世界大戦勃発直後の1914年(大正3年)10月、前年から名古屋電灯顧問を務め欧米視察から帰国したばかりの寒川恒貞に対し、福澤は余剰電力5,000キロワットの利用方法の研究を依頼した。これに対し寒川が将来性のある事業として電気による製鉄・製鋼事業を進言したことからただちに社内で同事業の企画が始まった。 事業化に関する試験費は5万円が支出され、試験場として竣工したばかりの熱田火力発電所(名古屋市熱田東町字丸山)の発電室の一角が割り当てられた。まず1915年(大正4年)2月、合金炉を製作してフェロアロイ(合金鉄)の試作に着手。試作の成功を機に同年10月社内に「製鋼部」を設置し、続いて1916年(大正5年)2月より600キロワット合金炉を製作しフェロシリコンの製造試験を始めた。3月にはエルー式アーク炉も完成し炭素鋼の試作を始め、これに成功すると続いて工具鋼の試作を行った。一連の試験で事業化の目処がついたため、発電所敷地にて工場建設に着手するとともに製鋼部の分社化準備を進めた。 1916年8月19日、製鋼部は名古屋電灯から独立し「株式会社電気製鋼所」が発足した。資本金は50万円(うち20万円払込)で、全1万株のうち半分を名古屋電灯が引き受け残りを関係者で引き受けた。初代社長には当時名古屋電灯常務の下出民義が就き、企画者の寒川恒貞は常務として経営の中心となった。本社は事業地ではなく東京市麹町区(現・東京都千代田区)に構えた。 ===製鋼事業の推移=== 会社設立と同時に工場の操業を開始し、試作を続けてきたフェロクロム・フェロタングステンの製造を開始し、続いてフェロシリコン・フェロマンガンの製造も始めた。これらのフェロアロイは陸海軍の工廠や日本製鋼所・八幡製鉄所へ出荷したほかアメリカ・オーストラリア方面へ盛んに輸出した。1916年10月末の第1期決算までの2か月あまりで約3万円の売上げを計上し年率1割の配当を行う好成績を挙げ、翌年4月末の第2期決算では売上げ・利益金ともに倍増し1割配当を継続できた。フェロアロイに加え、製鋼部時代からの目標であった工具鋼生産は1917年(大正6年)夏ごろより良質な製品ができて陸海軍工廠などへの納入が始まり、前後して鋳鋼やばね鋼・クロム鋼などの生産も始まった。同年9月、事業が軌道に乗ったとして下出が社長から退き、相談役の福澤桃介が2代目社長となっている。 好業績は設立翌年以降も持続しており、配当率は1917年10月末の第3期決算から翌年10月末の第5期決算まで普通配当年率1割に特別配当年率2割が加算された。特に大戦景気による鉄鋼業の活況を背景にフェロアロイの需要が旺盛で、熱田工場では生産しきれなくなったためフェロアロイ専門工場の新設を決定、1918年(大正7年)10月一挙に5倍の増資を行い資本金を250万円とした。新工場は長野県西筑摩郡福島町(現・木曽郡木曽町)に建設され、1919年(大正8年)2月に操業を開始した。 電気製鋼所の好業績を受けて1917年6月、名古屋電灯は社内に「製鉄部」を設置して電気で銑鉄を製造するという電気製鉄(電気製銑)の研究を開始。工場を名古屋市東築地に建設し、電気製鋼所の場合と同様に工場操業開始とあわせて分社化して1918年9月木曽電気製鉄(後の大同電力)を設立した。しかしながら電気製鉄は事業として軌道に乗るに至らずにまもなく終了しており、製鉄事業は木曽川などで水利権を得るための看板に過ぎないとも言われる。その後同社は生産品を鋳鋼に切り替え1920年(大正9年)7月より製造を始めた。 ===電気事業開業と福島電気=== 親会社の名古屋電灯が木曽川開発を計画し水利権獲得にあたっていたころ、福島町周辺の水利権のうち地元の川合勘助・小野秀一らが出願していた新開村地区の水利権を取得する際、これを譲り受ける代償として地元で工業を興すよう求められた。この要求を受けて電気製鋼所によって工場建設と水力開発を併せて進めるという構想が立てられ、まず1917年12月27日、電気製鋼所は電気事業経営を定款に加えた。発電所建設は新開村(第一発電所)と福島町神戸地区(第二発電所)の2か所で進められ、第一発電所は出力1200キロワットで1919年1月31日に竣工、第二発電所は出力1800キロワットで1920年6月16日に竣工した。第一発電所は木曽福島工場の稼働とともに送電を開始し、続く第二発電所の稼働によって工場設備が増設された。 その間の1919年9月26日、電気製鋼所は福島町の小規模電気事業者である福島電気株式会社の合併を決定した(12月24日合併登記)。同社は福島町で酒造業を営む川合勘助・小野広助らによって設立。資本金5000円という規模ながら木曽地域で最初の電気事業者であった。発電所については設計・工事を中部地方で多くの発電所建設に携わった技師大岡正に委嘱して木曽川支流の黒川に建設し(杭ノ原発電所・出力50キロワット)、配電工事の竣工を待って1908年(明治41年)5月に開業した。 開業時、福島電気の供給区域は福島町内と発電所のある新開村杭の原集落であり、電灯数は610灯であった。その後事業は順次拡大し、1912年(明治45年)には資本金を5万円へ増資し、駒ヶ根村(現・上松町)への供給も始めている。さらに1917年6月、福島電気は鳥居電力と合併した。この鳥居電力株式会社は、1912年9月17日、木祖村と楢川村(現・塩尻市)の有志によって木祖村薮原に資本金2万円にて設立。中央本線鳥居トンネルの掘削工事用に奈良井(楢川村)側に設けられていた水力発電所を当時の鉄道院から買収し、翌1913年5月に開業した。合併前の時点で供給区域は木祖・楢川両村であり、また福島電気の供給区域は福島町と新開村・駒ヶ根村・日義村(現・木曽町)であった。 電気製鋼所が上記福島電気を合併した時点で、同社の資本金は6万4000円であり、合併に伴って電気製鋼所は28万8000円を増資し資本金を278万8000円としている。また合併により福島電気の電灯・電力供給事業を引き継ぎ、福島町に木曽福島電灯営業所を開設した。 ===製鋼事業の譲渡=== 大戦中は好業績を挙げていた電気製鋼所であったが、大戦終結後、特に1920年3月の戦後恐慌発生以降はフェロアロイ部門が極度の不振に陥り、市況の悪化とともに工場に在庫が累積していった。従って専門工場の木曽福島工場は操短を余儀なくされ、1922年(大正11年)6月20日には、熱田工場への生産集約に伴って一時閉鎖措置が採られた。余剰電力については大同電力へ売電することとなった。 戦後恐慌に加えて戦後の軍縮による軍需縮小も会社の先行きに関する懸念事項として浮上した。このためワシントン海軍軍縮条約締結を機に電気製鋼所と大同電力の鋳鋼部門が独立した大同製鋼(初代、社長は電気製鋼所と同じく福澤桃介)の統合構想が持ち上がり、1922年7月1日に両社の間で統合契約が成立した。統合方法は合併によらず電気製鋼所の製鋼事業のみを大同製鋼へ移管するというもので、電気製鋼所は熱田・木曽福島両工場と関連会社の株式、あわせて150万円を大同製鋼へ現物出資し、その対価と優先株への応募(10万円分)によって大同製鋼の株式を取得することとなった。7月26日に株主総会にて上記契約が承認され、現物出資の登記が完了した9月15日付で電気製鋼所は「木曽川電力株式会社」へ改称した。 この操作によって木曽川電力は、経営陣そのままに旧電気製鋼所の第一・第二発電所と旧福島電気の電灯・電力供給事業を持つ電気事業者として新発足した。また初代大同製鋼改め大同電気製鋼所(後の2代目大同製鋼、現・大同特殊鋼)の株式3万2000株を持つ大株主にもなった。 ===木曽川電力時代の動向=== 1928年(昭和3年)9月、木曽川電力は西筑摩郡開田村(現・木曽町)の全域を供給区域に追加した。さらに翌1929年(昭和14年)11月には、黒川水力電気株式会社(資本金2万5000円)より事業を譲り受けた。黒川水力電気は木曽川電力の供給区域から外れていた新開村黒川集落に対し、小水力発電により供給していた事業者で、田中兼松の事業として1920年(大正9年)3月に開業し、1925年(大正14年)2月より会社経営となっていた。木曽川電力は開田村への供給に際し配電線が途中黒川集落を通過することから買収に及んだ。このように木曽川電力の事業は拡大はしたが、大同電気製鋼所が不況のため無配を継続したことから配当収入がなく経営は不振であった。なお1928年11月に福澤桃介に代わって寒川恒貞が第3代社長に就任し、1931年(昭和6年)7月には電気製鋼所時代に一時支配人を務めていた下出義雄が第4代社長となっている。 1931年の満州事変勃発以後、軍需拡大で大同電気製鋼所の経営が改善したため木曽川電力の経営も好転した。1935年(昭和10年)5月、上松町全域に供給区域を拡大。さらに同年9月には、奈川電灯株式会社(資本金5万円)より事業を譲り受けた。奈川電灯は西筑摩郡奈川村(後の南安曇郡奈川村、現・松本市)にて村の有志によって1922年6月25日に設立され、村内の黒川に小水力発電所を設けて翌1923年(大正12年)2月1日に開業した小事業者である。 1930年代後半には新規の水力開発も再開され、1937年(昭和12年)に日義発電所、翌1938年(昭和13年)には城山発電所が相次いで完成した。一方で1936年(昭和11年)に、大同電力寝覚発電所建設に伴い第二発電所(神戸発電所)を同社へと譲渡している。 こうして事業の拡大を進めたが、日中戦争勃発後の電力国家管理強化の流れの中で、太平洋戦争開戦後の1942年(昭和17年)8月5日、配電統制令に基づく中部配電(中部電力の前身)への電気供給事業設備出資命令が下った。出資すべきとされた事業設備の範囲は、杭ノ原・新開・日義・城山・黒川の5発電所と送電線3路線、変電所1か所、それに中部配電の配電区域内にある配電設備・需要者屋内設備・営業設備の一切である。10月1日付で中部配電への設備強制出資が実施に移され、事業を失った木曽川電力は同年12月1日付にて解散した。 ===年表=== 1915年(大正4年) 10月 ‐ 名古屋電灯社内に「製鋼部」設置。10月 ‐ 名古屋電灯社内に「製鋼部」設置。1916年(大正5年) 8月19日 ‐ 名古屋電灯製鋼部を元に株式会社電気製鋼所設立、熱田工場操業開始。8月19日 ‐ 名古屋電灯製鋼部を元に株式会社電気製鋼所設立、熱田工場操業開始。1919年(大正8年) 1月31日 ‐ 第一発電所(新開発電所)竣工。 2月 ‐ 木曽福島工場操業開始。 12月24日 ‐ 福島電気を合併(登記日)、電灯・電力供給事業を継承。1月31日 ‐ 第一発電所(新開発電所)竣工。2月 ‐ 木曽福島工場操業開始。12月24日 ‐ 福島電気を合併(登記日)、電灯・電力供給事業を継承。1920年(大正9年) 6月16日 ‐ 第二発電所(神戸発電所)竣工。6月16日 ‐ 第二発電所(神戸発電所)竣工。1922年(大正11年) 6月20日 ‐ 木曽福島工場休止。 7月1日 ‐ 大同製鋼(現・大同特殊鋼)との間に、同社へ製鋼事業を譲渡する契約を締結。 9月15日 ‐ 大同製鋼へ製鋼事業を譲渡(登記日)、あわせて木曽川電力株式会社へ改称。6月20日 ‐ 木曽福島工場休止。7月1日 ‐ 大同製鋼(現・大同特殊鋼)との間に、同社へ製鋼事業を譲渡する契約を締結。9月15日 ‐ 大同製鋼へ製鋼事業を譲渡(登記日)、あわせて木曽川電力株式会社へ改称。1929年(昭和4年) 11月 ‐ 黒川水力電気からの事業譲受について認可。11月 ‐ 黒川水力電気からの事業譲受について認可。1935年(昭和10年) 9月 ‐ 奈川電灯より事業を譲り受ける。9月 ‐ 奈川電灯より事業を譲り受ける。1937年(昭和12年) 6月 ‐ 日義発電所運転開始。6月 ‐ 日義発電所運転開始。1938年(昭和13年) 10月 ‐ 城山発電所運転開始。10月 ‐ 城山発電所運転開始。1942年(昭和17年) 8月5日 ‐ 配電統制令に基づく中部配電への電気供給事業設備出資命令を受命。 10月1日 ‐ 中部配電へと事業設備を出資。 12月1日 ‐ 会社解散。8月5日 ‐ 配電統制令に基づく中部配電への電気供給事業設備出資命令を受命。10月1日 ‐ 中部配電へと事業設備を出資。12月1日 ‐ 会社解散。 ==供給区域== 木曽川電力の供給区域は、1938年12月末の時点では、以下に示す長野県西筑摩郡(現・木曽郡)の2町6村であった。 福島町・新開村・日義村・開田村(現・木曽町)上松町木祖村楢川村(現・塩尻市)奈川村(後の南安曇郡奈川村、現・松本市)これらの地域において、1938年下期末(10月末)の時点で電灯2万1686灯・電力1298キロワットを供給していた。 ==発電所一覧== 木曽川電力が運転していた水力発電所は以下の通りである。すべて長野県西筑摩郡にあった。 前述の通り、日義・新開・城山・杭ノ原・黒川の5発電所が1942年10月に中部配電へと出資されている。いずれも1951年(昭和26年)に中部電力(中電)に引き継がれた。 ==工場所在地== 電気製鋼所時代の製鋼工場は以下の2か所であった。 熱田工場 : 名古屋市南区熱田東町字丸山(現・熱田区花表町) 熱田火力発電所隣接地に所在。大同製鋼時代は主として鋳鋼品を生産したが1950年(昭和25年)6月閉鎖。熱田火力発電所隣接地に所在。大同製鋼時代は主として鋳鋼品を生産したが1950年(昭和25年)6月閉鎖。木曽福島工場 : 長野県西筑摩郡福島町(現・木曽郡木曽町福島)字新万郡 フェロアロイ専門工場で、大同製鋼時代の1932年(昭和7年)に操業を再開。1969年(昭和44年)に精密鋳造製品に生産転換され、1980年(昭和55年)には大同特殊鋼より大同特殊鋳造として分社化。さらに2002年(平成14年)には会社統合により大同キャスティングス木曽工場となるが、2004年(平成16年)に中津川工場への集約により閉鎖された。フェロアロイ専門工場で、大同製鋼時代の1932年(昭和7年)に操業を再開。1969年(昭和44年)に精密鋳造製品に生産転換され、1980年(昭和55年)には大同特殊鋼より大同特殊鋳造として分社化。さらに2002年(平成14年)には会社統合により大同キャスティングス木曽工場となるが、2004年(平成16年)に中津川工場への集約により閉鎖された。 =壬午軍乱= 壬午軍乱(じんごぐんらん) または 壬午事変(じんごじへん) は、1882年(明治15年)7月23日(旧暦では光緒8年=高宗19年6月9日)、興宣大院君らの煽動を受けて、朝鮮の首府漢城(現、ソウル)で起こった閔氏政権および日本に対する大規模な朝鮮人兵士の反乱。 日本は軍艦4隻と千数百の兵士を派遣し、清国もまた朝鮮の宗主国として属領保護を名目に軍艦3隻と兵3,000人を派遣した。反乱軍鎮圧に成功した清は、漢城府に清国兵を配置し、大院君を拉致して中国の天津に連行、その外交的優位のもとで朝鮮に圧力をかけ、閔氏政権を復活させた。日本は乱後、清の馬建忠の斡旋の下、閔氏政権と交渉して済物浦条約を締結し、賠償金の支払い、公使館護衛のための日本陸軍駐留などを認めさせた。清国は朝鮮政府に外交顧問を送り、李鴻章を中心とする閣僚は朝鮮に袁世凱を派遣、袁が事実上の朝鮮国王代理として実権を掌握した。こののち袁世凱は、3,000名の清国軍をひきつづき漢城に駐留させた。この乱により、朝鮮は清国に対していっそう従属の度を強める一方、朝鮮における親日勢力は大きく後退した。 この乱の名称は干支の「壬午(みずのえうま)」に由来し、壬午の変(じんごのへん)、壬午事件(じんごじけん)などとも表記される。当時の日本では朝鮮国事変(ちょうせんこくじへん)、朝鮮事変(ちょうせんじへん)などとも称された。また、かつてはその首謀者の名を付し、大院君の乱(だいいんくんのらん)という表現もあった。 朝鮮国王高宗の王妃閔妃を中心とする閔氏政権は、開国後、日本の支援のもと開化政策を進めたが、財政出費がかさんで旧軍兵士への俸給が滞ったことが反乱のきっかけとなった。すなわち、閔氏政権は近代的軍隊として「別技軍」を新設し、日本人教官を招致して教練を開始したが、これに反発をつのらせた旧式軍隊が俸給の遅配・不正支給もあって暴動を起こし、それに民衆も加わって閔氏一族の屋敷や官庁、日本公使館を襲撃し、朝鮮政府高官、日本人軍事顧問、日本公使館員らを殺害したものである。朝鮮王宮にも乱入したが、閔妃は王宮を脱出した。反乱軍は閔氏政権を倒し、興宣大院君を担ぎ出して大院君政権が再び復活した。 ==背景== 李王朝下の朝鮮では、国王みずからが売官をおこない、支配階級たる両班による農民への苛斂誅求、不平等条約の特権に守られた日清両国商人による収奪などにより民衆生活が疲弊していた。王宮の内部では、清国派、ロシア派、日本派などにわかれ、外国勢力と結びついた権力抗争が繰り広げられていた。とくに、宮中では政治の実権をめぐって、国王高宗の実父である興宣大院君と高宗の妃である閔妃が激しく対立していた。 当時、朝鮮の国論は、清の冊封国(属邦)としての立場の維持に重きをおいて事大交隣を主義とする守旧派(事大党)と朝鮮の近代化を目指す開化派に分かれていた。このうち後者はさらに、国際政治の変化を直視し、外国からの侵略から身を守るには、すでに崩壊の危機に瀕している清朝間の宗属関係に依拠するよりは、むしろこれを打破して独立近代国家の形成をはからなければならないとする急進開化派(独立党)と、より穏健で中間派ともいうべき親清開化派に分かれていた。親清開化派は、清朝宗属関係と列国の国際関係を対立的にとらえるのではなく、二者併存のもとで自身の近代化を進めようというもので、閔氏政権の立場はこれに近かった。急進開化派は、朝鮮近代化のモデルとして日本に学び、日本の協力を得ながら自主独立の国を目指そうという立場であり、金玉均や朴泳孝ら青年官僚がこれに属した。 開化政策への転換に対しては、守旧派のなかでも特に攘夷思想に傾斜した儒者たちのグループ(衛正斥邪派)が強く反発した。辛巳の年1881年には年初から中南部各道の衛正斥邪派の在地両班は漢城府に集まって金宏集(のちの金弘集)ら開化政策を進める閣僚の処罰と衛正斥邪策の実行を求める上疏運動を展開した(辛巳斥邪上疏運動)。閔氏政権は、上疏の代表であった洪在鶴を死刑に処したほか、上疏運動の中心人物を流罪に処するなど、これを厳しく弾圧した。衛正斥邪派は大院君をリーダーと仰ぎ、この年の夏には、安驥泳らが閔氏政権を倒したうえで大院君の庶長子(李載先)を国王に擁立しようというクーデター計画が発覚している。 清朝間の宗属関係についてであるが、厳密には古代以来の冊封‐朝貢体制における「属邦」と近代国際法における「属国」とは性格を異にしている。しかし、朝貢国として琉球を失うなど国際的地位の低下に危機感をつのらせた清朝は、日本や欧米諸国が朝鮮を清の属国とは認めないことを通達した事実を受け、最後の朝貢国となりつつあった朝鮮を近代国際法下での「属国」として扱うべく行動した。もともと宗属関係は藩属国の内治外交に干渉しない原則であったが、清国はこの原則を放棄して干渉強化に乗り出したのである。これは、近代的な支配隷属関係にもとづく権力の再構成であり、宗属関係の変質を意味していた。 一方、富国強兵・殖産興業をスローガンに近代化を進める日本は、工業製品の販路として、また増え続ける国内人口を養う食糧供給基地として朝鮮半島を重視し、そのためには朝鮮が清国から政治的・経済的に独立していることが国益にかなっていた。 ==軍乱の発生== ===俸給米不正支給から暴動へ=== 日朝修好条規の締結により開国に踏み切った朝鮮政府は、開国5年目の1881年5月、大幅な軍政改革に着手した。閔妃一族が開化派の中心となって日本と同様の近代的な軍隊の創設を目指した。近代化に対しては一日の長がある日本から軍事顧問として堀本禮造陸軍工兵少尉を招き、その指導の下、旧軍とは別に新式装備をそなえる新編成の「別技軍」を組織して西洋式の訓練をおこなったり、青年を日本へ留学させたりと開化政策を推進した。別技軍には、日本が献納した新式小銃はじめ武器・弾薬は最新式のものが支給され、その隊員も両班の子弟が中心でさまざまな点で優遇されていた。別技軍は、各軍営から80名の志願兵を選抜し、王直属の親衛隊である武衙営に所属させた。 これに対し、旧軍と呼ばれた従来からの軍卒二千数百名は、旧式の火縄銃があたえられているのみで、大半は小部隊に分けられ各州に配備されていた。彼らはなんら新しい装備も訓練も与えられることなく、別技軍とは待遇が異なり、また、しばしば差別的に扱われることに不満をつのらせていた。さらに、5営あった軍営が統廃合により2営(武衛営・壮禦営)となり、その多くがいずれは退役を余儀なくされていた。それに加えて、当時朝鮮では財政難のため、当時は米で支払われていた軍隊への給料(俸給米)の支給が1年も遅れていた。1882年の夏は、朝鮮半島が大旱魃に見舞われ、穀物は不足し、政府の財源は枯渇していた。 1882年7月19日、ようやく13か月ぶりに武衛・壮禦の両営兵士に支払われることになった俸給米はひと月分にすぎなかった。しかし、支給に当たった宣恵庁の庫直(倉庫係)が嵩増しした残りを着服しようとしたため、砂や糠、腐敗米などが混ざっていた。これに激怒した旧軍兵士は倉庫係を襲ってこれに暴行を加え、倉庫に監禁し、庁舎に投石した。ところが、この知らせを受けた担当官僚(宣恵庁堂上)であった閔謙鎬は首謀の兵士たちを捕縛して投獄し、いずれ死刑に処することを決定した。これに憤慨した各駐屯地の軍兵たちが救命運動に立ち上がったが、運動はしだいに過激化し、政権に不満をいだく貧民や浮浪者をも巻き込んでの大暴動へと発展していった。民衆もまた、開港後の穀物価格の急騰に不満をつのらせていたのである。かくして、7月23日(朝鮮暦6月9日)、壬午軍乱が勃発した。これは、反乱に乗じて閔妃などの政敵を一掃し、政権を再び奪取しようとする前政権担当者で守旧派筆頭の興宣大院君の教唆煽動によるものであった。反乱を起こした兵士等の不満の矛先は日本人にも向けられ、途中からは別技軍も暴動に加わった。 7月23日、兵士らは閔謙鎬邸を襲撃したのち、投獄中の兵士と衛正斥邪派の人びとを解放し、首都の治安維持に責任を負う京畿観察使の陣営と日本公使館を襲撃した。このとき、別技軍の軍事教官であった堀本少尉が殺害されている。翌7月24日、軍兵は下層民を加えて勢力を増し、官庁、閔妃一族の邸宅などを襲撃し、前領議政(総理大臣)の李最応も邸宅で殺害された。さらに暴徒は王宮(昌徳宮)にも乱入し、軍乱のきっかけをつくった閔謙鎬、前宣恵庁堂上の金輔鉉、閔台鎬、閔昌植ら閔氏系の高級官僚数名を惨殺した。