=バリ島= バリ島(インドネシア語: Pulau Bali)は、東南アジアのインドネシア共和国バリ州に属する島である。首都ジャカルタがあるジャワ島のすぐ東側に位置し、周辺の諸島と共に第一級地方自治体(Provinsi)であるバリ州を構成する。2014年の島内人口は約422万人である。バリ・ヒンドゥーが根ざした地域として知られるが、1990年代以降、イスラム教徒の移民流入が目立つようになっている。 ==地理== ===位置=== バリ島は環太平洋造山帯に属する小スンダ列島の西端に位置している。島の東にはロンボク海峡を挟んでロンボク島があり、西にはバリ海峡を挟んで大スンダ列島に属するジャワ島がある。バリ海峡の最も狭い所は3km 程であり、バリの海岸からはジャワ島の姿形をとらえることができる。 このような地理的関係にあるバリ島は、広くはインド洋を中心にフィリピンから紅海までを繋ぐ「1つの海」の周縁に位置し、他の東南アジア地域と同様、古来より、この広大な海における交易を介した人と物、言葉と思想の移動、交通の一地点となった。そして、この交易を統制すると共に、人々の生活の小宇宙を形成する王国が誕生し、バリ島の「歴史」が紡がれ始める。 ===地形=== バリ島の面積は5,633km。島の北部を東西に火山脈が走り、バリ・ヒンドゥーにおいて信仰の山とされるアグン山(標高 3,142 m)やキンタマーニ高原で知られるバトゥール山(標高 1,717 m)など多くの火山を有している。バトゥール山近辺には温泉も湧出している。この火山帯の活動により、バリ島の土壌はきわめて肥沃なものとなってきたと同時に、時に人々に災害をもたらしてきた。 そして、バリ島の南部では、火山脈に位置するブラタン湖などの湖水からの流れが下流域に向かって分岐している。その分岐と水量は古来より計算通りに案配されてきたものであり、スバックと呼ばれる伝統的な水利組織によって21世紀初頭までその自然環境と共に維持されている。そして、この水系によって島の南側全体が緑にあふれる土地になっている。 これに対して北部では雨こそ少ないが、コプラやコーヒーが栽培され(キンタマーニ・コーヒーなど)、牧畜も行われている。また、島の西部は、ほとんどが深い森林に覆われた最高1,000m前後の丘陵地帯になっており、海岸沿いの漁村を除けば、ほとんど無人である。今現在では一大観光地として発展しているバドゥン半島も乾燥地帯である。 したがって、バリの村落の大半は、一部の都市地域を除けば農村であり、土地の農業利用率が極めて高い。農業は水耕農作が中心であり、とりわけ、棚田で知られるバリ島中南部の斜面一帯では、上にみたように年間を通じて安定した水の供給がなされ、二期作から三期作が可能となっている。ただし、21世紀初頭では平野部を中心に急速に宅地化が進んでもいる。 ===気候=== バリ島周辺はサバナ気候に属し、その季節は、北西季節風の吹く雨季(10月 ‐ 3月)と、南東季節風の吹く乾季(4月 ‐ 9月)とに明確に分かれる(この季節風による荒波によって海上交通が困難であったことが一因となって、以下に見るようにバリ島は島外世界から相対的に独立性を保った歴史的発展をとげることになった)。乾期の間は東部、北部を中心にたびたび水不足に陥る。また雨季といっても、一日中雨が降る訳ではなく、実際には多くても一日に2 ‐ 3時間のスコールである。ただし、ひどいときには道路が30cmほど浸水することもある。 一年を通じて気温の変化はほとんどなく、年間の最低平均気温は約24度、最高平均気温は約31度、また、平均湿度は約78%である。いつでも暑く湿度も高いが、体に感じる暑さは、海からの風によって和らげられている。 ===生態=== バリ島の動植物のほとんどはアジアの他の諸島から渡ってきたものであり、バリ島原産のものはまれで、アジアに特徴的にみられる動物相、植物相が広がっている(東のロンボク島との間に生物地理区の境界を表すウォレス線が走っている)。 動物については、古くから、トラ、野牛、猿、キツツキ、パイソン、ヤモリなどが数多く棲息し、300種類以上の鳥類が観察できるが、1940年頃にはバリトラが絶滅し、鳥類で唯一の原産種でありバリ州の州鳥であるカンムリシロムクもまた近絶滅種となっている。さらには、近代農業の進展やリゾート地での殺虫剤の散布などによる生態系の変化も見られる。バリで唯一の原野が残されている西部国立公園では、灰色の猿やリス、イグアナなどの野生生物が生息している。また、バリの人々にとって馴染み深いのは、トッケイヤモリと呼ばれる大型のトカゲであり、鳴き声を7回連続で聞くと幸福が訪れるという言い伝えがあるほか、害虫を捕食することから大切に扱われている。 植物では、ワリンギンと呼ばれるベンガルボダイジュがインド文化の影響から霊木として扱われ、香しいジュプン(プルメリア)と共に寺院や民家の庭などで広く見られる。また、バンブー(竹)も多く生息しており、儀礼の開始の合図として用いられるガムランの笛の材料になっている。他には、多種多様のヤシが実っており、ココナツ、砂糖、燃料、繊維などが採出されている。 ==歴史== ===有史以前=== 紀元前2000年頃には、台湾起源のオーストロネシア語族が居住していたとされ、紀元前1世紀頃から交易を介してインドや中国の影響を受けるようになり、ドンソン文化の影響を受けた銅鼓が発見されるなど、古くから人が住み稲作を中心とした文明が開けていた。 4世紀に入ると、ヒンドゥー教に属するジャワの人々が来住し、ヒンドゥー・ジャワ時代を迎え、その初期からジャワ王の支配下のもとで発展を続けた。そして、西暦913年頃に、ようやく、スリ・クサリ・ワルマデワによって独自のワルマデワ王朝が築かれたとされている。 ===ジャワ王朝の影響(11世紀 ‐ 16世紀)=== 11世紀に入るとバリ島の王朝は東ジャワのクディリ王国との繋がりを強めるようになる。スバックなど21世紀初頭でも続いている伝統的な文化・慣習の起源は少なくともこの頃にまで遡ることができ、例えば、カヤンガン・ティガや家寺院の建立は、この頃にジャワから渡ったヒンドゥーの僧侶クトゥランが広めた慣行とされている。1248年には、クディリ王国を滅ぼしたジャワのシンガサリ王国クルタナガラ王の軍隊によって征服され服属するも、その8年後には、当のシンガサリ王国が新王国マジャパヒトによって滅ぼされたために、再び自由を手にする。 しかし、1342年、今度はマジャパヒト王国に侵攻され、ついに400年近く続いたワルマデワ王朝は終焉を迎える。マジャパヒト王国は、クディリ王国末裔ムプ・クレスナ・クパキサンの第四子スリ・クトゥット・クレスナ・クパキサンを遣わしゲルゲル王国を築かせ、バリ島はマジャパヒト王国の間接的な支配下に置かれることとなったのである。 しかし、16世紀にマジャパヒト王国がイスラム勢力の侵入により衰亡すると、王国の廷臣、僧侶、工芸師たちがバリに逃れてくるようになる。そして、彼らの影響によって、古典文学や影絵芝居、音楽や彫刻などヒンドゥー・ジャワの影響を受けた文化が花開いた。さらには、ジャワから渡来したヒンドゥーの高僧ダン・ヒャン・ニラルタがタナロット寺院やウルワツ寺院など数々の寺院を建立するなど、宗教面での発展も見られた。 ===群雄割拠による王国時代(17世紀 ‐ 19世紀)=== しかし、ゲルゲル王国の黄金時代は長くは続かず、1651年、ゲルゲルの王が家臣の謀反をきっかけとしてクルンクン(現在のスマラプラ)に遷都すると、その実権は各地に拠点をおいた貴族家の手に移ってしまう。そして、17世紀から18世紀にかけて、各地の貴族は自らがマジャパヒト征服時の貴族(とりわけ、ヒンドゥー教高僧ワオ・ラオ)の正統な末裔であることを自称するようになり、クルンクン王国のほかに7つの小国(タバナン王国、バドゥン王国、ギアニャール王国、カランガスム王国、バンリ王国、ムンウィ王国)が乱立し、バリ島は群雄割拠の時代を迎えることとなった。 17世紀には、オランダ東インド会社を初めとしたヨーロッパ勢力の進出が見られたが、これといった特産品のないバリ島は植民地統治上特に重視されず、各地方の王族の支配によるバリ人による自治が長く続いた(ちなみに、バリ島に最初に上陸したヨーロッパ人は、1597年のオランダ商船乗組員であった)。 このバリの王国の権力構造を分析した人類学者のクリフォード・ギアツは、それを「劇場国家」のメタファーで描き出している。すなわち、ギアツによれば、 〔バリの〕国家が常に目指したのは演出(スペクタクル)であり儀式であり、バリ文化の執着する社会的不平等と地位の誇りを公に演劇化することであった。バリの国家は、王と君主が興行主、僧侶が監督、農民が脇役と舞台装置係と観客であるような劇場国家であった。 こうしたギアツの劇場国家論は、確かに象徴人類学の金字塔であったが、しかし、その後、「洗練された象徴世界の解読は時間なき固定化された世界を描き出し、実践が生み出される歴史過程を喪失」しているとの批判が生まれた。そして、21世紀初頭では、儀礼世界と権力世界との二項対立を乗り越えた分析によって王国の歴史的過程には大きな流動性が存在していたことが明らかにされ、「王国の流動性を制するからこそ王の存在とその力は明らかとなり、その力によって階層秩序が支えられている」ことが描き出されている。 ===オランダ帝国によるバリ征服(19世紀末 ‐ 20世紀初頭)=== 19世紀末になると当時の帝国主義的風潮の下、オランダ海上帝国がバリ島の植民地化を進め、各地の王家を武力により支配下に置き始める。 ===バリ戦争=== まず1846年にバリ島側の難破船引き上げ要請を口実として、東北部に軍隊を上陸させ、ブレレンとジュンブラナを制圧(バリ戦争)。 ===ロンボク戦争=== その後も徐々に侵攻を進め、1894年にはロンボク戦争でロンボク国とカランガスム王国を獲得した。 ===バリ島全土征服=== 1908年には、最後に残ったクルンクン王国を滅ぼし、全土をオランダ領東インド領土、植民地とするに至った。 しかし、この際にバリ島の王侯貴族らがみせたププタン(無抵抗の大量自決)によってオランダは国際的な非難を浴びることとなり、オランダ植民地政府は現地伝統文化を保全する方針を打ち出すことになった。 ===オランダ植民地時代=== ====文化保護政策==== この伝統文化保護政策にとって大きな影響を与えたのが、1917年のバリ島南部大地震以降の厄災である。この地震による死者・負傷者はそれぞれ1000名を上回り、翌1918年には世界的に流行したインフルエンザがバリにも波及、さらに1919年には南部バリでネズミが大量発生し穀物の収穫量が激減した。こうした災難を当時のバリの人々は、当時の政治的・社会的な混乱の中で神々に対する儀礼をおざなりにしていたことに対する神の怒りとして捉えた。そこで、清浄化のために、バロンの練り歩きやサンヒャン・ドゥダリ(憑依舞踊)が盛んに行われるようになり、呪術的な儀礼、演劇活動がバリ中で活性化することになった。ところが、こうした一時的な現象を、オランダ人たちはバリの伝統文化として理解し表象し、震災復興と共に保護を進めたのである。とりわけ復興計画の中心人物だった建築家のモーエンは、バリの真正な伝統文化の存在を信じ、地震前のバリが中国文化やヨーロッパ文化を移入していたことを問題視して、こうした「あやまち」を復興の過程で排除することを目指したが、結局のところ、彼もまたオリエンタリズムの枠組みから逃れることはできなかったとの評価がされている。 以上のようなオランダの文化保護政策を背景として、バリ島は「最後の楽園」のキャッチ・コピーならびに「上半身裸体の婦女」のイメージと共に欧米に紹介され、とりわけグレゴール・クラウゼの写真集『バリ島』に魅せられた欧米の芸術家が来島するようになった(1924年にバタビア ‐ シガラジャ間の定期船の就航が始まっている)。例えば、1932年にバリを訪れたチャールズ・チャップリンは、「バリ行きを決めたのは(兄の)シドニーだった。この島はまだ文明の手が及んでおらず、島の美しいおんなたちは胸もあらわだというのだ。こんな話が僕の興味をかきたてた」と記している(なお、この間の観光客数は、1920年代には年間1,200 ‐ 3,000人ほどであったが、1930年代中盤には年間3万人に達したとする統計も見られる)。 ===バリ・ルネッサンス=== こうして、彼ら欧米人の影響を受け、1930年代のバリは「バリ・ルネッサンス」の時k代を迎え、現在の観光の目玉である音楽(ガムラン等)、舞踏(レゴン、ケチャ等)、絵画の様式が確立することとなった。この中心にいたのは、ウブドの領主であるチョコルダ・スカワティ一族に招待されたドイツ人の画家で音楽家であるヴァルター・シュピースである。彼の家には、メキシコの画家ミゲル・コバルビアスやカナダの音楽研究家コリン・マックフィー、人類学者のマーガレット・ミード、グレゴリー・ベイトソン、オーストリアの作家ヴィッキイ・バウムなどが集った。彼/彼女らは、総じて「真正なバリ」へとそのまなざしを向け、「バリのバリ化」を進めることになった。 また、オランダは、カーストの位階秩序を固定化し、各地の王族を通した間接支配を行い、灌漑・道路等農業設備を整理しアヘンやコーヒーといった商品作物の栽培を奨励するとともに、学校の設営、風俗改革(裸身の禁止)等のヨーロッパ的近代化政策も実施した。また、貴族と平民の間の格差が強調される一方で、奴隷制が廃止されるなど平民間の身分間の違いが薄まったことで、「平等的な村落社会」という特質が強化されることにもなった。 ===第二次世界大戦と日本軍の占領統治(1942 ‐ 1945年)=== 第二次世界大戦(大東亜戦争)中にバリ島は大日本帝国の占領下に置かれた。1942年2月、日本軍が進出を開始。オランダ軍が駐屯していなかったため、日本軍にはほとんど被害がなく、バリ島沖海戦の勝利を経て、わずか20日でオランダ軍は全面降伏した。現地人は反植民地主義の「解放者」として出迎えるも、同年6月にはオランダと同様の統治体制が敷かれることになった。この際には、戦前からバリ島で商売を営み信望を集めていた民間人・三浦襄が日本軍の民政部顧問として、軍部と現地社会との仲介役、緩衝役となって活躍した。 しかし、戦況の悪化に伴い物資、労働の徴集が強圧的に進められるようになると、現地の生活は困窮を極めることとなり、1944年の半ばからはジャワと連携した抗日独立運動も見られるようになった。同年9月、インドネシア独立を容認する小磯声明が出され、1945年4月にはスカルノが来島しインドネシア独立に向けて演説。民族団結の気運がにわかに高まり、7月に「小スンダ建国同志会」が結成される。 三浦は日本人として唯一、この同志会に加わり、事務総長に就任、インドネシア独立に向けて活動した。しかし、まもなく敗戦を迎え、独立計画は頓挫。1945年9月7日、三浦は、バリの人々に対して、日本の国策を押しつけ無理な協力をさせたことを謝罪して自害した。 ===ングラ・ライの玉砕とインドネシア独立(20世紀中葉)=== 1945年8月17日、ジャカルタでスカルノがインドネシア共和国の独立を宣言。「小スンダ州」とされたバリでは親共和国派による統治体制の確立が画策されていた。しかし、戦前以来の旧体制の切り崩しが進まず、1946年3月には再びオランダが上陸し、親共和国派の企図は失敗に終わる。このオランダ上陸に対しては激しいゲリラ戦が展開され、そのクライマックスである1946年11月20日には、バリ島西部のマルガにて、グスティ・ングラ・ライ中佐が壮烈な戦死を遂げ、彼の率いていたゲリラ部隊も全滅した(しかし、その勇名は今日のバリ島の国際的な玄関口であるングラ・ライ空港(デンパサール国際空港の現地正式名称)にとどめられている。なお、この際には旧日本軍の残留日本兵の加勢がみられ、このこともあってか独立戦争後の現在、バリの人々の対日感情は良好である)。 このゲリラ戦を鎮圧したオランダは、1946年12月、バリを親オランダの「東インドネシア国」に帰属する自治地域として宣言し、旧体制を利用したオランダによる間接統治が敷かれることになった。ただし、この中でも共和国派と親オランダ派の抗争は続き、1949年にオランダがインドネシア共和国に主権委譲をした後は共和国派が優勢になり、1950年の独立をもって、ついにバリは共和国に組み込まれることになった。 しかし、スカルノ時代のバリ島社会は大いに乱れ、とりわけ国民党と共産党による政治的な対立が地域社会にまで及んだ。1965年の9月30日事件に端を発する共産党狩りの際には、一説によるとバリ島だけで10万人が虐殺された。 ===スハルト体制下の観光開発(20世紀後半)=== スハルトによる開発独裁の時代に入ると、バリ島はようやく平穏を取り戻す。そして、インドネシア政府の周到な配慮の下、観光による外貨獲得を最大の目的とした観光開発が始まり、1970年代以降、世界的な観光地へと成長することとなった。 1963年、日本からの戦争賠償金によりサヌールにバリ・ビーチ・ホテルが建設され、1966年に開業。1967年にングラ・ライ空港が開港すると、サヌールがバリ島へのマス・ツーリズムの最初のメッカとなった。 ただし、当時のサヌールやクタでは無計画な開発が進みインフラ面でも大きな支障が出ていたことから、ジャカルタ中央政府は新たにヌサドゥアをパッケージ型の高級リゾートとして開発することを決定。日本のパシフィックコンサルタンツインターナショナルが具体的な計画策定を担当した。ただし、当時のオイル・ショックなど世界的な経済不況により開発は進まず、1983年になり、わずか450室の客室とともにヌサドゥア・ビーチが開業した。しかし、その後、ヌサドゥアは世界有数のホテルが林立する一大リゾートへと発展していく。 このようにバリ島の観光開発は長らく中央政府主導で集権的に進められ、観光関連の税収のほとんども中央に吸い上げられてきた。しかし、現地の人々は、このように中央主導によって「創られた伝統」をそのまま受け止めることはなく、逆に自らの伝統の価値に自覚的な関心を持つようになり、画一的なイメージや「観光のまなざし」と向き合いながら、自身の文化を巧みに鍛え上げることにもなった。 1989年に入ると、バリ州政府は、独自に観光開発のマスタープランの見直しを行い、ガジャマダ大学から総合観光村タイプの開発が提唱され、これを採用。ヌサドゥアのような大規模開発とは対極をなす、バリの村の日常的な生活、文化を観光客が体験できるような「観光村」の整備が開始され、2008年現在、プングリプラン、ジャティルイの2村が完成している。 ===地域自治の動きとテロリズム(20世紀末 ‐ 21世紀初頭)=== スハルト政権末期には、中央主導による大規模な開発に対する反対の声が強まり、アダットに根ざした環境保護運動となって現れ、1998年のスハルト政権の崩壊後は、1999年の地方分権法を経て、地域自治の動きが強まっている。そして、その動きを加速させたのが、2度にわたるテロ事件である。バリ島は、欧米先進国からの裕福な白人系観光客が集まると共に、異教徒であるヒンドゥー教圏であることから、2001年のアメリカ同時多発テロ事件以降のイスラム過激派による国際テロリズムの格好の標的とされたのである。そして、以下の2度の大規模な無差別テロ事件が発生した。 2002年10月12日 : クタ地区の人気ディスコを狙った自爆テロ。犠牲者202名。詳しくはバリ島爆弾テロ事件 (2002年)を参照。2005年10月1日 : ジンバラン地区及びクタ地区のレストランを狙った同時多発自爆テロ。死者は容疑者3人を含む23名。詳しくはバリ島爆弾テロ事件 (2005年)を参照。いずれもイスラム過激派ジェマ・イスラミアによるものとされる、この2度のテロ事件によりバリ島の観光業は深刻な影響を受けることになったが、2007年には過去最高の外国人旅行者数を記録するなど、今ではかつての賑わいを取り戻している。しかし、他方で現地社会では、ジャワ島他からのイスラム教徒の移民労働者の増加に対する社会不安が高まる一方である。 ==生活と宗教 ‐ バリ・ヒンドゥーの世界== ===地域生活=== バリ島の地域社会では、バリ・ヒンドゥーに基づく独特な慣習様式(アダット)に従った生活が営まれており、オランダ植民地化以後も近代行政(ディナス)と併存するかたちで続いている。21世紀に入ってもなお、バンジャールやデサと呼ばれる地域コミュニティをベースとして、様々な労働作業(ゴトン・ロヨン)や宗教儀礼が共同で執り行われており、バンジャールからの追放は「死」に等しいとまでされているほどである。 また、バリの人々は、特定の目的ごとに「スカ」ないし「スカハ」と呼ばれるグループを形成して対応することが多い。例えば、ガムラン演奏団、青年団、舞踊団、自警団、合唱団といった具合に、スカはときにバンジャールを超えて形成され、多くはバンジャールと異なり加入・脱退が自由である。こうしたありようをギアツは「多元的集団性」と呼んでいる。 このスカの組織化パターンのために、バリの村落社会構造に、極めて集合的でありながらも奇妙なまでに複雑で柔軟なパターンが生まれている。バリの人々が何かをする場合、それがひどく単純な作業であっても、集団を作る。実際のところ、この集団には、マーガレット・ミードとグレゴリー・ベイトソンが指摘したように、ほとんど常に技術的に必要な数を遥かに上回る人員が集まる。混雑し、賑わい、いくぶん乱雑であわただしい社会環境の創出は、……最も基礎的な仕事でさえ、その遂行のために必要であるように思われる。重要な社会的活動へのアリにも似た取り組み方(バリ人自身は苦笑いを浮かべながらこのことをベベック・ベベカン〔「アヒルのよう」〕と表現する)は、……いかなる集団にも1つの目的に向かう傾向がみられ……、逆説的にも、多元的集団性とでも呼びうるものに導く。 このように、人々はバンジャールなどの地域組織に属することで小さい頃から隣人との助け合いの心を身につけており、喧嘩を好まない。このような背景もあって、住民の性格は非常に温厚である。 ===宗教=== 「神々の島」とも形容されるバリ島では、人々のおよそ90%が、バリ土着の信仰とインド仏教やヒンドゥー教の習合によって成り立つバリ・ヒンドゥーと呼ばれる信仰を奉じている。バリの慣習村(デサ・アダット)では、土地や祖先神への信仰が生きており、人々はデサ・アダットの土地を清浄に保ち、穢れを避ける義務を負っている。このために、古くからの慣習(アダット)もかなり色濃く残されており、店や家の前には毎朝チャナンと呼ばれるお供え物をするなど、宗教的な活動に多くの時間が使われ、したがって、バリ島では毎日、島のどこかで祭りが行われているのである。バリ人は祭りごとが大好きであるとの話がよく耳にされるが、バリ人にとってのお祭り(ウパチャラ)とはあくまで以上のような宗教的な儀式なのである。こうした背景から、バリ人は非常に精神的に満足した者が多いといわれる。 また、バリ・ヒンドゥーの世界観は方角によっても支えられている。とりわけ重要なのが「カジャ」(山側)と「クロッド」(海側)の組み合わせである。カジャとクロッドの対比は、上と下、優と劣、清浄と不浄といった象徴的価値観と密接に繋がっており、寺院の位置や葬儀の場所、屋敷の構造などが、この対比に従って決められている。また、この秩序観から、人の頭を触ったり頭の上に手をかざすことや、左手で金銭を扱ったり食事をすることがタブーとされている。 このようにバリ島はバリ・ヒンドゥーのコスモロジーに根ざした世界が広がっているが、1990年代以降、ジャワ島を中心として数多くの人々が、観光産業での労働従事を目的として移り住み始めるようになっており、イスラム教徒が急増している。 ===言語=== 伝統的な言語としてバリ語が存在し、多くの人々はバリ語を用いてきたが、公式的にはインドネシアの公用語であるインドネシア語が用いられたり、学校教育や主要マス・メディアもインドネシア語が利用されている。都市部ではインドネシア語を主として用いる層も増えている。ただし、2000年代からの地方分権化を背景としたバリ文化再興の運動(アジェグ・バリ)の一環として、義務教育でバリ文字が教えられるようになっている。そして、2006年からはバリ・ポストから「オルティ・バリ」というバリ語の新聞が週刊で復刊され、バリの文芸作家たちが作品を発表していたり、バリ語のラジオ放送が盛んになったり、バリ語のポップ歌謡も流行りだしている。 ==文化と芸術 ‐ 観光文化としての伝統文化== 先に見たように島南部を中心として土地が肥沃であったことから、昔からバリの人々は余裕を持った生活を送ることができた。そこで、農民は朝夕それぞれ2、3時間働くと、その日の残りは絵画、彫刻、音楽、ダンスなどの創作活動に当てるなど、美術・芸術活動にも勤しんでいた。 バリの美術には、古くからのインド的性格が残存しており、時代が新しくなるにつれ、バリ島独自の土着的な性格が強くなっていく。インド色の濃い遺品として、例えば、ペジュン出土の粘土製の奉納板(8世紀頃)にはインドのパーラ朝美術を思わせる仏教尊像が描かれている。さらにインド・ヒンドゥーの石彫であるドゥルガー像(11世紀頃)が傑作として挙げられる。 ただし、今日のバリで見られる、とりわけ観光客向けの芸能・美術のほとんどは、1920年代以降のオランダ植民地時代以降の歴史のなかでバリを訪れた欧米人との共同作業によって構築されたものである。そして、これらの文化芸能は、当時の欧米人によっても、また戦後のインドネシア政府によっても、さらには大衆観光客によっても、バリの「伝統文化」として表象され、「ツーリスト・パフォーマンスが、いまやバリの伝統として認められている」。今日のバリの「伝統文化」は「観光文化」にほかならないのである。 さらに、スハルト体制崩壊後は、分権化の流れの中で、地域自治の確立を目指す動きがインドネシア社会全体でみられるようになり、バリでは、その一環として地域文化の振興が掲げられ、『バリポスト』を中心として、バリTVが創設されるなど、アジェグ・バリの運動が起きている。もちろん、現在のバリでも近代的な西洋文化を巧みに取り込み続けており、街では携帯電話を手にメールを打つ姿なども多く見られるし、また、島民の移動手段は主にオートバイとなっている。 ===舞踊・音楽=== バリ島の祭礼や儀礼には、必ず舞踊が伴う。そうした舞踏・音楽芸能についていえば、舞踊芸術のケチャやレゴン、バロン・ダンス、憑依舞踊のサンヒャン・ドゥダリ、そして、これらの伴奏にも使われるガムランやジュゴグ(竹のガムラン)がよく知られている。これらは、確かに元来は共同体の宗教儀礼として行われてきたものであるが、実際に観光客に見せているのは、共同体の祭祀からは切り離され観光用に仕組まれたレパートリーである。 その成立過程を見てみると、オランダ植民統治時代に当時の中心地シガラジャでクビヤールと呼ばれる舞踊・音楽・ガムラン編成が生まれている。そして、1920年代後半に観光客を運ぶ運転手を通じて瞬く間に南部にも広がり、観光のための創作活動が盛んになり、こうして舞踊芸術が宗教的文脈から切り離されていったのである。 例えば、バロンとランダの戦いをモチーフとしたチャロナラン劇は、そもそもは宗教儀礼として19世紀末に成立したものであるが、トランス状態に陥った男性がクリスで胸を突くといった場面が見られる21世紀現在の演劇性に富んだ形態は、1930年代前後に「観光客に分かりやすく見せるために」成立し島内に広まったものである。 今日のバリの舞踊芸術は、宗教的な重要性に応じて、以下の3段階に区分されている。 タリ・ワリ (tari wali)共同体の宗教儀式そのもの、または儀式を完結するものとして機能する舞踊。「ワリ」は「捧げ物」ないし「供物」を意味する。ルジャン、ペンデット、サンギャン、バリス・グデなどが含まれる。タリ・ブバリ (tari bebali)ワリに比べて儀式性、限定性は弱いが、宗教儀式の伴奏あるいは奉納芸として機能する。トペン、ガンプーなど。タリ・バリ=バリアン (tari balih‐balihan)タリ・バリ=バリアンは「見せ物」を意味し、観賞用、娯楽用に作られたものを指す。クビヤール・スタイルのものはこれに属する。 ===影絵芝居=== 影絵芝居(ワヤン・クリ)は、バリの人々にとって、時空を超えた知識と教養の源泉である。すなわち、芸能としてワヤンは、それを鑑賞する人間の意識の底に次第に堆積されてゆく、潜在的な価値の体系なのである。ワヤンのストーリーは、主に古代インドの叙事詩である『ラーマーヤナ』、『マハーバーラタ』であり、人形使いのダランは、サンスクリットの知識を有した特別な僧侶であるプダンダが務める。また1990年代後半頃から、ワヤン・チェン・ブロンと呼ばれる娯楽化したワヤンが若者の支持を集めるようになり、伝統的なワヤンは衰退の一途をたどっている。 ===工芸=== バリ島の伝統工芸の起原は、火葬などの宗教儀礼時の供物にある。したがって、いかに精緻に作られていようとも、強度に対する関心は低い。木彫りについては、装飾工芸として、扉や柱などの建築物、彫像、小物、演劇の仮面などで日常的に利用されてきたが、今日の動物の愛らしい彫像はやはり「バリ島ルネッサンス」の時代に生まれたものである。布地では、シーツやタオルなど幅広く用いられるサロン、織物では「ジャワ更」とも呼ばれるバティック(ならびにイカット織)がよく知られている。ほかには、チュルク村の銀細工も歴史的によく知られている。しかし、工芸品の製作者たちのほとんどは自らの創造性を生かした創作活動に励んでいる訳ではなく、その作品は値切って買いたたかれるような代物になっている。 ===バリ絵画=== 色彩豊かで緻密な描写が特徴であるバリ絵画の原点は、16世紀後半のマジャパヒト王国時代の頃とされ、王宮向けの装飾絵画として発展し、『ラーマーヤナ』、『マハーバーラタ』やヒンドゥーの多神教の神々などが題材とされてきた。当時から伝わるバリ絵画の技法はカマサン・スタイルと呼ばれ、基本的には5色(黒、白、黄、青、茶色)を使用し遠近法を用いず平面的に描かれることが多い。特にカマサン村では、伝統的な技法の継承に加え、新しい感性を加味し発展させている。 オランダ支配時代の1920年代に来島した前述のヴァルター・シュピースやオランダ人の画家ルドルフ・ボネらと、グスティ・ニョマン・レンパッドに代表される地元作家との交流から芸術家協会(ピタ・マハ協会)が生まれ、遠近法などの新しい技法が加わることでさらに発展し、バリ絵画は国際的な水準にまで引き上げられた。1930年代のピーク時には、100名以上の芸術家がピタ・マハ協会に所属していた。この間に生まれた画法としては、墨絵のような細密画を特徴とするバトゥアン・スタイル、ボネの指導によって生まれた、日常の風景を題材とするウブド・スタイルなどがある。 また、商取引によるバリ絵画作品の散逸を防ぐ動きが現地の画商の間で見られている。そのさきがけとなったのが、ウブドの画商パンデ・ワヤン・ステジョ・ネカであり、ウブドでは彼の設立したネカ美術館が運営されている。ほかには、かつてルドルフ・ボネらが1956年に開設したウブド絵画美術館(プリ・ルキサン)、デンパサールのバリ博物館、バリ文化センター、そして、1932年からサヌール海岸に居を構えたベルギー人画家ル・メイヨールの作品を収めたル・メイヨール絵画美術館などがある。しかし、他方では、高名な画家の作品を手に入れた美術品店が、それをモデルにして若い絵師に贋作を作らせ観光客に売りつけるケースもあり、美術品店嫌いの画家も多い。 ==経済と観光 ‐ バリ島経済を支える観光業== 芸能・芸術の島として知られ、かつ、早くからビーチ・リゾートが開発されてきたバリは、世界的な観光地となっており、東南アジア各地のビーチ・リゾートのモデルとなっている。先進国の経済的価値を基準として比較すると物価水準がかなり低廉であり、比較的若年層でも十分楽しめることも人気の一要素である。訪れる観光客で一番多いのは、かつては日本人であったが、現在はオーストラリア人である。したがって、バリ島の貨幣経済は観光収入で成立するものとなっており、財政面でもバリ州の収入の2/3が観光関連によるものとなっている。 バリ島は古くから農業中心であったが、バリ州の産業部門別就業人口の推移を見てみると、1971年には農林漁業が66.7%、商業・飲食・ホテル・サービス業が18.8%であり、1980年でも農林漁業が50.7%、商業・飲食・ホテル・サービス業が29.8%であったのが、2004年には農林漁業が35.3%にまで減少し、商業・飲食・ホテル・サービス業が36.4%に達している。農民の平均月収が50ドル(約5,000円)未満であるのに対して、観光業従事者のそれは50 ‐ 150ドル(約5,000 ‐ 15,000円)に達する。バリ州全体の域内総生産高でみると、農業はなお全体の20%以上を占め、観光業もバリ州のフォーマルな経済活動の40%を占めるに至っており、また、工芸品の輸出額は年額15億ドル以上に上る。 ===農業=== 先に述べたようにバリ島経済の中心には農業(水田耕作)が伝統的に位置してきたが、世界的な観光地として成長した今でもなお、30%以上が農林漁業に従事している。スハルト体制以来の観光開発が南部バリの一部地域で集中的に行われたためである。水田耕作のほかには、ココナッツやコーヒーの栽培が盛んであり、樹園地ではバナナ、オレンジ、マンゴーが、畑では大豆、サツマイモ、落花生、キャベツ、トマトなどが栽培されている。 また、1985年から2004年の間にバリ州における水田の面積は98,830から82,053へと16,741ヘクタールが減少し、その分、屋敷地および建築用地は27,761から45,746へと17,985ヘクタール増加しており、水田の宅地化が進んでいることが分かる(しかし、この間の収穫量は品種改良によって増加している)。こうした中で、土地所有層は地価の上昇による様々な利殖の機会を手にするようになっているが、他方でスバックのメンバーの圧倒的多数を占める小作人にとっては、農地の宅地化、近代化は失業を意味し、深刻な問題となっている。 ===観光業 ‐ 主な観光地と観光産業=== ====島南部のビーチ・リゾート==== 既に見たように、バリ島の観光開発は、1969年のデンパサール国際空港の開港によってマス・ツーリズム向けの大規模開発が始まり、当初は、サヌールとクタが観光のメッカとなった。やがて、1980年代に入るとヌサ・ドゥアで高級リゾート向けの計画的な開発が進められ、1990年代に入ると、開発の波はこれらの地域を越えるようになり、主にクタの南北に広がり、スミニャック、レギャン、ジンバランからタンジュン・ブノアに至るまで沿岸部に広大な観光地帯が形成されるようになった。スミニャックの北部には、タナロット寺院が位置している。サヌールやクタでは、爆弾テロ事件前後から当局と現地社会による治安維持のための取り締まりが進み、屋台なども排除されるようになっている。 バリ島は、これら島南部の海岸を舞台としたサーフィンのメッカとなっており、乾季・雨季を問わず良質な波を求めて世界各国からサーファーが訪れている。サーフポイントも多く波質もさまざまである。最近ではサーフィンで生計を立てている者も多く、サーフショップやサーフガイド、またはサーフィン関連のスポンサーから収入を得ているプロサーファーも多い。 ===州都デンパサール=== 州都デンパサールは、現地社会の商業中心地域であり、現地住民の通うショッピング・モール(バリ・モール、マタハリなど)、市場(手工芸品、織物市場のパサール・クンバサリや中央食品市場のパサール・バドゥンなど)、レストラン、公園が数多くある。その他、バリ州国立博物館やププタン広場などの観光地もある。 ===ウブド、山岳地帯=== 他方で、山側へ向かえば、山側のリゾート地域としてのバリ島の姿を見ることができる。その代表がウブドである。この「芸術の村」はオランダ植民地時代から知られており、今日では、質の高いバリ舞踊やバリ・アート、バティック等の染色技術、竹製の製品等、伝統的な文化や民芸品の数々を目にすることができる。ウブド南部には、木彫の村マスも栄えている。 こうした山あいの地域では、物質文明・近代文明のしがらみに疲れた西洋人や日本人が長期滞在しバリの文化を学んで行くケースも多く、数ヵ月から数年バリに滞在する者たちの中には、絵画、音楽、彫刻、ダンスなどを学び、さらには独自の芸術的な活動を始める人々も見られる。ウブドには、ダルム・アグン寺院の位置するモンキーフォレストや、ネカ美術館などの美術館も建てられている。 そして、バトゥール山のそびえるバリ中部の山岳地帯は、キンタマーニ高原、ブラタン湖、タンブリンガン湖やジャティルウィの棚田など、バリ島の自然の骨格が表れた地域となっている。 ===島東部、北部=== また、島の東部、北部の海岸地帯でも、1970年代以降ビーチ・リゾートとして静かに開発が進んでいる地域がある。代表的なのは、バリ島東部のチャンディダサ、アメッド、バリ島北部のロヴィナ・ビーチ、バリ島北西部のプムトゥランなどである。これらの地域は、スキューバダイビング、シュノーケリングのスポットとして有名な海辺が複数ある。その中で、バリ島東部のトランベンでは、日本軍の攻撃によって座礁したアメリカの輸送船リバティ号が、その後の火山噴火で海底に沈んでおり、ダイバーの間では非常によく知られている。 また、バリ島東部にはアグン山およびブサキ寺院が、島北部には、旧都シガラジャの港町も位置している。 ===投資=== 観光およびその周辺産業に牽引される形で、バリ島への不動産投資・運用が盛んとなり、2000年から2012年の間は年平均で20%程度の地価上昇が続いた。不動産投資家の7割はインドネシア国内の富裕層であり、残り3割が海外投資家 (法人および個人) である。その一因に、2008年の世界的金融危機 (いわゆるリーマン・ショック) によって、世界の資金が有望な投資先を探してバリの不動産市場に流入した背景がある。しかしながら2012年から2018年にかけては地価の横ばいが続いた。その理由として、不動産投資の需給が崩れたことに加え、外国人向けの住宅ローンが規制の対象となったことが挙げられる。 2018年7月には、主に日本人向けにバリ島への不動産投資や金融商品販売などの名目で、元本保証と高配当を偽って無許可で11億円を集めたとして、出資法違反容疑でアスナグループの日本人幹部らが、千葉地検および千葉県警によって逮捕される事件も起こった。 ==交通== ===島外との交通=== バリ島の玄関口であるイ・グスティ・ングラ・ライ国際空港(デンパサール空港)が島南部(クタのすぐ南)に位置しており、ジャカルタ、成田、シンガポール、シドニー、ロンドンなどの各地と航空路が結ばれている。開港当時は国策によりバリ島への直行便がなかったが、やがて解禁され、多くの観光客はこの直行便やジャカルタ経由便を利用するようになった。またインドネシアの島々を結ぶ国内線フライトの便数も多い。 海路については、ジャワ島(ギリマヌク ‐ クタパン)、ロンボク島(パダンバイ、ベノア ‐ レンバル港)、レンボンガン島ほかインドネシアの各島とフェリーで接続されており、便数も多い。インドネシア東部諸島へは長距離航路の船も運航されている。 ===島内交通=== 島内には鉄道が走っていないため、ほとんどの移動は自動車を用いることになる。 バリ島の道路事情については、まず、 ほぼ海岸に沿って主要地域を結びながら1周する道路がある。内陸部では、特に島の大部を占める南斜面の河川が南北に深く谷を刻んでいるため、それにしたがって道路が南北に走っているが、東西に走る道路はあまりない。村と村を結ぶ道路や、村内の各地域を結ぶ道路はほぼ舗装されており、自動車の通行に問題はない。なお、デンパサールにはアジアハイウェイ2号線の起点があり、海路でジャワ島方面に至る。 中産階級以下の現地住民の主たる交通手段は、オートバイやベモである。また、オジェと呼ばれるバイク・タクシーや、ドッカルと呼ばれるポニーの馬車も一部地域では見られる。 長距離移動の場合には、主要地域間のみバスが運行しており、運賃はベモよりも安いもののエアコンはない。また、ある地域から別の地域へ移動するためには、大抵の場合、デンパサールのターミナルを介さなければならない。そこで、観光客向けに島内の観光地を結ぶ冷房付きのシャトルバスが毎日数本運行されている他、ベモを1日単位でチャーターするという手段もある。また、南部の主要観光地であるデンパサール、クタ、サヌール、ヌサドゥア周辺ではメーター付きタクシーが走っており、近距離であれば最もリーズナブルな移動手段(初乗り運賃、約50円)である。 ==医療事情== 医療施設は次の通り。 SOSメディカ・クリニック‐バリ(観光客向け)BIMC(観光客向け)サングラ国立総合病院私立カシイブ病院救急車は有料で走行距離に応じて1000円 ‐ 3600円程度を支払う。 ==治安と犯罪== ===観光客に対する犯罪=== 欧米やオーストラリアと比べてもバリ島の治安は良好であるが、観光地では観光客を狙った犯罪が数多く発生しており、主にクタ、レギャンの海辺のバーなどでの詐欺を始めとして、一般観光客の金を狙った盗みや詐欺が後を絶たない。主な手口は、いかさま賭博、パンク強盗、ひったくり、強引な物売り(三つ編みやマニキュア等のサービスの押しつけ)、麻薬及び禁制品の販売などである。なお、麻薬に関しては、現地において寛容的な文化が醸成されているわけではなく、2013年にはコカインを持ち込み逮捕されたイギリス人女性に対して、死刑判決が出ていることに留意すべきである。また、「ビーチボーイ」などと呼ばれるジゴロによる日本人女性を狙ったナンパ行動やさらには性犯罪も多数発生しており、2003年には事態を重く見た日本領事館が地元警察に対して捜査の徹底を申し入れている。 これらの犯罪は、バリ人の仕業であると解釈されがちであるが、実際のところ、バリ島の観光客目当てに周辺の島からやってくる出稼ぎの若者によるものであることが多いとされており、多くのバリ人は被害者意識を持っている。また、以上の犯罪は、経済面での金銭的価値観が異なる観光客の金回りの良さが助長している可能性もある。 日本では、このような背景もあってか、バリ島を犯罪や出会いの場としてネガティブにとらえた報道が1990年代の一時期にみられた。例えば、『週刊新潮』(1995年9月7日号)の「『バリ島の妻』となった日本人女性二百人の生活」では、日本人女性がバリでセックス・ハントを行い、その結果、バリ人との結婚が急増しているが、「楽園」の夢が醒めたバリでの実際の結婚生活は必ずしも幸せなものになっていないなどと報じられた。これは現地日本人社会で大きな反発を呼び、バリ日本人会を通じて正式な抗議がなされるまでに至った。 ===現地社会の対応=== こうした問題に対して、1999年以降の分権化を背景として、バリ州政府も観光収入を確保するため、地域社会と警察の連携を進めるなど、治安の維持に力を入れている。とりわけ、慣習村(デサ・アダット)の自警団(プチャラン)がバリ州条例によって法的正統性が付され、警察との連携が進められている。こうして治安の面でも、伝統的な慣習(アダット)と近代行政(ディナス)の区分が融解をみせている。とりわけこの動きは、爆弾テロ事件後に顕著に現れ始め、バリの「伝統」文化の鼓舞が、「悪」の排除を目指すという政治社会的な意味を有するようになっている。 ===クロボカン刑務所=== 島内にはクロボカン刑務所がある。定員の3倍もの受刑者が収監される劣悪な環境にあるため、しばしば受刑者らによる暴動が発生する。2012年2月の暴動では、受刑者らが刑務所を占拠し、刑務官が撤退を余儀なくされる騒ぎとなった。 =金星の太陽面通過= 地球における金星の太陽面通過(きんせいのたいようめんつうか)は、金星が太陽面を黒い円形のシルエットとして通過していくように見える天文現象である。金星が地球と太陽のちょうど間に入ることで起こる。日面通過や日面経過、太陽面経過とも呼ばれる。記録に残る初の観測は、1639年にエレミア・ホロックスによってなされた。 金星の太陽面通過を観察することで、地球と太陽の間の距離(1天文単位)が算出可能となる。1天文単位の距離を得るために、1761年と1769年の太陽面通過では欧州を中心として国を超えた国際的な観測事業が行われ、世界各地に天文学者が派遣された。この観測プロジェクトは科学における初の国際共同プロジェクトとも評される。 金星の太陽面通過は非常に稀な現象で、近年では、8年、105.5年、8年、121.5年の間隔で発生する。直近では協定世界時2012年6月5日から6日にかけて起こった。次回は2117年12月10日から11日にかけて起こる。 ==太陽面通過の経過== 太陽面通過の間、金星は太陽の表面を東から西へ動いていく小さな黒い円盤のように見える。天体が太陽の手前を通過し、それによって太陽の一部が隠されるという点で日食と似ている。しかし、日食において太陽を隠す月の視直径(地球から見た見かけの直径)が約30分とほぼ太陽と等しいのに対し太陽面通過時の金星の視直径は約1分と太陽のおよそ30分の1しかない。金星は直径が月の約4倍もあるにもかかわらず、視直径がこのように小さいのは、太陽面通過時の金星は地球からの距離が約4100万キロメートルであり、月(地球から約38万キロメートル)の100倍以上も遠くにあるためである。 太陽面通過の開始前、金星は太陽の東側から太陽に徐々に接近してくる。しかしこの時には金星は夜側の面を地球に向けているため、見ることはできない。続いて金星が太陽面に接触する。この瞬間を第1接触という。さらに金星が太陽面の内側に入り込み、金星が完全に太陽面上にのった瞬間を第2接触という。第1接触から第2接触までは約20分かかる。その後金星は太陽面上を西へ移動していく。金星が太陽面の中心に最も近づいたときを食の最大という。さらに金星は太陽面上を西に進み、太陽の反対側の縁に到達する。この瞬間を第3接触という。第2接触から第3接触までにかかる時間は、金星が太陽面の中心にどれだけ近い部分を通過するかで大きく変わるが、2004年と2012年の金星の太陽面通過では約6時間である。さらに金星が西へ進み、完全に太陽面から離れた瞬間を第4接触という。第3接触から第4接触までは約20分である。このように長い時間がかかる現象であるため日の出前にすでに太陽面通過が始まっていたり、日没時にまだ太陽面通過の途中である場合があり、全過程を観測できる観測地は限られる。2004年の太陽面通過においては中央アジアからヨーロッパで全過程の観測が可能であった。2012年の太陽面通過ではハワイから東アジアで全過程の観測が可能であった。 第2接触の直後と第3接触の直前に金星の形が円形からずれて太陽の縁から滴り落ちる水滴のような形となり、しばらく太陽の縁にくっついた状態が数十秒間続く現象が知られている。これはブラック・ドロップ効果と呼ばれる。この現象のため、第2接触と第3接触の正確な時刻を測定するのは困難であると考えられていた。しかし時代が新しくになるにつれてブラック・ドロップ現象の報告は減っており、これは望遠鏡のピントが合っていないなどの理由による見かけの現象だとされている。 ==発生の仕組み== ===金星の内合=== 太陽面通過が起こるには、金星が地球と太陽の間に入る必要がある。このような状態を内合と呼ぶ。しかし、金星が内合になっても、地球‐金星‐太陽は一直線上に通常は並ばない。金星の軌道は地球の軌道に対して3.4度傾いており、天球上では金星は内合時に太陽の北か南を通過していくように見える。 3.4度というとそう大きい角度ではないように思うかもしれないが、地球から見ると内合時に金星が最大で9.6度も太陽から離れて見えることもある。これに対して太陽の視直径は約0.5度であるから、金星は太陽面を通過しない内合の際に太陽の北または南を太陽の直径の18倍以上離れて通過することもある。 したがって、太陽面通過が起こるのは、地球の軌道平面と金星の軌道平面が交わるところで(または極めて近くで)、金星が内合になるときである。地球の公転軌道(1年)の中で、この軌道平面の交線を通過するのは太陽を挟んで対称となる2点だけである。これらの2点を交点と呼ぶ。交点を通過する時期は、現在では6月7日頃と12月9日頃であり、太陽面通過が起こりうるのはこの前後数日に限られる。 ===起こる間隔=== 金星の太陽面通過は非常に稀な現象である。近年では、8年、105.5年、8年、121.5年の間隔で発生する。 ある時点に太陽面通過が起きたとする。地球の1恒星年は365.256日で、金星の1恒星年は224.701日なので、金星の方が太陽の周りを早く回る。太陽面通過から過ぎ去った金星が再び地球と太陽の間に達して次の内合が起こるには、前回の内合から583.924日が必要となる。この583.924日という期間を会合周期と呼び、583.924日おきに内合が発生する。しかし前述のとおり、再び内合になっただけでは、太陽面通過は起きない。軌道平面の交点上で内合が起きる必要がある。 地球が軌道平面の交点を通過するのは、半年(0.5年)おきである。よって、ある時点に太陽面通過が起きたとすると、次に太陽面通過が起きる可能性がある時期は、0.5年の整数倍経過後に限られる。前回の太陽面通過から8年経過したとき、これは0.5年の整数倍であり、なおかつ会合周期のちょうど5回分である。よって、内合になる・交点上にあるという2つの条件を満たすことができる。近年、2回の太陽面通過が8年の間隔で起きているのはこの理由による。しかし、8年経過後に全く同じ位置に金星が戻るわけでなく、前回の位置からわずかなズレが起きる。正確には8年よりも2.45日早く、内合が訪れる。8年間隔の太陽面通過が2回しか起きないのは、このズレが蓄積することによる。16年後にはズレは大きくなり、内合する金星は太陽面を通らず、太陽面通過は発生しなくなる。 一方で、会合周期を66回繰り返すとほぼ105.5年経過となる。これも0.5年の整数倍となっている。近年の発生間隔に105.5年があるのは、この周期によるものである。また、会合周期を76回繰り返すとほぼ121.5年となる。近年の発生間隔121.5年はこの周期によるものである。 発生の日付は現在では6月7日頃と12月9日頃だが、この日付は年代と共にゆっくりと遅い時期になっていく。年代を遡るともっと早い時期に起きており、1631年以前は、この日付は5月か11月であった。これは、太陽暦の1年(太陽年)は地球が太陽を正確に1周するのにかかる期間(恒星年)よりも少し短いためである。 8年、105.5年、121.5年以外の間隔でも、太陽面通過は発生する。例えば、113.5年、129.5年、137.5年といった間隔でも起きる。これらの年数は、会合周期71回、81回、86回に相当する。現在の「8年、105.5年、8年、121.5年」という間隔も、全体で見れば 8 + 105.5 + 8 + 121.5 = 243年 (5 + 66 + 5 + 76 = 152回)という1つの周期に相当する。546年から1518年までは太陽面通過は8年、113.5年、121.5年という間隔をおいて起こっており、紀元前425年から546年までは太陽面通過は常に121.5年おきに起きていた。現在の「8年、105.5年、8年、121.5年」間隔は、1396年から始まり、3089年まで続く。3089年の後は、129.5年後という周期で次の太陽面通過が訪れる。1396年の1つ前は、113.5年前に発生している。 一方、もう一つの内惑星である水星は金星よりも太陽に近いところをより速く公転している。そのため水星の太陽面通過はあまり珍しい現象ではなく、20世紀と21世紀にはそれぞれ14回ずつ起こる。 ==一般的な観察方法== 太陽面通過中の金星の影は、肉眼でも確認可能な角度を持っており、金属を蒸着させた太陽観測用フィルター(観察用グラス)を使用して減光することで、肉眼でも安全に観察可能となる。ただし、フィルターを使用しても有害な光を完全に防ぐことはできないので、長時間観察を続けずに、こまめに目を休憩させることが推奨されている。 太陽の観測に望遠鏡や双眼鏡を用いる場合は、失明を含む視覚傷害のリスクを避けるために十分に減光するか、投影法を用いるように勧告されている。 ==観測の歴史== ===背景=== 金星の太陽面通過の観測に対して(非常に珍しい現象であることとは別に)科学的な興味が持たれていた元々の理由は、太陽系の大きさを測定することができる可能性があるからであった。17世紀までには天文学者はそれぞれの惑星間の距離の関係を地球と太陽の間の距離を単位(1天文単位)として計算できていたが、1天文単位の絶対的な距離(マイルやキロメートル単位)はあまり正確に分かっていなかった。 太陽面通過の精密な観測は、この1天文単位、すなわち太陽と地球の間の絶対的な距離を測定する方法となる。その方法は、地球の広範囲に離れた観測点で太陽面通過が始まる時間か終わる時間の僅かな違いを厳密に測定するというものである。すると地球のある2点間の距離が、三角測量の原理で金星と太陽の間の距離を測る物差しのように使える。 また、太陽との距離は角度である地心視差から間接的に定めることもできる。地心視差とは地球の中心(地心)から天体を見るときと地表上から天体をみるときの方向差のことで、特に天体が地平線上に存在するときの地心視差を地平視差と呼ぶ。さらに、観測者が赤道上にいるときに観測される太陽の地平視差を太陽視差と呼ぶ。太陽視差の値から天文単位を間接的に求めることができるため、天文単位距離の値そのものよりも、金星の太陽面通過を利用して太陽視差の値を求めることが行われてきた。 現在の1天文単位の距離は、149 597 870.700 km で定義されており、また、広く受け入れられている太陽視差の値の一つは、8.794 143秒である。 ===17世紀=== ====1631年==== ドイツの天文学者ヨハネス・ケプラーは金星の太陽面通過の詳細に予測した最初の人物と考えられている。1629年、ケプラーは、彼のルドルフ表をもとにして、金星の太陽面通過が1631年12月6日に起こると予測した。ケプラーは1630年に死去し、自身の予測を確かめることはなかった。ケプラーの予測にもとづいて、フランスのピエール・ガッサンディはパリから観測を行おうとした。しかしケプラーの予測は十分に正確ではなく、ガッサンディは結局観測することはできなかった。現在の計算によれば、パリでは1631年12月7日の日の出の約50分前、太陽が観測できる前に太陽面通過は終了していた。 ===1639年=== 金星の太陽面通過の最初の観測は、イギリスのエレミア・ホロックスによって1639年12月4日(当時イギリスで使われていたユリウス暦では11月24日)に行われた。ホロックスは、当時のフィリッペ・ファン・ランスベルゲの金星の軌道表に誤りがあることを発見し、1639年に金星の太陽面通過が起こることを独自に見出した。ケプラーも次の太陽面通過は1761年に起こると考えており、1639年の太陽面通過は予測できていなかった。 ホロックスの観測は、彼の居住地であったマッチフール (Much Hoole) というイングランドのプレストンの近くにある村で行われた。彼の友人であったウィリアム・クラブトリーも、マンチェスターの近くのサルフォードから観測を行った。15時までは太陽面通過は起きないとホロックスは予測していたが、万全を期すためにその日は夜明けから一日中、断続的に観測を続けた。13時から15時までのどうしても外せない用事を済ませて観測に戻ると、太陽面通過が始まっていた。日の入り前、ホロックスは15時15分、15時35分、15時45分の太陽面上の金星位置を記録することに成功した。クラブトリーも同じく日の入りの直前に観測に成功する。観測記録をもとにしてホロックスは、地球・太陽間距離を地球の半径の約15,000倍、太陽視差で14秒と算出した。この距離は現在受け入れられている値のおよそ2/3倍程度だったが、それまで考えられていた値よりも現在の値に近いものであった。 ホロックスは1641年に、クラブトリーは1644年に死去する。ホロックスは自身とクラブトリーの観測記録を論文にまとめたが存命中に出版されることはなかった。この原稿は1662年にヨハネス・ヘヴェリウスによって出版され、彼の業績が日の目を見ることになる。 ===18世紀=== ====1761年==== 1716年、イギリスの天文学者エドモンド・ハレーが1761年に起こる金星の太陽面通過を世界各地から観測して1天文単位の正確な値を得るための、国際的な共同研究プロジェクトを提案した。この提言を受けて、1761年と続いて太陽面通過が起きる1769年に、各国の科学アカデミーや学会から多数の探検隊が世界の様々な場所へ太陽面通過を観測するため派遣された。国を超えて行われたこれらの観測を、アンドレア・ウルフ(英語版)は「史上初の世界的な科学プロジェクト」と評している。ハレーは1742年に死去し、自身がこの研究プロジェクトを直接指揮することはできなかった。ハレー自身も自分の高齢のために1761年の太陽面通過に間に合わないことを理解していたため、どこでどんな観測をすべきかという詳しい説明を残し、好機を逃さないことを多くの天文学者たちに伝えた。 1761年の太陽面通過は、フランスのジョゼフ=ニコラ・ドリルが中心となって、ヨーロッパ各地の天文学者に観測を呼びかけられた。ハレーの方法は太陽面通過の始まりから終わりまでの経過時間の記録を必要とするものだったが、ドリルはこれを改良して、2つの観測地点から通過開始(第2接触)、または通過終了(第3接触)の時刻を記録するだけで事足りる方法を提案した。太陽面通過の全過程を観測できる地域は限られているため、ドリルの方法であれば、さらに多くの地点を観測地にすることができる。一方で、ドリルの方法は観測地点の正確な経度を把握する必要がある。しかし、経度の情報は当時はまだ不十分だった。 フランス、イギリス、ロシア、スウェーデン、建国前のアメリカの天文学者たちが1761年6月6日の太陽面通過観測に乗り出した。特にフランスとイギリスは、最も理想的な観測地点となるインドと東インド諸島、その対となるシベリアまで観測隊を派遣し、最も多くの派遣を行った。当時の航海の手段は木製の帆船であり、難破や病気などの危険と隣り合わせの長く険しい旅が余儀なくされた。天文学者たちの冒険の様子を「望遠鏡付きの象牙の塔の住人というより、聖杯を探し求める冒険家インディー・ジョーンズ」とキティ・ファーガソン(英語版)は記している。基本的には、植民地などで自国の支配地としていた地域をそれぞれの観測地とした。フランスはギヨーム・ル・ジャンティをインドのポンディシェリへ、アレクサンドル・パングレをインド洋のロドリゲス島へ派遣し、イギリスはネヴィル・マスケリンを南大西洋のセントヘレナへ、ジェレマイア・ディクソンとチャールズ・メイソン(英語版)をスマトラ島のベンクーレンへ派遣した。 当時は七年戦争の最中でもあり、政治情勢としても航海には危険な状態であった。ベンクーレンを目指していたイギリスのディクソンとメイソンは、出帆から2日後にフランス軍艦に遭遇し、死者も出た激しい戦闘に巻き込まれた。南アフリカの喜望峰までディクソンとメイソンは辿りついたものの、太陽面通過までの時間が残っておらず、なおかつベンクーレンがフランスに奪われた報せを聞いたディクソンとメイソンは、ベンクーレンでの観測を諦めて喜望峰で観測を行った。ポンディシェリを目指したフランスのル・ジャンティも航海中に敵艦に遭遇することがあったが、霧に助けられるなどして上手く逃走することができた。しかし、目的地のポンディシェリ付近に着いたところで、イギリス軍によってポンディシェリは包囲されてしまったという知らせをル・ジャンティは受け取る。上陸できなかったル・ジャンティは、インド洋上に浮かぶ不安定で地理的位置も不明瞭な船上から観測を行うこととなった。 ロシアのアカデミーは、天文学の素養を持つ人材の不足から、当初は自国から派遣は出さずにフランスに派遣を打診した。フランスはこの打診を受けてジャン・シャップ・ドートロシュをシベリアのトボリスクに派遣することを決めたが、この連絡はロシアに届いておらず、ロシアは自国の観測者を訓練してイルクーツクとネルチンスクへ派遣を行った。行き違いがあったが、シャップはトボリスクでの観測をロシアに認めてもらい、旅を継続した。結氷したヴォルガ川を超え、太陽面通過の6日前にシャップはなんとかトボリスクに到着し、良好な観測を成し遂げている。シャップは、この旅の記録を後に『シベリア旅行記』として出版した。 建国前のアメリカでは、北アメリカ大陸で数少ない観測可能な地域であるニューファンドランド島のセントジョンズにてジョン・ウィンスロップが観測を行った。スウェーデンではペール・ヴィルヘレム・ワルゲンティン(英語版)を中心に観測計画が進められ、当時はスウェーデンの支配下にあったフィンランド東部のカヤーニへアンダーシュ・プランマンを派遣した。本国でも多くの天文学者が観測を行い、ドリルはパリで、ワルゲンティンはストックホルムで観測を行った。ロシア首都サンクトペテルブルクで観測を行ったミハイル・ロモノーソフは、金星が太陽面から出ていくときの様子から金星に大気があることを予測した。 1761年の太陽面通過では、最終的には、60以上の場所で120以上の観測が行われた。しかし、後にブラック・ドロップ効果と呼ばれる太陽面の縁に金星がくっついた状態が続く現象が観測時に起こり、接触の正確な時間を特定できなかった。さらには観測地点の経度が正確に把握できていなかったことなども悪影響した。観測結果にもとづき各国の天文学者たちは太陽視差の計算を行ったが、報告された値は8.28秒から10.6秒まで様々で、当初に期待していたほどの正確な測定はできなかった。しかし、前の太陽面通過からホロックスによって測定された値よりも、現在の値である8.79秒に大きく近づいた。 ===1769年=== 次の太陽面通過は1769年6月3日に発生した。それまでの間に七年戦争は終結して、航海時の安全は向上した。また、啓蒙思想がヨーロッパ各国の権力層にも広がったおかげで科学事業への協力を得やすくなり、各国の国王も観測事業の全面的な支援を行う者が増え、観測に向けた状況は改善していた。これを逃すと次の太陽面通過は1874年まで起こらないため、今回の観測成功は必須となっていた。ブラック・ドロップ現象克服のために、より性能の高いアクロマート望遠鏡(英語版)も普及した。 1769年の観測には、前回の国々にデンマークも新たに加わり、マキシミリアン・ヘル(英語版)とその助手のヤーノシュ・シャイノヴィチ(英語版)を当時デンマークの支配下にあったノルウェーのバルデに派遣した。アメリカでは、前回に観測を行った天文学者はウィンスロップだけだったが、1769年にはフィラデルフィアのアメリカ哲学協会(英語版)もアメリカの地位向上を目指して観測に参加した。デイビット・リッテンハウス(英語版)が計算を行い、それをもとに3箇所でアメリカ哲学協会の会員たちが観測を行った。ロシアも、エカチェリーナ2世がロシアの地位・名声の向上のために、前回よりも大がかりな観測隊を準備させた。エカチェリーナは、東の最果てのヤクーツクまでも含めて、8つの遠征隊を広い帝国の各地域へ派遣した。 フランスでは、ドリルに代わりジェローム・ラランドが計画の指揮を執っていた。1761年に遠征したパングレとシャップとル・ジャンティは、1769年の太陽面通過でも再び遠征地にて観測を行った。パングレは中央アメリカのハイチへ派遣され、観測を行った。シャップはメキシコのバハ・カリフォルニアへ遠征し、良好な観測を達成した。しかし、当時のメキシコではチフスが流行しており、観測隊も次々に感染して亡くなっていった。観測後に看病しながら仕事を続けていたシャップも感染し、観測地にて没した。シャップの観測記録は、観測隊の生存者によって1年後にパリへ届けられた。1761年にはインド洋上で観測を強いられたル・ジャンティは、観測後はフランス本国には戻らずにインド洋周辺に滞在し、次の太陽面通過に向けて準備を行った。ル・ジャンティはフィリピンのマニラで観測を行うことにしたが、フランス本国からはインドのポンディシェリで観測がより良いと連絡が届けられた。1769年、ル・ジャンティは予定を変更してポンディシェリで観測を行ったが、当日の天候は曇りで、太陽面通過を観測することはできなかった。さらには、観測の帰途で船が難破し、11年を経てパリへ帰還した際にはル・ジャンティは死んだことになっており、財産とアカデミーでの地位を失っていた。 イギリスでは、マスケリンが1765年にグリニッジ天文台の天文台長となり、1769年の観測を統率した。前回遠征したディクソンとメイソンは再度観測のために遠征し、ディクソンはノルウェーへ、メイソンはアイルランドへ派遣された。さらに、ウィリアム・ウェールズ(英語版)を北アメリカのハドソン湾へ、ジェームズ・クックを南太平洋のタヒチ島へ派遣した。ハドソン湾への航路は初夏まで凍り付くため、ウェールズは1768年の春の暮れに出航し、観測地で冬を越し、太陽面通過が起こる1769年6月まで待つ必要があった。ジェームズ・クックは、天文学者のチャールズ・グリーン(英語版)と共にエンデバー号で出航し、未開だったタヒチへの航海を成し遂げ、観測に成功した。この航海は、後にキャプテン・クックと呼ばれるクックの第1回航海に当たる。天候に恵まれて太陽面通過の様子を十分観測することはできたが、ブラック・ドロップ現象が現れ、接触の時刻を精密に記録することはできなかった。 最終的には、1769年の太陽面通過では、77つの場所で150以上の観測が行われた。観測結果にもとづく太陽視差の計算結果は、8.43秒から8.80秒までの値が報告された。1716年に観測を呼びかけたハレーの見込みでは太陽面通過の観測から1/500の精度で測定可能とされており、今回もブラック・ドロップ効果の邪魔が入る結果となった。しかし、もっと良い精度の結果が期待されてはいたものの、1761年に得られた値からさらに現代の値に近いより正確な値を得ることができた。後の1824年にヨハン・フランツ・エンケが経度の最新値と最小二乗法を使い、1761年と1769年の観測記録から太陽視差8.5776秒という値を算出した。この値は、その後四半世紀ほど太陽視差の代表的値として扱われた。 ===19世紀=== ====1874年==== 次の金星の太陽面通過は105年後の1874年12月9日に起こった。このときも欧米各国が世界中に観測隊を派遣した。アメリカ、イギリス、イタリア、オランダ、ドイツ、フランス、メキシコ、ロシアが派遣隊を出している。観測地は 北半球:ウラジオストック、長崎、北京、カイロ、ロシア全域、ホノルル、サイゴン南半球:ケルゲレン諸島、ホバート、キャンベル・タウン(英語版)、クイーンズランド、チャタム諸島、ロドリゲス島、モーリシャス、ヌメア、サンポール島の地域に及んだ。 1862年にアサフ・ホールが火星を利用して太陽視差を測定したものの、結果は8.841秒とエンケの値とも離れた値が得られたことから、1874年の金星の太陽面通過は依然として天文単位を決定する貴重な機会だった。ジョージ・ビドル・エアリーは、1857年に天文単位の決定を ”the noblest problem in astronomy”(天文学上の最も崇高な問題)と述べている。前の観測以降に写真機が発明され、この新たな技術が観測に使われた。フランスでは、太陽面通過観測のためにピエール・ジャンサンが連続撮影可能な回転式の写真機 ”revolver photographique”(写真のリボルバー)を発明した。シャルル・ウォルフ(フランス語版)と協力者のシャルル・アンドレは太陽面通過を再現する機械を製作し、ブラック・ドロップ現象の解明を行った。 1874年の太陽面通過では、日本も太陽面通過の全過程が観測可能な地域だったためフランス、アメリカ、メキシコがそれぞれ観測隊を派遣した。フランス隊には ”revolver photographique” を発明したジャンサンも参加していた。フランス隊は長崎と神戸に隊を分け、それぞれで観測を行った。フランスへ留学していた清水誠も神戸のフランス隊に同行し、金星の太陽面通過の写真を15枚撮影することに成功した。アメリカ隊は長崎で、メキシコ隊は横浜で観測を行った。長崎では上野彦馬がアメリカ隊に協力している。 また、アメリカ隊のジョージ・ダビットソンは金星観測後に日本側からの要望を受け、長崎・東京間の経度差を測量した。東京には隊員のチットマンとエドワーズを派遣し、現在では「チットマン点」と呼ばれる日本最初の経度原点が決定された。諸外国の観測隊の受け入れによって、日本は観測点の経度決定法などの近代天文学上の重要な基礎技術を学んだ。このような諸外国による金星太陽面通過の観測によってもたらされた日本への影響を、斉藤国治は「科学における黒船」と評している。 今回の太陽面通過では写真などによって接触の観測の精度が向上することが期待されたが、結果は18世紀の観測よりも少し向上した程度に留まった。イギリスは写真による方法が上手く行かなかったことを認めた。アメリカは太陽面上を金星が通過している様子については多くの良い写真が撮れたが、肝心の第1接触・第2接触間と第3接触・第4接触間についての写真はブラック・ドロップ効果によって無価値だったことを報告した。このときの太陽面通過から、アメリカでの観測結果から8.883±0.034秒、フランスでの観測結果から8.81±0.06秒という太陽視差の値が報告された。 ===1882年=== 次の金星の太陽面通過は1882年12月6日に発生した。1874年の太陽面通過で期待の結果を得ることができなかったことは、次の太陽面通過の観測への意気を下げることとなった。1875年にはヨハン・ゴットフリート・ガレが小惑星フローラを利用して、太陽視差8.873秒という値を高い精度で得ていた。アメリカ海軍天文台では、1874年の観測を率いたサイモン・ニューカムは金星太陽面通過の観測を天文単位を決める最適な方法と考えることを止め、ウィリアム・ハークネスが1882年の観測を率いることとなった。 このような観測の科学的価値への疑義は生じたが、結果的には欧米各国はニュージランドから南アフリカに至る世界各地に観測隊を派遣した。各国の観測計画を調整するための国際会議が1881年10月にパリで開かれ、14の国が参加した。アメリカもパリの会議には出席しなかったが、観測隊の派遣は継続して行うこととした。ニューカムも観測隊の1つを率いて南アフリカのウェリントンで観測を行っている。 1874年と異なり、この年の太陽面通過はヨーロッパとアメリカでも観察可能で、町の広場に望遠鏡が置かれ、多くの人たちが観察する盛り上がりを見せた。ニューヨーク・タイムズは、1881年から83年にかけて継続的に金星太陽面通過の記事を出し続けた。記事では、太陽面通過の観測の歴史や観測方法の解説、1882年の各国の観測計画や結果が伝えられ、当時の太陽面通過への興味の高まりを示している。アメリカの作曲家ジョン・フィリップ・スーザは、このときの太陽面通過に触発されて Transit of Venus March を作曲した。 アメリカ海軍天文台による1882年の観測結果は、1874年と比較すると良い観測結果であった。集められた観測写真の数も1380枚に上った。アメリカでの観測結果から、ハークネスが1889年に8.842±0.0118秒という太陽視差の値を報告した。また、1895年にはニューカムが、18世紀と19世紀の4回の太陽面通過の記録から8.794±0.0018秒という値を報告した。ただし、金星太陽面通過以外の方法も含めた様々な太陽視差決定結果の中では、プルコヴォ天文台による光行差を利用して得られた値を最も重要性が高いとし、金星太陽面通過によって得られた値の重要性は低いとニューカムはまとめている。 ===21世紀=== ====2004年==== 次の金星の太陽面通過は、前回から1世紀の間を空け、2004年6月8日に発生した。前回から科学技術が発展し、金星・地球間の距離がレーダーによって直接測定可能となり、太陽面通過によって天文単位を求める必要は無くなった。1961年と62年の金星に対するレーダー観測から、天文単位の値が 149 596 000 km から 149 601 000 kmの範囲と求められた。2016年現在では、天文単位の値は実測値ではなく一定に固定された定義値となっており、その値は前述のとおり 149 597 870.700 km となっている。 太陽面通過の科学的重要性は小さくなったが、非常に稀な天文イベントは世界中の多くの人の興味を引き付けた。ヨーロッパ南天天文台とEuropean Association for Astronomy Educationが中心となって、金星の太陽面通過を題材として ”VT‐2004” というインターネットを通じた国際的な教育プログラムが行われた。太陽面通過観測に関連する企画を通じて科学への興味や知識の向上に役立てることを目的としたもので、 参加者から太陽面通過における4つの接触の観測結果を集め、天文単位を古典的な方法で再計算することも1つの目標とした。1,510人の登録参加者から4,550個の接触時刻の記録が送られ、149 608 708±11 835 km という値が計算された。 ブラック・ドロップ効果が見られるかどうかも関心の的となった。18世紀・19世紀に報告されたブラック・ドロップ効果の主原因は、望遠鏡の性能によるものという見方が現在では主流となっている。VT‐2004 へ参加した多くの観察者たちは接触の時刻を特定するのに支障は無かったと報告しており、提出された多くの写真でもブラック・ドロップ効果のような現象は起きていなかった。学術的な研究も行われ、ジェイ・パサチョフ(英語版)らは、NASAの太陽観測衛星「TRACE」による2004年の金星太陽面通過の観測結果を、1999年の水星の太陽面通過の観測結果と合わせて分析し、望遠鏡の性能だけでなく太陽の周辺減光もブラック・ドロップ効果の原因の一つと結論付けた。 また、2004年の太陽面通過の際には、金星が太陽の光の一部を遮る時の光のパターンを測定することで太陽系外惑星の捜索に使う技術を洗練させようという試みに多くの科学者たちが挑戦した。他の恒星の周囲を廻っている惑星を探すための現在の方法は、我々が固有運動の変化や視線速度の変化によるドップラー効果を発見できるほどその重力が十分に恒星を揺さぶるほどの非常に大きな惑星(木星サイズであり、地球サイズではない)にのみ有効である。惑星が一部の光を遮ることから、太陽面通過の進行中に光の強度を測定することで潜在的には遥かに高感度に小さな惑星を探索できる。しかし、極端に厳密な測定が必要である。例えば、金星の太陽面通過によって太陽の光度は0.001等級だけ暗くなる。小さな太陽系外惑星による減光の度合いは同じぐらい小さなものと考えられている。 ===2012年=== 次の金星の太陽面通過は2012年6月5日から6月6日にかけて発生した。前回に引き続いて世界中の人たちが、この天文イベントを観察した。 JAXAらの太陽観測衛星「ひので」は太陽面通過の様子を超高解像度で撮影を行った。得られた画像は、オレオール現象と呼ばれる黒い金星を包む細い光の環を捉えている。この現象は、金星が太陽面上を通過するときに太陽光が金星の大気中で屈折することで発生する。1761年に太陽面通過を観測して金星の大気を予測したミハイル・ロモノーソフは、この現象を観測して大気の存在を予測したと考えられている。 また、フランスの天文学者が中心となって ”Venus Twilight Experiment” と呼ばれる研究プロジェクトが立ち上げられ、オレオール現象を利用して金星の大気への理解を深めることなどを目標とした観測・研究が行われた。オレオール現象は2004年にも現れたが、現象を捉えて分析するための観測の最適化が整っていなかった。世界の観測可能地域へメンバーが「現代的な」遠征をして観測を行った。成果としては、金星を周回する探査機ビーナス・エクスプレスによる大気の鉛直温度分布の観測を補完するなどの結果が得られている。 次の金星の太陽面通過は、2117年の12月10日から11日にかけて起こる。 ==過去と未来の太陽面通過== 以下の表では例として、ケプラーが予測した1631年から25世紀最後までについて、金星の太陽面通過の発生日・時刻・主な観測可能地域を示している。 途中から:アフリカ中央部全過程:アジアの大部分、オセアニアの大部分途中まで:オセアニア西部 途中から:オセアニア、北アメリカ北西部全過程:北アメリカ中央部、南アメリカ東部途中まで:南アメリカ西部、アフリカ、ヨーロッパ西部 途中から:アフリカ、ヨーロッパの大部分全過程:アジア、オセアニア西部途中まで:オセアニア東部、北アメリカ西部 途中から:アジアの大部分、オセアニア東部全過程:オセアニア西部、北アメリカ西部途中まで:北アメリカ東部、南アメリカ 途中から:アフリカの大部分、アジア西部全過程:アジア東部、オセアニア西部途中まで:オセアニア東部 途中から:オセアニア西部、北アメリカ西部全過程:北アメリカ東部、南アメリカ途中まで:アフリカ、ヨーロッパ 途中から:北アメリカ東部、南アメリカの大部分、アフリカ東部全過程:アフリカの大部分、ヨーロッパ、アジアの大部分途中まで:アジア東南部、オセアニア 途中から:アフリカ東部、ヨーロッパ、アジア西部全過程:アジア東部、オセアニアの大部分途中まで:北アメリカの大部分、南アメリカ東部 途中から:アフリカ東部、アジア西部全過程:アジア東部、オセアニアの大部分途中まで:オセアニア東部、北アメリカ西端、南アメリカ南端 途中から:オセアニア東部、北アメリカ西部全過程:北アメリカ東部、南アメリカ途中まで:アフリカ、ヨーロッパ 途中から:北アメリカの大部分、南アメリカの大部分全過程:アフリカ、ヨーロッパ、アジア西部途中まで:アジア東部、オセアニア西部 途中から:アフリカ、ヨーロッパ、アジア西部全過程:アジアの大部分、オセアニア西部途中まで:オセアニア東部、北アメリカの大部分 途中から:アフリカ東部、アジアの大部分全過程:アジア東南部、オセアニアの大部分途中まで:オセアニア東部、北アメリカ西部、南アメリカ南西部 途中から:オセアニア東部、北アメリカ西部全過程:北アメリカ東部、南アメリカ、アフリカ西部途中まで:ヨーロッパ西部、アフリカ東部、アジア西部 途中から:オセアニア東部、北アメリカ西端、南アメリカ南端全過程:北アメリカの大部分、南アメリカの大部分、アフリカ西部、ヨーロッパ途中まで:アフリカ東部、アジア 途中から:北アメリカ東部、南アメリカ東部、アフリカ西部全過程:ヨーロッパの大部分、アジアの大部分、アフリカ東部途中まで:アジア東南部、オセアニア 出典:日付と時刻はNASAによる。観測可能地域はHMNAO(表内の各出典)による。注1:「開始」は第1接触を、「中央」は食の最大を、「終了」は第4接触を意味する。注2:「途中から」は太陽面通過の途中から観測可能になることを、「途中まで」は太陽面通過の途中まで観測可能であることを意味する。 ==特殊な太陽面通過== ===かすめる太陽面通過=== 時々、天体が太陽をかすめていくだけの太陽面通過がある。この通過では、地球上のある地域では完全な太陽面通過を見ることができる一方、他の地域では第2接触や第3接触が無い部分的な太陽面通過を見ることになる。1999年の水星の太陽面通過は、このような太陽面をかすめる太陽面通過(英語ではgrazing transit)であった。金星の太陽面通過では、2854年12月14日の通過がこの種類のものになると予測される。 ===同時太陽面通過=== 21世紀現在、金星の太陽面通過が起こる時期は6月上旬と12月上旬、水星の太陽面通過が起こる時期は5月上旬と11月中旬であり、それらが同時に起こることは無い。しかし、地球と水星の交点位置と地球と金星の交点位置は変化しており、ごく僅かずつであるが互いに近づいている。そのため、非常に遠い未来であれば、金星と水星の同時太陽面通過が起こることが予測される。ジャン・メーウスとアルド・ビタグリアーノの計算によれば、力学時で69163年7月26日および224508年3月27日に、このような極めて稀な同時太陽面通過が発生する。この頃には力学時と協定世界時の差は大きくなっており、協定世界時で表せば69163年3月頃と224504年4月頃にそれらが発生することになる。 日食と金星の太陽面通過が同時に起こることも、非常に稀であるが存在する。同じくメーウスとビタグリアーノによれば、これも非常に遠い未来に発生する見込みで、力学時で15232年4月5日に皆既日食と金星の太陽面通過の同時発生が起きる。同時発生ではないが、過去には1769年6月4日の金星太陽面通過で、太陽面通過に引き続いて皆既日食が起きたことが報告されている。このときの日食は、金星太陽面通過の終了から約7時間後に発生していた。 ===その他=== 紀元前90353年2月7日4時34分から始まる金星の太陽面通過は、前後1週間の間に8回も天体の太陽面通過がある特殊な1週間である。1日に月と地球で水星の太陽面通過、3日に土星で水星の太陽面通過、7日に地球と月と土星で金星の太陽面通過、8日に土星で月と地球の同時太陽面通過が発生していたと計算されている。 ==題材とする文化芸術== ===『塔上の二人』(原題:Two on a Tower )=== 1882年のトーマス・ハーディによる小説。金星の太陽面通過観測に関わるアマチュアの天文学者を主役の一人とした恋愛小説で、当時の金星太陽面通過への関心の高まりの例として挙げられる。 ===Transit of Venus March=== 1882年から1883年に発表されたジョン・フィリップ・スーザの行進曲。スーザが1882年の太陽面通過に興味を持ったことから作曲されたものだが、太陽面通過自体を祝うものではなく、スーザは1878年に死去した物理学者のジョセフ・ヘンリーを称えるために作曲した。 ===Transit of Venus=== 1992年のモーリン・ハンター (Maureen Hunter) による演劇。1761年と1769年の太陽面通過観測に派遣されたギヨーム・ル・ジャンティの地球上の様々な場所での努力を脚色したものである。2007年には同名でオペラ化された。 ===The Transit of Venus=== 2009年に発売されたイギリスのTVドラマ『ドクター・フー』のオーディオブック。太陽面通過観測のためにジェームズ・クックが航海していた1770年を舞台にする。2012年に発売されたカナダのロックバンドスリー・デイズ・グレイスの音楽アルバム。太陽面通過が起きた当日の2012年6月5日にタイトルと発売日が発表された。2014年のジュノー賞で Rock Album of the Year にノミネートされた。 =オグリキャップ= オグリキャップ(Oguri Cap、1985年3月27日 ‐ 2010年7月3日)は、日本の競走馬、種牡馬である。「平成三強」の一頭。第二次競馬ブーム期に、ハイセイコーに比肩するとも評される高い人気を得た。 1988年度のJRA賞最優秀4歳牡馬、1990年度のJRA賞最優秀5歳以上牡馬および年度代表馬。1991年、JRA顕彰馬に選出。愛称は「オグリ」、「芦毛の怪物」など多数。 ※年齢は旧表記(数え年) 1987年5月に笠松競馬場でデビュー。8連勝、重賞5勝を含む12戦10勝を記録した後、1988年1月に中央競馬へ移籍し、重賞12勝(うちGI4勝)を記録した。その活躍と人気の高さは第二次競馬ブームを巻き起こす大きな要因のひとつとなったといわれる。競走馬を引退した後は種牡馬となったが、産駒から中央競馬の重賞優勝馬を出すことはできず、2007年に種牡馬を引退した。 ==誕生に至る経緯== オグリキャップの母のホワイトナルビーは競走馬時代に馬主の小栗孝一が所有し、笠松競馬場の調教師鷲見昌勇が管理した。ホワイトナルビーが繁殖牝馬となった後はその産駒の競走馬はいずれも小栗が所有し、鷲見が管理していた。 1984年のホワイトナルビーの交配相手には笠松競馬場で優秀な種牡馬成績を収めていたダンシングキャップが選ばれた。これは小栗の意向によるもので、鷲見はダンシングキャップの産駒に気性の荒い競走馬が多かったことを理由に反対したが、最終的に提案が実現した。 なお、オグリキャップは仔分けの馬(具体的には馬主の小栗と稲葉牧場の間で、小栗が管理にかかる費用と種牡馬の種付け料を負担し、生まれた産駒の所有権を半分ずつ持つ取り決めがなされていた)で、出生後に小栗が稲葉牧場に対してセリ市に出した場合の想定額を支払うことで産駒の所有権を取得する取り決めがされていた。オグリキャップについて小栗が支払った額は250万円とも500万円ともされる。 ==誕生・デビュー前== ===稲葉牧場時代=== オグリキャップは1985年3月27日の深夜に誕生した。誕生時には右前脚が大きく外向(脚が外側を向いていること)しており、出生直後はなかなか自力で立ち上がることができず、牧場関係者が抱きかかえて初乳を飲ませた。これは競走馬としては大きなハンデキャップであり、稲葉牧場場長の稲葉不奈男は障害を抱えた仔馬が無事に成長するよう願いを込め血統名(幼名)を「ハツラツ」と名付けた。なお、ハツラツの右前脚の外向は稲葉が削蹄(蹄を削ること)を行い矯正に努めた結果、成長するにつれて改善されていった。 ホワイトナルビーは乳の出があまり良くなく、加えて仔馬に授乳することを嫌がることもあったため、出生後しばらくのハツラツは痩せこけて見栄えのしない馬体だった。しかしハツラツは雑草もかまわず食べるなど食欲が旺盛で、2歳の秋ごろには他馬に見劣りしない馬体に成長した。気性面では前にほかの馬がいると追い越そうとするなど負けん気が強かった。 ===美山育成牧場時代=== 1986年の10月、ハツラツは岐阜県山県郡美山町(現:山県市)にあった美山育成牧場に移り、3か月間馴致を施された。当時の美山育成牧場では1人の従業員(吉田謙治)が30頭あまりの馬の管理をしていたため、すべての馬に手が行き届く状況ではなかったが、ハツラツは放牧地で一頭だけ離れて過ごすことが多かったために吉田の目を引き、調教を施されることが多かった。 当時のハツラツの印象について吉田は、賢くておとなしく、また人なつっこい馬だったが、調教時には人間を振り落とそうとして跳ねるなど勝負を挑んでくることもあり、調教というよりも一緒に遊ぶ感覚だったと語っている。また、ハツラツは育成牧場にいた馬のなかでは3、4番手の地位にあり、ほかの馬とけんかをすることはなかったという。食欲については稲葉牧場にいたころと同じく旺盛で、その点にひかれた馬主が鷲見に購入の申し込みをするほどであった。 ==競走馬時代== ===笠松競馬時代=== ====競走内容==== 1987年1月に笠松競馬場の鷲見昌勇厩舎に入厩。登録馬名は「オグリキヤツプ」。 ダート800mで行われた能力試験を51.1秒で走り合格した。 5月19日のデビュー戦ではマーチトウショウの2着に敗れた。しかし調教師の鷲見はオグリキャップの走りが速い馬によく見られる重心の低い走りであることと、その後2連勝から実戦経験を積めば速くなる馬と考え、短いときは2週間間隔でレースに起用した。結局デビュー4戦目で再びマーチトウショウの2着に敗れたものの、5戦目でマーチトウショウを降して優勝して以降は重賞5勝を含む8連勝を達成した。 前述のようにオグリキャップはデビュー戦と4戦目の2度にわたってマーチトウショウに敗れている。敗れたのはいずれもダート800mのレースで、短距離戦では大きな不利に繋がるとされる出遅れ(スタート時にゲートを出るタイミングが遅れること)をした。一方オグリキャップに勝ったレースでマーチトウショウに騎乗していた原隆男によると、オグリキャップがエンジンのかかりが遅い馬であったのに対し、マーチトウショウは「一瞬の脚が武器のような馬で、短い距離が合っていた」。また、オグリキャップの厩務員は4戦目と5戦目の間の時期に三浦裕一から川瀬友光に交替しているが、川瀬が引き継いだ当初、オグリキャップのひづめは蹄叉腐乱(ひづめの内側が腐る疾病)を起こしていた。川瀬は、引き継ぐ前のオグリキャップは蹄叉腐乱が原因で競走能力が十分に発揮できる状態ではなかったと推測している。 ===佐橋五十雄への売却と中央競馬への移籍=== 1988年1月、馬主の小栗はオグリキャップを2000万円で佐橋五十雄に売却し、佐橋は中央競馬への移籍を決定した。 オグリキャップが活躍を続けるなかで同馬を購入したいという申し込みは多数あり、とくに中京競馬場(当時は地方と中央の共同使用)の芝コースで行われた8戦目の中京盃を優勝して以降は申込みが殺到した。また、小栗に対してオグリキャップの中央移籍を勧める声も出た。しかしオグリキャップに関する小栗の意向はあくまでも笠松競馬での活躍にあり、また所有する競走馬は決して手放さないという信念を持っていたため、すべて断っていた。これに対し最も熱心に小栗と交渉を行ったのが佐橋で、中央競馬の馬主登録をしていなかった小栗に対して「このまま笠松のオグリキャップで終わらせていいんですか」「馬のためを思うなら中央競馬へ入れて走らせるべきです」と再三にわたって説得したため、小栗は「馬の名誉のためには早めに中央入りさせた方がいい」との判断に至り、「中央の芝が向いていなければ鷲見厩舎に戻す」という条件付きで同意した。また、佐橋はオグリキャップが中央競馬のレースで優勝した際にはウイナーズサークルでの記念撮影に招待し、種牡馬となった場合には優先的に種付けする権利を与えることを約束した。 なお、鷲見は小栗がオグリキャップを売却したことにより自身の悲願であった東海ダービー制覇の可能性が断たれたことに怒り、笠松競馬場での最後のレースとなったゴールドジュニアのレース後、小栗が関係者による記念撮影を提案した際にこれを拒否した。オグリキャップの移籍によって笠松競馬の関係者はオグリキャップとの直接の関わりを断たれることになった。例外的に直接接点を持ち続けたのがオグリキャップの装蹄に携わった装蹄師の三輪勝で、笠松競馬場の開業装蹄師である三輪は本来は中央競馬の施設内での装蹄を行うことはできなかったが、佐橋の強い要望により特例として認められた。 ===中央競馬時代=== ====4歳(1988年)==== 中央競馬移籍後のオグリキャップは栗東トレーニングセンターの調教師瀬戸口勉の厩舎で管理されることが決まり、1月28日に鷲見厩舎から瀬戸口厩舎へ移送された。 オグリキャップの中央移籍後の初戦にはペガサスステークスが選ばれた。地方での快進撃は知られていたものの、単勝オッズは2番人気であった。レースでは序盤は後方に控え、第3コーナーから馬群の外を通って前方へ進出を開始。第4コーナーを過ぎてからスパートをかけて他馬を追い抜き、優勝した。出走前の時点では陣営の期待は必ずしも高いものではなく、優勝は予想を上回る結果だった。 移籍2戦目には毎日杯が選ばれた。このレースでは馬場状態が追い込み馬に不利とされる重馬場と発表され、オグリキャップが馬場状態に対応できるかどうかに注目が集まった。オグリキャップは第3コーナーで最後方の位置から馬群の外を通って前方へ進出を開始し、ゴール直前で先頭に立って優勝した。 オグリキャップはクラシック登録(中央競馬のクラシック競走に出走するため前年に行う予備登録)をしていなかったため、前哨戦である毎日杯を優勝して本賞金額では優位に立ったものの皐月賞に登録できず、代わりに京都4歳特別に出走した。レースではオグリ一頭だけが58キロの斤量を背負ったが第3コーナーで後方からまくりをかけ、優勝した。 なお1992年から、中央競馬はクラシックの追加登録制度(事前のクラシック登録がされていなくても、後で追加登録料200万円を払えばクラシック競走に出走登録できる制度)を導入した。 クラシック登録をしていないオグリキャップは東京優駿(日本ダービー)にも出走することができず、代わりにニュージーランドトロフィー4歳ステークスに出走した。この時オグリキャップには疲労が蓄積し、治療のために注射が打たれるなど体調面に不安を抱えていたが、レースでは序盤は最後方に位置したが向こう正面で前方へ進出を開始すると第4コーナーを通過した直後に先頭に立ち、そのまま優勝した。このレースでのオグリキャップの走破タイムはニュージーランドトロフィー4歳ステークスのレースレコードであったにもかかわらず、騎乗していた河内はレース中に一度も本格的なゴーサインを出すことがなかった。このレースでのオグリキャップの走破タイムは、同じ東京競馬場芝1600mで行われた古馬GIの安田記念よりも速かった(レースに関する詳細については第6回ニュージーランドトロフィー4歳ステークスを参照)。 続く高松宮杯では、中央競馬移籍後初の古馬との対戦、特に重賞優勝馬でありこの年の宝塚記念で4着となったランドヒリュウとの対戦にファンの注目が集まった。レースではランドヒリュウが先頭に立って逃げたのに対してオグリキャップは序盤は4番手に位置して第3コーナーから前方への進出を開始する。第4コーナーで2番手に立つと直線でランドヒリュウをかわし、中京競馬場芝2000mのコースレコードを記録して優勝した。この勝利により、地方競馬からの移籍馬による重賞連勝記録である5連勝を達成した。 高松宮杯のレース後、陣営は秋シーズンのオグリキャップのローテーションを検討し、毎日王冠を経て天皇賞(秋)でGIに初出走することを決定した。毎日王冠までは避暑(中央競馬に所属する一流の競走馬は、夏期は避暑のために北海道へ移送されることが多い)を行わず、栗東トレーニングセンターで調整を行い、8月下旬から本格的な調教を開始。9月末に東京競馬場に移送された。 毎日王冠では終始後方からレースを進め、第3コーナーからまくりをかけて優勝した。この勝利により、当時のJRA重賞連勝記録である6連勝を達成した(メジロラモーヌと並ぶタイ記録)。当時競馬評論家として活動していた大橋巨泉は、オグリキャップのレース内容について「毎日王冠で古馬の一線級を相手に、スローペースを後方から大外廻って、一気に差し切るなどという芸当は、今まで見たことがない」「どうやらオグリキャップは本当のホンモノの怪物らしい」と評した。毎日王冠の後、オグリキャップはそのまま東京競馬場に留まって調整を続けた(レースに関する詳細については第39回毎日王冠を参照)。 続く天皇賞(秋)では、前年秋から7連勝(400万下、400万特別、重賞5勝(うちGIを2勝))中であった古馬のタマモクロスをしのいで1番人気に支持された。レースでは馬群のやや後方につけて追い込みを図り、出走馬中最も速い上がりを記録したものの、2番手を先行し直線で先頭になったタマモクロスを抜くことができず、2着に敗れた(レースに関する詳細については第98回天皇賞を参照)。 天皇賞(秋)の結果を受け、馬主の佐橋がタマモクロスにリベンジを果たしたいという思いを強く抱いたことからオグリキャップの次走にはタマモクロスが出走を決めていたジャパンカップが選ばれ、オグリキャップは引き続き東京競馬場で調整された。レースでは天皇賞(秋)の騎乗について佐橋が「もう少し積極的に行ってほしかった」と不満を表したことを受けて河内は瀬戸口と相談の上で先行策をとり、序盤は3、4番手に位置した。しかし向こう正面で折り合いを欠いて後方へ下がり、第3コーナーで馬群の中に閉じ込められる形となった。第4コーナーから進路を確保しつつ前方への進出を開始したがペイザバトラーとタマモクロスを抜けず3着に敗れた。レース後、佐橋の意向から岡部幸雄に騎乗依頼が出され、岡部は「一回だけ」という条件付きで依頼を引き受けた。 有馬記念までの間は美浦トレーニングセンターで調整を行うこととなった。レースでは終始5、6番手の位置を進み、第4コーナーで前方への進出を開始すると直線で先頭に立ち、優勝。GI競走初制覇を達成し、同年のJRA賞最優秀4歳牡馬に選出された(レースに関する詳細については第33回有馬記念を参照)。 タマモクロスを担当した調教助手の井高淳一と、オグリキャップの調教助手であった辻本は仲が良く、麻雀仲間でもあったが、天皇賞後に井高はオグリキャップの飼い葉桶を覗き「こんなもんを食わせていたんじゃ、オグリはずっとタマモに勝てへんで。」と声を掛けた。当時オグリキャップに与えられていた飼い葉の中に、レースに使っている馬には必要がない体を太らせるための成分が含まれており、指摘を受けた辻本はすぐにその配合を取り止めた。有馬記念終了後に、井高は「俺は結果的に、敵に塩を送る事になったんだな。」と苦笑した(狩野洋一著 『ターフの伝説 オグリキャップ』より)。 前述のように、オグリキャップはクラシック登録をしていなかったため、中央競馬クラシック三冠競走には出走できなかった。オグリキャップが優勝した毎日杯で4着だったヤエノムテキが皐月賞を優勝した後は、大橋巨泉が「追加登録料を支払えば出られるようにして欲しい」と提言するなど、中央競馬を主催する日本中央競馬会(JRA)に対してオグリキャップのクラシック出走を可能にする措置を求める声が起こったが、実現しなかった。このことからクラシックに出走できなかったオグリキャップはマルゼンスキー以来となる「幻のダービー馬」と呼ばれた。調教師の瀬戸口は後に「ダービーに出ていれば勝っていたと思いませんか」という問いに対し「そうやろね」と答え、また「もしクラシックに出られたら、中央競馬クラシック三冠を獲っていただろう」とも述べている。一方、毎日杯の結果を根拠にヤエノムテキをはじめとする同世代のクラシック優勝馬の実力が低く評価されることもあった。なお、前述のように1992年から、中央競馬はクラシックの追加登録制度(事前のクラシック登録がされていなくても、後で追加登録料200万円を払えばクラシック競走に出走登録できる制度)を導入した。 ===5歳(1989年)=== 陣営は1989年前半のローテーションとして、大阪杯、天皇賞(春)、安田記念、宝塚記念に出走するプランを発表したが、2月に右前脚の球節(人のかかとにあたる部分)を捻挫して大阪杯の出走回避を余儀なくされた。さらに4月には右前脚に繋靭帯炎を発症。前半シーズンは全て休養に当てることとし、同月末から競走馬総合研究所常磐支所にある温泉療養施設(馬の温泉)において治療を行った。療養施設へは厩務員の池江敏郎が同行し温泉での療養のほかプールでの運動、超音波治療機による治療が行われた。オグリキャップは7月中旬に栗東トレーニングセンターへ戻り、主にプール施設を使った調教が行われた。 オグリキャップは当初毎日王冠でレースに復帰する予定であったが、調教が順調に進んだことを受けて予定を変更し、9月のオールカマーで復帰した。鞍上には4歳時の京都4歳特別に騎乗した南井克巳が選ばれ、以後1989年の全レースに騎乗した。同レースでは5番手を進み第4コーナーから前方への進出を開始し、直線で先頭に立って優勝した。ここから、4か月の間に重賞6戦という、オグリキャップの「”怪物伝説”を決定的にする過酷なローテーション」が始まった。 その後オグリキャップは毎日王冠を経て天皇賞(秋)に出走することとなり、東京競馬場へ移送された。移送後脚部に不安が発生したが厩務員の池江が患部を冷却した結果状態は改善し、毎日王冠当日は池江が手を焼くほどの気合を出した。レースでは序盤は後方を進み、第4コーナーで馬群の外を通って前方へ進出を開始した。残り100mの地点でイナリワンとの競り合いとなり、ほぼ同時にゴールした。写真判定の結果オグリキャップがハナ差で先にゴールしていると判定され、史上初の毎日王冠連覇を達成した。このレースは「オグリキャップのベストバトル」、また「1989年のベストマッチ」ともいわれる(レースに関する詳細については第40回毎日王冠を参照)。 天皇賞(秋)では6番手からレースを進めたが、直線で前方へ進出するための進路を確保することができなかったために加速するのが遅れ、先に抜け出したスーパークリークを交わすことができず2着に敗れた。南井は、自身がオグリキャップ騎乗した中で「勝てたのに負けたレース」であるこのレースが最も印象に残っていると述べている(レースに関する詳細については第100回天皇賞を参照)。 続くマイルチャンピオンシップでは第3コーナーで5番手から馬群の外を通って前方への進出を試みたが進出のペースが遅く、さらに第4コーナーでは進路を確保できない状況に陥り、オグリキャップの前方でレースを進めていたバンブーメモリーとの間に「届かない」、「届くはずがない」と思わせる差が生まれた。しかし直線で進路を確保してから猛烈な勢いで加速し、ほぼ同時にゴール。写真判定の結果オグリキャップがハナ差で先にゴールしていると判定され、優勝が決定した。南井は天皇賞(秋)を自らの騎乗ミスで負けたという自覚から「次は勝たないといけない」という決意でレースに臨んでいた。勝利によって「オグリキャップに救われた」と感じた南井は勝利騎手インタビューで涙を流した(レースに関する詳細については第6回マイルチャンピオンシップを参照)。 連闘で臨んだ翌週のジャパンカップでは、非常に早いペース(逃げたイブンベイの1800mの通過タイムが当時の芝1800mの日本レコードを上回る1分45秒8)でレースが推移する中で終始4番手を追走し、当時の芝2400mの世界レコードである2分22秒2で走破したもののホーリックスの2着に敗れた(レースに関する詳細については第9回ジャパンカップを参照)。 陣営はジャパンカップの後、有馬記念に出走することを決定したが、レース前に美浦トレーニングセンターで行われた調教で顎を上げる仕草を見せたことから、連闘の影響による体調面の不安が指摘された。レースでは終始2番手を進み、第4コーナーで先頭に立ったがそこから伸びを欠き、5着に敗れた。レース後、関係者の多くは疲れがあったことを認めた(レースに関する詳細については第34回有馬記念を参照)。 夕刊フジの記者伊藤元彦は、このレースにおけるオグリキャップについて、次のように回顧した。 最後の最後で屈辱を味わったオグリキャップの場合は、それ以前に連闘でジャパンカップを使い、目いっぱいの惜敗に終わった過酷なステップが、土壇場で影響したといわざるをえない。 ― 木村幸1997、46‐47頁。 1988年9月、オグリキャップの2代目の馬主であった佐橋五十雄が将来馬主登録を抹消される可能性が出た。それを受けて多くの馬主から購入の申し込みがあり、最終的に佐橋は1989年2月までに近藤俊典へオグリキャップを売却した。売却額については当初、1年あたり3億であったとされたが、後に近藤は2年間の総額が5億5000万円であったと明かしている。ただしこの契約には、オグリキャップが競走馬を引退した後には所有権を佐橋に戻すという条件が付けられており、実態は名義貸しであり、実質的な権限は佐橋に残されているのではないかという指摘がなされた。また、売却価格の高さも指摘された。オグリキャップ売却と同時に佐橋の馬主登録は抹消されたが、近藤は自らの勝負服の色と柄を、佐橋が用いていたものと全く同じものに変更した。 3ヵ月半の間に6つのレースに出走した1989年のオグリキャップのローテーション、とくに前述の連闘については、多くの競馬ファンおよびマスコミ、競馬関係者は否定的ないし批判的であった。この年の秋に多くのレースに出走するローテーションが組まれた背景については、「オグリ獲得のために動いた高額なトレードマネーを回収するためには、とにかくレースで稼いでもらう」よりほかはなく「馬を酷使してでも賞金を稼がせようとしているのでは」という推測がなされた。 調教師の瀬戸口は連闘に加えオールカマーに出走させたことについても「無理は少しあったと思います」と述べた。また連闘が決定した経緯について調教助手の辻本光雄は、「オグリキャップは途中から入ってきた馬やし、どうしてもオーナーの考えは優先するんちゃうかな」と、馬主の近藤の意向を受けてのものであったことを示唆している。一方、近藤は連闘について、「馬には、調子のいいとき、というのが必ずあるんです。実際に馬を見て判断して、調教師とも相談して決めたことです。無理使いとか、酷使とかいわれるのは非常に心外」としている。また稲葉牧場の稲葉裕治は、「あくまで馬の体調を見て、判断すればいいことじゃないでしょうか」と近藤に同調した。 ===6歳(1990年)=== 一時は1989年一杯で競走馬を引退すると報道されたオグリキャップであったが、1990年も現役を続行することになった。これは、日本中央競馬会がオーナー側に現役続行を働きかけたためともいわれている。 有馬記念出走後、オグリキャップはその日のうちに、休養のために競走馬総合研究所常磐支所の温泉療養施設へ移送された。オグリキャップのローテーションについては前半シーズンは天皇賞(春)もしくは安田記念に出走し、9月にアメリカで行われるGI競走アーリントンミリオンステークスに出走すると発表された。その背後には、アメリカのレースに出走経験がある馬のみが掲載されるアメリカの獲得賞金ランキングに、オグリキャップを登場させようとする馬主サイドの意向があった。 オグリキャップは2月中旬に栗東トレーニングへ戻されて調整が続けられた。当初初戦には大阪杯が予定されていたが、故障は見当たらないものの調子は思わしくなく、安田記念に変更された。この競走では、武豊が初めて騎乗した。レースでは2、3番手を追走して残り400mの地点で先頭に立ち、コースレコードの1分32秒4を記録して優勝した。なお出走後、オグリキャップの通算獲得賞金額が当時の日本歴代1位となった(レースに関する詳細については第40回安田記念を参照)。 続く宝塚記念では武がスーパークリークへの騎乗を選択したため、岡潤一郎が騎乗することとなった。終始3、4番手に位置したが直線で伸びを欠き、オサイチジョージをかわすことができず2着に敗れた(レースに関する詳細については第31回宝塚記念を参照)。オグリキャップはレース直後に両前脚に骨膜炎を発症し、さらにその後右の後ろ脚に飛節軟腫(脚の関節に柔らかい腫れが出る疾病)を発症、アーリントンミリオンステークスへの出走を取りやめて7月中旬から競走馬総合研究所常磐支所の温泉療養施設で療養に入った。 陣営はかねてからの目標であった天皇賞(秋)出走を目指し、8月末にオグリキャップを栗東トレーニングセンターへ移送したが、10月上旬にかけて次々と脚部に故障を発症して調整は遅れ、「天皇賞回避濃厚」という報道もなされた。最終的に出走が決定したが、レースでは序盤から折り合いを欠き、直線で伸びを欠いて6着に敗れた。続くジャパンカップに向けた調教では一緒に走行した条件馬を相手に遅れをとり、体調が不安視された。レースでは最後方から追走し、第3コーナーから前方への進出を開始したが直線で伸びを欠き、11着に敗れた。 ジャパンカップの結果を受けてオグリキャップはこのまま引退すべきとの声が多く上がり、馬主の近藤に宛てた脅迫状(出走を取りやめなければ近藤の自宅および競馬場に爆弾を仕掛けるという内容)が日本中央競馬会に届く事態にまで発展したが、陣営は引退レースとして有馬記念への出走を決定した。また、鞍上は安田記念以来となる武に依頼した。レースでは序盤は6番手につけて第3コーナーから馬群の外を通って前方への進出を開始し、最終直線残り2ハロンで先頭に立ち、追い上げるメジロライアンとホワイトストーンを抑えて1着でゴールイン、2年ぶりとなる有馬記念制覇を飾った。限界説が有力に唱えられていたオグリキャップの優勝は「奇跡の復活」「感動のラストラン」と呼ばれ、レース後、スタンド前でウイニングランを行った際には中山競馬場にいた観衆から「オグリコール」が起こった。なお、この競走でオグリキャップはファン投票では第1位に選出されたものの、単勝馬券のオッズでは4番人気であった。この現象について阿部珠樹は、「『心とお金は別のもの』というバブル時代の心情が、よく現れていた」と評している(レースに関する詳細については第35回有馬記念を参照)。 1990年後半において、天皇賞(秋)とジャパンカップで大敗を喫し、その後第35回有馬記念を優勝した要因については様々な分析がなされている。 調教師の瀬戸口は、この年の秋のオグリキャップは骨膜炎に苦しんでいたと述べている。また、厩舎関係者以外からも体調の悪さを指摘する声が挙がっていた。天皇賞(秋)出走時の体調について瀬戸口は急仕上げ(急いで臨戦態勢を整えること)による影響もあったことを示唆している。厩務員の池江は、馬体の回復を考えれば競走馬総合研究所常磐支所の温泉療養施設にもう少し滞在したかったと述べている。 精神面に関しては、瀬戸口と池江はともに気迫・気合いの不足を指摘していた。さらに池江は、天皇賞(秋)の臨戦過程においてテレビ番組の撮影スタッフが密着取材を行ったことによりオグリキャップにストレスが生じたと証言している。池江は、撮影スタッフの振る舞いについて次のように証言している。 テレビ局の取材攻勢はすごかった。密着取材とかいって、1週間ものあいだ24時間体制でオグリを撮りまくるんや。しかも、わしにとってもオグリにとっても不運やったんは、その取材陣というのがほとんど競走馬というものを知らない人たちで編成されていたことやった。密着取材いうても、通常は担当厩務員がいるあいだに取材なり撮影なりをして、厩務員が帰ったあとは取材側も自粛するもんや。しかし、この人たちはそうやなかった。文字どおり、24時間ぶっ続けでオグリを撮りまくったんやからね。 それだけやない。馬というのは、体調のよくないときやひとりでいたいときには馬房の奥に隠れて出てこない。そういうときには、そっとしておいてやるのが一番なんやが、この人たちはニンジンや草をちらつかせてオグリを誘い出したりもしたらしい。 しまった、と気がついたときには、もう手遅れやった。オグリがぱったりとカイバを食べんようになってしもたんや。 ― 藤野1994、p193 体調に関しては、第35回有馬記念に優勝した時ですらよくなかったという証言が複数ある。オグリキャップと調教を行ったオースミシャダイの厩務員出口光雄や同じレースに出走したヤエノムテキの担当厩務員(持ち乗り調教助手)の荻野功がレース前の時点で体調の悪化を指摘していたほか、騎乗した武豊もレース後に「ピークは過ぎていたでしょうね。春と違うのは確かでした」と回顧している。レース前のパドックでオグリキャップを見た作家の木村幸治は、その時の印象について「レース前だというのに、ほとんどの力を使い果たして、枯れ切ったように見えた」、「ほかの15頭のサラブレッドが、クビを激しく左右に振り、前足を宙に浮かせて飛び跳ね、これから始まる闘いへ向けての興奮を剥き出しにしているのに比べれば、その姿は、誰の目にも精彩がないと映った」、「あふれる活気や、みなぎる闘争心は、その姿態から感じられなかった。人に引かれて、仕方がなく歩いているという雰囲気があった」と振り返っている。しかし厩務員の池江によるとこの時、オグリキャップの手綱を引いていた池江と辻本は、天皇賞(秋)の時の倍以上の力で引っ張られるのを感じ、「おい、こら、もしかするとひょっとするかもしれんぞ……」と囁きあったという。 中央競馬時代のオグリキャップの診察を担当していた獣医師の吉村秀之は、オグリキャップが中央競馬へ移籍した当初の時点で既に備えていたが大敗を続けた時期にはなくなっていたスポーツ心臓を有馬記念の前に取り戻したことから体調の上昇を察知し、家族に対し「今度は勝つ」と予言していた。 ライターの渡瀬夏彦は天皇賞(秋)とジャパンカップで騎乗した増沢末夫について、スタート直後から馬に気合を入れる増沢の騎乗スタイルと、岡部幸雄が「真面目すぎるくらいの馬だから、前半いかに馬をリラックスさせられるかが勝負のポイントになる」と評したオグリキャップとの相性があまりよいものではなかったと分析している。笠松時代のオグリキャップに騎乗した青木達彦と安藤勝己も同様の見解を示した。一方、武豊とオグリキャップとの相性について馬主の近藤は、オグリキャップには「いいときと比べたら、80パーセントの力しかなかったんじゃないかな」としつつ「しかし、その80パーセントをすべて引き出したのが豊くん」とし、「オグリには豊くんが合ってた」と評した。武によると有馬記念では第3‐4コーナーを右手前で走らせた後直線で左手前に替えて走らせる必要があったが、左手前に替えさせるためには左側から鞭を入れて合図する必要があった。しかしオグリキャップにはコーナーを回る際に内側にもたれる癖があり、その修正に鞭を用いる場合、右側から入れる必要があった。そこで武は 最後の直線の入り口でオグリキャップの顔をわざと外に向けることで内にもたれることを防ぎつつ、左側から鞭を入れることでうまく手前を替えさせることに成功した。 大川慶次郎は、有馬記念はレースの流れが非常に遅く推移し、優勝タイムが同じ日に同じ条件(芝2500m)で行われた条件戦(グッドラックハンデ)よりも遅い「お粗末な内容」であったとし、多くの出走馬が折り合いを欠く中、オグリキャップはキャリアが豊富であったためにどんな展開でもこなせたことをオグリキャップの勝因に挙げている。またライターの関口隆哉も、「レース展開、出走馬たちのレベル、当日の状態など、すべてのファクターがオグリキャップ有利に働いた」としている。岡部幸雄は「極端なスローペースが良かった」としつつ、「スローに耐えて折り合うのは大変」「ある意味で有馬記念は過酷なペースだった」とし、「ピタッと折り合える忍耐強さを最も備えていたのがオグリキャップだった」と評した。なお、野平祐二はレース前の段階で有馬記念がゆったりした流れになれば本質的にマイラーであるオグリキャップの雪辱は可能と予測していた。 ===引退式=== 1991年1月、オグリキャップの引退式が京都競馬場(13日)、笠松競馬場(小栗と佐橋との間には「オグリキャップが引退した時には笠松競馬場に里帰りさせる」との取り決めがあった)(15日)、東京競馬場(27日)の3箇所で行われた。 引退式当日は多くの観客が競馬場に入場し、笠松競馬場での引退式には競馬場内だけで笠松町(笠松競馬場の所在地)の当時の人口(2万3000人)を上回る2万5000人、入場制限により場外から見物した人数を合わせると約4万人が詰めかけたとされる。笠松競馬場での引退式に参加した安藤勝己は、競馬場内が「普通ではない」と感じるほど盛り上がる中でもオグリキャップが動じる様子を見せることはなかったと振り返っている。安藤はオグリキャップに騎乗して競馬場のコースを2周走行し、岐阜県がオグリキャップを、笠松町が小栗と鷲見を表彰した。 ==競走成績== 通算:32戦22勝(地方12戦10勝/中央20戦12勝) タイム欄のRはレコード勝ちを示す。上記「競走成績」の内容は、netkeiba.com「オグリキャップの競走成績」に基づく。 ==引退後== ===種牡馬となる=== 引退後は北海道新冠町の優駿スタリオンステーションで種牡馬となった。種牡馬となったのちのオグリキャップは2代目の馬主であった佐橋が所有し、種付権利株を持つ者にリースする形態がとられた。これは実質的にはシンジケートに等しく(種牡馬の所有権が佐橋1人にある点が、権利株の所有者が種牡馬を共有するシンジケートと異なる)、その規模は総額18億円(1株3000万円(1年あたり600万円×5年)×60株)であった。1991年のゴールデンウィーク(5月5日)にはオグリキャップを見学するために、当時の新冠町の人口に匹敵する6000人が優駿スタリオンステーションを訪れた。 ===喉嚢炎を発症=== 1991年7月28日、オグリキャップが馬房の隅でぐったりとしているのが発見され、発熱、咳、鼻水などの症状がみられるようになった。はじめは風邪と診断されたが回復がみられなかったため精密検査を受け、その結果喉嚢炎(馬の後頭部にある袋状の器官の炎症)による咽頭麻痺と診断された。8月下旬から3人の獣医師によって治療が施されたが、9月11日には炎症の進行が原因で喉嚢に接する頸動脈が破れて大量の出血を起こし、生命が危ぶまれる重篤な状態に至った。合計18リットルの輸血を行うなどの治療が施された結果、10月上旬には放牧が可能な程度に病状が改善した。 ===オグリキャップにちなんだレースの開催=== 1992年、笠松競馬場でオグリキャップを記念した「オグリキャップ記念」が創設された。一時はダートグレード競走として行なわれていたが、現在は地方全国交流競走として行われている。また、2004年11月21日にはJRAゴールデンジュビリーキャンペーンの「名馬メモリアル競走」として「オグリキャップメモリアル」が施行された。 ===種牡馬を引退=== 産駒は1994年にデビューし、初年度産駒のオグリワン、アラマサキャップが中央競馬の重賞で2着し期待されたが、中央競馬の重賞優勝馬を出すことはできず、リーディングサイアーでは105位(中央競馬と地方競馬の総合)が最高成績であった。血統登録された産駒は日本軽種馬協会のデータベース(JBIS)によると342頭であった。 2007年をもって種牡馬を事実上引退し、引き続き功労馬として優駿スタリオンステーションに繋養されていた。2007年5月1日にはグレイスクインがオグリキャップのラストクロップとなる産駒、ミンナノアイドルを出産した。2012年7月1日の金沢競馬の競走でアンドレアシェニエが予後不良となったのを最後に、日本国内の競馬場からオグリキャップ産駒は姿を消した。 ===主な産駒=== フルミネート ‐ サラブレッド系3歳優駿。後に馬術競技馬「ワダルコ」となる。アラマサキャップ ‐ クイーンステークス2着。孫にアイビスサマーダッシュの勝ち馬ラインミーティアがいる。オグリワン ‐ ききょうステークス、小倉3歳ステークス2着。ノーザンキャップ ‐ 中央競馬3勝、種牡馬オグリエンゼル ‐ 地方競馬27勝、如月賞アンドレアシェニエ ‐ 地方競馬14勝、オグリキャップ産駒最後の現役競走馬。2012年7月死亡。ミンナノアイドル ‐ オグリキャップ最後の産駒、グレイスクインの07。馬主はローレルクラブ。 ===子孫=== 唯一の後継種牡馬ノーザンキャップの産駒であるクレイドルサイアーが2013年に種牡馬登録されており、父系としてはかろうじて存続している。 繁殖入りした牝馬も少なく、34頭しかいない。2017年にラインミーティア(母の母の父がオグリキャップ)がアイビスサマーダッシュを勝利し、オグリキャップの血を引く馬としては初めて重賞を制覇した。しかし、34頭のうち産駒が繁殖牝馬となった馬もほとんどおらず、オグリキャップの血を引く繁殖牝馬は急激に減少している。 ===一般公開=== 競走馬を引退した後、オグリキャップは2002年に優駿スタリオンステーションが移転するまでの間、同スタリオンで一般公開され、観光名物となっていた。また、同スタリオン以外の場所でも一般公開された。1998年9月によみうりランドで行われた「JRAフェスティバル」、2005年4月29日と30日に笠松競馬場で行われた一般公開、2008年11月9日の「アジア競馬会議記念デー」に東京競馬場で行われた一般公開である。2010年5月1日より優駿スタリオンステーションでの一般公開が再開された。 ===骨折で安楽死=== 2010年7月3日午後2時頃、優駿スタリオンステーション内の一般公開用のパドックから馬房に戻すためにスタッフが向かったところ、オグリキャップが倒れて起き上がれないでいるのを発見する。ぬかるんだ地面に足をとられて転倒したとみられ、その際に右後肢脛骨を骨折していた。直ちに三石家畜診療センターに運び込まれるが、複雑骨折で手の施しようがなく、安楽死の処置が執られた。その死は日本のみならず、共同通信を通じてイギリスのレーシングポストなどでも報じられた。 ===追悼=== オグリキャップの死を受けて、同馬がデビューした笠松競馬場では場内に献花台と記帳台を設け、7月19日にお別れ会を催した。JRAでも献花台・記帳台を設置するなど追悼行事を営み、感謝状を贈呈した。引退後に同馬が繋養されていた優駿スタリオンステーションにも献花台が設置された。さらに、中央競馬とホッカイドウ競馬ではそれぞれ7月に追悼競走が施行された。 7月29日には新冠町にあるレ・コード館でお別れ会が開催され、700人が出席。全国で集められた1万3957人分の記帳が供えられた。 第55回有馬記念が行われる2010年12月26日をオグリキャップメモリアルデーとし、同日の中山競馬第11競走「ハッピーエンドプレミアム」にオグリキャップメモリアルを付与して実施された。 死から1年となる2011年7月3日には、種牡馬時代を過ごした優駿SSに接する「優駿メモリアルパーク」に新たな銅像が設置された。 ==特徴・評価== ===知能・精神面に関する特徴・評価=== ダンシングキャップ産駒の多くは気性が荒かったが、オグリキャップは現3歳時に調教のために騎乗した河内洋と岡部幸雄がともに古馬のように落ち着いていると評するなど、落ち着いた性格の持ち主であった。オグリキャップの落ち着きは競馬場でも発揮され、パドックで観客の歓声を浴びても動じることがなく、ゲートでは落ち着き過ぎてスタートが遅れることがあるほどであった。オグリキャップと対戦した競走馬の関係者からも、オグリキャップの精神面を評価する声が多く挙がっている。オグリキャップに携わった者からは学習能力の高さなど、賢さ・利口さを指摘する声も多い。 ===身体面に関する特徴・評価=== オグリキャップは走行時に馬場をかき込む力が強かった。その強さは調教中に馬場の地面にかかとをこすり、出血したり、蹄鉄の磨滅が激しく頻繁に打ち替えたために爪が穴だらけになったことがあったほどであった。なお、栗東トレーニングセンター競走馬診療所の獣医師松本実は、5歳時に発症した右前脚の繋靭帯炎の原因を、生まれつき外向していた右脚で強く地面を掻き込むことを繰り返したことにあると分析している。オグリキャップはパドックで人を引く力も強く、中央競馬時代は全レースで厩務員の池江と調教助手の辻本が2人で手綱を持って周回していた。なお、力が強いだけでなく柔軟性も備えており、「普通の馬なら絶対に届かない場所」で尻尾の毛をブラッシングしていた厩務員の池江に噛みついたことがある。南井克巳と武豊はともに、オグリキャップの特徴として柔軟性を挙げている。 笠松競馬場の厩務員塚本勝男は3歳時のオグリキャップを初めて見たとき、腿の内側に力があり下半身が馬車馬のようにガッシリしているという印象を受けたと述べている。もっとも河内洋によると、中央移籍当初のオグリキャップは後脚がしっかりとしていなかった。河内はその点を考慮して後脚に負担をかけることを避けるためにゆっくりとスタートする方針をもって騎乗したため、後方からレースを進めることが多かった。河内は「小さな競馬場でしか走ることを知らなかったオグリに、中央の広いコースで走ることを教え込んだのはワシや」と述べている。 オグリキャップの体力面について、競馬関係者からは故障しにくい点や故障から立ち直るタフさを評価する声が挙がっている。輸送時に体重が減りにくい体質でもあり、通常の競走馬が二時間程度の輸送で6キロから8キロ体重が減少するのに対し、3歳の有馬記念の前に美浦トレーニングセンターと中山競馬場を往復した上に同競馬場で調教を行った際に2キロしか体重が減少しなかった。安藤勝己は、オグリキャップのタフさは心臓の強さからくるものだと述べている。獣医師の吉村秀之は、オグリキャップは中央競馬へ移籍してきた当初からスポーツ心臓を持っていたと証言している。 ===走行・レースぶりに関する特徴・評価=== 笠松在籍時の調教師鷲見昌勇は、調教のためにオグリキャップに騎乗した経験がある。その時の印象について鷲見は「筋肉が非常に柔らかく、フットワークにも無駄がなかった。車に例えるなら、スピードを上げれば重心が低くなる高級外車みたいな感じ」と感想を述べている。鷲見は、オグリキャップが3歳の時点で「五十年に一頭」「もうあんなにすごい馬は笠松からは出ないかもしれない」と述べている。一方で入厩当初は右前脚に骨膜炎を発症しており「馬場に出ると怖くてよう乗れん」という声もあった。 笠松時代のオグリキャップに騎乗した騎手のうち青木達彦は、「オグリキャップが走った四脚の足跡は一直線だった。軽いキャンターからスピードに乗るとき、ギアチェンジする瞬間の衝撃がすごかった」と述べている。安藤勝己は初めて調教のためにオグリキャップに騎乗したとき、厩務員の川瀬に「どえらい馬だね。来年は間違いなく東海ダービーを取れる」と言った。また秋風ジュニアのレース後、「重心が低く、前への推進力がケタ違い。あんな走り方をする馬に巡り会ったのは、初めて」と思ったという。安藤のオグリキャップに対する評価は高く、3歳の時点で既に「オグリキャップを負かすとすればフェートノーザンかワカオライデンのどちらか」と考えていた。 中央移籍後初めに主戦騎手を務めた河内洋は、オグリキャップのレースぶりについて、スピードタイプとは対照的な「グイッグイッと伸びる力タイプ」と評した。また「一生懸命さがヒシヒシ伝わってくる馬」「伸びきったかな、と思って追うと、そこからまた伸びてきよる」、「底力がある」とする一方、走る気を出し過ぎるところもあったとしている。河内の次に主戦騎手を務めた南井克巳は、オグリキャップを「力そのもの、パワーそのものを感じさせる馬」、「どんなレースでもできる馬」、「レースを知っている」と評した。同じく主戦騎手を務めたタマモクロスとの比較については「馬の強さではタマモクロスのほうが上だったんじゃないか」とする一方、「オグリキャップのほうが素直で非常に乗りやすい」と述べている。 オグリキャップの距離適性について、河内は本来はマイラーであるとし、同じく主戦騎手を務めていたサッカーボーイとの比較において、「1600mならオグリキャップ、2000mならサッカーボーイ」としている。また岡部幸雄はベストは1600mで2500mがギリギリとし、さらに中央時代の管理調教師であった瀬戸口もベストの条件は1600mと述べている。競馬評論家の大川慶次郎は一見マイラーだが頭がよく、先天的なセンスに長けていたため長距離もこなせたと分析している。 シンボリルドルフの管理調教師であった野平祐二はオグリキャップの走り方について、「弾力性があり、追ってクックッと伸びる動き」がシンボリルドルフとそっくりであると評した。 オグリキャップは休養明けのレースで好成績を挙げている。南井克巳はその理由として、レース時には正直で手抜きを知らない性格であったことを挙げており、「間隔をあけてレースを使うとすごい瞬発力を発揮する」と述べている。南井は、レース間隔が詰まると逆に瞬発力が鈍るとも述べている。 武豊によると、オグリキャップには右手前で走るのが好きで、左回りよりも右回りのコースのほうがスムーズに走れた。