このとき、閔妃は夫の高宗を置き去りにして王宮から脱出し、その日のうちに忠州方面へ逃亡した。王宮に難を逃れていた閔妃の甥で別技軍の教練所長だった閔泳翊は重傷を負った。 軍兵たちは23日夕刻までに王宮を占拠し、国王からの要請という形式を踏んで大院君を王宮に迎え、彼を再び政権の座につけた。 当時の様子を、朝鮮滞在のロシア帝国の官僚ダデシュカリアニは、以下のように書き記している。 朝鮮は一瞬のうちに、凄まじい殺戮の舞台と化した。父親たちが子供たちに武器を向けたのである。ソウルでは8日間、無差別の流血が止まらなかった。当初は叛徒らが勝利を収めた。進歩派、ならびに当時ソウルに在住した外国人の双方を同時に敵としなくて済むように、彼らは先ず後者に襲いかかった。…(後略) 暴徒は漢城在住の日本人語学生、巡査らも殺害した。 ===軍乱による日本人犠牲者=== 殺害された日本人のうち公使館員等で朝鮮人兇徒によって殺害された以下の日本人男性は、軍人であると否とにかかわらず、戦没者に準じて靖国神社に合祀されている。合祀された人びとの氏名・年齢等は以下の通りである。 ===堀本禮造 === 陸軍工兵少尉(戦死により陸軍工兵中尉に昇進される)。 ===水島義=== 日本公使館雇員 ===鈴木金太郎=== 31歳。日本公使館雇員(事由 戦死:明治15年11月2日靖国神社合祀) ===飯塚玉吉=== 27歳。日本公使館雇員(事由 戦死:明治15年11月2日靖国神社合祀) ===廣戸昌克=== 33歳。一等巡査(事由 戦死:明治15年11月2日靖国神社合祀) ===本田親友=== 22歳。三等巡査(事由 戦死:明治15年11月2日靖国神社合祀) ===宮 鋼太郎=== 18歳。外務省二等巡査(事由 弁理公使花房義質を護衛中 戦死:明治15年11月2日靖国神社合祀) ===川上堅鞘=== 27歳。外務省二等巡査(事由 戦死:明治15年11月2日靖国神社合祀) ===池田為義=== 28歳。外務省二等巡査(事由 戦死:明治15年11月2日靖国神社合祀) ===遠矢庄八朗=== 外務省二等巡査(事由 戦死:明治15年11月2日靖国神社合祀) ===近藤道堅=== 22歳。私費語学生(事由 袈裟かけに2箇所重傷を負い自刃す 戦死:明治15年11月1日靖国神社合祀) ===黒澤盛信=== 28歳。私費語学生(戦死:明治15年11月2日靖国神社合祀 :扶助料千五百圓を賜う) ===池田平之進=== 21歳。陸軍語学生徒(戦死:明治15年11月2日靖国神社合祀) ===岡内格=== 23歳。陸軍語学生徒(戦死:明治15年11月6日靖国神社合祀)靖国神社遊就館では、事変で殉職した英霊の顕彰が行われており、壬午事変時に日本公使館に掲げられていた日章旗が併せて展示されている。 ===日本公使館員の脱出=== 漢城の日本公使館駐留武官だった水野大尉の報告などによると、暴徒に包囲された公使館員たちの脱出行は以下のとおりである。 朝鮮政府から旧軍反乱の連絡を受けた日本公使館は乱から逃れてくる在留日本人に保護を与えながら、自衛を呼びかける朝鮮政府に対して公使館の護衛を強く要請した。しかし混乱する朝鮮政府に公使館を護衛する余裕はなく、暴徒の襲撃を受けた日本公使館はやむを得ず自ら応戦することになった。蜂起当日はなんとか自衛でしのいだ公使館員一行だったが、暴徒による放火によって避難を余儀なくされた。朝鮮政府が護衛の兵を差し向けてくる気配はなく、また公使館を囲む暴徒も数を増しつつあったので、弁理公使の花房義質は公使館の放棄を決断。避難先を京畿観察使営と定め、花房公使以下28名は夜間に公使館を脱出した。 負傷者を出しながらも無事に京畿観察使の陣営に至ることに成功したが、陣営内はすでに暴徒によって占領されており、京畿観察使金輔鉉はすでに殺害されていた。公使館一行は次いで王宮へ向かおうとするが南大門は固く閉じられていて開かなかった。王宮の守備隊長は彼らに退去を命じたという。 花房らはついに漢城脱出を決意し、漢江を渡って仁川府に保護を求めた。仁川府使は快く彼らを保護したが、夜半過ぎに公使一行の休憩所が襲撃され、一行のうち5名が殺害された。襲撃した暴徒の中には仁川府の兵士も混ざっており、公使一行は仁川府を脱出、暴徒の追撃を受け多数の死傷者を出しながら済物浦から小舟(漁船)で脱出した。その後、海上を漂流しているところをイギリスの測量船フライングフィッシュ号に保護され、7月29日、長崎へと帰還することができた。 ===閔妃の脱出=== 王宮に乱入した暴徒は誰もがみな、閔妃は大院君の指図によって毒殺されたものと思っていた。しかし、実際には閔妃は暴徒乱入の報に接するやすぐに用意をととのえ、それに対応していた。一人の侍女が閔妃のいる部屋で毒薬を飲んで自殺し、みずからは隠密裏に自室を脱出したのである。下僕の一人が彼女を背にして怒り狂う暴徒の群れのなかをかき分け、途中、会う人ごとに詰問されたが、下僕は必ず「自分はとるに足らない下っ端であるが、この騒動から自分の妹を連れ出すところだ」と応答してこの災難をくぐりぬけた。閔妃はこうして漢城市内の私邸に到着、そこから駕籠で忠州(忠清北道)付近の僻村へと逃亡、同地に隠れ住んだ。なお、このとき閔妃を運んだ駕籠かきの一人が、水運びを生業とする貧しい庶民の出身で、のちに政治家として活躍する李容翊である。 ===大院君政権の復活=== 9年ぶりに政権の座についた興宣大院君は、復古的な政策を一挙に推進した(第2次大院君政権)。統理機務衙門を廃し、3軍府の復活を復活して旧来の5軍営にもどしたほか、両営・別技軍を廃止した。そして、閔氏とその係累を政権から追放する一方、閔氏政権によって流罪に処せられていた衛正斥邪派の人びとを赦免し、また監獄にあった者の身柄を解放して、みずからの腹心を要職に就けた。 ==日清両国の対応== 日清両国はそれぞれ以下に詳述するように軍艦・兵士を派遣して軍乱に対応した。アメリカ合衆国もまた軍艦を派遣した。 ===日本側の対応=== 長崎に帰着した花房公使はただちに外務卿井上馨に事件発生を伝えた。政府はさしあたって事実経過の調査、謝罪・賠償要求のため花房公使を全権委員に任命し、居留民保護のため軍艦を派遣することとし、井上外務卿が山口県下関へ出向いて指揮をとることとした。 一方、日本国内では朝鮮に対する即時報復説が台頭した。国内各地から義勇兵志願者が殺到し、朝鮮におもむいて暴虐きわまりない「野蛮人ども」と戦うことを許可するよう強く求めた。また、国民一般による署名嘆願運動には日本人のみならず外国人商人も少なからず参加した。 日本政府は、花房公使に朝鮮政府との交渉を命じ、 1.朝鮮政府の公式謝罪2.被害者遺族への扶助料支給3.犯人および責任者の処罰4.損害賠償5.朝鮮軍による公使館警備6.朝鮮政府に重大責任あるばあいは巨済島または鬱陵島の割譲7.朝鮮政府が誠意を示さないばあいは仁川を占領し後命を待つことなどを訓令し、軍艦と兵士を率いさせて朝鮮に派遣した。 やがて訓令には 8.咸興、大邱、および漢城近郊楊花津(現、ソウル特別市麻浦区)の開市9.外交使節の内地旅行権10.通商条約上の権益拡大が付け加えられた。また、先遣隊として軍艦2隻と輸送船1隻を派遣し、近藤真鍬書記官らと陸軍兵300名を輸送させた。 8月5日、駐日清国公使は日本政府に対し清国政府による派兵をともなう調停を伝えたが、外務卿代理の吉田清成は、再三、「自主ノ邦」たる朝鮮と日本の問題は条約にもとづいて解決すべきものとして介入を謝絶した。それに対し、清国側は朝鮮は清の属国であるから介入は当然と主張した。 8月13日、公使花房全権は工部省の汽船「明治丸」で済物浦に入港した。先遣隊に後続を加えると、軍艦4隻、輸送船3隻、陸軍歩兵1個大隊の千数百名が仁川周辺に集結していた。陸軍の指揮官は高島鞆之助陸軍少将、海軍を率いたのは仁礼景範海軍少将であった。 8月16日、仁川府に着いた花房公使は2個中隊を率いて軍乱で破壊されたままの漢城に入京し、昌徳宮に進路をとって王宮内で高宗に謁見、さらに大院君と会見した。このとき、日本政府の要求7項目を記した冊子を領議政の洪純穆に手渡した。朝鮮政府が即答を避けたため、回答期限を3日後としたが、日本の賠償金要求50万円は当時の朝鮮政府にはきわめて高額で工面が困難だったこともあって、領議政の急務を理由に回答の延期を通告してきた。これは、大院君が日本の要求を突き返すよう政府に命じたともいわれている。 8月23日、花房全権は朝鮮側の約束違反を難詰したうえで護衛兵を率いて漢城を出発、仁川に引き上げて、そこで軍備をととのえた。翌8月24日には仁川において馬建忠と会見している(詳細後述)。 ===清国側の対応=== 清国政府が軍乱発生の報を最初に受けたのは、8月1日、東京在住の清国公使黎庶昌からの電報によってであった。李鴻章は生母死去の服喪中だったため、北洋大臣代理職にあった張樹声が、天津に滞在していた朝鮮官僚金允植と魚允中に事件の経緯を伝え、両名に意見を尋ねた。金と魚は閔氏政権の開化派官僚であった。ふたりは、事件が国王高宗の開国政策に反対する守旧派勢力のクーデターであると推断したうえで、日本軍と反乱軍が衝突する怖れがあるとし、また、日本がこの機会に朝鮮進出をはかるだろうと訴えて、張に清国の派兵と日朝間の調停を要請した。 張樹声はただちに北洋水師提督の丁汝昌に出動準備を命じ、上海滞在中の馬建忠を外交交渉役として呼び寄せた。8月7日、清国皇帝光緒帝によって「派兵して保護すべし」の命令が下った。これは、藩属国たる朝鮮の保護のみならず、朝鮮で被害を受けた日本をも保護せよというものであった。 丁汝昌の率いる北洋艦隊の軍艦3隻(「威遠」「超勇」「揚威」)は、馬建忠と魚允中を乗せて山東省芝罘(現、煙台市)を出港、8月10日には済物浦に入港した。仁川入りした馬建忠は情報収集にあたるとともに日朝両国の要人と非公式に接触し、清国政府に対しては兵員の増派を上申した。これにより、8月20日、広東総督の呉長慶が3,000名の兵を率い、3隻の軍艦に護衛されて済物浦の南方約40キロメートルの馬山浦(京畿道の南陽湾沿岸に所在。慶尚南道の馬山とは異なる)に到着した。 馬建忠は漢城へ向かい、清国軍もその後から漢城に進駐して日本軍を圧倒する兵力を配置した。8月24日には朝鮮との戦争も辞せずの構えをとっていた仁川の花房全権公使をおとずれて意見交換をおこない、翌8月25日の再度の会見では花房から朝鮮全権との再協議に応ずるという確約を引き出した。日本が清国の調停を受けたのは、それを拒否すれば清国軍との衝突も覚悟しなければならなかったためと考えられる。また、このとき、ふたりの間で大院君排除の問題が話されたかどうかは不明であるが、開国政策を妨害する大院君を政権から取り除くべきという一点において、日清両国は共通の立場に立ちえたものと考えられる。 8月26日、漢城へ戻った馬建忠は丁汝昌・呉長慶と協議し、日朝再協議の実現のためには大院君を排除するしかないとの結論に達した。彼らはその旨を、魚允中を通して高宗に伝えた。 ==軍乱の収束== ===大院君拉致事件=== 軍乱発生から約1か月経った1882年8月26日(朝鮮暦7月13日)、反乱鎮圧と日本公使護衛を名目に派遣された漢城駐留の清国軍によって大院君拉致事件が起こった。大院君の排斥と国王の復権という基本方針は張樹声の指示によるものと考えられるが、大院君の軟禁は馬建忠・丁汝昌・呉長慶の3名によって計画されたものであった。朝鮮王宮はじめ漢城の城門は清国兵によって固められ、清国軍はおびき出された大院君を捕捉して南陽湾から河北省天津へと連行した。連行理由は、清国皇帝が冊封した朝鮮国王をしりぞけて政権をみずから奪取するのは国王を裏切り、皇帝を蔑ろにする所行であるというものである。 清国軍はまた、漢城府東部の往十里、南部の梨泰院を攻撃して反乱に参加した兵士や住民を殺傷した。こうして、政権は国王高宗と忠州から戻った閔妃の一族に帰し、事変は終息した。 ===日朝の再協議と済物浦条約=== 8月26日の大院君拉致事件ののち、高宗・閔氏の政権が復活し、済物浦の花房義質全権公使のもとへ朝鮮政府から謝罪文が送られた。これは清国の馬建忠の斡旋によるものであった。花房はこれを受け入れ、日本軍艦金剛艦上での交渉再開を約束した。しかし、高宗・閔氏の政権は外交的には馬建忠に依存せざるをえなかった。8月28日夜、朝鮮全権大臣李裕元、副官金宏集らは済物浦に停泊中の金剛をおとずれ、交渉をはじめた。交渉は、この日と翌日(29日)にかけて集中的におこなわれ、1882年8月30日(朝鮮暦7月17日)、6款より成る済物浦条約を調印した。このような短時間で交渉が成立したのは馬建忠が日朝双方に事前に根回しをしていたからである。一方、この交渉の結果、日朝修好条規(1876年締結)の追加条項としての同条規続約が調印された。 軍乱を起こした犯人・責任者の処罰、日本人官吏被害者の慰霊、被害遺族・負傷者への見舞金支給、朝鮮政府による公式謝罪、日本外交官の内地旅行権などについては、日本側原案がほぼ承認された。開港場遊歩地域の拡大(内地旅行権および内地通商権)に関しては、朝鮮側の希望を若干容れて修正された。朝鮮側が最も反対していた50万円の賠償金と公使館警備のために朝鮮に軍隊一個大隊を駐留させる権利については、花房公使の強硬な姿勢により、文言の修正と但し書きの挿入程度にとどまり、基本的に日本側の要求が容認された。全体的にみれば、日本側の要求がほぼ受け入れられた内容となった。 済物浦条約の締結に際して清国は、その文章について特に深く介入したわけではなかった。むしろ、大院君を朝鮮王宮から連れ去ったことによって日本側に優位な交渉条件を準備したともいえる。このとき清国は、ベトナムをめぐってフランスとの緊張が強いられていたので、日本と徹底して事を構えるつもりはなかった。日本もまた、外務卿井上馨の基本方針は対清協調、対朝親和というものであり、在野の知識人もまた日清朝の三国提携論が優勢であった。花房公使は調印後の9月2日、井上外務卿あてに「大満足にまで条約を締結せり」と報告の電報を打電した。 なお、済物浦条約は批准を必要としなかったが、日朝修好条規続約の方は批准を要し、この年の10月30日、明治天皇によって批准がなされている。 ===開国・開化方針の確認=== 1882年9月13日、清の幼帝光緒帝は大院君の河北省拘留と呉長慶麾下の将兵3,000名の漢城駐留の命を下した。清国が軍事力を背景に宗主権の強化再編に乗り出したのである。清にすがって国内を統治しようとする閔氏政権の親清政策もこれを助けたが、従来の宗属関係は藩属国の内治外交には干渉しない建前だったので、これは両国を近代的な宗属関係に変質させる意味合いをもっていた。 9月14日(朝鮮暦8月5日)、高宗は教書を下し、開国・開化を国是とすること、「東道西器」すなわち道徳は東洋の伝統を保持し「邪教」(キリスト教)を排斥するものの西洋の「器」(技術、軍事、制度)は学ぶべきことを明示し、国内の斥洋碑の撤去を命じた。ただ、開化の方向性は明確になったものの、河北省天津訪問中の趙寧夏・金宏集が改革案『善後六策』を李鴻章に示して、その意見を求めるなど、この開化策は清国に大きく依存したものとなった。 ===中朝商民水陸貿易章程の締結=== 1882年10月4日(朝鮮暦9月12日)、清国と朝鮮は天津において中朝商民水陸貿易章程を締結した。清国側は北洋大臣李鴻章のほか周馥と馬建忠が、朝鮮側は兵曹判書の趙寧夏と金宏集、魚允中がこれに署名した。この章程は両国間で締結された近代的形式を踏んだ条約としては最初のものであった。しかし、その内容は清の朝鮮に対する宗主権を明確にしたものであり、清による属国支配を実質化するものであった。 中朝商民水陸貿易章程は、両国が対等な立場で結んだ条約ではなく、清国皇帝が臣下である朝鮮国王に下賜する法令であるとされ、その前文において旧来の朝貢関係が不変であることを再確認し、この貿易章程が中国の属邦を特に「優待」するものであり、それぞれの国が等しく潤うものではないとされた。言い換えれば、これは宗属関係に由来する独自の規定であり、他の諸外国は最恵国待遇をもってしても、この貿易章程上の利益にあずかることができないとされたのである。清国は属国朝鮮に「恩恵」を施す存在であると明記されたが、清にのみ領事裁判権が与えられ、原告が中国人で被告が朝鮮人の場合には審理に清国商務委員がくわわることができるという不平等条項を含んでいた。また、第一条では清国の北洋大臣が朝鮮国王と同格であることが明確に規定された。 貿易章程では、朝鮮人が北京で倉庫業・運送業・問屋業を店舗営業できる代わりに、清国人は漢城や楊花津で同様の店舗経営ができるものとした。さらに、朝鮮内地で物資を仕入れ購入する権利もあたえられた。これらは諸外国が朝鮮とむすんだ通商条約にはない規定であり、したがって貿易章程における「属邦優待」とは、清国が朝鮮貿易上の特権を排他的に独占し、清国の内治通商支配を基礎づけるものであった。なお、のちに清国は1884年2月、同章程第4条を改訂して朝鮮の内地通商権をさらに広げている。 貿易章程の結ばれた1882年10月、天津滞在中の趙寧夏は軍乱後の政策について李鴻章の指導を仰ぎ、朝鮮政府が外交顧問として招聘すべき人材の推薦を依頼した。李鴻章が推薦したのはドイツ人のパウル・ゲオルク・フォン・メレンドルフ(穆麟*3938*、元天津・上海副領事)と馬建忠の兄馬建常(元神戸・大阪領事)であった。2人はこの年の12月に帰国した趙寧夏とともに漢城入りし、12月27日、高宗に謁見した。 また、朝鮮政府より軍隊養成と軍制改革を依頼された呉長慶は、当時頭角をあらわしつつあった若干23歳の野心家袁世凱に命じてこれを担当させた。朝鮮に派遣された袁は朝鮮の軍事権を掌握し、1年半後には彼のもとで養成された2,000名の新式陸軍が誕生した。 こうして経済面のみならず、軍事・外交の面でも清国は朝鮮への介入を強め、近代的な支配隷属関係への質的移行を示すようになった。 ===反乱軍の処罰=== 1882年10月、「大逆不道罪」によって、鄭顕徳・趙妥夏・許焜・張順吉らの官吏、また、白楽寛・金長孫・鄭義吉・姜命俊・洪千石・柳朴葛・許民同・尹尚龍・鄭双吉らの儒学者は凌遅刑により処刑され、遺体は3日間晒された。また、その一族等も斬首刑に処せられた。 ==軍乱の影響== ===朝鮮=== 軍乱の結果、閔氏政権は清国への傾斜を強めて事大主義的な姿勢を鮮明にし、清国庇護のもとでの開化政策という路線が定まった。その結果、今まで攘夷主義と敵対してきた開化派が、清国重視のグループと日本との連携を強化しようとするグループに分裂した。朝鮮を開国に踏み切らせた日本であったが、中朝商民水陸貿易章程によって空洞化され、朝鮮政府に対する影響力はその分減退した。金宏集(金弘集)、金允植、魚允中らは清国主導の近代化を支持し、閔氏政権との連携を強めた。一方、済物浦条約の規定によって1882年10月に謝罪使として日本に派遣された朴泳孝特命全権大使、徐光範従事官、金玉均書記官らは、いずれも日本との結びつきを強めた。彼らは12月まで日本に滞在し、福沢諭吉ら多くの日本の知識人と交誼を結んで海外事情や新知識を獲得していった。また、大院君勢力の一掃によって、朝鮮で攘夷主義的な政策の復活は閉ざされたが、民衆レベルではむしろ東学の浸透など宗教性を帯びて深く根をおろしていった。 閔氏政権は清国の制度にならった政治改革をおこない、外交・通商を担当する統理交渉通商事務衙門と内政・軍務を担当する統理軍国事務衙門を設置した。また、朝鮮は清国軍3,000名、日本軍200名弱の首都駐留という新しい事態を引き受けざるを得なくなったが、日本軍の規律は秩序立ったものであったのに対し、清国軍は漢城各所でしばしば掠奪・暴行をはたらき、市民に被害が生じたと記されている。 壬午軍乱当時、忠州にかくまわれていた閔妃は軍乱収束後王宮にもどったが、その際ひとりの巫女をともなっていた。巫女は卑賎の出身であったが、閔妃の王宮帰還を予言するなどして閔妃の歓心を得て宮廷の賓客として遇されたものである。閔妃はこの巫女を厚く崇敬して毎日2回の祭祀を欠かさず、一族や高官にもこれを勧めたため、やがてこれにかかる費用は莫大なものとなった。また、各地の宗教者も集まって王宮を占拠するような状態となり、売官がまたもはびこって国内統治はいっそう混迷の度を深めた。 ===清国=== 清国は、親日派勢力を排除して朝鮮半島への干渉を強め、朝鮮に対する宗主国の権勢を取り戻して近代的な属国支配を強めた。従来、朝鮮の内政には関与しなったが、清国側とすれば台湾・琉球・朝鮮に対する日本の攻勢に対抗したものであり、日朝修好条規を空洞化させて朝鮮を勢力圏に取り込む姿勢を明らかにしたのである。李鴻章は北洋大臣として朝鮮国王と同格の存在となり、朝鮮の内政・外交は李鴻章とその現地での代理人たる袁世凱の掌握するところとなった。大院君は李鴻章による査問会ののち天津に幽閉され、高宗は査問会において「朝鮮国王李熙陳情表」を清国皇帝あてに提出して大院君赦免を陳情したが効なく、その幽閉は3年間続いた。 ===日本=== 日本では、軍乱を描いた多数の錦絵・小冊子が刊行され、同胞が暴徒によって殺害された衝撃はひろく国民にナショナリズムの反応を引き起こした。日朝修好条規によって朝鮮を開国させた日本であったが、この軍乱では清国の機敏な動きに後れをとり、清国に対し軍事的に劣位にあることが痛感されたため、以後、山県有朋らを中心に軍拡が強く唱えられることとなった。1882年は近代日本における軍備拡張の起点といわれており、この年の11月24日、明治天皇は宮中謁見所に地方長官を召集して軍備拡張と租税増徴の勅諭を述べた。以後、大蔵卿松方正義による緊縮財政・デフレ政策にもかかわらず、あえて増税が進められ、1883年は前年比軍事費を大幅に増加させた。増税については、政府は国民とくに民権派が動いて「騒然たる景況」となることを強く警戒したものの、民権派の大半は必ずしも軍拡に反対しなかった。 日清朝三国提携を模索する意見の多かった言論界でも変化がみられた。1882年12月7日『時事新報』社説「東洋の政略果して如何せん」において福沢諭吉は「我東洋の政略は支那人の為に害しられたり」と述べ、清国は日本が主導すべき朝鮮の「文明化」を妨害する正面敵として論及されるようになった。このような状況を打開すべく、福沢は金玉均ら独立党の勢力挽回に期待をかけたのである。 ===東アジア国際情勢=== 日朝間で結ばれた済物浦条約は、朝鮮をあくまでも属国として支配しようとする清国を牽制する意味合いもあり、朝鮮半島で対峙する日清両軍の軍事衝突をひとまず避けることはできたが、一方では朝鮮への影響力を確保したい日本と属国支配を強めたい清国との対立は、以後さまざまなかたちで継続し、やがて、甲申事変や日清戦争へとつながっていった。 =コスタリカの歴史= 本項目では、コスタリカの歴史(Historia de Costa Rica,History of Costa Rica)について述べる。 ==概要== 北米大陸と南米大陸を結ぶ中米地峡に位置するコスタリカは、紀元前12000年ごろから人類の足跡が確認できる。マヤ文明の影響を受けつつもコスタリカの石球など、独特の文化を形成していく。やがてコロンブスが1502年に同地をコスタリカと命名し、1570年代にスペインの支配下に組み込まれる。鉱物資源に乏しい土地であった同地は、農業を主とした発展を見せ、1821年、メキシコ帝国への併合という形をもって独立を果たし、その後中米連邦のひとつに数えられた。中米連邦が崩壊し1838年に単独国家として独立を果たす。1870年代以降はコーヒー産業が目覚しい発展を遂げ、同時にバナナ栽培も盛んとなった。20世紀に入ると国境問題やコーヒー価格の下落による大不況からくる内戦など、数々の問題を抱えつつも近代化が促進された。 1950年以降、中米諸国において、民主的生活を享受してきた唯一の国であり、「軍隊を持たない国」「非武装中立国」といった理想的な民主主義国家として見られる向きがあるが、歴史学者小澤卓也は、その一方的に神格化・美化された見方を否定している。 ==先史時代== 約4万年前、ユーラシア大陸からベーリング海を渡り、アメリカ大陸北西部に居住していた狩猟民族の集団は徐々に南下し、紀元前12000年から紀元前8000年にかけて、現在のコスタリカの地にたどり着いた。トゥリアルバでは、彼らが使用したとされるナイフやハンマーといった石器が発見されている。やがて紀元前8000年から紀元前4000年にかけて、植物の栽培を始めたことにより定着性が強まり、徐々に人口が増えていった。 地理的に北アメリカ大陸と南アメリカ大陸の接点となった同地は紀元前1000年頃までにユカイモやサツマイモ、トウモロコシなどを栽培する農耕民族へと移行を遂げ、テコマテと呼ばれる壷のような食料を貯蔵する土器などが使用された。 定住は技術の多様化をもたらし、800年頃までに首飾り、メタテ、オカリナといった芸術性を伴った土器の製造が確認されている。同時に人口の増加は群集社会から部族社会への社会的ネットワークの拡散を見せ、分業化、専門化と同時に人々の平等性が次第に薄まっていった。500年にはカシカスゴと呼ばれる頭領(カシケ)を頂点とした階級社会が誕生し、権力と富が特定の定住地へと集中した。彼らの部族社会は交易の基盤となり、パナマ、コロンビア、エクアドルなどの住人と交易を行っていたようである。 また、宗教的概念もこのころ誕生したとされ、コスタリカ南部ではコスタリカの石球などが盛んに造られた。これらの意味や用途は考古学者を悩ませ、ストーンヘンジやモアイ像に並ぶ巨石オーパーツとして今なお関心が集められている。 カシカスゴ制度はスペイン人に征服される1550年頃までの永きに渡って続いた。後期には階層の分化が進み、軍人や貴族、シャーマンといった特権階級と、奴隷階級に完全に分かれた。また、集落同士の衝突も頻繁に発生し、カシカスゴを統合しより強大な政治力と軍事力を持つ首長領(セニョリオ)も出現した。 16世紀初頭までに人口は約40万人を数え、ニカラグア国境近くのボート族、カリブ海沿岸低地のスエレ族、ポコシ族、タリアカ族、タラマンカ族、太平洋岸南部のケーポ族、コート族、ボルカ族、中央盆地のグアルコ族、ガラビト族など、地域ごとに多数のカシカスゴ及びセニョリオが存在していた。部族間は基本的な共通語としてウエタル語を解したが、地方によって文化的差異や宗教的差異が顕著に見られ、太平洋岸北部では首狩りや食人の風習も見られた。 現代のコスタリカにおいてこうした先住民の人口割合は全体の2%程度に留まっており、1977年に成立した先住民法を基に土地や居住環境の保障がなされている。 ==スペイン植民地時代== 1502年9月18日、クリストファー・コロンブスがリモン湾付近に上陸し、ヨーロッパ人としてはじめてこの地に渡来した。 コスタリカにおける教育ではスペイン人渡来時には先住民は既に未知の病にかかり、存在していなかったとされていたが、前述のとおり、実際には約40万人の先住民族が生活を営んでいた。しかしその人数は1569年には12万人に、1611年には1万人へと激減している。これは、スペイン人との征服戦争の打撃に加え、彼らが運んできた天然痘、インフルエンザ、チフス、百日咳といった免疫のない新しいウイルスの猛威によるものと考えられている。 1519年に始まったスペイン人による中米地峡征服は、コスタリカにおいては1522年のヒル・ゴンザレス・ダビラによるニコヤ地方の探検を最初とした。1524年にはフランシスコ・エルナンデス・デ・コルドバによってビリャ・ブルセラスが建設され、スペイン人にとってのコスタリカにおける最初の定住地となったが、先住民の攻撃により、1527年に消滅している。しかし、ビリャ・ブルセラスの建設は、先住民が奴隷として輸出されるなど、太平洋側北西部のカシカスゴの急速な崩壊を招いた。 他方、カリブ海側では1534年フェリペ・グティエレス、1539年エルナン・サンチェス=デ=バダホス、1540年ロドリゴ=デ・コントレラス、1543年ディエゴ・グティエレスなど複数の征服者との激しい武力衝突が繰り返され、スペイン人は1535年にビリャ・デ・ラ・コンセプシオンを、1540年にバダホス、マルベリャなどを建設し、先住民の抵抗沈静化を試みたが、いずれも失敗に終わり、1544年最後の征服者ディエゴ・グティエレスの死を以って、しばらくの間、放棄されることとなった。1560年、ファン=デ=エストラダ・ラバゴがニカラグアのグラナダを離れ、ボガス・デル・トーロに到達、カスティリョ・デ・アウストを建設するなど、17世紀ごろまで散発的に征服と定住化が試みられたが、同じような結末を辿った。 中央盆地方面においても、征服は容易ではなかった。1561年にフアン=デ・カバリョンによる最初の内陸部の探検が行われた。カスティリョ・デ・ガルシムニョスやロスレイェス、ランデチョなどの町を建設したが、先住民の抵抗激しく、非常に危険な情勢であった。その後、フランシスコ・バスケス・デ・コロナドによるカシケの懐柔政策が奏功し、中央盆地の詳細な探検と調査が可能となった。先住民グループとの同盟を締結する過程で、コロナドは植民地時代のコスタリカの首都となるカルタゴの建設を行った。それでも局所的な騒乱は頻発し、1568年にはカルタゴ放棄寸前まで陥ったが、救援物資を運び込んだペラファン=デ・リベラにより制圧された。こうして、16世紀には中央盆地におけるスペイン人による支配が確立した。なおも激しく抵抗する一部先住民(インディオ・ブラボ)は、カリブ海沿岸のジャングル、サンカルロス平原、タラマンカ山地など、スペイン人の支配が行き届かない辺境地へと逃亡した。 1570年以降、交易は多様化が進み、工業品の輸入と引き換えに、トウモロコシ、蜂蜜、豆類、塩、小麦粉、ニンニクなどの食料をはじめ、陶器、毛布、ハンモックといった工芸品や、真珠、インディゴ、綿糸、アガベ、ラードなど様々な物資が輸出された。1601年には「王の道」と呼ばれるカルタゴとニカラグアを結ぶラバを用いた陸上ルートが拓かれた。また、多くの港を保有し、カリブ海側ではスエレ港、モイン港、マティナ港、太平洋岸ではカルデラ港、アバンガレス港、アルバラド港などが栄えた。 1650年になり、カカオが輸出市場を席巻し、植民地経済はさらに活性化した。1709年には通貨銀の不足から一定量のカカオを1ペソとするカカオ・ペソという珍しい通貨単位が登場していることからもそのブームが伺える。しかし、これらのブームは長くは続かず、カラカス、マラカイボ、グアヤキルといった優良なカカオ産地との生産競争に敗れ、次第に衰退していった。また、労働力として使用できる先住民の人口も目に見えて激減し、スペイン人たちは供給源の確保のために、インディオ・ブラボが支配する地域(カリブ海および太平洋岸南部、北部平地)に興味を持ち始めるようになった。征服活動は1611年ごろから1709年ごろまで続けられたが、思うような戦果が上がらず、次第に労働力の供給は現地ではなく、黒人奴隷の輸入という形態が取られるようになった。こうした経緯から、コスタリカにおける黒人奴隷は非常に高価な労働力であったため、かなり注意深く使用された。奴隷たちは自らの自由を買う権利がしばしば与えられ、1648年から1824年までの間に430名の奴隷が自由を与えられている。しかし、カカオブームの衰退にあわせてこうした奴隷制度も衰退していった。現代のコスタリカは他の中米諸国と異なり、白人とメスティソが人口構成の97%を占めるが、上述のように奴隷制度文化があまり浸透しなかったことがその要因のひとつとして挙げられる。 18世紀にはいり、首都カルタゴ近辺では人口密度の増加から、農地の確保が難しくなった。このため、住民は中央盆地の西側を開拓し、矢継ぎ早に新しい町が生まれた。1706年にエレディアが、1736年にはサンホセが、1782年にはアラフエラが建設された。これらの町を支配したのは、工芸品生産で財産を築いた者たちであった。彼らは政治、教会、軍事の主要な役職を独占し、貨幣の流通を支配した。潤沢な資金で農業地を買いあさり、貧しい農民に収穫物と引き換えに貸し与えることで、貧富の差は格段に広がっていった。こうしてコスタリカで生産された物資は主にニカラグアやパナマへ輸出された。 また、このころ誕生したスペイン・ブルボン朝は、王室税収入の増大を掲げ、コスタリカにおけるタバコとアルコールの販売を独占化した。これを背景にコスタリカ内部ではタバコとサトウキビの栽培が一時的に盛んになり、トラピチェなどの工業製品の需要も増加した。内陸部での生産業の活性化は首都カルタゴにも刺激を与え、カルタゴからエレディアやサンホセなどの町に仕事を求めて人が集まった。1800年にはコスタリカ人口5万のうち、実に80%が中央盆地に集中した。 ==中央アメリカの独立== 1812年、ナポレオン・ボナパルトのスペイン独立戦争を契機としてカディス憲法が制定された。この憲法の制定により、アメリカ大陸の至る場所にカビルドが誕生した。コスタリカにおいても同様で、各地に誕生したカビルドにより地域の独自性が強化されることとなった。また、1822年のメキシコ独立はコスタリカ住民に少なからぬ衝撃を与え、植民地からの解放が叫ばれるようになった。 このとき、コスタリカはひとつの国家というよりも、カルタゴ、エレディア、サンホセ、アラフエラという4つの都市の集まりであったと言える。これらの都市はそれぞれのカビルドで独自に新しい世界情勢に対応するための対策が検討された。カルタゴとエレディアはメキシコ帝国との合併を提唱し、サンホセとアラフエラは独立共和国の設立を叫んだ。 この対立は1823年4月5日オチョモゴの会戦へと発展した。コスタリカにおける最初の内戦はサンホセがカルタゴを下し、サンホセが新しい首都となった。 一方、メキシコ帝国は1823年に崩壊を喫し、中米連邦として新しいスタートがきられた。コスタリカもこれに参加し、グアテマラ市の議会へ代表を送るなどしたが、フランシスコ・モラサン率いるエルサルバドルの自由主義者とラファエル・カレーラ率いるグアテマラの保守主義者の対立紛争が興り、議会は混沌とし、コスタリカにとっては有意なものとは言えなかった。やがて1835年に発生した同盟戦争により、サンホセがカルタゴ、エレディア、アラフエラを撃破すると、その地位は確固たるものとなり、資本主義農業の中心として発展を見ることとなった。1838年にホンジュラスが中米連邦から離脱すると、他の地域と同じくして、コスタリカもそれに続き、コスタリカ共和国として独立を果たした。中米連邦は1841年のエルサルバドルの離脱を以って、完全に瓦解した。 コスタリカを含む中米諸国が統合、連合政府樹立への動きを見せたにも関わらずそのことごとくが瓦解し、細分化・分離していった理由のひとつとして中米地峡の地理的な問題が指摘されている。例えば、グアテマラの総督府からコスタリカの首都カルタゴまでは距離にして1400kmであるが、道路事情が悪く、乾季にしか通行ができない上、急勾配の山岳地帯を通過する必要があるなど、連合政府としてその行政権の影響が行き届かなかった。こうした地理事情が各地方の独特の社会形成を育み、小国家群が誕生した要因となった。 中米地峡での政治不安のさなか、ブラウリオ・カリーリョがコスタリカを統治し始め、最初の独裁政権が誕生した。目的なく旅をすることを禁じるなど、独裁色の強い政治を行った。また、1779年よりサンボ・モスキート族へ支払っていた資金を1841年に停止した。その後、1842年4月にフランシスコ・モラサンが軍隊を率いてカルデラに上陸、カリーリョは国外逃亡せざるを得ない状況となった。暫定大統領となったモラサンはコスタリカを新たな中米統合運動の政治拠点にしようと画策したが、同年9月、サンホセ市民による武力蜂起によって計画は失敗に終わった。モラサンは捕らえられ、現サンホセ中央公園に位置する場所で銃殺処刑された。その後1844年には直接選挙制を盛り込んだ新憲法が制定され、資産200ペソ以上を持つ人に市民権が与えられた。しかし、この制度は失敗に終わり、1847年には間接選挙制に戻されている。 中米連邦を離れて以降、政治勢力間の争いに端を発する内戦に見舞われたが、他の中米諸国と違い、長期に渡り経済が停滞するようなことは無かった。これは中米連邦結成時に散発的に起こった都市間の武力抗争により、軍部が強固な力を持つことが出来なかったことが大きな要因であるとされている。 このころのコスタリカの経済基盤を根底で支えたものに、コーヒーがあった。17世紀ごろよりサンホセとその周辺で局所的にはじまったこの「黄金の豆」の栽培は、1830年ごろよりイギリスのコーヒーブームを受けて、劇的な拡張を遂げた。1850年に入ると産地はカルタゴ、エレディア、アラフエラへと広がり、さらに奥地のサンラモンまで拡大した。コーヒーの輸出で得られた富により、新しい技術や流行の商品がコスタリカ国内を賑わせた。 1854年、内戦の只中にあったニカラグアのひとつの勢力が、アメリカの傭兵ウィリアム・ウォーカーを雇用した。ウォーカーはニカラグアに到着するやニカラグア南部を占領した。当時のコスタリカ大統領フアン=ラファエル・モーラはこの事態を受け、中米諸国の政府と国民、及び反ウォーカーだったイギリス、アメリカ合衆国のコーネリアス・ヴァンダービルトなどの支援を受け、ウォーカー撃退に乗り出した。 1856年3月、グアナカステ地方のサンタロサの戦いで勝利を飾ったコスタリカ軍は続けざまに4月11日、リバスにてウォーカーの主力部隊を撃破、12月末にはサンファン川を支配、1857年5月1日、アメリカ人侵略者はついに降伏した。しかしこの戦争の影響により、軍隊によって持ち込まれたコレラが一般市民を襲い、人口の約10%を失うこととなった。労働力不足と、戦争の莫大な経費によってコスタリカは経済不況に陥り、回復に約3年を要した。 このウォーカーとの一連の戦いは国民戦争と呼ばれ、コスタリカ人が若い国を守るために莫大な対価を支払った戦争として歴史にその名が刻まれている。しかし、そんなモーラも1859年のクーデターで国外へと追放されるなど、政治情勢は不安定であった。1840年から70年にかけて、コーヒー産業の派閥対立などを背景とした、軍事力による権力者の追放と交代が断続的に行われた。 1870年、トマス・グアルディア=グティエレス将軍が政権を握ると、政治に変化が見られ始めた。近代国家と近代社会の創造という明確な目標と革命計画を携え、その自由主義的な改革は1890年ごろまで続いた。新しい民法と刑法が制定され、出生や死亡、婚姻を国が管理し始め、教会の影響を排除した国が管理する義務教育制度を策定した。 これらの努力により国民の識字率は驚異的に上昇するなど、生活水準は大幅に引き上げられた。しかし一方で、闘鶏の非合法化や、安価な薬品の使用禁止、義務教育化による児童労働の禁止といった、より厳しくなった管理行政に国民は少なからず不満を持っていた。 グアルディアの意思を次ぐベルナルド・ソトは、1889年の大統領選挙において、カトリック教会の支援を受けたホセ=ホアキン・ロドリゲスに敗れた。しかし、ホセの得票は不正選挙であるとし、政権の維持を図ろうとしたことが市民の逆鱗に触れ、1889年11月7日、聖職者に煽られた農民や職人が武装蜂起し、首都を包囲した。ソトはホセを大統領に認める旨の声明を出し、内戦は回避された。 この1889年11月7日は、本当の意味でコスタリカ民主主義の原点であるとして伝えられる。以降、コスタリカの政治は公正な選挙による民主主義へと動き始めた。 ==闘争と民主主義== コスタリカはその地理的要因から、対外交易のほぼ全てが、太平洋側の港を経由して行われていた。1870年、グアルディアはこの現状を打破しようと、イギリスの金融会社と340万ポンドという莫大な借款契約を結び、大西洋鉄道の敷設を立案した。しかし、技術的な問題に加え、政治腐敗や資金不足によりこの計画は頓挫し、借金のみが残された。この負債を補うため、1871年、パナマ地峡よりバナナが導入されることとなる。 1884年、プロスペロはイギリスと負債の交渉を行い、鉄道の完成を引き受けたアメリカの企業家マイナー・キースと契約を結んだ。キースは1899年にボストンにユナイテッド・フルーツを設立すると、カリブ海全域のバナナ産業を独占した。 1890年までに鉄道敷設のための労働者が、国内外よりかき集められた。彼らの半数は鉄道敷設の労働が終わった後もコスタリカに残り、バナナ産業の労働者や、船舶への積み込み労働者となった。彼らはたびたび激しいストライキを決行し、1920年ごろまで、労働運動が盛んに行われた。こうした民衆の動きに呼応して、当時の大統領リカルド・ヒメネスは1913年、直接投票権を承認し、有権者に対する政治の責任をより明確にした。 19世紀終わりごろより国家はインフラを含む公共設備の投資に力をいれ、教育、保険、年金、公衆衛生といった設備が急速に揃いつつあった。1927年には公衆衛生省が、翌28年には労働省が設置された。インフラの充実は大衆文化の発展に寄与し、1920年には大衆スポーツとしてサッカーが登場した。また、ラジオは1930年ごろまでに一般庶民へ普及し、小さな箱から流れる音楽を楽しんだ。1930年には、アルマンド・セスペデスによる初の国産映画『帰還』が上映された。一方で酒場やビリヤード場では非合法化されていなかったアヘンやマリファナなどが売買されるなど、無法者の巣窟となった。 一見景気のよさそうな市場は、コーヒーとバナナというモノカルチャー経済の富に依存して出来上がっていたもので、非常に脆弱であった。1927年に起こった、コーヒーとバナナの値崩れや、1929年の世界恐慌は、こうしたコスタリカの経済に深刻なダメージを与えることとなった。 ==政治不安と経済不況== 1929年の世界恐慌から1932年ごろにかけて、コスタリカの総輸出額は1800万ドルから800万ドルへと落ち込んだ。この影響で関税収入が激減し、国家は深刻な赤字財政に襲われた。大量の失業者を生み出し、1933年にはサンホセで暴動に発展したことなどを受け、政府は経済への介入をさらに強めた。1933年にコーヒー保護協会を設立し、1935年に農業労働者の最低賃金が定められた。さらに1936年には銀行改革を行い、紙幣の供給に対してより強い権限を持った。また、失業者救済のために公共建設事業費が3倍に増加し、当時の大統領レオン・コルテスは「セメントと鉄の政府」と揶揄された。 復興の兆しを見せ始めた1939年、第二次世界大戦の勃発により、ヨーロッパ市場が閉鎖され、再び不況の波がコスタリカを襲った。こうした事情から、買取価格の安いアメリカと貿易を行う他無く、国家の歳入は激減した。1940年、社会民主主義からラファエル=アンヘル・カルデロン=グアルディア政権が誕生し、野心的な社会改革計画が進められた。同年にコスタリカ大学を創立、1941年には社会保障制度が確立、1943年には生活保護が規定され、労働法が制定され、福祉国家の基礎が築かれた。 こうしたグアルディア政権の行った社会改革は富裕層の反発を招き、社会的緊張をもたらした。1944年の選挙において、国民共和党から立候補したテオドロ・ピカードは、反カルデロン派から選挙に不正があったと断定され、国民の持つ政治制度への不信感が増大した。これに伴い、テロリストらによる爆破事件が頻発するようになり、改革の続行が困難になった。1946年、反カルデロン派にありながらコルテス派のリーダーとして平和的交渉による対立の解消を目指していたレオン・コルテスが死亡すると、強硬派が勢い付き、コスタリカ日報の編集者オティリオ・ウラテを指名し、1948年の選挙が開始された。この選挙は2期目を狙うグルディアとウラテの一騎討ちとなり、大統領選でウラテが勝利、国会議員選でグルディアが勝利した。この結果、カルデロン派や共産党支持派がウラテの大統領選に不正があったと糾弾、カルデロン派で占める議会において、先の大統領選挙の結果を公式に無効とした。 カルデロン派とグアルディア派はこの選挙問題に対しての妥協点を模索していたが、1948年3月12日、農業実業家ホセ・フィゲーレス・フェレールは、民主主義的な国民選挙を守るという口実で反乱を起こした。4月19日まで続いたこの武力闘争は、4000人以上の死者を出すコスタリカ史上最悪の内戦となった。カリブ外人部隊を用いたフィゲーレスの国民解放軍は強靭で、太刀打ちができないままグアルディア政権は降伏した。フィゲーレスはグアルディア支持者数千人を国外へ追放し、共産党を非合法化すると、1948年5月1日、暫定政権の主導者として名乗りを上げた。 フィゲーレスは、銀行の国有化、資本利得に対する特別税の徴収を行い、あらゆる支配的権力の排除に乗り出した。翌年、1949年憲法が施行されると、親米を基調とし、政治を混乱させる装置にしかならない軍隊は廃止され、それまで軍隊の担っていた役割は警察に移管された。また、女性や黒人の政治参加も認められた。