また左回り右回りを問わず、内側にもたれる癖があった。 ===総合的な評価=== 大川慶次郎は、フジテレビによる第35回有馬記念のレース実況中にメジロライアンの競走馬名を連呼したことから、競馬ファンからオグリキャップが嫌いだったのかと思われることもあったが、本人はそれを否定し、同馬を「顕彰馬の中でもトップクラスの馬」、「戦後、5本の指に入るほど、魅力的な馬」と評した。 また競馬評論家の合田直弘は総合的な評価として、日本国外においてアイドル的人気を博した競走馬との比較において「底辺から這い上がった馬である」、「力量抜群ではあったが、一敗地にまみれることも少なくなかった」、「最後の最後に極上のクライマックスが用意されていた」点で、オグリキャップに匹敵するのはシービスケットただ1頭であると述べている。 第33回有馬記念で騎乗した岡部幸雄は、オグリキャップとシンボリルドルフとを比較し、力を出す必要のない時に手を抜いて走ることができるかどうかの点でシンボリルドルフには及ばないという評価を下した。また、2000mから2200mがベスト距離のシンボリルドルフがオグリキャップのベスト距離である1600mで戦った場合についても、調教を通して短距離のペースに慣れさせることで勝つだろうと述べた。ただし岡部幸雄はオグリキャップの能力や環境の変化にすぐになじめるタフな精神力を高く評価しており、アメリカでも必ず通用するとしてアメリカ遠征を強く勧めた。 ===人気=== ====概要==== 競走馬時代のオグリキャップの人気の高さについて、ライターの関口隆哉は「シンボリルドルフを軽く凌駕し」、「ハイセイコーとも肩を並べるほど」と評している。また岡部幸雄は「ハイセイコーを超えるほど」であったとしている。 オグリキャップが人気を得た要因についてライターの市丸博司は、「地方出身の三流血統馬が中央のエリートたちをナデ斬りにし、トラブルや過酷なローテーションの中で名勝負を数々演じ、二度の挫折を克服」したことにあるとし、オグリキャップは「ファンの記憶の中でだけ、本当の姿で生き続けている」、「競馬ファンにもたらした感動は、恐らく同時代を過ごした者にしか理解できないものだろう」と述べている。山河拓也も市丸と同趣旨の見解を示している。斎藤修は、日本人が好む「田舎から裸一貫で出てきて都会で名をあげる」という立身出世物語に当てはまったことに加え、クラシックに出走することができないという挫折や、タマモクロス、イナリワン、スーパークリークというライバルとの対決がファンの共感を得たのだと分析している。 調教師の瀬戸口勉は後に、「自分の厩舎の馬だけではなく、日本中の競馬ファンの馬でもあった」と回顧している。 ===第二次競馬ブームとの関係=== オグリキャップの人気は、ほぼ同時期にデビューした騎手の武豊の人気、およびバブル景気との相乗効果によって、競馬ブームを巻き起こしたとされる。このブームは「第二次競馬ブーム」と呼ばれ、競馬の世界を通り越した社会現象と評されている。 第二次競馬ブームとオグリキャップの関係について、大川慶次郎は「競馬ブームを最終的に構築したのはオグリキャップだ」と評価している。またライターの瀬戸慎一郎は、第二次競馬ブームの主役がオグリキャップであったのはいうまでもない、としている。 ===馬券売り上げ・入場者数の増加=== オグリキャップが中央競馬移籍後に出走したレースにおける馬券の売上額は、20レース中17レースで前年よりも増加し、単勝式の売上額はすべてのレースで増加した。また、オグリキャップが出走した当日の競馬場への入場者数は、16レース中15レースで前年よりも増加した。中央競馬全体の年間の馬券売上額をみると、オグリキャップが笠松から移籍した1988年に2兆円に、引退した1990年に3兆円に、それぞれ初めて到達している。 なお、1988年の高松宮杯では馬券全体の売り上げは減少したものの、オグリキャップとランドヒリュウの枠連は中京競馬場の電光掲示板に売上票数が表示できないほどの売上額を記録した。 オグリキャップ自身は出走した32レースのうち27レースで単勝式馬券の1番人気に支持された。なお、中央競馬時代には12回単枠指定制度の適用を受けている。 ===女性ファン=== 朝日新聞のコラム『天声人語』はオグリキャップを「女性を競馬場に呼び込んだ立役者」と評している。パドックで女性ファンから厩務員の池江に声援が飛ぶこともあった。オグリキャップのファンの女性は「オグリギャル」と呼ばれた。 ===関連グッズ=== 第二次競馬ブーム期を中心にオグリキャップの人気に便乗する形で、様々な関連グッズが発売された。代表的なものはぬいぐるみで、オグリキャップの2代目の馬主であった佐橋が経営する会社が製造および販売を行い、大ヒット商品となった。売り上げは1989年10月の発売開始以降の1年間で160万個を数え、最終的には300万個、クレーンゲーム用のものを含めると1100万個に及んだ。その後、競走馬のぬいぐるみは代表的な競馬グッズのひとつとなった(日本の競馬を参照)。ライターの山本徹美は、ぬいぐるみのブームが従来馬券愛好家が構成していた競馬ファンに騎手や競走馬を応援するために競馬場を訪れる層や女性ファンを取り込んだとしている。 ===第35回有馬記念優勝後の人気=== 第35回有馬記念優勝後のオグリキャップは「日ごろ競馬とは縁がないアイドルタレントたちも、その走りを賛美するコメントをテレビ番組で口にし」「競馬に興味を持たない主婦たちでさえその名を知る」存在となった。当時の状況について競馬評論家の石川ワタルは、「あの頃が日本の競馬全盛時代だったのではないか。今後二度と訪れることのないような至福の競馬黄金時代だったのではないか」と回顧している。 一方、競馬ライターの須田鷹雄は、優勝後の騒ぎが「オグリキャップの起こした奇跡を台なしに」してしまい「それから後に残ったのは、虚像としてのオグリキャップだけではないか」としている。また競馬ライターの山河拓也は「『オグリ=最後の有馬記念』みたいな語り方をされると、ちょっと待ってくれと言いたくなる」と述べている。 ===投票における評価=== 競馬ファンによる評価をみると、2000年にJRAが行った「20世紀の名馬大投票」において2万7866票を獲得し、第3位となっている。また、1989年の第34回有馬記念のファン投票でオグリキャップが獲得した19万7682票は有馬記念史上最多得票である。 競馬関係者による評価をみると、雑誌『Number』1999年10月号が競馬関係者を対象に行った「ホースメンが選ぶ20世紀最強馬」では第12位であった(第1位はシンザン)。ちなみにその時代に輝いた四大スーパーホースの1頭にも選ばれている。 競馬関係者に競馬ファンの著名人を加えた評価では、雑誌『優駿増刊号 TURF』が1991年に行ったアンケートでは「マイラー部門」で第1位、「最強馬部門」で第5位(第1位はシンボリルドルフ)、「思い出の馬部門」で第2位(第1位はテンポイント)に選ばれている。また、日本馬主協会連合会が史誌『日本馬主協会連合会40年史』(2001年)の中で、登録馬主を対象に行ったアンケートでは、「一番印象に残る競走馬」の部門で第1位を獲得、「一番印象に残っているレース」の部門でも、ラストランの第35回有馬記念が第38回有馬記念(トウカイテイオー優勝)と同率での第1位(504票中19票)に選ばれた。「一番の名馬」部門では第5位(第1位はシンザン)、「一番好きな競走馬」部門では第9位(第1位はハイセイコー)だった。 ===競走馬名および愛称・呼称=== 競走馬名「オグリキャップ」の由来は、馬主の小栗が使用していた冠名「オグリ」に父ダンシングキャップの馬名の一部「キャップ」を加えたものである。 同馬の愛称としては「オグリ」が一般的だが、女性ファンの中には「オグリン」と呼ぶ者もいた。その他、「怪物」「新怪物」「白い怪物」「芦毛の怪物」と呼ばれた。またオグリキャップは前述のように生来食欲が旺盛で、「食べる競走馬」とも呼ばれた。 ==オグリキャップの騎手== オグリキャップの騎手は何度も交替した。以下、オグリキャップに騎乗した主な騎手と騎乗した経緯について記述する。 ===安藤勝己=== デビュー当初のオグリキャップには高橋一成(鷲見厩舎の所属騎手)と青木達彦が騎乗していたが、6戦目のレースではいずれも騎乗することができなかったため、当時笠松競馬場のリーディングジョッキーであった安藤が騎乗し、以降は安藤がオグリキャップの主戦騎手を務めた。安藤はオグリキャップに騎乗した中でもっとも思い出に残るレースとして、楽に勝たせようと思い早めに先頭に立った結果オグリキャップが気を抜いてマーチトウショウとの競り合いになり、目一杯に追う羽目になった7戦目のジュニアクラウンを挙げている。1990年のジャパンカップで川崎競馬場所属の騎手河津裕昭がイブンベイに騎乗すると聞き、佐橋に対しオグリキャップへの騎乗を申し入れたが実現しなかった。なお、安藤は後にJRAに移籍している。 ===河内洋=== オグリキャップが中央競馬へ移籍した当初の主戦騎手。当時の馬主の佐橋の強い意向によりペガサスステークスに騎乗し、同年のジャパンカップまで主戦騎手を務めた。同年の有馬記念では、佐橋の意向により岡部幸雄に騎乗依頼が出され、それ以降、オグリキャップに騎乗することはなかった。 ===岡部幸雄=== 1988年の有馬記念で佐橋の意向から騎乗依頼を受け「一回だけ」という条件付きで依頼を引き受けた。後に佐橋からオグリキャップを購入した近藤俊典が騎乗依頼を出したが、了解を得ることはできなかった。その一因は、クリーンなイメージを大切にする岡部が馬主の脱税問題が取りざたされたオグリキャップへの騎乗を嫌ったことにあるとされている。調教師の高松邦男は、オグリキャップに騎乗した騎手の中で岡部がもっとも馬にフィットした乗り方をしたと評した。 ===南井克巳=== 1988年の京都4歳特別に、河内洋の代役(河内は同じ日に東京競馬場で行われたNHK杯でサッカーボーイに騎乗した)として騎乗した。翌1989年には前述のように岡部が近藤からの騎乗依頼を断った後で騎乗依頼を受け、主戦騎手を務めた。1990年はバンブービギンに騎乗することを決断し、自ら降板を申し出た。1989年の第34回有馬記念における騎乗について野平祐二と岡部は南井の騎乗ミスを指摘した。 ===武豊=== 1990年にオグリキャップのアーリントンミリオンステークス出走が決定した際、騎手に武を起用することとなったことから、陣営は第40回安田記念にも騎乗を依頼し、同レースで騎乗することとなった。この起用は武がオグリキャップとともに第二次競馬ブームの象徴的存在であったことに加え、以前にテレビ番組(『笑っていいとも!』)に出演した際に「オグリキャップは何を考えているかわからないところがあって、嫌いです」と発言していたことから話題となり、激しく反発するファンも現れた。武によるとこれより前、前年の第100回天皇賞(秋)でスーパークリークに騎乗しオグリキャップを破った際に嫌がらせの手紙が山のように届くなど、すでにオグリキャップのファンからはひどい目にあっていたという。武は同年の第31回宝塚記念でスーパークリークに騎乗することを選択し、さらにオグリキャップのアーリントンミリオンステークスへの遠征が中止となったことからコンビ解消となったが、同年の第35回有馬記念で再び騎乗した。武は、「有馬記念を勝ったとたん、アンチが一気に減った。オグリが、敵を味方にしてくれた感じですね」と述べ、オグリキャップを「あの馬、強かったけど、一度走らなくなって最後に勝ったりとか、ずるいね。まるで自分で演出していたような」と評している。武豊にとってのスーパークリークとオグリキャップの位置づけについて木村幸治は、「安田記念にスーパークリークが出走していたら、豊は、迷わずクリークに乗っていたはずである。豊側から見れば、クリークが”正妻”であり、オグリは”側室”でしかなかった」と述べている。武自身、平成三強の中で好みのタイプを挙げるとすればスーパークリークだと述べている。安藤勝己は有馬記念での武の騎乗について、「ほんとにスタートが上手いし、馬への当たりがいいね。正直いって、あれほどのレース見せられるとは思わなかった」と評した。 ===岡潤一郎=== 1990年の宝塚記念で、前走の安田記念に騎乗した武がスーパークリークに騎乗し、南井がヨーロッパへ研修旅行に出た(オグリキャップへ再び騎乗することを拒否するための口実作りであったとも言われる)ことを受けて近藤が騎乗依頼を出した。宝塚記念において必要以上に手綱を緩め、その結果第3コーナーから第4コーナーにかけて手前を右手前に変えるべきであったのに左手前のまま走らせたこと、第4コーナーで外に膨れて走行したオグリキャップに鞭を入れた際、左から入れるべきであったのに右から入れたことを問題視する向きもあった。なお、近藤と岡はともに北海道浦河高等学校に在籍した経験を持つ。岡は3年後の1993年に落馬事故で死去している。 ===増沢末夫=== 1990年の天皇賞(秋)およびジャパンカップに騎乗した。当時の馬主である近藤俊典は、増沢が非常に可愛がられていた馬主・近藤ハツ子の甥であり、増沢が若手騎手の頃から面識があった。前述のように、安藤勝己、青木達彦、渡瀬夏彦は増沢とオグリキャップとの相性は良くなかったという見解を示している。一方、瀬戸口は「増沢騎手には本当に気の毒な思いをさせました。済まなかったと思います。あれほどの騎手に、オグリがいちばん体調がよくない時に乗ってもらったんですから」と、増沢を庇う言葉を残している。 ==血統== ===血統表=== ===血統的背景=== 父ダンシングキャップの種牡馬成績はさほど優れていなかったため、オグリキャップは突然変異で生まれた、もしくはダンシングキャップの父であるネイティヴダンサー(アメリカの名競走馬)の隔世遺伝で生まれた競走馬であると主張する者もいた。 母であるホワイトナルビーの産駒はすべて全兄弟無しで競馬の競走で勝利を収めている(ただしほとんどの産駒は地方競馬を主戦場としていた)。5代母のクインナルビー(父:クモハタ)は1953年の天皇賞(秋)を制している。クインナルビーの子孫には他にアンドレアモン、キョウエイマーチなどの重賞勝ち馬がいる。 ===兄弟=== オグリローマン ‐ 1994年桜花賞優勝馬オグリイチバン ‐ オグリキャップの活躍を受けてシンジケートを組まれ種牡馬となった。オグリトウショウ ‐ オグリキャップの活躍後に誕生し、デビュー前から話題を集めた。競走馬引退後はオグリイチバンと同様、種牡馬となった。 =フリッツ・ハーバー= フリッツ・ハーバー(Fritz Haber, 1868年12月9日 ‐ 1934年1月29日)は、ドイツ出身の物理化学者、電気化学者。空気中の窒素からアンモニアを合成するハーバー・ボッシュ法で知られる。第一次世界大戦時に塩素を始めとする各種毒ガス使用の指導的立場にあったことから「化学兵器の父」と呼ばれることもある。ユダヤ人であるが、洗礼を受けユダヤ教から改宗したプロテスタントである。 ==経歴== ===生い立ち=== シレジアのブレスラウ(現ポーランド領ヴロツワフ)でユダヤ人の家系に生まれた。父のジークフリートは染料を主に扱う商人であった。また、母のパウラはジークフリートの叔父の娘である。パウラはフリッツを産んだ3週間後に産後不良で死去し、ジークフリートはその6年後に再婚した。この再婚相手はフリッツに優しく接し、関係は良好であった。しかし当の父親とフリッツは性格が異なり、しばしば対立した。 11歳のときにギムナジウムに入学した。ギムナジウムでは文学や哲学を学び、自作の詩を作った。一方で化学にも興味を持った。はじめ自宅で実験を行っていたが、異臭がするからなどといった理由で父親に禁止されたため、その後は叔父のヘルマンの家で実験を行っていた。卒業後、家業を手伝わせたいという父親の意向により、ハンブルクの染料商に弟子入りし教育を受けた。しかしこの仕事場はフリッツには合わなかった。そのため2、3か月後に、叔父と継母の協力を得て、父親を説得し、染料商の仕事を辞め、1886年、ベルリン大学へと進学した。 フリッツは大学で化学を専攻した。当時のドイツは化学、特に有機化学の分野に秀でており、ベルリン大学にはそのドイツの有機化学の象徴的存在であるアウグスト・ヴィルヘルム・フォン・ホフマンがいた。フリッツが化学を専攻したのは、大学時代にホフマンの影響を受けたためともされているが、それ以前から化学への道を進む決心をしていたともいわれており、その時期についてははっきりしていない。 ベルリン大学で1学期化学を学んだあと、1年間ハイデルベルク大学でロベルト・ブンゼンに師事し、その後2年間の兵役についた。兵役期間中には、後の妻となるクララ・イマーヴァールと出会った。 兵役終了後はベルリンのシャルロッテンブルク工科大学で学んだ。ここでは有機化学の分野で名をあげたカール・リーバーマンに学んだ。そして1891年、ピペロナールの反応についての論文で博士号をとった。 ===求職=== 有機化学を学んでいたが、当時ドイツでは新しい学問分野である物理化学の人気が高まっていた。フリッツもこの分野に魅力を感じ、今までの専攻分野を変更して、物理化学における代表的な研究者であるヴィルヘルム・オストヴァルトのもとでの研究を望んだ。しかし当時、ドイツの化学界はポストに比べて志望者が多く、とりわけオストヴァルトは人気が高かったため、オストヴァルトの研究員として働くことは叶わなかった。そのためフリッツは、職を求めて企業や大学を転々とし、少しの間、チューリッヒ工科大学のゲオルク・ルンゲ(ドイツ語版)のもとにも就いた。しかし、なかなか思うような仕事場を見つけることができず、24歳の時に父親の染色商の手伝いを始めた。 ここでは商売の方法などをめぐり父親と意見が食い違った。そのうえ、フリッツは商業上の失敗により、会社に大きな損害を出してしまった。親子の溝はますます深くなっていったため、フリッツは父の元を離れ、イェーナ大学で修学した。イェーナ大学ではルートヴィヒ・クノール(ドイツ語版)のもとで1年半の間研究を行い、クノールとともにジアセトコハク酸エステルに関する論文を発表した。また、この大学でルドルフ・シュトラウベの講義を聞いたことがきっかけとなり、フリッツはもう一度化学者になりたいという気持ちを強くした。そしてオストヴァルトに研究室に入れてくれるよう懇願したが、その願いは叶えられなかった。フリッツは他の研究室を探し求め、1894年、カールスルーエ大学のハンス・ブンテ(ドイツ語版)のもとで、無給助手として働けるようになった。こうしてフリッツは、25歳にしてようやく落ち着いた職場を得ることができた。 またこの頃、フリッツは洗礼を受け、ユダヤ教徒からキリスト教徒ルター派へと改宗した。当時のドイツではユダヤ人に対する反感があったうえ、キリスト教徒以外は大学の研究職に就けないと知ったためであるという。フリッツはもともと宗教には熱心でなかったため、改宗することによって形式的にでもドイツ人の一員となろうとしたのである。 ===カールスルーエ大学時代=== フリッツが所属したカールスルーエ大学の化学工学部には、ハンス・ブンテとカール・エングラーという、2人の主任教授がいた。フリッツはブンテに師事したが、エングラーとも石油の研究などで関わった。フリッツは、同じ研究室にいた友人にも恵まれ、才能を発揮していった。1896年に発表した論文「炭化水素の分解の実験的研究」は学界の注目を集め、この論文がきっかけで同年、無給助手から講義収入を得ることのできる私講師へと昇格した。 さらに1898年には、電気化学の教科書となる『理論的基盤による技術的電気化学概論』を出版した。当時フリッツはこの分野における経験が浅かったため、執筆に当たっては、同僚からは恥をかくことになるから思いとどまるよう言われた。しかし結果的にはこの教科書は好評で、ブンテはもとより、オストヴァルトからも評価された。そして同年、助教授となった。。1901年には、かつて兵役期間中に知り合ったユダヤ人化学者のクララと学会で再会し、同年に結婚した。翌年には長男のヘルマンが誕生している。 1904年に平衡論を利用した窒素分子からのアンモニアの合成法の開発に着手した(後述)。これは1912年に化学メーカーのBASF社で実用化され、現在ハーバー・ボッシュ法として知られている。1906年にカールスルーエ大学教授となった。 アンモニア合成の成功により、フリッツの知名度は著しく上昇した。フリッツの元には国内外から多くの学生が集まり、フリッツを呼び寄せようとする大学や企業からの誘いもまた多くあった。そして1912年、フリッツは新たに作られたカイザー・ヴィルヘルム物理化学・電気化学研究所に所長として就任した。 ===第一次大戦=== 第一次世界大戦が勃発すると、ドイツに対する愛国心の強かったフリッツは従軍を志願した。しかしその願い出は却下され、代わりに軍からガソリン凍結防止用の添加剤の開発を命じられた。そして、その問題を解決した後にフリッツが関わったのが、毒ガスの開発であった。 毒ガスの開発は、フリッツの前にヴァルター・ネルンストが担当していた。ネルンストは、砲弾に「くしゃみ粉」を入れて発射する計画を立てたが上手くいかず、すでに開発からは撤退していた。フリッツもはじめは砲弾に催涙ガスを入れて発射させる計画を試みたが、実現が難しかったため、ボンベから直接ガスを散布する方式に切り替えた。 フリッツは毒ガスの開発に熱心に取り組み、軍もフリッツを信頼して毒ガスに関する全権を与えた。フリッツはアンモニア合成などの際につかみとった企業とのつながりを利用し、毒ガスの材料を確保した。さらに、物理化学・電気化学研究所のほぼ全体を、毒ガスの研究に利用した。当時研究所にいたオットー・ハーンに、毒ガスの使用はハーグ条約に違反するのではないかと問われたフリッツは、毒ガスを最初に使用したのはフランス軍だと述べ、さらに、毒ガスを使って戦争を早く終わらせることは、多くの人命を救うことにつながると語った。 フリッツが指揮した毒ガス作戦(第二次イーペルの戦い(英語版))は、1915年4月22日にイーペル地区で実行に移された。この時は大きな成果をあげたが、作戦を続けるうちに連合国側も対応し始め、次第に当初のような成果をあげられなくなっていった。一方で毒ガス作戦は国際的な非難を浴びた。また、フリッツの周囲でも一部に反対意見があった。カールスルーエ大学の同僚であるヘルマン・シュタウディンガーがそうであったし、妻クララも夫が毒ガス兵器の開発に携わることに反対し続けた。そしてついに同年5月2日、クララは抗議のために自ら命を絶った。ただし、史料研究の結果クララに行動的な平和主義者らしい姿は見当らないとされており、現代の女性運動家や平和運動家が実像に合わない思い込みをクララに押し付けているとの主張もある。 元々、クララは化学の分野で女性としては初めて博士号を取得した才女であったが、フリッツはクララに科学を捨てて妻として家庭に入るよう押しつけ、しかもフリッツは仕事に熱中するあまり家族に気を使うことはほとんどなかったという。そのためもあってか、クララは徐々に家に引きこもりがちになっていた。クララの自殺については、毒ガス作戦への抗議の他にも生活に対する不満や同じ化学者である夫の活躍への羨みなど、いくつかの理由が重なったものであるともいわれている。 フリッツはクララの死後も毒ガス作戦を継続した。毒ガス戦の戦場はイーペル地区以外にも東部戦線へ拡大していった(ボリモウの戦い、リガ攻勢)。ここではドイツ軍のみならず連合国軍も毒ガスを使用し、その戦闘はエスカレートしていった。フリッツは研究所を利用し、ホスゲンやマスタードガス(イペリット)などの新たな毒ガスやその投射機などの開発を進めた。その一方で1917年10月には、ベルリンのクラブで知り合ったシャルロッテと再婚した。 戦争が長引くにつれドイツ軍はしだいに劣勢となり、1918年2月にはフリッツ自身もこの戦争で勝てる見込みはないと述べた。しかし、それでもなおフリッツは毒ガスに関する研究開発を止めることはなかった。 ===ノーベル賞受賞=== 1918年11月に戦争は終結した。フリッツは、毒ガス開発のかどで戦争犯罪人のリストに載せられたといううわさが流れており、国際法廷において死刑の判決が下るだろうともいわれていた。そのためフリッツは肉体的にも精神的にも疲れ切った状態にあった。フリッツは妻子を連れてスイスへと逃亡した。 自らの逮捕の可能性がないと分かったフリッツはドイツに帰国し、研究所の再編に取り掛かった。そのさなか、ハーバー・ボッシュ法の業績に対するノーベル化学賞受賞の知らせを聞いた。ただし当時、ドイツの科学界に対する国外からの反感は大きく、この受賞に対しても各国からの批判があった。竹内敬人は自著の中で、1912年にノーベル化学賞を受賞した後に、毒ガス作戦の指導者を務めたフランスの化学者ヴィクトル・グリニャールの例があったことも受賞に影響を与えたとしている。 フリッツはその後、研究所の再編と共に、研究者を集めて発表を行うことを目的とした、ハーバー・コロキウムを開催した。ここでは、「ヘリウム原子からノミにいたるまで」と謳われたように、化学、物理学から、生物に至るまで、幅広い領域を対象にした。このコロキウムは以後30年余りにわたって続いた。一方で自らの研究においても、1919年にマックス・ボルンと共同でボルン・ハーバーサイクルを提唱するなど、成果をあげ続けた。 ===資金の調達=== ドイツの敗戦により、フリッツの研究所は資金難に陥っていた。これを解消するため、星一による星基金を活用するなど、財政面での改善を進めた。 さらにフリッツは、賠償金の支払いに苦しんでいたドイツの国家財政を改善するために、海水から金を回収する計画を始めた。フリッツは、賠償金の支払いとその後の復興資金を得るためには50,000トンの金が必要と見積もった。そしてこの金を取りだすために、1920年、M研究室と名付けた極秘の研究室を作り、世界中の海から海水を採取し調査を行った。しかし実験の結果、海水に含まれる金の量は、当時推定されていた値よりはるかに少なく、採算が取れないことが明らかになった。そのためこの計画は1926年に中止された。 一方で、1924年に西回りの世界一周の旅に出て、星一の招待により、日本にも2か月滞在している。函館で叔父ルートヴィヒ(Ludwig Haber)の遭難50周年追悼行事に参加した。また、妻のシャルロッテとは性格が合わず、1929年に離婚した。シャルロッテとの間には、子供2人(エヴァ・シャルロッテ、ルートヴィヒ・フリッツ)を残している。 ===晩年=== 愛国的科学者として名声の絶頂にあったフリッツだが、1933年にその生涯は暗転した。ナチスが政権をとると、ユダヤ人の多かったカイザー・ヴィルヘルム協会への圧力が強まった。フリッツは、第一次大戦の従軍経験が考慮されたために自らが解雇されることはなかったが、研究員におけるユダヤ人の割合を減らすよう求められた。しかしフリッツは、この要求は受け入れなかった。1933年4月、フリッツは、研究員を採用するにあたって今まで自分はずっと人種を基準にしたことはなかったし、その考えを65歳になった今になって変えることはできない、さらに、「あなたは、祖国ドイツに今日まで全生涯を捧げてきたという自負が、この辞職願を書かせているのだということを理解するだろう」と記した辞職願をプロイセン州教育大臣に提出した。 フリッツは9月までベルリンに留まり、他のユダヤ人研究者の転職先を探すなどの活動を続けた。その間、自らの職も求めたが、フリッツはすでに高齢で健康状態が悪化しており、しかも毒ガス開発にかかわったことによって印象を悪くしていたせいもあって、思うような仕事を見つけることは出来なかった。10月にはドイツを離れ、息子ヘルマンのいるパリや、スイスなどで生活した。 その後ウィリアム・ポープからケンブリッジ大学への誘いを受けて一旦イギリスに渡った。ケンブリッジでは触媒を使用した過酸化水素の分解の研究に携わった。しかしイギリスでは毒ガスの件で風当たりが強く、たとえばアーネスト・ラザフォードにはこの理由により会うことを拒まれた。さらにイギリスの気候もフリッツには合わなかった。 フリッツはスイスにいた時に、シオニズム運動家のハイム・ヴァイツマンと出会っており、ヴァイツマンからパレスチナへ来るよう誘いを受けていた。そのため1934年1月、パレスチナへ向かおうとして、いったんスイスのバーゼルへと移った。しかしその移動中に体調を崩し、1月29日、バーゼルのホテルで睡眠中に冠状動脈硬化症により死去した。 ===死後=== ユダヤ人であるフリッツの死は、ドイツの新聞などではほとんど取り上げられることはなかった。また、フリッツへの追悼のコメントをした科学者も、マックス・フォン・ラウエなどのごく少数に限られた。 しかし死の1年後にあたる1935年1月、マックス・プランクの提唱により、フリッツの追悼式が行われた。開催にあたってはナチスから、公務員の出席禁止命令を出されるなどの妨害を受けた。しかし式には、カール・ボッシュ、オットー・ハーン、さらには第一次大戦の戦友など、多くの関係者が訪れた。禁止命令のため来ることができなかった科学者は妻を代理で出席させた。そして満席となった会場で、フリッツの死を悼んだ。 フリッツはケンブリッジにいた頃、自分の遺灰はクララと一緒に埋めてほしい、そして墓碑銘には「彼は戦時中も平和時も、許される限り祖国に尽くした」とだけ記してほしいと遺言書に記していた。そのため現在フリッツの遺体は、妻のクララとともにバーゼルのヘルンリ墓地に埋葬されている。 ==ハーバー・ボッシュ法== ===開発の経緯=== フリッツが取り組んだのは、空気中の窒素分子N2からアンモニアを生成しようという試みだった。そのためにはいったん窒素分子を2個の窒素原子に分離しなければならないが、この窒素原子同士の結びつきは三重結合のため非常に強い。そのため分離させるには1000℃もの高温にしなければならないが、温度を高くすると生成されたアンモニアが壊れてしまうことになる。フリッツは熱を加えてアンモニアを生成してから素早く冷やすという方法で少量のアンモニアを生成したが、それは商業的な生産を見込めるほどの量ではなかった。1905年、フリッツはこれまでの研究結果を論文として発表した。 しかしこの結果はネルンストの批判を受けた。ネルンストの理論によれば、この方法によって得られるアンモニアの量はフリッツの結果より少なくなるはずだと主張し、実際に助手に実験をさせて自分の理論が正しいことを確かめた。こうして、フリッツはネルンストと対立した。ネルンストは1907年に開かれたブンゼン協会の会合でこの結果を発表し、フリッツの結果は誤りであり、「次はハーバー教授がほんとうに正確な値を出せる実験方法を採用するよう提言いたします」と述べた。 フリッツはネルンストの発表に屈辱と憤りをおぼえ、この会合の後、アンモニア合成にさらに熱心に取り組むようになった。そして装置に精通したル・ロシニョールと共に研究を続け、圧力を加えることで温度を下げることができ、その結果、より多くのアンモニアが作れることを発見した。 1908年にはアンモニア合成に関してBASF社と契約を結んだ。そして、BASFからの援助を元に研究を続けた。フリッツは圧力の他に、反応の際の触媒を変えることでアンモニアの生産効率を上げられるかを実験し、結果、オスミウムを使うことで生産量が飛躍的に向上することを明らかにした。フリッツはこれらの研究内容をBASFに提供した。BASFではボッシュを中心にその研究を進め、オスミウムの代わりに鉄を主原料とした触媒を使用することで商業生産を成功させた。 ===影響=== 窒素は植物の生育に必要不可欠な栄養素であるが、19世紀末のヨーロッパではこれを南米から輸入されたチリ硝石などでまかなっていた。しかし、ウィリアム・クルックスは1898年、このままの状態が続くと南米の資源は枯渇し、農作物が収穫できず、世界は食糧不足へと陥るだろうと警告し、化学的に固定窒素を合成させることの必要性を説いた。ハーバー・ボッシュ法はこの問題を解決できる方法であり、これによって人類はクルックスの予言した食糧危機を乗り切ることができた。現在においても肥料を目的としたアンモニアの生成はハーバー・ボッシュ法によって行われており、世界中の食糧生産を支えている。 またアンモニアは化学肥料だけでなく、火薬の原料でもあった。そのためこれにより、ドイツはチリ硝石に依存せず、火薬と肥料を生産できるようになり、第一次大戦の折、英海軍の海洋封鎖にもかかわらずドイツは弾薬を製造可能であった。 フリッツによる一連の実験結果は7つの論文として1914年から1915年にかけて専門誌に発表され、アンモニア合成を行うための重要な基礎データとなった。「空気からパンを作った」とも称されるこの業績により「アンモニア合成法の開発」として1918年にノーベル化学賞を受賞している。一方、工業化を実現させたボッシュも「高圧化学的方法の開発と発明」として1931年にノーベル化学賞を受賞した。 ハーバー・ボッシュ法によって化学肥料の形で地面に撒かれた窒素のうち、農作物が吸収しきれなかった分は、雨水によって川や海へと流れ込み、また空気中にも飛散する。水中で窒素は硝酸塩の形をとるが、過剰な硝酸塩濃度の増加は藻や海藻の繁殖を異常に促す。結果として日光が遮られ、さらに動植物の死骸により水中の酸素濃度が低下する。このような硝酸塩濃度の増加と水質の悪化は、バルト海やメキシコ湾をはじめ、世界中で確認されている。また、工業的窒素固定により生産されるアンモニアや窒素酸化物が相当な量になることは確かであるものの、それが直接放出してあるいは微生物等により化学変化して間接的に環境へ与える悪影響についてはよくわかっていない。 ==主な業績== フリッツは先に挙げたハーバー・ボッシュ法のほかに、電気化学・気体反応の分野で優れた業績を残している。 カールスルーエ時代に取り組んだ炭化水素の熱分解と接触における気体燃焼の研究は後のクラッキング作用を理解するのに役立てられた。1909年に発明したガラス電極は、2枚のガラスを薄く並列させ、その間の電位を測ることで溶液の酸性度を測定することを可能とした。さらに、電気化学的な方法を使って、蒸気機関や内燃機関のエネルギー損失を抑えるための研究にも取り組んだが、この問題に対しては有意義な結果は得られなかった。しかし一酸化炭素と水素を実験的に燃焼させることについての成果はあった。 第一次大戦後の1919年にマックス・ボルンと共同で成した格子エンタルピー計算法の発見は、ボルン・ハーバーサイクルとして知られている。また、炭鉱労働者のためのガス警報装置や、低圧用の圧力計を製作した。そしてこれに伴う、吸着力が固体の不飽和原子価力に依存するという発見は、後のアーヴィング・ラングミュアによる吸着の研究へとつながった。 その他、ニトロベンゼンの電解還元の経路を解明し、酸化と還元における電極電位の重要性を証明したことや、ファラデーの電気分解の法則が固体電解質にも有効であるということを示したこと、地下のガス管や水道本管の腐蝕の研究を行い、これらの調査と防止の基準となる方式を策定したこと、ブンゼン炎について、炎の内側と外側の燃焼の仕組みの違いを明らかにしたなどが挙げられる。また、鉄が触媒となってスーパーオキシド(超酸化物、O2)と過酸化水素(H2O2)が反応してヒドロキシルラジカル(*67*OH)を生成するハーバー・ワイス反応にも名前を残している。 一方、1919年にフリッツが液体殺虫剤として開発したツィクロンBは、その殺傷能力に着目され、1942年ごろよりアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所などの強制収容所でのガス殺用途で使用された。 ==人物== ===人物像=== フリッツは、どの分野においても、その重要なポイントを認識し、短期間で自分のものにする能力を持っていた。そのため、今まで自分が関わっていなかった研究分野でも、短期間で集中して学ぶことによって、その分野に精通することができた。しかしあまりに集中するあまり、他のことに気が回らなくなったり、我を忘れたような状態になることがあった。さらに神経症の症状が出ることもあり、そのため1年に1度くらいの頻度で、温泉やサナトリウムで数週間の休養をとっていた。 話術にも長けており、講演の上手さには定評があった。また教育者としても評価が高く、ドイツ以外にもアメリカ、ロシア、ニュージーランド、日本などから、多くの研究員が集まった。フリッツは外国の研究員が祖国に帰る時にも、その国での研究ポストを融通するなど、親身に接した。 一方で家庭はないがしろにしがちで、2度の結婚生活はどちらもうまくいかなかった。最初の妻のクララは結婚後も自分の化学研究を続けたいと思っていたが、フリッツはその願いをかなえることはしなかった。クララは社交的ではなかったが、フリッツはクララの都合を考えず、突然研究員を自宅に招きもてなすといった行動をとったりした。フリッツがアンモニア合成で成功した頃、クララは、フリッツが得たことと同じ、あるいはそれ以上のことを、私は失った、と手紙につづっている。 ===関連する人物=== フリッツの下で助手として研究に携わった化学者としては、カールスルーエ大学時代の助手を務め、ハフニウムを発見し、1943年にノーベル化学賞を受賞したゲオルク・ド・ヘヴェシー、ハーバー研究所でハーバー・ボッシュ法の開発に貢献したロバート・ル・ロシニョール(英語版)などがいる。また、フランク=ヘルツの実験を行い、1925年にノーベル物理学賞を受賞した物理学者のジェイムズ・フランクは、第一次世界大戦期間中、フリッツの下で毒ガス研究に従事している。 その他、ドイツに留学した日本人化学者田丸節郎、小寺房次郎もハーバー研究所でアンモニア合成の研究に携わった。帰国後、田丸は理化学研究所、東京工業大学、学術振興会の創立に関わるなど、日本の学術研究体制の礎を築いた。小寺は1918年に創立された臨時窒素研究所の所長に就任し、日本で初めてアンモニア合成を指導した。 =シビュラの託宣= 『シビュラの託宣』(シビュラのたくせん、ラテン語: Oracula Sibyllina)は、シビュラが語った神託をまとめたと主張するギリシア語の詩集である。重複分を除けば12巻分と8つの断片が現存している。 この文献は部分的に旧約偽典や新約外典に含まれ、古典時代の神話だけでなく、グノーシス主義、ギリシア語を話すユダヤ教徒たちの信仰 (Hellenistic Judaism)、原始キリスト教などに関する貴重な情報源の一つとなっている。分類上は黙示文学に属し、散りばめられた詩句には、『ヨハネの黙示録』や他の黙示文学との類似性が指摘されているものもある。 シビュラとは恍惚状態で神託を伝えた古代の巫女で、彼女たちの神託をまとめた書物としては、伝説的起源を持つ『シビュラの書』が有名である。しかし、『シビュラの託宣』はそれとは全く別のもので、『シビュラの書』の名声にあやかるかたちで紀元前140年以降少なくとも数世紀にわたり、ユダヤ教徒たちやキリスト教徒たちによって段階的にまとめられてきた偽書である。そこに含まれる歴史的事件に関する予言の多くは、後述するように単なる事後予言に過ぎない。 ==背景== 『シビュラの託宣』はその題名が示すように、古代のシビュラ、そしてその著書とされた『シビュラの書』に仮託して作成されたものである。 ===シビュラ=== シビュラ (Sibylla) とは、古代の地中海世界における巫女のことである。推測される起源は紀元前7世紀から前6世紀頃のイオニアだが、最古の言及は紀元前5世紀のヘラクレイトスのものとされる。エウリピデス、アリストファネス、プルタルコス、プラトンら、シビュラに言及した初期の思想家たちは常に単数で語っていたが、後には様々な場所に住むといわれるようになった。タキトゥスは複数いる可能性を示し、パウサニアスは4人とした。 ラクタンティウス (Lactantius) はマルクス・テレンティウス・ウァロ(紀元前1世紀)からの引用として、10人のシビュラ、すなわちペルシアのシビュラ、リビアのシビュラ、デルポイのシビュラ、キメリアのシビュラ、エリュトライのシビュラ、サモスのシビュラ、クマエのシビュラ、ヘレスポントスのシビュラ、フリギアのシビュラ、ティブルのシビュラを挙げた。 ローマで最も尊ばれたのは、クマエとエリュトライのシビュラであった。クマエのシビュラは、『シビュラの書』をローマに持ち込んだと伝えられ、ウェルギリウスの『牧歌』などでもその名が挙げられている(後述)。エリュトライのシビュラは、ラクタンティウスが現在『シビュラの託宣』の「断片」として知られる箇所から引用する際に、常に神託を述べた者として挙げていた。 中世に重視されたのはエリュトライのシビュラとティブルのシビュラで、後者は4世紀の成立ともいわれる『ティブルティナ・シビュラ』(ティブルのシビュラの託宣)などの予言書の作成にも結びついた。ただし、その文献は『シビュラの託宣』と直接的に繋がるものではない。 なお、中世後期になるとエウロパのシビュラとアグリッパのシビュラを追加して、12人とする文献も現れた。 ===『シビュラの書』=== 古代ローマにおいて『シビュラの書』として知られる文書があった。ハリカルナッソスのディオニュシオス、ウェルギリウス、ラクタンティウスなどは、元はギリシアないし小アジアに起源を持つとされるその文書が、クマエを経由してローマに持ち込まれた経緯を、以下のように伝えている。 クマエのシビュラがローマ王タルクィニウス(タルクィニウス・プリスクスないしタルクィニウス・スペルブス)に、9巻本の託宣を900ピリッポスで売ろうと持ちかけた。タルクィニウスがその法外な高さを理由に断ると、彼女は3巻分を焼き捨てて残りを再び900ピリッポスで売ると言い出した。それも断られると彼女はさらに3巻分を焼き、残りを900ピリッポスで売ると言った。王はその提案に興味を持ち(あるいは動転のあまりに)、それを受け入れ最後に残った3巻分を言い値で買い取った。 『シビュラの書』がカピトリウムの丘にあったユピテル神殿に奉納されていたことは事実だが、上記の経緯は後に潤色されたもので史実としての裏づけを否定されている。こうした伝説の背景には、『シビュラの書』が実際にはエトルリアに起源を持つと推測されているため、それに敵愾心を持っていたローマが、自らの神託の出自をより好ましいギリシアに仮託する意図があったと指摘されている。 ユピテル神殿に奉納された『シビュラの書』は、限られた聖事担当官(当初2人、のち10人、15人と増員された)しか参照することができず、特に必要とされた場合に聖書占いのように無作為に開いたページの章句を解釈して占ったという。 この伝説的起源を持つ『シビュラの書』は紀元前83年の火災で焼失し、かわりに各地の神託を集めて新たな『シビュラの書』が編纂された。これはアウグストゥス帝の時代(紀元前12年)にパラティウムの丘のアポロン神殿に奉納されたが、408年、ホノリウス帝時代の将軍スティリコによって焚書された。結果として、古代ローマで参照されていた本来の『シビュラの書』の内容は、当時の著書でごくわずかにそこからの抜粋と主張する詩句が引用されたりはしているものの、ほとんど伝わっていない。 ==成立== 上記のセム系一神教に属さない神託が享受していた人気と影響力から、紀元前2世紀にアレクサンドリアにいたギリシア語を話すユダヤ教徒たちは同じ様式で預言をまとめ、それらをシビュラに帰したのである。それらは異教徒たちの間で、ユダヤ教の教義を宣布するために作成された。この習慣はキリスト教徒の時代になっても継続されたので、2世紀から3世紀にかけて、キリスト教徒起源で広められた新たな「託宣」が出現した。これらが現存する『シビュラの託宣』であり、つまりは本物の『シビュラの書』とは別系統で編纂されてきた偽書である。 『シビュラの書』が伝説上ギリシア起源でローマに持ち込まれたとされるために、『シビュラの託宣』もギリシア語の長短短格六脚韻 (ダクテュロスのヘクサメトロス、Dactylic hexameter) で書かれている。この詩形は古代ギリシアの叙事詩などに用いられていたもので、ホメロスなどの文体を模倣している要素が指摘されているが、その詩作品としての文学的価値は否定されている。ただし、ゼウスに用いられる枕詞を唯一神にも使うことなどは、読み手である異教徒たちが抱く神のイメージに影響した可能性が指摘されている。 こうした経緯から、『シビュラの託宣』の内容は異教的、ユダヤ教的、キリスト教的な要素に分類することができる。ただし、キリスト教的な箇所には、キリスト教徒たちがユダヤ教文書を手直ししたり加筆したにすぎない要素も少なくない。その結果、キリスト教的要素には、ユダヤ教起源の託宣と、キリスト教徒によって書き下ろされた託宣という2種類が存在している。残っている文書のどれくらいがキリスト教的でどれくらいがユダヤ教的なのかを正確に決定させることには、多くの困難が付きまとってきた。キリスト教とユダヤ教は多くの点で一致することから、キリスト教徒たちはユダヤ教徒たちの手になる部分を、修正なしに受け入れることもしばしばだったからである。 これらの託宣はもともと作者不明のものであったため、ユダヤ人やキリスト教徒たちは、自らの布教のために適宜、修正や拡大をする傾向があった。原始キリスト教においてそうした託宣の創出が一般的だったことから、ケルススはキリスト教徒を「シビュラに夢中な者たち」 (Σιβυλλισται) と呼んだ。同じような視点から、キケロやプルタルコスも「シビュラに夢中な者たち」の偽作を指摘していた。 19世紀の校訂者アレクサンドルによれば、最終的な編纂者は6世紀の人物と推測されているが、多くの部分は原著者、時代、宗教的信条がばらばらで、相互に関連しない断片が無原則にまとめられているに過ぎない。 ==内容と成立年代== 現存する『シビュラの託宣』は、重複する分を除けば実質的に12巻で構成され、時代の異なるさまざまな書き手が、異なる宗教的概念に従って作り上げてきたものである。それゆえ、統一的な話の筋道やモチーフは存在しない。歴史的事件に基づく事後予言は多いが、それとて時系列的に提示することが意識されている箇所ばかりではない。歴史的な関心はユダヤ教部分に強い一方、キリスト教部分はやや弱いことも指摘されている。 ただし、ユダヤ教色が強いかキリスト教色が強いかに関わりなく、どちらの文書にもローマに対する強い敵意が共通しているとも指摘されている。 以下で各巻の内容や成立時期を見ていくが、本編に関する情報を大まかにまとめておくと以下の通りである(第9巻、第10巻、第15巻を省いた理由は本文を参照のこと)。また、見解が複数に分かれる場合は、便宜上20世紀後半以降の見解を中心にまとめているので、より詳しくは該当する各節を参照のこと。 これらの巻は内容や成立時期のまとまりから、第1巻と第2巻、第3巻から第5巻、第6巻から第8巻、第11巻から第14巻の4つのグループに分類できる。以下では、このグループを基準にして概説を行い、併せて各巻の内容も略述する。なお、一部の巻の概説には参考として詩句の引用とともに画像を添えたが、画像はあくまでも参考程度のもので、いずれも『シビュラの託宣』そのものを直接的な主題とするものではない。 ===序文=== 後述するように『シビュラの託宣』の3つの写本群のうち、1つの写本群にのみ「序文」が付けられており、それが1545年の最初の印刷版でも踏襲され、現在に至っている。 序文を執筆し追加したのは、第1巻から第8巻を最初にまとめたビザンティンの人物と推測されている。そこに示された年代記がアダムから東ローマ皇帝ゼノン(在位474年 ‐ 491年)までであることから、執筆は西暦500年前後のこととされている。 その内容は『シビュラの書』の伝説的来歴を『シビュラの託宣』の来歴とすりかえるもので、上述の10人のシビュラを列挙するとともに、そのうちクマエのシビュラによって託宣がローマに持ち込まれた経緯を説明し、それはモーセ五書などが描く天地創造や、イエス・キリストによる救済を予言する内容だったと主張している。 ===第1巻と第2巻=== 第1巻と第2巻がユダヤ教的かキリスト教的かは過去様々な議論があったが、現在では、ユダヤ教徒が作成したものをキリスト教徒が改訂したと見なされている。その時期については大きく分けて2つの立場があり、ユダヤ教的土台もキリスト教的加筆も3世紀のこととする説と、紀元前後にユダヤ教部分が成立し、西暦150年以前にキリスト教的加筆が行われたとする説である。日本語訳を公刊した佐竹明は後者の立場を支持している。 第1巻と第2巻には、第7巻、第8巻と強い類似性を示す箇所が複数存在し、どちらがどちらを真似たと見なすのかも、こうした成立年代の問題に関わってくる。 第1巻と第2巻は小アジアのどこかで成立したと考えられている。とりわけ、第1巻のユダヤ教部分には、ノアの大洪水と関連付けてフリギアを特別視する記述が複数見られることから、ユダヤ教的土台がフリギアで成立した可能性が高いとされている。 ===第1巻=== 第1巻は400行から成っている。第1巻の中核をなす1行目から323行目まではキリスト教的要素を含んでいない。その内容は、天地創造、アダムとイヴのエデンの園からの追放、ノアの方舟など、『創世記』の物語が土台となり、10に分けられた世代のうち、7番目の世代までの歴史を辿るものになっている。 それに対し、直後に続く324行目から400行目までは明瞭にキリスト教的であるだけでなく、反ユダヤ教的でさえある。その内容は、主としてイエスの降誕や様々な奇跡、磔刑などを述べたもので、新約正典でそれらを扱っている共観福音書の記述を逸脱する要素はなく、内容的に重複する部分も少なくない。たとえば、この記事の右上で引用した東方の三博士に関する記述は、『マタイによる福音書』第2章11節が下敷きになっている。 ===第2巻=== 第2巻は347行で構成され、主として最後の審判が描写されている。内容上は第1巻と強い連続性を持っており、写本ではもともと一体のものとして扱われていた。その序盤に当たる33行目までは第1巻のユダヤ教部分と直接に繋がる内容だが、唐突に10番目の世代に飛んでおり、8番目と9番目の世代の話を欠いている。これはキリスト教的加筆を行った人物が、終末論に特に関心を寄せる一方、それ以前の世代の話題にあまり関心を持っていなかったために、省いてしまったのだろうと推測されている。 そのキリスト教的加筆は第1巻に比べてユダヤ教部分と峻別することが難しいとされるが、34行目から55行目だけは明瞭にキリスト教的とされる。56行目から148行目は擬フォキュリデス (Pseudo‐Phocylides) から再録された教訓的な詩で、文脈に適合していない挿入的要素のため、写本によっては脱落している。154行目から始まる一節は、全体としてストア派の概念が混入したユダヤ教的な終末論だが、キリスト教的要素の混入の可能性も指摘されている。その描写には福音書でイエスが語る終末の光景や『第四エズラ書』など他の黙示文学と共通するモチーフが含まれ、バラキエル、ラミエル、ウリエルといった天使、ハバクク、ダニエル、エリヤといった旧約の預言者の名が挙げられる一方、タルタロス、エリュシオンといったギリシア神話的要素が織り込まれている。なお、写本によっては、バラキエルやラミエルはより一般的な天使であるガブリエルやミカエルが採用されている場合がある(右に参考画像とともに引用した章句も参照のこと。これは後述するミルトン・テリー版に基づく)。 ===第3巻から第5巻=== 第3巻から第5巻まではユダヤ教色が強いとされるが、その成立年代にはかなりの開きがある。これらの巻は地中海世界のさまざまな地名を挙げ、終末において「神の民」(ユダヤ人)に訪れる救済と、異民族が直面することになる災厄を予言するものとなっている。 予言には事後予言が混じっていることも指摘されており、様々な国の著名な君主たちが登場している。彼らはゲマトリアや言葉遊びなどを利用して婉曲に呼ばれているが、そうした実在の人物や事件に引き寄せた記述は成立年代を推定する鍵となっている。なお、ホメロスやヘシオドスを模倣した要素が指摘されており、たとえば第3巻のバベルの塔を描いた箇所では、ホメロスの『オデュッセイア』と『イリアス』、それにヘシオドスの『神統記』との混合や並行が見られる。 ===第3巻=== 第3巻は829行から成り、他の巻に比べて分量が多いというだけでなく、内容的にも最も古く重要とされている。成立時期については、部分的にエジプトに対して強い関心を寄せている句があることと、紀元前140年以前の出来事に基づく事後予言らしき要素があることから、ほとんどの要素は紀元前140年頃にエジプトのユダヤ人が作成したものと推測されている。 他の巻同様に統一的とは到底いえないが、それでも主要部分は97行目から294行目、295行目から488行目、489行目から808行目と三分できる。 その97行目に先行する1行目から96行目は、唯一神への賛歌と偶像崇拝への非難、不滅の君主の降臨とローマに下される裁き、ベリアルの到来とその破滅、そのあとに世界を支配する「一人の女性」などが描かれている。ただし、この部分が本来の第3巻に含まれていたのかどうかには議論がある。詳しくは後述の#写本の系統を参照のこと。 97行目から294行目はバベルの塔建設と諸民族の拡散を描いている。この出来事はクロノス、ティタン、イアペトスという3人の王の間の争いによるものとされており、聖書の題材とギリシア神話が無差別に混ぜ合わされている。ここではエジプト、ペルシア、メディア、エチオピア、アッシリア、バビロニア、マケドニア、ローマといった諸国史が描き出され、うちローマは「多くの頭を持っている」共和政時代までが描かれている。それら諸政体の後に、ソロモン王の時代には偉大で強かった「神の民」の平和的な統治が続くとされ、エジプトのプトレマイオス7世の後に「神の民」が再び力を得て人類を支配するものとされた。「神の民」は当然ユダヤ人を暗示しており、この部分はイスラエルの歴史や特質についての記述を伴っている。 295行目から488行目はバビロニア、エジプト、リビア、セレウコス朝シリア、フリギア、トロイ、キプロス、イタリアといった諸国・諸地域やゴグとマゴグに対する非難や警告を含んでいる。この部分は細部が史実と一致しないが、明らかに紀元前2世紀に書かれたものである。それというのは、セレウコス朝のアンティオコス4世エピファネスとその息子エウパトル、エウパトルを殺したデメトリオス1世ソテルをはじめ、ディオドトス・トリュフォンに至る諸王の描写が認識できるためである。 489行目から808行目もイスラエルに与えられた約束と対照的な異邦人たちに対する非難を含み、最後の審判に言及されている。この部分で再びプトレマイオス7世にも触れられている。注釈者の中にはこの部分にキリスト教的要素を見出した者たちもいるが、それについては様々に解釈されてきた。 これら大きなまとまりの後で、結語にあたる809行目から829行目が置かれている。シビュラはそこで自らの生い立ちを語り、ギリシア人が彼女をエリュトライの巫女と位置付けているのは誤りで、実際にはバビロニアの巫女であるとともにノアの娘の一人であると主張している。この部分は元から存在していた可能性もあるとはいえ、後代の挿入であろうと考えられている。 ===第4巻=== 第4巻は192行で構成されており、第3巻などに比べるとはるかに統一性がある。かつてキリスト教的な部分と考えられていたが、20世紀初頭の時点で完全にユダヤ教的な部分と認識されるようになっていた。西暦70年のエルサレム占領、76年のキプロス地震、79年のベズビオ山の噴火などを下敷きにしているらしい記述があることや、ネロ(68年歿)が再来するモチーフなどがあることなどから、80年頃の成立とされている。これについては、最終的な完成がその時期だとしても、土台となる部分はアレクサンドロス大王の時代に成立していたという説もある。成立した場所はシリアないしヨルダンと推測されている。 この巻でのシビュラは真の神の名において、人類の最初の世代から第10代までに起こることを予言する。この歴史区分は明瞭な区分というよりもかなり漠然としたものではあるが、中世の年代記作家らにも影響を与え、擬メトディウスにも踏襲された点で非常に重要である。 旧約聖書のミカ書(第1章10節)、ゼパニヤ書(第2章4節)などにも見られるユダヤ人的な類推も展開され、書き手は様々な都市を似た音の言葉に引き寄せ、そこに未来の破滅の予兆を見出そうとしている。たとえば、サモスは「砂」(*8*μμο*9*, アンモス)に覆われる、デロスは「姿を消す」(*10*δηλο*11*, アデーロス)という具合である。 書き手はローマ人によるエルサレムの破壊を暗に批判し、紀元前79年のベズビオ山噴火はそれに対する神罰だと主張した。ネロについては当時の風説に従っており、自殺したのではなくユーフラテス川を渡って逃げただけで、速やかに戻り来るとも予言した。ローマ人を苦しめた暴君ネロの再来を希求するのは、ローマに対する敵意の現れである。当時、こうした「再来のネロ」のモチーフが広まっていたことはタキトゥスの『同時代史』でも述べられており、『ヨハネの黙示録』や外典の『イザヤの昇天』にも投影されている。『シビュラの託宣』はそうしたモチーフを取り込んだわけだが、逆にそれによって「再来のネロ」はさらに強い影響力を持つようになったとも指摘されている。 これらがキリスト教徒の作と見なせない理由は存在しないが、全体としてはユダヤ教的とされ、特にいくつかの箇所で供犠の拒否、食前の祈りの重視、清めの強調などが提示されていることによって、エッセネ派との関連性が指摘されている。なお、神殿に対して肯定的な第3巻と第5巻に対し、第4巻は否定的な姿勢を打ち出している。 ===第5巻=== 531行から成る第5巻には、多くの異なる見解が寄せられてきた。ユダヤ教的だと主張する者もいたし、ユダヤ人キリスト教徒の作品だと主張する者もおり、さらには大々的にキリスト教徒の手が加えられていると主張する者までいた。20世紀以降は、それが含んでいるキリスト教的部分はあまりにも少ないので、ユダヤ教的なものとして位置付けるのが無難とされている。256行目から259行目がキリストの降誕に関する記述であり、直後のくだりまで含めた詳細さを基に、ユダヤ教的な作品にキリスト教徒が手を加えたと位置付ける者は20世紀以降にも存在するが、その部分はキリスト教徒による例外的な挿入句と見なされるのが一般的である。なお、その部分をモーセやヨシュアにひきつけることで、殊更にキリスト教的とは見ない立場すら存在する。 列挙されている人々や国々の数は他の巻を凌いでおり、歴史を辿りつつ、救世主と最後の審判が語られる。そのうち最初の51行は年代順の託宣で、アレクサンドロス大王に始まりハドリアヌス帝即位(117年)で終わっている。この章でハドリアヌス帝は最も優れた者と賞賛されており、彼によるエルサレム神殿の再建が期待されていた。こうしたことからハドリアヌス帝即位以降、バル・コクバの乱(132年勃発)が起こるまでの間に作成されたと推測されており、著者としては第3巻と同じくエジプトのユダヤ人が想定されている。ほかに、第4巻と同じ頃の書き手の作品とハドリアヌス帝時代の書き手の作品が150年頃に一つにまとめられたという説もある。 52行目以降は52行目から110行目までが主にエジプトを襲う艱難、111行目から178行目までがアジアの国々を襲う艱難、179行目から285行目までが再びエジプト、286行目から434行目までが再びアジア、435行目から530行目までがみたびエジプトとその周辺という形で、畳み掛けるように終末の艱難の情景が描かれている。もちろん、その中にも247行目から360行目のように希望の表明のくだりはあるが、その対象はユダヤ人に限定され、彼らが他民族の支配から解放され、エルサレムで栄えることが述べられている。 ===第6巻から第8巻=== 第6巻と第7巻がキリスト教徒によるものであることについては、現代の諸論者の間で異論がない。それに対し、キリスト教的要素が強いとされる巻の中で最も長い第8巻は、様々な要素の組み合わせが指摘されている。 ===第6巻=== 第6巻はわずか28行の短い賛美歌で、イエスを磔刑に処したイスラエルをソドムの地と呼んで厳しく批判しつつ、イエスを称えている。19世紀から20世紀初頭に校訂を行ってきたメンデルスゾーン、アレクサンドル、ゲフケンらは、それを異教的な賛美歌と位置付けてきたが、有力な証拠があるわけではない。グノーシス主義的な一派であるケリントス派の思想との接点を指摘する者もいる。 成立時期については、2世紀初頭、3世紀などとする見解がある一方、年代決定の困難さも指摘されている。ラクタンティウスが引用していることから、その時期(300年頃)よりも前に成立していたことだけは確実である。明瞭な裏づけはないもののシリアで成立した可能性が指摘されている。 ===第7巻=== 第7巻は162行から成るやや短い巻で、成立時期は2世紀末から3世紀初頭に位置付けられるのが一般的だが、はっきりとした根拠はなく、懐疑的な見解も存在している。ラクタンティウスが『神学綱要』で引用していることから、それよりも前に成立していたことだけは確かである。成立場所も決め手を欠くが、シリアの可能性が指摘されている。 ロドス島、デロス島、シチリア島、エチオピア、ラオディキア等の様々な地名を順に挙げてそれらが直面する終末の艱難を予言しているが、その順列は雑然としていて、うまく編纂されているとは言い難い。終末に関する認識には、第1巻後半および第2巻との共通性も指摘されている。この巻もまた、ケリントス派との接点が指摘されており、他にもユダヤ人キリスト教徒との接点なども指摘されているが、懐疑的な見解もある。 ===第8巻=== 第8巻は500行とかなり長いが、成立時期の異なる諸要素が繋げられて成り立っている。最初の216行は十中八九2世紀のユダヤ教徒の作品とされ、ローマへの敵意から第4巻同様ネロの再来を期待する記述が見出される。こうした要素の存在によって、前半部分が2世紀後半に成立したと考えられている。ほかにも、サモスとアンモス、デロスとアデーロスなどの言葉遊びをはじめ、ユダヤ教色が強いとされる第3巻から第5巻までと重複する要素がいくつも含まれる。 それに対し、後半の217行から500行がキリスト教徒の作品であることを疑う余地はなく、3世紀頃の作品とされる。特に217行目から250行目はキリスト教シンボルを取り入れたアクロスティックになっており、各行の頭の文字を繋げると「イエス・キリスト、神の子、救世主、十字架」と読めるようになっている。このアクロスティックは後述するようにエウセビオスやアウグスティヌスにも引用されて古来よく知られており、15世紀末に最初に印刷されたのもこの箇所だった。 251行目から323行目までは予型論に触れつつ、イエスの奇跡や磔刑を、主として四福音書に依拠しつつ辿っている。324行目から336行目はシオンに呼びかけた短い句で、特にその冒頭は『ゼカリヤ書』第9章との類似が指摘されている。337行目以降は終末の描写で、途中からは神そのものの言葉(つまり神が一人称で語る言葉)が引用されている。429行目から479行目までは再びキリストについてだが、前段と異なりキリストの降誕が主題となっている。