この軍隊廃止により、コスタリカは以降他のラテンアメリカ諸国で繰り広げられたような軍事クーデターは起こらなくなった。選挙舞台の浄化を一通り終えたフィゲーレスはウラテが大統領に就任することを認め、1951年、国民問題研究センターの知識人や支援企業などをまとめあげ、国民解放党を組織した。 1948年12月には旧政府軍がアナスタシオ・ソモサ・ガルシアに支援された傭兵軍と共にニカラグアからコスタリカに侵攻するも失敗に終わった。1949年8月には暫定政権の公安大臣であったエドゥガル・ガルドナがクーデターを企てたが、失敗に終わった。1955年1月には、元コスタリカ大統領だったムチャイスキの息子、ピカード2世が再びソモサに支援された傭兵軍と共にニカラグアからコスタリカに侵攻してきた。陸空およそ1,000人程のピカド2世軍は幾つかの都市を攻略したものの、コスタリカ武装警察の反撃と、OASの仲介により同年2月に停戦し、侵攻軍は武装解除した。 このようにして国難を乗り越えると、1949年憲法による政治の安定が国家の成長を助け、1950年から1973年までにおいて、第二次世界大戦後の世界経済の成長に歩調を合わせる形で、コスタリカでは人口80万人から200万人まで増加するという人口爆発が起こった。経済面においても、バナナの年間輸出量が350万箱から1800万箱に増え、コーヒーの販売価格が100kgあたり9ドルから68ドルへ跳ね上がるなどし、得られた利益を国家システムの改善や技術改良のための開発費へ回すことができるようになった。こうしたインフラの整備は経済の多様化を促し、1963年に中米共同市場に加盟してからは外資系企業がコスタリカ市場へ次々と参戦し、多様化した経済がそれぞれの分野で急激に成長し、コスタリカ中流階級市民の繁栄と安定に寄与した。人々は家電製品を容易に入手できるようになり、1960年にはコスタリカ人による初のテレビ番組が放映された。また、国立自治大学、コスタリカ科学技術研究所、国立遠隔地大学などが新設され、高い技術力や専門性を持つ科学者を輩出した。 一方で国内に利潤をもたらさない外資系工業により、工業輸入額と工業輸出額の乖離が年々増大し、1950年に50万コロンであった財政赤字は1970年には9000万コロンに肥大化した。また、オイルショックの影響により、関税や売上税などの間接税に依存していた国家収入は政府の負債を増加させ、公的対外債務は1978年までに10億ドルを超え、1980年にコスタリカ経済は完全に崩壊した。 さらに、1978年にサンディニスタ民族解放戦線が全面蜂起するとソモサ王朝を嫌っていたコスタリカ人は、これを全面的に支援し、ニカラグア革命を支えた。その後サンディニスタ内での路線対立によりFSLNの司令官だったエデン・パストラが亡命すると、パストラを司令官にしてコントラの一派民主革命同盟(ARDE)が組織され、コスタリカはアメリカ合衆国による対ニカラグア作戦の基地となり、中立原則も一時揺らいだ。この影響で中米地域に対する通商が壊滅的な打撃を受け、IMFによる国家事業の民営化などの勧告が実施された。これに対しロドリゴ・カラソ大統領は1981年9月、一切の対外債務の支払い停止を宣言し、IMFとの交渉をすべて打ち切り、関係者の国外追放を断行した。この政策でコスタリカはアメリカへの依存をさらに強め、1982年、国民解放党から大統領に就任したアルベルト・モンヘは、アメリカのロナルド・レーガン大統領に対し、サンディニスタ政権との代理戦争を引き受ける明確な見返りを要求した。レーガンはUSAIDをコスタリカに派遣し、13億ドルの資金を譲渡し、下部組織としてコスタリカ開発構想連合(CINDE)を組織し、経済モデルの改変に取り組んだ。 ==近現代== 経済モデルの変化と外国からの資金投下により、コスタリカ経済は安定を見せ始めたが、これの是非を巡り、国民解放党内に派閥が生まれ、1982年、キリスト教社会連合党(PUSC)が創設され、二大政党の時代が始まった。経済安定化のために資金援助を行ったアメリカ合衆国は、共産主義の脅威に対抗するため、コスタリカにあらゆる協力を要請した。コスタリカの治安警察部隊を掌握し、軍事訓練を行い、国内のメディアには反サンディニスタのプロパガンダを実施させ、都合の良い世論を形成し、軍国主義化を強く求めた。これらのアメリカの要求に対し、モンヘは出来得る限りの内容を受け入れたが、ただ一点、国内の米軍基地建設にのみ反対の意向を示した。この意向を対外的にも明確にするため、モンヘは1983年11月、コスタリカの中立を宣言した。 1986年、国民解放党のオスカル・アリアス・サンチェスが、大統領選挙に勝利する。アメリカの対ニカラグア強硬政策に追随することを良しとせず、平和政策を選択したアリアス政権は中米地峡5カ国の代表者によって調印された和平案の仲介役を引き受け、中米紛争そのものの解決に尽力し、中米地域の経済的安定を主導した。この活動に対して1987年にはノーベル平和賞が授与された。やがて1990年、サンディニスタが選挙で破れるとアメリカは中米地域に対する関心を失い、経済援助額を減少、1996年にはUSAIDも活動を停止した。 1990年には初のPUSC政権としてグアルディアの息子であるラファエル・アンヘル・カルデロン・フルニエルが大統領に就任した。フルニエルは悪化する財政赤字に対応するため、売上税の増税、国家予算の削減、給与の支払い凍結、国営鉄道の休業などの圧政を行った。PUSC政権に対する国民の不満は高まり、1994年の大統領選挙によって、中道左派の野党国民解放党(PLN)から、ホセ・フィゲーレス・フェレールの息子ホセ・マリア・フィゲーレスが大統領に就任したが、民衆への圧力はさらに強まり、抗議を行うための大規模な市民運動がいくつも組織された。 1998年2月の大統領選挙によって、PUSCのミゲル・アンヘル・ロドリゲスが大統領に就任したが、ロドリゲスはメキシコの実業家カルロス・ハンク・ゴンサレスからの不正献金を受け取っていたことが、1999年にスキャンダルとなった。2001年の9.11テロ後は、アメリカのアフガニスタン攻撃を支持した。 2002年の大統領選挙によって、PUSCからアペル・パチェーコが大統領に就任した。アフガニスタン攻撃に続いて2003年のイラク戦争も支持したが、こちらは護民官や市民団体の提訴を受けて翌2004年12月に最高裁が大統領決定を違憲判定、支持は撤回される。また、同年カルデロンとロドリゲスの二人の元大統領が汚職によって逮捕された。2006年からは再任したアリアス大統領が大統領を務めた。 2010年2月7日、大統領選挙が実施され、国民解放党のラウラ・チンチジャ元副大統領が当選し、初の女性大統領となった。アリアス現政権の政策を継続し、米国との自由貿易協定(FTA)を拡大させる方針である =条約改正= 条約改正(じょうやくかいせい、英語: Treaty Revision)とは、江戸時代末期の安政年間から明治初年にかけて日本と欧米諸国との間で結ばれた不平等条約を対等なものに改正すること。また、そのためにおこなった明治政府の外交交渉の経過とその成果をさす。 ==条約システムの形成とアジア== 西ヨーロッパ諸国は、18世紀から19世紀にかけて西欧内の主権国家間の政治的・経済的な摩擦や対立を回避するため、互いに外交使節を派遣し、国家主権の独立や主権対等などを原則とする友好通商条約を結び、アメリカ合衆国の独立後はそれを新大陸にも押しひろげた。19世紀に入って、西欧各国が社会的状況や文化・伝統の異なるトルコ帝国やペルシア、中国、シャム、日本などアジアの国々との接触を深めると、武力を背景にしてこれらの国々に強制的に「開国」を認めさせ、みずからの条約システムに編入していった。 その場合、その国に住む欧米人が犯罪を犯したとき条約相手国の国法に服さずともよいこととし、外交官ではあっても本来は裁判官ではない領事や領事館職員が本国の法によって裁判することを可とした。また、相互に貿易される商品の関税を当該国が自由に決定する権利を認めず、すべて外交交渉の結果むすばれた協定によることとし、さらに、西欧のある国が当該国との条約で得た権利は、自動的に他の欧米の国にも適用されてその恩恵が均霑されるという規定(片務的最恵国待遇)が設けられることが多く、これらの点でいずれも不平等な性格をもつものであった(不平等条約)。 なお、以上のうち、関税に関しては強者による弱者の収奪以外の何物でもなかったが、領事裁判権については、少なくとも先進国側の論理からすれば彼我の風俗・習慣の違い、法律・刑罰・裁判の内容やそれらに対する考え方・姿勢の相違、また、監獄内の生活環境や治安状態の低劣さなどから居留民を保護するために必要と主張されるものであった。 ==不平等条約の締結== 江戸幕府が安政5年(1858年)にアメリカ合衆国、ロシア、オランダ、イギリス、フランスと結んだ通商条約(安政五カ国条約)は、 外国に領事裁判権を認め、外国人犯罪に日本の法律や裁判が適用されないこと(治外法権)。日本に関税自主権(輸入品にかかる関税を自由にきめる権限)がなく、外国との協定税率にしばられていること。無条件かつ片務的な最恵国待遇条款を承認したこと。などの諸点で日本側に不利な不平等条約であった。2.については、特に慶応2年(1866年)、列強が弱体化した幕府に圧力をかけて結ばせた改税約書の調印以降は、それまでの従価税から従量税方式に改められ、関税率5パーセントの低率に固定された状態となったため、安価な外国商品が大量に日本市場に流入して貿易不均衡を生んだ。 1878年(明治11年)、駐英公使の上野景範がイギリス政府に指摘したところによれば、日本の関税は一律5パーセントであるのに対し、「自由貿易の旗手」を自任し、欧米諸国のなかで最も関税が低く抑えられているはずのイギリスでさえ、その対日輸入関税率は、無税品を含めても平均10パーセントを超えていた。その結果、日本の歳入に占める関税収入はわずか4パーセントにとどまったのに対し、イギリスのそれは26パーセントにおよんだ。また、明治時代の法学者で政治家でもある小野梓の推計によれば、各国の歳入の中心にしめる関税額の比率は、イギリス22.1パーセント、アメリカ53,7パーセント、ドイツ55.5パーセントであるのに対し、日本は3.1パーセントにすぎなかった。さらに、明治・大正期に政治家・ジャーナリストとして活躍した島田三郎によれば、日本は一律5パーセントの関税を外国なみの11パーセントに引き上げることができれば、醤油税(年120万円の国家歳入)、車税(同64万円)、菓子税(同62万円)、売薬税(同45万円)など、主として農民がその大部分を負担した重い間接税を全廃できたという。 日本は、国内在住の欧米人に対して主権がおよばず、外国人居留地制度が設けられ、自国産業を充分に保護することもできず、また関税収入によって国庫を潤すこともできなかった。輸入品は低関税で日本に流入するのに対し、日本品の輸出は開港場に居留する外国商人の手によっておこなわれ、外国商人は日本の法律の外にありながら日本の貿易を左右することができたのであり、そのうえ、こうした不平等な条項を撤廃するためには一国との交渉だけではなく、最恵国待遇を承認した他の国々すべての同意を必要としたのであった。 財政難の政府は輸出品にも関税をかけたので、国内産業の発展にも大きなブレーキがかかった。日本は、関税自主権を有しないところから生じる損失を、のちに朝鮮(日清戦争後は清国も)との不平等条約の締結やダンピング輸出で回収しようとした。 外国人居留地は、安政条約で開港場とされた5港(箱館、横浜、長崎、新潟、神戸)および開市場となった2市(江戸の築地、大坂の川口)に設けられ、幕府(のち政府)当局と外国の公使・領事の協議によって地域選定や拡張がなされ、日本側の負担で整地し、道路・水道などの公共財を整備することとなっていた。居留地では、領事裁判権が認められ、外国人を日本の国内法で裁くことができず、また、日本人が居留地に入るには幕府(政府)の官吏でも通行印が必要であった。その一方、外国人も行動範囲が「遊歩規定」によって制限されており、一般の外国人が日本国内を自由に旅行することは禁止され、外国人が遊歩区域(居留地外で外国人が自由に行動できた区域)のさらに外に出るには、学問研究目的や療養目的に限られ、その場合も内地旅行免状が必要であった。居留地の外国人が居留地外で商取引をすることは禁じられていたが、その国の領事等を通じて日本当局から土地を借り受け、一定の借地料(地税)を支払うこととなっていた。この借地権は永代借地権と称し、永久の権利とされ、他者に売買したり譲渡することが可能であった。 不平等条約の締結は、金の流出やインフレーションによる経済の混乱を引き起こすこととなり(幕末の通貨問題)、尊皇攘夷運動の激化とそれにつづく討幕運動を招いたが、実際のところ幕末期にあって問題視されたのは不平等性そのものというよりは、むしろ日米修好通商条約をはじめとする五カ国条約が朝廷の許しを得ない無勅許条約だった点にあった(これは江戸幕府はその成立期に禁中並公家諸法度により朝廷を統制し政治権力を剥奪しており、単独で条約を締結しても問題がなかったにもかかわらず、幕末に至って幕府の権威が揺らいでいたことから条約締結の正当性を担保するため、朝廷の承認を求めたところ、案に相違して朝廷から拒否されたこと、その事実を反幕府勢力に利用され、喧伝されたことに端を発する)。 慶応3年(1867年)の大政奉還と王政復古の大号令によって江戸幕府が倒れ、薩摩藩・長州藩など西南雄藩の下級武士や倒幕派公家などを中心に明治新政府が成立した(明治維新)。慶応4年1月15日(1868年2月8日)、列国公使に「王政復古」と「開国和親」を伝えた新政府は、幕府から外交権を引き継ぎ、詔勅をもって「これまで幕府が諸外国と取り結んだ条約のなかには弊害の無視できないものもあるので改正したい」旨の声明を発した。戊辰戦争のさなかの3月14日、新政府は明治天皇が神々に誓うかたちで五箇条の誓文を明らかにし、公議輿論の尊重と開国和親の方針を宣言した。 戊辰戦争が新政府優勢の戦況で推移し、日本の正統な政権であることがしだいに諸外国に認められるようになると、新政府は、明治元年12月23日(1869年2月4日)に諸外国に対し、旧幕府の結んだ条約は勅許を得ずに締結したものであることを改めて指摘し、将来的な条約改正の必要性について通知した。 いっぽう、明治2年正月に北ドイツ連邦とむすんだ条約では、安政条約にない沿岸貿易の特権を新たにドイツにあたえ、同2年9月14日(1869年10月18日)、オーストリア・ハンガリー帝国を相手に結んだ日墺修好通商航海条約では、それまで各国との条約で日本があたえた利益・特権をすべて詳細かつ明確に規定し、従来解釈揺れのあった条項はすべて列強側に有利に解釈し直された。この条約では、領事裁判権について、従来の条約以上に日本側に不利な内容が規定に盛りこまれたが、これらは、いずれも五カ国条約中の片務的最恵国待遇の規定によって他の欧米列強にも自動的に適用された。以来、不平等条約の集大成ともいえる日墺修好通商航海条約が条約問題交渉の際の標準条約とされた。これは、条約改正の観点からみればむしろ日本側の後退を意味していた。 ==条約改正の経緯== 条約改正の概略をまとめると下表のようになる。 以下、主として外交担当者ごとに節を設け、それぞれの条約改正交渉の中身や経緯、その結果について詳述する。 ===岩倉遣外使節団=== 明治4年7月(1871年9月)、日本側全権伊達宗城、清国側全権李鴻章の間に結ばれた日清修好条規は対等条約であったが、制限的な領事裁判権を相互に認める規定などを含み日清両国がそれぞれ欧米列強と結んだ不平等条約を互いに承認しあう性格にとどまっていた。 政府は明治4年11月(1871年12月)、右大臣岩倉具視を全権大使、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文、山口尚芳を副使とする遣外使節団を米欧に派遣し、相手国の元首に国書を捧呈して聘問(訪問)の礼を修めさせ、海外文明の情況を視察させた。安政の諸条約は明治5年5月26日(1872年7月1日)が協議改定期限となっており、使節団は、その条約改正に関する予備交渉と欧米の文物・諸制度の視察とを目的としていた。 当初、大使一行の渡米の目的は、ユリシーズ・グラントアメリカ合衆国大統領に謁見し、アメリカ国務省でハミルトン・フィッシュ国務長官と会見して、万国公法(国際法)にもとづく国内法が日本で整備されるまで条約改正交渉開始の延期を要望し、その意向を打診することにあった。当時の日本はまだ廃藩置県を終えたばかりであり、国内体制が十分に整わないうちに改正交渉に臨めば結果的に従前より不利な方向での改訂が進められる可能性も考えられたためであった。また、予備交渉の機会をむしろ活用して、将来の条約改正を念頭におき、政府首脳が外国の諸法制・諸機構についての知見を深めるねらいもあった。ところが、チャールズ・デロング駐日アメリカ公使と駐米日本代表の森有礼代理公使は、合衆国に来てから勢いづいている副使の伊藤博文に対して、条約改正の本交渉に入ることを進言、伊藤もその旨を大使岩倉具視に提案した。デロングは、西部出身の弁護士で、アメリカの中央政界に打って出る機会をうかがっており、駐日英国公使のハリー・パークスとは対日外交上のライバル関係にあった。開化論者であった森は26歳ながら、その率直で積極的な性格によりフィッシュ国務長官にかわいがられ、その知遇もあってワシントンの有力者からの評判もよかったが、外交経験には乏しかった。伊藤は、米国滞在中、ユタ州ソルトレイクシティにおいて条約改正交渉についての意見書をまとめて大使・副使に示して意思統一を図るなど、意欲的であった。 伊藤の提案を聞いた岩倉、大久保利通、木戸孝允らは、本交渉をすすめれば案外うまくいくかもしれないと考えた。もしかしたら、合衆国においては改正調印まで一挙に持ち込めるのではないかと期待したのである。サンフランシスコからワシントンまでの合衆国のいたる所で、朝野にわたって大歓迎を受けて、いささか甘い見通しに傾いた使節団は、フィッシュ国務長官に本交渉の開始を申し出た。しかし、フィッシュは交渉に入るには明治天皇からの委任状がどうしても必要であると答え、使節団一行は、全権大使であることを強調しても頑然と委任状の必要性を訴えたので、大久保と伊藤はやむなく委任状を発行してもらうため急遽東京に立ち戻った。2人は渋る留守政府にかけあい委任状を求めたが、体面上ようやく発行された委任状には使用不可の条件がつけられた。一方、アメリカに残留した岩倉と木戸に対しては、駐日ドイツ公使のマックス・フォン・ブラントと駐日イギリス代理公使のフランシス・アダムズが片務的最恵国待遇の規定などを持ち出して日米単独交渉を論難した。さらに、英国留学中の尾崎三良は、わざわざアメリカに赴いて岩倉や木戸に条約改正の危険性について意見具申をおこなっている。アメリカとの交渉でも内地雑居や日本の輸出税撤廃を求められた。こうしてアメリカとの本交渉は中止となり、使節団が以後訪れたヨーロッパ諸国との間でも具体的交渉はなされなかった。ただし、一行がイギリスに滞在しているとき、このころ条約改正に一定の進展がみられたといわれるオスマン帝国に対しては一等書記官福地源一郎を派遣し、同国の裁判制度などを研究させており、これには僧侶島地黙雷が同行した。 岩倉一行は欧米近代国家の政治や産業の発展状況を視察したのち明治6年(1873年)9月に帰国した。帰国後の会議では、留守政府の首脳であった西郷隆盛や板垣退助らが朝鮮の開国問題解決のためには武力行使もあえて辞さないという強硬論(征韓論)を唱えたのに対し、海外事情を実見した大久保や木戸らは内治優先論を唱えて反対、征韓論は否決された。そのため、西郷・板垣・江藤新平・副島種臣ら征韓派の参議がそろって辞職し、いっせいに下野している(明治六年政変)。 以上、岩倉使節団の交渉は不首尾に終わったものの、この前後には、明治政府は旧幕府がアメリカに与えた江戸・横浜間の鉄道敷設権、プロイセン(北ドイツ連邦)に与えた北海道亀田郡七重村(現在の渡島総合振興局七飯町)約300万坪の99年間の租借権(ガルトネル開墾条約事件)、また、長崎県高島炭鉱の鉱山利権の回収には成功しており、1875年(明治8年)1月には英仏両国軍側から横浜駐屯軍撤退を申し出ている。 ===寺島宗則の交渉と吉田・エヴァーツ条約=== 1875年(明治8年)11月、外務卿の寺島宗則は、条約改正交渉開始を太政大臣であった三条実美に上申し、1876年(明治9年)には交渉を開始して外国からの輸入を減らすことを主目的として関税自主権回復を目指した。これは、大蔵省租税頭の松方正義による強い要望もあって、税権回復によって西南戦争後の財政難を解消する一方、殖産興業を推進し、国内産業の保護を通じて政府の歳入増加を図る見地から特に優先すべき課題とみられたからであった。同じころ地租改正反対一揆も各地で頻発しており、歳入に占める地租依存度を軽減することは、緊急の課題だったのである。一方の法権、すなわち領事裁判権の方は、各国がこれに応じることなく、逆にエジプトのムハンマド・アリー朝におけるような混合裁判制度を採用することを示唆したため、政府が同制度を調べた結果、改訂によって特に日本の利益となることはないとして、これを断念した。なお、この年、朝鮮とのあいだに日朝修好条規が結ばれているが、これは日本側に有利で朝鮮に不利な内容の不平等条約であった。 1876年以降、寺島外務卿は、アメリカ合衆国、イギリス、ロシア帝国の対日政策の歩調に乱れが生じた間隙を捉え、税権の回復ならば応じる用意があるというアメリカを相手に単独交渉した。この時期のアメリカは、欧州諸国の帝国主義外交とは一定の距離を置いており、東アジア・太平洋地域におけるヨーロッパ優位の情勢を牽制する意図もあって、英仏両国よりも日本に対し好意的であった。1873年(明治6年)に結ばれた日米郵便条約などは、日本にとっては欧米諸国と結んだ最初の対等条約であった。 改正事業を実効性あるものとするために、アメリカとばかりではなくヨーロッパ諸国との交渉も同時進行で進める必要を感じた寺島は、1878年(明治11年)2月9日、イギリス公使上野景範、フランス公使鮫島尚信、ドイツ公使青木周蔵、ロシア公使榎本武揚に交渉開始の訓令を発した。5月上旬、鮫島はワダントン(fr)フランス外務大臣と、上野はイギリス外相のソールズベリー侯と、青木はフォン・ビューロー(de)ドイツ外相と、榎本はロシア外務次官ギールスとそれぞれ交渉に入った。英・仏・独・露で条約改正交渉が開始されてまもなく、パリのブルボン宮殿で第2回万国郵便連合大会議が開催され、ヨーロッパの20数カ国が参加、日本も鮫島がサミュエル・ブライアン(駅逓局のお雇い外国人。アメリカ人)とともに会議に出席して6月1日に万国郵便連合条約に調印、連合にとってはアジアで初の連合加盟国となり、郵便主権を回復した。 一方アメリカとの交渉は実を結び、1878年(明治11年)7月、駐米公使の吉田清成とアメリカのエヴァーツ国務長官との間で税権回復を含む新条約(吉田・エヴァーツ条約)が成立した。これは、全10か条より成り、アメリカの領事裁判権を日本側が認めるかわりにアメリカは日本の関税自主権を認めるというもので、輸出税の廃止や日本沿海における日本の貿易権の独占なども盛られており、当時の日本としてはほぼ希望通りの内容であった。また、第7条では「互相の理」に基づき、新たに下関港を含む2港を開くことが定められていた。 同条約の成立が翌1879年(明治12年)7月に公表されると、ロシアとイタリアはこれに好意的な姿勢を示したものの、日本との貿易額が諸国中最も多いイギリスは、日本が保護貿易政策を企図しているとして自由貿易の立場からこれを非難し、また、イギリスの頭越しに日米間で秘密裡に改正交渉が進められていたことに不快感を表明して各国共同の連合談判形式の採用を迫った。駐日英国公使のハリー・パークスは、日本がイギリスにとって重要な製品輸出市場と考え、執拗に反対活動を展開した。 鮫島尚信は、ワダントン外務大臣との会談のなかで、近年ヨーロッパにおいては互いに関税税率を国家間で協定しあう通商条約が実施されており、フランスでさえも自由に税則を変更することができないと伝えられており、これを受けて、鮫島・上野・青木らは新協定税率にもとづく通商条約の締結を寺島外務卿に提案し、改正交渉の場をヨーロッパとすべきことを具申した。これは、パークスら日本駐在の外交官の動きを封じることができるうえに、フランスが必ずしもイギリスと同意見ではないとの手応えがあったためである。しかし、寺島は税権の完全回復にこだわり、東京での国別談判の方針を採用、これを押し切って交渉を進めたが難航した。結局、ドイツ・フランス・イタリアがイギリスに同調して、日本の関税自主権回復に反対し、また、法権の優先を求める国内世論の反対もあって条約改正交渉は挫折し、寺島は外務卿を辞職した。 吉田・エヴァーツ条約は、その第10条において、批准に及んでも他の国々がこの規定を認めなければ発効せず、他国も同様の条約を結ぶことが条件となっていたため、結局、効力を発しなかった。アメリカ以外の国も同様の条約を締結しなければ、アメリカ商品のみに高関税がかけられて競争力を失い、通商上著しい被害が予想されるため、アメリカとしてはやむを得ない措置であった。これが、二国間交渉による条約改正の難しさであり、その後も日本は二国間で交渉を進めるか、多国間交渉でいくかで揺れ動くこととなる。 これに前後して1877年(明治10年)、イギリス商人ジョン・ハートレーによる生アヘン密輸事件が発覚した。これは修好通商条約付属の貿易章程に違反していたが、翌1878年2月、横浜英国領事裁判所は生アヘンを薬用のためであると強弁するハートレーに対し無罪の判決を言い渡した(ハートレー事件)。また、1877年から78年にかけてコレラが流行し、当時はコレラ菌も未発見で特効薬もなかったところから、1878年8月、各国官吏・医師も含めて共同会議で検疫規則を作ったが、駐日英国公使ハリー・パークスは、日本在住イギリス人はこの規則に従う必要なしと主張、翌1879年(明治12年)初夏、コレラは再び清国から九州地方に伝わり、阪神地方など西日本で大流行したことに関連してヘスペリア号事件が起こっている。 ヘスペリア号事件(ドイツ船検疫拒否事件)とは、西日本でのコレラの大流行を受けて、1879年7月、当局がドイツ汽船ヘスペリア号に対し検疫停船仮規則によって検疫を要求したところ、ヘスペリア号はそれを無視して出航、砲艦ウルフの護衛のもと横浜入港を強行した事件である。その結果、横浜・東京はじめ関東地方でもコレラが流行し、コレラによる死者は1879年だけで10万人に達している。 一方、福沢諭吉・馬場辰猪・小野梓らによる民間の条約改正論がいっそう高まり、自由民権運動においても地租軽減などと並んで条約改正による国権回復が叫ばれた。福沢諭吉は、早くも1875年(明治8年)の段階で、『文明論之概略』において「自国の独立」を論じ、人民相互の同権とともに外交上の同権(不平等条約の改正)を論じており、馬場辰猪は1876年(明治9年)10月、英文でみずから著述した『条約改正論』をロンドンで出版している。 日本の知識人の多くがハートレー事件やヘスペリア号事件により、法権の回復がなければ国家の威信も保たれず、国民の安全や生命も守ることのできないことを知るようになった。実際問題として、領事裁判においては、一般の民事訴訟であっても日本側当事者が敗訴した場合、上訴はシャンハイやロンドンなど海外の上級裁判所に対しておこなわなければならず、一般国民にとって司法救済の道は閉ざされていたのも同然であった。開港以来の横浜居留地での生糸を中心とした貿易においても、外国人商人の商品代金踏み倒しなど不正な取引も頻発したが、治外法権によって護られていたこともあって、世論は、経済的不利益の主原因はむしろ治外法権にあると主張し、法権回復を要求しはじめた。 なお、民権運動興隆の状況を目にした参議山縣有朋が、1879年(明治12年)、民心安定のために国会開設が必要であるとの建議を提出したのを契機として、政府は参議全員に意見書の提出を求めたが、それに対し、伊藤博文は条約改正を視野に入れての立憲政体の導入が必要だとの意見書を提出した。国会開設の詔が出されたのは、明治十四年の政変後の1881年(明治14年)のことであった。 ===井上馨と鹿鳴館外交=== ====予議会の開催と鹿鳴館==== 寺島の後を受けて参議兼外務卿となった井上馨は、最難関のイギリス公使には上野景範に代えて省内きっての親英派で強硬派でもある森有礼を起用し、法権・税権の部分的回復を盛りこんだ改正案を作って、1879年(明治12年)9月19日、森駐英公使に基本方針を訓令した。同年11月には在欧各国の公使に対し、海関税則改正と開港場における外国人の不当な慣習(日本人を未開人扱いすることなど)の是正、日本の行政規則における軽微な罰則・制裁条項をもつ規則についての外国人への適用などを骨子とした条約改正方針を各国に通知するよう訓令を発した。 1880年(明治13年)3月の官制改革においては、参議と卿は分離されたが、井上外務卿のみは条約改正に携わる関係から、その例外とされた。なお、井上を補佐した最初の外務大輔(次官)は前駐露公使榎本武揚であり、外務少輔には上野景範が任じられ、榎本が海軍卿に転出すると上野が外務大輔に昇格した。また、1880年5月以降は横浜のアメリカ副領事であったヘンリー・デニソンが外務省顧問に採用された。 1880年6月、井上案の骨子を基に修好条約改正案および通商航海条約改正案が準備され、同年7月6日、条約改正会議を日本で開催することをアメリカ・清国を除く各国に通知した。この改正案の内容は駐日オランダ公使からリークされ、7月16日付ジャパン・ヘラルド紙に掲載された。翌1881年(明治14年)2月、井上は条約改正案を関係各国に回付した。当初の列国の態度は日本案は要求のみ多く、それに対する報酬は少ないとして、要求に対する対価や譲与を求める姿勢が強かった。 その後、森有礼駐英公使はイギリス側の対応を探り、双方で交渉の課題と進め方について協議したが、イギリスは関税規則改正に関わる交渉にのみ応じる方針であることが判明した。1881年7月23日、イギリス外相グランヴィル伯は森駐英公使に対し、日本提出の条約改正案による交渉に反対の意を表明、東京での予備会議開催を提案した。これに対し、ドイツは、法権回復の交渉にも応じる構えがあるとの意向を示し、イギリスの方針とは異なる感触を得たが、東京での予備会議開催に対してはイギリスと同意見であり、他の各国もこれに追随した。 井上は各国の要求を容れて、改正の基礎案を審議するための予備会議(条約改正予議会)を開くこととした。12月28日の御前会議での諒承を経て、予備会議は翌1882年(明治15年)1月25日に東京の外務省で第1回がひらかれ、フランス・ドイツ・イギリスなど8か国が参加した。この後、アメリカ合衆国・ベルギーなども加わり、同年7月27日まで計21回開催された。なお、この年の3月3日、伊藤博文は明治天皇に憲法調査のための渡欧を命じられ、同月14日にはヨーロッパに向け出発している。 井上改正案は、「取らんと欲せば、必ず酬うる所なかるべからず」という方針に立ち、日本が関税を引き揚げて税収増加を図ること、日本の行政規則を条件づきで外国人に及ぼすこと、12年後に対等条約の締結を提議する権利を有することなどの代わりに、外国人には土地所有権、営業権、内地雑居権を与えようというものであり、中には、宮城県の野蒜築港後に同港を開き、区域を設けて外国人の雑居を許すという案もあった。これについては、政府部内でも佐々木高行、大木喬任、山田顕義の参議3名が、日本人は失うもの多く、得るところは少ないとして強く反対し、政府上層部の意見が分裂した。そのため、井上は一時は辞任の意向を示すほどであったが、寺島前外務卿が慰留、岩倉具視や山縣有朋らが3参議を取りなして、結局、ひきつづき井上の方針が採用されることとなった。なお、小野梓は、1882年『外交を論ず』を著し、冒頭にトルコの例をひいて、列国共同会議を開くことは列国共同の圧力を受けることにほかならないとして、共同会議を開くべきではないと強く主張した。 井上の改正案は、諸外国からも法権・税権のいずれに対しても批判が相次いだ。これに対し、井上は日本は法典の整備に鋭意取り組んでおり、日本国内の裁判所に外国人判事を任用する用意があると回答、1883年(明治16年)4月5日の第9回予議会では日本の法律に服する外国人には内地開放(内地雑居)を行う旨宣言した。内地開放とは、内地旅行や内地通商に関する制限を撤廃することであり、外国人の土地所有や企業活動の自由を認めることであったが、これは法権の束縛された当時の日本にとって唯一最大の切り札であり、列国が明治初年から繰り返し主張してきたことでもあった。この宣言は、イギリスはじめ列国からは、意外の念を示されながらも歓迎された。6月1日の第13回予議会で井上は、新条約批准5年以内の暫定措置として、領事裁判を認めながらも、その裁判は外交官ではなく外国の法律の専門家によるものとし、また、法律は日本の国内法を適用するという案を提示した。 税率の改正に関しては、日本の要求が自由貿易の理念に反するとの批判をかわすべく、大蔵省で進めていた紙幣整理の償却費400万円の確保が目的であるとして、従来5パーセントであった税率を、奢侈品25パーセント、他の物品15パーセントに引き上げる案を示した。イギリスはこれに反対、増収総額300万円程度となる税率案を提示した。それに対し、ドイツは日本に対して好意的で、結果的には総額360万円の増収額となる税率に定められた。なお、新条約の施行期間としては、裁判については12年、税率については8年と定められた。以上、予備会議での交渉は、新条約の方針の協議に止まるものではあったが、井上の内地開放宣言が功を奏し、日本は一貫して協議の主導者たる立場に立つことができた。 条約改正交渉と並行して井上は、国内に欧化政策を推進するとともに、西欧風施設を建設して外国使節を歓待し、日本が文明国であることを広く内外に示す必要があると訴え、日比谷公園に隣接する麹町区山下町の地(現在の千代田区内幸町一丁目。NBF日比谷ビル)にネオ・ルネサンス様式の社交施設「鹿鳴館」の建設に取りかかった。イギリスの強硬姿勢の原因の一つには、駐日英国公使パークスの日本を遅れた非文明国とみる日本観が大きな影響を及ぼしていたが、そうした日本観は程度の差はあれ西洋諸国の外交官に共通するものであった。維新以来の開化派であった井上としては、条約改正交渉をスムーズに進捗させていくには、こうした日本のイメージを払拭する必要があると考えたのである。これはまた、来るべき内地開放の部分的な予行演習という意味合いを兼ねていた。 鹿鳴館はイギリス人建築家ジョサイア・コンドルによって設計され、工事は1880年(明治13年)に着手されて1883年(明治16年)11月に完成した。煉瓦造の2階建てで総建坪は466坪、2階正面が舞踏室となっており、完成には足かけ3年の歳月と18万円の工費を要した。11月28日の落成式では軍楽隊の吹奏や花火が打ち上げられる中、内外の高官や紳士淑女1,200人(うち外国人400人)が鹿鳴館に集まって、舞踏会が夜中まで繰り広げられた。井上馨はこの夜「この鹿鳴館を国内外の紳士がともに交わり、国境を越えた友情を結ぶ場にしたい」と演説した。また、井上を局長とする臨時建設局は鹿鳴館周辺に新官庁街を建設することを企図し、ドイツ人技術者のヴィルヘルム・ベックマンを招いて官庁集中計画を軸とした首都改造を立案した。 予備会議の成果や井上の内地開放案等について各国の意向を打診した結果、イギリスのパークス公使は、法権は後日検討することとして、関税自主権の付与には依然反対ではあるものの、今回は通商面や税権の面で日本に対し応分の譲歩の用意があるという意向を示した。また、ドイツは内地開放が関税自主権付与の前提になるという方針を表明した。 1884年(明治17年)3月、日本に対して強硬な姿勢の強かったパークスが駐清公使に転任し、その後任公使としてフランシス・プランケットが着任、前任者とは違って、柔軟な対応をする見込みがあらわれた。アメリカからも好意的な反応がみられ、各国も在留外国人が日本の行政法規に従うことについては諒承の態度がみられるようになった。 井上は列国の態度を勘案した上、1884年(明治17年)8月4日、条約改正基本方針を各国に通告し、条約改正会議(本会議)を開くよう提案した。しかし同年12月、朝鮮で金玉均らによるクーデタ(甲申政変)がおこって対清関係が緊迫し、イギリス海軍による朝鮮巨文島占領事件もあってその対応に追われたため、本会議の開催は1886年(明治19年)に延期された。 ===条約改正会議と世論の沸騰=== 1885年(明治18年)、日本では太政官制度が廃止され内閣制度が発足した。井上は第1次伊藤内閣の外務大臣に就任し、引き続き条約改正に取り組んだ。 1886年(明治19年)5月1日、条約改正会議が開かれ、井上外務大臣・青木周蔵外務次官のほか12か国の使節団が参加した。井上は関税引き上げと法権の一部回復を目的とした条約案を提出したが、この案にはイギリスが反対した。6月15日、第6回会議でイギリス・ドイツ両国公使が新提案を行い、日本側もこれを諒としたため、会議は英独案(アングロ・ジャーマン・プロジェクト)を基調に進められた。英独案の骨子は、領事裁判権を撤廃し、関税率を5パーセントから11パーセントに引き上げることを了承する代わりに、 条約実施後2年以内に日本は内地を開放し、外国人に居住権・営業権を与え、2年以後は内地居住外国人は日本裁判所の管轄に属すること。条約実施2年以内に日本は「泰西ノ主義ニ従ヒ」、すなわち西洋を範にとった刑法・民法・商法等法典の整備を行い、施行16ヶ月前にその英文を諸外国政府に通知すること。外国籍の判事・検事を任用すること。外国人が原告もしくは被告となった事件については、直接控訴院(第二審)に提訴することができる。その際、控訴院および大審院の判事は過半数を外国人とし、公用語として英語を認めること。を、日本側が受け容れるというものであった。 法典の整備や裁判制度の確立については、国内における合意形成や法律を運用する法曹の育成などに一定の時間を要することから、当面は、日本がその方向に向かっていることを諸外国に納得させて改正への合意を引き出すよりほかになかったのであり、この間、日本の方向性を納得させる説得材料として機能したのが鹿鳴館外交であり、欧化政策であった。井上の結論は、「条約改正には兵力によるか、西欧諸国に日本の開化を実感させて治外法権を撤廃してもよいという感情を抱かせるかのどちらかしかないが、兵力による方法が不可能である以上、欧化政策を進めるよりほかに道がない」というものであった。 欧米風の服装をして洋食・ダンスなど欧米風の夜会、バザーなどの社交を行い、羅馬字会が設置され、生活習慣の改良、音楽改良、美術改良、演劇改良運動が広がり、欧米のあらゆる風俗を模倣する風潮が一時上流社会に流行することとなり、極端な例ではキリスト教採用論や人種改良論さえ現れるほどであった。これは、日本人にはまったく新しい風俗・習慣をもたらすことともなったが、松方デフレの不況にあえぐ農村の日常生活とはあたかも別世界であり、その浮ついた雰囲気は国民の自尊心を傷つけ、むしろ社会の堕落・退廃として批判された。国内外の新聞は、鹿鳴館の夜会を「茶番劇」「猿真似」と書き立てて軽蔑・嘲笑し、鹿鳴館外交を「媚態外交」「軟弱外交」と呼んで批判した。当時平民主義(平民的欧化主義)を唱えていた徳富蘇峰も、井上馨の欧化主義を「貴族的欧化主義」と呼んで批判し、川上音二郎作詞の『オッペケペー節』にも「うわべのかざりは立派だが、政治の思想が欠乏だ」と唄われた。 条約改正会議は、1886年(明治19年)7月、関税率改正についてはほぼ日本の原案に近い案が合意をみた。内地開放を税率改正の条件とする主張に対しては、井上はそれを認めると法権回復交渉のカードを失うこととなるため拒否している。また、「泰西主義」に基づく法律制度整備のため、井上は「法律取調所」を外務省内に設置した。日本が制定する法律を各国に「通知」する件を巡っては、やや交渉が難航した。各国は「通知」の意味を、その内容が「泰西主義」に合致するかどうかを監査する権利を持つものと理解したが、それを認めると日本は法律制定に外国の介入を認めることとなってしまうので、井上は列国が「泰西主義」に合致しないと見なされた場合であっても条約無効の判断は外交上の協議を経ることを要件とする条件を付け加えることを提案し、各国もこれに合意した。 かくして条約改正会議は、新しい通商条約案と英独共同案に修正を施した修好条約案がほぼ合意をみることとなり、1887年(明治20年)4月22日の第26回会議で終了した。 しかし、議事内容が明らかになるにつれ、政府内外からの批判が噴出した。日本政府の法律顧問でフランス人のボアソナードが、この改正案は日本の法権独立を毀損するものであり、訴訟人の利害からしても、国庫負担からしても外国人法官の任用は弊害が大きく、従来外国人居留地に限られていた不利益をむしろ日本全国に及ぼすものであると批判し、また、鹿鳴館における政府首脳の放蕩を憂慮して「予は今日は贅沢の時に非ずと信ずるを以て、各大臣の宴会はすべて謝絶するなり」と宣言した。「政府の智嚢(知恵袋)」といわれた法制官僚の井上毅に対しては「この改正が実現すれば日本人は外国を怨むより、屈辱的裁判制度を作り出した政府を非難するようになるだろう」と進言して「足下は高官の地位にあり、本国のために未曾有の危機に際しては何らの尽力をなさざるか」と責め、伊藤首相に対しても、改正案は法典の外国政府への通知を規定しているが、これでは、立法権すら外国の束縛を受けてしまうことになると指摘した。 鳥尾小弥太、三浦梧楼、曽我祐準、勝海舟らも反対意見を表明した。国家主義者の小村壽太郎は当時外務省員でありながら、反対運動に加わった。閣内からも司法大臣山田顕義やヨーロッパから帰ったばかりの農商務大臣谷干城から強硬な反対意見があって、7月、谷はついに伊藤首相に改正反対の意見書と辞表を提出するにいたった。谷の意見書には、新条約案が現行条約以上に日本の国益を損なうこと、改正交渉が秘密裡に進められていること、内地雑居は時期尚早であること、条約改正は憲法施行後、公議輿論に照らして行うべきことが記されていた。同月、井上馨外相が内閣に提出した意見書では、日本の進路について、「欧州的新帝国」をアジアに作り出すことによって、西洋諸国と同等の地位に向上させ、独立と富強を維持、達成できると記されている。井上の考えは、ヨーロッパに倣うことはヨーロッパと並び立つためだったのである。 辞職した谷は、あたかも国民的英雄のように扱われ、8月1日には旧自由党員林包明ら在京の壮士たちに迎えられて「谷君名誉表彰運動会」が東京九段の靖国神社境内で開催された。ここでいう「運動会」とは、デモンストレーションのことである。参加者は数百名に及び、「谷君万歳」「国家の干城」などと書かれた大小の旗を持って市ヶ谷田町の谷邸まで示威行進した。 ボアソナードや谷干城らの意見書は自由民権派の手によって秘密出版されて国民の広く知るところとなった。その結果、折からのノルマントン号事件(1886年)で領事裁判権のもたらす弊害が問題視されていたこともあって世論が激昂、これを「国辱的な内容」と攻撃し、板垣退助も1万8000余語に及ぶ上奏意見書を提出した。 井上馨にしてみれば、この案が期限付条約案であることから、国民は国内法制の整備が完了するまでの期間だけ外国人判事による裁判を耐えれば済むということであったが、この時期の日本は自由民権の時代からすでにナショナリズムの時代に移っており、もはや世論は井上改正案を受け入れることができなくなっていた。 谷らの意見に対して井上は、日本人にしても、たとえば当時の朝鮮の法律や裁判に服することが可能なのかと問題提起して、西洋諸国の領事裁判権を完全に撤廃することがいかに困難を伴うものであるかを説いた。さらに、優勝劣敗を説く社会進化論の影響で日本社会が西洋人によって圧倒されてしまうことを危惧する内地雑居反対論者に対し、井上には日本の民間における潜在的力量に対する基本的な信頼感があったとみられ、条約改正問題で一歩前進することにより、日本社会は外国人の刺激によってさらに文明開化がさらに進み、外資増大などによって経済発展をもたらすことが期待できると主張した。 しかし、佐々木高行や元田永孚など宮中グループの動向や沸騰する国内世論に抗しきれず、条約改正交渉は延期されることとなり、1887年7月29日、政府は列国に対し改正会議の無期延期を通告、9月17日には井上馨が交渉失敗を理由に外交責任者の地位を辞し、そのあとは内閣総理大臣伊藤博文が外相を兼務した。 