480行目から500行目までは、隣人愛の強調や偶像崇拝の禁止などを勧めている。 作成された場所ははっきりしていない。ごくわずかにエジプトで書かれた可能性のある詩句はあるものの、全体としてはローマ帝国の支配下にあった小アジアのどこかという程度にしか絞られていない。 ===第9巻と第10巻=== 第9巻と第10巻は後述する3つの写本群のうち、1つの写本群(オメガ写本群)にしか収録されていない上、どちらも他の巻の寄せ集めに過ぎない。第9巻は第6巻全体に第7巻1行目と第8巻の218行目から428行目を繋ぎ合わせたものである。これを「ごちゃ混ぜの極致」(a masterpiece of confusion) と呼ぶ者さえいる。第10巻に至っては第4巻と全く同じでしかない。 こうした事情のため、14巻までの校訂版や翻訳書などでも、この2巻分は省略されるのが普通である。概説の類では第9巻、第10巻に全く触れず、12巻分のみが伝存しているとする例もしばしば見られる。 ===第11巻から第14巻=== 第11巻から第14巻までは、後述するように19世紀になって再発見された。巻数は写本に書かれていたものがそのまま踏襲されているが、19世紀末のミルトン・テリーのように巻数を前倒しにして、順に第9巻から第12巻とする者もいた(テリーは括弧書きの形で写本の巻数も併記している)。なお、この記事でテリーの見解を紹介する際には、煩瑣になるのを避けるために一般的な巻数表記で統一している。 テリーは第11巻をエジプトのユダヤ人による2世紀初頭の作品、第12巻と第13巻を3世紀のキリスト教徒の作品、第14巻を著者・年代とも特定困難とし、『カトリック百科事典』(1913年)はそれらの4巻本を、ユダヤ教徒の作品にキリスト教徒が手直しする形で3世紀から4世紀頃に成立した作品としたが、現在ではいずれの巻もユダヤ教的(13巻のみキリスト教的とする見解もある)で、成立は7世紀まで、あるいは9世紀とする見解も提示されている。教父たちはこれらの書から何も引用しなかったが、それが直ちに彼らの時代に存在しなかったことを意味するわけではない。それらが引用されなかったのは、表明されている宗教思想が重要なものではなく、救世主や黙示文学的な要素がありきたりなものだったからとも考えられているためである。 それとも関係するが、第11巻以降は政治史的な事後予言の色彩が強いとも言われており、第11巻から第13巻までには終末論的色彩が希薄である。第14巻は、そこまでの政治史的な流れを締めくくるかのように、ありきたりな描写ではあるものの、救世主や黄金時代の到来を語っている。 ===第11巻=== 第11巻は324行から成り、ノアの大洪水以降の世界史を語っている。ローマの建国、トロイア戦争、アレクサンドロス3世(大王)、ディアドコイなどを仄めかしつつ、クレオパトラとユリウス・カエサルの時代までの歴史を辿る。救世主の類型なども含めて宗教的要素には見るべきものがなく、キリスト教的要素は含まれていない。終始一貫しているエジプトへの強い関心から、エジプトで書かれたことが確実視されており、「神の民」との対比でエジプトに下る災厄を予告していることなどからユダヤ人の作品と考えられている。 ===第12巻=== 第12巻は299行から成る。様式的には第11巻と全く同じだが、第5巻の焼き直しの側面を持つとも指摘され、最初の10行あまりに至っては第5巻の冒頭と全く同じである。 ローマ史が続き、アウグストゥスからアレクサンデル・セウェルスに至る3世紀初頭までの歴代ローマ皇帝について、名前の頭文字をゲマトリアで数字に置き換えつつ語られている。このうち、セプティミウス・セウェルス帝直後の後継者たちが省かれているが、これは原文の欠落の可能性が指摘されている。 宗教的要素は、初期ローマ皇帝たちの治世下において、地上に神のロゴスが現われたとする記述の中に見受けられる。これを明らかにキリスト教的な記述と見なす論者もいるが、ユダヤ人の叛乱を鎮定したウェスパシアヌス帝が「敬虔な者たちに対する破壊者」と呼ばれるなど、ユダヤ人寄りの記述も存在している。結果として、キリスト教的挿入句がわずかに存在するものの、全体的にはユダヤ人の作品とされ、エジプト、特にアレキサンドリアで書かれた可能性が高いと考えられている。 ===第13巻=== 第13巻は173行から成る。この巻も宗教思想の展開が見られず、第12巻に続いてマクシミヌス帝からアウレリアヌス帝までのローマ皇帝の通史が語られている。アウレリアヌスは怪物たちや30人の暴君を従えるであろうとされ、様々な都市が直面する災厄や戦争が語られている。フィリップス・アラブス帝や彼が直面したペルシアとの戦争、ローマの穀倉としてのアレクサンドリアなどにも言及されている。 第12巻と第13巻には連続性があるので、書き手は同一という説があったが、現在は支持されていない。書き手の問題に関連して、19世紀末以降、第11巻から第14巻の中でこの巻だけがキリスト教的か否かを巡って議論があり、現在も決着していない。キリスト教的と見なす論者の重要な典拠は、デキウス帝によるキリスト教徒迫害が強く仄めかされている箇所の存在である。これについては、ウァレリアヌス帝の迫害が全く反映されていないことが反証として挙げられている。ウァレリアヌス帝はキリスト教徒を迫害した後ペルシア軍に囚われ、キリスト教徒がそれを神罰と受け止めていたため、その仄めかしが全く見られないのは不自然というわけである。いずれにしても、エジプト、特にアレキサンドリアで成立した可能性が高いとされる。 ===第14巻=== 361行から成る第14巻は、『シビュラの託宣』全体の中でも最も曖昧で説明しがたいとも言われる。前半には4世紀の皇帝であるディオクレティアヌスやテオドシウスの名前が織り込まれているとされるが、主張されている歴史的事件は現実の日付と対応しておらず、詩人は明らかに自身の想像に従っている。そもそも本当にローマ皇帝に対応する記述なのかどうか自体に議論があり、解釈によっては、どんな早くとも7世紀以降の成立とされることもある。 かつては書き手が主として小アジアに関心を持っていたと見られ、その地域出身のユダヤ教徒ないしキリスト教徒だった可能性が指摘されていたが、現在ではアレキサンドリアのユダヤ教徒とすることがほぼ定説化している。 この巻には特筆すべき宗教的要素は何もないが、書き手は救世主や黄金時代の到来によって締めくくっている。それはラテン人たちの最後の世代の間、ローマは神自身の統治によって至福の時を享受し、エジプトを含むオリエント世界では全ての過ちが正された後で、聖なる民が平和に暮らすだろうというものである。 ===第15巻=== 後述するオメガ写本群には、第8巻の1行目から9行目までを「第15巻」として収録している写本がある。しかし、重複分として削除されるのが普通で、『シビュラの託宣』全体が「15巻本」と言われることもまれである。 ===断片=== 現存する実質12巻の『シビュラの託宣』には含まれていない断片も存在している。それらは教父たちの引用によってのみ知られている逸文で、いずれもユダヤ人が書いたと推測されている。 断片は全部で8つあり、一般的に1902年のゲフケンの校訂版に従って、1から8までの通し番号が振られている。それらのうち断片1(35行)、2(3行)、3(49行)の出典はアンティオケイアのテオフィロスの唯一現存している著書『アウトリュコスに送る』第2巻(西暦180年代成立)である。ゲフケンはこれらに偽作の疑いを掛けたが、既存の巻のいずれかから脱落した内容とする反論もある。短すぎる断片2はともかく、あと2つは唯一神を称える内容になっており、本来的には失われた巻などの導入部の役割を果たしていた可能性も指摘されている。位置づけについては後述の#写本の系統も参照のこと。 断片4から7の出典はラクタンティウスの『神学綱要』だが、いずれも1行から3行程度の短いもので、断片7に至っては1行にも満たない。断片8の出典はエウセビオスに帰せられている偽書『聖なる集団への勧告』である。 ==受容の歴史== 『シビュラの託宣』は、擬ユスティノス、アテネのアテナゴラス、アンティオケイアのテオフィロス、アレクサンドリアのクレメンス、ラクタンティウス、アウグスティヌスら、特に初期の教父やキリスト教の書き手たちによって頻繁に引用され、バード・トンプソンの研究によればその数は22人、回数はのべ数百回に及ぶ。また使徒教父文書の『ヘルマスの牧者』にも引用が見られる。 ===ローマ詩人の言及=== ウェルギリウスは『牧歌』の中で、クマエのシビュラが神童と「サトゥルヌスの治世」(黄金時代)の到来を予言していたと歌い上げた。このモチーフの一部は、紀元前2世紀に成立していた『シビュラの託宣』の最古の部分(現在の第3巻)で借用されていた『イザヤ書』に触発されたものだという。 なお、ウェルギリウスのこの言及は、後年キリスト教徒たちからイエスの降誕を予言したものとして受け止められるようになり、それは結果として『シビュラの託宣』の地位を高めることにも繋がった。 ただし、前述の通り、古代ローマにはキケロやプルタルコスなど、『シビュラの託宣』が偽作に過ぎないことを指摘していた者たちもいた。 ===ユダヤ教徒の言及=== 『シビュラの託宣』の利用はキリスト教徒たちに特有の現象ではない。1世紀のユダヤ人歴史家フラウィウス・ヨセフスは、第3巻からバベルの塔に関連する記述を引用している。しかしながら、ヨセフスの引用は特段の反響を呼び起こさなかったようで、キリスト教文書としての広まりと裏腹に、ユダヤ教文書として広く受容されるには至らなかった。 中世のユダヤ文学に至っても、『シビュラの託宣』へのいかなる言及も影響の痕跡も見出すことができない。16世紀のアブラハム・ザクト (Abraham Zacuto) らはシビュラに簡略に触れているが、それはタルクィニウスに神託書を売りつけた伝説的な巫女の方である。ほかには、ビザンティン帝国の歴史家ゲオルギウス・モナクス (Georgius Monachus) らが、シバの女王をシビュラの一人と位置付けたりした例があるが、これもまた『シビュラの託宣』とは関係がない。 ===キリスト教徒の言及=== ヨセフスと同じ箇所はキリスト教徒によっても引用されている。キリスト教の護教論者で176年頃にマルクス・アウレリウス帝に『キリスト教徒のための申立書』ラテン語: (Supplicatio pro Christianis) を献じたアテネのアテナゴラスは、古典的でかつ異教的な出典との混合を見せている第3巻の長大なくだりの中から、ヨセフスと同じ記述を引用している。そして彼はこれら全ての作品が、ローマ帝国でよく知られたものだと述べた。 アンティオケイアのテオフィロス (Theophilus of Antioch) はその著『アウトリュコスに送る』第2巻で4箇所引用しているが、うち3箇所は上述の通り「断片」を形成する章句である。残り1箇所は第3巻序盤の8行分と第8巻の5行目である。第8巻が唐突に1行だけ抜粋されている不自然な引用は、これが第3巻の一部だった可能性などを想定させる。なお、テオフィロスはユダヤ人にとっての預言者たちに対応する同格の存在として、ギリシア人にとってのシビュラを位置付けた。アレクサンドリアのクレメンスも、複数の著書において『シビュラの託宣』を引用し、異教徒たちにイエス・キリストの到来を預言した重要な存在と位置付けていた。 殉教者ユスティノスに帰せられてきた偽書『ギリシア人への勧め』(3世紀後半 ‐ 4世紀初頭)の著者、偽ユスティノスも『シビュラの託宣』から複数箇所を引用した。彼はそれを全てクマエのシビュラ一人の神託と位置付けた。 アウグスティヌスも『シビュラの託宣』から引用し、特に『神の国』第18巻において、『シビュラの託宣』第8巻のアクロスティックを引用している。彼はそれを異教の巫女までもがイエスの到来を予言していた証拠として援用しており、これが中世ヨーロッパで広く知られる要因となった。後述するように『シビュラの託宣』がまとまった形(全8巻)で刊行されるのは1545年が最初だが、このアクロスティックだけはそれに先立つこと50年、アルドゥスによるギリシア詩歌の選集(1495年)の中にすでに採録されていたのである。ただし、アルドゥスの直接的な出典はエウセビオスに帰せられていて、そのエウセビオスの記述自体が実際には5世紀から7世紀ころに成立した『聖なる集団への勧告』という著書からの孫引きだった。 なお、アウグスティヌスは一貫して『シビュラの託宣』に好意的だったわけではなく、聖書を貶す目的でシビュラを称揚していたマニ教徒を論難する際には、『シビュラの託宣』をも攻撃した。 これに対し、『シビュラの託宣』に一貫して好意的な立場から、自身の教説の中で積極的に肯定的な地位を与え続けた人物がいる。それが、教父の中でもそれを最も多く引用し、そして後世のシビュラ理解に影響力があったとも言われるラクタンティウスである。彼はアウグスティヌスよりも前の時代の人物で、アウグスティヌスのシビュラ理解も彼から影響を受けたものであった。また、ラクタンティウスは上述の通り、現存の14巻本には含まれない断片も4つ伝えている。さらに彼の著書が15世紀後半に出版されたことで、後述するようにキリスト教美術におけるシビュラの受容にも影響した。 こうした言及によって、『シビュラの託宣』は中世の西方教会でも東方教会でも知られ、用いられてはいたものの、異教に対してキリスト教が優位になるのに伴って、それへの関心は段階的に衰え、広く読まれることはなくなっていった。『シビュラの託宣』は、その異教的要素にもかかわらず、聖書の外典や偽典と位置づけられることがある。しかし、どの教派でもこれが正典と位置付けられたことはなかった。 イタリアでルネサンスが花開いた頃には、まだ写本は再発見されていなかった。しかし、そんな中にあって人文主義者マルシリオ・フィチーノは『キリスト教について』で2つの章を割いて『シビュラの託宣』を論じている。彼の出典となったのは、ラクタンティウスの諸著作であった。 ===キリスト教美術への影響=== すでに述べたように、『シビュラの託宣』に基づいた古代の教父たちの言及によって、シビュラは聖書に登場する(男性の)預言者たちと並ぶ存在として位置付けられるようになっていた。しかし、15世紀以前にはシビュラが美術の題材として使われることはあまりなかった。 状況の変化は15世紀後半以降の印刷術の普及によってもたらされた。ラクタンティウスの『神学綱要』が1465年に早くも印刷物として公刊され、アウグスティヌスやヒエロニュムスを論じたフィリッポ・バルビエーリの著書(1481年)でも12人のシビュラが描かれて、『シビュラの託宣』の延長線上にあるシビュラのイメージが広められたのである。これらにより、本来異教的なシビュラがキリスト教美術のモチーフとして受容され、教会建築物の壁画や天井画、ステンドグラスなど様々な絵画、彫刻などに表現されるようになった。 シエナ大聖堂の舗床には10人のシビュラが描かれ、彼女たちにはラクタンティウスの著書から引用された碑銘が添えられた。ほかに、ミケランジェロがシスティーナ礼拝堂に描いた天井画の12人の預言者とシビュラは、預言者に対置される女性預言者としてのシビュラを描いていることで有名である。 ==写本の発見と出版の歴史== 現在伝わっているテクストは16世紀以降に再発見されたものであり、出版や校訂の歴史もそこから始まる。写本の発見に関わったのは、アウクスブルクの人文主義者クシストゥス・ベトゥレイウス (Xystus Betuleius) である。彼はラクタンティウスの著作集を出版しようと蒐集した写本群の中から、『シビュラの託宣』のギリシア語写本を発見した。彼はそれをもとに、第1巻から第8巻に6世紀のものとされる序文を添えたギリシア語版を、1545年にバーゼルで出版した。『シビュラの託宣』が公刊されたのはこれが最初であり、この出版は知識人たちの間で大きな反響を呼んだ。 翌年には、セバスティアヌス・カスティリオ (Sebastianus Castellio) によるラテン語対訳版が刊行された。カスティリオは1555年にも対訳の増補版を出版し、断片1、2、3を初めて公刊した。 1599年にはよりよい写本を基にした版が、ヨハンニス・オプソポエウス (Johannis Opsopoeus) によってパリで出版された。これは初期のテクストの中で最良と評価されている。逆に1689年にアムステルダムで刊行された版はその校訂上の価値が低い。18世紀には、1713年にサー・ジョン・フロイヤー (John Floyer) によって英訳版が出版されたり、アンドレーア・ガッランディ (Andrea Gallandi) による『ビブリオテカ・ウェテルム・パトルム』(ヴェネツィア、1765年 / 1788年)に採録されたりした。しかし、学術的に正確を期した版と評価できるものは、19世紀まで出版されることがなかった。 1817年にはアンジェロ・マイ (Angelo Mai) がミラノのアンブロジアーナ図書館で発見された写本に基づき、第14巻を初めて出版した。さらに彼はヴァティカン図書館で新たな4巻本(第11巻から第14巻)も発見し、そちらも1828年にローマで公刊した。それらはコンラート・ゲスナーが『普遍的図書館』(1545年)で一度は報告していたものだったが、マイが再発見するまで失われていた。全12巻分をまとめて出版したのは、ライプツィヒのフリードリープ (J. H. Friedlieb) の版(1852年)が最初だった。フランスではシャルル・アレクサンドルが1841年に8巻分の対訳版を出して以降、第11巻以降の分も含めて改定を重ね、1869年には「決定版」 (editio optima) を刊行した。『カトリック百科事典』(1913年)では、このアレクサンドルの版が非常に有用な版として評価されている。 19世紀には他にも様々な校訂版が出されたが、1902年にはライプツィヒでヨハンネス・ゲフケンによって包括的な校訂版が出版された。この校訂版は、16世紀のカスティリオ、オプソポエウスのほか、19世紀になって出版されていたシュトゥルーヴェ、アレクサンドル、マイネッケ、バット、ヘルヴェルデン、メンデルスゾーン、ルザック、ブレシュ、ヴィラモーヴィッツらの校訂版を踏まえたものになっている。なお、『エンサイクロペディア・ビブリカ』(1899年)ではルザックの版が高く評価されており、『ジューイッシュ・エンサイクロペディア』(1901 ‐ 1906年)では、アレクサンドル、ルザック、ゲフケンの版が特筆すべき版として評価されている。 1951年にはクルフェスによる新しい校訂版が登場したが、これは組み換えや削除などの点で、ゲフケン版に比べてかなり大胆な校訂が行われたものだという。ゲフケン版はJ.J.コリンズによる英訳や後述する日本語訳の際の底本になっているが、それらの訳書においても、クルフェスの研究成果は取り入れられている。 ===写本の系統=== ゲフケンは校訂に当たって12あまりの写本を参照し、それをオメガ (Ω) 写本群、フィー (Φ) 写本群、プシー (Ψ) 写本群の3つの写本群にまとめ、後の写本群になるほど信頼性が落ちると評価した。現在までにゲフケンが利用していなかった写本がさらに2つ発見されているが、ゲフケンの写本群分類は踏襲されている。 写本群ごとに収録巻数には大きな違いがある。オメガ写本群は基本的に第9巻から第14巻までしか含まれていない。逆にフィー写本群とプシー写本群には第1巻から第8巻までしか含まれていない。フィーとプシーにも違いがあり、フィーは序文を含んでいる代わりに第8巻の末尾(487行目から500行目)が欠落している。他方、プシーは序文を含んでいない上に、フィーの第8巻の一部(これは現在の校訂版でも第8巻に置かれている)が最初に持ってこられている。 写本に関する成立時期や関連情報をまとめておくと以下の通りである。 これらの写本によって『シビュラの託宣』の内容が全て伝わっているとは断定できない。実際、写本群に含まれていない「断片」の存在は、失われた要素があることを示唆している。そして、もう一つ問題なのは、ベトゥレイウスが使用したP写本をはじめとする多くの写本で、第3巻冒頭(96行目まで)に混乱が見られることである。多くの写本では「第2巻から」と記載されており、それらが第2巻の一部であることを示唆している。さらにプシー写本群の一部に至っては、92行目と93行目の間に断絶を設定し、そこに入るべき第2巻の末尾と第3巻冒頭が失われたことを示唆する書き込みまで存在している。 また、「断片」1から3が第3巻冒頭の内容と密接に関係していることなどから、クルフェスのように、第3巻冒頭と断片1から3で、本来は別の一巻を構成していたと推測する者もいる。コリンズも、第3巻の46行目から92行目が特定の巻の結論部分のような側面を持っていることからこの仮説に好意的だが、1行目から45行目と46行目と92行目が最初から一体のものとして存在していたのかには疑問を呈している。 ==翻訳== 『シビュラの託宣』は16世紀以降、ギリシア語以外にも翻訳されるようになった。すでに述べたように、初版の翌年にはカスティリオがラテン語との対訳版を出版していたが、原文の校訂などを踏まえた学術的な翻訳の登場は、19世紀末以降のことである。 ミルトン・テリーは1890年に英語訳を出版した。これはルザックやゲフケンの校訂版よりも前に出版された英訳だが、デポール大学 (DePaul University) の准教授コリンズの主要なものに絞った書誌でも挙げられている。 1900年にはブラスが第3巻から第5巻のドイツ語訳を発表した。コリンズはこれをクルフェスの校訂版などとともに、「最重要の(英語以外の)翻訳」に分類している。 同じ頃、第3巻から第5巻については、ランチェスターとベイトによる英語訳も相次いで出版された。ランチェスターの英訳と注釈は、柴田による日本語訳(後述)でも参考になった先行研究のひとつとして挙げられている。 1951年にはすでに述べたようにクルフェスによる11巻までの校訂版が出され、ドイツ語訳も付けられていた。クルフェスはウィルソンとともに、キリスト教的部分、つまり第1巻と第2巻の抄訳と第6巻から第8巻までの全体を対象とした英訳も発表している。 限定的な翻訳ということでは、ニキプロヴェツキーが1970年に第3巻のギリシア語原文とフランス語による対訳を発表した。この文献は、多くの論者が第3巻の最初の96行分を残りの部分と分けて考えているのに対し、統一的に把握することを提示したという点で、例外的な研究書である。 以上に挙げた校訂や翻訳を元に、第1巻から第8巻、第11巻から第14巻までの英訳を提示したのがコリンズである。1983年に出版されたその英訳は、2009年に再版された。 ===日本語訳=== 『シビュラの託宣』のうち、第1巻から第8巻までと3つの断片については、専門家による日本語訳が存在している。教文館の『聖書外典偽典』第3巻(旧約偽典I)には、ユダヤ教色の強い第3巻から第5巻までと断片1から3の訳(訳者柴田善家)が収められている。同じく『聖書外典偽典』第6巻(新約外典I)には、キリスト教色の強い第1巻と第2巻、および第6巻から第8巻の訳(訳者佐竹明)が収められている(一部の非キリスト教的箇所は割愛)。いずれの翻訳もゲフケンの校訂版を底本としている。 ==関連年表== 関連する年表を掲げる。なお、煩瑣になるのを避けるため、『シビュラの託宣』は『託宣』と略し、現在の巻数で記載する。逐一「...と推測される」などと記載することは避けたが、上で述べてきたように成立年代などには確定されていない要素が多い。本文中で記載したように、『シビュラの書』『シビュラの託宣』『ティブルティナ・シビュラ』はそれぞれ別個の作品である。 紀元前6世紀 ‐ 伝説上『シビュラの書』がローマに持ち込まれたとされる。紀元前140年頃 ‐ エジプトのユダヤ人によって最初の『託宣』(第3巻)が書かれる。紀元前83年 ‐ 『シビュラの書』が焼失する。紀元前12年 ‐ 再編された『シビュラの書』がローマの神殿に奉納される。80年頃 ‐ 『託宣』第4巻が成立する。130年頃 ‐ 『託宣』第5巻が成立する。2世紀中葉 ‐ キリスト教徒たちの加筆を経て、『託宣』第1巻と第2巻が出来上がる。180年代 ‐ アンティオケイアのテオフィロスによって『託宣』の断片1から3が引用される。2世紀から3世紀頃 ‐ 『託宣』第6巻から第8巻が成立する。4世紀初頭 ‐ ラクタンティウスが『託宣』の断片4から7を引用する。4世紀半ば (?) ‐ 『ティブルティナ・シビュラ』の成立。『託宣』との直接的なつながりはない。408年 ‐ 再編された『シビュラの書』が焼失する。5世紀初頭 ‐ アウグスティヌスが『神の国』を執筆し、その第18章で『託宣』を取り上げる。6世紀 ‐ 序文をつけた全8巻の『託宣』が成立する。7世紀ないし9世紀 ‐ このころまでに『託宣』第11巻から第14巻が成立する。14世紀から16世紀 ‐ 『託宣』の現存する全ての写本がこの時期に作成される。1495年 ‐ 『託宣』第8巻のアクロスティックを含む部分が出版される。1545年 ‐ 最初のギリシア語版(全8巻)が出版される。1546年 ‐ 最初のラテン語対訳版が出版される。19世紀前半 ‐ 『託宣』第11巻から第14巻の写本が発見される。1852年 ‐ ライプツィヒで第8巻までと第11巻以降を統合した版が初めて出版される。1902年 ‐ ゲフケンによる校訂版が出版される。1951年 ‐ クルフェスによる校訂版とドイツ語訳が出版される。1975年から1976年 ‐ 教文館の『聖書外典偽典』シリーズに『託宣』第1巻から第8巻までの訳が収録される(公刊された唯一の日本語訳版)。 ==関連文献== Peretti, A. (1943). La Sibilla babilonese nella propaganda ellenistica. Firenze, La Nuova Italia. 第3巻についての分析である。第3巻についての分析である。Collins, J. J. (1974). The Sibylline Oracles of Egyptian Judaism. Missoula. 第3巻から第5巻に関する多角的な分析。第3巻から第5巻に関する多角的な分析。ロスト, レオンハルト 『旧約外典偽典概説』 荒井献・土岐健治(訳)、教文館、1984年、第二版。 『シビュラの託宣』についての概説を含む(pp.122‐125)。『シビュラの託宣』についての概説を含む(pp.122‐125)。Grafton, A. (1988‐06). “Higher Criticism Ancient and Modern: The Lamentable Death of Hermes and the Sibyls”. In A.C. Dionisotti, A. Grafton, and J. Kraye. The Uses of Greek and Latin. Historical Essays. Warburg Inst. and London Univ.. pp. 155―170.  (アンソニー・グラフトン 『テクストの擁護者たちー近代ヨーロッパにおける人文学の誕生』 ヒロ・ヒライ(監訳)、福西亮輔、勁草書房、2015年。ISBN 9784326148288。第六章「ヘルメスとシビュラの奇妙な死」、pp. 303‐336として日本語訳有り。)Parke, H.W. (1988). Sibyls and Sibylline Prophecy in Classical Antiquity. London, Routledge. Cervelli, I. (1993). “Questioni sibilline”. Studi storici 34: 895―1001. Bracali, M. (1996). “Sebastiano Castellione e l’edizione dei Sibyllina Oracula”. Rinascimento 36: 319―349. Buitenwerf, R. (2003). Book III of the Sibylline Oracles and Its Social Setting. Leiden‐Boston, Brill. Schiano, C. (2005). Il secolo della Sibilla. Momenti della tradizione cinquecentesca degli 《Oracoli Sibillini》. Bari, edizioni di Pagina. =関門トンネル (山陽本線)= 関門トンネル(かんもんトンネル)は、関門海峡をくぐって本州と九州を結ぶ、鉄道用の水底トンネルである。九州旅客鉄道(JR九州)の山陽本線下関駅 ‐ 門司駅間に所在する。単線トンネル2本で構成され、下り線トンネルは全長3,614.04メートル、上り線トンネルは全長3,604.63メートルである。 ==概要== 関門海峡は九州(福岡県北九州市)と本州(山口県下関市)の間にある狭い海峡で、このうち深さの関係から西側の「大瀬戸」と呼ばれる部分に関門トンネルがある一方、もっとも海峡が狭くなる東側の「早鞆(はやとも)の瀬戸」に、他の関門海峡横断交通手段である国道2号の関門トンネル、山陽新幹線の新関門トンネル、高速道路の関門橋が通っている(→地理)。もともとは関門連絡船でこの海峡を横断して結んでいたが、乗換・積替の手間を省き輸送力を増強するために3回に渡って関門海峡にトンネルを建設する計画が持ち上がり、3回目の昭和初期の計画により実際に着工することになった(→建設に至る経緯)。 当面は単線の輸送力で十分であったことに加えて、工事の容易さから、単線でトンネルを建設することになり、将来輸送量が増えた時にもう1本の単線トンネルを建設して複線とすることになった。先に建設されたのは下り線のトンネルで、両側の取付部との関係に機関車による牽引性能を勘案して、20パーミル勾配を採用することにしたが、後に上り線のトンネルを建設した際には、海底部分での土被りを増すために一部で25パーミル勾配が採用された(→建設計画)。 事前に潜水艇による調査やボーリング調査などを実施して地質を調べた上で、まず、地質の調査や周り込んで本線の掘削箇所を増やすことやセメントの注入による地盤改良を行うため、細い試掘坑道を建設することとなった。これは1937年(昭和12年)に着工し、1939年(昭和14年)4月19日に貫通、8月5日に完成した。まだ試掘坑道を建設中であった1937年(昭和12年)12月から下り線トンネルの掘削にも着手し、門司側からは日本では3番目というシールド工法も使用して建設が進められた。 1942年(昭和17年)6月11日に最初の試運転列車が下り線トンネルを通過し、7月1日に貨物用に開通、11月15日に旅客用にも開通し、まずは単線での供用を開始した。さらに1940年(昭和15年)に上り線トンネルの着工も決定され、1944年(昭和19年)8月8日に開通し、下り線から上り線に列車を移したうえで下り線トンネルの改修工事を行って、9月9日から複線での運転が開始された(→建設)。 第二次世界大戦中は船舶不足に陥るなか、九州・本州間の連絡に重要な役割を果たした。1953年(昭和28年)6月28日には昭和28年西日本水害により水没し、復旧には2週間ほどを要した。当初から直流電化で開業した関門トンネルは、1960年代に入ると九州島内を交流電化する方針となったことから直流と交流の接続点ともなり、門司駅構内に交直デッドセクションが設けられて、そのための特徴的な車両が通過するようになった。1958年(昭和33年)から1975年(昭和50年)にかけて、関門海峡を渡る国道や高速道路、新幹線も開通したことで並行路線が実現された。1987年(昭和62年)の国鉄分割民営化に際しては、九州旅客鉄道(JR九州)が承継している(→運用)。 ==地理== 関門海峡は、九州の北端の福岡県北九州市と、本州の西端の山口県下関市の間にあり、西の日本海・響灘と東の瀬戸内海・周防灘を結んでいる海峡である。東側の下関市壇ノ浦と北九州市門司区和布刈間が早鞆の瀬戸と呼ばれる幅約600メートル程度の海峡最狭部であり、また西側には彦島があって、彦島と九州の間は大瀬戸、彦島と本州の間は小瀬戸と呼ばれる。小瀬戸は昭和初期に埋立工事が行われ、閘門で締め切られて、彦島と本州はほとんど地続きとなっている。 関門海峡を横断する橋やトンネルは、山陽本線(在来線)の関門トンネルの他に、国道2号の関門トンネル、山陽新幹線の新関門トンネル、高速道路の関門橋があるが、在来線の関門トンネルのみ大瀬戸を通過しており、他の3経路はいずれも海峡がもっとも狭くなる早鞆の瀬戸を通過している。 在来線の関門トンネルは、高架上の下関駅を出て本州から彦島へ渡ってトンネルに入り、弟子待(でしまつ)から大瀬戸の海底下をくぐって九州側の小森江に渡り、門司駅構内で地上に出る。在来線の関門トンネルが早鞆の瀬戸ではなく大瀬戸を通過することを選んだのは、早鞆の瀬戸の方が水深が深く、急勾配が許されない鉄道のトンネルでは全長が長くなってしまうことや、既存の鉄道との接続の関係からである。 周辺の鉄道路線網は、本州側を山陽本線が通り、下関駅から関門トンネルをくぐって九州側の門司駅へとつながる。一方九州側は鹿児島本線が門司港駅を起点とし門司駅で山陽本線と合流して小倉駅へと通っている。門司港駅は当初門司駅という名前で、門司駅は当初大里駅(だいりえき)という名前であったが、1942年に改称された。 ==建設に至る経緯== ===船舶による連絡=== 山陽本線を建設した私鉄の山陽鉄道は、1901年(明治34年)5月27日に馬関駅(1902年(明治35年)6月1日に改称して下関駅)までが全通した。この時点での下関駅は、細江町に所在していた。一方九州の鉄道網を建設した初代九州鉄道は、これより前の1891年(明治24年)4月1日に門司駅までを開通させ、九州地方一円に順次鉄道網を張り巡らせていった。 山陽鉄道ではこの間の連絡を図り、鉄道がまだ徳山駅までの開通だった1898年(明治31年)9月1日から、山陽汽船商社を通じて徳山 ‐ 門司 ‐ 赤間関(下関)間の3港間連絡航路を開設した。鉄道が馬関まで伸びると、山陽鉄道は直営で馬関 ‐ 門司航路(関門連絡船)を開設し、本州と九州間の鉄道同士の連絡を行うようになった。 鉄道国有法により山陽鉄道は1906年(明治39年)12月1日付で国有化され、関門連絡船も国有鉄道による運行となった。1907年(明治40年)7月1日には九州鉄道も国有化され、関門連絡とその前後の鉄道はすべて国有鉄道が運営するようになった。 関門間を通過する貨物輸送は、埠頭に引き込んだ貨物線に貨車を入れ、貨車から貨物を取り出して艀に積み替え、対岸へ艀を曳航して、再び貨車へ貨物を積み込む作業で行われており、積み替えの荷役費や荷造費、貨物の破損の損害などは多額に上っていた。この頃、下関で海運業を営んでいた宮本高次という人物は、若い頃にアメリカに渡って働いた経験があり、その時に現地で鉄道の貨車を船に搭載して運ぶ、「貨車航送」の様子を見たことがあった。そのためこれを日本に持ち込もうと考え、山陽鉄道およびその後継の国有鉄道に出願し、宮本が請け負って貨車航送を行うことになった。貨車航送では、貨車をそのまま船に搭載して対岸に渡すため、貨物の積み替えに伴う損害から解放され、積み替えの都合上取り扱いが制限されていた長尺物・石炭・砂利も取り扱えるようになり、連絡時間も大幅に短縮されることになった。1911年(明治44年)3月1日から日本で最初の貨車航送が開始され、9月末日限りで従来の積み替えを伴う輸送を全廃した。 貨車航送に伴う利便性の向上は著しく、輸送量は航送開始前の半年で貨車数にして下り4,762両、上り4,762両相当の貨物輸送であったのに対して、航送開始後の半年では下り8,987両、上り8,823両相当の貨物輸送に増加した。請け負う宮本は貨車1両の航送あたりで受け取る作業料で利益を上げ、国鉄側にとっても宮本に払う請負料は関門間の貨物運賃より安かったので純利益が出ており、さらに荷主に支払う貨物損傷の補填費用が不要となり、貨物輸送の増加や貨車の両岸での融通が可能となるなど、多大な利益を得ていた。荷主も貨物の損傷や紛失の減少に喜んだ。請負に伴う不便もあったため、宮本から設備一切を国鉄が買い取って1913年(大正2年)6月1日付で貨車航送を国鉄の直営とした。この貨車航送は、九州側では小森江付近に発着しており、門司に発着する旅客用の関門航路と区別して関森航路(かんしんこうろ)と呼ばれた。 ===直接連絡に向けた取り組み=== このように船舶による関門間連絡が図られてはいたが、旅客にとってもいったん船に乗り換えなければならないことははなはだ不便に感じられており、また悪天候の際には連絡が途絶することも問題視されていた。 山陽鉄道が全通する以前の1896年(明治29年)秋に、博多で第5回全国商業会議所連合会が開催された際に、博多商業会議所から関門間の海底トンネルによる鉄道連絡の提案が既になされていた。 鉄道院総裁の後藤新平は、1910年(明治43年)4月に鉄道近代化を目的として業務調査会議を設置し、その一環として第4分科で海陸連絡の検討を行った。1911年(明治44年)4月には、海峡のもっとも狭くなる早鞆の瀬戸で横断する橋梁案の検討を東京帝国大学工科大学教授の広井勇に依頼し、1916年(大正5年)3月に報告書が提出された。また比較としてトンネル案の検討を京都帝国大学工科大学教授の田辺朔郎に依頼した。田辺は実地調査の末1911年(明治44年)12月28日に関門トンネル鉄道線取調書を提出し、これに基づいてさらに鉄道院技師の岡野昇が線路選定を行って諸般の調査を行い、1913年(大正2年)1月に報告を提出した。また田辺がロンドンに出張した機会に、関門海峡の地質で水底トンネルの建設が可能かの調査を国外で行うことを委託され、帰国後1915年(大正4年)5月に工事は可能であると報告した。 広井が設計した橋梁はカンチレバー式のもので全長2,980フィート(約908.3メートル)、最大支間1,860フィート(約566.9メートル)、海面上の桁下高さは200フィート(約61.0メートル)で、橋の上には標準軌の鉄道複線、電車用の線路複線、さらに幅12フィート(約3.7メートル)の通路を2本設置する構造とされていた。活荷重についても、当時運行されていた機関車ではクーパーE30(軸重30,000ポンド=約13.6トン)で充分であったのに、クーパーE60(軸重60,000ポンド=約27.2トン)を想定しさらに3割の余裕を見込んでいた。橋への取付は、本州側では一ノ宮駅(後の新下関駅)の南700フィート(約213メートル)の地点で分岐して10パーミル勾配で全長2.5マイル(約4.0キロメートル)となり、九州側では大里駅(後の門司駅)で分岐して10パーミル勾配で全長5マイル(約8.0キロメートル)と見込んでいた。総工費は2142万6118円と見積もられた。 これに対して岡野がまとめたトンネル案は、大瀬戸を通過するものであった。これは早鞆の瀬戸では水深が15尋(約27.4メートル)あるのに対して大瀬戸では8尋(約14.6メートル)であり、大瀬戸の方が水底トンネル掘削が容易であるという理由であった。路線は甲案と乙案の2案が選定され、いずれも下関駅の手前の山陽本線328マイル7チェーン(約528キロメートル)地点で分岐して彦島に渡り、彦島南端の田ノ首から南に対岸の新町に渡り、鹿児島本線の5マイル76チェーン(約9.6キロメートル)地点で合流して小倉駅に至る。甲案は乙案より水深が1尋(約1.8メートル)増加する不利があったが、九州側の線路の取付が有利であり、どちらでも大きな優劣はないとした。この他に金の弦岬から赤坂に向かう案も検討したが、水深が浅いという利点はあるもののトンネルの水底延長が長くなり、しかも九州側での線路の取付に不利であるとされた。複線トンネルにした場合、単線トンネルに比べて線路の位置がより低い場所になり、水面下より深い場所を通らなくてはならなくなり、掘削量も増大することから、単線トンネルを前提とした。総工費は田辺により、単線で約668万6000円、複線にすると約1300万円と見積もられた。 この他に、到着した列車をまるごと船に積み込んで対岸に渡す渡船案を竹崎(下関駅西側)と門司駅の間、竹崎と大里駅の間、長府串崎と大久保の間の3航路で検討したが、もともと関門海峡は通航する船舶が多く、しかも潮流が激しいところを縫って頻繁にこうした船舶を往復させることは困難であるとした。また橋を架けてその下に客貨車を運搬する搬器を吊り下げて運行する運搬橋を建設する案も検討され、線路を高い位置に持って行かなくて済む利点はあるものの、両岸の山が高くなっている関門海峡では固定された橋の建設がしやすいこと、固定橋では連続的に運行できるのに対して運搬橋では断続的な運行しかできないこと、船舶の運航と支障することに変わりがないこと、そして固定橋と建設費に大差ないと見込まれたことなどから不適切であるとされた。 こうして比較した結果、トンネルの方が橋梁よりも建設費が安く、その上爆撃を受けると重要な交通路が途絶するという国防上の問題点を抱えずに済むことから、国鉄ではトンネル案を採用する方針を決定した。1919年(大正8年)度から10か年継続で総額1816万円の予算を計上して第41回帝国議会での協賛を受けた。そして1919年(大正8年)6月から9月にかけて鉄道院技師の平井喜久松が連絡線路の実測調査を行い、また同年7月から10月まで、および1920年(大正9年)7月から10月までの2回に渡り関門海峡大瀬戸の海底地質調査を実施した。ところが、第一次世界大戦後の物価高騰により当初の予算ではトンネルの完成を見込めなくなり、加えて1923年(大正12年)の関東大震災に伴ってその復旧に資金を割かれることになったことから、1924年(大正13年)の第50回帝国議会において大正17年度以降に新規着手する事業は後年別途予算協賛を得る方針となり、関門トンネル予算は一旦削除されてこの時点では建設が見送られることになった。 しかし、関門海峡連絡の問題は放置することができず、1925年(大正14年)には鉄道省が再び関門海峡連絡問題の検討を開始し、技師大井上前雄に命じて調査を行わせた。この際には、シールド工法だけではなく沈埋工法も検討対象とした。この結果、再びトンネル案が最良であると結論づけられ、その工法について大井上は、トンネルの強度が大きいこと、圧気中での作業の必要がないこと、より浅い場所にトンネルを通すことができて列車の昇降に伴う損失が少ないこと、建設作業が海峡を通航する船舶に対して与える支障は十分軽微であるとして、沈埋工法が適切であると主張した。これを受けて1926年(大正15年)12月17日に省議により関門トンネルへの着工が決定された。1927年(昭和2年)1月に下関市に工務局関門派出所を設置し、さらに調査を行った。この調査では、約80万円の予算を用いて地質調査、潮流調査、船舶航行状況の調査、測量、そしてトンネル工法の比較検討が行われた。しかし今度もまた、1927年(昭和2年)より発生した昭和金融恐慌の影響もあって工事に着手することができず、1930年(昭和5年)に関門派出所は廃止された。 ところが1931年(昭和6年)になると一転して関門間の貨車航送は激増するようになり、そう遠くない時期に行き詰ることは明らかとなってきた。関門間の鉄道連絡船は、旅客輸送にはまだ余裕があったが貨車航送は限界に近付いており、下関駅構内が狭隘なため設備の増強余地もなかった。1929年(昭和4年)時点で設備と船舶を最大限活用した場合、1日168回の運航となり年間に片道143万トンの輸送が可能であるが、1934年(昭和9年)には限界に達するものと見積もっていた。そこで再び関門トンネル建設の声が上がり、鉄道省工務局は再度研究を開始した。 1935年(昭和10年)5月27日に、当時の鉄道大臣内田信也は現地で設計を詳細に検討した後帰京し、6月7日の閣議において予算1800万円、4か年の継続工事で昭和11年度に着工するとの承認を得た。これに対して九州側の門司市は、かつて岡野がまとめた田ノ首 ‐ 新町線では門司市を素通りすることになり門司市の繁栄に影響するとして、トンネルの経路を門司市寄りに変更するように求めて田ノ首 ‐ 新町線案への反対運動を展開した。これを受けて鉄道省内で技術委員会を設けて新たに弟子待 ‐ 小森江線の検討を行った。8月14日からボーリングにより弟子待 ‐ 小森江線の地質調査を行い、9月28日に工務局長平井喜久松の現地調査を経て、11月25日に新しい案での建設は可能であると結論をくだした。いずれの経路でも一長一短があるものの、弟子待 ‐ 小森江線は海底区間の延長が約400メートル短く、九州側に旅客駅を新設する必要がなく、また操車場への取付上も有利であるとした。こうして技術的な調査に政治的な配慮を加えて内田鉄道大臣は、弟子待 ‐ 小森江線の採用を決定した。 こうして決定された経路について、「関門連絡線新設費」の名目で1612万円の予算を計上し、第69回帝国議会において協賛を得た。翌1936年(昭和11年)7月15日に下関市に鉄道省下関改良事務所が設置され、技師の釘宮磐が所長に任じられて、いよいよ関門トンネルに着工することになった。同年9月19日、門司側の現場において鉄道省の関係者に山口県・福岡県の県知事、下関市・門司市の市長、代議士や下関要塞司令官も参列して起工式が挙行された。 ==建設計画== ===建設担当=== 関門トンネルの建設は、基本的に鉄道省およびその後継省庁の直轄施工で行われ、下関側の取付トンネルおよび門司側の取付トンネルのうち開削工法を採用した区間についてのみ請負で実施した。工事実施のために1936年(昭和11年)7月15日に下関改良事務所が設置され、以降1939年(昭和14年)8月30日に下関工事事務所、1942年(昭和17年)11月1日に下関地方施設部と順次改称された。その傘下で、下関側からの工事を担当したのが弟子待出張所、門司側からの工事を担当したのが小森江出張所である。請負に付された下関側取付トンネルは間組、門司側取付トンネル開削工法区間は大林組がそれぞれ担当した。 ===地質=== ボーリング調査、弾性波調査に加えて、試掘坑道を掘って確認された海底部の地質は以下の通りである。下関方試掘坑道から100メートル付近までは輝緑凝灰岩が分布し、そこから260メートル付近までは花崗岩となっている。花崗岩と輝緑凝灰岩の接触部は接触変質しており、接触面から10メートルほどは輝緑凝灰岩が黒雲母片岩に変化している。花崗岩のうち、200メートル付近は厚さ約20メートルほどの*167*岩が貫入している。260メートル付近から厚さ約15メートルの断層破砕帯があり、そこから先は礫岩、砂岩、頁岩などの水成岩(堆積岩)などとなっている。この地層は420メートル付近まで続き、再び約20メートル幅の断層破砕帯を挟んで輝緑凝灰岩層に入る。この輝緑凝灰岩層は、門司側にある花崗岩層の影響を受けて変質している部分がところどころにあり、また*168*岩の貫入も見られる。門司方に近づくにつれて次第に*169*岩の方が主体となっていく。910メートル付近からは花崗岩層となり、この層もところどころ*170*岩の貫入が見られる。 ===建設基準=== 鉄道省内に設けられた技術委員会では、トンネルの最急勾配を20パーミルとすることが適当であるとした。これより勾配を緩くすると前後の取付線路の接続に困難をきたす一方で、これより勾配をきつくすると運転に必要とする機関車の数が増大して不経済となるためで、工事費や運転速度、所要両数などを勘案して決定された。ただし、下り線トンネルの施工経験を踏まえて後に建設された上り線トンネルでは、施工が困難な下関側の第三紀層地帯の突破のために被覆を増す必要があるとして、最大25パーミル勾配が設定された。 トンネルの工法は、海底下を通常通りに掘っていく普通工法を採用することになり、地質に応じて圧気工法またはシールド工法を併用することにした。これは、関門海峡は潮流が激しく船の通航も多い上に、海底が掘削の困難な岩盤となっていることもあって、海上からの作業(沈埋工法)は困難であると判断されたためである。 単線トンネルと複線トンネルを比較すると、複線トンネルは断面積が大きくなり、断面の直径に対応して海底との距離を大きくしなければならなくなるので、海底下より深い場所を通ることになり、トンネル総延長が長くなるとともに前後の既存路線への取付に影響する。また施工自体も単線トンネルの方が複線トンネルに比べて容易であり、さらに完成後トンネル内で列車脱線等の事故が発生した場合に、単線トンネル2本であればもう1本のトンネルで単線運転をすることができるが、複線トンネルでは全面的に運転不能となる恐れがある。これに加えて当面は単線の輸送力で十分であったことから、単線トンネルを採用することにした。後に必要となった時点で追加の単線トンネルを施工して複線とすることになった。また当初から電気運転をすることが想定された。 ===工法=== 地質調査の結果、区間ごとに以下の工法が採用された。 なお以下の記事・図・表においては、山陽本線神戸駅起点でのキロ程を用いて位置を表記し、たとえば508キロメートル881メートル20を508K881M20と略記する。キロ程については、1934年(昭和9年)12月1日に麻里布(後の岩国) ‐ 櫛ケ浜間で岩徳線が開通してこちらが山陽本線となったため、関門トンネル着工時点では下関駅の神戸起点のキロ程は507.6キロメートル、1942年(昭和17年)4月1日付で実施された下関駅の改キロ後は507.0キロメートルであった。1944年(昭和19年)10月11日に再び山陽本線の経路は元の海側を周る線路に戻され、下関駅のキロ程は528.7キロメートルになった。この結果、たとえば1979年(昭和54年)作成の資料では下り線の入口キロ程は530K614Mとなっている。この記事では、工事誌に記載されている着工時点のキロ程で一貫して記載する。 まず下関方の取付区間は、地質的にもその他の点でも一般的な山岳トンネルと異なるところがないので、普通工法を採用した。 下関方の海底区間は、断層があって複雑な地質であったが、潜水艇による調査で海底が岩盤であることがわかり、弾性波調査によって各部の硬軟の程度もわかっていたことから、セメント注入で湧水を防止しながら普通工法で掘削することにした。これに対して門司側の海底区間は、地質および被覆の関係上、シールド工法を採用することにした。 最初に建設した下り線トンネルにおいては、当初海岸付近に立坑を設けてそこからシールドマシンを発進させる計画であったが、試掘坑道においてその付近の地質が予想以上に悪いことがわかり、陸上部での練習を兼ねて鹿児島本線の東側にあたる、511K870M地点から発進させることにした。門司側の坑口付近は、土被りが浅く鹿児島本線に近接していることもあり、開削工法を採用することにした。 土被りが6メートルとなる地点からは潜函工法(ニューマチックケーソン工法)を採用した。しかしシールドマシンを発進させた立坑までの最後の約146メートルの区間は、地下に玉石などがあって潜函工法の採用は困難であり、議論の結果圧気工法が採用されることになった。これに対して後に建設した上り線トンネルにおいては、先に建設した下り線トンネルにおいて圧気工法の採用に自信を得たため、圧気工法の採用区間が長くなり、シールド工法は海底区間のみに限定された。 ===線形=== 先に建設した下り線(第1線)は、508K881M20地点を入口とし、512K480M00地点を出口として、総延長は3,614メートル04である。トンネル内に重キロがあるため、両端のキロ程の差より全長が15.24メートル長い。縦断勾配は、510K772M地点を最低点として、両側とも20パーミル勾配になっている。下関側の入口は東京湾中等潮位を基準とする標高(以下同じ)で+1.80メートル、トンネル内最低地点は‐36.39メートル、門司側の出口は‐1.99メートルの位置にある。当初は、トンネル中央付近に2パーミル勾配の区間を設定する計画であったが、トンネル上部の被覆をできるだけ厚くするために途中で変更された。 後に建設した上り線(第2線)は、508K856M10地点を入口とし、512K460M73を出口として、総延長は3,604.63メートルである。下り線建設の際に、下関側海底区間の第三紀層断層破砕帯の突破に困難を極めたことから、この区間についてシールド工法や圧気工法の採用も検討されるほどであった。しかし労務や資材の都合上普通工法で突破せざるを得ず、後に上り線(第2線)を建設する際には、下り線工事の影響もあることから、海底との間隔が同程度では掘削の自信を持てなかった。このため勾配を犠牲にして海底との間隔を広げることにし、510K697M地点を最低点として、下関側は22パーミル勾配とした。これにより、断層破砕帯においては下り線より約4.5メートル低い地点を通過する。最低地点より門司側では、25パーミル勾配を511K100M地点まで採用して、以降は下り線と同じ20パーミル勾配で出口へ至る。下関側の入口の標高は+0.75メートル、トンネル内最低地点は‐38.4メートル、門司側の出口は‐1.99メートルの位置にある。 水平方向の線形は、下り列車進行方向に対して左に半径600メートルの曲線を描きながらトンネルに進入し、ほぼ直線となって海峡を横断して、門司側で下り列車進行方向に対して右に半径600メートルの曲線を描いて、再び直線となって出口へ至る。上下線のトンネルの線路中心線間隔は20メートルであるが、門司側で潜函工法や開削工法を採用した区間はこれより間隔が狭められている。 トンネルの断面については、普通工法区間と圧気工法区間は馬蹄形の断面で、第一号型断面を水圧に対抗するためにやや幅方向に広げ、起拱線より上で半径2.6メートルの半円として、軌条面での幅は3.5メートルである。シールド工法区間では、シールドの蛇行を最大で15センチメートルとして、内部の半径を3.0メートル、環片(セグメント)の厚さを0.5メートルとして外径は7メートルとなった。潜函工法および開削工法の区間ではいずれも、トンネル内側で幅4.8メートル、高さ5.75メートルの断面とした。 ==建設== ===地質調査=== ====ボーリング調査==== トンネルの建設前に、関門海峡の海底に対してボーリングにより地質調査を行った。ボーリング作業は、水深が浅い場所では海底に杭を打ち込んで海面上に足場を仮設し、その上にボーリングマシンを据えて実施した。水深が深い場所では、従来は船やポンツーン上にボーリングマシンを据え付けて作業位置に錨を入れて固定して実施していたが、関門海峡の潮流は激しく到底1か所に浮足場を固定することはできなかった。そこで空気タンクを備えた鉄筋コンクリート製の櫓を建造し、タンクに圧縮空気を入れた時は海上に浮きあがって目的地まで船で曳航することができ、タンクから空気を抜くと海底に着底して櫓の上部が作業用の足場となるようにした。高さは約20メートル、重量約480トンある櫓で、1か所でのボーリング作業完了後は海峡の海流が向きを変える(転流する)時間帯を見計らって空気タンクに空気を送り込んで浮上させ、新たな作業地点へ曳航した。櫓は三菱造船彦島工場で製作された。作業に使ったボーリングマシンは、スウェディッシュ・ロック・ドリリング製のクレリウス式A‐B型で、当初は日本国外から雇い入れた技術者の指導を仰いでボーリングを行った。 1919年(大正8年)から1920年(大正9年)にかけての調査では、田ノ首 ‐ 新町線の計画経路に沿って4か所のボーリング調査を行った。続いて1927年(昭和2年)3月23日から1929年(昭和4年)7月20日までかけて、大正時代の調査とはやや異なる経路で19か所におよぶボーリング調査を行った。さらに1935年(昭和10年)8月13日から11月28日にかけて、弟子待 ‐ 小森江線の経路を調査するため、下関側陸上2か所、海底7か所、門司側陸上6か所の合計15か所でボーリング調査を行った。この際海底ボーリングには、前回の調査後宇部沖ノ山炭鉱に譲渡されていた櫓を借り受けてきて使用した。この際は、田ノ首 ‐ 新町線との比較であったため、実際の弟子待 ‐ 小森江線経路上での海底ボーリング調査は4か所であった。 ===弾性波調査=== ダイナマイトによって人工地震を起こし、その振動を地震計で記録し分析することによって地質を推測する弾性波調査も実施された。1936年(昭和11年)10月から12月にかけて、東京帝国大学地震研究所および鉄道省大臣官房研究所、本省建設局の3者によって海底部の弾性波調査が実施された。船からダイナマイトを海底に沈め、爆破と同時に無線でそれを通報し、弟子待と小森江に備え付けられた地震計でその揺れを計測した。また巌流島と門司の防波堤上のトランシットを用いて船の位置を測量して爆破位置を確定した。地質が堅いほど弾性波は速く、花崗岩や*171*岩、変成岩などでは秒速5キロメートルを超えるが、軟らかい岩石では秒速3キロメートル程度、風化帯や土砂では秒速1.5キロメートル程度であり、測定された弾性波速度から各地点の地質を特定した。また、下関方の取付トンネルにおいても、1938年(昭和13年)3月6日から月末にかけて弾性波調査が行われ、トンネル坑口から約500メートルの地点に大きな断層があることが発見された。 一方、水中微動計を用いた調査も実施した。海底に微動計を沈め、門司方試掘坑道内のダイナマイトを爆破してその振動を計測するもので、1939年(昭和14年)2月6日から3月5日にかけて実施した。しかし、試掘坑道においてズリを運搬するトロッコの振動が伝わるため、坑内の作業を打ち切るタイミングと海上の潮流が収まって測定に好都合なタイミングを一致させなければならず、船と坑内の連絡がうまく行かないために測定は困難で、途中で打ち切られた。そのため、下関方で微動計を用いた調査を6月9日から36日間に渡って行った際には、試掘坑道ではなく海底にダイナマイトを据え付けて観測を実施した。これにより、510K540M付近に幅約15メートルの断層破砕帯が、510K700M付近から先に軟弱地帯があることが判明した。 ===潜水艇による調査=== 関門海峡の潮流は速く、海底に漂砂があるとは考えられなかったが、念のために西村深海研究所所有の西村式潜水艇を用いて海底の調査を実施した。西村式潜水艇は、下関市出身で当時は東京で水産業を営んでいた西村一松が開発したもので、全長10メートル弱、幅2メートル、21トンあり、魚類や水棲植物の観察を目的としたものであった。この潜水艇を借り受けて海底の調査を行うことにし、真鶴半島から17日かけて母船の第六松丸に曳航されて関門海峡へ到着した。潜水艇は、操縦士の他には2人が乗れるだけの大きさで、3,000ワットの電灯で照らされる海中を小さなガラス窓から観察した。海流がある時は潜航できないため、調査は転流時の30分ほどに限られた。1937年(昭和12年)1月15日から2月2日までかけて潜水艇による海底調査を実施し、事前の予想通り漂砂はないことが判明した。 ===工事の準備=== ====下関方地上設備==== 下関方の作業場所は、彦島の弟子待に建設された。1937年(昭和12年)1月6日に、現地の民家を借り受けて弟子待見張所(後に弟子待出張所)が設置され、諸建物類の建設を行って8月下旬に竣功した。各種の倉庫、労務者の宿舎、機械類の修理工場、削岩機修理工場、木工所、コンクリート混和設備などが建設された。セメントやズリの運搬には川崎車輛製の蓄電池式機関車を4両使用し、軌間は坑内・坑外ともに610ミリメートルとした。現地付近の海底が浅く浚渫も困難であったことから、ズリを船舶で運び出すことは困難とされ、現地付近でズリを処分することになった。当初は出張所敷地内の建物用地の埋立造成にズリを利用し、それが完了すると出張所から約600メートル離れた水田を埋め立てる契約をして捨て場とした。 坑内で消費する圧縮空気を供給するために、空気圧縮機を設置した。日立製作所製150馬力のものを3台設置したが、次第に空気消費量が増大したため、インガーソル・ランド(英語版)製の150馬力のものと75馬力のものを順次増設した。また立坑にはエレベーターを設置した。試掘坑道用の立坑エレベーターは三菱電機製で、昇降距離55メートル、最大荷重3トン、電動機30馬力であった。下り線用の立坑エレベーターは、6トンの能力のものが必要と計算されたが、当時日本ではこの規模のものの製作が難しかった。しかし為替の都合などから輸入も難しいとされたため、三菱電機が新たに開発を行って当時の日本で最大規模のエレベーターを完成させた。昇降距離39.44メートル、最大荷重6トン、電動機60馬力のものを2組設備した。上り線用には下り線用のものを移設して使用した。 弟子待出張所は離島の彦島にあり、当時は民間の小船舶が本土との間を運航していたが、少しの時化でも欠航して不便な状態であった。機材の運搬は船に拠らなければならなかったので、弟子待出張所の海岸に桟橋を建設し運用した。 ===門司方地上設備=== 門司方の作業場所については、試掘坑道への立坑を鹿児島本線より海岸側に設置した。当初は試掘坑道立坑付近に本線用の立坑も設置する予定であったが、試掘坑道用立坑の地質が予想外に悪かったこともあり、立坑の位置を鹿児島本線より内陸側に変更することになった。そこで、当初は試掘坑道立坑付近に仮設備を配置し、後に一部を本坑の立坑位置付近に移設した。試掘坑道用立坑以外の門司出張所の建物類はほとんどが鹿児島本線と国道に挟まれた土地に建設されることになった。こちらにも下関方と同様に各種の倉庫、修理工場、コンクリート混和設備などが建設された。シールドトンネル内では主に川崎車輛製および日立製作所製の蓄電池式機関車を用い、軌間は610ミリメートルであった。大里駅から門司出張所内へ専用線を敷設し、工事用臨時列車を門司鉄道局に委託して運行してズリの搬出作業を行った。専用線内の入換作業は現場の担当であったため、入換用軽便機関車を15トン機と10トン機の2両準備して使用した。ズリは門司操車場に運搬して盛土に使用した。 門司側でも下関側同様に坑内で消費する圧縮空気を供給するための空気圧縮機を設置した。試掘坑道用にはインガーソル・ランド製75馬力のものを2台設置し、本線用には主にシールドマシンの動作のために日立製作所製150馬力3台、インガーソル・ランド製400馬力6台、日立製作所製400馬力2台と多数の空気圧縮機を設置した。また試掘坑道用および下り線用にそれぞれ立坑エレベーターを設置し、上り線工事時には下り線用のものを転用した。小森江の海岸付近にも桟橋を造成して使用した。 ===シールドマシン=== 前述したように、門司方海底区間ではシールド工法が採用された。シールド工法は、1825年からのテムズトンネルの建設工事に初めて用いられ、欧米諸国で次第に発展して普及したトンネル工法であった。日本では1919年(大正8年)に羽越本線折渡トンネルで初めて横河橋梁製のシールドマシンを使った掘削が行われたが、予定の300メートルを掘削できずに推進不能となり、その場で埋め殺しとなった。また丹那トンネルの建設工事の際には、水抜き坑の建設のためにシールド工法を採用した実績があった。