同年10月には土佐(高知県)の民権派片岡健吉が元老院に「三大事件建白」として提出した建白書に、言論の自由の確立、地租軽減による民心の安定とともに不平等条約の改正が盛られるなど反政府運動が高まりをみせた。政府は内務大臣山縣有朋と警視総監三島通庸の指揮のもと保安条例を発布して、治安妨害を理由に570名あまりを皇居三里外(皇居より約11.8キロメートル以遠)に3年間追放し、政情の安定と秩序回復を図った。それに対し、「むしろ法律の罪人となるも退いて亡国の民となる能わず」と主張し、保安条例に抵抗して投獄された人びともいた。 ===大隈重信の改正交渉とその蹉跌=== ====条約改正交渉の進展==== 伊藤博文は条約改正交渉を進展させるため、自らの後任の外相として、外交手腕に定評のある大隈重信を選んだ。井上馨と伊藤は、民権派の大同団結運動に対処すべく、大隈率いる立憲改進党が政府与党となることを図って、政敵であった大隈に後任外相たるべきことを交渉したのである。大隈は最初、持論の議院内閣制導入を条件としたため入閣は不発に終わったが、政府は上述の保安条例によって強引に三大事件建白運動を終息させて大同団結運動にくさびを打ち込んだ。この後、再び大隈に交渉したところ、大隈もこれを諒承、1888年(明治21年)2月、第1次伊藤内閣の外務大臣に就任した。伊藤と大隈の合同は、明治十四年の政変以来のことであり、大隈は同年4月に成立した次の黒田内閣でも外相を留任した。 大隈は、伊藤に憲法制定の功績あるならば自分は条約改正の功を立てたいと決意し、また、その功績をもって改進党勢力を伸張させ、憲法発布後に予定されている帝国議会で主導権を握るという具体的な将来構想を抱いていた。薩摩藩出身の第2代内閣総理大臣黒田清隆は、枢密院議長となった伊藤に憲法制定を任せ、大隈には条約改正を任せるという体制を採っていたが、この両者が互いにほとんど連繋しなかったことは後に重大な問題を引き起こすこととなる。 大隈は、井上のような国際会議方式は日本にとって不利であるという認識に立って、列国間の利害の対立を利用する個別交渉の方針を採用した。それにより、1888年11月30日、かつて政府転覆計画(立志社の獄)に加担したとして収監された前歴をもつ駐米公使兼駐メキシコ公使陸奥宗光がメキシコとの間に日墨修好通商条約を締結することに成功した。陸奥がワシントンに着任してわずか半年後のことであり、これは、アジア以外の国とは初めての完全な対等条約であった。これにより、メキシコ合衆国国民は日本の法権に服することを条件に内地開放の特権が与えられた。 陸奥の交渉相手であったメキシコのロムロ駐米公使は、長くワシントン勤務を勤めたベテラン外交官であり、当初はメキシコだけが領事裁判権を放棄すれば、他の欧米諸国がメキシコに対し悪感情を抱くのではないかと考え、容易に承諾しなかったといわれる。また、税権については相互的最恵国待遇を規定していたため、実際には、第三国が日本の関税自主権を認めるまで利益が生じるのを待たなければならなかった。なお、陸奥はその後すぐにアメリカとの交渉に乗りだし、法権回復を伴う新条約締結の合意を取り付けたが、米国内の政権交代や日本本国のイギリスへの配慮、大隈案に対する国内世論の反対(後述)などが重なって成功しなかった。大隈はまた、最恵国約款の解釈を改め、従来一国に認めた特権は無条件で他国に与えていたものを有条件主義とした。さらに、従来の通商条約と裁判権に関する条約の二本立てとなっていたものを一個の和親条約として締結するという方針を立てた。 改正内容についても大隈は、井上馨の方針を修正し、緻密な外交理論に基づいて、税権については税率の引き上げを求め、法権については外国人裁判官を大審院に限定し、法典についても日本側が交付することを約束するに止めた。また、現行条約を遵守し、居留地外に進出するための外国人の違法行為を厳しく取り締まることにより、かえって現行条約の方が不便であるということを外国人に痛感させ、そのことによって日本側に有利な条件を獲得しようとした。 単独交渉方式の採用と最恵国待遇に関する新解釈は、列国の利害関係や対日関係のあり方の相違から次第に条約改正に現実味を与えることとなった。交渉は極秘裏に進められ、その結果、1889年(明治22年)にはアメリカ合衆国(2月20日)、ドイツ帝国(6月11日)、ロシア帝国(8月8日)との間に新しく和親通商航海条約を締結することに成功した。実際に新条約調印にこぎつけたのは、明治初年以来これが最初であったが、イギリスはなおも反対の態度を示した。 この間、1889年2月11日、黒田内閣の下で大日本帝国憲法が発布され、日本はアジアで最初の近代的立憲国家として出発することとなった。しかし、発布に先だって大隈は、伊藤の憲法制定に伴う枢密院の会議に出席したことは実は一度もなかった。大隈は、明治十四年の政変の際、国会の早期開設を主張したために伊藤らによって政府を追放された経緯があり、イギリス型の国会や憲法については一家言をもち、伊藤よりもむしろ立憲国家のあり方についての見識も豊かであったとみられるが、上述のように、黒田内閣では、伊藤は憲法制定を進め、大隈は条約改正を進めるという相互不干渉の体制で当時の二大国家目標の遂行を図っていたのである。 一方、この年の7月、上述の日墨修好通商条約が効力を発すると新任のヒュー・フレイザー駐日英国公使は、最恵国待遇の規定によって日本在住のイギリス人に対しても内地雑居の公平な恩恵が与えられるべきだと主張したが、大隈は最恵国有条件主義を唱えてこの要求を却下した。ただし、そのイギリスも駐英公使岡部長職の奮闘もあって、ようやくほぼ同意するところまでこぎつけ、フランスもこれに倣った。列強のうち主要国との交渉は概ね終了し、あとは小国を残すだけになった。 しかし、機密主義によって進行してきた改正交渉のあらましが1889年4月19日付のイギリス紙『タイムズ』に掲載された。この条約案を『タイムズ』にひそかにリークしたのは外務省翻訳局長だった小村壽太郎だったともいわれる。 ===政界の分裂と大隈遭難事件=== 大隈重信の条約改正案が、外国人判事の任用や欧米流の法典編纂の約束を骨子とするという点では井上案を基本的に踏襲したものであったため、『タイムズ』誌のニュースが日本に伝わるや、国内世論からは激しい批判が湧き上がった。学習院院長三浦梧楼からは改正中止の上奏がなされ、新聞『日本』の主筆陸羯南などによって激しい反対論が展開された。鳥尾小弥太、谷干城、三浦梧楼の三中将、西村茂樹、浅野長勲、海江田信義、楠田英世の7人は、世に「貴族七人組」といわれる反対派であった。ただし、『東京経済雑誌』主筆の田口卯吉は大隈案の擁護に努めており、徳富蘇峰の『国民之友』は論争に積極的に参加しなかったが政府案に対し好意的であった。 反対論の中には、日本の司法権が脅かされるとの批判があり、さらに重大なことには、発布されたばかりの帝国憲法に違反することを指摘する声があった(外人法官任用問題)。すなわち、憲法第19条「文部官任用条項」に抵触し、同第24条「裁判官による裁判を受ける権利」の侵害にあたるというのである。これについては、すでにこの年の3月末に陸奥宗光駐米公使が指摘していたが、大隈はその重大さに気がつかなかったといわれる。民間では民権派・国権派の大半が結集して非条約改正委員会が組織され、条約改正反対運動(非条約運動)が展開された。 憲法制定と条約改正は同時並行で進められていたものの相互に没交渉であったことが、憲法が制定される状況下で憲法違反の条約改正が進むという矛盾を生じてしまった。この事態に伊藤は驚愕したが、一方の大隈は意気軒昂であり、外国人法官任用問題に対しては法制局長官の井上毅に帝国憲法との摺り合わせを命じた。井上毅は公権力の行使に関わる外国人を任用した場合、当該外国人は自動的に日本に帰化して日本国臣民となる旨の法案(帰化法)を起こした。しかし、これは逆にイギリスとの交渉の進展を難しくしており、井上毅自身もまた、内心ではこのような弥縫策には不満であったため、郷里熊本の先輩であり、明治天皇の侍講でもある元田永孚に相談した。このことがきっかけとなって、政府部内でも黒田首相・大隈外相らの条約改正断行派と後藤象二郎逓信大臣・松方正義大蔵大臣・西郷従道海軍大臣・大山巌陸軍大臣ら大隈案に批判的な閣僚、元田ら条約改正反対の宮中グループ、また、黒田の手法に反発しながらも大隈の外相就任に深く関わり条約改正は潰せないと考える伊藤博文枢密院議長、黒田首相とソリが合わず山口に帰郷した井上馨農商務大臣、それぞれを巻き込んだ波乱含みの政局展開となった。 これまで伊藤博文と黒田清隆の2人によって先導されてきた「内閣・枢密院包摂体制」というべき体制は機能不全に陥った。内閣の首班たる黒田は大隈を信用して条約改正にあたらせた以上、条約改正推進の立場は揺るがなかった。大隈もまた、現実的にすでに居留地や治外法権という、本来は憲法に規定されていない事態が継続している以上、外交事情が憲法に優先するものと判断し、黒田からの強い支持と負託もある以上、条約改正は憲法がどのようなものであろうとも、最優先すべき課題であった。こうして、各国との外交交渉は、総理大臣と外務大臣の権限をもって急ピッチで進められていったのである。他の国務大臣にとって条約改正交渉は所轄外の事案であるところから、反対意見はこれを阻止することができなかった。 ところが、内閣と枢密院とは一種の相互依存関係にあって、枢密院の会議は専任の枢密顧問官と内閣の諸大臣を構成員としていた。そこで、枢密顧問官の一部や宮中顧問官は枢密院会議の召集を要求し、条約改正反対論を述べる機会を求めた。枢密院会議が開催されれば、そこでは条約改正反対論が多数意見となることが確実であり、改正交渉を阻止しうると見込まれたためであった。しかし、枢密院議長である伊藤の立場としては、簡単には召集の要求に応じることができなかった。というのも、自ら大隈の条約改正を承認し続けて憲法違反の行為を認めてしまった以上、枢密院の場で自分自身が弾劾される恐れがあったためであり、また、批准段階ではなく、条約改正交渉が現に進められている途中の段階で枢密院が交渉に介入することは憲法の規定に抵触するものだったからである。かくして、憲法・内閣・枢密院という、いずれも国家の盤石を期して作られたものすべてが、これらの創始者ともいえる伊藤の意図を離れ、それぞれ思い思いの方向へもっていこうと機能する逆説的な状況が生じてしまったのである。 在野の民権派・国権派、官にあっては宮中グループや天皇親政派の人びとが公然と条約改正反対を唱えるなか、1889年(明治22年)8月2日、黒田首相は閣議を開いて帰化法制定を条件として条約改正断行路線を採ることで強引に内閣の意見をまとめた。しかしこれ以降、さまざまな方向から条約改正に対する反対運動が活発化し、内閣は四面楚歌の状態となる。そして、よもや統治不全の状態に陥りかけたとき、調整工作に乗り出したのが明治天皇であった。 明治天皇は9月20日元田永孚に伊藤博文を訪ねさせ、条約改正について諮問した。そして、「黒田は諸事をことごとく大隈に一任して議するところなく、大隈は独断専行する一方で内外の反対意見も多く、このことが政治の混乱を招いてしまっているが、これを放置してよいのか」と質し、「条約改正が憲法に抵触するということを伊藤たちは事前に気がつかなかったであろう。だから自分にもそれを言わなかったのであり、よって自分は、そのときは条約改正を受け容れようと考えて許可したのである」と述べ、「今になって憲法違反の事実があったとしてそのとき気づかなかったことを咎めても意味がない。条約改正の決定は自分たちの不明であり、短慮ではあったが、違憲であることが判明した以上、ただちに失敗を反省し、以後善後策を講じなければならないのではないか」との意思を示した。天皇は、条約改正と憲法について、その原点に立ち返って考えなおし、政治的に幅のある対応をすべきではないかとの判断を下したのである。 9月22日、天皇は閣議だけでは条約改正の是非についての議論を十分に行えない状況を踏まえ、これに枢密顧問官も加えて新しい合議体たる合同会議を創設し、そこで改正の得失と善後策の検討を審議してはどうかと伊藤に提案した。つまり、政府における最終的な意思決定の場を設け、そこで条約改正の中止を決めるべきではないかと勧めたのである。これに対し、伊藤は内閣の国務大臣だけでまず会議を開くことが妥当である旨、使者の元田に答えた。天皇は伊藤と黒田によって先導されてきた「内閣・枢密院包摂体制」を合同会議の創設によって前進させようとしたのであるが、伊藤は、この体制は政治的決定の一致をみてこそ盤石の体制となるものの、分裂が決定的となってしまっている状況において合同会議を創設することは、むしろその分裂を固定化する役割を担ってしまい、かえって混乱が拡大してしまうと懸念したのである。業を煮やした天皇は、9月23日黒田首相を呼び出し、閣議を開くよう命じた。黒田は恐懼したものの自宅に籠もったままとなり、あくまでも条約改正断行の意志を変えなかった。なお、9月27日には、立憲改進党のグループが全国同志大懇親会を京橋区の新富座にひらいて条約改正を断行すべしという運動を展開している。 政局が膠着し、条約改正断行派も中止派もともに相互にまったく調整不能な状況となったなか、1年間のヨーロッパ視察を終えて山縣有朋内務大臣が帰国した。ここで、これまで条約改正問題にまったく関与してこなかった重鎮の山縣に一切の決裁を委ねてはどうかという状況判断の生じる余地が生まれ、黒田と伊藤のどちらが先に山縣に接触し、その同意を取り付けるかが競われた。同じ長州藩出身でありながら、政治路線の異なる伊藤博文と山縣有朋の関係はすこぶる微妙なものではあったが、結果的に両者の合意が成立した。10月3日、天皇はいつまでも黒田が閣議を開かないことを憂慮し、伊藤に対して善後の措置をきちんととるように命じた。大隈はといえば、天皇が陪食を命じても病気と称して出てこない有様であった。10月10日、明治天皇は黒田と伊藤と大隈の3人で話し合いをし、その結果を報告するよう命じた。そもそも、この3人の協議がまとまらなければ、他の一切は定まらないと判断されたためであった。 10月11日、山縣内相が参加しての閣議が伊藤枢密院議長臨席のもと開催された。閣議の席では、松方蔵相が条約改正に際しては条件整備のために準備委員会を設けるべきだと切り出した。これは改正交渉遅延の手段に他ならなかったが、一応の諒承を得た。次いで、後藤逓相が条約改正を中止するか断行するかの決断を首相に迫った。それに対し黒田は間髪を入れず「それは8月2日にすでに決めたことではないか。一事不再理である」と応答し、その後も同様の断定的意見に終始した。事ここに至り、ついに伊藤が枢密院議長の辞表を提出、しかし、なおも黒田と大隈は自説を曲げなかった。10月15日、条約改正を閣議が再び開かれたが、これは明治天皇が臨席する異例の閣議となった。ここでも議論は紛糾したが、黒田・大隈はともにまったく引く構えを見せず、夕刻となったため議決せずに散会した。ここでは山縣は意見をはっきりさせなかった。 10月18日、黒田は再度条約改正の是非についての閣議を開いた。ここでついに山縣が条約改正の実施は時期尚早であると述べ、延期しなければ今後の展望が拓けないと主張、松方・西郷・大山らも同調して閣議は中止論に傾きかけた。しかし、なおも首相と外相は断行論を唱えたため、またも結論が出ないまま散会した。事態が急変したのはその直後であった。閣議からの帰途、馬車に乗っていた大隈が東京外務省の外相官邸に入る門前で、改正案に反対する国粋主義団体福岡玄洋社の前社員来島恒喜から爆裂弾を投げつけられ右脚切断を要する重傷を負ったのである(大隈重信遭難事件)。来島は爆弾投下直後、皇居にむかって割腹自殺した。 大隈遭難事件翌日の10月19日、黒田首相と山縣内相は明治天皇に拝謁して条約改正延期を伝えた。21日、入院中の大隈が不在のまま閣議は条約改正中止を決定、米・独・露3国とのあいだの調印済の条約にもその延期を申し入れた。22日、総理大臣黒田清隆以下、大隈を除く全閣僚が総辞職の意向を明らかにした。閣議でいったん決定した条約改正を反古にしたのであるから、すべての大臣に責任があるとの論理からであった。こののち、黒田清隆は後継に山縣を推薦して10月25日に内閣総理大臣を辞任、山縣は首相拝命を固辞したため三条実美暫定内閣が成立した。当初、内閣総辞職となるはずであったが首相と外相以外の全閣僚が留任のかたちとなった。10月30日、五団体の非条約派による連合は、目的は一応達せられたとして解散した。 11月1日、黒田清隆と伊藤博文に対し「元勲優遇」の勅語が出た。明治天皇は、薩長閥のそれぞれの代表格であり、従来「内閣・枢密院包摂体制」を主導してきた2人、そして、統治能力を今まさに失ったばかりの2人に対し、非制度的かつ人格的な栄誉の第一号をあたえたのであった。 ===「将来外交之政略」=== 三条暫定内閣は、内大臣であった三条実美が内閣総理大臣を兼任するという変則的な内閣であったが、これは臨時兼任ではなく、形の上では恒常的な兼任であった。暫定内閣では、次の山縣内閣までの地ならしをしておくことが期待されたが、条約改正に関しては「将来外交之政略」と題する指針が定められた。既にみてきたように、これまで条約改正は常に挫折してきたのであり、ここで基本的な方針を決定しようというものであった。 「将来外交之政略」は、伊東巳代治が起草し、井上馨が提出したという形式になっており、その中では、 外国人を大審院に任用するのは憲法上問題があり、条約上の関係より国家主権を施行する官を外国人に授けるのは憲法違反である。日本の法典をすみやかに公布することを約束するのも、将来に対する日本の立法権を束縛することとなり、これから国会を開く日本にとっては国家の長計からみて好ましくない。内地の通商および土地建物貸借の自由は認めるが、不動産を所持する自由は領事裁判権撤廃が決まってから認められるべきである。外国人に対しては、法律上、経済上、日本人とは異なり、若干の制限を設けるべきなのではないか。という意見が盛られた。 実は、これらはいずれも井上馨・大隈重信両外相時代の条約改正反対運動において反政府側が主張していた要求のほとんどそのままであった。即ちこの提言は反政府派の要求をすべて取り入れた上で自らの主張として再構成したものに他ならなかったのである。この提言は、最終的に以下の3大綱領としてまとめられた。 条約を改正して平等の位置をとるは、我が政府の従前及び将来の目的なり。現在調印済みの条約案は、これを修正して、もって平等完全の位置に近づくを要す。修正の要求が行われなければ、むしろ従前の位置に存するも欠点の条約を締結せず。その間改正の手順を中止して、もって将来に我が目的に達すべきの機会を待つべし。すなわち、条約を改正して対外的に平等の地位を獲得するのは、それ以前からの日本の目的だったはずであり、一時は欧化主義に流れたもののそれは最終的な到達点ではなく、将来についても常に明治維新の精神に立ち戻って、その目的を忘れないことが大切であること(1.)、大隈の改正で調印済みとなった条約案も平等条約に復するべく修正が必要であること(2.)、条約改正を急がず、欠点のある条約を急いで締結するよりは、完全平等のきちんとした条約を結ぶ機会を待つべきである(3.)ということであった。 しかし、「将来外交之政略」の策定は1889年(明治22年)12月15日夜の黒田清隆狼藉事件の原因のひとつになった。この事件は井上馨が大隈の条約改正交渉の際、改正の是非に関する議論にかかわるのを好まず、10月にいたるまで東京を離れていたにもかかわらず、首相黒田の辞任後も留任要請を受けて三条内閣の閣僚となり、今また条約改正失敗後の新方針策定に井上の名があるという一連の事態について黒田が激怒し、泥酔したうえ井上馨宅に乱入して狼藉をはたらいたというものである。前首相で元勲第一号の黒田の不行状は政府部内でも問題とされ、黒田は謹慎した。井上馨もまた、この年の12月24日に正式に第1次山縣内閣が発足する前日(23日)、農商務大臣の地位を辞任している。 なお、明治天皇は、12月18日、側近の佐々木高行に対し、後継内閣の大臣選任については天下に広く人材を求めるべきことを各大臣に伝えた旨語っている。 ===青木周蔵の交渉と大津事件の衝撃=== 井上・大隈の両外相期の条約改正交渉は、英国を中心とする列国の圧力および日本国内の自由民権派・国権派を中心とする反対の板挟みに遭って難航を続けた。しかし、シベリア鉄道の着工を計画し、極東進出政策を推し進めようとするロシア帝国に対しイギリスが警戒感を強め、グレート・ゲームにおける極東の防波堤としての日本との友好関係を重視するよう政策転換を図ったため、従来の苦境が打開されて改正交渉にも転機が訪れた。シベリア鉄道は、1891年になってロシアがフランス金融資本からの借款に成功してようやく着工可能となったものであり、それは後に成立するロシアとフランスとの軍事提携(露仏同盟)を経済的にも支えようというものであった。英国としては、イギリス艦隊の威力の及ばない内陸部を通じてロシアが東アジアに大軍を輸送しうる状況、そして仏・独・露の提携に対してイギリスが極東で孤立する状況を怖れたのである。 日本政府もまた、井上・大隈の交渉失敗を受けて、改正交渉姿勢の抜本的な見直しを迫られた。1889年(明治22年)12月、第1次山縣内閣の外務大臣として前外務次官であった青木周蔵が就任した。すでにこの年2月には憲法が発布され、翌1890年には第1回衆議院議員総選挙と帝国議会の開設が予定されていた。新しい政治体制の下、青木外相は大隈改正案の失敗にかんがみ、法権に関しては完全平等を目指すことに転換して、 外国人判事はいっさい任用しないこと。法典編纂公布は約束しないこと。治外法権撤廃後は日本在住の外国人は日本の国法に従うこと。などを「青木覚書」と称してまとめ、これを基本方針として条約改正交渉に臨んだ。「青木覚書」は「将来外交之政略」と大体において同じであったが、2点において若干の修正を施した。1つは、「将来外交之政略」においては治外法権の撤廃と引き換えに外国人に不動産所有権を与えるとしていたものを改めて、外国人の不動産取得に関しては条約に定めず、別途必要に応じて国内法によって定めるとしたことであり、2点目は、外国人に日本人と同様の地位を与えることに関し、その権利に若干の制限を設けるとしたことである。これらは、国権を護れという世論に配慮したものであると同時に明治政府の土地政策のあり方とも強い連関を有していた。