このように、シールドトンネルの技術は日本では未熟であり、関門トンネルの工事においても当初は日本国外の業者に請け負わせるか、機械を輸入して専門の技術者を招聘するという意見も根強かった。しかし、丹那トンネルの工事を経験してトンネル工事の技術に日本の土木技術者が自信を持つようになってきていたことや、軍事上重要な要塞地帯であった関門地区の鉄道建設に対して日本国外を関与させることが望ましくなかったことから、日本の技術でシールドマシンを製作して工事を行うことに決定した。 シールドマシンの設計は、村山朔郎が担当した。村山は、1935年(昭和10年)に京都帝国大学土木工学科を卒業して鉄道省に入省した若手土木技術者で、主にアメリカ合衆国で発行された技術文献を参考にシールドマシンの設計に取り組んだ。設計されたシールドマシンの本体は三菱重工業、シールドジャッキは神戸製鋼所、環片(セグメント)は久保田鉄工所が担当して製作した。 シールドマシンは、初期には様々な形状のものがあったが、関門トンネル工事の時点では諸国とも円形断面のものがほとんどであり、関門トンネル用のシールドマシンも同様に円形断面を採用した。セグメントリングの外径は7メートルであり、各国の例を参考に22ミリメートル厚の鉄板3枚を重ねた尾部を採用し、またセグメントリングに対する余裕を50ミリメートル見込んだため、合計してシールドの外径は7,182ミリメートルとなった。尾部の長さは、下り線用について環片2個分の1,500ミリメートルに余裕250ミリメートル、シールドジャッキの沓の長さ310ミリメートル、環片とシールドジャッキの間の余裕50ミリメートルとして合計2110ミリメートルとし、上り線用については環片2個分を1,600ミリメートルに余裕を200ミリメートル、環片とシールドジャッキの間の余裕を100ミリメートルとしたため合計2,210ミリメートルとなった。ジャッキ本体部の長さは上下線とも1,700ミリメートル、この先に地山に食い込む刄口が設けられ、また作業員が安全に作業できるように上部は庇状に伸ばしたことから、この部分の長さは上部で1,600ミリメートル、下部で800ミリメートルとされた。この結果、シールドマシンの全長は下り線用で下部5,010ミリメートル、上部5,810ミリメートル、上り線用で下部5,110ミリメートル、上部5,910ミリメートルとなった。総重量は約200トンである。 シールドマシンを推進するシールドジャッキは、200トンの能力のものを下り線用で24本、上り線で22本装備した。イギリス・アメリカ・フランスなどシールドトンネルの施工実績のある国の例を参考に研究して、推進能力を設定した。常用水圧は400 kg/cm、シリンダー有効直径は250ミリメートル、最大衝程1,110ミリメートルであった。また、シールドマシン内部の作業床の出し入れをする可動床ジャッキと、山留に使用する山留ジャッキを装備した。また水圧動作で環片を組み立てる環片組立機(セグメントエレクター)を装備した。小規模のシールドマシンでは人力でセグメントを組み立てる例もあるが、関門トンネルの規模では機械力によるのは必須であった。シールドとは別に移動式の組立機を用意する例もあるが、関門トンネルではシールドに固定された組立機を採用した。また、電力によって動作する組立機の実例もあったが、他のジャッキ類がすべて水圧動作であるため水圧式の組立機を採用した。組立機は、伸び縮みするアームを回転させられるようになっており、環片をアームの先でつかんで固定して所定の位置へアームを回転させ、アームを伸ばしてトンネル壁面の所定の位置へ環片を据え付ける動作をした。 シールドトンネルにおいて壁面を形成する覆工は、環片(セグメント)と呼ばれるブロックを組み立てて構成し、さらにその内側に第二次覆工としてコンクリートを巻きたてることが普通である。環片の組み立ては、シールドマシンの尾部内側で行われ、輪環(リング)を構成した後、シールドジャッキをリングに押し当ててシールドマシンの推進を行う。第一次覆工として組み立てる環片の材料は木材、コンクリート、鋼鉄、鋳鉄などの種類があるが、関門トンネルにおいては結果的に鋳鉄を採用し、後に鉄材節約の目的で一部に鉄筋コンクリート製の環片を採用した。 輪環は外径7メートルで、1つの輪環を構成するためにA型9個、B型2個、K型1個の合計12個の環片を使用した。A型は通常の環片で、トンネル断面方向から見ると扇形になっており、これに対してB型は隣にK型を嵌め込むために一方の端の傾きが逆になっている。K型は、A型とB型を嵌め込む作業が終わった後に最後に挿入して輪環を完成させる部位に使うものである。トンネルの進行方向を調整するために、環片の長さを変えた異形環片も用意された。環片の外周部における円周方向長さはA型で1,969.2ミリメートル、B型で1989.2ミリメートル、K型で288.2ミリメートルであった。また環片のトンネル長方向の長さは、シールドジャッキの繰り出し長さに影響するため、下り線トンネルにおいては慎重を期して750ミリメートルとし、自信を得たため上り線トンネルにおいては800ミリメートルとした。環片の厚さは280ミリメートルあり、1個の重量は約1トンであった。環片の総製作数は約13,000個に上った。ただし、上り線トンネルの陸上部においては、鉄材節約の目的で1輪環の重量を約4割減らした薄型の環片を10組分試作して使用した。同様に鉄筋コンクリート環片も製作され、1個の重量を1トン以内に収める目的でこの区間については1輪環を13環片で構成した。鉄筋コンクリート環片は破損しやすく、組み立てた後の輪環形状の修正が困難で形が狂いやすい、といった欠点があり、上り線トンネルにおいて17輪環のみ施工された。 関門トンネルではシールド工法に圧気工法を併用したため、シールド工法区間の端に隔壁を設けた。想定圧力は40ポンド重毎平方インチ(約27万6000パスカル=約2.72気圧)とした。隔壁の直径は6.44メートルで、想定圧力の時約920トンの力を受け、厚さ3メートルのコンクリートで隔壁を構築した。この隔壁を通過するために気閘(エアロック)を3組装備した。材料気閘は大型材料や資材運搬のトロッコを通過させるための気閘で、運搬車の幅0.98メートル、高さ1メートルに対して開口部を1.3メートル×1.55メートルとし、気閘内径は2.48メートル、長さは11.8メートルであった。トロッコの線路は扉の開閉のたびにはめ外しを行う必要があり、空気ピストンを利用した仕組みを準備した。作業員気閘は作業員を通過させるための気閘で、40人を収容できるものとして長さ7,800ミリメートル、内径1,780ミリメートルのものを設置した。非常気閘は、坑内の噴発や火災の事故に備えて作業員の避難用としたもので、長さ8,800ミリメートル、内径1,780ミリメートルあり、事故に備えて常時坑内側に扉を開けた状態にしてあった。また非常気閘の坑外側は2,070ミリメートルの位置で区切って扉を設けてあり、少人数の出入り用の職員気閘としても使えるようにしてあった。 ===電力供給=== 関門トンネルの工事では、シールド工法および圧気工法を採用した区間があるため、常時多量の電力を必要とし、空気圧縮機や排水ポンプが停止する事故は避けなければならなかった。このため周辺の変電所や余剰電力の状況を調査して電力供給の計画を立てた。 第二次世界大戦後の日本では、地域別に商用電源周波数の統一作業が進められ、九州地方では60ヘルツ電源へと統一された。しかし統一作業が実施される以前は、北九州地区は50ヘルツで電力供給されており、下関側の60ヘルツと周波数の相違が存在していた。そのままでは機械の運用上不便で、試掘坑道貫通後に双方の工事現場を単一配電にして電力の融通を図ることができなくなるので、下関側の変電所に周波数変換機を設置して、工事現場はすべて50ヘルツの電源に統一することにした。 下関側は山口県電気局(後に中国配電)、門司側は九州電気軌道(後に九州配電)が電力供給を行った。山口県電気局側では、電力は前田火力発電所から彦島変電所を経由して3,300ボルトで受電し、工事最盛期には1,000キロワットの消費を見込んだ。九州電気軌道側では、当初は大里変電所と門司第二変電所からの受電を想定したが、最終的に小倉火力発電所および大門火力発電所から特別高圧送電線を経て鉄道省の小森江変電所で受電する方式を選択し、大里変電所および門司第二変電所からの受電は予備電源とすることにした。3,300ボルトで現場へ供給し、工事最盛期には2,000キロワットの消費を見込んだ。 下関側は彦島変電所からの1回線のみであるため、停電に備えるためにディーゼルエンジンによる非常用の発電所を受電設備に併設することになり、鉄道省営の弟子待発電所とされた。非常用発電所は、どうしても停電を避けなければならない設備である、排水ポンプ、エレベーター、坑内電灯に限って電力を供給できる容量で設計することになり、余力がある時に空気圧縮機やセメント注入などの設備に回すこととされた。試算の結果、最小限維持する必要がある設備の電力消費は191キロワットとされたため、200キロワットの発電機を予備を含めて2機設置した。ディーゼルエンジンは池貝鉄工所製、発電機および配電盤は富士電機製、付属ポンプ類は荏原製作所製であった。 ===試掘坑道の掘削=== 諸般の地質調査により、ある程度海峡の地質は把握できており、小規模の坑道であれば掘ることができるという自信を得たため、本線坑道より深い場所に試掘坑道を先に掘削することにした。試掘坑道は、本坑掘削の前にあらかじめ地質を確認して本坑の施工計画を立て、必要に応じてセメントの注入作業を行い、また本坑工事の際の排水路となることを目的としていた。さらに可能であれば、試掘坑道から本坑に取りついて、掘削箇所を増やすことで工期を短縮することも狙い、本坑完成後は電力・通信ケーブルを収容し排水路とすることも目的としていた。この試掘坑道は、取材の新聞記者により「豆トンネル」という愛称が付けられた。試掘坑道は、下関方・門司方それぞれで立坑を掘削し、そこから海峡を横断する形で建設されている。本坑が、両側から海峡中央付近へ下って行く線形をしているのに対して、試掘坑道は立坑の位置がもっとも低くなっており、両側から海峡中央へ向かって上って行く線形となっている。これは、本坑工事中の湧水を試掘坑道に落とすことで、水が試掘坑道両端に自然に流れて、そこからポンプで排水ができるようにするためである。 下関方の立坑は、1937年(昭和12年)1月に弟子待出張所を開設するとすぐの1月7日に掘削工事を開始し、7月に掘削工事完了、11月5日に竣功した。立坑の内径は4.2メートル、深さは55.14メートルであった。工事は素掘りであり、ダイナマイトで発破をかけてズリを運び出して次第に下って行った。覆工は、途中3か所に足を付けてそこから上部へ施工していく方法で実施した。掘削量は2,250立方メートルで延べ人員6,030人を使用し、覆工量は650立方メートルで延べ人員3,040人を使用した。 門司方の立坑は、1936年(昭和11年)10月7日に着工したが、予想以上に地質が悪くて難航し、1937年(昭和12年)6月には近隣火災のために出張所の建物が類焼するという被害もあり、立坑すべての竣功は1938年(昭和13年)6月5日となった。施工の都合上、立坑の内径は上部で5.2メートル、下部で4.2メートルとし、当初は深さは43.5メートルの予定であったが、坑道縦断勾配の変更に伴い45.8メートルになった。当初、地表から8メートル付近まで素掘りを行い、以降井筒工法(オープンケーソン工法)に切り替える予定であったが、地質の悪化により地表から6.2メートルで素掘りを打ち切って井筒工法に切り替えた。井筒は内径5.2メートル、外径6.4メートルの鉄筋コンクリートで、1回に3メートルずつ沈下させた。しかし約300トンの荷重をかけて実施した8回目の沈降途中に井筒に亀裂が入り、深さ24.5メートルの位置で井筒工法は打ち切られた。以降は再び素掘りに切り替えて掘削し、1937年(昭和12年)9月30日に予定の45.8メートルまでの掘削を完了した。 試掘坑道は全長1,322メートルで、勾配は当初両側から2.5パーミルを予定していた。しかし相当の湧水が想定されたことから、勾配をきつくして7パーミルに変更した。工事中に下関方の坑道で崩壊事故が発生して進行が遅れた結果貫通点が変更され、門司方の勾配は途中で5パーミル、さらに3パーミルへと変更した。試掘坑道内は、軌間610ミリメートルの資材運搬線路を複線で敷設しさらに内径57センチメートルの換気管を設置するものとして、幅2.5メートル、高さ2.5メートル、上部を半円形とした断面で施工した。 下関方からは、立坑が完成するとすぐに1937年(昭和12年)11月18日から坑道の水平掘削を開始した。当初は湧水は少なく、全断面掘削で順調に進行した。途中、ボーリングにより前方の地質を探りながら進行した。やがて断層破砕帯に差し掛かり湧水量も増加したため、セメント注入を繰り返しながら前進するようになった。次第に湧水が増加し地質が軟弱となってきて覆工作業を急いでいた1938年(昭和13年)10月4日4時頃、416メートル地点において突発的に濁水が噴出し、土砂が流出し始めた。作業員を非常呼集し流出防止の土留を設置し、次第に湧水が減少したこともあり崩壊量は約60立方メートルで済み、10月8日までに391メートル地点に厚さ3メートルのコンクリート隔壁を建設して残りの埋め戻し作業を行った。以降、ほぼ2か月かけてコンクリート隔壁内にセメントの注入作業を行った。セメント注入量の余りの多さに海底を調査したところ、セメントの噴出物が固まった形跡が海底に見つかるほどであった。1939年(昭和14年)1月から掘削作業を再開して、セメントの周りもよく無事に元の掘削地点を通過し、土圧が大きくなるたびにセメント注入を実施して掘削を推進した。 門司方からは、1938年(昭和13年)4月26日から坑道の水平掘削を開始した。立坑から230 ‐ 400メートルの間は湧水量も多く二段掘りにしたが、それ以外の区間は地質は良好で、全断面掘削で順調に進捗した。 1939年(昭和14年)4月に入ると双方とも順調な掘削状況となっていた。ちょうどこの頃、内務省により国道関門トンネルの試掘坑道も早鞆の瀬戸で掘削が進んでいた。4月6日の時点で、内務省の国道トンネルは残り79メートル、鉄道省の鉄道トンネルは残り189メートルとなっており、世間では国道トンネルの方が先に貫通するものと見ていた。しかし国道側は地質の悪い場所に差し掛かって進捗が鈍っており、鉄道側では下関側・門司側で進行量の大きかった現場に日当の1割増しを行うとして、猛烈な巻き返しを図った。双方の現場を合わせて1日の掘削距離が19.3メートルに達する日も出た。4月17日夜半、残り約10メートルの段階で門司側からボーリングにより穴が通り、その後下関側から掘削を進めて残りを1メートルとした。4月19日10時、東京の鉄道省大臣室から前田米蔵鉄道大臣の電鈴を合図に最後の発破を行い、試掘坑道は貫通した。下関立坑中心から569メートル、門司立坑中心から753メートル地点で、双方の坑道のずれは水平に405ミリメートル、垂直に182ミリメートルであった。国道の試掘坑道が貫通したのは、鉄道に遅れること1週間であった。門司方の試掘坑道は7月31日、下関方の試掘坑道は8月5日に竣功となった。 本線トンネルの工事に利用した後も、排水に利用するために試掘坑道は修築の上存置された。すべての排水ポンプが機能を停止したとしても、本坑より低い位置にある試掘坑道に水を流すことで本線トンネルの浸水まで時間を稼ぐことができる。この当時計測されたトンネル内の湧水量に加えて、トンネル外の雨量が1時間に30ミリメートルの時に、ポンプ所に到達する水の量は下関側2.46個(1秒間に2.46立方尺=約68.5リットル)、門司側0.17個(1秒間に0.17立方尺=約4.7リットル)となり、試掘坑道が満水になって上り本線の軌条面まで水が達し、より高い位置にある下関側の最後のポンプが浸水して運転不能になるまで17時間かかる計算とされた。こうしたこともあり、第二次世界大戦後も引き続き試掘坑道の修築工事が行われ、二次覆工の施工、不要な待避所の埋戻し、覆工裏側への豆砂利・セメント・火山灰などの注入作業が実施された。 ===下り線トンネル工事=== 試掘坑道が全体の5分の1程度までしか掘削が進んでいない時点で、本トンネルの掘削にも着手することになった。海底トンネルという特殊な環境下での工事で、慎重な推進を求める意見も国鉄内部にはあったが、戦時下でもあり軍部から工事促進への圧力もかかっているという事情があった。 ===下り線下関方立坑=== 下関方立坑は510K271M地点に設置し、海底部の地質が予想以上に悪くて将来シールド工法を採用しなければならなくなった場合に備えて、シールドマシンの部品を通せる寸法を考えて、内径を7メートルとした。地表面から約15メートルまでは花崗岩の風化帯、それ以下は硬質な花崗岩であった。湧水により作業を妨げられないように、あらかじめ100ミリメートル径の水抜き坑をボーリングしておき、これを試掘坑道立坑から建設した横穴に連絡させて水を抜くようにした。1937年(昭和12年)11月に地上部のエレベーター設備から準備を開始し、12月1日から掘削を開始し、翌1938年(昭和13年)2月28日に縦坑底部まで到達した。竣功は5月31日である。 ===下り線下関方取付部=== 下り線の下関方陸上取付部は、入口から下関方立坑までの1405.14メートルで、普通の山岳トンネルと同様の施工を行った。地質は入口から約900メートルが*172*岩および風化した輝緑凝灰岩、残りの約500メートルが硬質な輝緑凝灰岩であった。湧水はそれほど多くないと予想されたが、入口から下り勾配で建設するのは困難であると予想され、入口付近にはズリの捨て場として妥当な場所も無かった。一方で立坑から掘削すると海底部の工事と競合することになることから、結局509K580M付近に斜坑を建設してここから工事に着手することになった。海底部分はその性質から鉄道省の直轄施工であったが、できるだけ直轄施工は少なくする方針であったため、取付部は間組の請負工事とされた。ただし、立坑から509K880Mまでの約400メートルについては、海底区間の施工方法の試験などに用いるために直轄施工とすることになり、またそこから斜坑までは排水のために底設導坑のみ直轄施工とすることになった。 下関方取付部は、1938年(昭和13年)5月3日に着工した。まず、杉田斜坑を509K580M地点に、下り列車進行方向に対して右側から、本線に直角に建設した。勾配は2分の1で、幅4メートル×高さ3メートルの断面とし、松丸太の支保工を用いて掘削して1938年(昭和13年)10月に完成した。なお杉田斜坑は本線トンネル完成後に土砂で埋め戻した。1938年(昭和13年)10月1日から、斜坑から下関方入口へ向けて導坑掘削を開始し、10月28日には下関方入口からの導坑掘削も開始した。1939年(昭和14年)5月20日に入口から263メートル、斜坑から708メートルの地点で貫通した。また斜坑から立坑へ向かっては、斜坑から約90メートル掘削した時点で縦坑側から直轄で掘削してきた底設導坑と1938年(昭和13年)12月23日に貫通した。以降、底設導坑を本断面へ切り広げ、覆工を実施した。 覆工作業中、1940年(昭和15年)2月15日12時45分頃に509K126M付近において、延長約36メートルに渡って約1,000立方メートルの土砂が崩壊する事故が発生した。崩壊の数日前から降雨が続いて付近一帯の地盤に緩みが生じ、切り広げ工事により平衡を失って崩壊したものと推定された。作業員は出坑中であったため人的被害はなかった。この区間の突破作業には65日間を要した。 下関方取付部の工事に伴い、地下水位が低下して井戸が枯渇する被害が発生した。このため下関市に委託して水道の工事を行うとともに見舞金を支払った。また地下水位低下に伴って土地が乾燥陥没を来たして家屋が傾く等の被害も生じ、見舞金と復旧工事費を支払った。 下関方取付部は、1940年(昭和15年)6月28日に竣功となった。掘削土砂量約32,000立方メートル、覆工コンクリート量約9,400立方メートルで、請負金額は577,000円であった。 ===下り線下関方海底部=== 下関方海底部は、下関方立坑から873メートルの区間を施工した。試掘坑道による地質の確認で、海峡中央付近は地質が良好であるが、両側付近は地質が悪いことがわかっていたため、工期の短縮のために試掘坑道から複数の斜坑を建設して本坑へ取り付き、地質が悪いところも良いところも並行して何か所もの現場で同時に施工できるようにした。下関方海底部において試掘坑道との間で連絡斜坑は4か所に掘削され、起点側から順に第一から第四と番号を振られた。 試掘坑道掘削結果から510K500M ‐ 700Mは第三紀層地帯で工事が相当困難であると予想されたことから、第一斜坑はその手前の地質が良好な510K460M付近に建設された。この第三紀層は全長が200メートル以上あり、片側だけからは地質の確認が困難であったため、510K800M付近に第三斜坑を設けた。その後、実際の第三紀層地帯の掘削に際してさらに時間を要することが判明したため、第三紀層地帯の中でもっとも地質が良好と考えられた510K580M付近に第二斜坑を設けた。また第三斜坑からシールド工法終点までの長い距離の施工には相当な日数を要することから、さらに511K付近にも第四斜坑を設けた。なおこれらの斜坑は、本線トンネル完成後に埋め戻された。 立坑と第一斜坑の間は、立坑側から1938年(昭和13年)7月に底設導坑に着工し、12月に第一斜坑側からの底設導坑と貫通した。第三斜坑の先は1939年(昭和14年)7月12日に門司方へ向けて底設導坑を着工し、途中断層破砕帯でのセメント注入を行いながら、10月23日に第四斜坑側へ貫通した。また第四斜坑から門司方への底設導坑は1939年(昭和14年)9月25日に着工し、途中労働者不足のため半年ほど休止期間があったが、1940年(昭和15年)8月17日に門司側からのシールド工法終点と予定していた511K100M地点に到達した。その後も普通工法区間をできるだけ延長することを目的として工事を進めたが、11月18日に511K114M80まで到達して中断した。いずれも導坑貫通後に全断面への切り広げを行い、覆工を行った。 最難関となる、第一斜坑から第三斜坑までの第三紀層区間については、掘削前にコンクリートで隔壁を造り、ボーリングで穴を開けて中にセメント注入を行って地質を改良してから前進することを繰り返した。セメント注入におおむね1か月、その後の10メートル掘削におおむね1か月と、2か月かけて10メートル前進する作業を繰り返していった。第三紀層となる約260メートルの区間に対して、注入されたセメントは50キログラム入りセメント袋にして15万1531袋に達し、1938年(昭和13年)10月から1940年(昭和15年)4月までの1131日を費やして突破した。 下り線トンネル下関方海底部は、1938年(昭和13年)6月25日着工、1942年(昭和17年)3月31日竣功となった。 ===下り線門司方立坑=== 下り線トンネルの門司方の立坑は、511K870M付近に建設した。この付近は軟弱な地盤であったことに加え、使用する設備が後にシールド工法区間に利用できることから、潜函工法(ニューマチックケーソン工法)を採用した。潜函工法は、箱状の構造物(ケーソン)の下部に気密性を持った作業室を設け、ここに空気圧をかけて湧水を防ぎながら掘削して、ケーソンを所定の深さまで沈めていく工法である。深さは約24メートルあり、内部でシールドの発進をできるように考えて内部寸法を10メートル×9メートルの矩形とした。1938年(昭和13年)1月7日に着工し、同年12月6日に竣功した。 ===門司方開削工法部=== 下り線トンネルの512K216Mから出口の512K480Mまでの延長264メートルの直線区間は開削工法で施工した。大林組による請負工事で施工され、掘削29,732立方メートル、埋戻8,360立方メートル、鉄筋コンクリートの施工6,834立方メートルで、金額は322,000円であった。下関方取付部や海底部は単線トンネル2本を別に施工したが、門司方開削部は当初から複線分のトンネルを建設した。断面は、幅4.8メートル、高さ5.75メートルの箱型の単線トンネルを横に2本並べており、両方のトンネル間にある壁は0.6メートルの厚さがある。工事は、まずトンネルの両側に13.3メートルの間隔で鉄矢板を打ち込み、矢板間の土砂を掘削して、内部に鉄筋コンクリートでトンネルを施工した後、上部を埋め戻した。開削工法区間を県道や市道が横断していたため、工事中の交通を遮断しないために仮設の橋を造って付け替えた他、幅2.7メートルの川もあったため近くの別の川まで付替えを行った。1939年(昭和14年)12月12日に着工し、当初は20か月の工期を見込んでいたが、労働力の不足や資材の入手難により遅れて、1942年(昭和17年)5月24日に竣功となった。 ===門司方潜函工法部=== 下り線トンネルの512K016M50から512K216Mまでの延長199メートル50の区間は潜函工法(ニューマチックケーソン工法)で施工した。起点側は下り列車進行方向に対して右に半径600メートルの曲線を描いている区間で、終点側で直線となる。合計7基の潜函を沈降させて構成しており、もっとも起点側の1基のみが単線用の潜函、残りの6基は上り線用の空間を含む複線用の潜函である。複線用の潜函には下関側から第1号‐第6号と番号が振られている。起点側では上下線の中心間隔は8.5メートルあるが、終点側に行くにつれて次第に逓減していき、中心間隔が5.4メートルになったところから上下線が平行となる。潜函の沈降は6号・2号・4号を先に行い、その後1号・3号・5号の順で沈降させた。潜函同士の間隔は1メートルあり、当初はこの間に地表から矢板を打ち込んで素掘りをする予定であったが、圧気工法に自信を得ていたので、圧気工法を併用してこの間を掘り抜く工事を行った。潜函工法区間は、1939年(昭和14年)2月13日に着工し、1942年(昭和17年)5月15日に竣功となった。 ===下り線門司方圧気工法部=== 下り線トンネルの511K875M50から512K016M50までの延長141メートルは圧気工法で施工した。この区間では、当初は潜函工法の採用を予定していたが、玉石が埋まっていたことや深部の風化が進んでいないことなどから潜函工法採用の最終決定ができず、水抜坑を掘削して地下水位を低下させれば普通工法で掘れるのではないか、との意見が出て水抜坑を掘削する方針に変更となった。 水抜坑を普通工法で単純に掘り抜くことはできないと考えられたため、圧気工法を採用することにした。この区間に着手した時点で、門司方立坑の井筒は沈降済みで蓋を外してエレベーターを設置する工事が始まっていたため、立坑側から圧力をかけた状態で掘削を開始することはできなかった。一方、終点方にある潜函工法で沈降させた単線潜函には、圧気をかけて作業をするための設備が整っていたため、これをそのまま利用して潜函側から立坑へ向けて水抜坑を掘削することにした。水抜坑は本線トンネルの施工基面の下3メートルの位置に掘削された。この水抜坑は順調に掘削されたものの、透水性に乏しい粘土質の地質であったためか、坑内の減圧を行ってもあまり地下水の排水ができず、地下水位は思うように低下せずに水抜きの試みは失敗に終わった。 しかし水抜坑の掘削により圧気工法の採用に自信を得たため、本トンネルの掘削も圧気工法で行う方針に切り替えた。作業は頂設導坑先進で進められ、当初は鋼製アーチの支保工を建てていたのが、予想以上に地質がしまり土圧もほとんどなかったので、木製アーチの支保工に切り替えた。42メートルまで掘削した段階で、それまで中断していたシールド工法区間でシールドが再発進することになり、そちらに労働力を回すために1か月ほど掘削を中断した。シールドが順調に再発進したため余力を得て、圧気工法の区間も再着手することになり、それまでの経験から十分な自信を得たため、全断面掘削に切り替えた。水抜坑は、本坑の工事を終えた後に埋め戻した。圧気工法区間は、1940年(昭和15年)11月1日に着手し、1942年(昭和17年)3月31日に竣功となった。 ===下り線門司方シールド工法部=== シールド工法部は、門司方の立坑である511K870M地点から海底部へ向けて発進し、当初は511K100M付近までの770メートルを掘削する予定であったが、実際には725.8メートルを掘削した。 シールド工法に圧気工法を組み合わせる場合、トンネル直径と同じ程度の土被りを確保することが最低限必要であるとされ、実際にトンネルルートはこの条件を満たしていた。しかし土圧がアンバランスにかかるのを防ぎ、土被りの余裕を確保するために、土被りがもっとも少ない海底部には粘土と捨石を投入する粘土被覆(クレインブランケット)を施工する方針とした。1938年(昭和13年)10月から1940年(昭和15年)1月までかけて、土被りが薄い全長約240メートル区間に渡り、試掘坑道中心から左右それぞれ35メートルの幅に、粘土を約7万立方メートル、捨石を約4万5000立方メートル投入し、最大4.7メートルの厚さの被覆を行って、土被りとして最低10メートルを確保した。 シールドマシンは、立坑内に組立台を設置してその上で組み立て、その後ろには5輪環分の環片をあらかじめ組み立てて、これを利用してシールドジャッキの推進力を立坑に伝えるようにした。組立に2か月、装備品の設置に3か月、推進ジャッキ類の設置に半月、推進準備に半月と、実際に推進できるようになるまで約6か月を要した。装備に3か月かかったのは、山留ジャッキや環片組立機の納入遅れに加えて、こうした作業に不慣れであったことによる。シールドを発進させる立坑は半径600メートルの曲線区間にあるが、シールド工法区間の断面が普通工法区間に比べてかなりの余裕があることを利用して、当初は練習のために約14メートルを直線で進行して、その後本来の曲線に沿って掘削を進めることにした。シールド発進時は、立坑自体を圧気することにしたため、仮の蓋を設置した。 1939年(昭和14年)5月29日14時に初めてシールドマシンの推進を行い、47センチメートル前進した。翌30日に約11時間かけて環片の組み立てを実施した。6月7日から坑内への圧気が開始された。こうしてシールドが稼働し始めてまもなくの6月25日に、シールド工事の主任技師を務めていた斉藤眞平技師が立坑の梯子を登っているときに足を踏み外して立坑の底に転落し、病院に運ばれたものの当日中に亡くなった。シールド工事は、当初は環片組立に手間取り、1輪環分の掘削30.5立方メートルを1日3交代制のうち1交代半程度を要し、1日1輪環程度の進行に留まっていた。1939年(昭和14年)8月21日には、第58輪環を進行中に切羽の右側が崩落する事故を起こした。これは調査により、切羽を抑えるジャッキが緩んでいたことが判明した。 坑内の資材運搬・ズリ搬出用線路は当初単線であったため作業が円滑でなかったが、7月29日に複線化し、1日1.3輪環程度進行するようになった。8月下旬になると、シールド側に可搬ポイントを接続してシールドとともに前進するようにし、空いた隙間に1回の前進距離の75センチメートル単位で接続できる短尺レールを取り付けるようにしたことで、さらに作業が円滑になり、1日1.7輪環程度の進行が得られるようになった。立坑のデリッククレーンによるズリ搬出・資材搬入によって進行速度が制約されるようになったことから、9月に入り坑内に圧気作業を区切る第1隔壁を構築する作業を開始し、立坑はエレベーターに改築することになった。 第1隔壁の構築完了後、一時的にシールド作業を中止して、第1隔壁より立坑側を排気し、立坑仮蓋を撤去してエレベーターの設置工事を行った。1940年(昭和15年)1月15日に整備作業が完了してシールド工事が再開された。エレベーターの整備が完了したことにより、搬出入作業にはほとんど制約を受けることが無くなり、これ以降の作業の進行はほぼ掘削作業に左右されることになった。以降は1日平均2.87輪環の進捗を記録するようになった。これは、1日3交代制で各交代ごとに1輪環進行する作業を1週間継続し、そのうち1交代分だけ作業を停止するのに相当する進行度である。湧水量は少なく、気圧を12ポンド重毎平方インチ(約8万2000パスカル=約0.82気圧)まで下げても問題が無かった。海岸が近づいてきて次第に湧水が増えてきたため、次第に気圧を増加させたが23ポンド重毎平方インチ(約15万8600パスカル=約1.57気圧)程度で順調に進行することができた。1940年(昭和15年)7月19日、シールドが立坑から460メートルに達して海底下30メートル程度まで進行した時点で、おおむね海岸線の位置に第2隔壁の構築を始め、8月31日から掘削を再開した。 9月に入ると、それまで真砂土であったのが地質が変化し始め、軟岩や粘土層などが出現するようになった。10月に入ると貝殻交じりの粘土になり、湧水量が増加したため坑内の気圧を増加させなければならなくなった。湧水量はますます増加して行き、ついに坑内気圧を30ポンド重毎平方インチ(約20万6800パスカル=約2.04気圧)まで増大させることになり、このために作業員の作業時間は1交代で5時間に制限されて4交代制となった。シールドはスカスカの粘土層に浮いている状態となり、下部を掘削すると湧水量が増大するため下部の掘削が不十分な状態でシールドを前進させることになり、このためにシールドが下へ傾いて、傾きを修正するのに大変な苦労をすることになった。10月23日にはさらに大出水があり、34ポンド重毎平方インチ(約23万4400パスカル=約2.31気圧)まで坑内気圧を上げたため、作業時間は4時間に制限されて、人員不足で4交代制以上に増やせなかったため、1日8時間は何も作業ができない時間が生じることになった。粘土層に入ったことによりシールドは下降し始め、上向きに戻すために苦闘したが、最大で188ミリメートルまで下降してしまい、蛇行限界を超過してトンネルの勾配に影響を与えかねないところまで計画勾配からの逸脱が進んだ。10月30日に下部がかなり緻密で堅い層に入ったことからシールドは上昇に転じ、沈下についてはようやく危機を脱することになった。11月2日になり、さらに湧水量が増大したため、ついに37ポンド重毎平方インチ(約25万5100パスカル=約2.52気圧)まで坑内気圧を上昇させた。このような高気圧を採用したことでついに湧水量も減少するようになり、作業が順調に進行するようになった。11月18日から5交代制を、12月2日から6交代制を採用できるようになり、1日2輪環程度の進行となった。しかし、貝殻交じりの層がさらに増えてきて空気の漏洩が増え、坑内気圧を維持するために空気圧縮機の運転台数が増大して行った。シールド内の高圧空気が貝殻層を通じて漏れて、気泡が海面に溢れている状況であり、仮に坑内の気圧を下げると、この空気が漏れていく経路は一転して水の流入経路となってしまうのは明らかであった。 12月9日になり、立坑から671メートル付近で第883輪環を掘削しているときに、下部から腐食した変成岩が現れ、その後次第に上に上ってきた。この層は掘削が容易でかつ湧水が無く、下関側の岩盤に達するまで残り約50メートルであったことから、これで下関側まで容易に到達できるめどが立ったと楽観するようになった。しかし12月10日の深夜、海上において4000トン級の貨物船の衝突事故があり、船の舳を海底に引きずって流されるという事件があった。早速潜水夫を送って調査したところ、シールドの先端から約25メートルの海底に幅3メートル、深さ2 ‐ 3メートル程度の大きな溝ができていることが判明した。シールドとはまだ距離があり、漏気量も変化しないので、そのまま掘削を続けながら、並行してこの部分に捨て粘土を行うことになった。ところが掘削を進めていると、予想に反して変成岩層は下方へ消えて貝殻交じりの粘土層となり、さらに純貝殻層に入ってしまった。湧水量が増大し、漏気も増大して400馬力空気圧縮機を4台運転し続けなければ坑内の気圧を維持できなくなった。 こうして苦闘していた12月22日の7時23分頃、停電事故が発生した。門司側の給電を行っていた九州電気軌道の砂津 ‐ 大谷間の送電ケーブル焼損によるものであった。当時、10分間停電すると坑内圧の低下により致命的な大事故の発生する危険がある状況であったが、幸い7分で送電が復旧し、トンネルが大事故に見舞われることを辛うじて回避することができた。送電ケーブルは2回線あるうちの1回線が焼損事故で失われ、九州電気軌道では残り1回線で送電を継続し、一般電力を制限してまでも工事現場への供給維持に努めたが、送電線の容量を超過しており、いつ再度の事故を引き起こすかわからない状況であった。送電ケーブル修理の特殊技術者を飛行機で招いて復旧工事に努めたが、復旧完了には日数を要する状況であり、停電の危険のある状況で空気圧縮機を多数稼動させ続けなければならないほどの漏気状態を放置して掘削工事を続けるわけにはいかなかった。このためシールドの推進は一時的に中止し、漏気対策工事を実施することになった。 まずシールドの前面に粘土を貼りつける作業を行い、切羽からの漏気を防止した。これにより漏気量は毎分約17,000立方フィート(約481立方メートル)から毎分約6000立方フィート(約170立方メートル)まで減少した。またシールドの前面、下関方の底設導坑、および試掘坑道からボーリングを行ってセメント注入作業を行った。船舶事故による海底の損傷個所からの空気漏洩は激しく、海面が白く泡立って、一時は関門トンネルが崩壊に瀕しているとの流言が飛ぶほどであった。この場所に新たな被覆を行うことにしたが、当初は漏洩する空気に妨害されて投入した土俵が踊って流されてしまい、効果を発揮しなかった。シールド前面の粘土貼り作業により漏気量が減ったため、ようやく投入作業が順調にいくようになり、所定の被覆作業を完了した。 1941年(昭和16年)2月24日から、第901輪環の作業が再開された。引き続き湧水と漏気は見られたが、セメントや薬液が回っていたため湧水が多くなっても崩壊することが無く、このため湧水の増加を許容する代わりに坑内気圧を下げて漏気量を減らすことができた。3月に入り再び岩盤の層が下部から現れ、3月18日には第935輪環において全断面が変成岩の中に入って、ようやく難関を突破することができた。シールド側は圧気をかけていたため、下関側との貫通に備えて下関側の底設導坑にも気閘を設置した。シールド切羽から底設導坑を先進させ、3月30日にボーリングにより下関側と貫通した。測量したところ、高さに差はなく、左右方向に約15センチメートルの差が生じていた。4月5日に第951輪環の推進を行って、下り線トンネルにおけるシールド工法が終了した。シールド推進完了後、シールドマシンの外皮は埋め殺しにしたが、内部の環片組立機やジャッキ類などは撤去を行った。 ===下り線トンネル工事完了=== 下関方からの底設導坑は、511K139Mまで掘削して打ち切ってあった。残りの区間はシールドを使用しなくても圧気工法で掘削できる見込みが立ったので、門司方からのシールドは511K140M付近で打ち切った。シールドの停止後、門司方から今度は頂設導坑を掘削し、下関方から掘削した底設導坑の上を掘り進んでいった。下関方の気閘は511K110Mに建設されており、その上を通り越して511K104M20まで門司方からの頂設導坑を掘削した。これは厚さ2.6メートルほどの地山で圧力差を支えている状態となる。6月2日に圧気工法完了により坑内の減圧が行われた。 排気後にさらに掘削を行い、下関方との残り距離を1メートルまで短縮した。ちょうどこの頃、下関方の第三紀層地帯の掘削も隔壁を残すばかりとなっていたため、同じ日に貫通発破を行うことになった。1941年(昭和16年)7月10日9時、まず第三紀層地帯の貫通発破が行われ、続いて10時に下関方と門司方の間の貫通発破が行われた。貫通点は511K102M50であった。貫通後、切り広げや覆工などを実施するのに約3か月かかった。下り線トンネルの貫通を見届けるように、初代下関工事事務所長だった釘宮磐は8月1日付で退任して東京帝国大学工学部で指導を行うことになり、後任に星野茂樹が着任した。 この時点ではまだ門司方の潜函工法の区間が完成しておらず、潜函工法区間の最後の隔壁が貫通して関門トンネル下り線の全区間がつながるのは1942年(昭和17年)3月27日であった。シールド工法部の竣功は3月29日となった。 トンネルそのものの土木工事に引き続いて、軌道や電力、信号といった工事が実施された。坑内は温度の変化が少ないことから、レールはテルミット溶接により連続敷設された。両側のトンネル口から約246メートルは砂利道床で、中間の約3,122メートルはコンクリート道床である。 トンネル内では電気運転をすることになっていたので、下関方の幡生操車場から門司方の門司操車場までの間を、直流1,500ボルトで電化した。下関変電区と門司変電区にそれぞれ2,000キロワットの水銀整流器を2台ずつ設置し、中国配電および九州配電から受電した電力を変換して供給する構成とした。架線はシンプルカテナリ式であった。またトンネル内の照明と排水ポンプへの電源供給も行い、下関側の60ヘルツと門司側の50ヘルツの双方を切り替え可能な構成となっていた。 信号は、単線自動閉塞式で設置され、運転時隔3分を前提として信号機の平均距離を650メートルとし、トンネル内に上下それぞれ5基ずつの信号機を設置した。上り線開通後は複線となる区間であるが、その後も修理等を考慮して単線用の信号設備とした。信号機の電源は、平常時は門司方から50ヘルツ電源を受電しており、予備として下関方から60ヘルツ電源を受電して、自動的に切り替わる仕組みになっていた。軌道回路は8区分されており、最長781メートル、最短125メートルとされた。 ===単線での開通=== 関門トンネルの建設に合わせて、関門地区の輸送体系の抜本的な改良が構想された。従来の行き止まりの下関駅と門司駅の周辺は、多数の乗換旅客によって繁栄しており、そうした地域事情を考慮して、貨物列車と一部の直通旅客列車のみ関門トンネルに直通させ、他の大多数の旅客列車は従来のまま、とする構想も当初はあった。しかしそうした部分的な改良では将来に禍根を残すことになるとして、大規模な改良を加えて関門トンネル直通列車を主体とする構想が打ち出された。 新たな構想によれば、下関駅は従来の駅に貨物扱い設備のみを残して、竹崎町に新たに建設された高架駅に移転させる。九州側では従来の大里駅を門司駅として、関門トンネルを通る山陽本線の列車は大部分を門司駅へ直通させ、従来の門司駅は門司港駅に改称して一部の列車のみを門司港駅発着で残す。また本州側の幡生に上り貨物列車を取り扱う幡生操車場を、九州側の門司に下り貨物列車を取り扱う門司操車場を開設し、下関駅と門司駅のそばには客車の操車場と電気機関車庫を設ける、という構想となった。トンネル開通を前にした1942年(昭和17年)4月1日に、門司駅を門司港駅へ、大里駅を門司駅への改称が実施された。 下り線トンネルは、1942年(昭和17年)7月の貨物営業開始、10月の旅客営業開始を目指して最終的な工事が進められつつあった。しかし1941年(昭和16年)12月には太平洋戦争が開戦している状況であり、軍部からは工事促進の厳しい圧力がかかっていた。結局、八田嘉明鉄道大臣の求めにより、予定より1か月開通を繰り上げることになった。1942年(昭和17年)に入ると、星野所長は土日も休みなく連日現場を督励し、突貫工事が続けられた。4月17日に幡生操車場において竣功式が挙行され、ブラスバンドを先頭に職員がトンネル内の記念行進を行った。 1942年(昭和17年)6月11日、EF10形31号機の牽引する4両の無蓋車と1両の有蓋車で構成された編成が、13時38分に門司駅を出発し、初めての試運転列車として関門トンネルを通過した。繋いでいたのは貨車であったが、工事関係者や報道陣を乗せていた。鉄道大臣との約束に応えて、ほぼ1か月予定を繰り上げての運転開始であった。正式開通前であるが、6月20日からは臨時扱いで貨物輸送も開始した。7月1日に正式に貨物専用で開通となり、山陽本線の終点がそれまでの下関駅から、関門トンネルを通った先の門司駅に延長となった。関門トンネルの開通により、それまで1日平均185運航で貨物約1万1000トンを運んでいた関森航路の車両航送は、7月9日限りで廃止となり、使われていた第一・第二・第三・第四・第五関門丸は宇高航路の輸送力増強のために転属して行った。 続いて旅客営業の開始の準備も進められ、10月11日に旅客開業を予定していた。しかし8月27日に台風が関門地方を襲い、乏しい資材をやりくりして建設した新しい下関駅のホーム上屋を吹き飛ばされてしまい、開業は延期となった。最終的に11月15日に全国的なダイヤ改正を実施して、関門トンネルでの旅客列車の運行が開始されることになった。10月11日、靖国神社参拝のために上京する九州地方の軍人遺族を乗せた旅客列車が特別に関門トンネルを通過した。開業前には、関門トンネル開通記念の歌が賞金1,000円をかけて一般公募され、選ばれた「海の底さへ汽車は行く」を東海林太郎が歌った。また門司において関門トンネル開通記念大相撲が開催され、当時の横綱双葉山定次と羽黒山政司が下関方坑口において浄めの土俵入りを行った。開通前日の11月14日には下関方坑口にて工事の殉職者を祀る殉職碑の除幕式が行われた。 下関駅では、11月14日23時50分に旧駅出発の最終列車となる京都行きを送り出し、23時52分に最終到着列車を迎えると、徹夜で新駅への引っ越し作業が行われた。新駅では、前日14時15分に京都を出発して走ってきた鹿児島行き第221列車が初列車となり、蒸気機関車を電気機関車に付け替えて、鉄道員たちが万歳をする中初の旅客列車が関門トンネルへ送り出された。下関駅の関釜桟橋大待合室ではこの日開通式が行われ、山口県・福岡県の両県知事、下関市・門司市の両市長、両県選出の議員、鉄道大臣および鉄道省関係者などが出席した。戦時陸運非常体制が敷かれている中、関門トンネルの開通は国を挙げての祝賀となり、新聞では「興亜鉄路の輝く発足」「科学日本の勝利」などと書きたてた。 11月15日のダイヤ改正を前に10月11日から24時間制が採用され、それまでの午前・午後の区別を止め午後を13時から24時と呼ぶようになった。11月15日ダイヤ改正で、特急「富士」が九州に乗り入れて東京 ‐ 長崎間で運転されるようになり、このほか東京と九州各地を結ぶ急行列車の設定が行われた。関門トンネルを通過した直通旅客列車の運行は開始されたが、それまでの本州内の列車と九州内の列車を繋ぎ合わせたような設定に留まり、本格的な増発はなされず、むしろ戦時輸送力強化のために全般にスピードダウンする改正であった。しかしこのダイヤ改正は過去最高の列車設定キロを達成したものであり、このわずか3か月後の1943年(昭和18年)2月15日ダイヤ改正では戦局の悪化を反映して優等列車の大削減が実施され、以降は輸送力の削減が進むことになった。なお、関門トンネルは従来の門司市街地からは西側に寄った位置にあり、市街地へ行く旅客にとっては遠回りとなって不便であったこともあり、貨車の車両航送を行っていた関森航路がトンネル開通後廃止されたのに対して、旅客輸送を行っていた関門航路の方は減便されつつも運航を継続することになった。 トンネル開通とほぼ同じ時期に、大陸連絡の強化を目的として、下関‐釜山間の関釜航路の補完航路となる、博多‐釜山間の博釜航路が開設され、博多港への臨港貨物線も整備された。富野操車場(後の東小倉駅)、折尾操車場の新設、鳥栖操車場の拡張、黒崎‐折尾間の線増、筑豊本線や鹿児島本線の一部区間の複線化など、関連する設備増強が実施され、順次輸送体制が一新されていくことになった。 下り線のトンネル建設費は、当初1382万円を稟申していたが、その後の物価や人件費の高騰に伴い、決算額としては1967万円となった。 ===上り線トンネル工事=== 当初は、関門トンネルはまず単線で完成させ、将来的に交通量が増加した時に追加の単線トンネルを施工して複線とする計画であった。しかし関門間の交通量が急増したため、まだ下り線トンネルを建設中であった1940年(昭和15年)の第75回帝国議会において上り線トンネルの予算の協賛を受けて着工が決定した。 下り線トンネルの建設に労力を割かれていたため、本格的に着工するのは余力ができてくる1942年(昭和17年)になってからであり、この時点では1945年(昭和20年)3月末に上り線完成、4月1日をめどに開通させる計画であった。しかし1942年(昭和17年)10月6日に戦時陸運非常体制の一環として、九州産の石炭を本州に送るために、上り線トンネルを昭和18年度中に繰り上げ完成させるとの方針が閣議決定され、鉄道省本省からも工期の極力繰り上げの指示がなされたことから、急速に工事が進められることになった。なお、門司方から443メートル50の開削工法区間・潜函工法区間は、下り線建設時に同時に施工済みであり、上り線トンネルの工事はこれより下関方の区間である。 ===上り線下関方立坑=== 下り線トンネルを建設した際には、下り線下関方立坑から掘削した切羽以外は、試掘坑道から斜坑で取り付いて掘削を行った。このため、多くの掘削箇所に対しては試掘坑道の立坑から取り付かねばならず、試掘坑道立坑のエレベーターの能力によって作業の進捗が制約された一方、本坑の立坑ではエレベーターの能力を十分生かすことができなかった。このため、上り線トンネルにおいては本坑立坑のエレベーター2台のうち、1台分については上り線トンネルより深くまで掘り下げて試掘坑道まで連絡できるようにして、試掘坑道への運搬能力を強化することにした。 下り線工事の際に設置した坑外設備をできるだけ流用するために、下り線立坑になるべく近い、510K275M50の位置に上り線立坑を建設した。深さは上り線トンネルまで43.66メートル、試掘坑道までは55.06メートルあり、内径は本トンネルまで7メートル、その先試掘坑道までは2.7メートル×5.25メートルの矩形とした。上部から掘削と覆工を繰り返しながら掘り下げていったが、10メートルほどまで掘り下げた時点で下関方取付部の底設導坑が立坑下部に到達し、10センチメートル径の穴を穿って湧水を底設導坑に流し込むようにした。その後、下関方取付部の崩壊事故により作業員が閉じ込められる事件があったが、この穴を利用して食品を送り込むことができた。また救助作業のために試掘坑道から切り上がる形で本トンネル底設導坑に取りついた穴を利用して、上り線立坑の試掘坑道までの延長を完成させた。上り線立坑は1940年(昭和15年)8月15日に着工したものの、下り線工事に全力を投入した結果労働力が不足し、計3回に渡りのべ13か月半作業中断期間があり、竣功は1942年(昭和17年)6月30日となった。 ===上り線下関方取付部=== 上り線下関方取付部は全長1,419.40メートルあり、地質は下り線の取付部と同様で、また同じく間組の請負により施工された。坑口から650メートルの509K505M地点の下り列車進行方向に向かって本線右側から、勾配3分の1で総延長51.2メートルの杉田斜坑を建設して取り付いた。ここから2.10メートル×2.40メートルの底設導坑を下関方立坑に向かって掘削し、1941年(昭和16年)10月7日に立坑下部へ到達した。この途中、6月26日に豪雨により、コンクリート搬入用の立坑から浸水して14日間掘削作業が中断する事故があった。1941年(昭和16年)1月には斜坑から坑口へ向かって、11月には坑口から斜坑へ向かっての底設導坑も着工し、1942年(昭和17年)4月20日に坑口から188メートル、斜坑から460メートルの地点で貫通した。 1941年(昭和16年)12月16日に、斜坑から立坑へ向かって約300メートルの地点で、覆工作業中に約10メートルに渡って600立方メートルの岩石が崩落し、奥で作業していた5名が閉じ込められる事故が発生した。当時、試掘坑道側に水抜き坑が掘ってあったため奥に水が溜まる恐れはなく、また下関方立坑から垂直の水抜き坑も掘ってあったため、ここから食料を送り込むことができた。崩落事故発生現場と試掘坑道側の両方から救出坑の掘削が進められ、事故発生から約60時間後に崩落事故現場側からの坑道が開通して5名を救出することができた。上り線下関方取付部は、1940年(昭和15年)6月13日に着工し、1943年(昭和18年)9月14日竣功となった。 ===上り線下関方海底部=== 上り線下関方海底部は延長869.5メートルで、下り線の建設時の経験に基づき施工計画を行った。工事をしていない斜坑の数をなるべく減らすため、試掘坑道から本坑に取りつく斜坑の数はなるべく減らしたいという考えがあり、結果的に上り線では斜坑は2か所になった。難関となる第三紀層地帯については圧気工法の採用も検討したが、下関方には圧気工法の経験のある者がほとんどいなかったこと、下り線建設時のセメント注入がよく回っていると判明したことなどから、セメント注入で固めながら掘削していく方針となった。 第一斜坑は、第三紀層地帯より下関方の510K490Mに、高さ2.8メートル、幅2.5メートルの断面で本線に直角に建設した。1942年(昭和17年)2月から4月にかけて建設し、上り線トンネルに切り上がった。第二斜坑は地質の良好な510K820Mに、やはり高さ2.8メートル、幅2.5メートルの断面で、本坑トンネルと40度をなす角度で斜めに建設した。この配置は第三紀層地帯に圧気工法を適用することを考慮したもので、門司方からの送気が可能なような向きで建設した。1942年(昭和17年)2月に着手し3月に完了した。 立坑から第一斜坑までの207.5メートルは、下り線同様に地質が良好と考えられ、通常通り底設導坑を先進させる形で掘削した。1942年(昭和17年)1月20日に立坑側から着手し、途中第一斜坑側からも底設導坑を推進して、4月に貫通した。以降切り広げを進め、12月に頂設導坑が貫通し、1943年(昭和18年)7月に完成した。 第一斜坑と第二斜坑の間は、約180メートルに渡って地質の悪い第三紀層地帯があり、この区間については頂設導坑を先進させた。1942年(昭和17年)4月に第一斜坑側から着手し、約10メートル底設導坑を進めた後、510K495M付近において頂設導坑に切り上げて前進した。同じく4月に第二斜坑からも第一斜坑へ向けて着手し、約70メートル、510K751M付近まで底設導坑を進め、以降頂設導坑に切り上がって前進した。12月5日に510K707M地点において湧水を見たため、急遽埋め戻して隔壁の構築を行った。この後2か月半に渡りセメント注入を行った後再度前進し、安全に元の位置まで到達することができた。以降順調に掘削を進めたが、双方から掘削して貫通させると覆工のない区間が長くなって危険なため、第二斜坑側から掘削した導坑の510K656M付近において隔壁を設置して、内部にセメント注入を行い、以降は第一斜坑側からの貫通を待った。1943年(昭和18年)9月15日に隔壁を爆破して頂設導坑が貫通した。以降、切り広げと覆工を進め、1944年(昭和19年)3月までに完了した。 第二斜坑から門司方へは1942年(昭和17年)7月に着手した。地質は良好で、途中地質が悪化してセメント注入を行った区間もあったが、おおむね順調に掘削を進めた。門司方からシールド工法部が接近してきたため、圧気工法に備えて気閘を準備したが、シールド工法区間との距離が10メートル程度となったことから、掘削を中止して圧気をかけて待機し、1943年(昭和18年)12月31日に511K167Mにおいて発破を行って貫通した。以降順次切り広げと覆工を進め、1944年(昭和19年)4月までに完了した。 上り線トンネル下関方海底部は、1940年(昭和15年)12月1日に着工し、1944年(昭和19年)8月8日竣功となった。 ===上り線門司方立坑=== 上り線では、門司方の立坑を2か所建設した。門司方第一立坑は圧気工法の起点とするもので511K900M地点に、門司方第二立坑はシールド工法の起点とするもので511K550M地点に、それぞれ建設した。 第一立坑は潜函工法(ニューマチックケーソン工法)で施工され、地表から6メートルまでは素掘りして、以降蓋と気閘を設置して圧気を掛けて掘削を進めた。掘削は非常に容易で、1942年(昭和17年)3月15日に着工、5月15日に圧気を開始し、7月17日に竣功した。 第二立坑はシールドマシンの組立を行う場所であり、かつ圧気工法の終点となる。圧気工法で建設したトンネルの末端でシールドマシンを組み立てられる大きさに断面を広げる工事を行うのは難しく工期も長いことから、シールドマシンの組立のための立坑を建設することになった。シールドマシンを組み立てられる断面で潜函工法や井筒工法を用いることは不経済であったため、立坑の建設には圧気工法を使用することになった。上部6.5メートルをまず素掘りで掘削し、圧気工法のための蓋を設けて気閘を設置した。以降は圧気をかけて、湧水もほとんどなく順調に掘削を進めた。1942年(昭和17年)4月13日に着工し、7月1日に圧気を開始し、7月22日に竣功した。これ以降に、立坑下部にシールド組立室と、圧気工法区間の終点となる気閘と隔壁を備えた部分を建設した。 ===上り線門司方圧気工法部=== 上り線における圧気工法区間は、第二立坑から下り線建設時に施工済みの潜函までの467.32メートルで、中間に第一立坑を建設してあった。第一立坑からは第二立坑へ向かって掘進し、下り線建設時に施工済みであった1号潜函からも第一立坑へ向かって掘進する計画とされた。 まず1号潜函を圧気した上で、起点側の壁を破って掘削を開始した。掘削は当初中央導坑先進逆巻式で、中央導坑先進式にある程度自信を得たため進行速度を早めるため後半は中央導坑先進全断面掘削とした。中央導坑先進逆巻式は、トンネル断面の中央付近に先に導坑を掘削し、その後上部を切り広げて覆工を行いながら下部へ下ってくるもので、導坑掘削作業と覆工作業を並行して行える利点がある。中央導坑先進全断面掘削になると、トンネル断面の中央付近の導坑を先に掘削した後、全断面を掘削して一度に覆工を行う。中央導坑は第一立坑に貫通したが、その後労働力が逼迫してきており、第一立坑から第二立坑へ向けた掘削に全力を投入しなければならなくなったこともあり、一時的に1号潜函からの工事は中止することになった。 第一立坑から第二立坑へ向かって掘削を開始し、立坑から58.6メートルのところまで中央導坑が進んでいた1942年(昭和17年)10月13日23時15分頃、大音響とともに掘削中のトンネル真上に位置する地上のコンクリート混和場から猛烈に土砂が吹き上げる噴発事故が発生した。吹き上げた土砂は高さ最大20メートルに及び、このために坑内の気圧は大幅に低下することになった。坑内は広い範囲で崩壊し、地上では地面が約2メートル沈下した。事故時は作業員の交代時刻に当たっており、掘削作業現場には誰もいなかったが、約10人がコンクリートの型枠内で次のコンクリート作業の準備を進めているところであった。事故後直ちに点呼を行ったところ、5名が不明であることが判明し、直ちに全従業員で救助坑を掘削して救助活動を行い、5名全員を事故から52時間後までに収容したが、5名とも殉職した。崩壊現場付近は下り線工事の際に潜函工法で立坑を建設した場所にあたり、これに伴い地盤が緩んでいたところにコンクリート混和場の立坑を掘ったため、トンネル内の圧気に耐えられずに地上へ噴出する事故を起こしたものとされた。 噴発事故の復旧のために、第一立坑と1号潜函の間が貫通していたのを一旦埋戻して隔壁を設け、第一立坑側は排気を行うことにした。一旦坑内を排気して大気圧に戻すことにより、地下水の浸透で崩壊土砂を落ち着かせようとした。そして崩壊箇所について中の空洞を埋め戻す注入作業を行い、また噴発の原因となったコンクリート混和場を埋め戻し、陥没した地面も土砂を盛って埋め戻した。掘削の再開まで約2か月、完了までに約4か月の合わせて約6か月ほどかかる見込みとなり、時間がかかる見込みとなったため、第二立坑まで圧気工法での掘削が到達してからシールド工法を開始するのではなく、第二立坑から独自にシールド工法での工事を先行させることになった。 第一立坑との間を一旦埋戻した1号潜函側からの掘削現場では、中央導坑周辺の掘削を進め、1号潜函と2号潜函の間の壁を破って連絡する工事を進めた。そして第一立坑が再度圧気された際に気圧を合わせて第一立坑との間の接続工事を行った。 一方第一立坑から崩壊区間の掘削は、気圧を下げて頂設導坑式で慎重に進め、当初懸念していた再度の沈下や漏気はほとんどなく、予想していたよりも早く崩壊区間を通過することができた。第一立坑から100メートルほどまで前進したところで、水平部に気閘を新たに設置して第一立坑の排気を行った。以降は順調に掘削を進め、第二立坑側から逆に掘削した部分にも気閘を設置して圧気を行った上で、1943年(昭和18年)11月25日に貫通した。1944年(昭和19年)2月4日に覆工が完了し、2月11日に排気された。 圧気工法区間は1942年(昭和17年)4月1日着工、1944年(昭和19年)4月30日竣功となった。 ===上り線門司方シールド工法部=== 上り線トンネルのシールド工法は第二立坑から発進するもので、当初は圧気工法が第一立坑から第二立坑に到達した後にシールドを発進させる予定であったが、圧気工法区間での噴発事故の発生で到達が遅れる見込みになったことから、シールドが単独で先行することになった。下り線トンネルと同様、上り線トンネルの発進立坑も曲線区間にあり、下り線での経験からシールドの曲線での推進にも自信を得ていたが、立坑内でシールドの推進力を後ろの壁に伝えるために仮組してある環片が移動しないように、発進時は直線で推進して、シールド全体が地中に入ってから曲線へ推進させることになった。 下り線トンネルでは、シールドマシンを組み立てて発進させる台が沈下してしまったことから、上り線ではコンクリートを用いた台を用意し、結果的にまったく沈下せずに済んだ。シールドの製作と組立作業は一括して三菱重工業に請け負わせて実施し、立坑完成後すぐの1943年(昭和18年)1月に組立に着手し、下り線で2か月ほどかけた作業が1か月で完了した。シールドの装備品についても、下り線の経験を反映して改良されたものとした。すべての準備作業に、下り線では約6か月を要したが、上り線では約4か月で完了し、1943年(昭和18年)5月7日から圧気を開始し、5月10日からシールドの推進を開始した。 下り線での経験ではズリのトロッコへの積み込み作業で進行速度が制約されていたため、上り線においては空気圧動作式のズリ積み機を用意した。下り線ではズリ積み機がなく、手作業でのズリ積み込み作業を楽にするため、シールドの中段にズリを貯めて下段に押し込んだトロッコに落とし込む作業を行っており、このためにシールド推進後環片組立作業中にもズリの積み込み作業を行わねばならず、作業が輻輳して時間を要していた。上り線では下段にズリを落としてズリ積み機で処理するようになったので、ズリ処理のために掘削を中止する必要は無くなり、環片組立作業中は全力で前方の掘削を行えるようになり、またズリ積み込み作業のために環片組立作業を中断する必要も無くなった。こうして効率的になった結果、1輪環がわずか3時間で進行したことさえあった。 7月12日にシールド推進作業を中断して第1隔壁の構築作業に取り掛かった。7月28日に立坑内の排気を行った。排気後、立坑内の蓋を撤去し昇降機の設置を行い、シールド発進に用いた仮組環片の撤去を行った。9月1日にシールドの推進が再開された。それまで立坑のデリッククレーン1台に頼ってズリの搬出を行っていたため、1日2.5輪環の進行が限界であったが、坑内外の連絡設備が完成したことで、もっぱら進行は坑内の作業によって決まるようになった。何らかの機械の故障に何度も見舞われながらも、10月に入ると順調に進行するようになり、1日5輪環の進行を普通に出せるようになって、さらに成績が向上して行った。 下り線トンネルにおいては貝殻層において漏気が激しくなって一時シールドの停止を余儀なくされたことから、上り線トンネルにおいては試掘坑道からのボーリングで地質調査が入念に実施され、事前に薬液の注入を行った。10月16日からまず洪積層に突入し、圧気で区切られている区間の長さや残りの掘削距離を考慮して10月末から第2隔壁の構築を行った。11月に入るといよいよ貝殻層に入り、湧水の増加を抑え込むために坑内気圧を上昇させて進行したが、漏気量は少なく薬液注入の効果もあって順調に進行することができた。次第に岩盤層に入り、12月20日の時点で切羽が511K181M50に到達した。この時点で下関方からは底設導坑が511K160Mまで到達しており、残り21.5メートルとなった。下関方では貫通に備えて、気閘を設置して圧気をかけて準備し、さらに底設導坑を511K168Mまで推進したが、これ以上の掘削を断念して待機することになった。 12月31日9時、門司方からシールドによる体当たりで貫通した。そのままさらにシールドで前進を続け、用意してあった環片を使い切る第494輪環まで進めて1月27日にシールド工法を終了した。以降、覆工や清掃、排気、シールドの解体と隔壁の撤去などを進めた。 シールド工法部は、1943年(昭和18年)5月4日着工、1944年(昭和19年)8月8日竣功となった。 ===複線開通=== 工事の末期となると、1943年(昭和18年)7月前後から労務供給事情が悪化し、勤労報国隊の出動を仰いで掘削の継続を何とか維持した。しかしさらに労働力の事情は厳しさを増し、1944年(昭和19年)4月になると学生報国隊の増援まで仰ぐようになった。こうした懸命の努力により、覆工と漏水防止処置を完了し、6月15日にはレールの締結を完了した。7月に電気関連の工事を完了させた。 こうして1944年(昭和19年)8月8日についに上り線トンネルが開通となった。星野所長は本省に対し、「次男坊生レタリ、長男坊ヨリ出来ガヨシ」と打電した。新聞では「決戦輸送の巨歩 関門隧道晴れの竣工式」「鉄道も兵器だ 勝抜け決戦輸送」などと報じ、当時の戦局を反映したものとなっている。 下り線トンネルはこの際に改修工事を行うことになり、すべての列車の運転を上り線トンネルに移しておよそ1か月に渡って下り線の運転を休止して作業を行った。漏水が相当多かったため再度注入を行って漏水防止を図り、当初テルミット溶接したレールは、たびたび溶接個所が破断し摩耗も激しかったため、25メートルの通常レールに取り換えた。架線も複架線式に改良し、軌道回路の電流漏洩が激しくて確実な信号動作ができなくなっていたことから、1つの軌道回路の長さを短縮する改造を行った。こうした修理工事を終えて、9月9日に複線での運転が開始された。 上り線トンネルの決算額は約1961万円であった。工事期間中、上下線を合わせて20名の殉職者が出た。 ==開通の影響== 関門トンネルの開通により乗換・積替がなくなり、旅客で約1時間、貨物で約10時間の所要時間短縮が実現された。費用的には、貨車の車両航送による特別運賃が廃止されることにより、荷主にとっては年間約200万円の費用節約となった。これは鉄道省にとっては逆に年間約200万円の減収を意味し、また航路とトンネル関係の資本費や年間の運営経費を考えると、航路もトンネルも年間経費は約100万円と見積もられたため、トンネル開通による誘発需要が無ければ国鉄にとっては減益となる。しかし、客車も貨車も直通運用が可能となり運用効率が増すことから、直接計上できない利益があったものとされる。輸送力の点では、それまで関門地区の駅は滞貨の山で溢れ返っていたが、トンネル開通により貨物が順調に流れるようになり、滞貨が原因で出荷できずにいた産品の出荷が可能となった。 関門トンネル開通以前、関門間の連絡は第一から第五の「関門丸」で貨車航送を行っており、2月から7月にかけて発生する濃霧や激しい潮流、冬期の北西季節風による障害の中で、海峡を往来する船舶を避けながら5隻の船舶を頻繁に往復させるのは大変な労力であった。それまで、海峡を通航する船舶と海峡を横断する船舶は平面交差している状況であったが、関門トンネル開通により立体交差化が図られたことになり、事故の防止に多大な貢献をすることになった。 関門トンネルの開通は、第二次世界大戦のさなかのこととなった。下り線の開通に際しては全国的なダイヤ改正を実施して、本州と九州をつなぐ輸送体制が整備され、戦時輸送力増強のためにスピードダウンしたとはいえ史上最高の列車設定キロとなった。しかし1943年(昭和18年)以降は旅客輸送力削減のダイヤ改正が繰り返され、1944年(昭和19年)に入ると深刻な船舶不足から海運の鉄道への転換が進められ、さらに輸送事情は逼迫して行った。1945年(昭和20年)になると、全国的なダイヤ改正を実施することもできなくなり、地方ごとに場当たり的なダイヤの変更が繰り返され、空襲によって青函連絡船や関釜連絡船はほとんど運航不能となる事態となった。連合軍による機雷封鎖と潜水艦攻撃により関門海峡周辺の海上輸送は壊滅的な状態となっていたが(飢餓作戦)、もともと余裕を持って設計されていた関門トンネルは、貨物輸送を終戦まで継続することができた。関門トンネルは、戦争末期から直後にかけての深刻な船舶不足の時期に、国力の維持に多大な貢献をなした。 技術的には、当時トンネルの掘削中に壁面や天井を支える支保工は、松丸太と松板を組み合わせるのが常識であったが、関門トンネルの海底部では鋼製のアーチ支保工を採用し、極めて慎重に掘削が行われた。鋼製アーチ支保工を本格的に採用して機械式で効率の良い掘削方法を使うようになったのは、日本では第二次世界大戦後のトンネルからであったが、日本で最初の採用は関門トンネルではないかとされている。 またシールド工法についても、1920年(大正9年)の羽越本線折渡トンネル、1926年(大正15年)の東海道本線丹那トンネル水抜坑につぐ、日本で3回目の採用であったが、前の2回ではいずれも成功をおさめたとは言えなかったのに対して、3回目にして日本国内製造のシールドマシンを使って成功をおさめた。関門トンネルでは主に鋳鉄製の環片(セグメント)を使用したが、上り線の一部で鉄筋コンクリート製セグメントが用いられ、ボルト継手が採用されるなど、後に日本で一般的に使われるようになる中子型のセグメントの原形となった。第二次世界大戦後、名古屋市営地下鉄東山線において覚王山トンネルがシールド工法で建設された際にこうした技術が受け継がれ、以降の都市トンネルの標準的な工法として発展していくことになった。 第二次世界大戦の悪条件の下で、新しい技術を駆使して海底トンネルを完成させたことは、その後の日本のトンネル技術発展に大きな貢献をすることになった。ただし、関門トンネルは世界初の海底トンネルであると触れられることがあるが、ニューヨークのイースト川は名前に川 (river) と付くものの実際には海峡であり、ガスの導管を通すトンネルが1892年に最初に開通したのを皮切りに、20世紀初頭には鉄道用を含む多くのトンネルが開通している。また日本統治時代の朝鮮において太閤堀海底隧道が1932年(昭和7年)に開通しており、海底トンネルは日本の内外で先例がある。 ==運用== ===戦時中から戦後間もなくにかけて=== 関門トンネルは、先に開通した下り線で1942年(昭和17年)6月11日から試運転を開始し、6月20日から臨時扱いでの貨物列車の運転が開始され、7月1日に正式に貨物用に開通した。旅客列車の運転開始は11月15日となった。当時、山陽本線の電化区間は西明石までで、九州島内の国鉄線には電化区間はなく、蒸気機関車が列車を牽引していた。しかし関門トンネルでは急勾配とトンネルの長さの条件から蒸気機関車は使用できず、幡生操車場から門司操車場までの間の10.4キロメートルが直流1,500ボルトで電化された。このために、旅客・貨物の両用にEF10形電気機関車が投入された。EF10形は丹那トンネル開通に際して開発された貨物用の機関車であった。後に、関門トンネルで運用される機関車は塩害が激しいことから、外板をステンレス製のものに交換し、さらに耐食アルミ合金を使用したパンタグラフを採用し耐塩害塗装を施すなど、塩害対策に意を用いることになった。 旅客列車は、下関駅と門司駅の間の6.3キロメートルを、1両のEF10形で牽引して約9 ‐ 10分程度で走行した。機関車1両での牽引力は600トンとされた。貨物列車については、下関の手前の幡生駅付近にある操車場を改良して、1日2,500両の処理能力のある平面式操車場とし、一方九州側では門司駅構内に1日2,600両の処理能力のあるハンプ式操車場を建設した。これらの操車場は対になって役割を果たすもので、九州島内から本州方面への貨物列車はトンネルをそのまま抜けて幡生操車場で行先別に組み替えられて送り出され、一方本州から九州島内への貨物列車はトンネルをそのまま抜けて門司操車場で行先別に組み替えられて送り出される運用が採られた。このため、貨物列車は幡生操車場から門司操車場までの間をEF10形が牽引して走ることになった。貨物列車は重連運転(2両の機関車で牽引)とされ、1,200トンの列車を牽引した。いずれもトンネル内の急勾配と湿った線路のために空転や滑走が続発し、対策として最大5トンの死重を搭載し、大量に砂を撒いて走行していた。撒かれる砂は毎月20トンにもなり、砂を取り除く保線作業は大変な労力であったという。 運行開始された旅客列車は、東京 ‐ 長崎間の特急「富士」1往復(第1・2列車)、東京 ‐ 鹿児島間の2・3等急行列車第7・8列車(従来の特急「櫻」を急行化)など、1日5往復の優等列車に加え、普通列車が東京と九州の間で1日3往復、京都・大阪と九州の間で1日6往復、山陽と九州の間で1日に下り5本、上り4本であった。しかし戦局の悪化に伴い、旅客輸送は次第に削減されて貨物輸送に重点が置かれるようになっていった。終戦直前の時点では、急行列車は東京 ‐ 門司間の1日1往復にまで削減されていた。貨物輸送の増強のため、変電所の水銀整流器が1944年(昭和19年)に増強され、EF10形の配置両数も15両から25両に増強された。さらに空襲による被災に備えて、従来の変電所の設備の一部を移設する形で、彦島に地下変電所が建設されている。地下変電所の完成は終戦後の1946年(昭和21年)3月となり、約20日間実際に運転したとされるが、10月に廃止されて設備が元の変電所に戻された。空襲対策では、1944年(昭和19年)に変電設備の被災による停電に備えてD51形蒸気機関車によるトンネル内の牽引試験が行われ、上り22パーミル勾配で1両の機関車で1,000トンの引き出しに成功したが、これが関門トンネルにおける蒸気機関車運転の唯一の記録である。1945年(昭和20年)2月1日、石炭を満載した貨物列車が上り線トンネルの上り勾配で立ち往生し、再度の発進に失敗したためトンネル内に退行したところ、連絡不足と安全確認の不徹底のため、閉塞信号により停車中だった後続列車と衝突する事故があった。 第二次世界大戦末期に九州の電力事情が逼迫したため、中国地方から電力の送電を図ることになり、下関立坑と門司第2立坑の間の上り線トンネル内に、日本発送電の彦島変電所と新大里変電所を結ぶ22キロボルト特高送電線1回線が敷設された。しかしこの回線は間もなく、12月に110キロボルト関門幹線(関門海峡を横断する架空送電線)に置き換えられ、撤去された。 終戦直前には交通の重要施設として、本土決戦に備えて北九州高射隊の13ミリ高射機関砲4門、将校1、下士官1、兵12が関門トンネルの防衛用に配置された。一方の米軍は関門トンネルの破壊作戦を立案していた。1945年(昭和20年)7月31日には、沖縄の基地を離陸したB‐24爆撃機の編隊が、下関方のトンネル入口と橋梁を爆撃する作戦を実行しようとしたが、悪天候のために中止された。1945年(昭和20年)8月5日付のアメリカ陸軍太平洋軍司令官から極東航空軍あての電文では、関門トンネルに対する爆破計画が指示されていた。これは日本船に偽装した航空機救助船4隻に各25トンの爆薬を積んで送り込み、トンネル付近に沈めてリモコンで爆破するという作戦であった。第二次世界大戦後、日本に進駐した連合国軍の中で工兵のヒュー・ケイシー(英語版)少将が、進駐直後に国鉄の現状を把握するために、当時の停車場課長立花次郎を呼び出して最初に質問したのが「関門トンネルは無事か」というもので、立花は「もちろん無事であります。関門連絡線は今日も多数の列車を走らせています」と答えたという。 戦争が終結すると、引揚者の帰還輸送と、日本で働いていた朝鮮人・中国人の帰還輸送が開始され、そのための臨時列車が関門トンネルを通過して設定された。1946年(昭和21年)から1947年(昭和22年)にかけて極端な石炭不足により、急行列車の全廃、二等車の連結全廃などの措置が採られて鉄道の輸送力は大幅に減少したが、それでも関門トンネルを通過して東京と九州を結ぶ輸送だけは最低限確保されていた。また冷戦体制が本格化するにつれて朝鮮半島との連絡を強化することを求めた連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) は、連合軍専用列車の設定を要求し、関東と九州を結ぶ専用列車が定期化された。しかしこの頃、貨物輸送の減少もあって関門トンネルの通過列車は減少し、EF10形も一部が他の機関区に転属して、関門地区での配置数が減少した。 もともと北九州地区の商用電源周波数は50ヘルツであり、関門トンネルに九州側から電力を供給する門司変電区の受電周波数も50ヘルツであった。しかし第二次世界大戦後、北九州地区の電力需要は増加の一途をたどり、九州島内の電力網の連系を行い、また中国地方からの受電を行うことも急務となったこともあって、1949年(昭和24年)の閣議決定で九州地方の電源周波数を60ヘルツに統一することになった。これに前後して、九州地区の実際の60ヘルツへの周波数変更作業が進められ、門司変電区の受電周波数も1948年(昭和23年)2月に60ヘルツ化された。門司変電区の周波数変更が迅速に行われたのは、もともと信号機や排水ポンプなどの電源は当初から両周波数に対応するように設計されていたこと、列車走行用の電力供給についても変圧器のみ交換すれば済んだこと、国の機関として率先して周波数変更に対応する立場であったこと、などが挙げられる。一方で、関門トンネルの輸送量は低迷していたので、この機会に変電所の容量は削減され、水銀整流器が下関と門司の両方から1台ずつ1949年(昭和24年)に東海道本線電化用に静岡県の藤枝変電所と磐田変電所に移設された。1951年(昭和26年)5月に電力事業再編成が行われ、下関変電区、門司変電区はそれぞれ中国電力、九州電力から受電することになった。 海水に常時さらされている関門トンネル内のレールは、電気車の運転電流が漏洩しやすく、電気化学的な作用により金属イオンが溶け出す電蝕が発生するという問題を抱えていた。このため戦中戦後の2回にわたり、通常は架線側がプラス、レール側がマイナスに印加されている直流1,500ボルトの電気の極性を逆転させて、レールをプラス、架線をマイナスにする極性変換試験が実施された。しかしこれには十分な効果が確認できなかったという。そこで1954年(昭和29年)に強制排流器が設置された。これは外部直流電源をレールと接地点の間につなぎ、運転電流の漏洩分を相殺してレール電位を負にするものである。 1950年(昭和25年)6月25日に朝鮮戦争が勃発すると、九州北部の駅は朝鮮半島方面への部隊の出動や補給の拠点となり、本州方面から北部九州への軍事輸送列車が多数関門トンネルを通過することになった。この際に、それまで関門トンネルには火薬類の通過制限が設定されていたが、米軍は火薬類通過制限の無条件解除を6月28日に指令し、危険を冒して輸送が実施されることになった。 ===西日本水害による水没事故=== 1953年(昭和28年)の梅雨は例年になく早く始まり、特に西日本では雨が多く6月末になると4日間で600ミリを超すような60年ぶりという大雨が降った。大雨は各地に被害をもたらし、後に昭和28年西日本水害と記録されることになった。国鉄でも、680か所に及ぶ不通箇所が発生するなど大きな被害を受けた。 6月28日日曜日も雨が降り続いており、関門トンネルに備え付けられた排水ポンプは稼働を続けて、トンネルに侵入する雨水を排出し続けていた。11時頃、戸ノ上山の山麓でがけ崩れが発生し、門司駅北側の大川を堰止めた。これによって溢れた水は、南側の田畑川から溢れた水と合流して、門司駅構内に流れ込み始めた。門司駅に設置された雨量計では、10時から12時までの間に155ミリという猛烈な雨を観測しており、この雨に川から溢れた水が加わり、門司駅からスロープ状の掘割になっている関門トンネルの門司方坑口へと流れ込み始めた。関門トンネルの掘割を囲う防水壁の第13号架線鉄柱付近にある切り欠きから架線をかすめるように濁水が噴出し始め、11時頃に巡回中の門司保線区員がこれを発見して通報した。当時、京都と博多を結ぶ特急「かもめ」は、26日以来の豪雨で鹿児島本線が不通となって、上り列車を運転できずに博多に編成が抑留されており、次いで27日の下り列車で下ってきた列車も門司打ち切りとなっていたが、この門司打ち切りとなった編成を28日に上り臨時第6列車「かもめ」として運転する予定としていた。しかし、11時2分に関門トンネルへの濁流の流入の通報を受けて、「かもめ」の発車は抑止された。 続いて、下関側に連絡して下り列車の抑止を行おうとしたが、約800名の乗客を乗せた岩国発佐世保行下り第327列車は10時57分に既に発車した後であった。関門トンネルを抜けてきた第327列車の機関士は、門司方の出口で防水壁の切り欠きからの落水に気づき、また公安職員の停止の指示を受けて、11時8分頃、トンネル出口の約70メートル手前で列車を停車させた。保線区員が土嚢を積んで切り欠きを塞ごうと試みたが、思うように塞ぐことができず落水は止まらなかった。仮に落水の中をそのまま通り抜けた場合、水流によってパンタグラフと車体の間が短絡されるか碍子の絶縁破壊を起こして電気機材や車体が焼損する恐れがあり、あるいは架線の溶断や変電所の遮断器の動作により停電して、トンネル内からの脱出が不可能になる恐れがあった。電話で指令室の指示を仰いだところ、トンネル自体の浸水を懸念したことから強行突破の指示が出され、11時17分頃に脱出を開始した。列車が停止した場所から落水場所までは数十メートル程度しかなく、また急な上り勾配の途中で列車の引き出しは容易ではなかったこともあり、機関士はいったんトンネル内に列車を退行させた。EF10形電気機関車は車両の前後に合計2台のパンタグラフを搭載しており、このうち前部のパンタグラフを下げて、後部のパンタグラフのみから集電した状態で列車を再発進させると、勢いを付けてトンネルから出てきて、落水箇所の直前で後部のパンタグラフも下げて落水箇所を惰性で通過し、通過直後に前部のパンタグラフを上げて門司駅へ向かい、11時24分頃に無事に到着した。 この直後の11時30分頃、防水壁の上を越えて水が滝のようにトンネル内に流れ込み始めた。トンネル内各所に据え付けられた排水ポンプがフル稼働したが、11時45分頃に上り線トンネル中央部のポンプが、11時50分頃には門司方入口のポンプが使用不能となり、12時には下り線トンネル中央部のポンプ室の配電盤が浸水して爆発した。本線トンネルから溢れた水は試掘坑道に流れ込み、弟子待と小森江の試掘立坑底部に集まってきた。浸水により繰り返し遮断器が動作する中を変電所から排水ポンプへ強行送電が続けられていたが、ポンプ室は次々に機能を停止していき、13時5分にはポンプ室への送電が打ち切られた。ポンプ室に詰めていた職員は全員が脱出に成功した。排水機能を失った関門トンネルは急速に水没していき、上り線1,880メートル、下り線1,760メートルが水没して推定浸水量は約9万立方メートルに達した。16時過ぎに浸水が止まった時点で確認したところ、トンネル全長の約3分の2が天井まで浸水しており、関門トンネルによる本州と九州の連絡は切断されてしまった。 関門間の輸送が途絶したため、下関駅と門司港駅を結んで運航されていた関門連絡船の豊山丸、長水丸、下関丸を使って旅客・小荷物・新聞類の代替輸送に当たるとともに、支援として大島航路から七浦丸を投入した。貨物輸送については国鉄所有の船舶の他に、汽船や漁船、機帆船なども借り上げて代行輸送を行った。かつて下関と小森江の桟橋の間で貨車航送を行っていたが、下関の岸壁は関釜連絡船の岸壁延長のために埋め立てられており、小森江の可動橋も取り外して転用したため、急に再開できる状況ではなかった。しかし、国鉄がかつて運航していた関門丸は宇高連絡船での運用が終了した後、民間会社に払い下げられて関門海峡でカーフェリーとして運用されており、結果的に貨車からトラックに積み替えた貨物の代行輸送に役に立つことになった。 トンネルに浸水するとすぐに、国鉄西部総支配人を長とする復旧対策本部が設置され、各地から応援の人員と機材を手配して排水復旧作業に取り掛かった。まず単線での運転再開を1日も早く実現することにし、下り線を早期に開通させる方針で作業に取り掛かった。試掘坑道に対しては立坑にシンキングポンプを各4台、上り線・下り線の各本線トンネルに対しては下関側は坑口から、門司側は小森江の立坑からパイプを伸ばして、水面付近にタービンポンプを各2台配置して排水を行った。小森江の試掘立坑に運び込んだ最初のポンプは7月1日から稼働し始め、以降各地からポンプが届けられ、幡生の鉄道工場と現地で整備して据え付けられ、稼働し始めて行った。1日約1,300立方メートルから1,700立方メートルに及ぶ湧水があったため、当初はトンネル内の水量を減少させるには至らなかったが、多数のポンプが順調に稼働し始めるとようやく減水していった。本線トンネルは20パーミル程度の勾配であり、1メートル水位が下がると水面は50メートルも後退することになるため、受電装置・ポンプ・サクションホースを台車に載せて前進させ、後ろにパイプを順次繋ぐ作業をしていった。このパイプをつなぐ作業にかなりの時間を要したため、結果的に運転時間は1日平均6 ‐ 10時間程度であった。これに対して立坑から吊り下げたポンプは1日20 ‐ 24時間程度運転することができた。また輸送用のモーターカーの排気により一酸化炭素が発生し、頭痛を訴える作業員も出たため、モーターカーの使用を制限したり換気装置を設置したりといった対応に追われた。 最盛期には1,000人を超える作業員が1日3交代制で作業に従事した。下り線は7月10日に、上り線は翌11日に、トンネルの天井部分がすべて見えてくる程度に減水し、下り線は12日12時に一応の排水が完了した。しかし、残りの水は試掘坑道へ排除できるものと考えていたが、試掘坑道へ通じる排水管が詰まっていたため、トンネル内の湧水により却って増水する状況であった。そこで、排水管の閉塞を取り除くと流れ出した水で吸い込まれてしまう危険があるのを顧みず、下関工事事務所の職員が汚水に潜って手探りで排水管を探り当て、詰まっていたごみを取り除いて、無事に排水を完了させることに成功した。中央部に溜まった泥土が約60センチメートル程度あり、ポンプ室に備えられた試掘坑道への連絡パイプを通じてできるだけ試掘坑道に排除するとともに、両側の坑口からトロッコを使って搬出し、7月13日19時に試運転列車を通過させ、7月14日0時35分門司発の貨物列車第678列車から単線での運転を17日ぶりに再開した。続いて上り線では7月13日20時に排水を完了し、電気信号関係を完全に復旧させて7月17日に開通させ、一旦下り線を休止して上り線に運行を移した上で下り線の完全整備を実施し、7月19日8時31分に複線での完全復旧を完了した。 本線のトンネルが復旧した時点ではまだ試掘坑道の排水は終わっておらず、さらに本線トンネルに設置のポンプが未復旧であったため、トンネル内の漏水や線路・電線の洗浄に使った水が流れ込んで、むしろ水位が増える方向であった。表面の水をポンプで吸い上げてはドラム缶にヘドロを詰めて立坑から運び上げるという作業を昼夜三交代で継続し、ようやく8月20日に試掘坑道も復旧が完了した。 国鉄は列車の運行を優先し、11時20分に最後の列車が通過するまで門司方の線路上に土俵による防水壁を築くことができずにおり、これがのちに衆議院運輸委員会で問題にされることになった。一方、第327列車の機関士、トンネルの浸水を発見した保線区員、現場で機関士と運転指令の間の連絡に当たった公安職員2名の計4名が8月31日に「緊密な連絡と臨機の処置により列車の重大事故を未然に防止した」として長崎惣之助日本国有鉄道総裁から国鉄総裁表彰を受け、さらに機関士と保線区員の2名は10月20日に「本年六月の風水害に際し生命の危険を顧みず公務遂行に当たりその功労は特に顕著である」として吉田茂内閣総理大臣より総理大臣表彰を受けた。またトンネル中央部の汚水に潜って排水管閉塞を解決した下関工事事務所職員は、2003年(平成15年)になって叙勲を受けている。 水没事故の経験を生かし、門司方の防水壁はさらに1メートル高くされ、トンネル入口のポンプは従来の約2倍の能力に増強された。浸水を防止するためにトンネル入口には鉄製の防水壁が取り付けられ、トンネル内のポンプも地上から操作ができる強力なポンプに取り替えられるなど、浸水対策が強化された。また、毎年6月には総合的な水防訓練が実施されるようになった。なおこの水没事故後の1961年(昭和36年)の変電所無人化に際して、運転電流と事故電流を高精度で弁別して送電を停止する故障選択継電器と、事故時に並列饋電している隣接変電所の遮断器を同時に開放する連絡遮断装置が導入されたため、同様の事件が再度発生したとしても、遮断器が動作して停電することになり、第327列車のように落水箇所を強行突破することは不可能となっている。 上り線トンネルの建設時に工事事務所長を務めていた星野茂樹は、水没事故時は民間企業の顧問となっていたが、トンネル開通から10年が経ってちょうどいい機会であるとして、門司鉄道管理局の根来幸次郎施設部長に連絡して、排水作業の傍らで水を流してトンネルの大掃除をさせた。当時の吉田朝次郎所長は何事かと怒ったものの、関係者は「星野さんの命令」としてそのまま掃除を続行したという。さらに根来施設部長は、トンネル再開後の最初の試運転列車の先頭に乗って、特級酒を全線に振りかけたという。またこの水没事故は、関門トンネル開通10周年を記念して門司方坑口に「道通天地」(道は天地に通ず)という銘板を取り付けた直後であったため、「天と地がつながって空からもらい水をした」などと皮肉を言われることになってしまった。 ===九州島内の交流電化=== 第二次世界大戦後は、石炭の節約の観点から国鉄の主要幹線の電化を推進する方針となった。しかし連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) の民間運輸局 (CTS) は、戦災復興を優先するべきという理由で電化の推進に否定的な態度を取り、占領期には電化はあまり進捗しなかった。1955年(昭和30年)9月26日に発足した日本国有鉄道電化調査委員会では、早急に主要幹線3,300キロメートルの電化を推奨する報告書を11月29日に提出した。これを受けて1957年(昭和32年)度からの第1次5か年計画では、第1次計画として1,665.8キロメートルの電化を推進する方針となり、この中で関門トンネルの両側にあたる山陽本線の西明石 ‐ 幡生間、鹿児島本線の門司港 ‐ 鳥栖間が取り上げられた。 ちょうどこの時期、国鉄では交流電化の技術にめどを付けて採用を進める方針となっていた。国鉄の交流電化調査委員会では、交流電化の経済性を検討し、電車運転および交直接続の費用を考慮しなければ、常に交流電化が有利であると結論付けた。しかし、この検討は直流電化の技術の進歩を適切に考慮しておらず、また交流電化に必要となる建築限界の拡大に要する費用も評価されていないという問題があり、これに加えて既に直流電化されている東海道本線の延長となる山陽本線では交直接続の費用が交流電化の経済性を帳消しにしてしまうことから、交直接続をどこで行うのがもっとも経済的かということが検討された。 この検討の際に大きなポイントになったのが関門トンネルの建築限界の問題で、トンネルの断面は本来は設計上5,100ミリメートルの高さがあるはずであり、交流電化には大きな問題はないと考えられていたが、1957年(昭和32年)12月に実測してみたところ、戦時中の材料不足による工事方法変更の結果として短区間ではあるものの4,970ミリメートルの高さとなっている場所があることが判明した。この高さでも、特別な架線吊架方式を採用し絶縁方法を工夫することで交流電化も不可能ではないとされたが、将来的に大きな貨物の輸送に支障をきたす恐れがあった。これに加えて、関門トンネル内は海水の漏洩が激しく、直流電化においても絶縁の保持に苦労している現状があり、交流20,000ボルトに変更すればより一層保守が困難になるものとされた。 また交直接続箇所においては、地上切替方式を採用しないのであれば、高価な交直両用の機関車を必要とする。交直接続箇所から西側をすべて交直両用機関車で牽引すれば、機関車の総所要両数は減るが、高価な交直両用機関車の所用数が増加する。一方、交直両用機関車による牽引を交直接続箇所を跨ぐ区間に限定して、西側では交流専用の電気機関車を使うものとすれば、交直両用機関車の所用数は減るが機関車の総所要両数が増加となる。しかし、関門トンネルは急勾配の長大トンネル区間であり、もともと高速運転をしない上に、電動機に電流を流して走る時間も短く、加えてトンネル内は一定の気温であることから発熱の観点で有利になる。さらに短区間であることから蒸気暖房用の蒸気発生装置を搭載する必要もないとして、この区間に限れば交直両用の機関車としては安価な専用機関車を設計できるものとされた。こうした点を考慮し、最終的に山陽本線を直流、鹿児島本線を交流で電化し、門司駅構内を交直接続点とする方式が決定された。 こうして電化が推進されることになった。通常は既存の電化区間をそのまま延長していくが、そうなると九州への電化の到達はかなり先のことになり、日本有数の重工業地帯で当時輸送量が急増していた北九州地区の輸送需要に応えることができないという問題があった。そこで飛び地となるが、山陽本線の小郡以西と九州島内を先に電化する方針となった。 こうして1961年(昭和36年)6月1日に山陽本線小郡(後の新山口駅) ‐ 下関間と、鹿児島本線門司港 ‐ 久留米間の電化が開業した。このために交直両用の421系電車が製作・配置され、関門トンネルを通過して山陽本線と鹿児島本線を直通する運転を開始した。北九州の通勤輸送対策のためにこの電化開業では、交直両用電車を投入して一部の客車列車を置き換えあるいは増発することが先行することになり、この時点では客車や貨車を牽引する機関車については従来のEF10形が引き続き用いられた。EF10形は直流専用であるため、門司駅構内の内側の関門トンネルから列車が出入りする線路から門司操車場に至る区間はこの時点では暫定的に直流電化のまま残され、外側の鹿児島本線の線路が交流電化され、交直デッドセクションは暫定のものが小倉側の山陽本線と鹿児島本線の分岐部に設置された。 関門トンネル区間用の交直流電気機関車としては、EF30形電気機関車が開発された。1961年(昭和36年)8月から10月にかけて、量産形のEF30形が門司に配置され、8月から順次営業運転を開始し、10月1日から本格的に運用を開始した。代わって、EF10形は関門間の運用から外れ、直流電化区間へ順次転出していった。これにより、交直デッドセクションを本来の位置に移設する工事が行われ、1962年(昭和37年)3月2日から門司駅構内は全面的に交流電化となった。本来の交直デッドセクションの位置でも、下り線の旅客線と上り線の旅客・貨物線はともに関門トンネル出口付近のシーサスクロスポイント付近にあるが、下り線の貨物線は上下ホームの間をさらに進んだ小倉側に設置されており、これはトンネル出口の上り勾配で列車が停止してしまった場合に、再発進しても十分加速できないままデッドセクションのために惰行しなければならなくなる危険を回避するためだとされている。 1964年(昭和39年)10月1日には、山陽本線の全線電化が完成した。この時、東海道新幹線も同時に開業したことから、在来線の東海道本線での運用を終えた151系電車が山陽本線での運用になり、特急「はと」「つばめ」として九州まで直通で乗り入れることになった。しかし151系は直流専用であったため、電源車としてサヤ420形を連結した上で、九州島内では電気機関車で牽引されて走ることになった。この運行は1年で終わり、交直両用の特急電車として481系電車が1965年(昭和40年)10月1日から使用されるようになった。同時に急行用の475系電車も投入されて、関門トンネルを往来するようになった。 ===並行路線の開通とその後=== 1958年(昭和33年)3月9日には、国道2号の関門トンネルが開通した。この国道トンネルは、鉄道トンネルに1年遅れて着工したものであったが、戦後しばらくの間工事が中断していたものであった。鉄道のトンネル関係者は、鉄道トンネルもあと1年着工が遅れていたら、戦争の混乱に巻き込まれて戦後まで工事がダラダラと伸びていたかもしれない、としている。道路トンネルは、鉄道のトンネルに比べて急勾配を許容できることから、海峡の幅がもっとも狭い早鞆の瀬戸を通過している。このトンネルの開通により需要が減少した関門連絡船は、1964年(昭和39年)10月31日限りで廃止となった。 続いて1973年(昭和48年)11月14日には高速道路の関門橋が開通した。この橋も、最狭部にかけるのが最適であるとして早鞆の瀬戸の通過となった。そして、1975年(昭和50年)3月10日には山陽新幹線が博多駅まで開通し、新関門トンネルが供用を開始した。新幹線についても、高速走行のために曲線半径を大きくする必要から、早鞆の瀬戸を通過することになった。こうして関門海峡を横断する交通路は合計4本となっている。 1972年(昭和47年)11月6日に発生した北陸トンネル火災事故により、長大トンネルの火災対策が実施されることになり、関門トンネルは対策を実施する長大トンネルの条件には含まれていなかったが、海底トンネルでありかつ通過列車本数が多いという条件から同様の対策が実施されることになった。このために消火設備や避難誘導の設備の準備、電話機の設置などの諸対策が実施された。この時に設置された消火器は、塩分を含む漏水があり湿度が高いという条件のため、保守には手間がかかることになった。 1973年(昭和48年)には、貨物列車の増発用として新たに国鉄EF81形電気機関車が2両配置された。先に配置されていたEF30形が関門トンネル区間専用の設計であったのに対して、EF81形は国鉄在来線電化区間の3電源方式にすべて対応する標準形の交直流両用電気機関車であり、関門トンネル区間に投入されたのは塩害対策等の改良を実施した300番台となった。この機関車は、1974年(昭和49年)に寝台特急増発用としてさらに2両が増備された。ただし、これらの4両は貨物列車の牽引に必要な重連総括制御装置が搭載されておらず、旅客列車の牽引に限定して使用されていた。 しかしその後余剰となる機関車が発生し、1978年(昭和53年)にはEF81形が2両常磐線へと転出したが、1984年(昭和59年)と1985年(昭和60年)に1両ずつ門司機関区へ戻された。この時期になるとEF30形が老朽化してきたことから、1978年(昭和53年)にまず試作車の1両が廃車となり、1984年(昭和59年)からは量産車の廃車が始まった。そして、EF81形の基本形から改造して製作された400番台14両が1986年度(昭和61年度)に投入され、1987年(昭和62年)3月末でEF30形の運用が終了した。 1987年(昭和62年)4月1日に国鉄分割民営化が実施されると、関門トンネルは九州旅客鉄道(JR九州)が承継した。これは、関門トンネルは九州の人が本州に来るときに使うものだから、九州が担当すべきとの理由で決められたという。下関駅を管理する西日本旅客鉄道(JR西日本)との境界は下関駅構内の九州側の外れにある。 2005年(平成17年)10月1日のダイヤ改正では、JR西日本所有の気動車による関門トンネル通過運用がなくなり、気動車の関門トンネル通過が定期では全廃となった。同時に、JR九州からの山陽本線方面への直通列車もなくなり、九州からの列車は下関駅で折り返しとなった。 2007年(平成19年)3月18日ダイヤ改正からEH500形が関門地区に投入され、関門トンネルを抜ける貨物列車の牽引を担当するようになった。同時に1,300トン貨物列車の北九州貨物ターミナルまでの乗り入れが開始された。2009年(平成21年)3月14日のダイヤ改正により、寝台特急「富士」「はやぶさ」が廃止となり、関門トンネルを通過する旅客列車は415系による折り返し運転の電車のみとなった。2011年(平成23年)3月12日ダイヤ改正で、EF81形牽引の貨物列車が臨時1往復のみとなり、またEH500形が福岡貨物ターミナルまで1,300トン貨物列車を牽引しての直通運転を開始した。翌2012年(平成24年)3月17日ダイヤ改正で、EF81形による臨時1往復の設定も無くなり、関門トンネルの貨物列車は完全にEH500形が牽引するようになった。 ==現状の施設・設備== 関門トンネルの下り線トンネルは全長3,614.04メートル、上り線トンネルは全長3,604.63メートルである。海底部の延長は上下線とも1,140メートルある。また本線トンネルよりやや深い場所に、下関方と門司方の立坑の間を結ぶ全長1,322メートルの試掘坑道(通称豆トンネル)が存在し、トンネル完成後は作業用のトンネルとして使用されている。平均土被りは約11メートルあるが、建設時に粘土被覆を行った箇所では最小9.5メートルとなっている。 下関方の試掘立坑は彦島の東端の弟子待にあり、JR九州の保守作業用の出入口として使用されている。ただし、こちらの立坑にはエレベーターの設備がない。また下関方取付部の建設に際して杉田斜坑が建設されたが、完成後に埋め戻されている。 門司方の試掘立坑は、国道199号の脇に所在し、昇降機の櫓が設置されており、エレベーターの使える唯一の立坑として、関門トンネルの機能を維持するための重要な施設として使われ続けている。また鹿児島本線小森江駅東側の駐車場には、立坑にコンクリートで蓋をした構造物が2か所残されている。北側にある矩形の立坑にかまぼこ形の蓋がしてあるものが下り線トンネル用の門司方立坑で、ここから下り線の海底部を掘削したシールドマシンが搬入されて発進した。南側の丸い蓋がなされている立坑が上り線トンネル用の門司方第一立坑で、圧気工法の発進拠点として用いられた。上り線トンネル用の門司方第二立坑は、試掘立坑の近くに所在したが、撤去されて残存していない。 完成当初、下り線トンネル内のレールは、テルミット溶接により連続敷設されていた。しかし摩耗が激しく溶接部の破断事故もあったため、上り線の開通時に通常の25メートルレールに交換された。2006年(平成18年)時点では、1メートルあたりの重量が60キログラムである60キロレールで、全長100メートルのものを使用している。海水が混入した漏水が排水溝を流れており、また湿度が90パーセントに達する条件のため、レールの腐食が早く通常の5分の1程度の交換周期でレールの交換を行っている。道床は、トンネル中央部がコンクリート道床、トンネル出入り口から下り線は約250メートル、上り線は約400メートルがバラスト道床になっている。枕木は、バラスト道床部は通常の並マクラギであるが、コンクリート道床部では関門型特殊短マクラギを採用している。下り線では25メートルあたり41本、上り線では25メートルあたり45本の枕木を敷設しており、この敷設密度の差は「下り線の成績により密にした」と記録があるだけで、理由は明らかではない。また締結装置も、関門型特殊レール締結装置を採用している。この締結装置は、一般型のタイプレートでは摩耗・腐食・折損が著しかったために改良に取り組み、1955年(昭和30年)ころからタイプレートに直接荷重をかけずに枕木に分散させる仕組みのものが開発されたものである。 関門トンネルを走行する列車への電力供給用に、下関変電所と門司変電所が設置されている。遠隔制御技術が発達する昭和30年代までは、機器の運転や記録作成のために変電所への運転員の常駐が必要で、これらの変電所は1変電所が1変電区となり、下関変電区・門司変電区として区長以下約20名の職員が配置されて交代制で勤務を行っていた。開通当初は出力2,000キロワットの水銀整流器をそれぞれ2台ずつ備えており、1944年(昭和19年)5月にそれぞれ1台ずつさらに増設された。第二次世界大戦末期には、空襲を受けて変電設備が被災することに備えて、彦島に出力4,000キロワットの地下変電所が用意され、終戦後間もなく約20日間だけ実際に運転されたことがあったが、廃止されて設備は従来の変電所に復元された。第二次世界大戦後は負荷の低下により、1949年(昭和24年)に水銀整流器を1台ずつ東海道本線の電化用に供出している。1957年(昭和32年)に容量を増強した後、1961年(昭和36年)6月の山陽本線小郡 ‐ 下関電化と九州島内の交流電化に際して、下関変電所は水銀整流器2台をシリコン整流器に換装し出力増強が実施されて関門トンネル内の大部分の負荷を担う他、山陽本線側の負荷も担うようになった一方で、門司変電所は直流設備を一部縮小した上で交流用の変電設備が設置され、以降の門司変電所は関門トンネルに関しては下り線の門司方上り勾配のピーク電力のみを負担するように運用されるようになった。1961年(昭和36年)12月に両変電所とも無人化された。下関変電所は彦島の関門トンネル入り口近くに、門司変電所は門司駅構内に位置し、いずれもJR九州博多電力指令から遠隔操作されている。 関門トンネル内の架線は、下り線開業時はシンプルカテナリ式を採用していた。しかし開通後予想以上に摩耗が激しかったことや、漏水による碍子の劣化を考慮し、上り線開通時には支持碍子を変更しダブルシンプルカテナリ式を採用した。上り線開通後、約1か月下り線トンネルの通行を休止して、下り線の架線も同じ仕様に改修した。トンネル内では、特殊碍子を一部で使用することで、大型貨物の輸送に対応するために架線の高さ4,550ミリメートルを確保している。トンネル内は列車通過による強風で塵埃が巻き上げられて碍子に付着することから、絶縁劣化が激しく、表面にシリコンコンパウンドを塗布するといった対策を行っている。また開業時は架線の引き留めはトンネル内では行わず、両側の出入口から1本で引っ張る構造であったが、饋電吊架線の緩みの調整が難しいという問題があり、1963年(昭和38年)に約500メートルごとに8区分した構造に改造された。 下関駅と門司駅の間は複線ではあるが、信号方式としては単線自動閉塞が2本並んでいる。下り線・上り線とも、駅間に5基の閉塞信号機が下り・上りの双方に向けて建てられている。これは、改修作業などで1本ずつトンネルを閉鎖して運転することができるようにしたもので、実際に毎月指定された日の保守作業時間帯(2013年時点では12時頃から15時30分頃)には単線運転をして保守作業を行っている。 トンネルの維持管理のために、おおむね1 ‐ 2年に1度の坑内調査(外観目視調査、変状調査、打音調査、トンネル断面測定)、年に3回の漏水量調査、年に1回の関門航路の深浅測量(海の深さの測量)によるトンネル土被り調査、そしておおむね10年ごとの覆工コンクリートのコア採取による各種試験が実施されている。漏水量は、完成から間もない1944年(昭和19年)では1,743立方メートル/日あったが、1952年(昭和27年)には2,274立方メートル/日まで増加した後、2007年(平成19年)には450立方メートル/日程度まで減少している。これは、地下水位以下に建設されたトンネルとしてはかなり少ないもので、非常に丁寧に施工された結果であると推定されている。また上り線の方が下り線より漏水量が少なく、先に開通した下り線の結果を受けて上り線では入念な対策が取られた結果だと考えられている。漏水量の減少は、漏水防止処置が進んだことと、下関側で地上の宅地化が進んだ結果であると推定されている。湧水中に含まれる海水の量は、1991年(平成3年)時点の調査では、総湧水量が800トン/日程度のうち10パーセント程度の約80トン/日程度であった。海底トンネルにおいて、コンクリート構造物の管理上問題となるのは、海水からの塩化物イオンの侵入による鉄筋の腐食と硫酸塩によるコンクリートの化学的腐食であるが、2009年(平成21年)までの時点では特に大きな変状はなく、コンクリートの圧縮強度にも低下は見られていない。トンネルは全体として健全な状態にあり、覆工に大規模な補修・補強対策を施す必要性は認められていない。なお、1993年(平成5年)時点で関門トンネルの施設修繕費用は年1億円程度とされている。 ==関門トンネルを通る車両== 関門トンネルは長大トンネルで急勾配という条件から、当初から直流1,500ボルトで電化されており、電気機関車が列車を牽引する形で開業した。ただし変電所が敵の攻撃で被災した時に備えて、1944年(昭和19年)にD51形蒸気機関車の入線試験が行われたことがある。またディーゼル機関車についても、1988年(昭和63年)から1991年(平成3年)にかけてDD51形ディーゼル機関車が関門トンネルを通過する貨物列車の牽引を行っていたことがある。非常時の救援においてもディーゼル機関車が使われることになっており、訓練も実施されている。 一方旅客列車については、従来からの客車列車のほか、交直両用の421系電車が1961年(昭和36年)の九州島内の交流電化完成時から運転されるようになり、前述の山陽本線の全線電化完成後の1965年(昭和40年)以降は、さらに481系電車・475系電車など、京阪神・岡山方面からの特急・急行型の交直両用電車が投入されるようになったが、1975年(昭和50年)の山陽新幹線の全線開通で姿を消した。 気動車(主に山陰本線や九州の未電化区間へ直通する列車)もかつては関門トンネルを通過していたが、2005年(平成17年)10月1日ダイヤ改正で山陰本線から直通していた列車がなくなり、関門トンネルの気動車通過がなくなった。2009年(平成19年)3月14日ダイヤ改正で寝台特急「富士」「はやぶさ」が廃止となり、関門トンネルを通過する旅客列車は415系電車のみとなった。 関門トンネルで使用される電気機関車は2007年(平成19年)配置のEH500形までで歴代で以下の4車種がある。 ===EF10形=== 国鉄EF10形電気機関車は、丹那トンネルの開通に合わせて国鉄EF52形電気機関車をベースに開発された、本来は貨物用の電気機関車であるが、関門トンネルにおいては貨物と旅客の両方に使用された。1両で600トンを、2両で1,200トンを牽引した。EF10形の総製作両数は41両であるが、関門トンネルを担当する門司機関区への配置は、各時代の輸送需要の変化とともに14 ‐ 25両の範囲で増減した。1941年度(昭和16年度)に34号機から41号機の8両を関門トンネル用に製作したが、まずは東京鉄道局管内の各地に分散配置されており、1942年(昭和17年)に入って順次門司機関区へと転属した。また、国鉄EF12形電気機関車を製作・投入し、これによって捻出した既存のEF10形の門司機関区への転属も行われた。要員についても、当時九州には国鉄の電化区間はなかったこともあり、門司鉄道局では九州各地から募集した電気機関車の乗務員や整備士を東京鉄道局に派遣して養成・訓練を行い、また東京鉄道局から開通後1年間の約束で経験者の派遣を受けて対応した。 関門トンネル担当のEF10形は、車室内両側通路に鋳鉄ブロックを約5トン搭載して粘着重量を増加させていたほか、パンタグラフの継ぎ手やスリ板受けに耐食アルミ合金を採用、要所に対塩害塗装を行うなどの腐食対策を行っていた。車体の腐食が特に激しい6両については、1951年(昭和26年)から1954年(昭和29年)にかけてステンレス鋼製の車体を製作して取り換えた。30号機以降は当初から重連総括制御装置を備えており、空転への対処が困難という問題を抱えながらも常用されていた。 門司機関区配置のEF10形は、1942年(昭和17年)7月の貨物営業開始の時点では11両、11月の旅客営業開始の時点では15両、そして1944年(昭和19年)9月の複線開業時には最高の25両に達した。戦後は輸送構造の変化により所要両数が減少し、東京鉄道局管内や中央本線甲府機関区などへ転出していき、最低で14両まで減少した。その後、後続のEF30形に置き換えられる時点では17両となっていた。1961年(昭和36年)に、九州の交流電化に伴いEF30形の配置が始まると、8月12日にEF10 23号機が吹田第二機関区に転属になったのを皮切りに、11月1日までに全17両が直流電化区間へ転属され、門司機関区の在籍車両が消滅した。 ===EF30形=== 国鉄EF30形電気機関車は、九州地方の交流電化に伴い開発された、交直両用の電気機関車である。関門トンネルの九州側出口に当たる門司駅構内で交流電化と直流電化の接続をすることになり、この区間の接続用として開発された。当時の技術では大出力の交流・直流両対応の機関車を制限重量内で製作することは大変困難であり、交流で運転時の出力は直流時に比べて4分の1となる設計で制限に収めたが、交流で走行するのは門司駅構内からの短区間だけであり問題ないとされた。海水を被る対策として、ステンレス鋼製の車体を採用している。出力はEF10形より増大したが、引張力は大きく変わらず、結果として速度が10 km/h程度上がっており、旅客列車の中にはこれにより関門間の所要時間が短縮したものもあった。運用はEF10形の時代と変わらず、旅客列車を1両で下関 ‐ 門司間を、貨物列車を2両重連で幡生操車場 ‐ 門司操車場間をそれぞれ牽引した。 1960年(昭和35年)3月19日に1号機が落成し、米原機関区に配置されて北陸本線の交直接続設備の試験を行った。1961年(昭和36年)4月に門司機関区に転属し、8月からは量産機が配置されて順次営業運転を開始して、10月1日から本格的に使用が開始された。運用開始当初はEF10形を同数で置き換えて17両体制であった。1963年(昭和38年)10月に東小倉駅に小荷物センターが開設されたことから、東小倉駅まで運用が拡大された。輸送需要の増加に対応して1965年(昭和40年)と1968年(昭和43年)にそれぞれ2両と3両が増備され、最終的に22両となった。1978年(昭和53年)に試作車であった1号機が廃車となり、1984年(昭和59年)からは量産車の廃車も始まった。1987年(昭和62年)3月29日に「お別れ運転」を門司港駅 ‐ 遠賀川駅間で実施して、EF30形の全車両の運用が終了した。 ===EF81形=== 国鉄EF81形電気機関車は、国鉄在来線の電化区間の3種類の電源方式(直流1,500ボルト、交流20,000ボルト50ヘルツ、交流20,000ボルト60ヘルツ)のすべてに対応できる標準形交直流電気機関車として、1968年(昭和43年)に開発された。関門トンネルでは、1973年(昭和48年)に貨物列車の増発用として2両が配置された。これらの車両は関門トンネル用に塩害対策が施され、既存のEF30形と同じくステンレス鋼製の車体を装備し、耐食アルミ合金製のパンタグラフを搭載するなどされている。耐寒耐雪装備を省略し、列車暖房装置も省略した上で代替死重を搭載しており、さらにEF30形には付いていた重連総括制御装置が省略されていた。標準形と異なることからこの2両は301号機・302号機と番号を付けられ、300番台と呼ばれる。1974年(昭和49年)には、寝台特急の増発用としてさらに2両(303号機・304号機)が追加投入された。これらの4両は、重連総括制御装置が省略されていて重連での重量貨物列車の牽引ができないことから、旅客列車の牽引に限定して使用されていた。1978年(昭和53年)に余剰となったことから2両が常磐線へ転出したが、1984年(昭和59年)・1985年(昭和60年)に再び門司機関区に戻された。 老朽化してきたEF30形の代替用として、余剰となっていた基本形のEF81形からの改造で、1986年度(昭和61年度)に14両のEF81形400番台(401号機 ‐ 414号機)が門司機関区に投入された。改造に当たっては、不要となる列車暖房装置が撤去され、海水に耐えるための塗装を施したほか、関門トンネルでの重量貨物列車の引き出しには重連運転が不可欠であったことから、重連総括制御装置の取付が行われた。また同じ年に300番台にも重連総括制御装置の取付改造が実施された。 1987年(昭和62年)の国鉄分割民営化に当たっては、300番台の4両すべてと400番台のうち8両が日本貨物鉄道(JR貨物)に、400番台の6両が九州旅客鉄道(JR九州)に承継された。民営化後、輸送需要の増加に伴ってコンテナ貨物列車の増発が実施され、これに対応して1991年(平成3年)3月のダイヤ改正に合わせてJR貨物が450番台の2両を新製して、JR貨物の配置機関車は14両となった。さらに1993年(平成5年)3月ダイヤ改正において3両を新製したが、代わりに400番台の2両が転出して門司機関区での配置は15両となった。400番台の2両は後に門司機関区に戻され、JR貨物の門司機関区におけるEF81形の配置両数は17両となった。運用の効率化のため、業務受託により旅客会社の列車である寝台特急をJR貨物の機関車で牽引することがあり、また福岡貨物ターミナル駅までEF81形で直通する運用も設定された。 JR九州に承継されたEF81形は、1996年(平成8年)から廃車が始まり、2010年(平成22年)までに全廃となった。JR貨物については、2007年(平成19年)から後継のEH500形による置き換えが開始されている。2011年(平成23年)3月12日のダイヤ改正で、EF81形による関門間の運行は臨時1往復のみとなり、翌2012年(平成24年)3月17日ダイヤ改正で完全に撤退した。ただし、門司機関区に配置のEF81形はこれ以降も九州島内の貨物列車の牽引を続けている。 ===EH500形=== 関門地区に配置されていたEF81形の車齢が30年を超えて代替時期を迎えたことに加えて、運転範囲が拡大しつつあった1,300トンの貨物列車の牽引にはEF81形の重連運転でも対応できないこともあり、EH500形が配置されることになった。まず2004年(平成16年)に一時的に関門トンネルを通じる列車のEH500形による牽引試験が実施された。2007年(平成19年)3月18日ダイヤ改正に際して、幡生操車場 ‐ 北九州貨物ターミナル駅間の貨物輸送にEH500形6両が投入されて運用が開始され、1,300トンコンテナ貨物列車(26両編成)の乗り入れも開始された。2011年(平成23年)3月12日のダイヤ改正で、EF81形による運用が臨時1往復のみとなり、関門間の貨物列車の牽引がほぼEH500形に置き換わった。またこの際に1,300トン貨物列車が福岡貨物ターミナル駅まで乗り入れを開始し、EH500形が直通で福岡貨物ターミナル駅まで運転することも見られるようになった。翌2012年(平成24年)3月17日のダイヤ改正では、EF81形による臨時1往復の運転も無くなり、関門間の貨物列車は完全にEH500形が牽引するようになった。 ==データ== ===建設費=== ===使用資材量=== ===労働者数=== 労働者数は、試掘坑道を含む下り線トンネルについてのべ約1,821,000人、上り線トンネルについてのべ約1,650,000人の合計約3,471,000人であった。 ===輸送量=== トンネルが開通した第二次世界大戦中は次第に輸送量が増加していたが、終戦後輸送量は急減し、その後経済の推移に伴い緩やかな回復をしていった。高度経済成長期になると列車回数・通過トン数ともに急増し、1970年(昭和45年)度には最高の1日350回、年間通過トン数6000万トンを記録した。1975年(昭和50年)3月に新幹線が開通すると減少に転じるが、1985年(昭和60年)度以降再び回復しており、1992年(平成4年)度時点では列車回数が1日317回、年間の通過トン数が3910万トン、このうち2350万トンを貨物列車が占めている。 ==年表== 1891年(明治24年)4月1日 ‐ 九州鉄道が門司駅(後の門司港駅)まで開通。1896年(明治29年)秋 ‐ 第5回全国商業会議所連合会に際して博多商業会議所から関門海底トンネルの提案が出される。1898年(明治31年)9月1日 ‐ 山陽汽船商社による徳山 ‐ 門司 ‐ 赤間関(下関)間の連絡航路が就航。1901年(明治34年)5月27日 ‐ 山陽鉄道が馬関駅(後の下関駅)まで開通、関門連絡船が就航。1902年(明治35年)6月1日 ‐ 馬関駅が下関駅に改称。1906年(明治39年)12月1日 ‐ 山陽鉄道国有化、関門連絡船も国鉄の運航となる。1907年(明治40年)7月1日 ‐ 九州鉄道国有化。1910年(明治43年)4月 ‐ 鉄道院総裁後藤新平が業務調査会議を設置し、海陸連絡の検討開始。1911年(明治44年) 3月1日 ‐ 関門連絡船の車両航送開始。 4月 ‐ 東京帝国大学工科大学教授の広井勇に関門海峡連絡の橋梁案の検討を依頼、比較として京都帝国大学工科大学教授の田辺朔郎にトンネル案の検討を依頼。 12月28日 ‐ 田辺朔郎が関門トンネル鉄道線取調書提出。3月1日 ‐ 関門連絡船の車両航送開始。4月 ‐ 東京帝国大学工科大学教授の広井勇に関門海峡連絡の橋梁案の検討を依頼、比較として京都帝国大学工科大学教授の田辺朔郎にトンネル案の検討を依頼。12月28日 ‐ 田辺朔郎が関門トンネル鉄道線取調書提出。1913年(大正2年) 1月 ‐ 岡野昇がトンネル案の線路選定と諸般の調査に関する報告を提出。 6月1日 ‐ 車両航送を国鉄直営化。1月 ‐ 岡野昇がトンネル案の線路選定と諸般の調査に関する報告を提出。6月1日 ‐ 車両航送を国鉄直営化。1916年(大正5年)3月 ‐ 広井勇が橋梁案の報告書を提出。1919年(大正8年) 6月 ‐ 平井喜久松が連絡線路の実測調査を実施、9月まで。 7月31日 ‐ 大正8年の海底地質調査開始。 10月30日 ‐ 大正8年の海底地質調査完了。 この年、第41回帝国議会において10か年継続で総額1816万円の予算計上。6月 ‐ 平井喜久松が連絡線路の実測調査を実施、9月まで。7月31日 ‐ 大正8年の海底地質調査開始。10月30日 ‐ 大正8年の海底地質調査完了。この年、第41回帝国議会において10か年継続で総額1816万円の予算計上。1920年(大正9年) 7月7日 ‐ 大正9年の海底地質調査開始。 10月3日 ‐ 大正9年の海底地質調査完了。7月7日 ‐ 大正9年の海底地質調査開始。10月3日 ‐ 大正9年の海底地質調査完了。1924年(大正13年) ‐ 第50回帝国議会において関門トンネル予算削除。1926年(大正15年)12月17日 ‐ 鉄道省の省議により、再度関門トンネル着工決定。1927年(昭和2年) 1月 ‐ 下関市に工務局関門派出所設置。 3月23日 ‐ 田ノ首‐新町線上での海底ボーリング地質調査開始。1月 ‐ 下関市に工務局関門派出所設置。3月23日 ‐ 田ノ首‐新町線上での海底ボーリング地質調査開始。1929年(昭和4年)7月20日 ‐ 田ノ首‐新町線上での海底ボーリング地質調査完了。1930年(昭和5年) ‐ 関門派出所廃止。1935年(昭和10年) 5月27日 ‐ 内田信也鉄道大臣による現地視察実施。 6月7日 ‐ 閣議において1936年に着工し、4か年継続工事で予算1800万円の承認を得る。 8月13日 ‐ 弟子待‐小森江線上での地質調査開始。 11月28日 ‐ 弟子待‐小森江線上での地質調査完了。5月27日 ‐ 内田信也鉄道大臣による現地視察実施。6月7日 ‐ 閣議において1936年に着工し、4か年継続工事で予算1800万円の承認を得る。8月13日 ‐ 弟子待‐小森江線上での地質調査開始。11月28日 ‐ 弟子待‐小森江線上での地質調査完了。1936年(昭和11年) 7月15日 ‐ 下関改良事務所設置、初代所長釘宮磐。 9月19日 ‐ 門司側の現場において起工式挙行。 10月7日 ‐ 門司方試掘立坑着工。 10月 ‐ 海底部弾性波地質調査開始(12月まで)。7月15日 ‐ 下関改良事務所設置、初代所長釘宮磐。9月19日 ‐ 門司側の現場において起工式挙行。10月7日 ‐ 門司方試掘立坑着工。10月 ‐ 海底部弾性波地質調査開始(12月まで)。1937年(昭和12年) 1月6日 ‐ 弟子待見張所開設、後の弟子待出張所。 1月7日 ‐ 下関方試掘立坑着工。 1月15日 ‐ 潜水艇調査開始。 2月2日 ‐ 潜水艇調査完了。 6月 ‐ 小森江出張所が近隣火災により類焼の被害を受ける。 7月 ‐ 下関方試掘立坑掘削完了。 9月30日 ‐ 門司方試掘立坑掘削完了。 11月5日 ‐ 下関方試掘立坑完成。 11月18日 ‐ 下関方から試掘坑道の水平掘削開始。 11月 ‐ 下り線トンネル下関方立坑エレベーター設備準備開始。 12月1日 ‐ 下り線トンネル下関方立坑掘削開始。1月6日 ‐ 弟子待見張所開設、後の弟子待出張所。1月7日 ‐ 下関方試掘立坑着工。1月15日 ‐ 潜水艇調査開始。2月2日 ‐ 潜水艇調査完了。6月 ‐ 小森江出張所が近隣火災により類焼の被害を受ける。7月 ‐ 下関方試掘立坑掘削完了。9月30日 ‐ 門司方試掘立坑掘削完了。11月5日 ‐ 下関方試掘立坑完成。11月18日 ‐ 下関方から試掘坑道の水平掘削開始。11月 ‐ 下り線トンネル下関方立坑エレベーター設備準備開始。12月1日 ‐ 下り線トンネル下関方立坑掘削開始。