青木覚書は、1890年2月、閣議で承認された。政府はまた、これを枢密院にも内示して、その了解を得ている。 青木は、従来イギリス政府が大隈案にすら同意しなかったのに、自分がこのような方針で交渉にあたることは「たとえ事業の成功は未だ必ずしも期すべきにあらずとするも、此(この)際、進めて談判に地位を占め、曽(かつ)て失えるの国権を寸時も早く恢復するに勉めざるべからず。之を惰(おこた)るの如きは、実に明治創業の大旨に負(そむ)くものなりと確信」するとして、駐日イギリス公使ヒュー・フレイザーとの交渉を進めている。フレーザー公使は当初、従来の交渉の基礎をまったく覆すことになる新提案を本国に取り次ぐことはできないとして青木提案をはねつけたが、イギリス側は駐英日本公使を通じて日本の新提案を基礎とする交渉に応じる意志のあることを伝えたので、2月28日より日英の正式交渉が始まった。 一方政府は西欧的原理に基づく法典の整備を急ぎ、1890年(明治23年)中に裁判所構成法、治罪法(現在の刑事訴訟法)、民法、民事訴訟法、商法などが次々に公布された。この年の7月1日の第1回総選挙は、イギリス公使夫人メアリー・フレイザー(en)からは「平穏無事に」おこなわれ、日本人は「lawful (法にかなう)国民」と評されるほどだったが、これに前後して、「内閣・枢密院包摂体制」が大隈の条約改正問題の際にみられたように難題の発生に対しては必ずしも有効ではなく、むしろ混乱の元凶となったことが検討に付された。第1議会開催直前の1890年(明治23年)10月7日、新しい枢密院官制に内閣からの諮詢がなくては枢密院会議を開催できないことが盛られ、内閣・枢密院の両者は明確に分離の方向へと進んだ。 ところで、このころ欧米諸国を歴訪した金子堅太郎は、1889年11月、ウィーンで会った法学者ローレンツ・フォン・シュタインから、日本で発布された憲法の「周緻精確なること」はヨーロッパ諸国の憲法より格段に優れていると評され、フランスの元老院議長秘書ルボンからも「日本憲法は精巧なる編纂なり」と称賛されており、全体的に日本の法制に対して好意的な評価を受けている。イギリスでは、オックスフォード大学教授のトーマス・アースキン・ホランドが、従来、イギリス人がアジア・アフリカの人びととの結婚は無効判決が下されていたものの、この年2月にはロンドンで日本在留英国人と日本婦人との結婚を許可する判決が下された件を例示し、イギリスの対日感情は他の東洋諸国と比較して「明らかに異なっている」と評している。いずれも、すでに憲法を制定し、文明開化に努力している日本が欧米諸国より高評価を得つつあることをあらわしたものであり、条約改正の好機であることのサインと見なされた(金子堅太郎の活動については後述「金子堅太郎と国際公法会」節参照)。 条約改正交渉は最大の難関とみられたイギリスから開始されたが、予期に反してイギリスの対日外交が軟化を示し、1890年7月中旬、日本側の新提案に対応した条約案を提示した。伊藤博文の「条約改正意見」(『伊藤博文秘録』収載)には「多年我ニ信ヲ置カザリシ英国モ、近時ニ至リヤヤ我ノ国論ヲ是認セントスルニ意向ヲ明言スルニ至リ」の文言があり、交渉は急速に進展するかにみえた。 1891年(明治24年)に入ると1月22日には元田永孚、2月18日には三条実美が相次いで死去し、宮中派の影響力はしだいに弱まっていった。こうして、政府がいよいよ国会と対峙しようという時期に、期せずして、内閣を中心とする統治の求心力が制度的にも高まっていたのである。1891年4月には、イギリス案に対する日本側の対案が閣議で決定された。 しかし、1891年(明治24年)5月6日成立の第1次松方内閣で青木が外相に留任した矢先の5月11日、シベリア鉄道の起工式に出席する途中来日したロシア皇太子ニコライ(のちの皇帝ニコライ2世)が琵琶湖遊覧を終えたとき、滋賀県大津において、警備中の巡査津田三蔵に斬りつけられて軽傷を負うという大津事件が起こった。起工式は6月にウラジオストクでおこなわれる予定であった。 ニコライが京都で加療することになったとき、即日松方内閣は御前会議を開き、痛惜の念を表明する勅語を発し、医師団を急行させた。青木外相、西郷内相、翌日には天皇自ら開通間もない東海道線を用いて京都へ赴き、親しく皇太子を見舞った。 日本政府は日露関係の悪化を憂慮して大審院特別法廷を開かせ、皇族に関する刑法(大逆罪)を準用して犯人を死刑にするよう干渉した。このとき、政府だけではなく最も多くの人びとが首肯したのは、津田三蔵を死罪にすべきという意見であり、現行法で死刑にできないのであれば緊急勅令で処刑すればよいというものであった。明治天皇は5月19日、神戸に停泊中のロシア軍艦に出向き、乗艦して再度病床のロシア皇太子を見舞った。事の重大さに対しては、当時の国民も敏感に反応した。ニコライに宛てて国内から1万通におよぶ見舞い状が届き、山形県最上郡金山村(現金山町)では「三蔵」の名をつけることを禁ずる条例ができたほどで、また、皇太子に申し訳ないとして5月20日京都府庁門前で切腹した畠山勇子のような女性もいた。 これに対し、大審院長児島惟謙は政府の干渉を退け、津田を無期徒刑に処して、近代的法治国家における司法権の独立を護った。これは英米などからは高く評価されたものの、事件前、在日ロシア公使のシェービッチに対して、万一のことが起こった場合は皇室に関する刑法の準用を約束していた青木外相は、その責任をとって5月29日に辞任し、条約改正交渉はまたもや中断を余儀なくされた。 ===榎本武揚外相と法典論争=== 青木の辞任後、第1次松方内閣の外相となったのは、かつて特命全権大使として樺太千島交換条約(1875年)の締結に尽力した榎本武揚であった。榎本は、青木改正案を高く評価して、ほぼ同様の手法で列国と交渉、条約廃棄さえ選択肢に含めて交渉に臨んだ。1892年(明治25年)にはポルトガルとの間で、領事裁判権撤廃にこぎつけている。 榎本外相は、「条約改正断案」において、青木の改正案をイギリスが大部分承諾した原因としてロシアのシベリア鉄道起工がイギリスの東アジアにおける特権を奪う利器になりうることに求めており、外務省顧問のデニソンも榎本の意見を支持してイギリスとの条約改正の好機であると進言した。 しかし、この年の5月2日に開催された第3議会は、榎本の猛反対にもかかわらず、貴族院・衆議院とも商法・民法など諸法典の実施延期を可決した(→ 「法典論争」 参照)。この議会においては、むしろ条約改正交渉を後回しにしてもよいから、まずは重要法案の根本的な修正が必要であるとの意見が多数を占めた。そして、日本の伝統を重視する保守派のみならず、進歩的な英米法系、また、大陸法の中でもドイツ法系の学者なども巻き込んで一時は政治対立の様相をみせるほど論議は白熱した。 また、この年の2月におこなわれた第2回衆議院議員総選挙では、品川弥二郎内務大臣の指示による流血の選挙干渉がなされ、3月、品川は責任をとって辞任した。総選挙は、政府側の干渉があったにもかかわらず民党が多数を占め、第3議会では選挙干渉問責がなされた。 第3議会は1892年6月15日に閉会、松方首相はいったん辞意を表明したが政治の混乱を閣僚の更迭によって図ろうとしたため、それによりかえって政局は紛糾し、8月8日、松方内閣は時局収拾の力なしとして総辞職した。 ===金子堅太郎と国際公法会=== 条約改正に際しては、外交担当者のみならず金子堅太郎の活躍も見逃せない。 前掲した英オックスフォード大学教授のホランドは訪英中の金子に対し、 不平等条約の締結から今日にいたるまでの日本外交の歩みや国際法上の関係などを詳述した歴史書を出版すること。日本は何をもって不平等・不利益としているかを新聞や雑誌に掲載するため欧米各国のマスメディアに通信し、当該問題に関する論説を掲載させるよう働きかけること。日本政府はイギリスの国会議員と連携し、イギリス議会において政府に対して、日英間の諸条約から生ずる両国の不利益や日本人の条約改正への努力などを質問させるなど、絶えずイギリス政府とイギリス国民にこの問題への注意を喚起させること。欧米において国際公法学者が設立した国際公法会に、日本人も入会して会員となり、日本の公法上の関係や将来の方針などを記した冊子を発行し、その実際について報告すること。など、条約改正を実現するための詳細なアドバイスを与えた。 金子堅太郎はホランドの提言に従い国際公法会に入会を申し込み、1891年(明治24年)9月に準会員に認められ、アジア人として初の入会者となった。金子はまた、同年12月にホランドより、翌年開催される総会に出席して日本の各種法典ならびに欧米列強との条約文集を国際公法会に寄贈し、さらに第12問題委員会(非キリスト教国の司法制度が欧米の制度とどれだけ近づいているかを調べる委員会)の委員となることを申し入れるようアドバイスした書簡を受け取った。金子は、松方首相、榎本外相、田中不二麿法相、伊藤枢密院議長および井上馨に対し国際公法会への参加許可を内申、1892年(明治25年)6月の閣議で承認された。閣議承認の翌日、明治天皇はこれに関心をもち、侍従長を通じて国際公法会の概要と金子の出席理由などを下問した。金子の詳細な報告書を受けた天皇は金1,000円を下賜した。 1892年(明治25年)9月、金子はスイスのジュネーヴで開かれた国際公法会に出席、会頭は9日の会議で金子に意見を述べることを許可した。金子は憲法以下の諸法典や統計を提出し、日本の制度に関する調査に着手して会の意見を公表することを希望する旨の演説をおこなった。午後の会でホランドが日本の調査を直ちに始めるよう提案、その結果、全会一致で他の東洋諸国の司法制度とは切り離して日本の制度の調査の特別委員会を設けることが議決された。 1892年11月、金子は帰国し、明治天皇の拝謁を賜った。金子はまた、伊藤首相への報告書を作成して種々の機会で成果を発表した。報告のなかで金子は、日本政府の採用する法治主義への国際的な信頼を高めるため、欧文の議院年報などを刊行して各国外交官へ贈与し、欧文の憲法・諸法典の各国政府・政府機関への寄贈、著名な学者の招聘および彼らによる調査報告書の出版、日本公使の精選、欧米のメディアへの広報、日本公使による対議員工作の実施などを提言している。 ===陸奥宗光と日英通商航海条約の調印=== 1892年(明治25年)8月に成立した第2次伊藤内閣は、別名「元勲内閣」と呼ばれ、山縣・黒田・井上・大山ら元老が揃って入閣した実力派内閣であった。伊藤首相は、外務大臣にかつてメキシコとの間に対等条約を結んだ実績を持つ前農商務大臣の陸奥宗光を迎えた。翌1893年1月ハワイ王国では親米派によるハワイ事変が起こり、王党派は日本の援助を求め、駐日ハワイ公使が日布修好通商条約の対等化を申し出た。政府はハワイ公使の申し出を受け入れ、両国は同年4月に改正条約を締結した。これは、日本にとってメキシコに次いで2つ目の対等条約となった 。なお、この頃、伊藤博文が条約改正交渉を再開するにあたって起案した上奏文には、西洋文明を受容し欧米列強の仲間入りを果たすことこそが国家レベルにおける「独立不羈」の中身であって、不平等条約中の治外法権条項を撤去することがその条件であるという認識が示されている 。 陸奥外相は、1893年(明治26年)7月5日の閣議に条約改正案を提出し、同19日に明治天皇の裁可を得た。その内容は、陸奥自身によれば「全く明治十三年我政府提案以来の系統を一変し、純然たる互相均一の基礎を以て成りたる対等条約」であり、1883年(明治16年)の英伊通商航海条約を範としたものであった。その改正案は、 条約実施期を調印後5年とし、その間に重要諸法典を公布施行せしむること。諸条約国との一般的協定税率を排斥し、英・米・仏・独4か国からの重要な輸入品58品目について4か国だけと協定すること。内地開放後、旧居留地の外ばかりではなく旧居留地内においても外国人による土地所有を許可しないこと。を主たる特徴としていた。 交渉方針としては、大隈・青木と同様、国別談判方式を採用し、日本と最も利害関係の深いイギリスから交渉を開始した。陸奥は、駐独公使に転任した青木周蔵元外相を条約改正委員に任じて駐英公使をも兼務させ、交渉の任にあたらせた 。青木は、イギリス外務省との交渉で、自身が外相として交渉に当たっていた際にイギリスとのあいだで合意の得られなかった3点について、 欧米流の法典実施の担保として政府が約束する公文書発行については、従来は立法権の制約にあたるので反対してきたが、この際「我政府は難きを忍んで」公文書を発行する。新条約発効以前に外国人居留地の土地所有権を認めることはできないが、現在居留地で保有するところの永代借地権は「無期限に安堵」する。旅券の期限は1年間に延長する。との妥協点を示した。これはイギリス側を満足させるものであった。 しかし、陸奥が全面対等主義に基づいて交渉にあたろうとしていたとき、世論より現行条約励行運動が提起された。徳富蘇峰主筆『国民之友』は、1893年(明治26年)5月23日号において、日本人が真の平等を勝ち取るためには国民的な運動によって現行条約を「正当」に励行しなければならないと主張し、さらに、現行条約の励行が外国人にとっても不合理であることを悟らせ、外国の側から条約改正を求められてこそ対等条約が実現するであろうと論じたのである。これは、この年の2月15日に自由党が提出した条約改正上奏案が衆議院秘密会で審議され、内地雑居の是非が審議された結果、135対121で上奏案が可決採決されたことに対する「内地雑居尚早派」側の危機感を背景としていた。 1893年10月に結成された大日本協会は、内地雑居時期尚早論を唱えて政府の条約改正案に反対していたが、これは、大井憲太郎らの東洋自由党、神鞭知常らの政務調査会、楠本正隆らの同盟倶楽部、吏党の国民協会に加えて曾我祐準・鳥尾小弥太ら貴族院議員も参加した超党派の政治結社であった。 第5議会の開会に先だって、国民協会・立憲改進党・同盟倶楽部・政務調査会・同志倶楽部・東洋自由党より成る対外硬六派が形成された。対外強硬論はもとより国権論的な主張と軌を一にしたものに他ならず、今度は条約改正に伴って外国人の内地雑居を認めるかどうかという問題となり、排外主義的な一面を有する。明治20年代の後半になると、居留地外でも外国人の活動は緩和されてきていたが、それをもう一度厳しくして不便な思いをさせよという趣旨であった。伊藤内閣との提携を模索する星亨らの自由党は、党大会で「条約改正を実行せしむる事」などを決議し、この大同団結には加わらなかった。 国民協会は、1892年に西郷従道前海相や品川弥二郎前内相が下野し、西郷が会頭、品川が副会頭となって組織された政治団体であった。自由党の準与党のようになっていた立憲改進党は少数派となったため、従来の外交政策を転換して国民協会と一緒になって現行条約励行論を唱えた。条約改正を巡って新たな争点が生まれ、自由党の伊藤内閣への接近、伊藤内閣の国民協会敵視の姿勢などが硬六派の結束を促し、対外硬六派は陸奥と星を主敵として、伊藤内閣と自由党に対して対決姿勢を採った。 1893年11月28日、第5議会が開かれると、硬六派は星議長の不信任決議案、星議員の除名案、官紀振粛上奏案を連続可決させた。12月19日、対外硬の六派は衆議院において「条約励行建議案」を上程し、併せて「外国条約執行障害者処罰法案」と「外国条約取締法案」という2つの附属法案を同時提出した。政府はこうした議会の動きに対し、10日間の停会を奏請した。なお、「条約励行建議案」上程に前後して、イギリス公使館付の牧師ショウが日本人に殴打されるという事件が起こり、イギリスは改正交渉の中止を通知するに至っている。 12月29日、停会明けの衆議院において陸奥は、「歴史的大演説」と称される演説を行った。それは、日本が明治維新以来開国主義を国是とし、開化・進歩してきた歩みを振り返り、「忍耐力があって進取の気性に富んだ国民だけが気宇壮大な外交方針を大胆に採用できる」と主張したものであり、暗に他のアジア諸国の事例を持ち出し、「排外主義的感情論から些事で虚勢を張って外国と紛糾し、結果として国辱を受けることもある」と説いて、「帝国議会が条約励行論のごとき鎖国攘夷の建議案を持ち出して条約改正に支障をあたえることは許されざることである」と強く非難して議会に反省を求めた。 しかし、議会は上程案撤回の意志を示さなかったので、政府は翌30日衆議院を解散するという強硬手段に出た。第3回衆議院議員総選挙は翌1894年(明治27年)3月1日に実施され、政府を支持する自由党が81名から119名に躍進して対外硬派は全体では議席を減らしたものの、自由党は過半数を獲得することができなかった。伊藤は天皇に対し、この選挙に際して政府は第2回総選挙のようにならぬよう、決して選挙に干渉せず、ただ政党の軋轢が国民に災禍を及ぼさぬよう法律を定めてこれを防止するに止めることを説明した。ただし、政府は議会解散直前に大日本協会の解散を命じ、建議案提出の硬六派の説明を聞かないまま衆議院を解散した経緯があり、これは条約改正促進のための対外的な効果を狙ったものではあったが、国内的には貴族院において近衛篤麿ら反伊藤勢力が台頭して硬六派に加勢し、それまで不倶戴天の敵であった貴族院・衆議院が連繋したため、政府は再び苦境に立たされた。 同年5月15日、第6議会が開会された。5月17日には硬六派が第5議会解散責任の追及、現行条約励行の要求、千島艦事件の追及を骨子とする上奏案を衆議院に提出したが、自由党の反対により144対149の僅差で否決された。その後議会は紛糾したが、政府は6月2日には第6議会も解散して条約改正の実現に並々ならぬ強い決意をもって臨んでいることを内外に示し、併せて朝鮮半島への日本軍の派遣を決定した。なお、これに先だつ陸奥外相が青木駐英公使に宛てた同年3月27日付の私信には、反政府運動の高揚によって苦境に立たされた政府が人心を回復するには「人目ヲ驚カス事業」が必要だと記されていたが、「人目ヲ驚カス事業」とは、具体的にはこの朝鮮への派兵のことであり、後に「陸奥外交」といわれる川上操六参謀次長との連携しての開戦外交であった。陸奥は『蹇蹇録』第9章で、次のように述べる。 元来日本帝国が欧米各国と現行条約の改正を商議する事業と、今余が筆端に上れる朝鮮事件とは元来何らの関係もあらざることは無論なるも、凡(すべ)て列国外交の関係はその互いに感触する所すこぶる過敏にして、わずかに指端のこの一角に微触するあれば忽(たちま)ち他の関係甚(はなは)だ遠き一隅に饗応するの例甚だ多し。即ち朝鮮事件が一時如何に日英の改正事業に重大なる影響を及ぼさんとしたるかは…(後略) イギリスとの交渉は、青木公使とベイテイ外務次官との間で1894年4月2日に再開された。居留地における土地所有権、新条約発効期日、関税協定などに関しては交渉が難航した。また、イギリス側は、日本がロシアやフランスと接近しているのではないかとの疑惑を抱き、新たに利権の獲得などを求めた一時期もあったが、日本側は内地開放こそが最大かつ唯一の譲歩であると反論した。また、新条約実施まで認められる英国船の港間貿易に函館港を加えるよう求めたが、日本側は入港実績のない港を港間貿易に加えるわけにはいかないと反論した。函館は、外国船の入港実績がせいぜい年に2、3回程度であったので、日本にとってはここを開港場として諸施設を営む煩瑣さに耐えられなかったために反対したのであったが、イギリスはここをシベリア鉄道開通後の極東において必要の際はロシアと対抗する基地に利用しようと考えて開港間貿易場とすることを主張したのであった。緊迫する極東情勢を背景にしたイギリス側の提案であったため、ついに陸奥は決断し、6月21日、改正後も函館の開港間貿易を許してもよいとする訓令を青木に発した。青木は陸奥の指示により、永代借地権は最大限尊重することを条約の中で明記し、不公表とはするものの、国内諸法典が発効するまでは条約は効力を発しないとの意志を伝えた。 かくして日英通商航海条約が1894年7月16日、ロンドンのイギリス外務省において青木公使とイギリス外相キンバーリー伯両全権との間で調印された。日清戦争の開戦(宣戦布告は8月1日)の約半月前のことであった。日英新条約調印の電報を受けとるや、陸奥はすぐさま斎戒沐浴して皇居に向かい、その旨明治天皇に報告した。また、イギリス外相に感謝の意を伝えるよう、ロンドンに打電している。 調印の際キンバーリー伯は、「日英間に対等条約が成立したことは、日本の国際的地位を向上させる上で清国の何万の軍を撃破したことよりも重大なことだろう」と語っている。 その後の日本政府は、新条約調印直後の7月19日から日清開戦を目標にした作戦行動を開始し、20日には朝鮮政府に対して、清国を宗主国と仰ぎ、その保護を受ける宗属関係の破棄などを求める最後通牒をつきつけ、23日には朝鮮王宮を占領、25日、仁川南西方の豊島沖合いで清国艦隊を攻撃(豊島沖海戦)、29日には忠清道天安市天安郡で最初の陸上戦を戦った(成歓の戦い)。 政府は8月25日東京で日英新条約の批准書を交換し、27日公布した。続いて各国(条約国15か国)とも同様の条約を調印した。日英新条約を間髪入れずに公布したのは、もはや既成事実であるとして議会からの介入の余地を与えないためであった。 公布直後の8月28日付『時事新報』では、福澤諭吉が「純然たる対等条約、独立国の面目、利益に一毫も損する所なきもなれば今回の改正こそは国民年来の希望を達したるものとして、国家のために祝せざるを得ず」との社説を掲げ、日英新条約に讃辞を送り、井上・大隈改正案より格段に優れていると評価しながらも、彼らの努力があったればこその新条約であるとして交渉担当者の今までの労苦を労っている。8月29日の『東京朝日新聞』社説でも伊藤内閣が絶賛され、9月1日付『東京経済雑誌』も条約改正を手放しで喜んだ。10月18日、大本営の置かれた広島で開催された第7臨時議会では、各派各党とも政府に協力し挙国一致の体制となり、新条約に関する追及や批判はほとんどなかった。 なお、この条約の成立によって日本陸軍はイギリスの日本接近を確認したので、日清戦争の開戦を決意したといわれている。日本が後顧の憂いなく戦争に突入することができたのは条約改正のおかげだったのである。清国に対しては、1895年(明治28年)の下関条約と1896年(明治29年)の日清通商航海条約で清にとって不平等な内容の条項が盛られた。一方で日英の親密な関係は北清事変後の1902年(明治35年)に結ばれた日英同盟への布石となった。 1894年に結ばれた新条約の発効は1899年からとし、5年の準備期間の間に日本は法制を整備し、内外雑居の用意をすることとなった。1896年(明治29年)11月12日、改正条約発効の準備のために改正条約施行準備委員会が発足した。委員長は樺山資紀内相、副委員長は枢密顧問官田中不二麿であり、委員には小村壽太郎、金子堅太郎、目賀田種太郎をはじめとする各省局長・次官クラスの官僚その他計22名が任命された。 日英通商航海条約により、日本は領事裁判権の完全撤廃を成し遂げ、治外法権の束縛から解き放たれることとなり、互いに内地を開放しあって、居住・交通・所有・経済活動を認めあい、また、最恵国約款は相互的となって、日本はアジアで最初の欧米諸国と法権上の対等国となった。税権は、一律5パーセントの関税率が15パーセントに引きあげられたものの、従来の一般的協定税率を廃し、特定重要輸入品38品目についてのみ協定税率を残すこととなった。特定重要輸入品は品目数こそ少ないが、輸入額中の比率が全体の3分の2以上を占めたため、新しく結ばれた片務的な関税協定によってむしろ大幅な制限を受けることとなった。ただし、新条約によればその有効期間は12年間で、11年を経過すれば廃棄通告を行うことができ、その1年後には自然に消滅させることができる規定となっていた。 改正条約の発効は1899年(明治32年)7月17日(ただしフランスとオーストリアは同年8月4日)からであり、これにより外国人居留地が廃止され内地雑居が実施された。時の内閣は第2次山縣内閣、外務大臣は青木周蔵であった。 ===小村壽太郎と税権の回復=== 関税自主権の回復も含めた条約改正が完全に達成されるのは1904年(明治37年)に始まった日露戦争において日本が強国ロシアに勝利して国家の独立をより強固にし、1905年(明治38年)のポーツマス条約や満州善後条約などによって国際的地位が格段に高まった後のことである。日露戦争後、日本と列強の間に交換される外交官も公使から大使へと格上げされている。 1911年7月16日は英・独・伊など10カ国との、同年8月3日は仏・墺両国との通商航海条約満期日に当たっていた。1909年(明治42年)8月、第2次桂内閣は条約完全改正の方針を閣議決定し、翌1910年(明治43年)には外相小村壽太郎が条約の規定に従って、満期日の1年前に当たることからアメリカを含む13か国に廃棄通告を行った。国家主義者であった小村壽太郎は、欧化主義者の陸奥宗光に引き立てられた人物で、日清戦争前後には清国駐在公使として、いわゆる「陸奥外交」を支えた外交官であり、1902年(明治35年)には日英同盟の締結に尽力し、ポーツマス条約では外務大臣・全権大使としてロシア全権セルゲイ・ヴィッテとの間で難しい交渉を行ったことで知られる。 改正交渉は1910年1月にイギリスとの交渉が開始され、4月からはアメリカ合衆国との交渉が行われて列国との交渉が次々に始まった。日本における立憲政治の充実が海外にも知られ、日本の法体系への不信感も薄れていたので、列国との交渉は比較的順調に進行した。 陸奥宗光の手になる条約では、英独仏3国について、イギリスの綿織物・毛織物・鉄鋼その他鉄類、ドイツの染料・薬品、フランスの化粧品・ワインなどの重要輸入品に対しては従価1割程度の片務的な関税協定を許し、他の諸国は最恵国条款に基づいて均しくその利益を享受しえたのに対し、日本から主要3国への輸出品については単に最恵国待遇を受けるだけであった。小村外相はこうした片務的な協定税率の改正を目指したほか、今なお残る日本にとって不利な条項の一掃を図ったのである。 小村によれば、条約改正は、列強と対等な地位にあって、もっぱら利益交換の趣旨に基づいて交渉を行い、最恵主義・互恵主義に立った条約の締結を目的としたものであり、首相桂太郎もまた、専任の大蔵大臣を置かず首相兼任として小村の条約改正を自ら全面的にバックアップした。イギリスとフランスは小村の方針に異議を唱え、日本国内の一部においても同盟国であるイギリスに対して厳しすぎるのではないかという意見もあった。 1911年(明治44年)2月21日、ワシントンD.C.において、駐米日本大使内田康哉とアメリカ合衆国国務長官フィランダー・C・ノックス(en)との間に、関税自主権回復を規定した改正条項を含む日米通商航海条約が調印され、4月4日に発効した。1894年に結ばれた旧通商航海条約では、アメリカ政府は日本移民の入国・旅行・居住について差別的な法律を定めることができるとされていたが、その規定は改正条約では撤廃された。ただし、改正条約調印に際して日本側は、アメリカに対し、日本人労働者のアメリカ移住について過去3年間実施してきた自主規制を今後も継続することを確約し、新条約にはその旨の覚書を添付している。 イギリスとは相互関税協定を結び、4月3日に外務大臣エドワード・グレーと加藤高明駐英日本大使との間で改正通商航海条約が結ばれ、7月17日に発効した。ドイツとは6月24日に日独通商航海条約を、フランスとは8月19日に日仏通商航海条約を調印したが、英・独・仏・伊との間には34品目において双務的な協定率を残すこととなった。 ともあれ、ここに日本は名実ともに独立国家となって列強と完全に対等な国際関係に入ることとなった。この時、マシュー・ペリーの黒船来航によって日本が開国してから、実に56年余の歳月が経過していた。 ==影響と歴史的意義== 条約改正によって、日本は開国以来半世紀を経て、立憲制度と東アジア地域で最強となった軍事力を背景に、列強と対等の地位を得た。条約改正は、日本が欧米列強の支配する世界に編入された時から、政府にとっては悲願ともいうべき基本政策であった。 特に不平等条約中の治外法権条項は国家の独立を損なう大きな障害となっており、伊藤博文は、領事裁判権撤廃後の1899年(明治32年)5月の山口県下関市での講演において「いわゆる国権恢復とは即ち新たに国際上独立の地位を得ると云ふことである」と述べており、それ以前の日本は純粋な意味での独立国ではなかったとの認識を示している 。主権の一部である司法権が外国によって束縛された国家は、国家としての自己完結性を発揮することができない点で不全な国家であった。 それゆえ、明治政府にとって、すべての政策が条約改正のためという面を強く有していた。条約改正はまた、単に屈辱条約を撤廃しようというだけではなくて、日本の国力の基礎としての経済力の充実の問題と密接につながっていた。このように、条約改正事業は日本の近代化、国力の伸張の一側面としても理解されたため、国内治安の維持や法制改革も並行して推し進められたのであり、外交上の最優先課題とされたのであった。ここに、後にアジア主義へとつながっていく民間の理想主義に対して、明治政府首脳部が一貫して採った現実主義の外交姿勢が確認できる。 陸奥宗光によって法権を回復した日本は、小村壽太郎によって税権の束縛をも脱し、欧米諸国と完全に対等の関係を樹立しえたが、これは、非キリスト教国としては画期的な成果であったといえる。それを可能にしたのは、それぞれの外交担当者の粘り強い努力や極東を巡る国際情勢の変化はもとより、日本における民主主義の成長や資本主義の発展を基礎としていた。青木周蔵は、最初の対英覚書において、立憲制度と治外法権とは到底両立しうるものではないとの認識を示しており、榎本武揚も外相時代に立憲政体の下に治外法権の存在することは許さないとして、その決意を述べている。憲法発布後、枢密顧問官となっていた寺島宗則は、青木・榎本の言を引用して即時完全対等条約を主張し、伊藤博文もまた、国会開設後は国民の要求を満足させることのできない条約は結びえないと記している。ここにおいて日本が、いたずらに外国人への排斥的行動に出ることなく、一貫してあくまでも外交上合法的なかつ粘り強い交渉努力によって、劣悪な国際法上の地位を一歩一歩着実に向上させていったことの意味は見落とせない。 経済面では、1880年代末にはいわゆる「資本の原始的蓄積」を完了し、90年代には産業資本主義の基礎が確立して、少なくとも日本国内においては、欧米資本主義と対等に競争しうる環境が整っていた。このような眼前の事実が、国内の商工業者に内地開放に対しても自信を持たせ、それと引き替えに法権・税権を回復しようという要求、また、そうすることによって自国内市場を完全に確保しようという要求が起こった。このことについて、歴史学者の井上清は「日本人は近代民族として、政治的にも経済的にも、1890年代には、もはや不平等条約というかせをうち破らねばやまないまでに成長してきた」と表現している。 かくして条約改正は、国内的には、1899年に外国人に居住・旅行の自由と営業の自由とを認める「内地雑居」の状況を生み出した。ただし、日本国民と比較して極めて大きな経済力を持ち、習慣や思想を異にする外国人が日本人の間に入ってきて自由に生活し、生産活動や経済活動に従事することは、従来の日本社会に一大変革をもたらす大問題であり、いわば「第二の開国」と呼びうる衝撃であったことは確かである。この時期の労働問題はじめ社会・経済の問題を扱った著作としては横山源之助『内地雑居後之日本』が著名である。 課題として残されたのは、永代借地権であった。これは、日本人と同じ条件のもとで所有権を与えるよりも実は深刻な問題を残した。というのも、借地ないし地上の建物に対する、あるいはこれらを標準とする租税は国税・地方税問わず一切課税できなかったからである。こうした外国人保有地は、1903年(明治36年)段階で横浜、神戸、東京、大阪、長崎各市で総計48万8553坪におよんだ。永代借地権を完全に解消する協定が成立したのはようやく1937年(昭和12年)にいたってのことであり、それが実施に移されたのは、さらに5年後のことであった。 世界史的にみれば、日本と同様、列国と不平等条約を結んでいた中国(中華民国)がその束縛から解き放たれたのは1943年(昭和18年、民国32年)にいたってのことであった。蒋介石率いる中華民国では、穏健着実で現実路線を採りつづけた日本とは対照的に、政府みずから現行条約の非合法性を掲げて外国の諸権益の即時奪還を主張し、国権回復運動という民族主義的エネルギーを動員する急進的ないし理想主義的な方法が採られたのである。 そして、先進国と後進国との間で法的差別が完全に撤去されたのは、第二次世界大戦の終わった植民地解放後のことであった。 =国崎町= 国崎町(くざきちょう)は、三重県鳥羽市の町名。国崎は文字通り「くにざき」と読むこともある。紀伊半島および志摩半島の最東端に位置し、それが町名の由来となった。郵便番号は517‐0031。住民基本台帳に基づく2015年7月31日現在の人口は344人、2010年10月1日現在の面積は3.572644km。 伊勢神宮の神饌として代表的なアワビはこの国崎町で調製されている。「石鏡女に国崎男」と言われ、国崎町には美男が多いとされている。 ==地理== 鳥羽市南東部に位置し、離島部を除けば鳥羽市の最東端にある。大王崎などと並ぶ海の難所として知られた地域である。東側が太平洋に面し、沿岸は海岸侵食によって形成された断崖が多い。集落は南東部の前之浜から丘陵部にかけて広がる。海岸段丘に集落が展開し、その背後には畑作地があり、水田はわずかな窪地や谷あいに帯状に形成された。畑地の奥は広大な森林地帯であるが、土地の栄養分が貧弱なため用材を生産する林業は発達していない。 岬 ‐ 鎧崎、剣崎北および西は浦村町、北東は石鏡町(いじかちょう)、南は相差町(おうさつちょう)と接する。 国崎町は海間谷(かいまだに)と里谷(さとだに)の2つのタニ(谷)に分けられ、それぞれのタニはさらに2つのハイ(配)に分かれる。ハイは他の地域のクミ(組)と同じである。 ===小・中学校の学区=== 市立の小・中学校に通学する場合、国崎町全域が、弘道小学校・長岡中学校の学区となる。町内にあった国崎小学校は、2011年(平成23年)3月31日に廃校となった。 ==歴史== ===古代から中世=== 少なくとも古代より、伊勢神宮に奉納する熨斗鮑(のしあわび)をはじめとする御贄を産出する地であった。神代には倭姫命が巡幸した地であると言われ、海女・お弁が命に獲った鮑を献上したとされる。鎧崎や大津など5か所で遺跡が見つかっており、古くからの人々の居住が窺える。古記録では「国崎神戸」(国崎本神戸、国崎嶋とも)と書かれ、志摩国に3か所ある朝夕御饌の供進地の1つであった。 天永2年(1111年)の記録『国崎神戸文書』では、内宮や外宮への供祭物として水取鮑・玉抜鮑・甘掻鮑・津布・荒蠣・塩を、直会料や六節御贄として魚貝類若干を納めたほか、「丁部」として労役が課されていた。国崎の船に関する記録がいくつか残されており、文明13年(1481年)には勢田川を通航する国崎舟に対して「新役」が課されたことを内宮に訴え、同17年(1485年)に国崎船が北畠氏によって一志郡矢野浦で拿捕(だほ)される事件が発生し、永禄8年(1565年)には大湊へ3艘の国崎船が入港していることが分かっている。 中世に入ると、それまで別個の地域として扱われてきた大津と合併して「大津国崎神戸」となったようである。また大津集落は明応7年(1498年)に発生した明応地震による津波で流失した。鎌倉時代には伊勢神宮の権力が低下し、各地の神戸が神宮の支配に抵抗し、その支配から離脱したにもかかわらず、国崎では多少の抵抗や代償を要求することはあっても積極的に神宮から離脱しようとはしなかった。これは、抵抗によって調進量を減少させることに成功した上、神宮の威を借りて豊かな漁場を住民が独占的に利用できたことや上述の国崎船に関する事件の際に神宮が対処したことが理由として考えられる。 ===近世=== 江戸時代には、志摩国答志郡国府組に属し、国崎村として鳥羽藩の配下にあった。17世紀には神領への復帰を2度申し立てたが、石鏡村との境界争いで神宮が国崎村を有利に導けなかったことから、次第に鳥羽藩と神宮の二重支配への疑問が村人の中から挙がり、調進を停止する旨を神宮に通告した。その後は神宮から対価を得て調進したり、山田奉行や鳥羽藩からの圧力を受ける形で調進を続けた。 村高は延享3年(1746年)時点では176石余だったが、天保(1830年から1844年)には168石余に減少している。毎年6月1日には、国崎村をはじめとして神島・菅島・答志・石鏡・相差・安乗の7村から海女が集まる「御潜神事」が挙行され、アワビ採取を行った。神事に集まる海女の滞在費用は国崎村持ちであり、重い負担であった。神事は明治4年まで続いた。宝永地震(宝永4年=1707年)では津波によって大半の漁船・漁具が流され、生活は困窮、捕鯨ができなくなったという。 ===近代から現代=== 明治維新期は1874年(明治7年)に国崎戸長役場、1878年(明治11年)に三重県第十六区的矢組戸長役場、1879年(明治12年)に石鏡村国崎村戸長役場、1882年(明治15年)に国崎村戸長役場、1884年(明治17年)に相差村外五ヶ村戸長役場と目まぐるしく所属を変えたが、町村制施行時には相差村などと合併して長岡村の大字国崎となり、昭和の大合併により鳥羽市の1町・国崎町となった。伊勢神宮の御厨からの御贄貢進は1871年(明治4年)に制度としては廃止されたが、国崎の熨斗鮑の献上が絶えることはなかった。明治20年代(1887年 ‐ 1897年)になると海女の集団出稼ぎが始まり、北海道の利尻島・礼文島・宗谷、三陸海岸の釜石、伊豆半島や南紀でのテングサ採取、竹島でのアワビ採取に従事し、明治中期以降「出稼ぎにいってこなければ一人前でない」と言われるほど女性の間で一般化した。出稼ぎの発達の背後にはボラ網漁の衰退があり、1939年(昭和14年)には完全にボラ網漁が中止された。旧漁業法により1901年(明治34年)、国崎漁業組合が発足し、その後名称を変えながらも国崎の自治組織と付かず離れずの関係を維持してきた。 戦後は観光業が盛んになり、旅館や民宿などの宿泊施設が多く開業し、パールロードには鳥羽展望台が建設された。鳥羽展望台は三重県庁の外郭団体である財団法人三重ビジターズ推進機構が運営していたが、2002年(平成14年)から有限会社ノアの運営となった。 国崎町内にあった鳥羽市立国崎小学校は、2011年(平成23年)3月31日に廃校となり、弘道小学校へ統合された。旧国崎小学校校舎は、2013年(平成25年)4月から鳥羽市立相差保育所の仮園舎として利用される。 ===沿革=== 1889年(明治22年)4月1日 ‐ 町村制施行により答志郡長岡村大字国崎となる。1896年(明治29年)3月29日 ‐ 答志郡と英虞郡の合併により、所属郡が志摩郡に変更。志摩郡長岡村大字国崎となる。1954年(昭和29年)11月1日 ‐ 昭和の大合併により鳥羽市国崎町となる。 ===町名の由来=== 志摩国の東端に位置することから、国の先(崎)という意味で「国崎」となった。 ===人口の変遷=== 高度経済成長期まで二男・三男らは都市へ出されていたので、戸数の増加は抑制されていた。 総数 [戸数または世帯数: 、人口: ] ==生活慣行== 両墓制と隠居制度が行われていた。地縁・血縁・年齢階梯によって生活秩序が保たれ、階層間の支配関係はほとんど見られない。海女の関係する祭りとして、1月2日に「磯端はじめ」としてアワビ採取の真似を行って1年の豊漁を願う。1月5日には八幡祭、11月18日には二船祭を執り行う。 1月6日に「海の七草」を家長が刻み、翌1月7日に七草粥にして食す「ナナクサタタキ」という風習がある。2017年(平成29年)1月に国崎町の「くざき鰒おべん企業組合」がワカメ、黒海苔、アオサ、ヒジキ、アラメ、アカモク、メカブの「七草」を乾燥・粉末化し、炊き込みご飯にして食べる商品を開発、販売開始した。 ==経済== 基幹産業は水産業である。農業も行われ、戦前までは主として自給用であったが、戦後は米・タマネギ・サツマイモなどを町外に販売できるまでに規模を拡大した。 ===水産業=== 水産業は国崎町の重要な産業であり、1980年代初頭には93%が漁業に従事していたが、専業漁家はなかったという。1960年(昭和35年)には専業漁家が14世帯存在し、町内総生産の74%を漁業が占めた。農業生産上優位にある家庭では漁業生産上も優位にある傾向が見られ、国崎では農業と漁業が不可分であることを示す。男性は刺網などの沿岸漁業、女性は海女漁業に従事する。また近隣の集落では見られない男性の海士も存在する。三重県教育委員会による調査では、2010年(平成22年)現在、女性の海女が62名、男性の海士が5名であった。1937年(昭和12年)には男性の海士だけで50名いた。 国崎の地先漁場は南北約4km、東西(沖合)約1kmであり、北から順に、上境・あらめした・ながま・鎧崎・前浜・みじもの・まえあらめ・下境と呼ばれる8つの区画に細分されている。国崎ではこれらの区画を輪番で使用し、禁漁区に規定以下のアワビを放流することで水産資源の保護に努めてきた。こうした「漁場輪番制」は1925年(大正14年)に制度化された。海女漁業は1960年代の国崎町の漁業生産の大部分を占め、4分の3はアワビであった。海女の年間出漁日数は100日と鳥羽市内では桃取町に次いで多い。アワビの採取が行われる「口開け」は年間約40日であり、この間は男女を問わずほぼすべての労働力がアワビ採取に投入されていた。1年の操業は、水揚げ量の合計が規定量に達すると停止していたが、資源の減少により規定は撤廃されている。また乱獲防止のためウェットスーツは1戸につき1着まで、という規定があったが、廃止された。 ===国崎漁港=== 国崎漁港(くざきぎょこう)は、三重県鳥羽市国崎町にある第1種漁港。1953年(昭和28年)3月5日に漁港指定を受け、鳥羽市が管理する。海の難所であり、長い間漁港を築くことが困難であった。築港に当たっては、住民による無報酬のアワビ採取が行われた。 1963年(昭和38年)度の「整備計画漁港」指定以来、24年をかけて港の修築が行われ、2001年(平成13年)度からは沖合防波堤の建設を進めている。2009年(平成21年)の属地陸揚量と属人漁獲量はともに134.6t、属地陸揚金額は95百万円である。 ==交通== 交通は陸上・海上ともに恵まれているとは言えない。町内の道路は漁村特有の狭い坂道が連なっている。路線バスの終点である国崎バス停は、国崎集落の南端にあり、集落北端の鎧崎までは徒歩10分程度である。 ===道路=== 三重県道128号鳥羽阿児線(パールロード) ‐ 国崎町の中央部を南北に通る一般県道。三重県道750号阿児磯部鳥羽線 ‐ 国崎町東部を南北に通る一般県道。鳥羽市道横山線・鳥羽市道長尾山線 ‐ パールロードと阿児磯部鳥羽線を結ぶ。 ===路線バス=== ■三重交通国崎口バス停(志摩営業所管内)72系統(パールロード特急線) 鳥羽バスセンター72系統(パールロード特急線) 志摩スペイン村■かもめバス(鳥羽市営バス)国崎バス停4系統 鳥羽小学校4系統 畔蛸口5系統 鳥羽バスセンター5系統 鳥羽マリンターミナル(佐田浜)5系統 国崎(終点)5系統 鳥羽展望台 ==施設== 鳥羽市立相差保育所(仮園地)鳥羽磯部漁業協同組合国崎支所箱田山園地 鳥羽展望台鳥羽展望台鳥羽サンレポータウン(別荘地)五感の宿 慶泉(神代温泉)たまや旅館浜辺の宿 丸文魚の栖 網元 丸仙民宿かどやくつろぎの宿 福若海女の郷 ==社寺等== 海士潜女神社 ‐ 鎧崎にある神社で、倭姫命にアワビを献上したお弁を「潜女神」として祀る。常福寺 ‐ 海間谷にある、曹洞宗の仏教寺院。山号は宝剣山。元は大津にあったが明応地震による津波で集落ごと滅失し、小字里中に移り、後廃寺となったが正保元年(1645年)に厳州によって再興された。1919年(大正8年)に里谷にあった海蔵寺の本尊・不動明王が常福寺に移された。神宮御料鰒調製所 ==文化財== 国崎のノット正月 ‐ 1月17日に挙行される、藁の船に正月の神を乗せて送り出す行事。2011年(平成23年)3月9日に記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財(選択無形民俗文化財)に選択された。紙本墨書国崎文書 ‐ 朝廷や伊勢神宮から下賜された中世の11通の文書。所有者は鳥羽磯部漁業協同組合国崎支所。1960年(昭和35年)5月17日指定の三重県指定有形文化財(文書)。国崎の熨斗鰒づくり ‐ 2004年(平成16年)10月18日指定の三重県指定無形民俗文化財。