1938年(昭和13年) 1月7日 ‐ 下り線トンネル門司方立坑着工。 2月28日 ‐ 下り線トンネル下関方立坑掘削完了。 3月6日 ‐ 下関方取付部弾性波地質調査開始(月末まで)。 4月26日 ‐ 門司方から試掘坑道の水平掘削開始。 5月3日 ‐ 下り線トンネル下関方取付部着工。 5月31日 ‐ 下り線トンネル下関方立坑竣功。 6月5日 ‐ 門司方試掘立坑竣功。 6月25日 ‐ 下り線トンネル下関方海底部着工。 8月 ‐ 下り線トンネル杉田斜坑着工。 10月1日 ‐ 下り線トンネル杉田斜坑から下関方入口へ向けて底設導坑掘削開始。 10月4日 ‐ 試掘坑道下関方416メートル付近にて崩壊事故発生。 10月28日 ‐ 下り線トンネル下関方取付部の下関方入口からの工事開始。 10月 ‐ 下り線トンネル杉田斜坑完成。 12月6日 ‐ 下り線トンネル門司方立坑竣功。 12月23日 ‐ 下り線トンネル下関方取付部で杉田斜坑と立坑の間が貫通。1月7日 ‐ 下り線トンネル門司方立坑着工。2月28日 ‐ 下り線トンネル下関方立坑掘削完了。3月6日 ‐ 下関方取付部弾性波地質調査開始(月末まで)。4月26日 ‐ 門司方から試掘坑道の水平掘削開始。5月3日 ‐ 下り線トンネル下関方取付部着工。5月31日 ‐ 下り線トンネル下関方立坑竣功。6月5日 ‐ 門司方試掘立坑竣功。6月25日 ‐ 下り線トンネル下関方海底部着工。8月 ‐ 下り線トンネル杉田斜坑着工。10月1日 ‐ 下り線トンネル杉田斜坑から下関方入口へ向けて底設導坑掘削開始。10月4日 ‐ 試掘坑道下関方416メートル付近にて崩壊事故発生。10月28日 ‐ 下り線トンネル下関方取付部の下関方入口からの工事開始。10月 ‐ 下り線トンネル杉田斜坑完成。12月6日 ‐ 下り線トンネル門司方立坑竣功。12月23日 ‐ 下り線トンネル下関方取付部で杉田斜坑と立坑の間が貫通。1939年(昭和14年) 2月6日 ‐ 門司方試掘坑道の水中微動計調査開始。 2月13日 ‐ 下り線トンネル門司方潜函工法区間着工。 3月5日 ‐ 門司方試掘坑道の水中微動計調査打ち切り。 3月20日 ‐ 高松宮宣仁親王が工事現場を視察。 3月30日 ‐ 下り線トンネル門司方シールド工法部着工。 4月9日 ‐ 前田米蔵鉄道大臣が工事現場を視察。 4月19日 ‐ 試掘坑道貫通。 5月20日 ‐ 下り線トンネル下関方取付部で入口と杉田斜坑の間が貫通。 5月29日 ‐ 下り線トンネル門司方シールド工法部でシールドマシンが初推進。 6月7日 ‐ 下り線トンネル門司方シールド工法部の圧気開始。 6月9日 ‐ 下関方海底部の水中微動計調査開始(36日間)。 6月25日 ‐ 斉藤眞平技師が門司方立坑で墜落し、殉職する。 7月31日 ‐ 試掘坑道門司方竣功。 8月5日 ‐ 試掘坑道下関方竣功。 8月21日 ‐ 門司方シールド工法部切羽において落盤事故発生。 8月30日 ‐ 下関改良事務所を下関工事事務所に改称。 12月12日 ‐ 下り線トンネル門司方開削工法部着工。2月6日 ‐ 門司方試掘坑道の水中微動計調査開始。2月13日 ‐ 下り線トンネル門司方潜函工法区間着工。3月5日 ‐ 門司方試掘坑道の水中微動計調査打ち切り。3月20日 ‐ 高松宮宣仁親王が工事現場を視察。3月30日 ‐ 下り線トンネル門司方シールド工法部着工。4月9日 ‐ 前田米蔵鉄道大臣が工事現場を視察。4月19日 ‐ 試掘坑道貫通。5月20日 ‐ 下り線トンネル下関方取付部で入口と杉田斜坑の間が貫通。5月29日 ‐ 下り線トンネル門司方シールド工法部でシールドマシンが初推進。6月7日 ‐ 下り線トンネル門司方シールド工法部の圧気開始。6月9日 ‐ 下関方海底部の水中微動計調査開始(36日間)。6月25日 ‐ 斉藤眞平技師が門司方立坑で墜落し、殉職する。7月31日 ‐ 試掘坑道門司方竣功。8月5日 ‐ 試掘坑道下関方竣功。8月21日 ‐ 門司方シールド工法部切羽において落盤事故発生。8月30日 ‐ 下関改良事務所を下関工事事務所に改称。12月12日 ‐ 下り線トンネル門司方開削工法部着工。1940年(昭和15年) 1月15日 ‐ 下り線トンネル門司方シールド工法部で第1隔壁構築完了、シールド推進再開。 2月15日 ‐ 下り線トンネル下関方取付部509K126M付近において崩壊事故発生。 6月13日 ‐ 上り線トンネル下関方取付部着工。 6月28日 ‐ 下り線トンネル下関方取付部完成。 7月 ‐ 上り線トンネル杉田斜坑着工。 8月15日 ‐ 上り線トンネル下関方立坑着工。 8月31日 ‐ 下り線トンネル門司方シールド工法部で第2隔壁構築完了、シールド推進再開。 9月1日 ‐ 試掘坑道下関方排水ポンプの停止事故により坑内に水が溢れる。 9月8日 ‐ 試掘坑道下関方排水ポンプの停止事故の復旧作業完了。 9月 ‐ 上り線トンネル杉田斜坑竣功。 11月1日 ‐ 下り線トンネル門司方圧気工法部着工、下り線トンネル電気設備着工。 12月1日 ‐ 上り線トンネル下関方海底部着工。 12月10日 ‐ 関門海峡において4000トン級貨物船の衝突事故、本線トンネル上の海底に溝をえぐられる。 12月22日 ‐ 門司側で停電事故発生、シールドの推進を一時中断して漏気対策を実施。1月15日 ‐ 下り線トンネル門司方シールド工法部で第1隔壁構築完了、シールド推進再開。2月15日 ‐ 下り線トンネル下関方取付部509K126M付近において崩壊事故発生。6月13日 ‐ 上り線トンネル下関方取付部着工。6月28日 ‐ 下り線トンネル下関方取付部完成。7月 ‐ 上り線トンネル杉田斜坑着工。8月15日 ‐ 上り線トンネル下関方立坑着工。8月31日 ‐ 下り線トンネル門司方シールド工法部で第2隔壁構築完了、シールド推進再開。9月1日 ‐ 試掘坑道下関方排水ポンプの停止事故により坑内に水が溢れる。9月8日 ‐ 試掘坑道下関方排水ポンプの停止事故の復旧作業完了。9月 ‐ 上り線トンネル杉田斜坑竣功。11月1日 ‐ 下り線トンネル門司方圧気工法部着工、下り線トンネル電気設備着工。12月1日 ‐ 上り線トンネル下関方海底部着工。12月10日 ‐ 関門海峡において4000トン級貨物船の衝突事故、本線トンネル上の海底に溝をえぐられる。12月22日 ‐ 門司側で停電事故発生、シールドの推進を一時中断して漏気対策を実施。1941年(昭和16年) 1月 ‐ 上り線トンネル下関方取付部で斜坑から坑口へ向かって底設導坑着工。 2月1日 ‐ 下り線トンネル軌道工事着工。 2月24日 ‐ 下り線トンネル門司方シールド工法部で推進を再開。 3月30日 ‐ 下り線トンネル門司方シールド工法部と下関方海底部の間でボーリングが貫通。 4月5日 ‐ 下り線トンネル門司方シールド工法部で最終のシールド推進完了。 6月2日 ‐ 下り線トンネル海底部における圧気工法完了、坑内減圧。 6月26日 ‐ 豪雨により上り線トンネル下関方取付部の浸水事故発生。 7月10日 ‐ 下り線トンネル海底部で門司方と下関方の間が貫通。 8月1日 ‐ 下関工事事務所長に星野茂樹が着任。 10月7日 ‐ 上り線トンネル下関方取付部の底設導坑が立坑下部に到達。 11月 ‐ 上り線トンネル下関方取付部で坑口から斜坑へ向かって底設導坑着工。 12月16日 ‐ 上り線トンネル下関方取付部において崩落事故発生。1月 ‐ 上り線トンネル下関方取付部で斜坑から坑口へ向かって底設導坑着工。2月1日 ‐ 下り線トンネル軌道工事着工。2月24日 ‐ 下り線トンネル門司方シールド工法部で推進を再開。3月30日 ‐ 下り線トンネル門司方シールド工法部と下関方海底部の間でボーリングが貫通。4月5日 ‐ 下り線トンネル門司方シールド工法部で最終のシールド推進完了。6月2日 ‐ 下り線トンネル海底部における圧気工法完了、坑内減圧。6月26日 ‐ 豪雨により上り線トンネル下関方取付部の浸水事故発生。7月10日 ‐ 下り線トンネル海底部で門司方と下関方の間が貫通。8月1日 ‐ 下関工事事務所長に星野茂樹が着任。10月7日 ‐ 上り線トンネル下関方取付部の底設導坑が立坑下部に到達。11月 ‐ 上り線トンネル下関方取付部で坑口から斜坑へ向かって底設導坑着工。12月16日 ‐ 上り線トンネル下関方取付部において崩落事故発生。1942年(昭和17年) 1月20日 ‐ 上り線トンネル下関方海底部で立坑から第一斜坑へ向けて底設導坑に着手。 3月15日 ‐ 上り線トンネル門司方第一立坑着工。 3月27日 ‐ 下り線トンネル潜函工法区間の最後の隔壁が貫通、下り線トンネル全区間が貫通。 3月29日 ‐ 下り線トンネル門司方シールド工法部竣功。 3月31日 ‐ 下り線トンネル下関方海底部竣功、下り線トンネル門司方圧気工法部竣功。 4月1日 ‐ 門司駅を門司港駅に、大里駅を門司駅に、それぞれ改称、上り線トンネル門司方圧気工法区間着工。 4月13日 ‐ 上り線トンネル門司方第二立坑着工。 4月17日 ‐ 幡生操車場において竣功記念式典、職員がトンネル内を記念行進。 4月 ‐ 上り線トンネル下関方海底部で立坑と第一斜坑の間が貫通、第一斜坑から第二斜坑へ着手、第二斜坑から第一斜坑へ着手。 5月15日 ‐ 下り線トンネル門司方潜函工法部竣功、上り線トンネル門司方第一立坑に圧気開始。 5月24日 ‐ 下り線トンネル門司方開削工法部竣功。 5月31日 ‐ 下り線トンネル軌道工事竣功。 6月11日 ‐ 下り線トンネルで試運転開始。 6月20日 ‐ 下り線トンネルで臨時扱いで貨物列車の営業運転を開始。 6月30日 ‐ 上り線トンネル下関方立坑竣功。 6月 ‐ 下関変電区・門司変電区発足、両変電所とも、水銀整流器2,000キロワット×2。 7月1日 ‐ 下り線トンネルが正式に開通、貨物専用、上り線トンネル門司方第二立坑に圧気開始。 7月10日 ‐ 関森航路の車両航送が廃止。 7月17日 ‐ 上り線トンネル門司方第一立坑竣功。 7月22日 ‐ 上り線トンネル門司方第二立坑竣功。 10月6日 ‐ 戦時陸運非常体制の閣議決定、上り線の建設を昭和18年度中に繰り上げ竣功させる方針となる。 10月11日 ‐ 臨時旅客列車がトンネルを通過、初の旅客運用。 10月13日 ‐ 上り線トンネル門司方圧気工法部の第一立坑と第二立坑の間で噴発事故発生、5名殉職。 11月1日 ‐ 下関工事事務所を下関地方施設部に改称。 11月15日 ‐ 下り線トンネル電気設備竣功、下り線トンネルの旅客運用正式開始。1月20日 ‐ 上り線トンネル下関方海底部で立坑から第一斜坑へ向けて底設導坑に着手。3月15日 ‐ 上り線トンネル門司方第一立坑着工。3月27日 ‐ 下り線トンネル潜函工法区間の最後の隔壁が貫通、下り線トンネル全区間が貫通。3月29日 ‐ 下り線トンネル門司方シールド工法部竣功。3月31日 ‐ 下り線トンネル下関方海底部竣功、下り線トンネル門司方圧気工法部竣功。4月1日 ‐ 門司駅を門司港駅に、大里駅を門司駅に、それぞれ改称、上り線トンネル門司方圧気工法区間着工。4月13日 ‐ 上り線トンネル門司方第二立坑着工。4月17日 ‐ 幡生操車場において竣功記念式典、職員がトンネル内を記念行進。4月 ‐ 上り線トンネル下関方海底部で立坑と第一斜坑の間が貫通、第一斜坑から第二斜坑へ着手、第二斜坑から第一斜坑へ着手。5月15日 ‐ 下り線トンネル門司方潜函工法部竣功、上り線トンネル門司方第一立坑に圧気開始。5月24日 ‐ 下り線トンネル門司方開削工法部竣功。5月31日 ‐ 下り線トンネル軌道工事竣功。6月11日 ‐ 下り線トンネルで試運転開始。6月20日 ‐ 下り線トンネルで臨時扱いで貨物列車の営業運転を開始。6月30日 ‐ 上り線トンネル下関方立坑竣功。6月 ‐ 下関変電区・門司変電区発足、両変電所とも、水銀整流器2,000キロワット×2。7月1日 ‐ 下り線トンネルが正式に開通、貨物専用、上り線トンネル門司方第二立坑に圧気開始。7月10日 ‐ 関森航路の車両航送が廃止。7月17日 ‐ 上り線トンネル門司方第一立坑竣功。7月22日 ‐ 上り線トンネル門司方第二立坑竣功。10月6日 ‐ 戦時陸運非常体制の閣議決定、上り線の建設を昭和18年度中に繰り上げ竣功させる方針となる。10月11日 ‐ 臨時旅客列車がトンネルを通過、初の旅客運用。10月13日 ‐ 上り線トンネル門司方圧気工法部の第一立坑と第二立坑の間で噴発事故発生、5名殉職。11月1日 ‐ 下関工事事務所を下関地方施設部に改称。11月15日 ‐ 下り線トンネル電気設備竣功、下り線トンネルの旅客運用正式開始。1943年(昭和18年) 1月7日 ‐ 上り線トンネル門司方シールド工法部、シールド組立開始。 5月4日 ‐ 上り線トンネル門司方シールド工法部着工。 5月7日 ‐ 上り線トンネル門司方シールド工法部で圧気開始。 5月10日 ‐ 上り線トンネル門司方シールド工法部でシールド発進。 7月 ‐ 上り線トンネル下関方海底部、立坑と第一斜坑の間が完成。 9月1日 ‐ 上り線トンネル門司方シールド工法部第1隔壁完成、シールド推進再開。 9月14日 ‐ 上り線トンネル下関方取付部竣功。 9月15日 ‐ 上り線トンネル下関方海底部、第一斜坑と第二斜坑の間の第三紀層地帯が貫通。 11月25日 ‐ 上り線トンネル門司方圧気工法部で第一立坑と第二立坑の間が貫通。 12月31日 ‐ 上り線トンネル下関方海底部と門司方シールド工法部が貫通。1月7日 ‐ 上り線トンネル門司方シールド工法部、シールド組立開始。5月4日 ‐ 上り線トンネル門司方シールド工法部着工。5月7日 ‐ 上り線トンネル門司方シールド工法部で圧気開始。5月10日 ‐ 上り線トンネル門司方シールド工法部でシールド発進。7月 ‐ 上り線トンネル下関方海底部、立坑と第一斜坑の間が完成。9月1日 ‐ 上り線トンネル門司方シールド工法部第1隔壁完成、シールド推進再開。9月14日 ‐ 上り線トンネル下関方取付部竣功。9月15日 ‐ 上り線トンネル下関方海底部、第一斜坑と第二斜坑の間の第三紀層地帯が貫通。11月25日 ‐ 上り線トンネル門司方圧気工法部で第一立坑と第二立坑の間が貫通。12月31日 ‐ 上り線トンネル下関方海底部と門司方シールド工法部が貫通。1944年(昭和19年) 2月11日 ‐ 上り線トンネル門司方圧気工法部で排気。 3月 ‐ 上り線トンネル下関方海底部、第一斜坑と第二斜坑の間が完成。 4月30日 ‐ 上り線トンネル門司方圧気工法部竣功。 4月 ‐ 上り線トンネル下関方海底部、第二斜坑から門司方が完成。 5月 ‐ 下関変電所・門司変電所にそれぞれ2,000キロワット水銀整流器を1台ずつ増設。 8月8日 ‐ 上り線トンネル下関方海底部竣功、門司方シールド工法部竣功、上り線トンネル開通、下り線を一時使用休止。 9月9日 ‐ 下り線の使用再開、複線での運転を開始。 9月11日 ‐ 試掘坑道の不要待避所埋戻し、二次覆工の施工などに着手、ただし戦局悪化のため労働力転用により、後に一時中止となる。2月11日 ‐ 上り線トンネル門司方圧気工法部で排気。3月 ‐ 上り線トンネル下関方海底部、第一斜坑と第二斜坑の間が完成。4月30日 ‐ 上り線トンネル門司方圧気工法部竣功。4月 ‐ 上り線トンネル下関方海底部、第二斜坑から門司方が完成。5月 ‐ 下関変電所・門司変電所にそれぞれ2,000キロワット水銀整流器を1台ずつ増設。8月8日 ‐ 上り線トンネル下関方海底部竣功、門司方シールド工法部竣功、上り線トンネル開通、下り線を一時使用休止。9月9日 ‐ 下り線の使用再開、複線での運転を開始。9月11日 ‐ 試掘坑道の不要待避所埋戻し、二次覆工の施工などに着手、ただし戦局悪化のため労働力転用により、後に一時中止となる。1945年(昭和20年) 2月1日 ‐ 上り線トンネルにおいて貨物列車同士の追突事故発生。 5月 ‐ 下関立坑から門司第2立坑内までの上り線トンネル内に、日本発送電の彦島変電所と新大里変電所の間を結ぶ22キロボルト特高ケーブルを敷設。 8月 ‐ 試掘坑道の不要待避所埋戻し、二次覆工作業の再開。 9月 ‐ 試掘坑道門司方の漏水防止工事開始、1946年4月まで。 12月 ‐ 110キロボルト関門幹線(関門海峡の架空送電線)開通、まもなくトンネル内の22キロボルト特高ケーブルは撤去される。2月1日 ‐ 上り線トンネルにおいて貨物列車同士の追突事故発生。5月 ‐ 下関立坑から門司第2立坑内までの上り線トンネル内に、日本発送電の彦島変電所と新大里変電所の間を結ぶ22キロボルト特高ケーブルを敷設。8月 ‐ 試掘坑道の不要待避所埋戻し、二次覆工作業の再開。9月 ‐ 試掘坑道門司方の漏水防止工事開始、1946年4月まで。12月 ‐ 110キロボルト関門幹線(関門海峡の架空送電線)開通、まもなくトンネル内の22キロボルト特高ケーブルは撤去される。1946年(昭和21年) 3月 ‐ 彦島変電所竣功、下関・門司両変電所から変圧器と整流器を1台ずつ搬入。 10月 ‐ 彦島変電所廃止、設備を元の変電所に復帰する。3月 ‐ 彦島変電所竣功、下関・門司両変電所から変圧器と整流器を1台ずつ搬入。10月 ‐ 彦島変電所廃止、設備を元の変電所に復帰する。1947年(昭和22年) 4月 ‐ 試掘坑道の二次覆工施工完了。 11月 ‐ 試掘坑道門司方の漏水防止工事を追加施工。4月 ‐ 試掘坑道の二次覆工施工完了。11月 ‐ 試掘坑道門司方の漏水防止工事を追加施工。1948年(昭和23年) 2月 ‐ 門司変電区の受電周波数を60ヘルツに変更。 12月 ‐ 試掘坑道下関方の漏水防止工事実施。2月 ‐ 門司変電区の受電周波数を60ヘルツに変更。12月 ‐ 試掘坑道下関方の漏水防止工事実施。1949年(昭和24年)1月 ‐ 下関・門司変電所の水銀整流器を1台ずつ削減し、東海道本線藤枝変電所・磐田変電所に転用。1953年(昭和28年) 6月28日 ‐ 関門トンネルが水没する。 7月14日 ‐ 下り線トンネルの運転を単線で再開。 7月17日 ‐ 上り線トンネルの運転を再開、いったん上り線に切り替えて下り線を休止。 7月19日 ‐ 複線に復旧。6月28日 ‐ 関門トンネルが水没する。7月14日 ‐ 下り線トンネルの運転を単線で再開。7月17日 ‐ 上り線トンネルの運転を再開、いったん上り線に切り替えて下り線を休止。7月19日 ‐ 複線に復旧。1954年(昭和29年) 3月 ‐ 強制排流装置設置。 11月30日 ‐ 試掘トンネルと下り線トンネルの連絡斜坑を再掘削。3月 ‐ 強制排流装置設置。11月30日 ‐ 試掘トンネルと下り線トンネルの連絡斜坑を再掘削。1955年(昭和30年)2月10日 ‐ 小森江・弟子待ポンプ室改築。1957年(昭和32年)2月 ‐ 門司変電所に2,000キロワットの水銀整流器を増設。1958年(昭和33年)3月9日 ‐ 国道2号の関門トンネルが開通。1961年(昭和36年) 4月13日 ‐ 交直電車の関門トンネル初試運転。 6月1日 ‐ 山陽本線小郡以西と鹿児島本線門司港‐久留米間電化開業、門司駅構内は暫定の交直接続を実施。 10月1日 ‐ EF30形正式運用開始。 12月22日 ‐ EF30形はパンタグラフを2台とも使用して運転に変更。 12月 ‐ 下関・門司変電所無人化。 この年、下関変電所は水銀整流器2台をシリコン整流器に換装、門司変電所は交流饋電設備を設置。4月13日 ‐ 交直電車の関門トンネル初試運転。6月1日 ‐ 山陽本線小郡以西と鹿児島本線門司港‐久留米間電化開業、門司駅構内は暫定の交直接続を実施。10月1日 ‐ EF30形正式運用開始。12月22日 ‐ EF30形はパンタグラフを2台とも使用して運転に変更。12月 ‐ 下関・門司変電所無人化。この年、下関変電所は水銀整流器2台をシリコン整流器に換装、門司変電所は交流饋電設備を設置。1962年(昭和37年) 2月19日 ‐ 門司駅構内の下り貨物線に交直セクション新設。 2月26日 ‐ 門司駅構内の上り線に交直セクション新設。 2月27日 ‐ 門司駅構内の下り旅客線に交直セクション新設。 3月2日 ‐ 門司駅構内の直流区間を交流化し、正規の位置での交直デッドセクションを運用開始。2月19日 ‐ 門司駅構内の下り貨物線に交直セクション新設。2月26日 ‐ 門司駅構内の上り線に交直セクション新設。2月27日 ‐ 門司駅構内の下り旅客線に交直セクション新設。3月2日 ‐ 門司駅構内の直流区間を交流化し、正規の位置での交直デッドセクションを運用開始。1963年(昭和38年) ‐ この年、トンネル内架線の引き留めを全トンネル1本から約500メートル毎の8本に変更。1964年(昭和39年) 10月1日 ‐ 山陽本線全線電化完成、直流形特急電車(151系)の乗り入れを開始。 11月1日 ‐ 関門航路廃止。10月1日 ‐ 山陽本線全線電化完成、直流形特急電車(151系)の乗り入れを開始。11月1日 ‐ 関門航路廃止。1965年(昭和40年)10月1日 ‐ 直流形特急電車に代わり交直流特急電車(481系)・急行電車(475系)使用開始。1973年(昭和48年) 7月19日 ‐ 消火器・位置標整備。 11月14日 ‐ 関門橋開通。 この年、EF81形の関門トンネルでの運用開始。7月19日 ‐ 消火器・位置標整備。11月14日 ‐ 関門橋開通。この年、EF81形の関門トンネルでの運用開始。1974年(昭和49年) 3月30日 ‐ 待避路・連絡通路改築、弟子待沈殿槽改築。 11月15日 ‐ 上下線連絡通路改良。3月30日 ‐ 待避路・連絡通路改築、弟子待沈殿槽改築。11月15日 ‐ 上下線連絡通路改良。1975年(昭和50年) 3月10日 ‐ 新関門トンネル開通。 3月30日 ‐ トンネル沿線電話新設。3月10日 ‐ 新関門トンネル開通。3月30日 ‐ トンネル沿線電話新設。1976年(昭和51年) 2月20日 ‐ エレベーター取替。 3月30日 ‐ トンネル内無線連絡新設。2月20日 ‐ エレベーター取替。3月30日 ‐ トンネル内無線連絡新設。1987年(昭和62年) 3月29日 ‐ EF30形のさよなら列車を運転、これ以降はEF81形に完全に置き換えられる。 4月1日 ‐ 国鉄分割民営化により関門トンネルは九州旅客鉄道(JR九州)が承継。3月29日 ‐ EF30形のさよなら列車を運転、これ以降はEF81形に完全に置き換えられる。4月1日 ‐ 国鉄分割民営化により関門トンネルは九州旅客鉄道(JR九州)が承継。1992年(平成4年)11月14日 ‐ 関門トンネル開通50周年で「海底トンネルウォークツアー」を開催。2005年(平成17年)10月1日 ‐ ダイヤ改正により関門トンネルを通過する気動車列車全廃、九州側からの列車も下関止まりとなる。2006年(平成18年) ‐ 土木学会選奨土木遺産に登録される。2007年(平成19年)3月18日 ‐ EH500形が関門間の貨物列車で運用開始、1,300トン貨物列車の運行開始。2009年(平成21年)3月14日 ‐この日のダイヤ改正で寝台特急「富士」「はやぶさ」廃止、関門トンネルを通過する客車列車が全廃され、機関車による列車の牽引は貨物列車のみとなる。2011年(平成23年)3月12日 ‐ この日のダイヤ改正で臨時1往復を除く全列車がEH500形の牽引に変更、福岡貨物ターミナルまでの直通牽引を開始。2012年(平成24年)3月17日 ‐ この日のダイヤ改正で、EF81形牽引の臨時1往復の運用もなくなり、完全にEH500形に統一される。 =松江騒擾事件= 松江騒擾事件(まつえそうじょうじけん)は、1945年(昭和20年)8月24日未明、日本の島根県松江市で青年グループ「皇国義勇軍」数十人が武装蜂起し、県内主要施設を襲撃した事件である。この事件により、民間人1名が死亡した。 松江騒擾事件という名称は取締当局によるものであり、皇国義勇軍事件、島根県庁焼き打ち事件とも呼ばれる。 ==概要== この事件は、太平洋戦争敗戦直後に各地で発生した無条件降伏に反対する騒擾事件の一つである。地方都市である松江市で発生した事件であるが、大日本帝国憲法下における全国的規模の騒乱を目的とした最後のクーデターであり、大審院で裁かれた最後の事件でもある。 1945年(昭和20年)8月15日、ポツダム宣言の受諾による日本の降伏が玉音放送によって国民に発表されると、その2日後の8月17日、東京では降伏に反対する尊攘同志会の会員らが愛宕山に篭城、全国に決起を呼びかけた(愛宕山事件)。 松江騒擾事件は、この愛宕山事件に呼応する形で発生した。8月24日未明、尊攘同志会会員であった岡崎功(当時25歳)を中心とした20歳前後の男女数十人が「皇国義勇軍」を名乗って武装蜂起し、各隊員が分担して県内の主要施設を襲撃した。島根県庁は焼き討ちされ、新聞社・発電所もその機能を一部破壊された。事前の計画では、知事・検事正の暗殺も企図されていたが、足並みが揃わず失敗した。一味は各地を襲撃後、全国に決起呼びかけを行うため放送局に集結したが、放送局長はこれを固く拒否した。押し問答が続く間に警官・軍隊が放送局を包囲し、その結果全員が検挙され鎮定された。 島根県庁舎・県会議事堂のべ3000mは全焼し、被害額は約192万円を計上(1946年(昭和21年)当時の県職員給与総額は103万円)、焼き討ちの際に住民1人が殺害され、書類等も多数焼失した。発電所襲撃の影響で、松江市内は3時間半にわたり停電となった。新聞社も襲撃の影響で8月31日までタブロイド判での発行を余儀なくされた。 行政・治安当局をはじめ、敗戦直後の島根県民には異常な衝撃を与えたが、報道管制などが功を奏し、この蜂起が全国に波及することはなかった。皇国義勇軍の主要メンバーは服役したのち、教育者や印刷会社職員、産業廃棄物処理業などに就いていたことが判明しているが、その他のメンバーの行方についてはほとんど分かっていない。 ==事件の背景== 事件を起こした皇国義勇軍のメンバーは、全て主犯の岡崎功(当時満25歳)の影響を受けていた。またサブリーダーの長谷川文明(当時24歳)と行動隊長格の波多野安彦は、大東塾の影山正治を崇拝していたとされる。この岡崎・長谷川・波多野の3人は、事件発生の約半年前から、島根県松江市内の大日本言論報国会島根支部を介して知り合い、敗色の濃い戦局のなかで「昭和維新・一斉決起」の謀議を行っていたが、そのまま1945年(昭和20年)8月15日の終戦を迎えた。終戦までの詳細は以下の通り。 ===皇国義勇軍・岡崎功=== 主犯の岡崎功(本名・岡崎允佐夫、1920年(大正9年)7月17日 ‐ 2006年(平成18年))は、島根県に生まれ、1939年(昭和14年)3月に松江中学校を卒業後、2年間満州の三井物産奉天支店に勤務中、国粋主義に感化された。1942年(昭和17年)11月に日本に戻り、僧侶を目指して立正大学専門部に入学するかたわら、中学時代の親友である広江孤文がいた国家主義団体の勤皇まことむすびにも所属、国家革新運動に参加していった。当時の岡崎が影響を受けた書籍としては、満田巌『昭和風雲録』、松永材『皇国体制』、天野辰夫『国体皇道』などがある。 岡崎は私財を投じて府立高校隣接地(後の東京都立大学・当時東京府目黒区高前町)に「一心寮」を設置し、そこで毎晩、拓殖大学2年生の斉藤(実藤とする資料もある)直幸ら7、8人とともに為政者・軍閥を批判し激論を交わしていた。当時は太平洋戦争における日本の敗色が濃厚な時期であり、東條英機内閣の打倒や暗殺が様々なグループによって画策されていた。内大臣の木戸幸一や中野正剛らも、首相・陸相・海相を刷新する秘密工作を行っていた。しかしこれを察知した東條が先手を打ち、新首相候補とされていた宇垣一成が勾留される事態に発展した。これを知った岡崎は、東條が陸海軍の協調を阻害しており、話し合いでは事態が進展しないと考え、東條や一木喜徳郎の暗殺を計画、早稲田大学の配属将校から手榴弾・短銃を入手しその機会を待った。しかしこの企ても、岡崎とは別に斉藤らが企てた東條打倒計画が事前に憲兵隊に露見し、そこから芋づる式に岡崎も連行された。1943年(昭和18年)7月、放火殺人予備・爆発物取締罰則違反で連行され、巣鴨拘置所に1年半勾留の後、1944年(昭和19年)9月に懲役2年(執行猶予3年)の判決を受けた。 岡崎は同年11月に釈放されたが、飯島与志雄が結成した尊攘同志会に直ちに参加、特別高等警察から要注意人物としてマークされ続けた。島根県松江市に帰郷したのちは昭和維新運動の指導的人物として活動を続ける一方で、勤労動員署傭員となった。岡崎が太平洋戦争の内実をみることになったのは、この勤労動員署勤務時の体験による。 この勤労動員署で岡崎は「要注意人物」という人物像とは全く別人と考えられるような行動をとった。「軍需工場への徴用は個々の事情を考慮して行うべき」という自身の考えから、家庭の事情などで徴用免除の嘆願に来る人々の相談に乗り、自分の責任で免除していった。その結果署長と考えが衝突し、呉海軍工廠へ行く女子挺身隊員75人を1週間以内に選出せよとの命令を受けた。岡崎は人選のため身上書を調べると「地位の高い有力者の令嬢はなぜか徴用されていない」という事実に気づいた。そして松江地裁所長や同検事正の令嬢らを女子挺身隊員として選出、令嬢らが女子挺身隊となることを地元新聞にリークして大きく報道させた。勤労動員署署長や検事正はこれに激怒し岡崎を恫喝したが、岡崎は引き下がらなかった。しかしこの女子挺身隊員が出発する2日前、岡崎は大阪府へ出張を命じられた。出張から戻ると女子挺身隊員はすでに出発し、有力者令嬢の徴用は取りやめになっていた。岡崎は勤労動員署に辞表を提出し、大日本言論報国会島根支部に入った。 ===大日本言論報国会島根支部・深田屋旅館別館での謀議=== 1945年(昭和20年)4月、岡崎は大日本言論報国会島根支部(以下、報国会島根支部)に入った。当時は東京大空襲や硫黄島の玉砕などが発生し、戦局はさらに絶望的となっていた。「神州不滅」「一億玉砕」が流行語となり、日本国民は本土決戦に向け動員されていた。島根県では敵上陸に対する武器として、高等女学校生には千枚通しの常時携帯が決定され、子どもには少年用竹槍が配布された。 報国会島根支部は、松江市内の和田珍頼弁護士事務所の一室と、深田屋旅館(松江市殿町、「深田旅館」とする資料もある)別館2階を事務所としていた。この旅館は、報国会島根支部長である桜井三郎右衛門(当時満41歳)の常宿でもあった。岡崎は尊攘同志会と連絡を取りつつ、波多野安彦(尊攘同志会所属)、長谷川文明(当時24歳、大東塾所属)、森脇昭吉(島根県立農業技術員養成所所属)、白波瀬登らと、敗色の濃い戦局に焦り「昭和維新・一斉決起」を謀議していた。支部長の桜井は決起に際して、民間だけではなく軍隊との連携も提案したが、岡崎はこれに反論した。連絡を取る余裕はなく、民間から立ち上がれば軍も追従するとして昭和維新の捨て石となるべきと述べた。この考えが波多野や長谷川など若い世代からの支持を得た。 ==日本の終戦から事件発生まで== 1945年(昭和20年)8月15日の正午、玉音放送によってポツダム宣言の受諾が国民に伝えられた。翌8月16日付『島根新聞』社説では、これを「休戦の詔勅」と伝えた。国民に「国体の護持」を告げた鈴木貫太郎内閣は総辞職し、17日には東久邇宮内閣が発足した。政治的激動を迎えるなか、島根県知事であり島根県国民義勇隊本部長でもある山田武雄は15日に告諭を発し、内省・痛恨の銘記と、自暴自棄や嫉視で一億同胞に亀裂が生じないよう県民に求めた。翌日16日には「祖国復興」「皇国の復興」のために県民の結束を勝ち取るという目的から「県民指揮方策大綱」を決定し、その冒頭では「今次外交折衝の経過、内容及び戦争終結の止むなきに至った事態を出来る限り県民に発表」するという方針が掲げられた。また3・5・6項では県民自身の内省に基づいた戦争責任の分有を求め、他者への敗戦責任追及の遮断と天皇への臣従を求めていた。このように県当局が秩序維持に動いている一方で、軍当局も県民に対して引き締めを行っていた。17日、小川松江地区司令官は「休戦の大詔を拝したといってあたかも和平が訪れたように考えたり、また憶測に基づく流言飛語に迷うことは危険である」とし、「大詔の趣旨に沿って講和条約が結ばれるまでは敢闘精神を堅持しなければならない」と語った。 この8月15日の終戦を前後して、軍隊の内部では宮城事件や霞ヶ浦航空隊・厚木航空隊の抗戦呼びかけ・基地占拠などの動きがあり、また民間では愛宕山での尊攘同志会会員の立てこもり・自爆があった。これらはいずれも22日までには鎮圧されたが、島根県松江市では8月17日から19日にかけて、隣県の鳥取県美保航空隊基地から飛来した海軍機が「断固抗戦」のビラを撒き、市内にも「ソ連打倒・聖戦完遂」の張り紙がなされた。また鹿足郡柿木村では20日、新村長選任に際して本土決戦が意識されている。東京・大阪などの空襲の惨状をみれば、日本に戦争遂行の能力がなかったことはあきらかだが、このような戦災を受けなかった山陰地方では、本土決戦はまだ可能かにみえた。そのことが、事件発生の素地のひとつになっている。 ===玉音放送=== 8月15日、長谷川と波多野は、2人ともが奉仕していた武内神社の社務所で玉音放送を聞いた。長谷川が後に語ったところによれば、玉音放送の内容は雑音でよくわからなかったが敗戦だということは何となくわかり、天皇の涙まじりの声を聞くうちに気持ちが決したという。2人は報国会島根支部に駆けつけると、岡崎もすでに決起を決意していた。 一方、報国会島根支部長の桜井は、有力者としての分別を持っていた。仁多郡の自分の屋敷で玉音放送を聞くと、すぐに松江市の連隊本部に駆けつけ知り合いの連隊長に会い、連隊長自身の真意を確かめた。連隊長はさじを投げた状態であり、軍の決起どころではないことを判断した。桜井は岡崎らに不穏な動きがあることは知っていたが、深田屋旅館別館での議論は急速に萎えていった。 ===桜井三郎右衛門の動き=== 軍部の参加が不可能と知った段階で、桜井三郎右衛門は岡崎らから離れていった。事件後、桜井が決起の黒幕だったという噂が流布されたが、桜井はこれを否定した。しかし深田屋旅館別館で岡崎らと一斉蜂起の議論をした桜井が知らなかったとはとても考えられず、岡崎らが何か起こそうとしていたのは知っていたが、具体的計画と行動には参加せず見て見ぬ振りをしたのではないか、とジャーナリストの林雅行は推理している。また猪瀬直樹も同様に、桜井は不穏な動きがあったことを知っていた、としている。 この当時、桜井は安岡正篤が設立した金鶏学院の事実上の山陰支部「山陰素行会」の会長でもあった。終戦に際し、安岡正篤自身が終戦の詔勅の編纂に加わっており、金鶏学院の態度もまた徹底抗戦ではなく詔勅にしたがうものであった。こうした状況で山陰素行会会長の桜井が決起するなど到底不可能であり、また軍隊との連携もできないなかで、自分自身は行動できないが岡崎らの主張も共感できるという心中で苦悩していたのではないか、と林は推測している。 ===波多野の上京・山陰での事前工作=== 岡崎は終戦が信じられず、また徹底抗戦の一斉蜂起があると信じていたため上京を企図した。しかし、岡崎は特高警察からマークされていたため、特高課長から、上京するならば検束しなければならないとの注意を受けた。 8月17日、岡崎の上京を阻止した特高警察が油断している間、岡崎にかわって波多野が松江市を離れて上京した。一昼夜ののち、空襲で焼け野原の東京都に着いた。波多野は初めての上京であり、空襲された状態を見ても日本に戦闘の余力がないとは感じなかった。 中野区の防空壕にいた松永材門下生の西三千春から東京の情勢を伝え聞き、また西からの忠告として、島根県だけで軽挙妄動してはならず全国一斉蜂起でなければならないこと、やるときは霞ヶ浦から飛行機で迎えにいく旨を告げられた。波多野は大混乱の東京駅から帰途につき、京都府をすぎたあたりで一刻も早く報告するため長谷川に電報を打った。 波多野が上京している間、岡崎と長谷川は蜂起の具体案を練り、特に岡崎は軍隊との連携をぎりぎりまで画策していった。のちの長谷川の証言によれば、松江市古志原駐屯の101部隊は確実に一個中隊つかんでいたという。 8月22日、連合軍の日本本土上陸は26日であることが新聞で報道されると、岡崎は25日までに決起することを決めた。深田屋旅館2階では数百枚のザラ紙が用意され、一枚一枚に「県民に告ぐ」「皇国将兵に告ぐ」「帝国日本に降伏なし」などの檄文が墨書された。計画では美保航空隊基地の航空隊によってこれを散布する予定であったが、22日夜にはすでに美保航空隊基地の航空隊は解散し、米子市の陸軍航空隊基地でも、飛行機は飛べないように部品がはずされていた。 ===深田屋旅館下宿者の証言=== 石井盛夫(当時松江中学4年生、後に山陰放送ラジオ部長)は、自宅が住宅疎開で壊されていたために深田屋旅館に下宿していた。石井は事件発生の約2、3日前に、下宿の2階で「山田知事を殺ってしまえ」「検事正も同罪だ」という物騒な話題が声高に話されているのを耳にしている。松江市には徹底抗戦を主張する人間が少なくなかったため、石井にとってもそのひとつに過ぎなかった。しかし、後にこの声の主が事件の犯人だったと知った際にはひざの震えが止まらなくなり、各地で蜂起が起こる可能性や、占領軍進駐の際の事態に対して不安を覚えたという。 ===事件前日=== 23日夜、陸軍航空隊基地から戻った岡崎に波多野が西から伝え聞いた東京の情勢を語った。その内容は、御前会議を経て天皇がポツダム宣言を受諾したこと、近衛師団の青年将校が決起したこと、横浜工専の生徒が鈴木首相官邸を襲撃したこと、尊攘同志会が愛宕山で篭城していること、霞ヶ浦航空隊が抗戦を継続中であること、の5つである。岡崎は以前から武器の貸与を約束していた憲兵隊に向かうが、いざ貸与となると憲兵隊長は非協力的な態度をとった。そこで、決起の際にはそれを阻止しないという約束だけを取り付けた。午後11時すぎ、軍隊の協力が得られないと知った岡崎はポケットから決起の計画書を取り出し、それを波多野に見せた。計画書の要旨は次の通りである。 官僚の悪政を壊滅させるために島根県庁を焼き討ちする。知事が鎮圧に乗り出すことを防ぐため、知事を暗殺する。通信を遮断して決起行動をしやすくするために、松江郵便局電話試験室を破壊する。県民を手玉にとった島根新聞社の報道を断つため活字板の転覆、輪転機を破壊する。市内を暗黒化し行動を遂行できるよう、日本発送電松江発電所の送電装置を破壊する。法曹界の鬼である松江地裁検事正を暗殺する。檄文、趣意書は女子隊員によって街に張り出す。上記遂行後、松江放送局を占拠しラジオを通じて決起を呼びかける。行動開始は24日、午前2時40分。波多野がうなずくと、岡崎は波多野らに対して、自分の身辺には刑事がいるので警察に気づかれないように松江護國神社の境内に向かうように命じた。 ==事件発生から事件直後まで== ===皇国義勇軍結成・部隊編成の決定=== 8月24日午前1時頃、岡崎の同志数十人は、松江護國神社拝殿左側の椎の木陰に集結した。男子隊員はカーキ色の国防服、女子隊員はもんぺ姿の服装で集合し、ほとんどが20歳前後の若者であった。武器は長谷川と森脇が日本刀を、藤井がダイナマイトを所持し、その他に岡崎が母校である松江中学校から盗んだ三八式歩兵銃と銃剣15丁があったが、弾薬はなかった。中学生が機転を利かし弾薬を事前に隠したのである。蜂起にあたり岡崎功は演説を行い、楠木正成の討死が尊王倒幕の思想を惹起し後に明治維新の原動力となったことから、自分達の死も後世の日本精神復興に繋がるであろうことを述べた。次に波多野が東京都の様子を報告し、そして長谷川が襲撃目標、部隊編成を指示した。 知事官舎、岡崎功ほか5人。検事正官舎、高木重夫ほか3人。島根県庁、森脇昭吉ほか3人。松江郵便局、藤井良三郎ほか2人。中国配電、長谷川文明ほか4人。島根新聞社、白波瀬登ほか4人。大野火薬店、波多野安彦ほか4人。檄文配布、森脇幹栄ほか女子隊員15人。達成後は松江放送局に集合しラジオで全国民に抗戦を訴え、また一般人に危害を加えてはならないが、妨害するものは殺害することとした。一斉蜂起の時間は午前2時40分とし、団体名を皇国義勇軍とすることを決定した。 ===皇国義勇軍の人数=== この際に結集した皇国義勇軍の人数については、資料によって記載のばらつきがある。少ないものでは『新修島根県史』が「岡崎功外十四人」と記している。『松江市制一〇〇周年記念 松江市誌』では「岡崎功を長とする青年男女三十四人」と記し、『図説 島根県の歴史』では「岡崎功らは(中略)四六人の青年を集めて皇国義勇軍を結成」としている。また『島根県大百科事典』では「男女47人(うち女子16人)」とし、『国史大辞典』では「四十八人(うち女性八人)」としている。『新修松江市誌』では「男女四十数人」とする。 ===ある女子隊員の決起理由=== 事件後、当時の女子隊員のひとりが語ったところによれば、戦時中は戦や国のために引き締まった気持ちでがんばったにもかかわらず、神国と信じていた日本が完膚無きまでに敗れ、戦前の常識の全てが泡のように崩れていく社会情勢にいたたまれなかった。そして「国家と国権の維持は兵の力にあり」との思いから皇国義勇軍の一員になり、計画後は仲間全員で死ぬ覚悟もできていたという。事件後十九余年を経た後も、少しの悔いもないとの証言を残している。 ===各襲撃隊の動き=== 県庁の焼き討ちは予定よりも20分早く、各隊の足並みは乱れた。新聞社・変電所への襲撃は計画通り実行に移されたものの、知事・検事正の暗殺と電話試験室の爆破、火薬店襲撃は失敗に終わった。計画は半ば達成されないまま、各隊は松江放送局へ向かった。詳細は以下の通り。 県庁襲撃隊は、午前2時には県庁の構内に忍び込んだ。予定では2時40分に一斉蜂起の予定であったが、ひとりが警ら中の警官に見つかった。防空壕へ逃げおおせたものの、署に通報されれば全て水泡に帰すとの判断で、予定より20分早く庁内に侵入、2カ所に放火した。県庁舎は木造であったため、瞬く間に黒煙が昇った。放火後、集合場所である放送局に向かう途中で火災にあわてて駆けつけた茶店の主人曽田完(当時36歳)と出会い、抵抗者と勘違いした襲撃隊隊長の森脇が日本刀で切りつけた。日本刀は曽田完の右掌をかすめ、そこに隊員の北村武が銃剣で腹を突き、曽田を殺害した。この事件唯一の死者である。 新聞社襲撃隊は、火事の野次馬にまぎれて社内に侵入した。短刀と着剣銃で宿直を脅し、輪転機のベルトを切断、活字版もひっくり返した。無電機を探したが発見できなかった。このため、山陰新聞は31日までタブロイド判での出版となった。 変電所襲撃隊は、変電所が松江護國神社から4キロ以上はなれていたこともあり、到着が3時少し前であった。日本刀で宿直を脅し、皇国義勇軍であることを名乗った。配電線を解かせ、隣接する中配南変電所で65000ボルトのケーブルを切断した。このため、市内は3時間半にわたり停電となった。 知事襲撃隊は予定通り知事官舎裏口に到着したが、暗殺には失敗した。知事は一足早く火事の知らせを受けており、2時35分には玄関を飛び出し現場に向かっていたためである。検事正襲撃隊も同様の理由で暗殺に失敗した。☆正しくは=知事襲撃隊は予定通り知事官舎裏口に到着したが、「知事官舎裏口民家住人宅物置屋根に登り県知事官舎に侵入しようとしたがその屋根がトタン屋根であった為深夜の住宅街にガタンバタンと大きな物音が鳴り響き物置の信太家住人に気付かれてしまい、大騒ぎをされ岡崎一派は慌てて逃げた。 郵便局襲撃隊は、電話試験室裏側の垣根にダイナマイトを仕掛けることには成功したものの、導火線を燃やしただけで不発に終わった。 火薬店襲撃隊は隊員全員が市内出身ではなく地理に不案内であったため、火薬店自体を発見できず火薬奪取を断念した。このあと火薬店襲撃隊の行方については、資料により見解がわかれている。前田治美『昭和叛乱史』では、そのまま放送局のある床几山に集ったとしている。一方猪瀬直樹「恩赦のいたずら」では、火薬店襲撃隊はその後一時は放送局を目指したものの、集結に間に合わないと判断し、現場で解散したとしている。そして火薬店襲撃隊長の波多野は、自決を進言する若い隊員を説得して家に帰し、自身は連日の準備で疲労がたまっていたため雑木林で横になっていたところ、そのまま眠って夕方を迎えたという。 ===ダイナマイト拾得者の証言=== 当時白潟国民学校4年生だった郡山政宏は、松江郵便局を遊び場にしていた。郡山は事件翌日の午前中も郵便局で遊んでいたが、その際、床下の通気口付近で「長さ約20cmのバトンのようなもの」が4本束ねてあるのと、そばに「焦げた針金のようなもの」を見つけた。甘いにおいと、なめるとほのかに甘い味がしたのでポケットに納めた。しかし落ち着かなかったので学校に届けると、警察からしつこく拾得時の様子を聞かれた。あとで「長さ約20cmのバトンのようなもの」は、郵便局襲撃隊の仕掛けたダイナマイトだったと聞き、もしポケットの中で爆発していたらどうなったかを想像して、血の気を失ったという。郡山は後年、山陰中央テレビの放送技術局長となり、この事件を主題とするラジオドラマ「あれから十五年」を制作した。 ===放送局における集結・蜂起の終了=== 放送局には火薬店襲撃隊を除く全員が集結した。「決起趣意書」の放送を放送局長に向かって談判したが、局長はこれを固く拒否した。押し問答が続くなか朝を迎え、放送局は約50人の武装警官と松江連隊の兵隊20人に包囲された。リーダーの岡崎は抜刀し将校に対して、自分たちは宣戦の詔勅を奉じて米英撃滅を誓う皇国義勇軍であると宣言、軍隊が天皇と国民の信頼を裏切って悲惨な状態に落とし込んだこと、そして自分たちこそ皇祖皇宗の意思に沿おうとする者であり、歯向かう者は逆賊である旨を叫んだ。 その後、双方の間で話し合いが行われた。岡崎と知り合いであった特高課長は、このまま交戦状態になれば双方とも死傷者が発生するため、妥協を促した。岡崎は、自分の生命と引き換えに、皇国義勇軍の罪を不問とする条件で投降した。「最後に東方遥拝をしたい」と岡崎が提案し、皇国義勇軍、兵隊・警官の双方ともに整列、岡崎が「東方遥拝」の号令をかけ、兵隊は銃を捧げ、警官隊と皇国義勇軍は最敬礼し、全員で「天皇陛下万歳」を三唱した。そして皇国義勇軍は、武装したまま手錠もしない状態で松江署まで連行された。 皇国義勇軍は松江署の剣道場に収容された。岡崎と特高課長は別室で処遇について話し合った。特高課長は、「検事正から暴徒の釈放は不可能」との通告を受けたため、先の約束を撤回する旨を岡崎に告げた。岡崎は抗議し、同志と相談するため剣道場に戻ったが、既に手遅れであることも察知していた。そのため岡崎は、先の約束通り自身の命をもって同志を釈放してもらうことを企図した。 岡崎はメンバーに対し、取り調べを堂々と受け、釈放後は日本の復興のために尽力してほしいということを述べ、決起の失敗を詫びた。そして素早くよろい通しで腹を二度刺した。特高課長と放送局長は駆け寄ろうとしたが、日本刀を持った長谷川に制せられた。岡崎は「天皇陛下万歳」を叫びながら今度は首筋に突き立てた。同室のメンバーは号泣し、岡崎は意識不明の状態で松江日赤病院に運ばれ、一命をとりとめた。その後、全隊員が戦時騒擾・住居侵入・電信瓦斯利用妨害・爆発物取締罰則違反等の疑いで取り調べを受けたあと、女子隊員は翌日に、各襲撃隊責任者以外は翌々日に全員釈放された。 ===警察・県当局の動き=== 島根県警防課長兼県警務課長だった西村国次郎は、事件の翌年9月2日に『島根縣庁焼打事件懴悔覚書』を記している。西村によれば、当時は日々最悪の事態を考慮して対策を行うことを口にしながら、実際にはそれが徹底していなかったという。組織内部の指揮系統にも乱れがあり、警察部長の鹿土源太郎と特高課長の和田才市の間にも、感情的な対立があった。 また西村は、無意識的に「田舎者に何ができるか」といった軽蔑感も流れていたのではないか、と述べている。事件前、西村は特高課長の和田に、島根県内に警戒を要する右翼が何人いるのか問うと、「1人居る」と回答されたため、安心してしまったという。首謀者の上京を食い止めたことで安心してしまっていた特高は、「海軍航空隊がばらまいたビラを持って、県農業技術員養成所の生徒たちが騒いでいる」という出雲市民からの情報があっても、それを握りつぶした。また大原郡で国民義勇隊員が竹やりを持って集合し、サイレンを鳴らして気勢を上げていたことに対しても、注意していなかった。さらに事件前日の夕方には、和田の判断により松江署の警戒要員を半減した。しかしこの夜、その「1人」によってこの事件は引き起こされた。 事件発生後、首謀者は特高がマークしていたその人物であり、幹部の多くは大原郡出身、また県農業技術員養成所生徒の多くも皇国義勇軍に参加していたことに、警察側は色を失った。西村は、先任警視である特高課長への遠慮などせず右翼に対して警戒をしていれば、事件を食い止められていたであろうことを、『島根縣庁焼打事件懴悔覚書』のなかで記している。 事件当日、知事の山田武雄が襲撃を免れたのは前述の通りである。警察電話で火災を知った山田は、ステッキを武器に放火現場へ向かい、まず県庁正面2階に安置されていた「御真影」の無事を確かめた。警官から「御真影」は城山地下避難所に移したと報告を受けると、そこに椅子を配置して事件に対する指揮を行った。 ===世間の反応・報道管制=== 燃えさかる県庁前には2000人を超える群衆が集まった。しかし率先して消火作業にあたる者はなく、みな黙ってみつめるだけだった。島根新聞の小田川記者の証言によれば、群衆は静かに燃える県庁を目の前にして、日本の今後を思い茫然自失の状態であったという。また別の資料によれば、終戦当日まで松江市民が当局に「政府の方針だ」「間引き疎開だ」と痛めつけられていたためか、群衆のなかには心の中もしくは声を上げて「天皇の名で悪政を敷いた役人たちの泣きツラが見たい」「ざまあみろ、おれたちの家を倒した天罰だ」などと叫んだ者もいたとされている。松江市雑賀町のある主婦の証言によれば、現場は松江大橋を隔てて火の海だったが、今にも火が橋を渡ってくるのではないかと感じられるほどの大変な火の勢いだったという。 ただし、この事件が全国に波及することもなかった。地方都市で発生したことや、決起の時期が8月15日をすぎてしまっていたこと、また報道管制が敷かれていたことも影響した。襲撃を受けた島根新聞社は24日付(25日発行)の紙上で「止むを得ざる突発的事故」のためタブロイド判で発行するという旨の社告を掲載し、25日付同紙紙上では山田知事が「火災救援並御見舞御礼」を掲載するも、その原因には触れていない。25日の朝日新聞紙上においてもわずか7行、放火・失火の別すら報じられなかった。この事件の全容が報じられるようになったのは1か月後である。9月25日に皇国義勇軍のうち15人が起訴されたことを受けて、26日付の島根新聞では1面の半分を割き、起訴事実を中心に大きく報道された。 ==公判== この事件の初公判は1945年(昭和20年)11月5日、三瀬忠俊を裁判長として松江地方裁判所で開かれた。被告人は皇国義勇軍の主要メンバー15人であり、岡崎は大島紬の着物・羽織・袴姿で入廷し、裁判長に一礼した。 岡崎は法廷に進駐軍将校が立っていることに気づくと、裁判長に向かって「この裁判が進駐軍の名において行われるのか、それとも天皇の名において行われるのか」を問い、もし進駐軍の名において行われるのであれば、この裁判を受けることができないと告げた。三瀬裁判長は、日本は敗れたといえども、この裁判は天皇の名において行われる旨を返答した。この返答を重くとらえた皇国義勇軍のメンバーは、起訴事実を全て認めた。 ===決起の動機=== 11月7日の第2回公判において、被告人となった岡崎から、皇国義勇軍決起の動機が述べられた。目的は天皇の威光を遮る重臣や財閥の排除と維新内閣の樹立であり、その理由や当時の心境として、以下の旨が挙げられた。 東條英機が戦いの成算もなく首相となり、あげくの果てに政治に失敗して政権を投げ出したことは利敵行為である。利敵行為とは敵と通謀したり、サボタージュすることだけではなく、政治の失敗こそが最大の利敵行為である。勝ち戦だった日露戦争時でさえ、武勲に輝く将兵も「廃兵」と呼ばれたことを考えれば、敗戦で傷ついた将兵が世間からどのように見られるかについて考えた際、血潮が収まらなかった。重光葵は、終戦によって自由民権の精神が確立され喜びにたえないと述べたが、聖戦に敗れて何が喜びにたえないのだろうか。等々、数万語におよぶ蜂起の心境を述べた。また11月25日の第13回公判時には、 検察側は、自分たちが『古事記』を妄信した結果事件をおこしたとしているが、『古事記』以上のものが存在しない限り、信頼するほかないこと。自分たちは天皇中心主義であり、検察側が言うような右翼でもなければ左翼でもないこと。大東亜戦争は八紘一宇の理想を掲げたものであり、侵略のための戦争ではなかったはずであること。などと述べ、もし自分たちの行動が法に触れるのであれば、自分が全責任を負うので他のメンバーを責めないでほしいと述べた。他のメンバーは、この事件は失敗したが、自分たちの行動が日本国民を覚醒させ昭和維新の役に立つのであれば本懐であるとも陳述した。 ===検事側からの位置付け=== 11月24日の第12回公判では、証拠物件の日本刀や銃剣などをめぐって検事側と弁護人側で激論となった。そののち、求刑の検事論告書が読み上げられた。 検事側はこの事件の動機が、皇国義勇軍の天皇に対する忠誠心と憂国の至情から出たものであることについては一定の理解を示した。しかしながら、休戦の詔勅においては国民の軽挙妄動を戒めているのであるから、動機に関わらずこの事件は遺憾至極であるとした。また、休戦の詔勅が天皇の真意かどうかを憶測するのは日本臣民の道ではなく、仮に詔勅が天皇の真意でなかったとしても、一旦発せられた限り守らなければならず、どんな愛国運動でも法令を無視して秩序を乱すことは許されないとした。さらに、何の罪もない商店主が犠牲になったのは黙視できないとして、岡崎に死刑を求刑、その他の被告人にも有期・無期の刑を求刑した。 ===弁護人側からの位置付け=== 翌日11月25日の第13回公判では、弁護人最後の弁論が行われ、2人の弁護人が検事論告に反論した。弁護人はこの事件が後に語り継がれるような歴史的事件であることを述べたあと、以下の4点を主に弁護した。 事件当時、岡崎功は執行猶予中の身であり、その行動監視の役割は検察当局にある。監視を怠った当局にも一半の責があること。この事件には検事正が被害者のひとりとしてあげられている。その検事正が指揮する検事の意見は公正が期しがたいものであること。検察側は、被告人の心情を忠誠心・愛国心のほとばしりであることを認めている一方で、「誤りたる忠誠心」とも決めつけているが、忠誠心にふたつはない。詔勅に反抗する国賊かどうかの判断は、時代が解決するであろうこと。検察側は戦時刑事特別法を本件に適用して「戦時騒擾罪」と断定しているが、事件当時交戦は終了しているのでこの法律の適用には疑義があること。この4点で一旦弁論は終わり、2人の弁護人は、裁判官には児島惟謙の心をもって判断してほしいこと、また被告人らの行動は違法であるが動機となる忠誠心は純粋なものであるとして、寛大な措置を裁判官に求めた。 ===松江地裁の担当裁判長からみた印象=== 松江地裁でこの事件の担当裁判長であった三瀬忠俊は、数回の公判を経て、岡崎の人格が立派であること、また皇国義勇軍のメンバーが一糸乱れず岡崎の方針に命を賭して動いたことに感銘を受け、深く同情した。そして、この裁判をするために生まれてきたのではないかとまで思うようになり、死力を尽くして適切な裁判をすると決心して法廷に臨んだという。 ===地裁結審・大審院上告=== 地裁ではこの事件は12月20日に結審し、判決では岡崎功が無期懲役となったほか、全員に懲役刑が言い渡された。戦時刑事特別法の適用を受けたため控訴審がなく、弁護側、検事側ともに大審院に上告した。大審院では弁護側の上告は棄却され、量刑が軽いとする検事側の上告のみが受け入れられた。 1947年(昭和22年)5月2日、大審院の判決では、長谷川ら7人に地裁判決より重い刑が科された。この判決は、大日本帝国憲法下における大審院最後の審判であり、この翌日には日本国憲法が施行された。主なメンバーの判決結果は以下の通り。 ===確定判決=== ===石橋秀野と松江騒擾事件=== 山本健吉の妻で俳人の石橋秀野は、この裁判が行われていた当時、島根県に住んでいた。石橋は地裁判決に際し、「師走某日、この日判決下りたる島根県庁焼打事件の被告たちの家族、徒歩にて刑務所に帰る被告を目送のため裁判所横の電柱の陰にたゝずめるに行きあひて 三句」として、次の3句を詠んだ。 編笠に須臾の冬日の燃えにけり冷さの手錠にとざす腕かな凍雲や甲斐なき言をうしろ影これら3句は石橋が1947年(昭和22年)に京都で死去した後、1949年(昭和24年)に刊行された句文集『櫻濃く』に収録されている。「編笠」は、法廷で被告人がかぶせられていたものであり、また「須臾(しゅゆ)」とは、「束の間」といった意味である。 ===その他の人物に対する処分=== 報国会島根支部長だった桜井三郎右衛門は、事件後1か月以上経過したのち逮捕された。半月勾留されたものの、不起訴処分となった。また、島根県農事試験場長であった毛利虎雄は、試験場若手職員が皇国義勇軍に参加していたため嫌疑がかけられ、軟禁状態の場長室で警察の取り調べを受けた。疑いは晴れたが、監督不行き届きとして3か月間減俸3割の処分となった。 事件当時の知事である山田武雄は、引責のため1945年(昭和20年)9月12日に辞表を提出させられた。また警察本部長の鹿土、特高課長の和田もそれぞれ休職、訓戒などの処分を受けている。しかしその他の治安当局者ら、また決起を事前に知っていた憲兵隊長の責任は問われていない。 ==戦後社会における関係者== ===恩赦=== 無期懲役を言い渡された主犯の岡崎が、実際に刑に服したのは6年7か月である。これは以下の恩赦によって、2度の減刑令の対象になったためである。 1946年(昭和21年)11月3日公布:第二次大戦終結恩赦及び日本国憲法公布恩赦における減刑令の修正1952年(昭和27年)4月18日公布:平和条約発効・講和恩赦大日本帝国憲法の発布から国際連合の加盟までに、大赦令が発動されたのはわずか7回である。ただし岡崎・波多野・長谷川らにとってこの恩赦は、出所後の生き方を見る限り、決して恩恵的なものではなかったようである。死を賭したクーデターが失敗したうえ、粛々と刑に服することも許されず恩赦によって戦後社会へ返された。 ===事件後の足取り=== 各自が出所したのち、岡崎功、波多野安彦、長谷川文明といった主要メンバー同士の接触は皆無である。3人とも「大東亜戦争」の終焉を認めたくなかったという点を戦後も持ち続けたが、互いのコミュニケーションはなかった。同じ松江市内に住んでいた岡崎と波多野ですら互いに連絡を取りあわず、長谷川は松江市を離れ上京した。その他の皇国義勇軍のメンバーについても、足取りがほとんど分からずじまいであるという。 主犯の岡崎功は1952年(昭和27年)に仮釈放された。出所後の岡崎は、懺悔の一念で唯一の被害者である曽田完の供養に奔走した。また、1960年(昭和35年)に松江城西高校(2008年(平成20年)現在の立正大学淞南高等学校)を経営し理事長となり、生徒に他の類を見ない復古調の教育を行い、生徒へ対しての自身の思想の普及に尽力した。毎朝の朝会では全教職員・生徒が集まって東方遥拝、祝詞奏上、教育勅語の合唱、君が代・校歌斉唱を行い、また日本史の授業を「国史」と呼んで、岡崎自ら教壇に立ち、全校生徒は卒業するまでに教育勅語を暗唱できるようにさせたという。1968年(昭和43年)には参院選全国区に立候補したが落選した。選挙時の新聞報道では、「岡崎功(こう)・旭木材社長・島根県ライフル射撃協会副会長・立正大中退」とあった。崇教真光の幹部となり、「立正大学文学部宗教学科卒業、文学博士」と称し、光記念館の館長に就任。その他全国日本学士会役員、日本ライフル射撃協会評議員にもなった。2002年(平成14年)当時も理事長として私学復興にあたっていたが、そののち2006年(平成18年)に死去した。 また、島根県警から岡崎に資金が渡っていたことが、流出した警察文書で判明した。1955年8月には、事件当時の特高部次席を含めて「十周年慰励祭」と称する会を開き、県警警備課長も出席して岡崎を激励した。この警察との関係にかんしては志賀義雄が国会で追及した。 サブリーダーの長谷川文明は、出所後すぐに上京し、定年まで印刷会社に勤めた。そして世界初の和文タイプライターによる楽譜印刷のシステム化に成功した。自身の技術的熟練に加え、岡倉天心のベートーヴェンに対する理解に影響されたことによる。岡倉は、芸術において唯一ヨーロッパがアジアに勝ったものとしてベートーヴェンを挙げていた。このことを保田與重郎の著書『明治の精神』から知った長谷川は、西洋音楽の楽譜を買い求めていったが、希望するものはなかなか入手困難であった。そのため自分で楽譜を組版できないかと考え、楽譜印刷のシステム化へと向かったのである。長谷川にも警察は接触し、結婚式の祝いのための金が公費から支出されている。 波多野安彦は出所後、天皇への献米運動に取り組み、また反共行動右翼として日教組大会や、広島8・6集会のデモ行進にトラックで殴り込みをかけるなどの行為をしていたが、恐喝事件に連座し再度入獄した。再出所後は足を洗い大東産業有限会社を設立、許認可を受けて産業廃棄物処理事業をおこなった。依頼が相次ぎ、設立1年までに月間50トンを超える処理を請け負うようになる。また波多野家は島根県大原郡所在の幡屋神社の社家でもあったことから、幡屋神社の禰宜として島根県指定無形民俗文化財・出雲国大原神職神楽の伝承者ともなった。妻も元皇国義勇軍である。 事件当時知事であった山田武雄は、1945年(昭和20年)に引責辞任をした後、料亭の支配人、不動産顧問などを務めたが、戦後社会で味をしめたという経験は一度もないまま、そののち横浜市郊外にひっそりと暮らした。しかし、岡崎を怨んではいないという。皇国義勇軍に命を狙われた山田自身も、終戦当時、内心では本土決戦・徹底抗戦を誓い、敵が上陸した際には最後まで戦い抜く決心をしていたと回想している。 ==後世の評価== 内藤正中によれば、首謀者の岡崎は憲兵隊・松江連隊・美保基地航空隊の抗戦派将校らと連絡を取り合っており、なかば公然と計画を進めていた。もし一斉蜂起が計画通りに進んでいれば、大事件に発展していたと考えられている。 『新修 島根県史』によれば、この事件は、岡崎らのやむにやまれぬ心情から発生したものであるのと同時に、当時の戦争指導者層に対して戦争責任の点をめぐっての抵抗の意味をも含んでいたという。そして事件の翌月に出された島根県の「常会徹底事項」は、県民に対し、「承詔必謹」、軽挙妄動を慎んで相互協力することなどを求めている。これは戦争責任追及による国民同士の争いを防ぐために出されたとされる。 また、昭和初期以降の日本の反乱史(「昭和叛乱史」)に関する検討を、テロリズムという不幸な事実として今日的立場から再評価されなければならないとした前田治美によれば、島根県庁焼打事件は、終戦という激動期の叛乱の終息であると同時に、昭和叛乱史の終焉であると位置づけている。 元毎日新聞記者の中川登史宏は、戦後から2002年(平成14年)に至る日本の状況と事件当時を対比しながら、皇国義勇軍のとった行動の誤りを認めつつ、その姿勢を、「戦後の現代人が忘れてしまった、物事に敢然と挑戦する『生きる姿勢』といえるのではないか」と指摘している。 ==関連文献== ===事件当事者・関係者による単著=== 岡崎功「岡崎功回想録」『大勢新聞』昭和35年3月31日号、1960年。岡崎功「三徳の実事」(『西郷隆盛・言志録』新人物往来社、1973年、245 ‐ 251ページ。)岡崎功『吉田松陰留魂録』新人物往来社、1975年。西村国次郎『島根縣庁焼打事件懴悔覚書』、1952年。島根県立図書館所蔵。 ===県市史誌=== 松江市誌編さん委員会「(二)皇国義勇軍事件」(『新修松江市誌』第二編沿革第五章近代・現代、松江市長 熊野英、1962年、408 ‐ 409ページ。) ===辞典・事典項目=== 与田柾「松江騒擾事件」(京都大学文学部国史研究室日本近代史辞典編集委員会『日本近代史辞典』東洋経済新報社、1958年、568ページ。)「島根県庁焼打ち事件」(社会問題研究会「右翼・民族派事典編纂委員会」相田浩・猪野健治・永田哲朗『右翼・民族派事典』国書刊行会、1976年、92ページ。)杉谷正「島根県庁焼き打ち事件」(企画・編集 島根県大百科事典編集委員会、山陰中央新報社開発局『島根県大百科事典 上巻』山陰中央新報社、1982年。)島海靖「松江騒擾事件」(国史大辞典編集委員会編『国史大辞典 第13巻(ま〜も)』吉川弘文館、1992年。)長野忠「松江騒擾事件」(『決定版 松江・安来ふるさと大百科』郷土出版社、2008年。) ===その他=== 矢花愛三「終戦秘録 暴動48人!島根県庁全焼」(『週刊読売』昭和55年6月17日特大号記事、1980年、44 ‐ 49ページ。)猪瀬直樹「大日本帝国最後の決起」(『潮』1982年1月号、1982年、152 ‐ 173ページ。) =抗酸化物質= 抗酸化物質(こうさんかぶっしつ、antioxidant)とは、抗酸化剤とも呼ばれ、生体内、食品、日用品、工業原料において酸素が関与する有害な反応を減弱もしくは除去する物質の総称である。特に生物化学あるいは栄養学において、狭義には脂質の過酸化反応を抑制する物質を指し、広義にはさらに生体の酸化ストレスあるいは食品の変質の原因となる活性酸素種(酸素フリーラジカル、ヒドロキシルラジカル、スーパーオキシドアニオン、過酸化水素など)を捕捉することによって無害化する反応に寄与する物質を含む。この反応において、抗酸化物質自体は酸化されるため、抗酸化物質であるチオール、アスコルビン酸またはポリフェノール類は、しばしば還元剤として作用する。 抗酸化物質には、生体由来の物質もあれば、食品あるいは工業原料の添加物として合成されたものもある。抗酸化物質の利用範囲は酸素化反応の防止にとどまらず、ラジカル反応の停止や酸化還元反応一般にも利用されるため、別の用途名を持つ物も少なくない。本稿においては、好気性生物の生体内における抗酸化物質の説明を中心に、医療あるいは食品添加物としての抗酸化剤を説明する。もっぱら工業原料に使われる酸化防止剤などについては関連項目の記事を併せて参照。 ==酸素と抗酸化物質== まず、生物化学的観点に立つと、多くの好気的生物では生体内の分子状酸素は、そのほとんどがミトコンドリアでの ATP産生において消費され、最終的には酵素的に還元されて水分子に変換され(詳細は記事ミトコンドリアや電子伝達系を参照のこと)、少量の酸素がヒドロキシル化代謝反応のオキシゲナーゼ酵素の基質として利用される。また特筆すべきは活性酸素種ですら、白血球が貪食した細菌に示す殺菌作用物質として白血球内部で発生したり、活性酸素シグナリングのように局所的な化学伝達物質として利用されるなど、存在場所と反応対象を代謝系が制御している状態で積極的に酸素が利用されることである。 酸素が関与する酸化反応は生命にとって極めて重要であるが、化学種としての分子状酸素は反応性が高いために活性酸素種に変換される。このプロセスは非生物化学的であり必ずしも生物物質や酵素の関与だけに限定される現象ではない。なので環境が整えば、それは生体でもそうだし、精肉など食品でもそうだが、酸素は活性酸素プロセスを通じて周囲の水、不飽和脂質、その他の容易に酸化される生体物質に対して変質や不都合な化学反応を引き起こす。この場合の活性酸素プロセスはラジカル連鎖反応であり、生体内で最も豊富に存在する水を起点として連鎖的に他の物質をラジカル化する(詳細は活性酸素に詳しい)、発生した過酸化脂質あるいは過酸化脂質ラジカルは周囲の生体物質とさらに反応して細胞膜やタンパク質を変性させたり DNA切断を引き起こすなど、細胞に損傷を与える。このような生体反応は酸化ストレスとして知られており、細胞損傷や細胞死の原因の一助となる。 この時、抗酸化物質が存在する生化学システム上の意義は、活性酸素とその関連する物質をシステムから排除するために、不都合に発生した活性酸素種やそれが生体物質と反応したラジカル中間体と反応することで酸素由来の有害反応を停止させることにある。あるいは直接、抗酸化物質が活性酸素種などと反応するのではなく、触媒的に分解代謝する抗酸化酵素とも称される一連の酵素が存在する。酵素は基質特異性を持ち、活性酸素の分子の種類が異なれば、関与する酵素も異なるし、ある活性酸素種の分子を基質する酵素についても複数存在し、その散在部位も酵素の種類によって異なる。具体例を挙げるならば活性酸素種の一つである過酸化水素は酵素であるカタラーゼの作用で水と分子状酸素に分解されるということである。あるいはスーパーオキシドディスムターゼ、ペルオキシダーゼ類など有害な酸素由来の生成物を無害化する酵素が存在する。低分子の抗酸化物質のいくつかはこれらの酵素の基質あるいは補欠分子族として有害反応の制御に関与する。たとえばカタラーゼは単独で過酸化水素を分解排除するが、抗酸化物質として知られているグルタチオンは、過酸化水素や過酸化脂質を代謝するグルタチオンペルオキシターゼの基質として消費される。 活性酸素の発生部位として代表的なものにミトコンドリアおよび葉緑体が挙げられる。いずれも金属を酵素活性中心に持つ「電子伝達系」と呼ばれるオキシターゼの複合体が効率的に酸化還元反応を繰り返しエネルギー代謝の根幹をなしている。とはいえ、わずかの代謝損失が存在し、それはおもに副反応であるフェントン反応により、中心金属が活性酸素種を生成する。 このよう活性酸素種が原因の酸化ストレス順応の化学進化は様々な生体内の抗酸化物質を生み出してきた。海洋生物から陸生生物への進化一環として、陸生植物はアスコルビン酸(ビタミンC)、ポリフェノール類、フラボノイド類およびトコフェロール類のような海洋生物には見られない抗酸化物質の産生を始めた。さらに、ジュラ紀後期以降に地上で繁栄した被子植物は、多くの抗酸化色素を多様化させた。それは光合成時に発生する活性酸素種の障害に対する防御化学物質が多様化し、より精巧になったことを意味する。 ==抗酸化物質と生活== 次に、栄養学や食品化学的観点に立つと、酸素は保存中の食品の金属イオンを酸化することで生体内へ吸収しにくくしたり、食品の成分を変質させることで、香りや見た目を損なう。それだけでなく、植物油中の必須脂肪酸は分子状酸素のラジカル反応により、変色、固化しさらに毒性を示す酸敗と称される不都合な反応を引き起こす。このような食品としての品質劣化を防止する目的で、食物由来の食品添加物であるアスコルビン酸や α‐トコフェロールが一般的に利用されている。 このような抗酸化物質は食品のみならず医薬品や化粧品の変質防止のための酸化防止剤としても利用される。また工業的には酸化防止剤の BHA や BHT およびその誘導体がゴムや合成樹脂、ガソリンの酸化による劣化を防ぐ目的で広く使われている。 酸化ストレスはヒトの多くの病気で原因の一つとして注目されており、疾患の予防や健康維持の目的で医薬品候補や栄養補給食品の候補として広く研究ないしは利用されている。たとえば脳卒中、神経変性病の治療に対する研究が顕著である。しかし、現状では酸化ストレスが病気の原因であるのかそれとも結果であるのかも不明であり、抗酸化物質は医薬分野では研究中の域を出ない。 一方、栄養補助食品の分野では多数の物質が製品化され、抗酸化物質が、健康維持や悪性腫瘍、冠状動脈性心臓病、高山病の予防の目的で広く利用されている。しかしながらいくつかのサプリメントでは、初期の研究ではサプリメントの抗酸化物質が健康を増進させる可能性があると提案されたが、後の臨床試験ではその効果が見つからない例も見られる。さらに過剰摂取が有害である可能性が報告されるものもある。 ==歴史== 初め、抗酸化物質という語は酸素の消費を抑える化学種を指すために用いられた。19世紀後期から20世紀初頭には大規模に研究され、金属の腐食防止やゴムの加硫反応の制御(架橋反応の停止)、あるいは燃料の酸化重合による変質やそれに起因する内燃機関のピッチ汚れなどの対策として、各種工業において抗酸化物質が使われるようになった。 それに対して、生物化学上の抗酸化物質の役割は、生体内の生物化学的、分子生物学的理解が発展する20世紀中葉以降までは詳細は不明であった。それゆえ、疾患の原因物質のように生物の外見上の特性から必須性や重要性が判明した生体物質が、後に研究の発展により抗酸化物質として再発見される例も少なくない。代表的な例として α‐トコフェロールを挙げる。 α‐トコフェロールは、食餌中から人為的に欠損させるとネズミに不妊症を引き起こすことから、妊娠を維持するために必須な物質『ビタミンE』として発見された。生物化学あるいは細胞生物学の研究が進展し、ネズミの不妊症の原因が、酸化ストレスによる胎児の妊娠中死亡が原因と判明することで、ビタミンE の抗酸化物質としての位置付けが明らかとなった。さらにビタミンE が過酸化脂質ラジカルを補足することで抗酸化作用を発現することが証明されたのは20世紀後半である。 同様にして生体外でビタミンA やビタミンC の抗酸化物質としての機能が再発見されている。さらに生物化学でエネルギー代謝系やオキシダーゼの作用機序など生体内での微量の物質変化が解明されるに従い、抗酸化物質としての役割も多岐にわたることが判明してきた。 このような生物化学的な発見は、栄養学、食品科学にも応用され、食品の変質防止やミネラルの吸収促進など、多くの天然由来の抗酸化物質が酸化防止剤やサプリメントとして開発、利用されている。事実として、ビタミンC やビタミンE はビタミン欠乏症の治療薬としてよりは、食品添加物の酸化防止剤として大量に消費されている。 さらに医学領域については活性酸素種と酸化ストレスとの関係が注目を集めている。すなわち脳虚血回復後の神経損傷や、動脈硬化叢で過酸化脂質が炎症反応を介してアテロームの沈着を増悪するなど、酸化ストレスが様々な疾患や老化現象に直接関与していることが発見されている。このことは抗酸化物質が脳卒中や動脈硬化症あるいはアンチエイジングに利用可能であると期待されるため、既存の抗酸化物質の薬理研究や新規の抗酸化物質の発見など、抗酸化物質は盛んに様々な研究が進行する分野でもある。 ==生物化学としての観点== ===抗酸化物質の類型=== 抗酸化物質にはビタミンCやEのように、酸素が関与する有害な反応を単独で抑制する物質が知られている。このような抗酸化物質は低分子の抗酸化物質に多く認められ、多くの場合は酸素ラジカルあるいはそれから派生したラジカルを停止させる反応を起こす。低分子抗酸化物質の多くは容易に酸化される良い還元剤であるため、直接ラジカルと反応するだけでなく、後述するように酵素が関与する抗酸化反応を補助する場合も多い。低分子の抗酸化物質が直接に反応に関与する場合は反応の選択性は低く、様々なオキシダントと抗酸化物質とが反応する。一方、酵素が関与する抗酸化反応は酵素により反応するオキシダントが決定され、低分子の抗酸化物質は還元剤としての役割を果たす。 高分子の抗酸化物質は大きく分けるとオキシターゼとミネラル輸送・貯蔵タンパク質とに大別することができる。すなわち生体内には多種多様なオキシダーゼが存在し、活性酸素種自体を基質として代謝する酵素もあれば、発生した有害な過酸化物を分解代謝する酵素もある。またオキシダントと反応して酸化型となったビタミンCやEのような『活性を失った抗酸化物質』を、還元型に戻してリサイクルする酵素も存在する。したがって、直接あるいはリサイクルに関与し間接的に抗酸化作用を示す一部のオキシダーゼも抗酸化物質の一つと見なされる。 このような抗酸化物質と見なされるオキシダーゼの多くはグルタチオンやビタミンC といった電子受容体を基質として消費する。すなわち酵素による過酸化物質の代謝には還元剤としての抗酸化物質の存在が必須である。これは「酵素反応は可逆反応であり、ただ反応速度を増大させるのみである」という酵素の特性に留意する必要がある。つまり生体内では電子受容体が豊富に存在するために逆反応は問題にはならない。しかし、栄養学や食品科学など非生体的な条件下においては、条件によっては生体では抗酸化物質と見なされるオキシダーゼであっても、食品に加工された状態においては酸素が関与する逆反応を加速することで抗酸化物質を消費し尽したり、活性酸素種を発生させ、それにより食品の鮮度、品質を低下させる場合もある。 これらのオキシダーゼの多くは酵素活性中心には微量ミネラルである、鉄、マンガン、銅、セレン原子などが存在している。これらの金属元素は容易に酸化還元反応を受けやすい。 一方、これらの微量ミネラルの体内でのADMEは特定の酸化状態であることが必要である。たとえば、鉄は鉄 (III) イオンは特定の膜トランスポーターに依存するので生体に吸収されないが、鉄 (II) イオンがキレート(ラクトフェリンのように高分子の場合もあればクエン酸など低分子の場合もある)を形成して取り込まれる。さらに体内ではトランスフェリンは鉄 (III) イオンに結合して貯蔵、輸送される。このような酸化状態の特異性は、ほかの微量ミネラルでも同様に見ることができる。つまり、微量ミネラルは低分子あるいは特定のタンパク質がキレートすることで、それぞれの状況に有利な酸化状態で輸送、貯蔵される。微量ミネラル元素でも鉄イオンは酵素と結合して酵素補欠因子にならなくても、生体内の環境で金属イオンが酸化還元機能を持つ場合もある。しかし多くの場合は微量ミネラルは、生体内の環境では酵素補欠因子として酵素の活性中心に配置されて初めて酸化還元機能をもつ。いずれにしろ微量ミネラル元素を取り込んだオキシターゼは基質特異的に抗酸化作用を触媒するので、微量ミネラル元素はオキシターゼが関与する抗酸化生体システムのカギである。そのオキシターゼの存在量も、微量ミネラル元素を輸送・貯蔵に関与する分子、それは低分子あるいは高分子の微量金属元素をキレートする生体物質であるが、それらのキレート物質が欠乏すれば酵素の存在量を変動させ間接的には生体の抗酸化機能に変動をもたらす。したがってトランスフェリンやフェリチンのようなキレート物質は生体システムの観点においては抗酸化物質と見なされる。 ===活性酸素種と抗酸化物質=== 活性酸素種は細胞において過酸化水素 (H2O2) およびヒドロキシルラジカル(・OH) とスーパーオキシドアニオン (O2) のようなフリーラジカルを形成する。ヒドロキシルラジカルは特に不安定であり、即座に非特異的に多くの生体分子との反応を起こす。この化学種はフェントン反応のような金属触媒酸化還元反応によって過酸化水素から形成する。これらの酸化物質は化学的連鎖反応を開始させることにより脂肪やDNA、タンパク質を酸化させ細胞を損傷させる。DNA修復機構は稀な頻度で修復ミスを発生するので突然変異や癌の原因となり、タンパク質への損傷は酵素阻害、変性、タンパク質分解の原因となる。 電子伝達系など代謝エネルギーの合成機構において酸素が使われる局所では副反応として活性酸素種が発生する。つまりスーパーオキシドアニオンが電子伝達系において副生成物として生成する。特に重要なのは複合体III による補酵素Qの還元で、中間体として高反応性フリーラジカル (Q・) が形成する。この不安定中間体は電子の”漏出”を誘導し、通常の電子伝達系の反応ではなく電子が直接酸素に転移し、スーパーオキシドアニオンを形成させる。また、ペルオキシドは複合体Iでの還元型フラボタンパク質の酸化からも発生する。これらの酵素群は酸化物質を合成することができるが、ペルオキシドを形成するその他の過程への電子伝達系の相対的重要性は不明である。また、植物、藻類、藍藻類では、活性酸素種は光合成の間に生じるが、特に高光度条件のときに生成する。この効果は光阻害ではカロテノイドにより相殺されるが、それには抗酸化物質と過還元状態の光合成反応中心との反応が伴い、活性酸素種の形成を防いでいる。 ===抗酸化物質の生体内分布=== レチノール(ビタミンA): 1 ― 3 抗酸化物質は水溶性と脂溶性の2つに大きく分けられる。一般に、水溶性抗酸化物質は細胞質基質と血漿中の酸化物質と反応し、脂溶性抗酸化物質は細胞膜の脂質過酸化反応を防止している。これらの化合物は体内で生合成するか、食物からの摂取によって得られる。それぞれの抗酸化物質は様々な濃度で体液や組織に存在している。グルタチオンやユビキノンなどは主に細胞内に存在しているのに対し尿酸はより広範囲に分布している(下表参照)。稀少種でしか見られない抗酸化物質もあり、それらは病原菌にとって重要であったり、毒性因子となったりする。 様々な代謝物と酵素系はそれぞれ相乗効果と相互依存効果を有するが、抗酸化物質の特定の場合における重要性と相互作用は不明である。したがって、一種の抗酸化物質は抗酸化物質系の他の構成要素の機能に依存している可能性がある。また、抗酸化物質によって保護される度合いはその濃度、反応性、反応環境の影響を受ける。 いくつかの化合物は遷移金属をキレートすることによって細胞内で触媒生成するフリーラジカルによる酸化を抑制している。特にトランスフェリンやフェリチンのような鉄結合タンパク質は、キレート化することにより鉄の酸化を抑制している。セレンと亜鉛は一般的に抗酸化栄養素と呼ばれているが元素自体は抗酸化能を持たず、抗酸化酵素と結合することによって抗酸化能を持つ。 ===酵素と抗酸化物質=== 化学的酸化防止剤と同様に、細胞は抗酸化酵素の相互作用網によって酸化ストレスから保護されている。酸化的リン酸化のようなプロセスによって遊離される超酸化物は最初に過酸化水素に変換され、さらなる還元を受け最終的に水となる。この解毒経路はスーパーオキシドジスムターゼやカタラーゼ、ペルオキシダーゼなど多数の酵素によるものである。 抗酸化代謝体と同様に、抗酸化防衛における酵素の寄与を互いに切り離して考えることは難しいが、抗酸化酵素を1つだけ欠損させた遺伝子導入マウスを作ることそので情報を得ることができる。 ===スーパーオキシドディスムターゼ、カタラーゼおよびペルオキシレドキシン=== スーパーオキシドディスムターゼ (SOD) は、スーパーオキシドアニオンを酸素と過酸化水素に分解する酵素群である。SODはほとんど全ての好気性細胞と細胞外液に存在する。酸素が存在することによって細胞内に形成される致死性のスーパーオキシドを変化させるスーパーオキシドディスムターゼやカタラーゼを欠くことにより、偏性嫌気性生物は酸素の存在下で死滅することとなる。 SOD はそのアイソザイムによって、銅、亜鉛、マンガン、および鉄を補因子として含む。ヒトを初めとした哺乳動物や多くの脊椎動物は、3種の SOD (SOD1, SOD2, SOD3) を持ち、銅/亜鉛を含む SOD1 と 3 はそれぞれ細胞質と細胞外空間に、マンガンを含む SOD2 はミトコンドリアに存在する。ヒトは鉄を補因子とした SOD は持たない。3種の SOD のうち、ミトコンドリアアイソザイム (SOD2) は最も生物学的に重要で、マウスはこの酵素が欠損すると生後間もなく死亡する。一方、銅/亜鉛SOD (SOD1) 欠損マウスは生存能力はあるが多くは病的で低寿命(超酸化物を参照)であり、細胞外液SOD (SOD3) 欠損マウスは異常は最小限(酸素過剰症に過敏)である。植物では、SOD のアイソザイムは細胞質とミトコンドリアに存在し、葉緑体では脊椎動物と酵母菌にはない鉄SOD が見られる。 カタラーゼは鉄とマンガンを補因子として用いて過酸化水素を水と酸素に変換する酵素である。このタンパク質はほとんどの真核細胞のペルオキシソームに局在している。カタラーゼは基質が過酸化水素だけである独特な酵素で、ピンポン機構を示す。まず補因子が一分子の過酸化水素で酸化され、生成した酸素を二番目の基質へ転移させることにより補因子が再生する。過酸化水素の除去は明らかに重要であるのにもかかわらず、遺伝的なカタラーゼの欠損(無カタラーゼ症)のヒト、もしくは遺伝子組み換えで無カタラーゼにしたマウスの苦痛を感じる病的影響はほとんどない。 ペルオキシレドキシン類は過酸化水素やペルオキシ亜硝酸など有機ヒドロペルペルオキシドの還元を触媒するペルオキシダーゼ類である。ペルオキシレドキシンは、典型的な2‐システインペルオキシレドキシン、非定型な 2‐システインペルオキシレドキシン、1‐システインペルオキシレドキシンの3種に分けられる。これらの酵素は基本的に触媒機構は同じで、活性部位の酸化還元活性システイン (peroxidatic cysteine) は基質であるペルオキシドによってスルフェン酸に酸化される。このシステイン残基の過酸化により酵素は不活性化するが、スルフィレドキシンの作用によって再生される。ペルオキシレドキシン1および2を欠損させたマウスでは低寿命化や溶血性貧血が起こり、植物ではペルオキシレドキシン葉緑体で発生した過酸化水素の除去に使われるため、ペルオキシレドキシンは抗酸化代謝において重要である。 ===チオレドキシン系とグルタチオン系=== チオレドキシン系は12kDa のタンパク質であるチオレドキシンと、それに随伴するチオレドキシンレダクターゼからなる。チオレドキシン関連のタンパク質は、シロイヌナズナのような植物も含めてゲノムプロジェクトが完了した全ての生物に存在しており、特にシロイヌナズナでは多様なアイソフォームが見られる。チオレドキシンの活性部位には、保存性の高い CXXCモチーフの中に2つの近接したシステイン残基が含まれている。これにより活性部位は遊離の2つのチオール基を持つ活性型(還元型)と、ジスルフィド結合が形成された酸化型とを可逆的に移り変わることができる。活性型のチオレドキシンは効果的な還元剤として振る舞い、活性酸素種を除去することにより他のタンパク質の還元状態を保つ。酸化されたチオレドキシンは、NADPH を電子供与体としてチオレドキシンレダクターゼによって還元型へと再生される。 グルタチオン系には、グルタチオンとグルタチオンレダクターゼ、グルタチオンペルオキシダーゼおよびグルタチオン S‐トランスフェラーゼが含まれる。この系は動物、植物および微生物で見られる。グルタチオンペルオキシダーゼは補因子として4つのセレン原子を含み、過酸化水素と有機ヒドロペルオキシドの分解を触媒する。動物では少なくとも4種のグルタチオンペルオキシダーゼのアイソザイムがある。グルタチオンペルオキシダーゼ1は最も豊富で、効率的に過酸化水素を除去する。一方、グルタチオンペルオキシダーゼ4は脂質ヒドロペルオキシドに作用する。意外にも、グルタチオンペルオキシダーゼ1はなくとも問題はなく、この酵素を欠損させたマウスは正常寿命である。しかし、グルタチオンペルオキシダーゼ1欠損マウスは酸化ストレスに過敏である。グルタチオン S‐トランスフェラーゼについては過酸化脂質に対し高活性が見られる。これらの酵素は肝臓に高濃度で存在し、また解毒作用を持つ。 ==生体由来の抗酸化物質== ===尿酸=== ヒトの血中に最も高濃度で存在する抗酸化物質は尿酸であり、ヒト血清中の抗酸化物質全体の約半分を占める。尿酸はキサンチンオキシダーゼ (EC 1.17.3.2) によりキサンチンから合成されるオキシプリンの一つで、霊長類、鳥類、爬虫類におけるプリンの代謝生成物である。ヒトを含むヒト上科では、尿酸はプリン代謝の酸化最終生成物である。その他のほとんどの哺乳動物では、尿酸オキシダーゼ (EC 1.7.3.3) によって尿酸はさらにアラントインまで酸化される。霊長類のヒト上科での尿酸オキシダーゼの欠損は、同じく霊長類の狭鼻下目でのアスコルビン酸合成の欠損に匹敵する。これは尿酸が抗酸化物質として部分的にアスコルビン酸の代用となるためである。尿酸は水に対する溶解度が低く、尿酸が過剰になると体内で尿酸の結晶を生成して痛風の原因となる。脳卒中や心麻痺といった疾患では尿酸の役割はよく分かっていないが、尿酸濃度が高いと死亡率が増加するといくつかの研究で言及されている。この一見したところの効果は、酸化ストレスに対する防御的機能として尿酸が活性化されることによるか、それとも尿酸が酸化促進剤として作用し病気による損傷に加担していることによるか、いずれかであるかもしれない。 血漿中の尿酸濃度は低酸素症で増大することが知られているが、被験者を高地に移動させた時の順応を見る実験では、高地に移動すると血漿中に酸化ストレスの増大を意味するマーカー物質が増大する。しばらく経つと、血漿中の尿酸濃度が増大するとともにマーカー物質は減少に転じた。すなわち、水溶性抗酸化物質の尿酸が酸素が不足する組織から遊離され酸化ストレスに順応したものと考えられる。言い換えると血漿中の尿酸濃度の上昇は高地のような過酷な環境への順応においてストレス軽減に重要な役割を持つ可能性がある。このような報告があるものの、高地では薄い空気への順応のために体内で血液の濃縮が起こり、血液の濃縮に伴って単に尿酸濃度も上昇し、痛風のリスクが高まる旨の報告がある。 尿酸は、運動ストレス時の抗酸化物質として作用する報告がある。また、ショウジョウバエにおいて酸化傷害に対する防御機構として尿酸合成が亢進している可能性を示唆する報告もある。 ===アスコルビン酸=== アスコルビン酸(またはビタミンC)は単糖の一つで動植物両方で見られる酸化還元触媒である。アスコルビン酸を合成する酵素は霊長類の進化の過程で喪失したためビタミンの一つとなっている。ただし、霊長類のようにビタミンC の合成能を失った動物以外のほとんどの動物は、アスコルビン酸を自ら合成することができ、ビタミンC の食事での摂取を必要としていない。アスコルビン酸は、プロリン残基をヒドロキシル化してヒドロキシプロリンに変換させ、このことによりプロコラーゲンをコラーゲンへ変換することに必須である。このコラーゲンが適正に形成されないと皮膚組織が維持できず、代表的なビタミンC欠乏症である壊血病を発症する。その他の細胞では、グルタチオンが基質となるタンパク質ジスルフィドイソメラーゼ (EC 5.3.4.1) およびグルタレドキシン (EC 1.20.4.1) の反応により、アスコルビン酸の還元型が維持されている。 アスコルビン酸は還元能を有する酸化還元触媒で、過酸化水素のような活性酸素種を還元することにより解毒する。アスコルビン酸が酸化されるとモノデビトロアスコルビン酸になり、このモノデビトロアスコルビン酸がモノデヒドロアスコルビン酸レダクターゼ (NADH) (EC 1.6.5.4) と NADH により再びアスコルビン酸に還元される。アスコルビン酸の酸化型でも生体内で還元されることでビタミンC としての機能を有しており、アスコルビン酸が触媒と呼ばれる所以である。アスコルビン酸は、直接的な抗酸化機能に加え、過酸化水素などの過酸化物を無毒化する酵素であるアスコルビン酸ペルオキシダーゼ (EC 1.11.1.11) の基質となっており、特に光合成により酸素を発生させる植物にとって重要な反応である。アスコルビン酸は植物のすべての部分において高濃度で存在しており、葉緑体では 20mM にも及ぶ。 ===グルタチオン=== グルタチオンは有酸素種で見られるシステイン含有ペプチドである。グルタチオンは摂取により補給する必要はなく、細胞内でアミノ酸から合成される。グルタチオンはシステイン部分のチオール基が抗酸化能を持ち、酸化や還元を可逆的に行うことができる。細胞内ではグルタチオンは、グルタチオンレダクターゼにより還元型で維持され、直接酸化物質と反応するだけではなく、グルタチオン‐アスコルビン酸回路やグルタチオンペルオキシダーゼ、グルタレドキシンなどの酵素系によって他の有機物の還元を行っている。グルタチオンはその濃度の高さと細胞での酸化還元状態の維持に重要な役割を果たしていることから、最も重要な細胞性抗酸化物質である。いくつかの有機体のグルタチオンには、放線菌のマイコチオールやキネトプラスト類のトリパノチオン(英語版)のように他のチオールに置換しているものがある。 ===メラトニン=== メラトニンは容易に細胞膜と血液脳関門を通過できる強力な抗酸化物質である。他の抗酸化物質とは異なり、再度の酸化または還元を受けることはなく、酸化還元サイクルを形成しない。酸化還元サイクルを形成する他の抗酸化物質(ビタミンCなど)は酸化促進剤としてフリーラジカルを形成する可能性がある。しかし、メラトニンはフリーラジカルと反応すると安定な状態になるため1回酸化されるのみで、還元はされない。したがって、メラトニンは末端抗酸化物質 (terminal antioxidant) とも呼ばれる。 ===ウロビリノーゲン=== ウロビリノーゲンは、赤血球中のヘモグロビンの構成要素であるヘムの代謝物である。古くなって用済みになったヘムは、ビリベルジンに分解され、還元されてビリルビンになる。ビリルビンは肝臓でグルクロン酸抱合を受けて、胆汁の一部として十二指腸に分泌される。ビリルビンは、腸内細菌により還元されてウロビリノーゲンとなり、腸から再度体内に吸収される。ウロビリノーゲンは尿として排泄される。この循環を腸肝ウロビリノーゲンサイクルと呼ぶ。ウロビリノーゲンの一部は酸化されて尿の黄色の元であるウロビリンになり、同じく尿として排泄される。 ウロビリノーゲンは、抗酸化作用を有し、DPPHラジカル除去作用は他の抗酸化物質(ビタミンE、ビリルビンおよびβ‐カロチン)よりも高い値を示す。 また、中間代謝物であるビリルビンも潜在的な抗酸化作用を示唆しており、ビリルビンは細胞内において抗酸化の生理作用を担っているのではないかという仮説が立てられる。 ==天然成分の抗酸化物質== ===トコフェロール類、トコトリエノール類(ビタミンE)=== ビタミンEはトコフェロール類とトコトリエノール類の共同名で、抗酸化機能を持つ脂溶性ビタミンである。ビタミンE のうち、α‐トコフェロールのバイオアベイラビリティが選択的吸収および代謝とともに最も研究がなされている。 α‐トコフェロールは、脂質過酸化連鎖反応で生成する脂質ラジカルによる酸化から細胞膜を保護するため、最も重要な脂溶性抗酸化物質である。 つまりはフリーラジカル中間体の除去により、それによる成長反応を抑制している。この反応では酸化型である α‐トコフェロキシルラジカルが生成するが、アスコルビン酸やレチノール、ユビキノールなど他の抗酸化物質により還元され、元の還元型にリサイクルされる。これは、水溶性抗酸化物質ではない α‐トコフェロールが効率的にグルタチオンペルオキシダーゼ4 (GPX4) ‐欠乏細胞を細胞死から保護しているという研究結果と一致する。GPX4 は生体膜の内側で脂質‐ヒドロペルオキシドを効率的に還元する唯一知られている酵素である。 ビタミンE の異なる型の役割とその重要性は現在のところはっきりしていないが、その役割は抗酸化物質よりもシグナリング分子の方であることが提唱されている。また、γ‐トコフェロールは求電子性の突然変異原の求核剤として、そしてトコトリエノール類はニューロンを損傷から保護していると考えられている。 ===カロテノイド=== カロテノイドは、天然に存在する色素で、化学式 C40H56 の基本構造を持つ化合物の誘導体をいい、カロチノイドともいう。炭素と水素のみでできているものはカロテン類、炭素と水素以外の酸素、窒素などを含むものはキサントフィル類という。カロテンやキサントフィルは二重結合を多く含むので抗酸化作用が大きく、植物では酸素が多く発生する場所に多く存在する。水に溶けにくく、脂質に溶け、脂肪とともに摂取すると効率的に摂取できる。主なものは以下の通り。 カロテン類 βカロテン = ビタミンA、2分子(ニンジン)、リコペン(トマト)βカロテン = ビタミンA、2分子(ニンジン)、リコペン(トマト)キサントフィル類 ルテイン(緑黄色野菜)、ゼアキサンチン(トウモロコシ)、カンタキサンチン(鮭の肉)、フコキサンチン(褐藻)、アスタキサンチン(鮭の肉)、β‐クリプトキサンチン (ミカン)、ルビキサンチン(ローズヒップ)ルテイン(緑黄色野菜)、ゼアキサンチン(トウモロコシ)、カンタキサンチン(鮭の肉)、フコキサンチン(褐藻)、アスタキサンチン(鮭の肉)、β‐クリプトキサンチン (ミカン)、ルビキサンチン(ローズヒップ) ===ポリフェノール=== ポリフェノールとは、ポリ(たくさんの)フェノールという意味で、分子内に複数のフェノール性ヒドロキシ基を持つ植物成分の総称であり、抗酸化作用を持つ物質である。主なものは以下の通り。 フラボノイド類 カテキン (茶)、アントシアニン(ブドウ)、タンニン(茶)、ルチン(ソバ)、イソフラボン(大豆)、ノビレチン(シークヮーサー)カテキン (茶)、アントシアニン(ブドウ)、タンニン(茶)、ルチン(ソバ)、イソフラボン(大豆)、ノビレチン(シークヮーサー)その他のポリフェノール クロロゲン酸(コーヒー)、エラグ酸(イチゴ)、リグナン(ゴマ)、セサミン(ゴマ)、クルクミン(ウコン)、クマリン(パセリ)、オレオカンタールおよびオレウロペイン(オリーブ・オイル)、レスベラトロール(赤ワイン)クロロゲン酸(コーヒー)、エラグ酸(イチゴ)、リグナン(ゴマ)、セサミン(ゴマ)、クルクミン(ウコン)、クマリン(パセリ)、オレオカンタールおよびオレウロペイン(オリーブ・オイル)、レスベラトロール(赤ワイン) ==食品中の反応に由来する抗酸化物質== ===メラノイジン=== メイラード反応とは、還元糖とアミノ化合物(アミノ酸、ペプチドおよびタンパク質)を加熱したときなどに見られる、褐色物質(メラノイジン)を生み出す反応のことである。メラノイジンは酸素や窒素を含む、多様な高分子化合物からなる混合物である。 メラノイジンは、それ自身がフリーラジカルであるが、同時にラジカル・スカベンジャーとしての作用を持つため、食品の酸化を抑制する働きがある。この作用には、メラノイジンが金属とキレートを生成して封じ込めることが関与しているとも言われる。例えば、メイラード反応によって生じたトリプトファン・グルコース反応液の抗酸化能はビタミンEであるα‐トコフェロールよりも強く、合成抗酸化剤の BHA、BHT に匹敵するものであることが明らかになった。グルコースとグリシンによるアミノカルボニル反応で生成した褐変物質による着色度が高いほど DPPHラジカル消去能も高くなる。着色度を示す 440nm における吸光度と DPPHラジカル消去能の間には r = 0.993 の非常に高い正の相関関係が認められる。また、玉ネギを加熱し、黄色、あめ色、茶色と褐変が進行するに従ってDPPHラジカル消去能が上昇する、との報告がある。 メラノイジンは、in vitro では抗酸化作用、活性酸素消去活性、ヘテロ環アミノ化合物(発癌物質)に対する脱変異原活性などを有するとされている。 メイラード反応が関与するものには次のような現象が挙げられる。 肉を焼くと褐変玉ねぎを炒めると褐変デミグラスソース(ブラウンソース)の褐変コーヒー豆の焙煎黒ビールやチョコレートの色素形成味噌、醤油の色素形成パン(トースト)やご飯の「おこげ」の形成例えば、味噌は優れた抗酸化能力を有し、味噌のラジカル捕捉能力はその大半をメラノイジンが担っており、味噌の色調が濃いほどその能力が高まっているとされている。動物実験では、味噌の摂取で肺癌、胃癌、乳癌、肝臓癌、大腸癌の抑制効果が認められ、味噌の熟成度が高いほど効果が高かったとの報告がある。味噌の摂取の放射線障害防止効果については後述する。 ===カラメル=== カラメル化は、糖類が引き起こす酸化反応などにより褐色物質を生成する現象であり、カラメルができるメカニズムはまだ完全に解明されてはいないが、グルコース、ショ糖などが加熱されることで生じるフラン化合物が重合して生じる、フラン・ポリマーの構造を取るのではないかという仮説が提唱されている。カラメル化と同様に加熱によって褐色色素が生じる反応には、他にメイラード反応があるが、これはアミノ酸と還元糖の両者を必要とするものであり、カラメル化とは異なる反応である。 カラメルは、メイラード反応のメラノイジンほどではないが、抗酸化作用を有する。一般に、色が濃いほど抗酸化作用が強く、窒素含有量の多いものほど抗酸化作用が強くなる。 ==医薬品開発と抗酸化物質== ===酸化ストレスと病態=== 酸化ストレスはアルツハイマー型認知症、パーキンソン病、糖尿病合併症、関節リウマチ、運動ニューロン病による神経変性など広範囲の病気の進行に寄与していると考えられている。これらの多くの場合において、酸化物質が病気の要因になっているのか、それとも病気と一般的な組織の損傷から二次的に酸化物質が作り出されているのか、不明確である。しかし、心血管疾患については酸化ストレスが関連していることがよく分かっている。低比重リポタンパク質(LDLコレステロール)の酸化がアテロームの発生を誘発し、それがアテローム性動脈硬化症となり、最終的には心臓血管の疾患に繋がるのである。またフリーラジカルと DNA損傷の関連より、癌に対する抗酸化物の予防効果についても研究されている。 ===循環器疾患と抗酸化物質=== 血中の酸化型LDLコレステロールは心臓疾患の原因になると考えられ、また、1980年代アメリカを対象とした疫学研究からビタミンE の摂取により心臓疾患の発現のリスクを下げることが分かっていた。これに対し、1日に 50 から 600mg のビタミンE を摂取させ、その効果を調査する大規模な治験が少なくとも7回行われたが、死亡総数および心臓疾患による死亡率ともにビタミンE の影響は見られなく、その他の研究でもまた結果は同様で、これらの試験または多くの栄養補助食品の使用が酸化ストレスによる疾患の予防になっているかどうかは明確ではない。総合的に、心臓血管疾患には酸化ストレスが関わっているにもかかわらず、抗酸化ビタミンを使った試験では心疾患発現リスクおよび既に発現した疾患の進行を抑える効果は認められなかった。 ===脳虚血性疾患と抗酸化物質=== 脳はその高い代謝率と高濃度の多価不飽和脂肪のために酸化的損傷に非常に弱く、抗酸化物質は脳損傷治療の薬剤として広く使われている。スーパーオキシドジスムターゼ模倣薬としては、チオペンタールとプロポフォールが脳虚血疾患の後遺症である再かん流傷害や外傷性脳損傷に、実験的薬剤としてはジスフェントン (NXY‐059)とエブセレンが脳卒中の治療に応用されている。これらの化合物は、ニューロンの酸化ストレス、アポトーシスおよび神経損傷を予防しているように見える。また、抗酸化物質は、アルツハイマー型認知症、パーキンソン病、筋萎縮性側索硬化症のような神経変性の病気の治療、音響性外傷の予防についての研究がなされている。 ===哺乳動物の最長寿命と抗酸化物質=== 血漿あるいは血清中の尿酸、α‐トコフェロール、カロチノイド量とヒトを含めた哺乳動物の最長寿命を比較したデータによると、これら抗酸化成分の濃度が高いほど最長寿命が長い傾向にあった。これに対してビタミンC、グルタチオン、ビタミンA濃度と最長寿命との相関は認められないと言われている。 ===アンチエイジングと抗酸化物質=== 果物と野菜の多い食事では抗酸化物質が多く摂取されることにより健康を増進させ老化の影響を減らすとされるが、抗酸化ビタミンの補給は老化作用に対して検知できるような効果はないため、果物と野菜の効果はその抗酸化物質の含有量とは関係がないかもしれない。その理由として、ポリフェノールやビタミンE のような抗酸化分子はその他の代謝過程を変化させ、それらの変化の方が抗酸化物質の栄養素としての重要性の真の理由である、という可能性がある。 線虫での研究では、適度な酸化ストレスは活性酸素種への防御反応を誘導することによって寿命を延ばすことさえ示唆されている。この、寿命が延びるのは酸化ストレスの増加が原因であるという示唆は、出芽酵母 (Saccharomyces cerevisiae) での結果と矛盾する。この矛盾について哺乳類ではさらに曖昧である。それでもやはり、抗酸化物質の栄養補助食品がヒトの寿命を延ばしているようには見えない。 ビタミンは、生物の生存・生育に必要な栄養素のうち、炭水化物やタンパク質、脂質、ミネラル以外の栄養素であり、微量ではあるが生理作用を円滑に行うために必須な有機化合物であり、各種ビタミン欠乏症は寿命を縮めることがあるが、過剰なビタミンが寿命を延ばすとの報告はほとんどない。 ==栄養学・食品科学と抗酸化物質== ===プロオキシダント=== 生体内では抗酸化物質として作用している生体物質が、食品などでは逆に酸化を促進することが知られている。このような物質は栄養学・食品科学の分野ではプロオキシダント(英語版)と呼ばれる。例えばビタミンCは過酸化水素のような酸化性物質と反応する場合は抗酸化性を有するが、食品の成分として含まれる微量の銅や鉄などの金属イオン、ミオグロビンやヘモグロビンなどのヘムタンパク質などが存在する場合、空気酸化を促進することが知られている。 これは、無機化学・有機化学の分野では「フェントン試薬」または「フェントン反応」として知られている化学反応である。種々の金属イオンを介して分子状酸素や過酸化水素からヒドロキシラジカルが発生する。フェントン試薬は鉄(II)イオンと過酸化水素の反応であるが、アスコルビン酸がフェントン試薬の触媒サイクルを形成する例も知られている。 2Fe + アスコルビン酸 → 2Fe + デヒドロアスコルビン酸 ; 鉄(II)イオンの再生2Fe + 2H2O2 → 2Fe + 2OH・ + 2OH ; フェントン反応他の例としてはビタミンEもプロオキシダントとして働く。 一方で、アスタキサンチンのようにプロオキシダントにはならない純粋な抗酸化物質も存在する。 ===シネルギスト=== 金属イオンとキレートを形成する化合物は、天然物由来あるいは無機化合物・合成化合物など数多く知られている。一般に、キレート物質と金属イオンとの結合の強さは金属イオンの酸化状態で変化することが知られている。言い換えると、キレート化合物によっては特定の酸化状態の金属イオンと結合補足することで、前述のフェントン反応のような酸素が関与する不都合な反応を抑制する場合がある。栄養学ではそのような物質をシネルギスト(協作剤)とも呼ぶ。クエン酸などは金属キレート剤としては食品添加物として利用される。すなわち、シネルギストであるクエン酸は抗酸化剤として利用されることもある。 ===吸収阻害物質=== 比較的強力な還元性の有機酸類は消化管で鉄や亜鉛などの飼料無機質と結合し、微量ミネラルの吸収阻害物質として働く場合がある。主な例では、植物由来の食品に多いシュウ酸、タンニンおよびフィチン酸などがある。カルシウムと鉄の欠乏は、肉類が少なく、マメ類やイースト菌を入れていない全粒穀物のパンなどの食生活が中心でフィチン酸の摂取が多くなっている発展途上国では珍しいことではない。特定の微量ミネラルが欠乏することで生体内の抗酸化作用に関与する酵素が欠乏する。その場合、ミネラル欠乏症の原因として活性酸素の毒性が増強される例がある。 ===過剰摂取とメタアナリシス(疫学調査)=== 丁子油に主に含まれるオイゲノールのような脂溶性の抗酸化物質は毒性用量を持ち、特に希釈していない精油(原液)を誤用することによって毒性用量を超えて摂取してしまう。アスコルビン酸のような水溶性抗酸化物質は余分な用量は尿として速やかに体外排出される。そのため毒性が発現する懸念は相対的に低い。 実際のところ、いくつかの抗酸化物質では高濃度で摂取することにより有害な長期的影響をもたらす可能性のものがある。(いずれも脂溶性である)肺癌患者における β‐カロテンとレチノールの有効性試験 (CARET) の研究では、喫煙者に β‐カロテンとビタミンA を含むサプリメントを与えたところ、肺癌の速度が増大するという結果が見られた。後に行われた研究でもそれらの作用が確認されている。 治療、予防に関する医療技術をメタアナリシスの手法で評価するプロジェクトであるコクラン共同研究は抗酸化サプリメントが死亡率にどのように影響を与えているかという仮説に対してランダム化検証で一次予防効果検証および二次予防効果検証を実施した。メタアナリシスは統計処理によって仮説を検証する疫学調査であり、このコクランの研究チームは公開データベースや2005年10月に発行された文献の試験結果から232,606人の被験者(385論文)の成人の結果をデータ元として取り込み、ベータカロテン、ビタミンA、ビタミンC(アスコルビン酸)、ビタミンE、およびセレン について、単独投与群、複合投与群、プラセボ投与群そして医学的治療を受けなかった群について68のランダム検証を統計解析した。その結果によると β‐カロテン、ビタミンA およびビタミンE(これらは脂溶性)の補給では死亡率の増加が見られたが、ビタミンC(水溶性)では有意な効果は見られないとコクランチームは結論付けた。 これに対して、オレゴン州立大学のライナス・ポーリング研究所の B.フレイ教授は、「(膨大な試験結果を排除した)間違った方法論による結果で、有用性の点や他の点についても抗酸化サプリメントの真の健康に対する効果を理解する上では少しも役に立たない。」と述べている。健康リスク評価を見ると、すべて無作為に選別された群間の比較検証では複合投与群で解析したとき死亡率の増加が見られなかったのに対し、(データ元が)高バイアス検証もしくは低バイアス検証の解析結果では単独投与群のみに死亡率の増加が見られた。加えて、これらの低バイアス検証では高齢者または既に病気を患っている人の死亡率を対象としており、低バイアス検証の結果は一般的な人には適用できない。 また、その後のコクラン共同計画からも新しいメタアナリシス解析が発表され、「ビタミンC とセレンについて(先の)ランダム化検証で追加の一次予防効果検証および二次予防効果検証を実施した結果、ビタミンC には明白な有害作用は見られなかった。セレンには明白な死亡率との関係は見られなかった。これはビタミンC とセレンの過剰摂取についてのみ評価すべきだ。」と述べている。 ビタミンE の摂取により死亡率が増加すると、ジョンホプキンス医大が報告しているのに対して、コクラン共同研究チームは、大腸癌に対する抗酸化物質の一次予防効果検証および二次予防効果検証では「ベータカロテン、ビタミンA、ビタミンC(アスコルビン酸)、ビタミンE、およびセレンは大腸癌に対する一次予防効果検証および二次予防効果検証の結果、確証は得られなかった。」と述べている。 また肺がんについての SU.VI.MAXメタアナリシス検証では「抗酸化物質はすべての死因に対し関連性を持たない。」と述べられているし、Southern California Evidence‐Based Practice Center の報告では「(いくつかの癌で結果が得られたが)再検証が必要である。」と結論付けている。 全体として、抗酸化物質のサプリメントについて行われた臨床試験の多くは健康に影響がないか、高齢者または影響を受けやすい人の死亡率をやや高めているかのどちらかを示唆している。 ===栄養補助食品と抗酸化物質=== 先進工業国では、多くの抗酸化物質の栄養補助食品および健康食品が広く販売されている。これら栄養補助食品にはポリフェノール、レスベラトロール(ブドウの種子またはタデの葉から採れる)などの化合物、ACES製品(β‐カロテン(プロビタミンA)、ビタミンC、ビタミンE、セレン:Selenium)、または緑茶やアマチャヅルなど抗酸化物質を含むハーブが含まれている。食品中のある程度の抗酸化ビタミンおよびミネラルは良好な健康状態のために必須であるが、これらの抗酸化物質の栄養補助食品は有益なのか有害なのか、そしてもし有益だとしたら、どの物質がどれくらいの服用するとよいのか? それは相当疑問である。実際に数名の著者らは、抗酸化物質には慢性的な疾患を予防することができるという仮説は今や反証され、最初から見当違いであったと主張している。むしろ、食品中のポリフェノール類は微量濃度では細胞間シグナリング、受容体感受性、炎症性酵素活性および遺伝子調節など抗酸化物質としてではない機能を持っている可能性がある。 抗酸化物質の抗酸化能と酸化促進能の相対的重要性は現在の所は研究段階であるが、ビタミンCは体内では主に抗酸化物質として機能していると考えられている。しかしながら、ビタミンEやポリフェノール類などの食物中の抗酸化物質については十分なデータがない。 果物や野菜をよく摂る人は心臓疾患と神経疾患のリスクが低く、野菜や果物の種類によっては癌の予防になるという証拠がある。果物と野菜はよい抗酸化物質源であることから、抗酸化物質はいくつかの病気を予防していると考えられている。しかし、抗酸化物質は摂取による治験で癌および心臓疾患のような慢性疾患のリスクに明確な効果は認められないため病気の予防に関与しているとはいえない。したがって、病気の予防には野菜や果物のその他の物質(例えばフラボノイド類)または複合混合物が関わっていると考えられる。 例えば、食事と癌について、多くの食品が癌の予防に効果を示す抗酸化物質を含む有効成分を含んでいるが、これらの有効成分を単離したものは食品の摂取と同様の効果をもたらさないようである。いくつかの研究では、食品から単離された有効成分が癌の予防に効果を示さないことが報告されている。しかし、食品全体を摂取することによって癌の抑制が認められるとされている。 高用量の抗酸化物質を含む栄養補助食品の試験の一つ、”Suppl*125*mentation en Vitamines et Mineraux Antioxydants” (SU.VI.MAX) study は、いわゆる健康食に相当する栄養を補足し、その効果を調査する試験である。この試験では、12,500人のフランス人の男女を対象に、低用量の抗酸化物質(アスコルビン酸:120 mg、ビタミンE:30 mg、β‐カロテン:6 mg、セレン:100 μg、亜鉛:20mg)または偽薬を平均7.5年間摂取させた。結果、癌および心臓疾患に対し統計学的に見て抗酸化物質には大きな効果は認められなかった。事後分析では男性では31%の癌リスクの減少が見られたが、女性では見られなかった。これは、試験を開始した段階での血液検査の結果から試験開始当初の時点で女性被験者の方が男性被験者よりもビタミンE や β‐カロテンの血中濃度が高かったことが判明しており、男性と女性で状態が初めから異なっていたためである。 また低カロリーの摂食は多くの動物の平均寿命と最長寿命を延ばす。この効果は酸化ストレスの減少が関与している可能性がある(DNA修復#カロリー制限とDNA修復の増加も参照のこと。)。Drosophila melanogaster や Caenorhabditis elegans のようなモデル生物では老化に酸化ストレスが関与していることが支持されているが、哺乳類では不明確である。2009年のマウス実験のレビューでは、抗酸化系のほとんどすべての操作は寿命に影響を与えなかったと結論付けられている。栄養の不足は、細胞中での DNA修復の増加した状態を引き起こし、休眠状態を維持し、新陳代謝を減少させ、ゲノムの不安定性を減少させて、寿命の延長を示すと言われている。 ===運動との関係=== 運動時、酸素消費量は10倍以上に増加する。これは酸化物質の大幅な増加に繋がり、運動の後の筋肉疲労の一因となる。激しい運動の後、特に24時間後に発生する筋肉痛も酸化ストレスが関係している。運動によるダメージへの免疫系の応答は運動の2から7日後がピークである。この過程では、フリーラジカルはダメージを受けた組織を除去するため好中球によって作られる。そのため、過濃度の抗酸化物質は組織の回復と適応機序を阻害することとなる。この他にも、酸化防止剤のサプリメントは例えばインスリンの感受性を低下させるなど通常の健康のための機序を阻害している可能性がある。 増加する酸化ストレスの調整のために身体は抗酸化防衛を強化(特にグルタチオン系)している。習慣的な運動を行う人は主な病気の発現率が低下していることから、この効果は酸化ストレスに関係している病気をある程度予防していると考えられている。 しかし実際には、スポーツ選手の身体能力の向上はビタミンE の補給では見られなく、その脂質膜過酸化防止機能にもかかわらず、6週間のビタミンEサプリメントの投与でもウルトラマラソンのランナーでは筋損傷への効果は無かった。スポーツ選手のビタミンC 摂取の必要性は考えられていないが、激しい運動の前にビタミンC の摂取量を増やすことで筋損傷が減少する兆候がある。しかし、他の研究ではこのような効果は見られず、また、1000mg 以上の摂取では逆にその回復を阻害するという結果が数件報告されている。 抗酸化物質は広く癌の進行の抑制に使われているが、逆に癌の治療を妨げている可能性が示唆されている。これは、治療によってさらに細胞が酸化ストレスの影響を受けやすくなるというものである。また、ガン細胞の酸化還元ストレスも減少するため、結果的に抗酸化物質サプリメントは放射線療法と化学療法の有効性を減少させている可能性もある。他方では、抗酸化物質が副作用を減少させ、寿命を延ばしていると提言している報文も存在する。 ===放射線との関係=== スイスの科学者ラルフ・グロイブ (Ralph Graeub, 1921‐2008) は、放射線のペトカウ効果を紹介する際に以下のように述べている。 活性酸素は放射線によっても生じ、細胞膜の脂質と作用して過酸化脂質を生成し、細胞を損傷する。低線量では活性酸素の密度が低く、再結合する割合が少なく効率よく細胞膜に達し、細胞膜に達すると連鎖反応が起こるため、放射線の影響は低線量で急激に高まる。 上記の事象は、活性酸素を消去する作用のある酵素スーパーオキシドディスムターゼ (SOD) を投入すると減少または観察されなくなることから、放射線起因の活性酸素によるメカニズムであることが裏付けられている。 個体レベルでは、活性酸素およびその反応によって生じる過酸化脂質などにより、悪性腫瘍・動脈硬化症・心臓病・脳梗塞を含む多くの病気や老化が引き起こされる。 ペトカウは人工膜のみでなく、幹細胞膜、白血球膜などを含む生体膜を使った実験でも同様の結果を得ている。 人体中の SOD などの酵素や食物中のビタミンやミネラル類などの抗酸化物質は、活性酸素に対する防御機能があり、被曝後の影響を低減させる可能性がある。 心筋細胞などにセシウム137が過剰に蓄積しやすく、心筋障害や不整脈などの心臓疾患が惹起されやすいことが指摘されている(詳細は「ユーリ・バンダジェフスキー」を参照のこと)。 放射線の照射により赤血球の溶血反応が発生するが、これは放射線による活性酸素の生成により脂質過酸化反応による膜の破壊によるものである。ビタミンEの投与により、放射線による赤血球の溶血や細胞小器官であるミトコンドリア、ミクロゾーム、リボゾームの脂質過酸化反応が顕著に抑制された。SOD(スーパーオキシドディスムターゼ)も同様の効果を示した。 例えば、味噌には放射能防御能力があることが報告されている。動物実験では、十分に熟成した味噌ほど放射線防御作用が高いと言われている。 また、レスベラトロールに放射線障害を防ぐ働きがあることが、ピッツバーグ大学の Joel Greenberger のマウスを使った研究で判明している。 ==食品中の抗酸化物質== 活性酸素種の違いによって活性も異なるため抗酸化物質の測定はその物質により多様である。食品科学では、酸素ラジカル吸収能 (ORAC) が食品、飲料および食品添加物の抗酸化物質濃度を評価する最新の業界標準になっている。 米国食品医薬品局(USDA)が食品中のORACの値をかつて公開していたが、USDAは、食物に含まれる抗酸化物質の強さが体内の抗酸化作用に関連しているという証拠がないため、Selected Foods Release 2(2010)表の酸素ラジカル吸収能(ORAC)を示す表を2012年に削除した。 この他にフォリン‐チオカルトー試薬を用いる方法やトロロックス等価抗酸化能力分析法(TEAC法)がある。 抗酸化物質は野菜、果物、穀物、卵、肉、マメ、木の実などの食品に多量に含まれている。リコペンやアスコルビン酸のようないくつかの抗酸化物質は長期貯蔵または長時間の調理によって分解するものがある。一方、全粒小麦や茶などに含まれるポリフェノール系抗酸化物質は安定である。また、野菜に含まれる数種のカロテノイド類のように抗酸化物質の生物学的利用能を増加させることもできるため調理や加工による影響は複雑である。一般に、加工の過程で酸素に晒されるため、加工食品は非加工食品よりも抗酸化物質が少ない。 その他のビタミンは体内で合成させる。例えば、ユビキノール(補酵素Q)は腸で吸収されにくく、ヒトではメバロン酸経路にて合成される。また、グルタチオンはアミノ酸から合成される。グルタチオンは腸ではシステインとグリシンとグルタミン酸に分解されてから吸収されるため、グルタチオンの経口投与は体内のグルタチオン濃度にはほとんど影響がない。アセチルシステインのような含硫アミノ酸が高濃度であることによりグルタチオンが増加するが、グルタチオン前駆体を多く摂取することが成人健常者において有益であるという根拠はない。前駆体を多く摂取することは急性呼吸窮迫症候群、蛋白エネルギー栄養障害の治療、もしくはアセトアミノフェンのオーバードースによって生じる肝臓障害の予防に役立つと考えられている。 食品中のある成分は酸化促進剤(プロオキシダント)として作用することにより抗酸化物質の含有量を経時的に低減させることがある。抗酸化物質が消耗した食品を摂取することで酸化ストレスが惹起される時には、身体は抗酸化防衛能を高めるように反応することがある。イソチオシアン酸やクルクミンなどは異常細胞の癌性細胞への変質を遮断したり、既存の癌細胞を殺したりする予防についての機能性化学種であると考えられている。 各種飲み物の抗酸化能を調査した中で、赤白双方のワインの抗酸化能が高いと報告した例がある。 ===食品添加物=== 抗酸化物質は食品の劣化を防ぐ食品添加物として使われている。食品は主に酸素と日光が酸化の要因になるため、暗所で保管し容器で密閉して保存するが、酸素は植物の呼吸にも必要で、植物性の素材を嫌気性の環境におくとその香りや色が劣化する。そのため、果物および野菜には8%未満の酸素を含ませて包装している。冷凍・冷蔵食品は、細菌類・菌類による劣化よりも、酸化の方が比較的早く進むため抗酸化物質は保存料の一つとして重要である。これらの保存料には天然の抗酸化物質ではアスコルビン酸 (AA, E300) やトコフェロール類 (E306)、合成された抗酸化物質では没食子酸プロピル (PG, E310)、tert‐ブチルヒドロキノン (TBHQ)、ブチル化ヒドロキシアニソール (BHA, E320)、ブチル化ヒドロキシトルエン (BHT, E321) が含まれる。 栄養学や食品科学の分野では、酸化による攻撃対象となる成分は不飽和脂肪が、特に問題とされる。すなわち微量でも酸化により悪臭を持つようになり、ついには毒性を持つに至る。酸化した脂肪は大抵は変色し、金属または硫黄臭のような不快な風味を持つようになるため、特に脂肪が多い食品の酸化を防止することは重要である。ゆえに保存加工の方法として(大量の酸素に晒すことになる)通風乾燥させることはほとんどない。代わりに密閉され酸素が少ない環境での加工である薫製や塩漬け、発酵が使われる。果物など脂肪が少ないものは空気乾燥する前に硫黄を含む酸化防止剤(抗酸化物質)が噴霧される。酸化は金属によって触媒されるため、バターなどの脂肪製品は金属製容器で保存してはならない。オリーブオイルなどいくつかの脂肪食品は天然の抗酸化物質により酸化から保護されているが、光酸化には過敏なままである。また、抗酸化物質の保存料は脂肪をベースとした口紅や保湿剤などの化粧品にも添加されている。 ==工業での利用== 抗酸化物質は頻繁に工業製品に添加される。主に燃料と潤滑油の安定剤として用いられ、ガソリンが重合してエンジンが目詰まりを起こすのを防ぐ。2007年現在、工業的抗酸化剤の世界市場は約88万トンである。これは約37億米ドル(24億ユーロ)の市場規模である。 抗酸化物質はゴム、プラスチック、接着剤などポリマー製品の強度や柔軟性の低下の原因となる酸化分解の防止のために広く用いられる。天然ゴムやポリブタジエンなどのポリマーはその主鎖に二重結合を含み、酸化やオゾン分解の影響を受けやすい。これらは抗酸化物質で保護することが可能である。また、紫外線は結合を壊すことによりフリーラジカルを作り出すため、酸化と紫外線劣化は強く関係している。フリーラジカルは酸素と反応することによりペルオキシラジカルが生成し、連鎖反応を起こし、さらなる製品の劣化を引き起こす。そのほか、ポリプロピレンとポリエチレンも酸化の影響を受ける。前者は繰り返し単位中に一級炭素原子、二級炭素原子、三級炭素原子が存在するが、フリーラジカルになったときの安定性が最も高い「三級炭素原子」が攻撃を受ける。ポリエチレンの酸化は低密度ポリエチレンの分枝部分(三級炭素原子)など、結合の弱い部分で起こる傾向がある。 ==抗酸化物質に関わる年表== 抗酸化物質関連年表 1818年 L.テナールによりカタラーゼ作用が発見される。(1900年 O.レープによりカタラーゼと命名)1921年 F.G.ホプキンスによりグルタチオンが酵母から分離発見される。1922年 H.M.エバンスによりシロネズミの不妊が、飼料に植物油を混ぜると回復することが発見される。(1923年に B.シュアがビタミンE と命名)1929年 C.エイクマン、F.G.ホプキンスらが「抗神経炎(V.B群)/成長促進 (V.E) ビタミンの発見」でノーベル生理学・医学賞を受賞。1932年 C.G.キングによりレモンからアスコルビン酸が分離発見される。1936年 H.M.エバンスにより小麦胚芽油から α‐トコフェロールが分離発見される。1955年 H・テオレルが「酸化酵素の性質および作用機序の発見」でノーベル生理学・医学賞を受賞。1956年 D.ハーマンが「フリーラジカル仮説」を提唱する。(活性酸素による生体傷害の最初の提唱)1957年 K.シュワルツ、C.Mフォルツらによりセレンが動物の必須ミネラルであり、ビタミンE所要量との関連を指摘する。1969年 J.M.マッコード、I.フリドビッチらによりスーパーオキシドディスムターゼ (SOD) が発見される。1978年 P.ミッチェル「生体膜におけるエネルギー転換の研究」(ミトコンドリアの電子伝達系の解明;1961年 ‐ )によりノーベル化学賞を受賞。